銀河英雄伝説 エル・ファシルの逃亡者(新版) (甘蜜柑)
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第〇章:設定資料集
設定資料:自由惑星同盟軍の階級(物語開始時点)


出世が早いか否か、エリートか否かの目安の一つです。士官学校卒業者は平均より五年、幹部候補生出身者は平均より一〇年早ければエリートと思ってください。予備役編入はだいたい五〇代前半になります。原作キャラクター、本作オリジナルキャラクターの立場を理解する一助にしていただければ幸いです。


―将官―

戦略単位や作戦単位の意思決定に責任を負う。決断一つで数万人の生死が決まる重職。

 

a.元帥

 同盟軍の最高階級。現役軍人が授けられることは珍しい。退役後や死後の名誉進級を含めても、五〇〇〇人の卒業生から一人でも元帥を出した士官学校の年度は少ない。民間企業の代表取締役会長クラス。

・主な補職

 ・統合作戦本部:統合作戦本部長

 ・宇宙軍:宇宙艦隊司令長官

 ・地上軍:地上軍総監

・原作中の主な任官者

 ・ヤン・ウェンリー(士官学校卒。任官時33歳)

 ・アレクサンドル・ビュコック(兵卒出身。任官時73歳)

 ・シドニー・シトレ

 ・ラザール・ロボス

 ・ドーソン

 

b.大将

 重要機関のトップ。軍部のみならず政府にも影響力を行使できる地位。現役で大将に昇進できる士官学校出身者は、五〇〇〇人の同期の中でも二人か三人程度。民間企業の代表取締役クラス。

・主な補職

 ・中央機関

  ・統合作戦本部:統合作戦本部長、統合作戦本部次長

  ・国防委員会:国防委員会事務総長、国防委員会事務総長、国防委員会部長

  ・その他の機関:後方勤務本部長、技術科学本部長

 ・宇宙軍

  ・宇宙艦隊:宇宙艦隊司令長官、宇宙艦隊副司令長官、宇宙艦隊総参謀長

   ・陸戦隊:陸戦隊総監

  ・その他:教育総隊総司令官、支援総隊総司令官、予備役総隊総司令官

 ・地上軍

  ・地上総軍:地上軍総監、地上軍副総監、地上軍総参謀長

  ・その他:陸上部隊総監、航空部隊総監、水上部隊総監、軌道部隊総監、予備役総隊総司令官

 ・統合部隊:特殊作戦総軍司令官、首都防衛軍司令官、総軍級任務部隊司令官

・原作中の主な任官者

 ・チュン・ウー・チェン(士官学校卒。任官時37歳)

 ・ドワイト・グリーンヒル

 ・クブルスリー

 ・ロックウェル

 

c,中将

 一〇〇万人以上の部隊、もしくは一万隻以上の艦艇の指揮官。幕僚としては重要機関のナンバーツー。大都市並みの巨大組織を指導する中将は、戦略・政治・管理に長けた人物であることが望ましい。現役で中将に昇進できる士官学校出身者は、五〇〇〇人の同期の中でも一〇人前後。民間企業の専務取締役クラス。

・主な補職

 ・中央機関

  ・統合作戦本部:統合作戦本部部長

  ・国防委員会:国防委員会事務次長、国防委員会部長

  ・その他の機関:後方勤務本部次長、技術科学本部次長、国防研究所所長、士官学校校長

 ・宇宙軍

  ・宇宙艦隊:宇宙艦隊総参謀長、宇宙艦隊副参謀長

   ・正規艦隊:艦隊司令官

   ・陸戦隊:陸戦隊副総監

  ・その他:教育総隊副司令官、支援総隊副司令官、予備役総隊副司令官

 ・地上軍

  ・地上総軍:地上軍総参謀長、地上軍副参謀長

   ・地上軍:地上軍司令官

  ・その他:陸上部隊副総監、航空部隊副総監、水上部隊副総監、軌道部隊副総監

       予備役総隊副司令官

 ・統合部隊

  ・中央部隊:首都防衛軍司令官、中央兵站総軍司令官、憲兵司令官、特殊作戦総軍副司令官

  ・地方部隊:方面軍司令官

  ・その他:軍集団級任務部隊司令官

・原作中の主な任官者

 ・ダスティ・アッテンボロー(士官学校卒。任官時30歳)

 ・ワルター・フォン・シェーンコップ(専科学校卒。任官時35歳)

 ・アレックス・キャゼルヌ(士官学校卒。任官時38歳)

 ・ウィレム・ホーランド(士官学校卒。任官時32歳)

 ・エドウィン・フィッシャー

 ・ムライ

 ・パエッタ

 ・パストーレ

 ・ムーア

 ・ウランフ

 ・ルグランジュ

 ・ライオネル・モートン

 ・ラルフ・カールセン

 ・シンクレア・セレブレッゼ

 

d.少将

 二〇万人以上の部隊、もしくは艦艇数千隻の指揮官。幕僚としては重要機関の部長クラス。戦略レベルの意思決定に深く関わるため、政治能力が問われる。現役で少将に昇進できる士官学校出身者は二パーセント程度。民間企業の取締役・本部長クラス。

・主な補職

 ・中央機関

  ・統合作戦本部:統合作戦本部部長、統合作戦本部事務局長

  ・国防委員会:国防委員会高等参事官、国防委員会副部長

  ・その他:士官学校副校長、国防研究所副所長

 ・宇宙軍

  ・宇宙艦隊:宇宙艦隊副参謀長、宇宙艦隊作戦部長

   ・正規艦隊:艦隊副司令官、艦隊参謀長、分艦隊司令官

   ・陸戦隊:艦隊陸戦隊司令官、独立陸戦隊司令官

  ・その他:輸送艦隊司令官

 ・地上軍

  ・地上総軍:地上軍副参謀長

   ・地上軍:地上軍副司令官、地上軍参謀長、陸上軍司令官、航空軍司令官

        水上艦隊司令官、軌道軍司令官

 ・統合部隊

  ・中央部隊:憲兵司令官、情報保全集団司令官

  ・地方部隊

   ・方面軍:方面軍副司令官、方面軍参謀長、方面即応部隊司令官、星間巡視隊司令官

   ・星域軍:星域軍司令官

  ・教育機関:専科学校校長、幹部候補生養成所所長

  ・その他:軍級任務部隊司令官

・原作中の主な任官者

 ・フョードル・パトリチェフ

 ・グエン・バン・ヒュー

 ・アーサー・リンチ

 

e.准将

 五万人以上の部隊、もしくは艦艇数百隻の指揮官。幕僚としては重要機関の副部長クラス。宇宙軍ではここから「提督」と呼ばれる。この規模の組織になると、指揮官の役割は方針立案が主となり、管理業務も他人に委ねることになる。組織運営能力、戦略能力が必要。現役で准将に昇進できる者はわずかに士官学校出身者の五パーセント程度。幹部候補生出身者が准将になるのは奇跡。四〇代で准将となる者が多いが、トップエリートは三〇代で准将になる。民間企業の執行役員・事業部長クラス。

・主な補職

 ・中央機関

  ・統合作戦本部:統合作戦本部副部長

  ・国防委員会:国防委員会高等参事官、国防委員会部付参事官

 ・宇宙軍

  ・宇宙艦隊:宇宙艦隊総司令部部長

   ・正規艦隊:艦隊副参謀長、分艦隊副司令官、分艦隊参謀長、機動部隊司令官

   ・陸戦隊:艦隊陸戦隊副司令官、艦隊陸戦隊参謀長、陸戦遠征軍団司令官

 ・地上軍

  ・地上総軍

   ・地上軍:地上軍副参謀長

    ・陸上軍:陸上軍副司令官、陸上軍参謀長、軍団司令官

    ・航空軍:航空軍副司令官、航空軍参謀長、航空軍団司令官

    ・水上軍:水上艦隊副司令官、水上艦隊参謀長、水上分艦隊司令官

    ・軌道軍:軌道軍副司令官、軌道軍参謀長、軌道部隊司令官

  ・地方部隊

   ・方面軍:方面軍副参謀長

   ・星域軍:星域軍副司令官、星域軍参謀長

   ・星系警備隊:星系警備隊司令官

   ・惑星警備隊:惑星警備隊司令官(大規模有人惑星)

  ・教育機関:専科学校副校長、幹部候補生養成所副所長

  ・その他:軍団級任務部隊司令官

・原作中の主な任官者

 ・マリノ

 ・アンドリュー・フォーク(士官学校首席卒業)

 ・ベイ

 

―佐官―

戦術単位の意思決定に責任を負う士官。部隊の運命を直接左右する。幕僚としては作戦単位の意思決定に関わる。

 

a.代将たる大佐

 一万人以上の部隊、もしくは大規模な艦艇部隊の指揮官。階級は大佐だが将官待遇を受ける。戦隊司令、師団長、分艦隊参謀長など准将級のポストに就くことが可能。帝国軍の准将とほぼ同格。士官学校卒業者のうちで優秀な者は、四〇代前半から四〇代後半の間に代将となる。代将の四人に一人が将官となるが、大佐から直接将官に昇進する者も少なくない。代将として一定期間を過ごした後に退役したら准将に名誉進級する。民間企業の本社部長もしくは支社長クラス。

・主な補職

 ・宇宙軍

  ・正規艦隊:機動部隊副司令官、機動部隊参謀長、戦隊司令

  ・陸戦隊:陸戦遠征軍団副司令官、陸戦遠征軍団参謀長、陸戦師団長、陸戦航空団司令

 ・地上軍

  ・地上総軍

   ・陸上軍:軍団副司令官、軍団参謀長、師団長

   ・航空軍:航空軍団副司令官、航空軍団参謀長、航空団司令

   ・水上軍:水上分艦隊副司令官、水上分艦隊参謀長、水上戦隊司令

   ・軌道軍:軌道軍団副司令官、軌道軍団参謀長、軌道戦隊司令

 ・地方部隊

  ・星系警備隊:星系警備隊副司令官、星系警備隊参謀長

  ・惑星警備隊:惑星警備隊司令(中規模有人惑星)

 

b.大佐

 三〇〇〇人以上の部隊、もしくは中規模な艦艇部隊の指揮官。幕僚としても指導的な役割を果たす。士官学校卒業者は三〇代半ばから四〇代前半の間に大佐となり、八割が五〇歳前後で予備役に編入される。叩き上げが退役時の名誉進級以外で大佐に進級することは稀。民間企業の本社課長もしくは大規模支店長クラス。

・主な補職

 ・宇宙軍

  ・正規艦隊:艦隊司令部部長、群司令、戦艦艦長、宇宙母艦艦長、司令部幕僚

  ・陸戦隊:陸戦旅団長、陸戦航空群司令、陸戦連隊長

 ・地上軍

  ・地上総軍:旅団長、航空群司令、水上群司令、軌道群司令、特殊作戦連隊長、司令部幕僚

 ・地方部隊

  ・惑星警備隊:惑星警備隊司令(小規模有人惑星)

・原作中の主な任官者

 ・カスパー・リンツ

 ・バグダッシュ

 ・ラオ

 ・ニルソン

 ・エベンス

 ・クリスチアン

 ・ヘルマン・フォン・リューネブルク

 ・オットー・フランク・フォン・ヴァーンシャッフェ

 ・マルコム・ワイドボーン

 ・バーナビー・コステア

 

c.中佐

 一〇〇〇人以上の部隊、もしくは小規模な艦艇部隊の指揮官。これだけ大きな部隊の指揮官ともなると、実務から離れて管理業務に専念するようになる。幕僚としても指導的な立場だ。士官学校卒業者は三〇代の前半から後半の間に中佐となる。参謀教育を受けていない叩き上げには、管理能力に欠ける者が多いため、中佐になれるのは幹部候補生養成所出身者の一割未満に過ぎない。民間企業の本社課長補佐もしくは中規模支店長クラス。

・主な補職

 ・宇宙軍

  ・正規艦隊:隊司令、戦艦艦長、宇宙母艦艦長、巡航艦艦長、宇宙母艦空戦隊長、司令部幕僚

  ・陸戦隊:陸戦連隊長、陸戦航空隊長

 ・地上軍:連隊長、航空隊長、水上隊司令、軌道隊司令、司令部幕僚

 ・地方部隊

  ・惑星警備隊:惑星警備隊司令(無人惑星)

・原作中の主な任官者

 ・オリビエ・ポプラン(専科学校卒。任官時28歳)

 ・イワン・コーネフ

 ・ライナー・ブルームハルト

 

d.少佐

 五〇〇人以上の部隊、もしくは一隻以上の軍艦の指揮官。士官学校を出て二〇代半ばから三〇代前半で少佐となった者は幕僚勤務が多いが、経験を積むために指揮官となる者もいる。一方、幹部候補生出身者の少佐は、四〇代や五〇代の古強者揃いだ。管理業務の割合が多くなり、実働部隊の下士官・兵と接することは滅多に無い。民間企業の本社係長もしくは小規模支店長クラス。

・主な補職

 ・宇宙軍

  ・正規艦隊:分隊司令、巡航艦艦長、駆逐艦艦長、揚陸艦艦長、宇宙母艦空戦隊長、副長

        司令部幕僚、副官

  ・陸戦隊:陸戦大隊長、陸戦航空隊長

 ・地上軍:大隊長、航空隊長、水上分隊司令、軌道分隊司令、水上艦艦長、軌道艦艦長

      司令部幕僚、副官

・原作中の主な任官者

 ・フレデリカ・グリーンヒル(士官学校次席。任官時25歳)

 ・スーン・スール

 ・ジャン・ロベール・ラップ

 ・ファイフェル

 

―尉官―

 現場では下級管理職、司令部では下級幕僚を務める士官。戦闘単位の意思決定に責任を負う。

 

a.大尉

 経験を積んだ下級管理職もしくは下級幕僚。下士官・兵卒と親しく接する最高階級者。士官学校出身者は二〇代前半から半ばで大尉となり、幕僚や副官として勤務するが、艦長代理や大隊長代理など指揮官職に就く場合もある。幹部候補生出身者は経験豊かな「老大尉」として現場を支え、半数が大尉で予備役に編入される。民間企業の本社主任、支店管理職クラス。

・主な補職

 ・宇宙軍

  ・正規艦隊:艦長代理、副長、艦科長、司令部幕僚、副官

  ・陸戦隊:陸戦中隊長、陸戦航空中隊長

 ・地上軍:中隊長、航空中隊長、水上戦闘艇艇長、軌道戦闘艇艇長、司令部幕僚、副官

 

b.中尉

 下級管理職もしくは最下級の幕僚。士官学校卒業者は任官から一年で自動的に中尉に昇進し、宇宙軍なら戦隊級、地上軍なら師団級以上の司令部で幕僚・副官として働く。幹部候補生や予備士官出身の中尉は、少尉と同様に現場指揮官として勤務する。隊本部で主任士官を務める者もいる。民間企業の本社勤務総合職社員クラス。

・主な補職

 ・宇宙軍

  ・正規艦隊:艦艇士官、司令部幕僚、副官

  ・陸戦隊:陸戦小隊長、航空機操縦士、

 ・地上軍:小隊長、航空機操縦士、水上艦艇士官、軌道艦艇士官、司令部幕僚、副官

・原作中の主な任官者

 ・ユリアン・ミンツ(軍属出身。任官時17歳)

 ・カール・フォン・デア・デッケン(不明。任官時23歳)

 

c.少尉

 この階級から「士官」「将校」と呼ばれる。士官学校卒業者、幹部候補生養成所卒業者、予備士官教育課程修了が最初に任官する階級。士官学校を卒業した者にとっては現場実習期間。その他の者は最下級の指揮官として勤務する。民間企業の大卒総合職正社員。

・主な補職

 ・宇宙軍

  ・正規艦隊:艦艇士官、司令部付士官

  ・陸戦隊:陸戦小隊長、航空機操縦士

 ・地上軍:小隊長、航空機操縦士、水上艦艇士官、軌道艦艇士官、司令部付士官

・原作中の主な任官者

 ・ルイ・マシュンゴ

 

―下士官―

 技能と経験に優れたプロフェッショナル。士官の命令を受けて兵卒を監督する。

 

a.准尉

 士官の補佐役。経験豊かな曹長が任官する階級。軍隊の生き字引。先任下士官として兵卒の指導や規律維持にあたる。本来は士官と下士官の中間に立つ准士官だが、下士官からの士官登用が多い同盟軍では下士官の最上位だ。幹部候補生養成所に推薦されれば、無条件で入所できる。民間企業のベテラン一般職正社員。

 

b.曹長

 現場監督もしくは士官の補佐役。経験豊かな軍曹が任官する階級。古参の曹長は先任下士官として兵卒の指導や規律維持にあたる。幹部候補生養成所に推薦されれば、無条件で入所できる。下士官の大多数は曹長で定年を迎える。民間企業のベテラン一般職正社員。

 

c.軍曹

 兵卒を取り仕切る現場監督。数年ほど経験を積んだ伍長が任官する。古参兵とともに兵卒に恐れられる存在。民間企業の高卒一般職正社員。

 

d.伍長

 兵卒を取り仕切る現場監督。専科学校卒業者や下士官選抜に合格した兵卒が任官する階級。民間企業の高卒一般職正社員。

・原作中の主な任官者

 ・カーテローゼ・フォン・クロイツェル(不明。任官時15歳)

 

―兵卒―

 三年を一期とする任期制の軍人。戦闘や作業に直接従事する。徴集兵は一期で除隊、志願兵は三期九年まで務められる。責任能力が求められない代わり、意思決定にも関与しない。

 

a.兵長

 下士官の代理を務める資格を持つ兵卒。上等兵の中から優秀な者が抜擢される。民間企業のバイトリーダー。

 

b.上等兵

 下士官の助手。優秀な一等兵の中から抜擢される。民間企業のベテランアルバイト。

 

c.一等兵

 教育期間終了後の兵士。民間企業のアルバイト。

 

d.二等兵

 教育期間中の新兵。民間企業の試用期間中のアルバイト。

 

キャリアパス(一般的な例)

   士官学校優等 士官学校上位 士官学校中位 幹部候補生出身者

少尉 20歳    20歳    20歳    30歳

中尉 21歳    21歳    21歳    36歳

大尉 22歳    23歳    25歳    44歳

少佐 24歳    26歳    30歳    52歳

中佐 26歳    30歳    36歳    予備役

大佐 28歳    36歳    44歳

代将 30歳    39歳

准将 32歳    42歳

少将 38歳    50歳

中将 45歳

大将 52歳

 

キャリアパス(原作人物)

   ヤン  アッテンボロー キャゼルヌ シェーンコップ ビュコック フォーク

伍長                   18歳

軍曹                   ???     19歳

曹長                   19歳     ???

准尉                   20歳     ???

少尉 20歳 20歳     20歳   22歳     ???   20歳

中尉 21歳 21歳     21歳   ???     ???   21歳

大尉 21歳 ???     ???   ???     ???   ???

少佐 21歳 25歳     ???   ???     ???   ???

中佐 25歳 ???     27歳   29歳     ???   24歳

大佐 27歳 ???     ???   30歳     ???   ???

代将 ??? ???     ???   ???     ???   ???

准将 28歳 ???     33歳   32歳     62歳   26歳

少将 29歳 27歳     35歳   33歳     ???

中将 29歳 30歳     39歳   35歳     68歳

大将 29歳                       70歳

元帥 32歳                       74歳




原作の記述を元に、米軍、自衛隊などの階級制度を参考にしながら作りました。あくまで本作中の設定であって、原作の設定ではありません。


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設定資料:自由惑星同盟宇宙軍の編制(物語開始時点)

艦隊と分艦隊以外はほぼオリジナル設定です。原作の記述とできるだけ整合性が取れるよう努力しました。


1.艦艇部隊 宇宙戦闘の主力。銀英伝世界の花形

a.戦略単位

単独で戦線を形成できる部隊単位。

 

○艦隊

正規艦隊と呼ばれる機動運用部隊。四個分艦隊、司令部直轄部隊、艦隊陸戦隊、地上支援部隊で編成される。司令官は中将もしくは大将。艦艇は艦艇一一〇〇〇~一五〇〇〇隻。

 

※編成例

・艦隊司令官:宇宙軍中将

・艦隊副司令官:宇宙軍少将

・艦隊参謀長:宇宙軍少将

・司令部直轄部隊(艦艇二五〇〇隻)

・分艦隊一(艦艇二五〇〇隻)

・分艦隊二(艦艇二五〇〇隻)

・分艦隊三(艦艇二五〇〇隻)

・分艦隊四(艦艇二五〇〇隻)

・艦隊陸戦隊(艦艇五〇〇隻、陸兵二五万人)

・地上支援部隊

合計 艦艇一万三〇〇〇隻、陸兵二五万人

 

b.作戦単位

複数の艦種を組み合わせて戦う。また、独自の作戦立案組織(司令部)、地上支援部隊を持つ。単独で作戦行動が可能な部隊単位。

 

○分艦隊

三個機動部隊、司令部直轄部隊、地上支援団で編成される部隊。司令官は少将もしくは中将。艦艇は二〇〇〇隻~三〇〇〇隻。艦隊内における小艦隊規模の部隊が「分艦隊」と称される。上陸戦の際には陸戦部隊が臨時配属される。

 

※編成例

・分艦隊司令官:宇宙軍少将

・分艦隊副司令官:宇宙軍准将

・分艦隊参謀長:宇宙軍准将

・司令部直轄部隊(艦艇七〇〇隻)

・機動部隊一(艦艇六〇〇隻)

・機動部隊二(艦艇六〇〇隻)

・機動部隊三(艦艇六〇〇隻)

・地上支援団

合計 艦艇二五〇〇隻

 

○機動部隊

戦艦・巡航艦・駆逐艦・母艦の各戦隊、司令部直轄部隊、地上支援部隊で編成される部隊。司令官は准将もしくは少将。艦艇は五〇〇隻~七〇〇隻。上陸戦の際には陸戦部隊が臨時配属される。

 

※編成例

・機動部隊司令官:宇宙軍准将

・機動部隊副司令官:宇宙軍代将

・機動部隊参謀長:宇宙軍代将

・司令部直轄部隊(艦艇一七〇隻)

・戦艦戦隊(戦艦六〇隻)

・巡航戦隊(巡航艦一二〇隻)

・駆逐戦隊(駆逐艦二四〇隻)

・母艦戦隊(宇宙母艦一二隻)

・地上支援群

合計 艦艇六〇〇隻

 

c.戦術単位

単一艦種からなる複数の戦闘部隊で編成される。独自の管理組織(本部)を持つ。単独で戦術行動を継続できる部隊単位。

 

○戦隊

三個群で編成される部隊。司令は准将だが、通常は代将たる大佐が務める。戦艦戦隊は五〇~七〇隻の戦艦、巡航戦隊は一〇〇~一四〇隻の巡航艦、駆逐戦隊は二〇〇~二八〇隻の駆逐艦、母艦戦隊は一〇隻~一四隻の宇宙母艦。

 

○群

四個隊で編成される部隊。司令は大佐。戦艦群は一六~二四隻の戦艦、巡航群は三二~四八隻の巡航艦、駆逐群は六四~九六隻の駆逐艦、母艦群は三隻~五隻の宇宙母艦。

 

○隊

四個分隊で編成される部隊。司令は中佐。戦艦隊は四~六隻の戦艦、巡航隊は八~一二隻の巡航艦、駆逐隊は一六~二四隻の駆逐艦。宇宙母艦は一隻で隊と同格の扱い。

 

d.戦闘単位

指揮官が戦闘指揮を直接取る部隊単位。

 

○分隊

複数の艦艇で編成される部隊。司令は最先任艦長が兼務する。巡航分隊は二~三隻の巡航艦、駆逐分隊は四~六隻の駆逐艦。戦艦は一隻で分隊と同等の扱い。

 

○個艦

一隻の艦艇。巡航艦の艦長は少佐もしくは中佐が務める。駆逐艦の艦長は少佐が務めることになっているが、実際は半数近くの艦で大尉が艦長代理として指揮を取る。

 

2.陸戦部隊 宇宙から地上に降下したり、宇宙要塞に突入したりする切り込み部隊

○陸戦遠征軍

三個陸戦軍団、一個宙陸両用部隊で編成される軍規模の宙陸任務部隊。艦隊陸戦隊は陸戦遠征軍である。司令官は少将。

 

※編成例

艦隊陸戦隊(艦艇五〇〇隻、陸兵二五万人)

・陸戦隊司令官:宇宙軍少将

・陸戦隊副司令官:宇宙軍准将

・陸戦隊参謀長:宇宙軍准将

・司令部直轄部隊(陸兵七万人)

・陸戦遠征軍団1(陸兵六万人)

・陸戦遠征軍団2(陸兵六万人)

・陸戦遠征軍団3(陸兵六万人)

・宙陸両用部隊(艦艇五〇〇隻)

 

○陸戦遠征軍団

二個陸戦師団以上の陸戦部隊、航空部隊で編成される軍団規模の宙陸任務部隊。司令官は准将。

 

○陸戦遠征師団

二個陸戦旅団以上の陸戦部隊、航空部隊で編成される師団規模の宙陸任務部隊。司令官は代将。

 

○陸戦師団

三個旅団、司令部直轄部隊、後方支援部隊で編成される陸戦隊の陸上戦闘部隊。司令官は代将。兵員は一万二〇〇〇~二万人。

 

○陸戦航空団

三個航空群、司令部直轄部隊で編成される陸戦隊の航空戦闘部隊。宙陸両用戦闘艇、大気圏内戦闘艇、スパルタニアン等を使用する。司令は代将。

 

○陸戦遠征群

二個陸戦連隊以上の陸戦部隊、航空部隊で編成される旅団規模の宙陸任務部隊。司令は大佐。

 

○陸戦旅団

二個連隊もしくは五個大隊で編成される陸上戦闘部隊。団長は大佐。兵員は三〇〇〇~五〇〇〇人。

 

○陸戦航空群

四個航空隊で編成される航空戦闘部隊。群司令は大佐。

 

○陸戦遠征隊

二個陸戦大隊以上の陸戦部隊、航空部隊で編成される連隊規模の宙陸任務部隊。司令は中佐。

 

○陸戦連隊

三個大隊で編成される陸上戦闘部隊。隊長は大将もしくは中佐。兵員は一五〇〇~二五〇〇人。

 

○陸戦航空隊

四個航空中隊で編成される航空戦闘部隊。隊長は中佐もしくは少佐。

 

○陸戦大隊

四個中隊で編成される陸上戦闘部隊。隊長は少佐。兵員は五〇〇~八〇〇人。

 

○陸戦中隊

四個小隊で編成される陸上戦闘部隊。隊長は大尉。兵員は一二〇~二〇〇人。

 

○陸戦航空中隊

四個航空小隊で編成される航空戦闘部隊。隊長は大尉。

 

○陸戦小隊

三個分隊で編成される陸上戦闘部隊。隊長は中尉もしくは少尉。兵員は三〇~五〇人。

 

○陸戦航空小隊

航空機数機で編成される航空戦闘部隊。隊長は中尉もしくは少尉。

 

○陸戦分隊

一〇~一五人で編成される陸上戦闘部隊。隊長は軍曹もしくは曹長。

 

3.艦艇の種類

a.戦艦

長射程の大口径ビーム砲、大出力のエネルギー中和磁場を持ち、長距離戦で圧倒的な力を示す。艦体が大きいおかげで核融合炉も大きい。エネルギー容量が大きく、推進力は強いが、回避性能が低いという欠点もある。接近戦には向いていない。

 

b.巡航艦

主砲の威力、エネルギー中和磁場の出力ともに戦艦に次ぐ。戦艦より艦体が小さいため、推進力と回避性能のバランスが良い。長距離戦でも接近戦でも戦える。

 

c.駆逐艦

艦体が小さいことから、主砲の威力、中和磁場の出力、推進力に劣る。しかし、回避性能がきわめて高く、接近戦では対艦攻撃と対空戦闘に力を発揮する。

 

d.宇宙母艦

多数の単座式戦闘艇を搭載しているため、接近戦で圧倒的な攻撃力を誇る。ただし、艦体の大きさゆえに回避性能は低い。

 

e.工作艦

艦艇の整備・補修、宇宙空間での工事、機雷敷設、掃宙などにあたる支援艦。

 

f.輸送艦

本来の仕事は輸送だが、宇宙空間で他の艦艇に物資を補給する能力も持つ。当然のことながら戦闘力は低い。

 

g.揚陸艦

強襲上陸作戦に用いられる突進力重視の小型揚陸艦、大規模上陸作戦に用いられる輸送力重視の大型揚陸艦の二種類がある。薔薇の騎士連隊は小型輸送艦を愛用している。



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設定資料:自由惑星同盟地上軍の編制(物語開始時点)

ほぼオリジナル設定です。


地上軍は同盟軍の地上戦闘部隊である。宇宙から地上を攻撃する陸戦隊に対し、地上軍は地上戦闘を専門にする。地上部隊同士の戦闘、宇宙から降下してくる陸戦隊の迎撃などを行う。

 

a.戦略単位

複数の軍種を組み合わせて戦う。単独で戦線を形成できる部隊単位。

 

○地上軍

二個陸上軍、二個航空軍、一個水上艦隊、一個軌道軍、司令部直轄部隊で編成される軍集団級の統合地上戦闘部隊。司令官は中将もしくは大将。兵員は一〇〇万~一四〇万人。

 

※編成例

・地上軍司令官:地上軍中将

・地上軍副司令官:地上軍少将

・地上軍参謀長:地上軍少将

・直轄部隊(兵士二四万人)

・陸上軍一(陸上兵二四万人)

・陸上軍二(陸上兵二四万人)

・航空軍一(航空兵一二万人)

・航空軍二(航空兵一二万人)

・水上艦隊(水兵一二万人)

・軌道軍(軌道兵二四万人)

合計 兵士一三二万人

 

b.作戦単位

複数の兵種を組み合わせて戦う。また、独自の作戦立案組織(司令部)、後方支援部隊を持つ。単独で作戦行動が可能な部隊単位。

 

○陸上軍

三個軍団、司令部直轄部隊で編成される陸上戦闘部隊。司令官は少将。兵員は二〇万~二八万人。

 

※編成例

・陸上軍司令官:地上軍少将

・陸上軍副司令官:地上軍准将

・陸上軍参謀長:地上軍准将

・司令部直轄部隊(陸上兵六万人)

・軍団一(陸上兵六万人)

・軍団二(陸上兵六万人)

・軍団三(陸上兵六万人)

合計 陸上兵二四万人

 

○航空軍

三個航空軍団、司令部直轄部隊で編成される航空戦闘部隊。司令官は少将。兵員は一〇万~一四万人。

 

※編成例

・航空軍司令官:地上軍少将

・航空軍副司令官:地上軍准将

・航空軍参謀長:地上軍准将

・司令部直轄部隊(航空兵三万人)

・航空軍団一(航空兵三万人)

・航空軍団二(航空兵三万人)

・航空軍団三(航空兵三万人)

合計 航空兵一二万人

 

〇水上艦隊

三個水上分艦隊、司令部直轄部隊で編成される水上戦闘部隊。司令官は少将。兵員は一〇万~一四万人。

 

※編成例

・水上艦隊司令官:地上軍少将

・水上艦隊副司令官:地上軍准将

・水上艦隊参謀長:地上軍准将

・司令部直轄部隊(水兵三万人)

・水上分艦隊一(水兵三万人)

・水上分艦隊二(水兵三万人)

・水上分艦隊三(水兵三万人)

合計 水兵一二万人

 

○軌道軍

三個軌道部隊、司令部直轄部隊で編成される軌道戦闘部隊。衛星軌道の制圧及び防衛を主任務とする。司令官は少将。兵員は二〇万~二八万人。

 

※編成例

・軌道軍司令官:地上軍少将

・軌道軍副司令官:地上軍准将

・軌道軍参謀長:地上軍准将

・司令部直轄部隊(軌道兵六万人)

・軌道部隊一(軌道兵六万人)

・軌道部隊二(軌道兵六万人)

・軌道部隊三(軌道兵六万人)

合計 軌道兵二四万人

 

○軍団

三個師団、司令部直轄部隊で編成される陸上戦闘部隊。歩兵軍団、機甲軍団、空挺軍団、特殊作戦軍団などがある。司令官は准将。兵員は五万~八万人。

 

○航空軍団

三個航空団、司令部直轄部隊で編成される航空戦闘部隊。司令官は准将。

 

○水上分艦隊

三個水上戦隊、司令部直轄部隊で編成される水上戦闘部隊。司令官は准将。

 

○軌道部隊

三個軌道戦隊、司令部直轄部隊で編成される軌道戦闘部隊。司令官は准将。

 

○師団

三個旅団、司令部直轄部隊、後方支援部隊で編成される陸上戦闘部隊。歩兵師団、機甲師団、空挺師団、工兵旅団、山岳師団、特殊作戦師団などがある。司令官は代将。兵員は一万二〇〇〇~二万人。

 

c.戦術単位

単一兵種からなる複数の戦闘部隊で編成される。独自の管理組織(本部)を持つ。単独で戦術行動を継続できる部隊単位。

 

○航空団

三個航空群、司令部直轄部隊で編成される航空戦闘部隊。戦闘航空団、攻撃航空団、輸送航空団、教育航空団などがある。団司令は代将。

 

○水上戦隊

三個水上群、司令部直轄部隊で編成される水上戦闘部隊。巡洋艦戦隊、駆逐艦戦隊、空母戦隊、潜水艦戦隊、輸送戦隊、補給戦隊などがある。戦隊司令は代将。

 

○軌道戦隊

三個軌道群、司令部直轄部隊で編成される軌道戦闘部隊。宙陸両用艇戦隊、軌道戦闘艇戦隊などがある。戦隊司令は代将。

 

○旅団

二個連隊もしくは五個大隊で編成される陸上戦闘部隊。歩兵旅団、機甲旅団、空挺旅団、砲兵旅団、航空(ヘリコプター)旅団、工兵旅団、山岳旅団、防空旅団、兵站旅団、特殊作戦旅団などがある。団長は大佐。兵員は三〇〇〇~五〇〇〇人。

 

○航空群

四個航空隊で編成される航空戦闘部隊。群司令は大佐。

 

○水上群

四個隊で編成される水上戦闘部隊。群司令は大佐。

 

○軌道群

四個隊で編成される軌道戦闘部隊。群司令は大佐。

 

○連隊

三個大隊で編成される陸上戦闘部隊。隊長は中佐。兵員は一五〇〇~二五〇〇人。

 

○航空隊

四個航空中隊で編成される航空戦闘部隊。隊長は中佐もしくは少佐。

 

○水上隊

四個水上分隊で編成される水上戦闘部隊。隊司令は中佐。

 

○軌道隊

四個軌道分隊で編成される軌道戦闘部隊。隊司令は中佐。

 

○大隊

四個中隊で編成される陸上戦闘部隊。隊長は少佐。兵員は五〇〇~八〇〇人。

 

○水上分隊

複数の水上艦艇で編成される水上戦闘部隊。隊司令は少佐。

 

○軌道分隊

複数の軌道艦艇で編成される軌道戦闘部隊。隊司令は少佐。

 

d.戦闘単位

指揮官が戦闘指揮を直接取れる部隊単位。

 

○中隊

四個小隊で編成される陸上戦闘部隊。隊長は大尉。兵員は一二〇~二〇〇人。

 

○航空中隊

四個航空小隊で編成される航空戦闘部隊。隊長は大尉。

 

○小隊

三個分隊で編成される陸上戦闘部隊。隊長は中尉もしくは少尉。兵員は三〇~五〇人。

 

○航空小隊

航空機数機で編成される航空戦闘部隊。隊長は中尉もしくは少尉。

 

○分隊

一〇~一五人で編成される陸上戦闘部隊。隊長は軍曹もしくは曹長。



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設定資料:自由惑星同盟軍地方部隊の編制(物語開始時点)

ほぼオリジナル設定です。警備隊や星間巡視隊といったワードを膨らませました。


地方部隊は区域内の防衛・警備、宇宙艦隊や地上総軍の後方支援にあたる。宇宙艦隊や地上総軍と比較すると、兵士や装備の質は低い。

 

○方面軍

四つから五つの星域軍管区を統括する軍集団級統合部隊。四~五個星域軍、星間巡視隊、即応部隊、教育部隊、司令部直轄部隊で編成される。即応部隊と星間巡視隊は比較的優秀。司令官は中将。

 

※編成例

・方面軍司令官:宇宙軍中将もしくは地上軍中将

・方面軍副司令官:宇宙軍少将もしくは地上軍少将 ※司令官と異なる軍種から任命される

・方面軍参謀長:宇宙軍少将もしくは地上軍少将

・司令部直轄部隊

・方面即応部隊(軍級統合部隊)

・方面教育隊(軍級部隊)

・星間巡視隊(軍級宇宙部隊) ※辺境星区においては、辺境分艦隊と称することもある

・星域軍一

・星域軍二

・星域軍三

・星域軍四

総兵力 八〇万人~一二〇万人

 

○星域軍

四つから五つの星系警備管区を統括する軍級統合部隊。四~五個星系警備隊、司令部直轄部隊で編成される。兵士や装備の質は低い。司令官は少将。

 

※編成例

・星域軍司令官:宇宙軍少将もしくは地上軍少将

・星域軍副司令官:宇宙軍准将もしくは地上軍准将 ※司令官と異なる軍種から任命される

・星域軍参謀長:宇宙軍准将もしくは地上軍准将

・司令部直轄部隊

・星系警備隊一

・星系警備隊二

・星系警備隊三

・星系警備隊四

総兵力 一二万人~三〇万人

 

○星系警備隊

有人星系ごとに設置される軍級もしくは軍団級統合部隊。四~六個星系警備隊、司令部直轄部隊、予備役部隊で編成される。兵士や装備の質は低い。司令官は少将もしくは准将。

 

※編成例1(人口数億を擁する星系の警備隊)

・星系警備隊司令官:宇宙軍少将もしくは地上軍少将

・星系警備隊副司令官:宇宙軍准将もしくは地上軍准将 ※司令官と違う軍種から任命される

・星系警備隊参謀長:宇宙軍准将もしくは地上軍准将

・司令部直轄部隊

・惑星警備隊一(軍団級部隊)

・惑星警備隊二(師団級部隊)

・惑星警備隊三(師団級部隊)

・惑星警備隊四(旅団級部隊)

・惑星警備隊五(旅団級部隊)

・惑星警備隊六(旅団級部隊)

 

※編成例2(人口数千万から数百万の星系の警備隊)

・星系警備隊司令官:宇宙軍准将もしくは地上軍准将

・星系警備隊副司令官:宇宙軍代将もしくは地上軍代将 ※司令官と違う軍種から任命される

・星系警備隊参謀長:宇宙軍代将もしくは地上軍代将

・司令部直轄部隊

・惑星警備隊一(旅団級部隊)

・惑星警備隊二(旅団級部隊)

・惑星警備隊三(旅団級部隊)

・惑星警備隊四(連隊級部隊)

・惑星警備隊五(連隊級部隊)

・惑星警備隊六(連隊級部隊)

 

○惑星警備隊

有人惑星と重要な無人惑星に設置される統合部隊。規模は軍団級~連隊級。複数の管区隊、軌道防衛隊、司令部直轄部隊で編成される。司令官は少将~中佐。

 

※編成例1(人口数億規模の惑星や最重要惑星の警備隊)

・惑星警備隊司令官:宇宙軍准将もしくは地上軍准将

・惑星警備隊副司令官:宇宙軍代将もしくは地上軍代将 ※司令官と違う軍種から任命される

・惑星警備隊参謀長:宇宙軍代将もしくは地上軍代将

・司令部直轄部隊

・管区隊一(師団級部隊)

・管区隊二(師団級部隊)

・管区隊三(師団級部隊)

・軌道防衛隊(旅団級部隊)

 

※編成例2(人口数千万規模の惑星や重要惑星の警備隊)

・惑星警備隊司令:宇宙軍代将もしくは地上軍代将

・惑星警備隊副司令:宇宙軍大佐もしくは地上軍大佐 ※司令官と違う軍種から任命される

・惑星警備隊首席幕僚:宇宙軍大佐もしくは地上軍大佐

・司令部直轄部隊

・管区隊一(旅団級部隊)

・管区隊二(旅団級部隊)

・管区隊三(旅団級部隊)

・軌道防衛隊(連隊級部隊)

 

※編成例3(人口が数百万規模の惑星の警備隊)

・惑星警備隊司令:宇宙軍大佐もしくは地上軍大佐

・惑星警備隊副司令:宇宙軍中佐もしくは地上軍中佐 ※司令官と違う軍種から任命される

・惑星警備隊首席幕僚:宇宙軍中佐もしくは地上軍中佐

・司令部直轄部隊

・管区隊一(連隊級部隊)

・管区隊二(連隊級部隊)

・管区隊三(連隊級部隊)

・軌道防衛隊(大隊級部隊)

 

※編成例4(無人惑星の警備隊)

・惑星警備隊副司令:宇宙軍中佐もしくは地上軍中佐

・惑星警備隊副司令:宇宙軍少佐もしくは地上軍少佐 ※司令官と違う軍種から任命される

・惑星警備隊首席幕僚:宇宙軍少佐もしくは地上軍少佐

・司令部直轄部隊

・歩兵大隊一

・歩兵大隊二

・航空大隊

・軌道防衛隊(中隊級部隊)



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設定資料:自由惑星同盟軍の組織(物語開始時点)

1.国防委員会 同盟軍の軍政機関

・国防委員長(文民)※最高評議会評議員

 ・委員長補佐官(文民or大将or中将)

 ・委員長秘書官(文民or准将or大佐)

 ・委員長顧問(文民)

 ・報道官(文民)

・第一国防副委員長(文民)※国防委員長代理とも呼ばれる

・政策担当国防副委員長(文民)

 ・政策担当国防委員(文民)

 ・対帝国作戦担当国防委員(文民)

 ・国内作戦担当国防委員(文民)

 ・情報担当国防委員(文民)

・人的資源担当国防副委員長(文民)

 ・人事担当国防委員(文民)

 ・戦力管理担当国防委員(文民)

 ・教育担当国防委員(文民)

 ・厚生担当国防委員(文民)

・後方担当国防副委員長(文民)

 ・兵站担当国防委員(文民)

 ・軍需担当国防委員(文民)

 ・設備担当国防委員(文民)

・会計担当国防副委員長(文民)

 ・会計担当国防委員(文民)

 ・予算担当国防委員(文民)

 ・財務担当国防委員(文民)

 

2.国防事務総局 国防委員会事務部局

・国防事務総長(大将)

・国防事務次長(大将or中将)

・国防高等参事官(中将or少将)

・防衛部(部長:大将or中将or文民)編制、動員

・査閲部(部長:大将or中将or文民)監査

・経理部(部長:大将or中将or文民)予算、会計

・情報部(部長:大将or中将or文民)諜報、防諜

・人事部(部長:大将or中将or文民)人事

・装備部(部長:大将or中将or文民)装備

・教育部(部長:大将or中将or文民)教育

・施設部(部長:技術大将or技術中将or文民)基地・施設等の整備

・衛生部(部長:軍医大将or軍医中将or文民)医療、衛生

・通信部(部長:技術大将or技術中将or文民)通信システム

・戦略部(部長:大将or中将or文民)政策企画

 

2.統合作戦本部 同盟軍の最高作戦機関

・統合作戦本部長(元帥or大将)制服組トップ

・作戦担当次長(大将)

・管理担当次長(大将)

・作戦部(部長:中将)

・情報部(部長:中将or少将)

・後方部(部長:中将or少将)

・人事部(部長:中将or少将)

・計画部(部長:中将or少将)

・通信部(部長:技術中将or技術少将)

・法務室(室長:少将)

・広報室(室長:少将)

・事務局(局長:少将)※局長は本部長首席副官、次長は本部長次席副官を兼ねる

 

3.宇宙軍 同盟軍の宇宙戦闘部門

・宇宙艦隊総司令部 ※宇宙軍幕僚総監部を兼ねる

 ・司令長官(宇宙軍元帥or宇宙軍大将)※宇宙軍幕僚総監を兼ねる

 ・副司令長官(宇宙軍大将)※艦隊司令官を兼ねる

 ・総参謀長(宇宙軍大将or宇宙軍中将)※宇宙軍幕僚副総監を兼ねる

 ・副参謀長(宇宙軍中将or宇宙軍少将)

 ・宇宙艦隊(司令長官直率)主力戦闘部隊

  ・第一艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第二艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第三艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第四艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第五艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第六艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第七艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第八艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第九艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第一〇艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第一一艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・第一二艦隊(司令官:宇宙軍中将)

  ・総司令部直轄部隊

 ・陸戦隊総監部(総監:宇宙軍大将)陸戦隊の育成、陸戦隊予備役の管理

 ・宇宙軍教育総隊(司令官:宇宙軍大将)宇宙兵の育成

 ・宇宙軍支援総隊(司令官:宇宙軍大将)後方支援

 ・宇宙軍予備役総隊(司令官:宇宙軍大将)宇宙軍予備役の管理

 

4.地上軍 同盟軍の地上戦闘部門

・地上軍総監部 ※地上総軍総司令部を兼ねる

 ・総監(地上軍元帥or地上軍大将)※地上総軍総司令官を兼ねる

 ・副総監(地上軍大将)※地上総軍副司令官を兼ねる

 ・総参謀長(地上軍大将or地上軍中将)※地上総軍総参謀長を兼ねる

 ・副参謀長(地上軍中将or地上軍少将)※地上総軍副参謀長を兼ねる

 ・地上総軍(総監直率)主力戦闘部隊

  ・第一地上軍(司令官:地上軍中将)

  ・第二地上軍(司令官:地上軍中将)

  ・第三地上軍(司令官:地上軍中将)

  ・第四地上軍(司令官:地上軍中将)

  ・第五地上軍(司令官:地上軍中将)

  ・第六地上軍(司令官:地上軍中将)

  ・第七地上軍(司令官:地上軍中将)

  ・第八地上軍(司令官:地上軍中将)

  ・総監部直轄部隊

 ・陸上総隊(総監:地上軍大将)陸兵の育成、陸兵予備役の管理

 ・航空総隊(総監:地上軍大将)航空兵の育成、航空兵予備役の管理

 ・水上総隊(総監:地上軍大将)水兵の育成、水兵予備役の管理

 ・軌道総隊(総監:地上軍大将)軌道兵の育成、軌道兵予備役の管理

 ・地上軍衛生隊(司令官:地上軍軍医中将)地上軍軍医と地上軍衛生兵の育成

 

5.その他の機関

・後方勤務本部(本部長:大将)補給・調達

・科学技術本部(本部長:大将)技術開発

・国防研究所(所長:中将)政策研究

・同盟軍士官学校(校長:中将)士官教育

・退役軍人庁(長官:文民)退役軍人の福利厚生

 

6.統合部隊

a.機能別統合部隊

・特殊作戦総軍(司令官:中将)統合特殊部隊

・中央兵站総軍(司令官:中将)統合兵站部隊

・憲兵隊(司令官:中将or少将)軍事警察

・情報保全集団(司令官:少将)防諜

・首都防衛軍(司令官:大将or中将)ハイネセン防衛

・ネットワーク作戦隊(司令官:技術准将)統合サイバー戦部隊

 

b.地域別統合部隊

・第一方面軍(司令官:中将)中央宙域

・第二方面軍(司令官:中将)イゼルローン方面

・第三方面軍(司令官:中将)辺境

・第四方面軍(司令官:中将)辺境

・第五方面軍(司令官:中将)辺境

・第六方面軍(司令官:中将)中央宙域

・第七方面軍(司令官:中将)イゼルローン方面

・第八方面軍(司令官:中将)フェザーン方面

・第九方面軍(司令官:中将)辺境

・第一〇方面軍(司令官:中将)辺境

・第一一方面軍(司令官:中将)辺境

・第一二方面軍(司令官:中将)辺境

・第一三方面軍(司令官:中将)中央宙域

・第一四方面軍(司令官:中将)フェザーン方面

・第一五方面軍(司令官:中将)辺境

・第一六方面軍(司令官:中将)辺境

・第一七方面軍(司令官:中将)中央宙域

・第一八方面軍(司令官:中将)中央宙域

・第一九方面軍(司令官:中将)フェザーン方面

・第二〇方面軍(司令官:中将)フェザーン方面

・第二一方面軍(司令官:中将)辺境

・第二二方面軍(司令官:中将)イゼルローン方面



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設定資料:自由惑星政府の組織(物語開始時点)

原作の記述をもとに脚色を加えて作りました。


1.行政府

a.最高評議会

・最高評議会議長 行政府の長。自由惑星同盟の国家元首

 ・議長補佐官

 ・議長秘書官

 ・議長報道官

 ・議長顧問

・最高評議会副議長 ※委員長職を兼ねる

・最高評議会書記

・国務委員長

・国防委員長

・財政委員長

・法秩序委員長

・天然資源委員長

・人的資源委員長

・経済開発委員長

・地域社会開発委員長

・情報交通委員長

・無任所評議員 ※定数なし

 

b.省庁

・最高評議会書記局 議長官房

 ・国防調整会議 安全保障政策に関する意思決定機関

 ・経済調整会議 経済財政政策に関する意思決定機関

 ・科学技術調整会議 科学技術政策に関する意思決定機関

 ・経済顧問会議 経済政策に関する諮問機関

・国務委員会 加盟国との連絡・調整、他国との外交

 ・国防事務総局

 ・フェザーン高等弁務官事務所

 ・移民管理庁

 ・同盟選挙管理委員会

・国防委員会 国防

 ・国防事務総局

 ・統合作戦本部

 ・後方勤務本部

 ・技術科学本部

 ・宇宙軍

 ・地上軍

 ・退役軍人庁

・財政委員会 国家財政

 ・財政事務総局

 ・同盟国税庁

・法秩序委員会 法務・治安

 ・法秩序事務総局

 ・同盟警察本部

 ・同盟中央検察庁

 ・同盟麻薬取締局

・天然資源委員会 エネルギー・環境

 ・天然資源事務総局

 ・国営水素エネルギー公社

 ・国営水資源公社

 ・国営天然ガス公社

・人的資源委員会 教育・労働・社会保障

 ・人的資源事務総局

 ・同盟年金庁

・経済開発委員会 産業・通商

 ・経済開発事務総局

・地域社会開発委員会 国土開発・インフラ

 ・地域開発事務総局

 ・国営植民事業公社

・情報交通委員会 通信・運輸

 ・情報交通事務総局

 ・航路保安庁

 

b.各省庁役職

b1.政治任用職(国会議員もしくは民間人)

・委員長    委員会の長

・第一副委員長 委員会の次長。政策全般を統括する

・副委員長   特定の政策を統括する

・委員     副委員長の下で政策に携わる

b2.資格任用職(官僚)

・事務総長   事務総局の長。事実上の委員会ナンバーツー

・事務次長   事務総長の次長

・部長     各部局の長

・次長     各部局の次長

・高等参事官  事務総局の次長補。次長級

・部参事官   部局の次長補。準次長級

・課長

・課長補佐

・参事官補   参事官の補佐。課長補佐級

・係長

・主任

・係員

 

c.独立機関

・国家情報局 政府の情報機関

・同盟中央銀行 中央銀行

・同盟公正取引委員会

・同盟証券取引委員会

・同盟郵便公社

 

2.立法府

a.同盟上院 自由惑星同盟の立法機関。加盟国の利益が反映されやすい

・上院議長 立法府の長

・上院副議長

・上院事務総局

・上院議員 すべての星系から二人ずつ選出。任期は六年で三年ごとに半数が改選される。

 

b・同盟下院 自由惑星同盟の立法機関。民意が反映されやすい

・下院議長 立法府の長

・下院副議長

・下院事務総局

・下院議員 人口一〇〇〇万人ごとに一人選出される。任期は四年。

      人口一〇〇〇万人に満たない惑星でも必ず一人は選出される。

 

3.司法府

a.同盟最高裁判所 自由惑星同盟の最高司法機関

・最高裁長官 司法府の長

・最高裁判事

・最高裁事務総局

 

b.各裁判所

・同盟高等裁判所

・同盟地方裁判所

 

4.地方政治

a.星系共和国。自由惑星同盟に加盟する星系。建前上は主権国家

・星系主席 加盟星系の元首。行政府の長を兼ねることもある

・星系議会 加盟星系の立法府。一院制の星系と二院制の星系がある

・星系政府 加盟星系の行政府。大統領制の星系と議院内閣制の星系がある

 ・星系首相 議院内閣制の星系では行政府の長を務める

 ・各省庁

・星系最高裁判所 加盟星系の司法府

b.地方自治体 各星系に属する自治体。主権を持たない

・惑星行政区 複数の有人惑星で構成される星系に設置される

・州 惑星上もしくは衛星に設置される

・県 州に設置される。設置されない星系もある

・郡 州や県に設置される。設置されない星系もある

・基礎自治体 州や県や郡に設置される。市・町・村の区別がある星系とない星系がある



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第一章:英雄エリヤ・フィリップス
第1話:逃亡者の末路 新帝国暦50年(宇宙暦848年)~??? ハイネセンポリス~???


 新帝国暦五〇年、宇宙暦で言うと八四八年の八月一五日、惑星ハイネセンの星都ハイネセンポリスの街角。手押し車に積み込んだ巨大スピーカーから流れる大音声の旧自由惑星同盟国歌「自由の旗、自由の民」をバックミュージックに、旧自由惑星同盟軍の軍服を着用した男達が車道をのし歩いている。彼らは、自由惑星同盟復活と反ローエングラム朝を唱える極右暴力集団「ヤン・ウェンリー聖戦旅団」のメンバーだった。

 

「帝国はバーラトから出て行け!」

「祖国を取り戻すぞ!」

「自由惑星同盟万歳!」

「ヤン・ウェンリー提督万歳」

「アーレ・ハイネセン万歳!」

 

 寂れきった街角に怒声が響く。ハイネセンポリスはかつて自由と民主主義の総本山と謳われた街であるが、今ではこのような集団の闊歩するところとなった。

 

 宇宙暦八〇〇年、ローエングラム朝銀河帝国が自由惑星同盟を併合すると、ハイネセンポリスは混乱のるつぼに叩き込まれた。地球教団や戦闘的民主主義者連盟によるテロ、ハイネセン大火、新領土総督ロイエンタール元帥の反乱、帝国軍務尚書オーベルシュタイン元帥による旧同盟要人の一斉検挙「オーベルシュタインの草刈り」、元フェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーが起こした同時多発爆弾テロ「ルビンスキーの火祭り」などにより、大きな被害を被った。

 

 八〇一年七月、ハイネセンポリスが属するバーラト星系は再び共和主義者の手に戻った。共和主義勢力「イゼルローン共和政府」がシヴァ星域で帝国軍の大軍と戦い、帝国軍総旗艦ブリュンヒルトに突入するという戦果をあげた。ラインハルト帝はイゼルローン共和政府の力量を認め、バーラト星系を与えた。バーラト星系行政区はバーラト自治区となり、ハイネセンポリスがその首都となったのである。

 

 バーラトを取り戻したイゼルローン共和政府が自治政府を主導することとなった。フレデリカ・グリーンヒル・ヤン共和政府主席が自治政府議長、アレックス・キャゼルヌ軍事局長が自治領警備隊幕僚総監、ダスティ・アッテンボロー革命軍宇宙艦隊総司令官が自治領警備艦隊総司令官に就任した。ヘラルド・マリノ宇宙艦隊副司令官、サンジャイ・ラオ宇宙艦隊参謀長、カスパー・リンツ薔薇の騎士連隊長、スーン・スール宇宙艦隊作戦主任参謀らも然るべき地位に就いた。彼らは旧同盟軍最高の名将ヤン・ウェンリーの指揮下で戦い、帝国軍を打ち破った英雄でもある。

 

 同盟末期、政府から距離を置いていた良識派も自治政府に加わった。ホワン・ルイ元同盟人的資源委員長が自治政府首相、シドニー・シトレ元同盟軍統合作戦本部長が副首相兼安全保障相、マレーラ・マグリーニ元エドワーズ委員会委員長が市民安全相、セダ・ギュルセル元反戦市民連合下院議員が対外関係相に就任した。ネイサン・クブルスリー元同盟軍統合作戦本部長が安全保障省次官、ビジアス・アドーラ元首都政庁参事官が市民安全省次官、クロード・モンテイユ元同盟財政委員会国庫課長が財務省次官、グレアム・エバート・ノエルベーカー元最高評議会書記局二等書記官が首相官房副長官に起用された。

 

 ユリアン・ミンツ革命軍総司令官、オリビエ・ポプラン革命軍空戦隊総監、エリック・ムライ元ヤン艦隊参謀長らが不参加を表明したものの、良識派オールスターといっていい陣容である。人々は民主主義復興の希望に胸を躍らせた。イゼルローン共和政府残党と旧同盟良識派からなる与党「八月党」は、第一回総選挙で全議席の八割を獲得するという大勝利を収めた。

 

 バーラト自治領は間もなく最初の試練に直面した。同盟の後継政権であることを理由に、同盟政府債務七〇〇兆ディナールのうち、ローエングラム朝と関係の深い資本家が債権者となっているものを引き継がされた。バーラト星系の主要産業である流通業と金融業は、八〇〇年以来の混乱の影響で落ち込んだ。財政赤字と不況のダブルパンチがバーラトに襲いかかった。

 

 衰弱したバーラト経済は、惑星ハイネセンだけで一〇億人、星系全体で一三億人という大きな人口を支えられなくなった。同盟時代のバーラトは、流通と金融によって他星系から物資を吸い上げてきた。しかし、ローエングラム朝の時代になると、他星系は衰退著しいバーラトとの取引を縮小し、帝都フェザーンに物資を供給するようになった。凄まじい物不足と失業が人々を苦しめた。

 

 窮地に陥った自治政府は帝国政府に支援要請を求めたが、交換条件として自治権の返上を求められた。ラインハルト帝は「バーラト自治区が自力で存続できぬとみたら、即座に潰しても構わぬ」と遺言していた。ロマンチシズムの発露と思われたバーラト自治区成立は、民主主義に課された厳しい試練であると同時に、難治の地をかつての敵手に押し付ける冷徹な策であった。

 

 旧同盟領を統括する新領土尚書エルスハイマーは、バーラト自治区を避けるように交通・流通網の再編を進めた。イゼルローン回廊と近いシャンプール、帝都フェザーンと旧同盟領中央宙域(メインランド)の中間にあるウルヴァシーが、旧同盟領における新たな経済中心地となった。アレクサンデル・ジークフリード帝が実施した新領土開発事業では、「自治権を尊重する」という名目で、バーラト自治区に対する投資を行わなかった。バーラトとハイネセンポリスの経済的地位は急速に低下していった。

 

 自治政府は抜本的な改革が必要だと判断し、貿易と金融の自由化を大胆に推し進めた。しかし、主要交易路がフェザーン回廊周辺及びイゼルローン回廊周辺に移動しており、バーラトは重要な交易拠点としての地位を失っていた。共和主義者が旧同盟領の中心になることを望まない帝国政府の妨害もあり、改革は産業空洞化を助長しただけに終わった。

 

 バーラト経済は破綻状態に陥った。住民の平均年収は激減し、失業率と犯罪率は跳ね上がり、食料不足とエネルギー不足が慢性化した。自給自足を進めようにも、開発資金がない。公共サービスの質は同盟末期の水準を下回った。首都ハイネセンポリスの復興はまったく進まず、旧同盟時代に作られた建造物の老朽化もあり、街全体がスラムの様相を呈した。

 

 人々の怒りは与党八月党に集中した。ホワン首相が辞任に追い込まれた。グリーンヒル・ヤン議長は一期四年を務めた後、政界引退を余儀なくされた。

 

 状況を考えると、八月党に対する非難は過大であったように思える。立地があまりに悪すぎた。受け継いだ負の遺産があまりに多すぎた。帝国に足を引っ張られた。イゼルローン共和政府出身者は優秀な軍人だが、政治の専門家ではない。良識派は旧同盟においては少数派だった。自治領民の大半は旧同盟の多数派、すなわち主戦派を支持した人々であった。成功する要素など一つもない。しかし、人々には怒りをぶつける対象が必要だった。

 

 ホワン内閣崩壊後、バーラト自治領は混迷の時代に突入する。短命内閣が続き、政府は指導力を失った。八月党は辛うじて与党の座を確保したものの、旧同盟主戦派や旧レベロ派の台頭を防ぐことはできなかった。反帝国・反八月党を唱える極右組織が乱立し、警官隊と衝突を繰り返した。

 

 バーラトで民主主義の灯火が消えようとしていたその時、別の場所で民主主義の再興を掲げる者が現れた。その発端はローエングラム朝の内部抗争である。

 

 発足当初のローエングラム朝は軍事政権であった。ラインハルト帝に従って銀河を征服した功臣は絶大な権威を誇っていた。軍事力を持たない摂政皇太后ヒルデガルドは、功臣と協力せざるを得なかった。アレクサンデル帝が即位すると、ミッターマイヤー元帥が国務尚書、ミュラー元帥が軍務尚書、ケスラー元帥が内務尚書、メックリンガー元帥が宮内尚書に就任し、功臣が主要四官庁を独占した。功臣と折り合いの悪いブラッケ民政尚書、リヒター財務尚書、ブルックドルフ司法尚書らは失脚を余儀なくされた。

 

 やがて、功臣と皇室の力関係は逆転した。対外戦争の終結は、功臣から新たな戦功を立てる機会を奪い、ヒルデガルド皇太后に政治手腕を振るう機会を与えた。内政の整備が進むにつれて、官僚の発言力が大きくなった。共和主義者やゴールデンバウム朝残党によるテロの激化は、対テロ戦の専門家の台頭を促し、艦隊戦の専門家である功臣は発言力を失った。

 

 主導権を握ったヒルデガルド皇太后は、支配階級の再編成を試みた。ラインハルト流の自由帝政は、貴族も平民も奴隷もなく、皇帝はただ一人で万民と相対しなければならない。皇帝の負担があまりに大きすぎた。皇室と支配権力を分かち合い、運命をともにする人々が必要だった。貴族制度が復活することとなり、文武の高官に爵位と特権が与えられた。旧同盟人や旧フェザーン人も貴族に列し、新たな身分秩序が形成されたのである。

 

 ラインハルト流の実力主義と平等主義を信奉する功臣たちは、新しい貴族制度に激しく反発した。クーデターを起こそうとする動きもあった。しかし、皇太后と親しいミッターマイヤー元帥とケスラー元帥が、他の元帥を説得したため、獅子泉の七元帥は皇太后支持でまとまった。最上級の功臣が自重したことにより、他の功臣は動けなくなった。

 

 七元帥が引退すると、功臣の大多数が反皇太后派となった。八三〇年と八三二年にクーデターが計画された。しかし、ヒルデガルド皇太后と帝国宰相エルスハイマー侯爵は未然に察知し、首謀者たちを逮捕した。官僚機構の力は帝国を覆い尽くすほどに大きくなっていた。艦隊戦がなくなって久しく、若くして過去の遺物と化した功臣たちは、軍部を掌握できなかった。勝負は戦う前から決まっていたのである。

 

 反皇太后派が次に目を付けたのは、バーラト自治区で施行されている議会制度だった。官僚支配と貴族制度に反発する勢力を結集し、議会の多数派を占めれば、合法的に権力を獲得できる。

 

 かくして、ラインハルトとともに民主主義国家を滅ぼした軍人が、民主主義の看板を掲げるに至った。宇宙艦隊司令長官ブラウヒッチ元帥、地上軍査閲総監フェルナー上級大将、国内予備軍司令官トゥルナイゼン上級大将、軍事参議官ディッタースドルフ上級大将らは、憲法制定と議会制度導入を訴える運動を始めた。苦境にあった八月党、官僚に反発する地方勢力、官僚社会の反主流派がこの動きに乗った。数年にわたる抗争の後に、帝国議会が設立された。

 

 新帝国暦四一年(宇宙暦八三九年)、銀河帝国において初の議会選挙が行われた。反官僚勢力「臣民党」と官僚勢力「忠誠党」の対決は、臣民党の圧勝に終わった。民主主義が勝利したかに思われた。だが、民主主義の守護者を自負する八月党は、定数七議席のバーラト星系ですら三議席しか獲得できず、他星系の選挙区では全敗に終わった。旧同盟領には帝国の支配が浸透しており、八月党は馴染みのない存在となっていたのである。

 

 帝国議会が発足すると、バーラト自治区は自治権を返上し、皇帝直轄領となった。しかし、ハイネセンポリスが繁栄を取り戻すことはなかった。住民は旧同盟時代への郷愁と経済的窮乏への不満を募らせた。

 

 極右勢力は衰退したハイネセンポリスで勢力を広げ、官憲や対立組織との抗争を繰り広げた。犯罪組織と結託してマフィア化するものも多い。貧困と暴力に支配された犯罪都市。それがハイネセンポリスである。

 

 

 

 私は片手で杖をつき、ひび割れの目立つハイネセンポリスの歩道をゆっくりと歩いた。もう片方の手は、図書館から借りた『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ 三巻』『自由惑星同盟宇宙軍最後の栄光―ヤン・ウェンリーとアレクサンドル・ビュコック』『矛盾の提督―ヤン・ウェンリーの苦悩』を抱えている。

 

 他人の目から自分がどう見えるかなどは考えたくもない。小柄で痩せていて、背中もひどく曲がっている。表情は「この世の不幸を一身に背負ったかのように陰気」と言われる。荒れ果てた街角を歩くみすぼらしい老人。それがこの私だ。

 

「元気なのはあんな連中ばかりだ……」

 

 車道を我が物顔に占拠するヤン・ウェンリー聖戦旅団を見て、私は小さくため息をついた。旧同盟の軍服を着た人間にはいい思い出がない。暴力組織が英雄ヤン・ウェンリーの名前を騙っているのも気に食わない。八月党は好きじゃないが、ああいう連中を規制したことだけは正しいと思う。

 

「きさま! 何を見ておるか!」

 

 大きな怒声とともに、デモ行列の中から二人の男が飛び出してきた。全速力で私の方に向かってくる。

 

「非国民め! 修正してくれるわ!」

 

 男の一人が飛び上がって、私の胸に蹴りを入れた。胸に激しい衝撃を受け、仰向けに地面に倒れ込む。そこにもう一人の男が飛びかかってきて、私の手足を押さえ込んだ。たちまち七、八人ほどの男が集まり、私を取り囲んで罵声を浴びせながら、これでもかと蹴り回す。

 

「殺される……」

 

 私は死の恐怖を覚えた。これまでも数えきれないほどリンチを受けてきたが、今回のは格別だ。弱った体では耐えられそうにない。

 

「何をやっている!?」

 

 帝国公用語の叫びが聞こえた。内務省の治安部隊隊員だろうか。ハイネセンポリスで極右に強い態度をとれるのは、官憲ぐらいのものだ。

 

「帝国の犬め!」

 

 極右の男たちは旧同盟公用語の叫びで応じると、私を放置して治安部隊隊員へと飛びかかる。泣く子も黙る内務省治安部隊にこんな態度をとれるのは、彼らぐらいのものだ。

 

 私は息も絶え絶えになりながら殴り合いを眺めた。最初は極右が数の力で優勢に立っていた。しばらくすると、治安部隊の増援が到着し、極右を次々と警棒で殴り倒し、地面に倒れたところに手錠をかけた。半分ほどが拘束されると、極右は戦意を失って散り散りになった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 治安部隊隊員の一人が私のもとに寄ってきてしゃがみ、帝国公用語で声をかける。

 

「…………」

 

 返事したいが声が出ない。息が苦しい。

 

「大丈夫ですか?」

 

 私が帝国公用語をまったく解さないと思ったのか、治安部隊隊員は旧同盟公用語に切り替えた。

 

「返事がない。まずいな。かなり状態が悪いのか」

 

 違う方向から帝国公用語の会話が耳に入る。

 

「我々の世話になりたくないんじゃないか? 新領土の年寄りは同盟人意識を引きずっているからな」

 

 その声に「違う」と答えたくなった。旧同盟なんて懐かしくも何ともない。

 

「手ひどくやられたんだ。口もきけまい。救急車を呼ぼう」

 

 年長者らしき落ち着いた声が正解を導き出した。そして、日常会話をどうにかこなせる程度の帝国公用語力しかない私には、意味の分からない言葉が飛び交う。

 

「なんでこんな目に……」

 

 私は声を出さずに運命を呪った。八〇年の人生は不運の連続だった。宇宙暦七六八年に生まれた私は、一九歳の時に同盟軍に徴兵され、エル・ファシル星系警備隊司令官アーサー・リンチ宇宙軍少将の旗艦グメイヤに配属された。それが転落の始まりだった。

 

 七八八年八月、帝国軍に敗北したリンチ少将は、星系首星エル・ファシルに逃げ込んだ。そして、軍需物資をかき集めると、巡航艦一〇〇隻と直属の部下だけを率いてエル・ファシルから脱出し、エルゴン星系へと向かった。

 

 グメイヤの乗員だった私は、「エルゴンの第七方面軍に援軍を求めに行く」というリンチ少将の命令を鵜呑みにして、脱出行に従った。それが部下を従わせるための方便に過ぎなかったこと、単なる敵前逃亡だったことを知らされたのは、帝国軍に捕らわれた後のことだ。

 

 ゴールデンバウム朝時代の帝国では、戦争捕虜は軍人ではなく単なる犯罪者として扱われた。私たちは極寒の惑星ゼンラナウにある政治思想犯矯正区に放り込まれ、銀河連邦時代に作られたという築数百年のコロニーに住まわされた。初代皇帝ルドルフが「犯罪者に税金で飯を食わすなど言語道断!」と述べて、刑務所での食事支給を禁止して以来、帝国では犯罪者に対する衣食の無償供与は行われない。不毛の地に畑を作って食糧を自給し、近くの山から切り出した木材を帝国軍に引き渡し、衣服や医薬品を受け取る。それは過酷そのものの日々だった。

 

 後からゼンラナウに入ってきた捕虜がリンチ少将の悪評を広めると、暮らしはさらに過酷になった。「卑怯者」のレッテルを貼り付けられた私たち逃亡者は、他の捕虜から徹底的に蔑まれ、暴力を振るわれたり、食料や衣服を奪われたりした。私は祖国と家族への愛情を支えに、九年間の捕虜生活を耐えぬいた。

 

 七九七年に捕虜交換で帰国することが決まった時は、天にも登るような気持ちになった。捕虜収容所から生還した者は勇者と賞賛され、一階級昇進と一時金を与えられる。九年前の事件など世間は忘れてるはずだと思った。

 

 希望に胸を膨らませて帰国した私を待っていたのは、「市民を見捨てた卑怯者」という罵倒、そして軍からの追放を意味する不名誉除隊処分だった。ネットには、リンチ少将に従った者の個人情報が記された「エル・ファシルの逃亡者リスト」が出回り、制裁を呼びかけていた。九年が過ぎても、同盟市民は私たちの罪を忘れていなかったのだ。

 

 実家に戻った私は吊るし上げの対象となった。外を歩くたびに通行人から罵声を浴びせられ、少ない友人から絶縁を言い渡され、極右組織の構成員に殴られた。暴行を受けた後に被害届を出そうとしたら、冷笑を浮かべた警官に「お前が悪い」と言われて追い返された。実家のドアには「卑怯者」「非国民」と落書きされた。近所の店は物を売ってくれなくなった。

 

 仲の良かった家族も私を疎んじるようになった。毎晩のように「死ねばよかったのに」と罵られた。家族で出かける時は私だけが家に残された。家に人を呼ぶ時は私だけが家から出された。

 

 仕事を探しても、前歴が知れた途端に追い返されてしまう。やがて家からも追い出されて、ネットカフェを泊まり歩く日々が続いた。

 

 七九九年の帝国軍侵攻の時に軍に志願し、ようやく仕事にありついた。だが、そこでも下士官や古参兵からリンチを受けた。軍隊流のリンチは、故郷で受けたそれとは比較にならないほど凄まじく、「殺される」と思って三か月で脱走した。

 

 仕事に就けず家にも帰れなくなった私は、ハイネセンポリスの貧民街に流れ着いた。信仰心もないのに十字教や地球教といった宗教団体に入信し、食物や衣類をもらった。置き引きや万引きや違法な商売で稼いだ小銭は、酒や麻薬や風俗や賭博に消えた。完全に身を持ち崩してしまったのである。

 

 同盟が滅亡した頃には、エル・ファシルの逃亡者への差別はだいぶ薄れていたが、バーラト自治区が成立すると再び差別が始まる。自治政府議長フレデリカ・グリーンヒル・ヤンは、「旧同盟軍の戦争犯罪を風化させてはならない」と主張する人々の声に押され、「戦犯追及法」を施行したのだ。

 

 戦犯追及法の適用対象者にされた私は、バーラト自治区でもまともな仕事に就けなくなった。ますます酒や麻薬にのめり込み、気が付いた時は重度の中毒患者となっていた。窃盗や麻薬所持で何度も逮捕されて服役した。

 

 六〇歳を過ぎた頃、長く苦しい治療の果てにアルコール中毒と麻薬中毒を克服した。ボロボロになった肉体、ボケかけた頭脳以外は何も残っていなかった。年金受給資格なんてものもない。

 

 私に助けの手を差し伸べてくれたのは宗教団体だった。十字教兄妹派の救貧院に収容されて、ようやく落ち着いた生活を手に入れた。平均的な収入がある人々から見れば、救貧院の生活は貧しいだろう。しかし、食事と寝床を無償で提供されるだけでありがたい。

 

 救貧院で暮らす一五〇名の老いた男女は私と同じだ。失敗だらけの人生を送り、心を閉ざしている。職員は宗教的な慈悲の心を持っていても、一人の人間としての興味を収容者に抱くことはない。人間と接することを苦痛に感じる私にとっては、無関心こそが慈悲である。

 

 刑務所で身につけた読書の習慣のおかげで、私は一人で楽しむことができる。読書と言えば高尚に聞こえるが、私は無学なので難しい本は読めない。娯楽書が中心である。最近はラインハルト帝やヤン元帥といった同時代を生きた英雄の伝記、アムリッツァ星域会戦やバーミリオン星域会戦といった有名な戦いを題材とした戦記がお気に入りだった。

 

 しかし、本の世界に逃げ込んでも、自分の惨めさが軽減されるわけではない。私はエル・ファシルで逃げた男なのだ。

 

「なんだ、この本は?」

 

 帝国公用語の会話が私の回想を遮った。

 

「お前、こんな簡単な新領土方言も読めないのか?」

「赴任して一か月も経ってないからな。で、なんて題名だ?」

「これは『ヘルデンザーゲン・フォン・デア・ガラクスィー』の新領土方言版だな」

「ああ、なるほど。新領土方言版も出てたんだな」

「おまえ、ちゃんと読んでないだろ。こっちが本場だぞ。旧同盟軍人が書いた本だからな」

「中学校の公用語の教科書に載ってた……ぐらいしか読んで……」

「……全部読んでおけ……この星ではヤン・ウェンリーは……」

「……ああ、そうか……著者はヤンの……だったか……」

 

 次第に声が聞き取れなくなってきた。あの運命の日、私はヤン元帥と同じ惑星の上にいた。それなのに、ヤン元帥は帝国の教科書にまで登場する偉人になり、私は路上で這いつくばっている。どうしてここまで運命が違ってしまったのか。

 

「エル・ファシルで逃げなければ良かった」

 

 六〇年の後悔とともに涙が溢れ出た。涙のせいか、傷の痛みのせいか。次第に目の前がぼんやりとしていった。

 

 

 

 右肩を強く叩かれる感触とともに、私は意識を取り戻した。両足は地面をしっかり踏みしめている。倒れていたはずなのに、いつの間にか立ち上がっていたらしい。痛みもまったく感じない。どういうことなのだろうか。

 

「おい!」

 

 背後から大きな声がして、もう一度肩を叩かれた。驚いて振り向くと、モスグリーンのジャケットを着た男が立っていた。頭には同じ色のベレー帽を被っている。見間違えようもない旧同盟軍の軍装だ。年齢は二〇代前半だろうか。

 

 今どきこんな服を着ているのは、極右組織の構成員と決まってる。また殴られるのかと思って、一瞬ビクッとしてしまった。

 

「なにジロジロ見てんだよ」

 

 軍服姿の男の声からは敵意が感じられず、親しげですらある。背は高いもののひ弱そうで、顔も優しげだ。極右組織に所属するような人間とは、雰囲気が明らかに違う。何者なんだろうか? 最近は旧同盟軍の軍装が流行っているのだろうか? 嫌な流行だ。

 

「いったいどうした?」

 

 男は困った様子で俺を見ている。だが、私だって困っているのだ。こんな男に親しげにされる理由がわからない。

 

 それにしても空が白い。日が昇ったばかりなのだろうか? 私はこんな時間になるまで倒れていたのか? 誰も救急車を呼ばなかったのか? どうして痛みが消えてるのか? 頭の中にどんどん疑問が浮かんでくる。

 

「あと一時間で出発だってさ。早くシャトルに乗ろうぜ」

 

 急かすように男は言う。ますますわけがわからなくなった。どうして知らない若い男と一緒にシャトルなんかに乗らねばならないのか。惑星ハイネセンどころか、ハイネセンポリスからもこの四〇年は出ていないというのに。

 

「なあ、エリヤ。いつにもまして間抜け面だぞ。どうしたんだよ?」

 

 馴れ馴れしすぎる男の物言いに胡散臭さを覚えた。この数十年間、ファーストネームで呼んでくれるような相手はいなかった。いきなり馴れ馴れしくされたら、臆病な私は警戒してしまう。

 

「おい、何か言えよ」

 

 黙ってる私を見て、男はますます困惑した表情を浮かべた。

 

「すいません」

 

 適当な返事でお茶を濁し、あたりを見回した。最初に目についたのは、馬鹿でかい横長のビルだった。まるで宇宙港にあるようなビルだ。滑走路にはシャトルがずらりと並び、トラックもたくさん走り回っている。かなり大きな宇宙港のようだ。シャトルもトラックもすべてモスグリーンに塗装され、忙しく動き回る人々もみんなモスグリーンのジャケットを着ている。どこを見回しても旧同盟軍の色ばかり。まるで旧同盟軍の軍港ではないか。

 

 鈍感な私でも、さすがにここがハイネセンポリスではないことに気付く。シャトルがズラリと並ぶ旧同盟風の軍港なんて、とっくの昔に無くなってるからだ。地名が書かれた看板を探して周囲を見回すと、同盟公用語で記された案内板が目に入った。

 

『エル・ファシル第一軍用宇宙港』

 

 エル・ファシルだと!? どういうことだ? 私は夢でも見てるのか? 混乱する私の思考に、緊張感を欠いた男の声が割り込んでくる。

 

「早く行こうぜ。あのパン屋の子、可愛かったよな。いい感じになってたんだから、気になるのもわかるよ。でも、その子のために残るわけにもいかないだろ? 俺らも軍人なんだから、命令が優先だ」

 

 パン屋の子と言う言葉に、懐かしい記憶が呼び覚まされる。エル・ファシル星系宇宙警備部隊にいた頃、基地近くのパン屋で働いてた女の子と仲良くなった。休日に一緒に遊びに行ったこともあった。それから一度も恋愛をせずにこの年になるなんて、当時は思わなかった。

 

 昔を回想したところで、少し引っかかりを感じた。男がなぜ私の思い出を知っているのか? どうしてここに残ってはいけないのか? どうして男は私のことを軍人と言うのか?

 

 もう一度案内板を見る。やはりエル・ファシル第一軍用宇宙港だ。ある可能性に思い至った私は、初めて男に質問をぶつけた。

 

「命令ってなんだ?」

「エルゴンまで救援要請に行くんだよ。今さら聞くことじゃないだろ。ほんと、ぼんやりしすぎだよ」

 

 呆れたように男は答える。私の確信は一段と強くなった。

 

「つまり、私達はエル・ファシルから逃げようとしてるのか?」

「逃げるんじゃなくて救援要請だよ。第七方面軍が動けば帝国軍なんてすぐ追い払えるって、リンチ提督が言ってたじゃないか」

「私は確か宇宙警備部隊の旗艦グメイヤの乗組員だったな?」

「あたりまえだろ? 今日のおまえ、ちょっとおかしいよ。妙にしゃべり方が年寄り臭いし」

 

 やはり思った通りだった。呆れる男をよそに、私はさらなる事実の確認に入る。

 

 まずは顔を下に向けて自分の胸元を見た。旧同盟軍の制式スカーフ、そしてモスグリーンのジャケットが見えた。顔を触ると、ツヤツヤした感触がする。頭を触ると、たっぷりと髪の毛がある。指を動かすと、リンチの後遺症で曲げにくくなってた右手の指がすんなり曲がった。右腕をまくると、古参兵に押し付けられたタバコの跡が綺麗に消えていた。声を出すと、酒でしわがれた声とは違う張りのある声が聞こえた。

 

 体が若い頃に戻っている! 

 

 喜びを感じながらポケットをまさぐると、骨董品のような旧式の携帯端末が出てきた。

 

『七八八 八/一五 五:五〇』。

 

 七八八年八月一五日! ここは六〇年前のエル・ファシルなのか!? 私のすべてのつまづきの元、一生消えない「逃亡者」のレッテルを貼られた場所。私はなぜここにいるのか!? 夢なのか!?

 

 思い切り頬をつねった。痛い。右足で左足を力いっぱい踏んだ。痛い。痛すぎて涙がにじんでくる。これは現実なのか? 軽々しく決めつけるのは私の悪い癖だ。自分を信用してはならない。

 

「すまない。私の頬を思い切りつねってくれないか?」

「いいけど……」

 

 男は顔いっぱいに困惑を浮かべながら、俺の頬を力いっぱいつねった。

 

「痛い! 痛い!」

 

 あまりの痛さに叫んでしまった。涙がこぼれてくる。夢にしては、随分とリアルじゃないか。

 

 これだけリアルなら、試せるかもしれない。ここで逃げなければどうなるのか? 逃げなければ有り得たはずの人生を経験できるのか? エル・ファシルの逃亡者と呼ばれない人生を試せるのなら、夢だって構わない。

 

「エリヤ、いい加減に……」

「逃げねえよ!」

 

 私は反射的に叫び、男を振りきって駆け出した。そして、血眼になって乗り物を探す。人が乗ったまま停まってるのがいい。すぐに走り出せる。

 

 人が乗ったまま停まってるエアバイクがすぐに見つかった。座席にまたがってる男はたばこをのんびり吸っていて、緊張感のかけらもない。

 

「借りるぞ!」

 

 私は素早く近づくと、男の服を掴んで地面に引きずり落とした。そして、エアバイクを奪って全速力で走りだす。後ろでは大騒ぎになっているが、そんなのは知ったことではない。出発まで時間がないのというのが本当ならば、追いかけられる心配もないはずだ。

 

 私の乗ったエアバイクは、宇宙港を抜けて山道に入る。案内標識を頼りにエル・ファシルの市街地を目指す。この夢が六〇年前のエル・ファシルそのままなら、「エル・ファシルの英雄」ヤン・ウェンリーが市内で民間人脱出の指揮をとっている。

 

 かつての私は彼の存在を知らなかった。第七方面軍に救援を求めるというリンチの命令を信じきっていた。その結果、捕虜となってすべてを失ったのだ。しかし、夢の中の私は未来を改善する方法を知っている。

 

 人生は何一つ思い通りにならなかった。せめて夢の中では思い通りにしてやろうと思った。

 



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第2話:夢の始まりは戸惑いとともに 宇宙暦788年8月15日~16日 エル・ファシル市街~エル・ファシル星系政庁

 エアバイクが山道を抜けた頃には、すっかり日が高くなっていた。目の前には平原が広がり、小麦畑と住宅が点在している。何の個性もない郊外の風景なのに、とても美しいと思った。こんな気持ちで風景を見るなんて何十年ぶりだろうか。私は逃亡者ではない。そう思うだけで世界が光り輝いて見える。

 

 頭上で轟音が鳴り響いた。反射的に空を見上げると、軍用シャトルが列を成して飛び立っていくのが見える。思わず顔や腕を触り、目をこすった。確かに私はここにいる。あの中に自分がいないことを確認してホッとした。

 

 ここで重要な事に気づいた。私は「エル・ファシルの英雄」ヤン・ウェンリーがエル・ファシル市のどこにいるのかを知らない。

 

 エアバイクを停めると、頭の中から『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』の記憶を懸命に引っ張りだした。しかし、どちらにもエル・ファシルを脱出するまでヤンがどこにいたかなんて細かいことは、まったく書かれていない。いきなりつまずいてしまった。

 

 どうすればヤンに会えるか思案していると、中年の男が近づいてきた。凄い殺気を感じる。逃げようと思ってエンジンを掛けようとしたが、男が私に掴みかかる方が一瞬早かった。

 

「ありゃどういうことだぁぁぁ! 説明しろぉぉ!」

 

 男は空を指差す。その先には飛び立っていく軍用シャトルの列。どうせ彼らは逃げ切れない。ヤンに着いて行けば、ここに残った者はみんな無事に帰れる。

 

「大丈夫ですよ。大丈夫ですから……」

 

 確信を込めて答えたつもりが、声が震えてしまった。やはり私はこういう男が怖い。無意識のうちに恐怖を感じてしまってる。

 

「何が大丈夫だ! てめえのお仲間がみんな逃げてんだろがぁぁ!」

「いや、ですから……」

 

 男はますます逆上する。勘弁してくれと思った時に、数人の男女が走り寄って来た。暴力の予感に体が震える。

 

 軽く目をつぶり、帰国後に経験した迫害の数々を思い出す。人格を根底から否定する罵倒。そこにいるからという理由だけで振るわれた暴力。それに比べたら、恐ろしいことなど何も無いではないか。仮にエル・ファシルの英雄がいなかったとしても、帝国軍から逃げられなくて死んでも、逃げ出して、あの六〇年を生きるよりはずっとマシだ。

 

「確かに司令官は逃げました! しかし、僕は逃げていません! なぜなら、エル・ファシルから逃げても、『市民を守らずに逃げた』という批判からは一生逃げられないからです! ここに残って市民の皆さんと一緒に脱出する道を考える方がずっと安全に決まっている! 僕は安全を選んだんです!」

 

 やけくそになって六〇年の後悔を吐き出す。集団の中から趣味の良いジャケットを着た三〇歳前後の男性が進み出た。身長は高く、体は幅と厚みを備え、見るからに恰幅が良い。

 

「もしかして、君は自分の意志で残ったのか? 置いて行かれたわけではないのか?」

「はい! 逃亡者になりたくないから残りました! 皆さんと一緒に胸を張って帰るために残りました!」

 

 そう叫んだ瞬間、「おお!」と歓声をあがり、拍手が乱れ飛んだ。

 

「良く言った!」

「君は軍人の鑑だ!」

 

 予想もしなかった反応に、私は戸惑っていた。逃亡者と言われるのが嫌だと正直に言っただけなのに、どうしてこんなにはしゃいでいるのだろう? 居心地が悪い。

 

「握手させてもらってもいいかね」

 

 恰幅の良い男性が微笑みながら右手を差し出してきた。

 

「どうぞ……」

 

 訳のわからないまま私も右手を差し出し、握手をかわす。

 

「私達はこの街の住民代表でね。今から星系政庁に行くところなんだ。君も一緒に行かないか?」

「星系政庁?」

「そうだよ。君も非常事態対策本部に行くつもりだったんだろう?」

「え、ええ、そうです。何か役に立てないかと思って」

 

 非常事態対策本部というのが何なのかは良くわからないが、本部というからには、ヤン・ウェンリーの情報もあるに違いない。そう思って話を合わせた。

 

「あの若い中尉も苦労してるだろうからな。きっと力になれる」

「ヤン・ウェンリー……?」

「そう、そうだよ。あのイースタン系の中尉だ」

「ありがとうございます!」

 

 あのヤン・ウェンリーが夢の中のエル・ファシルにもいることを知り、喜びが沸き上がる。逃亡者にならずに帰れる! あんなみじめな思いはしなくて済むのだ!

 

「どうするかね?」

「行きます!」

「ありがとう、私はこういう者だ」

 

 恰幅の良い男性は手を離すとジャケットの懐を探り、名刺を差し出した。

 

「あなたと作る独立独歩のエル・ファシル

 

 エル・ファシル惑星議会議員

 エル・ファシル惑星議会福祉保健委員会 副委員長

 エル・ファシル惑星議会文化教育委員会 委員

 エル・ファシル独立党惑星議会議員団 副幹事長

 医学博士

 医療法人 ロムスキー総合病院 理事長

 

 フランチェシク・ロムスキー」

 

 私は目を丸くした。フランチェシク・ロムスキーといえば、自由惑星同盟末期のエル・ファシル星系共和国首相で、あのヤン・ウェンリーと同盟してエル・ファシル独立政府を作った有名人ではないか。そんな大物にいきなり声をかけられるなんて、まるで夢のようだ。まあ、夢なのだが。

 

「エル・ファシル星系警備隊所属、エリヤ・フィリップス宇宙軍一等兵です!」

 

 未来の革命指導者に失礼のないよう、精一杯胸を張って敬礼した。

 

「元気だね」

 

 ロムスキーは目を細め、周りの人達もクスクス笑う。恥ずかしさで顔が真っ赤になった。張り切りすぎて痛い奴と思われたかも知れないが、陰気よりはましだろうと自分をごまかし、視線を横にそらす。

 

「照れてる照れてる。かわいいなあ」

「エリヤくんていうんだー」

 

 そんな女性の声も聞こえてくる。人をからかうのはやめてもらいたい。本当は気持ち悪いと思っていることぐらい、頭の悪い私でも理解できる。夢だというのに身長は伸びていないし、髪の毛は赤毛のままだし、猫目も小さい鼻も変わっていないのだ。どこにかわいいなどと言われる要素があるのか? 少しうんざりした。

 

「ははは、人気者だね。行こうか」

 

 ロムスキー議員はのんきに笑うと歩き出した。彼の仲間と思しき数人がそれに続く。私もその後を追って、星系政庁に向かった。

 

 

 

 宇宙暦八〇〇年前後の同盟に生きた私にとって、ヤン・ウェンリーは偉人の中の偉人だ。エル・ファシルで民間人三〇〇万人を脱出させて名を挙げ、アスターテ星域会戦、第七次イゼルローン攻防戦、アムリッツァ星域会戦、ドーリア星域会戦、惑星ハイネセン攻略戦、第八次イゼルローン攻防戦、ライガール星域会戦、トリプラ星域会戦、タッシリ星域会戦、バーミリオン星域会戦、第一〇次イゼルローン攻防戦、回廊の戦いなどで帝国軍をことごとく打ち破り、無敗のままに世を去った。あの「銀河征服者」ラインハルト・フォン・ローエングラムですら、ヤンには勝てなかった。

 

 しかし、ヤン・ウェンリーの真の偉大さは、その武勲ではなく人間性にある。青空よりも清廉潔白で、宇宙のように広大な度量を持ち、野心をまったく持たず、ひたすら民主主義のために戦い続けた。無能で卑劣なヨブ・トリューニヒト、清廉だが狭量なジョアン・レベロなどといった無能な政治家に妨害されて本懐を遂げられなかったが、彼の志は部下に引き継がれて、バーラト自治区の成立に至った。バーラト自治区が失敗に終わっても、ヤン・ウェンリー主義は不朽の輝きを放っている。

 

 リアルタイムで彼を知らない世代には、「ヤン・ウェンリーの用兵ではなく、記録を残したユリアン・ミンツの筆が凄い」「ヤン・ウェンリーは無駄に戦乱を長引かせた戦闘狂。天命を知って平和と統一に貢献したオーブリー・コクラン元帥こそ、真の名将というべき」などと言う者もいる。彼らは義務教育も受けなかったに違いない。バーラト自治区では国父として、ローエングラム朝銀河帝国では開祖ラインハルト帝の好敵手として、その戦いを詳しく教えるからだ。コクランも名将だが平和な時代の軍政家であって、武勲も思想性もヤンとは比較にならない。

 

 星系政庁に入ってヤンと会ったら、どうすればいいのだろうか? 自分のような卑小な存在があんな偉人の前に立つことなど許されるのだろうか? ぐるぐると考えている間に、星系政庁前の広場に到着した。数万人の群衆が庁舎をエル・ファシル星系政庁を取り囲み、怒声を飛ばしている。

 

「良くも俺たちを騙してくれたな!」

「出発を引き伸ばしたのはこういうことか!」

「ヤン・ウェンリー出てこい!」

 

 群衆が暴徒になる三歩前といった感じだ。特殊警棒と強化プラスチックの盾を手にした機動隊が出動しているが、何の抑止力にもなっていない。

 

「参ったね。予想以上だ」

 

 ロムスキー議員はため息をつく。

 

「なぜ彼らはヤン中尉に怒っているんですか? 悪いのは逃げた人達だけでしょう? 中尉はみんなが逃げられるよう頑張ったじゃないですか」

 

 群衆の怒りがヤンに向いている理由が私には理解できない。ヤンだってリンチに見捨てられたのだから。

 

「脱出の準備はとっくにできていたのに、中尉がまだ早いと言って出発に反対した。その結果がこれだ。みんなを騙して司令官が逃亡するまで時間稼ぎした。そう受け取られても無理は無い」

「先生もそう思ってるんですか?」

「い、いや。そんなことは……。正直言うと、ちょっとだけ考えた……」

「そんなわけないでしょう!」

 

 大声を出した私のもとに群衆の視線が集中した時、急に大きなチャイム音が鳴り響き、庁舎の壁に据え付けられた巨大スクリーンから緊急放送が流れた。騒いでいた群衆は静まり返る。

 

「只今より、非常事態対策副本部長ヤン・ウェンリー宇宙軍中尉の緊急会見が始まります。手近なテレビ、端末をごらんください」

 

 スクリーンが明るくなり、ヤン・ウェンリーが映し出される。すべてを見抜いているかのような瞳。何者にも動じない落ち着いた表情。夢だから変なふうに変わっている可能性も考えたが、一週間前に見た記録映像の中とまったく同じで安心した。

 

「司令官の逃亡についてどうお考えですか?」

「軍は市民を見捨てたという声がありますが!?」

「脱出を延期なさったのは中尉の判断ですよね? 司令官の逃亡を助けたと疑われても仕方がないのでは!?」

 

 記者は厳しい質問を矢継ぎ早に浴びせる。だが、ヤンは答えようとせず、こほんと小さく咳払いをしてから穏やかな口調で語り始めた。

 

「明日の正午に脱出します。市民の皆さんは今から準備を始めてください」

 

 スクリーンの中も外も一気にざわめいた。記者の一人がすべてのエル・ファシル市民を代表するかのように質問を投げかける。

 

「明日ということですが、護衛無しの脱出になるのですか?」

「そうです」

「司令官の逃亡の翌日に脱出を決定された理由は?」

「最初からそのつもりでした」

「中尉は司令官が逃亡するのをご存知だったのですか!?」

「知りませんでしたが、予想はしていました」

 

 リンチの逃亡を予想していたというヤンの答えに、人々の血液は沸騰した。

 

「予想していただと!」

「やっぱり奴らのために時間稼ぎをしていたのか!」

 

 記者達から怒声を浴びせられても、ヤンはまったく動じない。

 

「心配いりません。司令官が帝国軍の注意を引きつけてくれます。レーダー透過装置など付けずに悠々と脱出できますよ」

 

 司令官を囮にするという大胆すぎる発言に、記者も群衆も一斉にどよめく。

 

「それは司令官を囮にされるということですか……?」

「そう受け取っていただいて結構です。私の任務は市民の皆さんを無事に脱出させること。必要な手はすべて打ちました。以上です」

 

 そう言うとヤンはさっさと退席した。騒いでいた市民はすっかり静まり返り、怒気は完全に消え失せている。呆気にとられた顔だけがそこにあった。

 

 記録映像を見た時は、当たり前のことを言っているように聞こえた。しかし、その場で見るとヤンの凄さがわかる。激怒する市民に対し、安全に逃げられるという見通しを述べて、不安を取り除いてみせた。朝食のメニューについて話すかのようなのんびりとした口調も安心感を与える。

 

 戦記の中のヤンは、不可能を可能にする用兵の魔術師と言われていた。しかし、目の前のヤンは言葉の魔術師と言うべき存在だった。背筋に戦慄が走る。言葉ひとつで世界を変えてしまう。英雄とはこういう存在なのか。

 

「顔色が悪いけど、どうしたんだね?」

 

 ロムスキー議員の声で我に返った。

 

「だ、大丈夫です」

「そうか。騒ぎが落ち着いたことだし、対策本部に行こうか」

「は、はい……」

 

 私はロムスキー議員とその仲間の後について庁舎へと向かう。庁舎へと続く道を歩いている間、とても憂鬱な思いに囚われた。その場の勢いで「役に立ちたい」と言ってしまったが、本当は脱出船団の隅っこにでも置いといてもらえたらそれで十分なのだ。あのヤン・ウェンリーに顔を合わせることになったら、どうすればいいのだろう? 頭の中を疑問符が乱舞した。

 

 

 

 恐ろしいことになっていた。私の知らないところでロムスキー議員と政庁の役人が話を進め、政庁庁舎のロビーで記者会見をさせられることになったのだ。

 

「田舎のエル・ファシルにも、記者やカメラマンは結構いるんだな」

 

 ロビーにずらりと並んだ報道陣を眺め、どうでもいいことを考える。そうやって気を逸らさないと、プレッシャーで死にそうになるのだ。

 

「それでは、只今より会見を始めます。こちらは星系警備隊のエリヤ・フィリップス一等兵。自分の意志でこのエル・ファシルに留まった勇敢な若者です」

 

 いかにも地方官庁の役人といった感じの司会者が私を紹介する。見るからに軟弱そうで格好悪い私を見たら、失望するのではないか? そんな心配をせずにはいられない。

 

「はじめまして。宇宙軍一等兵エリヤ・フィリップスです」

 

 ぺこりと頭を下げた後、記者との質疑応答が始まった。

 

「フィリップス一等兵は、なぜエル・ファシルに留まることを選んだのですか?」

「逃げたくなかったからです」

「逃げたくなかったというのはどういうことでしょうか?」

「僕達は軍人ですよね。市民を守るのが仕事なのに自分だけ助かろうと思って逃げたら、卑怯者って言われるでしょう? それが嫌なんです」

 

 スラスラと言葉が出てくる。さんざん卑怯者と言われた。辛かった。だから、二度と言われたくない。そんな思いが舌を滑らかにする。

 

「軍人のプライド、ということでしょうか?」

「違います。怖いんです。逃げてはいけないところで逃げたら、一生前を向いて歩けなくなる。人から責められ、自分で自分を責めて、自分はなんて酷い人間なんだと思いながら生きる。そんなの怖くてたまらないですよ」

「批判されるのが怖いということですね。しかし、このエル・ファシルを取り巻く帝国軍も怖い存在ではないでしょうか? 帝国軍に囚われたら、過酷な環境の中で強制労働をさせられ、三人に二人は祖国の土を再び踏むことも叶わずに死んでいく。それと比較しても、なお批判が怖いとお考えですか?」

 

 記者の問いは、ゼンラナウ矯正区で過ごしていた頃のことを思い出させた。周囲にいた人は、凍傷、過労、栄養失調、看守や他の捕虜の暴力などによって、次々と倒れていった。酷寒の矯正区では、死体を埋める場所も無ければ、火葬にする燃料も無いため、死者が出るたびにコロニーから一キロほどの場所にある谷まで運んで捨てたものだ。仲間の死体を捨てる時、心の底から憂鬱な気分になった。

 

 しかし、それでも私は断言する。矯正区より帰国後の方がずっと恐ろしかった。父が、母が、姉が、妹が、友人が、知人が、社会がすべて自分に牙を剥いてくる。かつての自分を守ってくれたものすべてに「卑怯者」と責め立てられる恐怖と比較すれば、恐ろしい物は何も無い。

 

「怖いと思います。逃げ出したら、家族や友人からも『あいつはエル・ファシルで市民を見捨てて逃げた卑怯者だ』と一生後ろ指をさされるでしょう。この世のどこにも行き場がなくなります。それに比べたら、帝国軍など全然怖くありません」

「リンチ司令官についてはどう思いますか?」

「こういう言い方をすれば語弊があるかもしれませんが、かわいそうだと思います。彼を受け入れる場所は、この世のどこにも無いでしょうから」

 

 自分でも意外だが、アーサー・リンチへの怒りは無い。それどころか、同じ苦しみを味わった仲間とすら思う。矯正区での彼は、罪の意識、他の捕虜からの非難に苦しんで酒に溺れた。新入りの捕虜から、妻が別の人物と再婚したことを聞かされてからは、シラフでいる時間がほとんど無くなり、廃人同然と化して、捕虜交換の半年ほど前に姿を消した。自殺か病死かは知らないが、死んだのは間違いないと思う。最期の瞬間まで自分の選択を後悔し続けたはずだ。あの六〇年を生きた私には理解できる。

 

「フィリップス一等兵は落ち着いてらっしゃいますね。不安は感じていないんですか?」

「市民を見捨てずに済んだ。胸を張って帰れる。そう思えば不安なんて全然ありません」

 

 自然と顔が綻んだ。やっと六〇年間の後悔を取り返したのに、不安などあるものか。

 

「脱出は明日の正午ですが成功すると思いますか?」

「はい。無事に帰れると信じています」

 

 はっきりと言い切ると、「おおっ!」と大きな声があがった。割れるような拍手が鳴り響き、たくさんのフラッシュが焚かれ、音と光の洪水に飲み込まれる。

 

「フィリップス一等兵の記者会見を終わります」

 

 司会者がそう告げて、ようやく私の会見は終わった。頭がくらくらしたが、何とか倒れずに退席することができた。

 

 記者会見終了後、控室で休んでいる私のもとにやってきた政庁の役人が驚くべきことを言った。

 

「ヤン中尉が君に臨時の将校当番兵を頼みたいと言っているが、お願いできるかな? 疲れているなら、別の者に頼むが」

「ヤ、ヤ、ヤン中尉が……!」

 

 私は絶句した。こんな卑小な存在が偉大なヤン・ウェンリーに名前を知られた。その事実だけで魂が消し飛んでしまう。

 

「疲れてるなら私から断っておくが」

「元気になりました! 元気です!」

 

 あんな偉大な存在に求められて、断ったりしたら、即座に天罰が下るに違いない。背筋をピシっと伸ばし、声を張り上げた。

 

「引き受けてくれるそうですよ、中尉」

 

 役人が後ろを向いて声をかけると、ドアがのろのろと開き、のっそりと人が入ってきた。

 

「ああ、どうも」

 

 初めて肉眼で見るヤン・ウェンリーは、映像の中の勇姿とは似ても似つかなかった。猫背気味の姿勢、よれよれの軍服、黒い髪の毛はぼさぼさで、大学の新入生と言われたら信じてしまいそうな童顔はぼんやりした表情を浮かべている。どこからどう見ても「冴えない奴」としか言いようがなかった。

 

 しかし、それだけで見くびってはならない。入門書の『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』には、ヤンの容姿が冴えないということもしっかり書かれている。本を読んでなければ、見かけで判断して侮っていただろう。刑務所で読書の習慣を身につけたことを心の底から感謝した。

 

「よろしく」

 

 ヤンは息をするのもめんどくさいといった風情で声を出す。素っ気ないにも程があるけれど、こんな偉い人に親しみを示されても困る。意識されてない方がこちらとしてもやりやすい。

 

「よろしくお願いします!」

 

 びしっと敬礼して返事をすると、ヤンは興味なさそうな顔で私を見て、視線を逸らした。これなら何とかやっていけるかもしれないと思い、ホッとする。

 

 一緒に部屋を出た。ヤンと並んで歩くなんて畏れ多い。数歩下がってついていく。連日の激務で疲れているのか、ヤンは私なんか眼中にないかのようにふらふらと歩く。連日の激務で疲れているのであろう。

 

 私の控室からヤンの部屋は遠いらしく、かなり長い距離を歩かされた。その間、ヤンは一言も言葉を発しない。すれ違う人に「見ていたよ」「頑張れよ」と声をかけられても、一切返事をしなかった。

 

 小心者の私は沈黙に弱い。いつもなら「嫌われてるんじゃないか」と心配するところだが、ヤン相手ならその心配はない。彼は社交辞令を嫌うと、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』に書かれていたからだ。それにヤンから話しかけられても、どう返していいかわからない。

 

 部屋に入ると、ヤンはそう言ってソファーに横になった。

 

「私はこれから寝る。荷物を整理しておいてくれ」

 

 そう言ってヤンは頭から毛布をかぶる。一分もしないうちに寝息が聞こえてきた。口を挟む隙も与えない早業だ。

 

「ひどいな、これ……」

 

 部屋を見回した私は、あまりの惨状に言葉を失った。弁当やインスタント食品の容器が無造作に床に捨てられて、書類はわざとぶちまけたかのように散らばり、下着や靴下も脱ぎっぱなし、机の上には本が塔のように積まれ、事務用端末の周りにはビニール袋や紙くずが積み重なっている。

 

 ヤンがまったく整理整頓をしないというのも、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』で読んだ。無二の忠臣ユリアン・ミンツがヤンの下で最初に取り組んだ仕事は、部屋の片付けだったという。しかし、知識としては知っていても、この散らかりようを見るとドン引きしてしまう。単に散らかってるというレベルではない。

 

 これを見れば、誰だってツッコミを入れずにはいられないだろう。ヤンがさっさと寝てしまったのは正解だった。名将は引き際をわきまえているというが、日常でも彼の引き際は絶妙だった。

 

 どこから手を付けていいかわからなかったが、出発は明日の正午である。迷っている時間など残されていない。まずは机の上を片付けることから始める。紙くずをゴミ袋に放り込んでいると、フライドチキンの食べかすが出てきた。

 

「うわっ……」

 

 強烈な腐臭に思わず顔をしかめる。さすがにこれはないと思った。この様子だと、部屋のあちこちに腐った食べかすがあるに違いない。

 

 普通に考えれば、ここまで部屋を汚くしたのに片付けを他人に押し付けて、自分だけさっさと寝てしまうなんて、最悪のダメ人間であろう。何も知らなければ、「なんて自分勝手な奴なんだ!」と腹を立てたはずだ。しかし、本を読んだおかげで納得できる。遠い未来を見通せるヤンには、部屋の片付けなどといった雑事など、取るに足らないことなのだ。そんなことで労力を使うぐらいなら、ゆっくり休んで本番に備えるのがヤン・ウェンリーの流儀である。

 

 この偉人を荷造りなどという些事に煩わされないようにする。それが今の私の果たすべき仕事だった。幸いというべきか、不幸にもというべきか、長い刑務暮らしのおかげで整理整頓には慣れている。

 

 なぜか棚の上にあるパンツ。なぜか弁当の容器の中に鎮座している携帯端末。そういったものを見るたびに心が挫けそうになった。自分は何をしているのかと思った時、ヤンの家事を取り仕切ったユリアン・ミンツが頭の中に浮かんだ。指導者としての彼は「八月党にゴリ押しされてる人」、著述家としての彼は「ヤンの思い出で印税を稼いでる人」ぐらいにしか思っていなかった。しかし、ようやく彼の真価を理解できたような気がする。

 

 ゴミと荷物を分別し、貨物として運ぶべき荷物を箱に詰め、手回り品をカバンに詰める。そんな作業をひとり進めていくうちに、頭がぼーっとして意識が薄れていった。

 

 

 

 体を揺すられる感触で目が覚めた。いつの間に寝てしまっていたのだろうか。ぼんやり考えていると、若い女性の声が聞こえた。

 

「起きてくださーい。もうすぐ出発ですよー」

 

 出発と聞いてびっくりした私は目を開けた。

 

「おはようございます、フィリップス一等兵」

 

 係員っぽい制服を着た女の子が微笑んでいた。私と同じくらいの年齢だろうか。髪の色は私と同じで、ゆるくウェーブがかかっている。ぱっちりした目の可愛らしい子だ。びっくりするぐらい細いけど、肌の色はつやつやしていて病的という感じは皆無。とても元気が良さそうに見える。

 

「あと二〇分で宇宙港に出発ですよ」

「あと二〇分だって!?」

 

 私が寝てる間に、政庁は引き払う準備を完了してしまったのか? 一番大変な作業だったはずなのにずっと寝てたなんて。役立たずもいいところではないか。

 

「どうしてもっと早く起こしてくれなかったんですか……?」

「一等兵は疲れているようだから出発直前まで寝かしておいてくれって、中尉がおっしゃったんですよ」

「ヤン中尉が……!?」

 

 上半身を起こす。今気づいたが、私はソファーで寝ていたようだ。毛布もかかってる。この部屋にはソファーは一つしかない。私はヤンと入れ替わりでソファーで寝ていたことになる。つまり、ソファーに寝かせてくれたのは……。

 

「行きますよ。これ、一等兵の荷物。着替えと洗面用具を用意しました」

 

 俺の思考を中断するように、女の子は右手に持ったかばんを突き出した。ピンク色のスポーティーなかばんは、中身がパンパンに詰まっている。とっさに脱走したから、何も持っていなかったということを今になって思い出す。

 

「ありがとう」

 

 精一杯の笑顔を作ってお礼を言うと、かばんを受け取った。女の子は休む暇も与えずに言葉を続ける。

 

「走れます? 時間がないんで」

「は、はい」

 

 私が頷くと、女の子は無言でにっこり笑った。そして、くるりと振り向くといきなり部屋の外に駆け出していく。私が付いてくると、何の疑問もなく思っているのだ。信頼には応えなければならない。私も全力で後を追った。

 

 誰もいない廊下を軽やかに駆けていく女の子。それを追いかける私。誰もいない廊下に二人の足音だけが響く。こんな勢いで走ったのは、何十年ぶりだろうか? 驚くほど体が軽い。走っても走っても息切れがしない。

 

「エレベーターは使えません! 階段使います!」

 

 女の子は飛ぶように階段を駆け下りた。私もつられて駆け下りる。彼女の身軽さに驚いたが、それについていける自分にも驚きを感じる。

 

 これが私の体なのか? いつの間にか顔が笑っているのに気づいた。ただ走ってるだけなのに凄く楽しい。最後に全力で走ったのは、何年前のことだろう? 気が付いた時には、走れなくなっていた。歩くのも不自由だった。それなのに、今は全力で走っている。まともに体が動くとは、こんなに素晴らしいことだったのか。さすが二〇歳の肉体だ。感動で涙が出そうになる。

 

 階段を降り切ると再び廊下に出た。女の子の走るペースが上がっていく。私もつられてペースを上げる。いつの間にか私は女の子に追いつき、並んで走っていた。若い体の潜在能力は、驚くべきものだった。

 

 私と女の子は一階に到達すると、あっという間にロビーを抜けて玄関を出る。入った時は長く感じた道も出る時は一瞬だ。

 

「あれです!」

 

 女の子が指さした先には、大きなバスが止まっている。

 

「ありがとう!」

 

 私は女の子と一緒に全速力でバスに駆け込んだ。

 

「もう、庁舎には誰もいません! 出発してください!」

 

 女の子が運転手に声をかけると同時に、バスは全速力で走り出した。よほど時間に余裕が無かったのだろう。ギリギリまで待っていてくれたことに感謝した。

 

 車窓の外のエル・ファシル星系政庁は、どんどん小さくなっていく。逃亡者にならなかった人生の初日を過ごした場所から離れるのはちょっと寂しい。

 

「どうしました? 寂しそうですけど」

 

 隣に座っていた女の子が心配そうに私を見る。

 

「そうだね。軍隊に入って最初に配属された星だから」

 

 笑顔で嘘をついた。

 

「私も寂しいですよ。今はハイネセンの学校に通ってますが、それでもエル・ファシルは故郷ですから」

 

 ふっと女の子の顔が寂しげになる。どうやら政庁の正規職員ではなく、帰省中に臨時職員をしていた学生だったらしい。

 

「俺もパラディオンに帰れなくなったら寂しいな」

 

 今度は真実を言った。現実では故郷パラディオンに帰れなかった。帰りたくて帰りたくてたまらなかったのに、逃亡者のレッテルがそれを許さなかった。無事に脱出できたら、休暇をとってパラディオンに帰りたい。そんな思いが急に湧き上がる。

 

「いつか、エル・ファシルに帰れるんでしょうか?」

「帰れるよ、きっと」

 

 あまりに寂しげな女の子がかわいそうになった私は、何の根拠もなく帰れると言った。

 

「ありがとうございます。信じます」

 

 満面の笑顔で女の子は返事をした。いい加減な返事をしたことに少し罪悪感を覚えたが、後ろ向きなことを言うのもおかしい。どうせ二度と会うこともない相手だ。「これでいいのだ」と自分に言い聞かせる。

 

 私達を乗せたバスは無人のエル・ファシル市街を爆走し、ほんの三〇分で宇宙港に到着した。

 

「お待ちしておりました。出航の準備は整っております」

 

 最後まで残っていた軍艦三隻の乗組員一同が敬礼して出迎えてくれた。私達は急いで軍艦に乗り込み、惑星エル・ファシルを後にしたのである。



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第3話:作られた英雄 宇宙暦788年8月16日~9月末 駆逐艦マーファ~シャンプール基地~ハイネセンポリス

 エル・ファシルから脱出した民間人三〇〇万人と軍人四万人を乗せた一〇〇〇隻の船団は、帝国軍の追撃に怯えながら航行を続けていた。

 

 私はそのままヤンの従卒になって、脱出船団旗艦の駆逐艦「マーファ」に同乗している。だが、ヤンは司令室に常駐していて、部屋に帰ってくるのは寝る時のみで、着替えの用意とベッドメイク以外にすることは無い。

 

 そういうわけで私はとても暇だった。本来の乗員五四名の他に、司令部要員四〇名、民間人二〇〇名が狭い駆逐艦に乗り組んでるせいか、どこを歩いても人に出くわす。あの赤毛の女の子も二日に一度は見かける。こんな狭い艦を旗艦にしなければならないのは、逃げ出したアーサー・リンチ司令官が戦艦と巡航艦を全部連れて行ってしまったせいだ。嫌いではないが、少し恨めしくなる。

 

「フィリップスさん、一緒に写真撮りません?」

 

 黒い髪の少女が声を掛けてきた。写真と取りたいと言われるのは、今日だけで三度目だ。またかとうんざりする。

 

「いいですよ」

 

 表向きは気安い感じで応じたけれども、これは単に断れないだけだ。写真を撮られるなど、嬉しくとも何ともない。チビで不細工な私の写真を撮る理由など、笑い者にするつもりに決まってるからだ。

 

 外に出るのが嫌になった私は、仕事と食事以外の時は自室に閉じこもり、ヤンの荷物の中にあった本を勝手に読んでいた。大衆向けの偉人伝や戦記しか読んだことのない私には、『補給戦』『戦争概論』『韓非子』『隷従への道』『自由からの逃走』なんて本は、あまりに難解すぎて何を書いてるのか理解できなかったが、あの偉人と同じ本を読んでるというだけで自尊心は大いに満たされる。

 

 私とは対照的に、ヤンは多忙を極めた。船団に指示を出し、上がってくる文書を決裁し、不安を訴えてくる民間人に対応する。そういった仕事をすべて一人でこなしていたのだ。寄せ集めの船団一〇〇〇隻を一人で指揮する苦労は想像を絶する。ヤンの顔には日に日に疲労の色が濃くなった。

 

 船団には軍艦も混じっている。その艦長は中尉のヤンよりずっと階級が高い中佐や少佐だ。それなのに、なぜヤンが一人で仕事を背負い込まなければならないのか? 食堂でのんびりと朝食を食べていたマーファの艦長を見た時、気が小さい私もさすがに怒りが爆発した。

 

「中尉が艦橋に詰めっぱなしなのに、なぜ艦長が食堂でのんびりしているんですか!? 食堂で食べる暇があるなら、中尉を手伝えばいいでしょう? あなたもリンチ少将みたいに、全部中尉に押し付けるんですか!?」

 

 宇宙軍少佐の階級章を付けた中年の艦長は、意外にもまったく怒りを見せなかった。

 

「うちの船団の艦長には参謀教育を受けてない叩き上げしかいなくてね。参謀教育を受けた者はみんなリンチ提督と一緒に逃げてしまって、ヤン中尉だけが残された。彼一人に一〇〇〇隻を任せてしまってるのは心苦しいがね。しかし、私が補佐役になっても、大船団の運用はわからない。かえって足手まといになってしまう。それに……」

 

 艦長の表情に苦笑が混じる。

 

「この艦に乗ってる部下五四人、司令部要員四〇人、民間人二〇〇人の命を預かるのも、それはそれで大変でね。私は駆逐分隊司令も兼ねてるから、他の駆逐艦二隻に乗ってる四八九人の命にも責任がある。全部押し付けて、自分だけ楽してるわけじゃないのさ」

 

 怒りの成分が全く含まれてない艦長の言葉は、何よりも強く俺を打ちのめした。知り合いの麻薬の売人だって、五人の子分をまとめるのに苦労してた。それを思えば、五四人の乗員をまとめる艦長の苦労なんて想像を絶する。まして、全員の命にかかわることなのだ。

 

 伝記や戦記に登場するのは、艦隊司令官とその参謀だけだ。駆逐艦艦長なんて、命令を聞くだけの仕事だと思っていた。艦長の苦労など考えたこともなかった。自分の想像力の乏しさに泣きたくなる。本を読んで少しは賢くなったつもりだったのに、何もわかっていなかった。

 

「申し訳ありませんでした」

「ははは、構わんよ。私だって、艦長になる前はわからなかった。命令するだけで楽な仕事だと思ってたよ。何でもやってみないとわからんもんだ」

 

 艦長は手の平を左右に振るジェスチャーをして笑った。何もわかってない一等兵に食事を邪魔されたというのに、笑って許してくれる。なんて懐の広い人なのだろう。それに比べて、自分のなんと浅はかなことか。涙がこぼれそうになる。八〇年も生きたのに、ひたすら耐えるだけで何も積み重ねてこなかった。

 

「泣かなくたっていいじゃないか。坊やはまだ若い。経験が足りないのだ。わからないのは当然だろう」

 

 エル・ファシルではさんざん子供扱いされてむっと来たが、艦長の坊や扱いには何とも思わなかった。この人に比べたら、私は確かに坊やだ。

 

 人は年を取れば成長するというのは大嘘だ。ハイネセンの救貧院には、私のように長く生きただけで何もまったく積み重ねていない年寄りが大勢いた。まともな社会経験がなければ、年を取っても子供と同じなのだ。

 

「はい」

 

 涙を拭いながら答える。逃亡者にならなければ、それでハッピーエンドではないということに今さらながら気付く。帰った後も人生は続く。きっちり生きて、経験を積まなければならない。

 

「いつか坊やが人の上に立った時に、『こんなこと言ってたおっさんがいたな』って思い出してくれたら、それでいい」

「僕が人の上に、ですか……?」

「まだ二〇歳にもなってないんだろ? この先、何があるかわからんぞ? もしかしたら、議員や提督になる日が来るかもしれない」

 

 この夢の中では未来がある。そんな当たり前のことを艦長は教えてくれた。今の私は二〇歳の若者なのだ。さすがに議員や提督はないだろうが、頑張ればコーヒーチェーンの店長ぐらいにはなれるかもしれないし、父と同じように警察に入るという手もある。広大な平野が目の前に広がったような思い、蒙を啓いてくれた艦長の名前を知りたくなった。

 

「名前を教えていただけますか?」

「私の名前かい?」

「はい。ご指導いただいたこと、絶対に忘れません」

「大袈裟だね。そんなに畏まって聞くほど大層な名前でもないよ。アーロン・ビューフォート。ただのおっさんだ」

 

 ビューフォート少佐は気さくに笑う。三年前に読んだ『前進! 力戦! 敢闘! 奮励! ―フリッツ・ヨーゼフ・フォン・ビッテンフェルト自伝』に登場した同盟軍の名将の名前と似てるような気もしたが、立て続けにそんな大物が出てくることもないだろう。良く考えたら、あれはビューポートだった。

 

「ありがとうございます」

 

 深々と頭を下げた。

 

「坊やは少年志願兵の一任期目だろ? 志願兵は二期務め上げたら、だいたい上等兵まで昇進できる。そこで下士官選抜を受けてみるといい。下士官になれたら、中卒者としては極上の就職と言っていい。目指してみる価値はある」

「僕は……」

 

 中卒でも無いし未成年でも無いと言いかけてやめた。私が……、いや、年寄りくさい話し方はもうやめよう。ビューフォート少佐の目から未成年に見えるのは、俺が幼稚だからだ。成長した時に再会して訂正すればいい。

 

「わかりました。頑張ってみます」

 

 ぎこちなく笑った、チャイムの音が鳴り響いた。

 

「緊急放送です! 当船団は第七方面軍所属の第七一星間巡視隊と接触! これより第七方面軍の保護下に入ります!」

 

 放送が終わると同時に、歓声が爆発した。手を叩く者。拳を振り上げる者。抱擁し合う者。みんな、それぞれのやり方で喜びを表す。

 

「艦長命令だ! 今からここで祝賀会を始めるぞ! 飲み放題食い放題の無礼講だ! 軍人も民間人も区別なく楽しもうじゃないか!」

 

 ビューフォート少佐の命令でありったけの酒と食料が放出された。艦内をあげてのどんちゃん騒ぎが始まり、人々は生きて祖国の土を踏める喜びに酔いしれた。

 

 ずっと前に断酒した俺は、ジュースで乾杯した。アルコールが入ってないのにテンションが上がってしまい、人につられてわけもわからず大笑いし、知らない人と肩を組んで歌った。数人の女の子と意気投合して、端末アドレス交換までしてしまった。

 

 大宴会から二日後、マーファからシャトルに乗ってシャンプールのジョード・ユヌス宇宙港に着陸した俺達を待っていたのは、港内を埋め尽くすような群衆だった。エル・ファシルからの避難者を激励する言葉が連ねられた横断幕やプラカードも溢れんばかり。地上には放送車が並び、空中には報道ヘリコプターが飛ぶ。

 

 俺達がシャトルを降りると、軍楽隊が国歌『自由の旗、自由の民』を演奏し始めた。儀仗兵が両側に整列して、俺達のために通路を作る。

 

「熱烈歓迎だな……」

 

 俺の隣にいるビューフォート少佐は、熱烈歓迎ぶりに開いた口が塞がらないようだ。

 

 ちらりとヤン・ウェンリーの方を見ると、辟易したような顔をしている。後年の天才用兵家もこれには参ったようだ。

 

「俺の人生はどこに行ってしまうんだ……」

 

 予想外の展開に頭を抱えた。せっかく逃亡者にならずに帰れたというのに、まだまだ落ち着きそうになかった。

 

 

 

 シャンプール到着の翌朝。俺は第七方面軍司令部からあてがわれた客室で、エル・ファシル脱出劇関連の報道を見ていた。

 

 最初に見たのはテレビだった。どの局もエル・ファシル脱出劇の特番を組んでいる。

 

「英雄エリヤ・フィリップス一等兵がシャトルから降りてきます!」

 

 引きつった笑顔でシャトルから降りてくる俺が画面に映る。この映像を見るのはもう何度目だろうか。うんざりしてテレビの電源を消す。

 

 今度は新聞を手に取った。どの新聞も紙面の大半を使ってエル・ファシル脱出劇を報じている。

 

「エル・ファシルの英雄エリヤ・フィリップス一等兵」

 

 そう題された写真が一面を飾る。大きさはヤン・ウェンリーの写真と同じ。

 

「どうして俺なんだよ。ヤンの写真だけでいいじゃないか。彼だけが本当の英雄なんだから」

 

 ぼやきながら新聞をめくると、二面には「若き英雄」「同盟軍人の鑑」などという見出しとともに、ヤン・ウェンリーと俺の紹介記事が並んでいた。

 

 記事の中では俺が記者会見で語った言葉が引用され、「フィリップス一等兵の言葉が市民を落ち着かせた。彼こそ真の英雄である」と締めくくられていた。そして、アーサー・リンチ司令官は、「市民と部下を見捨てて逃げた卑怯者。同盟軍の恥」と糾弾されていた。

 

 新聞を放り投げた俺は、携帯端末でネットを見た。大手のニュース系コミュニティでは、「誰が真のエル・ファシルの英雄か」という議論が繰り広げられている。

 

「ヤンだけが英雄という意見が多いな。みんな分かってる」

 

 ネットに真実があるという言葉は胡散臭いが、この場合は正しいようだ。マスコミの報道は明らかに俺を持ち上げすぎている。

 

「なになに? 『地味なヤン中尉だけでは絵にならないから、マスコミは爽やかなフィリップス一等兵を持ち上げて、エル・ファシルの奇跡を演出しようとしたのではないか』だって!?」

 

 首を傾げたくなる書き込みもあった。しかも、かなり支持を受けている。俺ほど爽やかとかけ離れた存在は滅多にいないのに。いったい何を見ているのだろうか?

 

 また、俺の容姿を評価するコミュニティが乱立し、「見た目ならフィリップスが英雄」「かわいい」「アイドル誕生」などと書きこまれていた。中学や高校でも容姿を評価されたことは一度もなかったのに。

 

 アンケート系のサイトでは、俺が「弟にしたい男性」の第一位になっていた。ちなみにそのサイトではヤンが「結婚したい男性」の一位になっていたので、あてにならない。

 

 洗面所に行って鏡を見る。ゆるくウェーブした赤毛、つり目気味の猫目、小さな鼻、薄い唇、ややふっくらした頬、卵型の輪郭。控えめに言っても子供のような顔で、美形とは程遠い。身長が伸びて格好良く見えるようになったのかと思い、身長計を借りて測ってみたが、現実と変わらず一六九センチのままで、男性の平均身長が一七六センチのこの国では押しも押されぬチビだ。

 

 悲しくなった俺は再び端末を手に取り、政治系や軍事系のサイトに目を通した。通俗的な本しか読んでない俺には難しすぎて頭が痛くなるけれども、目を通すだけで知能指数が上がったような気がするから、まったく問題はない。

 

「フィリップス一等兵の行為は、服従義務違反、抗命罪、逃亡罪にあたるのではないか」

 

 ある軍事系サイトでこんな質問を見かけてヒヤッとした。自分の法的な立場なんて、まったく考えていなかった。

 

「いきなり軍法会議に呼び出されたらどうしよう? 抗命罪は死刑もありうるんだよな」

 

 そんなことを思いながら、恐る恐る回答を読む。

 

「現在公開されている情報の範囲では、リンチ少将のエル・ファシル離脱は、上位司令部たる第七方面軍司令部の承認を得た形跡がなく、臨時措置として正当化しうる法的根拠も見当たらない。よって、職務上の命令とはみなし難い。フィリップス一等兵の行為は、抗命罪を規定する同盟軍法第八六条の『上官の職務上の命令に服従しない者』に該当せず、抗命罪に問うことはできない」

 

 なるほど。抗命罪はセーフなのか。

 

「命令服従義務を規定する同盟軍法第三三条は、『軍人はその職務の遂行に当っては、上官の職務上の命令に忠実に従わなければならない』と述べている。職務上の命令ではない違法な命令への服従義務は課していない。よって、服従義務違反は成立しない」

 

 服従義務違反も大丈夫。

 

「フィリップス一等兵の離脱には、違法な命令の拒否という正当な理由がある。離脱当日に司令官が放棄した任務を引き継いだヤン中尉の指揮下に入って本来の職務を継続したため、逃亡罪を規定する同盟軍法第八八条の『正当な理由がなくて職務の場所を離れ三日を過ぎた者』に該当せず、逃亡罪は成立しない」

 

 逃亡罪も大丈夫だった。自分は完全に安全とわかって安心した。俺にとっての法律は、「破ったら警察に捕まる」程度のものだった。法的根拠なんて考えたこともなかった。ちゃんとやり直すには法律も学ばないといけない。

 

 そんなことを思いながら端末を操作していると、ドアホンが鳴った。誰が来たのだろうか。急いで画面を確認する。

 

 軍用ベレーをかぶった四〇歳ぐらいの男性の顔が映っていた。目つきは刃物のように鋭く、大きな鼻と厚い唇が存在感を主張する。角張った顔の輪郭、綺麗に刈り込まれたブロンドの短髪は、漫画に出てくる堅物の軍人そのものだ。現実で培われた軍人への苦手意識を刺激されて、思わず身構えてしまう。

 

「おはよう、良く眠れたかね?」

 

 軍人らしい容貌にふさわしい威圧的な声。ドアを開けた途端に「貴官の逮捕を執行する」と言われそうな雰囲気がある。

 

「どちら様でしょうか?」

「軍の広報の者だ。入ってもいいか?」

「どうぞ」

 

 なんでこんな人が広報をやってるんだろうか。そもそも、広報が俺に何の用だ? 不審に思いながらも、ドアを開けて男性を中に入れる。

 

 男性は顔と声にふさわしい体格の持ち主だった。身長は平均程度程度だが、肩幅や胸板の厚みが凄く、岩石のようだ。首筋の階級章を見ると地上軍の少佐で、大隊長として五〇〇から八〇〇人の兵士を指揮するような偉い人だ。胸元にはパラシュートをあしらったバッジが付いている。空挺の経験者ということだろうか? いずれにせよ、一等兵の俺から見れば雲の上の人である。

 

「国防委員会広報課のエーベルト・クリスチアン地上軍少佐だ。貴官を担当することになった」

 

 クリスチアンという名前はどこかで聞いた気がする。ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ローエングラムと深く関わった有名人では無いはずだ。俺の記憶はこの二大英雄と関わった人物以外には、きわめて冷淡なのである。まあ、クリスチアンというのは良くある姓だから、前に知り合った人の中にいたのだろう。大物が頻繁に出てくるはずもない。

 

 それにしても、国防委員会といえば同盟軍の最高機関だ。そんな所から来た偉い人が俺の何を担当するのだろうか?

 

「担当って何の担当ですか?」

「スケジュール管理、メディア対応などを担当する」

「ちょっと待って下さい。どういうことです?」

「貴官には、広報活動に従事してもらうことになった。しばらくはメディア出演やイベントで休む暇もないだろうが、これも軍人の大事な任務だ。頑張ってもらいたい」

 

 メディア出演やイベントと聞いて、めまいがしそうになった。まだ人前に出なければいけないのか。今朝の報道だけでもうんざりなのに。

 

「貴官は卑劣な司令官を拒絶して市民を守った。同盟軍人の誇りだ。広報官としての最初の任務が貴官の担当であることを名誉に思う」

 

 クリスチアン少佐は俺の手を力強く握る。手を握られているのに、なぜか頭が痛くなった。もしかして、この夢は悪夢なんじゃないか? そんなことを思う。

 

 司令部食堂に連れて行かれ、昼食を共にしながら今後のスケジュールの説明を受けた。ハイネセンポリスに向かい、式典やパーティーの合間に取材やメディア出演を入れていくのだそうだ。

 

「まるで芸能人みたいですね」

「貴官は英雄だ。勘違いするな」

「英雄はヤン中尉だけですよ」

「ヤン中尉だけでは、動揺する市民を抑えることはできなかった。中尉の指示を拒否する船長、単独脱出を試みる市民もいた。貴官の記者会見がなければ、彼らは抑えられなかった」

 

 俺の知らない場所で起きていたことを、クリスチアン少佐は教えてくれた。市民がリンチの逃亡に怒ってたのは知っていたが、そこまで深刻だったとは聞いてなかった。

 

「そんなことがあったんですか? 今知りました。何が起きていたんですか?」

「軍がエル・ファシル市民を見捨ててリンチだけを脱出させた。ヤン中尉はそのための時間稼ぎをした。市民はそう誤解した。軍が市民を見捨てることなど有り得ないが、不安に駆られた市民にはわからなかったのだ。自らエル・ファシルに残った貴官がいたおかげで不安を抑えられた」

 

 クリスチアン少佐は俺が自分の意志で残ったことを強調した。しかし、それがそんなに重要なのだろうか? 俺は出発直前にやってきて、ほんのちょっと喋っただけに過ぎない。エル・ファシルから民間人を脱出させたのは、ヤンと脱出船団の乗組員だ。成すべきことをした彼らこそ真の英雄だ。

 

 そんな俺の戸惑いをよそに、クリスチアン少佐は熱弁を振るい続ける。

 

「反戦派どもは『軍はエル・ファシルを見捨ててリンチを脱出させた。ヤン中尉のおかげで三〇〇万人の市民は事なきを得たが、軍の責任は追及しなければならない』などと言う。批判するしか能のない奴らめっ! 誰のおかげで安全に暮らせると思っているっ!」

 

 バーン、と大きな音がした。怒れるクリスチアン少佐がテーブルに拳を叩きつけたのだ。食堂の中にいる人が一斉にこちらを見るが、彼はおかまいなしにボルテージを上げていく。

 

「軍が市民を見捨てて軍人だけ逃がそうとするなど有り得ん! あるはずがないのだっ! 我々は市民を守る最後の盾だ! 平和のために命を賭ける! それが同盟軍人の矜持だっ! 命惜しさに市民を見捨てるなど軍人のすることではないっ! 卑怯者のすることだっ! 軍がそのような真似を許すとでも思っているのかっ!」

 

 またクリスチアン少佐はテーブルに拳を叩きつけた。興奮するのに比例して、俺も含めた周りの人は引いていく。

 

「貴官は記者会見で敵よりも卑怯者と呼ばれる方が怖いと言った。それこそがまさに名誉ある同盟軍人の精神なのだ。軍人とは貴官のような崇高な精神の持ち主なのだ」

 

 クリスチアン少佐の目に涙が浮かぶ。賞賛されているはずなのに怖い。この人は今の俺を賞賛したのと同じ口で、かつての俺を罵倒できる人だ。そして、自分の立場が見えてきて怖くなった。

 

 リンチ司令官は第七方面軍の命令を口実にエル・ファシルから逃げ出したため、それが軍が組織としてエル・ファシルを見捨てたと疑われても仕方ない状況である。置き去りにされたヤンだけを英雄にすると、「軍に見捨てられたのに頑張った」と言われ、ヤンを持ち上げる人々が「軍は英雄ヤンを見捨てた」と言い出すかもしれない。俺を持ち上げれば、「軍はエル・ファシルを見捨てていないのに、リンチは勝手に逃げた。逃げなかったフィリップスこそ、軍に忠実なのだ」とアピールできる。

 

 俺への賞賛と逃亡したリンチ司令官への罵倒が表裏一体であることに気づいた時、背筋に冷たいものが走った。

 

「逃げた人達はどうなるんですか……?」

「帰国したら軍法会議に告発されるだろう。判例から推測すると、リンチは階級剥奪の上で死刑、共謀した幹部は死刑または懲役が妥当なところか。任務を放棄した卑怯者にふさわしい末路だ。収容所から生きて帰ってこれたらの話だがな」

「事情を知らなくて司令官の命令に従っただけの人も……?」

「事情を知らずにただ従っただけでも、違法行為に加担したことに変わりはない。不名誉除隊で軍から追放、生還した捕虜に認められる一階級昇進と一時金は無し。そんなところだな」

 

 クリスチアン少佐の答えは、俺が帰国後に受けた処分と一致していた。不名誉除隊は民間の懲戒免職にあたる。退役軍人としての一切の権利を剥奪され、軍人年金や退職金も支給されない。軍を退いた者は、公式の場で「退役○○(○○の中は現役時代の階級)」を名乗ることが許されるが、不名誉除隊になればそれも禁止される。民間企業からも敬遠されて、就職が著しく不利になる。被選挙権の停止など独自のペナルティを課す星系も多い。

 

 従っただけでそんな重い処分になるのは理不尽だとあの時は思った。しかし、軍隊という組織では、従ったことそのものが罪になることもあるようだ。

 

 戦記では、「軍規は絶対」「敵前逃亡は死刑」「命令違反は厳罰」などと書いているが、実際に軍規がどう運用されるのかは知らなかった。俺には社会経験が足りない。その事実をあらためて噛みしめる。

 

「卑怯者には、卑怯者にふさわしい報いを与える。それが軍だ。貴官が卑怯者になることが怖いと言ったのは正しい」

 

 クリスチアン少佐が言うように、確かに軍はエル・ファシルで逃げた者に報いを与えた。不名誉除隊に世間からの批判が追い打ちをかけた。

 

 ならば、英雄になった俺はどんな報いを受けるのだろうか? 社会を動かす論理は逃げた俺を排除し、逃げなかった俺を英雄に祭り上げた。祭り上げられた英雄は、祭りが終わったらどこに行くのだろうか? そんなことを思った。

 

 

 

 九月一八日にハイネセンポリスに到着した俺は、翌日の一九日一〇時二五分に一等兵から上等兵に昇進し、六時間後の一六時三〇分に上等兵から兵長に昇進した。ヤン・ウェンリーは俺の上等兵昇進と同じ時刻に大尉に昇進し、兵長昇進と同じ時刻に少佐に昇進した。事実上の二階級昇進である。

 

 自由惑星同盟軍では、二階級昇進は功績著しい戦死者のみに認められる。生きている者は大きな功績を立てても一度に一階級しか昇進できない。だから、こんなまどろっこしいことをした。

 

 エル・ファシル脱出作戦に参加した軍人四万人は、全員一階級昇進した。これも異例の措置ではあるが、事実上の二階級昇進を果たした俺とヤンはさらに特別扱いされているのだ。

 

 昇進の翌日には、自由戦士勲章、ハイネセン記念特別勲功大章、共和国栄誉章、国防殊勲章を授与された。いずれも英雄的な行動をした者に授与される勲章。現実の不名誉を埋め合わせて余りあるほどの名誉であった。

 

 特に同盟軍の最高勲章である自由戦士勲章の受勲は、信じられなかった。自由戦士勲章所持者が受けられる特典は、凄まじいの一言に尽きる。年間一万ディナールの終身年金、公共施設の特別席利用権、子弟の士官学校推薦権といった特典が受けられる。元帥や大将であっても、自由戦士勲章所持者と遭遇したら、先に敬礼をしなければならない。

 

 そんな凄い自由戦士勲章が生きた者に授与されることは珍しく、これまでに授与された者のほとんどは、味方を助けるために戦死した者だ。単艦で一〇隻の敵艦を撃破するような怪物でもなければ、生きて自由戦士勲章を授与されることは無い。要するに俺は怪物の域に達していると公式に認められたことになる。どんどん虚像が膨らんでいく。

 

 それから一週間は、記念式典や表彰式に参加してその合間に番組出演やインタビューをこなす過密スケジュールだった。それが一段落すると、合間にやっていた番組出演やインタビューがメインに移り変わる。

 

「自分は英雄ではありません。脱出船団を指揮なさったヤン少佐、そして船に市民を乗せてシャンプールまで送り届けたすべての乗組員こそ真の英雄です」

「責任とか誇りとか、そういった難しいことは僕にはわかりません。ただ、家族や友人に顔向けできなくなるのが嫌なだけでした」

「好きな女性のタイプですか? 自分を愛してくれる女性なら誰でもいいですよ。選べるような立場でもないですから」

 

 気の利いたことも言えず、勇壮なことも言えない俺は、できる限り真面目に答えることだけを心がけた。あまり面白いことを言ったつもりは無かったのに、俺の発言は好意をもって受け入れられた。どうやら世間は英雄に機知よりも誠意を期待していたらしい。

 

 軍服を着た俺の笑顔が雑誌の表紙を飾り、街には俺の写真を使ったポスターがあふれた。俺という人間はさっぱり変わっていない。内面は卑屈なままだし、容姿も六〇年前に逃げた時と変わらず冴えないままだ。それなのに何を言っても英雄らしく聞こえ、何をしても英雄らしく見える。俺という人間が「英雄エリヤ・フィリップス」という巨大な虚像に飲み込まれつつある気がした。

 

「またバラエティですか。やはり芸能人みたいですね」

 

 バラエティ番組の予定が入ったスケジュール表を見て、軽くため息をついた。

 

「これも任務だ。芸能活動のような浮ついたものではないぞ」

 

 クリスチアン少佐は渋い顔になった。

 

「その浮ついたことをしたくないんですよ。人に見られるの苦手なんです。自分の姿がメディアを通じて大勢の人に見られるなんて、想像するだけでぞっとします」

「意外だな」

「えっ?」

「貴官は人目を引く振る舞いが板についている。見られるのに慣れているとばかり思っていた」

 

 俺は無言で首を横に振った。白い目で見られることには慣れているが、好奇の目で見られることには慣れていない。しかし、ガチガチの軍人であるクリスチアン少佐にそんなことを言っても仕方がないだろう。話が通じるとは思えなかった。

 

「考慮しよう」

 

 怒声で返されると思ったのに、クリスチアン少佐は頷いてスケジュール表をしまった。

 

 それからメディアへの出演予定が少し減った。落ち着いた番組への出演が中心になり、ウケ狙いの記事を書こうとする軽薄な記者は来なくなった。パーティーへの出席もパタリとなくなった。

 

「それはクリスチアン少佐が頑張ってるおかげですよ」

 

 ラーニー・ガウリ地上軍軍曹が俺の髪をセットしながら言う。二〇代後半の彼女は、国防委員会広報課所属のヘアメイクだった。今の俺には、なんと担当のヘアメイクまで付いているのである。

 

「その点、ヤン少佐はついてないな。担当のグッドウィン大尉が張り切って、ぎっしりスケジュールを詰めこんでる。昨日なんてセクシータレントがドッキリ仕掛ける番組まで出てただろ? 飯を食う暇もないんじゃないか?」

 

 小奇麗なおじさんと言った感じのトニオ・ルシエンデス地上軍曹長が口を挟む。彼は俺の担当カメラマンだった。軍の広告に使われる写真を手がけていて、軍服を着た人を格好良く撮ることにかけては右に出る者はないのだそうだ。

 

「軍の広報の仕事では、食事と睡眠の時間は必ず確保する決まりじゃないんですか?」

 

 出演が減る前から食事と睡眠の時間は長めに取られていた。クリスチアン少佐には、「そういう決まりだ」と説明されていて、軍の配慮に感心させられたものだ。

 

「まさか。普通はスケジュールぎっしり詰め込むよ。食事時間は移動時間。少ない睡眠時間を移動中に寝て補う。旬のうちに出せるだけ出そうと思うのは、軍も民間も同じだ」

 

 ルシエンデス曹長はあっさり否定した。彼は一〇年以上広報にいるベテラン。クリスチアン少佐は空挺部隊から広報に異動したばかり。どちらが正しいかは言うまでもない。

 

「少佐は部下の待遇改善には熱心な方ですからね。『部隊は我が家。上官は我が親。同僚は我が兄弟。部下は我が子』という言葉を、自分の部隊の標語にしていたそうですし」

 

 ガウリ軍曹の言葉は意外だった。ちゃんと話したのは初対面の時だけだけど、「良い待遇を求めるなど甘え」と言いそうなイメージがあった。

 

「あの人は軍隊を本気で我が家だと思ってるんだろうなあ。初対面の時に『宿舎のシャワーから熱湯が出るようにしたのが一番誇れる仕事だ』と言っていた。銀色五稜星勲章を二つ持ってる方がよほど自慢できると思うんだが。兵隊やったことがない俺には、わからない心理だよ」

「変わった人ですよね」

 

 苦笑するルシエンデス曹長にガウリ軍曹が頷く。純粋な軍人ではないこの二人と、軍人以外の職業が想像できないクリスチアン少佐は、相性が悪そうだと思ってた。それなのにけっこう好意的なようだ。

 

 俺はクリスチアン少佐の脳内イメージを「意味不明で怖い人」から、「意味不明で怖いけど悪い人じゃない」に修正することにした。

 

「そういえば、『フィリップスをもっと出せって苦情が多い』と、課長がぼやいてたな。なにせ、年寄りと女性の心をがっちり掴んでる」

「ヤン少佐はハンサムだけど、コメントつまらないから人気ないんですよね。わざと話の腰を折ろうとする時もあるでしょう? フィリップスくんみたいに、忠君愛国っぽいコメントをしたら人気も出るのに。もったいないですよね」

「偉いさんは明らかにフィリップス兵長を売り出したがってるからなあ。そんな中で出演を減らそうと頑張ってるクリスチアン少佐も大変だと思うわ。おとといは国防委員のパーティーの招待を断ったとかで課長に呼び出されてたな。あの国防委員、なんて名前だったか? ほら、最近売り出し中の若手で、俳優みたいな男前だ。顔は浮かんでくるのに、名前が思い出せねえな」

 

 ルシエンデス曹長は自慢の口ひげをひねりながら、国防委員の名前を思い出そうとする。

 

「男前といえば、兵站担当国防委員のトリューニヒトさんじゃないですか?」

「それだ、トリューニヒトだ。爽やかなイメージが売りのくせに、案外根に持つタイプなんだなあって思ったわ」

 

 やれやれといった感じでルシエンデス曹長は両手を広げる。彼はどうやらトリューニヒト委員に好意的でないらしい。男前同士、対抗意識でも感じているのだろうか?

 

 俺は素知らぬふりをして、右手でマドレーヌをつかみ、左手を添えて両手持ちで口に運ぶ。それを見付けたガウリ軍曹が「ハムスターみたいでかわいい」と言い、俺は「パラディオンでは、いかつい大男だってみんなこうしてますよ」と答える。いつものやり取りである。

 

 それにしても、あのヨブ・トリューニヒトの名前をこんなところで聞くとは思わなかった。この政治家は俺が帰国した時の最高評議会議長で、爽やかなイメージを売りにフィーバーを巻き起こした。しかし、政治家としてはまったくの無能で、事あるごとに天才ヤン・ウェンリーの足を引っ張り、反動勢力「銀河帝国正統政府」を支援して帝国の改革政権と対話する道を自ら閉じ、本土決戦に際しては雲隠れしたあげくに最後はヤンが戦ってる間に降伏してしまった。どうしようもないの一言に尽きる。

 

 俺が読んだ伝記や戦記は、ユリアン・ミンツやダスティ・アッテンボローといったヤンの支持者が残した記録に基づく。そういった本の中では、ヤンの政敵だったトリューニヒトは、「保身の天才」「エゴイズムの怪物」と呼ばれ、民主主義を食い潰した邪悪の権化とされた。トリューニヒトがローエングラム朝を立憲政治に移行させようと工作を進めていたという説、反帝国勢力の地球教団と組んで良からぬ企みをしていたという説を紹介する本もある。

 

 だが、同じ時代に生きた俺には、トリューニヒトがそんな化け物じみた存在とは思えない。人気取りはうまかっただろうが、政治家としてはまったく結果を残さなかった。戦争指導に失敗し、帝国に仕官した後もさほど重用されず、最後は反乱に巻き込まれて犬死にした。トリューニヒト派の残党は、新領土総督ロイエンタール元帥がデモンストレーションとして旧同盟の贈収賄事件を摘発した際に、ことごとく処分された。ジョアン・レベロはその死後も支持者が表舞台で活躍したが、トリューニヒトはバーラト自治区発足以降の歴史にまったく影響していない。

 

 俺も含めた同時代人の一般的な評価は、「ただの無能」といったところであろう。むろん、結果論なのは承知の上だ。しかし、ヤンやミンツもトリューニヒトとの距離においては、俺達一般人と大差がなく、少ない情報から推測しているという点ではさほど変わりがない。英雄の残した記録は面白いが、俺がこの目で見た狭い範囲では、トリューニヒトや地球教団に関する記述のようにあてにならないものもある。そんな記述を目にすると、偉大な英雄も手持ちの情報の限界を超えられないことがわかるし、その限界にもかかわらずあれだけの業績を残したから偉大なのだ。

 

 英雄論はともかく、六〇年後の視点からは無能なだけのトリューニヒトも、今の時点ではヤンよりずっと大物である。なにせ現職の下院議員で、同盟軍の兵站関連政策を取り仕切る兵站担当国防委員の要職に就いているのだから。

 

 クリスチアン少佐はそんな大物の怒りを恐れずに、俺を擁護してくれた。脳内イメージを「意味不明で怖いけど、悪い人じゃない」から、「意味不明で怖いけど、良い人かもしれない」にこっそり修正した。



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第4話:英雄、故郷に帰る 宇宙暦788年10月~11月 ハイネセンポリス~パラディオン市

 一〇月半ば、国防委員会広報課長クインシー・ワイドボーン宇宙軍大佐に呼び出され、広報活動の終了と広報チームの解散を告げられた。あっという間に英雄になった俺は、あっという間にただの人に戻ってしまった。

 

 エル・ファシルの英雄の賞味期限が切れつつあるのは感じていた。世間の関心は、惑星カルヴナ防衛戦で活躍したシャルディニー中佐という人物に移り、俺とヤン・ウェンリーの出番は減っていった。俺より人気が低いヤンの広報チームは、二週間前に解散していた。

 

「この国の英雄って、一種の流行り物なんだよ」

 

 いろんな英雄の写真を撮ってきたルシエンデス曹長はそう言った。超人的な活躍をした軍人は英雄と呼ばれ、メディアに取り上げられてブームを起こすが、しばらくしたら次の英雄が登場してお払い箱になる。自由な社会においては、軍人ですら娯楽として消費されるのだ。

 

 俺達は国防委員会近くのレストラン「マルチナショナル・フォース」で打ち上げを開いた。このレストランは、同盟全土に展開している大手のチェーンだ。いろんなジャンルの料理を安価で提供することで知られ、良く言えば柔軟、悪く言えば無節操だった。

 

 痩せているのに体重増加を恐れるガウリ軍曹は、ヘルシーなジャパニーズを希望していた。食事にパスタが付いてないと機嫌が悪くなるルシエンデス曹長は、イタリアン以外は嫌だと言った。軍隊式味覚を持つクリスチアン少佐は、塩辛くて脂っこい料理を出す店ならどこでも良かった。俺はマカロニ・アンド・チーズと甘い物があれば、それで幸せだった。この四人が妥協できる店がマルチナショナル・フォースなのだ。

 

「かんぱーい!」

 

 俺達四人はグラスを合わせた。俺は砂糖たっぷりのスウィートティー、ガウリ軍曹はカシスウーロン、ルシエンデス曹長は白ワイン、クリスチアンはウォッカで乾杯をする。

 

「提督にでもなったら、また呼んでくれ。名将に見えるように撮ってやるから」

 

 顔が赤くなっててご機嫌のルシエンデス曹長。ふた口ぐらいしか飲んでないはずなのに。見かけによらず酒に弱い。

 

「俺が提督なんかになれるわけないでしょう。ていうか、職業軍人になるつもりはないですよ。兵役期間が終わったら、故郷に帰って就職します。名誉除隊証書があれば地元では有利だって、父が言ってました」

 

 間髪入れずに否定した。偉くなって歴史を動かすためにやり直したわけじゃない。前の人生で掴めなかった当たり前の幸せを手に入れたいだけだ。

 

「貴官は軍人に向いているのにもったいないな」

 

 強い酒を飲んでいるのにまったく顔色が変わってないクリスチアン少佐が割り込んでくる。彼らしくもないお世辞に少し驚かされる。

 

「そんなことはないでしょう? 体力無いし、頭悪いし、臆病だし、一番向いてない職業だと思ってます」

「貴官は良く飯を食うし、良く眠る。きっと良い軍人になると思うのだがな」

 

 意外な方面からクリスチアン少佐は切り込んできた。しかし、食事や寝付きの良さを人に褒められたのは初めてだ。帰国してからは、親に「無駄飯食い」「恥ずかしげもなく良く眠れるな」と嫌味を言われたものだ。

 

「体力は鍛えれば向上する。頭は勉強すれば良くなる。勇気は訓練と実戦で身に付く。全ての基礎が飯と睡眠だ。つまり貴官は基礎ができている」

 

 冗談のように聞こえたが、クリスチアン少佐の目は本気だ。

 

「どういうことです? 面白そうですねえ」

「私もー。少佐が食事と睡眠が基本って言ってる理由、気になってたんですよー」

 

 ルシエンデス曹長とガウリ軍曹が食いついてきた。まんざらでもないといった様子でクリスチアンは語り始める。

 

「飯を食わなければすぐへたばるだろう? 眠らなくてもやはりすぐへたばる。そんな兵隊が使い物になるか」

「でも、食べないで戦う兵隊や寝ないで戦う兵隊がいい兵隊だって思ってるお偉いさんが多いですよねえ」

 

 ルシエンデス曹長の言葉に、クリスチアン少佐は顔を真っ赤にした。

 

「それは奴らが臆病者だからだ!」

 

 何かのスイッチが入ったらしい。初対面の時と同じだ。

 

「戦場では一瞬の隙が命取りだっ! へたばったら動きが鈍る! 判断が遅れる! 実戦を知らない臆病者にはそれがわからんっ! 飯や睡眠が足りずに生き残れるほど、戦場は甘くない!」

 

 拳をテーブルに叩きつけるクリスチアン少佐。食器が耳触りな音を立て、店員や他の客達はドン引きする。

 

 だが、ルシエンデス曹長とガウリ軍曹は、楽しそうに目を輝かせた。俺もなるほどと思った。単純だけどそれゆえにわかりやすい。もっとこの人から色んな話を聞きたいと思った。

 

「つまり、俺は強い兵隊になる素質があるってことですか?」

「兵隊はもちろん、提督や艦長の素質もある」

「良く飯を食い、よく眠ることがですか?」

「そうだ」

「でも、どっちもあまり体を使わないですよね。頭脳を使う仕事じゃないですか?」

「貴官は腹が減ってるのに集中できるか? 眠らずにまともな判断ができるか? 頭だって体の一部だぞ? 疲れたら鈍る」

「言われてみればそうですね」

「我が軍の士官学校は体育を重視している。学力があっても、体育科目の成績が悪い者はトップになれん。反戦派どもは『旧時代的だ。だから軍人は頭が悪いのだ』などと言うが、そんなのは戯言だ。頭を使うにも体力がいる。疲れやすい体では勉強もはかどらん」

「なるほど、そういうことだったんですね」

 

 目から鱗がぼろぼろと落ちた。俺が読んだ本と言ってることがまったく違うのに、とても筋が通っている。

 

 士官学校で上位を取るには、学科はもちろん、戦闘実技、体育科目、自治活動などでも最高に近い点数を取らなければならない。士官学校時代のヤン・ウェンリーは戦闘実技や体育を苦手としていたせいで上位を取れず、補給の概念を理解できない頭でっかちが首席を取ったため、ヤンの支持者が残した記録をもとに書かれた『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』なんかでは、士官学校教育はさんざんに非難されている。それを正しいと言うクリスチアン少佐の意見は、とても新鮮だ。

 

「貴官は飯を食う量が多いだけではない。真面目だ。きっと良い軍人になれる。兵役満了が近くなったら、下士官に志願するといい。軍には貴官のような人材が必要だ」

 

 クリスチアン少佐の表情が初めて柔らかくなった。英雄の虚名抜きで俺を評価してくれているのがわかって、ちょっと嬉しくなる。だが、俺の意思は変わらない。

 

「ありがとうございます。でも、やっぱり民間で就職したいですよ」

「軍人は嫌いか?」

「あ、いや、そうじゃなくて。夢だったんです。普通に就職して、結婚して、子供を育てて、年を取っていく。それが夢でした」

 

 言い終えてから、軍隊を愛するクリスチアン少佐を怒らせてしまったかなと思った。しかし、彼の表情は柔らかいままだった。

 

「良い夢だな」

「英雄になんてなりたくなかったんですよ」

 

 俺の目はクリスチアン少佐ではなく、失われた可能性を見ていた。当たり前に働いて、当たり前に結婚し、当たり前に子供を育て、当たり前に年を取り、当たり前に死にたかった。年老いてからは、平凡な家族連れを見るたびに羨ましくなったものだ。この夢の中ならば、失われた可能性に挑戦できる。

 

「そういうことか。貴官なら良き市民になれるだろう。目上を尊敬し、同輩と助け合い、目下を可愛がる。法律を守り、税金を納め、強い子を育てる。そんな当たり前の市民を目指せ。我ら軍人は市民の当たり前を守るためにいる。短い間だったが、貴官とは任務を共にした仲間だ。貴官が軍服を着ていようといまいと、小官にとっては家族だ。小官には、軍人として家族として貴官を守る義務がある。ルシエンデス曹長やガウリ軍曹もそうだ。苦しい時は我らを思いだせ」

 

 クリスチアン少佐の堅苦しいけれど温かい激励に、目頭が熱くなる。

 

「ありがとうございます。お世話になりました」

 

 深々と頭を下げ、これまでの分も含めて礼を言った。

 

「役に立てて何よりだ」

 

 クリスチアン少佐は頷くと、ルシアンデス曹長とガウリ軍曹の方を向いた。

 

「貴官らの言う通りだ。ちゃんと話してみるものだな。骨折り感謝する」

「礼には及びません。あなたとフィリップス君がお互いに苦手意識を持ったままで別れるのもつまらんと思った。それだけです」

「私達もいろいろと勉強させていただきました。ちょっとぐらいお返しさせてください」

 

 クリスチアン少佐とルシエンデス曹長とガウリ軍曹は、顔を見合わせて笑い合った。俺は事情を飲み込めずに目を白黒させる。

 

「苦手意識ってどういうことですか?」

「少佐はこういう人だからね。君と何を話していいかわからなくて困ってたんだよ」

 

 ルシエンデス曹長が俺の疑問に答えてくれた。

 

「どんな敵であろうと恐れない小官だが、味方の英雄は気後れしてしまう。特に貴官は雰囲気があるからな。申し訳ないが、人に見られるのが嫌だと聞いて少し安心した」

 

 苦笑いするクリスチアン少佐を見て、脳内イメージを「意味不明で怖そうだけど、良い人かもしれない」から、「良い人」に上方修正した。

 

 それからはそれぞれの今後の身の振り方についての話になった。広報の仕事に疲れたクリスチアン少佐は、陸戦専科学校への転出願いを出した。ルシアンデス曹長とガウリ軍曹は、シャルディニー中佐を担当することになるらしい。

 

「で、エリヤくんはどうするの?」

 

 すっかりアルコールが回ったガウリ軍曹は、とろんとした目で俺を見る。答えは一つしか無かった。

 

「休暇をとって里帰りします。エル・ファシルを脱出してから、ずっと広報活動でしょう? そろそろ休みたいですよ」

 

 確かに、と三人は笑う。この日をもって、俺はエル・ファシルの英雄から、ただのエリヤ・フィリップスに戻った。

 

 

 

 同盟領中央宙域「メインランド」の外縁部にあるタッシリ星系第四惑星パラスは、豊かな水と多様な生態系を持ち、自由惑星同盟で最も環境に恵まれた惑星の一つだ。東大陸のミケーネ平原には大穀倉地帯「黄金の野原」があり、西大陸の山岳地帯には膨大な天然資源が眠る。工業も盛んで、ハイテク産業地帯「エレクトロニクス・リバー」、金属工業地帯「メタル・ベルト」は義務教育の教科書にも登場する。星民総生産と星民平均所得は同盟でも上位に位置し、経済的にも先進地域とされていた。

 

 俺の故郷パラディオン市は、東大陸で二番目、パラス全体では三番目に大きい都市だ。気候は温暖、空気は透き通り、水は清らか、春の桜と秋の紅葉の美しさは筆舌に尽くしがたい。食べ物は何でも美味しくて、ピーチパイは銀河一である。ケニーズ通りは演劇の七大聖地の一つ。フライングボール全国リーグのパラディオン・レジェンズは、パラディオンっ子の誇りであった。

 

 実家から追い出されたのは、宇宙暦七九八年末のことだった。軍隊にいた時も、貧民街にいた時も、刑務所や麻薬中毒者更生施設にいた時も、救貧院にいた時も、一瞬たりともパラディオンのことを忘れることはなかった。図書館でパラディオンの風景画像を端末で見るたびに、涙を流したものだ。

 

「午前一〇時三四分か」

 

 左腕にはめた腕時計は、客船のハッチが開くまであと一分だと教えてくれた。それにしてもなんと長い一分なのだろうか。ハッチの向こうには、懐かしいパラディオンの街があるというのに、ほんの僅かな時間が俺を阻むのだ。

 

 秒針をじっと凝視し、残り秒数を一秒ずつを頭の中で数える。残りがゼロになった瞬間、ハッチが開き、アナウンスが流れる。

 

「お疲れ様でした。パラディオン宇宙港に到着いたしました。長旅お疲れ様でした」

 

 パラディオンの美しい空が視界に入った途端、歩くのももどかしくなり、ハッチに向かって全力で駆け出した。

 

「お客様! 危ないですよ!」

 

 係員に注意されたが、無視して走り続け、ハッチから飛び出す。

 

 目の前が明るくなった。パラディオンの陽光だ。しっかりと目を見開く。

 

 地面に足が着いた。パラディオンの土だ。足に力を込めて一歩一歩踏みしめながら歩く。

 

 息を大きく吸った。パラディオンの空気だ。肺いっぱいに空気を吸い込む。

 

「帰ってきた! ついに帰ってきたんだ!」

 

 胸が感動でいっぱいになる。長い長い屈辱の時を耐えてきた甲斐があった。全身で故郷を感じながら、ゆっくりと宇宙港のターミナルビルに向かって歩く。

 

 到着ロビーに入り、「エリヤ・フィリップス兵長、おかえりなさい」と書かれた横断幕が見えた瞬間、俺の感動は粉々に打ち砕かれた。とんでもない数の市民が集まり、満面の笑顔を浮かべた五〇代ぐらいの男性がその最前列に立っている。白髪まじりの髪を上品にセットし、高価なスーツに身をまとい、見るからに紳士といった感じだ。

 

「うわ……」

 

 俺の困惑をよそに、紳士風の男性はすたすたと歩み寄ってくる。

 

「フィリップス君おかえり! 君はパラスの誇りだ!」

 

 紳士風の男性がそう叫んで俺を抱擁すると同時に、歓声と拍手が響き渡り、カメラのフラッシュが一斉に焚かれた。故郷でも英雄を続けないといけないのかと思うと、頭がクラクラしてくる。

 

 パラスの惑星行政区知事だという男性に連れられて、惑星政庁で記者会見を開いた後、地元の主要放送局をめぐり、夕方や夜の番組にゲストとして短時間出演した。故郷に帰ってきたことを実感できたのは、テレビ局の休憩室にいたスタッフがみんな両手持ちでパンを食べてるのを見た時くらいのものだった。

 

 最後の出演が終わった後、俺はテレビ局が手配してくれたハイヤーに乗り、実家のあるエクサルヒヤ区へと向かった。四九年ぶりというのに、車窓から見る夜の街は記憶の中そのままで、故郷に帰ってきたという実感が再び湧いてくる。実家に到着したのは、午後一〇時過ぎのことだった。

 

「知事閣下直々のお出迎えなんて凄いなあ! 惑星政庁にも無試験で入れるんじゃないか!? これで就職は心配いらないな!」

 

 父のロニーは酒が回って上機嫌だ。パラディオン市警察に勤務する彼は、警察官らしいがっちりした体格の持ち主で、俺と同じ赤毛だ。最後に会ったのは七九八年の末。あの時は五五歳だったから、七八八年の今は四四歳になる。

 

「英雄ならエリートコースだろ? いいとこのお嬢さんと見合い結婚して、子供は三人か四人、サウスアップル区あたりに一戸建てを建てて、自家用車はウィラント社のセダンだ。そして、局長で定年退職。いや、それは夢を見過ぎか。控えめに課長にしておこう。なあ、母さん、エリヤの未来は明るいぞ!」

 

 勝手に夢を膨らませていく父は、俺が徴兵される前と同じお調子者だった。しかし、捕虜交換で帰った時に、「収容所で死んでれば良かったんだ!」と罵られたことを思い出すと、とても白々しく感じられる。

 

「そんなわけないでしょ。勲章と名誉除隊証書だけじゃ、市警察だって上級職は無理よ」

 

 母のサビナは呆れ顔で父に突っ込む。看護師の彼女は、目鼻立ちが優しく、身長は俺よりも五センチも高く、髪の毛の色は家族の中で唯一の金髪である。最後に会った時は五五歳だったから、今は四三歳になる。

 

「それにしても、エリヤが英雄になるなんてねえ。古参兵にいじめられるんじゃないかって心配してたのに」

 

 遠い目をする母は、俺が徴兵される前と同じ心配性だった。しかし、捕虜交換で帰った時に、ネチネチ嫌味を言われたことを思い出すと、とても白々しく感じられる。

 

「あんた、ホント男前になったよね。英雄になると顔つきまで変わるのかな」

 

 姉のニコールは、真っ白な歯を見せて爽やかに笑う。男前という言葉は、むしろ彼女にこそふさわしい。顔の作りは俺とそっくりと言われるが、俺より七センチ高い長身とシャープな雰囲気、直毛のショートヘアが姉を格好良く見せる。俺の二歳上だから、今は二二歳で、職業は小学校の非常勤教師だ。

 

「有名になっちゃっていろいろと大変だろうけどさ。名前に負けないように頑張りなよ」

 

 俺の肩を強く叩く姉は、俺が徴兵される前と同じしっかり者だった。しかし、捕虜交換で帰った時に、徹底的に無視されたことを思い出すと、とても白々しく感じられる。

 

「クラスでもお兄ちゃん大人気でさー。ちっちゃい頃のアルバム持ってくと、みんな大喜びするのよねー」

 

 妹のアルマは、もたもたと舌足らずに喋る。栄養が行き届いた赤ん坊のような太り方をして、ゆるくウェーブした赤毛はぼさぼさ、顔には化粧っ気が全くなく、背は俺より九センチも高く、可愛げは皆無だ。俺の五歳下だから、今は一五歳。中学の最終学年である。

 

「早く帰ってきてよー。お兄ちゃんいないと寂しいよー」

 

 甘ったるい声を出しながら、両手で持ってマフィンを持って食べる妹は、俺が徴兵される前と同じ甘えん坊で食いしん坊だ。しかし、捕虜交換で帰った時に、「生ごみ」と呼ばれ、消毒スプレーを吹きかけられたことを思い出すと、とても白々しく感じられる。

 

 俺にとことん冷たかった家族が、この場では逃亡者になる前の温かい家族に戻っているのに、嬉しくなるどころか、どんどん気持ちが冷めていく。我慢できなくなった俺は、勢い良く席を立ち、無言で居間から出て行った。

 

「ちょっと、どうしたの? ねえ、エリヤ!?」

 

 慌てる家族の声を無視し、早足で自分の部屋に入った。ドアにロックをかけ、部屋の電気を消すと、ベッドに入って布団を頭からかぶる。パラディオンの一一月は暖かいのに、俺の心は冷えきっていた。

 

 

 

 到着二日目も初日に負けず劣らず大忙しだった。地元放送局の朝の番組にゲストとして呼ばれ、エル・ファシル脱出の苦労話などを聞かれた。中学・高校での一年先輩にあたるらしいルイーザ・ヴァーリモントというローカルタレントと同じ番組に出演した時は、学校の話をいろいろと振られたが、ほとんど記憶がなくて、返答に困ってしまった。

 

 九時からはパラディオン市役所を表敬訪問した。庁舎の外壁には、「英雄エリヤ・フィリップス兵長、凱旋!」と書かれた垂れ幕がぶら下がり、一階のホールは俺を見に来た市民に埋め尽くされている。

 

「平日の昼間なのに……」

 

 すっかり肝を潰してしまい、ぎこちなく笑いながら手を振る。ランドルフ・フィリップス市長から表彰状を受け取り、名誉市民称号を授与され、年間二〇〇〇ディナールの年金や公共施設の無料使用権といった特典を与えられた。ちなみにこの市長は、姓と髪の色が俺と同じで、宇宙軍陸戦隊で活躍した経歴を売りにしていることから、ネットの一部では「エリヤ・フィリップスの父親」と言われているが、血縁関係はまったく無い。

 

 母校のスターリング高校では、一〇〇〇人を超える在校生の前でエル・ファシル脱出作戦の話をした。在校生の純粋な眼差しに胸が痛む。職員室に行くと、教師達が「君には期待していた」「さすがは私の教え子」と口々に言い、握手を求めてきた。彼らのことはほとんど覚えていないが、在校中は勉強もスポーツも出来ない俺に見向きもしなかったと思う。「先生のご指導のおかげです」などと言いつつ、内心ではうんざりしていた。

 

 もう一つの母校シルバーフィールド中学では、在校生と交流会を行い、将来の夢について語り合った。

 

「勇敢な空戦隊員になれるよう頑張ります!」

「辺境惑星の開拓をやるために、大学で農業工学を勉強します!」

「教師になって、フィリップス兵長のような英雄を育てたいです!」

 

 目を輝かせて夢を語る中学生の姿に心が熱くなり、一人一人と手を握って「頑張れ!」と声を掛ける。そんな中、妹のアルマは語れるような夢がないらしく、ひたすら用意された菓子を食い散らかしていた。

 

 夕方からは、市内の高級ホテルで開かれた祝賀会に出席した。華やかな場所には出たくなかったのに、父が勝手に出席を承諾してしまったのである。

 

「あー、わしの孫娘が君のファンでねえ。サインをしてくれんかね」

 

 貫禄のある老人が差し出した名刺には、「国民平和会議下院院内総務 下院議員 ロイヤル・サンフォード タッシリ九区選出」と記されていた。

 

「わ、わかりました!」

 

 きらびやかな肩書きに魂が消し飛んだ。直立不動の姿勢になり、ぎこちない敬語を使って孫娘の名前を聞き出した後に、サイン用紙にペンをすらすらと走らせ、携帯用記憶媒体にメッセージを吹き込み、ひきつった笑いを浮かべながらサンフォード議員と並んでカメラに収まる。

 

 このように偉い人に次々と声を掛けられ、請われるがままにサインに応じ、一緒にカメラに収まり、議員や社長といった偉い人の名刺で財布がいっぱいになった。

 

 地元メディアの出演・取材の依頼も殺到した。お調子者の父が俺に無断で承諾してしまうものだから、休む暇もないほどにスケジュールが詰まってしまう。文句を言おうにも、話が通じるとは思えなくて、言われるがままに引き受けてしまう。体を張って仕事を減らしてくれたクリスチアン少佐が懐かしくなった。

 

 俺の携帯端末には、中学や高校の同級生からの誘いのメールがたくさん来た。六〇年以上も昔の同級生なんて、ほとんど覚えていないし、会ったところで話題もないのだが、無視するのも悪い気がする。迷った挙句、中学の同級生から送られてきた祝賀会の誘いにのみ返信した。

 

 祝賀会の会場は、偶然にも広報チームが打ち上げをした「マルチナショナル・フォース」のチェーン店だった。料理の種類が豊富で値段も安く、若者がパーティーをするには手頃なのだ。

 

 扉を開けると、店の中は笑い声や話し声で溢れかえり、俺の存在なんか必要としていないように思えた。結局のところ、祝賀会なんて彼らが集まる口実にすぎないのだろう。友達の少ない俺にとっては、とても辛い状況であったが、「主役は俺なんだ」と自分に言い聞かせて歯を食いしばり、ゆっくりと足取りを進めていく。

 

「おー、来た来た!」

 

 立ち上がって手を叩いた大男は、フライングボール部のスターだったミロン・ムスクーリ。この男が帰国した俺を「非国民め!」と罵り、大きな拳で殴りつけてきたことを思い出した途端、爽やかな笑顔が作り物のように見えた。

 

「エリヤ、ひさしぶりー」

 

 嬉しそうに手を振る丸顔の女の子は、中学での数少ない友達だったルオ・シュエ。この女が帰国した俺に「二度と連絡しないで」と絶縁を言い渡してきたことを思い出した途端、可愛らしい笑顔が作り物のように見えた。

 

「こっちこっち!」

 

 俺の手を引いてくれたのは、誰にでも別け隔てなく優しかった優等生のフーゴ・ドラープ。この男が帰国した俺に投げつけた氷のような視線を思い出した途端、その気遣いが作り物のように見えた。

 

「顔色悪いな。大丈夫か?」

 

 両手持ちで馬鹿でかいクラブサンドを食べていたムスクーリは、心配そうに俺を見る。

 

「遠慮しないで飲みなよ。エリヤはアルンハイムのビール、好きでしょ?」

 

 ルオが俺のコップにビールを注ぐ。今の俺は酒を飲まない。いや、飲めない。長く苦しい断酒治療の末に酒を断ったからだ。しかし、現実でのルオの冷たい顔を思い出すと断れず、必死に笑顔を作り、苦いだけのビールを無理やり飲み干す。

 

「あのとろいフィリップスが英雄になるなんてなあ」

「エル・ファシルの話を聞かせてくれよ」

「ねえねえ、ヤン少佐って彼女いるの?」

 

 みんなは俺の活躍を褒め称え、エル・ファシルの話を聞きたがった。三〇分ほど必死で説明したが、ついに忍耐の限界に達した。家族とまったく同じだ。俺を白眼視した奴らに何を言われても、白けてしまう。

 

「俺の分はこれで払っといてくれ。お釣りはみんなで分けてくれたらいいから」

 

 俺は立ち上がって一〇〇ディナール紙幣をテーブルに置くと、早歩きで店の出口へと向かう。

 

「やっぱ具合悪いのか? 送ろうか?」

 

 心配そうなドラープの声が聞こえたが、振り返らずに店の外に出て、タクシーをつかまえた。そして、実家へと戻る。

 

 いつものように家族が集まる居間を素通りして、真っ暗な自分の部屋に閉じこもり、ベッドに入った。寝っ転がりながら携帯端末を見ると、祝賀会に出ていた連中から心配するメールが何通も来ていた。嫌な気分になって全部削除し、アドレス帳も初期化した。

 

 帰省から一週間もすると、歓迎ムードは一段落した。自由になった俺は、行きたかった場所に片っ端から行き、食べたかった故郷の味を片っ端から食べた。

 

「なんか味気ないな」

 

 画像で見た時は光り輝いて見えた光景も今は色あせて見える。恋い焦がれた味も今はおいしく感じられない。失望ばかりが積み重なっていく。

 

 今日も予定を切り上げて、早めに実家に帰った。居間を素通りして自分の部屋に入り、電気を消す。故郷に帰っても、安らげる場所はここだけだった。

 

「俺のどこが英雄なんだよ。全然あの時と変わってねーじゃん」

 

 虚空に向かって一人つぶやく。家族とは二日目の朝からほとんど顔を合わせず、事務的な連絡をする時も同じ家にいるのにメールを使う。同級生からのメールは、いつの間にか来なくなった。

 

「あの人達とはもう無理だ」

 

 家族や同級生の顔を見ると、昔のことを思い出してしまう。彼らがどんなに優しい顔をしていても、嘘っぽく見えてしまい、信頼関係を結べるとは思えなかった。故郷は人も含めての故郷だ。それが好きになれなかったら、懐かしい風景も色あせて見える。

 

 結局のところ、とっくの昔に俺は故郷をなくしていた。今回の帰郷は、やり直しただけですべてを無かったことにできるわけではないということを、確認する作業であった。



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第5話:惑いの時 宇宙暦788年10月~12月中旬 同盟軍シャンプール駐屯地

 エル・ファシル放棄に伴い、星系警備隊も廃止されると、俺はエルゴン星系第二惑星シャンプールに司令部を置く第七方面軍に移籍して、「第七方面軍管区司令部付」の肩書きを与えられた。次の配属先が決まるまでの腰掛けだ。

 

 故郷から逃げるように出て行った俺は、残りの休暇をシャンプール駐屯地の兵舎で過ごすことに決めた。下士官や兵卒は四人部屋で過ごすが、俺は様々な事情から個室を割り当てられた。兵舎にいる間の衣食住は無料。月給は一四四〇ディナール全額を小遣いにできる。

 

 英雄には身近にいてほしくないと思う人が多いらしく、俺の次の配属先はなかなか決まらなかった。第七方面軍管区司令部の人事担当者によると、来年一月の定例異動までに決まらない可能性もあるらしい。当分の間は遊んで暮らせる見通しだ。

 

 見る人が見れば、極楽のような生活であろう。だが、目標のない生活は心を荒ませる。故郷での経験は、兵役を満了した後に故郷で就職するという漠然とした構想を打ち砕いた。

 

 暇を持て余した俺は、基地の図書館から『同盟軍名将列伝』なる本を借りてきた。前書きによると、「七八〇年までに任命された宇宙軍及び地上軍の元帥一一四名のうち、特に重要な二一名を選んだ」らしい。期待を込めてページをめくったとたん、失望を覚えた。馴染み深いのは、ダゴンの英雄リン・パオとユースフ・トパロウル、同盟軍史上最高の天才ブルース・アッシュビーくらいのものだ。他はほとんどわからない。

 

 仕方なくブルース・アッシュビーの項を読み始めたが、彼らの活躍した時代のことは良くわからないし、郷里の英雄ウォリス・ウォーリックの出番が少なくて、ちっとも面白くなかった。

 

 本を閉じて机の上に置き、携帯端末を操作してネットを見る。ポータルサイトのニュース欄に「国防委員会がリンチ少将の戦功捏造疑惑を調査。勲章剥奪か」という見出しが目に入り、携帯端末をぶん投げた。

 

 俺はもともと無趣味だ。人生で一番のめり込んだ酒と麻薬は、長く苦しい治療の末にとっくにやめた。セックスサービスについては、馴染みの売春婦がサイオキシン中毒で亡くなってからやらなくなった。一時期はまった競馬やスロットは、負け過ぎてうんざりした。好きだった料理はある事件がきっかけでやめてしまった。ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ローエングラムの活躍を記した本もここにはない。

 

 徴兵される前にコーヒーショップでバイトしてたことを思い出し、道具を揃えてコーヒーをいれた。だが、飲んでくれる人がいないコーヒーをいれても、ちっとも楽しくない。

 

 ハイネセンで英雄をやっていた頃のことを思い出す。目立つのは嫌だった。持ち上げられるのは居心地が悪かった。それでもやるべきことがあった。故郷に帰るという希望もあった。

 

「あれが懐かしくなるなんて、我ながら弱ってるなあ」

 

 行き詰まりを感じていたある日、新聞の片隅に「公金横領の前収容所長、ハイネセンに身柄を移送」という見出しの記事を見つけた。公金横領容疑で拘束された前エコニア捕虜収容所長バーナビー・コステア宇宙軍大佐が、ハイネセンに移送されたという内容の記事だ。

 

「エコニアの公金横領……?」

 

 ピンときた俺は、携帯端末を取り出して検索した。すると、一一月の中旬に起きたエコニアの捕虜暴動と公金横領発覚の記事が見つかった。コステア大佐が横領した公金は、三五〇万から三六〇万ディナールというから、かなり大きな不祥事だ。しかし、無人星系で独立国家を作ろうとしたカルト教団「輝ける千年王国」討伐作戦、伝説的映画スターのジャーヴィン・レコタの事故死といった大事件と重なったため、あまり注目されなかったらしい。

 

 記事によると、エコニア収容所長コステア大佐は、捕虜の暴動を扇動して公金横領の証拠を隠滅しようとしたが、タナトス星系警備隊司令部の監査によって露見したのだそうだ。監査に協力したエコニア捕虜自治委員長ケーフェンヒラー帝国宇宙軍元大佐は、四三年の捕虜生活から解放されるという。

 

 記事を読み終えた瞬間、強い既視感におそわれた。捕虜の暴動、囚人の長老の協力、不正の告発といった筋書きが、ヤン・ウェンリーの伝記『ヤン・ウェンリー提督の生涯』に書かれたエコニア捕虜収容所事件と同じなのだ。本の中では、エコニア捕虜収容所の参事官だったヤンが、後の参謀長エリック・ムライ、後の副参謀長フョードル・パトリチェフと出会うきっかけとして、この事件を紹介しており、事件の詳細、彼らに協力した囚人の長老の名前については触れられていない。

 

 一方、ヤンやムライやパトリチェフの名前は、この記事にはなかった。しかし、暴動がきっかけで収容所長の公金横領が露見するまでの流れ、囚人の長老が事件解決に協力した事実は、『ヤン・ウェンリー提督の生涯』の記述と近い。

 

「もしかして、エル・ファシルの後も現実に沿った展開になるんじゃないか」

 

 そう考えた俺は、一時間ほどかけて脳髄から記憶を引っ張り出し、役立つ情報を見つけた。

 

「七八八年一二月一五日、サンバルブール競馬場の二歳未勝利戦。競馬史上第四位の高額配当」

 

 ポンと手を打った。四〇代前半の頃に競馬の予想屋と知り合った俺は、一攫千金を狙って大穴の馬になけなしの金を賭け続けた。ネットで高額配当の例を検索しては、大金持ちになった気分に浸ったものだ。その記憶が今になって生きた。

 

「馬の名前も覚えてるぞ。変な名前だった。確か『バンクラプトシー』だ!」

 

 公用語で「自己破産」を意味する名前を思い出した俺は、懐から携帯端末を取り出した。サンバンブール競馬の公式サイトを開き、一五日に二歳馬未勝利戦があるかどうか、バンクラプトシーが出走するかどうかを調べる。

 

「ええと、一二月一五日に第二レースに二歳馬未勝利戦があるな。出走馬は……、あった! 四枠七番にバンクラブトシー! 一六番人気で倍率は六五五倍か!」

 

 俺は興奮した。単勝で一〇〇ディナール賭ければ六万五五〇〇ディナール、一万ディナール賭ければ六五五万ディナールの配当だ。同盟市民の平均生涯賃金は、二一〇万ディナール。一万ディナールをバンクラブトシーに賭ければ、一生遊んでもお釣りが来るような大金が手に入る。そして、特別賞与と勲章の一時金を合わせて一万ディナールが俺の口座に入っている。

 

 迷いは無かった。俺は預金を全額おろし、エアバイクに乗って場外馬券発売所に行き、バンクラプトシーの馬券を購入する。新しい人生を始めるための軍資金を手に入れるのだ。

 

 一二月一五日午前一〇時三〇分、運命の時がやってきた。俺は自室のテレビで運命のレースを観戦する。貧弱な馬体、汚い毛並みのバンクラブトシーは、見た目だけで不人気馬と分かる。だが、このみすぼらしい馬が俺が大金持ちにしてくれるのだ。

 

 ついにゲートが開いた。バンクラブトシーは六五五万ディナールの夢を乗せてよろよろと走りだす。椅子から立ち上がり、拳を握り締めながら画面を見詰める。

 

「おおっと! 落馬です! バンクラブトシー落馬!」

 

 なんと、あっという間にバンクラブトシーは足をもつれさせて転倒してしまった。六五五万ディナールの夢は、全財産とともに消えてしまい、この世界が現実の知識を使ってうまく立ち回れるほど甘くないことを思い知らされたのである。

 

 

 

 無一文になった俺は、改めて今後のことを真面目に考えた。いずれは新しい部署に配属されて、兵役の残り期間を務めることになるだろう。しかし、その後の展望はまったく無い。

 

 故郷に帰らないならば、ハイネセンで仕事を探すことになる。しかし、俺は頭も体力も人並み以下、専門技能も無く、最終学歴は地方高校の就職コースだ。新聞や雑誌を読んだところによると、この夢の中の世界も景気があまり良くないようだ。有名大学や名門スポーツ校の卒業生でも就職できない世の中では、役立たずの若造を正社員にしてくれる会社なんて考えられないだろう。

 

「そうだ、これを使おう」

 

 机の引き出しを開き、山のようにある偉い人の名刺の中から、一番偉そうなロイヤル・サンフォード下院議員の名刺を取り出した。何と言っても与党国民平和会議の党五役の下院院内総務だ。あのヨブ・トリューニヒトなんかよりずっと大物である。

 

 政治家は就職相談にも応じてくれると聞く。ネットで調べたところによると、サンフォード議員は、党幹事長、党総務会長、国務委員長、地域社会開発委員長、最高評議会書記局長などを歴任した主戦派の大物だという。これだけ力のある政治家なら、かなりいい仕事を紹介してもらえるに違いない。現実では同盟滅亡の戦犯と言われる人物だが、就職を斡旋してもらう分には関係ない。

 

 期待に胸を踊らせながら、サンフォード議員の事務所に電話した。しかし、電話に出た秘書は話を聞いてくれたけれども、まったく具体的な話はしてくれず、体良くあしらわれたといった感じだった。星系議会議員、惑星議会議員、州議会議員、市議会議員なんかの事務所に電話しても、感触は似たようなものであった。

 

 政治家のコネはあてにならないと判断したところで、大事なことを思い出した。俺は使えない奴だ。そして、兵隊という人種は、使えない奴にはとても冷たい。

 

 七九九年に家を追い出された俺は、志願兵として軍隊に入り、首都防衛軍陸戦隊に配属された。当時の同盟軍は攻め寄せてきた帝国軍を迎撃するの戦力を集めていて、三〇過ぎの不名誉除隊者でも入隊できたのだ。

 

 要領が悪く体力も劣る俺は、うまく軍務をこなせなかった。しかも、エル・ファシルの逃亡者で不名誉除隊の前歴がある。意地悪な下士官や古参兵に目をつけられるのは、時間の問題だった。

 

 毎日のように殴る蹴るの暴行を受け、部屋の中でも罵倒された。金や物を脅し取られ、給料を前借りまでして差し出した。食事を取り上げられて、三日間何も食べられなかったことがあった。ロッカーに閉じ込められて勤務に出られなかったことを無断欠勤と報告されて、懲罰を受けたこともあった。「私は卑怯者です」という言葉をひたすら書き取りさせられたこともあった。

 

 脱走する直前には、人が手を動かすだけでパンチが飛んでくるのを恐れ、人が口を動かすだけで罵声が飛んでくるのを恐れるようになった。中心人物のタッツィー曹長、カーヴェイ伍長、ピロー上等兵などは、今でも夢に出てくる。

 

 兵卒を続けたら、またリンチを受けるんじゃないか?

 

 そんなことを思った。すべての人がエル・ファシルの英雄に敬意を払うとは限らない。俺が持ち上げられてるのを不快に思う者も少なくないのではないか。

 

 急に怖くなってきた。兵役が満了するまでの二年を無事に過ごせる自信が無い。あんな思いはもう嫌だ。いったいどうすればいいのか。

 

 途方に暮れた俺の頭の中に浮かんできたのは、二か月前のクリスチアン少佐の言葉だった。

 

「短い間だったが、貴官とは任務を共にした仲間だ。貴官が軍服を着ていようといまいと、小官にとっては家族だ。小官には、軍人として家族として貴官を守る義務がある。ルシエンデス曹長やガウリ軍曹もそうだ。苦しい時は我らを思いだせ」

 

 彼なら力になってくれるんじゃないか。そう考えた俺は携帯端末を取り出して、クリスチアン少佐宛のメールを打ち始めた。

 

 返信と事務連絡以外のメールを書くなんて、何十年ぶりだろうか。文章を書いては消し、書いては消しを繰り返し、一〇〇文字程度のメールを書くのに一時間もかかった。三〇分ほど迷った後に送信した。

 

 共同浴場で入浴してから部屋に戻ると、クリスチアン少佐から返信があった。不安を押さえながら確認すると、「小官はメールが苦手だ。直接話そう。貴官の準備ができたら返信せよ。今晩は一二時まで空いている」という内容。

 

 急いで返信した。すぐに携帯端末の無機質な着信音が鳴り響く。もちろんクリスチアン少佐からだ。

 

「お久しぶりです、少佐」

「うむ、相談したいそうだな。小官は社交辞令は苦手だ。単刀直入に話せ」

「今は不景気ですよね。民間で就職するのは難しいと思ったんです」

「そうか、職業軍人を目指すのだな!」

 

 クリスチアン少佐の声が嬉しそうになった。

 

「あ、いや……」

 

 自分の迂闊さを呪った。良く考えたら、クリスチアン少佐に相談したら、こういう話になるのはごく自然ななりゆきではないか。

 

「貴官ならきっと正しい道を選ぶ。そう信じていた」

「そうでは……」

「軍隊を選んでくれたこと、心より嬉しく思うぞ!」

 

 携帯端末を通しても、クリスチアン少佐の喜びの大きさが伝わってくる。今さら「そんなつもりじゃない」とは言えない。

 

「我が軍の職業軍人には、士官と下士官と志願兵がいる。貴官の希望はどれだ?」

 

 クリスチアン少佐は俺の困惑にも構わず選択肢を突きつけてきた。なんというか、恐ろしく強引である。

 

「ええと……」

 

 喜んでるクリスチアン少佐をがっかりさせてはいけない。職業軍人になると仮定して考えようと思った。

 

 志願兵は論外だ。悪い思い出があるし、一期三年契約の不正規雇用なのも安定志向の俺には合わない。仮に目指すとしたら、正規雇用の下士官か士官だろう。兵卒にとって下士官は神様で、士官にはその神様も頭を下げてくる。

 

「下士官か士官でしょうか。正規職員がいいですから」

「軍に骨を埋めたいということか。貴官ならそう言ってくれると思っていた」

「俺はあまり軍人の生活に詳しくありません。参考のために下士官と士官の両方について教えていただけませんでしょうか」

「良かろう。下士官は兵卒をまとめ、士官の出した命令を守らせる現場監督だ。部隊の強さは下士官の出来に左右される。我が軍を支える崇高な仕事といえよう。初任給は伍長が一六二〇ディナール。地方公務員の初任給とあまり変わらん。だが、国防の意義と福利厚生を考慮すれば、下士官の方が良い仕事なのは言うまでもない」

「なるほど」

「士官は下士官と兵卒に命令を出す管理職だ。どんなに強い部隊でも、士官が正しい命令を出さなければ力を発揮できない。国防の要となる聖職といえよう。初任給は二二五〇ディナール。国家公務員上級職試験合格者の初任給とほぼ同じだな。だが、国防の意義と福利厚生を考慮すれば、士官の方が良い仕事なのは言うまでもない」

「ええと、つまり下士官は巡査部長、士官は警部補以上ということになるんでしょうか? 俺の父は警察官なので、警察の階級を基準に考えてしまいます」

「そう考えても間違いはなかろう。給与等級もほぼ同じであるからな」

「ありがとうございます」

 

 俺は礼を言った。巡査部長や警部補のようなものなら、職業軍人も悪くないと思えてくる。

 

「下士官に任官するには、三つのルートがある。専科学校、兵卒からの昇進、兵役満了時の下士官選抜の三つの経路がある。一番簡単なのは専科学校だな。卒業すれば無条件で伍長に任官できる。しかし、受験資格は一六歳から一八歳まで。貴官の年齢では無理だ」

「残念です」

 

 これは本心からの言葉だった。卒業すれば無条件で巡査部長並みの仕事に就けるなんて、とてもいい学校だ。しかし、軍の専科学校に進学するには、中学の職業教育コースで上位になれる学力が必要だ。俺は中学でも高校でも職業教育コースだったが、最下位に近かった。中学や高校でもっと勉強しておけば良かったと後悔した。

 

「兵卒から下士官に昇進するには、勤務成績が抜群に優秀でなければならない。スキルの高い古参志願兵向けのルートだな。一期三年しか勤務できない徴集兵では、スキルを磨く前に兵役が終わってしまう」

「なるほど」

「貴官が目指すとすれば、兵役満了時の下士官選抜だ。兵役期間中に兵長まで昇進した徴集兵は、下士官選抜の受験資格を得る。合格した者のみが伍長に任官できるが、形だけの試験だから間違いなく通る」

「これはいいですね。誰でも通るというのがいいです」

 

 下士官選抜がとてつもなく魅力的に見えた。しかし、その次の瞬間にある事実に気づく。受験資格を得るには、兵役を最後まで務めなければならないのだ。

 

「なら、下士官選抜を目指すか」

「士官になる方法も教えていただけませんでしょうか? 参考にしたいんです」

 

 兵役を最後まで務めることになってはたまらない。慌てて話を逸らした。

 

「いいだろう。士官に任官するには、士官学校、幹部候補生養成所、予備士官養成課程の三つのルートがある。予備士官養成課程は、技術系の大学で軍の奨学金を受ける代わりに軍事教練を受け、卒業と同時に予備役将校に任官する。だが、これは貴官には関係ないな。士官学校の受験資格は、専科学校と同じ一六歳から一八歳まで。貴官の年齢では対象外だ」

「そうでしたか」

 

 残念そうに答えたが、これは口先だけだ。同盟軍の士官学校は、国立中央自治大学、ハイネセン記念大学と並ぶ最難関校。しかも、スポーツ経験や課外活動経験まで試験に影響する。たとえ俺が一八歳でも、職業教育コース最下位の学力、ベースボール部の万年幽霊部員では書類選考すら通らない。

 

「幹部候補生養成所の受験資格は、上官の他に将官を含む士官二名の推薦を受けた下士官や兵卒に与えられる。受験者には幹部適性試験が課されるが、准尉や曹長の階級にある者は免除される。かく言う小官は、准尉の時に推薦を得て幹部候補生養成所に入った」

「推薦を取るのが一次試験、幹部適性試験が二次試験ということでしょうか」

「そういうことだな」

「つまり、俺は推薦を取ってから、幹部適性試験を受ければいいんですね」

 

 声が弾む。下士官を飛び越えて、いきなり士官になれる可能性が出てきたのだ。神様より偉い存在、すなわち全能神だ。

 

 下士官や兵卒は、既婚者を除けば基地の中の兵舎で共同生活を送る。しかし、士官は基地の外で官舎を与えられて一人暮らしをする。軍艦に乗っている時も個室が割り当てられる。雑用係の将校当番兵が付き、身の回りの世話をしてくれる。下士官や兵卒とは別の士官食堂で、腕の良い調理師が作った料理を食べられる。心がダンスを踊りだした。

 

「まあ、そういうことになるが……。何と言っても貴官はエル・ファシルの英雄。推薦者はすぐ見つかるだろう。しかし……」

 

 これまで勢い良く話していたクリスチアン少佐は、急に歯切れが悪くなった。そういうのはやめてほしい。不安になる。

 

「幹部適性と言うのは、要するに『士官学校を卒業した者と同等の能力』なのだ。貴官ならば、人物審査と体力検定は問題なく通るだろうが……。学力試験が問題だ。士官学校の入学試験と同レベルの問題が出る。ちょっと勉強のできる大卒の一等兵なんぞに士官になられてはたまらんからな」

 

 がくっと来てしまった。惑星ハイネセンのオリンピア市にある同盟軍士官学校は、国立中央自治大学、ハイネセン記念大学に匹敵する最難関校と言われ、毎年五〇〇〇人程度しか入学できない。そんな学校に入れるような学力なんて、持ち合わせていなかった。

 

 中学の同じ学年の進学コースに、入学から卒業まで上位三位を独占した三人の天才がいた。しかし、その一人は士官学校に落ち、残る二人も三大難関校よりも一ランクか二ランク低い学校に進学した。先日のクラス会で出会ったフーゴ・ドラープなんかは、それよりもさらにランクの低いパラス行政アカデミーだ。それでも、俺よりはずっと学力が高いのである。

 

「やはり兵役を務め上げてから、下士官選抜を受けるべきではないか? 士官に興味があるのはわかる。だが、貴官はまだ若い。今はじっくり経験を積むべきだ。我が軍は積極的に有能な下士官を士官に登用している。砲術や通信といった専門職の士官は、ほとんど下士官出身者だ。艦長や連隊長まで昇進する者もいる。与えられた仕事をこつこつとこなし、一つずつ階段を登れ。貴官なら一〇年もかければ士官になれる」

 

 とても懇切丁寧にクリスチアン少佐は俺を諭す。兵役を務めるのが怖いだけだなんて、言えそうにない雰囲気だ。

 

 下士官も士官も無理と分かった。ならば、ここで返事はしたくない。俺は強引に話を逸らした。

 

「なるほど。ところで少佐は軍隊の中のリンチについてどう思われますか?」

「言うまでもなかろう」

 

 クリスチアン少佐の声のトーンが不機嫌そうになった。こういう人は「兵隊は殴れば殴るほど強くなる」と思ってるに違いない。話題の選択を間違えたと後悔した。

 

「上官は親で部下は子供、古参兵は兄で新兵は弟だ。子供を殴る親、弟を殴る兄など話にならん。身を正していれば、黙っていても部下は付いてくる。ひとたび突撃すれば、死なせてはならんと奮い立った部下が後に続く。それが上官の威厳というものだ。臆病者には威厳がない。殴って言うことを聞かせようとする上官は臆病なのだ。そのような上官になってはいかんぞ。部下に尊敬される上官を目指せ」

 

 気持ち良いぐらいばっさりと否定された。彼のようなタイプは、「拳で言うことを聞かせる」のに肯定的だと思ってた。

 

 俺が読んだ本では、軍隊的な価値観に染まってるトリューニヒト派や救国軍事会議は、暴力的な存在として描かれ、彼らの暴力に良識をもって対抗する存在がヤン・ウェンリーだった。実際に軍人に暴力を振るわれた俺は、年老いてから戦記を読んで、軍隊と暴力は切り離せないものだと確信したものだ。しかし、根っから軍隊に染まりきったクリスチアン少佐は、暴力を「臆病」と否定する。軍隊的な価値観の持ち主が、必ずしも暴力を肯定するわけではないということを知った。

 

「お教えいただき感謝いたします」

「うむ。気になったことはすぐ人に聞く。その率直さは貴官の長所だ。大事にせよ」

「はい」

 

 こんな人が上官なら、軍隊も悪くないんじゃないか。そんなことをふと思った。

 

「結論は出たか?」

「ちょっと時間をいただけませんか」

「だめだ。今すぐ決めろ」

 

 いきなり決断を迫られた。そもそも、職業軍人になると決めたわけではないのだ。何とかして話を逸らさねば。

 

「お話を伺ったばかりですので、じっくり考えてみたいと……」

「貴官は迷いに迷って相談したのだろう!? さらに迷いを重ねてどうするかっ! 人生は限りがあるのだ! 一日決断が遅れれば、一年歩みが遅れる! 迷うだけ時間の無駄だ! たった二つの選択肢だぞ! 片方を選ぶだけだ! 一瞬ではないかっ!」

 

 クリスチアン少佐は、びっくりするほど強引に話を進める。ここで決めるしか無い。理性ではなく本能でそう悟った。

 

「わかりました。今からコイントスをします。表が出たら下士官を目指し、裏が出たら士官を目指します」

「うむ!」

 

 考えても答えが出ない時は、天に委ねる。それが俺のやり方だ。学校のテストでもシャープペンを倒して答えを選んだものだ。ことごとく外したが。

 

 コインを投げる。床に落ちた。出たのは……、表だ。

 

「おもて……」

 

 答えを口に出しかけた時、志願兵時代のことを思い出した。

 

「裏が出ました! 士官を目指します!」

「よく言った! 後は努力をするだけだ!」

「はい! 頑張ります!」

「貴官ならできる! 貴官も自分を信じろ!」

「ありがとうございました!」

「うむ。夜ももう遅い。今日は寝て明日のために英気を養え!」

「はい!」

 

 元気に答えて、通信は終わった。スイッチを切った後、急に血の気が引いていく。

 

「うわあ、本当に士官目指すのか……」

 

 こともあろうにあのクリスチアン少佐にとんでもない約束をしてしまった。少しでも手抜きをしたら、どれほど激しく叱られるか想像もつかない。

 

「馬鹿すぎるだろ、俺……」

 

 すごくめんどくさい事になってるはずなのに、なぜか俺の顔は笑っていた。




一ディナールは現代の一ドルくらいを想定しています。


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第6話:努力の時 宇宙暦788年12月下旬~790年2月 第七方面軍司令部

 幹部候補生養成所受験を決めた俺は、さっそく第七方面軍管区司令部に推薦を依頼した。年明けに返事が来ればいいと思っていたのに、二日後に承諾の返事が来た。

 

 推薦人は第七方面軍司令官ヤンディ・ワドハニ宇宙軍中将、第七方面軍陸戦隊司令官イーストン・ムーア宇宙軍少将、第七方面軍人事部長マリス・コバルス宇宙軍大佐の三人。陸戦隊司令官はアスターテの敗将と同姓同名で顔も同じだったが、雲の上の人であることに変わりはない。

 

 第七方面軍司令部はサポートチームまで組んでくれた。士官学校を卒業したエリートが学力指導チーム、地上軍や陸戦隊の猛者が体育指導チームを組み、俺の指導にあたってくれる。

 

 学力指導チームのリーダーを務めるのは、第七方面軍後方部員イレーシュ・マーリア宇宙軍大尉という人物だった。年齢は二〇代半ば。艶やかな栗色の長髪。陶器のように白い肌。透き通るように青い瞳。彫刻のような目鼻立ち。手足はスラリとして腰は細く胸は大きい。性別と髪の色は違うが、ラインハルト・フォン・ローエングラムのような美貌の持ち主だ。一八〇センチを超える身長を除けば、完璧と言っていい。こんな美人が自分の家庭教師になってくれるなんて、夢のようだった。

 

「はじめまして、学力指導を担当するイレーシュ・マーリア宇宙軍大尉です」

「エリヤ・フィリップス宇宙軍兵長です。よろしくお願いします、マーリア大尉」

 

 俺が挨拶した途端、マーリア大尉の目が一瞬だけ鋭くなった。首筋に氷の刃を突きつけられたような感触がした。

 

「ウエスタン系の中でもマジャール系は特別なんですよ。イースタン系と同じように、姓を先に名乗るんです」

「失礼しました」

「いえ、いいんですよ。事前に言わなかった私の責任です」

 

 マーリア大尉、いやイレーシュ大尉の目が再び柔らかくなった。美人だけど怖い人だと言うのが初対面での印象だった。

 

 数学はイレーシュ大尉、国語は第七方面軍人事部付ラン・ホー宇宙軍少尉、社会科学系科目は第七方面軍作戦部員レスリー・ブラッドジョー宇宙軍中尉、自然科学系科目は第七方面軍通信部員マー・シャオイェン技術大尉が担当する。テルヌーゼン工科大学卒のマー技術大尉以外は、みんな士官学校を卒業したエリートであったが、前の世界で有名だった人は一人もいない。

 

 体力指導チームのリーダーになったのは、シャンプール地上軍教育隊の体育教官ラタナチャイ・バラット地上軍軍曹だった。肌は浅黒く、目はぎょろりと大きい。まるで獰猛な闘犬のようだ。胸にはパラシュートをあしらったバッジ、すなわち空挺徽章が燦然と輝いている

 

「クリスチアン少佐から、『フィリップス兵長は根性がある。ビシビシしごいてやってくれ』と言われておる。貴官の根性に期待しているぞ」

「軍曹はクリスチアン少佐とお知り合いなんですか?」

「うむ。小官は三年前まであの方の部下だったのだ。軍隊に入って一二年になるが、あんなに素晴らしい上官はいなかった」

 

 懐かしそうに目を細めるバラット軍曹。あのクリスチアン少佐と親しいということは、つまりあの種の人ではないか。少し嫌な予感がした。

 

「尊敬する上官に立派な若者の指導を託される。これほど名誉なことは無い。必ず貴官の肉体を逞しくしてみせる! 一緒に頑張ろうじゃないか!」

 

 バラット軍曹は目を輝かせて俺の両手を強く握る。燃え盛るような熱さに少し引いてしまった。

 

 その他、宇宙軍陸戦隊のバティスト・デュシェール宇宙軍軍曹、地上軍歩兵隊のリュドミール・トカチェンコ地上軍伍長も俺の体力指導にあたる。

 

 二つの指導チームのメンバーと顔を合わせた日の夜、俺はトニオ・ルシエンデス地上軍曹長と久々に携帯端末で話した。

 

「話がうまく進みすぎて怖いんですよね」

「ワドハニ中将も必死なのさ」

「司令官がですか?」

「エル・ファシルは第七方面軍の管轄下だ。それが陥落して、司令官のリンチ少将も逃げ出した。リンチ少将にエル・ファシル脱出を許可したという疑惑もある。このままでは失脚は必至だ。だから、少しでも点数稼いでおきたいんだろう。部下が難関試験に合格すれば、上官の手柄になるからな。それが知名度抜群の英雄とくれば、手柄が一層際立つってもんだ」

 

 ルシエンデス曹長はワドハニ中将の打算を教えてくれた。そういえば、リンチ少将は「第七方面軍に救援を求めに行く」という口実で逃げ出したのだった。

 

「責任逃れに利用されてるみたいで気分悪いですね」

「君も司令官を利用すればいいんだ。世の中持ちつ持たれつだぜ」

「おっしゃる通りです」

 

 ルシエンデス曹長の言う通りだ。俺は手段を選べる立場じゃない。使えるものは何でも使うつもりでないと駄目なのだ。

 

 その翌日、イレーシュ大尉に呼ばれて、国語・数学・社会科学・自然科学のテストを受けさせられた。

 

「これはどういうことかな?」

 

 イレーシュ大尉は一八〇センチを越える長身から俺を見下ろした。切れ長の目から放たれる冷気は、凍死しそうなほどに強烈だ。

 

「じ、自分にしては良くできた方だと思います……」

 

 やっとのことで声を絞り出した。三大難関校レベルの問題なんて、俺の頭で理解できるはずもないから、シャープペンを転がして答えを選んだ。思ったよりも当たってたのだが、彼女は俺の答えが気に入らなかったらしく、目つきがさらに鋭くなる。

 

「フィリップス兵長。君は高校卒業してたよね?」

「はい」

 

 今から六二年前に卒業した。

 

「徴兵されてからは、戦艦の補給員だったんだよね?」

「はい」

 

 今から六〇年前までは、エル・ファシル星系警備隊旗艦「グメイヤ」の補給員をやっていた。

 

「書類書いてたよね? 計算もしてたよね?」

「はい」

 

 今から六〇年前の仕事なんて良く覚えていないが、書類も書いてたし、計算もしてたと思う。

 

「本当だよね?」

「はい」

「どうして、こんなに間違ってるのかな? 九割間違いだよ」

「卒業からだいぶ経ってますから」

 

 六二年も経てば、大抵のことは忘れるものだ。

 

「私は君よりずっと早く卒業している。中学を出たのは一〇年前、士官学校を出たのは六年前だ」

 

 イレーシュ大尉の声色は落ち着いてはいるものの、威圧感はたっぷりだ。

 

「君さあ、本当に幹部候補生になろうと思ってるの? 冗談じゃないよね?」

「はい」

 

 本気に決まってる。幹部候補生になれなかったら、リンチの恐怖が待ち受けているのだから。

 

「でも、この学力だと高校入試だって落ちるよ」

「はい」

「勉強する気ある?」

「はい」

「地獄見るよ。覚悟してね」

「はい」

 

 思うところはいろいろある。しかし、有無を言わせぬ迫力に圧倒されてしまって、「はい」以外の返事ができなかった。

 

「ちょっと待ってて」

 

 何かを決意したらしいイレーシュ大尉は、俺に渡した問題集と参考書を全部取り上げると、カバンに入れて部屋を出た。そしてどこかへと走って行く。

 

 一〇分後、イレーシュ大尉が部屋に駆け込んできて、抱え持った一〇冊ほどの本を俺の胸元に勢い良く投げ出した。

 

「これ、中学に入学して間もない子向けの問題集と参考書。国語・数学・社会科学・自然科学の全科目。これが今の君のレベルです」

「はい」

「わからないことがあったら聞いてください。何を聞いても私は怒りません。こんなこともわからないのかと怒るほど、私は君の学力に期待していません。他の先生達も同じでしょう」

「はい」

 

 イレーシュ大尉は俺の頭を両手でガチっと挟むと、腰を落として同じ目線になる。そして、俺の目をまっすぐに見つめながらにっこり笑う。

 

「三か月で仕上げてね」

「はい」

 

 涙目で答えた。いや、答えさせられた。

 

 それから三時間後、俺は体育館で体力測定を受けた。腕立て・腹筋・持久走・懸垂・走り幅跳び・遠投の六科目だ。

 

「貴官は本気で取り組んだのか?」

 

 バラット軍曹は測定結果を見ると、渋い顔になった。士官学校の入学試験でも体力試験は重視され、最低基準に満たない者は門前払いを受ける。士官学校卒のイレーシュ大尉は、中学の女子ベースボール部でエースピッチャーを務めたアスリートだった。そんな体力の持ち主が集まるだけあって、体力試験のレベルもかなり高い。

 

「どの科目も最低基準を満たしていない。級外だ。最低でも五級、基準は四級、できれば三級はほしい」

 

 同盟軍の体力検定のランクには、特級・準特級から六級までの八段階がある。級が高いほど能力が高いとみなされ、下士官・兵卒は一定以上の等級を持っていなければ、昇進できない決まりだ。昨日読んだ体力検定基準表によると、六級は軍人に要求される最低限の体力、五級はその一つ上である。なお、士官学校受験生の中には、入試の時点で一級や二級に達している者もいるそうだ。

 

「取り敢えず六級を目標にしよう。明日から一日二時間のトレーニング。メニューは新兵体力錬成プログラム級外コースを使用。三か月を目処に仕上げていく」

「二時間ですか……」

 

 一日二時間のトレーニングと聞いて、気が遠くなった。俺はチビで痩せてて運動神経も鈍い。小学から高校までベースボール部に在籍したのにほとんど上達せず、腕相撲では女性にも勝てず、競走でも人より前を走れた覚えはなかった。体を動かしてもまったく面白くなかったのだ。

 

「無理だ、俺なんかが努力したところで……」

 

 そんな声が頭の中で響く。

 

「二時間なんてあっという間だぞ! 小官が運動の楽しさを教えてやろう!」

 

 キラキラとバラット軍曹の目が輝く。

 

「はい、頑張ります!」

 

 反射的に返事してしまった。人生をやり直してみて、自分はこういう人に滅法弱いということがわかった。

 

 押しの強いリーダー二人に押される形で、人生八〇年目の受験勉強が始まったのである。

 

 

 

 一月の定例異動で、俺はワドハニ中将の将校当番兵に移った。将校当番兵とは、士官のお茶くみや荷物持ちなどを担当する召使いのようなもので、帝国軍では従卒と呼ばれる。かのユリアン・ミンツがヤン・ウェンリーの将校当番兵をしながら、他の軍人から各種戦技を学んだことからも分かるように、上官のさじ加減ひとつで仕事が多くも少なくもなる。空き時間が比較的多い勤務に就けて、勉強時間を確保させるというのが、ワドハニ中将の意向だった。

 

 勤務時間中の空き時間は控室で勉強する。夕方一七時に勤務時間が終わった後は、将校当番兵は荷物持ちとして官舎の入り口まで付き添う決まりになっているが、俺は司令部庁舎の入り口で見送るだけで良い。

 

 見送りを終えたら、司令部ビルの中にある下士官・兵卒用の食堂で夕食をとる。推薦人のムーア少将が手配してくれた陸戦隊員用の強化メニューだ。小麦蛋白ではない天然肉のカツレツを二日に一回食べられるのは嬉しいけれども、屈強な男女が揃っている陸戦隊員の食事にしては、量が少ないような気もする。しかし、これは体作りのための食事だ。あまり多すぎると良くないのかもしれないと自分を納得させながら、食事を平らげる。

 

 食事の後は、トレーニングルームでバラット軍曹らの指導を受けながらトレーニングをする。八時にトレーニングを終えてシャワーを浴びてからは、エアバイクに乗って兵舎に戻る。

 

 これまでの俺は、兵卒であるにもかかわらず、様々な事情から個室を使ってきた。年が明けて正式な配属先が決まったら、兵卒用の四人部屋に移ることになっていたのだが、「個室じゃないと勉強できない」と言い張って、引き続き個室を使うことを認められた。もちろん、これは共同生活を避けるための口実だ。英雄として特別扱いされてきた上に鈍臭い俺が四人部屋なんかに入ったら、古参兵がどう思うかわかったものではない。

 

 自室に入った後は、二三時の消灯までひたすら勉強だ。イレーシュ大尉ら学力指導チームへの質問は、携帯端末の通話やメールを通して行い、予定が調整できれば直接指導も受けられる。

 

 イレーシュ大尉から渡された問題集と参考書は、中学レベルでは一番簡単なものだったが、さっぱり内容がわからなくて、かつての自分が高校まで進学したのが信じられなくなってくる。六五年前に中学を出た時の俺は、想像を絶するほど賢かったらしい。

 

「入学した後に忘れてしまうような勉強って意味があるんでしょうか?」

 

 そんな弱音を吐いた俺に、イレーシュ大尉は国語を勉強する意義を語った。

 

「士官の一番の仕事って書類作りなの。自分の意図を正確に伝達できるような命令書を作る。目前の状況を上司が正しく理解できるような報告書を作る。自分のもとに送られてきた命令書や報告書を正しく理解する。そういったことの基礎が国語なのよ」

 

 士官学校を卒業したばかりのラン少尉は、俺とどっこいどっこいの童顔を紅潮させて、いかに数学が大事なのかを語った。

 

「物資や予算の管理、砲撃管制、航法計算、部隊位置の調整など、士官の担当するありとあらゆる仕事に数字が関わってくるんです。計算機が発達した現在でも、人間の脳みそに勝る計算機はどこにもありません。数学的な思考法は、作戦立案や情報分析といった参謀業務の基礎にもなります。あのヤン・ウェンリー少佐も卒業席次はそこそこだけど、数学はトップクラスでした。だから、数学はとてもとても大事なんです」

 

 ヤン・ウェンリーと士官学校の同期で、そこそこ親しかったというブラッドジョー中尉は、社会科学の必要性を語った。

 

「軍隊社会は建前と規則の社会でな。そういったものに対する基礎的な理解度の指標になるのが、歴史、政治・法律、地理、倫理教養といった社会科学科目の学力だ。士官学校の校長は、『軍人はまず偉大な常識人であるべきだ』と言っていた。常識を破るにも、まずは破るべき常識を理解しなきゃいかんのだ」

 

 士官学校時代のヤンが常識人だったかどうかを聞いてみると、「あんなに常識のある奴はいなかったんと違うか」という答えが返ってきて、社会科学科目の重要性を改めて認識させられた。

 

 一般大学から予備士官養成課程を経て士官となったマー技術大尉は、自然科学の重要さというより、メカニックの重要さをまくし立てた。

 

「西暦五〇〇年だか一〇〇〇年だかの時代はともかく、今はハイテク兵器の時代なんだよ。戦艦のビーム砲、エネルギー中和磁場、指揮通信システム、航法システム、エンジンなど、全部先端技術の塊なの。地上軍だって全部ハイテクだよ。つまり、士官の仕事はメカの運用ってこと。だから、自然科学は何よりも大事!」

 

 教師陣の説明によって勉強の意義を理解し、彼らの期待を裏切って失望させることへの恐れ、試験に落ちてただの兵卒に戻ることへの恐怖も手伝って、ようやくやる気に火がついた。

 

 最初のうちは学力指導チームに側についてもらい、言われたとおりに問題を解いた。解き方の流れを覚えて、「自分がなぜ解けなかったか」「どうすれば解けたか」を考えるように言われた。

 

 やがて問題の解き方を自分で考えられるようになり、日ごとに解ける問題が増え、解けなかった問題も解答を見ると、「なぜそうなるのか」という筋道が見えるようになってくる。

 

 これまでの俺がイメージしてきた勉強とは、何となく授業を受け、何となく問題を解いて、何となく頭に残るものだった。しかし、今はいろいろ考えながら勉強している。そうすると、頭に残る知識が信じられないほどに多くなるのだ。

 

「それが目的意識の力よ。勉強はある程度を超えると才能だけど、士官学校に合格する水準はそれよりもはるかに低いの。難問奇問だらけのテストで一〇〇点を取る勉強じゃなくて、高レベルだけどオーソドックスなテストで全科目平均九五点を取る勉強だからね。それなら才能はあまり関係ないの。強烈な目的意識、努力を持続する能力、適切な指導さえあれば、才能がなくても士官学校には入れる。もちろん、ハイネセン記念大学や国立自治中央大学にもね。まあ、入った後は才能で差がつくけど」

 

 イレーシュ大尉は、そのように解説してくれた。

 

 日に日に自分が進歩しているという手応えを感じ、勉強時間はあっという間に終わり、気が付くと消灯時間がやってくる。そうして日にちが過ぎていった。人生八〇年にして、ようやく勉強の楽しさを知った。

 

 トレーニングも勉強に劣らず楽しい。体力測定の翌日、バラット軍曹は俺の遠投のフォームをチェックし、何度も何度も修正した。それから遠投をすると、距離がぐんと伸びた。

 

「どういうことですか、これは?」

 

 目を丸くした俺に、バラット軍曹は満面の笑みで答える。

 

「体は正直だ! 正しく使ってやれば必ず応えてくれる! 鍛えればもっと遠くに投げられる! 正しいフォームで鍛えて、しっかり休ませてやる! それだけで面白いように伸びる! トレーニングは楽しいぞ!」

 

 それから、体力指導チームによって体の動かし方を叩き込まれた。ペースや負荷はバラット軍曹が調整し、「これぐらいの負荷が一番伸びる」「この負荷では疲れてしまって伸びない」などと、感覚的に理解できるように教えてくれる。

 

 これまでの俺にとって、運動とは何となく体を動かすものだった。それが正しい体の使い方、正しいペース、正しい負荷を理解して運動するようになると、目に見えて体が動くようになる。細かった腕が太くなり、起伏のなかった腹筋が割れてくると、新しい世界が開けたような気分になってくる。

 

「体や頭を使うってこんなに楽しかったんですね。知りませんでした」

 

 しみじみと語ると、イレーシュ大尉は俺の頭にぽんと右手を置いた。

 

「君はもっともっと伸びるよ。まだ始まったばかりだから。まだまだ楽しくなっていくよ」

 

 イレーシュ大尉が言ったとおり、俺の実力はどんどん伸びていった。心配症のラン少尉などは、成長が早すぎて頭打ちになるのを危惧したが、伸び悩む気配はまったくなかった。

 

 国語、数学、社会科学、自然科学のいずれも満遍なく点を取れている。答えが無い問題ならともかく、答えのある問題なら努力次第でどうにでもなるようだ。シャンプールの予備校で現役受験生とともに受けた模擬試験では、士官学校に合格する可能性は六五パーセント。合格圏ギリギリといったところだった。

 

 体力もだいぶ向上した。体力検定の級位は六科目中最低の級に準じる。持久力二科目と瞬発力二科目は全部三級相当まで伸びた。しかし、体が小さいせいか、筋力二科目のうち一つは四級相当、もう一つは五級相当までしか伸びず、総合的には五級相当だった。四級が軍人の平均だから、平均よりはやや劣る。

 

「あと二年あったら、三級まで伸ばせたのになあ」

 

 試験の一週間前、バラット軍曹は残念そうにそう言った。

 

 満を持して試験に臨んだつもりだったのに、試験前日には緊張のあまり腹痛を起こし、当日には筆記用具を忘れて試験会場のある基地内の売店で購入するというアクシデントがあった。何というか、情けないくらいに本番に弱い。

 

 試験場に入って一つしか無い席を見た時、緊張が頂点に達した。今年の幹部適性試験を受けるのは俺一人だったのだ。

 

 試験が始まって問題用紙を開き、見慣れた問題が目に入ると、緊張が嘘のように解けた。シャープペンがすらすらと解答を紡ぎ出していく。

 

 小論文の課題は『軍隊におけるギャンブルについて』だった。天啓を感じた俺は、全財産を奪い去ったバンクラプトシーへの恨みを込めながら激しいギャンブル批判を展開し、未だかつて無いほどのパフォーマンスを発揮した。

 

 面接試験では、緊張しすぎて模擬面接の内容をど忘れするという悲運に見舞われたけれども、いざ本番になると言葉がスラスラ出てきた。英雄をやってた頃に、人前でたくさん綺麗事を喋った経験が生きたのかもしれない。

 

 体力試験では、なんと四級相当の数字が出た。練習しても四級に届かなかった二つの科目が、本番でいきなり届いたのだ。俺的には快挙だったのに、試験官は大して驚きもせず、数字を記録するだけだった。下士官から幹部候補生に推薦されるような者は、みんな三級や四級程度は持っているし、地上軍や陸戦隊の出身ならば二級以上も珍しくない。俺が四級でも有り難みは全くないのだ。

 

 試験が終わると、急に不安が襲ってきた。出来が良かったと思えた科目も間違いばかりだったように感じ、小論文では私情に流されすぎたと反省し、面接では調子に乗って変なことを言ってしまったような気がした。

 

 帰り道には不合格だった後の人生を想像した。残り一年を兵舎で共同生活し、その後は路頭に迷う。ほんの二か月ほど英雄と持ち上げられたことなんて、今後の人生の役には大して立たない。いったい自分はどうなってしまうのかと恐ろしくなる。

 

 シャンプール基地に戻った後は、バラット軍曹とともにひたすらランニングに励み、食堂で米と肉をモリモリ食べた。大した意味は無いけれども、体を動かしている間は不安から逃れられた。

 

 試験から二週間が過ぎた頃、イレーシュ大尉から呼び出しがあった。試験結果がわかったのだと聞き、心臓がバクバク鳴り、腹も痛くなってきた。逃げ出したい気分だけど、そうしたところで試験結果は変わらない。

 

 ゆっくりと第七方面軍管区司令部の廊下を歩いた。部屋に向かう途中で二回トイレに入り、わざと遠回りをして、運命の時が来るのを遅らせようとした。それでも逃れることはできず、イレーシュ大尉がいる部屋の前に着く。

 

「入れ」

 

 扉をノックすると鋭い声が返ってきた。もう引き返せない。俺は覚悟を決めてドアを開けた。

 

 

 

 部屋に入ると、イレーシュ大尉がデスクに座っていた。胸を抱えるように腕を組み、面白くなさそうな表情で俺を見ている。知らない人には、腹を立ててるように見えるかもしれない。

 

「エリヤ・フィリップス宇宙軍兵長」

「はい」

「第八幹部候補生養成所より、試験結果の通知が届いた」

 

 イレーシュ大尉は判決を言い渡そうとする裁判官のようだ。俺は奥歯をぐっと噛みしめる。

 

「合格」

 

 ごうかく、合格……!? 本当に合格したのか?

 

 俺があの試験を突破できたのか? 

 

 全然現実感がない。一年間ずっとこの知らせを聞くために勉強したはずだったのに、驚くほどにあっけなく感じる。

 

「聞こえなかったのかな? もう一度言うよ、合格」

「はい」

「つまらないね。もっと喜んでよ」

 

 心底からつまらなさそうにイレーシュ大尉は言った。でも、この人が面白そうにしているのを見たことは一度も無いから、いつもと変わらない気もする。

 

「いや、現実なのかなあと思いまして」

 

 軽く頭をかきながら笑った。あまりに非現実的なことが起きると、驚きを通り越して、現実を受け入れるのを本能が拒否してしまうらしい。

 

「現実なんだよ、それが」

「そうなんですか」

「そうなんだよ。士官学校の合格基準ギリギリだったけどさ。それでも凄いよね。ほんの一年でここまで来たんだからさ。準備期間が二年あったら、上位で合格できたかもしれないね。三〇〇番以内だったら戦略研究科も狙えたんじゃない?」

 

 どういうわけか、イレーシュ大尉の口調に毒がこもっている。

 

「冗談はやめてくださいよ。戦略研究科といったら、エリートの中のエリートでしょう」

「本気で言ってるんだよ」

 

 イレーシュ大尉の目がぎらりと光る。ただでさえ鋭い目つきが鋭くなる。まずい雰囲気だ。

 

「私は今から真面目な話をします。真面目な話なので真面目に聞いてください」

「はい」

「今だから言いますが、君と最初に会った時は絶対落ちると思っていました。学力がないのはともかく、それを全然悔しがってなかったでしょ? 『ああ、この子は向上心ないんだな、何かの間違いでたまたま英雄になっちゃっただけなんだな』と思っていました。悪い子じゃないんだろうけど、勉強には期待できないなって」

 

 それはとても正しい評価だった。俺は何かの間違いでたまたま英雄になっただけの小物だ。残り二年の兵役期間を過ごすこと、そしてハイネセンで路頭に迷いたくないという理由だけで、幹部候補生になろうとした情けない奴だ。

 

「君ね、これまでの人生で頭や体をちゃんと使ったこと一度もなかったでしょ?」

「はい」

「ちゃんと使えばこれぐらいのことができるんだよ。君はやればできる子です」

「そんなことは……」

「褒めてるんじゃないよ。やればできるなんて何の自慢にもなりません。やらなきゃできないんでしょ? これまでの自分を振り返りなさい」

 

 イレーシュ大尉はぴしゃりとはねつける。

 

「もっと早くやっていれば、君は現役で士官学校に入って上位で卒業できてたかもしれません。国立中央自治大学を出て官僚になってたかもね。ハイネセン記念大学を出て一流企業に就職するのもありかな」

「さすがにそれはないですよ」

 

 俺は即座に否定した。そんな能力があったら、もっとマシな人生が待っていたはずだ。六一年前に徴兵担当者の「就職に有利だから」と言う口車に乗って、前線勤務を志願することも無かった。同盟が存続している間はエリートでいられただろうし、同盟滅亡からラインハルト帝が亡くなるまでの混乱期さえ乗り切れば、帝国の役所か企業に就職できただろう。

 

「実際に君は一年で士官学校に合格できる学力を身につけたでしょ? 中学を出るまでにちゃんと勉強してたら、もっと多くの選択肢が広がっていたはずだよ」

「それは大尉達の指導のおかげです。俺、本当に勉強嫌いでしたから」

 

 必死で自分を否定する。妙に見えるかもしれないが、自分が上にいると居心地が悪く感じてしまい、引き下げたくなってくるのだ。

 

「勉強は指導できても、性格までは指導できないよ。前に言ったよね? 『強烈な目的意識、努力を持続する能力、適切な指導さえあれば、才能がなくても士官学校には入れる』って。でも、これは一種の言葉の綾でね。確かに頭がいいという意味での才能は必要ないんだけど、精神的な意味での才能は必要なんだよ。『何が何でも士官学校に入りたい』なんて目的意識を持ち続けられる人は滅多にいないし、努力を続けられる人も滅多にいないから。それは一種の才能だね」

「才能ですか?」

 

 全然ピンとこない。

 

「うん、才能。名将や大政治家や名社長みたいなものになれるような力はないけど、エリートとしてそこそこいい仕事には就ける。一人の人間が幸せに過ごすには十分だよ」

「なるほど。幸せに過ごすにも才能がいりますね」

 

 俺は今日初めて笑った。安定した就職、穏やかな家庭、豊かな老後といったものが誰にでも得られるわけでないことは、現実での経験で思い知らされた。

 

「わかったでしょう? 君には持続力がある。愛嬌もあるから、指導してくれる人も次から次へと出てくると思う。必要なのは目標だけ。士官をゴールじゃなくてスタート地点と思って、これからも頑張ってください。以上、マーリア先生からの最後の授業でした」

 

 イレーシュ大尉の顔に、宗教画の聖母のような微笑みが浮かんだだ。

 

「最後の授業……」

「最初の二か月ぐらいはね、いつまで続くのかと思ってましたよ。四か月ぐらいから信じられるようになって、半年過ぎる頃には絶対に合格してほしいと思うようになったね。信じてもない神様に祈っちゃったよ」

「…………」

 

 しんみりした気持ちでイレーシュ大尉の言葉を聞く。

 

 何て答えればいいんだろうか? 何を言っても嘘っぽく聞こえそうな気がする。中身の無い綺麗事なら出てくるのに、こんな時に限って何を言えばいいのかわからない。

 

「そして、ようやく合格してくれた。私は嬉しくて嬉しくてたまらないのです。今すぐ踊り出したい気分です。それなのに君は全然嬉しそうじゃありません。私一人が喜んでたらバカみたいでしょう? がっかりですよ」

 

 イレーシュ大尉は、ふうー、と息を吐いて肩を落とす。

 

「しかし、たまにはバカになってみるのもいいかもしれません」

 

 そう言って、彼女は立ち上がった。そして、ゆっくりと俺に近づいてくる。鋭い目がいつにもまして危険な輝きを放つ。

 

「そ、そうですか」

 

 俺は後退りした。しかし、彼女はすかさず距離を詰めてくる。本能が「逃げろ」とささやいているのに、足がまったく動かない。

 

 距離がゼロになったと同時に、彼女は俺の両手をギュッと握り、端麗な顔をくしゃっと崩して笑う。いつもの整いすぎた笑顔とはぜんぜん違う心からの笑顔。

 

「エリヤくん、合格おめでとー!!」

 

 イレーシュ大尉は握った俺の両手をブンブン上下に振って、子供のようにはしゃいだ。

 

 この人、めちゃくちゃ可愛いじゃないか。一八〇センチを超える長身とスポーツで鍛え上げた腕力に振り回されながら、そんなことを思う。そして、どう答えればいいかがわかった。

 

 こんな時には言葉なんていらない。ただ笑えばいいのだ。

 

「あー、わらったわらったー!! かわいー!!」

 

 イレーシュ大尉のテンションがさらに上がる。つられて俺もどんどん嬉しくなり、試験に受かったという実感がようやく湧いてきた。喜びとは他人と分かち合って初めて生まれるものなのだ。やっぱり努力して良かった。

 

「大尉、まだですか?」

 

 ドンドンとドアを叩く音とともに、先日昇進したばかりのラン・ホー中尉の声がした。その他の人の声も聞こえる。

 

「いい加減待ちくたびれましたよ」

「エリヤ君を独り占めにするのもほどほどにしてくださいね」

 

 イレーシュ大尉はしまった、という顔になってぺろっと舌を出した。

 

「あー、ごめん! みんな入ってきていいよ!」

 

 ドアが開き、部屋の中にどっと人が雪崩れ込んでくる。俺はもみくちゃにされた。

 

「おう、良くやったな!」

 

 バラット軍曹は俺の背中を何度も強く叩いた。

 

「まさか本当に合格しちゃうなんて思わなかったよー!」

 

 人のよいおばさんといった風情の給食員ジンゲリス上等兵が俺の手を握る。

 

「次は提督目指そうぜ!」

 

 ブラッドジョー中尉はドサクサに紛れて無茶を言う。

 

「もちろん卒所後は陸戦隊を希望するよな! 陸戦隊名物カツレツが君を待っているぞ!」

 

 馬鹿でかい声はムーア少将だ。

 

「馬鹿言わんでください。フィリップス兵長には、地上軍に来てもらいますよ」

 

 ムーア少将に反論するのは、司令部警備主任のグリエルミ地上軍中佐だ。

 

 マー技術大尉、デュシェール軍曹ら教師陣、俺の努力ぶりを見ていてくれた司令部の人達も口々にお祝いの言葉を述べ、狭い部屋がたくさんの笑顔で満たされた。

 

 何も言おうとは思わなかった。ただ笑っていた。笑ってるだけで楽しかった。これが夢か現実かなんてどうでもいい。周りを取り巻くたくさんの笑顔。それが俺にとっての真実だった。



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第7話:夢の終わり、新世界の始まり 宇宙暦790年7月~791年6月11日 第七幹部候補生養成所

 七九〇年七月、俺はシャンプール南大陸スィーカル市の第七幹部候補生養成所に入所すると同時に、宇宙軍曹長となった。形式的には、兵長からの昇進ではなく、入所と同時に兵役を繰り上げ満了して一旦退職した後に、曹長として新規採用されたことになっている。何だかややこしいが、アルバイトから正社員になったようなものだと考えればいい。曹長の階級になったのは、他の幹部候補生とバランスを取るためで、軍曹以下の階級の者が入所した場合は必ずこうなるそうだ。

 

 俺が現実で読んだ戦記の主要人物のほとんどは士官学校卒業者で、下士官・兵卒から幹部候補生養成所を経て士官になった者は、同盟軍宇宙艦隊最後の司令長官アレクサンドル・ビュコック、最強の陸戦隊指揮官ワルター・フォン・シェーンコップ、空戦の天才オリビエ・ポプランの三名しかいない。ヤン・ウェンリーの後継者ユリアン・ミンツは兵卒から中尉まで昇進したが、幹部候補生養成所には入れなかった。

 

 主要人物以外なら、撃墜王イワン・コーネフ、シェーンコップの後継者カスパー・リンツ、シェーンコップの腹心ライナー・ブルームハルト、マル・アデッタの英雄ラルフ・カールセン、同盟末期の勇将ライオネル・モートンなんかも幹部候補生の出身だったような気がする。ミンツの護衛を務めたルイ・マシュンゴは良くわからない。

 

 名前を覚えている幹部候補生出身者を並べてみると、体を張って武勲を立てた人ばかりで、実戦経験皆無の俺とは似ても似つかないのである。

 

 もっとも、幹部候補生の中には、俺のように実戦経験の無い者も結構多いらしい。地上基地でずっと給与計算をやっていた人、整備員としてひたすら機械をいじっていた人、航宙管制隊でオペレーターをやっていた人なんかも幹部候補生養成所に入ってくるからだ。

 

 四三五万人の同盟軍現役士官のうち、士官学校卒業者は一四万人程度に過ぎず、八五万人が理工系の一般大学から予備士官養成課程を経て士官となった者、三三六万人が下士官・兵卒から幹部候補生養成所を経て士官となった者であった。

 

 人類の生活圏が太陽系だけに留まっていた時代は、士官学校で指揮官としての基礎を教え、士官の中から選りすぐられた者を軍大学に入学させて、参謀教育を施したそうだ。しかし、西暦二四〇〇年代に恒星間移住時代が始まって宇宙軍が創設されると、飛躍的に広くなった戦域に対応するかのように、軍隊の規模が大きくなった。二六〇〇年代の終わりから二七〇〇年代初めにかけてのシリウス戦役では、人類史上初めて宇宙軍同士の大規模な戦闘が展開され、局地戦でも一〇〇万単位の軍隊が投入されるようになった。

 

 兵力規模の拡大は分業化を促し、従来のように士官学校で教育を受けた総合職士官だけでは対応しきれなくなり、特定の技能に長けた専門職士官の需要が高まった。そして、宇宙暦が始まる頃には、士官の大半は下士官や理工系大学卒業者から登用されるようになり、士官学校では将来の高級指揮官・参謀候補を教育するという形に落ち着いた。

 

 義務教育修了者を入学させる士官学校は四年制で、戦略、戦術、マネジメント、社会科学、自然科学など参謀としての基礎教養を習得させるとともに、戦略研究科、経理研究科、陸戦専攻科など一〇の専門課程に分かれて専門教養を習得させる。卒業者は司令官や参謀として活躍し、最低でも大佐まで昇進し、五人に一人が「代将」の称号を帯びる将官待遇の大佐となり、二〇人に一人が将官となる。年間で五〇〇〇人しか輩出されないエリート中のエリートだ。

 

 職業軍人を入学させる幹部候補生養成所は一年制だ。宇宙軍なら宇宙艦分隊司令もしくは艦長クラス、地上軍なら大隊長もしくは飛行隊長クラスの指揮官として必要な教養を習得させる。もともと軍人としての基礎はできているし、高度な教育も行わないから、一年だけで十分なのだ。卒業者は下級指揮官や専門幕僚として活躍し、その四割が大尉、五割が少佐で軍人生活を終え、中佐まで昇進できる者は一割程度、大佐まで昇進する者は一パーセントに満たず、将官になれたら奇跡と言っていい。

 

 昇進格差が大きすぎるように思えるが、士官学校出身者と幹部候補生出身者に期待される役割は全然違うから、これで良いのだ。それに俺としては、大尉まで昇進できれば満足だった。

 

 大尉は警察で言えば警部に相当し、本年度の基本給は二七八一ディナールだ。同じ階級でも勤続年数によって給与等級が上がり、その他に扶養手当や戦地手当など各種手当が付くため、家族持ちで定年まで勤めれば、一・五倍から一・八倍程度の給与がもらえる。恩給や退職金もなかなかのものだ。しかも、パラディオン市警察の警部補をしている父よりも偉い。それだけの好待遇なら十分だろう。提督になって歴史を動かすなんてことは、選ばれた人間がすればいい。

 

 現実で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』なんかでは、軍人は死と隣り合わせの危険な職場のように書かれているが、それはラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリーという二人の戦争の天才が敵を殺しまくった時代の話であって、七九〇年の現在には当てはまらない。

 

 同盟軍人のうちで対帝国戦の前線に出るのは、年間平均二回の出兵に参加する者、半年交代で帝国との国境地域に駐屯する者だ。これらは全軍の一八パーセントから二〇パーセント程度で、そのうち半数は前線に出ても戦闘に参加せずに内地へ帰還する。戦死者は一度の出兵で平均すると五〇万人、大勝すれば二〇万人程度、大敗すれば七〇万人以上に及ぶ。前線の駐屯部隊同士の小戦闘も含めると、年間で一二〇万から一五〇万人が死ぬ。これは全軍の一パーセントから二パーセント程度だ。

 

 これを高いリスクと見るか低いリスクと見るかは人それそれであるが、戦死者のほとんどは対帝国部隊の宇宙艦隊もしくは地上総軍の戦闘要員で、しかもその大半が兵卒と下士官だ。一度も前線に出ずに退役する士官、一度も対帝国部隊に配属されずに退役する士官、対帝国部隊に配属されても前線に出ない士官の方がずっと多い。待遇を考えれば、十分に許容できる範囲のリスクだと、俺は判断した。

 

 しかし、予想もしなかったリスクが俺の前に立ちはだかった。幹部候補生は校内の寮で四人部屋に住む決まりだったのだ。良く考えれば軍の学校なんてものは、共同生活に決まっているのであるが、兵卒生活を回避することに意識が囚われてしまい、考えることをしなかった。

 

 いじめられるかもしれないという恐怖に怯えつつ、養成所の門をくぐった俺は、ハンティントン棟三階の一号室という部屋に住むことになった。

 

 同室になったのは、歩兵のピエリック・アセルマン地上軍准尉、会計員のスヴェン・カーコフ宇宙軍曹長、通信員のホン・チォン・ハン技術曹長の三名。みんな勤続一〇年を越えるベテラン下士官だ。

 

 みんな温厚そうな感じだ。しかし、油断はできない。俺は付け入る隙を見せないことに全力を尽くした。あちらも近寄り難いものを感じたらしく、見えない壁が生まれた。

 

 幹部候補生は士官候補生と同じように、男子部屋一つと女子部屋一つ、もしくは男子部屋二つで最小自治単位となる七~八人の班を組む。

 

 俺の部屋と班を組む女子部屋のハンティントン棟三階五号室に住んでいるのは、防空部隊のヴァレリー・リン・フィッツシモンズ地上軍曹長、衛生兵のホセフィーナ・オスナ地上軍准尉、駆逐艦乗りのウルプ・リーパ宇宙軍曹長、艦艇整備員のチョ・ユジン技術曹長の四名。二三歳のフィッツシモンズ曹長を除けば、やはりみんな勤続一〇年以上のベテラン揃いである。

 

 唯一年の近いフィッツシモンズ曹長は、赤褐色の髪、涼しげな目元、細くてすっきりした鼻に、スラリとしたスタイルを持つ美人で、俺より背が高いのが唯一の難点だった。

 

 ハンティントン棟三階にある八つの部屋、四つの班で「ハンティントン第三小隊」と呼ばれる小隊を組む。小隊とは、フロアとほぼイコールと考えていい。候補生の中から選ばれた小隊長と副小隊長が中心となり、小隊指導教官のコール地上軍少尉と小隊助教のウォーベック宇宙軍軍曹の指導を受けながら、小隊を運営する。フロアごとに設けられた自習室、集会室、キッチン、ランドリー、浴室、トイレは、小隊が共同で使う。

 

 同じ小隊の者にも隙を見せないように心がけた。部屋が違うと言っても、同じ階の住人に目を付けられたら、この一年が地獄になることは間違いないからだ。

 

 ハンティントン棟には、一階から四階までの四つのフロアがある。その四フロアの小隊を合わせて、ハンティントン棟を運営する「ハンティントン中隊」と呼ばれる中隊を組む。中隊以上の自治単位には、隊長と副隊長の他、副官と呼ばれる書記一名、幕僚と呼ばれる補佐官数名が置かれる。

 

 ハンティントン棟を含む四つの棟の中隊を合わせて、D小区を運営する「D大隊」と呼ばれる大隊を組む。

 

 D小区を含む三小区の大隊でB大区を運営する「B連隊」、三つの連隊を合わせて養成所全体を運営する生徒総隊を組む。

 

 このシステムは士官学校と同じだそうだ。生徒は自治単位の運営を通じて連帯意識を養うとともに、リーダーや組織運営の経験を積むのである。

 

 俺は「ハンティントン中隊副官」なる肩書きをもらい、中隊長になった同じ班のフィッツシモンズ曹長を補佐することとなった。養成所の役職の任期はすべて二か月で、半年の任期がある士官学校の役職よりもはるかに短い。一年の間により多くの生徒に役職を回すために任期も短くしているらしい。

 

 中隊副官といえば、地上軍ではベテラン下士官が務める大事なポストだ。任期は九月までと短いけれども、精一杯務めようと決意した。こうして、養成所生活が始まった。

 

 

 

 候補生の朝は早い。朝六時に起床して素早くベッドを整頓した後に、棟の玄関に集合して点呼を行う。五分以内に玄関に着かなければ、鬼より怖い中隊助教ターボルスキー軍曹の怒声が飛んでくる。毎朝が命がけだ。

 

 点呼が終了したら、中隊指導教官カン宇宙軍中尉を先頭に列を組み、養成所の構内を三〇分ほど走る。朝のひんやりした空気が眠気を吹き飛ばしてくれる。

 

 六時四〇分から七時三〇分までが朝食時間だ。小隊ごとに交代でハンティントン棟の食堂に赴いて食事をする。運動後のごはんほどおいしいものはない。朝食のカロリーは九〇〇キロカロリー前後に調整されているため、量がちょっと少ない。それだけが残念だ。

 

 八時に朝礼が始まる。自由惑星同盟の国歌「自由の旗、自由の民」が流れる中、教職員と候補生全員で敬礼する。英雄になる前は極右のシンボルとしか思えなかった国歌も、同盟軍の一員として耳にすると厳粛な気持ちになり、自分が立派な軍人になったような気がする。同じ歌でも立場次第で響きが変わる。不思議なものだと思う。

 

 午前の授業は八時三〇分から始まる。戦史・戦術・帝国公用語などの学科、白兵戦や射撃術などの実技、球技や水泳や持久走などの体育である。

 

 戦史の授業では、古代メソポタミアから現代に至るまでの戦争について学び、戦略戦術の変遷を追いつつ戦いの原則を理解する。これまでは同時代を生きたヤン・ウェンリーやラインハルトにしか興味がなかった。しかし、シリウス軍のジュリオ・フランクール、地球連邦軍のクリストファー・ウッド、ダゴンの英雄リン・パオ、同盟軍史上最高の天才ブルース・アッシュビーといった過去の名将にも興味が湧いてきた。以前に投げ出した『同盟軍名将列伝』をまた読んでみたいものだと思う。

 

 戦術の授業では、座学・シミュレーション・現地演習などを通して、戦術の基礎を修得する。士官候補生時代のヤン・ウェンリーがやった艦隊戦シミュレーションをやりたかったが、下級指揮官候補として教育される幹部候補生には必要ないということで、養成所には置いてなかった。ちょっと残念である。

 

 帝国公用語の授業では、敵との交渉、捕虜の尋問、軍事文書の読解などに必要な語学力の習得を目指す。前の世界でローエングラム朝銀河帝国の時代に生きた俺は、二度目に入った刑務所で更生のために帝国公用語教育を受けて、初歩的な読み書きと会話を習得した。おかげで授業がすんなり頭に入っていく。

 

 その他、リーダーシップ論、管理学、軍事法規、教育指導術、装備知識などの実務的な授業で基礎知識を学び、倫理教養の授業で士官としての心構えを学ぶ。

 

 戦技訓練では、徒手格闘術・戦斧格闘術・ナイフ格闘術などの白兵戦技、小銃射撃術・拳銃射撃術などの射撃術、単座式戦闘艇スパルタニアンの操縦術を学ぶ。体格が物を言う徒手格闘や戦斧格闘では苦労しそうだ。

 

 体育の授業では、球技、水泳、持久走によって体力や気力を養う。球技や水泳は苦手で、先が思いやられる。

 

 一二時になったら昼食だ。頭と体を使った後のごはんほどおいしいものはない。昼食のカロリーは一三〇〇キロカロリー前後に調整されているため、量がちょっと少ない。それだけが残念だ。

 

 午後の授業は一三時一〇分から一六時三〇分まで。内容は午前と同じである。

 

 一六時四〇分から一八時までは、自主トレーニングの時間になっていて、自分で必要と思ったトレーニングを行う。この時間の過ごし方で差が付くと言っても過言ではない。俺はもちろん一分一秒たりとも無駄にせずに体を動かす。

 

 一八時から二〇時までは夕食と入浴の時間。一日の課業を終えてから食べるごはんほどおいしいものはない。夕食のカロリーは一一〇〇キロカロリー前後に調整されているため、量がちょっと少ない。それだけが残念だ。

 

 食事が終わったら風呂の時間だ。ほとんどの幹部候補生養成所はシャワーらしいが、シャンプールは水が豊富な惑星なので、風呂を使えるのである。汗を流してさっぱりした後は、洗濯や掃除をする。

 

 二〇時からは自習時間。小隊ごとに自習室に集まって予習復習に励む。イレーシュ大尉ら勉強を教えてくれた人達に恥じない成績を取るため、必死で勉強した。

 

 二三時に消灯だが、希望すれば二四時まで自習時間を延長できる。年配の候補生には延長しない者も多いが、俺は毎日延長して勉強を続けた。

 

 日課をこなすだけでも時間があっという間に過ぎ、僅かな余暇も自習やトレーニングにつぎ込むうちに、どんどん時間が過ぎていく。

 

 学科の成績は、一〇〇位前後をうろうろしている。四八九九人中でこの順位だから、かなりの上位ではあるのだが、教官から見れば期待外れであったらしい。曲がりなりにもあの入学試験を突破したからには、間違いなく一〇位以内に入るものと期待していたのだそうだ。

 

 戦技はどれも満遍なく良い点を取れているが、強いていえば小銃射撃術・拳銃射撃術・戦斧格闘術が若干良い。体格が物を言う戦斧格闘術で良い点を取れたのは、自分でも意外だった。順位は学科と同じように一〇〇位前後を行ったり来たりだ。幹部候補生の中には、陸戦隊員や空挺隊員のような戦闘実技のプロもいれば、専科学校を卒業してから一度も銃を触ったことのないような非戦闘職種の人間もいる。そんな中で一〇〇位前後というのは、まあ頑張ってる方だと思う。

 

 体育は伸び悩んだ。球技はだいぶうまくなったが、頭を使ったプレイがまったくできず、フェイントやブラフにあっさり引っかかってしまう。水泳の授業では、現実で志願兵だった時代に、邪悪なスタウ・タッツィーとその取り巻きにプールへ沈められた経験を思い出してしまい、体がこわばった。それでも年齢が若いおかげで、持久走や体操なんかでは点数を稼ぎ、一〇〇〇位台をキープしている。

 

 自治では無難に仕事をこなした。好意的な教官には「役割に忠実」と言われ、非好意的な教官には「自主性に欠ける」と指摘されるような仕事ぶりだった。

 

 総合すれば優等生の部類に入る俺にも、一つだけ不得意科目があった。見るのも嫌になるぐらいに不得意なその科目の名は、「戦術シミュレーション」といった。

 

 上陸戦では宇宙部隊と地上部隊を一度に指揮することもあるし、宇宙軍陸戦隊や地上軍空挺部隊のように宇宙艦を保有する地上戦闘部隊なんてのもあるため、幹部候補生は軍種に関係なく宇宙部隊と地上部隊の運用を学ぶ。

 

 俺は「宇宙艦分隊級宇宙戦術シミュレーション」、「空戦隊級艦載機戦術シミュレーション」、「大隊戦闘群級地上戦術シミュレーション」、「飛行隊級空中戦術シミュレーション」、「大隊任務群級上陸作戦シミュレーション」のすべてで最低点を取った。同級生との対戦にはもちろん、コンピュータとの勝負でも全敗した。

 

「フィリップス君は頭が硬すぎるんだ」

「どうしてあんな見え見えのフェイントに引っかかるんだ?」

「優柔不断過ぎる。それでは戦場のスピードには付いて行けないぞ」

「真面目にやったのか? 自滅同然じゃないか」

 

 教官にはさんざんに酷評された。

 

「嘘……。なんであれで勝てるなんて……」

 

 ある日の宇宙戦術シミュレーションで、開始から二〇分で俺の部隊を全滅させたフィッツシモンズ曹長は、終了と同時に目を丸くしていた。

 

 あの偉大なヤン・ウェンリーは、士官候補生時代に同期の何とかいう首席をシミュレーションで打ち破って大器の片鱗を見せたと言う。しかし、俺は宇宙軍軍人のくせに地上軍軍人に宇宙戦シミュレーションで惨敗し、器の小ささを曝け出した。これが天才と凡人の違い、あるいは大物と小物の違いであった。

 

 まあ、何でも思い通りになるとは限らない。それでも六五年ぶりの学校生活をそれなりに満喫できた。

 

 幹部候補生養成所では、団結心を養うために様々な行事が行われる。最初の大きな行事となった九月のスィーカル駐屯地祭では、コロポックルという古代の妖精の衣装を着てアイスキャンディーを売り、子供に喜ばれた。これがきっかけですっかり行事が好きになった。

 

 一〇月の部隊対抗水泳大会では迷子になり、一二月の航宙演習では船酔いし、一月の地上戦演習では落とし穴に落ち、二月の中隊対抗戦技大会では準々決勝で足を滑らせて負けてしまい、三月の宙陸統合演習では開始から一五分で捕虜になり、四月の中隊対抗マラソン大会では三二位になり、五月の中隊対抗球技大会ではホームランを打たれた。そして、最終月の六月の卒所式を迎えた。

 

 

 

 養成所の卒所式が終わった後、俺はケヤキの木に背中をもたれながらD棟を見上げた。あっという間に過ぎた一年だったけれども、これで終わると思うと名残惜しくなってくる。

 

 できるだけのことはやった。卒業時の席次は四五九九人中の二八六位で、三〇位以内の優等卒業者には遠く及ばないものの、三〇〇位以内の上位卒業者にはギリギリで入れた。戦術シミュレーション以外に穴らしい穴がなかったこと、若くて体力があったことが幸いしたのだろうと、自己分析している。幹部候補生養成所の卒業席次は、士官学校のそれと違ってその後の人事には反映しないが、上にいるというのは気持ちいい。

 

 心残りがあるとすれば、最後まで壁を作り続けたことぐらいだろうか。結局、俺に対して悪意を向けてくる人は一人もおらず、失敗も大目に見てくれた。それでも心を開けなかった。そのことがどうしようもなく悔やまれる。

 

「ああ、ここにいたのか」

 

 朗らかな声が横から飛んできた。俺はゆっくりと顔を向けて言葉を返す。

 

「リンツじゃないか」

 

 これは確認ではなく、事実の追認だ。この養成所で俺に声をかけてくるのは、このカスパー・リンツ宇宙軍曹長しかいなかった。

 

 脱色した麦わらのような髪に青緑色の瞳を持つリンツは、俺より二歳も若い二一歳。もちろん、この養成所では最年少の候補生だ。母とともに帝国から亡命してきた彼は、三年前にシャンプール陸戦専科学校を卒業して宇宙軍伍長に任官し、第七方面軍所属の陸戦隊に配属された。国境星域のシリストラやクエッタで武勲を重ね、二〇歳で曹長に昇進すると同時に上官から推薦を受けて、この養成所に入所した。

 

 きらびやかな経歴を持つリンツは、誰もが認める陸戦隊期待の星だ。しかし、俺にとっては「ローゼンリッター最後の連隊長」と言った方が馴染みやすい。

 

 自由惑星同盟の宇宙軍陸戦隊は、強襲降下作戦や緊急増援に投入される切り込み部隊で、当然のことながら猛者揃いだ。その中でも帝国からの亡命者の子弟のみで構成される第六六六陸戦連隊、通称「薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)」の戦闘力は群を抜いていた。

 

 宇宙暦七九六年から八〇一年にかけての五年間、俗に「ラインハルト戦争」と呼ばれる大戦の時代、薔薇の騎士連隊長カスパー・リンツ大佐はヤン・ウェンリーやユリアン・ミンツに仕えて武勲を重ね、シヴァ星域会戦では帝国総旗艦ブリュンヒルトに突入するという未曾有の武勲を立て、バーラト自治区成立後は自治区軍陸戦隊司令官となった。そんな偉大な英雄も、今は俺と同じ幹部候補生に過ぎない。

 

「相変わらず一人なんだな」

 

 リンツは爽やかに笑いながら、俺の心を抉ってきた。

 

「ほっとけ」

「まあ、ふてくされるなよ」

 

 リンツは俺の手の平にマフィンを乗せる。早速俺はマフィンを口に入れた。甘みが口の中に広がり、たちまち顔が綻ぶ。

 

「ありがとう」

 

 マフィンを口の中でもぐもぐさせながら、礼を言った。

 

「なに、これまで俺の趣味に付き合ってくれた礼さ」

「お礼なんていいのに。俺の方が礼を言いたいぐらいだよ」

 

 養成所で最も不足しているものは、何と言っても甘味であろう。売店の買い食いは一日二五〇キロカロリー相当までしか認められていなかった。マフィンを一個しか食べられない。これでは死ねと言われているようなものだ。

 

 絶望した俺に手を差し伸べてくれたのは、リンツだった。画家志望の彼が、俺をスケッチする代わりにマフィンをくれたおかげで、死なずに今日まで生き延びられたのだ。

 

「困った時はお互い様ってところだな。エリヤにしか頼めなかったから」

「そんなことはないだろう? リンツならどこにいたって人気者だろう?」

「俺は亡命者だから」

 

 リンツの瞳が暗くなる。俺は言葉を失った。それ以上の説明は必要なかった。

 

 同盟憲章第三条では、「同盟国民は法の下に平等である」と定めているが、往々にして建前と実態は食い違ってくるものである。民主主義国家の自由惑星同盟であっても、社会的弱者や経済的弱者に対する差別は公然と行われている。

 

 最も顕著なのは、帝国からの亡命者に対する差別だった。同盟は君主制に対する民主制の優越を示すため、亡命者を歓迎してきたが、歓迎したら万事うまく行くというものでもない。亡命者が同盟社会に馴染むには、乗り越えなければならない壁がある。

 

 第一の壁は教育だ。帝国の学歴や資格は、同盟で就職する際には通用しない。理工系に限れば帝国と同盟のレベルに大差はなく、帝国から亡命した科学者や技術者は同盟でも通用するのだが、それでも義務教育終了資格を取得するところから始めなければ、中卒相当の学力すら持っていないように扱われる。亡命者に義務付けられた適応教育プログラムを修了すれば、無償で義務教育修了資格を獲得できるが、高校や大学に進む場合は自分で学費を工面しなければならない。結果として亡命者のほとんどは低学歴者となり、事務職や専門職からは排除される。

 

 第二の壁は経済力だ。亡命者の大半は身一つで逃れてくるため、同盟政府から生活費をもらいながら仕事を探すことになるが、帝国での経験をすぐに生かせるのは軍人ぐらいのものだ。どれほど優れた技術があっても、大抵の亡命者が語学力などの問題で資格試験に合格できず、専門職には就けない。そのため、ほとんどの亡命者は、清掃員や皿洗いや飲食店員などの単純労働に従事する。そういった仕事にもありつけずに、公的扶助で暮らすケースも珍しくない。

 

 第三の壁は価値観の違いだ。帝国社会の常識は、同盟社会の非常識である。それが顕著なのは、何と言っても差別問題であろう。男尊女卑、障害者差別、非ゲルマン系に対する差別が制度化されている帝国で生まれ育った者は、何の悪気もなく差別感情を口にする。民主主義の理念が形骸化していると言われる同盟でも、差別発言を快く思う者はさすがに少なく、亡命者イコール差別者というイメージが生まれている。亡命者に染み付いた帝国社会の常識が、トラブルの種となっているのだ。

 

 第四の壁は亡命の動機だ。かつては共和主義者や被差別階級の非ゲルマン系が亡命者の主流だったが、現在は借金や生活難といった経済的事情で亡命してくる者が最も多く、問題を起こして帝国にいられなくなった者がそれに次ぐ。同盟政府は政治犯以外の亡命者も「圧制の犠牲者」とみなして受け入れている。しかし、市民の中には、「自分の都合で逃げてきた奴らを受け入れる必要があるのか」という不満も根強い。

 

 亡命者の所得は同盟市民の平均の六割程度。そして、失業率や公的扶助受給率は平均の二倍。犯罪率も極めて高く、亡命者が多く居住する地域は、概ね犯罪多発地域でもある。同盟で生まれ育った亡命者の子供は、法的には生まれながらの同盟市民とみなされるが、貧困状態から脱することができずに、単純労働者や公的扶助受給者として過ごす者が多い。語弊を承知で言うと、同盟市民が亡命者に抱く一般的なイメージは、「馬鹿な貧乏人」「犯罪者予備軍」「税金泥棒」なのだ。

 

 亡命者に対する法制度上の差別は一切存在しない。亡命者から身を起こして政府高官や高級軍人となった者は少なくないし、上院議長や宇宙艦隊司令長官まで上り詰めた例、ファイフェル一族のように数代がかりで政官界に強力な閨閥を張り巡らせた例もある。この事実をもって、「同盟には亡命者差別は存在しない。彼らが貧しいのは無能で怠け者だからだ」と主張する者もいる。

 

 だが、ごくわずかな成功者の存在をもって、平等の証とするのは強弁が過ぎるというものだ。就職希望者が帝国出身者と名乗っただけで、敬遠する人事担当者は多い。職場で亡命者がトラブルを起こせば、「まあ、あいつは亡命者だからな」と冷ややかに言われる。経営者が労働者を一人解雇する時、候補に上がった者が生まれながらの同盟市民と亡命者ならば、大抵は後者が解雇される。亡命者というだけで、排除や反感の対象となることを差別というのである。

 

 なお、これらの話はすべて社会科学を教えてくれたブラッドジョー中尉の受け売りだ。ヤン・ウェンリーやダスティ・アッテンボローが士官学校時代に設立した秘密組織「有害図書愛好会」のメンバーだった彼は、教官や風紀委員の目を盗んで、体制批判的な本を随分読んだのだという。

 

「ごめん」

「いや、いいんだ。敬遠されても、敬意を払われてるだけマシさ」

「そんなの……」

 

 寂しすぎないか、と言いかけてやめた。「敬意を払われてるだけマシ」という状況を俺は六〇年も味わった。リンツは正しい。

 

「お前さんだってそうじゃないのか?」

「わかるのか?」

「雰囲気でね。俺が住んでたシャンプールの亡命者街には、お前さんみたいな目で人を見てる奴がたくさんいたよ。他人の顔色に一喜一憂し、隙を見せまいとびくびくしてる。そんな目さ」

 

 リンツの暗い瞳は、俺の目を通して心を覗き込む。

 

「この国では自分は所詮よそ者だ。しかし、今さら祖国にも帰れない。嫌われないように心がけよう。波風を立てないようにしよう。隙を見せないようにしよう。奴らの目はそう言っていた」

 

 心を読んでるんじゃないか。そう錯覚してしまうほどに、リンツは俺の心の底を正確に言い当てる。

 

「俺はあんな目をした大人にはなりたくなかった。だから、軍隊に入った」

「そうか、そうだったのか」

「軍隊に入っても、それで終わりじゃ無かったがね。人の顔色を見ない亡命者は、生意気に見えるらしい。武勲を立てれば立てるほど疎まれた。この年で幹部候補生になれたのだって、俺を部隊から追い出したがってた上官の差し金さ」

 

 寂しさと皮肉が入り混じった複雑な表情をリンツは見せる。俺は言葉を失った。

 

「薔薇の騎士連隊に願書を出した」

「薔薇の騎士連隊……」

「ああ、そんな顔はしないでくれ。あの部隊の評判は知っている。『真っ先に突っ込まされる鉄砲玉』、『真っ先に切り捨てられるトカゲの尻尾』、『損耗率は他の陸戦隊の一・五倍』、『歴代連隊長の半数は裏切り者』だってな。まったくひどいもんさ。だが、あの部隊には、他人の顔色に一喜一憂する亡命者も、生意気な亡命者を嫌う上官も、隙を見せない亡命者を敬遠する同級生もいないだろう。今のリューネブルク連隊長は面倒見がいい親分肌と言われてるそうだしな。俺一人の居場所くらいは見つかるだろうよ」

「いや、不安になったわけじゃない。納得したんだ。薔薇の騎士連隊は、きっとリンツの居場所になる。俺が保証する」

 

 彼が求めていたものは薔薇の騎士連隊にある。その確信を伝えるために笑った。笑い慣れてない俺の笑顔は不格好だろう。しかし、どんな言葉よりも笑顔の方が真実だ。イレーシュ大尉は最後の授業でそう教えてくれた。

 

「お前さんも見つかるといいな、人の顔色を見なくても生きられる場所が」

 

 リンツは人好きのする笑顔を見せた。英雄であるかどうかなんて、この笑顔の前ではどうでも良かった。こんな奴が幸せにならない世の中は嘘だ。

 

「見つけるさ」

 

 俺は即答した。この世界には俺に笑いかけてくれる人がいる。だからきっと見つかる。そんな確信があった。

 

「見つけろよ」

 

 リンツは短く力強い言葉とともに右手を差し出した。俺はすかさず握り返す。

 

「また会おうな」

 

 手を強く握り合わせた後、俺とリンツは同時に歩き出した。振り返る必要はない。リンツは自分の場所を薔薇の騎士連隊の中に見つけるだろう。

 

 夢見る時は終わった。エル・ファシルから降り立って三年、たくさん汗をかき、多くの成功と失敗を積み重ねて、笑いかけてくれる人や叱咤激励してくれる人に出会った。八〇年のことは忘れられないが、それでもこの三年で得たものの方こそ信じたいと思う。この世界のどこかにある自分の場所に向かって歩き出す時が来た。

 

「新世界へようこそ」

 

 そんな声が聞こえたような気がした。しかし、俺は歩みを止めない。初夏の真っ青な空の下、ケヤキが生い茂る養成所の構内をひたすら歩き続ける。新世界へと通じる道は、どこまでもどこまでも続く。

 

 宇宙暦七九一年六月一一日、エル・ファシルから始まった夢は終わり、新しい世界がシャンプールから始まった。



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第8話:士官の役割 宇宙暦791年6月末~9月30日 第一艦隊所属の空母フィン・マックール

 六月一一日に第七幹部候補生養成所を卒所した俺は、宇宙軍少尉に任官し、第一希望の補給科になった。

 

「兵卒だった頃は補給員だった。仕事には慣れてるし、管理や会計の成績が良かったから、適性もあると思う」

 

 周囲には志願理由をそう説明したけれども、そんなのは単なる方便だ。最後に補給員の仕事をしたのは六三年前だ。成績だけで適性を主張するなら、俺はどの分野にもそこそこ向いている。

 

「戦術シミュレーションの点数が極端に悪かったから」

 

 それが真の理由だった。卒所するまで一度も勝てず、最後の方は半ばやけになって、どこまで連敗記録を伸ばせるかに挑戦したほどだ。

 

 戦術知識は平均以上なのに、いざ戦うとなると、自分よりはるかに知識に劣る人にもあっさり負けてしまう。知識があるのに応用が効かない軍人なんて、『ミッターマイヤー元帥回顧録』に登場する「理屈倒れ」シュターデン、『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』に登場する「史上最悪の無能参謀」アンドリュー・フォークのように、やられ役と決まっている。そんなみっともないキャラクターになりたくないと思い、補給科を志望したのである。

 

「君は体力と根性がある。陸戦隊で鍛えればもっともっと伸びるぞ」

 

 ある教官はそう言って宇宙軍陸戦隊を勧めた。

 

「地上軍なら宇宙軍よりも出世が早い。君なら連隊長、いや旅団長だって夢じゃない」

 

 別の教官は地上軍への転籍を勧めた。

 

「地に足を付けて戦うなんてつまらんぞ。スパルタニアン乗りになりなさい。あれこそ男のロマンだ」

 

 単座式戦闘艇「スパルタニアン」のパイロットになるように勧める教官もいた。

 

「申し訳ありません。自分はやはり裏方が性に合ってると思うのです」

 

 実戦指揮が怖いという真の理由を隠し、パンフレットを持って迫ってくる教官達を振り切り、何とか補給科になれたのである。

 

 補給科というのは、民間企業の総務部と経理部を一緒にしたような仕事をする。兵士は人間だから、食事をしなければ生きていけないし、着替えやタオルやトイレットペーパーなんかも使う。それを用意するのが補給科の仕事だ。武器弾薬のストックの準備、兵士の給与計算、経費の管理なんかも補給科が引き受ける。

 

 一見すると地味な仕事のように思えるかもしれない。だが、「素人は戦略を語り、玄人は兵站を語る」と言われる。戦略の天才ヤン・ウェンリーは、管理の天才アレックス・キャゼルヌが兵站を取り仕切ってくれたおかげで、思う存分采配を振るえたのだ。

 

 後方支援のプロになった自分が、アレックス・キャゼルヌとともに、ヤン艦隊の後方支援を取り仕切る。そんな未来をほんの一瞬だけ夢想した。

 

「そんなの無理だよな」

 

 頭を振って夢想を振り払う。ヤンとともに「エル・ファシルの英雄」と呼ばれ、カスパー・リンツと友人になった俺だが、身の程は知っている。彼らと肩を並べるなど、想像するだけでもおこがましいというものだ。

 

 そもそも、幹部候補生養成所を出た補給士官と、士官学校を出た後方参謀では、期待される役割がまったく違う。宇宙軍の補給士官は軍艦や基地の事務職で、昇進したら補給艦艦長や補給部隊司令になる。一方、後方参謀は兵站計画の立案・指導にあたる幕僚で、昇進したら軍中枢機関の部課長や艦隊後方支援集団司令官になる。俺の歩く道の先には、キャゼルヌはいない。

 

 何かの間違いで英雄に祭り上げられてしまったが、今後はそんなことも無いと思う。順調に昇進すれば、功績をまったく立てなかったとしても、五〇歳までには少佐にはなれる。兵卒をアルバイトとすると、少佐は本社課長補佐や小規模支店長といったところだ。うまいことやって中佐にでも昇進できれば、本社課長や中規模支店長である。高卒で特殊技能もない俺には、目の眩むような出世だ。

 

 前の人生で帰国した頃ほど深刻ではないものの、同盟社会は不況の真っただ中だった。民間企業は大規模なリストラを行い、二年前に成立した主戦派と反戦派の連立政権も公務員の人件費削減を進めている。だが、そんな中でも軍人の人件費は聖域と言われ、「軍人にリストラは無い」とされる。

 

 同盟軍の士官は現在の階級に任官してから一〇年が経過するまでに昇進できなければ、自動的に予備役編入となる。だが、その規定に引っかかって予備役に編入されるのは、定数の少ない中佐からになる。昇進の遅い幹部候補生出身者は、戦死や不祥事さえなければ、確実に定年まで勤務できるのだ。そして、戦死の可能性が低いことは既に調査済みだ。

 

「リストラの可能性はないし、福利厚生もバッチリだ。戦死の危険さえ無ければ、これほどいい仕事もないよなあ」

 

 言い終えた時、歴史上で最も多くの同盟軍人を戦死させたラインハルト・フォン・ローエングラムの顔が頭の中に浮かんだ。この世界が前の世界と同じ歴史を進んでいるのならば、数年後に彼が台頭してくる。

 

「まずいな。ラインハルトが偉くなったら、戦死の可能性がぐんと上がる」

 

 真っ青になった俺は、慌てて端末を開き、「ラインハルト・フォン・ローエングラム」の名前で検索した。ヒットするのは、「中興の三〇年」と呼ばれるアウグスト一世の治世に司法尚書を務めたローエングラム伯爵家七代目当主ラインハルトのみ。

 

「なんだ、いないじゃないか。これなら、定年まで安心……」

 

 いや、違う。彼のローエングラム伯爵位は戦功によって賜ったもので、もともとは無爵位貴族のミューゼル家の生まれだった。

 

 今度は「ラインハルト・フォン・ミューゼル」で検索する。念のために、ラインハルトがゴールデンバウム朝打倒を志すきっかけとなった姉の「アンネローゼ・フォン・ミューゼル」の名前も一緒に検索した。アンネローゼが皇帝から賜った爵位の「グリューネワルト」で打ち込もうとして、慌てて修正したのはここだけの秘密だ。

 

 ラインハルトはまったくヒットせず、アンネローゼの方は少しだけヒットした。この世界でも皇帝フリードリヒ四世の第一の寵妃で、グリューネワルト伯爵夫人の称号も賜っているそうだ。しかし、弟の存在については、まったく触れられていなかった。

 

「まあ、そんなもんか」

 

 報道の自由がまったく無いゴールデンバウム朝の帝国では、国民のほとんどは、国務省メディア総局の検閲を受けた情報しか手に入れることができない。同盟の一般人が知りうる帝国の情報なんて、亡命者が持ってきた情報でなければ、フェザーンのマスコミを通して入ってくる帝国政府の公式発表ぐらいのものだ。帝国のライヒスネッツは、同盟の汎銀河ネットからの接続を完全に遮断しており、ネットを通した情報収集も困難だ。まして、機密のベールに包まれた宮廷のことだ。寵妃の家族の名前なんて、同盟まで流れてくるような情報ではなかった。

 

 この世界では俺が英雄と呼ばれてて、バンクラプトシーは大穴を取れなかった。世の中は偶然で動くことも多い。この世界と現実は、必ずしも同じ展開にはならないのだろう。何の根拠もなくそう結論づけた俺は、惰性でネットを検索し続けた。

 

 最初はもちろん「ヤン・ウェンリー」の名前だ。しかし、エル・ファシルの件はたくさんヒットしたのに、その後どうなったのかは全然出てこない。

 

 ユリアン・ミンツが書いた『ヤン・ウェンリー提督の生涯』によると、エコニアの事件を解決したヤンは、ハイネセンに召還されてどこかの参謀になったはずだ。しかし、エコニアの件でもまったく名前がヒットしてこなかった。現時点の彼は、俺と同じく賞味期限の切れた英雄にすぎないようだ。

 

 今度は「アレクサンドル・ビュコック」、「アレックス・キャゼルヌ」、「ワルター・フォン・シェーンコップ」、「ダスティ・アッテンボロー」など、現時点で成人している前世界の英雄達の名前で検索する。

 

 出てきた記事は、七年前の全国中学生弁論大会でアッテンボローが三位になった時の記事、一七年前にキャゼルヌがボーイスカウトの最高勲章を授与された時の記事、一三年前のジュニアフライングボールケリム星系リーグでシェーンコップが得点王になった時の記事など、小中学生時代のものばかりだ。

 

 最近の記事といえば、ビュコックがマーロヴィア星系警備隊司令官の肩書きで登場する三年前のローカル新聞の記事、そして彼の少将昇進と第七艦隊左翼分艦隊司令官就任を伝える二年前の国防委員会人事発令のみだった。

 

 英雄達の経歴が少年時代から華やかだったのは理解できた。彼らは士官学校を出ているし、専科学校卒のシェーンコップだって士官学校の受験には合格した。そして、前の世界では若くして将官の地位を得たスーパーエリートだ。幼少の頃から文武に並外れていた力量があったのだろう。しかし、最近の動静が不明なのはつまらない。

 

「ビュコックは将官だから人事異動が公表されるけど、他の人はまだ佐官や尉官だからなあ。後の英雄も今はまだエリート士官の一人にすぎないってことなのか」

 

 あまりの成果の少なさにうんざりしていた俺にとどめを刺したのは、マル・アデッタの英雄「チュン・ウー・チェン」だった。彼の名前で検索しても、同姓同名のイースタン拳法家しかヒットしない。

 

 成果の少ない検索に飽きた俺は、現時点でも有名そうな人物を検索してみた。まずは三年前にちょっかいを出してきた「ヨブ・トリューニヒト」で検索する。

 

 現職の下院議員だけあって、これまでとは比較にならないほどの情報が出てきた。二年前の選挙で二度目の当選を果たした彼は、保守政党「国民平和会議」の青年局長を務める若手のホープで、近日中に予定されている内閣改造で初入閣するらしい。

 

「議員二期目でいきなり閣僚か。凄いなあ」

 

 無能さだけが印象に残るこの政治家は、宇宙暦八四〇年代にはすっかり忘れられていて、死後半世紀近く過ぎてもまとまった伝記が書かれなかった。業績も思想性も皆無に等しく、同時代の英雄達の伝記では足を引っ張る以外の出番が無く、政治的な系譜も断絶してしまったとあれば、興味を持たれなくても仕方がない。もちろん、俺も興味がなかった。

 

 次は同盟末期に活躍した政治家の「ジョアン・レベロ」、「ホワン・ルイ」、「ウォルター・アイランズ」、「ジェシカ・エドワーズ」を検索する。はっきり言うと、同盟末期の政治家なんて、この四人を除けば、名前が残ってるだけでもマシといった程度の業績しかないのだ。

 

 レベロとホワンは国民平和会議と連立を組んでいるリベラル政党「進歩党」に所属する下院議員で、左派のホープとして期待されているそうだ。アイランズは「国民平和会議」の上院議員で、公共事業を請け負った企業から献金を受け取った件が問題になって、先月の初めに党上院院内幹事補佐の職を辞任したらしい。エドワーズはまったく出てこないが、政界にデビューする前だから、当然といえば当然だろう。

 

 世の中はわからないものだ。この四人のうち、現時点では最も評価の高いレベロがヤンと対立して破滅し、その次に評価の高いホワンは実力を発揮できないままに終わり、一番評価が低いというか汚職政治家以外の何物でもないアイランズが国難に際して大活躍し、まったくの無名だったエドワーズがトリューニヒト最大の政敵と言われるようになるのだから。

 

 最後に自分の名前を検索欄に打ち込むと、予測検索が「エリヤ・フィリップス かわいい」「エリヤ・フィリップス 王子様」など、恐ろしい文字列を吐き出した。

 

「でも、これは少し気になる」

 

 最後に出てきた「エリヤ・フィリップス 作られた英雄」という文字列。これはいったいどういう意味なのだろう?

 

「まあ、ネットの評価なんて見ないほうがいいな。薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)の件もあるし」

 

 友人のカスパー・リンツが入ったばかりの第六六六陸戦連隊こと薔薇の騎士連隊は、数日前に連隊長リューネブルク大佐が帝国軍に単独降伏したことがきっかけで、激しい非難を浴びていた。

 

 特にネットは酷く、亡命者に対する差別用語が飛び交い、連隊幹部の個人情報まで公開されている有様だ。薔薇の騎士連隊関係者と大手コミュニティサイトで決めつけられた無関係の亡命者が、暴行を受ける事件も起きている。関係なくても、こういう騒ぎは気分が悪い。自分が対象になったらと思うと、夜も眠れなくなってしまう。

 

 端末の電源を切り、何も見なかったことにした。明日の朝は早い。何といっても初めての出勤なのだ。俺は不安を振り払い、前向きなことだけを考えながらベッドに潜り込んだ。

 

 

 

 七月八日、俺は第一艦隊所属の宇宙母艦「フィン・マックール」の補給科に着任した。役職は補給長補佐。文字通り、乗員九三二人を抱える大所帯の面倒を見る補給長の補佐役だ。

 

 同盟軍は若い組織だ。全軍の三分の二を占める兵卒は、みんな一〇代後半から二〇代前半、下士官も二人に一人は二〇代。そして、非戦闘部門には女性が多い。要するに補給科には、若い女性がたくさんいる。

 

 フィン・マックールの補給科もその例外ではなかった。補給科員の七割以上が女性で、数名のベテランを除けばみんな若く、補給科を選んだ自分の選択が正しかったことを知った。受験勉強や幹部候補生養成所での生活を通して、だいぶ苦手意識が薄くなり、恋愛の一つもやってみたい気持ちになっていた。

 

 着任した途端、自分の選択を後悔した。確かに若い女性は多い。しかし、みんな鬼のように怖かった。言葉遣いがきつい上にすぐ怒る。荒っぽさでは陸戦隊員に引けをとらない空戦隊員も、補給科の女性には頭が上がらなかった。

 

 正面から受け止められる強さもなければ、のらりくらりとかわす器用さもなく、補給士官になったばかりで仕事もできない。そんな俺が補給科を取り仕切っていけるとは思えなかった。

 

 女性とやり合ったら絶対に負ける。気の強い母、勝ち気な姉、甘えん坊の妹に負け続けてきた経験がそう教えてくれる。

 

 どうすればいいかさんざん悩んだ俺は、全面降伏を決意した。補給科の下士官の中で一番偉くて補給科の女性の中で一番怖い補給主任ポレン・カヤラル宇宙軍准尉、二番目に偉くて二番目に怖い補給副主任シャリファー・バダヴィ宇宙軍曹長に頭を下げて、協力を頼んだのだ。

 

「顔を上げてください。エル・ファシルの英雄にそこまでされたら断れないでしょう」

 

 カヤラル准尉は苦笑しながら快諾してくれた。

 

「うちの娘がフィリップス少尉のファンでしてねえ。王子様に頭を下げさせたなんて知られたら、口をきいてもらえなくなっちゃいますよ」

 

 バダヴィ曹長も一度娘に会うという条件で協力してくれた。英雄の虚名もたまには役に立つ。

 

 補給科で最強の女性二人を味方につけた俺は、さっそく仕事にとりかかった。補給の仕事をまったく知らない俺は、カヤラル准尉を始めとする下士官のアドバイスを受けながら、仕事を進めていった。

 

 補給科の女性はずけずけと物を言い、艦長や空戦隊長のような偉い人にもずけずけと物を言い、腹が立ったら我慢せずにぶちまける。そんな相手と一緒に仕事をすれば、好き嫌いの基準もすぐわかってくる。

 

 彼女らは怠け者を嫌う。だから、誰よりも早く出勤して、誰よりも遅く退勤し、面倒な雑用は自分で引き受けた。文書はできるだけ早く決裁して、待たせないようにした。

 

 彼女らはだらしない人を嫌う。だから、身だしなみには気をつけ、どんなに時間がなくても必ずシャワーを浴び、髪型もちゃんとセットし、軍服のアイロン掛けも欠かさなかった。机の上もきちっと整頓した。

 

 彼女らは女性だからといって見下してくる相手を嫌う。男女平等が徹底している自由惑星同盟でも、マッチョイズムの強い軍人には女性を見下す者も多い。だから、俺は可能な限りの敬意を示した。兵卒に対しても上官を相手にするつもりで丁重に接し、どんな些細な助力にも感謝の言葉を述べ、意見が違う時も頭ごなしの否定は避けた。

 

 いずれも俺の独創ではない。勤勉さを部下に示す方法、身だしなみを整える方法、部下に敬意を払う方法。そのすべてを幹部候補生養成所で学んだ。士官は常に部下に見られている。だから、良い印象を与える方法も教育されるのである。

 

 幹部候補生養成所では、「命令を出すのは士官の仕事、命令を守らせるのは下士官の仕事、命令を実行するのは兵卒の仕事」と教えられた。俺は下士官のアドバイスを一〇〇パーセント受け入れて、下士官に命令を出す。命令を考えるのも実行するのも下士官。俺は必要ないんじゃないかと思わないでもない。

 

「そんなことはない。それが本来の士官の仕事なのだ」

 

 そう言ったのは、補給長タデシュ・コズヴォフスキ宇宙軍大尉だった。ふさふさの白髪に黒縁のメガネをかけた初老の男性で、俺の直接の上官にあたる。補給科のトップだが、カヤラル准尉やバダヴィ曹長に比べると存在感が薄い。

 

「補給科には君を支えようという空気がある。君が赴任してから、仕事の能率が著しく上がった。それが士官のリーダーシップだよ」

 

 コズヴォフスキ大尉は、教え諭すように言う。しかし、あまり仕事をしてるように見えない彼に言われても、あまり説得力を感じない。

 

「腑に落ちないといった感じだな。まあ、あまり仕事をしてないように見える私に言われても、説得力がないか」

 

 コズヴォフスキ大尉はニヤリと笑った。心を読まれてしまったのではないか。そんな錯覚に囚われる。

 

「いえ、そんなことはありません」

「ははは、いいんだよ。部下に仕事をさせるのが私の仕事だ。仕事をしてないように見えるぐらいがちょうどいい」

「そんなものなのでしょうか?」

「ベースボールの監督が選手と一緒にプレーするわけにもいかないだろう? 選手が働きやすいように気を配る。選手にチーム運営の方針を示す。そして、グラウンドの中の細かいことはベテラン選手の判断を尊重する。それが士官だ」

「ああ、なるほど。良く分かりました」

 

 こんなにわかりやすい例えなら、どんなに頭が鈍くても理解できる。どうやら、俺は思い違いをしていたらしい。下士官に細々とした指示を出すのが士官の仕事だと思っていたが、そうではなかった。

 

「君は部下に気を配り、ベテランの意見を尊重しながら、補給科を運営している。おかげで私は渉外に専念できる。うちは大所帯だから、なかなか一人では目が行き届かなくてな。君が来てくれて助かった」

「あ、いや、小官は部下に任せきりにしているだけであります! 小官ではなく、部下が働いているのです!」

 

 コズヴォフスキ大尉に右肩を叩かれた瞬間、大声で叫んでしまった。八〇年以上生きて初めて仕事で褒められた。その事実を受け入れられなかったのだ。

 

「軍隊では命令は絶対だというが、部下だって人間だ。怠けもすれば手抜きもする。しかし、君の部下は熱心に働いている。部下に仕事をさせるのが士官の仕事といっただろう? 働いているのは君だ」

 

 コズヴォフスキ大尉はなおも言葉の弾丸を打ち込み、俺の羞恥心の限界に挑戦してきた。

 

「それはみんなが優秀で勤勉だからです!」

「あまり知られてない事実だが、頑張りというものは有償でね。代価を払わなければ、手に入らないのだ。部下が頑張っているのは、上官たる君の力だよ」

「小官があまりに頼りないから、部下が頑張るしか無いのです!」

「まあ、それはあるな」

「そうでしょう! すべて部下の力なのです!」

 

 わけもわからず声を張り上げ続ける。これ以上褒められたら死んでしまう。一歩も引けないという思いが俺の言葉に力を与える。

 

「君の言いたいことは分かった」

 

 なぜか人の悪そうな笑みを浮かべるコズヴォフスキ大尉。

 

「みんなも君の思いを理解してくれたようだ」

 

 生温かい視線を感じる。恐る恐る周囲を見回すと、カヤラル准尉やバダヴィ曹長ら数十名の部下がこちらを見ているのに気づいた。みんなにやにやが止まらないといった感じの顔をしていた。

 

 

 

 正規艦隊と呼ばれる惑星ハイネセン駐留の外征艦隊は、整備・補充→訓練→即応待機のローテーションを四か月ごとに繰り返す。一二個艦隊のうち、三個艦隊が母港で整備・補充を受け、三個艦隊がハイネセン周辺宙域で訓練を行い、三個艦隊が帝国軍に備える。残る三個艦隊のうち、二個艦隊は予備戦力枠、あるいは四か月程度で補充が完了しないほどの損害を被った部隊の待機枠だ。

 

 残りの一つは第一艦隊の枠である。自由惑星同盟宇宙軍創設と歴史を等しくするこの艦隊は、少々特異な立場だ。首星ハイネセンの警備、同盟領中央宙域(メインランド)の治安維持を主任務としており、対帝国戦の前線には出ない。また、錬成した部隊を他の一一個艦隊に提供する教育訓練部隊の役割も兼ねる。

 

 キャリアの浅い乗員が多いフィン・マックールは、巡視任務に参加することなく、ひたすら訓練に明け暮れている。日帰りで地上に戻れる日もあれば、数日間は宇宙から戻れない日もあった。相変わらず仕事のできない俺だったが、部下の助けを得てどうにかこなした。

 

 補給科員との関係は順調だ。老若男女関係なく親しく付き合い、休日には部下に誘われて遊びに行くこともある。

 

「フィリップス少尉!」

「ああ、カイエ一等兵か。どうした?」

「こ、今度の日曜日ですが、空いていらっしゃいますか!?」

「おう、空いてるぞ」

「一緒にごはんを食べに行きませんか!? チーズケーキの美味しい店があるんです!」

「そりゃいいな。みんなで行こうじゃないか」

「えっ?」

「君がおいしいっていうくらいだ。よほどうまいんだろうな。楽しみだ」

 

 こんな調子で数人ほどで連れ立って食事に行き、ボーリングやカラオケを楽しむ。八月には、コズヴォフスキ大尉、カヤラル准尉、バダヴィ曹長らと計画を立てて、補給科の全員でハイネセン・ポリス近郊のエメラルド・ビーチに海水浴に行った。

 

「恋愛の予感がまったく無いことを除けば、完璧と言ってなんですけどねえ」

「君は爽やかすぎるからねえ。恋愛対象にはならないのよ」

 

 そう解説してくれたのは、今年の初めに昇進して駆逐艦の艦長となったイレーシュ・マーリア少佐だった。

 

「そんなに爽やかですか、俺って?」

「見た目はね」

「性格は全然爽やかじゃないのに」

「うん、かわ……」

「ところで新しいお仕事はどうです!? 初めての指揮官ですよね! 大変じゃないですか!?」

 

 嫌な予感がしたので無理やり話題を変える。携帯端末の向こうで軽い舌打ちが聞こえ、自分の判断が正しかったことを知った。

 

 かつては教師だったイレーシュ少佐とも、今では気軽な友達付き合いをしていた。いや、付き合っていただいていると言うべきだろうか。俺だって身の程は知っている。年上の美人と自分が対等だなどと思い上がるほど愚かではない。

 

 恋愛関係を除けば、公私ともに順調な補給士官生活。唯一の問題は、後方主任参謀とも呼ばれる第一艦隊後方部長クレメンス・ドーソン宇宙軍准将の存在だった。異常なまでに細かい指導を好む彼は、給食のカロリー計算、トイレットペーパーの節約、ミサイル補充作業の能率化といったことにまで口を挟んでくる。

 

「指導の一つ一つは適切なんだがなあ……」

 

 コズヴォススキ大尉は『従来の半分のトイレットペーパーで尻を拭く方法』と題されたパンフレットを眺めてため息をついた。執筆者はもちろんドーソン准将だ。

 

「デザインはすっきりしてるし、文字が少なくて読みやすいですね。図解も入ってますが、これって自分で描いたんですか?」

 

 俺は正しい尻の拭き方を解説するイラストを指さした。警察のポスターにでも使われてそうな古臭い絵柄だが、なかなか上手く描けてる。

 

「間違いなくそうだ。ドーソン部長はパンフレットも自分で描く」

「デザイナーとしては、とても優秀なんですね」

 

 溜息をついた。内容自体は適切で、説明もわかりやすい。作成者の優れた能力が見て取れる。必要性がまったく感じられないということを除けば、素晴らしいパンフレットだった。

 

「数字にも強いぞ。報告書に目を通すだけで、指示が守られているかどうか見抜いてしまう。しかも、抜き打ちで現場を訪れて検査に来る。これじゃ手抜きもできやしない」

 

 老練なコズヴォフスキ大尉もすっかり参ってしまったらしい。

 

「悪い意味で優秀なんですね」

 

 俺はまた溜息をついた。エリートコースの士官学校戦略研究科を卒業したドーソン准将は、トリプラ星系警備隊参謀長、第六方面軍情報部長、士官学校教授、統合作戦本部情報保全担当参事官などを歴任し、今年の七月から第一艦隊後方部長となった。几帳面な能吏タイプの軍人で「切れ者ドーソン」の異名を取るが、切れすぎて人望に欠けると言われ、五〇歳を過ぎても准将に留まっている。

 

 前の世界のドーソンは、ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長に重用されて、宇宙軍元帥・統合作戦本部長まで出世した大物だ。しかし、印象は薄い。自由惑星同盟末期に有名だった軍の指導者は、イゼルローン方面軍司令官ヤン・ウェンリー宇宙軍元帥、宇宙艦隊司令長官アレクサンドル・ビュコック宇宙軍元帥、宇宙艦隊総参謀長チュン・ウー・チェン宇宙軍大将の三名で、表に出てこないドーソンの知名度は低かった。俺も年老いてから戦記を読むまでは、彼の存在を知らなかったほどだ。

 

 俺が読んだダスティ・アッテンボローの回顧録『革命戦争の回想―伊達と酔狂』、ヤン・ウェンリーと救国軍事会議との内戦を描いた『自由惑星同盟動乱一二一日の記録』、ラグナロック作戦を同盟側の視点で描いた『七九九年本土決戦』などでは、ドーソンは無能で意地悪な悪役だった。

 

 その無能さを表すエピソードの一つに、どこかの艦隊の後方主任参謀をしていた時に、「食料の浪費を戒める」と言って自分で各艦の調理室のゴミ箱を調べて回り、「数十キロのじゃがいもが無駄に捨てられていた」と発表したという話がある。脇役のことなんかいちいち覚えない俺でも、このエピソードのおかげでドーソンという人物を記憶した。

 

 どうやら、ドーソン准将がじゃがいもを探し歩いた艦隊は、この第一艦隊らしい。最近は「食糧の消費状況を把握する」と言って、抜き打ちで各艦の調理室のゴミ箱を漁り、使える食材が出てきたら、責任者はねちねちと説教されて始末書を書かされるそうだ。

 

 フィン・マックールの補給科の管理業務は、コズヴォフスキ大尉と俺が分担しており、調理室を含む給食部門は俺の担当だった。抜き打ち検査に備え、神経をすり減らす日々が続いた。

 

 九月二三日二〇時、いつものように事務室の掃除を終えた俺は、手伝ってくれたミシェル・カイエ一等兵を帰した。誰もいなくなった後で「フィリップス少尉専用」と書かれた大きなクッキー缶を見る。中には部下からもらったお菓子がぎっしり詰まっていた。

 

 俺は満面の笑みを浮かべ、レーズンクッキーを取り出した。クッキーを持つ右手に左手を軽く添えて口に運ぼうとしたまさにその時、テレビ電話の音がけたたましく鳴り響く。

 

「こんな時間になんだ?」

 

 至福の時を中断されたことに少し腹を立てながら通話機を取ると、スクリーンに給食主任アルネ・フェーリン軍曹の顔が映る。おっとりした彼女らしからぬ緊張ぶりだ。

 

「後方主任参謀がお見えになりました。調理室の検査だそうです」

 

 ついに来たか、と思った。業務時間外に来るとは思わなかったが。

 

「わかった。今から行く」

 

 全身に緊張をみなぎらせ、調理室へと走る。どんな嫌味を言われるかと思うと、逃げ出したい気持ちに駆られるが、そんなことはさすがにできない。

 

 調理室の中には、フェーリン軍曹の他に、ぐるぐる巻きのビニールシートを脇に抱えた作業服姿の男がいた。俺の姿を確認した作業服の男は、一ミリの狂いもなく揃った歩幅で歩み寄ってくる。身長は俺と同じぐらい。つまり一六九・五センチ前後だ。ほんの少し親近感を覚える。

 

「責任者のエリヤ・フィリップス少尉だな。小官は艦隊後方部長である。これより食料消費の実態調査を行う」

 

 ドーソン准将は俺に敬礼をすると、早口で検査開始を告げる。背筋は「中に棒が入ってるんじゃないか」と錯覚するぐらい、真っ直ぐに伸びている。髪型と口ひげは綺麗に整い、作業服にはしわ一つなく、靴も新品のようにピカピカだ。これから汚れ仕事をするのに身なりをきっちり整えてくるなんて、かなり変わった人だ。

 

「かしこまりました!」

 

 俺は返礼をしながら、ドーソン准将の表情を観察した。自由戦士勲章所持者は階級に関係なく先に敬礼を受ける権利を持つが、高級軍人にはそれを不快に思う者も多い。心の狭いドーソン准将が腹を立ててるんじゃないかと心配になったのだ。

 

 だが、見た感じでは不快な色は無く、アッテンボロー回顧録で描かれてるような嫌味も飛んでこなかった。内心で腹を立てていたとしても、それを抑える程度の常識はあるらしい。

 

 俺をちらりと見たドーソン准将は、小走りで調理室の隅に行ってビニールシートを広げた。そして、大きなゴミ箱を一人で抱え上げて歩き出す。小柄なドーソンには重いのか、足取りはややふらついている。

 

 転倒されたらたまらない。そう思った俺は慌てて駆け寄った。

 

「お手伝いいたしましょうか?」

「これは小官の仕事だから、貴官が手伝う必要はない。転んでも小官の責任であって、貴官の責任ではない」

 

 俺の方を見ずにドーソン准将は答え、危うい足取りでゴミ箱を運んだ。

 

 ここで妙なことに気づいた。ドーソン准将は一人も随員を連れてきていないのだ。公務中の将官が一人で行動することなど、普通は考えられない。それに艦隊旗艦からフィン・マックールを訪れるには、シャトルに乗る必要がある。操縦役を兼ねた随員が一人はいるはずなのに見当たらない。

 

「ところで閣下はお一人で来られたのですか?」

「うむ。他の者は勤務時間外だからな」

 

 ドーソン准将はまた俺を見ずに答えた。

 

「お、お一人でしたか……」

 

 俺はたじろいだ。将官がこんな時間に自分でシャトルを操縦してやってきた。その事実に驚いたのだ。

 

「何を驚いている? 一人でできる仕事に部下を使うなど、労力と残業代の無駄ではないか」

「おっしゃるとおりです……」

 

 何か違うと思ったが、どう突っ込めばいいか分からなかった。フェーリン軍曹も眉を寄せて困ったような顔になる。

 

 ゴミ箱をビニールシートの中心まで持ってきたドーソン准将は、一気に中身をぶちまけた。そして、別のゴミ箱を持ってきて、同じようにぶちまける。ビニールシートの上には、ゴミの山脈が形成された。

 

 それにしても、こんなにたくさんのゴミを今から一人で仕分けするつもりなのだろうか? 無謀もいいところだ。立会わされる俺とフェーリン軍曹にとっても迷惑である。

 

「お手伝いしましょうか?」

「これは小官の仕事だ。貴官が手伝う必要はない」

 

 ドーソン准将は俺とフェーリン軍曹の申し出を断り、一人で仕分けに取り掛かった。とんでもない早さで手を動かし、ゴミを仕分けて整然と並べる。俺が同じ早さで手を動かしたら、間違いなくぐちゃぐちゃになってしまう。なんていうか、変なところで能力のある人だ。

 

 機械的な早さと正確さで仕分け作業を終えたドーソン准将は、綺麗に並ぶゴミを見渡した。そして、何かに納得したように頷く。

 

「フィリップス少尉、フェーリン軍曹」

「はい」

「ゴミの中から使える食材は一つも見当たらなかった」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺は胸を撫で下ろした。こんなつまらないことで補給科員が貶されてはたまらない。みんなで話し合って、迎撃体制を組んだ甲斐があった。

 

 ドーソン准将は部屋の中をじろりと見回し、俺とフェーリン軍曹に視線を向けた。

 

「調理室は隅々まで丁寧に磨きあげられていた。匂いもしない。規律がよく守られている証拠だ。貴官らは小官の気持ちが良くわかっておる」

 

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。嫌味な悪役になぜ褒められるのか? 意外な成り行きに頭が真っ白になった。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 しどろもどろになる俺に構わず、ドーソン准将はビニールシートの上のゴミを手際良くゴミ箱に戻していった。俺とフェーリン軍曹は、呆然として顔を見合わせる。

 

 あっという間に片付けを終えたドーソン准将は、空になったビニールシートを素早く巻いて抱えた。そして、再び俺達の方を向いて背筋をまっすぐに伸ばす。

 

「明日も早い。早く寝なさい」

 

 そう言うと、ドーソン准将は颯爽と調理室から出て行った。ゴミの匂いがしたビニールシートを抱えたまま、シャトルを操縦して旗艦まで帰るのだろう。狭いシャトルの操縦席は、さぞ臭うのではなかろうか。

 

「いったい、何だったんでしょうね、あの人は?」

 

 フェーリン軍曹が困り顔を崩さずにこちらを見た。

 

「わからないな。まあ、君達が悪く言われるようなことにならなくて良かった」

 

 苦笑しながら答えた。すると、フェーリン軍曹の顔がぱっと明るくなった。

 

「フィリップス少尉がいじめられないよう、みんなで頑張ったんですよ」

「ありがとう。君達が部下でいてくれて、本当に良かった」

 

 感謝の思いをありったけの笑顔に込める。こんなに良い部下が大勢いるなら、恋愛と縁がなくても構わないとちょっと思う。

 

 ドーソン准将の抜き打ち検査から一週間が過ぎた九月三〇日、第三艦隊司令部から呼び出しを受けた。第三艦隊司令官と宇宙艦隊副司令長官を兼ねるラザール・ロボス宇宙軍大将直々の呼び出しだという。第一艦隊司令官どころか、分艦隊司令官や戦隊司令官とも顔を合わせたことのない末端補給士官の俺に、あんな大物が何の用なのだろうか?

 

 不審に思いながつつも、迎えの軍用機に乗る。そして、第三艦隊司令部のあるフォンコート市へと飛んだ。




ドーソンの正確な年齢が原作二巻に書かれていました。ビュコックより一四歳若いそうです。ヤンの見立ては単なる勘違いとみなし、ver1より一〇歳ほど年長に変更します。


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第9話:エル・ファシルの英雄再び 宇宙暦791年9月30日~10月1日 第三艦隊司令部

 第三艦隊司令官と宇宙艦隊副司令長官を兼ねるラザール・ロボス宇宙軍大将は、大胆かつ迅速な用兵に定評のある名将で、オストラヴァ星域会戦、惑星タリス攻防戦、第二次パランティア星域会戦、マイリージャ星域会戦などで勝利を重ねた。持ち前の豪腕は後方勤務でも発揮され、国防委員会装備副部長を務めた時に巡航艦調達体制の改革に成功し、「ミスター・クルーザー」の異名を取った。

 

 大胆すぎて細心さに欠けると言われるが、それでもロボス大将がもう一人の副司令長官シドニー・シトレ宇宙軍大将と並ぶ同盟宇宙軍の二大名将であることを疑う者は、現時点では一人としていないはずだ。しかし、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』といった前世界の戦記では、最悪と言っていい評価を受けている。

 

「史上最も愚かな戦争は何か?」

 

 そう問われたら、宇宙暦七九一年の世界に生きる人のほとんどは、北方連合国家と三大陸合州国が争った西暦二〇三九年の一三日戦争、もしくは地球統一政府軍が暴虐の限りを尽くした西暦二六八九年の植民星戦役をあげるだろう。

 

 しかし、前の世界では、「諸惑星の自由作戦」の名のもとに行われた宇宙暦七九六年の帝国領侵攻をあげる人が最も多いはずだ。功名心に駆られた参謀の立てたいい加減な作戦を、支持率目当ての政治家が承認し、行き当たりばったりの作戦指導を行ったあげく、当時の同盟軍現役戦力の四割にあたる二〇〇〇万人を失った。何から何まで最悪だったこの戦いの総指揮をとった当時の宇宙艦隊司令長官ロボス元帥は、愚将の汚名を後世に残した。

 

「名将という現在の評価と愚将という未来の評価。どっちがロボスの本質なんだろう?」

 

 そんなことを考えつつ、執務室へと入る。広々とした執務室の奥に鎮座するロボス大将の眼には活力が宿り、口元はきりりと引き締まり、岩山のような肥満体と相まって、凄まじい貫禄を醸し出している。どこからどう見てもやり手そのものだ。

 

「宇宙軍少尉エリヤ・フィリップス、ただいま到着いたしました!」

 

 俺が名乗ると、ロボス大将はすっと立ち上がって歩み寄ってきた。一六九・四五センチの俺より二センチほど背が低いのに、全身から放つ存在感が凄まじく、巨人と相対しているような気持ちになる。

 

「よく来たな、フィリップス少尉」

 

 ロボス大将は、微笑みながら俺の肩を親しげに叩く。

 

「君のことは前から聞いていた。エル・ファシルでの活躍は言うまでもない。第七方面軍司令部で一生懸命学業や運動に取り組んだこと、幹部候補生養成所で模範学生だったこと、フィン・マックールの補給科で部下を良くまとめていること、そのすべてを知っている。一度会ってみたかった」

「小官のことをご存知だったんですか?」

 

 ロボス大将は、メディアから消えた後の俺についても、良く知っているようだ。ちょっと調べただけではわからないはずなのに、どうしてこんなに詳しいのだろう? 心の中に不審感が生じる。

 

「ワドハニ提督は古い友人でね。彼から君のことを教えてもらった」

「納得しました」

 

 ようやくロボス大将と俺を繋ぐ糸が見えた。第七方面軍の前司令官ヤンディ・ワドハニ予備役宇宙軍中将は、俺の幹部候補生養成所受験を後押ししてくれた恩人である。その友人ならば、知っていてもおかしいことはない。

 

「人を育てるのも仕事のうちだ。私は給料泥棒ではないのでね。君のような優秀な若者を見逃したりはせんよ」

「恐れ入ります」

「それにワドハニ提督からも君のことを頼まれている。五〇そこそこで引退に追い込まれた友人の頼みだ。引き受けずにはいられんよ」

「そうでしたか。何の役にも立てなかったのに、あの方は小官ごときのことを気にかけてくださったんですね」

 

 胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。あれだけ手厚い援助をもらいながら、恩返しできなかったことを後ろめたく思っていた。そんな相手がまだ心配してくれているのだ。感動せずにはいられない。

 

「あれを見たまえ」

 

 ロボス大将の太い指が壁面のスクリーンの方を向く。そこにはエルゴン星系からイゼルローン回廊に至る宙域の星図が映し出されていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「赤は同盟軍の色、青は帝国軍の色だ。エルゴンからイゼルローンに至る宙域の我が軍は、圧倒的な劣勢にある。もはやエルゴンですら絶対安全圏ではない」

「こんなに押し込まれてるんですか!?」

「三年前のエル・ファシル陥落が一つの転換点だった。エル・ファシルを無傷で手に入れた帝国軍は、大規模な艦隊基地を築き、国境宙域の制圧に乗り出した。我が軍は有人星系から住民を退避させた後に、大部隊を配備して迎え撃ったものの苦戦続きだ。エルゴン星系外周部の防衛基地群は七月に突破され、最近はシャンプール周辺宙域に敵の哨戒部隊が出現している。君が第七幹部候補生養成所を卒業してから、戦況が悪化したわけだな」

「知りませんでした……」

 

 説明を受けて、自分が世間知らずなことを改めて思い知らされた。六月までは勉強、七月からは軍務にずっと熱中していて、世間のことに関心を払う余裕がなかった。

 

「君と一緒にエル・ファシルを脱出した三〇〇万人がどうなったか、知ってるかね?」

「知らないです……」

「一部は縁故を頼って他星系に移住した。だが、ほとんどは政府が提供した仮設住宅に住み、わずかな生活支援金を頼りに暮らしている。放棄された有人星系からの避難民も同じだ。一億人近い人々がエル・ファシルから脱出した人々と同じ境遇だ。君にとっては、エル・ファシルの戦いはハイネセンに戻ったところで終わりだろう。しかし、避難民にとってはまだ終わっていないのだ」

「返す言葉もありません」

 

 頭を強く殴られたような衝撃を受けた。エル・ファシルからの脱出が成功すれば、それでハッピーエンドだと思っていたのに、それは俺一人だけのことだった。避難民には避難先での生活があるというごく当たり前のことを、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 

 エル・ファシルを脱出する間際に、エル・ファシルに戻れるかどうか心配していた赤毛の女の子に、「帰れるよ、きっと」と気休めを言ったことを思い出した。何の悪気もなかったが、この結果を考えれば、かなり残酷な言葉だったろう。自己嫌悪の気持ちが沸き上がってきた。

 

「彼らの力になりたいと思うかね?」

「なりたいです」

 

 これを知って思わないと言えたら、それは人でなしだ

 

「我が軍は来月より反攻を開始する。彼らのために故郷を取り戻す戦いだ。君にも参加してもらいたい」

「小官が参加するのですか?」

「我が軍は、反攻作戦への参加を希望するエル・ファシル避難民五〇〇〇人を義勇兵として受け入れ、エル・ファシル義勇旅団を結成する」

 

 そこで一旦ロボス大将は言葉を切り、俺の顔をまっすぐに見据える。

 

「指揮官は君だ! エル・ファシルの英雄エリヤ・フィリップス! 君がエル・ファシルを取り戻すのだ!」

 

 ロボス大将が発した言葉は、電光となって俺の体を貫く。

 

 エル・ファシル義勇旅団!

 エル・ファシルを取り戻す!

 

 その言葉の一つ一つが心地良い興奮をもたらす。しかし、決して魅入られてはならない。俺は任官して間もない一介の補給士官であって、英雄譚の主人公ではないのだ。落ち着け、エリヤ・フィリップス。分をわきまえろ。

 

「小官は少尉になったばかりです。兵を指揮したこともありません。小隊長なら引き受けますが、旅団長のような大任は受けかねます」

 

 ほんの一瞬だけロボス大将は意外そうな表情を見せたが、すぐに元に戻る。

 

「志願者がエル・ファシルの英雄に指揮をとってほしいと要望しているのだ。不安を感じるのは理解できる。だが、そこで不安を感じるような者こそ指揮官にふさわしい。なぜなら、それだけ真摯に考えているからだ。野心が先走っていい加減に取り組むような者には、五〇〇〇人の命は任せられん」

 

 俺のような人間こそ指揮官にふさわしいと、ロボス大将は言う。心がぐらぐらと揺れたものの、エル・ファシルの英雄はもう一人いることを思い出し、辛うじて踏み留まる。指揮能力ならば、同盟軍、いや全宇宙でも彼の右に出る者はいないはずだ。

 

「エル・ファシルの英雄なら、ヤン・ウェンリー少佐がいらっしゃいます。あの方こそ義勇旅団長にふさわしいのでは」

「自分の意思で故郷を取り戻す戦いに志願した義勇兵。彼らを指揮するのは、自分の意思でエル・ファシルに残った君でなければならない。君以外の指揮官は考えられん。志願者に代わってお願いしたい。義勇旅団の指揮をとってくれないか?」

 

 暖かく力強い声が心に染み入っていく。彼のような偉い人がここまで評価してくれるのに、断っていいものだろうか? それにワドハニ中将のこともある。迷いがさらに大きくなっていく。

 

「指揮官の資格とは何か!? それは信頼だ! 部下が付いてくるかどうか、それだけが問題なのだ! 経験の欠如はとるに足らない! エル・ファシルの人々が命を預けるのは誰か!? それは英雄エリヤ・フィリップスだ! 幕僚はこちらで用意する! 君にできないことはすべて彼らがやる! 経験不足を恐れる必要はない!」

 

 ロボス大将は一つ一つの言葉を短く区切って力を込める。

 

「高校の劣等生が一年で士官学校合格レベルの学力を身につけ、幹部候補生養成所ではベテラン下士官達と競い合って上位で卒業し、フィン・マックールでは見事に部下の心を掴んでみせた。君は常に努力で不可能を可能にしてきた。高校にいた時の君は、少尉となった自分を想像していたかね?」

「いえ、想像していませんでした」

「今の君が五〇〇〇人を指揮する自分を想像できないのは、当然のことだろう。なぜなら、まだ努力を始めていないからだ。しかし、一か月後の君にとっては、それは単なる日常になっているに違いない。私はそう信じている」

 

 彼は俺がどれだけ努力してきたかを良く知っている。その上で「できる」と保証してくれる。ここまで期待されて断るなど、さすがにできなかった。

 

「わかりました。引き受けさせていただきます」

「良く言ってくれた。エル・ファシルのみんなもきっと喜ぶ」

 

 ロボス大将はにっこり笑い、俺の肩をポンポンと叩く。

 

「微力を尽くさせていただきます」

 

 同盟軍の重鎮にして、恩人の友人でもある人ができると言ってくれた。期待に背かないように頑張ろう。そう心に誓った。

 

 

 

 エル・ファシル義勇旅団長を引き受けた翌日、俺はフィン・マックールの補給科から第三艦隊司令部に出向して、そこからさらに義勇旅団に出向することとなった。

 

 最初、ロボス大将は、第三艦隊司令部の経理部にポストを用意し、そこから義勇旅団に出向する形にすると言った。一〇〇万人以上の隊員を抱える正規艦隊の経理部は、仕事の質量ともに大企業の経理部に匹敵すると言われ、士官学校を出ていない補給士官にとっては、出世コースと言っていい。だが、俺の心はフィン・マックールにある。戦いが終わったら戻りたいと強く要望した結果、籍を残したままで二重の出向をする形になったのだ。

 

 第一艦隊司令部人事部で出向の辞令を受け取った後、軍用機でフィン・マックールが停泊しているランゴレン軍用宇宙港に向かい、補給科のみんなに一時的な別れを告げた。

 

「なるべく早く戻ってきなさい」

 

 補給長タデシュ・コズヴォフスキ大尉の「戻ってきなさい」という言葉は、簡潔であったが、どんな美辞麗句よりも心を揺さぶる。

 

「義勇旅団にいる間に痩せたらいけません。少ないですが、これを持っていってください」

 

 補給主任ポレン・カヤラル准尉は、お菓子がぎっしり詰まったでかい袋を三個もくれた。世話焼きの彼女は、俺が痩せているのを「ろくに食事しないから」と勘違いして、これ以上痩せないようにといつも食べ物をくれるのだ。

 

「少尉に心配を掛けないよう、しっかりやりますよ」

 

 補給主任シャリファー・バダヴィ曹長は、胸を張って約束してくれた。部下に心配をかけているのは、いつも俺の方だったのに。

 

「そ、そんな……」

 

 五歳下の少女志願兵ミシェル・カイエ一等兵は、この世の終わりのように沈みきっていた。根っから仕事好きの彼女は、いつも残業を手伝ってくれるのだが、礼を言うと「いいんです! 好きでやってるんです!」と顔を真赤にして大声で否定する。仕事のできない俺が職場を離れて、残業ができなくなるのが寂しいのだろう。「帰ったらまた手伝ってもらうよ」と必死でなだめた。

 

 俺と同い年のベテラン志願兵エイミー・パークス上等兵は、何も言わずに泣き出した。彼女は大人びた容姿の持ち主なのに、いつもテンションが高く、子供のように良く笑い良く喋る。テンションの高さに引いてしまうことがある。笑顔が良く似合うというか、笑顔しか見せたことがない彼女が初めて見せる涙に驚いた。

 

 研修に行っていた給食主任アルネ・フェーリン軍曹ら数名とは会えなかったが、それ以外の者とは別れを済ませて心残りが無くなった。

 

 別れの次には、出会いがやってくる。軍用機に乗って再びフォンコート市に飛び、第三艦隊司令部に到着すると、ロボス大将から義勇旅団の幹部を紹介された。

 

「こちらの女性は、民間人代表として副旅団長を引き受けてくれるマリエット・ブーブリル予備役宇宙軍伍長だ。民間人といっても、実戦経験は職業軍人に勝るとも劣らない。兵役に行って陸戦隊の従軍看護師として活躍し、名誉戦傷章や青銅五稜星勲章も受章した愛国者の中の愛国者だ」

 

 除隊時に予備役伍長の階級を得た徴集兵、名誉戦傷章や青銅五稜星勲章の持ち主と聞けば、誰もが勇猛な兵士を思い浮かべるだろう。しかし、マリエット・ブーブリル副旅団長は、とてもきれいな女性だった。年は俺より二つか三つ上ぐらいだろうか。病的なまでに白い肌、長いまつ手、切れ長の瞳、肉付きの薄い唇、艶やかな黒髪は儚げな印象を与える。小柄で華奢な体は、触ったら壊れてしまいそうだ。守ってあげたくなるような感じで、勇猛な兵士とは真逆の存在に見える。

 

「フィリップス旅団長、よろしくお願いします」

 

 ブーブリル副旅団長は、微笑みながら右手を差し出してきた。手袋をはめているのが気になったが、表情には出さずに手を握り合わせる。

 

「こちらこそよろしくお願いします、ブーブリル副旅団長」

 

 硬い物を握っているような感触に違和感を覚えつつ、笑顔を作る。

 

「ああ、右手のことなら気になさらないでください。これ、義手なんですよ。機関銃で吹き飛ばされまして」

 

 ブーブリル副旅団長は微笑みを崩さずに説明する。俺は慌てて頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

「お気になさらないでください。私にとっては栄光の証なのですから」

 

 何のこだわりもないブーブリル副旅団長の態度は、説明された通りの人間であることを教えてくれる。外見からは想像もつかない猛者のようだった。

 

 後で聞いたところによると、ブーブリルの右足も義足だった。年齢は俺より二歳か三歳ぐらい上と思っていたのに、実際は九歳上の三二歳で三人の子を持つ既婚者。要するに俺の第一印象は、完全に間違っていた。

 

「彼は宇宙軍大佐のカーポ・ビロライネン君。士官学校を出てから、ずっと私の司令部で働いてきた。義勇旅団では首席幕僚を引き受けてくれる。まだ三〇歳と若いが能力は抜群だ。実務は彼に任せれば心配ない」

 

 首席幕僚カーポ・ビロライネン宇宙軍大佐は、鋭角的な顔つきと強い眼光が印象的で、見るからに優秀そうに見える。あの「切れ者ドーソン」よりもずっと切れ者っぽい。

 

「小官の母方の曾祖母はエル・ファシル出身です。曾祖母の故郷は小官にとっても故郷同然。共に戦いましょう」

 

 台本を読み上げるかのような口調は、ビロライネン大佐の志願理由が曾祖母の縁ではなく、ロボスとの縁であることを教えてくれた。

 

 首席幕僚ビロライネン大佐の下に、五人の主要幕僚がいる。人事主任シー・ハイエン宇宙軍少佐、情報主任クラーラ・リンドボリ宇宙軍大尉、作戦主任ゲロルト・トラウトナー宇宙軍少佐、後方主任ニーニョ・アマドル宇宙軍少佐、、旅団最先任下士官アーマン・ウェルティ宇宙軍准尉らは、みんなエル・ファシル出身の陸戦隊員だ。

 

 エル・ファシル義勇旅団の中核となるのは、軽編成(二個大隊編成)の三個義勇陸戦連隊で、それを率いる第一義勇連隊長のオタカル・ミカ義勇軍中佐、第二義勇連隊長のリディア・バルビー義勇軍中佐、第三義勇連隊長のボリス・ソドムカ義勇軍中佐らは、みんなエル・ファシルの名士だ。大隊長、中隊長、小隊長などもみんな民間人から起用され、部隊幕僚として配置されたエル・ファシル出身の軍人が補佐にあたる。

 

 義勇旅団には、前の世界で聞いた名前は一人もいなかった。名前が残っているエル・ファシル人といえば、独立政府主席フランチェシク・ロムスキーくらいのものであるが、義勇旅団には参加していない。年齢と立場からすると、ビロライネン大佐あたりは七九六年から始まったラインハルト戦争時代には働き盛りのはずなのに、名前は残っていなかった。

 

 戦記や伝記の類が詳しく記しているのは、二大英雄のヤン・ウェンリーとラインハルト・フォン・ローエングラムに関わりの深い事柄に限られる。そういったものと関係のないところでも、歴史は動く。彼らの動向ばかり気にするより、目前の相手としっかり向き合うことが大事だと感じる。

 

 しかし、俺はあっという間に自分の決意を裏切った。世の中には向き合いたくない相手というものもいる。

 

「士官学校を首席で卒業したアンドリュー・フォーク君が、義勇旅団長補佐を引き受けてくれる。わかりやすく言えば、秘書といったところだな」

 

 アンドリュー・フォーク宇宙軍中尉は、同性の俺ですら惚れ惚れするほどに爽やかだった。年齢は俺より二歳下で、均整の取れた長身、きれいに切り揃えられたライトブラウンの短髪、血色の良い肌は、スポーツ選手のような印象を与える。目鼻立ちは多少整いすぎているが、穏やかな眼差しと優しそうな口元のおかげで雰囲気が和らげられていて、程良い清冽さを醸し出す。

 

「はじめまして。アンドリュー・フォーク中尉と申します。曽祖父の姉の夫がエル・ファシル出身でした。エル・ファシルの英雄とご一緒できて光栄です」

 

 フォーク中尉は人好きのする微笑みを浮かべながら、右手を差し出してきた。俺も右手を差し出して握手を交わす。手の大きさと温かさが印象的だ。

 

 第一印象はブーブリルやビロライネン大佐よりもずっと良かった。いや、今の世界にやってきてから出会った誰よりも良かったと言っていい。それでも、引っかかりがある。アンドリュー・フォークという名前は、前の世界では悪い意味で有名だったからだ。

 

 前の世界のフォークは功名心に取りつかれ、天才ヤン・ウェンリーとの出世競争に勝つために、帝国領侵攻計画「諸惑星の自由作戦」を立案した。その作戦は杜撰そのもので、後世の戦記作家から、「幼稚園児でも欠点を見抜ける」と嘲笑された代物だ。いざ作戦が始まると、補給を理解せずにひたすら前進させるだけの作戦指導で全軍を壊滅に追いやった。軍を追放された後は、二度のテロ未遂を起こし、恥の上塗りをした。

 

 人格も最悪だった。上昇志向や自尊心が強いくせに、知能は劣悪で補給の概念すら理解してすらいない。人を批判するのは大好きなくせに、自分が批判されるとヒステリーを起こし、自分がヤン・ウェンリーを凌ぐ大天才という妄想にとらわれてテロに走る。狂人としか言いようが無い。ある戦記作家は「このような人間が入学できる時点で、同盟軍士官学校は小学校にも劣ると断言できるのである」と述べた。

 

 ヤンやラインハルトに視点が偏りすぎていると、戦記作家を批判する者でも、フォークの愚劣さは認めざるを得ないと思う。誰が見ても弁護の余地が無い歴史上の大罪人。それがアンドリュー・フォークという人物だ。

 

 しかし、俺の目の前に現れたフォーク中尉は、とんでもなく爽やかな好青年だった。同姓同名の別人かと思ったが、士官学校を首席で卒業したアンドリュー・フォークという名前の人物が、二人もいるとは考えにくい。ならば、爽やかさの中に狂気を秘めているということなのだろうか?

 

 俺の知識はその推測を否定する。戦記の金字塔『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』、帝国領侵攻作戦について書かれた『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』、フォークを追い詰めたアレクサンドル・ビュコックの伝記『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』などに描かれたフォークは、まさに狂人そのもので、狂気を隠して正常者のように振る舞えるとは思えない。

 

 目の前の好青年とどう接すればいいのだろうか? 別の名前だったら、何の迷いも無く受け容れられたのに。やり直す前の記憶が彼を受け入れる邪魔をしているのか、それとも「目の前の好青年に騙されるな」と警告してくれているのか、にわかに判断がつきかねた。

 

 

 

 ひと通り義勇旅団の幹部を紹介された後、俺はロボス大将の執務室を出て、士官食堂へと向かった。歩いてる間もひたすら考え続けた。

 

「どうかしましたか?」

 

 澄んだ声が俺の思考を中断した。俺の左隣にはフォーク中尉が立っている。意表を突かれて、混乱してしまった。

 

「い、いや、なんでもない」

 

 みっともないぐらいに声が上ずる。史上最悪の狂人と一対一で落ち着いて会話するなど、俺の小さな胆には荷が重すぎる。

 

「そうでしたか。旅団長はこれからお食事にいらっしゃるんですよね?」

「まあ、そうだね。まだ昼食を食べてないし」

「うちの士官食堂のパンケーキはおいしいですよ。旅団長はホイップクリームを乗せるのが好みと聞いておりますが、うちのシロップは特製です。一度試してみてはいかがでしょうか?」

「なぜ俺の好みを知っているんだ?」

「フィリップス旅団長にお仕えするにあたって、いろいろと調べさせていただきました」

「そ、そうか」

 

 幼稚園児以下の知能と戦記作家に罵倒された人物が、ここまで細かく下調べをしていたことに驚く。

 

「クレープはどれもいまいちです。あまりお勧めできません」

「それは残念だ」

 

 なんか普通に会話が成立している。しかも親切だ。マイナス固定されていた心の中の好感度メーターが、少し揺れ始めた。

 

 会話が途切れた後もなぜかフォーク中尉は俺の横を歩く。トイレに入る時も着いてくる。いったいどういうことだろうか?

 

「フォーク中尉」

「はい」

「どうして貴官は俺に着いてくるんだ?」

「補佐ですから」

 

 フォーク中尉は真っ白な歯を見せて爽やかに微笑む。俺もつられて微笑んでしまう。心の中の好感度メーターの揺れがちょっと大きくなった。

 

「旅団長補佐といえば、秘書のようなものだからな。それなら着いてくるのが当然だ」

 

 結局、俺はフォーク中尉と一緒に士官食堂に入り、昼食を共にすることになった。史上最悪の狂人と一緒に食事をするなど、ほんの数時間前までは想像もしなかった展開である。

 

 シーフードドリア二皿、サンドイッチ三個、ビーフシチュー一皿、レンズ豆のサラダ二皿、ビーフハンバーグ一個を食べ終えた俺は、デザートを注文した。五分もしないうちにクレープ四皿、ラージサイズのパンケーキ二皿、ハーフサイズのパンケーキ一皿がテーブルの上に並ぶ。ハーフのパンケーキ以外は、すべて俺が食べる分だ。

 

 最初にクレープに口をつけた。ホイップクリーム、チョコレート、チョコバナナ、バナナホイップの順に食べる。生地がパサパサしててあまりおいしくない。

 

「フォーク中尉、貴官のアドバイスは正しかった」

 

 俺は渋い顔でフォーク中尉の正しさを認めた。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 なぜかフォーク中尉は、恐縮気味に返事をする。実直を絵に描いたような反応をされると、戦記の方が間違ってるんじゃないかと思えてきて、心の中の好感度メーターが激しく揺れ動く。

 

 次はパンケーキだ。二皿のうち、片方にホイップクリームを乗せ、もう片方にメイプルシロップをかけて食べる。パンケーキはふわふわしていて、とてもおいしく、軍の食堂とは思えないクオリティだ。ホイップクリームはもちろん、メイプルシロップとも良く合ってる。

 

「フォーク中尉、貴官のアドバイスは正しかった。メイプルシロップも良いものだね」

 

 俺は満面に笑みをたたえて、フォーク中尉の正しさを認めた。

 

「お、お役に立てて何よりです!」

 

 フォーク中尉は心から嬉しそうに笑った。こんなに人の良さそうな奴を嫌ったら、自分が悪人のように思えてくる。

 

 良く考えたら、俺がフォーク中尉を嫌うべき理由は何一つ無かった。前の世界とこの世界がまったく同じでないのは、今の自分を見ればわかる。この世界で何も悪いことをしていない人間を、前の世界での悪事を理由に嫌うのが正当ならば、俺だって嫌われるべき人間であろう。窃盗や麻薬の常習者で、一度は人をこ……。いやいや、俺のことはどうでもいい。とにかく、俺が彼を嫌うのは不当なのだ。

 

 前の世界のことを度外視すれば、目の前にいる人物はとても爽やかな好青年で、デザートについてアドバイスもしてくれた。要するに良い奴である。そう判断を下した瞬間、揺れていた好感度メーターがプラスに振りきれた。

 

「アンドリュー・フォーク中尉、改めてよろしく」

「はい! 頑張ります!」

 

 俺とフォーク中尉はガッチリと握手を交わす。新しい出会いはエル・ファシル義勇旅団の明るい未来を予感させてくれた。



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第10話:英雄の舞台裏 宇宙暦791年10月2日~10月下旬 フォンコート宇宙軍基地

 ラウロ・オッタヴィアーニ国防委員長、宇宙艦隊司令長官シモン・アンブリス宇宙軍大将らは、一〇月二日に国防委員会庁舎で記者会見を開き、反攻作戦「自由の夜明け」の実施を発表した。宇宙軍主力の宇宙艦隊の半数にあたる六個艦隊、地上軍主力の地上総軍の半数にあたる四個地上軍という大戦力を動員し、エルゴン星系からイゼルローン回廊に至る宙域の奪還を目指す。

 

 遠征軍総司令部は、第七方面軍司令部のある惑星シャンプールに置かれる。宇宙艦隊司令長官シモン・アンブリス宇宙軍大将が総司令官に就任し、宇宙艦隊総参謀長レナート・ヴァシリーシン宇宙軍中将が総参謀長となり、中央兵站総軍司令官シンクレア・セレブレッゼ宇宙軍中将が後方支援を統括する。

 

 エルゴン星系からイゼルローン回廊に向かう航路には、ドラゴニア星系を経由するドラゴニア航路とパランティア星系を経由するパランティア航路がある。遠征軍実戦部隊は、ドラゴニア航路を攻略するドラゴニア方面軍とパランティア航路を担当するエル・ファシル方面軍に二分され、二方向からイゼルローン回廊へと向かう。

 

 ドラゴニア方面軍には、第二艦隊・第八艦隊・第一〇艦隊の三個艦隊四万〇二〇〇隻、第三地上軍・第七地上軍の二個地上軍二〇三万人が配属される。宇宙艦隊副司令長官と第二艦隊司令官を兼ねるシドニー・シトレ宇宙軍大将が方面軍司令官及び宇宙部隊司令官、第三地上軍司令官レミジオ・ジョルダーノ地上軍中将が方面軍副司令官及び地上部隊司令官、第二艦隊参謀長ネイサン・クブルスリー宇宙軍少将が方面軍参謀長を務める。

 

 エル・ファシル方面軍には、第三艦隊・第五艦隊・第一二艦隊の三個艦隊三万九六〇〇隻、第四地上軍・第五地上軍の二個地上軍二〇八万人が配属される。宇宙艦隊副司令長官と第三艦隊司令官を兼ねるラザール・ロボス宇宙軍大将が方面軍司令官及び宇宙部隊司令官、第四地上軍司令官ケネス・ペイン地上軍中将が方面軍副司令官及び地上部隊司令官、第三艦隊参謀長イアン・ホーウッド宇宙軍少将が方面軍参謀長を務める。

 

 また、第一四方面軍と第二二方面軍が側面から支援攻撃を行い、回廊出口付近の勢力混在地域にある同盟軍基地の支援、イゼルローン要塞とドラゴニア方面及びパランティア方面の連絡路妨害を行う。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 作戦の概要、遠征軍の陣容などが発表された後、エル・ファシル方面軍司令官ロボス大将がマイクを握る。

 

「皆さんは三年前にエル・ファシルを脱出した三〇〇万人の市民を覚えておいででしょうか? 彼らは自らの手で故郷を取り戻すべく立ち上がり、義勇部隊を結成しました。その名はエル・ファシル義勇旅団!」

 

 エル・ファシル義勇旅団の名を口にしたロボス大将は、一旦言葉を切った。会場は静まり返り、報道陣は固唾を呑んで次の言葉を待つ。しばしの沈黙の後、ロボス大将は再び口を開いた。

 

「エル・ファシル義勇旅団に結集した市民五一四八名が選んだ指導者は、エル・ファシルの英雄エリヤ・フィリップス義勇軍大佐! 三年前に奇跡を起こした若き英雄が、再びエル・ファシルに降り立つのです!」

 

 会見場の片隅にいた俺にスポットライトが当たる。報道陣は静まり返ったままだったが、みんな顔を紅潮させ、秒を追うごとに会場の気温が上昇していく。

 

「エリヤ・フィリップスを補佐するのは、愛国者マリエット・ブーブリル義勇軍中佐! 味方の命を救うために戦った『戦場の白い天使』が、今度は故郷を取り戻す戦いに身を投じました!」

 

 今度は俺の隣にいたブーブリル副旅団長にスポットライトが当たった。ネイビーブラックのスーツを身にまとった清楚な美人の登場に、会場の興奮はさらに高まる。

 

「エル・ファシル義勇旅団は、数で言えば一個旅団に過ぎません。しかし、戦いは数で決まるものではないということを、歴史は教えてくれます。六四〇年のダゴン、六九六年のシャンダルーア、七二八年のフォルセティ、七四二年のドラゴニアにおける偉大な勝利は、敵より少ない兵力で成し遂げられました。真に戦いを決するのは、精神の力であります、西暦時代の用兵家ナポレオン・ボナパルトは、『精神の力は物量に三倍する』と語りました。これは古今東西に共通する不変の戦理です」

 

 ロボス大将の低い声は荘重な響きをもって会場に轟き渡る。みんな興奮しているのに、一言も声を発しようとしない。

 

「エル・ファシル義勇旅団には、故郷を取り戻したいという情熱があります。その精神力は督戦隊に脅されて仕方なく戦う敵兵の一〇〇倍、いや一〇〇〇倍に匹敵します。エル・ファシル義勇旅団は、必ずや敵を打ち破るでしょう。エル・ファシル奪還作戦の主役は彼らです。我々エル・ファシル方面軍はその手助けをいたします。義勇旅団の戦いに皆様の応援をいただけるよう、お願い申し上げます」

 

 スピーチが終わると同時に、会場は割れるような拍手に包まれた。これが軍人の記者会見なのかと思ってしまう。まるで政治家の演説会ではないか。いや、政治家でもこんなに演説がうまい人は少ない。

 

 前の世界でも、同盟末期の最高指導者トリューニヒト、八月党のアッテンボロー、バーラト立憲フォーラムのシャノン、臣民党のトゥルナイゼンと並ぶのではないか。後世では愚将の一言で片付けられたロボスの知られざる側面を見る思いがする。

 

 再び俺にスポットライトが当たり、マイクが手渡された。記者会見で喋るなんて三年ぶりだ。覚悟はしていたはずなのに、緊張で体が固まる。司会者に発言を促されて重い口を開いた。

 

「義勇旅団長に就任したエリヤ・フィリップス大佐です。エル・ファシルの皆様と一緒に戦う機会をいただけて有難いと思うと同時に、五一四八名の命を預かる責任を痛感しております。今年の七月に幹部候補生養成所を出たばかりで、まだまだ未熟な私ですが、皆様の期待に背かないよう全力で取り組む所存です」

 

 スピーチライターが書いた原稿通りに喋り、最後にペコリと頭を下げた。再び会場は拍手に包まれる。俺は世間から忘れられた存在で、スピーチも独創性に欠ける優等生的な内容なのに、どうしてこんなに盛り上がるのか。少し戸惑いを覚える。

 

 俺の次はブーブリル副旅団長にスポットライトが当たった。彼女はマイクを受け取ろうとせず、左手で右肩を触る。やがてカチッという音が聞こえ、右手の義手が外れた。

 

 ブーブリル副旅団長は何も言わずに、スーツの右袖から義手を抜き取った。そして、優しげな微笑を浮かべながら、左手で義手を高々と掲げる。会場に集まった人々が唖然とする中、息の詰まるような時間が流れた。しばらくしてブーブリル副旅団長は義手を下ろし、マイクに持ち替える。

 

「皆さん、はじめまして。副旅団長のマリエット・ブーブリル義勇軍中佐です。兵役時代は陸戦隊の看護師となり、戦場で右腕と右足を失い、除隊後は故郷のエル・ファシルで就職いたしました。結婚して三人の子供にも恵まれております。腕と足を失ってから一一年が過ぎましたが、不自由だと感じたことは一度もありません。義肢に付け替えれば、仕事も子育てもできるのですから」

 

 微笑を浮かべたまま自己紹介するブーブリル副旅団長に、会場はすっかり圧倒されてしまっている。

 

「私達エル・ファシル人は、三年前に故郷を奪われました。エル・ファシルが専制政治の支配下にあるかぎり、永久に避難生活を続けることになるでしょう。故郷は手足と違って付け替えることはできないのです」

 

 涙を浮かべることも叫ぶことも、ブーブリル副旅団長はしなかった。繊細な美貌に微笑みを浮かべながら、淡々と語り続ける。抑制されているからこそ、聞く者の心に深く刻み込まれていく。

 

「仮設住宅で故郷を懐かしむより、故郷を取り返すために死にたいと思い、私達は立ち上がりました。エル・ファシル義勇旅団に皆様の力をお貸しください」

 

 ブーブリル副旅団長が深々と頭を下げると同時に、会見場を拍手の大波が飲み込んだ。俺も手が痛くなるぐらい力を入れて拍手した。エル・ファシルを取り戻すために戦いたい。そんな気持ちがどんどん膨らむ。

 

 記者会見は大成功に終わった。夕方のニュース番組は、エル・ファシル義勇旅団について大きく報じ、エル・ファシル奪還作戦を聖戦と呼んだ。

 

 

 

 会見翌日から義勇旅団長としての仕事が始まった。テレビ番組に出演し、新聞や雑誌の取材を受け、パーティーに出席した。要するに広報活動である。

 

「広報活動ばかりじゃないですか。部隊を指導する時間が取れないですよ」

 

 俺のスケジュール表には、広報活動の予定がぎっしり詰まっている。スケジュールを作った義勇旅団首席幕僚ビロライネン義勇軍中佐は、柔らかさのかけらもない表情になる。

 

「エル・ファシル義勇旅団は、避難民が自主的に結成した義勇部隊の集合体。大隊単位や中隊単位での部隊単位の訓練は、数か月前から始まっています。あなたが心配なさらずとも、部隊運営に問題はありません。旅団長たるあなたは、義勇部隊の盟主のようなもの。しばらくは部隊の顔としての仕事に専念なさってください」

「でも、俺はみんなに選ばれた指揮官です。部隊を放ったらかしにして、外に出るわけにはいきません」

「部下を信じるのも指揮官の仕事。下手に動きまわっては威厳を損ないます」

「はい。わかりました」

「あと、私には敬語を使わないように。人に聞かれたらどうするのですか? あなたは私の上官なのですぞ?」

 

 ビロライネン首席幕僚の鋭い目がじろりと俺を見据える。

 

「でも、何かやりにくく感じるんですよね。階級も年齢も実績もすべてあなたの方が上じゃないですか」

 

 曖昧な笑みを浮かべながら答える。自分よりずっと貫禄がある首席幕僚を前にすると、気の小さい俺は本能的に遜ってしまうのだ。

 

「義勇軍ではあなたが大佐、私は中佐です」

「それはそうですが……」

 

 言葉に詰まった。義勇旅団が結成された時に、俺は義勇軍大佐、ビロライネン首席幕僚は義勇軍中佐の階級を得た。だが、義勇軍の階級など一時的なものに過ぎない。三〇歳の正規軍大佐を部下扱いするなんて、任官して間もない少尉の俺には無理だ。

 

「上下の区別はしっかりしていただきたい。威厳が損なわれますぞ」

 

 ビロライネン首席幕僚は俺をじろりと睨み、目で「そんなことも分からないのか」と語る。損なわれるような威厳なんて俺にはもともと無いが、それは怖くて口に出せなかった。

 

 怖い首席幕僚から逃げるようにスケジュール表を見る。一〇時から国防委員会の行事に出席し、正午からオッタヴィアーニ国防委員長と昼食を共にし、一三時から一四時三〇分までは女性誌のインタビューを受ける。これは問題ない。しかし、一五時から二〇時までずっとブーブリル副旅団長と一緒だ。あっという間に気分がどん底まで落ち込む。

 

「またあのチビと一緒なの!?」

 

 廊下から毒々しい声が聞こえてきた。ブーブリル副旅団長だ。体中の血液が恐怖で凍りつく。

 

「困ったものだ……」

 

 ビロライネン首席幕僚が苦々しげに呟き、部屋から出て行った。これから何が起きるかは火を見るよりも明らかだ。頭が痛くなる。

 

「副旅団長!」

 

 開け放しのドアから、ビロライネン首席幕僚がブーブリル副旅団長を呼び止めるのが聞こえた。

 

「なに!?」

 

 ブーブリル副旅団長はトゲだらけの声で応じる。だが、ビロライネン首席幕僚は怯まない。

 

「人前では言葉を慎んでいただけませんか? 副旅団長が公然とそんなことをおっしゃったら、上下のけじめがつかなくなります」

「チビをチビと言って何が悪いの!? 私に嘘をつけって言うつもり!?」

「フィリップス旅団長はあなたの上官です。相応の敬意を払うべきでしょう。軍隊におられたあなたには、説明するまでもないと思いますが」

「上官づらするにも資格ってもんがあるでしょ!? 子供みたいなチビを上官と呼べなんて、冗談はほどほどにしなさいよ!」

 

 ドアの外では、荒れ狂うブーブリル副旅団長と冷水をかけるビロライネン首席幕僚の争いが続いている。気の小さい旅団長は二人の視界に入るのが怖くて、ドアを閉めに行けなかった。

 

 美貌の副旅団長と一緒に広報活動をやると最初に聞かされた時は、心の中で歓声をあげた。しかし、彼女は清楚な外見からは想像もつかないほどに気性が激しく、華奢な体のどこにそんなパワーがあるのかと思えるほどに良く怒り、形の良い唇からはきつい言葉がぽんぽん飛び出してくる。陸戦隊は荒っぽい人が多いと評判だが、まさか看護師まで荒っぽいとは思わなかった。しかも軍歴もあちらの方がはるかに上だ。

 

 恐れをなした俺は、ブーブリル副旅団長を怒らせないように心がけた。そこがかえって怒りに触れてしまったらしい。また、強い酒をストレートでグイグイ飲む酒豪の彼女から見れば、童顔で甘党の俺は子供同然のようだった。今では俺を「あのチビ」と呼んで、完全に見下している。

 

 エル・ファシル義勇旅団の公式サイトでは、俺とブーブリル副旅団長は親友同然の仲という設定だ。トップページには、「今日の旅団長と副旅団長」と題されたツーショット写真が毎日更新で掲載され、マスコミの前では設定通りの仲良しアピールを求められる。それがまた俺達の関係をこじれさせた。

 

「今日のミセス・ブーブリルは一段と清らかであった」

 

 そんな呑気なことを言ってるのは、俺が士官になるきっかけを作ってくれたエーベルト・クリスチアン地上軍少佐だった。顔を合わせる機会はないが、たまに携帯端末やテレビ電話で会話をする仲である。

 

「ミセス・ブーブリルが光り輝いているのは、愛国心ゆえなのだ。貴官も見習わねばならんぞ」

 

 通信画面のクリスチアン少佐は、感に堪えないといった顔をしていた。勇気と愛国心を基準に他人を評価する彼から見れば、戦場の勇士にして三児の母であるブーブリル副旅団長は、容姿に関係なく素晴らしい女性なのだ。

 

「は、はい!」

「愛国者は兵士であると同時に親でなければならん。国家のために良い子供を育てるのも市民の義務だからな。小官は二三歳の時に結婚した。貴官も今年で二三歳だ。そろそろ結婚を考えても良かろう」

 

 リベラル派が聞いたら怒り出しそうな人生観を、クリスチアン少佐が語る。

 

「それはそうなんですが、相手がいないんですよ」

 

 決してごまかしているわけではない。この世界にやってきた時から、ずっと幸せな家庭を作る夢を持っていた。俺の両親が結婚したのは、父が二二歳、母が二一歳の時だ。同年代の者も三人に一人はとっくに結婚してる。結婚したい気持ちはあるのだ。

 

「貴官ならその気になればすぐ見つかるだろう」

「付き合えれば誰でもいいというわけにはいきませんよ。結婚は一生の問題ですから」

「慎重なのは良いが、婚期を逃してはならんぞ」

「気をつけます」

 

 綺麗事でごまかした。本当は誰でもいいのだが、残念なことに俺と付き合いたいと言う女性はいないのだ。

 

「まあ、今は戦いに集中すべき時だ。貴官とミセス・ブーブリルが力を合わせて戦えば、専制国家の軍隊などたやすく蹴散らせるであろう。期待しているぞ」

「頑張ります……」

 

 俺は曖昧に返事した。あえてクリスチアン少佐の中のブーブリル像を壊す気は無かったが、追従する気も無かった。

 

「まあ、あのおばさんは最終兵器だからねえ」

 

 ブーブリル副旅団長を「おばさん」と呼ぶのは、彼女より実年齢では三歳若く、外見年齢はだいぶ上に見えるイレーシュ・マーリア宇宙軍少佐だった。反攻作戦の準備で忙しいにも関わらず、こまめに通信を入れてくれる。

 

「最終兵器ですか?」

「清純そうな外見、輝かしい戦歴、看護師、三児の母。年齢も三〇過ぎてるでしょ? 保守的なおじさんやおばさんに受ける要素を全部持ってるよね。ロボス提督と一緒に義勇旅団を支援してるオッタヴィアーニ国防委員長は、国民平和会議でも特に保守寄りでしょ? 支持者受けする人材を選んだのよ」

「ああ、なるほど。美人とはいえ、三〇過ぎの既婚者を起用する理由がようやく分かりました」

 

 さすがはイレーシュ少佐だ。美人だが若者受けが悪そうなブーブリル副旅団長が起用された理由を、馬鹿な俺にもわかりやすく教えてくれた。要するに保守的な中高年の男女に支持されるキャラクターらしい。

 

「で、女性向けの最終兵器が君。童顔だけど美男子ではない。細身だけどひ弱ではない。優等生だけど単純そう。体育会系だけど汗臭くない。アイドルなんかよりも身近な感じがする。人気の出る要素を全部持ってる」

「俺はそんなキャラじゃ……」

「そんなキャラなんだよ、君は」

 

 イレーシュ少佐は俺の反論をぴしゃりとはねつけた。

 

「もともとはブーブリルおばさんが義勇旅団の旅団長になる予定だったそうよ。だけど、あのキャラクターなら保守層以外には受けない。もともとの知名度も低すぎる。そんな理由で反対意見が出て、義勇旅団プロジェクトは中止になるところだったの。知名度のある君に旅団長を替えて、やっと予算がおりたんだって」

「ほ、本当ですか!?」

 

 思いっきり目を丸くした。そんな話は初耳だった。ロボス大将は「志願者が君を選んだ」と言ったではないか。

 

「オリンピアから流れてきた話だよ。それも複数のルートからね」

 

 イレーシュ少佐はオリンピアの名前を口にした。ハイネセンポリス都心部から一〇〇キロほど離れたオリンピア市には、統合作戦本部、宇宙艦隊総司令部、地上軍総監部、後方勤務本部を始めとする同盟軍の中枢機関が立ち並び、軍中央の代名詞だった。

 

「オリンピアなんかに知り合いがいらっしゃるんですか?」

「一応士官学校出てるからね。仲の良かった同期の何人かは、オリンピアに勤めてんのよ」

「そういうことでしたか」

 

 あまりに気安い関係なのでつい忘れてしまいがちだが、イレーシュ少佐は士官学校を卒業したエリートで、同期には将官もいる。オリンピアに知り合いがまったくいない方がおかしい。

 

 それにしてもうんざりする話だ。ブーブリル副旅団長が俺を嫌うのも当然じゃないか。自他ともに認める勇士なのに、知名度が低いというだけの理由で、実戦経験皆無の若造に旅団長の座を奪われたのだから。

 

「ブーブリルおばさんにはちょっと同情してたのよ。エリヤ君に意地悪してるって聞いて、そんな気持ちもきれいさっぱり消え失せたけどさ」

 

 イレーシュ少佐の青い瞳に、怒りの色がうっすらと浮かぶ。面倒くさいことになりそうだと判断した俺は、なだめにかかった。

 

「あ、いや、同情はしててください。あの人が不運なのは事実ですから。みんなに選ばれて旅団長になったのに偉い人の都合で替えられたら、俺だって腹が立ちますよ」

 

 思いきり嘘をついた。俺ならたぶん素直に受け入れる。まあ、これは方便だ。

 

「嘘でしょ」

 

 三秒で見抜かれた。しかし、今さら後にも引けない。聞かなかったことにして会話を続ける。

 

「……で、でも、エル・ファシルの英雄ならヤン・ウェンリー少佐がいるじゃないですか! どうして俺が旅団長になったんです!?」

「派閥の問題。ロボス提督とシトレ提督は次期宇宙艦隊司令長官の座を争うライバル。そして、ヤン少佐はシトレ提督の愛弟子。だから、絶対にヤン少佐を旅団長にはできない。一方、君の恩人のワドハニ提督は、ロボス提督と同じ派閥の仲間だった。君の手柄はロボス派の手柄になるわけ」

「もしかして、俺はロボス提督の派閥ってことになってるんですか?」

「一応はそうなるのかなあ」

 

 イレーシュ少佐は細い顎に手を当てて、いかにも言いにくそうに答えた。

 

「なんか嫌ですね。自分の知らないところで勝手に動いてるみたいで」

「組織なんてそんなもんよ。この私もシロン出身ってだけの理由で、アンブリス派扱いされてんだから。私が生まれた本星とアンブリス提督が生まれた第二衛星じゃ、ほとんど別の星みたいなもんなのに」

「理不尽ですね」

「そんな悪いことばかりじゃないよ。派閥の傘に入ってれば、いろいろ面倒見てもらえるから。まあ、私はシロン・グループの偉い人には全然相手にされてないけど」

「俺みたいな末端の補給士官には、派閥なんて関係ないですよ。偉い人の目にとまる機会なんて無いんだから。今回は特別です」

 

 ため息をつかずにはいられない。ロボス大将とシトレ大将のライバル関係、シトレ大将とヤン少佐の師弟関係はやり直す前に読んだ戦記にも書かれていたが、それが自分の運命に影響を及ぼすなんて思わなかった。しかも、戦記ではまったく言及されていなかったエル・ファシル義勇旅団なんてものにも関わっている。

 

 やり直しただけで思い通りになるほど、人生は甘くないらしい。前の世界で手に入らなかった幸福を手に入れたいだけなのに、どうしてこうも面倒ばかりが起きるのだろうか? マフィンを食べて糖分を補給し、心を落ち着かせた。

 

 

 

 世論は俺に前線での活躍を期待した。しかし、戦斧や銃が上手なだけでは、歩兵に混じって戦うことはできない。そこで広報活動の合間に戦闘訓練を受けて、偽装や匍匐前進といった歩兵の戦闘技術を習うことになった。

 

 指導教官のパオラ・ピアッツィ宇宙軍少尉は、女性には珍しい陸戦隊員である。身長は俺より七センチか八センチほど高く、肉体の幅と厚みは二回りほども大きい。髪を陸戦隊風に刈り上げていて、眉を剃り落とした顔は威圧感たっぷりだ。声はドスのきいた低音。陸戦隊の荒くれ男に混じってもなんら違和感のない風貌を持つ彼女は、俺を容赦なく鍛え上げた。

 

 俺は体を動かすのが本当に好きらしい。戦闘訓練はいいストレス発散になった。汗を流すたびに心が軽くなっていくような気がする。

 

 現在仮住まいしているフォンコート宇宙軍基地には、二四時間使える士官用のトレーニングルームがある。早寝して早朝に起きてから、白兵戦技や射撃の自主練習をした。

 

「なかなか伸びないなあ。フォームは間違ってないはずなんだけど。利き手じゃない手での片手撃ちは難しいか」

 

 誰もいない早朝のトレーニングルームでため息をついた。ハンドブラスターの左手片手撃ちのスコアがここ数日伸び悩んでいる。

 

 同盟軍陸戦隊の隊員は、左右両方の手でハンドブラスターを片手撃ちできるように訓練される。両手撃ちと右手撃ちしかできなければ、遮蔽物の左側から現れた敵相手には不利になり、数メートルの間合いで戦う近接戦闘では命取りだ。実戦に出る前に何としても完全にマスターしなければならない。

 

「練習あるのみか」

 

 マフィンを口に食べて糖分を補給した後、もう一度的に向けて練習用ブラスターを構える。

 

「あ、待ってください」

 

 狙いを定めて引き金に指をかけた瞬間、背後から声をかけられた。フォンコート宇宙軍基地広しといえど、こんなに澄んだ声の持ち主は一人しかいない。義勇軍少尉の階級を与えられた旅団長補佐アンドリュー・フォーク宇宙軍中尉だ。

 

「フォーク中尉、いや少尉。どうした?」

「引き金はひかないでください。そのまま構えたままで」

「わかった」

 

 何をしたいのかわからなかったが、指示に従うことにした。フォーク旅団長補佐は立ったり屈んだり、近づいたり離れたりしながら、色んな角度から俺を見る。

 

「ああ、なるほど!」

 

 フォーク旅団長補佐は立ち上がってぽんと手を叩いた。

 

「わかりました! 左足です!」

「左足?」

「はい、左足が指一本分ほど前に出ています。おかげで体全体が少し右に傾いてしまっているんです」

「どうすればいい?」

「少し調整しますね」

 

 そう言うと、フォーク旅団長補佐は、俺の左足のつま先に右手、踵に左手を当てて挟んだ。そして、少しずつずらしていく。

 

「これで引き金を引いてみていただけますか?」

「引けばいいんだな?」

 

 半信半疑でハンドブラスターの引き金を引くと、光線は見事に的のど真ん中を貫いた。

 

「フォーク少尉! ど真ん中行ったぞ!」

 

 興奮した俺はフォーク旅団長補佐の方を向いて叫んだ。

 

「そのまま続けてください」

「あ、ああ! そうしよう!」

 

 何度も何度も引き金を引いた。ハンドブラスターから放たれた光線は、的の中央へと吸い込まれていく。

 

「凄いぞ! 右手で撃ってる時と同じ感覚だ!」

 

 すべてど真ん中に命中したわけではなかった。それでも精度が格段に上がり、右手で撃った時とほとんど変わらないスコアを叩き出したのである。

 

「本当に助かった! ありがとう!」

 

 俺は両手でフォーク旅団長補佐の右手を握り、上下にぶんぶんと振った。

 

「旅団長のフォームは完璧でした。ですから、体が傾いているんじゃないかと思ったんです」

「それにしても、あんな小さな傾きに良く気づいたね」

「士官学校にいた時に、同級生や後輩に射撃のチェックを良く頼まれてたんです」

「そ、そうなのか……」

 

 俺は軽くのけぞった。戦記ではエゴイストの中のエゴイストと言われるフォーク旅団長補佐が他人にチェックを頼まれるなんて、想像がつかなかったからだ。俺の内心に気づかないのか、彼は爽やかに微笑む。

 

「白兵戦技を練習される予定はありますか?」

「ちょっとだけ戦斧の練習をしようと思ってるけど」

「そちらでもよくチェックを頼まれました。旅団長のお役に立てると思います」

「いいのか?」

「ええ、慣れてますから」

 

 何の衒いもないフォーク旅団長補佐の笑顔は、はめ殺しのガラス窓から差し込む朝日に照らされて輝いていた。何と良い奴なのだろうか。俺が女性なら間違いなく惚れる。

 

 やはり、前の世界とこの世界のアンドリュー・フォークは、違う人間だと考えた方がいい。卑怯者と蔑まれた俺が、この世界では英雄と呼ばれてちやほやされているのだから、他の人間の設定が変わっていてもおかしくないではないか。

 

「よろしく頼む」

 

 その日からフォーク旅団長補佐は、俺の自主トレーニングに付き合ってくれるようになった。フォームを見てもらうだけでなく、組手の相手もしてもらった。

 

 フォーク旅団長補佐の技量は驚くべき水準に達していた。白兵戦技の組手では、俺の全力攻撃を息一つ切らさずに受け流す。どんな姿勢で射撃をしても、軽々と的の真ん中を射抜いてしまう。それでいてちょうどいい具合に手加減してくれる。おかげでみるみるうちに向上していった。

 

「君は本当に教えるのがうまいね」

「ありがとうございます」

「礼を言わなきゃいけないのは俺の方だ。早朝から付き合ってもらって、少し申し訳なくなってくる」

「小官も利益を得ております。人に教えてると、自分がやる時のコツも分かってくるんです。そうやって技量を高めていきました。小官は一人でコツコツ努力するのが苦手でして。何をやるにもみんなと一緒じゃないと頑張れないんです」

「なるほどなあ。教えれば教えるほど上達していくってわけか」

 

 目から鱗が落ちるような思いがした。能力は一人で努力して伸ばすもの、あるいは他人の指導を受けて伸ばすものと思っていた。しかし、他人に教えながら向上していくという道もある。これなら、自分も他人も伸びていって、誰もが幸せになる。

 

「ほんと、フォーク少尉は凄いな。学校では運動部のキャプテンや生徒会長なんかやってたんじゃないのか?」

「やってました」

 

 それが当然のことであるように、フォーク旅団長補佐は答えた。詳しく話を聞くと、小学校でも中学校でもベースボール部のキャプテンと生徒会長を務め、六歳で入った市少年団では入団二年目からずっと班長をしていたという。成績はずっと学年トップ、ベースボールでは全国大会準々決勝まで行った強豪チームのレギュラー遊撃手だったそうだ。劣等感すら抱けないぐらい凄い。

 

「そんな人がいるんだな。漫画みたいだ」

「士官学校では珍しくないですよ。勉強だけの頭でっかちじゃ、授業について行けないですから」

 

 言い方を間違えれば嫌味になる謙遜も、彼の端正な顔と柔らかい表情をもってすれば、単なる事実の説明に聞こえるのだから、美男子というのは得だ。前の世界で頭でっかちの典型と批判されたフォーク旅団長補佐が、「頭でっかちでは駄目だ」と言ってるのも面白い。

 

 幹部候補生養成所で受けた士官教育は、知力・体力・リーダーシップのすべてに優れた人材の育成を目指すものだった。幹部候補生養成所と士官学校の教育には多少の違いがあるが、基本的には同じだ。士官学校の学力試験は国内最難関で知られ、体力審査や人物試験もかなり厳格なため、フォークのようなスーパーマンが集まるのも、自然な成り行きかも知れない。

 

 知り合いのことを思い出してみると、士官学校で上位だったブラットジョー大尉はもちろん、真ん中ぐらいの成績で合格したイレーシュ少佐やラン・ホー中尉なんかも、中学時代は文武両道の優等生だった。

 

 前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』のような本では、天才ヤン・ウェンリーの足を引っ張った士官学校エリートは、机上の空論を振りかざす頭でっかちの秀才として描かれ、同盟軍の士官学校教育は徹底的に批判された。だが、自分が士官教育を受けてみると、頭でっかちでは通用しないのがわかる。そんな中で首席を取れるのは、頭脳・体力・人格のすべてが飛び抜けたスーパーマンであろう。

 

 戦記のネタになった記録類は、ほとんどがヤン・ウェンリーに近い人物の残したものだ。そこに記されている見解は、当然のことながらヤン側の視点であり、ロボス大将の演説能力のようにヤンと遠かった人物については描かれなかったことも多く、義勇旅団のように無関係な事件についても触れていない。絶対的な予言書とみなさない方が良いのかもしれないと思えてくる。

 

 息が詰まりそうな義勇旅団の唯一の救いは、フォーク旅団長補佐だった。クリスチアン少佐やイレーシュ少佐を始めとする個人的な知り合いとの通信、フィン・マックール補給科のみんなから送られてくるメールも励みになった。自分は一人ではない。それが何よりも心強かった。




統合作戦本部などの軍中枢機関がある場所は、原作では「惑星ハイネセンの北半球針葉樹林帯」「首都ハイネセンポリスから一〇〇キロほど離れた軍事中枢地区」とされ、士官学校も同じ場所にあります。「オリンピア」はその軍事中枢地区に私が勝手につけた名前です。

一方、アニメでは士官学校は惑星ハイネセンのテルヌーゼン市にあることになっています。しかし、原作ではテルヌーゼンは「ハイネセンの隣の惑星」と書かれています。

原作とアニメの設定が矛盾する場合は、”原則として”原作の設定を採用します。アニメと違う点については、そのようにご了解ください。


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第11話:聖戦エル・ファシル 宇宙暦791年11月20日~792年3月2日 揚陸艦ワスカラン一八号~惑星エル・ファシル

 宇宙暦七九一年一一月二〇日、エルゴン星系第二惑星シャンプールに集結した同盟軍は、「自由の夜明け作戦」の名のもとにイゼルローン方面辺境の奪回に乗り出した。

 

 ユリウス・フォン・クラーゼン上級大将指揮下の帝国辺境鎮撫軍は抵抗らしい抵抗もせずに後退し、シドニー・シトレ宇宙軍大将のドラゴニア方面軍、ラザール・ロボス宇宙軍大将のエル・ファシル方面軍はいずれも順調に前進していった。そして、開戦から一週間で占領地の六割を奪還したのである。

 

 ここ数年の劣勢を一気に取り戻すかのような快進撃に、市民は大喜びした。メディアも別の意味で喜んだ。不況に苦しむ彼らにとって、一大反攻作戦は一大ビジネスチャンスだったのだ。

 

「連戦連勝! 同盟軍に敵無し!」

「年内に全占領地奪還か!」

「次はイゼルローン攻略だ!」

 

 威勢のいい文句が連日のように電子新聞の見出しを飾り、第一面の常連だった不況関連の記事は経済面へと追放された。

 

「千里眼の知将シトレ!」

「炎の闘将ロボス!」

「専制打倒の希望現る!」

「シトレとロボスの二提督時代が始まった!」

 

 マスコミはシトレ大将とロボス大将にあらんばかりの賛辞を浴びせ、恵みの雨を降らせてくれた恩に報いた。

 

「民主主義は六世紀の時を経て、クリストファー・ウッドとミシェル・シュフランを再び手に入れたたのです」

 

 保守的な報道姿勢で知られるNNN(ナショナル・ニュース・ネットワーク)のニュース司会者ウィリアム・オーデッツは、銀河連邦の二大名将を引き合いに出して、シトレとロボスを賞賛したが、さすがにこれは軽薄の謗りを免れなかった。

 

 前線にいる者は、みんなマスコミのフィーバーを冷めた目で見ていた。占領地の六割を奪還したと言っても、放棄された惑星を拾い上げただけに過ぎず、戦いで勝ったわけでもない。敵が戦線を縮小して戦力集結を図っているのは、明らかだった。

 

 国防委員会情報部の調査によると、「辺境鎮撫軍」を称するイゼルローン方面辺境の帝国軍の総戦力は宇宙艦艇が五万隻、地上戦闘要員が三〇〇万人ほどで、ドラゴニア航路に主力が展開しているという。これらの部隊を排除しないことには、勝ったとは言えないだろう。

 

 シャンプールを出発して八日目の一一月二八日、ドラゴニア方面軍は初めての戦闘を経験した。ウランフ少将の第八艦隊B分艦隊が、オグニツァ星域において帝国軍の分艦隊と遭遇し、二時間の戦闘の末に撃破したのだ。

 

 その翌日には、エル・ファシル方面において、ジャミール=アル・サレム少将の第一二艦隊A分艦隊が惑星カラビュクを攻撃し、守備司令官エルディンク准将と装甲擲弾兵六万人を降伏させた。

 

 これ以降、同盟軍と帝国軍は戦闘状態に突入し、ドラゴニア方面軍とエル・ファシル方面軍は、競い合うように小戦闘での勝利を重ねていった。

 

 一一月三〇日、ドラゴニア方面軍所属のアレクサンドル・ビュコック少将率いる第七艦隊D分艦隊は、ドゥルベ星域で帝国軍の分艦隊を撃破した。

 

 ビュコック少将と言えば、前の世界で最後の宇宙艦隊司令長官となった人物で、戦記の英雄の中でも、ぶっちぎりにかっこいい。マル・アデッタ会戦でラインハルト帝の降伏勧告を拒み、「民主主義に乾杯」と叫びながら散っていくシーンは、愛国心など一かけらもなかった俺でも涙が止まらなかった。伝説の英雄がリアルタイムで活躍していると聞くと、心が躍るような気持ちになってくる。

 

 その数時間後、第七艦隊D分艦隊所属の駆逐艦「ガーディニア九号」艦長イレーシュ・マーリア少佐から通信が入った。いつもと比べると、やけにうきうきした感じがする。

 

「ねえ、ドゥルベ星域で同盟軍が勝ったって聞いてる?」

「聞きましたよ。そういえば、イレーシュ少佐はビュコック提督の分艦隊所属でしたよね。どうでした?」

 

 何気なく聞いたつもりだったのに、イレーシュ中佐はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに胸を反らし、ただでさえ大きな胸がさらに大きく見えた。

 

「敵の駆逐艦を一隻撃沈してさ。単独だよ、単独」

 

 いつもの不機嫌そうな表情を保とうとするイレーシュさんの努力は、明らかに失敗していた。真っ青な瞳は喜びに輝き、朱を引いたような唇は綻びを見せ、白磁のような肌は紅潮し、初めての武勲に浮かれてるのがひと目でわかる。

 

 六年も年上の人に面と向かっては言えないが、そういうところが本当に可愛らしいと思う。ここは徹底して持ちあげるのが親切というものだ。

 

「艦長になっていきなり敵艦を単独撃沈するなんて、凄いじゃないですか。普通の艦長なんて、一年で敵艦一隻を単独撃沈できるかできないかだと聞いてます。もしかして用兵の才能があるのかもしれませんね」

「そんなわけないでしょ。才能ないのは自分でもわかってるよ。戦略戦術シミュレーションでも勝率低かったしね」

「所詮シミュレーションでしょう? 本番には関係ありません」

「君が補給士官になった理由って、シミュレーションで勝てなかったせいじゃなかったっけ?」

 

 痛いところを突かれた。しかし、ここで怯んではならない。勢いで押し切るのだ。

 

「それはそれ、これはこれでしょう! とにかく大事なのは本番です! シミュレーションだけ強くたって、本番で駄目なら無意味ですよ!」

「私の士官学校同期に、シミュレーションで無敵だったホーランドってのがいてさ」

「ああ、そういう人は本番で弱いんですよね! 実戦とシミュレーションが違うってことが分からなくて、自滅するタイプです! 味方との連携を無視して暴走して、自滅するところが目に見えますよ!」

「そいつ、戦うたびに武勲を立てて、今は准将閣下だけどね。君と同じ第三艦隊にいるのに知らないの?」

 

 イレーシュ少佐の真っ青な瞳から送り込まれた凍気が、俺を凍りつかせる。

 

「私を喜ばせたいのはわかるけどさ。見え透いたお世辞言われると、なんか冷めちゃうよ」

「お、俺がお世辞なんか言うはずが……」

「君なら言うね。背は小さいけど、人間はもっと小さいもん」

 

 凍結した俺は口撃によって砕け散った。

 

「ま、そこが可愛いんだけどさ」

 

 イレーシュ少佐は無邪気に笑いながら追い打ちを掛けてくる。こうも的確に俺の弱点を突いてくるなんて、本当に用兵の才能があるんじゃないかと思った。

 

 浮かれていると言えば、惑星ブレガ攻防戦で武勲を立てた第四三空挺連隊第二大隊長エーベルト・クリスチアン少佐もそうだった。剛直を絵に描いたような彼が浮かれるなど、普通は想像もつかないだろう。しかし、俺が英雄と呼ばれるような世の中では、どんなことだって起きる。

 

「学校で若者を指導するのも良いが、前線はもっと良いな。故郷に帰ってきたような心持ちだ」

 

 クリスチアン少佐は酒をたっぷり飲んだ後のように上機嫌だった。

 

「故郷ですか?」

「うむ。自分の原点がある場所を故郷と呼んで良いのならば、戦場こそ小官の故郷であろう。戦場に立って初めて人間の素晴らしさを知った。人間は戦いの中でこそ光り輝くのだ」

「俺も光り輝けるのでしょうか?」

 

 初陣を控えて不安に囚われていた俺は、恐る恐る聞いた。

 

「もちろんだ。貴官は本番に強い。三年前からそうだった。そして、これからもそうだろうと信じている」

「期待に背くわけにはいきませんね」

 

 戦場のベテランから貰った力強い言葉に表情を引き締めた。ロボス大将、エル・ファシル義勇旅団隊員、そしてすべての同盟市民が俺に活躍を期待している。帝国軍は怖いが、みんなの期待に背くのはもっと怖い。不安を抑えつつ、エル・ファシルに着く日を船の中で待ち続けた。

 

 

 

 一二月三日、エル・ファシル方面軍通信部は、私用通信の全面規制に踏み切った。敵の妨害電波が激しくなる中で、司令部が使用できる回線を確保するためだ。規制期間が終わるまでは、超高速通信やメールはもちろん、ネット接続もできなくなり、外部の情報は司令部が一括して全将兵の公用端末に配信する。

 

 広域通信規制なんて、大きなテロや災害が起きた時に行われるものと思っていた。敵艦隊との距離が近くなると必ず行われる措置だと、実戦経験のある人は言ったが、実戦経験皆無の俺にはとてつもなく不安に感じられる。

 

 一旦不安に陥ると、どうしようもなく広がっていくのが小心者というものだ。イレーシュ少佐、クリスチアン少佐、フィン・マックールの仲間などと通信できなくなったせいで、不安は際限なく膨らんでいく。

 

 新聞を読んで知ったことだが、ドラゴニア航路とパランティア航路の重要性には大きな違いがあるらしい。ドラゴニア航路は障害物が少なく、恒星活動も安定しているため、エルゴン星系と同盟領外縁部を結ぶ交易路として利用されてきた。一方、パランティア航路は不安定な場所が多く、利用価値はさほど高くない。だから、ドラゴニア航路に辺境鎮撫軍の主力が配備されているのだそうだ。

 

 義勇旅団が投入される惑星エル・ファシルは、重要でないパランティア航路のメインロードからやや外れに位置する。ロボス大将は「敵はエル・ファシルに大規模な艦隊基地を築いた」と言ったが、実際はかつて同盟軍星系警備隊が使用していた軍港をそのまま使ってるらしく、駐留する戦力も乏しく、エル・ファシルの戦略的価値は皆無に近かった。

 

 自由の夜明け作戦は「エル・ファシル解放の聖戦」と言われ、ドラゴニア方面軍とエル・ファシル方面軍はほぼ同数の戦力を与えられた。しかし、こうも差があると、二つの方面軍が同格に扱われていること自体がおかしく思える。パランティア航路を担当する方面軍がエル・ファシル方面軍を名乗ってるのも変だ。裏に何かあるんじゃないかと思えてくる。

 

 一二月六日、驚くべき事実が判明した。宇宙艦艇五〇隻、地上戦闘要員一万人程度しか駐留していないと思われたエル・ファシルに、四万隻近い宇宙艦艇と七〇万人以上の地上戦闘要員が集結していたのだ。

 

 予想もしなかった大戦力の出現に、エル・ファシル奪還作戦は根本的な見直しを迫られた。艦艇二〇〇〇隻と地上戦闘要員一二万人が投入される予定だった作戦に、エル・ファシル方面軍の全戦力が投入されることとなった。

 

 一二月八日、ロボス大将率いるエル・ファシル方面艦隊二七四〇〇隻と、クラーゼン上級大将率いる帝国辺境鎮撫軍主力艦隊四万隻は、惑星エル・ファシルから五〇光秒(一五〇〇万キロメートル)の宙域で相対した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 軍艦に描かれた艦隊章から、帝国軍の中央にはクラーゼン上級大将、左翼にはバルニム大将、右翼にはゼークト大将の艦隊が展開していることが分かる。いずれも艦の間の距離をやや短めに取って、戦力密度を高めている。

 

 ロボス大将は自ら率いる第三艦隊を右翼、ヴィテルマンス中将の第一二艦隊を左翼に置いた。陣形は両艦隊とも横に薄く長く広がり、第一二艦隊がやや前方にいる。ソン中将の第五艦隊は到着が遅れており、戦力的には同盟軍が劣勢だ。

 

 俺の乗っている揚陸艦「ワスカラン一八号」は、他の揚陸艦とともに後方の安全宙域で戦いの行方を見守る。

 

 エル・ファシル星域会戦は、オーソドックスな砲撃戦から始まった。数十万に及ぶビームと対艦ミサイルが雨となって両軍に降り注ぎ、真っ暗な宇宙空間はまばゆい光に満たされた。

 

「凄いなあ」

 

 俺は他の士官達と一緒に、士官サロンのスクリーンを通して戦いを眺める。艦隊戦はビデオで何度も見たことがあるが、リアルタイムで見るのは戦いは初めてで、あまりの迫力にすっかり見入ってしまう。

 

「軍艦って意外と沈まないものなんだな」

 

 軍艦がガラス細工のように脆い前世界の戦争記録映像とは全然違う。激しい攻撃の応酬が一時間以上も続いているのに、ほとんどのビームが大型艦のエネルギー中和磁場によって受け止められ、ほとんどの対艦ミサイルが迎撃ミサイルと電磁砲によって撃ち落とされてしまい、味方も敵もほとんど打撃を被っていない。お互いに有効打を与えられないまま、同盟軍と帝国軍は少しずつ前進する。

 

 戦艦や巡航艦の主砲は、射程が一五光秒(四五〇万キロメートル)と長く、砲火を一点に集中するのは難しいとされる。しかし、砲術運用に定評のあるゼークト大将は、第三艦隊と第一二艦隊の隙間に集中させて、両艦隊を分断することに成功した。

 

「まずい!」

 

 みんなが叫びをあげた時、クラーゼン上級大将、バルニム大将、ゼークト大将が、第三艦隊と第一二艦隊の隙間に殺到してきた。両軍の距離が一気に二光秒(六〇万キロメートル)まで縮まり、近接戦闘の間合いになった。

 

 両軍の駆逐艦が前面に展開し、宇宙母艦から単座式戦闘艇が発進する。大型艦のエネルギー中和磁場は、ビームやレーザーには強力な防護力を発揮するが、駆逐艦の電磁砲や単座式戦闘艇の機銃から放たれる実弾には無力だ。駆逐艦と単座式戦闘艇が乱戦を繰り広げ、これまで主役だった戦艦と巡航艦は近距離砲を放って援護に徹する。

 

「これはどういうことだ?」

 

 俺は傍らにいた旅団長補佐のアンドリュー・フォーク義勇軍少尉に疑問をぶつけた。

 

「第五艦隊が到着する前に、第三艦隊と第一二艦隊を撃破してしまおうと、敵将は考えただろうと思います。損害の少ない砲戦を続ければ、いずれ第五艦隊が到着するでしょう。時間や戦力の余裕が無い時は、早めに近接戦闘を仕掛けて各個撃破を狙う。それが艦隊戦のセオリーです。スラージ・バンダレー提督が二倍の帝国軍を正面決戦で撃破した六九六年のシャンダルーア星域会戦は、その理想例です」

「ああ、なるほど。戦史の授業で習った覚えがある」

 

 各個撃破と聞いて俺の脳裏に浮かんだのは、一世紀前のスラージ・バンダレーではなく、同時代人のラインハルト・フォン・ローエングラムだった。アスターテ星域会戦において二倍の同盟軍を各個撃破したラインハルト・フォン・ローエングラムも、いきなり近接戦闘を仕掛けたような気がする。

 

 知識として戦例を知っていても、とっさに目前の戦いに結びつけるのは難しいものだ。やはり自分は指揮官に向いてないとつくづく思う。

 

 密集隊形で突っ込んでくる帝国軍に対し、第三艦隊と第一二艦隊は、横一列に並んだままで隙間を埋めるように動き、電磁砲と迎撃ミサイルを浴びせかけた。実弾兵器の撃ち合いは、砲撃戦とは比較にならないほどの損害を生じさせる。やがて、同盟軍が押され始めた。

 

「フォーク補佐、味方が押されてるぞ? どういうことだ?」

「火力密度の違いです。敵は艦の間の距離を短く取って、短距離砲の火力を高密度で叩きつけてくる。一方、味方は艦の間の距離を広く取っているため、火力の密度も薄くなる。その違いです」

「それはまずいだろう」

「見ていてください。最後に勝つのは、ロボス閣下ですから」

 

 フォーク旅団長補佐は、静かに力強く断言した。しかし、俺は彼の人間性を信じていても、軍略についてはまだ信じていない。砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを何杯も飲み干し、不安を紛らわす。

 

 第三艦隊左端にいるアップルトン少将の第三艦隊B分艦隊と、第一二艦隊の右端にいる第一二艦隊D分艦隊のキャボット少将は、ゼークト大将を戦闘に突入してくる帝国軍の前に後退を重ね、同盟軍の艦列は中央部で大きく凹む。ルフェーブル少将の第三艦隊C分艦隊と、アル=サレム少将の第一二艦隊A分艦隊が援護に回って、崩れかけている戦線を必死で維持する。

 

 戦況が一変したのは、戦いが始まってから六時間ほどが過ぎた頃のことだった。第三艦隊副司令官ジェフリー・パエッタ少将率いる二個分艦隊が、突如として帝国軍の背後に出現したのだ。

 

 帝国軍が浮足立ったところに、パエッタ少将配下のウィレム・ホーランド准将が高速で突入し、一筋の刃となって帝国軍の艦列を切り裂く。後続部隊がホーランド准将の作った亀裂に火力を叩きつける。

 

 たまりかねた帝国軍は態勢を立て直そうとするが、いつの間にか第三艦隊と第一二艦隊が上下左右から挟み込むように縦深陣を完成させており、機動を阻害する。密集して動きの取れない帝国軍は、驚くべき速度で敗北への道を転がり落ちていく。

 

 

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 俺はぽかんと口を開けながら、味方の逆転劇を見守っていた。

 

「いきなり別働隊が出てくるし、気が付くと縦深陣も完成していた。一体何が起きたんだ?」

 

 呟きながらちらりと横を見る。心得たとばかりにフォーク旅団長補佐は説明を始めた。

 

「これはロボス閣下の得意戦法です」

「得意戦法?」

「はい。総戦力では互角でも、第五艦隊が後方にいるため、前線戦力では敵が優位。そして、第三艦隊と第六艦隊は薄く広く展開している。敵司令官のクラーゼン提督は積極攻勢型の用兵家で、右翼部隊のゼークト提督は帝国軍屈指の突破力を誇る猛将。これらの条件から、第五艦隊が到着する前に、味方の主力を各個撃破する誘惑に駆られたのです」

「つまり、敵は突撃したんじゃなくて、突撃させられたわけか」

「そうです。各個撃破の可能性をちらつかされた敵は、第五艦隊が到着する前に、第三艦隊と第一二艦隊を撃破しようと焦り、気が付かないうちにロボス閣下が作り上げた縦深陣に誘い込まれました。また、前方に集中しすぎて、パエッタ提督の別働隊への注意が逸れたのです。陽動、迂回、包囲、奇襲。機動力を重視するロボス流用兵のすべてが詰まった戦いですよ」

「凄いなあ、まるでヤン……、いやブルース・アッシュビーみたいだ」

 

 ヤン・ウェンリーの名前を口に出しかけて、慌てて言い直した。前の世界では「ヤン・ウェンリーみたいだ」と言えば用兵家に対する最高の賛辞になるが、この世界ではまだそうではない。しかし、あの不敗の魔術師に例えたくなるほど、ロボス大将の用兵は凄かった。

 

「凄いでしょう? ロボス閣下は同盟軍最高の名将ですよ」

 

 フォーク旅団長補佐の目はいつにもましてキラキラと輝き、ロボス大将がいかに凄い提督か、自分がどれほど彼を尊敬しているかを延々と語り続けた。周囲の士官達は「またか」と言いたげな顔で苦笑する。何というか、微笑ましい光景だ。

 

 ロボス大将の用兵、フォーク旅団長補佐の人柄は、いずれも前の世界と今の世界が違うことを教えてくれる。

 

 別働隊を率いたジェフリー・パエッタ少将は、『ヤン・ウェンリー元帥の生涯』や『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』では、ヤンの真価を見抜けなかった愚将と評される人物だが、この戦いでは殊勲者だ。彼も直に接すると優れた提督なのかもしれないと思った。

 

 四方向から攻撃を受けた帝国軍は潰乱状態に陥り、命からがら逃げ出したクラーゼン上級大将、ゼークト大将、バルニム大将らは、後方から急進してきた無傷の第五艦隊から猛追撃を受けた。帝国辺境鎮撫軍の艦隊主力はこの会戦で壊滅して、惑星エル・ファシル攻略の準備は完全に整ったのであった。

 

 

 

 会戦翌日の一二月九日から、惑星エル・ファシル攻防戦が始まった。エル・ファシルの衛星軌道上に展開した第三艦隊と第六艦隊の前に、帝国軍の軌道戦闘艇一万隻が立ちはだかる。軌道戦闘艇というのは、単座式戦闘艇と駆逐艦の中間に位置する小型戦闘艇で、恒星間航行能力を持たず、専ら惑星宙域での戦闘に用いられる艦艇だ。

 

 二時間の戦闘の末に、軌道戦闘艇部隊を壊滅させた同盟軍は、三万キロメートルの超高度からビーム砲やミサイルを放ち、地上の敵防空基地を丹念に潰していった。

 

 防空基地が沈黙したら、宇宙軍陸戦隊の出番だ。第三陸戦隊と第一二陸戦隊の強襲揚陸艦一二〇〇隻は、大気圏内戦闘機と宙陸両用戦闘艇の援護を受けながら、エル・ファシル西大陸にある五つの空港めがけて降下していった。敵は都市が集中するエル・ファシル東大陸に集まり、未開の山岳地帯が広がる西大陸は手薄と思われていたのだ。

 

 予想通り、帝国軍はほとんど空港に兵を置いていなかった。陸戦隊はあっという間に空港を制圧し、エル・ファシル奪還の足がかりを築いた。

 

 俺はセミヨール空港に降り立ち、装甲服を着てビームライフル片手に戦場を走り回った。だが、一〇〇人近い陸戦隊の精鋭に守られていたため、ほとんど何もしないうちに、生まれて初めての実戦が終わってしまった。

 

「たった今、エリヤ・フィリップス義勇旅団長が、三年ぶりにエル・ファシルに足を踏み入れました! エル・ファシルの英雄が帰ってきたのです!」

 

 陸戦隊に囲まれながら空港ターミナルビルに足を踏み入れた瞬間、従軍記者がどっと押し寄せてきた。テレビスターのような扱いに辟易しながらも、装甲服のヘルメットを脱いで笑顔で応じる。

 

 その後、ビル内に置かれた第三艦隊陸戦集団臨時司令部で記者会見に臨み、義勇旅団首席幕僚ビロライネン義勇軍中佐に教えられた通りの受け答えをした。同席したマリエット・ブーブリル副旅団長は、いつものように愛国婦人を完璧に演じる。指揮をとるのはビロライネン首席幕僚の仕事、演技をするのが俺とブーブリル副旅団長の仕事だ

 

「帝国軍など一人だろうが七〇万人だろうが同じだ! 一捻りにしてやる!」

 

 第三陸戦隊副司令官エドリック・マクライアム宇宙軍准将は、「ファイティング・エド」の異名に恥じない大言壮語ぶりで、記者達を喜ばせた。

 

 それにしても、敵地に降下して最初にすることがマスコミ向けのアピールなんて、まともな軍隊と言えるのだろうか? 演出ありきの戦争に不安を覚えずにはいられない。

 

 やがて、第五艦隊配下の第五陸戦隊も西大陸に降下してきた。第三陸戦隊の第三陸戦軍団とエル・ファシル義勇旅団は大陸東北部、第三陸戦隊の第一五陸戦軍団は大陸中央部、第五陸戦隊は大陸西部、第一二陸戦隊は大陸東南部に進軍した。

 

 陸戦隊の装甲車両と大気圏内航空機が西大陸の帝国軍を追い散らして、安全地帯を確保すると、第四地上軍と第五地上軍が輸送船に乗って降下してきた。陸上戦力・航空戦力・水上戦力をすべて備えた地上軍の参入によって、エル・ファシル攻防戦は佳境に入っていく。

 

 西大陸を制圧した同盟軍は、ロヴェール地上軍少将の第五地上軍別働隊と、マディソン宇宙軍少将の第一二陸戦隊別働隊を抑えに残すと、海を渡った。

 

 エル・ファシル方面軍副司令官ケネス・ペイン地上軍中将率いる二二〇万の大軍は、帝国軍水上艦隊の抵抗を排除し、水際で上陸を阻止しようとした陸上部隊も粉砕し、東大陸への上陸を成功させた。

 

 しかし、同盟軍の快進撃は、アル・ガザール州とラムシェール州で阻止された。二〇〇を越える防御陣地は進軍路を押さえるように配置されていて、迂回は不可能。正面から攻撃すれば、敵の火力の網に捉えられてる。陣地の主要部分は地下にあるため、火砲やミサイルを叩き込んでも、有効打を与えられない。

 

 陸上からの突破を困難と見た同盟軍は、海と空から帝国軍の後方を攻撃して、指揮通信網の分断を図ったが、敵部隊は巧妙に隠蔽された地下陣地に隠れ、地下道を使って移動していたため、ほとんど効果を与えられなかった。しかも、捕虜から得た情報によると、主要部隊の司令部はすべて地下に築かれており、陸上戦力を送り込まなければ攻略は不可能だという。

 

 帝国軍のエル・ファシル防衛軍司令官ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリング宇宙軍中将が築きあげた防衛線の前に、同盟軍は空しく人命と時間を空費した。

 

 

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「何をグズグズしているのだ!」

 

 市民は圧倒的な戦力を持つ同盟軍の苦戦に苛立ち、一刻も早く防衛線を突破するよう求めた。ロボス大将は大勢のマスコミを同行させて、エル・ファシル攻防戦が聖戦であるという認識を広めようと努力したが、それが苦戦ぶりを知らしめるという皮肉な結果を産み、非難の声を大きくしたのであった。

 

 批判に焦ったロボス大将は、衛星軌道上の第三艦隊に、アル・ガザール州とラムシェール州を砲撃するよう命じた。火砲やミサイルでは傷ひとつ付けられない地下陣地も、二〇光秒(六〇〇万キロメートル)の射程を誇る戦艦の主砲の前には無力だ。地図の書き換えが必要になるであろうと思われるほどの砲撃によって、半数以上の陣地が破壊され、残る陣地も著しく弱体化した。

 

 年が明けて一週間以上過ぎた一月八日に、ようやく防衛線を突破したものの、苦戦はなおも続いた。カッサラ州に差し掛かったところで、アル・ガザール=ラムシェールの防衛線に倍する規模の防衛線が立ちはだかったのだ。攻撃はことごとく跳ね返され、死傷者は増える一方だった。

 

 ドラゴニア方面軍のシトレ大将は、年末までに帝国軍をことごとく駆逐し、現在は帰還の途に着いている。それと比較すると、ロボス大将とペイン中将の手際は悪すぎるように見えて、市民は不快感を示した。

 

 戦局が悪化するにつれ、大勢の陸戦隊員に守られながら戦場に顔を出して愛国心をアピールする義勇旅団は、他の部隊から反感を向けられるようになった。司令部からエル・ファシル方面軍の全将兵に毎日配信される『エル・ファシル方面軍ニュース』での義勇旅団の扱いも日に日に小さくなっていく。

 

「フィリップス旅団長、ブーブリル副旅団長、君達二人にはもう少し頑張って欲しいんだがね」

 

 第三陸戦隊参謀長アル=サフラビ准将に呼び出されてそんなことを言われた翌日から、義勇旅団は危険な場所に配属され、護衛の陸戦隊員は減らされ、俺とブーブリル副旅団長は先頭に立たされた。

 

「偉いさんは殉教者を欲しがってるんじゃないか? 聖戦には犠牲がつきものだからな」

 

 ある戦場で陸戦隊員がそう話してるのを耳に挟んだ時、背筋が凍りついた。義勇旅団が再び注目を集めるには、彼らの言う通り、俺かブーブリルを戦死させて殉教者にするのが手っ取り早いだろう。ロボス大将やペイン中将がそこまで考えるとは思いたくないが、マスコミ受けを気にするところを見ていると、信じることもできない。

 

 ふとフィン・マックールが恋しくなった。あの宇宙母艦にいた時は難しいことを考える必要もなかったし、職場のみんなも優しかった。早く戦いを終えて、フィン・マックールに戻りたいと、心の底から願った。

 

 

 

 エル・ファシル方面軍の苦戦に業を煮やしたアンブリス総司令官は、作戦を終えたドラゴニア方面軍や地方駐屯部隊から戦力を集めて、エル・ファシルに送った。

 

 これによって、四五〇万まで増強されたエル・ファシル方面軍は、エル・ファシル全域で大攻勢に打って出た。小隊には中隊、中隊には大隊、大隊には連隊、連隊には旅団、旅団には師団をぶつけて、数の力で帝国軍を押し潰そうとしたのだ。

 

 聖戦の名のもとに、エル・ファシル全土で血みどろの戦いが繰り広げられた。一軒のビルや一本の道路を確保するために、両軍は死体の山を積み上げた。

 

 東大陸中南部のニヤラ市では、「一メートル進むたびに味方の死体が一〇体増えた」と言われるほどの激戦が繰り広げられ、一月一七日から二四日までの一週間で二万人の死者を出した。兵員の八割が戦死するという恐るべき損害を被った連隊もあった。

 

 東大陸中央部のハルファ市郊外の丘陵に築かれた帝国軍防御陣地は、あまりに多くの同盟兵を死に追いやったために、「屠殺場」と呼ばれた。

 

 西大陸の山岳地帯でゲリラ戦を展開する帝国地上軍の猟兵部隊は、その残虐さによって、同盟軍の恐怖の的となった。

 

 血まみれの激戦は多数の英雄を産んだ。第一二陸戦隊司令官イーストン・ムーア宇宙軍少将は、銃撃の雨を恐れずに陣頭指揮を取ることで、兵士から半神のように崇敬された。第三陸戦隊の陸戦大隊長フョードル・パトリチェフ宇宙軍少佐は、撤退中に取り残された部下を単身で救出して、その勇気と思いやりから、すべての陸戦隊員に「フョードル兄貴」と呼ばれた。ルイジ・ヴェリッシモ宇宙軍准尉は、敵陣単身爆破や死亡宣告からの復活などの奇跡を幾度も起こし、「超人」と称えられた。

 

 その他には、多数の戦闘車両を破壊した「戦車殺し」ランドン・フォーブズ地上軍大尉、一〇〇人以上の敵を狙撃で葬った「死の天使」アマラ・ムルティ地上軍伍長、敵の歩兵小隊を一人で撃破した「黒い暴風」ルイ・マシュンゴ地上軍軍曹なども有名だ。

 

 帝国軍にも英雄は多い。開戦から同盟軍を苦しめ続ける装甲擲弾兵小隊「不滅の三〇人」、同盟の戦闘機を五〇機以上も撃墜した大気圏内戦闘機のパイロット「人食い虎」、二つの体を一つの意思で動かしているかのようなコンビネーションで恐れられる二人組の勇士「双子の悪夢」などが、同盟軍に恐れられた帝国軍の英雄だった。

 

 エル・ファシル義勇旅団は、第三艦隊陸戦隊の指揮下で各地を転戦し、戦うたびに大きな損害を被った。二月に入った頃には、総兵力五一四八名のうち七七一名が戦死し、二一五三名が負傷し、聖戦の殉教者とみなされるようになり、再び人気が盛り上がったのである。

 

 俺はエル・ファシル方面軍司令部の求めに応じて最前線に立ち、陸戦隊員と一緒に匍匐前進し、銃をとって銃弾やビームが飛び交う中を駆け回り、英雄らしい映像をたくさん提供できたが、戦功は立てられなかった。マラカルの戦いでは「双子の悪夢」に遭遇し、物陰に隠れながらやり過ごしたほどだ。それでもほとんど傷を負うこともなく生き延びたのは、幸運の賜物であろう。

 

 闘将カイザーリング中将の指揮のもとで奮戦した帝国軍も、二月に入ってからは疲弊の色が見え始め、戦線維持も難しくなった。多くの部隊が陣地を放棄して、道路や橋を破壊しながら後退していった。山や森林に隠れてゲリラ戦を行う部隊もいた。ガザーリー市の帝国軍は、ダムを爆破して洪水を起こし、同盟軍の足止めをはかった。しかし、これらの試みは徒労に終わり、二月末には帝国軍の戦力は底をついた。

 

 

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 三月二日、マクライアム准将率いる第三陸戦隊と義勇旅団は、帝国軍の総司令部があるエル・ファシル市を包囲した。市内に立てこもる帝国軍一万は勇敢に戦ったものの、一〇万近い地上戦力相手では勝ち目はなく、三時間の戦闘の末に帝国軍は壊滅した。

 

 三年ぶりのエル・ファシル市は、敵味方の砲撃によって破壊しつくされていた。勝者として行進しているはずなのに、心の中は敗者のように惨めだ。これからとても気の重い任務が待っている。

 

「準備が整いました」

 

 ビロライネン首席幕僚が耳元でささやく。俺は無言で頷くと、前方に置かれた野外用のプロンプターに視線を向ける。そして、画面に映し出された文字を帝国語で読み上げた。

 

「自由惑星同盟軍エル・ファシル義勇旅団長エリヤ・フィリップス義勇軍大佐より、銀河帝国軍エル・ファシル防衛司令官ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリング宇宙軍中将閣下に申し上げます。小官は軍人として、あなたの勇戦に心の底より敬意を払うものであります。しかしながら、今やあなたは我が軍の完全なる包囲下にあり、食料も弾薬も尽き果てました。これ以上の抗戦は不可能でしょう。部下の命を救うことを考えてみてはいかがでしょうか? 二時間以内にご返答ください。賢明な判断を期待しております」

 

 半壊したエル・ファシル星系政庁庁舎に立てこもる帝国軍司令官カイザーリング中将に対する降伏勧告。それが俺に与えられた任務だった。ビロライネン首席幕僚が作った文面をそのまま読み上げるだけの仕事だが、エル・ファシル義勇旅団長という肩書きが重要なのだろう。ロボス大将は最後の最後で、「エル・ファシル奪還の主役は義勇旅団」という建前を思い出したらしい。

 

 カイザーリング中将がどのような選択をしようとも、ここで戦いが終わることは確定している。作られた英雄が演じるにふさわしい茶番といえよう。

 

 いつになく皮肉っぽい気持ちになっていると、ボロボロになった庁舎正面の巨大スクリーンが明るくなり、帝国軍の軍服を身にまとった初老の人物が映し出される。端整な顔に美しい髭を生やしていて、「老紳士」という言葉を体現するかのような人物だ。

 

「これがあの闘将カイザーリングか」

「意外だな。屈強な偉丈夫とばかり思っていたが」

 

 陸戦隊員や義勇兵のささやきが鎮まり返った広場をざわつかせる。カイザーリング中将が口を開くと、ささやきは収まった。

 

「銀河帝国軍エル・ファシル防衛司令官ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリング宇宙軍中将です。敗軍の将にお心遣いをいただき、まことにかたじけなく思います。しかしながら、皇帝陛下より賜った勅命を全うできなかった以上、一命をもって謝する以外の途は、小官には選べません。あなたの配慮はありがたく思いますが、帝国軍人として受け入れることはできかねると申し上げる次第です」

 

 カイザーリング中将は、容貌にふさわしいきれいな同盟語で拒絶の意を示した。静かではあるが毅然とした態度で降伏を拒絶する敵将の姿に、胸を打たれずにはいられない。彼は古風だが格調のある騎士だ。俺なんかが引導を渡していいような人では無い。

 

 やがて、スクリーンの中のカイザーリング中将がどんどん小さくなり、部屋全体が映しだされる。壁には現皇帝フリードリヒ四世と初代皇帝ルドルフの大きな肖像画が掲げられ、カイザーリング中将の周囲には、部下とおぼしき軍服姿の人間が一〇人ほど集まっていた。その一人はバイオリンを手にしている。

 

「皇帝陛下に敬礼!」

 

 カイザーリング中将は張りのある声で叫び、肖像画に向かって敬礼した。部下も一糸乱れぬ敬礼を肖像画に捧げる。これほど整然とした敬礼は見るのは初めてだった。死を目前にした彼らが平常心を保っていることに感動を覚える。

 

「国歌斉唱!」

 

 その掛け声を合図に、バイオリンを持っていた人物が演奏を始めた。荘厳な帝国国歌の旋律が流れ、全員が演奏に合わせて歌い出す。

 

「皇帝陛下 神聖にして侵すべからざる我らが主君

 皇帝陛下 万人が敬愛を捧げる我らが主君

 鋼の如き意思の力 宇宙に満ち満ちる威光

 万世に誉れ高き御方」

 

 朗々たる声、荘厳な旋律、晴れ晴れとした表情。そのすべてが美しかった。憎むべきゴールデンバウムの末裔を称える歌だというのに、涙がこみ上げてくる。

 

「讃えよ 偉大なる皇帝陛下の御名を

 偉大なる千年帝国の主

 祖先より受け継ぐ貴き血

 帝国よ 永遠なれ

 我等が誇り 銀河帝国」

 

 歌詞はどうでも良かった。心を一つにして歌う彼らの姿が胸を打つ。こんな歌で泣くのはまずいと思い、必死に涙をこらえた。

 

「ジーク・カイザー! ジーク・ライヒ!」

 

 全員が万歳を叫んだ瞬間、スクリーンの中が閃光でいっぱいになった。同時に大きな爆音が辺り一帯に轟き、政庁庁舎は炎に包まれた。自爆を遂げたのである。

 

 もはや涙をこらえることはできなかった。爆炎の中に消えていった闘将と、マル・アデッタで散ったアレクサンドル・ビュコックの姿が重なった。殉じた信念は正反対だが、信念に殉じる姿勢においては同じ世界の住人である。俺のような小物には、決して辿りつけない世界だ。

 

 自然に右手がすっと上がり、敬礼のポーズを作った。周囲の将兵もごく自然に敬礼のポーズになる。

 

「総員、勇敢なる敵将に敬礼!」

 

 静まり返った広場に俺の声が響き渡る。なぜそのような命令を出したのかはわからないが、そうするのが自然であるように思われた。これが俺が義勇旅団長として自分の意思で発した最初で最後の命令だった。

 

 宇宙暦七九二年三月二日一四時二一分、帝国軍エル・ファシル防衛軍司令官ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリング宇宙軍中将の壮烈な自爆とともに、エル・ファシル攻防戦は終結した。




帝国国歌の歌詞は自作です。それっぽいものをでっち上げてみました。


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第12話:賑やかな春、静かな夏、じゃがいもの秋 宇宙暦792年4月~11月 ハイネセンポリス~宇宙母艦フィン・マックール

 宇宙暦七九二年四月一三日、パランティア航路攻略を終えて惑星ハイネセンに帰還したエル・ファシル方面軍は、熱狂的な歓呼と喝采で迎えられた。

 

 市民は苦戦ぶりに怒っていたことも忘れ、司令官ラザール・ロボス宇宙軍大将と副司令官ケネス・ペイン地上軍中将にあらん限りの賞賛を浴びせた。とにもかくにも、敵の大軍を壊滅させた功績は、大きかったのである。深追いを避けたドラゴニア方面軍に対する不満も、エル・ファシル方面軍の評価を高めた。

 

「私は名将ではない。カイザーリング提督こそ真の名将だ。彼に私と同数、いや七割の兵力があれば、勝敗は逆転していたに違いない」

 

 ロボス大将は記者会見の席で敵将カイザーリング中将の健闘を称え、ペイン中将、ムーア少将、マクライアム准将らも同調した。これによって、二〇万人を越える戦死者を出した惑星エル・ファシル攻防戦は、偉大な敵を打ち破った誇るべき戦いへと昇華された。

 

 自由の夜明け作戦総司令官のアンブリス大将は、元帥に昇進すると同時に引退した。また、第三艦隊副司令官パエッタ少将、第三艦隊C分艦隊司令官ルフェーブル少将、第三艦隊参謀長ホーウッド少将、第一二陸戦隊司令官ムーア宇宙軍少将ら、古参の少将は中将に昇進した。その他にも多くの軍人が昇進や叙勲の対象となった。

 

 隊員五一四八人のうち八五五人が戦死、二〇七四人が重傷を負うという大損害を被ったエル・ファシル義勇旅団は、手厚い恩賞を受けた。義勇兵はみんな義勇軍階級より二階級低い正規軍階級を授与され、正規軍から義勇軍に出向した軍人は全員一階級昇進した。功績の大きい者に勲章や一時金が与えられたのは、言うまでもない。

 

 俺は宇宙軍少尉から宇宙軍中尉に昇進し、ハイネセン記念特別勲功大章など三つの勲章と一時金一万ディナールを与えられ、聖戦の英雄として脚光を浴びた。

 

 国防委員会は俺のために広報チームを組んだ。カメラマンのトニオ・ルシナンデス地上軍曹長、スタイリストのラーニー・ガウリ地上軍軍曹は、四年前からの付き合いだ。広報担当には、セルジオ・ヴィオラ宇宙軍少佐という人物が就任した。

 

 ヴィオラ少佐は、ユリアン・ミンツの回顧録に悪役として登場してくる。無能なヨブ・トリューニヒトの手先で、自分より二〇歳以上も年下のミンツに初対面で嫌味をぶつけるという狭量な人物だ。そのくせ能力は低く、帝国軍がフェザーンに攻めてくると、真っ先に逃げ出して真っ先に捕まった。どうしようもないの一言に尽きる。

 

 ロボス大将やフォーク大尉のケースから、前の世界と今の世界の違いは十分に弁えてるつもりだったが、悪役だった人物に先入観抜きで接するのは難しい。

 

 実際に接してみると、それほど悪い印象は受けなかった。広報の仕事に慣れていて、スケジュール管理やマスコミ対応をそつなくこなしてくれる。性格は目上に対して腰が低く、目下に対して頭が高いといった感じで、六〇年以上も人に頭を下げて生きてきた俺には苦にならない。それでも、悪印象を拭い去ることはできなかった。

 

 ヴィオラ少佐は病的なまでに肌が青白く、身長が高くて肥満しているが、贅肉で太っているというよりは、空気を入れて膨らませてるという感じがする。風船人間といった感じの体格が大嫌いな人物を思い出させるのだ。

 

 認めたくないが、アルマ・フィリップスは、俺の五歳年下の妹である。前の世界で逃亡者になる前は懐いていたくせに、捕虜交換で帰国すると掌を返したように冷たくなった。俺のことを生ごみと呼び、消毒スプレーをかけ、俺が触った物は「汚れた」と言ってその場でごみ箱に捨てた。俺が食事当番の日には、わざと外で食べた。

 

 この邪悪な妹が、ヴィオラ少佐のように長身で肥満した風船人間だった。四年前に会った時は、赤ちゃんのようにつやつやぷくぷくしていたが、いずれは前の世界と同じ風船人間になるだろう。

 

 数日前に妹から来たメールも、不快な気分を増幅させた。もちろん内容は読まずに、受信拒否リストにぶち込んだ。四年前にパラディオンを離れた後、携帯端末を番号ごと替えて家族と連絡を絶ち、軍の人事にも家族からの問い合わせには一切応じないように頼んだ。それなのに、いったいどうやって俺のメールアドレスを突き止めたのだろうか? 何とも迷惑な話だ。

 

 外見を理由に嫌悪感を抱くなんて、ちゃんと仕事してくれてるヴィオラ少佐には申し訳ないと思う。しかし、これは理性ではなくて本能の問題だった。

 

 この件を除けば、広報活動は概ね順調である。英雄と呼ばれるたびに、亡くなった義勇兵の屍の上でスポットライトを浴びているような気がして、いくらかの後ろめたさを感じる。広報活動の成功がいいことなのかどうかは分からないが、任された以上は手を抜けないのが俺だ。

 

 マリエット・ブーブリル副旅団長は、戦いのたびにまっしぐらに敵陣に突っ込んでいったことから、陸戦隊員に「アサルト・ママ」と呼ばれるようになり、俺と離れて単独でメディアに出るようになった。年内に行われる上院エル・ファシル補選に出馬するそうだ。しかし、そんなのはどうでもいい。もう二度とあの毒々しい声で「チビ」「子供」と呼ばれないし、甘い物を食べても馬鹿にされない。それだけで十分に嬉しい。

 

 惑星エル・ファシルで生まれた多数の英雄のうち、でかくて優しい「フョードル兄貴」フョードル・パトリチェフ宇宙軍中佐は子供達の人気者となり、女優顔負けの美貌を持つ「死の天使」アマラ・ムルティ地上軍軍曹は若い男性から熱烈な支持を受け、甘いマスクと鋼のような肉体を持つ「超人」ルイジ・ヴェリッシモ宇宙軍少尉は女性をうっとりとさせた。

 

 俺の一番のお気に入りは、もちろんムルティ軍曹だ。私用端末の壁紙には、国防委員会広報課が作った「アマラ・ムルティ公式サイト」からダウンロードした画像を使っている。

 

 エル・ファシル方面軍の提督の中で最も人気があったのは、もちろんロボス大将だ。サービス精神旺盛で脇の甘い彼は、とかく話題に事欠かない提督と言われ、謹厳でマスコミ嫌いなシトレ大将とは好対照だった。

 

 若手軍人の中で最優秀と目されるウィレム・ホーランド宇宙軍准将も、テレビではお馴染みの顔だ。武勲もさることながら、凛々しい顔つきと奔放な言動が人気を博していた。ラインハルト・フォン・ローエングラムやアレクサンドル・ビュコックの伝記では、ホーランド准将は身の程知らずのやられ役だったが、テレビを見ていると彼こそが主役のように見える。

 

 勝った者は浮かれていたが、負けた者はそうもいかない。フェザーンマスコミの報道によると、ロボス大将に敗れた辺境鎮撫軍司令官クラーゼン上級大将、シトレ大将に敗れた副司令官バウエルバッハ大将の両名は、「別荘地にて病気休養」することになった。また、辺境鎮撫軍参謀長マイスナー中将は「急病死」したそうだ。

 

 手元にある『帝国報道用語辞典』を開くと、「別荘地にて病気休養」は収監されたという意味、「急病死」は自殺もしくは処刑という意味らしい。軍務省の公式発表では、辺境鎮撫軍は勝利した後に戦略的撤退をしたことになっているので、処罰したとは言えないのだ。なお、司令官・副司令官より参謀長の受けた罰の方が重いのは、前者が高位の貴族、後者が平民だからだろう。何ともやりきれない話である。

 

 一方、カイザーリング中将は自決の翌日に二階級特進して上級大将となり、その一〇時間後に元帥へと昇進し、葬儀は国葬とされた。また、爵位が男爵から子爵に引き上げられ、カストロプ公爵の次男が相続して、子孫のいなかったカイザーリング家は断絶を免れた。専制国家らしい無茶な人事ではあるが、そこまでして英雄を仕立てあげなければならないほどに、衝撃が大きかったのだ。

 

 惑星エル・ファシルでは、まだ戦いが続いている。陸上部隊三五個師団、航空部隊一五個師団、水上部隊六個隊群、宇宙部隊一〇個戦隊が駐留し、山岳地帯に逃げ込んだ帝国軍の敗残兵二〇万の掃討にあたっていた。避難民が帰還する見通しも立っていない。しかし、ほとんどの人々にとっては、エル・ファシルの戦いは終わったも同然であった。

 

 

 

 五月下旬に広報チームが解散した後、ロボス大将から呼び出しを受け、国防委員会事務総局、統合作戦本部管理部、後方勤務本部総務部、第四艦隊司令部総務部のいずれかに、事務の仕事を用意すると言われた。

 

「どれも高級参謀のアシスタントだ。軍中枢で働いた経験は、より上を目指す際にきっと役立つだろう」

「申し訳ありません」

 

 俺は頭を下げて断った。

 

「そうか。ご苦労だった」

 

 ロボス大将は一瞬だけ意外そうに首を傾げたものの、執務室からの退室を許可してくれた。こうして、六月一日付で第一艦隊所属の宇宙母艦フィン・マックールの補給科に戻った。ポストは前と同じ補給長補佐で、上官も前と同じタデシュ・コズヴォフスキ宇宙軍大尉である。

 

 武勲とも抜擢とも無縁のルーチンワーク。戦記に決して登場しない裏方。ロボスが提示してくれたポストよりはるかに地味だが、俺は満足していた。

 

「もったいないことをするね」

 

 スクリーンの向こう側の駆逐艦「ガーディニア九号」艦長イレーシュ・マーリア宇宙軍少佐は、そう言って笑った。リューカス星域へ訓練航行に出ている彼女とは、超高速通信で話している。

 

「大佐や提督を目指すんだったら、ロボス提督の申し出は願ってもないですよ。幹部候補生出身者が偉くなるには、軍中枢のエリートと親しくなって、武勲を立てられるようなポストに就けてもらわなきゃいけませんからね。しかし、そんなのは俺の望みじゃないんです」

「なるほどね。でも、望まなくても偉くなっちゃうかもよ?」

「そんなことはないでしょう」

「だって、君は若い女の子の扱いがうまいじゃん」

「そんなことありませんよ。相変わらずモテませんし」

 

 苦笑いした後、部下のエイミー・パークス宇宙軍上等兵からもらったマフィンを口に入れた。

 

「同盟軍では、異性に好かれる人が名将になるってジンクスがあってね。リン・パオ提督、ブルース・アッシュビー提督もめちゃくちゃモテたでしょ? 君も名将の素質あるよ」

「あの人達は背が高くて美男子だったでしょう? 俺はチビで不細工ですよ?」

「ロボス提督もチビで不細工だけど、めちゃくちゃモテるじゃん。まあ、君は不細工じゃなくてかわ……」

「確かにロボス提督はモテますよね!」

 

 ロボス大将はチビでデブで不細工で髪の毛が薄いにも関わらず、同盟軍屈指のプレイボーイとして有名だった。

 

 これまで三度の結婚歴があり、最初の妻は「士官学校史上でも五本の指に入る美人」と言われた士官学校の同級生で、二度目の妻は演技力に欠けるが美貌で有名な映画女優、現在の妻は二五歳下の元テレビアナウンサーだ。その他にも常に数名の愛人を抱え、一夜限りの関係も含めると、関係を持った女性の数は一〇〇〇人を超えるとも言われる。

 

 ここまで凄まじいと、羨ましいを通り越して厳粛な気持ちにすらなる。ロボス大将は用兵だけでなく色の道でも、リン・パオやブルース・アッシュビーの後継者を目指しているかのようだ。

 

「真面目な話をするとね、異性を統率するのって結構難しいのよ。まったく異性とコミュニケーションできない指揮官、お気に入りの異性をえこひいきして他の異性の反感を買う指揮官、異性と親しくなりすぎて同性の反感を買う指揮官が多いの。君は良くやってるよ」

「イレーシュ少佐はどうなんです? 駆逐艦の乗員はほとんど男性でしょう?」

「苦労してるよ。駆逐艦乗りは艦艇乗りの中で飛び抜けて荒っぽいでしょ? か弱い女にはやりにくいったらありゃしない」

 

 イレーシュ少佐は大きな胸を抱えこむように腕を組み、軽く息を吐く。一八〇センチを越える身長、視線だけで人を殺せそうな鋭い目、リンゴを握り潰せる握力、陸戦隊員並みの戦技の持ち主に言われても、説得力が無さすぎる。

 

「まあ、俺は部下に恵まれました。あのメンバーだったら、赤ん坊が上官でもちゃんと仕事するでしょう」

「爽やかにのろけないでよ。モテる人はこれだから」

「あまりに頼りなさすぎて放っとけないだけでしょう。見限られないよう、気を遣ってますよ」

 

 手をひらひらと振って否定した。アンドリュー・フォークのように爽やかで頼りになる男こそ、女性に好かれるのだ。ロボス大将は爽やかと言い難い容姿の持ち主だが、貫禄があるし、面倒見も良さそうだし、頼りがいがありそうだ。それに引き換え、俺は小心で頼りない。

 

 口に出したら悲しくなりそうな現実から逃れるため、部下のオーヤン・メイシゥ宇宙軍一等兵からもらった板チョコをかじり、甘味で心を慰める。

 

 ふと、オーヤン一等兵の母親の誕生日が一か月後に迫っていることを思い出した。母子家庭育ちで、家計を助けるために志願兵となった彼女は、人一倍親孝行だ。誕生日に非番になるよう、シフトを組まねばなるまい。

 

 第一艦隊は出兵に参加しない代わりに、他艦隊に戦力を提供する役割を担う。しかし、宇宙暦七六〇年代後半に建造された旧式艦のフィン・マックールが補充戦力として他艦隊に編入される可能性は限りなくゼロに近く、この先は安全地帯で訓練と巡視を繰り返すことが確定している。軍服を着ている以外は、役所とほとんど変わらないような職場だ。

 

 いや、役所よりもずっと恵まれてる。科学的社会主義政党「汎銀河左派ブロック」を除くすべての国政政党が公務員の人件費削減を主張し、地方首長が解雇した公務員の人数を誇るような時代では、マスコミが公務員を批判する時の決まり文句である「役人天国」は軍隊にしか存在しない。

 

 三年前の上院・下院同時選挙の後に、「共和制防衛と財政再建のための超党派十字軍」として成立した保守政党「国民平和会議」とリベラル政党「進歩党」の連立政権も、国防予算には手を付けられなかった。

 

 進歩党のジョアン・レベロ財政委員長が国防予算削減案を提出しているものの、国民平和会議の反対が強く、通過する見込みは薄いと言われる。この世界が前の世界と同じ展開を歩まなければ、定年まで安泰に暮らせるはずだ。

 

 八月二日の昼下がり、フィン・マックールの士官食堂で、補給長コズヴォフスキ大尉、空戦隊長シュトラウス少佐、整備長サンドゥレスク技術大尉、整備長補佐トダ技術中尉らと一緒に食事を取っていると、テレビのスクリーンからニュース速報を知らせるチャイム音が流れた。

 

「ニュース速報です。本日正午、銀河帝国軍務省は、『ラインハルト・フォン・ミューゼル宇宙軍中尉をリーダーとする将兵一七名が、反乱軍に占拠されたエル・ファシルから脱出し、先ほどイゼルローン要塞に到着した』と発表しました。エル・ファシル駐留軍司令部もこの事実を認め……」

 

 ラインハルト・フォン・ミューゼル。前の世界で同盟を滅亡させた人物の名前をこの世界で初めて耳にした瞬間、俺の手から落ちたスプーンの音が静まり返った食堂に響いた。それは俺の人生設計が狂い出す音でもあった。

 

 

 

 同盟領のあるサジタリウス腕と帝国領のあるオリオン腕の境界には、通行困難な危険宙域が広がり、イゼルローン回廊とフェザーン回廊のみが対立する同盟と帝国を結ぶ。宇宙暦六八二年に事実上の中立国「フェザーン自治領」がフェザーン回廊の統治権を獲得して以来、イゼルローン回廊が二大国の抗争の舞台となった。

 

 宇宙暦七六七年、銀河帝国三五代皇帝オトフリート五世は、イゼルローン回廊中央部に巨大宇宙要塞を築いた。これによって、イゼルローン回廊における帝国の覇権が確立し、一方的に同盟領に侵入できるようになった。同盟は四度にわたってイゼルローン要塞に遠征軍を送ったが、ことごとく返り討ちにあった。

 

 屍の山をどれほど積み上げようとも、同盟軍はイゼルローン要塞攻略を諦めようとしない。そして、現在は五度目の遠征軍がイゼルローン要塞へと向かっている。

 

 難攻不落の要塞を力攻めするなど、愚行としか思えない。回廊の出口を確保して、専守防衛すれば、それで十分ではないのか?

 

「エリヤ、それは違うぞ」

 

 最近ファーストネームで呼び合う仲になった二歳下のアンドリュー・フォーク宇宙軍大尉は、やんわりと否定する。俺はパンケーキを切る手を止めた。

 

「何が違う?」

「一個地上軍、正規艦隊から分派された二個分艦隊が四か月交代で国境に駐屯している。一方、帝国は要塞に一万五〇〇〇隻の艦隊を常駐させて、しきりに進入させてくる。数の上でも、兵站の上でも敵が有利だ。七八六年から去年までの五年間で、同盟軍は二回しか会戦で負けなかった。しかし、会戦が終わってこちらの宇宙艦隊主力が帰った後に、要塞駐留艦隊が回廊から出てきて、国境駐屯部隊をじりじりと削っていった。その結果、エルゴンまで押し込まれてしまったんだ。要塞という出撃拠点がある限り、エル・ファシルの悲劇は何度でも起きる」

「辺境に正規艦隊を常駐させればいい」

「基地はどうする? 一個艦隊を恒久的に駐留させられるような基地を作って維持するのに、いくら予算がかかると思う? 二〇個戦艦戦隊、二〇個巡航艦戦隊、二〇個母艦戦隊及び空戦団、二〇個駆逐艦戦隊、八個陸戦師団、作戦支援部隊、後方支援部隊の基地が必要だ」

「既存の基地を使うわけにはいかないのか?」

「あの方面で一番大きいのはシャンプール宇宙軍基地だ。それでも二個分艦隊が精一杯。しかも国境から遠すぎる」

「複数の基地に分散して駐留するなんてどうだ?」

「星系警備隊の基地には、別の部隊を受け入れるような余裕はないぞ」

 

 アンドリューは丁寧に反論を加えていく。声の調子がいつもより柔らかいせいか、完璧に論破されたにも関わらず、心地良さすら覚える。きつい印象を与えないように配慮してくれているのだろう。

 

「じゃあ、やはりイゼルローン要塞を攻略するしかないのか」

「そういうことになるな」

「でも、正攻法はまずいんじゃないか? 策略で落とす方法だってあるはずだ。陸戦隊を要塞内に送り込んで奇襲するとか」

「送り込む方法は?」

「同盟軍に追われてるふりをして、帝国軍に助けを請うなんてどうだ? 帝国軍人に偽装した陸戦隊を帝国軍から鹵獲した艦に乗せて、実際に同盟軍に追撃させる。追撃部隊は駐留艦隊を要塞から誘き出す囮も兼ねるんだ。そして、陸戦隊は逃げこむふりをして要塞に入り込み、要塞司令官を人質に取って、駐留艦隊がいない要塞を乗っ取る。侵入する陸戦隊は、薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)がいいんじゃないかな。特殊訓練を受けた亡命者だから、帝国軍人らしい演技もお手のものだ」

 

 前の世界でヤン・ウェンリーが実行したイゼルローン要塞無血占領作戦を、そっくりそのまま述べた。人類史上でも五本の指に入る用兵家が立てた作戦だ。百に一つも間違いは無い。

 

「過去にそういった作戦は数えきれないほど立てられて、何度かは実施されて、ことごとく失敗した。エリヤの言う通りに薔薇の騎士連隊を起用した時は、連隊長が要塞に入った瞬間に裏切った。一五年前のドルフライン連隊長の逆亡命だよ。真相は公開されなかったけどな」

 

 ヤン・ウェンリーの作戦と同じ作戦が過去に何度も失敗したと、アンドリューは言った。

 

「なんで失敗したんだ?」

「五重のセキュリティチェックに引っかかった。それに情報機関の優秀さでは、同盟より帝国の方が上だ。あちらは世論を気にせずにむちゃくちゃできるからな」

「でも……」

 

 前の世界のヤン・ウェンリーは成功したと頭の中で叫び、すぐに打ち消した。

 

 俺が読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』には、薔薇の騎士連隊があっさり要塞に入り込んで占拠したように書かれている。しかし、同じような作戦が過去に何度も失敗したことを考えると、ヤンは過去の作戦と違う決め手を持っていたようだ。

 

 それが何かは本には描かれていなかった。特殊作戦の記録は公開されないものだし、旧同盟軍の機密文書のほとんどは混乱の中で失われた。旧同盟軍の機密に与かる立場でもない『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』の著者には、書きようが無いのである。

 

「血を流さずにイゼルローンを攻略できれば、それに越したことはない。今後もこういった案は出てくると思う」

「正攻法にこだわりがあるわけじゃないのか」

「そりゃそうさ。でも、未だかつて誰も思いついたことのない奇策なんて、小説や漫画にしか出てこない代物だよ。想定しうる限りの可能性を検討するのが用兵家だからな。同盟軍史上最高の用兵家と言われるアッシュビー提督の奇策だって、同じ策を思いついた人はいくらでもいた。でも、見通しが立たずに実施されなかった。あるいは見通しが立たないままに実施して失敗した。アッシュビー提督だけが見通しを立てられたってわけさ」

「発想だけじゃ駄目ってことか。それを実現する見通しも必要だと」

「そう、見通しを立てるのが用兵家の仕事だ。対宇宙要塞戦術は、過去の『要塞の時代』に確立された。亡命者が持ち込んでくる情報もある。統合作戦本部や宇宙艦隊総司令部では、イゼルローン要塞攻略の作戦研究も日夜行われている。イゼルローン要塞を攻略するには、今のところは正攻法の方が成功する見通しは高い」

「なるほどなあ」

 

 アンドリューは、幹部候補生養成所で学ばなかった戦略レベルの用兵を知っている。戦記で言われるほど、同盟軍は無為無策では無いこと、帝国軍の警備が厳しいことが理解できた。

 

 こんな話を聞かされると、正攻法を批判したヤン・ウェンリーの意見も聞いてみたくなる。しかし、エル・ファシル脱出以降、俺と彼はまったく顔を合わせていない。どこの部署にいるかすら知らない有様だ。今後も聞ける機会は無いだろう。

 

「絶対に落ちない要塞はない。イゼルローン要塞もいつか落ちる。落とすのはもちろんロボス閣下だ」

 

 アンドリューの声に憧憬の色がこもり、ロボス大将がいかに素晴らしい提督かを語り出す。普段は節度のある奴なのに、尊敬するロボス大将の話になると止まらなくなる。微笑ましいと思うが、辟易させられるのも事実だ。

 

 延々とロボスの素晴らしさを語り続けるアンドリューに相槌を打ちながら、ひたすらパンケーキを食べ続ける。

 

「エリヤもエル・ファシル星域会戦を見ただろう? ロボス閣下こそが同盟軍で一番優れた用兵家じゃないか。それなのにどうしてシトレ提督がイゼルローン攻略を任されるんだ? おかしいと思わないか?」

 

 彼はシトレ大将がイゼルローン攻略を任されたことに、大きな不満を持っていた。

 

 去年秋から今年の春にかけて行われた自由の夜明け作戦には、ドラゴニア航路とパランティア航路の奪還の他に、次期宇宙艦隊司令長官及び第五次イゼルローン遠征軍総司令官を選ぶ目的もあった。

 

 前宇宙艦隊司令長官アンブリス元帥は、軍政家としては一流でも、作戦家としては二流で、イゼルローン攻略を任せるには心許ない。そこで副司令長官のシトレ大将とロボス大将にそれぞれ一方面を任せて、結果を出した側に宇宙艦隊とイゼルローン遠征軍を任せることになった。

 

 ロボス大将はひたすら戦果を追い求め、前哨戦では急襲に次ぐ急襲で、たくさんの敵兵を殺したり捕らえたりした。エル・ファシル星域会戦では、帝国軍の三個艦隊を撃破し、徹底的に追撃して壊滅させた。惑星エル・ファシル攻防戦では、苛烈な地上戦の末に地上軍七〇万を壊滅させた。マスコミを使って演出たっぷりに自軍の戦いぶりを報道させたこと、配下から多くの英雄を輩出したこともあって、市民はロボス大将を高く評価した。

 

 シトレ大将の戦い方はロボス大将と対照的だった。前哨戦では重厚な布陣で敵を圧迫し、逃げなかった敵とのみ戦った。第二次ドラゴニア星域会戦において帝国軍二個艦隊を打ち破った際には、すぐに追撃を切り上げた。大した損害も出さずに年内で作戦を完了したが、敵に与えた損害も少なく、派手な英雄譚も見られなかったため、市民からの評価は低かった。

 

 ロボス大将が宇宙艦隊司令長官とイゼルローン遠征軍総司令官を任されるものと、多くの人は考えた。

 

 俺もロボス大将が任されると思った。前の世界ではシトレ大将が司令長官になって第五次イゼルローン攻略を指揮したが、それはエル・ファシルの戦いがこんなに大規模にならなかったせいだ。展開が違うならば、結果も違って当然と考えたのである。

 

 しかし、大方の予想に反して、シトレ大将がアンブリス元帥の後任となり、ロボス大将は現職に留まった。敵に与えた損害よりも、損害の少なさや作戦期間の短さが重視されたのである。

 

 イレーシュ少佐から聞いたところによると、ロボス大将に対する反感も決め手の一つだったらしい。戦い方も私生活も派手なロボスは、支持者も多いが敵も多い。政界や軍部には、エル・ファシル方面軍の派手なやり方を不快に思った人も多かったのだ。

 

 宇宙艦隊司令長官の座を逃した後も、ロボス大将への逆風は続いた。八月二日のラインハルト・フォン・ミューゼルのエル・ファシル脱出、そして八月一〇日のアルレスハイム星域における敗戦がそれである。

 

 フェザーンのマスコミが報じるところによると、エル・ファシル西大陸の山中に潜伏していたラインハルトは、部下とともに同盟軍の駆逐艦リンデン二二号を奪って宇宙空間へと脱出した。同盟軍が警戒網を敷いたことを知ると、ベジャイア宙域で遭遇した駆逐艦アマランス五号に降伏すると見せかけて乗っ取り、まんまと同盟軍の警戒網を潜り抜けたのであった。

 

 大敗北を喫したばかりの帝国軍は、ここぞとばかりにラインハルトの快挙を宣伝し、フェザーンマスコミを通して、脱出作戦の情報を同盟に流しまくった。映画さながらの大胆な手口、首謀者ラインハルトの美貌と若さは、市民の興味を引くと同時に、エル・ファシル駐留軍に対する批判を呼び起こした。駐留軍幹部は全員更迭されて、リンデン二二号とアマランス五号の乗員とともに、査問委員会で事情聴取を受けることとなった。

 

 ラインハルトの事件に政府が神経を尖らせていたところに、第二の事件が起きた。国境宙域の哨戒にあたっていた第三艦隊B分艦隊が、八月一〇日にアルレスハイム星域で帝国軍のメルカッツ大将の待ち伏せにあい、死傷率五割を越える惨敗を喫したのだ。

 

 国防委員会はこの敗北についても、査問委員会を設置して調査を始めた。第三艦隊B分艦隊幹部は全員身柄を拘束されて、ハイネセンに護送されているという。

 

 エル・ファシル駐留軍司令官ガブリエル・ポプラン宇宙軍少将、第三艦隊B分艦隊サミュエル・アップルトン少将は、いずれもロボス大将の腹心の指揮官だ。相次ぐ腹心の失態は、ロボス大将の威信を大きく傷つけた。シトレ大将がイゼルローン攻略を成功させたら、二人の差は決定的なものになると言われる。

 

 それにしても、大将同士で差が付く付かないだの、一体何を問題にしているのだろうか? 少佐より偉くなる見込みが無い俺から見れば、フィン・マックール艦長クレッチマー中佐だって権力者だ。クレッチマー中佐の上官の第一母艦群司令ヴィルジンスキー大佐、その上官の第一一三母艦戦隊司令プラール代将、その上官の第一一三機動部隊司令官オウミ准将なんて、顔を合わせたこともない。それよりもずっと偉い大将がもっと偉くなろうと争っている。友人を通して見るエリートの世界は、不可解なことばかりだった。

 

 

 

 結局、四個艦隊五万二〇〇〇隻を動員した第五次イゼルローン遠征は、同盟軍の敗北で幕を閉じた。

 

 意図的に混戦状態を作り出したシトレ大将は、帝国軍ともつれ合いながら前進していった。味方を巻き込むことを恐れたイゼルローン要塞防衛部隊が要塞主砲「トゥールハンマー」発射をためらっている間に、同盟軍の艦隊は主砲射程範囲内に入り込んだ。

 

 同盟軍の無人艦が次々と突入して要塞外壁をぶち抜き、イゼルローンの不落神話が終焉を迎えるかに思われた。だが、錯乱した要塞防衛部隊はトゥールハンマーを発射し、味方ごと同盟軍を吹き飛ばしたのである。四〇〇〇隻の艦艇と四五万人の将兵を失ったシトレ大将は、イゼルローン攻略を断念した。

 

 前の世界とほぼ同じ結果になったことに驚いた。前の世界では起きなかった惑星エル・ファシル攻防戦が起きているし、イゼルローン遠征の時期もかなりずれたはずだ。それなのにどうして同じ結果になったのだろうか?

 

「並行追撃は一〇年前からずっと温めていた秘策でした。それでも、一歩及びませんでした。残念です」

 

 シトレ大将は帰還後の記者会見でこのように語った。要するにいつイゼルローン攻略を任されても、並行追撃戦術を使うつもりでいたのだ。

 

 何らかの必然性があれば、この世界も前の世界の展開をなぞることがあるということを、第五次イゼルローン遠征の顛末から学んだ。必然と偶然の見分けがつけば、前の世界の知識もある程度役に立つらしい。

 

 第五次イゼルローン遠征軍は撤退に追い込まれたものの、初めて主砲射程範囲内に入り込んだこと、要塞外壁に傷をつけたこと、戦死者が五〇万人より少なかったことは、これまでの四度の遠征と比較すると大きな成果だった。市民はシトレ大将の健闘を讃え、次の攻略作戦に大きな期待を寄せたのであった。

 

 そんな世間の喧騒とは関係ないところで、俺は過ごしている。最近の心配事はあのクレメンス・ドーソン宇宙軍准将だ。ごみ箱を漁り回ってみんなを困らせたあの男が、またも俺の前に立ちはだかった。

 

 一年前にごみ箱を抜き打ち検査したドーソン准将は、「八二・六キロものじゃがいもが無駄に捨てられていた。食材は市民の血税であり、一グラムたりとも無駄にしてはならない。そのことを確認すべきである」というレポートを提出した。

 

 前の世界では、ドーソンの無能ぶりの証拠とされたこのレポートも、国防委員会には高く評価された。業務改善提案審査で個人部門第二位に選ばれ、国防委員長より表彰を受けたのだ。

 

「最近の市民は無駄遣いにうるさい。国防予算を削減しろという声は前からあった。軍部でも、自主的に経費削減に取り組んで、市民感情を和らげようという声が出てきてるのさ。それでじゃがいもレポートが評価されたんじゃないかねえ」

 

 コズヴォフスキ大尉はぬるい緑茶をすすりながら、ドーソン准将が評価された理由を推測してみせた。予算を削減した役人が有能な役人と言われ、国会に国防予算削減案が提出されるような時世では、じゃがいもレポートは経費削減に取り組む姿勢の証明になるのだ。

 

 評価を高めたドーソン准将は、艦隊後方部長から副参謀長に転じて、人事・情報・作戦・後方のすべてに権限が及ぶようになった。国防予算削減を巡る与党内の攻防が激しくなり、先行きが不透明になってきたことから、業務改善力のあるドーソン准将が責任者となって、経費の無駄を洗い出すこととなったのである。

 

 第一艦隊は震え上がった。だが、俺はドーソン准将を撃退した経験がある。部下と協力すれば、今回も乗り切れるはずだった。

 

「乗りきれるはずだったのに……」

 

 晩秋の深夜、俺は自室で頭を抱えていた。机の上にはレポートと資料が山のように積み重なっている。

 

 ドーソン准将はすべての士官にレポートを課した。隙を見せてはならないと考えた俺は、手持ちのデータを整理し、他の補給士官の話を聞き、アンドリューから補給関連の統計や論文を送ってもらい、準備を整えてから意見を固めていった。

 

 二週間かけて書き終えたレポートをドーソンに提出し、やるべきことはやったと思っていたら、赤ペンでびっしり修正やコメントが書き込まれて送り返されてきた。一〇日掛けて書き直して再提出したら、また赤ペンの書き込み付きで送り返されてきた。一週間掛けて書き直して再々提出したら、また書き込み付きで送り返されてきた。

 

 学校秀才を批判する際に、「解答のある問題は解けるが、解答のない問題は解けない」と言われることがある。俺はまさにそのタイプだ。テストで点を取れるようなレポートは書けても、業務改善の役に立つようなレポートは書けないのである。

 

 ドーソン准将だって、これだけチェックしてるのなら、それはわかってるはずだ。わかっててしつこく書き直しを命じる。どういうつもりなのだろうか?

 

 大分薄れつつある前の世界の記憶を頭の中から引っ張り出す。アッテンボローの回顧録『革命戦争の回想―伊達と酔狂』によると、士官学校で軍隊組織論を教えていた当時のドーソン教官は、生徒をいびるのが大好きだったそうだ。

 

 しつこく書き直しを命じるという行動、異常なまでに細かい指摘、アッテンボロー回顧録に記された狭量さ。ここまで材料が揃えば、疑う余地はない。ドーソン准将は、俺をいびって楽しんでいる。

 

「君はまだまだ若いな。偉い人がレポートを集めるのは、『現場の話を聞いた』という体裁を整えるためだ。まともに読んだりはせんよ。耳触りのいいことを適当に書いておけばいいんだ。副参謀長のような人は、綺麗事に弱いんだからな」

 

 上官のコズヴォフスキ大尉は、適当にやればいいと言った。今年いっぱいで定年を迎えるベテラン補給士官の言葉は、とても含蓄に富んでいた。

 

「軍人たる者、日々の軍務にも命を賭けねばならぬ。理不尽を受け入れるのは、忠誠では無く迎合と言う。誤りがあるならば、身を捨てて正すのが真の忠誠心なのだ。小官も貴官と同じくらいの年頃には、上官とガンガンやり合った。逃げずに理不尽と戦った経験こそ将来の糧となろう。とことんやり合え! 小官が許す!」

 

 この発言は主語を省略しても、誰が言ったのか一目瞭然であろう。エーベルト・クリスチアン地上軍中佐の言葉は、少々暑苦しく感じることもあるが、こんな時には何よりの励みになる。

 

「君は本当に融通きかないなあ。じゃがいも閣下は人の間違い探しが大好きな人だよ? あんなに細かく書いたら、大喜びで食いついてくるに決まってんじゃん。まあ、ああいうタイプは、突っ込んできた点を一つ一つ丁寧に潰していけば、じきに静かになるよ。君は理屈が苦手でしょ? 学ぶ機会だと思って頑張るしか無いね」

 

 イレーシュ少佐の端麗な顔に、苦笑気味の表情が浮かぶ。前向きな努力を促そうとする彼女は、どこまでも教師だった。

 

 ちなみに「じゃがいも閣下」とは、ドーソン准将のことだ。前の世界で彼が「じゃがいも」と呼ばれていたことを思い出し、腹いせに使ったら、いつの間にかこの世界でも広まってしまった。

 

「現場の士官は文章書き慣れてるだろう? レポートを集めても、体裁だけは完璧に整って、中身は空っぽな作文ばかりが集まってくる。書き直しても面白くなる見込みが無い。だから、一発合格さ。再提出を何度も求められるってことは、見込みがあるってことじゃないか。士官学校で教官やってた時のドーソン提督は、嫌味だけど教え好きだった。エリヤを本気で指導してくれてるんだと思うぞ」

 

 アンドリューは白い歯を見せて笑った。そこまで見込まれたのなら嬉しいが、さすがにそれは無いと思う。それでも、真っ直ぐに陽の光を浴びて育ってきた彼らしい善意的な解釈に、少し心が和む。

 

 みんなの顔を思い出した後、腹の虫が鳴った。じゃがいもがぎっしり詰まった冷蔵庫から、一番大きそうなのを取り出し、軽く水洗いしてから電子レンジを使ってふかす。

 

 ほくほくのじゃがいもにバターを乗せ、ある人物の顔を思い浮かべながら、がぶりとかじると、体の隅々から優越感が湧き上がった。活力を取り戻した俺は、再び端末の前に座り、キーボードを叩き始めた。




人物一覧
エリヤ・フィリップス (768~ ) オリジナル主人公
作られた英雄。同盟宇宙軍中尉。

ヤン・ウェンリー (767~ ) 原作主人公
真のエル・ファシルの英雄。同盟宇宙軍中佐。前世界では銀河最強の用兵家。

ラインハルト・フォン・ミューゼル (776~ ) 原作主人公
帝国のエル・ファシルの英雄。帝国宇宙軍中佐。前世界では銀河を統一した覇王。

エーベルト・クリスチアン (?~ ) 原作キャラクター
エリヤの恩師。同盟地上軍中佐。前世界ではスタジアムの虐殺を起こした。

イレーシュ・マーリア (762~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの恩師。同盟宇宙軍少佐。

アンドリュー・フォーク (770~ ) 原作キャラクター
エリヤの親友。同盟宇宙軍大尉。第三艦隊参謀。前世界では帝国領遠征軍敗北の戦犯。

カスパー・リンツ (770~ ) 原作キャラクター
幹部候補生養成所の同期生。同盟宇宙軍少尉。前世界では薔薇の騎士連隊の第一四代連隊長。

ラザール・ロボス (?~ )原作キャラクター
同盟軍の名将。同盟宇宙軍大将。同盟宇宙艦隊副司令長官。前世界では帝国領遠征軍敗北の戦犯。

クレメンス・ドーソン (740~ )原作キャラクター
ややこしい人。同盟宇宙軍少将。第一艦隊副参謀長。前世界ではトリューニヒト派の軍高官。

カーポ・ビロライネン (761~ ) 原作キャラクター
ロボスの腹心。同盟宇宙軍准将。第三艦隊参謀。前世界では帝国両遠征軍情報主任参謀。

マリエット・ブーブリル (759~ ) オリジナルキャラクター
エル・ファシル義勇旅団副旅団長。

フランチェシク・ロムスキー (759~ )原作キャラクター
エル・ファシル惑星議会議員。前世界ではエル・ファシル独立政府主席。

ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリング (?~792) 原作キャラクター
男爵。帝国宇宙軍元帥。エル・ファシル防衛軍司令官。惑星エル・ファシル攻防戦で自決。前世界ではアルレスハイムの敗将。

※査問会は原作三巻では、同盟憲章にも同盟軍基本法にも規定がないと書いています。しかし、原作六巻では、動くシャーウッドの森に軍艦を奪われたマスカーニ少将が統合作戦本部の査問会で証言をしています。本作は事件の原因を調べるための査問会は合法、そうでない目的の査問会(忠誠審査など)は違法だと解釈します。


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第二章:憲兵エリヤ・フィリップス
第13話:じゃがいもの本当の味 宇宙暦793年1月~秋 憲兵司令部


 七九三年一月、俺の勤務地はハイネセンポリスからオリンピア市に変わった。統合作戦本部、技術科学本部、後方勤務本部、宇宙艦隊総司令部、地上軍総監部、首都防衛司令部、同盟軍士官学校などの軍中枢機関が軒を連ね、地方勤務者から怨嗟と羨望の入り混じった視線を向けられるあのオリンピアだ。軍人に対してその名を口にすれば、一〇〇人中の九九人が軍中枢のトップエリートを思い浮かべるであろうあのオリンピアだ。

 

 昨年六月にロボス大将から提示されたポストの中には、勤務先がオリンピアになっているものもあった。いろいろ考えてすべて断ったのだが、その半年後にオリンピア入りすることになるとは思いもしなかった。

 

 フィン・マックール補給科は、とても素晴らしい職場だった。母艦乗員と空戦隊員を合わせて一〇〇〇人近い大所帯の後方支援担当部署だけあって、残業は多かったけれども、競争は少なかった。上官は優しくて、部下はみんな真面目だった。勤務地は都心部からかなり離れてると言っても、一応ハイネセンポリス市内で、休日はいろんな場所に遊びに行けた。出世さえ考えなければ、これほど良い職場も無い。

 

 士官は平均すると二年か三年おきに転勤させられる。最低でもあと半年は最高の環境を謳歌できると計算してたのに、ほんの半年しかいられなかったのが残念だ。

 

「エル・ファシルの英雄がこんなところにいるのはおかしい、いずれオリンピアかキプリング街に呼ばれる。そう思ってたんですよ」

 

 送別会の時、補給科の人達は口々にそう言った。キプリング街と言えば、ハイネセンポリス都心部の官庁街で、同盟軍の中では国防委員会の代名詞である。要するに、俺は統合作戦本部や国防委員会で働くようなエリートだと思われていたのだ。

 

「そんなことないですよ」

 

 笑顔で手をひらひらさせながら否定した。

 

「謙遜することもないでしょう。フィリップス中尉の実力はみんな知っています」

 

 みんなには謙遜してるように受け取られた。だが、俺は本気でそう思っている。

 

 士官学校を卒業したエリートの中でも、オリンピアやキプリング街で勤務できる者はほんの一握りだ。士官学校を出てから一〇年目のイレーシュ・マーリア少佐だって、一度もオリンピアやキプリング街での勤務を経験していない。まして、俺は幹部候補生養成所を出た一介の補給士官だ。英雄の虚名のせいで勘違いされてるだけで、エリートなんかではない。

 

「宇宙母艦の補給科からオリンピア入りなんて、大抜擢じゃないか。俺の言った通りだよ。見る人は見ている」

 

 俺の心中も知らず、アンドリュー・フォーク宇宙軍少佐は呑気に笑う。どうして、みんな俺を過大評価したがるのか。あまり期待されても困るのに。

 

 引っ越して間もない官舎の一室。一枚の紙を眺めて、何度も何度もため息をついた。

 

「辞令

 

 宇宙軍中尉エリヤ・フィリップス

 

 憲兵司令部付を命ずる 

 

 宇宙暦七九三年一月五日 

 

 憲兵司令官

 宇宙軍少将 クレメンス・ドーソン」

 

 軍警察とも呼ばれる同盟憲兵隊(ミリタリー・ポリス)は、軍隊内部の秩序や規律を維持する作戦支援部隊である。治安警察として国民監視体制の一翼を担う帝国憲兵隊とは異なり、軍人のみを取り締まるが、それでも細かいことにうるさいことから嫌われ者だった。そんな同盟憲兵を統括するのが、憲兵司令部である。

 

 憲兵司令部の幕僚部門は、人事や会計などを担当する総務部、運用計画や教育訓練などを担当する運用部、捜査や諜報などを担当する調査部、規律や防犯などを担当する保安部の四つの部に分かれている。司令部付の俺はいずれの部にも所属せず、憲兵司令官と憲兵副司令官に直属する。

 

「よりによって、じゃがいも閣下が憲兵司令官なんだよなあ」

 

 憲兵司令官クレメンス・ドーソン少将の神経質そうな顔を思い浮かべた。彼には去年の秋から冬にかけて、五回もレポートを書き直しさせられた。ようやく縁が切れたと思ったら、今度は直属の上官だ。

 

 憲兵司令部が宇宙母艦の補給科より忙しくないなんてことはないだろう。そして、上官は神経質で狭量なドーソン。最悪としか言いようがない。

 

「こんなことになるなら、ロボス大将から勧められたポストを受けておけばよかった」

 

 後悔が胸の中に広がっていく。

 

「断らなければよかったかも」

 

 もう一枚の紙を取り出す。保守政党「国民平和会議」のパラディオン市支部から送られてきた三月の下院選挙への出馬要請だ。

 

 昨年一一月末、パラディオン選出のロイヤル・サンフォード下院議員が、分離主義過激派組織「エル・ファシル解放運動(ELN)」のテロリストに暗殺された。同盟軍の強引な攻撃で惑星エル・ファシルが焦土になったことに激怒したELNは、「自由惑星同盟に与するすべての者に無制限攻撃を加える」と宣言し、「エル・ファシル復興を目指す超党派議員連盟」の最高顧問を務めるサンフォード議員を最初に狙ったのだ。

 

 サンフォード議員の孫娘シルビア・サンフォードと、パラディオン市長ランドルフ・フィリップスが後継候補に名乗りをあげ、国民平和会議パラディオン市支部は二分された。パラス惑星支部とタッシリ星系支部が候補者調整に乗り出したものの失敗に終わり、保守分裂選挙の危機に陥ったため、市政界の重鎮カーソン・フィリップス市会議員が知名度の高い俺を擁立する案を出した。

 

 四年前、駆逐艦マーファのビューフォート艦長は、俺が議員になる可能性もあると言った。それが現実味を帯びてきたのである。

 

 新聞や雑誌を読んでみると、パラディオン市を中心とする下院タッシリ九区では、極右政党「統一正義党」の候補者イルゼ・エッフェンベルガー退役大佐が急速に支持を伸ばしていた。歴代通算二二位の撃墜数を誇る女性撃墜王としての名声、青少年非行防止運動での実績、そして長年にわたってサンフォード一派が作り上げたパラディオンの利権構造に対する不満が、エッフェンベルガー退役大佐への期待感となっているのだそうだ。

 

 俺とパラディオン市長と同姓で、どちらとも血縁関係のないフィリップス市会議員は、「フィリップス君の知名度なら勝てる」と言った。しかし、下院議員ともなれば、のんびりとは程遠い暮らしが待ち受けていることは想像に難くない。イレーシュ少佐、クリスチアン中佐、コズヴォフスキ大尉らと相談した末に、断ることに決めたのであった。

 

 一月六日、憲兵司令部に着任した俺は、ドーソン司令官に挨拶をした。メールを通して受けた厳しい修正を思い出すと、前に立っただけで膝がガクガク震え、歯がカチカチ鳴り出す。こんな気持ちになったのは、上院議員になりおおせたマリエット・ブーブリル副旅団長以来だ。

 

「フィリップス中尉」

 

 ドーソン司令官に名を呼ばれた瞬間、恐怖は最高潮に達した。相手は前の世界で最も意地悪な軍人と言われた人物だ。ブーブリルなんかとは格が違う。どれほど凄まじい悪意をぶつけられるのかを想像するだけで、卒倒しそうになる。

 

「ご苦労だった。控室で待機せよ」

 

 ドーソン司令官は表情を変えずにそう言った。ラオ大尉というどこかで聞いたような名前と冴えない風貌を持つ副官が、拍子抜けする俺を、控室へと案内してくれた。

 

 司令部付士官控室には、俺と同年代の士官が三名集まっていた。一人は茶色い髪を角刈りにした体格の良い男性、一人は金髪で中肉中背の男性、一人は黒髪でぽっちゃりとした女性だ。ここにいるということは、みんな俺と同じ司令部付なのだろう。しかし、階級の近い司令部付士官がどうして四人もいるのか? 単に配属先が決まっていないだけとは思えない。

 

 やがて、ドーソン司令官が部屋に入ってきた。そして、俺達四名の司令部付が担当する任務の内容を説明する。体格の良いハインツ・ラングニック地上軍大尉は総務部、中肉中背のマックス・ワドル宇宙軍中尉は運用部、ぽっちゃりしたジェニー・ホートン宇宙軍中尉は調査部、俺は保安部に付いて、部員の仕事ぶりを調査するというのだ。

 

「どんな細かいことでも気がついたら耳に入れること、小官からの指示を素早く正確に実行すること。諸君にはその二つを期待する。以上だ」

 

 ドーソン司令官は念を押すように言った。憲兵司令部部員の過失を見つけて、徹底的にいびり倒すつもりなのだ。

 

 なんと陰険な思考だろうか。しかも、自分がその手先に使われるのである。うんざりせずにはいられない。ロボス大将の申し出や下院選挙出馬要請を断ったことを、本気で後悔し始め、帰り道にじゃがいもを大量に購入した。

 

 保安部担当になった俺が最初に命じられた仕事は、保安部員に関する情報収集だった。陰険な仕事でも手を抜けないのが俺だ。集められる限りの情報を集めて提出したところ、ドーソン司令官は眉間にしわを寄せて黙り込んだ。

 

 いきなり上官の不興を買ったことを悟り、ぶつけられる悪意を想像し、体中から血の気が引いていく。念には念を入れて、本人の三親等以内の親族に関する情報まで集めたのだが、この程度の仕事ぶりではやはり満足してもらえなかった。他の司令部付三人はみんなドーソン司令官が士官学校教官だった時の教え子で、俺一人だけが何の縁もないのに、いきなり失敗した。

 

「申し訳ありません、司令官閣下! もうしばらく時間をいただけたら、ご期待に添える資料を用意いたします!」

「十分過ぎるほどに十分だが……。なぜこんな情報まで調べた?」

 

 ドーソン司令官が俺に見せたのは、六年前の惑星パデリア攻防戦の戦闘詳報の抄録だった。保安部警備課長ハマーフェルド地上軍少佐のファイルに、参考として添付したものだ。

 

「ハマーフェルド警備課長は、銅色五稜星勲章を持っていらっしゃいます」

「それくらいはわかっている」

「あの方はパデリアの戦いで銅色五稜星勲章を受章なさいました。受章した背景も調べなければ、閣下の要望に添えないと考えたのです」

「そういうことか……」

 

 腕を組んでなにやら考えていたドーソン司令官だったが、少し経ってから口を開いた。強烈な嫌味が飛んでくるに違いない。奥歯を食いしばって耐える準備をする。

 

「ご苦労だった。今後もこの方法でやるように」

 

 信じられなかった。あのドーソン司令官から褒め言葉を貰ったのだ。あまりのことに拍子抜けしてしまった。

 

 次の日、さらに信じられないことが起きた。ドーソン司令官は、俺を含めた四人の司令部付士官を集め、人事資料のテンプレートを配った。その項目分けが俺の提出した資料とまったく同じだったのだ。

 

「このテンプレートはフィリップス中尉が考案したものだ。他の三人も使うように」

 

 性格は悪いが実務能力に定評のあるドーソン司令官が俺なんかのアイディアを採用した。他の三人はテンプレートを読んで何やら驚いていたが、俺はもっと驚いた。夢でも見てるのではないかと疑った。

 

 二月に入った頃には、仕事にやり甲斐を感じるようになってきた。保安部の腐りきった実態が見えてきたのだ。

 

 組織的な裏金作り、検挙実績を挙げるための違法捜査、関係者が起こした事件の揉み消し、私的制裁やセクハラの横行など、資料を読むだけで腐臭が漂ってくる。サイオキシン麻薬の常習者、統一正義党系列の極右民兵組織「正義の盾」の隠れ構成員、憲兵司令部に集まった情報を使って金儲けに励む者などもいたのである。日に日に不正を正さなければならないという思いが強まり、じゃがいもを食べる量が減っていった。

 

 二月に行われた七九二年度の業務改善提案審査で、ドーソン司令官に書き直しさせられたレポートが個人部門三位に入賞して国防委員長表彰を受けたことも、気分を高揚させた。

 

 ドーソン司令官は、憲兵司令官の激務をこなしながら、俺達が集めた資料や公文書のすべてに目を通し、貪欲に情報を吸収していった。情報にカロリーがあったら、肥満していたに違いない。

 

 情報収集が終わると、ドーソン司令官は憲兵司令部の大掃除に乗り出し、全部員の一割近い一八六名が懲戒処分を受けた。また、保安部長パードゥコーン地上軍大佐、憲兵隊首席監察官ストリャコフ地上軍大佐、調査部情報保全課長クアドラ宇宙軍少佐など二七名の憲兵司令部部員が、収賄、業務上横領、職権濫用、機密漏洩、私的制裁などの疑いで国防委員会に告発された。

 

「見ての通り、憲兵隊の腐敗はもはや座視し得ない水準に達している! 徹底的に膿を出し、市民の信頼を取り戻す! それが諸君の義務だ!」

 

 突然の大粛清に震え上がる司令部部員に、ドーソン司令官が口ひげを震わせて檄を飛ばす。前の世界で陰険な小悪党と言われた男は、今の世界では不正と戦うヒーローとなった。この日の俺はじゃがいもを一個も食べなかった。

 

 

 

 三月下旬の定例人事では、課長級以上の幹部部員の四割、一般部員の三割が転出させられ、空いたポストにはドーソン司令官に忠実な者が登用された。

 

「小官が副官ですか?」

 

 ドーソン司令官に呼ばれて内示を聞かされた時、自分の聴覚が狂ってしまったのかと疑った。副官のサンジャイ・ラオ宇宙軍大尉が更迭されるとは聞いていたが、俺以外の司令部付であるラングニック大尉、ワドル中尉、ホートン中尉の三名のうちから選ばれるとばかり思っていたのだ。

 

「そうだ。貴官が新しい副官だ」

 

 ドーソン司令官の表情が、そんなこともわからないのかと語る。どうやら聞き間違いでないらしい。

 

「しかし、副官は大事な仕事です。小官程度の者でよろしいのでしょうか? 有能で信頼の置ける者を選ぶべきでは?」

 

 何としても、副官だけは避けたかった。副官は階級こそ低いものの、士官学校卒のエリートが登用される要職で、司令官の手足となって走り回る激務である。まして、上官はドーソン司令官なのだ。幹部候補生あがりの俺に務まるとは思えない。

 

「だから貴官を選んだのだ」

「し、しかし、小官に務まるとは……」

「私に人を見る目が無いと言いたいのか?」

 

 ドーソン司令官の声にとげが混じる。彼は不正を許さないが、自分が否定されることはもっと許さない。

 

「申し訳ありません。小官が間違っていたようです」

 

 怒りを買うのが怖くて引き受けた。こうして俺は大尉に昇進し、ドーソン司令官の副官に就任したのである。

 

 憲兵司令部副官の朝は早い。憲兵司令部の副官室に到着すると、自分の端末を開いてメールをチェックする。それから、四人の副官付と打ち合わせだ。

 

 副官付とは、副官を補佐する下士官や兵卒のことを指す。俺の下には、フィン・マックールの前給食主任アルネ・フェーリン宇宙軍軍曹、ハイネセンポリス砲術専科学校を首席で卒業したタチアナ・オルロワ地上軍伍長、フィン・マックールの前給食員エイミー・パークス宇宙軍上等兵、ウォルター・アイランズ上院議員の娘でハイネセン記念大学人文学部を卒業したエリサ・アイランズ地上軍一等兵の四名が付く。みんな優秀な女性だ。

 

 普通は、下士官と兵卒が一名ずつ副官付になる。しかし、ドーソン司令官は何でも自分で仕切ろうとするため、副官の仕事も必然的に多くなるし、俺は能力が低い。だから、通常の倍の人数が必要になるのである。

 

 副官付との打ち合わせを終えたら、司令官専属ドライバーとともに公用車に乗る。官舎までドーソン司令官を迎えに行き、一緒に登庁する。

 

 司令官執務室に入った後に、その日のスケジュールについての説明を行う。司令官のスケジュールを組むのは副官の仕事だが、これが結構難しい。予定を詰め込み過ぎると、不測の事態が起きた際に、予定が一気に崩れてしまう。しかし、余裕を持たせ過ぎると、するべき仕事を消化できなくなる。絶妙なバランス感覚が必要だ。

 

 課業時間に入ると、さらに忙しくなる。連絡事項がひっきりなしに舞い込み、司令官宛ての超高速通信やメールが次々と入り、司令部部員が入れ替わり立ち替わりで決裁を求めに来る。それらの取り次ぎは副官の仕事だ。憲兵隊全体の仕事を把握した上で、副官の裁量で取り次ぐ順番を決めていく。少しでも間違えば、たちまちのうちに仕事が滞る。緻密な頭脳、幅広い知識が問われる。

 

 副官の仕事は取り次ぎだけに留まらない。会議があれば準備を行い、来客があれば応接し、司令官の食事やトレーニングにも付き合う。司令官が外出する際は随行し、出張する際は一緒に出張する。司令官のある所には、常に副官がいるのだ。

 

 多忙な司令官には、打ち合わせに割ける時間は無い。そのため、移動の合間に細かい打ち合わせも行う。

 

「交通違反ゼロキャンペーンの成果はまずまずだ。しかし、リューカス星系の違反者だけは急増しているな。軍人がこうも交通違反を犯しては、示しが付かん。あそこの警備司令官はグエンだったな。あいつとは士官学校で一緒に仕事をしたが、本当にいい加減な奴だった。とにかく生徒にいい顔をしようとする奴でな。規律の何たるかをわかっていないのだ。そのくせ、四〇歳にもならないうちに准将に昇級しおって。まったくもって世の中は……」

「リューカス星系の道路交通法は、去年末の改正で第一七条、第一九条、第二四条、第三〇条の適用範囲が飛躍的に拡大しました。あのトリプラ星系よりずっと厳しい内容です」

「貴官は星系法まで勉強しているのか?」

「そうでなければ、司令官閣下のお役に立てないと思いまして」

「そうか。トリプラより厳しいとなれば、車のエンジンを掛けただけでも罰金を取られかねんな。まあ、グエンの無能だけではないということか。注意を喚起しておこう。資料を作成してくれ」

「了解しました」

 

 このように司令官の求めに応じて、いつでも必要な情報を提供するのも副官の仕事だ。知識を整理する能力に加え、知識を更新する熱意を持ち、怠ること無く勉強を続けなければ、情報に貪欲なドーソン司令官の副官は務まらないのである。

 

 課業時間が終了した後は、公用車に乗って司令官を官舎まで送り、それから司令部に戻る。そして、四人の副官付と打ち合わせをして、明日の準備にとりかかるのだ。しかし、多忙な司令官が課業終了と同時に帰宅することは少なく、毎日のように残業するし、二日か三日に一度は夜の会議もある。そのすべてに俺が同行する。官舎に帰れるのは、早くても夜の二二時だ。

 

 このように副官はとんでもない激務で、軍幹部や政治家と顔を合わせることも多く、いい加減な俺には最も向かない仕事だった。ストレスが積もり積もって、マフィンを食べる量が倍増した。

 

「いや、話を聞いてる限りでは、天職としか……」

 

 アンドリューはそう言ったが、彼は善意的な解釈をすることでは右に出る者のない男である。仮に俺が統合参謀本部長や宇宙艦隊司令長官になったとしても、やはり天職と言うに違いない。

 

「あのじゃがいも閣下に信頼されるなんて、大したもんだってみんな言ってるのに」

 

 イレーシュ・マーリア少佐もとんだ誤解をしている。仕事ができない部下を信頼する上官など、どこにいるのだろうか。まして、俺の上官はあの気難しいドーソン司令官なのだ。

 

 前の世界で名将ダスティ・アッテンボローの作戦主任参謀、バーラト自治政府軍参謀次長を務めた英才サンジャイ・ラオですら、副官の仕事を全うできなかった。俺もいずれ更迭されるのは間違いない。

 

「しかし、フィリップス大尉は、一度も失敗したことがないじゃないですか」

 

 フィン・マックール補給科での部下だった副官付のアルネ・フェーリン軍曹は、相変わらず俺を贔屓してくれる。しかし、仕事なんて失敗しないのが当たり前だ。それに恥ずかしいから面と向かっては言えないが、失敗せずに済んでいるのは、彼女ら副官付が有能なおかげではないか。

 

「そもそも、フェーリン軍曹とパークス上等兵が副官付になった事自体、ドーソン提督が貴官に期待している証拠だと思うがな。母艦の給食員だった者を副官付に起用するなど、異例もいいところだ。貴官のために引き抜いたのではないか?」

 

 エーベルト・クリスチアン中佐は腑に落ちないような顔で言うが、ドーソン司令官がそこまで俺に配慮するとは思いにくい。

 

 副官の激務をこなしていると、フィン・マックールの補給科が懐かしく思える。しかし、あの穏やかな日々は二度と戻ってこない。

 

 上官のコズヴォフスキ大尉は六月で定年を迎え、少佐に名誉進級して軍を退いた。カヤラル准尉が第三方面分艦隊旗艦「ヒューベリオン」の補給主任に転じ、カイエ一等兵がハイネセンポリス通信専科学校に推薦入学するなど、一緒に働いた者の半数がフィン・マックールを去った。

 

 同盟も嵐のただ中にいる。三月の下院選挙では、統一正義党が議席を大きく増やし、極右勢力の台頭が明らかになった。帝国軍が一大攻勢を開始し、三月にはシャンダルーア、七月にはドラゴニアとパランティアに大軍が押し寄せてきた。昨年に国防予算が削減されたことを受け、同盟軍は三年間で兵力の一五パーセント削減を決定した。

 

 気の滅入るニュースも多い。惑星エル・ファシルで抵抗を続けていた最後の帝国軍敗残兵三〇〇人が、ゼッフル粒子を使って同盟軍一二〇〇人を道連れに自爆した。アルレスハイムで惨敗したアップルトン少将は、准将に降格の上で予備役に編入された。ラインハルトに乗っ取られた駆逐艦リンデン二二号の艦長は非難に耐え切れずに自殺し、アマランス五号の艦長は降格の上で予備役に編入された。

 

 生暖かい風に吹かれて初夏の夜道を歩きながら、穏やかな世の中が終わってしまったような思いにとらわれ、暗い気分を覚えたのであった。

 

 

 憲兵隊は国防委員長直轄の部隊だが、格付けは意外と低い。六二万三〇〇〇人と全体の規模はそこそこ大きいものの、分散して配備されるため、各部隊の規模は小さく、最大級の規模を持つ艦隊憲兵隊や方面軍憲兵隊ですらせいぜい一万人だ。これは代将たる大佐が指揮官に充てられる格の部隊である。要するに将官ポストが少ないのだ。それゆえに、トップの憲兵司令官は、「中将もしくは少将」と定められ、艦隊副司令官や方面軍副司令官と同格に過ぎなかった。

 

 戦闘に参加しないのも憲兵隊の格を低くする要因だった。武勲に縁が無い憲兵は、他の部門と比較すると昇進が遅く、憲兵勤務一筋で将官まで昇進する可能性は限りなく低い。司令官・副司令官・部長・首席監察官といった要職は、ほぼ情報部門と兵站部門の出身者で占められており、生え抜きの憲兵は少ない。歴代憲兵司令官一三三名のうち、憲兵勤務一筋だった者はわずか五名だ。

 

 汚れ仕事で出世の見込みも少ない憲兵は、当然のように不人気で、能力にも意欲にも欠ける人材の吹き溜まりだった。他の部門ならとっくに淘汰されるような人材も、憲兵隊では大きな顔をしていられた。

 

 馴れ合いと無気力が憲兵隊を覆い尽くし、私的制裁やセクハラなどの深刻な事案は放置され、軽微な違反の摘発によって水増しされた検挙実績だけが虚しく積み上がった。腐敗の温床と化した憲兵隊を健全化して信頼を取り戻す。それがドーソン司令官に課せられた役目だったのである。

 

 憲兵司令部の腐敗を一掃したドーソン司令官は、憲兵隊全体の健全化に取り組んだ。徹底的な監査によって、隠蔽されてきた数々の裏金作りや違法捜査を白日のもとに晒した。憲兵向けの研修を充実させ、法令遵守意識の向上に務めた。勤務態度の悪い者、規則違反の常習者を厳しく処分し、弛んだ空気を引き締めた。

 

 健全化と同時に機構改革も進められた。指揮系統を簡略化し、上下の情報の流れを円滑にする。連絡体制を整備し、部署間の連絡を迅速かつ正確なものとする。ほとんど機能していなかった監察官室の権限を強化し、司令部部員を厳しく取り締まらせる。恐竜に例えられるほどに動きが鈍かった憲兵隊は、ドーソン司令官の手腕によって、機動力に富んだ組織へと生まれ変わったのだ。

 

 ぬるま湯につかりきっていた古参の憲兵は、改革に激しく反発した。ある者は組織的なサボタージュを企んだ。ある者はドーソン司令官のスキャンダルを掴んで失脚させようとした。ある者は軍幹部を動かして圧力を掛けようとした。しかし、彼らの企みはことごとく失敗に終わり、軍から追放され、ドーソン司令官に忠誠を誓う者だけが残ったのである。

 

 夏が終わりかけた頃、国防予算削減に不満を抱く地上軍中堅将校のクーデター計画が、憲兵隊によって未然に阻止された。この事件は表沙汰にはならなかったものの、新生憲兵隊の評価、そして改革を成し遂げたドーソン司令官の評価を大いに高めた。

 

 前の世界でローエングラム朝銀河帝国の初代憲兵総監を務めたウルリッヒ・ケスラー宇宙軍元帥は、腐敗した憲兵隊の改革を成し遂げた。もしかして、ドーソン司令官もケスラー元帥のような名将なのだろうか? 一瞬だけそんなことを思い、すぐに打ち消し、じゃがいもを電子レンジでふかして食べた。

 

 ドーソン司令官の手腕は素晴らしかったが、統率ぶりは酷かった。仕事の質が落ちるのを嫌ったのか、部下の裁量に任せようとせずに、すべてを自分で取り仕切った。どんな情報でも集めようとするあまり、人の悪口や根も葉もない噂話にまで耳を傾けた。素早く仕事を進めるため、批判者を遠ざけ、言うことを聞く者だけを近づけた。その結果、憲兵司令部はドーソン司令官の独裁国家と化し、密告や讒言が横行した。「みんな仲良く」という俺の理想とはほど遠い。

 

「でも、君にはまったく被害無いじゃん。じゃがいも閣下のお気に入りなんだから」

 

 スクリーンの向こう側の第一輸送軍後方副部長イレーシュ・マーリア少佐は、下着の上に寝間着をだらしなく羽織り、ベッドに寝そべりながら、ポテトフライをつまむ。

 

「そんなことないですよ。たぶん嫌われています。あんなに優秀な人が、俺のような役立たずを気に入るとは思えませんよ。ほとんど褒めてもらえませんし」

 

 ふかしたじゃがいもにバターを塗りながら答える。ドーソン司令官は仕事はできるが、偉大なダスティ・アッテンボローが書き残した通りの狭量な人物なのだ。俺なんかを認めるはずもない。

 

「保安部長の犯罪を突き止めて失脚させたのに、役立たずってことはないでしょ」

「失脚させたのは司令官です。俺は情報を集めただけですよ」

「自分自身の能力と他人の好意を過小評価したがるの、君の悪いとこだよ? 単純で物を深く考えないくせに疑い深い。駆逐艦の艦長やってた頃の部下にもそんな子がいたよ」

「どんな人だったんですか?」

「君より二歳上の新兵だったんだけどさ。とにかく自信の無い子でね。自分も他人も信用していなかった。いつもおどおどしていて、自分の中に閉じこもってたよ」

 

 思い切り身に覚えがあった。恐る恐る質問を続ける。

 

「前歴などは調べましたか」

「まあね。ため息が出るほど不幸だったよ。幼い頃に一家が離散して、親戚をたらい回しにされ、最後は施設に入れられた。親戚のところでも、施設の中でも虐待を受けた。一六歳で社会に出た後はどんな仕事をしても長続きせず、つまらない犯罪を重ねて刑務所を出入りし、行き場がなくなって二六歳で志願兵になった。身上書を読んだだけでやるせない気持ちになったね」

「彼は閉じこもることで、その場その場をやり過ごしてきたんじゃないでしょうか。殴られても罵られても、何も考えずに閉じこもっていれば、それで済みますから」

 

 俺はその志願兵のことでなく、過去の自分自身のこと、そして矯正区や貧民街や刑務所や救貧院で共に過ごした人々のことを語った。

 

「上官に相談したら、君と同じことを言ってた。『あまりに不幸が続くと、人間は単純で疑い深くなる。ずっと自分の中に閉じこもって、成長しないままに時を過ごして、子供みたいになってしまう。誰かがそれを終わらせなければならない』ってね」

「良いことをおっしゃる方ですね」

「そうだね。前の君もそんな感じだった。最近はだいぶマシになったけど」

「少佐のおかげです」

「不幸らしい不幸を経験してないはずの君が、どうしてああなったのかは知らないけどさ。これだけ認められてるんだから、いい加減前向きに考えなよ。国防委員長表彰される水準まで指導してもらえた。個人的な付き合いが無かったのに、士官学校の教官だった時の教え子三人を差し置いて副官に抜擢されて、大尉に昇進させてもらえた。好き嫌いの激しいじゃがいも閣下にここまで取り立てられるなんて、並大抵のことじゃないよ。みんなお気に入りだと思うに決まってるでしょ」

「やはりそう思われますか。でも、気に入られてたとしても、居心地が悪いですよ。ドーソン司令官を嫌う人は冷たい視線で俺を見る。媚びようとする人は俺に取り入ろうとする。俺の悪口をドーソン司令官に吹き込んで、自分がお気に入りになろうと企む人もいる。いずれにしても苦しい立場です」

 

 ほくほくしたじゃがいもをかじり、やるせない気持ちとともに飲み込む。

 

「なるほどねえ。君はそういうの弱いからなあ。愛されすぎるのもそれはそれで苦労するね」

「いや、愛されてはいないでしょうが……。どうすればいいんでしょうか?」

「自分の得意技で勝負するしかないんじゃない? 腰の低さと気配り。そして、かわ……」

「ありがとうございます! 頑張ります!」

 

 恩師のアドバイスに勇気づけられた俺は、翌日からドーソン司令官をじっくり観察することにした。彼が身を持って示してくれたように、情報を制する者はすべてを制するのである。

 

「何と酷い母親なのだ! こんな奴には生きる資格は無い! 死刑にしてしまえ!」

 

 母親が愛人と一緒に子供を虐待して殺したというニュースを見たドーソン司令官は、口ひげを震わせて怒った。

 

「もっと早く救いの手を差し伸べることができなかったのか……」

 

 生活苦に陥った一家が心中したというニュースを見たドーソン司令官は、口ひげをしおれさせて悲しんだ。

 

「頑張って勉強するのだぞ」

 

 街角で募金箱を持って立っている交通遺児を目にしたドーソン司令官は、財布からしわ一つない一〇〇ディナール紙幣を三枚取り出して寄付すると、優しく励ました。

 

「人を馬鹿にしおって! あいつは士官学校にいた時から生意気だった!」

 

 第七艦隊副司令官ウランフ少将のオフィスを訪れたドーソン司令官は、スタッフの服装の乱れを嫌味混じりに指摘したが、ウランフ少将の副官ダスティ・アッテンボロー大尉に手痛い反撃を受けて、帰りの車中で怒り狂った。

 

「実に真面目な若者だ。ああでなくてはいかん」

 

 統合作戦本部で開かれた会議に出席したドーソン司令官は、準備に携わった本部情報参謀部員スーン・スールズカリッター中尉の不器用だが実直な仕事ぶりを褒めた。

 

 じっくり観察していくうちに、ドーソン司令官という人がわかってきた。

 

 わかりやすい悪に怒り、わかりやすい不幸に同情し、わかりやすい善行を好む。生意気を嫌い、素直を好む。善意に対しても悪意に対しても敏感。人の言葉に左右されやすい。自分の視界に入っている人間には意外と優しい。要するにとても普通の人だったのだ。

 

 前の世界で読んだ『革命戦争の回想』や『自由惑星同盟内戦記』といったドーソン司令官に非好意的な本の影響、第一艦隊にいた時の経験から、彼を狭量なだけの人と思っていた。だが、自分とそれほど変わらない価値観を持っていることが分かるにつれて、付き合い方も分かってくる。

 

 情報収集に熱心な彼の姿勢、そして副官という自分の立場を利用して、讒言や悪口とは正反対の話を耳に入れる。それが最善手だと判断した。

 

「イアシュヴィリ大佐は、とても奥様を愛していらっしゃると聞きます。結婚から二〇年近く過ぎても新婚同然だとか」

「それは結構なことだ」

 

 保守的で素朴な家族観を持つドーソン司令官は、とても満足そうに頷いた。

 

「クォン少佐は捜査の鬼と言われた方ですが、過去に司令官賞や隊長賞で得た報奨金の半額を必ず犯罪被害者救済基金に寄付なさるそうです」

「あの女傑にそんな一面があったのか」

 

 慈善や奉仕といった言葉が好きなドーソン司令官は、煙たく思っていたクォン少佐の慈善家ぶりに感銘を受けたようだ。

 

「ドレフスカヤ少佐は、最近体調を崩しているそうです。先日来訪したフェザーン財務長官を雨に打たれながら警護したのが祟ったのでしょう」

「あんな酷い雨なら体を悪くするのも道理だな。休ませてやらねば」

 

 真面目さを至上の価値と思っているドーソン司令官は、仕事熱心な部下に対してはこのような気遣いを見せる。

 

 こうやってドーソン司令官の優しい部分を引き出す一方で、密告や讒言をする人を遠ざける取り組みも行った。

 

「ルチャーギン中尉は行動力があります。現場指揮官として力を発揮するのでは」

「確かにそうだ。あの男は熱心に提案をしてくるからな」

 

 ルチャーギン中尉が点数稼ぎのために不要不急の提案ばかりして仕事を滞らせる人物だとか、そういったことは一切言わずに、点数稼ぎに奔走していることを「行動力がある」と言い換える。

 

「レザーイー中佐は麻薬取り締まりに実績があります」

「最近の貴官はそればかり言っているな。よほどレザーイーの手腕を評価していると見える。そこまで言うなら考えておこう」

 

 レザーイー中佐が讒言を武器として世渡りする人物だとか、そういったことは一切言わずに、一〇年以上前にあげた唯一の実績を強調する。

 

 こうして、現場向きの人材であることを強調して、問題のある人物が憲兵司令部の外に出されるように仕向けた。

 

 必死の努力が実り、変な取り巻きは姿を消し、真面目で穏やかな人間が新しい取り巻きとなり、ドーソン司令官の雰囲気は柔らかくなった。何でも自分で取り仕切ろうとするところ、批判を嫌うところは相変わらずだったが、側近以外の部下にも気遣いを見せるようになった。おかげで憲兵司令部もだいぶ過ごしやすくなり、じゃがいもの消費量も減ったのである。



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第14話:笑顔と温もりの食卓 宇宙暦793年9月上旬 じゃがいも料理店「バロン・カルトッフェル」

 初秋の休日の昼下がり、ハイネセンポリス副都心の帝国風じゃがいも料理店「バロン・カルトッフェル(じゃがいも男爵)」は、今日も賑わっていた。憲兵司令部で馴染みのある顔もちらほら見かける。

 

 俺はいつもと同じように軍服を身にまとっていた。ろくな私服を持っていないため、フォーマルな席では軍服で済ませているのだ。

 

 向かい合って座る憲兵司令官クレメンス・ドーソン宇宙軍少将は、白いワイシャツの上にグレーのジャケットを着用し、ネクタイは着けていなかった。服にはしわひとつ無く、まるでアイロンを掛けた直後のようだ。髪も口ひげも完璧に整えられている。ダンディな装いのはずなのにどこかずれてるように見えるのは、妙に肩肘を張っているせいだろう。彼にはリラックスという概念が存在しないのである。

 

 テーブルを挟んで沈黙の時が続く。ドーソン司令官とプライベートで会うのは初めてだ。仕事中もほとんど雑談はしないため、何を話していいか分からない。

 

「ずっと思っていたのだが……」

 

 ようやくドーソン司令官が口を開いた。俺を誘った理由についてようやく話してくれるのか。

 

「宇宙艦隊総司令部のフィリップス少佐は、貴官の従兄弟か何かか?」

 

 椅子からずり落ちそうになってしまった。オリンピア勤務になってからというもの、宇宙艦隊総司令部のフィリップス少佐との関係を聞かれることがやたらと多いのだ。

 

 俺より二歳年長のダグラス・フィリップス宇宙軍少佐は、姓だけでなく、髪の毛の色と出身地も全く同じだった。「パラディオン出身の赤毛のフィリップス」ということで、フィリップス少佐が俺の兄弟か親戚だと勘違いされてしまう。彼の姉も軍人で、そちらとの血縁関係を聞かれることもしばしばだった。

 

「いえ、何の血縁関係もないです。小官の父は一介の警察官、フィリップス少佐の父はパラディオン市長ですから」

「そうか。貴官の家族情報にはプロテクトが掛かっているから、なかなかわからなくてな」

「申し訳ありません」

 

 軽く頭を下げた。同盟軍では、国防委員会人事部に申請を出して、しかるべき事情があると認められたら、プライバシー性が高いが人事査定と関係の薄い個人情報にプロテクトを掛け、上官や人事担当者にも閲覧させないようにできる。表向きには、「広報活動で家族に迷惑を掛けたくないから」と言っているが、本当は今さら家族のことを人に突付かれたくないからそうしていた。

 

「ところで貴官の身長は何センチだ?」

 

 心を抉る質問だった。いくら話題に困ったからといって、身長を聞くことはないではないか。上官の無神経さに少し腹が立った。

 

「一七一センチです」

 

 これ以上ないぐらい簡潔に答える。少しでも早くこの話題を終わらせなければならない。余計な情報を与えて詮索されるぐらいなら、答えだけを与えるのが一番だ。

 

「思ったより高いな。一六九・四か五くらいと予想していたが。意外と当たらないものだ」

 

 心臓が一瞬止まった。俺の身長は一六九・四五センチ。ドーソン司令官は正確に俺の身長を見抜いた。さすがは情報部門出身だ。彼の思考の幅はとても狭いが、見える範囲では恐ろしく鋭い観察力を発揮する。

 

「良く言われます」

 

 曖昧に笑ってごまかした。情報を与えずにやり過ごすのだ。

 

「小官の身長は一七一・二センチでな」

 

 ドーソン司令官は自ら身長を明かしたが、これは勇み足だった。彼の身長は俺とほとんど同じはず。人一倍身長にこだわってきた俺が言うのだから、百に一つも間違いはない。ドーソン司令官はサバを読んでいる。

 

 一七一・二センチとサバを読んだのは、なかなか上手いと思う。人に身長を聞かれて「一七〇センチ」と答えるようでは、いかにもサバを読んでいるように見える。身長の数字が現実的に見えるように操作せねばならない。

 

 俺は大きく余裕を持たせて一七一センチに設定しているが、ドーソン司令官はリアリティを優先した。しかも俺より二ミリ高く、優位性を誇示できる。さすがと言うべきであろう。憲兵隊の腐敗を一掃したドーソン司令官の知謀は、このような場面でも発揮される。俺だから見抜けた。

 

 それにしても、身長があと五センチあれば、こんな苦労もせずに済むのに。成長期にもっと食べておけば良かった。少食な自分が恨めしくなる。

 

 小さな人間が小さな攻防を繰り広げている間に、注文した料理がやってきた。不毛な戦いを打ち切って、全身全霊で料理を平らげていく。

 

「貴官は少し食べ過ぎではないか?」

 

 ドーソン司令官は困ったような顔で俺を見た。自慢の口ひげも少ししおれているようだ。

 

 俺はまだ三皿目のジャーマンポテトに手を伸ばしたばかりである。チビだからこの程度で満腹になるとでも思われているのだろうか。まったくもって心外だ。

 

「大丈夫ですよ。次はりんごとじゃがいものグラタン、田舎風じゃがいもサラダ行きます。あと、じゃがいものスープのおかわりを」

 

 俺はにっこり笑うと、ウェイターを呼んで追加注文した。ドーソン司令官の前で「じゃがいも」という言葉を連呼できる絶好の機会を逃すわけにはいかない。

 

「そうではなくてだな……」

「デザートもおいしいんですよ。じゃがいものピッツァ、じゃがいものクーヘン、じゃがいものトルテ、じゃがいものアイスクリームなんかがお勧めです」

「貴官はこの店に来たことがあるのか?」

「はい。友人に連れてきてもらいました」

 

 最初にこの店に来たのは、ちょうど一年前のことだった。レポートで悩んでいた俺をイレーシュ・マーリア少佐がこの店に誘ってくれた。じゃがいも料理をたらふく食べることで、大いにストレスを発散できたのである。

 

「貴官の友人といえば、ロボス提督のところにいるフォーク少佐か?」

「いえ、それとは別の人です」

「貴官は友達が多いのだな。大いに結構」

 

 ドーソン司令官は満足そうに笑い、じゃがいものオムレツを頬張った。

 

「ところで家族とは仲良くしているのか?」

「いや、まあ、それなりに……」

 

 いきなり家族の話題を振られて、しどろもどろになった。パラディオンの家族とは、もう五年近く連絡を取っていない。

 

 妹のアルマからは、一年に一度ぐらいの割合でメールが来る。先月も「おいしいマフィンのお店できたの知ってる?」という題名のメールが来たが、読まずに受信拒否リストに叩き込んだ。それにしても、あのデブはどこから俺のアドレスを探りだしてくるのだろうか。本当に気分が悪い。

 

「仲良くしないといかんぞ。家族とは一生の付き合いだ」

 

 俺の表情から、ドーソン司令官は不穏なものを察したらしい。彼は基本的にお節介だ。家族とうまくいってないと知ったら、「仲直りしろ。何なら私が話し合いの場を設けよう」などと言い出しかねない。どうやってごまかそうか考えていると、人の気配がした。

 

「やあ、クレメンス」

 

 朗らかな声がドーソン司令官の興味を逸らしてくれた。声の主は人懐っこそうな笑顔を浮かべ、軽く右手を上げながらゆっくりと歩み寄ってくる。

 

 すっきりと鼻筋の通った顔立ちに、垂れ目気味の目が親しみやすい印象を付け加え、甘いマスクといった感じだ。長身で肩幅が広く、スポーツマンであることが一目で分かる。上半身は白いポロシャツにグレーのニットカーディガン、下半身は細身のパンツに上品なカジュアルシューズ。質素な服装が端正な容姿を引き立てる。年齢は三〇代くらいだろうか。

 

 どこかで見たような顔だ。この顔は……。

 

「トリューニヒト政審会長、お待ちしておりました」

 

 ドーソン司令官は立ち上がって声の主に敬礼をした。俺もつられるように立ち上がって敬礼をする。

 

「クレメンス、いつもヨブと呼んでくれと言ってるじゃないか」

 

 声の主は気さくに笑ってドーソン司令官の肩をポンポンと叩き、俺にも顔を向けた。

 

「エリヤ・フィリップス君、はじめまして。私はヨブ・トリューニヒト。君の上官と親しくさせてもらっている者だ」

 

 与党第一党・国民平和会議(NPC)のヨブ・トリューニヒト政策審議会長は、蕩けるような笑顔を俺に向けた。「将来の最高評議会議長候補」の呼び声も高い主戦派のプリンスにして、前の世界では同盟を敗戦に導いたと言われる無能な最高評議会議長。そんな大物が唐突に現れた。

 

 

 

 初めて肉眼で見るトリューニヒト政審会長は、とてもおかしな人だった。大量の料理を注文しては、片っ端から平らげていく。

 

「五年前の件? ああ、パーティーに君が来てくれなかった件か。あれはもういいんだ。私が大人気なかった。そんなことより、ここのポテトフライは本当に絶品でね。フランクフルトソーセージをかじりながらつまむと、たまらなくうまいんだよ」

 

 トリューニヒト政審会長は満面の笑みを浮かべ、ポテトフライとソーセージを次々と口の中に放り込んでは咀嚼する。手や口の周りが油でベトベトになってるのに、まったく気にしていない。惚れ惚れするほどに豪快で、見ているだけで食欲が湧きそうな食べっぷりだ。

 

 洗練された紳士というイメージのあるテレビの中のトリューニヒトと、行儀の悪い目の前のトリューニヒト。あまりにも大きなギャップに戸惑う。

 

 俺が読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『革命戦争の回想』なんかではまったく触れられないヨブ・トリューニヒトの経歴は、華麗の一言に尽きる。

 

 宇宙暦七五五年、ジャムシード星系第二惑星ザラスシュトラで惑星農業協同組合理事アダム・トリューニヒトの三男として生まれたヨブ・トリューニヒトは、運動神経抜群の少年だった。ジュニアフライングボールの名選手として名を馳せ、小学六年、中学一年、中学二年の時に星系代表選手に選ばれた。

 

 そして、義務教育期間が終了に近づいた時、トリューニヒトのもとに、大学フライングボールの名門フェアフィールド大学など六つの大学からスポーツ推薦の話が舞い込んでくる。だが、周囲の予想に反してそれらを全部断り、三大難関校の一つである国立中央自治大学の法学部の一般入試を受けて、一発で合格したのである。

 

 トリューニヒトは、登竜門と言われるオリベイラ教授のゼミで政治学を修め、英才ひしめく法学部を首席で卒業した後、兵役に応じた。統合作戦本部に配属されて一般事務に従事し、抜群の勤務成績をあげて兵長まで昇進し、除隊と同時に予備役伍長となった。

 

 輝かしい学歴と軍歴を引っさげて同盟警察本部に入庁したトリューニヒトは、保安警察部門のポストを歴任する。

 

 七八五年、三〇歳の時に警視・公安部第二課課長補佐を最後に退官すると、保守政党のNPCから下院選挙に出馬し、警察官僚から政治家への転身を果たす。

 

 俳優のような甘いマスク、フライングボールで鍛え上げた長身、卓越したファッションセンス、兼ね備えたトリューニヒトは、歯切れのいい演説と派手なパフォーマンスによって、あっという間に人気政治家となった。元警察官僚、国立中央自治大学法学部首席卒業、少年フライングボールの名選手、大物財界人コンスタンチン・ジフコフの娘婿という華麗な肩書きも人気を後押しした。リベラル派や伝統保守派には軽薄さを嫌う人も多いが、それでもNPCでは一二を争う人気者だ。

 

 資金力や集票力も強い。義父ジフコフの人脈を足がかりに軍需産業と太いパイプを築いた。警察や軍部との関係も深い。また、十字教贖罪派、楽土教清浄派、美徳教といった宗教右派勢力からの支援も受けている。

 

 人脈は政界、財界、官界に遍く広がっている。党内第二派閥ドゥネーヴ派では、中堅・若手議員のリーダー格であり、マルコ・ネグロポンティ政策担当国防副委員長、ユベール・ボネ公共安全担当法秩序委員、ウォルター・アイランズNPC上院院内副幹事らが腹心となっている。党内第三派閥ヘーグリンド派のアンブローズ・カプランNPC組織局長も派閥こそ違うものの腹心の一人だ。。

 

 人気低迷に苦しむNPCは、トリューニヒトに兵站担当国防委員、党青年局長、情報交通委員長といった要職を与え、今年の春には党五役の一つである政策審議会長に起用した。

 

 上院と下院を合わせて七〇〇人近い国会議員を抱えるNPCでは、一度も最高評議会や党執行部に入れずに引退する者も多い。三八歳の若さで最高評議員と党執行部の両方を経験したトリューニヒトがいかに期待されているか、経歴を見るだけで明らかだった。

 

 一方、前の世界でのトリューニヒトに対する評価は最低だ。帝国侵攻作戦が失敗した後の混乱を収拾するまでが頂点だった。

 

 最高評議会議長に就任した後は失政続きで、救国軍事会議のクーデターを防げず、名将ヤン・ウェンリーを査問に掛けている間に帝国軍の攻撃を受け、門閥貴族の残党を支援したために帝国軍の侵攻を招き、フェザーン回廊が突破されると戦争指導を放棄した。そして、最後は勝利寸前だったヤン・ウェンリーに戦闘停止を命じて降伏。情けないほどに惰弱な為政者だった。

 

 トリューニヒトの惰弱さは、同盟人はもちろん帝国人にも軽蔑された。ラインハルト帝に仕官したが、信用を得ることができず、飼い殺しにされたあげくに、新領土総督ロイエンタール元帥の反乱に巻き込まれて死んだ。

 

 帝国議会が成立し、バーラト自治区が解体されると、ヤン・ウェンリーを民主主義の正統とする歴史記述を見直す運動が旧同盟領で始まり、ジョアン・レベロや救国軍事会議に対する再評価が行われたが、トリューニヒトの醜態を弁護しようとする者はいなかった。トリューニヒト派が生き残らなかったこと、バーラトの主要政治勢力である「八月党」「共和市民党」「バーラト立憲フォーラム」が、すべて反トリューニヒト派の末裔だったことも影響したのかもしれない。

 

『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』によると、ヤン・ウェンリーやユリアン・ミンツなどは、トリューニヒトのことを「何があっても傷つかない保身の天才」「エゴイズムの権化」と恐れていたそうだ。しかし、彼らの人物眼は、ローエングラム朝以外の敵対者に対しては、嫌悪感が先行しすぎているように思える。

 

 この世界で五年間暮らして、彼らが批判してきた士官学校エリートや主戦派に接した結果、そういう結論に達した。結局のところ、他人の意見は参考に留め、自分で真実を見極めるしか無いのである。

 

 前の世界での惰弱な印象、今の世界での軽薄そうな印象から、トリューニヒト政審会長のことは好きになれなかった。進歩党のジョアン・レベロ前財政委員長のように真面目な政治家でないと、どうも信用出来ないのだ。しかし、アンドリュー・フォークやラザール・ロボスのように実際に会って印象が変わるなんて例はいくらでもある。

 

 さて、俺の目の前にいるヨブ・トリューニヒトの素顔は、俺の評価、世間の評価、ヤンの評価のうちのいずれに近いのだろうか。

 

「どうしたんだい? 私が食事しているのがそんなに不思議かな?」

 

 トリューニヒト政審会長は人懐っこそうに笑いかける。いきなり観察者から当事者になった俺は、答えに窮してしまった。

 

「いや、随分おいしそうに召し上がってらっしゃると……」

「そりゃ、ここの料理はうまいからね。何と言っても帝国仕込みだ。我が国の食文化は素晴らしいが、じゃがいも料理とソーセージでは帝国に一日の長がある」

「この店をご存知だったんですか?」

「ご存知も何も、この店を選んだのは私だよ? ハイネセン広しといえど、本物のじゃがいも料理とソーセージを食べさせてくれるのはここだけさ」

 

 妙に誇らしげなトリューニヒト政審会長の表情が子供っぽくて面白い。何と言うか、妙に愛嬌のある人だ。ドーソン司令官との会食の場にじゃがいも料理店を選んだセンスにも好感を持てる。

 

「この店を気に入ってらっしゃるんですね」

「そうだね。料理も雰囲気も最高だが、主人はもっと最高だ」

「主人ですか……?」

「この店の主人は帝国からの亡命者で、かつては薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊の隊員だった。勇敢な戦士だったが、ある戦いで重傷を負って引退し、退職金をもとにこの店を開いた。故郷の味を懐かしんで食べに来る亡命者も多いんだよ」

「そんな由来があったなんて、初めて知りました」

 

 俺は目を丸くしながら答え、カウンターの方をチラッと見る。でっぷり太った主人は根っからの料理人といった風情だ。人気のじゃがいも料理店と最強の亡命者部隊に縁があったなんて、想像もつかなかった。

 

「帝国の圧制から逃れて自由のために戦う戦士。それが薔薇の騎士連隊だ。二年前に不祥事があったのは事実だが、彼らが国家のために流した血の量を思えば取るに足らないことだ。連隊長のヴァーンシャッフェ君も良くやっている」

 

 トリューニヒト政審会長が強い調子で薔薇の騎士連隊を弁護する。それが少し意外だった。ヤンのような反戦派は寛容で、彼のような主戦派は差別的というイメージがあったからだ。

 

 一昨年に連隊長が帝国軍に降伏して以来、薔薇の騎士連隊は強烈な逆風を受けてきた。軍上層部からは徹底的に冷遇され、解体論も飛び出し、ネットでもさんざんに叩かれた。薔薇の騎士連隊にいる幹部候補生時代の友人カスパー・リンツ中尉の心中を思うと、やりきれない気持ちになる。だから、トリューニヒト政審会長の弁護は嬉しかった。

 

「幹部候補生養成所の友人が薔薇の騎士連隊にいます。本当に良い奴でした。みんながトリューニヒト先生のように思ってくれたら、彼も苦労せずに済むのですが」

「同盟生まれだから信頼する。帝国から亡命してきたから信頼しない。そんな区分などまったくもって馬鹿馬鹿しいと思うね。私達の先祖も元をたどれば銀河連邦の市民だった。アーレ・ハイネセンに率いられてこの国を作った四〇万人は、元は帝国の農奴だった。同じ人間が専制政治によって分断されてしまっただけなんだ。出身で差別することがどれほど馬鹿らしいかわかるだろう?」

「おっしゃる通りです」

 

 心の底から頷いた。これが高級なスーツを着て政治家らしくしている人物の言葉ならば、多少の胡散臭さを感じたかもしれない。油で口や手をべとべとにしながらうまそうに料理を食べる子供っぽい人の言葉だからこそ、本音のように感じられる。

 

「この店は同盟の民主主義の象徴だ。誰もが専制と戦う自由を持っていること、専制打倒の大義の前ではすべての人間が平等であるということを教えてくれる。私は帝国の専制を憎むが、国民は憎んでいない。彼らは我らと同じ専制の被害者だからだ。この店では、同盟生まれの人間も帝国から亡命してきた人間もみんな笑顔で同じ料理を食べる。この店でじゃがいもとソーセージを食べるたびに、すべての人間が笑顔で同じ食卓を囲める世界を作らなければならないと思う。議員と兵士と貴族と農奴が同じ食卓で同じ物を食べるんだ。素晴らしいとは思わないか?」

 

 トリューニヒト政審会長は静かだが力強い口調でゆっくりと語りかけてくる。言葉の一つ一つが心の奥底まで響く。

 

 すべての人間が笑顔で同じ食卓を囲める世界。議員と兵士と貴族と農奴が同じ食卓で同じ物を食べる世界。それこそが俺の求める世界だった。逃亡者のレッテルを貼られて、六〇年を孤独に生きた。そんな俺にとって、みんなと一緒に同じ食卓を囲める以上の幸福など思い浮かばない。

 

「まあ、いつもそんな難しいこと考えているわけじゃないけどね。いつもは何も考えないでガツガツ食べている」

 

 トリューニヒト政審会長の真剣な顔が、一転してくだけた雰囲気になり、軽くウィンクをしてみせる。

 

 なんて気さくな人なんだろう。これまで会った政治家は、保守派もリベラル派も主戦派も反戦派もみんな気取ったところがあった。しかし、彼は違う。同じ目線まで下りてきてくれる。

 

「なんか、イメージが変わりました」

「失望させてしまったかな?」

「いえ、なんか親しみやすい人だなあと。政治家ってもっと近寄りがたいと思っていました」

「ははは、帝国の門閥貴族じゃあるまいし。私も君も同じ人間だよ。現に同じ食卓を囲んで、同じ物を食べているじゃないか」

 

 トリューニヒト政審会長は朗らかに笑う。言ってることは凄く当たり前だけど、この笑顔で言われるとまったくその通りと思ってしまう。どんな言葉よりも笑顔の方がずっと真実なのだ。

 

「トリューニヒト先生」

 

 ずっと黙っていたドーソン司令官がおもむろに口を開いた。

 

「どうした、クレメンス」

「お口が汚れてます」

「ああ、気が付かなかった。ありがとう」

 

 口元が油でベトベトになってることを指摘されると、トリューニヒト政審会長は片目をつぶり、ペロッと軽く舌を出した後、慌ててナプキンで口を拭いた。大物政治家と思えない行儀の悪さがおかしくて、つい笑ってしまった。

 

「エリヤ君」

 

 急にトリューニヒト政審会長が真顔になった。視線は真っ直ぐに俺に向けられている、

 

 あまりの気さくな感じに気を抜いてしまった。相手は俺なんかよりずっと偉い人なのだ。謝ろうとした俺を制するようにトリューニヒト政審会長は口を開く。

 

「やっと笑顔を見せてくれた」

 

 心の底から嬉しそうに、トリューニヒト政審会長が笑う。本当に表情がよく変わる。まるでイレーシュ少佐のようだ。

 

「どうも申し訳ありません」

「なかなかいい笑顔をするじゃないか。テレビではいつも真顔だから新鮮だね」

「あ、ありがとうございます……」

「そんなに固くならなくていいのに。もっとリラックスしていいんだよ」

「は、はい……」

 

 まともに喋れない自分が悲しい。アンドリューみたいに、初対面の人といきなり打ち解けられる社交性が欲しくなる。トリューニヒトみたいに、誰にでも屈託のない笑顔を向けられる無邪気さが欲しくなる。

 

「本当に可愛いな、君は」

 

 苦笑気味にトリューニヒト政審会長は俺を見る。可愛いという言葉が心に突き刺さり、ますます悲しくなった。

 

「そうでしょう」

 

 ドーソン司令官も苦笑を浮かべながら言った。謹厳な上官が苦笑するなんて、信じられない光景だ。

 

「クレメンスが気に入る理由が良くわかった。なかなかいい子じゃないか」

「何と言っても真面目ですからな。そして素朴です。決して器用ではありませんし、頭も回るとは言えません。しかし、とても丁寧で細かい仕事をします。若い者がみんなフィリップス大尉のようだったら、憂いることは何もないのですが」

「エリヤ君は英雄だ。君が最も嫌う人種だと思っていた。良く真価を見抜いたものだ」

「彼が管理していたフィン・マックールの調理室は、隅々まで綺麗に磨きあげられていました。食材の無駄もありませんでした。これは真面目な奴だと思ったのです」

「ああ、なるほど。だから、徹底指導したわけか」

「これほど素直に指導を受け入れてくれる生徒は、そうそうおりませんからな」

「なるほど。エリヤ君の憲兵隊での活躍ぶりを見ると、それが正しかったようだ。やはりクレメンスはいい教育者だ。ひねくれ者の才子なんかとは相性が最悪だが、エリヤ君のような努力家を指導するには最適だ」

 

 ドーソン司令官とトリューニヒト政審会長がひたすら俺を褒める。どうやら、だいぶ前から見込まれていたらしい。アンドリュー達が正しかった。善意の指導を悪意と受け取ってしまった自分が恥ずかしくなる。

 

 顔が真っ赤になり、胸の動悸が激しくなった。糖分を補給しなければ死んでしまう。そう判断した俺はデザートをたくさん注文し、一心不乱に食べた。その間も二人の会話は続く。

 

「士官学校の生徒なんて、小賢しくて生意気な奴ばかりです。有害図書愛好会とやらに関わってた連中は、特に酷かった。ああいうのに限って要領良く昇進していく。うんざりします」

「アッテンボロー君、ヤン君、ラップ君だったか。みんな作戦部門のトップエリートだ」

「よく覚えていらっしゃいますな」

「そりゃ、事あるごとに君が名前を出すからね。まあ、彼らは”あの”シトレ君の弟子だ。ある程度、想像は付くがね」

 

 いつの間にか話題が別の人間に移っていた。しかも、戦記でお馴染みのヤン・ウェンリーやダスティ・アッテンボローが槍玉に上がっている。

 

 前の世界でもドーソン司令官はヤン達と対立したが、今の世界でも仲が悪いようだ。彼は生意気な人間を嫌う。アッテンボロー大尉が折れない限り、ドーソン司令官の怒りが和らぐことは無いだろう。しかし、前の世界での言動を見る限り、アッテンボロー大尉は認めていない相手に頭を下げるような人ではない。残念ながら両者は永久にこじれたままだと思う。

 

 まあ、無縁なエリート参謀のことを気にしても仕方がない。目前の仕事をこなすだけでも精一杯なのだ。今の俺の仕事はじゃがいものピッツァを食べることだ。二人の会話を聞きながら、ピッツァの皿を空にする作業に従事する。

 

「クレメンス、今日の君は少食だな」

「理由はご存知でしょう」

「いいあだ名じゃないか。『じゃがいも』と言えば、誰もが君を思い浮かべる」

「誰が言い出したかは知りませんが、まったくもってけしからんことです」

 

 ドーソン司令官の口ひげがぷるぷると震えだした。やはり、じゃがいも閣下と呼ばれると頭に来るらしい。俺が最初に言い出したという事実は、墓の下まで持っていこうと改めて思った。

 

「せっかく名前が売れたんだ。仕事に生かさないでどうするんだね? 君にはいずれ軍の中枢で働いてもらう。政財界の要人と顔を合わせる機会も多くなるだろう。違う業界の人間と仕事をする時は、知名度が武器になる。例えそれが悪名だったとしても、全く知られていないよりずっといい」

「そんなものですか?」

「政界を見たまえ。政治家の知名度なんて、九五パーセントが悪名だよ。それでも構わない。どんなに素晴らしい理想を語っても、知らない人間の言葉は誰も聞いてくれない。悪名が高まれば、有権者は『あの悪党は何を言ってるんだ?』と注目する。私の政策論だってそうだ。良いことを言うから聞いてもらえるのではなく、誰もが知ってる悪党のトリューニヒトが言うからこそ聞いてもらえる。聞いてもらえなければ、どんなに素晴らしい理想も政策も実現しない。それが現実だ」

 

 話を聞いてもらうためには、悪名でも知られた方がいい。そんなトリューニヒト政審会長の言葉は、単純だが道理に適っていた。名前も知らない人の話を聞くために時間を割いてくれる人は、滅多にいないだろう。支持者でもない俺が彼の安全保障政策を多少知ってるのも、彼がバラエティ出演などで稼いだ知名度のおかげなのだ。

 

「おっしゃることはわかります。ですが……」

「私が君だったら、初めて会った人に『私があのじゃがいもです』と言って、じゃがいもを手渡すぐらいはするね。憲兵隊のPRポスターにじゃがいものかぶり物をして登場するのもありだな。昨年亡くなられたサンフォード先生は、幹事長を務めておられた時に女性問題が発覚すると、すぐに街頭演説に立って、『有権者の皆様! 私がスケベのサンフォードであります!』とぶちあげて、聴衆を集めた。せっかくの知名度を活かさないと損だと思って、この店を選んだ」

 

 トリューニヒト政審会長はどこまでも真摯な顔で言った。彼は軽薄な政治家と言われる。真面目な人が言うところの“低俗番組”にも平気で出演する。受けを狙いすぎて、問題発言をしてしまうことも多い。そこまでして注目を集めたいのかと呆れることもあったが、それなりの信念を持ってやっていることがわかった。

 

「心しておきます」

 

 ドーソン司令官がそう言うと、トリューニヒト政審会長は満足そうに頷いた。そして、いきなり俺の名前を呼ぶ。

 

「エリヤ君」

「は、はい!」

「クレメンスは私の大事な友人だ。今後も片腕として助けてほしい」

「か、片腕ですか……」

「今の君の立場なら両腕と言った方が良かったかな? クレメンスは何でも自分でやらないと気が済まない男でね。君のような優秀な副官が必要なんだ」

 

 いつのまにか腕が一本増えた。寄せられた期待の大きさに体中が緊張する。

 

「期待に背かないよう、全力で頑張ります!」

「今まで通りでいいんだよ、今まで通りで。そんなに気負わなくても」

「はい! 気負わないよう、全力で頑張ります!」

 

 俺が返事をすると、トリューニヒト政審会長の目が優しげに笑う。そして、再びドーソン司令官の方を向く。

 

「やはり、彼はストレートに褒めない方がいいな。すぐ硬くなってしまう。さっきのようにそれとなく聞かせた方がいい」

「そうですな」

「まあ、褒めて褒めて褒め倒すのも面白そうだがね。どこまで顔が赤くなるか、興味が無いといえば嘘になる」

 

 トリューニヒト政審会長は絶句した俺の顔を見て、とても人の悪そうな笑みを浮かべた。

 

「エリヤ君、今日は楽しかった。機会があったらまた一緒に食事をしよう。マカロニ・アンド・チーズがおいしい店を知っている」

「小官も楽しかったです! わざわざお越しいただきありがとうございました!」

 

 俺が返事をすると、トリューニヒト政審会長は立ち上がった。そして、微笑みながら右手を差し出す。俺が手を握ると、トリューニヒト政審会長も手を握り返す。大きくて温かい手だ。

 

 手を離した時、寂しい気持ちになった。彼といる時間が終わってしまうのが寂しかった。

 

「クレメンス、今度のパーティ会場だ」

 

 トリューニヒト政審会長はパンツのポケットから二つに折られた封筒を取り出し、ドーソン司令官に手渡す。

 

「そろそろ、お始めになるのですな」

「思いの外、準備に時間がかかってしまった。待たせてしまってすまないね」

「仕方ないでしょう。手続きは大事です」

「主役は君だ。よろしく頼む」

「お任せください」

 

 ドーソン司令官は背筋と口ひげをぴんと伸ばし、かしこまった返事をする。

 

「クレメンス、エリヤ君。期待している」

 

 そう言うと、トリューニヒト政審会長は伝票を全部持ってカウンターに向かった。俺とドーソン司令官が食べた分も払ってくれるらしい。どこまでもいい人だ。

 

 この目で直に見たヨブ・トリューニヒト政審会長は、暖かい太陽のような人だった。すべての人間が笑顔で同じ食卓を囲める世界を作るという理想もいい。しかし、政治にはあまり向いて無さそうだ。前の世界での無能ぶりもこれなら納得できる。

 

 今年の下院選挙は進歩党に入れた。この財政難の時代では、レベロ前財政委員長の掲げる財政再建路線が一番現実的に思えたからだ。前の世界で彼の内政政策が高く評価されていたことも投票の決め手となった。

 

 しかし、次の選挙はトリューニヒト政審会長のいるNPCに投票してもいいかもしれない。NPCと進歩党は、前回の総選挙からずっと左右大連立を組んでいて、どっちの党に入れても政策に変わりはないのだ。

 

 トリューニヒト政審会長の笑顔に一票を入れてみても良いのではないか。そんなことを思った。



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第15話:表の戦い、裏の戦い 宇宙暦793年9月~794年2月

 今日の憲兵司令官クレメンス・ドーソン少将はどこかおかしい。いつもは一言一句も聞き漏らすまいと言った表情で報告を聞いているのに、今日はどこか上の空だ。聞いているのか聞いていないのかわからない。彼が落ち着きが無いのはいつものことだが、様子が明らかに違う。

 

 今日はそれほど重要な案件は無いはずだ。何を気にしているのか。怪訝に思っていると、ドーソン司令官が口を開いた。

 

「フィリップス大尉、これを見ろ」

 

 ドーソン司令官が俺に差し出したのは、数日前にトリューニヒト政審会長が「今度のパーティー会場だ」と言って手渡した封筒だ。ペーパーナイフで開封された跡があるが、ビニールテープで綺麗に封印し直されている。彼が一度開封した封筒の中身を人に見せる時は必ずこうするのだ。

 

「かしこまりました」

 

 よほど重要なパーティーなのか。そんなことを考えながら封筒を受け取り、テープをゆっくりと剥がし、中に入っているメモを取り出した。

 

「これは……」

 

 驚きで息が止まりそうになった。それは途方も無い内容だった。自由惑星同盟・銀河帝国両国の憲兵隊の合同捜査。目的は両軍内部に組織されたサイオキシン麻薬組織の摘発。いずれも俺の想像力をはるかに超えていた。

 

 合成麻薬サイオキシンは、人類の科学が作り出した最低最悪の成果である。摂取すると気分が高揚し、強い幸福感とともに疲れが吹き飛んでいくが、切れた途端に悪寒・吐き気・咳などの症状が絶望感とともに襲ってくる。常習者を襲う禁断症状は凄まじく、体がバラバラになるような激痛、強烈な被害妄想、現実よりも現実味のある幻覚に苦しめられる。免疫力が著しく低下して、常習者の七九パーセントは一〇年以内に死に至る。

 

 フェザーン麻薬取締局の報告によると、サイオキシン市場の規模は九兆五〇〇〇億ディナールと推定される。経済的に停滞している現在の銀河では、田舎の農薬工場程度の設備でも量産できるサイオキシンは最も利益を生む商品と言われ、犯罪組織に巨額の金を落とし、多くの人間を地獄に突き落とした。

 

 前の世界の俺は、サイオキシンの常習者だった。同盟が滅亡した宇宙暦八〇〇年頃に孤独と不安から麻薬に手を出すようになり、より強い効能のある薬を求めるうちに、サイオキシンに辿り着いた。

 

 薬が効いている間は、自分がこの世で最も幸せな存在のように思えた。摂取しながら売春婦とセックスすると、失神しそうになるほどの快感を味わうことができた。使用するにつれて禁断症状が酷くなり、数時間おきに摂取しなければならなくなった。

 

 サイオキシンを得るためには、犯罪を犯すことだって、人に媚びへつらうことだって、何とも思わなかった。理性も尊厳も投げ捨てて、サイオキシンに溺れたのだ。

 

 地球教団が信徒にサイオキシンを投与しているという噂を聞いて、「何でもするから、サイオキシンをくれ」と土下座して頼んで、主祭に叱られたこともあった。今になって思えば、地球教団が本当にサイオキシンを投与していたら、サイオキシン欲しさの入信希望者が殺到し、信徒の数は数十倍になっていただろう。当時のハイネセンの人心はそれほどに荒れていた。とにもかくにも、そんなデマを信じるほど、俺の中毒は酷かった。

 

 最終的に麻薬更生施設に収容されて、サイオキシン中毒を克服したものの、心身の活力が著しく失われ、三〇年も老けたようになった。

 

 エル・ファシルで逃げて不名誉除隊を受けた件については、自分の責任ではないと言い張ることもできる。しかし、サイオキシンは弁解のしようもない汚点だった。

 

「冷静沈着な貴官でも、さすがに平静ではいられないか」

 

 ドーソン司令官の声が俺を前の世界から今の世界へと引き戻す。

 

「はい……」

「無理もあるまい。市民の手本となるべき軍人が敵と結託して麻薬を密輸しているなど、まともな人間には想像もできるはずもないからな」

 

 俺が動揺している理由をドーソン司令官は勘違いしていた。もっとも、俺が二度目の人生を生きていること、一度目の人生でサイオキシン常習者だったことなど、誰にも知るよしも無いのだが。

 

「フィリップス大尉、どうした? 顔色が悪いぞ?」

 

 ドーソン司令官は今の世界の肩書きで俺を呼んだ。そうだ、今の俺は自由惑星同盟軍の大尉だ。過去の経歴には一点の曇りもない。サイオキシンと俺を繋ぐ糸は、この世界には存在しない。気を取り直さなければ。

 

「申し訳ありません。小官のような者には、衝撃が大きすぎたようです」

「ならば、これからもっと衝撃を受けることになる」

 

 自分では重々しいと信じる口調でドーソン司令官は言った。

 

「サイオキシンは帝国領内の工場で生産され、イゼルローン回廊とフェザーン回廊を通って、我が国に流れてくる。フェザーン回廊では、毎日のようにサイオキシンの運び屋が摘発されている。だが、イゼルローン回廊では一度も運び屋が摘発されなかった。国際交易路のフェザーン回廊と違って、人や物の往来が無いから当然と言えば当然だ。イゼルローンルートの密輸手段は謎と言われてきたが、帝国憲兵隊から提供された情報によって明らかになった」

「その手段が軍隊なのですか?」

「そうだ。帝国側の組織はサイオキシンを用意し、同盟側の組織と示し合わせて、息のかかった部隊を接触させ、戦うふりをして受け渡しをする。サイオキシンを積んだ軍艦や車両を鹵獲させることもあれば、サイオキシンが集積された陣地を占領させることもある。同盟側の組織は手に入れたサイオキシンを正規の軍事物資に偽装し、軍の兵站組織を使って後方の集積拠点へと運ぶ。集積拠点も軍の基地だ」

「とんでもないですね……」

 

 我ながら凡庸な感想だと思ったが、他にちょうどいい表現が見つからなかった。部隊を動かせる者、鹵獲品の管理権限を持つ者、兵站組織を動かせる者、膨大なサイオキシンを隠匿できる権力のある者など、大勢の高級軍人が関わらなければ成り立たないやり口だ。

 

「イゼルローンルートから入ってきたサイオキシンのほとんどは、軍隊の中で消費される。要するに奴らは軍隊を使って運んだ麻薬を軍隊の中で売りさばいているのだ」

「本当に酷い話です」

 

 怒りで拳を強く握り締めた。同盟軍のサイオキシン汚染は深刻だ。麻薬を取り締まるべき憲兵司令部の中にも、サイオキシンの常習者がいた。それに高級軍人が荷担しているなど、言語道断と言わざるを得ない。

 

 軍隊という組織には、ただでさえ麻薬が流行しやすい下地がある。軍人の感じるストレスと言われたら、多くの人は戦闘のストレスを思い浮かべるだろう。しかし、通常勤務のストレスの方がずっと大きい。軍隊特有の濃密な人間関係もストレスの元だ。それらを解消するために、多くの軍人が麻薬に手を出す。

 

 サイオキシン常習者の末路は悲惨だ。持っている金をすべてサイオキシンに注ぎ込み、財産が無くなったら借金や犯罪で購入費を調達し、周囲の人間に盛大な迷惑をかけ、体も心も破壊されて、やがて社会的にも肉体的にも精神的にも破滅する。

 

 前の世界の貧民街で出会った常習者を思い浮かべた。骸骨のように痩せ細った者、被害妄想に囚われた者、幻覚に苦しめられる者、薬の購入代金欲しさに犯罪に走る者などは、掃いて捨てるほどいた。収入を全てサイオキシンに費やして子供を餓死させた者、サイオキシンを使ったセックスに溺れて奇形児を生んだ者、禁断症状に苦しんで自ら命を絶った者、母親を殺して奪った金でサイオキシンを買った者もいた。俺も例の件がなければ、同じような末路を辿っていたに違いない。

 

 前の世界でのサイオキシン経験、そして今の世界での軍隊経験が教えてくれる。軍服を着た麻薬マフィアを許してはならないと。

 

「何が何でも検挙しましょう」

 

 俺は汚れた人間だ。正義漢ぶって怒る権利などないのかもしれない。しかし、かつて自分の経験した地獄を作り出そうとする連中を許す理由はなかった。

 

「昨日、サイオキシン中毒から更生した若者の体験談を読んだ。本当に悲惨だった。貴官の言うとおり、何が何でも検挙せねばならんな」

 

 ドーソン司令官の目に正義の炎が宿る。彼は狭量で白黒を付けたがるところがある。一般的には迷惑な性格だが、こんな時には心強く感じる。持ち前の知謀と行動力で、マフィアを徹底的に追い詰めてくれるに違いない。そう確信した。

 

 

 

 九月一二日、ドーソン司令官をリーダーとする秘密捜査チームが発足した。

 

 ジェラード・コリンズ地上軍中佐率いるA班、アドルフ・ミューエ宇宙軍中佐率いるB班、クォン・ミリ地上軍少佐率いるC班、ナタリア・ドレフスカヤ宇宙軍少佐率いるD班、リリー・レトガー宇宙軍大尉率いるD班の五グループが実働部隊となり、ダビド・イアシュヴィリ地上軍大佐率いる援護班が後方支援を担当する。ナイジェル・ベイ宇宙軍中佐は、駐在武官の肩書きでフェザーンに赴任し、帝国憲兵隊との連絡にあたる。信頼性最優先の人選だ。

 

 ドーソン司令官はもともと情報部門の出身で、隠密作戦の指揮はお手のものだ。粘着質で執念深い性質は、サイオキシンマフィアの隙を探るのに生かされた。上下のけじめにうるさい性質は、同盟麻薬取締局や同盟警察など協力機関の信頼を得るのに役立った。前の世界の戦記作家達が批判したドーソン司令官の欠点は、この任務では長所として作用した。

 

 副官の俺も忙しくなった。連絡班長に任命され、協力機関や秘密捜査チームの連絡調整を任された。軍上層部、マスコミなどに特別捜査チームの存在がばれないようにスケジュールを組むのは、とても骨の折れる仕事だ。

 

 捜査は極秘のうちに進められた。公然と動けないのがもどかしく感じる。もっと多くの人と予算を使って捜査できたらと思うこともあった。

 

 だが、サイオキシンマフィアだけに力を注げる状況でもない。共和制転覆を企む過激派将校の秘密結社「嘆きの会」が怪しげな動きを見せている。昨年のアルレスハイムの敗北がきっかけで、帝国軍情報総局が同盟軍内部に張り巡らせた大規模なスパイ網の存在が明らかになった。軍隊に浸透しつつある極右思想や反戦思想も脅威だ。

 

 様々な制約の中、秘密捜査チームはサイオキシンマフィアと戦った。末端の構成員はいくらでも出てくる。しかし、その先で糸が切れてしまい。なかなか中枢に辿りつけない。独特の組織構造が厚いベールとなっている。

 

 現在判明している情報によると、サイオキシンマフィアは無数のグループの集合体だった。帝国側組織との取引を担当するグループ、サイオキシンの輸送や保管を担当するグループ、密売を担当するグループなどに分かれ、第一層から第六層までの階層構造を形成している。各グループ間の横の繋がりは皆無に等しく、縦のつながりも極端に少ない。

 

 上からの指示は一階層上のグループを通して伝えられ、下層に指示する際も一階層下のグループにのみ伝える。他階層との連絡を担当する者は原則として顔を見せず、アルファベットと数字を組み合わせて作ったその場限りの偽名を名乗る。

 

 声紋分析のできない合成音声による口伝が主な連絡手段だ。文書を使う場合は、複製防止プロテクトが施され、暗号や隠語を使って部外者には判読できないようになった電子メールが使われる。

 

 構成員は自分のグループの情報しか持っておらず、グループリーダーも一階層上のグループから派遣された連絡係を通さなければ組織には接触できず、組織の全貌を知る者はほとんどいない。記録文書は一切取らず、組織内での金のやりとりは銀行口座を通さずに現金を使う。一部が摘発されても、全容がわからないような仕組みなのだ。

 

「奴らの組織作りは、情報機関がスパイ網を作る手口にそっくりだ。間違いなくプロが関わっている」

 

 情報活動に詳しいドーソン司令官はそう断言し、情報部門出身者に狙いを定めて捜査を進めていった。

 

「まずは状況証拠を固めるのだ」

 

 物証が得られない以上、丹念に状況証拠を固めていくしか無い。ドーソン司令官は、宇宙艦隊及び地上総軍の最近三年間の戦闘詳報を調査させた。サイオキシンの受け渡しをカモフラージュするために空の軍艦や車両を使うマフィアの手口から、捕獲した軍艦や車両が多いのに捕らえた敵兵が少ない部隊が怪しいと睨み、取引担当グループの割り出しにかかったのだ。

 

「中毒患者の周辺を調べろ。必ず密売人の痕跡が残っているはずだ。本人が売人という可能性もある」

 

 取引担当グループの割り出しと平行して、憲兵隊に摘発されたサイオキシン中毒患者の身辺調査も行い、売人の多い部隊を割り出した。

 

 捜査は順調に進んだ。パヴェル・ネドベド国防委員長は捜査に消極的だったものの、マルコ・ネグロポンティ政策担当国防副委員長、そしてその背後にいる与党第一党・国民平和会議(NPC)のヨブ・トリューニヒト政策審議会長が熱心だった。

 

 憲兵隊と警察は権限が重なる部分が多いため、何かと対立することが多いが、元警察官僚で軍部にも顔の利くトリューニヒト政審会長が間に立ってくれたおかげでうまくいった。帝国憲兵隊との提携交渉をまとめたのも、帝国政界に独自のパイプを持つ彼だ。

 

 サイオキシンマフィアと戦うトリューニヒト政審会長の姿は、前の世界の惰弱な姿、戦記に記された邪悪な姿とは、似ても似つかなかった。

 

 俺達が裏の世界でサイオキシンマフィアと戦っている間、表の世界では同盟軍と帝国軍の激戦が繰り広げられていた。

 

 エル・ファシルで大敗し、第五次イゼルローン攻防戦で敗北寸前まで追い込まれた帝国軍は、大きく威信を失墜させた。帝国軍与しやすしと見た共和主義者や不平貴族が各地で蜂起し、一説によると国土の三パーセントが一時的に反乱勢力の手に落ちたと言う。

 

 二月に反乱を鎮圧した後、帝国宰相ルートヴィヒ大公は、宇宙艦隊司令長官アルトゥール・フォン・ツァイス元帥に一大攻勢を命じた。今年の三月には五万隻の大艦隊がシャンダルーア星系へと殺到し、七月にはドラゴニア星系とパランティア星系にそれぞれ二万隻が侵攻したのだ。

 

 出兵がない時も小競り合いが毎日のように起きた。イゼルローン要塞から数百隻程度の小艦隊が出撃しては、国境宙域の同盟軍基地を襲撃した。両軍の地上軍及び宇宙軍陸戦隊は、イゼルローン回廊出口周辺の無人惑星を巡って地上戦を繰り広げた。

 

 一連の戦いを指揮したのは、宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス宇宙軍大将である。ライバルの宇宙艦隊司令長官シドニー・シトレ宇宙軍大将は、第五次イゼルローン攻防戦での善戦を高く評価されて宇宙軍元帥に昇進し、それからやや遅れて統合作戦本部長の地位を得た。そして、副司令長官のロボス大将がシトレ元帥の後任となったのだった。

 

 念願だった宇宙艦隊の指揮権を手に入れたロボス大将だったが、その前途は険しかった。昨年に国防予算が削減された結果、動員に費やせる予算が著しく減少し、一度に動かせる戦力が三個艦隊に限定されてしまったからだ。

 

 数で劣る戦いを強いられたロボス大将は、何度も敗北の危機に陥った。三月から四月にかけてのシャンダルーア戦役、七月から九月にかけてのドラゴニア=パランティア戦役における同盟軍の勝利は、すべて薄氷の上の勝利だった。特に三月二五日の第二次シャンダルーア星域会戦では、ウランフ少将の到着が二〇分遅れていたら、全軍が崩壊していたと言われる。

 

 一一月八日の第三次タンムーズ星域会戦において、ロボス大将率いる同盟軍三万九〇〇〇隻は、宇宙艦隊司令長官ツァイス元帥率いる帝国軍四万八〇〇〇隻を完膚なきまでに打ち破った。一年余りに及んだ帝国軍の大攻勢は失敗に終わり、同盟軍は国境地域における全般的な優勢を確保したのである。

 

 一二月の初めにハイネセンに帰還したロボス大将は、宇宙軍元帥に昇進し、名実ともに宇宙軍の頂点に上り詰めた。

 

 タンムーズ星域会戦の勝利に貢献した宇宙艦隊総参謀長ドワイト・グリーンヒル宇宙軍中将は、宇宙軍大将に昇進して統合作戦本部作戦担当次長を兼務した。同盟軍全体の最高指揮機関と宇宙軍の最高指揮機関のナンバーツーを同一人物が務めることになったのだ。

 

 宇宙艦隊でも大規模な昇格人事が行われた。七九〇年以前から正規艦隊司令官職にあった者は転出もしくは引退し、一連の戦いで活躍した者がその後任となった。

 

 宇宙艦隊副参謀長イアン・ホーウッドが第七艦隊司令官、第二独立機動分艦隊司令官ジェニファー・キャボットが第八艦隊司令官、第七艦隊副司令官ウランフが第九艦隊司令官、第三艦隊参謀長ジャミール・アル=サレムが第一〇艦隊司令官、第九艦隊副司令官ウラディミール・ボロディンが第一二艦隊司令官にそれぞれ起用された。

 

 シトレ派のウランフ中将とボロディン中将は、前の世界では『不屈の元帥アレクサンドル・ビュコック』『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』でお馴染みの名将だ。ヤン・ウェンリー及びアレクサンドル・ビュコックの二大名将と親しく、後々までその死を惜しまれた。

 

 ロボス派のホーウッド中将、キャボット中将、アル=サレム中将の三名は、ヤン・ウェンリーとの縁が薄かったのか、同盟側の戦記では名前を見かけない。どこかで登場していたのかもしれないが、俺の記憶にはなかった。その代わり、帝国側の戦記には登場する。ホーウッド中将はキルヒアイス大公、キャボット中将はラインハルト帝、アル=サレム中将はミッターマイヤー元帥に敗れた同盟軍の大物として、引き立て役を担っているのだ。

 

 既存の艦隊司令官のうち、第一艦隊司令官ネイサン・クブルスリー、第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック、第一一艦隊司令官マッシモ・ファルツォーネはシトレ派に属する。そして、第二艦隊司令官ジェフリー・パエッタ、第三艦隊司令官シャルル・ルフェーブル、第四艦隊司令官ヨハネス・ヴィテルマンスはロボス派だった。二大元帥の派閥に属していない司令官は、中間派の第六艦隊司令官ジルベール・シャフランのみ。宇宙艦隊は二大元帥に二分されたのだ。

 

 軍中央機関の人事も一新された。六〇歳前後の長老が引退し、シトレ元帥やロボス元帥に連なる少壮の将官が登用された。

 

 地上軍陸上部隊総監ケネス・ペインが地上軍総監、第七艦隊司令官グスタフ・フェルディーンが技術科学本部長、国防委員会防衛部長サミー・オリセーが宇宙軍陸戦隊総監、第八艦隊司令官ゴットリープ・フォン・ファイフェルが首都防衛司令官、士官学校校長ヒューゴ・ワイドボーンが国防委員会事務局次長にそれぞれ起用された。

 

 地上総軍については、今の世界でも前の世界でも馴染みのない将官ばかりなので割愛するが、八個地上軍のうち、ロボス派は三個地上軍、シトレ派は三個地上軍、中間派は二個地上軍となった。

 

 シトレ元帥率いる統合作戦本部は、少数精鋭化と経費節減を柱とする国土防衛戦略「スペース・ネットワーク戦略」を打ち出し、同盟軍の再編を進める。ロボス元帥率いる宇宙艦隊総司令部は、対帝国戦争を指揮する。同盟軍は名実ともに二大元帥の時代に突入したのである。

 

 そんな大変動と関わりなくドーソン司令官は仕事に励み、朝は「嘆きの会」対策を練り、昼は帝国軍のスパイ対策に頭を悩ませ、夜はサイオキシンマフィア捜査に取り組むといったふうに、朝から晩まで仕事漬けだった。当然、その副官である俺も多忙を極め、いつの間にか七九三年は暮れていった。

 

 

 

 七九四年一月、憲兵司令官クレメンス・ドーソン宇宙軍少将は宇宙軍中将に昇進し、俺は宇宙軍少佐に昇進した。憲兵隊改革の功績、昨年八月のクーデター計画の阻止、そして昨年一二月に国防委員会首席監察官グリューネンヒューゲル中将、情報保全集団司令官カッパー少将らのクーデター計画を阻止したことが評価されたのだ。

 

 自由惑星同盟は、年明け早々大きな波乱に見舞われた。昨年冬から広がっていた金融不安が、同盟全体を巻き込む経済危機へと発展したのだ。ハイネセン証券取引所は史上第二位の下げ幅を記録し、大手金融機関が次々と破綻へと追い込まれ、低迷していた製造業や建設業を中心に倒産が相次いだ。

 

 政府の対応は遅れに遅れた。与党第一党・NPCの内部では、エステル・ヘーグリンド最高評議会議長とラウロ・オッタヴィアーニ元最高評議会議長の抗争が激化していた。オッタヴィアーニ元議長ら反ヘーグリンド派は、野党の環境党や楽土教民主連合と手を結び、金融機関の破綻を防ぐために策定された「金融安定化特別措置法」を廃案に追い込み、経済危機をさらに悪化させたのであった。

 

「あなた達にとっては、五〇年に一度と言われる経済危機も政争の道具なのですか!? 恥を知りなさい!」

 

 ヘーグリンド議長は敵対者を激しく批判したが、市民からの同情はまったく集まらなかった。三年前、当時のバイ・ジェンミン最高評議会議長と対立していた彼女は、野党の統一正義党と組んで辺境星域を席巻したポリスーン出血熱の緊急対策予算案を潰し、評議会を総辞職に追い込んだ。誰もが「いつものこと」とみなしたのである。

 

 宇宙暦七八七年、すなわち俺が人生をやり直す一年前から、NPCの実力者であるラウロ・オッタヴィアーニ、エステル・ヘーグリンド、エティエンヌ・ドゥネーヴ、バイ・ジェンミン、ビハーリー・ムカルジの五人を中心に、自由惑星同盟の政界は動いてきた。「ビッグ・ファイブ」と呼ばれる彼らは、前の世界の戦記には全く登場しないが、今の世界ではヨブ・トリューニヒトよりはるかに大きな力を持つ。市民にとって、ビッグ・ファイブの抗争は「いつものこと」だった。

 

 議長派と反議長派の抗争は、サイオキシンマフィアの捜査にも影響を及ぼした。ネグロポンティ国防副委員長とトリューニヒト政審会長が属するドゥネーヴ派は、ヘーグリンド議長を支持している。一方、ネドベド国防委員長は、反ヘーグリンド派の中心にいるオッタヴィアーニ派のナンバーツーだ。

 

 委員長決裁によって、秘密捜査チームの経費は半分以下に減らされ、機密情報閲覧権限は「無制限」から「条件付き」に切り替えられた。ネドベド国防委員長にとってはささやかな嫌がらせに過ぎないのだろうが、俺達にとっては大打撃だ。

 

 捜査は大詰めを迎えていた。後方勤務本部次長と中央兵站総軍司令官を兼ねるセレブレッゼ宇宙軍中将、地上軍情報部長リナレス地上軍中将、第一五方面軍管区副司令官プラサード地上軍少将ら将官十数人の名前が捜査線上に浮上した時に、捜査が停滞を余儀なくされたのだ。

 

「何を考えてるんだ! マフィアに塩を送るつもりか!」

 

 秘密捜査チームのメンバーは怒り狂ったが、国防委員長の決定には逆らえない。裏で不満をぶちまける以上のことはできなかった。

 

「私が使える接待費も大幅に減らされたよ。自腹を切らないといけなくなった」

 

 最近、帝国憲兵隊との連絡係を務めるフェザーン駐在武官ナイジェル・ベイ宇宙軍中佐は、ある日の通信でそう漏らした。

 

 軍人が使う接待費と聞かされたら、ほとんどの人は反射的に「どうせろくなことに使わないんだろう?」と思うに違いない。地方警備部隊が便宜を図ってもらうために、統合作戦本部や宇宙艦隊総司令部の高級幕僚を接待しているのは、誰もが知る事実だ。

 

 だが、必要な接待費というのもある。表立って会えない相手と情報交換をする時などは、秘密の守れる高級店を使う必要が出てくる。銀河中からマスコミやスパイが集まってくるフェザーンにいるベイ中佐が、誰にも知られずに帝国憲兵隊と連絡を取るには、自腹を切ってでも高級飲食店を使わねばならないのだ。

 

「確か上の娘さんが今年から大学に通われてましたよね? 学費は大丈夫なんですか?」

「……まあ、大丈夫だ」

 

 ベイ中佐の表情は言葉を裏切っていた。子供の学費を払いつつ高級飲食店を利用したら、中佐の給与では足りないだろう。

 

「申し訳ありません。この埋め合わせは必ずします」

「別に構わんよ。これまで無駄に給料をもらってきたんだ。少しぐらいは国に還元しないと」

 

 ぎこちない笑いがベイ中佐の顔に浮かぶ。一見すると作り笑いのように見えるが、実際は心から笑っている。笑い方一つをとっても要領が悪い。そんなところに親近感を覚える。

 

 初めてベイ中佐と知り合った時、前の世界で「いたちのベイ」と呼ばれたトリューニヒト派の軍人を思い出して警戒したものだ。

 

 いたちのベイとは、『不屈の元帥アレクサンドル・ビュコック』や『フレデリカ・グリーンヒル・ヤン――愛と理想の半生』に少しだけ登場する悪役だ。基本的によほどの主要人物以外は覚えない俺でも、いたちのベイの陰険ぶりは印象に残っている。しかし、一緒に仕事をした結果、ナイジェル・ベイといたちのベイは姓が同じだけの別人と判断した。

 

 ベイ中佐は勤勉と実直だけが取り柄の人物だ。あまりに要領が悪すぎて、実戦でも後方勤務でも結果を出せず、不人気な憲兵隊に回されてきた。昇進も士官学校卒業者の中ではかなり遅く、今年で四四歳になるのに中佐に留まっている。前の世界の戦記に登場する軍人はみんな戦いに出るたびに武勲をあげて昇進するが、そんな軍人はほんの一握りだ。圧倒的多数は、ベイ中佐のように平凡で地味なのである。

 

 憲兵隊は二流の人材の吹き溜まりと言われる。モラルの無い者はドーソン司令官によって追放されたが、能力水準はさほど向上しておらず、「不真面目な凡人集団が真面目な凡人集団に変わっただけ」と揶揄する意見もある。しかし、俺やベイ中佐を見てもらえば、凡人も凡人なりに頑張っていることが分かってもらえるはずだ。

 

 凡人の力で非凡に勝ちたい。努力が知恵を凌駕すると証明したい。狡猾なマフィアと相対しているうちに、そんな思いが強くなっていった。

 

 二月上旬、帝国軍が五個艦隊の動員を開始したとの情報が入った。現在、帝国国内では、大規模な内乱は起きていない。また、イゼルローンの帝国軍が今年に入ってから、頻繁に越境攻撃を仕掛けていた。このことから、国防委員会は「帝国軍が同盟領内への侵攻を狙っている」と判断した。

 

「昨年の攻勢が失敗した後、帝国国内では、財政難を理由とする和平論が急速に力を増しました。財務尚書カストロプ公爵を中心とする財務官僚グループが、自由惑星同盟にサジタリウス腕の領有権・民主体制の完全維持・フェザーン自治領より広範な自治権などを認める代わりに、形式上の臣従を求める『サジタリウス自由邦』構想を提案したという噂も流れています。今回の出兵の背景には、和平論の高まりに対する強硬派の焦りがあると見られます」

 

 ニュースに登場した専門家のカスパロフ教授は、帝国軍が出兵した背景を和平論と絡めて推測する。

 

 別の専門家は、国軍改革反対の急先鋒として知られるミュッケンベルガー元帥が新たに宇宙艦隊司令長官に就任したことに注目し、軍内部の改革派と保守派の主導権争いが背景にあるのではないかと推測した。

 

 理由はどうあれ、五個艦隊もの大軍の侵攻は一大事である。ヴィテルマンス中将の第四艦隊、シャフラン中将の第六艦隊、ファルツォーネ中将の第一一艦隊、ボロディン中将の第一二艦隊の四個艦隊からなる迎撃軍が編成され、宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥を総司令官、宇宙艦隊総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将を総参謀長とした。

 

 マスコミは豪放なロボス元帥と謹厳なグリーンヒル大将のコンビを、一五四年前にダゴン星域会戦を勝利に導いたリン・パオ司令長官とユースフ・トパロウル総参謀長のコンビに例え、昨年に勝る戦果を期待した。気の早い者は「次はイゼルローン攻略だ」などとはしゃいでいる。

 

 一方、憲兵司令官クレメンス・ドーソン中将は、二〇代から三〇代の若手憲兵士官三八名を、今回の出兵に参加する部隊に憲兵隊長として派遣する方針を発表した。将来有望なエリートに前線勤務の経験を積ませる狙いがあるという。だが、それは表向きの理由でしかない。

 

 二月一〇日、ドーソン司令官は憲兵司令部の一室に、若手憲兵士官六人を集めた。みんな秘密捜査チームのメンバーであり、司令官の信頼厚い者達だ。

 

「本作戦は薄汚い麻薬商人どもを打倒する正義の戦いである! 我が軍の将来はこの一戦にかかっていると言っても過言ではない! 憲兵隊選りすぐりの貴官らであれば、成功疑いなしと信じている!」

 

 ドーソン司令官は激しい口調で檄を飛ばした。早口で高い声、ぴんと立った口ひげ、目一杯反らした胸がどこかちぐはぐな印象を与える。

 

「ジェラード・コリンズ中佐! 第五艦隊作戦支援部隊憲兵隊長を命ず! 同部隊司令官クセーニャ・ルージナ少将を監視せよ!」

「畏まりました!」

 

 名前を呼ばれたコリンズ中佐は、一歩前に進み出て恭しく返事した。

 

「アドルフ・ミューエ中佐! 第六艦隊C分艦隊憲兵隊長を命ず! 同分艦隊司令官クレール・ロシャンボー少将を監視せよ!」

「承知しました!」

 

 ドーソン司令官は次々と部下を呼び、サイオキシンマフィア幹部の監視命令を与える。若手憲兵士官の前線派遣は、怪しまれずに監視要員を送り込むためのカムフラージュなのだ。五人目のリリー・レトガー大尉が命令を受けた後、俺が呼ばれる番になった。

 

「エリヤ・フィリップス少佐! ヴァンフリート四=二基地憲兵隊長代理を命ず! 同基地司令官シンクレア・セレブレッゼ中将以下の全司令部員を監視せよ!」

「謹んでお受けいたします!」

 

 俺は本日付で俺は憲兵司令部副官の職を離れ、ヴァンフリート四=二基地に赴任することとなった。ヴァンフリート四=二基地憲兵隊長は、その部隊の規模から「大佐もしくは中佐」と指定されているポストなので、少佐の階級をもって代理を務めるのである。

 

「なお、総司令部が戦闘終結を宣言したと同時に、監視対象を拘束するものとする!」

 

 早口でドーソン司令官は締めくくった。全員が揃って敬礼した後、最後の打ち合わせが始まる。

 

 この部屋に集まった士官六名のうち、コリンズ中佐、ミューエ中佐、クォン少佐、ドレフスカヤ少佐、レトガー大尉の五名は捜査班長、俺は連絡班長である。予算不足で動きが取れなくなった秘密捜査チームは、中心メンバーを前線に送り込むことで状況打開を図ったのだ。

 

 俺が受けた司令部要員の全員監視という曖昧な命令には、面倒な事情がある。ヴァンフリート四=二基地に駐留する中央兵站総軍が、サイオキシンの流通に深く関わっていることは、これまでの捜査で判明していた。しかし、誰がマフィアの幹部なのかは特定できなかったため、全員を監視することに決まったのだ。

 

 与えられた任務の大きさに体中が震えた。腹がきゅっと締め付けられるように痛み出した。自分なんかに務まるのだろうか。どんどん不安が強くなってくる。プレッシャーで人間を潰せるのならば、今の俺は紙のように薄く潰れていたに違いない。




ルートヴィヒ皇太子は外伝一巻では帝国暦四七七年(宇宙暦七八六年)以前に亡くなったことになっていますが、それでは帝国暦四八七年の時点で五歳だった息子のエルウィン・ヨーゼフが生まれるより前に死んだことになります。そういうわけで外伝一巻の記述は無視します。


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第16話:食えない薔薇 宇宙暦794年3月初旬~中旬 ヴァンフリート四=二基地

 イゼルローン回廊の同盟側出口周辺にあるヴァンフリート星系は、あまりに戦略的価値が低すぎて、一五四年の対帝国戦争の歴史の中でも、ほとんど戦場にならなかった。

 

 恒星活動が不安定で、宇宙嵐が頻繁に発生するため、航宙の難所と言われる。この星系にある八つの惑星、三〇〇以上の小惑星、二六の衛星は、水や酸素が少ない上に気候も荒々しい。その上、帝国国境と近すぎる。航路としても植民地としても、使い道がまったく無いのだ。

 

 有人惑星を持たない星系に属する惑星・衛星は、固有名詞を持たないことも多い。ヴァンフリート第四惑星第二衛星は、「ヴァンフリート四=二」と呼ばれる。その地表は氷と岩石と亜硫酸ガスで覆われ、重力は惑星ハイネセンの四分の一の〇・二五Gと弱く、窒素を主成分とする大気は希薄だ。そんな不毛な衛星の南半球にある兵站基地が、俺の現在の勤務地である。

 

 昨年の一二月に建設されたヴァンフリート四=二基地は、三か月前に建造された臨時基地とは思えないほどの規模だ。補給・輸送・通信・医療・整備などの兵站機能を完備し、五〇〇〇隻の宇宙艦を収容できる宇宙港、六万人の傷病兵に医療を提供できる病院施設、一〇〇〇隻の損傷艦を修復できる造修所などを有する。

 

 この巨大兵站基地で働く八〇万人の後方支援要員を統括するのが、国防委員長直轄の後方支援部隊「中央兵站総軍」である。

 

 同盟軍の宇宙部隊は、戦艦・巡航艦・駆逐艦・宇宙母艦などで構成される戦闘部隊の他、補給艦・工作艦などで構成される作戦支援部隊、地上基地で活動する後方支援部隊を持っている。中央兵站総軍は、宇宙艦隊及び地上総軍の後方支援部隊という位置づけになる。

 

 後方勤務本部と中央兵站総軍の何が違うのか、軍事に疎い人にはわかりにくいと思う。かく言う俺も幹部候補生養成所で勉強するまでは知らなかった。簡単にいえば、兵站計画を立案する後方勤務本部に対し、中央兵站総軍は実働部隊として活動する。用兵計画を立案する統合作戦本部、実働部隊の宇宙艦隊・地上総軍のようなものだ。

 

 司令官の名前から「チーム・セレブレッゼ」と呼ばれる中央兵站総軍の幕僚チーム。その中に潜むサイオキシンマフィアの監視が、俺に与えられた任務だ。

 

 基地の名前、そして中央兵站総軍司令官シンクレア・セレブレッゼ宇宙軍中将の名前を聞いた時は、恐怖が凍りついたものだ。前の世界のヴァンフリート四=二基地は、帝国軍の攻撃を受けて破壊され、セレブレッゼ宇宙軍中将も捕虜となったからだ。

 

 しかし、今のところ、ヴァンフリート四=二が戦闘に巻き込まれる可能性は皆無と言われる。同盟軍の勢力圏のはるか後方で、帝国軍が簡単にたどり着けるような場所ではないからこそ、こんな大きな基地が作られたのだ。完全に安心はできない。しかし、前の世界の戦いより、今の世界で与えられた任務の方が今の俺にはずっと大事だった。

 

 四=二基地憲兵隊長代理の肩書き、憲兵四〇〇〇人に対する指揮権、基地主要幕僚会議に出席する権利を持ってはいるものの、完全な秘密任務だ。マフィアが基地憲兵隊に潜んでいる可能性もある。それゆえ、誰にも事情を明かさずに、監視体制を築いていった。

 

 憲兵としての通常業務も決して疎かにはできない。規律違反の防止、防犯活動、犯罪捜査、交通整理、軍刑務所の管理、脱走兵の逮捕、スパイ対策など、数えきれないほどの仕事がある。

 

「表の仕事にも真面目に取り組むのだぞ。こそこそ動いてばかりでは怪しまれるからな」

 

 出発前日、憲兵司令官ドーソン中将に呼び出されて、秘密任務の心構えを教えられた。恩師の教え通り、通常業務にも全力で取り組んだ。憲兵は尊い仕事だ。この基地の平和が自分にかかっていると思えば、どんどんやる気が湧いてくる。

 

 しかし、光があれば影もあるのが世の中だ。中にはやる気を萎えさせる仕事もある。たとえば、向かい合って座っている人物への対応だ。

 

「勤務中に一息入れるなど怠慢の極み! 小隊長ともあろう者がこれでは示しがつきません! 隊長代理もそう思われませんか!?」

 

 陸戦隊のロマン・ダヴィジェンコ宇宙軍少尉は、背教者を糾弾する審問官のごとく、糾弾の言葉を並べ立てた。

 

「タッツィー少尉が勤務中に喫煙していたことは、良く分かりました。しかし、それのどこが問題なのか、小官にはわかりかねるのです」

「兵の訓練は命がけで取り組むべき仕事。それなのにタッツィーはのんびりとタバコを吸っているのです! 許せません!」

「あなたのお話を伺った限りでは、タッツィー少尉は小休止中に喫煙スペースでタバコを吸っている。我が軍の軍規で禁止されているような行為は何も無いですよ」

「タバコですぞ! 勤務中のアルコールが駄目でタバコがいいなんて、そんな馬鹿な話がどこにあります!? そもそも、どうして喫煙スペースなんかがあるんですか!? 今すぐ撤去すべきでしょう!」

 

 要するにダヴィジェンコ少尉は、喫煙者が嫌いで嫌いでたまらないのだった。軍規と自分の好き嫌いを完全に混同している。

 

 憲兵隊のオフィスには、規則違反者の情報を持ち込んでくる「情報提供者」がしょっちゅう現れるが、ダヴィジェンコ少尉のような人で、有益な情報を持ちこんでくる者は一〇人に一人もいなかった。

 

「罰を与えるのではなく、軍規を守らせるのが我々憲兵の仕事。軍規に違反していない者を罰することなどできません」

 

 俺はうんざりした気持ちを笑顔で覆い隠した。ダヴィジェンコ少尉の主張にもうんざりするし、あのスタウ・タッツィーを擁護しなければならない自分の立場にもうんざりしている。

 

 スタウ・タッツィーという男は、前の世界で軍隊に再入隊した俺をリンチした古参下士官だ。一日で九六発殴られたこともある。なんで殴られた回数を覚えているかといえば、タッツィーに殴られるたびに、「本日××回目のご指導ありがとうございます!」と感謝しなければならず、数を間違えたら一〇発殴られたからだ。脱走しなければ、間違いなく俺はタッツィーに殺されていた。

 

 同姓同名の別人かと思って調べたら、生年月日も出身地も猿そっくりの顔も完全に同じ。前の世界では七九九年の時点で曹長だったのに、今の世界ではエル・ファシル攻防戦の武勲で少尉になっている。あんな奴を軍規に基づいて擁護するなど、本当に嫌な仕事だ。

 

「では、間違いが起きたら責任が取れるのですか!? タバコがどれほど危険なのか、隊長代理はご存じないのですか!?」

「宇宙軍陸戦隊員に課せられた義務と責任、禁止されている行為は、すべて宇宙軍陸戦隊服務規則に定められています。今からプリントしてお渡ししましょう。じっくりお読みになった上で、タッツィー少尉の喫煙がどの条項に違反するか、はっきりとお教えいただきたい。法律の世界では、条文と実際の運用が一致しないこともあります。疑問がございましたら、どうぞご質問ください。小官が説明いたします。物足りないと思われるのでしたら、法務部から人を呼ぶ用意もあります」

「あ、いや……」

「小官は若輩者。間違っていることも多いでしょう。ご指摘いただけると幸いです」

 

 怒りを込めて満面の笑顔を作る。

 

「いえ、小官ごときが隊長代理に指摘できることなど……」

 

 ダヴィジェンコ少尉の目が前後左右にふらふらと泳ぐ。俺は逃がすまいとしっかり見据える。

 

「謙遜なさらないでください。貴官は今年で勤続二二年目ではありませんか。小官よりもはるかに軍規に通じておいででしょう」

「そ、そんなことは……」

「貴官はタッツィー少尉を職務怠慢であると告発なさっておられる。しかし、小官には根拠がわかりかねます。ですから、お願いしているのです」

「え、ええと……」

 

 落ち着かない様子のダヴィジェンコ少尉はカップを掴み、ぬるくなったコーヒーを一息に喉に流し込む。

 

 俺はテーブルポットを手にとり、空になったダヴィジェンコ少尉のカップにすかさずコーヒーを注ぎ込む。前の世界から通算すると、七〇年近くも前からコーヒーをいれてきたのだ。もっと味わってもらいたい。

 

「ご指摘いただけないのでしょうか?」

「う、うう……」

「指摘できないということでしょうか?」

 

 重ねて問い詰めると、ダヴィジェンコ少尉は声を出さずに軽く頷いた。

 

「憲兵隊は皆さんの情報提供に支えられています。貴官の気持ちはありがたいですが、軍規に反していない行為は処罰できないのです。貴官はタッツィー少尉を厳罰に処するべきとおっしゃいましたが、違反でない行為まで罰したら、誰も軍規を信じなくなるでしょう。皆さんに軍規を信じていただけるよう努力する。それが憲兵の仕事です」

 

 滔々と建前論を並べ立てた。現実は必ずしも建前通りには動かないが、だからと言って無力ということもない。ルールの世界では、建前は現実的な力を持つ。

 

「ダヴィジェンコ少尉、こちらを見ていただけますか」

 

 力なくうなだれるダヴィジェンコ少尉に、私的制裁追放キャンペーンのポスター、そして部隊ごとの相談受理数及び摘発数のグラフを見せた。

 

 私的制裁追放キャンペーンは、憲兵を中央兵站総軍の幕僚に貼り付ける口実だ。俺は真の目的を伏せて、「気付いたことは何でも報告しろ」と憲兵に指示した。彼らは私的制裁に目を光らせているつもりで、実際はマフィアを見張らされているのだ。

 

 もっとも、キャンペーンそのものにも熱心に取り組んでいる。私的制裁対策ガイドラインを作成し、四=二基地の全将兵に配布した。広大な四=二基地のあらゆる場所にPRポスターを貼り、各部隊の部隊長及び人事担当者を対象に研修会を開き、意識の向上に務めた。部隊ごとに相談受理数と摘発数のノルマを設定し、朝礼のたびに檄を飛ばした。

 

 規律の番人たる憲兵として、そしてタッツィーのような人間に痛めつけられた者として、私的制裁をなくしたいと願っていた。

 

「憲兵隊は一丸となって私的制裁追放キャンペーンに取り組んでおります。協力したいという気持ちをお持ちであれば、憲兵隊が求める情報についてご理解いただけると助かります」

「承知しました。そろそろ、失礼してよろしいでしょうか……」

「お疲れ様でした。今後とも憲兵隊への協力をお願いします」

 

 心にもない感謝の言葉を言った。足をふらつかせながら歩くダヴィジェンコ少尉の背中に向かって敬礼をしつつ、少しやり過ぎたかもしれないと思う

 

 入れ替わるように隊長室に入ってきた憲兵副隊長マルキス・トラビ地上軍少佐も、同じように思っていたようだ。

 

「ダヴィジェンコ少尉は、たびたび有益な情報を提供してくれる人物です。もう少し大事にしていただかないと、憲兵隊が信用を無くします」

「わかった、気をつけるよ。忠告ありがとう」

 

 苦々しげに言うトラビ副隊長に礼を言った。心の中では、「摘発実績欲しさにあんな奴の言葉に耳を貸すから、信用を失うんじゃないか」と思ったが、それは口に出さない。

 

 武勲を立てる機会がない憲兵にとって、規則違反の摘発は功績を稼ぐ数少ない機会だ。年度末になると、隊内を見回る憲兵の数が倍に増え、普段は摘発されないような違反まで摘発されるなんて笑えない光景が展開される。憲兵に対する「あら探しに熱心で弱い者いじめが大好き」というステレオタイプなイメージの背景には、このような事情があった。

 

 先例と摘発実績を重視するトラビ副隊長から見れば。俺がドーソン司令官から学んだやり方は、性急すぎるように見えるらしい。何かにつけて、「憲兵隊の先例を重視しろ」と言ってくる。

 

 これまでは頭を下げていればそれで済んだ。しかし、今はそうもいかない。年齢も実力もずっと上のトラビ副隊長の顔を立てるようにしているが、それでもスタイルの違いから対立してしまうのだった。

 

 憲兵隊の中では「良くやってくれた」と歓迎する声もあるが、「やり過ぎだ」と批判する声の方が大きい。

 

「フィリップス少佐は功績を焦っているのではないか」

「じゃがいもの威光を笠に着て威張りやがって」

「勇み足にも程がある」

 

 ベテランを中心にこんな声があがっている。情報収集を任せている本部付下士官によると、俺のことを「赤毛の孺子」「あのチビ」と呼ぶ者もいるらしい。

 

 憲兵を貼り付けている中央兵站総軍の幕僚にも疎まれている。主要幕僚会議に出席するたびに胡散くさい目で見られた。

 

 本当の意味での味方は、第一輸送軍司令部にいるイレーシュ・マーリア宇宙軍中佐、予備部隊として待機中の第一一空挺戦闘団にいるエーベルト・クリスチアン地上軍中佐、そして四名の本部付下士官ぐらいではないかと思えてくる。

 

 ストレスで心が折れそうだ。おかげでマフィンを食べる量が倍増した。サイオキシンマフィアに対する怒り、私的制裁に対する怒りが、今の俺を辛うじて支えていた。

 

 

 

 中央兵站総軍の幕僚に憲兵を貼り付けてから二週間が過ぎたが、誰がマフィアなのかはまだ判明していない。この程度で尻尾を出すような連中でもないだろう。もうしばらく監視を続ける必要がありそうだ。

 

 監視任務の副産物として、ちょっとした事件があった。補給物資をフェザーン企業に横流ししようとした第七九整備大隊長トカイア・オーダ技術少佐が憲兵隊に拘束された。事件そのものより、オーダ技術少佐が共犯者に引きこもうとした第一補給軍運用参謀イブリン・ドールトン宇宙軍少佐の存在が話題を呼んだ。

 

 オーダ技術少佐は既婚者だったにも関わらず、結婚を餌にしてドールトン少佐に近づき、肉体関係を結び、甘言を弄して二万ディナール近い金品を巻き上げた。そして、不正に引きずり込もうとしたのである。肥満した中年男性のオーダ技術少佐、若い美女のドールトン少佐という不釣合いな容姿もあって、四=二基地の人々の間でスキャンダラスな興味を引いた。

 

 オーダ技術少佐は軍法会議に送致、いろいろな意味で可哀想なドールトン少佐は立件を見送り、この横流し未遂事件は幕を閉じた。そして、未然に防いだ憲兵隊の株も上がった。

 

 最近は秘密任務より日常業務の方が忙しい。俺のポストは、言ってみれば八〇万人が暮らす都市の警察署長代理のようなものだ。窃盗、交通違反、暴力などをいかに減らすかに頭を痛める日々が続く。

 

 俗に「不良軍人」と言われるトラブルメーカーも頭の痛い存在だ。物語の世界では、不良軍人は善玉、それを取り締まる憲兵は悪玉ということになっている。しかし、軍隊生活は集団生活だ。トラブルメーカーは大多数の真面目な将兵には迷惑なだけなのだ。

 

 不良軍人に戦場の勇者が多いことが話をややこしくする。彼らは戦場だろうが平時だろうが常に戦闘的だ。それでも武勲のおかげで許されてしまう。その最たるものが、第六六六陸戦連隊こと薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)の隊員だった。

 

 宇宙暦七六〇年、帝国の情報機関「帝国防衛委員会」の手引きで逆亡命した亡命者グループが、同盟の亡命者差別の実情を暴露する事件が起きた。大恥をかかされた同盟政府は、差別が存在しないことを宣伝するために、亡命者一世の軍人を集めてエリート部隊を編成した。これが第六六六陸戦連隊である。

 

 人間離れした勇戦ぶりを見せた第六六六陸戦連隊は、薔薇をあしらった連隊章から「薔薇の騎士連隊」の別名で呼ばれるようになった。この二〇年間で宇宙軍陸戦隊の年間最多受勲部隊に一五度選ばれ、陸戦隊平均の二倍を超える死傷率を誇る。

 

 彼らは昇進や給与の面で優遇される代わり、絶え間なく戦いに駆り出される。模範的亡命者として賞賛を受ける一方で、酷使に耐え切れずに逆亡命する隊員が後を絶たない。栄光と酷使。その矛盾が薔薇の騎士連隊のアイデンティティを複雑なものにした。

 

 七九一年の五月下旬、薔薇の騎士連隊を中核とする第六六六陸戦遠征隊は、ブランタイア星系の小惑星基地において、八倍の帝国軍装甲擲弾兵に包囲された。

 

 装甲擲弾兵と言えば、同盟宇宙軍の陸戦隊に匹敵する精鋭だ。小惑星基地は数日のうちに陥落するものと思われた。だが、陸戦遠征隊長と薔薇の騎士連隊長を兼ねるヘルマン・フォン・リューネブルク宇宙軍大佐の巧妙な指揮によって、九度にわたる装甲擲弾兵の突撃はすべて撃退された。

 

 七月上旬、援軍の二個分艦隊がブランタイア星系に到達し、第六六六陸戦遠征隊の勝利が確定した時、とんでもない事件が起きた。リューネブルク大佐が帝国軍に単身で降伏してしまったのだ。

 

 薔薇の騎士連隊は指揮官の裏切りに怒り狂い、副連隊長のヴァーンシャッフェ宇宙軍中佐を陸戦遠征隊長代行及び連隊長代行に立て、援軍が到着するまで基地を守り抜いた。彼らは自らの手で名誉を守ったことになる。

 

 しかし、政府の名誉は大きく傷ついた。リューネブルク以前に薔薇の騎士連隊を率いた一〇名のうち、三名が戦死し、二名が将官に昇進し、五名が帝国の情報機関の誘いに乗って逆亡命した。一一人目のリューネブルクが降伏したため、歴代連隊長の過半数が裏切ったことになる。看板部隊の指揮官が頻繁に裏切るなど、恥晒しもいいところだ。

 

「皇帝陛下はヘルマン・フォン・リューネブルクの忠誠を嘉し、家門再興をお許しになった。惑星デンスボルンを惑星リューネブルクに改称し、子爵位とともに賜った。そして、リューネブルク子爵に宇宙軍准将の階級を授け、侍従武官として側で仕えるよう仰せになった。自由惑星同盟軍を僭称する反乱者よ。反逆の迷妄から覚めよ。帝国臣民の正道に立ち戻った者は厚く遇されるのだ」

 

 帝国政府はこのように発表し、皇帝の恩徳を称えるリューネブルク子爵の映像を流した。

 

「謀略放送。信憑性はマイナス以下」

 

 同盟政府は国内での報道を禁じたが、あっという間に公然の秘密と化した。リューネブルク子爵がある名門貴族の令嬢と結婚したという噂も流れている。

 

 聞くところによると、かつてのリューネブルク家は侯爵家で、皇后や軍務尚書を出したこともあり、最盛期には一門全体で二〇個近い有人惑星を支配したそうだ。本来の家格を考慮すれば、現在の待遇は決して厚遇とは言えないだろう。それでも、裏切り者が門閥貴族に列したことに市民は激怒し、薔薇の騎士連隊解体論が燃え上がった。

 

 薔薇の騎士連隊の士官は辺境の基地に軟禁され、数か月間にわたって査問を受けた。徹底的な取り調べによって、リューネブルクの行動が完全な単独行動だったことが証明され、薔薇の騎士連隊は解体を免れた。

 

 それでも、失われた部隊の名誉は回復しなかった。ヴァーンシャッフェ連隊長代行は大佐昇進と連隊長継承を認められたものの、歴代連隊長が兼務してきた第六六六陸戦遠征隊長のポストを取り上げられた。この事実は、薔薇の騎士連隊が陸戦遠征隊の基幹部隊から、単なる独立連隊に降格されたことを示す。いずれはどこかの陸戦旅団に編入されて、連隊長職も大佐級ポストから中佐級ポストに格下げされるだろうと噂される。

 

 薔薇の騎士連隊の復権を図るヴァーンシャッフェ連隊長は、成功率の低い任務を進んで引き受ける一方で、隊員に右翼的な精神教育を行い、愛国心のアピールに務めた。また、ヨブ・トリューニヒト政審会長やフランシス・カネダ元国防副委員長といった主戦派議員と誼を結び、彼らの利益のために部隊を動かした。

 

 連隊長の愛国路線は激しい反発を受け、一部の隊員が殊更に露悪的な態度をとるようになる。その中心人物が副連隊長ワルター・フォン・シェーンコップ宇宙軍中佐だ。

 

 今年で三〇歳になるシェーンコップは、士官学校に合格したが入学しなかったという経歴が示す通り、卓越した学力と体力の持ち主だ。学科・戦技・リーダーシップは開校以来最高、協調性と倫理教養は開校以来最低、総合すると九位という成績で、ケリム陸戦専科学校を卒業し、宇宙軍伍長に任官した。陸戦隊で武勲を重ねたシェーンコップは、二二歳の時に少尉となって薔薇の騎士連隊に配属され、二八歳で中佐に昇進し、昨年末に副連隊長となった。

 

 徒手格闘術・戦斧格闘術・ナイフ格闘術・射撃術はすべて最高の「特級」評価。隊内戦技トーナメントの二年連続優勝者。そして、人事記録の賞罰欄は獲得した勲章と個人感状で真っ黒に埋め尽くされている。薔薇の騎士連隊、いや同盟宇宙軍陸戦隊最強の戦士だ。

 

 指揮官としても超一流だ。一〇人程度のゲリラコマンドの指揮にも、一〇〇〇人を超える大部隊の運用にも抜群の技量を示す。超人的な勇気の持ち主で、気前が良いこともあって、部下からは絶大な支持を受ける。幹部候補生出身ながらも、誰もが将来の将官候補と認める存在だ。

 

 シェーンコップの評価の高さも、前の世界での活躍ぶりと比較するとまだまだ物足りないと思える。生前は天才ヤン・ウェンリー配下の陸戦隊司令官として活躍し、死後は小説・漫画・テレビドラマ・映画などの登場人物として活躍した。イゼルローン無血攻略、シヴァ星域会戦における帝国総旗艦ブリュンヒルト突入作戦など数々の偉勲は、赤ん坊だって知っていた。一〇〇人いれば、九六人が「シェーンコップこそ、ラインハルト戦争時代最高の陸戦指揮官」と言っただろう。

 

 前の世界を生きた俺にとって、シェーンコップ中佐は偉人の中の偉人だった。しかし、この基地では迷惑極まりない存在だ。

 

 反抗的で放蕩三昧のシェーンコップ中佐を嫌う者は多い。彼の品行に対する苦情が憲兵隊本部に多数寄せられた。世論に押された基地憲兵隊は、シェーンコップ中佐の身辺を調査した。

 

 確かにシェーンコップ中佐の態度は悪い。上官のヴァーンシャッフェ連隊長はもちろん、将官に対しても不遜な態度をとる。公式の場では許されないようなきわどい発言も多い。課業終了後は不特定多数の女性との情事に精を出す。道徳家が怒り狂いそうな不品行ぶりだ。

 

 それでも軍規には抵触していない。態度こそ反抗的なものの、与えられた命令はこれ以上無く完璧に遂行する。配下の規律・風紀は並みの部隊よりよほど優秀だ。公人としての資質を問われるような行為も見られない。要するに他人の不快感を刺激する以上のことは、何一つしていなかった。

 

「放置でいいだろう。憲兵隊が動くこともない」

 

 俺はそう判断した。苦情のほとんどはダヴィジェンコ少尉レベル。しかも、提出者の半数は薔薇の騎士連隊の隊員だ。

 

「これって派閥争いじゃないのか?」

 

 不審を抱いて提出者の背景を探った。現在の薔薇の騎士連隊は、愛国路線を推進するヴァーンシャッフェ連隊長派と、反愛国路線のシェーンコップ副連隊長派に二分されているからだ。

 

 その結果、九割がヴァーンシャッフェ連隊長派の部隊所属だったことが判明した。彼らは憲兵隊内部の反シェーンコップ感情、そして摘発実績を求める憲兵気質を利用して、敵対者に打撃を与えるつもりなのだ。

 

「馬鹿馬鹿しい。憲兵隊は規律の番人だ。よその部隊の派閥争いに付き合ってられるか」

 

 俺は不介入を決定した。

 

「動いてもらわなければ困ります。これだけの苦情を放置すれば、憲兵隊は仕事をしていないと言われますぞ」

 

 トラビ副隊長が苦虫を噛み潰したような顔で異論を唱える。潔癖な彼はシェーンコップ中佐を目の敵にしており、この機会に処罰してしまいたいと思っているのだ。

 

「しかし、理由がないだろう」

「不品行を理由に多くの訴えを起こされています。統合軍基地規則の『隊員は公衆道徳を重んじ、他人に迷惑を及ぼすような言動及び行為は、慎まなければならない』に違反しているとみなしてもよろしいでしょう」

「前例に照らせば、彼の不品行は憲兵隊の介入を必要とする程度に達していないんじゃないか」

「しかし、憲兵隊に対して苦情が届いている以上、対処する姿勢は見せるべきでしょう。『憲兵隊が薔薇の騎士連隊に弱腰過ぎる』という声も出ていますから」

「それは困るなあ」

 

 副隊長の主張には、シェーンコップ中佐に対する反感が多分に含まれていたが、それでも聞くべきものがあった。苦情を寄せても動かないと思われたら、誰も憲兵隊に協力しなくなるだろう。姿勢を見せることは大事だ。

 

 いろいろと思案した結果、シェーンコップ中佐を呼び出すことにした。軍隊が官僚組織である以上、アリバイを作ることも大事なのだ。

 

 士官になって二年と八か月、俺はすっかり軍服を着た役人になりきっていた。

 

 

 

 薔薇の騎士連隊副連隊長ワルター・フォン・シェーンコップ中佐が隊長室に入ってきた。彫りの深い顔立ち、均整の取れた長身、優雅な物腰には、貴族的な気品が漂っている。灰茶色の瞳に宿る強烈な光は、彼が決して他人に屈する人物でないことを教えてくれる。

 

「憲兵隊長代理殿、本日は何の御用でしょうか」

 

 シェーンコップ中佐は長身を優雅に折り曲げて一礼した。礼節を完璧に守りながらも、俺に対する敬意をまったく持っていないことが伝わってくる。彼は誰に対しても分け隔てなく慇懃無礼だ。上官のヴァーンシャッフェ連隊長、四=二基地で一番偉いセレブレッゼ司令官にもこんな態度を取る。

 

「ご足労いただきありがとうございます。中佐の素行について苦情を申し立てる者がおりました。その件について、中佐の側からもお話を伺いたいと思いました」

「なるほど、それは御苦労なことですな」

 

 ソファーに腰掛けたシェーンコップ中佐の口元に、冷笑が浮かぶ。だが、心を乱されてはいけない。これは彼一流の心理戦術だ。

 

「当方の調査では、中佐は当基地に着任されてからの四〇日間で、一二人の女性と関係をお持ちになったという結果が出ております。事実に相違はございませんでしょうか?」

「事実に反しておりますな」

「どの点に相違があるのでしょう?」

「昨晩、一三人目と関係を持ちました。事実関係はしっかり把握していただきたいものです」

 

 してやったりと言いたげに、シェーンコップ中佐は口角を上げ、俺がいれたコーヒーをうまそうに飲む。

 

「申し訳ありません」

「ご理解いただけましたか。有り難いことです」

「はい、事実確認には正確を期するよう気を付けます」

「ところで隊長代理殿は、小官が一三人の女性と関係を持ったことが事実であると確認されたかったのでしょうか?」

「何ぶんにも相手がある話なので、中佐ご本人のお話も伺っておきたかったのです」

「石橋を叩いて渡ると評判の隊長代理殿らしいですな。それでは失礼いたします」

 

 シェーンコップ中佐はすっと立ち上がり、早足で部屋から出ていこうとした。

 

「ま、待ってください! まだ話は終わってないんです!」

 

 慌てた俺は立ち上がって呼び止める。シェーンコップ中佐は再びこちらを向いてニヤリと笑い、再びソファーに腰掛ける。完全に相手のペースにはまってしまった。

 

「中佐の女性関係に関して、苦情が何件も入っているのです」

「ほう、憲兵隊はそんなつまらん苦情にも対処せねばならんのですか。御苦労のほど、お察ししますぞ」

 

 苦労の元凶であるシェーンコップ中佐が抜け抜けと言う。もはや、心の中で突っ込む気すら起きない。

 

 同盟軍の軍規には、戦地での異性交際そのものを禁ずる規定は存在しない。オーダ技術少佐とドールトン少佐の件と違い、シェーンコップ中佐と関係を持った女性はみんな独身者だから、不倫でもない。法的には真っ白だ。シェーンコップ中佐を大人しくさせるためでなく、苦情を入れた者に「注意はしました」と言うために対処している。

 

「一昨日の晩にマルグリット・ビュッサー伍長とエルマ・カッソーラ軍曹が殴り合いの喧嘩をいたしまして。それで……」

「それはいけませんな。戦友同士仲良くしないと」

「隊長代理殿が両人の仲直りをご希望ならば、不肖ながらこのワルター・フォン・シェーンコップも仲立ちの労を厭いませんぞ。何と言っても平和が一番ですからな」

 

 シェーンコップ中佐が臆面もなく提案してのけた。勝てる気がしない。

 

「仲直りは当人同士の問題ですから、小官には何とも言いかねます。ですが、中佐にはもう少し女性とのお付き合いを控えめにしていただけたら、喧嘩の種も無くなるんじゃないかと……」

「隊長代理殿は女性達の喧嘩に心を痛めておられるのですか?」

「まあ、そういうことです」

「他でもない隊長代理殿の仰せであれば、微力を尽くしましょう」

「お分かりいただけましたか」

 

 胸を撫で下ろした。彼が本当に自重するとは思えないが、「自重する」という返事を引き出せただけで外部への申し訳は立つ。

 

「小官としたことが、女はアフターケアを怠れば嫉妬するということをすっかり失念しておりました。今後はこのようなことがないように努力いたしましょう」

「そ、そっちの努力ですか……?」

「まさか、女との付き合いを自重しろなどと言うために、呼び出したわけでもありますまい。隊長代理殿は、基本法令集と国防関連法令集を判例も含めて暗記しておられると聞きます。異性交際を禁止する規定が無いことは、当然ご存知でしょう」

 

 シェーンコップ中佐は軍規を盾に反論を封じてきた。

 

「確かにそのような規定はありません」

 

 他に答えようがない。彼がこれまで一度も懲戒処分を受けていない理由がようやく分かった。ルールを知り尽くし、そこから一歩もはみ出ない範囲で振る舞う術を弁えているのだ。

 

「女にかまけて軍規を蔑ろにしたというのであれば、批判も甘受いたしましょう。しかし、小官は任官より今日に至るまで、一度も軍規に背いたことはありません。不勉強なそこらの憲兵ならいざ知らず、隊長代理殿ともあろうお方が、小官のプライベートに口を差し挟もうとなさったら、法を枉げたとの誹りは免れんでしょうな。公正にして峻厳と名高い隊長代理殿が、そのようなことをおっしゃるとは、夢にも思いませんがね」

「中佐のおっしゃるとおりです」

「隊長代理殿はいつも物分かりが良くて助かります」

 

 シェーンコップ中佐は猛獣のような微笑みを浮かべ、コーヒーを飲み干す。そして、二杯おかわりした後に退出した。

 

「ふう……」

 

 大きくため息をついた。背中が汗でびっしょりになっている。これが格の差というものなのだろうと思う。次元が違いすぎる。

 

 前の世界でシェーンコップ中佐が受けた「危険人物」という評価に納得した。規則や権威を尊重する気が無いのに、誰よりも上手に利用できる。少しでも油断したら、あっという間に付け込んでくる。本当に恐ろしい相手だ。

 

 彼の上官を四年間もやっていたという一点においても、ヤン・ウェンリーは尊敬されてしかるべきだと思う。俺が上官だったら一週間で音を上げるだろう。

 

 基地憲兵隊長代理の椅子はあまり座り心地が良くななかった。四〇〇〇人もの部下をまとめるだけで一苦労だ。秘密任務もある。シェーンコップ中佐のような面倒な人もいる。人の上に立つことの難しさにため息をつき、マフィンを口に入れた。



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第17話:動揺する基地 宇宙暦794年3月中旬~4月4日 ヴァンフリート四=二基地

 無人衛星にあるヴァンフリート四=二基地の娯楽事情は、有人惑星にある基地と大きく異なっている。軍人が大好きなカジノも売春宿も存在しない。ネットは繋がりにくい。

 

 最も人気のある娯楽は酒だ。軍経営のバーはいつも混み合っている。営内での飲酒は原則として禁止されているが、ほとんどの部隊では黙認状態だ。基地の売店でも堂々と酒が売られている。年度末でもなければ、憲兵隊が営内飲酒を摘発することはまず無い。

 

 二番人気は携帯型ゲーム機だ。いつでもどこでも遊べるところが前線の軍人に好まれる。軍も「酒やギャンブルより良い」と言って、携帯型ゲーム機を奨励する。

 

 酒派でもゲーム派でも無い俺は、仕事を終えてプロテインドリンクを飲み干すと、別の娯楽を楽しむためにエアバイクに乗った。

 

 いつもと同じ時間、いつもと同じ場所に、いつもと同じポーズでイレーシュ・マーリア少佐は立っていた。背筋をまっすぐに伸ばし、両手を腰に当て、両足を肩幅よりやや広めに開いている。いわゆる仁王立ちだ。

 

 淡いブルーのシャツは前のボタンを全開にし、白いタンクトップの胸の部分ははちきれんばかりに膨らみ、細身のデニムが長い足を強調する。形の良い唇は不機嫌そうに結ばれ、切れ長の目は周囲を威圧するような光を放つ。比較的人通りが多い場所なのに、イレーシュ少佐の周囲だけはぽっかり空いている。

 

 俺は笑いながら小さく右手を振った。不機嫌そうだったイレーシュ少佐はたちまち笑顔になり、両手を左右に振る。

 

「どうもお待たせしました」

 

 自分より一二・二一センチ高い位置にあるイレーシュ少佐の顔を軽く見上げた。

 

「今日もきっちり五分前だね。歩幅もいつもと全く同じ」

 

 彼女は右腕に巻いた時計をちらりと見る。

 

「軍隊は五分前行動ですから」

「あー、やだやだ。心にまで軍服着なくてもいいのに」

「冗談ですよ。俺が先に来てると、向こうが負い目に感じるかもしれないでしょう? だからといって遅く来れば相手を待たせてしまう。五分前がちょうどいいんです」

「なるほど、その気配りが好感度アップの秘訣なんだ。さすが、七八九年度から五年連続で『好感度の高い軍人ランキング』の一位になるだけの……」

「それ、調査対象はあなた一人だけでしょう? 行きますよ」

 

 イレーシュ少佐に背を向けてすたすたと歩き出す。

 

「せっかちだなあ、君は。そんなに早く始めたいの?」

 

 俺に追いついたイレーシュ少佐は左側に並んで歩く。長身の彼女と並ぶとチビが目立ってしまうので嫌なのだが、恥ずかしいから口には出さない。

 

「二人きりの時間を大事にしたいんです」

 

 この時間に若い独身の男女が二人きりでいれば、することは一つしかない。そう、トレーニングだ。四=二基地には、大手フィットネスクラブも顔負けのトレーニングセンターがある。これを利用しない手はない。

 

 トレーニングは一人でもできるが、二人一組でやった方がより効率的だ。お互いのフォームをチェックし合えるからだ。伸び悩んだ時も仲間がいれば乗りきれる。

 

 筋トレと有酸素運動を終えた後、射撃練習をした。据銃練習で正しいフォームを身につける。そして、実戦を想定した射撃シミュレーターを使って、どのような状況でも素早く正確に撃てるようにする。シミュレーターにはスコア測定機能と録画機能が備わっているため、練習終了後に他人とスコアを比べ合い、録画されたビデオでお互いのフォームを講評し合う。

 

「ハンドブラスター、ビームライフル、火薬拳銃、火薬ライフルのすべてで連敗記録更新か。悔しいなあ。一度くらい勝てると思ってたのに」

 

 イレーシュ少佐は広い肩をがっくりと落とした。冷たい美貌に不機嫌そうな表情の彼女は、一見すると近寄りがたい雰囲気がある。今年に入ってロングヘアをショートヘアに変えてからは凛々しさも加わった。しかし、実際はとても素直な人だ。

 

「まだやります?」

「いや、いいよ。準特級持ちと一級持ちの差が分かったから。何度やっても多分勝てない」

 

 無念そうに首を振るイレーシュ少佐。こんな顔も可愛らしく思える。

 

「笑わないでよ、ムカつくなあ」

「すいません」

「別にいいよ。君は私の教え子。君の勝ちは私の勝ちだから」

 

 両腕を腰に当ててふんぞり返り、自信満々な顔で俺を見下ろしてくるイレーシュ少佐。実に大人気なかった。

 

 一時間半後、俺達はトレーニングセンターの近くにある軍経営のレストランにいた。汗をかいた後はたっぷり食べてエネルギーを補給する。鍛えるだけでは筋肉は育たない。

 

「ビーフステーキビッグサイズ三枚、イタリアンサラダ二皿、ジェノベーゼパスタ大盛り一皿、チキンピラフ大盛り一皿、ポテトとオニオンのスープ三皿、プロテインミルクを二杯お願いします」

 

 若いウェイターに注文を伝える。

 

「かしこまりました。他には注文はございますか?」

「俺の注文は以上です」

 

 俺がそう答えると同時に、イレーシュ少佐が自分の分を注文し始めた。

 

「ビーフステーキビッグサイズ一枚、生ハムサラダ一皿、トマトリゾット大盛り一皿、ムール貝のオーブン焼き一皿、ほうれん草のソテー一皿、赤ワインのボトル一つ」

「今日も少食ですね」

「誰かさんと違って、これ以上身長を伸ばさなくてもいいから」

 

 イレーシュ少佐の口から放たれた言葉は、鞭となって俺を打ちのめした。

 

「い、以上でよろしいでしょうか……」

 

 なぜかウェイターはたじろぎ気味だ。

 

「結構ですよ」

 

 俺達二人はほぼ同時に答えた。ウェイターは逃げるような足取りでテーブルから離れていく。

 

「クリスチアン中佐に初孫ができるそうですよ」

「あのおじさん、まだ四〇代でしょ」

「中佐も娘さんも早めに結婚なさったんです。だから、孫ができるのも早いと」

「なるほどねえ。孫を見たら、あの悪人面もデレデレになるのかなあ」

 

 イレーシュ少佐と他愛もない話をしながら、料理がやってくるのを待つ。料理が来たら食べながら会話を続ける。何ものにも換えがたいひと時だ。

 

「幹部候補生養成所でマフィンを食べさせてくれた子。薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)のリンツ君だっけ? その子とは会った?」

「なかなか機会が無いです。あっちはあっちの付き合いがあるみたいで」

「そっかあ。あんな事件があったからねえ」

「もともと亡命者ばかりの部隊ですからね。もともと強かった身内意識が、三年前の事件でさらに強くなったみたいです」

「噂をすれば何とやらだね。ほら、薔薇の騎士連隊の名物男」

 

 イレーシュ少佐が視線を向けた先には、男女二人連れがいた。男性はすらっとした長身に彫りの深い顔立ちをした紳士風の美男子。女性は背が高くてきりっとした感じの美人。これほどお似合いのカップルもそうそういないように思われる。

 

「ああ、シェーンコップ中佐ですか」

 

 男性の方は、前の世界の英雄、憲兵にとっては頭痛の種、すなわり薔薇の騎士連隊副連隊長ワルター・フォン・シェーンコップ宇宙軍中佐だった。

 

 女性の方も知っている。幹部候補生養成所時代に同じ班だったヴァレリー・リン・フィッツシモンズ地上軍中尉だ。まさか、シェーンコップ中佐と付き合っているとは思わなかった。

 

 前の世界で読んだ『薔薇の騎士ワルター・フォン・シェーンコップ』によると、シェーンコップは三七年の生涯で一〇〇〇人以上の女性とベッドを共にしたそうだ。名前が残っているだけでも五〇人は軽く超えていて、覚える気にはなれなかった。知り合いがあのシェーンコップの愛人の一人だなんて、微妙な気持ちになる。

 

「一緒にいる人、きれいだね。新しい彼女かな?」

「そうでしょうね」

「美男美女同士のカップルね。まるでドラマみたい」

「俺達もカップルに見えますかね?」

「見えるんじゃないの? 若い男女二人だし」

 

 気の抜けたような会話が続く。いい加減酔いが回っているのか、イレーシュ少佐の肌がほんのりと赤い。

 

「ですよね。あっちの二人と比べると、釣り合わないでしょうけど」

「そうでもないでしょ。君は美男子じゃないし背も低いけど、爽やかだからね。筋肉質でスタイルもいい。誰と一緒でも釣り合うよ。もちろん私とも」

「あくまで仮定の話ですが、俺と付き合うってのもありですか?」

 

 彼女と知り合ってから五年が過ぎた。これだけ長い付き合いで恋愛関係に発展していない以上、脈は無い気もするが、一度聞いてみたかった。

 

「ないね」

 

 即答だった。五パーセント、いや一〇パーセントくらいは期待していたが、見事に外れてしまった。イレーシュ少佐は少し困ったような顔になる。

 

「いや、勘違いしないで欲しいんだけどさ。君の問題じゃなくて私の問題なんだよ、これは」

「とおっしゃいますと?」

「私は過保護でね。付き合った男が何をしても許してしまう。何もしなくても許してしまう。みんなそれで駄目になっちゃった」

「でも、俺とはそんなことは無いじゃないですか」

「それは友達だからだよ。一線を引いてるからね。ちょうどいい距離感が持てる。他人じゃなくなってしまうと、それがわからなくなる」

 

 少し寂しそうなイレーシュ少佐の顔を見て、質問したことを後悔した。しかし、そんな俺の内心に構わず、彼女は言葉を続ける。

 

「君は自信がない。そして、依存心が強い。他人がやってくれるなら、自分はやらなくていいと思ってしまう。私と一緒にいたら、何もできなくなってしまうよ」

 

 それも悪くないんじゃないかとふと思った。こんな美人にずっと尽くされるなら、駄目になってしまってもいい。

 

「それはそれで……」

「いやだよ、私は真面目な君が好きなんだから」

「ちょっと残念ですね」

 

 ちょっとどころではなく残念だった。しかし、そこまで言われては食い下がれない。

 

「たぶん、君は他人に頼れない場面でしか真面目になれないんじゃないかな。周囲が頼りにならない時。他人に尻を叩かれた時。自分が責任を引き受けた時。そんな時に君は真面目になる」

「言われてみれば、そんな気がします」

「君がパートナーに選ぶとしたら、君を引っ張ってくれる子、あるいは君が引っ張らないとどうしようもない子のどちらかを選ぶといいと思うな。私はどっちにもなれないから駄目だ」

 

 イレーシュ少佐は寂しげに笑って、ボトルに残ったワインをすべてグラスに開けた。そして、一気にぐいっと飲み干す。時計を見ると、閉店三分前だった。

 

「そろそろ出よっか」

「ええ」

 

 俺達はほぼ同時に立ち上がり、カウンターへと向かった。こうして安らぎの時は終わりを迎えたのである。

 

 

 

 三月二一日、同盟軍と帝国軍の宇宙艦隊主力は、恒星ヴァンフリートの周辺宙域で戦闘状態に入った。

 

 同盟軍の戦力は、第四艦隊と第一二艦隊を基幹とする二万七〇〇〇隻。帝国軍の戦力は、第二猟騎兵艦隊・第一竜騎兵艦隊・白色槍騎兵艦隊を基幹とする三万二〇〇〇隻。両軍とも二個艦隊がまだ到着しておらず、本格的な衝突は全軍が揃った二日後になると見られる。

 

 前線から一光時(一〇億八〇〇〇万キロメートル)の距離にある四=二基地は、絶対安全圏から後方支援にあたる。

 

 前の世界のヴァンフリート四=二は激戦地となった。七九四年三月末、主戦場から外された帝国軍のグリンメルスハウゼン艦隊が四=二基地を攻撃した。その後、両軍の主力艦隊が四=二宙域に雪崩れ込み、大混戦となった。偶然から始まったこの戦いは、訳のわからないうちに終結した。

 

 この戦いを帝国軍の立場から記した『獅子戦争記 第二巻――混戦のヴァンフリート』は、「これほど必然性を欠いた戦いは戦史でも稀だった」と評する。

 

 だいぶ細部は覚えていないものの、かなり唐突な展開だった印象がある。帝国軍がなぜ同盟軍の勢力圏の奥深くにわざわざ一個艦隊を転進させたのか、帝国軍がなぜすんなりと第四惑星宙域まで辿りつけたのかなど、理屈では説明できないことばかりだったのだ。

 

 第五次イゼルローン攻防戦のような必然性があれば、前の世界と同じ展開をなぞることもあるかもしれない。しかし、偶然まではなぞれないと思う。すべてが同じように進むのならば、俺やラインハルトが「エル・ファシルの英雄」と呼ばれることもなかった。宇宙艦隊主力が敗れでもしない限り、四=二基地は安泰だ。

 

 ヴァンフリート星域の戦いが始まってから三日が過ぎ、三月二四日になった。恒星活動の影響で大規模な電磁波障害が発生し、指揮通信システムの機能が大きく低下した。

 

 迎撃軍司令部は戦力を二分して帝国軍を挟撃しようと考えていた。しかし、通信の混乱が挟撃作戦を完全に破綻させてしまった。第四艦隊と第六艦隊は通信途絶、第一一艦隊は所在不明、通信が繋がるのは第一二艦隊のみ。艦隊司令部と分艦隊司令部の間、分艦隊司令部と機動部隊司令部、機動部隊司令部と戦隊司令部の間も連絡が繋がらないそうだ。

 

 通信の混乱は帝国軍も同様だった。艦隊レベルはおろか機動部隊レベルの統制も取れなくなった両軍は、数十隻から一〇〇隻程度の小部隊に分かれ、連携を欠いたまま目の前の敵と戦った。撤退しようにも連絡手段がなかった。

 

 中央兵站総軍司令部は、バラバラに入ってくる支援要請を整理した。中央輸送軍は小規模な輸送部隊を多数編成して、基地と前線の間を往復させた。中央通信軍と中央工兵軍は、八つの小惑星に仮設の通信基地を作った。中央衛生軍は負傷者を収容し、中央支援軍は損傷艦を収容した。

 

 全機能をフル稼働させた四=二基地は慌ただしい雰囲気に包まれていたが、全員が忙しかったわけではない。憲兵隊や地上戦闘要員は普段とまったく変わらない。

 

 薔薇の騎士連隊の副連隊長ワルター・フォン・シェーンコップ中佐は、二日に一回くらいの頻度で憲兵隊長室にやって来る。これといった用事があるわけでは無い。俺をからかいつつ、コーヒーを二杯か三杯飲んで帰って行くだけだ。

 

「薔薇の騎士連隊本部と憲兵隊本部って逆方向ですよね? こちらにお越しになるのも大変じゃないですか?」

「隊長代理殿との約束を果たさねばなりませんからな」

「小官との約束ですか?」

「憲兵隊にも愛人がいましてね。なかなかいい女なのですが、困ったことに嫉妬深いのです」

「はあ……」

「このワルター・フォン・シェーンコップに二言はありません。女を嫉妬させないようにアフターケアをしっかりするとの約束を果たすため、せっせと足を運んでおります」

 

 真面目くさった顔のシェーンコップ中佐。俺は呆気にとられた。

 

「冗談ですよ。あなたは小官の冗談をいつも真に受けてくださる。そういうところが結構気に入っているのです」

「ど、どうも……、ありがとうございます」

「それにコーヒーもうまいですしな。小官は女とコーヒーには妥協できない性質ですので」

 

 シェーンコップ中佐は俺がいれたコーヒーをとてもうまそうに飲む。ちょっと嬉しくなった。

 

「コーヒーにはこだわっているんですよ。コーヒーショップでアルバイトしてましたから」

「アルバイト? 隊長代理殿は中学時代からアルバイトをなさってたのですか?」

「いえ、高校を出てからです。就職先が無くて、徴兵されるまでアルバイトで暮らしていました」

「それは存じませんでした。幹部候補生出身と聞いておりましたから、てっきり専科学校を出られたものとばかり」

「士官学校を卒業したと勘違いされることも多いですよ。六年前のエル・ファシルの時は一等兵だったんですけどね」

「まあ、他人の事情など知る必要もありませんからな。小官は元連隊長に五年仕えましたが、出身地も家族構成も知りません。しかし、そんなのはどうでもいいことです」

 

 不意にシェーンコップ中佐の表情から冗談の成分が消えた。彼が五年仕えた元連隊長とは、帝国に逆亡命したリューネブルク元大佐のことだ。

 

 この間見た人事資料によると、シェーンコップ中佐はリューネブルク元大佐が連隊長だった頃の腹心だったそうだ。そんな相手の事情に興味がないというあたりに、彼の人間性の一端が垣間見えた気がする。

 

 このようにほんの少しだけ本音が見えることもあるが、何を考えて俺のところに顔を出すのかはわからずじまいだった。

 

 三月二六日から通信状態が悪化した。前線からの連絡がほとんど入ってこなくなり、支援要請も受け取れなくなった。

 

「通信が一時的に途絶えるなど、前線では珍しくもないぞ。敵の妨害電波、恒星風、恒星フレア。阻害要因はいくらでもある」

 

 歴戦のクリスチアン中佐はそう言った。

 

「話では聞いていますが、いざ直面すると不安です。エル・ファシル地上戦では、通信が繋がらないなんてことはなかったですし」

「それは我が軍の通信力が圧倒的に優位だったからだ。そんな戦いは一〇に一つと思え」

「わかりました」

 

 これも戦場の一幕だということを頭では理解した。しかし、心がそれを受け入れようとしない。明日になれば回復しているだろうと、何の根拠もない希望を抱きながら仕事をした。

 

「エリヤ、砂糖が多すぎるぞ。俺はお前さんと違って、砂糖でどろどろになったコーヒーを飲む趣味はないんだからな」

 

 薔薇の騎士連隊のカスパー・リンツ大尉は、コーヒーカップをテーブルに置いて苦笑した。

 

「ああ、ごめん」

 

 長い間疎遠だった幹部候補生時代の友人が訪ねてきたというのに、コーヒーに入れる砂糖の量を間違えた。

 

「しっかりしろよ」

 

 リンツは俺の右肩を強く叩いた。砂糖の量を間違えた理由を理解している。長いこと会ってなかったとはいえ、さすがは友人だ。

 

 俺以外の者も動揺していた。将兵が寄り集まって不安そうな顔で語り合う光景が、四=二基地の各所で見られる。

 

 事態を重く見た四=二基地司令部は、昼から主要指揮官及び主要幕僚を集めて会議を開いた。俺も基地憲兵隊の代表として末席に座った。実戦経験の少ない出席者が多いせいか、会議は悲観論に終始した。

 

「フィリップス少佐、貴官は陸戦の専門家だ。この状況をどう見る?」

 

 中央工兵軍司令官シュラール技術少将が話しかけてきた。不毛な議論がピタリと止まり、すべての出席者が俺を見る。

 

 まずいことになった。俺は世間から陸戦の専門家と思われている。言うまでもなくエル・ファシル義勇旅団のせいだ。実際は一兵も指揮していないのだが、ここにいる人は事実を知らない。

 

「小官にもわかりません」

「若いからといって遠慮することはない。言ってみなさい」

「そうですね。戦闘になる可能性があると思います」

 

 前の世界の知識を借用して話した。何月何日何時何分に何が起きたなんて細かいことは覚えていないが、この時期にヴァンフリート四=二で地上戦が起きたこと、薔薇の騎士連隊が活躍したことは覚えている。戦闘が起きる可能性があると、注意を促すだけでも無駄では無いと思った。

 

「どうしてそう思うのだ? ここは絶対安全圏だぞ?」

「ええと、それは……」

 

 合理的な説明が思いつかない。ヴァンフリートの戦いの数十年後に書かれた『獅子戦争記』でも「分からない」と言っていた。俺に分かるはずもない。

 

「戦いに絶対はありません。敵軍が突破してくる可能性も考えられます」

 

 適当な言葉でお茶を濁した途端、会議室が騒然となった。

 

「いや、まさか、そんなことはあるまい。ここは同盟軍の勢力圏のど真ん中ではないか」

「前線の艦隊が健在ならそうだ。しかし、負けていたら話は変わってくる」

「開戦からまだ五日だ。決着するには早過ぎるだろう」

「敵が先に通信システムを建て直したらどうだ? さすがのロボス元帥でも、通信が混乱したまま攻撃を受けたらどうしようもない」

「それはまずいぞ!」

「どうすればいいんだ……」

「いっそ、基地を放棄しようか……」

「逃げている最中に襲われたらどうする? 地上でじっとしている方が安全だと思うがな」

 

 出席者は勝手にネガティブな想像を膨らませていく。

 

「ですから、今のうちから戦闘に備えて……」

 

 俺はどうにか出席者を落ち着かせようとした。だが、沸騰する悲観論を止めることはできない。

 

「備えれば勝てるのか!? ここにいるのは八〇万人の後方要員と二万人の戦闘要員だけだ! それで七五〇万の帝国軍に勝てるのか!? エル・ファシルとは違うんだぞ! 無責任なことを言うな!」

 

 こう怒鳴りつけられると、返す言葉もないのである。戦闘に備えるどころではなかった。俺の不用意な発言が悲観論に火を付けたのだ。

 

 基地司令部の会議が終わった後、急いで基地憲兵隊本部に戻り、大尉以上の階級を持つ憲兵隊員を招集して緊急会議を開いた。憲兵には帝国軍に勝つ方法は分からないが、パニックを抑える方法は分かっている。こうなった以上、悲観論の伝染を防ぐ以外の手立ては無い。

 

「味方との通信が完全に途絶えて今日で二日目だ。基地から撤収する場合、敵が基地に攻めてきた場合の対応を検討したい。活発な討議を期待する」

 

 俺は議長役に徹して意見を言わなかった。トラビ副隊長らベテラン憲兵の経験に頼った方がいいと判断したのだ。

 

 対応ガイドラインができあがったところで、会議を終了した。最初からきっちり決めすぎるのは良くない。原則を確立するだけで十分だ。

 

 居室に戻った俺は、一人で監視計画の修正プラン作成に取り掛かった。撤収時と交戦時、それぞれのプランを用意する。完成した時には夜が明けていた。

 

 

 

 三月二七日一〇時、総司令部から二日ぶりに通信が入った。不安を落ち着かせるどころか、煽り立てる内容だ。

 

「一万隻を越える敵艦隊がヴァンフリート四=二に進軍中。二六日の午後から二七日の午前の間に到着すると推測される。注意されたし」

 

 注意する以前の問題だった。二六日の午後から二七日の午前の間ということは、とっくに帝国軍はヴァンフリート四=二のどこかに到着している。

 

「ここは後方のはずじゃなかったのか? 敵が来るなんておかしいだろう!」

「一万隻を素通りさせるなんて! 宇宙艦隊は何をやっていた!?」

「味方が負けたから、敵がここまで来たんだ! そうに違いない!」

「もう逃げられないぞ! みんな捕虜になっちまう!」

 

 四=二基地は混乱状態に陥った。後方支援要員は軍人とはいえ、仕事内容は民間の事務職や技術者とほとんど同じだ。こんな状況には弱い。

 

「嘘だろ……」

 

 俺は他の人々と違う意味で混乱した。もしかしたら、この世界はあらかじめ決められたシナリオに沿っているだけではないか。そんな非論理的な考えが頭をよぎる。

 

「敵の意図は明らかだ。四=二基地を占拠もしくは破壊し、自分たちの基地を作る。そのために一個艦隊もの大軍を動かしたのだ」

 

 基地司令官シンクレア・セレブレッゼ宇宙軍中将は、推論に推論を重ねてそう結論づけた。そして、薔薇の騎士連隊長ヴァーンシャッフェ大佐に情報収集を命じた。

 

「偵察部隊を出したら、かえって敵に我が軍の所在を知らせてしまうかもしれません。また、我が軍の兵力は敵に比して劣弱です。仮に敵を発見したとしても、打ち破ることはできません。いたずらに焦って無駄な動きをしては、敵軍に付け入る隙を与えます」

 

 一部にはこのような慎重論もあった。

 

「貴官らの意見は、言語化された退嬰、怠惰の正当化に過ぎん。敵は既にこの衛星全域の偵察を開始しているはずだ。早かれ遅かれ基地の所在は敵に知れる。今のうちに敵の情報を集め、攻勢に備えるべきだ」

 

 セレブレッゼ中将は推論をもとに慎重論をはねつけた。何の根拠もない推論ではあるが、敵の動きを論理的に説明できる唯一の説だったため、誰も反論できなかった。

 

「司令官閣下のおっしゃる通りです」

 

 俺も反論しなかった。いや、できなかった。セレブレッゼ中将の言うことがもっともに思えたからだ。

 

 事態が前の世界と同じように推移するなら、帝国軍が衛星全域の偵察に乗り出すはずだ。進駐してきたのが前の世界と同じグリンメルスハウゼン艦隊とは限らないし、有能なリューネブルクやミューゼルが従軍しているとも限らないが、敵だって無能者ばかりではないだろう。偵察は行われると考えた方がいい。そういう理由から同意した。

 

 

 一〇時一五分、四=二基地司令部は警戒レベルをグリーンからイエローに引き上げた。すべての部隊に待機命令が下り、通信規制が開始された。

 

 一二時三〇分、ヴァーンシャッフェ大佐は、六台の装甲車と三五名の兵士からなる偵察部隊を率いて四=二基地を出発した。連隊長自身の出馬は多少の物議を醸した。

 

「偵察隊の指揮など、せいぜい中隊長レベルの仕事ではないか。ヴァーンシャッフェ連隊長は功を焦っているのか?」

「将官になりたいんだろうよ。最近はお偉方に気に入られようと必死だしな」

「敵に寝返ろうとしているのかもしれんぞ。ヴァーンシャッフェ家も元は門閥貴族だったと聞く。前任者に倣って御家再興を考えたとしても無理は無い」

 

 薔薇の騎士連隊は三年前から白い目で見られてきた。何かあるたびにいろいろ言われるのだ。

 

「憲兵隊はガイドライン通りに対処しろ! 混乱を抑えるんだ!」

 

 俺は憲兵隊を率いて混乱収拾に乗り出した。巡回を強化する一方で、パニックを煽り立てる者を営倉に放り込み、夕方までに四=二基地は落ち着きを取り戻した。俺だけの力ではない。トラビ副隊長らベテラン憲兵の経験に大きく助けられた。

 

 二〇時四五分、ヴァーンシャッフェ大佐の偵察隊からの連絡が途絶えた。その三〇分後に副連隊長シェーンコップ中佐とその直属の部下が偵察隊を捜索するために出動した。

 

 二八日には、シェーンコップ中佐との連絡も通じなくなった。彼らを捜索するための部隊を出そうという案も出たが、「いくつも出したら敵に見つかりやすくなる」という理由で却下された。

 

 二九日になっても、シェーンコップ中佐からの連絡は途絶えたままだ。不安がどんどん膨らんでいく。

 

「戦場では見えない敵こそ一番恐ろしい。どこにいるかもいつ襲ってくるかもわからない。そんな敵を待ち受けていると、敵と出会うのが待ち遠しくなる。死ぬのがわかっているのに突撃する者もいる。敵を待つことに比べたら、戦闘など楽なものだな」

 

 歴戦のクリスチアン中佐は、俺の不安の正体を教えてくれた。やはり、俺には実戦経験が決定的に足りない。

 

 三〇日の一七時、シェーンコップ中佐から通信が入った。昨日の八時頃にヴァーンシャッフェ大佐の偵察隊と合流したものの、敵の大部隊から追撃を受けている最中だという。一日以上も連絡を寄越さなかったのは、退路を遮断される恐れがあったためらしい。

 

 セレブレッゼ中将は第二三陸戦遠征隊三八〇〇人を救援に派遣した。四=二基地から二七〇キロの地点で、第二三陸戦遠征隊はシェーンコップ中佐らを収容し、三一日の午前二時に帰還した。

 

 午前七時、四=二基地は重苦しい空気に包まれていた。基地憲兵隊本部の士官食堂でも、みんなが憂鬱そうな顔でぼそぼそと話している。

 

「偵察部隊は装甲車と兵員の半数を失ったそうだ」

「基地病院に運び込まれたヴァーンシャッフェ連隊長も先刻亡くなった」

「薔薇の騎士連隊がこうも簡単にやられてしまうとは……」

「敵はよほどの精鋭に違いない。魔弾(フライクーゲル)連隊か鉄血(アイゼン・ウント・ブルット)連隊が参加しているのかも」

「まさか……」

 

 薔薇の騎士連隊の忠誠心は全く信用されていないが、その強さは信頼されている。ヴァーンシャッフェ大佐の戦傷死は大きな衝撃を与えた。

 

 八時三〇分、セレブレッゼ中将は四=二基地のすべての将兵に向けて放送を行った。

 

「薔薇の騎士連隊の調査により、帝国軍がこの衛星の北半球にいることが確認できた。部隊章などから、進駐してきたのは白色槍騎兵艦隊と見られる。具体的な戦力規模は不明だが、大軍であることは疑いない」

 

 血の気が引いていく。どこまで前の世界の展開をトレースするのか? 必然性があることならともかく、偶然までトレースするのか?

 

「そうだ、まだ希望はある」

 

 手元の端末を開き、軍の帝国情報データベースにアクセスした。白色槍騎兵艦隊の司令官がグリンメルスハウゼンでなければ、一連の出来事が単なる偶然だとわかる。

 

「白色槍騎兵艦隊司令官 リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼン宇宙軍中将」

 

 頭がクラクラした。ここまで一致したら、あのラインハルト・フォン・ミューゼルも従軍しているのではないか。

 

 前の世界通りに事態が進行したら、四=二基地は陥落し、戦死者も大勢出る。前の世界で生き残ったリンツは大丈夫だろうが、俺やイレーシュ少佐やクリスチアン中佐のように歴史に名が残らなかった者はどうなるかわからない。

 

 いや、前の世界よりまずい展開だ。ヴァンフリート四=二基地を救援した第五艦隊司令官ビュコック中将は、この世界ではヴァンフリート星域にいない。

 

 ヴァンフリート星域にいる四人の艦隊司令官のうち、前の世界で有名だったのは、第一二艦隊司令官ボロディン中将のみ。第四艦隊司令官ヴィテルマンス中将、第六艦隊司令官シャフラン中将、第一一艦隊司令官ファルツォーネ中将は、今の世界では実力者だが、前の世界では名前すら残っていなかった。

 

「敵は我が軍の捕獲車両からこの基地の位置情報を入手した可能性が高い。また、敵部隊の中にリューネブルク元大佐の姿が確認されている。そう遠くないうちに総攻撃を仕掛けてくるはずだ」

 

 スクリーンから流れてくる声が右耳から左耳へと抜けていく。圧倒的な絶望感が胸を覆い尽くした。

 

 

 

 セレブレッゼ中将の放送は俺を絶望の淵に叩き込んだが、他の人々には活気を与えた。敵の存在がはっきりしたせいかもしれない。

 

 中央兵站総軍は迎撃準備を急ピッチで進めた。中央工兵軍が堅固な防御陣地を築く。中央通信軍が基地司令部と陣地を結ぶ通信網を構築する。中央衛生軍が負傷者の救護体制を整える。中央支援軍が武器弾薬を整える。中央輸送軍が輸送支援にあたる。

 

 四=二基地にいるすべての後方支援要員に気密服と軽火器が配られ、臨時陸戦隊一六三個旅団が編成された。数だけならかなりの大軍だが、そのほとんどは戦闘訓練を受けておらず、しかも全員が歩兵だ。

 

 迎撃戦の中心になるのは、何と言っても二万四〇〇〇人の地上戦闘要員だろう。彼らは実戦経験が豊かで、戦闘車両、自走砲、航空機なども持っている。練度・装備において、帝国軍の装甲擲弾兵に対抗しうる唯一の存在だ。しかし、指揮系統に問題があった。

 

 地上戦闘要員二万四〇〇〇人のうち、五〇〇〇人が中央兵站総軍配下の基地警備要員、残りの一万九〇〇〇人が予備戦力として待機している地上戦闘要員だ。すべて連隊級や大隊級の雑多な部隊の集まりである。どういうわけか、これらの部隊を統一指揮する基地警備司令官及び警備副司令官は空席だった。

 

 四=二基地の地上戦闘要員の最高位は、一名の陸戦遠征隊長たる宇宙軍大佐、二名の戦闘団長たる地上軍大佐だ。陸戦遠征隊とは陸戦連隊と陸戦航空群を中核とする諸兵科連合部隊、戦闘団とは陸上連隊と航空群を中核とする諸兵科連合部隊で、いずれも旅団級部隊とされる。二個師団相当の兵力を率いるには格が低すぎた。

 

 結局、最高位者のセレブレッゼ中将が指揮することになった。戦闘準備で発揮された彼のリーダーシップは、作戦計画においてはまったく発揮されず、戦闘部隊の指揮官達は主導権を争って対立した。中央兵站総軍の幕僚には、宇宙戦闘の専門家はいても、地上戦闘の専門家はいない。地上戦に長けた参謀の不在が、基地司令部のリーダーシップを阻害した。

 

「シェーンコップ中佐を作戦参謀に起用されてはいかがでしょうか?」

 

 俺は薔薇の騎士連隊長代理となったシェーンコップ中佐を作戦参謀に推薦した。前の世界でイゼルローン防衛部隊三〇万の采配を振るった彼なら、連隊長代理よりも作戦参謀を任せた方が力を発揮すると考えたのだ。しかし、「薔薇の騎士連隊を統率できるのは彼しかいない」という理由で反対する者が多く、彼自身にも断られたことから、話は立ち消えとなった。

 

「フィリップス少佐こそ作戦参謀に適任です」

 

 中央支援軍車両支援部隊司令官ハリーリー准将がとんでもないことを言い出した。最初に戦闘の可能性を指摘したことではなく、エル・ファシル義勇旅団での経験が推薦理由だ。しかし、実際は一兵も指揮していないし、「同盟軍は帝国軍の大軍に攻められて負けました。司令官は捕まりました」程度の知識など何の役にも立たない。それに果たすべき任務が他にある。引き受けられるはずもなかった。

 

 一方、基地憲兵隊も迎撃計画を立てた。四〇〇〇人の憲兵を中央兵站総軍、中央輸送軍、中央支援軍、中央衛生軍、中央通信軍、中央工兵軍の各司令部に「警護」の名目で分散配備した。各憲兵隊には、司令部の陥落が避けられなくなった段階で、幕僚を全員「保護」して俺のもとに向かうように言い含めている。

 

「憲兵隊は臨時陸戦隊より良い装備を持っています。軽歩兵として集中運用すべきです」

 

 トラビ副隊長は戦力分散に反対した。俺の真の任務はチーム・セレブレッゼの監視及び拘束なのだが、彼はそれを知らない。事情を説明するのも無理だ。結局、物分かりの悪いふりをしてごまかした。

 

 決戦が間近に迫った四月四日の午後、打ち合わせに行った先でフィッツシモンズ中尉とばったり出くわした。

 

「フィリップス少佐、お久しぶり」

 

 フィッツシモンズ中尉はにっこり微笑む。養成所で一度も見たことのなかった笑顔だ。

 

「どうも、お久しぶりです」

「相変わらず堅苦しいのね」

「生まれつきの性格ですから」

「あの美人といた時には、ずっと笑ってたのに」

「気づいていらしたんですか?」

 

 ぎくりとした。シェーンコップ中佐が何も言わなかったから、気づかれてないと思っていた。

 

「そりゃ気づくわよ。昔の同級生と女優みたいな美人が大食い競争してるんだから」

「そんなに大した量は食べてなかったはずですが……。彼女はあまり食べないし」

「大した量は食べてない……?」

 

 一瞬、フィッツシモンズ中尉が目を丸くした。クールな彼女らしからぬ表情だ。

 

「ええ、いつもと変わりないですよ」

「フィリップス少佐は大食いだったのね。ちっとも気付かなかった。養成所では食事の量は決まってるから」

「いや、大食いではないですよ。大食いというのは……」

 

 頭の中に妹の顔が浮かんだ。食べ過ぎでパンパンに膨れ上がった馬鹿でかい顔。少し嫌な気分になった。

 

「すいません、何でもないです」

「なんか面白い」

「え?」

「ワルターが興味持つわけだ。大人しい真面目君だと思ってたのにな。仕事っぷりは強気だし、思ってることがすぐ顔に出るし、ちっこいのに大食いだし、恋愛に興味無さそうなのにちゃっかり美人と付き合ってるし。ほんと面白い」

 

 とても楽しそうにフィッツシモンズ中尉は笑う。反応に困った俺は曖昧に笑い返す。

 

「大人しい真面目君ですよ」

「じゃあ、そういうことにしとくか。戦いが終わったらコーヒー飲ませて。ワルターがお気に入りのと同じコーヒー」

「いいですよ」

「じゃあね」

 

 再会を約束した後、フィッツシモンズ中尉は颯爽と歩き去った。ヴァンフリートの薄暗い陽光がその後ろ姿を照らしだしていた。

 

 それにしても、どうして俺の知っている女性はみんな背が高いのだろうか? イレーシュ少佐は言うまでもない。母も姉も妹も俺より背が高い。フィン・マックール補給科や憲兵隊も背の高い女性が多かった。そして、フィッツシモンズも一七〇センチを優に越える。こうも多いと当てつけに思えてくる。

 

 不毛な考えを頭から振り払い、窓の外に視線を向けた。赤茶けた荒野が広がっている。空はどんよりと暗い。ハイネセンは新緑の季節というのに、この衛星は本当に味気ない。

 

「こんなところでは死にたくないな」

 

 そんなことを呟いた後、戦死の可能性をごく自然に考えていたことに驚いた。今年で軍人になって六年目、士官になって四年目になる。臆病な俺でも、軍人としての心構えができるには十分な期間だった。



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第18話:ヴァンフリート四=二基地攻防戦 宇宙暦794年4月2日 ヴァンフリート四=二基地

 四月六日の午前二時、無人レーダーサイトが進軍してくる帝国軍の大部隊を発見した。兵力は一〇万から一二万の間と推定される。位置は四=二基地から三二〇キロ。四時間から五時間で到達する距離だ。

 

「警戒レベル、オレンジからレッドに変更! これより完全臨戦体制に移行する! 総員、すみやかに戦闘配置に着け! 繰り返す……」

 

 四=二基地の同盟軍は一〇分で戦闘配置を完了した。戦闘要員は武器を手に取り、オペレーターは端末に向き合い、帝国軍を待ち構える。

 

 四方を山で囲まれた四=二基地に進入するには、崖に挟まれた狭い峡谷を通らねばならず、大軍を展開するのに向かない地勢だ。細い通り道を塞ぐように防御陣地が設置された。

 

 第一陣地群にはストーヤイ地上軍大佐の部隊、第二陣地群にはル=マール宇宙軍大佐の部隊、第三陣地群にはモン地上軍中佐の部隊、第四陣地群にはシェーンコップ宇宙軍中佐の部隊、第五陣地群にはペデルセン地上軍大佐の部隊、第六陣地群にはハウストラ地上軍中佐の部隊が配備される。

 

 第二陣地群と第四陣地群は宇宙軍陸戦隊、その他の地区は地上軍陸上部隊を基幹とする。少数ではあるが武装・練度共に優秀な彼らが防御戦の要となる。文字通り少数精鋭だ。

 

 四=二基地は七つの地区に分けられる。基地司令部ビルを中心とする中央兵站総軍直轄区にはロペス宇宙軍少将の部隊、中央輸送軍管轄区にはメレミャーニン宇宙軍少将の部隊、中央通信軍管轄区にはマデラ技術准将の部隊、中央衛生軍管轄区にはオルランディ軍医少将の部隊、中央工兵軍管轄区にはシュラール技術少将の部隊、中央支援軍管轄区にはリンドストレーム技術少将の部隊が配備される。

 

 中央兵站総軍直轄区を守る中央兵站総軍副司令官ロペス宇宙軍少将、中央通信軍管轄区を守る中央通信軍司令官代理マデラ技術准将以外は、みんな管轄区駐屯部隊の司令官だ。

 

 後方支援要員からなるこれらの部隊は「臨時陸戦隊」と呼ばれる。武装・練度ともに劣悪で、指揮官の実戦経験も乏しく、戦力としてはまったくあてにならなかった。

 

 基地憲兵隊は七つの地区の司令部に分散配備されて幕僚を警護する。俺は五個中隊を率いてトラビ副隊長とともに四=二基地本部ビルを守り、中央兵站総軍幕僚の身柄確保に力を尽くす。軽装甲服、両手持ち戦斧、大口径ビームライフルなどを装備した憲兵は、練度こそ低いものの、武装は臨時陸戦隊よりも優秀だ。

 

 四=二基地の同盟軍は最善の布陣を整えた。総司令官のセレブレッゼ中将が最大の弱点だった。

 

 四八歳のシンクレア・セレブレッゼ宇宙軍中将は、中央兵站総軍司令官と後方勤務本部次長を兼ねる後方部門のナンバーツーだ。卓越した指導力と理論の持ち主で、一流の管理者と技術者を揃えた幕僚チーム「チーム・セレブレッゼ」とともに、同盟軍の兵站支援システムを作り上げた。その影響力は後方勤務本部長ヴァシリーシン大将を凌ぐ。実質的には後方部門の第一人者だ。

 

 前の世界で俺が読んだ本では、セレブレッゼ中将に関する記述は乏しかった。ヴァンフリート四=二におけるワルター・フォン・シェーンコップの頑迷な上官、ラインハルト・フォン・ミューゼルに捕らえられた同盟軍高官として名前があがるぐらいで、後方部門の大物としての側面はほとんど触れられなかった。戦記の著者は、ラインハルトとヤン・ウェンリーの二大英雄及びその周辺人物との関わりが薄い事象には、ほとんど興味を示さなかった。

 

 俺の見たところ、兵站分野でのセレブレッゼ中将は素晴らしいリーダーだったが、戦闘分野では酷かった。知識と経験の乏しさは仕方ないにしても、胆力が決定的に欠けている。頼りなげに司令室の中を見回し、立ったり座ったりを繰り返し、爪を噛んだりする。時折思いついたように戦闘部隊に通信を入れては、「大丈夫なのか?」「これで勝てるのか?」としつこく問う。

 

 戦闘が始まる前から司令官がこれでは勝てる気がしない。セレブレッゼ中将の副官アルフレッド・サンバーグ少佐も困ったような顔をしていた。

 

 気を紛らわすために腕時計を見る。イレーシュ・マーリア少佐からもらった誕生日プレゼントの時計だ。

 

「あれ?」

 

 なぜか止まっていた。一体どうしたのだろう? 戦いが始まる前に止まるなんて縁起が悪いにもほどがある。腕時計を外してポケットに入れた後、中央司令室の壁に据え付けられた大型デジタル時計に視線を向けた。

 

 六時二二分、地平線の彼方に帝国軍が現れた。スクリーンには、地平線いっぱいに広がった装甲戦闘車や装甲擲弾兵、空を埋め尽くすような対地攻撃機が映る。

 

「あれと戦って生き残らないといけないのか……」

 

 敵の大軍にすっかり呑まれてしまっていた。所在なげにきょろきょろする司令官の姿がさらに不安をかきたてる。

 

「敵が交信を求めています!」

 

 オペレーターの報告に緊張が高まった。地上戦が始まる際には、両軍の指揮官の間に通信回線が開かれ、降伏勧告やプロパガンダを行う慣例がある。

 

「回線を開け」

 

 セレブレッゼ中将は回線を開くよう促し、マイクを握る。その次の瞬間、第四地区司令官シェーンコップ中佐が回線に割り込み、第一声を放った。

 

「帝国軍に告ぐ。無駄な攻撃はやめ、両手を上げて引き返せ。そうしたら命だけは助けてやる。今ならまだ間に合う。お前たちの故郷では、恋人がベッドを整頓して、お前たちの帰りを待っているぞ」

 

 このあまりにふざけきった宣戦布告に、すべての人が呆然となった。怒ったセレブレッゼ中将はシェーンコップ中佐に通信を入れる。

 

「シェーンコップ中佐! いまの通信は何ごとだ!? 回線が開いたら、まず帝国軍の通信を受けてみるべきではないか!? 妄動にもほどがあるぞ!」

「紳士的に、かつ平和的に解決を提案してみただけのことですがね」

 

 人を食ったシェーンコップ中佐の返答に、セレブレッゼ中将はますます腹を立てた。

 

「どこが紳士的だ! どこが平和的だ! 喧嘩を売っているにひとしいではないか!?」

「帝国軍の方がわざわざ買いに来ているんです。せいぜい良い商品を売りつけてやるのが、人の道というものでしょう」

「とにかく、これ以後、基地司令官の職分を侵すような言動はいっさい、厳に慎んでもらおう! 貴官は貴官の責務さえ果たしていれば良い! 異存はないな!?」

「かしこまりました、司令官閣下」

「くそっ!」

 

 セレブレッゼ中将は通信端末のスイッチを乱暴に切り、どしんと椅子に腰を落とす。いつもの彼ならば、体面を傷つけられたと感じても、ここまで怒りを露わにしないだろう。

 

「大丈夫かな……?」

「さあ……」

 

 俺の近くの席では、丸顔の女性と気弱そうな女性が不安そうに顔を見合わせた。他の人も不安を覚えているようだ。シェーンコップ中佐の行為が少し恨めしくなる。

 

 メインスクリーンが真っ白に輝いた。帝国軍が長射程のビーム砲を一斉に放ったのだ。同盟軍も負けじと撃ち返す。ヴァンフリート四=二基地攻防戦は砲撃戦から始まった。

 

 低空を飛ぶ数千機の対地攻撃機がビームとミサイルの豪雨を降らせた。赤茶けた地面はたちまちのうちに打ち砕かれた。大地を揺るがすような攻撃も、地上戦においては挨拶のようなものだ。空からの攻撃では、巧妙に築かれた防御陣地に打撃を与えるのは難しい。

 

 一万台を超える装甲戦闘車が数万人の装甲擲弾兵を従えて前進し、背後に控える数千台の自走電磁砲や対地ミサイル車両が支援射撃を行う。鉄と火力の激流が不毛な地表を覆い尽くした。

 

 陸と空から押し寄せてくる帝国軍に対し、同盟軍は地の利を活かして対抗した。

 

 細長い列を作って渓谷に入った帝国軍陸上部隊は、同盟軍の防御陣地に行く手を阻まれた。そこに前方と左右の崖上の三方から放たれた砲撃が集中する。縦に伸びきった帝国軍陸上部隊は大損害を出して退いた。

 

 空から防御陣地を越えようとした帝国軍航空部隊は、同盟軍対空部隊が張り巡らせたミサイルとビームの弾幕に阻止された。

 

「やったぞ!」

 

 味方の奮戦に司令室は盛り上がった。しかし、敵は怯むこと無く新手を投入してくる。消耗戦に持ち込むつもりだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「何だよあれ? 軍事博物館から引っ張り出してきたのか?」

 

 若いオペレーターがサブスクリーンの一つを指して笑う。そこに映しだされている帝国軍の対地ミサイル車両は、西暦時代に廃れた有線誘導式だ。司令室は冷笑に包まれる。

 

 笑っていられたのはほんの一瞬だけだった。有線誘導ミサイルは驚くほど的確に同盟軍の砲兵部隊を粉砕する。常識はずれの命中率に司令室は驚愕した。

 

「ああ、そっか。有線誘導じゃ妨害電波は効かないんだ」

 

 丸顔の女性がぽつりと呟く。

 

「そうか、そういうことか……」

 

 敵が骨董品を持ちだした理由がようやく理解できた。ミサイルに取り付けられた無線誘導装置は妨害電波の影響を受ける。だが、オペレーターが直接操作する有線誘導なら影響を受けない。さすがはリューネブルク元大佐だ。

 

 長射程のミサイルと百発百中の精度が合わさった時、恐るべき威力を発揮する。同盟軍は恐れをなして退き始めた。

 

「あれを見ろ!」

 

 誰かが叫んだ。一本のビームがミサイルのワイヤー目掛けて一直線に飛んで行く、そして見事に断ち切った。

 

「やったぞ!」

 

 味方の絶技は人々を喜ばせた。続いて同盟軍砲兵部隊が敵のミサイル車両に砲撃を叩き込む。有線誘導ミサイル部隊は呆気無く退場した。

 

「あんな遠くからワイヤーを撃ちぬくなんて凄いな。誰がやったんだ?」

「あれはシェーンコップ中佐の第四陣地群だ。薔薇の騎士連隊の狙撃手だろう」

「なるほど、それなら納得だ」

 

 そんな声が聞こえる。薔薇の騎士連隊は忠誠心を疑われても、実力には絶対的な信頼があるのだった。

 

 

 

 同盟軍の防御陣地は、帝国軍陸上部隊の攻勢を三度にわたって跳ね返した。戦記ではシェーンコップ中佐の活躍しか記されていないが、他の五人もかなりの善戦を見せた。計画段階でいがみ合っていた指揮官達も本番では力を発揮した。しかし、被った損害も大きく、戦闘継続が不可能になった部隊も出た。敵の狙い通り、消耗戦に引きずり込まれてしまった。

 

 不利な時ほど指揮官の力量が試されるというが、セレブレッゼ中将は甚だ心許ない。座っていられないのか、立ち上がって指揮卓に手をつき、不安そうに周囲を見回す。オペレーターが何か言うたびに顔を青くする。せめて、大人しく椅子に座っていて欲しい。見ているだけで不安になるではないか。

 

 司令官を補佐すべき参謀もあてにならなかった。ほとんどが後方勤務の専門家だ。作戦参謀の経験者もいることはいるが、みんな宇宙戦の専門家で、地上戦の専門家が一人もいない。

 

「この人達の指揮を受けて、無事に帰れるのか……?」

 

 不安で心臓が激しく鼓動する。腹が痛くなってくる。背中は汗でびっしょり濡れていた。涙が流れていないだけでも、俺にしては上出来だ。

 

「このままでは、完全に制空権を握られてしまう! どうする気だ、シェーンコップ中佐!?」

 

 セレブレッゼ中将の叫び声が聞こえた。右手に有線電話の受話器を握っている。敵の航空部隊に怯えて電話を掛けたらしい。戦闘中にこんな電話をもらったシェーンコップ中佐もさぞ迷惑していることだろう。

 

 ほんの少しの間を置いて、セレブレッゼ中将は不快そうに顔を歪めた。よほど不快な答えが返ってきたらしい。

 

「おのれ、シェーンコップめ! 増長しおって!だから、薔薇の騎士連隊など信用できんのだ!」

 

 電話を切った後でセレブレッゼ中将は罵倒の言葉を吐いた。薔薇の騎士連隊の戦闘力を頼りにしている手前、面と向かって叱れないのだ。

 

「状況はどうなっている!?」

 

 今度は情報処理班に状況報告を求める。とにかく喋っていないと不安でたまらないようだ。気持ちはとても良く分かるのだが、こういう時は勘弁して欲しい。

 

「状況はさらに悪化。好転の見込み無し」

 

 情報処理班長トーレス少佐は事務的な冷淡さで応じた。「あんたを慰めてやる義務はない」と言っているように聞こえるのは、気のせいではないだろう。セレブレッゼ中将の手が再び電話に伸びる。

 

「どうなのだ、シェーンコップ中佐、今後の予測は!?」

 

 通話相手はシェーンコップ中佐らしい。他の指揮官には通話拒否を食らっている。まともに相手にしてくれるのは、もはやシェーンコップ中佐しかいなかった。

 

 数十秒後、またセレブレッゼ中佐は腹を立てて受話器を叩きつけた。戦闘指揮の最中にこんな電話にいちいち出るなんて、シェーンコップ中佐は妙なところで律儀だ。しかし、その律儀さも冷静さを失った司令官には何の感銘も与えなかった。

 

 セレブレッゼ中将が怒りで顔をひきつらせて何か言おうとしたところで、うんざりしたような声が割り込んできた。

 

「司令官閣下、もうおやめになりませんか? あなたらしくもない」

 

 声の主は中央兵站総軍参謀長のデジレ・ドワイアン宇宙軍少将だった。丸々と太った彼女は、セレブレッゼ中将の士官学校からの親友だ。

 

 目の前の醜態からは信じがたいが、セレブレッゼ中将は豪腕で知られ、「一〇倍の結果を出す代わりに、一〇倍のトラブルを引き起こす」と評される。部下はやり手ばかり。当然のように衝突が起きる。その衝突の中からチーム・セレブレッゼのパワーが生まれると言われるが、激しすぎると崩壊を招く。それを調整するのが温和で人望のあるドワイアン少将だ。

 

「デジレ、すまん……」

 

 盟友の一言がセレブレッゼ中将を正気に返らせた。

 

「シンクレア、あなたは攻めには強いけど、逆境になると弱くなる。士官学校の頃からそうでしたよね。戦略戦術シミュレーションでも、攻め一辺倒で守りは考えない。おかげで随分と勝ち点を稼がせていただきました。あなたがいなかったら、士官学校の卒業順位が一〇〇位は落ちていましたわ」

「君がいなかったら、私は首席で卒業できたんだがな」

「なんて図々しい。戦術シミュレーションで全勝したって、トップクラスの一五人を全員抜けるわけがないでしょうに」

「勘弁してくれよ」

 

 士官学校時代のことを持ちだされたセレブレッゼ中将は、恥ずかしそうに頭をかいた。沈みきっていた中央司令室の空気が一気に和む。

 

 どうにか落ち着きを取り戻したセレブレッゼ中将であったが、戦闘指揮能力の不足は否めなかった。補佐役のドワイアン少将は優秀な調整役だが作戦家としては二流。彼らでは戦況に対応できなかった。

 

 帝国軍は損害をものともせずに波状攻撃を続けた。絶対的な戦力差を解消する術もなく、同盟軍の前線部隊はどんどん消耗していく。

 

「臨時陸戦隊を援軍に送ろう」

 

 セレブレッゼ中将の申し出は、六人の陣地群指揮官全員に拒否された。防衛戦では数よりも質の方が重要だ。臨時陸戦隊の練度と武装では足手まといになるだけと、指揮官達は判断したのだ。

 

 抽象化された戦術スクリーンの画面では、同盟軍部隊は赤い塊、帝国軍部隊は青い塊として表示される。秒を追うごとに赤い塊が溶けていき、青い塊の存在感が大きくなっていく。

 

 空を覆い尽くさんばかりの敵航空部隊、陸を埋め尽くす敵陸上部隊がメインスクリーンを占拠する。

 

「第二八山岳連隊は損害甚大につき戦闘継続を断念! 五〇四陣地を放棄するとのこと!」

「第一一一歩兵連隊長アーナンド中佐戦死! 副連隊長ユー少佐が指揮権を引き継ぎました!」

「第八七独立高射大隊は降伏した模様!」

「第五陣地群の最終防衛線が突破されました! 司令官ペデルセン大佐は行方不明!」

 

 相次ぐ凶報に中央司令室は凍りついた。それから間もなく、全地区の最終防衛線が突破されたという報告が入った。

 

「帝国軍が殺到してきます! 数はおよそ三〇万! 臨時陸戦隊が加わったものと思われます!」

 

 敵は臨時陸戦隊を投入して、四=二基地を一気に攻略しようとした。勢いに乗っている時は弱兵でも十分に力を発揮する。

 

「中央輸送軍より報告! 宇宙港に侵入してきた敵装甲擲弾兵と交戦中!」

 

 その報告は人々を戦慄させた。ついに敵が四=二基地の敷地内に足を踏み入れたのだ。

 

「中央工兵軍基地に敵が突入してきました!」

「第一艦船造修所が攻撃を受けています!」

 

 四=二基地の臨時陸戦隊から、戦闘状態に突入したとの報告が次々と入る。基地司令部ビルが攻撃を受けるのも時間の問題だ。司令部要員は気密服のヘルメットを着用し、ビームライフルや戦斧を手に持って戦闘に備える。

 

「うわっ!」

 

 巨大な爆発音とともに床が大きく揺れた。マフィンを食べていた俺は、バランスを崩して転倒してしまう。

 

「こちら、第四警備中隊! 敵の砲撃でJブロックの外壁が破壊されました! 強風のため、現時点では敵が進入するには至っていません! 風が止み次第、進入してくるものと思われます!」

 

 最悪の報告だった。人々の間に重苦しい空気が流れる。

 

「ついに敵が進入してくるのか……」

「もうおしまいだ」

「捕虜になるなんて嫌だぞ!」

 

 絶望の声をよそに、手元の携帯端末をちらりと見た。他の管轄区に配備した憲兵からの定例報告メールは、すべて三〇分以上前に途絶えていた。

 

 ふと、知り合いのことを考えた。シェーンコップ中佐やリンツが死ぬとは思えない。しかし、第一陣地群のクリスチアン中佐、中央輸送軍司令部のイレーシュ少佐、基地防空隊のフィッツシモンズ中尉なんかは分からない。生き残ってて欲しいと心から祈る。

 

 俺も生き残らねばならない。目の前にいる者すべての身柄を確保し、隠れているサイオキシンマフィアを引きずり出す。それまでは死ねなかった。

 

 最後のマフィンを取り出して口に放り込み、糖分を補給した瞬間、メインスクリーンの画像が急に切り替わった。

 

「リューネブルク!」

 

 誰かが叫び声をあげた。殺意のこもった視線がスクリーンに集中する。かつての薔薇の騎士連隊長ヘルマン・フォン・リューネブルク帝国宇宙軍准将の貴族的な顔がそこにあった。

 

「反乱軍に告ぐ! 諸君は銀河帝国軍の完全な包囲下にある! これ以上の抵抗は不可能であると心得よ! 今からでも決して遅くはない! 直ちに抵抗をやめ、帝国臣民たるの本分に立ち返れ!皇帝陛下は慈悲深いお方! 必ずや諸君の罪をお許しになるであろう! 反逆者として惨めに死ぬか、正道に立ち返って生きるか! 好きな方を選ぶがいい!」

 

 傲然と降伏勧告をするリューネブルク准将からは、生まれながらの貴族らしい威厳を感じた。ほんの三年前まで民主主義の軍人だったようには見えない。

 

「裏切り者め……」

 

 参謀の一人がうめくような声を漏らす。しかし、誰も応じようとしない。しばし、沈黙の時が流れる。

 

「セレブレッゼ提督、全軍の指揮権を私に預けていただけますか?」

 

 副司令官のロペス少将が静寂を破った。疲れきったような顔のセレブレッゼ中将はゆっくりと腹心を見る。

 

「貴官が迎撃の指揮をとるというのか? 総軍直轄区の防衛指揮だけでも大変だろうに」

「参謀長のおっしゃる通り、あなたは守勢に極端に弱い。私も地上戦は素人です。しかし、艦隊戦では守勢の経験を積んでいます」

「確かにそうだ」

 

 セレブレッゼ中将、そして幕僚達が頷く。ロペス少将は兵站管理能力を買われてチーム・セレブレッゼに加わった人物だが、本来は艦隊戦の専門家だ。メンタルは確実にセレブレッゼ中将を上回る。

 

「元から勝ち目のない戦いでした。しかし、やられっぱなしというのも面白くない。せめて一太刀は浴びせてやりたいものです」

 

 ロペス少将は爽やかに笑う。

 

「それもそうだな。ロペス提督、後を頼む」

「まあ、やるからには勝つ気でやりますよ。私は軍艦乗りです。地上で死ぬなど勘弁願いたい」

「ははは、君らしいな」

 

 セレブレッゼ中将とロペス少将が顔を見合わせて笑う。張り詰めた空気が急に柔らかくなっていく。冗談を言う余裕があれば、どうにかなるんじゃないかと思った。いや、思いたかった。

 

「勝算はあります」

 

 ドワイアン少将が進み出た。

 

「デジレ、どういうことだ?」

「こちらをごらんください」

 

 参謀長の太い指が戦術スクリーンを指す。帝国軍の隊列がぐちゃぐちゃに乱れている。

 

「これは……?」

「一部の士官が武勲欲しさに勝手な動きをしているのです」

「ああ、なるほど。帝国の貴族士官は、戦場を個人的武勲の稼ぎ場所としか思っていないからな」

「有利な戦であればあるほど帝国軍は脆くなる。そして、過去の逆亡命者は貴族士官から軽んじられてきました。リューネブルクも部下を抑えきれていないようです。敵がバラバラに攻めかかってくるなら、しばらくは持ちこたえられますわ」

 

 ドワイアン少将の言葉にみんなが頷く。貴族士官の抜け駆け好きはしばしば同盟軍を救った。逆亡命者の指揮官では抑えが効かないというのも常識だ。

 

 前の世界のヴァンフリート四=二では、主将のリューネブルクはシェーンコップと一騎打ちし、副将のラインハルトはキルヒアイスと二人きりで司令部ビルに突入した。全軍を統括する二人が単独行動を取っていた。要するに統制が取れていなかったのだ。

 

 この戦いは今のところ前の世界と同じように展開している。そして、ドワイアン少将の指摘は前の世界で起きたことと一致する。

 

「小官もそう思います」

 

 俺は大きな声で同意した。

 

「エル・ファシルの英雄と考えが一致しましたか。私の智謀も捨てたものではないようです」

 

 ドワイアン少将が笑う。他の幕僚達の顔にも希望の色が浮かんできた。エル・ファシルの英雄の虚名も士気高揚の役には立つ。

 

「希望が見えてきたな」

 

 セレブレッゼ中将の顔にも血の気が戻ってきた。

 

「あとは味方がこちらの救援信号に気付くかどうかです」

「気付くとしたらヴィテルマンス提督だろう。あの艦隊には作戦の鬼才もいるしな」

 

 初めてセレブレッゼ中将が希望的観測を述べた。どんどん士気が上がっている。俺はさらに希望の種を追加した。

 

「ボロディン提督もいらっしゃいます。バルダシールやシャンダルーアで活躍なさったボロディン提督です」

「おお、そうだ。ボロディン提督もいた」

「ええ、俺達は孤立していないんです」

 

 満面の笑顔を作ってみんなに笑いかけた。俺自身も勝てる見通しなんて持っていない。前の世界で四=二基地を救ったビュコック提督は従軍していない。ボロディン提督が名将と言っても、この戦いでどこまで頼りになるかは怪しいところだ。しかし、今必要なのは悲観ではなく楽観だった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 一八時、基地司令部ビルの警報が敵の侵入を告げた。その直後に爆発音が鳴り響く。

 

「敵は外壁に穴を開けて、突破口を開こうとしている! 中に入れるな! 水際で食い止めるのだ!」

 

 中央司令室から地下指揮所に移動したロペス少将が指示を出す。その側には作戦指揮を補助する必要最低限の人員しかいない。その他の司令部要員は臨時陸戦隊に編入された。

 

「こちら、Kブロックの第二警備中隊! 戦闘状態に入ります!」

「司令部第四臨時陸戦中隊です! Pブロックにて装甲擲弾兵と交戦を開始しました!」

 

 敵との接触を伝える報告が次々と指揮所に入る。

 

「司令部第二臨時陸戦中隊、司令部第五臨時陸戦中隊、司令部第七臨時陸戦中隊は、Kブロックの援護に向かえ!」

 

 ロペス少将は惜しげも無く予備戦力を投入した。気取った言い方をするならば、「戦わざるは一兵も無し」と言ったところであろうか。指揮所の戦力は俺が率いる部隊のみとなった。

 

 司令部ビルにいる五個憲兵中隊のうち、俺が指揮する二個中隊は地下指揮所を固め、憲兵隊副隊長マルキス・トラビ地上軍少佐が指揮する三個中隊は前線を固める。

 

 また、カスパー・リンツ宇宙軍大尉率いる薔薇の騎士連隊の精鋭三九名が、一時的に俺の指揮下に加わった。連隊長代理シェーンコップ中佐が貸してくれたのだ。一兵でも欲しい時に腹心のリンツを貸してくれた理由は分からない。しかし、この戦力は大きい。

 

「第四警備中隊はこれ以上は敵を支えきれません! 後退許可を願います!」

「こちら、司令部第六陸戦臨時中隊! Fブロックを奪われました! 敵はどんどん数を増しており、奪回は不可能です!」

「Kブロック担当のメフレブ少佐です! 第二警備中隊、司令部第二臨時陸戦中隊、司令部第五臨時陸戦中隊、司令部第七臨時陸戦中隊、司令部第一〇臨時陸戦中隊は、すべて壊走しつつあり! 援軍を請う!」

 

 戦闘開始から三〇分後、同盟軍はすべてのブロックで劣勢に陥った。統制が全く取れていないとはいえ、質量共に敵の方がずっと上だ。敵が一歩前進するたびに味方は二歩後退した。

 

 敵の主力は帝国宇宙軍陸戦部隊の装甲擲弾兵だ。彼らは最低でも一八〇センチを超える長身に、大口径のビームライフルか実弾銃でなければ貫通できない重装甲服を着用し、重装甲服を容易く打ち砕く炭素クリスタル製の戦斧を片手で振り回す。

 

 その巨体と武装は見掛け倒しではない。装甲擲弾兵部隊に入隊するには、最低でも一八〇センチの身長が必要で、体力や戦技にも厳しい基準が設けられる。年一度の試験で一つでも水準に満たなければ、門閥貴族出身者であろうとも除隊勧告を受ける。銀河連邦宇宙軍陸戦隊出身の帝国初代皇帝ルドルフは、「強者だけが誇りある陸兵になるべきだ」と言って、装甲擲弾兵の選抜基準を自ら定めた。「大帝の遺訓」によって貴族的退廃から守られてきた装甲擲弾兵は、帝国軍で唯一同盟軍と互角以上の質を持つ精鋭だった。

 

「二時間だけ耐えろ! 重装甲服を着用したまま戦えるのは二時間が限度だ!」

 

 ロペス少将は劣勢の味方を励ました。体温の上昇、生理的不快感などの理由から、重装甲服を着用して戦える時間は二時間が限度と言われる。

 

 ただ、彼の言葉が都合よく無視した点がある。敵の予備戦力は豊かだ。膨大な臨時陸戦隊が背後に控えている。

 

 陸戦能力を重視する帝国軍では、艦艇要員や後方支援要員にも陸戦訓練を施し、宇宙軍の士官にも陸戦指揮を学ばせる。そして、すべての将兵に軽装甲服を始めとする軽歩兵用の装備が与えられる。帝国軍の臨時陸戦隊の実力は、同盟地上軍の予備役歩兵部隊に匹敵する。

 

 味方を勇気づけるために、あえてロペス少将は大事な点をぼかしているのだろう。地上戦には不慣れでも指揮官の役割をちゃんと果たしている。最初から彼が指揮官だったら、もっとましな戦いができたかもしれないと思った。

 

「了解した! Hブロックに援軍を送る!」

 

 ロペス少将の声が耳に入る。いったいどこから戦力をひねり出すつもりなのだろうか?

 

「フィリップス少佐の憲兵二個中隊及び薔薇の騎士一個小隊。これだけの戦力があれば、しばらくは持ちこたえられる」

 

 驚きのあまり、息が止まりそうになった。地下指揮所ががら空きになってしまうではないか。それに監視もできなくなる。

 

「司令官! それでは中央司令室の守りが手薄になってしまいます!」

「前線で敵を食い止めれば済むことだ。問題ない」

 

 ロペス少将が確信のこもった目で俺を見据える。

 

「敵が指揮所に迫って来たらどうするんですか!?」

「後退してきた部隊を糾合して戦う」

「それなら予備戦力も必要でしょう! 『最後のコインを残している者が勝つ』という格言もあります! お考え直しください!」

「ただでさえ我が軍は兵力が足りない。軽装甲服と大口径ビームライフルを持っている憲兵隊を遊ばせておく余裕など無い」

「しかし……」

「敵が指揮所に迫ってきた時に憲兵隊を投入して何の意味がある? 敗北を少し遅らせるだけじゃないか。防御と受け身はイコールじゃないんだぞ。常に先手を打ってイニシアチブを握る。攻撃にも防御にも共通する原則だ」

 

 防御と受け身はイコールではない。幹部候補生養成所で戦術教官に言われた言葉だ。

 

「それはおっしゃる通りです」

「どうしてもここを離れたくない理由でもあるのか? 勇名高いフィリップス少佐が戦いを嫌がるなんてことはないと信じたいが」

 

 ロペス少将の声は柔らかいが容赦がない。言ってることも完全に筋が通っている。

 

 離れたくない理由はある。しかし、それをロペス少将に言うことはできなかった。彼も容疑者の一人なのだ。

 

「承知しました」

 

 これ以上は食い下がることはできなかった。今は四=二基地防衛が最優先だ。

 

「健闘を祈る。死ぬまで戦えとは言わん。危なくなったら戻ってこい。一分一秒でも長く生きて戦い続けろ」

「はい」

 

 俺は敬礼をして扉へと向かって歩いた。

 

「フィリップス少佐」

 

 背中越しにドワイアン少将が声をかけてきた。

 

「明日の朝日を一緒に見ましょう。暗くて全然爽やかじゃないですけど」

「ありがとうございます」

 

 俺は振り向いて笑った。ドワイアン少将も優しげに微笑む。この人と一緒にヴァンフリートの暗い朝日を見たいと思った。

 

 指揮所を出た俺は、憲兵隊本部付中隊長デュポン大尉、第八憲兵中隊長ワンジル大尉、薔薇の騎士連隊のリンツ、三一六名の憲兵隊員、三九名の薔薇の騎士連隊員らとともに、Hブロックへと向かった。



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第19話:四=二基地司令部ビル防衛戦 宇宙暦794年4月6日 ヴァンフリート四=二基地司令部ビル

 俺の部隊が到着した時、既にHブロックの味方は総崩れとなっていた。通路に残された死体は意外と少ない。ほとんどの者が戦意を失って逃げ出したようだ。

 

 カスパー・リンツ大尉率いる薔薇の騎士(ローゼンリッター)を先頭に進んでいくと、通路の向こう側から装甲擲弾兵の一団が姿を現した。

 

「行くぞ!」

「行くぞ!(ゲーエン・ヴィア!)」

 

 同盟公用語と帝国語の叫びが交錯すると同時に銃撃が交錯した。両軍の兵士が味方の支援射撃を受けながら突き進む。戦斧と戦斧がぶつかり合って火花を散らす。力負けした者は装甲服ごと肉体を叩き割られ、血しぶきをあげながら床に倒れ伏す。

 

 戦いはほんの数分で終わった。俺の部隊、いや薔薇の騎士の圧勝だった。武勇を誇る装甲擲弾兵もただ切り倒されるのを待つだけの存在でしか無かった。俺の部下は一人も倒れていない。戦闘と言うよりは虐殺と言った方がふさわしい戦いだった。

 

 ただひたすら感嘆するしかない。惑星エル・ファシルで護衛についてくれた陸戦隊員も強かったが、薔薇の騎士は別格だ。彼らがいれば負けないんじゃないかとすら思えてくる。

 

「敵を一人残らず掃討するぞ!」

 

 俺の部隊は帝国軍を手当たり次第に倒した。パトリシア・デュポン地上軍大尉の憲兵隊本部付中隊、ユネス・ワンジル地上軍大尉の第八憲兵中隊も薔薇の騎士につられるように奮戦した。

 

「みんな、後に続け!」

 

 俺も自ら戦斧を振るって戦った。士官の最も大事な仕事は、部下を指揮すること、そして部下の模範となることだと幹部候補生養成所で習った。俺には指揮能力が無い。だから、先頭に立って戦う姿を見せる。

 

 戦斧に体重を乗せて一振りするたびに、装甲擲弾兵が血しぶきをあげて倒れた。本来の俺の技量は平均的な陸戦隊員と同程度だが、気分が高揚しているおかげで実力以上に戦える。日頃の臆病さを忘れたかのように戦斧を振るい続ける。

 

「装甲擲弾兵を一撃で倒すなんて、隊長代理はお強いですね! まるで陸戦隊員みたいです!」

 

 俺の代わりに全軍を指揮するデュポン大尉が声を掛けてきた。八歳年長の彼女は歩兵将校から憲兵に転じた人物で、トラビ副隊長のような堅苦しさが無い。身長が一五三センチと低いのも好感が持てる。信頼できる部下だ。

 

「そんなに大したことないよ! 戦斧術一級なんか陸戦隊や空挺じゃみんな持っている! 薔薇の騎士なんて全員特級だ!」

 

 右前方から飛びかかってきた敵兵の首元に戦斧の石突で一撃を加えて突き倒す。

 

「でも、隊長代理はもともと補給科ですよね!?」

 

 デュポン大尉は口を開くと同時に大口径火薬ライフルの引き金を引き、正面から迫ってきた敵の顔面を撃ち抜く。

 

「体を動かすって楽しいじゃないか! デスクワークより性に合っている!」

 

 左前方に素早くステップを踏み、二メートル近い巨漢の足に戦斧を叩き込む。巨漢は足から血を吹き出しながら倒れた。

 

「しかし、少々深入りし過ぎてませんか!? 敵がどんどん増えてますよ!」

「それだけ多くの敵を引きつけてるって証拠だ! この先のDブロックには、一歩たりとも足を踏み入れ……」

 

 隊列のはるか後方から聞こえた叫び声が聞こえた。

 

「Dブロック方向から敵が出現!」

「なんだって!?」

 

 くるりと後ろを向いて叫び返す。

 

「Dブロックといえば、俺達の背後だろう! どうして敵が出てくる!?」

 

 あまりのことにうろたえた。さっきまでの興奮はあっという間に吹き飛ぶ。生まれつきの臆病さがむくむくと顔をもたげてくる。

 

「やはり深入りしすぎたようですね」

 

 やや青ざめた顔でデュポン大尉が言った。どうやら、調子に乗りすぎたらしい。胸中に後悔が広がっていく。

 

「中隊長、どうしようか?」

「リンツ大尉を呼び戻しましょう。戦力を集中して、後方の敵を突破するのです」

「わかった、貴官の案を採用しよう。引き続き指揮を頼む」

「承知いたしました!」

 

 デュポン大尉は与えられた仕事の量を信頼の証と考える人だ。丸投げに等しい俺の指示を喜んで受け入れる。

 

 苦戦の末にリンツらと合流を果たし、どうにか戦力を集中した。それからデュポン大尉の作戦通りに全力でDブロック方向の敵に立ち向かう。

 

「くそっ! なんて数だ!」

 

 敵兵の分厚い壁に行く手を阻まれた。いくら倒しても次から次へと新手がやってくる。背後からも敵が迫ってきた。俺達は完全に挟み撃ちにあったのだ。

 

「俺の責任か……!」

 

 後悔を振り払うように戦斧を振った。斧頭で殴り飛ばし、石突で突き倒し、刃先で切り倒す。心が乱れているというのに、戦斧の技はますます冴え渡る。

 

 どれだけ倒しても敵は一向に減らなかった。俺の周囲にいた味方は一人、二人と倒れていき、その間隙に敵が入り込んでくる。いつの間にかデュポン大尉の姿も見えなくなった。薔薇の騎士もどこにいるのかわからない。

 

「誰か! 誰かいないのか!?」

 

 押し寄せてくる敵兵と戦いながら味方を呼ぶ。しかし、返事は返ってこない。完全に孤立した。

 

「くっ!」

 

 世界が少し揺れた。疲労が足に溜まったのだ。体の動きが鈍くなった途端、恐怖がこみ上げてきた。

 

「誰か! 誰か来てくれ! 頼む!」

「こちらにおられましたか!」

 

 俺の悲鳴に応じるかのように誰かが叫んだ。

 

「今から向かいますぞ!」

 

 叫び声の主はトラビ副隊長だった。Dブロック方向からやって来た彼の部隊は、リンツら薔薇の騎士と合流して、俺にいる方向に向かってくる。完全に背後を突かれた敵は大混乱に陥った。狭い通路にぎっしり兵士が集まっていたため、態勢を立て直すこともできない。

 

 たちまちのうちにトラビ副隊長は俺のもとに辿り着いた。傍らにはリンツがいる。俺は深々と頭を下げた。

 

「助かった。ありがとう」

「礼には及びません。それよりも早くお逃げください。我々が退路を確保いたします」

「わかった、地下指揮所へ……」

「地下指揮所は陥落いたしました」

「なんだって!?」

 

 驚きのあまり、戦斧を取り落としてしまった。

 

「隊長代理が援軍に向かわれた後、ロペス副司令官がCブロックとDブロックとEブロックの部隊配置を変更したのです。再配置が完了する前に突破されてしまいました」

「えっ!?」

 

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。部隊というのは人間の塊だ。簡単に出し入れできるようなものではない。臨時陸戦隊のような練度の低い部隊ならなおさらだ。ロペス少将は主導権を握りたかったのだろうが、あまりに拙劣だった。

 

「セレブレッゼ司令官、ロペス副司令官、ドワイヤン参謀長らは行方不明です」

「なんてことだ……」

「我々が敵を防ぎます。隊長代理はここから早くお逃げください」

「いや、俺はここで死ぬ」

 

 俺は戦斧を拾い上げて構え直した。もはや任務を達成できる見込みはない。ドーソン司令官やトリューニヒト先生の期待を裏切ってしまった。あの六〇年を繰り返すくらいなら、ここで死んだ方がずっとましだ。

 

「馬鹿なことをおっしゃいますな。あなたは指揮官でしょう。犬死にしてどうします」

「逃げるってどこへ逃げる!? 戦いに負けた! 任務を達成できなかった! そんな俺に逃げる先なんてあると思うのか!?」

 

 もはや冷静さを装う余裕もなかった。ありったけの感情を親子ほども年齢の離れた部下にぶちまけた。

 

「戦闘はまだ終わってはいません。味方は各所で抵抗を続けております」

「指揮所は陥落した! 司令官達も行方不明だ! 負けたようなものだろう!」

「セレブレッゼ司令官らは行方不明。亡くなったとも捕虜になったとも限りません。予備司令室にお連れして指揮系統を立て直せば、戦い続ける余地もあるでしょう」

 

 トラビ副隊長は丁寧に諭す。頭に上った血が急に引いていく。

 

「すまない、確かに貴官の言う通りだ」

「お分かりいただけたようで何よりです」

 

 トラビ副隊長の目が「いちいち世話が焼ける」と語る。しかし、腹は全く立たなかった。今回は彼が完全に正しい。

 

 俺が納得したのを見計らうと、トラビ副隊長はリンツの方を向いた。

 

「リンツ大尉、隊長代理の援護を頼みたい。我らはここに残る」

「よろしいのですか? 失礼ながら、憲兵だけで敵を阻止するのは難しいと思いますが。小官らもここに残ります。憲兵隊長代理は勇敢です。薔薇の騎士が一個分隊もいれば、囲みを突破するには十分かと」

「薔薇の騎士は一人は一般兵一〇人に勝ると聞く。隊長代理と一緒に戦った方がより役に立つというものだ」

「相手は装甲擲弾兵です。本当に憲兵だけで大丈夫ですか?」

 

 リンツは心配そうに問い返す。

 

「我々は誇りある憲兵だ。安請け合いなどはしない。できるといった以上、命に替えてもやると思ってもらいたい」

 

 そう言うと、トラビ副隊長はポケットから小箱を取り出して見せた。

 

「なるほど、そこまでのご覚悟でしたか」

「これでもプロの端くれなのでな。貴官らにはうるさいだけに見えるだろうが、我々にも意地がある。それだけのことだ」

 

 老憲兵の意地が凝縮された一言だった。俺とリンツは同時に頭を下げた。

 

 面子と前例にうるさいところが嫌だった。シェーンコップ中佐の件では不公平だと思った。それでも、彼は彼なりのやり方を貫いてきた。そのことを理解した時、頭が自然に下がったのだ。

 

「副隊長、貴官には本当に……」

「隊長代理は果敢ですが慎重さに欠けておりますな。今後はお気をつけください」

 

 礼を言おうとする俺を遮って一言だけ言うと、トラビ副隊長は機関銃を構えて部下の憲兵とともに敵中へと進んでいった。

 

「行こう」

 

 リンツに促された俺は無言で頷いた。そして、薔薇の騎士と一緒に前方へと突進する。薔薇の騎士の戦斧が装甲擲弾兵を切り裂き、殴り飛ばし、突き倒す。金属音と血しぶきが巻き起こった後には、敵の屍のみが残された。

 

 ひたすら走り続けてHブロックからDブロックに足を踏み入れた瞬間、後方から大きな爆発音が聞こえた。リンツがほんの一瞬だけ立ち止まり、後ろを向いて挙手の敬礼を行う。

 

「そういうことだったのか」

 

 俺はすべてを理解した。立ち止まって老憲兵らに敬礼を送り、涙をこらえながら走りだした。

 

 

 

 地下指揮所が陥落した後も戦闘は続いている。帝国軍も同盟軍も完全に統制を失っていた。帝国兵が個人的な武勲を求めてバラバラに戦い、同盟兵が通路や階段を爆破しながら逃げ回る。そこに帝国軍の増援部隊、同盟軍の敗残兵などが戦いを求めて雪崩れ込み、巨大な基地司令部ビルは混乱の坩堝と化した。

 

 薄暗い非常灯の下、隣で戦っているのが敵なのか味方なのかもわからないような状況の中で、両軍は惰性のように戦い続ける。

 

 俺は薔薇の騎士と一緒にビルの中を走り回り、行く手に敵が現れたら切り倒し、味方が現れたらセレブレッゼ中将らの行方を問うた。司令官を擁して指揮系統を立て直せば勝てるかもしれない。そんな希望が連戦の疲れを忘れさせた。

 

 Bブロックのエレベーター前ホールに入った時、前方に二〇人ほどの装甲擲弾兵が現れた。全員が手に戦斧を持ち、背中にビームライフルを背負っている。

 

「地獄に落ちろ!(ファー・ツーア・ヘレ!)」

 

 帝国公用語の掛け声とともに薔薇の騎士が一斉に疾走した。

 

「笑わせるな!」

 

 装甲擲弾兵の先頭に立つ男が同盟公用語で叫びながら一人で突進する。薔薇の騎士相手に一人で突っ込むなど、常識で考えれば自殺志願に等しい。

 

 俺の常識は三〇秒で覆された。男が戦斧を一閃させると、二人の薔薇の騎士が血しぶきをあげて倒れ、二閃目で一人がヘルメットごと頭蓋を破壊され、三閃目で一人が右腕と生命を同時に失い、四閃目で一人が首を刎ね飛ばされた。

 

 敵を蹂躙する側だった薔薇の騎士がたった一人の男に蹂躙されている。この世のものとは思えない光景に足が震えた。

 

「薔薇の騎士も随分と弱くなったものだな! ほんの三年でこうも堕落するとは、まったくもって嘆かわしい!」

 

 五人目を倒したところで、男が嘲弄を込めて笑った。この声には先ほど聞いた。薔薇の騎士連隊の元連隊長にして帝国宇宙軍准将のヘルマン・フォン・リューネブルクだ。

 

「その汚らわしい口で薔薇の騎士の名を語るな!」

「裏切り者め! ここで会ったからには生かして帰さんぞ!」

 

 広大なエレベーター前ホールが薔薇の騎士の怒気で満たされる。

 

「ほう、最近の薔薇の騎士は武器ではなく口で戦うのか。口で敵を殺せるなどと教えた覚えはないのだがな。シェーンコップの青二才の影響か? 奴は昔から無駄口が多かった」

 

 リューネブルク准将はかつての部下から向けられた敵意を楽しむかのように嘲笑を続ける。

 

「黙れ!」

 

 一人の薔薇の騎士が激昂して飛びかかった。

 

「遅い!」

 

 リューネブルク准将が戦斧を閃かせた瞬間、薔薇の騎士の装甲服に大きな亀裂が入り、血しぶきが吹き出した。罵詈雑言の合唱がピタリと止まる。

 

「昔のよしみだ! 貴様らに武器の使い方を教えてやる! 掛かってこい!」

 

 かつての部下の血で染まった戦斧を構え直したリューネブルク准将は、上官気取りで嘯いた。背後にいる装甲擲弾兵も戦斧やライフルを構える。

 

「ふざけるな!」

 

 薔薇の騎士も全員武器を構えて戦闘態勢を取る。俺もビームライフルを構えようとしたが、リンツに腕を掴まれた。

 

「ここは俺達が防ぐ。先を急げ」

「いいのか?」

「ああ。リューネブルクは俺達の敵であってお前さんの敵じゃない。ロイシュナーとハルバッハを付けてやる。お前さんはお前さんの役目を果たせ」

「わかった」

 

 軽く頭を下げ、薔薇の騎士のロイシュナー軍曹とハルバッハ伍長とともに走りだした。リンツと薔薇の騎士はリューネブルク准将に向かって進む。

 

 エレベーターホールを離れた俺達三人はBブロックの廊下を早足で歩く。運用部のオフィスの辺りに差し掛かった時、一〇メートルほど前方に装甲擲弾兵五名の姿が見えた。

 

「くたばりやがれ!」

 

 ロイシュナー軍曹とハルバッハ伍長が戦斧を握って駆け出した。装甲擲弾兵はビームライフルをこちらに向けて放つ。

 

 戦斧の間合いは五メートルと言われる。装甲擲弾兵は勝利を確信しただろう。しかし、一〇メートルの距離など、薔薇の騎士相手には何の意味も無い。

 

 一瞬で懐に入り込まれた装甲擲弾兵は、為す術もなく斬り倒され、みるみるうちに数を減らしていった。残った一人は僚友の無残な死に戦意を失い、ビームライフルをロイシュナー軍曹の顔面に投げつけて逃げ出す。

 

「逃がすものか!」

 

 逃げ出した帝国兵の頭を一筋のビームが貫く。敵が倒れたことを確認すると、俺はビームライフルを下ろし、二人の薔薇の騎士のもとに歩み寄った。

 

「あの間合いを一瞬で詰めてしまうなんて凄いな。敵の銃撃も全然当たらなかった。まるでアクション映画のようだ」

「大したことはありません。ビームライフルの射線は完全な直線です。銃口を見ればどの方向に光線が飛んでくるのか、一瞬でわかります。避けるなどわけもないですよ」

 

 ハルバッハ伍長がとんでもないことをさらっと言ってのける。

 

「たかが一〇メートルでしょう? ビームライフル相手だったら、ハイネセンポリスのメインストリートを歩くようなもんです」

 

 大して面白くも無さそうに、ロイシュナー軍曹が付け加える。

 

「はは、そうか」

 

 笑うしかない。一〇メートルの距離なら、ビームライフルが圧倒的に有利というのが常識だ。敵は最善の選択をしたが、薔薇の騎士には常識が通用しない。

 

「隊長代理殿の射撃も結構なものじゃないですか。エル・ファシルで勇名を馳せただけのことはある」

 

 何の邪気も無いハルバッハ伍長の言葉が、俺の笑顔をひきつらせた。

 

「……そんなことはないさ。射撃術は準特級に上がってまだ二年目だ」

「補給科で射撃の準特級を持ってる人なんて滅多にいませんよ。陸戦隊や空挺でも水準以上。そして、陸戦指揮に長けてらっしゃる。転身を考えてみてもいいんじゃないですかね?」

「遠慮しとくよ。俺には今の仕事が合ってる」

 

 笑ってごまかした。世間の人は俺のことを義勇旅団の名指揮官と思い込んでいる。しかし、実際は人より多少戦技に長けているだけで、戦闘指揮など全然できない。

 

「どう見ても陸戦隊向きなのに。あなたも変わった方だ」

 

 ハルバッハ伍長が笑った。ロイシュナー軍曹もそれにつられて笑う。超人に変わっていると言われるなんて、まったくもって心外だ。

 

 それからも俺達三人は司令部ビルの中を走り回り、セレブレッゼ中将、ロペス少将、ドワイヤン少将らを探し求めた。

 

 リューネブルク准将に遭遇する前と比較すると、敵の密度はだいぶ薄くなった。二人から五人ほどの小さなグループがぱらぱらとうろついている程度だ。個人的な武勲欲しさで戦っている者しか残っていないことが見て取れる。ロイシュナー軍曹とハルバッハ伍長さえいれば、司令部ビルの敵を皆殺しにできるんじゃないかという錯覚すら覚えた。

 

 しかし、この二人も薔薇の騎士連隊の中では、それほど強い方ではないというのが驚きだ。そんな強者だらけの薔薇の騎士連隊も、先ほど遭遇したリューネブルク准将には歯が立たない。本当に世の中は広かった。

 

 

 

 地下指揮所のあるAブロックはBブロックの隣にあったが、通路や階段が爆破されていたため、遠回りを強いられた。三つのブロックを通ってようやく辿り着いた。

 

「酷く荒れてるな」

 

 壁や床には大きな穴が開いている。死体や血痕はほとんど見られず、戦闘による破壊ではないのは一目瞭然だ。中央司令室にいた人々が破壊したのだろうか? 非常用の薄暗い赤色灯の光が荒廃ぶりを強調する。

 

「隊長代理、あれを」

 

 ロイシュナー軍曹が小声でささやき、前方を指差す。遠方に二つの人影が見えた。左側の人影は同盟軍の気密服、右側の人影は帝国軍の重装甲服を身にまとっている。

 

「争っているようです。助けましょう」

 

 俺とハルバッハ伍長は無言で頷き、ビームライフルを手にした。ロイシュナー軍曹もビームライフルを手にする。視界はかなり悪いが、俺達三人の腕なら確実に敵を撃ち抜ける。一瞬で終わるだろう。

 

 狙いをつけて引き金を引こうとした瞬間、信じられないことが起きた。敵がいきなり気密服の人物を左腕で羽交い締めにしたのだ。

 

「気づかれたか!」

 

 ハルバッハ伍長が舌打ちする。敵は気密服の人物を盾にすると、右手に持ったハンドブラスターを頭に突きつけた。これでは下手に動けない。

 

「敵の右手を撃ち抜こう。この視界なら俺達の手元は見えにくい。敵が気づく前に片がつく」

 

 俺は声を潜めて提案した。しかし、ロイシュナー軍曹とハルバッハ伍長は賛成しない。

 

「あの距離で我々に気づく相手です。甘く見てはいけません」

「小官があの敵の位置にいたら、この視界でも十分にこちらの動きを見れます」

 

 自重を促す二人。敵味方の間でひりひりするような睨み合いが続く。

 

「こっちに来るぞ」

 

 敵は気密服の人物を盾にしたまま歩く。人を盾にしながら歩いているにもかかわらず、足取りがまったく乱れていない。徹底的に鍛錬を積んだ証拠だ。

 

 傍観しているわけではなかった。隙あらば攻撃を加えるつもりでいる。しかし、まったく隙が見つからない。下手に手を出したらまずい。本能がそう教えてくれる。二年前にマラカルで「双子の悪夢」ことラインハルトとキルヒアイスに殺されかけた時以来の感覚だ。

 

 ロイシュナー軍曹とハルバッハ伍長も動かない。彼らにも隙が見つけられないのだ。目の前の敵はとんでもない手練れだった。

 

 敵は焦燥感を煽るかのようにゆっくりと歩く。そして、三メートルほどの距離に来た時、気密服の人物をいきなり突き飛ばした。

 

 気密服の人物が勢い良く飛び込んでくる。敵が怪力なわけではない。ヴァンフリート四=二の弱い重力の賜物だ。

 

 俺達は気密服の人物を避けた。その隙に敵は姿勢を低くして横に飛び退く。光とともに右手に衝撃を感じ、ビームライフルを落とした。装甲の薄い手を撃ち抜かれたのだ。ロイシュナー軍曹とハルバッハ伍長も、俺と同じように手を撃ち抜かれてビームライフルを落とす。

 

「しまった!」

 

 舌打ちして左手でハンドブラスターを抜こうとすると、急に左手首を掴まれた。そして、世界が横に回転し、人間の体らしきものにぶつかった後、背中から壁に叩きつけられた。そこに膝蹴りと肘打ちが入る。ぐしゃりと何かが砕けるような感触がした、体中に激痛が走る。俺の体は糸が切れた凧のようになり、壁に背中をもたれたまま床にすとんと落ちた。

 

 とどめの一撃を覚悟して目をつぶった。しかし、敵は動けなくなった俺から離れて通路の中央に戻る。そこにはロイシュナー軍曹とハルバッハ伍長がいた。

 

「人間を棍棒のように振り回すとはな。なかなか味な真似をしてくれるじゃないか」

 

 ロイシュナー軍曹の言葉で何が起きたかようやく理解できた。要するに俺は敵に振り回されて、二人の味方を殴る武器として使われた後に、壁に叩きつけられたのだった。

 

「だが、貴様はしょせん貴族の犬だ! 我ら薔薇の騎士に勝てると思うなよ!」

 

 薔薇の騎士二人は格闘戦の構えを取る。陸戦隊員は左右両方の手で射撃する訓練を受けているはずなのに、ハンドブラスターを持っていない。俺をぶつけられた時に落としたのだろうか。

 

「フッ……」

 

 敵は鼻で笑うような声を発し、コンバットナイフを抜く。

 

「気取るな!」

 

 ロイシュナー軍曹が敵の足目掛けて横蹴りを入れた。最小限の動きで蹴りをかわした敵の胸元にハルバッハ伍長の肘打ちが襲い掛かる。敵が紙一重で肘打ちをかわすと、ロイシュナー軍曹ががら空きの胴体目掛けて回し蹴りを放つ。回し蹴りをかわした敵は、態勢を崩したロイシュナー軍曹めがけて斬撃を放つ。そこにハルバッハ伍長がタックルを仕掛けるも、敵は手刀を振り下ろして阻止する。

 

 薔薇の騎士二人の連携をもってしても、この恐るべき敵に打撃を与えられない。それどころか斬撃まで繰り出される始末だ。

 

「一体何者なんだ……」

 

 薔薇の騎士さえ手玉に取る技術の持ち主がただの装甲擲弾兵とは思えない。最強の装甲擲弾兵部隊と言われる「魔弾(フライクーゲル)連隊」や「鉄血(アイゼン・ウント・ブルット)連隊」の隊員だろうか? リューネブルク准将から逃げても新しい強者が現れる。勘弁してほしい。

 

「ラインハルト様!」

 

 透き通った声が通路に響き、とんでもなく背が高い人影がこちらに向かって走り寄ってくるのが見えた。

 

「キルヒアイス! 俺はここだ!」

 

 二人の薔薇の騎士の攻撃をいなしながら、敵が叫ぶ。何度もテレビや動画で聞いた声だ。今の世界ではなく、前の世界で聞いた声。

 

「ラインハルトにキルヒアイス……。そうか、貴様らは帝国のエル・ファシルの英雄か。どうりで手強いはずだ」

 

 ロイシュナー軍曹が答えを言った。

 

「ほう、俺達の名を知っているとは」

 

 敵の声には音楽の一節のような響きがあった。照明のせいで顔は見えない。それでもこの声と話し方だけでわかる。

 

 前の世界で人類世界を武力統一した覇王ラインハルト・フォン・ミューゼルその人だ。そして、長身の人物はラインハルトの腹心のジークフリード・キルヒアイス。銀河を征服したコンビが目の前にいる。

 

 ボロボロの体が震えた。死の恐怖とは違う。前の世界で飢えた時、食べ物目当てに参加した地球教や十字教のミサで感じたものに近い。大いなる存在に対する畏怖だ。

 

 前の人生の終わり、老いた俺は戦記を読みふけった。ラインハルトとキルヒアイスが数年間で成し遂げた偉業の数々に興奮した。彼らは全知全能の存在のように見えた。神を目の当たりにして畏れずにいられるものか。みるみるうちに戦意が消え失せていく。戦記を読んだことを生まれて初めて後悔した。

 

「そりゃあ知っているさ!」

 

 ロイシュナー軍曹の声が俺を現実に引き戻した。そうだ、まだ仲間が戦っている。

 

「リューネブルクの糞野郎のせいで、エル・ファシルでは暴れられなかったんだ。いつか、その借りを返してやろうと思っていた。エル・ファシルの英雄、そして『双子の悪夢』と言われた貴様らの首をいただけば、帳尻も合うってもんだ!」

 

 ロイシュナー軍曹とハルバッハ伍長は、後ろに飛び退いて構える。ラインハルトもナイフを構え直し、キルヒアイスもナイフを抜く。

 

「援護しないと……」

 

 激しい痛みの中でそんなことを思った。相手は神だ。人間に敵う相手とは思えないが、この戦いを傍観することもできなかった。俺は無能者で臆病者だったが、卑怯者にはなれない。あの六〇年の記憶がそれを許さない。

 

「どこだ……?」

 

 感覚がなくなった左手に全力を集中して動かした。しかし、手の届く範囲にハンドブラスターはない。

 

「体当たりしか無いか……」

 

 痛みを堪えながら床に両手をついた。すべての精神力を手に注ぎ込み、ゆっくりと尻を持ち上げる。二人の神と二人の薔薇の騎士が睨み合っている間、俺は全力で立ち上がろうとした。

 

「勝負だ!」

 

 二人の薔薇の騎士は駆け出した。ラインハルトとキルヒアイスも駆け出す。

 

「今だ……!」

 

 どうにか立ち上がった俺はガタガタの足を走らせた。胸の痛みが酷い。腕がしびれる。目がかすむ。息ができない。意識が吹き飛びそうだ。サイオキシンの禁断症状以来の苦痛に苛まれながら、ラインハルトに向かって突進する。

 

「しまった……」

 

 右膝ががくんと落ちた。肉体はとっくに限界だったのだ。目の前では、ラインハルトがロイシュナー軍曹の装甲服の首の継ぎ目を切り裂き、キルヒアイスがハルバッハ伍長のヘルメットの下から顎にナイフを突き立てた。二人の薔薇の騎士、生涯最後の仲間が床に倒れ伏す。

 

 ラインハルトとキルヒアイスがゆっくりと近付いてくる。俺は右膝と右手を床について、跪くような格好で二人の神に相対する形になる。

 

 この期に及んで全く意味の無いことではあったが、立ちたいと思った。死んだ仲間は一人の例外もなく最後まで戦い続けた。ならば、俺もそうするのが義務というものだ。

 

 膝に力を入れた。手に力を入れた。顔を上げようとした。しかし、どれほど強く念じても体が動かなかった。屈強な装甲擲弾兵を倒したこの腕も、今は自分の体重を支えることすら適わない。薔薇の騎士とともに駆け抜けたこの足も、今は立ち上がることすら適わない。

 

 二人の神が目の前に立った。彼らの持っているナイフが俺の命を断つだろう。神に挑んだ以上、それが当然の報いのように思える。

 

 意外なほどに恐怖はなかった。敵を待っている時が一番不安だとクリスチアン中佐が言っていたが、それは死にも当てはまるようだ。あれほど恐れていた死も実際にやってくるとすんなり受け入れられるものらしい。

 

 胴体の左側に強い衝撃を感じるとともに体が吹き飛び、世界が真っ暗になった。意識がどんどん薄れていく。何もない世界に二人の神の声だけが響く。

 

「キルヒアイス、なぜナイフを使わなかった?」

「理由はラインハルト様がご存知でしょう」

「そうだな。大した闘志だ。殺すには惜しい」

「……ラインハルト様は武勲を……長居は無用……反乱軍……」

「……お前の言う通りだ……欲張ったところで……貴族ども……」

「……ごらんください……が……きます……」

「……ほう……リューネブルク……さぞ……」

 

 頭が朦朧として、何を言っているのかさっぱり理解できない。あらゆる感覚が急速に失われているのを感じる。

 

 リューネブルク准将と戦ったリンツは無事だろうか? 第一陣地群のクリスチアン中佐、第一輸送軍司令部のイレーシュ少佐は無事だろうか? フィッツシモンズ中尉は? 司令部ビルの外にいる憲兵隊員は? ヴァンフリート四=二にいる友人知人の無事を祈る。

 

 恩師、友人、上官、同僚、部下の顔が次々と頭の中に浮かんできた。急に申し訳ない気持ちになった。

 

「ごめん」

 

 何度も何度も謝った。期待に応えられなかったこと、生きて再会できなかったことを謝った。

 

「どうか、俺のいない世界でも元気で……」

 

 そう思った瞬間、意識が完全に消失した。



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第20話:運と責任 宇宙暦794年4月中旬~5月中旬 ヴァンフリート四=二中央医療センター~ハイネセンポリス第二国防病院

 驚いたことに俺は生き残った。仇敵のリューネブルク准将を探し求めていたシェーンコップ中佐とデア・デッケン中尉ら薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)に救われたのだ。彼らが呼んだ医療班に手当てを受けて一命を取り留めた。あと数分発見が遅れていたら、間違いなく死んでいたそうだ。

 

 さらに驚いたことにヴァンフリート四=二基地も占領を免れた。成り行きを説明すると少々長くなる。

 

 三月末、挟撃作戦の失敗を悟った同盟軍総司令部は、迂回行動中の第四艦隊と第一一艦隊を呼び戻した。通信が混乱する中、シャトルで命令文を受け取った両艦隊は総司令部が定めた集結地点へと急いだ。ところがその途中で第四艦隊が帝国軍本隊と遭遇してしまったのである。司令官ヴィテルマンス中将の老巧な指揮によりどうにか脱出を果たした第四艦隊であったが、二〇〇〇隻近い損害を被り、戦力が大きく低下した。

 

 第四艦隊の敗北によって不利となった同盟軍は、兵站拠点の四=二周辺まで後退し、態勢を立て直そうと考えた。そして、第四惑星から二〇光分(三億六〇〇〇万キロメートル)離れた宙域に差し掛かったところで、救援を求める通信波を捉えた。

 

 あてにしていた兵站拠点が帝国軍の一個艦隊に攻撃されている。その報に仰天した同盟軍は、ライオネル・モートン少将を指揮官とする救援部隊を編成し、急いで四=二へと向かわせた。

 

 四=二基地は救援部隊の存在を知ることができなかった。ヴァンフリート星系全域を席巻する宇宙嵐、第四惑星のガス体などの影響で電波が阻害され、救援部隊からの通信を受け取れなかったのだ。

 

 通信の途絶は四=二の同盟軍にとって不幸だったが、帝国軍にとっても不幸だった。味方からの警告を受け取れなかったからだ。帝国軍は上空からの奇襲を受けて艦艇数千隻を失い、命からがら逃げ出した。こうして四=二基地は救われた。

 

 勝ち負けで言えば、四=二基地の同盟軍は勝ったことになるのだろう。帝国軍は撤退した。基地司令官セレブレッゼ中将も健在だ。しかし、基地施設は激しく損傷し、多くの支援艦艇や備蓄物資が失われ、後方支援要員の四割が死傷した。兵站基地としての機能は失われたも同然だ。

 

 中央兵站総軍の幕僚チーム「チーム・セレブレッゼ」も大損害を被った。中央支援軍司令官リンドストレーム技術中将(一階級特進)、地上工兵部隊司令官ヴィターレ技術少将(一階級特進)、中央輸送軍副司令官リベリーノ地上軍少将(一階級特進)、中央通信集団司令官代理マデラ技術少将(一階級特進)らが戦死した。また、総軍副司令官ロペス宇宙軍少将、総軍参謀長ドワイヤン宇宙軍少将、中央輸送軍司令官メレミャーニン宇宙軍少将、車両支援部隊司令官ハリーリー地上軍准将らが行方不明となった。佐官・尉官クラスの戦死者や行方不明者は数え切れない。

 

 基地憲兵隊は致命的な損害を蒙った。憲兵副隊長トラビ地上軍中佐(一階級特進)、中央支援軍憲兵隊長コフロン地上軍中佐(一階級特進)、隊長補佐ケーシー宇宙軍大尉(一階級特進)ら幹部の半数が戦死。俺が率いた本部中隊及び隊長直轄の四個中隊、基地憲兵隊配下の五個憲兵隊のうち三個憲兵隊が壊滅した。

 

 借り受けた薔薇の騎士連隊隊員三九名のうち、二四名が戦死した。指揮官のカスパー・リンツ大尉は一命を取り留めたものの秋まで入院することになるという。

 

 その他の知り合いはほとんど生き残った。激戦の渦中にいたクリスチアン中佐はほぼ無傷、中央輸送軍司令部ビルで戦っていたイレーシュ少佐は骨折、基地司令部ビルの戦闘に参加したフィッツシモンズ中尉は全治三か月の重傷といった具合だ。知り合いとはいえないが、密告屋のダヴィジェンコ中尉(一階級特進)が後頭部を流れ弾で撃ち抜かれて戦死し、誣告されたタッツィー少尉は武勲をあげて昇進が確実らしい。

 

 四=二基地は放棄されることが決まり、第五惑星第一〇衛星(ヴァンフリート五=一〇)の兵站基地が中央兵站総軍の新たな拠点となった。ほとんどの部隊は五=一〇基地へと移動し、四=二基地に残っているのは、後始末にあたる者、そしてハイネセンへの帰還が決まった者だけだった。

 

 俺は全治三か月の重傷の診断を受け、四=二基地中央医療センターに入院している。数日のうちに病院船でハイネセンへと移送される予定だ。

 

 任務は失敗した。チーム・セレブレッゼのメンバーをすべて拘束することができなかった。戦死者や行方不明者の中にサイオキシンマフィアが含まれていたらと思うと、どれほど後悔してもし足りない。多くの部下を失い、自分だけが生き残った。あまりにも情けない結果に愕然とし、辞表を書こうとまで思い詰めた。それなのに俺の立場はむしろ良くなっている。

 

 ラインハルト・フォン・ミューゼルに追い詰められていた気密服の人物は、四=二基地司令官のシンクレア・セレブレッゼ宇宙軍中将だった。俺とロイシュナー曹長(一階級特進)とハルバッハ軍曹(一階級特進)が駆けつけたおかげで助かったのだそうだ。二人の薔薇の騎士が死に、俺一人が司令官救出の功績を独占する形になった。

 

「ヴァンフリートの英雄 エリヤ・フィリップス」

 

 枕元に置かれた電子新聞にはそんな見出しが躍っている。困ったことにヴァンフリートでも英雄に祭り上げられた。従軍記者以外のマスコミがいないのが幸いだった。

 

 恩返しのつもりなのか、セレブレッゼ中将は俺を厚遇してくれた。基地病院の中で最も一番良い部屋を用意し、最も優秀な医師を担当に付けてくれた。内臓に損傷を負っているために食事制限がきついのを除けば、最高の環境と言える。

 

 何一ついい所のなかったのに厚遇されるなんて、許されるのだろうか? 俺の羞恥心は限界に近づきつつあった。

 

「貴官は武勲を立てたのだ。恥じることなどあるまい」

 

 お見舞いに来てくれたエーベルト・クリスチアン地上軍中佐が差し入れのリンゴの皮を剥きながらそう言った。

 

「セレブレッゼ司令官を救出できたのはただの偶然です。武勲とは言えませんよ」

「馬鹿なことを言うな、運も実力だ。流れ弾で死ぬ奴もいれば、弾幕に突っ込んでも死なない奴もいる。ちょっとしたミスで死ぬ奴もいれば、大きなミスをしても死なずに済む奴もいる。一度や二度なら偶然だが、何度も重なれば立派な実力だ。貴官は実力で武勲を立てた。評価に値する」

「そんなものでしょうか?」

「ただ一つ確かなのは死んだら二度と武勲を立てられんということだ。今回の戦いに納得できぬなら、次の戦いで納得いく武勲を立てろ。それができるのも運の賜物だ。運が与えてくれた物がどれほど有難いか、考えてみるといい」

 

 いかにもクリスチアン中佐らしい明快な論法だ。確かに死んだら武勲も立てられなくなる。生き残った俺には次の機会がある。

 

 先日戦ったラインハルト・フォン・ミューゼルのことを思い出す。前の世界の彼は、人類史上最大の武勲の持ち主であり、最大の武運の持ち主でもあった。不敬罪のないローエングラム朝銀河帝国では、「運が良かっただけ」などとラインハルトを評価する者もいた。しかし、死んでしまっては実力の発揮しようもない。実力だけで生き残れるのなら、俺が死んでロイシュナー曹長とハルバッハ軍曹が生き延びていただろう。確かに運は大事だ。

 

「おっしゃる通りです」

「戦場は実力だけで生き残れるほど甘くない。むろん、運だけで生き残れるほど甘くもないがな。生き残れば実力など勝手に付いてくる。小官も生まれつき強かったわけではない。運良く生き残れたおかげで強くなった。結局のところ、実力と運の境目など怪しいものだ」

「生き残って戦い続けることに意味があるということですね」

「その通り。死んでしまっては二度と戦えないだろう? 少しでも長く生きて、一人でも多くの敵を殺し、一人でも多くの味方を救う。それが真の愛国者の生き方というものだ。愛国者の命は祖国の財産。簡単に死ぬことなど許されん。生き残るためなら、努力でも運でも何でも使え」

「ありがとうございます」

 

 頭を下げて礼を述べた。クリスチアン中佐の骨太な言葉を聞くと元気になる。この世界に来て間もない頃は違和感のあった「愛国者」という言葉も、今は耳に良く馴染む。愛国者を名乗る人達は俺に優しくしてくれる。前の世界で右翼的な物に感じた恨みもだいぶ洗い流された。

 

 クリスチアン中佐が退出した後、入れ替わるように中央輸送軍参謀のイレーシュ・マーリア少佐が入ってきた。両手に松葉杖を持ち、右足だけを地面につけて歩いている。

 

 彼女が参加した中央輸送軍司令部ビルでは、基地司令部ビルの戦いに勝るとも劣らない激戦が展開された。司令部要員の六割が死傷し、司令官メレミャーニン少将は行方不明になり、副司令官リベリーノ少将は戦死した。そんな中、イレーシュ少佐はかすり傷で済んだのに、戦闘終了後に階段から足を踏み外して左足を折ってしまったのだ。何というか、おかしな人だ。

 

「やあ、久しぶり」

 

 とても懐かしそうにイレーシュ少佐は笑う。入院中で手入れする余裕がないのか、栗毛はぼさぼさ、顔はほぼすっぴんなのに美しく見える。美人というのは本当に得だ。

 

「昨日も来たじゃないですか」

「ほら、この病院と私の入院してる西医療センターって結構遠いじゃん」

 

 そういう問題ではないだろうと思ったが、あえて突っ込まなかった。彼女の顔は一日に何回見たって飽きることはない。

 

「はるばるありがとうございます」

 

 俺はありったけの笑顔を作った。嬉しい時は笑う。彼女にそう教えてもらった。生きていて良かったと心の底から思った。

 

 

 

 薔薇の騎士連隊の連隊長代理ワルター・フォン・シェーンコップ宇宙軍中佐は、しばしばお見舞いに来てくれる。同じ病院に入院している愛人のヴァレリー・リン・フィッツシモンズ地上軍中尉の見舞いに来るついでだそうだ。

 

「もらえる物はもらっておけば良いではありませんか」

 

 シェーンコップ中佐は朗らかに笑い、差し入れのりんごを勝手に取る。

 

「死んでいった人達の功績を独り占めしてるようで気がひけるんですよ。エル・ファシル義勇旅団の時と同じです」

 

 目を軽く伏せる。俺の功績の半ばは薔薇の騎士の犠牲によるものだ。シェーンコップ中佐の前では引け目を感じてしまう。

 

「あなたの任務は基地司令部ビルの防衛。司令官を救ってその三割ぐらいは達成したでしょう。負け戦の中の殊勲にご不満でも?」

「深入りしすぎて憲兵隊を壊滅させてしまいました。リューネブルクやミューゼルとの戦いでは、あなたの部下の犠牲で生き延びました。リンツにも重傷を負わせてしまいました。不格好としか言いようが無いですよ」

「格好良く戦えば、司令部ビルを守れましたか? 部下を死なせない指揮が今のあなたにできましたか? 隊長代理殿は随分とご自分を高く評価してらっしゃるのですな」

 

 シェーンコップ中佐は皮肉たっぷりに言う。確かに俺一人が格好良く戦ったところでどうにもならなかった。能力も戦力も決定的に足りなかった。

 

「おっしゃる通りです」

「取れない責任まで取る必要はありません。器量にふさわしい範囲で責任をお取りになればよろしい。取るべき責任を取ろうとしない輩よりは殊勝なことですがね」

 

 言外に「勝敗に責任を負うような器量があるとでも思っているのか」と言われてるような気がした。彼は冗談ばかり言うが、時々鋭い刃を冗談にくるんで投げつけてくる。

 

「返す言葉もありません」

「まあ、隊長代理殿は別の責任も負っておいでのようだ。正直な話、勝敗までは負うのは酷かもしれませんな」

 

 シェーンコップ中佐はさらに刃を投げつけてきた。俺の真の目的に勘付いたのだろうか? 心臓が五倍速になる。

 

「八〇万人が働く基地の憲兵隊長代理ですからね。本当に大変でした」

「その程度の仕事はあなたなら朝飯前でしょう。私的制裁キャンペーンを口実に基地首脳部を監視下に置いたあなたにならね」

「一罰百戒と言うじゃないですか。組織は上から腐るといいますし……」

「私的制裁キャンペーンは目眩まし。監視すること自体が目的としたらどうでしょうか」

「それは考え過ぎですよ」

「基地憲兵隊長代理が基地首脳部を監視下に置いた。そして、基地首脳部全員を命令一つで拘束できるように憲兵を配置した。その狙いは何か? どれほど考えても考え過ぎとは言えんでしょう」

「私的制裁の防止。それ以上でも以下でもありません」

「いろんな方向から憲兵隊に探りを入れてみたんですがね。何も掴めなかった。主任士官クラスですらあなたの意図を図りかねていた。あなたの耳目になっている司令部付下士官も何も知らされていない様子だった。要するにあなたは自分一人でこれだけの仕事をした。大したものです」

 

 シェーンコップ中佐は両腕を組み、椅子に腰掛け直す。すべてを知った上で言っているのか、かまをかけているのか、にわかに判断できなかった。下手なことは言えない。

 

「この私がリンツと一個小隊を善意で貸したなどと思わんでください。あれはいわば保険です。妙なことをされてはたまりませんからな」

「逆方向に憲兵隊本部にコーヒーを飲みに来ていたのもそうなのですか?」

「ええ、ご想像の通りです。残念ながらあなたの尻尾の端すら掴めませんでしたがね。頭の鈍い律儀者は本当に厄介です。何を考えているのかさっぱり読めない」

 

 やれやれ、と言った感じでシェーンコップ中佐は苦笑する。褒められてるんだか、貶されてるんだか、良くわからない。どっちでも無いかもしれないし、両方かもしれない。

 

「偉いさんの弱みの一つも見つかったら面白かったんですがね。どうあがいても我々薔薇の騎士は差別される存在です。行儀良くして頭を撫でてもらうか、恐れられてでも胸を張り続けるしかないんですよ。どんな方法を使ってもね。まったくもって面倒なことですな」

 

 亡命貴族は面倒と言いつつもながら愉快そうだった。不自由な境遇を楽しんでいるようにすら見える。それが彼の矜持なのかも知れない。

 

「しかし、ここまでぶちまけてしまってもよろしいのですか?」

「全部冗談ですよ」

「えっ!?」

「信じていただけるとは思いませんでした。有り難いことです」

「あ、いえ……」

 

 今の俺は肉食獣に睨まれた草食獣だった。完全に圧倒されている。

 

「まあ、あなたのおっしゃる通り、基地司令部の件は考え過ぎかもしれませんな。憲兵がたまたまあんな配置になってもおかしくない。偶然の一致ということもある。あなたは何かと注目される立場ですからな。功を焦るのも仕方ないでしょう。ご苦労のほど、お察しいたしますぞ」

 

 そういうことにしといてやるよ、と言わんばかりのシェーンコップ中佐。これ以上の追及は止めてくれるらしい。

 

「ありがとうございます」

 

 ハンカチで汗を拭きながら頭を下げると、シェーンコップ中佐は人好きのする笑みを浮かべて立ち上がった。

 

「なに、礼には及びません。私も色々と忙しいのです。昔の上官との決着もこれ以上先延ばしにできませんからね」

「リューネブルク元大佐ですか?」

「ええ、上官の不始末は部下が片付けなければ」

 

 上着を羽織るシェーンコップ中佐の後ろ姿を見ながら、ある一つの考えに行き着いた。それは前の世界で『薔薇の騎士ワルター・フォン・シェーンコップ』や『獅子戦争記二巻』から得た知識からは行き着けなかった考えだった。

 

 彼は今もなおリューネブルク准将を上官と認めているのではないか? そう言えば、リューネブルク准将も薔薇の騎士相手に上官風を吹かせていた。彼らの間にあるものは憎悪ではなくて……。

 

「ああ、フィリップス少佐がいれたコーヒーがうまかったというのは本当です。再び陣を並べることがあったら、ぜひ飲ませていただきたいものですな」

 

 シェーンコップ中佐が思い出したように言う。それは俺が脳内で詮索を始めたタイミングにぴったり合っていた。この人には本当に敵わないと改めて思った。

 

 

 

 勝敗がはっきりする艦隊戦は稀だ。いや、はっきりしそうな状況では艦隊戦が起きにくい、と言った方が良いのだろうか。一方が圧倒的に有利だと、もう一方は戦いを避けようとする。両軍が共に「もしかして勝てるのではないか」と思った時に戦いが起きる。そして、不利を悟った側が早々に戦場から退く。こうして、当事者から見れば実力伯仲、第三者から見ればどんぐりの背比べが延々と続くことになる。

 

 ヴァンフリート星域の艦隊戦は圧倒的多数例に属していた。三月二一日から五月一日までの四一日間で、艦隊主力同士の戦闘が三度、分艦隊レベルの戦闘が八度、機動部隊レベルの戦闘が一三度発生したが、決定的な勝敗が付かないまま、両軍は緩慢に消耗していった。

 

 艦隊戦と平行して地上戦も行われた。宇宙艦隊を支援する兵站基地や通信基地を奪い、敵の戦力を間接的に削いで行くのが目的だ。ヴァンフリート星域の惑星、衛星、小惑星の地表で、両軍の地上戦闘要員が激戦を繰り広げた。五月初旬には、同盟軍も帝国軍も地上基地の大半を失い、戦闘継続が困難となった。

 

 五月一〇日、迎撃軍総司令官ラザール・ロボス宇宙軍元帥は、総旗艦アイアースで記者会見を開き、勝利宣言を行った。

 

「邪悪な専制君主が送り込んできた侵略軍は、イゼルローン回廊の彼方へと逃げ帰った。我が軍は勝利した。自由と民主主義が勝ったのだ。総司令部は現時刻をもって戦闘終了を宣言する」

 

 こうしてヴァンフリート戦役は終結した。同盟軍は数々の誤算に悩まされ、一〇〇万人を超える死者を出したが、帝国軍にも一三〇万人近い損害を与えた。勝利したと言い張る資格は十分にあったのだ。

 

 同盟軍にとっては「勝利」であっても、他の者がそう思うとは限らない。昨年の第三次タンムーズ星域会戦のような快勝を期待していた市民は、痛み分け同然の結果に失望し、出征前まで「リン・パオ提督の再来」と持ち上げたロボス元帥を非難した。

 

 同盟軍の勝敗と政権支持率は連動している。経済危機で支持率が低下していたヘーグリンド最高評議会議長は、ヴァンフリート戦役での勝利に最後の望みを託し、ロボス元帥に大軍を与えた。しかし、議長の賭けは失敗に終わり、政権支持率は一〇パーセントを切った。与党第一党・国民平和会議(NPC)の反議長派は、ヘーグリンド降ろしの動きを活発化させている。

 

 与党第二党・進歩党もヘーグリンド議長の辞任を求めた。財政再建を推進する彼らは、昨年にNPCと取り決めた「一度に動員する宇宙部隊は三個艦隊を限度とする」との協定を破ったヘーグリンド議長に不満を持っていた。そして、ついに完全に反議長へと傾いたのだ。

 

「今は経済危機の最中だ。政権争いなどやっている場合か」

 

 進歩党のジョアン・レベロ下院議員が政権争いに没頭する与党議員を痛烈に批判した。だが、彼と危機意識を共有する者は現れなかった。各派閥は新政権に向けた動きを加速させている。

 

 首星ハイネセンを中心とする同盟領中央宙域(メインランド)の諸星系では、財政再建と対帝国戦争の停滞に対する不満から、全体主義政党「統一正義党」や反戦派政党「反戦市民連合」が支持を広げつつあった。メインランドとの経済格差に苦しむ辺境宙域の諸星系では、星系ナショナリズムを掲げる地域政党の台頭、分離主義テロリズムの激化といった現象が起きている。

 

 帝国の側も安定とは程遠かった。自由主義的改革を求める開明派エリート集団の台頭、革命を目指す共和主義者のテロ、不平貴族の反乱、労働者や農民の暴動など、帝政を揺さぶる材料には事欠かない。破綻寸前の国家財政、慢性化した食糧不足、経済成長の停滞なども深刻だ。宇宙軍改革、貴族課税、対同盟デタントを巡る路線対立も激化の一途を辿っていた。

 

 安定しているのはフェザーン自治領のみだ。伝統的な勢力均衡政策を堅持するルビンスキー自治領主派が単独で元老院の六割を占め、勢力均衡政策からデタント政策への転換を主張する旧ワレンコフ派、親同盟のイヴァネンコ派、親帝国のダニロフ派を圧倒している。

 

 俺は現在はハイネセンポリス第二国防病院のベッドで世の中の動きを傍観していた。四=二基地憲兵隊が解体されたために隊長代理の地位が消滅し、チーム・セレブレッゼ監視の任務はウェイ地上軍中佐に引き継がれ、すべての責任から解放された。

 

 英雄と持ち上げられてはいるものの、入院しているおかげでマスコミに引っ張り回されることもない。また、第一惑星第九衛星への上陸戦を指揮したホーランド少将、救援軍を率いてグリンメルスハウゼン艦隊を壊滅させたモートン少将、全軍の戦隊司令の中で随一の武勲をあげたラップ代将、地上戦で一〇〇人以上の敵兵を狙撃したムルティ少尉など他の英雄の存在が、俺への注目を逸らしてくれた。

 

 シェーンコップ中佐やクリスチアン中佐の言葉で、自責の念はだいぶ和らいだ。努力しても自分にはあれ以上のことはできなかったし、セレブレッゼ中将を救ったのも功績だと思えるようになった。それでも、後悔を拭い去るには時間が足りなかった。

 

「貴官の責任ではない。今回の任務では戦闘は想定外だった。良くやったといっていい」

 

 見舞いに来た憲兵司令官クレメンス・ドーソン宇宙軍中将は、そう言ってくれた。上官の温かい言葉に涙が出そうになる。しかし、甘えたくはない。

 

「小官はそうは思いません。任務を何一つ達成できませんでした」

「貴官は本当に律儀だな。そこが良い所だが、度が過ぎるのも良くない。貴官が作成した戦闘詳報を見たが、あれでいいのか? せっかくの武勲に傷がつくだろうに」

「真実を正しく伝えるのが指揮官の責務。小官はそう考えております」

「しかし、これでは昇進選考に不利だ。当事者は全員貴官の昇進を推していることだし、考え直したらどうだ?」

 

 最近、俺の中佐昇進の話が持ち上がっていた。ドーソン司令官は「失敗を隠した方が昇進選考で有利になる」と示唆しているのだ。

 

 とかく情に流されがちなのがドーソン司令官の美点であり、欠点でもある。単純な問題では果敢だが、複雑な問題では不公平になる。受け取るべきでない好意を受け取るのは良くない。せっかく高まったドーソン司令官の名声が傷ついてしまう。

 

 個人的にも中佐昇進を避けたい理由があった。ヴァンフリート四=二で力不足を思い知った。中佐が務まるとは到底思えない。それにここで昇進したら、同一階級在籍期限ギリギリまで勤務したとしても、中佐八年、大佐八年、合計一六年で予備役に編入される。参謀教育を受けているわけでもなく、指揮官としても並以下の俺が将官に昇進できる望みは薄い。今後のことを考えると、あと五年か六年は少佐のままでいたかった。

 

「小官はこれまでも十分すぎるほどに閣下の好意をいただいております。甘えきってしまうのではないかと不安になるのです」

「そのようなことを言われたら、何が何でも昇進してもらいたくなるではないか。困ったものだ」

 

 苦笑まじりにため息をつくドーソン司令官。本当に良い上官だと思う。欠点は多いけど、この人の部下で良かった。

 

「それは死んだ者が報われた後にしていただきたいと思っています。自分だけが報われると後ろめたいですから」

「そういえば、貴官はハイネセンに帰還する船の中で音声入力端末を使って、ずっと戦死者の叙勲推薦書を作っていたそうだな」

「勲章は軍が死者の功績を永遠に覚えているという証。軍が存続している限り、彼らの功績は永久に残り続けるでしょう。また、勲章には年金が付きます。受章者が死亡した場合は、遺族が受給権を相続します。受勲がきっかけで功績が見直されることもあるでしょう。死亡時の名誉昇進が一階級昇進から二階級昇進になるかもしれません。そうなれば、遺族年金も増額されます。死んだ者の心残りを少しは減らせるかもしれません」

「それが貴官なりの責任の取り方ということか」

「はい。彼らに対して何ができるかを考え続けた末の結論です」

 

 目を軽くつぶる。まぶたの裏にトラビ中佐、デュポン少佐、ロイシュナー曹長、ハルバッハ軍曹らの姿が浮かぶ。彼らは命を賭けて責任を全うした。ならば、上官たる俺も彼らに対する責任を果たすのが筋というものだ。

 

「そうか、ならば私からも叙勲をはたらきかけておこう。昇進の話はその後だ」

「ありがとうございます」

 

 体を折り曲げて礼を述べた。痛みで顔が少し歪む。

 

「無理をするな。体の痛みはまだ残っているだろう」

 

 ドーソン司令官が心配そうに押し留める。

 

「申し訳ありません」

「あまり心配を掛けんでくれ」

「気を付けます」

 

 今度は首だけを前方に傾けた。ドーソン司令官の口ひげの下から安堵の吐息が漏れる。彼は病人と怪我人にはとことん優しい。

 

「早く戻ってこい。貴官がいなければ、仕事がやりにくくて困る」

「そんなことを言ってもいいんですか? 彼女が聞いていたら、気を悪くするでしょう?」

「副官は車の中で待たせてある。この部屋の前には誰もおらん」

「く、車の中ですか……!?」

 

 絶句してしまった。副官は上官と一心同体の存在。上官が見舞いに行く時は、一緒に病室に入るか、扉の外で待機するものだ。病院の中にすら同行させないと言う時点で、今の副官のユリエ・ハラボフ宇宙軍大尉がいかに信用されていないかが伺える。

 

「彼女の仕事ぶりは良くないのですか?」

「……うむ。貴官の言う通り、スールズカリッター大尉を起用すべきだった」

 

 信じられないことに、あのドーソン司令官が自分の誤りを認めた。ハラボフ大尉を起用したことをよほど後悔しているらしい。

 

 ヴァンフリート四=二への赴任が決まった時、俺は統合作戦本部のスーン・スールズカリッター宇宙軍大尉を後任の副官に推薦した。彼は前の世界でアレクサンドル・ビュコック元帥の副官、イゼルローン共和政府軍参謀、バーラト自治議会議員などを務めた英雄だが、それを理由に推薦したわけではない。才子とは正反対の人柄、情報部門出身などの理由から適任だと考えた。ところがドーソン司令官はハラボフ大尉を選んだ。

 

 士官学校を三〇位以内で卒業した者は「優等卒業」、三〇〇位以内で卒業した者を「上位卒業」と呼ばれ、軍中央や主力部隊司令部へ優先的に配属される。俺より三歳年下のハラボフ宇宙軍大尉は、士官学校を一六位で卒業した優等卒業者だ。

 

 人事資料を読む限りでは、ハラボフ大尉はとても感じの良さそうな女性だった。明るくて優しい性格がにじみ出ているような顔。頭の回転はどちらかというと鈍く、独創性も持ち合わせていないが、勉強熱心なことでは右に出る者がいない。頭を使うより体を動かすのが得意な体育会系で、徒手格闘術特級を持つ。才子を嫌うドーソン中将とは相性が良さそうに思えた。

 

 ところが実際に会ってみて印象ががらりと変わった。礼儀正しいと聞いていたのにやたらとつっかかってくる。優しいと聞いていたのにずっと不機嫌そうな顔をしている。エリートのハラボフ大尉から見れば、俺の仕事が雑すぎてむかついたのかもしれない。しかし、あんなきつい性格でドーソン司令官の副官が務まるのかと不安になったものだ。

 

「まだ着任したばかりじゃないですか。仕事に慣れるまで長い目で見ましょう」

 

 穏やかにフォローした。ハラボフ大尉の批判はしない。ドーソン司令官の人事を間接的に批判することに繋がるからだ。

 

「しかし、こんなに見込み違いとは思わなくてな。優等卒業者など選ぶべきではなかった。下位で卒業した者を選べば良かった」

 

 ドーソン司令官は劣等感丸出しのため息をついた。口ひげもしおれ気味だ。彼の士官学校卒業時の席次は三一位。命がけで勉強したが、勉強嫌いの天才タイプだった人物に競り負けてギリギリで優等卒業を逃した。そのトラウマが今も尾を引いているらしい。

 

 その後もドーソン司令官はさんざん副官の愚痴を言い、士官学校同期の優等だった第六艦隊司令官シャフラン中将、二期下の優等だった宇宙艦隊総参謀長グリーンヒル大将、士官学校教官時代の生徒総隊長だった七八八年度優等のラップ代将、かつての教え子で七九〇年度優等のアッテンボロー少佐らの悪口まで話を広げ、「優等卒業者はダメだ」との結論を述べた後、大きな紙袋を置いて帰っていった。

 

 一人になった後、紙袋を開ける。俺が大好きな有名菓子店「フィラデルフィア・ベーグル」のドライフルーツ入りマフィンの詰め合わせが入った箱、そして帝国風菓子の老舗「ベルリン菓子店」のカルトッフェルトルテ(じゃがいものケーキ)が丸ごと入った箱があった。

 

「もしかして、じゃがいもというキャラクターを受け入れたのかな」

 

 カルトッフェルトルテを口にする。じゃがいもはなかなかおいしかった。




代将=代将たる大佐はオリジナル設定です。中将=一万数千隻、少将=二〇〇〇隻~三〇〇〇隻、准将=五〇〇隻から六〇〇隻とすると、そこから個艦の間には、一〇〇隻から二〇〇隻の部隊、三〇隻から五〇隻の部隊、一〇隻から二〇隻の部隊、数隻の部隊が挟まるんですが、どうみても階級が足りないんですよね。そういうわけで将官待遇の先任大佐=代将という職位(階級にあらず)を設けました。たぶん原作では艦長職の大佐と一緒くたに大佐と呼ばれてるんでしょう。


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第21話:檻の中の安らぎ 宇宙暦794年6月中旬~7月上旬 ハイネセンポリス第二国防病院

 六月上旬、ヴァンフリート四=二で殉職した部下全員に武功勲章が授与されたとの知らせを受けた。地上軍殊勲星章、国防殊勲章、銀色五稜星勲章など序列の高い勲章を授与された者もいる。受勲者リストにずらりと並んだ部下の名前に目頭が熱くなった。

 

 その数日後、国防委員会から名誉昇進者のリストが送られてきた。殉職した軍人は全員一階級昇進するが、功績抜群の者は二階級昇進する。トラビ大佐、デュポン中佐、ワンジル中佐、ロイシュナー准尉、ハルバッハ曹長ら五七名が一階級昇進から二階級昇進に改められた。軍は彼らの功績を認めてくれたのだ。これで肩の荷が下りた。

 

 最近はリハビリも順調だ。見舞いに来る客との歓談も楽しい。四月に死にかけたことが信じられないほど穏やかな毎日だ。不満といえば、食事が少ないこととトレーニングができないことくらいのものだった。

 

「嘘つけ。エリヤの人生から食事とトレーニングを差し引いたら何が残る?」

 

 見舞いに来た宇宙艦隊参謀アンドリュー・フォーク宇宙軍中佐がとても失礼なことを言った。

 

「勉強がある」

 

 俺はテーブルの上に積まれた本を指さす。最近になって参謀業務の勉強を始めたのだ。それを見たアンドリューが苦笑した。

 

「いい加減、食べ物とトレーニングと軍務以外にも興味を持てよ」

「例えば?」

「そうだなあ。女の子とか、ゲームとか、三点セットとか」

 

 軍人が好む物をアンドリューはあげていく。

 

「三点セットは昔やったけど、あまり好きになれなかった」

 

 軍人の三点セットとは、酒、ギャンブル、セックスサービスを指す。どれも前の人生でやり尽くした。アル中になるくらい酒を飲み、ギャンブルで借金を作り、売春婦とサイオキシンを使ったセックスをさんざんやった。思い出すたびに自己嫌悪に陥る。

 

「兵卒だった頃に一度だけやって嫌になったんだろ? 言われなくても分かるぞ。エリヤは堅いからな」

「まあ、そんなとこかな」

 

 アンドリューの勘違いを肯定した。俺が放蕩したのは前の世界のことだ。そんなのは誰にもわからない。

 

「ゲームはどうだ? 体を動かさないから駄目なのか?」

「そうだなあ。一人でゲームしてたら、どんどん後ろ向きになってしまう」

「そうか。じゃあ、女の子は? まあ、興味ないか。性欲も無さそうだし」

「何言ってんだ。彼女は欲しいし、結婚だってしたい」

「そう言ってるわりに何もしてないよな」

「相手がいないことにはどうしようもない」

「その気になればいくらでも見付かるだろうに」

「俺がその気になっても、あっちがなってくれないことにはどうしようもない」

 

 言ってて悲しくなってきた。どうして恋愛と縁が無いのか? やはり身長の問題だろうか?

 

「一緒に遊びに行ってる背の高い年上美人がいるだろ」

「誰のことかな?」

 

 一緒に遊びに行くような長身の年上美人と言うと、恩師のイレーシュ・マーリア少佐、スタイリストのラーニー・ガウリ軍曹、憲兵隊のアルネ・フェーリン軍曹の三人だ。

 

「迷うくらいいるのか? 女優のマルグリット・バルビーに似てる人だよ」

「マルグリット・バルビー? 知らないな」

「流行りのドラマ『特命捜査官 リンダ・アップルトン』の主演女優。そう言われたら顔は思い浮かばないか?」

「やっぱり分からないな。ニュースとパラディオン・レジェンズの試合しか見ないから」

 

 アップルトンと言われても、二年前にアルレスハイムで惨敗して失脚したサミュエル・アップルトンしか思い当たらない。

 

「エリヤがドラマなんか知ってるわけないか。これがバルビー」

 

 アンドリューは携帯端末の画面を見せた。そこには栗毛の美人が映っている。顔立ちはイレーシュ少佐に似ているが、あまり不機嫌そうではない。目つきは鋭いが、イレーシュ少佐ほど怖そうではない。

 

「ああ、イレーシュ少佐か。あの人は恩師というか家族というか、そんな感じだな。クリスチアン中佐と同じだ」

 

 イレーシュ少佐の方が美人だと思ったが、それは口にしなかった。四=二基地で振られたことも言わなかった。

 

 アンドリューはそれからも俺の知り合いの女性を列挙した。良くも他人の人間関係を詳しく把握しているものだと感心させられる。さすがは士官学校の首席だ。

 

「ああ、そうだ。ハラボフさんがエリヤの後任になってたはずだ。彼女はどうだ?」

「知ってるのか?」

 

 アンドリューの情報の早さに驚いた。本当は作戦参謀じゃなくて情報参謀なんじゃないかと疑いたくなる。

 

「戦略研究科の後輩だからな」

「ああ、なるほど」

「エリヤとハラボフさんならお似合いだと思うけどな。エル・ファシル出身だし、体育会系だし、赤毛だし、身長も同じくらいだ。雰囲気も似ている」

「エル・ファシル出身? ミトラじゃないのか?」

「生まれはエル・ファシルで、小学校の途中からミトラに引っ越してる」

「そうか。まあ、どうでもいいや」

 

 ハラボフ大尉のようなきつい人は苦手だ。あまり興味を感じる相手ではない。

 

「やはり女の子に興味ないんだな。その外見と性格で彼女ができない理由なんて、他には考えられない」

 

 アンドリューはそう断言した。彼はいつも人を善意で解釈する。前の世界でラインハルト・フォン・ミューゼルは親友のジークフリード・キルヒアイスに対し、「下水道の中を覗いても、そこに美を発見するタイプ」と言ったそうだ。アンドリューもそういうタイプに違いない。

 

 俺は劣等感だらけの小物だ。あまりに持ち上げられると居心地が悪い。しかし、否定すれば「そんなことはない」とますます持ち上げられるだろう。話題を変えることに決めた。

 

「そういう君はどうなんだ? 大学院生のオードリーさんとはうまくいってるのか?」

「ああ、最近別れた。何度通信入れても繋がらなくて、嫌になったんだとさ。前線に出てる間は通信が繋がらないなんて珍しくもないのに」

「ああ、宇宙嵐とか妨害電波とかいろいろあるからな」

「それが民間人にはなかなかわかってもらえない」

 

 アンドリューは苦笑を浮かべる。彼は先月までヴァンフリート星域の同盟軍総司令部にいた。同じ星域の中でもまともに通信が繋がらないような場所だ。ミス・オードリーが嫌になるのも無理はないと思う。

 

 軍隊の常識は民間の非常識だ。通信が何か月も繋がらないなんて当たり前。転勤が多いせいで遠距離恋愛になりがち。軍隊文化と一般社会の文化の違いは、帝国文化と同盟文化に違いよりも大きいと言われる。だから、軍人と民間人の恋愛は破綻しやすい。

 

「軍人と付き合えよ。宇宙艦隊総司令部ならいくらでもいい子がいるだろうに」

「それはないな。別れた後が面倒だ。軍隊は狭い社会だからな。士官学校で嫌というほど思い知らされた」

「見合い結婚は? 軍人や政治家の娘だったら、こちらの事情もわかってくれるって」

「そういう話は全然来ないなあ」

「嘘つけ。俺にだって来てるのに」

「へえ、エリヤのところにも来てるのか。いよいよエリートの仲間入りだな」

 

 きらりとアンドリューの眼が光る。調子に乗っていらないことを言ってしまったと後悔した。

 

「あ、いや、ほんの二件だぞ」

「誰から?」

「第六地上軍のアジュバリス中将と国防委員会のリバモア少将」

「どっちも大物じゃないか」

「それはそうだけどなあ……」

 

 微妙な気分だった。アジュバリス中将はヤン・ウェンリーが士官学校にいた当時の副校長で、保守派教官のボスとしてリベラルなシトレ校長と激しく対立した。リバモア少将は「NPC国防委員会支部長」「軍服を着た政治家秘書」とあだ名されるほどにNPCと密着している。こういう人から声が掛かる自分は世間からどう見られてるのだろうと考えてしまう。

 

 それからも俺とアンドリューは軍務に関係ない話を続けた。最近の彼はほとんど軍務の話をしない。気分転換をしたいのだろうと思う。

 

 ロボス元帥の幕僚チーム「ロボス・サークル」の体制が今年から大きく変わった。これまで中心となってきたホーウッドら四〇代の中堅が軍幹部として栄転し、コーネフ、ビロライネン、アンドリューら二〇代、三〇代の若手が新たな中心となった。

 

 今年に入ってからのアンドリューはいつも疲れた顔をしている。雰囲気も暗くなった。この半年で三年は老けたかのようだ。宇宙艦隊を背負う重圧、ヴァンフリート戦役での失敗などがストレスになっているのだろう。

 

「アンドリュー、体には気をつけろよ」

「ありがとうな」

「その痩せっぷりじゃあ、ろくに食事もとってないだろう。これでも食っとけよ」

 

 俺はベッドの横の棚からドーナツの入った袋を取り出し、アンドリューに渡した。

 

「いいのか?」

「ああ、差し入れを貰っても食べきれないんだ」

 

 残念そうに棚を見る。そこには菓子の入った袋がいくつも並んでいた。内臓の傷が完治するまでは大っぴらに食べられない。

 

「まさかエリヤから食べ物を貰えるなんて思わなかった。大事に食べさせてもらう」

 

 そう言ってアンドリューは病室を出て行く。足取りも頼りなく、職場に戻る前にこの病院で診察を受けたほうがいいんじゃないかと思える。

 

 前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』では、アンドリューの容姿は「年齢より老けて見える」「血色の悪い顔は肉付きが薄すぎた」「対象をすくい上げるような上目遣いと歪んだような口元が印象を暗くしている」と評されていた。爽やかなアンドリューが、前の世界の病んだフォークになってしまうのではないか。そんな不安をかすかに覚えた。

 

 

 

 一月から始まった経済危機は、六月が過ぎても終息する気配を見せなかった。ディナールと株価は下落の一途を辿り、企業倒産件数と失業率は跳ね上がった。フェザーンの信用格付け機関が同盟国債を格下げした。証券業界第三位のバリントン・ファミリーを始めとする大手金融機関が次々と経営危機に陥った。シヴァ星系政府を始めとする複数の星系政府がデフォルト寸前と言われる。

 

 そんな中でも連立与党は通常営業だった。ヘーグリンド最高評議会議長が辞任を表明した後、国民平和会議(NPC)のオッタヴィアーニ元最高評議会議長、ドゥネーヴ元最高評議会議長、ムカルジ最高評議会議長、バイ前最高評議会議長の四名が新議長の座を巡って争った。辞任した議長も後継に名乗りを上げる者もみんな「ビッグ・ファイブ」という構図は、七年前からまったく変わらない。

 

 ビッグ・ファイブの一人一人の違いを理解できる者は少ないだろう。年齢は七〇歳前後、安全保障面では伝統的な積極的防御戦略、内政面では行政改革推進、財政面では財政再建重視。容貌と出自以外は似たり寄ったりの五人が、怨恨や利権のために離合集散を繰り返してきた。

 

 退屈な争いの末に七一歳のビハーリー・ムカルジが新議長の座を獲得し、与党第二党・進歩党の代表で七六歳のリンジー・グレシャムが引き続き副議長を務めることになった。その他の評議員も党派均衡人事で選ばれたと一目で分かる顔触れだ。特定の機関を管掌しない無任所評議員は、「最高評議会法」で認められた上限の五人。配分するポストを増やすためなのは言うまでもない。

 

 唯一注目された人事は、オラース・ラパラ下院議員の報道担当無任所評議員への抜擢だった。美少年アイドルとして絶大な人気を誇る彼は、一八歳で被選挙権を取得すると同時に下院補選へ出馬して議員となり、一九歳の若さで初入閣を果たした。話題作りと女性人気目当ての抜擢人事は、あまりに露骨すぎて市民感情を逆撫でした。

 

 そして、進歩党から選ばれたカステレン人的資源委員長が、退役軍人が無料で医療を受けられる権利について、「軍人は特権階級ではない」「彼らは自分の金で治療を受けるべきだ。市民はみんなそうしている」と述べたことから右派の反発を買って、就任からわずか一四日で辞任に追い込まれた。

 

 市民は改革を推進できる政権を望んでいる。見るからに弱そうな新政権が支持されるはずもなかった。世論調査によると、政権支持率はわずか二八パーセント。それでも、手堅い組織票と豊かな資金に支えられたNPCと進歩党が政権から転落することはない。

 

 病棟ロビーの大きなテレビには、ハイネセンポリス都心部の大通りを行進する数万人のデモ隊が映っている。彼らは統一正義党系列の極右民兵組織「正義の盾」だ。道路をびっしりと埋め尽くす老若男女。無秩序に飛び交う怒号。画面を通しても凄まじい熱気が伝わってくる。

 

「我々は“I・G・R”を待っている!」

「軍事費削減反対!」

「ムカルジ政権は即刻退陣しろ!」

「拝金主義と戦え! 汚職を追放しろ!」

「仕事を寄越せ!」

「金融資本優遇をやめろ!」

「帝国を倒せ! フェザーンと断交せよ!」

 

 参加者が掲げるプラカードのうち、軍事費削減反対や対帝国主戦論は保守派と重なる。だが、拝金主義批判、金融資本批判、反フェザーンなどの反資本主義的な主張、「I ・G・R」という隠語は、極右特有のものだ。

 

 I・G・Rとは「鋼鉄の巨人ルドルフ(Iron giant Rudolf)」の頭文字で、銀河帝国初代皇帝ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムを意味する。要するにデモ参加者はルドルフ待望論者だった。銀河連邦簒奪、劣悪遺伝子排除法、四〇億人粛清といったルドルフの悪行が忘れ去られたわけではない。知っていてなお彼らは待望論を口にする。これくらい思い切ったことのできる強い指導者を彼らは望む。民主主義に対する失望がルドルフ待望論に力を与えた。

 

 昨日は急進的反戦団体「反戦市民連合」のデモ隊数万人が同じ通りを行進した。彼らは現在の同盟を「反帝国に凝り固まって理想を失った。戦争のために自由を制限するなど本末転倒だ」と批判し、ハイネセン主義に忠実な国家の建設を目指す。対帝国戦争遂行のために国民生活が圧迫されている状況への不満から台頭した。

 

 左右の急進派が白昼堂々と首都の中心部をのし歩く。まるで革命前夜のようだ。前の世界で起きた帝国領侵攻作戦、救国軍事会議のクーデターなどもこういった雰囲気の延長上にある。

 

 戦記だけを読むと、帝国に侵攻しなくても政権を維持できるように思えるし、救国軍事会議がクーデターを起こすほど民主主義が酷いとは思えないし、ヤンの強烈な政治不信が理解できないし、レベロ議長がヤンを警戒したのも被害妄想にしか見えない。

 

 前の世界で戦記を書いた人々は、ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ローエングラムと接点のない事象に対する関心がおそろしく薄かった。登場人物が政治論を語る場面は多いのに、肝心の政治状況にはほとんど触れていない。選挙は完全に他人事、トリューニヒトと右翼運動の主導権を争ったルドルフ主義者、トリューニヒトに倒された保守政界の支配者ビッグ・ファイブなんかも完全に無視されている。

 

 ルドルフ主義者やビッグ・ファイブの存在を知識として知っている俺も、七九〇年代の大半を帝国の収容所で過ごし、トリューニヒトの一人勝ち状態になってから帰国したため、後知恵であれこれ考えることが多かった。しかし、実際に七九〇年代の空気に触れてみると、政治に背を向けたくなる気持ち、独裁者を待望する気持ちなどが理解できてくる。

 

 理解できたところで嬉しくも何ともなかった。完全に傍観していられるのならともかく、俺はこの社会の一員だ。不安定な政治など百害あって一利もない。

 

 携帯端末をチェックしてニュースを読む。暗いニュースが並ぶ中、見出しに「エル・ファシル」という文字を見つけると安心する。

 

 二年前に再建されたエル・ファシル星系政府は大胆な行政改革に乗り出した。財政支出と公務員を大幅に削減し、公務員が人口一〇〇〇人あたり一〇人という銀河で最も効率的な行政機構を作り上げた。それと同時に規制撤廃、公共事業の民営化などの経済改革にも取り組んだ。その結果、エル・ファシルは「辺境星域の優等生」と呼ばれる別天地になった。次期星系首相の有力候補であるフランチェシク・ロムスキー星系教育長官は、「エル・ファシルはフェザーンよりも自由だ」と改革の成果を誇る。

 

 問題が無いわけでは無かった。マリエット・ブーブリル上院議員の後押しを受けた守旧派が改革に激しく抵抗している。分離主義過激派組織「エル・ファシル解放運動(ELN)」のテロも続いており、最近はエル・ファシル義勇旅団の第一連隊長だったカッサラ州知事オタカル・ミカが暗殺された。しかし、いずれは改革の波に飲み込まれるだろうと言われる。

 

 ひと安心したところで長椅子に寝転ぶ。初夏の日差しが大きな窓から差し込んでくる。程良い空調のおかげで暑いと感じることも無く、ひなたぼっこができる。

 

 ロビーにいる二〇名ほどの入院患者も、茶を飲んだり、テレビを眺めたり、本を読んだり、昼寝をしたりと、思い思いに過ごす。この病棟の入院患者のうち、半数はヴァンフリート四=二基地の戦闘で負傷した中央兵站総軍の幕僚、すなわち麻薬犯罪の容疑者だ。

 

 彼らは容疑が晴れるまで、あるいは容疑が確定して憲兵司令部に送られるまで、治療を名目に軟禁されている。もちろん、当人はその事実を知らない。発覚したら重大な人権問題になりかねないからだ。不審を抱かれないよう、疑惑と無関係な患者も同じ病棟にいる。憲兵隊のエージェントも一般患者を装って監視にあたる。

 

 例えば、このロビーにいる患者の中では、新聞を読んでいる初老の男性、他の患者とカードゲームをしている中年女性、コーヒー片手に看護師と立ち話をしている若い女性が憲兵隊のエージェントだ。

 

 強力なセキュリティに守られた軍病院は、軍事犯罪者の拘禁、大物亡命者の保護、不祥事を起こした要人の避難場所など、裏の仕事にも使われてきた。軍上層部が内部告発者を精神病患者に仕立て上げて監禁したこともある。一部では軍病院を「白い牢獄」と呼ぶ者もいる。のどかな一時も同盟軍の闇と紙一重だった。

 

 

 

 ある朝、憎たらしい妹からのメールが携帯端末に届いた。もちろん、中身も見ずに削除した。発信アドレスも着信拒否にする。ヴァンフリートで前の携帯端末を無くし、新しい物に代えたばかりだった。軍の人事部には、誰が相手でも俺の許可無しにアドレスを教えないように依頼した。それなのにあの風船デブはアドレスを突き止めてくる。本当にうんざりだ。

 

「今日は随分と不機嫌ですね」

 

 脳天気な女性の声が聞こえた。丸っこい童顔、ボールを詰め込んだような馬鹿でかい胸、わりと細い体、俺より五ミリも高い身長。同じ棟に入院している中央兵站総軍参謀のダーシャ・ブレツェリ宇宙軍少佐だ。妹のせいで落ち込んだ気持ちがさらに落ち込む。

 

「そういうブレツェリ少佐はいつもご機嫌だな」

「やっぱり不機嫌ですね。まあ、そんな顔も可愛いですけど」

「君は『可愛い』以外の言葉を知らないのか? ジェンク・オルバイじゃあるまいし」

 

 ジェンク・オルバイとは、一世紀前に活躍した主戦派の政治家である。大した政治的業績はないが、議会で発言する際に必ず「いずれにせよ、銀河帝国は滅ぼさなければならない」と最後に付け加える奇癖のおかげで、「馬鹿の一つ覚え」の代名詞として名を残した。

 

「そうですね、ゆるいウェーブのかかった赤毛は、毛糸のようにふわふわです。くしゃくしゃにしたら気持ち良さそう。つり目気味の猫っぽい目、ふっくらしたほっぺた、細くて濃い眉はやんちゃ坊主って感じ。美形じゃないけど、とても愛嬌がある。そんなフィリップス少佐が不機嫌そうにしてると、まるで子供が……」

「もういい」

 

 聞かなければ良かったと心の底から後悔した。

 

「で、どうなさったんですか?」

 

 ブレツェリ少佐の丸っこい顔がやじうま感情で輝き出す。

 

「どうもしていない」

「どうもしてないのに、こんなに不機嫌になったりしないでしょ」

 

 この女はいつも正面から切り込んでくる。周囲では他の入院患者が「またやっているよ」と言いたげな顔で俺達を見る。本当に面倒くさい。

 

「あなた方はいつも仲が良いですな。羨ましい限りです」

 

 ハンス・ベッカー少佐が割り込んできた。彼もまた入院患者の一人だ。見た目は気楽な兄ちゃんといった感じだが、二年前までは帝国軍の情報将校で、姪を連れて亡命してきたという波瀾万丈の経歴を持つ。

 

「別に仲良くありませんよ」

 

 俺はふてくされ気味に答える。

 

「では、そういうことにしておきましょう」

「ありがとうございます」

「明後日で退院することになりましてね。謹厳なフィリップス少佐が年下の女性相手にむきになるところを見れなくなると思うと寂しいですよ」

 

 ベッカー少佐が右手に持った紙コップに口をつけた。中に入っているのはいつもと同じ緑茶であろう。彼の祖国ではグリューナーテーと呼ぶそうだが。

 

「おめでとうございます、ベッカー少佐。私はまだ退院のめどがたたないですよ」

 

 ブレツェリ少佐が笑顔で祝福する。

 

「それは不思議ですな。普通なら一か月で完治する怪我でしょうに」

「ええ。さっさと退院しちゃいたいんですけど」

「そうしたら、フィリップス少佐と会えなくなりますよ」

「ああ、入院が長引いて良かったのかな」

「一度実物を見てしまったら、もう画像だけでは満足できんでしょう。それがファン心理というものでは」

「ですよね。まとめサイトだけじゃ物足りないです」

 

 聞いてるだけで頭痛がするような会話が目の前で続く。そう、ブレツェリ少佐は俺のファンなのだ。

 

 ネットには「エリヤ・フィリップス画像まとめ」なるものがいくつか存在する。義勇旅団の解散後に更新されなくなったが、「エリヤ・フィリップスくん非公式ファンクラブ」なんてサイトもある。義勇旅団が人気絶頂だった頃は、「子供をフィリップス旅団長のような愛国者に育てるにはどうすればいいのか」なんて特集を組んだ保守系女性誌もあった。だから、俺のファンというものが存在することは知っていた。知っていたけれども、本物と対面すると困惑してしまう。

 

 俺のファンなのを差し引いても、ブレツェリ少佐は変人だった。猫舌のくせにいつもホットココアを注文しては、冷ましてから飲む。最初からアイスココアを注文すればいいのに、「負けた気がするから」と言って、頑なにホットココアを注文し続ける。非の打ち所のないアホだ。顔も子供のような丸顔。俺の一歳下だなんて信じられない。士官学校戦略研究科を三位で卒業したエリート、後方勤務本部や中央兵站総軍で勤務という華麗な経歴が嘘っぽく思えてくる。

 

 聞くところによると、ブレツェリ少佐の親友や一二歳になるベッカー少佐の姪も俺のファンらしい。あんな変人が他にもいると想像するだけでうんざりする。

 

「おお、フィリップス君。三次元チェスでも打たないか」

 

 三次元チェス盤を抱えた中年男性が声をかけてきた。彼は同じ棟に入院している中央輸送軍のグレドウィン・スコット宇宙軍代将。三次元チェスの師匠だ。

 

「いいですよ」

 

 アホな会話をする秀才参謀と亡命者から解放されたい一心で了承した。

 

「あれ? 俺には声かけてくれないんですか?」

 

 ベッカー少佐がスコット代将の方を向く。

 

「ベッカー君は強すぎるからな。行方がわかる勝負など面白くない」

「それを言うなら、フィリップス少佐は弱すぎるでしょう。二か月前にルールを覚えたばかりですから」

「勝負の厳しさを教えているのだよ。フィリップス君は戦闘では強いが、三次元チェスと女性に滅法弱い。若い者がそれではいかん。年長者が教え導いてやらねばな」

 

 得々と語るスコット代将。ベッカー少佐とブレツェリ少佐が微妙な表情をする。

 

「……あなたにそれを言う資格があるかどうかはともかく、フィリップス少佐が女性に弱いのは事実ですな。昨日は見舞いに来た赤毛の女の子を怒らせてましたよ。なかなかの美人だったんですがね。もったいないことをすると思いました」

 

 ベッカー少佐が最悪の方向に話を振った。

 

「ああ、憲兵隊副官のハラボフさんですか。戦略研究科の後輩ですよ」

 

 ブレツェリ少佐が話題に乗る。

 

「ご存知でしたか」

「ええ、あまり付き合いはなかったけど感じのいい子でした。あの子が怒るところなんて想像付きませんね」

「フィリップス少佐だって、他人を怒らせるようなことは言わない人でしょう。しかし、恋愛が絡むと人は変わるもんです」

 

 何の根拠もなくベッカー少佐は決め付けた。単に「こうだったら面白いのに」という願望で言ってることは明白だ。シェーンコップ中佐と言い、ベッカー少佐と言い、亡命者は人をからかうのが趣味なのかと思えてくる。

 

「ああ、なるほど。そういうことですか」

 

 ブレツェリ少佐の大きな目が野次馬根性で輝き出す。完全に誤解されてしまっている。俺は慌てて口を開いた。

 

「そういうことじゃない。ハラボフ大尉が『あなたの後任を務めるのは大変です』とため息をついたから、『雑な仕事したせいで苦労させてすまない』と謝ったんだ。そうしたら、急に怒りだしてね」

 

 目を伏せて軽くため息をついた。唇を噛み締めて俺を睨むハラボフ大尉の顔が脳裏に浮かぶ。

 

「どうして彼女が怒ったのか。さっぱりわからない」

 

 話し終えたところで、ブレツェリ少佐、ベッカー少佐、スコット代将の顔がひきつっているのが見えた。

 

「最悪……」

 

 ブレツェリ少佐が不快感を込めて呟く。

 

「弱いってもんじゃないな、これは」

 

 スコット代将は憐れむような目で俺を見る。

 

「ですなあ。天然もほどほどにしないと」

 

 ベッカー少佐がそれに同意する。想像もつかない反応に俺は慌てた。

 

「どこがまずかったんでしょうか?」

「わからないんですか?」

「本当にわからないんですよ。まずいこと言いましたか?」

 

 すがるような目でベッカー少佐を見る。

 

「――たぶん、彼女はフィリップス少佐に敵わないと思ってたんですよ」

「いや、そんなことはないでしょう。実際、彼女の方がずっと優秀ですし」

「世間の評価はあなたの方がずっと上です。亡命して日が浅い私の耳にもあなたの評判は入ってくる。ハラボフ大尉が優秀と言っても、あなたほどは評価されていないはずです」

「しかし……」

「客観的に自分を評価しましょう。士官学校を出ていないのに二六歳で少佐になった。憲兵隊副官や基地憲兵隊長代理を歴任した。勲章をたくさん持っている。中佐昇進が確実と言われる。そんなやり手に『雑な仕事したせいで苦労させてすまない』って言われたらどう思います? 皮肉られたように感じませんか?」

 

 いつになくベッカー少佐は真剣だ。

 

「ハラボフさんは真面目過ぎでしたからね。思い詰めたのかも」

 

 ブレツェリ少佐が痛ましそうに嘆息する。

 

「そうか、そういうことか」

 

 ここまで言われたら、鈍い俺だって理解できる。ハラボフ大尉はドーソン司令官にまったく信頼されていない。かなり精神的に追い込まれていたはずだ。そんな時にあんなことを言われたら、傷つくだろう。「お前は俺より無能だ」と言われた方がずっと気が楽だ。

 

「フィリップス少佐は変に謙遜し過ぎなんです。ほどほどにしないと嫌味ですよ。もっと自然体でいいんです、私みたいにね」

「いや、ブレツェリ少佐は自然体過ぎるんじゃ……」

「劣等生だったのって昔の話でしょ? 今は押しも押されぬエリート。中佐に昇進したら、同い年の士官学校首席と階級が並ぶんですよ?」

「いや、昇進は辞退するつもり……」

「腰が低いのはいいけど、卑屈なのは駄目。ドーソン提督の悪いところまで真似る必要はないんだから。今のフィリップス少佐は下から見られる立場です。ちゃんと胸を張ってください。そうしないと、下の人が困ります。ヴァンフリート四=二基地にいた時のように多少強引なくらいでいいんです」

 

 ブレツェリ少佐は俺の突っ込みを無視して喋り続ける。

 

「しかし、俺はそんなに大したもんじゃ……」

「大したもんです」

「で、でも……」

「そういうの鬱陶しいからやめてください」

 

 清々しいほどにばっさりとブレツェリ少佐は切り捨てる。俺の逃げ道は完全に塞がれた。

 

「すみません」

「あなたの卑屈さは人を傷つけますよ? 内心でどう思っててもいいですけど、表に出すのはなるべく控えていただけますか? そういうの可愛くないんで」

「気を付けます」

 

 俺の返事にブレツェリ少佐は「実に結構」といったふうに頷く。そして、一分ほど黙り込み、ぐいと顔を寄せてきた。

 

「フィリップス少佐」

「はい」

 

 大きな淡褐色の瞳が未だかつて無いほどの迫力をもって迫ってくる。

 

「本当に可愛いですね」

 

 そんな真面目な表情で何を言ってるんだと、腰が砕けそうになった。やはり、ブレツェリ少佐はブレツェリ少佐だった。しかし、ここで否定したら卑屈と思われる。持てる力を振り絞って返事をした。

 

「あ、ありがとう……」

 

 俺が礼を言うと、ブレツェリ少佐はいつもの無邪気な顔で笑う。ベッカー少佐、スコット代将、その他の入院患者が生暖かい視線を向ける。

 

 この病棟の入院患者のうち、半数が中央兵站総軍及びその傘下部隊の幕僚だ。彼らは憲兵隊によって軟禁されている。そのため、退院できる見通しが立っていない。面会も制限されている。だから、こんなつまらないことでも楽しめた。

 

 中にいる者は強力なセキュリティによって世間から隔離され、病院スタッフによって生活を管理され、医師の許可が出るまでは外に出られない。この安らぎは檻の中の安らぎだった。



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第22話:政界情勢は複雑怪奇 宇宙暦794年7月上旬~8月初旬 憲兵司令部~フェザーン市

 七月上旬、ハイネセンポリス第二国防病院から退院した俺は、その足ですぐに憲兵司令部へと向かった。そして、副官のユリエ・ハラボフ宇宙軍大尉を呼び出して取り次ぎを依頼する。

 

 数日ぶりに会うハラボフ大尉は、ひと目でそれと分かる応対用の微笑みを浮かべていた。癖のないまっすぐな赤毛は、肩に掛かるか掛からないかの長さに切り揃えられている。顔の輪郭はきれいな卵型。乳白色の肌はつやつやしていて健康的。目はぱっちりとしていて可愛らしい。鼻筋はすっきりと通っている。クールな雰囲気の美人だが、笑顔も悪くないような気がする。

 

「司令官閣下よりお話は伺っております。こちらへどうぞ」

 

 耳触りの良い声からは何のわだかまりも感じられない。これならちゃんと話せるかもしれないと思った。

 

「ハラボフ大尉、先日は……」

「こちらへどうぞ」

 

 謝罪の言葉は柔らかい壁に阻まれた。ハラボフ大尉はくるりと振り向いて早足で歩き出す。俺は後ろからついていく。

 

 苦手な相手と言葉をかわさずに歩くには、憲兵司令部の廊下はあまりにも長すぎた。どんどん後ろ向きな考えが頭の中に浮かんでくる。細くてしなやかなハラボフ大尉の後ろ姿が拒絶の意を示しているように見える。一ミリの無駄もない足取りからは、俺と歩く時間を少しでも縮めたいという意思を感じ取ってしまう。

 

 来客用待合室の中に入ってソファーに腰掛けた。テーブルの上には、マフィンが二個乗った皿、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーが入ったカップが置かれていた。

 

「もうすぐ会議が終わりますので、一〇分ほどお待ちください。コーヒーのおかわりを希望される場合は、フェーリン軍曹が承ります」

「ありがとう。ところでお見舞いに来てくれた時の……」

「こちらからはお話することはありません」

 

 ハラボフ大尉は俺の言葉を遮ると、早足で部屋を出て行った。謝罪は受け付けないということだろうか? 気分が沈んでいく。

 

 糖分を補給するためにコーヒーを飲んだ。ちょうどいい甘さ加減だ。しかし、まだ糖分が足りない。ハラボフ大尉から渡されたボタンを押す。

 

 一分も経たないうちに長身のおっとりした美人が入ってきた。副官付のアルネ・フェーリン軍曹だ。フィン・マックール補給科から付いてきた彼女は、ハラボフ大尉よりもドーソン司令官の信頼が厚く、曹長昇進と幹部候補生養成所への入所が内定している。

 

「フェーリン軍曹、久しぶり。元気だったか?」

「まあまあです」

 

 彼女は「元気か?」と聞かれると、いつも「まあまあ」としか答えない。本当の答えは言葉ではなく表情に現れる。

 

「そうか、最近は仕事が大変なんだな」

「ええ」

「ハラボフ大尉とうまくいってないのか?」

「そんなところです」

「正直に言ってほしい。彼女はどうだ?」

「頑張ってはいらっしゃいますが……。空回りしてますね」

「空回り?」

「ハラボフ大尉は着任の挨拶で、『フィリップス少佐を尊敬している。少しでも近づけるよう頑張りたい』っておっしゃってたんです」

「俺を尊敬?」

「そりゃあ、副官の仕事をする人なら、誰だってあなたを尊敬します。ドーソン提督の両腕と言われる方ですから」

「そうか……」

 

 軽くため息をつき、マフィンを口に放り込んだ。ハラボフ大尉が俺を高く評価しているというベッカー少佐の洞察は正しかった。

 

「あの方はご覧のとおり、雰囲気があなたと良く似てらっしゃるでしょう? ですから、私達も期待したんですよ。しかし、あの方にはあなたのような緩さが無かった。張り切りすぎて失敗したんです」

「なんともやりきれないな」

 

 まるで俺がハラボフ大尉を追い詰めたようなものではないか。みんなが彼女と俺を重ねてしまった。そして、彼女も俺を意識しすぎた。そんな時に「雑な仕事したせいで苦労させてすまない」などと言われたら、傷つくのも当然だ。

 

「ハラボフ大尉を更迭するって話も出ています」

「だめだ、それはだめだ!」

 

 思わず大声をあげてしまった。ここで更迭されたら立ち直れなくなるではないか。

 

「しかし、これでは仕事にならないですよ」

「ハラボフ大尉はどういう人だと思う? 俺との比較じゃなく、一人の人間としての評価を言ってほしい」

「いい人だと思います」

「彼女は真面目だと思うか?」

「心配になるくらい真面目ですね」

「彼女に生意気なところはあるか?」

「まったくありません。むしろこんなに素直で大丈夫なのかと感じます」

「仕事はできるか?」

「あなたと良く似ています。口下手で頭の回転も遅いですが、丁寧な仕事をなさいます」

 

 フェーリン軍曹がハラボフ大尉に下した評価は、クールでプライドの高いエリートという俺の評価と正反対だった。

 

「それなら問題はない。ドーソン提督に必要なのは、切れる副官ではなくて忠実な副官だ。要するにハラボフ大尉のような副官だよ。長い目で見てやってくれないか」

「わかりました」

「これは彼女には言わないでくれ。言ったら傷つくから」

 

 俺の言葉にフェーリン軍曹が頷いたところで、ハラボフ大尉がやってきた。

 

「会議が終わりました。司令官室までお越しください」

「わかった。ありがとう」

 

 ソファーから立ち上がって、ハラボフ大尉の後についていった。さっきと違って後ろ姿が弱々しく見える。これは彼女ではなく俺の問題であろう。

 

 五か月ぶりの憲兵司令官室は実に良く整頓されていた。物の配置も良く考えられている。ハラボフ大尉は良く頑張っていたのだ。

 

「貴官が退院してくるのをずっと待っていたのだぞ」

 

 ドーソン司令官が俺のもとに駆け寄ってきた。デスクの横に貼ってあるカレンダーの日付にはバツ印が付けられ、今日の日付だけ二重丸で囲まれて、「退院」の文字が記されている。胸の奥から暖かいものが込み上げてくる。

 

「お待たせして申し訳ありませんでした」

 

 背筋を伸ばして敬礼をした。ドーソン司令官は目を細めて微笑む。

 

「怪我は完全に治ったか?」

「はい。後遺症も残らずに済みそうです」

「そうか、それは良かった」

「実はお話が……」

 

 ドーソン司令官の機嫌が良くなったところを見計らい、ハラボフ大尉のことを話した。フェーリン軍曹に話したのとほぼ同じ内容だ。

 

「――というわけで、もう少し長い目で見ていただけませんでしょうか?」

「うーむ……」

 

 ドーソン司令官は口ひげを触りながら唸る。

 

「閣下に長い目で見ていただいたおかげで、今日の小官があります。同様の御配慮を彼女にも頂ければ幸いです」

「貴官がそれほどに言うのなら考えておこう」

「ありがとうございます」

 

 上体を直角に折り曲げて感謝した。ハラボフ大尉のためならば、どれほど頭を下げようとも下げ過ぎということはない。

 

「頭を上げろ。そんなに下げなくても、貴官の気持ちは十分伝わった」

 

 ドーソン司令官は困ったように言った。俺はゆっくりと頭を上げる。

 

「本題に入ろうか。まずは我が国と帝国の憲兵隊の合同捜査の結果を伝える」

「もう結果が出たのですか? 思ったより早いですね」

「捜査は打ち切りになった。最高評議会の決定だ。被拘束者は全員無条件で釈放。麻薬密輸への関与が明らかな者に対する処分も行われない」

「いったいどういうことですか!?」

 

 上官の前ということも忘れて声を荒げた。

 

「まずはこれを読め」

 

 俺はドーソン司令官から渡された捜査資料に目を通した。そこにはこれまでの捜査で明らかになったサイオキシンマフィアの内部情報が記されていた。

 

 今から四〇年ほど前。同盟軍の高級幕僚Aがサイオキシンを戦利品として入手したのがすべての始まりだった。サイオキシンが儲かる商品だと見抜いたAは、帝国の麻薬組織と組んでイゼルローン回廊経由の密輸ルートを開拓した。そして、同僚や部下を取り込み、麻薬取締作戦の指揮官となって対立組織を公然と潰し、ほんの数年で麻薬王にのし上がった。

 

 軍務でもAの手腕は遺憾なく発揮された。数々の偉功を立てて累進し、七三〇年マフィア世代が引退した後は同盟軍を背負って立つ存在となり、首都防衛軍司令官、特殊作戦総軍司令官、国防委員会情報部長などを歴任した。彼の配下も軍部の要職を占めた。サイオキシンマフィアは表と裏で権力を握ったのだ。

 

 正義感から、あるいは野心からマフィアを摘発しようとする者は少なくなかった。だが、マフィア独特の組織構造が捜査を難しいものとした。そして、表と裏の両方から妨害の手が伸びてくる。捜査関係者の暗殺も一度や二度ではない。マフィアは一度も摘発されることなく巨利を貪った。

 

 Aが宇宙軍大将の階級で退役すると、帝国側資料で「グロース・ママ」と呼ばれる兵站部門のエリートが最高指導者に就任した。兵站部隊に顔の利くグロース・ママは、軍の兵站組織を麻薬流通に使うことを思いつき、時間を掛けて中央兵站総軍を取り込んでいった。その結果、組織はさらなる発展を遂げたのである。

 

「しかし、A提督とドワイヤン少将がマフィアのボスだったなんて、想像もつきませんでした」

 

 Aは七六七年六月危機(ジューン・クライシス)、ケリム暴動など数々の国難を救った功績、共和制に対する絶対的な忠誠心、元帥号を辞退するなどの清廉な人格から「共和国の盾」と敬愛された名将。グロース・ママこと中央兵站総軍参謀長デジレ・ドワイヤン少将は人の良さそうなおばさん。彼らがマフィアのボスだなんて想像もできなかった。

 

「貴官の目でも悪党に見えるような人物なら、ボスにはなれなかっただろうな」

 

 ドーソン司令官は嫌みたっぷりに突っ込む。悪気があるわけではない。単に他人の間違いを指摘するのが好きなだけだ。そして、指摘自体はいつも正しい。

 

「確かに小官を騙せないようではボスなんて無理です」

「しかし、さすがの悪党もこの私は欺けなかった。遭遇戦さえなければこの手で取り調べてやれたのだかな」

「残念です。まさか、絶対安全圏に敵の一個艦隊が出現するなんて思いもよりませんでした」

「帝国軍のミュッケンベルガーはリスクを避ける男だ。それがなんであんな博打を打ったのか。こちらの情報が漏れていたのかもしれん」

「主戦場の混乱、常識はずれの奇襲、通信の遅れ、予想外の遭遇戦。流れはすべてドワイヤンに味方していました。何とも運の強い奴です。ロペスのおかしな指揮も帝国軍にわざと捕まるためだったのでしょう」

 

 俺は軽くため息をついた。中央兵站総軍副司令官のロペス少将もドワイヤンの一味だった。

 

「せめて、総司令部からの連絡がもう少し早ければ、どうにかなったのだがな。二日前から敵の移動を察知していたのに、『通信波で所在が敵に知られる危険があった』などと言って、警告すら出さなかったそうではないか。どうしようもない怠慢だ。ロボス提督は部下に甘過ぎる。だからこんなことになるのだ」

 

 苦々しげにドーソン司令官が吐き捨てる。

 

「通信システムのトラブルのせいで、連絡が遅れたとばかり思っていました。本当はただの手抜きだったんですね」

 

 奥歯をぐっと噛み締めた。総司令部の手抜きがあの戦いを引き起こし、多くの部下が死に、俺も死にかけた。寛容な気持ちには到底なれない。

 

「セレブレッゼもセレブレッゼだ。三〇年以上の付き合いなのに何を見ていたのだろうな。親友が麻薬の売人に成り下がったのに気づかないとは。節穴もいいところだ」

「セレブレッゼ司令官はマフィアとは関係なかったんですか?」

「無関係だ。中央兵站総軍の将官のうち、マフィアの関係者はドワイヤン、ロペス、メレミャーニン、ハリーリーの四名だけだ」

「戦闘中に行方不明になった四人だけですか」

「佐官級や尉官級の者のうち、マフィアのメンバーだと判明した者もすべて四=二基地の戦闘で行方不明になった。その他の者は無関係だ」

「さすがにこれはがっくりきますね。何のために四=二基地にいたのか……」

 

 心の底から落胆した。あれだけ苦労したのにマフィアを一人も捕らえられなかった。残ったのは犠牲者だけ。何ともやるせない結末だ。

 

「これが続きだ。捜査が中断されるまでのいきさつが記されている」

 

 ドーソン司令官から捜査資料とはファイルを手渡された。そこに記されていた事実はさらに落ち込むものだった。

 

 憲兵隊の捜査が進むにつれて、サイオキシンマフィアの恐るべき全貌が明らかになってきた。その勢力は同盟軍全体に及び、現役将官だけでも五〇名以上が参加している。なんと全将官の一パーセント近くがマフィアなのだ。地上軍水上部隊総監ホルバイン大将、国防委員会経理部長フー中将のような軍首脳まで含まれていた。

 

 政界にもマフィアの手は伸びていた。前代ボスのA退役大将は軍服を脱いだ後もフェザーン駐在高等弁務官、最高評議会議長補佐官、中央情報局長官などの要職を歴任し、現在は保守政界のフィクサーに収まっている。最高幹部のジャーディス退役中将は上院予算委員長、カロキ退役少将はライガール星系首相となり、政界で重きをなす。その他にも国会議員や地方首長となった元幹部は少なくない。莫大な資金が政界に流れている形跡もあった。

 

 ドーソン司令官から報告を受けたカルボ国防委員長は震え上がった。これが明るみに出れば、与党の有力政治家を軒並み失脚させた六八六年のニューマン事件、現職の最高評議会議長を議員辞職に追い込んだ七五〇年のラインマイヤー事件に匹敵する巨大スキャンダルだ。革命を求める空気が醸成されつつある時に連立政権が倒れたらどうなることか。

 

 ドーソン司令官とそのバックにいるトリューニヒト前NPC政審会長は、政界ルートの捜査を求めた。しかし、カルボ国防委員長は事の重大さを鑑みて最高評議会の判断を仰いだ。非公開閣議の結果、捜査は完全に打ち切り、容疑者は全員無条件釈放、捜査資料はすべて八〇年間の公開禁止と決まった。

 

 これでマフィアを公然と処分する道は絶たれた。最高評議会がA退役大将とジャーディス議員を通してマフィアと交渉した結果、幹部は無罪放免と引き換えに軍を退き、活動拠点となった部隊は改編の名目で人員を総入れ替えされ、組織は解体されたのであった。

 

「幹部達は公的には予備役編入の扱いになるんですか?」

「そうだな」

「退職金も年金も全額出るんですか?」

「もちろんだ」

「希望すれば、国防委員会の人事部から再就職の斡旋も受けられるんですよね?」

「勧奨退職者だからな」

 

 ドーソン司令官が答えるたびに希望が打ち砕かれていく。

 

「彼らが失ったものは軍でのキャリアだけですか? 既に退役した幹部は何も失っていないんですか?」

「そういうことになる」

「納得できないですよ」

 

 唇をぐっと噛み締める。彼らは軍隊を麻薬漬けにした。組織を守るために暗殺までやった。麻薬取引を続けられなくなったくらいで罪を償えるものか。

 

「痛手ではない」

 

 ドーソン司令官の口ひげがこれまで見たこともないほどに逆立っている。

 

「どういうことですか?」

「本来ならば、麻薬取引で得た金は無条件で没収される。だが、麻薬取引自体が無かったことになれば、出所を追及されることもない。脱税捜査も一切無しだ。存在しないはずの麻薬取引に行き着かれては困るからな」

「そ、それって……」

「サイオキシンマフィアの金は表に出せる金になった。組織が解体されたとしても痛くも痒くもない。きれいになった金を合法的な事業に投資すれば、安全に儲けられるのだからな」

「…………」

 

 もはや言葉が出なかった。最悪という言葉すら生ぬるいほどに悪い。政府がマネーロンダリングに協力したようなものではないか。

 

「トリューニヒト先生は、きれいになった金の一部をNPCと進歩党に献金するという条件で取引したのだろうと推測なさっていた。もはや、それを裏付けることもできんが」

「十分にありえるとは思います」

 

 最高評議会が一方的にマフィアに譲歩するとも思いにくい。ある程度の見返りを提示されたと推測するのが自然だろう。

 

「過ぎたことはいい。考えるべきはこれからのことだ」

 

 ドーソン司令官は言葉を切り、大きく息を吐いた。それはまるで息とともに怒りを吐き出そうとしているかのようだ。

 

「貴官には今回の件の事件の幕引きをしてもらう。フェザーンに飛んでもらいたい」

 

 最高評議会の次は中立国フェザーン。ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ミューゼルといった戦記の英雄が全く登場しない戦いは、途方も無い規模にまで膨らんだ。

 

 それにしても、政治とは本当にとんでもない世界だ。政治抗争では常勝というイメージのトリューニヒト先生が犯罪者に負けるのだから。フレデリカ・グリーンヒル・ヤン、ダスティ・アッテンボローと言った超一流の軍人がバーラト自治政府で失敗したのも無理は無いと思えてくる。有能だから成功するとか、理念が正しいから支持されるとか、そういう次元ではない。できれば無縁でいたいと思った。

 

 

 

 同盟領のあるサジタリウス腕と帝国領のあるオリオン腕の間には、「サルガッソー・スペース」と呼ばれる広大な危険宙域が広がっている。イゼルローン回廊とフェザーン回廊という二つの細長い安全宙域のみが二大国を結ぶ航路だ。前の世界では、ローエングラム朝が人類世界を統一した後に銀河連邦時代の航路が再発見されているが、現時点ではこの二回廊を除く航路は存在しない。

 

 フェザーン回廊を統治するフェザーン自治領は、公式には銀河帝国の自治領という扱いだ。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『獅子戦争記』などの戦記には、フェザーン以外の自治領が登場しないが、実は帝国領にある有人惑星の四割が自治領である。戦記では明記されていないものの、地球も自治領の一つだ。自治といえば聞こえは良い。だが、その実質は人種隔離政策の美名にすぎなかった。

 

 帝国の国民を身分別に分類すると、特権を持つ貴族階級、財産権など一定の権利を認められた平民階級、一切の権利を持たない奴隷階級の三つに分けられる。各身分の中でもそれぞれに違いがあった。貴族階級を例にあげると、爵位と所領を持つ上流貴族と貴族身分だけを持つ下級貴族では大きな違いがある。そして、平民階級には、優等人種と劣等人種の違いがあった。

 

 多様な価値観の存在を嫌う帝国初代皇帝ルドルフは、社会全体を均質化する大義名分として、西暦時代に滅び去った優生思想を引っ張りだした。

 

 ゲルマン人種こそが至上の血統だと、ルドルフは主張した。そして、ゲルマン系の特徴を持つコーカソイドを優等人種に位置づけた。優等人種はゲルマン系の姓名、公務員や軍人になる権利などを与えられた。貴族の称号も優等人種のみに授与された。ゲルマン系の優越性を示すために、北欧神話の神々を崇拝する「大神教」という宗教をでっち上げて国教とした。

 

 モンゴロイド、ネグロイド、ゲルマン系の特徴を持たないコーカソイドなどは、劣等人種と呼ばれた。彼らは優等人種との結婚及び性交渉、優等人種居住地域への移住、帝国政府への仕官、帝国軍への勤務などを制限された。そして、自治領と名付けられた不毛の惑星へと押し込められた。乏しい資源、過酷な自然環境、高い人口密度、貧弱なインフラ、低い出生率が一般的な自治領である。こんな惑星で自活できるわけもない。多くの自治領民が、皇帝領や貴族領への出稼ぎ労働で得たわずかな給金で食いつないだ。財産権と生命権が保証されている分だけ奴隷よりましといった程度の境遇だ。

 

 もちろん、こんな境遇に自治領民が甘んじるはずもない。ルドルフ、ジギスムント一世の時代に反乱した共和主義者のほとんどが自治領民だった。その後も自治領民はしばしば反乱した。ダゴン星域会戦からマクシミリアン・ヨーゼフ帝が即位するまでの混乱期には、自治領民の四割が帝国領内に侵入してきた同盟軍の誘いに乗って亡命したと言われる。

 

 こう言った事情から、軍人や政治家中心の戦記物には、ゲルマン系以外の帝国人が登場しないのである。常識中の常識なのでいちいち書いていないものの、ゴールデンバウム朝が滅んだ後に旧同盟領で生まれた者の中には、帝国にゲルマン系以外の人種がいなかったと思い込む者もいた。

 

 徹底的な冷遇を受けた自治領の中で、フェザーン自治領だけは例外だった。帝国政府や帝国軍に勤務できないことを除けば、領民は優等人種とほぼ対等の権利を持つ。フェザーン自治領主は公爵と同等の宮廷序列、準閣僚級の「帝国通商代表」という肩書きを与えられる。この特別待遇はフェザーンの持つ経済力によるものだった。

 

 宇宙暦七世紀半ば、地球自治領主府の御用商人として財を成したロマン・アクショネンコは、帝国政府に莫大な献金を行って「名誉優等人種」の資格を獲得し、レオポルド・ラープというドイツ名を名乗った。そして、資金と才覚さえあれば平民でも貴族と勝負できる金融業に乗り出し、大成功を収めた。

 

 当時の皇帝コルネリアス一世は、大親征の失敗で傾いた国家財政の再建に取り組んでいた。当初は貴族出身の財務官僚や特権企業家に起用したものの、思うような成果が出ない。そこで平民出身の金融業者八名を顧問に迎えた。その中の一人に帝国屈指の金融業者となったラープがいた。

 

 コルネリアス一世の諮問に対し、ラープはフェザーン回廊を中立貿易宙域にして自由惑星同盟と交易するという案を出した。一〇〇億を超える人口を有する同盟は魅力的な市場だ。フェザーン回廊に兵を置く必要も無くなる。経済活性化と国防費軽減を両立できるというわけだ。

 

 二年に及ぶ協議の結果、帝国政府はラープの案を採用した。フェザーン自治領主の肩書きを与えられたラープが同盟政府との交渉にあたり、フェザーン自治領と同盟の間に通商協定を締結した。

 

 ラープは自治領の経営にも取り組んだ。あらゆる規制を取り払い、所得税や法人税を銀河最低の基準に設定し、自由な経済活動を保証した。また、「フェザーンを自治領民の受け皿にして亡命を防ごう」と帝国政府に持ちかけて、数億人の自治領民を移住させた。

 

 二大国を結ぶ唯一の交易路。自由主義的な経済政策。豊富な労働力。誰の目から見てもフェザーンは魅力的だった。全宇宙から企業、資本、移民が殺到し、不毛なフェザーン第二惑星はあっという間に全銀河の経済の中心地にのし上がったのである。

 

 現在のフェザーンは帝国の自治領という名目だが、入朝や貢納の義務を免除されており、事実上の独立国として振舞っている。同盟が有利になったら帝国を助け、帝国が有利になったら同盟を助け、半世紀にわたって「帝国四八、同盟四〇、フェザーン一二」の勢力比を維持しつつ、二大国の間で経済的利益を独占してきた。現在の銀河でフェザーンとは、豊かさ、チャンス、自由、功利主義の代名詞だ。

 

 ここまでが俺の手元にある銀河史シリーズ三八巻の『フェザーン史』に記された公式の歴史。前の世界ではその裏側も多少明らかになった。

 

 ラープの資金は地球教団から出ていた。ラープを支えた側近や秘書はみんな地球教団から派遣された人材だった。フェザーン設立計画は地球教団教化局が立案した。つまり地球教団がフェザーンの真の設立者だったのだ。歴代のフェザーン自治領主もみんな地球教団の影響下にあった。勢力均衡政策も帝国と同盟を共倒れさせようとする地球教団の意向だったそうだ。

 

 もっとも、フェザーンと地球教団が完全に一枚岩だったわけでもない。四代自治領主ワレンコフは勢力均衡政策を放棄しようとして暗殺された。フェザーンが地球教の宣教に協力している様子もなかった。反ラインハルト闘争でもフェザーン残党と地球教団の連携は少なかった。

 

 表の歴史、裏の歴史を頭の中で整理し終えた時、宇宙船のハッチが開いた。全宇宙で唯一の軌道エレベーターに乗り移り、憲兵隊が用意した偽名の旅券で入国手続きを終えた後、地上へと降下する。

 

「やあ、直接会うのは久しぶりだな」

 

 フェザーン駐在武官ナイジェル・ベイ宇宙軍中佐が出迎えてくれた。地味なポロシャツに地味なスラックス。いかにも「休日のお父さん」といった感じだ。

 

「お久しぶりです」

 

 恥ずかしさで声が震えた。

 

 上半身はオレンジの半袖パーカー、下半身はふくらはぎの真ん中辺りまでの長さのパンツを履いている。足にはサンダルと靴の中間のような履物。頭にはもこっとした帽子。髪はプラチナブロンドに染められている。目には青いカラーコンタクト。いくら変装といっても、さすがにふわふわしすぎている。まるで軟弱な学生ではないか。

 

 変装としては成功している。これは極秘の任務だ。普段の自分と印象がかけ離れているに越したことはない。それでも嫌なものは嫌だ。

 

「なかなか似合ってるぞ」

 

 俺の気持ちも知らず、ベイ中佐は呑気に笑う。

 

「ありがとうございます」

 

 曖昧な笑顔を作りつつ、この変装を用意したハラボフ大尉を呪った。

 

 俺とベイ中佐は、リニアに乗ってフェザーン市へと向かった。中央駅で降りてフェザーン中心街に出る。平日の昼間というのにとんでもない人通りだ。ハイネセンポリスの中心街も人が多くて苦手だが、この街はそれよりひどい。

 

「ナイジェルおじさん! ナイジェルおじさん!」

 

 人の海の中でベイ中佐の姿を探し求める。俺はベイ中佐の従兄弟の息子「イアン・ホールデン」という設定でフェザーンに入国した。だからナイジェルおじさんと呼ぶ。

 

「イアンか! 私はここだ!」

 

 ベイ中佐の声が左後方から聞こえた。人の激流を必死でかきわける。戦斧を持ってくれば良かったとか物騒なことを考えながら、なんとかベイ中佐のもとに辿り着いた。

 

「どうもすいません」

 

 息を切らせながら謝った。ベイ中佐は苦笑する。

 

「別に構わんよ。慣れてないうちはみんな流される。私は初日で三度流された」

「俺も三度目です。自分だけではないと知って安心しました」

「いや、さすがに到着から二時間で三度も流されたりはしなかったが……」

 

 聞かなかったことにした。

 

「それにしても凄い人通りですね……。見ているだけで疲れそうです」

「この街は宇宙で一番賑やかな街だからなあ」

「人が多すぎるのも困りますよ」

「しかし、人混みに紛れられるのはいいぞ。誰も他人のことなんか見ちゃいない。私みたいな格好はハイネセンポリスの中心街だと野暮すぎるが、ここではそんなに気にならん」

「なるほど、それはいいですね」

 

 心の底から同意した。確かにこの人混みなら他人の格好なんてどうでも良くなりそうだ。この格好があまり人に見られずに済むのは有難い。

 

 それにしても、この街の人も俺に負けず劣らず変な服装をしている。とんでもない色彩の服、遠い過去からタイムスリップしてきたような服、デザインが奇抜すぎて服としての機能を果たせなさそうな服、未来に知己を求めた方が良さそうな服など、本当に変な服装ばかりだった。

 

「自分が何をするのも自由。他人が何をするのも自由。それがフェザーンの自由なのさ。まあ、私はこういうのは好かんがね。暖かみってもんがない。そう思わんか?」

 

 ベイ中佐は非独創的な感想を述べた。

 

「まあ、そうですね」

 

 俺も非独創的な答えを返す。娘に説教して反発されたことをまだ引きずっているんですかとか、そんなことは口が裂けても言わない。

 

 人混みを抜けてようやくバス停の前にたどり着いた。それから間もなくバスが近づいてきた。時刻表を見るとピッタリの時間だ。バスが時間通りに到着するなんてことがあるのか。時間に正確と言われるハイネセンポリスの市バスだって、三分前後のずれがあるのに。

 

「ナイジェルおじさん、凄いですね」

「何が?」

「だって、時刻表通りにバスが来るんですよ」

「フェザーンではそれが当たり前だぞ」

「バスが時刻表通りに到着するなんて、ネットのジョークネタだと思っていました」

「フェザーンのネットでは、時刻表通りに到着しない同盟のバスがジョークネタ扱いだよ」

「なるほど、フェザーンが凄いんじゃなくて、同盟がおかしいという見方もあるんですね」

「外国は何から何まで常識が違う。明日は気を付けるんだぞ」

「はい」

 

 国が違えば常識も違う。当たり前だが、だからこそ忘れてはならないことだ。明日は帝国の使者との面会。常識の違いを肝に銘じなければならない。そう思いながらバスに乗り込んだ。




銀河帝国にはなぜドイツ系しか登場しないのか? 非ドイツ系の帝国人はどこにいるのか? 無理やりこじつけてみました。原作者の田中芳樹先生は何も設定していないそうですが。


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第23話:神聖なる誓い 宇宙暦794年8月初旬~9月初旬 フェザーン市・コーヒーシュップ「コーフェ・ヴァストーク」~ ウェイクフィールド国立墓地

 俺はフェザーン最大のオフィス街ジファーラ地区の外れにある超高層ビル「マラヤネフカトゥルム」の前に立っていた。このビルの中にあるコーヒー店「コーフェ・ヴァストーク」が帝国の使者ループレヒト・レーヴェとの待ち合わせ場所だった。

 

「こんな立派なビルにふわふわした格好で行ったら浮くんじゃないか」

 

 そんな不安を覚えつつ、ビルに足を踏み入れた。

 

「みんな、随分ラフな格好だな」

 

 意外と俺の格好は浮いていなかった。有名企業がたくさん入居しているはずなのに、スーツ姿の人は少なく、明らかに私服としか思えないような格好の人も多い。Tシャツにハーフパンツ、素足にサンダル履きなんて人までいる。フェザーン人の服装に対する自由な考え方にあらためて驚かされる。

 

 コーフェ・ヴァストークに入ると、白いワイシャツに水色のエプロンを着用した男性店員が近寄ってきた。年齢は二〇歳前後、身長はそこそこ高く、おしゃれっぽい感じの青年だ。その胸元の名札には「ブレツェリ」という姓が記されている。入院中に知り合ったダーシャ・ブレツェリ少佐を思い出して少したじろいだが、ブレツェリという姓はフェザーン由来の姓なのを思い出して気を取り直す。そもそも、ブレツェリ少佐もフェザーン移民三世なのだった。

 

「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」

「いえ、待ち合わせです。イアン・ホールデンと申しますが、ループレヒト・レーヴェさんはお越しになっていらっしゃるでしょうか?」

「イアン・ホールデン様でございますね。ただ今ご案内いたします」

 

 ブレツェリは貴族に接するかのような丁寧さで俺を案内した。ちらっと店内を見ると、席と席の間の通路は広めで、いざという時も動きやすい。どうやら、ループレヒト・レーヴェは用意周到な人らしかった。

 

「こちらでございます」

 

 ブレツェリが角の席を指し示すと、そこに座っていた三〇歳前後の男性が立ち上がった。

 

「イアン・ホールデンさんですね。はじめまして、ループレヒト・レーヴェです」

 

 ループレヒト・レーヴェは笑顔を浮かべて手を差し出してきた。黒々とした髪は一分の隙も無く整えられている。見るからにやり手といった感じの面構え。身長は高く肩幅は広い。白いワイシャツの上にダークグレーのジャケットを着ているが、ネクタイは付けていない。軍人というよりは役人っぽく見える。警察官か検察官だろうと見当をつけた。

 

「はじめまして」

 

 帝国語で挨拶を返し、握手を交わす。レーヴェの手は大きいけれど、そんなに厚みはなくて柔らかい。役人っぽいという第一印象を裏切らない手だ。

 

「この店はクリーニング済みです。符丁とかそういったものを使う必要はありません。お互い気がねなく話しましょう」

「お気遣いいただき、恐縮です」

「それにしても、意外とかわ……、いやお若いですな」

 

 意外そうな表情をレーヴェは浮かべた。覚悟はしていたが、実際に言われると少し傷つく。動揺を見せないよう笑顔を作った。

 

「良く言われます」

「我々はあなたに対する一切の情報を持っていません。貴国の交渉担当者には、ヴァンフリート四=二基地のマフィア取締り責任者と会いたいとの要望を伝えました。憲兵隊でも五本の指に入る有力者と聞いておりましたので、年配者と思っていたのです。先入観は軍人にとって忌避すべきものですが、なかなか逃れることができません。恥ずかしい限りです」

 

 レーヴェは驚くほどに率直だった。初対面の異国人、それも学生以外の何者にも見えない相手にこのような態度を取れるなんて、並みの人ではない。

 

「いえ、こちらもあなたを軍人ではなくて役人ではないかと思っておりました。先入観というのは怖いですね。四=二基地でも先入観に惑わされました。真実を見抜く目がないことをこれほど悔やんだことはありません」

「あなたは正直な方だ。若いながらも大任を任されるだけのことはある。それにしても、役人に見えると言われたのは初めてです。弁護士に見えるとは良く言われますが」

 

 爽やかにレーヴェは笑ってみせる。確かに弁護士と言われても違和感がない。何と言うか、この人は秩序の番人みたいな感じがするのだ。

 

「僕は若く見えると言うより、幼く見えると言われます。内面の未熟さが外見に反映されているのかもしれません。だから、マフィアを取り逃がしてしまったのでしょう」

「あれはあなたの責任ではありません。本日はそのことを伝えに参りました」

 

 レーヴェの表情から笑みが消える。いきなり本題に入った。

 

「僕の責任ではないと言うのは、どういうことでしょう?」

「捜査情報がグロース・ママに漏れていたのです。我が国の憲兵隊に内通者がいました」

 

 帝国の憲兵隊から捜査情報が漏れていた。それほど衝撃的な事実でもない。あれだけの大悪党ならば、そこまで手を伸ばしていない方がおかしいように思える。

 

「なるほど、ドワイヤンは捜査の手が伸びているのが分かっていたのですか。そして、遭遇戦に乗じて逃げ伸びた。本当にとんでもない奴です」

「あの場所で戦闘が起きるなんて、誰も思っていなかったでしょう。起きるように仕組んだ者以外は」

 

 聞き捨てならないことをレーヴェは言った。ヴァンフリート四=二基地の戦いが遭遇戦ではないなんて、前の世界の戦記にも書かれていないことだ。

 

「仕組まれたとは、どういう意味でしょうか?」

「敵の勢力圏のど真ん中に一個艦隊を配置するなど、非常識の極みです。そして、一個艦隊もの大軍が自軍の勢力圏を通過するのを見過ごすのも非常識。常識的に有り得ないことを起こしたのが、グロース・ママとその一味です」

「しかし、ドワイヤン一派だけで一個艦隊を動かせるのですか? 総司令官のミュッケンベルガー元帥が取り込まれるとも思えません」

「ミュッケンベルガー閣下の幕僚に、ヴァンフリート四=二に艦隊を配置するよう誘導した者がおりました。宙域データが改竄された痕跡もあります。ミュッケンベルガー元帥閣下は幕僚の誘導に乗ったのです」

 

 前の世界の戦記作家を散々悩ませた謎が解明された。必然性があったから、前の世界でも今の世界でも、ミュッケンベルガー元帥はグリンメルスハウゼン艦隊を四=二に配置した。しかし、それでは説明のつかないこともある。

 

「同盟軍が帝国軍の移動を察知した時点で四=二基地に連絡を入れていたら、中央兵站総軍は戦闘が起きる前に撤収したはずです。同盟軍の誰かが自軍の勢力圏内を横断する帝国軍を見つけたら、喜んで攻撃を仕掛けていたでしょう。ほんの少しの偶然で四=二基地攻撃は空振りに終わります。あまりに偶然に頼りすぎた策ではないでしょうか?」

「これは私の憶測ですが、そちらの総司令部にもマフィアの手先がいたのではないでしょうか? 四=二基地への連絡を遅らせた者、移動中の我が軍の艦隊が攻撃を受けないよう工作した者がいたということです。あの時は宇宙嵐の影響で通信が混乱していました。それほど難しい工作は必要ありません」

「あなたが推測された通り、我が軍の総司令部にもマフィアの構成員がいました。その者があの戦いの前後に何をしたのかは検証されていませんが……」

 

 四=二基地の戦いとマフィアに関係があるとは誰も思っていなかった。検証すればレーヴェの推測を裏付ける事実が出てくる可能性が高いだろう。しかし、捜査は打ち切られた。資料は八〇年間の公開停止となった。あの戦いを仕組んだ者達は、軍事機密の厚いベールの奥へと逃げ込んだ。

 

「あの戦いで大勢の部下を失いました。僕を逃がすために死んだ者もいます。遭遇戦での死ならまだ諦めもつきます。ですが、あの戦いが茶番だったとしたら……」

 

 怒りと悲しみで胸がいっぱいになった。俺の判断ミスに巻き込まれたデュポン中佐、俺を逃がすために自爆したトラビ大佐、二人の天才に敗れたロイシュナー准尉やハルバッハ曹長らの姿が脳裏を過ぎる。みんな立派な軍人だった。彼らの戦いもマフィアの手のひらの上だったとしたら、冒涜されたような気分だ。

 

「あなたの無念はお察しします。私の主君があなたを指名なさったのもそういう理由です」

「レーヴェさんのご主君とは、どのような方なのでしょうか?」

「宮廷の重臣の一人です。結着を付けさせるためと申しておりました。私とあなたの両方に」

「レーヴェさんにも?」

「私もヴァンフリート四=二にいました。艦隊憲兵隊長としてマフィアを監視するよう命令を受けていたのです。今の主君の知遇を頂いたのもその時でした」

 

 レーヴェは事件との関わりを明かした。俺と同じ役割だったのだ。使者に選ばれた理由がようやくわかった。宮廷の重臣とやらは、ヴァンフリート四=二の憲兵の責任者同士を引き合わせたかったらしい。しかし、わからないことが一つある。

 

「僕は非公式とはいえ同盟憲兵隊の使者です。しかし、あなたはそうではない。ヴァンフリート四=二で知遇を得たということは、ご主君は憲兵隊の幹部ではないんですよね? つまり、あなたは帝国憲兵隊の使者ではなく、ご主君の個人的な使者ということになる」

「その通りです」

「我が国では捜査は打ち切られました。貴国の憲兵隊との協力関係も今はありません。それなのにあなたは部外者の指示で、私、ひいては我が国の憲兵隊に情報を漏らしていらっしゃる。そちらではまだ捜査も続いているでしょう? こんなことをしても良いのですか?」

「我が国の憲兵隊は捜査を打ち切りました。ヴァンフリート戦役が終わった直後のことです。拘束された容疑者は全員釈放。捜査資料はすべて破棄。捜査に関わった者は全員『名誉ある帝国軍に麻薬組織が存在するなど、根も葉もないデマである。デマを口にした場合は、軍の名誉を害うものとしていかなる制裁も甘受する』という内容の誓約書を書かされた上で、憲兵隊から転出させられました」

「えっ!?」

 

 呆然とした。帝国でも捜査が打ち切られた。しかも、捜査関係者全員が脅迫されるというおまけ付きだ。同盟も酷いと思っていたが、帝国はもっと酷い。

 

「憲兵総監閣下は急病を理由に辞職し、その翌日にお亡くなりになりました。我々は虎の尾を踏んでしまったのです」

 

 レーヴェは軽く目を伏せた。言葉ではなく表情が憲兵総監の運命を教えてくれる。帝国要人の急病死は、自殺や謀殺と同義語なのだ。

 

「そちらの憲兵総監といえば大将級ですよね? 実質的な実力は上級大将級の近衛兵総監を凌ぎ、三長官に次ぐと言われる。そんな方が急病とはいったい……」

「帝国マフィアの背後にいる政府高官の摘発。それが憲兵隊の最終目標でした。金の力で政界を支配するという野望に取りつかれたその高官は、不正な手段で金を集め、麻薬密輸にまで手を染めました。そして、今や頂点に手の届く所まで来ています。何としても摘発したかったのですが、力が及びませんでした」

「その高官とは……?」

「ザンクトゥアーリウム」

 

 レーヴェは帝国公用語で聖域を意味する言葉を口にした。そう呼ばれる帝国政府の高官はただ一人しかいない。

 

 財務尚書オイゲン・フォン・カストロプ公爵。一五年にわたって帝国の経済財政政策を取り仕切り、「軍事宰相」の帝国宰相ルートヴィヒ皇太子、「行政宰相」の国務尚書リヒテンラーデ侯爵に対し、「経済宰相」と呼ばれる重鎮。「彼と比べたら、フェザーン人ビジネスマンも夢見る少女に過ぎない」と言われ、対同盟戦争を「無意味な浪費」と言って和平を主張する究極のリアリスト。非合法な手段で集めた政治資金を武器とする金権政治家。三〇を超える疑獄事件で名前があがったのに、事情聴取すら一度も受けなかったことから「聖域」と呼ばれる。一種の政治的怪物だ。

 

「なるほど、よく分かりました」

 

 俺は額に浮かんだ汗を拭いた。帝国政治の腐敗ぶりは噂で聞いている。前の世界の戦記にも載っていた。しかし、自分がいざ関わってみると、途方もなく恐ろしく感じられる。

 

「私の主君は憲兵総監閣下より捜査資料のコピーを託されました。真相を知ったのも主君から捜査資料を見せていただいたおかげです。あの方がおられなければ、私は何も知らないままでした」

「レーヴェさんのご主君はどんなお方なのですか? 聖域から捜査資料を隠すのは並大抵でないと思いますが」

「皇帝陛下より厚い信任をいただいているお方です」

「なるほど。そういうことですか」

 

 帝国の権力はすべて皇帝に集中している。レーヴェの主君の背後に皇帝がいるとしたら、さすがのカストロプ公爵もうかつな動きはできない。

 

「誤解しないでいただきたいのですが、この会見はあくまで私の主君の希望であって、皇帝陛下のご意思とは無関係です。例の高官との権力争いでもありません。寡欲ゆえに信任をいただいた方ですから」

 

 レーヴェが俺の予想をあっという間に覆す。

 

「では、どういうお考えなのですか?」

「私の主君は長きにわたって宮廷の機密を預かってきました。その中には今回の件のような不祥事も多数含まれております。本来は永久に隠し通すべきなのでしょう。しかし、主君はそれを良しとなさいませんでした。自分の知り得た機密をすべて克明に記録し、真実を残そうと尽力されてきたのです。私が派遣されたのもその一環であるとご理解ください」

 

 そう言うと、レーヴェは上着のポケットの中から小さな紙の包みを取り出した。

 

「これは?」

「憲兵隊の捜査資料が入った補助記録メモリです。役立てていただきたいと主君は申しておりました」

「わかりました。ですが、受け取る前に一つ聞かせてください」

「何でしょう」

「なぜ、ここまでしてくださるのですか?」

 

 レーヴェの主君の考えが理解できなかった。皇帝の命令でもなければ、カストロプ公爵を蹴落とすつもりもないのに、私的に敵国と接触して機密資料を渡そうとする。発覚したら死刑は免れないだろう。そんなリスクを冒してやる価値があるのだろうか?

 

「これは主君の私戦なのです」

「私戦?」

「はい。我が国の宮廷は陰謀の巣窟。冤罪や不審死も珍しくはない場所です。誰もが不正に見て見ぬふりをする。不正の告発は権力抗争の手段としてのみ行われる。私の主君はそんな腐敗を目の当たりにしても何もできない自分に憤っておりました。そして、いつの日かマクシミリアン・ヨーゼフ晴眼帝や弾劾者ミュンツァーのような正義の人が現れると信じて、真実を残し続けたのです」

「そういうことでしたか」

 

 ようやく腑に落ちた。同盟に正義の人がいるように、帝国にも正義の人がいたのだ。俺はレーヴェからメモリを受け取った。腐敗した宮廷でたった一人の戦争を続けてきた人が残した真実を受け取った。

 

「このようなことがあると、どこに正義があるのかわからなくなります。しかし、レーヴェさんのお話を聞き、世の中も捨てたものではないと思いました。そんな立派な人がいるのに嘆いてはいられません。僕も不正が正される日のために戦いましょう。ご主君のもとに戻られましたら、よろしくお伝えいただけると幸いです」

「主君は憲兵総監閣下から託された捜査記録を読んだ後、病に倒れました。戦いの真相を知って落胆なさったのです。もって年内いっぱいでしょう。あなた方に託されたのは、資料だけではありません。志も託されたとお考えください」

「あなたのご主君の志、決して無にはいたしません」

「ありがとうございます。これで肩の荷が下りました。私はオーディンに戻り、主君が亡くなるまで精一杯お仕えするつもりです。その後は辺境に行くことになるでしょう」

「辺境ですか……?」

「本当はもっと早く飛ばされる予定でした。主君のご厚意のおかげでどうにかオーディンに残っているのです」

 

 それが何を意味するかは言われなくとも分かる。同盟軍では最優秀の人材は宇宙艦隊や地上総軍に配置され、それに次ぐ人材は要衝の警備部隊に配置され、余りが辺境警備に回される。上層部に忌避された者は退役まで辺境巡りが続く。帝国軍でもそれは同じだ。

 

「辺境送り。それが彼らからの報復というわけですか。理不尽ですね」

「捜査に加わった時から覚悟はしておりました。今日まで残っていられただけで有り難いと思っています。やるだけのことはやりました。二度とオーディンには戻れないでしょうが、悔いはありません。命ある限り戦いは続きます。お互い頑張りましょう」

 

 レーヴェの表情は実にさっぱりしたものだった。この人は本当に強い。最後まで怒りを顔に出さなかった。

 

「わかりました。お元気で」

 

 俺はレーヴェと握手を交わした。もう二度と会うことは無いだろう。しかし、彼とその主君を忘れることも決して無いと断言できる。

 

 辺境勤務といえば、前の世界の銀河統一戦争で活躍したウルリッヒ・ケスラー元帥も、ラインハルト・フォン・ローエングラムに仕えるまでは、辺境に飛ばされていた。レーヴェもいつか良い上官に出会ってほしい。去っていく彼の後ろ姿を見ながらそう願う。

 

 そういえば、ケスラー元帥は軍人というより弁護士に見えたそうだが、レーヴェも弁護士っぽく見える。そして、ケスラー元帥と同じ憲兵だ。

 

 レーヴェの主君は宮廷の機密を預かる人物らしいが、ケスラー元帥も皇帝側近のグリンメウスハウゼン子爵に仕えていた時期がある。グリンメウスハウゼン子爵は、皇帝フリードリヒ四世の信頼厚い側近であり、ヴァンフリート四=二に進駐した艦隊の司令官でもある。実に共通点が多い。これだけ似ていれば、似たような幸運に恵まれてもおかしくないのではないか。

 

「そういえば、グリンメルスハウゼン文書というのがあったな。グリンメルスハウゼン子爵が宮廷の機密を記録した文書。確かケスラー元帥からラインハルト帝の手に渡ったはずだけど……」

 

 いつの間にかレーヴェとケスラー元帥を重ねている自分に気づいた。俺のような小物がケスラー元帥のような超大物と縁を持つなど、妄想もいいところだ。そもそも、髪の色が全然違うではないか。ケスラー元帥は白髪交じりの茶髪だったはずだが、レーヴェは黒髪だ。

 

「でも、俺は髪を染めているし、カラーコンタクトもはめてる」

 

 レーヴェは俺よりずっと危ない立場にいる。変装する必然性は俺より高い。ループレヒト・レーヴェという名前も間違いなく偽名だろう。

 

 もう一度首を横に振った。思い上がるのもほどほどにしておこう。レーヴェとその主君から託された志を同盟に持ち帰る。そのことだけを考えればいい。ストロベリーパフェを平らげた後、店から出た。

 

 

 

 九月初めにハイネセンポリスに戻った俺とナイジェル・ベイ中佐は、ハイネセンポリス都心部から五〇キロほど離れた場所にあるウェイクフィールド国立墓地を訪れた。戦時・平時を問わず、軍務中に殉職した軍人が埋葬される軍人墓地の中で最も新しく最も大きな墓地である。

 

 まず、墓地の管理事務所に行って小型の乗用車を借りた。八平方キロメートルに及ぶ広大な墓地を徒歩で移動するのは難しい。また、軍人は一度に複数の墓に詣でる場合が多いため、大量の花や供え物を運ぶ手段も必要なのだ。

 

 ベイ中佐が運転し、助手席の俺は携帯端末から墓地の公式サイトを開く。部隊名や被葬者名で検索すれば、誰がどこに埋葬されているか一発でわかるようになっている。

 

「ヴァンフリート四=二基地憲兵隊の殉職者は、第五三九区画のJ四八ブロックです」

 

 俺がそう言うと、ベイ中佐は頷いて車を走らせた。彼の運転は良く言えば堅実、悪く言えば消極的だった。広くて車通りが少ない墓道でも低速走行する。何かあればすぐブレーキを踏む。人柄そのままの運転だ。

 

 第五三九区画の第六駐車場に車を停めた。花や供物を両手いっぱいに抱えてJ四八ブロックへと入る。広い敷地内は白い大理石の墓石で埋め尽くされている。

 

「どの墓石も新しいな」

 

 ベイ中佐がぽつりと漏らす。

 

「みんな、五か月前まで生きてましたから」

 

 俺は目を伏せた。彼らを殺したのは俺だ。真新しい墓石の群がその事実を教えてくれる。

 

「確かにそうだ」

 

 納得したようにベイ中佐が呟く。それからは無言のままで歩き続けた。罪の標識の中をひたすら歩き続けた。

 

「ありました」

 

 俺は目当ての墓石を指差した。そこには「C四〇〇七九 パトリシア・デュポン 自由惑星同盟地上軍中佐 宇宙暦七六〇年三月九日-七九四年四月六日」と記されていた。

 

 四=二基地司令部ビルで戦死したデュポン中佐の墓石は、新しい墓石の中でも特に新しいように見えた。彼女は死後に大尉から少佐に一階級昇進し、後に中佐への二階級昇進に改められた。墓石を新しい階級に合わせて作り直したのであろう。

 

 俺とベイ中佐は墓前にユリの花束を置き、デュポン中佐の好物だったアルンハイムの缶ビールを供えた。そして、しばし敬礼を捧げる。

 

 在りし日の故人を思い浮かべる。小柄で明るい人だった。ミスを犯した俺に一言も文句を言わず死んでいった。そんな彼女に対する謝罪と感謝を心の中で言葉にする。

 

 墓参りとは故人に向き合う作業である。墓標を故人と見立てて対話を行い、抱え込んでいた愛情や悲しみや罪悪感を形にしていく。そして、気持ちを整理する。前の人生では宗教団体に世話になってたくせに「儀式なんて無意味」と思ってた俺だが、こうやって部下の死と正面から向き合ってみると、その意味が理解できた。

 

 敬礼を終えた後、隣にあるケーシー地上軍少佐の墓に移動する。そして、同じように花と供物を供え、敬礼を捧げ、自分の気持ちを伝えた。終わったら、そのまた隣にあるグオ宇宙軍中佐の墓に行く。ヴァンフリート四=二で亡くなった部下の墓一つ一つに参拝した。

 

「トラビ副隊長の墓は行かないのか?」

 

 ベイ中佐は怪訝そうに俺を見た。

 

「副隊長のお墓はマスジットにあるんですよ」

「マスジット? 随分辺鄙な星じゃないか」

「三五年前に亡くなられた奥さんのお墓がマスジットなんです。『同じ墓に入りたい』と遺言状に書かれていました」

 

 殉職した軍人がすべて軍人墓地に埋葬されるとは限らない。本人や遺族が別の墓地への埋葬を希望した場合は、そちらが優先される。家族と同じ墓地への埋葬を希望する者、信仰やイデオロギーを理由に別の墓地への埋葬を希望する者は結構多い。

 

「三五年間も亡き妻を思い続けていたということか。まさに純愛だな。トラビという人はロマンチストだったらしい」

「生前はそんな素振りはまったく無かったんですけどね」

 

 小さくため息をついた。副隊長トラビ大佐が三五年前に結婚してすぐ奥さんと死別したこと、その後も再婚しなかったことは、資料を読んで知っていた。しかし、それ以上のことは何も知らなかった。遺言状を読んだ時、老憲兵の意外な側面に驚いたものだ。

 

「人間は本当にわからんものだな。うちの子が考えてることもさっぱりだ。家に帰っても何を話していいかわからない」

「確かにわからないですね」

 

 ベイ中佐の言う通りだった。人間は分からない。前の世界では前科者だった俺が、今の世界では宇宙軍の少佐なのだから。

 

 憲兵隊員の墓を回り終えると、四=二基地で殉職した薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊隊員が眠る区画へと移動した。最初に参拝したのは、もちろんロイシュナー准尉とハルバッハ曹長の墓だ。それから、シェーンコップ中佐が付けてくれた隊員の墓を巡る。彼らは憲兵隊ではないが、俺の指揮で戦って亡くなったことに変わりはない。

 

「あれはホーランド提督じゃないか?」

 

 ベイ中佐が視線を向けた先には、薔薇の騎士連隊の第二大隊長だったバルドゥル・フォン・デーア大佐の墓標に敬礼を捧げる五人の軍人がいた。その中にプロスポーツ選手かアクションスターのような美丈夫がいる。

 

 精悍な顔つき。鍛え抜かれた長身。体の隅々までみなぎる鋭気。ひと目で選ばれた人物と分かるこの青年は、「グリフォン」の異名で知られる同盟軍の若き英雄ウィレム・ホーランド宇宙軍少将だった。

 

「そうですね、間違いないです」

「どうして薔薇の騎士の墓参りをしてるんだ?」

「薔薇の騎士連隊第二大隊は、数か月だけホーランド提督の下に臨時配属されたことがあったんですよ」

「なるほど。しかし、あのグリフォンでも部下の墓参りなんてするんだなあ」

「ですね」

 

 俺とベイ中佐は顔を見合わせた。テレビの中のホーランド少将はいつも自信満々だ。亡くなった部下、それも臨時配属された部隊の指揮官を気にかけるようには見えなかった。

 

「やはり人間は分からん。行こうか」

「はい」

 

 俺とベイ中佐は再び歩き出す。ゆっくり時間を掛けて、俺の力不足のせいで死んだ人、俺を助けるために死んだ人の墓を巡る。正午少し前に墓地に入ったのに、墓参りを終えて管理事務所に車を返却した時には空は赤くなり始めていた。

 

「ベイ中佐、お付き合いいただきありがとうございました」

 

 感謝の気持ちを込めて頭を下げた。

 

「彼らも憲兵隊の仲間だ。そして、私と同じようにマフィアと戦った。墓参りは当然の義務さ。それに……」

 

 ベイ中佐の顔が少し曇る。

 

「私はもう何年も戦場に出ていない。自分が戦場向きでないのはわかっている。頭は回らないし、勇敢でもない。今のように裏方に徹するのが分相応だと思う。それでも軍人だ。死なずに済むのは有難いが、多少の引け目はあるんだよ」

 

 平凡で愚直な軍人の告白には悲痛な響きがあった。

 

「そんなことは……」

 

 出しかけた慰めの言葉を飲み込んだ。裏方も大事な仕事だなんて、俺なんかに言われなくとも彼はわかっている。誰よりも真面目に取り組んできた人なのだから。

 

「フィリップス少佐」

「はい」

「君は中佐への昇進を嫌がってるそうじゃないか」

「ええ、まあ……」

 

 殉職した部下の顕彰が一段落した後も中佐昇進を断り続けている。理由はいくつかあるが、どれも人前で言うには少し情けない理由だった。

 

「そろそろ受けたらどうだ? 墓参りも済んだ。ここらで区切りをつけてもいいだろう?」

「し、しかし……」

「務まらないなんてことはないはずだ。君は基地憲兵隊長をしっかりこなした。中佐に昇進しても十分やっていける」

「力が無いというのは言い訳でしょうね。力があるからやる。力が無いからやらない。彼らはそんなことは言わなかった」

 

 俺は墓地の方に視線を向けた。あそこに眠っている人々は命を賭けて責務を果たした。ループレヒト・レーヴェの主君は無力を自覚した上でできることをした。力が無いというのは理由にならない。

 

「私は少佐から中佐になるまで八年かかった。君は数か月で昇進のチャンスが来たが、これを逃したら次は何年先になるか分からないぞ?」

 

 ベイ中佐はぎこちなく笑う。

 

「わかりました」

 

 頷くしか無かった。満足そうな顔のベイ中佐が俺の肩を叩く。夕日が生者と死者を分け隔てなく照らし出す。夕暮れ時の墓地はとても暖かかった。




人物一覧
エリヤ・フィリップス (768~ ) オリジナル主人公
ドーソンの腹心。同盟宇宙軍少佐。憲兵司令部付。

ヤン・ウェンリー (767~ ) 原作主人公
同盟宇宙軍代将。前世界では銀河最強の用兵家。

ラインハルト・フォン・ミューゼル (776~ ) 原作主人公
強敵。帝国騎士。帝国宇宙軍准将。白色槍騎兵艦隊所属。前世界では銀河を統一した覇王。

ヨブ・トリューニヒト (755~) 原作キャラクター
憲兵隊の後援者。同盟下院議員。前NPC政審会長。前世界では同盟末期の衆愚政治家

クレメンス・ドーソン (740~ )原作キャラクター
エリヤの上官。同盟宇宙軍中将。同盟軍憲兵司令官。前世界ではトリューニヒト派の軍高官。

ワルター・フォン・シェーンコップ (764~ ) 原作キャラクター
曲者。同盟宇宙軍大佐。薔薇の騎士連隊長。亡命者。前世界ではヤン・ウェンリーの腹心。

エーベルト・クリスチアン (?~ ) 原作キャラクター
エリヤの恩師。同盟地上軍中佐。前世界ではスタジアムの虐殺を起こした。

イレーシュ・マーリア (762~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの恩師。同盟宇宙軍少佐。

アンドリュー・フォーク (770~ ) 原作キャラクター
エリヤの親友。同盟宇宙軍中佐。同盟宇宙艦隊参謀。前世界では帝国領遠征軍敗北の戦犯。

カスパー・リンツ (770~ ) 原作キャラクター
エリヤの友人。同盟宇宙軍少佐。薔薇の騎士連隊隊員。亡命者。前世界では薔薇の騎士連隊の第一四代連隊長。

ナイジェル・ベイ (749~) 原作キャラクター
エリヤの同僚。同盟宇宙軍中佐。フェザーン駐在武官。前世界ではトリューニヒト派の軍人。

シンクレア・セレブレッゼ (746~ ) 原作キャラクター
同盟宇宙軍中将。前中央兵站総軍司令官。前世界では帝国軍の捕虜となる。

マルキス・トラビ (738~794) オリジナルキャラクター
エリヤの部下。同盟宇宙軍大佐。ヴァンフリート四=二基地憲兵副隊長。

ロイシュナー (?~794) 原作キャラクター
エリヤの戦友。同盟宇宙軍准尉。薔薇の騎士連隊隊員。亡命者。ヴァンフリート四=二で戦死。前世界ではシヴァ星域会戦で戦死。

ハルバッハ (?~794) 原作キャラクター
エリヤの戦友。同盟宇宙軍曹長。薔薇の騎士連隊隊員。亡命者。ヴァンフリート四=二で戦死。前世界ではシヴァ星域会戦で戦死。

ユリエ・ハラボフ (771~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの同僚。同盟宇宙軍大尉。憲兵司令部副官。

ダーシャ・ブレツェリ (769~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの友人。同盟宇宙軍少佐。

ハンス・ベッカー (?~ ) オリジナルキャラクター
エリヤの友人。同盟宇宙軍少佐。亡命者。

グレドウィン・スコット (?~ ) 原作キャラクター
エリヤの友人。同盟宇宙軍代将。前世界では帝国領侵攻で戦死。

ループレヒト・レーヴェ (?~ ) オリジナルキャラクター
帝国軍憲兵。


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第三章:エリート士官エリヤ・フィリップス
第24話:新たなる戦場 794年8月末~9月8日 お好み焼き店「ヨッチャン」~イゼルローン遠征軍仮オフィス


 お好み焼きは小麦粉を生地として、野菜、肉、魚介類、麺類などを具材とするパンケーキの一種だ。生地に混ぜ込んで鉄板で焼くカンサイ風と、生地の上に具材を載せて薄焼き卵で覆って焼き上げるヒロシマ風があり、ソースやマヨネーズなどで味付けをして食べる。安価でボリューム満点なため、庶民の味として親しまれてきた。主食、おかず、おやつなど多種多様な食べ方が可能な汎用性の高さも人気のもとだろう。

 

 八月末、カンサイ風お好み焼き店「ヨッチャン」の片隅、俺とナイジェル・ベイ中佐は、国民平和会議(NPC)のヨブ・トリューニヒト前政審会長と同じ鉄板を囲んでいた。

 

「お好み焼きを好んで食べる人達の間では、焼き方、入れる具材、食べ方を巡る対立がある。それもこの食べ物が無限の可能性を含んでいるからだろう。我が国では、自由と多様性を大事にする民主主義の精神が食べ物にも息づいている」

 

 コテを持ってお好み焼きを焼きながら、トリューニヒト先生が熱く語る。西暦時代に遡ってお好み焼きの歴史を説き起こし、具材の比較、カンサイ風とヒロシマ風の違い、お好み焼きを愛した偉人のエピソード、主食派とおかず派とおやつ派の仁義無き戦いなど、あちこちに話題が飛ぶ。

 

「人類は一七〇〇年の時を費やしても、ついに主食派、おかず派、おやつ派の対立を解消することはできなかった。対立する者同士はお互いを邪道と罵り合い、同じお好み焼きを愛する同胞であるはずなのに憎み合うことをやめられなかった。しかし、憎み合っていても共存していかなければならない。なぜなら、我が国は民主主義国家だからだ。エリヤ君、君はクリストフ・フォン・ランツフートを知っているかい?」

「知っています。教科書で習いました」

 

 同盟の義務教育では、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムが銀河連邦を簒奪した過程を詳しく教え、政治意識の啓発に努める。ルドルフの士官学校以来の盟友だった初代軍務尚書クリストフ・フォン・ランツフート公爵の名前もその際に学ぶ。ランツフート公爵は不敬罪を理由に処刑されたが、本当の処刑理由は現在でも判明していない。前の世界でゴールデンバウム朝の帝室機密資料が公開された後も真相は分からなかった。

 

「ランツフートはお好み焼きを巡る対立から処刑されたという説がある。ランツフートはお好み焼きと白米を一緒に食べて、ルドルフの怒りに触れたのだそうだ」

 

 ランツフート処刑をめぐる仮説は、ルドルフ入れ替わり説、四世紀前に滅亡した地球統一政府残党の陰謀説などのオカルトも含めると、二ダースを軽く越える。しかし、トリューニヒト先生が語る説は初めて聞いた。

 

「そんな説があったんですね。初めて知りました」

「ま、これは今考えついた話だけどね」

 

 トリューニヒト先生はいたずらっぽく片目をつぶり、ソースや青海苔が付いたままの口元に笑みを浮かべる。

 

 俺とベイ中佐は苦笑いした。トリューニヒト先生はいつもこうだ。ノリを重視して、適当なことをポンポン言っては、みんなを困らせる。しかし、愛嬌たっぷりの笑顔を見せられたら、腹を立てるのが馬鹿らしくなってしまうのだ。

 

「信じたかい? いかにもありそうな話だろう?」

「え、ええ……」

「ルドルフがお好み焼きを食べたかどうかは知らない。だが、国民に食べ物の好みを押し付けようとしたのは事実だ。ゲルマン料理以外の食文化は徹底的に弾圧された。各地の自治領で細々と受け継がれたレシピが無ければ、人類の食文化の九五パーセントが失われていただろうね。それが専制政治の悪だ。民主主義だったら、主食派とおかず派が対立しながらも共存し、同じ鉄板で焼いたお好み焼きを食べることができる。ナイジェル君、エリヤ君、素晴らしいと思わないか?」

 

 同意を求めるトリューニヒト先生。ベイ中佐が苦笑いする。

 

「先生のおっしゃる通り、素晴らしいと思います。お好み焼きと白米を一緒に食べるなど、私には到底できかねますが」

「ははは、ナイジェル君は本当に頑固だな。そこが良い所だが」

 

 トリューニヒト先生が朗らかに笑い、お好み焼きと白米を一緒に頬張る。その食べっぷりに食欲をそそられた俺は、鉄板の上にあったお好み焼きをことごとく平らげた。

 

「お、恐れ入ります」

 

 ベイ中佐はたじろぎ気味に答える。トリューニヒト先生に親しく声をかけられて恐縮しているのか、それともお好み焼きと白米を一緒に食べていることにショックを受けているのか、判断が付きかねる。

 

 それにしても、店に入って一時間が過ぎたというのに、トリューニヒト先生はお好み焼きの話ばかりしている。俺達をそんな話のために呼んだわけではないだろうに。

 

「ナイジェル君、エリヤ君」

 

 トリューニヒト先生があらたまった感じになった。一体何を言おうとしてるのか、全身の感覚を集中する。

 

「すまなかった」

 

 トリューニヒト先生がテーブルに手をついて頭を下げた。俺とベイ中佐は慌てた。

 

「先生、おやめください」

「私に力があれば、こんな結果にはならなかった。私の力不足が君達の苦労を台無しにした。憲兵隊や四=二基地で戦った者すべての苦労を台無しにした」

「そんなことはありません。先生のお力がなければ、ここまで戦えませんでした」

「力不足だったのは我々です。どうか頭を上げてください」

 

 俺とベイ中佐は口々にトリューニヒト先生をなだめる。彼がいなければ、サイオキシンマフィアに挑むことすらできなかったのだ。

 

「それは違う。敵には最高評議会を動かせる力があったが、私には無かった。せっかく追い詰めた悪を取り逃がしてしまった」

 

 トリューニヒト先生は顔を上げ、苦渋に満ちた表情で語り始めた。それは俺がドーソン司令官から聞いた話の補足であり続きであった。

 

 最高評議会が捜査を打ち切った最大の理由は、ファシストとハイネセン原理主義者の革命に対する恐怖だった。しかし、クーデターの恐怖も同じくらい大きかった。

 

 二年前に国防予算が削減されて以来、軍人の待遇が悪化した。基本給は据え置かれたものの、軍人の収入で大きな割り合いを占める各種手当が半減し、軍人年金や退職金も切り下げられた。同一階級在籍年限は士官一〇年・下士官一二年から、士官八年・下士官一〇年へと短縮され、退職が早まった。最も大きな打撃を受けた実戦部隊の中堅指揮官は大きな不満を抱いた。その結果、過激派将校の秘密結社「嘆きの会」が影響力を広げ、七九二年から七九四年の二年間で三度もクーデター未遂を起こした。

 

 シトレ派やロボス派といった人間的な繋がりを縦の繋がりとすれば、地方閥や兵科閥など出自に関わる繋がりは横の繋がりだ。軍部の主流を占めるシトレ派とロボス派は、いずれも統合作戦本部・宇宙艦隊・地上総軍の幕僚を基盤としており、幕僚勤務の経験が少ない中堅指揮官とは繋がりが薄い。そのため、地方閥や兵科閥が軍国主義を防ぐ鍵となった。

 

 地方閥や兵科閥の有力者を大きく分けると、民主主義的で共和制に忠実な「中間派」と軍国主義的な「過激派」がいた。中間派の主要人物としては、国防委員会事務総長ベルージ大将、第六艦隊司令官シャフラン中将、特殊作戦総軍副司令官ブロンズ少将などがあげられる。過激派の主要人物としては、地上軍航空部隊総監フェルミ大将と国防委員会査閲部長ヤコブレフ大将の二枚看板の他に、第六空挺軍司令官ファルスキー少将、士官学校副校長アラルコン少将などがいた。

 

 共和制護持をライフワークとしてきた創設者A退役大将の影響からか、サイオキシンマフィアの幹部には中間派が多かった。彼らの犯罪が明るみになれば、中間派が完全に失墜し、過激派が地方閥や兵科閥を掌握するであろう。クーデターは目前だ。

 

 現体制にとって、共和制に絶対的な忠誠心を持つサイオキシンマフィアは必要悪だった。マフィアは政治資金の供給源であり、クーデターを防ぐ盾だったのだ。

 

 マフィアと対決するにあたって、トリューニヒト先生はフェザーン政府を味方に付けた。同盟にも帝国にも、「同盟と帝国を戦わせて漁夫の利を得ているフェザーンこそが真の敵だ」と主張するフェザーン脅威論者がいる。同盟ではA退役大将がその急先鋒だ。

 

 フェザーンにとって、フェザーン人の同盟国債購入の制限、フェザーン人のロビー活動禁止、無人防衛システム「アルテミスの首飾り」のフェザーン国境への配備などを提言するA退役大将は、目の上のたんこぶである。また、カストロプ公爵の活動は彼らの利益と衝突する。敵の敵は味方という論理だ。豊かな資金を持つフェザーン系ロビー団体ならサイオキシンマフィアの代わりが務まるというトリューニヒト先生の計算もあった。

 

 しかし、それでも最高評議会はA退役大将とマフィアに味方した。A退役大将の背後には、建国期以来の旧財閥、大手業界団体、伝統宗教など、フェザーンの権益拡大に反対する勢力が控えている。これらの勢力はNPCの地盤でもあったのだ。

 

 捜査中止と引き換えにサイオキシンマフィアは解体され、幹部はすべて軍を退いた。しかし、彼らのほとんどは、国防関連企業や政策シンクタンクに再就職を果たし、軍部への影響力を維持し続けた。しかも、サイオキシン取引で稼いだ莫大な金については「一切の追及をしない」という確約を得た。犯罪組織としては解体されたものの、政界と軍部に影響力を持つ秘密結社としては存続したのである。

 

 帝国軍の捕虜となったドワイヤン少将、ロペス少将らマフィア幹部は、保養地として有名な惑星カルスドルフに新設された収容所に入った。労働は完全免除、高級マンション並みの豪華な部屋に住み、専属の従卒が付き、腕の良い料理人が食事を作り、酒や煙草を好きなだけ楽しめる特別待遇だという。

 

 帝国の監獄では、食事は自給、日用品は刑務作業の生産物と引き換えに渡されるのが原則だ。この優遇の裏に帝国マフィアの大ボスであるカストロプ公爵の存在があるのは言うまでもない。

 

 同盟軍の公式記録では、マフィアがヴァンフリート四=二の戦闘を仕組んだことは記されていないし、今後も記されないであろう。捕虜交換で帰国したら、普通の帰還兵と同様に「捕虜生活を耐え抜いた英雄」と呼ばれ、昇進や受勲の対象となる。カストロプ公爵の保護下でぬくぬくと帰国の日を待っていればいいわけだ。

 

 サイオキシンマフィアが高笑いする一方で泣きを見た人もいる。マフィアの息がかかっていない捕虜は、凍土地帯や砂漠地帯に設けられた普通の収容所へと入れられて、重い労働ノルマを課せられた。セレブレッゼ中将以下の中央兵站総軍の幹部は、基地失陥の責任を問われて、辺境へと左遷された。

 

「酷い結果だろう? 警察ではこんなことは日常茶飯事だった。政治家になれば多少は変えられると思ったんだがね」

 

 トリューニヒト先生は力なく笑う。前の世界の彼は、俺の目には惰弱、戦記の著者の目にはエゴイストに見えた。しかし、生まれつきおかしな人物だったのではなく、現実に負けた末におかしくなったのかもしれない。そう考えてみると、今の姿と未来の姿が繋がってくる。

 

 この人はこんなところで終わってはいけない。前の世界のようにおかしくなって欲しくない。俺は決意を込めて口を開いた。

 

「トリューニヒト先生、聞いていただきたい話があるのです」

 

 それからループレヒト・レーヴェとその主君の話を始めた。俺が話している間、トリューニヒト先生とベイ中佐は一言も言わずに聞いていた。

 

「フェザーンから帰る船の中で色々考えました。自分が無力なのは分かっています。しかし、『しょせん世の中はこんなもの』と割り切りたくもありません。四=二基地で死んだ部下は、最後まで責任をまっとうしました。回廊の彼方には、無力であっても絶望せずに戦い続けた人、その志を継ごうとする人がいます。世の中はそんなに捨てたものではない。無力なら無力なりに戦う道もあるのではないか。そう思いました」

 

 そう言って話を締めくくった。

 

「そうか、あのご老人はそういう人だったのか」

 

 トリューニヒト先生が深く嘆息した。

 

「ご老人? その方をご存知なのですか?」

「一度だけ通信を交わしたことがある。帝国の友人を介して交信を求めてきた。名前は名乗らなかったが、しかるべき手順を踏んでいたし、帝国の憲兵総監と私の間だけで取り決めた符丁も知っていた。だから、交信に応じた」

「どんな方でした?」

「ちょうどいい言葉が見つからないな。強いて言えば、エリヤ君やナイジェル君と雰囲気が似ていた」

「俺ですか!?」

 

 意外な感想に驚いた。エル・ファシルで自決したカイザーリング中将のような風格ある武人を想像していたからだ。

 

「フィリップス中佐は分からんこともないです。私が似てるなんてことはないでしょう?」

 

 ベイ中佐も驚きを隠し切れない様子だ。

 

「君達とあのご老人はとても良く似ている。今のエリヤ君の話を聞いてそれがわかった。並み外れたところはないが、誰よりも実直で義理堅く、誰よりも信頼できる。そんな存在だ」

 

 強い確信を込めてトリューニヒト先生が言う。確かにベイ中佐は実直で義理堅い。俺もシェーンコップ中佐に「頭の鈍そうな律儀者」と言われた。トリューニヒト先生がレーヴェの主君の中に何を見たのか、ほんの少しだけ分かったような気がした。

 

「今の私は弱い。それはなぜか? 味方が少ないからだ。これまでの私は、政界ではドゥネーヴ派に属し、軍部ではロボス派と共同歩調を取ってきた。今回の件でその限界を感じた。一緒に戦ってくれるのは、自分で集めた仲間だけということが分かった」

 

 それから、トリューニヒト先生は今後の構想を語った。NPCの主戦派議員を集めて、ビッグ・ファイブ支配の打破、進歩党との連立解消、軍拡推進を訴える派閥横断的な政策集団を作る。それと同時にトリューニヒト路線を支持する軍人グループを作る。そして、マフィアの力を借りなくても、共和制を守れる体制を目指すのだという。

 

「どちらも再来月を目処に発足させる」

「なぜ再来月なんですか?」

「再来月には六度目のイゼルローン出兵がある。政界再編の波がその後に来るはずだ」

「なるほど、そういうことでしたか」

 

 心の底から納得した。政権運営が行き詰まるたびに大規模な出兵が企画されるのが、自由惑星同盟という国だ。

 

 六月に発足したばかりのムカルジ政権は早くも追い込まれた。経済危機はレベロ議長補佐官の「冷水療法」で収束しつつあるものの、閣僚の不祥事、地方選の連敗、農業自由化法案や公的年金民営化法案の審議難航などで、ただでさえ低い支持率がさらに低下した。与党内部では反議長派が攻勢を強めている。イゼルローン出兵が失敗すれば、辞任は避けられないだろう。

 

「今のところ、エリヤ君と親しいブーブリル国防委員ら三〇名以上の議員が政策集団に参加する予定だ。再来月までには倍に増やしたい」

「そ、そうですか……」

 

 一瞬だけ顔がひきつる。エル・ファシル義勇旅団副旅団長だったマリエット・ブーブリル上院議員の名前を聞かされたからだ。あの恐ろしい女性が上院議員になった後の消息は知らなかったが、いつの間にか国防委員になって、トリューニヒト先生と親しくなっていたらしい。

 

「軍部では、国防委員会と憲兵司令部を中心に二〇名以上が私を支持してくれる。これも倍に増やしたいと思う」

 

 トリューニヒト先生が参加予定者リストを見せてくれた。

 

「ドーソン提督、イアシュヴィリ大佐、コリンズ中佐、ミューエ中佐……。知った名前が多いですな」

 

 ベイ中佐の顔が綻ぶ。リストの半分ほどはドーソン司令官とその側近で占められる。俺とベイ中佐もこの面子と同じカテゴリだ。

 

「残りは知らない人ばかりですね。国防委員会からの参加者ですか?」

 

 俺は顔を上げて質問する。残り半分は国防委員会装備部長スタンリー・ロックウェル中将を除けば、今の世界でも前の世界でも聞いたことのない名前ばかりだった。

 

「そうだ、彼らはキプリング街の同志だ」

 

 トリューニヒト先生はにっこりと笑う。キプリング街とは、国防委員会本庁舎のある官庁街を指す。統合作戦本部、宇宙艦隊総司令部、地上軍総監部などの軍令機関を有するオリンピア市と並び称される同盟軍の中枢である。

 

 管理部門の軍政と作戦用兵部門の軍令は協力する義務がある。だが、実際は対抗意識を剥き出しにしている。軍令は軍政を「政治家に媚びて無理難題を押し付けてくる事務屋」と言って軽蔑し、軍政は軍令を「予算取りの苦労がわからない戦争屋」と言って軽蔑するという有様だ。

 

 同盟軍の人事制度は戦功を重視するため、司令官や参謀として出征する軍令出身者の方が早く昇進する。慢性的な戦争状態が軍令優位をもたらした。もともと統合作戦本部長と同格だった国防委員会事務総長は、今では宇宙艦隊司令長官や地上軍総監よりも格下だ。事務局次長、各部の部長・副部長など軍政の要職も、過半数が軍令出身者に占められている。二大派閥のシトレ派とロボス派のいずれも軍令出身者の派閥だ。生え抜きの軍政屋にとっては面白く無い状況が続いてきた。

 

 これまで憲兵も冷遇されてきた。つまり、トリューニヒト先生は非主流派を結集して、軍部を掌握するつもりなのだ。

 

「ナイジェル君、エリヤ君。私の派閥に入って欲しい」

 

 その言葉を聞いた瞬間、感激で胸がいっぱいになった。

 

「よ、喜んでお受けします!」

 

 満面の笑顔で答えた。

 

「こ、こ、こ、光栄の至りであります!」

 

 ベイ中佐は喜びで全身を硬くしていた。

 

「ありがとう」

 

 トリューニヒト先生は嬉しそうに目を細める。

 

「これで私達は仲間だ。共に地に足をつけて歩んでいこう。遠い先の夢ではなく、昨日より少しだけ良い今日、今日より少しだけ良い明日のために戦おう」

「はい!」

「戦いましょう!」

 

 俺、トリューニヒト先生、ベイ中佐の三人は、手をがっちりと握り合わせる。

 

「ナイジェル君、エリヤ君。我々はもっと強くならなければならない。強さとは信頼だ。どんなに知恵と勇気があっても、一人では団結した凡人一〇人には敵わない。仲間が多ければ多いほど強いのだ。目の前の仕事に全力を尽くそう。ルールの中で正しく戦おう。そして、我々を信じてくれる者の数を増やしていこう。信頼こそが我々の唯一にして最強の武器となる」

 

 トリューニヒト先生は俺達にただ信頼のみを求める。

 

「かしこまりました」

 

 ベイ中佐は力強く頷いた。俺もそれに倣う。こうして、俺はトリューニヒト先生をもり立てるための戦いに身を投じる事となった。

 

 

 

 宇宙暦七九四年九月八日、国防委員会は六度目となるイゼルローン出兵を発表した。遠征軍は三個艦隊が基幹で、艦艇三万八五〇〇隻、将兵四七七万六〇〇〇人が動員される。四個艦隊五万二三〇〇隻が動員された前回の遠征より一個艦隊少ない。イゼルローン遠征軍が四万隻を切るのは今回が初めてだ。

 

 当初は前回と同じく四個艦隊が動員される予定だったが、国防予算増大を嫌う与党第二党の進歩党が三個艦隊に抑えるように要求し、NPC非主流派のドゥネーヴ元議長とバイ元議長も議長の足を引っ張るつもりでそれに賛成した。その結果、イゼルローン遠征軍の戦力は過去最低の水準に抑えられた。

 

 戦力が少ないからといって遠征を中止するわけにもいかない。軍首脳部は最高の人材を集め、数を質で補おうと考えた。

 

 遠征軍総司令官には宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥、総参謀長には宇宙艦隊総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将が就任する。大胆かつ華麗な用兵で知られるロボス元帥、管理能力に長けたグリーンヒル大将のコンビは、ダゴン星域会戦で活躍したリン・パオ総司令官とユースフ・トパロウル総参謀長のコンビに例えられる。ヴァンフリート戦役では精彩を欠いたものの実績は十分だ。

 

 前憲兵司令官クレメンス・ドーソン中将が遠征軍副参謀長となった。情報参謀の出身で第一艦隊元副参謀長とはいえ、軍令の本流から大きく外れた人物の抜擢は、賛否両論を引き起こした。憲兵隊改革で発揮された手腕に期待する声もあれば、トリューニヒト議員のごり押しだと批判する声もある。

 

 グリーンヒル総参謀長とドーソン副参謀長の下には、三人の主任参謀がいる。作戦を統括する作戦主任参謀には宇宙艦隊作戦部長ステファン・コーネフ少将、情報を統括する情報主任参謀には宇宙艦隊情報副部長カーポ・ビロライネン准将、兵站を統括する後方主任参謀には統合作戦本部後方副部長アレックス・キャゼルヌ准将が起用された。みんな軍令のトップエリートだ。

 

 三人の主任参謀の下に、佐官級から尉官級の参謀(一般幕僚)が配置される。准将もしくは代将たる大佐が副主任、大佐がグループリーダー、中佐がサブリーダー、少佐以下がヒラ参謀といった具合だ。彼らもまた軍令のトップエリートだった。

 

 ロボス元帥の側近グループ「ロボス・サークル」がこのエリート集団の実質的な司令塔だ。メンバー全員が士官学校戦略研究科を三〇位以内の優等で卒業した英才。その結束力から「幕僚団というより家臣団」と揶揄される。作戦主任参謀コーネフ少将、情報主任参謀ビロライネン准将、作戦参謀・作戦分析グループリーダーのサプチャーク宇宙軍大佐、作戦参謀・運用企画グループサブリーダーのフォーク宇宙軍中佐の四名がその中心人物だ。

 

 その他、指揮通信システムを統括する通信部、人事・総務を統括する総務部、広報活動を統括する広報官室、内部監察を統括する監察官室、経理を統括する経理部、法務を統括する法務部、医療を統括する衛生部、規律を統括する遠征軍憲兵隊などの専門幕僚部門が設けられる。

 

 遠征軍の実戦部隊は、第五艦隊、第七艦隊、第一〇艦隊の三個正規艦隊を基幹とする。宇宙艦隊配下の正規艦隊(レギュラー・フリート)は宇宙軍に冠たる精鋭だ。指揮官から兵卒に至るまで最優秀の人材が配属され、装備も最新式のものが与えられる。帝国軍の物量に質をもって対抗する同盟軍の基本戦略が最も反映された部隊と言えよう。

 

 第七艦隊が第一陣を担う。司令官のイアン・ホーウッド中将は、ロボス元帥のもとで作戦参謀として活躍した一流の作戦家で、艦隊を素早く動かすことにかけては右に出る者がいない。その配下には、「グリフォン」の異名で知られる若き天才ウィレム・ホーランド少将を筆頭に、機動戦に長けた指揮官が名を連ねる。

 

 第二陣は第一〇艦隊だ。後方参謀出身のジャミール・アル=サレム中将が司令官を務め、鉄壁の守りを誇る兵卒あがりの闘将「永久凍土」ライオネル・モートン少将、叩き上げの老将ラムゼイ・ワーツ少将といった猛者が脇を固める。

 

 第五艦隊が第三陣となる。今年で六八歳になる司令官のアレクサンドル・ビュコック宇宙軍中将は、少年志願兵から身を起こして正規艦隊司令官に至った経歴から、「アレク親父」の愛称で下士官・兵卒に親しまれてきた。配下の人材も粒揃いであるが、戦略戦術に精通するハリッサ・オスマン少将、ホーランド少将やモートン少将と勇名を等しくする「ダイナマイト」モシェ・フルダイ少将の二人が特に名高い。

 

 総司令官と総参謀長は実績のある人物。参謀は同盟軍最高の頭脳。前線司令官三名のうち二名は大軍運用に長けた参謀出身者、一名は人望の厚いベテラン。分艦隊司令官も勇将知将が勢揃い。イゼルローン遠征軍は考えうる限り最高の布陣を整えた。

 

 俺の知り合いも遠征軍に参加する。イレーシュ・マーリア中佐とダーシャ・ブレツェリ少佐が総司令部後方参謀、カスパー・リンツ少佐が薔薇の騎士連隊作戦主任幕僚、ハンス・ベッカー少佐が第七艦隊D分艦隊情報参謀といった具合だ。その他、憲兵司令部で一緒に働いたドーソン系憲兵士官数人がトリューニヒト先生の後押しで幕僚となった。知り合いがいるのは心強い。

 

 いや、「ブレツェリ少佐は除く」と訂正しよう。入院中に親しくなった彼女とは、ある頼みを断ったことがきっかけで口もきかない仲になった。小心者の俺にも決して譲れないことがある。

 

 電子新聞を見ると、士官学校七八七年度で最優秀の四人が揃い踏みするとか、「エース戦隊」こと第八八独立空戦隊が参加するとか、エース艦長入りがかかっている艦長が七〇人いるとか、いろいろ騒いでいた。だが、そんなことはどうでもいい。

 

 前の世界で最も偉大な用兵家だったヤン・ウェンリーが参加する。その事実の前にすべてがかすむ。エル・ファシル脱出作戦以降は目立たなかった彼だが、その後も作戦参謀として着実に功績を重ねてきた。そして、士官学校七八七年度卒業生の中で三番目に早く代将の称号を獲得し、作戦主任参謀に次ぐ作戦副主任参謀に起用されたのである。

 

 ヤン代将以外の英雄も参加する。聖将アレクサンドル・ビュコック中将が第五艦隊司令官、兵站の天才アレックス・キャゼルヌ准将が後方主任参謀、緻密な参謀エリック・ムライ代将が第五艦隊副参謀長、艦隊運用の名人エドウィン・フィッシャー准将が第一〇艦隊配下の第一五三機動部隊司令官といった具合だ。最強の陸戦指揮官ワルター・フォン・シェーンコップ大佐も薔薇の騎士連隊を率いて参戦する。俺の手元にある名簿に載っているのは大佐以上に限られる。中佐以下の英雄は分からない。

 

 俺は「イゼルローン遠征軍総司令部付・副参謀長付き秘書事務取扱」の肩書きで従軍する。あの偉大なヤンと同じ戦場に立つ。戦記でお馴染みの人々と一緒に戦う。その事実が気持ちを高揚させる。

 

「なにニヤニヤ笑ってるの?」

 

 からかうような声とともに頭をポンポンと叩かれる感触がした。

 

「ああ、あなたですか。驚かさないでくださいよ」

 

 俺は苦笑しながら後ろを向く。クールな美貌にいたずらっぽい笑みを浮かべる長身の女性がそこにいた。イゼルローン遠征軍後方参謀イレーシュ・マーリア中佐だ。

 

「君があんまりかわいいから、我慢できなくてさ」

「ありがとうございます」

 

 しっかりと目を見て礼を言う。ブレツェリ少佐に「鬱陶しい」と言われてから、褒め言葉は素直に受け入れることにした。

 

「なんかつまんないなあ。最近は恥ずかしがってくれなくなった。慌てて話題を変えようとする時の顔が本当に面白かったのに」

「あれ、わざとやってたんですか?」

「そうだよ」

 

 とんでもないことをしれっと言い放つイレーシュ中佐。何とも人が悪い。

 

「最近は落ち着きが出てきたよね。ヴァンフリート四=二基地で死にかけて一皮剥けたのかな?」

「俺ももう二六歳、階級は中佐です。いつまでも浮わついてるわけにはいきません」

「六年前は一等兵、三年前は少尉だったのにね。私が統合作戦本部に勤めてるのと同じくらい信じられない」

 

 イレーシュ中佐は軽く口元を綻ばせた。彼女はヴァンフリート四=二の戦いでこれといった戦功がなかったにも関わらず、宇宙軍中佐に昇進し、統合作戦本部に栄転した。そして、後方参謀として遠征軍に参加する。

 

「自分でも信じられません」

 

 正直な気持ちを口にする。宇宙軍中佐という階級は、俺と同い年の士官学校七八八年度首席のシャヒーラ・マリキと等しい。俺の才能は「環境と努力次第で人並み以上になれるが、そうでなければ人並み以下」という微妙な水準だ。それが宇宙暦七六八年生まれの同盟市民の中で最も優秀な人と肩を並べている。

 

「まあ、先生が良かったのよね」

 

 イレーシュ中佐は勝ち誇ったような顔で大きな胸を突き出す。六歳も年上だというのに本当に子供っぽい人だ。こういう時はとことん持ち上げて調子に乗せる。それがマナーだろう。

 

「まったくです。そこを見込まれて統合作戦本部に栄転したんじゃないですか?」

「本音を言えば、士官学校の教官みたいな仕事したかったんだけどさ。統合作戦本部に来いって言われたら仕方ないよね」

「上の人だって、できることなら士官学校の教官を全員あなたに入れ替えたいと思っているはずです。しかし、この世にあなたは一人しかいない。だったら統合作戦本部で全軍を指導してもらおうと考えたのでしょう」

「なるほどねえ」

「頭が悪くてもこれくらいのことは簡単に分かります。イレーシュ中佐みたいにきれいで優しくて教え方がうまい人が先生だったら、誰だってやる気を出します」

 

 俺は半ば本気でイレーシュ中佐を褒め称えた。一言褒めるたびに、彼女の頬には赤みがまし、眼は浮き浮きとする。本当にわかりやすい。

 

「ありがと。ぶっちゃけ、私も何で栄転したのか分からなくてさ。中佐昇進なんて早くても四年先だと思ってた。シロン・グループの関係ってのも少し考えたけど、それはないよね。シロン星人会にも顔を出したこと無いし。実力を認められたと思っていいのかな」

 

 イレーシュ中佐が照れたように笑う。

 

「…………」

 

 言葉に詰まった。ときめいたわけではない。実を言うと、トリューニヒト派のロックウェル装備部長から、彼女の栄転が「シロン・グループ」絡みだと聞かされていた。

 

 彼女の出身惑星シロンは紅茶の産地として有名だが、宇宙軍高級士官を輩出してきた土地でもある。シロン出身者の地方閥「シロン・グループ」は、中間派の中核を担うとともに、シトレ派やロボス派にいるシロン出身者と連携して隠然たる力を振るってきた。そして、シロン・グループはサイオキシンマフィアの中核でもあった。創設者のA退役大将、ボスのドワイヤン少将、四=二基地防衛戦をわざと混戦に導いたロペス少将などはみんなシロン出身だ。

 

 マフィア解体の余波でメンバーの四割を失ったシロン・グループは、シロン出身者を見境なく抜擢して穴埋めを図った。イレーシュ中佐も自分の知らないところでその恩恵に与ったのだ。

 

「さっきから、ずっとそう言ってるじゃないですか」

 

 内心を悟られないよう、脳天気な笑顔を作った。軍に残っているシロン・グループにマフィア関係者がいないのは分かっている。イレーシュ中佐の出世は素直に喜んでいい。

 

 このように一介の中佐の昇進人事にも政治的思惑がはたらいている。遠征軍人事に対する「最高の布陣」という評価の裏には、「各派閥に最大限の配慮をした」という意味も含まれる。天才ヤン・ウェンリーの起用にしても、二つある作戦副主任の枠の一つがシトレ派に割り当てられていること、自派のホープに功績を立てさせようというシトレ元帥の配慮などが背景にあった。

 

 物語の世界に生きていれば、汚いと吐き捨てることもできただろう。しかし、俺の副参謀長秘書付事務取扱だって完全な派閥人事だ。ドーソン副参謀長に功績を立てさせるためのサポート。それがトリューニヒト先生から与えられた役割だ。

 

 国防委員会情報部が入手した情報によると、帝国軍は要塞が陥落しそうになった前回の教訓に学んだらしい。宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥が自ら要塞に入り、要塞司令官シュトックハウゼン大将と要塞駐留艦隊司令官フォルゲン大将の上に立ち、指揮権を統一した。また、メルカッツ大将率いる第三驃騎兵艦隊を要塞に呼び寄せた。

 

 ミュッケンベルガー元帥は大軍を円滑に運用できる司令官。メルカッツ大将は攻勢の巧妙さと守勢の堅固さを兼ね備えた超一流の戦術家で、前の世界ではヤンとラインハルトの二大天才に一目置かれた。シュトックハウゼン大将はガイエスブルク要塞など三つの要塞の司令官を歴任した要塞運用の専門家。フォルゲン大将はもともと軍官僚だったが、三年前に末弟のカール・マチアスが戦死してからは前線勤務に転じ、同盟軍への報復を生きがいにしているという噂だ。

 

 同盟軍三万八五〇〇隻に対し、帝国軍は最低でも二万五〇〇〇隻以上とみられる。回廊の狭さ、要塞の存在などを考慮に入れると、同盟軍の苦戦は必至だ。功績を立てるのも容易ではない。

 

 しかし、俺には切り札がある。ヤン作戦副主任の天才的作戦能力だ。ドーソン副参謀長、アンドリューらロボス・サークル、ヤン作戦副主任の共闘関係を取り持つことで、イゼルローン遠征を勝利に導く。首尾良く行けばドーソン副参謀長の功績は計り知れない。アンドリューも一息つけるだろう。そして、前の世界では反目し合ったトリューニヒト先生とヤン作戦副主任をこの世界で同盟させる。

 

 現在の総司令部は準備期間中だ。幕僚の顔合わせもまだ済んでいない。そんな段階から俺は仕込みを始めた。前の世界で読んだ『ヤン・ウェンリー提督の生涯』によると、ヤン作戦副主任は紅茶入りブランデーと読書を何よりも愛する。そこで高級アルーシャ茶葉の詰め合わせセット、高級ブランデー、三〇〇ディナール分の図書券を彼の官舎に贈った。また、歴史書や哲学書をせっせと読んで、会話のネタも仕入れている。

 

 ヤン作戦副主任との顔合わせは三日後。六年ぶりに再会する英雄とどんな会話を交わせるのか。楽しみで楽しみでたまらなかった。



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第25話:天才と秀才 794年9月下旬~10月中旬 イゼルローン遠征軍総旗艦アイアース

 七九四年九月二一日、三万八五〇〇隻のイゼルローン遠征軍が首星ハイネセンとその衛星に設けられた基地から出発した。ワープを繰り返しながら、最終集結地のティアマト星系を目指す。

 

 大勢の人間を移動させるだけでも大仕事だ。三〇〇人の中学生を郊外まで遠足させるだけでも、事前調査、行程の検討、引率者の選任、生徒の班分け、経費の算出、交通手段の確保、安全対策など多岐にわたる作業が必要になる。行軍を遠足に例えると、将兵が生徒、艦艇が交通手段、部隊が班、部隊指揮官が引率の教職員といったところだ。

 

 遠足なら引率の教職員が計画・管理などの作業も引き受ける。だが、軍隊ではそうもいかない。巡航艦一〇隻もしくは二〇隻の駆逐艦からなる「隊」ですら、一〇〇〇人前後の人員を抱える大組織なのだ。マネジメントを専門とする部署が必要になってくる。それが幕僚組織だった。

 

 宇宙軍では隊、地上軍では大隊からが「本部」と呼ばれる幕僚組織を持つ。そして、宇宙軍では戦隊、地上軍では師団になると、幕僚組織が「司令部」と呼ばれるようになり、「参謀」もしくは「一般幕僚」と呼ばれる大軍運用のプロフェッショナルが加わる。宇宙艦隊やイゼルローン遠征軍のように複数の艦隊を統率する部隊の幕僚組織は、司令部を総べる「総司令部」だ。名称や規模の違いはあるものの、指揮官のマネジメントを補佐することに変わりはない。

 

 なお、幕僚と参謀は混同されやすい言葉だが、実は微妙に違う。幕僚とは「帷幄の属僚」、すなわち司令部のスタッフ全般を指す。幕僚は総合的な立案・運用を担当する「一般幕僚」もしくは「参謀」と専門的業務に従事する「特別幕僚」の二種類に大きく分けられる。これまで俺が経験した憲兵隊副官、憲兵隊長代理などは、すべて特別幕僚に分類される。幕僚だが参謀ではないという位置づけだ。

 

 幕僚の仕事を「幕僚活動」と呼ぶ。イゼルローン遠征軍の行軍を例にあげると、総司令部に設けられた三つの参謀部門のうち、情報部門が事前調査、作戦部門が行軍計画、後方部門が補給計画を担当する。八つの専門幕僚部門はそれぞれの専門的な仕事に専念する。

 

 幕僚活動を統括するのが総参謀長と副参謀長だ。指揮官が状況を把握するために必要な情報を提供すること、指揮官の方針に基づいて幕僚に必要な作業を命じること、各幕僚の作業を監督して方針に沿うように調整すること、幕僚の作業結果をまとめて指揮官に提示することの四つが、彼らの主な仕事になる。

 

 イゼルローン遠征軍副参謀長クレメンス・ドーソン中将付きの秘書事務取扱というのが俺の仕事だった。激務の総参謀長と副参謀長には専任の秘書が付く。俺の階級は中将付き秘書になるには高すぎるため、遠征軍総司令部付士官として秘書事務取扱を兼ねている。

 

 憲兵司令部副官も遠征軍副参謀長付き秘書も仕事内容はほぼ同じだ。スケジュール管理、取り次ぎ、文書業務、情報管理といった秘書的な仕事を行う。

 

 憲兵司令部で苦労したおかげで仕事では苦労しなかった。激務であることには変わりないが、憲兵司令部副官の頃と比較すると、だいぶ余裕を持って仕事に取り組める。問題はどちらかというと別の部分にあった。

 

 ドーソン副参謀長は戦功らしい戦功がなく、二年前までは准将で予備役に編入されるのが確実視されていた人物だ。じゃがいもレポートや憲兵隊改革の功績は、軍政からは高く評価されているものの、軍令からは「小役人の仕事」と言われてまったく評価されていない。総司令部にいる軍令のエリートから見れば、ドーソン副参謀長は「政治家や軍官僚の覚えがめでたいだけの小役人」「戦功がないくせに成り上がった男」だった。

 

 反発されたところで自重しようと考えないのがドーソン副参謀長という人だ。幕僚達を厳しく監督し、あらゆる領域に口を挟み、どんな些細な事柄についても報告を求めた。そして、小さな間違いを見つけては嫌味たっぷりに指摘し、徹底的に修正させた。彼にとっては、間違いの指摘と修正は何よりも神聖な義務であり、善意の発露であったが、幕僚からは単なる嫌がらせと映った。

 

 そうなると苦労するのが取り次ぎ役の秘書である。ビロライネン情報主任のように目端の利く幕僚は、俺から副参謀長の意向を聞き出して、嫌味を言われる前に修正しようとするから問題はなかった。そこまで気が回らない幕僚には、こちらからそれとなく意向を伝え、事前に修正するように促す。しかし、キャゼルヌ後方主任のように反骨精神の強い幕僚は、俺の言うことなんか聞かずに副参謀長と真っ向からやり合おうとする。

 

 俺は対人関係の調整に走り回った。ある時は副参謀長の考えを幕僚に伝え、ある時は幕僚の意見を副参謀長に伝え、ある時は副参謀長と幕僚の話し合いの場を設けた。ひたすら気を使ってばかりだ。おかげでマフィンを食べる量が倍増した。

 

 勉強でも苦労していた。副参謀長付き秘書への登用には、ドーソン副参謀長のサポートの他、大軍の運用を勉強させるという目的もある。

 

 本来、階級とは戦功に対して与えるものではなく、能力に対して与えられるるものだ。前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『獅子戦争記』などの戦記では、戦功と能力をイコールで扱っているが、厳密には違う。

 

 優秀な艦長が優秀な部隊司令になれるとは限らないし、優秀な部隊司令が優秀な艦隊司令官になれるとも限らない。より大きな部隊を運用できる能力があると証明された者が昇進するのが建前だった。士官学校を上位で卒業した者の昇進が早いのは、参謀として運用能力を証明する機会に恵まれているからであって、学力だけで優遇されるわけではない。戦功は能力を証明する基準の一つに過ぎないのだ。

 

 幸運に恵まれて中佐まで昇進した俺だったが、部隊運用能力を証明する機会はなかった。エル・ファシルではただ戦場を走り回っていただけ。ヴァンフリート四=二では二個中隊の運用すら部下に委せきりだった。中佐どころか大尉としても通用するかどうか怪しい。今のままでは大佐に昇進できる見込みも果てしなく薄かった。

 

 本来、大軍運用は士官学校の参謀教育で学ぶものだ。しかし、俺は幹部候補生養成所しか出ていない。そこでドーソン副参謀長は実習方式で俺に大軍運用を教えることにした。秘書の仕事を通じて大軍運用の実務的な知識を習得させ、その他の部分は彼自らが指導するのだ。

 

「あのドーソン教官の個人授業か。贅沢だな」

 

 作戦部門のオフィスにこもりきりのアンドリュー・フォーク中佐が痩せきった顔に冗談ぽい笑いを浮かべた。

 

「まったく贅沢だよ。あれほどの人がただで指導してくれるんだから」

 

 俺は満面に笑みを浮かべた。上官へのリップサービスでも何でも無く、本気でそう思う。これまでの短い軍歴を思い返してみると、仕事面ではドーソン副参謀長から最も多く学んだような気がする。フィン・マックールにいた頃はレポートの書き方、憲兵隊では憲兵の仕事、そして今は参謀の仕事を学んでいる。

 

 前の世界の名将ダスティ・アッテンボローの回顧録『革命戦争の回想―伊達と酔狂』によると、彼が士官候補生だった当時のドーソン教官は最低の教師だったそうだ。しかし、俺にとってのドーソン副参謀長は良い教師だった。重箱をつつくような教え方は、一を聞いても一しか理解できない俺に合っていた。メモの整理の仕方、人の顔の覚え方、細かい情報の集め方といった仕事術は、細かい性格の俺にこそ必要なものだった。アッテンボローのような大器と俺のような小器では、必要な指導が異なるのだ。

 

 俺は仕事をしていない時間をすべて勉強に費やした。脳みそが疲れたらマフィンとコーヒーで糖分を補給する。集中力が途切れたらトレーニングルームに赴いて汗を流す。こうして常にベストコンディションを保ちながら勉強する。これもドーソン副参謀長直伝の勉強術だ。

 

 昼食時間も勉強に使う。昼食時の士官サロンはまったく混まない。今はどの部署も忙しくて、時間を合わせて昼食を取る余裕が無く、ほとんどの部署は交代交代で昼食を取っている。アンドリューのいる作戦部門などはオフィスにずっとこもりきりで、厨房から直接食事を運んでもらっているそうだ。おかげで静かに勉強できる。

 

 俺は一人で隅っこの席に座り、マカロニアンドチーズ二皿、シーザーサラダを二皿、ソーセージのパエリア大盛り一皿、コーンスープを小鍋で注文した。そして、士官学校で使われているテキスト『ミリタリー・ロジスティクスの理論と実務』を開こうとした時、トントンと肩を叩かれた。

 

 振り向くと、そこには丸顔で胸の大きな女性がいた。後方参謀ダーシャ・ブレツェリ少佐だ。一気に気分が落ち込む。

 

「ブレツェリ少佐、どうした?」

 

 俺が声をかけてもブレツェリ少佐は返事をしない。こうなるのはわかりきっていても、ずっと続くと嫌になる。

 

「そろそろ勘弁してくれないか」

 

 口をきいてくれるよう懇願したが、ブレツェリ少佐は首を軽く横に振り、ポケットから取り出したメモをテーブルの上に置いた。ドーソン副参謀長の意向を知りたいのだろう。彼女は目端が利く幕僚だ。

 

「わかった、後で調べておく」

 

 二つ返事で引き受けた。俺は器が小さいが、それでも個人的感情と仕事を分けて考える程度の分別はある。

 

 暗い気持ちで食事を終え、副参謀長室へ向かった。作戦部門のオフィスの近くでブレツェリ少佐よりずっと関係の悪い相手とすれ違う。

 

「お疲れ様であります!」

 

 立ち止まって直立不動で敬礼をする。今日こそ声を掛けて欲しいと心の中で祈る。しかし、相手はおざなりな返礼をして歩き去った。

 

 それでも俺は相手の後ろ姿に向かって敬礼を捧げる。振り向いて声を掛けてくれることに期待したのだが、徐々に後ろ姿が小さくなり、そのまま俺の視界から消えていく。目の前が真っ暗になったような絶望感に襲われた。

 

 相手の名前は作戦副主任参謀ヤン・ウェンリー代将という。前の世界で「不敗の魔術師」と呼ばれた偉大な英雄はまったく俺を相手にしてくれなくなった。

 

 遠征が始まる前、崇拝するヤン・ウェンリーの存在を知った俺は、ドーソン副参謀長、アンドリューとの共闘を実現させるなどと舞い上がってしまった。ところが初対面の際に、贈り物の高級茶葉、高級ブランデー、図書券を突き返されてしまった。その後も色々とヤン作戦副主任にいろいろと便宜を図ろうとしたが、すべて拒絶された。

 

 かつての恩人でヤン作戦副主任と親しい第一〇艦隊参謀レスリー・ブラッドジョー少佐から聞いたところによると、俺の態度に不審を覚えたらしい。

 

 付き合いがないのにどうして物を贈ってくるのか? どうやって自分の好物を調べたのか? どうして自分に便宜を図ろうとするのか? いろいろと考えた挙句、「下心があるに違いない」という結論に辿り着いたそうだ。

 

「まあ、あいつは人見知りだからな。愛想良く近付いてくる奴は信用しないのさ」

 

 ブラッドジョー少佐はそう締めくくった。結局、俺は本でヤン作戦副主任を知っていたつもりだったが、あちらにとっての俺が赤の他人だということを失念していたのだった。

 

「六年前からずっとヤン代将に憧れていました。遠征軍で一緒になると知って舞い上がってしまったんです。こんなことになるなら、最初からブラッドジョー少佐に取り次いでいただけば良かったです」

 

 俺が肩を落とすと、ブラッドジョー少佐は浅黒い顔に苦笑を浮かべた。

 

「そりゃあ無理だ。ヤンは人見知りだって言ったろ? 士官学校でのあいつは意外とモテたんだ。女子から『紹介してほしい』と頼まれて、何度も取り次いでやったもんさ。それでも、あいつは会おうとしないんだよ。他人に取り次いでもらってでも近づきたいってのに引いちまうんだとさ」

「ああ、なるほど。その気持ちは良く分かります」

 

 心の底から共感した。むろん、圧倒的なカリスマのあるヤン作戦副主任と凡庸な俺では、近づいてくる人の絶対数は違う。しかし、相手が積極的すぎると引いてしまう気持ちは理解できる。

 

「それにフィリップス中佐は典型的な優等生だ。エル・ファシル脱出でも義勇旅団でも、いかにも忠君愛国精神の塊みたいなことを言っていただろ? ヤンはそういうの苦手だからな。そして、あのドーソン教官の腹心ときてる。ヤンはともかく、キャゼルヌ先輩、ヤンが可愛がってるアッテンボローって後輩が、ドーソン教官を嫌ってる。難しいと思うぞ」

「おっしゃる通りです」

「まあ、悪気はなかったんだろ? 俺の方からヤンによろしく言っといてやるよ」

「ありがとうございます」

 

 俺は何度も何度も頭を下げた。これで怒りが解けるかどうかは分からないが、取りなしてくれる人がいるだけでも良しとすべきだろう。このまま永久に嫌われっぱなしになる可能性だってあったのだ。

 

 結局のところ、俺ごときがヤン・ウェンリーを自分の都合で動かそうとすること自体が間違いだった。そもそも人間としての格が違いすぎる。あちらは人類史上屈指の軍事的カリスマ、俺はただの小物だ。本来ならば同じ空気を吸っているだけでも不敬の極みである。ひたすら敬意を捧げるのが正しい態度なのだ。ナポレオン・ボナパルトやアレクサンドロス大王の崇拝者が、彼らと同じ時代に生まれ変わったとしてもそうしたであろう。

 

 親しくなろうとか、自分の都合で動かそうとか、そんな大それたことは考えずに裏からサポートすれば良い。俺の人脈に連なる人々がヤン作戦副主任を認めるだけでもかなり改善されるはずだ。彼のすることに間違いはないのだから。

 

「隊長代理は果敢ですが慎重さに欠けておりますな。今後はお気をつけください」

 

 ふと、ヴァンフリートで亡くなったトラビ副隊長の言葉を思い出した。彼の戒めをまったく守れていない自分が少し情けなくなる。二度目の人生だというのに、軽率なところが改まる気配がなかった。前の人生と比較すると、なまじ行動力が付いたおかげで酷くなってるような気もする。

 

 六年前の俺は正しい選択をしたはずだった。しかし、それだけでハッピーエンドになるわけではない。前の世界で『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』を読んだ時に、「あそこで誰々を殺していれば」「あそこで誰々が生き残っていれば」などと何度も思ったものだ。しかし、正しい選択をしたらしたで別の面倒事が持ち上がってくるのではないか。そんな気がした。

 

 

 宇宙暦七九四年一〇月一五日、自由惑星同盟のイゼルローン遠征軍は、出発から二四日でイゼルローン回廊同盟側出口に到達した。

 

 宇宙艦部隊がハイネセンからイゼルローン回廊まで行軍するのにかかる時間は、四週間前後とされる。帝国軍は想定より四日も早い同盟軍の出現に混乱した。そこにウィレム・ホーランド少将率いる同盟軍先鋒部隊が襲いかかった。同盟軍の一方的な奇襲で始まった戦いは、同盟軍の一方的な勝利で終わり、第六次イゼルローン遠征の緒戦を圧勝で飾ったのである。

 

 一個艦隊単位の戦略的奇襲なら前例はあった。その中でも特に有名なのが、同盟宇宙軍史上最高の天才ブルース・アッシュビーが指揮した第二次ドラゴニア星域会戦だ。しかし、三個艦隊もの戦略的奇襲は前代未聞だった。戦史に残る偉業に遠征軍、そして同盟全土が大いに湧いた。六度目の正直に対する期待は高まる一方だ。

 

 最大の功労者は、何と言っても行軍計画を担当した作戦部門であろう。いくら脱落者が出ても構わないのならば、四日どころか一週間だって短縮できる。しかし、脱落者を出さず、戦闘能力を保ったままで四日も早く到着させるのは至難の業だった。作戦主任参謀コーネフ少将、作戦参謀サプチャーク大佐、作戦参謀フォーク中佐らロボス・サークルの秀才参謀のチームワークがこの驚異的な行軍を成し遂げた。

 

 その次に活躍したのが補給計画を担当した後方部門だった。遠征軍の将兵五〇〇万人は食料だけでも一日で一五〇〇万食を消費する。大軍になるほど、補給作業の手間も大きくなっていく。それをどれだけ減らせるかが行軍速度に関わる。後方部門の取り組みの結果、補給作業に費やされる時間は短縮というより圧縮された。リベラルな合理主義者の後方主任参謀キャゼルヌ准将は、部下に残業や休日出勤をさせることなく、絶妙な仕事配分によって補給計画を作り上げたのである。

 

 情報部門の役割も決して小さくは無い。彼らが事前にワープポイント周辺宙域を調査し、航路障害の有無を正確に把握したおかげで、安全な航路を設定できた。情報主任参謀ビロライネン准将らロボス・サークルのチームワークが情報部門でも力を発揮した。

 

 特別幕僚部門の中では、通信部の活躍が特に目立った。軍隊を人体に例えると通信は神経だ。部隊運用には強い通信力が不可欠なのである。ヴァンフリート戦役で指揮通信システムの故障に苦しんだ経験から、イゼルローン遠征軍の通信部は飛躍的に増強された。

 

 温和な紳士として知られる遠征軍総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将は、総司令官と幕僚のパイプ役、幕僚同士の意見対立の調停役などを務め、意思疎通の円滑化に力を尽くした。嫌われ者の遠征軍副参謀長クレメンス・ドーソン宇宙軍中将は、崇高な使命感と重箱の隅をつつく目をもって正確性の向上に貢献した。

 

 緒戦の勝利はまさに参謀の勝利だった。俺の手元にある『同盟宇宙軍参謀業務教本』によると、参謀の主な役割は、情報分析、他部門との意見調整、指揮官へのアドバイス、実施部隊に対する指導、命令の伝達の五つで、チームを組んでこれらの仕事を分担する。参謀といえば策略を練るのが仕事というイメージがあるが、実際は指揮官をサポートする頭脳集団の一員に過ぎない。

 

 コミュニケーション能力、協調性、柔軟性、熱意、忍耐力の五つが参謀に最も必要な資質とされる。要するにひらめきより努力、尖った天才より協調性のある優等生の方が参謀に向いている。アンドリュー・フォークみたいな人間が理想の参謀ということだ。

 

「仕事熱心にもほどがあるぞ」

 

 俺は理想の参謀に苦言を呈した。

 

「普通だよ、普通」

 

 アンドリューはノート型端末で作業をしながら答える。ロボス・サークルの幕僚達の過労ぶりを問題視したグリーンヒル総参謀長が、「幕僚は四時間働いたら、必ず一時間は自主休憩すべし」と厳命したため、長いことオフィスにこもりきりだった彼も士官サロンに顔を出すようになった。しかし、休憩時間中も端末をサロンに持ち込んで作業を続ける始末だ。

 

「知ってるか? ロボス・サークルの『普通』は、同盟公用語では『ワーカ・ホリック』と呼ぶんだってさ」

 

 苦々しさを顔に出さないよう、あえて冗談めかして言った。ヴァンフリートから戻った頃からアンドリューはやつれ気味だったが、最近はさらに酷い。イゼルローン遠征が決まってからというもの、早朝から深夜まで休まず働いてきた。休憩義務を課したグリーンヒル総参謀長の気持ちがとても良く分かる。

 

「エリヤがそれ言うか? 士官サロンで休憩してる間も勉強してるじゃないか」

 

 アンドリューは俺の手元にあるテキスト『宇宙作戦における巡航艦運用の新展開』を指さす。

 

「君達と一緒にしないでくれ。軽食のついでに読んでるだけだ。俺には小説や漫画は分からないからね」

 

 俺は軽食の一ポンドハンバーガーを両手で持ち、がぶりとかじる。

 

「いや、一ポンドハンバーガーは軽食じゃないと思うけどな……」

「君が少食すぎるんだ。俺より一五センチも背が高いんだから、もっと食べないと」

 

 本当の身長差は一六八・三センチだから、彼の少食はより深刻だ。

 

「そうよ、アンドリュー君。もっと食べなきゃ」

 

 横から後方参謀イレーシュ・マーリア中佐が口を挟み、右手に掴んだ軽食のダチョウのもも焼きを豪快に食いちぎった。常人ならば野蛮な振る舞いも彼女がやると実にエレガントに見える。細い顎を動かして肉の塊を咀嚼し、口元は脂で濡れ、青い瞳は喜びに輝く。そのすべてが美しい。栗毛を頭の後ろで一つに結んだ髪型は剣士のようだ。

 

「いや、さすがにダチョウのもも焼きを丸かじりは……」

 

 アンドリューは少し引き気味だ。イレーシュ中佐の鋭い目つきにたじろいでいるのであろう。そんなに気にすることもないのだが。

 

「アンドリュー君はロボス提督を尊敬してるんでしょ?」

「もちろんです。ロボス閣下から『後で私の部屋に来なさい。秘蔵のウイスキーを一緒に飲もう』とお誘いを頂いた時は、天にも登るような気持ちでした。同盟軍で最も偉大な提督が俺のグラスに自ら酒を注いでくださって、『良くやってくれた。君は私が見込んだ通りの男だった』とおっしゃったんです。感動で胸が震えました。『生きてて良かった。この方にお仕えして良かった』と心の底から思って……」

「あの人、背が低いのに太ってるよね」

「ええ、素晴らしい貫禄ですよね。ゆったりとしているのに、決して動じることはない。見るからに……」

「たくさん食べてるから太るんだよね」

「ロボス閣下ほど仕事をなさる方はいらっしゃいませんからね。誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く退勤なさいます。前線に出たら執務時間は二四時間、睡眠はすべて仮眠です。人並みの食事量では体がもたないですよ」

「そう、たくさん仕事をしたら食べなきゃいけない。君はロボス提督を尊敬してるのにそこは見習わないの?」

 

 さすがはイレーシュ少佐だ。アンドリューが尊敬するロボス元帥を引き合いに出して、たくさん食べるように促している。

 

「しかし、食べる時間も惜しいですから」

「食べる時間を惜しんでたら、ロボス提督はとっくに倒れてるよ?」

「しかし、ロボス閣下と俺なんかでは価値が違います。俺はただの参謀、あの方は同盟軍の至宝です」

「君が倒れたら、ロボス提督も困るじゃないの。君の仕事は誰でも出来る仕事?」

「違います」

「参謀は食べるのも仕事のうちよ。ロボス提督が君の力を必要としている時に体が弱ってたらどうるんの?」

 

 イレーシュ少佐は見せつけるかのように、パルメレンドエビのバター焼きを二本まとめて口に放り込み、バリバリとかじる。

 

「おっしゃる通りです」

 

 観念したようにアンドリューが言うと、イレーシュ中佐は俺が食後のデザートに取っておいたホイップクリームたっぷりパンケーキの皿を「食べなよ」と言って差し出した。

 

「ありがとうございます」

「ちょ、ちょっと待って……」

 

 デザートを取られた俺は抗議しかけたが、イレーシュ中佐に「文句あるの?」と言わんばかりの視線を向けられて沈黙した。アンドリューに食われるならいいかと思って、無理やり自分を納得させる。

 

「あげる」

 

 俺の左隣で熱いココアに息を吹きかけていたダーシャ・ブレツェリ少佐が、チーズケーキの乗った皿を俺の元にすーっと寄せた。

 

「あ、ありがとう」

「それだけ?」

「どうしても言わなきゃいけないのか?」

「当然でしょ」

 

 ブレツェリ少佐の表情は穏やかだが、有無を言わせぬ迫力がある。俺は観念した。

 

「ありがとう、ダ、ダーシャ」

「うん!」

 

 名前を呼ばれたブレツェリ少佐、いやダーシャは満面の笑顔を浮かべると、ココアを冷ます作業に戻った。アンドリューとイレーシュ少佐がニヤニヤしながら俺の方を見る。

 

 悪の元凶ダーシャは小さな両手でカップを持ち、ボールのような胸を机の上に乗せ、ふっくらしたほっぺたを膨らませ、ぷるぷるした唇をすぼめ、熱いココアにふうふうと息を吹きかける。そのすべてが馬鹿っぽい。黒い髪をうなじのあたりで丸くまとめた髪型が子供のようだ。今の俺はこんな奴に頭が上がらないのである。

 

「しかし、その手があったなんて思わなかったよ。私もやってみようかな」

 

 とても面白そうにイレーシュ中佐が言う。

 

「やめてください」

 

 首を全力で横に振った。俺とダーシャ・ブレツェリは、今ではファーストネームで呼び合う仲だった。関係が急接近したわけではない。強制されたのだ。

 

 イゼルローン遠征軍総司令部が発足する少し前、彼女は「ファーストネームのダーシャで呼ばなかったら、返事しないから」と通告してきた。そんな恥ずかしい真似ができるはずもない。徹底的に抵抗したが、気まずい雰囲気に耐え切れなくなってついに屈服したのだった。

 

「でもさ、ファーストネームで呼んで欲しくてだんまりを決め込むなんて、かわいいじゃん」

「勘弁してください」

「顔もかわいいし」

「女性の顔は気にしないたちなんです」

 

 思い切り大嘘をついた。女性の顔はとても気になる。だが、ダーシャのことは女性と思っていないから、顔なんてどうでもいい。

 

「しかし、君にこんなかわいい彼女ができるなんて夢のようだよ」

 

 俺の気持ちも知らずに笑うイレーシュ中佐が少し恨めしい。逃げ場のない軍艦の中で、年の近い女性とファーストネームで呼び合う。それがどれほど恥ずかしいことなのか、わかっているのだろうか?

 

「ブレツェリ先輩は優等生の中の優等生だからな。学業ではアッテンボロー先輩と戦略研究科の首席をずっと争ってた。そして、入学から卒業までずっと風紀委員会にいた筋金入りの風紀委員。堅物のエリヤとは相性がいいんだろうな」

 

 俺のパンケーキをあっという間に平らげたアンドリューが朗らかに笑う。

 

「彼女じゃない。友達だ」

 

 俺は必死に否定する。結婚できれば相手は誰でもいいと思っている俺でも、ダーシャだけは絶対に嫌だ。こんな変な奴を女性として意識できるはずがない。

 

「エリヤの言う通り、今はまだ友達です」

 

 ダーシャが助け舟を出してくれた。

 

「そうだよな、俺達は友達だ」

「今はね」

 

 ダーシャは意味ありげに笑う。彼女らしくもない大人びた笑顔が少し怖い。

 

「なるほど、『今は』友達なのね」

 

 ニヤニヤして念を押すイレーシュ中佐。アンドリューもうんうんと頷く。

 

「ええ、『今は』友達です」

「今だけ友達だなんて寂しいこと言うなよ。俺達はずっと友達だろ?」

 

 はっきりと「今は」に力を込めるダーシャに対し、俺は作り笑いをしながら釘を差した。何としても最後の一線を死守するのだ。

 

「へえ、私のこと、友達と思ってくれてるんだ。嬉しいな」

「まあな」

「エリヤは照れ屋さんだからね。そこも可愛いんだけど」

「照れてねえよ」

 

 逃げるようにサロンの隅に視線を向ける。そこには、猫のように背中を丸めながら紅茶をすする青年がいた。

 

 黒い髪はぼさぼさ。童顔にぼんやりとした表情を浮かべている。不真面目な大学院生が何かの間違いで軍服を着ているといった感じだ。この人物は人間界に降り立った軍神、前の世界では「不敗の魔術師」と呼ばれた同盟宇宙軍最後の元帥で、現在は作戦副主任参謀をしているヤン・ウェンリー代将という。彼が俺の強引さに引いた理由が今は実感を持って感じられる。

 

「エリヤ君、非常勤参謀殿が気になるの?」

 

 イレーシュ中佐の口調にかすかな悪意がこもった。勤務態度の悪いヤン作戦副主任は、「非常勤参謀」と呼ばれる。

 

「ああ、ヤン代将はまたサボってるのか。しょうがない人だな」

 

 アンドリューが軽くため息をつく。努力と勤勉がモットーのロボス・サークルが主流を占める作戦部門では、残業や休日出勤は半ば義務化している。そんな中、一度も残業や休日出勤をせず、勤務時間中も自主休憩ばかりしてるヤン作戦副主任は異端だった。

 

「同じエル・ファシルの英雄でも、エリヤと“あの人”ではえらい違いよね」

 

 ダーシャははっきりと敵意を込めていた。士官学校時代に彼女がいた風紀委員会は、ヤン作戦副主任が結成した「有害図書愛好会」と敵対関係だった。それが今でも尾を引いている。

 

 俺が前の世界で読んだ『ヤン提督の生涯』や『革命戦争の回想―伊達と酔狂』によると、七八〇年代半ば、士官学校に在籍していたヤン・ウェンリー、ジャン=ロベール・ラップ、ダスティ・アッテンボローら一部生徒が有害図書愛好会という地下組織を結成して、有害図書を校内に持ち込んで回覧する活動を始めた。

 

 同盟軍の教育機関では、反戦思想を持つ教官の影響で任官拒否者が続出したり、校内に浸透した極右組織が生徒を反乱計画に誘うなど、思想絡みのトラブルが数年に一度は起きる。そのため、生徒指導教官や風紀委員会が反体制的な本を「有害図書」として取り締まってきた。『ヤン提督の生涯』では、反戦思想や政府批判の本が取り締まられたと記されているが、実際は極右思想の本も取り締まり対象だ。

 

 本を読んだ限りでは、読書の自由のために戦う有害図書愛好会が善、規則を振りかざす風紀委員会が悪と言った印象を受けた。ところがダーシャが言うには、事の重大さを弁えずに騒ぎを起こした有害図書愛好会が悪で、思想問題を水際で食い止めようとした風紀委員会が善なのだという。

 

 どちらが正しいかはともかく、有害図書愛好会と風紀委員会は不倶戴天の間柄となった。風紀委員長を務めたワイドボーン代将という人物は、ヤン代将、ラップ代将と並び称される七八七年度卒業者の出世頭だが、今では口も聞かない間柄だという。ダーシャとアッテンボロー少佐も同期だったが、やはりお互いに激しく嫌い合っているそうだ。しかし、そんな因縁など俺には関係ない。

 

「あの仕事ぶりで代将になれるなんて、実力がある証拠だろうが。俺みたいに真面目なだけの凡人と同じ基準で評価するなよ」

 

 俺はダーシャをたしなめた。現人神と俺なんかを比較するなど不敬にも程がある。彼ほどの才能があれば、あくせく仕事せずとも結果を出せるのだから。

 

「そう、まあいいけど」

 

 ダーシャはあっさり引き下がった。彼女は押しが強いが引くのも早い。悪い奴ではないのだ。

 

「ところでリンダ・アップルトンに似てると言われませんか?」

 

 気まずい空気を変えようと、アンドリューがイレーシュ少佐に話を振る。

 

「言われる言われる。この髪型もリンダを意識してるのよ」

 

 それから、俺以外の三人は人気ドラマ『特別捜査官 リンダ・アップルトン』の話を始めた。アップルトンと言われても、アルレスハイムの敗将しか思い浮かばない俺には退屈な話題だ。

 

 再びヤン作戦副主任に視線を向けた。視界の中にいるはずなのにとてつもなく遠い存在のように思える。前の世界で最も偉大な英雄もこの世界では未だ白眼視される存在だった。



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第26話:幽霊艦隊 794年10月下旬~11月22日 イゼルローン遠征軍総旗艦アイアース

 緒戦で圧勝したイゼルローン遠征軍は勢いに乗って前進を続けたが、帝国軍のメルカッツ宇宙軍大将に阻止された。それから二週間、両軍は狭い回廊で一進一退の攻防を繰り広げている。

 

 帝国軍は回廊の正面宙域全体に一万隻ほどの艦隊を展開し、同盟軍も対抗するかのように艦隊を展開させた。狭い宙域に艦艇が高い密度で並んでおり、艦隊単位での機動が難しいことから、一〇〇〇隻単位、一〇〇隻単位の小戦闘が連続した。正面宙域を細分化した数千の戦区を争奪し、疲弊した部隊が後退すると、予備部隊がすかさず穴を埋める。典型的な消耗戦だ。

 

 予備部隊を次々と投入して数の差で押し切るのが消耗戦の定石なのだが、同盟軍の戦力は帝国軍の一・五倍程度に過ぎない。そして、帝国軍には要塞という巨大な兵站拠点がある。互角の回復力を持つ者同士の消耗戦は長期化した。

 

「戦力が少ないからなあ……」

「三個艦隊以上の動員は進歩党が認めないんだとさ」

「それでもNPCが頑張ってくれたら、ヴァンフリートのように四個艦隊動かせた。反議長派が進歩党に乗っかったのが悪い」

「党利党略に軍事を左右されてはたまらんよ。本当にうんざりだ」

 

 遠征軍総旗艦アイアースのあちこちで幕僚達が嘆く。そんな中、ロボス・サークルだけはいつもと変わらず仕事に励む。

 

「あそこに火線を敷かれたら、右側背を直撃されて全軍が瓦解していたところだった。危ないところだったな」

「新無憂宮とやらのサロンで、酒や女にうつつをぬかしている貴族の道楽息子にしては、よくやるじゃないか」

「本戦の準備がなければ、我々が対処するんだがな。当分の間は現場に任せよう」

 

 昼食時の士官サロン、その中央のテーブルに座ったアンドリュー・フォーク中佐ら四人の作戦参謀が宙図を広げて話し込んでいる。先ほど終了した五二〇五戦区の戦闘を批評しているようだ。

 

 隅っこのテーブルは、作戦副主任参謀ヤン・ウェンリー代将の指定席だ。不敗の魔術師はいつものようにぼんやりとした表情で紅茶を……。

 

「本当にフィリップス先輩と関係ないのか?」

 

 向かい側から飛んできた馬鹿でかい声が現実逃避を終わらせた。

 

「ええ、出身地も姓も髪の毛の色も同じで年も近いですが、血縁関係はありません」

 

 うんざりした気持ちを笑顔で隠す。リディア・フィリップス少佐とダグラス・フィリップス中佐の姉弟との関係なんて、これまでに一〇〇回以上は聞かれた質問だ。

 

「そうか、それは残念だなあ」

「ご期待に添えず申し訳ありません」

 

 頭の中で「勝手に残念がってろ」と思いつつ答えた。どうしてこの男は反応に困ることしか言わないのか? フライングボールですべてのポジションをこなせるなんて自慢されても、士官学校の卒業パーティーで泥酔して池に飛び込んで風邪をひいたなんて失敗談を聞かされても、適当に合わせるしかできないのに。

 

「謝るところじゃないだろう。フィリップス中佐は本当に真面目だな」

 

 この男は俺が何を言ってもいちいち感心する。端整な顔つき、きれいにセットされた亜麻色の髪、口元からのぞく真っ白な歯、一九〇センチ近い身長。スポーツマン的な爽やかさを一身に集めたようなルックスが鬱陶しさを増幅させる。

 

「他に取り柄がありませんから」

「酒も博打も女遊びもしないというのも偉いよな」

「もともと興味ないんですよ。ストレスはトレーニングで発散していますし」

「俺も体を動かすのは大好きだぞ。中学校ではフライングボール部とベースボール部を掛け持ちした。どっちもエースでキャプテンさ。今でも暇を見ては体を鍛えてる。でも、遊ばないと発散できない。親父には『結婚したら落ち着く』と言われるけどな」

「お父様のおっしゃることもわかります。ほどほどにしないと、軍務に差し支えますから」

「それはそうだ。しかし、俺は男だぞ? 酒は飲みたいし、博打はやりたいし、女の子とも遊びたい」

「男女の問題なんでしょうか?」

「ああ、そうか。フィリップス中佐は軍務一筋だから、性別は問題にならないんだな」

「意識したことはありません。目の前のことに取り組むだけですから」

「なるほどなあ。意識してるうちは偽物ってことか。本当にストイックだなあ。フィリップス中佐が女性にモテる理由も納得できる。俺の妹もファンなんだよ」

「光栄です」

「テレビの中のフィリップス中佐は爽やかなスポーツマンって感じだけど、実際は求道者だな。あの『拳聖』チュン・ウー・チェンみたいな」

「チュン・ウー・チェンですか?」

 

 俺は軽く首を傾げた。チュン・ウー・チェンと言われたら、イースタン拳法の名手ではなく、前の世界の名参謀を思い浮かべてしまう。

 

「見た目じゃなくて雰囲気だぞ? チュン・ウー・チェンは身長が二メートル近くて顔は野性味にあふれている。フィリップス中佐は背が小さいし、体はひょろいし、顔も子供みたいだ。見た目なら全然違う」

 

 越えてはいけない一線を男はあっさり越えた。

 

「実際に見ないとわからないこともあるもんだ。まさか、フィリップス中佐がこんなに小さいとは思わなかった。末の弟が中学三年なんだがな。それと同じくらい小さい。あ、いや、弟は中学生としては普通の身長だぞ? 中学生よりも小さいとか、そんなことは言ってないから誤解しないでくれ」

 

 男は一つのセリフの中で三度も「小さい」と言った。俺は必死で笑顔を作る。

 

「わかっています」

「しかし、この世には『小さな巨人』って言葉もある。フィリップス中佐の武勲を思えば、小さいこともまた勲章だよ。君の真の偉大さがようやく分かった。こんなに小さいのに頑張ったんだからな」

 

 男は「小さい」と繰り返す。あてつけのように思えてくるが、悪気は感じられない。それが余計イラッと来る。

 

「ありがとうございます」

 

 忍耐力を総動員して笑った。身長を気にしていることを悟られてはならない。これは最重要機密なのだ。

 

「ワイドボーン先輩、小さい小さい言い過ぎですよ」

 

 俺の左隣に座るダーシャ・ブレツェリ少佐が男をきっと睨みつけた。男はにわかにたじろぐ色を見せる。

 

「おいおい、フィリップス中佐は沈着剛毅と言われてるんだぞ? 身長なんか気にするような器量じゃないだろ」

「そういう器量なんです」

 

 ダーシャはきっぱりと断言した。まったくもって正しいのだが、あまり言わないで欲しい。

 

「まあ、ブレツェリがそう言うならそうなのか。俺が悪かった」

「先輩はいつも一言多すぎます。他人が気にしてるところを無意識にえぐるでしょう?」

「悪気はないんだぞ? それはわかってるだろ?」

「無自覚ってことですよね? いっそう悪いです。そんなんだから振られてばかりなんですよ」

「それは関係ないだろう。繊細なフォーク中佐だって出兵前に振られたそうじゃないか」

「あれだけ仕事中毒だったら、どんないい人だって振られます」

「そうそう、俺が振られたのも仕事が忙しくて……」

「パドルー少佐は『がさつ過ぎてうんざりした』っておっしゃってましたけど」

「なんだよ、ネリーから話聞いてたのかよ」

「ええ、先輩のどこが鬱陶しいのか、一晩中聞かされました」

 

 たじろぐ男にダーシャが追い打ちを掛ける。実に胸がすく眺めだ。彼女が左隣に座っていたことに初めて感謝した。

 

「す、すまん」

「気をつけてくださいね」

 

 ダーシャは男に釘を差した後、くるりと俺の方を向く。

 

「ごめんね、エリヤ。ワイドボーン先輩はずっとガキ大将だったからさ。無神経なのよ。でも、悪い人じゃないから勘弁してあげて」

「別に気にしてないよ」

 

 爽やかに笑った。本当はとても気にしていたが、そんな素振りを見せるのはみっともない。それにダーシャが男をやり込めてくれたから、わだかまりも残っていない。

 

「フィリップス中佐、本当にすまなかった」

 

 しきりに謝る男は、ダーシャの士官学校での先輩にあたる第一〇艦隊A分艦隊参謀長マルコム・ワイドボーン宇宙軍代将。戦略立案や理論研究で業績を挙げた軍令のトップエリート。前の世界では記憶に無い名前だが、今の世界では「一〇年に一人の秀才」「作戦の鬼才」ともてはやされている。

 

 同盟軍の戦略中枢である統合作戦本部作戦第一課の生え抜きのワイドボーン代将は、第一課上級課員、作戦企画係長、第一課長補佐を歴任し、一昨年の末から昨年の末まで課長職にあった。訓練で仮想敵を務めるアグレッサー部隊の司令が唯一の指揮官経験。前線に出るのは今回が二度目。多士済々の七八七年度卒業者の首席で、ヤン・ウェンリー、ジャン=ロベール・ラップ、ガブリエル・デュドネイと並ぶ出世頭だった。

 

 本人の自己申告によると、彼の家は六代続いた軍人家系なのだそうだ。祖父のデクスターは宇宙軍退役中将・第九方面軍元司令官、父のヒューゴは宇宙軍中将・国防委員会事務局次長、叔父のクインシーとフランクリンは宇宙軍准将、その他の親戚もみんな士官や下士官として勤務しているらしい。

 

 何の衒いもなく家系を誇り、自慢話も失敗談も包み隠さずに語る。坊ちゃん気質と体育会系気質を掛け算したのがワイドボーン代将だった。悪人ではないが暑苦しい。

 

「気にしていませんから」

 

 よそ行きの微笑みを作った。

 

「ありがとな。フィリップス中佐は軍人の中の軍人だ。性格がさっぱりしている」

 

 ワイドボーン代将は盛大に勘違いしたまま立ち上がった。

 

「ブレツェリ、そろそろ行くわ。参謀長会議が始まるからな」

「ワイドボーン先輩、参謀長会議の議題って幽霊艦隊対策ですよね?」

「今や前線部隊の頭痛の種だからな。放置したら士気に関わる」

「頑張ってください」

「ああ、言われなくてもそのつもりさ。あいつにとっては他人事でも、俺達にとっちゃ差し迫った脅威だからな」

 

 ワイドボーン代将が刺を含んだ視線をサロンの隅に向ける。そこにいるのはぼんやりとした顔で紅茶を飲むヤン・ウェンリー代将。

 

「あの人、いつも士官サロンにいますよね。いつ仕事してるんだか」

 

 ダーシャが嫌悪を露わにすると、ワイドボーン代将は苦々しげに唇を歪めた。

 

「あいつはああ見えて要領がいいんだ。最低限の仕事だけ片付けてるんだろうよ。士官学校にいた頃も追試には恐ろしく強かった。教官が『普段からあれくらいの集中力を発揮していたら、首席だって狙えるのに』と言ってたもんさ」

「それは想像つきますけどね。不真面目なくせに才知だけが並外れてるって最悪でしょう。一三日戦争を起こした北方連合国家軍のマイダン、ラグラン事件を起こした地球軍のジュオーなんかと同類です。何をやらかすか分かったものじゃありませんよ」

 

 ダーシャは才知に溺れて国を滅ぼした参謀の名を例にあげる。前の世界のアンドリュー・フォークのような人々だ。

 

「軽薄な才子なんてものは派手に失敗すると決まってる。俺達はこつこつと努力を重ねればいい。どちらが正しいかは時間が証明してくれる」

 

 ヤン作戦副主任を軽薄な才子と決めつけるワイドボーン代将。ダーシャもそれに頷く。じゃがいも料理店でドーソン副参謀長とトリューニヒト先生が交わした会話を思い起こさせるやりとりだ。

 

 彼らは間違っている。ヤン作戦副主任は用兵の天才だ。真面目かどうかなんて基準で測るべきではない。俺みたいな凡人は小さな仕事をして、ヤンみたいな天才は大きな仕事をすればいい。人それぞれ役目が違う。それをはっきりさせよう。

 

「軍人は結果がすべて。ヤン代将は大きな仕事のできる方です。真面目かどうかなんて基準で測るのは良くありません」

「ああいう奴でもかばおうとするなんて、本当にフィリップス中佐は人格者だな。でも、俺には無理だ」

 

 ワイドボーン代将は頑なにヤン作戦副主任を認めようとしなかった。彼らの間にある因縁を思えば無理強いもできない。

 

 士官候補生時代、ワイドボーン代将は風紀委員長、ヤン作戦副主任は有害図書愛好会の中心メンバーとして対立していた。また、前の世界の戦記に「士官学校でヤンと艦隊戦シミュレーションで対戦して惨敗した同期の首席」と言うのが登場する。そんな端役の名前なんていちいち覚えていなかったが、どうやらワイドボーン代将がその首席らしい。

 

 有害図書委員会にいたブラッドジョー中佐によると、ワイドボーン代将は上級生や保守派教官からの受けが良かったものの、一言多いところが災いして、同級生や下級生からは好かれなかったそうだ。おかげで生徒総隊長のポストを、有害図書委員会初代委員長のラップ代将に取られた。ラップ代将は誰もが知るヤン代将の盟友だ。

 

 人間的にも水と油だろう。ヤン作戦副主任は学者肌で内向的、反骨精神が強く、嫌々軍人をやっている。それに対し、ワイドボーン代将は体育会系で外向的、軍人家系に生まれたことを誇りに思っている。どう見ても対立する以外の結末が見えない二人であった。

 

 別れ際、真夏の太陽よりも眩しい笑顔を浮かべたワイドボーン代将が、俺の右肩を親しげに叩いた。

 

「君に会って良かったよ。見栄えと要領だけのいわゆる『英雄』だと思ってたけど、いい意味で裏切られた。君みたいな奴が本当の英雄であるべきだと思う。頑張れ!」

 

 笑顔を作ってワイドボーン代将を見送ったが、内心では釈然としない気持ちが渦巻いた。どうしてヤン作戦副主任を嫌う人ばかりが周囲に集まってくるのだろうか? ますます関係修復から遠ざかってしまうではないか。誰にも気付かれないように小さくため息を吐いた。

 

 

 

 イゼルローン回廊には幽霊が出る。どこからともなく現れた一二〇〇隻ほどの幽霊は、誰も予想しなかった方角から同盟軍に襲い掛かり、短時間で三桁にのぼる艦艇を破壊して、援軍が来る前に姿を消す。その神出鬼没ぶりから「幽霊艦隊」と呼ばれるのだ。

 

 一一月五日、初めて将官の戦死者が出た。一一〇〇隻を率いる第一〇艦隊D分艦隊副司令官アーノルド・ウェルトン准将が、ほぼ同数の敵に側面から奇襲を受けて戦死した。

 

 一週間後の一一月一二日、一〇〇〇隻ほどの敵部隊と遭遇した第七艦隊C分艦隊二二〇〇隻は、司令官アッタポン・マッカロム少将と戦力の半数近くを失った。陽動に引っかかって戦力を二分したのが仇となったのだ。

 

 一週間で二人の提督が戦死した。その事実が遠征軍の戦意に深刻な影響を与えた。ウェルトン准将もマッカロム少将も無能とは程遠い。配下も精鋭だ。同盟軍正規艦隊所属部隊の戦力指数は、同数の帝国軍主力艦隊所属部隊の一・三倍と言われる。それがいとも容易く壊滅させられた。

 

 正規艦隊(レギュラー・フリート)の名が示す通り、同盟軍の一二個艦隊はすべて常設部隊で、指揮官の階級、所属する部隊の規模、指揮系統などが厳密に定められている。再起不能の部隊が廃止されたり、補充部隊が編入されたりすることもあるが、基本的には同じ部隊構成で戦う。

 

 一方、帝国軍の主力艦隊は、銀河連邦軍の任務部隊(タスク・フォース)制度を引き継いだ。常設されているのは一八個の主力艦隊司令部、八〇個の分艦隊司令部のみ。任務ごとに戦闘部隊と呼ばれる数百隻から一〇〇〇隻程度の部隊が司令部のもとに配属され、艦隊や分艦隊を形成する。だから、帝国軍の艦隊や分艦隊の戦力規模、指揮官の階級にバラつきが見られるのだ。

 

 前の世界のアスターテ会戦を例にあげよう。ローエングラム上級大将の艦隊司令部の下に、メルカッツ大将、シュターデン中将、フォーゲル中将、ファーレンハイト少将、エルラッハ少将の分艦隊司令部が臨時に配属される。そして、分艦隊司令部のもとに少将や准将が率いる戦闘部隊が集められて、二万隻の艦隊が編成された。

 

 固定的な編制の同盟軍艦隊は運用の柔軟性に欠けるが、いつも同じ部隊と一緒に戦うために結束力が強く、連携も取りやすい。

 

 任務部隊編制の帝国軍艦隊は結束力に欠ける。それに帝国軍士官の持病ともいうべき功名心と協調性の低さが加わり、連携もまったくできない。だが、必要に応じて様々な規模の部隊を柔軟に編成できる強みがあった。

 

 対帝国戦争を正規戦とみなす同盟軍、対同盟戦争を地方反乱とみなす帝国軍の戦争観の違いが編制の違いとなって現れている。帝国政府が同盟軍より自軍の反乱を脅威と捉えているのも、戦術レベルで不利な任務部隊制度が存続してきた要因だった。

 

 こういった事情から、同盟軍正規艦隊所属部隊は絶対的な質的優位を持つ。一〇〇〇隻程度でほぼ同数の同盟軍部隊を立て続けに壊滅させた幽霊艦隊の指揮官は、恐怖に値する存在だった。

 

「次は自分の番ではないか」

 

 将兵は口々にそうささやき合った。神出鬼没の敵ほど恐ろしいものはない。幽霊艦隊への恐怖は瞬く間に全軍に伝染した。

 

「さすがの幽霊艦隊もグリフォンには敵わないさ」

 

 ある者は「グリフォン」の異名を取るウィレム・ホーランド少将の華麗な用兵に期待を寄せた。

 

「永久凍土に触れたら、幽霊だって凍りつくに決まってる」

 

 別の者は守勢に絶対的な強さを誇る「永久凍土」ライオネル・モートン少将の名を挙げた。

 

「ダイナマイトが吹き飛ばしてくれるだろうよ」

 

 その破壊力から「ダイナマイト」と呼ばれるモシェ・フルダイ少将の名を挙げる者もいた。

 

 ホーランド少将、モートン少将、フルダイ少将の三提督は分艦隊司令官の中でも別格だ。普通の分艦隊司令官は一年か二年おきに転任するが、彼らは大きな出兵があるたびに出征部隊に転任して戦う。現役宇宙軍軍人の中で分艦隊司令官時代にこういう扱いを受けたのは、ラザール・ロボス、ジェフリー・パエッタ、アレクサンドル・ビュコック、ウランフの四名のみ。三提督の戦闘力がどれほど高く評価されているかが伺えよう。

 

 しかし、総司令部は一つの分艦隊に任せる気など無かった。神出鬼没の幽霊艦隊を倒すには、全軍で当たらなければならないと判断した。

 

 本来は遠征軍の頭脳にあたるロボス・サークルが対策を練るところだが、彼らはイゼルローン要塞の攻略計画に忙しく、幽霊艦隊までは手が回らない。そこで総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将は、別の者に幽霊艦隊対策を任せた。

 

 この流れは『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』『獅子戦争記』と似ている。第六次イゼルローン遠征において、帝国軍のラインハルト・フォン・ミューゼル少将率いる分艦隊は、同盟軍の分艦隊を次々と壊滅させた。

 

 万全な状態の正規艦隊所属部隊を真っ向勝負で壊滅させた帝国軍指揮官は、前の世界ではラインハルト一人。ラインハルト配下で最優秀のジークフリード・キルヒアイス、オスカー・フォン・ロイエンタール、ウォルフガング・ミッターマイヤーでさえ、そこまででたらめな破壊力は持っていなかった

 

 前の世界のラインハルト分艦隊は三〇〇〇隻、幽霊艦隊は一二〇〇隻前後と戦力に大きな開きがある。しかし、こんな凄い用兵家が他にいるとは考えにくい。戦力が少ない理由は良くわからないが、俺やラインハルトが「エル・ファシルの英雄」と呼ばれる世界では、そのくらいの違いは誤差のようなものだろう。

 

 とりあえず、作戦参謀のアンドリュー・フォーク中佐に「もしかしたら、これは帝国のエル・ファシルの英雄の仕業かもしれない。名前を調べてみるべきじゃないか」と話した。用兵に詳しい彼ならば、なにか悟るところがあるかもしれないと期待したのだ。しかし、冗談として流された。

 

 その次の日、上官の副参謀長クレメンス・ドーソン中将に同じ話をした。戦功がほとんど無い彼だが、用兵には詳しいし、総司令部での発言力も大きい。幽霊艦隊対策に生かしてもらえることを期待したが、反応は悪かった。

 

「何か根拠でもあるのか?」

 

 ドーソン副参謀長が胡散臭げに俺を見る。

 

「ミューゼルはエル・ファシル脱出で恐るべき知略を見せました。あの男は奇襲の天才です」

「駆逐艦乗っ取りと艦隊用兵と何の関連性がある? 馬鹿なことを言うな」

「調べていただければ、きっと分かっていただけると思います」

「ネットの検索とはわけが違うんだぞ? 人と予算と時間を遣う。貴官の言う通り、ミューゼルが幽霊艦隊の指揮官だったとしようか。それに何の意味がある?」

「幽霊艦隊対策の参考になるかと」

「だから、指揮官の名前をどう参考にする? 名前が分かれば勝てるのか?」

「相手がミューゼルと分かれば……」

 

 ここで俺は言葉に詰まった。相手がラインハルトと分かったところで何の意味もないということに気付いたのである。

 

 奇襲を破るには、敵が仕掛けてくるポイントとタイミングを正確に察知する必要がある。前の世界で読んだ戦記には、ラインハルトが奇襲で勝ったことは書かれていたが、仕掛けたタイミングとポイントは書かれていなかった。作戦立案に活かせるような精度の情報は、ラインハルトの作った作戦案、同盟軍の戦闘詳報にしか書かれていないだろう。どっちも当時は非公開情報だった。

 

 また、帝国軍には五万人の現役将官がいるが、同盟軍が研究対象とするのは中将以上の五〇〇〇人に限られる。同盟軍の准将にあたる少将、代将にあたる准将まで研究対象を広げたら、人手がいくらあっても足りないからだ。同盟軍はまだラインハルトのデータを蓄積していない。結局のところ、名前が分かるだけでは何の意味も無かった。

 

「貴官はメルカッツに勝てるか?」

 

 ドーソン副参謀長が思いがけないことを言ってきた。

 

「メルカッツ提督ですか?」

「そうだ。イゼルローン回廊を塞いでいるメルカッツだ」

「いえ、勝てません」

 

 俺は即答した。ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツと言えば、前の世界でも今の世界でも銀河屈指の名将だった人物だ。俺ごときが勝つなど想像するだけでおこがましい。

 

「ほう、貴官なら勝てると思ったのだがな」

「なぜそう思われたのでしょうか?」

「貴官は敵の名前が分かれば勝てると言う。我が軍でメルカッツの名前を知らない者は一人もおらん。そして、統合作戦本部も宇宙艦隊総司令部もメルカッツを徹底的に研究してきた。このアイアースのコンピュータにも、メルカッツとの戦闘記録はすべてインプットされている。貴官は敵の名前が分かれば勝てると言う。ならば、メルカッツに勝つなど容易いではないか? 違うか?」

「か、勝てません……」

「自分がどれほど馬鹿なことを言っていたか、理解できたか?」

「はい……」

「子供向けの小説なんかでは、敵将の名前が分かれば、軍師とやらが『ほぉーう! 敵将はあやつですかぁ? それならこうすれば勝てますぞぉー!』などと言って勝つらしいがな。作戦とはそういうものではないぞ! 物語と戦争を取り違えるな!」

 

 圧倒的な嫌味の洪水。全面降伏以外の道は残されていなかった。笑い話として流してくれたアンドリューがどれだけ親切だったかを思い知らされた。

 

 結局、ヤン作戦副主任が幽霊艦隊対策を命じられた。他の幕僚から「非常勤参謀」と陰口を叩かれてはいるが、同盟軍はただの怠け者が二七歳で代将になれるような組織ではない。グリーンヒル総参謀長に期待されるだけの実績が彼にはあった。

 

 ほんの一日でヤン作戦副主任は作戦案を提出した。彼が動かせる人員はせいぜい二人か三人程度だろう。それなのに幽霊艦隊の行動パターンの分析、今後の行動の予測、必要な戦力の算出、同盟軍が取りうる選択肢のシミュレーションを一日で済ませてしまった。とんでもない処理能力だ。前の世界では奇策ばかりが印象に残る彼だったが、スタンダードな作戦立案にかけても抜群だった。

 

 天才の偉業を目の当たりにした俺は感動に震えたが、どういうわけか不快に感じた人もいる。その最たるものがドーソン副参謀長だった。

 

「要するに普段は怠けているということだろう」

「ヤン総括参謀はしっかり仕事をなさいました。結果を出すのが軍人の仕事。問題ないのでは」

「それは違うぞ」

「どこが違うのでしょうか?」

「軍人に怠けていい仕事など無い。どんなに小さな仕事でも疎かにしてはならん。事務手続きが一日遅れるだけで、弾薬が届くのが一日遅れるかもしれん。そして、弾薬が一日遅れたせいで死ぬ兵士もいる。軍隊では怠け者は殺人者なのだ。まして、参謀は全軍を指導する立場。手を抜いたらどれほど多くの兵士が死ぬことか。できないのならまだしもやらないのは犯罪だ。貴官の言うような才能がヤンにあったとしたら、なおさら許し難い」

「しかし、用いられない才能は発揮できません」

 

 俺は必死で擁護した。才能には使いどころというものがある。ヤン作戦副主任に小さい仕事をさせるなど、蚊を叩くのに爆弾を使うようなものではないか。

 

「ヤンが用いられていない? 何を言っておるのだ? 作戦副主任といえば、作戦部門のナンバーツーではないか。仕事などいくらでもある。作戦情報の収集、命令の伝達、下級部隊との調整。こういった細かい仕事を丁寧にやるだけで、部隊の動きは改善され、ひいては犠牲も抑えられる。作戦立案以外をやりたくないなど、自分勝手もいいところだ」

「しかし、作戦立案では結果を出しておりますし……」

「結果は出せるだろうな。あいつは要領がいい。直接指導したことはないが、間接的に関わったことはある。本当に要領がいい奴だった」

「それなら……」

 

 ドーソン副参謀長の顔が怒りで真っ赤になっているのに気づき、慌てて舌を止める。だが、既に手遅れだった。

 

「ここまで言っても、理解できんのか!? 私はヤンの才能ではなく人間性を問題にしているのだぞ!? たとえブルース・アッシュビーのような才能があったとしても、奴は信用に値せん! 貴官は『大きな仕事だけを選んで、要領良く功績を稼ぐような輩を認めろ』と言いたいのか!?」

「い、いえ、そんなつもりはありません」

「あるだろう! 結果を出せば小さな仕事をしなくてもいい。そう言っただろう!?」

「は、はい」

「ああいうのに憧れているのか!? あれがかっこいいとでも思っているのか!? フィリップス中佐、貴官を見損なったぞ!」

「小官が間違っておりました!」

 

 反射的に頭を下げた。本当は憧れていたし、かっこいいとも思っていた。小事にこだわらず本質を捉える眼力こそがヤン・ウェンリーの偉大さなのだ。しかし、ここでそれを言うのは自殺行為に等しい。

 

 ドーソン副参謀長は愛憎が激しい人だ。好かれたら徹底的に世話を焼いてもらえるが、嫌われたら徹底的にいびられる。怒りを買うのは何としても避けたかった。

 

 思えば憲兵隊副官時代に取りなした人は、みんなドーソン副参謀長が気にいるような真面目さや素直さを持っていた。しかし、ヤン作戦副主任はそういった要素と対極にいる。自分の発言がどう転んでも怒りを買うだけだと今更ながらに気付いた。大恩ある恩師と崇拝する偉人の共闘など、最初から無理だったのだ。

 

 必死で謝り続けた結果、ようやくドーソン副参謀長の怒りは解けた。しかし、それで終わりではなかった。

 

 その翌日、グリーンヒル総参謀長がヤン作戦副主任の作戦案を会議に提出したが、ドーソン副参謀長が強硬に反対した。他の幕僚も反対に回り、作戦案は不採用となった。前の世界で採用された案が採用されなかったのだ。

 

 同じ日に士官サロンで紅茶を出さなくなった。アイアース艦内の売店や自動販売機で売られていた缶入り紅茶やペットボトル入り紅茶がすべて回収された。

 

 二日後、ドーソン副参謀長が提出した作戦案が賛成多数で採用された。立案者は第一〇艦隊A分艦隊参謀長のマルコム・ワイドボーン代将。ドーソン副参謀長が士官学校教官を務めていた時に目をかけた教え子であった。

 

 

 

 一一月二二日、ライオネル・モートン少将率いる第一〇艦隊B分艦隊二四〇〇隻は、一二〇〇隻ほどの敵と遭遇した。言うまでもなく幽霊艦隊だ。

 

 俺は総旗艦アイアースの広大な司令室で、他の幕僚とともに戦いの成り行きを見守っていた。司令官席に座るロボス総司令官はいつもと変わらずどっしりと構える。右隣に立つグリーンヒル総参謀長は真剣な顔でスクリーンを見つめていた。俺も彼らもみんな観戦者だった。作戦立案者のワイドボーン代将が移乗している第一〇艦隊旗艦パラミデュースがこの作戦の司令塔だからだ。

 

 人々は緊張しているが、それよりも期待が大きいように見えた。この作戦を立案したワイドボーン代将は「作戦の鬼才」と呼ばれる気鋭の作戦参謀。実施するモートン少将は「永久凍土」の異名を取る叩き上げの闘将。この二人の名声が期待を高める。

 

 俺だけは不安を感じた。ライオネル・モートンといえば、前の世界の戦記では高く評価されていたものの、ヴァーミリオンでナイトハルト・ミュラーの突撃の前に記録的な損害を出して敗死した人物ではないか。そして、マルコム・ワイドボーンなんて名前は記憶に無い。そんな二人が天才ヤンを差し置いて天才ラインハルトに挑む。負けの兆候としか思えない。

 

 七年以上前にボケた頭で読んだ本の内容なんてだいぶ忘れた。トリューニヒト先生やアンドリューのように直に接すれば上書きされる。それでも上書きされない部分のイメージは根強い。

 

 モートン少将の分艦隊が両翼を広げて包み込もうとした隙に、幽霊艦隊は薄くなった中央へと突入し、陣形の弱い部分に攻撃を集中して突破口を開いた。そして、まっしぐらに分艦隊旗艦アルゴスを目指す。誰もが興奮で手に汗を握る。俺だけは破滅の予感に冷や汗を流す。

 

 幽霊艦隊がアルゴスに迫ったかに思われた瞬間、前からレスヴォール少将のC分艦隊、後からサントン少将のD分艦隊、上からワーツ少将のA分艦隊、下から司令部直轄部隊が出現した。混乱していたように見えたモートン少将の両翼は、整然と列を作って左右から幽霊艦隊を挟み込もうとする。ワイドボーン代将の作戦は見事に的中したのだ。

 

「やったぞ!」

 

 司令室は歓声に包まれた。座っていた者も興奮して立ち上がった。ロボス総司令官とグリーンヒル総参謀長だけは古強者だけあって落ち着いている。ヤン作戦副主任はいつもと変わらずぼんやりした表情を崩さない。

 

 幽霊艦隊は前後左右からの十字砲火を浴びて百隻近くを失った。第一〇艦隊は幽霊艦隊を逃すまいと包囲の環を縮めていく。

 

「撃てば当たるぞ!」

「奴らは幽霊じゃない! 人間だ!」

 

 同盟軍は幽霊艦隊が幽霊でないことを知った。白日のもとにさらされた幽霊はたちまち消え去るだろうと信じた。俺もそう思った。この瞬間、本の記憶を現実が上書きした。

 

 幽霊艦隊は十字砲火に晒されながらもすぐさま陣形を再編した。そして、直撃を巧みに避けながら包囲網の一角を目指す。寄せ集めの帝国軍とは思えないほどに洗練された動きだ。

 

「あの提督をここで殺さなければ、後々の憂いになる」

 

 その認識をどれほど多くの人が共有しているか、俺にはわからない。ただ、第一〇艦隊旗艦「パラミデュース」で采配を振るうアル=サレム中将とワイドボーン代将は共有していた。司令部直轄部隊と四つの分艦隊がそれぞれ予備戦力を投入して、最後の仕上げにかかる。

 

 一か月近く無敵を誇った強敵も風前の灯のように思われた。そんな時、グリーンヒル総参謀長の表情が険しくなった。

 

「総司令官閣下、第一〇艦隊司令部を呼び出してください。予備戦力の投入を中止させなければ、まずいことになります」

 

 一体何を言っているのかと思った。ここで包囲を緩めたら、幽霊艦隊を取り逃がしてしまうではないか。

 

「総参謀長、どういうことかね?」

 

 ロボス総司令官が司令室にいる者すべての疑問を口にする。

 

「敵は幽霊艦隊だけではないということです。回廊正面に展開している第一〇艦隊がすべて幽霊艦隊にかかりきりになっている。他の敵から見れば絶好のチャンスです。そして、正面の敵は老練なメルカッツ提督。この機を見逃すとは思えません。予備戦力を戻して備えさせるべきでしょう」

 

 グリーンヒル総参謀長の説明が疑問を氷解させてくれた。狭い回廊で一度に展開できる正面戦力は一個艦隊が限度。最前線の第一〇艦隊がすべて幽霊艦隊に集中したら、他の敵に備える部隊がいなくなってしまう。これは確かにまずい。

 

 ロボス総司令官は大雑把だが頭脳の回転は恐ろしく早い。あっという間に予備戦力の投入中止を決断した。

 

「よし、第一〇艦隊司令部を呼び出せ。『こざかしい敵将の鼻柱さえへし折ればそれで良し。細事にこだわってイゼルローン攻略の大目的を忘れるな』と伝えろ。予備戦力を元の位置に戻せ。メルカッツに備えさせるのだ」

 

 指示を受けた通信士が第一〇艦隊司令部を呼びだそうとした瞬間、オペレーターが叫んだ。

 

「正面の敵が攻勢に出ました!」

 

 メルカッツ艦隊が第一〇艦隊に砲撃を浴びせた。グリーンヒル総参謀長の進言、ロボス総司令官の決断は適切だったが、ほんの少しだけ遅かったのである。

 

 堅実なメルカッツ大将は密集状態の第一〇艦隊に遠距離から砲撃を叩き込みつつ、単座式戦闘艇「ワルキューレ」五〇〇〇機を宇宙母艦から発進させた。遠距離から飛んでくるビーム、至近距離からワルキューレから放たれたウラン二三八弾が同盟軍に襲いかかる。

 

「第五艦隊! 第一〇艦隊を援護せよ!」

 

 ロボス総司令官が指示を出すと、第一〇艦隊の後ろに控えていた第五艦隊が動き出した。第五艦隊司令官アレクサンドル・ビュコック中将は、副司令官ハリッサ・オスマン少将に二個分艦隊を与えて援軍に向かわせる。

 

 援軍は回廊の外周ギリギリに沿って前進し、危険宙域と第一〇艦隊の隙間を素早くすり抜けていった。作戦参謀出身のオスマン少将ならではの艦隊運用だ。

 

 第一〇艦隊司令官ジャミール・アル=サレム中将の本領は組織管理であって、戦術能力はどうにか及第点と言ったところだが、声をからして全軍を督励し続けた。いち早く態勢を立て直したモートン少将が、駆逐艦と単座式戦闘艇「スパルタニアン」を繰り出し、帝国軍のワルキューレを食い止める。

 

 オスマン少将が到着すると、メルカッツ大将は素早く艦隊を後退させて距離を取り、第一〇艦隊は危機を免れた。

 

 この日の作戦は、幽霊艦隊に三〇〇隻から四〇〇隻程度の損害を与えた代わりに、第一〇艦隊が八〇〇隻の損害を出す結果に終わった。幽霊艦隊に損害を与えたことを評価する者もいれば、敵の倍以上の損害を出したことを批判する者もいる。

 

 いずれにせよ、この作戦以降は幽霊艦隊が出現することはなくなった。「当初の目的は一応達成された」とする点においては、すべての者が一致するところだった。



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第27話:グリフォンが羽ばたく時 794年11月28日~12月1日 イゼルローン要塞正面宙域

 幽霊艦隊が出没しなくなった後も回廊内の戦いは続いた。イゼルローン要塞駐留艦隊、メルカッツ艦隊は、イゼルローン遠征軍に出血を強要しつつ後退していった。遠征軍を疲弊させつつ要塞正面まで引きずり込むのが彼らの目的だ。

 

 敵の魂胆は分かっている。それでも乗らざるをえないのが遠征軍の苦しいところだ。第五艦隊、第七艦隊、第一〇艦隊がローテーションを組み、一日交代で帝国軍と戦った。

 

 特に活躍したのが第五艦隊だ。兵卒あがりのアレクサンドル・ビュコック司令官は、作戦立案や組織管理といった幕僚的な仕事は苦手だが、臨機応変の対応では右に出る者がいない。作戦レベルでの選択肢が著しく狭い戦いで最も力を発揮する提督だった。

 

 また、ウィレム・ホーランド少将、ライオネル・モートン少将、モシェ・フルダイ少将らが帝国軍をしばしば打ち破った。戦隊以下の小部隊司令、個艦の艦長、単剤式戦闘艇「スパルタニアン」のパイロットなども目覚ましい戦果をあげた。彼らの活躍によって、幽霊艦隊に挫かれた戦意が再び盛り上がった。

 

 一一月二八日、回廊を塞いでいた帝国軍が姿を消した。決戦に備えるために要塞周辺へと集結したのだ。

 

 遠征軍も進軍速度を落とした。回廊に入ってから一か月半の間、将兵は一日戦っては後ろに下がって二日休むというローテーションで戦ってきたが、疲弊の色は隠しきれない。決戦前にゆっくり休ませる必要がある。

 

 要塞攻略作戦の方針はだいぶ前に決まった。要塞を覆う四重の複合装甲には耐ビーム用鏡面処理が施されているため、ビームのような指向性エネルギー兵器は一切効かないが、運動エネルギー兵器は有効だ。そこで質量攻撃を仕掛ける

 

 正面の遠征軍主力が敵を引き付けている間に、ミサイル艦部隊が哨戒網の死角から要塞へと肉薄し、数十万発のミサイルで集中攻撃を仕掛ける。無人艦を突入させた二年前の第五次イゼルローン遠征軍に対し、今回の遠征軍は大量のミサイルを使う。

 

「二年前の無人艦攻撃が失敗に終わった最大の要因。それは敵にトゥールハンマーを使う暇を与えてしまったことだと小官は考えました。敵に気づかれる前に攻撃を済ませる。それがこの作戦の主眼であります。速度のあるミサイル艦こそがうってつけでしょう」

 

 発案者の第七艦隊B分艦隊司令官ウィレム・ホーランド少将は、総司令部で開かれた説明会の席上で胸を反らして語った。

 

 当初、この作戦案はあまり支持されなかった。アイディアこそユニークだったけれども、分析が大雑把すぎて、説得力に欠けていたからだ。ホーランド少将は士官学校を首席で卒業したにも関わらず、幕僚経験は一〇年前に副官を務めたのみ、参謀経験は皆無という異色の経歴を持つ。作戦立案経験の乏しさが仇となった。

 

 ところが作戦参謀のアンドリュー・フォーク中佐が同じような作戦案を提出した。こちらは精密な分析がなされていて説得力に富む。結局、ホーランド少将の案にアンドリューが手を加えたものが採用された。

 

 総司令部の参謀部門が作戦案の検討作業を進めた、情報部門が敵の死角を割り出し、後方部門が作戦に必要な資材を見積もり、作戦部門が戦力配置や攻撃のタイミングを検討する。同盟軍最高の頭脳集団が一か月以上もこの作業にかかりきりになった。

 

 完成案ができあがったのは二八日のことだった。グリーンヒル総参謀長、ドーソン副参謀長、コーネフ作戦主任、ビロライネン情報主任、キャゼルヌ後方主任が口を揃えて「できることはすべてやった」と太鼓判を押すほどの完成度だ。皮肉なことに前哨戦の長期化が十分な作業時間を与えてくれた。

 

「さすがはホーランド提督だよ。俺よりずっと戦理を分かっている」

 

 二九日の朝、作戦参謀アンドリュー・フォーク中佐がホーランド少将を賞賛した。俺はナイフで切り分けたクレープをアンドリューの皿に乗せてから質問する。

 

「君が出した案とホーランド提督の案はどう違うんだ?」

「イゼルローン要塞に近づいたら、対空砲火とワルキューレに迎撃されるだろう? だから、俺は防御磁場が強力な巡航艦を使う案を立てた。だけど、ホーランド提督は『この作戦は奇襲作戦だ。敵が迎撃に出る前に攻撃を済ませなければならない。火力を重視すべきだ』と言って、防御磁場が弱いけど時間あたりの投射火力の大きいミサイル艇を選んだ」

「本当に大丈夫かな?」

 

 俺は不安だった。艦隊レベルの用兵なんてまったくわからないが、記憶が危険信号を鳴らす。内容、発案者、実施者が前の世界で失敗したイゼルローン要塞攻撃作戦とすべて同じなのだ。

 

「大丈夫だろう。常勝のグリフォンが指揮を取るんだからな」

 

 アンドリューの言う通り、現在のウィレム・ホーランド少将は「グリフォン」の異名を取る常勝提督だった。四年前に准将となってから現在に至るまで三〇回近い戦闘を指揮したが、一度も負けを知らない。同盟軍が敗北した戦いでも彼の受け持った戦域だけは勝利した。しかし、過去の常勝提督が未来も常勝とは限らない。前の世界のホーランド少将が真の常勝提督ラインハルトに敗れたことを、俺は知っている。

 

「敵に気づかれたらそこでおしまいじゃないか」

 

 何としても考え直してほしいと思い、必死で粗探しをした。戦記の記憶が役に立たないのがもどかしい。記述が人物中心であるため、戦いの細かい部分について書かれていない。仮に書かれていたとしても、当時の俺の頭では覚えきれなかっただろうし、覚えたとしても最後に読んでから七年も経てばさすがに忘れる。

 

「気づかせないようにするのが、俺達作戦参謀の腕の見せどころさ」

 

 アンドリューは骨ばった右手で左胸を叩く。一年前ならば力強く感じたであろうそのジェスチャーも痩せ細った今では頼りない。

 

「しかし、敵にも作戦参謀はいる。メルカッツ提督や幽霊艦隊司令官のような優れた提督もいる。彼らが気づくんじゃないか?」

 

 こんな指摘が何の説得力も持たないのは分かってる。しかし、予言者っぽく「俺には分かっている」と断言するのは下の下だ。

 

 根拠を出さない予言は相手にされないし、的中してもオカルティスト以外にはうさん臭いと思われて、かえって評価を落とすのが現実だ。ある参謀は第五次イゼルローン遠征やヴァンフリート戦役の成り行きを正確に予測、いや予言したが、「神がかり」と言われて信用を失い、地方へと飛ばされた。軍人はあくまで常識の範囲内で話す必要がある。

 

「警戒されてないのを前提に作戦を立ててるとでも思っているのか?」

「いや、そんなことはない」

「奇襲作戦なんて敵が警戒しているのを前提に立てるものだぞ? 『警戒していれば絶対に奇襲を受けない』『奇襲が成功するのは敵が油断している時だけ』だなんて、物語の世界だけの話だ。それがなぜかわかるか?」

「最近読んだ用兵教本の受け売りだけど、戦力が限られているせいだね。すべてのポイントを警戒したら、戦力が分散されて各個撃破されてしまう。だから、敵が攻めてくる可能性の高いポイントに戦力を集中して警戒する。読み違えたら奇襲を受ける。これで良かったかな?」

「ああ、それで問題ない。攻撃作戦の基本は奇襲なんだ。戦力に大きな差がない限り、敵が警戒していない場所を集中攻撃しないと打撃を与えられない。これも用兵教本に書いてあったはずだ」

「そうだね」

 

 肯定する以外の選択はなかった。俺の主張は用兵の基本をなぞるだけで覆される程度のものでしかない。

 

 物語の世界ならば、敵が警戒しているとを指摘するだけで名参謀になれる。しかし、現実では敵が警戒しているのが前提だ。作戦の不利を説くとしたら、具体的な根拠を示した上で理路整然と説かなければ、参謀相手には何の説得力も無い。

 

「攻撃作戦における作戦参謀の仕事は、敵を騙して間違ったポイントを警戒させること、敵が警戒していないポイントを見つけること、攻撃に適したタイミングを選ぶこと、戦力を集中しやすい配置を考えることの四つだ。俺達は一か月半かけてこの四つの仕事を進めた。軍事に一〇〇パーセントは無いけど、可能な限り近づけたと思う」

「ありがとう。やっと理解できた」

 

 笑顔を作って答えた。この笑顔は作戦への期待ではなく、丁寧に説明してくれたことに対する謝礼であった。不安は拭い切れないが、「前の世界で失敗したから、今回も失敗するに決まってる」なんて根拠で太刀打ちできる相手ではなかった。

 

「まあ、不安に思うのもわからなくもないけどな。ホーランド提督は大胆な人だ。エリヤみたいな慎重派には危なっかしく見えても仕方ないと思うよ。でも、そこは俺達がフォローした。そのための作戦参謀だ。期待しててくれ」

 

 アンドリューは俺の不安の源をホーランド少将の人間性だと誤解したようだ。ホーランド少将の自己顕示欲や上昇志向は、大多数の人からは「勇将らしい覇気の表れ」と評価されたが、「いずれ派手に失敗するに決まっている」と危ぶむ声もあった。ドーソン副参謀長も少数派の一人だ。俺も同意見と思われているのだろう。

 

 あえて訂正する理由もない。俺は誤解を肯定した後、アンドリューにクレープを勧めた。多忙な彼と一緒に食事できる機会など滅多にないのだ。せめて栄養をたっぷりとってもらいたい。

 

 追加のクレープを注文しようとしてウェイターを探した時、ぼんやりした顔で緑茶をすする作戦副主任参謀ヤン・ウェンリー代将が視界に入った。

 

 今の世界では「エル・ファシルの英雄」、前の世界では「不敗の魔術師」と言われたこの天才用兵家は、要塞攻撃作戦をどう評価するのだろうか? 興味は尽きない。だが、今となってはそれも無理だ。上官のドーソン副参謀長が、彼を徹底的に目の敵にしている。

 

 前の世界で失敗した作戦が実行されようとしている。さらに悪いことに、前の世界で七九七年のクーデター前後に表面化したクレメンス・ドーソンとヤン・ウェンリーの確執が、この世界では三年も早まった。俺の胸中は不安でいっぱいだった。

 

 

 

 一一月三〇日、遠征軍は再び進軍を開始した。総司令部が最終調整で忙しい中、俺は後方参謀イレーシュ・マーリア中佐、後方参謀ダーシャ・ブレツェリ少佐の二人と一緒に夕食をとる。左隣に座るダーシャは熱いココアを冷ます作業に没頭しており、向かい側のイレーシュ中佐と俺が話し込む形となった。

 

「勝つんじゃないの」

 

 いともあっさりとイレーシュ中佐は俺の不安を否定した。

 

「そうですか?」

「作戦立てたのも指揮するのもホーランドでしょ? どうせ成功するって。あいつ、勝負って名前のつく物には絶対負けないから」

 

 言葉だけを切り取れば、イレーシュ中佐が同期の出世頭を信頼しているように聞こえる。だが、声と表情には好意から程遠い色が浮かんでいた。

 

「そんなに凄いんですか?」

「士官学校入学から卒業まで不動の首席。ブロック対抗競技会で四年連続優勝。ジャンケンでも四年間負けなし。生徒総隊、風紀委員会、学園祭実行委員会のトップをすべて経験」

「まるで物語の主人公か何かみたいですね」

「主人公みたいじゃなくて主人公なのよ。強引で自信家で目立ちたがり。何よりも負けるのが大嫌い。才能があるくせに努力も欠かさない。スタンドプレーが大好き。独善的だけど正義感がとても強い。あいつを中心に世界が回ってるみたいだった」

「能力は超優秀。気性が激しい。信念が強い。凄いけど鬱陶しそうですね」

 

 脳内にホーランド少将の容貌を思い浮かべた。精悍な面構え、二メートル近い身長、鍛え抜かれた肉体、全身にみなぎる鋭気。生まれながらにして選ばれた存在といった感じだ。縁の薄い部下の墓参りをする一面もある。こんな凄い人が近くにいては、俺のような凡人はたまらない。

 

「エリヤくん、天才って何だと思う?」

「並外れて優秀な人ですかね」

「じゃあ、アンドリューくんは天才?」

「秀才だけど天才では無いでしょう」

 

 アンドリューは頭脳も運動神経も並外れている。リーダーシップも抜群だ。しかし、ヤン代将やシェーンコップ大佐とは、何かが決定的に違うような気がする。

 

「士官学校首席なんて毎年一人は出るじゃない。アンドリューくんが首席にならなかったら、別の優秀な子が首席を占めるだけ。チームのキャプテン、星系代表選手、生徒会長。どれも同じよね。秀才は能力が高くても代替の効く存在よ。エリヤくんもそうだね」

「ああ、何かわかったような気がします」

 

 そう、ヤン代将やシェーンコップ大佐は、単に優秀なだけではなかった。別の誰かが彼らと同じ役割を果たすところが想像できない。

 

「天才って存在感だと思うの。いるといないで世界が全く違う。世界を構成する部品の範囲に留まるのが秀才で、世界を壊したり組み立てたりできるのが天才じゃないかな」

「なるほど、世界の構造そのものに介入できるのが天才ですか」

「生徒総隊長や風紀委員長は士官学校では権力者よ。でも、権力者なんて社会の中では『権力者』と名付けられた部品でしかない。ルールと不文律が許す範囲で権力を使うだけ。だけど、ホーランドはそうじゃなかった。今の生徒総隊と風紀委員会は、一四年前にあいつが作り上げた枠組みで動いてる。そして、軍人になってからは着々と武勲を重ねて、あのブルース・アッシュビーと同じ道を歩こうとしている」

「ホーランド提督は破格なんですね」

「天才って天災なのよ。世界を変える存在だからね。すべての人に影響を与えずにはいられない。ただそこにいるだけでその場にいる人に肯定するか否定するかの二者択一を迫る。そして、一度肯定したら、天才なしでは生きられなくなっちゃうのね。天才はいつも正しいから。七三〇年マフィアがその典型よ。どんなに不満があっても、アッシュビー提督の天才から離れられなかった」

「良く分かります」

 

 俺の頭の中に浮かんだのは、イレーシュ中佐が例にあげたブルース・アッシュビーではなく、ラインハルト・フォン・ローエングラムやヤン・ウェンリーだった。彼らの輝きを目にした者は、肯定と否定の二択しかできなかった。無視するにはあまりに輝きが強すぎたのだ。

 

「昔は天才に反発する人が馬鹿に見えたのよね。認めればそれですべてうまくいくのに、なんで反発するんだろうって思ってた。ホーランドを見てようやくそれが理解できた。天才を認めるか認めないかの二択じゃなくて、天才に依存するかしないかの二択だったのね」

「俺はどっちでもいいですね。依存することに拒否感はないですし」

 

 八か月前、彼女と交わした会話を思い出す。あの時は一緒に駄目になってしまっても構わないと思っていた。

 

「君は天才の下にいたら腐っちゃうタイプだよ。前も言ったでしょ? 『他人に頼れない場面でしか真面目になれないんじゃないか』って。何もしない君を見るのは嫌だな」

「そう言われると辛いですね」

「君にはダーシャちゃんみたいな子がいいよ」

 

 イレーシュ中佐は俺の左隣を見た。ダーシャがまだココアに息を吹きかけている。脇には空の紙コップが二つ置かれているから、これが三杯目なのだろう。どうして最初からぬるいココアを注文しないのか? 士官学校を三位で卒業した秀才とは思えない。

 

「ありがとうございます」

 

 ダーシャが顔を上げてニッと笑った。馬鹿のくせにこういうところには目敏い女だ。

 

「エリヤ君は押されないと動かない子だからさ。ファーストネームで呼ばれた時みたいにぐいぐい押しちゃってよ」

「はい! 任せて下さい!」

 

 恩師と友人の脳天気なやりとりに頭が痛くなった。

 

「明日から決戦でしょう。少しは緊張してくださいよ」

「君が緊張し過ぎなんだって」

「イレーシュ中佐のおっしゃる通りよ。今はのんびりした方がいいの。本番になったら嫌でも神経使うんだから」

「…………」

 

 たしなめたつもりがかえってたしなめられた。しばしば忘れがちではあるが、俺よりこの二人の方がずっと戦い慣れているのだった。

 

 一二月一日、アルテナ星域に入った遠征軍は、イゼルローン要塞から六・六光秒(一九八万キロメートル)の距離で停止した。ハイネセンを出発してから六九日目、イゼルローン回廊に入ってから四五日目のことである。

 

 ビュコック中将の第五艦隊、ホーウッド中将の第七艦隊、アル=サレム中将の第一〇艦隊がそれぞれ先頭部隊を横一列に並べ、細長い縦陣を組む形で布陣している。回廊に沿って三匹の蛇が並んでいるかのようだ。機を見て回廊外縁から要塞側面に回りこむため、そして要塞主砲「トゥールハンマー」の射線で分断されても戦えるようにするため、このような変わった陣形を組む。これまでの戦訓から要塞攻略に最も適しているとされる陣形だ。

 

 三匹の蛇の前方にイゼルローン要塞が鎮座する。恒星アルテナの光を浴びて銀色に輝く優美な姿は、「虚空の女王」の異名にふさわしい。

 

「きれいだなあ」

 

 感嘆せずにはいられなかった。隣にいるドーソン副参謀長も目を見開いている。だが、ロボス総司令官、グリーンヒル総参謀長、コーネフ作戦主任、ビロライネン作戦主任、キャゼルヌ後方主任らは、実に淡々としたものだ。

 

 若い幕僚が座る席へと視線を向けた。アンドリュー、ダーシャらも淡々としている。驚いているのは三二歳のイレーシュ・マーリア中佐を除くと、二〇代前半の若い尉官ばかりだった。要するに初めてイゼルローン遠征に参加した者だけが驚いていた。

 

「出てきたぞ!」

 

 要塞の左右から無数の光点が現れた。同盟軍から見て左側の光点はフォルゲン大将の要塞駐留艦隊、右側の光点はメルカッツ大将の艦隊だ。同盟軍三万五〇〇〇隻、帝国軍は二万三〇〇〇隻、両軍合わせて五万八〇〇〇隻の大艦隊が狭いアルテナ星域にひしめく。

 

「砲撃開始!」

 

 ロボス元帥の鋭い声が響く。同盟軍の戦艦と巡航艦がトゥールハンマーの射程外からビーム砲を放った。帝国軍も負けじと砲撃を開始し、数十万本の太い光線が両軍の間を交差する。こうして第六次イゼルローン要塞攻防戦が始まった。

 

 

 

 第五艦隊が「D線」と呼ばれるトゥールハンマーの射程限界ラインまで進出した。第七艦隊と第一〇艦隊がその後に続く。

 

 横並びになった三個艦隊がD線をまたぐように前進と後退を繰り返し、帝国軍を誘き出そうとする。俗に「D線上のワルツダンス」と呼ばれる艦隊運動だ。タイミングを誤れば、たちまち雷神の鉄槌が振り下ろされるであろう。同盟軍の優れた艦隊運用能力のおかげで成り立つダンスだった。

 

 帝国軍もD線まで前進してきた。同盟軍のリズムを崩し、トゥールハンマーの射程内に引きずり込もうとしている。

 

 外に誘き出そうとする同盟軍と中に引きずり込もうとする帝国軍は、二時間にわたって艦隊運動の妙を競い続けた。D線を巡る駆け引きがイゼルローン要塞攻防戦の最大の見せ場と言われる。しかし、今回に限っては前座に過ぎない。

 

 主演は回廊外縁にいた。全軍から集められたミサイル艦九〇〇隻。それを指揮するウィレム・ホーランド少将。彼らは帝国軍の索敵網の死角を衝き、何重にも張り巡らされた防衛線をいとも簡単にすり抜け、みるみるうちに要塞との距離を縮めていった。ホーランド少将の卓越した指揮能力、ロボス・サークルが練り上げた作戦計画、ミサイル艦乗員の熟練が織りなす用兵の芸術だ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 司令室にいる者は総立ちになり、メインスクリーンを食い入る様に見詰める。もちろん俺もその一人だった。

 

 要塞駐留艦隊とメルカッツ艦隊は、D線上の同盟軍主力との攻防に集中している。要塞の対空砲台は沈黙したままだ。要塞防衛軍の単座式戦闘艇「ワルキューレ」部隊が迎撃に出てくる気配も無い。誰にも気付かれぬうちに、ホーランド少将は要塞から二万キロの地点まで接近した。宇宙空間では至近距離といっていい。

 

 光り輝く銀色の壁がスクリーンに映る。対レーザー防御用の鏡面処理が施された要塞外壁だ。ミサイル艦九〇〇隻が一斉にミサイルを吐き出す。爆発光がドームとなって表面を覆い尽くし、強烈な衝撃波が対空砲台をなぎ倒した。

 

「おおー!」

 

 いかなる火力も受け付けないと言われてきたイゼルローン要塞の外壁が打撃を受けた。総旗艦の司令室が幕僚達の歓声で満たされる。俺も力一杯拍手した。

 

 数万本のミサイルが装甲の薄い第三要塞宇宙港の周辺を徹底的に狙い撃つ。ミサイルの雨がぶつかるたびに、直径六〇キロの巨大要塞が激しく揺れる。イゼルローン不落神話の揺らぎを示すかのような光景だ。

 

 要塞の揺れが要塞駐留艦隊とメルカッツ艦隊の将兵を動揺させた。艦隊運動に乱れが生じ、D線の外にはみ出した数百隻が同盟軍の砲撃の餌食となった。

 

 メルカッツ大将は一〇〇〇隻を割いて要塞救援に向かわせた。そして、一〇〇〇隻が抜けた穴を素早く埋める。驚くべき戦術的熟練といえよう。だが、これは予測の範囲内だ。

 

 ロボス・サークルの作戦参謀は、ホーランド少将の部隊が要塞外壁を突き破るまでの時間を一〇分と見積もった。そして、要塞駐留艦隊とメルカッツ艦隊が布陣するポイント、要塞防衛軍のワルキューレ部隊が発進するポイントを予測して、そのすべてから一〇分で到達できないポイントにホーランド少将を送り込んだのである。

 

 帝国軍もまったくの無策だったわけではない。宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥が要塞に乗り込んで、対立しがちな要塞駐留艦隊と要塞防衛軍の指揮権を一本化した。また、援軍としてメルカッツ艦隊を送った。その他にも防衛体制強化の取り組みが行われただろう。しかし、同盟軍の努力がそれを上回った。

 

「頼む、勝ってくれ!」

 

 手を強く握りしめて祈った。前の世界の記憶なんて今はどうでもいい。これだけ力を尽くしたのだから、成功するに決まってる。いや、成功してもらわなければ困る。

 

 攻撃開始から九分が過ぎた。外壁を覆う四層の複合装甲のうち、三層は既に破られ、四層目に大きな亀裂が入った。メルカッツが派遣した援軍一〇〇〇隻、要塞防衛軍のワルキューレ六〇〇〇機が迎撃に向かっているが、到着までに最低でも三分は掛かる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ホーランド少将は予定通り一〇分でイゼルローンの要塞機能を破壊し、安全なルートを通って悠々と引き上げるに違いない。誰もがそう確信した時、状況が一変した。

 

「なんだ、あれは!」

 

 通信部員インティダム技術大尉が驚きの叫びをあげた。右側面から飛来したビームの雨がミサイル艦部隊を貫いたのだ。

 

「馬鹿な! あんな場所に敵がいたのか!」

 

 作戦参謀タイデル少佐がメインスクリーンを指さして叫ぶ。七〇〇隻から八〇〇隻ほどの敵部隊が映っていた。

 

「死角は徹底的に潰したはずだ! 一体何が起きた!?」

 

 情報参謀メリエス中佐がデスクに拳を叩きつけた。

 

「しかし、あのホーランド提督が奇襲を受けるとは……」

 

 作戦総括参謀ベラスケス准将がうめくような声を漏らす。ホーランド少将は大胆だが軽率ではないと評される。そんな提督がむざむざと奇襲を受けたのがショックのようだ。

 

 俺には分かっていた。あの敵部隊の指揮官は、幽霊艦隊の指揮官と同じ天才ラインハルト・フォン・ミューゼルであろう。前の世界の彼は「黄金のグリフォン」の異名を持っていた。

 

 前の世界で戦記を読んだ時は、「警戒していないからやられたんだ。同盟軍のエリートは本当に無能だ」と嘲笑したものだ。しかし、総司令部の末席に連なって、それが間違いであることがわかった。

 

 アンドリューが『軍事に一〇〇パーセントは無い』と言った通り、参謀とは想定しうる可能性に気を配る完璧主義者だ。情報参謀が死角を徹底的に洗い出し、作戦参謀がそのすべてに対応策を用意し、ホーランド少将が逆襲を受けないように配慮した。彼らは油断したわけでもないし、無能だったわけでもない。帝国軍きっての名将メルカッツ大将ですら、この作戦を読みきれなかった。ラインハルトが凄すぎるだけなのだ。

 

 これは人間業ではないと確信した。そして、ヴァンフリート四=二基地司令部ビルで遭遇した時と同じ感情を覚えた。やはり、ラインハルトは現人神だ。人間界を征服するために天上界から降り立った軍神だ。強烈な畏怖が湧き上がってくる。

 

 ふと、作戦参謀のデスクが集中する一角に目を向けた。みんなが顔を青くする中、一人だけぼんやりと緑茶をすする黒髪の青年がいる。彼こそが前の世界で唯一ラインハルトの天才に対抗し得たヤン・ウェンリーだった。神に対抗できるのは神しかいないのではないか。

 

 いや、対抗できなくてもできることはある。この後の展開を俺は知っていた。前の世界のラインハルトは、ホーランド少将を突破した後に同盟軍主力へと突っ込んだ。これから一瞬後に起きることなら、過程を説明できずとも構わないだろう。

 

 俺は覚悟を決めて立ち上がった。そして、スクリーンを指さして大声で注意を促す。

 

「あの部隊はホーランド提督を突破したら、そのままこちらの主力に向かってきます! 注意してください!」

 

 幕僚が一斉に俺を見た。驚くほど冷たい視線だった。

 

「フィリップス中佐、貴官は何を見ているのだ?」

 

 隣のドーソン副参謀長が苦い表情でスクリーンを指さす。ホーランド少将を半包囲するラインハルトの部隊が映っていた。

 

「たかだか八〇〇隻だぞ。突っ込んでくるものか」

「申し訳ありません」

 

 俺は顔を真っ赤にして謝った。どうして展開が違うんだろうか? 首を傾げながらスクリーンを凝視する。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ホーランド少将は絶体絶命の窮地に陥った。要塞外壁からわずか二万キロの至近距離でラインハルトに半包囲を受けた。そして、軍艦一〇〇〇隻とワルキューレ六〇〇〇機が迫っている。六光秒の彼方で敵の主力と対峙する味方から援軍が来る可能性は皆無。手元には、ミサイルを撃ち尽くして短射程の対空砲しか使えないミサイル艦が数百隻。

 

 誰もがホーランド少将の死、そして常勝神話の終焉を予感した。グリフォンの翼は二度と羽ばたくことがないであろう。そして、若く美しい黄金のグリフォンが羽ばたくのだ。新旧の英雄の交代劇がスクリーンの中で始まろうとしていた。



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第28話:英雄伝説の開幕 794年12月1日~11日 イゼルローン要塞正面宙域

 初日の攻勢は失敗に終わった。だが、イゼルローン遠征軍の戦意はまったく衰えていない。要塞外壁の第四層にひびを入れた事実、そして絶体絶命に思われたウィレム・ホーランド少将の生還が将兵を元気づけた。

 

 謎の敵部隊がホーランド少将を半包囲したところに、メルカッツが派遣した軍艦一〇〇〇隻、要塞防衛隊のワルキューレ六〇〇〇機がやってきた。これらの部隊は包囲を完璧なものにしようと試みた。だが、結果として謎の敵部隊の艦隊運動が阻害されてしまった。ホーランド少将はその隙を突いて包囲から抜け出し、六光秒(一八〇万キロメートル)の距離を踏破して生還した。ミサイル艦九〇〇隻のうち七〇〇隻を失ったものの、勇名を大いに高めたのだった。

 

 二日目の戦闘は勝利の確信とともに始まった。同盟軍と帝国軍がD線を挟んで対峙した。エネルギー中和磁場を張り巡らせた軍艦が一列に並んで主砲を放つ。D線の間を飛び交う砲撃のほとんどが中和磁場に阻止される。攻撃と防御に膨大なエネルギーを浪費する一方で、部隊を動かして敵を誘い出す。朝から夜まで虚々実々の駆け引きが繰り広げられた。

 

 お互いに一歩も譲らないまま、二日目の戦いが終わった。三日目、四日目も同じような展開に終始した。

 

 七七〇年代の末にエネルギー中和磁場発生装置の性能が飛躍的に向上して以来、大口径光線兵器に対する中和磁場の優位が確立した。光線兵器対策の主流は、散開陣形と回避運動から、密集陣形と正面防御へと移り変わり、一八〇〇年前の戦列歩兵による陣形戦が宇宙空間で復活した。中和磁場の壁を張り巡らせた軍艦の密集陣は、大口径ビーム砲の砲撃を物ともしない。両軍が遠距離砲撃に徹しているのが膠着状態の原因だった。

 

 密集防御を打ち破る戦術は主に二つある。一つは突破。砲撃をかい潜りながら敵陣へと肉薄し、中和磁場の通用しない短射程実弾兵器で突破口を開け、分断した後に各個撃破する。もう一つは包囲。敵陣の側面や背後に回り込み、中和磁場の壁が弱い部分から砲撃を加えて殲滅する。どちらの戦術も狭いイゼルローン回廊では使いづらい

 

 同盟軍は消耗戦へと引きずり込まれていった。何も考えずに惰性で戦ったわけではない。参謀達は知力を尽くして奇襲の機会を探ったが、帝国軍はなかなか隙を見せなかった。時間だけが虚しく過ぎていく。

 

 次第に兵站が苦しくなってきた。生活物資は比較的余裕があるものの、燃料や弾薬が不足しつつある。ビーム砲やエネルギー中和磁場に使われるエネルギーが特に危うい。故障艦や負傷兵も増加の一途を辿っている。

 

「ミサイルがない? 食料が足りない? ああ、そうか。使えばそりゃなくなるだろうよ。で、俺にどうしろと言うんだ!?」

 

 後方主任参謀アレックス・キャゼルヌ准将がそう吐き捨てた。冷静沈着な彼が腹を立てるなど滅多に無いことだ。

 

 他の後方参謀も苛立ちを隠そうとしない。とぼけた性格のイレーシュ・マーリア中佐、ほんわかした顔のダーシャ・ブレツェリ少佐もその例外ではなかった。恐ろしいほどの緊張感が司令室の一画にみなぎる。

 

 ひっきりなしに入ってくる補給要請を整理し、重要度に高い順に物資を手配するのが後方参謀の仕事だ。彼らの判断一つで、ある負傷者に薬が与えられるか否か、ある兵士が食事にありつけるか否か、ある艦艇にエネルギーが補充されるか否かが決まる。後回しにされたせいで死ぬ兵士もいるだろう。重い責任が彼らの表情を険しくする。

 

 他の幕僚も多忙を極めた。作戦参謀は戦況の把握、対応策の案出、命令の起案・伝達、前線部隊に対する説明などに明け暮れた。情報参謀は情報の収集・分析に忙しい。通信や医療などの専門幕僚は技術的な仕事に集中した。

 

 専門的な立場で活動する各幕僚部門を全体的な見地から調整するのが、総参謀長と副参謀長の仕事だ。総司令官ロボス元帥の傍らにいる総参謀長グリーンヒル大将が大枠を掴み、副参謀長ドーソン中将が細部に気を配る。

 

 ドーソン副参謀長は「調整は足で行う仕事だ」という参謀業務教本の教えを体現した。幕僚の元に足を運んでは仕事ぶりを点検し、本人の主観では指導、他人の主観では粗探しに力を入れた。

 

 副参謀長付き秘書の俺も上官とともに駆け回った。食事をとる暇もない。時間が空いた時に司令室の隅っこにある休憩スペースへ赴き、マフィンを口に放り込み、砂糖とクリームでドロドロのコーヒーを飲み、せっせと糖分を補給する。

 

 この日は一五時過ぎになって初めての休憩時間ができた。さっそく休憩スペースへと赴く。五人ほどの先客の中にダーシャがいた。熱いココアの入った紙コップを両手で持ち、ふうふうと息を吹きかけている。

 

「またココアを冷まそうとしてるのか。ぬるいのを注文すればいいのに」

「好きでやってるんだから、ほっといてよ」

 

 ダーシャは子供のように唇を尖らせる。俺は肩をすくめた。

 

「わかったわかった。ところでこの戦いはどうなると思う?」

「まずいね。この調子だとあと五日でビームとエネルギー中和磁場が使えなくなる」

「君が司令官ならどうする?」

「撤退する。あと五日で攻め切れる自信がないから」

「どうして総司令官や総参謀長はそうしないのかな?」

「あの人達は背負うものが違うからね。一〇兆ディナールも予算を使ったのに、『要塞外壁にミサイルを叩き込んで帰ってきました』じゃ、議会や有権者が納得しないよ」

「政治に左右されるなんて健全じゃないな」

 

 俺はため息をついた。不利なのに政治的理由で戦い続けるなど最悪ではないか。

 

「軍事的な判断だけで戦争を始めたり終わらせたりできるよりは、ずっと健全だよ。うちの国は民主主義だからね。予算をもらったら、それに見合う成果も出さなきゃいけないの。幹部候補生養成所で政軍関係について習わなかった?」

 

 普段は馬鹿っぽいダーシャだが、軍事や政治になると別人のように真面目になる。さすがは士官学校優等卒業のエリートだ。

 

「あんまり深くは習わなかったな。士官学校と違って理論的なことはあまりやらないんだ」

「これからちゃんと勉強しなきゃね。戦略と政治は切っても切り離せないから」

「わかった」

 

 割り切れない気持ちは残るが、そういうものなら仕方ないと思った。そんな俺の気持ちを察するようにダーシャが微笑む。

 

「納得できないのはわかるけどさ。私達は軍人だからね。政治は常に軍事に優先する。不利な戦いを止めたかったら、政治にはたらきかけなきゃいけないの。だから、私は一市民として反戦派に投票してるんだけどね。戦いなんて少ないに越したことは無いんだから」

「反戦派……?」

 

 ダーシャの顔をまじまじと見つめた。彼女が士官学校時代に取り締まった「有害図書愛好会」には、ヤン・ウェンリーやダスティ・アッテンボローといった反戦派が名を連ねていた。当然、反戦派の敵なら、主戦派なのだろうと何となく思っていた。

 

 さらに話を聞こうと思った時、ドーソン副参謀長に呼ばれた。俺はコーヒーを飲み干して、マフィンを口に放り込んだ後、早足で休憩スペースを出た。

 

 

 

 全体の戦局が停滞している間、戦術単位や戦闘単位の指揮官、個艦の艦長、単座式戦闘艇のパイロットらの華々しい個人プレーが報告された。

 

 自機のみで敵の単座式戦闘艇を一〇機以上撃墜したパイロットは、「エース・パイロット」の称号で呼ばれる。総撃墜数二二四機の「フラミンゴ」エディー・フェアファクス少佐を隊長とする第八八独立空戦隊は、隊員の大半がエースであることから、「エース戦隊」の別名を持つ。彼らは何度もD線を超えて格闘戦を挑んだ。

 

 中でも「スペードのエース」ウォーレン・ヒューズ中尉、「ダイヤのエース」サレ・アジズ・シェイクリ中尉、「ハートのエース」オリビエ・ポプラン少尉、「クラブのエース」イワン・コーネフ少尉があげた戦果は凄まじく、この四人だけで軍艦七隻、単座式戦闘艇八九機を葬り去った。

 

 軍艦乗りにもエースはいる。敵艦を一艦単独で撃沈するのは難しいため、単独で五隻以上の敵艦を撃沈した艦長は、「エース艦長」と呼ばれるのだ。ヘラルド・マリノ中佐、ジーン・ギブソン少佐ら二二名の艦長が総撃沈数を五隻の大台に乗せた。また、ポール・ブレナン中佐やファルハード・カリミ中佐など既存のエース艦長も撃沈数をさらに伸ばした。

 

 前の世界の戦記にはほとんど登場しない部隊司令だが、戦術レベルでの勝敗は彼らの手腕にかかっている。第一四九戦艦戦隊司令ジャン=ロベール・ラップ代将、第九六駆逐戦隊司令ガブリエル・デュドネイ代将、第四三二巡航群司令ベニート・リサルディ大佐、第五二一三駆逐隊司令アデリーヌ・マロン中佐らが卓越した手腕を見せた。ラップ代将とデュドネイ代将は、士官学校七八七年度の同期であった。

 

 しかし、薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)と比較したら、これらの武勲も霞んで見える。彼らは一〇隻の強襲揚陸艦に分乗すると、敵艦に接舷して古代海賊さながらの白兵戦を挑んだ。そして、占拠した艦の通信設備を使って、帝国軍にいるかつての連隊長ヘルマン・フォン・リューネブルク少将に決闘を呼びかけた。

 

「出てきやがれ、リューネブルク! 地獄直行便の特別席を貴様のために用意してあるぞ! それともとうに逃げ失せたか!?」

 

 プロレスラーも顔負けのパフォーマンスは、膠着状態にうんざりしていた兵士を喜ばせた。占拠した敵艦は九隻、捕らえた敵兵は准将一人、子爵二人、伯爵家世子一人を含む一〇〇〇人以上という華々しい戦果も話題となった。

 

 むろん、薔薇の騎士連隊の大暴れを苦々しく思う者もいる。規律にうるさいドーソン副参謀長がその一人だ。

 

「奴らに釘を刺してこい」

 

 ヴァンフリートでの縁から使者に選ばれた俺は、強襲揚陸艦「ケイロン三号」に置かれた薔薇の騎士連隊本部に出向き、副参謀長からの勧告書を手渡した。だが、連隊長ワルター・フォン・シェーンコップ大佐に鼻で笑われた。

 

「我々が私戦をしているとおっしゃるのですか?」

「ええ、そういうことになります」

「では、私戦ということにしておきましょう。そうでもなければ、こんな戦いなどやってられないんでね」

 

 皮肉っぽい笑いを浮かべるシェーンコップ大佐。俺が絶句したところに、連隊作戦主任カスパー・リンツ少佐が付け加える。

 

「エリヤ、俺達は公務で人殺しをやるところまで堕ちたくないんだよ」

「でも、君達は軍人じゃないか」

「薔薇の騎士連隊が何を期待されているか、分からないとは言わせないぞ」

 

 旧友の青緑色の瞳に冗談と正反対の色が浮かぶ。本部付中隊長ライナー・ブルームハルト大尉、連隊情報主任カール・フォン・デア・デッケン大尉ら他の隊員からも不穏な空気が漂う。

 

「そうか、そういうことか……」

 

 ようやく事情が飲み込めた。ヴァンフリート四=二の戦いの後、薔薇の騎士連隊の主要メンバー全員が昇進した。彼らは奮戦したものの昇進に値する功績があったわけではない。謂れ無き昇進の裏には、軍上層部が何らかの期待を込めている場合が多いとされる。

 

 三年前に逆亡命し、春のヴァンフリート四=二基地攻防戦で帝国軍を指揮した元連隊長ヘルマン・フォン・リューネブルク。呼吸するだけで同盟軍と薔薇の騎士の名誉を汚し続ける男。その抹殺こそが薔薇の騎士が受けた“期待”ではないか。

 

「ご理解いただけたようですな」

 

 シェーンコップ大佐の顔にほろ苦い色が浮かぶ。

 

「はい。戦いと殺人の違いがわかりました」

「我々は所詮戦争屋ですがね。戦争屋にも戦争屋の意地があるということですよ」

 

 ここまで腹を割って話した相手を無碍には扱えない。シェーンコップ大佐やリンツ少佐と話し合った結果、薔薇の騎士連隊は勧告書を受け取ったが、言質は取れなかったという形で決着した。

 

 今回の俺はメッセンジャーに過ぎない。ドーソン副参謀長が本気で止めるつもりなら、他人に任せずに自分で交渉するだろう。副参謀長はこの程度のことに拘泥するほど暇ではない。薔薇の騎士連隊が勧告を聞いたという事実。それさえあれば十分だった。

 

 一二月六日、ついにリューネブルク少将が薔薇の騎士連隊の呼びかけに応じた。僅かな部下を引き連れてケイロン三号へと乗り込んだのだ。そして、かつての腹心だったシェーンコップ大佐との一騎打ちに敗れて戦死した。上層部の期待通り、薔薇の騎士は自らの手で裏切り者に引導を渡したのである。

 

 裏切り者が無残な死を遂げた。その知らせに同盟軍を驚喜させた。目端の利くロボス総司令官は私戦まがいの行為を追認し、「薔薇の騎士連隊の勝利は遠征軍の勝利だ」と述べて、裏切り者の死を遠征軍全体の手柄としてアピールした。

 

 それにしても、リューネブルク少将の行動は不可解だった。なぜ呼びかけに応じたのか? 数万の大軍を率いる陸戦軍団司令官が、なぜ一個小隊と強襲揚陸艦一席だけで出撃したのか? なぜシェーンコップ大佐との一騎打ちに応じたのか? 自殺したかったとしか思えない。前の世界の戦記でも、彼の真意は書かれていなかった。

 

 俺以外にも不審に思った人は多かった。イレーシュ中佐と食事をした時もリューネブルクの件が話題となった。

 

「薔薇の騎士連隊が捕まえた捕虜に、ブラウンシュヴァイク公爵だかカストロプ公爵だかの一族がいたよね」

「確かブラウンシュヴァイク公爵の従弟の子です。リッテンハイム侯爵とも姻戚だとか。本人も子爵の爵位を持ってます」

「ああ、保守派の二大巨頭と繋がってるんだ。それはまずいよね。平民が一〇〇万人死んだところで何とも思わないけど、一族が一人怪我させられただけで激怒するのが貴族様だから。『私戦に巻き込みやがって』って言われたのよ、きっと」

 

 イレーシュ中佐の推理はきわめて常識的だった。

 

「そんなところでしょうね。リューネブルクは一応子爵だけど、四=二基地攻防戦での統率ぶりを見るに、貴族に軽視されてるっぽい。そして、箔付けのために従軍してる貴族の子弟が結構いる。リューネブルクを名指しした戦いで彼らが捕虜になったら、貴族は恨むでしょう。薔薇の騎士連隊はそれを見越していたのかもしれません」

「そうだとしたら、シェーンコップって男は本当に意地が悪いねえ。私みたいな善人には付いていけない世界だ」

 

 意地の悪さでは人後に落ちないイレーシュ中佐がしれっと言う。これで一応の結論が出た。別の事情もありそうな気がするが、それは俺には知りようのないことだ。

 

「でも、そんな意地の悪い男が正々堂々の一騎打ちを挑むってのもおかしな話だよ。リューネブルクを殺すだけなら、袋叩きにすればそれで十分なのにさ。格好つけたかったのかねえ?」

「不思議ですよね」

 

 口先ではわからない風に答えた。しかし、内心では一騎打ちをした理由がある程度までは推測できていた。もっとも、それが正解かどうかを知ることは永久にないだろうし、知る気もない。世の中には知らなくていいこともある。

 

 スクリーンに視線を向けた。今日もイゼルローン要塞が恒星アルテナの光に照らされて輝いている。殺し合いを続けている人間を見下しているかのようだ。これを美しいと感じない人の気持ちが少し理解できたような気がした。

 

 

 

 六日間の戦いは将兵の心身を疲れさせた。艦の機械トラブルも急増している。戦意こそ衰えていないが、戦闘効率の低下が著しい。

 

 敵の戦闘効率は開戦時からさほど落ちていなかった。イゼルローン要塞の兵站機能は、同盟軍の兵站部隊と比較にならないほどに強力だ。水素エネルギーや対艦ミサイルがほぼ無尽蔵に供給される。兵士をリフレッシュさせる施設は選り取りみどり。巨大な艦艇造修所もある。

 

 いずれ同盟軍は補給切れで戦えなくであろうことは、容易に想像できる。兵站責任者のキャゼルヌ後方主任が即時撤退を主張した。遠征軍首脳から撤退論が出たのだ。

 

 六日、すなわち薔薇の騎士連隊がリューネブルクを討ち取った日の午後、グリーンヒル総参謀長がヤン作戦副主任を呼び出し、イゼルローン攻撃作戦の立案を命じた。ロボス・サークルと質の異なる頭脳に期待したのである。

 

 一日でヤン作戦副主任が作り上げた作戦案は、何の異論もなく採択された。彼を嫌悪するドーソン副参謀長も今回は反対しなかった。

 

 実はドーソン副参謀長も対抗案を作ろうとしていた。幽霊艦隊の時と同じように、第七艦隊A分艦隊参謀長マルコム・ワイドボーン代将に作戦立案を指示したのだ。しかし、こちらは作業完了するまでに数日はかかるという。

 

 同盟軍に何日も待つ余裕などない。代案が存在しない以上、唯一の案を採用するより他に無かったのだった。

 

 八日、同盟軍はD線上のダンスをやめ、帝国軍の右翼に集中攻撃を加えた。火力運用に長けたアレクサンドル・ビュコック中将の第五艦隊が、遠距離砲で一点集中砲火を行い、敵の中和磁場を叩き破る。イアン・ホーウッド中将の第七艦隊とジャミール・アル=サレム中将の第一〇艦隊が、支援砲撃を加えて敵を足止めした。

 

 帝国軍の右翼が崩れ、左翼が援護に向かい、トゥールハンマーの正面に帝国軍が集まった。その瞬間、第七艦隊がD線を越えてまっしぐらに突入した。浮足立った帝国軍は第七艦隊司令官ホーウッド中将の速攻に対応できず、次々と打ち減らされていく。

 

 中央の第七艦隊が前進し、第五艦隊と第一〇艦隊が左右から圧力を加える。要塞正面宙域は帝国軍艦隊の墓場と化した。

 

 

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「このまま要塞に接近するぞ!」

 

 ロボス元帥の指示のもと、第七艦隊はさらに突き進み、第五艦隊と第一〇艦隊も前進し、戦線全体を一気に前に押し出す。

 

 ウィレム・ホーランド少将の第七艦隊B分艦隊は、自由自在に飛び回りながら帝国軍を踏みにじった。他の分艦隊がその後に続く。メルカッツ大将の第三驃騎兵艦隊は防御で手一杯、フォルゲン大将の要塞駐留艦隊は潰乱しつつある。

 

 だが、同盟軍が要塞から一・五光秒(四五万キロメートル)まで迫った時、異変が起きた。ある敵部隊が第七艦隊の側面から突入した。その部隊の戦力は八〇〇隻程度に過ぎなかったが、艦列の脆い場所を解剖学的な正確さで突き抜けていった。にわかに第七艦隊が乱れた。そこに二〇〇〇隻ほどの敵部隊が苛烈な横撃を仕掛けた。

 

「あの艦はシグルーン! ケンプか!」

 

 幕僚の一人がスクリーンを見て舌打ちする。優美な流線型の新鋭艦「シグルーン」といえば、帝国軍屈指の勇将で、ルートヴィッヒ・ノインの一人として知られるカール・グスタフ・ケンプ少将の代名詞だ。

 

 専用旗艦を与えられるのは大将以上と決まっている。また、中将級以下の帝国軍提督の名前が同盟まで伝わることも滅多に無い。しかし、ケンプ少将はその例外に属する。いや、ルートヴィヒ・ノインが例外と言うべきであろう。

 

 銀河帝国のルートヴィヒ皇太子は完全実力主義だった。身分や年齢に囚われず、優れた人材をどんどん抜擢する。彼の下では二階級昇進や三階級昇進も当たり前。一つの武勲で中尉から大佐へと四階級昇進を遂げた例もある。ルートヴィヒ元帥府に所属する一〇〇人近い将官のほとんどが、平民や下級貴族出身の若手だった。その中で最優秀の九名が「ルートヴィヒ・ノイン(ルートヴィヒの九人)」と称される。

 

 帝国軍はルートヴィヒ・ノインの勇名をしきりに喧伝した。そして、全員に流線型の艦体とワルキューレの名前を持つ新型艦を与え、どの戦場にいても目立つようにさせた。

 

 カール・グスタフ・ケンプ少将は、元単座式戦闘艇のエースパイロットで、並外れた勇猛さと統率力で知られる提督だ。前の世界ではラインハルトの腹心だった。この世界では前宇宙艦隊司令長官ツァイス元帥に見出され、ルートヴィヒ皇太子のもとで武勲を重ね、今では全銀河に勇名が知れ渡っていた。

 

「あれもルートヴィヒの配下か?」

 

 別の幕僚が第七艦隊にヒットアンドアウェイを仕掛ける二つの部隊を指差す。いずれも戦力は三〇〇隻から四〇〇隻程度だった。しかし、巧妙な一撃離脱戦法で第七艦隊を巧みに足止めした。

 

 

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「まあ、そうだろうな……」

 

 何の確証もないのにみんなが同意する。有能な敵を見ればルートヴィヒ皇太子の配下と考える習慣がいつの間にかでき上がっていた。

 

 やがて、メルカッツ大将が反攻に転じ、フォルゲン大将も戦線を立て直した。敵が秩序を取り戻したところでロボス元帥が退却を指示した。勝ち目が薄いと見たら素早く退却する。それがこれまでヤン作戦副主任が立ててきた作戦案に共通する特徴である。

 

 ホーウッド中将は素早く戦線を折りたたんだ。ロボス元帥のもとで部隊運用を担当してきた人物ならではの手腕だ。ホーランド少将が追撃してくる敵に逆撃を加える。そして、第一〇艦隊から派遣されたモートン少将とボルジャー少将、第五艦隊から派遣されたオスマン少将とフルダイ少将が第七艦隊の退却を支援する。

 

 結局、八日の攻勢は失敗に終わった。だが、この一日で敵に与えた損害は、これまでの一週間の合計と等しく、遠征軍首脳を満足させるには十分であった。

 

 ヤン作戦副主任は次の作戦案を作るよう命じられた。彼は再度の攻勢に乗り気ではないらしく、「少しでもスケジュールが狂ったら、即座に全軍撤退する」という条件で引き受けた。

 

 ヤン嫌いのドーソン副参謀長は、今度は撤退論を展開するという手に出た。だが、ロボス総司令官やグリーンヒル総参謀長らの「とにかく遠征軍には戦果が必要だ」という意見が圧倒的大多数の支持を得たのであった。

 

 一二月一一日、同盟軍は三度目の大攻勢に出た。左翼の第五艦隊が左前方、右翼の第一〇艦隊が右後方、中央の第七艦隊をその中間へと移動し、斜めに陣を敷いた。

 

 三個艦隊が帝国軍の右翼に集中攻撃を加える。トゥールハンマーの射程は六光秒、主砲の射程は一五光秒(四五〇万キロメートル)から二〇光秒(六〇〇万キロメートル)に及ぶ。D線から離れた第一〇艦隊の砲撃も届くのだ。

 

 第五艦隊の一点集中砲火が帝国軍右翼の防御を叩き破った。第七艦隊と第一〇艦隊も斜めからの砲撃で圧力を加える。たまりかねた帝国軍は右翼をイゼルローン要塞のやや後方まで下げた。

 

 敵の右翼が手薄になると、同盟軍左翼の第五艦隊がD線を越えた。第七艦隊と第一〇艦隊は縦陣を保ったままで左後方にスライドする。三個艦隊が細長い蛇となり、回廊左側にぴったり張り付いて進む。

 

 堂々とD線を越えた第五艦隊であったが、トゥールハンマーが向けられる気配はなかった。トゥールハンマーは光線兵器という特質上、密集した敵には強いが、散開した敵を攻撃するのには向いていない。細長く広がった第五艦隊に向けて発射しても、破壊できる艦艇はせいぜい二〇〇隻か三〇〇隻。そして、トゥールハンマーの発射から再発射するまで多少の時間がかかる。わずかな戦果と引き換えに要塞が丸裸になっては、元も子もない。

 

 実のところ、戦力を散開させたまま要塞に接近すれば、トゥールハンマーは無効化できるのであった。もっとも、それでは駐留艦隊のいい標的になってしまう。極端なことを言うと、要塞駐留艦隊の役目は、敵に散開陣形を取らせないことにある。

 

 要塞駐留艦隊とメルカッツ艦隊が第五艦隊の側面へと向かった。細長い第五艦隊の艦列を断ちきるのが狙いだ。

 

「全軍、D四宙域方向に移動せよ!」

 

 ロボス総司令官の叱咤が全軍に轟いた。散開していた同盟軍が全速でD四宙域に向かって集中していく。むろん、回廊左側に細長く張り付いた同盟軍がすべて到着できるはずもない。フルダイ少将の第五艦隊C分艦隊だけが集結を果たした。

 

「帝国軍が突撃してきます! およそ六〇〇〇隻! 指揮官はヒルデスハイム中将!」

 

 オペレーターが帝国軍先頭集団の接近を伝えた。指揮官のマクシミリアン・フォン・ヒルデスハイム中将は伯爵家の当主で、反皇太子の守旧派だが、若さと勇名の双方がルートヴィッヒ・ノインに匹敵する勇将だ。司令室に緊張が走った。

 

 

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 圧倒的多数の帝国軍は、バラバラに同盟軍を攻撃した。どの部隊も他の部隊と連携する意思が全く見られない。司令官のヒルデスハイム中将も直属部隊だけで猛然と突進している有様だ。一つの集団としての秩序が存在しなかった。

 

 勇猛なフルダイ少将が帝国軍をあしらっている間に、ビュコック中将が他の分艦隊を素早く動かし、たちまちのうちに防御陣を組み上げる。半世紀の戦歴を誇る老将にとって、このような敵など赤子に等しい。

 

 完全にヤン作戦副主任の読みが的中した。昨日、総司令部で開かれた説明会の席で、彼はこんなことを言った。

 

「かつて、帝国軍の名将シュタイエルマルク提督は、『帝国軍の高級士官は戦場を武勲の立てどころとしか考えていない。同僚と協調する気もなければ、部下をいたわる気もない』と苦言を呈しました。帝国で刊行されている『帝国名将列伝』では、上官の制止を振り切って出撃した話、武勲ほしさに軍規違反を犯した話などが、美談として紹介されています。彼らのメンタリティは軍人ではなく武人。そこに付け入る隙があります。武勲をちらつかせるのです」

 

 帝国軍の新手がどんどんやってきた。そして、先を争うように突撃していく。味方の進路を妨害するように布陣する部隊もいる。誰もが目先の武勲だけを考えている。醜態の一言に尽きた。

 

 ミュッケンベルガー元帥、メルカッツ大将、フォルゲン大将らは、功名心にはやる部下を抑えきれなかった。これは彼らの能力の問題ではない。自己中心的な帝国軍人の気質、そして団結心を持ちにくい制度を採用する組織の問題だった。

 

 帝国軍が拙攻を続けているうちに、同盟軍の後続が到着した。トゥールハンマーの正面は敵味方が入り乱れる混戦状態となった。

 

「このまま要塞まで押し込むのだ!」

 

 前回のイゼルローン攻防戦と同じ並行追撃。それが同盟軍の狙いだった。敵は慌てて距離を取ろうとしたが、食らいついてくる同盟軍を振り切ることができない。両軍はもつれ合いながら要塞へと近づいていく。

 

 第一〇艦隊のライオネル・モートン少将、ラムゼイ・ワーツ少将が密かに混戦の中から抜けだした。そして、要塞外壁目掛けて進む。

 

 モートン少将はホーランド少将と勇名を等しくする提督。ワーツ少将は知名度こそ低いものの熟練した用兵家。そして、二人とも兵卒あがりだった。叩き上げの提督は作戦能力や管理能力に欠けているが、直感力と胆力に優れており、難局で本領を発揮する。ワーツ少将の参謀長で秀才と名高いワイドボーン代将が作戦面の采配を振るう。

 

 四〇〇〇隻の要塞攻撃部隊が何の抵抗も受けずに要塞へと接近していった。帝国軍がトゥールハンマーを発射する気配は見られない。これもヤン作戦副主任の読み通りだ。

 

 

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 俺は再び昨日の説明会を思い出した。出席者が最も懸念を示したのは、シトレ元帥が失敗した並行追撃を使うという点だった。

 

「帝国軍は味方の命など何とも思っていないはずだ。我が軍を味方もろともトゥールハンマーで吹き飛ばした敵将は、何の制裁も受けなかったではないか」

 

 二年前の第五次イゼルローン要塞攻防戦において、並行追撃を受けた当時の要塞司令官クライスト大将は、味方ごと同盟軍をトゥールハンマーで吹き飛ばして勝利した。彼の非情な決断は非難されるどころか賞賛された。中央の要職に栄転した直後に心臓発作で亡くなったのだ。人々の懸念は当然であったが、ヤン作戦副主任はその可能性を否定した。

 

「皆さんがおっしゃるとおり、帝国軍は人命を軽視する軍隊です。しかし、それ以上に宮廷の意向を重視します。将兵が平民や下級貴族だけならば、何の躊躇も無くトゥールハンマーを放つでしょう。しかし、将官や佐官には門閥貴族の子弟が大勢います。敵の総司令官や要塞司令官は、クライスト大将が『病死』した前例にならいたくないと思いますよ」

 

 ヤン作戦副主任の言葉はのんびりとしていた。だが、その真意を理解した時、一同は納得すると同時に戦慄を覚えた。

 

 誇り高い門閥貴族は一族の仇を決して許さない。そして、権力者の怒りを買った者が『病死』や『事故死』を遂げるなんてことは、帝国では珍しくもないことだ。前の世界では、ブラウンシュヴァイク公爵の一門を処刑したウォルフガング・ミッターマイヤーが謀殺されかけた。大勢の門閥貴族の子弟を吹き飛ばしたクライスト大将の急死。その前例がある以上、並行追撃は有効足りえる。

 

 要塞正面の両軍主力は接近戦を展開している。ウラン二三八弾と短距離ミサイルが乱れ飛ぶ。単座式戦闘艇が密集した艦艇の間を飛び回る。中和磁場が意味を成さない戦場だ。

 

 ここでも同盟軍は有利だった。敵の艦列に割り込んで分断する。孤立した部隊を丹念に潰す。これが連携の強みだ。そして、接近戦に長けたホーランド少将が縦横無尽に暴れ回り、三日前に勝る戦果をあげた。

 

「今度こそいけるんじゃないか」

 

 そんな期待が司令室に充満した。前の世界でヤン作戦副主任が示した知謀を知っている俺は、ひときわ大きな期待をかける。前より二年早くイゼルローンが陥落することを確信した。

 

「敵が突っ込んでくるぞ!」

 

 それは一つの黒い塊となって混戦の場をすり抜ける帝国軍部隊であった。数は七〇〇隻から八〇〇隻ほど。要塞攻撃に向かうモートン少将とワーツ少将には目もくれず、同盟軍の奥深くへと突き進む。誰がこの部隊の指揮官なのかは考えなくてもわかる。天才ラインハルト・フォン・ミューゼルだ。

 

「全軍、プラン一三のファイルを開け!」

 

 グリーンヒル総参謀長が全軍に指示を出す。ヤン作戦副主任が用意したラインハルト対策「プラン一三」のデータが全部隊の戦術コンピュータに共有される。

 

 第五艦隊司令官ビュコック中将、第七艦隊司令官ホーウッド中将、第一〇艦隊司令官アル=サレム中将は、混戦状態を維持しながら部隊を動かした。そして、さほど時間を掛けずに対ラインハルトシフトを完成させる。

 

 トゥールハンマーは使えない。ラインハルトはヤン作戦副主任が考案したシフトで阻止される。不安要素は何一つ無い。無いはずだった。

 

「なぜ止められない!」

 

 驚きの叫びがあがった。ラインハルトは同盟軍のシフトをやすやすと飛び越えていく。弱い部隊を直感で見抜き、その中でも弱い一点だけに攻撃を集中して突破しているのだ。天才にしか成し得ない用兵だ。

 

 用兵教本には、「兵力の規模が大きくなればなるほど、個人の能力の影響は小さくなる。どんな優れた人物でも末端まで直接指導できないからだ」と書かれていた。ヤン作戦副主任が天才であっても、三万隻のすべてを自分で指導することはできない。一方、数百隻しか持っていないラインハルトは、隅々まで指導ができる。大きな兵力が天才参謀ヤンの枷となった。

 

 三万隻が数百隻に翻弄されているという事実に同盟軍は動揺した。通信回線は悲鳴と怒声に満たされた。要塞外壁に到達したモートン少将とワーツ少将の部隊はミサイル攻撃を開始したが、戦意が低下しているせいか、勢いにも正確性にも欠ける。

 

「作戦は失敗しました。中止しましょう」

 

 ヤン作戦副主任が進言した。だが、ロボス総司令官は首を横に振る。

 

「トゥールハンマーは封じた。要塞は丸裸だ。あと少しでイゼルローンが落ちるというのに、なぜ引かねばならんのだ」

「動揺が広がった状態で混戦を続けるのは危険です。それに敵もそろそろ頭が冷えてくる頃合いだと思います」

「その前にイゼルローンを落とせば良いではないか」

「所要時間を過ぎています。それ以上戦闘を継続すれば、トゥールハンマーにやられてしまうでしょう。今ならまだ間に合います。撤退する際のプランも用意して……」

 

 ロボス総司令官は不機嫌そうにヤン作戦副主任の言葉を遮った。

 

「周到なことだな。そこまで先が読めるなら、この状態からイゼルローンを落とすプランくらい用意できるだろう?」

「いえ、ありません」

 

 率直すぎるほどに率直な答えをヤン作戦副主任が返す。

 

「私が求めている策は要塞を攻略する策だ。できないなら、貴官に用はない」

 

 ロボス総司令官はヤン総括参謀を下がらせた。そして、部隊運用にあたっていたコーネフ作戦主任、サプチャーク大佐、アンドリューの三人を呼び寄せて、攻略策を練るように命じる。

 

 突如として司令室のスクリーンが光で満たされた。総旗艦アイアースが激しく揺れる。俺はバランスを崩して椅子から床に転げ落ちた。

 

「敵襲です!」

 

 オペレーターが叫んだ。レーダーには七〇〇隻から八〇〇隻ほどの光点が映し出されている。なんと、ラインハルトは同盟軍の本隊に突入してきたのだ。

 

「怯むな! 迎え撃て!」

 

 さすがにロボス総司令官は豪胆だった。総司令部直衛部隊はすぐに迎撃態勢に移る。だが、ラインハルトは総旗艦アイアースを攻撃せずに、イゼルローン回廊の同盟側出口へと向かっていく。

 

 

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「総司令官閣下、モートン提督が攻撃中止許可を求めております」

 

 状況がめまぐるしく変わる中、副官のリディア・セリオ中佐がモートン少将からの連絡を伝えてきた。

 

「それはできん。『可能な限りの援護はするから、攻撃を続行せよ』と伝えろ」

 

 ロボス総司令官が攻撃継続を命じた後、もう一人の要塞攻撃指揮官ワーツ少将が「我が軍は孤立の危険にあり。攻撃継続は困難と判断する」というワイドボーン代将の意見を伝えてきた。

 

「作戦の鬼才も不利と判断したか」

 

 考え込むような顔になるロボス総司令官。そこに第五艦隊司令官ビュコック中将、第七艦隊司令官ホーウッド中将、第一〇艦隊司令官アル=サレム中将から相次いで通信が入った。三人とも将兵が浮き足立っていること、敵が整然と後退しつつあることなどを伝え、撤退許可を求めた。

 

「貴官はどう思う?」

 

 ロボス総司令官は「未練を捨てきれない」といった表情で、グリーンヒル総参謀長、ドーソン副参謀長、コーネフ作戦主任、ビロライネン情報主任、キャゼルヌ後方主任らに意見を聞いた。

 

「撤退すべきでしょう」

 

 全員がそう答えた。その次に意見を問われた腹心のサプチャーク大佐、アンドリュー、セリオ中佐らも同意見だった。

 

「やむを得ん。全軍撤退だ」

 

 大きなため息とともにロボス総司令官は決断した。グリーンヒル総参謀長らが撤退の段取りをすべく動き出した時、司令室に悲鳴が響いた。

 

「トゥールハンマーだ!」

 

 全員が一斉にスクリーンを見る。イゼルローン要塞に白い光点が浮かび、どんどん輝きを増していく。

 

 前の世界でも今の世界でも伝説となった巨砲トゥールハンマーが、今まさに自分に向けられようとしているということを理解した。血の気が引き、気温が氷点下になったように感じた。膝ががくがくと震える。お腹がきゅっと痛みだす。

 

 あたりを見回した。ドーソン副参謀長の顔が恐怖でひきつっている。アンドリューはコーネフ作戦主任らとともにロボス総司令官を守るように囲む。ヤン作戦副主任は他人事のようにぼんやりした顔だ。イレーシュ中佐の広い背中が遠くに見えた。

 

 意外なことにダーシャが近くに立っていた。両腕に書類を抱えている。ドーソン副参謀長に決裁を仰ぐつもりだったのだろうか。俺は声を掛けようとした。

 

「ダー……」

 

 メインスクリーンが眩しく輝き、司令室全体に光が充満した。足元が激しく揺れる。俺はバランスを崩して前のめりに転び、柔らかいものにぶつかった。

 

 目がチカチカしてよく見えない。とりあえず態勢を立て直そうと思い、柔らかいものに手をついて立ち上がる。

 

「第二射、来るぞ!」

 

 悲鳴が再び響く。光とともに大きな揺れが来る。俺はまたも柔らかいものにぶつかって倒れた。火災発生を告げる艦内放送が流れ、叫び声や足音が鳴り響く。第六次イゼルローン攻防戦は同盟軍の敗北に終わった。



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第29話:揺らぎの時 794年12月8日~795年1月下旬 総旗艦アイアース~オリンピア市

 一二月一一日、イゼルローン遠征軍が撤退を開始した。帝国軍の一部が勢いに乗って追撃してきたが、第五艦隊司令官ビュコック中将が指揮する殿軍に撃退された。

 

 同盟軍が失った人員は七九万三〇〇〇人、艦艇は七一〇〇隻。帝国軍の損害はその六割から七割とみられる。三度の攻勢で大きな戦果をあげたものの、敵より大きな損害を出し、イゼルローン攻略にも失敗した。取り繕いようのない敗北だった。

 

 戦いが終わった後の幕僚は書類仕事に忙殺される。書類を作らせるのも作るのも大好きなドーソン副参謀長は特に忙しい。その秘書である俺も仕事に追い回された。

 

「副参謀長閣下が仕事増やしてくれるからねえ。ほんと困るよね。出世するのも楽じゃないなあ」

 

 ある日の昼食時、後方参謀イレーシュ・マーリア中佐がそうぼやいた。テーブルの上には、ポテトコロッケ、ポテトグラタン、ポテトとベーコンのパスタ、ポテトスープが乗っている。さすがにじゃがいもが多すぎるのではないか。

 

 そう言えば、最近は士官サロンでじゃがいも料理を食べる人が増えた。俺も無性にじゃがいもを食べたくなり、ジャーマンポテト、ポテトオムライス、ポテトサラダ、じゃがいものチーズ焼きを注文する。

 

 隅っこの席では、作戦副主任参謀ヤン・ウェンリー代将が背中を丸めながら緑茶をすする。二度の攻勢作戦で大功をたてた後もまったく変わりない。半ば士官サロンの備品と化している。

 

「あの人は運がいいからね。エル・ファシルの時みたいに、人が失敗した時に少しだけましな仕事をして点数を稼ぐ。そうやって昇進するってわけ」

 

 後方参謀ダーシャ・ブレツェリ少佐のヤン・ウェンリー評は、辛辣の一言に尽きた。

 

「いや、でもヤン代将の作戦はダーシャだって見ただろ。運だけで立てられる作戦か? 実力だと思うけどな」

 

 俺が反論すると、ダーシャは首を軽く横に振る。

 

「実力がないとは言ってないよ。作戦立案能力は本物だと思う。でも、目立つ時しか仕事しないのは事実でしょ? 地味な仕事はやらないよね。人の何分の一か働いただけで昇進するの見てると、運がいいと思っちゃうよ。いや、運じゃなくて要領だね」

「努力じゃなくて結果で評価しろよ」

「エリヤは仕事ができるかどうかだけで人を評価するの? 仕事できるのに嫌な奴なんていくらでもいるじゃん」

「仲良くするに越したことはないだろ。みんながヤン代将を信頼していたら、もっといい戦いができたと思うぞ」

「信頼しない方が悪いってこと?」

「全人格を信頼しろとは言わないけどな。でも、性格に目をつぶって能力を引き出すくらいの度量はあってもいいんじゃないか?」

「能力はあるのに責任感は皆無。ブレーキの付いてないレースカーみたいなもんでしょ。そんなのを信頼するなんて無理。無能な方がずっとマシよ」

 

 取り付く島がまったくなかった。戦記によると、若き日のヤン・ウェンリーは主流派軍人から酷評されていたそうだ。その何分の一かはダーシャなんじゃないかと思えてくる。

 

 前はどうにかしてダーシャにヤン作戦副主任を見直してほしいと思っていた。しかし、最近は諦めかけている。彼女は好き嫌いが激しいが陰湿ではない。ドーソン副参謀長のように足を引っ張ろうとはせず、悪口を言うだけだ。そこら辺はヤン作戦副主任以上に彼女に敵視されるダスティ・アッテンボロー少佐と似ていた。それなら、嫌ってるままでも構わないような気がする。

 

 ヤン作戦副主任と対比される存在といえば、アンドリュー・フォーク中佐らロボス・サークルの参謀であろう。不真面目だが抜群のひらめきを持つ天才参謀と、勤勉でチームワークに長けた秀才集団は、好対照といっていい。総司令部でも両者の比較論が盛んだ。

 

 今回の遠征では、ヤン作戦副主任にはこれといった失点がなかった。そして、立案した作戦は成功した。一方、作戦全般を指導したロボスサークルは、功績も多いが失点も多かった。トータルすれば、膠着状態を打破できず、ラインハルトに対応できなかったことで評価を落とした。

 

 ロボス・サークルはもともと反感の対象だった。嫉妬する者もいれば、ロボス総司令官の信任をかさにきていると反発する者、優等生的なスタイルに反骨精神を刺激される者もいる。それがイゼルローン遠征の失敗で一気に噴出した。ロボス・サークルを貶すためだけに、ヤン作戦副主任を持ち上げる者も少なくない。

 

 今やロボス・サークルとヤン作戦副主任は対立関係となった。いや、「対立して欲しいと思われている」と言った方が正解だろう。当事者と関係ないところで第三者が対立を煽っていた。

 

 遠征失敗の翌日から、ロボス・サークルはオフィスからほとんど出てこなくなった。失敗したら努力して取り返そうとするのが優等生だ。寝食を忘れて作戦検証に取り組んでいるのであろう。

 

 以前も言った通り、行軍を遠足に例えるならば、将兵が生徒、艦艇が交通手段、部隊が班、部隊指揮官が引率の教職員にあたる。後片付けや反省会は義務なのだ。家に帰るまでが遠足、事後処理を終えるまでが遠征だった。

 

 

 

 年が明けて七九五年になった一月七日。首星ハイネセンに到着した遠征軍を冷ややかな視線が取り巻いた。去年末、行政サービスの大幅削減、大型増税が同時に実施された。そんな時に一〇兆ディナールもの巨費を費やした遠征が失敗に終わったのだ。市民が怒るのもやむをえない。

 

 真っ先に槍玉に上がったのは、総司令官のラザール・ロボス元帥だった。市民は口々にロボスを批判した。

 

「ロボスが無能だから負けたんだ」

「さっさと撤退すればよかったのに」

「行き当たりばったりで戦争ができるものか」

「所詮は戦術屋だ。戦略が分かっていない」

 

 擁護論を唱える人もいた。国民平和会議(NPC)のアドバイザーとして知られる国立中央自治大学のエンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ法学部長は、保守系メディアとのインタビューの中で、遠征軍の戦果を高く評価した。

 

「三度にわたって要塞に肉薄した。シドニー・シトレ提督が指揮した前回の遠征軍より成功したと考えてもいいのではないか」

 

 それに対し、ハイネセン記念大学文学部史学科のダリル・シンクレア教授が反論を加えた。

 

「敵が錯乱しなければ、シトレ提督は確実にイゼルローンを攻略していたはずだ。しかし、ロボス提督は違う。トゥールハンマーが発射される前に勝負はついていた」

 

 特定の参謀に頼りすぎたことがロボス元帥の用兵を硬直化させたのではないか。そう指摘したのは、軍事評論家のジュスタン・オランド退役准将だった。

 

「似たような思考の部下ばかりを集めれば、作戦の幅も狭くなるものだ。秀才ばかりを登用したのがロボス提督の誤りだった。今後はヤン・ウェンリーのような異才も登用すべきだろう」

 

 大衆紙『ザ・オブザーバー』は、かつてロボス元帥を支えた名参謀の名を挙げて、秀才偏重人事を批判した。

 

「今のロボスに必要なのは、コーネフ、ビロライネン、フォークのような忠犬ではない。ホーウッドやアル=サレムのような猛犬だ」

「マクシム・アンドレーエフが墓の下から蘇ってはくれないものか。空いた墓穴にはコーネフを放り込めば良かろう」

 

 ロボス元帥とロボス・サークルへの逆風は凄まじい物があった。いつもは敗戦を小さく見せようとする主戦派マスコミも徹底批判に回っている。

 

 ほんの一年前まで、ロボス元帥は「リン・パオの再来」と呼ばれ、ロボス・サークルの若手参謀は「若き頭脳集団」ともてはやされていた。それが「一〇年に一度の凡戦」と言われたヴァンフリート戦役で陰り始め、第六次イゼルローン遠征で地に落ちた。国費と人命を浪費した彼らが批判されるのはやむを得ないと思う。それでも無常さを感じずにはいられない。

 

 今年の一二月でロボス元帥の宇宙艦隊司令長官の任期が切れる。だが、任期満了前の勇退を求める意見が出てきた。後任の長官候補には、同盟軍再編に手腕をふるう第一艦隊司令官ネイサン・クブルスリー中将、ドラゴニア=パランティア戦役を勝利に導いた第二艦隊司令官ジェフリー・パエッタ中将、内外の人望を集める首都防衛司令官ゴットリープ・フォン・ファイフェル中将などの名前があがっている。

 

 ロボス元帥とロボス・サークルに批判が集まったおかげで、ヤン作戦副主任を用いた総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将、撤退論を唱えた後方主任参謀アレックス・キャゼルヌ准将らは評価を高めた。

 

 副参謀長クレメンス・ドーソン中将の細かい指導ぶりは、幕僚からは嫌われたが、国防委員会や統合作戦本部からは賞賛された。また、幽霊艦隊対策にワイドボーン代将を推薦し、第三次攻勢の前に撤退論を唱えた見識も高く評価された。情報部長シング中将の後任が有力視されるが、国防政策を立案する国防委員会戦略部長、あるいは全軍の戦略計画を立案する統合作戦本部作戦部長となる可能性も出ている。

 

 作戦副主任参謀ヤン・ウェンリー代将の評価は、ロボス・サークルとの対比で上がった。要するに「頭の固いエリートVS柔軟な天才」という、凡庸ではあるが大衆受けする構図に組み込まれてしまったのである。准将に昇進し、国防研究所の戦史研究部長に登用される見通しだ。

 

 一見すると島流しのように見える人事だが、実際は栄転だった。戦史研究部の戦史研究は、国防政策や軍事戦略を策定する際の理論的根拠、教範を作成する際の最重要資料、軍学校の戦史教育などに用いられる。それゆえに戦史研究部長は、統合作戦本部や宇宙艦隊総司令部の副部長と同格とされる。将来の最高幹部候補が部長になる例も多い。

 

 ヤン代将の戦史研究部長起用は、統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の意向だった。この二人は師弟関係であり、軍縮政策と少数精鋭化戦略の熱烈な支持者である。さらなる軍縮を進めるための理論的根拠を用意するのがこの人事の狙いと言われる。

 

 最も大きな武勲をあげた「グリフォン」ウィレム・ホーランド少将は、自由戦士勲章に次ぐハイネセン特別記念大功勲章を授与された。そして、中将への昇進、今月で引退する第一一艦隊司令官マッシモ・ファルツォーネ中将の後任が確実視される。

 

 この人事が実現すれば、同盟軍史上最大の英雄ブルース・アッシュビー元帥と同じ三二歳での中将昇進・正規艦隊司令官就任となる。ホーランド少将も数年前からアッシュビー元帥を意識する言動を繰り返してきた。そして、アッシュビー元帥が同期の友人とともに「七三〇年マフィア」を結成したように、ホーランド少将は「七八二年マフィア」を結成した。グリフォンがどこまで羽ばたいていくのか? 人々の期待は高まる一方だ。

 

 ホーランド少将に次ぐ武勲をあげた「永久凍土」ライオネル・モートン少将と「ダイナマイト」モシェ・フルダイ少将には、同盟軍殊勲星章が授与された。彼らは昇進しない。武勲一つで昇進するのは中佐が限度だ。それ以上は「より高い階級にふさわしい能力があるか」「上のポストが空いているかどうか」が昇進の目安となる。少将ともなると、なかなか昇進できないのだ。

 

 薔薇の騎士連隊長ワルター・フォン・シェーンコップ大佐が、裏切り者のヘルマン・フォン・リューネブルク元連隊長を一騎打ちで倒したという知らせは、市民は狂喜させた。シェーンコップ大佐にはハイネセン記念特別勲功大章や宇宙軍殊勲星章など四つの勲章が授けられ、リンツ少佐ら五三七名の隊員が受勲対象となった。三年前から中止されていた薔薇の騎士連隊カレンダーの販売も再開される。ようやく薔薇の騎士連隊は信用を取り戻した。

 

 エディー・フェアファクス宇宙軍少佐の率いる第八八独立空戦隊が抜群の戦果をあげるのは、いつものことであって驚くには値しない。しかし、ウォーレン・ヒューズ宇宙軍中尉、サレ・アジズ・シェイクリ宇宙軍中尉、オリビエ・ポプラン宇宙軍少尉、イワン・コーネフ宇宙軍少尉の四人組が揃って通算撃墜数一〇〇を突破したという知らせは、市民の度肝を抜いた。

 

 参謀として活躍したマルコム・ワイドボーン代将、戦隊司令として活躍したジャン=ロベール・ラップ代将とガブリエル・デュドネイ代将は、ヤン・ウェンリー代将とともに「七八七年度の星」と讃えられた。彼らはヤン代将からやや遅れて准将に昇進する予定だ。

 

 エース艦長、前線の部隊司令らも賞賛の的となった。若くて男前のヘラルド・マリノ中佐は、その肌の色から「ブラックパンサー」の異名を奉られた。

 

 このように大勢の英雄が現れたが、個人の勇名が高まったに留まり、市民の目を敗北から逸らすには至らなかった。

 

 財政再建を党是とする進歩党からは、「勝てない軍隊に金を掛けるのはいかがなものか」という声が続出した。また、進歩党出身の「ミスター・コストカット」ジョアン・レベロ議長補佐官(経済財政担当)が軍縮と対帝国デタントを提言した。軍事費削減の圧力がますます高まっている。

 

「遠征軍を三個艦隊に抑えるよう主張したのは、進歩党だろうが! 自分で手足を縛っておいて、『結果が出せないなら、金を出せない』などほざく! これが正気な人間のすることか!?」

 

 久々に会った恩師エーベルト・クリスチアン中佐は、怒りの拳をテーブルに叩きつけた。保守的な彼はもともとリベラルな進歩党を嫌っていたが、この件でさらに嫌いになったようだ。

 

「まあ、進歩党は予算削減に情熱を燃やしてる党だからな。口実があったら、何でもいいんだ」

 

 昇進したばかりのナイジェル・ベイ大佐は、新聞の一面を示しながら苦笑した。そこには、「進歩党のエルズバーグ上院議員が、経済開発委員会農業部畜産課長補佐の痴漢事件を批判し、農業予算を削減するよう求めた」という記事が掲載されていた。

 

「予算って官僚の素行じゃなくて、必要性に対して配分するものでしたよね?」

 

 俺の頭の中を疑問符が乱舞した。進歩党の財政再建路線を支持する俺でも、エルズバーグ議員の主張には首を傾げたくなる。

 

 NPCと進歩党の連立政権に冷ややかな市民も財政再建路線には肯定的だ。こういう流れがある以上、「負けたから予算を減らす」と言われたら、軍人は黙って受け入れなければならない。それがシビリアンコントロールというものであった。

 

 

 

 官舎のポストを開けると、「軍事費削減を許すな! イゼルローン回廊は国家の生命線だ! 同盟軍の未来を考える会」と書かれたビラが入っていた。初めて聞くグループだが、極右政党「統一正義党」や過激派将校グループ「嘆きの会」の支持者であろう。

 

 前の世界で極右といえば、ヨブ・トリューニヒトを支持する「憂国騎士団」の代名詞だった。しかし、現時点の彼らはこの二年で急成長した新興組織にすぎない。支部があるのは主要都市のみ。一般会員は七〇万人、行動部隊は二〇〇〇人前後に留まり、極右業界全体では二〇位程度だった。

 

 一方、統一正義党は戦記にまったく登場しないが、全市町村の八割に支部を置き、下院と上院における第三党、一八の星系議会における第一党だ。傘下の民兵組織「正義の盾」は公称二〇万の隊員を抱える。独裁による社会改革という主張、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムに肯定的な態度、極右民兵組織や過激派将校との関係などから、共和制にとって最大の脅威とされる。

 

 八年前、法秩序委員会が統一正義党の解散請求を出した。しかし、最高裁が「同盟憲章は共和制に反対する自由も認める」との見解を示したことから、非合法化には至らなかった。

 

 極右がいれば、極左もいる。同盟軍の未来を考える会のビラの下には、「今こそ和平を結ぶ時だ! 外征軍から航路軍への転換こそが我らの未来を切り開く! 反戦兵士会議」と書かれたビラがあった。これは急進反戦派団体「反戦市民連合」を支持する反戦軍人グループと思われる。

 

 主戦派は反戦派を「戦場を知らない理想主義者」と批判するが、それは軍隊を全く知らない者の言うことだ。憲兵隊の思想指導資料には、「反戦派の最大の基盤は軍人とその家族」と明記されている。前線に苦労を押し付ける主戦派政治家への反感、家族や友人の戦死、過酷な戦場経験などが軍関係者を反戦論者とした。

 

 一例をあげると、反戦市民連合創設メンバーのジェームズ・ソーンダイクは、二桁の勲章受章歴を持ち、宇宙軍少将まで昇進した根っからの軍人であった。しかし、軍隊に入れた三人の子供全員が第二次イゼルローン攻防戦で戦死したのがきっかけで軍を退き、反戦運動家に転じた。

 

 反戦派最大勢力とされる進歩党は、軍事力の拡大や行使を嫌い、レベロ議長補佐官に代表されるデタント論者も抱える。だが、対帝国戦争そのものに反対しているわけではなく、「避戦派」と呼ぶのが正しい。

 

 前の世界の戦記に登場する「反戦派」「ジェシカ・エドワーズ派」は、反戦市民連合を指す。彼らは六四の反戦団体からなる政治組織だ。六四団体を合計した動員力は統一正義党よりずっと大きく、進歩党に匹敵するが、連合組織ゆえに結束力に欠ける。そのため、上院でも下院でも第四党に留まっていた。反戦論は共和制に反していないが、教条的なハイネセン主義解釈、反戦軍人との関係、既成政党や大企業との対決路線などから、社会の安定を揺るがす存在とみなされる。

 

 極右と極左から共和制を守るべき連立政権は、だらしないの一言に尽きる。イゼルローン遠征軍が敗北すると、ムカルジ議長の支持率は一〇パーセントを切り、退陣も間近に思われた。だが、反議長派のドゥネーヴ元最高評議会議長とバイNPC副党首が攻勢に出たところで、意外な伏兵が現れた。

 

「奴らは私利私欲のために崇高なる戦争を妨害した! 愛国者として許すわけにはいかない!」

 

 ドゥネーヴ派のヨブ・トリューニヒト前NPC政策審議会長、ヘーグリンド派のアンブローズ・カプラン下院軍事委員長ら対外強硬派議員グループが、反議長派の前に立ちはだかった。彼らは「反議長派から議長候補が出たら離党する」とまで宣言した。

 

 ドゥネーヴ元議長とバイ副党首は、ムカルジ議長の足を引っ張るために、進歩党と組んでイゼルローン遠征軍の動員戦力を四個艦隊から三個艦隊に減らさせた。その報いを返された形だ。

 

 再登板を狙うラウロ・オッタヴィアーニ元最高評議会議長には、惑星ウルヴァシー開発事業をめぐる不正資金疑惑が浮上していた。与党第二党・進歩党代表のリンジー・グレシャム最高評議会副議長は、高齢で市民からの人気も低い。いずれも新議長としては弱い。

 

 一二月下旬のパサルガダイ星系議会選挙とヴァーミリオン星系議会選挙で連立与党が勝利を収めたことにより、ムカルジ辞任論は完全に消え失せた。

 

 パサルガダイ星系は、アバスカル一族が星系首相の地位を六三年も独占してきた世襲王国。ヴァーミリオン星系は最悪の金権選挙区。勝ったところで威張れるとも思えないのだが、それでも勝ちは勝ちということらしい。

 

 中央の乱れは地方の乱れを招いた。暴動、テロ、宇宙海賊が頻発している。同盟からの分離独立を求める動きも活発だ。

 

 一部の星系政府が独自の動きを見せている。ガルボア終身首相が同盟憲章に反する強権政策を推進するメルカルト星系、天然ガスマネーに物を言わせてフェザーンから戦闘艦艇六〇〇隻を購入したパラトプール星系、同盟脱退をめぐる住民投票が二か月後に行われるカニングハム星系などがその一例だ。

 

 今や自由惑星同盟で最も自由な星系となったエル・ファシルでも問題が起きた。NPCエル・ファシル星系支部連合会会長のマリエット・ブーブリル上院議員をリーダーとする抵抗勢力が力を強めている。改革案にことごとく反対する彼らを、マスコミは「何でも反対党」と名付けた。報道によると、公共事業で甘い汁を吸っていた利権屋、解雇された公務員などが何でも反対党の中心で、庶民の支持は皆無に近いそうだ。

 

 電子新聞を読むだけでうんざりさせられる。しかし、希望が無いわけでは無い。年明けに行われた内閣改造で優れた人材が登用された。

 

 その筆頭は何と言ってもあのヨブ・トリューニヒト先生である。反議長派潰しの功績で国防委員長に抜擢された。

 

 政権ナンバースリーの座に躍り出たトリューニヒト国防委員長は親しい議員を引き連れて、ドゥネーヴ派から離脱した。そこにヘーグリンド派から離脱したカプランのグループが合流し、他の派閥からもシャノンら若手数名が加わり、NPC第六派閥のトリューニヒト派が発足した。

 

 主な議員のうち、ネグロポンティは女癖の悪さ、ボネは右翼的な言動、アイランズは汚職、カプランは職権乱用、ブーブリルは反改革で評判が悪い。現時点で唯一評判の悪くないシャノンも、前の世界では同盟滅亡後にいろいろあった。どうしてこんな面子ばかり集めたのかと言いたくなる。それでもトリューニヒト派成立は喜ばしいことだ。

 

 前の世界で「最も良識的な政治家」と言われた進歩党左派のジョアン・レベロ議長補佐官が財政委員長、ホワン・ルイ進歩党下院院内総務が人的資源委員長に登用された。

 

 ジョアン・レベロ財政委員長は、三〇歳の若さでハイネセン記念大学経済学部准教授となった英才だ。二つの星系で財政再建を成功させ、故郷である惑星カッシナの知事となって行政改革に手腕を振るい、一期四年を務めた後に下院議員となった。二年前には財政委員長として国防予算の削減を成し遂げ、その後も経済財政担当の議長補佐官として財政再建を推進し、昨年の経済危機を「冷水療法」で収拾した。市民からは「ミスター・コストカット」と呼ばれる。

 

 皮肉屋だが憎めない性格のホワン・ルイ人的資源委員長は、真面目一筋のレベロ財政委員長と好一対を成す。弁護士として消費者問題に取り組んだ経験から、競争の公正、市民の利益を何よりも重んじ、受益者視線の政治を掲げる良識派だ。これまでは規制緩和・民営化・既得権益解体に実績をあげてきた。今回は社会保障制度や労働市場の自由化に挑む。

 

 前の世界では、レベロ委員長もホワン委員長もあまり成功しなかった。前者はヤン・ウェンリーと対立して晩節を汚し、戦記の中で批判された。後者は同盟滅亡後にバーラト自治政府の首相となったが、構造的な問題で苦しんだ。この世界では頑張ってほしいと思う。

 

 その他、二〇年前に暗殺されたダヴィド・ドレフュス元最高評議会議長の長女であるアラベル・ドレフュス上院議員、改革派市長として名を馳せたカレン・アーミテイジ下院議員、薔薇の騎士の第二代連隊長で宇宙軍大将・陸戦隊副総監まで栄達したレオポルド・フォン・リッツェ下院議員といった人気議員の入閣も注目を集めた。

 

 要するにムカルジ議長は、三月の上院選挙の顔になりそうな議員を見境なく入閣させた。イゼルローン遠征の失敗は、思わぬ方向に世の中を動かした。

 

 

 

 一五〇年以上続く対帝国戦争が社会を疲弊させた。避戦派や反戦派が主張するような軍事動員が理由ではない。

 

 同盟と帝国の戦争を総力戦と言っていいのは、六四〇年のダゴン星域会戦から六六八年にコーネリアス一世の大親征が失敗までの二八年間、前の戦記に記された七九六年の帝国領侵攻から八〇〇年のマル・アデッタ星域会戦までの四年間に限られる。それ以外の期間は、イゼルローン回廊周辺の国境星域を巡る限定的な紛争だった。

 

 宇宙軍と地上軍を合わせた同盟軍の総兵力は五七〇〇万人。これは同盟総人口一三〇億の〇・四三パーセントにあたる。徴集兵は二五〇〇万で、兵役名簿に登録される徴兵適齢期人口六億七六〇〇万の三・六パーセント、総人口の〇・一九パーセントに過ぎない。徴兵適齢期にあたる士官・下士官・志願兵を加えると、三六〇〇万人になるが、それでも徴兵適齢期人口の五・三パーセントに過ぎない。その半数が外征部隊に配属される。一年間に前線で戦う兵力は外征部隊の三割程度なので、徴兵適齢期人口の一二五人に一人が前線に出ることになる。平均的な中学校だと、一学年で二〇人が軍隊に入り、三人が前線に出る計算だ。

 

 問題は経済だった。宇宙軍艦は金食い虫だ。後方にいる間も練度を維持するために動かす必要がある。指揮通信システムや動力炉といったハイテク機器の保守点検も欠かせない。老朽化した部品の交換も絶え間なく行われる。三〇万隻以上の軍艦を持つ同盟宇宙軍は、戦わなくても大金を飲み込んでいく。そこに戦闘の消耗が加わる。人は死なないが金がかかるというのが、現在の宇宙戦争なのである。

 

 軍事予算は国家予算の六〇パーセントを占める。同盟政府は重い税金を課し、巨額の赤字国債を発行し、予算を賄ってきた。政府債務の総額はGDPの一・三倍に及び、利払いだけでも国家予算の一五パーセントになる。国債の半分以上をフェザーンの企業や投資家が購入しているため、利払いを通じて巨額の金が国外に流れていく。

 

 重税と財政赤字が足かせとなり、同盟経済は停滞した。ここ三〇年間は平均経済成長率が一パーセント前後という極端な低成長が続く。失業率が一二パーセントを切ることは無い。

 

「独裁によって効率的な社会を作れば、軍事負担があっても豊かに暮らせるようになる」

 

 統一正義党の主張から威勢のいい言葉を差し引いて要約すると、こんな感じになる。

 

「帝国と和平を結んで軍事負担が無くなれば、豊かな暮らしができる」

 

 反戦市民連合の主張から人道論を差し引いて要約するとこうなる。

 

「つまり、経済難が極右と極左を台頭させたのよ」

 

 中佐に昇進したダーシャ・ブレツェリがそう言って講義を締めくくった。生徒はたった一人、この俺だ。

 

「なるほどな。そんな背景があったのか」

 

 頭の中にかかっていた霧が晴れるような思いがする。俺の手元には、『戦争経済入門』『自由惑星同盟の兵役制度』『自由惑星同盟統計年鑑』『統一正義党の研究』『急進反戦派の思想と行動』といった基本書が並んでいた。

 

 遠征中は軍隊の運用に関わることを優先して勉強した。しかし、ダーシャは「戦略と政治は切っても切り離せない」と言う。トリューニヒト委員長にそのことを話したら、やはり同じ答えが返ってきた。そこで最近はダーシャから政治を学んでいる。

 

 彼女は良い教師だった。ドーソン中将は徹底的な詰め込み教育、イレーシュ中佐はやる気を伸ばすと言った感じだが、ダーシャは説明するのがうまい。

 

 参謀にはいろんなタイプがいるが、ダーシャは補佐役型らしい。指揮官が指揮しやすい環境を整え、命令を部隊の隅々まで徹底させ、上下の意思疎通を円滑にするタイプの参謀だ。一部では「アッテンボロー宇宙艦隊司令長官、ブレツェリ宇宙艦隊総参謀長が理想の布陣」と言われる。教育は彼女の得意技のようなものだった。

 

 現在のダーシャは士官学校で一般教養を教えている。戦略研究科や経理研究科の教官でないと言うのが、現在の軍部における彼女のポジションを表していた。

 

 セレブレッゼ中将が失脚した後、セレブレッゼ派は徹底的に冷遇された。中央兵站総軍参謀だったダーシャもその煽りを受けたのだ。人手が必要なイゼルローン遠征には駆りだされた。だが、その後は予定通り閑職に回された。庇護者が失脚したら、士官学校を三位で卒業した秀才もこんな扱いを受ける。何ともやりきれない話だ。

 

 おかげで俺は毎日のように個人授業を受けられる。ありがたいとは思うが、彼女の能力がこんなところでしか生かされないというのも寂しく感じる。

 

 ヴァンフリート戦役が終わった後、俺のもとに見合い話が持ち込まれた。イゼルローン遠征から戻ってからも新しい話が次から次へと舞い込んでくる。ドーソン中将の評判が上がったおかげで俺の評判も上がったらしい。今日は一日で二件も来た。

 

 一件目の相手は、俺より二歳下のシンシア・カネダという女性。大人しそうな顔立ちが印象に残る。ダーシャのような艶のある黒髪もポイントが高い。

 

 カネダ家は政界の名門だった。シンシアの父親のフランシスは、国防副委員長を二度務めた大物議員で、トリューニヒト国防委員長とは国防族の主導権を争っている。叔父のグレンはヘブロン惑星行政区知事、祖父のグレッグは元人的資源委員長、曽祖父のダンは元下院議長。その他の親族も半数は地方で首長や議員をしている。家系図を見るだけで華麗さに目が眩む。

 

 二件目の相手は、俺と同い年のイレーネ・フォン・ファイフェル。明るい茶髪に気の強そうな顔立ちで、雰囲気がダーシャに似ている。

 

 ファイフェル家は亡命貴族だが、現在は押しも押されぬ名門軍人家系だった。イレーネの父親のゴットリープは宇宙軍中将・首都防衛軍司令官、イレーネの弟のクリストフは第五艦隊司令官ビュコック中将の副官、義理の叔父のイアン・ホーウッドは宇宙軍中将・第七艦隊司令官を務める。祖父のフェリックスは宇宙軍大将・元統合作戦本部次長、曽祖父のディートリヒは宇宙軍准将・元艦隊陸戦隊副司令官。その他の親族も過半数が同盟軍将校だ。

 

 職業選択の自由が認められた同盟でも、家業というものがある。政治家、官僚、軍将校、企業役員、大学教員のようなエリート職を家業とする一族もいた。彼らは子供に英才教育を施してエリートに育て上げ、有望な若手エリートを婚姻によって取り込み、血の結束によって影響力を維持してきた。カネダ一族、ファイフェル一族、ダーシャの先輩マルコム・ワイドボーンの一族もそんな門閥の一つだった。

 

 血縁の絆は派閥を越えた力を持つ。だから、理想と野心のある者ほど門閥と縁を結びたがる。トリューニヒト委員長も大物財界人の娘と結婚したおかげで、軍需産業から支援を受けられるようになった。しかし、良いことずくめではない。何があろうと一族に尽くす義務も生じる。カネダ下院議員やファイフェル中将は、俺を取り込むつもりなのだ。

 

 買い被るにもほどがあると思うが、俺の階級は同い年の士官学校首席と等しい。見かけだけは宇宙軍のトップエリートである。

 

「今後もそういう話はたくさん来るだろうよ」

 

 一緒に昼食をとっているワイドボーン准将がそんなことを言った。

 

「あまり期待されても困るんですけどね」

「カネダ議員もファイフェル提督もリアリストだ。過剰な期待はかけないさ」

「娘婿というだけで十分過剰です」

「で、どうすんだ?」

「断りますよ」

 

 話が来た瞬間から決めていた答えを言った。カネダ下院議員はサイオキシンマフィアのナンバーツーだったジャーディス上院議員と親しい。ファイフェル中将は清廉で良識のある人物だが、麻薬王のA退役大将が名誉会長を務める「戦争捕虜虐待防止研究会」の会長だ。あまり近づきたくない人脈だった。

 

「そうか。ファイフェル提督の娘さんはブレツェリよりおっかないからな。尻に敷かれたくないという気持ちは分かるぞ。フィリップス中佐は戦いでは強くても女には弱そうだしな。ところでうちの妹はどうだ?」

 

 ワイドボーン准将がいつものように余計なことを言う。

 

「結構です」

 

 迷うこと無く断った。結婚願望の強い俺だが、こんな頭の緩い義兄はいらない。

 

「俺が言うのも何だが、妹はかわいいぞ」

「結構です」

 

 俺はなおも首を横に振る。この間、ワイドボーン准将が妹と歩いてるのを遠くから見たことがある。本当に妹かどうかは確認してないが、体格と髪の毛の色から考えて間違いなく妹だと思う。確かにかわいかった。しかし、背が高すぎる。

 

 ヒールのない靴を履いていたにも関わらず、一緒に歩いていた兄との身長差は少なかった。少なくとも一八〇センチ以上、下手すると一八五はある。妹のアルマが一七九センチ、イレーシュ中佐が一八一センチ。それよりもでかい。顔の感じから見て中学生から高校生。つまりまだまだ伸びるということだ。そして、この脳天気な男の妹。そんなの論外だ。

 

「やっぱり、ブレツェリ以外は考えられないってことか」

 

 何がやっぱりだ。天地がひっくり返っても、ダーシャだけは有り得ない。

 

「彼女は友達ですよ。大事な大事な友達なんです」

 

 俺はしっかりと「友達」を強調する。あの丸顔は友達以上の何者でもないと、はっきりさせておかなければならない。恥ずかしいではないか。

 

 ワイドボーン准将と別れた後、官舎にまっすぐ向かった。今日はダーシャがフェザーン風の家庭料理を作ってくれるのだ。

 

 フェザーン人移民のブレツェリ家では、「自由に生きるには、一人で何でもできるようにならなければならない」というフェザーン的な教育方針のもと、家事をひと通り習得させるそうだ。彼女が作った昼食の弁当は、俺の故郷パラスの味を忠実に再現している。フェザーン料理もおいしいに違いない。

 

 心の中でダーシャの丸っこい顔、いや、フェザーン料理を思い浮かべると、顔が緩んだ。フェザーン料理は質素だが素朴で温かみがあると言われる。まるでダーシャみたい……。いやいや、なんでそこでダーシャが出てくるのか。とにかく楽しみでたまらなかった。



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第30話:第一次アルファー星系会戦 795年1月末 某所~同盟軍士官学校

 俺はアルファー星系第二惑星から二光秒の宙域に布陣した。標準的な編成の分艦隊が八個、補給艦や工作艦からなる作戦支援部隊が二個、揚陸艦と陸戦隊からなる宙陸両用部隊が二個という陣容で、総戦力は二万隻に及ぶ。

 

 一方、敵は俺の艦隊から二〇光秒離れた宙域にいる。分艦隊が四個、作戦支援部隊が一個、宙陸両用部隊が一個という陣容で、総戦力は一万隻に過ぎない。

 

「どうやって打ち破ろうか」

 

 腕組みをしながら考えた。敵は少数ながらも隙のない布陣だ。当初からの作戦案通り、正面衝突は避けることに決めた。

 

 手持ちの戦力は敵の二倍。俺の兵站拠点はすぐ近くの第二惑星、敵の兵站拠点は遠く離れた第三惑星にある。戦略的には俺が圧倒的に有利だ。

 

 前の世界で読んだ『ヤン・ウェンリー提督の生涯』によると、天才ヤン・ウェンリーは「戦術では戦略の失敗を償えない」と語ったそうだ。要するに俺は戦う前から勝っている。これからの戦いは、確定した勝利を現実のものとする手続きでしか無い。

 

 それにしても、敵はなんと愚かなのだろう。これだけ不利なのに本気で勝とうとしている。その闘志には賞賛に値するが、勇気と無謀の区別は付けるべきではないか。そして、敵に致命的な欠点があるのを俺は知っていた。敗北は万に一つもないと断言できる。

 

 俺は八個分艦隊のうち、六個分艦隊をゆっくりと前進させた。そして、一五光秒に差し掛かったところで、最初の命令を下す。

 

「撃て!」

 

 戦艦と巡航艦の主砲が一斉に光を放つ。光線がまっすぐに伸びる。敵もすかさず撃ち返し、砲撃戦が始まった。ほとんどの砲撃がエネルギー中和磁場に受け止められる。

 

 俺の戦力は六個分艦隊一万二〇〇〇隻、敵の戦力は四個分艦隊八〇〇〇隻。戦力の差は使えるエネルギー総量の差でもある。一・五倍の戦力で砲撃を続ければ、敵はエネルギーを使い果たし、いずれは中和磁場を展開できなくなるであろう。むろん、敵が消耗戦を続けるとは思えない。どこかで逆転を狙ってくるはずだ。

 

 砲撃戦が始まって三時間が過ぎた頃、敵は一斉に対艦誘導ミサイルを射出した。それと同時に全艦が前進を始める。

 

 敵の意図はすぐに分かった。対艦誘導ミサイルは、エネルギー中和磁場が通用しない唯一の長射程兵器だ。俺が対艦ミサイル迎撃に専念している間に距離を一気に詰めて、遠距離戦から中距離戦へと転換する。そして、いずれは中距離戦から接近戦へと持ち込むつもりだろう。

 

 少数で多数に勝つには、接近戦に持ち込んで実弾兵器を使うのが手っ取り早い。去年のイゼルローン攻防戦で戦ったラインハルト・フォン・ミューゼルも多用した手だ。

 

「しかし、勝つのは俺だ!」

 

 主力部隊にミサイルを迎撃させ、作戦支援部隊に妨害電波を発信させた。一万二〇〇〇隻が対空砲と迎撃ミサイルを一斉に射出する。四〇〇隻の電子作戦艦から放たれた妨害電波が誘導装置を狂わせる。敵の対艦誘導ミサイルの九九パーセントが阻止された。

 

 敵の誘いに乗ったように見せかけている間に、予備の二個分艦隊四〇〇〇隻を密かに動かす。目標は敵の補給拠点と敵艦隊の中間点。敵の細長い補給線を分断する。これが俺の用意した必勝の策だった。

 

 なにせ敵は補給をまったく理解していない。主力で敵を拘束し、別働隊で補給線を断てば、労せずして勝利が転がり込む。

 

 戦術で戦略を覆そうとしているだけあって、敵の用兵はなかなか巧妙だ。俺の主力がミサイル迎撃に専念している間に距離を詰めてきた。そして、分艦隊を機動部隊レベルに分割して陽動や迂回を仕掛け、こちらの艦列を引っかき回してくる。乱れた部分に敵が素早く割り込んでくる。

 

 一個分艦隊は五〇〇隻前後の直轄部隊、五〇〇隻前後の機動部隊三つで構成される。四個分艦隊ならば、直轄部隊四個と一二個機動部隊になる計算だ。一六個の部隊が有機的に連携してくる。一方、俺は四個の分艦隊すらろくに動かせなかった。指揮能力に差がありすぎる。

 

 俺が一度行動する間に敵は二度行動してきた。手数で物量の不利を補うつもりなのだろう。しかし、多く動けば動くほどエネルギーも使うものだ。補給を制する者が戦争を制する。それが古代から共通する戦争の法則だった。部隊を動かすのがうまくても、所詮小細工にすぎない。それを戦術馬鹿に思い知らせてやろう。

 

 最後に艦隊旗艦が生き残れば、この戦いは勝ちだ。俺は中央の二個分艦隊を自ら指揮して艦隊旗艦を守り、左翼と右翼の指揮は中級司令官に委ねた。

 

 三時間後、主力のうち四〇〇〇隻が誰もいない宙域に誘い出された。残り八〇〇〇隻も分断されている。艦隊単位はもちろん、分艦隊単位でも統制が取れなくなっており、機動部隊単位でバラバラに戦っている有様だ。戦意の低下ぶりが甚だしい。戦闘効率は当初の半分を割り込んでいる。

 

「あと少しだ。あと少し主力が持ちこたえれば、敵の補給が切れる」

 

 幸いにも艦隊旗艦と分艦隊旗艦は生き残っている。すぐに主力が瓦解する恐れはなかった。そして、敵は補給を知らない。そう遠くないうちに補給切れに陥るであろう。陥らなければ困る。

 

 開戦から五〇時間が過ぎた。戦場の主役は長射程のビーム兵器から短射程の実弾兵器へと移行している。駆逐艦の速射砲、艦載機の機関砲からウラン二三八弾の雨が降り注ぐ。両軍はこれまでと比較にならないほどの損害を被った。

 

 分断されている俺の方が圧倒的に不利だ。しかし、いずれ敵の攻勢は収まるだろう。敵の補給状態は確認できないが、俺の計算ではそろそろエネルギー切れを起こす。勝利は目前に迫っていた。

 

「あれ……?」

 

 一向に敵の攻勢が止まらない。補給線を押さえている別働隊四〇〇〇隻に視線を向けると、補給線からやや離れた場所で敵の三個機動部隊一五〇〇隻と小競り合いをしていた。いつの間にか、敵は正面から部隊を抜き出して補給線へと差し向けていたらしい。

 

 それにしても、別働隊の指揮官はなんと無能なのだろう。四割にも満たない敵にうまくあしらわれている。

 

「しまった!」

 

 補給線に気を取られている間に、敵の一個機動部隊五〇〇隻が艦隊旗艦へと突っ込んできた。急いで戦力を集中しようとしたが、戦意が低いせいか動きが鈍い。しかも、エネルギー切れを起こす部隊も続出した。

 

「まさか……?」

 

 第二惑星の方を見ると、補給線が寸断されていた。三か所に二五〇隻の駆逐艦戦隊が一つずつ置かれていたのだ。

 

「そんな馬鹿な……、敵は補給を知らないはずじゃ……」

 

 この瞬間、必勝の方程式が崩れ去った。俺の艦隊旗艦は敵の射程内に捉えられた。そして、全部隊の物資が尽きた。退路も遮断されている。

 

「降伏する……」

 

 俺は敗北を認め、マシン内の時間で五二時間、現実の時間で二時間一〇分にして、艦隊級戦略戦術シミュレーションは終了した。完膚なきまでの敗北であった。

 

「よっしゃ!」

 

 向かい側から叫び声が聞こえた。馬鹿でかい男が立ち上がり、勢い良く拳を振り上げる。対戦相手の国防委員会経理部参事官マルコム・ワイドボーン准将だった。

 

 

 

 イゼルローン遠征軍総司令部が解散した後、俺は宇宙艦隊総司令部付となった。近いうちに後方勤務本部か正規艦隊後方部へと配属される予定だ。要するに後方参謀である。

 

 後方参謀は兵站計画の立案及び調整を担当する。具体的には、補給状況の把握と分析、必要な物資量の見積もり、調達・保管・輸送計画の作成、補給線の設定及び統制などを行う。要するに物資の流れをコントロールするのだ。

 

 参謀業務の勉強自体は、去年に入院した時から始めた。イゼルローン遠征の際にはドーソン中将の秘書をしながら学んだ。現在はドーソン中将、ダーシャ、イレーシュ中佐の三人から私的に指導を受けている。しかし、勉強を始めてからまだ八か月しか経っていない。

 

「貴官のコミュニケーション能力、協調性、熱意、忍耐力は水準以上と言っていい。教本には書いていないが、参謀にとっては体力も大事な要素だ。その点でも貴官は優れている。ただ、柔軟性が無さすぎるな」

 

 ドーソン中将が容赦の無い評価を下した。物語のヒーローというのは、コミュニケーションが苦手で、協調性や熱意や忍耐力にも欠けているが、柔軟性だけは抜群と決まっている。柔軟性に欠ける優等生はいつもやられ役だった。

 

「答えのある問題には強いんだけどねえ」

 

 イレーシュ・マーリア中佐が難しい顔で腕組みをした。「答えのある問題には強いが、答えのない問題に弱い」というのは、コメンテーターがエリート批判をする際に使う決まり文句だ。

 

 恩師二人からとても残念な評価を受けた俺だが、それよりも大きな問題がある。時間が決定的に足りない。

 

 普通の参謀は士官学校での四年間を基礎学習、少尉任官から中尉昇進までの一年間を現場実習に費やし、さらに学習と経験を積んでいく。士官学校卒業から一〇年前後で一人前の参謀になると言われる。俺は士官学校を出ていない上に勉強歴も浅かった。

 

 経験の浅すぎる俺を花形ポストに内定させたのは、ヨブ・トリューニヒト国防委員長だった。最近の彼は積極的に人事介入を行い、シトレ派の国防研究所長、ロボス派の特殊作戦総軍司令官を強引に交代させるなどして、同盟軍中枢を軍拡派で固めようとしている。

 

「作戦参謀と後方参謀が宇宙軍の花形だ。どちらかを経験した者でなければ、宇宙艦隊司令長官、正規艦隊司令官になれないという不文律がある。私は君を将来の司令官候補として育てようと思っている。後方参謀はその第一歩だ」

 

 後方参謀に転じる理由について、トリューニヒト委員長がそう言った。

 

「作戦参謀が花形なのはわかります。しかし、後方参謀も花形なんですか?」

 

 俺は首を傾げた。前の世界では、同盟軍は補給を軽視しているというのが定説だった。帝国領侵攻作戦について記した『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』では、補給無視の作戦を立案したアンドリュー・フォークを例にあげて、「士官学校では補給の概念を教えていないのではあるまいか」と酷評した。現在も統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥が補給軽視に警鐘を鳴らしている。

 

「作戦参謀は戦闘部隊を動かし、後方参謀は後方支援部隊を動かす。どっちも大部隊の運用を経験できる貴重な仕事だ」

「ああ、言われてみればそうです」

「それに後方支援部門の人員と予算は最大だ。高級士官のポストだって、後方部門の方が実は戦闘部門よりも多い。アル=サレム君は後方参謀から艦隊司令官になった。セレブレッゼ君やキャゼルヌ君は、後方支援の功績だけで将官になった。そして、全軍の後方支援を統括する後方勤務本部長は、宇宙艦隊司令長官や地上軍総監と同格。我が軍は後方支援を重視しているんだよ」

 

 トリューニヒト委員長は少し誇らしげだった。彼は兵站担当国防委員の経験者だ。後方部門に思い入れがあるのかもしれない。

 

 参謀は「ゼネラル・スタッフ」の別名の通り、ゼネラリストである。作戦参謀・情報参謀・後方参謀・人事参謀といった職務上の区分があるものの、担当以外の領域に対しても十分に理解し、自分なりの見解を述べる責任を負っている。兵站を無視した作戦を立てる作戦参謀、部隊運用を理解できない後方参謀など何の役にも立たないからだ。

 

 後方参謀の仕事をするにも、作戦・情報・人事をきっちり勉強しておく必要がある。そこで艦隊級戦略戦術シミュレーションで用兵を学ぶことになった。初心者用のステージで操作をひと通り覚え、シナリオ集『名将の戦場 ブルース・アッシュビー九つの戦い』の全てのステージでコンピュータに敗北した後に、初めての対人戦に挑戦した。

 

 イレーシュ中佐は用兵が恐ろしく苦手だ。ならば、イゼルローン遠征軍副参謀長経験者のドーソン中将か、戦略研究科を三位で卒業したダーシャと対戦するのが筋であろう。しかし、どうしても勝ちたかった俺は、ワイドボーン准将を最初の対戦相手に選んだ。

 

 普通に考えたら、一〇年に一人の秀才と言われるワイドボーン准将は、ドーソン中将やダーシャよりずっと手強い相手だ。しかし、彼は士官学校時代にヤン・ウェンリーと戦略戦術シミュレーションで対戦して完敗した。補給を無視して正攻法にこだわったのが敗因だったという。そのことから、補給を絶てば勝てると踏んだのだ。

 

 対戦の一週間前に、ワイドボーン准将の同期であるブラッドジョー中佐から、ヤン准将がシミュレーションで使った作戦を教えてもらった。その作戦を真似ようとしたのだが、ダーシャに作戦案を見せたところ、「自分で作戦を立てなきゃ勉強にならないよ」と叱られた。そこで違う作戦を考えて、戦力二倍、短い補給線というハンデも付けてもらった。それなのにあっさり負けた。

 

「まさか、補給を絶つだけで勝てると思ったか?」

 

 ワイドボーン准将の質問は核心をついていた。

 

「いや、そんなことはありません」

 

 本当はそう思っていたが、この惨敗の後では恥ずかしくて言えない。

 

「まあ、フィリップス中佐がそんなアホじゃないのは分かっているけどな。補給を絶ったら勝てると勘違いしてシミュレーションを挑んでくる奴が多くてさ。迷惑してんだよ。士官学校での話をどっかから聞きつけてきたんだろうけど、学習能力が無いとでも思ってんのかなあ。あれから七年だぞ? この俺が復習しないわけがないだろうに」

 

 心の底から鬱陶しそうなワイドボーン准将。彼は秀才だ。秀才は予習と復習を欠かさない。七年前の敗北に学ばない方がおかしい。

 

「そうですよね」

「あの時は『まともに正面から戦ってれば、俺が勝ったはず』と信じてたけどな。ずっとそうだと思われたら、心外もいいとこだぜ。何遍も同じ失敗を繰り返したら、それこそ馬鹿みたいじゃないか」

「おっしゃる通りです」

「まあ、どの辺から例の話が流れてるのかは、予想ついてるけどな。たぶん、シトレ元帥かラップの周辺だろう。あの辺は俺を目の敵にしてるから。俺なんて入学からずっと首席で、親父も叔父さんも爺さんもみんな提督だからな。権威が呼吸して歩いてるようなもんだ。反権威を気取ってる連中から見れば、さぞ叩き甲斐があるだろうよ!」

 

 どんどんワイドボーン准将のテンションが上がっていく。

 

「シトレ元帥は『欠点のない秀才より、変わった才能を評価する』とか言われてるけどな。そんなの間違いだ! ひねくれ者を集めて、自分を大きく見せたいだけなのさ! そういうリベラル気取りのクソジジイなんてどこにでもいるだろ? 若者に生意気なことを言われたら、『若い者は元気でいいのう』とニコニコする。若者と一緒に権威を批判して、物分かりがいい顔をする。シトレ元帥もその手合いさ!」

 

 ワイドボーン准将は、同盟軍最高の戦略家にして最高の教育者を徹底的にこき下ろす。

 

「ラップも似たようなもんだ。あいつは優等生なのに、ヤンやアッテンボローみたいなひねくれ者を集めて兄貴分を気取ってるんだ。不良っぽい優等生なんていかにもリベラル気取りが好きそうなキャラだからな! あんなのが提督の器だって!? ちゃんちゃらおかしいね! 俺に言わせたら媚びるのが上手……」

 

 同期のジャン=ロベール・ラップ准将に矛先が向かったところで、横からすっと伸びてきた手がワイドボーン准将を制止した。

 

「ワイドボーン先輩、それはさすがに言いすぎです」

 

 士官学校教官ダーシャ・ブレツェリ中佐がたしなめた。ただの友達である彼女は、シミュレーションの審判としてここにいる。

 

「でも、あいつらに言われっぱなしなんて、腹の虫が収まらねえんだよ」

「ここでは関係ありませんよね、それって。エリヤは士官学校出てないし」

「しかしだな……」

「おっしゃりたいことは分からないでもないですけどね。人事の件もありますし」

 

 ダーシャが言う「人事の件」とは、ワイドボーン准将が統合作戦本部作戦副部長になれなかったことを指す。

 

 作戦部のプリンスであるワイドボーン准将の作戦副部長就任は、既定路線と言われてきた。しかし、蓋を開けてみると、シトレ元帥子飼いのゴドイ准将が作戦副部長に就任し、彼は完全に畑違いの部署に飛ばされた。統合作戦本部を軍縮派で固めようとするシトレ元帥の画策と言われる。

 

「わかってるなら……!」

「でも、今はそういう話をする場面じゃないでしょう? シトレ元帥もラップ准将も名将です。無闇に悪く言うと、私怨で言ってるように見られますよ?」

「そ、そうか……」

「私怨でないのは知っています。ですから、あまり軽々しいことは言わないでください。あの連中にとって挑発は呼吸みたいなものです。いちいち付き合ってやる必要もありません」

 

 ダーシャが正論をびしびしと叩きつける。彼女も“あの連中”を嫌っていることでは人後に落ちない。しかし、時と場所を選ぶ分別があった。

 

「わ、わかった」

「先輩は一言も二言も多すぎるんです。ラップ准将にあれだけ人望が集まったのも、半分は先輩がむやみに敵を作ったせいでしょう。気をつけてくださいね」

「ああ、気を付けるよ」

 

 一九〇センチ近い身長と男らしい顔を持つワイドボーン准将が、一六九・九五センチでほんわかした顔のダーシャに圧倒されている。それはとても不思議な光景だった。

 

 

 

 シミュレーション室を出た俺とダーシャとワイドボーン准将は、士官学校の恐ろしく長い廊下を歩き、研修室へと移動した。丸いテーブルで俺とワイドボーン准将が向かい合って座り、ダーシャはその間に座る。

 

「勝敗そのものには意味はありません。お互いの反省点を洗い出し、それを次に活かすことにこそ意味があります。実戦は一回きりですが、シミュレーションは何回だってできるのです。勝った側は次もまた勝つために、負けた側は今日の敗北を次の勝利に繋げるために、徹底的に見直しましょう」

 

 普段からは想像できないほどにかしこまったダーシャの宣言とともに、反省会が始まった。

 

「フィリップス中佐は細かいことを気にしすぎだな。俺の仕掛けのすべてに対処しようとしただろう? 面白いように振り回されてくれた。あれじゃあ駄目だ。用兵ってのは、優先順位を付けて不要な部分はバッサバッサと切り捨てるもんだからな。人間の処理能力には限りがある。全部に対応しようとしたら潰れちまう」

 

 最初に発言したワイドボーン准将は、戦術的な観点からの問題を指摘した。実際に戦った者ならではの感想だ。

 

「持久戦で勝つって狙いは悪くないよ。物量を活かすには、それが一番だもん。でも、自分で主力を指揮して、補給線遮断をコンピュータに任せたのはまずいね。戦略戦術シミュレーションでは、コンピュータの指揮能力は低めに設定されてるの。一番重要な作戦は自分で指揮しなきゃ駄目。エリヤの勝利条件は、補給線を遮断することだった。主力は艦隊旗艦一隻が残ればいいくらいの覚悟でコンピュータに任せて、自分で補給線を遮断した方がまだ勝ち目はあったと思う」

 

 ダーシャは戦略的な観点からの問題を指摘する。審判役として戦いを俯瞰的に見ていた彼女らしい感想であった。

 

「俺を拘束するだけなら、主力は捨ててしまっても良かった。一・五倍の戦力で攻撃すれば、補給線までは手が回らないと思ったんだろう? それは間違ってないさ。しかし、正し過ぎるんだな。補給線狙いなのはすぐ読めた。だから、そちらの主力と向き合ってる部隊の数をごまかして、こっそり抜き出した部隊に別働隊を攻撃させたわけさ。コンピューターが指揮する部隊なら、簡単に誘い出せるからな。無理して別働隊を潰す必要はない。チクチク叩きつつ、補給線から引き離せばそれで十分だった」

 

 どうやら、ワイドボーン准将は俺を過大評価していたらしい。実のところ、「ワイドボーンは補給線の確保に興味が無い」という間違った前提で、作戦を立てていたのだ。しかし、過大評価していても、対応は完全に正しかった。

 

 普段は何も考えてないように見える彼も、用兵にかけては別人のように鋭くなる。士官学校時代の失敗のみで評価するのは間違いだ。認識を改める必要があるだろう。

 

「仮に俺が補給線に全戦力を集中していたら、どう対応しました?」

 

 俺は最初に思い描いていた作戦について問うた。士官学校時代のヤン准将がワイドボーン准将を破った作戦であり、ダーシャに却下された作戦だ。

 

「最小ユニットの戦隊を一〇個ほど分離して、そちらの補給線を取りに行く。それから補給線を抑えてる主力をじっくり料理する。そちらが部隊を分割して補給線を取り返そうとしたら、全力で殲滅する。理想的な各個撃破になるだろうよ。全軍で補給線から離れて取り返しに来たら、進路を塞いで足止めに徹する。労せずして自分の補給線を奪回し、そちらを兵糧攻めにできる。取り返そうとしないなら、全戦力をそちらの基地に差し向けて、陸戦部隊を降下させる。どう転んでも負ける気がしないな」

 

 ワイドボーン准将は立て板に水を流すように対応策を並べ立てる。ヤン准将に敗北してから、研究を重ねたことが見て取れた。

 

「勉強になりました。ありがとうございます」

「一度成功した作戦は次も成功すると疑うこと無く思い込むのが素人、一度成功した作戦は研究されていると思うのがプロさ。プロのくせに例の作戦をそのまま使ってきた馬鹿もいたけどな。その点、フィリップス中佐は自分で作戦を考えてきた。判断が遅すぎるが、慣れたらある程度は改善できるはずだ。見込みはあると思うぞ」

 

 上から目線で俺を評価するワイドボーン准将を見て、「自分で作戦を考えて正解だった」と心の底から思った。ヤン准将が使った作戦の二番煎じをしていたら、今頃は徹底的にこき下ろされていたに違いない。

 

「エリヤには、名将の戦場シリーズのアッシュビーを完全再現モード、初心者ルールでやってもらいました。それ無しでシミュレーションをやっても、まったく意味がありませんから」

 

 ダーシャが口を挟むと、ワイドボーン准将は納得したように頷いた。

 

「なるほど、二番煎じの無意味さはわかってるわけか」

「戦場がどういうものかを理解してもらうためには、あれが一番です」

「評論家や軍事マニアなんかにも義務付けられねえかな。テレビや新聞を見てると、本当にうんざりするわ」

「名将の戦場シリーズは、完全再現モードで戦ったら、当の戦いを指揮した本人も二回に一回しか勝てないって代物ですからね」

「ダゴンの英雄リン・パオ提督は、ダゴン会戦のステージを一〇回プレーして、三回しか勝てなかったんだよな。そして、『いいバランスだ』と褒めたんだと」

「そういうことをエリヤに知って欲しかったんです」

 

 二人は勘違いしているが、俺は二番煎じの無意味さを半分しか理解していなかった。同じ作戦は使わなかったが、ワイドボーン准将が補給線を無視すると信じていたのだから。

 

 名将の戦場シリーズとは、過去の名将の戦いを題材とした戦略戦術シミュレーションだ。戦力や戦場はもちろん、敵将や配下指揮官の思考パターンまで再現されている。たとえば、俺がプレイした『ブルース・アッシュビー九つの戦場』は、同盟軍史上最高の天才ブルース・アッシュビーの有名な戦いを再現したものだ。

 

 それをプレーするにあたって、戦闘記録、公刊戦史、関係者の手記、研究書などあらゆる資料を参考にして良いというのが、初心者ルールである。

 

 一見すると、とても易しいように思えるだろう。模範解答を読みながらテストを解くようなものなのだから。しかし、これが結構厄介だった。同じ作戦を使い、同じタイミングで同じような判断をしても、敵が同じように動いてくれない。

 

 再現度が高いということは、すなわち不確定要素も忠実に再現されているということだ。史実では起きる可能性があったけど起きなかったトラブルが起きる。運悪く直撃弾を受けて沈んだ艦が運良く生き残ったりする。史実で成功した博打が成功しないこともある。資料に忠実に戦うと、不測の事態に対応できない。

 

 戦闘における不確定要素を理解するには、これ以上無い教材だった。仮に前の世界の戦記を完全暗記していたとしても、戦場ではまったく通用しないであろうことが感覚として理解できた。

 

 それなのに先入観に囚われて惨敗したのだから、まったくもって俺は馬鹿だ。ばれていないのが救いだった。

 

 反省会の内容を要約すると、俺の欠点は「目の前の状況に振り回され過ぎる」「優先順位の設定を間違った」「狙いをまったく隠せなかった」「反応が遅すぎる」の四点に尽きる。幹部候補生養成所のシミュレーション担当教官に言われたこととまったく同じだった。こうも進歩がないと、がっくりきてしまう。

 

「フィリップス中佐は駆け引きができねえんだろうなあ。真面目過ぎるんだ。ビート・ホプキンス提督もそうだったらしいぞ。用兵家としてはだめだが、人間としてはいいんじゃないか」

 

 ワイドボーン准将は褒めてるんだか貶してるんだかわからないことを言う。俺はとても微妙な気分になった。

 

 引き合いに出されたビート・ホプキンスは、対帝国戦争初期に活躍した提督で、清廉で愛国心に富んだ人柄から「同盟軍人の鑑」「聖将」と称えられた。だが、用兵家としてはまったく無能だった。保守派の間ではリン・パオ提督やブルース・アッシュビー提督に匹敵する人気を誇り、リベラル派の間では愚将と嘲られる。

 

「尊敬するホプキンス提督みたいだと言われると、嬉しいですね」

 

 褒められたと解釈することにした。ワイドボーン准将は保守的な価値観の持ち主だ。けなすために聖将ホプキンス提督を持ち出すことはないだろうと踏んだ。

 

「まあ、軍人の仕事は用兵だけじゃないからな。用兵ができないからといって、気を落とすことはないさ」

 

 ワイドボーン准将が親しげに俺の肩を叩く。真夏の太陽もこれ以上ではないだろうと思えるほどに眩しい笑顔。この男はいつも一言も二言も多かった。これではせっかくの男前が台無しだ。

 

「先輩、それはないでしょう」

 

 すかさずダーシャが説教を始め、ワイドボーン准将はばつの悪そうな顔になる。みんなは俺とダーシャがお似合いだと言う。だが、この二人の方がよほどお似合いではないか。

 

 俺はマフィンを袋から取り出して口に放り込む。そして、保温水筒から紙コップにコーヒーを注ぎ、砂糖とクリームでドロドロにして飲み干す。

 

 ワイドボーン准将がダーシャに説教されているのを横目に携帯端末を開き、電子新聞に目を通した。

 

 トップ記事はトリューニヒト国防委員長が上院で行った国防方針演説だ。国防予算の増額、統廃合された宇宙軍一四〇個戦隊と地上軍一〇〇個師団の再建、大型装備更新計画の実施、地方警備部隊の強化などを柱とする方針は、タカ派以外からは「財政再建路線に逆行する」と非難されているらしい。軍縮と少数精鋭化を推進するシトレ元帥への挑戦状と受け取る声もある。

 

 その他には、三月末の上院選挙を前に統一正義党と反戦市民連合が支持率を伸ばしているという記事、ホワン人的資源委員長が公立病院の民営化に反対する医師団体を批判したという記事、宇宙海賊「ガミ・ガミイ自由艦隊」がアスターテ星域軍即応部隊を撃破したという記事などが掲載されていた。

 

 国際面では、帝国のルートヴィヒ皇太子が保守派との抗争に敗れて廃太子寸前だという記事、帝国で恒例の食糧危機が起きたという記事などがある。

 

 ルートヴィヒ皇太子は前の世界ではとっくに死んでたはずの人だが、今の世界ではどういうわけか生き残り、同盟軍がエル・ファシルを奪還した後に帝国宰相となった。爵位を持たない女性との結婚、大胆な人材抜擢で知られる皇室きっての進歩派だ。国政改革に取り組んだが、枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵、大審院長リッテンハイム侯爵ら保守派に足を引っ張られていた。

 

 同盟では「英明なルートヴィヒが即位したら帝国が強大化する」と恐れる意見と、「進歩的なルートヴィヒとの間なら対等講和が成立するかも」と期待する意見で分かれる。

 

 進歩的な皇太子が廃太子されたとしたら、同盟にとってどのような影響があるのだろうか? にわかに判断しがたい。

 

「悪いニュースばかりだなあ」

 

 憂鬱な気分で端末を閉じる。ダーシャは熱いココアを両手で持ってふうふうと冷まし、ワイドボーン准将はペットボトルから冷たいお茶をぐびぐびと飲んでいる。どうやら説教の時間は終わったらしい。

 

 研修室の大きな窓からは柔らかい冬の日差しが差し込んでくる。二月の土曜の昼下がり、揺れ動く銀河の中でこの部屋だけは穏やかだった。



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第31話:じゃがいも艦隊の子芋参謀 795年3月上旬 第一一艦隊司令部

 第一一艦隊司令部後方部長代理。最初にその辞令を受け取った時、何かの冗談じゃないかと思った。艦隊後方部長といえば、一個艦隊百数十万人の補給計画を立てる要職だ。参謀の勉強を始めてからほんの九か月しか経っていない俺に務まる仕事じゃない。

 

 しかし、新任の第一一艦隊司令官は冗談を言わない人だ。後方部長代理に任命されてしまった俺は、心の中で絶え間なく泣き言を吐きながら、慣れない仕事に取り組んだ。

 

 三月上旬、惑星ハイネセン西大陸のニューシカゴ市。第一一艦隊司令部ビルの一室。テレビ画面に軍服姿の男性が映っていた。その男性は分厚い胸を張り、大きな拳を振り上げ、朗々とした美声で訴える。

 

「敵を撃破しても要塞に逃げ込まれる。やがて敵は要塞から出てきてまた国境で暴れまわる。どれだけ同じことを繰り返せば気が済むのか? 防ぐだけでは埒があかん。そのことに諸君はそろそろ気づくべきではないか?」

 

 彼の言葉と態度には人を惹きつける力があった。生まれながらにして世界の主役たるべき資格を持つ存在。スポットライトを浴びるために生まれてきた男。そんな印象を受ける。

 

「根本的な解決はただ一つ。イゼルローン要塞を攻略し、帝国領に攻め込み、オーディンを攻略する! 専制政治を打倒し、銀河を自由の名のもとに統一するのだ!」

 

 男性の鋭気が炎となってスクリーンを満たす。部屋の気温が急に上昇したかのような錯覚を覚えた。主張の内容は凡庸であったが、主張する者が非凡だった。

 

「このウィレム・ホーランドの頭脳の中には、帝国を打倒する戦略がある。奇しくも次の戦場はかのブルース・アッシュビー提督が大勝利を収めたティアマト星域だ。私が専制者の軍勢を完膚なきまでに叩きのめす! 余勢を駆ってイゼルローン回廊に雪崩れ込むのだ!」

 

 新任の第二艦隊副司令官ウィレム・ホーランド少将が右の拳を真っ直ぐに突き上げると、スタジオの聴衆は総立ちになって拍手した。その美々しい姿に見とれていると、スクリーンが急に真っ暗になった。

 

「ふん、できもせんことを言いおって」

 

 そう吐き捨てたのは、第一一艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将だった。その右手にはスクリーンのリモコンが握られている。

 

 どうやら、ドーソン司令官はホーランド少将の大言壮語が気に入らないようだった。上官がイライラしていると仕事がやりにくい。

 

 俺はどうにか空気を和らげなければと思い、フォローを入れることにした。幸いにもホーランド少将は勤勉な人物だ。ヤン准将と違って擁護する余地もあるのではないか。

 

「ホーランド提督は誰よりも仕事熱心な方です。結果も出しておられます。多少のことは大目に……」

「実績を鼻にかけて和を乱す奴など、百害あって一利無しだ! 組織に天才など必要ない!」

 

 ドーソン司令官はばっさり切り捨てた。彼は「真面目か否か」「自分を尊重するか否か」という基準だけで他人を評価する。どうやら、ホーランド少将は俺の知らないところでドーソン司令官に無礼をはたらいていたらしい。

 

「申し訳ありません」

 

 慌てて頭を下げた。背中には冷や汗がだらだらと流れる。

 

「ふん、まあ良い。貴官の一万分の一でもホーランドが謙虚だったら、こんなことにはならんのだがな。司令官になれなかった理由をまだ理解できないらしい」

「どうなさったのですか?」

「あることないことを言いふらしおったのだ! 私が司令官に選ばれたことを逆恨みしてな!」

 

 怒りで逆立つ上官の口ひげを見た瞬間、すべてを理解した。おそらく、ホーランド少将は「武勲もないくせに、国防委員長に取り入って司令官になった」とでも言ったのだろう。

 

 ドーソン司令官の就任には異論も多かった。イゼルローン遠征で副参謀長として功績をたてたとはいえ、ホーランド少将の武勲とは比較にならない。そもそも、副参謀長就任でさえ、トリューニヒト国防委員長のひいきと言われていた。

 

 正規艦隊は所属しているだけでも一目置かれるようなエリート部隊。ドーソン中将にその司令官職にふさわしい実績があるとは言い難い。正規艦隊司令官の中で武勲が少ないと言われる第六艦隊司令官シャフラン中将や第一〇艦隊司令官アル=サレム中将ですら、ドーソン司令官よりずっと実績のある。

 

 もともと第一一艦隊司令官の最有力候補だったのは、前の世界でも司令官を務めたホーランド少将だった。彼は若手提督の中では随一の実績を持つ。イゼルローン遠征では全軍第一の武勲を立てた。宇宙艦隊司令長官ロボス元帥の推薦もある。誰もが納得できる候補と思われたが、ヨブ・トリューニヒト国防委員長が異を唱えた。

 

 国防委員会規則では、「各軍の准将以上の補職は、国防委員長が幕僚総監の意見を参考に行う」ということになっている。幕僚総監は最近の軍人には馴染みが薄いが、宇宙軍、地上軍にそれぞれ置かれる軍令機関「総監部」の長で、各軍の軍令のトップだ。

 

 宇宙艦隊総司令部が宇宙軍幕僚総監部を吸収した現在は、宇宙艦隊司令長官が幕僚総監代理、宇宙艦隊総参謀長が幕僚副総監代理を兼任する。補職についての意見を述べるのも宇宙艦隊司令長官だ。最終決定権は国防委員長にあるが、実際は司令長官の意見がそのまま通る。

 

 ホーランド少将が適任というロボス元帥の意見は、当然のことながら個人の意見ではなく、宇宙軍首脳陣の総意だった。トリューニヒト委員長の慣例破りは宇宙軍を驚愕させた。

 

「ホーランド提督の実力は誰もが認めるところ。どこに問題があるのでしょうか?」

 

 ロボス元帥がトリューニヒト委員長に理由を問うた。

 

「ホーランド君が戦闘指揮官として最良の人材なのは認める。だが、艦隊司令官として最良かどうかは別の話だ。艦隊司令官はまず戦略家であるべきだ。自分で戦うのではなく、部下を戦わせる。目前の戦いに専念するのではなく、大局的な見地から戦場を捉える。そういった要素がホーランド君には欠けているように思うのだがね」

 

 トリューニヒト委員長は戦略家としての適性を問題にした。ホーランド少将は士官学校戦略研究科を首席で卒業した英才だが、中尉の時に一年ほど統合作戦本部作戦部で勤務した以外は、幕僚勤務をしていない。すなわち、戦略家に必要な能力を磨く機会が無かったということだ。

 

 ホーランド少将の戦いぶりは大胆にして奔放。用兵家というより勝負師だと評される。前の世界で読んだ『不屈の元帥アレクサンドル・ビュコック』によると、第一一艦隊司令官となったウィレム・ホーランドは、第三次ティアマト会戦で帝国軍を散々に蹴散らしたが、攻勢の限界点を無視したために敗死した。これらのことから考えると、この指摘は正しい。

 

 代わりにトリューニヒト委員長が推薦したのが、子飼いのドーソン中将だった。軍令の主流から外れているものの幕僚経験は豊富。戦略家としての識見は、昨年のイゼルローン遠征において幽霊艦隊対策を成功させ、第三次攻勢直前に撤退を進言したことで証明済みだ。

 

 もっとも、能力というのは口実に過ぎない。本当の狙いは軍政部門の復権だと言われる。トリューニヒト委員長の国防政策ブレーンを務めるスタンリー・ロックウェル中将らは、国防委員会の軍官僚だ。彼らは軍令優位の現状に不満を持っていた。

 

 宇宙艦隊、地上総軍、方面軍は、軍政機関の国防委員会の管轄下にいる。宇宙艦隊司令長官、地上総軍司令官、方面軍司令官は、同盟軍最高司令官たる最高評議会議長から国防委員長を通して命令を受ける決まりだ。

 

 軍令機関の統合作戦本部、宇宙軍幕僚総監部、地上軍幕僚総監部は、最高評議会議長と国防委員長の作戦指揮を補佐する。

 

 本来は軍政優位なのである。しかし、戦争が長引くに連れて状況が変わった。軍事の素人である最高評議会議長と国防委員長が戦争を指揮するには、軍令部門の補佐が不可欠だ。また、作戦指導を効率化するために、宇宙艦隊司令長官が宇宙軍幕僚総監代理、地上軍幕僚総監が地上総軍司令官代理を兼ね、軍令部門が主力部隊を掌握した。軍令部門の発言力はどんどん拡大していった。

 

 七六五年、「同盟軍最高司令官代理」の肩書きが国防委員長から統合作戦本部長に移り、軍令優位が確定した。今では軍政の専管事項である予算や人事についても、軍令が介入する。

 

 三年前の国防予算削減にしても、国防委員会と統合作戦本部長フラナリー大将が強硬に反対していた。ところが、フラナリー大将に代わって統合作戦本部長となったシドニー・シトレ元帥が受け入れを支持したことで形勢が逆転してしまった。こうした経緯から、国防委員会は軍令優位を覆す機会を伺っていたのだ。

 

 ロボス元帥は宇宙軍軍令部門のトップ、そして軍令部門全体ではナンバーツーにいる。派閥の長としての立場もある。ホーランド少将は子飼いと言えないまでも派閥の一員だからだ。この人事を通せなければ、二重の意味で威信に傷が付く。

 

 日頃はロボス元帥と対立する統合作戦本部長シトレ元帥も今回ばかりは手を組んだ。軍令部門トップとしての立場、国防政策をめぐるトリューニヒト委員長との対立、軍拡志向の国防委員会官僚に対する警戒心、政治家の人事介入に対する不快感などが、二〇年以上も争ってきた二大巨頭の一時的な同盟を促した。

 

 シロン・グループを始めとする中間派も軍部秩序維持の観点からロボス元帥に味方した。ロボス派ともトリューニヒト派とも対立する過激派は中立を保った。

 

 一方、トリューニヒト委員長には、本来の支持層である国防委員会官僚と憲兵の他、新国防方針を支持する地方司令官や技術将校、軍令の非主流派などが味方した。

 

 当初は二大派閥と中間派を味方につけたロボス元帥が優位に立った。だが、自派の第七方面軍司令官ムーア中将、第一四方面軍司令官パストーレ中将らがトリューニヒト委員長を支持したことで劣勢に追い込まれた。結局、ドーソン中将が第一一艦隊司令官の座を手に入れた。

 

 こういった成り行きから、ドーソン中将はシトレ派とロボス派の反感を買っていた。批判の声もあちこちから聞こえる。ただでさえ神経質な人なのに、ますます過敏になっているのだった。

 

 

 

 同盟軍の司令官は幕僚を自分で選ぶ権利を持つ。司令官がこれはと思った人物を選び、国防委員会人事部に申請すると補任手続きが取られる。不適任だと感じた幕僚の名前を国防委員会に伝えたら、解任手続きが取られる。幕僚は司令官の頭脳であり、手足であり、耳目である。何よりも信頼が第一なのだ。

 

 もっとも、これは理想論だった。優秀な人材は他の部隊との取り合いになることが多い。せっかく引っ張ってきた人材が見込み違いだったなんてこともある。様々な事情で微妙な人材を使わざるを得ない場合も少なくない。幕僚チームの半分が希望通りの人材なら上出来というのが実情だ。

 

 第一一艦隊は上出来とはいえなかった。ドーソン司令官が頼れる人脈といえば、憲兵司令官時代の部下、士官学校教官時代の教え子ぐらいのものだった。しかし、前者には幕僚向きの人材が少なく、後者のうちで優秀な人材のほとんどに嫌われている。発足したばかりのトリューニヒト派は人材の層が薄い。優秀な幕僚が多いロボス派とシトレ派からは反感を買っている。そういうわけで人材集めに苦労した。

 

 幕僚のうちで最も重要なのは、幕僚チームを統括する参謀長と副参謀長、一般幕僚(参謀)部門の作戦部・情報部・後方部・人事部の部長だ。そのうち、後方部長代理の俺、情報部長代理のミューエ中佐の二名が憲兵隊時代の部下。参謀長ダンビエール少将、副参謀長メリダ准将、作戦部長チュン・ウー・チェン大佐、人事部長シン大佐の四名が前司令官の幕僚チームから横滑りした。

 

 ファルツォーネ前司令官がシトレ派に属していたせいか、横滑りした幕僚の多くがドーソン司令官と不仲だ。新司令官の歓迎会はまったく盛り上がらなかった。ご機嫌伺いに司令官室を訪れる者もいない。有能で責任感の強い彼らはしばしば直言したが、自分への批判と受け取ったドーソン司令官は聞き入れようとしなかった。あまりに厳しく意見する者は解任された。

 

 憲兵隊時代の部下、士官学校時代の教え子から登用された幕僚は、みんなドーソン司令官好みの性格だった。俺自身もそうだが、真面目な劣等生というのがしっくり来る。素直で真面目だが、頭が良くない。仕事のできるドーソン司令官に言えるような意見など持ち合わせていない。

 

 配下の指揮官を見渡しても、やはりドーソン司令官に意見を言える人物は見当たらなかった。艦隊副司令官のルグランジュ少将は、有能だが意見を言うタイプではない。その他の主要指揮官といえば、四人の分艦隊司令官の他、艦隊陸戦隊司令官、作戦支援部隊司令官、後方支援部隊司令官、三人の独立機動部隊司令官がいる。しかし、ドーソン司令官に嫌われているか、そうでなければ意見を言わない人物ばかりだ。

 

 要するにドーソン司令官は憲兵隊と同じスタイルを貫いた。部下の意見を聞かず、すべて自分で取り仕切った。

 

「参謀の勉強を始めて一年も過ぎていないのに、これだけの分析書を書き上げるとはな。やはり、私の目は正しい」

 

 ドーソン司令官は俺が提出した分析書に目を通した後、満足そうに頷いた。

 

「恐れいります」

「もっと階級が高ければ、参謀長か副参謀長を任せるところなのだがな。世の中は思い通りにいかないものだ」

「後方部長代理でも過分だと思っております。参謀長や副参謀長など及びもつきません」

「貴官なら十分に務まると思うぞ。ダンビエールもメリダも能なしのくせに反抗的で困る。奴らが貴官の一万分の一でも謙虚だったら、私もこんなに苦労せんのだが」

 

 ドーソン司令官が忌々しげに参謀長と副参謀長の名前を口にする。二人とも諌言を義務と思っているようなタイプだ。ファルツォーネ前司令官は、諫言を好んで聞く人だったらしい。俺の上官であり恩師でもある人は、前司令官よりはるかに器量が小さい。

 

「そうですね」

 

 曖昧に笑ってごまかした。一緒に悪口を言うのはみっともないが、擁護すれば怒りを買う。笑ってごまかすのがベターだ。

 

「貴官は頑張っているが、まだまだ未熟だ。これからも指導が必要だな」

 

 分析書に赤ペンで書き込みを加えるドーソン司令官。嬉しくてたまらないと言った感じだ。教え好きの彼にとって、頭の足りない俺は自尊心を大いにくすぐる存在だった。

 

 司令官室を退出した俺は、後方部のオフィスに戻り、後方副部長ジェレミー・ウノ中佐らを呼び集めた。そして、書き込み付きで戻ってきた分析書を見せる。

 

「私達が総掛かりで取り組んでも、こんなに穴があるんですね」

 

 ウノ後方副部長はため息をついた。書き込みの多さと正しさに驚嘆しているのだ。この分析書を書いたのは俺だが、自分の意見は一割程度に過ぎず、残りの九割は後方参謀の意見をドーソン司令官が喜びそうな言い回しに書き換えただけだった。

 

「ドーソン司令官は口うるさい人だけど、言ってることは正しいから」

 

 ここぞとばかりに俺はフォローを入れる。ドーソン司令官は器が小さい。他人に意見を押し付けたがるくせに、自分は他人の意見を聞こうとしない。しかし、仕事は文句なしにできる。

 

 長所と短所は表裏一体のものだ。たとえば、ヤン・ウェンリー准将は細かいことにこだわらないがゆえに大局を見通せるが、細かい人には疎まれる。ドーソン司令官の場合は、他人の意見を聞きたくないがゆえに努力を重ねたんじゃないかと思う。

 

 物語の世界では、部下の意見を聞かない上官は無能な敵役と決まっている。そんな上官に「口答えしない」という理由で登用された俺は、無名の取り巻きといったところだろう。いや、上官がじゃがいも提督だから、子芋参謀といったところか。

 

 何とも雑魚っぽい。しかし、俺の人生では俺が主役だ。ドーソン司令官には恩がある。力を尽くして補佐するのみだ。

 

 頭の足りない自分に何ができるかを考えた結果、ドーソン司令官と後方参謀のパイプ役に徹することに決めた。後方参謀は俺を通してドーソンに意見を伝える。ドーソン司令官は俺を通して後方部を指導する。直接向き合ったら衝突しかねない両者も、俺が間に入ればうまくいく。

 

 後方部の運営はウノ副部長に任せている。俺より一年上の彼女は士官学校七八七年度の上位卒業者で、ヤン・ウェンリー准将ら有害図書愛好会人脈、マルコム・ワイドボーン准将ら風紀委員会人脈の双方と等距離を保っている稀有な人物だ。後方部向きの調整型である。身長が一五八センチと低いのも評価できる。

 

 今のところ、ドーソン司令官の部隊運営はうまくいっていた。もともと能力はある。幕僚の言うことを聞かなくても仕事の上では困らなかった。

 

 前司令官時代から副司令官を務めるルグランジュ少将の存在も大きい。ドーソン司令官は切れ者だが小心で器量が狭い。それに対し、ルグランジュ副司令官は勇敢で度量が大きいが、頭の回転は遅い。ぶつかり合わない組み合わせである。

 

 意外なことに兵士からの支持も厚い。お節介で指導好きのドーソン司令官は、抜き打ちで部隊を視察し、ゴミ箱を覗いて食生活を調べ、寝具が洗濯されているかどうかを確認するなど、生活状況の把握に務めた。病気休職中の兵士に見舞い品を送ったり、除隊する兵士の再就職に力を入れたりもした。前司令官派の幕僚は「司令官のすることではない」と眉をひそめたが、兵士からは口やかましいけど面倒見のいい司令官だと好評だ。

 

 もうすぐ二月が終わる。前の世界では一月か二月のあたりに第三次ティアマト会戦があったはずだが、この世界では戦いが起きる気配もない。昨年のイゼルローン遠征で帝国が受けた損害が予想以上に大きかったのかもしれない。

 

 あるいはそれどころでないという可能性もある。ルートヴィヒ皇太子が父帝フリードリヒ四世に好かれていないのは周知の事実だ。

 

 皇太子の生母にあたる故マルガレーテ皇后とフリードリヒ四世の夫婦仲は、あまり良くなかったらしい。宇宙暦七八六年に亡くなるまで、マルガレーテは皇后の座を保ち続けた。だが、寵妃が男子を産んでいたら、間違いなく廃后されたと言われる。その場合はルートヴィヒも皇太子の座から追われただろう。かつての寵妃ベーネミュンデ侯爵夫人が「幻の皇后」と呼ばれるのも、彼女が男子を産んだら、ルートヴィヒに代わる皇太子になると言われたからだ。

 

 ルートヴィヒ皇太子自身もフリードリヒ四世と合わなかった。しなやかな長身、端正な顔立ち、快活で行動力に富んだ性格が、叔父にあたる故クレメンツ皇太子と良く似ているらしい。開明的な政治観を持ち、身分の低い人々と親しく交わり、父帝の保守性を厳しく批判する態度もクレメンツ皇太子と似ていた。

 

 生前のクレメンツ皇太子は、取り巻きのクロプシュトック侯爵らと一緒になって、兄のフリードリヒ四世を蔑ろにした。現在の宮廷の主流派は、フリードリヒ四世が即位する以前からの側近とその子弟で、政治的には保守派に属する。風貌も政治観も故クレメンツ皇太子とそっくりのルートヴィヒ皇太子には、良い感情を持ち得ない。

 

 皇太子の側も保守派の敵意を助長するような行動をとった。宮廷の反対を押し切って爵位を持たない帝国騎士の娘と結婚した。平民や無爵位貴族出身の若手に高い官位をどんどん与えた。開明派の門閥貴族を重用した故クレメンツ皇太子と比較すると、ずっとラディカルだ。長子に平民将官登用を進めた三二代皇帝に由来する「エルウィン=ヨーゼフ」、次子に歴代皇帝随一の開明派だった二三代皇帝に由来する「マクシミリアン=ヨーゼフ」と名づけたことも、保守派を刺激した。

 

 こうしたことから、枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵、大審院長リッテンハイム侯爵などの保守派貴族は、「君主たる資質に欠ける」として、ルートヴィヒ皇太子の廃太子を求めてきた。

 

 エル・ファシルが同盟に奪還された七九二年に、ルートヴィヒ皇太子は「国防体制を立て直す」と称して宰相となったものの、軍事的にも政治的にも見るべき成果はない。

 

 前例主義の国務尚書リヒテンラーデ侯爵は、「正統な後継者だから」と皇太子を消極的に支持してきたが、最近はあまりのラディカルぶりに頭を痛めているという。改革派の財務尚書カストロプ公爵、開明派の元内務次官ブラッケ侯爵や元財務次官リヒター伯爵などは、軍に基盤を置く皇太子とは疎遠だ。

 

 孤立しているが巨大な軍事力を持つ皇太子。こんな巨大な火種を抱えたままでは、おっかなくて同盟に出兵するどころではないのかもしれない。事情はどうあれ、部隊運営に専念していられるのは有り難いことだった。

 

 

 

 第一一艦隊作戦部長チュン・ウー・チェン宇宙軍大佐は、イースタン拳法の達人と同姓同名なことで知られる。いや、他に知られる理由がないというべきであろうか。

 

 チュン・ウー・チェン大佐は士官学校を四七位で卒業した上位卒業者で、主に正規艦隊の作戦参謀として働いてきた。三三歳の若さで宇宙軍大佐・正規艦隊作戦部長といえば、トップエリートとは言わないまでもそれに次ぐ。幹部候補生あがりの俺から見れば、華麗すぎて目がくらみそうな経歴だが、スーパーエリートが集う正規艦隊ではそれほど目立たない。

 

 一般的には平凡なエリートとみなされるチュン・ウー・チェン作戦部長も、前の世界では偉大な英雄だった。同盟宇宙軍最後の宇宙艦隊総参謀長となった彼は、老将アレクサンドル・ビュコック元帥とともに、覇王ラインハルト・フォン・ローエングラムの大軍に立ち向かった。そして、最後はマル・アデッタ星域で壮烈な戦死を遂げた。

 

 圧倒的な帝国軍を苦しめた知謀。負けを承知の上で民主主義に殉じた信念。ヤン・ウェンリーに民主主義の未来を託した見識。まさに偉人の中の偉人というべきであろう。

 

 あの偉大なチュン・ウー・チェンが同じ司令部にいる。そう知った時、細胞の一つ一つに至るまでが感動で震えた。

 

 いざ実物を目にすると、崇敬の念がどんどんますます高まった。目は細く、鼻は低く、口元には締まりがない。ヤン准将は表情がぼんやりしているだけだが、チュン・ウー・チェン作戦部長は顔の作りがぼんやりしていた。

 

 一見するとただの冴えないおじさんだ。三三歳でギリギリ青年と言っていい年齢なのだが、あまりに雰囲気がくたびれていて、おじさんっぽく見える。軍服の胸元にはパンくずが付いている。家では奥さんに頭が上がらないらしい。そんな人が史上最大の覇王ラインハルトと戦った。それだけで物凄い偉業のように思えてくる。

 

「ああ、私としたことが」

 

 俺の視線に気づいたのか、チュン・ウー・チェン作戦部長は胸元のパンくずを手で払った。そう、この偉大な英雄と俺は、士官食堂で食事を共にしているのだった。

 

 パン粉を払い終えると、チュン・ウー・チェン作戦部長がウェイターを呼ぶ。そして、ハムレタスサンドとカフェオーレを注文した。まだパンを食べるつもりのようだ。作戦を練るより小麦粉を練る方が似合いそうな風貌を持ち、前の世界では「パン屋の二代目」と呼ばれた彼も、実際はパンを食べる側の人だった。

 

「パン以外は注文なさらなくてもよろしいのですか?」

「カフェオーレを注文したじゃないか」

「いえ、惣菜とかスープとか」

「だから、ハムレタスサンドイッチを注文したんだよ。パンと一緒にハムとレタスも食べられる。効率的じゃないか。飲み物ならカフェオーレがある」

「おっしゃる通りです」

 

 どこかおかしい気もする。だが、妙な説得力を感じた。

 

「それにしても、フィリップス中佐はあまり軍人らしく見えないなあ。若いというより幼いという感じだよ。髪型もあまり軍人らしくない」

 

 普段ならダメージを受ける言葉も、チュン・ウー・チェン作戦部長に言われると気にならない。冴えない風貌、のんびりした話し方のおかげだろう。

 

「よく言われます」

「マスコミでは、フィリップス中佐は筋金入りの軍人と言われてるから意外でね。こんなに読書の幅が広いとは思わなかった」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が俺の手元にある三冊の文庫本を指さす。いずれもただの友達であるダーシャ・ブレツェリ少佐から勧められた本だった。

 

 一番上の『実録・銀河海賊戦争四 ウッド提督VS海賊の神様』は、頑固者の名将ウッド提督と才子肌の海賊神ヘンリク三五世の戦いを描いた歴史小説。

 

 真ん中の『嫌いになれない彼女』は、丸顔で黒髪の少女が盛大に空回りしまくる恋愛小説。

 

 一番下の『サードランナー』は、小柄で赤毛で大食いのベースボールピッチャーが主人公の青春小説。

 

「友達から勧められました。『軍事のことだけ考えてたら、頭が固くなる。色んな本を読め』と言われて」

 

 閑職に回されたダーシャは、俺の教育にやり甲斐を見出したらしい。最近は軍事や政治以外についてもいろいろ教えようとする。おかげで最近はエンターテイメント作品三昧だった。

 

「なるほど。その友人は女性かな?」

「どうしてわかったんですか!?」

「そりゃわかるさ。『嫌いになれない彼女』や『サードランナー』は、若い女性に人気のある作品だから」

「知りませんでした」

「ブレツェリ少佐は真面目だと聞いていたけど、こんな柔らかい本も読むんだねえ」

 

 いきなりチュン・ウー・チェン作戦部長がダーシャの名前を口にした。一言も名前を出してないのにどうしてわかったのか。心臓が早鐘のように鳴り出す。

 

「――なぜその友人がブレツェリ少佐だとわかったのですか?」

「彼女との関係は誰だって知ってるさ」

「勘違いしないでください。ブレツェリ少佐はただの友達なんです。性格が変だし、丸顔だし、猫舌だし、異性って感じがしませんよ。男友達みたいな感覚です」

 

 俺はしどろもどろになりながら説明した。

 

「君はそんなブレツェリ少佐が好きで好きでたまらないわけだ」

 

 すべてを見通しているかのように、チュン・ウー・チェン作戦部長が断言する。

 

「いや、そんなことは……。嫌いという意味じゃなくてですね……。好意はありますが、それは……」

 

 自分でも何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。

 

 今日もチュン・ウー・チェン作戦部長のペースで会話が進んでいく。気が付いた時には会話の主導権を握られてしまう。前の世界で帝国軍を惑わした智謀は、この世界では俺を惑わしているのであった。

 

「それにしても困ったことになった」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長は眉を寄せて困ったような顔をした。一体、何が困ったというのか。

 

「どうなさったんですか?」

「明後日から航宙訓練だろう? 三日は『チャーリーおじさんの店』のパンも食べられない」

 

 椅子からずり落ちそうになった。チャーリーおじさんの店とは、第一一艦隊司令部の近所にあるパン屋である。

 

「……買いだめして、艦に持ち込んだらいいんじゃないでしょうか」

 

 アドバイスをすると、寂しげだったチュン・ウー・チェン作戦部長の表情が急に明るくなった。

 

「ああ、なるほど。君は賢いなあ」

「いえ、それほどでも……」

「謙遜することはないさ。あの店の商品の中で君のお気に入りなのは、ブルーベリージャムのマフィンだったね。あれは実にうまい。娘も気に入っている。私はレーズンブレッドの方が好きだが。サンドイッチは何と言ってもきゅうりと卵のサンドだ。君はベーコンレタストマトサンドが好きだったか。好き嫌いの少ない私もトマトだけは小さい頃からどうも苦手でね。あれほどパンと合わない野菜は無いと思うんだ。それなのにみんなはトマトをパンに挟みたがる。最近は娘もトマトをパンに挟みだした。教育を間違えたんだろうなあ」

 

 何の脈絡もなく、チュン・ウー・チェン作戦部長はパンについて語り出す。マイペースな彼は、いつどこで話題を変えるか予想がつかない。しかも、三回に一度はパンの話題になる。

 

「出兵ありますかね?」

 

 俺は強引に話題を変えた。せっかく偉大な知将と食事を共にしているのだ。雑談に終始するなどもったいない。

 

「君は話題に困るといつも軍務の話を振る。ブレツェリ少佐といる時もそうなのかい?」

「いつも彼女の方が一方的に喋るんですが……。それはともかく、いかがお考えでしょうか?」

「上院選挙前だろうね」

「でも、今から出兵しても選挙に間に合わないんじゃ」

「出兵するだけで政権支持率は上がるよ。負けたところで選挙が終わった後だ。大した痛手にはなりゃしない」

 

 とても辛辣なことをチュン・ウー・チェン作戦部長はとてものんびりとした口調で語る。

 

「なるほど。目先の支持率を確実に拾いに行くわけですか」

「ただでさえ与党不利の選挙だからね。出兵に勝てば支持率が二〇パーセント上がるが、負ければ二〇パーセント下がる。そんな賭けなんて怖くてできないさ」

「ヴァンフリートでもイゼルローンでも失敗しましたからね」

「帝国の側から攻めてくるかもしれない。皇太子派と保守派、どちらも武勲が欲しいだろうから」

「決着が着くまでは攻めてこないと思いますが」

「着けるために攻めることも有り得るさ。政治的な行き詰まりを出兵で解決する。回廊のこちら側も向こう側も同じだよ」

「ああ、なるほど。どうせ戦うなら保守派に攻めてきて欲しいです。二〇代前半の少将、二〇代後半の中将がわらわらいる皇太子派とは戦いたくありません」

「そういえば、帝国のエル・ファシルの英雄も主力艦隊司令官になったらしいしねえ。ルートヴィヒ・ノインのヴァーゲンザイルに匹敵する勇将だそうだよ。あちらの国では若者の時代が始まったのかもしれないねえ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が嫌なことを思い出させてくれた。国防委員会情報部によると、帝国のエル・ファシルの英雄ことラインハルト・フォン・ミューゼルが昨年末に中将に昇進し、主力艦隊司令官となったという。ついにあの天才が表舞台に出てきた。皇太子派でないのが唯一の救いだろうか。

 

「こちらの若者も負けてはいませんよ。ヤン提督やあなたがいらっしゃる」

「若者っぽくない名前ばかりあげてどうするんだ。ヤンはともかく、私には名前をあげられるような実績もないよ」

「実績はこれから付いてきますよ。あなたならハウサーの計略も見破れると信じています」

 

 俺はルートヴィヒ・ノインきっての知将の名前をあげた。この人物は前の世界には存在しなかった人物だが、敵の裏をかくのが得意なアイディアマンで、帝国史上初めて二〇代で大将になった平民だ。超一流の策士なのは間違いない。それでもさすがにチュン・ウー・チェン作戦部長には及ばないと思う。

 

「君はお世辞がうまいな。何はともあれ、第一一艦隊は三月いっぱいまで即応段階だ。選挙前に出兵があるとしたら、間違いなく動員される。今から備えておくといいよ」

「わかりました。司令官にもそのように申し上げておきます」

 

 今の俺はドーソン司令官と作戦部のパイプ役も務める。なんとチュン・ウー・チェン作戦部長から直々に頼まれたのだ。

 

 意外なことにチュン・ウー・チェン作戦部長はドーソン司令官から嫌われていなかった。同系列のキャラクターに見えるヤン准将と違い、小さな仕事にも手を抜かない。のんびりした風貌と話し方で優越感をくすぐる。正面から事を構えようともしない。中間派系列の有力地方閥に属するが、軍内政治からは距離をとっている。好かれる要素はないが嫌われる要素もない。

 

 前の世界のチュン・ウー・チェン作戦部長は、猜疑心の塊となったレベロ最高評議会議長からも信頼された。媚びないが衝突もしない。そういうスタンスの人だった。だから、俺をパイプ役にしようと考えたのだろう。これほど光栄なこともない。

 

「君がいてくれて助かるよ」

「とんでもありません。こちらこそ大いに助かっています」

 

 俺はしきりに頭を下げた。偉大な知将が知恵を貸してくれる。どれほど感謝してもし足りない。

 

「ありがとう。それにしても君と司令官は絶妙なコンビだよ。司令官がビシビシやって、君が頭を下げる。本当にいいコンビだね」

「こ、光栄であります!」

 

 全身を歓喜が突き抜ける。戦記で慣れ親しんだ英雄から褒め言葉をもらった。喜ばすにいられようか。

 

「君は本当に面白いなあ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長がおいしいパンに向けるのと同じような目を俺に向ける。

 

「面白いですか?」

「司令官を好きで好きでたまらないというのが伝わってくる。羨ましいね。これぐらい忠義を尽くしてくれる部下が欲しいもんだ」

「どうでしょうねえ」

 

 曖昧に笑ってごまかした。ドーソン司令官を好きか嫌いかと聞かれたら、好きと言っていい。しかし、口に出して言うのは照れくさいというか、何というか、微妙な気分だ。

 

 いずれにせよ、偉大な知将が間接的ながらドーソン司令官に力を貸してくれる。そして、前の世界で天才ヤン・ウェンリー相手に奮戦した闘将が副司令官として脇を支える。ドーソン司令官、いや第一一艦隊の未来は明るい。

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長と別れた後、次の戦いへと思いを馳せた。即応段階にある艦隊、すなわち動員対象になる艦隊は、第一一艦隊、第二艦隊、第九艦隊、第一二艦隊だ。

 

 ウランフ中将率いる第九艦隊、ボロディン中将率いる第一二艦隊には不安がない。司令官は優秀で実績豊か。幕僚チームの結束は固く、中級指揮官は忠実。一糸乱れぬ戦いぶりが期待できる。

 

 問題は第二艦隊だ。司令官のパエッタ中将は超一流の用兵家だが、やり手にありがちなワンマンで、人の意見を聞かないところがあった。そんな人の副司令官を自己主張の強いホーランド少将が務める。そして、困ったことに二人とも強いカリスマ性を持つリーダーだ。対立してくださいと言わんばかりの人事としか思えない。案の定、第二艦隊は分裂状態だと聞く。

 

 財政上の理由から一度に動員できる艦隊は三つまでと決まっている。できることなら第九艦隊や第一二艦隊と一緒に戦いたいものだと思う。

 

 後方部のオフィスに戻った。恐ろしいほどに空気が張り詰めている。

 

「一体どうしたんだ?」

 

 俺の問いに対し、ウノ副部長が無言でテレビを指さす。テレビの字幕が答えを答えてくれた。

 

「帝国宰相ルートヴィヒ皇太子率いる六万隻の大艦隊が帝都オーディンを出発。四週間後にイゼルローン要塞に到着する見込み」

 

 最悪の予想が的中してしまった。血の気がさらさらと引いていく。次なる敵は、英明な皇太子と九人の勇将が率いる六万隻の大軍。

 

「すまん! ちょっとトイレに行ってくる!」

 

 俺は急いでトイレの個室に駆け込んだ。携帯端末を開き、友人で元帝国軍人のハンス・ベッカー少佐に通信を入れる。彼は俺が知ってる中で唯一ルートヴィヒ皇太子を低く評価していた。

 

「ああ、フィリップス中佐ですか。どうしたんです?」

「テレビ見ましたか!?」

「見ましたよ」

「この戦い、どうなると思われますか!?」

「こちらの動員兵力次第です。敵と同じくらいなら同盟軍の負けはないと思います。いつも言ってるでしょう? 『皇帝がやる気のない無能なら、皇太子はやる気のある無能。その程度の違いだ』と」

「ありがとうございます!」

 

 俺は友人に礼を言って通信を終えた。言葉だけでも「大したことない」と誰かに言って欲しかった。情けない話だが、今はこんな気休めでも必要だった。




「9年前に死んだ皇后」は原作一巻に準拠。796年時点で10年前、つまり786年に死んだ皇后がいるそうです。マルガレーテという名前は勝手につけました。

外伝一巻ではルートヴィヒ皇太子はアンネローゼやベーネミュンデが寵妃になるより前になくなっているそうですが、それでは791年生まれのエルウィン=ヨーゼフの父親になれません。そういうわけで外伝の時系列より一巻の時系列を優先して採用します。


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第32話:じゃがいも提督の采配、パン参謀の分析 795年4月1日 ティアマト星域

 古代フェニキアの神の名を冠していることから分かる通り、ティアマト星系はアーレ・ハイネセン直系の「長征グループ」が同盟建国期に開拓した星系の一つだ。最盛期には九〇〇〇万の人口を有していたが、対帝国戦争が始まってから激戦地となり、六五七年にはすべての住民が内地へと疎開した。今では軍人以外の人間がこの星系を訪れることはない。地上に横たわる都市の残骸のみがかつての繁栄を伝える。

 

 宇宙暦七九五年四月一日、ティアマト星系に入った同盟軍四万二六〇〇隻は、第七惑星エアから四光分(七二〇〇万キロメートル)の場所に布陣した。

 

 中央に第二艦隊一万三八〇〇隻が布陣する。司令官のジェフリー・パエッタ中将は、四〇代前半で堂々たる体格と重々しい雰囲気を持つ。隙のない用兵と徹底した完璧主義から、「ミスター・パーフェクト」と呼ばれる宇宙艦隊きっての逸材だ。ワンマンなのが玉に瑕だった。

 

 第二艦隊の右側、同盟軍の右翼に第九艦隊一万四一〇〇隻が布陣する。姓を持たない古代騎馬民族の末裔であるウランフ中将が司令官だ。並外れた勇敢さと柔軟な用兵手腕を兼ね備え、浅黒く精悍な顔が生まれつきの将帥と言った印象を見る者に与える。パエッタ中将より年齢はやや若いが、勇名は等しい。そんな彼を市民は「黒鷲(ブラック・イーグル)」と呼んで敬愛する。

 

 第五艦隊の左側、同盟軍の左翼には第一一艦隊一万二二〇〇隻が布陣する。司令官のクレメンス・ドーソン中将は、ヨブ・トリューニヒト国防委員長の側近として頭角を現した。これといった戦功が無い割に知名度は高い。同盟軍の隅々にまで「じゃがいも提督」の名が轟いていた。

 

 宇宙艦隊司令長官ロボス元帥と直轄部隊四〇〇〇隻がその後方に控える。この戦力は総司令部の護衛と予備戦力を兼ねる。一日後には国境で哨戒活動にあたる第六艦隊C分艦隊二二〇〇隻がこれに加わる予定だ。

 

 そして、シャルル・ルフェーブル中将の第三艦隊、ウラディミール・ボロディン中将の第一二艦隊が、エア宙域から六光時(六四億八〇〇〇万キロメートル)の地点にいる。彼らは二日後に到着する。

 

 迎撃軍を編成するにあたり、ヨブ・トリューニヒト国防委員長は、五個艦隊を動そうとした。ところが、四個艦隊で十分と主張する進歩党と統合作戦本部の反対にあい、動員予算の可決が遅れてしまった。その結果、三個艦隊が先に出発し、二個艦隊が遅れて到着する形となったのだ。

 

 対立は前線でも起きていた。総司令部は第三艦隊と第一二艦隊が到着するまで、守勢に徹するつもりだった。それに第二艦隊副司令官のウィレム・ホーランド少将が異議を唱えた。

 

「大軍と正面からぶつかるのは不利。先制攻撃で出鼻を挫くべきだ」

 

 勇将らしい積極論といえよう。だが、上官にあたるパエッタ中将が反対した。

 

「劣勢とはいえ守勢に徹すれば耐え切れる。後続の到着を待った方がいい」

 

 ホーランド少将の積極論、パエッタ中将の消極論のどちらも用兵学的には一理ある。それに別の思惑が絡んでややこしくなった。

 

 年内に第四艦隊司令官と第六艦隊司令官のポストが空く。ロボス元帥とシトレ元帥は、そのどちらかをホーランド少将に与えようと考えた。そのためには何としても戦功を立ててもらいたい。第二艦隊副司令官への登用もそれが目的だった。

 

 ロボス総司令官は攻撃的な用兵を好む。政治的な事情もある。こういったことから積極論へと傾いた。慎重なグリーンヒル総参謀長は消極論を支持した。その他の幕僚も二つに割れた。

 

 こうなると注目されるのが第九艦隊司令官ウランフ中将と第一一艦隊司令官ドーソン中将だ。前者は用兵上の観点、後者はホーランド少将との確執からパエッタ中将支持に回り、消極論が採用されることとなった。

 

「よかった」

 

 俺は胸を撫で下ろした。前の世界で七九五年に起きた第三次ティアマト会戦において、第一一艦隊司令官ホーランド中将は無理な突撃をして敗れた。その二の舞は避けられそうな気配だ。

 

 だが、安心するのはまだ早い。八〇光秒(二四〇〇万キロメートル)前方の帝国軍は、六万四〇〇〇隻から六万五〇〇〇隻。同盟軍の一・六倍にあたる。同盟軍正規艦隊は一・三倍の帝国軍主力艦隊と互角と言われてきたが、この戦力差はさすがに苦しい。

 

 帝国宰相にして宇宙軍及び地上軍筆頭元帥であるルートヴィヒ皇太子が総指揮を取る。実戦経験は無いが、配下に大勢の勇将・知将を抱えていることから、大きな将器の持ち主と言われる。

 

 二九歳の元帥府参謀長テオドール・ハウサー大将が皇太子の代わりに采配を振るう。彼は皇太子が誇る「ルートヴィヒ・ノイン(ルートヴィヒの九人)」の筆頭で、平民でありながら二〇代で帝国軍大将となった史上初の人物だ。敵の裏をかくのが得意な知将と恐れられる。

 

 中央にはゼークト大将とヴァーゲンザイル中将の艦隊、左翼にはエルクスレーベン中将とカルナップ中将の艦隊、右翼にはケンプ中将とブラウヒッチ中将の艦隊が布陣した。どの艦隊も八〇〇〇隻から一万〇〇〇〇隻の間と推定される。

 

 後方には、ゾンバルト少将、コッホ少将、エルラッハ少将の分艦隊が、皇太子の旗艦「ヴェルト・ヴンダー」を取り巻くように展開する。彼らは皇太子の親衛隊的な役割を果たす。

 

 皇太子本隊よりも後方にミューゼル中将の艦隊が控えていた。こんなに後ろにいる理由は不明だが、予備として温存されているという見方が妥当だろう。

 

 これらの提督のうち、ルートヴィヒ・ノインでないのは、保守派のゼークト大将、皇帝の寵臣であるミューゼル中将の二人だけだった。皇太子への目付役として配属されたと思われる。

 

 ルートヴィヒ・ノインが一つの戦場に勢揃いするのは初めて。その下の部隊指揮官も皇太子派の優秀な人材が揃っているだろう。非皇太子派のゼークト大将とミューゼル中将も勇将だ。同盟軍は未だかつて無いほど強大な敵と直面した。

 

 

 

 

 

「距離を取れ! 敵を近づけるな! 二個艦隊が到着するまで守勢に徹する!」

 

 ロボス元帥の方針は、第六次イゼルローン攻防戦の戦訓を参考に作られた奇襲防止対策に沿ったものだった。

 

 同盟の情報機関は、昨年の第六次イゼルローン遠征で猛威を振るった幽霊艦隊の指揮官、同盟軍の三度の攻勢を阻止した小部隊の指揮官の正体を、まだ特定していない。しかし、戦闘データは残っている。統合作戦本部と宇宙艦隊総司令部が徹底的に分析した結果、「先制攻撃が得意。艦隊運用の柔軟さ、突撃指揮の巧妙さ、戦局眼の的確さは最高水準」と分かった。そして、徹底的に戦術パターンを研究し、対策を編み出した。

 

 俺は知っている。その提督は後方に控えるラインハルト・フォン・ミューゼルだ。しかし、あえてそれを口にする必要は無い。ラインハルトが持つ「帝国のエル・ファシルの英雄」の異名が人々を警戒させた。

 

 あの英雄が謎の小部隊指揮官ではないか? 漠然とではあるが、そんな空気が同盟軍将兵の間で流れた。

 

「奴を接近させるのはまずい」

 

 いつの間にか、そんな暗黙の了解ができあがっていた。前の世界のように油断してラインハルトに負けるなんてことはなさそうだ。不安要因は無い。いや、無いと信じたかった。

 

 一〇時一七分、同盟軍と帝国軍は、一一光秒(三三〇万キロメートル)の距離まで近づいた。戦艦主砲の最大射程は二〇光秒(六〇〇万キロメートル)前後、巡航艦主砲の最大射程は一五光秒(四五〇万キロメートル)前後とされる。砲撃戦には最適の距離だ。

 

「撃て!」

 

 ドーソン司令官の合図とともに、数万本のビームが放たれた。正面からもほぼ同数のビームが飛来する。一五五年間で二回の大会戦、三四回の小競り合いが行われた星域で三回目の大会戦が始まった。第三次ティアマト会戦である。

 

 

 

 戦いはきわめて平凡な形で推移した。両軍の艦隊が密集隊形を組み、エネルギー中和磁場の壁を作り、砲撃を交わし合う。軍事マニアが見たら、「芸の無い戦いだ」と評するかもしれない。

 

 傍目には退屈な戦いも当事者にとっては命がけだった。中和磁場が砲撃を防いでくれるといっても、絶対に安全とは言い切れない。中和磁場の壁の隙間から砲撃が飛び込んでくることもある。制御システムの故障、オペレーターのミスなどで、中和磁場が機能しなくなることもある。そういった理由で砲撃を食らう艦もいた。

 

 俺は端末を見ながら顔を青くした。第一一艦隊のエネルギー充足率が恐ろしい勢いで低下していく。ビーム砲とエネルギー中和磁場を使ってるせいだ。しかも、第一一艦隊の正面にいるケンプ中将とブラウヒッチ中将は、前の世界でも用兵巧者として有名だった。あっという間に第一一艦隊は戦えなくなるんじゃないか。そんな恐怖に囚われた。

 

 ところが周囲で仕事をしている後方参謀は、誰一人として不安の色を見せない。彼らはエネルギー管理に慣れている。こんなに消耗しても大丈夫というのか?

 

 俺は後方副部長ジェレミー・ウノ中佐に話しかけた。

 

「エネルギー充足率の低下が激しいけど、大丈夫かな?」

「戦闘開始から三時間でしょう? むしろ少ないくらいです」

「普段はもっと使うのか?」

「ええ、普段の八五パーセントから九〇パーセント程度です」

「そうか、わかった」

 

 不安を拭い去れないまま、ウノ副部長のもとを離れた。そして、奥の司令官席を見る。

 

「C分艦隊は中和磁場の出力を一〇パーセント弱めろ!」

「A分艦隊は八万キロメートル前進!」

 

 ドーソン司令官が活き活きと采配を振るう。膨大な報告を一瞬で聞き分け、素早く的確な指示を下す。まるで精密機械のようだ。仕事大好き人間の彼にとっては、艦隊指揮もデスクワークと同じようにただの仕事でしかなかった。

 

 俺は数字よりも印象を信じる。小心で神経質なドーソン司令官が大丈夫だと思っているのだ。ならば、何も憂いることはない。たちまち元気を取り戻す。

 

 帝国軍がゆっくりと前進してきた。数の力で押し込むつもりなのだろう。しかし、むざむざと押し込まれるわけにはいかない。接近戦は不利だ。

 

 同盟軍は後退して距離を空けた。ティアマト星系はイゼルローン回廊周辺にある星系の中で最も広い。恒星活動は安定している。航行の邪魔になる小惑星帯も無い。後退する余地はいくらでもあった。もっとも、それは敵も動きやすいということだ。第二次ティアマト会戦の終盤、帝国軍の大軍が同盟軍の背後に回り込んだ例もある。

 

「一一時方向より敵ミサイル群が飛来! およそ数万!」

 

 オペレーターが叫ぶ。司令室のメインスクリーンにミサイルの雨が映し出された。

 

「駆逐艦、ミサイル迎撃用意! 電子戦部隊はジャミングを開始せよ! 戦艦と巡航艦は方向を変えずに砲撃を続けろ!」

 

 ドーソン司令官は即座に迎撃を命じる。本来ならば分艦隊単位や機動部隊単位で対応する事柄であったが、艦隊行動の統一性を重視する彼は自分で指示を出す。

 

 電子戦部隊の仕掛けるジャミングが対艦ミサイルの誘導装置をかき乱す。そこに駆逐艦の電磁砲と短距離ミサイルが襲い掛かる。ほとんどのミサイルが途中で撃ち落とされた。

 

「敵ミサイルの九八・八パーセントを阻止しました!」

 

 オペレーターの報告にドーソン司令官が頷く。対艦ミサイルの阻止率を平均すると九八パーセント前後。一万発で攻撃されたら、二〇〇発が命中する計算だ。それを一万発あたり一二〇発まで抑えた。素晴らしい成果と言っていい。

 

「対艦ミサイル、また来ます! 数は先ほどと同程度!」

 

 再び対艦ミサイルが雨となって第一一艦隊に迫る。この兵器は中和磁場が効かない実弾兵器でありながら、大口径ビーム砲に匹敵する射程を持つ。搭載数の関係から頻繁に使えない。だが、艦列に穴を開けるには最適だ。

 

「駆逐艦は迎撃! 電子戦部隊はジャミング!」

 

 第一一艦隊は対艦ミサイルの九八・七パーセントを撃ち落とした。二度のミサイル攻撃で七〇〇隻が撃沈され、一三〇〇隻が損傷を被った。損傷艦は素早く後退し、残った部隊がすぐにその穴を埋める。ドーソン司令官の素早く的確な指示、それを実行するチュン・ウー・チェン作戦部長ら作戦参謀のチームワークがうまく噛み合った。

 

 押し寄せてくる敵、それを整然と迎え撃つ第一一艦隊がスクリーンに映る。両軍の間合いは四・五光秒(一三五万キロメートル)まで近付いた。

 

 戦艦と巡航艦の長距離ビーム砲に、駆逐艦の中距離レーザー砲が加わり、砲撃戦がますます激しくなった。砲撃とエネルギー中和磁場が強弱を競い合う。敗北した艦は白熱した火球となって漆黒の闇に溶けていく。爆発に巻き込まれて破壊される艦も少なくない。

 

 ヴァントーズの周囲でも敵味方の砲撃が飛び交う。味方艦の爆発光がスクリーンを照らす。

 

「旗艦が前に出過ぎだ! 右から四〇度の方向へ後退!」

 

 ドーソン司令官が後退を命ずる。それに対し、ヴァントーズの艦長カラスコ大佐が抗議した。

 

「司令官閣下、この艦の艦長は小官であります。操艦の詳細に関しては、小官にお任せくださいますよう」

 

 ドーソン司令官は口答えを何よりも嫌う。怒りで顔を真っ赤にして、白髪の老艦長を怒鳴りつけた。

 

「黙れ! 命令を受けたら、速やかに実行する! それが貴様の仕事だろうが! 無駄口を叩いて時間を浪費する気か!? 旗艦が撃沈されたら責任を取れるのか!?」

 

 ヒステリックな司令官の怒声が鳴り響く。白けきった空気が漂う中、参謀長ダンビエール少将と副参謀長メリダ准将が進み出た。

 

「艦長の意見は正論であります。お聞き入れいただけますよう」

 

 参謀長と副参謀長の発言は正論だった。それがドーソン司令官の怒りをますますかきたてる。

 

「うるさい!」

 

 ドーソン司令官は甲高い声をあげた後、メインスクリーンを睨むように見た。本当はダンビエール参謀長、メリダ副参謀長、カラスコ艦長の三人を睨みたいのだろう。立派に戦ってるように見えても、小心者は小心者だった。そして、怖くて口を挟めない俺も小心者だ。

 

 後ろめたさから逃れるように、仕事に没頭した。立案や助言ができない幕僚も結構忙しい。司令官に言われた通りに命令を作る。命令を下級部隊に伝える。命令が徹底されているかどうかを確認する。下級部隊から集めた情報を司令官に伝える。これも幕僚の重要な仕事だ。

 

 前司令官時代からの幕僚には、意見を聞いてくれた前司令官との差に落胆する者もいた。だが、それでもふてくされずに仕事をこなす。さすがはプロだ。俺が司令官になることがあったら、こういう幕僚を集めたいと思う。もっとも、向こうは俺のような司令官なんて願い下げだろうけど。

 

 ドーソン司令官と第一一艦隊の幕僚。どちらも真面目で有能なのに相容れない。物語の世界ならば、真面目で有能な者同士は必ず分かり合えるのに。本当に人間は難しい。

 

 

 

 戦闘開始から一二時間が過ぎた。意外にも同盟軍が有利だった。兵力は敵の方が多い。敵の総司令官は将の将たる器。敵の司令官代理は帝国最高の知将。敵の指揮官はみんな優秀。それなのに劣勢の同盟軍を攻めきれずにいる。

 

 一〇〇〇隻から数百隻程度の部隊がバラバラに攻撃してくる。それぞれの部隊は良い動きをするのだが、連携がまったくできていない。血気を抑えきれないと言った感じだ。前線の敵艦隊の中で統一行動がとれているのは、ゼークト艦隊だけだった。

 

 

 

 

 

「戦意過剰、協調性過少といったところかな」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が俺の後ろに立ってサンドイッチを食べていた。彼は休憩中だ。

 

「どうしたんでしょう?」

 

 椅子を後ろに向けて質問した。俺も一応休憩中なのだが、いろいろ心配なのでデスクに座ったまま休んでいる。

 

「どの艦隊も統制が取れていないんだよ。部隊ごとに勝手に動いてる。まともなのはゼークト艦隊だけだ」

「不思議ですね。貴族の多いゼークト艦隊以外は、みんな実力本位なのに」

 

 ルートヴィヒ皇太子が掲げる成果本位の人材登用。それは前の世界でラインハルト・フォン・ローエングラムが成功したやり方と全く同じだ。それなのになぜうまくいっていないのだろう?

 

「だからうまくいってないんだよ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長はのんびりした口調で辛辣なことを言う。

 

「どういうことです?」

「皇太子は武勲をあげた者を片っぱしから昇進させているよね」

「ええ。進んだやり方ですよね」

「それがまずいんだ。みんなバラバラに攻めてきている。味方の進路をわざと塞ぐように動く部隊もいるね。全体の勝利より自分の武勲を優先している証拠だよ。勝ち戦で武勲を稼ごうと必死なんだろうね」

「まるで貴族軍人と同じじゃないですか」

 

 ヴァンフリート四=二基地の戦い、昨年のイゼルローン遠征を思い出した。貴族軍人の利己主義が同盟軍を利した戦いだった。

 

「それよりずっと切実だろうね。皇太子派の場合は武勲と待遇が直接結び付く。だから、さらに貴族軍人よりもチームワーク無視が酷くなるのさ」

「そういうことでしたか。成果主義だから強くなるわけでもないんですね」

「成果主義が行き過ぎたら、目先の功績しか考えない人材が上に行く。年功序列が行き過ぎたら、失敗を恐れる人材が上に行く。努力主義が行き過ぎたら、努力しているように見せかけるのがうまい人材が出世する。何事もバランスだよ」

「勉強になります」

 

 俺は心の底から感心した。そういえば、ラインハルト陣営にも功を焦る風潮はあった。ケンプ、レンネンカンプといった名将がそれで身を滅ぼした。グリルパルツァーやゾンバルトのように汚名を残した者もいる。ヴァーゲンザイルのように大失敗したが身を滅ぼさずに済んだ者もいた。それでも強かったのは、バランスが取れていたおかげだろう。

 

 名前をあげているうちにある事実に気づいた。ルートヴィヒ・ノインに名を連ねる前世界の名将には、功を焦って失敗した者が多い。エルラッハ少将はラインハルトの指示を無視して死んだ。ブラウヒッチ中将やカルナップ中将は功を焦ってないが、ヤン・ウェンリーと戦って艦隊を壊滅させられた経験がある。そして、みんな積極攻勢型の提督だ。

 

 前の世界で名前が残らなかった者の中でも、ハウサー大将は奇略、エルクスレーベン中将やコッホ少将は剛勇で名高い。どうやら、皇太子は派手な活躍をする提督ばかり引き立てたようだ。確かにバランスが悪すぎる。

 

「スタンド・プレーをする提督なんて、五人に一人もいれば十分だよ。一人一人が優秀でも連携できなきゃ何の意味もない。これは標準的な帝国軍主力艦隊より弱いなあ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長は、ルートヴィヒ皇太子自慢の精鋭に辛辣な評価を下した。敵の戦闘力評価は作戦参謀の仕事。それなりの根拠があっての評価だ。

 

「味方はどうでしょうか?」

 

 この際だから味方の評価も聞いておこうと思った。敵が弱くても味方がそれ以上に弱ければ負ける。戦略戦術シミュレーションでそれを学んだ。

 

「第九艦隊は言うまでもないね。練度と戦意は充実している。部隊同士の連携も円滑だ。我が第一一艦隊はまさに『一糸乱れず』といったところかな」

「安心しました」

 

 少し嬉しくなった。偉大な知将から見ても、ドーソン司令官はいい采配をするらしい。

 

「問題は第二艦隊だ。部隊の能力は高いし指揮も適切だけど、連携が取れていない。パエッタ提督らしくない采配だね」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が戦術スクリーンの中央を指差す。第二艦隊の先頭集団と本隊の動きがまるで噛み合っていない。まるで別の部隊のようだ。

 

「先頭集団の指揮官はホーランド少将でしたね」

「不和が尾を引いてるのかな。先頭集団自体の動きも悪い。配下の部隊がホーランド少将の指揮についてこれないようだ」

「言われてみると、動きがぎこちないように見えます」

 

 第六次イゼルローンのホーランド少将は、一隻一隻を手足のように動かした。それなのに今の動きはぎこちなさすぎる。

 

「ホーランド提督はパエッタ提督と対立してる。そして、第二艦隊の中級指揮官のほとんどがパエッタ派だ。うまく意思疎通ができてないんだろうなあ」

「あの戦術は職人芸ですからね。これでは厳しいかもしれません」

 

 俺は視線を遠くに向けた。ドーソン司令官も中級指揮官と意思疎通できてるとは言い難い。しかし、オーソドックスな戦術を使っているおかげで、部下もスムーズに動ける。

 

 パエッタ中将とホーランド少将は、指導方針を巡って対立していたという。二人とも自分の用兵が一番正しいと思ってるようなタイプだ。パエッタ流の指導が浸透した部隊を、無理やりホーランド流で動かそうとしたら、間違いなく混乱が起きる。

 

 今の会話によって、この目で見た名将ホーランドと、前の世界の戦記が批判する愚将ホーランドの姿が重なったように思えた。

 

 前の世界では、第六次イゼルローン遠征が七九四年一二月、第二次ティアマト会戦の間が七九五年の一月か二月だったと思う。ハイネセンと戦場を往復する時間を考えると、ホーランドはイゼルローンから戻ってすぐに第一一艦隊司令官に就任し、調整する間もなく出兵した計算になる。指導する時間などあろうはずもない。

 

 戦記はホーランドを「エネルギーが無限だと思い込んだ」と批判する。だが、作戦案を作る段階で、配下の後方参謀が事前にエネルギーの使用量を予測するはずだ。予想と実際の使用量に大きな差があったのかもしれない。配下に入れたばかりの部隊に複雑な戦術を無理やり当てはめた。そのせいで無駄にエネルギーを浪費し、予想よりも早くエネルギー切れを起こしたのではないか。

 

 あくまでこれは推論だ。しかし、単に無能だったというより、必勝パターンにこだわって失敗する方が、プロの軍人らしいように思える。

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲み干した。糖分の補給を済ませてから口を開く。

 

「長所と短所は紙一重といいます。必勝パターンへのこだわりが、ホーランド提督の用兵を硬直化させたのかもしれません」

「それは違うんじゃないかなあ」

「何が違うんですか?」

「必勝パターンにこだわること自体は正しいよ。一つの必勝パターンを徹底的に磨き上げるのが名将だ。用兵の柔軟性とは、必勝パターンに持ち込む手段の多様性であって、こだわりの薄さとは違う」

「一つだけならまずくないじゃないですか? 分析されたら勝てなくなるんじゃ?」

「帝国のメルカッツ提督の必勝パターンが、艦載機や宙雷艇を使った強襲なのは有名な話だ。そして、宇宙艦隊総司令部の資料室には、彼の強襲戦術の分析データが山のように保管されてる。それでもなかなか勝てないじゃないか。分析された程度で負けないのが名将なんだ」

「軽率でした」

 

 俺は非を認めた。分析しただけで必勝パターンを破れるなら、この世から名将はいなくなる。前の世界でヤンやラインハルトの用兵について書かれた本をたくさん読んだ。それでも彼らに勝てる気はしなかった。俺が口にしたのは素人考えでしかない。

 

「ホーランド提督が平凡な提督だったら、こんなことにはならなかったんだけどね。名将ならではの落とし穴さ。ハンニバル・バルカ、ナポレオン・ボナパルト、エルヴィン・ロンメルといった過去の名将も、必勝パターンを使えなくなった途端に敗れた」

「ホーランド提督もどうなるんでしょうか?」

「苦戦はあっても、敗北はないだろうね。パエッタ提督が手を打っている。D分艦隊を側面に回りこませた。先頭集団を援護させるつもりだ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が戦術スクリーンを再び指差す。第二艦隊D分艦隊が彼の言う通りの動きをしていた。

 

「さすがですね」

「これが用兵家の仕事だよ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長は細い目をさらに細める。戦術スクリーンを見ながら、いろいろと教えてくれた。

 

「同盟軍の惨敗はなさそうですね」

「私もそう思うよ。不安要因があるとしたら、それはドーソン提督の武運だろうね」

「武運?」

「クラウゼヴィッツの著作は読んだかい?」

「士官学校で使われているダイジェスト版なら読みました」

「それなら、摩擦の概念は知っているかな」

「知っています」

 

 西暦時代の軍事思想家クラウゼヴィッツは、「摩擦」という概念を唱えた。戦場では、間違った情報、意思疎通の失敗、疲労、不安、偶発的な事故、気象の変化、敵の不合理な判断など、計画段階では予想もしなかった障害が起きる。この障害を摩擦と呼ぶ。摩擦が積み重なって、戦況を当初の予想から外れた方向へと動かしていくのだ。

 

「戦争の才能について、クラウゼヴィッツは『予測不可能な摩擦に対処する能力』だと言う。要するに偶然に対処する能力だよ。しかし、そういった能力がなくても生き残る人がいる。ゼークト提督がその典型だね。勇猛だけど頭が固いせいで、何度も罠に引っかかって死にかけた。それなのに紙一重で生き延びた。一度や二度なら単なる幸運だけど、三十年も続いたら幸運とはいえない。偶然に助けられてるということだよ。私はこれを『武運』と呼んでる」

「運は能力ということですね。他の人から聞いたことがあります」

 

 恩師の一人エーベルト・クリスチアン中佐の言葉を思い出した。彼も戦場での幸運について、「一度や二度なら偶然だが、何度も重なれば立派な能力だ」と言った。

 

「武運の正体が何なのか、私には分からない。生まれつきの勘かもしれないし、長い戦場経験で身につけた感覚かもしれないな。あるいは神がひいきしていんじゃないかと思うこともある。正体は分からない。だけど、武運というものは確実にある」

「去年のヴァンフリートで痛感しました」

 

 人類史上最大の武運の持ち主と遭遇したことを思い出す。背中にうっすらと汗がにじんだ。

 

「武運のある提督はしぶとい。流れ弾で死ぬことがないし、不運な敵が誘爆で死んでくれることもある。若いルートヴィヒ・ノインより、歴戦のゼークト提督の方が厄介かもしれないね。そして、ドーソン提督の武運は未知数。それだけが気がかりだよ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長の言うことは、一見するとオカルトっぽく思える。しかし、実際問題として、高性能でも不幸に見舞われやすい艦は脆く見えるし、低性能でも幸運な艦は堅固に見えるものだ。実際に受けるダメージが違うのだから。

 

「対処法はありますか?」

 

 俺の念頭にあったのは、ゼークト大将ではなくラインハルトだった。

 

「偶然に左右されない戦いを心がけることだね。敵から距離を取る。乱戦を避ける。宇宙艦隊総司令部が編み出した奇襲対策と同じさ」

「勉強になりました。ありがとうございます」

 

 俺が頭を下げると、チュン・ウー・チェン作戦部長がニコッと笑った。そしてズボンのポケットから二つ目のサンドイッチを取り出して食べ始める。袋に入っていないむき出しのサンドイッチをそのままポケットに突っ込んでいたようだ。まあ、この程度なら今さら驚くことではない。

 

「こちらこそいい気分転換になった。これはお礼だよ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長は俺の手に潰れたサンドイッチを乗せた。そして、自分の席へと戻っていく。

 

「ベーコンレタストマトサンドイッチか」

 

 俺のために持ってきてくれたのだろう。チュン・ウー・チェン作戦部長はトマトが苦手だからだ。あまり食欲をそそらない形状だが、過去に不幸な事件を経験して以来、人からもらった食べ物は拒まないことに決めている。偉大な知将が味方にいることに感謝しつつ、サンドイッチを口の中に放り込んだ。



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第33話:小物の本領 795年4月2日~3日 ティアマト星域

 四月二日深夜一時、ウランフ中将の第九艦隊が帝国軍左翼の突出部に痛烈な横撃を加え、カルナップ艦隊を敗走させた。これによって、帝国軍の左翼における攻勢は挫折。右翼も攻勢を中止。帝国軍は三〇光秒(九〇〇万メートル)向こうまで退いた。

 

「この機に攻勢に転じましょう!」

 

 第二艦隊副司令官ウィレム・ホーランド少将が反転攻勢を主張したが、総司令官ラザール・ロボス元帥は採用しなかった。あと一日待てば後続が到着する。それに敵は予備戦力が豊富だ。あえて賭けに出る必要はないと判断したのである。

 

 早朝七時、陣形を再編した帝国軍は、一六光秒(四八〇万キロメートル)の距離まで進んだ。中央にミューゼル艦隊とエルクスレーベン艦隊とブラウヒッチ艦隊、左翼にゼークト艦隊、右翼にケンプ艦隊とカルナップ艦隊が並ぶ。ヴァーゲンザイル艦隊は予備に回ったと思われる。中央が厚く左翼が薄い布陣だ。

 

 

 

 

 

 再び砲撃戦が始まった。主砲のエネルギー出力を上げているのか、ビームの一本一本がいつもより太い。

 

 同盟軍はエネルギー中和磁場を張り巡らせて対抗する。だが、砲撃が集中した部分から穴が空いて虫食い状態となった。そして、間隙から飛び込んできた砲撃が同盟軍の軍艦を打ち砕く。

 

「中和磁場の出力を三〇パーセント上げろ!」

 

 第一一艦隊司令官ドーソン中将の指示は、驚くほどの速度で実行された。第二艦隊、第九艦隊も中和磁場の出力を上げた。たちまちのうちに中和磁場の壁から虫食いが消える。

 

 両軍の砲撃戦は数時間にわたって続いた。帝国軍が主砲の出力を落とす気配は無い。エネルギー切れを覚悟で早期決着を狙っているように思われる。三個艦隊からの砲撃に晒された第二艦隊は、連携の悪さに苦しみつつもギリギリで踏みとどまった。

 

 一一時、同盟軍総司令部は帝国軍の繞回運動を察知した。一万隻ほどが第一一艦隊の後方に回り込みつつある。苛烈な砲撃は牽制に過ぎなかった。

 

「第一一艦隊は九時方向に延翼行動を取れ! 敵の繞回を阻止せよ!」

 

 ロボス元帥はドーソン中将に繞回運動を妨害するよう命じた。また、手持ちの予備戦力を派遣して第一一艦隊を補強した。

 

 一二時、第一一艦隊の左端が帝国軍繞回部隊の前に立ち塞がった。またもや敵の作戦は失敗に終わったのである。

 

 だが、喜ぶにはまだ早い。第一一艦隊は予備戦力を加えても一万四〇〇〇隻。一方、敵は正面のゼークト艦隊、繞回してきたヴァーゲンザイル艦隊とゾンバルト分艦隊を合わせると、二万隻を越える。俺の心臓が早鐘のように鳴り出す。

 

 

 

 

 

「うろたえるな! 落ち着いて迎え撃て!」

 

 ドーソン司令官が落ち着きとは程遠い声で命じると、第一一艦隊は素早く艦列を整えた。戦艦と巡航艦のビーム砲、駆逐艦のレーザー砲が一斉に光線を放つ。

 

 一万四〇〇〇隻と二万隻が四光秒(一二〇万キロメートル)の中距離で撃ち合った。駆逐艦の中距離レーザー砲は最低有効射程が短いため、砲撃を一点に集中させやすい。集中攻撃が両軍の中和磁場を綻びさせた。

 

 同盟軍正規艦隊は帝国軍主力艦隊より練度が高い。自分の攻撃は当たりやすく、敵の攻撃は当たりにくいということだ。中和磁場の綻びは両軍の損害を増大させたが、帝国軍により多くの損害をもたらした。

 

 第一一艦隊の反撃にたまりかねたのか、左前方のヴァーゲンザイル艦隊とゾンバルト分艦隊が足を止めた。一方、ゼークト艦隊は怯むことなく進み続ける。

 

 ゼークト大将は勇猛だが頭が硬いと評される。前の世界でもヤン・ウェンリーの策に引っかかって死んだ。だが、この局面ではその単純さが物を言っているらしい。

 

「先頭集団より報告! ゼークト艦隊旗艦『グルヴェイグ』を確認!」

 

 その報告と同時にメインスクリーンの画面が切り替わった。分厚く長大な巨大戦艦。ゼークト専用旗艦のグルヴェイグだ。その周囲を一〇〇隻以上の標準型戦艦が取り囲む。凄まじい威容に圧倒されそうになる。

 

 むろん、見掛け倒しでは無い。艦体の大きさは蓄積できるエネルギー、すなわちビーム砲やエネルギー中和磁場の出力と比例する。帝国の標準型戦艦の艦体は、同盟の標準型戦艦の倍以上の厚みを持つ。そんな巨艦のみで構成された旗艦直衛部隊は恐ろしく堅固だろう。そして、グルヴェイグはさらに大きくて防御力も高い。ゼークト大将は単純だが無謀ではなかった。

 

 ここが勝負どころと判断したのだろう。皇太子直属のエルラッハ分艦隊とコッホ分艦隊がこちらに向かってくる。ヴァーゲンザイル艦隊とゾンバルト分艦隊も再び前進を始めた。彼らが合流したら敵は二万五〇〇〇隻を越える。何としてもゼークト艦隊を打ち破らなければならない。

 

「砲撃を旗艦の取り巻きに集中させろ! D分艦隊は天底方向から回り込め! ゼークトの下っ腹を叩け!」

 

 ドーソン司令官が早口で指示を飛ばす。長距離砲での一点集中砲撃はシトレ系の用兵家が得意とする戦法だ。シトレ派のファルツォーネ前司令官に指導された第一一艦隊もこの戦法を使うことができた。

 

 一〇〇隻の戦艦が作り上げた中和磁場の分厚い壁も、長距離砲の大火力を一点に叩きつけられてはひとたまりも無い。旗艦直衛部隊がみるみるうちに打ち減らされていく。そこにレヴィ・ストークス少将のD分艦隊が殺到した。

 

 一〇〇〇隻ほどの敵部隊がゼークト大将を守るように割り込む。しかし、D分艦隊は細長く伸びきった敵を突破し、退路を絶つように展開する。

 

「D分艦隊より報告! 敵旗艦から三光秒(九〇万キロメートル)まで接近! 中距離砲の射程に入りました!」

「他の艦に構うな! 駆逐艦は旗艦に攻撃を集中せよ!」

 

 ドーソン司令官の声が上ずった。ゼークト大将は用兵家としては二流だが、勇猛さにかけては帝国宇宙軍でも屈指だ。そして主力艦隊司令官の地位にある。そんな大物が射程に入ったら、誰だって興奮するに決まってる。

 

 D分艦隊配下の三個駆逐艦戦隊が中距離砲を一点に集中した。残り少なくなっていた旗艦直衛部隊は完全に消滅。がら空きになったグルヴェイグに砲火が襲いかかる。

 

「頼む、沈んでくれ」

 

 スクリーンを眺めながら祈った。ここでゼークト大将を討ち取れば、誰もドーソン司令官の実力を疑わなくなるはずだ。何としても討ち取って欲しい。

 

「まだ沈まないのか」

 

 どれだけ砲火を浴びせても、グルヴェイグの分厚い中和磁場はびくともしない。それどころか側面の副砲を放ち、D分艦隊配下のの駆逐艦を次々と返り討ちにする。エルラッハ分艦隊とコッホ分艦隊も目と鼻の先まで迫っていた。

 

「もしかして、グルヴェイグは不沈艦なんじゃないか」

 

 言いようのない不安が湧き上がる。ゼークト大将には武運がある。ドーソン司令官と敵将の武運の差が、グルヴェイグを不沈艦にしているのではないか。そんな錯覚に囚われた。

 

「よし!」

 

 誰かが叫びをあげた。グルヴェイグの中和磁場に白熱したような輝きが現れる。負荷に耐え切れなくなってきているのだ。やはり集中砲火は効いていた。

 

 やがて一本のレーザーが中和磁場を貫き、分厚い装甲に受け止められた。次第に貫通するレーザーが増えていく。巨艦の装甲に入った亀裂がどんどん大きくなる。レーザーの束が亀裂に突き刺さった瞬間、グルヴェイグの巨体が砕け散った。前の世界で天才ヤン・ウェンリーに討ち取られた猛将が、じゃがいも提督に討ち取られたのである。

 

「グルヴェイグ、撃沈しました!!」

 

 報告と同時に歓喜が満ち満ちた。みんなが歓声をあげながら手を叩き合う。日頃の確執など吹き飛んでしまったかのようだ。俺も軍人になって初めての勝利に酔いしれた。

 

「まだ戦闘が終了したわけではない! 気を緩めるな!」

 

 みんなが喜びに湧く中、ドーソン司令官はいつもと変わりない。緊張感をまき散らしながら指示を出す。うまくいき過ぎて恐怖すら感じているのだろう。小心者の俺には司令官の気持ちが痛いほどに分かる。しかし、付き合いが浅い人からは、名将らしい冷静さに見えるかもしれない。

 

 一度成功すれば、内心と関係なく他人は好意的に解釈してくれる。エル・ファシルの英雄になった時に俺が経験したことだ。今後はドーソン司令官も好意的に見られるに違いない。

 

 司令官を失ったゼークト艦隊は総崩れとなった。ヴァーゲンザイル艦隊とゾンバルト分艦隊も退き始めた。遅れて到着したエルラッハ分艦隊とコッホ分艦隊のみが果敢に攻撃を仕掛けてくるが、明らかに統制が取れていない。もはや、帝国軍右翼は脅威ではなかった。

 

 この頃、第九艦隊司令官ウランフ中将は、シドニー・シトレ元帥の戦術面における一番弟子であることを証明した。一点集中砲撃と一翼包囲によって帝国軍右翼に大打撃を与え、カルナップ艦隊は戦線崩壊、ケンプ艦隊は旗艦シグルーンを捕獲された。捕虜となった司令官ケンプ中将は自決を図り、意識不明の重体だ。

 

 ウランフ中将の用兵をシトレ流用兵の精華とするならば、第二艦隊司令官パエッタ中将の用兵はロボス流用兵の精華であろう。ホーランド少将との不協和音に苦しみながらも、巧みな機動でエルクスレーベン艦隊とブラウヒッチ艦隊を分散させ、薄くなった部分を突き破った。

 

 もはや同盟軍の優勢は揺るぎない。ドーソン司令官とウランフ中将は大功を立て、パエッタ中将も勝った。乱戦を避けて後退するミューゼル艦隊が唯一の不安要因だった。

 

 

 

 四月三日〇時、帝国軍は撤退を開始した。ルートヴィヒ皇太子の本隊を先頭に、エルクスレーベン艦隊、ブラウヒッチ艦隊、カルナップ艦隊、ケンプ艦隊残存部隊、ゼークト艦隊残存部隊がばらばらに逃げている。

 

 後衛となった部隊のうち、ヴァーゲンザイル艦隊、ゾンバルト分艦隊、コッホ分艦隊、エルラッハ分艦隊は、武勲を立てる最後の機会とばかりに奮起した。

 

 無傷に近い戦力を持つラインハルト・フォン・ミューゼル中将は、突出してきたホーランド少将に逆撃を加え、あっという間に第二艦隊先頭集団を半身不随に追いやった。

 

 一瞬にして第二艦隊を脱落させたラインハルトは、第一一艦隊へと向かった。しかし、何か動きがおかしい。戦力を分散し、様々なポイントに不規則に攻撃を仕掛けてはすぐ退く。戦力の集中、目標の統一、行動の徹底など、あらゆる用兵の原則から外れていた。天才のすることだ。何らかの理由があるのは間違いない。だが、それが何なのかは想像もつかなかった。

 

 

 

 

 

 俺は作戦部長チュン・ウー・チェン大佐のデスクを見た。彼も休憩中だった。名参謀の意見を聞きたいと思い、ホットコーヒー入りの水筒を持ってデスクへと向かう。

 

「どうも」

「やあ」

 

 挨拶を返すチュン・ウー・チェン作戦部長の口元に、パン粉がびっしりとくっついていた。ほんの少したじろいだが、すぐに気を取り直す。

 

「お疲れ様です。コーヒーはいかがですか?」

「ありがとう。ちょうど食事中でね。飲み物が欲しかったところだ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長は俺の手から水筒を受け取り、デスクの上に置いた。その隣にクロワッサンがあった。皿に乗せたわけでもなければ、紙を敷いたわけでもなく、デスクに直に置いてある。

 

「そうでしたか」

 

 この程度で驚く俺ではない。飲み物の缶が何本か倒れて中身がこぼれ、書類にしみを作っているが、想像の範囲内だ。しかし、ケチャップやマヨネーズがデスクに付いているところまでは、想像できなかった。いったい、どんな食べ方をすればこんなことになるのだろうか?

 

 前の世界で読んだ『最後の総参謀長チュン・ウー・チェン』によると、行儀の悪さで有名なヤン・ウェンリーが食事のマナーについて、「彼(チュン・ウー・チェン)よりは私のほうがずっとましだろう」と評したという。大いに納得できる評価だ。

 

「そんなにクロワッサンが気になるのかい?」

 

 どうやら、俺がデスクの汚さではなくクロワッサンを気にしていると、チュン・ウー・チェン作戦部長は勘違いしたらしい。

 

「いえ、そういうわけではなくて」

「遠慮することはないさ。君のおかげで食べられるパンだ。堂々と要求すればいいよ」

 

 そう言うと、チュン・ウー・チェン作戦部長が胸ポケットから潰れたクロワッサンを取り出した。せめて、デスクの上に置かれているクロワッサンにしてほしかったが、人がくれる食べ物に文句を言うのは良くない。前の世界で、妹に作ってやったアップルパイを目の前で捨てられたことがある。あの悲しみを他人に味わわせたくはない。

 

「ありがとうございます。ごちそうになります」

「好き嫌いがないのはいいことだよ。かく言う私も好き嫌いはないんだけど、娘が偏食でねえ。人参を食べたがらない。困ったものだよ」

「それは困りますね」

 

 そうは言ったものの、困っているのは俺の方だった。前に「トマトが食べられない」と言ったのをはっきり聞いてるし、パン以外の物を食べているのを見たことは無い。だが、表情を見るに本気で言ってるらしい。

 

 いちいち突っ込むのも面倒だ。さっさと本題に入ることにした。

 

「おかしな用兵ですよね。ミューゼルは何を考えてるんでしょうか?」

「こちらの隙を探り出そうとしているのかも知れないなあ。あるいは挑発かもしれないね」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長もラインハルトの意図を測りかねている様子だった。

 

「あなたでもわかりませんか」

「何か狙ってるとは思うんだよ。それ以上はわからないな。あいにく千里眼は持ち合わせていなくてね」

 

 ヤン・ウェンリーに次ぐ知謀の持ち主ですら狙いを読めない。これは危険な徴候だ。

 

「ドーソン司令官に撤退を進言するわけにはいきませんか?」

「私もそれは少し考えた。でも無理だな」

「どうしてです?」

「司令官を納得させられるような理由がない」

「何を企んでるかわからないというのは駄目ですか?」

「敵の意図がわからないから撤退しろと言うのは筋が通らないよ。最後までわからない戦いの方がずっと多いんだから」

「ああ、それは確かにそうですね」

 

 俺はため息をついた。客観的には第一一艦隊が撤退すべき理由は無い。参謀が口を開く際には、どんな動機があるにせよ、表向きには筋の通った理屈を用意する義務がある。勘だけで動いていいのは指揮官だけだ。

 

 潰れたクロワッサンを口に入れた瞬間、頭がぐらりと揺れた。足元がふらつく。眠気も酷い。意識を保つのがやっとだ。

 

「大丈夫かい?」

「なんか疲れたみたいです」

「もしかして、戦いが始まってからずっと起きてたんじゃないか?」

「ええ、いろいろと心配で目が離せなかったんですよ」

「それは良くないな。平時と戦闘中では疲れが全然違うんだよ。参謀は頭を使う仕事だ。次からはちゃんと休むんだね」

「次からは気をつけます。それにしても……」

 

 司令官席に視線を向けた。ドーソン司令官が生き生きと采配を振るっている。今年で五四歳だというのに、二八歳の誕生日を間近に控えた俺よりもずっと元気だ。

 

「ドーソン司令官は本当に凄いですよ。不眠不休で指揮をとってらっしゃるんですから」

「そういえば、司令官は休んでないね。憲兵司令官だった時もそうだったのかい?」

「ええ、あまりお休みにならないですよ。休むように言っても、『集中力が切れるから』とおっしゃるんです。仕事中毒というか、なんというか……」

 

 しょうもない人だ。ぼんやりした頭でそんなことを思いつつ、苦笑いを浮かべる。

 

「それはまずいな」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が端末に向かった。そして、普段のマイペースぶりからは信じられないような速度でキーボードを叩く。

 

「そうか、そういうことか」

「どうなさったんですか?」

「これを見るんだ。司令官のもとに報告が入ってから指示を下すまでの時間だよ。ミューゼル艦隊との戦いが始まってから急に遅くなった」

「つまり……」

「判断力や注意力が低下しているんだよ。無意味な攻撃を繰り返し、そのすべてに対応させて司令官の頭を疲れさせる。それが敵の狙いさ。指揮系統を攻撃するのは用兵の基本だけど、こんな方法を使うとはね。本当にとんでもない敵だ」

「ど、どうしましょうか!?」

 

 今の第一一艦隊は司令官の独裁状態だ。中級指揮官には権限が与えられていない。肝心の司令官が疲れたらどうなることか。想像するだけで恐ろしくなる。

 

「そうだなあ、まずは……」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長の言葉を遮るように、オペレーターの声が響いた。

 

「敵が後退を開始しました!」

 

 ラインハルトがどんどん後退していく。俺はドーソン司令官に視線を向けた。彼が後退を決断してくれたら、この戦いは無事に終わる。

 

「これ以上の追撃は不要だ! 陣形を再編しつつ、ゆっくりと後退せよ!」

 

 ドーソン司令官は期待に応えてくれた。俺は胸を撫で下ろしたが、チュン・ウー・チェン作戦部長はそうではなかった。

 

「まずいな。ゆっくりではなく全速で後退しないと」

 

 何かを決心したように、チュン・ウー・チェン作戦部長は立ち上がる。

 

「どうしてです?」

 

 俺が質問した瞬間、再びオペレーターの叫び声が聞こえた。

 

「敵が突進してきます!」

 

 後退したかに見えたラインハルトが急に前進してきた。戦力を一点に集中し、驚くべき速度で第一一艦隊最右翼のC分艦隊へと突入する。

 

「第六八機動部隊のハールシー司令官が戦死!」

 

 接触から三分後にC分艦隊の一角が崩れた。

 

「A分艦隊は一〇時方向、D分艦隊は二時方向に移動。敵を迎え撃て……。B分艦隊はC分艦隊を援護せよ……」

 

 ドーソン司令官は虚ろな表情で指示を出す。これまでとは比較にならないほど判断が遅い。奇襲を受けて緊張が切れてしまったらしい。

 

 ラインハルトはC分艦隊を斜めに突き抜けると、第一一艦隊本隊を一直線に目指した。副司令官ルグランジュ少将がA分艦隊とD分艦隊を率いて救援に向かう。だが、敵の速度はそれをはるかに上回る。敵艦隊八〇〇〇隻と第一一艦隊本隊二〇〇〇隻の間には、ほんのわずかな距離しか無かった。

 

 

 

 

 

 ドーソン司令官からは明らかに精彩が失われた。こんな状態で四倍のラインハルトに突入されたらどうなることか。考えたくもない。

 

「ど、どうすれば……」

 

 わらにもすがるような気持ちで、チュン・ウー・チェン作戦部長を見る。

 

「取りあえず落ち着きなさい」

「し、しかし……」

「参謀が取り乱してどうするんだい? 冷静さと客観性は大事な仕事道具だろうに」

「無理ですよ。それに俺が冷静になったところで解決策は出てきません」

「君にしかできないことがある。それも参謀の大事な仕事だよ」

「あなたがすればいいじゃないですか。何をすればいいのか、ご存知なのでしょう?」

「あれを見るんだ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長が司令官席の方向に目を向ける。参謀長ダンビエール少将、副参謀長メリダ准将ら参謀数名が集まって何やら言っていた。だが、ドーソン司令官は「できない」「無理」という言葉をうわ言のように繰り返す。

 

「提督と付き合いが長ければわかるだろう?」

「わかります。俺はそういう人間ですから」

 

 俺はすべてを理解した。参謀長らは真剣にアドバイスしようとしている。ところがドーソン司令官はミスを責められてると思い込んで聞こうとしないのだ。

 

 八〇年以上の小心者経験から言うと、小心者は苦境に弱い。ちょっとした失敗ですぐに無力感を覚える。そんな時に他人から「やればできる」と助言されると、自分の無力感を否定されたように感じ、「何もできない」と言い張りたくなる。適切だからこそ聞き入れられない。それを聞き入れて成功したら、自分の間違いを認めることになるからだ。無力感を受け入れて何もしないことが自分の正しさを証明する。実に情けない。だが、それが小心者なのだ。

 

「私が何か言っても、ドーソン提督を追い詰めるだけだよ。確実に却下される進言なら、どんなに正しくても言わない方がましだ。ああいう人が一度却下した進言を再び採用すると思うかい?」

「絶対にしないでしょうね。最初の判断が間違いだと認めることになりますから。親しくない相手の提案ならなおさらです」

「採用されない進言に意味は無いというのが、私のモットーでね。『正しい進言を無能な上官に却下された悲運の名参謀』なんてごめんこうむる。何が何でも進言を採用してほしい。だから、どんな部隊に配属されても、必ず君みたいなポジションの人と付き合うわけさ」

 

 チュン・ウー・チェン作戦部長のプロ意識は、反骨心のあるキャゼルヌ准将、直言を好むダンビエール参謀長らのそれとは異質だった。

 

「わかりました。小官にできることがあるのなら教えてください」

「ドーソン提督が落ち着きを取り戻すように言ってほしい」

「それだけですか?」

「ああ、それだけだよ。判断力が鈍っているとはいえ、落ち着いたら今よりはだいぶましになるだろう。戦術的なアドバイスをしても聞くような人じゃないしね。救援が来るまで持ちこたえれば、それで十分さ」

「わかりました」

 

 俺はするべきことを理解した。チュン・ウー・チェン作戦部長のもとを離れ、司令官席へと向かう。

 

「第一三九機動部隊より報告! ナウマン司令官が負傷! ポンテ副司令官が指揮権を引き継ぎました!」

 

 本隊に所属する三個機動部隊の一つ、第一三九機動部隊の旗艦が攻撃を受けた。その報告に全身が震える。もはや、ヴァントーズも安全では無い。数時間前に撃沈したグルヴェイグの姿が脳裏に浮かび、足が止まる。

 

「いや、あの偉大なチュン・ウー・チェンが俺を信じてくれたんだ。期待に応えないと」

 

 首を横に振り、再び歩み始める。やがて、司令官席が視界に入った。

 

「無理だ。無理に決まっている」

「そんなことはおっしゃらないでください。この方法なら十分に持ちこたえられます」

 

 下を向いて否定的な言葉を並べ立てるドーソン司令官。真剣な顔でアドバイスをする参謀たち。

 

「司令官閣下、失礼します」

 

 俺が声をかけても、ドーソン司令官は返事をしなかった。自分のことで頭がいっぱいなのだ。そんな相手に何を言う言葉を俺は知っている。

 

「小官も閣下のおっしゃる通りだと思います。もうできることはありません」

 

 俺の言葉にダンビエール参謀長やメリダ副参謀長らが顔色を変えた。

 

「馬鹿を言うな! 参謀が諦めるように勧めてどうする!?」

「立ち直っていただかないとどうにもならないのだぞ! 状況をわきまえろ!」

 

 まっとうな責任感から発した参謀達の怒り。前の世界で市民を見捨てた逃亡者として批判された時の恐怖を思い出す。だが、チュン・ウー・チェン作戦部長への信頼だけを頼りに言葉を続ける。

 

「司令官閣下はベストを尽くされました。誰がやってもこれ以上はできないでしょう」

「貴官の言う通りだ、私にはもう何もできん」

 

 俺の言葉に頷くドーソン司令官。やはり、ここで必要なのは誠意あるアドバイスではない。耳触りの良い言葉だと確信する。

 

「誰が閣下を批判できるというのでしょうか? できるとしたら、それは閣下の苦労を知らぬ者だけでしょう」

「そうだ、その通りだ」

「そのまま指揮をおとりになれば良いのです。それが閣下の正しさを証明するでしょう」

「うむ、貴官はよく分かっておるな。私は何一つ間違いなど犯しておらん」

 

 ドーソン司令官の顔に生気が浮かぶ。やはり彼は自分が間違っていないと証明する方法を求めていた。

 

「戦いはまだ終わっておらんぞ! 席に戻れ!」

 

 参謀達に席に戻るように言うと、ドーソン司令官は再び指揮をとりはじめた。

 

「かしこまりました」

 

 ダンビエール参謀長やメリダ副参謀長らは、俺に殺意のこもった視線を向けた後、憤然と戻っていく。単なる追従に見えたのであろう。反感の大きさに身震いした。

 

 俺が席に戻った後も戦局は恐るべき速度で悪化していった。

 

「戦艦ヴァラーハ、撃沈されました!」

「第七独立宇宙母艦戦隊司令ナンゴン代将が戦死!」

「第一六四一戦艦群が壊滅!」

「第二三駆逐戦隊は戦力の半数を喪失しました!」

 

 次々と本隊の損害が報告される。人々が恐怖する中、自分の正しさを証明するという目的を見出したドーソン司令官だけが活力を保っていた。

 

 本隊にいるすべての艦がエネルギー中和磁場の出力を高めた。しかし、ラインハルトの速度はそれをあっさりと打ち砕く。

 

「エネルギー中和磁場、出力二〇〇パーセント!」

 

 カラスコ艦長が声をからして叫ぶ。ヴァントーズの中和磁場の出力が限界値に達した。エネルギー消耗が激しすぎるため、ここまで出力を高めることは滅多に無い。現在のヴァントーズがどれほど追い込まれているかがこの一事だけわかる。

 

 至近にいた戦艦プルートーの艦体が炸裂し、まばゆい光がスクリーンを満たす。それと同時にヴァントーズが激しく揺れる。俺は椅子から転げ落ち、無様に横転した。

 

 床に手をついて立ち上がろうとした。しかし、体が震えて起き上がれない。数時間前に葬り去ったグルヴェイグの姿が頭の中に浮かぶ。それはヴァントーズがそう遠くないうちにたどるであろう運命だった。

 

 頭の中にダーシャ・ブレツェリの顔が浮かんだ。ただの友達だったが、あの丸っこい顔を二度と見れなくなると思うと少し寂しい。

 

 統合作戦本部のオフィスにいるイレーシュ中佐、宇宙艦隊総旗艦アイアースで作戦を練るアンドリュー、教育部隊で新兵を鍛えるクリスチアン中佐、国防委員会庁舎で軍政に励むトリューニヒト委員長とベイ大佐、その他の親しい人達の姿が次々と浮かんでは消える。

 

「もう一度会いたい」

 

 そう思った時、体の震えが止まった。手に力を入れて立ち上がる。その瞬間、オペレーターが叫んだ。

 

「A分艦隊とD分艦隊です! ルグランジュ提督が到着しました!」

 

 数千個の光点が側面からラインハルトへと突入していく。第一一艦隊副司令官ルグランジュ少将が率いる二個分艦隊四〇〇〇隻。ドーソン司令官の粘りが実ったのだ。

 

 ルグランジュ少将の戦力はラインハルトの半数に過ぎない。だが、彼は同盟宇宙軍でも屈指の猛将だ。前の世界でもあの天才ヤン・ウェンリーを辟易させるほどの奮戦をした。B分艦隊とC分艦隊が到着するまでの時間は稼げるだろう。ロボス元帥の本隊、パエッタ中将の第二艦隊、ウランフ中将の第二艦隊からも援軍が向かっている。希望が見えてきた。

 

 ラインハルトの動きは素早かった。第一一艦隊本隊を突っ切り、ルグランジュ少将と逆の方向に直進した。それから大きく回って戦場の外縁部に出る。孤立する危険を避けたのであろう。天才は引き際も見事だった。

 

 ヴァーゲンザイル艦隊、ゾンバルト分艦隊、コッホ分艦隊、エルラッハ分艦隊も抗戦を断念。全速力で戦況から離脱した。

 

 四月三日九時四七分、第三次ティアマト星域会戦は自由惑星同盟軍の勝利に終わった。



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第34話:変わらないもの 795年5月中旬~21日 第一一艦隊司令部~第一一艦隊士官官舎

 第一一艦隊司令官クレメンス・ドーソン宇宙軍中将は、司令官室でふんぞり返っていた。その胸には、授与されたばかりのハイネセン記念特別勲功大章が燦然と輝く。

 

 勲章を日頃から着用している者はまずいない。普段から着用するには重すぎるからだ。それに壊れたり紛失したりしては困る。そこで普段は略綬と呼ばれるリボンを着用し、公式の場に出る時のみ勲章を着用する。それなのにドーソン司令官は略綬でなく勲章を着用している。理由は言うまでもない。見せびらかしたいのだ。

 

「フィリップス君」

「はい」

「戦場で武勲を立てることこそ軍人の本分だと、私は思うのだ」

「もっともです」

「やはり、軍人たる者、武功勲章の一つも持たねば一人前とはいえんな」

「おっしゃる通りです」

 

 内心でうんざりしつつも、笑顔を作って答える。これまでのドーソン司令官は、荒っぽい実戦派軍人を「武勲を鼻にかけるならず者」と嫌い、「軍人の本分は規律を守ること。武勲は二の次」と言ってきた。それが武勲を立てて勲章をもらった途端にこれだ。まったくもって現金としか言いようがない。

 

「しかし、また燃料税が上がるらしいな。レベロが財政委員長になってからは増税ばかりだ。財政再建のためとはいえ、迷惑な話だな」

 

 ドーソン司令官が三日前の新聞をわざとらしく広げた。勲章授与式の記事が俺の目に入るようになっている。褒めて欲しくてたまらないのに、恥ずかしくて自分からは言い出せないから、こうしているのだろう。こんな人だとわかっていても、頭が痛くなってくる。

 

「困りますね、本当に」

 

 俺が笑顔で流すと、ドーソン司令官はつまらなさそうに新聞を置いた。そして、同盟軍の礼服のパンフレットを手にする。

 

「貴官は礼服を新調したかね?」

「いえ、四年前に士官に任官した時から、ずっと同じ礼服を使っております」

「そうか、私は最近礼服を新調した。来年は末の子供が結婚するから、なるべく出費は避けたいのだがな。着る機会が多いと古いままというわけにもいかん。まったく困ったものだ」

 

 口では「困ったものだ」と言いながら、目は笑い、口ひげはうきうきとしている。士官の礼服はそうそう仕立て直すようなものでもない。ドーソン司令官は「勲章を授与されたから、礼服を新調した」と、遠回しにアピールしているのだ。

 

 これ以上知らん振りをしても、遠回しなアピールが延々と続くだけであろう。俺の方から折れるしかない。

 

「最近、勲章を授与されましたからね」

「うむ、そうなのだ!」

 

 ドーソン司令官の目が喜びで輝く。それからゼークト大将を討ち取った時の自慢話が始まった。ラインハルトに殺されかけたことは無かったことになってるらしい。

 

 これでも俺はドーソン司令官の弟子だ。勲章を授与された当日にお祝いを言った。祝賀会の幹事をやって、三次会の最後まで出席した。それで十分じゃないかと自分では思うのだが、彼は思っていないらしい。

 

 俺以外の人も勲章アピールに困り果てている。昨日は憲兵隊時代の同僚であるクォン・ミリ地上軍中佐から電話が入り、「毎日のようにドーソン提督からメールが来る。どうにかしてくれ」と泣き言を言われた。

 

 嬉しそうに勲章自慢する上官を微笑ましいと思わないこともない。だが、それ以上に鬱陶しかった。さすがに限度を越えている。

 

 俺やクォン中佐など根っからのドーソン派でもうんざりしてるのだ。反ドーソン派、特にビュコック中将やアッテンボロー中佐のような毒舌家の耳に入ったら、どれほど嘲笑されることか。想像したくもない。

 

 ほうほうの体で司令官室を退出した俺は、後方部のオフィスへと戻った。そして、後方副部長ウノ中佐ら四人の参謀と連れ立って士官食堂へと向かう。

 

 この食堂はすべての軍食堂の中で最もじゃがいもメニューが豊富と言われる。俺はじゃがいもランチDセットを注文した。後方副部長ウノ中佐はじゃがいもランチAセット、他の後方参謀三名のうち一名はじゃがいもランチCセット、他の二名はスタンダードランチを注文した。

 

 第三次ティアマト星域会戦が終わった後、第一一艦隊司令部におけるドーソン司令官の評価は、「仕事はできるが困った人」と「仕事はできるが嫌な奴」に二分された。艦隊旗艦ヴァントーズ艦長のカラスコ大佐を怒鳴りつけた件、ダンビエール参謀長らのアドバイスを無視した件などで、狭量さを発揮したことが尾を引いている。

 

 いろんな意味で微妙なドーソン司令官だったが、遠くから見れば、帝国の猛将ゼークト大将を討ち取った英雄だった。

 

「髭の知将ドーソン!」

「ティアマトの英雄!」

「ファン・チューリン元帥の再来!」

 

 歯の浮くような賛辞が飛び交った。マスコミにかかると、ドーソン司令官の狭量さは「信念が強い」、独善性は「並外れた責任感」、小心さは「知将らしい用心深さ」と言い換えられた。

 

「戦争の素人は戦略を語り、玄人は兵站を語ると言います。かつて、第一艦隊の後方参謀だったドーソン提督は軍艦のゴミ箱を調査し、数十キロものじゃがいもを見付けました。兵站を知り尽くすドーソン提督ならではの着眼点と言うべきでしょう」

 

 NNNニュースキャスターのウィリアム・オーデッツは、前の世界で嘲笑の対象だったエピソードを美談に仕立てあげた。

 

 どういうわけか俺の評価も上がった。司令官を励ましたのが、「幕僚が動揺する中、一人だけドーソン提督を信じ続けた」という話にすり替わり、司令官を献身的に支えたと讃えられた。

 

 俺は心底から困惑した。特別なことは何もしなかった。ドーソン司令官やチュン・ウー・チェン作戦部長に言われたとおりに走り回っただけだ。凄いのは彼らであって俺ではない。

 

「自分は何もしておりません。すべて司令官の采配の賜物です」

 

 インタビューを受けるたびにそう答えた。ドーソン司令官の名前の他に、チュン・ウー・チェン作戦部長、ウノ後方副部長などの名前をあげることもあったが、基本的には大して変わらない。さぞ退屈させただろうと申し訳なく思う。ところがインタビューの申し込みが次から次へと入ってくる。

 

 やがてドーソン司令官と一緒にテレビに呼ばれるようになった。彼は俺のことを「第一一艦隊で最も良い参謀です」と紹介した。これは「忠実で口答えしない」程度の意味なのだが、他の人がそんな真意を理解できるはずもない。俺は有能な参謀ということになってしまった。

 

「やあ、名参謀」

 

 ある日、ヨブ・トリューニヒト国防委員長が通信を入れてきた。

 

「勘弁してください。本当に知謀があると思われて困ってるんです」

「知謀があるかどうかはともかく、名参謀ではあると思うがね。負け戦で将官になった作戦屋よりはよほどいい参謀だろう。勝利に貢献したのだから」

 

 トリューニヒト委員長は笑顔で皮肉を言う。俺の背中に冷たい風が吹きこんだ。誰をあてこすってるのかは言われなくても分かる。

 

 国防研究所が発行する『月刊国防研究』の最新号は、軍縮特集とも言うべき内容だった。その中で特に注目されたのが、戦史研究部長ヤン・ウェンリー准将が執筆した『経済力と軍事費の均衡――地球統一政府の財政支出をめぐって』という論文である。

 

 恐ろしく長い論文なので詳細は省くが、地球統一政府を例にあげて、「軍備の増強は経済発展と反比例の関係にある。過大な軍備は国家の滅亡を招く」と述べる。月刊国防研究が同盟軍人及び民間の軍事研究者に与える影響は大きい。ヤン准将を起用したシトレ元帥の期待通り、軍拡論への歯止めになるだろう。

 

「同じエル・ファシルの英雄でも、君とあれでは天地の違いだな。あれは戦略が分かってない」

「そんなことはありません。ヤン准将は天才です」

 

 俺はすかさずフォローした。トリューニヒト委員長は器量のある人だ。ドーソン司令官やワイドボーン准将とは違う。きっと分かってくれるだろうと思った。

 

「あれが天才かね。天才肌が天才とは限らんよ」

 

 スクリーンの向こう側から冷気が放たれた。トリューニヒト委員長の微笑みが恐ろしく酷薄に見える。まるで別人のようだ。

 

 これはまずい。理性ではなく本能でそう察知した。

 

「失礼しました」

「軍拡の意義が分からん奴に戦略を語る資格なんてないと思うね」

「おっしゃる通りです」

「作戦なんて所詮は小細工だ。大事なのは戦略だよ」

「戦略の間違いは作戦で取り返せませんからね」

 

 俺は必死でトリューニヒト委員長に合わせた。一瞬前に垣間見えた悪意。その矛先がヤン准将から自分に転じるのは避けたい。

 

「君は良く分かっている。階級は功績ではなく能力に与えるものだ。近いうちに大佐に昇進するかもしれん。心の準備をしておきたまえ」

「かしこまりました」

 

 こうして心臓に悪い通信が終わった。ドーソン司令官が出した俺の昇進推薦が通ったという知らせも、後味の悪さを打ち消してはくれなかった。

 

 七年前のエル・ファシル脱出作戦で「軍人精神の持ち主」、三年前のエル・ファシル義勇旅団で「陸戦の勇者」、去年のヴァンフリートで「不屈の男」という虚名を手に入れた。それに「名将ドーソンが最も信頼する参謀」が加わり、二七歳での大佐昇進が内定した。こうして並べてみると、エリヤ・フィリップスという奴が知勇兼備の名将に見えてくる。何とも恐ろしいことだ。

 

 言うまでもないことではあるが、第三次ティアマト会戦の結果は、俺とドーソン司令官以外の運命も動かした。

 

 ドーソン司令官をゴリ押しし、ティアマト会戦を勝利に導いたヨブ・トリューニヒト国防委員長の評価が高まった。ムカルジ政権が上院選挙敗北の責任をとって総辞職した後も、「出兵期間中は国防委員長を交代させない」という慣例に従って留任し、出兵を指導したのが幸いした形だ。

 

 人気もうなぎのぼりだ。国防委員長に就任して以来、憲兵を使って高級軍人の不正を次々と暴き、市民の喝采を浴びた。三年ぶりの国防予算の増額、軍縮から軍拡への政策転換などは、主戦派を大いに喜ばせた。基盤の弱いボナール新政権にとって、トリューニヒト人気は喉から手が出るほど欲しい。こうして国防委員長留任が決まったのである。

 

 宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥は、元帥号を得てから初めて勝利した。弱兵とは言え大軍相手の戦いは苦しかったし、ラインハルトの逆撃もあってかなりの損害を受けた。それでも、一・六倍もの大軍を撃退した功績は大きい。内外に古豪健在を示した一戦だった。

 

 第三次ティアマト会戦に参戦した三個艦隊のうち、ウランフ中将の第九艦隊だけがラインハルトの被害を受けなかった。ルートヴィヒ皇太子の腹心ケンプ中将を捕らえた功績もある。ドーソン司令官と勝るとも劣らない活躍ぶりだ。

 

 もともとウランフ中将は人気者だ。勇猛な戦いぶり、立派な容姿、慈善活動に熱心など、市民に受ける要素をたっぷり持っている。今回の活躍によって人気は最高潮に達した。

 

「ウランフ提督こそ次期宇宙艦隊司令長官にふさわしいと思いますわ」

 

 コーネリア・ウィンザー第一国務副委員長のこの発言は、主戦派にも反戦派にも好意的に受け止められた。とはいえ、二年前に中将に昇進したばかりのウランフ中将が司令長官になるには早すぎる。一個艦隊しか指揮したことのない人物に司令長官を任せるのも心もとない。だが、「次の次の司令長官候補」としては最有力となった。

 

 最も戦果が少なく最も損害が大きかったのが第二艦隊だ。司令官パエッタ中将と副司令官ホーランド少将の不和が響いた。

 

 どちらにより大きな非があるかと言われれば、ホーランド少将だろうか。第二艦隊に対立の種を持ち込んだのは彼だ。戦いが始まってからは拙攻を繰り返し、功を焦って突出した挙句に逆撃された。同盟軍が敗北したら、最大の戦犯と言われたに違いない。

 

 出兵直前までホーランド少将を「アッシュビー提督の再来」と持ち上げてきたマスコミは、鮮やかに手の平を返し、「英雄気取りの愚将」と呼んで叩いた。

 

 ホーランド少将を第一一艦隊司令官に推し、第二艦隊副司令官のポストを与えたロボス元帥とシトレ元帥は、非難の的となった。対抗候補のドーソン中将が大功を立てたのも、彼らの失策を一層際立たせた。

 

 二大巨頭の面子を潰したホーランド少将は、近いうちに第二艦隊副司令官を解任され、閑職に回される見通しだ。

 

 敗者の側には悲惨な運命が待ち受けていた。帝国国営通信社は、大敗しても「敗北」とは言わずに、「戦略的撤退」「転進」と言い換える。だが、今回ははっきりと「敗北」と言った。

 

 この異例の表現の背景について、帝国問題専門家のカスパロフ教授は、「国営通信社長コールラウシュ伯爵は、国務尚書リヒテンラーデ侯爵の姪の夫にあたる人物。リヒテンラーデ侯爵ら官僚が皇太子を見捨てたというメッセージだろう」と推測する。

 

 オーディンに帰還すると同時に、ルートヴィヒ皇太子は病気を理由に宰相を解任され、療養生活に入った。宇宙軍及び地上軍の筆頭元帥の称号は現在も保持しているらしい。だが、敗戦責任者として逮捕されたハウサー大将が、五月三日の報道で「旧元帥府参謀長」の肩書きで紹介されたことから、ルートヴィヒ元帥府は閉鎖されたとの見方が有力だ。

 

 皇太子の廃嫡は秒読み段階に入った。真偽の程は不明だが、枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵、大審院長リッテンハイム侯爵、国務尚書リヒテンラーデ侯爵、財務尚書カストロプ公爵、軍務尚書・地上軍元帥エーレンベルク伯爵ら重臣が新無憂宮に入り、新しい皇位継承者について協議を始めたという報道もある。また、ルートヴィヒ皇太子がクロプシュトック侯爵ら旧クレメンツ皇太子派貴族と接触しているとの噂も流れた。

 

 第三次ティアマト会戦は同盟よりも帝国を大きく動かした。この先はどうなるのか? さっぱり想像がつかない。

 

 

 

 五月二〇日、俺はオリンピア市の宇宙艦隊総司令部まで出張した。第一一艦隊司令部のあるニューシカゴ市からオリンピア市の距離はおよそ八〇〇〇キロ。大気圏内航空機なら片道で四時間。日帰りで往復できるが、頻繁には行き来できない距離だ。

 

 所用を済ませた後、私服に着替えた俺はオリンピア中央駅から地下鉄に乗った。そして、終点のコルデリオ駅で降りる。

 

「おー、来たか」

 

 私服姿の宇宙艦隊作戦第一課長アンドリュー・フォーク大佐が改札前に立っていた。最後に会った時よりもさらに痩せたようだ。悪い病気にかかったように見える。顔色は青白く、肌には艶がなく、かつての明るい雰囲気は失われた。前の世界で読んだ『帝国領侵攻作戦――責任なき戦場』に掲載されたフォーク准将の写真そのままだ。

 

「アンドリュー、また痩せたか?」

「最近は測ってないからわからないな」

「去年は確か六四キロだったよな?」

「そうだったか。覚えてない」

「減ってないとしてもまずいぞ。俺より一キロ重いだけだ」

 

 彼の身長は俺と比べて一六・八三センチも高い。さすがにこれは痩せすぎだ。

 

「それで六三キロ? 骨が鉄でできてるのか?」

「ほとんど筋肉だ。体脂肪率は九パーセントだから」

「本当に参謀かよ。空挺隊員や陸戦隊員の数字だぞ、そりゃ」

 

 アンドリューが笑う。俺は肩をすくめた。

 

「とにかく健康に気を付けてくれよ」

「健康診断はちゃんと受けてるさ。問題無いと言われてる」

「オリヴァー・ローズがあてになるかよ」

 

 あえて苦々しい表情を作る。宇宙艦隊衛生部長のオリヴァー・ローズ軍医少将と言えば、頼まれれば瀕死の病人にも「完全に健康」と診断するヤブ医者ではないか。

 

「専門家が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫だろ」

 

 死にかけたような顔で脳天気な答えを返すアンドリュー。騙されているわけではない。ローズ軍医少将は万人が認めるヤブ医者だが、仕事中毒者からは重宝されてきた。わかっていて乗っているのだ。

 

 俺とアンドリューは、駅から五〇〇メートルほど離れたところにあるレストラン「マルチナショナル・フォース コルデリオ駅前店」へと入った。七年前に広報チームの打ち上げを開いた店と同じチェーンだ。

 

 夕食時の店内は混雑していた。隅っこの席に着いた後、俺はローストポーク・パン・サラダ・スープのセット、ジャンバラヤ大盛り、アップルパイを注文した。アンドリューはクラムチャウダーとクロワッサンを注文する。

 

「もっと食えよ」

「エリヤが食べ過ぎなんじゃないか?」

「そんなことはない。食べないよりはずっといいと思うぞ。それに目の周りのくまも酷い。あまり寝てないだろう?」

「みんな寝ないで仕事してるからなあ。俺一人だけ寝てたら申し訳ない」

「まあ、気持ちはわかるけどな」

 

 俺が同じ立場でも寝ないだろう。第六次イゼルローン遠征が失敗に終わって以来、ロボス・サークルは早朝から深夜まで作戦研究に明け暮れてきた。そんな中で休息を取るなんて無理だ。

 

 いや、言うだけは言っておこう。いつか気が変わることだってあるかもしれない。心に留めておいてもらうだけでも無駄にはならないんじゃないか。そう考えて口を開いた。

 

「でも、倒れたらもっと申し訳ないことになるぞ」

「それはわかってるさ。でも、ティアマト星域会戦が終わってからほんの一か月半だ」

「分析が終わってないのか?」

「まあな。どんどん新情報が入ってくる。これからが本番だよ」

「へえ。じゃあ、ミューゼルの分析も済んでないんだな」

「帝国のエル・ファシルの英雄か。それなら面白いことがわかったぞ」

 

 それからアンドリューはラインハルト・フォン・ミューゼルの情報を教えてくれた。彼の行動パターンを分析した結果、昨年の第六次イゼルローン遠征で猛威を振るった幽霊艦隊と一致していたのだそうだ。また、一二月一日の攻勢でホーランド提督を撃破した部隊、八日の攻勢で第七艦隊に突撃した部隊、一一日の攻勢を失敗させた部隊とも酷似していた。

 

「エリヤの冗談がたまたま真実に突き当たってしまったな」

 

 アンドリューが軽く微笑む。

 

「俺の勘も捨てたものじゃないだろう?」

 

 顔では笑っていたが、内心は複雑だ。俺は答えをもともと知っていた。アンドリューたちはそれを時間を掛けて割り出したに過ぎない。しかし、説得力があるのは時間を掛けたアンドリューたちの方だ。論証できない答えなど何の意味もない。

 

「そうだな。しかし、勘に頼ってたら駄目だぞ? 論理を身に付けないと」

「ああ、わかってる」

 

 俺は素直に認めた。プロの間では「作戦立案は論理の世界、作戦指揮はセンスの世界」と言われる。優秀な参謀は一人の例外もなく論理能力が高い。あの天才ヤン・ウェンリーも去年のイゼルローン遠征で抜群の論理能力を見せつけた。俺は頭が単純で、そういう思考には向いていない。

 

「エリヤにも早く一線級になって欲しいんだ。敵には新しい人材が出てきてるからな」

 

 アンドリューによると、昨年のイゼルローン遠征、今年のティアマト会戦で善戦した帝国軍提督の中に、未知の人材が多数含まれていたそうだ。そのうちで名前が分かったのは、オスカー・フォン・ロイエンタール少将、ウォルフガング・ミッターマイヤー少将、コルネリアス・ルッツ少将の三名のみ。

 

「みんな初めて聞く名前だよ。皇太子派と違う系列らしい。プロフィールについては、ロイエンタール少将がマールバッハ伯爵の甥という情報しか分からなかった。少将以下の情報は帝国国内でも出回らないからな。研究すべき敵将はまだまだ多い。これから忙しくなりそうだよ」

 

 アンドリューは少し困ったような表情をした。俺もそれにならったが、意味は多少異なる。ロイエンタール、ミッターマイヤー、ルッツは前の世界でさんざん聞いた名前だ。ラインハルトとともに宇宙を征服した彼らが揃って台頭してきた。それが不気味に感じる。

 

 この世界でも前の世界と同じように、ラインハルトがロイエンタールらを従えて同盟を征服するのではないか。そんな予感に囚われる。

 

「研究するには、人手がいるよな?」

「ああ、いくらいても足りない」

「新しい人を作戦部に入れる気は無いか?」

「あるぞ。能力がある人じゃないと駄目だけどな」

「チュン・ウー・チェン大佐なんてどうだ?」

 

 俺は第一一艦隊作戦部長チュン・ウー・チェン大佐を推した。前の世界の名参謀で、ヤン・ウェンリーと違って評判も悪くない。アンドリューの助けになってくれることだろう。

 

「あの人、エリヤのとこの作戦部長じゃないか」

「次の人事で幕僚を入れ替える。前司令官時代からの幕僚はみんな転出する」

「チュン・ウー・チェン大佐か……。大佐級のポストは当分空かないんだよなあ」

「准将級は?」

「副部長が一つ空く」

「チュン・ウー・チェン大佐を代将にして、副部長を任せるのもありと思うけど」

「そこまではちょっと……。あの人、代将に昇格するほどの実績はないだろ?」

「能力はある。抜擢したらすぐに実績も付いてくるさ」

「うーん……」

 

 アンドリューは困ったような顔をした。データ重視主義の彼にとって、実績の少ないチュン・ウー・チェン大佐の抜擢は考えられないようだった。

 

「じゃあ、実績のある人はどうだ?」

「メリダ副参謀長か?」

「いや、国防研究所のヤン准将。実績は折り紙つきだ」

 

 俺はなけなしの勇気を振り絞って、国防研究所戦史研究部長ヤン准将の名を口にした。

 

「それは無理だ。あの人は残業や休日出勤を絶対にしないからな。勤務時間中だってしょっちゅう姿を消す。優秀なのは認めるよ。けど、勤務態度が悪すぎる。うちには馴染まない」

 

 アンドリューの答えには一分の隙もなかった。参謀業務はチームワーク。結果を出せば何をしてもいいと言う気風のチームなら、ヤン准将は歓迎されるだろう。しかし、ロボス・サークルはそうではない。優秀な人材を集めるだけで成功するのは、物語の世界だけなのだ。

 

「君の言うとおりだ……」

「メリダ副参謀長なら歓迎するけどな。あの人も出されるんだろ?」

「ああ。早めに声を掛けとけよ。他の司令部も獲得に動いてるらしいから」

「ありがとう。コーネフ作戦部長に話しておく」

「俺から聞いたというのは伏せといてくれよな。いい顔をしないだろうから」

「ああ、わかってる」

「窮屈なもんだな。こんなことがわかるってのも」

 

 俺たちは顔を見合わせて苦笑する。第一一艦隊司令官問題がきっかけで、ドーソン司令官はロボス・サークルから敵視された。その余波は俺にも及んでいる。こうして会話するにもいろいろと気を遣う。

 

「お、来たぞ」

 

 ちょうど話が一区切りしたところで料理がやってきた。俺は料理を食べ、飲み物を飲み、アンドリューに食べ物を勧めた。そして、時間ギリギリまで仕事と無関係な会話を楽しんだ。

 

 

 

 アンドリューと別れた翌日の晩、惑星テルヌーゼンで勤務するエーベルト・クリスチアン中佐と久しぶりにテレビ電話で話した。

 

「フォーク大佐と気兼ねなく話せたか。それは良かった」

「誰かに話したかったんです。こんな用事で通信を入れて申し訳ありません」

「貴官らしくて良いではないか。少し安心した」

「何か、俺のことで心配事があったんですか?」

「うむ、最近の貴官は政治に近寄り過ぎていると思っていたのでな」

「政治ですか?」

 

 心当たりはありすぎるほどにある。しかし、自分の口で言い出すのは怖い。

 

「ドーソン提督を通じてトリューニヒトに近付いたと聞いたのでな。軍人精神を忘れたのかと心配だった」

「それは事実です。しかし、軍人精神を忘れたわけではありません」

「ならば、政治家などに近づく必要もあるまい」

 

 クリスチアン中佐がじろりと俺を睨む。後ろめたいことは無いはずなのに、どうして気後れしてしまうのだろう?

 

「仲間になってほしいと言われました」

「本気で言っているのか?」

 

 ますますクリスチアン中佐の目つきが鋭くなる。心臓が痛い。背中に冷や汗が流れる。

 

「え、ええ、本気です」

「政治家はいくらでも嘘をつく連中だぞ? ニュースを見るだけで分かるだろう? あいつらが約束を守ったことがあるか? どいつもこいつも口先では『国を良くする』と言う。だが、実際はどうだ? 少しは良くなったか?」

「改革はまだ途中です。終わってみないと分かりません」

 

 上院選挙の後に発足したボナール政権は、改革の続行を約束した。レベロ財政委員長は地方補助金の削減、ホワン人的資源委員長は与える福祉から自立させる福祉への転換、コスゲイ天然資源委員長は水資源供給事業の完全民営化に取り組んでいる。成功すれば同盟は生まれ変わるはずだ。

 

「ボナールにできるとでも思っているのか?」

「期待はしています……」

 

 俺は自分の言葉を信じていなかった。抗争に疲れ果てたビッグ・ファイブが談合した結果、議長となった八二歳の老人に期待できることはない。

 

「税金は上がり続けている。社会保障は大幅に削減された。失業率は跳ね上がった。同盟軍の兵力は一五パーセントも削減された。軍人の収入も減った。改革が終わったら全部解決するのか?」

「レベロ財政委員長やホワン人的資源委員長はそう言っていますが……」

 

 前の世界で最も良心的と言われた二人の政治家を引き合いに出した。だが、リベラル嫌いのクリスチアン中佐には逆効果だったようだ。

 

「愛国心の無い輩など信用できるか!」

「も、申し訳ありません」

「トリューニヒトも似たようなものだ。軍隊を優遇すると口では言う。だが、実際に優遇されるのは、奴を支持する部隊のみ。予算で軍人を釣っておるのだ」

 

 軍隊を愛するクリスチアン中佐にとって、最近のトリューニヒト委員長の行いは目に余るのだろう。支持基盤である憲兵隊、地方警備部隊、技術部門に偏った予算配分。五月一日に発表された昇進リストの過半数がトリューニヒト系軍人。不公平と言われても仕方ない面はある。

 

「トリューニヒト委員長には考えがあるのです。軍部を良くするためにはこれも必要……」

「信用できんな」

 

 バッサリと切り捨てられた。

 

「……俺は信じています」

 

 強烈な威圧感に耐えながら答える。

 

「あくまで信じると言い張るか」

「は、はい……」

「ならば小官も貴官を信じるとしよう。姑息な計算があるようにも見えん。若いうちは失敗も経験のうちだしな」

「ありがとうございます」

「小官が心配しすぎているだけかもしれん。貴官は真面目だが、どこか頼りないところがある。ついうるさく言いたくなってしまう」

 

 クリスチアン中佐の声に苦笑が混じった。この人はいつも親身だ。

 

「心配をお掛けして申し訳ありません」

「最近は小官のところにも『フィリップス中佐を紹介してほしい』などという者が来る。今日の昼には、猿みたいな面の奴が来おった。怒鳴りつけてやったがな」

「ご迷惑をお掛けしました」

「今の貴官はドーソン提督の懐刀。トリューニヒトの覚えもめでたいと評判だ。貴官を通してトリューニヒト派に取り入りたいのだろう。浅ましいことだ」

 

 心底からクリスチアン中佐は不快そうに言った。愛国心と勇気を基準にする彼から見れば、処世術で世渡りする者は評価に値しないのだ。

 

「俺を通して取り入ろうとする人がいるなんて、想像もつきませんでした」

「政治に近づくとはこういうことなのだ。分かったか?」

「肝に銘じておきます」

「七年前の貴官は、エル・ファシルの英雄という虚像が大きくなることを恐れていた。今も覚えているか?」

「懐かしいですね。あの時の俺に一人の人間と接してくれたのは、あなたとルシエンデスさんとガウリさんだけでした」

 

 俺は少し目を細めた。雲の上の人だったクリスチアン中佐も今は同じ階級だ。ルシエンデス准尉は離婚し、ガウリ曹長は結婚したが旧姓を使って仕事を続けている。

 

「トリューニヒトも英雄の虚像に群がった者の一人だったな」

「そういうこともありましたね」

 

 当時、国防委員だったトリューニヒト委員長は、俺をパーティーに呼ぼうとしたが、クリスチアン中佐に断られた。そのことを根に持って統合作戦本部の広報課に抗議をしたと聞き、「心が狭い政治家な」と思ったものだ。再会した時にそのことを話したら、謝ってくれたが。

 

「まあ、政治家と付き合うだけなら構わん。参謀は渉外的な仕事も多いからな。だが、決して心を許すなよ。奴らは虚像で生きる連中だ。人を見る時も虚像だけを見る。友には決して成り得ん」

 

 クリスチアン中佐の言葉はおそろしく不吉だ。彼は亡命者の二世で、愛国者となることで同盟社会での立ち位置を確保した。それゆえに思うところがあるのかもしれない。

 

「わかりました」

「政治というのはゴミ溜めのようなものでな。避けて歩くに越したことはない。貴官のようなまっすぐな男は、政治などに関わるべきではないのだ」

 

 とても温かくて誠実な恩師の言葉。嬉しさで心が震える。しかし、俺はそういう道を歩くと決めた。今こそ話さなければならない。

 

「聞いていただきたい話があります。この国ではない別の国で生きた人の話です」

 

 俺はループレヒト・レーヴェとその主君の話を始めた。もちろん、サイオキシンマフィアなどの事実関係は伏せ、固有名詞も隠し、守秘義務は守る。

 

 平凡だが実直な老人は、正義の人が現れる日を信じて記録を残し続けた。弁護士のような風貌の青年軍人は、その戦いを受け継いだ。俺は彼らから記録の一部、そして正義の魂を託された。それは神聖なる誓いだった。トリューニヒト委員長とも俺とこの誓いを共有している。

 

「確かに汚れを避けて生きられたら、それに越したことはありません。しかし、汚れと戦いながら生きた人がいることを知りました。俺は小物ですが、小物なりに頑張ってみたくなりました」

 

 俺が語ったのは異国の英雄への憧れだった。

 

「そうすると決めたのだな?」

「はい」

「ならば押し通せ。宇宙が果てるまでまっすぐに歩け。貴官がそうと決めたことであれば、小官は支持する!」

 

 クリスチアン中佐の叱咤。体中の細胞が心地よく震えた。

 

「ありがとうございます!」

 

 俺は立ち上がって敬礼をした。クリスチアン中佐も敬礼を返す。彼だけは決して変わらない。その変わらなさがとても心強かった。



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第四章:治安将校エリヤ・フィリップス
第35話:トリューニヒトの凡人主義 795年6月上旬 ハイネセンポリス カフェレストラン~BAR ティエラ・デル・フエゴ


 六月一日、俺は宇宙軍大佐へと昇進した。第三次ティアマト星域会戦において、第一一艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将を補佐した功績だと言う。

 

 二七歳と二か月での大佐昇進は、士官学校優等卒業者の平均より一年早く、首席卒業者及び次席卒業者の平均とほぼ同じ。幹部候補生出身者としては、同盟軍史上三番目の早さであった。二〇代の士官で俺より上位にいるのは、七人の宇宙軍准将、四人の地上軍准将、四八人の宇宙軍代将、二六人の地上軍代将のみ。我ながらとんでもないスピード出世だ。

 

 階級は上がったものの仕事内容は変わらない。肩書きから「代理」が取れて、第一一艦隊後方部長となっただけだ。

 

 第一一艦隊の司令部では大幅な人事異動が実施された。作戦部長チュン・ウー・チェン大佐は士官学校戦略研究科の教官となった。その他の非ドーソン系幕僚もほとんど転出してしまい、ドーソン司令官が部下だった憲兵、士官学校での教え子に取って代わられた。第一一艦隊司令部はドーソン系の牙城となったのである。

 

 ドーソン系と非ドーソン系の抗争が終わったら、今度はドーソン系同士の抗争が始まった。新参謀長のネウマール少将と新作戦部長のキースリング大佐が主導権を巡って争っている。前者には憲兵人脈、後者には教え子人脈が付いており、ドーソン系の二本の柱が争う構図だ。憲兵出身の俺は付き合いでネウマール派に属しているが、正直言って興味はない。俺は司令官の子飼いであって、参謀長の子飼いではないし、キースリング派が勝っても立場は揺らがないからだ。

 

 小所帯のドーソン系はみんな知り合い同士だが、それは親密さを保証するものではない。憲兵系と教え子系の対立がその好例であろう。そして、憲兵同士も親密とは限らない。ドーソン司令官は人間関係を取り持つようなタイプではなかった。そういうわけで憲兵同士、教え子同士でも対立が絶えなかった。

 

 むろん、俺と相性の悪いドーソン系も少なくない。そして、相性の悪い知り合いほどやりにくい相手はいないものだ。居心地はかえって悪くなった。

 

 後方部の運営を任せてきた副部長ウノ中佐は第六艦隊に転出し、同い年のアーセン中佐が後任となった。ドーソン司令官が士官学校教官だった時の教え子で、比較的早い時期にトリューニヒト派になった人だが、俺のことをあからさまに嫌っている。馴染みの後方参謀もみんな転出してしまった。俺より背の低い人も少ない。

 

「おかげでマフィンを食べる量が倍増しました」

「ストレスが溜まるといつもそう言うよね」

 

 向い合って座っている恩師イレーシュ・マーリア中佐がくすりと笑う。今いる場所は最近オープンしたハイネセンポリスのカフェレストラン。チャレンジメニューの「エンペラー・パンケーキ」を時間内に平らげた後、のんびりとコーヒーを楽しんでいる。

 

「そうですかね。でもストレスは溜まってます。偉くなるのもいいもんじゃないですね」

「ワドル大尉の件だっけ?」

「ええ、本当にきついです」

 

 三日前、打ち合わせに赴いた先でマックス・ワドル大尉を見掛けた。彼とはかつて一緒に憲兵司令部付士官を務め、年齢も階級も同じだったことから親しく付き合った仲だ。懐かしくなって声を掛けようとした。ところが、露骨に避けるような態度をされてしまったのである。

 

「二年前まではどっちも中尉だったのに、今じゃ彼は大尉、君は大佐でしょ。そこまで差が付いちゃったら、やりにくいよねえ」

「配慮が足りませんでした」

「同じだから仲良くできた。同じじゃなくなったら仲良くできない。そういうことよ」

「最近はフィン・マックールや憲兵隊での元同僚に避けられてるんですよね。年や階級が近かった人がいろいろ気にしてるみたいで」

「同格意識って簡単に捨てれるもんじゃないよ。ワドル大尉なんて君のポジションに座ってたかもしれない人なんでしょ?」

「俺じゃなくて彼がドーソン司令官の副官になってても、おかしくはなかったと思います」

 

 二年前のことを思い出した。憲兵司令官だった当時のドーソン少将に仕えた司令部付士官は四人いた。副官のポストが空いた時、士官学校卒業者であり司令官の教え子でもある他の三人の中から選ばれるとばかり思っていたのである。

 

「あの時の副官候補ってどうなったの?」

「七九三年末に三人とも憲兵司令部から転出しました。それからの行方はわからないですね」

「ああ、そりゃ引きずるよ。君が出世しちゃったし」

「申し訳ないことをしました」

 

 急に罪悪感を湧き上がってきた。俺がいなければ、あの三人の誰かがドーソン司令官の副官になり、今頃も腹心を務めていたことだろう。前の世界ではおそらくそうなっていた。

 

 憲兵司令部副官だけではない。ヴァンフリート四=二基地の憲兵隊長、イゼルローン遠征軍副参謀長秘書、第一一艦隊後方部長なんかも、前の世界では別の人が座っていた椅子だ。俺がやり直したせいで本来座るべき椅子を取られた人がいる。そのことを忘れてはいけない。

 

「これからは大変よ。置いてかれた側からの反感が凄くなるから」

「七八八年度組ともいろいろありますからね。気持ちは分からないでもないのですが……」

 

 士官学校七八八年度の卒業者は現役卒業だと俺と同い年。ヤン・ウェンリー准将やマルコム・ワイドボーン准将などを輩出した七八七年度、ダーシャ・ブレツェリ中佐やダスティ・アッテンボロー大佐などを輩出した七八九年度と比較すると、人材の層が薄いと評判だ。

 

 七八八年度組としては、薄いと言われるのは不本意であろう。しかし、首席のシャヒーラ・マリキは四月に大佐となり、その他のトップクラス一〇名が同じ六月一日に大佐となった。大佐の人数は一期下の七八九年度組よりも少ない。そして、同い年で士官学校を出ていない俺と昇進速度がほぼ同じ。世間では俺を七八八年度組の一人と思い込んでる人も多い。そういうわけで、後方部のアーセン副部長ら七八八年度組は俺を嫌っていた。

 

「大人げないっちゃあ大人げないけど、優秀な人ほどプライドも高いからね」

「優秀でプライドが高いと言えば、ホーランド提督とか大丈夫なんですか?」

 

 ウィレム・ホーランド少将とは面識もないが心配になってくる。ほんの数か月前まで同盟軍最高の勇将だったのに、第三次ティアマト会戦での失態がきっかけで失脚した。左遷先は予備役軍人の訓練・管理部隊である第八予備役分艦隊の司令官。予備役編入間近の将官を処遇するポストだ。

 

「やる気出してんじゃないの? ミューゼルにリベンジするって目標ができたから」

「そういう人ですよね」

 

 不遇を嘆く暇があったらリベンジするのがホーランド少将という人なのだ。羨ましくなるほど前向きに生きている。

 

「ミューゼルってのも天才じゃん。そして凄い美少年。ついでに皇族。漫画だったらあっちが主役だよねえ。で、ホーランドは噛ませ犬」

「美少年って関係あるんですか?」

「あるよ。ホーランドも男前だけど、あの天才美少年には負けるよ。それに王子様だからさ。どう見たって主人公じゃん」

 

 イレーシュ中佐は、ラインハルト・フォン・ミューゼルがゴールデンバウム朝の皇族だと信じきっている。前の世界で生きた俺から見れば冗談としか思えないし、亡命者の間には否定する意見も多いのだが、同盟国内では信じる人が多い。

 

 最近、ラインハルトは注目の的だった。第三次ティアマト会戦での活躍に加え、急速な出世が憶測を呼んでいる。五月末に宇宙軍中将から宇宙軍上級大将に二階級昇進し、称号を帝国騎士から男爵に進められた。建国以来の名門であるローエングラム伯爵家を継ぐという噂もある。一九歳の上級大将は非皇族としては帝国史上初めてだ。そして、帝国は武勲だけで出世できる国ではない。背景に注目するのは自然な流れだろう。

 

 ラインハルトについては、フリードリヒ帝の隠し子、同盟に亡命したフリードリヒ帝の従兄弟の子、先々帝が粛清した皇弟の孫といった説もあった。最近の急速な出世は、皇室への復帰、そして皇位継承に向けた箔付けだというのだ。少数意見だが皇帝の男色相手という説もあった。皇帝の寵妃である姉の縁故という説は、「皇后の弟だとしてもそんな出世は無理」と否定されている。

 

「皇太子はおしまいだしさ。次期皇帝は天才美少年で決まりよ」

「そうですね」

 

 前半にだけ合意した。ルートヴィヒ皇太子はまだ廃されてないものの、元帥から上級大将に降格されて、元帥府を開く資格を失ったことが判明。再起の目は消えた。

 

 皇太子派幹部に対する処分は過酷を極めた。元帥府参謀長のハウサー大将は第三次ティアマト会戦の敗戦責任を問われて処刑。捕虜となったケンプ中将は「敵前逃亡」の罪で告発されて、欠席裁判で死刑判決を受けた。残りのルートヴィヒ・ノインは大佐まで降格された後に、軍刑務所へと収監。皇太子府の執事と侍従長は同じ日に「事故」で亡くなったらしい。すべて公式発表による。悪い意味で何でもありの国だ。

 

 帝国から流れてくる情報は基本的に信用ならない。報道の自由が無いため、マスコミが流す情報はすべて政府の管理下にある。管理されていない情報といえば、有力者が流す謀略情報、単なるデマ、亡命者の証言ぐらいのものだ。あの国の状況を正しく把握するのは不可能だと、改めて思い知らされる。

 

 それに引き換え同盟はいい国だ。報道の自由があるおかげでまともな情報が手に入る。イレーシュ中佐と別れた後、電子新聞をコンビニで買って、報道の自由を満喫した。

 

 トップ記事はメルカルト星系のニュースだ。ガルボア終身首相が「シルバー・テレビジョン・サービス」のメルカルト支局に閉鎖命令を出したという。これによって、五大テレビネットワークがすべてメルカルトから姿を消した。四大新聞は既に追放済み。帝国のような情報管制を敷こうとしているようだ。独裁者の暴走は留まるところを知らない。

 

 次に目に止まったのが、補助金の増額を求める辺境八星系に対し、レベロ財政委員長が苦言を呈したという記事だ。

 

「財政赤字が慢性化しているのは、支出を減らせないあなたたちの責任ではないか。中央が金を出さないから赤字になっているわけではない。補助金に甘えているから赤字ができるのだ。アーレ・ハイネセンが唱えた『自由・自主・自律・自尊』の精神を今一度思い出していただきたい」

 

 この正論に対し、八星系の代表は怒って席を立ったという。地方財政に詳しい学者の「レベロ委員長は完全に正しい。補助金は税金だ。辺境は自覚が足りないのではないか」というコメントが記事の最後に付されていた。

 

 隅っこに小さいが気になる記事があった。第七方面軍即応部隊副司令官のラルフ・カールセン准将が、宇宙海賊「ガミ・ガミイ自由艦隊」と五日間にわたって戦ったが、勝負がつかなかったそうだ。

 

 ガミ・ガミイ自由艦隊の最高指導者ガミ・ガミイは、本名をレミ・シュライネンといい、同盟宇宙軍の元少将である。海賊にとって正規軍との戦いは割に合わないのだが、彼は軍の輸送部隊を襲い、数百隻単位の艦隊戦までやらかす。エル・ファシル海賊の中で二番目の武闘派だ。

 

 これまではあまり気にしなかった。最近の地方警備部隊は経費削減で弱体化している。海賊に負けることもあるだろうと思った。しかし、第七方面軍の即応部隊は地方でも屈指の戦力を持ち、ラルフ・カールセンは前の世界で同盟軍屈指の猛将だった。そんな相手と五日間も戦って引き分けるとなると、海賊なんてレベルじゃない。地味ながらも注目すべきニュースだろう。

 

 新聞を閉じた後、地下鉄に乗った。行き先はシュガーランド駅、目的はヨブ・トリューニヒト国防委員長との待ち合わせだった。

 

 

 

 古ぼけた雑居ビルの三階。寿命が迫りつつある蛍光灯の下、埃っぽい廊下の突き当たりに塗、装の剥げかけた看板があった。

 

「本当にここでいいのかな?」

 

 看板とメモを見比べる。どちらにも「BAR ティエラ・デル・フエゴ」と記されていた。

 

「入るか」

 

 気が進まなかったが、ここが待ち合わせ場所なのだから仕方ない。錆の浮いた金属製のドアを恐る恐る開く。

 

 薄暗い照明。薄汚れた木製のテーブル。黒ずんだ床。もうもうと立ち込めるタバコの煙。延々と流れる三〇年前のポピュラーソング。客のほとんどは、くたびれた背広や汚れた作業服を身にまとった中年男性。凄まじい場末感に圧倒される。

 

「やあ、遅かったじゃないか」

 

 安物のワイシャツに古ぼけた作業服を羽織った中年男性が声を掛けてきた。ヨブ・トリューニヒト国防委員長だ。

 

「申し訳ありません。初めてだったもので」

「ははは、構わないさ。座りなさい」

「かしこまりました」

 

 言われた通り席に着く。

 

「この店の食べ物は何でもうまいんだ」

 

 トリューニヒト委員長が差し出したメニューを受け取り、さっと目を通す。料理や酒の名前はすべてマジックペンで殴り書き。塗り潰して書き直した部分もある。

 

「種類が多いですね」

 

 定番のハイネセン料理とパルメレンド料理はもちろん、カッシナ料理、シロン料理、帝国料理、フェザーン料理など、無節操なまでに多種多様だ。しかも恐ろしく安い。

 

「じゃあ、俺は――」

 

 マカロニ・アンド・チーズ、パラス風ジャンバラヤ、ニシンのフェザーン風マリネ、ボウル入りコールスローサラダ、スウィートティーを注文した。

 

 トリューニヒト委員長はカイザー焼きそば、海鮮入り八宝菜、パルメレンドマグロの刺し身、枝豆山盛り、ビール大ジョッキを注文する。何と言うか節操のない組み合わせだ。

 

 注文して五分もしないうちに料理がやってきた。それも量が恐ろしく多い。味も大雑把だけどうまい。食べては注文し、食べては注文し、あっという間に空き皿が積み重なっていく。トリューニヒト委員長もうまそうに飲み食いする。

 

「ヨブの旦那じゃないですか」

 

 声のしてきた方向を見ると、よれよれの作業服を着た貧相な中年男性が立っていた。

 

「やあ、チャーリー。久しぶりだな」

「ずいぶんとご無沙汰でしたねえ」

「忙しくてね」

「どこも人減らしに熱心ですからねえ」

「宮仕えも楽じゃないよ。来週のカーライルステークスで一発当てて、楽隠居と洒落こみたいもんだ」

「ありゃ、エンドレスピークの銀行レースでしょ?」

「チャーリー、私がそんなせこい勝負をすると思っているのかい? 男なら大穴一点買いに決まっているだろう?」

「だから、勝てねえんですよ」

「勝算はあるさ。君がエンドレスピークを単勝で一点買いしてくれたら、間違いなく大穴が来る。なにせ、君が買った馬はいつも外れるからね」

 

 楽しげに競馬の話をするトリューニヒト委員長。この店に驚くほど馴染んでいる。

 

「それにしても、旦那が人を連れてくるなんて珍しいですねえ。こちらのお坊ちゃんはマイク兄さんのお子さんですかい?」

「――いや、職場の後輩さ」

「ああ、そういや、あの兄さんは赤毛じゃなくて茶髪でした。また来るように言っといてくださいよ」

「伝えてはおくけど、期待はしないでくれ」

 

 トリューニヒト委員長の笑顔に一瞬だけ顔に影が差す。

 

「帰ってこれない場所にいるんでしたっけ? フェザーン辺りなんでしょうけど」

「まあ、遠い場所だよ」

「確かに宮仕えも大変でさあね」

 

 中年男性は肩をすくめておどけた後、俺の方を見た。

 

「坊主、ヨブの旦那みたいな大人になるんじゃねえぞ? 博打で勝てなくなっちまうからな」

「ひどいな、チャーリー。この子は博打なんかしないよ」

「なるほど、旦那が反面教師になってるわけですかい」

「そういえば、君の子供はみんな博打嫌いだった」

「相変わらず憎たらしいっすねえ。まあ、元気そうで何よりでさあ」

 

 中年男性は苦笑すると、カウンターに座った。それからもトリューニヒト委員長は、店員や客と軽口を叩き合う。

 

 有名人に会うと、大抵の人は裏話を聞きたがるものだ。俺が七年前にパラディオンに帰郷した時もそうだった。この店の客がそういったことに興味を示さないのは不自然だ。俺は声を潜めてトリューニヒト委員長に質問した。

 

「委員長……、いや、ヨブさん。これはどういうことなんですか?」

「何かしたのかい?」

「最近のヨブさんは、毎日のようにテレビに映ってますよね?」

「そうだね」

「ここの人達は気にしないんですか?」

「しないよ。彼らは私が政治家だってことを知らないから」

「知らない?」

「この店では『堅い勤めをしているヨブ』で通っているからね」

「でも、テレビとか見れば気づくでしょう?」

「彼らは娯楽番組しか見ないよ。政治ニュースなんて、目に入ってもすぐ忘れる」

 

 トリューニヒト委員長はあっさりと切り捨てる。

 

「そんなことをおっしゃっても良いのですか?」

「何を驚いたような顔をしてるんだね」

「政治に関心を持ってもらうのも政治家の仕事ですよね?」

「そういうことになっているが」

「他人事みたいに言わないでください」

「我が国は自由の国だ。政治に関心を持たない自由もある」

「政治家がそんなことを言ってもいいんですか?」

 

 胸中に失望が渦巻く。この人も内心では有権者を見下していたのだろうか? 衆愚政治家という『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』の評価が正しいのだろうか?

 

「我が国には言論の自由もある」

「茶化さないでください」

 

 俺の声に苛立ちがまじる。しかし、トリューニヒト委員長の目はおそろしく真剣だ。

 

「政治に関心を持つのは正しく、持たないのは正しくない。エリヤ君はそう言いたいのかな?」

「当然でしょう」

「なぜ当然なんだ?」

「民主主義の場合、失政の責任は市民の責任です。政治への無関心は無責任です」

「市民が政治に関心を失くしたら、どんな問題が起きるんだね?」

「ルドルフのような悪党に付け込まれます」

 

 最初に思いついたのは、政界の支配者ビッグ・ファイブ、極右指導者ラロシュ、メルカルトの独裁者ガルボアなどだった。しかし、現役の政治家を例にあげるのはさすがにまずいと思い、過去の独裁者をあげる。

 

「銀河連邦末期にルドルフを支持した人達は、政治に関心がなかったと思ってるのかい?」

「少しでも政治に関心があったら、おかしいと思ったはずです」

 

 きっぱりと断言した。同盟軍の思想教育資料に、議員時代のルドルフが作った政策提言書の一部が載っている。所得税の累進税率の撤廃、独占禁止法の撤廃、社会保障の縮小、酒・賭博・売春の非合法化、汚職犯への死刑適用など、一目見ただけで狂ってると分かる内容だった。

 

「では、なぜ関心を持たなかったのかな?」

「楽をしたかったからでしょう。面倒なことは考えたくない。優れた人物に任せてしまいたい。当時の人々はそう考えたのです」

「面倒なことを考えたくない人がルドルフを支持した。君はそう思っているんだね?」

「はい。ルドルフは容貌と経歴が立派でした。パフォーマンスも巧みです。外見だけなら、優れた人物に見えるでしょう」

 

 言い終えた後、「しまった」と思った。立派な容貌と経歴、巧みなパフォーマンスは、トリューニヒト委員長の武器でもあったからだ。

 

「当時の人々は政治に関心がなかった。だからルドルフの外見に騙された。エリヤ君はそう思っているんだね?」

「ええ、まあ」

「なるほど。しかし、それは借り物の意見だな。自分で考えた意見ではあるまい」

 

 トリューニヒト委員長は表情を変えずに指摘した。

 

「おっしゃる通りです」

 

 完全に図星だった。今言ったことは、同盟軍で行われる思想教育、前の世界で読んだ『ヤン・ウェンリー元帥伝』『ヤン・ウェンリー遺稿集』などの受け売りだったからだ。

 

「今度は君自身の言葉で答えてもらいたい。なぜ政治に関心を持たないのが悪い?」

「やはり、変な政治家が当選してしまうからだと思います。今だって酷いもんじゃないですか。組織票の力で当選する政治家。イメージ戦略がうまいだけの政治家。そんなのばかりです」

 

 巨大な組織票を握るビッグ・ファイブ、パフォーマンスに巧みなラロシュやガルボアなどを想定して答える。

 

「なるほど。みんなが興味を持たないせいで、私のような政治家が当選すると」

 

 恐ろしく意地の悪い笑みを浮かべるトリューニヒト委員長。たじろぐ俺。

 

「そ、そんなことはありません。あなたは今時珍しいくらい真面目な政治家です」

「世間では、軍需企業と宗教右派の組織票、無党派層向けのパフォーマンス以外に取り柄のない政治家ということになってるがね」

「それはみんながあなたのことを良く知らないからではないでしょうか」

「君は利権屋とかデマゴーグとか言われる連中のことを良く知っているのか?」

「はい。ちゃんとニュースを見ていますから」

「ニュースでは、私も利権屋とかデマゴーグとか言われてるよ」

「…………」

「そして、クリーンで改革志向の連中が『良識派』と言われる。レベロやホワンなんかがその典型だな」

「まあ、そうですよね」

「ああいう連中を支持するのが『意識が高い』ということになるらしい。君はどう思う?」

 

 実に答えにくい質問だった。レベロ財政委員長やホワン人的資源委員長は、同盟政界の良心と言われる人物で、前の世界でも今の世界でも高く評価された。真面目に考えてる人なら、みんな支持するだろう。しかし、この場では言いにくい。

 

「自分にはよく分かりません」

「私はみんなが喜びそうなことを言うが、あの連中は厳しいことを言う。私は目先の利益を約束するが、あの連中は未来のための負担を求める。私は自分に頼れと言うが、あの連中は自立するよう求める。どちらがルドルフに似ているかは言うまでもあるまい」

 

 確かに言うまでもないだろう。認めたくはない。だが、トリューニヒト委員長の方が似ているのは、誰が見ても明らかだ。

 

「そう、あの連中はルドルフと良く似ている」

「レベロ先生やホワン先生が!?」

 

 俺は目を丸くした。同盟政界の良心と史上最悪の独裁者。対極にいる存在ではないか。

 

「考えてみたまえ。ルドルフは甘いことなど言わなかった。怠惰な大衆をひたすら叱り続けた。ルドルフは目先の利益を約束しなかった。負担と献身を求めた。ルドルフは自分に頼れと言わなかった。自助努力と競争を求めた。あの連中と似ているじゃないか」

「多少は似ているかもしれませんが……」

「私に言わせれば、ルドルフもあの連中も効率主義の使徒だよ。どちらも無駄の切り捨て、自助努力の要求、競争の促進、規律の引き締めを主張する。目指すところは効率的な社会だ」

 

 トリューニヒト委員長は、ルドルフと良識派政治家の共通点をあげていく。

 

「し、しかし、レベロ先生たちはあんなに狂ってないですよ。劣悪遺伝子排除法なんて狂気の産物でしょう?」

「劣悪遺伝子排除法一つを切り取れば、狂気に見えるだろう。しかし、無駄の切り捨ての延長と考えれば、それほど飛躍した発想ではないんじゃないかな? 社会保障を減らして間接的に殺すか、直接殺すかの違いさ。社会保障を減らすまでは、レベロやホワンだってやっている」

「間接的か直接的かの違い……」

「ある政治学者の研究によると、ルドルフが銀河連邦で実施した政策のうち、同盟領内で一度でも実施されたものは、九五パーセントにのぼるそうだ」

「あんなむちゃくちゃな政策がですか?」

「累進税率と独占禁止法の撤廃には、トリクルダウンの促進、そして競争原理の徹底という意味があった。社会保障はこの国でも財政再建のために縮小されてる。不健全な娯楽の規制は、治安コスト及び医療コストの抑制が狙い。汚職への死刑適用は、言うまでもなく利権構造を完全破壊するための策。今でも一定の共感を得られる主張ではないかな」

「こうして言われてみると、筋も通っていそうに見えますね」

 

 俺はあごに手を当てて考え込む。政策の一つ一つは極端だ。しかし、急進改革論者の中には、支持する人もいるかもしれない。

 

「当時の銀河連邦の状況を思い返してみたまえ。政治腐敗、経済不振、治安悪化、モラルの退廃……。停滞と混乱が銀河を覆い尽くした。革命、クーデター、内戦の危機が現実のものとして語られた。そんな時に厳しいルドルフが選ばれた。当時の人々が本当に無関心だったら、目先の利益に飛びついただろうに」

「政治に関心があったからこそ、ルドルフを選んだ。そうお考えなのですか?」

「他に考えようがあるかね」

 

 政治的関心こそが独裁者ルドルフを生んだ。そんなトリューニヒト委員長の考えは、俺の政治観を根底から覆すものだった。

 

「そうだとしたら、政治に関心を持ったとしても、ルドルフを排除できないということになりますが……」

「意識の高い者ほど甘えを許せないものだ。彼らの目には、社会は非効率と不正だらけ、政治家や官僚は無能、大衆は怠け者に見える。『人間はもっと素晴らしい存在なのに、どうして甘えているのか』と腹が立って仕方がない。だからこそ、厳しく叩き直してやろうと思う。政治意識の向上こそがルドルフに至る道なのだよ」

「では、どうすればルドルフを排除できるのでしょうか?」

「人間に期待しないことだろうな。私も含めた大多数の人間が凡人だよ。弱くて愚かで怠け者だ。そのくせ見栄っ張りで欲深い。それを認めることだ」

「なるほど。なんか分かったような気がします。俺もそういう人間ですから」

 

 すべてが一つに繋がった。甘えを許せないのは真面目な人間だろう。そして、甘えを捨てさせようとするのがルドルフの政策だ。抜群に相性がいい。真面目に政治を考えるほど、ルドルフに心をひかれるのも納得がいく。

 

「ハイネセン主義もルドルフ主義と同じだ。人間が素晴らしい存在だという考えが根底にある。甘えを認めない」

「それはさすがに言い過ぎではないかと……」

 

 俺は根っからのハイネセン主義者ではない。だが、今の世界でも前の世界でも絶対的に正しいとされたハイネセン主義への批判には、さすがに驚く。

 

「言い過ぎではないさ。ハイネセン主義では『自由、自主、自律、自尊』、すなわち個人の自由と自立を至上と考える。すべての人間に自立と自己責任を求める。凡人が無責任ゆえの気楽さに安住することを認めない。突き詰めた先にいるのはルドルフだ」

「ハイネセンはルドルフと違います。弱いという理由だけで排除されることはありません」

「軍縮で解雇された軍人一〇〇〇万人には、救済措置は無かった。無能ゆえに解雇された者を救済する必要はない。それがハイネセン主義の自己責任原則さ。この不景気の中で職を奪うのは、命を奪うに等しい行為なのだがね」

 

 トリューニヒト委員長は自己責任原則への批判に踏み込む。これはハイネセン主義の根幹を疑うに等しい。公式の場で口にしたら間違いなく国防委員長を辞めさせられるだろう。

 

 前の世界において、レベロ最高評議会議長は、帝国のレンネンカンプ高等弁務官から不当な要求を受けたにも関わらず、ラインハルト帝に訴えなかった。ヤン・ウェンリー一派は、ラインハルト帝の「出頭すれば厚遇する」という呼びかけを拒絶した。皇帝に救済を求めるというのは、ハイネセン主義の自己責任原則に反するからだ。

 

 この会話は危険領域へと突入しつつある。しかし、制止しようとは思わない。前の世界で理念なき政治屋と評された人物のハイネセン主義批判。好奇心を大いにそそられる。

 

「完全に納得はできません。しかし、ハイネセン主義も結果として凡人を排除する場合があるのはわかりました」

「連立政権は意識の高い連中だけが喜ぶ改革ばかりやっている。五年前まではそれで良かったんだがね。今はそんな余裕はない。凡人のための政治が必要な時だ」

「具体的にはどんな政治を目指していらっしゃるのですか?」

「凡人が欲しがるものを提供できる政治だ。具体的には、豊かさ、健康、安全、そして誇りを保障できる政府を作る。与えてくれる国家、守ってくれる国家だよ」

「それって全体主義でしょう」

「国家主義と言ってくれたまえ。『欲しければ自由に取れ』では何も手に入らんよ」

 

 トリューニヒト委員長は得意顔で際どいことを言う。

 

「ルドルフ主義との違いがわからないです」

「彼らは優れた指導者が大衆を導くべきと思っている。だが、私は違う。大衆が求めるものを提供する手段として選んだだけのこと。民意に沿っているから民主主義だ」

 

 ここまで堂々と言い切られては、突っ込む余地もない。確かにそれが民主主義なのかもしれないと思えてくる。

 

 俺の中では、ハイネセン主義と民主主義はほぼイコールだった。自由惑星同盟はもちろん、前の世界で過ごしたバーラト自治区もハイネセン主義を採用していたからだ。しかし、トリューニヒト委員長の話を聞いてるうちに分からなくなってきた。

 

 現在の与党が進める改革はハイネセン主義的であるが、支持に結びついているとは言い難い。与党は選挙のたびに議席を減らし、上院における与党と野党の議席差は一五まで縮まった。トリューニヒト委員長の指摘にも一理ある。

 

「確かに民意に沿っていない民主主義というのもおかしな話ですね」

「ここ一五年の同盟政府は、中央宙域(メインランド)の大都市住民に受けのいい政策を採用してきた。豊かになるのはハイネセンポリスなどの大都市ばかり。中央宙域の小都市や農村部、辺境宙域は負担と責任だけを押し付けられた。中央宙域と辺境宙域の平均年収格差は三・一倍。ここまで違うともう別の国だ」

「そこまで酷いことになってるんですか?」

「中央宙域ではあまり知られてないがね。主要マスコミの報道の七割がハイネセンを中心とする大都市圏のニュース、二割はフェザーンや帝国のニュース、残り一割がその他の地域といったところだ。彼らの顧客も広告主もみんな大都市圏にいる。辺境の状況を報じても金にならない」

「全然知りませんでした」

「君の生まれたパラスは中央宙域だからな。そして、軍隊でもハイネセン勤務が長い。分からないのも無理は無いだろう」

「恥ずかしい限りです」

 

 前と今を合わせて八七年も生きてる俺だが、一年以上住んだ惑星は、ハイネセン、パラス、捕虜収容所のあったゼンラナウ、兵役を務めたエル・ファシルのみ。辺境宙域で過ごした経験はほとんどない。

 

「今日のニュースを見たかね? 政府は中央の金が辺境に流れないような政策を進めている。地方警備部隊の戦力は海賊にも勝てないほど減らされた。それなのに正規艦隊と地上総軍は依然として強いままだ。金も軍事力も全部中央が持っていく。これでは辺境を切り捨てるつもりだと思われても仕方がない」

「そうかもしれません」

「地方に負担ばかりを押し付ける中央政府。辺境から富を吸い上げる中央資本。極端に中央に集まった軍事力。盛り上がる星系ナショナリズム。どこかで聞いたような話とは思わないかね?」

「地球統一政府……」

 

 今から九〇〇年前、地球統一政府(GG)は圧倒的な軍事力と資本力を誇っていたが、経済的不平等に不満を持った植民星の反乱によって崩壊した。その末期と今の同盟が重なる。

 

「このままでは数年以内に加盟国の離脱が始まるだろう。金は吸い上げられるだけ。治安維持にも責任を持とうとしない。そんな同盟に参加するメリットなど辺境にはないからね」

「そんなことになったら……」

「帝国の内情も同盟と似たりよったりだ。征服される心配はない。イゼルローンからアスターテまでの国境星域が帝国の支配下に入り、残りの星系が血みどろの抗争を繰り広げるだろう」

 

 トリューニヒト委員長の語る未来予想図は、前の世界の歴史と完全に違う。天才ラインハルト・フォン・ローエングラムの存在を計算に入れていないからだ。計算に入れたとすれば、より破滅的な結果になる。帝国をまとめあげたラインハルトが同盟も征服するだろう。

 

「恐ろしいですね」

「エリヤ君にはその恐ろしさを体感してほしいと思う。話で聞いただけでわかった気になられても困るからね」

「それが次の任務ですか?」

「そうだ。海賊対処行動が計画されているのは聞いているはずだ。それに参加してもらう」

「かしこまりました」

 

 最近、国境宙域でエル・ファシル海賊が猛威を振るっている。エル・ファシルの富を目当てに集まった彼らは、この一年で急速に力を伸ばし、昨年度は九〇〇〇億ディナールもの損害をもたらした。軍の輸送船もしばしば襲われる。

 

 事態を重く見た同盟軍は、二個分艦隊及び二個陸戦遠征軍団を基幹とする第一三任務艦隊を編成し、国境星域を航行する船の護衛、海賊の監視などにあたらせることにした。俺はその第一次隊メンバーに加わる。

 

 エルゴン星系からティアマト星系に至る広大なイゼルローン方面航路。それが大佐として初めて臨む戦場だった。



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第36話:揺れる辺境、走る参謀 795年6月中旬~9月上旬 ハイネセンポリス~シャンプール~ヤム・ナハル

 人類が宇宙軍を持った西暦二四八九年から現在に至るまでの一一〇六年間のうち、現代のような正規軍同士の戦争が行われた期間は三〇〇年に満たない。それ以外の期間における宇宙軍の最大の敵は、国内の反乱分子、そして宇宙海賊であった。

 

 宇宙海賊とは、星間航路で略奪行為を働く非合法武装集団を指す。一口に略奪行為と言っても、乗組員の持ち物や積み荷を強奪したり、乗組員を人質に取って身代金を要求したり、船を乗っ取って転売したりするなど、その様態は多種多様である。

 

 海賊活動は星間交易に悪影響を及ぼす。食糧やエネルギーを自給できない惑星にとっては、文字通り死活問題となる。それゆえに歴代の宇宙軍は総力をあげて海賊対策に取り組んだ。銀河連邦最高の名将クリストファー・ウッド元帥、史上最悪の独裁者ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムなども海賊討伐の英雄として頭角を現した。

 

 自由惑星同盟の国防白書は、海賊を帝国軍に次ぐ大敵としている。宇宙暦六四〇年に対帝国戦争が始まってからも、航路警備にあたる地方警備部隊の総数は、対帝国部隊と同等以上だった。それが変化したのは三年前のことだ

 

 当時のレベロ財政委員長が国防予算の削減に踏み切った結果、同盟軍の常備兵力は六六〇〇万から五七〇〇万まで減少した。

 

 統合作戦本部長シトレ元帥は、対帝国戦争と軍縮を両立する苦肉の策として、国土防衛戦略「スペースネットワーク戦略」を提唱。多くの兵力を広く薄く配備する地方警備戦略を、少数精鋭の機動的運用に転換しようというのだ。

 

 対帝国部隊の戦力は維持できたが、航路警備能力の低下は否めない。一方、宇宙海賊は、解雇された軍人、統廃合された部隊から流出した武器などを獲得し、勢力を拡大した。

 

 現在の同盟領内で最大の勢力を誇る海賊は、エル・ファシル星系と周辺の無人星系を拠点とするエル・ファシル海賊だ。活動範囲はエルゴン星系からティアマト星系に至るまでの国境星域。現在の総勢力は艦艇が約八〇〇〇隻、構成員が約四五万人と推定され、その半数が五大組織のいずれかに属するという。

 

 イゼルローン回廊周辺の国境宙域には、宇宙軍の二個分艦隊及び地上軍の一個野戦軍が四か月交代で駐留し、哨戒活動に従事する。その補給物資がエル・ファシル海賊に狙われた。

 

 地方警備部隊は戦力不足に苦しんでいる。国境への補給にあたる第七方面軍も例外ではない。定例巡視の回数を三分の二まで減らし、基地の三割を閉鎖しても、輸送部隊の護衛にあたる戦力を確保できなかった。無防備な輸送部隊は海賊の餌食となり、国境駐留部隊は補給難に陥った。

 

 国防委員会はエル・ファシル海賊を国防上の脅威と認定し、本格的な対策に乗り出した。第七方面軍の任務は、管区内の警備、災害派遣、予備役軍人の管理、対帝国部隊の兵站支援など多岐にわたる。海賊対策だけに専念してはいられない。

 

 そこでエル・ファシル海賊専任の任務部隊「第一三任務艦隊」が臨時に編成された。司令官は艦隊副司令官クラスの少将。基幹戦力は正規艦隊配下の二個分艦隊及び二個陸戦遠征軍団。半個艦隊に匹敵する戦力だ。司令官、所属部隊は四か月おきに交代する。

 

 第一次派遣隊司令官は、第一一艦隊副司令官フィリップ・ルグランジュ少将。決して切れ者ではないが、部下をまとめるのがうまい。混成部隊を率いるのにはうってつけの人物だ。

 

 艦艇部隊からは第四艦隊B分艦隊と第一二艦隊A分艦隊、陸戦隊からは第七二陸戦遠征軍団と第一〇四陸戦遠征軍団が第一次派遣隊に選ばれた。

 

 俺が提示されたポストは、第四艦隊B分艦隊所属の第二一駆逐戦隊第一駆逐群司令。駐屯地はサラージュ星系の首星ノウ・ザラウ。

 

「一度、君に指揮官を経験してほしいと思っているのだよ」

 

 スクリーンの向こう側でヨブ・トリューニヒト国防委員長が微笑む。

 

「でも、俺は用兵が全然できないですよ」

「それは問題ない。君の仕事は部隊の運用及び管理、そして地域政府との交渉が主だ」

 

 それからトリューニヒト委員長は、対海賊戦の基本について話してくれた。艦隊戦は最低でも数百隻単位で動く。しかし、対海賊戦では、一〇隻から二〇隻程度の部隊を小分けにして、広い宙域にばらまくのだそうだ。

 

 艦隊戦の基本作戦単位は機動部隊。戦隊以下は同じ艦種で部隊を組む。しかし、対海賊戦は隊でも複数艦種の混成部隊になる。

 

 臨時編成の混成部隊は「任務部隊」と呼ばれる。第二一駆逐戦隊第一駆逐群の場合は、配下の駆逐艦の半数を他の部隊に貸し出し、その代わりに戦艦や巡航艦などを借り受け、派遣期間が終わるまで任務部隊「第二一一任務群」を名乗るのだという。

 

「エリヤ君は指揮官向きではないかと思っていてね。一度手腕を試してみたい」

「なるほど」

 

 それはわからないでもない。厳密に言うと参謀に向かなさすぎる。指揮官として使った方がまだましなんじゃないかと、トリューニヒト委員長は考えたのだろう。

 

「ははは、消去法じゃないさ。指揮官には必要なものが六つある。愛国心、闘志、頭脳、忍耐力、責任感、協調性だ。君は知力以外すべてを備えている。きっといい指揮官になれるさ」

「ありがとうございます」

 

 俺はひたすら頭を下げる。ここまで高く評価されたら、「自分は無能だ」などと言っていられなかった。

 

 その次の日、第一三任務艦隊司令官ルグランジュ少将が通信を入れてきた。任務艦隊副参謀長に就任して欲しいのという。

 

「私はどうも政治が苦手だ。派閥に入っとらんし、政治家や役人との付き合い方も分からん。そこら辺を貴官に頼みたい」

 

 ルグランジュ少将は漫画に出てくる軍人そのものの強面だ。それなのに威圧感がまったく感じられない。疑問を口にしても許されそうな雰囲気がある。

 

「なぜ小官なのでしょうか?」

「貴官は対人関係を作るのが上手だ。情報管理もできる」

「それならば、ヴォー大佐の方が適任ではありませんか?」

 

 俺はルグランジュ少将と旧知の政治軍人の名をあげた。

 

「あいつはいかん。いわゆる豪腕というやつでな。説得力はあるのだが、強引すぎてトラブルも招く。その点、貴官は穏やかでいい」

「恐縮です」

 

 頭の天辺から足の爪先までが緊張で固まる。ルグランジュ少将はドーソン中将と正反対だ。巧妙ではないが闘志あふれる指揮。指示は大雑把で、部下の自主性を重んじる。そんな提督からの評価が恐れ多い。

 

 筋から言えば、トリューニヒト委員長の誘いを受けるべきだろう。しかし、ドーソン・チーム以外の幕僚チームを経験したい気持ちもある。

 

 悩んだあげく、ちょうど家に泊まりに来ていたダーシャ・ブレツェリ中佐に相談した。

 

「私なら副参謀長にするね。八〇万近い大軍の副参謀長なんて滅多に経験できないよ」

「でも、指揮官も捨てがたいんだよなあ」

「四か月過ぎたら消滅するポストじゃん。それから指揮官をやっても遅くないよ」

「ああ、確かにそうだな」

 

 さすがは士官学校の優等生だ。俺が二日も悩んだ問題を一瞬で片付けてしまった。

 

「じゃあ、風呂に入ってくるから」

「ああ、分かった」

 

 ダーシャが浴室に入ったのを見計らい、トリューニヒト委員長に通信を入れる。

 

「――というわけで、ルグランジュ提督の誘いを受けようかと」

「それがエリヤ君の考えか」

 

 俺が話し終えた後も、トリューニヒト委員長の微笑みは崩れない。

 

「申し訳ありません」

「構わんよ。そうした方が勉強できると思ったのだろう? 尊重しようじゃないか。ルグランジュ君の統率は参考になるだろう。地方を見るにもその方が都合がいいしね」

 

 トリューニヒト委員長は俺の判断に理解を示してくれた。こうして第一三任務艦隊の副参謀長への就任が決まった。

 

 

 

 七月一四日、エルゴン星系に到着した第一三任務艦隊は、第二惑星シャンプールの星都シャンプールに司令部を置いた。この惑星は言わずと知れた国境星域の中心地で、ドラゴニア航路とパランティア航路の起点である。

 

 第四艦隊B分艦隊は二手に分かれ、半数が「エルゴン任務分艦隊」としてエルゴンに留まり、残る半数が「パランティア任務分艦隊」としてパランティア星系に進路をとった。第一二艦隊A分艦隊も二手に分かれ、片方が「ドラゴニア任務分艦隊」としてドラゴニア星系に向かい、もう片方が「アスターテ任務分艦隊」となってアスターテ星系に向かう。

 

 これらの部隊は、第七方面軍配下のエルゴン星域軍管区、パランティア星域軍管区、ドラゴニア星域軍管区、アスターテ星域軍管区にそれぞれ対応する。星域軍管区とは、四つから五つの有人星系、三〇から五〇の無人星系を管轄する部隊単位だ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 宇宙海賊は小回りの利く小型艇で獲物に急接近し、接舷して白兵戦要員を乗り込ませ、人質や金品を素早く略奪して逃げる。こういった戦いには、戦闘力ではなく足の早さが必要だ。

 

 敵の足を封じるために警戒監視活動を実施する。第一三任務艦隊司令部は、小回りはきかないが航続距離の長い戦艦や巡航艦を遠洋、航続距離は短いが小回りの利く駆逐艦を航路上に配備。宇宙母艦は単座式戦闘艇「スパルタニアン」の移動基地として、駆逐艦とともに航路上での警戒にあたる。彼らが得た情報は、情報処理システムを通して全軍が共有。すべての部隊が海賊の動きをリアルタイムで追いかけた。

 

 同時に護衛活動も行う。民間船に船団を組ませ、駆逐艦、スパルタニアンを搭載した巡航艦を護衛に付けた。また、陸戦隊員が警備要員として民間船に乗り組む場合もある。

 

 護衛部隊が海賊と遭遇した場合は、停船を要求しなければならない。拒否された場合、あるいは要求する余裕が無い場合のみ戦う。戦闘に及んだ場合でも、海賊船の拘留、海賊構成員の身柄確保が優先される。第一三任務艦隊が受けた命令は警備であって討伐ではない。それに法的には海賊はただの刑法犯罪者。むやみに殺すわけにはいかないのである。

 

 華々しい武勲とは縁の無い戦いだった。そのせいかマスコミからの注目度が低い。軍部寄りのマスコミはいくらか取り上げてくれたが、非好意的なマスコミからは黙殺された。

 

 作戦行動が始まってから三日目の一七日、第一三任務艦隊と海賊が初めて戦った。ローカパーラ星系において、パランティア任務分艦隊配下の護衛部隊が、貨物船を襲撃しようとした海賊船一八隻を撃退した。

 

 その後、エルゴン任務分艦隊、ドラゴニア任務分艦隊、アスターテ任務分艦隊も相次いで海賊と戦った。

 

 海賊は数隻から二〇隻程度の単位で動く。そのほとんどが改造された民間用高速艇、旧式の軍用戦闘艇など、星系間航行能力を持たない小型艇だ。星系間航行能力を持つ船にしても、武装が施された商船、旧式の駆逐艦や砲艦程度。大きな組織は旧式の巡航艦も持っているが、正規艦隊の精鋭相手に艦隊戦を挑むほど愚かではない。対帝国戦よりはるかに小規模な戦いが繰り広げられた。

 

 実戦はもっぱら隊や分隊の単位で進む。群より大きな部隊が、部隊配置、後方支援、関係機関との調整などを行う。

 

 シャンプールの任務艦隊司令部は、危険宙域への立ち入りを控えるよう勧告を出し、護衛部隊の配分を変えるなど民間船の航行を統制した。また、対海賊戦略の立案、中央政府との折衝、配下部隊では処理しきれない問題の処理などにも携わる。

 

 九月二五日の任務艦隊幕僚会議では、アルタ星系で現地の女性を強姦したディーン・カーヴェイ兵長の処分が議題にのぼった。

 

「軍刑法では強姦致傷は最低でも一〇年以上の懲役、最高は終身刑になります。一方、アルタの星系法では五年以上の懲役。二〇年以上の懲役が課された判例はありません」

 

 任務艦隊法務部長アルフォンス・ガースン中佐が、軍刑法とアルタ星系法の違いを説明する。

 

「軍法で処分するより他にあるまい」

 

 三〇代半ばの女性がぶっきらぼうに言い放つ。ひっつめ髪と分厚いメガネが冷たい印象を増幅する。この人物は任務艦隊参謀長のソフィア・エーリン准将。ルグランジュ司令官が片腕と頼む謀将だ。

 

「そうだな。このような下衆が現れたのは我らの責任。自分の手で始末を付けるのが筋だろう」

 

 任務艦隊司令官フィリップ・ルグランジュ少将は、怒りを隠し切れないといった感じだ。他の幕僚たちも同意を示す。

 

 できることなら俺も同意したかった。カーヴェイという男は、前の世界でタッツイーやピローと一緒に俺を痛めつけた古参兵だ。奴の変態性欲にはさんざん苦しめられた。蛇のような顔を思い出すだけでおぞましいが、怨恨と刑罰は別だ。不快感を押しこめて口を開く。

 

「待ってください。アルタの世論は現地での裁判を求めております。星系警察の犯人引き渡し要求に応じた方が良いでしょう」

 

 軍法で裁くのではなく、現地で裁判を受けさせた方がいい。それが俺の意見だ。しかし、ルグランジュ司令官は納得がいかない様子だった。

 

「重く処罰した方が、住民も満足するんじゃないか?」

「誰が裁くかが問題なのです。地元で起きた事件は自分の手で裁きたい。それが住民感情です」

「そう、誰が裁くかが問題だ。このような非行は決して許さないと、軍の名前で知らしめる。そのことに意味があるんじゃないかね」

 

 あくまで軍としての筋を通そうとするルグランジュ司令官。しかし、それはまずい。

 

「守る軍と守られる市民がはっきり分かれる対帝国戦とは違います。市民や行政との共同作戦なのです。彼らもまた友軍だとお考えください」

「軍だけの戦いではないということか。ならば、副参謀長に一理ある」

「ありがとうございます」

「なに、感謝するのは私の方だ。軍隊以外のことは分からんのでな」

 

 ルグランジュ司令官の顔に穏やかな笑みが浮かぶ。一見すると強面に見える彼だが、実際は気さくで話しやすい人だった。

 

 第一三任務艦隊には、疑問があれば解決するまで話し合うというルールがある。この部隊の会議は一人一人に参加意識を持たせ、一体感を作るための会議だ。

 

 つまらないことを言っても馬鹿にされない。誰もが正面から相手にしてくれる。そんな部隊にいたら、誰だってやる気が出る。第一三任務艦隊では、上官は部下を可愛がり、同僚はお互いを信じ合い、部下は上官を頼りにする。将官から一兵卒に至るまでが強い絆で結ばれていた。

 

 前の世界のルグランジュ司令官は、クーデターを起こした救国軍事会議の実戦指揮官となり、ドーリア星域で天才ヤン・ウェンリー大将と戦った。ヤン大将の計略で戦力を四分させられたが、敗勢が決定的となった後も戦い続け、ほとんどの艦が降伏も逃亡もせずに玉砕したと言う。天才を辟易させた鉄壁の統率。その真髄がここにある。

 

 本当に俺は上官に恵まれた。コズヴォフスキ大尉、ドーソン中将、そしてルグランジュ司令官。仕えるだけで勉強になる。

 

 しかしながら、ルグランジュ司令官も完全無欠ではない。長所と短所は表裏一体のものだ。古代の軍事理論書によると、信義に厚すぎると騙されやすく、思いやりが深すぎると心配事が多くなるという。統率者としての長所は、用兵家としての短所でもあった。

 

 欠点は他人が補えばいい。ルグランジュ司令官は、智謀に長けたエーリン准将を参謀長、抜け目のないクィルター大佐を作戦部長に登用し、自分の足りない部分を補わせた。

 

 これまで仕えてきたドーソン中将は言うことを聞く幕僚を求めた。しかし、ルグランジュ司令官は助けになる幕僚を求める。言われたとおりに動くだけでは不十分だ。自分に何ができるかを考えて動く必要がある。とても難しかったが、とてもやりがいの感じられることでもあった。

 

 

 

 作戦開始から二か月が過ぎ、九月になった。第一三任務艦隊の活動の結果、海賊被害は半数以下まで落ち込んだ。それでもマスコミからの扱いは小さい。艦隊を撃破するとか、基地を破壊するとか、そういった派手なニュースが無いからだ。

 

 世間の関心は帝国情勢に集まっている。ルートヴィヒ皇太子の廃立が目前に思われたが、思わぬところでつまずいた。新しい皇位継承者を皇孫女エリザベートと皇孫女サビーネのどちらにするかで、反皇太子派が割れたのだ。前者は枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵の娘、後者は大審院長リッテンハイム侯爵の娘であり、本人の資質、父親の政治力、支持者の数ともに互角。皇太子の廃立が終わらないうちに、反皇太子派はブラウンシュヴァイク派とリッテンハイム派に分かれて争い始めた。

 

 フリードリヒ帝の行動が状況をややこしくした。一三年ぶりに皇太子の居館に行幸し、宿泊したという。また、行幸の供を九度も命じられたそうだ。

 

 報道の不正確さには定評のある帝国国営通信社だが、皇帝の行幸についてはやたらと詳しく報じる。臣下の側にとっては一大行事だからだ。それゆえに帝国情勢の専門家は、行幸報道を録画して食い入るように眺めるらしい。

 

 もっとも注目される情報は、皇帝が誰の居館を訪れたか、誰が行幸の供をしたかだ。その回数が重臣の信頼度を示す指標とされる。ここ数年はブラウンシュヴァイク公爵、リッテンハイム侯爵、リヒテンラーデ侯爵、カストロプ公爵、エーレンベルク元帥の五名が最も信頼される重臣と言われてきた。だが、先月だけならルートヴィヒ皇太子が抜群に多いのである。一年に二、三回程度しか供をしなかった皇太子が、五大重臣よりも多く供を命じられた。驚くべき事態だ。

 

「皇帝は皇太子に跡を継がせたいのではないか」

 

 そんな憶測が流れた。しかし、先月末の大赦でも皇太子の配下は赦免の対象外とされており、元帥号の再授与も行われていないことから、廃太子の下準備と見る者もいる。

 

「リンダーホーフ侯爵だろう」

 

 意外な名を口にする者もいる。最近、フリードリヒ帝の妹の子にあたるラーベンスブルク伯爵レオンハルトが、リンダーホーフ侯爵位を授けられた。この侯爵位は即位前の止血帝エーリッヒ二世が保持した由緒があり、皇帝の庶子もしくは男系の甥などに授与されるならいだ。レオンハルトの人物像は不明だが、この時期の昇格に何の意味もないなんてことはないだろう。

 

 いずれにせよ、皇位継承問題が混沌としたのは間違いない。政局が動く時に軍隊も動くという点では、同盟と帝国も共通する。

 

 宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥が、四万隻を率いて帝都オーディンを出発した。グライスヴァルト上級大将、ヒルデスハイム中将など、ブラウンシュヴァイク一門の有力軍人が名を連ねており、ブラウンシュヴァイク公爵主導の出兵と見られる。

 

 これに対し、宇宙艦隊司令長官ロボス元帥は、第五艦隊、第八艦隊、第一〇艦隊を率いて迎撃に向かう。

 

 今年の四月と同じティアマト星域が決戦場になると見られる。過去にこの星域で行われた三度の大会戦のうち、二度は同盟軍の勝利に終わった。三度目を指揮したのがロボス元帥だ。

 

「第四次ティアマト会戦迫る! 同盟軍の三連勝なるか!?」

 

 電子新聞にはこんな見出しが踊る。ティアマト星域は同盟軍にとって縁起のいい場所だ。否が応でも期待が高まる。

 

 国防研究所戦史研究部長ヤン・ウェンリー准将は、マスコミの取材に対し、「前も勝ったから今回も勝てるなんて、虫が良すぎるんじゃないですかね」と答えたらしい。もちろん、このコメントは使用されなかった。

 

 最も多く使われたコメントは、士官学校副校長サンドル・アラルコン少将の「一度は偶然、二度は必然! 二度ある事は三度ある! 我が軍の勝利は疑いなし!」だった。

 

「お調子者め。そんなにうまくいってたまるか」

 

 ルグランジュ司令官がプリントアウトした電子新聞をデスクの上に放り投げた。

 

「まあ、そうですよね」

 

 俺も心の底から同意した。今回の出兵にはあのラインハルトも参陣しているのだ。

 

「こうも持ち上げられては、ロボス元帥もやりにくいだろうに」

「ええ、心配になります」

 

 頭の中に浮かんだのは、ロボス元帥に仕える親友アンドリュー・フォーク大佐の顔。どれほど大きなプレッシャーを感じているのだろうか? 想像したくもない。

 

「その点、我々は気楽なものだ。自分のペースで戦える」

「まったくです」

「ただでさえ気の詰まる任務だ。せめて自由にやらせてもらわんとな」

 

 ルグランジュ司令官が愛嬌たっぷりに笑う。根っからの軍艦乗りである彼にとって、地上勤務は結構なストレスだ。それでも明るく振る舞うことは忘れない。これが人の上に立つ器だった。

 

 司令官のもとを退出した俺は、司令部ビルの前で待機していた公用車に乗り込み、宇宙港へと向かう。超光速通信で数千光年の彼方と交信できる時代でも、直接足を運ばなければわからないことは多い。そのため、幕僚が出張して生の情報を取りに行く。

 

 今回の目的地はヤム・ナハル星系。星系政府が「ドラゴニア任務分艦隊が航路管理権を侵害している」と不満を漏らしたらしい。同盟政府と各星系の関係は主人と臣下ではなく、対等なパートナーという建前だ。同盟政府は各星系の主権を尊重する義務を負う。妥協の糸口を探るのが俺の役目だった。

 

 シャンプールを出発した二日後、ヤム・ナハル星系首星エシュヌンナに入った俺は、星系政府のロンズデール国務次官補、スコフロンスキ運輸省航宙局長、ブラネスク軌道警備隊副長官と相次いで会談した。

 

「おお、あなたがエリヤ・フィリップス大佐ですか! 本当に腰の低い方ですなあ! ハイネセンの役人とはえらい違いだ!」

 

 ロンズデール次官補の上機嫌ぶりは、明らかに社交辞令の域を超えていた。

 

「中央にこんな謙虚な方がいらっしゃるとは思いもしませんでした。先週の国防委員なんて本当に酷くて……」

 

 スコフロンスキ局長が愚痴を漏らす。俺の属するトリューニヒト派と、件の国防委員が属するバイ派は敵対関係だ。それゆえに愚痴を言っても構わないと思われたのだろう。

 

「あなたは本当は辺境の生まれでしょう? 中央の人とは思えない」

 

 過激なヤム・ナハル民族主義者と名高いブラネスク副長官は、会談が終わった後にこんなことを聞いてきた。

 

 省庁幹部との会談を終えた俺は、護衛官二人とともに私服姿で星都ハリスを散策した。中心街には空きビルが目立つ。通行人は高齢者ばかりで、五〇代でも若い部類に入る。死にかけた街という印象だ。

 

 いくつかの店を覗いた。一〇代の少年、五〇代以上の高年齢層がパートの名札を付けて働いている。どの店でも客より店員の方が多い。品揃えは第一一艦隊基地の売店よりもはるかに劣る。少ない商品はきれいに並べられ、床にはチリひとつ落ちておらず、店員がどうやって時間を潰しているのかが伺えた。いたたまれなくて、必要のない物をたくさん買った。

 

 宿舎に戻った後、地元で発行されている新聞や雑誌を片っ端から読んだ。ごく当たり前に中央宙域に対する悪口が出てくる。中央宙域で賞賛される改革についても、弱気な記事は補助金が減るのを心配し、強気な記事は「地方切り捨てだ」と批判する。地方補助金を削減したレベロ財政委員長を、植民星への再配分を拒否した地球統一政府与党のリューブリック書記長と並べ、「冷酷な専制君主」と呼ぶ記事もあった。

 

 企業や住民なども槍玉にあがっていた。中央の企業に対しては、農産物を安く買い叩かれるのが腹立たしいらしい。中央の住民は、「札束で頬をひっぱたきに来る奴」と「説教を垂れに来る奴」しかいないのだそうだ。

 

 求人誌を読んでみて、二〇代から四〇代の働き盛りを見かけない理由がわかった。正社員の募集は恐ろしく少ない。パートも同盟最低賃金ギリギリの時給だ。そして、中央宙域で働く期間労働者の時給だけが飛び抜けて高い。働き盛りはみんな出稼ぎに行ってしまう。

 

 こういったことはヤム・ナハルに限らない。辺境には農業や鉱業など一次産業への依存度が高い星系が多く、流通を握る中央宙域の大企業に逆らえない。資金繰りに困った時に現れるのが中央宙域の金融資本。価格決定力を持たない辺境は、産品を安く買い叩かれた上に、借金でがんじがらめにされるわけだ。地球統一政府の時代、地球企業が植民星経済を支配した故事を思い出す。

 

 ハイネセンでは人余りが問題になっていた。単純労働ですら競争率が恐ろしく上がっている。不況に苦しむ企業は、だぶついた人材を短期間で使い捨てて人件費を節約するようになった。おかげで熟練労働者が育たない。辺境問題と人余りの相関関係が理解できた。

 

 二日目にはヤム・ナハル星系警備隊司令部を訪ねた。今のところ、任務艦隊と彼らの関係は安定しているが、パイプを築くにこしたことはない。

 

「これはこれは! こんなむさ苦しいところにお越しいただき、光栄であります!」

 

 警備司令官モンターニョ准将は、揉み手しながら俺を出迎えた。仮に上官相手だとしても卑屈にすぎる。まして、階級も年齢も相手の方が上だ。

 

「こちらこそ直々にお出迎えいただき恐縮です」

 

 俺は全力で社交用の笑顔を作った。相手の卑屈さに不快感を覚えないでもなかったが、そんなものは心の奥にしまい込む。

 

 第一三任務艦隊の作戦範囲は第七方面軍の管轄、各任務分艦隊の管轄は星域軍の管轄とぴったり重なる。星域軍の配下には、機動戦力の星域即応部隊、広域警備担当の星間巡視隊、そして四つから六つの星系警備隊が置かれる。

 

 海賊対策を進めるにあたって、これらの地方警備部隊の力が必要になる場面も多い。しかし、簡単に協力し合える関係でも無かった。任務や権限の大部分が重複している。そして、指揮系統の上では完全な別組織。揉めてくださいと言わんばかりだ。

 

 さらに困ったことに、地方警備部隊の間にも中央に対する不信感が強かった。方面軍には中央勤務経験者が多く、それほど意識の差は大きくない。だが、星域軍や星系警備隊は地方勤務の長い者が大多数を占める。そして、地方警備部隊は予算でも人事でも冷遇されてきた。中央勤務者と地方勤務者の間には深い溝がある。

 

 モンターニョ准将の卑屈な態度も不信感の裏返しだ。頭を下げて済ませたいという気持ちが透けて見える。口や態度にあらわす者もいれば、笑顔の中に本心を隠す者もいる。そういったところは役人や住民と変わりない。

 

 結局のところ、不信感をほぐさなければどうにもならなかった。世間では、俺は「エル・ファシルの英雄で、同盟軍のトップエリート」と言われる。チビで童顔なせいで威圧感が皆無。そんな人間が頭を下げるだけで溜飲を下げる人は多い。それに小物歴が長いおかげで、頭を下げるのには慣れっこだ。腰の低さと気配りの力で問題解決にあたった。

 

 しかし、頭を下げるだけでは済まない問題もある。宿舎に戻って端末を開いた途端、こめかみが痛くなった。

 

「参ったなあ」

 

 メールを一読しただけで憂鬱になった。差出人はムシュフシュ星系のノヴェリ国務次官補。ムシュフシュ星系政府が同盟軍への協力停止を検討中との内容だ。

 

 星系共和国が加盟国主権を持ち出せば、帝国と独自に国交を開こうが、同盟から離脱しようが、建前の上では自由だ。同盟軍への協力を一時的に停止する星系も何年かに一度は出る。しかし、自分がそれに遭遇するというのは、あまり愉快ではない。

 

 九日前、ムシュフシュ星系第五惑星テル・アスマルで、パランティア任務分艦隊の陸戦隊員が飲酒運転で子供を跳ねた後、基地の中へと逃げ込んだ。星系政府はパランティア任務分艦隊に被疑者を引き渡すよう求めた。

 

 要求に応じれば丸く収まるはずだった。ところが、パランティア任務分艦隊は引き渡しを拒否。被疑者に対しては「門限に遅れた」との理由で三日間の謹慎を命じただけで、事故の責任は問おうとしない。分艦隊広報室長のジャジャム少佐は、「我らの非は一ミリたりとも存在しない」と断言し、星系政府や被害者サイドを挑発するような発言を繰り返す。

 

 第一三任務艦隊司令部とムシュフシュ星系政府は、水面下で交渉を重ねたが、パランティア任務分艦隊の強硬姿勢が障害となった。姿勢を軟化させるよう求めても、一向に改まらない。

 

 星系政府としては穏便に済ませたかったのだが、住民からの突き上げ、パランティア任務分艦隊への不快感などから、強硬論へと引きずられつつあるらしい。ノヴェリ国務次官補のメールは、これ以上強硬論を抑えられないという星系政府からの非公式メッセージだった。

 

 パランティア任務分艦隊の政策調整官バトムンク中佐からのメールも届いていた。一切妥協する必要はないという内容だ。星系政府が強硬論を煽り、同盟政府とのエネルギー価格交渉を有利に運ぼうとしているというのが、パランティア任務分艦隊司令部の見解らしい。

 

 ムシュフシュ星系警備隊からは二通のメールが届いていた。どちらもノヴェリ国務次官補やバトムンク中佐のような公的ルートとは異なる。

 

 ムシュフシュ第二警備旅団長代理のボーリィ地上軍中佐は、星系警備隊が星系政府の非妥協的な姿勢に反発していると述べる。星系首相を「銀河帝国ムシュフシュ自治領主」、住民を「帝国の賤民志願者」と呼んで嘲る幕僚もいるらしい。

 

 一方、ムシュフシュ憲兵隊長のワディンガム宇宙軍少佐のメールによると、警備隊員の多くがパランティア任務分艦隊の高圧的な態度にうんざりしているそうだ。

 

 すべてのメールを読み終えた後、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲んで糖分を補給した。そして、ルグランジュ司令官に通信を入れる。

 

「――というわけです。直接現地に飛んで、自分の目で確認したいと思います。許可をいただけますか?」

「ヤム・ナハルから直接ムシュフシュに向かうつもりか?」

「ええ、時間がありませんので」

「わかった。貴官に任せよう」

「ありがとうございます」

 

 こうして俺はムシュフシュ星系へと向かった。ここまでこじれてしまった事案は少ないが、こじれかけた事案は多い。それを処理するのも大事な仕事だ。普通の参謀は頭を使うが、俺は足を使うのである。

 

 自由惑星同盟は地方から揺らぎつつある。トリューニヒト委員長の危機感、真面目なルグランジュ司令官が前の世界でクーデターに加担した理由も少しは分かってきた。確かにこれは危うい。

 

 俺のような小物が歴史を動かすなんて無理だろう。しかし、一隅を照らす程度ならできるのではないか。そんなことを思いつつマフィンを口にした。



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第37話:二つの世界を渡り歩いて 795年9月20日~12月8日 シャンプール~ハイネセン

 パランティア任務分艦隊とムシュフシュ星系政府のトラブルは、意外な方向に発展した。過激派将校グループ「嘆きの会」が背後にいたのだ。

 

 分艦隊政策調整官バトムンク中佐、分艦隊広報室長ジャジャム少佐らは、嘆きの会の構成員だった。彼らは「辺境政治に詳しい」という触れ込みでパランティア任務分艦隊司令官のツェイ准将に近づき、対外交渉部門を牛耳る。現地軍が独断で反同盟勢力を鎮圧した前例を作るために、辺境星系で騒乱状態を作り出すのが狙いだ。ムシュフシュ星系の住民を挑発し、パランティア任務分艦隊やムシュフシュ星系警備隊の幕僚に嘘を吹き込み、住民と軍を衝突させようとしていた。

 

 これだけ大それたことを佐官だけでできるはずもない。ヤコブレフ宇宙軍大将、フェルミ地上軍大将ら過激派の大物が背後にいるとみられる。ムシュフシュ星系とエネルギー価格絡みで揉めていたフェザーン企業が、バトムンク中佐と接触していたという情報もあった。

 

「この男です」

 

 政策調整官室に勤務していた下士官が名刺を見せてくれた。

 

「アルファエネルギーサービス エル・ファシル支社 営業課 アントニオ・フェルナトーレ。ガス会社の営業マンか……」

 

 先ほど下士官から渡されたフェルナトーレの写真を見直す。年齢は三〇代前半から半ば。きれいに撫で付けられた金髪、黒縁の洒落たメガネ、不敵そうな表情は、まさに大企業の営業マンといった感じだ。

 

 嘆きの会のバックには、フェザーンとの断交を主張する統一正義党が控えていた。フェザーン企業は金になるなら何でもする。反フェザーン勢力と手を組んで、他のフェザーン企業を排除しようとする企業も珍しくはない。フェザーンの自動車会社がフェザーン製自動車の締め出し運動を煽動したこともある。前の世界において、ラインハルト帝は元自治領主ルビンスキーの息がかかった企業を潰し、反ルビンスキー派企業を優遇することで、フェザーン財界を支配した。

 

 アルファエネルギーサービスは、エネルギー利権狙いで嘆きの会と接近したのだろう。何とも迷惑なことだ。

 

 もう一度写真を見た。フェルナトーレの顔に既視感を覚える。だが、いくら頭をひねっても思い出せない。いずれにせよ、ろくでもない目的で動いてるのは確かだろう。国防委員会に報告書を送り、フェルナトーレについて「要調査」との所見を伝えた。

 

「ごくろうだった。エリヤ君のおかげで恥をかかずにすんだよ」

 

 トリューニヒト国防委員長の上機嫌ぶりがスクリーンの向こうから伝わってきた。彼が調査を命じた人物は、バトムンク中佐の言い分だけを聞いて、「武力介入が必要」と報告した。一方、統合作戦本部長シトレ元帥は独自調査でほぼ真相を把握していた。俺が現地調査をしなければ、統合作戦本部の手柄、国防委員会の失態になるところだったらしい。

 

 敬愛する政治家からの褒め言葉に浮かれていたところ、同盟軍の敗報が飛び込んできた。九月二〇日の二二時、ティアマト星域の同盟軍が大損害を被って撤退したのだ。

 

「我が軍は三つの正面すべてで優勢だった。敵は退却した。与えた損害だって大きい」

 

 そう強弁する者もいた。実際、会戦終盤にラインハルト・フォン・ミューゼルの艦隊が後背に出現するまでは、同盟軍の完勝一歩手前だったからだ。しかし、そこから全軍総崩れの手前まで追い込まれては、さすがに勝ったと言えないだろう。第五艦隊司令官ビュコック中将の奮戦がなかったら、同盟軍は完敗したはずだ。

 

 市民はこの結果に不満を抱いた。この戦いで活躍したビュコック中将、モートン少将、アッテンボロー大佐などが英雄に祭り上げられたが、批判を逸らすには至っていない。

 

 市民の目を逸らすには、別の戦いが必要だった。こうして海賊対策部隊がにわかに注目されることとなる。

 

 第一三任務艦隊司令部の第一会議室。その正面スクリーンに数字とグラフが映し出される。国防委員会から送られてきた数値目標だ。

 

「要するに『早く結果を出せ』ということだな。しかし、そうもいかなくなってきた。参謀長、説明を」

 

 任務艦隊司令官ルグランジュ少将が参謀長エーリン准将に説明を促す。

 

「かしこまりました」

 

 エーリン参謀長はすっと立ち上がり、分厚いメガネの奥から出席者を睨むように眺める。

 

「諸君、まずはこちらを見てもらいたい。我が軍の護衛部隊のグラフだよ。損害が増えた。護衛部隊が負けるケースも稀にある。海賊が強くなっているんだ」

 

 誤解の余地を全く与えないほどに簡潔だった。ルグランジュ司令官、エーリン参謀長を除くすべての出席者が青くなる。

 

「まぐれではないんですかね?」

 

 最年長のクィルター作戦部長がもっともな疑問を口にした。軍隊と海賊の戦闘力には雲泥の差がある。まともに戦えば負けることはない。

 

 最近は地方警備部隊が海賊に負けることもあった。第七方面軍配下の輸送部隊がエル・ファシル海賊にしばしば襲撃を受けている。七か月前には、アスターテ星域軍の即応部隊が海賊組織「ガミ・ガミイ自由艦隊」に敗れた。だが、それは海賊が強くなったのではなく、地方警備部隊の予算が削減されたからだと言われる。

 

 第一三任務艦隊は正規艦隊の分艦隊を基幹とする精鋭だ。その配下部隊が海賊に負けるなど信じられないことだった。

 

「まぐれじゃないよ。最新鋭の巡航艦と駆逐艦を持ってる海賊がいた。戦艦を見たなんて証言もある」

「それはそれは……。最近の海賊は随分と金持ちなんですなあ」

「海賊稼業一本でそんなもんは買えないね。買えたところで運用コストを賄えないし」

「つまり、例の噂は事実だと」

「断定はできないよ。でも、九割がたは事実だろうね」

 

 例の噂、すなわち帝国がエル・ファシル海賊を支援しているという噂を、エーリン参謀長は九割がた事実だと言った。

 

「それはとんでもないことですな」

「分かればよろしい」

 

 エーリン参謀長は容姿のみならず態度も教師のようだった。一五歳ほど年長のクィルター作戦部長にも教師のように接する。それをごく当たり前に受け入れさせる貫禄が彼女にはあった。

 

「ご苦労だった。次は副参謀長から頼む」

 

 ルグランジュ司令官が声をかける。エーリン准将が着席し、俺が入れ替わるように立ち上がる。

 

「皆さん、小官が作った資料をごらんください。将兵による迷惑行為発生件数及び犯罪発生件数、行政機関から入った苦情の件数などのデータです」

 

 自分で作った資料ではあるが、見てるだけで気が重くなる内容だ。軽く深呼吸をして心を落ち着ける。鼓動が穏やかになったところで説明を始めた。

 

「迷惑行為、犯罪、苦情件数がすべて増えています。明らかに軍規が緩んでいます」

 

 参謀長の報告と比較すると、はるかに衝撃度は小さい。それでも嫌な現実であった。

 

「ふうむ。山場のない戦いですからなあ。気持ちが緩んでおるのでしょう」

 

 すかさずクィルター作戦部長が反応する。予備役編入間近のこの老大佐は、誰でも言えるようなことしか言わないのだが、それはそれで重要な役割だ。

 

「我々の派遣期間は残り二か月を切りました。しかし、最後の瞬間まで気を抜かないでほしいと思います」

 

 出席者、そして自分自身に言い聞かせるように言った。俺の言葉を受けてルグランジュ司令官が口を開く。

 

「敵が強くなっているのに、味方は緩んでいる。危うい状況だ。参謀長と副参謀長の危機感を全軍に共有してもらいたいと思う」

 

 その後、ルグランジュ司令官が先頭に立って指導した結果、第一三任務艦隊は俺とエーリン参謀長の危機感を共有してくれた。

 

 一〇月の中旬から迷惑行為、犯罪、苦情の件数が減少に転じた。護衛部隊の損害も減った。上層部が期待するような戦果はあげられなかったものの、模範部隊としてマスコミに取り上げられるようになり、トリューニヒト国防委員長から表彰された。

 

「結局、宣伝になればいいということか。政治家とは本当に現金なものだ」

 

 ルグランジュ司令官の角張った顔に苦笑が浮かぶ。俺も苦笑いで応じる。

 

「持ちつ持たれつです。あちらも説明責任がありますから」

「戦争を企業活動とすると、市民はスポンサー、政治家は経営陣、我々は社員だ。経営陣がスポンサーの顔色を見ること自体は間違いではないけどな」

「市民と政治家を納得させる。それも民主主義国家の軍人にとって大事な仕事です」

「しかし、民主主義とはつくづく難儀な体制だ。一度くらい、誰の顔色も気にせずに戦ってみたいもんだ」

 

 ルグランジュ司令官にとっては冗談のつもりかもしれないが、聞き流すには深刻すぎた。彼は前の世界でクーデターに加担して死んだ人なのだ。

 

「滅多なことはおっしゃらないでください!」

「どうした? 顔色を変えるようなことか? 冗談に決まってるだろうが」

「最近は反民主主義勢力が力を伸ばしています。ちょっとしたことでも気になるのです」

「私が過激派とつるむとでも思っているのか? アラルコンなんぞと一緒にされてはたまらんな」

「いえ、そんなことは……」

 

 俺は「滅相もない」といった感じで首を振る。前の世界では、ルグランジュ司令官とアラルコン少将は同じ軍国主義者扱いだった。だが、今の世界では前者は政治色が皆無の軍事プロフェッショナル、後者は過激派の大物と言われる。

 

「過敏になる気持ちはわからなくもない。ムシュフシュの件もあったからな」

「小官は元憲兵です。厳正な軍規と民主主義は不可分ということを知っております」

「確かにそうだ。気を付けよう」

「ありがとうございます」

 

 上官の度量に感謝した。これだけで前の世界の悲運を回避できるとは思わない。だが、俺の言葉を覚えておいてくれたら、いざという時に翻意してくれるんじゃないか。そんな期待があった。

 

 

 

 一度落ち着いた護衛部隊の損害率が一〇月の終わり頃から上がり出した。第一三任務艦隊の戦力ではこれ以上の対策は難しい。そこで第七方面軍との共同作戦に取り掛かった。

 

 一一月二日、第七方面軍司令部ビルで合同幕僚会議に出席した。この場では、方面軍即応部隊と第一三任務艦隊直轄部隊を中核とする機動打撃部隊の編成、帝国からの支援を遮断する手段などについて話し合われた。

 

 会議が終わった後、第七方面軍司令官イーストン・ムーア中将が出席者に陸戦隊名物のカツレツを振る舞った。

 

「昔のフィリップス大佐は本当に大食いでな。特大カツレツでも足りないような顔をしとった」

 

 ムーア中将が幹部候補生養成所時代の話をほじくり返す。俺は目を丸くする。

 

「あれは特大だったんですか?」

「そうだぞ。体作り用のハイカロリーメニューだ」

「存じませんでした。背が低いせいで少なめにされたのかとばかり」

 

 俺は困ったように頭を掻く。みんなは大笑いする。こうして第一三任務艦隊と第七方面軍の幕僚は親睦を深めた。

 

 第七方面軍司令部ビルを出たのは一八時過ぎだった。とっくに課業時間は終わっている。第一三任務艦隊司令部に連絡を入れ、そのまま直帰すると伝えた。

 

 夕日に照らされながら、シャンプール宇宙軍基地の敷地をゆっくりと歩く。今から六年前、この基地で受験生活を送った。この基地から二度目の人生が始まったと言っても過言ではない。たっぷりと懐かしさに浸る。

 

 一時間ほど歩き、ゲートをくぐって外に出た。この辺りの町並みも全然変わっていない。マンション、一戸建て、小店舗などが雑然と立ち並ぶ。いかにも古い住宅街といった風情だ。

 

 一一月の一九時過ぎだというのに暑い。道行く人々もみんな半袖だ。亜熱帯にあるシャンプール市では、まだ残暑の時期だった。屋台で買ったアップル味のアイスキャンディーがとてもおいしく感じられる。

 

「すいません」

 

 女の子が近寄ってきてビラをすっと差し出してきた。反射的に受け取って目を通す。

 

『人はなぜ傷つけ合うのでしょうか? 人はなぜ分かち合うことができないのでしょうか?』

 

 そんな見出しの後に、非正規労働者、退役軍人、障害者、亡命者などの生活苦を訴える文章、失業率や自殺者数の上昇を示すグラフなどが並ぶ。最後に短い文章が記されていた。

 

「人はすべて同じ星から生まれた仲間です

 仲間はお互いに助け合うべきです 

 貧困と憎悪を銀河から追放するために、手を取り合いましょう 

 子供に愛情を、若者に希望を、壮年に安心を、老人に尊敬を、すべての弱い者に保護を

 人類は一つ、母なる地球から生まれた仲間

 

 地球教団自由惑星同盟教会シャンプール主教区 平等と平和のための主教委員会」

 

 書いてある内容は他の宗教と大して変わらない。しかし、「地球教団」の文字が古い記憶を呼び起こす。

 

 地球教団とは、帝国領ソル星系の第三惑星地球に総本山を置く多国籍宗教団体で、地球そのものを「大地神テラ」と呼んで崇拝する。最近は「地球の下の平等」を旗印に掲げ、慈善活動に熱心なことから、貧困層、亡命者、退役軍人などの社会的弱者から支持を受けている。同盟国内の信徒は五〇〇〇万人程度で、十字教や楽土教の一宗派とさほど変わらない。帝国発祥の平凡な新興宗教というのが地球教団に対する一般的な認識だ。

 

 前の世界での地球教団は、絶対悪扱いだった。三度にわたって皇帝ラインハルトの命を狙い、天才ヤン・ウェンリーを暗殺し、名将ロイエンタール元帥を反乱に追い込んだ。ローエングラム朝からもヤン・ウェンリー系勢力からも等しく憎まれた。

 

 ヤンの養子ユリアン・ミンツが地球教総本部から持ちだした資料によると、銀河を支配する野望を抱いた地球教団は、教団幹部レオポルド・ラープにフェザーン自治領を設立させたという。そして、勢力均衡政策の名のもとに、同盟と帝国の戦争を長引かせて共倒れを狙った。

 

 覇王ラインハルト・フォン・ローエングラムの出現が共倒れ計画を破綻させた。銀河支配を諦めきれない地球教団は、ローエングラム朝へのテロ闘争に転じる。新帝国暦一年七月のキュンメル事件から三年七月のヴェルテーゼ仮皇宮襲撃事件まで二年にわたって抗争が続いたが、最終的に地球教団は壊滅した。

 

 地球教団にまつわる疑惑は多い。ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長、極右民兵組織「憂国騎士団」ら同盟主戦派に深く食い込んでいたと言われる。サイオキシン麻薬を信徒に投与した疑いもあった。しかし、地球教総本部の自爆、背後関係の究明より教団壊滅を優先する帝国政府の姿勢、ユリアン・ミンツが教団総書記代理ド・ヴィリエ大主教を殺害したことなどによって資料が失われてしまい、真相は闇に消えた。

 

 俺個人は地球教団に恩義を感じている。多くの人がラインハルト帝の統治を歓迎したが、それでも疎外された者はいた。新体制の恩恵に浴せなかった者、平穏な生活を奪われた者、エリートの地位を失った者、戦死した同盟軍人の遺族などが貧民街へと流れ込んだ。俺もその一人だ。

 

 旧同盟領に乱立した反帝国組織が疎外された者を拾い上げた。地球教団もその一つだ。俺は地球教団の地下教会の炊き出しで飢えを凌いだ。知り合いから「信徒になれば、ミサの後に振る舞われる食事にありつける」と聞いて入信した。彼らがいなければ餓死していただろう。

 

 俺はラインハルト帝やヤン・ウェンリーを英雄だと思っているが、彼らの敵を憎む義務まで負った覚えはない。地球教団のテロ対象は、ローエングラム朝やヤン・ウェンリー系勢力の上層部に限られており、一般市民を巻き込んだ無差別テロはやらなかった。サイオキシン麻薬疑惑にしても、根拠が教団と敵対するミンツやポプランら数名の証言のみだし、俺自身の経験からしても嘘だと思う。嫌う理由は一つも無い。

 

 地球教団を絶対悪のように言う者を見ると、不快な気分になったものだ。意地の悪い奴に「洗脳されている」と言われたこともあった。だが、残虐行為をやったわけでもなく、個人的な怨みもない相手を憎悪できる奴の方が、よほど洗脳されやすいのではないか。

 

 ラインハルトの家臣、ヤン・ウェンリーの部下などが地球教団を憎むのは、成り行きから言って無理もないと思う。しかし、そうでない者までが憎むのは理解できない。俺は逃亡者になって、エル・ファシルの件とまったく関係ない人間にまで叩かれまくった。その経験がこういった思考を形成したのだろうと思う。

 

 地球教団にはいろいろと思い入れがあった。しかし、いざ目の前に現れると心臓に良くない。あの貧しい時代を思い出すではないか。

 

「顔色が悪いですよ。どうかなさったんですか?」

 

 ビラをくれた女の子が俺を現実へと連れ戻した。

 

「あ、いや、何でもないです」

 

 謝った後、相手を観察した。年齢は一〇代後半だろうか。目がぱっちりとして顔立ちは可愛らしいが、化粧っけがまったく無い。やや癖のある赤毛はぼさぼさだ。よれよれのTシャツの上に、「地球に帰ろう、人類は一つ」と書かれたたすきをかけていた。下半身は色あせたデニムに、学校の上履きみたいな形をした汚れた靴。良く言えば清貧、悪く言えばみすぼらしい。

 

「それならいいんですが」

 

 女の子はとても心配そうに俺の顔を覗き込み、ぱっと目を見開いた。

 

「もしかして、エリヤ・フィリップス大佐ですか!?」

「ええ、そうですが」

「私、エル・ファシル出身なんですよ! こんなところでエル・ファシルの英雄にお会いできるなんて! すごく嬉しいです!」

「あ、ありがとう……」

 

 俺は言葉に詰まった。自分が作られた英雄に過ぎないと知っているからだ。

 

「きっと、大地神テラの思し召しですね! 奉仕活動を頑張って良かったです!」

「そうか……」

「教団のおかげで路頭に迷わずに済みました。そして、英雄にお会いできたんです。信仰の力は凄いですよ!」

 

 女の子の言うことに少し引っかかりを感じた。辺境で唯一繁栄しているエル・ファシルで路頭に迷うというのが信じられない。しかし、前の世界のこともある。取りあえず調子を合わせた。

 

「それは大変だったね」

「疎開から戻ってきたら、家は焼けてて、役所勤めの父と母は解雇。どうしようもなくて、家族全員でシャンプールまで出てきたんです」

「エル・ファシルなら仕事はいくらでもあるんじゃないか?」

 

 俺は優しげな声色を保ちながら問う。確かにエル・ファシルの失業率は上がった。だが、それは元公務員が仕事を選り好みしているせいではないか。

 

「時給五ディナールのパートならいくらでもあります。でも、それじゃ生活できませんから」

「五ディナール?」

「エル・ファシルでは最低賃金が決まってないですから」

「ああ、そう言えばそうだった」

 

 頭の中で「君の両親が無能なだけじゃないか」と突っ込みを入れた。エル・ファシルには最低賃金は無いが、上限賃金も無い。豊かになりたければ努力しろ。チャンスこそが唯一最大の保障。それが今のエル・ファシルのルールである。

 

 確かにエル・ファシルの星民平均所得は激減した。数字だけなら最貧惑星と言っていい。ブーブリル上院議員らエル・ファシル反改革派は、これを根拠に「改革は失敗した」と主張した。一方、改革派の顧問を務める経済学者は、「不当な利得を貪っていた公務員と利権企業従業員が消えたせいで、見かけの所得が落ちたに過ぎない。真の所得は四五・三七九パーセントも増えた」と反論する。どちらに説得力があるかは言うまでもないだろう。

 

「小麦畑もチーク林も焼けちゃったし、役所もどんどんリストラしてるし、復興工事も全然やらないし。本当にどうしようもないんです」

「苦労したんだね」

「今は教会に住ませてもらってるんです。こちらは本当に過ごしやすいですよ。パートの時給がエル・ファシルよりずっと高いですから」

「そうか」

「普段は家族みんなでパートをして、時間が空いた時にこうして奉仕活動をしてるんです」

「…………」

 

 自分の中で何かが揺らぎ始めた。宇宙軍大佐の基本給は一か月四五四四ディナール。俺の場合はそれに各種手当、自由戦士勲章の年金が加わり、最終的には七〇〇〇ディナールを越える。そんな高給取りがパートで過ごす家族を見下す。自分の醜悪さに吐き気を覚えた。

 

 エル・ファシルが焦土となったのはこの目で見た。星民所得の低下、失業率の上昇も統計上の事実だ。それでも、政界や学界の良識派が「エル・ファシルは豊かになった」というからには、そうなんだろうと思った。しかし、それは改革派が一方的に流した情報だったのかもしれない。実際、俺は長いこと辺境の実情を知らなかった。

 

「すまなかった」

 

 深く頭を下げた。俺は「エル・ファシルの英雄」の虚名のおかげで高給取りになれた。それなのにまともに関心を払わなかった。エル・ファシルが繁栄しているのか荒廃しているのかは分からない。だが、自分の態度が無責任なのは事実だ。

 

「謝らないでください。フィリップス大佐はエル・ファシルのために戦って下さった方なんですから」

「あ、いや、それは……」

「エル・ファシルからやってきた信徒は、他にもたくさんいるんですよ。エル・ファシルの英雄がお越しになったら、みんなきっと喜びます。時間があったら来てくださいね」

 

 そう言うと、彼女は懐から別のビラを取り出した。慈愛に満ちた笑いを浮かべる総大主教シャルル二四世の写真、シャンプール東教会の住所と連絡先、ミサの案内などが載っていた。

 

「ありがとう。時間がある時に行ってみるよ」

「フィリップス大佐は忙しいですものね。時間がある時にお願いします」

「あ、ああ……」

 

 ここで俺の羞恥心は限界に達した。軽く頭を下げ、早足で逃げ出す。そして、タクシーをつかまえて乗り込んだ。

 

 

 

 一一月一四日、第一次隊の任務は終わった。第一三任務艦隊司令官はルグランジュ司令官から第八艦隊副司令官モシェ・フルダイ少将へと交代し、配下の部隊もハイネセンからやってきた第二次隊と入れ替わる。

 

 交代式を終えた後、俺は官舎に戻った。四か月を過ごしたこの部屋とも今夜限りでお別れだ。荷物をまとめた後、ハイネセンのダーシャ・ブレツェリ中佐に通信を入れた。

 

「本当に大変だった。おかげでマフィンを食べる量が倍増したよ」

「それ、ストレスが溜まった時の決まり文句だね」

 

 スクリーンの向こう側で、ダーシャがくすりと笑う。

 

「そうか?」

「そうだよ」

「まあ、いいや。これでハイネセンに帰れる。やっと君と会える」

「毎日、超高速通信で話してるじゃん」

「映像じゃ物足りないな。本人が目の前にいないと」

「私も」

 

 ダーシャと俺は顔を見合わせて笑う。この部屋から通信するのも今日で最後かと思うと、少し名残惜しい気持ちになる。

 

「そうそう、ハイネセンに帰ったら、思いっきり持ち上げられるよ。覚悟しといてね」

「持ち上げられる?」

「軍が英雄を欲しがってるから」

「ああ、そういうことか」

「英雄、おやすみ」

 

 不吉な一言とともにダーシャは通信を終え、シャンプールでの最後の一日も終わった。翌朝、俺たちはハイネセンへの帰路に就いた。

 

 帰りの船中では、思う存分羽根を伸ばした。早朝に起きてトレーニングルームに赴き、ルグランジュ司令官、エーリン参謀長らとともに鍛錬に励む。朝食の後は報告書の作成、そして勉強に取り組む。正午になったら士官食堂で昼食、午後からは再び仕事や勉強に精を出し、一七時になったら士官食堂で夕食をとる。その後は軽くトレーニングをして部屋に戻り、のんびりと過ごして二三時前後に寝る。

 

 ある日の昼下がりの士官食堂。ルグランジュ司令官がプリントアウトした電子新聞を広げてみせた。その新聞は歯の浮くような美辞麗句を並べ立てて、第一三任務艦隊の功績を褒め称える。

 

「副参謀長の恋人が言った通りだ。我々はどうやら英雄というものになったらしい」

「恋人じゃないですよ」

 

 すかさず反論したが、ルグランジュ司令官、エーリン参謀長、クィルター作戦部長、ディベッラ次席監察官らに聞き流された。

 

「おお、凄い名将がいるらしいですな。『ベルティーニ元帥の再来』だとか」

 

 クィルター作戦部長が、ルグランジュ少将について記された箇所を指差す。ベルティーニ元帥は、今から半世紀前に活躍した名将集団「七三〇年マフィア」の中で、最も勇猛かつ献身的な戦いぶりで知られた闘将だった。

 

「ふむ、フィリップ・ルグランジュとかいう奴は、なかなか大した提督らしいな。私もあやかりたいものだ」

 

 ルグランジュ司令官が真面目くさった顔で頷く。

 

「この記者、まったく勉強していませんね。提督の外見がいかついもんだから、七三〇年マフィアの中で一番いかついベルティーニ元帥に例えてるんでしょ。七三〇年マフィアに例えるなら、ファン元帥だと思うんですけどね」

 

 エーリン参謀長が不勉強な生徒を見るような目を新聞に向ける。ファン元帥は、七三〇年マフィアの中で最も手堅くて守勢に強い提督だ。確かにルグランジュ司令官と戦い方が似ている。

 

「ファン元帥か。あの人は性格がなあ……」

 

 ファン元帥は七三〇年マフィアの中で最も気難しい提督としても知られる。ルグランジュ司令官が嫌な顔をするのも当然といえば当然だ。

 

「そして、このソフィア・エーリンを七三〇年マフィアに例えると、ローザス元帥です」

「どちらかといえば、それはフィリップス副参謀長じゃないか?」

「ローザス元帥が二人いたっていいでしょう」

「ううむ……」

 

 正面から否定しないのがルグランジュ司令官の偉いところだ。ローザス元帥は、七三〇年マフィアの中で最も温厚で落ち着いた常識人。無駄に偉そうなエーリン参謀長とは正反対であろう。

 

「エーリン准将は自己分析だけは本当にできないんですな」

 

 みんなが言いたかったであろうことを、クィルター作戦部長が代弁する。

 

「そんなことはない。自分のことは自分が一番良く分かっている」

「自分の誕生日を間違えるような人が何をおっしゃいます。一度や二度じゃないでしょう? この間は……」

「しかし、フィリップス副参謀長は本当によく食べるな。息子にも見習わせたいものだ」

 

 思いっきりエーリン参謀長は話題を逸らす。俺はハンバーガーから口を離した。

 

「そんなことはありません。まだハンバーガー一個しか食べてないですから」

「それ、一ポンドバーガーじゃないか。半分食べても普通のハンバーガー五個分だ。その他にレタス一玉分のサラダ、大皿入りスープも食べているね」

「いつも通りです」

 

 こんな感じでルグランジュ司令官やその幕僚と話しながら食事を楽しむ。この四か月ですっかりルグランジュ・チームに馴染んでしまった。

 

「しかし、貴官を部下にしておけるのもあと少しと思うと、少し寂しいな。できることなら、この先も一緒に働きたいものだが」

 

 ルグランジュ司令官が寂しそうにはにかむ。

 

「もったいないお言葉です」

「貴官の識見と忠誠心は得難いものだ。次の機会があったらよろしく頼む」

「もったいないお言葉です」

「次と言ってもだいぶ先だろうがな。帝国はあんな状況だ。ティアマトの傷が癒えるまではこちらからも仕掛けられんだろう」

「そうですよね」

 

 俺は相槌を打った。ルグランジュ司令官の個人的な考えではなく、同盟国内での一般的な認識だったからだ。

 

 この二週間、帝国のフリードリヒ帝とルートヴィヒ皇太子の動静が一切伝わってこない。二人揃って病気で寝込むなんてこともないだろう。また、皇帝の叔父にあたるジギスムント大公が「帝国摂政」の肩書きで報じられた。皇帝と皇太子が同時に動けなくなる事態が起きたと見られる。

 

 帝国情勢の専門家は、動静が途絶えた翌日にクロプシュトック侯爵の討伐命令が出た事実に注目した。討伐理由は「大逆罪」で、四親等以内の親族全員が死刑判決を受けた。前例と比較すると、これほど重い連座は皇帝を殺害した者のみに適用される。こうしたことから、クロプシュトック侯爵が皇帝と皇太子を殺害したとの説が有力だ。

 

 大きな内乱が起きたとする説もある。討伐軍の総司令官は摂政ジギスムント大公だが、九〇歳と年老いており、政治力も乏しい。副司令官のブラウンシュヴァイク公爵とリッテンハイム侯爵が事実上の総司令官を務める。この二人は帝国最大の貴族だ。単なる内乱ならどちらか片方を投入するだけで事足りる。帝国を二分するような大乱でもなければ、こんなに大規模な討伐軍は編成されないだろうというわけだ。

 

「最低でも半年は平和だ。時間はたっぷりある。のんびり考えておいてくれ」

「はい」

 

 俺はルグランジュ司令官と握手を交わした。大きくて分厚い手から温もりが伝わってくる。このチームでずっと働くのもありかなと思うが、小心なドーソン中将は放っておけない。次の上官と任務に思いを馳せながら、食後のデザートを平らげる。

 

 それにしても、前の世界と展開が全然違う。エル・ファシルは焼け野原になってから復興した。戦下手と言われたドーソン中将は名将だ。皇太子は宰相になったがロボス元帥に負けた。ヤン・ウェンリーは望み通り歴史関連の仕事に就いている。

 

 一体どこに転換点があったんだろう? 七年前にエル・ファシルに降り立ってから今日までのことを反芻する。

 

「なるほど、エル・ファシルか。転換点はアマラ・ムルティだ」

 

 同盟地上軍随一の勇者にして美人であるアマラ・ムルティ地上軍大尉。三年前のエル・ファシル攻防戦で知られるようになり、今ではアイドル女優並みの人気を誇る。かくいう俺も以前は彼女の写真を携帯端末の待ち受け画像に使ったものだ。エル・ファシルの申し子ともいうべき彼女こそが転換点に違いない。

 

「だからどうだってこともないんだけどな」

 

 世界がどうこうなんて話は手に余る。目の前の仕事を必死でこなし、好きな人に評価してもらえたらそれでいい。

 

 一二月八日、第一次隊は惑星ハイネセンに到着した。同盟国旗、勇ましい言葉が記されたプラカードなどを持った群衆が宇宙港の到着ロビーを埋め尽くす。儀仗兵や軍楽隊までいた。

 

「副参謀長、貴官が七年前にエル・ファシルから戻った時もこんな感じだったのか?」

 

 ルグランジュ司令官が小声で問う。

 

「だいたいこんな感じでした」

「逃げる方法は?」

「一〇〇倍の大軍に囲まれて逃げられますか?」

 

 俺がそう答えると、ルグランジュ司令官の逞しい肩ががっくりと落ちる。こうして第一三任務艦隊の戦いはひとまず終わったのであった。



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第38話:エル・ファシルの英雄三たび 795年12月下旬~796年1月初旬 オリンピア市 ダーシャ・ブレツェリの官舎~国防委員会庁舎~壮行式会場

 英雄エリヤ・フィリップスの寿命は実に短かった。銀河帝国皇帝フリードリヒ四世とルートヴィヒ皇太子の死亡、新帝エルウィン=ヨーゼフ二世の即位、リオ・コロラド事件といった大事件が連続したせいだ。

 

 一二月一一日、銀河帝国政府は皇帝と皇太子がクロプシュトック侯爵に殺害され、皇太子の長子である四歳の皇孫エルウィン=ヨーゼフが即位したと発表。それと同時に「先帝の遺詔」として、ブラウンシュヴァイク公爵・リッテンハイム侯爵・カストロプ公爵・リンダーホーフ侯爵への元帥号授与、リヒテンラーデ侯爵の公爵昇格と宰相就任、ミューゼル男爵のローエングラム伯爵家継承などが実施された。

 

 エルウィン=ヨーゼフ帝が即位した経緯は不明だが、母親のウルスラ皇太子妃は即位の三日前に「事故死」しており、旧皇太子派に対する恩赦も行われていないことから、重臣の誰かに擁立された可能性が高い。

 

 先帝の葬儀委員会メンバーの中では、先帝が亡くなる寸前に抜擢された元帥リンダーホーフ侯爵が第五位、元帥ローエングラム伯爵が第一〇位に入っているのが注目される。彼らは先帝以来の重臣とともに国政に参与すると思われる。

 

 新政権の方向性は不明だが、対外融和に傾いたとの見方もある。副宰相・財務尚書カストロプ公爵が、穀物輸入量の上限を撤廃するようフェザーンに求めた。穀物は帝国がフェザーンを中継して同盟から輸入する物資の中で最大の比重を占める。その輸入上限撤廃は、同盟との穀物貿易を自由化するに等しく、同盟財界でも歓迎する声が大きい。対同盟デタントの第一弾と考えても不思議ではないだろう。

 

 伝聞でしか分からない帝国情勢より、国内で起きたリオ・コロラド事件の方が社会に与えた影響ははるかに大きい。

 

 一二月に入ってから、イゼルローン方面航路での海賊活動が再び活発化した。海賊発生率は第一三任務艦隊が派遣される前の八割まで戻った。護衛部隊の損害率はこれまで最多だった一〇月最終週の水準を上回る。

 

 収まっていた軍の輸送部隊への襲撃も再び始まり、多くの輸送船が海賊の手に落ちた。宇宙艦隊総司令部は輸送力不足を解決するために民間の貨物船を雇った。

 

「戦力の保全を第一に行動せよ」

 

 宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス元帥は、このような訓令を出した。宇宙軍の戦力不足は深刻だ。運用責任者としては、現有戦力の保全を優先せざるを得ない。

 

 巡航艦二隻、砲艦四隻、駆逐艦九隻からなる第五六一三任務隊は、軍が雇った民間船を護衛するために編成された任務部隊の一つだった。ところが、海賊多発宙域に差し掛かった時、巡航艦「リオ・コロラド」を除く全ての艦が、ロボス元帥の訓令を口実に引き返してしまう。

 

 取り残された民間船一〇一隻はそのまま航行を続けた。彼らが結んだ契約では、護衛の有無に関わらず、補給物資を運ばなければならないからだ。

 

 そこに駆逐艦四隻とミサイル戦闘艇八隻からなる海賊船団が現れた。いずれも充実した近距離兵装を持つ。一方、巡航艦のリオ・コロラドは、遠距離戦や中距離戦に向いているが、近距離戦では対空砲と艦載機しか頼れない。

 

 勝負は目に見えていた。リオ・コロラドと三機の艦載機は全滅し、艦長クマル・ラーイー少佐以下一三三人の乗員が一人残らず殉職した。彼らの犠牲と引き換えに民間船は逃げ延びた。

 

 軍が見捨てた民間人が、一部軍人の自主的行動によって救われる。七年前のエル・ファシル脱出と全く同じ構図だ。しかし、エル・ファシルを見捨てたアーサー・リンチ少将の行動が独断だったのに対し、第五六一三任務隊の行動には司令長官の訓令という根拠がある。軍の責任を追及する声が高まった。

 

 ヨブ・トリューニヒト国防委員長の動きは素早かった。事件の翌日にリオ・コロラドの殉職者全員への二階級昇進と自由戦士勲章の授与を発表。英雄を作ってごまかそうとした。

 

 だが、批判が収まる気配はない。反戦市民連合が議会で政府の責任を追及。リベラル派や反戦派のマスコミは、連日のように批判的な報道を繰り広げた。トリューニヒト委員長やロボス元帥に引責辞任を求める声も強い。

 

「リオ・コロラドには、一一二個の勲章じゃなくて、第五六一三任務隊の一五隻が必要だったんじゃないですかね」

 

 マスコミの取材に対し、国防研究所戦史研究部長ヤン・ウェンリー准将は、皮肉たっぷりに語った。民間人の保護が至上命題と考える彼らしい発言だ。殉職者の英雄化を皮肉ったせいでお蔵入りとなったが、第五六一三任務隊への批判だけなら報道されただろう。

 

 今や、第五六一三任務隊は、同盟市民一三〇億人の共通の敵となった。リベラル派や反戦派は、彼らの無責任ぶりを糾弾するとともに、民間人保護を後回しにする軍の体質を批判。主戦派は軍に対する批判を逸らすために、「第五六一三任務隊というならず者集団」を徹底的に叩いた。ネットでも隊員やその家族に対するバッシングが吹き荒れている。

 

 俺の周囲もほぼ第五六一三任務隊批判一色だ。

 

「何と情けない奴らだ。体を張って市民を守る。任務のために命を賭ける。同盟軍人とはそういうものではないか! 恥晒しめ!」

 

 軍人精神を重んじるエーベルト・クリスチアン中佐は、スクリーンが震えそうなほどに怒り狂った。

 

「軍の名誉を汚しおって! 死んで詫びろ!」

 

 第一一艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将は、軍高官とは思えないようなことを言った。

 

「これは許せんなあ」

 

 ナイジェル・ベイ大佐も不快感を示す。

 

「責任持てねえなら民間船なんか使わなきゃいいんだ。輸送科の予備役部隊をいくつか現役に戻ししゃあいいじゃねえか。財務委員会とシトレ元帥が認めねえんだろうけどよ」

 

 サルディス星系警備隊司令官に転任したばかりのマルコム・ワイドボーン准将は、こんな時もきっちりシトレ元帥批判を混ぜてくる。

 

 フィリップ・ルグランジュ少将なども怒っていた。なんだかんだ言って俺の周りには堅い人が多い。怒っていないのは、ダーシャを除けば、イレーシュ・マーリア中佐、ハンス・ベッカー少佐のような緩い人くらいだった。

 

 第五六一三任務隊の隊員の叩かれぶりを見ると、前の世界で受けた仕打ちを思い出す。まるで自分が叩かれたような気持ちになる。ストレスの溜まる日々が続いた。

 

「本当に嫌な世の中だよ」

 

 ダーシャの部屋に泊まった時、そんな愚痴を漏らした。俺の左隣にはダーシャ、向かい側にはイレーシュ中佐が座っている。最近はこの二人だけが心の潤いだ。

 

「エリヤはこういう空気に弱いもんね」

 

 ダーシャが「しょうがないなあ」と言いたげに俺を見る。

 

「こういう時はさ、たくさん食べるといいよ。お腹が膨れたらすっきりするって」

 

 イレーシュ中佐の真っ青な瞳には、俺を心配する気持ちが六割、一刻も早く食事を始めたいという気持ちが四割といったところだ。

 

 食卓の上には、俺とダーシャが共同作業で作った料理が並ぶ。香ばしい匂いのするパラス風エビのガーリックバター炒め「シュリンプ・スキャンピ」、ほくほくのフェザーン風ポテトサラダ「オリヴィエ・サラダ」、こってりしたマカロニ・アンド・チーズ、あつあつのフェザーン風ひき肉カツレツ「ゴヴャージエ・コトレートィ 」、鍋いっぱいのフェザーン風煮込みスープ「ヨタ」、海鮮たっぷりのパラス風ジャンバラヤ、そしてあつあつのアップルパイなど。

 

「はい」

 

 俺とダーシャは同時に頷いた。そして、全員で軍隊式の食前の挨拶をした後、一斉にフォークを躍らせる。俺とイレーシュ中佐は遠慮なく、ダーシャは控えめに料理を口に放り込む。

 

「このジャンバラヤ、癖になる味だね。エリヤくんが作ったの?」

「違いますよ。ダーシャです」

 

 俺が左を見ると、熱いココアにふうふうと息を吹きかけていたダーシャはニッと笑った。

 

「このカツレツは、なんか豪快というか大雑把というか」

「これ、エリヤが作ったんです」

 

 ダーシャが余計なことを言う。

 

「なるほど、ダーシャちゃんが作ったパラス風料理もあれば、エリヤくんが作ったフェザーン風料理もあるってことね」

「はい」

 

 俺とダーシャは同時に答えた。イレーシュ中佐の青い瞳が俺たちを見比べる。

 

「面白いことするねえ」

「ダーシャはパラス風料理も俺よりずっと上手ですから」

「私が上手なんじゃなくて、エリヤが下手なのよ。アップルパイとマカロニ・アンド・チーズしか作れないんだから」

 

 またまた余計なことをダーシャが言う。俺は軽く舌打ちした。

 

「どうしてその二つだけなの?」

「いもう……、いや姉妹が好きだったんですよ。腹を空かせた姉妹に作ってやってたんです」

「アップルパイとマカロニ・アンド・チーズが好物ねえ。食いしん坊というか、似た者兄妹というか」

「似てないですよ」

 

 自分でも分かるほどぶっきらぼうな声だった。妹を思い出すたびに腹が立つ。かつては結構仲のいい兄妹だったのに、俺が逃亡者になった途端に裏切った。理性では前の世界と今の世界が別の世界だと分かっているが、それでも嫌悪感を捨て切れない。

 

「そっか」

 

 イレーシュ中佐はこれ以上突っ込もうとしなかった。俺の気持ちを察してくれたのだろう。

 

「本当に似てないんですよ」

 

 表情で「これ以上聞くな」と念を押す。あとは左隣のダーシャが突っ込んでくるかどうかが気がかりだ。

 

「あつっ!」

 

 なんとダーシャは熱々のココアに口をつけていた。

 

「どうした? 冷まさずに飲むなんて、ダーシャらしくもないな」

「あ、いや、なんでもないよ」

 

 あからさまに動揺するダーシャ。話題を逸らす格好のチャンスだ。俺はここぞとばかりにからかう。そして、ダーシャが不機嫌になりかけたところで話題を変えた。

 

「そういえば、そのカップは友達からもらったんだよな」

「うん」

「いつ見てもいいカップだよなあ」

 

 俺はさらなる話題逸らしを試みた。ダーシャがいつもココアを飲むのに使うカップを褒める。審美眼を持ち合わせていない俺から見ても、結構センスが良いと思える代物だ。

 

「ダーシャちゃん、それってチャペルトンのブルームーンでしょ」

 

 イレーシュ中佐が俺の知らない単語を口にする。

 

「ええ」

「新品で買ったら三〇〇ディナールはするよ。いい友達持ったねえ」

「はい!」

 

 たちまちダーシャの顔に満面の笑みが浮かぶ。カップそのものよりも贈り主が彼女のお気に入りなのだ。

 

「これもその子が送ってくれたんです」

 

 俺はすかさず棚の上に積み重ねられた箱を指差す。イレーシュ中佐が目を丸くした。

 

「フィラデルフィア・ベーグルのマフィンじゃん。三箱もくれたの?」

「これは私じゃなくてエリヤに贈ったものですよ。彼女、エリヤの大ファンですから」

「一箱五〇ディナールもする高級菓子を一度に三箱。本当に気前がいいのね」

「それだけじゃないんですよ」

 

 それからダーシャは友達自慢を始めた。俺にとっては聞き慣れた話だが飽きることはない。愛情が言葉の端々から伝わってきて心が温かくなる。それに義侠心があって気前が良くて喧嘩が強い美人というのは痛快なキャラクターだ。

 

 イレーシュ中佐も俺と同じような感想を抱いたらしい。クールな顔にこれ以上ないほどの暖かい笑みが浮かぶ。

 

「なるほどねえ。その子はダーシャちゃんのヒーローなんだ」

「女性だからヒロインですけどね」

「ダーシャちゃんだってヒロインでしょ。一〇万人を向こうに回した三人の一人なんだから」

「他の二人がいなきゃ折れてました」

 

 ダーシャが遠い目をした。三年前のカプチェランカ基地の件は、忘れ得ない思い出として彼女の中に残っている。

 

 カプチェランカ基地に監察官補として赴任した彼女は、ある人物を擁護したことで基地全体から憎まれた。どのような嫌がらせを受けたのかまでは聞いていないが、強気な彼女が休職届けを出してハイネセンに戻ろうとまで思いつめたのだから、よほど酷かったのだろう。その時に味方してくれた人物が二人いた。一人はヴァンフリート四=二の戦いで亡くなった。もう一人が話題にのぼっている女性だ。

 

「俺なら二人いても折れてるな」

 

 マカロニ・アンド・チーズをもりもり食べながら、前の世界のことを思い出す。側にいたのが無節操な妹でなく、ダーシャとその友達のような義侠心の持ち主だったなら、折れずに済んだのだろうか?

 

 それにしても、最近は前の人生とリンクするような出来事が多い。地球教徒の少女との出会い、そしてリオ・コロラド事件。結局のところ、この人生も前の人生の続きでしかなかった。

 

 

 

 リオ・コロラド事件の結果、受動的な海賊対策の限界が明らかになり、積極的な対策を求める声が高まった。

 

 正規艦隊の戦力は動かせない。国境警備に二個分艦隊、航路警備に二個分艦隊を割いている。海賊討伐に戦力を割いたら即応戦力を確保できなくなるだろう。そこで安全地域の即応部隊や巡視隊の戦力をもって、海賊討伐任務部隊「エル・ファシル方面軍」を編成することになった。

 

 エル・ファシル方面軍は三つの部隊からなる。エル・ファシル星系警備管区を担当する制圧部隊の「エル・ファシル軍」三二万。パランティア星域管区全体を担当する遊撃部隊の「パランティア軍」二一万。そして方面軍司令官直轄部隊一三万。合計すると六六万。普通の方面軍よりは小規模だが、星域軍クラスの部隊を二つ抱えているため、方面軍と同等の扱いを受けるのだ。

 

 軍事行動に消極的な進歩党も討伐軍派遣を支持した。だが、自治体への補助金・住民対策費・基地建設費など二〇〇〇億ディナールの海賊対策予算案に対しては、「過大要求だ」「利権の温床になる」と反対意見が続出。可決される見通しは少ないとみられる。

 

 一二月二三日、国防委員会はエル・ファシル統合任務部隊の陣容を発表。国歌が流れる厳かな雰囲気の中、ヨブ・トリューニヒト国防委員長が幹部名簿を読み上げる。

 

「エル・ファシル方面軍司令官、ディエゴ・パストーレ宇宙軍中将」

 

 討伐作戦の総司令官の名前が発表された瞬間、会場に「おお」という声があがった。パストーレ中将は前の世界でアスターテの愚将と言われたが、この世界では名声が高い。対帝国戦ではなく、海賊や反体制組織との戦いで活躍した地方司令官だ。引退した第四艦隊司令官の後任として最有力視されていたが、海賊問題を重視するトリューニヒト委員長が人事を差し替えた。

 

「エル・ファシル軍司令官兼方面軍副司令官、エド・マクライアム宇宙軍少将」

 

 エド・マクライアム少将の精悍な顔が映し出された瞬間、会場の興奮はさらに高まった。勇猛な戦いぶりから「ファイティング・エド」と呼ばれる宇宙軍陸戦隊の勇将だ。エル・ファシル攻防戦において星都エル・ファシルを奪還する殊勲を立てており、作戦宙域の事情に明るい。

 

「パランティア軍司令官、サンドル・アラルコン宇宙軍少将」

 

 いかめしい顔のアラルコン少将は、別の意味で注目を引いた。指揮官としては一流で、対帝国戦でも対海賊戦でも抜群の実績を示した。だが、過激な思想、民間人・捕虜殺害疑惑などで物議を醸したトラブルメーカーでもある。トリューニヒト委員長とも仲が悪い。起用された理由は誰にもわからなかった。

 

「エル・ファシル軍副司令官、ヤン・ウェンリー宇宙軍准将」

 

 その名前は時間を停止させた。知名度はパストーレ中将やマクライアム准将に匹敵し、意外性はアラルコン少将に匹敵し、ドラマ性は他の三人を圧倒的に上回る。七年前の三〇〇万人脱出作戦を指揮した英雄がエル・ファシルに戻ってくる。これが驚かずにいられるだろうか。

 

 会場を歓声が覆い尽くした。英雄の名はかくも人々を熱狂させる。俺もみんなと一緒になって声をあげたかったが、今日は紹介される側にいる。全力でこらえた。

 

 パランティア軍副司令官にはラッソ地上軍准将という人物が就任した。過激派と対立する中間派の幹部で、アラルコン少将と牽制し合うことを期待されての人事であろう。

 

「第八一一独立任務戦隊司令、エリヤ・フィリップス宇宙軍代将」

 

 俺の名前が読み上げられた途端、歓声と拍手がいっそう大きくなった。どうして俺ごときの名前でそんなに騒ぐのか? 戸惑いつつも笑顔で応える。

 

 ヤン・ウェンリー准将と俺の他にも、「エル・ファシルの英雄」と呼ばれる者がいる。陸戦隊の兄貴分フョードル・パトリチェフ宇宙軍大佐、不死身の超人ルイジ・ヴェリッシモ宇宙軍大尉、美貌の天才狙撃手アマラ・ムルティ地上軍大尉、戦車の天敵と言われるランドン・フォーブズ地上軍中佐、豪勇無双のルイ・マシュンゴ地上軍准尉など、エル・ファシル攻防戦の英雄も海賊討伐に参加することが発表された。

 

 かつての英雄が再びエル・ファシルに結集する! その報は英雄を待ち望む感情を大いに揺さぶり、辺境の一星系はたちまちのうちに同盟全土の関心の的となった。それに伴って、エル・ファシル情勢に関する報道も激増した。

 

 惑星エル・ファシル攻防戦は、七九二年三月二日の帝国軍司令官カイザーリング中将の自決、星都エル・ファシル市解放をもって終結したとされる。だが、敗残兵二〇万は山岳地帯に逃れて抵抗を続けた。帝国軍の軍規では、自発的な降伏は敵前逃亡と同罪、不可抗力で捕虜になった場合も処罰を受ける。死ぬまで戦う以外の選択肢は無かったのだ。

 

 四か月の攻防戦、一年近く続いた敗残兵との戦いによって、惑星エル・ファシルの水道・発電所道路・宇宙港などのインフラは壊滅し、惑星経済を支えてきた小麦畑とチーク林も失われた。

 

 エル・ファシル星系政府は被害額を五〇〇〇億ディナール、復興予算を五年間で六二〇〇億ディナールと見積もり、同盟政府に五五〇〇億ディナールの財政支援を求めた。

 

 当時の財政委員長だったジョアン・レベロは、クーデターの危険を顧みずに国防予算削減を進めた人物だ。エル・ファシル星系政府に対しても遠慮しなかった。最終的に同盟政府が認めた支援額は二三〇〇億ディナール。しかも、緊縮財政を推進するという条件付きである。

 

 同盟政府の提案に対し、「内政干渉だ」と反発する者もいたが、大多数は「改革を進める好機」と捉えて受け入れた。

 

 エル・ファシル独立党、進歩党エル・ファシル星系支部など星系政府の改革派は、ハイネセンから招いた学者とともに改革に取り組んだ。公債発行額の抑制、公務員の人員削減、行政サービスの削減などによって、財政支出が大幅に減少した。公営事業の民営化、フェザーンよりも大胆な規制撤廃、大幅な減税などが功を奏し、ハイネセンやフェザーンから多くの企業が進出してきた。

 

 エル・ファシル星系政府のロムスキー教育長官は、「一〇年後にはいずれフェザーンを超える」と豪語する。辺境の理想郷というのが惑星エル・ファシルに対するイメージであろう。

 

 数字だけを見れば、エル・ファシルは最貧惑星に分類されてもおかしくはない。GDPや星民平均所得が占領前と比べて大きく低下、失業率は倍増している。それでも、学者やマスコミが「自由に勝る豊かさはない」「減少分は公務員や利権企業の不当利得。贅肉が落ちたのだ」と擁護したため、改革は成功したと信じられてきた。

 

 中央政府の主導権を握る国民平和会議(NPC)主流派、進歩党はいずれも改革志向だ。彼らはエル・ファシルを改革のモデルケースとして賞賛してきた。だが、最近になってトリューニヒト国防委員長らNPC右派と近いマスコミがエル・ファシル批判を始めた。

 

「見てください! これがエル・ファシルの現実です!」

 

 若い女性記者は、ずらりと並んだプレハブ作りの仮設住宅を指差す。これが州都の中心部から二キロしか離れていない場所なのだという。道端に積み重なったままの瓦礫、雑草に覆い尽くされた住宅地跡、停電や断水が高い頻度で起きることを示す自治体の配布物なども紹介された。

 

「エル・ファシルが豊かだなどと誰が言ったのでしょう? 私の目には彼らが豊かなようには見えません」

 

 中年の男性記者がいるのは、エル・ファシル市にある民営の職業紹介センターだ。貧相な格好の男女が検索用の端末の前に列をなす。出ている求人はほとんどが時給五ディナールか六ディナールで、しかも二か月から三か月の期限付き雇用。今のエル・ファシルにはこういう求人しか無いのだそうだ。

 

「効率化って要するに人を使わない、金を使わないってことでしょう。役所の人、役所から仕事をもらってた企業の人がみーんな路頭に迷うわけだ。地場産業は戦争で焼けてしまった。社会保障もない。時給五ディナールでも働かないといかん。企業にとっちゃあ天国ですよ。安い労働力が有り余ってるんですからなあ。これがエル・ファシルの繁栄の実態ですわ」

 

 エル・ファシル反改革派のイバルス・ダーボ星会議員がゲストとして登場し、エル・ファシルの経済構造について語る。

 

 右派系テレビ局の報道ドキュメンタリー番組が、「シリーズ エル・ファシルの今――楽園の現実」と題された大掛かりな特集を組んだ。アルコールや麻薬に溺れる失業者、人手不足で機能していない警察、「この惑星でまともに稼げる仕事は麻薬密売と売春だけ」と語る若者、過激派やカルト宗教の集会に詰めかける群衆などは衝撃的だった。

 

 NPC主流派、進歩党は一連の報道について「偏向報道だ」と批判し、エル・ファシルは自由で豊かだという従来の主張を繰り返す。辺境を見て回った経験、地球教徒の少女との出会いなどが無ければ、俺も偏向報道と思っていたに違いない。

 

 だが、世論は理性的に改革を説くNPC主流派や進歩党よりも、扇情的なネガティブキャンペーンを展開するNPC右派を支持した。

 

「政府はエル・ファシルを直接的に救済せよ」

「海賊対策予算として金を落とせばいい」

 

 そんな声が強まり、国防委員会の提出した海賊対策予算案は賛成多数で可決された。

 

 

 

 年が明けて七九六年になった。壮行式のためにエル・ファシル統合任務部隊司令部を訪れたトリューニヒト委員長は、俺の耳に顔を近づけてささやいた。

 

「汚いやり口だと思うかね?」

 

 何とも答えにくい問いだ。英雄の名前を使って注目を集め、ネガティブキャンペーンで予算を通す。ロボス元帥が五年前にやったことよりも汚い。しかし、トリューニヒト委員長は何の意味もなくこんな真似をする人じゃないのも知っている。

 

「微妙ですね」

「なるほど、賛同しかねるが反対もできないと言ったところか」

「おっしゃる通りです」

「プロパガンダなんて改革派もやってることさ。私の方が多少分かりやすいだけでね」

「それはわかりますが……」

 

 俺は言葉を濁す。エル・ファシルを持ち上げてきた連中も汚いといえば汚い。しかし、汚い相手に汚い手段で対抗するのも違うような気がする。サイオキシンマフィアを倒すための資金稼ぎにサイオキシンを売るようなものだ。

 

「エル・ファシルを人が住める場所にするためだ。ここはこらえてくれ」

 

 トリューニヒト委員長は軽く俺の背中を叩いてから、統合任務部隊首脳部が集まる一画へと足を運び、パストーレ中将、マクライアム少将らに声をかける。いかにも政治家といった感じだ。

 

 辺りを見回すと、ヤン准将は司令官らと少し離れた場所でつまらなさそうにしていた。ネグロポンティ下院議員、カプラン下院議員らトリューニヒト派の国防族議員に話しかけられても生返事でごまかす。彼の政治家嫌いは、今の世界でも変わりないようだ。

 

 司令官らとの会話を終えたトリューニヒト委員長は、ヤン准将のもとに歩み寄る。会場の注目が二人のもとに集まった。主戦派のホープと若き天才参謀がどのような会話を交わすのか? 誰もが注目せずにはいられない。

 

 俺は別の意味で注目した。ヤン准将の軍縮論をトリューニヒト委員長は不快に思っている。ヤン准将にしても、戦史研究部長の職から離れ、公務で戦史研究ができなくなるのは嫌だろう。衝突しないで欲しいと心の中で手を合わせる。

 

 先制したのはトリューニヒト委員長だった。人懐っこそうな笑みをたたえてヤン准将に話しかける。

 

「はじめまして、ヤン・ウェンリー君。エル・ファシルの英雄に会えて光栄だ」

「それはどうも」

「私は君の知略を高く評価している。海賊に勝つためには、どのような戦略をもって臨むつもりかね? 是非とも聞かせてもらいたい」

「六倍の兵力を揃え、兵站と通信を完全に整え、正確な情報を集め、司令部と前線の意思疎通を円滑にすれば、負けることはないでしょう」

 

 面白くも無さそうにヤン准将は答えた。奇計が得意なのに物量戦を理想とする。前の世界の戦記に記された戦略思想そのままだ。

 

 トリューニヒト委員長も物量戦が好きだ。軍拡を柱とする新国防方針、五個艦隊動員にこだわった第三次ティアマト会戦などがその典型だろう。大軍を動かせば動かすほど軍需物資の消費も大きくなり、彼を支持する軍需産業も儲かる。ヤン准将の戦略を歓迎するに違いない。

 

 俺は期待を込めてトリューニヒト委員長の顔を見る。だが、なぜか不快さを笑顔の中に押し込めるような表情をしていた。

 

「なかなかに興味深い意見だ。しかし、それだけの条件が整えば、どんな作戦を立てても負けないのではないかな?」

「そのような状況を作るのが戦略であると、小官は考えます。戦略は戦争を進めるための方針、作戦は方針を実現するための計画、戦術は計画を実施するための手段、その全てを支えるのが兵站です。方針が間違っていれば、いかに計画や手段が優れていても意味がありません」

「しかし、いつも物量を揃えられるとは限らない。少数で多数を撃つ。そんな戦略が必要な場面もあると思うのだがね」

 

 トリューニヒト委員長は意地になっているように見えた。人当たりのいい彼らしくもない。何が気に入らないのだろうか?

 

「少数をもって多数に勝つことを前提に戦略を立てる。その時点で負けたも同然でしょう」

 

 売り言葉に買い言葉といったふうにヤン准将が答えた。トリューニヒト委員長を取り巻くパストーレ中将、マクライアム少将らが、「生意気な若僧め」と言いたげに若き天才を見る。

 

 これはまずい。彼らが敵対したら、俺の立つ瀬がなくなるではないか。なんとしてもこの空気を収めなければと思い、慌てて二人のもとに駆け寄った。

 

「さすがはヤン提督、素晴らしい戦略です! 国防委員長閣下の軍拡路線とも合致していらっしゃいます!」

 

 俺はヤン准将とトリューニヒト委員長の両方を立てようとしたが、場をさらに白けさせただけだった。冷笑や嘲りの混じった視線が突き刺さる。そして、俺を見るヤン准将の目には、はっきりと不快の色が浮かんでいた。今の自分は単なる道化に過ぎなかった。

 

「ヤン君は私の考えをよく分かっているようだ。エル・ファシルの英雄の手腕に期待している」

 

 トリューニヒト委員長は、礼儀の範囲を一ミクロンも出ない言葉をヤン准将に与えた。そして、パストーレ中将とマクライアム少将を手招きする。

 

「ヤン君は見どころのある若者だ。良く面倒を見てやって欲しい」

「かしこまりました」

 

 二人はトリューニヒト委員長の頼みを快く了承した。人々の注目はヤン准将から離れ、俺も針のむしろからようやく解放された。

 

「フィリップス君、こっち来てくれる?」

 

 上品そうな声が一息ついた俺を絶望へと叩き落とす。小柄で華奢な体、病的なまでに白い肌、美しい黒髪、憂いを含んだ瞳、清楚な顔立ちを持つマリエット・ブーブリル上院議員。エル・ファシル義勇旅団の元副旅団長にして、エル・ファシル反改革派の巨魁であり、この世で最も荒々しい女性だ。

 

「は、はい!」

 

 俺は急いでブーブリル上院議員の元へと駆け寄った。

 

「フィリップス中佐とブーブリル議員が一緒にいるぞ!」

 

 会場が大いに盛り上がる。反改革派として批判されてきたブーブリル上院議員だが、知名度は圧倒的に高い。義勇旅団の元旅団長と元副旅団長が並んだ絵面にマスコミは大喜びし、先を争うように写真を撮り、上辺だけは親しげな会話を熱心にメモする。

 

 一瞬にして注目を集めてしまったブーブリル上院議員。政治家になってから、演技の才能にますます磨きがかかったらしい。

 

 その他にもトリューニヒト派の政治家が次から次へと寄ってくる。派閥ナンバーツーのネグロポンティ下院議員は、頼れそうだが自慢話がやたらと多い。予備役宇宙軍准将の階級を持つカプラン下院議員は、気さくだが余計な一言ばかり。元警察官僚のボネ下院議員は、頭は良さそうだがとげがある。派閥の金庫番を務めるアイランズ上院議員は、偉そうだが卑屈な感じもする。みんな普通の人だなあという印象だ。

 

「ところで娘さんはお元気ですか?」

 

 アイランズ上院議員と話していた時、ふと彼の娘のエリサを思い出した。エリサ・アイランズは憲兵隊で俺の部下だったが、会話したことはほとんどない。今は交友が途絶えてしまった。

 

「元気だ」

「それは良かったです」

 

 これ以上聞く気にはなれない。アイランズ上院議員の表情が「これ以上聞くな」と語っていたからだ。

 

 ヤン准将は会場の隅っこでパトリチェフ大佐と話していた。この世界では俺の方が早くヤン副司令官と知り合っているはずだ。それなのに距離がすっかり離れてしまってるのが悲しい。

 

 そこから少し離れたところにアラルコン少将が立っていた。悲しいぐらいに人が少ない。人望が薄いからではなく、エル・ファシル方面軍にトリューニヒト派が多いせいだ。過激派が多い会合なら俺が浮いているだろう。

 

 ヤン准将と反対側の隅っこに、ムルティ大尉が私服姿で立っていた。その周りにいる私服姿の女性四人も人目を引きそうな美人ばかりだ。しかし、ムルティ大尉と比較すると元帥と従卒ほどの差がある。ムルティ大尉と同じ第八強襲空挺連隊の隊員だろうか?

 

「あれ? 見覚えあるな」

 

 一人だけ抜群に背の高い女性。緩くウェーブした亜麻色の髪に高校生のような童顔。

 

「ああ、ワイドボーン准将の妹か」

 

 前に見た時は中学校か士官候補生だろうと思っていたが、どうやら現役軍人のようだ。俺はどういうわけか背が高い女性と縁ができやすい。ダーシャにしたって俺よりほんの少しだけ背が高いのだ。もしかしてワイドボーン妹とも縁ができるんじゃないか。

 

 兄一人でも俺の手には余る。妹まで知り合いになったらますます面倒くさそうだ。知り合いにならないことを祈りつつ携帯端末を開く。

 

 待ち受け画像はダーシャの顔写真。毎日のように新しい写真が送られてくるから、日替わりで違う画像を使うこともできる。ちなみに二年前まではムルティの写真を待ち受け画像にしていた。

 

 前の世界で起きなかった海賊討伐作戦。六八年前に人生を狂わせ、八年前に再起のきっかけを作り、四年前に茶番劇を演じさせられた運命の地エル・ファシル。ほどけたかに思われた因縁が再び繋がろうとしていた。



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第39話:エル・ファシルの現実 796年1月28日~2月 エル・ファシル市~第一軍用港跡地~第八一一独立任務戦隊司令部

 一月五日にハイネセンを出発したエル・ファシル方面軍は、途中でエル・ファシル軍とパランティア軍に分かれた。方面軍司令官直轄部隊及びエル・ファシル軍は、二八日にエル・ファシル宇宙港へと降り立った。

 

 車窓の外に赤茶けた荒れ地が広がる。七年前には青々とした畑が広がっていたと思う。シャンプールで会った地球教徒から聞かされた「小麦畑もチーク林も焼けた」という言葉を思い出した。

 

 星都エル・ファシルの市街地に入った。ビルは壊れたまま。商店は昼間だと言うのにシャッターを閉ざしている。道路のひび割れが酷い。わずかな通行人の顔はみんな疲れきっていた。

 

「これが本当に星都……」

 

 ダーシャが廃墟同然の街並みに呆然とする。

 

「前と同じだよ」

 

 俺は窓の外に視線を固定したまま答える。目を背けてはならない。自分が作り出した光景を目に焼き付けなければならない。それが偽りの英雄の義務だ。

 

 やがて中心街に入った。これまでガタガタ揺れていたバスが急に安定する。路面を見るときれいに舗装されていた。大都市の都心部に建っているような立派なビルが軒を連ねる。デザインの良いスーツを身にまとったビジネスマンが歩道を早足で歩く。ピカピカの新型車が車道を行き交う。首都圏の大都市と言われても信じてしまいそうな繁栄ぶりである。

 

「これがエル・ファシルの自由ってことか」

 

 俺はそう呟いた。改革派も反改革派も嘘は言っていない。極端な豊かさと貧しさが一つの街に同居している。エル・ファシルの繁栄は万人にとっての繁栄ではなく、非凡な者にとっての繁栄なのだろう。

 

「あのさ、この星ってまずくない?」

 

 ダーシャが顔を寄せてささやく。

 

「何が?」

「同じ街の中でもこんなに落差があるんだよ? 不平等感が凄いんじゃない?」

「ああ、そうか」

 

 言われて納得した。豊かな中央宙域(メインランド)と貧しい辺境宙域の不平等感。それが同じ地表に共存するようなものだ。確かにまずい。

 

 バスは星系政庁庁舎の前で止まった。四年前に帝国軍司令官カイザーリング中将が自爆を遂げた北棟は、崩れかけの外壁、剥き出しの鉄骨がそのままになっており、周囲の美しいビル群からは完全に浮いている。庁舎前広場も焼け野原のままだ。

 

「マスコミは質素倹約だって褒めてたけどさ。目の当たりにすると引いちゃうね」

 

 ダーシャはリベラリストだが軍人一家で育ったせいか秩序意識も強い。こういった建物は立派であって欲しいと考えるたちだ。

 

「そうだなあ」

 

 俺は心の底から同意した。質素倹約は大事だが、さすがにこれは度を超えている。

 

 エル・ファシル方面軍司令官パストーレ中将、エル・ファシル軍司令官マクライアム少将、エル・ファシル軍副司令官ヤン准将らの後について庁舎南棟に入った。八年前と比べると恐ろしく寂れた感じがする。使われていない部屋が多いせいだろう。

 

 俺たちは星系主席、星系首相ら政府要人と相次いで面会したが、ほとんど時間は割いてもらえなかった。

 

「お久しぶりです。八年前はお世話になりました」

 

 かつて星系庁舎まで案内してくれたフランチェシク・ロムスキー教育長官に挨拶した。

 

「ああ、久しぶりだね」

 

 おそろしく素っ気ない答え。椅子も勧められなかったし、お茶も出なかった。ロムスキー長官は改革派の急先鋒。前の世界ではエル・ファシルを独立させた革命家である。トリューニヒト系の俺に冷たいのはある程度予想できた。それでも、いざ直面してみると寂しいものだ。

 

 反改革派のエネルギー長官と地域開発長官だけがまともに応対してくれた。エル・ファシル方面軍がどう見られているのかをこれほど雄弁に教えてくれる事実も無いであろう。

 

 星系政庁を退出した後、エル・ファシル惑星政庁、エル・ファシル市政庁へ挨拶回りをした。星系政庁ほど大人げない対応はされなかったが、それでも歓迎からは程遠い。

 

 取材に来たマスコミは多かったが、好意的に取材してくれたのはトリューニヒト国防委員長に近い右派系のみだった。国民平和会議(NPC)主流派のビッグ・ファイブに近い中道保守系、進歩党に近いリベラル系などは、わざと怒らせようとしているかのような質問を繰り返す。

 

 パストーレ中将とマクライアム少将は、冗談を交えながら攻撃を受け流す。彼らは政治能力に長けたいわゆる「政将」だ。マスコミ対応には手慣れていた。

 

 夜からは「海賊対策を推進する有志議員の会」が主催する歓迎会に出席した。超党派の星会議員連盟ということになっているが、実際は反改革派の巣窟である国民平和会議エル・ファシル支部に属する議員しかいない。

 

「良くいらっしゃいました! エル・ファシルはあなた方を歓迎しておりますぞ!」

 

 イバルス・ダーボ支部幹事長は、体中の脂肪を揺らして大笑する。強烈な反改革志向ゆえにNPC本部から二度も離党勧告を受けたいわくつきの人物だ。

 

 反改革派の議員が次から次へとやってきてお世辞を言う。エル・ファシルに降り立って初めて歓迎されたパストーレ中将らは、大いに機嫌を良くし、飲み食いと歓談を楽しむ。

 

 改革派の議員を潔癖とすると、反改革派の議員は俗物そのものだった。男性の側には美女、女性の側には美男子が寄り添って酒を注ぐ。だらしない顔で美女の体をしきりに触る議員、大きな声で基地工事について談合する議員もいる。

 

 何十回も政治家のパーティーに出たが、ここまで露骨ではなかった。これが地方政界というものなのだろうか?

 

 俺は体裁を気にする型の凡人だ。こうも欲望剥き出しだと不安になってくる。ドーソン中将が居合わせたとしてもそう感じると思う。ロックウェル中将のように欲が先立つ型の凡人ならこの場にも合わせられるのかも知れない。

 

 ヤン副司令官は「飲み過ぎた」と言って別室に行ったまま帰ってこない。さすがは撤退戦の名手。戦場の外でも引き際を弁えていた。

 

 ダーシャやクリスチアン中佐は階級が低いせいで呼ばれなかった。呼ばれていたらあまりの俗悪ぶりに気分を悪くしたことだろう。クリスチアン中佐なら怒鳴るぐらいはするかもしれない。

 

 ひたすら甘い物を食べて糖分を補充し続けた。欲望の宴を乗り切った後は、タクシーでエル・ファシル市郊外の官舎に帰り、目覚ましを朝四時にセットして眠りにつく。

 

 目覚ましが鳴る五分前に目が覚めた。駐車場に行き、エル・ファシル赴任が決まった際に購入したエアバイクに乗る。

 

 白くなってきた空の下、エル・ファシル第一軍用宇宙港の跡地に向けてバイクを走らせた。果てしなく広がる荒れ地の中で、モスグリーン色の柵に囲われた土地がちらほら見える。エル・ファシル方面軍のために新設された基地の工事現場だ。

 

 惑星エル・ファシルに進駐する戦力は、司令官直轄部隊一二万人、エル・ファシル軍の三割にあたる一一万人、合計すると二三万人になる。一方、星系警備隊がこの惑星に保有する基地の収容能力の合計は七万人。一六万人分の基地が必要だ。 現在、宇宙部隊は民間宇宙港、陸上部隊は大型公共施設、航空部隊は民間空港、水上部隊は民間水上港に間借りして、基地が完成するまでの日々を過ごしている。

 

 年初から始まったこの巨大工事は、エル・ファシル経済に大きな影響を与えたらしい。改革派は「喜ぶのは利権屋だけ。庶民は怒っている」と批判し、反改革派は「最高の景気対策」と褒め称える。どちらが正しいのかは分からない。

 

 焼け野原を作ったのも政治なら、建物を建てようとするのも政治。エル・ファシルは風景までが政治に左右される惑星なのだ。

 

 かつてエル・ファシル星系警備艦隊が駐留していた第一軍用宇宙港の跡地に着いた。六八年前にすべてを失うきっかけを作った場所であり、八年前にやり直した場所。原点を思い出すつもりでやってきた。

 

「本当に酷いな」

 

 見渡すばかりの荒れ地。クレーターのような大穴が点在する。かつてのエル・ファシル星系警備隊の基地は、すべて四年前の地上戦で破壊され尽くした。現在の星系警備隊基地は別の場所に新しく作られたものだ。

 

 一人でぐるぐると歩き回る。わざわざやり直した時と同じ時間帯に来たのに、あまりに風景が違いすぎて、懐かしい気持ちにならない。

 

 二〇メートルほど先に軍服らしきものを着た人影が見えた。穴の辺に腰掛けているようだ。早朝にこんな場所で何をしているんだろうか? 不思議に思いながら足を進める。

 

「すいませーん」

 

 五メートルほどの距離になったところで声を掛けた。軍服を着た人物が顔を上げる。幼い顔の女性だ。

 

「もしかしてフィリップス代将閣下ですか?」

「そうですよ」

 

 代将は閣下じゃなくてただの先任大佐なのにと思いつつ答えた。すると、女性はぴょんと立ち上がり、跳ねるように走り寄ってくる。

 

「お久しぶりです!」

「久しぶり?」

 

 俺は女性をじっくりと観察する。身長は俺より二〇センチほど低い。一五〇センチ前後といったところだろう。髪はチョコレート色、肌は真っ白、きらきらした目と低い鼻が可愛らしい。階級章は宇宙軍軍曹。年齢は俺より五歳ほど下だろうか。見覚えのない人物だ。

 

「覚えていらっしゃらないんですか?」

「すまない」

「ハッセル・ベーカリーって言ったらわかります? 帝国軍が攻めてくる前はフィリップス閣下にひいきしていただいてました」

「ああ、思い出した! 懐かしいなあ!」

 

 口先では懐かしそうに言ってみせたが、実は全然覚えていない。エル・ファシルで兵役を務めていたのは実時間で六八年前になる。基地の近くにパン屋があったこと、そこの娘と仲が良かったことをぼんやりと覚えてるに過ぎない。

 

「私は末っ子のルチエですよ」

「ルチエか! こんなところで会えるとは!」

 

 適当に話を合わせ続けた結果、ルチエ・ハッセル軍曹が、六八年前に通っていたパン屋の娘だったことが分かった。もっとも、俺と親しかったのは彼女ではなく、長姉のマリアらしい。

 

 ハッセル軍曹の口から語られる六八年前の自分は、まるで別人のようだった。給料の大半をスロットマシンに注ぎ込んでたとか、簿記の資格を取ろうとしてたとか、暇さえあれば故郷の妹とメールしてたとか、記憶に無いことが当然の事実として語られる。俺といつも一緒にいたという「のっぽのマーティンさん」と「丸顔のジュディさん」、俺の上官だった「ヘッジズ軍曹」や「パーカスト大尉」などは、存在すら覚えていない。

 

 昔については饒舌なハッセル軍曹だが、今については寡黙だった。エル・ファシル義勇旅団での功績で軍曹に任官したこと、現在はエル・ファシル第二陸戦師団に属していることぐらいしか話さない。マリアなど家族の行方については聞き出せなかった。

 

「楽しかった。ありがとう」

 

 俺は笑顔で礼を言い、思い出の地を後にする。朝日が降り注ぐ中、八年前に通ったのと同じ道を通り、エル・ファシル市へと向かう。胸の中は新しい仕事への期待で膨らんでいた。

 

 

 

 第八一一独立任務戦隊司令部は、三階建ての馬鹿でかいプレハブだった。市役所の仮庁舎なんかに使われるようなしっかりしたプレハブではない。風が吹いたら潰れてしまいそうな安っぽいプレハブだ。何とも寂しい気分になってくる。

 

 袋の中から取り出したマフィンを口に放り込んだ。糖分を補給したところで公用車から降り、司令着任式に臨む。

 

 臨時講堂に集まった隊員は八九〇〇名。司令が壇上にいるのに私語が止まらない。隊列はばらばら。表情の緩み、服装の乱れも酷い。言いようのない不安を感じながら、マイクを握って訓示を始めた。

 

「隊員の皆さん、はじめまして。新しく司令に着任したエリヤ・フィリップスです。

 

 軍の仕事はますます増えているのに、人員や予算は減っています。最近はリオ・コロラド事件や第八六星間巡視隊体罰事件など不祥事が相次ぎ、軍に対する批判の声も強まっております。

 

 皆さんも苦労が多いことでしょう。私は指揮官として、皆さんの苦労を軽減できるよう、微力を尽くしたいと考えております。

 

 古代の名将は『部下から頼られる指揮官が良い指揮官だ』と申しました。私は見ての通り頼りない容姿です。経験も足りません。しかし、皆さんの話を聞きたいという気持ちだけは人一倍持っております。

 

 どうか皆さんのご要望をお聞かせください。皆さんの力をお貸しください。部隊を一緒に作っていきましょう。よろしくお願いします」

 

 ペコリと頭を下げた。しかし、驚くほど隊員の反応が悪い。反感とか敵意とかではなく、宇宙空間に向かって小石を投げたような感じだ。

 

 着任式が終わった後、戦隊副司令、三名の群司令、四人の主任幕僚、戦隊最先任下士官らと相次いで面談した。経験の浅い俺にとっては、彼らの持つ情報と経験が頼りだ。出世した際に彼らが腹心になってくれるかもしれないという色気も少しだけあった。

 

 帰宅した後、端末を開いた。キーボードを叩き、主要な部下の人事資料の要約、直接対面した印象などを打ち込んでいく。

 

 戦隊副司令オルソン大佐は経験豊富だが自主性に欠ける。指示を与えなければ何もしようとしない人だ。指揮官としてはそこそこ優秀でも、パートナーたる副司令としては頼りない。

 

 第一任務群司令アントネスク大佐は勇敢だが大雑把すぎるせいで、細部を見落としがちだ。第二任務群司令タンムサーレ大佐は頭がいいが細部に拘るあまり、全体像を把握できない。二人とも無能ではないが部隊を掌握する能力は今ひとつだ。

 

 第三任務群司令のラヴァンディエ大佐は、四人の大佐の中で最も多くの勲章を持つ勇士だ。しかし、あまり感じは良くない。何を聞いても我関せずの一点張り。自分の部隊についても他人事のようだ。

 

 作戦主任幕僚と首席幕僚を兼ねるスラット中佐、人事主任幕僚のエッペルマン大尉、情報主任幕僚のメイヤー少佐、後方主任幕僚のムートン少佐、戦隊最先任下士官マッコーデール准尉からは、活力や意欲といったものがまったく感じられなかった。

 

「彼がもっと高い階級だったら良かったのにな」

 

 戦隊旗艦「グランド・カナル」の艦長サイラス・フェーガン少佐。年齢は三〇歳だが、立派な口ひげが提督級の貫禄を醸し出す。清廉剛直で曲がったことは絶対にしないと評される。士官学校卒業の経歴、豊かな武勲のわりには昇進が遅い。清廉すぎて煙たがられたのだろう。階級が大佐、いや中佐だったら群を指揮させたかった逸材だ。

 

「これは厳しいな」

 

 フィン・マックール補給科のカヤラル准尉やバダヴィ曹長、ヴァンフリート四=二基地憲兵隊の故トラビ大佐のように任せきりにできる部下は、この部隊には一人もいなかった。部下を頼るのを前提とした指導方針ファイルを倉庫フォルダに移動する。

 

「一人でやるしか無いのか」

 

 さっそく新しい指導方針の作成に取り掛かる。参考にするのはドーソン中将からもらったメモのコピー。部下を一切頼らない指導の秘訣が記されていた。

 

 徹夜で指導方針を作り上げた俺は、第八一一独立任務戦隊の人事記録を検索した。条件は二〇代の若手士官。真面目で自己主張が少なければ能力は問わない。

 

 何と怨敵のスタウ・タッツィーが最上位に来た。前の世界では七九九年時点で曹長に過ぎなかった男が、今は七九六年で大尉。しかも直属でないとはいえ俺の部下。何とも気分の悪い話だ。

 

 タッツィーを除外して再検索。条件に合致したのは、二六歳のセウダ・オズデミル大尉、二四歳のウルミラ・マヘシュ中尉、二二歳のシェリル・コレット中尉の三名。みんな士官学校を卒業した二〇代の女性士官だ。地方部隊に配属されるぐらいだから卒業席次は低い。彼女らを戦隊司令部付士官に登用した。憲兵司令部副官になる前の俺と同じ役割だ。

 

 手足が揃ったところですべての部署に文書を提出するよう求めた。必要な文書の内訳、提出期限を明確に区切り、言い逃れができないようにする。

 

 軍人は命令を拒否することはできないが、手を抜くことはできる。俺のデスクには、文書を出せない理由を説明する文書が山のように積み上げられた。司令部付士官と手分けして文書をチェックした。

 

 その中で納得の行く理由が示されていたものは一割程度、言い訳にしては良くできていると思えたものは二割程度、残り七割は言い訳にすらなっていない。この部隊は手抜きにも手を抜く。

 

 ドーソン中将なら全員を呼びつけて厳罰を下すだろう。しかし、俺は一番酷かった三名を「虚偽報告」として減給するに留めた。あまり厳しくしたら萎縮して仕事に集中できなくなる。心を入れ替えてくれたらそれでいい。

 

 減給処分から一週間後、俺のデスクには要求した通りの文書が積み上げられた。哨戒活動や訓練などの平常業務の傍らで、文書に目を通して情報を吸収した。

 

「酷いな」

 

 まったく芸の無い表現ではあるが、第八一一独立任務戦隊の現状を説明するには、その一言だけで十分だった。

 

 最初に目についたのは勤務環境の悪さだ。少人数で現場を回しているため、過労によるミスが多発している。残業や休日出勤が常態化しているのに、人件費に割り当てられた予算が少ないため、超過勤務手当がほとんど支払われていない。

 

 生活環境も酷過ぎる。支給される食事は、安価な穀類やいも類で水増しして法定カロリーをようやく満たしている有様で、兵士からは「ドッグフードの方がまだまし」と言われる。プレハブ作りの兵舎は廃墟も同然で、窓ガラスの割れ目はテープで塞がれ、給湯器からはお湯が出ず、照明や空調の故障も放置されたまま。

 

 戦闘力は劣悪。所属艦の七割が七六〇年代から七七〇年代に建造された旧式艦で、整備状態も悪く、なぜドックの外にいるのか理解に苦しむ。そんな艦を運用する隊員は、スキルに乏しい上に疲れきっている。物資もことごとく不足気味だった。

 

 こんな職場でやる気が出るはずもない。上は副司令から下は一等兵に至るまで、怠慢と事なかれ主義と無責任に浸りきっている。

 

 隊員同士のトラブルが頻発し、ストレスから病気にかかる者、脱走する者、悪い遊びにのめり込む者が後を絶たない。兵舎の中では暴力事件や盗難事件が頻繁に発生し、麻薬使用の疑いがある者もいるというのに、事なかれ主義の士官がすべて揉み消してしまう。

 

 どこから手を付ければいいのか、見当も付かないほど酷い。そこで部下の立場になって考えてみた。

 

「やはり待遇改善が優先だな」

 

 こんな環境で軍務に専念するなど不可能だ。恩師のクリスチアン中佐も食事と睡眠が基本だと言っていた。まずはすべての部下にうまい飯と安らかな眠りを提供するところから始めよう。

 

 ヨブ・トリューニヒト国防委員長のおかげで予算はたっぷり使える。最初に後方主任幕僚ムートン少佐を呼んだ。

 

「兵士にうまいものを食わせてやってくれ。食事の献立を急に変えることはできないだろうから、肉や魚や野菜を増加食として付けるんだ。甘い物も間食として用意するように」

「かしこまりました」

「兵舎の修理も手配してもらいたい。細かいことはすべてこちらに書いてある」

 

 細々とした指示書をムートン後方主任に手渡した。彼は幕僚であるにもかかわらず、部隊の状況をまったく把握していない。だから、俺が細部まで指示する必要がある。

 

 次に人事主任幕僚エッペルマン大尉を呼び、これまで支払われていなかった残業代の支払い手続きを取るように指示した。

 

 三日後、仕事を終えた俺は兵舎の様子を見に行った。疲れきっていた兵士たちも少しは明るくなっているに違いない。

 

「あれ……?」

 

 相変わらず兵舎の空気は淀んだままだ。周囲をぐるりと歩き回ってみたが、修理工事が始まっている様子も無い。

 

 首を傾げつつも中に入り、下士官や兵卒に暮らしぶりを尋ねた。

 

「増加食ですか? 半年前にインスタント麺が付いてきたきりですね」

「甘いものに飢えてるんですよ。せめて角砂糖一個でもいただけませんか」

「早く修理工事してほしいんですけどねえ」

「残業代が支払われるなんて聞いてませんよ」

 

 みんな口を揃えて何も変わってないという。念のために厨房に行ってこっそりゴミ箱の中を覗いた。だが、肉、魚、野菜、甘い物などが支給された形跡はない。

 

「すまなかった!」

 

 俺は部下に頭を下げた後、そのまま戦隊司令部に戻った。そして、帰宅していたムートン後方主任とエッペルマン人事主任を呼び出す。

 

「後方主任、人事主任、これはいったいどういうことだ?」

 

 何のことやらわからないといった様子で立っている幕僚二人を睨みつけた。さすがにこれは度を超えている。

 

「ええと、それはですね……、なんと言いますか、その……」

 

 二人の言うことは一向に要領を得ない。責任逃れをしているというより、本当に説明に困っていると言った感じだ。手抜きに慣れすぎて、呼吸するような感覚で放置したのだろう。これでは説明を求めても時間の無駄だ。

 

「もういい。ご苦労だった」

 

 俺は二人に帰るよう命じた。彼らが逃げるように司令室を出て行った後、マフィンを口に入れ、砂糖とクリームでどろどろになったコーヒーを飲み、糖分を補給した。

 

 どんな改善策を打ち出しても、実行されなければ無意味だ。まずは「命令したら実行する」という軍隊組織としての最低限のルールを叩き込むところから始めよう。情けない限りではあるが、この部隊はそのレベルすらクリアできていない。

 

 三名の司令部付士官に怠慢ぶりの酷い者をリストアップさせ、一四名を減給、一八名を戒告とした。これらの処分は軽そうに見えるが、れっきとした懲戒処分であり、退役するまで昇進や昇給に響く。また、一〇〇名以上を懲戒処分でない訓告、厳重注意、口頭注意とし、「次はこれでは済まないぞ」と釘を差す。

 

 事なかれ主義の人々にとって、経歴に汚点が付くほど怖いことはない。第八一一独立任務戦隊の隊員は心を入れ替えて働くようになった。

 

 良くも悪くも部下は上官に影響される。エル・ファシル方面軍の人事部に対し、不適格な幕僚や部隊長を解任するよう要請した。意識を変えるには、悪い体質の染み付いた幹部を排除するのが手っ取り早い。

 

 第三任務群の司令と副司令の解任要請が通ったとの連絡を受けた俺は、一〇〇キロ離れた第三〇四任務部隊基地からアーロン・ビューフォート中佐を呼び寄せ、司令代行とした。

 

「第三任務群司令代行アーロン・ビューフォート中佐、只今着任いたしました」

 

 四七歳のビューフォート中佐は、一八歳で航宙専科学校を卒業して以来、艦艇勤務一筋という宇宙の男だ。しかし、日に焼けしたような浅黒い肌、真っ黒な髪の毛と口ひげは、宇宙の男というより海の男のように見える。

 

「お疲れ様でした。コーヒーをどうぞ」

「ご馳走になります」

 

 コーヒーに口をつけるビューフォート中佐。仕草の一つ一つに渋みが漂う。航宙士は洒落っ気に富むという紋切り型のイメージそのままだ。

 

「いかがですか?」

「なかなかうまいですな」

「こうしてあなたと一緒にコーヒーを飲める日が来るなんて、夢にも思いませんでした」

 

 俺は自分のコーヒーをすすった。八年前にエル・ファシルを脱出した時のことが昨日のように思い出される。人生をやり直したばかりの俺は、駆逐艦艦長だった当時のビューフォート少佐に突っかかって優しく諭された。

 

「あれから八年ですか」

「年が経つのも早いものです」

「小学六年生だった上の息子が今年で成人しましたよ。アルバムを見るたびに、こんなに小さかったのかと驚きます」

「本当に八年って長いですね」

「一等兵だったあなたが私の上官になる程度には長いですな」

 

 ビューフォート中佐の頬にえくぼが浮かぶ。

 

「艦艇部隊の指揮官はこれが初めてです。中佐の経験を頼りにしています」

「かしこまりました。微力を尽くしましょう」

「よろしくお願いします」

「あなたはこれから上官になるのです。敬語ではなく命令口調で言っていただきたい」

「わかった。よろしく頼む」

 

 俺とビューフォート中佐はがっちりと手を握り合わせた。そして、すぐ打ち合わせに入る。第八一一独立任務戦隊は、旧式艦の近代化改装が終わり次第、前線に出ることになる。使える時間はさほど多くない。

 

 他の部隊も再建に取り組んでいる。エル・ファシル方面軍配下の部隊は、もともと地方警備部隊に属しており、予算不足でボロボロだ。海賊討伐作戦には、地方警備部隊の戦力再建という目的もあった。

 

 第八一一独立任務戦隊の悪風は打ち砕かれた。ダーシャやクリスチアン中佐によると、「さすがはドーソン提督の弟子だ」と評判になっていると言う。次は戦力を充実させる番であった。



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第40話:統率に王道なし 796年2月~4月5日 第八一一独立任務戦隊司令部~タジュラ星系

 第八一一独立任務戦隊が最も必要とするのは好待遇だ。新任の後方幕僚ノーマン少佐には、食事の改善、間食の支給、兵舎の修理などを手配させた。司令部付士官から後方幕僚に移ったオズデミル大尉には、超過勤務手当の支払い手続きを実施させた。また、アンケートを取ったり、兵舎に足を運んだりして、隊員の要望を取り入れる。

 

「こんなものが不足するなんて予想外だよ」

 

 第三任務群司令代行アーロン・ビューフォート中佐にアンケート用紙の束を見せた。トイレットペーパー、石鹸、掃除用洗剤、印刷用インク、コピー用紙などの補充を求める声が大量に寄せられている。

 

「消耗品は真っ先に経費節減の対象になりますからな」

「全然知らなかった。これまで所属した部隊では不自由しなかったから」

「ハイネセンの部隊は金持ちですからなあ。第一艦隊では、ダストシュートを漁っただけでじゃがいもが何十キロも出てきたとか」

「正規艦隊には大雑把な人が多くてね。残飯が毎年何千トンも出る。だから、ドーソン提督みたいな人がきっちり引き締めないと駄目なんだ」

 

 恩師のためにあらかじめ予防線を張る。第三次ティアマト会戦以降、じゃがいも漁りは美談扱いされるようになったが、嘲笑する声も一部では根強い。

 

「前の勤務地ではじゃがいもの皮が良く出てきました。醤油と砂糖で甘辛く煮ると、なかなかの美味でして」

「じゃがいもの皮……?」

「第一艦隊の件を笑い話にできる連中がいるそうですな。なんとも羨ましい。本当に本当に羨ましい」

 

 ビューフォート中佐の口元は笑っていたが、目はまったく笑っていない。俺は慌てて携帯端末を取り出した。

 

「後方主任、消耗品を今すぐ調達してくれ! 全項目、要求量の倍だ! 金に糸目を付けるな!」

 

 二日後、第八一一独立任務戦隊に属する全部隊の倉庫が消耗品で満たされた。このようにして隊員の待遇は改善されていったのである。

 

 規律の向上にも力を入れた。風紀の取締りを強化し、摘発実績が優秀な者に高い評価を与え、違反行為を隠蔽した者に罰を与える。私的制裁、パワハラ、セクハラ、麻薬犯罪については、匿名での密告を受け付けて、相互監視の網を張り巡らせた。

 

「ノルマは設定しないのですか?」

 

 ビューフォート中佐が不思議そうな顔をする。

 

「憲兵としての経験から言うと、ノルマ主義はまずい。摘発実績欲しさに暴走する者が出てくる」

「なるほど。さすがは元憲兵。取り締まる側の心理を心得ていらっしゃる」

「点数稼ぎは規律を乱す。本末転倒だよ」

 

 憲兵司令部やヴァンフリート四=二基地憲兵隊での経験が大いに役立った。無断欠勤・遅刻の件数が減少。部隊長が事件を揉み消すこともない。隊員の表情は引き締まり、服装は整い、軍人らしく見えるようになった。

 

 隊員のメンタルにも気を使う必要がある。軍務の重圧、過労、人間関係、戦場の緊張感など、軍人が感じるストレスは多種多様だ。アルコール依存、ギャンブル狂い、麻薬中毒、多重債務、私的制裁といった問題もストレスが引き金となる。

 

 国防委員会衛生部によると、精神疾患で休職・退職した将兵は、対帝国戦争で死傷した将兵の二倍以上にのぼる。精神疾患はある意味帝国軍よりずっと恐ろしい敵なのだ。

 

 初代皇帝ルドルフが精神疾患を「甘え」と断じ、精神病者を「劣悪遺伝子排除法」の対象とした結果、帝国の精神医学からメンタルケアの概念が失われた。軍隊でもメンタルケアはまったく行われていない。

 

 一方、銀河連邦の精神医学をロストコロニーから手に入れた同盟は、メンタルケアに対する関心が強い。同盟軍の指揮官や人事管理担当者はメンタルケアに関わる研修を受け、専属の精神科医や臨床心理士が治療にあたる。従軍司祭は医学と異なるアプローチで心の問題に取り組む。治療支援制度も用意されている。

 

 しかしながら、「自由・自主・自律・自尊」の精神を重んじる同盟では、メンタルの問題を自分一人の問題と捉える傾向がある。昇給や昇進が不利になるのではないかという不安から、病気を隠そうとするケースも多い。こういったことから、せっかくの制度もあまり活用されなかった。

 

 制度を安心して利用できる雰囲気を作ることから始めた。相談の事実を人事に反映させないことを明示。匿名で利用できるメール相談窓口も作る。精神科医、臨床心理士、従軍司祭との連携体制も整えた。メンタルと関わりの深い借金問題に関しては、統合任務部隊法務部にはたらきかけ、法務士官による相談窓口を作ってもらった。

 

「本当に細かいことに気が回る。司令というよりは最先任下士官のようですな」

 

 ビューフォート中佐が好奇の眼差しを俺に向ける。

 

「兵役あがりだからね。兵士のことは良く知ってる」

 

 口先ではこう言ったが、実時間で六八年前の兵役経験なんてとっくに忘れてる。メンタルケアへの意識は、前の人生でアルコール中毒や麻薬中毒の治療を受けた経験から培われた。

 

 一朝一夕に結果が出るような問題ではない。それでも、制度を活用する者の数は少しずつ増えてきた。いずれ実を結ぶだろうと思う。

 

 隊員の物質的・精神的充足を図ると同時に、練度向上に取り組む。指揮官の指導力は、有事においては武勲の質と量、平時においては部隊の練度という形で示される。数年に一度改訂される訓練マニュアルを参照すれば、誰でも一通りの指導はできるようになっているが、それだけでは練度は向上しない。マニュアル化されているからこそ、指導力の差が露骨に現れる。

 

 古代アメリカの名将パットンが「半リットルの汗は五リットルの血を節約する」と言った通り、訓練の厳しさと練度の伸びは比例する。だが、厳しいだけでは集中力が続かない。適度な休息や褒美を与えるのも大事だ。

 

 俺は部隊を訓練した経験がない。経験豊かなビューフォート中佐からアドバイスを受けつつ、飴と鞭のバランスを調整していった。

 

 予算の額も訓練の成果を大きく左右する。シミュレーターを使えば金をかけずに精鋭を作れると信じているのは、財政委員会くらいのものだろう。やはり実際に兵器を動かさないと練度は上がらない。褒美として与える賞与や加給品、安全対策などにも金がかかる。

 

 俺は指導経験の少なさを金で補った。所属艦艇の近代化改修が終わるまでは、体力や精神力の錬成、座学による知識の習得、シミュレーターでの訓練など、個人的な技量の向上に務める。ある程度の艦艇が近代化改修が済ませてからは運用訓練も行う。よその部隊から使っていない装備を借りることもあった。第八一一独立任務戦隊の訓練時間は飛躍的に伸びた。

 

 むろん、隊員の意欲を維持するためにも金を使う。ある日、講堂に集まった一万人近い隊員の前で、俺は賞状を読み上げた。

 

「通信部門成績最優秀者 宇宙軍一等兵 ソフィア・ロペラ君

 

 貴官が八月期の通信訓練において示した成績は、部隊の模範とするに足るものである。

 賞与金ならびに休暇を贈り、これを表彰する

 

 エル・ファシル方面軍 第八一一独立任務戦隊司令 宇宙軍代将 エリヤ・フィリップス」

 

 ロペラ上等兵に賞状を手渡し、精一杯の笑顔で笑いかける。

 

「良く頑張りましたね。現在は第一級航宙通信士の試験に取り組まれていると聞きました。あなたならきっとできると信じています。頑張ってください」

 

 俺とロペラ一等兵が握手をかわすと、一斉に拍手が起きる。それから、最優秀部隊と最優秀艦の表彰も行った。表彰式の最後には、同盟国歌「自由の旗、自由の民」を全員で合唱し、最後に「民主主義万歳! 自由惑星同盟万歳!」を叫んだ。

 

 こういった演出によって、隊員の中に被表彰者に対する憧れが生まれる。各部門の最優秀者には賞与と休暇、最優秀部隊と最優秀艦には休暇及び酒・デザート等の加給品が与えられた。

 

 目配りも大事だ。最優秀ではないが成績優秀な者の勤務評価を良くする。頻繁に部隊を視察して回り、向上した者を皆の前で賞賛し、伸び悩んだ者を励まし、隊員一人一人に「司令は君たちの頑張りを見ているぞ」というメッセージを送る。結果を褒められるより、努力を褒められる方が人は喜ぶ。

 

 着任から二か月が過ぎ、すべての艦艇が近代化改修を終えた頃、第八一一独立任務戦隊はようやく戦える組織になった。

 

 

 

 主戦派イコール精神主義とのイメージが強い。だが、主戦派にも様々な系統があり、統一正義党など全体主義者は精神、国民平和会議(NPC)主流派など中道保守は機動力、トリューニヒト派など大衆主義者は物量を重視する。

 

 ヨブ・トリューニヒト国防委員長が提唱する「トリューニヒト・ドクトリン」は、圧倒的な戦力と豊かな兵站を基盤とし、物量で敵を押し潰すことを目指すものだ。

 

 トリューニヒト派にとって、エル・ファシル海賊討伐はトリューニヒト・ドクトリンの優位を示す機会であり、決して負けられない戦いである。

 

 莫大な予算を与えられたエル・ファシル方面軍は、物量の充実に務めた。隊員の待遇を改善し、装備を新しいものと取り替え、定員割れを解消し、金のかかる訓練を増やし、戦力を向上させた。既存の基地を拡大し、新しい基地を作り、それぞれに軍需物資を集積し、兵站を強化した。通信基地を増設し、監視衛星を配備し、強力な情報網を張り巡らせた。

 

 どの部隊も二か月前とは見違えるほどに強くなった。特に注目されたのが第八一一独立任務戦隊だ。右派マスコミから「トリューニヒト・ドクトリンの優等生」と賞賛され、「第八一一独立任務戦隊の六二日――英雄がすべてを変えた」なんて題名のドキュメンタリーも作られた。

 

 言うまでもないことではあるが、これはトリューニヒト委員長の仕掛けである。

 

「身も蓋もない言い方をすれば時間稼ぎだね。一日でも海賊を滅ぼしてほしいというのが市民の願いだ。二か月も準備にかけたら、何をグズグズしているかと思うだろう。戦ってはいないが頑張っている。そう示す必要があるのだよ」

 

 第八一一独立任務戦隊を持ち上げる理由について、トリューニヒト委員長はこのように説明してくれた。

 

「承知いたしました」

「エリヤ君には苦労をかける。すべてが終わったら厚く報いよう」

「もったいないお言葉です」

 

 俺はひたすら恐縮した。実のところ、同程度の成果をあげた指揮官は五、六人ほどいる。自分一人だけ持ち上げられるのは心苦しいが、ここまで言われたらやる気になってくる。

 

 宣伝の結果、俺は「優れたリーダーシップの持ち主」との評判を得た。これまでに得た評判と合わせると、エリヤ・フィリップスは、軍人精神の塊であり、陸戦指揮官としても参謀としても優秀で、部隊運営能力も抜群なスーパー軍人ということになる。

 

「かわいさも抜群だよ」

 

 左隣からそんな声が飛んできたが、聞かなかったことにする。

 

「無視しないでよ」

 

 ダーシャ・ブレツェリ中佐がふくれっ面でこちらを睨む。

 

「ああ、悪かった悪かった」

「全然悪いと思ってないでしょ」

「思ってるから」

 

 売り言葉に買い言葉。一〇分ほど愚にもつかない言い争いが続く。気づいた時には、ダーシャが右手にスプーンを持ち、大きく開かれた俺の口の中にアイスクリームをねじ込んでいたのだった。

 

 我ながら情けないほどに弱い。だが、こんなことができるのも今日いっぱいだ。明日から護衛が二四時間体制で着く。ダーシャの官舎にもおいそれと遊びに行けなくなる。

 

 エル・ファシルには、改革派と反改革派以外に、エル・ファシル人の権利擁護、同盟脱退などを唱えるエル・ファシル民族主義者がいる。星系議会や惑星議会では一定の議席を確保するなど侮りがたい勢力を持つ。その中で最も過激な「エル・ファシル解放運動(ELN)」が俺に対する殺害予告を出した。

 

 俺と同時に殺害予告を受けた方面軍幹部は一二人いる。そのうち、第九〇八独立陸戦師団長ケタリング宇宙軍代将が予告から一八時間後に殺害された。そういうわけで予告を受けた者はすべて要人警護対象者に指定され、俺の側にも護衛が付けられたのである。

 

 自分が狙われた理由は想像がつく。「エル・ファシルの英雄」という虚名のせいだ。本当のエル・ファシルの英雄であるヤン・ウェンリー准将も殺害予告を受けた。

 

「英雄って呼ばれるのもあまりいいもんじゃないよ」

 

 ルチエ・ハッセル軍曹に道端で会った時、そんな愚痴をこぼした。

 

「フィリップス代将閣下は英雄って柄じゃないですからねー」

「そうなんだよ。分かってくれるのは君だけだ」

 

 ハッセル軍曹は英雄になる前の俺を知る数少ない人物だ。ダーシャやクリスチアン中佐とは違った意味で安心できた。

 

 その次の日、有名にならなければ良かったと思いたくなる出来事が起きた。第一任務群司令アントネスク大佐に紹介された人物が厄介事を持ち込んできたのである。

 

「つまり、貴官はトリューニヒト委員長を紹介して欲しいというのか?」

「はい。上官が頼りないもので」

 

 ロビンソン大佐は上官のヤン・ウェンリー准将に不満を持っていた。予算を取ってくれたり、偉い人を紹介してくれたりといったことを期待していたのに、一向に応えてくれないというのだ。

 

 ヤン准将は名目の上ではエル・ファシル軍の副司令官だが、実質的には後方支援部隊の半数を管理するだけに留まる。おおっぴらに居眠りや読書を楽しみつつも、仕事を簡略化し、無駄な経費を省き、残業や休日出勤を固く禁じたため、部下からは「楽をさせてくれる上官だ」と好評だ。しかし、一部には楽をさせてくれる上官より、予算やコネに繋がる上官を求める者もいるらしい。

 

「言いたいことは分かった。だが、それではヤン副司令官がいい顔をしないだろう」

「だからこそフィリップス司令のもとにお伺いしたのです」

「どういうことだ?」

「フィリップス司令がバックにいれば、事を構えることになっても安心ですから」

「事を構えるだって!?」

 

 驚きすぎて息が止まりそうになった。

 

「委員長を紹介していただくというのはそういうことでしょう」

「それはそうだけどね……」

 

 トリューニヒト委員長への紹介とは、つまりトリューニヒト派入りの仲介だ。ロビンソン大佐がトリューニヒト派入りしたら、清廉なヤン准将は不快に思うだろうし、ヤン路線を支持する同僚も怒るだろう。

 

 これまでも俺の周りにはヤン准将と不仲な人が多かった。しかし、この件は次元が違う。完全に政治的な問題だ。

 

 返事を保留してロビンソン大佐を帰らせた後、どうすればいいのかを考えた。トリューニヒト委員長を紹介したら、あの天才を敵に回すことになる。しかし、トリューニヒト委員長を頼ってきた人を拒むのも道義に反する。どちらも気の進まない選択だ。

 

 悩んだ末に士官学校教官チュン・ウー・チェン大佐に通信を入れた。彼はヤン人脈とも反ヤン派とも付き合いが薄い。客観的な判断が期待できる。

 

「――というわけなんです。どうしましょうか?」

「紹介したらいいんじゃないかなあ」

 

 チュン・ウー・チェン大佐は即答した。

 

「そうしたらヤン提督と敵対することになりますよ」

「どのみち君は彼と合わないよ。いずれ敵になる。君と彼が望まなくても周囲がそう望むね」

「俺たちはそう見られてたんですか?」

「君はトリューニヒト委員長の秘蔵っ子、ヤンはシトレ元帥の愛弟子。君は秩序と規律の申し子、ヤンはあらゆる枠にはまらない男。君は体育会系、ヤンは学者肌。君の周囲には優等生が多く、ヤンの周囲にはアウトサイダーが多い。反発し合う要素しかないじゃないか」

「おっしゃるとおりです」

 

 一つ一つ並べられると納得できる。人は違うからこそ分かり合えるというが、分かり合えない種類の違いもあるのだ。

 

「いっそ敵対した方が安定すると思うけどね」

「どういう意味でしょう?」

「同じ陣営にいたら反発し合う相手でも、違う陣営なら距離を取れる。それに君もヤンも相手を滅ぼすまで追い詰めるようなタイプじゃない。敵同士の方が妥協の余地はあるのさ」

「わかりました。ありがとうございます」

 

 目からウロコがぼろぼろと落ちた。敵になったらおしまいだと思っていた。だが、敵だからこそ成り立つ妥協もあると、チュン・ウー・チェン大佐は言う。

 

 通信終了後、俺はロビンソン大佐に通信を入れて、承諾の意を伝えた。そして、トリューニヒト委員長宛てにメールを送る。

 

 その翌日、トリューニヒト委員長はロビンソン大佐のもとに直接通信を入れて、希望額より三割多く出すと約束した。ロビンソン大佐は驚き喜び、ほんの一度の通信でトリューニヒト委員長に心酔したのである。

 

 何とも凄い人心掌握術だ。紹介者である俺もその余得にあずかった。「フィリップス代将は頼りがいのある人だ」との評判が鳴り響いたのである。

 

 

 

 四月一日、実戦形式の演習を終えた後、対戦相手の第八一三独立任務戦隊司令エスラ・アブジュ代将が首を傾げた。

 

「練度・戦意・規律はそっちの方がずっと上でしょ。なんでこんなにあっさり負けるの? 理解できないんだけど」

「俺にもわかりません」

「あの陽動は小手調べだったのよ。まさか戦力を三分するなんて思わなかった」

 

 アブジュ代将の顔に困惑の色が広がる。演習の目的は勝ち負けではなく、部隊の能力向上だ。自滅されると勝った側も困る。彼女のために予算を取らなかったら、困惑ではなく非難と直面したことだろう。

 

 他の戦隊司令との演習でもことごとく負けた。上陸戦を想定した演習を行った際に、陸戦隊指揮官や地上軍指揮官が率いる艦艇部隊と戦ったが、二回に一度しか勝てなかった。

 

 あまりの弱さに危機感を覚えた俺は、プライベートで戦略戦術シミュレーションを重ねて用兵を練習した。

 

 最も多く対戦したのはもちろんダーシャだ。「いつかアスターテで包囲殲滅戦をやりたい」が口癖の彼女と戦うと、いつの間にか包囲陣に引きずり込まれ、退路も完全に遮断され、徹底的に叩き潰される。

 

 ビューフォート中佐とも良く対戦した。専科学校出身で参謀経験のない彼は、戦場仕込みの判断力が持ち味だ。未熟な俺は翻弄されっぱなしであった。

 

 ハイネセンにいる友人知人とは通信対戦で戦った。ラインハルトには歯が立たないドーソン中将も俺より圧倒的に強い。ルグランジュ少将は用兵が下手だと言われるが、それは正規艦隊の基準であって、俺ごときは軽く一ひねりできる。チュン・ウー・チェン大佐とは怖くて戦わなかった。本当に下手くそなイレーシュ中佐やベイ大佐との対戦では、二回に一回は勝てたが、あまり自慢にはならない。

 

 サルディス星系にいるワイドボーン准将とも通信対戦で戦った。素早さと正確さを兼ね備えた用兵は、文字通り俺を粉砕した。

 

 第七方面軍司令官イーストン・ムーア中将がエル・ファシルに視察にやってきた時、対戦を申し込んだ。

 

「君相手でも手加減はせんぞ!」

 

 自信満々の顔のムーア中将がシミュレーターに座る。陸戦隊出身の軍人にも二タイプある。地上戦闘一筋のタイプ、地上部隊と宇宙部隊を組み合わせた統合作戦に長けたタイプだ。彼は後者に属する。分艦隊司令官や機動部隊司令官を経験したこともあった。

 

「お手柔らかにお願いします」

 

 俺は笑いながら頭を下げたが、内心では負ける気がしない。相手は前の世界のアスターテ会戦で惨敗して「素人以下の愚将」と酷評された人物。上陸戦はできても艦隊戦はできないだろう。付け入る隙はある。

 

 シミュレーションが始まって間もなく、ムーア中将は戦力を三分して分進合撃を開始する。どうやらアスターテの過ちを繰り返すつもりらしい。俺は戦力を集中して各個撃破を試みた。しかし、攻め切れないうちに他の二つの部隊がやってきて袋叩きにあう。

 

 一時間四〇分後、俺は敗北した。降伏ボタンを押そうとしたところで、流れ弾が旗艦に直撃するという最低の負け方だった。

 

「君が活躍したエル・ファシルやヴァンフリートは地上戦だったろう? 陸戦隊の方が向いとるんじゃないかね?」

 

 対戦終了後、食事の席で前の世界の愚将にそんな言葉をかけられた。考えてみると、まったく艦隊戦ができないなら、前の世界で正規艦隊司令官になれないはずだ。選ぶ側も恥をかくのは嫌だろう。

 

「……考えておきます」

 

 俺は蚊の泣くような声で答え、陸戦隊名物のカツレツを頬張る。こんな時なのに天然肉がうまかった。

 

 なぜこんなに用兵が下手くそなのだろう? 自問自答するまでもなく、いろんな人が答えを教えてくれた。

 

「古代の孫子って軍事学者が『思いやりのある指揮官は心配事が絶えない』って言っててね。エリヤの細かい性格は、気配りにも気疲れにもなるの。敵の動きにいちいち反応してたらもたないよ」

 

 俺の管理者としての長所と用兵家としての欠点が表裏一体であると、ダーシャは指摘した。

 

「フィリップス代将は単純すぎるんだ。何を考えてるか丸分かりなのさ。人間としちゃあ付き合いやすいけど、用兵家としてはまずいぜ」

 

 ワイドボーン准将にそう言われると、納得していいのか悪いのか微妙な気持ちになる。

 

「あなたの判断が遅い理由は二つ。一つは頭の回転が遅い。もう一つは気が小さい。どちらも経験を積んだらある程度は改善できます。経験というよりは自信でしょうか。自信が付けば、あれこれ悩まずとも感覚で判断できるようになるでしょう。とにかく勝つことです。勝利は人を強くします」

 

 ビューフォート中佐は、俺の判断の遅さを改善する道を示してくれた。

 

「どうやって勝てばいいんだ?」

「パストーレ提督がうまいこと考えてくれますよ。あなたに武勲を立てさせたいでしょうから」

「そうだといいんだけどな」

 

 実を言うと、俺はパストーレ司令官の采配にあまり期待していない。前の世界ではムーア中将とともにアスターテの愚将として汚名を残した。聞くところによると、この世界では「戦力を揃えるのはうまいが、戦術は単調そのもの」という評価だそうだ。

 

「パストーレ提督は目端の利く人だ。トリューニヒト委員長側近とのパイプは大事にしたいはずです」

「そう見られてるのは分かってる。分かってるけど微妙な気分だね」

 

 エル・ファシル方面軍は潤沢な予算を与えられているが、俺はトリューニヒト委員長とのコネを使ってさらに多くの予算を取った。金とコネに頼ったやり方を嫌う人もいる。

 

「フェーガンなんか気にすることはないでしょうに」

「旗艦の艦長に白い目で見られるんだぞ? 気になってしょうがない」

 

 戦隊旗艦「グランド・カナル」の艦長フェーガン少佐が俺のやり方に反発していた。政治家との付き合いをやめ、簡略化と経費節減に務めろというのが彼の意見だ。同調者も無視できない程度には多い。

 

「あいつの望み通りになったら、今度は私があなたを白い目で見ることになりますがね」

 

 ビューフォート中佐の目つきが急に鋭くなる。

 

「そ、それは困る」

「私はつまらん男です。武勲がほしい。昇進したい。給料を上げたい。いいポストがほしい。勲章がほしい。予算がほしい。そんなことばかり考えとります。私の部下もそうです。偉くなりたい。金がほしい。そんなことばかり考えとるんです」

「そう思うのが普通だよ」

「地位はいらん、金もいらんなんて本気で言えるのは、フェーガンのような理想家か、黙っていても階級と給料が上がるエリートぐらいのものです。あなたはハイネセン勤めが長い。そういう連中の顔色が気になるのも無理はないでしょうが、私どもの顔色にも配慮いただけるとありがたいですな」

「すまなかった」

 

 俺は机に手をついて頭を下げた。自分が「黙っていても階級と給料が上がるエリート」そのものだと気づいたからだ。

 

「これまでの上官は、予算を取る力がないか、予算を減らして評判をあげようとする人ばかり。予算をたくさん取ってくれる指揮官はあなたが初めてだ。本当にありがたいと思っとります」

「俺はみんなの役に立っていると思っていいんだな」

「とても良い指揮官です。勝てるようになれば言うことはありません」

「武勲を稼ぎたいということか」

「私が中佐になったのは八年前。順当に行けば今年の末には大佐に昇進するでしょう。下士官あがりとしてはこれ以上望み得ない地位ですが、欲を言うなら代将になりたいですな。退役と同時に准将になれますから」

 

 ビューフォート中佐はありふれた夢を語る。退役当日に代将から准将に昇進した者は、俗に言う「名誉提督」で、現役で提督になった者より一段低く見られる。それでも提督と呼ばれたいと願うのが宇宙軍軍人なのだ。

 

「わかった。頑張ってみる」

 

 俺はにっこりと笑った。人には向き不向きがある。ヤン准将やフェーガン少佐のように清廉さで人を引きつける力はない。持っている能力を活かすのが最善の道だ。

 

 幹部候補生養成所で知った「統率に王道なし」という言葉の意味がようやく理解できたような気がする。クリーンなヤン准将のやり方を嫌うロビンソン大佐もいれば、金とコネにまみれた俺のやり方を嫌うフェーガン少佐もいるのだから。

 

 四月五日、エル・ファシル方面軍は作戦行動を開始した。第八一一独立任務戦隊はパストーレ司令官が直率する一三〇〇隻の部隊に加わり、タジュラ星系へと向かう。

 

 タジュラ星系とはエル・ファシル星系に隣接する無人星系だ。資源採掘施設のある第二惑星、同盟軍基地のある第七惑星と第一二惑星以外はすべて海賊の勢力圏だ。中央情報局の二重スパイ「パウロ」がもたらした情報によると、五大組織の一つ「ドラキュラ」の別働隊が第一〇惑星宙域にいるという。

 

 味方は一三〇〇隻、敵は四〇〇隻。戦力は圧倒的だ。全軍が必勝を期する中、初めての艦艇指揮を控えた俺は、気絶しそうな程に緊張していた。



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第41話:赤毛の驍将 796年4月6日~7月初旬 タジュラ星系~ネファジット星系~アドワ六=三~惑星エル・ファシル

 四月六日、エル・ファシル方面軍司令官ディエゴ・パストーレ中将率いる司令官直轄部隊は、タジュラ星系第一〇惑星宙域において、大手海賊組織「ドラキュラ」の別働隊と対峙した。

 

 同盟軍の戦力は一三三一隻。内訳は巡航艦が一八一隻、駆逐艦が四七三隻、砲艦が一〇六隻、ミサイル戦闘艇が四三二隻、支援艦艇が一三九隻。ミサイル戦闘艇はミサイル艦とは違う艦種で、駆逐艦よりも小さくワープ能力もなく、地方警備部隊にのみ配属される。駆逐艦と同程度の艦体に長距離ビーム砲を搭載した砲艦は、散開陣形全盛時代の遺物だ。

 

 ドラキュラ側の戦力は四〇〇隻から四五〇隻。その過半数がミサイル戦闘艇、残りは駆逐艦と砲艦が半々といったところだ。巡航艦も数隻ほどいる。武装高速艇の姿は見られない。純粋な戦闘編成といえよう。

 

 数の上では同盟軍が圧倒的に優位だった。同盟軍の方が旧式艦が多いが、すべての艦に近代化改修が施されており、性能で負けることは無いだろう。不利を悟ったのか、ドラキュラは早くも逃げる用意をしている。

 

「奴らを逃がすな!」

 

 パストーレ司令官は全軍を二つに分けた。正面の第三〇四独立任務部隊七九四隻と第八一二独立任務戦隊二〇四隻は、両翼を伸ばして敵を押し包もうとする。第八一一独立任務戦隊一九二隻は背後へと回りこむ。

 

 生まれて初めての艦隊指揮。配下の戦力は巡航艦三二隻、駆逐艦八四隻、砲艦一三隻、ミサイル戦闘艇六五隻、合計一九四隻。参謀を務めた第一一艦隊や第一三任務艦隊とは比較にならない小部隊だが、それでも相当な人数だ。緊張で腹が痛む。

 

「心配しすぎではありませんか?」

 

 戦隊首席幕僚と作戦主任幕僚を兼ねるスラット中佐がそんなことを言った。

 

「初めての戦いだからね。いくら心配しても足りないくらいだ」

「相手は小勢、しかも完全に浮き足立っています。我が方の勝利は間違いありません」

「万が一ということもあるよ」

 

 俺は務めて穏やかな表情を作る。「あんたが頼りないからだ」とは言わない。

 

「何かあっても我が方は敵の二倍。どうにかなりますよ」

 

 スラット作戦主任は自分の仕事を忘れたかのような言葉を吐く。決して無能ではないし、手を抜くわけでもないのだが、緊張感を持続できない人だ。

 

「作戦主任のおっしゃる通りです。心配することなどどこにあるのでしょう?」

 

 情報主任幕僚のメイヤー少佐が作戦主任に同調した。本来なら一番心配すべき立場の人物が率先してこんなことを言う。意識が低いとしか言いようがない。

 

 後方主任幕僚のノーマン少佐は意識が高いが、やる気過剰、能力過少といった感じで空回りしがちだ。人事主任幕僚のオズデミル大尉、司令部付士官のマヘシュ中尉とコレット中尉は、真面目だが自主性に欠ける。

 

 なんとも微妙な幕僚ばかりだ。代将は准将と同じポストに就く資格があるが、書類上は「先任の大佐」に過ぎず、幕僚を選任する権利は無い。イゼルローン遠征軍総司令部や第一一艦隊司令部にいたようなエリート幕僚を一人でも雇えたら、苦労の半分、いや八割は無くなるのに。

 

「フィリップス司令はお若い。だから、いろいろと心配になるのでしょう。しかし、私の長い経験から言いますと、敵の二倍の戦力があれば眠っていても勝てるものです。しょせんは海賊ですからな」

 

 スラット作戦主任の言葉はさらに心配事を増やした。

 

「そうかもね。ありがとう」

 

 心にもない感謝の言葉を述べた。マフィンを立て続けに口に放り込み、甘味でやりきれなさを紛らわす。

 

 配下の部隊長も幕僚と負けず劣らず頼りない。オルソン副司令はベテランだが自主性に乏しい。第一任務群のアントネスク司令は勇敢だがいい加減。第二任務群のタンムサーレ司令は緻密だが細かすぎる。信頼できるのは第三任務群のビューフォート司令代行ぐらいのものだ。

 

 これまでの俺は部下を頼りにしてきた。しかし、ここでは部下が俺を頼るのだ。せっせと糖分を補給しながら指揮を取る。

 

 逃げようとする敵、逃がすまいとする味方主力部隊が主戦場でせめぎ合う。その横を第八一一独立任務戦隊が素早くすり抜け、敵の後方に出た。

 

「背後を取ったぞ! 全艦突撃!」

 

 俺はマイクを持って叫ぶ。戦隊旗艦グランド・カナルを先頭に全艦が一丸となり、浮足立った敵目掛けて突き進む。

 

 勝敗はあっけなく決した。海賊船の三分の一が破壊され、三分の一が捕獲され、三分の一が辛うじて逃げ延びた。同盟軍の損害は一五隻に過ぎない。文句のつけようのない圧勝であった。

 

「勝ったぞ!」

 

 歓声と拍手が嵐となって吹き荒れる。喜びの感情が弾け飛ぶ。幕僚たちが次々と俺のもとに駆け寄ってきた。

 

「……! ……!」

「…………!」

 

 部下の言葉が右から左へとすり抜けていく。俺の頭の中は、あまりにも簡単に勝ってしまったことへの驚きに埋め尽くされた。

 

 正気に返ってからもまったく喜べなかった。さすがにこれはビギナーズラックだろう。今度は苦戦するに違いない。勝利というのはもっと難しいものに決まってる。負け犬根性の染み付いた俺はそう思った。

 

 初勝利から四日後の四月一〇日。第八一一独立任務戦隊は、エル・ファシル軍所属の第三〇二独立任務部隊の指揮下に入り、大手海賊組織「黒色戦隊」と戦った。

 

 味方は一〇九四隻。敵は五〇〇隻から六〇〇隻。数の上では味方が有利だが、敵は小惑星帯に立てこもっている。

 

「恐れることはない! 全艦突撃!」

 

 俺はマイクを持って叫んだ。戦隊旗艦グランド・カナルを先頭に全艦が一丸となり、小惑星帯へと突き進む。第八一一独立任務戦隊の後に第三〇二独立任務部隊が続く。

 

 どうやら敵はいきなり突入してくると思ってなかったらしい。みっともないほどに混乱し、先を争うように逃げ出した。だが、ほとんどが破壊もしくは捕獲される羽目となった。

 

 みんなが喜びに沸く中、俺は一人呆然と立ち尽くす。こんなにあっさり勝ったのが信じられなかったからだ。

 

 一度や二度なら偶然かもしれない。だが、第八一一独立任務戦隊は三度目も勝ち、四度目も五度目も勝った。先鋒となって真っ先に突っ込んでも、予備戦力となって最後に突っ込んでも、別働隊となって側背から突っ込んでも勝った。

 

 戦場は宇宙のみではない。海賊の主力兵器である小型艇にはワープ能力が無く、航続距離が短いため、地上からの兵站支援が不可欠だ。無人惑星や小惑星などに隠れた兵站拠点を探り当て、陸戦隊や地上軍を送り込んで制圧した。

 

 司令官直轄部隊は一種の便利屋だ。パストーレ司令官の指揮で戦うこともあれば、必要に応じてエル・ファシル軍やパランティア軍に派遣されることもある。地上攻撃にも投入された。

 

 四月一四日、第八一一独立任務戦隊は、アドワ星系第六惑星第三衛星、すなわちアドワ六=三攻略作戦に加わった。この衛星にあるドラキュラの重要拠点には、一〇〇隻ほどの艦艇と三万人の構成員が潜んでいると見られる。

 

 第八一一独立任務戦隊一八六隻、第八一三独立任務戦隊一八九隻が第六惑星宙域に入ると、一〇〇隻前後の海賊船が慌てて迎撃に出てきた。

 

「敵の艦列は乱れているぞ! 突撃だ! ひたすら突撃だ! とにかく突撃だ! 何が何でも突撃だ!」

 

 俺はマイクを持って叫んだ。戦隊旗艦グランド・カナルを先頭に全艦が一丸となり、小惑星帯へと突き進む。

 

 ほんの数分もしないうちに敵は総崩れとなった。六=三の衛星軌道上には、一〇〇隻から一二〇隻ほどの軌道戦闘艇、六〇隻から七〇隻ほどの宙陸両用戦闘艇が展開していたが、これも難なく打ち破る。

 

 宇宙空間から敵がいなくなったところで上陸作戦が始まる。宇宙部隊五個戦隊がアドワ六=三の周囲を封鎖。陸戦隊のシャトルが衛星軌道上から降下し、宙陸両用部隊一個戦隊がその援護にあたる。陸戦隊が橋頭堡を築いたところで、地上軍を乗せたシャトルが降下した。

 

 四個陸戦旅団と五個空挺旅団が地上から、二個陸戦航空群と一個戦闘航空旅団が空から進軍し、敵の主力を引きつけた。

 

 敵の戦力が前面に集まったところで、一個戦闘航空旅団が手薄となった背後に着陸。ヘリから降りた別働隊がまっしぐらに拠点を目指す。その先頭に立つのは第六〇二五陸戦連隊、そして地上軍最強の第八強襲空挺連隊だ。

 

 横にいるのは地上軍最高の勇者アマラ・ムルティ大尉、そして第八強襲空挺連隊最強の「常勝中隊」だ。足を引っ張ってしまうんじゃないか? そんな不安をぐっと飲み込む。

 

「敵は怯んでいるぞ! 総員突撃!」

 

 俺はマイクを持って叫んだ。指揮官を先頭に陸戦隊員と空挺隊員が一丸となり、拠点を目指して突き進む。

 

 あっという間に拠点を攻略した。海賊のうち三〇〇〇人が戦死し、二万四〇〇〇人が捕虜となった。逃れた者もいずれ捕まるだろう。同盟軍の大勝利であった。

 

 俺がパストーレ司令官から与えられた使命はただ一つ。全軍の先頭に立って戦う勇気を見せることだ。突撃するだけなら用兵下手でも問題ない。宇宙では旗艦に乗って突撃し、地上では陸戦隊員とともに戦斧を持って突撃し、戦うたびに勝った。

 

 エル・ファシル方面軍の従軍ジャーナリストは、俺が突撃する様子を克明に報じ、美辞麗句たっぷりの文章を付け加えた。

 

「赤毛の驍将エリヤ・フィリップス!」

 

 どこかで聞いたような異名が新たに付け加わった。

 

「アンドラーシュ提督の再来!」

 

 同盟軍史上最高の猛将アンドラーシュ提督になぞらえられたこともある。ダゴン星域会戦において、アンドラーシュ提督が「第一命令、突進せよ! 第二命令、突進せよ! 第三命令、ただ突進せよ!」と命令した故事と似ているのだそうだ。

 

 俺の戦いぶりを「匹夫の勇」と言う人もいるらしい。匹夫とは小物という意味だ。赤毛の驍将やアンドラーシュ提督の再来なんかより、ずっとふさわしいように思える。しかし、こんな声は少数派だった。

 

 いつの間にか同盟軍屈指の勇者と呼ばれるようになった。褒められる喜びよりも期待のハードルが上がることへの不安が先立つ。どれほど武名をあげても、本質的な器の小ささは変わらない。

 

 

 

 作戦行動が始まって二か月。エル・ファシル方面軍は連勝を重ねた。エル・ファシル星系警備管区にある八つの無人星系のうち、三星系が完全に平定された。破壊・捕獲された海賊船は二一〇〇隻、制圧された地上拠点は五六か所、殺害された構成員は二万七〇〇〇人、逮捕された構成員は九万一〇〇〇人にのぼる。

 

 エル・ファシル五大海賊も大打撃を受けた。ドラキュラの副首領ガブリエラ・ダ・シルバが司法取引に応じて投降。黒色戦隊の本拠地であるディレダワ星系第四惑星第七衛星が陥落。ワシントン・ブラザーズは降伏派と抗戦派の間で分裂状態に陥った。ガミ・ガミイ自由艦隊とヴィリー・ヒルパート・グループも疲弊している。

 

 パストーレ司令官の戦略を「物量任せの力押し」と冷ややかに見る声もあった。しかし、物量を正しく運用するのも手腕のうちだ。大軍を必要な時に必要な場所へ動かす。遊兵を作らない。予備を適切に投入する。こういったことがどれほど難しいかは、軍人でなければ分からないだろう。

 

 宣伝もこの巨大な戦果に寄与した。トリューニヒト国防委員長はマスコミを使って、エル・ファシル方面軍を応援する世論を作るとともに、海賊対策予算の名目でエル・ファシルに多額の公共投資を行い、地域住民の心を掴んだ。

 

 地域住民は先を争うように海賊情報を提供し、自治体や警察なども率先して協力を申し出た。反トリューニヒト感情の強い星系政府も世論に押されてしぶしぶ協力している。

 

 また、同盟警察本部組織犯罪対策部は、エル・ファシル海賊に資金や物資を提供した者の摘発、マネーロンダリングに用いられていた口座の凍結などを進め、海賊の財政基盤を叩いた。

 

「視聴者の皆さん! 御覧ください! 悪逆非道な海賊に正義の鉄槌が下ったのです!」

 

 NNNニュースキャスターのウィリアム・オーデッツが、ミサイルを浴びて爆発した海賊船の映像を指さし、歓喜の叫びをあげる。

 

 マスコミは先を争うようにエル・ファシル方面軍の戦果を報じた。撃沈される海賊船、逮捕された海賊組織構成員、海賊の拠点に突入する兵士の映像などが、視聴者の溜飲を大いに下げた。

 

 この快進撃は数多くの英雄を産んだ。その最たるものがパストーレ司令官であろう。銀河連邦史上最高の名将クリストファー・ウッド提督になぞらえられる。

 

 パストーレ司令官に次ぐのが、冷徹無比の「レクイエム(葬送曲)・ジャスパー」こと第八一二独立任務戦隊司令スカーレット・ジャスパー宇宙軍代将、そして亡命軍人の義勇部隊「第二エル・ファシル自由師団」を率いるレオポルド・シューマッハ義勇軍准将である。ジャスパー代将は「マーチ(行進曲)・ジャスパー」ことフレデリック・ジャスパー元帥の孫娘。シューマッハ准将は、四年前のエル・ファシル攻防戦の際に投降し、同盟国籍を獲得した元帝国軍士官だ。

 

 その他の英雄としては、、多くの海賊船を撃沈した「パイレーツ・クラッシャー」ドミトリー・マレニッチ宇宙軍大佐、海賊に包囲された仲間を救ったタニヤ・ラスール地上軍少佐、豪勇無双の海賊グレアム・モンクを一騎打ちで倒したファム・タイン宇宙軍大尉、海賊に捕らえられたが自力で脱出したイボンヌ・シャピュイ地上軍軍曹らがいる。

 

 かつての英雄の中では、単独でタジュラ星系の海賊拠点を制圧した「フョードル兄貴」フョードル・パトリチェフ宇宙軍大佐、常勝中隊を率いる「死の女神」アマラ・ムルティ地上軍大尉、一発のパンチで数十人の海賊を降伏させた「黒い暴風」ルイ・マシュンゴ地上軍准尉の活躍が著しい。

 

「一番の英雄は赤毛の驍将ですけどねー」

 

 恥ずかしい名前で俺を呼ぶのはルチエ・ハッセル軍曹だ。

 

「勘弁してくれないか」

「照れたらだめですよー」

 

 八つも階級が上の俺に対しても彼女は遠慮しない。一等兵時代を知ってるからだろう。

 

「ところで頭痛は良くなったか?」

「いえ、まだです」

「あの薬を飲んだらどんな頭痛も一発で吹っ飛ぶのにな」

「体質ですよ、きっと」

「そうか、体質ならしょうがない」

 

 それから雑談を交わし、ハッセル軍曹にクッキーをあげた。彼女には物をあげたくなる雰囲気がある。これで変に俺を持ち上げなければ理想的なのにと思う。

 

 俺の思いはともかくとして、「赤毛の驍将エリヤ・フィリップス」の虚名が高まっているのは事実だ。戦うたび、いや突っ込むたびに勝った。最近は第八一一独立任務戦隊が出てきたと聞くだけで、逃げ腰になる海賊も少なくない。

 

 自分だけが勇名を独占するのは気が引ける。俺一人で突っ込んで勝つわけじゃない。一緒に先陣を切るのはビューフォート中佐率いる第三任務群の役割だ。旗艦を操るのは艦長のフェーガン少佐だ。彼らが強いから突撃も成功する。手堅く隊務を処理してくれる副司令オルソン大佐、アントネスク大佐率いる第一任務群の豪快さ、タンムサーレ大佐率いる第二任務群の整然ぶりにも注目して欲しい。

 

 しかし、インタビューで部下の名前を口にしても、「さすがはフィリップス司令」と俺だけが褒められる。部下の名は一向に広まらないのが残念だ。

 

 勝ったからといって何もかもが思い通りになるわけでもない。エル・ファシル方面軍全体に驕りが生じつつあることからもそれが伺えよう。住民に対して威張り散らす者、住民の注意を無視して立ち小便・ゴミのポイ捨てなどを繰り返す者などが多数報告された。報奨金を手にした者が酒や賭博にのめり込み、身を持ち崩すケースも後を絶たない。

 

 聞き捨てならない噂も流れた。降伏した海賊船を乗員もろとも吹き飛ばしたり、捕虜を勝手に殺したり、海賊の拠点から押収した金品を着服するなどの戦争犯罪が起きているというのだ。引き締めを考えるべき時期に来ている。

 

 部下については不安しか感じない。士官食堂で幕僚と一緒に食事をしていると、ノーマン後方主任が懐から新聞を取り出した。

 

「ご覧ください。フィリップス司令の准将昇進が確実だそうですよ」

「それ、タブロイド紙じゃないか。あてにならないよ」

「しかし、これほどの武勲です。ハイネセンに戻ったら准将は間違いなしと思いますが」

「まだ作戦は終わってないんだ。これから負ける可能性だってある。戦死するかもしれない。浮ついたことは言わないでほしいな」

 

 俺は微笑みを保ちつつ釘を刺す。だが、ノーマン後方主任は俺の言いたいことを理解できないらしく、俺を持ち上げる記事を次から次へと出してくる。

 

 媚びているわけではない。俺を褒めているようでいて、実際は「名将フィリップスに仕える自分は凄い」とアピールしたいのだ。無邪気なだけで悪人では無いのだが、どうにもやりにくい。

 

 ノーマン後方主任から「意識が低い」と嫌われるスラット作戦主任とメイヤー情報主任は、戦いが終わった後の昇進や賞与について話していた。今のうちから皮算用なんて気が早いにもほどがある。しかし、軍人らしい義務感を彼らに期待するよりは、即物的な欲望を励みにした方が良さそうな気もする。こちらには釘を刺さなくてもいいだろう。

 

 オズデミル人事主任とマヘシュ中尉は今の仕事でも手一杯で、先については考えられないようだった。それはそれで少し寂しい。

 

 妹を彷彿とさせる高身長と肥満体を持つコレット中尉は、無表情で口数が極端に少ないため、何を考えているのかわからない。まあ、前向きなことを考えてないのは想像がつく。

 

 改革を成し遂げ、勝利を重ねても、部下の意識を高めるには至らない。第二九六空挺連隊長クリスチアン地上軍中佐に稽古を付けてもらった時も愚痴がこぼれた。

 

「なかなかうまくいかないものです。おかげで……」

「マフィンを食べる量が倍になったというのであろう」

 

 クリスチアン中佐が面白くもなさそうに言う。

 

「どうしてわかったんですか?」

「貴官と知り合って八年目だぞ。分からん方がおかしい」

「失礼しました」

「それほど心配はいらんと思うがな。勝ちすぎて規律が緩むなんてのは、指揮官が浮ついた場合に限られる。今の気持ちのままなら大丈夫だ」

「恐れいります」

「射撃とナイフの腕も上がってきた。このまま油断なく鍛えるのだな。そうすれば、テロリストごときに遅れを取ることもなかろう」

「いつもお付き合いいただきありがとうございます」

 

 深く頭を下げる。テロリストに殺害予告を受けてからの俺は、クリスチアン中佐にナイフと射撃の稽古を付けてもらってる。護衛だけに任せきりにはできない。最後に頼れるのは自分自身だ。

 

「最近のテロリストは強いからな。空挺あがりや陸戦隊あがりがいくらでもいる。そもそも……」

 

 ここからクリスチアン中佐の独演会になった。内容はいつもの進歩党批判。彼らが軍縮をやったせいで空挺隊員や陸戦隊員が失業し、テロ組織へと流れ込んだのだそうだ。

 

 この話の真偽はわからないが、似たような話はある。大勢の失業軍人がエル・ファシル海賊に参加しているのだ。元艦長や元司令など佐官クラスも少なくない。大手組織では参謀経験者が作戦立案にあたっている。ガミ・ガミイ自由艦隊のレミ・シュライネンに至っては、第二艦隊副司令官まで務めた大物だ。専門家によると、エル・ファシル海賊の人材水準は正規艦隊より低く、地方警備部隊の上位と中位の間らしい。

 

 正規軍並みなのは人材だけではない。エル・ファシル海賊は、戦艦や巡航艦など海賊活動には必要ない兵器まで持っている。帝国の対外諜報機関「帝国防衛委員会」、軍事情報機関「軍務省情報総局」からの資金援助のおかげだ。

 

 当分は帝国は攻めてこないとみられる。第四次ティアマト会戦の結果、帝国が軍事的に優位になったため、フェザーン自治領は国債購入額を減らし、帝国が出兵予算を組めないように仕向けた。流す資金の量を調整することで、帝国と同盟のパワーバランスを均衡させる。これがフェザーンの勢力均衡策の肝なのだ。

 

 軍隊を動かせない以上は謀略に頼ろう。帝国政府はそう考えたようだ。エル・ファシル海賊討伐は、海賊との戦いであり、帝国との代理戦争でもあった。

 

 

 

 七月になっても、エル・ファシル方面軍の快進撃が続いた。一か月で三つの星系が完全に平定され、海賊の支配下にはトズール星系とゲベル・バルカル星系のみが残った。

 

 五大組織のうち、黒色戦隊とドラキュラが活動不能状態に陥り、ワシントン・ブラザーズは降伏派の投降が相次いだ。戦略家と名高いシュライネンが率いるガミ・ガミイ自由艦隊、ゲリラ戦術に長けたヴィリー・ヒルパート・グループは、未だに主力を保っているものの、拠点のほとんどを失った。

 

 他宙域に移ろうとした海賊もいたが、その多くが第一三任務艦隊、パランティア星域軍、アスターテ星域軍などに捕捉されて壊滅した。

 

 逮捕された海賊の供述から、これまで取り沙汰されてきたエル・ファシル海賊と帝国の繋がりが明らかになってきた。また、メルカルトやパラトプールなど反中央的な星系政府との繋がり、各地の分離主義者との繋がり、同盟軍からの武器流出ルートなどに関する供述も出た。想像以上に深い闇が広がっているようだ。

 

 俺と第八一一独立任務戦隊は相変わらず突撃専門だった。最近は前衛を担うことが多い。そうすれば敵があからさまに逃げ腰になるからだという。逃げられたくない場合は後衛に控える。

 

「どうしてこんなに恐れられるようになったんですかね?」

 

 イレーシュ中佐と通信した時にぼやいた。

 

「実際に強いかどうかより、強いと思われているかどうかの方が大事なこともあるからね」

「本当は弱かったら意味ないでしょう」

「凄い奴が味方にいるだけで盛り上がるじゃん。エリヤくんは名前だけは売れてるから」

「そんなもんですか」

 

 いまいちピンとこない。しかし、海賊討伐作戦が始まってからというもの、俺が先頭に立つことで味方が盛り上がり、敵が震え上がるようになったのは事実だ。虚名の勇者でもそれはそれで役立ってるのだろう。もっと前向きに虚名を利用してもいいかもしれない。

 

 その翌日、俺の決意は早くも揺らいだ。ネットで「エリヤ・フィリップス、アマラ・ムルティ、ワルター・フォン・シェーンコップ――同盟軍最高の勇者は誰か」なんてトピックを目にして、椅子から転げ落ちてしまった。

 

 詳細は省くが、このトピックでは、「戦士としてはフィリップスかシェーンコップのどちらか」「指揮官としてはフィリップスかムルティのどちらか」という結論が出ていた。

 

 とんでもないことだ。俺は戦斧もナイフも徒手格闘もすべて一級。特級どころか準特級ですらない。準特級だった射撃も練習不足のせいで一級に落ちた。薔薇の騎士連隊の一般隊員にすら勝てないだろう。指揮能力については考えるのも馬鹿らしい。

 

 薔薇の騎士連隊長ワルター・フォン・シェーンコップ大佐といえば、二年前のイゼルローン攻防戦において裏切り者のリューネブルク元連隊長を一騎打ちで倒した宇宙軍陸戦隊の勇士であり、前の世界では最強の陸戦指揮官として全宇宙に名を轟かせた英雄だ。

 

 常勝中隊長アマラ・ムルティ大尉は前の世界では名前が残っていないが、今の世界では武勇と美貌で知られる地上軍のスターで、地上軍最強中隊「常勝中隊」の隊長である。

 

 二人とも俺とは比較にならないほどの戦士であり指揮官なのだ。どうして比較対象になるのか理解に苦しむ。

 

「俺はフィリップスと養成所の同期だけどさ。あいつが名指揮官なんてありえねえ。シミュレーションめちゃくちゃ弱かったんだぞ」

「あれはただの突撃馬鹿だろうが」

「ヴァンフリートでフィリップスの部隊があっさり全滅したのを忘れちゃいかん」

「赤毛の驍将なんてかっこいいもんじゃねえよ。赤猪で十分だ」

 

 こういう正論もちらほら見られたが、「いい加減なことを言うな」と一蹴された。いい加減なのはどっちなのかと言いたい。

 

「いとこの友達の友達から聞いたんだけど、ムルティは指揮がまったくできないらしいよ。ベテランの副隊長が代わりに指揮してるんだって。だからフィリップスくんの方がずっと上」

 

 こんな書き込みもあった。これが事実ならムルティ大尉に親近感を覚えるが、残念ながら間違いだ。俺はムルティ大尉とともに何度も突っ込んだから分かる。

 

 部下から聞いたところによると、打ち合わせでは喋るのは副隊長だけで、通信に出るのも副隊長だけらしいが、大物は口数が少ないだから当然だろう。一度だけ副隊長と交信したことがあるが、声の感じが恐ろしく若かった。二三歳のムルティ大尉より若いんじゃないかと思う。このようにネットの情報はいい加減なのだ。

 

 ちなみに身近な人にこのトピックを見てもらい、タイトルと同じ質問をしたところ、ダーシャとイレーシュ中佐からは「戦士としても指揮官としてもシェーンコップ」、クリスチアン中佐とアンドリューからは「戦士としてはシェーンコップとムルティのどちらか、指揮官としてはシェーンコップ」、ドーソン中将からは「くだらんことを聞くな」という答えが返ってきた。みんな良く分かっている。

 

 このようにエル・ファシル方面軍は大成功を収めた。今は海賊よりも規律の緩みが恐ろしい。住民とのトラブル、軍規違反の件数は増加する一方だ。隊員の犯罪行為も急増した。

 

 不正やスキャンダルなどもいくつか明るみになった。その中で最も大きなものが「パイレーツ・クラッシャー」ドミトリー・マレニッチ大佐に関わる事件だ。

 

 飛び抜けて多くの海賊船を撃沈したマレニッチ大佐だが、その多くが降伏もしくは捕獲した船であったことが判明した。無抵抗の相手を一方的に撃沈してスコアを稼いでいたのだ。しかも、「人質にした貨物船員を解放するから助命してほしい」と申し出た海賊船を、人質もろとも撃沈したこともある。民間人殺害の罪まで犯したのだ。

 

 世論は「非人道的」という批判と「よくやった」という賞賛に分かれた。凶悪犯罪者を問答無用で殺してしまっても構わないと考える人は、いつの時代にもそれなりにいる。今のような時代ならなおさらだ。

 

 パランティア軍司令官サンドル・アラルコン少将は、以前から民間人や捕虜を殺害した疑いを何度もかけられた人物だったが、今回も捕虜殺害への関与が疑われた。

 

 法治国家にあるまじきことではあるが、捕らえられた海賊が官憲に殺される事件は、日常茶飯事と言っていいほどに起きている。アラルコン少将が以前に関わったとされる三件の捕虜殺害事件のうち、二件は海賊絡みだ。

 

 海賊を殺す側の動機は、義憤に駆られて殺すケース、怨恨から殺すケース、情報漏洩など不正を隠すために殺すケース、裁判するのが面倒だから殺すケースなど多種多様だ。そのほとんどは「移送中に病死」「逃亡を図ったためにやむを得ず射殺」などと言われて闇に葬られ、発覚してもさまざまな事情で告訴が見送られる。実際に裁かれるのは二〇件に一件程度に過ぎない。

 

 物語の世界では人気者の海賊だが、現実世界ではテロリストや麻薬密売人と同レベルの凶悪犯罪者として忌み嫌われる。問答無用で殺してしまっても、非難するのはリベラル派と反戦派ぐらいのものだ。義務教育の教科書では、降伏した海賊を殺したルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの行為は、「残虐非道」と批判されているが、当時は拍手喝采を浴びた。今の同盟で同じことをやったとしたら、市民の半数は支持するんじゃないかと思う。

 

 降伏しても殺されるんじゃないかと思えば、誰だって死ぬまで戦おうとするだろう。マレニッチ大佐やアラルコン少将の事件以降、投降してくる海賊が減った。厳罰主義がかえって海賊根絶を妨げる結果を生んだ。

 

 マレニッチ大佐は群司令の職を解かれて拘束されたが、軍法会議が開かれる見通しは立っていない。アラルコン少将に至っては、司令官職を解任されただけで拘束すらされなかった。

 

 規律の緩みはエル・ファシル社会にも起きていた。トリューニヒト委員長とエル・ファシル方面軍がばらまいた大金が、その発端となった。

 

 トリューニヒト委員長は、自治体への交付金、基地工事費、軍需品調達費、民生支援費などの名目で、莫大な金をエル・ファシルにばら撒いた。海賊討伐にやってきた軍人数十万人の消費支出も地域経済を潤した。消費の増大が雇用を生み、雇用が消費を生み、エル・ファシルに好景気がやってきた。人々はこの好景気を「海賊特需」、あるいは「トリューニヒト特需」と呼んだ。

 

 しかしながら、強い薬には副作用が付き物である。トリューニヒト特需は、貧困や失業という病気には効き目があったが、別の病気を引き起こした。

 

 エル・ファシル反改革派とその背後にいるトリューニヒト派(NPC右派)は、露骨な利益誘導を行い、巨額の裏金を懐に入れた。テレビや電子新聞では毎日のように汚職疑惑が報じられる。エル・ファシルはほんの数か月で腐敗の温床と化した。

 

 上が腐れば下もそれにならう。貧困に起因する犯罪が減った代わりに、金の匂いにひかれた犯罪者が集まった。麻薬密売、違法賭博、売春、強盗、誘拐、詐欺など違法な金儲けが流行した。利権を巡る犯罪組織の抗争は激しくなる一方だ。

 

 クリーンだが貧しい惑星から、豊かだがダーティーな惑星に変貌したエル・ファシル。世論は四分五裂した。

 

「エル・ファシルは犯罪と汚職の巣窟になった」

「企業の利益が落ちた。労働力が公共事業に流れたからだ。トリューニヒト特需はエル・ファシルを貧しくした」

「国防委員会、いやトリューニヒト委員長個人による内政干渉だ」

 

 星系政府やハイネセン資本企業、フェザーン資本企業などの改革派は、トリューニヒト特需を激しく批判した。

 

「失業率は減った。星民所得は増えた。大成功ではないか」

「エル・ファシルに必要なのは、改革ではなく金だったことが証明された」

「故郷は生き返った」

「財政委員会が内政干渉したのだ。我々はエル・ファシルを取り戻したまでのこと」

 

 NPCエル・ファシル支部や地元企業などの反改革派は、トリューニヒト特需を擁護した。

 

「馬鹿馬鹿しい! エル・ファシルはエル・ファシル人のものだ! ハイネセンはこれ以上手を突っ込むな!」

 

 エル・ファシル民族主義者は、改革派とその背後にいる財政委員会、反改革派とその背後にいる国防委員会の双方に激しく反発する。

 

「エル・ファシルからを拝金主義を追放せよ!」

 

 軍国主義・反資本主義の統一正義党は、星系政府の経済自由化政策、トリューニヒト特需のいずれも腐敗を助長すると訴える。

 

 トリューニヒト派と近い極右民兵組織「憂国騎士団」は、トリューニヒト特需を批判する者、反改革派の犯罪を暴こうとする者を攻撃した。統一正義党傘下の極右民兵組織「正義の盾」は、「街頭浄化」と称して犯罪者に私刑を加え、「腐敗追放」と称して企業や政治家を攻撃した。エル・ファシル民族主義者は、ハイネセン資本・フェザーン資本・エル・ファシル方面軍に対する排撃運動を繰り広げる。

 

 今や街頭は政治暴力の舞台と化した。憂国騎士団、正義の盾、民族主義者が三つ巴で殴り合っている。改革派は警察力の削減、そして民間警備会社すなわち傭兵の活用を掲げてきたが、さらに多くの傭兵を雇って自衛を図った。

 

 どの勢力も主張が極端すぎていまいち信用できない。俺は地元住民のルチエ・ハッセル軍曹の意見を聞いてみた。

 

「景気は良くなったけど、住みにくくなったのがちょっと嫌です」

「住みにくい、か。わかる気もするな」

「難しいことはわからないけど、エル・ファシルのためになる政治がいいですねー」

「エル・ファシルのためになってないってことか」

 

 俺はふうと息を吐いた。快適に過ごすには、金、安全、健康、誇りといったものが必要だと、トリューニヒト委員長はそう言った。今のエル・ファシルは金があるが、安全とは言い難いし、誇れるような状態でもないだろう。トリューニヒト特需は豊かさとともに混乱を呼び込んだ。

 

「国防委員長にはビジョンが無いのよ。その場その場で受けることしか考えてない。政局には強くても政治はできない人だね」

 

 友達のダーシャ・ブレツェリ中佐が、トリューニヒト委員長を酷評した。

 

「それは言いすぎじゃないか? あの人はサービス精神が旺盛だ。ついやりすぎてしまうんだよ」

「いつも思うけど、エリヤは身近な人にはとことん甘いよね」

「それは認める」

「あの人のエル・ファシル政策で評価できるのって、兵站を充実させたこと、ヤン准将をお飾りにしたことぐらいね。その二つだけでも立派といえば立派だけど」

「兵站はともかく、ヤン提督の件は――」

 

 その後もスクリーン越しにああでもないこうでもないと言い合ったが、ダーシャを納得させられるようなことは言えなかった。

 

 成功すればするほどモラルが失われていく。トリューニヒト委員長はハイネセン主義に批判的だった。しかし、望みを叶えるだけでは何かが足りないように思えてくる。自制を求める役も必要ではなかろうか。レベロ財政委員長のように。

 

 いかにして緊張感に欠けがちな部下を引き締めるか。端末を開き、「じゃがいも」と題されたファイル、「クリスチアン中佐」と題されたファイル、「ルグランジュ少将」と題されたファイルなどを眺め、恩人達の指導法を参考にしながら思案した。



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第42話:エル・ファシル革命政府 796年7月7日~8日 ゲベル・バルカル第六惑星宙域~ワジハルファ第三惑星基地

 七月初め、中央情報局の二重スパイ「パウロ」が、五大海賊の一つである「ヴィリー・ヒルパート・グループ」の最高幹部会議が開かれる場所と日時を伝えてきた。

 

 エル・ファシル方面軍は色めき立った。この情報が事実ならば、ヴィリー・ヒルパート・グループの最高幹部を一網打尽にできる。エル・ファシル海賊最後の雄も瞬く間に壊滅するだろう。

 

 パウロが伝えてきた日時は七月七日。時間的猶予は少ない。最高幹部会議襲撃作戦の実施を巡って積極論者と慎重論者が激論を繰り広げた。

 

「パウロは最も貢献度の高い情報提供者だ。信頼できる」

「情報を精査する時間が無い。見送るべきだろう」

 

 こういった議論の結果、作戦実施が決定したのである。

 

 七月七日、エル・ファシル方面軍司令官パストーレ中将率いる司令官直轄部隊が、惑星エル・ファシルを出発し、第三〇一任務部隊を支援すべくトズール星系へと向かった。これが陽動なのは言うまでもない。本当の目的地は、「ゲベルバルカル六=二七」と呼ばれるゲベル・バルカル星系第六惑星の第二七衛星。ヴィリー・ヒルパート・グループの最高幹部会議が開かれる場所だ。

 

 司令官直轄部隊がゲベルバルカル六=二七を攻撃し、マクライアム少将が率いるエル・ファシル軍の半数、ラフォント准将率いるパランティア軍の三割が周辺を封鎖する。参加兵力は宇宙艦艇四〇〇〇隻、地上戦闘要員一三万人。エル・ファシル方面軍の過半数を動員した一大作戦だ。

 

 俺と第八一一独立任務戦隊は、司令官直轄部隊の一員としてゲベル・バルカル第六惑星宙域へと足を踏み入れた。無人星系に属する惑星の常として固有名詞を持たない第六惑星は、惑星ハイネセンの一〇倍を超える赤道半径を持つガス型惑星で、強力な重力場を持つ。その周囲を巨大な磁気圏と五七個の衛星が取り巻いており、恐ろしく航行が難しい。

 

 操艦経験が無い俺は、艦の重力制御が不安定になるたびに「重力場に絡め取られてしまう!」と恐れ、衛星に接近するたびに「衝突する!」と恐れ、計器が磁気の影響を受けるたびに「電子機器が使えなくなる」と恐れた。

 

「艦長、航行速度を落とした方がいいんじゃないか?」

「問題ありません」

 

 戦隊旗艦「グランド・カナル」の艦長フェーガン少佐は、まったく緊張する様子もなく操艦を続ける。

 

「作戦主任、もう少し各艦の間を広く取った方がいいんじゃないか?」

「まあ、大丈夫ですよ」

 

 作戦主任幕僚スラット中佐は淡々と部隊運用にあたる。各艦の動きにもまったく混乱は見られない。

 

 航宙能力と経験はほぼ比例する。普段は微妙な部下が、この宙域では経験豊かな軍艦乗りとしての本領を発揮した。小心者の司令が一人であたふたしている間、第八一一独立任務戦隊は一隻の落伍艦も出さずに航行を続ける。

 

「目標まで残り九〇万キロメートル。敵影は確認されていないが、油断は禁物である。周囲を警戒しつつ進め」

 

 パストーレ司令官からの指示が入ってきた。

 

「承知しました」

 

 敬礼した後、配下の群司令三名との間に回路を開き、司令官から与えられた指示を伝える。警戒を命じるだけなら誰でもできるが、それを末端まで徹底させるのは難しい。第八一一独立任務戦隊がこの五か月で積み重ねてきたものが問われる場面だ。

 

「隊員全員にマフィンとココアを支給するように」

 

 俺は糖分を補給するよう命じた。軍隊で人気のある嗜好品は、酒、煙草、甘味だ。酒や煙草は集中力を鈍らせるが、甘味は高めるという点において。理想的な嗜好品と言えよう。そこで甘味を全艦にたっぷり保存させた。勘違いしないでもらいたいが俺の好みとは関係ない。

 

「海賊だ!」

 

 幕僚の一人がメインスクリーンを指さす。そこに移っているのは数十隻の軌道戦闘艇。識別信号はパターンイエロー、所属不明だ。ヴィリー・ヒルパート・グループの一味に違いない。

 

「大した敵ではないですな」

 

 スラット作戦主任が軽くあくびをした。

 

「気を抜かないように」

 

 すぐさま釘を差す。緊張感を持続できないというのは、スラット作戦主任に限らず、第八一一独立任務戦隊に共通する通弊だった。意識が高まるまでにはまだまだ時間がかかる。

 

「戦闘準備!」

 

 指揮卓から立ち上がって戦闘準備を命じた瞬間、グランドカナルの艦体が大きく揺れた。

 

「遠方からの砲撃! 待ち伏せです!」

 

 オペレーターが叫ぶ。遠方から飛んできたビームが第八一一独立任務戦隊の艦列を貫く。数隻のミサイル戦闘艇が直撃を受けて爆発した。タイミングを合わせるかのように軌道戦闘艇が突入してくる。

 

「はめられた!」

「罠だったんだ!」

 

 司令室は騒然となった。

 

「うろたえるな! 敵は少数だ! 落ち着いて対処しろ!」

 

 一番うろたえている俺が怒鳴るように言う。ヴィリー・ヒルパート・グループの全軍が結集していたとしても四〇〇隻程度。司令官直轄部隊は一四〇〇隻。こちらが圧倒的だ。

 

「違います、多数です!」

 

 一〇〇〇を軽く超える数の光点がレーダーに現れた。しかも、秒を追うごとに増えていく。

 

「一体どこに隠れていたんだ!?」

「衛星から出てきたと思われます!」

「そんなわけはないだろう!? どこにも敵は見当たらなかったぞ!」

 

 この宙域は見通しの悪い地勢だ。敵が待ち伏せを仕掛けてくるだろうと予想して、徹底的に探らせた。だが、衛星の地表や裏側にも敵はいなかった。

 

「この周辺の衛星は……海を……持っています……。動力を止めて……海中に……潜んでいたのでしょう……」

 

 司令部付士官のコレット中尉がぼそぼそと答える。

 

「そうか海か。しかし、一〇〇〇以上なんて間違いだろ? 全軍合わせてもせいぜい四〇〇じゃないか!?」

 

 どれほど叫んでも、現実は俺の先入観を肯定してくれなかった。衛星の海から次々と敵が飛び出す。レーダーの光点は二〇〇〇を超えた。

 

 上下左右前後から敵が押し寄せてくる。武装高速艇と軌道戦闘艇がまとわりつき、ミサイル戦闘艇がミサイルを飛ばし、駆逐艦が対空砲からウラン二三八弾を乱射し、砲艦と巡航艦がビーム砲を放つ。味方艦はみるみるうちに打ち減らされていく。

 

「司令、一体どうすれば……」

 

 スラット作戦主任の縋るような声が俺を現実に引き戻した。メイヤー情報主任、ノーマン後方主任、オズデミル人事主任、フェーガン艦長、その他の部下の視線がすべて俺に集まる。

 

「ご指示をお願いします!」

 

 指揮卓の通信画面には、オルソン副司令、第一群のアントネスク司令、第二群のタンムサーレ司令、第三任務群のビューフォート司令代行の顔が並ぶ。

 

「…………」

 

 俺は言葉に詰まった。これから語る言葉が第八一一独立任務戦隊の部隊の命運を決める。その重圧が舌に重くのしかかった。

 

 ふと、七年前のことを思い出す。あの時の俺は、三〇〇万人の市民に向けて「無事に帰れる」と断言したことで、英雄と呼ばれるようになった。その後も何度もメディアに登場してはきれい事を口にした。英雄らしい振る舞いがすっかり板についた。

 

 深呼吸をする。背筋を伸ばす。胸を張る。表情を引き締める。用意は万端だ。マイクをしっかりと握りしめた。

 

「第八一一独立任務戦隊の戦友諸君。これまでの戦いを思い出してもらいたい。諸君は向かう所敵なしだった。諸君の名は敵を震え上がらせてきた。敵は諸君を恐れている」

 

 穏やかな声色でゆっくりと語りかけた。不安で心臓が高鳴る。腹がきゅっと痛み出す。背中は汗でびっしょり濡れていて、体中が震えているが、顔には出さない。

 

「何人たりとも第八一一独立任務戦隊の行く手を阻むことはできない。いつもどおりに戦おう。私が諸君に求めるのはただ一つ。いつも通りに戦うことだけだ。生きるの死ぬも一緒だ。共に進もうではないか」

 

 我ながら偉そうなことを言うと思う。しかし、どうせ負けたらここで死に、大言壮語を責められることもない。ならば言った者勝ちだ。

 

「仰せのままに!」

 

 幕僚と部隊長が声を揃えて返事をする。心は一つになった。今度は方針を決める番だが、指示が来ないことには動きようがない。

 

「通信長、司令官からの通信はまだ入ってこないか?」

「入ってきておりません」

「妙だな。よし、こちらから通信を入れよう」

「通信が繋がりません」

「繋がらないだと?」

 

 一瞬大声をあげそうになったが、部下を動揺させてはまずいと思って抑制した。

 

「はい。強力な妨害電波が出ている様子もないのですが」

「まさか……」

 

 数分後、最悪の予想が的中した。マクライアム副司令官から通信が入り、「パストーレ司令官の旗艦が大爆発を起こして四散した」と伝えてきたのだ。また、ゲベル・バルカル星系全域の同盟軍が奇襲を受けたことも分かった。

 

「これより小官がエル・ファシル方面軍司令官代行を務める。第六惑星宙域の全艦は、戦術管制システムの『計画管理三九』を開くように」

「かしこまりました」

 

 戦術管制システムの「計画管理三九」を開く。端末画面に第六惑星宙域のマップ、そして現在位置から宙域の外へ脱出するための経路が浮かび上がる。

 

「諸君は第一惑星宙域から離脱せよ。我々が援護する」

 

 指示が出ると同時に、指揮端末の画面に第六惑星宙域周辺の宙図が浮かび上がった。マクライアム司令官代行率いるエル・ファシル軍主力が、一〇光秒(三〇〇万キロメートル)離れた地点まで来ている。

 

 これで方針は定まった。全力で第一惑星宙域から脱出し、エル・ファシル軍主力との合流を目指す。もう迷いはない。

 

「全艦、戦術管制システムの『計画管理三九』を開け! フォーメーションはD! 第一惑星宙域を全力で突破する!」

 

 あえて「離脱」でなく「突破」と言う。俺は撤退戦の用兵なんて知らない。それに突撃慣れした部下に対しては、こう言った方が平常心を保てるだろう。

 

 第八一一独立任務戦隊一八一隻は、ウラン二三八弾とミサイルの雨をくぐり、衛星の影から現れた戦闘艇を振り払い、ひたすら前方へと突き進む。密集する衛星と強力な重力場が回避行動を阻害する。攻撃のまっただ中を力ずくで突っ切る形となり、ほんの一時間で三五隻を失った。

 

 他の味方も第八一一独立任務戦隊に負けず劣らず苦戦している。司令官直轄部隊はもちろん、救援に来たエル・ファシル軍も戦闘艇の肉薄攻撃で大損害を受けた。

 

「第三四一任務戦隊旗艦フェアウェザー撃沈! アラビ司令の生死は確認できず!」

「第八一二独立任務戦隊より通信! 至急来援を請うとのこと!」

 

 オペレーターは絶え間なく味方の苦境を伝える。味方からの通信を遮断したい衝動に駆られる。

 

「エル・ファシル軍の旗艦ルーアンが衛星に衝突! 乗員は脱出できなかった模様!」

 

 その報は全軍を凍りつかせた。パストーレ司令官に次ぎ、マクライアム司令官代行まで戦死したのだ。

 

「第八一三独立任務戦隊のアブジュ司令、戦死!」

 

 今度は僚友の訃報。この短い時間でどれほどの味方が失われたのだろう? 想像するだけで寒気がする。

 

「明るい材料はないものか……。そうだ、ヤン・ウェンリーがいる!」

 

 惑星エル・ファシルで留守を守るエル・ファシル軍副司令官ヤン・ウェンリー准将。彼の存在こそ最後の希望だ。マイクを握り直した。

 

「我々は一秒ごとにエル・ファシルに近づいている! そこにいるのはヤン・ウェンリー提督! 八年前の輝かしい脱出作戦を指揮した天才がきっと助けに来てくれる! あと少しだ! 少しだけ頑張ってくれ!」

 

 天才ヤン・ウェンリーの名前を引き合いに出し、自分と部下を励ます。萎えかけていた戦意がやや持ち直す。エル・ファシルの英雄の名前は、八年が過ぎた今でも人々を奮い立たせる力を持っていた。

 

 奇襲を受けてから二時間が過ぎた。第八一一独立任務戦隊は、艦艇七六隻とタンムサーレ第二任務群司令を失いつつも、第六惑星宙域の外縁部まで到達した。

 

「前方に敵が出現! 駆逐艦四〇隻前後、砲艦一〇隻前後、戦闘艇一〇〇隻前後と思われます!」

 

 一五〇隻ほどの敵が前方に立ち塞がる。現在の第八一一独立任務戦隊は一〇五隻。戦力的には圧倒的に不利だ。

 

 グランド・カナルを先頭として縦陣を組み、突破を図ろうとした瞬間、何者かが強制的に通信回路に割り込んできた。同盟宇宙軍の制服とサングラスを着用した四〇代の男性がスクリーンに登場する。

 

「自由惑星同盟軍の諸君! お初にお目にかかる! 私はエル・ファシル革命軍のタウニー・オウルである! 革命軍宇宙艦隊五〇〇〇隻と二〇〇万の機雷がこの宙域を封鎖した! 脱出できる見込みなど万に一つもない! 即座に降伏せよ!」

 

 その通信はすべての者を混乱に陥れた。タウニー・オウル(モリフクロウ)ことイツァク・ゴーラン元宇宙軍大佐は、ガミ・ガミイ自由艦隊の幹部であり、この宙域にいるはずもない人物だ。それにエル・ファシル革命軍などという組織も初めて聞く。

 

 コンピューターの推定では、第一惑星宙域に展開する敵の総数は三〇〇〇を軽く超える。また、ゲベル・バルカル星系に展開する友軍も一斉に攻撃を受けており、相当数の敵部隊がいるのは間違いない。ここまで周到な敵ならば、機雷をばらまくぐらいはしてのけるだろう。タウニー・オウルの主張には現実味がある。

 

 頭の中がぐしゃぐしゃになった時、スクリーンに別の顔が現れた。

 

「私はエル・ファシル軍司令官代行のヤン准将だ。落ち着いて聞いて欲しい」

 

 ぼさぼさの黒い髪にぼんやりした童顔。普段は頼りなさげに見えるヤン・ウェンリー准将だが、今は何よりも頼もしい。

 

「敵はヴィリー・ヒルパート・グループとガミ・ガミイ自由艦隊の連合軍。群小組織を集めたところで五〇〇〇隻もの包囲部隊を用意するのは無理だ。数時間で二〇〇万の機雷を敷設なんて、正規艦隊の工作部隊だってできやしない。はったりに惑わされるな。目の前の敵に集中せよ。以上だ」

 

 どちらを信じるか、いやどちらを信じたいかは言うまでもない。

 

「そのまま突っ切るぞ!」

 

 旗艦グランド・カナルとビューフォート中佐の第三任務群が突破口を開き、アントネスク大佐の第一任務群、司令を失った第二任務群が後に続く。

 

「ここで弾を使いきっても構わない! 電磁砲とミサイルを一時方向に全力射撃! 敵の艦列を叩き破れ!」

 

 一時方向に攻撃を集中した。戦闘艇を中心とするタウニー・オウルの部隊は、格闘戦には有利だが、撃ち合いには不利だ。たちまちのうちに艦列に穴が空く。

 

「今だ! 全艦突撃!」

 

 すべての艦艇が一丸となって突入し、あっという間にタウニー・オウルを突破し、第六惑星宙域から脱け出す。後方からは戦闘艇を主力とする大部隊が追ってきた。

 

「敵の主力は戦闘艇だ! 小回りは利くが足は遅い! 速度を緩めなければ、追いつかれることはないぞ!」

 

 速度を落とさずに敵を振り切るよう命じた。宇宙船の速度は艦体の大きさ、すなわち推進力に使えるエネルギーの量と比例する。小さい船は短い距離を小刻みに動けるが、長距離を突っ切ることはできない。

 

 司令室の中をちらりと見回した。誰も俺のごまかしに気づいてないようだ。実のところ、敵が駆逐艦だけで追ってくる可能性もあるし、戦艦や巡航艦を差し向ける可能性だってある。しかし、マイナスの可能性を提示するのは避けたかった。俺は用兵が下手くそだ。勢いを失うわけにはいかない。

 

 幸いにも敵が戦艦や巡航艦を投入してくることはなかった。第八一一独立任務戦隊は、ヤン司令官代行の指示に従って、ワジハルファ星系第三惑星の宇宙軍基地を目指した。

 

 

 

 海賊を討伐するにあたって、同盟軍は幾つもの前線基地を設けた。ワジハルファ第三惑星基地もその一つだ。

 

「エネルギーはほとんど消耗していない。それに引き換え、ウラン砲弾とミサイルはほとんど残っていないのか」

 

 俺はコレット中尉が持ってきた報告書をチェックしていた。補給の手配に奔走するノーマン後方主任に代わり、司令部付士官に後方関連の事務を扱わせているのだ。

 

「みんなに甘味を食べさせてやってくれ。パンケーキがいいな。ホイップクリームをたっぷり乗せよう。飲み物はホットミルクがいい」

 

 隊員に甘味を与えるように指示を与えると、コレット中尉は小声でぼそぼそと返事をし、のろのろと歩いて行った。

 

 それにしても本当に不格好だ。俺より五歳も若いのに、明るさというものがまったくない。身長が俺より一〇センチほど高く、体は風船のように膨れていて、裏切り者の妹を思い出す。肌の色は病人のように青白い。伸ばしっぱなしの茶髪はぼさぼさ。頑張ってくれているのはわかるし、外見で人を判断するのが良くないとも思うのだが、それでも不快なものは不快だ。

 

「第三五一任務戦隊第二任務群第四任務隊です。当隊の入港を許可願います」

 

 付けっぱなしにさせていた通信回線から心地良い声が流れてきた。第四任務隊司令ダーシャ・ブレツェリ中佐である。あっという間に気分が上向いた。

 

「識別信号を確認した。入港を許可する」

 

 そう返事したのは俺ではなく基地管制官だ。こんなふうにゲベル・バルカルから逃れた味方が次々とワジハルファ第三惑星基地へと集まってきた。

 

 時間が経つにつれて到着する部隊の数が減り、二三時を過ぎた頃には新しく来る者はほとんどいなくなった。残りの者はゲベル・バルカルで戦死したか、捕らえられたか、あるいは別の星系に逃れたものと思われる。

 

 日付が変わって七月八日となった。ワジハルファ第三惑星基地に集結した残存戦力は、宇宙艦艇が一六四一隻、地上戦闘要員が五万五一七〇人。別の星系に逃れた者を差し引いても、途方も無い損害だ。

 

 死傷者に関する情報もまとまってきた。将官だけでも、方面軍司令官パストーレ中将、方面軍副司令官兼エル・ファシル軍マクライアム少将、パランティア軍副司令官ラフォント准将、第三〇四任務部隊司令官ブローベル准将が戦死。第三〇二任務部隊司令官ケサダ准将は意識不明の重体。第四五一地上作戦軍団司令官バンコレ准将と第三〇三任務部隊司令官トレスラー准将は重傷だ。これだけの将官が一日で死傷するなど、対帝国戦でも滅多に無い。代将以下の死傷者は数えきれなかった。

 

 八日の午前二時、ヤン司令官代行が二〇〇隻を率いてワジハルファ第三惑星に入り、残存勢力を掌握した。

 

 三時から会議が始まった。出席者はヤン司令官代行の他、俺を含む宇宙軍代将一〇名、地上軍代将七名、そして第三惑星基地司令。健在な者の中で最も階級が高い面子だ。

 

 ヤン司令官代行は出席者全員の顔を軽く見回した後、おもむろに口を開いた。

 

「トズール星系の第三〇一任務部隊が壊滅した」

 

 会議室は騒然となった。これでエル・ファシル方面軍の艦隊主力である五個任務部隊がすべて壊滅したことになる。作戦行動の継続は事実上不可能となった。

 

「どういたししましょうか?」

 

 最年長者の第三二二任務戦隊司令メイスフィールド代将が一同を代表する形で質問する。

 

「エル・ファシル星系に引き上げる」

 

 ヤン司令官代行は実にあっさりした口調で答えた。

 

「引き上げるんですか?」

「そうだよ。この基地だけじゃない。すべての前線基地から撤収し、エル・ファシルに全軍を集める」

「海賊に基地を明け渡すと?」

「この戦力じゃ維持できないからね」

「それはわかりました。しかし、エル・ファシルに引き上げることはないでしょう。せめてディレダワとネファジットの線は確保しないと」

「それじゃ戦力の分散になる。何が何でも死守するような場所でもない」

「我々が血を流して勝ち取った場所がですか? それは聞き捨てなりませんな」

 

 メイスフィールド代将が不快そうに眉を動かす。

 

「エル・ファシルには市民が住んでいる。政治と経済の中心地で、最大の兵站拠点だ。それに勝る戦略的価値はないよ」

「それを守るためにも前進拠点が必要でしょう」

「我が軍の兵力は少ないんだ。各個撃破の危険は避けたい」

「片方が持ちこたえている間に、もう片方が救援すればいいだけのこと」

「持ちこたえられなかったらどうするんだい? 最初からひとかたまりなら救援する手間が省けるだろうに」

「司令官代行は我々の力を信じておられないのですかな?」

「信じているさ。幻想を持っていないだけでね」

 

 ヤン司令官代行は悠然と答えた。メイスフィールド代将、その他の出席者数名が殺意のこもった視線を投げつける。

 

 前の世界で『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』を読んだ時は、ヤン・ウェンリーの正論を理解できない人々に苛立ちを覚えたものだ。だが、実際に直面してようやく理解できた。

 

 あまりに無頓着過ぎるのだ。俺のようにプライドが低ければ気にならないが、高い人は怒る。そして、大抵の場合、プライドと能力、プライドと実績は比例する。つまり、ヤン司令官代行と秀才型との相性は最悪に近い。

 

 他の代将が何にむかついているのかが理解できた。ならばすることは一つだ。俺はすっと立ち上がる。

 

「司令官代行、あまり私たちを蔑ろにしないでいただきたい」

 

 ヤン司令官代行を睨みつけるように見た。メイスフィールド代将らが我が意を得たりといったふうにと頷く。

 

「我々は軍人です。上官の命令とあらば、好むと好まざるとにかかわらず従う覚悟はできております。その上で面目を立てていただければ有り難いです」

 

 強く釘を刺すといった感じで付け加える。ヤン司令官代行は辟易したように肩をすくめた。

 

「ああ、わかった」

「わかっていただければ結構です」

 

 軽く頭を下げてから席に着く。ヤン司令官代行が渋々ながらも頭を下げたことで、メイスフィールド代将らも満足し、険悪な空気は収まった。こうして、エル・ファシルへの撤収、すべての前線基地の放棄が決まったのである。

 

 会議が終わった後、メイスフィールド代将らは喜びに堪えないといった感じで俺のもとにやってきた。

 

「良く言ってくださった」

「おかげですっきりしましたよ」

「さすがはフィリップス代将だ」

「これからもお願いしますぞ」

 

 年長の同僚たちの賛辞が、チュン・ウー・チェン大佐の「ヤンとは敵対した方がいい」という助言の正しさを教えてくれる。敵対者だからこそ「好むと好まざるとにかかわらず従う」と言う発言に説得力が生じた。

 

 五時一五分、同盟軍の残存勢力及びワジハルファ第三惑星基地駐留部隊は、基地を放棄してエル・ファシル星系へと撤退した。

 

「副司令、指揮を頼む」

「かしこまりました」

 

 オルソン副司令に指揮を委ねた俺は私室に入り、第三任務群司令代行のビューフォート中佐と通信を交わした。

 

「これからどうなるのかな?」

「想像もつきませんなあ。軍人を三〇年やっておりますが、こんな大敗は初めてですので」

「司令官代行の知略頼みか……」

 

 ため息をつき、コーヒーにどばっと砂糖を放り込む。ブラック派のビューフォート中佐が嫌な顔をした。

 

「司令、それではせっかくのコーヒーが台無しですぞ」

「これが一番うまいんだ」

「だったらわざわざ高い豆を使わんでも。砂糖をそんなにぶち込んだら、インスタントだって同じでしょうに」

 

 こんな感じで雑談を交わしながら、ゆっくりと心身を休める。これから何が待ち受けているのか想像もつかない。可能な限り体力を回復しておく必要がある。

 

 急に艦内にアラート音が鳴り響き、通信端末の画面が強制的に切り変わった。映っているのはヤン司令官代行の童顔。全軍向けの緊急放送だ。

 

「悪いニュースだ。タジュラ星系第二惑星、ネファジット星系第九惑星、アドワ星系第四惑星が、鉱山警備隊の傭兵に占拠された。海賊との関係は不明だが、無関係ってこともないだろう。一刻も早く戻らないといけない。全艦は速度を三〇パーセント早めるように」

 

 空いた口が塞がらなかった。反乱が起きた三つの惑星は、人間の住める環境ではないが鉱物資源が豊かで、鉱山会社の管理下にある。その警備を請け負う傭兵は信用できる者ばかりだ。反乱するなど常識では考えられない。

 

 司令室に着いて間もなく続報が入ってきた。新たに四つの鉱山惑星で傭兵が反乱を起こしたという。占拠された鉱山惑星の合計は七つ。人質となった鉱山労働者の総数は三〇万を超える。

 

 

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「何を要求するつもりなのか?」

 

 答えはすぐに与えられた。鉱山惑星を占拠した傭兵が「エル・ファシル革命政府軍」の名で声明を発表。同盟政府にエル・ファシル星系の独立を認めるよう求めたのだ。

 

「そもそもエル・ファシル革命政府軍とは何者か?」

 

 その疑問もすぐに氷解した。エル・ファシル革命政府が全銀河に宛ててメッセージを発した。

 

「エル・ファシル人は、自由惑星同盟に加盟して以来、あらゆる辛酸をなめ尽くしてきた。

 

 自由惑星同盟の政府は、エル・ファシル人を奴隷としてこき扱い、エル・ファシル人の幸福のために使われるべき資源を収奪し、エル・ファシル人の生活を破壊した。

 

 自由惑星同盟の軍隊は、八年前にはエル・ファシルを見捨てて逃げ出し、四年前にはエル・ファシル人を弾避けにして戦った。

 

 エル・ファシル人ほど踏みにじられてきた国民はいない。ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの圧制も、自由惑星同盟によるエル・ファシル統治ほど過酷なものとはいえないだろう。このような目にあっても黙っていられるとしたら、それは人間ではなく奴隷だ。

 

 エル・ファシルにおける選挙は、自由惑星同盟に奉仕する召使いを選ぶ場と化した。平和的に自由惑星同盟の支配を覆す道は絶たれた。よって、エル・ファシル人は最後の手段として武力を用いる。自由惑星同盟の奴隷として生きるより、自由の戦士として死にたい。エル・ファシル人は自由と尊厳を何よりも愛する。

 

 それゆえ、エル・ファシル人は宣言する。自由惑星同盟を脱退し、エル・ファシル人の幸福と利益にのみ奉仕する政府、すなわちエル・ファシル革命政府を作ると。

 

 エル・ファシル革命政府は、エル・ファシル人の自由と尊厳のために戦う。エル・ファシル革命政府の武力は、常にエル・ファシル人を隷属させ侮辱しようとする者に対してのみ用いられるものだ。

 

 エル・ファシル革命政府は、サジタリウス腕の四一一星系共和国及び一三〇億の市民に対し、エル・ファシル独立に対する理解と支援を求める。エル・ファシル人の敵は自由惑星同盟であって市民ではない。自由主義と民主主義に則れば、自由惑星同盟とエル・ファシルのどちらが是であるかは、考えるまでもないだろう。

 

 エル・ファシル独立万歳! エル・ファシル革命万歳!」

 

 メッセージの末尾には、一〇人の署名が記されていた。最上位にはワンディー・プラモート政府主席、第二位にはレミ・シュライネン副主席兼革命政府軍総司令官、第三位にはジェイヴ・カラーム副主席、第四位にはヘルムート・リンケ首相、第五位にはヴィリー・ヒルパート副首相兼革命政府軍副司令官と続く。

 

 プラモートは知らない名前だ。シュライネンは同盟軍元少将で大物海賊。カラームは元大学教授でエル・ファシル民族主義運動の長老。リンケは分離主義過激派組織「エル・ファシル解放運動」の最高指導者。ヒルパートは元傭兵隊長で大物海賊。海賊とエル・ファシル民族主義者の連立政権といったところだろうか。

 

「ええっ!?」

 

 第六位には信じられない名前が記されていた。フランチェシク・ロムスキー副首相。現職の星系教育長官である。前の世界でエル・ファシルを独立させた人物とはいえ、ここで登場するとは思わなかった。

 

「嘘だろ……」

 

 第七位はイバルス・ダーボ副首相。反改革派の牙城であるエル・ファシルNPCの幹事長で、改革派のロムスキー教育長官とは宿敵のはずだ。それが一緒に独立宣言に名を連ねている。

 

 エル・ファシル方面軍の壊滅、海賊の大同盟、傭兵部隊の反乱、そしてエル・ファシル政界の重鎮まで巻き込んだ革命政府の決起。急転した事態がどこまで転がっていくのか? まったく想像がつかなかった。



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第43話:混沌の惑星 796年7月8日~16日 ワジハルファ星系~エル・ファシル防衛部隊司令部

 エル・ファシル軍司令官代行ヤン・ウェンリー准将配下の部隊がワジハルファ第三惑星基地を放棄してから四〇分後、エルファシル革命政府軍がワジハルファ星系全域を封鎖した。包囲殲滅するのが狙いだったのだろう。基地を捨てたヤン司令官代行が正しかった。

 

 タジュラ星系の外縁部に差し掛かったところで、エル・ファシルへの撤退に反対する声があがった。

 

「おそらく星系政府は反乱に加担している。エル・ファシルは既に敵の手に落ちたはずだ。トズールから管区外に脱出してパランティア軍と合流した方がいい」

「いや、フォーデを抜けてアスターテ星域軍と合流しよう」

 

 メイスフィールド代将のようにワジハルファまで出てきたヤン司令官代行を批判する者もいる。

 

「あなたがエル・ファシルを空けなければ、占拠されずに済んだのです! どのように責任を取られるおつもりか!」

 

 エル・ファシル失陥の不安が、反対論という形で吹き出したのだった。しかし、ヤン司令官代行はまったく動じない。

 

「大丈夫だよ。エル・ファシルは占拠されていないから」

「占拠されているとしか思えませんが」

「そんな戦力は敵にはないよ」

「しかし、政府高官が寝返っているんですぞ」

「星系政府丸ごとが敵に寝返ったとしても、エル・ファシルは占拠できないさ。首星には二万五〇〇〇、ジュナイナには八〇〇〇の地上部隊がいる。これらを威圧するに足る戦力を用意するか、指揮権を持つ私が寝返るかしないと無理だよ」

 

 ヤン司令官代行は具体的な数字をあげながら反論していく。彼の見立てでは、革命政府軍の最優先目標はエル・ファシル方面軍の撃滅であり、エル・ファシルを占拠できるような余裕はないだろうとのことだった。

 

「どうして余裕が無いと言い切れるのですか?」

「エル・ファシル星系警備管区内の同盟軍兵力は、司令官直轄部隊とエル・ファシル軍を合わせて四五万。これを殲滅するには最低でも四〇万、欲を言えば五〇万は欲しいところだ。エル・ファシル海賊は今月初めの時点で三〇万そこそこ。テロリストや傭兵を加えても四〇万に届くか届かないかだろう。私たちを追いかけるだけでも精一杯だと思うね」

 

 動転している部下と冷静なヤン司令官代行。どちらに説得力があるかは言うまでもない。俺はあえて嫌そうな顔をしつつ、司令官代行に従うと表明。エル・ファシルに向かう方向で話がまとまった。

 

 ヤン司令官代行とその配下はタジュラ星系をまっしぐらに突っ切って、エルファシル星系へと入った。偵察衛星から「タジュラが敵に封鎖された」との情報が入ったのは、それから三〇分後のことである。他星系の偵察衛星からの情報で、パランティア方面とアスターテ方面に抜けるルートが既に封鎖されていることも判明。ヤン司令官代行の正しさが証明された。

 

 ゲベル・バルカルの敗残兵、前線基地の駐留部隊はほぼ無傷の状態でエル・ファシル星系に集結した。その総数は宇宙艦艇二四〇〇隻、地上戦闘要員一四万八〇〇〇人に及ぶ。革命政府軍の半数にも満たない戦力だ。

 

 パランティア方面にはパランティア軍の他、第七方面軍配下のパランティア星域軍、第一三任務艦隊配下のパランティア任務分艦隊がいる。これらの宇宙戦力の合計は四〇〇〇隻近くになる。だが、別々の指揮系統に属しているし、担当地域を空にするわけにもいかない。結局、パランティア軍の三〇〇隻、パランティア星域軍即応部隊の二〇〇隻のみが境界線に展開した。

 

 アスターテ方面には、第七方面軍配下のアスターテ星域軍、第一三任務艦隊配下のアスターテ任務分艦隊、宇宙艦隊から分遣された国境駐留部隊がいる。しかし、帝国のイゼルローン要塞駐留艦隊が国境線のぎりぎりまで進出してきており、手が離せない状態だ。

 

 戦力的には革命政府軍の方がはるかに優勢だった。しかし、戦略に長けた敵将シュライネンは、航路を封鎖して星間物流を断ち、ジャミングで星間通信を妨害し、エル・ファシル星系の孤立化に努めた。

 

 

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 第七方面軍司令官ムーア中将は、宇宙艦艇一一〇〇隻と地上戦闘要員八万人を援軍として送ったが、到着までに一〇日前後はかかるらしい。

 

 物不足と情報不足が民心を動揺させた。この事態に対処すべき星系政府は、すっかり統治能力を失っている。そのきっかけはエル・ファシル革命政府の独立宣言だ。

 

 独立宣言の筆頭署名者であるプラモート革命政府主席は、市会議員を一二年、州会議員を二〇年務め、メロエ市長を最後に政界から退いた人物。第六位のロムスキー革命政府副首相は、現職の星系教育長官。二人とも星系政府与党である地域政党「エル・ファシル独立党」の幹部党員だ。独立党が組織ぐるみで革命政府と通じているとの疑惑が浮上した。

 

 ロムスキー教育長官は警察の取り調べに対し、「身に覚えがない」と否定しているが、コンピュータの筆跡鑑定は独立宣言の署名を本物と判断。鉱山警備隊が反乱したタジュラ第二惑星を一週間前に視察した事実も明らかになった。革命政府に加担した疑いが濃厚だ。

 

 独立党は進歩党よりもリベラルで革新志向が強い。ロムスキー教育長官が高名な反政府活動家五名の写真を執務室に飾っているのは有名な話だ。海賊やテロを「憲章に定められた正当な抵抗権の行使」と言って批判されたゴルチノイ前農業長官の件は記憶に新しい。革命政府軍に加担したテロ組織「エル・ファシル解放運動(ELN)」は、半世紀前に独立党から分派したグループだ。革新好きというイメージが独立党には染み付いている。

 

 情報の少ない中、ロムスキー教育長官の署名、党に対するイメージ、二人の独立党幹部が革命政府に理解を示したことなどが、「独立党は革命を起こそうとしている」との憶測を呼んだ。

 

 反改革派の国民平和会議(NPC)エル・ファシル支部も苦しい立場にいる。署名順第七位のダーボ革命政府副首相は、NPCエル・ファシル支部の幹事長だ。彼も革命政府との関係を否定したが、筆跡鑑定の結果、反乱した鉱山警備隊との関係などから革命政府に加担したとみられる。

 

 独立党とNPCは改革を巡って対立しているが、どちらも星系政府の与党だ。また、エル・ファシルNPC支部は、ヨブ・トリューニヒト国防委員長の影響下にある。そういったことから、「トリューニヒトとエル・ファシルNPCがエル・ファシルを手に入れるための陰謀」と主張する者もいた。

 

 時を同じくして、革命政府に内通する者が多数いるとの噂が流れた。「革命政府支持者リスト」と題された怪文書が二日間で一五パターンも出回り、有力者や著名人の名前が多数あがった。

 

 星系政府内部で非公式の内通者探しが始まったらしい。幹部たちの目には、誰もが裏切り者、あるいは自分を陥れようとする陰謀家に見えるそうだ。独立宣言から四八時間も経たないうちに政府は分裂状態に陥った。

 

「十中八九は海賊の陰謀だろうね」

 

 テレビ会議の席上、ヤン司令官代行はそう断言した。ロムスキー教育長官とダーボ幹事長が革命政府の幹部だったなら、プラモート元市長のようにエル・ファシルから姿を消し、同志と合流しているはずだというのだ。

 

「地上の支持者を統率する役目があった。だからエル・ファシルに残ったのでは?」

 

 異論を唱えたのは、エル・ファシル軍副司令官代行となったメイスフィールド代将だ。

 

「だったら署名なんかさせないだろう。させるとしても偽名を使わせる。捕まったりしたら元も子もない」

「しょせんは海賊とテロリストです。頭が回らなかったのでしょう」

「君たちをゲベル・ベルカルで引っ掛けた相手は、その程度だったのかい?」

「……いえ」

 

 不承不承といった感じのメイスフィールド副司令官代行。あてこすられたと思ったらしい。

 

「署名を偽造する方法なんていくらでもある。我が軍にもその手のプロはいるしね。一日で結果が出るなんて簡易鑑定だろう? どうにでもごまかせるさ」

「星系政府には申し上げたのですか?」

 

 スカーレット・ジャスパー代将がヤン司令官代行に問うた。彼女は代将の中で俺の次に若く、最も司令官代行寄りだ。

 

「言うだけは言ったさ。しかし、聞いてもらえなかったよ」

「どうしてです? 騙されるほど星系政府が馬鹿とも思えませんが」

「騙されてるんじゃない。信じたいんだ。他の幹部は裏切り者だってね。もともと対立の火種はあった。敵はそれに火を付けただけさ」

「消す方法はありませんか」

「改革派と反改革派が心の底から和解しないと無理だろうね」

 

 ジャスパー代将らヤン派はもちろん、メイスフィールド副司令官代行ら反ヤン派も納得した。確かにそれは無理だ。

 

「二流の策士は相手を騙そうとする。一流の策士は相手を信じさせようとする。どうやら敵は一流らしい。どうしようもないな」

 

 ヤン司令官代行はお手上げと言ったふうに肩をすくめる。それをメイスフィールド副司令官代行が見咎めた。

 

「どうしようもないで済む問題ですか」

「星系政府の内部事情までは責任持てないからね」

「あまり投げやりなことは言わないでいただきたい」

「このエル・ファシルの騒動を一本の木とすると、幹は海賊、その他はすべて枝だ。海賊をどうにかしたら、テロリストと傭兵もいなくなる。地上の騒ぎも収まる。無理をすることはない。援軍が来るまでのんびり待とうじゃないか」

 

 守りを固めて援軍を待ち、戦力的に優位になってから反攻に転じる。それがヤン司令官代行の方針だった。

 

 一番重要なのはエル・ファシル星系に敵を侵入させないことだ。ヤン司令官代行は外縁天体群の外側に第一防衛線、内側に第二防衛線を設定し、重点的に戦力を配備した。そして、第一防衛線の中心点にある第一惑星ラガの周辺宙域に、自らが直率する巡航艦部隊を置いた。二つの防衛線で敵を足止めし、巡航艦部隊が撃退するのだ。

 

 内側の守りはジュナイナ防衛部隊が担う。政情が安定しているジュナイナに直接配備される部隊は少なく、ほとんどの部隊が二つの小惑星帯に配備されている。

 

 エル・ファシル防衛部隊は兵站と治安維持を担当する。動揺する二五〇万の市民、統治能力を失った政府、地上に隠れているであろうテロリストなどに備えるのだ。

 

 俺はヤン司令官代行からエル・ファシル防衛部隊司令に指名され、第八一一独立任務戦隊の指揮権をオルソン副司令に譲渡した。少々寂しいが突撃部隊を後方に置いても意味が無い。当然の判断だと思う。

 

 

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 戦隊幕僚はオルソン司令代行を補佐することとなり、オズデミル大尉、マヘシュ中尉、コレット中尉の三人だけが手元に残った。俺は新しい幕僚チームの編成に取り掛かった。

 

 首席幕僚には、第三〇四後方支援群司令のオーブリー・コクラン宇宙軍大佐を登用した。後方支援と地方警備の経験に期待しての人事だ。この世界では無名で、戦記にもほとんど登場しないが、前の世界ではアレクサンデル・ジークフリード帝の時代に帝国元帥となった。こんな超大物を使うなど僭越にもほどがある。しかし、背に腹は代えられない。

 

 次席幕僚は第三任務群司令代行のアーロン・ビューフォート宇宙軍中佐。幕僚経験がない彼を起用した理由はただ一つ。親しい人がいないと寂しいからだ。本当はダーシャ・ブレツェリ宇宙軍中佐かエーベルト・クリスチアン地上軍中佐を起用したかった。だが、ダーシャはヤン司令官代行の作戦主任参謀となり、クリスチアン中佐には「情けないことを言うな」と叱られた。

 

 指揮下の部隊からそれなりに使えそうな士官を幕僚として引っ張り、信頼できそうな下士官や兵卒を事務要員として加えた。その中には旧知のルチエ・ハッセル軍曹もいる。

 

 俺の指揮下の戦力は宇宙艦艇二〇〇隻、陸戦隊一万四〇〇〇人、地上軍五万二〇〇〇人、エル・ファシル在住の予備役軍人一万二〇〇〇人。その過半数はもともと即応部隊所属だった地方部隊の精鋭。ハイネセンから派遣された部隊も少なくない。第八強襲空挺連隊、第二エル・ファシル自由師団のような有名部隊までいる。

 

「司令官代行はフィリップス代将に武勲を立てさせたくないのだろう」

 

 そんな噂もある。俺の下に配属された代将八名はすべて反ヤン派だ。面倒な連中をまとめて地上に縛り付けようとしていると見られてもおかしくはない。

 

 だが、俺の考えは違う。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』によると、ヤン・ウェンリーは武勲よりも民間人保護の方がずっと大事だと考えていたそうだ。最も信頼する人物にこそ惑星エル・ファシル防衛を任せるのではないか。単なる想像でしかないが。

 

 第一防衛線を指揮するデッシュ代将、第二防衛線を指揮するボース代将、ジュナイナ防衛部隊を指揮するビョルクマン代将はみんな調整型の人材だ。参謀長代行のパトリチェフ大佐は陸戦隊の勇者で、人望はあるが艦隊戦の知識は乏しい。これらの人事からヤン司令官代行の構想が伺える。

 

 ヤン司令官代行はプライドや意地といったものにはこだわらず、少ない損害で目的を達成できる手段を追求する。最短距離で目的地を目指すようなやり方は、結果を出せる反面で、「何を考えてるのかわからない」「無神経すぎる」との不満を招く。こういった欠点に彼は気付いているのだろう。そして、「できないことはできる奴に任せればいい」と彼は考える。俺やその他の幹部は説明役・なだめ役として起用されたのではないか。これも単なる想像だが。

 

 八年前のエル・ファシル脱出作戦では完全な傍観者だった。四年前のエル・ファシル奪還戦では単なる傍観者でしかなかった。そんな小物が偉大なヤン・ウェンリーの命令でエル・ファシルを守る。本当にとんでもないことだ。

 

「代将閣下、右手と右足が一緒に出てますよー」

 

 ハッセル軍曹が俺の緊張ぶりを笑う。

 

「あ、ありがとう」

「しっかりしてくださいねー」

「わ、わかった」

 

 声を上ずらせながら返事をする。戦記で親しんだ英雄から命令を受ける。これほど光栄なことがあろうか。歓喜とプレッシャーが胸中を覆い尽くした。

 

 

 

 ゲベル・バルカルの敗戦から四日が過ぎ、七月一一日の朝を迎えた。革命政府軍には何の動きも見られない。人質となった鉱山労働者がどうなったのかも不明だ。

 

 不気味な静けさがエル・ファシル星系を覆い尽くす中、惑星エル・ファシルのみが騒がしい。コクラン首席幕僚は、今朝も嫌な報告ばかり持ってくる。

 

「オベイド航空基地で爆発事故とはね」

 

 俺は軽くため息をつく。西大陸最大の都市であるオベイドの航空基地は、エル・ファシルで唯一輸送機部隊が駐屯する基地だった。

 

「基地施設の復旧は三日か四日もあれば十分です。しかし、燃料や整備機材が失われました」

「燃料の損失は痛いね。民需用の燃料を接収するわけにもいかない」

「海賊がいる間は物資も入ってきません。輸送機は戦力外と見るべきでしょうな」

「大規模な航空輸送は無理ってことか。まいったなあ」

 

 輸送機が使えなくなったら、陸上部隊の機動力は半減、いや七割減になる。足をもぎ取られたに等しい。

 

「パイロットや機体に損害がなかったのを幸いと考えましょう」

「そうだな。首席幕僚の言うとおりだ」

 

 憂鬱な気持ちとともに報告書を閉じ、次の報告書に目を通す。昨日の夜にカッサラ市で発生した暴動についての続報だ。

 

 発端はフライングボールチームの応援団同士の乱闘だった。市街地へとなだれ込み、略奪や放火を繰り返しながら数を増やし、現在は一万人を超える規模まで拡大したという。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「そして、メインストリートで警官隊と銃撃戦を展開中。最悪だね」

「カッサラ市警の警官は三二〇人。近隣の市警察からの増援と合わせても五〇〇人程度。敗北は時間の問題です」

「棒や石しか持ってない一万人ならともかく、ライフルを持った一万人だからね」

「スタジアムで乱闘が起きた時点から、銃撃戦が起きていたとか」

「フライングボールの応援にライフルなんて必要ないよね」

「最初から騒ぎを起こすつもりだったのでしょう」

「一万丁のライフルなんて簡単に用意できるもんじゃない。どこかに仕掛け人がいるんだよ」

「カッサラ州知事から介入要請が来ています。いかが対応なさいますか?」

「断るしか無いだろう。『何があろうと介入するな』と司令官代行から厳命されている」

 

 ヤン司令官代行はエル・ファシル軍の全部隊に対し、革命政府軍及びテロリスト以外への武力行使を固く禁じた。昨日の夜、暴動が拡大した場合の対応を問い合わせた際も、一切介入しないように指示された。

 

「困りましたね。介入要請は受け入れるのが慣例なのですが」

「要請はあくまで要請。命令ではないから断ることもできると、司令官代行はおっしゃってる」

「あの方は何を考えておいでなのでしょうか?」

「ただでさえ市民はピリピリしてる。いたずらに刺激してはまずいと思ってるんじゃないかな」

 

 実のところ、これは単なる方便にすぎない。武力行使を制限する理由について、ヤン司令官代行は「そんなの当たり前だろう」としか語ってないからだ。前の世界で『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』を読んだ俺には、その真意がある程度想像できる。

 

 軍隊と市民、権力者と市民を本質的に対立する存在だと、ヤン司令官代行は考えていた。彼にとって、軍隊は権力者の道具、あるいは圧制者予備軍であり、潜在的な市民の敵である。暴動鎮圧など民衆弾圧としか思えないのではないか。決して口にはできないが。

 

「暴徒だけが市民ではありません。市街地が火の海になっているのに、郊外の第五五六師団は駐屯地に引きこもったまま動かない。軍はカッサラを見捨てたと思われても良いのですか?」

 

 コクラン首席幕僚はぐいと身を乗り出す。前の世界で民間人保護に尽くした彼だが、ヤン司令官代行と違って軍隊を悪と思っておらず、治安維持目的の武力行使には肯定的だ。

 

「警察に任せるというのが司令官代行の意向だから……」

「カッサラ市警察は三二〇人、カッサラ州警察と合わせても六五〇人です。隣接するアル・ガザール州警察は二三〇人、エトバイ州警察は三九〇人、ラムシェール州警察は一六〇人。総動員しても二〇〇〇人に届きません」

「少ないよなあ」

 

 俺は腕を組んで考え込んだ。星系政府の改革の結果、惑星エル・ファシルにおける一〇〇〇人あたりの警官数は、一・三人まで減少した。同盟平均の三分の二にも満たない。暴徒を抑えるには数が少なさすぎる。

 

「出動許可をいただけるよう、司令官代行に掛け合いましょう」

「対暴動鎮圧用装備を警察に貸与する。その程度の支援なら司令官代行も認めるはずだ。さっそく手配して欲しい」

「かしこまりました……。何とももどかしい限りですな」

「次の報告を頼む」

 

 首席幕僚の慨嘆を聞き流し、さっさと話題を切り替える。

 

「全土で買い占め騒動が起きています。便乗値上げする商店も後を絶ちません」

 

 エル・ファシルは生活物資の多くを他星系からの輸入に頼っている。パニックは当然の成り行きであろう。

 

「そっちへの対応は星系政府の仕事だね。しかし、騒動が暴動に発展する可能性も十分にある。警戒レベルを引き上げておこう」

「未確認情報ですが、エル・ファシル市内の商店が襲撃されたという報告が入っています」

「気が短いね。買い占める物が無くなってから暴れても遅くはないだろうに」

「危機感を煽る書き込みがネット上にあふれているとのことです」

「暴動を煽る書き込みもあったね。ネット規制が必要だな」

 

 革命政府軍のジャミングに影響されるのは星系間通信網のみ。星系内通信網は健在だ。それが仇となった。

 

「買い占めにしてもネットにしても、本来は星系政府が動くべき問題なのですがね」

「まったくだ」

 

 星系政府にはいつもうんざりさせられる。方針はふらふらと揺れ動き、会議を開いても何も決められず、対応は後手後手に回るという有様で頼りないことこの上ない。

 

「次の対策本部会議で提言しておこう。次の報告を」

「派遣軍司令部、同盟軍基地、星系政庁、惑星政庁、州政庁、市政庁、町役場、星系議会事務局、星系最高裁、星系警察本部、州警察本部、主要マスコミ、大手企業、宇宙港、空港、海港、駅、大規模娯楽施設などにテロ予告状が送りつけられました。全部で二五二通になります」

「ああ、これだね」

 

 テーブルの中から一枚の紙を取り出す。「エル・ファシル革命政府軍遊撃部隊」なる組織から送られてきたテロ予告だ。

 

「ELNの軍事部門かと思われます」

「こうも節操無く送られたら、どこを警備すればいいかわからなくなってくるよ」

「案外、司令官代行の判断が正しいのかもしれません。暴動は放置、いや警察に任せてテロ対策に専念する。治安責任者としては無責任の限りですが」

「よくもこれだけの事件がこのタイミングに重なったもんだ。偶然とは思えない」

「そう思える方がおかしいですな」

「今はテロ対策に専念しよう。俺たちの権限で対処できるのはそこまでだ」

 

 俺は既定方針を繰り返した。現在のエル・ファシルでは戒厳令は施行されていない。施行しようとする星系政府に対し、ヤン司令官代行が「悪い前例を作りかねない」と強硬に反対した。そういうわけで防衛部隊は警察権を持たず、普通の軍隊として行動している。

 

「危険人物を監視できるだけでだいぶ楽になるんですけどね」

 

 予防拘束と言わないところがコクラン首席幕僚の良識であろう。

 

「この星は火薬庫だから」

 

 俺は憲兵隊から渡されたファイルをぺらぺらとめくる。この惑星に拠点を構える政治団体・宗教団体・犯罪組織などのうち、同盟警察から反社会的勢力認定を受けた団体は四五個。認定を受けていない極右民兵組織「憂国騎士団」、サイオキシンマフィアの公然部門「デモクラティア財団」を含めると、四七もの火種がある。また、危険人物として複数星系から入国禁止処分を受けた者が三〇〇名ほど滞在しているらしい。

 

 ハイネセン資本やフェザーン資本の動向も気になる。傭兵部隊に社有地を警備させ、情報収集のためにスパイを使うなど、治外法権的な地位を星系政府から認められている。一社でも革命政府軍に加担していたとしたらとんでもないことだ。

 

 軍情報部、憲兵司令部、中央情報局、同盟警察本部などの工作員も厄介だ。彼らは危険団体や危険人物を追ってエル・ファシルに入り、独自の動きをしていた。

 

「自由も行き過ぎると害悪ですな」

「まったくだよ。これが野放しになるんだから」

 

 アントニオ・フェルナトーレの情報が記されたページを開いた。軍国主義者と組んで動乱を煽動した疑いで、ムシュフシュ星系など三つの星系政府から入国禁止処分を受けたビジネスマンだ。エル・ファシル星系政府では自由な出入国が認められている。

 

「できることからやりましょう。あれもやりたい、これもやりたいでは埒が明きませんから」

「最終的にはそこに行き着くね」

 

 司令官代行の方針に忠実な俺、批判的なコクラン首席幕僚が意見をすり合わせ、エル・ファシル防衛部隊の方針を作った。

 

 二人の方針が一致したところで、次席幕僚ビューフォート中佐以下の全幕僚を集めてミーティングを開く。この場では俺が方針を示し、それを実施するためにはどうすればいいかを幕僚たちと話し合う。

 

 エル・ファシル防衛部隊司令は調整役のようなものだ。雑多な部隊を取りまとめ、司令官代行や星系政府との交渉窓口となり、行政や警察との協力体制を構築し、スポークスマンとしてマスコミに登場する。数えきれないほど話を聞き、数えきれないほど頭を下げ、信頼関係を築いていく。地味で骨の折れる仕事だが、大いにやりがいのある仕事でもあった。

 

 

 

 七月一〇日の夜に発生したカッサラ市の暴動は、瞬く間に周辺地域へと広がり、カッサラ州全域が騒乱状態に陥った。暴徒は数万まで膨れ上がり、カッサラ、アル・ガザール、エトバイ、ラムシェールの四州の警官隊をあっという間に蹴散らした。

 

 一四日には、カッサラ州、アル・ガザール州、エトバイ州、ラムシェール州が暴徒に覆い尽くされた。エル・ファシル東大陸の西部が騒乱状態となったのだ。

 

 一五日になると東大陸東部にあるマクリア州でも暴動が発生し、一六日には州都ガザーリー市が暴徒に占拠された。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ガザーリー市は首都エル・ファシル市から二〇〇キロしか離れていない。慌てた星系政府はラガ宙域のヤン司令官代行に直接通信を入れて、軍隊出動を要請したが拒否された。

 

「もはや市民の暴動ではありません。内戦です」

 

 俺はヤン司令官代行に通信を入れ、星系政府の要請に応じるよう求めた。

 

「これは嵐のようなものだ。いずれ収まる。わざわざこちらから手を出すことはない」

 

 ヤン司令官代行の茫洋とした表情は、好意的な者には悠然、非好意的な者には鈍感に見えそうだった。

 

「この惑星が嵐に飲み込まれるかも知れません。西部四州に取り残された友軍への救援なら名分も立ちます」

「それはやめておこう」

 

 首を横に振り続けるヤン司令官代行。その後もやりとりは続いたが、平行線のままで終わった。

 

「すまなかった」

 

 俺は後ろを向いて頭を下げた。そこには強硬派の面々がずらりと並んでいる。

 

「あなたの責任ではありません」

「お気になさらないでください」

「司令官代行を引っ張りだしただけでも十分な成果でした」

 

 強硬派は口々に俺を慰めた。

 

「ありがとう」

 

 申し訳ないような顔をしつつも内心では安堵した。強硬派の不満をいくらかでも解消できたからだ。

 

 前例に照らし合わせれば、暴動は一一日の朝の時点で軍隊を投入すべき規模になっており、今なら星域軍どころか方面軍が直接介入してもおかしくない。独断で州政府の出動要請に応じて暴徒を追い払ったクリスチアン中佐は、ヤン司令官代行の命令で拘束されたのだが、防衛部隊の中では同情的な意見が多かった。強硬派が主流を占めているのだ。

 

「八年前と同じですな。当時中尉だったヤン司令官代行は、怒った群衆をなだめようとせずに、簡単な説明をしてさっさと引っ込んでしまいました。唖然としたもんですよ」

 

 ビューフォート次席幕僚が八年前のことを持ち出す。エル・ファシル脱出作戦の経験者ですら、ヤン司令官代行を信頼できなくなっている。

 

「しかし、最終的には成功した。今は何よりも団結が必要な時だ。不信を煽るような発言は控えてほしい」

 

 不満はあるが他に選択肢がないというニュアンスを言葉に込める。ヤン司令官代行の側だと思われたら部下から信頼されなくなる。強硬派として振る舞い、適度にガス抜きをするのが大事だ。

 

「あの方は敵の心理を手に取るように理解できる人だ。しかし、味方の心理に無頓着過ぎるのではないですかね」

 

 なおもビューフォート次席幕僚が愚痴を言う。強硬派が次席幕僚の言葉にそうだそうだと同意した。

 

「治安戦が分からんだけだと、私は思っとりますよ。司令官代行は対帝国戦一本でやって来たエリートだ。敵味方がはっきりしてる戦いしかやってこなかった。そういう人は市民とテロリストを区別できると考えがちです。それじゃあ治安戦はできやせんのですが」

 

 防衛部隊副司令のアブダラ地上軍代将が上から目線で批判を加えた。

 

「副司令、滅多なことを言うもんじゃない。下は上にならう。貴官がそのような態度では、秩序も何も無くなるぞ」

「秩序を乱すのは司令官代行でしょうに。宇宙にいるから地上のことなんか気にならんのでしょうが、無責任もいいところだ」

「俺だって間違ってると思うよ。しかし――」

 

 止めどなく湧き出る不満の一つ一つに対処する。あえて消極策をとる上官、それに不満を漏らす部下というのは、戦記物ではよく見られるシチュエーションだ。物語として読んだ時は、部下を愚かだと笑えたのだが、いざ直面してみると厄介だった。突撃する方が何百倍も楽に思えてくる。

 

「例の噂もあります。司令官代行にやる気があるのかどうかも疑わしいとしか」

 

 ビューフォート次席幕僚はもはや不信感を隠そうとしない。ヤン司令官代行が「正直な話、海賊よりハイネセンにいる政治屋連中の方がよほどたちが悪いと思うよ」と言ったという噂が流れており、隊員のやる気を著しく削いでいた。

 

「単なる噂だ。惑わされてはいけないよ」

 

 俺は年長の部下をなだめた。もっとも、内心では事実だと思っている。前の世界で得た知識と照合すると、いかにもヤン司令官代行が言いそうなセリフだからだ。

 

「失礼しました。疲れているようです」

「気持ちは分かる」

「これでも人より神経が太いつもりだったんですがね。戦場で使う神経とオフィスで使う神経は違うようです」

 

 ビューフォート次席幕僚が苦笑いを浮かべる。

 

「すまなかった。俺の責任だ」

 

 自責の念に心が締め付けられた。親しい人が一人でも近くにいて欲しいという理由で不慣れな仕事を頼んだ結果がこれだ。俺の弱さがこの事態を招いた。

 

 正直言うと俺もだいぶ参っている。ヤン司令官代行の真意がわからない。敵の狙いもさっぱり見えてこない。偉大な天才から寄せられた期待に答えなければというプレッシャーもある。人前ではどっしりと構え、部下を思いやる余裕を見せたりもするが、内心は不安でいっぱいだ。マフィンが品薄なため、板チョコやプリンで糖分を補給した。

 

 暴動の他にも暗い材料は多い。強硬派が退出した後に入ってきたコクラン首席幕僚は、深刻化する物不足について報告した。首都エル・ファシル市を中心とする東大陸の東部地域、そして西大陸では、物不足が社会不安を引き起こしつつある。

 

「西大陸のオベイド市でスーパーマーケットが襲撃されました。トイレットペーパーやミネラルウォーターの値段を定価の倍額まで引き上げたことが反感を買ったようです」

「物資統制をやってたら、ここまで酷い事にはならなかったのに」

 

 俺は星系政府から送られてきた文書を忌々しげに睨む。物資の統制、備蓄物資の放出などを提言したところ、「いたずらな統制は混乱を助長するだけだ。それに買い占めも売り惜しみも市場経済では当然の事象である。政府が取り締まるようなことではない」と言った内容の文書が送られてきたのだ。

 

「民生の安定こそが治安の安定です。それが政府の連中には分からんようですな」

 

 コクラン首席幕僚は、前の世界では民間用の物資を保全するために降伏したことがある。物資の安定供給には人一倍敏感だった。

 

「治安を安定させる気があったら、警察官をここまで減らしたりはしないだろうね」

「おかげで我々が苦労します」

「まったくだよ」

 

 俺は別の報告書を手に取った。物不足対策を求めるエル・ファシル市民のデモ行進の様子が記されている。

 

「怒った大衆が星系政庁を取り囲み、当局の無為無策を非難する。まるで八年前みたいだ」

「いかが対処なさいますか?」

「デモ警備に陸戦隊を投入したいけど無理だろうね。とりあえず次の会議で備蓄物資の放出を提言しておくよ」

「民間人対策でここまで苦労するとは思いもしませんでした」

「テロリストが静かだからね」

 

 あれだけたくさんの予告状をばらまいたにも関わらず、テロリストが動く気配がない。分厚い警備に阻まれているのだろうか。

 

「ずっと静かとも限りません。最後まで気を緩めずに取り組みましょう」

「そうだな」

 

 打ち合わせを終えた後、司令室の外に出た。憲兵隊から派遣された護衛二人も付いてくる。窓の外では、一〇〇人ほどの市民が集まって軍の無策を罵っていた。

 

「お前ら、本当はやる気ないんだろう!」

「さっさと暴動を鎮圧に行けよ!」

「海賊を追い払ってくれ!」

「戦うのが怖いのか!?」

 

 あれが暴徒になったらと思うと、生きた心地がしない。ポケットから板チョコを取り出し、細かく割って口に入れ、ポリポリとかじる。

 

 糖分を充填した俺は護衛を連れて廊下を歩く。階段を降りようとした時、司令部幕僚のシェリル・コレット中尉が駆け寄ってきた。いつもの鈍重ぶりをかなぐりすてたような早足だ。

 

「どうした?」

「…………」

 

 コレット中尉は無言でメモを差し出す。そこには「援軍より通信が入りました。二四時間以内に到着するとのこと」ときれいな字で記されていた。

 

 予想したよりも一日早い到着だった。極限状況においてはその一日が命運を左右する。第七方面軍司令官のムーア中将、そして援軍を率いるホールマン少将の配慮がありがたい。

 

「ありがとう」

 

 俺はにっこり微笑んでメモをポケットにしまって歩き出した。下階に用事があるのか、コレット中尉は俺の右隣をのろのろと歩く。前後には護衛が一人ずつ。

 

「フィリップス代将閣下」

 

 俺を閣下と呼ぶただ一人の人物、ルチエ・ハッセル軍曹が廊下の向こう側からせかせかと歩いてくる。

 

「おう、ハッセル軍曹か」

 

 俺は右手を軽くあげて挨拶した。

 

「…………」

 

 ハッセル軍曹は何も言わずに右手をあげ、こちらに向けるように振り下ろす。袖から小型ブラスターがすっと出てきて彼女の手に収まった。

 

「何の冗談だ? いくら君でもそれは……」

「エル・ファシル革命万歳!」

 

 ハッセル軍曹のブラスターから白い閃光がほとばしる。それは俺や護衛が動くよりも一瞬だけ早かった。



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第44話:エル・ファシル七月危機 796年7月17日~18日 エル・ファシル防衛部隊司令部~士官食堂

 撃たれると思ったその瞬間、体の右側に何かがぶつかった。俺は左側へと弾き飛ばされる。

 

「えっ!?」

 

 右を向くと、シェリル・コレット中尉が腹部を撃たれて、俺の方に倒れこんできた。彼女はとっさに体当たりして俺の身代わりになったのだ。

 

 二人の護衛が立て続けにブラスターを放つ。何本もの光線がルチエ・ハッセル軍曹の小さな体を貫く。ほんの数十秒でけりが付いた。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 護衛が俺のもとに駆け寄ってくる。

 

「俺はいい! コレット中尉は大丈夫か!?」

「意識はあります。呼吸もしています」

「彼女に応急手当を! 医療班を呼べ!」

「かしこまりました」

「彼女の体は動かすなよ! 傷口が開くかもしれないからな!」

「よろしいのですか?」

「構わん! 医療班が来るまでこのままにしておけ!」

 

 俺はコレット中尉に押しつぶされたまま指示を出す。動転しているせいか、巨体の重みをほとんど感じない。

 

 それから数分もしないうちに救護班と警備兵がやって来た。コレット中尉が担架に乗せられて医務室へと運ばれていく。警備兵一個分隊が俺の周囲を固める。

 

「どういうことなんだ」

 

 一段落した途端、急に戸惑いが襲ってきた。前の人生から親しかったはずのハッセル軍曹が俺を殺そうとした理由。「エル・ファシル革命万歳!」の叫びの意味。不可解なことばかりだ。ハッセル軍曹の死体に視線を向けたが、もちろん答えは返ってこない。

 

 考える時間を与えまいとするかのように、携帯端末が鳴り響く。この音は緊急連絡時の呼び出し音。不安を感じながら通話ボタンを押す。

 

「フィリップス代将だ」

「コクラン大佐です。非常事態が発生しました。防衛部隊幹部が次々と襲撃されております。急いで指揮所までお越しください」

「なんだって!?」

「第二管区のモレッティ司令、第四管区のヨハンソン副司令とミョン首席幕僚、第八六五警備師団のウィジャヤ師団長、第六三二航空団のフリッカー司令が亡くなりました。第一管区のオハラ副司令、第五管区のオロンガ司令が重傷です」

「そんなにやられたのか!」

「たった今、第三管区のレアフ司令が刺されたとの報告が入りました」

「管区司令の半数が行動不能……」

 

 呆然となる俺。追い打ちを掛けるようにブラスターの発射音が響く。近くで銃撃戦が行われているらしい。

 

「とにかく指揮所までお越しください」

「わ、わかった!」

 

 俺は通信端末を切り、護衛と警備兵の方を向く。

 

「指揮所へ向かう。付いてこい!」

 

 二人の護衛、一〇人の警備兵を引き連れて階段へと向かうと、一〇メートルほど先に軍服と私服が半々くらいの集団が姿を現した。人数は一〇人前後でみんな銃を手にしている。

 

 銃撃戦が始まった。俺は立て続けに三人を撃ち倒し、その他の敵は部下によって倒され、あっという間に決着が付いた。

 

「怪我した者はいるか?」

「左腕をかすられました」

「戦えそうか?」

「支障はありません」

「他には?」

 

 返事はなかった。一〇人ほどの敵を倒して軽傷者が一人。幸先の良いスタートだ。

 

「このまま駆け下りるぞ!」

 

 俺たちは階段を四階から地下二階を目指して駆け下りる。年配の警備兵が背後から声を掛けてきた。

 

「先頭に立つのは危険です。後ろにお下がりください」

「指揮官先頭は宇宙軍の伝統だよ」

 

 それが当然であるかのように俺は答えた。本当は「体を動かしてる方が気が紛れる」という指揮官にあるまじき理由なのだが。

 

「さすがはフィリップス司令。小官が浅はかでした」

「そんなことはない。貴官の忠告は……」

 

 褒めようとしたその時、下から駆け下りてきた敵と遭遇した。私服姿の男女が七、八人ほど。当然のように銃を持っている。

 

 俺は走りながらハンドブラスターの引き金を三回引いた。ビームが放たれるたびに敵が倒れ、階段を転げ落ちていく。勢いづいた味方と怯んだ敵。勝敗は決したようなものだ。あっという間に敵は倒れ伏した。

 

「お見事です!」

 

 幼い顔の少年警備兵が褒めてくれた。

 

「たくさん練習したからね」

 

 我ながら面白みのない答えだったが、なぜか少年の目はきらきらと輝いている。見なかったふりをしてさっさと歩き出した。

 

 一階に降りる途中、駆け上がってきた敵を何度も蹴散らした。地下に降りてからは駆け下りてきた敵と戦った。強力なセキュリティに守られている司令部ビルに、これほど大勢の敵が侵入してきた。その一事だけで事態の重大さが察せられる。

 

 地下二階の細長い廊下には、ビームライフルを手にした警備兵がずらりと並んでいた。IDカードを示して指揮所の中へと入る。

 

「ご無事でしたか」

 

 首席幕僚コクラン大佐、次席幕僚ビューフォート中佐らが安堵の色を浮かべる。

 

「どうにかね。君たちは?」

「ごらんの通りです」

 

 ビューフォート次席幕僚が床を指さす。そこにはハンドブラスターを持った死体が三つ転がっていた。

 

「ファフミー曹長、キロス兵長、バドボルド一等兵か」

 

 みんな惑星エル・ファシル出身者だった。ファフミー曹長は州会議員の次女、キロス兵長はエル・ファシル義勇旅団の勇士、バドボルド一等兵は休学して軍に志願した親同盟派学生団体幹部で、エル・ファシル民族主義者との繋がりはない。

 

「他の刺客もみんな身元が確かでした。一〇年以上軍に勤務していた者もいます」

「時間を掛けて軍に浸透してたんだな。とんでもない敵だ」

「これで終わりではないでしょうな」

「だろうね」

 

 俺とビューフォート次席幕僚が顔を見合わせた瞬間、オペレーターが大きな叫びをあげた。

 

「エル・ファシル市内の一四箇所で爆弾テロが発生!」

「何者かが司令部に砲撃!」

「星系政庁ビルが武装集団に占拠された模様!」

 

 次から次へと事件が起きる。アラートが鳴るたびに心臓が止まりそうだ。俺の頭脳はあっという間に処理限界を超えた。

 

「フィリップス司令、ご命令を」

 

 コクラン首席幕僚が俺の目をまっすぐに見る。他の幕僚たちもこちらに注目している。そうだ、命令を出す権利は俺だけのものだ。揺らいでいる暇はない。

 

「全部隊、警戒レベルをオレンジからレッドに引き上げろ!」

 

 マイクを握りしめて叫ぶと、周囲の空気が一気に引き締まった。やはり指揮官の心の持ちようは大事だ。

 

「首席幕僚! 報告を頼む!」

 

 知略はコクラン首席幕僚に頼る。

 

「次席幕僚は司令部防衛を指揮してくれ!」

 

 実戦はビューフォート次席幕僚に頼る。

 

「諸君! これよりテロリストを迎え撃つ! 準備はできたか!?」

 

 虚勢でもいいから胸を張ろう。それが俺の持つ唯一の才能なのだ。七月一六日一七時、エル・ファシル防衛部隊はテロリストとの戦いに突入した。

 

 

 

 エル・ファシル防衛部隊の幕僚チームは、少ない時間の中でエル・ファシル解放運動の行動パターンを分析し、さまざまな対応策を用意した。また、テロ対応の基本を徹底するように指導した。やれることはすべてやったつもりだ。後は落ち着いて迎え撃つだけのことである。

 

 アラート音がけたたましく鳴り響き、戦術スクリーンの一点が赤く点滅した。最重要警戒ポイントの一つ、エル・ファシル核融合発電所だ。

 

「こちら、テセネー核融合発電所! トレーラー六台が正面ゲートに向けて突進してきました!」

 

 メインスクリーンが発電所の正面ゲートに切り替わる。巨大なトレーラー六台が猛スピードで突進し、発電所の正面ゲートを突き破った。映画のワンシーンのような派手な攻撃にみんなが息を呑む。

 

「無人トレーラーによる自爆攻撃は敵の常套手段である! 速やかに破壊しつつ、他のゲートから侵入してくる敵に注意を払え!」

 

 俺が指示を出し終えた途端、エル・ファシル宇宙港が赤く点滅した。

 

「こちら、エル・ファシル宇宙港! ターミナルビルに侵入者です!」

 

 メインスクリーンは核融合発電所から宇宙港の映像に切り替わり、閉鎖中のターミナルビルに忍び込んできた五、六人の人影が映った。

 

「侵入者を急ぎ排除せよ! 速やかに侵入経路を確認するように!」

 

 俺の指示はごく常識的で独創性の欠片もない。テロリストの攻撃は常に奇襲の形をとる。堅実さと冷静さこそが必要だ。

 

「コンゴールの第六管区臨時本部です! 正門に二発の砲撃! ロケット砲と思われます!」

「こちら、エル・ファシル恒星間通信センター! 武器を持った暴徒数百名が通用口に群がっています!」

 

 今度はコンコール市とエル・ファシル恒星間通信センターが同時に赤く点滅した。次の指示を出そうとマイクに向かうと、またアラート音が鳴り、西大陸の第五航空基地が赤く点滅した。

 

「これで五か所か……」

「それもこの惑星全土に散っている」

「第二波、第三波もあるぞ」

 

 幕僚たちがぼそぼそと呟く。予想以上の大規模攻撃に動揺を隠せない様子だ。

 

「エル・ファシル軍司令部より通信です」

 

 通信士の報告が指揮所をさらなる不安に陥れた。今度はどんな悪い知らせだろうか? 人々が恐れおののく中、参謀長代行パトリチェフ大佐のどっしりした巨体がスクリーンに現れた。

 

「参謀長代行のパトリチェフ大佐です。海賊と傭兵の連合軍五〇〇〇隻が三方向からエル・ファシル星系に侵入しようとしています。一五分ほどで第一防衛線に到達するでしょう」

 

 革命政府軍がついに動き出した。戦力はこちらの倍以上。地上のテロと連動した動きなのは誰にだって分かる。幕僚たちは真っ青になった。

 

「やはり各個撃破に出てきたか……」

「援軍の宇宙部隊指揮官はカールセン提督だからなあ。途中でパランティア軍や星域軍などを加えて、三〇〇〇隻ほどになってるはずだ。誰だってヤン提督を先に狙うよ」

「弱い方から叩くのが鉄則だからな」

「あのシュライネンが相手だ。こちらが二倍でも勝てる気がしない」

 

 これはまずい。俺は右手を横に伸ばし、幕僚たちに口を閉じるよう促した。そして、パトリチェフ参謀長代行と言葉をかわす。

 

「防衛部隊司令のフィリップス代将です。方針の変更などはありますか?」

「そのまま地上の防衛に専念してください。司令官代行は『敵は最後の金貨を使って賭けに出た。この攻撃をしのげば我が軍の勝ちだ』と言っております」

「最後の金貨とはいったい?」

 

 ヤン司令官代行には聞きにくいことも、優しそうなパトリチェフ参謀長代行には聞ける。

 

「防衛部隊に潜んでいた工作員のことです」

「ああ、そういう意味でしたか」

「シュライネンが信奉する孫子理論によると、戦わずして勝つのが理想だとか。策が尽きたから強行手段に出たのだろうと、司令官代行はお考えです」

「とっくに研究済みということですか」

「軍人時代に論文集を二冊も出したような男ですからな。研究材料には事欠きません」

「年度別模範戦例集でも取り上げられてましたね」

「シュライネンの用兵パターンは、すべて司令官代行の頭脳に収まってますよ」

「なるほど!」

 

 俺とパトリチェフ参謀長代行はあえて大声で話す。ヤン司令官代行が敵の手の内を知り尽くしてるとアピールするためだ。

 

「宇宙の敵は我らにお任せください。地上の敵をお願いします」

 

 パトリチェフ参謀長代行が分厚い胸を張った。この人が言うからには間違いない、と思わせるような雰囲気が彼にはある。

 

「かしこまりました。地上は防衛部隊が全力で抑えましょう。宇宙部隊は後顧の憂いなく戦ってください」

 

 交信を終えた後、幕僚たちに向けて檄を飛ばした。

 

「今の通信を聞いたか! 敵は追い詰められた! あと少し踏ん張れば我が軍の勝ちだ!」

 

 俺の叫びに応えるように歓声があがった。配下の部隊長にもパトリチェフ参謀長代行の話を伝達し、勝利への希望を煽る。

 

 地上の秩序は崩壊一歩手前だった。惑星全体を股にかける同時多発テロ。東大陸西部を飲み込んだ暴徒。東大陸東部や西大陸で頻発する物不足への抗議デモ。それらに対処すべき政府は内紛で動けず、警察は人手不足で機能していない。

 

 軍隊は指揮系統の混乱が甚だしい。テロリストの襲撃によって、防衛部隊配下の六管区のうち三管区の司令が倒れ、その他の主要幹部も少なからず死傷した。

 

 宇宙に関しては心配していない。ヤン司令官代行は前の世界では一度も負けなかった人だ。この世界では初めての戦闘指揮だが、読みの正しさは一昨年のイゼルローン攻防戦、そして先日のワジハルファ撤収で証明された。シュライネンが名将であっても、ヤン司令官代行やローエングラム伯爵以上ではないだろう。負けることはまず無いと思っている。いや、思いたかった。

 

 このテロさえ防ぎきったら、それですべてが終わる。エル・ファシルの未来は俺の手腕にかかっていた。

 

「こちら、ヤグラワ空港! 滑走路に……」

「バニアグア駅より報告です! 爆弾が……」

 

 再び戦術スクリーンが赤く染まり始め、テロ攻撃を受けた場所は二〇か所を超えた。近年稀に見る広域同時多発テロ。時間的余裕は乏しく、情報は不確実で、敵の規模は想像もつかない。すべての要因が防衛部隊の敗北という結論を導き出すように思える。その先にあるのは秩序の崩壊、そして反同盟分子の一斉蜂起だ。

 

 メインスクリーンにヤン司令官代行の顔が映った。これから全軍向けの放送を行うとのことだ。俺や幕僚たちは固唾を呑んで見守る。

 

「これからエル・ファシル軍宇宙部隊は交戦状態に突入する。

 

 国家にとっては大事な戦いかもしれないが、個人にとって大切かどうかはまた別だ。個人の自由と権利以上に大事なものはない。

 

 勝つ方法は私が考える。みんなは生き残ることだけを考えてくれたら、それで十分だ。命を賭けろとか、祖国のために戦えとか、そんなことを言うつもりはない。気楽にやろうじゃないか」

 

 ヤン司令官代行は、いつもと同じようにゆっくりと落ち着いた声で語りかける。これこそ彼の真骨頂だ。戦記に出てくるような名場面に巡り会えたことに感謝した。みんなも俺と同じ気持ちのはずだと思い、指揮所の中を見回す。

 

「あれ?」

 

 意外にも微妙な空気だった。いつもと変わりないのはコクラン首席幕僚ぐらい。怒りの色を見せる者すらいる。

 

 そういえば、防衛部隊の多くが愛国的な人物だった。それにこの世界のヤン・ウェンリーは参謀としては評価されているが、指揮官としての実績は皆無に近い。極論すると、現時点ではヤン・ウェンリーよりエリヤ・フィリップスの名前の方が信頼される。

 

「……こっちはこっちでまとめろってことか」

 

 自分が防衛部隊司令に起用された理由がようやく理解できた。やはりヤン司令官代行は天才だ。勝つためなら何だって利用する。

 

 俺はデスクの中から演説原稿を取り出した。そして、配下の全部隊と通信回線を開き、全軍放送を始めた。

 

「戦友諸君。エル・ファシルは未曾有の危機に直面している。だが、恐れることはない。エル・ファシルは何度も危機を克服した惑星だからだ。

 

 八年前、取り残された民間人三〇〇万人と軍人一〇万人は風前の灯だったが、一致団結して奇跡の脱出を果たした。そこには超人もいなければ天才もいなかった。己の職分を忠実に果たした普通の人だけがいた。そのことを思い出してほしい。

 

 私が諸君に望むのはただ一つ。己の職分をいつも通り果たして欲しいということだ。いつものように持ち場を守り、いつものように警戒し、いつものように戦う。それだけでいい。これまでの訓練と経験が諸君を勝利へと導くだろう。

 

 私は諸君の力を頼りにしている。諸君が学んだ知識、身につけた技能、刻みつけた経験を頼らせて欲しい。

 

 私は諸君の努力を知っている。諸君がどれほど懸命に軍務に取り組んだかを知っている。諸君が欠乏の中でも誇りを失わなかったことを知っている。諸君は一人の例外もなく、誇りある同盟市民であり、名誉ある同盟軍人であり、そして私が尊敬する戦友だ。

 

 昨日までの努力が今日を作り、今日の努力が未来を切り開く。一日一日の積み重ねの上に自由惑星同盟の二六八年がある。この一日の戦いが一〇〇〇年の未来を切り開くのだ。

 

 一三〇億の同胞のために戦おう! 祖国の未来のために戦おう! 自由惑星同盟万歳!」

 

 俺が拳を振り上げると同時に、指揮所、そして通信回線が「自由惑星同盟万歳!」の叫びで満たされた。幕僚たちの目がきらきらと輝きだす。俺の腹痛も収まった。

 

 八年間の英雄稼業の経験がここに来て役立った。愛国的な人がどんな言葉を望んでいるかが手に取るように分かる。俺の知名度もいくらかは作用しているだろう。虚名であっても名前は名前だ。作られた英雄をやってきたことが初めて意味を持った瞬間だった。

 

 六八年前のエル・ファシルで道を誤り、八年前のエル・ファシルでは単なる傍観者、四年前のエル・ファシルでは広告塔に過ぎなかった。そんな小物が八万の大軍を率いて偉大なヤン・ウェンリーの留守を守り、内乱を阻止しようという。大それているとしか言い様がない。しかし、その役目を負うのは他でもない俺なのだ。

 

「首席幕僚、最優先目標は?」

 

 コクラン首席幕僚の知恵を借りることにした。

 

「星系政庁を奪還すべきです。象徴的な場所ですので」

「そうだな。政治中枢が占拠されたままじゃ格好が付かない」

「第八強襲空挺連隊を投入しましょう。最も対テロ作戦に強い部隊です」

「よし、分かった」

 

 俺は第八強襲空挺連隊と連絡をとった。話し合いの結果、最強連隊の最強中隊である常勝中隊を差し向けることが決まった。

 

「こちらは防衛部隊司令部。フィリップス司令だ」

「インヴィシブル・カンパニー本部、フルーツケーキ副隊長です」

 

 すぐに常勝中隊と連絡がついた。フルーツケーキというのは本名ではなくコードネーム。特殊部隊隊員は。味方との通信でも本名を名乗らず顔も出さない。薔薇の騎士連隊隊員や常勝中隊長ムルティ大尉は顔も名前も出すが、それは宣伝上の都合だ。

 

「本刻より貴官らの指揮権は防衛部隊に移った。星系政庁奪還を命ずる」

「期限は?」

「可能な限り早く」

「かしこまりました。レベル一〇の資料使用権限を許可願えますか?」

「わかった。許可する。他に必要な物は?」

「目標から半径五キロ以内の全部隊に対する臨時指揮権。当連隊の隊長に付与願います」

「指揮権を第八強襲空挺連隊に一本化するのだな。了解した」

 

 フルーツケーキは本当に頭の回転が早い。話がポンポン進む。声の感じからすると二〇歳そこそこの女性っぽい。士官学校を優等で卒業したエリートだろう。勇敢でカリスマのあるムルティ隊長に、頭の回るフルーツケーキ副隊長。絶妙な取り合わせだ。

 

 通信を終えた後、無性に糖分が欲しくなった。袋からカステラを取り出して口に入れる。糖分も気合も十分だ。テロリストとの戦いは佳境に突入した。

 

 

 

 テロ攻撃を受けた場所は三四か所に達したものの、アブダラ副司令とコクラン首席幕僚の補佐、各部隊の奮戦によって撃退した。テロリストの一部が物不足抗議のデモに紛れ込み、暴動を煽ろうと企んだが未遂に終わった。テロリストと合流してインフラ施設を攻撃した暴徒に対しては、市民でなくテロリストの一味とみなし、催涙ガス、放水などを使用して押さえ込んだ。

 

 星系政庁のテロリストは、常勝中隊によって排除された。人質の犠牲者は一人もなし。地下から潜入し、天井裏を通って一五階と八階と三階の三箇所から同時奇襲を仕掛けたのだという。

 

 一七日の朝六時頃には、防衛部隊と星系警察による包囲網が完成した。テロ攻撃は止まり、掃討戦の段階に入っている。

 

 七時二〇分、宇宙の勝敗が決した。敵軍は味方の二倍以上だったが、ヤン司令官代行は策略を使って四つに分断することに成功し、その一つ一つを包囲殲滅していった。旗艦「スナーリング・オールドマン」を撃沈された敵将レミ・シュライネンは戦死。天才ヤン・ウェンリーは、前の世界よりもはるかに鮮烈なデビュー戦を飾ったのである。

 

 地上でも宇宙でも同盟軍の勝利が確定してから間もなく、防衛部隊の指揮所に一本の通信が入った。

 

「第七〇〇任務部隊より、エル・ファシル防衛部隊司令宛てに通信が入っております」

 

 そのオペレーターの報告は人々を緊張させた。常識的に考えれば援軍到着の知らせだろうが、もしかしたら延期、いや中止かもしれない。ここ一〇日間のことを思えば、小心な俺はもちろん、冷静沈着なコクラン首席幕僚や勇敢なビューフォート次席幕僚ですら、悲観論に傾いてしまう。

 

「繋いでくれ」

 

 静まり返った中、俺は吐息混じりの声で指示した。スクリーンに援軍の司令官ホールマン地上軍少将が現れる。

 

「我ら第七方面軍第七〇〇任務部隊は、今から四時間後、一二時前後に惑星エル・ファシル宙域に到達する。防衛部隊には受け入れ準備を進めてもらいたい」

「了解しました」

 

 俺が承諾の意を伝えた瞬間、怒涛のような歓声が沸き起こった。

 

「やったぞ!」

「勝った! 勝ったんだ!」

 

 手を叩く者もいれば、拳を振り上げる者、口笛を吹く者、抱擁し合う者もいて、それぞれのやり方で喜びを表現する。その様子は、八年前にエル・ファシルを脱出した船団が、第七方面軍の保護下に入った時の様子ととても良く似ていた。

 

 俺は真っ先に当時の艦長であり、今は部下であるビューフォート次席幕僚のもとに駆け寄った。そして、両手を上げてハイタッチの姿勢を取る。

 

「よーし!」

 

 ビューフォート次席幕僚は掛け声とともに俺の両手を力いっぱい叩く。

 

「うわっ!」

 

 疲れていた俺は、次席幕僚の強すぎるタッチを受け止めきれず、後ろに倒れこんだ。その様子を見てみんなが大笑いする。俺も尻餅をついたままつられて笑う。軍人になって八年目、自分の総指揮で手に入れた勝利はたまらなかった。

 

 八年前はその場で無礼講を始めたものだが、今回はまだまだやるべきことが多い。一通り喜びをぶちまけ終わると、部下たちは持ち場に戻る。

 

 一二時一〇分、第七〇〇任務部隊副司令官カールセン准将に率いられた宇宙部隊は、エル・ファシル星系に通じるすべての航路から革命政府軍を排除した。

 

 一二時四〇分、第七〇〇任務部隊司令官ホールマン少将は、揚陸部隊を率いて惑星エル・ファシル宙域に到着。陸戦隊五個師団と空挺部隊四個師団がシャトルに乗って降下し、宙陸両用戦闘艇二〇〇〇隻が大気圏内へと突入した。

 

 空から降ってくるシャトルの群れ、上空を飛び回る宙陸両用戦闘艇、宇宙港から絶え間なく吐き出される兵士などの姿は、暴徒の興奮を覚ますには十分であった。

 

 第七〇〇任務部隊は、トリューニヒト国防委員長から暴動鎮圧命令を受けていた。エル・ファシルとハイネセンの通信が回復すると、エル・ファシル防衛部隊にも暴動鎮圧命令が下る。数時間のうちに暴徒は逃げ散り、一九時までにすべての都市が秩序を回復。こうして、七月七日から続いたエル・ファシルの危機的状況は終焉を迎えた。

 

 エル・ファシル星系とエル・ファシル軍は第七方面軍の直接管理下に置かれることとなり、第七〇〇任務部隊司令官ホールマン少将が駐留軍司令官に就任した。

 

 二三時に駐留軍への引き継ぎが終わった。俺はまっしぐらにダーシャ・ブレツェリ中佐の官舎へと向かう。とにかく会いたくてたまらなかった。

 

 援軍到着から三四時間が過ぎた一八日二二時。俺は防衛部隊司令部の士官食堂で食事をした。勤務シフトの関係から二四時間営業になっており、どの時間帯でも食事ができるのである。

 

 一緒に席を囲んでいるのは、防衛部隊副司令アブダラ代将、防衛部隊次席幕僚ビューフォート中佐、第八一一独立任務戦隊情報主任メイヤー少佐、第八一一独立任務戦隊後方主任ノーマン少佐の四名。彼らはのんびりと酒を楽しんでいる。

 

「起き抜けの食事ですか?」

 

 ビューフォート次席幕僚が首を傾げる。

 

「二一時に起きたばかりなんだ」

「丸一日眠っておられたのですな」

「寝てたのは一〇時間くらいかな。九時間くらいかも」

「ああ、そういうことでしたか」

 

 ビューフォート次席幕僚のダンディーな顔に妙な笑みが浮かぶ。

 

「そういうことでしょう」

 

 ノーマン後方主任が頷く。

 

「一二時間ですか。お若いですなあ」

 

 アブダラ副司令が細い目をさらに細める。

 

「君たちは何か勘違いしてないか?」

 

 どうにかごまかそうとしたが、完全に失敗した。ヤン司令官代行の一パーセントでも知略が欲しいと切実に願う。

 

 その後、一〇日間の戦いの感想をがやがやと話し合った。この場にいる者のうち、地上にいたのは俺とアブダラ副司令とビューフォート次席幕僚。ノーマン後方主任、メイヤー情報主任はヤン司令官代行のもとで戦った。

 

「いつもと変わりませんよ。それにしても今日のピクルスはなかなかうまいですね」

 

 メイヤー情報主任はパクパクとピクルスをつまむ。確かに誰の下でも同じだろう。こだわりがまったく無いのだから。

 

「本当に素晴らしい用兵でした! 指示の一つ一つが深い意味が込められてるんですよ! 天才とはヤン提督のことでしょうね! あの時、まさに戦争の歴史が変わったんです!」

 

 ノーマン後方主任は口をきわめてヤン司令官代行を称える。しかし、「ヤンの用兵がどう素晴らしいのか」とか聞かれても、まともに答えられないだろう。凄い人の下で凄い戦いに参加した。それだけが彼にとって大事なのだから。

 

「終わってみれば、すべてヤン提督が正しかった。神算鬼謀とはまさにあのことですな。私ごときの及ぶところではない」

 

 ビューフォート次席幕僚は、テーブルの上に空ジョッキとチキンの骨を積み上げてから、しみじみと語る。

 

 戦いが終わった後、ヤン司令官代行は種明かしをしてくれた。暴動鎮圧を禁じたのは、戦力の集中、ライフラインの死守、そして防衛部隊にスパイが紛れ込んでいる可能性があったからだった。暴動鎮圧部隊に紛れ込んだスパイが民間人を殺したら、政治的に敗北する。

 

「戦力の集中、ライフラインの死守までは何となく予想できたんですよ。暴動鎮圧に出てる間に、手薄になった送電網や通信網を遮断されたら、防衛部隊は動けなくなる。軍事的合理性だけを考えれば最善の選択でしょう。人心の安定という点では最悪ですが。私の心も乱れましたからな」

 

 苦笑いを浮かべるビューフォート次席幕僚。彼は一昨日までヤン司令官代行に批判的だった。

 

「しかし、スパイについては思い至りませんでした」

「思い至らないようにしてたんだよ。俺たちがスパイ探しに乗り出したら、司令官代行は止めるつもりだったんだから」

「それが正解でしょう。星系政府はひどい体たらくです」

「俺たちが相互不信に陥ったら、それこそ敵の思う壺だった。本当に嫌らしい敵だ」

 

 ヤン司令官代行がスパイのいる可能性に触れなかった理由。それは第一に確証がなく、第二に疑心暗鬼の種を作らないためだった。スパイ探しに熱中して分裂状態になった星系政府、最も疑われにくい人物ばかりが工作員だったことなどを考えると、消極策が正しかったといえる。刺客としてぶつけてくるのは予想外だったらしいが。

 

「正しかったんでしょうな。正しいだけですが」

 

 アブダラ副司令は吐き捨てるように言う。

 

「どういうことだい?」

「この数日間で東大陸の西半分は焼け野原になりました。それでも、あの提督は良かったと言えるんでしょうな。『壊れたのは建物と車だけで人が死ななかった。だから良かった』と。私は警備屋なんでね。作戦屋のように損害を足し算引き算できんのですよ」

「暴動鎮圧に出動した方が良かったってことかな」

「ええ。多少の死者が出ても出動すべきでした。少なくとも三年は暴動を放置したツケに悩まされるでしょうな」

「軍人のふりをしたスパイが、どさくさ紛れに民間人を殺すかもしれないよ」

「私の言う多少の死者には、それも含まれます」

「そうか」

「二度とあの提督の下では戦いたくないですな」

「副司令の言いたいことは分かった」

 

 これ以上突っ込もうとは思わなかった。ヤン司令官代行とアブダラ副司令では、優先するものが違いすぎる。

 

 めでたい勝利の翌日だ。とげとげしい話をしてもしょうがない。ノーマン後方主任がプロベースボールの首位打者争いの話を始めたのを機に、戦いの話は切り上げた。そして、エル・ファシル市で流行りのブルーベリー・クレープを食べつつ、雑談を楽しむ。

 

「司令はイバルラとルサージュのどちらが勝つと思われますか?」

「俺はイバルラだと思うな」

「どうしてです? 黄金の足も膝を故障してからはさっぱりです。内野安打には期待できないのではないかと」

「イバルラは小さいのに頑張ってるんだぞ? ロマンがあるじゃないか」

「えっ?」

「君はロマンがわからないんだな」

 

 俺は軽くため息をついた。ルサージュの身長は一九九センチ、イバルラは一六八センチ。どちらにロマンがあるのかは一目瞭然だろう。ノーマン後方主任は一七九センチ。身長が高いとロマンもわからなくなるらしい。

 

 六枚目のクレープに手を伸ばすと、食堂に据え付けられた大型テレビからニュース速報のチャイム音が流れた。どんなニュースだろうと、この一〇日間にエル・ファシルで起きた事件ほどではないだろうと思い、何気なくスクリーンに視線を向ける。

 

「本日二三時三〇分頃、エルゴン星系の惑星シャンプールにある第七方面軍司令部ビルが襲撃されました。被害状況及び犯人の詳細は不明」

 

 大きなスクリーンに映るのは、炎上しながら崩落する第七方面軍司令部ビル。六年前、幹部候補生養成所の受験勉強に励んだ懐かしいビルの惨状に、血の気が引いていく。あの中には旧知のムーア中将もいたはずだ。

 

 勝利の余韻は一瞬にして消え去った。食堂にいる人々はみんな呆然としてテレビを見詰める。静まり返った中、ビューフォート次席幕僚らがぼそぼそと話す。

 

「方面軍の司令部ビルがテロ攻撃されるとはなあ。警備部隊は何をしてたんだ」

「第七〇〇任務部隊についてこちらに来たんでしょう」

「情報機関や警察もみんなこっちに来てますね」

 

 みんなの言うことをまとめると、勝利でこちらの気が緩んだ一日後、軍隊、警察、情報機関などがエル・ファシルに集まった隙を突かれたらしい。これは偶然なのだろうか? それとも、革命政府軍との連携プレーなのだろうか?

 

 二〇の有人星系と一七六の無人星系を統括する第七方面軍司令部ビルの襲撃。自由惑星同盟の二六八年の歴史でも稀に見る大規模テロは、エル・ファシルの騒乱よりはるかに大きな衝撃だった。



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第45話:シャンプール・ショック 796年7月19日~8月8日 官舎~エル・ファシル防衛部隊司令部

 七九五年七月一八日深夜、エルゴン星系第三惑星シャンプールの第七方面軍司令部ビルが、正体不明のテロリストによって爆破された。

 

 巨大な司令部ビルが崩落する映像は、瞬く間に同盟全土及びフェザーン自治領に中継され、すべてのテレビ局が臨時ニュースの放送を開始した。俺は眠ることもできずにじっとテレビを眺める。

 

 NNNニュースキャスターのウィリアム・オーデッツは、巨大な司令部ビルが崩落する映像を指さして叫んだ。

 

「同盟市民の皆さん! この映像から目を背けないでください! これは現実です!」

 

 刻一刻と変化するシャンプールの状況を反映するかのように、テレビ画面は次から次へと新しい情報を流す。

 

「死者は一〇〇名、負傷者は三〇〇人程度」

「ムーア司令官は無事」

「何者かが消防隊に発砲、消防士二名が負傷」

「地下鉄シャンプール中央駅で爆発が発生」

「第七方面軍憲兵隊長が所在不明」

「同盟地域社会開発委員会シャンプール事務所ビルに、トレーラー三台が突入」

「EDA(エリューセラ民主軍)が関与の可能性」

「ホテル・ユーフォニア・シャンプールが爆発」

「シャンプール市中心部のコンビニで立てこもり事件。テロリストの一味か」

「司令部職員のうち、ムーア司令官など二〇〇〇名以上が行方不明」

「シャンプール地上軍航空基地警備隊、不審者と交戦中」

「エルゴン星系警察本部付近で自動車が爆発」

「地下街で異臭騒ぎ。毒ガス攻撃の可能性」

「コンビニ立てこもり犯はテロと無関係の麻薬中毒者」

 

 それらの情報は雑多で整合性を欠き、訂正された情報がまた訂正されるといった有様で、現場の混乱ぶりをよく現していた。

 

 ネットでは眉唾ものだが刺激的な情報が飛び交う。

 

「事件直後、現場から一〇台ほどの軍用トラックが走り去ったのを見た」

「犯人グループはシャンプール市の亡命者居住区に潜伏中。軍と警察は既に包囲を完了した」

「シャンプール市郊外の高速道路で、警察が白いワゴン三台を追跡中」

「憲兵隊は犯人が使った地下トンネルを発見」

「現在も基地の敷地内で軍とテロリストの戦闘が続いている」

「警察はエル・ファシル解放運動の犯行と断定し、シャンプール在住のエル・ファシル出身者を片っ端から予防拘禁している」

「テロではない。基地警備隊が反乱したのだ」

「高速艇に乗って密出国しようとしていた国籍不明の人物数名が拘束された。彼らはみんな帝国訛りの同盟公用語を話しているらしい」

 

 どれも話としては面白い。しかし、他の情報との矛盾が大きくて、信頼性に欠ける。現時点ではネタとして受け止めた方が良さそうだ。

 

 テロ発生から三時間が過ぎた一九日午前二時、ボナール最高評議会議長は、六六八年のコルネリアス一世の大親征以来、一二八年ぶりとなる国家非常事態を宣言した。現役部隊と予備役部隊の総動員、すべての宇宙航路の封鎖、航行中の民間船に対する強制着陸命令、夜間外出禁止などの措置が次々と実施された。

 

 午前五時に上院と下院が緊急招集され、戦時特別法に基づく非常指揮権を最高評議会議長に付与する決議を行った。これもコルネリアス一世の大親征から一二八年ぶりのことだ。

 

 この日の仕事を終えた俺は、友達のダーシャ・ブレツェリ中佐とともに、テレビを食い入るように見つめる。

 

 画面に映っているのは、無感動な表情で決まり文句を適当に並べ立てるボナール議長。まったく抑揚のない声が眠気を誘う。三〇年前は「切れすぎるほど切れる」と恐れられたらしいが、今はすっかり錆びついてしまったようだ。

 

 老いた議長が演説を終え、ハンサムなヨブ・トリューニヒト国防委員長が演壇に登ると、急に画面が華やいだ。

 

「昨日、我らが同胞が暴力の犠牲となった。

 

 彼らは勇敢で忠実な兵士だった。そして、父親であり、母親であり、兄であり、弟であり、姉であり、妹であり、友人であり、良き隣人だった。卑劣で残虐な暴力は、国家から兵士を、市民から家族や友人を永遠に奪い去った。

 

 第七方面軍司令部ビルの爆発には、単に一つのビルが破壊されたという以上の意味がある。我々の家族や友人が炎の中で生きながら焼かれ、降り注ぐがれきに生きながら埋もれ、痛ましい最期を遂げたのだ。

 

 テロリストはどうしてこのような暴挙を行うことができるのか? 大切な家族であり、友人である人々を殺すことに心の痛みを覚えなかったのか? なぜ、我々の家族や友人は殺されなければならなかったのか? そのことを思うたび、驚き、悔しさ、悲しみ、怒りにおそわれる。今の気持ちを表現する言葉を私は知らない」

 

 トリューニヒト委員長の顔と声は、沈痛そのものだった。

 

「テロリストは家族や友人を殺せば、我々が屈服すると思っているのだろう。しかし、それはとんだ思い違いだ。

 

 愛する者を奪った相手に屈服する者がこの世のどこにいるというのか? 悲しみや怒りはある。だが、恐怖するいわれなどない。我々を屈服させようという企みがあったとしたら、それは既に失敗に終わった。

 

 暴力でビルを打ち砕くことはできるだろうが、我々の精神を打ち砕くことはできない。歴史がそう証明している。

 

 我々は誇り高き自由の民だ。アーレ・ハイネセンと建国の父たちが流刑星を脱出してから三三二年、一日も休むことなく戦い続けてきた。ゴールデンバウムのくびきですら、我々を縛ることはできなかった。まして、テロリストごときに何ができるのか? 自由を求める意思より強いものはないことを我々は知っている。

 

 我々は暴力で脅迫してくる者に決して屈しない。我々は父親、母親、兄、弟、姉、妹、友人、隣人を殺そうとする者を決して許さない。我々は自由のためなら命など惜しまない。

 

 自由の砦、我らが祖国、自由惑星同盟には、殺人者や脅迫者の居場所など寸土たりとも存在しないのだ! そのことを犯罪者どもに思い知らせてやろう!

 

 すべての力を国旗のもとに結集しよう! 自由を守るために戦おう! 家族や友人が暴力に脅かされることのない世界のために戦おう!

 

 自由万歳! 民主主義万歳! 自由惑星同盟万歳!」

 

 トリューニヒト委員長が力強い美声で呼びかけた。彼の演説は一種の音楽だ。聴いているだけでうっとりとする。いつもの気さくな彼も魅力的だけど、演説する彼もまた魅力的だ。

 

「そう? なんか胡散くさいんだけど」

 

 左隣のダーシャが水をさす。

 

「君がリベラリストだからそう感じるんじゃないのか?」

「だって、何も考えてなさそうだもん。煽るだけ煽ってあとは知らんふりみたいな」

「ノリやすい人だからそう見えるだけだよ」

「俳優ならそれでいいけどさ。政治家は落ち着いてなきゃだめでしょ。レベロ先生やホワン先生みたいにね」

「トリューニヒト先生だって落ち着いて……」

 

 俺は首を横に振った。トリューニヒト委員長は感情的であるゆえに、市民と一緒に怒り、一緒に悲しみ、一緒に楽しめる。そこが人気の源、そして俺がひかれた理由なのだから。

 

「落ち着いてはいないかもしれないけど、温かい人なんだよ」

 

 俺は話を打ち切り、ダーシャが作ってくれたエル・ファシル風ソラ豆煮込み「フール」、エル・ファシル風肉野菜入りサンドイッチ「シャウルマ」をつまんだ。テレビの中では、情勢がめまぐるしく動いている。

 

「エリューセラ民主軍(EDA)が『シャンプールの反同盟闘争を支持する』との声明を発表」

「第七方面軍司令官ムーア宇宙軍中将は行方不明。地上軍担当副司令官オルバーン地上軍少将が司令官代行に就任」

「帝国軍務省はフェザーンマスコミにテロとの関係について問われ、『ノーコメント』と答える」

「クリップス法秩序委員長は、帝国情報機関がシャンプールのテロに関与した可能性を示唆」

「ここ二週間、第七方面軍はエル・ファシル問題に忙殺されてきました。深夜三時になっても司令部ビルの明かりは灯ったままで、不夜城のようだったと言います。深夜の犯行にも関わらず、ムーア司令官以下一〇〇〇名以上が行方不明という大惨事に発展した背景には、このような……」

 

 第七方面軍司令官ムーア中将の行方不明が一番衝撃だった。幹部候補生養成所受験からいろいろとお世話になった人だ。どうか無事でいて欲しいという思いを込めて、テレビを見つめ続けた。

 

 

 

 できることならば、テレビに張り付いていたかったが、防衛部隊司令の重責にある身ではそうもいかない。

 

 これまでの経過を報告書にまとめ、死傷者リストを作り、物資の消費量と残量を把握し、暴動や戦闘による損害を算出し、配下部隊の功績評価を行い、反省点を列挙し、責任者としての所見を記す。書類仕事に追い回された。

 

 エル・ファシル駐留軍の管理下に入ったエル・ファシル軍も忙しい。残務処理に加え、逃げ散った海賊や傭兵の追跡、無人星系の再制圧といった仕事がある。

 

 風下に立たされたエル・ファシル軍が反発するのではないか。そう懸念する声もあったが、エル・ファシル軍司令官代行ヤン・ウェンリー准将は、駐留軍の優越を受け入れた。

 

「私よりホールマン将軍の方がこういう仕事には慣れてるからね。適材適所さ」

 

 ヤン司令官代行はそう語ったそうだ。しかし、その直後に椅子の背もたれを倒し、ベレー帽を顔に乗せて昼寝を始めたという話も同時に伝わっており、別の思惑もあったように思われる。

 

 駐留軍司令官ホールマン少将と副司令官カールセン准将は総攻撃を開始した。革命政府軍はエル・ファシル方面から撤退。テロや暴動はピタリと止まり、駐留軍が放出した物資によって物不足は解消され、エル・ファシルは安定を取り戻した。

 

 地上の政情は未だ安定していない。独立宣言に署名したとして拘束されたロムスキー星系教育長官、ダーボ星系議会議員は、ヤン司令官代行が予想した通り、革命政府と無関係だった。しかし、警察官、星系政府職員、有力者の子弟など数十名が内通者として逮捕された。重要参考人として事情聴取を受けた者の中には、星系議会議員や星系警察幹部もいるらしい。

 

 防衛部隊からは二二名の逮捕者が出た。全員が惑星エル・ファシルの出身の下士官・兵卒で、元義勇旅団隊員も含まれる。また、逃亡した一四名、防衛部隊幹部を暗殺しようとして殺された一八名もすべて惑星エル・ファシル出身の下士官・兵卒だった。

 

 当初、これらの地下組織は帝国が築いたものと思われた。しかし、逮捕者の供述などから、エル・ファシル人の手で築かれた可能性が強くなってきた。

 

 発端は四年前の惑星エル・ファシル奪還戦だった。故郷が荒廃したことへの絶望、復興事業に消極的な中央政府への反感などが、既成勢力の一部を反同盟に転じさせた。特に過激だったのが、プラモート元メロエ市長をリーダーとするグループである。彼らはELNと手を組むと、人脈を利用してエル・ファシルの官庁や軍隊に浸透し、強力な反同盟地下組織を作り上げた。無名のプラモートが革命政府主席に選ばれたのは、彼の組織が最大勢力だったかららしい。

 

 何ともやりきれない話だ。俺が英雄になったことがまわり回って、とんでもないテロ組織を作り出してしまった。刺客を差し向けられたのは因果応報なのかもしれない。

 

 ある日、エル・ファシル憲兵隊のイグレシアス中尉が、ルチエ・ハッセルが俺宛てに書いた手紙が見つかったと知らせてくれた。

 

「ご覧になりますか?」

「見せてくれ」

 

 俺は即答した。自分を殺そうとした昔馴染みからの手紙。気分の良い内容ではないだろうが、無視もできない。

 

「わかりました」

 

 イグレシアス中尉が端末を操作すると、文章が画面に現れた。

 

「これは……」

 

 一見しただけで言葉を失った。そこに記されていたのは、輝かしいエル・ファシル脱出作戦や義勇旅団の影であり、見捨てられたエル・ファシル人の歴史でもあった。

 

 俺がシャンプールのジョード・ユヌス宇宙港で大歓迎を受けていた時、ハッセルは「シャンプールには、三〇〇万人も受け入れるキャパが無い」と言われ、他の避難民とともに貨物船の船室に押し込められたままだった。

 

 俺がハイネセンでマスコミに持ち上げられていた時、ハッセルはプレハブ作りの仮設住宅に住み、わずかな生活支援金をもらいながら仕事を探していた。

 

 俺が士官になろうと努力していた時、生活支援金を打ち切られたハッセルは、低時給のバイトで食いつないでいた。

 

 俺が義勇旅団長としてマスコミに再登場した時、ハッセルは貧しい暮らしから逃れたい一心で、義勇兵とは名ばかりの雇い兵となり、厳しい訓練を受けていた。

 

 俺が陸戦隊員に守られて戦っていた時、ハッセルのいた義勇兵中隊は、「目立つ場所で戦わせたい」という上層部の意向で、無謀な突撃を命じられた。一七七名いた隊員のうち、生きて終戦を迎えることができたのはわずか四九名。別の部隊で戦っていたハッセルの姉二人も戦死した。

 

 俺がハイネセンで安穏と暮らしていた時、ハッセルは焼け野原と化した故郷の惨状に愕然としていた。

 

 俺がイゼルローン遠征軍に加わっていた時、ハッセルの両親は失意の中で亡くなり、ハッセルは一人きりになった。

 

 絶望したハッセルは、エル・ファシル・ナショナリズムに傾倒し、その中で最も闘争的なプラモート・グループに加わった。そして、英雄に成り上がった俺を殺そうと思い、本懐が遂げられなかった時のためにこの手紙を残したのだそうだ。

 

「貴様が英雄面をしている間に流されたエル・ファシル人の血と涙を知れ! 貴様の足場は我らが同胞の屍の上にあることを知れ!

 

 エル・ファシル革命万歳! いつの日か偽りの英雄に鉄槌が下されんことを!

 

 エル・ファシル人 ルチエ・ハッセル」

 

 遺書を読み終えた途端、胸が締め付けられる思いがした。俺はもともと存在しなかった二人目のエル・ファシルの英雄である。本来は結成されないはずの義勇旅団を結成させ、本来は起きないはずの地上戦を引き起こした。前の世界では同じ役割を果たした人物はいなかった。俺が憎悪の種をまいたのだ。

 

「あまりお気になさらないでください。この星に住む者のほとんどは、フィリップス司令に感謝しておりますから」

 

 落ち込んだ様子を見かねたのか、イグレシアス中尉はそういって慰めてくれた。

 

「いや……」

 

 俺は顔を伏せた。感謝してくれる人がいることは知っているが、自分がそれに値しないことも知っている。いや、知っていたつもりだった。いざ真実に直面すると、こんなにも打ちのめされるのだから。

 

「中尉、逮捕された者はどうなる?」

「首謀者は死刑もしくは終身刑、その他は五年から三〇年の懲役といったところです」

「軽く済ませるわけにはいかないか?」

「奴らは軍人でありながらテロに荷担した。軽い処分では示しが付きません。元憲兵のあなたならご存知でしょう」

「変なことを聞いてしまった。すまない」

 

 ハッセルもイグレシアス中尉も正しい。俺だけが間違っている。

 

「奴らは脱出作戦と奪還戦の英雄を皆殺しにするつもりでした。ヤン提督を暗殺する計画もあったそうですよ。とんでもないでしょう? 全員極刑にしたって飽き足りません」

「そ、そうだな……」

 

 話が終わった後、俺は逃げるように応接室から飛び出した。人目を避けるように非常階段を駆け上り、司令室へと駆け込む。

 

「糖分だ。糖分がほしい」

 

 コーヒーを作り、砂糖とクリームをたっぷり入れてドロドロにした。そして、一気に飲み干す。

 

「味がしない……?」

 

 不審に思って砂糖を一さじ追加する。それでもまったく甘さを感じない。

 

「どういうことだ?」

 

 砂糖を追加しては口をつけ、追加しては口をつけ、砂糖入りコーヒーがコーヒー味の砂糖になるまで、砂糖を加え続けた。それなのにまったく甘さを感じない。

 

「これならどうだ」

 

 今度は砂糖を直接スプーンに乗せ、口に放り込む。

 

「ちっとも甘くない……」

 

 じゃりじゃりした感触だけが舌に残る。まるで砂を噛んでいるようだ。こんな経験は今の世界では初めて、前の世界と合わせると二回目だった。

 

 罪悪感から逃げるように仕事に取り組んだ。手を動かしている間は余計なことを考えずに済む。そして、暇を見ては負傷した部下の見舞いに行く。

 

「生きててくれて本当に良かった」

 

 俺の代わりに撃たれたシェリル・コレット中尉の手を握り締めた。二か月か三か月は入院することになりそうだが、後遺症が残る可能性は低いという。ハッセルの使った武器がブラスターだったのが不幸中の幸いだ。これが火薬銃だったら、衝撃で内臓が潰れていたかもしれない。

 

「君のおかげで助かった。ありがとう」

 

 何度も何度も頭を下げる。妹に似た容姿はもはや気にならない。身を捨てて尽くしてくれたのだから。

 

「早く良くなってくれよ。これからも一緒に働きたいからな」

「私と一緒に……、ですか……?」

「そうとも! 次に何かあった時も君がいれば安心だ!」

 

 昇進と叙勲の推薦、ハイネセンに戻った後の登用を約束した。そして、カンパニュラとピンクのバラのフラワーアレンジ、小説二冊、漫画二冊を置いて帰る。

 

 防衛部隊司令部ビルの戦闘で四名、惑星エル・ファシル全体では三九九名が戦死した。マスコミは「惑星規模の戦いで、指揮系統が混乱していたのにこの程度の犠牲で済んだ。さすがはフィリップス代将だ」と褒めてくれる。

 

「准将ですか?」

「そうとも、ハイネセンに戻ったら君は准将だ。二八歳の准将だよ」

 

 トリューニヒト委員長から准将昇進の内示を受けた。だが、そんなのは慰めにならない。終わってみると苦い思いばかりが残る戦いであった。

 

 

 

 援軍到着から二週間が過ぎた頃には、ゲベル・バルカルの敗北から一七日の総攻撃に至るまでの一連の騒動、すなわちエル・ファシル七月危機の輪郭が少しずつ分かってきた。

 

 ゲベル・バルカルの戦いのきっかけを作った「パウロ」ことハルク・イージェルは、表向きは海賊が警察に潜入させたスパイだが、実際は中央情報局の二重スパイと思われてきた。しかし、トップストーン少佐配下の三重スパイというのが真相だった。トップストーン少佐とは、海賊組織「ヴィリー・ヒルパート・グループ」の作戦参謀として、たびたび名前があがったフェザーン人傭兵である。

 

 イージェルはトップストーン少佐の命を受け、革命政府構想に反対する海賊を当局へと売り渡した。そして、海賊勢力を一本化したところで、ゲベル・バルカルの罠に誘いこんだのだ。

 

 反乱した資源惑星にも革命政府の手は伸びていた。プラモートとトップストーン少佐が別々に工作を進め、鉱山会社役員、管理事務所、鉱山警備隊などを取り込んでいった。海賊船を会社の船だと申告して宇宙港を使わせたり、会社名義で集めた兵器や物資を提供するなど、様々な便宜を図っていたという。

 

 エル・ファシルが通信封鎖されていた間、革命政府軍に捕らえられた鉱山労働者三〇万人の行方についてはまったく情報が入ってこなかったが、外部ではそちらの方が注目の的だった。

 

 人質一人あたり一〇万ディナールの身代金及びエル・ファシル独立承認を要求する革命政府。全員の無条件解放を求める同盟政府。両者は完全な平行線をたどった。

 

 捕らえられた革命政府幹部によると、当初は違う計画を立てていたそうだ。エル・ファシル方面軍を完全に叩き潰した後に、エル・ファシル星系を制圧し、市民と鉱山労働者を人質として交渉するつもりだった。鉱山労働者三〇万、惑星エル・ファシルの住民二五〇万、惑星ジュナイナの住民二〇〇万を人質に取れば、さすがの同盟政府も妥協せざるを得ないと踏んだのだ。

 

 ところが、残存戦力の追撃に失敗し、エル・ファシル星系の守りを固められてしまってから、予定が崩れ始めた。三〇万人の人質だけでは同盟政府から妥協を引き出せなかった。宇宙から侵攻するにも、ヤン司令官代行が敷いた二重の防御線には隙がない。地上のテロ部隊が住民を蜂起させて無政府状態を作ろうとしたが、分厚い警備を破るのも難しい。一七日の大攻勢は、援軍到着前に力づくでエル・ファシルを占拠しようという窮余の策だった。

 

 鉱山労働者の大半は、革命政府と鉱山会社が一〇日間の間に水面下で交渉し、ほとんどが一人あたり数千ディナールから数万ディナールの身代金と引き換えに解放された。この戦いで革命政府が手にしたものは、数十億ディナールの資金のみだった。

 

 ヤン司令官代行は、残存戦力の保全に成功し、革命政府軍のエル・ファシル星系侵入を阻止し、防衛部隊の全戦力をテロ警備に振り向け、一七日の大攻勢を挫折させた。結局のところ、彼一人が革命政府を敗北させたようなものだ。その功績は途方もなく大きい。

 

 非難される点があるとすれば、東大陸西部の暴動を放置したことぐらいだろうか。一部には批判者もいた。防衛部隊副司令アブダラ代将は、「ヤン司令官代行の対応は不適切かつ違法であった」として、国防委員会に告発状を提出した。反戦市民連合カッサラ支部など八つの反戦団体が、ヤン司令官代行や俺など軍人一一名及び国防委員会を保護義務違反で訴えた。

 

「エル・ファシルを見よ! 軍隊は市民を守らない!」

「ヤン提督に『絶対零度のカミソリ』というニックネームをプレゼントしよう。良く切れるが冷たすぎる」

「家や財産を焼かれて『助かった』と喜ぶ者がいるとしたら、それは精神的奴隷というものだ」

 

 反戦派の新聞は言葉を極めて批判する。

 

「ヤン・ウェンリー提督の冷徹さが国家を救った」

「小を殺して大を救うのは当然のこと。非難されるいわれがどこにあるのか」

「ヤンこそはI・G・R(鋼鉄の巨人ルドルフの隠語)の衣鉢を継ぐ人物だ。このような指導者を我らは待っていた」

 

 主戦派の新聞は手放しで絶賛した。

 

 トリューニヒト国防委員長はコメントを差し控えているが、トリューニヒト派の政治評論家ドゥメックがヤン弁護の論陣を展開しており、擁護派と見られる。自分が登用したヤン司令官代行が活躍したことで、どうにか面目が保たれた。何が何でも守り抜きたいところだろう。

 

 総じて見ると、ヤン司令官代行の判断は反戦派以外からは支持された。主戦派はもちろん、リベラル派もやむを得ないと言っている。

 

 ヤン司令官代行はこの状況に不満なようだと、ダーシャから聞かされた。当然といえば当然だろう。大嫌いな連中に大嫌いな論理で弁護されているのだから。一度は軍から退く意向を示したが、極右の統一正義党から「来年の下院選挙に我が党から出て欲しい」とラブコールを送られたため、急遽取り下げた。

 

「これが国内戦の難しさですよ。対外戦争のような足し算引き算の世界とは違う。死者が出たら『なぜ殺した』と批判されるし、財産が失われたら『なぜ守らなかった』と批判される。誰だって失われたものが気になりますから。どんな決断をしても必ず誰かから恨まれるのです」

 

 防衛部隊首席幕僚オーブリー・コクラン大佐は、ヤン司令官代行に同情的だった。

 

「大佐がヤン司令官代行の立場だったらどうした?」

「死者が出るのを承知で鎮圧します」

「なぜだ?」

「民衆を保護するのが軍の仕事だからです。ヤン司令官代行は、死者を出しませんでしたが、民衆を見捨てたとのイメージを与えました」

「死者を出してもいいというのかい? スパイが市民を殺しでもしたらどうする?」

「私は『鎮圧すべきではなかった』と批判されるでしょうな。どっちにしても批判されるなら、民衆を保護しようとして批判される方がましと考えます。家や財産を失う人も少なく済むでしょう」

「割り切ってるね」

「口で言うほど割り切れもしませんがね。人命重視を徹底したヤン司令官代行も間違ってなかったと思いますよ。民間人は一人も死ななかった。そして、何よりも無政府状態を阻止できた。この事実は何よりも重い」

「大佐らしい答えだ」

 

 俺は深く頷いた。コクラン首席幕僚は前の世界において、民需用の物資を守るために売国奴の汚名を受け、帝国に仕えてからも毀誉褒貶が多かった。腹が据わっていなければ、複雑な問題には対処できないのかもしれない。

 

 

 

 一八日から一九日にかけてシャンプール市内で発生したテロでは、市内一五か所が襲撃を受け、四〇〇〇名以上が亡くなった。

 

 死者の一人に第七方面軍司令官ムーア中将がいる。脱出を勧める部下に対し、「俺は無能者であっても卑怯者にはなれん」と言い、崩落するビルの中に残ったそうだ。

 

「責任を痛感したのではないか」

 

 そんな見方がほとんどだ。ムーア中将は軍情報部や中央情報局の警告を無視し、警備戦力までエル・ファシルに送り、結果としてテロを招いた。死をもって責任を取ろうと考えても不思議ではない。何とも痛ましいことだ。前の世界の愚将は、悲劇の将として四九年の生涯を終えた。

 

 犠牲者の数は自由惑星同盟史上では六二二年のベアランブール連続テロに次ぎ、六一〇年のカーレ・パルムグレン宇宙港爆破事件を上回る。いつしか、このテロは「シャンプール・ショック」と呼ばれるようになった。

 

 初日に流れた報道の多くは誤報、もしくは勘違いだった。消防車への発砲や星系警察本部近くの爆発などは完全な誤報、地下街の異臭騒ぎは単なる有機溶剤漏れ、所在不明だった第七方面軍憲兵隊長は愛人の部屋で酔い潰れていただけといった具合だ。

 

 関与が濃厚と思われたエリューセラ民主軍は、支持声明を取り下げ、「これは単なる大量殺人に過ぎない。反同盟闘争とは無縁のならず者が起こした犯罪だ」と非難するコメントを出した。

 

「よく言うよ」

 

 そう思ったのは俺一人ではないだろう。エリューセラ民主軍といえば、小学校の卒業式会場にゼッフル粒子をばらまき、州知事を児童四〇〇人もろとも爆殺するなどの非道ぶりから、「全人類の敵」と忌み嫌われた連中だ。大量殺人を批判する筋合いがあるとは思えない。だが、当局も彼らの関与については否定的だ。

 

 軍情報部、中央情報局、同盟警察が全力で捜査にあたっているが、実行犯が逃亡するか自決したため、実行組織の名前すら特定できていない。

 

 逮捕者を大勢出したエル・ファシル革命政府から情報を取ろうとする動きもある。しかし、こちらからの線からも有力な手がかりはなかった。

 

 正体不明の敵ほど怖いものはない。そして、テロリストはどこにでも現れる。恐怖と不安が同盟全土を覆い尽くし、犯人探しが流行した。分離主義者、同盟懐疑主義者、帝国からの亡命者、フェザーン移民、宗教コミューンの住人など「得体のしれない連中」が槍玉にあがっている。

 

「コルネリアス一世の親征に匹敵する危機ではないか」

 

 こんなことを言う者もいる。一二八年前、銀河帝国皇帝コルネリアス一世の親征軍は、ティアマト星域とドーリア星域で同盟軍宇宙艦隊を大破し、同盟首星ハイネセンから三光年の距離まで迫った。それに匹敵する危機だというのだ。

 

 普段は危機意識に欠けると言われる連立政権も、市民が想像する以上の真剣さをもってテロ対策に取り組んだ。

 

 予備役部隊を加えて一億人以上に膨れ上がった軍隊が厳戒態勢を敷いた。地上軍陸上部隊と宇宙軍陸戦隊は、政府施設・軍事基地・核融合発電所・エネルギー備蓄基地・恒星間通信センター・空港・ターミナル駅・水上港などの重要施設に配備された。航空部隊は空中、水上艦部隊は海上、潜水艦部隊は水中、戦闘艇部隊は衛星軌道上、宇宙艦艇部隊は宇宙空間に展開した。

 

 航路封鎖は解除されたものの、すべての宇宙港が宇宙軍の統制下に入り、出港と入港の両方に軍の許可が必要となった。これらを無視して航行すれば、同盟船籍であろうとフェザーン船籍であろうと、密航船として厳罰に処される。

 

 最高評議会直属の情報機関である中央情報局には、すべての通信記録に令状無しでアクセスする権限が認められ、同盟全土の通信ネットワークが監視網と化した。

 

 国内治安を統括する法秩序委員会には、同盟国内の官庁と企業の保有する記録すべてに令状無しでアクセスする権限が認められ、その他にも様々な権限が付与された。この措置によって、警察機関の捜査活動は法的制約を受けなくなった。

 

 これらの措置は個人の権利を大きく侵害するものであり、同盟憲章に反する部分も少なくない。だが、市民は対テロ作戦「すべての暴力を根絶するための作戦」を進めるために必要だと考えた。

 

 出身星系、社会階層、価値観など様々な理由から対立し合っていた一三〇億の市民は、共通の敵を得たことによって一つとなった。

 

「テロリストを倒せ!」

「犠牲者の仇を討て!」

「秩序を取り戻すのだ!」

 

 家庭、職場、学校など、人が集まる場所のすべてがそんな叫びに満たされた。

 

「我が国は決して不当な暴力に屈しない! 最後まで戦い抜く!」

 

 軍事作戦の総指揮を取るトリューニヒト国防委員長、捜査活動の総指揮を取るクリップス法秩序委員長らは、市民を鼓舞した。

 

「これは聖戦だ! 自由が勝つか、暴力が勝つか、二つに一つしか無い! 武器をとって立ち上がれ! 自由を守れ! テロリストを倒せ!」

 

 テレビ画面の中では、エイロン・ドゥメック、ホレイショ・ヴァーノン教授ら右派オピニオンオーダーが拳を振り上げる。

 

「戦いに参加させてくれ!」

 

 同盟軍の募兵事務所は入隊を希望する男女で溢れ返った。

 

「自分の街は自分の手で守る!」

 

 全国各地で対テロを目的とした自警団を結成する動きが広がった。そのほとんどは警察から補助金を与えられ、退役軍人や元警察官の指導のもとで、地域の治安維持に従事する。

 

 愛国と反テロをスローガンに掲げる市民団体が続々と設立された。街角では対テロ総力戦への支持を訴える市民集会が頻繁に開かれ、挨拶代わりに「報復だ!」という言葉が交わされる。ネットは政府支持とテロリスト糾弾の書き込みで埋め尽くされた。

 

 八月五日、ボナール最高評議会議長は記者会見を行い、「エル・ファシル危機に帝国情報機関が関与したことを裏付ける証拠が見つかった」と述べた。

 

 同盟警察本部は、ポール・アップストーン少佐ことパウル・フォン・オーベルシュタイン帝国宇宙軍大佐、アントニオ・フェルナトーレことアントン・フェルナー帝国地上軍大佐ら帝国人八名、ポンレサック・ピウオン元書記官ら同盟人六名を全銀河指名手配した。彼らにはシャンプール・ショックに関与した疑いもある。

 

 経済開発委員会はフェザーン自治領主府に対し、穀物輸出量を二割まで引き下げると通告した。フェザーンに輸出された穀物の八割が帝国、二割がフェザーンで消費されるため、事実上の対帝国穀物禁輸措置である。農業生産性が低い帝国にとって、穀物禁輸は大打撃になるだろう。

 

 翌六日、政府はイゼルローン方面への出兵を発表。現役部隊と予備役部隊を合わせて六万隻以上が動員される。テロに対する報復、そして帝国国内の政情不安に付け込むのが狙いだ。

 

 現在の帝国上層部は、リヒテンラーデ派、ブラウンシュヴァイク派、リッテンハイム派の三派に分かれて争っている。事の発端は帝国宰相リヒテンラーデ公爵の背信にあった。

 

 リヒテンラーデ公爵はもともと有力貴族ではない。元は子爵であったが、先帝によって侯爵へと引き上げられた人物だ。前例主義と事なかれ主義に達したスタイル、七五歳という高齢から、権力に対する執着は薄いと見られてきた。先帝が死ぬと引退を表明し、皇位継承問題に関しては中立公正な助言者として振る舞った。

 

 フリードリヒ四世が死亡した当時、枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵が擁する皇孫女エリザベート、大審院長リッテンハイム侯爵が擁する皇孫女サビーネが最有力の皇位継承者だった。両派が膠着状態に陥った時、リヒテンラーデ侯爵が一つの提案をした。

 

「先帝の仇を討った者が即位するというのはどうか」

 

 両派はこの提案に飛びつき、総力を上げて弑逆犯クロプシュトック侯爵を討伐に向かった。二人の皇孫女とその支持者が帝都を去った後、リヒテンラーデ侯爵は「とりあえず皇帝を決めないとまずい」と言い、故ルートヴィヒ皇太子の遺児エルウィン=ヨーゼフを即位させた。

 

 ブラウンシュヴァイク公爵とリッテンハイム侯爵は「話が違う」と怒り狂ったが、軍隊と警察がエルウィン=ヨーゼフ帝の即位を支持している。しぶしぶ即位を認めた。

 

 現時点の第一人者は、帝国宰相・公爵に昇進したリヒテンラーデ公爵であるが、ブラウンシュヴァイク公爵とリッテンハイム侯爵も巻き返しを狙う。軍隊と警察は消極的に新帝即位を支持したに過ぎず、リヒテンラーデ公爵の支持者ではない。カストロプ公爵ら重臣の動向が鍵を握るだろう。

 

 経済的には苦しい状況が続く。フェザーン政府との債務棒引き交渉が難航している。同盟が穀物輸出を停止したことで、食料供給が危機的状況に陥った。フェザーン経由で同盟に天然資源を売る道も閉ざされた。故ルートヴィヒ皇太子は債務問題と食料問題でつまずき、対外戦争に活路を求めたのは記憶に新しい。リヒテンラーデ公爵が同じ道をたどるのではないかと指摘する声もある。

 

 エル・ファシル危機への対応は混乱そのものだ。カストロプ公爵が「根も葉もない中傷」と帝国政府の関与を否定した翌日、軍務尚書エーレンベルク元帥が「エル・ファシルにおける英雄的な戦い」と全面肯定し、オーベルシュタイン大佐らの二階級昇進を発表するといった具合である。

 

 帝国に対する報復攻撃が決定した翌日、俺やヤン司令官代行などエル・ファシル軍の主要メンバーはハイネセンへと召還された。宇宙はなおも大きく動いていた。



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第五章:提督エリヤ・フィリップス
第46話:パトリオット・シンドローム 796年8月27日~9月初旬 オリンピア宇宙港~最高評議会庁舎~ハイネセンポリス市内


 八月二七日、俺たちはハイネセンポリスから一〇〇キロほど離れたオリンピア宇宙港に降り立った。港内を埋め尽くすような群衆。林立するプラカード。高々と掲げられた横断幕。凄まじい歓迎ぶりだ。

 

 俺たちがシャトルを降りると、軍楽隊が国歌『自由の旗、自由の民』を演奏し始めた。儀仗兵が両側に整列して、俺達のために通路を作る。その先にはトリューニヒト委員長がいる。

 

「良くやってくれた! 君達は英雄だ!」

 

 トリューニヒト委員長が感極まって叫び、エル・ファシル軍司令官代行ヤン・ウェンリー准将、副司令官代行メイスフィールド代将、参謀長代行パトリチェフ大佐らと次々に握手を交わす。手が握り合わされるたびに群衆は大きな歓声をあげる。

 

 俺の番がきた。トリューニヒト委員長の大きな手と俺の小さな手が握り合わされた。太陽のような笑顔が俺だけに向けられた。

 

 痺れるような歓喜が頭の天辺から足の指先までを突き抜けた。目から熱いものがぼろぼろとこぼれ出す。戦ってきてよかった。本当によかった。

 

「委員長閣下っ! ただいま戻って参りましたっ!」

「お帰り!」

 

 トリューニヒト委員長に抱擁された瞬間、俺の涙腺は決壊し、周囲からはこれまでと比較にならないほどの歓声がわきあがった。

 

 それからターミナルビルの二階で記者会見に臨んだ。

 

「できることをやっただけですよ」

 

 ヤン司令官代行はそっけなく答える。

 

「祖国に貢献できた。軍人としてこれに優る喜びはありません」

 

 メイスフィールド副司令官代行はいつになく厳粛な面持ちだ。

 

 そして、俺にマイクが向けられた。胸の中に詰まった感動がそのまま言葉となって出てくる。

 

「フィリップス代将は素晴らしい活躍をなさいましたね」

「ようやく皆様の期待に応えられる働きができたと思っています」

「一七日の地上戦、実に冷静沈着な指揮でした」

「市民と祖国のために義務を果たす。それだけで頭がいっぱいになっていました」

「一番苦しかった時はいつでしたか?」

「苦しくなかった時はありません。小官は未熟者ですから。しかし、強いてあげるならば、やはりゲベル・バルカルで敗れた時でしょうか。こちらにいらっしゃるヤン司令官代行、メイスフィールド副司令官代行、その他の方々が来てくださったおかげで助かりました」

「戦友に助けられたということですね」

「はい。戦友、上官、部下、市民のすべてに助けられました。小官の勝利は助けてくださった方々全員の勝利です」

「市民の皆さんに一言お願いします」

「ありがとうございました! 皆様のおかげで頑張れました! これからもよろしくお願いします!」

 

 満面の笑顔で応える俺。拍手が広い会見室を飲み込んだ。

 

 記者会見終了後、俺たちはトリューニヒト委員長とともにバスに乗り、ハイネセンポリスへと向かう。

 

 五〇キロほど進み、殉職軍人が眠るウェイクフィールド国立墓地へと差し掛かったところで、トリューニヒト委員長が立ち上がった。

 

「私から一つ提案がある。テロで亡くなった戦友たちに祈りを捧げたいと思うのだ」

 

 こう言われて「嫌だ」と言える軍人はいない。

 

「賛成です!」

 

 みんなが声を合わせて賛同し、バスから降りた。いや、一人だけ降りなかった人物がいる。ヤン・ウェンリー司令官代行がベレー帽を顔に乗せて眠っていたのであった。

 

「また悪い病気が出たか」

 

 メイスフィールド副司令官代行が苦々しげに呟く。ウェイクフィールド国立墓地は、軍隊好きにとっては聖地であり、軍隊嫌いにとっては軍国主義の象徴だ。反戦的な信条からウェイクフィールド参拝を嫌がる軍人も少なくない、ヤン司令官代行もそうなのだろうと思われた。

 

「やれやれ、困った人だ」

 

 パトリチェフ参謀長代行が苦笑しながらバスに戻る。

 

「司令官代行! 墓参りです! 降りますよ!」

 

 間もなくバスの中から大きな声が聞こえた。何度か叫んだ後、パトリチェフ参謀長代行が巨体を揺らしながら降りてくる。

 

「いやあ、参りました。司令官代行はどうやら疲れておられるようです。三〇〇〇光年の長旅ですからなあ」

 

 笑いながら頭をかくパトリチェフ参謀長代行。張り詰めていた空気がふっと緩む。

 

「疲れてるならしょうがないね」

 

 俺はつられるように笑った。他の人たちも苦笑いする。

 

「あの人の病気には困ったものだ」

「公僕としての自覚が足りないんじゃないか」

「普段から寝てばかりいるから、体がもたないんだ」

 

 言ってることは非好意的だが、それぞれの顔には「しょうがない人だ」といった表情が浮かんでおり、刺々しい響きはまったくない。

 

「そうだな。ヤン君にはゆっくり休んでもらうとしよう」

 

 トリューニヒト委員長がにっこり微笑む。パトリチェフ参謀長代行は巨体を折り曲げて感謝の意を表した。

 

「ありがとうございます」

「ヤン君はいい部下を持った」

「恐縮です」

 

 パトリチェフ参謀長代行は心の底から恐れ入ってみせた。この巨漢はヤン司令官代行が持ち合わせていない愛嬌を溢れんばかりに持っている。

 

 目立った戦功がなかったせいか、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』などの戦記では、高く評価されなかったヤン艦隊副参謀長。その真価がこの場面に凝縮されている。ヤン・ウェンリーは用兵の天才であると同時に人事の天才でもあった。

 

 墓参を終えた後、バスに乗って再びハイネセンポリスへと向かう。車窓から外を見ると、建物や車には高々と国旗が掲げられ、通行人の多くが国旗をあしらった衣服やアクセサリーを身に着けていた。街全体が国旗に占領されたかのようだ。

 

 都心部の手前にあるトラメルズ駐屯地から凱旋パレードが始まった。沿道には数十万人の市民が集まり、「自由惑星同盟万歳!」「自由の戦士万歳!」と叫びながら国旗を振る。

 

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 

 俺は涙を目に浮かべながら手を振った。生まれて初めて人々の歓呼に値する存在となった。それが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

 

 

 

 首都ハイネセンポリス都心部のキプリング街には、中央省庁や政府機関の庁舎が立ち並び、隣接するラドフォード街とともに政治中枢地区を形成している。その中央にそびえ立つ真珠色の壮麗なビルが最高評議会庁舎だ。

 

 九月一日、海賊討伐及びエル・ファシル七月危機の殉職者を追悼する式典が、最高評議会庁舎の前庭で開かれた。

 

「友よ、いつの日か、圧制者を打倒し

 解放された惑星の上に

 自由の旗をたてよう

 吾ら、現在を戦う、輝く未来のために

 吾ら、今日を戦う、実りある明日のために

 友よ、謳おう、自由の魂を

 友よ、示そう、自由の魂を」

 

 遠征軍将兵、戦没者遺族、政府高官、軍幹部ら一〇万人が国歌「自由の旗、自由の民」を斉唱する声が、晴れ渡った秋の空に響きわたる。

 

 国歌斉唱、黙祷が終わると、ジョルジュ・ポナール最高評議会議長の追悼演説が始まった。

 

「エル・ファシルで殉職された方々に対し、自由惑星同盟政府を代表して追悼の言葉を述べさせていただきます」

 

 この一文から始まった議長の演説は、決まり文句を長々と並べ立てるだけで、しかも感情がまったくこもっていない棒読みだった。聞いているだけで強烈な眠気に襲われる。周囲に座っている人々は次々と眠気に屈服し、暖かな陽光に照らされながら寝入っていた。

 

「ボナール議長閣下、ありがとうございました!」

 

 演説の終わりを告げる司会者が眠気を振り払った。俺は半ばぼんやりしながら、他の参加者と一緒に義務的な拍手を送る。

 

 老いたボナール議長がおぼつかない足取りで主賓席に戻り、若くてハンサムなトリューニヒト国防委員長が現れると、緩みきっていた会場の空気は一瞬にして引き締まった。

 

「続きまして、同盟軍代表のヨブ・トリューニヒト国防委員長閣下より挨拶をお願いします」

 

 司会者がトリューニヒト委員長を紹介すると、熱烈な拍手が湧き起こった。俺も力の限り手を叩く。

 

「市民諸君! 兵士諸君!」

 

 トリューニヒト委員長は力強い美声で語りかけた。

 

「エル・ファシルで殉職した一九万二九三五名。彼らは一人の例外もなく真の愛国者であり、真の兵士であった。一三〇億人の市民は、最良の同胞を失った悲しみに打ちひしがれている。我々は一三〇億人の代表として、彼らに対する感謝、哀惜、尊敬を示すためにこの場に集まった。

 

 ここで一つのことを確認したい。彼らはなぜ英雄なのか?

 

 生まれつき勇気があったからか? それは違う。彼らの中には、勇者と言われた者もいれば、臆病と言われた者もいた。

 

 能力が優れていたからか? それは違う。彼らの中には、能力の高い者もいれば、そうでない者もいた。

 

 では、生まれつきの勇者でもなく、能力が優れているわけでもない彼らがなぜ英雄なのか? それは大義のために死んだからだ。

 

 その大義とは何か? 祖国、自由、民主主義だ。

 

 なぜ彼らは大義のために死んだのか?」

「上の指導が間違っていたからさ」

 

 呟きというには大きすぎる声を発した人物は、ヤン・ウェンリー宇宙軍准将だった。視線が彼の座っている最前列に集中したが、トリューニヒト委員長は構わずに演説を続ける。

 

「彼らは知っていたのだ。大義が何よりも重いこと、大義なくして人は生きられないことを。

 

 彼らは人を生かすために命を捧げた! 一三〇億市民のために命を捧げた! その献身の精神こそが彼らを英雄たらしめた! なんと素晴らしいことか!

 

 人は弱い存在だ。しかし、一つの大義を共有し、同胞愛で結ばれた時は何よりも強い。エル・ファシルで散った英雄たちはそう教えてくれた。大義のために死ぬことは同胞を助けることであり、自分のためだけに生きることは同胞を見捨てるに等しい。

 

 自由な個人が集まって国家になるのではなく、国家の力が個人の自由を保障する。それゆえに国家は個人の命より重い。今こそ、その事実を再認識する時ではないか。

 

 祖国を守る戦いは自由と民主主義を守る戦い、ひいては一三〇億市民を守る戦いなのだ。一三〇億市民を守る! それ以上の正義はない!

 

 戦いをやめろと唱える者がいる。敵と和解せよと唱える者がいる。私は彼らに目を覚ませと言いたい。

 

 彼らの行為はどのような動機があろうとも、国家の結束を乱し、自由と民主主義に敵対する者を喜ばせる以上の結果は生まない。

 

 彼らは祖国に甘えている! 彼らは自由に甘えている! 彼らは民主主義に甘えている!

 

 平和とは戦って勝ち取るものだ! 安全は血で贖ったものだということを忘れるな! 安全な場所から平和を口で唱えるほど、安易で卑劣な行為はない!

 

 我々は知っている。アーレ・ハイネセンと四〇万人の流刑囚。彼らが立ち上がらなければ、我々は今もなお奴隷のままだった。

 

 我々は知っている。ダゴン以来の一五六年間で殉職した九八〇〇万の英霊。彼らがいなければ、我々はことごとく専制の奴隷に逆戻りしていた。

 

 我々は奴隷になどなりたくない! 自由に生きたい! ならば、先人の戦いを受け継ぐ義務がある! それが嫌だという者は、自由の代償を支払うつもりのない卑怯者だ! 恥を知れ!

 

 市民諸君! 祖国と自由を何よりも愛する市民諸君! いざ、戦いに赴こうではないか! 英雄の後に続くのだ!

 

 祖国万歳! 自由万歳! 民主主義万歳! 祖国と自由の敵を打倒せよ!」

 

 トリューニヒト委員長の弁舌は炎となって会場を覆いつくす。一〇万人が何かに弾かれたように立ち上がった。

 

「祖国万歳! 自由万歳! 民主主義万歳! 祖国と自由の敵を打倒せよ!」

 

 一〇万人が気持ちを一つにして叫ぶ。

 

「祖国万歳! 自由万歳! 民主主義万歳! 祖国と自由の敵を打倒せよ!」

 

 俺もあらん限りの声を振り絞って叫ぶ。体の中に渦巻く熱気を声にして吐き出す。拳を空に向かって振り上げる。

 

 自分がこの一〇万人の一人であることが何よりも誇らしい。トリューニヒト委員長が与えてくれた絶対的な肯定。すべての人と感動を共有できた喜び。そういったもので心が満たされる。

 

「貴官、なぜ起立せぬ!?」

 

 遠くからそんな怒号が聞こえた。この大歓声ではかき消されてしまう程度の声なのに、なぜかはっきりと聞こえた。

 

「この国は自由の国です。起立したくない時に起立しないで良い自由があるはずだ。私はその自由を行使しているだけです」

 

 穏やかだが冷然とした声。それは先ほど演説に突っ込みを入れたのと同じ人物、すなわちヤン・ウェンリー准将だった。

 

「では、なぜ起立したくないのだ?」

「答えない自由を行使します」

 

 お前に話すことはない、と言わんばかりのヤン准将。

 

「貴官はどういうつもりで……!」

 

 それは一人の声ではあるが、一〇万人の声でもあった。ヤン准将に対する怒りが会場に広がり、非難する声が次第に出てくる。

 

 それにしても、どうして感動に水を差すようなことをするのか。ほんの一瞬だが、強烈な苛立ちを覚えた。

 

 苛立ち? 苛立っている? 俺があの偉大なヤン・ウェンリーに……!?

 

 そんな馬鹿な。彼はただ起立しなかっただけだ。この国には起立しない自由がある。まったくもって正論だ。自分の感覚が信じられなかった。

 

「……諸君」

 

 トリューニヒト委員長が厳かに語りかけた。心の中に生じていた苛立ちと戸惑いが急速に収まっていく。俺も人々もゆっくりと着席し、一〇万の怒りは急速に消え失せていった。

 

「自由惑星同盟は自由と民主主義の国だ。

 

 市民には自由に反対する自由もある。市民には民主主義に反対する自由もある。

 

 それが自由というものだ。私はその自由を何よりも愛する。愛するからこそ守りたい、戦いたいと痛切に思う。

 

 利己心に従うのも各人の自由であろう。大義のために命を捧げるのもまた各人の自由だ。

 

 願わくば、諸君には後者を選択してもらいたいと願う。自由とは好き勝手に振る舞う自由のみを指すものではない。利己心からの自由もまた自由なのだ。大義に殉じた英雄たちの崇高な生き様がそのことを示してくれている。

 

 一三〇億人が利己心を捨て、気持ちを一つにして大義のために突き進んだ時、誰がそれを阻めようか。解放された状態を自由と言うならば、これこそが真に自由な状態ではないか。

 

 私は……」

 

 不意にトリューニヒト委員長の演説が中断された。金髪で目鼻立ちのきりっととした少女が起立して右手を上げたからだ。

 

「国防委員長閣下」

 

 その少女は静かだが良く通る声で語りかけた。

 

「私はコニー・アブジュと申します。ゲベル・バルカルで死んだエスラ・アブジュの娘です」

 

 第八一三独立任務戦隊司令エスラ・アブジュ。ゲベル・バルカルで戦死した僚友の名前を聞いた瞬間、胸が強く痛んだ。

 

「それはお気の毒でした、しかし……」

 

 驚いたことにあのトリューニヒト委員長が言葉に詰まった。その頼りなさ気な様子は、前の世界で厚顔無恥と言われた人物とも、この世界で強いリーダーと言われる人物ともまったく違う。

 

「同情していただく必要はありません。閣下がおっしゃる通り、母は大義のために命を捧げたのですから」

「そうでしたか。お母様は立派な軍人だったのでしょう。あなたのような立派な子供をお残しになられたのですから。祖国はあなた方の犠牲を決して忘れません。困ったことがありましたら、いつでもおっしゃってください。できるだけのことはいたしましょう」

 

 トリューニヒト委員長の態度は明らかに弁解じみていた。

 

「ありがとうございます。では、お願いしたいことがあります」

「お伺いしましょう。私にできることであれば良いのですが」

「教えてください。あなたはいつ大義に命をお捧げになるのですか?」

「どういうことですかな?」

 

 質問の意図を掴みかねたのだろう。トリューニヒト委員長は明らかに困惑していた。

 

「母はあの世へと旅立ちました。あなたがおっしゃる通りにしたのです。では、あなたはいつ大義に命をお捧げになるのですか?」

「お、お嬢さん……」

「私の父は一〇年前、スーリヤ星域で命を捧げました。あなたのお父様はいつ命をお捧げになったのですか?」

 

 少女は静かだが容赦ない。初めて見る光景のはずなのになぜか既視感がある。

 

「私の父と母は大義のために命を捧げました。あなたの家族はどこにいます? あなたは大義に殉じろとおっしゃいますが、ご自身やご家族を犠牲にする覚悟をお持ちなのですか?」

「警備兵! このお嬢さんは取り乱しておられる! 別室へお連れしろ! 演説は終わった! 軍楽隊、国歌を!」

 

 取り乱しているのは少女でなくトリューニヒト委員長だった。先ほどまで大きく見えた指導者が驚くほど小さく見える。

 

「友よ、いつの日か、圧制者を打倒し

 解放された惑星の上に

 自由の旗をたてよう」

 

 演奏に合わせて一〇万人が歌い始める。白けきった空気の中、勇壮なメロディーが虚しく響き渡った。

 

 この時、俺はようやく気がついた。前の世界のアスターテ慰霊祭でジェシカ・エドワーズが行ったトリューニヒト批判を、この世界ではコニー・アブジュがやったのだと。

 

 慰霊祭の翌日、国防委員会は「コニー・アブジュ嬢に士官学校か専科学校の推薦枠を提供する用意がある」と発表した。さっそく取り込みにかかったのだ。

 

 しかし、アブジュはこの申し出を拒絶し、反戦市民連合傘下の学生組織「反戦学生連合」に入会してしまった。その会見の席には、反戦市民連合のソーンダイク下院議員が同席しており、彼が理事長を務める戦没者遺族支援団体がアブジュの進学を支援すると述べた。

 

 面子を潰された形のトリューニヒト委員長だが、公式には「アブジュ嬢の選択を尊重する」とコメントするだけに留まった。

 

 極右民兵組織「憂国騎士団」のデュビ団長は、「手回しが良すぎる。アブジュとソーンダイクはグルだったのではないか」と言いがかりをつけたが、いつもの激しい舌鋒は見られない。一五歳の少女を叩くのはさすがにイメージが悪いと思ったのかもしれない。

 

 一方、ヤン准将の言動はほとんど報じられなかった。冷徹でタフな男という主戦派好みのイメージを崩したくないと、マスコミは考えたのだろう。ヤン准将は余計なお世話だと思っているに違いない。

 

 反戦派マスコミは、「ヤンは民主主義国家で平然と焦土作戦を実施した男だ。トリューニヒトすら穏健過ぎて退屈に感じるのだろう」と冷ややかだった。エル・ファシルの一件で反戦派はすっかりヤン嫌いになった。しかし、曲解にもほどがある。これではヤン准将がかわいそうだ。

 

 いずれにせよ、彼の行動が反戦主義の文脈で捉えられることは無かったのである。未曾有の武勲にもかかわらず、不幸になったように見えた。

 

 

 

 エル・ファシル七月危機の英雄は一躍マスコミの寵児となった。テレビにエル・ファシルの文字が現れない日はない。

 

 一番人気はもちろんヤン・ウェンリー准将である。敗残兵を率いてエル・ファシル星系を守り抜いた功績、反同盟勢力最高の名将レミ・シュライネンを討ち取った功績は大きい。これほどの動乱でありながら、民間人を一人も死なせかった事実も注目に値する。この一戦で知将としての評価を確立した。暴動鎮圧より勝利を優先したことで、主戦派のマッチョイズムを大いにくすぐり、「鋼鉄のヤン」の異名を奉られた。本人としては不本意極まりないことだろう。

 

 それに次ぐのが「エル・ファシル・シックス・コモドール(エル・ファシルの六代将)」と呼ばれる六名の代将。すなわち、俺、メイスフィールド代将、ジャスパー代将、デッシュ代将、ボース代将、ビョルクセン代将である。そのうち、前の世界で活躍したのは、イゼルローン共和政府軍やバーラト自治政府軍の大幹部だったデッシュ代将のみ。その他は名前すら残っていない。

 

 六代将の中で一番人気があるのは、自分で言うのも何だがこの俺だ。海賊討伐作戦での突撃、惑星エル・ファシルを守りぬいた功績から、同盟軍でも指折りの猛将と認知されるに至った。自分ではあまり自覚がなかったのだが、防衛部隊の幕僚によると、防衛戦での指揮ぶりは岩のように落ち着いて見えたらしい。こういったことから、「エル・ファシルの巨岩」と呼ぶ人もいる。「赤毛の驍将」という恥ずかしい異名も健在だ。

 

 その他の六代将の中では、「レクイエム・ジャスパー」ことスカーレット・ジャスパー代将の人気が頭一つ抜けている。最も早くヤン准将を支持したこと、一八日の決戦でシュライネンの旗艦を撃沈したことなどから、ヤン准将の片腕的存在とみなされた。名将フレデリック・ジャスパー元帥の孫娘という血統、三一歳という若さも話題を呼んだ。

 

 こうしたことから、マスコミはヤン准将とジャスパー代将と俺を新世代の名将トリオとして売りだそうとした。

 

 ところが、ヤン准将は好戦的なムードに水を差すような発言を繰り返し、ジャスパー代将は「レクイエム」の異名通りの無愛想ぶりを発揮し、視聴者のヒロイズムを満足させてくれない。そのため、俺一人に出演依頼が殺到した。八年前や四年前とは比較にならないフィーバーだ。

 

「まさか、あの時の言葉が実現するとはね」

 

 俺の担当カメラマンとなったトニオ・ルシエンデス准尉が苦笑いする。八年前、広報チームの打ち上げの席で、彼は俺に対して「提督にでもなったら、また呼んでくれ」と言ったのだ。

 

「名将に見えるように撮ってくださいね」

 

 俺はルシエンデス准尉が八年前に語った言葉を返す。本当はまだ准将の辞令をもらっていないのだが。

 

「まかせといてくれ。リン・パオやアッシュビーと並んでも遜色ないように撮ってやるよ」

「それはちょっと……。どっちも長身の美男子じゃないですか」

「君は背が低いし子供っぽい顔だけど、俺の腕で何とかするから」

「あ、ありがとうございます」

「そんなに童顔が気になるなら、ドーソン提督みたいに口ひげを生やしたらどうだ? あの人も童顔隠しでひげを生やしてるくちだぞ」

「できればそうしたいんですけどね。ひげが生えない体質なんですよ」

「そいつは残念だ」

 

 大して残念じゃなさそうにルシエンデス准尉が言う。

 

「私も頑張るから」

 

 担当ヘアメイクであり、八年前からの付き合いであるラーニー・ガウリ曹長が、せっせと俺の髪をセットする。

 

「お願いします」

「これでクリスチアン中佐が広報だったらフルメンバーなのにね」

「残念です。晴れ姿を見ていただきたかったのに」

 

 俺は軽く目を伏せる。当時の広報担当だったエーベルト・クリスチアン中佐は査問を受けている最中だった。独断で暴動鎮圧に出動した罪を問われているのだ。

 

「無罪の可能性もあるんじゃないの? 君も弁護に出るんでしょ?」

「ええ、それはそうなのですが」

 

 告発されたからといって必ず有罪になるとは限らない。独断専行を行った場合、その妥当性を証明できるか否かが焦点となる。結果的には出動を禁じたヤン准将が正しかったが、星系政府や自治体からの出動要請には応じるのが原則とされており、クリスチアン中佐の行動が合法とされる余地は十分にあった。

 

「大丈夫よ。対テロのためなら何をしても許されるような空気だから」

 

 ガウリ曹長の言うように、テロと戦うためという名目さえあれば何をしても許されるのが今の同盟だ。シャンプール・ショックの衝撃はそれほどに大きい。

 

 七月初めの時点で二九パーセントだったボナール政権の支持率は、八月には八五パーセントまで上昇した。

 

 ヤン准将は自治体からの出動要請を拒否し続け、テロの防止と引き換えに、惑星エル・ファシルの東大陸西部を焦土にしてしまった。だが、エル・ファシル星系を守りぬいた功績の前には、些細な問題に過ぎないとされた。

 

「家や車がなんだ! スパイが民間人を殺すかも知れなかったのだぞ!? 命があるだけ有り難いと思え! ヤン提督は一人も死なせなかった! ヤン提督の判断は一〇〇パーセント、いや一〇〇〇パーセント正しい! 法律が認めずとも正義が認める!」

 

 極右政党「統一正義党」のマルタン・ラロシュ代表は、ヤン准将を擁護して拍手喝采を浴びた。

 

「有罪にせよとは言わん。だが、無罪にするにしても手続きが必要だ。ヤン提督が民間人保護を怠ったのは事実。なし崩し的に免罪するわけにはいくまい。査問会で是非を明らかにすべきだ」

 

 同盟政界の良心と言われるジョアン・レベロ財政委員長は、ヤン准将を査問にかけるよう主張したが、賛同する者はほとんどいなかった。

 

 軍隊と警察に対する悪口はタブーだ。対テロ作戦「すべての暴力を根絶するための作戦」の邪魔をしてはいけないという。

 

 エル・ファシル七月危機、シャンプール・ショックに際しては、当局の不手際も少なくない。帝国の三重スパイ「パウロ」を信用した中央情報局、スリーパーの浸透を防げなかった同盟軍情報部防諜課、革命政府の罠にはまったエル・ファシル方面軍司令官パストーレ中将、テロへの警戒を怠った第七方面軍司令官ムーア中将らの責任は軽くはなかった。しかし、彼らを追及する声は急速に萎んだ。

 

 パストーレ中将とムーア中将はその失策にも関わらず、市民からは悲劇の名将と呼ばれ、国防委員会からは元帥号と自由戦士勲章を授与された。エル・ファシル軍司令官マクライアム少将らその他の戦死者は一階級昇進し、功績に応じて勲章を授与された。

 

「世論に媚びるような人事はするな。軍が間違いを隠蔽するのは亡国に至る道。責任の所在を明らかにし、過ちを繰り返さぬようにせよ」

 

 国家安全保障顧問ルチオ・アルバネーゼ退役大将は、パストーレ中将とムーア中将への元帥号授与に反対し、彼らの采配を徹底検証するように求めたが、受け入れられなかった。自由惑星同盟で最も影響力のある一〇人の一人に数えられ、二年前に最高評議会を動かしてサイオキシンマフィアの摘発を中止させた超大物ですら、この空気の前には無力だった。

 

 俺もこんな風潮と無縁ではいられない。ある日、大手新聞『シチズンズ・フレンズ』のインタビュアーがやってきた。

 

「フィリップス提督はテロとの戦いについて、いかが思われますか?」

 

 シチズンズ・フレンズは、大手紙の中で最も右派的な新聞。そして、俺はトリューニヒト国防委員長との関係、優等生的な言動などから、一般的には右寄りと思われている。エル・ファシル危機ではテロリストに殺されかけた。どんな発言を期待されているのかは考えるまでもないだろう。

 

「そうですね……」

 

 模範解答を口にしようとした瞬間、舌が動かなくなった。俺を殺そうとしたルチエ・ハッセルが頭の中に浮かんだのだ。

 

 前の人生での経験から、貧困や憎悪が人をテロに走らせることを知っている。そして、今の世界では、エル・ファシル義勇旅団結成のきっかけを作り、貧困と憎悪の種をまいてしまった。そんな自分にはテロリストを絶対悪として糾弾できない。

 

「エル・ファシルでは……」

 

 自分の舌がテロリストに同情的な方向に向きかけたのに気づいたが、止められなかった。

 

「エル・ファシルでは、秩序こそ何にも代えがたいものだと再確認しました。そして、秩序の敵は貧困です。着任当初の第八一一独立任務戦隊には秩序がありませんでした。予算が不足していたからです」

「それを解決したのがトリューニヒト・ドクトリンですね」

「その通りです。エル・ファシルでは、少なからぬ数の人々がテロに加担しました。海賊には大勢の退役軍人が参加しました。貧困が憎悪を育てたのです。目の前のテロリストを倒しても、貧困を解決し、憎悪を消し去らなければ、新しいテロリストが何度でも現れることでしょう。トリューニヒト・ドクトリンは民生支援を重視します。それゆえに唯一有効な対テロ戦略足りえるのです」

「なるほど」

 

 インタビュアーは明らかに失望していた。激しいテロリスト批判を期待していたのであろう。やはり期待には添えなかったようだ。

 

 結局、このインタビューはお蔵入りとなった。「なぜ俺の言いたいことを伝えないのか」と怒るのでなく、「攻撃を受けずに済んだ」とほっとする辺りが我ながら小心者だ。

 

 インタビューが載るはずだった本日付のシチズンズ・フレンズをパラパラとめくる。第七次イゼルローン遠征軍の扱いが一番大きい。

 

 俺たちがハイネセンに到着する三日前の八月二四日、六万六七〇〇隻からなるイゼルローン遠征軍が出発した。

 

 総司令官は宇宙艦隊副司令長官に昇格したばかりの「ミスター・パーフェクト」ジェフリー・パエッタ大将。司令長官ロボス元帥は大胆だが詰めが甘い。そこで完璧主義者の副司令長官が起用された。

 

 第一陣の指揮官は、六七歳の第四艦隊司令官ラムゼイ・ワーツ中将。二等兵からの叩き上げで、ビュコック中将やルフェーブル中将に匹敵する老巧の将である。司令官職に内定していた故パストーレ元帥が、エル・ファシル方面軍を率いることとなったため、代わりに司令官となった。

 

 第二陣の指揮官は、第六艦隊司令官エドワード・トインビー中将。二〇年続いたバンプール海賊との戦いに終止符を打った功績により、同盟軍屈指の戦略家と呼ばれるようになった。司令官職に内定していた故ムーア元帥が、第七方面軍司令官から離れられなかったため、代わりに司令官となった。

 

 第三陣はパエッタ大将の直率部隊であるが、実質的には第二艦隊副司令官ナヴィド・ホセイニ少将が指揮をとる。

 

 第四陣の指揮官は、第一二艦隊司令官ウラディミール・ボロディン中将。戦列を維持する手腕にかけては右に出る者のいない名将であり、同盟軍きっての紳士として知られる。シトレ派に属しており、遠征軍の艦隊司令官の中では唯一の非トリューニヒト派だった。

 

 総戦力は四個艦隊と六個予備役分艦隊を合わせて六万六七〇〇隻。第一二艦隊、第一六独立分艦隊、第一九独立分艦隊以外はすべてトリューニヒト派の部隊であり、トリューニヒト・ドクトリンを対帝国戦で試すための布陣である。

 

 この大軍を迎え撃つのは、帝国軍最高の戦術家ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥。援軍を率いてイゼルローン要塞に入り、二年前のミュッケンベルガー元帥と同じように要塞駐留艦隊と要塞防衛軍を一括指揮する。帝都オーディンを出発する際に「トゥールハンマーを使うつもりはない。艦隊戦だけで勝つ」と豪語し、全宇宙から嘲笑を浴びた。

 

 同盟国内は楽勝ムードが充満していた。敵は三万隻にも満たないのに、要塞に頼ろうとしない。味方の司令官はみんな名将で、ラップ准将やアッテンボロー代将といった気鋭の若手もいる。負ける要素がないと誰もが考えた。

 

「ローエングラム元帥と要塞駐留艦隊司令官フォルゲン大将の名は、第二次ティアマト会戦で大敗したツィーテン元帥と同じラインハルト。つまり、帝国軍は大敗する運命なのだ!」

 

 円盤占い師キング・マーキュリーの発言には、何の根拠も無かったのだが、マスコミからは引っ張りだこになった。

 

 俺には前の世界の記憶がある。アスターテ星域会戦において二倍の同盟軍と戦ったラインハルトは、パストーレ中将とムーア中将を討ち取り、パエッタ中将に重傷を負わせた。大軍を揃えたぐらいで勝てる相手ではない。負けるんじゃないかと不安になってくる。

 

 もっとも、この世界が前の世界と同じ展開をたどるとは限らない。六万隻の第七次イゼルローン遠征軍、そのきっかけとなったシャンプール・ショックは、前の世界では存在しなかった。前の世界のパエッタ大将は、大将でも宇宙艦隊副司令長官でもなかった。アスターテで敗れたパストーレ元帥とムーア元帥はテロに倒れた。それでもラインハルトがパエッタ大将に敗れるところが想像できない。

 

 もちろん、マスコミに対しては、「遠征軍の活躍に期待しています」と答える。この雰囲気の中で後ろ向きなことを言うのは難しい。それに勝てるものなら勝ってほしいというのが正直な気持ちだ。

 

 国を愛さなければならないという風潮が広がっていた。人々は挨拶や乾杯の際に「同盟万歳!」と唱え、これ見よがしに国旗を掲げ、自分がいかに国を愛しているかを競った。アピールが足りないとみなされると、周囲から「国を愛していない」と非難され、社会的不利益を被ることすらあるという。

 

 愛国心の暴風、パトリオット・シンドロームが自由惑星同盟を飲み込もうとしていた。




エル・ファシル慰霊祭におけるヤンの態度は原作小説一巻のアスターテ慰霊祭におけるそれを踏襲したものであり、私の創作ではありません。アニメではヤンはアスターテ慰霊祭に出席していないのですが、それは原作小説と異なります。小説未読の方、アニメでしか銀河英雄伝説を知らない方のためにあらかじめお断りさせておきます。

小説とアニメでは描写の異なるところが少なくないのですが、双方を比較して可能な限り小説の方を優先するようにしております。ご了承ください。


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第47話:英雄と英雄主義の距離 796年9月5日~9月21日 国防委員会庁舎~ホテル・ユーフォニア~控室~査問会場

 佐官といえば、将官がわんさか出てくる戦記では一山いくらの存在である。大佐や少佐なんてのが出てくると、下っ端のように思える。しかし、それは現実的ではない。

 

 軍人の階級を民間企業に例えると、兵卒はアルバイト、下士官は一般職正社員、尉官は総合職正社員、佐官は部課長、将官は役員といったところだろうか。戦記の主要人物はほとんどが役員ということになる。

 

 佐官をさらに細かく分類すると、少佐は小規模支店長もしくは本社係長、中佐は中規模支店長もしくは本社課長補佐、大佐は大規模支店長もしくは本社課長、代将たる大佐は民間企業の本社部長もしくは支社長にあたる。戦記の登場人物と比較すると下っ端であろうが、組織全体ではそうではないことが理解できるだろう。

 

 最下級の佐官たる少佐は、宇宙軍では艦長、地上軍では大隊長や飛行隊長である。基本給は三二七〇ディナール。各種手当を加えると、その一・三倍から一・八倍はもらえる。下士官・兵卒からの叩き上げた士官のほとんどが少佐止まりだが、それでも十分過ぎる待遇だろう。かくいう俺も士官となった当初は、少佐で定年を迎えられたらいいなと思ったものだ。

 

 最上級の佐官たる大佐は、宇宙軍では群司令、地上軍では旅団長もしくは航空群司令だ。代将の称号を与えられ、将官職の戦隊司令や師団長を務める場合もある。士官学校卒業者の場合は、三〇代後半から四〇代前半で大佐に昇進し、八年の同一階級在籍期限が切れると予備役に編入されるのが普通だ。下士官から大佐まで昇進した人は一般職正社員から本社課長、兵卒から大佐まで昇進した人はアルバイトから本社課長に昇進したと思ってほしい。

 

 大佐や代将でも一般人から見れば、目もくらむような大幹部であろうが、上には上がいる。准将以上の将官だ。

 

 最下級の将官たる准将ですら五万人以上の将兵を統率し、自ら選任した幕僚や副官を従え、高級車を公用車として使う。将官は宇宙軍と地上軍を合わせた全軍将兵五五〇〇万人の中で一万人に一人、全士官三七〇万人の中で六七二人に一人、士官学校卒業者でも二〇人に一人しかいない。実績、運、人脈のすべてを兼ね備えた者のみが到達できる聖域。それが将官である。

 

 二〇代で将官になれるのは、アンドリュー・フォークやマルコム・ワイドボーンのような大秀才か、そうでなければヤン・ウェンリーのような奇才中の奇才に限られる。そんな逸材が滅多にいるはずもなく、二〇代の将官は全軍で一六人しかいない。新たに一七人目となった人物が兵卒出身というのは、驚天動地の事態だろう。当の本人である俺も驚いているのだから。

 

 一か月前に内示はもらっていた。しかし、いざそれが現実のものになってみると、冷静ではいられない。

 

「辞令

 

 宇宙艦隊総司令部付 代将たる宇宙軍大佐エリヤ・フィリップス

 

 宇宙軍准将に昇任させる 

 

 宇宙暦七九六年九月五日 

 

 国防委員長 ヨブ・トリューニヒト」

 

 国防委員会人事部長パヴェレツ中将から辞令書を渡された瞬間、手が震えて落としてしまった。慌てて拾おうと屈んだらバランスを崩して転んだ。

 

 準備はしたつもりだった。腹痛に備えてあらかじめ胃薬を飲み、冷汗をかいても大丈夫なように吸汗性のアンダーシャツを着込んだ。それなのに醜態を晒してしまった。自分の小心ぶりが情けない。

 

「将官昇進は一大事だ。落ち着いている方が珍しい。辞令を受け取った瞬間に失神した者、この部屋を出た後にはしゃぎすぎて階段から転げ落ちた者なんかもいた。それよりはずっとましさ」

 

 パヴェレツ人事部長はこう言ってくれたが、そんなのと比べられても救いにはならない。これからやっていけるのだろうかと不安になってくる。

 

 自分の昇進よりも部下の昇進の方がずっと嬉しい。ビューフォート中佐は大佐、コクラン大佐は准将、フェーガン少佐は中佐、コレット中尉は大尉となり、その他の主だった者もすべて一階級昇進した。防衛部隊副司令アブダラ代将だけはヤン告発の件が祟ったのか、昇進を見送られた。

 

 エル・ファシルで活躍した人たちも昇進した。ヤン准将は少将、メイスフィールド代将やジャスパー代将やパトリチェフ大佐らは准将、ダーシャは大佐となり、その他の主だった者も昇進を果たした。

 

 辞令をもらった翌日、将官昇進の祝賀会が開かれた。主催者はパラス星人会。会場は「ホテル・ユーフォニア・ハイネセンポリス」という政財界御用達の高級ホテル。前の世界ではローエングラム朝銀河帝国の新領土総督府が置かれた建物だ。

 

 広い会場には、ヨブ・トリューニヒト国防委員長を筆頭に、政治家、財界人、官僚、軍人、文化人、芸能人など各界の著名人が集まっていた。テレビで馴染みの顔も少なくない。

 

 政界からの出席者は、トリューニヒト国防委員長、ネグロポンティ国民平和会議(NPC)幹事長筆頭補佐、カプラン第一国防副委員長、アイランズ天然資源副委員長、ボネ下院司法委員長、ブーブリルNPC女性局長代理らトリューニヒト派の政治家が大半を占める。

 

 財界からは、テイラー・ハミルトン社のジフコフ名誉会長、オーロラ・グループのキューパー会長、ヘンスロー社のヘンスロー会長、テレホート・エレクトロニクスのマッケナ社長、ウェスタスのガルダ社長など、軍需産業の大物が勢揃いだ。ジフコフ名誉会長はトリューニヒト委員長の義父であり、最大の支援者でもある。

 

 官界からは、法秩序委員会のサンテール事務総長、法秩序委員会人権部のステパーシン部長、同盟警察本部副長官バスクアル警視監、同盟警察本部公安部長チャン警視監、首都警察本部長官クリフォード警視監、国立水素エネルギー公社のギュネイ副総裁らが出席した。警察官僚と司法官僚が目立つ。

 

 軍部からは、第一一艦隊司令官ドーソン宇宙軍中将、国防委員会事務局次長ロックウェル宇宙軍中将、陸上部隊副総監ギオー地上軍中将、士官学校校長アジュバリス地上軍中将、航路管制総軍副司令官シャイデマン宇宙軍中将、国防委員会通信部長ルスティコ技術中将など、将官だけでも三三名。イゼルローン遠征軍に大勢の将官が参加していてもなお、これだけの人数を集められる。海賊討伐と対テロ作戦がトリューニヒト派を大きく飛躍させた。

 

 その他には、政治評論家・愛国作家連盟理事ドゥメック、退役軍人協会会長トルエバ退役地上軍大将、十字教贖罪派幹部・愛国宗教者協会会長フォックス大司教、元テルヌーゼン検察庁検事長・憂国騎士団顧問弁護士ベタンクール、モントクレア大学文学部のヴァーノン教授といったトリューニヒト派の有名人が顔を連ねる。

 

 トリューニヒト委員長の権勢が絶大なことをこの顔触れが教えてくれる。いや、そう思わせるためにこれだけのメンツを集めたといった方が適切だろうか。

 

 ロボス派からは、派閥トップの宇宙艦隊司令長官ロボス宇宙軍元帥、ナンバーツーの地上軍総監ペイン地上軍大将が型通りの祝賀メッセージを出し、部下を代理として出席させた。これは宇宙軍及び地上軍の代表としての儀礼的な範囲に留まる。

 

 シトレ派からは、ナンバーツーの宇宙艦隊総参謀長グリーンヒル宇宙軍大将が出席した。同盟軍きっての社交家である彼は、どこにでも顔を出すことで知られる。

 

「個人としてお祝いさせていただきたい」

 

 私服姿のグリーンヒル大将は「個人」を強調した。派閥トップの統合作戦本部長シトレ宇宙軍元帥は、メッセージも代理も出していない。公式に俺の提督就任を認めたくはないが、グリーンヒル大将を通じて非公式のパイプを繋ぐつもりなのだろう。

 

 中間派からはメッセージも代理出席も無かった。一切関係を結ぶつもりがないようだ。中間派最長老のアルバネーゼ退役大将は、表世界では穏健保守の重鎮、裏世界ではサイオキシンマフィア創設者Aであり、二重の意味でトリューニヒト委員長と敵対している。マフィアと関係ないベルージ大将やシャフラン大将らは、イデオロギー上の理由でトリューニヒト委員長を嫌っていた。

 

 過激派からは一人も出席しなかったが、二大巨頭のフェルミ地上軍大将とヤコブレフ宇宙軍大将がメッセージを送り、部下が代理出席した。その他、将官一五名がメッセージを送ってきた。かつて彼らの企みを潰したことがあるのに、なぜか好かれている。俺がルドルフのようなタフガイに見えるのだろうか?

 

 無派閥のルグランジュ宇宙軍少将は、「友人として祝いたい」と言って、内輪で開く祝賀会への出席を希望したため、この場には姿を見せていない。

 

 トリューニヒト委員長とドーソン中将は、俺を要人たちに紹介して回る。この祝賀会はトリューニヒト派の権勢を示す場であると同時に、俺と政界・官界・財界との顔つなぎをする場でもあるのだ。

 

「彼はとても素直で小官の言うことを良く聞いてくれます。だから、この若さで提督になれたのです。小官が指導した者の中で随一でしょうな」

 

 ドーソン中将は俺のことを紹介しているんだか、自分が凄いと言いたいんだかわからないようなことを言い、要人たちを戸惑わせた。

 

 いつもと変わらぬ恩師の様子に「しょうがない人だなあ」と思いつつも顔が綻ぶ。純粋な感謝の気持ちもあった。彼がいなければ、トリューニヒト委員長と会うこともなく、この年で提督になることもなかった。そう、すべて彼のおかげなのだ。

 

「すべて閣下にご指導いただいたおかげです」

 

 俺は笑って相槌を打った。

 

「ははは、ドーソン提督は良い教え子をお持ちになりましたな」

 

 要人たちはつられたように笑う。こうして、トリューニヒト派の要人たちと面識を得た。

 

「主教でいらっしゃるんですか……?」

 

 自分と同年配の男性から渡された名刺にびっくりした。名刺に記された肩書きは「地球教主教 宗教法人地球教団総本部 財務担当書記」、名前を「エマニュエル・ド=ヴィリエ」という。前の人生で世話になった教団の幹部、しかも戦記に登場する超大物ではないか。

 

「聖職者に見えないとは良く言われます」

 

 ド=ヴィリエ主教が如才ない笑いを浮かべる。シャープな痩身に上等なスーツを隙無く着こなしており、本人が言うように聖職者らしく見えない。大手金融会社のエリート社員のようだ。

 

「そ、そんなことはありません。主教閣下の威厳に恐縮するばかりです」

 

 俺は額の汗を拭いた。地球教団の主教がここにいること自体はおかしくない。トリューニヒト委員長の有力支援団体に、「愛国宗教者協会」という宗教右派の超宗派政治組織がある。地球教団はその加盟団体の一つだ。

 

 ド=ヴィリエ主教が超大物なのが問題だった。前の世界の彼は地球教のテロ部隊を統率し、ラインハルト帝暗殺未遂、ヤン・ウェンリー暗殺など数々の大事件を起こした張本人である。

 

「ははは、そうでしたか。お世辞とはいえ嬉しいものですな」

 

 ド=ヴィリエ主教は社交的な笑いを浮かべていたが、その眼の奥には値踏みするような色があった。前の世界で世話になった優しい主祭さん、シャンプールで会った純朴な少女信徒とは明らかに毛色が違う。油断ならない感じだ。あまり近づきたくないタイプだと思った。

 

 その後、ド=ヴィリエ主教は地球教団の資産管理団体「信徒基金」の責任者でもあると、ヘンスロー会長が教えてくれた。資金運用に天才的な手腕を持っており、莫大な運用利益をあげた功績を認められて、二〇代で執行部入りしたのだそうだ。金融会社のエリート社員という印象は、当たらずとも遠からずといったところだった。

 

「あれは法衣を着たビジネスマンだな。神じゃなくて金に仕えてるんだ」

 

 ヘンスロー会長は見下すように言った。この人は父から受け継いだ会社の収益を、政治家、芸能人、スポーツ選手などに気前良くばらまくことで有名な人だ。

 

 こうして祝賀会という名の政治的セレモニーが終わった。将官が極めて政治的な存在だと肌で感じた四時間だった。

 

 

 

 准将昇進を祝うメッセージが広報経由で押し寄せてきた。この八年間で知り合った人々の名前がメールボックスにずらりと並ぶ。

 

「へえ、来年結婚するのか」

 

 オーヤン・メイシゥ一等兵は空母フィン・マックールでの部下だった。当時はまだ一〇代の少女だったのに、間もなく結婚するのだ。年月の移り変わりを感じさせられる。

 

「頑張ってるなあ」

 

 憲兵司令部副官だった当時、副官付の一人だったタチアナ・オルロワ。三年前は伍長だったが現在は曹長まで昇進しており、来年から幹部候補生養成所に入所するという。メッセージの中には、「提督の指導のおかげです」と記されていて嬉しくなった。

 

「えっ!?」

 

 ヴァンフリートで知り合ったヴァレリー・リン・フィッツシモンズ大尉のメールは、「あの日の約束、覚えてる?」という心臓に悪いタイトルだった。恐る恐る中身を開く。

 

「ああ、そういうことか」

 

 そういえば、ヴァンフリートの戦いが始まる直前に、「戦いが終わったら彼女のためにコーヒーをいれる」と約束していたのだった。さすがは薔薇の騎士連隊長シェーンコップ大佐と付き合っていた女性。人の悪さは彼氏譲りである。

 

「立派な人だなあ」

 

 元第一一艦隊参謀長アンリ・ダンビエール少将は、第三次ティアマト会戦の終盤に俺と激しく対立した。結果として俺が正しかったため、彼の評価はがた落ちし、今は辺境に追いやられた。そんな因縁のあった人が、「今になって思うと君が正解だった。参謀としては〇点だが、ドーソン提督の部下としては満点だろう」と言ってくれる。なんと度量が大きいのだろう。彼の復権に尽くそうと決意した。

 

 面識はあるけれどもさほど親しくない人、面識がまったくない人からもメッセージが送られてきた。

 

「まだ懲りないのか」

 

 差出人欄に記された妹の名前を見た途端、嫌な気分になった。いい加減、俺に嫌われてることに気づいてほしい。有無を言わさず削除する。

 

「勘弁してくれ」

 

 サマンサ・ワカツキという人から来たメールには、「閣下に憧れて赤毛にしました!」と書かれており、髪を赤く染めた画像が添付されていた。見たところ二〇代前半の女性のようだ。好かれるのは嬉しいが、こういう真似をされると引いてしまう。

 

「はやくおおきくなって、ふぃりっぷすていとくみたいなつよくてかっこいいぐんじんになって、わるいわるいてろりすとをやっつけたいです」

 

 綴り間違いだらけのメールを寄越してきたのは、ラリー・クルーニーという少年だった。来年小学校に入るのだと言う。テロリストを純粋に悪と信じているのはともかく、子供に「強くてかっこいい」と言われたら嬉しくなってくる。

 

 俺はさっそくペンと紙を取り出し、ラリー少年への返事を書いた。

 

「ラリー君は軍人になりたいのですね。とてもいいことだと思います。立派な軍人になるために大事なことが八つあります。

 

 一つ、ご飯をたくさん食べましょう。立派な軍人は丈夫な体を持っています。

 二つ、体をたくさん動かしましょう。立派な軍人は元気いっぱいです。

 三つ、いっぱい勉強しましょう。立派な軍人は物知りです。

 四つ、パパとママと先生の言うことをよく聞きましょう。立派な軍人は他人を尊敬します。

 五つ、友達を大事にしましょう。立派な軍人は戦友を大事にします。

 六つ、年下の子をかわいがりましょう。立派な軍人は部下をかわいがります。

 七つ、喧嘩はいいですが弱い者いじめはいけません。立派な軍人は親切です。

 八つ、威張ってはいけません。立派な軍人は控えめです。

 

 いつかラリー君と一緒に戦える日を楽しみにしています。それではお元気で。

 

 未来の戦友ラリー・クルーニー君へ。

 

 同盟宇宙軍准将 エリヤ・フィリップス」

 

 このメッセージに加え、俺の軍帽、裏側にサインを書き込んだ第八一一独立任務戦隊の集合写真を広報に託し、ラリー少年に送るよう依頼した。

 

「愛国の名将エリヤ・フィリップス閣下の昇進を祝す

 閣下が国家に捧げてこられた献身と忠誠に敬意を表するとともに、

 さらなるご活躍を心より祈念するものである

 

 憂国騎士団総本部」

 

 なんと、悪名高い極右民兵組織「憂国騎士団」からメッセージをもらった。

 

「准将昇進、御目出度う御座います

 エリヤ・フィリップス閣下の輝ける前途を祝し、

 一層の御武運と御活躍を御祈り申し上げます

 

 正義の盾中央委員会」

 

 統一正義党系列の極右民兵組織「正義の盾」からもメッセージが届いた。この組織は憂国騎士団と対立関係にある。

 

 その他の右翼団体からもメッセージが次々とやってくる。現在の右翼はヨブ・トリューニヒト国防委員長などの右派ポピュリスト、統一正義党などのルドルフ的権威主義者に二分されているのだが、その双方から満遍なく送られてきた。

 

 リベラル系や反戦派の団体からのメッセージは九通に過ぎない。そのうち六通は出身惑星パラスの団体、二通はエル・ファシルの団体、一通は退役した部下が事務局長を務める団体だった。自分がどのように見られているのかが一目瞭然だ。

 

 個人でメッセージを送ってきた人にしても、熱烈な愛国者、極端なリベラル嫌い、英雄崇拝主義者、宗教右派など右翼がかった人が勢揃いしている。

 

「まいったなあ」

 

 マフィンを食べながら頭をかく。右翼はタフガイが大好きだ。猛将で礼儀正しくて筋肉質な俺は好みのど真ん中なのだろう。別に右翼を嫌いなわけではないが、支持層が偏りすぎるのはよろしくない。

 

「世渡りする上では便利なんじゃないすか? 最近は右傾化してるんでしょう?」

 

 友人のハンス・ベッカー少佐が身も蓋もないことを言う。彼は帝国からの亡命者なので、民主主義に対する思い入れが薄い。世論がどう動いても迎合すればいいとしか思っていない。

 

 同盟は急速に右傾化していた。公式の場で政府批判めいたことを言えば、マスコミからは非難され、ネットでは罵倒される。極右から暴力を振るわれることだってある。

 

「対テロを名目とする民衆弾圧に抗議する!」

 

 ウィルモット賞作家アキム・ジェメンコフら六四名の反戦派文化人が共同声明を発表し、対テロ作戦の最中に行われた暴行・虐殺・拷問に抗議した。しかし、執拗な嫌がらせに遭い、半数が署名取り消しに追い込まれた。

 

「出自のみを根拠とする捜査は、同盟憲章第三条に反する。私は愛国者だ。憲章に背くことはできない」

 

 ノルトホランド星系警察のエジナウド・フランカ長官は、「亡命者及び分離主義運動が盛んな星系出身者全員の個人情報を収集せよ」という同盟警察本部の要請を拒んだ。その三六時間後、星系政府はフランカ長官を解任し、同盟警察本部に全面協力すると約束した。

 

「軍事力は凶器だ。それを行使する軍人が安易に流されてはならない。冷静さを保て」

 

 統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥は、強硬論を煽ったウィジャヤ中佐ら本部職員三名を厳重注意処分とした後に、全職員を集めてこのような訓話を行った。市民からは激しい反発を買い、処分撤回とシトレ元帥の辞任を求めるメールが統合作戦本部に押し寄せた。

 

「やれやれ、何がそんなに怖いのかねえ。みんなが同じことを叫んでる方がずっと怖いと、私は思うけどな」

 

 同盟軍広報誌『月刊自由と団結』の電話インタビューに対し、ヤン・ウェンリー少将はそう答えたそうだ。このコメントは担当者の判断で没になり、エル・ファシル七月危機の英雄が攻撃される事態は避けられた。

 

 反戦市民連合などの左派政党が、政府批判の集会を開いた。しかし、政府を支持する集会と比較すると、参加者がはるかに少ない上に、憂国騎士団や正義の盾がしばしば殴りこみをかけてくる。

 

 こんな時は糖分を補給するに限る。俺はフルーツケーキを箱から取り出した。高級菓子店フィラデルフィア・ベーグルのフルーツケーキ。ダーシャの友達からプレゼントされたものだ。同盟国内を吹き荒れる愛国心の暴風、パトリオット・シンドロームはまだまだ収まる気配を見せない。

 

 

 

 九月一〇日、電子新聞に「フィリップス提督、軍人志望の少年に熱い激励」という見出しが踊った。ラリー少年が俺の手紙を見せびらかしたことで、マスコミの目にとまったらしい。

 

「顔も心も男前」

「同盟軍人の鑑」

「理想のお兄ちゃん」

 

 こういった賛辞が飛び交い、ただでさえ多い出演依頼がさらに増えた。最近は朝から晩まで仕事漬けだ。単独出演はもちろん、他の英雄との共演も多い。広報担当のヴィオラ中佐がやたらと仕事を入れてくるせいで、食事の時間すら確保できなかった。

 

「クリスチアン中佐が懐かしくなりますよ」

 

 カメラマンのルシエンデス准尉に、俺は愚痴を漏らした。

 

「ああいう人はなかなかいないからな」

「広報の仕事がそういうものなのは分かるのですが」

「出される方としてはたまったもんじゃないだろうな」

「ええ、まったくです」

「早くシャバに戻ってきてほしいもんだが」

「頑張りますよ」

 

 俺はきっぱりと言った。かつての広報担当で恩師であるクリスチアン中佐。その査問会が明日から始まる。

 

 エル・ファシル七月危機において、ヤン少将は自治体の出動要請に応じないよう厳命した。クリスチアン中佐はこの命令に背き、独断で要請に応じたために査問を受ける身となった。

 

 戦記で慣れ親しんだ英雄。自分を軍人の道に進ませてくれた恩師。この両者が対立するのは心苦しい。ヤン少将を非難するのでなく、クリスチアン中佐を弁護する。だから問題はないのだと自分に言い聞かせる。

 

「勝算は?」

「厳しいですね。証人があれじゃあ」

 

 ヤン少将側の証人は、パトリチェフ准将、ジャスパー准将、デッシュ准将、ビョルクセン准将の四名。エル・ファシル七月危機で戦った将兵の一部が、熱烈なヤン信奉者となった。この四名はその中心的存在である。

 

 クリスチアン中佐側の証人は、俺の他に三名いる。彼らはエル・ファシル防衛戦に参加したわけではなく、治安戦の専門家でもなければ、クリスチアン中佐と親しいわけでもない。何で選ばれたのかさっぱり理解できない面子だ。コクラン准将やアブダラ代将ら防衛部隊幹部が証人に立とうとしたが、許可されなかった。

 

「君は議論が下手くそだから許可されたんだろうな」

「せめてアブダラ代将がいたら良かったのですが。あの人は軍団法務部長の経験者なので」

「だから許可されなかったのさ」

「でしょうね」

 

 クリスチアン中佐の独断専行の是非を問うのが、査問会の本来の目的だった。もともとトリューニヒト国防委員長は、適当にごまかすつもりだったらしい。市民はこの査問会にさほど関心を抱いていないし、ヤン少将の行動は法的に灰色であるため、うやむやにするのが政治的に望ましいのだそうだ。査問委員長に大将・中将でなく少将を選んだのも、やる気の無さの表れだろう。

 

 しかし、査問委員長のウィズダム少将が悪い意味でやる気を出した。この査問会の過程と結果はすべて公開される。「軍人は犠牲を恐れてはならない」という信念を持つ彼には、絶好の宣伝場所に見えたらしい。

 

 査問会当日、俺は「不公平」という言葉を視覚で理解することとなった。ウィズダム少将は「ヤン少将は完全に正しい」という大原則を打ち出し、それに沿わない証拠を排除する形で査問を進めた。俺やクリスチアン中佐の発言は何度も遮られた。他の証人はウィズダム少将のシナリオに奉仕する存在でしか無かった。

 

「ヤン少将」

 

 ウィズダム少将に促され、ヤン少将が立ち上がった。

 

「まず、最初に確認したいことがあります。それは軍隊が守るべきは、何よりも市民であるという原則です。軍隊が守るべき市民とはなにか? それは自由と権利を持つ個人です。軍隊が守るべき権利とはなにか? それは尊厳を侵されない権利、人格を尊重される権利、生命及び身体を害されない権利、財産を保障される権利、人間らしい生活を送る権利です。エル・ファシルで私が守れたのは生命だけでした。市民の財産を守ることはできなかった。私は職務を全うできなかった。心より恥ずかしく思っています」

 

 なんとヤン少将は自己批判を始めた。ウィズダム少将が慌ててフォローに入る。

 

「しかし、それは市民を守るための緊急避難だった。スパイがどさくさに紛れて市民を殺すかもしれないと判断したからこそ、暴動鎮圧を後回しにした。大を生かすために小を殺すのは当然。ヤン少将の判断は正当だ」

「確かに私はそう判断しました。しかし、間違いだったと考えています」

「そんなことはない。ヤン少将の判断が市民を救った」

「本来ならば財産なども守るべきでした。他に選択肢がなかったのは事実です。すべてを守る力が私にはなかった。しかし、そうだとしても正しかったとは言えません。軍隊が守るべきものを守れなかった。それは敗北です。敗北を勝利と言い換えるなど、精神的退廃に他なりません」

「ヤン少将は何一つ敗北していない。あのシュライネンを破り、エル・ファシルを守りぬいた。大勝利ではないか」

 

 もはやウィズダム少将は査問委員長でなく弁護人と化していた。

 

「軍隊が守るべきものは、市民の自由と権利です。それを守れなかった以上は敗北です」

「国家あっての市民、国家あっての自由と権利ではないか。ヤン少将は国家分裂を防いだ。勝利したのだ」

「違います。市民あっての国家です。自由と権利を守るための国家です。敵を破るのはその一つの手段に過ぎません。敵に勝ったとしても市民を守ることができなければ、それは敗北でしょう。砦の守備隊長が砦を失ったようなものです」

 

 ヤン少将はエル・ファシル革命政府軍との決戦前に述べた持論を繰り返す。委員長席のウィズダム少将が不快そうに顔をしかめた。

 

「勝てば市民も守られるのだ」

「市民の生活を破壊したのに『守った』と言い張れるほど、太い神経は持っておりません。さらに言うと、私に対する擁護はすべて的外れです。私は批判されるべきであり、よって批判のみが的を得ていると考えます」

 

 一瞬、ヤン少将に見とれてしまった。彼と俺の考えは違う。前の世界で混乱期を生きた経験、この世界で辺境を回った経験から、国家なくして自由も権利もないと思う。それでもなお美しいと感じた。信念の中身でなく、信念を通そうとする態度を美しいと感じた。四年前に玉砕した帝国軍の闘将カイザーリング提督を思い出した。

 

「では、出動要請に応じたクリスチアン中佐の判断が正当だったというのか?」

「思いません」

「ならば、何が正解だったと思うのだね?」

「わかりません。私が教えてほしいぐらいです」

「それは少々無責任ではないかな」

「戦争はペーパーテストとは違います。必ず正解が用意されているとは限らない。どの答えを選んでも間違いということもあるでしょう。そんな場合に指揮官が果たすべき責任とは、よりましな間違いを犯すことであり、ましであっても間違いは間違いに過ぎないと認めること。私はそう考えています。無責任とは分からないことを分からないと告白することではありません。間違いを正解だと言い換えて正当化することです」

 

 必ず正解が用意されているとは限らない。まったくもってその通りだった。ヤン少将はぶれることがない。

 

「よろしい、席に付きたまえ」

 

 これ以上喋られたらまずいと思ったのか、ウィズダム少将はヤン少将を着席させた。そして、代わりにパトリチェフ准将に発言を促す。

 

「ヤン少将の判断は必要悪でした。しかし、必要であっても悪は悪。決して肯定されるべきではありません。なぜなら――」

 

 パトリチェフ准将は朗々たる美声でヤン批判を始めた。

 

「貴官の言いたいことはよくわかった! 席に付きたまえ!」

 

 慌てたウィズダム少将はパトリチェフ准将を座らせ、ジャスパー准将を指名した。

 

「政治は常に軍事に優先するというのが文民統制の原則です。このケースで言うと、ヤン少将は軍事的動機、自治体は政治的動機で――」

 

 ジャスパー准将はヤン少将の判断が軍事優先だったと指摘する。

 

「着席! 着席だ!」

 

 ウィズダム少将はジャスパー准将に着席を命じる。しかし、代わりに証言したデッシュ准将やビョルクセン准将もヤン少将を批判し、完全にウィズダム少将のシナリオはぶち壊された。

 

 査問会が終わった後、ヤン少将に礼を言おうかどうか迷った。弁護人としての立場を考えると、言うのが筋だろう。しかし、被告席のクリスチアン中佐は殺気のこもった目でヤン少将を睨みつけていた。剛直な彼にとって、自分が嫌悪する論理で擁護される以上の屈辱はない。これで有利になっても惨めに感じるだけではないか。

 

 一〇分ほど悩んだ挙句、礼を言うことに決めた。ヤン少将らがウィズダム少将のシナリオを壊してくれたのは事実だ。それにクリスチアン中佐は礼儀にうるさい。ヤン少将に頭を下げることも礼儀として認めるだろうと見当をつけた。

 

 俺は食堂に入り、ヤン少将らの席に歩み寄った。最初にこちらを向いたのはジャスパー准将。それからパトリチェフ准将、デッシュ准将、ビョルクセン准将も俺に気づく。ヤン少将は俺がテーブルの真ん前に来てからこちらを向いた。

 

「ありがとうございました!」

 

 俺は直立不動の姿勢でぴったり四五度のお辞儀をした。

 

「彼のためにやったわけではないんだけどね」

 

 ヤン少将の困ったような声。

 

「それでもありがとうございました!」

 

 顔を上げずに二度目の礼を述べる。

 

「わかったよ」

 

 冷めた風に返すヤン少将。俺が歓迎されざる客だということを声色で教えてくれる。さっさとこの場を離れた方がいいと判断した。

 

「失礼いたしました!」

 

 さっと締めてから、俺はすたすたと歩き去った。食堂のカウンターに差し掛かったところでちらりと隅っこを見る。

 

 ヤン少将はいつもと同じぼんやりとした顔でカップに口を付けていた。他の四人のうち、パトリチェフ准将とデッシュ准将がこちらを見ており、ジャスパー准将とビョルクセン准将は興味なさげだ。

 

 いい主従だと思った。並の部下なら、ヤン少将の表面的な評価を守ろうとしただろう。そうした方が自分にとって都合がいいからだ。しかし、この四人はヤン少将の真意を汲んで動く。以心伝心とはまさに彼らのことだろう。

 

 食堂にいるヤン少将の部下の中で、前の世界でも腹心だったのはパトリチェフ准将のみ。デッシュ准将も幹部ではあったが腹心とは言えなかった。ジャスパー准将、ビョルクセン准将は名前すら残っていない。歴史が変われば部下の構成も変わるのである。この世界でヤン・ファミリーという物が生まれるとしたら、おそらくはこの四人が中核になる。そんな予感がする。

 

 査問会以降、ヤン少将は七月危機における判断が失敗だったと公言するようになった。政府批判ならともかく、自分で自分を批判しているのだから止めようもなかった。

 

 ヤン人気の根本は、民間人が一人も死ななかったことに対する評価でなく、東大陸西部を焦土にした「覚悟」に対する評価である。しかし、本人にそれを否定されたらどうしようもない。

 

 右派のヤン離れが急速に進んだ。統一正義党、正義の盾、憂国騎士団などの極右勢力は、相次いで糾弾声明を発表。右翼少年によるヤン襲撃未遂事件も起きた。出演依頼も半数以下まで減っており、九月いっぱいでヤン担当広報チームが解散するとの噂もある。

 

 一方、リベラル派や反戦派は、「軍人のすることは何でもかんでも気に入らない」というタイプを除けば、概ね肯定的だった。

 

 エル・ファシルの勝者は英雄の座から自ら降りた。だが、パトリオット・シンドロームが収まる気配はない。

 

 英雄はいくらでもいる。エル・ファシル七月危機で活躍した軍人、シャンプール・ショックにおいて救助活動にあたった警察官や消防士、対テロ作戦を指導する政治家、テロリスト批判の論客などが代わる代わるテレビに登場し、同盟市民の英雄主義を満足させた。

 

 九月二〇日、イゼルローン要塞から八・六光年の距離にあるシロンスク星系の第一二惑星レグニツァにおいて、同盟軍六万六七〇〇隻が帝国軍二万八〇〇〇隻と遭遇したとの報が入った。人々は新たな英雄譚の誕生を期待した。

 

 交戦開始の翌日、人々の期待はきわめて皮肉な形で叶えられた。同盟軍が大敗し、敗軍の中で奮戦した一握りの生者と死者が新たな英雄となった。




ド・ヴィリエの容貌描写は原作小説8巻に基づきました。


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第48話:一触即発の銀河 796年9月22日~10月中旬 ハイネセンポリス~軍刑務所~官舎~国防委員会庁舎~エルビエアベニュー

 同盟全土が愕然とした。九月二〇日一四時時点での同盟軍は六万六七〇〇隻、これを迎え撃つ帝国軍は二万二〇〇〇隻から二万四〇〇〇隻で、数の上では三倍近い優勢だった。また、同盟軍正規艦隊は一・三倍の帝国軍主力艦隊と互角に戦えると言われる。数においても質においても圧倒していたはずなのに敗北したのだ。信じられないと思うのも無理はない。

 

 そして、状況が明らかになるにつれて、人々は信じられないという思いをさらに募らせた。それほどに敵将ラインハルト・フォン・ローエングラムの用兵は神がかっていた。

 

 惑星レグニツァの大きさを惑星ハイネセンと比較すると、赤道半径は一〇倍以上、質量は数百倍にのぼる。この巨大なガス惑星に接近した宇宙船は、重力場によって重力制御を阻害され、電磁波によって通信装置やレーダーを狂わされてしまう。

 

 第一陣のワーツ中将は老練の将である。索敵能力・通信能力・航法能力が弱体化した中、連絡用シャトルをダース単位で飛ばし、単座式戦闘艇スパルタニアンからなる索敵部隊を数百部隊もばら撒き、慎重に前進した。第二陣のトインビー中将、第三陣のパエッタ大将、第四陣のボロディン中将がその後に続いた。

 

 序盤の同盟軍は巧妙に戦ったといっていい。敵雷撃艇戦隊の一撃離脱攻撃をことごとく退け、敵が敷いた二重の機雷原をあっさり突破し、ほぼ無傷で帝国軍主力と遭遇した。

 

 帝国軍主力は艦と艦の距離を極端に広く開けており、同盟軍よりも味方艦同士の衝突を恐れているかのように見えた。一方、同盟軍は密集隊形を取った。この環境下でも味方艦同士が衝突しないような運用をする自信があったからだ

 

 同盟軍は兵力と火力を集中し、帝国軍主力をこてんぱんに叩きのめした。遠方から数百個の隕石が飛んできた時、同盟軍は勝利を確信したという。隕石攻撃は西暦時代に研究しつくされた戦術。そんな骨董品に頼らざるをえない時点で、敵の策が尽きたと考えたのだ。

 

 しかし、これこそがラインハルトの罠だった。数個の隕石がレグニツァの地表に突入し、大爆発を起こした。両軍は爆風に巻き込まれたが、散開した帝国軍が最小限の混乱に留まったのに対し、密集した同盟軍は大混乱に陥った。同盟軍は運用能力が高いため、このような宙域でも密集陣形で戦えた。それが仇となったのである。

 

 同盟軍の密集陣形、大兵力、通信やレーダーの機能低下が混乱を助長し、六万隻の大軍は動きが取れなくなった。そこに数百個の隕石が降り注いだ。レグニツァの裏側から出現した帝国軍の伏兵三〇〇〇隻がまっしぐらに突っ込んできた。混乱から立ち直った帝国軍主力も襲いかかってくる。

 

 第一陣のワーツ中将、第二陣のトインビー中将が戦死。第三陣のパエッタ大将も戦線崩壊の瀬戸際まで追い込まれた。第四陣のボロディン中将が敵の攻勢を食い止め、第六艦隊D分艦隊副司令官ラップ准将らが残兵をまとめて奮戦し、ぎりぎりで全軍壊滅を免れた。

 

 レグニツァ会戦の戦死者は一三八万八〇〇〇人、行方不明者は六五万三〇〇〇人、未帰還者の合計は二〇四万一〇〇〇人に達する。喪失・大破した艦艇は一万八六〇〇隻であった。将官の戦死者は、第四艦隊司令官ワーツ中将、第六艦隊司令官トインビー中将など二四人にのぼる。

 

 用兵教本によると、大規模艦隊戦の損害は一割前後が普通で、二割を超えたら大敗だそうだ。第四艦隊と第六艦隊は四割、第二艦隊は二割、第一二艦隊は一割、六つの予備役分艦隊は平均で三割前後を失った。全体では二八パーセント。前の世界でラインハルトが指揮したアスターテ会戦・アムリッツァ会戦より低い損害率だが、それでも歴史的な大敗と言っていい。

 

 前例に照らしてみれば、最高評議会が総辞職し、統合作戦本部長・宇宙艦隊司令長官・地上軍総監が揃って辞表を提出するのが筋だろう。しかし、誰一人として辞職しなかった。

 

「風頼みの政権運営などいずれ破綻する。総辞職してけじめをつけた方がいい」

 

 レベロ財政委員長とホワン人的資源委員長が評議会総辞職を求めたが、他の閣僚に拒否された。辞職論は民間でもさっぱり盛り上がらなかった。

 

 第一に市民がそれを望んでいない。政権支持率は八五パーセントから六六パーセントまで急落したが、それでも六割以上がボナール政権を支持している。

 

「今は全市民が団結すべき時だ。いたずらに事を荒立てるべきではない」

「ボナールやトリューニヒトがいなくなったら、誰がテロと戦うのだ? もっと強い指導者がいるのか?」

 

 こういった声が責任論を封じ込めた。レグニツァでは大敗したが、国内の対テロ作戦は大きな成果をあげつつある。エル・ファシル革命政府軍の脅威は消えていない。大多数の市民にとって、敗戦責任より対テロ作戦の方がずっと重要なのだ。

 

 政局安定への期待も大きかった。七年前に国民平和会議(NPC)と進歩党の連立政権が発足して以来、九人が最高評議会議長となったが、一年以上務めたのはボナール議長を含めて二人しかいない。そして、一年半以上務めたのはボナール議長ただ一人。対テロ強硬路線はリーダーシップの表れと評価された。従来の短命政権と一線を画するように思われたのである。

 

 第二に政界の実力者がそれを望んでいない。連立政権の七年間で、一度でも支持率が五〇パーセントを超えたのはボナール議長だけだった。NPCと進歩党の全派閥が合意できる人物でもある。シャンプール・ショック以降、最大野党の統一正義党が協力姿勢に転じた。近年稀に見る安定状況と言っていい。来年三月の下院選挙までこの安定を保ちたいとの思惑がはたらいた。

 

 第三に軍部の実力者がそれを望んでいない。レグニツァの敗戦によって、トリューニヒト派の勢力は大きく後退した。統合作戦本部長シトレ元帥、宇宙艦隊司令長官ロボス元帥、地上軍総監ペイン大将が一度に辞任した場合、シトレ派とロボス派の勢力も後退するだろう。そうなると、過激派が最大勢力になる。空いた要職の一つが過激派の手に渡る恐れもあった。反共和主義者が軍部を掌握するなど、悪夢以外の何物でもない。

 

 市民、政界、軍部がそれぞれの思惑で責任追及を控えた結果、イゼルローン遠征軍が敗戦責任を一身に背負うこととなった。

 

 敗戦から二日後の九月二三日、総司令官パエッタ大将はすべてのポストを解任された。そして、遠征軍の指揮権を第一二艦隊司令官ボロディン中将に、第二艦隊の指揮権を第二艦隊副司令官ホセイニ少将に引き渡すよう命じられた。敗将が帰還途中に指揮権を剥奪されることは、帝国では珍しくもないが、同盟では異例中の異例である。いや、異様といった方がいいかもしれない。

 

 パエッタ大将の指揮権剥奪と同時に、総参謀長アーメド中将、副参謀長リー少将、作戦主任参謀メルカデル少将ら遠征軍幕僚も全員解任された。これもまた異例であった。

 

 首脳陣に厳しい処分が下される一方で、同盟軍を完全敗北から救ったボロディン中将、ラップ准将、アッテンボロー代将らは徹底的に持ち上げられた。トリューニヒト国防委員長は、彼らの奮戦を「ダゴンや第二次ティアマトに匹敵する英雄的な戦い」と呼び、新しい英雄を褒め称えた。

 

 マスコミはレグニツァの英雄にあらんばかりの賛辞を浴びせ、パエッタ大将、ワーツ中将、トインビー中将らの無能を厳しく糾弾した。英雄と無能という大衆受けする構図を作り、「計画段階では完璧だった。前線の将兵は英雄的に戦った。一部の無能が足を引っ張らなければ勝てた」というシナリオを演じることで視聴率を稼いだ。

 

 レグニツァの敗戦は「レグニツァの悲劇」と言い換えられ、英雄劇としての側面が強調されるようになった。

 

「レグニツァの悲劇とは何か。それは敗戦を敗戦と認識しないことだ」

 

 リベラル派の歴史学者ダリル・シンクレア教授は、敗戦を美化しようとする動きを批判し、現実を見据えるように訴えた。

 

 シンクレア教授の発言は信じ難いほどの反発を買った。右派マスコミは特集を組んで執拗に叩いた。ネットには罵倒の言葉が飛び交い、シンクレア教授の著書を焼き捨てる動画が次々とアップされた。勤務先のハイネセン記念大学、コラムを連載している『ハイネセン・ジャーナル』紙、著書の出版元などにも抗議メールが殺到した。

 

 身の危険を感じたシンクレア教授は、友人のレベロ財政委員長を頼って身を隠そうとしたが、その途中で極右民兵組織「憂国騎士団」の襲撃を受けた。全治三週間の重傷だという。

 

 襲撃犯は犯行から二時間後に自首した。警察は「逃亡の恐れがない」として身柄を拘束せず、在宅のままで取り調べを進める方針だ。市民は公正な判断だと歓迎し、襲撃犯の無罪放免を求める署名活動、裁判費用を集めるための募金活動なども始まった。批判する者はリベラル派と反戦派の一部に留まる。

 

 なんとも嫌な事件だ。いったい秩序や規律はどこへ行ったのか。まるで前の世界のようではないか。

 

 トリューニヒト国防委員長が憂国騎士団を使い、都合の悪い言論を封殺していると言う噂もあった。前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』でも、同じような話が紹介されていた。

 

 確かに憂国騎士団はトリューニヒト委員長寄りだ。しかし、あれほど魅力的な政治家なら誰だって支持したくなるだろう。あちら側が一方的に支持しているだけなのではないか。噂はしょせん噂に過ぎない。

 

「そう信じたいんだね」

 

 スクリーンの向こう側から、ダーシャ・ブレツェリ大佐が痛いところを突いてくる。彼女が手に持っているのは、『憂国騎士団の真実――共和国の黒い霧』という本。警察と憂国騎士団の関係を追跡したノンフィクションである。

 

 確かに警察は憂国騎士団に甘い。統一正義党や正義の盾には容赦ないのに、憂国騎士団は野放し同然。そして、トリューニヒト委員長は元警察官僚。疑いたくなるのもわからないでもない。しかし……。

 

「疑う理由も無いしね。証拠が出た時に考える」

 

 俺はごまかすように笑った。

 

「証拠が出たらどうする?」

「悪いことは早くやめて欲しいと祈る」

「そこで見放さないのがエリヤらしいね」

「そりゃそうさ。正しいかどうかと好きかどうかは別だ。見放すとしたら、好きでいられなくなるようなことをあの人がやらかした時だよ」

「例えば?」

「そうだなあ……」

 

 つけっぱなしのテレビに目を向けると、たてがみのようなもみあげ髭を生やした老人が映っていた。サイオキシンマフィアの創設者Aことアルバネーゼ退役大将である。

 

「サイオキシンの売買に関わってるとか」

 

 あえてありえない仮定をした。トリューニヒト委員長を嫌いになるなんて、想像できなかったからだ。

 

「思いつかないんだね」

「良くわかったな」

「答えが適当すぎるもん」

「酷い目に遭わされたら嫌いになるだろうけどな。あの人はそんなことしないだろう」

 

 俺はきっぱりと言った。正直言うと、トリューニヒト委員長の能力はあまり信用してない。今時珍しい真面目な政治家だし、人と金を集めるのはうまいが、詰めの甘いところがある。先日の慰霊祭にしても、一流政治家なら顔色一つ変えずに対応できただろう。しかし、その甘さも人の良さゆえではないかと思えてくる。そういうわけで人柄は信用していた。

 

「トリューニヒト委員長は気流に乗る凧よ。実力もないのに風に吹かれて高く舞い上がってるだけの人。あの軽さは政治家としてまずいね」

 

 ダーシャはどこかで聞いたような例えをした。

 

「軽いからどこにでも流されるって意味か?」

「そういうこと。本質的には悪人じゃないかもね。でも、風の吹く方向次第でおかしなことをやらかすタイプだと思う」

「今がそうなのかもしれないな」

 

 パトリオット・シンドロームという暴風が、トリューニヒト委員長、そして自由惑星同盟を変な方向に飛ばしている。そんなイメージが頭の中に浮かんだ。

 

 前の世界でアスターテ会戦が起きた後もこんな感じだったのだろうか? 二個艦隊が壊滅したにも関わらず、サンフォード最高評議会議長、トリューニヒト国防委員長、統合作戦本部長シトレ元帥、宇宙艦隊司令長官ロボス元帥は辞任しなかった。そして、主戦論がさらに盛り上がり、憂国騎士団が暴れまわった。ぐだぐだぶりは前も今もあまり変わらないようだ。

 

 

 

 対テロ作戦「すべての暴力を根絶するための作戦」は、順調に成果を上げた。八月から一〇月までの間に拘束されたテロ関係者は三〇万人、凍結されたテロ組織及びテロ支援者の資産は一八〇〇億ディナールにのぼる。反体制武装勢力の聖域と化していた山岳地帯、密林地帯、無人惑星、小惑星などはことごとく制圧された。

 

 戦いのたびに英雄が生まれる。いや、作られるといった方が適切だろうか。二〇万の私兵を擁するサイオキシン密売組織を制圧したパリー地上軍准将、エル・ファシル革命政府軍のアスターテ侵攻を防いだシャンドイビン宇宙軍代将、惑星アルマアタの科学的社会主義ゲリラ討伐で活躍したギーチン地上軍中佐ら十数名が、対テロの英雄としてメディアを賑わせた。

 

 レグニツァで敗れた遠征軍はまだハイネセンに戻っていないが、第六艦隊を全滅から救ったラップ准将、艦隊司令官の中で唯一善戦したボロディン中将、戦艦五〇隻で敵軍六〇〇隻を二時間足止めしたアッテンボロー代将らの人気は凄まじい。

 

 対テロ作戦を指揮するトリューニヒト国防委員長とクリップス法秩序委員長は、同盟政府を象徴する存在となった。統一正義党のラロシュ代表は、苛烈なテロリスト批判によって支持を伸ばしている。

 

 英雄が急増したおかげで、エル・ファシル危機の英雄が呼ばれる機会は少なくなった。ヤン少将の広報担当チームは九月末に解散した。俺の広報チームも一〇月中旬には解散するらしい。

 

 俺は空き時間を親しい人と会うために使った。エル・ファシルに赴任してからはこまめに通信を交わしていたが、会えるものなら直接会いたい。

 

 話題になったのはやはり最近の世相だった。俺の周囲は右寄りの人か、そうでなければ政治に関心のない人ばかりだったが、パトリオット・シンドロームには否定的だった。

 

「一時的なブームだと思うけどさあ。さっさと終わって欲しいね」

 

 イレーシュ・マーリア中佐は細い眉を困ったように寄せる。あのラインハルトに匹敵する美貌と貫禄の持ち主だが、中身はごく普通であり、とげとげしい空気を好まなかった。

 

「トリューニヒト委員長のなさることだ。間違いはないと信じているがね。それでもやりにくいもんはやりにくい」

 

 トリューニヒト委員長の忠臣ナイジェル・ベイ大佐も参っていた。彼は俺と同じで、トリューニヒト委員長の政策ではなく人格を支持しているため、割り切った考えができない。

 

「こうして見ると、私の祖国もこの国も大して変わりませんなあ」

 

 三年前に帝国から亡命してきたハンス・ベッカー少佐がしみじみと語る。情報将校として大衆操作に関わった経験を持つ彼にとっては、見慣れた光景だそうだ。

 

「軍人がちやほやされるのは嬉しい。私も軍人だからな。しかし、どいつもこいつも浮かれすぎてていかんな。我が軍で正気なのは、シトレ元帥、グリーンヒル大将、シャフラン大将ぐらいじゃないか」

 

 第一一艦隊副司令官ルグランジュ少将は、角張った顔を不快そうにしかめた。前の世界でクーデターに与した人だが、この世界ではまだ穏健派である。

 

 パトリオット・シンドロームに違和感を感じているのは、俺やダーシャだけではなかった。空気に逆らえる者は少ないが、歓迎している者もそれほど多くはないらしい。表立って反対すれば叩かれる。だから、空気が変わるまでやり過ごすつもりなのだ。

 

 それなりに順応している人もいた。大きな波を怖がるタイプでなく、何も考えずに乗ろうとするタイプである。

 

「よう、久しぶり」

 

 国防委員会対テロ対策室副室長マルコム・ワイドボーン准将は、国旗柄のセーター、国旗柄のニット帽、国旗柄のスニーカー、国旗柄の刺繍が入ったデニム、国旗柄のソックス、国旗柄のスニーカーを着用していた。

 

「お、お久しぶりです」

 

 俺は唖然とした。

 

「ブレツェリは相変わらず怖いか?」

「いつも通りです」

「そうか、怖いのか。逃げたくなったらいつでも言ってくれ。俺の妹を紹介してやるから」

「結構です」

 

 全力で首を横に振る。こんな残念な義兄はいらない。

 

「俺が言うのも何だが、妹はかわいいぞ?」

「そういう問題じゃありません」

「しょうがねえな」

 

 ワイドボーン准将は国旗柄の煙草を懐から取り出し、国旗柄のライターを使って火をつける。ここまで来ると冗談じゃないかとすら思える。

 

 彼の乗っかりぶりは身なりだけでなかった。左遷先からハイネセンに呼び戻され、対テロ作戦の作戦立案担当者に起用となった。久しぶりの大仕事に張り切っている。

 

 波を怖がらないが乗っかることもなく、どんな時でも言いたいことをガンガン言う。そんなタイプはヤン・ウェンリーの周囲にはありふれているが、俺の周囲ではダーシャ・ブレツェリ、そして拘置中のエーベルト・クリスチアン中佐ぐらいのものだ。

 

 折を見てクリスチアン中佐と面会し、最近の世相についてどう思うかを聞いてみた。

 

「まったくもってけしからん! 秩序も規律もない。ただの馬鹿騒ぎではないか。こんなものを愛国とは言わんぞ!」

 

 さすがはクリスチアン中佐。パトリオット・シンドロームをばっさり切り捨てた。

 

「愛国心はことさらにアピールするものではない。行動で示すものだ。普段は上を敬い、友を大事にし、下を可愛がり、軽率な行動を控え、与えられた職分を全うする。いざという時は祖国のために体を張る。それで十分だろうが」

 

 クリスチアン中佐は自分なりの愛国論を勢い良く語る。内容は八年前からまったく変わっていない。そのぶれなさがこんな時には頼もしく感じられる。

 

 あっという間に面会時間が過ぎていく。話したいことはいくらでもあるのに、時間は限られている。それがもどかしくてたまらない。

 

「査問会のことだがな。新しい証人が認められたぞ」

「本当ですか?」

「査問委員長が犬から人間に変わってな」

 

 犬とは職分を無視してヤン少将に肩入れしたウィズダム少将のことだ。クリスチアン中佐はこの種の人物を激しく嫌う。

 

「それは良かったです。これで俺も全力で弁護できます」

「済まんが、貴官には次回から外れてもらいたい」

 

 予想もしなかった恩師の言葉。俺はうろたえた。

 

「どういうことです!?」

「貴官は弁が立たんだろう」

「自覚はあります。ですが、全力で頑張ります」

「そうもいかなくなったのだ」

 

 クリスチアン中佐は事情を説明してくれた。ヤン少将側は証人を入れ替えるのだそうだ。名前を聞いたところ、四人とも宇宙軍屈指の良識派として有名な人物だった。

 

「マリネスク、バイユ、ギュネイ、サンテーヴ。こいつらに議論で太刀打ちできるか?」

「できません。三〇秒以内に言い負かされます」

「だから、小官も弁の立つ奴を証人に立てる。正義が弁舌に負けてはたまらん」

 

 クリスチアン中佐が新しい証人としてあげたのは、エル・ファシル防衛部隊のアブダラ代将、クリスチアン中佐の戦友であり治安戦のプロでもあるヨーステン大佐とパゼンコ少佐、そして第八強襲空挺連隊。

 

「第八強襲空挺連隊から証人が来るんですか?」

 

 俺は目を見開いた。第八強襲空挺連隊がこの件で証人を出すとは思わなかったからだ。

 

「親しい者がいてな。二つ返事で来てくれた」

「凄いですね」

 

 特殊部隊の隊員は治安戦に投入されることから、恨みを買いやすい。そのため、よほど有名な者以外は名前が公開されない決まりだ。隊員が公式の場で証言する際は部隊名で出席し、証人席を衝立で覆い、ボイスチェンジャーを使うなど細心の注意を払う。それゆえに滅多に出てこない。親しいという理由だけで来るなんてよほどのことだ。

 

「奴は本物の軍人だ。保身なんてつまらんことは考えん」

「弁は立つんですよね?」

「口も頭も良く回る。法律にも強い」

「そんな人がいるとは……。俺の出る幕じゃなさそうです」

 

 俺は肩をがっくりと落とした。自分よりクリスチアン中佐に可愛がられた人間はいないと思う。それなのにいざという時は助けになれない。それが残念でたまらなかった。

 

「人には向き不向きがある。貴官は議論には向いていないが、人を動かすのには向いている。奴はその反対だ。今は奴の力が必要な時。貴官の力が必要になったら、その時は遠慮なく頼らせてもらう。だから気を落とすな」

「ありがとうございます。必要な時は真っ先に声を掛けてください」

 

 俺は机に手をついて頭を下げた。それと同時に面会時間が終わり、拘置所を後にする。門から出る直前、恩師が早く自由になれるよう祈った。前の世界で習った十字教式の祈り、地球教式の祈りを捧げ、どちらかの神が聞き届けてくれることに期待した。

 

 

 

 レグニツァの悲劇以降、帝国は挑発行動を繰り返すようになった。三日に一度は帝国軍の小部隊がイゼルローン回廊から越境攻撃を仕掛けた。一週間に一度は「新兵器の実験」との名目で、イゼルローン回廊から同盟領に向けて恒星間ミサイルを打ち込んだ。一〇日に一度は帝国情報機関が同盟国内でテロを起こした。

 

 このような行動が行われるたびに、帝国国営通信社が全銀河向けの放送で「偉大なる戦果」を誇り、同盟市民の怒りをかき立てる。

 

 緊張が高まる中、帝国軍宇宙艦隊総司令部のフレーゲル少将がフェザーン・ゾーラタテレビの番組に出演した。

 

「全宇宙に君臨する唯一絶対の支配者、神聖不可侵なる全能者であらせられる皇帝陛下は、最終的にして決定的な決断を下された。常勝不敗の精鋭三〇万隻をもって、愚かで汚らわしい反乱軍に徹底的かつ無慈悲な懲罰を加える。イゼルローン回廊の彼方はことごとく火の海になるのだ!」

 

 一二八年前にコルネリアス帝が率いた同盟領遠征軍は一三万隻。全盛期の銀河連邦が動かした最大兵力は二〇万隻。それらを凌ぐ大軍が同盟に攻め込むとフレーゲル少将は言う。

 

 ゾーラタテレビによると、フレーゲル少将は内務尚書フレーゲル侯爵の次男で、分家のラウシャ=フレーゲル男爵家を継いでいるという。母方の伯父は枢密院議長ブラウンシュヴァイク公爵である。宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥が腹心と頼むエリート作戦参謀であり、レグニツァの勝者ローエングラム元帥とは兄弟同然の仲で、帝国軍の最高機密に関わっているらしい。そういったことから信用できるのだそうだ。

 

 笑ってしまうほどでたらめな報道だった。血筋については間違っていないが、その他は前の世界の知識と照らし合わせると間違いだらけだ。フレーゲル少将は軍事のプロではないし、成り上がり者のローエングラム元帥を嫌っていたはず。三〇万隻発言の内実も怪しいものだ。

 

 別の情報筋によると、遠征軍人事は内定済みらしい。総司令官はエルウィン・ヨーゼフ帝、総司令官代理・大本営幕僚総監は宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥、総参謀長は宇宙艦隊総参謀長グライフス上級大将。兵站総監は統帥本部第二次長クラーゼン上級大将が務める。ローエングラム元帥が前衛部隊司令官、メルカッツ上級大将が中衛部隊司令官、グライスヴァルト上級大将が後衛部隊司令官となり、それぞれ一〇万隻を統率するとのことだ。

 

 ローエングラム元帥がレグニツァの功績で宇宙艦隊司令長官・大本営幕僚総監に就任し、遠征軍の総指揮をとると言う報道もある。

 

 同盟市民は仰天した。パトリオット・シンドロームは一種のブームにすぎない。本気で命を捧げる覚悟を固めた者は少なかったのだ。

 

「帝国に財源がない? 一〇〇兆ディナールの皇室財産がありますよ。我が国の年間軍事予算に匹敵する額です。すべてつぎ込めば三〇万隻どころか、五〇万隻だって動かせる。いざとなったら三〇〇兆ディナールの貴族財産に課税すればよろしい。あの国は独裁国家です。その気になれば、全国民から財産を没収することだってできる」

 

 政治評論家ドゥメックは皇室財産と貴族財産を根拠として、三〇万隻という数字が現実的なものだと主張する。

 

 トリューニヒト国防委員長は徹底抗戦を宣言。宇宙艦隊九個艦隊と地上軍八個軍をバーラト星系に集結させ、宇宙艦隊司令長官ロボス元帥を総司令官、地上軍総監ペイン大将を副司令官とした。帝国軍が動員を開始すると同時にバーラトを出発し、全力で回廊出口を塞ぐ構えだ。

 

 銀河の緊張は頂点に達した。だが、決戦は起きないと見る者もいる。

 

「帝国の財政難は深刻だ。食糧不足も酷い。三〇万隻どころか三万隻を動かす余裕もないはずだ。最近の強硬姿勢は国内向けのアピールに過ぎん」

 

 統合作戦本部長シトレ元帥は、帝国政府の強硬姿勢が同盟でなく帝国国内へのアピールだと指摘した。

 

「帝国軍は外征型でなく内戦型の軍隊。兵站組織はおそろしく貧弱です。三〇万隻を一度に動かす能力などありません。国家というのは、余裕がない時ほど大きなことを言いたがる。古今東西に共通する法則です」

 

 ヤン少将は兵站面から三〇万隻侵攻を否定する。もっとも、後半だけを切り取れば、今の同盟を批判しているように見えたかもしれない。

 

「帝国政府は同盟産穀物の輸入再開を望んでいる。近日中に和平を申し出てくるだろう。例の報道はでたらめだ。フレーゲル少将は軍事のプロではない。帝国産穀物の利権を持つブラウンシュヴァイク公爵、我が国と帝国を共倒れさせようとするフェザーンが仕掛けた謀略だ」

 

 誰も予想しなかった見解を述べたのは、国家安全保障顧問アルバネーゼ退役大将である。国防委員会情報部、中央情報局、フェザーン高等弁務官事務所という三大情報機関のトップを歴任した唯一の人物。現在も帝国中枢に情報提供者を抱えると言われる。そんな人物の発言は玄人筋に波紋を引き起こした。

 

 決戦か和平か? 全銀河が帝国の動向を見守る中、俺の広報チームは解散した。一〇月一五日のことだ。

 

「年末までの休暇ですか?」

「君はよく働いてくれたからな。しばらくはゆっくり休んでもらいたい」

 

 トリューニヒト委員長は暖かい笑みを浮かべる。

 

「帝国との決戦が迫ってるでしょう」

「だからこそだ。決戦直前に人事を入れ替えるのはまずい。それに君は高級指揮官としての基礎に欠ける。今から着任したとしても、戦力になる前に決戦が終わっているだろう」

「おっしゃる通りです」

 

 一言も言い返せなかった。決戦前に人事を動かしたら部隊が弱体化する。俺は幕僚教育を受けていないため、大部隊を指揮できるようになるには時間がかかる。すべて正論だ。

 

「ポストの調整も難しくてね。ポストを与えるには、前任者を転出させて席を空けるか、新しいポストを作る必要がある。ところが我が軍の将官定数は極端に少ない。英雄にふさわしいポストを用意するには時間がかかるのだ」

「しかし、決戦までぶらぶらするのは気が引けます」

「三〇万隻ははったりだ。運用能力を最大限に見積もっても、せいぜい一〇万隻だろう。回廊出口で阻止できるはずだ。突破されたとしたら、君にはハイネセンポリスの防衛司令官に就任してもらう。象徴的な意味合いが強いポストだがね」

「戦意高揚のシンボルになれと」

「不本意なのは分かる。君は根っからの軍人だからな」

「戦うのが好きなわけではありません。しかし、何もせずにいると落ち着かないんです」

「とにかく、今はできることをやってくれ。早すぎる抜擢は失敗のもと。せっかくの人材を失いたくはない」

 

 トリューニヒト委員長の微笑みが少し寂しげになる。

 

「レグニツァですか?」

「パエッタ君たちには悪いことをした。いきなり抜擢するのでなく、段階を踏んで登用するべきだった。表では言えんがね」

 

 やはりトリューニヒト委員長はレグニツァの敗北を悔いていた。彼の人事の特徴は、良く言えば忠誠心重視で、悪く言えば自分好みの人物ばかり重用する。能力重視なら「無能だから失敗した」と切り捨てられるかもしれない。だが、好みの人物ばかりなので未練が残る。

 

「委員長閣下のお気持ちは良くわかりました。謹んで休ませていただきます」

「ポストが早く決まったら、その分だけ休暇が短くなるかも知れん。いつでも動けるように準備しておきなさい」

「かしこまりました」

 

 トリューニヒト委員長の言葉に甘えて、休みをもらった。二年前に入院して以来の長期休暇である。

 

 俺は思い切り羽を伸ばした。日頃は仕事のせいで生活が不規則になりがちだ。休みの間ぐらいは規則正しく過ごしたい。朝五時三〇分に起床し、トレーニングと勉強に打ち込み、朝食、昼食、夕食をすべて決まった時間にとり、二三時に眠るという夢のような暮らしを送った。

 

 公務はない。次の任務もわからない。そうなると、昔のことを考える時間が増える。パトリオット・シンドロームと前の人生を比べてみた。

 

 エル・ファシルから逃げた俺が捕虜交換で戻ったのは、実時間で五九年前のことだ。記憶ははっきり残っていない。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』にも、当時の世情は詳しく書かれてなかった。それでも、今のような騒ぎになっていたのは何となく覚えてる。そういえば、当時もトリューニヒト委員長が人気者だった。

 

 当時の同盟市民がなぜエル・ファシルの逃亡者を迫害したのか? それは今のように愛国心ブームに乗っただけではないか? そして、迫害した人々の多くは怒っていたわけではなく、波に乗っただけの人、保身のためにやった人がほとんどだったのではないか? そんな風に思えてきた。

 

 ダーシャと一緒に風呂に入った時、自分の思いつきを話してみた。もちろん、前の世界のことではなく、リオ・コロラド事件でバッシングされた第五六一三任務隊に仮託して話す。

 

「君はどう思う?」

「エリヤの言うとおりだよ。関係のない事件に本気で怒れる人なんて、滅多にいないもん。怒ってもいないのに叩いてるってことは、アピールとか便乗とか保身とかでしょ」

「やっぱりそうだよな」

「流れに逆らうのって難しいから。私だって流れに乗らなかったせいで、酷い目に遭ったことがあるし」

「カプチェランカの件だな」

「そうそう、あれはきつかった」

「一〇万人からバッシング食らったんだろ。仲間はたったの二人。俺だったら二四時間ももたないな」

 

 軽く目をつぶり、過去に思いを馳せる。帰郷した当初は俺を擁護してくれた人もいないわけではなかったが、次第に減っていった。最後まで擁護してくれた姉のニコールは、駅の階段から転落して重傷を負って以来、口をつぐんだ。彼らは裏切ったのではない。強くなかっただけだ。

 

 家族や昔馴染みに対するわだかまりが急に薄れていった。ダーシャと二人の仲間、クリスチアン中佐の証人みたいに強い人なんて滅多にいない。家族の中で一番気が強かった姉ですら、最後まで擁護できなかった。父や母は世間体を気にするタイプ。妹は俺以上の小心者。弱さは悪ではない。

 

「悪いことをしたな」

「何が?」

「いや、何でもない」

 

 次に妹からメールが来たら返信しようと思った。これまではメールが来るたびに削除し、アドレスを受信拒否リストに突っ込んできた。受信拒否リストには広告メールのアドレスが数百も並んでいるため、どれが妹のアドレスなのかはわからない。新しいアドレスを取得してメールを送ってくるのに期待するしかなかった。

 

 一〇月下旬、ハイネセンポリスのファッション街「エルビエ・アベニュー」へと出掛けた。こんな俺も今や将官だ。いつまでも野暮ったい私服を着てるわけにはいかない。

 

 俺は長袖Tシャツの上に、オレンジの半袖パーカーを羽織っている。このふわふわしたパーカーは、憲兵隊副官だったユリエ・ハラボフ大尉から変装用としてもらったものだ。俺の私服の中でこれが一番マシなのだとダーシャは言う。

 

 左隣のダーシャは胸元が開いたニットに、スキニーとか言うぴっちりしたパンツを履き、キャスケットとか言うもこっとした帽子をかぶっている。彼女にしては相当大胆な格好だが、おしゃれな人が多いこの街では地味な格好の方が目立つ。

 

 ダーシャに言われるがままに、一本二〇〇ディナールを越えるパンツだの、一着一〇〇ディナールを超えるシャツだのを何着も買い込んだ。

 

「二二〇〇ディナール……、二二〇〇ディナール……」

 

 少尉の月給に等しい大金を服に注ぎ込んだという事実に呆然となり、カウンターの前で立ちつくした。ダーシャに引きずられるように店を出る。

 

「もしかしてエリヤか?」

 

 後ろから俺を呼ぶ声がした。振り向くと同年代くらいの男が立っている。俺より一センチ高い程度の低身長には好感を持てるが、まったく見覚えがない。

 

「どなたでしょうか?」

「エリヤだよな? エリヤ・フィリップス」

「そうですが」

「いや、なんで敬語なんだ……?」

 

 男は人の良さそうな顔に困惑の色を浮かべる。しかし、俺も困っていた。背筋の伸び方からすると軍人だろうが、まったく記憶にないのだ。

 

「フィリップス君の同級生とか?」

 

 ダーシャが助け船を出す。

 

「ええ、そうなんですよ。中学の一年度と三年度で同じクラスだったリヒャルト・ハシェクと言います」

 

 その名前を聞いた途端、俺はすべてを理解した。忘れているのも無理は無い。前の世界と通算すれば、六八年も顔を合わせていない人物だからだ。

 

「リヒャルトか!」

「そうだよ、なんで忘れるんだ? ひどいな」

「ああ、悪い。また会えるとは思っていなかった」

「大袈裟だな」

「いや、本気だ」

 

 熱いものがこみ上げてくる。リヒャルト・ハシェクは故郷での数少ない友人の一人だった。専科学校を卒業して軍人となったが、七九六年の帝国領侵攻で戦死した。早死したがゆえに俺を迫害していない。前の世界では珍しく良い思い出のみが残る。

 

「本当にどうしたんだ? アルマちゃんは覚えててくれたのに」

「アルマだって!?」

 

 唐突に出てきた妹の名前に驚いた。

 

「ああ、ついさっき、そこで会ったぞ。あっちから声をかけてきてくれた。エリヤは全然変わってないけど、アルマちゃんは……」

「アルマがいるのか!?」

「え、知らなかったのか?」

「どこにいるんだ!? あっちの方か!?」

「あ、ああ、そうだけど……」

 

 俺の剣幕にハシェクはたじろぎ気味だ。

 

「どうしたの?」

 

 ダーシャが心配そうに俺の顔を見る。

 

「ちょっとここで待ってろ!」

 

 俺は反射的に駆け出した。妹を探そう。そして、八年間無視し続けたことを謝ろう。

 

 人混みの中に飛び込み、妹の姿を探し求めた。湖の街の通行人はみんなおしゃれでスタイルが良い。背が高くて肥満した妹は目立つはずだ。

 

 何かにぶつかったことに気づき、顔を上げた。おそろしく背の高い女性が驚いたような表情で俺を見下ろす。少女のようにも少年のようにも見える童顔、緩くウェーブした亜麻色のショートカット、運動選手のようにすらりとした体つき。歩く国旗、いやワイドボーン准将の妹だ。

 

「すいません!」

 

 軽く頭を下げて走りだす。用があるのはかわいい他人の妹ではなく、デブで赤毛で不格好な自分の妹だ。この機会を逃したら、次はいつコンタクトをとれるか分からない。

 

 夕暮れ時のエルビエ・アベビューを必死に走り回る。どれほど探してもアルマの姿は見付からなかった。



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第49話:英雄、再び故郷に帰る 796年10月下旬~11月中旬 ハイネセンポリス官舎~査問会場~カフェ~パラディオン~エクサルヒア警察官舎

 大方の予想に反し、帝国は攻めてこないし、講和の気配もなかった。彼らがやったのは権力抗争だった。

 

 一〇月下旬、帝国副宰相カストロプ公爵が宇宙船事故で死亡した。貴族に対する課税を主張したために保守派貴族に暗殺されたとも、同盟との和平を唱えたために軍部強硬派に暗殺されたとも、同盟との直接交易を志向したためにフェザーンに暗殺されたとも言われる。真相は永久にわからないだろう。いずれにせよ、「ザンクトゥアーリウム(聖域)」と呼ばれた帝国政界の怪物は、あっけなく消えた。

 

 カストロプ公爵にはマクシミリアンという後継者がいたが、帝国宰相リヒテンラーデ公爵は不正蓄財疑惑を理由に相続手続きを延期した。財務省はカストロプ家の財産調査、司法省はカストロプ派の汚職捜査を開始。カストロプ派に対する粛清が始まった。

 

 カストロプ派の憲兵総監クラーマー大将は病気を理由に辞職し、その翌日に急病で死んだ。辞職翌日の急病死は、帝国語で「自殺」を意味する。クラーマー大将の前任者であるラインバッハ大将も辞職翌日に急病死した。憲兵総監は二代続けて自殺したことになる。

 

 イゼルローン駐留艦隊司令官フォルゲン大将は上級大将への昇進が内定していたが、帝都オーディンに到着する直前に病死した。フォルゲン伯爵位が「極めて不名誉な犯罪」を理由に廃絶されたとの説、五年前に戦死したフォルゲン家の末弟カール・マチアスの二階級特進が取り消されたとの説があり、カストロプ派の粛清に関係した動きと見られる。

 

「悪いことはできないもんだな」

 

 カストロプ派が粛清されたと聞いてすっとした。かつてループレヒト・レーヴェがもたらした情報によると、カストロプ公爵は帝国サイオキシンマフィアのボスで、クラーマー大将はサイオキシンマフィアの犯罪をもみ消した人物だった。ヴァンフリートで亡くなった部下、自殺に追い込まれたラインバッハ大将、捜査資料を守りぬいた無名の老雄らも少しは浮かばれるかもしれない。

 

「えっ?」

 

 目を疑う報道があった。レグニツァの英雄ラインハルト・フォン・ローエングラム元帥が、上級大将に降格され、アルメントフーベル星系からフェザーン回廊に至る辺境六七星系の総督に左遷されたという。カストロプ一門の名家マリーンドルフ伯爵家の娘との結婚が仇となったらしい。

 

 ただし、左遷は誤報とする報道もあった。ローエングラム元帥の妻についても、リヒテンラーデ公爵の姻戚であるコールラウシュ伯爵家の長女と婚約したとの説、ブラウンシュヴァイク公爵の妹婿フレーゲル侯爵の娘と結婚したとの説、リッテンハイム派の重鎮レムシャイド伯爵の次女と結婚して子供がいるとの説、未だに独身であるとの説があり、真相はわからない。

 

 当分は旧カストロプ派に対する粛清が続くものと見られる。主要三派の勢力は拮抗しており、権力抗争が決着するまで最低でも数か月はかかるだろう。

 

 戦いが遠のいたおかげでのんびり過ごせるようになった。休暇中であることに変わりはないのだが、気分が全然違う。

 

「ねえねえ見てよ。今日は退役中将閣下が亡命してきたんだって」

 

 イレーシュ・マーリア中佐がテレビを指さす。フリードリヒ四世が死んでから七人目の大物亡命者だ。

 

「カストロプ公爵が死んでから荒れてますね」

「イゼルローン回廊を経由しての亡命だよ。珍しいよね」

「フェザーンに入れない事情でもあったんですかね」

 

 俺はテレビをまじまじと眺めた。テロップには、オスターヴィーク・ラインズ社長兼最高執行責任者(COO)・宇宙軍退役中将クリストフ・フォン・バーゼル男爵と記されている。

 

「オスターヴィーク・ラインズ……? 聞いたことあるようなないような……」

 

 俺は早速携帯端末を開き、オスターヴィーク・ラインズの社名で検索した。

 

「超大物じゃないか」

 

 オスターヴィーク・ラインズは、帝国では第三位、銀河では第九位のシェアを誇る星間運輸業界の超大手だった。会長兼最高経営責任者(CEO)はカストロプ家の当主が代々務め、カストロプ一門の八家が株式の七割を所有する。カストロプ家は一門全体で二〇〇〇近い企業を保有しているが、その中でも三本の指に入るらしい。そんな企業のナンバーツーがバーゼル退役中将だった。

 

 それから、アナウンサーはバーゼル退役中将の簡単な経歴を紹介した。物流管理の専門家で、帝国軍の兵站部門で活躍した後、オスターヴィーク・ラインズに迎え入れられたのだそうだ。四年前のエル・ファシル攻防戦で戦死したカイザーリング元帥の親友でもあったという。

 

 バーゼル退役中将がカストロプ派なのは間違いない。カストロプ一門の中核企業のナンバーツーである。また、彼の親友カイザーリング元帥の家を継いだのは、カストロプ公爵の次男だった。

 

「なんか胡散臭いな」

 

 カストロプ派は帝国のサイオキシンマフィアである。軍兵站部門の幹部、大手星間運輸企業の社長というバーゼル退役中将の立場は、サイオキシンを流通させるのに都合がいい。同盟軍では兵站部門がマフィア化していた。フェザーンを経由せずに亡命したのも怪しく思える。自治領主府はサイオキシンマフィアの敵だからだ。証拠もないのに人を疑うのは良くないとは思う。だが、怪しいところが多すぎた。

 

「胡散臭いって?」

「あ、いや、何でもありません」

「それにしても、ダーシャちゃんは遅いねえ。一般教養の教官なんて閑職じゃん」

「就職活動だと思います」

 

 俺はテレビの上を見た。そこに飾られていたのは、第六次イゼルローン遠征軍参謀の集合写真。この時以来、ダーシャは参謀職に就いていない。エル・ファシル危機で一時的に作戦部長を代行しただけだ。

 

「ああ、まだ決まらないのね」

「旧セレブレッゼ派への風当たりが未だに強いんですよ」

「のっぽとふさふさ白髪の差し金?」

 

 イレーシュ中佐の言う「のっぽ」は統合作戦本部長シトレ元帥、「ふさふさ白髪」は後方勤務本部長ヴァシリーシン大将のことである。

 

「ええ。三代先の本部長まで決めちゃったんで、セレブレッゼ派に復活されたら困るみたいです」

「次がランナーベック中将、次の次がツァイ中将、次の次の次がキャゼルヌ少将だっけ。良くやるよね」

「兵站部門はずっとキャゼルヌシステムで行く。そう決めたんでしょう」

「セレブレッゼシステムを知ってる人材は邪魔なだけと」

「アッテンボロー准将、ヤン少将、ラップ少将の台頭もダーシャの評価を悪くしてますよ。あの三人と仲が悪いから無能に違いないと思い込む人が多くて」

「名将と仲の良い奴は有能、仲の悪い奴は無能。大した理由もなしにそう決めつける人が多いからね。現実では名将同士だって仲悪いのに。君とヤン提督みたいにさ」

「俺が名将かどうかはともかく、世の中はそんなもんです」

「私もダーシャちゃんの勤め先を探しとくよ。三位卒業のエリートが閑職じゃ寂しすぎるから」

「助かります。トリューニヒト派は嫌だって言うから、俺にはどうもできないんですよ」

 

 恩師の厚意がとても嬉しかった。嬉しくなったのでアップルパイを作り、イレーシュ中佐に食べてもらった。

 

 イレーシュ中佐が帰った後、携帯端末を開く。最初にチェックするのは妹からのメールだ。

 

「また食べ物の写真か。相変わらず大食いだな」

 

 今日のアルマの夕食は、山のように盛られた鳥の唐揚げだった。朝食の写真は山盛りというより山脈盛りのカルボナーラパスタ。昼食の写真だけはいつも送られてこない。

 

 エルビエアベニューで旧友ハシェクと遭遇し、妹とすれ違った。その後、ダーシャが「ハシェク君から渡された」と言って、妹のメアドが書かれたメモを俺に手渡した。おかげで六八年ぶりに交流が復活したのである。

 

 メールを書くたびに頭を使った。妹は俺よりも気が小さい。そんな妹を傷つけないように言葉を選んだ。妹は俺よりも頭が悪い。なにせ高校にも入れなかったし、時給七ディナールのバイトすらまともに勤まらなかった。そんな妹でも理解できるように言葉を選んだ。

 

 顔は合わせていないが、それでも昔の仲良し兄妹に戻れたみたいで嬉しかった。前の世界でのわだかまりは完全に消え失せた。

 

 

 

 一一月上旬、俺はクリスチアン中佐の査問会に出席した。今回は証人でなく傍聴者としての出席である。

 

 新しい査問委員長はティエン少将という六〇過ぎの老人だった。査問会を手順通り進めること以外には関心がないらしく、前任者と比較すると意欲に欠けるようだ。あいまいに済ませたい国防委員会の意思を反映しているのだろう。

 

 ヤン少将は所用を理由に出席しなかった。そのため、この日の査問会はクリスチアン中佐側を軸として進められた。

 

 クリスチアン中佐側は、独断で出動したことについては「自治体からの要請に応じる形で出動しており、合法的な手続きに則っている」、命令違反については「ヤン司令官代行の命令は明らかに軍規から逸脱したものだ。軍規を尊重するのは軍人の義務である」と主張した。

 

 これに対し、ヤン少将側は「ヤン司令官代行の判断は、同盟憲章の根本理念に沿ったものだ。同盟憲章はあらゆる法の基本である。法的根拠は十分と言えるのではないか」と反論する。

 

 憲章理念と法律はしばしば対立する。法律のプロでも簡単に白黒を付けられない問題だ。こういう場合、有利になるのは口の達者な側である。

 

 この日の査問会は、クリスチアン中佐側が有利だった。匿名の証人「第八強襲空挺連隊」の活躍が著しい。シトレ門下の俊英と名高いマリネスク少将と対等以上の論戦を展開した。スパイが民間人を殺すことをヤン少将が危惧した件については、「事前に説明がなかった。司令官代行がスパイの存在に触れた文書もない。命令の違法性を糊塗するために後付けしたのではないか。姑息にもほどがある」と批判した。弁が立つのは認めるが、えぐいやり口にいささか辟易させられる。

 

「いやあ、すっきりしたわ。ヤンがいなかったのが残念だな!」

 

 一緒に傍聴したマルコム・ワイドボーン准将が、大きく口を開けて笑う。

 

「一方的な審判にはならないと思いますよ」

 

 控えめに論評したのは、俺の左隣にいるダーシャ・ブレツェリ大佐である。

 

「クリスチアン中佐の処分がどれだけ軽くなるか。それだけが問題です。どう転んでも、ヤン少将が処分されるなんてことはありませんから」

 

 俺は釘を刺した。これはヤン少将ではなくクリスチアン中佐の査問会なのだ。ヤン少将嫌いなのは結構だが、変な期待はしないでほしい。

 

 それにしても、この二人がどうして傍聴に来たのだろう? どちらもクリスチアン中佐とは面識がないはずだ。それでもダーシャなら分かる。彼女はエル・ファシルで戦ったからだ。しかし、ワイドボーン准将は何をしに来たのか。本当に理解できない。

 

 三人で廊下を歩いていると、向こう側に背の高い人物が見えた。童顔で亜麻色の髪の女性。ワイドボーン准将の妹である。

 

「妹さんが査問会にいらしたんですか?」

 

 俺はワイドボーン准将に小声で問う。

 

「妹さん? 俺の?」

「ええ」

「何言ってんだ? 冗談はよせよ」

「すいません」

 

 どうやら勘違いしていたらしい。もう一度見直そうと思って前を向く。亜麻色の髪の女性と目が合った。その顔に狼狽の色が浮かび、こちらに背中を向けた。

 

「なんなんだ……」

 

 前に一度ぶつかったきりなのに、どうしてそんな顔をされなければいけないのか。まったくもって不本意だ。

 

「えっ?」

 

 信じられない光景を目にした。左隣のダーシャが急に駆け出し、亜麻色の髪の女性を追いかけたのだ。

 

「逃げちゃ駄目!」

 

 ダーシャは亜麻色の髪の女性の手を掴み、無理やりこちらに引っ張ってくる。何が何だかわからない。

 

 艷やかで長い黒髪、ほんわかした丸顔、大きな胸、身長一七〇センチ手前のダーシャ。亜麻色のショートカット、少女にも少年にも見える童顔、薄い胸、一八〇を越える身長の女性。何から何まで対照的な二人が俺の前に並ぶ。

 

「ダーシャ、この子は誰なんだ?」

「まさか、妹の顔を忘れたの?」

「君には妹はいないだろ」

「とぼけないでよ。本当にアルマちゃんの顔を忘れたの?」

「これがアルマ?」

 

 何が何だかさっぱり分からなかった。俺の知るアルマはこんなに可愛くないし、痩せてもいないし、髪の毛は亜麻色ではないし、もう少し背が低かったはずだし、さらにいうと軍人でもない。ダーシャと知り合いだなんてのも聞いてない。

 

「悪い、状況がさっぱり飲み込めない」

「説明すると長くなるから、場所変えるよ」

 

 外のカフェに移動してから一時間、俺はダーシャとワイドボーン准将とアルマの三人から事情を聞かせてもらった。

 

「――信じられないな」

 

 俺はガチガチに緊張している妹を見た。ゆるくウェーブした亜麻色のショートカット。顔はきれいな卵型、肌は乳白色でつやつやしていて、ぱっちりとした目が可愛らしく、鼻筋がすっとしている。軍の宣伝ポスターに出てくる模範的女性兵といった感じだ。ドーソン中将の副官だったハラボフ大尉に似てる気もする。もちろん、風船デブの面影はどこにもない。

 

 軍服の首筋にある階級章は地上軍大尉。二三歳で大尉なら、士官学校卒業者の上位五パーセントに入る。アルマは士官学校を出ていないから異常な昇進速度だ。

 

 部隊章は第八八五五歩兵連隊。特殊部隊隊員の書類上の所属先として設けられたダミー部隊の一つである。

 

 従軍章の中で一番古いのは惑星エル・ファシル攻防戦で、一番新しいのはエル・ファシル七月危機。胸元には、地上軍殊勲星章、銀色五稜星勲章、名誉戦傷章などの略綬が並ぶ。どこに出しても恥ずかしくない軍歴だ。

 

 技能章を見ると、体力、射撃、徒手格闘、ナイフ、戦斧のすべてが特級で、エアバイクから宇宙軍艦まであらゆる乗り物の操縦資格を持ち、レンジャー、爆発物処理、潜水士、狙撃手、情報処理特級なども持つ。薔薇の騎士連隊だったら、ブルームハルト大尉と同レベルといったところだろうか。その気になれば一人で一個小隊と戦えるかもしれない。

 

 そして、頭も回るようだ。査問会で大活躍した匿名の証人「第八強襲空挺連隊」の中身は妹だった。この顔であんなえぐい弁論をするなんて、ギャップが大きすぎる。

 

「頑張ったよ」

 

 アルマは控えめに言う。

 

「頑張ったんだな」

 

 オウム返しに答えた。ここまで変わっていたら反応に困る。困ったことにこの変貌のきっかけは俺であるらしい。

 

 八年前、俺に冷たくされたアルマは「甘えん坊だから嫌われた」と思い込み、軍隊に入って自分を鍛え直そうと考えた。ちょうど、タッシリ地上軍歩兵専科学校で死亡事故が発生し、志望者が激減したため、推薦入学で入れた。そこで広報担当をやめたばかりのクリスチアン中佐と出会い、俺の話を聞いてやる気を出したそうだ。その縁でクリスチアン中佐の弁護人として査問会に出た。

 

 在校中にトレーニングに励んだ結果、身長が一七九センチから一八四センチに伸びたという。本当にむかつく……、いや羨ましい話である。ちなみにいつ痩せたのかは言わなかった。というか、ダーシャやワイドボーン准将にはデブだったことを隠してるらしい。

 

 専科学校を次席で卒業した後に地上軍伍長となり、第二九空挺連隊に配属された。最初に参加した戦いは四年前のエル・ファシル地上戦。最大の激戦地だったニヤラにおいて、彼女の連隊は八割が戦死し、生存者は一人残らず重傷を負うという壮絶な結末を迎えた。俺なんかよりずっと英雄と呼ばれるにふさわしい出だしだった。

 

「入院中は心細かった」

「本当にすまない」

 

 俺はテーブルに額を擦りつけた。俺が無慈悲に削除した妹のメールは、入院中に励まして欲しくて送られたものだったのだ。

 

 しかし、アルマは愛の鞭だと思い込んだらしい。その後もメールして着信拒否を食らうたびに、「独り立ちしろという兄からのメッセージ」だと解釈し、必死の努力を重ねた。そして、地上軍最強の第八強襲空挺連隊に入り、英雄アマラ・ムルティのパートナーとして活躍した。ダーシャとはカプチェランカ基地に配属された時に、ワイドボーン准将とはダーシャの紹介で親しくなったそうだ。

 

「お兄ちゃんから指示を受けたこともあるよ」

「いつだ?」

「七月」

 

 アルマはメニューを開き、フルーツケーキを指す。エル・ファシル危機で星系政庁を常勝中隊の副隊長は、「フルーツケーキ」というコードネームだった。

 

「ああ、あれはアルマだったのか」

「気づいてくれるんじゃないかと少しだけ期待してたけどね」

「わからなかった」

 

 高校に入れなかった馬鹿と、特殊部隊のエリート将校が同一人物だと気づいたら、それは神か何かだろう。

 

「それにしても不思議だな。その年で大尉だったら、士官学校出てなくても将官候補だろうに。広報誌に取り上げられたっておかしくない。どうして俺の耳に入らなかった?」

「知られないようにしたから。英雄の妹として贔屓されるのも嫌だし」

 

 アルマは俺の妹と周囲に知られないように細心の努力を払った。人事部に頼んで個人情報に高レベルのプロテクトを掛け、赤毛を亜麻色に染めた。広報誌の依頼は全部断った。

 

「でも、ダーシャたちとはずっと知り合いだったんだろう?」

 

 アルマが俺のメアドを突き止めた手段は実に単純だった。専科学校時代の恩師だったクリスチアン中佐、カプチェランカ基地以来の友人であるダーシャから聞いただけ。ならば、彼らから俺の耳に入ってもおかしくないではないか。

 

「口止めしてた。お兄ちゃんには自分で連絡したかったから」

「なるほどな」

「結局、ダーシャちゃんとワイドボーンさんに頼っちゃったけど」

 

 アルマがちらりとダーシャとワイドボーン准将を見る。

 

「アルマちゃんはお兄ちゃんの事になると急に弱気になるからね。いつもは強気なのに」

「そうそう。ブレツェリよりおっかねえんだぜ」

 

 ダーシャとワイドボーン准将にここまで言われるとは、普段のアルマはよほど怖いらしい。査問会での弁論は結構えぐかった。前の世界では俺より小心者だったのに。変われば変わるものだ。

 

「そりゃそうだよ。お兄ちゃんは憧れだから」

「嬉しいな」

「昔、クリスチアン教官に言われたよ。『お前は頭が回りすぎる。先が見えるせいで一生懸命になれんのだ。兄の実直さに学べ』ってね。それからずっとお兄ちゃんが目標だった」

「あの人がそんなことを言ってたのか」

 

 知らないところで恩師が俺と妹をつないでいてくれた。胸がじわじわと熱くなる。

 

「昔は学校のテストなんて頑張ってもしょうがないと思ってた。でも、先を見るより今を見る方がずっと大事だね」

「今日を生き抜かないと明日は来ない。単純だけど忘れがちだ」

 

 前の世界で八〇年を無駄に生きたからこそ分かる。頑張るべき時は明日でなく今日だ。

 

「私は一生懸命やれたのかな」

「お前ほど一生懸命な奴はいない」

 

 俺は笑顔で妹を褒めた。前の世界での恨みから無視しただなんて言えるはずもない。他に適当な理由も思いつかなかった。妹が脳内で作り上げたシナリオに乗っかるのが最善だと判断した。

 

 

 

 再会から一〇日後、俺とアルマは惑星パラスのパラディオン宇宙港に降り立った。大きな歓声と拍手で出迎えてくれる市民に対し、笑顔で手を振って応える。

 

 それから、ターミナルビルの四階の多目的ホールで記者会見に臨んだ。地元マスコミの記者からさまざまな質問が飛んでくる。

 

「フィリップス提督の帰郷は実に八年ぶりだそうですね」

「軍務に精励していたら、いつの間にか八年も経っていました」

「久しぶりのパラディオンの印象はいかがですか?」

「昔と全然変わってなくて安心しました」

「パラディオンでは、いかがお過ごしの予定でしょうか?」

「まずは実家に帰って、自分の部屋でゆっくり寝たいと思っています」

「フィリップス提督は甘党でいらっしゃいますね。パラディオン名物のピーチパイは今が旬の季節ですよ」

「もちろん楽しみにしています」

「結婚のご予定は」

「秘密です」

「二八歳の若さで准将に昇進なさったフィリップス提督には、キャメロン・ルーク元帥、ウォリス・ウォーリック元帥に続く三人目のパラス出身元帥の期待がかかっています」

「郷里の英雄に比べられるなんて恐縮の至りです。皆さんの期待を裏切らないよう頑張ります」

 

 ハイネセンの記者に比べると、はるかに素朴な質問ばかり。それほど受け答えに気を使う必要は無い。それなのになぜか妹は驚きの目で俺を見ていた。

 

 記者会見を終えると、宇宙港からパラディオン市内に入った。市内では大勢の市民が街頭に集まって、同盟国旗やタッシリ星系共和国旗を振りながら歓迎してくれる。

 

 パラディオン市政庁、在郷軍人会パラディオン支部、母校のスターリング高校やシルバーフィールド中学なども表敬訪問した。市長は相変わらず八年前と同じ赤毛のフィリップス市長だった。

 

 エル・ファシル解放運動に暗殺されたロイヤル・サンフォード議員の墓参りに行き、花束を捧げた。その際に孫娘からサンフォード議員の伝記『大幹事長ロイヤル・サンフォード』『ロイヤル・サンフォード――保守の良心』をプレゼントされた。前の世界では史上最悪の議長と呼ばれた人物だが、この世界では暗殺されたおかげで評価が上がったようだ。

 

 それからいくつかの番組に出演した後、テレビ局が用意してくれた車で実家へと向かう。パラディオン市の中心部からやや外れた住宅地区の中の古びた集合住宅。パラディオン市警察のエクサルヒア官舎に俺の実家はある。

 

 戸数三〇〇の大規模官舎だけあって敷地面積は相当なものだ。ジュニアスクールの五年度から徴兵されるまでの八年間を俺はこの官舎で過ごした。

 

 だが、懐かしいという気持ちにはならない。八年前に来た時は周囲を見る余裕がなかった。ゆっくりこの敷地内を見て回るのは、前の人生から数えると六〇年ぐらいぶりだろうか。懐かしさを覚えるほどの記憶もなかった。

 

「どうしたの? あまり懐かしくない?」

 

 アルマが不思議そうに俺を見る。

 

「寂れててびっくりした」

 

 パッと思いついた印象を述べた。

 

「そっか。無理ないよね。八年前はほぼ満杯だったこの官舎も、今じゃ二〇〇世帯住んでるか住んでないかぐらいまで減ったから」

「一〇〇世帯も減ったのか。古いのが嫌なのか?」

「違うよ。人員整理。財政難でパラディオン市警察の定員が三割近く削減されたの」

「三割も!?」

 

 俺は目を丸くした。警察官の定員削減自体はさほど珍しくもない。三割どころか六割削減した自治体、警察を解散して警備会社に警察業務を委託した自治体すら存在するが、家族が関わってくると現実味が違う。

 

「お父さんもだいぶ前から危なくてね。毎年、年度末が近づくたびに怯えてるよ」

「そうか……」

 

 人員整理が行われる際に真っ先に目を付けられるのは、勤続年数の長いベテランである。父のロニーは今年で勤続三〇年のはずだ。能力的にも微妙。不安のほどは想像に難くない。

 

「でも、お兄ちゃんが活躍したおかげで、『今年も首が繋がった』って喜んでた」

「そんなの関係あんのか?」

「あるよ。英雄の親を辞めさせちゃったら、世間体が悪いでしょ?」

「まあ、確かにそうか」

 

 民主主義国家でも家族の七光というものは存在する。俺の七光が父の首を繋いだのなら、少しは親孝行ができたといえよう。

 

「能力や人柄に大差なかったら、そういう微妙なところが分かれ目になるのよ」

「家族の評判も関係してくるのか。なんか嫌な話だな」

「リオ・コロラド事件の関係者なんて大変よ」

「どういうことだ?」

「お父さんの同期の友達にオラジュワンさんって人がいてね。弟が第五六一三任務隊の隊員だったせいで嫌がらせされるようになってね。最近、退職勧告受けたの」

「嫌な話だな」

 

 俺はうんざりしたように言った。

 

「奥さんとも離婚。子供もみんな奥さんの姓を名乗るんだって」

「逃亡者と同じ姓を名乗りたくないんだな。エル・ファシル事件の時もそんな話があった」

「どんな話?」

「リンチ提督の奥さんが別の人と再婚した。兄弟や親族もリンチから姓を変えたって噂だ」

「酷い話だね。家族は家族なのに」

 

 他人事のようにアルマが言う。

 

「お前が言うことか?」

 

 少しむっとした。前の世界では俺を裏切ったではないか。

 

「ご、ごめん」

「俺が犯罪者になったらどうする? 見捨てないって自信があるか?」

「お兄ちゃんは絶対にならないでしょ」

「絶対なんてことはないぞ。八年前のエル・ファシルは紙一重だった。出発一時間前に気が変わったおかげでこうしていられる。そのままシャトルに乗り込んでたら、今頃は市民を見捨てた逃亡者として叩かれてただろうな」

「そんなことは……」

「ある」

 

 俺は強く言い切った。

 

「一時間の差で俺は英雄になった。アルマだって紙一重で助かった経験はあるだろう?」

「うん」

「俺が逃亡者になってたら、アルマは専科学校に入れなかったかもしれない。そんな人生を想像したことがあるか?」

「あるよ。今の人生は怖いくらいうまく行き過ぎてるから。こちらがアナザーストーリーで、メインストーリーは違うんじゃないかって思ったこともある」

 

 アルマの例えは的確だった。俺にとってこの人生は、エル・ファシルで逃げなかった場合のアナザーストーリーなのだから。

 

「メインストーリーのアルマはどんな人生を歩んでると思う?」

「高校にも進学できなくてバイトかなあ。意地悪な先輩にしょっちゅう鈍臭いって叱られて、友達もいなくて、つまんないつまんないって言いながら毎日を過ごしてる。ごろごろしてお菓子ばかり食べててさ」

「そんな時に俺が逃亡者になったらどうする?」

「冷たくしちゃうかも。近所の目もあるし、お父さんが首になるのも怖いから」

 

 アナザーストーリーの妹は、想像力だけでメインストーリーの内容をほぼ正確に言い当てた。

 

「オラジュワンさんやリンチ提督の家族に起きたことは、俺たち家族にあり得たかもしれないストーリーの一つかもしれない。他人事とは思えないんだ」

 

 話しているうちに、前の人生で自分が憎まれた理由が分かってきた。俺が逃げたせいで父が失職しかけていたのではないか。五〇過ぎの元警官が簡単に再就職できるようなご時世ではない。官舎にも住めなくなるだろう。家族が俺を憎むのも無理はない。

 

 当時は怯えるばかりで、周りがまったく見えてなかったし、家計のこともまったくわからなかった。六〇年近く経ってようやく理解できるとは皮肉なものだ。

 

「そっか。家族は家族って言えるのも幸せなことなんだね」

 

 アルマは深く頷く。

 

「俺もアルマも運がいい」

 

 ようやく妹と分かり合えたような気持ちになったその時、聞き覚えのある声がした。

 

「エリヤ! アルマ! こんな所にいたのか!」

 

 叫んでいるのは父のロニー。母のサビナ、姉のニコールの三人が駆け足で近づいてきた。

 

「いつまで経っても帰ってこないから、心配してたんだぞ」

 

 喜び九割、困惑一割といった表情の父。身長は俺より七センチ高い。髪は白髪混じりの赤毛。顔つきは良く言えば人が良さそう、悪く言えば押しに弱そう。服装はセーターにスラックス。典型的な中年男性の普段着である。

 

「相変わらずエリヤもアルマも寄り道好きだねえ。今日も買い食いしてたの?」

 

 母はやれやれといった感じで俺とアルマを見る。身長は俺より五センチほど高く、女性にしてはがっしりしている。顔は優しそうだが、目に宿る光は強い。動きやすい服装を好む母らしく、長袖のパーカーを着ていた。

 

「英雄になっても、あんたらは変わんないね。ま、英雄になったぐらいで変わられたら困っちゃうけどさ」

 

 姉は笑顔で軽口を叩きながら、俺とアルマの肩をぽんぽんと叩く。小さい頃から俺と良く似ていると言われたやや男っぽい顔。職場からそのまま直行してきたのか、ブラウスにズボンを履いている。シンプルではあるが、細身の姉には良く似合う。身長は父とほぼ同じ。忌々しいことに母も姉も妹も俺より背が高い。

 

 家族と話しながら敷地の中を歩き、実家のあるD棟に入る。作りが全体的に古臭い。壁はひび割れていて、照明は薄暗い。エル・ファシルの兵舎よりややマシといった程度。地方財政の困窮ぶりを実感させられる。

 

 八年ぶりに足を踏み入れた実家も貧相な感じがした。自分や知り合いの軍人が住む高級士官用官舎と比べてしまうのである。

 

 警察の階級を軍隊に例えると、警視監は中将、警視長は少将・准将、警視正は代将・大佐、警視は中佐・少佐、警部は大尉、警部補は中尉・少尉、巡査部長は下士官、巡査は兵卒に相当する。准将の俺は警視長と同格で、惑星パラスなら州警察本部長といったところだ。そして父は市警察の警部補。なんとアルマより格下なのだ。この八年間で自分がどれほど偉くなったのかを官舎の差が物語る。

 

 テーブルの上に山盛りの食べ物が積み上げられていた。見るからにこってりしたマカロニ・アンド・チーズ、ほくほくのフライドポテト、こんがり焼けたローストチキン、大皿いっぱいのジャンバラヤ、さっぱりしてそうなシーザーサラダ、ぶつ切りの白身魚が浮かぶフィッシュチャウダー、厚切りのパンにハムとチーズを挟んだサンドイッチ。どれも俺とアルマの好物ばかり。当然、デザートは別に用意しているはずだ。しんみりした気持ちがあっという間に吹き飛ぶ。

 

「これ本当か!?」

 

 父が差し出したタブロイド紙の見出しには、「第四艦隊と第六艦隊が合併か!? 新艦隊の名称は『第一三艦隊』! ヤン少将やフィリップス准将らエル・ファシル組も参加決定!」と書かれている。

 

「初めて聞いた」

「じゃあ、嘘なのか!?」

「まだ次のポストが決まってないんだよ」

「本当は聞いてるんだろう? 軍事機密だから黙ってるとか、そういうんじゃないのか?」

「聞いてないんだ、本当に」

「頼むよ。父さんにだけこっそり教えてくれ」

「まいったなあ」

 

 どうやってかわせばいいかわからない。なにせ父とまともに話すのは六九年ぶりなのだ。

 

「エリヤ、教えなくていいわよ」

 

 横から母が口を挟んでくる。

 

「母さんは知りたくないのか? 息子がヤン提督とまた一緒に戦うかもしれないってのに」

「その時になったら分かるでしょ」

「ニコールは知りたいよな!」

 

 父は姉に助けを求めた。

 

「別に」

「お前はヤン提督のファンじゃないか」

「そうだけど」

「気になるだろ!?」

「いずれ分かるからいいじゃん」

 

 姉も父に味方しなかった。

 

「待つのもそれはそれで楽しいんじゃない?」

 

 アルマが絶対零度の声を投げつける。

 

「そ、そうか! 言われてみればそうだな!」

「そうよ」

「そうよ」

「そうよ」

 

 母、姉、妹が口を揃えて言い、父は完全に敗北した。今のフィリップス家では女性軍の力が圧倒的に強いらしい。

 

 それからも父はビールをがぶがぶ飲みながら、トリューニヒト委員長のようにぽんぽんと適当なことを言う。母は父の適当な発言にガンガン突っ込む。姉は俺と妹の皿にどんどん食べ物を放り込み、飲み食いする様子を楽しむ。妹は脇目もふらず飲み食いに勤しむ。

 

「ビール飲まないの?」

 

 姉のニコールがビール瓶を差し出す。

 

「酒はやめたから」

「あんなに好きだったのに。変われば変わるもんだね」

「八年もたてば別人だよ」

「何年たったって、あんたは私の弟さ」

 

 楽しげに笑ってからビールを飲み干す姉。男前という言葉が頭の中に浮かぶ。前の人生では、彼女は俺を擁護したために何者かに腕を折られ、俺を徹底的に無視するようになった。しかし、今の人生では昔と変わらぬ面倒見の良い姉である。

 

 トリューニヒト委員長とドーソン中将とヤン少将のサインを貰ってくると、父に約束した。母と姉が作った大味な料理を楽しんだ。妹と食べ物を奪い合った。この日、俺は六八年ぶりに家に帰った。



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第50話:チーム・フィリップス誕生 796年11月下旬~12月20日 パン祭り会場~カフェレストラン~宇宙艦隊総司令部

 帝国の権力抗争がますます激しくなった。現在の焦点は食糧不足の責任問題である。リヒテンラーデ公爵は「卿が後先考えずにテロを仕掛けたせいで、穀物を輸入できなくなった」とブラウンシュヴァイク公爵を批判した。ブラウンシュヴァイク公爵は「農業政策が失敗したからだろうが。私のせいにするな」と言い返す。両者の争いは、宰相府が枢密院議長の弾劾状を発行し、枢密院が宰相に辞職を勧告する事態にまで発展した。

 

 一一月下旬、同盟政府は帝国軍の侵攻がないと判断し、九個艦隊と八個地上軍からなる迎撃軍を解散した。

 

 同じ頃、特殊部隊がエル・ファシル革命政府主席ワンディ・プラモートの殺害に成功した。革命政府のスパイ網はプラモートが個人的な技量によって運営していた。そのため、テロ活動は下火になるものと推測される。また、ヴィリー・ヒルパート総司令官は先月に戦死した。設立から四か月で五大幹部の過半数が死んだことになる。

 

 帝国政治の混乱、革命政府最高指導者の死は、同盟に小康状態をもたらした。対テロ作戦のおかげで、ボナール政権の支持率は六割を超える。国民平和会議(NPC)のお家芸だった内紛が再発する気配はない。最大野党の統一正義党は政府の強硬策に追随している。反戦派は反戦中学生コニー・アブジュを前面に立てて政府批判を展開したが、大多数の支持を得るには至っていない。

 

 地方は雨降って地固まるといったところだ。テロや海賊は著しく減った。星系議会選挙では連立与党が三連勝した。独裁者ガルボアを擁するメルカルト星系、独自の宇宙軍を創設しようとしていたパラトプール星系などの反中央的な星系は鳴りを潜めている。

 

 唯一の懸念材料は財政だろうか。エル・ファシル海賊討伐、対テロ作戦、第七次イゼルローン遠征の結果、財政再建計画が三年遅れた。

 

 臨戦態勢が解除されたのに伴い、同盟軍の再編が始まった。ゲベル・バルカルで失われた地方警備戦力は、予備役兵と新兵で補われた。レグニツァで敗北した四個艦隊のうち、一割を失った第一二艦隊は半年、二割を失った第二艦隊は一年で再建できる見通しだ。

 

 四割を失った第四艦隊と第六艦隊については、二通りの再建計画が最高評議会に提出された。統合作戦本部長シドニー・シトレ元帥の案は、第四艦隊と第六艦隊を合併して新艦隊「第一三艦隊」を作るというものだ。トリューニヒト国防委員長の案は、第四艦隊と第六艦隊を存続させ、三年かけて再建するという内容である。

 

 国防政策専門家ジセル・サンカン教授によると、シトレ案は正規艦隊を一二個艦隊から一一個艦隊に減らすことで経費節減を狙い、トリューニヒト案は一二個艦隊体制の維持を目指す目的があるとのことだ。

 

 右派と左派の意見ははっきりと分かれた。右派系新聞『シチズンズ・フレンズ』は、シトレ案を「シトレ元帥の軍縮病が再発した。軍人をやめて財政委員会に移籍してはどうか」と批判する。一方、左派系新聞『ソサエティ・タイムズ』は、トリューニヒト案を「指揮官ポストと艦艇の定数を維持したいだけだ。国防族のエゴに過ぎない」と切り捨てた。

 

 凍結されていた人事が動き出した。軍政能力のある第一一艦隊司令官ドーソン中将が第二艦隊司令官に転任し、再建にあたることとなった。第一一艦隊司令官の後任には、艦隊副司令官ルグランジュ少将が昇格した。また、レグニツァで失われた人材の穴埋めとして、元第二艦隊副司令官ホーランド少将、元第三艦隊B分艦隊司令官アップルトン予備役准将らが左遷組が復帰することとなった。第四艦隊と第六艦隊には司令官代行が置かれたが、これは残存戦力の管理者に過ぎない。

 

 エル・ファシルやレグニツァに関わる人事も行われた。パエッタ大将らレグニツァの敗戦責任者に対する査問が始まった。エル・ファシル危機及びシャンプール・ショックの調査が完了し、同盟軍防諜部門や中央情報局の幹部が「スパイの浸透を防げず、テロ予防に失敗した」として根こそぎ処分された。

 

 海賊対処部隊「第一三任務艦隊」の司令官にラップ少将、副司令官にアッテンボロー准将が登用され、レグニツァの英雄が揃い踏みした。第一二艦隊司令官ボロディン中将は大将昇進を打診されたが、「敗戦で大将が生まれるのはよろしくない」と固辞。中将のままで宇宙艦隊副司令長官となり、第一二艦隊司令官を兼ねた。

 

 一一月三〇日、俺は第三六機動部隊司令官の内示を受けた。この部隊は第一一艦隊D分艦隊を構成する機動部隊の一つで、第三次ティアマト会戦においてゼークト大将を討ち取った精鋭である。

 

 この人事が発令されるのは来年の一月一日。それまでは休暇が続くが、実質的には準備期間と言っていい。俺は幕僚チームの編成に乗り出した。

 

 自由惑星同盟軍の幕僚制度は古代アメリカ式である。准将以上の高級指揮官は、必要な人材を幕僚に登用する権利、不適格な幕僚を解任する権利を持つ。幕僚は指揮官の指揮命令のみに従うものとされ、上位司令部や軍中央の統制は受けない。指揮官が交代すれば幕僚チームも解散する。

 

 一方、銀河帝国軍の幕僚制度は古代ドイツ式だ。幕僚は統帥本部によって選ばれ、指揮官と統帥本部の双方から統制を受ける。元帥のみが幕僚を選ぶ権利を与えられている。

 

 前の世界では、アスターテ会戦における幕僚のイエスマンぶり、帝国領侵攻作戦における作戦参謀フォーク准将の独走などを理由に、同盟軍の幕僚制度は間違いとされた。

 

 八年の軍務経験から言うと、どちらも一長一短だ。同盟軍の制度は指揮官と幕僚が協調しやすいが、馴れ合いや独走が起きやすい。帝国軍の制度は馴れ合いや独走を防げるが、指揮官と幕僚が協調しにくい。同盟軍の長所を活かした幕僚選びをしたいと思う。

 

 一番の要となるのは、首席幕僚でありチームリーダーでもある参謀長だ。どんな人物を選ぶかによって、チームの方向性、ひいては部隊の方向性が決まると言っていい。

 

 参謀長の選び方は大きく分けて二通りある。一つは自分の欠点を補ってくれる参謀長を選ぶ。もう一つは自分の長所を伸ばす参謀長を選ぶ。今の世界ではルーズなロボス司令長官と気配り屋のグリーンヒル総参謀長、前の世界では自由人のヤン司令官と堅物のムライ参謀長が欠点を補う人事の好例だろう。天才用兵家のリン総司令官と処理能力のあるトパロウル総参謀長は、一五六年前に国難を救ったコンビであるが、こちらは長所を伸ばす人事といえる。

 

 俺が選ぶのはもちろん欠点を補ってくれる参謀長である。自分の欠点を数え上げればきりがないが、最大のものは作戦能力だ。よって作戦能力を参謀長の第一条件とするが、天才肌や硬骨漢は避ける。温厚で波風を立てない人がいい。

 

 自分の下で首席幕僚を務めた人物は二人いた。第八一一独立任務戦隊のスラット大佐は意識が低すぎる。エル・ファシル防衛部隊のコクラン准将は兵站の専門家だし、階級が俺と同じだ。どちらも参謀長には成り得ない。

 

 知り合いの宇宙軍大佐を思い浮かべてみる。憲兵隊時代からの付き合いがあるベイ大佐やミューエ大佐は、情報畑の出身で作戦には疎い。ビューフォート大佐はエル・ファシル防衛部隊の次席幕僚だったが、幕僚としての能力はゼロに近い。

 

 行き詰まった俺はダーシャと一緒にパン祭りへと出かけた。パンをせっせと胃袋に詰め込み、栄養をたっぷりと補給する。クリームパン専門店のテントに差し掛かったところで、偶然、いや必然的に士官学校教官チュン・ウー・チェン大佐と出くわした。

 

「――というわけで、ちょうどいい人がいないんです。作戦畑の知り合いがあまりいませんから」

 

 クリームパンをぱくぱく食べながら愚痴る。

 

「彼女では駄目なのかい?」

 

 チュン・ウー・チェン大佐は俺の左隣に視線を向けた。そこには熱いココアにふうふうと息を吹きかけるダーシャがいる。

 

「上官と部下がこういう関係だとまずいでしょう? 周りが気を遣うでしょうし、えこひいきしてると勘ぐられかねません」

「前はただの友達と言ってたが、今はそうではないのか」

「い、いや、今もただの……」

 

 そこまで言いかけたところで、左隣から流れてくる冷気に気づいて言葉を止めた。

 

「と、とにかく困ってるんです!」

「選ぶのは本当に難しい。私も転勤のたびにパン屋選びで苦労する。厚過ぎず薄過ぎない。堅過ぎもなく柔らか過ぎない。そんなパンを買える店は滅多にないもんだ」

 

 チュン・ウー・チェン大佐は、潰れたクリームパンをかじりながら語る。そんなにパンにこだわるのなら、ポケットにじかに入れるのはやめた方がいいと思うのだが。

 

「ダーシャとワイドボーン准将から知り合いを紹介してもらおうと思っています。二人とも戦略研究科のエリートですから」

「私からも推薦させてもらっていいかな」

「作戦畑の方ですか?」

「そうだよ」

「勤務歴は?」

「参謀職は艦隊で三年、分艦隊で四年、機動部隊と方面軍でそれぞれ二年。その他は機動部隊副参謀長、士官学校戦略研究科の教官、フェザーン駐在武官をそれぞれ一年ずつ」

「ピカピカの経歴ですね」

 

 ヤン少将やワイドボーン准将あたりと比べるとだいぶ見劣りする経歴だが、それでもかなりのエリートと言っていい。機動部隊副参謀長を経験してるのも魅力的だ。

 

「性格はどうです?」

「そんなに悪くはないと思うが」

「動かせますか?」

 

 俺は一番肝心なことを聞いた。作戦参謀は部隊の頭脳とも言うべき存在。どの部署も手放したくないだろうし、手放したとしたら相応の見返りを要求されるはずだ。

 

「もうすぐ飛ばされる」

「紹介してください!」

 

 俺は身を乗り出して叫ぶ。何事かと驚いた周囲の人が一斉にこちらを見たが、チュン・ウー・チェン大佐はのほほんとカフェオーレに口をつけた。

 

「そんなに慌てなくたっていいだろうに。ここにいるんだから」

「えっ?」

「自薦だよ。私が参謀長なんてどうだ?」

「あ、いや、不足ではありません。むしろ、もったいないと……」

「もったいない? 私はそんな大層なもんじゃないけどな」

 

 チュン・ウー・チェン大佐はそう言うが、俺にとっては大層なものなのだ。前の世界でチュン・ウー・チェンと言えば、アレクサンドル・ビュコック元帥とともに民主主義に殉じた英雄の中の英雄だった。俺ごときが部下にしていいような人ではない。だから、あえて参謀長候補から外した。

 

「い、いえ、でも、本当によろしいのですか?」

 

 冗談であって欲しい。そんな願いを込めて問う。

 

「ミスをしてしまってね。近いうちに飛ばされることになりそうだ」

「どんなミスをなさったんですか?」

「授業終了の挨拶に、『同盟万歳』を付けるのを忘れた」

「そんなことで飛ばされるんですか?」

「二回忘れて教官会議にかけられた。一度はミスだが二度は故意だと言われたよ」

「無茶苦茶ですね」

 

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。レグニツァの悲劇以来、愛国心アピールはどんどんエスカレートしているが、ここまで来ているとは思わなかった。

 

「今の校長はアジュバリス将軍だ」

「ああ、なるほど」

 

 その名前を聞くだけですべてが理解できた。士官学校校長アジュバリス地上軍中将は、保守的と言うより反進歩的な人物である。かつては副校長としてシトレ校長のリベラル教育に抵抗し、現在は校長として愛国教育を推進している。ヤン・ウェンリーと反対の極にいる人物と思えばいい。

 

「長男が小学校に入ったばかりでね。私立なんだよ。単身赴任はしたくないな」

 

 偉大な英雄が転勤を嫌がるサラリーマンみたいなことを言う。

 

「わかりました。参謀長をお願いします」

「ありがとうございます」

 

 チュン・ウー・チェン大佐は、穏やかな笑顔を浮かべて敬礼をする。行儀の悪い人なのに、敬礼は妙に端正だ。

 

「これからよろしく頼む」

 

 俺も敬礼を返す。伝説の英雄を部下にしたという事実に手が震えていた。もったいなさすぎる超大物参謀を得て、提督エリヤ・フィリップスはスタートを切ったのであった。

 

 

 

 臨戦態勢が解除されたことにより、遅まきながらも内輪の提督昇進祝賀会が開かれた。場所はハイネセンポリス副都心のスイーツがおいしいカフェレストラン。出席者は個人的な友人の他、元上官、元同僚、元部下など四三名。

 

 出席者の中で一番付き合いが古いのは、八年前の広報チームメンバーだったルシエンデス准尉、ガウリ曹長の二名だった。そして、一番新しいのは再会したばかりの妹だ。

 

 ハイネセンにいるのに出席してくれなかった人もいた。クリスチアン中佐は未だに拘置中だ。アンドリューは派閥への遠慮からメッセージのみとなった。かつて受験指導チームの一員だったブラッドジョー中佐は、案内状の返事すら寄越してくれない。

 

 ベストメンバーとはいかなかったものの、古い仲間と新しい仲間が入り乱れて楽しんだ。コズヴォフスキ退役少佐と妹がプロベースボール選手の移籍の是非について話したり、ベイ大佐とスコット准将が恐妻家同士で共感し合ったりしているのを見ると、とても気持ちが和む。

 

「まさか、君が来てくれるとはなあ」

 

 俺はにこにこしながら、薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)副隊長カスパー・リンツ中佐の肩を叩く。

 

「当分は暇だからな」

「対テロ作戦に参加しないのか?」

「薔薇の騎士がテロリストや海賊ごときに出張ることもないさ。第八強襲空挺連隊に任せときゃいい」

 

 リンツがそう言うと、妹の目に殺気がこもった。薔薇の騎士連隊と第八強襲空挺連隊の不仲ぶりは有名だ。俺は素知らぬふりをして会話を続ける。

 

「帝国との戦いがあるまで英気を養ってるってわけか」

「あいつら相手でないと思い切り戦えないからな」

「なるほどな」

 

 納得がいった。テロリストや海賊は曲がりなりにも同盟市民である。亡命者部隊を同盟市民にぶつけるのはイメージが悪い。薔薇の騎士連隊の複雑な立場を改めて確認させられる。

 

「また同じ部隊だな! よろしく頼むぞ!」

 

 第一一艦隊司令官ルグランジュ中将が笑いながら俺の肩を叩く。

 

「こちらこそよろしくお願いします」

「ストークスが残念がっておったぞ。『フィリップス准将を部下として使いたかったのに』と」

「俺も残念ですよ。ストークス提督は比類ない猛将。一度指揮を受けてみたいと思っていたのですが」

 

 第一一艦隊D分艦隊司令官のレヴィ・ストークス少将は、第三次ティアマト会戦において帝国軍のゼークト大将を討ち取ったことで名高い。来年から第一一艦隊副司令官に昇格する。

 

「そうか。ストークスに伝えておこう」

「ありがとうございます。それにしても、誰が次のD分艦隊司令官になるのでしょう?」

「それは貴官の方が詳しいんじゃないか? 私は派閥に入ってないからな。人事絡みの情報がまったく流れてこない」

「何人か候補はいるみたいですよ。ヤン少将、ホーランド少将、アラルコン少将……」

 

 俺は名前があがってる人物を指折り数えた。

 

「面倒くさいのばかりじゃないか。勘弁してくれ」

 

 ルグランジュ中将は広い肩を縮こまらせた。強面なのに妙に愛嬌のある人だ。

 

「幕僚チームを編成なさる際はぜひ声を掛けてください! 宇宙の果てにいたとしても、必ずや馳せ参じます!」

 

 第八一一独立任務戦隊の元後方主任ノーマン中佐は、瞳をきらきらと輝かせる。

 

「ああ、考えておく」

「ありがとうございます! 閣下の御下で戦えるなんて光栄の至りです!」

「ははは、そうか」

 

 俺は笑ってごまかした。実のところ、ノーマン中佐を幕僚チームに加えるつもりはない。彼とは個人的な友人だ。しかし、やる気をアピールするのにばかり熱心で、仕事には熱心でない。部下としては使いたくなかった。

 

「もうちょっと仕事ができたら、私も閣下のお力になれたのですが」

 

 第八一一独立任務戦隊の元人事主任オズデミル少佐が、寂しそうに笑う。

 

「その気持ちだけで十分だよ」

「ありがとうございます」

「できないなら、これからできるようになればいい。君は若いんだからな」

 

 俺は優しく言った。彼女は絶対に登用するつもりだ。仕事はできないが、忠実で努力家だ。年齢も二六歳と若い。これから伸びる人材だと思っている。

 

 この場では起用するともしないともはっきり言わない。起用しないと言われた人が気を悪くするだろうし、起用するかしないか決めてない人もいるからだ。

 

 司令官にとって、元同僚や元部下は最も身近な幕僚候補である。士官学校卒業者の場合は、士官学校の同期・先輩・後輩がそれに加わる。幕僚業務はチームワークが命。気心の知れた者の中から選ぶのは、ごく自然なことなのだ。

 

 他人が推薦された幕僚候補もいる。恩師である第二艦隊司令官ドーソン中将からは、手書きの候補者リストを渡された。

 

「好きなだけ連れて行くといい」

「ご厚意に感謝いたします」

 

 気持ちは嬉しいけれども微妙な気分だった。リストに並ぶのは、何でもそつなくこなすが自主性の無い人物か、そうでなければ律儀だが機転の利かない人物ばかり。ドーソン中将の好みが露骨に反映されている。

 

 他のトリューニヒト派からも人材を紹介された。国防委員会事務局次長ロックウェル中将など有力将官、カプラン下院議員など国防族議員から次々と推薦状が送られてくる。

 

 レグニツァの悲劇の後、パエッタ大将などトリューニヒト派指揮官一五名が責任を問われて更迭された。これは一五の幕僚チームが解散し、数百人の幕僚が失職したことを意味する。そういった者を引き取って欲しいと頼まれた。

 

 トリューニヒト派以外からも人材を推薦された。第二〇方面軍司令官シンクレア・セレブレッゼ中将が通信を入れてきた。二年前にヴァンフリート四=二で危急を救って以来、細々ながら親交を重ねてきた間柄である。

 

「おう、久しぶりだな」

「ご無沙汰しております」

「ブレツェリ君は元気かね」

「新しいポストが決まりそうです。明日が三次面接ですよ」

「三次面接? 私でも二次面接までしかやらんかったぞ。人気司令官なのか?」

「よそからは来ないんですが、元部下がこぞって志願してくるんです。統合作戦本部の課長職を放り投げてくる人とか、休暇をとってアスターテから面接に来る人とかがいるそうで」

「ああ、あいつか」

「ええ、あの人です」

 

 俺とセレブレッゼ中将は苦笑を交わしあう。

 

「君のところも志願者が多いんじゃないか?」

「おかげさまで。選ぶのに困っています」

「チームを作るのは難しいだろう?」

「難しいですね」

 

 俺は複雑な気持ちになった。セレブレッゼ中将はヴァンフリート四=二で手塩にかけたチームを失った。どんな気持ちでこの質問をしたのかを想像するだけで胸が痛む。

 

「私が最初にチームを作ったのは一七年前だ。苦労したものだ。私も幕僚もみんな未熟だった。最高といえる人材はいなかった。見切り発車だったな」

「閣下のチームは最強だったじゃないですか」

「最初から最強だったわけではない。私もチームも一緒に成長した。チームは育つものなのだ」

 

 経験者の言葉には重みがある。チームを築き上げるまでの苦労、それが崩壊した時の絶望までを目の前の人は味わったのだ。

 

「そんなに暗い顔をするんじゃない」

「申し訳ありません」

「一つだけ偉そうにアドバイスをするとしたら、最初から完全なメンバーを揃えようとは思わんことだな。一緒に成長したいと思える仲間を選ぶのだ。一歩ずつ完全に近づいていけばいい」

「一緒に成長したい仲間ですか?」

「そうだ。八年前の君は兵卒だった。二年前の君は少佐だった。それが今や提督ではないか。君が成長したように他人も成長する。第二のエリヤ・フィリップスがいないとは限るまい。誰と一緒に成長していきたいか、誰となら未来を共に出来るか。考えてみるといい」

 

 一緒に成長していきたい仲間、未来を共にしたい仲間。セレブレッゼ中将の言葉が頭の中をぐるぐる巡る。俺にとって、誰がそのような仲間なのだろう?

 

「ありがとうございます。ゆっくり考えてみます」

「どうだね、私のチームにいた者を使ってみる気はないか?」

「あのチームのメンバーを、ですか!?」

「私の配下は中央から追い出された。落ち着き先が見つかったが、そうでない者もいる。閑職で腐らせたくはない」

「よろしいのですか? 部下があちこちに散らばっていては、再起なさる時に困るでしょう?」

「構わんよ。後方部門はヴァシリーシンとキャゼルヌのラインで固まっとる。私が復帰できる余地などない。予備役編入まで残り一年。配下の落ち着き先を見つけてやるのを、最後の仕事にしようと思っとる」

 

 セレブレッゼ中将の髪やひげには白いものが混じっていた。同盟軍きってのやり手だった人が、旧部下の就職斡旋を「最後の仕事」と言う。それがとても切ない。

 

「お引き受けしましょう」

 

 ここまで言われては断れない。旧セレブレッゼ派の苦境を救いたいという気持ちもあった。ダーシャ・ブレツェリという実例が身近にいるからだ。

 

 この会談の結果、かつて同盟軍最高の後方支援チームのメンバーだった人々が候補者リストに加わった。本来は軍中央で勤務するような人材が、一機動部隊の幕僚になる。なんとも贅沢な話だった。

 

 その他、チュン・ウー・チェン参謀長に頼んで、有能な二〇代・三〇代の士官をリストアップしてもらった。俺は分厚い候補者リストの中から、人材を選べるという幸運に恵まれたのである。

 

 

 

 俺とチュン・ウー・チェン参謀長は宇宙艦隊総司令部の一室で、山盛りのパンを食べながら、幕僚選びの方針について話し合った。

 

「最初に副官を決めてしまいましょう。我々だけでは事務作業が大変ですから」

「そうだな」

 

 俺は参謀長が用意した副官候補リストをペラペラとめくる。しかし、これはという人物がなかなか見付からない。

 

 副官に求めるものは、記憶力、機転、気配り、そして忠誠心だ。できれば戦闘力も欲しい。五か月前、テロリストのルチエ・ハッセルに殺されかけた。今もエル・ファシル革命政府軍が俺の命を狙っているはずだ。護衛もできる人が望ましい。

 

「彼女なんていかがですか?」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が一枚の写真を指さす。ヘイゼル色の瞳と金褐色の髪を持つ美人。名前はフレデリカ・グリーンヒル。階級は宇宙軍中尉。

 

「凄いな」

 

 俺は目を見張った。グリーンヒル中尉の経歴は素晴らしいの一言に尽きる。士官学校戦略研究科を二年前に次席で卒業した秀才。抜群の頭脳を持ち、性格は真面目で協調性があり、将来の提督候補である。戦技は射撃が特級、徒手格闘と戦斧とナイフが準特級。宇宙艦隊総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将の一人娘で、コネにも期待できる。すべてにおいて申し分のない人材であろう。

 

「いや、やめておこう」

 

 俺はさっさとページをめくった。前の世界での彼女は天才ヤン・ウェンリーの副官であり、妻でもあった。俺のような小物が副官にするなど不遜もいいところだ。それに彼女はバーラト自治政府主席として「戦犯追及法」を制定した。いろんな意味でやりにくい。

 

「ちょうどいい人材がいないな」

「私から見たらみんなちょうどいいですがね」

「副官には妥協したくないんだよ」

「自分を基準にしてはいけません。あなた並みの副官なんて、簡単には見つからないでしょうに」

「みんな俺より頭がいい。性格も戦技の腕もいい。だけど、それだけじゃ足りない。いざという時に守ってくれる人じゃないと」

 

 理想の副官は妹だった。能力、性格、戦闘力のすべてにおいて並外れている。しかし、血縁者だし地上軍だから副官にはできない。血縁でない宇宙軍軍人なら、妹と顔が似てる元憲兵司令部副官ハラボフ大尉がいるが、今頃は佐官になってるだろうし、俺とは仲が良くない。

 

「忠誠心ならこの二人になるかと」

「そうだな」

 

 俺は二枚の資料を見比べた。片方はウルミラ・マヘシュ大尉、もう片方はシェリル・コレット大尉。二人ともエル・ファシルでは良く尽くしてくれた。

 

「だけど、能力的には微妙だぞ」

 

 彼女らには真面目な劣等生という言葉が当てはまる。俺と同じで要領が悪い。幕僚チームの一員としては必要だけれども、大きな仕事は任せられない。

 

「能力と忠誠心のどちらを取るかですね」

「難しい判断だ」

 

 さんざん迷った挙句、殺されたら元も子もないという理由から忠誠心を取った。

 

「コレット大尉にしよう。優秀な下士官を副官付にする。若いんだから伸びる余地もあるんじゃないか」

 

 五か月前、彼女は身を挺して俺を守った。次に襲われた時もきっと守ってくれるだろう。妹と和解したおかげで、風船のような外見も気にならない。

 

 さっそくコレット大尉を呼び寄せようとしたところ、想像もしなかったところからクレームがついた。

 

 国防委員会人事部参事官ルスラン・セミョーノフ宇宙軍准将。地方勤めが長かったが、兵站支援の功績がトリューニヒト国防委員長の目に止まり、中央入りを果たした人物だ。

 

「コレットをハイネセンから半径二〇〇〇光年以内で働かせてはならない。そういう決まりになっているのだよ」

「どういうことですか?」

 

 俺は目を丸くした。よほど軍上層部に嫌われでもしない限り、そんな仕打ちを受けることはないのに。

 

「奴の父親はリンチなのだ」

「リンチとは、エル・ファシル警備司令官だったアーサー・リンチ少将のことですか?」

「そうだ。市民を見捨てて逃げ出した恥知らずのことだ」

 

 セミョーノフ准将の瞳が眼鏡の奥で冷たく光る。

 

「そうでしたか……」

 

 俺は軽くうつむいた。なぜコレット大尉があんなに陰気だったのかが分かったからだ。八年前、リンチ少将とその家族は凄まじいバッシングを受けた。自分の経験に照らしてみると、コレット大尉が酷い目にあったのは想像に難くない。

 

「ショックだろう? そうとは知らずに卑劣漢の娘を用いるところだったのだからな」

「そういうことではありません」

「どういうことだ?」

「彼女が軍務に精励する理由がわかったからです」

「なるほど。その程度で償える不名誉でもあるまいに。馬鹿なことをするものだ」

 

 セミョーノフ准将は冷笑を浮かべる。自分に向けられたわけでもないのにぞっとした。

 

「帝国ならいざ知らず、子が親の罪を背負わねばならぬ決まりなど、我が国にはありません」

「貴官は若いな。そんなのは建前に過ぎんよ」

「手本を見せるのも上に立つ者の役目です。自分は建前を守りましょう」

「貴官の名に傷が付くぞ」

「彼女は身を捨てて小官を守りました。このような部下を持つことこそ、名誉でありましょう」

「リンチがどれほど我が軍の名誉を傷つけたか、貴官は忘れたのか?」

「親は親、子は子です。コレット大尉が傷つけたわけではありません」

 

 俺は不快感を隠すのに苦労した。将官ともあろう者が「子が親の罪を背負うのは当然」と広言する。世も末ではないか。

 

「杓子定規と公平の意味を取り違えるべきではない。融通を利かせるのも大事ではないかね」

「小官は軍人としてのあり方をドーソン提督から学びました」

 

 ドーソン中将の名前を出して牽制した。嫌らしいやり方ではあるが、セミョーノフ准将のような人種には効くだろう。

 

「ドーソン提督も貴官の頑固さには苦労したのだろうな」

「辛抱強くご指導いただき、ありがたいと思っております」

「誰もがドーソン提督ほど寛容とは思わんことだ」

「心得ております」

「謙虚なのはいいが、度を過ぎると嫌味だな」

 

 セミョーノフ准将の眼鏡が再び冷たく光る。今度は自分に向けられたのだとわかった。

 

「お気遣いいただき、ありがとうございました」

 

 これ以上はまずいと思い、さっさと話を打ち切った。普段なら聞き流せる嫌味だが、エル・ファシルの件が絡むと平常心ではいられない。マフィンを食べて不快感を打ち消す。

 

「凡人集団と言っても、あんなのまで仲間にすることはないだろうに」

 

 つい愚痴が出た。セミョーノフ准将が無能でないのはわかる。しかし、もう少し人間性も考慮してはもらえないだろうか。

 

 発足当初のトリューニヒト派には、真面目だが胆力や機転に欠けるタイプの凡人が多かった。しかし、最近になって、無責任、むやみに威張る、公私の区別がつかない、人の悪口を言って取り入ろうとするなど、不真面目な凡人が増えた。

 

「文句を言ってもしょうがないな。せめて俺の部隊だけはトリューニヒト派らしくしよう」

 

 コレット大尉の副官起用をその第一弾としよう。人事は万事という。この人事によって、トリューニヒト派が忠誠と勤勉を重んじる派閥だと明らかにしようではないか。

 

 人事部にコレット大尉を配属させるよう頼んだところ、あっさり通ってしまった。コネを使う必要もなかった。セミョーノフ准将が言った「そういう決まり」とは、彼自身か前任者が勝手にでっち上げた不文律だったのだろう。官僚組織には良くあることだ。

 

 数日後、俺の前に長身でそこそこ太めの女性が現れた。髪の色は白髪まじりの茶髪ではなく、きれいなアッシュブロンド。肌は病人のような青白い肌でなく、普通の白い肌。

 

「君はコレット大尉だよな」

「はい」

 

 そこそこ太めの女性は明瞭な答えを返す。俺の知ってるコレット大尉はもっとぼそぼそ喋るはずだったが。

 

「それにしても、ずいぶん変わったな」

「鍛え直しました」

「鍛えたって?」

「不測の事態に備えるよう、閣下より命じられましたので」

「そうか」

 

 そんな命令を出した覚えはない。しかし、体を鍛えるのは結構なことだ。こうして、俺のチームに副官が加わった。

 

 俺、チュン・ウー・チェン参謀長、コレット大尉の三人で選考作業を進め、一二月二〇日に幕僚チームの編成が終了した。召集命令を出し、宇宙艦隊総司令部の一室において初顔合わせを行う。遠くにいる者はテレビを通して参加した。

 

 議長席には俺、その右前方には参謀長チュン・ウー・チェン大佐が座る。赤毛のチビとのんびりしたおじさん。ビジュアル的に締まらない取り合わせである。

 

 俺の左前方には、旧友の副参謀長イレーシュ・マーリア中佐が深々と腰を下ろし、大きな胸の上で両腕を組む。冷たい美貌、鋭い目つき、一八〇センチを超える長身と相まって、圧倒的な威圧感を醸し出す。俺や参謀長にない威厳を持つ彼女には、引き締め役を頼んだ。

 

 チュン・ウー・チェン参謀長の右隣には、俺と同い年の作戦部長サンジャイ・ラオ少佐が浅く腰掛ける。俺の前任の憲兵司令部副官で、レグニツァの悲劇まではパエッタ大将の作戦参謀だった。前の世界では名将ダスティ・アッテンボローの片腕として活躍した実績もある。平時においては部隊訓練、戦時においては作戦立案や部隊運用の責任者となり、参謀長とともに作戦を主導する。

 

 イレーシュ副参謀長の左隣には、気楽な兄ちゃんといった感じの情報部長ハンス・ベッカー少佐がいる。元帝国軍の情報将校であり、第二国防病院に入院した時からの友人だ。一言多いところはあるけど裏表は無い。作戦情報の収集・分析にあたり、目や耳の役割を果たす。

 

 作戦部長の右隣に座るエリート風の青年は、後方部長アルフレッド・サンバーグ少佐。士官学校経理研究科を卒業した秀才だが、セレブレッゼ中将の副官だったために左遷された。兵站計画の立案・運用を担当し、物資の面から部隊を支える。

 

 情報部長の左隣に座るごつい壮年男性は、スコット准将から推薦された人事部長セルゲイ・ニコルスキー中佐。人員の補充・配置を担当し、人的資源の面から部隊を支える。

 

 四人の参謀部門の長の下座に、専門幕僚部門と呼ばれる通信部・総務部・法務部・衛生部・監察官室の長が顔を連ねる。

 

 作業服を着た女性が通信部長マー・シャオイェン技術少佐である。幹部候補生養成所を受験した人物で、民間の通信技術者から予備士官課程を経て軍人になった。通信部門の責任者として通信力の充実に力を尽くす。通信速度は命令伝達速度、ひいては部隊の機動力に大きく影響する。その重要性は参謀部門に勝るとも劣らない。

 

 総務部長シビーユ・ボルデ少佐は、セレブレッゼ中将から推薦された事務のプロ。衛生部長アルタ・リンドヴァル軍医少佐は、第八一一独立任務戦隊の衛生主任だった精神科医。法務部長フェルナンド・バルラガン少佐は、ドーソン中将が士官学校教官だった頃の教え子。首席監察官リリー・レトガー少佐は憲兵隊時代の同僚で、サイオキシンマフィア捜査チームの一員。みんな優秀な人材である。

 

 俺の側に控える長身の女性は、副官シェリル・コレット大尉。以前の倍は早く動いているように感じる。体重と能力が反比例してるのかもしれない。

 

 二〇代から三〇代の幕僚が並ぶ中、一人だけ五〇過ぎの女性がいる。彼女は部隊最先任下士官ポレン・カヤラル准尉。最初の勤務先フィン・マックールで支えてくれた人の力を再び借りた。部隊最先任下士官とは下士官から登用される幕僚で、下士官・兵卒の人事・訓練などに関わる。下士官・兵卒を代表する立場であり、部隊掌握の要と言っていい。階級的には最下位だが、軍の規則では参謀長と同格の扱いを受ける。

 

 フィン・マックールの部下から幕僚となったのはカヤラル准尉のみだが、事務要員としては、アルネ・フェーリン少尉、シャリファー・バダヴィ曹長、ミシェル・カイエ伍長など一二名を登用した。

 

 その他の幕僚で目を引く人物は、二四歳の作戦参謀エドモンド・メッサースミス大尉。士官学校戦略研究科を二八位の優等で卒業したエリートである。宇宙艦隊総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将の推薦でやってきた。グリーンヒル大将が三回しか会ったことのない俺に、こんな人材を回してくれた理由は良くわからない。

 

 エル・ファシルで戦隊司令部付士官を務めたセウダ・オズデミル少佐は人事副部長、ウルミラ・マヘシュ大尉は次席監察官となった。この二人とコレット大尉は初めて自分の裁量で取り立てた部下。ゆくゆくは腹心になってほしいと思う。

 

 会議室を眺めるだけで満足できる人事だったが、一〇〇パーセント思い通りになったわけでもない。不本意な人事もあった。

 

 就任依頼を断られた人がいる。第一一艦隊後方部での部下だったジェレミー・ウノ中佐には「先約がある」、恩師の一人レスリー・ブラッドジョー中佐には「あんたの下では働きたくない」と言われた。どちらもヤン少将と士官学校同期の友人である。何かの偶然だろうか?

 

 様々なしがらみから幕僚に加えた人がいる。特に不本意だったのが人事参謀エリオット・カプラン大尉。勤務成績も勤務態度も悪く、伯父であるアンブローズ・カプラン議員の七光だけが取り柄だ。大物国防族のカプラン議員には世話になっているため、断りきれなかった。

 

 こうして、俺の幕僚チーム「チーム・フィリップス」が誕生した。本格始動は来年の一月一日。最強のチームになるか、ごく平凡なチームに終わるかは、これからの努力次第だろう。



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第51話:部下との距離、上官との距離、政治との距離 797年2月中旬~2月28日 第三六機動部隊司令部~官舎~第一一艦隊司令部

 ハイネセン西大陸バーマス州のモードランズ市郊外に、六階建てのビルがある。一見すると役所のように見えるが、外壁には複合装甲が組み込まれ、窓にはめ込まれた超強化ガラスは徹甲弾の直撃にも耐え得る強度を持つ。警備兵一個中隊と自動迎撃システムが周囲を固める。この要塞のようなビルこそが第三六機動部隊の司令部庁舎であった。

 

 司令部庁舎の最上階に俺の執務室があった。クッションのきいたソファーに座り、窓から差し込んでくる陽光を浴びてると、一国一城の主のような気分になってくる。

 

「今日のスケジュールは――」

 

 アッシュブロンドの長い髪とぽってりした唇を持つ長身の美人がスケジュールを読み上げる。彼女は副官のシェリル・コレット大尉。数か月前までは風船のように膨れていたが、三か月の入院生活、退院後の鍛錬によって、鋼のように引き締まった。

 

「ご苦労だった。君の説明はいつもわかりやすいな」

「恐縮です」

「ミーティングを始めよう。みんなを集めてくれ」

 

 スケジュールの説明の後は、参謀長チュン・ウー・チェン大佐、副参謀長イレーシュ・マーリア中佐ら幕僚を集め、定例ミーティングを行う。

 

「来月の艦隊全体演習についてだが――」

 

 進行長役を務めるのはチュン・ウー・チェン参謀長。来月中旬、第一一艦隊は全体演習を実施する。最近はその準備で大忙しだ。

 

 ミーティングを終えたら仕事に入る。執務室にいる時は、書類を決裁し、部下から報告を受け、個別事項について指示を出し、来客に応対するなどの事務に励む。会議・懇談会・式典などに出席したり、視察に赴いたりすることもある。泊まりがけの出張も珍しくない。

 

 地域住民との交流にも力を入れる。正規艦隊所属部隊は地域との関わりが薄いため、浮き上がった存在になりがちだ。隊員を地元の祭りに参加させ、基地を一般開放する回数を年二回から四回に増やし、第三六機動部隊チームを市民スポーツ大会に参加させるなどの取り組みを行い、イメージの向上に努めた。

 

「どうして小人なんだ……」

 

 基地祭の日、俺は控室で鏡を見ながら呆然としていた。頭には尖ったナイトキャップ、体にはふわふわした緑色の服、足には緑色の長靴を着けている。ピクシーとかいう古代の妖精らしいが、どこからどう見ても小人ではないか。

 

「小人ではありません。妖精です」

 

 黒く長いローブに身を包んだコレット大尉が真顔で答える。冗談を言わないというか言えない人の言葉だ。本当に妖精なのだろうと信じることにした。

 

「そうか」

「ご不満ですか?」

「いや、そんなことはない」

 

 微笑みながら答えた。周りを見ると、チュン・ウー・チェン参謀長は白衣にエプロンとベレー帽を着用し、イレーシュ副参謀長は人気ドラマの主役と同じスーツに身を包み、他の部下もみんな仮装を済ませていた。

 

「ほんと、コレットちゃんの言う通り、超似合ってますよ~」

 

 人事参謀カプラン大尉がいつものようにいらないことを言う。ちょっといらついた。

 

「ありがとう」

「いやもう、提督ほどピクシーが似合う人はいませんって。プロになれるんじゃないすか?」

「しょせん余興だよ」

 

 内心で「ピクシーのプロって何なんだ」と思いつつ、表向きは平静を装った。

 

「どうです? 俺の仮装は似合ってます?」

「ああ、似合ってる。一騎当千の勇者に見えるぞ」

「提督が自ら選んでくださった仮装ですからね! 似合わないはずがありません!」

 

 カプラン大尉は得意気に胸を張る。彼が着用する白黒の縦縞の野戦服は、西暦時代に勇猛な戦いぶりから「猛虎軍」と呼ばれた軍事組織の制服である。

 

「君には猛虎みたいな軍人になってほしいと願ってるよ」

 

 なぜ俺がこの仮装を選んだのかを念押しした。はっきり言うと、彼には全く期待していない。コネ入隊なのはいい。コネで軍隊に入ってから名将となった人はいくらでもいる。しかし、能力がない、やる気がない、空気が読めないと三拍子が揃っていては、使い道がなかった。それでも、何かの拍子でやる気になるかもしれないと思い、いろいろとはたらきかけている。

 

「心得ております!」

「頼もしいな」

 

 笑って返事をした後、俺は視線を部屋の中央に向けた。そこにあるのは誰も座ってない席。本来ならば第三六独立戦艦群司令ヘラルド・マリノ大佐が座るはずの席だ。

 

「コレット大尉、マリノ大佐は来ないのか?」

「所用だそうです」

「それならしょうがないな」

 

 ずる休みなのは分かってるが、あえて言及するつもりはない。マリノ大佐がこういう人なのは分かっている。

 

 彼の実力は本物だ。戦闘精神の塊のような戦いぶりで「ブラックパンサー」の異名を取る。決して勇猛一辺倒ではなく、部隊を巧みに動かす技も心得ている。前の世界では天才ヤン・ウェンリーに仕えて勇名を馳せた。

 

 そして、筋金入りの偏屈者でもあった。他人に合わせることが大嫌いで、みんなが残業していても一人でさっさと帰り、職場の飲み会には顔を出さず、交流行事にも絶対に参加しない。

 

 俺とマリノ大佐の意見はしばしば対立した。俺が隊員を細かく指導しようとすると、マリノ大佐は「自主性に任せるべきだ」と反対する。俺が現場に顔を出そうとすると、マリノ大佐は「上の者がいちいち現場に出るな」と反対する。管理主義と放任主義の対立といったところだろうか。要するに俺とは対極にいる人物だった。

 

 基地祭の翌日、第三六機動部隊指揮官会議があった。マリノ大佐は何事もなかったかのような顔で出席している。俺の方も「昨日はどうした?」なんていちいち言わない。そういった声がけを鬱陶しいと彼は思うからだ。

 

 議長席に着き、会議室を見回した。出席した面々を見るたびに、「よくもまあこんなに面倒な人間が集まったものだ」と思う。

 

 出席者は一一名。ポターニン副司令官、第三六戦艦戦隊司令スー代将、第三六巡航艦戦隊司令フランコ代将、第三六駆逐艦戦隊司令マーロウ代将、第三六母艦戦隊司令ハーベイ代将、第三六作戦支援群司令ソングラシン大佐、第三六後方支援群司令ワトキンス大佐、第三六独立戦艦群司令マリノ大佐、第三六独立巡航群司令ニールセン大佐、第三六独立駆逐群司令ビューフォート大佐、第三独立母艦群司令アブレイユ大佐である。

 

 このうち、常識人といえるのは、フランコ代将、ハーベイ代将、ワトキンス大佐、ニールセン大佐、ビューフォート大佐の五名。

 

 その他の六名が変人だった。マリノ大佐は言うまでもない。ポターニン副司令官は努力家だが競争心が強い。スー代将は勇敢だが血の気が多すぎる。マーロウ代将はストイックだが気難しい。ソングラシン大佐は独創的だがマイペース。アブレイユ大佐は切れ者だが傷つきやすい自尊心の持ち主。直属でない部下も変人揃いだ。

 

 そういうわけで指揮官会議は毎回揉める。ポターニン代将とスー代将が誰かに噛み付き、マリノ大佐とソングラシン大佐が他の出席者を怒らせ、マーロウ代将とアブレイユ大佐がピリピリした空気をまき散らし、俺と他の五名が困るといった感じだ。

 

 会議が終わるたびに、ビューフォート大佐を引っ張ってきて本当に良かったと思う。能力的にも人間的にも信頼できる人物だ。司令官に配下の指揮官を選ぶ権利はないのだが、腹心の指揮官が一人はいないと不安なので、コネを駆使して空席だった第三六独立駆逐群司令に据えた。彼がいなかったら収拾がつかないところだった。

 

「この先やっていけるのかな?」

 

 司令官室に戻った俺は、何度目か分からない問いをした。

 

「お気になさらないことです。新米提督はみんな通る道ですから」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長は何度目か分からない答えを返す。

 

「ならいいんだけど」

「腹が減ってると後ろ向きになりますよ。パンでもいかがですか?」

「ありがとう」

 

 俺はチュン・ウー・チェン参謀長から潰れたサンドイッチを貰った。なかなかうまい。ちょうどいい潰れ具合だ。

 

 これまでの部下は、意識の高低差はあっても常人の範囲内に留まっていた。しかし、この部隊は違う。直属指揮官だけでなく、その部下も変人ばかり。つまり、第三六機動部隊には、ヤン・ウェンリーやワルター・フォン・シェーンコップのような人物が数千人もいる。

 

 チュン・ウー・チェン参謀長によると、正規艦隊の戦闘部門はどこも似たようなものらしい。実力重視で常識や協調性は二の次なのだそうだ。実際、六人の変人指揮官はみんな優秀だった。

 

 俺の売りは常識と協調性だ。変人との付き合いにはとても苦労した。チュン・ウー・チェン参謀長は「放し飼いにすればいい」と言うが、俺のメンタルはそんなに太くない。いろんな人にアドバイスを求めることにした。

 

「勝手なことができぬよう、規則でがんじがらめにすれば良いのだ」

 

 第二艦隊司令官ドーソン中将のアドバイスは、徹底的に押さえつけろというものだった。

 

「戦士としての適性は、しばしば組織人としての適性と相反するものだ。優等生だけでは戦いにならん。荒くれ者、頑固者、自由人なんかはトラブルメーカーだが、戦いでは役に立つ。短所を大目に見てやれ。長所を活かすことを考えろ。胃薬が手放せなくなるがな」

 

 第一一艦隊司令官ルグランジュ中将は、チュン・ウー・チェン参謀長と同じように放し飼いを勧めてくれた。

 

「精鋭とはいわば暴れ馬だ。奴らは常に自分を御せる乗り手を求めている。ならば、御せるだけの器量を身に付ければいい。簡単なことではないか」

 

 上官であるD分艦隊司令官ホーランド少将は、器量を高めろと言う。

 

「クレメンスに仕えている間、君は一度も直言をせず、彼に迎合することで補佐した。他人を変えようとせず、そのままで活かそうとする。それが君の長所だと私は思うよ。同じようにやってみてはどうだね」

 

 トリューニヒト国防委員長は、ドーソン中将と付き合うように変わり者と付き合ってはどうかという。

 

 様々な意見を検討した結果、トリューニヒト委員長とルグランジュ中将の折衷案、すなわち妥協的に接することに決めた。

 

 相変わらずストレスは多い。おかげでマフィンを食べる量が倍増した。だが、これまでを思い返してみると、フィン・マックール補給科以外の職場では何かしらのストレスがあった。俺はあのドーソン中将に二年半も仕えた男である。変わり者の部下にもいずれ慣れるだろうと信じたい。

 

 部下との関係には苦労しているが、部隊運営には苦労していない。正規艦隊所属部隊はもともと優遇されている。第三六機動部隊は特に状態のいい部隊だった。モラル・練度ともに優秀で、人員は定数を満たしており、勤務環境も良好だ。目立った不正は見当たらない。第八一一独立任務戦隊のような苦労はまったくなかった。

 

「これはこれで難しいのよ。当たり前のことをすれば、一〇を五〇まで引き上げるのはすぐなんだけどね。八〇を九〇まで引き上げるのはしんどいよ」

 

 イレーシュ副参謀長の例えは実に的確であった。第八一一独立任務戦隊では弱兵を戦えるようにするのが課題だったが、第三六機動部隊では精鋭をさらに向上させることがが課題となる。

 

「無駄な仕事を省く。経費を節約する。隊員の意識を高いレベルで保つ。この三点が最重要課題になります」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長の示した方針は、地方警備部隊をボロボロにしたシトレ元帥の方針と全く同じだった。

 

「それだと部隊がボロボロになるんじゃないか?」

「豊かな部隊と貧しい部隊ではやり方が違います。この部隊では豊かなリソースを運用する方法をお考えください」

「正規艦隊ではシトレ流が有効ってことか」

「シトレ流というよりは正規艦隊流と言った方がいいかもしれません。ドーソン提督が第一一艦隊司令官だった頃も効率化に熱心でしたよね?」

「ああ、確かにそうだった。第一艦隊の参謀だった時はゴミ箱を点検していたな」

 

 どうやら第八一一独立任務戦隊の成功体験にとらわれすぎたようだ。さっそくチュン・ウー・チェン参謀長に効率化プランを作らせた。

 

 第三六機動部隊司令官に就任してからは、やることなすことのすべてが勉強だった。部隊運営を学び、用兵を学び、指揮官としてのスタイルを確立するのだ。

 

 

 

 俺の上官にあたる第一一艦隊D分艦隊司令官は、ウィレム・ホーランド少将である。二年前までは同盟宇宙軍の若手ナンバーワン提督だったが、第三次ティアマト会戦で失敗し、昨年末にようやく復帰した。最近はヤン・ウェンリー少将、ジャン=ロベール・ラップ少将らの台頭が著しいこともあり、すっかり忘れられてしまっている。

 

 英雄願望の強いホーランド少将にとって、現在の状況は耐え難いらしい。口癖のように「出兵はないか」と言う。

 

「本当に鬱陶しいよ」

 

 ホーランド少将の副参謀長ダーシャ・ブレツェリ大佐はうんざりしていた。二年間の出産育児休暇に入った前任者に代わって副参謀長となったのだが、愚痴の絶えない毎日である。

 

「ありゃ病気だな」

 

 国防委員会事務総局のナイジェル・ベイ大佐が苦笑した。一週間前、ホーランド少将は視察に訪れた国防委員に対し、出兵の予定がないかをしつこく聞いて呆れられたのだそうだ。

 

 火のないところに煙は立たない。ホーランド少将が出兵の有無を気をするのには理由がある。ついに帝国が分裂した。

 

 昨年末、帝国宰相リヒテンラーデ公爵と大審院長リッテンハイム侯爵は、エルウィン=ヨーゼフ帝とリッテンハイム侯爵の娘サビーネの婚約、リッテンハイム侯爵の公爵昇爵と枢密院議長就任、リヒテンラーデ派幹部であるルーゲ元司法尚書の大審院長就任などで合意した。

 

 枢密院とは皇帝の諮問機関である。議長、副議長、顧問官は爵位を持つ貴族から選ばれるが、定まった仕事を持っていないし、集まって会議を開くこともない。ただ、皇帝に直接意見を述べる資格だけを持つ。皇帝に近いほど権力に近くなる帝国において、枢密顧問官の発言力は大きい。要するに門閥貴族の発言権を制度的に保障する機関なのである。そのトップたる議長は帝国宰相に次ぐ宮中席次第二位。リッテンハイム公爵は名実共に門閥貴族の第一人者となった。

 

 ブラウンシュヴァイク公爵は枢密院議長の座を奪われたが、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合に反発する貴族を結集し、巻き返しを図った。

 

 二月四日、ブラウンシュヴァイク公爵領の首府レーンドルフにおいて、ブラウンシュヴァイク公爵の娘であり先帝の孫であるエリザベートが即位した。ブラウンシュヴァイク公爵が帝国摂政となり、各尚書と帝国軍三長官以下の文武百官を任命し、味方になった軍人を全員一階級昇進させるなど、政府の体裁を整えた。

 

 当然のことながら、帝都オーディンのリヒテンラーデ=リッテンハイム連合は、エリザベートの即位を認めなかった。枢密院議長リッテンハイム公爵が偽帝エリザベートの討伐を命じられた。副司令官には護衛艦隊司令長官ローエングラム元帥と機動艦隊司令長官リンダーホーフ元帥、総参謀長には統帥本部総長代理クラーゼン上級大将、兵站総監には軍務尚書エーレンベルク元帥が任命された。護衛艦隊と機動艦隊は宇宙艦隊を役割別に分けたものである。

 

 ブラウンシュヴァイク派は「エルウィン・ヨーゼフこそが偽帝である」と宣言し、帝国摂政ブラウンシュヴァイク公爵が偽帝討伐軍の総司令官となった。副司令官には宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥と装甲擲弾兵総監オフレッサー元帥、総参謀長には宇宙艦隊総参謀長シュターデン上級大将、兵站総監には軍務尚書シュタインホフ元帥が就任し、リッテンハイム公爵を迎え撃つ。

 

 第一竜騎兵艦隊司令官メルカッツ上級大将、黒色槍騎兵艦隊司令官リンドラー上級大将、イゼルローン要塞司令官ヴァイルハイム大将、イゼルローン要塞駐留艦隊司令官エルディング大将ら中立派は、エルウィン=ヨーゼフ帝に忠誠を誓った。しかし、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合に味方したわけではない。

 

 リヒテンラーデ公爵は敵になるより中立の方がましと考え、中立派と協定を結んだ。この結果、中立派部隊は内戦には参加せず、イゼルローン方面辺境で同盟軍の侵攻に備えることとなった。

 

 フェザーンのマスコミによると、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合、ブラウンシュヴァイク派、中立派の比率は、四〇:三〇:三〇といったところらしい。リヒテンラーデ=リッテンハイム連合が優勢だが、中立派の動向次第ではブラウンシュヴァイク派の逆転もありうる。予断を許さない状況だ。

 

 同盟の軍部、正確に言うと統合作戦本部と宇宙艦隊総司令部が内戦に介入したがっていた。内戦に乗じて帝国の戦力を少しでも多く削りたいというのが表向きの理由だ。しかし、対テロ作戦で国防委員会に主導権を握られたため、対帝国戦で点数を稼ぎたいという思惑もあるようだ。

 

 このような機運の中、ホーランド少将は「出兵はないか」と騒いでいるのだ。ただ騒ぐだけでなく、イゼルローン要塞奇襲計画を統合作戦本部に二度提出し、二度却下された。今は三つ目の奇襲計画を作っている最中だった。

 

 英雄になりたくてたまらない提督なんて傍迷惑以外の何物でもない。しかし、上官としてのホーランド少将はかなり仕えやすかった。

 

「英雄は強くなければいかん」

 

 本気でそう思っているので、自分を高めるための努力を怠ることがなく、いつもみんなの先頭に立って手本を示し、何でも自分でてきぱきと決める。すごく頼れる上官だ。

 

「英雄は高潔でなくてはいかん」

 

 本気でそう思っているので、横暴に振る舞うことはなく、弱い者いじめは決して許さない。かっこいい上官だ。

 

「英雄は寛容でなくてはならん」

 

 本気でそう思っているので、部下の私生活についてうるさく言わないし、部下の失敗に対しては怠慢や無気力によるものでなければ許す。結構話のわかる上官だ。

 

 部下との接し方については、古代の武将みたいなエピソードがいくつもあるが、最も有名なものを二つ紹介しよう。

 

 エスピノーザ大佐は優秀な空戦部隊指揮官だが、病的な浪費癖の持ち主でもあった。部下から九万ディナールもの大金を借りたことが発覚し、退役して退職金で返済するよう命じられた。ところが、ホーランド少将が「彼女には九〇万ディナール出しても惜しくない」と言って借金を肩代わりしてやった。この件がきっかけでエスピノーザ大佐はホーランド少将の配下となり、「九〇万ディナールの女」と呼ばれるようになった。

 

 ホーランド少将が巡航群司令だった当時、基地食堂の責任者が業者から多額の金品をもらったことが発覚し、免職処分となった。その後、ホーランド少将は免職された男の家に行き、「金に困っているのなら、業者ではなく私に言えば良かったのだ」と言い、一〇〇ディナール札がぎっしり詰まった財布を渡してやった。それ以降、ホーランド少将は部下の昇給・賞与査定を本来の評価より二段階高く付けるようになり、汚職に手を染める部下はいなくなったと言う。

 

 なぜこんなことができるのかというと、日頃から英雄譚を読みふけり、過去の英雄がどのように部下に接していたかを勉強しているからだった。

 

「あいつは馬鹿なのよ」

 

 ホーランド嫌いのイレーシュ副参謀長は容赦ない。しかし、「馬鹿」という言葉は、ホーランド少将の本質を極めて的確に捉えていた。

 

 英雄と呼ばれたい人は多いだろう。しかし、自分が英雄譚に出てくる英雄そのものになりたいと思い、それを実現しようと努力するなんてまともじゃない。本物の馬鹿だ。

 

「馬鹿ですね。憎めない馬鹿ですが」

「君が脳天気だからそう思えるんだよ」

「でしょうね」

 

 イレーシュ副参謀長がホーランド少将を嫌うのも分かる。暑苦しいという点において、クリスチアン中佐やワイドボーン准将よりもずっと酷い。しかし、今のところは嫌いではなかった。俺は暑苦しい人と相性がいいのだろう。

 

「取り込まれないよう気をつけな」

「分かってます」

 

 副参謀長の言う「取り込まれないよう気をつけろ」とは、好意を抱くなという意味ではない。完全に頼り切るなという意味だ。

 

 英雄願望をこじらせた果てとはいえ、ホーランド少将の実力は本物だった。指示はいつも的を射ており、アドバイスには快く応じてくれるし、助けを請えば何でも解決してくれる。そして、同性が見ても惚れ惚れする男性美の持ち主だ。そんな人に自信満々で「俺に付いて来い」と言い切られたら、無条件で従いたくなってくる。

 

 以前、イレーシュ副参謀長は「君は天才の下にいたら腐っちゃうタイプ」と俺を評した。優れた上官だからこそ、完全に頼りきってしまわないよう気を付ける必要がある。

 

 ホーランド少将から指示を受けるたびに、司令部でチュン・ウー・チェン参謀長やラオ作戦部長らと話し合い、その指示がなぜ正しいのかを考えるようにした。中身が理解できたら、ある程度の冷静さをもって見つめられるからだ。

 

「国防委員長に対しても、そういう付き合いができたらいいのにね」

 

 ダーシャがちくりと刺す。

 

「しょうがないだろ。好きなんだから」

「ま、いいけどさ。エリヤの身内びいきなところは好きだし」

「とにかくトリューニヒト委員長には頑張って欲しいよ」

 

 俺はヨブ・トリューニヒト国防委員長の暖かい笑顔を思い出した。クリップス法秩序委員長とともにパトリオット・シンドロームを牽引してきた彼だが、最近になって失速してきた。

 

 その最大の要因は対テロ作戦「すべての暴力を根絶するための作戦」である。確かに成果は大きかった。テロ発生件数や海賊被害は激減し、一般犯罪の減少、犯罪組織の弱体化といった副効果も生み、国内治安は著しく改善された。だが、それと同時に大きな負債をも残した。熱狂のツケがじわじわとこの国を蝕みつつある。

 

 第一の問題点はイデオロギー的な分断。シャンプール・ショックが引き起こしたパトリオット・シンドロームにより、大衆主義右派の国民平和会議(NPC)トリューニヒト派、全体主義の統一正義党などの急進右派が支持を集めた。急進右派の横暴に不安を覚えた一部の人々は、反戦市民連合など急進左派に心を寄せた。穏健保守のNPC主流派、リベラルの進歩党は支持を失い、同盟社会は左右に分断された。

 

 第二の問題点は軍隊や警察の横暴。テロリストを摘発する過程で、拷問による自白強要、令状なしの拘禁、証拠捏造といった違法捜査が行われた。海賊や反政府武装勢力との戦いでは、捕虜の虐待・虐殺、非戦闘員の殺害などが多発した。軍や警察が対テロを名目に、星系共和国への内政干渉を行ったケースもある。これらの事件は同盟政府に対する不信感を強めた。

 

 第三の問題は経済状況の悪化。海賊被害は激減したが、対帝国輸出の停止、航路統制などが星間交易を停滞させた。対テロ作戦の莫大な経費、半年以上続いた予備役部隊の総動員は、経済に大きな負担を掛けた。個人消費の落ち込みも激しい。

 

 第四の問題は軍事力の損失。第七次イゼルローン遠征で二〇四万の兵員が失われた。この損失を回復するまで、三年から四年はかかるだろう。

 

 これらの問題に対し、強硬派の急先鋒であり軍政のトップであるトリューニヒト委員長は厳しく批判された。

 

「ただ波に乗っかっただけなのに、自分が偉くなったって勘違いしたのよ。波が引いたらずっこけるだけなのに」

 

 ダーシャはいつもトリューニヒト委員長に冷たい。いや、強硬派に冷たいといった方がより正確だろうか。ホーランド少将とは愚痴を言いつつもうまくやってるみたいだが。

 

 トリューニヒト委員長とともに波に乗っかった人々も評価を落とした。対テロ捜査を主導したクリップス法秩序委員長、野党の立場から対テロ作戦を後押しした統一正義党党首ラロシュ上院議員らに対する批判は強まる一方だ。憂国騎士団などの極右民兵組織、シチズンズ・フレンズ紙やNNNなどの右派マスコミの責任を追及する声も大きい。

 

 昨年一二月に六三パーセントだった政権支持率は、二月には三八パーセントまで落ちた。一月のエルゴン星系議会選挙で地方選での与党の連勝は止まり、それ以降は野党が連勝している。

 

 パトリオット・シンドロームが終焉し、リベラル派の発言力が高まってきた。政界ではレベロ財政委員長やホワン人的資源委員長、軍部ではシトレ元帥の存在が重みを増している。それを象徴するのが第四艦隊と第六艦隊の再建問題だ。

 

 両艦隊を残したままで時間を掛けて再建するトリューニヒト案が通ると思われていた。だが、トリューニヒト委員長の発言力が低下し、国家安全保障顧問アルバネーゼ退役大将、オッタヴィアーニ元最高評議会議長ら穏健主戦派の介入もあり、トリューニヒト案は差し戻された。そして、両艦隊を合併して新艦隊を作るシトレ案への支持が高まってきた。

 

 半世紀以上続いた一二個艦隊体制を変更するか否かは、国防政策の根幹に関わる問題だ。決着は下院選挙の後までもつれ込むだろうと思われる。

 

 政界は荒れ模様になってきた。パトリオット・シンドロームのもたらした半年間の安定が崩れつつあった。

 

 

 

 二月二八日、下院選挙まで残り一か月となった。前の世界では帝国領侵攻を支持した国民平和会議(NPC)と進歩党が大敗し、トリューニヒト新党が政権を握った選挙である。しかし、この世界では違う様相を呈していた。

 

 現在の世論調査では、与党第一党のNPCが一〇パーセント、与党第二党の進歩党が一三パーセント、野党第一党の統一正義党が一六パーセント、野党第二党の反戦市民連合が二二パーセント、その他の政党が一四パーセント、支持政党無しが二五パーセントとなっている。来月の下院選挙で連立与党が過半数を割り込む可能性も出てきた。

 

 昨日、レベロ財政委員長ら進歩党左派が、反戦市民連合、環境党、独立と自由の銀河、楽土教民主連合など左派野党の幹部と会合を持ち、左派連立政権樹立に向けて話し合ったと報じられた。なお、レベロ委員長、左派野党の幹部らは「人権関連法案に関する話し合い」としており、連立の可能性を否定している。

 

 NPCのトリューニヒト派とクリップスグループが、右派野党の独立正義党や人民自由党と連携し、右派連立政権を作ろうとしているとの報道もあった。トリューニヒト国防委員長は「根も葉もない噂」と述べた。

 

 NPCのオッタヴィアーニ派、ヘーグリンド派、ドゥネーヴ派、ムカルジ派、バイ派など主流五派が、トリューニヒト派とクリップスグループを除名し、中道左派の進歩党、環境党、楽土教民主連合とともに中道連合を結成する動きがあるとの観測も流れた。

 

 どれが事実でどれが嘘かは分からない。いずれにせよ、下院選挙を前に政界再編の動きが出ていることだけは事実だった。

 

 トリューニヒト委員長がクーデターを企んでいるなんて噂もあった。一週間前にNPC党紀委員会から告発された。下院選挙で与党が勝ったとしても、失脚は免れない。だから、第二艦隊と憲兵隊と憂国騎士団と地球教徒とフェザーン人傭兵を使ってクーデターを起こし、最高評議会議長になろうとしているというのだ。

 

 馬鹿げた噂だが、国防委員会情報部長カフェス中将、退役中将で元情報部長のジャーディス上院議員が、「クーデターの動きがある。お馴染みの連中(過激派将校グループ)ではない」と述べたことから、一定の信ぴょう性をもって語られた。

 

 さらに馬鹿げたことに俺に尾行が着いた。不審な気配を感じて、ベッカー情報部長に調べてもらったところ、「お供がたくさんいますよ」と言われた。官舎や司令部から盗聴器がわんさか見付かった。反トリューニヒト派の巣窟である情報部の仕業じゃないかと思うが、そう言い切れるだけの証拠がない。もしかしたらエル・ファシル革命政府のテロリストかも知れない。憲兵隊にベッカー情報部長の調査報告を渡し、対処してくれるように頼んだ。

 

 このように将官は政治に振り回される。政治家と無関係でも、政治と無関係ではいられない。政権が変わったら国防政策も変わるからだ。

 

 第一一艦隊司令官ルグランジュ中将は派閥に属していない。しかし、政治への関心はそれなりに強かった。所用で第一一艦隊司令部を訪れた時、政治の話題になった。

 

「統一正義党の全体主義政権か、反戦市民連合のハイネセン原理主義政権か。嫌な二択だな。どっちが勝ってもラジカリストの時代だ」

 

 ルグランジュ中将は本当に嫌そうな顔をしている。

 

「国防政策ががらりと変わりますよね」

「面倒くさいよな。いっそ与党が勝ってくれたら楽なんだが」

「勝てる要素がまったくないですよ」

「いや、わからんぞ? 選挙前にイゼルローンを落としたら風向きが変わるかもしれん」

「それはないでしょう」

「ないな」

 

 ルグランジュ中将と俺は顔を見合わせて苦笑いした。イゼルローン要塞の駐留部隊は、二個艦隊と装甲擲弾兵六個軍まで増強された。イゼルローン勤務を口実に内戦から逃げてきた者が多いせいだ。

 

「ヤン提督が指揮をお取りになるのなら、万に一つぐらいは期待できるんですけどね」

「貴官はヤンを嫌いではなかったか?」

「知略は評価していますよ」

 

 その他は評価していないというニュアンスを込める。公式には俺と天才ヤン・ウェンリーは不仲ということになっていた。その方が何かと都合がいいからだ。父のために彼のサインを貰った時も間に二人の人物を挟んで、俺が依頼者だと知られないようにした。

 

 実を言うと、万に一つどころか一〇〇パーセントの期待をヤン少将に寄せている。彼が指揮をとれば、イゼルローン要塞は間違いなく陥落するだろう。前の世界では二度も陥落させてのけたのだから。しかし、いかな名将でも指揮を取らなければ勝てない。

 

 現在のヤン少将は「統合作戦本部高等参事官」のポストに就いていた。統合作戦本部長の最上級補佐官として重要事項の企画立案にあたる。正規艦隊の参謀長や副司令官より序列が低いため、一部マスコミは「閑職に追いやられた」と騒ぐが、実質的な影響力は下手な中将級ポストよりよほど大きい。シトレ元帥は指揮官でなく高級幕僚として使うつもりなのだろう。

 

 艦隊再建問題がもつれているため、前の世界でヤン少将が指揮した第一三艦隊が発足する見通しは立っていない。

 

 人事面で見ると、ヤン少将の腹心である四名のうち、パトリチェフ准将とジャスパー准将はハイネセン、デッシュ准将とビョルクセン准将は地方にいた。前の世界でヤン艦隊の副司令官だったフィッシャー准将は地方の航宙専科学校長、参謀長だったムライ准将は星域軍の即応部隊司令官を務める。薔薇の騎士連隊はシヴァ星系で冬季山岳戦訓練の真っ最中。完全にばらばらだった。

 

 こういったことから判断すると、ヤン少将がイゼルローン要塞攻略を指揮する可能性は限りなく薄いのである。

 

 シトレ元帥は影響力が高まったとはいえ、その地位は揺らいでいる。軍縮路線に対する反発が根強い。少数精鋭戦略の失敗、対帝国戦の連敗については、軍令のトップとして責任を負う立場である。昨年末に「対テロ作戦の最中にトップを入れ替えるのはよろしくない」という理由で任期を延長されたが、いつ解任されてもおかしくない状態だ。彼にはイゼルローン攻略作戦に賭ける動機があり、本部長権限で認可する権限もあるが、その実施者がヤン准将とは限らない。

 

 表沙汰にはなっていないが、イゼルローン奇襲計画は既に実施された。昨年末に一度目の作戦、二月初めに二度目の奇襲作戦が実施されたが、いずれも失敗に終わった。

 

 聞いたところによると、二度目の作戦は奇策中の奇策だったそうだ。拿捕された帝国艦に乗った特殊部隊二個大隊が、同盟軍に追われているふりをして帝国軍に救助され、まんまと要塞に入り込んだ。しかし、要塞司令官を人質に取ろうとしたところで察知されたという。前の世界でヤン少将がイゼルローン攻略に用いた作戦と酷似していた。

 

 現在は三回目の奇襲作戦が動いていると言われる。指揮官や作戦の内容は分からない。もしかしたら、三回目の奇襲作戦自体が存在しない可能性だってある。一回目と二回目の作戦は失敗してから、その存在が判明した。

 

 政府高官がリヒテンラーデ=リッエンハイム陣営の幹部と接触し、「軍事支援するから、回廊を通して欲しい」ともちかけたという噂もある。情報部が要塞内部で工作を進めているとの噂も聞いた。

 

 イゼルローンを軸とした知略戦が水面下で繰り広げられていた。来月の下院選挙での連立与党敗北は必至。統一正義党を中心とする右派政権が誕生したら、第一三艦隊がイゼルローン攻略を命じられる可能性もある。反戦平和連合を中心とする左派政権が誕生した場合は、イゼルローン攻略でなく和平交渉が始まるはずだ。今後の戦局は選挙結果次第。それが民主主義国家なのだ。



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第52話:ヤン・ウェンリーの春 797年3月20日~9月下旬 第三六機動部隊司令部~第三六機動部隊演習場~ハイネセンポリス~モードランズ官舎

 七九七年三月二〇日一五時三八分、国防委員会から全軍に「テレビを見るように」との指示が下った。そして、画面にヨブ・トリューニヒト国防委員長が現れる。

 

「兵士諸君!

 

 今日、自由惑星同盟軍は偉大なる勝利を収めた。この勝利は六四〇年のダゴン、七四五年のティアマトにも優る意義を持つ。

 

 かつて、イゼルローン回廊は我らのものだった。ダゴン星域で勝利してからの六年間、同盟軍はイゼルローン回廊を通って帝国領に攻め込み、圧制に苦しむ数十億の民を連れ帰った。その後も二九回にわたって回廊の彼方へ遠征し、圧制者の肝を寒からしめたものだ。

 

 それを変えたのが三三年前のイゼルローン要塞建設だった。我々は守勢を強いられた。圧制者が攻めてくるのをひたすら迎え撃つだけだった。

 

 だが、忍従の時は終わった! イゼルローン要塞が陥落した! イゼルローン回廊は我らのものとなった! 自由惑星同盟軍がこの快挙を成し遂げた!

 

 私はすべての市民と兵士を代表し、この快挙を成し遂げたイゼルローン攻略部隊の六三万一九六五名、総指揮を取ったヤン・ウェンリー提督に感謝の意を表したい。あなた方の勇気と献身が勝利をもたらした。

 

 七度の攻防戦で散華したすべての英霊、生きて帰ったすべての兵士に感謝したい。あなた方の流した血と汗の上に今日の勝利がある。

 

 そして、今日の勝利に満足してはならない。新たな勝利を積み重ねることこそが我々に与えられた使命なのだ。

 

 回廊の先を見よ! そこに広がっているのは何か!? 圧制に苦しむ二五〇億の民がいる! 圧制者の宮殿へと至る星路がある 戦いの手を休めるな! 人々を解放せよ!

 

 自由万歳! 民主主義万歳! 自由惑星同盟万歳!

 

 圧制者を倒せ! 祖国に勝利を!」

 

 俺は椅子から立ち上がって拍手した。あのイゼルローン要塞が落ちた。それもヤン・ウェンリーの手によって。これほどめでたいことがどこにあろう。

 

 数百万の命を奪った要塞が陥落しただけでも驚くに値するが、それを成し遂げたのが二九歳の青年提督ヤン・ウェンリー少将であったこと、攻略部隊がわずか半個艦隊に過ぎなかったこと、そして何よりも攻略部隊が犠牲者を一人も出さなかったことが人々を驚かせた。

 

 イゼルローン攻略のニュースがあらゆるメディアを占拠した。ネットはヤン少将とイゼルローン攻略部隊を賞賛する書き込みで埋め尽くされた。ヤン少将の名声は、ダゴン星域会戦のリン・パオ元帥とユースフ・トパロウル元帥、第二次ティアマト会戦のブルース・アッシュビー元帥に匹敵するものとなった。

 

 この偉業はいかにして達成されたのか? テレビや電子新聞、知り合いから聞いた話などを元にすると、以下の通りである。

 

 三度目のイゼルローン奇襲計画は極秘のうちに進められた。ヤン・ウェンリー少将を司令官、エリック・ムライ准将を副司令官、フョードル・パトリチェフ准将を参謀長、セシリア・ハンフリーズ大佐を副参謀長とする非公式任務部隊「イゼルローン攻略部隊」が編成された。攻略部隊のメンバーは各地に散らばって別の任務に従事しているように装った。

 

 二月下旬、イゼルローン攻略部隊は一〇〇隻から二〇〇隻に分かれ、訓練航海や観測航海などの名目でバラバラにハイネセンを出発。地方に散らばったメンバーを拾いながら、ワープを繰り返した。

 

 三月中旬、イゼルローン要塞から七光年の距離に到着したイゼルローン攻略部隊は、回廊内に向けて妨害電波を発信した。帝国軍の通信とレーダーはたちまちのうちに混乱した。そこにヤン少将が要塞宛ての偽命令を乱発する。

 

「イゼルローン要塞の二個艦隊に命ず。回廊を出て反乱軍の前進基地を掃討すべし」

「反乱軍の四個艦隊が接近中。回廊出口を封鎖せよ」

「何があろうと要塞から出撃してはならない」

「辺境で大規模な反乱が発生。青色槍騎兵艦隊、装甲擲弾兵第三軍、装甲擲弾兵第一四軍は速やかにシャカールスベルクまで赴き、討伐司令官メルカッツ上級大将の指揮下に入れ」

「青色槍騎兵艦隊司令官エルツバッハ大将をオーディンへ召還する」

「装甲擲弾兵第一二軍司令官クロッペンブルク中将を逮捕せよ。抵抗するようならば射殺しても構わぬ」

「要塞の中にスパイがいる。急いで摘発するように」

 

 これらは膨大な偽命令の一部にすぎない。それに加えて、「先の命令は誤りである。正しい命令は――」「――という命令は反乱軍が偽造した命令だ。無視せよ」「クラーゼン統帥本部総長代理が先刻逮捕された。四八時間以内にクラーゼンの名前で出された命令はすべて無効とする」など偽命令を打ち消す通信も送られた。帝国軍が出した内容確認の通信に対しては、異なる内容の返信を五通から六通も送った。

 

 イゼルローンの帝国軍は混乱した。ヤン少将が試しに無人艦五〇隻を差し向けたが、要塞から〇・五光秒(一五万キロメートル)まで接近しても、敵は偵察すら出さない。それから三度無人艦部隊を接近させたが、やはり出てこなかった。

 

 レーダーが機能せず、偵察部隊を出さないとあっては、帝国軍は目と耳を失ったようなものだ。ジャスパー准将の別働隊一〇〇〇隻が回廊外縁部から要塞をすり抜け、アムリッツァ星系へと攻め込み、帝国軍基地を攻め落とした。

 

 アムリッツァからの救援要請、そしてイゼルローンに逃げ込んだ敗残兵から受けた「反乱軍はおよそ一万隻。未知の回廊を通ったと思われる」との報告が、帝国軍を動かした。わずかな留守部隊を除く全軍がアムリッツァ星系へと向かう。

 

 ところがこの敗残兵の正体は薔薇の騎士連隊だった。彼らは留守部隊の司令官と副司令官を人質に取り、要塞中枢を制圧した。

 

 帝国軍は要塞が奪われたことを知ると奪還に向かったが、要塞主砲「トゥールハンマー」の直撃を受けて戦意を失い、回廊の外へと去っていった。こうして、イゼルローン要塞は同盟のものとなったのである。

 

 実に鮮やかな手際だった。ヤン少将が使った作戦とメンバーは前の世界と違う。状況が変わっても天才が天才であるのは変わらない。

 

 第三六機動部隊の幕僚たちはそれぞれの専門知識に基づいて、ヤン少将のトリックを解き明かした。

 

「電子戦の勝利ですよ、これは!」

 

 マー・シャオイェン通信部長が、イゼルローン攻略部隊の編成表を高々と掲げる。兵力の三割が電子戦闘艦だった。電子戦闘艦とは、敵の通信やレーダーに電子妨害を仕掛け、味方を敵の電子妨害から守る艦である。

 

「標準的な部隊の場合、電子戦闘艦が占める割合は五パーセントから七パーセント。つまり、イゼルローン攻略部隊には五倍の電子戦能力があります。そして、電子技術にかけては、我が国の方がずっと進歩しています。圧倒的な電子戦能力こそが作戦成功の鍵なんです!」

 

 彼女の言う通り、電子戦能力の差は決定的だった。帝国軍の通信やレーダーがほぼ無力化されたのだから。

 

「電子戦の勝利であると同時に、情報戦の勝利でもあります。偽命令は諸将の性格や人間関係を踏まえたものだった。薔薇の騎士連隊は要塞管制システムのパスワードを持っていた。要塞内部の状況をかなり把握していたのでしょうな」

 

 ハンス・ベッカー情報部長は、イゼルローン攻略部隊が正確な情報を持っていたのではないかと指摘する。こういったことは表に出ないからわかりにくい。

 

「あまり注目されませんが、アムリッツァ攻略作戦は一人も死者を出していません。しかも、回廊から逃げてきた帝国軍と鉢合わせしてるはずなのに、何事もなく要塞に入った。敵地でこんなに素早く動けるなんて尋常じゃない。正確な情報に加え、優れた運用能力が不可欠です」

 

 サンジャイ・ラオ作戦部長が注目したのは、支作戦のアムリッツァ攻略作戦だった。ほとんど戦闘が無かった主作戦より運用能力が見えやすいのである。

 

「幹部人事が上手いですよね。ムライ副司令官は常識と規律の信奉者、パトリチェフ参謀長は陽気な体育会系、ハンフリーズ副参謀長はキャゼルヌ少将直系の兵站屋。ヤン提督の苦手分野に強い人材ばかり。そして、実戦指揮官はジャスパー准将、デッシュ准将、ビョルクセン准将などエル・ファシル以来の仲間で固めました。こちらは結束力を重視していますよ」

 

 イレーシュ・マーリア副参謀長は対人関係に敏感だ。

 

「政治的な背景も重要です。イゼルローンには、内戦を避けた者が集まっていました。彼らは帝都のリヒテンラーデ=リッテンハイム連合を信用していない。同僚にしても、内戦に参加したくないという以外は何の共通点もない。帝都も同僚も信用できない状況でした。そして、利己主義と相互不信は帝国軍高級士官の持病です。だから、疑心暗鬼を煽る策が有効でした」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長は本質的に戦略家である。技術的な面でなく背景に目をつけた。

 

 ヤン少将の奇策には学べないが、実務面には学ぶべきところが多い。数多くの教訓をイゼルローン攻略作戦は与えてくれた。

 

 

 

 イゼルローン攻略の結果、ボナール政権の支持率は三二パーセントから五八パーセントまで跳ね上がった。攻略から八日後の三月二八日に実施された下院選挙においては、連立与党は大きく議席を減らしたものの、一六三九議席中の八二四議席を獲得し、九議席差で過半数を保った。

 

 ヤン少将、その後押しをした統合作戦本部長シトレ元帥は、連立与党にとって救い主であったと言えよう。シトレ派の発言力は圧倒的なものとなった。

 

 国民平和会議(NPC)主流派の五大実力者「ビッグ・ファイブ」は、トリューニヒト派に押されて精彩を欠いていたが、シトレ派と協調することで失地回復を図った。

 

 四月八日に発足した第三次ボナール政権の顔ぶれからは、シトレ派への配慮が伺える。リベラル派のレベロ財政委員長とホワン人的資源委員長が再任された。強硬派のトリューニヒト国防委員長とクリップス法秩序委員長が閣外へと去り、反トリューニヒトの穏健保守派が後任となった。

 

 国民平和会議(NPC)の党役員人事では、反トリューニヒトの穏健派議員が重用され、親トリューニヒトの強硬派議員が排除された。

 

 トリューニヒト前国防委員長は下院議長に選ばれた。儀礼上の序列は最高評議会議長に次ぎ、最高評議会副議長を上回るが、政治的な権限は小さい。また、建国期を除けば、下院議長議長経験者が最高評議会議長に就任した前例はなかった。トリューニヒト前委員長を儀礼職に縛り付ける狙いがあると見られる。

 

 第三次ボナール政権は親シトレ・脱トリューニヒト路線を推進した。軍拡計画の破棄、憲兵隊の特別調査権の撤廃、国防委員会テロ対策室の解散が矢継ぎ早に決定された。

 

 四月二六日、第四艦隊と第六艦隊が正式に合併し、新艦隊「第一三艦隊」が発足した。司令官にはヤン中将、副司令官にはムライ少将、参謀長にはパトリチェフ少将、副参謀長にはハンフリーズ准将がそれぞれ起用された。すべてイゼルローン攻略部隊の主要メンバーである。半世紀以上続いた一二個艦隊体制は、一一個艦隊体制へと変わった。

 

 五月三日、統合作戦本部は新戦略計画「スペース・レギュレーション戦略」を発表した。イゼルローン要塞攻略、トリューニヒト・ドクトリンの失敗などを根拠に、「もはや大兵力は必要ない」との見解を示し、少数精鋭による国土防衛を目指すものだ。

 

 具体的には、八〇二年までに宇宙艦隊を一一個艦隊から八個艦隊、地上総軍を八個地上軍から四個地上軍、地方部隊を二二個方面軍から一五個方面軍まで整理し、総兵力を五三〇〇万から三八〇〇万まで減らす。残った兵力はすべて機動運用部隊として再編。ハイテク兵器の配備、兵站能力の強化を進め、少数だが機動力のある軍隊を作り上げる。スペース・ネットワーク戦略よりもさらに大胆な内容と言えよう。

 

 スペース・レギュレーション戦略が発表された三日後、レベロ財政委員長は国防予算を一五パーセント削減する方針を示した。これに対し、統合作戦本部長シトレ元帥とネドベド国防委員長は、「心より歓迎する」と述べた。

 

 イゼルローンの英雄ヤン中将は、「私の希望はささやかなものです。この先何十年かの平和。それが今回の勝利で実現できるものと期待しています」と語り、軍縮と和平への期待を示す。

 

 シトレ派は正規艦隊司令官一一名のうちの五名、地上軍司令官八名のうちの四名を占めるに至った。イゼルローン要塞司令官に起用されたジョルダーノ地上軍大将は、シトレ派の大幹部だ。昨年末に派閥長老の第五艦隊司令官ビュコック中将が定年を迎え、大将昇進と同時に引退したものの、対帝国部隊における優位は揺るぎない。

 

 七九五年以降に対帝国戦で最も活躍したのはシトレ派だった。他派の提督が精彩を欠く中、シトレ派のヤン中将・ビュコック大将・ボロディン中将・ウランフ中将・ラップ少将らが武勲を独占した。彼らはみんな毒舌家としても有名だ。対帝国戦の英雄が武勲のない反軍縮派をやり込める光景は市民を喜ばせた。

 

 ロボス元帥の後援者のオッタヴィアーニ元最高評議会議長、中間派の大物である国家安全保障顧問アルバネーゼ退役大将が軍縮路線支持を表明した。

 

 数か月前まで隆盛を極めたトリューニヒト派と過激派将校には、冬の時代がやってきた。国防委員会事務局次長ロックウェル中将は第四方面軍司令官、テロ対策室副室長ワイドボーン准将は国防委員会事務局付、前国防委員長秘書官補ベイ大佐はエコニア収容所長に左遷された。俺やドーソン中将は知名度のおかげで無事に済んだが、今後のことはわからない。

 

 コーネリア・ウィンザー法秩序委員長は、トリューニヒト派議員の汚職調査、親トリューニヒトの極右民兵組織「憂国騎士団」の取締りに乗り出した。

 

 あるリベラル派文化人が今の状況を「ヤン・ウェンリーの春」と呼んだ。一個人が世界を変えてしまうことが確かにあるのだ。トリューニヒト派の俺にとっては冬だが、それでも狂騒に支配されたパトリオット・シンドロームよりはましだろう。

 

 一方、帝国では膠着状態が続いていた。前の世界でラインハルトとブラウンシュヴァイク公爵が内戦を起こした際には、すぐに艦隊戦が行われた。しかし、この世界では開戦から三か月が過ぎて五月になっても艦隊戦は起きなかった。

 

 味方も敵も同じ上級貴族。同じ社会の住人であり、文化上の対立やイデオロギー上の対立は存在しない。

 

「得になるのなら、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合だろうが、ブラウンシュヴァイク派だろうが同じ」

「盟主のために戦力を消耗する気などない」

「領地が荒れるなんて真っ平ごめん」

「危なくなったら、本領安堵と引き換えに降伏すればいい」

 

 貴族の大多数の本音はこんなものだった。両陣営ともに損得勘定で味方した者が大半を占めていたのだ。

 

 盟主に忠実な者にしても、中立派貴族やフェザーン企業からの借金で戦費を賄っているため、戦力を消耗したくなかった。

 

 結局のところ、この内戦は宮廷政治の延長でしかない。大軍を集めるのは支持者の数を見せつけるためだ。艦隊戦ではなく調略戦がメインになるのは、ある意味当然の成り行きと言えよう。

 

 前の世界の場合、ローエングラム陣営の上層部は下級貴族と平民、ブラウンシュヴァイク公爵の上層部は上級貴族だった。ローエングラム陣営に上級貴族が寝返っても、特権が保障される見込みは薄い。ブラウンシュヴァイク陣営に平民が寝返っても、厚遇される見込みは薄い。階級の違いが寝返りを抑止したのだろう。

 

 イゼルローン要塞の陥落が内戦終結のきっかけになると予測した者がいた。数名のフェザーン人企業家が和平の仲介を申し出た。だが、ブラウンシュヴァイク派は「リヒテンラーデ=リッテンハイム連合の無能が原因」と批判し、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合は「ブラウンシュヴァイク派の非協力が問題」と言い、要塞陥落の責任を押し付け合った。

 

 敵が悪いと言っても、完全に敗戦責任を無視することはできない。イゼルローン要塞は名目的にはエルウィン=ヨーゼフ帝に忠誠を誓っていた。そのため、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合側の軍務尚書エーレンベルク元帥、統帥本部総長代理クラーゼン上級大将、護衛艦隊司令長官ローエングラム元帥、機動艦隊司令長官リンダーホーフ元帥が辞職し、総司令官リッテンハイム公爵が四長官を兼ねた。

 

 イゼルローンの敗将七名は帝都オーディンに召還されたが、そのうち二名が自決し、一名が同盟へと亡命し、三名がイゼルローン方面辺境「ニヴルヘイム」に留まり、命令に応じたのは一名に過ぎなかった。残存勢力のほとんどがメルカッツ上級大将やリンドラー上級大将ら中立派諸将の傘下に入った。

 

 今や帝国は完全に三分された。リヒテンラーデ=リッテンハイム連合とブラウンシュヴァイク派が対峙し、国境では中立派諸将が同盟軍に備える。

 

 リヒテンラーデ=リッテンハイム連合とブラウンシュヴァイク派が、同盟に軍事援助を要請したという噂があった。出してきた条件はどちらも似たり寄ったりで、内戦後の対等講和、非ゲルマン系平民に対する差別の緩和、共和主義思想の合法化、思想犯の釈放、昨年のテロに対する謝罪、オーベルシュタイン少将やフェルナー少将らテロ首謀者の引き渡しといったものらしい。現在の軍主流派に属する妹は、この噂が事実だと言っていた。

 

 前の世界と全く違う構図の帝国内戦を、同盟マスコミはどのように受け止めているのか? 穏健保守系の『リパブリック・ポスト』紙に掲載された軍事評論家ジュスタン・オランド退役准将の分析が詳しい。その要点を抜粋してみよう。

 

 帝国軍の総戦力は、正規軍宇宙部隊が二五万隻、正規軍地上部隊が二八〇〇万人、私兵軍宇宙部隊が二七万隻、私兵軍地上部隊が三三〇〇万人と推定される。その七割がエルウィン=ヨーゼフ帝に忠誠を誓い、三割がエリザベート帝に忠誠を誓う。

 

 兵力の上では、エルウィン=ヨーゼフ帝を擁するリヒテンラーデ=リッテンハイム連合が圧倒的に見える。しかし、その半数近くが「帝国軍同士の戦いに参加しない」との条件で留まった中立派部隊だ。内戦に投入できる部隊だけを比較すると、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合がやや上回る程度に過ぎない。

 

 正規軍と私兵軍の比率も見落としてはいけない。正規軍は主力艦隊や地上軍集団などの機動運用部隊、皇帝直轄領の警備部隊などで、練度・装備ともに優秀だ。私兵軍は貴族に雇われた貴族領警備部隊で、一部には正規軍並みの精鋭もいるが、そのほとんどは警察に毛が生えた程度の戦力でしか無い。ブラウンシュヴァイク派は実戦部隊の重鎮を擁しており、正規軍の比率が高かった。

 

 経済的にはリヒテンラーデ=リッテンハイム連合が有利だった。支配下の人口は、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合の一七〇億に対し、ブラウンシュヴァイク派は八〇億に留まる。中立派の支配地域は税金をエルウィン=ヨーゼフ帝に納めているため、人口の優位はそのまま経済力の優位に繋がる。それに加え、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合は、フェザーン交易路の支配権を押さえていた。

 

 両陣営の最高指導者を比べると、リヒテンラーデ公爵、リッテンハイム公爵、ブラウンシュヴァイク公爵は宮廷政治家としては超一流であれる。しかし、陰謀と利益誘導に長けた策士であり、カリスマ性があるとは言い難い。軍事指導者としては完全に未知数だ。

 

 リヒテンラーデ=リッテンハイム連合の軍事戦略担当は、軍務省第一次官エーレンベルク元帥、統帥本部第一次長クラーゼン上級大将、機動艦隊総参謀長クローナハ上級大将の三名。ブラウンシュヴァイク派の軍事戦略担当は、軍務尚書シュタインホフ元帥、統帥本部総長グライフス元帥、宇宙艦隊総参謀長シュターデン上級大将の三名。いずれも正統派の戦略家であり、両陣営の戦略能力に大きな差はないとみられる。

 

 実戦指揮官については、ブラウンシュヴァイク派が有利だ。宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥、装甲擲弾兵総監オフレッサー元帥が重鎮として控える。主力艦隊司令官経験者のグライスヴァルト元帥、ノルトルップ上級大将、キッシング上級大将、ヒルデスハイム大将らが前線部隊を指揮する。優秀な貴族士官の多くがブラウンシュヴァイク派に身を投じたため、分艦隊司令官以下も充実していた。

 

 リヒテンラーデ=リッテンハイム連合には貴族官僚や先帝側近が多く、軍事に長けた人材が少ない。頼りになるのはレグニツァの英雄ローエングラム元帥ぐらいのものだ。もっとも、筆者はローエングラム元帥に対しては、「典型的な戦闘屋。予備兵力を用意しないなど、実戦叩き上げの欠点が目立つ」と手厳しい。

 

「軍事力ではブラウンシュヴァイク派有利、経済力ではリヒテンラーデ=リッテンハイム連合が有利、指導力では甲乙つけがたい。少なくとも半年は睨み合いが続き、決着が付くまで一年以上かかるものと思われる。五個艦隊から六個艦隊を動員し、ニヴルヘイムを制圧するべきだ。そこを橋頭堡として、中間宙域『ミズガルズ』に軍事的圧力を掛けつつ、反体制運動を援助すれば、数年のうちに皇帝は音を上げるだろう。この機を逃してはならない」

 

 分析はこのように締めくくられていた。ローエングラム元帥に対する低評価が気になるが、なかなか読み応えのある内容だった。提言にも説得力がある。

 

 主要紙の中で最も上品なリベラル系の『ハイネセン・ジャーナル紙』は、リパブリック・ポストには及ばないがそれなりに詳しく分析した。そして、「片方と同盟を結び、三個艦隊から四個艦隊程度を援軍に送るのがいい。そして、勝利した後に和平を結ぶ。これこそ効率的に平和を獲得する方法だ」と提言した。

 

 過激な主張で知られるファシスト系の『デイリー・スター』紙は、今こそ帝国を滅ぼす好機だと言い、「全軍をあげて帝国に雪崩れ込むべし!」と叫ぶ。

 

 大衆主義右派の『シチズンズ・フレンズ』紙は、「今は内を固める時だ」と言い、帝国内戦には介入せずに軍拡とテロ討伐に力を入れるように説いた。そうすれば、「専制主義者が殺し合っている間に、我が国の優位は揺るぎないものとなる」のだそうだ。

 

 反戦色の強い『ソサエティ・タイムズ』紙も不介入という点では、シチズンズ・フレンズと同じだが、「帝国が弱っている時こそ講和の好機。すぐに和平交渉を始めようではないか」とまったく違う答えを出した。

 

 この五紙の違いは、背後にいる派閥の違いでもある。リパブリック・ポストはNPC主流派とロボス派、ハイネセン・ジャーナル紙は進歩党とシトレ派、デイリー・スターは統一正義党と過激派将校、シチズンズ・フレンズはNPCトリューニヒト派、ソサエティ・タイムズは反戦市民連合の意向を強く反映する。

 

 さらに言うと、五紙の主張は各派の主張でもあった。「大軍を送り込んで辺境を制圧しろ」というのがNPC主流派とロボス派だ。「片側の陣営と手を結び、講和につなげよう」というのが進歩党とシトレ派だ。「とにかく帝国をぶっ潰せ」というのが統一正義党と過激派将校だ。「内を固めろ」というのがトリューニヒト派だ。「とにかく講和を結ぼう」というのが反戦市民連合だ。

 

 一つの新聞しか読まなければ、五派の声を直接聞くことはなかっただろう。ずっと知らないままか、他人から間接的に聞くことしかできなかった。これが複数の新聞を同時購読するメリットなのである。

 

 昨年、トリューニヒト議長から、複数の新聞を購読するよう勧められたことを思い出した。

 

「複数の新聞を読み比べなさい。新聞は購読者が知りたいことを載せる。どの層がどんな言葉を聞きたがっているかを把握するのだ」

「俺は単純です。反戦派の新聞を読んで、委員長が間違ってると勘違いするかもしれません。それでもよろしいのですか?」

「構わんよ」

「委員長を批判するようになってもよろしいのですか?」

「それも構わんさ。友人を納得させられないようじゃ、一三〇億の有権者を納得させることも覚束ない」

「なるほど」

「仮に主張を違えることがあったとしても、君と私が友人であることに変わりはない。考え方が違うぐらいでいちいち絶縁していたら、離婚届が何枚あっても足りやしない」

 

 トリューニヒト議長は片目をつぶり、茶目っ気たっぷりに笑った。彼の妻は価値観も趣味もまったくの正反対な上に気性が激しいのだ。

 

 新聞を読んでみてわかったことだが、自分が属していない党派に対して正しいイメージを抱くのは本当に難しい。進歩党と聞いただけで「予算削減しか頭にないんだな」と思ったり、反戦市民連合と聞いただけで「とにかく軍隊を叩きたいんだな」と思ったりしがちだが、案外そうでもないのである。当たり前ではあるが、忘れがちなことだった。

 

 

 

 イゼルローン要塞攻略から半年が過ぎた。ヤン・ウェンリーの春は、ヤン・ウェンリーの夏、ヤン・ウェンリーの秋へと移り変わった。だが、軍縮への流れは止まるところを知らない。

 

 七月、トリューニヒト時代に再建された宇宙軍一三一個戦隊と地上軍九三個師団の再解体が正式に決まった。削減される兵力は二三六万人。これらの部隊の大半は、地方警備担当の軽編成部隊である。

 

 八月、ホワン人的資源委員長の「技術者四〇〇万人を軍から民間に戻して欲しい」という要請を受け、外征用の兵站部隊が縮小されることになった。中央兵站総軍は中央兵站軍、艦隊後方支援部隊は艦隊後方支援集団にそれぞれワンランク縮小される。統合作戦本部長シトレ元帥は、「今後はイゼルローン回廊での専守防衛に徹する。要塞周辺で戦うなら、艦隊が兵站部隊を持たなくてもいい」と述べた。

 

 他にも小規模な人員削減が頻繁に行われており、イゼルローン攻略以降の半年で六六〇万人の削減が決まった。来年一月から実施される予定だ。

 

 軍縮の原動力は第一にイゼルローン攻略の武勲だった。一五〇年も戦争をやってきた同盟では、武勲が持つ説得力はとてつもなく大きい。イゼルローン無血攻略を成し遂げたシトレ元帥とヤン中将が唱える軍縮論は、理屈抜きで正しいと思われるのである。

 

 シトレ派が誇る対帝国戦の英雄も貢献した。ラップ少将は軍縮担当の国防委員会参事官、アッテンボロー准将は国防委員会戦略部参事官に起用され、軍縮反対派を徹底的に論破した。

 

 政界から強力な援護射撃が飛んできた。進歩党と国民平和会議(NPC)主流派、七大フィクサーの中で二番目に強いアルバネーゼ退役大将が軍縮を支持した。これによって、NPC主流派と近いロボス派、アルバネーゼ退役大将と近い中間派が軍縮支持に回った。

 

 軍拡派の筆頭であるトリューニヒト派は凋落が著しい。トリューニヒト前国防委員長が下院議長の座に押し込められ、五大幹部のうちアイランズ上院議員とカプラン下院議員の汚職疑惑が持ち上がり、ブーブリル上院議員がエル・ファシル問題絡みでNPCを除名された。軍部においては国防委員会での主導権を失った。

 

 もう一つの軍拡派の統一正義党は、イゼルローン要塞攻略で盛り上がった主戦論をうまく取り込んだ。しかし、政界中枢からは排除されており、軍部では軍縮派に押され、支持率が影響力に繋がらない状況が続く。

 

 そんな中、エーベルト・クリスチアン中佐の命令違反に関する査問が終わった。最終的に「軍法会議で審議する必要はない」との判断が下り、半月の停職処分となった。合法性の点においてヤン中将に弱みがあったこと、エル・ファシル住民四〇万人から減刑嘆願の署名が寄せられたこと、査問が長引きすぎたこと、そして査問委員会やヤン中将サイドにやる気がなかったことが、軽い処分に繋がった。

 

 九月中旬、クリスチアン中佐の友人や元部下が集まり、ハイネセンポリスのバーベキューレストランを貸しきって釈放祝いを開いた。

 

 俺はモードランズから飛行機に乗って駆けつけた。国防委員会がトリューニヒト派の失点を探してる時に、国防委員長お気に入りの人物と揉めた相手を祝うのは危険だ。だが、世評を恐れて欠席したら、前の世界で自分を見捨てた連中と同じになってしまう。そんなのは嫌だ。

 

 妹のアルマはシトレ派なのに堂々と出席した。シトレ派のストイックさは好きだが反権威性が好きでない妹は、ヤン中将周辺とは交流がなく、地上軍将官との繋がりが深い。それでもかなり勇気のいる行為だろう。査問会は匿名で出席できるが、この祝いはそうではないからだ。俺を見捨てたデブと同一人物とは思えないメンタルである。

 

 他の出席者はクリスチアン中佐と同じタイプ。義理人情に厚いが血の気が多く、祖国と軍隊を熱烈に愛している。

 

「けしからん!」

 

 エーベルト・クリスチアン中佐が拳をテーブルに叩きつけた。

 

「一五〇〇万人も減らして国防が成り立つか! エル・ファシルの戦訓に学んでおらぬ!」

 

 釈放祝いの席でクリスチアン中佐は怒鳴り散らす。一年以上の拘置所生活を経ても意気が衰えることはない。

 

「そうだそうだ!」

 

 他の出席者が声を揃えて叫び、祝賀会は軍縮批判会と化した。俺と妹はテンションについていけずに傍観した。

 

 クリスチアン中佐より大きな不満を抱えているのが、トリューニヒト派である。個人的な感情に加えて政治的な事情も絡んでいた。

 

「確かにレグニツァでは失敗した。だが、エル・ファシルや対テロ作戦では結果を出した。シトレ元帥の戦略で治安を良くできたか? ゲベル・バルカルの敗北は中央情報局の責任だろうが! パストーレ元帥は被害者だぞ! 情報屋の失敗を押し付けやがって! 何でもかんでもトリューニヒト派のせいにするな!」

 

 ナイジェル・ベイ大佐が珍しく怒っていた。トリューニヒト議長の政策が全否定され、自分は辺境惑星エコニアの捕虜収容所長へと左遷された。二重の意味で腹を立てているのだ。

 

「道理のわからん奴が『レグニツァでトリューニヒト・ドクトリンは破綻した』とかほざいてとるがな。それを言うなら、シトレはもっと前から破綻しとるぞ。あいつが軍縮に走ったせいで軍が弱くなったのだからな。ここ三年の劣勢は全部シトレが悪い。我が派はシトレの尻を拭くために苦労したのだ。大軍を揃えるという用兵の基本を無視して勝てるものか。小細工がまぐれ当たりしただけで威張りおって。ただでさえ図体がでかくて目障りなのに最近はもっと目障りだ。でかいのがそんなに偉いのか。さっさと死んでしまえ」

 

 第二艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将は早口でまくしたてた。シトレ元帥の高身長が気に入らないと言ってるように聞こえるが、たぶん気のせいだろう。

 

 穏健保守はシトレ派の軍縮路線に追随した。しかし、穏健と言っても保守は保守。個人レベルでは不満があるようだ。

 

「与党がここまでラディカルな政策転換をするとは。野党が勝った方がましだった」

 

 第一一艦隊司令官フィリップ・ルグランジュ中将は、たくましい肩をがっくりと落とす。

 

「軍拡しろとは言わないけどさあ。軍縮は困るよねえ」

 

 第三六機動部隊のイレーシュ・マーリア副参謀長が困った顔で腕組みをする。彼女が敬語を使わない時は、副参謀長としてでなく個人としての意見を表明する時だ。

 

 時には真面目な話になる。今日は軍縮の話題になった。ダーシャはリベラリストで和平論者なのに、この軍縮に賛成していない。

 

「だって、功績を盾にごり押ししてるだけじゃん。民主主義的じゃないよ」

 

 ダーシャはいつも原理原則にこだわる。ほんわかした丸顔とは裏腹に、性格は四角四面だ。

 

「軍縮と和平が達成できてもか?」

「みんなが納得してないと反動がすぐに来るよ。和平なんてどちらかが破ったら終わるんだから。だいいち、この状況だってパトリオット・シンドロームの反動でしょ」

「耳が痛いな」

 

 俺は苦笑いした。パトリオット・シンドロームが吹き荒れていた頃、トリューニヒト派は強引に事を進めすぎた。その反動がヤン・ウェンリーの春なのだ。

 

「シトレ派は地位もお金もほしくないって人が信念で結びついてるの。利権を差し出しても聞いてくれないし、頭を下げて『顔を立ててくれ』と頼んでも聞いてくれない。信念が同じか違うかだけが基準。だから、戦って優位に立つ以外の発想ができない。あの人たちのシンプルさは軍事に向いてるね。でも、政治に口出しさせたら国を滅ぼすよ」

 

 ダーシャはシトレ派を激しく批判した。彼女に言わせると、トリューニヒト議長は「大した人じゃない」、シトレ派は「危険過ぎる」のだ。

 

「国を滅ぼすというのは大げさじゃないか」

 

 前の世界のことを俺は思い浮かべた。自由惑星同盟は宇宙暦八〇〇年に滅びたが、それはシトレ派やヤン・ファミリーの言うことを聞かなかったせいだった。

 

「あの人たちっていつも戦ってばかりでしょ。自由の敵と戦うことが自由主義。平和の敵と戦うことが平和主義。論敵をやり込めることが議論。体を張って戦う奴が偉くて、体を張らない奴が戦いに口を出すのは大嫌い。根っからの好戦家集団よ。行き着く先は敵を殺し尽くすか、あるいは自分が殺されるか。ルドルフが歩いた道だね。自由や平和とは逆方向もいいところ」

「さ、さすがにそれは……」

 

 心の底から引いてしまった。確かにシトレ派は喧嘩好きだ。取り引きより相手を言い負かすのを好む傾向はある。体を張らないのに戦いに口を挟む人間を極端に嫌うのも事実だ。しかし、結論があまりに突飛過ぎる。そこまで殺伐とした集団じゃないと思うのだが。

 

「相手が軍国主義者と見たら、途端に刺々しくなる人を平和主義者とは言わないよ」

「だから相容れないわけか」

「そういうこと。軍国主義者との間でも平和を成立させるのが平和主義者だと思うの」

「俺やワイドボーン准将との間にも平和が成立させてるな、君は」

 

 俺は冗談めかして言った。ダーシャは言葉がきついが、他人に喧嘩を売ることはないし、考えの違う相手と付き合えるし、嫌いな相手に礼を欠くこともない。だからこそ、小物の俺とも仲良くできる。

 

「誰とだって平和に付き合いたいよ。アッテンボローみたいな奴はどうしようもないけど。あれの脳みそは、相手がマジョリティと判断したら、自動的に喧嘩を仕掛けるようにプログラムされてるから」

「有害図書愛好会だったか」

「そうそう。あいつは風紀委員会と喧嘩したかっただけなのよ。禁書はほとんど読んでないんじゃないかな」

 

 喧嘩したかっただけで禁書を読んでないというのは、前の世界で読んだアッテンボローの回顧録『革命戦争の回想――伊達と酔狂』にも書かれていた。要するに根っからの喧嘩好きなのだ。

 

「彼らしいな。会ったことはないけど」

「会わないに越したことはないよ」

「そう思う」

 

 俺は世間から「軍人精神の塊」「献身的でストイックな武人」と思われてる。ただ呼吸するだけで、アッテンボロー准将の反骨精神を刺激するだろう。

 

「ブラッドジョー大佐も同類よ。エリヤが軍国主義の生きたシンボルみたいになったから、急に冷たくなったの」

「そんな理由で俺は嫌われたのか?」

「あの人の性格からすると、他の理由はないと思うよ。体制側にいるってだけで他人を嫌いになれる人だったから」

「思い当たるふしが無いわけじゃない。でもなあ……」

 

 理性では分かる。ブラッドジョー大佐はヤン・ファミリーと同じ気質の持ち主。今の俺を嫌うのはごく自然なことだ。しかし、感情が納得しない。

 

「いい加減、あの界隈に幻想を持つのはやめた方がいいよ。トリューニヒト議長の一〇〇倍、いや一万倍危険だから」

「そうか?」

「エリヤはヤン中将を尊敬してるでしょ?」

「表向きは不仲ってことにしてるけどな。本音では凄い人だと思ってるぞ」

「あの人は危険よ。軽薄な才子だと思ってたけど、そんなんじゃない。エル・ファシルで一緒に働いて分かった。あの人は心の底から国家と軍隊を嫌ってる。憎んでるとすら思う。いつか国家と軍隊の敵になる人だって感じた」

「考えすぎだろう」

 

 俺は笑い飛ばした。心の底から国家や軍隊を嫌ってるというダーシャの洞察は正しい。しかし、敵対するところまで行くものだろうか?

 

 前の世界ではヤン・ウェンリーは自由惑星同盟と敵対したが、それは当時のレベロ最高評議会議長に粛清されかけたからだ。そういえば、レベロはダーシャと同じ自由主義者。そして、同じようにヤンを危険視していた。つまり……。

 

「考えすぎだ」

 

 繰り返すように俺は言った。ダーシャでなく自分の考えすぎをたしなめるために言った。ヤン中将に疑いを抱くなど思いも寄らないことだ。

 

 俺の周囲には、ヤン中将に親和的な人がいない。前の世界で愛読した『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』の著者の周囲には、トリューニヒト議長と親和的な人がいなかったらしいが、それとは対照的だ。いつかヤン中将側の意見を直接聞きたいものだ。そうでないとフェアではない。

 

 今や同盟はシトレ派の天下と言っていい。だが、その水面下で右寄りの人々は不満を溜めこんでいった。いわば薄氷の上の平和だったのである。



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第53話:神々の黄昏 797年10月下旬~11月上旬 モードランズ官舎~カフェ「パリ・コミューン」~無人タクシー

 平和なおかげで友人知人が良く遊びに来る。一〇月第二週の週末、妹のアルマがやって来た。彼女の官舎は北大陸のハイネセンポリス、俺の官舎は西大陸のモードランズ。当然ながら泊まりがけである。

 

「どうしたの、お兄ちゃん?」

「いや、凄いなあと」

 

 俺はまじまじと妹を眺めた。

 

「そう? テレビ見てるだけなのに」

 

 妹の言う通り、一見すると足を投げ出してテレビを見てるような姿勢だ。しかし、よく見ると彼女の尻からつま先までは地面から浮いている。そして、その腕はゆっくり上下していた。テレビを見ながら腕を鍛えているのだ。

 

「そこまでできねえわ」

「慣れよ慣れ」

 

 のほほんとした顔で妹は菓子に右手を伸ばす。その間も姿勢が揺らぐことはなく、左手だけでこの姿勢を維持していた。

 

「冗談じゃねえ」

 

 笑うしかない。妹は呼吸をするように体を鍛える。その筋肉は男性のトップアスリートと比べても遜色なかった。

 

 筋肉は凄いが戦技も凄い。再会直後、射撃・徒手格闘・ナイフ・戦斧の全種目で腕比べをして負けた。一〇回に一回も勝てなかった。ヴァンフリート四=二基地にいた頃に、薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)の隊員と組手をした時以来の経験だ。

 

「なあ、アルマ」

「なに?」

「薔薇の騎士連隊の隊員が『一〇メートルなんて、ビームライフル相手だったらハイネセンポリスのメインストリートを歩くようなもんだ』って言ってたんだ。アルマもそう思うか?」

「そりゃそうでしょ」

 

 妹が「なに言ってんだ」と言うような顔で俺を見る。

 

「ビームライフル持った一〇メートル先の敵を戦斧だけで倒せるか?」

「一二メートル先までなら余裕」

「自信あるんだな」

「戦斧は四種目の中で一番苦手だけど」

「…………」

 

 次元が違いすぎる。

 

「じゃあ、薔薇の騎士連隊のシェーンコップやリンツと戦って勝てるか?」

「無理。三〇秒以内に負ける」

「ブルームハルトやデア=デッケンには勝てるだろう?」

「五回やって一回勝てるかどうか」

「上には上がいるんだな」

 

 俺は舌を巻いた。こんな妹でも薔薇の騎士連隊のトップクラスには敵わない。前の世界の強者は桁が違う。

 

「私らは軍人だけどあの人らは騎士だから。個人技じゃ敵わないよ」

「騎士って比喩だろ?」

「違うよ。帝国の地上軍と装甲擲弾兵が個人技重視なのは知ってる?」

「ベッカー少佐から聞いたことがあるな。貴族精神との関係だとか」

「で、薔薇の騎士連隊は宣伝用の部隊なの。帝国流の戦い方で勝たないと、向こうへのアピールにならない。だから、一騎打ちで勝てるように鍛えてるわけ。個人戦をやらない私らとは根本的に違うのよ」

「なるほどなあ」

 

 地上戦のプロが語る薔薇の騎士連隊の強さの秘訣。実に興味深い。

 

「ま、団体戦なら間違いなく私らが勝つけどね」

 

 妹が不敵に微笑む。このプライドの高さはエリート特有のものだ。自分が一番と思わない奴に、一番を目指すなんてできやしない。

 

 薔薇の騎士連隊は宇宙軍陸戦隊最強。アルマが在籍する第八強襲空挺連隊は地上軍最強。お互いに対抗意識がある。

 

 激戦地に投入される薔薇の騎士連隊にとって、軍上層部が切り札として大事にしている第八強襲空挺連隊は「鼻持ちならないエリート連中」だった。そして、第八強襲空挺連隊は自分こそが同盟体制を支えてきたとの自負から、はみ出し者揃いの薔薇の騎士連隊を「ならず者集団」と呼ぶ。

 

 物語の世界では、プライドは持っていれば邪魔で、捨てれば強くなるもののように言われる。だが実際は違う。プライドとは過去の努力に対する自信であり、未来に向けた努力の原動力であり、逆境で自分を支えてくれるものだ。プライドの高い奴は強い。「あいつらにだけは負けたくない」という意地が、薔薇の騎士連隊と第八強襲空挺連隊を精鋭たらしめる。

 

 薔薇の騎士連隊はイゼルローン要塞を陥落させた。第八強襲空挺連隊はより大きな武勲を立てようと励んでいることだろう。

 

「期待してるぞ」

「まかしといて」

 

 妹は平たい胸を右手で叩く。もちろん姿勢はまったく揺らいでいない。

 

「地上軍が陸戦隊より上だってじきにわかるから」

「本当に介入するのかな」

「間違いないでしょ。統合作戦本部がヤン提督の作戦案を認可したから」

「初めて聞いたぞ」

「おととい決まったからね。公になるまで一週間はかかるんじゃない?」

「そういうことか」

 

 俺は大きく頷いた。国防委員長が代わって以来、軍中枢の情報が入ってこなくなった。一方、妹はシトレ派である。今では俺が妹から情報を教えられる側だった。

 

「私たちの出番はそう遠くないよ」

 

 妹が爽やかに笑う。政府は帝国内戦に介入したがっているというのは、同盟市民なら誰でも知っている。

 

 イゼルローンにおける勝利はあまりに鮮やかすぎた。そのため、ボナール政権の勝利でなく、シトレ元帥とヤン中将の勝利と受け止められてしまい、政権浮揚効果は一時的なものに留まった。

 

 経済問題がボナール政権の足を引っ張った。レベロ財政委員長が財政支出削減と大型増税を断行し、不景気が一層ひどくなった。フェザーン自治領主府の同盟国債購入額の減額、フェザーン政策投資銀行の投資資金の一部引き上げが追い打ちをかけた。イゼルローン攻略の際に捕虜となった帝国兵七〇万人、帝国領から流れ込んできた難民五〇〇万人が財政に負担をかけた。経済成長率は下がり続け、失業率は上がり続けている。

 

 そんな時に惑星マスジットの道路整備事業をめぐる汚職が発覚し、グロムシキン地域社会開発委員長らNPCの議員四名が逮捕された。NPCの汚職は年中行事のようなものだが、未成年による性的接待を受けていたとなると、話は違ってくる。市民は政治家の不道徳ぶりに怒った。

 

 地方問題でもボナール政権はつまずいた。トリューニヒト前国防委員長は、テロ対策の一環として地方星系に民生支援を行ったが。国防委員長が交代すると廃止された。地方交付金や地方警備部隊の削減とあいまって、地方の反中央感情に火がついた。エル・ファシルでは復興予算削減に抗議するデモが騒乱へと発展し、カッファーでは美徳教過激派が惑星政庁を占拠し、ミトラではアングィラ独立派によって地下鉄が爆破された。

 

 国家安全保障顧問アルバネーゼ退役大将、元情報部長ジャーディス上院議員ら穏健派国防族は、反軍縮派を「一部勢力が地方を煽っている」と批判し、ボナール政権の安全保障能力に問題がないことを強調した。だが、有権者の信を得るには至っていない。

 

 三月末に五八パーセントだった政権支持率は、九月末には三三パーセントまで落ちた。九月に実施された二つの星系議会選挙のうち、一つは統一正義党、もう一つは反戦市民連合が勝った。今月末にドーリア星系議会選挙が実施されるが、連立与党の敗北が確実視される。

 

 与党が低迷する一方、極右の統一正義党はイゼルローン攻略で盛り上がる主戦論者を取り込み、反戦派の反戦市民連合はパトリオット・シンドロームの再来を恐れる反戦論者の支持を集めた。連立与党は左右から挟撃された形だ。来年の上院選挙での与党敗北は避けられないだろう。

 

 帝国内戦が終わる気配はない。フェザーンの企業家による調停が失敗に終わった後、自治領主ルビンスキーが自ら調停に乗り出したが、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合とブラウンシュヴァイク派は和解を拒んだ。和解を主張したローエングラム元帥は、「反乱軍迎撃の総指揮を取れ」と言われて対同盟前線のニヴルヘイム総管区に飛ばされた。

 

 内政の不安、外敵の分裂、高まる主戦論。三つの事実が「外敵の分裂に乗じて出兵し、その戦果をもって内政を安定させる」という答えを導き出す。軍縮は「削減される前に兵を動かさないともったいない」という心理を生む。かくして、出兵が避けられない情勢となった。

 

 どこかで見たような展開だ。前の世界においても、イゼルローン攻略は支持率に結びつかなかった。当時のサンフォード政権は政権浮揚を図るため、無謀な帝国領侵攻を行って同盟を滅亡させたのだ。

 

 様々な出兵案が検討された。シトレ派は「内戦終結後の講和を条件に片方と軍事同盟を結び、四万隻を援軍に送るべき」と主張し、ロボス派は「七万隻を派兵して、ニヴルヘイムを帝国から奪取しよう」と提案し、過激派は「一〇個艦隊で帝国中枢『アーズガルズ』へ侵攻せよ」と叫ぶ。

 

 軍部主要派閥の中でトリューニヒト派だけが出兵に反対した。「今は軍備増強と国内治安回復に集中する時だ」と言うのがその理由である。統合作戦本部のC次席副官は「対テロを名分にやりたい放題したいだけ」、国防委員会のA参事官は「軍需企業から金をもらってるんだろう」と切り捨てる。軍縮論と主戦論の双方に逆行する意見が通る見込みは薄い。

 

 フェザーン自治領主府も出兵反対派だ。軍事バランスがこれ以上同盟に傾いたらまずいと思っているのだろう。出兵反対・国内治安優先の世論を煽ろうとしたが、かえって「フェザーンが出兵を止めるためにテロを煽ってるんじゃないか」との疑惑を招いた。フェザーンがトリューニヒト派と組んでクーデターを企んでるとの噂が流れ、NPC系と進歩党系のマスコミが反フェザーンキャンペーンを始めたこともあり、情報操作は完全に失敗した。

 

 前の世界では実現しなかった帝国内戦への介入が、こちらの世界では現実味を帯びつつある。ヤン・ウェンリーの平和が終わりに近づいていた。

 

 

 

 一一月上旬、俺は国防委員会の研修会に出るために出張した。国防委員会庁舎は三か月前までトリューニヒト派の牙城だったが、今は反トリューニヒト派の士官が闊歩している。

 

 いたたまれない気持ちを感じつつ庁舎を出た。服を着替えて地下鉄に乗り、エンリッチ区ウィナーフィールド街のカフェ「パリ・コミューン」へと向かう。目的は二年ぶりとなる親友アンドリュー・フォーク准将との面会。

 

「良くこんな店を見つけたな」

 

 アンドリューは店の中を見回した。一番目立つ場所に貼られているのは、反戦中学生から反戦大学生になったコニー・アブジュのポスターだ。その他の場所にも反戦団体のポスターがべたべたと貼ってあり、レジの前には反戦ビラが山のように積まれている。

 

 窓からは反戦市民連合の看板が見える。この地区の場合、一五メートルから三〇メートルに一つの割合でこういった看板があった。

 

「ここなら現役軍人は来ないだろう」

「まあ、確かにな」

「ウィナーフィールドはハイネセンポリスでも一番反戦派の力が強い街だ。軍服を着て歩くだけで白い目で見られる。目を光らせる奴も少ないってことさ」

 

 俺とアンドリューは普段は着ないような服を着用し、伊達眼鏡をかけるなど、ひと目でわからないように変装している。トリューニヒト派にはロボス派から寝返った人物が多いため、俺とアンドリューが親しくしていると派閥が嫌な顔をする。そのため、気を使う必要があるのだ。

 

「辛気臭い話はここまでにしとこうか」

「そうだな、まずは――」

 

 俺は妹との再会、帰郷中の出来事などについて話した。

 

「帰郷中は毎日同じ時間に起き、同じ時間に食事し、同じ時間にトレーニングして、同じ時間にベッドに入った。食事の栄養バランスは厳密に計算した。思いきり羽根を伸ばせたな」

「それは羽根を伸ばしたとは言わないぞ」

「こんな時じゃないと規則正しく暮らせないんだよ。栄養素をきっちり計算して食べるなんてことも普段はなかなかできないしね」

「なんでそこまで自己管理が大好きなんだ?」

「汗をかくのって楽しいじゃないか」

「それ以上の理由がありそうに見えるけどな」

 

 アンドリューは鋭い。俺のトレーニング好きに趣味以上の何かがあることを見抜いている。

 

「怖いんだ」

「怖い?」

「ああ。手足が自由に動かなくなったり、足腰が痛んだり、物が見えにくくなったり、歯が抜け落ちたり、胃が苦しくなったり、少し歩いただけで息切れしたりするのが怖い」

「まだ三〇前だろうに」

「体を悪くしてからじゃ遅い。今のうちから気を使わないと」

「年寄りみたいなことを言うんだな」

「ボロボロの年寄りを知ってるからね」

 

 その年寄りとは自分自身のことだ。前の人生では酒、麻薬、ストレス、迫害の後遺症のために、体がボロボロになった。体が思い通りに動かないというのは本当に辛いものだ。

 

「身につまされたってわけか」

「そういうことさ。アンドリューもそろそろ有給を取ろうぜ。トレーニングで汗を流して、規則正しい食事と睡眠をエンジョイ……」

「無理だね」

「まあ、言うだけ言っただけさ」

 

 俺は寂しそうに笑う。今のアンドリューは控えめに見ても病んでいた。顔からはげっそりと肉が落ち、目からは光が失われ、口角は歪んだように下がっている。声のトーンは急に上がったり下がったりして一定しない。前の世界のビデオで見た狂人参謀そのままだ。しかし、休む暇が無いのもわかるから、あまり強くは言えない。

 

 アンドリューが仕える宇宙艦隊司令長官ロボス元帥には後がない。元帥になって以降、第三次ティアマト会戦以外にはいいところがなかった。そして、統合作戦本部が認可した内戦介入作戦「槌と金床」においては、副司令長官ボロディン中将が総司令官に予定される。司令長官の座から陥落寸前だ。

 

「最近は作戦を作るのに忙しくてな。おちおち休んでもいられない」

「忙しいのに良く来てくれた。本当にありがとう」

「雑談をするためだけに来たわけじゃない。見せたいものがある」

 

 そう言うと、アンドリューはバッグの中からファイルを取り出す。その表題は『新規出店計画概要』だが、擬装用の名前だろう。

 

「読んでくれ」

「分かった」

 

 俺は『新規出店計画概要』に目を通した。

 

「これは……」

 

 本当の題名は『神々の黄昏(ラグナロック)作戦』。なんと、前の世界でラインハルトが同盟領に遠征した際の作戦と全く同じ名前だ。

 

 アンドリューが作ったラグナロック作戦は、帝国内戦への介入計画だった。総司令官はロボス元帥、宇宙艦艇は二二万四〇〇〇隻、総人員は三一九〇万人。コルネリアス一世の同盟領遠征軍、最盛期の銀河連邦が一度に動員した戦力を上回る。人類史上最大の大軍である。

 

 作戦目的は「大軍をもって帝国領内の奥深くに侵攻し、敵の心胆を寒からしめる」、方針は「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処する」という曖昧なものだ。

 

 情勢については、「帝国は内戦と食糧不足に苦しんでおり、イゼルローン陥落による動揺も大きい。暴動は日常茶飯事だ。今や帝政は瓦解しつつある。我が軍が到達すれば、民衆は決起するだろう」と分析する。少し甘すぎやしないだろうか。

 

 手順としては、第一段作戦「フィンブルの冬」で国境宙域「ニブルヘイム」、第二段作戦「ギャラルホルンの叫び」で中間宙域「ミズガルズ」を制圧し、第三段作戦「ヴィーグリーズ会戦」で中枢宙域「アースガルズ」に入り、第四段作戦「スルトの炎剣」で首星オーディンを攻め落とす。所要期間は三か月。一応の目的はオーディン攻略だが、場合によってはそれ以前に目的達成となる場合もあるらしい。なんとも曖昧だ。

 

 内戦の当事者であるリヒテンラーデ=リッテンハイム連合、ブラウンシュヴァイク派とは同盟しない。亡命者が結成した「全銀河亡命者会議」、帝国国内の「反帝政武装戦線」「ペテルギウス革命軍」「共和主義地下運動」など帝国反体制派との協力を目指す。

 

 とても微妙な気持ちになった。前の世界で大失敗した帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」と酷似した内容だったからだ。

 

「感想を聞かせてくれ」

「正直に言っていいか?」

「構わない」

「雑すぎる」

 

 第一印象をそっくりそのまま伝えた。

 

「概要だからな。本文はもっと詳細だぞ」

「概要がこれじゃあ、本文もスカスカじゃないのか」

「そんなことはない」

「希望的観測に基づいてるように見えるな。ここまでうまくいくとは思えない」

「大丈夫だ」

「帝国国内はそこまで不安定なのか? 反体制派とやらはあてになるのか? 住民がなびかなかったらどうする?」

 

 俺は次々と疑問点をぶつける。

 

「問題ない。情報部と全銀河亡命者会議が太鼓判を押してる」

「帝国軍の総兵力は五〇万隻以上。二〇万隻じゃ足りないぞ」

「敵は貴族領を守るために戦力を分散してくるはずだ。そうしないと見限られるからな。容易に各個撃破できる」

「リヒテンラーデ=リッテンハイム連合とブラウンシュヴァイク派が講和したら?」

「もともとは内戦が起きてない想定で立てた作戦だ。そちらのプランを使う」

 

 アンドリューがバッグから別のファイルを取り出して開く。題名は『諸惑星の自由』。前の世界で自由惑星同盟を滅亡に至らしめた作戦だ。

 

「五〇万隻と二〇万隻で戦えるというのか?」

「資金や兵站を考慮すると、敵が一度に動かせる兵力は六万隻から七万隻。反体制派を決起させ、小規模の別働隊を放って後方を撹乱したら、四万隻から五万隻まで減らせる。大きな会戦に何回か勝てば、帝国軍は崩れるはずだ」

「ノイエ・シュタウフェン公爵のように焦土作戦を使ってくるかもしれない。少しでもその可能性を考えたか?」

 

 とどめに前の世界の知識を使う。ラインハルト・フォン・ローエングラムではなく、四世紀前に共和主義者の反乱を焦土戦術で鎮圧したノイエ・シュタウフェン公爵の例をあげる。

 

「帝国軍がそこまで馬鹿だったらありがたいんだけどな」

「馬鹿な作戦か?」

「ルドルフやジギスムント一世の時代とは違う。帝国政府に領主や住民を黙らせる力はない。焦土作戦をやったら反乱が起きるし、撤収前に同盟軍がやってくるかもしれない。同盟軍に内応する惑星も出てくるな。愚策中の愚策だぞ」

 

 アンドリューは焦土作戦が無理な理由を理路整然と語る。

 

「言われてみるとそうか」

 

 引っかかるところはある。しかし、焦土作戦が可能だとする根拠を俺は持たない。リヒテンラーデ=リッテンハイム連合、ブラウンシュヴァイク派はさまざまな勢力の寄り合い所帯であり、一枚岩とは程遠い。ニヴルヘイムに権益を持つ貴族への配慮も必要だ。常識的に考えると、焦土作戦は反発を招くだけの愚策である。

 

 ラインハルトの伝記『獅子戦争記』はラインハルトが物資を接収したと述べるだけで、焦土作戦の詳細は書いていない。当時は帝国が統一されていた。前の世界で得た知識は参考にできない。

 

「帝国は建国からずっと反乱リスクを抱えてきた。強大な軍事力、警察・憲兵・社会秩序維持局・国民隣保組織の『鉄の四角形』による監視体制、減税や恩赦のような人気取り政策で抑えこんでるだけだ。今や帝国の反乱リスクは最高潮に達した。誰かが火をつければ一気に燃え上がる」

「それはわかるけどな」

 

 アンドリューの言うこと自体は間違っていない。先帝フリードリヒ四世の時点で、帝国が崩壊に向かいつつあるのは明白だった。中央政府にはリーダーシップが欠如し、宮廷陰謀や地方反乱が年中行事となり、亡命高官の言葉を借りると「革命の八歩手前」であった。

 

「この作戦には情報部が全面協力している。不満分子に対する工作は十分だ。帝国国内の星図、星系ごとの政治情勢、部隊や基地の配置に関する情報も手に入れた」

「情報部なあ。シャンプール・ショックでしくじった連中だろう。信じていいのか?」

「しくじったのは防諜部門、情報部では傍流中の傍流だ。俺たちが組むのは対外情報部門。情報部の主流さ」

「対外情報部門ねえ」

 

 俺は二つの意味で微妙な気持ちになった。防諜部門は俺の恩師ドーソン中将の出身母体だ。そして、対外情報部門はアルバネーゼ退役大将らサイオキシンマフィア幹部の古巣で、現在もその影響が強く残っている。

 

「イゼルローン要塞攻略でも活躍したんだぞ」

「どんな活躍をしたんだ?」

「要塞内部やアムリッツァ基地の正確な情報を手に入れた。内通者を使って帝国軍の疑心暗鬼を煽った。通信設備やレーダーの一部を故障させた。正しい情報を同盟軍が出した偽の命令が本物の命令に見えるよう工夫した。ヤン中将の作戦は巧妙だったし、内戦の影響で敵情報機関が弱体化していたが、それを差し引いても何割かは情報部の手柄だろうな」

「情報部がヤン・マジックの道具を用意したと」

 

 前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』によると、ヤン・ウェンリーは「正しい判断は、正しい情報と正しい分析の上に成立する」と語った。対外情報部門は正しい情報を提供したことになる。

 

「戦いには機というものがある。条件は整った。今こそ大攻勢に出る時だ」

 

 アンドリューの目が熱っぽい光を帯びる。

 

「そ、そうか」

 

 俺は軽くたじろいだ。確かに条件は整っているように見える。だが、それを語るアンドリューが危なっかしく思えた。

 

「モードランズに戻る前に、トリューニヒト先生に会うよな?」

「まあな。『最近は来客が少なくて寂しい』と言ってたし」

「トリューニヒト先生に働きかけて欲しい。この作戦をどうしても実現させたいんだ」

「働きかけてどうする? トリューニヒト先生はもう国防委員長じゃないぞ」

 

 認めたくはないが、トリューニヒト下院議長はボロボロだ。派閥は国民平和会議(NPC)主流派に切り崩されている。出兵反対論を唱えたために、主戦派からは「裏切り者」「フェザーンの回し者」と罵られ、今月一日には暗殺未遂事件まで起きた。

 

「女性と若者からの人気がある。トリューニヒト先生の支持があると無いでは大違いだ」

 

 前半部分はわかる。タレント的な意味でのトリューニヒト人気は根強い。しかし、後半部分が理解に苦しむ。アンドリューがなぜそんなものを必要としているのかがわからない。

 

「君のバックにいる先生には許可をとったのか?」

「取らなくてもいい。誰もいないから」

「誰もいない?」

「この作戦は宇宙艦隊司令部の若手有志で作った。動いてるのも俺たちだけだ」

 

 アンドリューは妙なことを言った。どんどん話が怪しくなっていく。

 

「情報部や全銀河亡命者会議から情報をもらってるって言わなかったか?」

「力を貸してもらった」

「宇宙艦隊総司令部の作戦じゃなくて、ロボス・サークルの若手が私的に作った作戦。そう受け取っていいんだな」

「構わない」

「どこまでこの話は広がってる?」

「今のところは有志ってレベルだな。エリヤの上官も仲間になってくれた」

「ホーランド少将かよ」

 

 頭が少し痛くなった。武勲を立てたいのは分かるが、こんな怪しい話に絡まないでほしい。

 

「味方は多ければ多いほどいい。トリューニヒト先生に話を持っていってくれ。できないというなら、せめてエリヤだけでも仲間にしたい」

「仲間を増やす必要があるのか? 統合作戦本部に提出すればいいだろう」

 

 俺は努めて穏やかな声を作る。

 

「提出はした。けれども、通る見込みはないな。ヤン中将の案が通ってしまったから」

「だから、政治工作に訴えると」

「そうだ」

「悪いけど協力できないな」

 

 冷ややかに聞こえないように精一杯配慮しつつ、拒否の意を伝える。

 

「俺の頼みでもか?」

「友達だったらなおさらだ。君には筋を曲げるようなことはしてほしくない」

 

 アンドリューと視線を合わせてから、俺は言った。

 

「先に筋を曲げたのはシトレ元帥だぞ。イゼルローン攻略作戦の時は、作戦部が『成功の見込みが薄い』と反対したのにヤン提督の案をごり押しした。自分の立場を強めるためにな。今回もヤン提督の案をごり押ししてきた」

「今回の案は良くできてる。ごり押しが無くても通ったと思うぞ」

 

 数日前に発表されたヤン案の内容を思い浮かべる。ブラウンシュヴァイク派と手を結び、内戦終結後の無期限講和及び相互軍縮条約の締結を条件に、四個艦隊を派遣する計画だ。総司令官は宇宙艦隊副司令長官ボロディン中将が務める。

 

 シトレ派所属の妹によると、ブラウンシュヴァイク派と組んだ理由は、第一に「少数派と組んだ方が帝国をより疲弊させることができる」、第二に「中立派諸将を内戦に巻き込む」、第三に「最大の軍事的脅威であるローエングラム元帥の力を削ぐ」、第四に「少数派を政権に就けることで、帝国の不安定化を促し、外征を考えられないようにする」というものだそうだ。

 

 注目すべき点は二番目の理由だろう。同盟軍がブラウンシュヴァイク派の援軍としてやって来た場合、「内戦に参加したくない」という動機以外の共通点がない中立派諸将は、難しい立場に追い込まれる。中立を固持して同盟軍との戦いを避ける者、中立をかなぐり捨てて同盟軍と戦う者、ブラウンシュヴァイク派有利と見て同盟軍に協力する者に分かれるだろう。同盟軍はブラウンシュヴァイク派と組むだけで中立派諸将を分裂させられる。

 

 講和と同時に相互軍縮条約を結ぶのもうまい手だと思う。軍縮対象となるのは恒星間航行能力を持つ軍用艦で、最終的な戦力比率を同盟一〇〇対帝国一二〇と定める。現在は同盟軍が約三五万隻前後、帝国軍が約五二万隻前後で、比率は同盟一〇〇対帝国一四九になる。帝国側に不利な内容に見えるが、帝国のGDPは同盟の一・二倍程度なので、経済力に見合った最大限の戦力保持を認めるものと言えよう。一方、地上戦力の保有制限はないため、帝国が治安維持用の戦力に困ることはない。お互いに外征戦力を制限することで、講和の永続化を図るのだ。

 

「戦後処理にまで配慮が行き届いている。さすがはヤン提督だ」

 

 俺は「あえてこと別の案を出すことはない」というニュアンスを込めて言う。

 

「愚策じゃないか」

「愚策?」

「見通しが甘すぎる。本当に講和を結べると思うのか?」

「成算があるんだろう。『作戦は計算で作るものだ』とアンドリューは言ってたよな? そして、ヤン中将は作戦のプロだ」

「作戦のプロが政治のプロとは限らないぞ? ヤン中将の案は内戦を長びかせるための案だ。途中でフェザーンが介入してきたらどうする?」

「それがあったか」

 

 俺は軽く舌打ちした。フェザーン自治領主府が講和を望んでないのは周知の事実だ。

 

「勢力均衡政策との兼ね合いもある。銀河の軍事バランスは同盟に大きく傾いた。何としても帝国側に戻したいと、フェザーンは思ってるはずだ」

「ヤン中将なら対応策はあると思うけど」

 

 何の根拠もなくそう言った。ヤン中将がどんな策を用意しているのかはわからないが、無策ではないと思う。

 

「問題はヤン中将じゃない。そのバックだぞ」

「そうか、フェザーンと直接駆け引きするのは政治家なんだな。ヤン中将は提案しかできない」

「ヤン中将のバックにいるのはレベロ先生とホワン先生、そして財政委員会官僚。この人らがフェザーンと渡り合えると思うか?」

「厳しいね」

 

 考えるまでもない。レベロ財政委員長やホワン人的資源委員長は、まっとう過ぎる政治家だ。今の財政委員会官僚に大物と言われる人物はいない。「フェザーンの黒狐」ことフェザーン自治領主ルビンスキーと権謀術数を競うのは無理だろう。

 

「さらに言うと、ヤン中将とレベロ先生らの繋がりは、シトレ元帥を通じた間接的なものでしかない。信頼関係が薄いのさ」

「反フェザーン勢力はどうなんだ? 一応、ヤン中将を支持してるはずだけど」

「彼らは俺たちの味方に着く」

「えっ!?」

 

 一瞬だけ心臓が止まった。反フェザーン勢力は目立たないが弱小勢力とは程遠い。アルバネーゼ退役大将らサイオキシンマフィアの他、旧財閥、大手業界団体、伝統宗教といった古い勢力の集まりだ。エリートとは言え若手参謀がそれを動かしたなんて信じられなかった。

 

「オーディンが陥落したらどうなる?」

「帝国は壊滅するね」

「そして、同盟と帝国の勢力比が完全に崩れる。フェザーンの勢力均衡策もな」

「ま、まさか、君たちの目的は……」

 

 声が震えた。体が震えた。とんでもないことだ。想像したとおりなら、反フェザーン勢力も喜んでアンドリューに味方するだろう。

 

「フェザーンの天秤を叩き壊す。それがラグナロック作戦の真の目的だ」

 

 想像が的中したとアンドリューが教えてくれた。

 

「とんでもないな。それなら確かに作戦目的を曖昧にするしかない」

「帝国領の何割を支配したら壊れるとか、主力艦隊の何割を壊滅させたら壊れるとか、そういった目安がないから、はっきり書きようがないんだ」

「だよなあ」

 

 大きく息を吐き、俺はコーヒーを飲む。前の世界の戦記によると、アンドリューが立案した帝国領侵攻作戦の内容は恐ろしく曖昧で目的すら決まってなかったが、その理由がやっと理解できた。フェザーンの勢力均衡策を打破するなんて、公言できるはずがない。

 

「同盟単独の勢力を一〇〇の中の四〇から五五まで持っていく。そうなったら、もはやフェザーンは手も足も出ない。銀河に『同盟の平和』が訪れる。ロボス元帥と俺たちの手でな」

 

 アンドリューは「ロボス元帥」に力を込めた。

 

「君自身はどうなんだ?」

「俺自身?」

「ああ。君はいつも『ロボス閣下』『俺たち』と言う。しかし、君自身はどうしたい? ヤン中将への対抗意識とか、トップを取りたいという野心とか、そういったものはないのか?」

 

 俺はずっと前から気になっていたことを聞いた。戦記によると、アンドリュー・フォークは個人的野心、ヤン中将への対抗意識から無謀な帝国領侵攻を計画したそうだ。妹からも「シトレ元帥がフォーク准将の野心を警戒している」と聞かされたことがある。アンドリューに限ってそんなことはないと思いたいが、万が一ということもある。

 

「エリヤまでシトレ元帥の与太話を信じてるのか?」

「そ、そんなことはないぞ。ちょっと気になったんだ」

「士官学校の先輩や同期にはヤン中将嫌いが多くてさ。最近はしきりに『ヤンを止められるのはフォークだけだ』とか『あいつにだけは負けるな』とか言われるんだ。そのたびに『おう、まかせとけ』って答えたのが変な風に伝わったんだろうな」

 

 アンドリューはやれやれと言いたげに苦笑した。

 

「ただの誤解か」

「どうってことないさ。俺はあの界隈を嫌いだし、あの界隈も俺を嫌ってる。誤解が一つや二つ重なったところで、何も変わりやしない」

「そうだな」

 

 俺には頷くしかできなかった。ヤン中将とアンドリューの確執の裏には、士官学校時代から続く有害図書愛好会グループと優等生グループの対立がある。この二人に「対立して欲しい」と願う人があまりに多すぎるのだ。

 

「ロボス閣下こそが真の名将だと知らしめたい。この先もロボス・サークルの仲間と一緒にやっていきたい。そのために勝利が必要というだけさ」

「良くわかった」

 

 やはり戦記は正しくなかったようだ。ヤン中将に近い人物の残した記録を参考にしているため、ロボス元帥側の肉声は聞こえてこない。それはトリューニヒト派の俺がヤン中将側の肉声を聞けないのと同じことだ。伝聞だけでは真相は掴めないのである。

 

「引き受けてくれるか?」

 

 アンドリューがぐっと身を乗り出す。俺は押されてしまった。

 

「わ、わかった! わかったけどな!」

 

 返事をすると、俺は水差しを掴んでグラスに冷水を注いだ。そして、ぐいと飲み干す。

 

「あくまで見せるだけだぞ。この作戦はお勧めだとか、そんなことは言えないぞ。判断するのはトリューニヒト先生。支持するもしないもあの人次第。それでいいか?」

「いいとも」

 

 アンドリューはにっこり笑った。かつては爽やかだった笑顔が今ははかなげに感じる。

 

「生臭い話はここまでにしようか!」

 

 俺たちは雑談を再開した。共通の知人、時事問題、テレビドラマ、漫画、小説、ベースボールなど話題は尽きない。

 

「今日はたくさん食った」

 

 アンドリューが満足そうな顔で笑う。

 

「うまかったろ? プライベートでも食べに行くといいぞ」

 

 俺は笑い返す。

 

「戦争が終わったらそうする」

「終わらなくたって飯は食えるさ」

「エリヤは特別だ。料理を列で注文する奴なんて他にいるかよ」

「列で注文?」

「ケーキを『一番上から五番目まで』みたいに注文してたじゃねえか」

「そんなの普通だ」

 

 心外だといった顔で俺は答える。

 

「エリヤ以上の大食いなんているものか」

「普通だっつうの。トリューニヒト議長やイレーシュ中佐は俺と同じくらい食うぞ。妹はもっと食う」

「嘘だ」

「本当さ。アンドリューも一緒にトリューニヒト議長に会わないか? そうしたら、世の中の常識がわかる」

 

 ほんの思いつきだったが、いいアイディアのように思えてきた。トリューニヒト議長と会えば、アンドリューも考えを改めるかもしれない。そんな気がしたからだ。

 

「トリューニヒト議長か」

「俺に任せるより、直接会って説得した方が捗るってもんだ」

「うーん」

 

 アンドリューは腕を組んで考えこむ。

 

「悪い、やめとくわ」

「せっかくのチャンスなのにか?」

「俺の方が説得されてしまうかもしれない」

「君の頭なら大丈夫さ」

 

 懸命に俺は説いた。

 

「いや、だめだろう。トリューニヒト先生が俺と会うとしたら、たぶん一対一で話そうとするはずだ」

「出会いを大切にするのがあの人の流儀だからな」

「オッタヴィアーニ先生から聞いた話を思い出した。『トリューニヒトとは一対一で会うな。間違いなく取り込まれるぞ』ってな」

 

 アンドリューが口にしたのは、トリューニヒト議長の政敵にしてロボス派の後援者である大物保守政治家の名前だった。

 

「それは残念だ」

 

 心の底から残念そうに俺は言った。そして、テイクアウトのケーキを口に放り込み、甘みで落胆を打ち消す。

 

「ありがとう。今日はとても楽しかった」

 

 店を出た後、俺は両手でアンドリューの右手を握りしめた。ガサガサして骨っぽい手触り。昔との違いに驚いたが、それでもここにいてくれただけで嬉しい。

 

「俺もだよ」

「会えて本当に良かった」

「それにしても、お互い偉くなりすぎたな。おおっぴらに会うこともできやしない」

「六年前も今も同じ。友達は友達さ」

「エリヤらしいな。そうありたいもんだ」

「俺と君ならきっとできる」

 

 俺はきっぱりと断言した。現実的に難しいのは分かっている。分かっていても不可能ではないと信じたい。信じたいから断言した。



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第54話:同胞と戦うよりは外敵と戦う方がずっとましだ 797年11月上旬 トリューニヒト下院議長邸

 キプリング街の国防委員会庁舎から五キロほど離れた高級住宅地ミルズフォード。政財界の有力者が多く住んでいることで知られるこの街の一角にある瀟洒な邸宅が、ヨブ・トリューニヒト下院議長の私邸であった。

 

「凄い家ですね」

 

 きょろきょろと家の中を見回す俺に、品の良いポロシャツを身にまとったトリューニヒト議長は優しげな視線を向ける。

 

「こういう家は初めてかね」

「ええ。実家は警察の官舎で、軍隊に入ってからもずっと官舎住まいでしたから」

「私も義父からこの家をもらった時はびっくりしたよ。私の実家は一戸建てだったが、この家と比べたら犬小屋のようなものだった」

 

 トリューニヒト議長はいつもの笑みを浮かべながらコーヒーを作り、砂糖とクリームをたっぷりと放り込む。

 

「ありがとうございます」

 

 俺はトリューニヒト議長からコーヒーを受け取って口にする。手が震える。舌が震える。緊張で味がわからない。

 

「砂糖とコーヒーがたっぷり入っていておいしいです」

「砂糖? 私が入れたのは塩だがね……」

「も、申し訳ありません!」

「ははは、冗談だよ、冗談」

 

 トリューニヒト議長が茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。

 

「あまり脅かさないでください」

「どうせ、緊張して味もわからなかったんだろう?」

「おっしゃる通りです」

「しかし、これの味がわからんようでは困る」

 

 トリューニヒト議長がぱちんと指を鳴らすと、ドアが開いて一人の女性がワゴンを押しながら入ってきた。トリューニヒト夫人だ。

 

 トリューニヒト夫婦が共同作業で料理をワゴンからテーブルに移し替える。作業が終わると、トリューニヒト夫人は部屋から出ていき、山のような料理だけが残された。良く言えば庶民的、悪く言えば安っぽい料理ばかりだ。

 

「妻の手料理だ。好きなだけ食べたまえ」

「ご馳走になります」

 

 挨拶を交わしあうと、俺とトリューニヒト議長は同時に動いた。右手に握ったフォークを料理の山へと突入させる。取っては食べ、取っては食べ、取っては食べ、取っては食べ、取っては食べを繰り返す。その合間に水をガブガブ飲む。

 

 一時間後、すべての皿が空になった。俺とトリューニヒト議長は食後のデザートをのんびりと楽しんだ。

 

「久しぶりに楽しい食事だった。最近は客があまり来ないもんでね」

 

 トリューニヒト議長が寂しそうに笑う。政治家にとって来客の数は権勢のバロメーターだ。

 

「いずれ増えますよ。先生はこの国に必要なお方ですから」

「ははは、気休めと分かっていても嬉しいものだな」

「気休めではありません。本気です」

「君はいつも前向きだな。そろそろ本題に入ろうか」

「はい」

 

 俺はアンドリューから託された帝国領侵攻計画「ラグナロック作戦」のファイルを見せた。トリューニヒト議長はさっと目を通す。

 

「ふむ、これは踏み絵だな」

「踏み絵?」

「持論にこだわって主戦派の支持を失うか、持論を捨てて主戦派の支持を取るか。二つに一つだと彼らは言っているのだ」

「アンドリューがですか?」

「その背後の連中だよ」

「背後には誰もいないと聞きましたが」

「フォーク君はロボス・サークルの一員だぞ? 独断で動くはずがないだろう。それに若手参謀が情報部や全銀河亡命者会議を動かせるものか。彼らの背後にいるのはロボス君とアルバネーゼだ」

 

 トリューニヒト議長の解説は道理に適っていた。アンドリューを動かせるのはロボス元帥。情報部を動かせるのは反フェザーン派のアルバネーゼ退役大将。全銀河亡命者会議は情報部の影響下にある。実にもっともな話だ。

 

「そして、罠でもある。私がフェザーンにこの情報を流したら、彼らはそれを口実に私を排除するつもりだ」

「まさか」

「このファイルには肝心な情報がまったく載っていない。漏れても構わない情報を渡して、どう動くかを試すつもりなのだろう。反フェザーン勢力に寝返れば良し、フェザーンと心中するならそれも良し。そう考えているのさ」

 

 トリューニヒト議長がどう動いても、向こうの思う壺になる。聞いているだけで体温が下がるような話だ。

 

「アンドリューはどこまで噛んでいるんでしょう?」

「作戦立案には関わっているはずだ。彼の作戦能力は大作戦には不可欠だ。謀略の方には関わっていないな」

「そうお考えになる理由は?」

「敵を欺くにはまず味方からという。フォーク君が私を取り込むつもりで動いた方が、謀略は成功しやすくなる」

「複雑な気分です」

 

 俺は困ったように笑う。アンドリューが俺を騙したのでないのはありがたいが、踊らされてるのはありがたくない。

 

「政治の世界には、完全に踊らせるだけの人間もいなければ、完全に踊らされるだけの人間もいない。ロボス君やフォーク君はアルバネーゼを踊らせようとするだろうし、アルバネーゼはロボス君たちを踊らせようとするだろう。お互いに踊らせたり踊らされたりしながら、それぞれの目的を追求する。協力関係とはそういうものだ」

「頭がこんがらかりそうです。ややこしすぎて」

「理解できる方が人としておかしい」

 

 一瞬だけトリューニヒト議長から微笑みが消えた。

 

「俺はまっとうなんでしょうかね」

「これ以上ないぐらいまっとうだ」

「それは良かったです」

 

 これ以上ないぐらい不毛なやり取り。

 

「ロボス君とアルバネーゼが名前を出さないのも仕掛けの一つだよ。あの二人が噛んでると聞くだけで警戒する者は多い」

「でも、騙されるのは俺みたいな奴だけでしょう?」

「本当に騙す必要はない。様々な事情からロボス君と組めないが、例の計画に乗っかりたい人間がいるとしよう。この場合、表向きだけでもフォーク君が主導しているように見せれば、『ロボスではなくフォークと組む』と言い訳できる」

「わかっていて騙されたふりをするわけですか」

「その通りだ。仮に計画が失敗に終わったとしても、ロボス君は責任を回避できる」

「アンドリューのメリットは?」

「成功した場合、絶大な発言力を獲得できる。イゼルローン攻略のヤン君みたいに」

「あれってそうなんですか!?」

 

 驚きで声が裏返る。イゼルローン攻略作戦はヤン中将が主導して、シトレ元帥が後援したはずではないか。

 

「表向きにはヤン君が仕掛け人ということになってるがね。真の仕掛け人はシトレ君と情報部、決め手になったのは情報部の内応工作だよ。ヤン君は要塞制圧を担当したに過ぎん」

「そんな話、初めて聞きました」

 

 俺は目をぱちぱちさせる。

 

「電子支援艦を多く連れて行っただけで、イゼルローンの通信を麻痺させられるのか? 帝国軍があんなに都合良く振り回されてくれるのか? 薔薇の騎士がボディチェックを受けずに入り込めるほど、敵のセキュリティは杜撰なのか? 答えはすべてノーだ。イゼルローンの中枢に内応者がいた。要塞から兵力を引き離す手段、そして空になった要塞を制圧する手段だけが問題だった」

「情報部がメイン、ヤン提督がサブだとおっしゃるのですか?」

「実際そうだからね。もちろん、ヤン君の功績は否定できない。一度目の奇襲を指揮したコナリー君、二度目の奇襲を指揮したフルダイ君は、内応者を活用できなかった」

 

 トリューニヒト議長のこの発言は二つの意味で驚きだった。一つはヤン中将を評価する言葉を彼の口から聞いたこと。もう一つは秘密扱いだった二度の奇襲作戦の指揮官がわかったこと。

 

「あの二人にできなかったことをできたのなら、大きな功績です」

「ヤン君がどんな条件をシトレ君から提示されたのかはわからん。だが、あの二人はどちらも軍縮支持だ。二人で軍部の主導権を握り、講和・軍縮路線を推進する約束だったと、私は推測する」

「そんなところでしょうね」

 

 俺の前の世界で獲得した知識をもとに答える。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』によると、ヤン中将とシトレ元帥は講和のためにイゼルローン要塞を落としたそうだ。前の世界とは状況がだいぶ違うが、彼らの動きから推測すると、同じ目的だったように思われる。

 

「オーディン攻略、帝国軍殲滅のいずれかを成し遂げれば、シトレ君に代わってロボス君が軍縮をリードすることになる。失敗してもシトレ君を道連れにできるし、遠征軍にシトレ派の幹部を参加させれば連帯責任に巻き込める」

「えぐいことを考えますね」

 

 俺はそう言うと、デザートを口に放り込んだ。糖分抜きでこんな話は聞いていられない。

 

「ロボス君がそうしなければ、シトレ君がそうするだけのことさ。彼らは同類だ。国家のために軍隊を指揮するのでなく、国家をコントロールするために軍隊を利用している。要するに軍閥だよ。どちらも一緒に消えてほしいものだね」

 

 トリューニヒト議長の目が冷たく光る。これ以上、この話を続けるのはまずい。俺は強引に話題を変えた。

 

「ところで、ヤン案とフォーク案のどちらが有効だとお考えですか?」

「何とも言い難い。私はヤン案の詳細を知らない。君が見せてくれたフォーク案は単なるパンフレットだ。本物の作戦案を見ないことには判断しようがないな」

「発想としてはどうですか? ブラウンシュヴァイク派との同盟、帝国軍との対決。どちらに分があります?」

「どちらも軍事的には悪くない。帝国は内紛でガタガタだ。ローエングラム元帥は中立派諸将を統率しきれていない。我が軍は確実に勝てるだろう。政治的には最悪だがね」

 

 トリューニヒト議長は『最悪』を強調する。

 

「ヤン君は帝国との講和、フォーク君の案は帝国を降伏させるのが目的だ。どちらもフェザーンの天秤を壊そうとしている」

 

 フェザーンの天秤。銀河の勢力比を固定しようとするフェザーン自治領の勢力均衡政策。トリューニヒト議長は、それに対する挑戦が最低最悪の行為であるかのように言う。

 

「悪いとは思えませんが」

「アルバネーゼやカストロプと同じことを言っているのにかね?」

「あの二人は卑劣な悪党です。しかし、悪党が言っているから間違いだとは限りません」

 

 俺には勢力均衡状態を打破するのが悪いとは思えなかった。フェザーンの背後には、同盟と帝国の共倒れを狙う地球教団がいるのだから。

 

「君はフェザーンを何だと思う?」

「中立国であり、銀河唯一の国際自由貿易港です」

「それは二次的なものに過ぎん。フェザーンの真の役割は、銀河のパワーバランスを維持するための天秤だ」

「初めて聞きました」

 

 これは素直な感想だ。今の世界はもちろん、前の世界でもそんな話は聞いたことがない。

 

「六四〇年にダゴン会戦が始まってから、三〇年近く全面戦争が続いた。同盟軍がオーディンから二〇〇光年の距離まで迫ったこともあれば、帝国軍がハイネセンの手前まで侵攻したこともある。両国は激しく疲弊した。妥協はできないが、いずれ国がもたなくなるのは目に見えている。共倒れを防ぐためにフェザーン自治領が設立された」

「同盟と帝国の二国間貿易が目的ではないのですか?」

「それは表向きの理由だ。古代チャイナに『天に二日無し』ということわざがある。同盟と帝国の二国だけなら、どちらかが滅ぶまで戦い続けなければならない。だが、第三勢力がいれば鼎立状態となって安定する。当時の帝国皇帝コルネリアス一世、同盟のスペンサー最高評議会議長はそう考えた」

 

 同盟と帝国がフェザーンを作ったように聞こえる。聞き間違えたのだろうか?

 

「待ってください。フェザーンを作ったのはレオポルド・ラープでなく、同盟と帝国だとおっしゃるのですか?」

「それが真実だよ。ラープは利用されたにすぎん」

「嘘でしょう」

 

 俺は拒絶するように首を振る。地球教団が帝国と同盟を共倒れさせるためにフェザーンを作ったというのが、前の世界で明らかになった真実なのだ。

 

「ラープは同盟と帝国の共倒れを狙う勢力のエージェントだった。その勢力は目的を果たすために第三勢力を作ろうと考えた。同盟と帝国はそれを利用したのだ。第三勢力は本質的に両国と相容れない存在こそが望ましい。片側に取り込まれるようでは機能しないからね」

 

 その勢力とは地球教団なのだろうか? 口には出さずに頭の中で呟く。

 

「コルネリアス一世はラープがエージェントなのを見抜いた上で側近に置き、計画通りに動くよう誘導した。スペンサー議長は同盟側から情報操作をした。結局、その勢力は同盟と帝国に大金を巻き上げられたあげく、第三勢力を設立する費用を全額負担させられたのだ」

「とんでもない話ですね」

「歴史の裏側なんてとんでもない話だらけだよ。ジークマイスター機関やウエディング・レセプションや不死大隊だって、実在するのだからね」

 

 トリューニヒト議長は笑顔で爆弾発言をした。前の世界ではローエングラム朝時代に「ジークマイスター機関」の実在が証明されたが、「ウエディング・レセプション」や「不死大隊」はそうではない。

 

 とても興味を惹かれたが、横道にそれるのは良くない。トリューニヒト議長はただでさえ話題がころころ変わる人なのだ。俺は本題に戻った。

 

「共倒れを狙う勢力とは一体何なんでしょうか?」

「ビッグ・シスターズ」

 

 地球教団ではない組織の名前をトリューニヒト議長が口にした。それは西暦時代末期、地球統一政府を経済的に支えた巨大企業グループの名前だった。

 

「驚かないのかね?」

「議長閣下のおっしゃることですから」

「少しは驚いて欲しかったんだがね。信用されすぎるのもつまらんな」

「申し訳ありません」

「構わんよ」

「続きをお願いします」

 

 俺はやや早口で言うと、トリューニヒト議長が頷いた。

 

「ビッグ・シスターズは地球統一政府が崩壊した後も形を変えて生き残った。彼らの武器は地球人固有の同族意識だ。かつての選民意識が、苦難の時代に被害者意識となり、同族同士の結束を強めた。そして、地球人による人類統一国家の再建を願い続けた」

 

 前の世界では誇大妄想扱いされた地球教団の野望の原点が、トリューニヒト議長の口から語られる。選民意識から転じた被害者意識。何とも分かりやすい話だ。

 

「地球といえば地球教団です。ビッグ・シスターズとは関係あるのでしょうか?」

「地球教団はビッグ・シスターズの一部だな。厳密には一部ではないが、限りなくそれに近い」

「詳しく教えてください」

「地球統一政府崩壊後、独裁政権が地球を支配した。代を重ねるうちに地球の独裁政権は宗教的な性格を帯びるようになり、地球教団となった。数世紀にわたる苦難の時代の間に、地球人の末裔の間に地球そのものを神聖視する傾向が生じ、聖地を管理する地球教団の権威が向上した。やがてビッグ・シスターズは、地球教団の権威を奉じる保守派、かつての地球統一政府と同じ民主政体を目指す穏健派に分かれた」

「興味深いです」

 

 俺はすっかり話に聞き入っていた。この話が本当かどうかはわからないが、フェザーンや地球教団のルーツに関わる異説としては面白い。

 

「フェザーン経済界の頂点にいる一〇大財閥のうち、八つがビッグ・シスターズ保守派をルーツに持つ。この八財閥と地球教団がフェザーンの勢力均衡政策をリードしてきた」

「自治領主ではなくて、地球教団と八財閥が自治領の真の支配者なんですね」

「しょせん、自治領主は雇われ社長にすぎんよ」

「オーナーの意向に背いた場合は?」

「もちろん解雇される。解雇と同時に現世から追われるのさ」

 

 前の世界ではぼんやりとしか分からなかったフェザーンの裏側。それをトリューニヒト議長がどんどん明らかにしていく。

 

「怖い世界です。何から何まで悪意に満ちているというか」

「悪意を基礎とするシステムは、善意を基礎とするシステムよりはるかに強い。フェザーンは同盟が帝国を併合することも望んでいないし、その逆も望んでいない。それゆえに二大国体制の維持に尽くさざるを得ない。逆説的に言うと、フェザーンが悪意を維持している間は、同盟は決して滅亡しないことになる」

「二国が同時に崩壊した場合はどうなるんです?」

「同時に崩壊したとしても、フェザーンがそれに取って代わるのは不可能だ。同盟と帝国は狭くて不毛なフェザーン回廊をビッグ・シスターズに与えることで、食糧とエネルギーを自給できないように仕向けた。二国が同時に崩壊した場合、全銀河の星間流通路が混乱状態に陥る。軍事力の弱いフェザーンには、二国に代わって星間流通路を安定させる能力はない。二国の同時崩壊はフェザーン経済の崩壊にも繋がるわけだ」

「なるほど。しっかり保険を掛けていたんですか」

 

 フェザーンは建国当初から枷をはめられていた。当時の両国政府の遠慮深謀には舌を巻くより他にない。

 

「フェザーンは二大国体制の守護者になるべき宿命を与えられたのだよ。この一世紀の間、フェザーンの天秤が銀河を守ってきた。急進的な指導者はフェザーンの手で排除された。フェザーンからの融資が財政破綻を回避させた。戦場がイゼルローン回廊に限定されたことで、全面戦争の危機は遠のき、回廊周辺以外は安全になった」

「そういう見方もありますね」

 

 フェザーンが二大国の存続に寄与していることは、前の世界の知識を持つ俺でも否定できない。この一世紀の間だけでも、帝国と同盟は何度も内部崩壊寸前に陥ったが、ぎりぎりで完全崩壊を免れた。戦争の規模は著しく縮小された。現状維持という点においては役立っている。

 

「反フェザーン勢力は一世紀以上にわたって秩序に挑戦した。フェザーンが併合されそうになったこともあれば、同盟と帝国が和平を結びそうになったことや、片方が自壊しかけたこともある。最大の危機はイゼルローン要塞の建設だった」

「イゼルローン要塞?」

 

 俺はトリューニヒト議長の顔を見る。どうしてここでイゼルローン要塞が出てくるのか?

 

「反フェザーン勢力はバランスを崩すためにあの要塞を築いた。フェザーンが建国されて以来、帝国が回廊を超えることもあれば、同盟が回廊を超えることもあったが、戦局は一進一退だった。しかし、要塞ができればそうはいかなくなる。戦争は要塞を支配する側の一方的攻勢に変わり、グエン・キム・ホアが語った『距離の防壁』の効果が半分になる。戦争を終わらせるための仕掛けがイゼルローン要塞なのだ」

 

 イゼルローン要塞建設の裏には、フェザーンと反フェザーン勢力の暗闘があった。これは戦記にすら載ってない話だ。

 

「フェザーンの天秤は数々の危機を乗り越えて銀河を守ってきた。アルバネーゼらはそれを破壊しようとしている。それがどれほど悪いことなのかが理解できたかな?」

「現状維持のシステムとして信用できるのはわかりました。それでも、壊すのが悪いこととは思えません」

 

 俺は話を振り出しに戻す。理解しても行き着く結論は変わらない。

 

「どうしてそう思うのだね?」

「フェザーンの天秤がある限り、戦争がだらだら続くだけです」

「それでいいんだ」

「良くないですよ。これ以上戦争が続いたら、我が国は破綻します」

 

 俺は現状維持を望んでいない。帝国を滅ぼせるとは思っていないが、帝国軍を壊滅させて同盟優位の講和を強要したいと考えるのが一般的な主戦論者だ。

 

「戦争が続いているからこそ、破綻せずに済んでいるのだがね」

「どういうことです?」

「我々は争いを必要としている。同盟の歴史を思い出してみたまえ」

 

 トリューニヒト議長に言われて、頭の中で同盟史を振り返る。宇宙暦五二七年から五四五年までの建国期、五四六年から五八〇年までの拡大期、五八一年から六一五年までの黄金時代、六一六年から六三九年までの嵐の時代、六四〇年から六六八年までの全面戦争時代、六六九年から六八二年までの第一次冷戦期、六八三年から七〇七年までのデタント期、七〇八年から七四五年までの熱戦期、七四六年から七六三年までの第二次冷戦期、七六四年から現在までの防衛戦争期。

 

 建国期には、アーレ・ハイネセン系の長征グループが、銀河連邦から分離した植民星の後裔であるロスト・コロニーとせめぎ合いながら、多国間軍事同盟「自由惑星同盟」内部での主導権を確立していった。

 

 拡大期には、自由惑星同盟は経済統合を達成し、広大な自由貿易圏を形成することで急成長していった。各地に散在するロスト・コロニーを加盟させたり、植民星を開拓したりしながら、サジタリウス腕全域に勢力を広げたのである。各加盟国の軍隊で構成されていた自由惑星同盟軍は、他の多国間同盟との争いの中で常備軍化していった。同盟の拡大に伴い、調整機関の最高評議会と各委員会は加盟国からの独立性を強め、事実上の中央政府と化した。

 

 黄金時代には、自由惑星同盟は人類史上でも例を見ない高度経済成長期に突入した。銀河連邦の全盛期に匹敵する繁栄を謳歌した一方で、加盟間の利害対立が激しくなった。労働者や学生の反政府運動が大規模化した時期でもある。

 

 嵐の時代には、自由惑星同盟の内部対立が明らかになった。加盟国は一部の豊かな星系と多数の貧しい星系に二分され、地方分権を求める分権派、同盟体制の解体を求める分離派が台頭した。首星系バーラトを中心とする集権派は、分権派や分離派と激しい抗争を繰り広げ、力づくで同盟体制の解体を防いだ。ダゴン会戦で帝国軍を打ち破ったリン・パオやユースフ・トパロウルらは、こういった戦いの中で頭角を表した。

 

 ダゴン会戦以降の全面戦争時代、コルネリアス一世の大親征以降の第一次冷戦期、フェザーン建国以降のデタント期、マンフレート亡命帝暗殺以降の熱戦期、第二次ティアマト会戦以降の第二次冷戦期、イゼルローン要塞建設以降の防衛戦争期には、帝国との戦争を軸に歴史が動いた。

 

「どの時期も誰かしらと争ってますね」

「外敵がいない時は内紛が起き、内紛がない時は外敵と争う。国家というのはそういうものだよ。ダゴン会戦以降、集権派、分権派、分離派の争いは収まった。帝国の名君マクシミリアン=ヨーゼフ一世は、同盟の脅威を強調することで国内をまとめた。共通の外敵こそが内紛を抑える最良の手段なのだ」

「おっしゃりたい事はわかります。しかし、年間で数十万人の死者と数十兆ディナールの出費は、内紛を抑えるコストとしては少々高すぎると感じます」

 

 俺は微妙な気持ちになった。確かに共通の敵がいる時ほど人は結束する。トリューニヒト派はシトレ派、シトレ派は主戦派という敵を持つがゆえに強い。しかし、結束するために自滅しては元も子もないではないか。

 

「辺境を思い出したまえ。帝国という共通の敵がいなくなったら、彼らは同盟の旗を仰ぐと思うかね?」

「困難でしょうね。認めたくはありませんが」

「反戦派の連中は、『戦争が終われば、軍事費の負担が無くなり、地方への投資が増える』と言うがね。豊かになったら富が自動的に分配されるとでもいうのか? 増えた分を中央が抱え込めば、地方は豊かにならないのだ。今のエリート層を見ると、平和になったら地方を堂々と切り捨てかねん。地方の不満が高まったところで、帝国に乗じられる心配はないからな」

「…………」

 

 できれば否定したかった。しかし、前の世界の記憶がそれを許可しない。実力主義を国是とするローエングラム朝は、豊かになるのも貧しくなるのも本人次第と考えた。そのため、旧貴族財産のばらまきが終了した後は、格差が激しくなった。そして、レベロ財政委員長やシトレ元帥も実力主義だ。戦争が終わっても、「地方に分配しよう」と言う話になるとは考えにくい。

 

「我が国のエリートには同胞意識がない。自由主義が行き過ぎて、同胞の面倒を見ようと言う気持ちをなくした。こんな状況で講和をしたらどうなる? あっという間に内戦が起きるぞ」

「国内戦の難しさはエル・ファシルで思い知らされました。しかし……」

「同胞と戦うよりは外敵と戦う方がずっとましだ。そうは思わんかね?」

 

 トリューニヒト議長の瞳に深刻とも虚無ともつかない色が宿る。

 

「誰と戦うにせよ、血を流すのは俺たち軍人です」

 

 俺はトリューニヒト議長の目をじっと見つめた。

 

「できる限り手厚く待遇したいと思っている」

 

 目を少し逸らしながらトリューニヒト議長は答える。俺は少し安心した。慰霊祭の時といい、今回といい、この人には冷徹になりきれないところがある。政治家としては欠点かも知れないが、人間としては好ましい。

 

「先生の立場はわかりました」

 

 言葉でなく声色で「理解はしたが納得はしていない」と伝えた。

 

「今はそれで十分だ」

 

 話し続けて喉が渇いたのか、トリューニヒト議長は紅茶を一気に飲み干した。一息つくと軽く目をつぶる。

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲んだ。そして、マフィンを口に放り込む。体中に糖分が行き渡り、興奮が収まっていく。

 

「議長閣下」

「なんだね」

「こういう話はどこでお聞きになられたのです?」

「私は保安警察の出身だ。世界の裏側に触れる機会は何度もあった」

「そういうことでしたか」

「もっとも、私の聞いた話が真実とも限らないがね。情報部には別の話が伝わってるかもしれん。フェザーンや帝国にはまた別の話が伝わっているだろう。一〇人に話を聞いたら一〇人が違う話をするのが裏の世界だ」

「俺の頭ではややこしすぎます」

 

 苦笑いしながらデザートを口にする。

 

「他に聞きたいことはあるかね?」

「サイオキシンマフィアの件とフェザーンの天秤の関係を知りたいです」

 

 話の最中から気になったことだった。天秤を壊そうとするアルバネーゼ退役大将はマフィアの創設者、天秤を守ろうとするトリューニヒト議長はマフィアの敵。全くの無関係とは思えない。

 

「大いにある。サイオキシン密売は反フェザーン勢力の資金源だった。だからこそ、フェザーンが捜査に協力してくれたのだよ」

「つまり、アルバネーゼ退役大将はフェザーンに対抗するために麻薬密売を始めたということですか?」

「わからない」

 

 トリューニヒト議長は首を横に振る。何でも知ってるわけではないらしい。

 

「あの男がいつ反フェザーン勢力に加わったのか、はっきり分からないのだ。あの男がフェザーン占領計画『ウエディング・レセプション』のバージョン・ワンを策定したのは七六三年五月。それ以前に加わったとは思うのだが」

「待ってください! ウエディング・レセプションを作ったのってあの人なんですか!?」

 

 都市伝説とされてきたフェザーン占領計画『ウエディング・レセプション』。先ほどトリューニヒト議長が「実在する」と語ったが、その立案者がアルバネーゼ退役大将とは思わなかった。

 

「あの男が作ったのはバージョン・スリーまでだがね。現在のウエディング・レセプションはバージョン・シックスだ。我が軍は三〇年以上もフェザーンを占領する計画を立ててきた」

「そうだったんですね」

 

 銀河は思ったよりずっと複雑なようだ。フェザーン占領を最初に考えたのは、前の世界のラインハルト・フォン・ローエングラムだとばかり思っていた。しかし、今と前の世界が分岐するよりずっと前からフェザーン占領計画が存在した。

 

「ウエディング・レセプション以前にも単発的な占領計画は何度も作られた。フェザーン占領はそれほど突飛な発想ではない。現実的に不可能であるということを除けばだが」

「フェザーンは気づいてるんでしょうか」

「そりゃ気づいてるさ。戦争の用意があるとわからせることが重要だからね。帝国には『ダンツィヒ作戦』というフェザーン占領計画がある。フェザーンは対同盟戦争計画『ラズーリト』と対帝国戦争計画『ブリリアント』を用意している。右手で握手し、左手で刃を突きつける。外交とはそういうものだ」

「想像もつかない世界です」

「君は正直者だからな」

 

 トリューニヒト議長が端整な顔いっぱいに笑みを浮かべる。

 

「カップを出しなさい」

「はい」

 

 俺は言われるがままにカップを出す。そこにトリューニヒト議長がコーヒーを注いでくれた。

 

「砂糖は六杯、クリームは五杯だったか」

 

 トリューニヒト議長は俺のコーヒーに砂糖とクリームをどさどさと放り込む。

 

「ありがとうございます!」

「私も楽しいよ。人のためにコーヒーをいれることなんて、半年に一回あるかないかだ」

「いただきます」

 

 俺は手を震わせながらゆっくりとコーヒーを飲む。緊張で味がわからなかった。

 

「糖分を補給したところで話を戻すとしようか」

「お願いします」

「アルバネーゼが麻薬密売に手を染めた理由について、私は一つの仮説を持っている。サイオキシンマフィアはジークマイスター機関の後継機関ではないかと」

「今度はジークマイスター機関ですか……」

 

 今日はどこまで裏の歴史を耳にするのだろう。トリューニヒト議長の口から飛び出したのは、伝説の特務機関「ジークマイスター機関」の名前。

 

 半世紀前に猛威を振るったジークマイスター機関は、元帝国軍務省政治局長ジークマイスターが作った対帝国情報機関だった。情報提供者には兵卒から元帥までが含まれていたそうだ。帝国軍最高会議の議事録まで入手する能力を持っていたとも言われる。今の世界では都市伝説の一つだが、前の世界ではヤン・ウェンリーの残した文書がきっかけに実在が証明された。

 

「ジークマイスター機関は実在する。噂の方が控えめなぐらいの活躍ぶりだった。もっとも、七五〇年前後に壊滅したがね。後継機関の設立は急務だったろう。その過程でアルバネーゼはサイオキシンに目をつけたのではないか。麻薬密売で工作資金を稼ぎ、帝国の麻薬関係者を情報網に組み入れる。麻薬密売という秘密を握っているから、生殺与奪は思いのままだ」

「話としては面白いですけど、情報部が組織的に味方を食い物にするとは思えないですよ」

「敵を欺くには味方から欺けというじゃないか。ソビエト連邦の国家保安委員会、地球統一政府の国防情報本部、シリウスのチャオ・ユイルン機関、銀河連邦の連邦保安庁。これらの情報機関が何をやったかを思い出すといい。情報のプロは手段を選ばない」

「まさか」

 

 俺は即座に否定した。素直には面白がることはできない。俺が属する軍隊のことなのだから。

 

「ああ、済まない。少し言い過ぎたようだ」

 

 俺の顔色に気づいたのか、トリューニヒト議長はすまなさそうに言った。

 

「動機はともかく、アルバネーゼが麻薬の力で帝国内部に人脈を広げたのは事実だ。そして、カストロプ公爵と出会い、二人三脚で出世していった。麻薬密売で得た資金。麻薬関係者から手に入れた帝国情報。この二つがあの男を権力の座に押し上げた」

「アンドリューの計画が期待している反体制派とは、麻薬人脈でしょうか?」

「微妙に違うな。密売に関わっていたのは帝国のエリート層だ。貴族、軍人、官僚といった連中を反体制派に協力させるつもりだろう」

「なるほど。しかし、情報のプロにとって、情報提供者は命綱でしょう。反体制派に協力させるなんてリスクが大き過ぎます」

「カストロプ公爵が暗殺された後、帝国政府は麻薬関係者の摘発に乗り出した。情報提供者を失う前に活用したい。宿敵フェザーンを叩く機会でもある。そんなアルバネーゼの焦りを見越したロボス君が、侵攻計画を持ち込んだのだろう」

「こんな面倒なことにアンドリューが巻き込まれてるなんて」

 

 気が遠くなりそうだ。侵攻計画の裏にどこまで闇が広がっているのか。

 

「アルバネーゼは特定の派閥に全面協力するのを避けてきた。アッシュビーをカエサルに仕立てようとしたジークマイスター機関のような真似は嫌だったのだろう。だが、カストロプ公爵が死んでからは、なりふり構わなくなった。シトレ君にイゼルローンを攻略させ、今度はロボス君に帝国を攻めさせようとしている。何が何でもフェザーンの天秤を破壊するつもりだ」

 

 危機感がトリューニヒト議長の顔いっぱいに広がる。これはチャンスだ。俺はとっておきの提案をした。

 

「ヤン案を支持するわけにはいきませんか?」

「なぜだね?」

「アンドリューはヤン案を『フェザーンに介入する隙を与えるからだめだ』と言いました。ヤン案を採用させて、講和が成立する前にフェザーンが介入すれば、勢力均衡は維持できます」

「それはそうだがね。ヤン君にこれ以上功績を立てられては困る」

 

 嫌悪ではなく困惑がトリューニヒト議長の顔に浮かぶ。

 

「議長閣下が軍縮派の台頭を望まないのは存じております。しかし、フェザーンの天秤が破壊されるよりはましです」

「フェザーンの天秤は単なる手段だ。国家が破壊されて天秤だけが生き残っても意味は無い」

「ヤン提督は武勲を鼻にかけて威張り散らし、口を開けば他人を批判するばかりで、仕事を部下に押し付けて遊んでいるため、すべての人に憎まれています。これ以上功績を立てたところで、独裁者にはなれっこありません」

 

 俺は口を極めてヤン中将を貶す。尊敬する提督を小物のように言うのは心苦しいが、トリューニヒト議長の警戒心を取り除くにはこうした方がいい。

 

「そういう問題ではない。イゼルローン攻略と帝国領出兵を立て続けに成功させたとなれば、ヤン君は神に等しい存在となる。彼のやることなすことすべてを肯定しなければならないという空気ができる。彼と違う意見を言っただけで無能扱いされ、彼と仲が悪いだけで悪人扱いされる。最高評議会ですら逆らえなくなるだろう。どれほど恐ろしいことか分かるかね?」

「それは……」

 

 それは考えすぎでしょう、と言いかけてやめた。成功者は何をしても肯定され、失敗者は何をしても否定されるのは、俺自身が経験したことだ。間違いを犯したのに、うまくいったように言われたこともあった。俺と不仲だったというだけで無能扱いされた人もいた。

 

 ヤン中将についても同じことが言える。彼自身が「間違いだった」と認めた判断を世間が称賛したことがあった。前の世界で読んだ戦記では、彼が反対した意見はすべて間違い、彼と対立した人物はみんな無能、彼の行動を妨害する行為は犯罪のように書かれていた。そんな状況をヤン中将が喜ぶはずもないが、本人の意志にかかわらず、他人が勝手に判断することは避けられない。

 

「半世紀前、名将ブルース・アッシュビーは、功績を盾に宇宙軍を私物化した。正規艦隊の半数近くを友人に指揮させ、自分と友人たちが武勲を立てるためだけに兵を動かした。だが、最高評議会や国防委員会ですら制止できなかった。一個人に国防を左右されるのは不健全と言わざるをえない。ヤン案を採用したら、同じ事態が起きる」

「それはまずいですね」

 

 俺には反論できなかった。アッシュビー提督には権力欲がなく、数々の専横も主観的には帝国軍に勝つための手段だったのだが、宇宙軍が政府の統制から離れる結果を招いた。超法規的な権威の持ち主は存在するだけで危険だ。

 

「私はフォーク君の案にもヤン君の案にも賛成しない。あくまで出兵反対を貫く。これが愛国者としての結論だ」

 

 結局、トリューニヒト議長は前の世界と同じように出兵反対を選択した。現状維持を望む以上、他に選択がないのだろう。

 

 トリューニヒト議長の家を訪れた日の夜、若手高級士官グループ「冬バラ会」のフォーク准将やホーランド少将らが、帝国侵攻計画「ラグナロック作戦」を最高評議会に提出した。

 

 最高評議会は、アンドリューの「ラグナロック作戦」、ヤン中将の「槌と金床」作戦の比較検討を始めた。現時点ではロボス元帥とシトレ元帥の支持率はほぼ互角。トリューニヒト派と反戦派を合わせても、この二つの勢力には遠く及ばない。出兵は避けられない情勢だが、どちらの作戦が採用されるかは不透明だった。



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第六章:解放軍司令官エリヤ・フィリップス
第55話:史上最大の作戦 797年11月中旬~12月中旬 第三六機動部隊司令部~車の中~モードランズ演習場


 平たく言うと、「槌と金床作戦」と「ラグナロック作戦」のどちらを支持するかは、戦果を取るかコストを抑えるかの問題である。

 

 一一月中旬の世論調査によると、同盟市民の七二パーセントが出兵を支持している。出兵支持派のうち、三八パーセントが「槌と金床作戦を支持する」、三四パーセントが「ラグナロック作戦を支持する」、二五パーセントが「どちらでもいい」、三パーセントが「わからない」と答えた。戦果とコストの間で揺れ動いていたのだ。

 

 一一月二〇日、大手人権団体「銀河人権救済協会」のホームページにおいて、ブラウンシュヴァイク公爵の肉声入り動画が公開された。

 

「最近は賤民も生意気になった。誰のおかげで生きていられると思っているのだ。我々貴族が生かしてやってるのだぞ」

「病人や老人は家畜より無益だ。貴族に奉仕できぬ者に生きる価値などない」

 

 ブラウンシュヴァイク公爵にとって、このような発言は気楽なおしゃべりの一部でしかない。取り巻きも笑いながら同調する。

 

 この時、同盟市民はブラウンシュヴァイク公爵の本性を初めて知った。初代皇帝ルドルフを神聖視する「保守派」の領袖なのは知られていても、治安・情報部門で出世してきたことから、対外的な発言はほとんどない。せいぜい「傲慢なんだろう」ぐらいにしか思っていなかったのだ。

 

 一一月二二日、亡命者による反帝国組織「全銀河亡命者会議」は、ブラウンシュヴァイク公爵領における人権侵害の実態を暴露した。ブラウンシュヴァイク公爵領内では、史上最悪の悪法「劣悪遺伝子排除法」が厳しく適用されており、障害者・遺伝病患者・同性愛者・社会不適合者が迫害されているという。

 

 内部文書に書き連ねられた差別発言、画像に写った虐待・拷問・処刑の様子は、同盟市民の常識からは考えられないものだった。ある者は怒り狂い、ある者は恐怖に凍り付き、ある者は悲しみの涙を流し、ブラウンシュヴァイク公爵の蛮行を許さない空気が生まれた。

 

 人権団体、障害者団体、同性愛者団体は、進歩党に槌と金床作戦を支持しないよう求めた。受け入れられない場合は選挙支援をやめるという。

 

 進歩党は窮地に追い込まれた。リベラル層の間では現実路線への不満が高まっており、尖鋭的な反戦市民連合に票が流れている。そんな時にマイノリティ票を失うのはまずい。

 

 結局、槌と金床作戦は破棄された。シトレ派の一部には「一番犠牲の少ない方法だ」と擁護する者もいた。だが、レベロ財政委員長が進歩党幹部の中でいち早く支持を撤回し、発案者のヤン中将が取り下げる意向を示したことにより、槌と金床作戦を推す動きはなくなった。

 

 統合作戦本部はすぐに代替案を提示した。今度はリヒテンラーデ=リッテンハイム連合と同盟するというのだ。ところが、リベラル系市民団体「司法民主化センター」が『銀河帝国の司法について』と題されたレポートを公表し、大審院長時代のリッテンハイム公爵を非民主的な裁判官の事例にあげた。

 

「優等人種と劣等人種の性交は獣姦罪とみなす」

「電車内における身分別座席の設置は義務である」

 

 帝国の最高裁長官にあたる人物がこんな裁定を下したことに、同盟市民は驚いた。統合作戦本部の案は論外だと思われた。

 

 一方、冬バラ会のフォーク准将やホーランド少将らは、メディアに登場したり、政府や軍部の要人と面談するなどして、ラグナロック作戦の意義をアピールする。

 

 マスコミはラグナロック作戦の支持に回った。リベラル系は「人権抑圧を許すな!」、保守系は「戦いを終わらせる時が来た!」、強硬派は「悪の帝国を打倒せよ!」と訴える。フェザーン系や反戦派系は出兵反対の論陣を張ったが、賛成派マスコミの声にかき消されてしまう。

 

 政界はほぼラグナロック作戦支持で固まりつつある。国民平和会議(NPC)の六派閥のうち、オッタヴィアーニ派、ドゥネーヴ派、ムカルジ派は積極的支持、ヘーグリンド派とバイ派は消極的支持で、トリューニヒト派だけが反対している。進歩党はグレシャム最高評議会副議長ら右派が支持、レベロ財政委員長ら左派が反対に回り、完全に二分された。最大野党の統一正義党は支持、野党第二党の反戦市民連合は反対した。

 

 これだけの工作をアンドリューやホーランド少将にできるはずもない。ロボス元帥やアルバネーゼ退役大将の人脈によるところが大きかった。

 

 一二月二日、最高評議会はラグナロック作戦の議会提出を決定した。反対したのは進歩党左派のジョアン・レベロ財政委員長とホワン・ルイ人的資源委員長の二人のみだった。

 

 一二月三日、上院と下院は賛成多数でラグナロック作戦を可決した。トリューニヒト派、進歩党左派、反戦市民連合の他、リベラル系群小野党が反対票を投じた。

 

 司令官室のテレビが俺にこのニュースを教えてくれた。こうなるのがわかっていても、がっくりきてしまう。

 

 ジョルジュ・ボナール最高評議会議長がスピーチを始めた。いつも通り、スピーチライターの書いた原稿をただ読み上げるだけの退屈な内容。記者の質問に対しても、官僚に吹き込まれたと型通りの答えを返す。

 

 ボナール議長の会見が終わり、グレシャム副議長、ネドベド国防委員長の会見が行われた。どちらもそれほど面白みのある内容ではない。

 

 ジョアン・レベロ財政委員長は疲れきった表情でカメラの前に現れた。

 

「理解が得られませんでした。残念です」

 

 簡潔ではあるが、表情と声色に無念さがにじんでいる。かなり激しくやり合ったのだろう。この一言には、一〇〇の美辞麗句でも語り尽くせぬものがあった。

 

 次にコーネリア・ウィンザー法秩序委員長がマイクの前に立つ。穏健派の若手政治家で、ラグナロック作戦を最も熱烈に支持した人物だ。

 

「アーレ・ハイネセンがアルタイルの流刑地から脱出してから三二四年が過ぎました。ついに民主主義が圧制者を倒す時がきたのです」

 

 ウィンザー委員長は儀式の始まりを宣言した。

 

「ゴールデンバウムの帝国を打倒し、人類を圧制から解放する。その崇高な目的のために私たちは三二四年間戦い続けてきました。これから最終決戦が始まろうとしています。正義と悪の最終決戦です。正義の軍が赴くところ、人々は先を争うように起伏し、悪は粉砕されるでしょう。私、コーネリア・ウィンザーはこの戦いを支持した。皆さんにその事実を伝える機会を与えられたことを誇りに思います」

 

 彼女の言葉は単なる美辞麗句であるが、透き通った声と計算された抑揚が荘厳さを醸し出す。トリューニヒト議長のスピーチを軽快なポップスとすると、ウィンザー委員長のスピーチは美しい聖歌だろう。

 

 最高評議会メンバーの会見が終わった後、ヨブ・トリューニヒト下院議長が画面に現れた。去就が最も注目される人物だ。

 

「私は愛国者です。しかし、愛国心の有無と軍事行動への支持は別の問題であると考えます」

 

 トリューニヒト議長は主戦派の立場と出兵反対が矛盾しないと強調する。強硬論を唱えつつ全面戦争を回避することの難しさが、この一言に凝縮されていた。

 

 次は全銀河亡命者会議本部へと画面が切り替わった。記者会見の席に現れたのは、高級スーツを着こなした初老の紳士だ。

 

「これより、全銀河亡命者会議副代表クリストフ・フォン・バーゼル氏の記者会見が……」

 

 バーゼルの顔など見たくもない。俺は即座にテレビを消した。

 

「どうして消すんですか」

 

 最先任下士官カヤラル准尉とバダヴィ曹長がむすっとする。

 

「嫌いだから」

「バーゼルさんは素敵な紳士ですよ」

「嫌いなものは嫌いだ」

 

 それだけ言うと、俺は「司令官専用」と書かれたクッキー缶に手を突っ込み、菓子を鷲掴みにした。糖分を補給しないとやってられない。

 

 バーゼルは大物亡命者だ。かつては男爵家当主で、帝国宇宙軍中将や大手星間運輸企業「オスターヴィーク・ラインズ」の社長を歴任した。レーヴェからもらった資料によると、帝国側サイオキシンマフィアのナンバースリー「シュネー・トライベン(吹雪)」と同一人物である。七九四年の時点では流通部門のトップを務めていた。三億帝国マルクの隠し資産を持ち、一〇〇件以上の殺人に関与したとみられる。ボスのカストロプ公爵が死ぬと同盟に亡命した。

 

 麻薬まみれのバーゼルが同盟で人気者になった。ハンバーガーやコーラが大好きで、なまりのない同盟語を話し、同盟の歌謡曲を何十曲も歌えるところが「同盟人より同盟人らしい」と喜ばれたのだ。それに加えて、悲運の名将カイザーリング元帥の親友である。ボスの盟友アルバネーゼ退役大将からは後押しを受けた。こうしたことから、亡命してから一年で全銀河亡命者会議副代表に抜擢された。

 

 全銀河亡命者会議はラグナロック作戦の隠れた主役である。冬バラ会とともに世論誘導の実行部隊を務め、本戦では反体制派との交渉や解放区統治を担当する。バーゼルは解放者として祖国に凱旋するわけだ。

 

 これほど気が進まない戦いも珍しい。選挙対策の出兵なんていつものことだ。国内を安定させるためと思えば我慢もできる。だが、麻薬の売人のために血を流すのはごめんだ。

 

「フィリップス提督、D分艦隊司令部より連絡が入りました。これより会議を開くとのことです」

 

 副官コレット大尉が不毛な思索を終わらせた。

 

「わかった。すぐに出る」

 

 俺は急いで菓子を食べると、コレット大尉と副官付のカイエ伍長を連れて司令官室を出た。うんざりしている暇はない。俺は軍人なのだ。

 

 

 

 公用車に乗り込むと、いつものように新聞五紙に目を通した。司令部にいる間は書類以外の物を読む暇がない。そのため、移動時間に新聞を読む。

 

「申し訳ありません、時間までに到着しないかもしれません」

 

 司令官専属ドライバーのジャン・ユー曹長が頭を下げる。

 

「どうした?」

「渋滞に巻き込まれました。信号が止まってるんです」

「またか。先週も止まってただろう」

 

 俺は真っ暗な信号を見た。最近は何でも良く止まる。停電や断水も多い。

 

「オペレーターが一〇代のパートと七〇歳以上の嘱託ばかりですからねえ」

「その中間がいないんだよなあ」

 

 二年前、俺は辺境で少年と高齢者しか働いていない店をいくつも見た。働き盛りの人々がみんなハイネセンに出稼ぎしていたからだ。しかし、昨年からハイネセンでも似たような状況が見られるようになった。

 

「進歩党の先生が『軍隊が人材を抱え込んでるせいだ』と言ってましたね」

「ああ、ホワン先生の持論だよ」

 

 俺は『ハイネセン・ジャーナル』紙を開いた。ホワン・ルイ人的資源委員長が「同盟経済は崩壊しつつある。熟練労働者が不足しているからだ」「後方部門に徴用されている技術者五〇〇万人を民間に回せ」と主張したとの記事が載っていた。

 

「実際のところ、どうなんですか?」

「二つの説があるね。まずは――」

 

 俺は先にホワン委員長が依拠する説を紹介した。その説は熟練労働者不足の原因を対帝国戦争に求める。肥大化した軍隊が熟練労働者を抱え込むようになった。また、国防予算が教育予算を圧迫しているために十分な教育ができなくなった。軍隊の規模を縮小し、熟練労働者を労働市場に供給しなければ、同盟経済は崩壊するというのだ。

 

「つまり、彼らは熟練労働者の供給量を問題にしてるんだ。公共部門を縮小し、民間に多くの資源を供給することで生産性の向上を図る。これはハイネセン学派経済学に共通する考え方だね」

「ハイネセン学派経済学って何です?」

「ハイネセン記念大学出身の経済学者が作った学派。三〇年前から同盟の経済財政政策をリードしてきた。政治家になる前のレベロ先生はハイネセン学派の経済学者だった」

「進歩党お得意の予算削減なんかとも繋がってるんですかい?」

「根っこは同じだよ。政府が使うお金を減らして、民間が使えるお金を増やし、生産性の向上を図る」

「へえ、そういう道理なんですなあ」

「違う説もある。こちらは――」

 

 今度はトリューニヒト派が支持するワトソン経済学派の説を紹介した。その説によると、対帝国戦争はむしろ熟練労働者不足を防いでいる。長引く不況の中、民間企業は短期雇用のパートを使い捨てるようになり、熟練労働者が育たなくなった。公共部門も高給取りのベテランを解雇した。今の同盟で熟練労働者にしかるべき待遇を与えられるのは軍隊だけだ。仮に熟練労働者を民間に戻したら、能力に見合わない低待遇で働かされるか、「高給取りはいらない」と避けられる結果に終わるという。

 

「こちらは需要を問題にしてる。民間が求めているのは安く使い捨てられる人材であって、熟練労働者を雇うつもりがないってことだ」

「ここ数年は軍隊もそうなってますな。ベテラン下士官を首にして、中卒の志願兵に難しい仕事をさせてます」

「レベロ軍縮で三五歳以上の下士官がごそっといなくなったからね」

「感覚としてはワトソン説も分かるんですが。どっちが正しいんですかね?」

「そうだなあ。あくまで俺の個人的な意見として聞いて欲しいんだが」

 

 まずは労働者の数から考える。同盟軍の正規兵力は五五〇〇万。これは総人口一三〇億八〇〇〇万の〇・四二パーセントにあたる。働き盛りの二〇代から六〇代は、総人口の六二パーセント。この年代の平均失業率は一三パーセントで、一〇億人以上が失業状態だ。この中には民間企業や公共部門からリストラされたベテランも多数含まれる。熟練労働者の絶対数が足りないなんてことはない。

 

 今度は労働者の質から考える。四年制大学及び二年制専修学校卒業者の数は、この一〇年で緩やかに減少している。非正規労働者はこの一〇年で総労働人口の三割から四割に増加した。年代別で見ると、一〇代と七〇代で非正規労働者が増加している。教育水準の低下、正規雇用の減少が熟練労働者の再生産を妨げているのが分かる。

 

 最後に賃金水準から考える。一〇年前と比べ、賃金水準は九パーセント低下した。年齢別に見ると、三〇代と四〇代の低下が最も大きい。つまり、勤続一五年以上の中堅に対する待遇が悪化しているのだ。

 

 これらの数字から判断すれば、この国の雇用者は熟練労働者を雇う気がないように思える。そして、新しく育てる気もない。

 

「不足しているのは熟練労働者の供給量でなくて需要だと思う。未成年は経験が少ない。老人には年金がある。どっちも賃金が安くても文句を言わないから、雇われやすいんだ」

「じゃあ、ホワン先生は間違ってるんですか?」

「ハイネセン学派経済学の立場では間違ってない。彼らは長期雇用に否定的でね。労働者は一つの職場に縛り付けられるのでなく、自由に転職するべきだと考えている。そうすれば、労働者には適切な働き場所が見つかり、企業は余剰人員を抱えることがなくなり、生産性が向上するってね。ホワン先生から見たら、熟練労働者が軍隊に縛り付けられているのは非効率で、民間で短期雇用される方が効率的になる。短期雇用だったら雇用者も喜んで熟練労働者を雇う」

「短期雇用を増やしたいってことですか。すっきりしない話ですなあ」

 

 ジャン曹長の声に少し苦味が混じる。

 

「熟練労働者を労働市場に供給するという目的は達成できる」

「待遇を良くすりゃあいいでしょう」

「この景気じゃ難しいな。財政委員会は締め付け一本槍だし」

「結局、戦争が続いてる間はどうにもならんのですか」

「そうだね。今はとにかく金がない。ワトソン派は分析としては正しいけど、解決策にはならないね。熟練労働者を非正規にしてしまえというホワン先生の策は非情だ。けれども、人材不足は解消できる」

「いやあ、実にわかりやすい説明でした。士官学校ではそういうことも勉強するんですなあ。兵隊あがりには経済なんてさっぱりです」

 

 ジャン曹長は俺のことを士官学校卒と勘違いしていた。何度訂正しても間違える。

 

「俺も兵隊あがりだよ。参謀になってから勉強した」

「なるほど。提督になる人はものが違います」

「ありがとう」

 

 ドライバーとの会話を終えた俺は右を向いた。すると、コレット大尉が何やらメモしているのが見えた。

 

「何をメモしてるんだ?」

「閣下のおっしゃったことを書き留めようと思いまして」

 

 想像もしない答えが返ってきた。

 

「どうして?」

「勉強になりますから」

「士官学校で勉強しただろうに」

「ほとんど勉強しなかったんです。単位は実技で取りました」

「意外だな」

 

 俺はコレット大尉の顔をまじまじと見た。かつての愚鈍そうな感じはかけらも無い。仕事のできる大人の女性そのものだ。

 

「不真面目でしたから」

「君は自分に厳しすぎるな。君が不真面目なら同盟市民一三〇億人全員が不真面目だ」

 

 俺はそう言うと、メモ用紙を取り出して一〇冊ほどの本の名前を書き込んだ。

 

「さっき話したことはすべてこの本に書いてある。俺の話を聞くより、本を読んだ方がずっと勉強になるぞ」

「わざわざありがとうございます」

「わからないことがあったら、参謀長か後方部長に聞くといい。あの二人は俺よりずっと経済に詳しいから」

「かしこまりました。携帯端末を使わせていただいてよろしいでしょうか?」

「構わないよ」

「恐れいります」

 

 コレット大尉は携帯端末を開いて文字を打ち込む。本をネットで予約しているのだろう。俺が本の題名をあげて「これを読め」と言うたびに、彼女はそうする。

 

「しかし、このままでは埒があきませんな。ピタリとも動かんですよ」

 

 声をかけてきたのはジャン曹長だった。

 

「まいったな。これじゃ九時三〇分の便に間に合わない」

「金をケチって時間を無駄にするなんて、本末転倒ですわ」

「まったくだ。最近は何をするにも時間がかかる」

 

 時間は金で買うものだ。最近の社会基盤の劣化はそのことを教えてくれる。旅客機やリニアの遅れが酷い。三年前までは一週間ほどで届いた恒星間宅配便が、最近は二週間近くかかる。消防車や救急車の現場到着時間が三年前の二倍以上に伸びた。

 

「よその国を攻めてる場合ですか? ますます人手が取られちまいます」

「さっきも言った通り、人手は余ってる。人を雇う金が足りない」

 

 俺はハイネセン・ジャーナルを折りたたみ、『シチズンズ・フレンズ』を開く。昨日の閣議で交わされた議論の一部が掲載されていた。

 

 グレシャム副議長が紙幣の大量増刷を提案すると、レベロ財政委員長は「インフレが起きる」と反対した。どの新聞もレベロ財政委員長を支持し、グレシャム副議長を経済音痴と批判するが、シチズンズ・フレンズだけは違った。グレシャム案を「レベロよりよほど現実的」と評価する。

 

 ワトソン派の観点では、今の同盟経済に足りないのは供給ではなくて需要だ。そして、需要不足には通貨供給量を増やすのが有効なのである。どんな方法でもいいから金を作って、人を雇ったり物を買ったりすればいいということだ。しかし、歴史的に見ると、この種の政策はハイネセン学派が言うように、インフレ率を制御しきれずに失敗することが多い。

 

「金を作って人を雇うのもありだけど、解決するとも限らないんだよなあ」

「私にゃあさっぱりわかりません」

「とにかく、今後は人手不足が酷くなるってことだよ。人を雇うのに使われるべき金が、遠征に使われるから」

「アイランズ先生がそんなことを言っとりましたな」

「トリューニヒト派の政治家はみんなそう言うよ」

 

 俺はシチズンズ・フレンズをペラペラとめくる。政治面には「遠征する金があったら兵員を増やせ」、経済面には「軍拡と公共事業で景気回復せよ」といったことが書かれていた。

 

 他の新聞はどうかというと、政治面には「遠征にかかる金は一年分の軍事費と同じ。それで戦争が終わるなら安い投資だ」、経済面には「戦争終結と大軍縮こそが景気回復の近道だ」と書いてある。

 

「ややこしいことはわかりませんけどね。こいつをどうにかしてほしいもんです」

 

 ジャン曹長が窓の外を見ながら嘆く。そこには長蛇のような車の列がある。同盟社会の停滞を象徴するように見えた。

 

 

 

 ラグナロック作戦が可決されてから一週間が過ぎた。銀河情勢はめまぐるしく動いている。

 

 ニブルヘイム総軍司令官ローエングラム元帥は、作戦方針を巡って中立派諸将と対立したことから帝都へ召喚された。後任には文官のワイツ男爵が就任する。ワイツ男爵は寒門出身ながらリヒテンラーデ公爵に重用された人物で、エルウィン=ヨーゼフ帝が即位すると同時に男爵に叙された。この人事によってニブルヘイムの防衛体制は盤石になったとみられる。

 

 リヒテンラーデ=リッテンハイム連合は、ブラウンシュヴァイク派に和解を申し入れた。だが、エルウィン=ヨーゼフ帝とエリザベート帝のどちらが退位するか、官職をどのように配分するかで折り合いがつかず、物別れに終わった。

 

 フェザーンのルビンスキー自治領主は静観の姿勢を崩さない。しかし、自治領財務総局が「同盟経済の先行き不透明」を口実に、同盟政府との債務繰り延べ交渉の一時中止、軍事国債の購入停止を決めた。その一方でリヒテンラーデ=リッテンハイム連合に二〇兆帝国マルク、ブラウンシュヴァイク派に一五兆帝国マルクの「人道援助」を行った。

 

 同盟政府はラグナロック作戦の経費として臨時予算を組んだ。総額は一二兆ディナール。国家予算の一割、年間国防費の二割にあたる。フェザーンの経済進出を嫌う同盟の旧財閥、フェザーン財界の新興勢力、一〇大財閥内部の反ルビンスキー派などが、軍事国債の引き受け先となった。

 

 一二月一〇日、国防委員会はラグナロック作戦の陣容を公表した。

 

 総司令官は宇宙艦隊司令長官ラザール・ロボス宇宙軍元帥。四年前までは同盟軍最高の名将だったが、最近は衰えが目立つ。万事に無気力で、大胆さは粗雑さに、迅速さは優柔不断に取って代わられたと評判だ。市民の間には不安視する声がある。

 

 総参謀長は宇宙艦隊総参謀長と統合作戦本部作戦担当次長を兼ねるドワイト・グリーンヒル宇宙軍大将。堅実かつ緻密な手腕が持ち味である。シトレ派であるがロボス元帥とも親しく、その他の派閥との関係も悪くない。調整役として欠かせない存在だ。

 

 作戦主任参謀はステファン・コーネフ宇宙軍中将。士官学校を首席で卒業して以来、ロボス元帥以外の上官を持ったことがない生粋のロボス派で、ロボス・サークルの中心人物だ。戦略戦術の理論にかけては右に出る者がいない。大雑把な上官を理論面から補佐する。

 

 情報主任参謀はカーポ・ビロライネン宇宙軍少将。ロボス・サークルではコーネフ中将に次ぐポジションにいる。エル・ファシル義勇旅団の実務面を取り仕切り、宇宙艦隊情報部でも抜群の手腕を示した。実務能力と調整能力を兼ね備えた実務型の参謀である。

 

 後方主任参謀はアレックス・キャゼルヌ宇宙軍少将。シトレ元帥の次席副官と統合作戦本部事務局次長を兼ねており、出向者として司令部に身を置く。自他ともに求める同盟軍後方部門の第一人者である。前の世界ではヤン・ウェンリーやユリアン・ミンツの後方支援を取り仕切った。彼をおいてこの大軍の兵站を取り仕切れる人物はいない。

 

 コーネフ作戦主任の下には五人の作戦参謀、ビロライネン情報主任の下には三人の情報参謀、キャゼルヌ後方主任の下には三人の後方参謀がそれぞれ配属される。各参謀は少将から代将の階級を持ち、佐官級や尉官級の士官が配属される。各参謀が副主任参謀、補佐士官が平参謀と考えると分かりやすい。作戦参謀は全員冬バラ会のメンバーだ。ラグナロック作戦を立案したアンドリュー・フォーク准将も作戦参謀の一人となる。

 

 専門幕僚部門としては、通信部、総務部、広報部、経理部、法務部、衛生部、監察官室、政策調整部が設置される。政策調整部は宣撫を担当する部署で、民間から士官待遇軍属として登用された人々で構成される。

 

 遠征軍の宇宙部隊主力としては、宇宙艦隊所属の一一個艦隊のうち、国内防衛に従事する第一艦隊、レグニツァの傷が癒えていない第二艦隊と第一二艦隊を除く八個艦隊が動員される。

 

 第三艦隊は七九三年のタンムーズ戦役以降、一度も会戦に参加していない。そのため、損耗を被らずに練度を積み上げてきた。司令官のシャルル・ルフェーブル宇宙軍中将は、士官学校出身ながら一度も幕僚勤務を経験していない生粋の軍艦乗りである。定年直前に史上最大の作戦に参加することとなった。

 

 第五艦隊は昨年までビュコック大将のもとで活躍した。司令官の「黒鷲(ブラック・イーグル)」ウランフ宇宙軍中将は、勇気・知略・人格を兼ね備えた名将だ。その性格は軍人というより武人であり、大きな戦いになるほど力を発揮する。

 

 第七艦隊は第六次イゼルローン遠征で要塞に肉薄した。司令官のイアン・ホーウッド宇宙軍中将は、ロボス元帥のもとで長らく作戦参謀を務めた。理詰めで合理的な用兵に定評がある。次期宇宙艦隊総参謀長の有力候補だ。

 

 第八艦隊は正規艦隊で随一の練度を誇る。司令官のジェニファー・キャボット宇宙軍中将は、ロボス流用兵を最も忠実に受け継いだ。その戦いぶりは大胆にして華麗。全盛期のロボス元帥をほうふつとさせるとの評もある。

 

 第九艦隊は昨年まで名将ウランフ中将で武勲を重ねた精鋭だ。司令官のジャミール・アル=サレム宇宙軍中将は兵站の専門家である。豪勇や奇計の持ち主ではないが、手堅くて隙がない。

 

 第一〇艦隊は第六次イゼルローン遠征でラインハルトを追い詰めた。司令官のハリッサ・オスマン宇宙軍中将は、昨年末に第五艦隊副司令官から昇格した。頭脳の中には古今の戦略戦術が詰まっており、臨機応変に引き出すことができる。彼女もまた次期宇宙艦隊総参謀長の有力候補である。

 

 第一一艦隊は第三次ティアマト会戦で主力艦隊司令官を打ち取る殊勲をあげた。司令官のフィリップ・ルグランジュ宇宙軍中将は、柔軟性を欠くが屈指の勇猛さと統率力を有する。前の世界では非業の死を遂げたが、この世界では遠征軍の先鋒という栄誉を与えられた。

 

 第一三艦隊はイゼルローン攻略部隊を中核として新たに編成された。司令官のヤン・ウェンリー宇宙軍中将は、同盟軍の生きる伝説である。エル・ファシルとイゼルローンでの功績は不朽といっていい。彼の頭脳からどんな奇計が飛び出すのか? 一三〇億市民は期待の目で見詰める。

 

 これにハイネセン駐留の独立部隊、地方警備部隊から選抜された部隊、即応予備役部隊などが加わり、遠征軍宇宙部隊を構成する。

 

 今回の出兵においては、有人惑星での戦闘が想定される。そのため、地上総軍所属の八個地上軍のうち、国内防衛に従事する第一地上軍、対テロ作戦を遂行中の第五地上軍を除く六個地上軍が動員される。地上軍は三個陸上軍、一個水上軍、一個航空軍からなる地上戦闘部隊だが、最低限の宇宙戦力も持つ。

 

 六個地上軍にハイネセン駐留の独立部隊、地方警備部隊から選抜された部隊、即応予備役部隊が加わり、遠征軍地上部隊を構成する。

 

 これらの部隊は第一統合軍集団、第二統合軍集団、第三統合軍集団に三分された。「統合」の名の通り、宇宙軍と地上軍の合同部隊だ。部隊単位としては、方面軍相当の艦隊・地上軍より上で、総軍よりは下という位置づけになる。

 

 第一統合軍集団には、第五艦隊・第一一艦隊・第一三艦隊の三個艦隊、第四地上軍・第七地上軍の二個地上軍、その他の軍級・軍団級・師団級の部隊が配属される。軍集団司令官は第五艦隊司令官ウランフ宇宙軍中将、副司令官は第四地上軍司令官ベネット地上軍中将が務める。

 

 第二統合軍集団には、第三艦隊・第八艦隊・第九艦隊の三個艦隊、第二地上軍・第六地上軍の二個地上軍、その他の軍級・軍団級・師団級の部隊が配属される。軍集団司令官は第二地上軍司令官ロヴェール地上軍中将、副司令官は第三艦隊司令官ルフェーブル宇宙軍中将が務める。

 

 第三統合軍集団には、第七艦隊・第一〇艦隊の二個艦隊、第三地上軍・第八地上軍の二個地上軍、その他の軍級・軍団級・師団級の部隊が配属される。軍集団司令官は第七艦隊司令官ホーウッド宇宙軍中将、副司令官は第三地上軍司令官ソウザ地上軍中将が務める。

 

 総司令部はイゼルローン要塞から全体を統括する。配属された軍級・軍団級・師団級の部隊は、必要に応じて戦略予備として投入される。

 

 中央兵站総軍が補給・輸送・整備・通信・医療などの後方支援を担う。職業軍人だけでは必要な数を満たせないため、予備役軍人や傭兵も加わる。司令官はハンス・ランナーベック地上軍中将が務める。

 

 遠征軍の総人員は約三一六五万人、戦闘艦艇は約一三万隻、支援艦艇は約八万隻。それとは別に即応予備役二五〇〇万人に動員準備命令が下った。彼らは解放区が広がり次第、警備兵力として前線に送られる。

 

 人類史上でこれほど多くの軍隊が一つの作戦に動員された例はない。史上最大の作戦が本格的に動き出した。

 

 

 

 第三六機動部隊は今日も訓練に励む。励んでいない日など一日たりともないのだが、最近はよりいっそう励んでいる。

 

「これより、第三六一任務群と第三六二任務群の対抗訓練を実施する」

 

 俺の宣言とともに、マリノ大佐が指揮する第三六一任務群、ビューフォート大佐が指揮する第三六二任務群が展開した。この二つの任務群は司令官直轄部隊を二分した臨時編成部隊で、戦力的にはほぼ互角。用兵の差が勝敗を決するであろう。

 

 マリノ大佐は一点集中砲撃を加え、そこから一気に突破しようとした。だが、ビューフォート大佐は素早く部隊を動かして防御陣を組み直す。

 

「予想通りの展開ですね」

「そうだね」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長の言葉に頷いた。攻撃型のマリノ大佐が攻め、迎撃戦に強いビューフォート大佐が守る。最初からこうなることを期待していた。

 

 戦場では一進一退の攻防が続く。あの手この手で突破しようとするマリノ大佐に、そうはさせじと食らいつくビューフォート大佐。二人とも勘と度胸を頼りに戦うタイプ。策を弄することはないが、反応の早さにかけては比類ない。見ているだけで小気味良くなってくる。

 

 結局、勝負は付かなかった。稼いだポイントはビューフォート大佐の方がやや多かったが、ほぼ互角と言っていいだろう。

 

 訓練が終わったら、事後検討会で今回の訓練の成功点、失敗点について話し合い、得られた教訓を全員が共有し、克服すべき課題を明確にした。帰るまでが遠足、事後検討会が終わるまでが訓練なのである。

 

「若さと勢いのマリノ大佐、経験と粘りのビューフォート大佐といったところでしょうか」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長は、二人の用兵について論評した。イレーシュ副参謀長、ラオ作戦部長も同意する。

 

 第三六独立戦艦群司令ヘラルド・マリノ大佐は今年で三一歳。偏屈だが勇猛さと機敏さにかけては飛び抜けている。前の世界でヤン・ウェンリー配下の勇将として活躍した実績もある。期待の若手指揮官であった。

 

 第三六独立駆逐群司令アーロン・ビューフォート大佐は、三〇年の戦歴を誇るベテランで、俺とはエル・ファシル以来の付き合いだ。叩き上げ特有の粘り強さが持ち味である。

 

 部下を育てるのは指揮官の重要な仕事。シトレ元帥やロボス元帥も大勢の人材を育てた。現状戦力に満足することなく、新戦力の育成に務める。それが八〇の部隊を九〇まで高める秘訣だ。

 

「ホーランド少将から通信が入っております」

「繋いでくれ」

 

 副官コレット大尉に通信を繋ぐよう指示すると、上官ホーランド少将の顔が通信画面に映った。

 

「今日の訓練はどうだった?」

「多くの示唆が得られました。最初に失敗点から申しますと――」

 

 俺は事後検討会の結果、それについての所見をホーランド少将に報告する。

 

「ふむ。私が思うにだな。それについては――」

 

 ホーランド少将は俺の報告について思うところを述べる。

 

「ご指導ありがとうございます」

「貴官は良くやっている。次回はより良い成果が出ると期待しているぞ」

 

 敬礼を交わし合って通信を終える。このようにホーランド少将は事後検討会が終わったら、すぐに通信を入れ、部隊の状況を知ろうとする。常に最新の情報を把握していなければ気が済まないのだ。

 

 第三六機動部隊は面倒くさい人間が多かったが、部隊としての実力は本物だった。わずかな期間でホーランド流の高度な艦隊機動を習得した。

 

 もっとも、俺の指揮能力が部隊の練度に追い付いていない。機動部隊対抗演習では見事なまでの惨敗を喫した。

 

 一方、ホーランド少将の指揮能力は素晴らしいの一言に尽きる。分艦隊対抗演習において、ほんの三〇分で相手を敗走させてしまった。

 

「これでは演習にならん。もう少し手加減せんか」

 

 統裁官の第一一艦隊司令官ルグランジュ中将が渋い顔をした。

 

「軍人は二四時間三六五日、いつでも戦える心構えが必要。このウィレム・ホーランドが戦う時は常に実戦です」

 

 ホーランド少将は分厚い胸を反らして言い放つ。ルグランジュ中将とその幕僚は呆然とした。艦隊参謀長エーリン少将のみが平然としている。D分艦隊の半分は「その通り!」と視線で語り、残り半分は珍獣を見る目で上官を見る。

 

 俺は珍獣を見る目をしていた。ホーランド少将の言葉だけを切り取ると、いいことを言ってるように見えるが、状況を考えると明らかにおかしい。好き嫌いが分かれるのも納得だ。

 

「しかし、突撃専門のフィリップス准将をここまで柔軟に動かせるとはね。大したものだ」

 

 エーリン少将が出来の良い生徒を褒めるような言い方をする。

 

「古代フランスの英雄ナポレオンは言った。一頭の狼に率いられた百頭の羊は、一頭の羊に率いられた百頭の狼に勝ると。ナンセンスな比較だ。私が率いれば百頭の羊は百頭の狼になる」

 

 英雄譚の一節のようなセリフも、ホーランド少将が言うとさまになる。美男子というのは本当に得だ。

 

「どんな人材でも使いこなしてみせるということかな」

「私は無能な人材に会ったことがない。この世にいるのは、私に出会った人材とまだ出会っていない人材だけだ」

「ほう、大した自信だ」

「自信ではない。確信だ」

 

 どこまでも自信に満ち溢れたホーランド少将。言ってることは無茶苦茶なのだが、こうも堂々と言い切られると信じたくなる。

 

 かつて、ビューフォート大佐に「自信が付けば、あれこれ悩まずとも感覚で判断できるようになる」と言われたのを思い出した。自分で指揮した時とホーランド少将の指揮を受けた時の違いは、まさしく自信の有無だろう。

 

 ホーランド少将は冬バラ会に参加した見返りとして、全軍の先鋒にしてもらった。一方的に宿敵と思っているニブルヘイム総軍司令官ローエングラム元帥が更迭されたため、一方的に望んだ英雄対決は流れた。それでも、未だかつて無い気迫で臨んでいる。頭の中ではワルキューレの騎行が鳴り響いているのだろう。

 

「そんなことないよ」

 

 ダーシャが否定した。

 

「そうだよな。いくらあの人でもそこまでは……」

「ドヴォルザークの『新世界より』だよ。執務室でいつもかけてるもん」

 

 斜め上の答えだった。ホーランド少将はどこまでも予想を裏切ってくれる。

 

「あいつは一人だけ英雄譚の中で生きてんだよ。他人に嫉妬しても、悪口言ったり足を引っ張ったりしない。でかい武勲を立てて見返したいと思うだけ。健全っちゃあ健全だよ。馬鹿だけど」

 

 イレーシュ副参謀長は相変わらずホーランド少将に冷ややかだ。しかし、卑怯じゃないことは認めている。

 

 D分艦隊は全軍の先鋒で、D分艦隊の先鋒は第三六機動部隊が務める。とんでもないことに俺が全軍の先鋒を仰せつかった。ホーランド少将に理由を聞いたところ、「英雄が先鋒を務めるのは当然だ」と言われた。要するに知名度で選ばれたらしい。

 

 大義のない戦いでも手を抜けないのが俺だ。釈然としない気持ちを抱えながらも、訓練に精を出した。




多少構成を変えました
変更点
1.46話を第四章に編入しました
2.第五章は47話から始まります
3.53話を削除し、「神々の黄昏」が53話、「同胞と戦うよりは外敵と戦う方がずっとましだ」が54話になりました。
4.53話のヤン批判は52話の後段、53話の妹とのエピソードは54話の前段に移動しました
5.52話の訓練のエピソードは今回更新分に移動しました
6.神々の黄昏後半の経済談義は削除し、最新話の別のシチュエーションで経済談義をしています

変更点ではないですが
1.以前削除した結婚のエピソードは次回使います


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第56話:旅の始まり 797年12月下旬~12月30日 モードランズ官舎~ニューブリッジ官舎~モードランズ官舎~モードランズ宇宙軍基地

 遠征軍が編成されてから二週間が過ぎた頃、妹のアルマがやってきた。二日後にハイネセンを出発するのだという。

 

「大丈夫なのか?」

 

 俺は心配でたまらなかった。特殊部隊は遠征軍より一週間早く帝国領に入り、潜入偵察を行う。危険極まりない任務だ。

 

「大丈夫よ」

「本当に大丈夫なのか? 見つかっても逃げられないんだぞ?」

「見つからないための訓練だから」

「万が一ってこともあるじゃないか」

「何度も行ってるし」

 

 妹は帝国領に潜入した経験がある。表には出ないが、イゼルローン要塞が陥落する前から、同盟軍の特殊部隊は帝国領への潜入偵察を繰り返してきた。少人数なら簡単に哨戒網をすり抜けられるそうだ。特殊部隊基準での「簡単」なのだが。

 

「今回はグループリーダーなんだろ? これまでとは勝手が違う」

「それを言うなら、お兄ちゃんだって機動部隊司令官は初めてじゃないの」

「でもなあ」

 

 延々と押し問答が続く。取っておきのフルーツマウンテンタルトを二人で分け合うことでけりが付いた。

 

「そろそろ始めよっか」

 

 妹がうきうきしながらビデオカメラをセットする。

 

「ああ、わかった」

「つまらなさそうな顔しないでよ」

「遺書を作るなんて楽しくないだろう」

「お兄ちゃんと一緒なら何でも楽しいよ!」

 

 軍人は戦地に赴く前に遺書を作らなければならない。妹は俺と一緒にビデオレターを撮るためにやってきたのだ。

 

「早く早く!」

 

 妹は俺の手を引っ張って、ビデオカメラの前に連れてきた。左側に俺、右側に妹が立ち、一緒に家族向けのメッセージを吹き込む。緊張する俺とテンションの高い妹が対照的だった。

 

「楽しかったね!」

「そうだな」

 

 俺は嘘を言った。本当は不安でたまらない。妹の笑顔がとても儚く見えたからだ。

 

「また一緒に撮ろうよ!」

「お、おう」

「次はないかもしれないけどね!」

「縁起の悪いことを言うなよ」

「だって、この戦いは『すべての戦争を終わらせるための戦争』なんでしょ?」

 

 妹は流行りのフレーズを口にした。

 

「どうかな」

 

 俺は言葉を濁す。フェザーンの天秤が必要とは思わないが、対帝国戦争が終わっても平和になるとは思えない。地上軍の出番は増えるのではないか。

 

 ビデオカメラを片付けた後、妹は上着を脱ぎ捨ててくつろいだ。丈の短いタンクトップを着てるせいで、腹筋を小刻みに引き締めたり緩めたりしているのが分かる。彼女にとって筋トレは呼吸も同然なのだ。

 

 リビングのテレビはニュースチャンネルに合わせてある。解放区民主化支援機構(LDSO)が正式に発足したとか、トリューニヒト下院議長が「この規模の作戦なら六〇〇〇万は必要」と述べたとか、法秩序委員会が地球教など四つの宗教団体を「警備業を名目に私兵を養っている」と批判したとか、そういったニュースが流れてくる。

 

 俺と妹はぼんやりとテレビを眺め続けた。内容は頭に入ってこない。ただ二人でいるだけの時間が心地良く感じる。

 

「お兄ちゃん」

「なんだ?」

「ひがみっぽいおばさんはどうしてんの?」

「おばさん?」

「D分艦隊の副司令官」

「オウミ准将のことか?」

「うん」

「相変わらずだ」

 

 俺とD分艦隊副司令官マリサ・オウミ准将は仲が悪い。厳密に言うと、オウミ准将が一方的に俺を嫌っている。

 

 今から六年前、少尉になったばかりの俺は、第一一三機動部隊所属の空母フィン・マックール補給科に配属された。当時、第一一三機動部隊司令官を務めていたのがオウミ准将だ。それが今では同じ階級で同じ部隊にいる。オウミ准将としては面白くない状況だ。

 

「気にすること無いよ。おばさんがひがんでるだけだから」

 

 妹は口が悪い。今の世界と前の世界で共通する数少ない点だ。

 

「おばさんって連呼するなよ。オウミ提督はまだ三八歳だぞ」

「十分おばさんだよ」

「見た目は二〇代で通用するんじゃないか。童顔でちっこくて肌がつやつやしてるからな」

「お兄ちゃんはその手の人と相性悪いよね。義勇旅団の副団長もテロリストもちっこかったでしょ?」

「まあな」

 

 俺は背の低い人に親近感を覚える。だが、マリエット・ブーブリルは俺を馬鹿にし、ルチエ・ハッセルは俺の命を狙った。

 

「やっぱ、背が高くないと合わないのよ」

「そんなの関係ねえだろ」

「あるよ。お兄ちゃんの周りには背の高い女の人しかいないじゃん。ダーシャちゃんとか」

「あいつは普通だ」

「一七〇あったらかなり大きいよ。女性の平均が一六三だもん」

「ダーシャは一六九・九五だ」

 

 間髪入れずに俺は訂正した。

 

「大して変わんないでしょ」

「一六九と一七〇は全然違うぞ」

「わかんない」

「師団と旅団ぐらい違う」

「やっぱわかんない」

 

 一八四センチの妹には理解できないらしい。これが持てる者と持たざる者の違いか。

 

「ダーシャは普通だぞ」

「感覚が麻痺しちゃったんじゃないの? みんな背が高いから」

「そんなことないぞ」

「目つき悪い副参謀長は一八〇超えてるでしょ」

「偶然だ」

「暗そうな副官も一八〇あるよね」

「偶然だ」

「だらしない艦長も一七五はあるんじゃない?」

「偶然だ」

「カイエさんは一七〇ぐらいかな」

「偶然だ。それに彼女は一六八しかない」

「通信部長のマーさんも一七〇あるはず」

「偶然だ」

 

 世間では俺が背の高い女性を集めたと思われてる。だが、本当に偶然集まっただけなのだ。

 

「とにかくお兄ちゃんとは背が高くないと合わないの! 私は一八四だし!」

 

 妹は顔を真っ赤にしながら叫ぶ。「お兄ちゃんと自分は相性がいい」と言いたかっただけのようだ。これが二四歳の地上軍大尉の言うことだろうか? 幼いのは外見だけにしてほしい。

 

 やがて妹は本棚を物色し始めた。船中で読む本を探しているらしい。脳みそが筋肉で出来ているように見えて、なかなかの読書家なのだ。軍務に役立ちそうな本しか読まないのだが。

 

「お兄ちゃん、この本貸して」

 

 妹が『カリスマ下士官が語る新兵指導の秘訣』という本を指さす。

 

「これはだめだ。ダーシャから借りた本だから」

「他の本を借りようとした時も同じこと言われたけどさ。どんだけたくさん借りてんのよ」

「うちにある本棚の半分はダーシャの本だな」

「返せとか言われない?」

「どっちにあっても大した違いじゃないと言われた」

「そりゃそっか」

「たくさん私物置いてるからね」

 

 俺の部屋にはダーシャの私物がたくさんある。彼女の部屋には俺の私物がたくさんある。二つの部屋を二人で共同使用しているに等しい。

 

 三年前、第六次イゼルローン遠征が終わった後、俺とダーシャはお互いの部屋を行き来するようになった。当初は泊まるたびに着替えを持ち込んだのだが、「それじゃ面倒でしょ」と言われて置きっぱなしにした。今では俺の服は彼女のクローゼットの四分の一を占める。そして、俺のクローゼットの五分の二が彼女の服に占拠された。俺の部屋には彼女の化粧品があり、彼女の部屋には俺の整髪料がある。

 

 寝る時は同じべッドを使う。当初はリビングのソファーで寝ていたのだが、ダーシャに「同じベッドでいいでしょ」と言われた。もちろん俺は拒否した。ただの友達であっても、女性と同じベッドで寝るのは気が引ける。しかし、「へえ、意識してたんだ。ただの友達じゃなかったの?」と返されて反論できなかった。

 

 似たような経緯で一緒に入浴するようになった。エル・ファシル討伐作戦が始まる頃には、俺の体にダーシャが触れたことがない部分は一つもなく、ダーシャの体に俺が触れたことがない部分は一つもなくなった。

 

「ダーシャちゃんは本当に包囲殲滅戦が得意なんだね」

 

 妹が苦笑を浮かべる。

 

「得意というより好きなんだろ。レグニツァの話になると、『私が作戦参謀だったら、ローエングラム元帥をアスターテまで誘き出して包囲殲滅したのに』とうるさいんだ」

「そういう意味じゃないけど……。まあいいや。で、どうなの?」

「何のことだ?」

「この先には結婚しかないよね」

「まあな」

 

 それは俺もダーシャもわかっている。わかっていても言えないことがこの世にはある。

 

「お兄ちゃんもダーシャちゃんもぐずぐずし過ぎ。早く結婚しようよ」

「遠征が終わってからでいいじゃないか」

「死んだらどうすんの」

「まさか、そんなことは……」

 

 そんなことはないと言いかけてやめた。戦いに出る以上、死ぬ可能性はある。

 

「死んでもおかしくないな」

「今が最後のチャンスなんだからね」

「わかったよ」

 

 俺は適当に返事した。

 

「じゃあ、通信して」

 

 妹が俺に携帯端末を差し出す。

 

「通信って誰に?」

「ダーシャちゃん」

「何で通信するんだ?」

「結婚するって決めたんでしょ。さっさと伝えなきゃ」

「急がなくてもいいだろう。あと一時間もすれば戻ってくるんだし」

「なんで待つの?」

 

 何を言ってるのかと思ったが、妹の目は笑っていない。

 

「こ、心の準備ってもんがあるだろうが!」

 

 俺は慌てた。いくらなんでも急ぎすぎだ。

 

「そんなのいらない」

「俺にはいるんだ!」

「お兄ちゃんは何年迷ったの? まだ迷うつもり? 人生には限りがあるの。一日言うのが遅れたら、結婚が一か月遅れる。その一か月の間に死ぬかもしれないのよ? 私たちは軍人だからね。迷うなんて時間の無駄。電話するだけでしょ。ほんの一瞬だから」

 

 妹はクリスチアン中佐のようなことを言い出した。声も表情も淡々としていたが、有無を言わせぬ迫力がある。

 

「わかった!」

 

 怒鳴るように答えると、妹から携帯端末をひったくり、ダーシャの番号を素早く入力する。呼び出し音が二回鳴った後、通信が繋がった。

 

「どうしたの、エリヤ?」

「結婚しよう」

「結婚?」

「そうだ。俺は君と結婚したいんだ」

「えーと……」

 

 端末の向こうから困惑が流れてくる。ダーシャは強気だが、結婚の二文字には弱い。

 

「いやか?」

「い、いやじゃないけど……」

「俺はしたいよ」

「私もしたいけど、でも……」

「したいならしよう」

 

 一旦決めたらとことん突っ走るのが俺だ。端末を通してぐいぐいと押しまくる。

 

「う、うん」

 

 ついにダーシャが頷いた。俺はぐっと拳を握り、妹は親指を立ててにっと笑う。出会ってから三年半、行き来するようになってから二年と一一か月、一緒に寝るようになってから二年と九か月にして、俺とダーシャは結婚の約束を交わした。

 

 

 

 結婚の約束から二日後、俺はダーシャとともに飛行機に乗り、ハイネセン北大陸のニューブリッジ市へと向かった。

 

「そんなに緊張しなくていいのに」

 

 ダーシャが苦笑いした。

 

「失敗したらと思うと不安で不安で」

「大げさね」

「悪く思われたらまずいだろうが」

 

 今からダーシャの実家に結婚の挨拶に行く。士官は一年から四年の周期で転勤するため、その子供にとっては親が住む官舎が実家なのであった。

 

 都市計画の都合上、軍人の官舎はひとまとめに作られる。ダーシャの父が住む官舎街は、車道も歩道も広く、緑地帯が計画的に配置され、きれいな一戸建てや集合住宅が立ち並ぶ。アッパーミドル向けの住宅街のようだ。

 

「静かでいいな。子供ができたらこんな街に住みたいもんだ」

「でも、人通りが少なすぎない?」

「出兵間近だからな」

「見た感じ、この一帯は世帯向けだよ。それなのに年寄りや子供がいない。おかしくない?」

「気のせいだろ」

 

 ああだこうだ話しているうちに、目印のシルバー・グラス・フィールド一八丁目公園に着いた。そこからは教えられた住所に向かって歩く。

 

「あれかな?」

 

 ダーシャが指差したのは、周囲の家よりひときわ大きい二階建ての一軒家。邸宅といった方がふさわしい大きさで、庭も広々としており、プールやテラスまで備わっていた。

 

「本当にここか?」

「住所は間違いないよ」

「君のお父さんは大佐だったよな?」

「そうだけど」

「ドーソン中将の官舎よりでかいぞ。本当は大佐じゃなくて大将なんじゃないか」

「馬鹿なこと言わない」

 

 ダーシャはさっさと玄関に歩いて行った。俺は慌てて後を追う。

 

「はじめまして。エリヤ・フィリップス君」

 

 奥から出てきたのはよれよれのジャージ、素足にサンダル履きというラフ過ぎる格好の男性だった。髪の毛はほぼ真っ白、背は俺よりも低く、体格は痩せていて、定年間近の小学教師といった感じだ。

 

「はじめまして」

 

 我ながら芸のない挨拶だった。

 

「入りなさい」

 

 素っ気なく言うと、ダーシャの父は家の中へと歩いて行く。その背中は想像したよりもずっと小さい。

 

「……ダーシャ?」

 

 俺はダーシャに小声でささやきかけた。

 

「……なに?」

「……イメージとぜんぜん違うな」

 

 俺はダーシャの父親、ジェリコ・ブレツェリ宇宙軍大佐の情報を少ししか持っていなかった。フェザーン移民の二世で、陸戦専科学校を卒業した後に四〇年以上勤務した程度しか知らない。

 

 専科学校卒業者が大佐になるには、伍長から出発して九回昇進する必要がある。これは士官学校を卒業して少尉に任官した者が大将になるまでの昇進回数と等しい。そのため、専科学校卒業者の大佐は、士官学校卒業者の大将に匹敵すると言われる。さぞ勇猛そうな見た目なのだろうと想像していた。

 

「……お父さんは航空だから」

「……なるほどな」

 

 陸戦隊と言っても、全員が戦斧を振り回して戦うわけではない。兵站部隊もいれば、機甲部隊、航空部隊、宇宙艦部隊もいる。

 

「この子がエリヤ君? なかなか可愛い子じゃないの」

 

 ダーシャの母親であるハンナ・ブレツェリ宇宙軍准尉は、可愛いという言葉をマシンガンのように乱発する。そしてほんわかした丸顔。さすがは親子だ。

 

 両親に案内されて奥に進むと、ダーシャの兄と姉が食事の用意をしていた。フェザーン系のブレツェリ家は、独立心を大事にするフェザーン的な家風だ。子供には家事をひと通り習得させると聞いたことがある。

 

 上座につかされた俺は、山盛りのチョコレートをつまみながら、ブレツェリ一家が食事の用意をする様子を眺めた。

 

 やがて、食事が完成し、テーブルの上に並べられる。パプリカ風味のシチュー「ポグラチ」、豚肉のオーブン焼き「ペチェンカ」、豚と雑穀の腸詰め「クルヴァヴィツェ」、豆とじゃがいものサラダといったフェザーン風料理の他、俺が大好きなマカロニアンドチーズやピーチパイといったパラス風料理もある。

 

「今日のメニューはマテイ兄さんが選んだんだよ」

 

 ダーシャがそう言うと、長兄のマテイ・ブレツェリ宇宙軍軍曹が微笑んだ。

 

「エル・ファシルの英雄に俺の料理を食べてもらえるなんて光栄だ」

 

 今年で三三歳になる彼は、補給専科学校で調理を学び、現在は宇宙母艦「アムルタート」の給養主任を務める。堅実そのものの性格で、「どんな時代でも絶対に食いっぱぐれない技術がほしい」という理由で調理を学んだのだそうだ。

 

「小さいとは聞いてたけど、本当に小さいなあ。ダーシャと並ぶと弟みたいだ」

 

 笑顔で無礼なことを言ったのは、次兄のフランチ・ブレツェリ宇宙軍曹長。単座式戦闘艇「スパルタニアン」のパイロットをしている。

 

「そ、そうですか……」

「俺の下には妹しかいないからさ。君みたいにちっこくてかわいい弟が欲しかったんだ。これからもよろしくな!」

「は、はい」

 

 どう答えていいか分からなかった。悪気がないのはわかるが鬱陶しい。

 

「固くなるなよ。俺たちは兄弟みたいなもんだ。これからは『フランチ兄様』って呼んでくれ」

「調子に乗らない!」

 

 ダーシャがついに切れた。叱られてしょぼんとするフランチ兄様。どこかで見たような光景である。

 

 父、母、長兄は「またやってるよ」と言いたげにダーシャと兄様を眺めた。ブレツェリ家にとっては見慣れた光景らしい。

 

 ほんわかした丸顔の女性が一人おろおろする。顔も髪型も体格もダーシャとそっくりのこの女性は、姉のターニャ・ブレツェリ宇宙軍軍曹。性格は消極的でおとなしく、基地の託児所で保育士として勤務しており、キャリア志向の妹とは正反対だ。それでも仲は結構いいらしい。

 

 食事の準備が終わると、家族全員が「我、幸いにも食を得る。聖人様の加護と生きとし生けるものの恩恵に感謝せん。いただきます」と楽土教式の祈りを唱えた。ブレツェリ家は楽土教徒なのである。

 

 厳粛な気持ちとともに食事が始まった。ダーシャの父はさっそくビールに口をつけた。ダーシャの母は俺に料理を勧める。長兄と姉とダーシャは控えめに飲み食いし、俺とフランチ兄様はがつがつ食べる。

 

「エリヤ君」

 

 最初に声をかけてきたのはフランチ兄様だ。

 

「はい」

「一つ聞きたいことがあるんだ」

「何でしょう?」

「徴兵されるまでアルマちゃんと一緒に風呂に入ってたって本当かい?」

 

 俺は食べ物を吹き出しそうになった。

 

「ほ、本当です……」

 

 他に答えようがなかった。フランチ兄様の情報源はたぶん妹だ。

 

「君たちは本当に仲がいいんだなあ」

「ええ、まあ……」

 

 記憶にはまったく残っていないが、妹は「一緒に風呂に入ってた」と言い張っていた。姉が言うには、昔の妹は一人で風呂に入ろうとしなかったので、姉と俺が交代交代で一緒に入ってやったのだそうだ。

 

「俺もブラコンの妹が欲しかった」

「自業自得じゃん」

 

 ダーシャがココアのカップに視線を向けたまま突っ込む。

 

「シスコンぶりはエリヤ君に勝るとも劣らんぞ!」

「兄さんの愛は鬱陶しいだけだし」

「ターニャ、お前は俺の味方だよな」

 

 フランチ兄様は助けを求めたが、ターニャ姉さんは困り顔で目をそらす。

 

「そんなことよりもっと食べなさい」

 

 ハンナ母さんが全員の皿に料理をどさどさと乗せた。フランチ兄様は静かになり、ダーシャはココアを冷ます作業に戻る。ブレツェリ家では母親が一番強いようだ。

 

 食事が終わると、家族全員が「我、食によりて心身充実せり。ご馳走様でした」と唱えた。これもまた楽土教式の祈りである。

 

 食後の片付けが始まった。俺が手伝おうとすると、黙々とビールを飲んでいたダーシャの父が席を立った。

 

「フィリップス君、君に見せたいものがある」

「わかりました」

 

 俺はダーシャの父の後を付いて行く。

 

「広い寝室だろう?」

「そうですね」

 

 ダーシャの父は官舎の中を案内し、設備の充実ぶりや住み心地の良さなんかを細かく解説してくれた。

 

 どの部屋も使いやすい間取りなのが素人目でもわかる。適切な確度で日光が差し込み、風が心地良く通り、ある部屋で大きな音を立てても他の部屋に聞こえないなど、行き届いた設計がなされていた。そして、すべての部屋がバリアフリーに対応している。美しさと機能性を兼ね備えた家だ。

 

「ここが浴室だよ。ジャグジーが付いている」

 

 広々とした浴室の中には、円形の大きなジャグジーが据え付けられていた。

 

「ジャグジー付きの官舎なんて初めて見ました」

「凄いだろう?」

「凄いですね」

「昨年まではワーツ提督の一家がこの官舎に住んでいた。あの方の家族が出て行った後で、私が入居した」

「第四艦隊司令官の官舎でしたか」

 

 それなら豪華なのもわかる。ダゴン星域会戦以前からの伝統を誇る第一艦隊・第二艦隊・第三艦隊・第四艦隊の司令官は、他の艦隊司令官より格上だからだ。

 

「ワーツ提督とは面識があってね。何度か指揮下で戦った。有能な方だったんだがね。亡くなる時はあっけないもんだ」

「そうでしたか」

「六万隻で二万隻に負けた戦犯の一人だ。批判されるのは仕方ないと思うがね。最低最悪の無能みたいに言うのはいかんな。無能者が兵卒から提督になれるはずもないだろうに」

「おっしゃる通りです」

「世間は『パストーレ提督が第四艦隊司令官だったら勝てた』と言うがね。そんなのは結果論に過ぎんよ」

 

 ダーシャの父はレグニツァの敗将ラムゼイ・ワーツ中将を弁護する。的はずれなことは言っていない。レグニツァで敗死する前のワーツ中将は、「第五艦隊司令官ビュコック中将に比肩する」と評された。あの戦いさえなければ、名将としての生涯を全うしていただろう。

 

「確かに結果論ですね」

「マスコミが嘘ばかりとは言わんよ。ワーツ提督は功名心が並外れて強かった。兵卒あがり特有の勘と経験に頼りすぎるところもあった。しかし、そういう人だからこそ、あそこまで偉くなれたんだ」

「長所と欠点は表裏一体ということですね」

「完全無欠な人間も悪いところばかりの人間もおらんよ。ワーツ提督の短所とパストーレ提督の長所を比較したら、そりゃパストーレ提督の方が名将に見える」

「俺もそう思います」

 

 ダーシャの父に合わせたのではなく、本心からそう思う。レグニツァ会戦以降、ワーツ中将とパストーレ元帥の比較論が流行ってたが、これほどアンフェアな議論も珍しいのではないか。

 

 パストーレ元帥が第四艦隊司令官に内定していたが、就任直前にエル・ファシル海賊討伐を命じられたため、ワーツ中将がその代わりになった。また、パストーレ元帥の敗死は、本人より中央情報局の責任が大きい。そのため、「パストーレ提督が第四艦隊司令官だったら……」と嘆く人が多いのだ。極端な人になると、「パストーレ提督がレグニツァで戦っていたら、ローエングラム元帥は戦死し、イゼルローン要塞は陥落しただろう」などと言う。

 

 だが、前の世界で生きた俺は、パストーレ元帥が第四艦隊を率いた結果を知っている。アスターテ星域会戦でラインハルト・フォン・ローエングラム元帥に完敗した。後世では同盟末期屈指の愚将扱いだ。

 

 パストーレ元帥は無能ではない。戦力整備やマスコミ対応にかけては超一流だ。用兵下手の俺を突撃専門にしたのもうまいと思う。しかし、戦術指揮は不得意だった。皮肉な言い方をすると、惜しまれてるうちに死んだおかげで評価を高めた。

 

「アンフェアでも批判を受けねばならんのが提督だ。一人の戦死者の背後には、数人の家族、数十人の親族・友人がいる。彼らは決して提督の無能を許さん」

「死者には提督の事情なんて関係ないですからね」

「その通りだ。一万人を死なせた提督は数万人の恨みを背負い、一〇万人を死なせた提督は数十万人の恨みを背負う。敗将は残りの生涯すべてを贖罪に費やすよう求められる。責任の重さに比べれば、ジャグジー付きの豪邸も厚遇とは言えないな」

「提督になってみると、レグニツァで負けた提督を責められなくなりました。明日は我が身ですから」

 

 俺は窓の外に視線を向けた。暖かい日の光が差し込んでくる。第七次イゼルローン遠征軍首脳の査問会が終わった日もこんな天気だった。

 

 国防委員会はレグニツァの戦犯に苛烈な処分を下した。総司令官パエッタ大将、総参謀長アーメド中将、第四艦隊副司令官チャンドラー少将の三名が、二階級降格の上で予備役に編入された。副参謀長リー少将ら九名が一階級降格の上で予備役編入、第六艦隊D分艦隊司令官クリステア少将ら七名が階級据え置きで予備役編入された。減給や停職になった者は数えきれない。戦死したワーツ中将らは、戦死者に例外なく認められる一階級昇進の対象外となった。

 

「敗将にも家族がいる。ワーツ提督の家族はこの官舎に住んでいた。六六歳の妻、九三歳で足が不自由な母親、七年前に亡くなった息子夫婦の子供が三人いた」

「お孫さんはおいくつなんですか?」

「一三歳と一二歳と一〇歳。義務教育も終わっていない」

「お母様の老齢年金、ワーツ提督と息子さんの遺族年金頼りですね。奥様に老齢年金が出るのは四年先ですし」

「それだけでは到底暮らしていけんだろうな」

「親族に引き取られるか、施設に入らないときついかもしれません」

「この官舎街はもともと第四艦隊の官舎街でね。世帯主を失った家族が一度に何万も生まれたのだよ」

「ああ、なるほど。だから人通りが少なかったんですね」

「レグニツァの未帰還者はおよそ一八〇万。それと同数の空き家が生まれ、同数の不幸な家族が生まれた。どういうことなのか想像して見たまえ」

「ずっしりきます」

 

 俺は胸を抑えた。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』の中では、一度に何十万人もの軍人が死ぬ。戦記では英雄の戦果でしかない数字が、現実では路頭に迷う家族の数なのだ。

 

「この一帯の空き家を払い下げようという話が出ていてね。私の知り合いが反対しているんだ。そいつの頼みでこの官舎に仮住まいしているのだ」

「そういう事情でしたか」

「軍人の死について考えてほしかった。それがこの官舎を見せて回った理由だよ」

「ありがとうございます。勉強になりました」

 

 俺は頭を下げた。

 

「君はいい軍人だ。勇敢で誇り高い。進む時は先頭に立ち、退く時は最後尾に立つ。窮地にあっても決して絶望しない。指揮官としての一つの理想像だろう。しかし、軍隊で四〇年勤めた経験から言わせてもらうと、そういう指揮官ほど早死にするものだ」

「そ、そうなんですか?」

 

 意外な高評価、そして早死にすると言われたことに目を丸くする。

 

「引くぐらいなら死を選ぶ。君はそういう男だろう?」

「いえ、別にそんなことは……」

「八年前、エル・ファシルで『帝国軍よりも卑怯者と呼ばれる方が怖い』と君は言った。今日までその言葉を実践してきた」

「そんな立派なものではありません。気が小さいだけです」

「死より不名誉を恐れる男を小心者とは言わんよ」

 

 ダーシャの父は盛大に勘違いしていた。前の人生での経験から、「逃げて叩かれるくらいなら、戦って死んだ方がマシ」との教訓を得ただけだ。

 

「エリヤ・フィリップス君」

「はい」

「私は軍人を四〇年やってきた。軍人は死ぬのも仕事のうちだ。そんなことはわかっている。私は軍人だ。そんなことはわかっている」

 

 ダーシャの父が俺の両肩を掴む。

 

「わかってはいるんだがね。私は親なんだ。子供には幸せになってほしい。君には死んでほしくない。ダーシャと一緒に生き続けてもらいたい」

「…………」

「軍人に『死ぬな』なんて、馬鹿なことを言っていると思うよ。まして、命知らずの君が相手だからな。でも、私は親なんだ」

「…………」

「娘にそんな思いをさせんでくれ、空き家にダーシャを残していくような真似はせんでくれ。何が何でも生きて帰るんだ」

 

 肩を掴む力が急に弱くなった。ダーシャの父の顔に汗が何筋も流れる。

 

「……娘をよろしく頼む」

「わかりました」

 

 俺は何のためらいもなしに頷いた。初老の大佐が軍人としての矜持をかなぐり捨て、一人の父親として語った言葉。それは何よりも重かった。

 

 

 

 ブレツェリ家を訪れた翌日、俺とダーシャは婚姻届を出した。夫婦の姓は統一せずに、俺はフィリップス姓、ダーシャはブレツェリ姓を引き続き使う。

 

 手続きを終えた後、ダーシャはベンチに腰掛けた。俺はベンチに仰向けになり、ダーシャの太ももを枕にする。二人とも童顔で私服姿だ。傍目には学生がいちゃついてるように見えるかもしれない。

 

「ダーシャ、結婚って簡単だったんだな」

「そんなことないよ」

「手続き一つで済むんだぞ」

「相手を見つけるのが難しいのよ」

「確かにな」

 

 俺は笑った。前の世界では八〇年生きたにも関わらず、一度も結婚できなかった。

 

「生きて帰らないとね」

「大丈夫だ。今なら一〇万隻に突っ込んでも生きて帰れる気がする」

「不吉なこと言わない」

 

 ダーシャが俺の赤毛をくしゃくしゃとかき回す。

 

「俺が戦場から帰ってこなかったことがあるか」

「ないけどさ」

「信じろ」

 

 普段の俺はこんなことは言わない。自分が一人ではないとの自覚が言わせるのだろう。何が何でも生きて帰りたいものだ。

 

「ダーシャ、戦う理由ができたよ」

 

 俺はにっこり笑った。大義なき戦いに自分なりの大義を見出した。それはダーシャの前に生きて帰ることだ。

 

 初夏の太陽が眩しく俺たちを照らす。南半球のモードランズでは一二月は初夏なのだ。真っ青な空、みずみずしい木の葉、色とりどりの花。そのすべてが前途を祝福してくれた。

 

 結婚から三日後の一二月三〇日、俺はいつもと同じ朝五時三〇分に目覚めた。左隣ではダーシャが気持ち良さそうに寝息を立てている。

 

「起きろ、時間だぞ」

 

 俺はダーシャの体を軽く揺すった。

 

「今何時……?」

「五時半だ」

「じゃあ、六時になったら起こして」

 

 ダーシャは強気だが朝には弱い。俺はその正反対だ。

 

「六時になったら、六時半に起こせって言うんだろ」

「言わないよ」

「いつも言ってるだろうが」

 

 寝ぼけ声のダーシャと押し問答を続ける。

 

「とにかく六時まで待って……」

「待たない」

 

 俺はベッドから飛び出すと、シーツを勢い良く引き剥がした。そして、窓とカーテンを全開にする。朝日が部屋に差し込み、ダーシャの白い体を照らす。

 

「な、何すんのよ!」

 

 ダーシャは慌てて飛び起きた。

 

「着替えだぞ」

 

 俺はクローゼットから取り出した下着と軍服をダーシャに手渡す。そして、自分も下着と軍服を着用した。

 

 今朝の朝食は軽めだ。俺はチーズとハムが乗ったトースト六枚、ゆで卵五個、りんご二個、レタス半玉、牛乳五〇〇ミリリットル。ダーシャはトースト二枚、りんご二切れ、生野菜サラダ、牛乳二〇〇ミリリットル。

 

「一緒に朝食を食べるのは今日で最後だね」

「次は帝国領に入ってからだな」

「イゼルローンで一度ぐらいは会えるよ」

「それにしても一か月先か」

 

 俺とダーシャは寂しそうに笑った。仕事の都合上、週末以外は一緒に住めない。出兵中はただでさえ少ない機会が完全に無くなる。

 

 食事を終えた後、俺たちは準備を始めた。これから数千光年彼方へと飛び立つ。忘れ物をしても取りに戻ることはできない。忘れ物がないかどうかを念入りにチェックし合った。

 

「完璧だ」

 

 準備が整えて部屋から出ようとしたところ、ダーシャが後ろから俺の首に手を回してきた。びっくりして振り返ると、ダーシャが不意に唇を重ね、俺の唇をこじ開けるように舌を差し込む。

 

「…………!」

 

 俺はたじろぎつつも舌を絡めた。唇を離した後、ダーシャの丸っこい顔に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

 

「エリヤの顔、真っ赤だよ」

「ふ、不意打ちだったから」

「あはは、ほんと可愛いよね」

「ダーシャには敵わねえよ」

 

 いつものやり取りを終えた後、一緒に家を出た。俺は公用車に乗ってモードランズ宇宙軍基地、ダーシャはリニアに乗ってホルトン宇宙軍基地へと向かう。

 

 モードランズ宇宙軍基地は軍服と私服で埋め尽くされていた。軍服の人はこの基地に駐留する第三六機動部隊司令部と第三六作戦支援群の隊員。私服の人は見送りに来た家族や友人。彼らは思い思いに別れを惜しんでいる。

 

「帰ってきたら凱旋式と結婚式だな。二年前に礼服を新調しておいて本当に良かった」

 

 第二艦隊司令官クレメンス・ドーソン中将の口ひげが浮き浮きとしている。わざとらしく結婚式場のパンフレットを抱えているのが見えたが、知らないふりをした。おせっかいな彼は他人の祝い事に口を挟むのが好きなのだ。

 

「武勲を立てて帰って来い!」

 

 エーベルト・クリスチアン中佐が俺の肩をどんと叩く。査問会の後、予備役に編入されそうになったが、意気はまったく衰えていない。決して揺るぎない強さが安心感を与えてくれる。

 

「無理はせんでくれよ」

 

 最初の上官タデシュ・コズヴォフスキ退役少佐が俺の頭をぽんぽんと叩く。

 

 この場に集まった軍人は、ハイネセン在住でなおかつ遠征軍に参加しない者だ。俺の場合はフィン・マックールや憲兵隊での知り合いがそれにあたる。

 

 俺のもとにスーツを着た男性が寄ってきた。トリューニヒト下院議長の私設秘書ユン・ウリョンだ。

 

「トリューニヒト先生からのメッセージです」

 

 ユン氏がトランクを開くと、トリューニヒト議長の等身大ホログラフが現れた。俺は直立不動で敬礼をする。

 

「やあ、エリヤ君。見送りに来れなくてすまない。ホログラフ通信で挨拶させてもらうよ」

「きょ、恐縮であります!」

「私の願いは一つだけだ」

「何でしょうか?」

「君の結婚式に出席させてほしい」

 

 トリューニヒト議長がにっこり笑う。太陽のように暖かい笑顔。

 

「かしこまりました! 必ずや戻ってまいります!」

 

 俺は最敬礼で答えた。トリューニヒト議長は胸に手を当てて敬礼する。周囲から割れるような拍手が巻き起こった。

 

「司令官閣下、そろそろお時間です」

 

 副官シェリル・コレット大尉が出発するよう促す。

 

「分かった」

 

 俺は見送りの人々に別れを告げた。コレット大尉、参謀長チュン・ウー・チェン大佐、副参謀長イレーシュ・マーリア中佐、作戦部長サンジャイ・ラオ少佐、情報部長ハンス・ベッカー少佐らを連れてシャトルへと乗り込む。

 

 あっという間に地表は遠ざかっていった。大気圏外に出ると、モスグリーンの軍艦数百隻が俺たちを出迎える。その中心に第三六機動部隊旗艦「アシャンティ」がいる。

 

 シャトルからアシャンティへと移乗すると、艦長イブリン・ドールトン中佐以下の乗員二二五名が敬礼で出迎えてくれた。

 

「ご苦労」

 

 俺は返礼した後、司令室に入って司令官席に腰掛けた。その周囲にはチュン・ウー・チェン参謀長、コレット大尉らが座る。

 

 端末のスイッチを入れると、副司令官ポターニン代将、スー代将ら四人の戦隊司令、マリノ大佐ら五人の群司令の顔が現れた。

 

「出発準備は整ったか?」

「万全です」

 

 全員が声を揃えて答える。

 

「よし、全軍出発だ! 目的地はイゼルローン!」

 

 俺はさっと手を振り下ろした。この瞬間、第三六機動部隊は数千光年の旅路の一歩目を踏み出したのであった。



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資料:帝国領遠征軍編成

1.帝国領遠征軍

総司令官:宇宙艦隊司令長官ロボス宇宙軍元帥

総参謀長:宇宙艦隊総参謀長兼統合作戦本部次長グリーンヒル宇宙軍大将

作戦主任参謀:コーネフ宇宙軍中将、フォーク宇宙軍准将ら作戦参謀五名

情報主任参謀:ビロライネン宇宙軍少将、情報参謀三名

後方主任参謀:キャゼルヌ宇宙軍少将、後方参謀三名

 

・第一統合軍集団

 司令官:ウランフ宇宙軍中将

 副司令官:ベネット地上軍中将

 ・第五艦隊(司令官:ウランフ宇宙軍中将、司令官代理:メネセス宇宙軍少将)

 ・第一一艦隊(司令官:ルグランジュ宇宙軍中将、副司令官:ストークス宇宙軍少将)

 ・第一三艦隊(司令官:ヤン宇宙軍中将、副司令官:ムライ宇宙軍少将)

 ・第四地上軍(司令官:ベネット地上軍中将)

 ・第七地上軍(司令官:カンディール地上軍中将)

 ・軍集団司令部直轄部隊

 

・第二統合軍集団

 司令官:ロヴェール地上軍中将

 副司令官:ルフェーブル宇宙軍中将

 ・第三艦隊(司令官:ルフェーブル宇宙軍中将、司令官代理:クリンガー宇宙軍少将)

 ・第八艦隊(司令官:キャボット宇宙軍中将、副司令官;フルダイ宇宙軍少将)

 ・第九艦隊(司令官:アル=サレム宇宙軍中将)

 ・第二地上軍(司令官:ロヴェール地上軍中将)

 ・第六地上軍(司令官:カニング地上軍中将)

 ・軍集団直轄部隊

 

・第三統合軍集団

 司令官:ホーウッド宇宙軍中将

 副司令官:ソウザ地上軍中将

 ・第七艦隊(司令官:ホーウッド宇宙軍中将、司令官代理:レスヴォール宇宙軍少将)

 ・第一〇艦隊(司令官:オスマン宇宙軍中将、副司令官:モートン宇宙軍少将)

 ・第三地上軍(司令官:ソウザ地上軍中将)

 ・第八地上軍(司令官:アニステ地上軍中将)

 ・軍集団直轄部隊

 

・遠征軍兵站部隊

 司令官:中央兵站総軍ランナーベック地上軍中将

 

・遠征軍特殊作戦部隊

 司令官:特殊作戦総軍司令官オルコット地上軍中将

 

・総司令部直轄部隊

 

2.第一一艦隊

司令官:ルグランジュ宇宙軍中将

副司令官:ストークス宇宙軍少将

参謀長:エーリン宇宙軍少将

副参謀長:クィルター宇宙軍准将

・A分艦隊

・B分艦隊

・C分艦隊

・D分艦隊(司令官:ホーランド宇宙軍少将、副司令官:オウミ宇宙軍准将)

・第一一陸戦隊

・司令部直轄部隊

 

3.第一一艦隊D分艦隊

司令官:ホーランド宇宙軍少将

副司令官:オウミ宇宙軍准将

参謀長:ジェリコー宇宙軍准将

副参謀長:ブレツェリ宇宙軍代将

・第三六機動部隊(司令官:フィリップス宇宙軍准将、副司令官:ポターニン宇宙軍准将)

・第七〇機動部隊(司令官:ハルエル宇宙軍准将)

・第一六五機動部隊(司令官代理:エスピノーザ宇宙軍代将)

・司令部直轄部隊

 

4.第三六機動部隊

司令官:フィリップス宇宙軍准将

副司令官:ポターニン宇宙軍代将

参謀長:チュン・ウー・チェン宇宙軍大佐

副参謀長:イレーシュ宇宙軍中佐

副官:コレット宇宙軍大尉

・第三六戦艦戦隊(司令:スー宇宙軍代将)

・第三六巡航艦戦隊(司令:フランコ宇宙軍代将)

・第三六駆逐艦戦隊(司令:マーロウ宇宙軍代将)

・第三六母艦戦隊(司令:ハーベイ宇宙軍代将)

・司令部直轄部隊

 ・第三六作戦支援群(司令:ソングラシン宇宙軍大佐)

 ・第三六後方支援群(司令:ワトキンス宇宙軍大佐)

 ・第三六独立戦艦群(司令:マリノ宇宙軍大佐)

 ・第三六独立巡航群(司令:ニールセン宇宙軍大佐)

 ・第三六独立駆逐群(司令:ビューフォート宇宙軍大佐)

 ・第三独立母艦群(司令:アブレイユ宇宙軍大佐)



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第57話:二〇万隻のノンストップ・リミテッド・エクスプレス 798年1月27日~3月5日 アムリッツァ星域~惑星マリーエンフェルト~ニヴルヘイム総管区~ミズガルズ総管区

本話開始時点勢力図

【挿絵表示】



 宇宙暦七九八年一月二七日、自由惑星同盟の帝国領遠征軍がイゼルローン要塞を出発した。三〇〇〇万の大軍は第一一艦隊を先頭にアムリッツァ星系を目指す。

 

 ホーランド少将のD分艦隊が全速で突進していった。一定の陣形を取らず、柔軟に形状を変えながら進んでいく様子はまるでアメーバのようだ。ビームとミサイルが回廊出口から押し寄せてきたが、そのほとんどを回避する。

 

 D分艦隊の無秩序な陣形から秩序だった砲火が放たれる。回廊出口に大きな穴が空いた。敵の砲火はまったく当たらないのに、味方の砲火は百発百中だ。

 

「敵との距離、六光秒(一八〇万キロメートル)まで縮まりました!」

 

 オペレーターが中距離戦の間合いに入ったことを伝えた。俺は右手をさっと振り下ろす。

 

「パターンBからパターンFへ切り替えろ! このまま押し込め!」

 

 全艦の戦術コンピュータが機動パターンを切り替えた。第三六機動部隊はすり抜ける機動からかわす機動へと変化する。

 

 敵の中距離レーザー砲が光幕を作った。これまでよりずっと密度の高い砲撃が襲いかかってきたが、そのほとんどが宇宙の闇へと吸い込まれた。第三六機動部隊とD分艦隊は無人の野を行くように回廊を駆け抜ける。

 

 あっという間に敵との距離が一光秒(三〇万キロメートル)まで狭まった。この先は接近戦の間合いである。

 

「これより接近戦に移る!」

 

 俺は直率部隊を連れて切り込んだ。第三六駆逐艦戦隊と第三六巡航艦戦隊がその後に続く。第三六母艦戦隊所属の母艦からは、単座式戦闘艇「スパルタニアン」が次々と飛び立つ。第三六戦艦戦隊は後方から援護射撃に徹する。

 

 帝国軍は第三六機動部隊の速度に対応できなかった。軍艦は次々に実弾兵器の餌食となり、単座式戦闘艇「ワルキューレ」は発進する前に母艦ごと破壊された。

 

 ホーランド少将は残りの二個機動部隊を突入させる。回廊出口の敵は完全に壊滅した。そこに第一一艦隊本隊、第一三艦隊、第五艦隊が雪崩れ込む。戦闘開始から二時間もしないうちに同盟軍第一統合軍集団はアムリッツァ星系突入を果たした。

 

 第四地上軍と第七地上軍が展開を始めたところで、一つの知らせが入ってきた。メルカッツ上級大将率いるニヴルヘイム右翼軍集団が、アムリッツァから三〇〇〇光秒(九億キロメートル)の距離まで迫っているという。

 

「さすがはメルカッツ。予想以上に動きが早い」

 

 同盟軍は色めきだった。どんなに早くとも半日先だろうと思われたからだ。しかし、混乱する者は一人もいない。すぐに迎撃体制を整えた

 

 一月二七日二〇時、同盟軍第一統合軍集団と帝国軍ニヴルヘイム右翼軍集団は、アムリッツァ星系第六惑星宙域で対峙した。

 

 同盟軍の総兵力は四万六〇〇〇隻。ルグランジュ中将の第一一艦隊を中央、ヤン中将の第一三艦隊を右翼、ウランフ中将の第五艦隊を左翼に配した。第一五独立分艦隊及び四個独立機動部隊が予備となる。ただし、ウランフ中将は全体指揮に専念するため、第五艦隊を副司令官メネセス少将に委ねた。

 

 帝国軍の総兵力は三万八〇〇〇隻。フォーゲル大将の第三猟騎兵艦隊を中央、メルカッツ上級大将の第一竜騎兵艦隊を右翼、ラーゲンブルク大将の第二胸甲騎兵艦隊を左翼に配した。後衛には若干数の予備戦力が控える。

 

 

 

 

 

 両軍は砲撃を交わし合いながら前進する。同盟軍は今後のために帝国正規軍を削っておきたい。帝国軍は各個撃破以外に数的に優勢な同盟軍を阻止する術がない。双方が接近戦を望んだのだ。

 

 距離が四光秒(一二〇万キロメートル)まで詰まった時、ラーゲンブルク艦隊の一部がわずかに突出した。戦っている間に興奮して前に出過ぎてしまうことは珍しくない。武勲に目のない帝国軍人ならばなおさらだろう。良くあるミスが相手によっては致命傷となる。第一三艦隊のヤン中将は集中砲火を浴びせ、敵の突出部に効果的な打撃を与えた。

 

「一気に敵左翼を叩くぞ!」

 

 ウランフ中将は積極攻勢に出た。第一三艦隊がラーゲンブルク艦隊の右側面へと回り込もうとする。第一一艦隊は陣形を右上がりの斜線状に変化させ、第一三艦隊の孤立化を防ぐ。第五艦隊はメルカッツ艦隊とフォーゲル艦隊を牽制した。

 

 ラーゲンブルク艦隊は左翼を伸ばし、第一三艦隊の包囲機動を阻止しようとした。フォーゲル艦隊は第一一艦隊と第一三艦隊の分断を図る。メルカッツ艦隊は第五艦隊と交戦中だ。

 

 わずかの差で帝国軍の延翼行動が同盟軍の包囲機動に先んじた。ところが、これこそがヤン中将の狙いだったのだ。

 

 第一三艦隊は突撃を開始し、横に薄く広がっていたラーゲンブルク艦隊を突き破り、左右に分断した。そして、足を止めることなくラーゲンブルク艦隊左翼の後方へと回りこみ、背後から猛攻を加える。芸術的なまでの艦隊運動であった。

 

「中央突破・背面展開がここまで鮮やかに成功するなんてねえ」

 

 副参謀長イレーシュ中佐が呆然とスクリーンを眺める。

 

「寄せ集めとは思えない動きですね……」

 

 作戦部長ラオ少佐がぼそりと呟く。

 

「首脳部が優秀なんだよ。ヤン中将とムライ少将の存在が特に大きい」

 

 参謀長チュン・ウー・チェン大佐は、胸元のパンくずを払いながら論評する。有名な司令官ヤン中将と地味な副司令官ムライ少将の双方に注目するあたり、目の付けどころが違う。

 

「次は俺たちの番だな」

 

 俺は幕僚に語りかけた。全員が無言で頷く。正面からフォーゲル艦隊が迫っていた。第一一艦隊が後退したら、第一三艦隊は敵中に孤立してしまう。負けることのできない戦いだ。

 

 第一一艦隊は戦力を二分した。司令官ルグランジュ中将率いる左翼集団が敵主力を拘束し、副司令官ストークス少将率いる右翼集団が側面から打撃を加える。

 

 右翼集団の先頭に立つのはD分艦隊だ。敵の砲火が左翼集団に集中している隙に、驚くべき速度で距離を詰めていった。

 

「全艦突撃!」

 

 俺が指示を下すと、第三六機動部隊は一直線に突入した。その後から司令官直轄部隊、第七〇機動部隊、第一六五機動部隊が突っ込み、敵の脇腹に大穴を開ける。

 

 速度と火力の暴風がフォーゲル艦隊を蹂躙した。軍艦は応戦する暇も与えられずに撃沈されていく。D分艦隊にとっては、敵の攻撃は外れるものであり、敵の防御は存在しないものだった。戦いとはこんなに簡単なものかと錯覚しかねないほどだ。

 

 帝国軍は崩壊しつつあった。左翼のラーゲンブルク艦隊は分断された上に背後から攻撃を受けており、中央のフォーゲル艦隊は内部から食い破られている。

 

 

 

 

 

 しかし、メルカッツ上級大将はこの程度で敗れるような提督ではない。決勝点を的確に見抜き、乏しい予備戦力を効率的に投入した。ラーゲンブルク艦隊とフォーゲル艦隊は大損害を被ったものの、どうにか戦線を維持することができた。

 

 開戦から半日が過ぎた。帝国軍はじりじりと後退し、二〇光秒(六〇〇万キロメートル)も押し込まれている。それでも崩れないのがメルカッツ提督の恐ろしいところだ。

 

「簡単には勝たせてくれないな」

 

 俺は傍らのチュン・ウー・チェン参謀長に声を掛けた。

 

「さすがは帝国軍が誇る宿将です。敵将が凡百の指揮官ならとっくに勝っているのですけどね」

「ローエングラム元帥のような破壊力はない。ヤン中将のような奇策は使わない。だけど、とにかくしぶとい。本当に面倒な敵だな」

 

 俺はスクリーンを見た。第五艦隊の別働隊が、メルカッツ艦隊とフォーゲル艦隊の間に割り込もうとして失敗したところだった。

 

 ウランフ中将とメルカッツ上級大将の力量は互角だった。ウランフ中将が迂回部隊を送ると、メルカッツ上級大将は翼を伸ばして食い止める。メルカッツ上級大将が縦深陣に引きずり込もうとすると、ウランフ中将は素早く兵を引く。名人戦を見ているようだ。

 

 二〇光秒の差は用兵の差ではなく配下の差であった。味方には名のある提督が何人もいるが、敵にはメルカッツ上級大将しかいない。敵は内戦を避けてきた部隊の寄せ集めで結束力に欠ける。同盟軍正規艦隊は帝国軍主力艦隊より練度が高い。指揮官の用兵が互角ならば、配下が劣る側が不利になるのが道理である。

 

 戦闘開始から二〇時間が過ぎた頃、第二統合軍集団配下の三個艦隊がアムリッツァ星系に到着した。メルカッツ上級大将は撤退を余儀なくされた。

 

 第一統合軍集団は第二統合軍集団とともに追撃を開始した。勢いに乗る六個艦隊と疲れきった三個艦隊。結果は明らかに思われたが、敵の指揮官はメルカッツ上級大将だ。大損害を与えたものの振り切られてしまった。

 

「やっと終わった」

 

 俺は司令官席に腰掛けた。そして、副官付カイエ伍長が持ってきたコーヒーとマフィンを口にする。

 

「手強い敵でした」

 

 ラオ作戦部長が首元のスカーフを緩める。

 

「その方が良いんじゃないですか」

 

 副官シェリル・コレット大尉が口を挟む。俺は微笑みながら問い返した。

 

「なぜそう思うんだい?」

「楽に勝ち過ぎたら油断しますから。メルカッツ提督と戦うつもりで他の敵と戦ったら、不覚を取ることもないかと」

「そういう考え方もあるか。君らしいな」

 

 俺はにっこり笑った。他の幕僚たちも笑う。

 

「我々は自分たちの強さを知り、同時に敵の強さを知りました。最高の勝利と言って良いのではないでしょうか」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長がきれいにまとめる。

 

「まったくだな」

 

 異論はまったく無かった。第三六機動部隊は強い。ホーランド少将の指揮を受ければ、素晴らしい戦いができる。しかし、自分が強いだけでは勝てない。この二つがこの戦いで得た最大の教訓だった。

 

 同盟軍は緒戦を勝利で飾った。しかし、浮かれている暇はない。これは長い長い戦いの緒戦にすぎないのだ。

 

 

 

 帝国領は九つの総管区に分かれる。総管区はオーディン神話の九つの世界と同じ名前を持つ。氷の国と同じ名前を持つニヴルヘイム総管区は、最も同盟国境に近く最も貧しい。

 

 一月二九日、同盟軍は第一段作戦「フィンブルの冬」を発動した。四週間以内にニヴルヘイム総管区の主要航路を抑えるのがこの作戦の狙いだ。

 

 ウランフ中将の第一統合軍集団とホーウッド中将の第三統合軍集団は、ミズガルズへの最短航路となるリューゲン航路を進んだ。ロヴェール中将の第二統合軍集団は、ヤヴァンハール航路へとが向かった。

 

 

 

 

 

 第三六機動部隊は第一統合軍集団の先頭を進んだ。出発から二日後の三一日、最初の有人星系マリーエンフェルトへと到達した。

 

「マリーエンフェルトの資料です」

 

 コレット大尉がすっとファイルを差し出す。練習してるのかと思いたくなるぐらいにきれいな手つきである。

 

「ありがとう」

 

 俺はマリーエンフェルトの資料に目を通した。恒星と同じ名前の惑星マリーエンフェルト以外には定住者はいない。総人口は約二〇〇万。銀河連邦時代にボーキサイトの採掘で栄えたが、帝国前期に鉱脈が枯渇した。

 

 遠征軍総司令部が作った『大規模地上戦の手引き』によると、鉱山は少し手を加えるだけで巨大地下要塞になるそうだ。イゼルローンが陥落した後、マリーエンフェルト駐留部隊は三〇個戦隊三〇〇〇隻と一四個装甲擲弾兵師団二〇万人まで増強された。装甲擲弾兵が巨大なマリーエンフェルト廃坑に立てこもり、艦艇が小天体群でゲリラ戦を展開したら厄介だ。

 

 ホーランド少将に指示を仰いだところ、「迂回せよ」と言われた。遠征軍全体の方針として、宇宙軍中心の高速機動集団は進軍に専念し、有人惑星の占領は地上軍中心の後方支援集団に任せることになっている。

 

「司令官閣下」

「副官か。どうした?」

「通信が入っております」

「誰からだ?」

「マリーエンフェルトからです。降伏を申し入れてきました」

「降伏?」

 

 俺は首を傾げた。コレット大尉の報告はいつも正確だ。ならば、俺の聞き間違えだろう。

 

「降伏です」

「三〇個戦隊と一四個師団がいるのにか?」

「通信を聞いたら事情も分かるかと」

「それもそうだ」

 

 一人で勝手に悪い想像を膨らませるのが俺の悪いところだ。コレット大尉が言うように、相手に聞いた方が早い。

 

 通信画面に現れた人物は、マリーエンフェルトの軍司令官でも知事でもなかった。「マリーエンフェルト解放戦線」なる組織の代表を名乗っていた。彼が言うには、自由の戦士がマリーエンフェルトを解放したのだそうだ。

 

 俺は返事を保留した。降伏したふりをして同盟軍を誘い込む作戦とも考えられる。上官を通して総司令部の判断を仰いだ。

 

「降伏は事実である。速やかにマリーエンフェルトに向かうように」

 

 総司令部からの返事はおそろしく簡潔だった。そういえば、アンドリューから聞いた話では、帝国の反体制派が遠征軍に呼応して立ち上がる手はずだ。総司令部はマリーエンフェルト解放戦線の蜂起をあらかじめ知っていたのかもしれない。

 

 マリーエンフェルトの宇宙港に降り立つと、群衆に取り囲まれた。帝国軍の軍服を着ている者もいれば、汚れた作業服を着ている者もいる。すさまじい熱気だ。

 

「マリーエンフェルトの皆さん! 私たちは解放軍です! 皆さんに自由と平等をもたらすためにやってきました! 今日から貴族も平民も奴隷もいなくなります! みんな同じ市民です! 皆さんは自分で領主を選ぶことができます! 一番情け深くて気前が良い人を領主にできる! それが民主主義です!」

 

 宣撫士官ラクスマン中尉は情熱のままに声を張り上げた。小さな顔は紅潮し、大きな目には感涙が浮かんでいる。弁論部仕込みの弁論術はどこかに吹き飛んでしまったかのようだ。

 

「共和主義ばんざい!」

「平等ばんざい!」

「自由惑星同盟ばんざい!」

 

 群衆は高々と銃を掲げて叫ぶ。同盟軍人は一緒に同じ叫びをあげた。小さな宇宙港に同盟語と帝国語の歓声が入り乱れる。

 

 やがて、群衆の中から一人の男性が進み出てきた。帝国地上軍の作業服を身にまとっており、軍人らしい規則的な歩調で歩く。

 

「私はマリーエンフェルト解放戦線議長のコンラート・マイスナーと申します。この惑星の住民代表です」

 

 マイスナー議長は流暢な同盟公用語で歓迎してくれた。

 

「ご丁寧な挨拶、痛み入ります。小官は自由惑星同盟宇宙軍のエリヤ・フィリップス准将です。第三六機動部隊司令官を務めております」

 

 挨拶を交わしあった後、俺はマイスナー議長と一緒に車に乗り、マリーエンフェルト政庁へと向かった。

 

 マリーエンフェルトの街並みはおそろしく貧しかった。エル・ファシルの貧しさとは決定的に違う。文明自体が西暦時代まで退化したような雰囲気なのだ。宇宙船やハイテク兵器を使ってる人々がこんな街に住んでるなんて信じられない。

 

 沿道には群衆が詰めかけていた。驚くべきことに子どもや老婆まで銃を持っている。道端に停まっている装甲車両にはフェザーン製が少なくない。

 

「すごい装備ですね。あの装甲車はフェザーン治安部隊が使うフサリアでしょう?」

「支援者の方々から譲っていただきました」

 

 マイスナー議長はこともなげに答える。

 

「どうやって持ち込んだんですか?」

「すべて支援者の方々がやってくださいました」

「いい支援者をお持ちになりましたね」

 

 それ以上は何も言えなかった。帝国では武器の不法所持は政治犯罪だ。場合によっては死刑が適用される。そんな国で武器を女子供にまでばらまき、海外製の装甲車を持ち込めるのは、あの勢力以外には考えられない。

 

「我々には理想はありましたが、資金と武器がありませんでした。あの方々のおかげで立ち上がることができたのです」

 

 マイスナー議長の目には炎が宿っていた。それは同盟の共和主義者が一世紀以上前に失ったものだった。

 

 夢を見たのはマリーエンフェルトだけではない。ニヴルヘイム全域で反体制派が決起した。ある星系では民衆が領主を追放し、ある星系では軍隊が反体制派と体制派に分かれて戦い、ある星系では暴動鎮圧を命じられた軍隊が民衆側に寝返った。

 

 ニヴルヘイム総軍は同盟軍と反体制派に挟まれる形となった。しかも、すべての拠点に戦力を置いており、戦力が分散されている。

 

 同盟軍はほとんど抵抗を受けずに進軍した。リューゲン方面の第一統合軍集団と第三統合軍集団は、二日にはブレープベレーデ、五日にはイゼルローン回廊から五〇〇光年離れたリューゲンまで到達した。ヤヴァンハール方面の第二統合軍集団は五一〇光年の距離まで進んだ。一日で七〇光年も進んだことになる。敵地でこれほど早く進軍した例は他にない。

 

 マスコミが「ノンストップ・リミテッド・エクスプレス(無停止特急)」と名付けた快進撃の背景には、三つの要因があった。

 

 一つ目は反体制派の反乱。主要航路上の有人惑星が騒乱状態に陥ったことで、帝国軍の集結や再配置が困難になった。

 

 二つ目は敵の失策。帝国軍総司令官リッテンハイム元帥の死守命令により、戦力の分散を強いられた。機動戦力は貴族領を守るために使われた。ニヴルヘイム総軍が有する宇宙戦力一五万隻のうち、同盟軍迎撃に使えるのは五万隻に満たない有様だ。

 

 もっとも、敵の視点では失点といえないかもしれない。帝国は貴族の経済力と軍事力に依存している。政権を維持するには、貴族権益を擁護するポーズが必要だった。

 

 三つ目は同盟軍の優れた作戦だ。各統合軍集団は、宇宙軍中心の高速機動集団と地上軍中心の後方支援集団に分かれて戦った。高速機動集団は素早く前線を突破し、手薄な拠点だけを叩いて有力拠点を孤立させる。後方支援集団は孤立した有力拠点を制圧する。艦隊決戦ではなく電撃戦で勝敗を決しようと言うのだ。

 

 同盟軍の公式戦略「スペース・レギュレーション戦略」は、敵の分断と無力化を目指している。この戦略の基礎には、「宙域を完全支配する必要はない。必要な時に使用できる権利があれば十分だ」とするスペース・レギュレーション(宙域統制)概念がある。

 

 ダゴン会戦以来、同盟軍はトパロウル元帥の殲滅戦理論を戦略的基礎に置いてきた。長期戦では同盟軍は物量に勝る帝国軍に勝てないため、短期決戦で敵戦力を殲滅するべきだという理論だ。しかし、統合作戦本部長シトレ元帥は「殲滅戦理論は前世紀の全面戦争を前提としている。現代戦には合わない」と述べ、限定戦争に適合した理論を作った。それがスペース・レギュレーション概念であった。

 

 前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』によると、天才ヤン・ウェンリーは全軍を高速機動集団と後方支援集団に分けたり、「宙域は必要な時だけ使えればいい」と言ったりしたそうだ。スペース・レギュレーション戦略と驚くほど似ている。エベンス代将の論文『宙域統制概念の展望』によると、ヤン中将のイゼルローン攻略作戦とシトレ元帥のドラゴニア奪還作戦は、スペース・レギュレーション概念の代表的な実践例だという。ヤン戦略はシトレ戦略の発展形なのかもしれない。

 

 開戦から一週間で同盟軍は五〇〇光年進んだ。解放区となったのは二一五星系。そのうち三二星系に定住者がおり、五〇〇〇万人から六〇〇〇万人の住民が住んでいる。前の世界の帝国領遠征軍が一か月で達成した数字と近いように思う。

 

 ニヴルヘイム総管区は一〇〇以上の有人星系と六億の人口を持つ。主要航路の半ばを制したにも関わらず、総人口の一割も抑えていない。手薄な拠点だけを狙い撃ちにしたせいだ。これらの事実から推測すると、帝国領遠征軍の戦略は前も今もそんなに変わらないらしい。焦土作戦の有無が明暗を分けた。

 

 二週間目に入っても、ノンストップ・リミテッド・エクスプレスの勢いは止まらない。三つの統合軍集団が進軍速度を競い合う。第一統合軍集団の第一一艦隊がイゼルローンから八一〇光年の地点に到達すると、第二統合軍集団の第八艦隊が八一五光年の地点を目指し、第三統合軍の第七艦隊も速度を上げると言った具合だ。

 

 迅速な進軍が帝国軍の戦意を打ち砕いた。兵士の脱走や反乱が相次いでいる。後方支援集団に包囲された部隊のほとんどは降伏を選んだ。

 

 メルカッツ上級大将の右翼軍集団とリンドラー上級大将の左翼軍集団は崩壊した。彼らの名声をもってしても抑えきれなかったのだ。しかし、宿将はさすがにしぶとい。本来の手勢と抗戦派部隊を率いて同盟軍を迎え撃った。

 

 第一統合軍集団司令官ウランフ中将と第三統合軍集団司令官ホーウッド中将は、二月七日から一四日までの一週間でメルカッツ艦隊と三度戦った。いずれも同盟軍の勝利に終わったが、二万隻に満たない戦力で五個艦隊と三連戦するのは尋常ではない。しかも、未だに一万隻以上の戦力を保持しているのだ。メルカッツ上級大将は負けを重ねることで畏怖された。

 

 ヤヴァンハール方面では、第二統合軍集団副司令官ルフェーブル中将とリンドラー艦隊が交戦した。リンドラー上級大将は三回戦って三回敗北した後に自決。戦力差を考慮すれば善戦したと言っていい。

 

 二月一六日、同盟軍はリューゲン航路とヤヴァンハール航路を完全に掌握した。フィンブルの冬は予定より一二日も早く完了したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 二月一七日、同盟軍は第二段作戦「ギャラルホルンの叫び」作戦を発動し、ミズガルズへと攻め込んだ。古代語で「中間の国」を意味するミズガルズは、ニヴルヘイムと帝国中枢宙域「アースガルズ」を結ぶ要衝であり、オーディン侵攻の足がかりとなる。

 

 第一統合軍集団と第三統合軍集団はヴィーレフェルト、第二統合軍集団はザウアーラントへと進撃した。

 

 

 

 

 

 帝国政府は報道管制を敷いた。しかし、隠せば隠すほど伝わるものだ。もはやゴールデンバウム朝は盤石ではないとの認識が広まり、食糧不足・物価高騰・失業などで溜まっていた不満に火がついた。二月下旬から三月上旬にかけて、六〇〇以上の有人星系で反政府暴動が発生し、その一割から二割が反体制派に掌握されたと見られる。帝国領の六割が騒乱状態に陥った。

 

 支配階級の中にも離反者が現れた。諸侯が帝国からの独立を宣言したり、軍司令官が任地で自立したりする事件が相次いだ。カストロプ公爵に至っては、「銀河連邦を復活させる」と言って近隣星系を侵略している。反体制派に協力する者や同盟軍に投降する者は数えきれない。

 

 この期に及んでも、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合とブラウンシュヴァイク派は和解できなかった。フェザーンのオーディン駐在弁務官ヘルツォークは、「エルウィン=ヨーゼフ帝とエリザベート帝を同格の共同皇帝とする」「官庁を分割して幹部職を倍増させることで、両陣営の高官が失職しないようにする」との妥協案を提示した。しかし、共同皇帝の役割分担などで折り合えなかったのだ。

 

 リヒテンラーデ=リッテンハイム連合は、総司令官リッテンハイム公爵率いる主力部隊をアースガルズ防衛、ローエングラム元帥の部隊をカストロプ公爵の討伐、リンダーホーフ元帥の部隊をミズガルズ防衛に差し向けた。

 

 リンダーホーフ元帥の率いる部隊は「ミズガルズ総軍」と称される。リヒテンラーデ=リッテンハイム連合軍八万隻とニヴルヘイム総軍の残存戦力四万隻からなる大軍だ。しかし、その半数以上が貴族の私兵艦隊だった。

 

 私兵艦隊は治安維持用の部隊である。数隻から数十隻単位での行動を基本としており、数百隻以上で行動する能力はない。艦艇は一世代前から二世代前の旧式艦、あるいは星系間航行能力を持たない小型艦艇だ。予算が不足しているため、訓練が行き届いていない。同盟の軍事専門家には、私兵軍を軍隊ではなく武装警察に分類する者もいる。寄り集まったところで同盟軍正規艦隊に対抗できる戦力ではない。

 

 正規軍の半数が召集された予備役だ。帝国軍は貴族を予備役将官にするために、予備役部隊を作りまくった。艦艇の質は私兵艦隊と似たり寄ったり。定数割れした二個戦隊で構成される「予備戦闘部隊」、一〇〇〇隻もいない「予備分艦隊」なんてのも珍しくない。大規模艦隊戦の経験者が多い点においては私兵艦隊に勝る。

 

 同盟軍は勝つべくして勝った。第一統合軍集団と第三統合軍集団は、リンダーホーフ元帥をジーゲンとアルプシュタットで撃破し、ノイマルクトで決定的勝利を収めた。第二統合軍集団はヴィレンシュタインで帝国兵五〇〇万人を捕虜とした。メルカッツ上級大将は孤軍奮闘したが、同盟軍の優勢を覆すには至らない。

 

 活躍しなかった部隊は一つもなかった。第一三艦隊司令官ヤン中将の奇略、第一〇艦隊副司令官モートン少将の防御、第八艦隊副司令官フルダイ少将の破壊力、第一一艦隊D分艦隊司令官ホーランド少将の突破力、第七艦隊A分艦隊司令官ヘプバーン少将の速度が特に素晴らしかった。

 

 もちろんルグランジュ中将の第一一艦隊も活躍した。攻勢においては果敢、守勢においては粘り強く、戦うたびに武勲をあげた。

 

 第一一艦隊の先鋒はホーランド少将のD分艦隊だ。砲撃をかいくぐって敵の艦列を突破する点において、D分艦隊の右に出る部隊はない。どの部隊よりも前にいるのにどの部隊よりも損害が少なかった。あまりに早すぎて敵の攻撃が当たらないのだ。前の世界ではラインハルトに酷評された芸術的艦隊運動は、この世界では大活躍した。

 

 D分艦隊を一本の槍とすると、穂先にあたるのが第三六機動部隊である。

 

「敵は浮き足立っているぞ! 全艦突撃!」

 

 俺の号令とともに旗艦アシャンティが突撃する。直属部隊のマリノ大佐やビューフォート大佐らが周囲を固め、四個戦隊が後に続く。その途端、敵艦は散り散りになって逃げ出す。

 

 すべてがうまくいっているように思えたが、その水面下では大きな問題が生じている。進撃が早すぎて補給が追いつかなくなった。

 

 後方主任参謀キャゼルヌ少将は余裕のある補給計画を立てた。フィンヴルの冬作戦が一週間早く完了しても対応できるはずだった。計画を一日ずらすだけでも想像を絶する手間がかかる。彼だからこそ一週間の余裕を作れた。それでも一〇日以上早まっては対応できない。

 

 帝国軍のゲリラ攻撃が補給難に拍車をかけた。後方警備には予備役部隊が充てられるが、進撃速度が早すぎて配備が間に合っていない。弱い帝国軍にとって補給部隊は格好の獲物だった。

 

 キャゼルヌ後方主任は「これ以上は補給に責任を持てない」と述べ、補給が充実するまで進撃を停止するよう求めた。

 

 これに反対したのが作戦参謀フォーク准将である。ラグナロック作戦の成否は速度にかかっており、多少のリスクを背負ってでも進撃を続けるべきだと主張した。

 

 後方参謀は「補給が可能かどうか」を基準に考えるため、慎重論に傾きやすい。作戦参謀は「作戦が実施できるかどうか」を基準に考えるため、積極論に傾きがちである。ありがちな構図が再現された。

 

 本国では泥沼化を懸念する声が出ている。トリューニヒト下院議長は、「泥沼化のパターンを忠実になぞっている」と述べた。レベロ財政委員長は「出兵が一日続けば一〇〇〇億ディナールが消える。戦果を材料に講和した方が良い」と提案する。反戦派五〇万人がハイネセン都心部で撤退要求のデモを行った。

 

 進軍停止の是非をめぐる首脳会議が開かれた。ロボス総司令官、グリーンヒル総参謀長、三名の総司令部主任参謀、一一名の総司令部参謀、八名の艦隊司令官、六名の地上軍司令官が一斉に回線を開いて話し合う。

 

 俺はアシャンティで待機した。マフィンが切れているため、シュークリームを食べる。周囲では部下たちがラグナロック作戦の今後について議論している。

 

 慎重論の中心はサンバーグ後方部長と後方畑出身のドールトン艦長。積極論の中心は、ラオ作戦部長と作戦参謀メッサースミス大尉。ここでも後方と作戦の対立構図があった。チュン・ウー・チェン参謀長はパンを食べるのに忙しく、イレーシュ副参謀長は腕立て伏せをしているため、議論には加わっていない。

 

 前の世界の記憶が俺の脳内によみがえる。七九六年秋、帝国領に侵攻した同盟軍は焦土作戦を食らい、一か月で全面敗北に追い込まれた。作戦の詳細は覚えてないが、あの時はニヴルヘイムの途中で止まったようだ。俺たちはアースガルズの手前まで来た。ここで焦土作戦を食らったら、とんでもないことになる。

 

「まずいぞ」

 

 俺は隣のベッカー情報部長にささやきかけた。

 

「マフィンが食べれないことがですか?」

「違う。敵の焦土作戦だ」

「まさか」

 

 元帝国軍人の情報部長はあっさりと否定する。

 

「根拠は?」

「門閥貴族はエゴイストです。自分と一族のことしか考えていません。国を守るために領地を犠牲にするなんて無理ですよ」

「これまでの戦いを見てると、そんな気もするけど……」

 

 同盟軍が連戦連勝できた理由の一つに貴族のエゴイズムがあった。敵が貴族領を放棄し、戦力を集中して戦っていたら、同盟軍はもう少し苦戦したかもしれない。

 

「焦土作戦を命じた瞬間に貴族が離反しますな。帝都でクーデターが起きるかもしれません。アースガルズには大貴族の領地がたくさんありますから」

「確かになあ」

「焦土作戦ができるとしたら、ニヴルヘイムでしょう。全国で最も貴族領の比率が低い宙域ですから」

「なるほど」

 

 俺は二つの意味で納得した。帝国軍がアースガルズで焦土作戦を実施できない理由、そして前の世界でラインハルトが焦土作戦を実施できた理由がわかったからだ。

 

「可能性がゼロではないというだけですがね。皇帝領に利権を持つ貴族はいますし、ニヴルヘイムの弱小貴族にも有力貴族の一門がいます。実際、押し切られたでしょう」

「無理と考えていいんだな」

 

 口ではそう言ったものの、内心では納得しがたい。敵には不可能を可能にする男、ラインハルト・フォン・ローエングラムがいる。何をしてくるのかわかったものではない。

 

 アンドリューの態度にも不安を覚える。ラグナロック作戦が決定した後、急に傲慢になったと噂される。ヤン中将と口論したり、指摘を受けると詭弁で逃げたり、十分な説明をせずに決定だけを押し付けたりするそうだ。ルグランジュ中将は「思い上がっているのではないか」と言うが、アンドリューはそういう奴ではない。俺の目には焦っているように見える。

 

 ラグナロック作戦の所要期間は三か月。三月末までにビフレスト要塞を攻略し、四月末までにオーディンを陥落させれば良い。これまでに帝国軍は一〇万隻以上の艦艇と一〇〇〇万人以上の地上戦闘要員を失った。数日待ったところで同盟軍の優位は揺るがない。フェザーンの調停は失敗に終わった。決着を急ぐ理由があるとしたら、三月末の上院選挙ではないだろうか。

 

 作戦が始まってから政権支持率が急上昇している。勝利もさることながら、同盟軍捕虜一〇〇万人や帝国人政治犯六〇万人が救い出されたのが大きい。選挙の前にオーディン攻略という大イベントを持ってくれば、さらに支持率が上がり、与党は圧勝するだろう。アンドリューは政治に長けたロボス総司令官の弟子だ。選挙を意識した上で戦略を立てる。あるいはロボス総司令官の意思を代弁しているだけなのかもしれない。

 

 会議の結果が全軍に通知された。遠征軍は予定通り進軍を続けるという。補給は現地調達に頼るそうだ。

 

 第一統合軍集団と第三統合軍集団はヴィーレフェルトで分かれた。第一統合軍集団は最短ルートのコーブルク航路を進み、第三統合軍集団はハイルブロン航路を進む。第二統合軍集団はヨトゥンヘイム総管区を経由してアースガルズを目指す。

 

 

 

 

 

 アースガルズでは予備役部隊一〇万隻の動員が始まった。ラインハルトはカストロプ公爵の反乱を三六時間で平定し、帰路に就いたという。すべての事象がアースガルズに収束していく。

 

 三月五日、第一統合軍集団はミズガルズとアースガルズの境界に到達した。目の前に立ち塞がるのはビフレスト要塞。北欧神話に登場する虹の橋の名を冠し、「虹の柱」と呼ばれる強力な主砲を有する。イゼルローン要塞より小さいが、ガイエスブルク要塞よりは大きい。帝都への道を守るにふさわしい威容だ。

 

 宇宙要塞そのものはさほど恐ろしくない。攻略戦術は西暦時代に確立されている。ラグナロック作戦が始まってから、同盟軍は九個の宇宙要塞を攻略した。イゼルローン要塞が難攻不落だったのは極端に狭い場所にあったせいだ。

 

 帝国では要塞を兵站基地として用いる。帝国宇宙軍は惑星沿いでの活動を想定した軍隊だ。地上基地からの兵站支援が欠かせないが、有人惑星にはテロや反乱の危険が付きまとう。その点、軍人しか住んでいない宇宙要塞は安全というわけだ。ある程度の自給自足能力を持っており、周囲の星系がことごとく反乱しても持ちこたえられる。民衆を仮想敵にしている軍隊ならではの発想といえよう。

 

 真に恐るべきは、要塞の兵站支援能力と駐留艦隊である。電撃戦を成功させるにはどちらも潰しておかないといけない。

 

 ビフレスト要塞は一万八〇〇〇隻の艦艇を収容できる。駐留兵力は艦艇五〇〇〇隻と装甲擲弾兵七万人。要塞司令官はミュンツァー伯爵、駐留艦隊司令官はバルドゥング侯爵。二人とも名臣の末裔で、断絶していた名跡を昨年末に再興したばかりだ。無視できない戦力であった。

 

 第一統合軍集団司令官ウランフ中将は、ビフレスト要塞の攻略を決意した。第五艦隊、第一一艦隊、第一三艦隊がビフレスト要塞を包囲する。最大の要塞攻防戦が始まろうとしていた。




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第58話:黄昏の果てる時 798年3月5日~27日 ビフレスト要塞~アースガルズ~ヴァルハラ

本話開始時点勢力図

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 三月五日九時、ビフレスト要塞攻防戦が始まった。同盟軍は要塞駐留艦隊を排除すると、無数の小集団に分かれて上下前後左右の全方位から要塞へと迫った。黒旗軍のジュリオ・フランクールが考案した対要塞戦術「蜂群戦法」である。

 

 蜂の群は要塞主砲「虹の柱」の死角に入り込み、対空砲群と要塞空戦隊を制圧した。丸裸になった要塞に陸戦隊が雪崩れ込む。要塞司令官ミュンツァー伯爵が降伏したのは、一三時二〇分のことだった。わずか四時間で帝国有数の大要塞を攻略してしまったのだ。

 

 ビフレスト要塞には膨大な補給物資が蓄えられていた。弾薬や交換部品は規格が違うために使えないが、食料や水や燃料を獲得できたのは大きい。

 

 三月六日、同盟軍総司令部は第三段作戦「ヴィーグリーズ会戦」を発動し、アースガルズ総管区へと攻めこんだ。第一統合軍集団はビフレスト要塞からトラーバッハ航路に入り、第二統合軍集団はヴァーレンドルフ航路を通り、第三統合軍集団はヨトゥンヘイムからブラウエン航路に進み、三方向から帝国首星オーディンを目指す。

 

 

 

 

 

 アースガルズは帝国総人口の三割とGDPの四割を占めており、名実ともに帝国の中心を成す宙域だ。有力貴族の所領も集中している。それだけに激戦が予想された。

 

 帝国軍のアースガルズ総軍は、ミズガルズ総軍とニヴルヘイム総軍の残党を吸収し、艦艇二二万隻と地上戦闘要員二四〇〇万を擁するに至った。もっとも、正規軍は三割程度で、残りは予備役と私兵軍である。総司令官リッテンハイム公爵が督戦隊を五倍に増やし、名門出身者や復古主義者など「国体意識の強い人材」を指揮官に登用したため、忠誠心は高いとみられる。

 

 同盟軍は高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に戦う。貴族領に重点配備された敵を各個撃破し、集結した敵はまとめて叩く。

 

 アースガルズ全域で反体制派が同盟軍に呼応した。帝国軍の大軍を釘付けにする一方で、同盟軍に情報面や兵站面での支援を行う。

 

 快進撃を続ける第一統合軍集団の前に、一大要塞線「獣の檻」が立ち塞がった。レーヴェンスブルク要塞、ヴォルフスブルク要塞、ティーゲルスブルク要塞、ヤーグアールスブルク要塞が中核となり、小惑星などに築かれた二六個の基地、六万隻の艦隊と連携して防衛網を形成する。軍務尚書エーレンベルク元帥は「小舟一隻すら通さぬ」と豪語した。

 

 ところが、第一三艦隊司令官ヤン中将が、四要塞のうちの二つを同時奇襲で攻め落とした。獣の檻は三〇時間で突破されてしまったのである。

 

 ビルスキルニル星系では三個艦隊四万隻が守りを固めていた。だが、ホーランド少将が率いるD分艦隊の奇襲を受けて大混乱に陥り、ルグランジュ中将が率いる第一一艦隊主力によって殲滅された。

 

 第一統合軍集団司令官ウランフ中将は、第五艦隊を副司令官メネセス少将に任せて全体指揮に徹した。華々しい戦果とは無縁だったものの、軍集団司令官としての役割を完璧にこなし、統合作戦本部長や宇宙艦隊司令長官たるにふさわしい器量を見せた。

 

 第二統合軍集団と第三統合軍集団の活躍も目覚ましい。ルフェーブル中将のラウプハイム会戦、キャボット中将のブラウボイレン会戦、モートン少将のキルトルフ迂回作戦、ヘプバーン少将のムーダウ基地急襲は、獣の檻突破やビルスキルニルに匹敵する勝利であろう。

 

 帝国軍は同盟軍を見ただけで逃げ出すようになった。兵士の脱走や降伏が相次ぎ、数万人単位や数十万人単位での集団降伏も起きた。死守命令や焦土化命令は守られていない。徹底抗戦を叫ぶ指揮官は部下に殺され、督戦隊は率先して逃げ出す。

 

 同盟軍は戦うたびに勝ち、戦わなくても勝ち、ただ進軍するだけで帰順者と物資を獲得した。完全に波に乗ったのだ。

 

「同盟軍に敵なし!」

「正義は勝つ!」

「正規艦隊は宇宙に冠たる精鋭だ!」

 

 新聞紙上に同盟軍を褒め称える文句が乱れ飛ぶ。戦争というドラマは、俳優が出演するテレビドラマよりも、アスリートが演じる筋書きのないドラマよりも人々を楽しませた。

 

 ラグナロック作戦の英雄がメディアを占拠した。新聞は名将の用兵を論評し、テレビは名艦長や撃墜王のスコアを数え上げ、雑誌の表紙を戦場の勇者が飾る。

 

 第一三艦隊司令官ヤン・ウェンリー中将が一番の人気者だ。艦隊戦での活躍もさることながら、要塞戦での活躍が飛び抜けている。遠征軍が攻略した一七個の要塞のうち、五個を第一三艦隊単独で攻略し、三個を他艦隊と共同で攻略した。強いだけでは人気者になれないが、ヤン中将ぐらい強ければ、マスコミ受けしない言動ですら神秘性と受け止められる。

 

 ヤン中将に次ぐのは、第一一艦隊D分艦隊司令官ウィレム・ホーランド少将だろう。武勲・用兵・容姿・言動のすべてが華々しい。三年前に地に落ちたグリフォンは再び宙に舞い上がった。

 

 ホーランド少将に匹敵する人気者としては、ヤン中将の下で要塞戦の前線指揮をとるシェーンコップ准将、全銀河亡命者会議軍総司令官のシューマッハ義勇軍中将、人間離れした戦闘性を有する戦車隊指揮官ザイコフ大佐、「トランプのエース」と呼ばれるポプラン大尉・コーネフ大尉・ヒューズ大尉・シェイクリ大尉の撃墜王四人衆、同盟軍随一の美貌と武勇を誇るムルティ少佐、この一か月で三六隻の敵艦を撃沈した若き天才艦長バジリオ少佐がいる。

 

 ホーランド少将と先頭争いする第二統合軍集団先鋒のグエン少将、第三統合軍集団先鋒のヘプバーン少将の二人もなかなかの人気ぶりだ。なお、ヘプバーン分艦隊の副司令官フィッシャー准将と司令部副官スールズカリッター大尉は、前の世界では有名人だったが、この世界では話題にならない。

 

 第三六機動部隊は最も武勲をあげた機動部隊の一つに数えられる。参戦すれば一番乗りをしないことはなく、敵の艦列に突入すれば突き破らないことはなく、追撃すれば追いつかないことはなかった。

 

「フィリップス機動部隊が今日も勝ちました! 赤毛の驍将フィリップスと黒豹マリノを先頭に、精鋭五〇〇隻が四段構えの縦深陣を完全突破し……」

 

 そこでぷつりと音がした。俺がテレビのスイッチを切ったからだ。

 

「どうして切るんです?」

 

 副官のコレット大尉が不満そうな顔をした。副官付カイエ伍長、将校当番兵マーキス一等兵らはそれに同調するような視線を送る。

 

「フィリップス機動部隊って呼称が嫌なんだ。『エリヤ・フィリップスとその他大勢』みたいに聞こえるだろうが」

 

 小心者にも譲れないことはある。マスコミが良く使う「フィリップス機動部隊」の呼称がその一つだ。有名指揮官の部隊は「ヤン艦隊」「ホーランド分艦隊」などと指揮官名で呼ばれる。カリスマ指揮官ならそれもいいだろう。しかし、凡庸な俺にはふさわしくない。

 

「私はその方が嬉しいですけど」

「司令官は部隊のオーナーじゃない。一時的に預かってるだけに過ぎない。第三六機動部隊の隊員という点ではみんな同じなのに、俺一人が目立つなんて筋違いだ」

「閣下のリーダーシップあっての第三六機動部隊じゃないですか」

「隊員あっての第三六機動部隊、隊員あっての司令官だよ」

 

 俺の言ってることは綺麗事ではなく単なる事実だ。名将は部下を引っ張るが、凡将は部下に引っ張られる。引っ張られているのに主役を名乗るなど滑稽ではないか。

 

「マスコミは俺の突撃を『フィリップス・チャージ』と呼んでるけどな。俺がワーッと突っ込むだけで勝てるってもんじゃない。突っ込むだけで勝てるなら、誰だって突撃の名手になれる」

 

 数ある戦術の中でも突撃ほど才能に左右されるものはない。タイミングとポイントを見極める眼が必要だ。ホーランド少将は戦場を見るだけで正解がわかるという。前の世界で活躍したビッテンフェルト提督は猪突猛進と言われるが、天性の戦術眼を持っていた。

 

 戦術眼がない俺はチーム力に頼った。ベッカー少佐の情報部が情報を集める。ラオ少佐の作戦部がタイミングやポイントを割り出す。チュン・ウー・チェン参謀長は、全体を見ながらアドバイスをする。

 

 突撃に必要な才能は戦術眼の他にもう一つある。それはカリスマ性だ。平凡な兵士に「この人と一緒に死にたい」と思わせる魅力を備えた指揮官が、突撃の名手になれる。ホーランド少将やビッテンフェルト提督は、戦術眼に加えて天性のカリスマ性を持っていた。

 

 カリスマ性のない俺は環境作りに力を入れた。部下を手厚く待遇することで部隊への帰属意識を高め、縦横の風通しを良くすることで隊員同士の戦友意識を高め、「この部隊のために死にたい」「戦友のために死にたい」と思わせるようにする。

 

「名将の突撃は部下を引っ張る突撃だけど、俺の突撃は部下に後から押される突撃だ。第三六機動部隊の勝利は隊員全員の勝利なんだ」

 

 そう言って説明を締め括ったところで、最先任下士官カヤラル准尉が口を挟んできた。

 

「フィリップス提督は七年前からちっとも変わってないですねえ」

「そうか?」

「褒められるたびに『みんなのおかげだ』とおっしゃってました」

「君たちがいなかったら仕事にならなかったからな」

 

 俺がカヤラル准尉と出会った頃のことを思い浮かべる。士官になったばかりで仕事が全然できなかったため、彼女らに頼りきりだった。

 

「その気持ちがあるかぎり、あなたは伸び続けますよ」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が、焼きたてのパンを見るのと同じ目で俺を見た。その右手には潰れたサンドイッチがある。

 

「参謀長、サンドイッチをもらえるか?」

「どうぞ」

「ありがとう。ちょうどいい潰れ具合だ」

 

 サンドイッチを褒めることで話題を変える作戦に出た。

 

「恥ずかしくなると話題をそらそうとするところも変わってませんね」

 

 カラヤル准尉が目を細める。副官付のカイエ伍長、司令部員のフェーリン少尉やバダヴィ曹長などフィン・マックール以来の部下がうんうんと頷く。

 

「これでも進歩したよ。昔はもっと声が上ずってたから」

 

 イレーシュ副参謀長が余計なことを言う。俺が言い返そうとしたところ、チュン・ウー・チェン参謀長が先に口を開いた。

 

「こうして笑ってられるのは勝ってるからです。負け戦だとこうはいきません」

「それもそうか」

 

 まったくもって参謀長は正しい。勝ってるからこそ笑っていられる。それは同盟軍全体に共通することだ。勝利が戦意を高揚させ、さらなる勝利を呼び込む。そんな好循環が起きた。

 

 前の世界で戦記を読んだ時は、帝国領侵攻作戦が成功することなどありえないと思った。だが、現在の状況から考えると、焦土作戦が実施されなかったら成功したのかもしれない。内戦が起きなかったとしても、反乱分子がこれだけ潜伏していたら、まともに抵抗するのは困難だ。

 

 もしかすると、ラインハルトの焦土作戦には反乱対策の側面もあったのではないか。物資を奪って反乱を抑止し、軍隊を引き上げて内通者を前線から引き離し、同盟軍を足止めして後方の反乱分子を粛清する時間を稼ぐ。この状況から逆算した妄想でしかないが。

 

 帝国軍は悪循環に陥った。敗北が戦意を低下させ、さらなる敗北を呼び込んだ。リッテンハイム公爵は厳罰主義で軍紀を引き締めようとしたが、脱走者や降伏者を増やしただけに終わった。

 

 ギャラルホルン作戦開始からの二週間で、アースガルズ総軍は艦隊戦力の四割と地上戦力の五割を失った。

 

 そんな時にブラウンシュヴァイク派が動き出した。ミュッケンベルガー元帥率いる八万隻が「帝都を救援する」と称し、リヒテンラーデ=リッテンハイム連合の拠点を制圧しながら、オーディンを目指す。

 

 

 

 

 

 同盟軍とアースガルズ総軍が争う段階は終わり、同盟軍とブラウンシュヴァイク派のどちらがオーディンを陥落させるかが焦点となっていた。

 

 

 

 三月二四日、第一統合軍集団、第二統合軍集団、第三統合軍集団が、帝国首星系ヴァルハラから二〇光年の距離に迫った。

 

 ここで後方主任参謀キャゼルヌ少将、第一統合軍集団司令官ウランフ中将、第一三艦隊司令官ヤン中将らが進軍停止を求めた。艦艇部隊が急行軍で疲弊している上に、進軍が早すぎて補給が追いつかなくなっている。そんな状況で進軍を続けるのは危うい。

 

 ヴァルハラ星系には一三万隻から一五万隻が集まっているものと思われた。ラインハルト艦隊が合流したとの情報もある。

 

 仮にヴァルハラの大艦隊を突破したとしても、オーディンの地上部隊三八〇万人と戦わなければならない。一二〇万人の近衛軍と九〇万人の武装憲兵は装甲車両や重火器を保有し、一七〇万人のの帝都防衛軍は機甲部隊・航空部隊・水上部隊まで持っている。それとは別に軽火器で武装した警察官四〇〇万人と社会秩序維持局員一〇〇万人がいるのだ。

 

 大軍と正面から戦うよりは、アースガルズ総軍とブラウンシュヴァイク派が争っている間に態勢を立て直した方がいい。キャゼルヌ少将らはそう考えた。

 

 一方、フォーク准将ら総司令部作戦参謀は進軍続行を主張した。敵に態勢を立て直す時間を与えるべきでないというのがその理由だ。アースガルズ総軍が自壊現象を起こし、ブラウンシュヴァイク派に吸収されてしまう可能性も指摘された。

 

 日頃からの確執が両派の対立を深刻なものとした。総司令部の作戦参謀は正確な情報を持っているにも関わらず、必要最低限しか開示しようとしない。前線部隊は何も知らされないままに作戦を押し付けられる形となった。結果としては連戦連勝でもいい気分はしない。

 

 議論の結果、同盟軍は進軍を続けることになった。二万隻を後方警備に残し、九万六〇〇〇隻がヴァルハラへと進む。

 

 俺はマフィンを食べて決戦に備えた。六個目を口に運ぼうとしたところで、偵察に出ていた独立駆逐艦群司令ビューフォート大佐から通信が入った。画面の中央には「緊急」の文字が浮かんでいる。

 

「どうした?」

「敵を発見しました。距離は四〇〇〇光秒(一二億キロメートル)。総数は九万隻前後。ローエングラム元帥の旗艦ブリュンヒルトの姿が確認されました」

「リッテンハイム公爵の旗艦は?」

「確認されませんでした。ローエングラム元帥が総司令官だと思われます」

「なんだって!?」

 

 常勝の天才が総指揮を取る。そう聞いただけで恐怖を覚えた。

 

「レグニツァの仇を討つ機会ですな」

 

 ビューフォート大佐はダンディに微笑む。さすがは歴戦の勇者だ。こんな時でも平常心を失わない。

 

「君の言う通りだ」

 

 俺は必死で笑顔を作る。苦境にあっても笑い続けるのが指揮官の義務だ。

 

「勝ちましょう」

「そうだな」

 

 笑顔で敬礼を交わし合ってから通信を終えた。その後、ホーランド少将に報告を送る。ビューフォート大佐が得た情報は、ホーランド少将からルグランジュ中将を経て総司令部に伝わり、全軍の共有するところとなった。

 

 三月二五日七時二五分、同盟軍と帝国軍の距離は一〇光秒(三〇〇万キロメートル)まで縮まった。

 

 帝国軍は首星オーディンを半包囲するような弓状の陣を敷いた。左翼に旧中立派のメルカッツ上級大将率いる三個艦隊、右翼にリッテンハイム派のエッデルラーク上級大将率いる三個艦隊、中央部にラインハルト率いる三個艦隊、後方に予備として二個艦隊が布陣する。一四万隻のうち、正規軍は四万隻前後、残りは予備役と貴族の私兵軍であった。

 

 アースガルズ総軍に残された正規軍艦艇戦力は、リッテンハイム艦隊が三万隻、ラインハルト艦隊が二万隻、リンダーホーフ艦隊が一万隻、旧中立派艦隊が二万隻と言われる。このうち、参戦しているのは、ラインハルト艦隊とリッテンハイム艦隊がそれぞれ一万隻、残り二万隻は旧中立派艦隊だ。首星系での決戦にも関わらず、切り札の正規軍を半数しか投入していない。

 

 正規軍の残り半数の行方については、二つの可能性が想定された。一つはブラウンシュヴァイク派を阻止に向かった可能性、もう一つは別働隊として控えている可能性だ。

 

 同盟軍総司令部は別働隊を警戒した。ラインハルトの実績を考慮すると、各方面に戦力を分散するよりは、戦力を集中して同盟軍を一気に叩く方が似つかわしい。前線を薄くして予備を厚くすることで別働隊に備えた。

 

 第七艦隊と第一〇艦隊を基幹とする第三統合軍集団が同盟軍左翼を担う。機動戦に長けた第三統合軍集団司令官ホーウッド中将が指揮をとる。

 

 第三艦隊と第九艦隊を基幹とする第二統合軍集団が同盟軍右翼に展開する。老巧の第二統合軍集団副司令官ルフェーブル中将が指揮をとる。

 

 第五艦隊と第一一艦隊を基幹とする第一統合軍集団が同盟軍中央に布陣した。知勇兼備の第一統合軍集団司令官ウランフ中将が指揮をとる。

 

 三方面の中間点にロボス総司令官率いる本隊が鎮座する。司令官直轄部隊の他、第一統合軍集団から引き抜いた第一三艦隊、第二統合軍集団から引き抜いた第八艦隊を指揮下に置いた。最大の戦力を持つこの部隊が決戦戦力となるだろう。

 

 ヴァルハラに集結した同盟軍は九万六〇〇〇隻。数の上では劣っているが、練度は帝国正規軍よりも高く、戦意は最高潮に達している。旧式艦ばかりの敵と異なり、全軍が現用艦艇だ。総合的な戦力は同盟軍が勝る。

 

 D分艦隊の全艦に緊急放送を知らせるチャイムが鳴り響いた。全艦のスクリーンにホーランド少将の立体画像が現れ、演説を始める。

 

「D分艦隊の精鋭諸君! ローエングラム元帥の常勝神話に幕を閉じる時が来た! 

 誰が閉じるのか? それはウィレム・ホーランドと諸君だ!

 新しい神話の主人公は誰か? それはウィレム・ホーランドと諸君だ!

 我々の神話を今日この場所から始めようではないか!」

 

 ホーランド少将が拳を振り上げた。その顔は紅潮し、両目には恍惚とした光が輝いており、完全に酔っている。同じ酔いを二三〇〇隻が共有した。

 

 周囲が歓声に包まれる中、俺だけは恐怖に震えていた。ホーランド少将がラインハルトに返り討ちにあうイメージしか湧かないのだ。そうなった場合、俺が真っ先に死ぬ。これまでの人生が映像となって脳内を流れ始める。

 

「マフィンをくれ」

 

 俺は必死で糖分を補給したが、一向に震えが止まらない。デスクの上にマフィンの箱がいくつも積み上げられた。

 

「司令官閣下、いかがなさいましたか?」

 

 副官のコレット大尉が心配そうに俺を見る。体が震えてるのに気づいたようだ。

 

「これは武者震いだよ」

「武者震いですか……?」

「あのローエングラム提督に一番槍をつけるんだぞ? 軍人としてこれ以上の名誉はない。戦いたくてうずうずしてるんだ」

 

 爽やかに嘘をつく。

 

「差し出口を叩いてしまいました。申し訳ありません」

「謝ることはないさ。司令官の体調管理は副官の仕事だ。気づいたことがあったら、どんどん言って欲しい」

「ありがとうございます」

 

 コレット大尉の目がきらきらと輝く。素直過ぎる反応に少し罪悪感を覚えた。

 

「礼を言うのは俺の方だよ」

 

 俺はそこで話を打ち切った。いつの間にか震えは収まっている。自分の嘘に励まされてしまったらしい。我ながら本当に単純だ。

 

 やがて戦いが始まった。戦艦と巡航艦の主砲がビームを吐き出す。中和磁場が敵のビームを受け止める。天才との戦いにしては凡庸な幕開けだ。

 

 一〇分ほど砲火の応酬が続いた後、敵が主砲を乱射しながら突っ込んできた。左翼と右翼の敵も突撃を開始する。ラインハルトらしい積極策なのか、ラインハルトらしからぬ粗雑な策なのか、にわかには判断できない。

 

 敵の戦術は稚拙そのものだ。旗艦ブリュンヒルトが先頭に立ち、各部隊がビームやミサイルを派手にばら撒きながら突っ込んでくる。それなのにこれまでの敵よりずっと強い。

 

 

 

 

 

「なんて圧力だ」

 

 俺はメインスクリーンを睨みつけた。指揮官の義務として落ち着いたふりをしているものの、内心は焦りっぱなしだ。

 

「貴族は戦闘経験の多少に関わらず、勇気を見せたがるところがあります。ローエングラム元帥は予備役と私兵軍を活用するために、あえて積極策をとったのはないでしょうか。単純な突進なら数の利が生きてきます」

 

 ラインハルトの狙いをチュン・ウー・チェン参謀長が解説してくれた。

 

「なるほど、さすがはローエングラム元帥だ」

「この勢いでは生半可な策は通用しません。当分は守勢に徹するのみですね」

「頑張ろうか」

 

 状況はまったく変わっていないのに、何が起きているかを理解できるだけで心が落ち着く。こんな時、チュン・ウー・チェン参謀長の助言より有効な鎮静剤はない。

 

 第三六機動部隊は命がけで戦った。戦艦戦隊と巡航艦戦隊が主砲を斉射し、駆逐艦戦隊が短距離砲で弾幕を張り、遠近両方から火力を叩きつける。母艦戦隊配下のスパルタニアンがワルキューレの浸透を防ぐ。独立戦艦群・独立巡航群・独立駆逐艦群・独立母艦群は、予備として戦線の穴を埋める。

 

「ここで食い止めろ! 俺たちに勝敗がかかっているぞ!」

 

 俺はマイクを握って部下を励ました。旗艦アシャンティの中和力場と敵のビームがせめぎ合い、虹色の光がスクリーンを照らす。

 

「司令官閣下、右翼がやや薄くなっております」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が俺に耳打ちする。

 

「予備を動かそう。独立駆逐群から割ける戦力は?」

「一個駆逐隊が限度です」

「少々心細いな。独立巡航群に余裕はあるか?」

「二個巡航隊は大丈夫かと」

「一個駆逐隊と一個巡航隊を動かそう。これで右翼は支えきれるかな」

「問題ありません」

「よし、予備を動かすぞ」

 

 一個駆逐隊と一個巡航隊が第三六希望部隊の右翼を補強した。予備戦力が一個巡航隊だけでは心許ないため、安定している中央から一個駆逐隊を本隊に戻す。

 

「左翼から支援要請が入りました」

「そこまで差し迫ってるようにも思えないな。参謀長はどう思う?」

「現有戦力で十分に守り切れます。右翼が完全に安定するまでは、予備戦力を確保しておく方がよろしいでしょう」

「そうだな」

 

 左翼には「現有戦力でもうしばらく頑張って欲しい」と伝えた。戦いが続く間、指揮官はひっきりなしに入ってくる支援要請と限られた戦力の板挟みになる。

 

 中央の第一統合軍集団、左翼の第三統合軍集団、右翼の第二統合軍集団は、帝国軍の猛攻を食い止めるだけで精一杯だった。拙劣な攻撃でもこれだけ手数が多いと対処しきれない。

 

「貴族どもは守勢に弱い! 前線は守るのでなく攻めるつもりで戦え! 別働隊を引きずり出せば我が軍の勝ちだ!」

 

 ロボス元帥が全軍を叱咤する。どこかに隠れている別働隊が帝国軍の決戦戦力であり、前線部隊の突撃は目眩ましというのが同盟軍の共通認識だ。

 

 ホーランド少将の指揮のもと、D分艦隊は迫り来る敵を受け流しては撃ち落とす。巧妙な戦いぶりではあるが、いつもの気迫は見られない。受け身の戦いでは英雄願望が満たされないのだろう。

 

 第一一艦隊全体としては奮戦していた。司令官ルグランジュ中将が陣頭に立って部下を鼓舞し、各分艦隊はそれぞれの戦域を固く守り、帝国軍を食い止める。

 

 ルグランジュ中将は駆け引きがうまくないが、部下の士気を高い水準に保つことにかけては並ぶ者がない。前の世界では、ドーリア星域で天才ヤン・ウェンリーと戦い、奇襲を受けたにも関わらず最後の数隻まで抵抗し続けた。駆け引き無しの殴り合いにおそろしく強い提督なのだ。突っ込んでくる敵を迎え撃つだけの戦いは望むところであった。

 

 帝国軍の戦いぶりは凄まじいの一言に尽きた。湯水のように予備を注ぎ込み、撃退されるたびに正規軍をコアとして艦列を立て直し、同盟軍へと突っ込んでいく。帝国貴族の騎士道的ロマン主義は嘲笑の種だが、こんな形で発揮されると手に負えない。

 

 五度目の突撃を撃退してから一時間後、六度目の突撃が始まった。これまでと比べて圧力が弱いような気がする。

 

「敵は疲れてきたようですね」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長は俺の方を見た。

 

「別働隊が出てくる頃だな。気を引き締めないと」

「いないかもしれませんよ」

「えっ?」

 

 何を言ってるのか分からなかった。他の幕僚たちも同じような表情をする。

 

「戦闘開始から一〇時間が過ぎたのに、別働隊は哨戒網にまったく引っかかりません。四万隻の大軍を完全に秘匿するのは不可能です。最初からいないと考えるとしっくりきます」

 

 驚くべき推論ではあったが筋は通っている。

 

「言われてみるとそうだ」

「ローエングラム元帥はありもしない別働隊の存在を信じさせようとしている。私にはそう思えます」

「何のために?」

「対奇襲シフトを敷かせるためではないでしょうか。予備が厚くなった分だけ前線は薄くなりますから。最初から第八艦隊か第一三艦隊が前線に出ていれば、敵の突撃はこんなに続かなかったでしょう」

「別働隊の存在をちらつかせることで、多くの戦力が予備に回るよう仕向ける。そして、薄くなった前線を強襲に次ぐ強襲で突破する。そんなところかな?」

「勢い任せの強襲で勝てると思うほど、ローエングラム元帥は甘くないと思いますよ」

「そうだよなあ」

「戦いを長引かせるのが目的だとは思います。なぜ長引かせたいのかはわかりません」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長にわからないことが、他の者にわかるはずもない。それでも俺は乏しい知恵を振り絞って考えた。

 

「迂回してヨトゥンヘイムからミズガルズを衝くとか」

「何週間もかかります。我が軍を半日や一日拘束したところで無意味です」

「じゃあ、ブラウンシュヴァイク派と和解したんだ。俺たちを挟み撃ちにするつもりだよ」

「それならば、正規軍をすべて投入するはずです」

「確かに弱兵を使うのは変だね」

 

 ラインハルトが同盟軍を挟み撃ちにするつもりなら、配下の八個分艦隊をすべて連れてくるはずだ。ヴァルハラに参戦したのは四個分艦隊に過ぎず、最精鋭のロイエンタール分艦隊とミッターマイヤー分艦隊、最も忠実なキルヒアイス分艦隊とプレスブルク分艦隊が含まれていない。リッテンハイム艦隊やリンダーホーフ艦隊を参戦させないのも変だ。

 

「別働隊は存在しない。今のところ分かるのはそれだけです」

「参謀長、総司令部は気づいてると思うか?」

「コーネフ中将やフォーク准将は私よりずっと有能です。とっくに気づいてるんじゃないでしょうか」

「言うだけ言っておこう。念を入れるに越したことはない」

 

 俺はコレット大尉に具申書を作るよう命じた。しかし、五分後にはその必要がなくなった。

 

 ヤン中将の第一三艦隊が帝国軍左翼の左側面へと回りこんだ。ルフェーブル中将の第二統合軍集団は守勢から攻勢に転じる。総司令部は別働隊が存在しないと判断し、予備を投入したのだ。

 

 帝国軍左翼は三方面の中で最も強い。正規軍比率が飛び抜けて高く、名将メルカッツ上級大将が総指揮をとっている。それでも、二方向からの攻撃には耐えられなかった。正確に言うと、予備役部隊と私兵軍が耐えられなかった。帝国軍左翼の勢いが急速に落ちる。

 

 メルカッツ上級大将は素早く援軍を送り、崩れかけた部分を補強した。惚れ惚れするほどに鮮やかな対処である。第一三艦隊の側面攻撃は阻止されたかに思われた。帝国軍左翼が崩れる気配はない。

 

 ここでヤン中将は予想外の行動に出た。帝国軍左翼が陣形を再編している間に、背後へと回りこんでしまったのである。

 

 メルカッツ上級大将はヤン中将の意図に気づき、正規軍五〇〇〇隻を差し向けた。しかし、帝国正規軍は同盟正規艦隊より練度が低く動きが鈍い。第一三艦隊はあっさりと背後を取った。

 

 

 

 

 

「決まりましたね」

 

 ラオ作戦部長が呟いた。

 

「そうだな」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が頷く。彼らの言ってることが俺にはわからない。

 

「参謀長、どういうことだ?」

「貴族は逆境に慣れていません。勇敢なのはロマンチシズムに酔っていられる間だけです」

「なるほど、良くわかった」

 

 俺はスクリーンに目をやった。帝国軍左翼が急速に崩れだす。ヤン中将の迂回機動が貴族の酔いを覚ましたのだ。

 

 ラインハルトに左翼を救援する余裕はない。ラインハルト直属のビッテンフェルト分艦隊、ワーレン分艦隊、ルッツ分艦隊、グリューネマン分艦隊は、激戦に次ぐ激戦で疲弊している。予備戦力はとっくに尽きた。

 

 右翼のエッデルラーク上級大将は余裕を残していた。味方を盾にするという門閥貴族らしい作戦のおかげで、手勢を温存できたのである。しかし、中央と左翼を盾にして逃げ切ろうと考えているのか、救援を送ろうとはしない。

 

 孤立した帝国軍左翼部隊はなおも前進を続けた。その姿には悲壮感すら漂っている。足を止めた瞬間、騎士は単なる弱兵に戻ってしまう。一分一秒でも長く騎士でいたいと彼らは願っているように見える。

 

 その後背からヤン中将が猛攻を加えた。後ろから叩くことで、貴族たちに「お前たちは騎士ではない。追い立てられる子羊だ」という現実を突きつける。

 

 前後から挟撃を受けても、メルカッツ上級大将は沈着さを失わない。戦っている部隊の中から兵力を素早く抽出し、にわかにこしらえた援軍を矢継ぎ早に送り、戦線の綻びを取り繕う。行動の一つ一つは平凡だ。速度と正確さが非凡なのである。戦記に書かれた「堅実にして隙なく、常に理に適う」とのメルカッツ評を本当の意味で理解できた。

 

 逆に言うと、これがメルカッツ上級大将の限界であった。単純な強さならヤン中将やラインハルトに匹敵する。しかし、この二人のように戦局を塗り替える強さではない。完敗を惜敗にし、勝利を大勝にすることはできるが、負け戦を勝ち戦にすることはできないのだ。

 

 帝国軍左翼部隊の前進がついに止まった。その瞬間、同盟軍全艦のスクリーンに総司令官ロボス元帥が現れ、決定的な指示を下した。

 

「今だ! 反転攻勢を開始する!」

 

 同盟軍は戦場全域で攻勢に出た。予備の第八艦隊と三個独立分艦隊もこれに加わる。

 

「全艦突撃!」

 

 俺は右腕を力いっぱい振り下ろした。第三六機動部隊が突撃し、D分艦隊が突撃し、第一一艦隊が突撃し、第一統合軍集団が突撃する。同盟軍と帝国軍が真正面からぶつかり合う。

 

 私兵軍と予備役部隊が最初に崩れ、ラインハルト艦隊が巻き込まれるように崩れだす。ラインハルトは混乱の中で陣形再編と戦力集中を行うという離れ業に挑み、ある程度の成果を上げる。それでも、全体としては崩壊状態だった。

 

 第一統合軍集団は正面から突入し、第二統合軍集団と第三統合軍集団が左右から締め付け、第八艦隊と第一三艦隊が背後へと回りこみ、帝国軍を包囲殲滅しようとした。この時、ブラウンシュヴァイク派のミュッケンベルガー元帥がヴァルハラに入り、ヨトゥンヘイムとアルフヘイムへの道を遮った。同盟軍とブラウンシュヴァイク派が暗黙のうちに包囲網を作る。

 

 

 

 

 

 包囲の環が閉じる直前、一本の光の矢がヴァルハラを駆け抜けた。白く優美なブリュンヒルトが先頭に立ち、無骨な灰色の軍艦がその後に続く。一瞬にして包囲網は突破された。

 

 逃げ遅れた帝国軍は降伏の信号を出しながら、ブラウンシュヴァイク派の側へと向かった。彼らはもともと同じ貴族同士だ。鞍替えするのに抵抗感がないのだろう。

 

 敗残兵を収容しようとするブラウンシュヴァイク派とそれを阻もうとする同盟軍の間で、ヴァルハラ会戦の第二ラウンドが始まった。同盟軍は数においても質においても優っているが、心身は疲れきっており、物資が不足をきたしている。苦戦は必至と思われた。

 

 先制したのはブラウンシュヴァイク派だった。若き猛将ヒルデスハイム伯爵が先鋒となり、ノルトルップ上級大将やキッシング上級大将といった勇将が共に攻めかかる。

 

 同盟軍の戦意は異常なほどに高揚していた。ローエングラム元帥とメルカッツ上級大将を一度に打ち破った事実が疲れを忘れさせた。ヒルデスハイム伯爵を一撃で粉砕し、ノルトルップ上級大将とキッシング上級大将を立て続けに突破し、ミュッケンベルガー元帥の本隊へと向かっていく。

 

 しかし、ミュッケンベルガー元帥の前衛にぶつかったところで同盟軍は止まった。エネルギーとミサイルが足りなくなり、十分な火力を発揮できなかったのだ。

 

 膠着状態が続いた後、ブラウンシュヴァイク派が後退に移った。同盟軍の疲弊に付け込むのは難しいと判断したのだろう。敵将ミュッケンベルガー元帥は歴戦の雄だけあって、勝敗を見切るのが早い。

 

 同盟軍は物資不足がたたって追撃を徹底できなかった。それでも敗残兵の半数を撃沈するか捕獲し、ブラウンシュヴァイク派にも相応の打撃を与えた。

 

 三月二六日一四時、同盟軍は帝国首星オーディンへと押し寄せた。第八艦隊と第一三艦隊が軍事衛星群「ドラウプニル」を飽和攻撃で叩き壊す。帝都防衛軍の軌道防衛隊は姿を見せない。衛星軌道をあっさりと制圧できた。

 

「オーディンへ降下せよ!」

 

 ロボス元帥はオーディン降下作戦「スルトの炎剣」を発動させた。地上部隊六一〇万人がシャトルに乗って降下する。

 

 帝国首星の地表は無政府状態に陥っていた。労働者・農民・失業者・奴隷が暴動を起こし、邸宅や公共機関を襲い、刑務所から囚人を解き放った。暴徒の総数は数千万に達する。

 

 総司令部はオーディンの暴動を「自発的革命」と認定し、援助を開始した。暴徒、いやオーディン革命軍は同盟製の武器を手に取り、同盟軍から教えられた通りに「革命万歳!」「民主主義万歳!」と叫んだ。軍隊や警察が動く気配はない。同盟軍と革命軍は快進撃を続けた。

 

 革命の波がオーディン全土を覆い尽くした。街中に掲げられた双頭鷲旗が次々と引きずり下ろされ、代わりに同盟の三色旗が掲げられる。

 

「革命万歳!」

「自由万歳!」

「民主主義万歳!」

「ハイネセン万歳!」

 

 革命軍は三色旗を掲げ、帝国語で民主主義を讃えながら路上を練り歩く。その周囲を同盟軍が固める。

 

 三月二七日午前八時、同盟軍と革命軍が銀河帝国首星オーディンを掌握した。史上最大の作戦は二か月目にして大団円を迎えた。

 

 神々の黄昏は終わり、人間の朝が始まる。




本話終了時点勢力図

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第59話:歓喜の街 798年3月27日~4月10日 惑星オーディン~ハールバルズ市

本話開始時点勢力図

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 帝国首星オーディン陥落から一時間後の二七日九時、国防委員会はすべての軍人に国営放送を見るよう指示した。手の空いている者は大型テレビのある部屋に集まり、空いていない者は車載テレビや携帯端末を見る。

 

 第三六機動部隊旗艦「アシャンティ」の士官食堂では、士官数十人がテレビを食い入るように見つめていた。誰もがこれから始まる歴史的瞬間への期待感に胸を膨らませた。

 

 スクリーンに巨大な宮殿が映る。テロップには「新無憂宮東苑 勝利広場」と書かれている。新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)は言わずと知れた銀河帝国皇帝の居城だ。

 

 新無憂宮は政務や接待の場となる東苑、皇帝一家が住む南苑、寵姫や女官が住む西苑、広大な狩猟場のある北苑の四つに分かれる。二二の大宮殿と五〇の小宮殿からなり、部屋の数は四〇万、敷地総面積は六六平方キロ、廊下の総延長は四〇〇キロに及ぶ。敷地内には宮廷人一五万人が住み、近衛兵六個旅団が駐屯し、総合病院、動物園、スタジアム、舞踏場、劇場、美術館、図書館などを有する。

 

 勝利広場の初代皇帝ルドルフ像を革命戦士数万人が引きずり倒した。全長一九九・四メートルの巨像が轟音とともに倒れた瞬間、食堂が歓声に包まれた。

 

「やったぞ!」

「ざまあみろ!」

「民主主義万歳!」

 

 すべての者が手を叩き合い、肩を抱き合い、体全体で喜びを表す。同盟人はルドルフに虐げられた人々の末裔だ。遺伝子レベルでルドルフへの憎悪がしみついているのである。

 

 革命戦士は倒れたルドルフ像に下品な悪口を浴びせ、棒でボコボコに殴り、足で蹴り回し、唾を吐きかけ、小便をかける。独裁者が侮辱されるたびに人々は盛り上がった。歓喜の涙を流す者すらいた。

 

「富を奪い返すぞ!」

 

 新無憂宮で復讐の宴が始まった。革命戦士は貴金属や宝石を懐にねじ込み、美術品や家具や電化製品を運び出し、床の高級絨毯を剥がす。価値の無いものは全て叩き壊された。

 

「これが革命です!」

 

 女性の従軍記者は興奮を隠そうとしない。その背後に黄金製の食器を両手いっぱいに抱えた革命戦士が映る。何よりも雄弁にゴールデンバウム朝の失墜を物語る光景であった。

 

 カメラが別の場所に切り替わり、貴族の邸宅が炎上する様子を映し出した。テロップには「帝都郊外 ペクニッツ子爵邸」と書かれている。

 

「ごらんください! 貴族が民衆から搾取した富の一部です!」

 

 中年の従軍記者がペクニッツ邸から持ちだされた象牙細工の山を指差す。その周囲では革命軍兵士が「革命万歳!」と叫ぶ。

 

 前の世界で得た知識によると、ペクニッツ子爵はゴールデンバウム朝最後の皇帝カザリン・ケートヘンの父親となった人物だ。ローエングラム朝では筆頭公爵として厚遇されたが、一度も公職に就かず、ひたすら趣味に没頭した。「皇室の姻戚」という肩書きだけの凡庸な貴族が、マスコミの手にかかると、ブラウンシュヴァイク公爵に匹敵する大権力者に見える。

 

 革命戦士は貴族や金持ちの邸宅、公共機関、特権企業、文化施設を襲撃し、略奪をほしいままにした。特権階級に奪われた富を自らの手で奪い返したのだ。

 

 街角に設置されたルドルフの銅像には、監視カメラが仕込まれており、権威の象徴であると同時に国民監視体制の象徴だった。これらの銅像はことごとく壊された。

 

 帝国では全ての世帯にルドルフと現皇帝の肖像画が配布される。これらの肖像画は皇帝の分身ということになっており、こまめに手入れをしなければならない。数か月に一度、社会秩序維持局が抜き打ちチェックを行い、少しでも汚れが見つかったら不敬罪になるのだ。これらの肖像画はすべて焼き捨てられた。

 

 革命戦士と同盟軍人が抱きしめ合って勝利を喜び合う姿、花束を持って同盟軍を歓迎する帝国人の姿は、食堂にいる者すべてを感動させた。

 

 同盟市民一三〇億人は勝利に酔いしれた。あらゆる党派にとってオーディン陥落は喜ぶべき勝利であった。主戦派は自由惑星同盟の一強時代がやってきたと喜び、反戦派は平和と軍縮の時代がやってきたと喜んだ。保守派は改革の必要がなくなったと喜び、改革派は本腰を入れて改革する好機だと喜んだ。富裕層は大減税に期待し、貧困層は福祉予算の増額に期待した。

 

 テレビ局は二四時間体制でオーディン攻略特番を組み、新聞や雑誌の紙面はオーディン攻略の記事一色となり、黄金時代の到来を祝う。

 

 人々が喜んでいる間、軍人はアースガルズを駆けまわった。オーディンに通じる八航路のうち、同盟軍の制圧下にあるのは三航路に過ぎない。第一一艦隊がヴァルハラを守り、第五艦隊と第一三艦隊がアルフヘイム方面航路の制圧、第七艦隊と第一〇艦隊がヴァナヘイム方面航路の制圧、第三艦隊と第八艦隊がヨトゥンヘイム方面航路の制圧、第九艦隊が分艦隊単位に分かれてその他の航路の制圧にあたる。

 

 同盟軍の行くところ、敵部隊は一つ残らず降伏した。遠方から降伏を申し入れる部隊もあった。外は同盟軍に攻められ、内では反体制派が蜂起し、援軍も見込めない。そんな状況ではどうしようもなかったのだ。帝都陥落から四八時間で、フレイヤ星系など一〇星系を除くアースガルズ全域が解放された。

 

 三月二九日の上院選挙では、与党の国民平和会議(NPC)と進歩党が改選議席の七割を獲得する圧勝を収めた。投票二日前のオーディン攻略が決め手となった。

 

 最も議席を伸ばしたのはNPC主流派だ。オッタヴィアーニ元最高評議会議長、ネドベド国防委員長、ウィンザー法秩序委員長などラグナロック作戦の推進者が属している。ロボス元帥との親密な関係は誰もが知るところだ。こうしたことから、どの党派よりも勝利の恩恵を受けた。

 

 最も議席を減らしたのはNPCトリューニヒト派だ。改選される上院議員一四名のうち、一一名が落選した。その中には派閥最高幹部のウォルター・アイランズ議員も含まれる。NPCからの公認が得られなかったこと、主戦派の票が遠征支持のNPC主流派と統一正義党に流れたこと、ラグナロック作戦への批判票が反戦市民連合に流れたことが敗因だった。なお、アイランズ議員は次の選挙に出馬しない意向を示し、一八年の議員生活に幕を閉じた。

 

 上院選挙の翌日、遠征軍総司令官ラザール・ロボス元帥は、宇宙軍元帥から同盟総軍元帥に昇進した。同盟軍が創設されて以来、宇宙軍元帥は八六名、地上軍元帥は三五名にのぼる。一方、同盟総軍元帥になった者は、ダゴンで勝利したリン・パオ元帥とユースフ・トパロウル元帥の二名しかいない。

 

 それでも、市民はロボス元帥の功績が十分に報われていないと感じた。帝国軍を撃退しただけのリン元帥やトパロウル元帥と、帝都を攻略したロボス元帥では格が違うというのだ。特別な地位を与えるべきだとの声が高まっている。

 

 作戦参謀アンドリュー・フォーク准将はラグナロック作戦を実現させ、積極的な作戦指導で帝都攻略を成功に導いた。ロボス元帥に次ぐ功労者は、同盟軍史上最年少となる二七歳一一か月での少将昇進を果たした。

 

 最大の功労者二名の人事はすんなり決まった。だが、その他の人事が難しい。この二か月で同盟軍は二〇年分の勝利をあげた。従来の基準に照らすと、四万人が自由戦士勲章を受章し、八〇〇万人が昇進する計算になる。現実問題としてそんな人事は不可能だ。各階級の定員は人件費との兼ね合いで決まるため、むやみに昇進させるわけにはいかない。一度に何万個も自由戦士勲章を授けたら、最高勲章としての価値がなくなる。

 

 勝ちすぎて与えられる恩賞が少ないなんて、傍から見れば贅沢な悩みだろう。しかし、軍にとっては死活問題だ。働きのわりに恩賞が少なかったら、将兵がやる気をなくしかねない。

 

「人事なんか気にしてる暇もないけどな」

 

 俺は新聞のページをめくった。エルウィン=ヨーゼフ帝や帝国宰相リヒテンラーデ公爵の行方に関する記事が載っている。さまざまな推測がなされていたものの、結論は「わからない」だ。

 

 オーディンは陥落したというより放棄されたのではないか? 遠征軍の一部にはそんな意見があった。同盟軍が降下した時、数百万の大軍は姿を消していた。革命軍が新無憂宮に踏み込んだ時、皇帝や廷臣はどこにもいなかった。中央官庁や軍中枢機関のデータは完全に消えていた。

 

「まんまと逃げられましたね」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が食べかけの食パンをポケットに押し込む。

 

「さすがはローエングラム元帥だ。転んでもただじゃ起きない」

「常勝提督が出たと聞けば、誰でも本気で帝都を守るつもりだと思うでしょう。うまい目くらましでした」

「逃げるつもりだとわかってたら、ヨトゥンヘイム方面を封鎖したのにな」

「ローエングラム元帥と皇帝が別々に逃げた可能性もありますよ」

「ああ、そうか。レンテンベルクにはリッテンハイム公爵がいる」

 

 ヴァルハラ会戦に参加しなかった帝国正規軍四万隻のうち、リッテンハイム公爵の二万隻の行方はすぐにわかった。レンテンベルク要塞で守りを固めていたのだ。

 

「レンテンベルクで皇帝を迎える準備をしていたのかもしれませんね」

「だとすると、アルフヘイム方面を封鎖した方が良かったか」

「どうでしょう? レンテンベルクのリッテンハイム公爵が囮で、皇帝はローエングラム元帥と一緒に逃げるなんてことも考えられます」

「何を言っても後知恵になるね。二方面を同時に封鎖する兵力なんて、同盟軍にはなかったし」

「そこまで敵は読んでいたんでしょう」

「大した敵だよ」

 

 俺は苦笑いした。誰の策略かは知らないが、ここまで周到に仕掛けられてはどうしようもない。

 

「当分の間、宇宙は動きません。動けないといった方が正解でしょうか」

 

 リッテンハイム公爵、ブラウンシュヴァイク公爵、ラインハルトはヴァルハラ会戦で疲弊した。帝国側に残された六総管区では、帝国軍と反体制派が激戦を繰り広げる。どの陣営も足元を固めるまでは動けないだろう。

 

 同盟軍はアースガルズを平定したところで停止した。オーディンを攻略する時期が一か月も早まったため、予備役の動員が間に合っていない。当面は正規艦隊と地上軍が解放区警備を担当する。

 

「しばらくは地上に専念しようか」

 

 俺は司令室のスクリーンを見た。衛星軌道上に展開する艦艇の群が映る。これから第一一艦隊はオーディンに降下するのだ。

 

 

 

 第三六機動部隊が駐留するハールバルズ市は、オーディン西大陸北部の港湾都市だ。人口は二〇三万人。造船業や水運業が発達している。銀河連邦時代からの軍港でもあり、先月までは北ミーミル海水上艦隊、第一九水上航空団、ハールバルズ水上軍術科学校などが配置されていた。典型的な古都である。

 

「ハールバルズ革命軍の皆さん! 私たちは皆さんを援助するためにやってきました! 共に戦いましょう!」

 

 宣撫士官ラクスマン中尉は情熱的に語りかけた。

 

「共和主義万歳!」

「平等万歳!」

「自由惑星同盟万歳!」

 

 群衆は拍手と歓呼をもって応える。銃を持っていない者は一人もいない。ハールバルズの街すべてが革命戦士になったかのようだ。

 

「民主主義の勝利です」

 

 作戦参謀メッサースミス大尉が満足そうに笑う。

 

「喜ぶのはまだ早いよ。しくじったら、あの銃口がすべてこちらに向けられるんだからね」

 

 俺はやんわりと釘を刺す。

 

「そんなものですか」

 

 メッサースミス大尉は納得いかないらしい。大多数の同盟市民と同じように、民主主義の優越を信じているからだろう。

 

 俺は幕僚と陸戦隊一個小隊を連れて、革命戦士が占拠するハールバルズ市政庁ビルに入った。壁は焼け焦げており、割れていない窓ガラスは一つもなく、ドアはことごとく壊されていた。どの部屋も当然のように空っぽだ。

 

 パーカーやジャージをだらしなく着崩した男が大勢たむろしている。こちらをジロジロと見る者もいれば、何かを漁っているような者もおり、とても感じが悪い。味方だとわかっていても引いてしまう。

 

「おう! そこのでっけえ姉ちゃん! 背とおっぱいがでっけえ姉ちゃん! 一緒に遊ぼうや!」

 

 下品な野次に部下が反応した。イレーシュ副参謀長は殺気を込めて睨み、コレット大尉は不安そうに体をすくめ、ドールトン艦長はへらへら笑いながら手を振る。

 

 俺はチュン・ウー・チェン参謀長、イレーシュ副参謀長、コレット大尉、メッサースミス大尉だけを連れて市長室へと入った。

 

「我々がハールバルズ革命軍の代表です」

 

 五人の男性が帝国式の敬礼をする。みんな上質のスーツをスマートに着こなしていた。見るからにエリートといった感じで、ガラの悪い革命戦士とは毛色が違う。

 

「あなたが解放軍の司令官でしょうか?」

 

 薄毛の中年男性が声をかけたのは、俺でもなければ、最年長者のチュン・ウー・チェン参謀長や威厳たっぷりのイレーシュ副参謀長でもなく、メッサースミス大尉だった。

 

「いえ、違います。司令官はこの方です」

 

 メッサースミス大尉が俺を指す。

 

「こ、この方がですか……」

 

 薄毛の中年男性が唖然とした顔になった。他の四人は小声でぼそぼそと話し合う。「新兵」「従卒」といった単語が聞こえたような気もするが、気のせいだろう。

 

「同盟宇宙軍准将エリヤ・フィリップスです」

 

 よそ行きの笑顔で敬礼した。

 

「私はマックス・アイヒンガーと申します。大学で教育学を教えております」

 

 髪の薄い中年男性が自己紹介をすると、他の者もそれに続く。スマートな壮年男性は弁護士のカール・ノイベルク、黒縁メガネの小柄な中年男性は内科医のリヒャルト・キッテル、目付きが悪い中年男性は建築家のエゴン・ホドラー、中性的で美しい青年男性は新聞記者のマティアス・ハルシュタインと名乗った。革命戦士にはリーダーがいないため、インテリの彼らが交渉役になったらしい。

 

「ごらんください。我々が作ったオーディン民主化計画です」

 

 アイヒンガー氏が分厚いノートを差し出す。

 

「これは……」

 

 俺は絶句した。序言に「民主共和政治とは何か? それは能力ある者による善政である」と記されていたのだ。民主主義を全然理解していないと自白したに等しい。

 

 次のページを開いた途端、「優等人種と劣等人種の定義を改める。今後は努力した者が優等人種だ」という一文が目に入り、ノートを閉じたい衝動に駆られた。しかし、代表たちの面子を潰すわけにはいかない。不快感をこらえつつ読み進める。

 

「肌の黄色い者と黒い者は怠け者だ。劣等人種だ」

「高校を出なかった者は怠け者だ。劣等人種だ」

「門閥貴族の血は怠け者の血だ。四親等以内は劣等人種だ」

「同性愛者は遺伝病だ。四親等以内は劣等人種だ」

「優等人種を平民、劣等人種を奴隷とする」

「身分制は完全に廃止する。奴隷でない者はすべて平等だ」

「貴族は財産を没収して奴隷にする」

「無能な役人は財産を没収して奴隷にする」

「薄めたビールを売った酒屋は無能者だ。財産を没収して奴隷にする」

「貴族と無能者から没収した財産は、有能な者に分け与える」

「平民を苦しめた貴族と役人は死刑」

「すべての公職を一五歳以上の優等人種男性による完全自由選挙で選ぶ」

「ルドルフの銅像をすべて撤去し、代わりにハイネセンの銅像を建てる」

「すべての家庭にハイネセンの肖像画とハイネセン語録を常備させる」

「新無憂宮を革命記念館にしよう」

 

 分厚いノートはルドルフ的な選民意識で埋め尽くされていた。アイヒンガー氏がメッサースミス大尉に声をかけた本当の理由がわかり、心底から気分が悪くなった。

 

 普通に考えたら、チュン・ウー・チェン参謀長かイレーシュ副参謀長のどちらかが司令官に見えるはずだ。若いが百戦錬磨の雰囲気が漂うコレット大尉でもおかしくない。しかし、アイヒンガー氏のルドルフ的な価値観では、肌が黄色いチュン・ウー・チェン参謀長は劣等人種であり、女性であるイレーシュ副参謀長やコレット大尉は男性より劣る。ゲルマン的風貌を持つメッサースミス大尉が一番偉く見えたのではないか。

 

「どうです?」

 

 アイヒンガー氏と他の四人が期待の眼差しを向けてくる。

 

「なかなか刺激的な内容でした」

 

 俺はポケットからハンカチを取り出し、出てもいない汗を拭く。

 

「そうでしょう! 帝国広しといえども民主主義を理解しているのは我々だけです!」

 

 アイヒンガー氏が胸を張る。それと同時に外から「革命万歳! 民主主義万歳!」の叫び声が聞こえた。

 

「今の叫びを聞きましたか? ハールバルズの民衆は民主主義を望んでいます! 今すぐ選挙をしましょう!」

「もう少し待ってください。選挙には準備が必要ですので」

「住民を集めて投票するだけではないですか。二時間もあれば終わるのでは」

「そんなに簡単にはいきません。まずは――」

 

 俺は選挙を実施する際の手続きを説明した。選挙関連法規の整備、選挙管理機関の設立、有権者名簿の作成、選挙区割りなどを行う。それから投票日を決めて候補者を募る。公示から数週間を選挙運動に費やす。投票は最後の最後に行うものなのだ。

 

「オーディンの場合はさらに手間がかかります。憲法を作るところから始めないといけません。誰が有権者なのか? 議会にはどんな権限があるのか? 議員とはどんな地位なのか? 行政府の長をどうやって選ぶのか? そういったことを憲法で定義するのです」

 

 話が進むにつれて代表たちはどんどんしおれていく。再び外から「革命万歳! 民主主義万歳!」と叫ぶ声がする。

 

 彼らは民主主義をなんだと思っているのだろうか? 貴族支配へのアンチテーゼでしかないのだろうか? 帝国では五世紀以上もルドルフ主義教育が続いてきた。民主主義が曲解されるのは仕方ないのかもしれない。人権というものが存在しなかった国で、人種差別、女性差別、奴隷制が前提になるのは仕方ないのかもしれない。しかし……。

 

 違和感を振り払った。目の前の相手は違う価値観の中で生きてきた。理解できないのは当たり前ではないか。今は理解できなくともこれから理解すればいい。俺はあのドーソン中将と付き合ってきた。彼らともきっと付き合える。

 

「民主主義建設の道は始まったばかりです。一緒に作っていきましょう」

 

 俺は精一杯の笑顔を作り、五人と固く握手を交わす。

 

「よろしくお願いします!」

 

 五人の目はきらきらと輝いていた。同盟市民がとっくの昔に失った民主主義への情熱が彼らの中にはあった。

 

 ハールバルズ市政庁を出た時、部下たちは失望のどん底にあった。選民意識が貴族の占有物でないと知らされたからだ。

 

「この国の共和主義者ってあの程度なんですかね」

 

 メッサースミス大尉がうんざりした顔で言った。

 

「仕方ないだろう。ずっとルドルフ主義でやってきたんだから」

「あんな目で見られてると思うと、不快でたまりません」

「君の気持ちはわかる。とても良くわかる。わかるけどな」

 

 若い部下ではなくて自分自身に言い聞かせる。

 

「彼らはルドルフ主義でやってきた。ああいう価値観しか知らないんだ。ある意味ではルドルフの被害者だ。幸いにも彼らは民主主義に興味を持ってくれた。いずれ人権や平等の概念を理解する時も来る。無知を嘆くよりは熱意を大切にしたい」

 

 俺が口にしたのはきれいごとだった。しかし、無知な俺を見捨てなかった人のおかげで今日がある。ならば、俺も同じようにするのが筋だ。

 

「グリーンヒル閣下がおっしゃったことを思い出しました。『短所を嘆くよりは長所を大切にした方がいい。一〇人に一人でも立派になってくれたら十分だ』と」

「そういう人なのか。知らなかった」

「自分も長い目で付き合うことにします。グリーンヒル閣下でもそうなさるでしょうから」

「お互い頑張ろうな」

「はい!」

 

 メッサースミス大尉が勢いよく返事をする。グリーンヒル大将が彼を俺のところによこしてくれた理由が、少しだけ理解できたような気がした。

 

 傍らではコレット大尉がメモをとっていた。俺の言葉を記録してるのだろう。見た目は色っぽいお姉さんといった感じなのに、性格は子供のように素直だ。あまりに素直すぎて怖くなることもある。

 

「熱意があるだけ良しとするか」

 

 誰にも聞こえないように呟く。コレット大尉は少し変だけどいい副官になった。あの五人もいい民主主義者になるかもしれない。人を見捨てないのが俺の流儀なのだ。

 

 俺たちは数台の歩兵戦闘車に分乗すると、ハールバルズの視察に出掛けた。任務に取り掛かる前に自分の目で見ておきたい。

 

 ハールバルズの中心街は、古いというより貧相といった方が適切だろう。薄汚れたビルが立ち並び、西暦時代からタイムスリップしてきたような車が走り、地味で古臭い服を着た人々が歩く。宇宙暦七九〇年代末の二〇〇万都市には見えなかった。

 

「懐かしいなあ。故郷を思い出すよ」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長は心の底から懐かしそうだ。ちなみに彼の故郷というのは、「水田と山しかない田舎」だそうだ。

 

「それにしても、勲章つけてる年寄りがやけに多いな。どういうことだ」

 

 俺はきょろきょろとあたりを見回す。同盟の市街地と比べると、老人が通行人に占める割合は恐ろしく低い。数少ない老人はみんな勲章を着用している。

 

「不思議ですね」

「参謀長にもわからないか」

「見当がつきません」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長以外の部下にも聞いてみたが、誰も理由を知らなかった。

 

「情報部長に聞くか」

 

 俺は携帯端末を取り出し、司令部で留守番中のベッカー情報部長に質問する。

 

「あれはお守りですよ」

「お守り?」

「ええ、帝国では老人は役立たずとして差別されます。いきなり殴られても文句は言えません。だから、勲章をつけて国家の功労者だとアピールするんです」

「そんな話、初めて聞いたぞ」

「私ら帝国人にとっては常識中の常識ですからね。あえて話すことでもありません」

「なるほどなあ」

 

 当たり前すぎて話す価値もない。そう思えるほどにルドルフ流の適者生存思想が帝国社会に浸透しているということか。

 

「亡命して間もない頃は、老人や障害者が堂々と歩いてるのに驚いたもんです。慣れるまで結構かかりました」

「障害者も殴られるのか?」

「ルドルフ大帝以来、『支配者に奉仕できない者は人間じゃない』というのが国是ですので」

「ひどい話だな」

「あなた方はブラウンシュヴァイクの件で仰天してますがね。あれは同盟で言うと、せいぜいドゥネーヴあたりのポジションですよ」

 

 ベッカー情報部長が例えに出したドゥネーヴ議員は、同盟政界では「中道右派の中の一番右」に位置する。つまりブラウンシュヴァイク公爵は帝国人から見ると極右ではない。

 

 それにしても、帝国基準でトリューニヒト議長や統一正義党のポジションにいる連中は、どれだけ狂ってるのだろうか? 想像したくもなかった。

 

 郊外に出ると、コンクリートの棺桶のような集合住宅、小屋のような一戸建てが目に付いた。どの建物も古くて薄汚れている。道路にはひびが入り、街路樹は枯れ果て、信号柱や街灯柱は錆びていた。環境整備に金を掛けていないのは一目瞭然だ。

 

「スラムじゃないですよね……?」

 

 コレット大尉が困ったような顔であたりを見回す。

 

「中流階級専用地区だってさ」

 

 俺はパンフレットを見ながら答える。同盟人の基準ではスラム以外の何物でもないのだが、パンフレットに「中流階級専用地区」と書いてある以上はそうなのだろう。

 

 貧困層の居住区は街全体が廃墟のようだ。道路の両側には崩れかけた廃ビルが軒を連ねる。空き地には掘っ立て小屋がひしめく。一面にすえた臭いが漂い、道端にはゴミが散らばり、汚水溜まりがあちこちに散在する。

 

「…………」

 

 全員が無言で顔を見合わせた。俺は前の世界で過ごしたゼンラナウ矯正区を思い出したが、もちろん口には出さない。

 

 ハールバルズ天然ガス発電所は古いなんてものではなかった。あまりに古すぎて運転開始日がわからないのだ。宇宙暦一一五年から宇宙暦一五〇年の間と言われるが、いずれにせよ銀河連邦中期に運転開始したのだけは確かだ。

 

「これ、うちの国だったら文化遺産だよねえ」

 

 イレーシュ副参謀長は完全に引いている。

 

「私たちが通ってきた高速道路は、『ジギスムント一世恩賜地上車道』って名前だ」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が追い打ちをかけると、イレーシュ副参謀長は呆れ顔になった。

 

「ジギスムント一世って言ったら四世紀前の皇帝じゃん」

「皇帝陛下はインフラの更新に興味が無いのさ」

「うちの国が『インフラが劣化してる』なんて言ったら、バチが当たるね」

 

 ハールバルズにはそもそも現代的なインフラが存在しなかった。民生は軽視されているのではなく無視されている。帝国が同盟の一・二倍の経済力で、二倍の軍隊と二・五倍の警察を維持できる理由がよくわかった。

 

 貴族や富裕平民が住む地区は混乱していた。革命戦士が豪邸から金目の物を運び出し、車の荷台に積み上げる。火を放たれた豪邸も少なくない。やたらと広い歩道では、革命戦士が身なりの良い男女を取り囲み、殴る蹴るの暴行を加えたり、持ち物を脅し取ったり、土下座を強要したりする光景が見られた。

 

「恨まれてもしょうがないよねえ。庶民に貧乏させといて、自分たちだけはでっかい家に住んでるんだからさ」

 

 イレーシュ副参謀長はやりきれない表情でため息をつく。

 

「因果応報です」

 

 温厚なチュン・ウー・チェン参謀長ですら、革命戦士の略奪や暴行を批判しない。

 

「ほっといていいな。上からは介入しないように言われてるし」

 

 俺は上からの指示を強調する。リンチは好きじゃないが、解放軍としての立場を優先した。同盟軍は被支配階級を解放するためにやってきた。奪われた者が奪い返すための戦いを妨げるわけにはいかないのだ。

 

 オーディンの各都市で革命戦士が支配階級を襲い、略奪の限りを尽くした。同盟市民は拍手喝采を送り、総司令部は「復讐は彼らに与えられた正当な権利だ。妨げてはならない」と通達した。

 

 ラグナロック作戦が始まって以降、同盟市民は帝国統治の実態を知った。帝国領の極端な貧富格差、制度化された人権侵害、遅れた文化水準は同じ宇宙と思えないほどだった。

 

 特に人々を驚かせたのが非ゲルマン系住民が住む自治領の実態だ。数ある自治領レポートの中でも、保守系新聞「リパブリック・ポスト」紙のメッカーン自治領に関する記事が大きな反響を生んだ。

 

 メッカーン自治領は砂漠惑星メッカーンにある。国土の大部分を砂漠が占め、黄色い肌を持つ一〇〇〇万人の住民は集狭いオアシスに住んでいる。帝国暦三八年に発足した時は、二億人が三〇以上のオアシスに住んでいた。しかし、地下水の枯渇によってオアシスが次々と消滅し、飢えや疫病や内戦で人口が激減した。四世紀の間に減った人口は一億九〇〇〇万人にのぼる。

 

 住民の貧しさは想像を絶する水準だ。唯一の産業は鉱山惑星や農業惑星への出稼ぎ。住民の九割以上が一日二帝国マルク以下のお金で暮らす、飢餓と疫病は年中行事であり、一〇年に一度は水争いが内戦に発展する。医師が極端に少なく、薬を買う金もないため、病気にかかった人は呪術師の祈祷に頼る。住民の平均身長は同盟人より一〇センチほど低い。平均寿命は四〇年前後だ。自治領では義務教育制度が存在せず、読み書きできる者は一〇人に一人しかいない。

 

 星都リーベンヴェルダは、俺が前の世界で収容されたゼンラナウ矯正区をほうふつとさせる。道端にはゴミや糞尿が山を作り、水は井戸から運び、電気は個人レベルで所有する年代物の発電機で調達する。

 

 この記事によると、メッカーンは平均的な自治領だそうだ。さらに自然環境の厳しい自治領、さらに貧しい自治領、さらに治安の悪い自治領がいくらでもあるらしい。

 

 銀河連邦がルドルフに簒奪された時、銀河には三〇〇〇億人が住んでいた。その半数が姓が名の前に来ることと黄色い肌が特徴的なイースタン系だった。ゲルマン系人口はほんの三〇億人に過ぎなかった。

 

 帝国暦九年、ルドルフは「人類を繁栄させるには、劣った遺伝子を排除しなければならない」と言って、劣等遺伝子排除法を制定する。当初は先天的障害者や遺伝病患者が対象であったが、次第に対象が拡大していった。

 

 健康な国民の中で、ゲルマン系の特徴を色濃く持つ者が「優等人種」、そうでない者が「劣等人種」とされた。具体的には、ゲルマン系コーカソイドらしい特徴を持つ者はゲルマン系認定を受け、優等人種となった。そして、モンゴロイド・ネグロイド・非ゲルマン系コーカソイドらしい特徴を持つ者が、劣等人種のレッテルを貼られたのである。

 

 劣等人種のうち、奴隷に落とされなかった者は平民となり、自治を認められた。表向きはルドルフが非ゲルマン系に譲歩し、ゲルマン系居住区より広汎な自治権を認めた形だ。しかし、実際には自治権以外の何物も与えられなかった。自治領民は食料を自給できない惑星に押し込められ、交易や移住を厳しく制限され、「自治だから」との理由で財政支援の対象から外される。自治領経済はあっという間に破綻し、飢餓と疫病と内戦が自治領を覆い尽した。

 

 五世紀近い年月の間に、ゲルマン系は三〇億から一二〇億まで増え、非ゲルマン系は二九七〇億から一二〇億まで減った。混乱に紛れて自立した外縁星系の住民、同盟に亡命した者を差し引いても、二八〇〇億から二九〇〇億の非ゲルマン系が死んだことになる。

 

 こうした悲劇を同盟市民は知識として知っていた。対帝国戦争初期、同盟軍はたびたび帝国本土に攻め込み、自治領民数十億人を「亡命」の名目で連れ帰ったという歴史もある。しかし、文字と映像では説得力が格段に違う。

 

 もはや身分制は存在自体が罪悪だった。同盟市民と帝国反体制派は、身分制を完全撤廃するよう求めた。

 

 解放区民主化支援機構(LDSO)のロブ・コーマック代表は、「三つの民主化」という方針を掲げた。すなわち、政治の民主化・経済の民主化・行政の民主化である。そして、経済の民主化を最優先した。

 

「健全な経済なくして健全な政治は成り立たない。不健全な経済とは特権階級が支配する不公平な経済であり、健全な経済とは自由で平等な経済だ。貧困から解放された時こそ、解放区が真の意味で解放区となるだろう」

 

 身分制こそが貧困の根本要因だと、コーマック代表は考えた。貴族は政治的支配者であると同時に、経済的支配者でもある。平民は貴族が経営する企業で給料をもらい、貴族が経営する店で物を買い、貴族が経営する銀行に金を預け、貴族が所有する借家に住む。これでは逆らいたくても逆らえない。

 

 全銀河亡命者会議のカラム・ラシュワン代表は、「被支配階級の声を聞け。被支配階級に寄り添え。支配階級から奪い、被支配階級に与えよ」と説く。前の世界でラインハルトが実施した解放政策に通じる理論だ。

 

 亡命貴族や亡命知識人からなるLDSO顧問団は、コーマック代表やラシュワン代表の方針を批判した。「支配階級の経済力と武力は必要だ。既得権を認めて取り込むべきだ」と彼らは言う。

 

 これに対し、ラシュワン代表は「支配階級は二パーセント、被支配階級は九八パーセントだ。耕すのは九八パーセントだ。武器を取るのは九八パーセントだ。二パーセントは座って命令するだけだ。本当に経済力と武力を持っているのは誰か? 九八パーセントだ」と応じる。

 

 LDSO顧問団が「貴族や高級軍人が降伏しなくなるぞ」と言うと、ラシュワン代表は「戦うのは兵士だ。兵士なき貴族は無力だ」と返す。

 

 両者の違いを生んだのは出自の違いだろう。LDSO顧問団のメンバーは支配階級に属する。平民であっても、政府高官や企業幹部を輩出する「フォンが付かない貴族」の生まれだ。ラシュワン代表は亡命知識人としては珍しい奴隷出身者で、亡命後に学問を習得した苦労人である。

 

 論争と言うにはあまりにも一方的だった。コーマック代表には最終決定権と政府首脳の支持、ラシュワン代表には大衆人気があり、LDSO顧問団には助言権以外に何もなかったからだ。

 

 四月八日、コーマック代表はLDSO布告第一号「平等に関する布告」を発布し、劣性遺伝子排除法、帝国臣民身分法など差別を規定する帝国法をすべて無効とした。解放区住民の権利は同盟憲章及び同盟法によって保障される。貴族と平民と奴隷、男性と女性、健常者と障害者、異性愛者と同性愛者、ゲルマン系と非ゲルマン系は平等になったのだ。

 

 四月九日、LDSO布告第二号「反民主的組織に関する布告」により、「反民主的組織」に認定された帝国宇宙軍、帝国地上軍、帝国警察、内務省社会秩序維持局、国務省教育局、帝国防衛委員会、オーディン教団など五九組織に解散命令を出した。

 

 四月一〇日、LDSO布告第三号「民衆弾圧者に関する布告」により、貴族、反民主的組織の幹部職員、その他の民衆弾圧者が公職から追放された。

 

 これらの布告は実質的には解放区の中でしか通用しない。しかし、解放区の外を揺さぶる効果は大きいだろう。連戦連勝の同盟軍が「貴族に従う必要はない」と宣言したのだから。

 

 今後は改革を実務レベルでどれだけ進められるかが問題だ。多くの論者が「平民は同盟を疑っている」と指摘する。解放区住民の大半は消極的な同盟軍支持者である。積極的支持に踏み切れないのは、同盟軍が本当に解放者なのかどうかを計りかねてるからだと言われる。

 

「革命万歳!」

 

 司令部の外からそんな叫びが聞こえた。窓ガラスの向こう側では、ダボッとしたジャージやフード付きパーカーを着た革命戦士数十人が大通りをのし歩く。平民の時代が到来したことを告げる光景だった。




本話終了時点勢力図

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第60話:オーディンの春 798年4月中旬~5月上旬 ハールバルズ市~ファルストロング事務所~オーディン

 四月中旬、ヴァルハラ星系に現地人からなる「ヴァルハラ星系臨時政府」が設立された。臨時政府は同盟加盟星系の政府に匹敵する権限を持ち、選挙が行われるまでの統治機関となる。ヴァルハラの各惑星、各州、各都市でも臨時政府が発足した。二週間での民政移管には、現地人こそが主権者であり、同盟は協力者だと印象づける狙いがある。

 

 第三六機動部隊が駐留するハールバルズ市では、革命軍と民主派人士からなる臨時市政府が誕生した。

 

「フィリップス司令官! 新しいプランを作りました!」

「読ませていただいてよろしいですか?」

「どうぞどうぞ!」

 

 アイヒンガー臨時市長はノートを見せてくれた。なんと、市内一一五か所の地名変更プランだった。「エーリッヒ二世通り」を「グエン・キム・ホア通り」に変えるといったふうに、帝政にちなんだ地名を民主主義にちなんだ名前に変えるものだ。

 

「素晴らしいプランですね」

「民主的な街は民主的な名前を持たねばなりません!」

「おっしゃるとおりです。ところで交通警察の件ですが」

 

 俺は改名の話を受け流すと、臨時市長のデスクに書類を積み上げた。こうでもしないと話が進まない。

 

「数が多すぎやしませんか? 交通警察なんて賄賂を取るのが仕事でしょうに」

「この三倍でも少ないぐらいです。交通規則を破る者が後を絶ちません。市内では信号が機能しなくなっているため、警官が街頭に立って交通整理をする必要もあります」

「そんなものですか」

 

 アイヒンガー臨時市長はつまらなさそうに答えた。行政にまったく興味が無いのだ。

 

「コーマック代表がおっしゃったように、健全な経済なくして健全な政治は成り立ちません。そして、健在な経済を支えるのは円滑な交通です。なぜかと申しますと――」

 

 図表やグラフを使い、交通警察の必要性を説明する。交通警官を父に持ち、憲兵隊に勤めた経験のある俺は、交通には人一倍うるさい。

 

「司令官は何でもご存知なんですなあ。さすがは同盟のトップエリートだ。貴族なんぞとはものが違います」

「勉強したことしか知りません」

 

 俺は謙遜するふりをして相手の不勉強を皮肉る。

 

「私ももっと勉強しますよ!」

 

 アイヒンガー臨時市長が本棚を指さす。そこにはLDSOから贈られた民主主義の本がぎっしり詰まっている。今のところは改名プランのネタ元にしかなっていないようだが。

 

「期待しています。あなたが最初の民主的指導者なのですから」

「ハールバルズを徹底的に民主化してみせます!」

 

 明らかに民主化の意味が分かってない。アイヒンガー臨時市長は悪い人ではない。しかし、何かが致命的にずれている。

 

 臨時市政府を構成する人々のうち、革命戦士とはゴロツキであり、民主的人士とは帰国した亡命者、反体制活動家、進歩派知識人など親同盟的な分子である。旧体制で行政の要職を経験した人物は一人もいない。イデオロギー基準の人事だった。

 

 実務能力を基準に選んだ場合、貴族や富裕平民など旧支配階級を登用することになる。せっかく革命を起こしたのに、旧支配階級が上層部に居座ったままでは、平民は納得しないだろう。信頼を得るには、実務能力よりイデオロギーを重視せざるを得ない。

 

 LDSOの事情は理解できる。理解できるけれども、言葉遊びにしか興味が無い人と一緒に働くのは辛かった。

 

 市長室を出ると、安っぽいスーツ姿の男たちが立ち話をしたり、タバコを吸ったり、コーヒーを飲んだりしているのが見えた。彼らはみんなハールバルズ市の職員だ。この臨時市庁舎には端末やデスクが揃っていないため、出勤してきても仕事ができない。それでも、皆勤手当欲しさに出勤してくる。

 

 ハールバルズの公共機関は略奪しつくされた。端末や電子機器はもちろん、机や椅子や書類棚まで持ちだされ、通風管やケーブルまでが引っこ抜かれてしまった。残ったのは壁と床だけだ。放火されて建物そのものが無くなったケースもある。パトカー、救急車、消防車、清掃車なども奪われた。接収したビルに臨時庁舎を設けたものの、設備がなければ仕事にならない。あらゆる公共サービスが停滞した。

 

 LDSOのハールバルズ事務所は、市政の民主化を支援するための機関であって、二〇〇万都市の公共サービスを肩代わりする能力はない。

 

 第三六機動部隊は人員にも資材にも恵まれていた。しかし、オーディン駐留軍が「占領地の治安要員は人口一〇〇〇人あたり五人」というスペース・レギュレーション戦略の基準に合わせて改編されたため、管轄地域が六倍に広がった。それに加えて、降伏兵二〇万人を同盟軍に編入する仕事まで舞い込んできた。

 

 新たに担当することとなった地域もハールバルズと大して変わらない。臨時市政府は無能で、公共機関はことごとく略奪された。陸戦隊三個師団が臨時配属されたものの、本来の業務である治安維持に加え、行政支援や編入作業までこなすには人手が足りない。

 

 さらに言うと、第三六機動部隊の隊員はもともと軍艦乗りである。宇宙空間で軍艦を乗り回す訓練は受けていても、都市の治安を維持する訓練なんて受けていない。行政に関しては、軍艦乗りも陸戦隊員もみんな素人だ。

 

 帝国語を使える人材が少ないのが地味に痛かった。同盟軍人の中で帝国語をネイティブスピーカー並みに使えるのは、士官学校卒業者、帝国からの亡命者、フェザーン系移民、特殊部隊経験者に限られる。幹部候補生出身士官は、前の人生で帝国語を学んだ俺のような変わり種を除けば、日常会話程度しかできない。

 

 現地人の中には、黄色い肌の隊員や黒い肌の隊員を嫌う者、女性隊員が対応すると「舐めてるのか」と怒る者がいる。臨時政府の「民主的人士」の中にも、「奴隷(黄色い肌や黒い肌を持つ者)や女とは話したくない」と公言する者が少なくない。こうした偏見が同盟軍と現地人の軋轢を産んだ。

 

 こうした状況はオーディン全土で見られた。食糧や燃料が不足しており、停電や断水が頻繁に発生し、行政組織は崩壊状態で、ギャングや窃盗団が徒党を組んで暴れ回っている。これらの問題の多くは物量の問題だ。本国からの支援が到着すれば解決すると思われた。

 

 しかし、革命戦士の暴力だけは解決策が見いだせない。他の問題は物量の問題に過ぎないが、この問題は政治的な問題だったからだ。

 

 オーディンが解放された後、革命戦士は復讐の刃を振るった。貴族や富裕平民に暴行を加え、豪邸から金目の物を奪い取り、官庁や特権企業を破壊した。かつての支配者の惨めな姿は、同盟市民と解放区平民を大いに喜ばせた。

 

 眉がひそめる者がいなかったわけではない。その筆頭が「同盟政府の良心」と称されるジョアン・レベロ財政委員長である。

 

「オーディンで深刻な事態が起きている。憲章精神が復讐の名のもとに踏みにじられている。

 

 同盟憲章第一条、人間の尊厳は不可侵である。

 同盟憲章第二条、すべての人間は生命及び身体を害されない権利を有する。

 同盟憲章第三条、すべての人間は法の前に平等である。すべての人間は性別、血統、出身地、身分、信仰、信条による差別や優遇を受けてはならない。

 

 この大原則があるがゆえに、あらゆる自由と権利が保障される。人間はすべて不可侵の人権を有すると同時に、他者の人権を尊重する義務を負う。ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムのような大罪人であっても、人権は尊重されるべきだ。罪を裁くのは法廷であって暴力ではない。圧政の罪は法によって裁かれるものではないか。

 

 平民が貴族を殴るのを見て、気が晴れない者はいないだろう。だが、そんなものは一時の気晴らしだ。不朽の大原則を破った事実は、未来永劫消えない傷を残す。

 

 暴力を止めよ。殴られた者を保護せよ。我々は復讐者ではなく解放者なのだ。同盟憲章の精神に立ち返るのだ」

 

 レベロ委員長は革命戦士を厳しく批判した。放任政策を主導するコーマックやラシュワンとは、公的には良識派の同志であり、私的には友人であったが、それでも手加減はしない。良識派の名に恥じない態度と言えよう。しかし、あまりにも世論と乖離していた。

 

 数えきれないほどの革命戦士擁護者の中で、コーネリア・ウィンザー法秩序委員長が最も支持された。

 

「人間は生まれながらにして自由を持っています。束縛されない自由です。圧政から解放されたばかりの同胞を止める権利は、誰にもありません。貴族たちは殴られて物を取られるだけで罪を償えるのです。結構なことではありませんか。私たちの先祖には、殺されるか奴隷になるかの選択しかなかったのに!」

 

 市民は「よくぞ言ってくれた!」と喜んだ。評価を高めたウィンザー委員長は、第四次ボナール政権では国防委員長に抜擢された。

 

 革命戦士の暴力は平民にも向けられるようになった。通行人に因縁をつけて殴り、車を停めては「罰金だ」と言って金をゆすり、「家宅捜索だ」と言って民家や商店に押し入っては金目の物を持ち去る。これでは犯罪者も同然だ。

 

 やがて革命戦士に便乗する犯罪者が現れた。強盗や恐喝をはたらいたとしても、革命戦士を名乗るだけで無罪になるのだ。利用しない手はない。

 

 オーディン駐留軍はジレンマに陥った。革命戦士の人気は凄まじい。LDSOやマスコミ各社の世論調査によると、オーディン住民ですら九五パーセントが支持しているという。「数字が操作されているのではないか」と疑う駐留軍幹部もいたが、独自で世論調査を行っても、結果は変わらない。平民の心を掴むには放置した方がいいのだろう。しかし、無法状態が続けばオーディン経済は崩壊する。

 

 他の惑星ではこのような状況は起きていない。反体制派組織が統治者に取って代わったり、支配階級が同盟に寝返ったりしたため、秩序の空白が生じなかった。

 

「よそを羨んでもしょうがないな。頑張って考えよう」

 

 俺は亡命者カラム・ラシュワンの著書『沈黙は罪である』を開いた。帝国政策に関わる者にとって必読の一冊である。

 

「帝国支配の本質は何か? それは柔らかい支配だ。心を縛る支配だ」

「ルドルフは言った。生存競争が世界の本質だ。貴族は貴族同士で競争せよ。平民は平民同士で競争せよ。奴隷は奴隷同士で競争せよ。勝敗を決めるのは支配者だ。競争に負けたら死ね」

「人々は生きるために争った。他者は同胞ではない。敵だ。生き残りを賭けて戦う敵だ。支配者が喜ぶことをした。同胞を蹴落とした。勝者を羨望した。敗者を差別した。かくして人々は分断された。分断された人々を支配するのはたやすい」

「社会には横の糸と縦の糸がある。横の糸とは対等な関係だ。縦の糸とは上下関係だ。帝国にあるのは縦の糸だけだ。支配階級と被支配階級、強者と弱者の間にある支配関係だ。横の糸は最初からない。圧倒的多数は分断された。それゆえに圧倒的少数に支配される」

「軍隊を壊滅させる。それは無意味だ。なぜ無意味か? 軍隊は実質ではないからだ。実質はどこにあるか? それは価値観だ。価値観ゆえに人々は忠誠を誓う。忠誠の力が軍隊を再建させる。何度でも再建させる。軍隊を壊滅させる。それは無意味だ」

「帝国を滅ぼす方法は何か? 人々の心を解放することだ。ルドルフの価値観を否定せよ。支配者を否定せよ。人々を自由にせよ。人々を平等にせよ。人々を結束させよ」

 

 何度読んでもラシュワンの文章には心を揺さぶられる。これまでの亡命知識人は、被支配階級を意思なき奴隷か純粋無垢な被害者とみなした。被支配階級の内面に目を向けるアプローチは画期的だ。

 

 しかし、何度読んでもヒントは得られない。そもそも革命戦士を野放しにしてるのはラシュワンなのだ。

 

「参謀長、いい策はないか?」

 

 俺はチュン・ウー・チェン参謀長に問いかけた。

 

「お手上げです。戦略戦術でどうにかなる問題ではありませんので」

「どうにかならないものかな」

「やはり、ここはプロに頼るのが良いかと」

「LDSOかい? あんなのあてになるもんか」

 

 俺は苦々しさを込めて言った。LDSOは革命戦士については完全放任だ。

 

「スタッフではなくて顧問です」

「顧問団か? あれは山師の集まりじゃないか。ゴールデンバウムの皇族を立てて、立憲君主国を作るとか言ってるんだろ?」

「顧問団の一人が二〇〇キロ離れた場所に事務所を構えています」

「地方に出てるのか? 顧問なのに」

「孤立してるそうです」

「へえ、面白いな。名前は?」

「ファルストロング氏です」

「あのファルストロングか……」

 

 胡散臭い顧問団の中でも、ファルストロング氏の胡散臭さは飛び抜けている。先祖は四〇億人を抹殺した初代社会秩序維持局長ファルストロング伯爵だ。自らも国務省や内務省の幹部として民衆弾圧に関わった。あまり近づきたくない人物である。

 

「毒をもって毒を制するという考えもあります」

「革命戦士を皆殺しにしろとか言い出したらどうする?」

「話を聞くだけなら問題ないでしょう。判断するのは司令官ですから」

「言われてみるとそうだ」

 

 こうして俺は、LDSO顧問マティアス・フォン・ファルストロング氏と面会することになったのである。

 

 

 

 ファルストロング氏の事務所は、最前線に似つかわしくない作りだった。床には高価そうな絨毯が敷き詰められ、調度品はバロック調で統一されている。煉瓦造りの壁で時を刻むのは巨大な振り子時計。そんな豪奢な部屋に招き入れられた俺は、緋色の上質なソファーに腰掛けた。

 

「お初にお目にかかります。第三六機動部隊のエリヤ・フィリップスです」

「卿の名前は良く耳にする」

 

 事務所の主の言葉が重々しく響く。

 

「光栄です」

 

 俺はすっかり恐縮していた。

 

「お初にお目にかかる。わしはマティアス・フォン・ファルストロング。昔は伯爵だった。今は解放区民主化支援機構の顧問ということになっておる」

 

 ファルストロング氏は匂い立つような気品のある老人だった。銀色の髪と口髭は綺麗に整えられている。体は鋭いサーベルのようだ。

 

「伯爵閣下、よろしくお願いします」

 

 俺はファルストロング氏を伯爵と呼んだ。そう呼ぶのが当たり前だと思えた。

 

「ただのファルストロングさんで構わぬぞ。わしはもう伯爵ではないのだからな」

「いえ、伯爵と呼ばせてください」

「ならば好きにするが良い」

 

 ファルストロング伯爵が鷹揚に許可する。貴族以外の職業が想像できないこの老人は、公式には貴族でない。一一年前にファルストロング伯爵位を剥奪された。

 

 宇宙暦七八〇年代前半、寵妃ベーネミュンデ侯爵夫人を皇后に擁立しようとする勢力と、それに反対する勢力が抗争を繰り広げた。七八六年にグリューネワルト伯爵夫人が後宮入りすると、ベーネミュンデ侯爵夫人は寵愛を失い、抗争は終結した。

 

 ベーネミュンデ派の重鎮だったファルストロング伯爵は、皇帝暗殺未遂、国家転覆、公金横領、機密漏洩、反国家思想、姦通、動物虐待など思いつく限りの罪を着せられたが、逮捕される前に同盟へと亡命した。

 

 腐敗した門閥貴族の典型のような経歴。しかも、前の歴史において英雄ラインハルトを付け狙ったベーネミュンデ侯爵夫人の仲間だ。史上最悪の白色テロリストの子孫である。好意的になれる材料が一つもない。しかし、真っ黒な経歴がどうでも良くなるような風格が、目の前の老人にはあった。

 

「良い部屋じゃろう? 誰も使いたがらんでな。わしが使わせてもらっておる」

「分かる気がします」

 

 俺は部屋を見回した。こんな豪奢な部屋で落ち着ける同盟人はいないだろう。生まれながらの貴族であるファルストロング伯爵にこそふさわしい。

 

「卿はワインを嗜むかね?」

 

 ファルストロング伯爵はグラスに注がれたワインを差し出してくる。

 

「いえ、酒は一切飲みません」

「そいつは残念だ。ヴェスターラントワインの四六〇年物はめったに手に入らんのだが」

「ヴェスターラントはブラウンシュヴァイク公爵の領地では……」

 

 ヴェスターラントといえば、ベーネミュンデ擁立に反対したブラウンシュヴァイク公爵が領有する惑星の一つだ。

 

「酒に毒を混ぜるような趣味はないぞ。わしはオットーではないからな」

 

 どぎつすぎる冗談だった、オットーはブラウンシュヴァイク公爵のファーストネーム。そして、ブラウンシュヴァイク公爵は、政敵が「病死」する幸運に恵まれることで有名だ。

 

「閣下の酒が飲めないというわけではないのです。前に酒で失敗したことがありまして」

「そうか、それは残念だ。ファルストロングは嫌われ者の宿命を背負っておる。亡命してからというもの、飲み友達に恵まれん。すっかり一人酒に慣れてしもうた」

 

 ファルストロング伯爵は愉快そうに笑う。嫌われ者なのを楽しんでいるようにすら見える。この老人と言い、シェーンコップ准将と言い、名前にフォンが付いてる人は一筋縄ではいかない。

 

「さて、卿は嫌われ者の年寄りに何を聞きに来たのかね」

「革命戦士の統制に苦労しております。伯爵閣下のご意見をお聞かせ願えませんでしょうか」

「造作も無いことだ」

 

 それだけ言うと、ファルストロング伯爵は薄く笑ってワインに口を付ける。

 

「お教えください」

「皆殺しにすれば良い。人目のある場所が良いな。平民どもは拍手喝采するであろうよ」

「そ、それはちょっと……」

「平民は草のようなものでな。一番強い者になびくのだ。革命戦士とやらが支持されるのは、平民だからではない。強いからだ」

 

 ファルストロング伯爵は平民への蔑視を隠そうとしない。これが特権階級というものなのだろうか? 聞いてるだけで気分が悪くなってくる。

 

「ありがとうございました。それでは、今日はこれで……」

 

 俺が腰を浮かしかけた時、ファルストロング伯爵がまた笑った。今度は子どもっぽい笑いだ。

 

「冗談じゃよ。卿らの価値観ぐらい理解しておるわ」

「じょ、冗談でしたか。それは良かったです」

「価値観が違えば、選択肢も自ずから違ってくるというものだ。わしが帝国軍人ならば皆殺しにするがな。同盟軍人ならば別のやり方をする」

「お教えいただけますか?」

 

 老人の言葉が気になって仕方がない。いつの間にか俺は引き込まれてしまっていた。

 

「本物の戦士にしてやれ」

「ほ、本物ですか?」

「卿らとて分かっておろう。あれは単なるゴロツキの集まりだと」

「い、いえ、彼らは……」

 

 建前を口にしかけたがやめた。ファルストロング伯爵相手にごまかしは通用しない。

 

「彼らはオーディン侵攻に便乗したゴロツキです。革命と認定したのは誤りでした」

「ゴロツキが戦士を名乗るからいかんのだ。成敗できぬのならば、本物の戦士にしてやるしかあるまい」

「公式にも戦士ということになっておりますが」

「ゴロツキが看板を掛けるだけで戦士になるのかね? 卿から見てあれは戦士か?」

「違います」

 

 俺はきっぱりと言った。あんな規律のない連中を戦士だとは認めたくない。

 

「なぜ違うと言い切れる」

「戦士には規律と秩序があります。彼らにはありません」

「ようやく気づいたか」

 

 ファルストロング伯爵の青い瞳が「鈍い奴め」と言いたげに光る。

 

「なるほど、彼らを軍隊に入れて規律を叩き込むんですね」

「平民は口では軍人を馬鹿にしておるがな。本音では軍服を着て威張りたいのだ。軍服を着せてやると言えば、大喜びするであろう」

 

 やはりファルストロング伯爵は平民を見下している。しかし、平民を小物と言い換えると、的を射てるんじゃないかと思えた。小物を九〇年やってきた経験から言うと、小物ほど権威が好きな人種はいない。

 

「ご教示ありがとうございました。さっそくやってみます」

 

 俺は深々と頭を下げた。

 

「できるのかね?」

「小官は策を練るのは不得手です。しかし、策を通すことにかけては多少の自信があります」

「どうにでも取り繕えるということか。英雄の言うこととは思えん。まるで政治家だ」

「英雄とはヤン提督やホーランド提督のような人のことです。小官は英雄ではありません」

「自覚はあるのだな」

 

 ファルストロング伯爵の言葉は皮肉っぽいのに、表情は楽しげだ。

 

「身の程はわきまえております」

「卿には輝きというものがまるでない。頭は鈍い。覇気もない。ただの小物だ。卿は英雄らしく振る舞うのがうまいだけだ」

「その通りだと思います」

 

 おそろしく辛辣なことを言われてるのに不快ではない。爽快感すら覚える。

 

「上昇志向や虚栄心があるようにも思われん。何かの拍子でにわか英雄になり、仕方なく英雄を演じ続けた。そんなところか」

「そんなところです」

「馬鹿な奴だ」

「よく言われます」

「だが、馬鹿は嫌いではない」

 

 ファルストロング伯爵がにやりと笑う。

 

「次に会う時は茶を用意しよう。帝国で一番うまい茶だ」

「楽しみにしております」

 

 俺は何の迷いもなく承諾した。

 

「卿も知っての通り、わしは悪行の限りを尽くした男じゃ。死んでもヴァルハラには行けんじゃろうな」

「…………」

 

 どう答えていいかわからない。

 

「この世でなくば、卿に茶を飲ませてやれんということじゃよ。生きて帰ってこい」

「かしこまりました」

 

 俺はすっと立ち上がり、直立不動の姿勢から最敬礼をした。そして、事務所というには豪奢すぎる部屋を後にした。

 

 ファルストロング伯爵から与えられたのは指針だけだ。具体化する作業は俺と第三六機動部隊幕僚がやった。聞こえの良い大義名分をでっち上げ、様々な見積もりを行い、現実的に可能な計画を作り上げる。また、革命戦士の間を回って歩き、同盟軍のかっこいいビデオを見せたり、徴募業務経験者に説明をさせたりして、同盟軍人になりたいと思わせた。

 

 企画書を作った後、上官のホーランド少将、ヴァルハラ駐留軍司令官ルグランジュ中将、オーディン駐留軍司令官カンディール中将らの支持を取り付けた。俺の案はヴァルハラに駐留する同盟軍の総意となった。

 

 また、親友のアンドリュー・フォーク少将の伝手を使って、総司令部作戦部に企画書を持ち込んだ。作戦参謀は兵力が欲しくてたまらない。俺の提案に乗ってくるだろうと踏んだ。

 

 予想通り、LDSOとラシュワンが強硬に反対した。後方主任参謀キャゼルヌ少将は補給上の理由から、第一三艦隊司令官ヤン中将はむやみに兵力を増やすことへの懸念から、反対に回った。

 

 数日間の議論の後、最高評議会が革命戦士を同盟軍の志願兵として扱うとの判断を下した。市民受けする大義名分、総司令部作戦部や駐留軍への根回し、革命戦士が出した嘆願書が功を奏したのである。

 

 革命戦士は数十か所の旧帝国軍基地に分散された。すべて無人惑星や小惑星にある基地だ。こうすれば、民間人に迷惑をかけることもない。また、入隊の際に持参した銃一丁につき、一〇〇ディナールを与えたため、同盟軍が革命戦士に与えた銃の何割かをは回収できた。こうしてオーディンに平和が訪れたのである。

 

 

 

 四月末、増援部隊と補給物資がオーディンに到着した。駐留軍に不足していたのは何よりも物量である。様々な問題がようやく解決へと向かい始めた。

 

 同じ頃、遠征軍総司令官ラザール・ロボス元帥が「同盟総軍司令長官」に昇格した。このポストはロボス元帥のためだけに新設された。同盟軍実戦部隊の総司令官であり、宇宙艦隊司令長官と地上軍総監の上位にいる。統合作戦本部長とは同格らしい。アンドリューの願い通り、ロボス元帥は名実ともに史上最高の名将となった。

 

 その他の人事はなかなか決まらなかった。多すぎる功労者を処遇するためのポストをどうするか? 特別予算を計上して各階級の定員を増やす案、上級大将の階級を設ける案、すべての正規艦隊と地上軍を二分割して司令官ポストを倍増させる案、自由戦士勲章より上位の「自由英雄勲章」を新設する案などは、すべて立ち消えとなった。

 

 結局、「○○待遇」を乱発することで手を打った。本来なら○○になるべき人物に対する名誉待遇で、○○より低い階級ではあるが同格として扱われる。元帥号を二度辞退した後に、「元帥待遇の宇宙軍大将」となったアルバネーゼ退役大将が最も有名だ。

 

 宇宙軍からは、遠征軍総参謀長グリーンヒル宇宙軍大将が「元帥待遇の宇宙軍大将」、第一三艦隊司令官ヤン宇宙軍中将ら五名が「大将待遇の宇宙軍中将」、第一一艦隊D分艦隊司令官ホーランド宇宙軍少将ら一六名が「中将待遇の宇宙軍少将」、第一三陸戦隊司令官代理シェーンコップ宇宙軍准将ら四九名が「少将待遇の宇宙軍准将」に昇格した。

 

 また、第一統合軍集団司令官ウランフ宇宙軍中将は、大将待遇を得るとともに、宇宙艦隊司令長官代理に就任した。大将に昇進した後に司令長官に昇格するとみられる。第三統合軍集団司令官ホーウッド宇宙軍中将は、大将待遇・宇宙艦隊副司令長官となった。

 

 地上軍からは、第二統合軍集団司令官ロヴェール地上軍中将ら三名が「大将待遇の地上軍中将」、第九陸上軍司令官イム地上軍少将ら一〇名が「中将待遇の地上軍少将」、第一特殊作戦群司令官サンパイオ地上軍准将ら三二名が「少将待遇の地上軍准将」に昇格した。

 

 俺は「少将待遇の宇宙軍准将」に昇格し、ハイネセン特別記念大功勲章など四つの勲章をもらった。本来ならば俸給も少将並みになるのだが、今回は予算の都合から特別昇給に留まる。

 

 第三六機動部隊隊員にも「○○待遇」を受ける者が多数現れた。そもそも、代将は「准将待遇の大佐」である。副司令官ポターニン宇宙軍代将ら代将三名が「先任代将たる宇宙軍大佐」、参謀長チュン・ウー・チェン宇宙軍大佐ら大佐九名が「代将たる宇宙軍大佐」に昇格した。中佐以下で昇格した者は数えきれない。無能な指揮官を補佐した功績が認められたのだろう。

 

 中佐以下では昇進する者も出た。旗艦艦長ドールトン宇宙軍中佐が宇宙軍大佐、作戦部長ラオ宇宙軍少佐が宇宙軍中佐、情報部長ベッカー宇宙軍少佐が宇宙軍中佐、副官コレット宇宙軍大尉が宇宙軍少佐に昇進した。

 

 俺の友人知人では、D分艦隊副参謀長のダーシャ・ブレツェリ宇宙軍大佐が宇宙軍代将、スカーレット中隊長アルマ・フィリップス地上軍大尉が地上軍少佐、第一一艦隊司令官ルグランジュ宇宙軍中将が大将待遇の宇宙軍中将、薔薇の騎士連隊長リンツ宇宙軍大佐が宇宙軍代将となった。

 

 忌々しいことに麻薬関係者も昇進した。アルバネーゼ退役大将は、ラグナロック作戦を推進した功によって宇宙軍元帥を授与されたが辞退した。ヴァンフリートで逃げ延びたドワイヤン少将やロペス少将らは、「収容所から脱走して、反体制活動を組織した」功績により、昇進を果たした。犯罪者が反帝国の英雄として戻ってきたわけだ。

 

 昇格者が大勢出たものの、欠員補充以外の役職異動はなかった。現在も帝国軍との戦いは続いている。編成を変えられる状況ではない。

 

 LDSOは経済の民主化に取り掛かった。国営企業と特権企業の民営化を進め、所得税と法人税を引き下げ、補助金を打ち切り、惑星ごとに設けられた関税を廃止し、あらゆる規制を取り払い、貴族財産に課税し、国有財産を売り飛ばす。解放区に自由経済を導入することで、ハイネセン資本やフェザーン資本の投資を促し、経済発展に繋げようとした。

 

 解放区全域でインフラの修復が始まった。帝国のインフラには公用と一般用の二系統がある。官公庁や支配階級が使う公用インフラは、手入れが行き届いている。問題は平民が使う一般用インフラだった。老朽化が酷い上に、戦争の混乱で手入れが行き届かなくなった。各地で停電や断水が多発した。通信はなかなか繋がらない。高速道路や鉄道の何割かは使用停止になった。修復事業への期待が高まっている。

 

 同盟産の食糧が解放区で本格的に流通し始めた。これまでは飢餓を防ぐための人道支援に留まってきたが、今後は店頭で安い食糧を買えるようになる。食糧事情は改善の方向へと向かった。

 

 同盟の旧財閥系企業やフェザーンの反主流派企業は、戦争国債を引き受けた見返りとして、解放区ビジネス利権を獲得した。同盟本国と解放区の貿易、LDSOが発注した復興事業、同盟軍への兵站支援事業などは、すべて彼らが取り仕切る。LDSOが競売にかけた国有財産、民営化した国有企業や特権企業のほとんどが、彼らの手中に収まった。

 

 解放区で同盟企業の支店が次々と開設された。表通りには同盟市民なら誰でも知ってる大企業の看板が並ぶ。同盟スタイルのスーツを着たビジネスマンが歩道を闊歩する。

 

 現地人の政治活動が活発化している。帰国した亡命活動家、帝国国内で活動してきた反体制活動家、「開明派」と呼ばれる体制内改革派、保守派知識人などが政党を作った。LDSOに登録された政党は五二党にのぼる。未登録政党は一〇〇党とも二〇〇党とも言われる。これらの政党は機関紙を発行し、演説会を開くなどして、いずれ実施される選挙での議席獲得を目指す。

 

 解放区にある政治犯収容所はすべて廃止された。LDSOは政治犯数百万人を故郷に帰す事業に取り組んでいる。残された施設は再利用される予定だったが、ラシュワンが「自由な国家に流刑地は不要」と反対したため、すべて破壊された。

 

 同盟憲章は居住移転の自由を認める。それを知った解放区住民の間では、より環境の良い惑星に移住したいと希望する者、同盟本国への移住を望む者が現れた。また、本国市民の間には、「自治領住民をより良い環境へと移すべきだ」との声が出た。経済界は解放区からの移民が増えれば、経済活性化に繋がると期待する。

 

 民主的な軍隊や警察を作る試みが始まった。降伏兵に同盟式の訓練を施し、接収した軍艦や車両をモスグリーンに塗り替えて、同盟軍への編入を進める。警察官の中で、収賄や恐喝や遺法捜査の前歴がない者を解放区警察に雇い入れた。

 

 早くも民主主義と自由経済が芽吹き始めた。同盟市民は一連の変革を「オーディンの春」、立役者のコーマック代表を「オリオン腕の解放者」と呼んだ。

 

 一方、リヒテンラーデ=リッテンハイム陣営とブラウンシュヴァイク派は、帝都陥落の衝撃から立ち直っていない。一か月の間に恩赦や減税を何回も行い、断絶した名門を復活させ、食糧や酒を無料で配るなどの人気取り政策は、弱体ぶりを示すだけの結果に終わった。ブラウンシュヴァイク公爵は、新無憂宮を略奪した者とその家族に大逆罪を適用すると宣言したが、現状では負け犬の遠吠えでしかない。

 

 旧カストロプ公爵領の首星ラパートに本拠を移したリヒテンラーデ公爵とラインハルト、レンテンベルク要塞に陣取るリッテンハイム公爵とメルカッツ上級大将、レーンドルフを根拠地とするブラウンシュヴァイク公爵らは、反体制派との戦いで手一杯だ。今後の戦いは帝国軍を倒すというより、各地の反体制派を支援するものになると思われた。

 

 五月五日、第一一艦隊は新しい任務を与えられた。ヴァナヘイムの反体制派を支援するのだ。ヴァルハラの警備は予備役部隊に引き継がれる。

 

 第三六機動部隊もヴァルハラを離れることになった。そこで壮行パーティー、俺の結婚祝いパーティーを兼ねたパーティーが開かれた。

 

 テーブルの上には、マカロニ・アンド・チーズ、ピザ、ジャンバラヤ、ローストチキンといったパラディオン的な食べ物が山盛りだ。甘い物やアルコールもたっぷりある。

 

「おいしいな」

 

 俺は満面に笑みを浮かべながら、マカロニ・アンド・チーズを頬張る。

 

「うん!」

 

 ダーシャは幸せそうにマカロニ・アンド・チーズを食べる。

 

「とろとろだなあ」

「ほんと、とろっとろだね!」

 

 俺たちは心の底から通じ合う。そこに妹がやってきた。どういうわけか呆れ顔だ。

 

「あのさあ……」

「なんだ?」

「なに?」

 

 俺とダーシャが同時に返事をする。

 

「なんで食べさせてるの?」

 

 妹は俺とダーシャのスプーンを指差す。俺はダーシャの口元にスプーンを持っていき、ダーシャは俺の口元にスプーンを持っていく。

 

「ダーシャは猫舌だからな。俺が冷ましてやらないと」

「エリヤは不器用だからね。私が食べさせてあげなきゃ」

「えっ?」

 

 妹はぱっちりした目を白黒させる。

 

「いずれアルマにもわかる」

「アルマちゃんもわかる時が来るよ」

 

 俺とダーシャは妹を諭す。

 

「わかりたくない……」

 

 なぜか今日の妹は物分かりが悪い。食べ過ぎで頭が回らないのだろう。一人でホールケーキを三個も平らげたのだから。

 

 他の人たちも楽しそうだ。チュン・ウー・チェン参謀長は、目を輝かせてサンドイッチにかじりつく。イレーシュ副参謀長はガチョウの丸焼きを独り占めにする。ルグランジュ中将は腕相撲で陸戦隊員を三人抜きした。ビューフォート代将はダンディな飲みっぷりだ。ドールトン艦長は、婚約指輪と言っておもちゃの指輪を見せびらかす。ラオ作戦部長はビールを少し飲んだだけで酔い潰れた。

 

 若者は酒をがぶがぶ飲んで酔っ払い、大声ではしゃぐ。年配者は静かに会話を楽しむ。現地人は肌が白い者にばかり話しかける。

 

「春だな」

 

 俺は空を見上げた。雲一つない真っ青な空だ。

 

「春だね」

 

 左隣のダーシャも一緒に空を見上げる。

 

「来年はハイネセンで過ごしたいな」

「そうだね」

 

 ダーシャの右手が俺の左手を優しく握る。俺の右手は妹からもらった幸運のペンダントを握る。みんなが騒ぐ声、生暖かい空気、真っ青な空、暖かい日差し、そのすべてが心地良い。銀河に春がやってきた。



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第61話:凪の時 798年6月~8月 ヴァナヘイム~ハルダート星系~惑星バルトバッフェル

本話開始時点勢力図

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 同盟市民が「帝国反体制派」と聞いて思い浮かべるのは、投石や火炎瓶で戦う群衆か、爆弾テロに長けたテロリストであろう。現在、帝国全土で蜂起している反体制武装勢力に対しても、同じようなイメージを持たれがちだ。

 

 しかし、実際には過去の反体制派とまったく違う存在であった。帝国軍の元将校や元特殊部隊隊員が指揮をとり、最新鋭の戦闘車両、航空機、対空ミサイルを有する。その戦闘力は帝国地上軍正規部隊に引けをとらない。宇宙軍艦を持つ組織まである。旧カストロプ派や旧皇太子派のような政争の敗者、取り潰された貴族の旧臣、待遇に不満を持つ軍人、失業中の退役軍人が中心にいた。

 

 帝国軍の宇宙戦力は著しく低下した。一月から五月までの間に、常備戦力の四割と予備役戦力の三割が失われたと言われる。将校や下士官の大量離脱も大きな痛手だ。反体制派に多数のワープポイントを奪われたことにより、戦略的機動が困難となった。予備役戦力を動員して頭数は揃えたものの、一隻あたりの戦力指数は同盟軍の半分まで落ち込んだ。それでも、まとまった宇宙戦力を持たない反体制派相手には十分に通用する。

 

 反体制派支援作戦「エガリテ作戦」においては、同盟軍が宇宙戦、反体制派が地上戦を分担することとなった。同盟軍地上部隊と陸戦隊は、反体制派への兵站支援と航空支援を行う。

 

 ヴァナヘイムのブラウンシュヴァイク派は、各惑星の地上部隊を増強する一方で、宇宙戦力を後方に下げて長期戦に持ち込もうとした。同盟軍にヴァナヘイム全域を制圧できる戦力はない。いずれ息切れするものと考えたのである。

 

 しかし、この方面を担当する第一統合軍集団司令官ウランフ中将は、進軍を急がなかった。分艦隊規模から機動部隊規模の別働隊をいくつも作り、敵の後方へと侵入させる。宙域の確保にはこだわらない。兵站基地や補給船団を叩き、反体制派に補給物資を投下し、小部隊が現れたら迎え撃ち、大部隊を見つけたら退く。合計しても一万隻に満たない別働隊が、ヴァナヘイムのアースガルズ側宙域の実質的な使用権を手に入れた。

 

 敵の補給線を破壊し、味方の補給線を確保するような任務では、何よりも機動力が物を言う。そして、機動力といえばホーランド少将の代名詞だ。今やホーランド分艦隊と呼ばれるようになったD分艦隊は、エガリテ作戦でも大いに暴れ回った。

 

 第三六機動部隊はホーランド分艦隊の中核部隊として活躍した。進む時は先頭に立って突撃し、退く時は迫り来る敵に向かって突撃し、戦果をあげないことはなかった。

 

 本隊から離れて単独行動を取る場合もある。第三六機動部隊には機動力を生かした一撃離脱が期待された。敵中奥深くまで侵入し、一撃を加えた後に退却する。こうした作戦を繰り返すことで敵の動揺を誘う。

 

 出撃命令を受けたらすぐに幕僚を集めて会議を開く。最初にチュン・ウー・チェン参謀長が大まかな状況を説明する。その次に各部長が担当領域についての説明を行う。ラオ作戦部長は部隊の作戦能力、ベッカー情報部長は敵戦力及び作戦想定宙域、サンバーグ後方部長は部隊の補給状況、ニコルスキー人事部長は隊員の戦意や健康、マー通信部長は部隊の通信能力といった具合だ。

 

 俺は幕僚から提示された情報を元に作戦方針を決める。細かい方針を出す指揮官と大まかな方針を出す指揮官がいるが、俺は細かい方だ。チュン・ウー・チェン参謀長とイレーシュ副参謀長は、俺の方針に基づいて幕僚たちに作業を割り振る。幕僚たちは必要な兵力や物資を計算し、情報分析を行い、戦力運用について考える。それぞれの作業をチュン・ウー・チェン参謀長とイレーシュ副参謀長が整理して、作戦案を練り上げていく。

 

 大抵の場合、複数の作戦案が提示される。その中から司令官が適切なものを選ぶのだ。今回、第三六機動部隊の幕僚チームは三つの作戦案を作った。A案は戦果は大きいがリスクも大きく、B案は低いリスクでそこそこの戦果が得ることができ、C案は安全策だという。

 

「B案で行こう」

 

 俺はB案を採用した。A案は俺の能力では危険すぎる。部隊の保全を優先するならC案だろう。しかし、今はそれほど不利な状況ではない。上層部の期待を優先してもいいと考えた。

 

 作戦案が決定した後、俺は指揮官会議を開いた。こちらはテレビ会議だ。副司令官、配下の戦隊司令四名、直属の群司令五名、臨時配属された巡航艦戦隊司令一名と陸戦遠征師団長一名が分割されたテレビ画面に現れる。今回の作戦について説明し、指揮官たちの意見を聞く。異論が出ることもなく会議は終わった。

 

 このようなプロセスを経て、今回の作戦は決定された。方針を示し決断するのが指揮官の役目、計画を作り選択肢を示すのが幕僚の役目だ。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『獅子戦争記』では、司令官が一人で作戦を決めるように書かれているが、あれは描写上の都合だろう。

 

 六月一二日、ゴッサウ星系急襲作戦「アイアシェッケ」が始まった。俺が単独で指揮をとる作戦としては、三度目になる。

 

 第三六機動部隊は戦力を二分した。ポターニン副司令官が率いる駆逐艦や母艦や支援艦など四四〇隻は、星系外縁部の哨戒基地群を叩く。俺は戦艦や巡航艦など三二〇隻を統率し、五〇〇〇光秒(一五億キロメートル)をノンストップで突っ切る。敵の目が哨戒基地群に向いてる間に、推力の大きい艦だけで星系首星に迫り、安全地帯など存在しないと知らしめるのだ。

 

「モースブルクから敵が現れました! およそ八〇〇隻!」

 

 オペレーターの声が司令室にこだまする。スクリーンに多数の光点が映ったが、並び方はバラバラだ。大慌てで飛んできたように見える。

 

「迎撃の準備が整ってないようですね」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が食べかけのクロワッサンをポケットに押し込む。

 

「予想以上の慌てぶりだ。完璧な奇襲になった」

「一気に畳み掛けましょう」

「そうだな」

 

 俺は頷くと、席から立ち上がって背筋を伸ばす。

 

「全艦突撃!」

 

 号令とともに三二〇隻が突っ込んだ。敵の砲火はまったく当たらない。前方に現れた敵艦はすべて爆発光とともに砕け散る。ホーランド少将から学んだ芸術的艦隊運動の賜物だ。

 

「突破成功だ! このまま一一時方向に進んで離脱……」

 

 離脱命令を出そうとした時、副官コレット大尉が割り込んできた。

 

「司令官閣下、敵から通信が入ってきました。降伏するそうです」

「降伏?」

「はい。ゴッサウ星系警備隊が降伏を申し入れてきました」

「何かの間違いだろう。相手は四〇万の大軍だぞ」

 

 俺は苦笑いした。ゴッサウ星系警備隊は星域軍並みの大軍だ。宇宙部隊と地上部隊を合わせた人数は、どんなに少なく見積もっても四〇万を下らない。この程度で降伏するものか。

 

 しかし、間違っていたのは俺の方だった。本当に敵が降伏してきたのである。聞いたところによると、敵旗艦の乗員が「ミョルニル(雷神トールの鎚)が降ってきた!」とパニックを起こし、司令官に銃を突き付けて降伏を迫ったらしい。他の艦が戦意をなくしたこともあり、あっさり全軍が降伏してしまった。

 

「なんだそりゃ……」

 

 まったくもってわけがわからない。誰もが呆然としていた。あまりに唐突過ぎて喜ぶ気すら起きなかったのである。

 

 第三六機動部隊が四〇万人を降伏させたとの報は、あっという間に本国へと伝わった。マスコミは「赤毛の驍将」という恥ずかしい異名を連呼する。

 

「第一一艦隊にはこの私がいる! そして、D分艦隊には赤毛の驍将がいるのだ!」

 

 俺がマスコミに取り上げられるたびに、ホーランド少将はこんなコメントを寄せた。恥ずかしくて顔と髪の毛が同じ色になりそうだ。

 

 実を言うと、今の俺は「ホーランド二八将」の一員ということになっている。ホーランド少将は士官候補生時代に、「英雄たるもの、名将を集めないといかん」と思いたち、同級生三人を「ホーランド三将」とした。今年の二月に俺を勝手に加えて二八将になった。ホーランド少将の同期であるイレーシュ副参謀長によると、勝手に加えられた人は俺以外に八人いるらしい。

 

「ホント、あいつは勝手だよ」

 

 イレーシュ副参謀長は整った眉を寄せる。

 

「承諾した人が一九人もいる方が驚きです」

「六人は自分から入れて欲しいと言った奴だよ。『武勲から言えば自分が入るのは当然だ』ってねじ込んだ奴もいたね」

「世の中は本当に広いです」

 

 俺はびっくりした。彼らは恥ずかしくないのだろうか? ホーランド二八将に入ったら、「旧世紀を終わらせる男」とか「水瓶座のカリスマ」とか呼ばれるのに。

 

 ホーランド少将が良い上官なのは認める。凡庸な俺が武勲をあげられたのも、トリューニヒト派なのに予算をもらえるのも、ホーランド分艦隊に属したおかげだ。それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 

 ダーシャもホーランド少将に頭を痛めている。ホーランド少将は異常にアグレッシブだ。成功率三〇パーセントだが戦果の大きい案と、成功率九〇パーセントでそこそこの戦果を得られる案を提示されたら、迷うことなく前者を選ぶ。上位司令部に積極攻勢を持ちかけるのは定例行事だ。幕僚はそんな司令官に心酔しきっているため、積極案ばかり出してくる。話を聞いてるだけで胃が痛くなりそうだ。

 

 もっとも、ダーシャ本人は、ホーランド分艦隊司令部唯一の常識人というポジションを気に入ってるように見える。俺やワイドボーン准将と親しいことからわかるように、単純馬鹿が好きなのだろう。

 

 ホーランド分艦隊以外の部隊も頑張っている。第一三艦隊のB分艦隊司令官ジャスパー少将、第五艦隊の第七七機動部隊司令官リサルディ准将は、ホーランド少将に匹敵する活躍を見せた。

 

 そして、忘れてはならないのが第一三艦隊司令官ヤン中将だ。前線には出ていないものの、別働隊を使って制宙権を握る戦略を立てた。スペース・レギュレーション概念を彼ほど巧みに用いた者はいない。一世紀半にわたって主流を占めた殲滅戦理論は、完全に過去のものとなった。

 

 第二統合軍集団は二方向からリッテンハイム派を攻撃した。ロヴェール中将率いる二個艦隊と一個地上軍がレンテンベルク要塞を取り囲み、ルフェーブル中将率いる一個艦隊と一個地上軍がミズガルズからアルフヘイムへと進入する。帝国軍主要三派の中で、リッテンハイム派は最も多くの正規軍部隊を持っている。二方向から攻めることで戦力を分散させる狙いがあった。

 

 リッテンハイム公爵はレンテンベルク要塞にメルカッツ上級大将と一万隻を残すと、エッデルラーク上級大将とともにアルフヘイムに戻り、ルフェーブル中将を迎え撃った。

 

 現在はレンテンベルク要塞方面が膠着状態、アルフヘイム方面が六対四で同盟軍有利だ。敵より戦力が少ないメルカッツ上級大将が五分、敵より戦力が多いリッテンハイム公爵が苦戦しているのは、両者の軍事能力の違いだろう。

 

 第三統合軍集団司令官ホーウッド中将は、得意とする機動戦でヨトゥンヘイムの帝国側惑星を次々と攻め落とす。しかし、進軍が早すぎたために二週間で攻勢限界に達する。反体制派に補給物資を与えた後、戦線を整理するために後退した。

 

 

 

 

 

 同盟軍はどの方面でも優位に戦っている。それでも、これまでのように「戦うたびに勝ち、戦わなくても勝つ」といった感じではない。

 

 唯一にして最大の違いは、敵部隊の降伏や無断撤退が激減したことだ。決して敵が強くなったわけではない。練度や装備は三月時点よりも悪くなったし、兵士の士気は相変わらず低い。だが、将校が必死で戦うようになった。最近降伏した部隊のほとんどは、ロッサウ星系警備隊のように兵士主導の降伏だった。

 

 敵の将校が粘り強くなったのは階級的な要因が大きい。帝国軍将校は支配階級の出身者だ。平民出身であってもそれは同じだ。貴族並みに良い教育を受けた者でないと、士官学校や予備士官教育課程の平民枠には合格できない。オーディン陥落後、解放区民主化支援機構(LDSO)は支配階級を徹底的に叩いた。その結果、将校は降伏したら何もかも失うことを理解したのである。

 

 同盟と帝国の戦争はエガリテ作戦を契機に、国家同士の戦争から被支配階級と支配階級の闘争へと様相を変えていった。

 

 

 

 六月末、第一統合軍集団はアースガルズとの境界から八〇〇光年離れた地点で止まった。当面の間は背後の安全確保に専念する。

 

 第三六機動部隊は第一五二地上軍団、第一一九陸戦遠征師団、第九六山岳師団、第二九九独立航空団、第七〇七独立巡航艦戦隊とともに「ハルダート星系警備管区」に配属された。俺が管区司令官、第一五二地上軍団司令官ラフマディア准将が管区副司令官を兼任する。管轄区域は有人惑星二個を持つハルダート星系、有人惑星一個を持つアルテングラン星系のほか、無人の一四星系だ。平均的な星系警備管区を二つ合わせたほどの大きさだ。

 

 ハルダート星系警備隊は、ハルダート星系第三惑星バルトバッフェルのオスブルク市に司令部を置いた。オスブルクは先日まで皇帝領バルトバッフェルの星都だった街だ。

 

 俺は宇宙部隊を率いて帝国軍と戦った。味方補給路を敵から守ることもあれば、敵の補給路を叩くこともある。戦隊規模から群規模の小競り合いが一か月にわたって続いた。

 

 この戦いで第三六独立駆逐群司令ビューフォート代将が意外な才能を見せた。小惑星帯に隠れて敵を待ち伏せたり、警戒網をかいくぐって敵補給船団を奇襲したり、小部隊で大部隊を引き付けるといったゲリラ的な戦法で戦果をあげたのだ。エル・ファシルから俺の直属で戦ってきた人だが、単独で戦った方が本領を発揮できるのかもしれない。

 

 対照的なのが第三六独立戦艦群司令マリノ代将だ。勇敢で戦術に長けてるのに、単独で戦った時は今一つだった。本隊で攻撃の要を任せるのが良さそうだ。前の世界でヤン・ウェンリーはそのようにした。

 

 七月は今年で最も穏やかな月だった。どの方面も膠着状態だ。同盟軍には前進できるだけの兵力がなかったし、帝国軍には反撃できるだけの戦力がなかった。

 

 前線が膠着している間、後方では政治家たちが忙しく動き回る。政治闘争は武力闘争より流血は少ないものの、熾烈さにおいては勝るとも劣らない。

 

 エルウィン=ヨーゼフ帝は今年で五度目の大赦令を発した。これまで恩赦から除外されてきた元皇太子派や旧カストロプ派も対象となった。帝国宰相リヒテンラーデ公爵はかねてより「支配階級の団結」を口にしてきた。政争の敗者を復権させることで、支配階級を結集する狙いがあると見られる。

 

 この大赦令に帝国軍総司令官リッテンハイム公爵が激しく反発した。旧カストロプ派の権益の大半は、リッテンハイム派の手に渡った。復権されては困る立場だ。

 

 七月中旬、エルウィン=ヨーゼフ側の帝国国営通信社は、リッテンハイム公爵を「枢密院議長」の肩書きで紹介した。同じ頃、ローエングラム元帥が「国内艦隊司令長官」、リンダーホーフ元帥が「辺境艦隊司令長官」、ラムスドルフ元帥が「統帥本部総長」の肩書きで報じられた。リッテンハイム公爵は総司令官を解任されたとの見方が強い。

 

 一方、ブラウンシュヴァイク派は「劣悪遺伝子排除法」を改正した。マクシミリアン=ヨーゼフ二世が付け加えた「晴眼帝条項」による特例措置が完全に廃止され、ルドルフ時代並みの厳しい水準に変わる。帝国摂政ブラウンシュヴァイク公爵が推進したと言われる。

 

 帝国が分裂し、同盟が帝国領に攻め込んだことにより、国際交易が大きく停滞した。フェザーン経済が被った打撃は計り知れない。シンクタンクの試算によると、帝国領の戦乱はフェザーン経済に一日あたり二〇〇〇億マルクの損失を与えるという。先代自治領主ワレンコフの時代から囁かれてきたフェザーン経済危機の可能性が、現実のものとなりつつある。

 

 フェザーンのルビンスキー自治領主は窮地に立たされた。勢力均衡論者からは同盟の一人勝ちを許した責任を問われ、親同盟派からは同盟に協力しなかったことを批判され、親帝国派からは帝国を支えきれなかったことを批判され、財界主流派からは解放区ビジネスに乗り遅れた責任を問われる。人道援助の名目で帝国各派に莫大な援助を行う一方で、同盟政府に撤退を求めているものの、事態打開の見通しは立っていない。

 

 地球教総大主教シャルル二四世がフェザーンを訪問し、三〇万人の信者を集めて銀河平和を祈願するミサを行った。この時期に信徒が少ないフェザーンを訪れた理由は不明だ。様々な憶測が飛び交っている。

 

 フェザーンや地球教と近いトリューニヒト下院議長は、すっかり影が薄くなった。国防委員会の軍縮案を批判したり、遠征軍の戦力不足を指摘したりするものの、大きなニュースが連続するせいで話題にならない。

 

 遠征に反対した二人の閣僚のうち、レベロ財政委員長は留任した。彼の財政運営能力は遠征を遂行する上で不可欠だった。ホワン人的資源委員長は上院選挙の後に閣外へと去った。現在は解放区住民の本国移住を促進する議員立法に力を入れている。

 

 同盟政府は五年間で二億人を解放区から同盟本国に移住させる計画を立てた。ゲルマン系一億人と非ゲルマン系一億人を受け入れることで、経済発展を促すのが狙いだ。それとは別に一〇〇億人を超える非ゲルマン系を旧自治領から他の惑星に移す計画もある。移住先の候補には困らない。かつてオリオン腕には三〇〇〇億人が住んでいた。ゲルマン系が住む惑星はスペースが有り余っているし、人口減少に伴って放棄された可住惑星を再開発させてもいい。

 

 アースガルズ、ミズガルズ、ニヴルヘイムの解放区で有権者名簿の作成が始まった。一二月の制憲議会選挙を目標に作業を進める。選挙終了後に各解放区は星系共和国となり、星系憲法を制定してから自由惑星同盟の正式加盟国となる予定だ。

 

 解放区では選挙に向けた動きが加速している。政党はテレビにコマーシャルを流し、政治番組に指導者を出演させた。街中には政党のポスターが溢れかえった。各地で政治家が集会を開いて演説を人々に聞かせた。国民平和会議(NPC)や進歩党といった本国の大政党は、解放区政党との提携に情熱を注いだ。

 

 有力な解放区政党といえば、「自由共和運動」と「前進党」と「自主自立党」の三党だ。自由共和運動は帝国領内で活動してきた反体制組織、前進党はかつての帝国体制内改革派、自主自立党は帰国した亡命者を母体とする。いずれもハイネセン主義を掲げており、最も穏健なのが前進党、最も急進的なのが自主自立党である。

 

 全銀河亡命者会議が自主自立党の中核となった。会議代表のラシュワンは「私は党の代表ではない。人民の代表だ」と言って無所属で出馬するため、フィンク第一副代表が党首、バーゼル副代表が幹事長に就任した。党を結成するにあたり、貴族出身のメンバーは「フォン」を名前から外し、財産の大半を寄付することで無産平民となった。バーゼル幹事長に至っては、全財産九〇万ディナールを貧民に分け与えたという。

 

「今どきバーゼルさんみたいな政治家はいないですよ。いっそハイネセンで立候補してもらえませんか。一票入れますから」

 

 若いニュースキャスターが手放しで褒め称える。まったくもって呑気なことだ。バーゼルにはサイオキシンで稼いだ三億帝国マルクがある。九〇万ディナールなんて痛くも痒くもない。

 

 とんでもないことにルドルフ主義の政党を作ろうとした者がいた。ハルダート星系警備管区だけでも四党が届け出たと聞く。解放区全体では二〇〇〇党から三〇〇〇党はあるらしい。普通の帝国人はルドルフ主義しか知らないため、こんなことになったのだろう。もちろん、同盟憲章違反なので政党登録は認められない。果てしなく黒に近いグレーゾーンにいる党がいくつか登録を認められるに留まった。

 

 同盟本国の上院と下院は、ヴァルハラ星系を「エリジウム星系」、惑星オーディンを「惑星コンコルディア」に改名する案を可決した。銀河連邦時代の旧名に戻すことで、帝国の終焉と銀河連邦復活を印象づけるのが狙いだ。

 

 これを皮切りに、解放区の地名を銀河連邦時代に戻す案が相次いで提出された。銀河連邦の最初の首星「テオリア」、共和主義の聖地「タブラ・ラーサ」の名称を復活させる案が議会で審議されている。

 

 解放区でも改名ブームが巻き起こった。各星系、各惑星、各州、各都市の臨時政府は、地名を銀河連邦時代のものに戻し、皇帝や貴族にちなんだ公共施設の名前を変えた。

 

 銀河連邦を簒奪すると、ルドルフは全銀河の地名をゲルマン風に変えた。新時代の支配者がゲルマン系だと示すためだ。そして、病院や公園や道路などは「支配者からの贈り物」とされ、皇帝領では皇帝や皇后や皇子、貴族領では領主の名前が与えられた。ゴールデンバウム朝は支配の象徴として地名を利用したのだ。旧支配者の存在感を消し去るには、改名は必要な手続きだった。

 

 最近は「国名を銀河連邦に改めるべきだ」と主張する者も現れた。同盟は銀河連邦の後継国家を自認している。旧首星を奪還した今が改名の好機というわけだ。

 

「名実ともにゴールデンバウムの帝国は終わりました! 偉大な銀河連邦が復活するのです!」

 

 コーネリア・ウィンザー国防委員長が声高らかに宣言した。

 

「自由万歳!」

「民主主義万歳!」

「銀河連邦万歳!」

「アーレ・ハイネセン万歳!」

「コーネリア・ウィンザー万歳!」

 

 歓呼の渦が巻き起こり、無数の拳が天に向かって突き上げられた。すべての人が美しい国防委員長に熱狂する。

 

 俺はこの放送を星系警備管区司令部で見ていた。周囲からは拍手と歓声が聞こえる。この司令部にも、ウィンザー国防委員長を支持する者は多い。

 

「いやあ、素晴らしいですね! 司令官閣下もそう思いませんか!?」

 

 人事参謀カプラン大尉が満面の笑顔で話しかけてくる。とても鬱陶しい。

 

「そうだね」

「俺ね、子供の頃からウィンザー先生のファンなんです! ほら、お姉様って感じじゃないですか! フリーダム・ニュース、毎日見てたんですよ! ニュースの内容は全然わからなかったですけど!」

 

 カプラン大尉は大声で自分の馬鹿っぷりをアピールする。仕事中は冬眠中の熊よりも動かないのに、雑談になると発情中の猫よりも騒がしい男だ。

 

「君の言いたいことはわからないでもない」

 

 俺は適当に流した。正直言って突っ込むのも面倒くさかった。他の幕僚は「何言ってんだ、おまえ」と言わんばかりの表情でカプラン大尉を見る。特にイレーシュ副参謀長とニコルスキー人事部長の目が厳しい。

 

「フィリップス司令官、パンでもいかがですか」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が、何くわぬ顔で潰れたサンドイッチを差し出す。ハムとチーズが挟まったサンドイッチだ。空気を読まないようで読めるのが、本当に読めないカプラン大尉との違いだろう。

 

 俺は潰れたサンドイッチを二つ食べてから、コーヒーカップに手を伸ばした。右手で取っ手を掴み、左手をカップに添えてコーヒーを飲む。もちろん砂糖とクリームでどろどろのコーヒーだ。喉が糖分で潤ったところで、三つ目のサンドイッチに手を出した。

 

 

 

 八月になっても膠着状態は続いた。戦えば同盟軍が勝つのだが、戦力が少ないせいでこれ以上先に進めない。

 

「遠征軍の戦力は充実しています」

 

 テレビの中でアンドリューが強弁した。声には落ち着きがなく、表情は何かに苛ついているようでく、目は異様な輝きを放っている。長年の夢がかなったというのに、幸せそうには見えない。

 

 ラグナロック作戦が始まって以降、アンドリューは遠征軍のスポークスマンを務めている。最近は実情とかけ離れたことばかり言ってるせいで、一部の兵士からは「おとぎの国のアンドリュー」とあだ名された。

 

 どうしてこんなことになったのだろうか? 前の世界の無能参謀そのままではないか。やりきれなくなってテレビを消した。

 

 戦力が少ない理由、アンドリューが強弁する理由のどちらも俺にはわかる。スペース・レギュレーション戦略の基準ならば、遠征軍の戦力は十分だ。イゼルローン無血攻略やオーディン攻略を成功に導いた戦略を否定したら、たちまちプロから非難を浴びるだろう。スポークスマンは自分の一存で物を言える立場ではない。

 

 俺はため息をついてから書類を開いた。普段はラフマディア准将に地上を任せているが、地上にいる時は俺が地上の責任者だ。

 

 ハルダート管区には三つの有人惑星がある。ハルダート第三惑星バルトバッフェル、ハルダート第四惑星シュパル、アルテングラン第六惑星ボッケナウだ。

 

 このうち、最も条件が悪い惑星は間違いなくボッケナウであろう。なにしろ酸素がない。解放前は「ボッケナウ自治領」と呼ばれていて、二〇〇万人が五世紀前の気密ドームに住んでいた。他の自治領と同じように、慢性的な食糧不足と不衛生な環境が人々の肉体を蝕み、無気力と絶望感が人々の心を占拠する。膨大な時間と資金を注ぎ込まない限り、人間らしく暮らせる環境にするのは難しい。

 

 ハルダート星系警備隊は、本国政府が発表した「自治領民はすべて他の惑星に移住させる」との方針に従った。移住先が見つかり次第送り出し、この一か月で移住した者は六万人にのぼる。

 

 他の二つの惑星は水も植物も豊かだ。バルトバッフェルには一四〇〇万人、シュパルには九〇〇万人が住んでいる。住民の貧しい暮らし、インフラの貧弱さといった点においては、他の帝国領と変わらない。

 

「似たような条件なのに、どうしてここまで違うんだろうな」

 

 俺はバルトバッフェルとシュパルの数字を見比べた。バルトバッフェルは何から何までシュパルより悪い。

 

 バルトバッフェルが抱える諸問題のうちで、最も深刻なのは電力不足である。一日あたり四時間から八時間の停電が起きた。バルトバッフェルの北半球は猛暑の季節だ。冷房が使えないと暑くて眠れない。しばしば冷蔵庫が止まるため、生鮮食品や冷凍食品が店頭から消えた。エレベーターの扉に「使用停止」の紙が貼られた。夜間にいきなり照明が消える。電気を使うものすべてが信用ならなくなった。

 

 解放前からバルトバッフェルでは停電が日常茶飯事だった。発電設備や送電設備が老朽化している上に、予算不足からメンテナンスがろくに行われず、電力網は崩壊しかけていた。それに拍車をかけたのがバルトバッフェルLDSOの政策だ。バルトバッフェル電力公社を分割民営化し、従業員の大量解雇や不採算発電施設の閉鎖を行った。こうして電力供給能力が低下したのである。

 

 電力不足が老朽化したインフラをさらに弱体化させた。断水が頻繁に起きている。信号機が止まるたびに車の流れが止まった。固定端末の通信網が不安定になったため、携帯端末への依存度が極端に高まり、回線混雑が酷くなった。

 

 インフラの弱体化に加えて、公共サービスの停滞が市民生活を阻害した。役所は業務時間を三分の二まで短縮し、公共交通機関は運休している時間の方が長くなり、公営病院は新規患者の受け入れを停止し、学校は無期限休校となった。

 

 公共サービスがここまで停滞した要因としては、解放前の民生軽視政策、解放後の性急な改革があげられる。帝国の公共サービス部門の特徴は、低い予算と少ない職員と大きな赤字だ。バルトバッフェルLDSOは大手術を施した。赤字を減らすために予算と職員を一気に減らした。水道公社や公共交通公社などの公営企業をすべて解体してしまった。組織の改編が激しすぎて、職員は自分がどの部署に属しているのかを忘れる有様だ。役所の幹部職員、医師、教師の過半数がLDSO布告第三号に引っかかり、公職から追放された。

 

 バルトバッフェルの場合、自由の恩恵を最も享受したのは犯罪者だろう。強盗、空き巣、自動車泥棒、ひったくりが昼夜を問わず起きるようになった。麻薬の売人が現れない場所はない。

 

 同盟軍にテロ行為を仕掛ける者まで現れた。兵士を狙った銃撃、手投げ弾や地雷による攻撃、軍用車両に対する待ち伏せ攻撃が相次いだ。この一か月だけで一四名が犠牲となった。

 

 インフラや公共サービスとは違い、バルトバッフェルの治安はもともと高い水準にあった。帝国の為政者は治安維持を重視する傾向が強い。人口一四〇〇万のバルトバッフェルには、七万一〇〇〇人の警察官、一四万八〇〇〇人の治安部隊隊員、一万二〇〇〇人の武装憲兵がいた。過剰なほどに充実した治安組織は、「反民主組織」として解散命令を受けた。その間隙に入りこんだのが犯罪者であった。

 

 バルトバッフェルLDSOはすべてを更地にした後に、民主的な警官だけで構成される新警察を建設し、民主的な軍人だけを同盟軍に編入しようと考えた。その判断自体は間違っていない。帝国人警察官にとっては、拷問は一般的な尋問手段であり、市民から金品を脅し取るのは公認された権利だった。帝国人軍人は民間人を犠牲にするのを悪いと思っていなかった。同盟だったら懲戒免職を食らうような人物は掃いて捨てるほどいる。こんなのをそのまま雇うなんて無理だ。

 

 旧組織の解体という判断自体は正しかったが、それ以外は完全に間違っていた。新組織の核となるべき警察幹部や将校が公職から追放された。収支バランスにこだわるあまり、予算の支出を嫌がった。再訓練に必要な人材を確保しようとしなかった。そのため、新組織の建設はまったく進んでいない。LDSOや同盟企業は傭兵を雇って身を守る有様だ。

 

 解放前より良くなった点としては、身分制の撤廃、言論規制の撤廃、政治犯の釈放、貿易の完全自由化、女性や障害者を対象とした積極的差別是正措置の導入、そして食糧不足の解消があげられる。ただし、食糧不足については、バルトバッフェルLDSOの手柄ではない。軍が流通ルートを守っているおかげだ。

 

 結局のところ、バルトバッフェルLDSOは住民を自由にする代わりに、生活難をもたらした。シュパルでもこういった問題はあるものの、バルトバッフェルほど酷くはない。

 

 どちらのLDSOが有能かと聞かれたら、一〇〇人中九八人はバルトバッフェルLDSOに軍配をあげるのではないか。スタッフには一流の人材が揃っている。カミロ・アギーレ代表は、「七九〇年代の一〇大奇跡の一つ」と称されるガンジスシステムズ再建の立役者だ。各惑星のLDSOは立派な建物に事務所を構えたが、バルトバッフェルLDSOの事務所は廃ビルを修復して使った。

 

 一方、シュパルLDSOは実績のない人ばかりだった。代表のマオ博士は温厚だが実務能力に欠けた。

 

 LDSOは民主化を最優先事項にあげる。彼らに言わせると、税金を使うのは将来に禍根を残すことで、行政機構や公務員は減らすべき金食い虫に過ぎず、独占的な公営企業は自由競争を阻害するし、個人の自由を圧迫する治安機関など存在すべきではない。何よりも自由を優先するのがハイネセン主義なのだ。

 

 優秀なバルトバッフェルLDSOは短期間で行政機構を破壊した。無能なシュパルLDSOは結果として行政機構を温存した。

 

 他の惑星も似たような状況だ。行政改革は行政機能の低下を引き起こし、経済改革は経済を混沌に陥れ、治安機関の解体は治安悪化を招いた。人々は自由とパンを得た代わりに仕事と安全を失った。

 

 こんな状況でもLDSOの支持率は高い。どの惑星でも九五パーセント前後を保っている。バルトバッフェルLDSOはなんと九六・三パーセントだ。俺が独自で調査した数字だから、情報操作がはたらく余地はない。食糧供給と支配階級排撃が支持されてるのだろうか。

 

「食糧が生命線だな」

 

 俺はそう結論づけてマフィンを二個食べた。食糧が供給されてる間は、住民はLDSOと同盟軍を支持する。食糧の流通ルートだけは最優先で確保しよう。

 

 もっとも、食糧だけに頼り切るのは危険だ。インフラや治安の悪化を喜ぶ住民はいない。俺は工兵部隊に電気網や水道網の修復、衛生部隊に医療支援、通信部隊に通信網の修復、犯罪多発地域の部隊にパトロール強化を命じた。

 

「軍隊がしゃしゃり出るのはまずくないですか? 民間経済を阻害することになりかねません」

 

 作戦参謀メッサースミス大尉が異議を唱えた。士官学校戦略研究科出身者の間には、LDSOの改革を支持する空気が強い。

 

「民間経済なんてどこにある? 企業が活動できる状態じゃないだろう」

「我々の仕事は環境を整えるまでだと考えます」

「俺たちの仕事は治安維持だ。管区内の安定を優先しないと」

 

 それだけ言って、俺は話を打ち切った。戦略研究科で教えるハイネセン学派の学問は、自由を与えればうまくいく下地があるのを前提としている。銀河広しといえども、そんな下地があるのは、同盟中央宙域(メインランド)の大都市圏とフェザーンぐらいだろう。

 

 端末から呼び出し音が鳴った。発信者欄を見ると、バルトバッフェルのボンガルト州を統括するグロージャン地上軍大佐だ。

 

「こちら、フィリップスだ。何があった?」

「ボンガルト同性愛者センターの工事現場で爆発が起きました。多数の死傷者が出ています」

「これで三件目か」

 

 俺は拳をぐっと握りしめた。現地人保守層は同性愛者の権利擁護に反発している。テロを辞さない者も存在する。ルドルフがばらまいた偏見は今もなお健在だ。

 

 同盟では問題にならない肌の色が、解放区では大きな問題になった。旧皇帝領や旧貴族領ではゲルマン系以外は劣等人種だと教育する。白い肌の者はゲルマン系に見えないこともないが、黒い肌の者や黄色い肌の者は明らかに違う。現地人は露骨に軽蔑の視線を向けた。現地人が黄色い肌の同盟軍人に注意されたことに逆上して銃を抜いたり、黒い肌の同盟軍人が現地人の罵詈雑言に耐えられなくなって殴ったり、肌の色に絡んだトラブルが各地で起きている。

 

 ブラウンシュヴァイク公爵は現地人の偏見を最大限に活用した。劣悪遺伝子排除法の厳格化はその一端だ。また、ラグナロック作戦を「奴隷が優等人種を支配しようとする陰謀だ」と吹聴し、シトレ元帥、ウランフ中将、ヤン中将、ホワン議員など色のついた肌を持つ同盟要人の写真を使って恐怖心を煽る。LDSOが推進する老人福祉や障害者福祉を「弱者を生かして帝国社会を弱める陰謀」、同性愛者の権利擁護を「同性愛を流行させて優等人種の血を絶つ陰謀」と決めつけた。ブラウンシュヴァイク公爵は治安情報部門の出身だ。このような煽動はお手の物なのである。

 

 同じ頃、フェザーンのゴシップ誌が、ローエングラム元帥と腹心のキルヒアイス大将が同性愛の関係にあるとの記事を掲載した。ローエングラム元帥とキルヒアイス大将が二人が同居している事実、ローエングラム元帥がその美貌にも関わらず女性と交際しない事実などを指摘し、ローエングラム元帥がキルヒアイス大将の髪を触っている写真を載せ、「二人の美しい若者のベッドシーンが目に浮かぶようだ」と締めくくった。ブラウンシュヴァイク公爵が仕掛けたと噂される。

 

 解放区を舞台に、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの亡霊とアーレ・ハイネセンの亡霊が抗争を繰り広げていた。




本話終了時点勢力図

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第62話:人を使い心を握る 798年9月~11月27日 ヴァナヘイム~惑星ヘルクスハイマー

 七九七年九月、本国からの増援が前線に到達した。艦艇二五万隻、将兵六〇〇〇万人まで膨れ上がった同盟軍の再攻勢が始まった。

 

 艦隊戦力で劣る帝国軍は会戦を徹底的に避けた。主要航路と有人星系の艦隊基地を無人星系に移すことで、会戦を強要されないように仕向ける。数十隻から数百隻の小艦隊による一撃離脱戦法を採用し、輸送船団の襲撃、惑星間ミサイルによる地上攻撃などを行う。戦力が少ない上に、主要航路や有人星系から離れた場所に拠点を構えており、簡単には捕捉できない。

 

 同盟軍は輸送船団の護衛戦力を増強すると同時に、小兵力のパトロール部隊をばらまいた。ある部隊が敵を発見すると、周囲の部隊が集まって袋叩きにする。対海賊戦術と同じ要領だ。一〇〇〇隻単位での戦いはほとんどなくなり、数十隻単位から数百隻単位の小戦闘が続発した。

 

 宇宙戦が小規模化するのに対し、地上戦は大規模になっていった。一般には宇宙軍が主で地上軍が従と言われるが、本来は地上軍が主だ。帝国軍は地上戦に自信があったし、同盟軍は地上を制圧して無人星系の宇宙軍を孤立させようと考えた。かくして陸と海と空のあらゆる場所が戦場となった。九月から一〇月の間に同盟軍地上部隊が被った損失は、戦死者・行方不明者二〇万人、戦傷者八〇万人にのぼる。

 

 一〇月に入ると、同盟軍の攻勢は再び停滞した。航路警備や地上戦に戦力を割いたために、前進できる余裕がなくなったのだ。

 

 俺は一つの有人星系を含む一二星系を制圧し、敵の小規模基地一五か所と中規模基地六か所を破壊したが、ダッケンハイム星系で戦力不足に陥った。ウランフ中将が第一統合軍集団の全部隊に攻勢中止を命じたため、カルシュタット星系まで退いた。

 

 攻勢中止命令の翌日、俺はカルシュタット星系警備隊司令官及びフラインスハイム星域軍前方展開司令官の辞令を受け取った。フラインスハイム星域軍とは、ホーランド少将が率いる軍級統合部隊である。俺はその最前衛を担うことになったのだ。

 

 カルシュタット第五惑星ヘルクスハイマーに、星系警備隊及び前方展開部隊の司令部が設置された。この惑星はカルシュタット星系唯一の有人惑星であり、一三〇〇万人が住んでいる。先月までは帝国領カルシュタット星系の首星だった。気候は温暖、水と植物資源に恵まれており、俺が生まれ育った惑星パラスを思い起こさせる。

 

 一〇月下旬、司令部で警備隊幹部会議が開かれた。管轄区域全体に散らばった幹部が一同に会するのは難しいので、テレビを通して参加する。今日の議題はテロ対策だ。

 

 解放区全域で同盟軍に対するテロが激化した。路上に仕掛けられた爆弾は、補給路に効果的な打撃を与えた。航空機やヘリコプターを狙ったミサイル攻撃、軍の車列に対する待ち伏せなどは、テロというより軍事作戦だ。九月中にテロの犠牲となった同盟軍人は二〇〇〇人を超えた。

 

 秋になってからは、同盟軍人以外も狙われている。解放区民主化支援機構(LDSO)職員、民間企業社員、ジャーナリスト、NGO職員など解放区で活動する同盟人は、誘拐や殺害の対象となった。LDSO事務所や同盟企業の支店を狙った爆弾テロが相次いだ。

 

 テロリストは現地人を容赦なく襲う。現地人臨時政府の幹部や職員が殺された。行政機関、警察署、病院、電力施設、水道施設、交通施設が次々と爆破された。武装集団が自治領から移住してきた非ゲルマン系の居住区を襲った。こうしたテロは民衆を巻き添えにすることが多い。一か月で三万人近い犠牲者を出した。

 

 ヘルクスハイマーのテロは、民間人や現地人を狙った無差別テロが中心だ。軍人を狙ったテロにしても、待ち伏せやミサイル攻撃はほとんど無く、軍人が利用する民間施設を民衆もろとも爆破するケースが多い。

 

 帝都陥落から半年が過ぎ、兵士は戦う意味を見失いつつある。いつになったら戦いが終わるのか? なぜ現地人のために戦わなければならないのか? なぜ十分な支援を受けられないのか? これらの問いに「いつテロリストが襲ってくるのか?」が加わった。

 

 緊張感に耐えられない兵士が続出した。過剰防衛に走って現地人を撃つ者もいれば、何もかもが怪しく思えて過剰な取り締まりを行う者もいる。

 

「取り締まりを強化しよう」

 

 さんざん話し合った結果、いつもと同じ結論に到達した。出席者のほとんどが正規戦の専門家である。何人かは海賊と戦ったことがあるが、対海賊作戦と対テロ作戦は別物だ。俺はテロリストを迎撃した経験はあっても、テロリストを摘発した経験はない。要するに誰も対テロ作戦を理解していなかった。

 

 会議が終わった後、俺は対テロ作戦マニュアルを開いた。統合作戦本部が本国での作戦用に作ったマニュアルを、遠征軍総司令部が解放区での作戦に使えるようアレンジしたものだ。

 

 冒頭では「最小戦力、最小費用、最大速度、最小損害、最大戦果」の「五M」を掲げる。これは統合作戦本部長シトレ元帥が提唱する理念だ。

 

 対テロ作戦を実施するにあたっては、要塞化された大規模拠点を設ける。パトロール部隊がテロリストを見つけたら、拠点から本隊が出撃して迅速に撃滅する。作戦が終了したら本隊はすぐに拠点に戻る。戦力の集中運用と堅固な防御体制が柱だ。

 

 第一三艦隊はこのマニュアルに基づいて大戦果をあげた。司令官ヤン中将が戦略を練り、陸戦隊司令官シェーンコップ准将が指揮をとり、ほとんど損害を受けずにテロリストの死体を量産した。

 

 マニュアルの効果は二人の名将が証明済みだ。きっちり読みこめば、無能な俺でも多少の戦果をあげられるのではないか。そう思って隅から隅まで読んだ。暗記できそうなくらいに読んだ。それなのに妙案が浮かんでこない。

 

「やっぱりわからないな」

 

 それが俺の出した結論だった。読むだけで作戦をマスターできたら、誰だって名将になれる。要領を掴んだ時に知識は生きてくる。そして、俺のような凡才は経験を積まないと要領を掴めない。

 

 俺は司令官室に戻ると、ファルストロング伯爵に通信を入れた。オーディンを離れた後もしばしば相談に乗ってもらっている。

 

「――以上がヘルクスハイマーの情勢です。ご意見をお聞かせください」

「貴族か治安機関員の仕業じゃな」

「軍人の可能性は無いのですか?」

「無い」

 

 ファルストロング伯爵はきっぱりと言い切る。

 

「なぜそのようにお考えになったのですか?」

「貴族は家業で支配者をやっておる。それゆえ、相手を屈服させられるかどうかを基準に考えるのじゃよ。無関係な者を巻き込むのは望むところ。血が流れば流れるほど恐怖も大きくなるでな。治安機関も同じように考える。支配者と同じ目線に立たねば、秩序は維持できぬ。じゃが、軍人は違う。あやつらは敵と味方をはっきり分ける」

「なるほど、納得しました」

 

 さすがは元帝国政府高官だ。敵が無差別テロに走る理由を解き明かしてくれた。

 

「卿らのマニュアルは貴族相手には通用せんぞ」

「どういうことです?」

「貴族は損害など気にせん。死体をいくら積み上げたとて何の意味もない」

 

 ファルストロング伯爵は、「味方の流血を回避し、敵を効率的に撃滅する」という対テロ作戦マニュアルの核心を否定した。

 

「死者の中に自分が含まれるとしても、気にしないでいられるのでしょうか?」

「わしの言ったことを忘れたかね? 自分だけは特別だと考えるのが、貴族の貴族たるゆえんじゃよ」

「そういえばそうでした」

 

 俺はファルストロング伯爵から教えられた貴族気質を思い浮かべる。自分だけは特別だと考えており、見栄っ張りで競争心が強く、絶対に負けを認めない。前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ギャラクテック・ヒーローズ』や『獅子戦争記』に登場する駄目貴族そのものだ。

 

「貴族はしぶとい。特別でない自分には価値が無いと思っとるでな。特別で居続けるためには何でもする」

「特権意識はマイナスだけじゃないんですね」

「兵隊を並べて戦うのには向かん。だが、誰が敵で誰が味方かわからんような戦いには強い」

「乱戦になればなるほど力を発揮すると」

「テロ要員なんぞいくらでも調達できるしな。民主化とやらのおかげで、帝国人は失業する自由と貧乏する自由を享受するようになった」

「返す言葉もありません」

 

 LDSOの民主化政策は一〇億人の失業者を生み出した。金次第で何でもする人間が解放区に溢れている。逮捕されたテロリストのほとんどが金で雇われた失業者だった。

 

「言っとくがな。平民は貴族を憎んでるという前提で動くと痛い目を見るぞ」

「心得ておきます」

「嘘を言うな」

「申し訳ありません」

 

 ファルストロング伯爵と話すたびに「平民は貴族を憎んでいない」と言われるのだが、今いちピンと来ない。戦記の中では貴族と平民は相容れない存在だった。それを覆されるような経験もしていない。

 

「構わんよ。わしは馬鹿は嫌いではないからな」

「ありがとうございます」

 

 俺は頭を下げられるだけ下げる。鼻で笑うような声が聞こえたが、まったく気にならなかった。生まれながらの貴族には尊大な態度こそ似つかわしい。

 

 

 

 俺はワイドボーン准将らトリューニヒト派参謀七名と連絡をとった。二年前の対テロ総力戦を指導し、当時のトリューニヒト国防委員長が失脚すると同時に左遷された面々だ。シトレ流のマニュアルが貴族に通用しないのなら、別系列の戦略思想を持つ人々に頼る。

 

 七分割された画面に現れた参謀七名にヘルクスハイマーの資料を送り、ファルストロング伯爵から聞いた話を自分の考えとして伝えた。名前を出さないのは伯爵との約束だ。

 

「一週間でお願いできますか?」

「まかしとけ! クソ爺やヤンには思いつかないような策を立ててやるからな!」

 

 部屋の中にワイドボーン准将の高笑いが響く。俺は慌てて端末の音量を下げる。やる気を出してくれるのは良いが少々不安だ。念のために『大帝逸話集』や『黄金律』など、帝国を理解するには欠かせない本を一〇冊ほど電子書籍ファイルとして送った。

 

 翌日、俺は警備隊幕僚会議を招集した。半数は第三六機動部隊の幕僚、残り半数は地上軍や陸戦隊の軍人である。彼らは対テロ作戦のプロではないが、何かのヒントになるだろうと思い、幕僚たちにファルストロング伯爵の話を自分の考えとして聞かせた。

 

 五日後、ワイドボーン准将から一冊のファイルが送られてきた。対テロ総力戦で使ったマニュアルをベースにしており、無差別テロへの対策に特化させた内容だ。

 

「どうよ?」

 

 ワイドボーン准将は得意気に胸を張る。

 

「期待以上です。助かりました」

「毎日明け方までテレビ会議やったからな。後はそちら次第だ。絶対に成功させろよ」

「心得ています」

 

 俺は表情を引き締めた。ワイドボーン准将らが託したのは作戦の成否だけではない。復権を賭けているのだ。

 

 カルシュタット星系警備隊は、ワイドボーン准将らが作った案を元に対テロ作戦を進めた。集中運用していた戦力を薄く広く分散する。民政への不介入方針を改め、LDSOを通さずに臨時政府や住民と直接協力できる体制を築く。親同盟派住民に武器を与えて自警団を結成させる。先制攻撃から広域防衛への大転換だ。

 

 正規戦用の重装備は対テロ作戦に向いていないため、フラインスハイム星域軍に軽装備を調達するよう依頼した。しかし、司令官ホーランド少将の関心は敵正規軍との戦いに向いていた。結局、要求の半分しかもらえなかった。

 

 警備隊員は正規戦に習熟していたが、市街地をパトロールしたり、住民と協力したりするような任務には慣れていない。帝国語を話せる者が少なかったのもあって、しばしば住民との間でトラブルが起きた。

 

 様々な問題にも関わらず、三週間で新戦略の効果が現れた。未然に防がれたテロの数が増加し、犠牲者は減少に転じている。

 

 良いニュースに飢えていたマスコミは、カルシュタット星系警備隊のささやかな成功に飛びついた。改善に向かい始めただけなのに、テロリストが根絶されたかのように吹聴し、俺を対テロ作戦の名将と持ち上げる。

 

 この作戦をきっかけに「フィリップス提督は帝国通だ」との評価が定着した。最近はアドバイスを求めに来る人もいる。ファルストロング伯爵が「今さら手柄などいらぬわ」と言って表に出てくれないので、俺の評価ばかりが高まった。

 

 ワイドボーン准将らが作った新戦略も注目された。特に右派からの注目度が高い。新戦略は軽装備の大部隊を必要とするため、軍拡主義者にとって格好の宣伝材料になるのだ。トリューニヒト下院議長は「遠征軍は新戦略を採用すべきだ」と語り、ラロシュ統一正義党代表が「この調子でテロリストを皆殺しにしろ!」と吼えるなど、右派有名人から次々と好意的な意見が寄せられる。

 

 俺やワイドボーン准将の評価は高まったものの、部隊全体としてはマイナスかもしれない。隊員は不慣れな任務で心身を消耗した。対テロ作戦に戦力を投入しすぎたせいで、敵正規軍との戦いが疎かになっている。

 

 ホーランド少将はダーシャをヘルクスハイマーに派遣し、「対テロ作戦を縮小し、正規戦を拡大せよ」とのメッセージを伝えてきた。

 

「エリヤの部隊は正規戦向けの編成だってことを忘れないでね。これは私個人の意見だけど」

 

 最後にダーシャはそう付け加えた。彼女も正規戦志向なのだ。

 

「もう少し時間をくれないか。あと二か月あればテロを半分に減らせる」

「今月中にせめてマイカンマーは落としておきたいの」

「星域軍だけじゃ苦しいだろう。増援が来るまで足元を固めた方がいいんじゃないか?」

「増援を待ってたら、何か月先になるかわからないよ」

「どこにも余剰戦力なんていないしな」

 

 俺とダーシャは顔を見合わせた。前線部隊には手持ちの戦力をやりくりするしかできない。本国政府が増援を送ってくれないと、どうしようもないのだ。

 

 本国では遠征消極派が増援を減らそうと頑張っていた。統合作戦本部長シトレ元帥は「補給上の困難」、レベロ財政委員長は「財政負担の抑制」、ホワン前人的資源委員長は「労働力不足」を理由にあげる。どれも厳然たる事実なので、論理的な反論は難しい。

 

 遠征軍上層部は増援要請に消極的だ。「おとぎの国のアンドリュー」こと総司令部参謀フォーク少将は、馬鹿の一つ覚えのように「戦力は十分だ」と繰り返す。第一統合軍集団司令官ウランフ中将、第一三艦隊司令官ヤン中将らも増援要請に反対している。推進派と消極派が揃って消極的な理由はわからない。

 

 もっとも、総司令部は本気で十分だとは思ってないらしく、別のルートから戦力を集めた。傭兵を増員したのである。

 

 現代の傭兵は「民間警備会社」を称し、民間船の護衛、ボディーガード、警備活動、兵站支援など軍事的な業務を請け負う。退役軍人や元警察官といったプロを必要な時だけ雇えるのが魅力だ。地方政府や民間企業を主な顧客としてきたが、レベロ軍縮以降は正規軍の補完戦力としても機能するようになった。

 

 遠征軍総司令部と契約した傭兵は九月初めには五〇〇万人だったが、一一月中旬には九〇〇万人まで膨れ上がった。その大半が後方警備や兵站支援を担っている。戦史を紐解いても、これほど大勢の傭兵が一度に投入された例はない。

 

 シトレ元帥は警備や兵站の民間委託に取り組んできた。金のかかる正規軍を減らし、民間企業に任せられる部分を任せるのが軍縮派の最終目標だ。今回はその試金石になるだろう。

 

 治安が悪化するにつれて、民間人の間でも傭兵需要が高まった。重武装の警備員がLDSOや同盟企業の拠点を守った。屈強なボディーガードが亡命者政治家や親同盟派有力者を取り巻いた。臨時政府に雇われた傭兵部隊が市街地をパトロールした。

 

 今や解放区は傭兵の楽園だ。同盟軍やLDSOは同盟人傭兵しか雇わなかったが、民間人にはフェザーン人傭兵や帝国人傭兵を雇う者が少なくない。貴族と契約していた傭兵部隊が同盟企業に雇い主を変えたり、降伏した帝国軍部隊が傭兵部隊に看板替えしたりするケースもあり、相当な数の帝国軍兵力が傭兵として取り込まれた。

 

 前線部隊は解放区の親同盟派住民を民兵として組織した。九月から一一月までの二か月で民兵は四〇〇〇万人から一億一〇〇〇万人に急増している。もっとも、編成が完了した部隊は三〇パーセントから三五パーセント、訓練が完了した部隊は一二パーセントから一四パーセントと言われており、ほとんどは自警団の域を出ない。戦力不足のために訓練担当者を確保できないのだ。

 

 グレーゾーンの裏技も使った。俺はカルシュタット星系に住む元帝国軍将校と接触し、民間警備会社を設立する手助けをした。反体制派以外の将校は公職追放対象であるため、ダミーを役員、将校と旧部下を従業員とする。そして、カルシュタット臨時政府にその会社と契約させる。こうすれば、プロの将校と兵士が簡単に手に入るのだ。他にも同じことをしている司令官がいるらしい。

 

 同盟軍は戦力を欲した。帝国軍を打ち破るための戦力ではなく、解放区を維持するための戦力を求めた。今や治安維持は帝国軍との戦いに勝るとも劣らない課題となっていたのである。

 

 

 

 解放区ではLDSOが民政、同盟軍が治安を分担する。名目上は現地人臨時政府が統治者なのだが、同盟の資金と軍事力に依存しているため、LDSOと同盟軍に頭が上がらないのだ。

 

 LDSOは国務委員会の下部組織、軍は国防委員会の下部組織にあたる。解放区は法的には同盟領ではないので、外交を担当する国務委員会の管轄になるのだ。こうしたことから、LDSOと軍は厳格な住み分けをしてきた。軍が少しでも民政に踏み込んだらLDSOの猛抗議を受けるし、LDSOが少しでも治安に踏み込んだら軍が猛抗議するといった具合だ。

 

 住み分けてると言っても、お互いを完全に無視して動くわけにはいかない。そのために開かれるのが司令官とLDSO代表の定例会談である。

 

「行くか。気は進まないけど」

 

 俺は公用車に乗った。門閥貴族が好みそうな馬鹿でかいリムジンだ。周囲には黒塗りの車が何十台も付き従う。何も知らない者が見たら大貴族様の行列に見えるかもしれない。

 

 貴族趣味がない俺が大行列を組んだのは、ファルストロング伯爵のアドバイスによるものだ。

 

「帝国社会は外見で身分がわかるようになっておる。飾り立てねば軽く見られるぞ」

「ローエングラム元帥は質素ですが、みんなに尊敬されてますよ」

「あれは絶世の美男子だ。ボロを着ていても王侯貴族より偉そうに見える。卿にあれほどの美貌があるのか?」

「俺が間違っていました」

 

 こうしたやり取りがあって、柄にもなく大行列で動くことになった。見栄えを整えるのも仕事のうちである。

 

 やがて四階建てビルの前に到着した。どう見ても廃ビルにしか見えないが、カルシュタットLDSOの事務所である。接収されても誰も困らないようなビルを選んだという。

 

 車を降りて部下とともにビルへと入る。右隣に色っぽい副官コレット大尉、左隣に威厳に満ちた第三六機動部隊副参謀長イレーシュ中佐を従える。逞しい長身とゲルマン的な風貌を持つ陸戦隊員が周囲を固めた。帝国人好みの美男美女を従えることで、偉そうに見せる作戦だ。

 

 やがてノエルベーカー代表の執務室へとたどり着いた。室内にはスチール製のデスクと棚以外は何もない。床も壁もコンクリートがむき出しだ。清廉もここまで来ると行き過ぎに思える。

 

 グレアム・エバード・ノエルベーカー代表は、俺より三歳上の三三歳。最高評議会書記局からLDSOに出向してきた。国立中央自治大卒のエリート官僚だが、弱きを助け強きをくじく性格が災いして昇進が遅れたという。『レジェンド・オブ・ギャラクテック・ヒーローズ』に登場すれば、間違いなく良い役をもらえる人物だ。

 

「フィリップス提督、今日は――」

 

 何の前置きもなしにノエルベーカー代表は本題に入る。彼にとって社交辞令は時間の無駄でしかない。

 

「その件ですが、小官としては――」

 

 俺も単刀直入に話す。ノエルベーカー代表が軽く顔をしかめた。

 

「予算を増やせと言うのかね?」

「はい。この惑星に足りないのは予算です。インフラを整備するにも、公共サービスを充実させるにも、失業者を減らすにも予算がいります」

「自分が何を言っているのかわかっているのか?」

 

 ノエルベーカー代表の目から熾烈な輝きがほとばしる。

 

「わかっているつもりです……」

 

 背中に冷や汗が流れた。完全に気圧されている。人としての格が圧倒的に違う。シェーンコップ准将と同格、あるいはそれ以上かもしれない。

 

「対症療法的に予算を注ぎこむだけでは意味がない。一〇〇年先を見据えた戦略を立て、公正なルールを作り、恒久的かつ持続可能なシステムを構築する。それが効率的な予算の使い方というものだ」

「小官は一〇〇年先ではなく今日の話をしています」

「君の言う通りに金を出して乗り切ったとしよう。明日はどうする? 明日を乗り切ったら明後日は? 明後日を乗り切ったらその次は? ずっと金を出し続けるのかね。金を与えるのではなく、金の稼ぎ方を教える。手を引いて歩かせるのではなく、一人で歩けるようにする。それが政治の仕事ではないか」

 

 ノエルベーカー代表は顔を少しだけ左に向けた。壁に「魚を与えるな、魚の取り方を教えよ」という標語が貼られている。レベロ財政委員長の名言だ。

 

「お言葉ですが、彼らにとっては自立より今日の生活が優先事項なのです」

「それはわかっている。だが、求められるがままに与えるのは政治とは言わないぞ。ただの甘やかしだ。良薬は口に苦しという。憎まれてでも誰かが苦い薬を飲ませねばなるまい」

「街には失業者があふれています。犯罪やテロが人々を脅かしています。甘い薬を飲ませて不安を取り除くのが先決ではないでしょうか?」

「人々はわかってくれている。支持率は九八パーセントを超えた。貴族への怒り、そして変革を望む気持ちが我々を後押ししているのだ」

「そ、それは……」

 

 俺は言葉に詰まった。カルシュタットLDSOの施政は明らかに失敗してるのに、支持率は異常なまでに高い。どの解放区にも共通する現象だ。

 

「フィリップス提督。君が思っているほど人間はエゴまみれではない。もっと人間の可能性を信じろ」

 

 ノエルベーカー代表の瞳には自己陶酔や狂信はひとかけらもない。優しくて温かな理性だけが宿っていた。

 

 執務室を出た後、俺は大きく息を吐いた。これほど立派な人がどうしてむちゃくちゃな政治をするのか? どうして住民が支持しているのか? 世の中には理解できないことだらけだ。

 

 カルシュタット星系にある三つの有人惑星は死にかけていた。物価は倍以上に跳ね上がり、停電や断水が頻繁に発生し、役所は人手不足で機能しておらず、有力企業が解体されたために経済システムは混乱した。治安の酷さは言うまでもない。食糧価格は下がったが、差し引くと大きなマイナスだろう。

 

 これらのすべてをノエルベーカー代表とその部下に帰するのは、アンフェアかもしれない。物不足、インフラの劣化、公共サービスや経済システムの混乱は、カルシュタットが解放される以前から起きていた。

 

 ノエルベーカー代表の問題点は何かをしたことではなく、何もしなかったことにある。進行中のあらゆる問題に対して手を打とうとせず、ひたすら政策や法律を作り続けた。帝国の行政官が破綻を防ぐためにやっていた努力を放棄した。綻びつつあったカルシュタットは破綻へと全速で接近している。

 

 疲れる打ち合わせの次は住民との交流会だ。新戦略を採用してからは、LDSOや臨時政府を介さずに直接住民と接触するようにしている。

 

 今日は狭い会場に三〇人ほどの住民が集まっていた。参加者が多すぎると一人一人と対話できない。強い印象を与えるにはこれぐらいがちょうどいいのだ。

 

「お役人に『帝国軍は解体したから恩給は出ない』と言われまして。命がけでお国のために働いてきたのに」

「仕事がなくて困っとります」

「強盗がうろついてるせいで、店を営業できません」

「信号を早く直してもらえませんか」

「娘が三日前から帰ってこないんです」

「停電が本当に酷いんですわ」

「薬局に行ったら薬がないと言われまして。どうしたらいいんでしょう」

 

 誰もが切実な表情をしていた。俺の権限で解決できることなら、その場で携帯端末を取り出して関係部署に対処を命じる。できないことなら関係機関への手続きを代行する。これはトリューニヒト議長が身につけた一〇八の人心掌握術の一つだ。要望に素早く対処することで信頼を高めるのである。

 

 中には到底聞き入れられない要望もある。特に難しいのが差別関連だ。LDSOは自治領からの移住者を貴族から没収した土地に住まわせた。ゲルマン系住民から見れば、劣等人種が近所に引っ越してくるのも、土地が配分されるのも許せなかった。

 

「申し訳ありませんが、それは聞けません」

 

 そういう時はきっぱり断る。どっちつかずの態度は頼りなく見えるからだ。

 

「司令官閣下」

 

 五〇歳前後の中年女性が気まずそうに声をかけてきた。

 

「どうなさいました?」

「こんなこと、聞いていいんですかねえ?」

「知っていることなら何でもお答えしますよ。機密事項はお答えできませんが」

 

 俺は温かそうな笑みを向ける。

 

「年末に選挙というのがありますよねえ」

「ええ。皆さんが有権者として初めて臨まれる選挙です」

「誰に投票すればいいんでしょうか?」

「好きな候補者に投票してください」

「好きと言われましても……」

 

 中年女性は困ったような顔になる。

 

「そんな難しいことではありません。いいこと言ってるなあとか、真面目そうだとか、優しそうだとか、そんな理由でいいんです。あなたがお殿様になってほしい人を選んでください」

「司令官閣下になっていただきたいんですが」

「私は軍人です。お殿様にはなれません」

「では、司令官閣下は誰をお殿様にしたいんですか?」

「私の決めることではありませんよ」

「困ってるんです。前のお殿様なら正解を教えてくれるのに。今のお殿様は何も教えてくれないじゃないですか」

「…………」

 

 俺は絶句した。中年女性は今回の選挙を「同盟軍が選んだ人物に対する信任投票」と思い込んでいる。

 

「私も気になってました」

「わしもですよ」

 

 次から次へと住民が寄ってくる。

 

「私は皆さんが選んだ人を支持します。ごまかしてるわけでも何でもありません。誰が殿様になっても忠誠を尽くすのが民主主義の軍人です」

 

 俺が建前論で逃げると、白髪の男性がビラを持ってきた。

 

「こういう人がなっても構わんのですか?」

 

 そのビラはルドルフ主義政党のものだった。政治に疎い住民でも、同盟軍がルドルフ的な主張を嫌ってるのは知っている。

 

「え、ええ! LDSOが認可した政党ですからね!」

 

 他に答えようがなかった。ルドルフ的な主張を憲章違反にならない範囲まで薄めた感じで、不快ではあるが遺法ではない。

 

「カール様が生きていらしたら、迷うこともなかったんじゃが」

 

 誰かがぽつりと漏らした。

 

「カール様を選べばすむからのう」

「知らん人が殿様と言われてもピンと来んよなあ」

「まったくだ。ヘルクスハイマーの殿様はヘルクスハイマー家でいいのに」

「御一族から選べと言われたらどうする?」

「グスタフ坊ちゃまかのう」

「マルガレータお嬢様がええなあ。あのお方はほんに利口じゃった」

 

 住民たちが旧領主ヘルクスハイマー伯爵家を懐かしんだ。ガチガチの共和主義者の前では彼らもこんなことは言わない。俺を「物分かりのいい殿様」と思ってるから言えるのだ。

 

 惑星ヘルクスハイマーの北半球は、六年前までヘルクスハイマー伯爵家の所領だった。最後の当主カールが同盟に亡命する途中で家族もろとも事故死したために取り潰された。カールはあまり評判の良くない人物だったらしい。それでも住民にとっては我らが殿様なのだろう。いろいろと考えさせられる。

 

 カルシュタット臨時政府の議長は、ヘルクスハイマー家の重臣だったアイゼナウアー氏だ。カール一家が死んで名跡廃絶になった後、旧臣はアイゼナウアー派とレムゴー派に分裂する。皇帝の代官を味方につけたレムゴー派が優位に立ったが、アイゼナウアー派は同盟軍を引き入れて逆転したのである。

 

 四世紀以上にわたって君臨してきた伯爵家の影響は大きい。住民は名君とは言い難い伯爵を追慕する。臨時政府議長は伯爵の重臣だ。

 

 貴族は解放区でも依然として影響力を持っている。各地の臨時政府には、旧領主の一族や家臣が多数参加している。現地人公務員には、門閥貴族の下で実務を担当していた帝国騎士や無称号貴族が少なくない。

 

 平民は貴族を憎んでいるという前提では、説明できない事象があまりに多すぎた。LDSOの異常な支持率、戦記が描いたラインハルトの平民人気や門閥貴族の不人気は、何に起因するのだろうか? 考えれば考えるほどこんがらかってくる。

 

「君はどう思う?」

 

 俺は司令部に戻ると、亡命者である情報部長ベッカー中佐に問うた。

 

「何がです?」

「LDSOが支持されてる理由だよ」

「支配者だからですよ」

「どういうことだ?」

「帝国人が支配者を批判できるわけ無いでしょう。支持しないなんて言ったら、憲兵か社会秩序維持局にしょっぴかれます」

 

 ベッカー中佐はいつもと同じ答えを返す。しかし、今日は説得力が違った。彼ではなくて俺が変わったのだろう。

 

「わかった気がする」

 

 俺はにっこり笑ってマフィンを食べた。

 

「真に受けんでください。冗談ですから」

「君は冗談に見せかけて本当のことを言うからな。シェーンコップ准将やファルストロング伯爵もそうだ」

「帝国の人間は用心深いんですよ」

「でも、室内に閉じこもってばかりなのは良くないな。この星に知り合いはいないだろう」

「万が一ということもありますから」

 

 ベッカー情報部長は帝国入りしてからほとんど外出していない。移動する際は窓のない装甲車両に乗り、帝国人とはまったく会わないという徹底ぶりだ。

 

 ただ、ヘルクスハイマーに来てからは少し違う。外出しないことに変わりはないが、警備隊隊員に頼んで風景写真を集めたり、特産のソーセージを買い込んだりしている。「ヘルクスハイマー出身なんじゃないか」と噂する人もいた。

 

「姪御さんが一人前になるまでは死ねないんだったな」

「身寄りがいませんのでね」

「事故で家族を亡くしたんだったか」

 

 俺はベッカー情報部長の姪の顔を思い浮かべた。写真でしか見たことがないが、上品な顔立ちの美少女だった。赤毛好きだったり、「帝国の友達に会いたいから」というロマンチックな理由で軍人を志望したり、結構な変わり者と聞いている。

 

「酷い事故でした」

 

 ベッカー情報部長はそう言って言葉を切る。踏み込んではいけないと悟った俺は、開いた口にマフィンを放り込んでごまかす。

 

 一一月二七日、本国政府が正規軍四〇〇万と予備役八〇〇万の増派を決定した。これまで送られてきた増援は一度につき五〇〇万から七〇〇万程度だった。その倍が送り込まれてくる。

 

 第一二艦隊と第五地上軍が正規軍の中核となり、第一艦隊、第二艦隊、第一地上軍、首都防衛軍、各地の即応部隊から抽出された兵力が加わる。この部隊は第一統合軍集団、第二統合軍集団、第三統合軍集団とともに帝国正規軍との戦いに投入される。宇宙艦隊副司令長官ボロディン中将が司令官となり、国防委員会高等参事官ラップ少将、国防委員会戦略部参事官アッテンボロー准将も加わる。レグニツァの英雄が肩を並べたことから、マスコミには「レグニツァ軍」と呼ばれた。

 

 予備役部隊は警備戦力だ。予備役から招集されたビュコック大将が行軍司令官、国防委員会戦略部長シャフラン大将とイゼルローン要塞司令官ジョルダーノ大将が行軍副司令官を務める。ワイドボーン准将、パリー少将、シャンドイビン准将ら対テロ総力戦で活躍したトリューニヒト派軍人が多数加わっているのが目を引いた。

 

 シトレ派やトリューニヒト派の参加については、「消極派をハイネセンから追い払いたいんだろう」とする見方と、「ロボス元帥を牽制させるためじゃないか」とする見方がある。口の悪い人は「潜在的なクーデター分子を排除したのさ」と言う。

 

 これだけの大規模増援が決定した背景には、一二月末に予定される解放区選挙を成功させたいという本国政府の思惑があった。帝国軍やテロリストによる選挙妨害を防ぎ、全銀河に民主主義の成果を示すつもりだ。

 

 ラパートのエルウィン=ヨーゼフ帝とレーンドルフのエリザベート帝は、「選挙を阻止せよ」との勅命を出した。領内で民主選挙を実施されたら、帝政の面目は丸潰れだ。何としても阻止したいところだろう。

 

 遠征消極派の間に「一月終戦論」なる主張が出てきた。一二月末の解放区選挙を民主主義の成果として、一月から和平交渉を始めようというのだ。このまま戦い続ければ、同盟も帝国も来年六月までに財政破綻する。両国首脳が妥協を求めるはずだと一月終戦論者は言う。

 

 遠征積極派はあくまで戦い続けるべきだと主張した。帝国は同盟より早く財政破綻するというのがその根拠だ。フェザーンが帝国の戦費を負担できなくなる可能性が出てきた。

 

 フェザーンで民主化運動が盛り上がっている。経済政策に抗議するデモが自治領主制の廃止と自由選挙を求める闘争へと発展した。各地で治安当局とデモ隊が衝突し、多数の死傷者が出た。ルビンスキー政権は崩壊の瀬戸際に立たされたのだ。

 

 三国の中で最もマシなのは同盟だろう。政情は落ち着いていて、経済は解放区ビジネスで潤い、軍事的には優勢だ。移民のおかげで人口が増えた。借金さえどうにかなれば逃げきれる。

 

 最も悲惨なのは帝国だ。政治的に分裂している上に、経済力と軍事力は大きな打撃を受けた。しかも、スポンサーのフェザーンは足元に火がついている。明るい材料といえば、ブラウンシュヴァイク派支配地の反体制派が、オフレッサー元帥の苛烈な攻撃を受けて半壊したことぐらいだ。天才ラインハルトは軍の再編に取り組んでおり、同性愛ゴシップ以外に世間を騒がせる材料がない。

 

 秋が終わり冬が始まろうとしている。銀河の混沌は深まるばかりだ。



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第63話:虚ろな勝利 798年12月~799年1月 カルシュタット星系

 一二月一〇日、解放区の五六三星系において地方首長選挙と地方議会選挙が告示された。宇宙暦三一八年にルドルフが議会を永久解散して以来、四八〇年ぶりの選挙となる。

 

 遠征軍総司令官ロボス元帥が各地の司令官に通達を送った。隠喩や内部用語が巧妙に散りばめられており、部外者が見ればごく無難な文章、軍関係者が見れば「自主自立党と自由共和運動に便宜を図れ」と受け取れる。反同盟的政党の進出を阻止したい国防委員会の意向に沿ったものだ。

 

 同盟軍は親同盟派を援助した。司令官や副司令官が特定候補への投票を呼びかけ、政策調整部員が選挙戦術を指導し、現地人民兵組織に票の取りまとめを命じ、選挙ビラの発行や配布を助けた。反同盟派は軍隊や民兵によって有形無形の妨害を受けた。同盟本国で同じことをすれば、間違いなく問題になっただろう。

 

 解放区民主化支援機構(LDSO)も選挙干渉を企てたが、同盟軍のような荒っぽいやり方はしない。様々な手段で選挙資金を流し、マスコミを使って親同盟派の良いイメージを広め、親同盟派首長の自治体に大規模投資を誘導する。文官らしいやり方と言えよう。

 

 解放区に選挙干渉の嵐が吹き荒れる中、一部の良識派が公正な選挙を実現しようとした。第一統合軍集団司令官ウランフ中将は、「特定の政党や候補者に肩入れしてはならない」との一文を添えることで、通達の空文化を狙った。第一三艦隊司令官ヤン中将は、特定候補への便宜供与にあたる行為を具体的に禁じた。カルシュタットLDSOのノエルベーカー代表は、選挙運動に関わる一切の支出を拒んだ。

 

 第一統合軍集団配下の司令官は、ロボス元帥とウランフ中将の間で板挟みになった。第一一艦隊司令官ルグランジュ中将もその一人である。

 

 心情的にはウランフ中将の原則論に傾いているが、親同盟派有力者の力が必要なのも分かっているため、容易に決心がつかない。幕僚チームの意見は真っ二つに割れた。困り果てたルグランジュ中将は俺のもとに通信を入れてきた。

 

「貴官はどう思う?」

「ロボス元帥の指示を優先すべきだと考えます」

「理由は?」

「まずは――」

 

 俺は帝国人の事大主義について説明し、「解放区住民は『誰に政治をして欲しいか』ではなく、『誰が強いか』という基準で投票する」との予測を述べる。ルグランジュ中将は納得し、第一一艦隊の管轄区域で選挙干渉が始まった。

 

 自治体ごとに「危機管理評議会」なる組織を作り、臨時政府首長を議長、臨時政府幹部や地元有力者を評議員とする。臨時政府幹部には親同盟派候補が多い。地元有力者枠には無官の親同盟派候補を押し込む。同盟軍と評議会はテロ対策の名目で会議を開き、同盟軍幹部と評議員は打ち合わせの名目で会談する。評議員には同盟軍人の警護が付く。

 

 従軍マスコミは危機管理評議会の動静を報じ、同盟軍と親同盟派候補が親密だとの印象を流布した。直接的な支援はウランフ中将の訓令に反する。しかし、公務での会議や会談までは禁止していないし、危機管理評議会のメンバーは「治安部門の要人」なので法律上の警護対象にあたる。こんなせこい作戦を思いつくのはもちろん俺だ。

 

 ウランフ中将は何も言ってこなかったが、快くは思っていないらしい。一方、ヤン中将はあからさまに嫌悪感を示していると聞く。俺と前世界の英雄たちは本当に相性が良くない。

 

 候補者は帝国人の事大主義を積極的に利用した。軍やLDSOの幹部と面会して親密さをアピールし、本国の大政党から推薦を貰い、現地人の権威主義に訴えかける。LDSOと同盟企業の金でテレビCMを大量に流す。政策論争はほとんど見られない。ジャーナリストのパトリック・アッテンボローは、「選挙戦というより宣伝戦」と皮肉った。

 

 このようなやり方を嫌う者は多い。第一三艦隊司令官ヤン中将は公務員法を盾にとって候補者との面会を拒んだ。レベロ財政委員長はイメージ選挙に終始する解放区政党を批判した。亡命者の英雄シューマッハ義勇軍大将は、自主自立党からの出馬要請を断り、同盟軍に正式入隊して宇宙軍少将に任じられた。

 

 投票日が近づくにつれてテロが激しくなった。候補者や選挙運動員が相次いで殺された。選挙事務所に爆弾を積んだ無人車が突っ込んだ。演説会場に突入した武装集団が銃を乱射した。選挙管理委員会のコンピュータがハッキングを受け、選挙資料のデータを消された。有権者は「投票したら殺す」という脅迫状を受け取った。候補者は同盟軍や傭兵に守られながら選挙活動を展開する。

 

 テログループには三つの系統があるそうだ。一つ目は貴族や治安機関職員を中心とするグループで、無差別爆弾テロを繰り返している。二つ目は軍人を中心とするグループで、同盟軍を狙ってゲリラ攻撃を仕掛ける。三つ目は現地住民を中心とするグループで、同盟人民間人や非ゲルマン系平民を執拗に狙う。

 

 無差別爆弾テロをするグループは、ヴァナヘイム、アルフヘイム、ミズガルズ、アースガルズに多く見られた。いずれもブラウンシュヴァイク派やリッテンハイム派の領域と接する地域だ。両派の支持層と無差別テロと好む層は重なる。

 

 ゲリラ攻撃をするグループは、ヨトゥンヘイム、アースガルズ、ミズガルズ、アースガルズに多く見られた。これらの地域はリヒテンラーデ派の領域と接する。昨年の夏頃からリヒテンラーデ派は急速に左傾化した。保守的なリッテンハイム派が離脱し、開明的なブラッケ派や旧皇太子派が加入したためだ。開明派は民衆を犠牲にする作戦を好まない。

 

 民間人を狙うグループは地域的な偏りが見られない。旧解放区全域で広がっている排外運動が過激化したものと思われる。ルドルフ原理主義組織「大帝の鞭」との関係を指摘する声もあった。

 

 同盟軍は敵正規軍への攻勢を強めるとともに、厳重な警備体制を敷いた。宇宙の正規軍を叩くことで地上のテロリストを孤立させる狙いだ。エル・ファシル七月危機で得た「正規戦力という幹が枯れたら、テロリストという枝葉も枯れる」「守りを固めれば、テロリストを押さえ込める」という戦訓を取り入れた作戦である。

 

 後者の戦訓のもととなった俺に言わせれば、的はずれな作戦だと思う。あの時は敵の側に時間制限があった。今回は違う。ワイドボーン戦略を用いて、テロリストの支持基盤そのものを叩くのが正しい。

 

 艦隊育ちの人は敵味方のはっきりした戦いに最適化されている。対テロ作戦をする際も正規戦の手法を応用しようとするのだ。

 

 本国政府は軍にテロリストを直接攻撃するよう求めた。正規軍を叩いてテロリストを孤立させるのは迂遠すぎるように感じたのだろう。

 

 やむを得ず同盟軍は対テロ作戦に切り替えた。地上部隊は少数精鋭の機動力を生かし、一か月で殺害したテロリストの数を大幅に更新する。宇宙部隊は宙域阻止行動と航路警備に力を注ぐ。これもまた正規戦の応用だ。

 

 俺はワイドボーン戦略を使って戦った。テロリストを何人殺しても、支持基盤が残っていては意味がない。それほど多くのテロリストを殺さなかったし、味方にも相応の損害を出したが、テロ成功率を低く抑えることができた。

 

 選挙の一週間前に本国からの増援が到着すると、同盟軍とテロリストの戦いはいっそう激しくなった。解放区全域が戦場と化したかのように思われた。

 

 一二月二七日の朝七時に投票が始まると、一〇三星系で投票所が襲撃を受けた。夜二一時に投票が終わるまでに、四三一星系でテロが発生し、軍人八〇〇〇人と民間人五万人が犠牲となった。それでも投票中止に追い込まれた選挙区は一つもない。投票率は六〇パーセントを越えた。

 

 第一党の座を獲得した星系が最も多いのは亡命者系の自主自立党、二番目に多いのは反体制勢力系の自由共和運動だ。開明派系で最も強い地盤を持つ前進党は三番手に留まる。その他の政党が第一党を獲得した星系もわずかながら存在した。ルドルフ主義政党が第一党となった星系もいくつかある。

 

 解放区選挙を総括すると、干渉が激しかった選挙区では自主自立党や自由共和運動が勝ち、弱かった選挙区では前進党やその他の政党が勝利した。最も干渉が少なかった第一三艦隊の管轄区域では、同盟への非加盟を公約する政党が勝った星系、事実上の福祉撤廃を公約する政党が勝った星系すらある。現地人が軍やLDSOの意向に左右されたのは明白だ。

 

 自主自立党のクリストフ・バーゼル幹事長は、同盟高官との交友関係を強調し、豊かな資金を派手にばら撒いた。その結果、党は空前の勝利を収めた。自らも八八パーセントという凄まじい得票率で当選している。

 

 対照的だったのが無所属のカラム・ラシュワン候補だ。亡命者ながらもレベロ財政委員長やシンクレア教授と並ぶ良識派の代表格で、被支配階級の心を誰よりも知るとされ、「アーレ・ハイネセンの再来」と呼ばれた。選挙においては軍やLDSOの支援を拒んだ。運動員はボランティアだけを使い、住民との対話集会を重ね、貧民街に立って演説を行う。まさしく民衆と共に歩もうとする政治家の姿だった。

 

 ところが、圧勝すると思われたラシュワンはあっけなく落ちた。定数六人の選挙区で立候補した一六人中、最下位というおまけつきだ。

 

 多少の計算外はあったものの、解放区選挙が大成功と言って良かった。本国市民は帝都が陥落した時に勝る喜びようだ。専制政治の本場で民主選挙を成功させた意義は果てしなく大きい。

 

 

 

 選挙の翌日、俺はLDSO顧問ファルストロング伯爵に通信を入れた。もちろん、選挙の感想を聞くためだ。

 

 いつものように一分きっかりでファルストロング伯爵が現れた。いつものように貴族服を隙なく着こなし、いつものように尊大な眼差しで俺を見下ろす。

 

「何の用だ」

「選挙についてご意見を伺いに参りました」

「つまらぬな」

「選挙には興味が無いのですか?」

「興味はあるぞ。わしも政治をやっておったでな。数世紀に一度あるかないかの政治的祭典、気にせずにいられるはずもない」

 

 ファルストロング伯爵は猛禽のような笑みを浮かべる。さすがは大物だ。俺なんかとはスケールが違う。

 

「では、何がつまらなかったのでしょう?」

「結果じゃよ。こうも予想通りに進むとな。少しは外れぬとつまらぬわ」

「ラシュワン氏の落選も予想なさってたのですか?」

「予想するまでもない」

「そうお考えになった理由をお聞かせ願えますか?」

 

 俺は恭しく頭を下げる。元門閥貴族が語るラシュワン落選の理由。大いに興味をそそられる。

 

「あんな貧乏くさい男、誰が支持するものか」

「奴隷出身ですが、人品の高貴さは比類ないですよ」

「あれは学者の面だ。権力者の面ではない。卿らの国では『金や権力なんかいりません』なんて面でも偉くなれるらしいな。だが、帝国は競争の国だ。無欲な奴など負け犬でしかない。負け犬を支持する者などおらぬ」

 

 実に明快だった。同盟的価値観ではラシュワンの無欲と清貧は輝いて見えるが、競争を是とする帝国的価値観では頼りないということだ。

 

「人心を理解するだけでは不十分なんですね」

「あの小僧は何もわかっとらんよ。平民は自由など求めておらぬし、貴族を憎んでもおらぬ。ただ強い者に支配されたいだけだ」

 

 ファルストロング伯爵にかかれば、同盟屈指の哲人も小僧扱いである。しかし、その後に続く言葉が納得できない。

 

「お言葉ですが、ラシュワン氏は奴隷として苦労なさった方です。支配される者の気持ちは誰よりも理解していると思います」

「卿らは貴族が世間知らずで、平民や奴隷が世慣れていると思いたがる。とんだ間違いじゃぞ。平民や奴隷には真実は知らされぬ。自分の仕事しか理解できず、自分の身の回り以外に目が行き届かないようにするのが帝国の教育じゃ。そうでなくば、少数の貴族が支配するなど能うべくもない。あの小僧は鉱山奴隷あがり。自分がいた鉱山以外のことは知らぬはずじゃ」

「ラシュワン氏は帝国社会を理解してないと?」

「あの小僧は亡命してから学問を始めた。結局のところ、亡命者の肩書きを持った同盟人インテリに過ぎぬ。そして、同盟人にとっての理想的なインテリじゃな。小僧の帝国論は正しいから受け入れられたのではない。卿らの耳に心地良いから受け入れられたのだ」

「心地良いですか。それは否定できません」

 

 俺はラシュワンの『沈黙は罪である』を読んだ時のことを思い出す。貴族と平民という二元論的な世界観が心地よく感じられた。前の人生で読んだ『レジエンド・オブ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『獅子戦争記』とまったく同じ世界だったからだ。

 

「帝国の価値観に染まった者の言葉など、卿らには不快以外の何ものでもなかろう」

「おっしゃるとおりです。伯爵閣下に勧められた本を読んでも、不快なだけでした」

 

 不快感を言葉にして吐き出した。帝国文化を理解しようと思い、ファルストロング伯爵から紹介された本を一〇冊ほど読んでみたのだが、不快でたまらなかった。どの本も適者生存と弱肉強食の思想が鼻につく。

 

 特に酷かったのは、テオドール・ルッツ博士が書いた『大帝逸話集』だ。題名の通りルドルフの逸話集で、障害者を優先席から引きずり出して勤労少年を座らせた話だの、精神病で入院した兵士を無理やり軍務に復帰させた話だのが、美談として収録されていた。こんな胸糞悪い本が二億部も売れたと聞くだけで嫌になってくる。電子書籍で読んで良かったと思う。紙の本だったらその場で破り捨てただろうから。

 

「わしらから見れば当たり前のことを書いとるだけなんじゃがの。その当たり前を卿らは不快に感じる。言葉は通じる。目と耳は二つある。鼻と口は一つある。手足は二本ずつある。大して変わり映えもせんのに価値観が違うだけで相容れん。人間とは面白いものであるな」

 

 ファルストロング伯爵の笑みからいつもの皮肉っぽさが一瞬だけ消える。俺は目を見開いた。

 

「驚きました」

「何がだ」

「閣下が人間は平等だとおっしゃってるように聞こえたからです」

「人は生まれつき平等だとか権利があるとか言われても、わしには理解できぬ。じゃが、貴族が大層なものでないことぐらいはわかっとるよ。貴族も平民も奴隷も等しくくだらぬ。くだらぬがゆえに面白い」

「貴族が偉いとは思ってらっしゃらないのですか?」

「帝国には表に出とらん歴史があってな。裏を知ってみると、貴族が偉いとは思えんかった。今になって思えば、それがオットーやウィルヘルムとの差じゃったな。わしは負けるべくして負けた」

 

 オットーとはブラウンシュヴァイク公爵、ウィルヘルムとはリッテンハイム公爵のことだ。目の前の老人はかつて帝国の巨頭と肩を並べる存在だった。

 

「俺の目には、伯爵閣下の器量はブラウンシュヴァイク公爵やリッテンハイム公爵を凌ぐように見えますが」

「真の歴史に触れた時、わしは虚無に陥った。オットーやウィルヘルムは前に進もうとした。どちらが上かは自明であろう。ニヒリストには何もできぬ。ただ謀を弄ぶだけだ。ロマンチストは恐れを知らぬ。それゆえに強い」

「何となくわかった気がします。俺も夢を見せてくれる人に従いたいですから」

 

 俺はヨブ・トリューニヒト下院議長を思い浮かべた。脇の甘いところはあるけれども、一緒に夢を見れるリーダーだ。

 

「大帝陛下は人類に夢をお見せになった。選ばれし者の楽園という夢だ。貴族は大帝陛下の実験じゃった。最高の遺伝子に最高の環境を与え、選ばれし者同士を競い合わせることで超人集団を作ろうとお考えになった。わしら貴族は夢を継ぐ者として育てられた。平民や奴隷は夢に奉仕する者として育てられた。帝国人はずっと大帝陛下の後を歩いているようなものじゃ」

「同盟人がハイネセン主義を信じているのと同じことでしょうか?」

「そうじゃな。卿らは肯定的にせよ否定的にせよ、アーレ・ハイネセンの思想を基本に考える。反ハイネセン思想もつまるところはハイネセンの息子に過ぎぬ。だから、帝国人をハイネセン思想で理解しようとする。支配する者と支配される者、貴族と平民という二元論でな。じゃが、帝国人は大帝陛下の思想を基準にする。強者と弱者という二元論じゃ。そこに卿らと帝国人のすれ違いが生じる」

「それはわかっています。わかっているのですが……」

 

 俺は軽く胸を抑えた。平民が自由ではなく服従を望んでいるのはわかる。わかっていても認めたくない。

 

 前の人生で過ごした同盟、バーラト自治区、ローエングラム朝銀河帝国という三つの国家は、自由を良しとして服従を否定する国だった。前と今を合わせて九〇年間信じてきた摂理が万能ではないと認めるのは、ここまで辛いものか。

 

「卿らは平民が不平等な身分制を憎み、平等を望んでいると考えるが、それは間違いだ。帝国人は強者が弱者の上に立つのは当然と考える。平民は貴族のくせに弱い奴を批判するだけだ」

「強い貴族なら平民は支持するのでしょうか?」

「当然じゃろうが。貴族対平民の構図など幻だ。平民は貴族でも奴隷でもない者の総称にすぎん。一枚岩となって貴族に対抗意識を燃やしたりはせぬ。『黄金律』を読めば理解できるじゃろうに」

 

 ファルストロング伯爵が言う『黄金律』は、複雑怪奇な帝国の身分制を整理した本だ。帝国社会学の基本文献だが、身分制を「永遠不朽の法則」と賞賛し、差別的な表現が頻出するため、同盟の研究者には黙殺されている。

 

 著者のイデンコーベンは、帝国人を一一の大身分、六九の中身分、三八八の小身分に分けた。貴族は「諸侯」「官職貴族」「地方貴族」という三つの大身分、平民は「管理職階級」「ブルジョワ」「知識労働者」「熟練労働者」「非熟練労働者」「自治領民」という六つの大身分、奴隷は「国有奴隷」「私有奴隷」という二つの大身分に分かれる。

 

 貴族最上位の諸侯は、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の称号を保持する者で、「門閥貴族」「上級貴族」とも称される。厳密に言うと、門閥貴族は諸侯の中で「○○一門」という強固な血縁集団を形成し、高位高官を世襲する者を指す。ただし、諸侯は婚姻や養子縁組によって相互に結びついているため、門閥貴族とイコールと言って良い。門閥貴族に分類されない諸侯は、ローエングラム侯爵のようにどの一門とも縁組していない新興諸侯に限られる。

 

 騎士称号保持者と無称号貴族を下級貴族と呼ぶ。無称号貴族とは、爵位保持者や騎士称号保持者の子弟の中で、称号を継がなかった者とその子孫だ。下級貴族の中で軍人や官僚を家業とする者を官職貴族、農場や企業を経営する者を地方貴族と呼ぶが、両者の違いはほとんどない。彼らは門閥貴族と違って一門のしがらみに囚われない。それゆえに最も貴族的な美徳を持つ階級と評される。

 

 血筋による平民の区別はゲルマン系と非ゲルマン系しかなく、ゲルマン系平民は所得と職業によって区分される。ただし、学歴と親の所得はほぼ比例するため、実質的には世襲身分に等しい。

 

 平民の将校や官僚を管理職階級、平民の農場経営者や企業役員をブルジョワと呼ぶ。彼らは下級貴族とともに下位エリート層を形成する「富裕平民」だ。身分上は平民ながらも、高官や資産家が集住する地区に住み、子弟を帝国大学や士官学校に入れる。立場的にも精神的にも下級貴族ときわめて近い。数代にわたって門閥貴族並みの顕官を歴任した家もある。ラインハルトに仕えた平民出身提督は一人を除く全員がこの階層の出身だ。

 

 平民の中で下級官吏やエンジニアなどを知識労働者、オペレーターや航宙士などを熟練労働者、建設作業員や店員など非熟練労働者と呼ぶ。自治領民は非ゲルマン系の平民すべてを指す。各階層間の流動性は低い。管理職階級やブルジョワジーとは同じ平民だが、社会的地位は隔絶している。

 

 奴隷の中で国家が所有するものを国有奴隷、個人が所有し自由に売買できるものを私有奴隷と呼ぶ。刑罰や人身売買に拠って平民から奴隷に落とされた者は少なくない。ちなみに同盟人はハイネセンの長征グループの末裔だと国有奴隷、その他の者は平民だが捕らえられると悪質な反乱に加担した罪で国有奴隷になるそうだ。

 

 黄金律の描く帝国社会は、毛並みの良い者が毛並みの悪い者を支配し、裕福な者が貧しい者を支配し、学歴のある者が学歴のない者を支配し、技術のある者が技術のない者を支配する分断社会だった。そこでは誰もが弱者にとっての暴君であり、誰もが強者にとっての奴隷であった。支配者と被支配者の二元構造は見られない。

 

「平民が団結して貴族に立ち向かうなんて、幻想なんですかね……」

 

 俺は諦めきれなかった。前世界の英雄ラインハルト・フォン・ローエングラムの勇姿が頭の中にちらつく。彼は平民の星として銀河を征服した。

 

「幻想じゃよ。卿らは幻想に惑わされ、数千万の兵を数千光年彼方に送り、数十兆ディナールの巨費を費やし、数千万人を死なせ、数百星系を戦乱に叩きこんだ。卿らは必死になって煙を掴もうとしたに過ぎぬ」

「煙ですか。容赦ないですね……」

「せいぜい勝ち続けることだ。勝っている間は帝国人は卿らを支持するであろう」

 

 ファルストロング伯爵はワイングラスに軽く口をつける。それだけの動作なのにとんでもなく優雅だ。

 

「肝に銘じておきます」

 

 金髪の英雄は煙のように脳内から消えた。代わりに現れたのは、第三六機動部隊隊員とカルシュタット星系警備隊員の姿だった。

 

 

 

 選挙終了後、各解放区は星系共和国となった。今後は共和国ごとに憲法制定作業を進める。憲法が完成して民主国家の体裁が整った時点で、自由惑星同盟への加盟申請を出す。上院と下院が承認した時点で正式加盟国となるのだ。

 

 一月一日、同盟軍は大規模な昇進人事を発表した。第一統合軍集団司令官ウランフ宇宙軍中将、第二統合軍集団司令官ロヴェール地上軍中将、第三統合軍集団司令官ホーウッド宇宙軍中将、第一三艦隊司令官ヤン宇宙軍中将、第三艦隊司令官ルフェーブル宇宙軍中将、第一二艦隊司令官ボロディン宇宙軍中将、第三地上軍司令官ソウザ地上軍中将の七名が大将に昇進した。ウランフ大将は宇宙艦隊司令長官、ロヴェール大将は地上軍総監の肩書きを得た。

 

 中将以下の昇進人事は数え上げればきりがない。第一一艦隊副司令官ストークス少将とD分艦隊司令官ホーランド少将が宇宙軍中将に昇進した。第一三艦隊のムライ少将、第七艦隊のヘプバーン少将、第九艦隊のモートン少将らも宇宙軍中将となった。第一三艦隊のシェーンコップ准将は宇宙軍少将になっている。

 

 要するに○○待遇だった人の中で帝都陥落後に活躍した者が昇進した。国防委員会は古参の将官を引退させ、非主流派将官を予備役に追いやり、一年かけて昇進枠を空けた。そして、選挙終了のタイミングで昇進させたのだ。

 

 俺自身は七九九年一月一日付で宇宙軍少将に昇進した。マスコミが言うには、三〇歳と九か月での宇宙軍少将昇進は史上第七位、士官学校を卒業していない者としては史上最速だそうだ。

 

 もっとも、俺個人としては、妹のアルマが地上軍中佐に昇進したという知らせの方がずっと嬉しかった。二五歳と九か月での昇進は俺の中佐昇進より一年以上早い。昇進速度は士官学校優等卒業者に匹敵する。これでブラウンシュヴァイク領から無事に戻ってくれば最高だ。

 

 大量昇進、大規模増援の到着、元帝国軍人の正規軍編入に伴い、遠征軍は大幅な組織改編を行った。一月中は改編作業や訓練に追われる。忙しすぎてマフィンを食べる量が倍増した。

 

 LDSOは各星系の政府人事や憲法制定作業に情熱を注いだ。新たに成立する共和国の中にハイネセン主義の精神を植え付けるようと頑張った。

 

 旧解放区では相変わらずテロが吹き荒れている。街中で爆弾が爆発しない日はない。武装ゲリラが同盟軍への襲撃を繰り返し、当選したばかりの首長や議員が次々と殺された。同盟人民間人や現地人富裕層を狙った誘拐が頻発した。

 

 治安リスクの上昇に伴い、解放区ビジネスから撤退する企業が出てきた。工場を作っても電力不足で操業できない。インフラ修復事業はテロリストに妨害される。従業員は命の危険に絶え間なく晒される。巨大な人口、豊富な天然資源、LDSOが発注する大型事業は魅力的だが、ビジネスができる場所ではない。

 

 住民生活は悪化への道を全速力で進んだ。電力供給量は電力需要を満たすにはほど遠い。同盟企業の撤退と自治領民の移住により、失業者は二〇億を越えた。行政機構は人員不足と予算不足で機能していない。物価は耐え難い水準まで上昇した。自治領からの移住者と旧来の住民の間でトラブルが後を絶たない。

 

 食糧供給の安定は同盟統治が成し遂げた唯一の成果であったが、最近はそれも怪しくなりつつある。旧解放区の食糧需要拡大が食糧価格を引き上げた。帝国軍や宇宙海賊が交易路をしばしば襲撃したために、物流コストが増大した。旧解放区の食糧事情は少しずつ悪くなっている。

 

 住民の間で同盟への失望が広がり始めた。命令を待っているのに、「自由にやれ」以外のことは言われない。豊かになりたいのに、我慢ばかり求められる。燃料や医薬品は値上がりした。電力網や水道網は機能していない。テロリストや犯罪者は野放しだ。強者のための政治を期待したのに、非ゲルマン系や老人や障害者といった弱者ばかりが優先される。

 

「同盟は弱いのではないか?」

 

 住民は同盟の力を疑い始めた。支持率は依然として九割を超えているが、強者優遇と弱者切り捨てを求める声が高まっている。LDSOの施政が支持されていないのは明らかだ。

 

 同盟軍のモラルは退廃しつつある。長引く戦争が軍人の心身を蝕んだ。脱走兵の増加、現地住民に対する暴行や強盗、誤射や誤爆の多発、過剰なテロ取締りによる殺人や誤認逮捕、捕虜虐待、私的制裁、上官への暴力、サイオキシン麻薬の蔓延など、不名誉な事件が起きた。

 

 現地人は同盟軍と退廃ぶりを競い合う。現地人政治家は賄賂や横領で不正蓄財し、血縁者や支持者を公務員に採用した。親同盟派住民は同胞を密告することで点数を稼いだ。反同盟派住民は親同盟派住民にリンチを加えた。保守層は女性の就職や進学を妨害し、非ゲルマン系居住区に火を放ち、同性愛者や障害者を殺して回る。

 

 パトリック・アッテンボローら反戦派ジャーナリストが解放区の実情を報じるにつれて、本国市民の心は揺らぎ始めた。本当に旧解放区で民主主義が根付くのか? 旧解放区住民のために同盟人の血と汗を流す価値が有るのか? 遠征反対の声が次第に強くなった。

 

 解放区ビジネスの衰退がきっかけで、景気が失速した。特に目を引くのが物価の上昇だ。膨大な人口を抱え込んだことで、同盟経済の悩みは生産力過剰から需要過剰に変わった。原材料価格の高騰が中小企業の経営を圧迫している。三〇兆ディナールを越える戦費は巨額の財政赤字を産んだ。インフレと財政破綻の危機が同盟に忍び寄る。

 

 反戦市民連合は物価高に苦しむ中小企業や貧困層を取り込むと、各地で反戦集会を組織して、一月中旬には全国の四五都市で同時デモを行った。ハイネセンポリスで行われたデモでは、反戦大学生コニー・アブジュが先頭に立ってアピールし、ホワン・ルイ前人的資源委員長、ダリル・シンクレア教授など党外の有名人も参加した。

 

 もう一方の遠征反対派の雄であるトリューニヒト派は静かなものだ。トリューニヒト下院議長は姿を見せない。トリューニヒト派代表代行ネグロポンティ下院議員は軍縮批判に終始した。ラグナロック作戦終了後の大軍縮は既定路線だ。軍拡派としては何としても回避したい。しかし、トリューニヒト議長抜きでは迫力に欠ける。

 

 増援の一員としてやってきたトリューニヒト派軍人によると、トリューニヒト議長は身動きがとれない状態らしい。軍情報部員が警護の名目で二四時間貼り付いている。盗聴されている可能性が高い。情報部は何が何でも親フェザーン派を抑えこみたいのだろう。

 

 民主化運動がきっかけで、フェザーンと同盟の関係は急速に冷え込んだ。ルビンスキー自治領主は、同盟が民主化運動を煽ったのではないかと疑った。官憲に追われたデモ参加者が、在フェザーン同盟弁務官事務所に逃げ込んで保護される事件が多発しており、無関係と考えるのは難しい。以前から同盟はフェザーンに対帝国支援をやめるよう求めてきた。帝国を兵糧攻めにするために、フェザーンに火をつけたと考えれば辻褄が合う。

 

 国防委員会は「在フェザーン同盟人を保護する」と言って、第一四方面軍と第一九方面軍の即応部隊をフェザーン国境まで前進させた。第一三方面軍、第一七方面軍、第二〇方面軍の即応部隊も国境へと向かっている。

 

 ルビンスキー自治領主は同盟軍の行動を侵略だと非難し、警備艦隊を総動員した。両国間の緊張は最高潮に高まった。

 

 同盟本国ではフェザーン出兵をめぐって激論が展開された。ウィンザー国防委員長ら賛成派は、フェザーンから帝国に送られる支援を断ち切り、帝国軍を継戦不能に追い込もうと考えた。レベロ財政委員長ら反対派は、対帝国講和を仲介できる者の喪失、そして二〇億人が住む惑星での地上戦を避けたかった。統合作戦本部長シトレ元帥は「フェザーン全土を制圧するには、最低でも一〇〇〇万の地上部隊が必要」との見解を示し、反対派に間接的な支援射撃を飛ばす。

 

 水面下では対帝国支援の停止をめぐる交渉が続いている。決裂したら最高評議会が議会に出兵許可を求めることになろう。

 

 表には出ていないが、フェザーンでもう一つ重要な交渉が継続中だ。同盟、ブラウンシュヴァイク派、リッテンハイム派、リヒテンラーデ派の代表がフェザーンに集まり、和平について話し合った。

 

 どの陣営にもこれ以上戦う理由はない。同盟は選挙を成功させて区切りがついた。帝国三派が団結しても帝都奪還は難しいだろう。こうしたことから、彼らはルビンスキー自治領主の呼びかけに応じて交渉の席についた。戦闘やテロはより良い条件で講和を結ぶための手段と化した。

 

 リヒテンラーデ陣営はようやく軍の再編を完了した。ラインハルトの国内艦隊が八個分艦隊から一二個分艦隊に増強された。損耗分が補充されてフル編成になり、ヴァルハラ開戦直後と比較すると実質的な戦力は倍増している。

 

 新設された四個分艦隊は旧皇太子派を主力とする部隊だ。ブラウヒッチ中将がI分艦隊、カルナップ中将がJ分艦隊、ヴァーゲンザイル中将がK分艦隊を率いる。この三名はかつてルートヴィヒ皇太子のもとで勇名を馳せた「ルートヴィヒ・ノイン」の一員だ。L分艦隊はラインハルト腹心のケスラー中将が司令官、ルートヴィヒ・ノインのコッホ少将が副司令官を務める。

 

 蛇足ではあるが、旧皇太子派には国内艦隊に加わらなかった者も少なくない。ルートヴィヒ・ノインのうち、エルクスレーベン中将とゾンバルト少将は同盟軍に協力し、エルラッハ少将はラインハルトを嫌ってリンダーホーフ元帥の辺境艦隊に加わった。ケンプ中将は現在も同盟の捕虜収容所にいる。

 

 ブラウンシュヴァイク陣営はヴァナヘイムから反体制派を追い払った。最大の功労者はオフレッサー元帥率いる装甲擲弾兵総軍だ。都市への無差別爆撃、毒ガス兵器や生物兵器の使用、捕虜の大量処刑といった禁じ手を使い、その様子を映した動画をネットで公開した。反体制派は戦意を失って逃げ散ったのである。

 

 反体制派最後の拠点を攻略した翌日、オフレッサー元帥は新しい動画を公開した。縛られた三名の男女を、オフレッサー元帥が素手で殴り殺すという凄まじい内容だ。テロップに記された三名の名前と所属は、彼らが潜入任務中に捕まった同盟軍特殊部隊隊員であると教えてくれた。

 

「身の程知らずの奴隷ども! 次は貴様らの番だぞ!」

 

 オフレッサー元帥の獰猛な哄笑とともに動画が終わる。視聴者の中に残ったのは「こいつには絶対勝てない」という思いだけだった。

 

 前の世界の戦記では「石器時代の勇者」と酷評されたオフレッサー元帥だが、実は超一流の策士である。ただし、奇略をもって敵軍を撃破するとか、陰謀を用いて政敵を倒すといったタイプの策士ではない。演出に特化しているのだ。

 

 オフレッサーという人物は下級貴族の出身で、用兵の才能は人並み、政治に強いわけでもなく、巨体と戦技しか持ち合わせていなかった。しかし、持っているものを最大限に活用する術を知っていた。左頬にわざと残した傷は獰猛さを強調するための演出だ。敵を嘲弄するような言動、過剰なまでの残忍さは狂気を身にまとうための演出だ。直接流した血の数が増えるほど、狂気は厚みを増していく。敵は彼の狂気を恐れる。部下は彼の狂気を共有する。彼が率いる狂気の軍隊は堅固な防御も巧妙な罠もすべて粉々に打ち砕く。

 

 金髪の獅子と狂気の闘将がついに姿を現す。戦慄せずにいられるだろうか? 俺には無理だ。マフィンを立て続けに八個食べたが震えが止まらない。



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資料:帝国領遠征軍編成(再編成後)

1.帝国領遠征軍

総司令官:同盟総軍司令長官ロボス総軍元帥

総参謀長:統合作戦本部次長グリーンヒル宇宙軍大将

作戦主任参謀:コーネフ宇宙軍大将、フォーク宇宙軍少将ら作戦参謀八名

情報主任参謀:ビロライネン宇宙軍中将、情報参謀五名

後方主任参謀:キャゼルヌ宇宙軍中将、後方参謀五名

 

・第一統合軍集団

 司令官:宇宙艦隊司令長官ウランフ宇宙軍大将

 副司令官:ベネット地上軍中将

 ・第五艦隊(司令官:ウランフ宇宙軍中将、司令官:メネセス宇宙軍中将)

 ・第一一艦隊(司令官:ルグランジュ宇宙軍中将、副司令官:ストークス宇宙軍中将)

 ・第四地上軍(司令官:ベネット地上軍中将)

 ・軍集団司令部直轄部隊

 

・第二統合軍集団

 司令官:地上軍総監ロヴェール地上軍大将

 副司令官:アル=サレム宇宙軍中将

 ・第八艦隊(司令官:キャボット宇宙軍中将、副司令官;フルダイ宇宙軍中将)

 ・第九艦隊(司令官:アル=サレム宇宙軍中将)

 ・第二地上軍(司令官代理:ザルムホーファー地上軍中将)

 ・軍集団直轄部隊

 

・第三統合軍集団

 司令官:宇宙艦隊副司令長官ホーウッド宇宙軍大将

 副司令官:アニステ地上軍中将

 ・第七艦隊(司令官代理:レスヴォール宇宙軍中将)

 ・第一〇艦隊(司令官:オスマン宇宙軍中将、副司令官:モートン宇宙軍中将)

 ・第八地上軍(司令官:アニステ地上軍中将)

 ・軍集団直轄部隊

 

・第四統合軍集団

 司令官:ヤン宇宙軍大将

 副司令官:カンディール地上軍中将

 ・第一三艦隊(司令官代理:ムライ宇宙軍中将)

 ・第七地上軍(司令官:カンディール地上軍中将)

 ・軍集団直轄部隊

 

・第五統合軍集団

 司令官:ルフェーブル宇宙軍大将

 副司令官:カニング宇宙軍中将

 ・第三艦隊(司令官代理:クリンガー宇宙軍中将)

 ・第六地上軍(司令官:カニング地上軍中将)

 ・軍集団直轄部隊

 

・第六統合軍集団

 司令官:ソウザ地上軍大将

 副司令官:ナジュラー宇宙軍中将

 ・第三地上軍(司令官代理:ムラシェフ地上軍中将)

 ・ヨトゥンヘイム方面艦隊(司令官:ナジュラー宇宙軍中将)

 

・第七統合軍集団

 司令官:宇宙艦隊副司令長官ボロディン宇宙軍大将

 副司令官:シスナルポン地上軍中将

 ・第一二艦隊(司令官代理:コナリー宇宙軍中将)

 ・第五地上軍(司令官:シスナルポン地上軍中将)

 

・フリーダム統合軍集団

 司令官:ビュコック宇宙軍大将

 

・インディペンデンス統合軍集団

 司令官:シャフラン宇宙軍大将

 

・ジャスティス統合軍集団

 司令官:ジョルダーノ地上軍大将

 

・遠征軍兵站部隊

 司令官:中央兵站総軍司令官ランナーベック地上軍大将

 

・遠征軍特殊作戦部隊

 司令官:特殊作戦総軍司令官オルコット地上軍大将

 

・総司令部直轄部隊

 

2.第一一艦隊

司令官:ルグランジュ宇宙軍中将

副司令官:ストークス宇宙軍中将

参謀長:エーリン宇宙軍少将

副参謀長:クィルター宇宙軍准将

・ホーランド機動集団(司令官:ホーランド宇宙軍中将、副司令官:オウミ宇宙軍准将)

・A分艦隊

・B分艦隊

・C分艦隊

・第一一陸戦隊

・司令部直轄部隊

・臨時配属部隊

 

3.ホーランド機動集団

司令官:ホーランド宇宙軍中将

副司令官:オウミ宇宙軍准将

参謀長:ジェリコー宇宙軍准将

副参謀長:ブレツェリ宇宙軍代将

・前方展開部隊(司令官:フィリップス宇宙軍少将、副司令官:ポターニン宇宙軍准将)

・第七〇機動部隊(司令官:ハルエル宇宙軍少将)

・第一六五機動部隊(司令官:エスピノーザ宇宙軍准将)

・第二一二機動部隊(司令官:バボール宇宙軍准将)

・第二一六機動部隊(司令官:ヴィトカ宇宙軍准将)

・司令部直轄部隊

・臨時配属部隊

 

4.前方展開部隊

司令官:フィリップス宇宙軍准将

副司令官:ポターニン宇宙軍准将

参謀長:チュン・ウー・チェン宇宙軍代将

副参謀長:イレーシュ宇宙軍大佐

副官:コレット宇宙軍中佐

常時配属部隊

・第三六機動部隊-司令官:ポターニン宇宙軍准将

 ・第三六戦艦戦隊(司令:スー宇宙軍先任代将)

 ・第三六巡航艦戦隊(司令:フランコ宇宙軍先任代将)

 ・第三六駆逐艦戦隊(司令:マーロウ宇宙軍先任代将)

 ・第三六母艦戦隊(司令:ハーベイ宇宙軍先任代将)

 ・機動部隊司令部直轄部隊

  ・第三六作戦支援群(司令:ソングラシン宇宙軍代将)

  ・第三六後方支援群(司令:ワトキンス宇宙軍代将)

  ・第三六独立戦艦群

  ・第三六独立巡航群(司令:ニールセン宇宙軍代将)

  ・第三六独立駆逐群

  ・第三独立母艦群(司令:アブレイユ宇宙軍代将)

司令部直轄部隊

・第九〇二独立戦隊(司令:マリノ宇宙軍代将)

・第九〇三独立駆逐戦隊(司令:ビューフォート宇宙軍代将)

・第九〇四独立戦隊(司令:バルトハウザー宇宙軍代将)

・第九〇五独立戦隊(司令:アコスタ宇宙軍代将)

・第二八二陸戦遠征師団

・第五三九陸戦遠征師団

臨時配属部隊

・第三四五歩兵師団

・第四〇八予備歩兵師団

・第八四四予備歩兵師団



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第64話:地に落ちた大義 799年2月~799年3月27日 ヴァナヘイム~シュテンダール

 同盟軍にとって最大の敵は、ラインハルト・フォン・ローエングラムの天才でもなければ、ベネディクト・フォン・オフレッサーの暴勇でもなく、距離と面積である。本国から前線までの長すぎる距離が補給を困難なものとした。解放区の広すぎる面積が同盟軍に分散を強いた。

 

 同盟軍は三個統合軍集団体制を一〇個統合軍集団体制に改めた。戦略単位を増やすことで最大の敵に対応しようと考えたのだ。

 

 第一統合軍集団を分割し、ヤン宇宙軍大将を司令官とする第四統合軍集団を編成した。第二統合軍集団を分割し、ルフェーブル宇宙軍大将を司令官とする第五統合軍集団を編成した。第三統合軍集団を分割し、ソウザ地上軍大将を司令官とする第六統合軍集団を編成した。昨年末に増派された正規部隊を中核とする第七統合軍集団を編成し、ボロディン宇宙軍大将を司令官とした。これらの軍集団は正規艦隊、機動地上軍、正規軍独立部隊、元帝国兵部隊によって構成される。

 

 旧アースガルズにビュコック宇宙軍大将を司令官とするフリーダム統合軍集団、旧ミズガルズにシャフラン宇宙軍大将を司令官とするインディペンデンス統合軍集団、旧ニヴルヘイムにジョルダーノ地上軍大将を司令官とするジャスティス統合軍集団が置かれた。こちらは予備役と新兵と元帝国兵のみで構成される警備部隊だ。

 

 各正規艦隊は二万隻規模、各機動地上軍は二〇〇万人規模まで増強された。部隊あたりの戦力を多くすることで、より広い戦域を担当できるようになった。

 

 大増強に伴って、二個分艦隊並みの戦力を持つ分艦隊が現れた。こうした分艦隊は普通の分艦隊と区別するために「○○集団」と呼ばれるようになった。たとえば、第一一艦隊D分艦隊は司令官の名前から「ホーランド機動集団」の通称を与えられている。

 

 俺はホーランド機動集団の前方展開部隊司令官に任命された。宇宙戦部隊として第三六機動部隊及び四個独立戦隊、陸戦部隊として第一一四陸戦遠征軍団、宙陸両用部隊として第一一四揚陸戦隊が指揮下に入る。

 

 最も注目すべきは独立戦隊であろう。構成艦の九割は鹵獲した敵艦及び接収した敵工廠で製造された艦で、隊員の七割は同盟軍に編入された元帝国軍人が占める。宇宙母艦に搭載された単座式戦闘艇は帝国製の「ワルキューレ」だ。

 

 帝国製艦艇と同盟製艦艇を比較すると、艦隊が大きく被弾しやすいが中和力場の威力は強く、小回りはきかないが推進力が大きく、大気圏内で行動できる。正面突破や強襲揚陸で力を発揮するのだ。俺は旗艦をアシャンティから鹵獲艦ヴァイマールに乗り換え、独立戦隊の先頭に立って突撃できるようにした。

 

 第三六機動部隊きっての勇将マリノ代将、エル・ファシル以来の腹心ビューフォート代将、往年の撃墜王アコスタ代将、元帝国軍人バルトハウザー代将の四名が独立戦隊を指揮する。いずれも勇敢な指揮官だ。

 

 七九九年二月一日、第一統合軍集団と第四統合軍集団はヴァナヘイム、第二統合軍集団はレンテンベルク、第三統合軍集団と第六統合軍集団はヨトゥンヘイム、第五統合軍集団はアルフヘイム、第七統合軍集団はニダヴェリールで作戦行動を開始した。

 

 ヴァナヘイムでは、ウランフ大将の第一統合軍集団がレーンドルフ方面のブラウンシュヴァイク派主力と戦い、ヤン大将の第四統合軍集団がガイエスブルク要塞に向かった。

 

 ガイエスブルク要塞はヴァナヘイム、アルフヘイム、スヴァルトアールヴヘイムを結ぶ位置にある。これを抑えれば、ブラウンシュヴァイク派の支配領域を分断し、フェザーンからの支援ルートを遮断できるのだ。

 

 第一一艦隊は第一統合軍集団の中核部隊として戦った。ホーランド機動集団が先鋒を務め、ストークス打撃集団が決戦戦力となる。

 

 俺の前方展開部隊はホーランド機動集団の先鋒、すなわち全軍の先鋒である。ここまで戦域が広くなると、数万隻がぶつかり合うような戦いは滅多に起きない。航路確保や前進拠点確保が先鋒の役目となった。

 

 上陸戦のパターンは確立されており、指揮官の独創性を発揮する余地は少ないが、多種多様な作戦を同時に指揮するために調整が難しい。有人惑星の場合は占領後の治安維持も視野に入る。調整型提督の俺にはうってつけの任務と言えよう。

 

「全艦突撃!」

 

 俺は四個独立戦隊を従えて突撃する。ポターニン准将の第三六機動部隊は、突撃を支援したり、俺が切り開いた突破口を広げたり、別働隊として敵の側面に回りこんだりする。副司令官を二年間務めた彼との連携に不安はない。

 

 航路を確保した後は敵拠点の奪取に取り掛かる。第三六機動部隊と四個独立戦隊が周辺宙域を制圧し、衛星軌道上の敵部隊を排除した後に、敵の防空基地やレーダー基地を宇宙から攻撃する。無人惑星や小惑星に対しては無差別砲撃を行うが、有人惑星に対しては中距離砲やミサイルで精密射撃を加える。

 

「降下するぞ!」

 

 防空網がある程度弱体化した時点で、俺は独立戦隊と宙陸両用戦闘艇部隊を率いて大気圏内へと突っ込む。帝国製軍艦は空中要塞となって空を支配し、帝国製母艦からは帝国製単座式戦闘艇「ワルキューレ」が発進する。衛星軌道上の揚陸艦が陸戦隊員を乗せた降下用シャトルと支援戦闘機を吐き出す。

 

 シャトルは帝国製の軍艦と単座式戦闘艇、同盟製の宙陸両用戦闘艇と支援戦闘機の援護を受けながら、地上へと降下して行く。

 

 陸戦隊が地上に橋頭堡を確保すると、本格的な地上戦の始まりだ。この段階から地上軍が参加する。陸戦隊の陸上部隊と航空部隊、地上軍の陸上部隊・航空部隊・水上部隊の五者が連携しながら戦い、必要に応じて帝国製軍艦と宙陸両用戦闘艇が支援を行う。俺は着陸した旗艦を司令部として指揮をとる。

 

 ブラウンシュヴァイク派の地上部隊は厄介な相手だった。将校は勇敢だが功を焦って突出する悪癖があり、兵士は実戦経験の少ない者が多く、戦闘能力は高くない。だが、異常なまでに頑強だった。絶望的な状況になっても頑なに降伏を拒否し、最後の一兵まで戦い続ける。

 

 上陸戦部隊は憂鬱な殲滅戦を強いられた。敵の連絡線を分断し、孤立した地下陣地を取り囲んで一つ一つ潰していく。山や森に踏み込んでゲリラを狩り出す。戦いと言うよりは作業だ。

 

 装甲擲弾兵との戦いは苦痛でしかなかった。将校はオフレッサー元帥の薫陶を受けた猛者揃い、兵士は「一日に三六時間、一週間に一〇日間」と称されるオフレッサー式の猛訓練で鍛えられており、一人で帝国地上軍兵士三人に匹敵する。そんな精鋭が同盟兵の血を一滴でも多く流すためだけに戦った。同盟兵が立ち塞がったら殺し、同盟兵が逃げ出したら殺し、同盟兵が傷つき倒れていたら殺し、同盟兵を捕らえたら殺す。殺すためなら自分の命など顧みないという本末転倒ぶりだ。

 

 装甲服を着た殺人狂は、同盟兵を殺害する様子を全銀河に動画配信した。オフレッサー元帥は部下に残虐さをアピールすることまで教えたのだ。逃げようとする同盟兵を追いかけて殺したり、泣いて命乞いする同盟兵の口に銃を突っ込んで撃ち殺したり、手足を縛った同盟兵をなぶり殺しにしたりする動画は、同盟軍に装甲擲弾兵恐怖症を流行させた。

 

 地上で血まみれの戦いが行われている間、宇宙空間でも激戦が展開される。敵宇宙部隊は増援部隊や補給物資を揚陸し、上陸戦部隊の補給路を遮断しようとする。こうした行動を阻止するのが宇宙部隊の仕事だ。ただし、重要でない拠点には宇宙部隊が現れない場合も多い。

 

 敵の組織的抵抗が終わると、戦後処理の始まりだ。最近は同盟軍を出迎える者がいなくなった。反体制派は壊滅している。一般住民は同盟軍に近寄ろうとしない。オフレッサー元帥の恐怖政策は功を奏した。

 

 どんな事情があるにせよ、本国政府からは「解放軍を歓迎する群衆」という画を用意するよう言われている。そこで兵士が家々を回って金品を配り、人々を広場に集めた。

 

「私たちは解放軍です! 私たちは皆さんに自由と平等を約束します! 圧政の苦しみは去りました! 自由な市民としての生活が始まるのです!」

 

 宣撫士官ラクスマン大尉が情熱を込めて語りかけた。

 

「共和主義万歳!」

「平等万歳!」

「自由惑星同盟万歳!」

 

 群衆は歓呼の叫びをあげる。しかし、ただ声を張り上げてるだけで熱気はまったくない。

 

「共和主義万歳!」

「平等万歳!」

「自由惑星同盟万歳!」

 

 同盟軍兵士が群衆に応えるように叫ぶ。こちらもただ声を張り上げてるだけだ。

 

 偽の英雄として様々な茶番を演じてきた俺だが、最近の「解放祝賀式典」ほど酷いものはなかなかお目にかかれない。強いてあげるとすれば、エル・ファシル義勇旅団ぐらいだろうか。こんな映像でも本国の人々は大喜びする。

 

 茶番が終わった後は、事務処理やデータ収集や帝国軍残党の掃討を行った。後続部隊がやってきたら、後を任せて次の目標へと向かう。

 

 俺は三週間で四つの有人惑星と八つの無人惑星を攻め落とした。一日で攻略したものもあれば、一週間以上かけて攻略したものもあるし、同時に複数の惑星を攻略したこともある。進軍速度及び損害は、上位司令部の想定を上回ることも下回ることもなかった。

 

 

 

 二月下旬、アンドリューは記者会見で「戦争は最終局面に入った」と語った。最高評議会や国防委員会も楽観的な見通しを述べる。

 

 ヴァナヘイム戦線では、ブラウンシュヴァイク派の激しい抵抗にも関わらず、第一統合軍集団と第四統合軍集団が優勢を保った。

 

 ヨトゥンヘイム戦線では、同盟軍とリヒテンラーデ派がビブリス星系をめぐって争っている。この星系はヨトゥンヘイム・ニダヴェリール・ムスペルヘイムの三総管区を結ぶ位置にあり、リヒテンラーデ派の最重要拠点だ。

 

 同盟軍は第三統合軍集団配下の九個分艦隊と三個陸戦遠征軍、第六統合軍集団配下の五個陸上軍と二個航空軍を投入した。ヨトゥンヘイムに展開する同盟軍の三分の二がビブリスに集まった。

 

 一方、帝国軍はロイエンタール中将率いる一個分艦隊と二個装甲擲弾兵軍がビブリスを守り、キルヒアイス大将率いる五個分艦隊が支援を行う。すべてラインハルトが司令長官を務める国内艦隊に属する部隊だ。

 

 同盟軍上陸部隊は三週間で四度の攻勢を仕掛けたが、五重に敷かれた防衛線のうち二つを突破するに留まる。ロイエンタール中将は前の世界でレンテンベルク要塞突入部隊を指揮し、シェーンコップ少将と互角の一騎打ちをしただけあって、地に足をつけた戦いでも超一流であった。

 

 宇宙では同盟軍と帝国軍の宇宙部隊が制宙権を争う。二月四日に行われた第一次ビブリス会戦において、同盟軍のモートン前衛集団が帝国軍のグリューネマン分艦隊・カルナップ分艦隊を打ち破った。二月一二日の第二次ビブリス会戦では、同盟軍のモートン前衛集団が帝国軍のミッターマイヤー機動集団と引き分けた。会戦といえないような小戦闘は数えきれない。

 

 同盟軍は帝国軍の善戦に驚いた。国内艦隊といえば帝国正規軍で最も弱い部隊だ。ラインハルトがベテラン将校を若手将校に入れ替えたため、経験の浅い若者が中級指揮官や艦長となった。司令長官のラインハルトは戦術の天才であり、キルヒアイス大将以下の分艦隊司令官はそこそこ有名だが、練度が低くてはどうしようもない。同盟軍人は国内艦隊を「ボーイスカウト」と呼んで馬鹿にしてきた。そんな弱兵の善戦は同盟軍を戸惑わせ、帝国軍を勇気づけた。

 

 ボロディン大将の第七統合軍集団がアースガルズ経由でニダヴェリールに侵攻した。アースガルズとリヒテンラーデ派の本拠ラパートを結ぶ長大な航路を守るのは、リンダーホーフ元帥配下の四個分艦隊だ。国内艦隊よりは精強だが絶対数が足りない。ラインハルトが救援に出ればビブリスが孤立する。ラインハルトがビブリスに向かえばラパートを攻め落とす。どう転んでも同盟軍の得になる作戦だ。

 

 アルフヘイム戦線では、ルフェーブル大将の第五統合軍集団とリッテンハイム派主力部隊が激戦を繰り広げた。歴戦の第五統合軍集団に対し、リッテンハイム派主力部隊は物量で対抗した。

 

 レンテンベルク戦線では、ロヴェール大将の第二統合軍集団がレンテンベルク要塞への圧力を強めた。第二統合軍集団はレンテンベルクのメルカッツ艦隊を封じると同時に、全軍の戦略予備として機能してきた部隊だ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 概ね同盟軍有利と言っていいだろう。しかし、本国政府や総司令部が言うほど楽観できる状況ではない。

 

 俺が直接知ってるのは、昨年の六月から戦ってきたブラウンシュヴァイク派だけだ。しぶといだけで戦上手ではない。それでも、侮れない相手だと感じる。

 

 最高指導者のブラウンシュヴァイク公爵は選民主義で悪名高い。頑健な肉体を持ち、強さを渇望し、弱さを憎み、外見を美々しく飾り立てるところは小ルドルフそのものだ。人権侵害や下品な宣伝戦略によって同盟市民の怒りを買った。前の世界では無能の代名詞とされた。だが、帝国人保守層はこのようなリーダーを好む。

 

 総司令官ミュッケンベルガー元帥は、大軍を危なげなく運用するタイプの用兵家であり、華々しい武勲は少ない。内戦前は「ローエングラム元帥やメルカッツ上級大将に司令長官の地位を譲るべきだ」との声もあった。前の世界で読んだ『獅子戦争記』では、天才ラインハルトから無能な上官として非難される役回りだった。だが、大軍を掌握する力量は抜群だ。

 

 総参謀長シュターデン上級大将は、戦略理論家としては一流だが実戦に弱い。前の世界では「理屈倒れのシュターデン」の仇名で知られる。だが、必要な戦力を計算し、十分な兵站を整え、予備を適切に投入するなどの幕僚業務は完璧にこなした。

 

 地上部隊を指揮するオフレッサー元帥は、指揮官としては勇猛一辺倒で柔軟さに欠ける。同盟兵をなぶり殺し、それを全銀河に動画配信する行為を繰り返したことで、同盟市民から憎まれた。前の世界ではラインハルトから「石器時代の勇者」と馬鹿にされた。だが、士気を鼓舞し、精鋭を鍛えあげる点において彼の右に出る者はいない。

 

 彼ら四名の共通点は軍事指揮官としては凡庸だが、組織者としては有能ということだ。これはシュタインホフ元帥など他の首脳陣にも共通する。それゆえに劣勢でも崩れない。

 

 前の世界では、ブラウンシュヴァイク公爵は内部統制に失敗して滅亡し、シュターデン上級大将は現実感覚の欠如をさらけ出し、オフレッサー元帥はオーベルシュタインの謀略で殺された。ミュッケンベルガー元帥は早めに引退して、ラインハルトとの確執のみが後世に伝わる。大した人たちではないと思っていた。

 

 今になって思うと、彼らをあっさり滅ぼしたラインハルトが異常だったのだろう。彼らは同盟軍相手には強固な結束を保ち、徹底した持久戦略をとり、イメージ戦略で優位に立った。しかし、ラインハルト相手には内輪もめを起こし、決戦戦略にこだわって兵力を失い、イメージ戦略で遅れを取った。

 

 貴族は強い。古いがゆえに強い。四世紀以上にわたって銀河の半分に君臨してきただけのことはある。実際に戦ってみないとわからないことだ。

 

 楽観視できない二つ目の要因としては、同盟軍の弱体化があげられる。量的には著しく増強された。この一年間で戦闘艦艇は一三万五〇〇〇隻から二一万一〇〇〇隻、支援艦艇は八万一〇〇〇隻から一三万二〇〇〇隻、将兵は三一六五万人から八二七一万人まで膨れ上がった。量的な増加は必然的に質の低下をもたらした。

 

 増加分のほとんどは、練度が低く旧式兵器を装備する予備役兵だ。解放区が拡大するに伴い、警備要員を確保するために予備役の動員を繰り返した。損耗したベテランの穴埋めにも予備役兵があてられた。遠征開始時点では全軍の一割に満たなかった予備役兵が、現在は宇宙軍兵士の三割、地上軍兵士の七割を占める。

 

 正規軍に編入された元帝国兵のうち、半数は元私兵軍や元予備役で、元正規兵は戦い慣れているが同盟式のドクトリンに適応するには時間がかかる。正規兵並みの活躍は期待できない。

 

 予備役兵と元帝国兵の増加は練度の低下をもたらした。以前と比べると機動力が低下し、機敏な行動が取りづらくなっている。同盟軍の質的優位が失われつつあった。

 

 モラルの低下は誰の目にも明らかとなっていた。現役兵は先の見えない戦いに疲れ、解放区の現実に失望し、故郷に生きて帰ることのみを願うようになった。予備役兵は一般社会での生活を懐かしんだ。怠慢による事故、上官への不服従や反抗、部隊からの脱走、違法薬物の使用が急増している。もはや「解放軍」という言葉は、本国政府と本国市民の脳内にしか存在しない。

 

 遠征軍の総司令部はこうした情報を必死に隠そうとした。アンドリューは楽観的すぎる発言を繰り返す。広報部はマスコミの戦争報道を細かくチェックする。

 

 ラグナロック作戦を実現させた若手高級士官グループ「冬バラ会」は、総司令部への不満を抑えるために動いた。アンドリューはロボス元帥のそばで目を光らせる。ホーランド少将ら他のメンバーは異を唱える者を非難した。

 

 本国では遠征推進派が情報隠しに躍起となった。表では与党議員、国務官僚、国防官僚などが楽観的な発言を繰り返し、裏ではマスコミ統制を推し進める。アルバネーゼ退役大将がサイオキシンマネーで作ったデモクラティア財団は、マスコミに大量の広告を出すことで批判報道を抑えた。

 

 エリートたちの暗い努力にもかかわらず、批判報道は止まらない。反戦派マスコミはあらゆる戦争に反対する立場から、大衆右派マスコミは解放区住民の移民・民主化への投資に反対する立場から、フェザーン系マスコミは国際秩序維持を求める立場から、批判報道を続けた。

 

 数ある批判報道の中でも、ヴィンターシェンケの組織的虐待事件、ブラメナウの四〇〇〇人虐殺事件、フリツニッツァーの二万人誤爆死事件は、同盟軍の威信を大きく傷つけた。

 

 旧解放区の憲法制定事業が難航している。LDSOはハイネセン主義に則ったリベラルな憲法を作るよう求める。住民はルドルフ主義に則った全体主義的な憲法を望んだ。現地政府はLDSOと住民の板挟みになった。

 

 反同盟的な政党が政権を握った星系では、現地政府は何の迷いもなく「ゲルマン系男性の優越」などルドルフ主義の要素を盛り込んだ。また、「拷問の禁止」「社会保障を受ける権利」といった人権規定は省かれた。LDSOが憲章違反だと指摘すると、「認めないなら同盟に加盟しない」と言い出す始末だ。これらの政府は警察を使ってマイノリティを弾圧したりもした。選挙干渉をしなかったウランフ大将やヤン大将のリベラルな態度が、リベラルと程遠い政府を生んだ。皮肉としか言いようがない。

 

 現地政府が憲法で揉めてる間、テロはますます激しくなった。同盟軍、現地政府、親同盟派民兵、反同盟テロ組織、保守派住民組織、傭兵などが入り乱れて争っている。親同盟勢力同士の衝突、反同盟勢力同士の衝突も起きた。一部地域は事実上の内戦状態に陥った。

 

 一部の反同盟勢力がリヒテンラーデ派の指揮下にあることが判明した。軍務省配下の「アースガルズ予備軍」が、一〇〇〇を超えるテロ組織を指導しているという。予備軍のトップと目されるオーベルシュタイン中将は、シャンプール・ショックとエル・ファシル七月危機の黒幕だ。三年前の悪夢が解放区で蘇った。

 

 テロ組織の中にはブラウンシュヴァイク派系列のものが少なくない。これらの組織は、同盟軍と親同盟派有力者だけを狙うアースガルズ予備軍とは異なり、民衆を巻き込む無差別テロを繰り広げた。新無憂宮略奪に参加した者を探しだして殺す「復讐部隊」、誘拐した同盟人や親同盟派現地人を処刑して動画配信する「ヘーア愛国者旅団」などが有名だ。

 

 遠征推進派にとっては、ブラウンシュヴァイク派の蛮行は格好の宣伝材料に思われた。最高指導者は無差別テロを公然と支援する。軍の最高幹部は兵士を惨殺する動画を喜々として配信する。ブラウンシュヴァイク公爵の人権侵害が暴露された時のような反応を期待した。

 

 ところが、市民の過半数は、自軍の戦争犯罪や腐敗を気にかけなかったのと同様に、ブラウンシュヴァイク派の残虐行為も気にかけなかった。

 

 同盟本国で「財政危機」という名前の炎が上がり始めていた。遠征軍とLDSOが一年間で使った予算は、三九兆二〇〇〇億ディナールにのぼる。本年度一般予算の三〇パーセントに匹敵する額だ。財政難の同盟政府にこれだけの出費を負担する能力はない。莫大な戦費と民主化支援予算は国債で賄われた。遠征推進派があてにした解放区マネーは、経費を賄うには足りなさすぎた。背負いきれない借金だけが残された。

 

「我々は最大の敵に直面している。その敵とは帝国ではない。財政危機だ。帝国には我が国を滅ぼす力などない。だが、財政危機にはその力がある。そして、滅びの時は間近に迫っている。どちらとの戦いを優先すべきかは言うまでもない。今すぐ解放区から兵を引こう。総力をあげて財政危機に立ち向かう時だ」

 

 ジョアン・レベロ財政委員長は即時講和と財政再建を強く訴えた。

 

 市民は自分たちが置かれた状況にようやく気づいた。政治に興味のない者も急激な物価上昇に危機感を覚えた。解放区で何が起きようと対岸の火事だが、財政危機は自宅の火事だ。

 

 今や遠征支持と不支持の違いは、帝国に解放区の支配権を認めさせた上で手を引くか、解放区をすべて放棄してでも手を引くかの違いでしかない。ブラウンシュヴァイクやオフレッサーの残虐行為に怒る余裕などなかった。

 

 議会は遠征軍が要求した戦費一二兆ディナール、LDSOが要求した民主化支援予算一七兆ディナールの支出を拒んだ。最高評議会が閣議決定したフェザーン出兵案も否決された。

 

 同盟政府は講和会議の存在を明らかにし、「より有利な講和を引き出すための戦争継続」を訴える方針に転じた。一見すると遠征反対派に譲歩したように見える。だが、これまでよりも一層強く楽観論を唱え、悲観論を排撃するようになった。悲観論者のレベロ財政委員長は楽観論者と交代させられた。悲観論が優勢になれば、世論が即時講和と解放区の完全放棄に傾きかねない。同盟軍は有利だと思われなければ困るのだ。

 

 遠征支持派と遠征反対派の対立は、勝利による講和派と即時講和派の対立へと転じた。それはこれまでにない深刻な対立であった。

 

 

 

 三月上旬、第一統合軍集団の進軍が止まった。戦闘には勝ったものの、新しく解放した惑星で反同盟活動が激しくなったために余裕がなくなったのだ。

 

 ブラウンシュヴァイク派は同盟軍が攻めてくると、住民に大量の武器を配り、インフラを壊し、行政データを消去した。武装した住民、破壊されたインフラ、消された行政データは新解放区を著しく不安定にした。敗残兵によるテロが新解放区の脆い秩序に挑戦し続けた。

 

 第一統合軍集団は新解放区の秩序を確立する必要に迫られた。ブラウンシュヴァイク派の首星レーンドルフに駐留する地上部隊は、三〇〇万から四〇〇万と推定される。その中にはオフレッサー元帥直属の精鋭部隊も含まれる。しかも、惑星全土が厳重に要塞化されていた。後背が不安定なままで勝てる相手ではない。

 

 俺はアーデンシュタット星系第二惑星シュテンダールに駐留した。レーンドルフ攻略の際は有力拠点になるであろう惑星だ。

 

 到着の翌日に、LDSOから「アーデンシュタット星系事務所及びシュテンダール惑星事務所の代表に任命する」との辞令をもらった。LDSOは労働契約上の理由から、戦闘地域に職員を派遣できない。そんな地域では駐留軍が仕事を肩代わりする。

 

 新解放区の司令官は政治と軍事を一手に握る存在となった。民主主義に反するとの声もあるが、最高評議会が新解放区を対象とする非常事態宣言を発令している。司令官は政治面ではLDSOと国務委員会の統制を受ける。そういうわけでまったくの違法ではない。

 

 シュテンダールを統治するにあたり、俺は住民生活の安定と治安回復を優先した。住民が安心して過ごせる環境を作ろう。同盟が頼りになると分かれば、協力者も出てくる。

 

 しかし、俺の目論見は数日で潰え去った。LDSO本部に計画書を送ったところ、住民生活や治安に関わる事業はほとんど「不要不急」と判断され、民主化と移民促進に予算を使うよう求められたのだ。本部の言う民主化とは自由経済を導入し、行政機構を解体し、支配層に打撃を与え、法律を同盟式に作り変えることだった。

 

 担当者のティエン氏は「市民の理解」という言葉を繰り返し使った。この場合の「市民」とは、現地住民ではなく本国市民だろう。民主化政策と移民促進は本国では受けが良い。

 

「笑うしかないな」

 

 俺の顔に浮かんだ笑いは、嘲笑でもなければ憫笑でもなかった。困った時と同じ笑いだった。どう反応すればいいのか分からなかったのだ。

 

 LDSOには三種類の職員がいる。一つ目は民主主義の理想を実現しようとする職員、二つ目は本国の評価ばかり気にする職員、三つ目は理想を実現するために本国を利用する職員だ。この中では三つ目が一番始末に負えない。

 

 本国の評価が必要なのはわかる。民主主義国家では市民の理解が得られないことに予算は使えない。俺自身、市民のおかげで仕事がやりやすくなった経験は多い。仕事をやりやすくしたいのならば、市民の心をつかむのは必要な手続きとすら思う。だが、現地住民も本国市民と同じ同盟市民ではないのか? 特定の層に偏りすぎた政策は禍いのもとになる。本国で中央と地方の対立が生じたように。

 

「愚痴を言っても仕方ない。エリヤ・フィリップスの本領は前進だ」

 

 俺は愚痴を言い終えると、本国と現地の要望を整合させる建前をこしらえようとしたが、うまくいかなかった。本国市民が望むのは現地社会を根本から作り変えることだ。短期的には大混乱を引き起こす。現地住民が望むのは生活の安定だ。現地社会を温存するのが望ましい。両者を建前だけでも両立させるのは難しい。

 

 トリューニヒト議長ならうまい方法を思いつくかもしれない。監視されていなければ意見を聞いたのに。本当に残念だ。

 

 民政での支持獲得を断念し、人道支援に活路を見出すことに決めた。食糧支援、医療支援、インフラの応急修理などを行うことで安定化を図る。

 

 シュテンダール到着から二週間が過ぎた頃、俺は自分の判断が間違いだったのではないかと思い始めた。きっかけとなったのは、人道支援を担当する副参謀長イレーシュ大佐が持ってきた報告書だ。

 

「支援対象者は二三〇万人なのに、使った食糧は二八〇万人分ですか。どうなってるんです?」

 

 俺は階級が二つ下の部下に敬語で問うた。彼女とは古くからの師弟関係なので、周囲に誰も居ない時は俺が敬語を使う。

 

「架空名義を使って配給を二重取りする住民がたくさんいるのよ。中流層や富裕層なのに所得を偽って配給を受け取る人までいてさ」

 

 イレーシュ副参謀長は心の底から苦々しげだ。

 

「所得を偽るのはわかります。税務関連のデータがすべて消されてましたから。確認のしようもありません。しかし、架空名義は使えないでしょう? 配給カードの顔写真には顔写真がついています。住民登録が消されてましたが、本人確認はできるはずです」

「変装して余分に配給カードを取得する人がいるの。他人の写真を使う人もいてね。最近発覚したケースだと、一二人が同じ人の写真を使って配給カードを取ってた」

「こちらのスタッフが面接した相手にのみ交付するわけにはいきませんか?」

「病気で寝たきりだと言われたら、どうしようもないよ。家に踏み込んで確認するわけにもいかないし」

「困りましたね」

「裏に組織がいるんじゃないの? レグデンの件みたいに」

 

 レグデンの件とは三日前に惑星レグデンで発覚した大規模不正事件を指す。帝国の工作員が地下組織を作り、住民に配給を二重取りする方法を指導していた。

 

「あれはアースガルズ予備軍の仕業でした。ブラウンシュヴァイク派が同じ手を使うでしょうか?」

「ブラウンシュヴァイク公爵様が本場かもよ。せこい真似をさせたら銀河一だから」

「確かにそうです」

 

 俺は納得した。言われてみると、姑息なやり方はブラウンシュヴァイク公爵こそふさわしい。そもそも、配給カードの不正がまかり通るのは、敵が行政関連のデータを消してしまったせいだ。支援食糧を詐取するための布石だったのかもしれない。

 

「騙し取られた食糧の何割かはあちらに流れてるかもよ? 回廊のこちら側は食糧不足だから」

「食糧はフェザーンからもらえませんからね。フェザーン経由で同盟の輸出食糧を買うにも限度がありますし」

「とりあえず背後関係を調べておくよ。五〇万人分の配給詐欺なんて、個人的な不正の積み重ねではありえない数字だしさ」

「お願いします」

「喜んでお願いされるよ」

 

 イレーシュ副参謀長の冷たい美貌に柔らかな笑みが浮かぶ。一〇年前に知り合ってから、この人はまったく変わっていない。

 

「教育支援はどうなってますか?」

「唯一の明るい材料はカプランくんかな」

「うまくいってないってことですか」

 

 俺は苦笑いした。人事参謀エリオット・カプラン大尉は飛び抜けて貢献度が低かった。能力もなければ意欲もない。ラグナロック作戦で唯一昇進しなかった幕僚だ。それが初めて役に立った。

 

 人道支援の中には教育支援も含まれる。カプラン大尉は中学時代にベースボール部のキャプテンだったので、厄介払いのつもりでスポーツ指導の担当者にした。この人事がまぐれ当たりした。お調子者のカプラン大尉はすぐに村民と仲良くなり、朝から晩まで住民とベースボールに興じているそうだ。

 

「使い道がわかっただけでも収穫よ」

「幕僚の仕事じゃないですけどね」

 

 皮肉っぽく言ったつもりなのに俺の顔は笑っていた。この程度の話題でも癒しになるくらい、シュテンダール統治は行き詰まっていた。

 

 一週間から二週間に一度、ダーシャが俺のもとにやってくる。遊びに来るわけではない。上官のために生の情報を集めると同時に、上官の意図を伝えに来る。れっきとした公務である。

 

「例の件だけど、ホーランド司令官は公表しないで欲しいと言ってるの」

「しかし、公表しないと示しが付かないぞ」

 

 俺の部隊で悪質な私的制裁事件が起きた。さらに悪い事に加害者の上官が隠蔽を図った。私的制裁だけでも許しがたいのに、俺に正しい情報を上げなかった。このようなことをされては、勝てる戦いも勝てなくなってしまう。そこで事件を公表しようと考えた。

 

 ところが、ホーランド中将は内部処理で済ませるよう言ってきた。彼は冬バラ会の一員として悲観論を抑える側にいる。政治的な理由ではない。戦場に立てないと英雄願望を満たせないからだ。

 

 ダーシャは個人的には公表を望んでいるようだが、俺の前ではホーランド中将の考えを過不足なく説明しようと頑張った。上官に対しては思うところを率直に述べ、外部に対しては上官の意見を正確に伝える。それが正しい参謀のあり方だ。

 

 仕事が終わった後は俺は司令官から夫に、ダーシャは参謀から妻に戻り、二人きりの時間を過ごす。言葉をかわす時間すら惜しい。一分一秒たりとも無駄にしたくない。何も言わずにひたすら愛しあう。

 

 いつの間にか眠りに落ち、いつの間にか目を覚ます。左隣で寝ていたダーシャもいつの間にか目を覚ましていた。

 

「おはよう、ダーシャ」

「おはよう、エリヤ」

 

 ダーシャの真っ白な体と真っ黒な髪は汗でびっしょり濡れていた。俺はタオルを持ってきてダーシャの体と髪を隅々まで拭いてやる。そして、ダーシャは俺の体と髪を隅々まで拭いてくれた。

 

「エリヤ、水飲みたい」

「ああ、わかった」

 

 俺は口に含んだ水をダーシャに飲ませてやった。

 

「ダーシャ、水をくれ」

「うん」

 

 ダーシャは口に含んだ水を俺に飲ませてくれた。

 

 体を拭き水を飲んで一息ついたところで一緒にシャワーに入る。それから一緒に朝食を作り、一緒に食べる。俺がダーシャの口に食べ物を運び、ダーシャが俺の口に食べ物を運ぶ。

 

 第三者が見ると馬鹿っぽく見えるだろう。だが、これは厳粛かつ神聖な儀式だ。結婚してすぐに戦いに出たので、なかなか夫婦らしいことができない。だから、二人にいる時は二人でないとできないことをすると決めていた。

 

 つけっぱなしのテレビは、今日が帝都陥落からちょうど一周年であることを教えてくれる。俺は左隣のダーシャに話しかけた。

 

「なあ、ダーシャ」

「なに?」

「一年前は俺も君もオーディンにいた。今はシュテンダールにいる。来年の今頃はどこにいるんだろうな?」

「わからないね。わからないけど、どこにいても私とエリヤは一緒だと思う」

「確かにな。来年も再来年もその次の年もずっと一緒だ」

 

 軍人には大きな正義と小さな正義がある。心に火をつけるには「国家のため」という大きな正義が必要で、火を燃やし続けるには「自分や仲間のため」という小さな正義が必要だ。俺にとっての小さな正義は、自分がダーシャのもとへ生きて帰ること、部下が家族や恋人のもとへ生きて帰れるようにすることだった。

 

 夫婦の時間が終わり、軍人の時間が始まる。俺はダーシャを見送ってから前方展開部隊司令部へと出勤した。

 

「とにかく勝たないとな。勝ってる間は帝国人は俺たちを支持する」

 

 俺はファルストロング伯爵の言葉を頭の中で反芻する。同盟軍が弱さを見せた瞬間、一三〇億の解放区住民が牙をむくであろう。生き残るために俺たちは勝ち続けなければならない。

 

 急に端末のアラームが鳴った。幕僚たちの端末も一斉に鳴り出す。緊急速報の音だ。慌てて画面を見ると、「武装集団がコンコルディア(旧オーディン)惑星政庁庁舎を攻撃」とのテロップが流れていた。

 

「星系政庁が襲われた!?」

 

 誰もが仰天した。コンコルディア惑星政庁は八億人が住む旧帝国首星の行政中枢だ。同盟本国で言えばハイネセン惑星政庁にあたる場所が襲撃を受けた。容易ならざる事態である。

 

 再び端末のアラームが鳴った。今度はヴィーレフェルト星系政庁庁舎が攻撃されたという。しかし、今度は誰も仰天しなかった。仰天する前に次の緊急速報が入ったからである。シュウェリーン星系で、星系政庁庁舎や星系警察本部などが襲撃を受けた。

 

 この日、アースガルズ、ミズガルズ、ニヴルヘイム、ヨトゥンヘイムにおいて、アースガルズ予備軍のゲリラ部隊が一斉蜂起した。星系首都・惑星首都など七五六都市、同盟軍の重要拠点四八二か所が攻撃を受けた。

 

 ゲリラ攻撃開始から一〇時間後、二度目の衝撃波が全銀河を駆け抜けた。アースガルズ予備軍の蜂起よりはるかに小規模だが、与えた衝撃の大きさにおいては勝るとも劣らないものだった。

 

 第三次ビブリス星域会戦において、同盟軍のヘプバーン高速集団が帝国軍のミッターマイヤー機動集団に敗北した。ラグナロック作戦が始まって以来、同盟艦隊が初めて会戦で負けた。しかも、モートン前衛集団と並んで第三統合軍集団最強と目される部隊だ。

 

 同盟軍無敵神話が地上と宇宙の両方で崩れた。それは解放区統治の崩壊を意味していた。




本話終了時点勢力図

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第七章:苦戦するエリヤ・フィリップス
第65話:最悪の中の最善を求めて 799年3月末~4月10日 アーデンシュタット星系シュテンダール


 アースガルズ予備軍の総攻撃と第三次ビブリス会戦の敗北は、楽観論に強烈な一撃を加えた。政府や軍が発信する情報はすべて同盟軍有利を伝えるものだった。それなのに地上では主要都市と主要基地が一斉攻撃を受け、宇宙では無敵の同盟艦隊が敗れた。いったいどういうことか? 同盟市民は強い不信感を抱いた。

 

 本国世論は急速に即時講和へと傾き始めた。勝利による講和を支持する者が五五パーセントから四六パーセントに減ったのに対し、即時講和を支持する者は四〇パーセントから四九パーセントまで増えている。

 

 政府と軍は損害の少なさを強調し、アースガルズ予備軍と第三次ビブリス会戦の影響を小さく見せようと躍起になった。

 

「我が軍はアースガルズ予備軍を数時間で撃退した。戦死者は四万人しか出ていない」

「ビブリスで同盟軍は四〇〇隻を失い、敵は五〇〇隻を失った。我が軍の勝利だ」

 

 これらの主張は一面的には正しかったが、アースガルズ予備軍が一撃離脱戦法をとったこと、ビブリスの帝国軍が補給支援を成功させたことを無視したため、説得力に欠けた。

 

 同盟軍への評価が揺らいだところに、アースガルズ予備軍司令官代理オーベルシュタイン中将が追い打ちをかけた。二日から三日に一度の割合で数十か所を攻撃し、反撃される前に退き、同盟軍警備部隊を翻弄する。人々は同盟軍が無力だと思うようになった。

 

 ラパートのエルウィン=ヨーゼフ帝は、すべての大逆犯に恩赦を与えた。解放区選挙で首長や議員となった者、反体制派として帝国に反乱した者、亡命者として同盟軍に協力した者までも、無条件で赦免されるという。ローエングラム元帥が降伏者を殺した高官一四名を「勅命をほしいままに曲げた」として公開処刑すると、数百万人が同盟からリヒテンラーデ派に走った。

 

 ブラウンシュヴァイク派もこの機に乗じて攻勢に出た。一日あたり数百人の同盟人と数千人の現地人を無差別テロで殺した。正規軍はベルンカステル・ラインに猛攻を仕掛けた。これらの作戦は少なからぬ損害と引き換えに、ブラウンシュヴァイク派健在を内外に知らしめたのである。

 

 同盟の旧帝国領統治は急速に崩壊していった。民主化政策や生活苦に対する不満、同盟軍の犯罪に対する怒りが暴動という形で噴き出した。鎮圧にあたるべき現地人警察官や親同盟派民兵は、武器を捨てて逃げてしまった。同盟軍は暴徒を抑えるだけの兵力を持っていない。多くの都市が暴徒の手に落ちた。反同盟派政権の惑星では、警察や政府軍傭兵が同盟軍と交戦している。

 

 後方拠点の混乱は、前線部隊に士気の低下や補給状況の悪化をもたらした。ビブリス方面の第三統合軍集団と第六統合軍集団は、四月に入ってから一度も攻撃を行っていない。レーンドルフ方面の第一統合軍集団は守勢を強いられている。レンテンベルク方面の第二統合軍集団、アルフヘイム方面の第四統合軍集団は攻勢を続けているが、めぼしい戦果はなかった。ガイエスブルク方面の第四統合軍集団、ニダヴェリール方面の第七統合軍集団は、補給難を理由に進軍を止めた。

 

 さすがの本国市民も自分たちが解放者だとは思えなくなった。反帝国意識の強い伝統的保守層、民主化指向の強い都市リベラル層の多くは、遠征支持から遠征反対に転じた。

 

 即時講和を求める声はとどまるところを知らない。反戦集会の会場には、反戦派の星旗、保守派の青旗、リベラル派の白旗、社会主義者の赤旗、分権主義者の緑旗が並んだ。若者は大学や高校を舞台に激しい運動を繰り広げる。レベロ前財政委員長は反戦集会に参加し、盟友のホワン前人的資源委員長とともに即時講和を訴えた。かつてパトリオット・シンドロームを煽ったクリップス元法秩序委員長が、反戦デモに加わった。ラグナロック反戦運動は超党派統一戦線へと発展したのである。

 

 勝利による講和派は戦争継続を求めるデモを行った。これまで中心にいた伝統的保守層や都市リベラル層の姿は少なく、保守的なブルーカラーが目立つ。彼らは最も兵士を輩出する層であり、最も増税やインフレの影響を被った層でもある。民主化や解放といった観念的な主張はなく、「我々は負担に耐えてきた。領土と賠償金をたっぷり取らなければ報われない」という即物的な主張を押し出す。

 

「財政破綻を防げ!」

「戦争の見返りをよこせ!」

 

 両派はあらゆる場所でぶつかり合った。議論の優劣を競い合い、デモの動員人数を競い合い、挙げ句の果てに腕力を競い合った。過熱化するデモを抑えるために軍隊が動員された。

 

 フェザーンでの講和交渉は難航している。選挙が行われた五六三星系の領有を主張する同盟に対し、帝国三派はニヴルヘイム及び中ミズガルズ・下ミズガルズ以外の占領地を返すよう求めた。三月中旬の時点では、帝国三派は下アースガルズと上ミズガルズの割譲もやむなしと考えていた。だが、戦況が有利になったために要求を上げてきたのだ。同盟領に移住した者を領主のもとに返すか否か、同盟が接収した貴族資産をどの程度賠償するかといった問題でも、帝国三派は強気の姿勢を崩さない。

 

 事態が悪化するにつれて、政府首脳や軍幹部の発言はますます現実離れしていった。総司令部参謀アンドリュー・フォーク少将は、「同盟軍の勝利は目前だ」と繰り返し、前線部隊の反感と本国市民の冷笑を一身に集める。コーネリア・ウィンザー国防委員長は、会見のたびに「解放区の治安は改善に向かっています」と述べた。

 

 もはや、政府と軍に対する信頼は失われた。特に嫌われてるのがアンドリューら冬バラ会だ。総司令部の実権を握り、外に対しては楽観論を唱え、内に対しては無理難題を押し付けてきた。勝利による講和派ですら、「冬バラ会を追放しなければ、有利な講和は結べない」と考える有様だ。

 

 四月八日、総司令部は遠征軍の全部隊に対し、「現在の作戦を続行せよ。作戦中止は認めない」との方針を伝えた。前線部隊が求める攻撃中止と撤退許可を全否定するものだった。

 

「えっ!?」

 

 俺は驚きのあまりコーヒーカップを落としてしまった。机の上の書類にコーヒーの染みが広がっていく。

 

 同盟軍は自壊しつつある。モラルの崩壊を食い止める戦いは、帝国軍との戦いより大きな比重を占めるようになった。指揮官は崩れていく砂山を固めるような努力を重ねる。だが、砂山に塗り込まれる砂よりも、指の隙間からこぼれ落ちる砂の方がずっと多い。最も成功した部隊であっても、いずれ訪れるであろう破局を先延ばしするのが限度だ。

 

 四月初めからアーデンシュタット星系に、ブラウンシュヴァイク派のヒルデスハイム艦隊が侵攻してきた。敵将ヒルデスハイム大将は伯爵号を持つ青年提督で、功名心が強く協調性に乏しいが、勇猛さは貴族軍人の中でも有数である。戦記に出れば噛ませ犬になりそうなのに、俺にとっては恐るべき強敵だった。

 

 敵の猛攻と味方の弱体化が俺の部隊を苦しめた。日に日に戦況は悪くなっており、暴動が起きてないのが唯一の救いだ。前進するどころか、アーデンシュタットから追い落とされかねない。

 

 すぐに部隊長会議を開いて対応を協議した。一〇分割されたテレビ画面に部隊長一〇名の顔が並ぶ。このうち七名が俺に直属する部隊長で、三名が臨時配属された地上軍の部隊長だ。

 

「うちの部隊は限界だ。作戦中止を求めるのが適切だと思う。君たちの意見を聞かせてほしい」

 

 俺がそう言うと、部隊長はみんな賛成を口にした。常識的な職業軍人なら誰だって作戦を継続できないのはわかっている。

 

 前方展開部隊の部隊長会議が終わって間もなく、ホーランド機動集団の部隊長会議が始まった。こちらはホログラム会議である。機動集団会議室にいるのは、司令官ウィレム・ホーランド中将、副司令官マリサ・オウミ准将、参謀長ジャン=ジャック・ジェリコー准将、副参謀長ダーシャ・ブレツェリ代将の四名のみ。俺を含むその他の参加者は立体画像として席に映る。

 

「この一週間で無断欠勤は四六・三パーセント、脱走は三二・一パーセントも上昇しました。補給率は四・二パーセント低下しています。戦闘任務から逃れるための自傷行為が後を絶ちません。この部隊は崩壊に刻一刻と近づいています。余力のあるうちに撤退すべきではないでしょうか」

 

 ダーシャは撤退論を唱える。いつもと違ってメガネを掛けており、すらりとした長身や大きな胸とあいまって切れ者らしい風格が漂う。

 

「撤退などありえん。敵の本拠は目と鼻の先にある。エリザベートとブラウンシュヴァイクを捕らえる好機だ」

 

 ホーランド中将は強気を崩さない。根拠も何もない発言だが、おとぎ話の英雄が現実に現れたかのような美丈夫が口にすると本当っぽく聞こえる。

 

「同盟軍は暴動に対処するだけで手一杯です。レーンドルフを攻める余裕なんてありません」

「敵もそう考えているはずだ。同盟軍には余裕がないから攻めてこないと。そこに付け入る隙がある。精鋭で油断した敵を奇襲すれば、破るのはたやすい」

「我が軍の機動力は低下しています。半年前ならともかく、今は成功の見込みが薄いです」

「練度不足は作戦で補えばいい。戦意不足は指揮官の努力不足だ。撤退する理由にはならん」

 

 二人の議論はどこまでも平行線だった。出席者の半数はホーランド中将の言うことなら何でも賛成で、残り半数はダーシャの意見を支持する。俺はもちろんダーシャに付いた。

 

 ホーランド中将は英雄願望を満たすために戦っている。常に戦場を求めており、戦う機会を奪われることを何よりも嫌う。それゆえに、第一一艦隊司令官になりそこねるとドーソン中将の悪口を言い、冬バラ会の一員になると悲観論者を批判した。前の世界で先任者のビュコック中将を批判したのも同じ理由だろう。撤退論など認められないのだ。

 

 この会議の結果が第一統合軍集団に与える影響は大きい。ホーランド機動集団は第一一艦隊の中で最大の兵力を持ち、第一一艦隊は第一統合軍集団の中で最大の兵力を持つ部隊だ。撤退論に傾いてもらわないと困る。

 

 俺は全力でダーシャを援護した。データを出して論理的に説いたり、兵士の困窮ぶりを語って情緒に訴えたりしても、ホーランド中将は耳を貸してくれない。

 

「フィリップス提督。君ほどの勇士が何を恐れている!? 英雄譚に試練はつきものだ! 苦しまずに英雄になった者は一人もいない! 今こそ我々の知恵と勇気が試される時なのだ!」

 

 ホーランド中将は自己陶酔のきわみにあった。

 

「司令官、あなたは……」

 

 あなたはまだ英雄譚を演じるつもりなのか? 俺はそう言いかけて止める。彼には論理は一切通用しない。ならば……。

 

「あなたは英雄をいかなるものとお考えですか?」

「素晴らしい力を持ち、素晴らしい敵と戦い、素晴らしい功績を立てた者だ」

「ミシェル・ネイは英雄でありましょうか?」

 

 俺は古代フランスの英雄譚に登場する勇者の名前を口にした。

 

「言うまでもなかろう」

「ネイは何ゆえに『勇者の中の勇者』と呼ばれたのでしょうか?」

「決して挫けぬ闘志と神をも恐れぬ胆力を持っていたからだ。大陸軍がロシアで敗れた時、ネイは一人で追撃を防いで不朽の存在となった」

 

 ホーランド中将は誇らしげに語る。勇者の中の勇者の伝説は、一七〇〇年以上にわたって語り継がれてきた。

 

「我が軍は危機に瀕しております。兵の気力は尽き果て、補給は滞り、後方では暴徒やテロリストが暴れまわっています。ミシェル・ネイがいなければ、生きて帰ることはできないでしょう」

 

 ここで俺は一旦言葉を切り、ホーランド中将を見つめる。

 

「司令官閣下、あなたこそがミシェル・ネイです」

 

 次の瞬間、ホーランド中将は雷に打たれたかのように立ち上がった。その青い瞳は神聖な確信に満ちていた。

 

「その言や良し!」

 

 ホーランド機動集団の方針は決した。その数時間後、第一一艦隊部隊長会議でホーランド中将が撤退論を熱弁し、第一一艦隊も撤退論支持に回る。九日には第一統合軍集団の方針も決まり、総司令部に作戦中止と撤退を申し入れることになった。

 

 四月一〇日、第一統合軍集団司令部からの呼び出しが入った。軍集団幹部会議に出席しろとの内容だ。一体何の用だろう? いぶかしく思いつつも副官コレット少佐に通信を繋がせる。

 

 立体映像で映しだされた会議室には二四個の席があった。軍集団司令官ウランフ大将、軍集団副司令官・第四地上軍司令官ベネット中将、第一一艦隊司令官ルグランジュ中将、第五艦隊司令官メネセス中将、軍集団参謀長チェン中将といったそうそうたる面々が席についている。ウランフ大将の直属でないのは俺だけだ。

 

「我々と総司令部の交渉は決裂した。あくまで作戦を継続しろと彼らは言っている。第一統合軍集団には現状の戦線を維持する能力はない。まして、攻勢に出るなど不可能だ。これ以上留まっていれば、退却する余力さえ残らないだろう」

 

 ウランフ大将の顔には怒りも失望も見られない。混じりけのない事実だけを伝えるといった感じだ。

 

「私は司令官として最後の責任を果たすつもりだ。第一統合軍集団はすべての解放区を放棄し、地上部隊と民間人を収容しつつ、シャンタウまで後退する」

 

 同盟軍最高の勇将が独断での即時撤退を口にした。第一統合軍集団の猛者たちも顔色を変える。ウランフ側近のメネセス中将とチェン中将だけが落ち着いていた。

 

「よろしいのですか? 死刑もありえますぞ」

 

 ルグランジュ中将が確認するように言う。

 

「覚悟はしているさ。私の命と引き換えに一〇〇〇万人が助かるなら安いものだ。そうは思わんか?」

 

 ウランフ大将が爽やかに笑うと、ルグランジュ中将もつられるように笑った。

 

「おっしゃる通りですな。では、私も軍法会議の被告席に座らせていただくとしましょう」

「感謝する」

「部下に犬死せよと命じるぐらいなら、自分が死刑になる方がよほどましです」

 

 ルグランジュ中将の人柄がこの一言に凝縮されていた。前の世界で同盟政府に反逆した提督は、この世界でも反逆の道を選んだ。

 

「私は副司令官だ。司令官を制止しなかった責任は問われねばなりますまい」

 

 ベネット中将は偏屈者らしいひねくれた表現で協力の意思を示す。

 

 メネセス中将、チェン中将らも次々と賛同し、二三名全員が抗命の協力者となった。驚くほどあっさりと第一統合軍集団の幹部は死刑を覚悟した。

 

 凡人の俺には非凡な人間の考えは理解できない。理解できないけど格好良いと感じる。第一統合軍集団幹部の三人に二人がシトレ派だ。残念ながら、俺は合理主義的でリベラルなシトレ派と相性が良くない。対テロ作戦や解放区選挙をめぐって対立したこともあった。それでも、彼らが見せたノブレス・オブリージュに感動せずにはいられない。真のエリートの姿がここにある。

 

「フィリップス少将」

 

 放心状態の俺にウランフ大将が声をかけた。

 

「はい」

「貴官に頼みたいことがある」

 

 ウランフ大将は事務的な表情で語りかける。

 

「どのようなご用件でしょう?」

「総司令部との交渉役を頼みたい。そのために貴官を呼んだ。この交渉が決裂したら、第一統合軍集団は後退を開始する」

「小官にそんな大役を任せてもよろしいのですか?」

「貴官は冬バラ会のフォーク少将と親しいそうだな」

「八年来の友人です」

「総司令部の実権を握るのは冬バラ会だ。あの連中は傲慢で話が通じない。だが、貴官の話なら聞くかもしれん」

「しかし、本当に小官でよろしいのですか?」

 

 俺は念を押した。自分がウランフ大将に嫌われてるのは知っている。どこまで信じて任せてくれるのかを確認しておきたい。

 

「ただ『構わない』と答えるだけでは、貴官は納得せんのだろうな」

 

 ウランフ大将の表情が事務的なものから、遠慮のないものに変わる。

 

「はっきり言うと、貴官の人格は信用できん。多数派の感情に迎合し、他者への干渉を好み、煽動的な手段を平気で使い、秩序と権威を信仰している。根っからの全体主義者だ」

 

 容赦無いとはまさにこのことだ。出席者の半数は真っ青になり、残り半数は我が意を得たりと言いたげな顔をする。

 

「何をおっしゃるか!?」

 

 ルグランジュ中将が血相を変えて叫んだが、ウランフ大将は意に介さない。

 

「だが、能力は信用する。貴官のような男が必要な場面もある」

「承知いたしました。身に余る大任ではありますが、力の限りを尽くしましょう」

 

 俺はウランフ大将の顔をまっすぐ見ながら答える。酷評の中に誠意と率直さが感じられた。それだけで十分だった。

 

 それからルグランジュ中将の方を向き、無言で頭を下げた。すると、彼の顔が穏やかなものになる。この人との間には言葉は必要ない。

 

 幹部会議は交渉方針を決定し、第一統合軍集団の委任状を俺に渡した。ウランフ大将が会議終了を宣言した瞬間、幹部全員がこちらを向いて一斉に敬礼をする。好悪を超えて信任すると態度で示してくれた。

 

 俺も敬礼を返す。第一統合軍集団一〇〇〇万人の命運を託された。期待を裏切りたくない。何としても成し遂げてみせると決意した。

 

 

 

 総司令部に通信を入れると、三分も経たないうちにアンドリューが現れた。肌には水気がまったくなく、顔からは肉というものが完全に失われ、目は病的なまでに落ち窪んでいる。テレビで見るよりもずっと病んでいるように見えた。

 

「久しぶりだな、エリヤ」

 

 アンドリューは弱々しい笑みを浮かべ、俺をファーストネームで呼んでくれた。

 

「アンドリューと話すのは一昨年の秋以来か」

「悪いがあまり時間は取れない。用件があるなら手短に頼む」

「総司令官閣下への上申はすべて君たち冬バラ会が取り次いでるんだったな」

「冬バラ会じゃない。総合戦略プロジェクトチームだ」

「すまなかった。総合戦略プロジェクトチームの君に頼みたいことがある。第一統合軍集団は撤退を望んでいる。受け入れられなかった場合は独断で撤退するつもりだ。この件について総司令官閣下の判断を仰ぎたい」

 

 俺が委任状と上申書を送信すると、アンドリューの顔から笑みが消える。

 

「それはできない」

「なぜだ?」

「撤退する理由がどこにある? 敵は追い詰められた。ブラウンシュヴァイク派は破れかぶれの攻勢に出た。アースガルズ予備軍は我が軍を恐れて逃げまわる。ビブリスでは連戦連勝だ。勝利は目前じゃないか」

 

 アンドリューは楽観論を展開する。記者会見で言ってることと寸分たがわぬ内容だ。

 

「本気でそう思ってるのか?」

「当たり前だろう」

「第一統合軍集団は戦える状態ではない。兵士は疲れきっている。補給は滞りがちだ。追いつめられたのは俺たちの側だ」

「戦争は相対的に強い方が勝つものだ。兵士が疲れてるというが、敗戦続きの敵兵はもっと疲れている。補給が滞っているというが、フェザーン頼みの敵よりはずっとましだ。練度や装備の優位は揺るぎない。それに加えて民主化と解放という大義名分がある。負ける要素なんて一つもないだろうが。ちょっと苦しいぐらいで悲観するな。現実を前向きに見据えてくれ」

 

 アンドリューは虫の良い話をとめどなく続ける。前の世界の無能参謀フォーク准将の姿が重なって見えた。

 

「もう一度聞くぞ。本気でそう思ってるのか?」

 

 俺はアンドリューの目をじっと見つめた。ほんの少しだけ彼の瞳が揺れる。嘘をついてる自覚はあるようだ。

 

「思っているさ」

「嘘だな」

「いいや、本心だ」

「俺は君という人間を良く知っている。君ほどまともな奴は滅多にいない。そして、総司令部にはあらゆる情報が集まってくる。まともな感性と正しい情報があれば、今の状況は嫌でも理解できるはずだ。それなのに君は現実離れしたことばかり口にする。本心とは思えない」

「…………」

 

 アンドリューの弁舌がピタリと止まる。

 

「君たち冬バラ会は傲慢で話が通じないと言われてる。しかし、俺はこう思うんだ。君たちはわざと話をずらしたんじゃないかと」

「違う、本当に……」

 

 アンドリューは言葉ではなく表情で、俺の推論が正解だと教えてくれた。冬バラ会は話が通じないのではなく、わざと通じないように振舞っている。

 

 彼らの狙いは対話を諦めさせることではないか。ウランフ大将がうんざりして諦めたように。作戦継続にこだわるならば、対話に手間をかけるより、話が通じないことにして総司令部だけで事を進める方が手っ取り早い。

 

「すべてを話せとは言わない。いや、何も言わなくてもいい。俺はこれまで君を信じてきたし、これからもずっと信じる。楽観論を押し通すのも理由があってのことだと思う。だから、何を言われても俺が怒ったり呆れたりすることはない」

 

 俺は自分なりのやり方で不退転の決意を示す。

 

「そうか。何があってもエリヤは引いてくれないんだな」

「第一統合軍集団の一〇〇〇万人、前方展開部隊の二〇万人が背中にいるからね」

「俺にも譲れないものはあるぞ」

「わかっている」

「わかってても帰る気はないんだろう?」

 

 アンドリューは弱々しい微笑みを見せる。

 

「総司令官と会えたら帰るさ」

「それはできないな」

「会うかどうかを決めるのは君じゃない。総司令官だ。すぐに取り次いでほしい」

「だめなものはだめだ」

「第一統合軍集団の進退がかかってるんだ。君の一存で却下できる案件じゃないぞ」

「構わない。俺の責任で却下する」

「覚悟は決めてるってことか」

 

 俺は親友を止められないと悟った。戦地にあって理由なくして伝達を行わなかった者は、一〇年以下の禁固刑に処される。アンドリューはキャリアをなげうつ覚悟だ。

 

「悪く思わないでくれ」

「言ったはずだ。何を言われても俺が怒ったり呆れたりすることはないと」

「いっそ怒ってくれたら良かった。そっちの方が気が楽だった」

 

 アンドリューは深くため息をついた。この時、前の世界の狂人参謀と目の前の真面目な男が同じ糸でつながった。

 

「他の提督に対して傲慢に振る舞う理由には、それも含まれていたんだな?」

 

 答えは返ってこなかった。答えがほしいとも思わなかった。

 

「最初に言った通り、許可を得られなくても第一統合軍集団はシャンタウへ向かう。いずれ、第一統合軍集団司令部からも総司令部に連絡が入るはずだ」

 

 俺の口から吐き出された最後通告の言葉を、アンドリューは何も言わずに聞いている。

 

「話ができて嬉しかった。生きて帰れたらまた会おう」

 

 最後の最後に俺はめいっぱい笑った。道を違えることになってしまったが、それでも友情が変わることはないと伝えるために笑った。

 

 その時、スクリーンの中で急に異変が起きた。アンドリューの目が焦点を失い、顔が何かに驚いているかのように強張り、体が震えだす。やがて、糸が切れた人形のようになって崩れ落ちた。

 

「何が起きたんだ! 返事してくれ!」

 

 俺は誰もいないスクリーンに向かって叫ぶ。副官コレット少佐、副官付カイエ軍曹、当番兵マーキス一等兵らが駆け寄ってくる。

 

「閣下、落ち着いてください!」

「誰もいないのか! 教えてくれ! 何が起きた!?」

 

 部下を無視して叫んでいると、スクリーンに新しい人影が現れた。白衣を着た壮年の男性だ。

 

「総司令部衛生部のダニエル・ヤマムラ軍医少佐です。フォーク少将は急病につき、医務室に搬送されました」

「小官はホーランド機動集団前方展開部隊司令官エリヤ・フィリップス少将だ。状況を説明してもらいたい」

「フォーク少将は転換性ヒステリーの発作を起こしました。視神経障害を起こしていますが、じきに回復します」

「ヒステリー?」

 

 ヒステリーという病名にひっかかりを感じる。一〇〇〇年以上前から使われていないはずだ。

 

「ストレスや葛藤が身体症状を引き起こします。今回は視神経が一時的に麻痺しました。一五分もすればまた見えるようになりますが、このままでは何度でも再発するでしょう」

「どうすれば再発を防げるんだ?」

「原因となっているストレスや葛藤を除去することです。フォーク少将の場合は、強い挫折感や敗北感が背景にあるものと思われます。彼の言うことを無条件で受け入れなければなりません。彼の願望を無条件で叶えなければなりません。すべてが彼の思い通りになるようにしてください」

 

 ヤマムラ軍医少佐はしたり顔で語る。

 

「それが治療なのか? 小官は精神保健担当官資格を持っているが、そのような対応が必要なケースがあるとは聞いたことが無い」

 

 俺の問いにヤマムラ軍医少佐は狼狽の色を見せたが、咳払いをして言葉を続けた。

 

「甘やかされて挫折を知らずに育った子供がかかる病気です。ですから、挫折感を与えずに満足感だけを与えることが再発を防止する手段になります」

「貴官はフォーク少将が甘やかされて挫折を知らずに育った子供だというのか?」

 

 俺は軽く目尻を吊り上げた。ここまでアンドリューを悪く言われては黙っていられない。

 

「い、いえ、そういう子供がかかる病気だと申し上げただけです」

「貴官にはフォーク少将は甘やかされて挫折を知らないように見えるか?」

「ですから、病気が同じなのであって、あの方がそうだとは一言も申しておりません」

「甘やかされて挫折を知らない子供の病気だと貴官は言った。ならば、そんな病気にかかったフォーク少将はそういう子供ということにならないか?」

「総参謀長閣下がお見えになりました! 小官はこれにて失礼いたします!」

 

 ヤマムラ軍医少佐はスクリーンからそそくさと姿を消し、紳士風の中年男性が現れた。総参謀長ドワイト・グリーンヒル大将である。

 

 俺は救い主に会ったような気持ちになった。グリーンヒル大将といえば、同盟軍で最も物分かりが良い人物だ。シトレ派で唯一将官昇進祝賀式典に顔を出してくれた恩、優秀なメッサースミス少佐を推薦してくれた恩もある。期待がはちきれそうなほどに膨らむ。

 

「貴官には迷惑をかけた。本当に申し訳ない」

 

 グリーンヒル大将は謝罪から入った。超大物の謝罪に小物はすっかり恐縮してしまう。

 

「迷惑とは思っておりません」

「フォーク少将の容態については、軍医が説明したとおりだ。当面は休養することになる」

「あ、あのとおりなのでありますか?」

 

 俺は目を白黒させた。

 

「そうだ。本当に残念だが……」

 

 グリーンヒル大将は言いにくそうに目を伏せる。スクリーンの向こうから深い悲しみが伝わってくるようで、突っ込むのが罪悪にすら思えた。

 

「フォーク少将と小官が話していた内容についてはご存じですか?」

「通信記録は一通り見せてもらった」

「では、改めて申し上げます。第一統合軍集団は撤退を望んでいます。受け入れられなかった場合は独断で撤退するつもりです。総司令官閣下の裁可を頂けるよう、お願い申し上げます」

 

 俺は口上を述べ、委任状と上申書をもう一度送信する。

 

「総司令官閣下は昼寝中だ。第一統合軍集団の要望は起床後に伝えよう」

 

 グリーンヒル大将の返答は思いもよらないものだった。

 

「差し出がましいお願いではありますが、起こしていただくわけにはいきませんか? 総司令官閣下が連日の激務で疲れておいでなのは承知しています。ですが、第一統合軍集団は破滅の危機にひんしています。一分一秒でも惜しいのです」

「敵襲以外は起こすなとの厳命だ。第一統合軍集団の要望は起床後に伝える。それまで待ってもらいたい」

「この場合の敵襲とは、『総司令部が直接指揮を取らなければならない事態』と解釈すればよろしいのでしょうか?」

「その解釈で構わない」

「では、総司令官閣下が起床されるかお教えいただけないでしょうか」

「私にはわかりかねる」

「普段は何時間で起床されるのですか?」

「決まっていない。とにかく起床後に伝える」

「そこを何とかお願いできませんか」

 

 押し問答を続けるうちに違和感を覚えた。グリーンヒル大将は優秀な軍官僚ではあるが、官僚的な面は持ちあわせておらず、柔軟で人情味がある。それゆえに反骨精神の強いビュコック大将やヤン大将からも好かれた。官僚的対応に終始するような人物ではない。

 

 俺はようやく相手の意図に気づいた。グリーンヒル大将もアンドリューと同じだ。話が通じないふりをしている。

 

 彼の言うことはすべて口実だろう。高級指揮官にとって体力は最も大事なもので、休憩をとるのは仕事の一部だ。不要不急の来客を断る理由としては十分である。それに「敵襲がなければ起こせない」と付け加えることで、官僚的対応を正当化する余地が設けられた。起床時間を曖昧にするのは時間稼ぎだ。いつ起きるかわからない相手を待てるほど、前線の軍人は暇ではない。うまい口実を考えたものだと思う。

 

 しかし、アンドリューやグリーンヒル大将はなぜこんな真似をするのか? 総司令部だけで事を進めたいにしても、第一統合軍集団の件は追い返して済む話ではないのに。

 

「君たちの気持ちはわかる。だが、ルールはルールなのだ。必ず要望は伝えるし、期待を裏切らない回答ができるよう努力する。それまで早まったことはしないでほしい」

 

 グリーンヒル大将はなだめるようでもあり心を痛めているようでもあった。

 

「早まったことはしないでほしいと」

 

 俺は一番最後の言葉だけを繰り返す。声にならない声で「それが主題なのですか?」と問う。

 

「その通りだ。私は君たちを信じている」

「総参謀長閣下のおっしゃりたいことはわかりました。ウランフ大将に伝えておきます」

 

 俺はここで通信を終えた。総司令部側の本当の狙いが理解できたからだ。

 

 結局のところ、アンドリューもグリーンヒル大将も、第一統合軍集団に「早まったこと」をさせたくなかったのだろう。ロボス元帥がどのような裁可を下しても、第一統合軍集団の撤退は避けられない。裁可を先送りにすれば、第一統合軍集団が判断を先送りする可能性もある。無断撤退を回避しうる方法は他にはない。

 

 さらに言うと、「早まったこと」をされて一番困るのはロボス元帥だ。一〇〇〇万人を擁する第一統合軍集団が無断撤退した場合、人類史上最大の抗命事件を招いた責任を問われかねない。だからといって撤退を認めれば、講和条件が不利になり、政治的立場が危うくなる。

 

 具体的な指示があったのか、空気を読んで勝手に動いたのかはわからないが、二人がロボス元帥のために動いたのは確かだと思う。

 

 苦い思いばかりが残る交渉だった。甘みで苦味を打ち消そうにも、補給難のためにマフィンは一日二個しか食べられないし、コーヒーに入れる砂糖は半分に減らされた。

 

 ウランフ大将は俺の報告を事務的な表情で聞いた。通信記録を見ている間も、アンドリューやヤマムラ軍医少佐に対しては、何の感想も漏らさなかった。ただ、グリーンヒル大将を見た時は、少しだけ顔を曇らせて「また迷惑をかけてしまうな」と呟いた。

 

「ご苦労だった。次の命令が出るまで休憩するように」

 

 形式の範囲を一歩も出ない言葉をもらい、ウランフ大将との交信は終わった。俺に対する評価が変化したかどうかは窺い知れなかった。

 

 三〇分後、第一統合軍集団司令部から遠征軍総司令部及び九個軍集団司令部に向けて、一本の通信が送られた。

 

「第一統合軍集団は現時刻をもってレーンドルフ方面作戦を中止。シャンタウへと後退する」

 

 七九九年四月一〇日二〇時三四分、第一統合軍集団一〇二四万人は、撤退作戦「オリーブの枝」を開始した。帝国軍の追撃を防ぎ、同盟人民間人及び親同盟派住民五三〇〇万人を収容しつつ、シャンタウ星系を目指す。人類史上最大の撤退戦が幕を開けた。

 

 

【挿絵表示】

 



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第66話:美しく素晴らしき戦い 799年4月10日~24日 アーデンシュタット~ヴァナヘイム~シャンタウ~ヴァルハラ

 第一統合軍集団司令部が撤退を通告してから間もなく、遠征軍総司令部は撤退許可を出した。時刻が通告の五分前にあたる「四月一〇日二〇時二九分」になっているのは、第一統合軍集団の撤退申請が正式に許可されたとの形式を整えるためだ。

 

 この件を抗命事件として扱った場合、現役の宇宙艦隊司令長官が一〇〇〇万人を率いて抗命したことになる。他の前線部隊が同調する可能性も少なくない。そうなれば、「占領地に居座って有利な講和につなげる」という戦略が崩れるだけでなく、戦争継続すら不可能になる。総司令部としては譲歩せざるを得なかった。

 

 それから間もなく、ヨトゥンヘイムの第三統合軍集団と第六統合軍集団、スヴァルトアールヴヘイムの第四統合軍集団、アルフヘイムの第五統合軍集団、ニダヴェリールの第七統合軍集団にも撤退許可が与えられた。第五統合軍集団はミズガルズ、その他の軍集団はアースガルズに向かって退却を始めた。警備担当の三個軍集団は引き続き担当地域に留まる。

 

 撤退許可とほぼ同時に、作戦参謀アンドリュー・フォーク少将が病気療養すると発表された。なお、具体的な病名は明らかにされていない。記者会見の席には、総司令官ロボス元帥、総参謀長グリーンヒル大将、副参謀長兼作戦主任参謀コーネフ大将らは現れず、作戦参謀リディア・セリオ准将が発表役を務めた。この女性は冬バラ会の実質的ナンバーツーで、人々からはアンドリューに代わる遠征軍の支配者だと見られた。

 

 本国政府はヴァナヘイムとヨトゥンヘイムとアルフヘイムの解放区を諦め、アースガルズ確保を最優先にすると発表した。旧帝都圏さえ確保すれば、市民への言い訳も立つと考えたのだろう。

 

 ウランフ大将は幹部会議の出席者に抗命の決定を隠すよう指示した。どのような形であっても、要求が通った以上は争う理由がないとの判断からだ。全面衝突を避けるために動いてくれたグリーンヒル大将への配慮もあった。

 

 日付が変わり四月一一日になった直後、警報がけたたましく鳴り響いた。スクリーンには膨大な数の光点が映る。

 

「第九惑星方面から敵艦隊が前進してきます! 数は一五〇〇から一六〇〇! 二〇分前後で接触する見込みです!」

 

 オペレーターの叫びとともに、前方展開部隊一二〇〇隻は戦闘モードに切り替わった。前衛に第三六機動部隊とビューフォート独立戦隊とアコスタ独立戦隊が展開し、後衛にマリノ独立戦隊とバルトハウザー独立戦隊が予備として控える。

 

「一歩たりとも敵を通すな! 五三〇〇万人の盾になるのが我らの役目と心得ろ!」

 

 俺は前衛の最前列で指揮をとった。一二〇〇隻が五三〇〇万人の盾ならば、自分は一二〇〇隻の盾になろう。無能者が人の上に立つには、それくらいの気構えが必要だ。

 

 敵は二列縦隊を組んで突っ込んできた。戦術も何もないただの力押しだが、一・三倍の兵力と大型艦偏重の編成が生み出す打撃力は侮れない。

 

 前衛部隊が突っ込んでくる敵を受け止める。ビームとミサイルを敵の艦列目掛けて撃ちこみ、中和磁場を張り巡らせて敵のビームを防ぎ、迎撃ミサイルで敵のミサイルを叩き落とす。小細工無しの真っ向勝負だ。

 

「望むところだ! 受けて立つ!」

 

 口先で猛将っぽいことを言いつつ、内心で胸を撫で下ろす。俺は戦術的な駆け引きがまったくできない。相手が力押しで来てくれて本当に助かった。

 

 このような戦いで決め手になるのは勇気の量だ。敵はヒルデスハイム艦隊の前衛だけあって高い練度を有するが、第一統合軍集団の切り込み役を担ってきた俺たちには及ばない。非戦闘員を守るという大義を見出したことで、落ちきっていた士気は激しく燃え上がり、失われていた規律は鉄石のように堅固となった。

 

 数時間にわたって乱打戦が続いた。最大戦力の第三六機動部隊を率いるポターニン准将は堅実な防戦に徹し、小戦力のビューフォート代将とアコスタ代将が両翼を固く守る。次第に敵に疲れが見えてきた。

 

 俺は左隣を向いて参謀長チュン・ウー・チェン代将に問いかけた。

 

「参謀長、そろそろいいか?」

「問題ありません」

「よし、予備を投入する!」

 

 恐れを知らないマリノ代将と用兵下手だが働き者のバルトハウザー代将が、天底方向へと猛進した。数千本のビームが功名心に駆られた敵の下腹部を痛打する。艦首を下に向けて迎撃態勢をとった敵下方部隊を突き破り、ビームとミサイルを盛大にばらまき、密集した敵艦をなぎ倒す。

 

「今だ! 全艦突撃!」

 

 俺の号令とともに前衛部隊が突っ込んだ。内外から攻め立てられた敵はみるみるうちに崩れていき、やがて全面的な敗走に移った。

 

 ヴァイマールの司令室が歓声に満たされた。正面から殴り合って勝つほど気持ちいい勝ち方はない。これで部下はまずます盛り上がるだろう。士気重視というより、士気しか頼るもののない俺にとって最高の結果だった。

 

「追撃は不要! 戦闘要員は休憩をとれ! 支援要員は全力で補給や整備を進めろ!」

 

 俺はすぐさま次の指示を出す。兵士に休みを取らせ、艦艇に補給を行い、そう遠くないうちに訪れるであろう次の戦いに備える。

 

 非戦闘員が退避するまで時間を稼ぐのが、俺たち追撃阻止部隊に課せられた任務だ。シュテンダールのような最前線には、同盟人民間人も親同盟派民間人もいなかったため、すぐに退避作業が終わった。しかし、後方では思うように進んでいない。少なくとも半日はアーデンシュタットに留まることになるだろう。

 

 ウランフ大将は第一統合軍集団の艦艇六万隻を二つに分け、三万隻を非戦闘員の退避支援、三万隻を前線に残して追撃阻止部隊とした。これまでは五万隻を前線に配備し、一万隻を後方警備に充ててきたので、二万隻が引きぬかれた計算だ。一方、レーンドルフ方面には五万隻のブラウンシュヴァイク派艦隊がいる。一・七倍の敵を防ぐのは容易ではない。

 

 もっとも、退避支援部隊の任務はさらに困難だ。五三〇〇万人が乗れる船を確保し、五三〇〇万人を暴徒やテロリストから守りつつ船に乗せ、巨大船団をシャンタウまで無事に航行させなければならない。目前の敵に集中すれば良い分だけ、俺たちの方がまだましだと思える。

 

 数時間後、ましだと言ってられない状況に追い込まれた。敵部隊二〇〇〇隻がアーデンシュタットに侵入してきた。その背後にはヒルデスハイム艦隊本隊三〇〇〇隻が控えているという。こちらの兵力は先程の戦いで一二〇〇の大台を割り込んだ。どう見ても勝てるはずがない。

 

 俺は落ち着いた顔を作ってスクリーンを眺めた。もっとも、心臓は狂ったように躍り出し、腹はきりきりと痛み、背中に冷や汗がにじんでいる。

 

「勝ちすぎたかな」

「本気にさせてしまいましたね」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長はいつものようにのんびりした顔で応じた。

 

「どうしようか?」

「勝ち目がありません。全力で離脱しましょう」

「逃がしてくれるかな?」

「援軍を呼びましょう。ヒルデスハイム艦隊の総数は一〇〇〇〇隻。その半分をこちらに差し向けた計算になります。その分、他の方面が薄くなり、味方に戦力的余裕が生じているはずです」

 

 敵が五〇〇〇隻を投入してきた事実から、チュン・ウー・チェン参謀長はこれだけ多くのことを読み取った。目の前しか見えない俺にはできないことだ。

 

「よし、参謀長の言う通りにしよう」

 

 俺は全面的に提案を受け入れると、アーデンシュタットから離脱すると同時に、近隣の味方に援軍要請を出した。

 

「司令官閣下、ホーランド機動集団本隊より承諾の返事が来ました」

 

 副官コレット少佐が本隊からの通信文を持ってきた。予想以上に早い返事だ。「ヒルデスハイムを討ってください」と書いたのが効いたのだろう。見敵必戦のホーランド中将はこういう言い回しを好む。

 

 前方展開部隊は全力で逃走……、いや転進してホーランド中将との合流を目指した。合流予定宙域のソーレン星系は、退避作業に悪影響を及ぼさないギリギリの線だ。

 

 後ろからはヒルデスハイム艦隊五〇〇〇隻が追いかけてくる。推進力の強い戦艦部隊七〇〇隻がその先頭に立つ。捕捉されたら撃滅されることは疑いない。

 

「大型艦と小型艦が一緒になっていては追いつかれます。小型艦を先に行かせ、大型艦を殿軍として時間を稼ぎましょう」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長とラオ作戦部長の進言に従い、俺は戦艦一四〇隻と巡航艦三一〇隻を率いて殿軍となった。戦艦部隊の先頭を叩いて離脱し、敵が追いついてきたら再び先頭を叩いて離脱する。これを何度も繰り返した。

 

 四月一二日、俺はソーレン星系でホーランド機動集団本隊と合流した。味方の総数は三九〇〇隻で敵の八割弱といったところだ。

 

「精鋭諸君! 天空を見よ! 数億年の輝きが見ているぞ! 星々の記憶に我らの名を刻みつけようではないか!」

 

 ホーランド中将が拳を振り上げると、三九〇〇隻が歓呼をあげながらヒルデスハイム艦隊に向かっていった。

 

 密集隊形で前進する敵に対し、ホーランド中将は芸樹的艦隊運動を習得した精鋭一七〇〇隻を率いて正面攻撃を仕掛けた。三倍の敵に正面から挑むなど狂気の沙汰にしか見えないだろう。だが、負けると思っている者は一人としていない。

 

 精鋭が数十隻単位に分かれて散開し、自由自在に隊形を変えながら進んでいく。敵の砲火は散開隊形の隙間をすり抜け、味方の砲火は密集した敵を的確に捉えた。ホーランド中将は敵艦列の結節点を直感で見抜き、効果的に分断する。空いた穴に俺が先頭部隊を率いて入り込む。

 

「上も下も右も左も前も後ろも敵だらけだ! 撃てば当たるぞ!」

 

 俺が床を蹴って叫ぶと、先頭部隊五〇〇隻が近距離砲を一斉に撃ち放った。ウラン弾の雨が敵艦を宇宙の塵へと変えていく。傷口が大きくなったところに、ホーランド中将の旗艦「ディオニューシア」、エスピノーザ部隊、バボール部隊、ヴィトカ部隊が殺到する。

 

 勇猛だが守勢に弱いヒルデスハイム艦隊は激しく動揺した。統制を取り戻そうとする努力は、ホーランド中将の速攻によってことごとく失敗に終わった。

 

「我が軍の勝利は目前にあり! 前進して敵を分断せよ!」

 

 ホーランド中将は後方の二二〇〇隻に攻撃参加を命じた。オウミ副司令官とハルエル少将に率いられたこの部隊は、独立部隊・予備役部隊・元帝国兵部隊で構成されており、芸術的艦隊運動が使えない。それでも、このような局面では大きな破壊力を発揮する。

 

 ソーレン会戦はホーランド機動集団の大勝利に終わった。三割を失って後退した敵に対し、味方が失った兵力は五パーセントにも満たない。

 

 その後も撤退戦が続いた。第一統合軍集団司令官ウランフ大将、第一一艦隊司令官ルグランジュ中将、第五艦隊司令官メネセス中将の三名が指揮する追撃阻止部隊は、敵の波状攻撃を退ける。第四地上軍司令官ベネット中将が率いる退避支援部隊は、非戦闘員の保護に全力を尽くす。

 

 非戦闘員を守るために一〇〇〇万人が心を一つにした。人間を強くするものは信頼だ。第一統合軍集団の兵士は大義を信じ、大義のために戦う指揮官を信じ、大義を共有する戦友を信じることができた。この時、彼らは銀河で最強の兵士だった。

 

 

 

 第一統合軍集団がブラウンシュヴァイク派と激戦を繰り広げている間、同盟軍は各地で後退を重ねていた。

 

 ヨトゥンヘイム方面では、第三統合軍集団がラインハルト率いる帝国軍国内艦隊と戦い、第五次ビブリス会戦とキルヒハイン会戦で敗れた。基幹部隊の第七艦隊と第一〇艦隊は精鋭であったが、疲れきっていた。天才ラインハルトの前ではわずかな隙ですら命取りになる。軍集団司令官ホーウッド大将の戦略、第一〇艦隊司令官オスマン中将の用兵、前衛を担うモートン中将やヘプバーン中将の勇敢さをもってしても、味方を敗北から救うことはできなかった。

 

 艦隊戦での連敗は、ヨトゥンヘイムの反同盟勢力を勢いづけるとともに、親同盟勢力の寝返りを促した。同盟軍地上部隊は暴徒や民兵に取り囲まれた上に、アースガルズ予備軍の絶え間ない襲撃を受け、進むも引くも困難となった。艦艇戦力の四割を失った第三統合軍集団には、地上部隊を救う余力はない。上陸戦部隊の第六統合軍集団は自分の身を守るので精一杯だ。

 

 レンテンベルク方面では、第二統合軍集団とメルカッツ艦隊のにらみ合いが続いている。動きが少ないことから、第八艦隊をヨトゥンヘイム方面の救援に送った。

 

 アルフヘイム方面では、第五統合軍集団がリッテンハイム派主力部隊の猛攻を受けた。老練なルフェーブル大将が指揮をとり、歴戦の第三艦隊を基幹とする精鋭も数の圧力には勝てなかった。現在はミズガルズのヴィーレフェルトまで退き、インディペンデンス統合軍集団とともに防戦を続ける。

 

 ガイエスブルク方面では、第四統合軍集団とブラウンシュヴァイク派ガイエスブルク方面軍が死闘を繰り広げた。司令官ヤン大将は二万隻を率いて後衛となり、数が多く活力に富んだ敵を良く防いだ。副司令官カンディール中将は一万隻と地上部隊を指揮して、非戦闘員の保護に努めた。

 

 ニダヴェリール方面では、第七統合軍集団が非戦闘員や地上部隊を収容しつつ後退した。この方面にいる帝国軍辺境艦隊は精鋭だが数が少なく、追撃を阻止するのはさほど難しくない。むしろ、反同盟勢力の蜂起、親同盟勢力の裏切り、アースガルズ予備軍の襲撃の方が厄介といえる。

 

 レーンドルフ方面の第一統合軍集団はどの方面よりも苦しかった。過労が兵士から判断力と集中力を奪い、業務効率を著しく低下させた。敵を撃退するたびに損害と疲労が蓄積された。膨大な非戦闘員を抱え込んだことで、食糧や生活物資の備蓄が底をついた。士気がまったく落ちていないのが救いだ。

 

 俺の部隊は最後尾で戦い続けた。単独で戦うこともあれば、同格の部隊と協力して戦うことやホーランド中将の指揮下で戦うこともあった。そのすべてで勝利を収め、敵の進撃を遅らせる代わりに消耗した。

 

 

 

 

 

 四月一七日の朝、コレット少佐が嫌な知らせを持ってきた。

 

「第三六戦艦戦隊のスー先任代将が心筋梗塞で倒れました」

「病状は?」

「命に別状はありません。しかし、当分は安静が必要とのことです」

「そうか、それは良かった」

 

 俺の胸は安堵と罪悪感で半々だった。ここ数日、過労で倒れる者が相次いでいる。火力の要として貢献してくれたスー先任代将の脱落は、感情的にも戦力的にも辛い。

 

 落ち込んだ気持ちに、サンバーグ後方部長の報告が追い打ちをかけた。水素燃料が著しく不足しているというのだ。

 

「このまま機動戦を続けると、シャンタウに着くまでに水素燃料がなくなります」

「ウラン弾とミサイルの残量はどうだ?」

「いくらかは余裕があります」

「接近戦主体に切り替えた方がいいかもな」

 

 サンバーグ後方部長が退出した後、俺はラオ作戦部長を呼び、機動戦から接近戦に切り替えた場合はどうなるかを聞いた。

 

 戦略戦術は使える物資に左右される。ホーランド流の機動戦は、損害を出さない代わりにエネルギーを大量に使う。一方、実弾兵器と単座式戦闘艇を用いた接近戦は、エネルギー消費が少ないが損害も多い。判断が難しいところだ。

 

 話し合いが終わると、コレット少佐がまた嫌な知らせを持ってきた。今度は総司令部から全軍にあてた命令文だ。

 

「軍需工場をすべて破壊しろだって?」

 

 心の底からうんざりした。そんなことに戦力を回す余裕など今はない。いや、今でなくともなかった。オーディンが陥落して以降、遠征軍は必要な任務に割く戦力すら不自由していた。

 

「セリオ准将は何を考えてるんですかね?」

 

 ラオ作戦部長はうんざりした顔をする。アンドリューの療養に伴い、セリオ准将がロボス元帥との連絡を一手に引き受けることとなった。世間では前任者と同様にロボス元帥を操ってると思われているのだ。

 

「本気で命令したわけではないと思うよ。何が何でも実施しろとも言ってない」

「そういえば、三日前と五日前にも同じ命令を受け取りました」

「統一正義党への義理だろうな」

 

 俺は本国政局に絡んだ命令だと見当をつけた。極右政党「統一正義党」は、「なぜ帝国を焦土にしないのか」「軍需工場を破壊し、後顧の憂いをなくせ」と騒いでいる。実現性も必要性も皆無なのだが、政府や総司令部は戦争継続派の統一正義党をおろそかにできない。

 

「なるほど。閣下の政局眼はさすがです。戦術眼は全然……」

「昼飯にしようじゃないか!」

 

 仕事が一段落したところで、士官食堂へ昼食をとりに行った。今日から士官の食事はカロリー換算で二〇パーセントカットされる。戦闘任務中に支給される増加食は、三日前から支給停止になった。非戦闘員を収容していないため、退避支援部隊よりは余裕があるが、それでも減らさなければならなかった。

 

「きついですね。軍艦乗りにとって食事は数少ない楽しみですから」

 

 アシャンティ艦長からヴァイマール艦長に横滑りしたドールトン大佐が溜息をつく。

 

「一日三〇〇〇カロリーじゃねえ」

 

 イレーシュ副参謀長は切れ長の目に憂いの表情を浮かべる。宇宙軍軍人に支給される食事は一日あたり三八〇〇キロカロリーで、小食でなければ満足できない量だ。それが二割減らされたのだから嘆くのは無理もない。

 

「それはともかく、サンドイッチが食べられなくなりました。困ったものです」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長がプレーンベーグルを手にとった。最近、彼のポケットの中から潰れたサンドイッチが消えた。

 

「最近は甘い物も食べられなくなった」

 

 俺は愚痴をこぼす。最近はマフィンをほとんど食べられなくなり、コーヒーを砂糖でドロドロにできないので、糖分不足に苦しんでいる。

 

「艦長のおっしゃることはもっともと思いますが、司令官と参謀長と副参謀長は基準が少々ずれ……」

 

 ラオ作戦部長が何か言おうとしたところで、テレビからチャイム音が鳴った。この音はきわめて重要かつ緊急な連絡の時だけ鳴る音だ。

 

 スクリーンに第一統合軍集団司令官ウランフ大将が現れた。これはただ事ではない。食堂に緊張が走る。

 

「第一統合軍集団本隊はニーダークンブト星系第三惑星近辺にて、帝国軍一万隻と遭遇した。これより遅滞戦闘を行い、非戦闘員を逃がすための時間を稼ぐ」

 

 俺は幕僚たちと顔を見合わせる。ニーダークンブトは最前線にも関わらず、人口が多いために退避作業が遅れていた。本隊の兵力は五〇〇〇隻か六〇〇〇隻程度だったはずだ。

 

 ウランフ大将は帝国軍の名将メルカッツ上級大将と近い性質を持っている。劣勢を互角に、互角の戦いを優勢に持っていけるが、負け戦を勝ち戦にすることはできない。疲れた兵を率いて二倍の敵に勝つのは無理だ。そして、彼に非戦闘員を見捨てて逃げるという選択はない。このままでは確実に全滅する。

 

 俺は真っ青になった。ウランフ大将は第一統合軍集団、いや同盟軍の柱石とも言うべき人だ。個人的にも死んでほしくなかった。酷評であっても、小細工なしに切り込んでくるタイプは嫌いではない。

 

「救援しないとまずいぞ。ニーダークンブトまで何光年だ? いや、まずはホーランド司令官に具申しないと。コレット少佐、紙とペンを出してくれ。いや、端末だ。ノート端末を出してくれ。具申書の下書きを書くから」

 

 ごちゃごちゃ言ってるところに、ウランフ大将の力強い声が響いた。

 

「救援の必要はない。五〇〇〇隻もいれば、時間を稼いで包囲を突破するには十分だ。他星系の退避作業に支障をきたさないよう、戦線維持に努めることが諸君の務めと心得てほしい。本隊が敵兵力の二割を釘付けにすれば、その分だけ諸君の負担が減り、非戦闘員が退避しやすくなるというものだ」

 

 食堂にいる者すべての顔が驚きに包まれた。ウランフ大将はニーダークンブトの非戦闘員だけでなく、すべての部下と非戦闘員のために時間稼ぎをするつもりだ。驚かずにいられようか。

 

「諸君を一人でも多く生かすのが指揮官たる者の義務だ。諸君が進む時は最先頭に、退く時は最後尾に立つのもまた指揮官たる者の義務だ。遠慮することはない。私が稼いだ時間を使って生き延びろ。私が稼いだ時間を使って一人でも多くの非戦闘員を救え。それが指揮官たる私が諸君に課す義務だ」

 

 俺は食い入るように画面を見つめる。ノブレス・オブリージュ、高い地位を持つ者はそれに見合った義務を背負わねばならないとの理念が人間の形を取って現れた。その奇跡にすっかり見とれていた。

 

 自他ともに認める小物でも何が美しいかぐらいはわかる。部下を死なせたくはないし、指揮官が先頭に立つのは当然のことだとも思うが、そのために命を賭けられる自信はない。勇敢なように振舞ってきたのだって、人々の期待を裏切るのが怖かっただけだ。ウランフ大将がなぜ身を捨てられるのかはまったく理解できないし、共感もできない。それなのにどうしようもなく美しい。

 

「自由惑星同盟は自由の国だ。自由の国は諸君に自由であることのみを求める。国のために死ぬ人間ではなく、自由に生きる人間であることを求める。私は自由を愛している。ただ一つの与えられた正解ではなく、無数の答えの中から好きなものを自由に選べることが、何よりも幸福だと思う。正しいことも間違ったことも自由に選べる国、優等生もはみ出し者も自由に振る舞える国、賢者も愚か者も好きなことを言える国、国を愛する自由も国を憎む自由もある国を守るために、私は戦ってきた」

 

 ウランフ大将の顔に優しい表情が浮かんでいた。恋人について語っているようにすら見えた。

 

「自由な生を全うしてもらいたい。それが私からの願いだ。最後に諸君に感謝する。諸君は良き部下であり良き戦友であった。共に戦えたことに感謝する」

 

 ウランフ大将が深々と頭を下げて最敬礼をした途端、俺はすっと立ち上がって最敬礼を返した。両目からは涙がこぼれ落ちる。これで泣かない者がいたら、それは人間ではない。

 

 他の者も命令されたわけでもないのに、俺と同じように最敬礼の姿勢をとる。怠け者のカプラン大尉ですら例外ではなかった。ウランフ大将の姿がテレビから消えた後も、真っ暗な画面に向かってみんなで敬礼を続けた。

 

 放送から二日後、本隊の生き残りから「ウランフ大将戦死」の報が伝えられた。彼は非戦闘員を逃がした後、残存兵力三〇〇〇隻を率いて包囲を突き破ったが、自分自身は逃げきれなかった。足の遅い艦を逃がすために戦っていたところ、旗艦に直撃弾を受けたのだそうだ。報告を聞き終えると、俺はニーダークンブト星系の方向を向いて敬礼した。

 

 

 

 ウランフ大将が亡くなると、第一一艦隊司令官ルグランジュ中将が追撃阻止部隊の指揮を引き継いだ。

 

「徹底的に時間を稼げ! 市民の盾となるのだ!」

 

 追撃阻止部隊は司令官が交代した後も強かった。ルグランジュ中将は前任者と比較すると指示や判断の正確さに難があったものの、士気を高める力は勝るとも劣らない。ウランフ大将の戦死はむしろ兵士の奮起を促した。

 

 一方、敵の総司令官ミュッケンベルガー元帥と総参謀長シュターデン上級大将は、私兵軍と予備役を総動員して攻撃のペースを上げた。

 

 四月一九日二三時、ホーランド機動集団は、レムベルク星系第五惑星宙域で帝国軍四二〇〇隻と遭遇した。同星系第一四惑星宙域で三三〇〇隻を撃退してから八時間後、隣接するマウシュバッハ星系で三八〇〇隻を撃退してから二〇時間後のことだ。

 

「冗談じゃない! 一日で三回目だぞ!」

 

 オペレーターの一人がうんざりした声をあげた。今や第一統合軍集団にとって戦闘はルーチンワークに成り果てており、連戦の倦怠感が連勝の喜びを上回っている。

 

 敵は半球状の陣を敷いた。攻撃力に欠けるものの側面攻撃に強い陣形だ。艦艇の三分の二は予備役分艦隊のエンブレムが付いた旧式艦、三分の一は宇宙艦隊総司令部直轄のエンブレムが付いた現役艦が占める。

 

「参謀長、敵の狙いは何だと思う?」

 

 俺はチュン・ウー・チェン参謀長の意見を求めた。

 

「防御に徹することで消耗を誘うつもりでしょうね」

「こちらが速戦即決狙いなのはわかってるわけか。ちゃんと研究してるんだな」

「シュターデン総参謀長は理屈倒れと言われます。裏返してみると、理屈が通用する場面では強いのでしょう」

「速戦即決で片付ける方法はあるか?」

「あります」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長は、パンの在庫を聞かれたパン屋のように言い切った。

 

「ごらんください、予備役部隊は艦列の間隔がやや広くなっています」

「艦同士の衝突を避けるためだな。距離を詰めたまま艦を動かせるだけの練度がない」

「その通りです。半球陣の防御力は見かけの七割か六割といったところでしょう」

「突破するのは難しくなさそうだ」

「問題は正規兵です。ただし、積極的に戦わない可能性が高いでしょう。この二日間で戦った敵の編成を見るに、正規兵と予備役兵と私兵の混成部隊ばかりでした」

「コアになる正規兵は温存するってことかな」

「予備役兵と私兵だけでは戦力になりませんからね。敵の戦略が波状攻撃である以上、新規部隊編成に必要な正規兵は大事にすると思われます」

「ありがとう、よくわかった」

 

 俺は心からの感謝を込めて言った。自分一人では目前の敵が強いかどうかはわかっても、何を考えているかはわからない。チュン・ウー・チェン参謀長と問答することでようやく理解できる。

 

 ホーランド中将はいつものように速戦即決を選んだ。芸術的艦隊運動が使えないため、全軍三二〇〇隻が一丸となって突撃する。俺が紡錘陣の先頭に立ち、ホーランド中将がハルエル少将とエスピノーザ准将を従えて第二陣となり、第三陣のヴィトカ准将とバボール准将、第四陣のオウミ准将が後に続く。

 

 ホーランド機動集団は対艦ミサイルを乱射しながら敵右翼へと突っ込んだ。絶妙なタイミングと角度から行われた突撃に敵は対処しきれない。薄い艦列をあっという間に破った。

 

「母艦からスパルタニアンを発進させろ! 他の艦は近距離砲に切り替える!」

 

 ここからは接近戦の時間だ。単座式戦闘艇「スパルタニアン」が敵の単座式戦闘艇「ワルキューレ」を制圧し、駆逐艦は敵艦に肉薄して電磁砲を叩き込む。接近戦に弱い戦艦や巡航艦はやや離れた場所から支援に徹する。

 

「仰角二〇度! 一一時方向へ集中砲火を浴びせろ!」

 

 すべての艦がホーランド中将の指示通りに砲撃すると、敵は驚くほどの速度で崩れていった。凡人に見えない弱点が彼には見えるのだ。

 

 日付が変わる前に敵は総崩れとなり、ホーランド機動集団は一日で三度目の勝利を収めた。この日に被った損害は二〇〇隻程度、敵に与えた損害の合計はおよそ二〇〇〇隻である。苦境にあってホーランド中将の輝きは一層強くなったように思われた。

 

 この快勝は従軍記者によって本国へと伝えられた。敵の妨害電波が酷いので本国のニュースは見れないが、軍用回線で送られてくる軍の機関誌「三色旗新聞」によると、かなり大きく報じられているらしい。

 

 素晴らしい活躍にもかかわらず、現代のミシェル・ネイになるというホーランド中将の夢は叶わなかった。

 

「ホーランド提督は現代のナポレオン・ボナパルトだ!」

 

 今日の三色旗新聞にはこんな見出しが踊る。なんと、ミシェル・ネイの主君であり、人類史上五指に入る戦争の天才になぞらえられたのだ。ダーシャによると、ホーランド中将はとてもご満悦らしい。

 

 コレット少佐が何も言わずに三色旗新聞を開いた。提督紹介コーナーに、「勇者の中の勇者、ミシェル・ネイが我が国にいた」と記された見出しと俺の顔写真が載っている。

 

 驚くべきことに、俺が現代のミシェル・ネイになってしまった。ネイと俺の共通点なんて赤毛以外にはないのに。

 

「戦略がだめなところも似てるよ」

 

 イレーシュ副参謀長が二つ目の共通点を教えてくれた。いずれにせよ、この程度で現代のネイと呼ばれるのは気がひける。そもそも俺はホーランド配下最強ですらない。統率力はハルエル少将に劣り、勇敢さはエスピノーザ准将に劣り、戦術能力は全員に劣る。

 

「しかし……」

 

 俺が反論しかけたところで、イレーシュ副参謀長が右手をすっと伸ばして俺の口元に当てた。

 

「今は大人しくネイをやっててくださいね」

「…………」

「ホーランドは真性の馬鹿ですけど、指揮官として何をすべきかだけは知ってるんですよ。真性の馬鹿ですけど」

 

 彼女の冷たい笑顔は恐ろしいほどに美しく、有無を言わさぬ迫力があった。

 

「そ、そうします」

 

 内心では不本意なものの、ここまで言われては引き下がるしかない。彼女は一〇年前からずっと俺を正しく導いてくれた。きっと今回も正しい。

 

 報告書を読むと、みんながナポレオンやネイの再来を期待する気持ちがわかると同時に、俺自身が英雄にすがりたい気持ちになった。

 

 前方展開部隊は死にかけていた。作戦開始時に一二二七隻を数えた艦艇は九三四隻まで減った。過労と物資不足で戦闘効率が著しく低下しており、各艦が発揮できる戦闘力は平常時の七割から八割といったところだ。

 

 救いがたいことに、これでも第一統合軍集団の中ではかなりましな方だ。ホーランド機動集団所属部隊は、司令官の戦局眼のおかげで時間をかけずに勝てた。他の部隊はさらに消耗していた。追撃阻止部隊は三分の一を失い、残りは疲弊の極みにある。退避支援部隊は死者こそ少ないものの、精神的・肉体的消耗は追撃阻止部隊より酷いらしい。

 

 こんな状態になってもなお、兵士たちは高い戦意を保っている。奇跡としか言いようがない。ルグランジュ中将の手腕もさることながら、市民の盾たる使命感、ウランフ大将戦死の影響が大きかった。

 

「民主主義が始めた最悪の戦争が、民主主義における最良の軍人を見せてくれるなんてね。本当に皮肉だね」

 

 通信画面の向こうでダーシャは力なく笑った。

 

「まったくだ。ノエルベーカーさんの言葉もあながち間違いではなかったのかもな」

「ヘルクスハイマーLDSOの代表だっけ? なんて言ってたの?」

「君が思っているほど人間はエゴまみれではない。もっと人間の可能性を信じろってね」

 

 ノエルベーカー氏にそう言われた時、俺は彼こそが信じ過ぎだと思ったものだ。前の人生で俺は汚いことをたくさんやり、多くの汚い人間に出会い、自分も他人も信じなくなった。その影響が今も残っている。しかし、ウランフ大将や第一統合軍集団兵士を見ると、ノエルベーカー氏に一定の説得力を感じるのだ。

 

「いいこと言うね。私もそう思うよ。エリヤは人間という生き物を低く評価しすぎてる。だから、トリューニヒト議長みたいな人に夢中になったり、ヤン大将の才能に魅了されたりするの」

「あの二人は本当に偉い人だから」

「でも、人間だよ。エリヤと同じ人間」

「生物的にはそうだけど、価値が違うぞ」

「そんなことは言ってほしくないよ。なんたってエリヤは私の夫なんだし」

「すまん」

 

 俺はすぐさま謝った。

 

「帰ったら子供作らない? 親になったらきっとわかるよ」

 

 ダーシャのほんわかした丸顔に笑いが浮かぶ。

 

「考えておく」

 

 それからは帰ったら何をしたいか、どこに行きたいかを時間が尽きるまで話し続けた。この時、明日死ぬかもしれないなんてことは考えなかった。ダーシャの未来図に俺がいるのに、勝手に死ぬのはよろしくない。

 

 四月二四日、第一統合軍集団の最後尾がシャンタウ星系にたどりついた。この時点で残った戦力は宇宙艦艇四万六九〇〇隻、地上部隊三〇八万人、宇宙軍と地上軍の合計は七七九万人だ。

 

 この二週間で一万三九〇〇隻の艦艇と二四三万人の兵士が失われた。追撃阻止部隊は最終的に四割を失った。退避支援部隊のうち、地上部隊の四分の一が逃げ遅れてしまい、宇宙部隊二一〇〇隻が撃沈・大破された。逃げ遅れた地上部隊の中には、帝国軍を足止めするためにあえて残った者も少なくない。なお、この数字の中には、退避作戦に加わった民間船船員や傭兵などは含まれていない。

 

 退避対象者五三〇〇万人のうち、四二〇〇万人が退避し、一一〇〇万人が取り残された。本国や総司令部は「八割が助かった。空前の壮挙だ」と喜んだが、作戦に加わった者は二割が逃げきれなかったことを悔やんだ。

 

「シャンタウに第一統合軍集団が集結した。あと半日で第四統合軍集団の最後尾が着く。これで盤石だ」

 

 俺は笑いながら部下たちに言った。前の世界では、七九九年四月二四日はあのヴァーミリオン会戦が始まった日だった。もうすぐヴァーミリオンの勝者ヤン・ウェンリーがシャンタウにやってくる。なんと幸先の良いことか。

 

 そこにコレット少佐が緊迫した表情で通信文を持ってくる。コンコルディア(旧オーディン)の総司令部から送られてきたものだ。

 

「ブローネ星系で第七艦隊・第八艦隊・第一〇艦隊が帝国軍国内艦隊に敗北」

 

 俺の笑顔が凍りついた。ブローネはヨトゥンヘイムとアースガルズを結ぶ要衝だ。あのラインハルトがアースガルズに侵攻してくる。

 

 この瞬間、アースガルズだけは確保したいという本国政府と総司令部の意図は潰えた。本国では即時講和派が評議会不信任案を議会に提出し、国会議事堂の周辺では反戦派デモ隊五〇万人と軍隊一〇万人が睨み合っている。帝国三派はフェザーンの仲介で連合を組んだ。もはや即時講和以外に道はないように思われた。今ならニブルヘイムと下ミズガルズだけは手に入る。

 

 ところが、総司令部は予想の斜め上を行っていた。ミズガルズを守る第五統合軍集団を除く六個統合軍集団に、ヴァルハラへの集結命令を出したのだ。

 

「艦隊決戦で一発逆転狙いかよ」

「なんで奴らのメンツのために戦わなきゃいけないんだ」

「ふざけるな」

「セリオは頭が狂ってるんじゃないか」

 

 第一統合軍集団の兵士は一斉に不満を漏らした。市民や国家を守るための戦いなら、命を惜しむつもりはない。だが、政府首脳や軍幹部のメンツを守るための戦いなら話は違う。最高潮だった士気は地の底まで下がり、疲労だけが残った。

 

 それでも、第一統合軍集団は命令に従い、第四統合軍集団と合流した後に退却戦へと移った。戦意が萎えきった同盟軍に対し、ヴァナヘイム奪還を成し遂げた帝国軍は勢いづいていた。

 

 ヴァルハラに到着するまでの三日間は、筆舌に尽くしがたいものだった。敵は勢いに乗っている上に数が多い。味方は疲れきって戦意をなくしている。ヤン大将の知略とルグランジュ中将の豪勇をもってしても、追撃を防ぐのは困難を極めた。この戦いで第一統合軍集団と第四統合軍集団が出した損害は、シャンタウに着くまでの二週間で出した損害に等しかった。



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第67話:戦うべき理由はこの戦場にはない 799年4月28日~5月1日 ヴァルハラ星系

 四月一〇日から二七日までの間に、遠征軍宇宙部隊は三四万隻から二七万隻まで減少した。七万隻という損害は、現存艦艇の二割に匹敵し、帝国領に入ってから先月末までの一四か月で失われた艦艇よりやや多い。

 

 死者・行方不明者は宇宙軍が七〇〇万人、地上軍九〇〇万人であった。これも先月末までに出た損害の合計より多い数字である。

 

 これほど大きな損害を出したのに、政府と軍は戦いをやめようとしない。より正確に言うならばやめられなかった。数十兆ディナールの大金を浪費し、数千万人の人命を死なせたにも関わらず、帝都陥落以降に解放した星系をすべて失った。帝都攻略の功績を帳消しにしてもなお余りあるほどの損失だ。ここで戦いをやめた場合、政府と軍の指導者は責任を取らされるだろう。戦って勝つ以外に道はなかった。

 

 帝国側も戦いを求めていた。ニヴルヘイムは諦めるにしても、せめてアースガルズとミズガルズは取り返したい。帝国総人口の四五パーセントを取られたままでの講和など、到底考えられないことだ。

 

 もはや両陣営には長期戦を戦う余力は残されていなかった。同盟財政はデフォルトの瀬戸際にあり、帝国財政はとっくに破綻している。帝国を支援してきたフェザーンにしても、保有資産が半減しており、経済基盤は国際貿易の低迷とインフレで大打撃を被った。どの陣営もこれ以上の出費には耐えられない。

 

 かくして同盟軍と帝国軍の双方が短期決戦を望んだ。ヴァルハラ(同盟側呼称エリジウム)に集まった同盟軍は、宇宙部隊が一七万六〇〇〇隻、同盟軍地上部隊が一九五〇万人にのぼる。一方、帝国軍は宇宙部隊が一八万隻から二〇万隻、地上部隊が二〇〇〇万人から二四〇〇万人と推定される。

 

 船舶が航行しやすい条件をすべて満たしたヴァルハラだが、これほどの大軍をスムーズに展開させるのは難しい。両軍は二八日から二日かけて部隊を配置した。

 

 同時に部隊再編や補給作業も進められた。同盟軍も帝国軍も一七日間の激戦で疲れきっており、そのままでは戦えない状態だったのだ。

 

 隊員は交替で休憩をとった。タンクベッドで眠り、シャワーを浴び、満腹になるまで食事をとって体力を回復する。

 

 俺は副司令官と第三六機動部隊司令官を兼ねるポターニン准将に隊務を委ねると、基地食堂で食事をとった。同じテーブルにいるのは、大将・第一統合軍集団副司令官に昇進したばかりのルグランジュ大将、第一一艦隊副司令官ストークス中将、第一一艦隊参謀長エーリン少将、第一一艦隊副参謀長クィルター准将ら第一一艦隊首脳陣だ。

 

「相変わらず貴官はよく食うな」

 

 向かい側に座るルグランジュ大将は呆れ顔だ。

 

「他の人が小食なだけです。閣下だって俺の半分しか食べてないでしょう」

 

 俺が食ったのは、フライドチキン八ピース、パスタ三皿、ピラフ二皿、スープ四皿、一ポンドステーキ二枚、サラダ六皿、ピーチパイ四切れ、チョコケーキ三切れ、アイスクリーム五皿に過ぎない。いつもよりは多めだが、これまでの空腹の埋め合わせと思えば普通だろう。

 

「半分だって十分大食いだ」

「そんなことはありません。うちの副参謀長やトリューニヒト議長は俺と同じぐらい食べるし、妹はもっと食べます」

「トリューニヒト先生は飯をうまそうに食うことで好感度を稼いだ人だ。妹さんは空挺だろう? あの連中は一日八〇〇〇キロカロリーの食事を支給されている。常人と比べちゃいかん」

「普通でしょう。妹はちょっと大食いですが」

 

 きっぱり言った瞬間、何かが落ちて床に当たる音がした。すぐにルグランジュ大将が机の下にしゃがみ込み、鎖が切れたペンダントを拾い上げる。

 

「落ちたぞ」

「あ、ありがとうございます……」

 

 俺は両手で押しいただくようにペンダントを受け取った。頭の天辺からつま先までが恐れ多さに震える。

 

「恐縮しすぎだ。落ちたものを拾っただけではないか」

「い、いえ、か、閣下の御手を……」

「本当に貴官は変わらんなあ。素直というか、馬鹿正直というか」

「他に取り柄がありませんので」

「一つでも取り柄があれば十分だ」

 

 ルグランジュ大将が角ばった口を大きく開けて笑うと、艦隊副参謀長クィルター准将がすかさず口を挟む。

 

「うちの末っ子が反抗期真っ盛りでしてね。フィリップス少将を見習わせたいですよ」

「息子さん、今年で一八歳になりますよね」

「ええ、通信するたびに口喧嘩ですわ」

 

 ここから第一一艦隊の面々が子供の愚痴大会を始めた。

 

「ハイネセンに戻ったら、娘の彼氏と会うことになっててな。何を話せばいいんだ?」

 

 ルグランジュ大将は困り果てていた。さんざん繰り言を言った挙句、「ハイネセンに戻りたくない。イゼルローンの司令官になれないものか」などと言い出す始末だ。同盟宇宙軍屈指の猛将が言うこととは思えない。

 

「我がストークス家はひい爺さんの代から軍人だ。役者になるなど認められるものか」

 

 ストークス中将は不機嫌そのものだった。子供を軍人にしたい親と別の職業につきたい子供の対立は、軍人家系ならではの問題である。

 

「成り行きに任せれば良いんです。なんでも思い通りにしたがるのが男の悪いところですよ」

 

 頭を抱える男たちに対し、艦隊参謀長エーリン少将が上から目線で論評する。無駄に偉そうなこの女性参謀は、戦記には登場しないが、ルグランジュ大将が提督になってからずっと参謀長を務めてきた懐刀だ。

 

 ルグランジュ大将とストークス中将は前の世界では七九七年に戦死した。エーリン少将とクィルター准将も一緒に死んだ可能性が高い。歴史が変わったおかげで死んだはずの人物が生き残り、子供の話題に花を咲かせる。何とも不思議な光景だった。

 

 俺はルグランジュ大将が拾ってくれたペンダントを軽く握った。妹のアルマが幸運のお守りだと言って渡してくれたものだ。前の世界で無職のデブだったのに、今の世界では特殊部隊のエリートとなり、ブラウンシュヴァイク領に潜入している。昨日は夢に出てきて別れを告げ、今日はペンダントの鎖が切れた。何かあったんじゃないかと不安になってくる。

 

「生きてたらどうにでもなりますよ」

 

 俺は目の前の人々と自分自身の両方に向けて言った。そう、生きていればどうにでもなる。だから妹は大丈夫だ。

 

「貴官は後ろ向きなようで前向きだ」

「俺はいつも前向きです。突撃しかできませんから」

「ならば、後ろは私が固めるとしよう」

 

 ルグランジュ大将が分厚い胸をどんと叩く。

 

「側面は俺に任せろ」

 

 ストークス中将がにやりと笑う。正面攻撃が得意なホーランド機動集団と、側面攻撃が得意なストークス打撃集団は、第一一艦隊の両輪となる部隊だ。

 

「ありがとうございます」

「本国に帰ったらホーランドは間違いなく艦隊司令官になる。そうしたら、貴官が第一一艦隊の先鋒だ」

「俺に務まりますかね」

「務まるさ。貴官は用兵下手だが、なんだかんだ言って結果は残してきた」

 

 決戦を控えてるというのに、話題は帰国した後のことばかりだった。この前向きさこそが第一一艦隊の強みであろう。

 

 食事を終えた後、俺はタンクベッドに入って眠った。塩水に一時間浮かびながら眠ることで、八時間分の睡眠効果を得られるという代物だ。もっとも、タンクベッド睡眠は疲労が取れるだけで、心身に蓄積された消耗やストレスは残る。可能ならば普通のベッドで眠るのが望ましい。

 

 目を覚ましたらシャワーを浴び、洗濯された服を身につけて身だしなみを整えた。さっぱりしたところで司令室に戻り、ホーランド中将に通信を入れた。

 

「エリヤ・フィリップス少将、休憩終わりました」

「ご苦労だった」

 

 休憩を終えてご苦労と言われるのは妙な話であるが、ホーランド中将は休むのも仕事のうちと知っている。

 

 俺に隊務を引き継いだ後、ホーランド中将は休憩に入った。本来の副司令官はオウミ准将なのだが、少将待遇なしの准将に留まってることからもわかるように、ほとんど武勲をあげていない。そのため、俺とハルエル少将が実質的な副司令官を務めている。

 

「コーヒーをお持ちしました」

 

 当番兵セバスチャン・マーキス上等兵がデスクの上にコーヒーカップを乗せた。

 

「ありがとう」

 

 俺はさっそくコーヒーを口にした。いつもと変わらずまずい味だ。砂糖とクリームでドロドロにするだけなのに、この少年がいれるとなぜかまずくなる。

 

 マーキス上等兵は二年前から俺の専属当番兵を務めてきた。とんでもなく不器用で当番兵の仕事に向いていないのだが、素朴で勤勉な性格と背の低さを評価して使い続けた。もっとも、身長は二年前より一二センチも伸び、一七七センチに達している。俺は一四歳で伸びが止まったのに、マーキス上等兵は一六歳から急成長を遂げた。まったくもって理不尽……、いや羨ましい話だ。

 

「味はいかがですか」

「うまいね」

 

 笑顔で嘘をついた。本当のことを言うと、きらきら輝く目がこの世の終わりのように暗くなり、とても悪いことをしたような気分になるからだ。

 

 まずいコーヒーを飲み、マフィンを食べた後、端末を開いて同盟軍機関誌『三色旗新聞』の電子版を読んだ。

 

 前第一統合軍集団司令官ウランフ大将の元帥昇進を伝える記事が、第一面に載っている。政府は撤退戦を美談に昇華することで、支持を集めようとした。命と引き換えに四〇〇〇万人を救った第一統合軍集団は、あらゆる意味で格好のネタとなり、ありとあらゆる名誉を受けた。ウランフ大将の元帥昇進、新司令官ベネット将軍と新副司令官ルグランジュ提督の大将昇進もその一環だった。

 

 第二面には、帝国三派がラインハルト・フォン・ローエングラム元帥を連合軍総司令官に指名したとの記事が載っている。また、エルウィン=ヨーゼフ帝とエリザベート帝の双方が、ラインハルトに「帝国大元帥」の位を与えた。二代皇帝ジギスムント一世の実父ノイエ・シュタウフェン公爵が任命されて以来、四四八年ぶりの大元帥だそうだ。

 

 関連記事を検索すると、ブラウンシュヴァイク派側の社会秩序維持局長官が、ローエングラム元帥は同性愛者疑惑を否定する記事が出てきた。「ラインハルトを司令官として認める」というメッセージだろう。選民意識に凝り固まった連中でも、金が絡むと物分かりが良くなるらしい。

 

 ゴシップ誌はラインハルトの同性愛疑惑を報じるのをやめた。電子版バックナンバーの目次から、「ローエングラム元帥の愛人は男だった!」「国内艦隊副司令長官キルヒアイス――前代未聞の下半身人事」「元グリューネワルト伯爵夫人とヴェストパーレ男爵夫人の妖しい関係」「故セバスティアン氏をアルコール依存に陥れたミューゼル姉弟の性指向」「ローエングラム元帥府に集う男しか愛せない男たち」「ミッターマイヤー提督の華麗なる偽装結婚生活」といった下品な記事が消えた。

 

 俺は端末を閉じ、副官シェリル・コレット少佐から報告書を受け取る。補給作業の完了を伝えるものだ。

 

「思ったより早かったな。さすがはソングラシン代将だ」

「帰国したら退役なさるとか。もったいないですね」

 

 寂しげにコレット少佐が微笑む。第三六機動部隊の作戦支援群司令ソングラシン代将は、有能な支援部隊指揮官だが、遠征が終わったら退役してパンケーキの店を開く予定だ。

 

「彼女はこれまでよく頑張ってくれた。笑って見送ろうじゃないか」

「はい」

 

 なぜかコレット少佐の目がきらきらと光る。隣で硬直しているマーキス上等兵と同じようなきらきらだ。

 

 俺は百戦錬磨のやり手っぽく見える副官とあどけなさが残る当番兵を見比べる。こんなに素直な若者が、こんなつまらない戦いで死んでいいはずがない。

 

「俺たちも生きて帰ろう。死んだらソングラシン代将のパンケーキを食えなくなる」

「はい!」

 

 二人の声が大きすぎたせいか、デスクの周りに人が寄ってきた。最初に口を開いたのは最先任下士官カヤラル准尉だ。

 

「生きて帰りたいですよね」

「大丈夫だ。准尉は三八年を無事に勤めてきた。今回もきっと無事だ」

 

 俺は何の根拠もなく断言する。フィン・マックール以来の腹心であり、定年を延長して戦地に残ってくれた彼女が死ぬはずもない。

 

「そういえば、カヤラルさんは今年で定年でしたねえ。ここまで長いお付き合いになるなんて」

 

 目を細めるバダヴィ曹長もフィン・マックール以来の腹心だ。

 

「ええ、まったく。フィリップス提督に繋いでいただいた縁よね」

「老後もお付き合いできるといいのですけど」

「あなたも来年で定年でしょ? 退職金でハイネセンに家を買いなさいな。子供もみんなハイネセンで働いてるんだから」

「あまり近くに住んだら、鬱陶しがられません?」

「親なんて鬱陶しいぐらいがちょうどいいのよ」

 

 司令部最年長の二人は老後について語り合う。俺が新米少尉だった時、彼女らが両腕となって働いてくれた。あれから八年が過ぎ、俺は少将となり、彼女らは定年を目前に控えている。思えば遠くまできたものだ。

 

「お二人みたいなお母さんだったら、二四時間一緒にいたいですよ」

 

 副官付のカイエ軍曹がにこにこと笑う。フィン・マックール補給科で最年少だった彼女も二五歳になり、身長が六センチ伸び、コレット少佐の補佐役として頑張っている。初めて勤務した職場と初めて戦闘指揮官を務めた職場の出身者が、一緒になって俺を支えてくれる。

 

「過去と未来は同じなんですな」

 

 そう呟いたのは情報部長ベッカー中佐だった。

 

「そうとも。過去からの道は未来に続いている」

「私は過去を捨てた男です。未来などとっくに諦めました。それでも、姪が一人前になるまでは死にたくないですが」

「帝国時代に何があったかは知らないし、知る気もない。俺が知ってるのは亡命後の君だけだ。同盟での六年間はいい過去だと思う。だから、きっといい未来を見れる」

 

 俺がベッカー情報部長の肩を叩くと、イレーシュ副参謀長の淡麗な顔にほろ苦い笑みが浮かぶ。

 

「立派な指揮官になっちゃったなあ。もう私はいなくていいかなあ」

「そんなことはないですよ。まだまだ助けてもらわないと」

「いや、私の問題だよ。軍人続けるのがしんどくなった」

「ワイリー中佐の件ですか」

「まあね。さすがにこたえたよ」

「そうでしたか」

 

 それ以上は何も言えなかった。イレーシュ副参謀長は情の深い人だ。士官学校以来の親友だった人物の死がどれほどショックだったかは、想像に難くない。

 

「勝っても負けても軍縮は避けられないでしょ。自分が軍人に向いてないのもわかってる。この機に第二の人生始めてみようかなってね」

 

 この遠征をきっかけに退役する決意を固めた者は少なくなかった。理由は様々であるが、多くの軍人にとって一つの区切りとなったのである。有名どころでは、第四統合軍集団司令官ヤン大将が引退の意向を表明した。

 

「私も帰ったら第二の人生始めますよ」

 

 旗艦ヴァイマールの艦長ドールトン大佐が右手をかざす。一ディナールで買えそうな安っぽい指輪が薬指に光っている。

 

「そ、そうか」

「閣下も結婚式に来てください!」

「ディーン軍曹と結婚するんだよな?」

 

 俺は違う相手であって欲しいと念じながら問うた。ドールトン艦長と付き合ってるディーン軍曹は、チンピラが間違って軍服を着てしまったような男だ。

 

「あいつとは別れました。トーマス君と結婚します」

「どんな人なんだ?」

「爽やかな男前です」

 

 この質問にこの答えを返すのがドールトン艦長である。

 

「どこで知り合ったんだ?」

「ヘルクスハイマーです。彼は人道支援のボランティアをしてました。本国ではミュージシャンをしてるんですよ」

 

 ミュージシャンと聞いて、誰もが微妙な表情になった。

 

「お金とか貸してないか?」

「一万ディナール貸しました。楽器を買うお金が必要とかで」

「返ってくるあてはあるよな?」

「もちろんです。彼はお金持ちですから」

「金持ちだったら安心だ」

 

 俺はここで話を打ち切った。金持ちが楽器を買うために金を借りるはずがないとか、そんな突っ込みは今の彼女には通用しない。五年前に逮捕されかけたのに、懲りることなく駄目男に騙され続けてきたのだから。

 

 天はドールトン艦長にあらゆる物を与えた。優れた頭脳、抜群の運動神経、一流の指揮能力、万人の目を引く美貌、高い身長を与えた。しかし、男を見る目だけは与えなかった。

 

 報告書を一通り読み終えると、部隊長会議を開いた。六分割された画面に配下の部隊長六名の顔が映る。五日前は七名だった。シャンタウからヴァルハラへ撤退する間に、アコスタ代将が戦死した。

 

「我が戦隊では総司令部への不信感が広がっています。戦える状態とは言いがたいですな」

 

 口火を切ったのはビューフォート代将だ。

 

「何とか引き締めてくれないか」

「困ったことに私も同感でしてね。正直、戦う気が起きないんですよ。国のためなら命の一つや二つは投げ出しましょう。しかし、国防委員長や総司令官のためには髪の毛一本だって惜しい」

「君の気持ちはわかるが、戦わないことには生き残れない。上層部のためじゃなくて自分のために戦うと思ってほしい」

 

 俺はすがるように頼んだ。

 

「わかりました。こんな戦いで命を賭けるのは馬鹿馬鹿しいですが、死ぬのはもっと馬鹿馬鹿しいですから」

 

 ビューフォート代将の言うことは俺の言いたいことでもあり、おそらくは他の者が言いたいことでもあった。

 

「他に戦うべき理由なんて一つもありませんからな」

 

 マリノ代将がぶっきらぼうに言い放つ。

 

「小官はどのような理由があろうとも、命令があれば戦うまでです」

 

 元帝国軍人のバルトハウザー代将が力強く断言すると、マリノ代将が口を挟んだ。

 

「あんたはそうだろうな」

「貴官は違うのか?」

「俺は違うし、他の連中も違う。ガキの頃から『この戦争は正義の戦争だ』と教えられてきたんでね。正義のない戦争は気が乗らん」

「民主主義とは難儀なものだ」

「そうでもないぜ。上官がクソ野郎でも、正義のために頑張ろうって気になれる。同盟はクソな国だが俺の国だからな」

 

 乱暴ではあるが、マリノ代将は本質を突いていた。すべての国民が国家の主権者であり、国家を自分のものだと思えるのが民主主義の強みだ。他人のものを守るために戦うよりは、自分のものを守るために戦う方が闘争心が高まる。自分の意見が反映されないシステムに尽くすよりは、反映されるシステムに尽くす方が楽しい。だからこそ、同盟は数に勝る帝国と渡り合えた。

 

 残念ながら、この戦いにおいては民主主義の強みは発揮されないだろう。国家を守るための戦いだと信じる兵士はいない。生き残る以外に戦うべき理由はなかった。

 

 

 

 四月三〇日、同盟軍は惑星オーディン(同盟側呼称コンコルディア)を中心にU字型の陣形を敷いた。

 

 キャボット中将率いる第二統合軍集団宇宙部隊が最右翼を担う。ブローネ会戦で打撃を受けた第八艦隊を基幹としており、艦艇二万五〇〇〇隻を有する。もう一つの基幹部隊第九艦隊は、ミズガルズ方面に派遣された。

 

 第二統合軍集団の左側に、ホーウッド大将の第三統合軍集団宇宙部隊が展開した。第七艦隊と第一〇艦隊を基幹としており、艦艇三万一〇〇〇隻を有する。撤退戦で戦力の四割と勇将ヘプバーン中将を失ったとはいえ、精鋭はまだまだ多い。

 

 ∪字陣の中央部にあたる場所を占めるのは、ボロディン大将が指揮する第七統合軍集団宇宙部隊だ。第一二艦隊を基幹としており、艦艇三万隻を有する。撤退戦での損害率は一割半ばと低く、最も損害が少なかった部隊の一つである。

 

 ヤン大将率いる第四統合軍集団宇宙部隊は、第七統合軍集団の左隣にいる。第一三艦隊を基幹としており、艦艇二万七〇〇〇隻を有する。一割半ばという少ない損害で撤退した。

 

 最左翼はルグランジュ大将の第一統合軍集団宇宙部隊が固める。第五艦隊と第一一艦隊を基幹としており、艦艇三万六〇〇〇隻を有する。撤退戦では四割という大損害を出した。俺はこの部隊の先頭にいる。

 

 五個軍集団の中間点に、ロボス元帥が直率する本隊とビュコック大将率いるビュコック独立戦闘集団が陣取った。本隊は独立部隊が集まったもので、艦艇二万二〇〇〇隻を有する。ビュコック独立戦闘集団は、フリーダム統合軍集団宇宙部隊から艦隊戦で使えるものだけを選び、艦艇五〇〇〇隻を有する。これらの部隊は予備戦力だ。

 

 第六統合軍集団とフリーダム統合軍集団の宇宙部隊は、分散して兵站路の確保に務める。これらの部隊は艦隊戦向きでないため、警備戦力として運用されることになった。

 

 ヴァルハラに集結した地上部隊は、地上部隊総司令官に任命されたロヴェール大将の指揮下に入り、地上拠点の確保に務める。膨大な人口を抱え、アースガルズ予備軍とブラウンシュヴァイク派テロリストが横行するオーディンでは、激戦が予想された。

 

 また、ミズガルズ方面では、ルフェーブル大将率いる第五統合軍集団とアル=サレム中将率いる第九艦隊の連合軍が、リッテンハイム軍主力部隊と交戦している。

 

 帝国軍は同盟軍を囲むように展開した。ミュッケンベルガー元帥率いるブラウンシュヴァイク派軍は七万隻から八万隻で、右翼部隊が第一統合軍集団、左翼部隊が第四統合軍集団と向かい合う。メルカッツ上級大将率いるリッテンハイム軍別働隊は三万隻から四万隻で、同盟軍中央の第七統合軍集団と対峙する。ラインハルト率いるリヒテンラーデ軍は六万隻から七万隻で、リンダーホーフ元帥率いる右翼部隊が第三統合軍集団、キルヒアイス大将率いる左翼部隊が第二統合軍集団と向かい合う。総司令官ラインハルトと予備戦力が後方に控える。

 

 

「敵との距離、二〇光秒!」

 

 オペレーターの声はいつもより上ずっていた。一五〇年に及ぶ対帝国戦争の歴史、いや人類の歴史においても最大級の会戦が始まろうとしている。冷静になる方が難しい。

 

「間もなく敵が射程距離に入ります!」

 

 全員の視線がこちらに向く。

 

「撃て!」

 

 俺が手を振り下ろすと同時に、前方展開部隊の砲撃が始まった。数千本の光線が敵に向かって襲いかかり、向こう側からも返礼のように数千本の光線が飛んでくる。

 

 敵味方の火力がぶつかり合う中、敵の一二個分艦隊が突進してきた。出せるだけの速度を出し、ビームやミサイルを撃てるだけ撃ってくる。勢い任せで連携はまったくとれていない。

 

 第一統合軍集団は分厚い火力の壁を作り上げた。万を超える艦艇が一糸乱れぬ行動を取り、計算されたタイミングと角度で砲撃することで、どの方向にも十字砲火を浴びせることができる。訓練と実戦で鍛え上げられた部隊にしか成し得ない技だ。

 

 

 

 

 

 それでも敵の無秩序な突撃は止まらない。功名心で戦う連中は攻勢では強いが、守勢に回ると脆くなる。練度の低い部隊は正面攻撃以外の戦法を使えない。直進する以外に道はなかった。

 

「司令官閣下、我が部隊の艦隊運動に乱れが見られます」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が端末画面を示す。一部の艦が怯んでいるようだ。でたらめな突撃も戦意のない兵士にとっては、大きなプレッシャーになる。

 

「兵を励まそう」

 

 俺はマイクを握った。

 

「距離をとって遠距離戦に徹しろ! 敵も人間だ! こんな無茶な突撃は長続きしない!」

 

 前方展開部隊は敵から一〇光秒(三〇〇万キロメートル)以上の距離を保ちつつ、長距離ビーム砲と対艦ミサイルを浴びせる。他の味方部隊も遠距離戦に徹した。勢いに乗る相手との押し合いは避けるのがセオリーだ。

 

 敵の勢いが次第に弱くなっていった。九個分艦隊の前進速度が著しく低下し、三個分艦隊が突出している。

 

「袋叩きにしてやれ!」

 

 ルグランジュ大将は突出部に砲火を集中させた。火力の奔流が突出部を打ちのめし、敵の艦列が大きく乱れる。

 

「今だ! 全速で食らいつけ!」

 

 同盟軍は猛スピードで進んだ。ホーランド機動集団が先頭に立ち、バレーロ分艦隊など六個分艦隊が正面攻撃を仕掛け、ヤオ分艦隊など二個分艦隊が右側面から襲いかかり、ストークス中将率いる二個分艦隊が左側面から敵右翼を叩く。

 

「全速で進め! 全力で進め! とにかく進め」

 

 俺は部下を煽り立てた。命を賭けて戦う理由がこの戦いにはない。戦意を維持するためには戦果が必要だ。

 

 スクリーンの中では同盟軍による破壊ショーが繰り広げられた。戦艦と巡航艦が猛射を浴びせ、駆逐艦と艦載機が肉薄攻撃を仕掛け、敵艦をスクラップへと変えていく。オペレーターたちはひっきりなしに味方の戦果を伝える。

 

「うちの部隊では誰の戦果がトップかな」

「現時点ではマリノ代将です」

 

 俺の左隣に立つコレット少佐が質問に答えた。

 

「やっぱりな」

 

 聞くまでもなかった。独立戦隊と第三六機動部隊所属戦隊を合わせると、俺の配下には八つの戦隊がある。その中でマリノ独立戦隊の戦果は飛び抜けて多い。

 

 ちなみにホーランド機動集団の中では、俺の戦果が一番多かった。一人で全兵力の三割を抱えてるのだから、必然的に多くなる。もっとも、ハルエル部隊やエスピノーザ部隊に一位を取られることもあるのだが。

 

「勝ったな」

 

 そう呟いてマフィンを口にした瞬間、旗艦ヴァイマールが激しく揺れた。俺はバランスを崩して左側に倒れ込み、柔らかいものにぶつかる。

 

「前方に敵艦五〇〇〇隻が出現!」

 

 揺れの正体をオペレーターが伝えてくれた。

 

「何だって!?」

 

 俺は慌てて立ち上がり、スクリーンに視線を向けた。コンドルの部隊章を付けた軍艦が一斉に押し寄せてくる。

 

「ファーレンハイト突撃集団か!」

 

 正式名を「コンドル突撃集団」、通称を「ファーレンハイト突撃集団」というこの独立艦隊は、ミュッケンベルガー元帥府の最精鋭だ。司令官ファーレンハイト中将は、今の世界でも前の世界でも名将として知られており、攻撃の素早さと巧妙さにかけては並ぶ者がない。

 

 ホーランド機動集団は素早く迎撃態勢に移行した。接近戦の最中にこれほど素早く隊形を組み換えられる部隊は、十指に満たないだろう。だが、一瞬だけ遅かった。

 

「バボール部隊旗艦スカマンドロスが撃沈されました!」

「オウミ部隊は戦力の三割を喪失!」

「ヴィトカ部隊より救援要請が入っています!」

 

 痛烈な一撃がホーランド機動集団をよろめかせた。物理的な損害もさることながら、最強軍団の一角を担ってきたバボール准将の戦死は、大きな精神的ショックをもたらした。

 

「もうすぐ救援が来る! もう少しだ! もう少しだけ踏ん張ってくれ!」

 

 俺は旗艦を前に出して不退転の決意を示し、マイクを握って部下を励まし、予備戦力を動かして艦列の穴を埋めた。必死で部隊の崩壊を食い止めた。

 

 ホーランド機動集団を突破した後、ファーレンハイト突撃集団は同盟軍正面部隊を突っ切り、大きく旋回して左側面の分艦隊を削りとる。迅速かつ正確な攻撃の前に、戦意の低い同盟軍はあっさりと崩れた。

 

 

 

 

 

 ルグランジュ大将が混乱を収拾しようと努力している間に、ファーレンハイト突撃集団は味方を助けて戦場から消えた。恐ろしいほどに鮮やかな手際であった。

 

「ファーレンハイト提督はプロですね」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が感嘆の目をスクリーンに向けた。

 

「まったくだ」

 

 俺は心の底から頷いた。この戦いで同盟軍が被った損害はそれほど多くない。敵将ファーレンハイト中将は、同盟軍を混乱させるだけで良しとして、味方の救援を優先した。任務より目先の武勲を優先する傾向が強い帝国軍にあって、彼のプロ意識は異彩を放っている。

 

「勝ち負けという意味でも適切な判断でした。攻撃を続けていたら、間違いなくファーレンハイト提督は敗北したでしょうから」

「五〇〇〇隻しかいないからね。救援が前線に着いた時点でおしまいだ」

「功名心に取りつかれていたら付け入る隙もあるのですが。厄介な相手です」

「隙のない敵は怖いよ」

 

 ファーレンハイト中将のような提督は、功を焦って突出することもないし、味方と張り合って連携を崩すこともない。だから、任務を着実に遂行できる。

 

 前の世界の戦記では、ラインハルト陣営は名将集団、貴族陣営は愚将集団という扱いだった。しかし、実際に帝国軍と戦った経験から言うと、ラインハルト陣営以外にも名将は数多い。ブラウンシュヴァイク陣営に限っても、ファーレンハイト提督に匹敵する用兵家が七人はいる。そのうち六人は戦記に登場しない人物だ。

 

 ファーレンハイト提督と名前が残らなかった六人の違いは、能力ではなくてプロ意識だ。六人は任務より武勲を優先するところがあり、味方の足を引っ張ったり、深入りして敗れたりすることがしばしばあった。強い敵だが怖い敵ではない。

 

 戦記の中のラインハルトは、失敗しただけの者には罰を与えないが、任務を蔑ろにした者は厳しく罰する。ゾンバルト提督はいい加減な仕事をしたために自殺を命じられた。トゥルナイゼン提督は獅子泉の七元帥に次ぐ名将で、二二歳で中将となったが、功を焦って失敗した後は閑職に追いやられた。今になって思うと、ラインハルトが評価する「有能」とは、強さではなくてプロ意識だったのではないか。

 

 戦争はチーム競技だ。ルートヴィヒ皇太子が敗北したことからもわかるように、用兵がうまい人間を集めただけの軍隊は強くない。役割を果たそうとする人間を集めた軍隊こそ強い。

 

 ならば、今の同盟軍はどうだろうか? 連携は失われていないが、何が何でも持ち場を守ろうと言う意識に欠けている。

 

 昨年の六月以来、俺たちはずっとブラウンシュヴァイク派と戦ってきた。ファーレンハイト突撃集団と戦ったことも一度や二度ではないが、ここまで苦戦したのは初めてだ。戦意低下の影響を感じずにはいられない。

 

 この頃、ラインハルト軍左翼部隊が同盟軍最右翼の第二統合軍集団に攻撃を仕掛けた。この部隊の主力はラインハルト配下の国内艦隊、指揮官はラインハルトが最も信頼する国内艦隊副司令長官キルヒアイス大将である。兵の練度は低く、将校は未熟であったが、それを補って余りある団結力があった。

 

 同時にラインハルト右翼部隊も攻撃を始めた。少数ながらも精強な辺境艦隊が主力となり、無鉄砲だが勇敢な貴族部隊が周囲を固める。分艦隊指揮にかけては右に出る者がないモートン中将、ヘプバーン高速集団の指揮を引き継いだフィッシャー少将らが奮戦したものの、第二統合軍集団を支援する余裕はない。

 

 第二統合軍集団二万五〇〇〇隻に対し、キルヒアイス大将の兵力は三万五〇〇〇隻から三万七〇〇〇隻で、単独で対抗するのは困難だ。

 

 総司令部はキルヒアイス軍が敵の主攻だと判断した。キルヒアイス大将はラインハルトが最も信頼する提督で、国内艦隊はラインハルトが自ら育てた部隊だ。攻撃の規模を見るに、相当な数の予備兵力が投入されたことは疑いない。予備戦力一万隻とビュコック戦闘集団五〇〇〇隻を最右翼に送った。

 

 第二統合軍集団は援軍の助けを得て持ち直した。ビュコック戦闘集団は旧式艦と予備役兵の寄せ集めに過ぎないが、司令官ビュコック大将の老練な指揮により、実力以上の力を発揮している。第八艦隊も老兵に負けじと奮戦し、グエン分艦隊は果敢な突撃で敵の鋭鋒を挫く。

 

 U字陣の先端では、第七統合軍集団とメルカッツ軍が交戦中だ。ボロディン大将もメルカッツ上級大将も堅実派の名将なので、良く言えば玄人好み、悪く言えば地味な戦いが続いている。ラップ少将とアッテンボロー准将のコンビは、ここでも柔軟極まりない防御を見せた。

 

 第七統合軍集団と第一党統合軍集団の中間にあたる宙域で、第四統合軍集団とミュッケンベルガー軍左翼が戦った。ヤン大将は敵を誘い出しては叩き、救援がやって来たら退くことを繰り返し、巧みに戦力を削いだ。猛進してくる敵を巧みにあしらう様は熟練した闘牛士を思わせる。レンネンカンプ鉄槌集団の堅牢な防御が、劣勢の帝国軍を支えた。

 

 戦場周辺では宙陸両用部隊による地上拠点の争奪戦が展開された。哨戒部隊が小惑星や人工天体に設けられた通信基地や監視基地を探す。基地が見つかると、衛星軌道上からの砲撃で簡易施設を破壊し、地上部隊を使って対ビーム防御や対ミサイル防御の施された主要施設を破壊する。

 

 オフレッサー元帥率いる装甲擲弾兵は、戦意の低い同盟軍地上部隊を追い散らし、監視網をずたずたに破壊した。同盟軍は特殊部隊による潜入攻撃で巻き返しを図る。

 

 

 

 

 

 二日目の五月一日、キルヒアイス軍が攻勢を強め、第二統合軍集団は二六光秒(七八〇万キロメートル)後方へ退いた。

 

「このままだと右翼が包囲されるぞ」

 

 俺が机に手をついてスクリーンを睨んでいると、警報が鳴り響いた。

 

「敵が前進を始めました! およそ一六個分艦隊、兵力は三万五〇〇〇隻から三万八〇〇〇隻!」

 

 ミュッケンベルガー軍右翼部隊のほぼ全軍に匹敵する戦力が、右前方へと向かった。こちらの左翼を迂回する態勢だ。第一統合軍集団はすかさず左方に翼を伸ばして敵の機動を妨害する。

 

 それと時を同じくして、他の敵も一斉に攻撃を開始した。第三統合軍集団と第七統合軍集団は後退し、第四統合軍集団のみが敵の前進を食い止めた。

 

 同盟軍総司令部はキルヒアイス軍との戦いが勝敗の分かれ目だと判断し、第二統合軍集団に追加の援軍を送った。本隊直属の予備兵力五〇〇〇隻、他の四個軍集団から引き抜いた一万隻が最右翼へと向かう。

 

 

 

 

 

 練度は同盟軍が勝り、勢いは帝国軍が勝り、戦力的な優劣は少ない。統帥の差が勝敗を決するであろう。史上最大の戦いは二日目にしていきなり山場を迎えた。



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第68話:頂上接戦 799年5月1日~5月5日 ヴァルハラ星系

 左側から回り込もうとするミュッケンベルガー軍右翼部隊右翼に対し、第一統合軍集団左翼が立ちふさがった。敵の最右端と味方の最左端が激しくぶつかり合う。

 

 

 

 

 

 第五艦隊と第一一艦隊が長距離砲を一斉に放つ。広い範囲に火力をばらまくのではなく、敵艦をピンポイントで狙い、一隻に対して数隻分の砲火を浴びせた。

 

 想像を絶する火力が敵艦に降り注ぎ、数百隻を中和磁場もろとも消滅させた。帝国軍艦は同盟軍艦より強力な中和磁場を持っている。それでも、長距離砲の集中砲火を受け止めることはできなかった。

 

 長距離砲で一点集中砲火ができる部隊は少ない。長距離砲を一〇光秒(三〇〇万キロメートル)以上離れた敵に放つと、当たるまでに一〇秒以上はかかる。軍艦は止まっているように見えても、亜光速で移動しつつ戦っており、一〇秒もあれば回避行動を取るのは容易だ。こうしたことから、長距離砲で軍艦を狙い撃つのは難しかった。射撃訓練を徹底的に重ねた部隊だけが、この戦法を使える。

 

 敵はビームとミサイルを乱射しながら突き進む。最前列が一点集中砲火で吹き飛ばされても、次の列が怯むことなく前進を続ける。お馴染みの戦法とはいえ、貴族の蛮勇をこれほど有効に活用できる戦法はない。

 

「やるじゃないか」

 

 俺は余裕たっぷりに笑い、チュン・ウー・チェン参謀長からもらったクロワッサンをかじった。もっとも、心臓はすさまじい速度で鼓動を刻み、腹は締め付けられたように痛む。

 

「敵は練度が低いために直線的な戦術しか使えません。だから、単純な手数勝負に持ち込み、同盟軍の戦術も封じる。こうやって欠点をカバーしています」

「どこまでも嫌らしい相手だ」

「正攻法は単純ですがそれゆえに堅固です」

 

 スクリーンを見ると、オステルマン艦隊の部隊章を付けた敵艦が映る。この艦隊はオーディン陥落後にブラウンシュヴァイク派が新しく編成した主力艦隊で、歴史は浅いが精強だった。この戦いでは右翼部隊最前衛を担っている。

 

 オステルマン艦隊を率いるハンス・オステルマン大将は、ブラウンシュヴァイク派に三人しかいない平民出身大将の一人である。平民士官には珍しい貧民の生まれだった。体制への忠誠心と優秀な指揮能力によって、異例の栄達を遂げた。目上に対しては奴隷のように卑屈、目下に対しては奴隷主のように冷酷、体制に対しては忠実というより盲信している。用兵能力はファーレンハイト中将ら八提督に劣るが、勇猛さと統率力は帝国軍トップクラスだ。

 

「ルグランジュ提督もオステルマン提督も正攻法に長ける。正面からの殴り合いになりそうだ」

「そうなるとあちらに分がありますね」

「勢いがあるからな。対抗する方法はないか?」

「あの勢いに対しては、小細工は通用しません。当面は守勢に徹しましょう」

「他に方法がないのはわかる。わかるけど……」

 

 俺は言葉を濁した。今は敵の攻撃を受け止めるので手一杯だし、側背攻撃や中央突破を狙うにも予備兵力が足りない。上位部隊のホーランド機動集団、その上位の第一一艦隊、さらに上位の第一統合軍集団も似たような状況であった。敵が疲れるまで守勢に徹するのが最善だろう。だが、同盟軍が先に疲れることも考えられる。戦意の低い側に疲労は多く蓄積されるものだ。

 

「部下が疲れないようにするのも指揮官の役目です」

「君の言うとおりだ。今はできることをやろう」

 

 未来を心配する暇があったら、未来のために布石を打つのが指揮官だ。不安になるとそんなことも忘れてしまう。

 

 俺は長期戦シフトを組んだ。各艦艇の一部機能をコンピューター操作に切り替えることで余裕を作り、より多くの兵士がタンクベッド睡眠を取れるようにする。間食の回数を一日一回から二回に増やす。このようにして体力と気力の維持に務めた。

 

「後方部長、間食は足りるか?」

「問題ありません。甘味類の備蓄はよその五倍以上ですから」

「兵士に好きなだけ食わせてやるように」

「嬉しそうですね」

「そんなことはないぞ」

 

 軍艦の間食というと、ハンバーガー、ピザ、リゾット、ヌードル、パスタなどが相場であるが、俺の部隊では甘味を出す。軍艦の中で制限なしに楽しめる嗜好品は、甘味と茶とコーヒーだけだ。つまり、兵士に甘味をたっぷり与えることは、糖分補給だけでなくストレス軽減にも繋がる。俺の好みとはまったく関係ない。

 

 自部隊の体制を整える一方で、上官のホーランド中将にも長期戦に備えるよう進言した。もっとも、ダーシャが同じような進言をしていたらしく、ホーランド機動集団は準備を始めていた。

 

 第一統合軍集団は後退して遠距離戦の間合いを保ちつつ、突進してくる敵に一点集中砲火を浴びせる。遠距離から中和磁場を壊せるのがこの戦法の強みだ。中距離戦の間合いに入り、敵が中距離砲を使えるようになった時点で優位性を失う。そこそこの練度でも中距離砲を使えば、一転集中砲火ができる。だからこそ、必死で間合いを保とうとした。

 

 敵は強引に間合いを詰めてきた。無秩序に乱射されたビームが各所で中和磁場に穴を開ける。対空砲火とジャミングの網をくぐり抜けた対艦ミサイルが、艦艇を吹き飛ばす。かなりの兵力を失ったのに勢いは強くなった。

 

「高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処せよ!」

 

 俺は攻撃が集中している部分を厚くし、攻撃を受けていない部分の兵力を他に回し、艦列に空いた穴を埋めて防衛線を繕う。

 

 スクリーンの中では、ビームと中和磁場の衝突によって生じた光、対艦ミサイルが撃墜される際に生じた光、艦艇の爆発によって生じた光が輝きを競う。俺の旗艦ヴァイマールの中和磁場にビームがぶつかり、虹色の光を発する。

 

「もしかして、こちらが敵の主攻なんじゃないか」

 

 そんな考えが脳裏に浮かんだ。味方は一個分艦隊を引き抜かれたので一三個分艦隊、敵は一六個分艦隊のはずなのに、火力の総量はそれ以上の差がある。大きな予備兵力が背後に控えているとしか思えない。

 

 総司令部が主戦場とみなした最右翼では、第二統合軍集団がキルヒアイス軍を食い止めた。三万隻の増援が功を奏したのである。

 

 他方面の同盟軍も健闘している。第三統合軍集団はリンダーホーフ軍を押し戻し、中央部の第七統合軍集団はメルカッツ軍の前進を阻み、第四統合軍集団はミュッケンベルガー軍左翼部隊の奇襲を撃退した。

 

 戦闘開始から一二時間が過ぎても、第一統合軍集団の状況は一向に好転しない。敵の正規軍は勇敢で戦い慣れているが連携が取れておらず、私兵軍や予備役部隊はがむしゃらに突っ込んでくるだけだが、とにかく手数が多かった。無秩序で非効率な攻撃でも、こんなに繰り出されたら対処しきれないのだ。

 

「二個群をR=三三〇方面へ向かわせろ」

「J=八五七方面には現有戦力で頑張ってもらう」

「K=四三八方面の一個群を本隊に戻す」

「C=一八一方面の部隊は、C=二七六方面を支援するように」

 

 俺はひっきりなしに指示を出した。周囲ではラオ作戦部長ら作戦参謀が各方面の戦力分布、火力密度などを計算し、最適な部隊配置を割り出す。前線では指示通りに部隊が動く。

 

 努力の甲斐あって、前方展開部隊の正面は小康状態に入った。もっとも、再び荒れ始めるまでに一時間はかからないだろう。

 

「少し休む」

 

 俺は椅子に座り、マフィンを食べた。疲労は判断力の低下を引き起こす。戦闘中の指揮官は慢性的な過労状態なので、折を見て小休止を取るのが大事だ。第三次ティアマト会戦のドーソン中将のようになってはたまらない。

 

「敵もそろそろ疲れる頃かな」

 

 これは予測ではなく期待だった。どれほど叩いても、敵がダメージを受けた気配はない。効果の見えない攻撃を続けるのは虚しい作業だ。徒労感が第一統合軍集団を覆い尽くし、動きが目に見えて悪くなっている。

 

「第四統合軍集団が動き出しました!」

 

 オペレーターが叫び、全員の視線がスクリーンに集中する。ミュッケンベルガー軍左翼部隊の一部が、ヤン大将率いる第四統合軍集団の縦深陣に引きずり込まれたようだ。

 

「どういうことだ、これは?」

 

 俺は右隣を向いた。わからないことはチュン・ウー・チェン参謀長に聞くのが一番だ。

 

「時間を掛けて少しずつ火線をずらし、敵を誘導したみたいですね」

「なるほど、さすがはヤン提督だ」

 

 第四統合軍集団は絡め取った敵に砲火を叩きつけ、仲間を救いにやってきた後続部隊には側面攻撃を加え、三個分艦隊を敗走させた。魔術のような手際である。

 

「このまま攻めろ!」

「あの敵を押し込んでくれ。そうしたらこちらも楽になる」

 

 あちこちで期待の声が生じる。そして、総司令部も増援を送るという形で期待を示した。予備戦力一個分艦隊と第七統合軍集団から引き抜かれた一個分艦隊は、全速力で第四統合軍集団との合流を目指す。

 

「総員、攻撃準備を整えろ! 第四統合軍集団の攻撃が始まると同時に、我々も攻撃に移る!」

 

 ルグランジュ大将が第一統合軍集団に攻撃準備を命じた。第四統合軍集団が左翼部隊を押しこめば、突出気味の右翼部隊は孤立する。反攻の機会は今をおいて他にはない。

 

 増援を得た第四統合軍集団は猛然と前進し、ミュッケンベルガー軍左翼部隊を六光秒(一八〇万キロメートル)ほど後退させた。そして、がら空きになったミュッケンベルガー軍右翼部隊の左側面に、三個分艦隊を差し向ける。

 

 第一統合軍集団は正面からミュッケンベルガー軍右翼部隊を攻撃した。先鋒はもちろんホーランド機動集団だ。敵に向かって火力とともに鬱憤を叩きつける。敵の左側面を第四統合軍集団別働隊が叩いた。

 

 だが、正規軍は予備役部隊や私兵軍と違って簡単には崩れない。オステルマン艦隊は崩れそうになりながらもギリギリで秩序を保つ。他の艦隊も全面壊走には至らなかった。

 

 やがてミュッケンベルガー軍左翼部隊の抵抗が強くなり、第四統合軍集団の攻撃は停滞した。ラインハルトが予備兵力を注ぎ込んだものと思われた。

 

 二日目は帝国軍の攻勢で始まり、同盟軍の反撃で終わった。現在は帝国軍がやや有利といったところだ。

 

 

 

 五月二日の朝七時、帝国軍の大攻勢が始まった。昨日と同じように最左翼と最右翼から迂回し、同盟軍の側背を突こうとする。

 

 

 

 

 

 第一統合軍集団の最前衛から一二光秒(三六〇万キロメートル)離れた場所に、ミュッケンベルガー軍右翼部隊が展開する。艦列の厚みは昨日と変わらない。

 

「撃て!」

 

 俺が指示を出した瞬間、向かい側から膨大なビームが降り注いできた。間違って敵に砲撃を命じたんじゃないかと錯覚してしまう。

 

 一〇分ほど砲撃を交わしあった後、敵が動き出した。正面からレンネンカンプ中将とトローデン中将、上方からビルスハウゼン少将、下方からハイナーデ少将、左側からクレーベック中将、右側からファーレンハイト中将が突っ込んだ。この六名はブラウンシュヴァイク派で最も優秀な用兵家で、正規軍の精鋭を率いている。その背後から二個主力艦隊が火力支援を行う。

 

 

 

 

 

「長距離砲を全開にしろ! 奴らを寄せ付けるな!」

 

 第一統合軍集団は長距離砲の大火力で壁を作った。一点集中砲火は密集した敵を叩くのには有効だが、狭い範囲に火力を集中するので、敵を足止めする効果は薄い。長距離砲の本領は足止めや火力支援で発揮される。

 

 敵は中和磁場の出力を全開にすると、巧妙な回避機動で直撃を避けつつ、火力の壁をくぐり抜ける。高い練度と優秀な指揮の成せる業だ。

 

「凄いですね。まるでサーカスみたいです」

 

 人事参謀カプラン大尉の馬鹿っぽい感想に、イレーシュ副参謀長が突っ込みを入れる。

 

「二年前まではこれが主力艦隊のスタンダードだったけど」

「そ、そうだったんですか!?」

「君さ、第六次イゼルローン遠征軍にいたよね。ちゃんと戦い見てた?」

「は、はい」

「どの部隊もこれぐらいの動きはできたよ」

 

 イレーシュ副参謀長の言うことは正しい。二年前はスタンダードだったものが、今では滅多に見られないほど貴重になった。

 

 在りし日の帝国軍主力艦隊ですら眼中になかったのが、俺たちの上官ウィレム・ホーランド中将だ。芸術的艦隊運動を駆使すれば、敵の砲撃はほとんど命中せず、自分の砲撃は百発百中というワンサイドゲームもできた。

 

 しかし、ホーランド軍団の精強も過去のものだ。芸術的艦隊運動を使える精鋭は遠征開始時の六割に満たない。練度の低い地方部隊隊員、予備役軍人、元帝国軍人が増えたことで、複雑な戦術が使いづらくなった。

 

 現在、ホーランド機動集団は、レンネンカンプ鉄槌集団の先頭部隊相手に互角以上の戦いをしている。この状態で名将相手にここまで戦えること自体が、ホーランド中将の非凡さであろう。それでも、二五〇〇隻が一丸となって突撃した頃を思うと、寂しさを覚えずにはいられない。

 

 指揮官がホーランド中将ほど有能でなく、練度がホーランド機動集団より低い部隊は劣勢に陥った。正面は安定しているものの、他の方面には乱れが生じつつある。

 

 右側面を守るシェイ分艦隊がファーレンハイト突撃集団に突破された。第五艦隊司令官メネセス中将は二個分艦隊をもって行く手を阻もうとしたが、布陣が整うよりも早く敵が到達した。

 

「第五艦隊旗艦アドラメレクが撃沈されました! メネセス中将は脱出できなかった模様!」

 

 この時、世界が凍りついたように感じた。メネセス中将は遠征当初からウランフ元帥の代わりに第五艦隊を指揮した人物で、第一統合軍集団宇宙部隊の中核だった。

 

「第一一〇機動部隊司令官ヒューム准将が戦死しました! 副司令官ムラーデク代将が指揮を引き継いだそうです!」

「第八六機動部隊より入電! 『戦線崩壊しつつあり、至急来援を乞う』とのこと!」

 

 オペレーターは第五艦隊が崩れていく様子を伝えた。指揮権を引き継いだ副司令官チャンドラー少将は、指揮系統の立て直しに全力を注いでおり、迎撃には手が回らない。

 

 第五艦隊の混乱が第一一艦隊に波及しつつあった。練度の低い部隊が乱れ、練度の高い部隊がそれに巻き込まれるように乱れを見せる。それに乗じてレンネンカンプ鉄槌集団とトローデン分艦隊が攻勢を強めた。

 

 味方艦の爆発光が旗艦ヴァイマールを照らしだす。ビームが旗艦の中和磁場に衝突し、対艦ミサイルが旗艦から放たれた迎撃ミサイルに撃ち落とされる。もはや旗艦が直接戦闘に参加するところまできたのだ。

 

 背中に冷や汗が流れ落ちる。脳裏に浮かんだのは四年前のことだった。第三次ティアマト星域会戦において、ドーソン中将の旗艦は撃沈寸前まで追い込まれた。危機的状況にあって平常心を保つのはなんと難しいことか。あの時のドーソン中将が逃避しかけた理由がよく分かる。

 

「司令官閣下」

 

 いつの間にか俺の前に旗艦艦長ドールトン大佐が立っていた。

 

「どうした?」

「旗艦を後退させましょう。この位置は危険です」

 

 ドールトン艦長は未だかつて無いほど真剣な表情で迫ってくる。

 

「ヴァイマールより前に味方艦はいるか?」

 

 この時、俺の唇は自動的に言葉を紡ぎだした。

 

「何十隻もいますが」

「だったら、後退はできないな」

「撃沈されては元も子もないですよ」

「誰よりも先頭に立ち、誰よりも危険を引き受けるのが指揮官の役目じゃないか」

「ですが、限度が……」

「それが俺の戦い方だ」

 

 厳密に言えば、それは戦い方ではなく生き方だった。命を賭けることで評価を得た。危険を共にすることで信頼を得た。戦術も戦略もわからない俺が忠誠を得るには、先頭で戦うより他にない。

 

「そして、俺の仕事は部下を知ることだ。ドールトン大佐、君の操艦を信じる」

 

 数秒の間、二人の視線が交差する。やがてドールトン艦長の厚ぼったい唇がふっきれたように綻んだ。

 

「閣下はそういう方でしたね。かしこまりました。期待に背かないよう、力を尽くしましょう」

 

 そう言うと、ドールトン艦長は席に戻ってきびきびと指示を出した。美貌や背の高さとあいまって、生まれながらの指揮官のように見える。

 

 俺はマイクを握った。何を言うかは大して重要ではない。指揮官が揺らいでいないことを示し、確たる展望があると信じさせることが重要だ。

 

「戦友諸君、右手方向を見てもらいたい。小さな光点が見えるはずだ。

 その光点は何か? 友軍だ。ヤン提督の第四統合軍集団だ。

 ヤン提督は一一年前のエル・ファシルから一度たりとも味方を見捨てなかった。

 そう遠くないうちに援軍がやってくるぞ」

 

 実を言うと、第四統合軍集団が援軍を出すかどうかは微妙だった。ミュッケンベルガー軍左翼部隊の執拗な波状攻撃が、彼らの動きを封じている。

 

 幸いなことになすべきことはホーランド中将が教えてくれる。重度のヒロイック・シンドロームを患っているし、言ってることはむちゃくちゃだけれども、戦闘に限っては間違いがない。指揮通りに戦えばだいたい勝てる。

 

 この場における俺の仕事は、第一に上官の期待通りに動くこと、第二に部下の戦意を維持することだ。もっとも、ホーランド中将は部下に高いレベルを求めるし、この状況で戦意を維持するのは簡単ではない。部隊の一部に徹するのもそれはそれで大変だ。

 

 正面から敵が押し寄せてきた。レンネンカンプ鉄槌集団は一糸乱れぬ連携攻撃を繰り出す。トローデン分艦隊は連携に難があるものの、こちらの弱い部分を正確に突いてくる。

 

「見よ! 強い敵! 危機的状況! 我らのために用意された舞台だ!」

 

 ホーランド中将の采配は異常なまでの冴えを見せた。わずかな連携の乱れに付け込んで艦列を分断し、一瞬の隙を突いて逆撃を仕掛ける。

 

「全艦突撃!」

 

 俺はレンネンカンプ鉄槌集団先頭部隊を突き破り、第二陣へと襲いかかった。すかさず敵は迎撃態勢を取り、上下左右の四方向から攻撃が飛んできた。

 

「前は手薄だ! そのまま進め!」

 

 今は猪突猛進に徹する時だ。敵が来るより早く前進すれば、囲まれることもない。チュン・ウー・チェン参謀長は、レンネンカンプ中将が前方を開けて誘っていると言う。俺もそう思うが、ホーランド中将が手を打っていると信じて突き進む。

 

 上下左右で火球が弾け、敵艦の代わりに味方艦が宇宙空間を埋め尽くした。ハルエル少将とエスピノーザ准将が後ろから突入してきたのだ。

 

 レンネンカンプ中将は素早く上下左右の兵を引き、予備を使って前方に分厚い防御陣を敷く。切り替えるまでの時間、防御陣を展開するまでの時間がおそろしく短い。

 

 だが、ハルエル少将とエスピノーザ准将の攻撃速度は、敵の陣形変更速度をほんの少しだけ上回った。未完成の防御陣には、俺、ハルエル少将、エスピノーザ准将の並列前進を止めることはできない。それでも敗走しないのがレンネンカンプ中将の非凡さであろう。

 

 俺たちは針路を変更し、突出した形のトローデン分艦隊に側面から殴りかかる。精鋭だけあってこの一撃で崩れることはない。それでも、後退させることはできた。

 

 ホーランド機動集団が奮戦している間、他の味方も頑張っていた。第一統合軍集団司令官ルグランジュ大将の粘り強い指揮が戦線崩壊を防いだ。第一一艦隊は激戦の末にファーレンハイト機動集団を追い払い、第五艦隊は秩序を取り戻しつつある。

 

 

 

 

 

 敵は次々と新手を投入してくる。主力艦隊は二個から三個に増えた。ガイゼルバッハ中将とシュペングラー少将が加わり、ブラウンシュヴァイク派最優秀の八提督が勢揃いした。予備役部隊や私兵軍も出てきた。ミュッケンベルガー元帥の旗艦「ヴィルへルミナ」が姿を見せており、意気込みのほどが知れる。

 

 一二時間にわたる激戦に終止符を打ったのは、味方からの援軍であった。第四統合軍集団の二個分艦隊、第七統合軍集団の一個分艦隊、総司令部直属の二個分艦隊が、縦に伸びきった敵に痛烈な横撃を浴びせる。第一統合軍集団も反攻に転じた。

 

 二方向から殴りつけられたミュッケンベルガー軍右翼部隊は、攻撃中止を余儀なくされた。第一統合軍集団にも追撃する余力はない。最左翼の激戦は勝敗が定まらないまま終わった。

 

 戦記に出てくるブラウンシュヴァイク派は無能の極みだったのに、目の前にいるブラウンシュヴァイク派は結構強い。いや、ミュッケンベルガー元帥府が強いという言うべきだろうか。分裂前に宇宙艦隊司令長官をしていただけあって、実戦派提督をたくさん抱えていた。

 

 ミュッケンベルガー元帥府の名将には、平民や下級貴族も少なくない。オステルマン大将のようにブラウンシュヴァイク元帥府の平民軍人もいる。低い身分から栄達した帝国人は、権威に盲従するタイプと反骨精神が強いタイプに分かれる。権威主義者は貴族から見れば都合の良い番犬だ。こうしたことから、オフレッサー元帥やオステルマン大将は門閥貴族に重用された。反骨精神が強い人は以前は皇太子派、今はラインハルト陣営に行くのだろう。

 

 最右翼は同盟軍と帝国軍の痛み分けとなり、この日の大きな戦闘は終わった。どちらが有利かは判断しがたい。戦局は膠着している。

 

 

 

 五月三日、同盟軍はミュッケンベルガー軍右翼部隊に重点を移した。第一統合軍集団に各統合軍集団から引き抜いた戦力や予備戦力が加わり、二二個分艦隊まで増強されたのである。

 

 最左翼の戦力比はほぼ互角となり、第一統合軍集団は初めて攻勢に転じた。ミュッケンベルガー軍右翼部隊の前衛を打ち破り、名将ガイゼルバッハ中将ら提督五名を戦死させ、二個分艦隊を壊滅に追い込んだ。

 

「今日の敵はやけに脆いな。どういうことだ?」

 

 俺は首を傾げた。敵の数は減っていないし、正規軍が後ろに下がったわけでもないのに脆くなった。大戦果に喜ぶより不審を覚える。

 

「物資不足ではないでしょうか」

 

 疑問に答えてくれたのは、パン屋から説明役に転職したチュン・ウー・チェン参謀長である。

 

「まだ四日目だぞ? こっちは不足する気配もないのに」

「敵は練度が低いですから」

「ああ、そういうことか」

 

 蓋を開けてみると単純な話であった。練度の低い部隊は無駄な動きでエネルギーを浪費し、無駄弾をばらまいて弾薬を浪費する。

 

「ヴァルハラの同盟軍宇宙部隊が一日で消費する物資は、宇宙軍が七九七年度に消費した物資の半分に匹敵します。敵はさらに多くの物資を消費しているはずです」

「撤退戦の一七日間で消費した分を含めると、物資不足にならない方がおかしいね」

 

 戦争の天才ラインハルトにこの程度の計算ができないはずはない。それでも、補給切れを覚悟の上で攻めざるをえない事情がある。

 

 帝国は戦争を継続できる状態ではなかった。解放区民主化支援機構(LDSO)に破壊された秩序の回復、食糧不足の解決、破綻した財政の建て直し、増大する反貴族気運への対処、混乱に乗じて自立した辺境外縁勢力の鎮圧など、課題が山積みだ。

 

 フェザーンは誰よりも戦争終結を望んでいる。国際貿易の停滞によって製造業や貿易業の倒産が相次いだ。戦費を賄うために政府資産を取り崩し、巨額の国債を発行し、フェザーン投資局の投資資金を引き上げたので、自治領主府は資金のほとんどを失った。巨額の財政支出と食糧・資源の高騰がインフレを引き起こし、フェザーン株式市場は一週間連続で最安値を更新中だ。失業や食料価格高騰への不満が民主化運動に日をつけた。政治的にも経済的にも破綻寸前だったのだ。

 

 ラインハルトを大元帥に推したのは、財務官僚、経済界、フェザーンの三者だと見られる。ミュッケンベルガー元帥やメルカッツ上級大将は、負けない提督であって勝てる提督ではない。戦争を終結させるには勝てる提督が必要である。

 

「今日の優勢は火力の優勢ですよ。火力と補給量は比例しますから」

「なるほどな」

「明日からは如実に火力の差が出てきます。私兵や予備役の実質的な戦力は半減するかと」

「あの連中は火力をばらまかないと戦えないからね」

 

 俺は頷いて端末を開いた。随行する補給艦には二日分の物資、地上基地には七日分の物資があった。会戦が終わるまでは火力の優勢が続くということだ。

 

 ただし、守りを固めて長期戦に持ち込むなんてことはできない。同盟軍にも短期決戦を選ばざるをえない立場なのだ。

 

 同盟社会は混乱の極致にあった。議会が新規国債の発行を否決したため、一部の政府機関が職務を停止した。ディナール、株、債券の下落は止まるところを知らない。頻発するデモや暴動に対処するため、地上軍と陸戦隊の予備役が総動員された。全土が革命前夜の様相を呈している。

 

 議会は三日後に評議会不信任案を可決する見通しだ。即時講和派がレベロ前財政委員長を次期議長に推す意向を示したことで、与党議員の多くが不信任案支持に転じた。勝利による講和派は極右政党「統一正義党」に連立を持ちかけたものの、国防委員長のポストを要求され、穏健派からの反発もあって実現しなかった。トリューニヒト派は即時講和派だが、不信任案を提出した反戦市民連合やレベロ派とは一線を画しており、今後の動向が注目される。

 

 新政権が成立した場合、即座に講和を受け入れるのは間違いない。総司令部に残された時間は三日しかなかった。

 

「いったいどうなるのかな」

 

 俺は立ち上がってサブスクリーンに視線を向けた。四分割された画面に他方面の戦況が映しだされる。

 

 第七統合軍集団とメルカッツ軍は、今日もハイレベルだが地味な戦いを繰り広げる。この方面で唯一華麗なのはラップ分艦隊である。用兵能力はそこそこだが抜群のリーダーシップがあるラップ少将と、若手きっての技巧派アッテンボロー准将のコンビは、いつものように武勲をあげた。

 

 第三統合軍集団はリンダーホーフ軍に痛打を与えた。決め手となったのは、第一〇艦隊副司令官モートン中将の巧妙な側面攻撃である。司令官ホーウッド大将はラインハルトに三連敗を喫したものの、ヴァルハラでは名将の名に恥じない戦いぶりを見せた。

 

 第二統合軍集団とビュコック戦闘集団の連合軍は、増強された部隊の大半を引き抜かれたものの、キルヒアイス軍相手に優位を保った。老練なビュコック大将が敵の若手提督たちを手玉に取り、勇猛なフルダイ中将やグエン少将が大いに暴れ、キルヒアイス本隊を直撃する寸前までいった。だが、黒一色に塗装された分艦隊がグエン分艦隊の正面に立ちふさがり、同盟軍はあと一歩で完勝を逃がした。

 

 第四統合軍集団はミュッケンベルガー軍左翼部隊の波状攻撃を跳ね返した。ヤン大将の防御戦術は芸術の域に達している。ムライ中将が主力部隊の第一三艦隊を掌握し、ジャスパー中将やデッシュ中将といった勇将が陣頭で奮戦した。二年前のイゼルローン無血攻略から無敵を誇る黄金の布陣である。

 

 

 

 

 

 二〇時頃に大きな戦闘は終わり、次の大きな戦闘に備える時間が来た。前列が敵と小戦闘を交えている間、後列の部隊は補給や再編を行う。作業が済んだら前列と後列を入れ替える。四日間にわたって繰り返されてきた光景だ。

 

 五日目の五月四日には、両軍は小部隊を迂回させて相手の背後を突こうとした。だが、どの部隊も途中で阻止されてしまった。

 

 俺はデスクで遅めの夕食をとりながら電子新聞を読んだ。「史上最大の凡戦」という見出しが目に入る。

 

「本国にはこれが凡戦に見えるのか……」

 

 胸の中に苦い気持ちが広がった。大軍はただ動かすだけでも難しい。第二次ヴァルハラ会戦はそれそれの方面が一つの会戦に匹敵しており、総司令官は同時に五つの会戦を指揮しているようなものだ。高度で複雑な作戦を期待されても困る。

 

 ロボス元帥は第一次ヴァルハラ会戦の勝者であり、人類史上で最も大軍指揮の実績が豊かだ。戦場全体を見渡す視野を持ち、厚くすべき部分と薄くてもいい部分を見分け、状況に応じて部隊を配置することにかけては、右に出る者がいない。後方にも目を配り、兵站や通信を確保することができた。配下との連絡を緊密にし、命令を徹底させることもできた。

 

 ラインハルトの大軍指揮は明らかにうまくなった。第一次ヴァルハラ会戦と違って、味方を盾にする部隊、勝手に前進したり後退したりする部隊はいない。日によって戦力を集中する方面が違うのは、各方面の間で戦力を融通しあっているからだろう。全軍に威令が行き届いている。

 

 前の歴史を知る者には信じられないだろうが、ロボス元帥とラインハルトの力量はほぼ互角であった。お互いの読みと反応が的確なため、どんな手を打っても決定打を与えることができない。

 

 両軍ともに相手の意図を探ろうと必死になった。お互いに監視基地を潰しあったため、後方で予備がどのように動いているかが見えない。偵察部隊と警戒部隊は静かだが熾烈な闘争を繰り広げている。膨大な偽情報が両軍の間を飛び交う。

 

 日付が変わって間もなく、偵察に出ていたビューフォート代将が「敵が大量の機雷を散布している」との情報をもたらした。

 

 同じ頃、同盟軍最右翼でも敵が機雷を散布した。やがて両翼の端に巨大な機雷原が出現し、五方面すべてで敵の艦列が薄くなった。

 

「どういうつもりだ?」

 

 同盟軍は頭をひねった。機雷原を作ったのは戦線を縮小するため、艦列を薄くしたのは予備戦力を増やすためだろう。しかし、増えた予備をどこに投入するかが読めない。ミュッケンベルガー軍右翼部隊を増強して左翼突破を図るのか? キルヒアイス軍を増強して右翼突破を図るのか? メルカッツ軍とリンダーホーフ軍を増強して中央突破を図るのか? あるいは両翼からの同時突破を図るのか?

 

 五月五日の朝七時、総司令部は敵の狙いが中央突破にあると判断した。

 

「敵の作戦を逆用する。中央の三個統合軍集団が敵主力を引きつけている間に、両翼の機雷原を突破して背後を突く」

 

 総司令部作戦参謀リディア・セリオ准将が全軍に作戦を伝達した。声に抑揚はまったくなく、用意された原稿をただ読み上げているといった感じだ。

 

「まだやるのかよ」

「冗談じゃねえ」

 

 兵士たちはすっかり白けきっていた。なぜこのタイミングで仕掛けるのかは明らかだ。不信任案を回避するための作戦なんかには付き合えない。

 

 ホーランド機動集団の全艦に交響曲「新世界より」第四楽章の勇壮なメロディが流れ、ホーランド中将の三次元映像が現れた。

 

「戦友諸君、もうすぐ最後の戦いが始まる。偉大な遠征の最終章だ。

 

 およそ人間がなしうることの中で、闘争ほど美しいものはなく、闘争より楽しいものはない。そして、あらゆる闘争の中で戦争ほど高貴なものはない。戦っている時、人は最も勇敢で、最も献身的で、最も忠実最も協力的で、最も合理的になる。命のやり取りの中でこそ、人間は真に人間たりえる。

 

 私は諸君に『戦え』と命じるが、同時に『死ぬな』と命じる。諸君の任務は敵を死なせることであって、自分が死ぬことではないからだ。可能な限り生きて戦え。可能な限り敵を殺せ。可能な限り戦友を助けろ。諸君の命は戦友の命でもあると心得ろ。

 

 銀河広しといえども、諸君より強い兵士はおらず、ウィレム・ホーランドより優れた指揮官はいない。ハイネセンを出発してから一年六か月、我々はそのことを常に証明してきた。我々は一度も負けなかったし、これからも負けないと確信する。

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラムは強い。だが、彼に一〇〇の奇策があろうとも、私には一〇〇の対応策がある。そして、彼は諸君のような精鋭を持っていない。

 

 我々の勝利は約束された。ただまっすぐに進むだけでいい。その先には勝利と栄光と名誉が転がっているのだ」

 

 ホーランド中将の声は雷のように力強く、みなぎる闘志は炎のようだった。しかし、いつもと違って拍手も歓声も聞こえない。

 

 同盟軍は戦線を下げて中央突破に備えると見せつつ、対機雷戦部隊を両翼に配備して機雷原突破の準備を進めた。この部隊が装備する新兵器「指向性ゼッフル粒子発生装置」は、ルイス准将が帝国からの接収品を対機雷戦用に改造したもので、機雷原を簡単に破壊できる。

 

 

 

 

 

 七九九年五月五日といえば、前の世界ではバーミリオン会戦が決着した日だった。この世界ではどんな結末を迎えるのだろうか? 俺はマフィンを三個食べて不安を紛らわせた。



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第69話:夢見る時は終わった 799年5月5日 ヴァルハラ星系

 五月五日九時五五分、帝国軍の攻撃が始まった。五万隻近くまで増強されたメルカッツ軍が突進し、隣接するリンダーホーフ軍とミュッケンベルガー軍左翼部隊が同盟軍を牽制する。総司令部が予想した通り、ラインハルトの狙いは中央突破だった。

 

 両軍が中央部で激戦を展開している間、ホーランド中将率いる一万隻が左翼から、モートン中将率いる一万隻が右翼から回りこんだ。

 

 

 

 

 

 俺の前方展開部隊がホーランド支隊の先鋒となった。ウスチノフ独立機動部隊と対機雷戦部隊を指揮下に加え、戦力は倍増した。俺の働き次第で行軍速度が大きく変わるだろう。戦力の大きさは責任の大きさでもある。

 

 敵の両側面には広大な機雷原が広がっていた。長さは三〇光秒(九〇〇万キロメートル)、厚さは一・五光秒(四五万キロメートル)と推定された。迂回するのも突破するのも難しい。

 

 しかし、今の同盟軍には指向性ゼッフル粒子があった。超高温で引火する特性を持つゼッフル粒子は、拡散性が強すぎて無重力空間では使えなかった。だが、帝国軍が指向性を持たせて宇宙で使えるようにした。それを同盟軍が接収して対機雷戦兵器に用いたのである。

 

 俺は対機雷戦部隊に指向性ゼッフル粒子を放出させた。目に見えない粒子の群がみるみるうちに機雷原へ浸透していく。

 

「狙い撃て!」

 

 戦艦八隻から放たれたビームがゼッフル粒子に火をつけ、数百万個の機雷を吹き飛ばした。全長四五〇万キロメートルを越えるトンネルが、機雷原の中に八本作られた。

 

「全艦、全速前進!」

 

 俺は一番左のトンネルに突っ込んだ。他のトンネルにも味方が雪崩れ込み、四五〇万キロを一気に駆け抜けていく。右翼のモートン支隊も機雷原を突き破り、同盟軍は左右から帝国軍の背後に迫る。

 

 間もなくホーランド支隊の前方に新たな機雷原が現れた。長さも幅もさっき突破したものとほとんど変わらない。一方、モートン支隊の前には漆黒の宇宙空間が広がる。第二の機雷原は片側にしか存在していない。

 

「何を狙っているんだ?」

 

 俺は首を傾げた。敵が第二の機雷原を作るのは予想の範囲内だし、対応策も用意されていた。だが、片側だけに作るとは思わなかった。

 

「なるほど、さすがはローエングラム大元帥。ここまで考えていたとは」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長が嘆声を漏らした。

 

「わかるのか?」

「ホーランド支隊の進軍速度を遅らせ、モートン支隊の突出を誘って各個撃破する。それがローエングラム大元帥の狙いでしょう」

「モートン支隊が前進を続けるとは限らないぞ」

「いえ、間違いなく前進を続けます。ここで停止すれば、勢いが削がれた状態で多数の敵と戦うことになる。後退すれば作戦そのものが破綻する。前進を続けて我々との挟撃を狙う以外に道はありません」

「よくわかった。ローエングラム大元帥は怖いな」

 

 手のひらに汗が滲んだ。モートン支隊とホーランド支隊が各個撃破を回避するには、前進して挟撃態勢を作るしかない。だが、そうすればラインハルトに単独で突っ込むリスクを負う。わかっていても踏み込む以外の選択肢はなかった。

 

「全艦、限界まで速力を出せ! 敵の狙いは各個撃破だ! モートン支隊を孤立させるな!」

 

 ホーランド中将は進軍を急ぐよう指示した。チュン・ウー・チェン参謀長が理性で理解したものを、彼は感性で理解していたのだ。

 

 指向性ゼッフル粒子が作った八本のトンネルに、ホーランド支隊が飛び込んだ。レーザーの束が向こう側から飛んでくる。駆逐艦の中距離レーザー砲による集中砲火だ。狭いトンネルの中で高密度の砲火を避けるのは難しい。すべての艦がエネルギー中和磁場を全開にして、砲火を浴びながら突き進む。

 

 機雷原を抜けると、敵駆逐艦が散り散りに逃げ出した。すべて合わせても五〇〇隻に満たない程度の数だ。トンネルの直径は二〇〇キロ前後で、イゼルローン回廊の三万分の一でしかない。五〇〇隻もいればすべてのトンネルを塞げる。

 

 駆逐艦と入れ替わるように、巡航艦一〇〇〇隻が遠距離から砲撃を浴びせてきた。精度の高くない砲撃でも、細長く伸びきったホーランド支隊を足止めするには十分だ。

 

「四方に散開せよ!」

 

 ホーランド中将はすぐさま部隊を散開させた。紐のような隊形から散開したことで、ホーランド支隊の艦列は極端に密度が薄くなる。敵の砲撃はまばらな艦列をすり抜けていった。

 

 こういう場合、密集した側が散開した側に突撃を仕掛けるのがセオリーなのに、敵は当たらない砲撃を続ける。足止めに徹するつもりだろう。ホーランド支隊が散開隊形を取り続ける限り、砲撃は当たらないが突破されることもない。

 

「この部隊章は国内艦隊のL分艦隊。ケスラー提督の部隊か」

 

 俺はスクリーンを見つめた。ウルリッヒ・ケスラー中将は前の世界の名将だが、対テロ戦での活躍が多く、主要な艦隊戦には参加していない。今の戦いぶりを見ると艦隊指揮もできるようだ。

 

 ホーランド中将直属の精鋭五〇〇隻が散開したままで突撃を始めた。定まった陣形を作らず、高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に動きまわり、無秩序に見えて的確な砲撃を加える。

 

 ケスラー分艦隊はあっという間に崩れた。単純な艦隊運動しかできない部隊では、ホーランド中将の複雑すぎる動きに対応できなかった。ケスラー中将は有能だったし、歴戦の旧皇太子派将校が脇を固めていたけれども、兵士の練度が低くてはどうにもならない。

 

「今だ! 全速で突っ切れ!」

 

 ホーランド支隊はケスラー分艦隊を突破すると、そのまま戦場を駆け抜けた。今の同盟軍にとって遅滞は敗北と同義であった。モートン支隊が崩れるのが先か、ホーランド支隊の到着が先か。すべては行軍速度にかかっている。

 

「三〇光秒先に機雷原が現れました! 先ほど突破したものとほぼ同規模です!」

 

 オペレーターが第三の機雷原の存在を告げた。

 

「いくつあっても突破するだけだ!」

 

 俺はチュン・ウー・チェン参謀長の作戦に従い、対機雷戦部隊に二〇本のトンネルを作らせた。発射装置の角度を変えつつゼッフル粒子を放出するだけなので、八本作るのと手間は大して変わらない。

 

 ホーランド支隊は完成したトンネルのうち、一〇本に突入し、残り一〇本は空にした。敵は空のトンネルに戦力を分散したために、一つ一つのトンネルを塞ぎ切れない。ほとんど損害を受けずに機雷原を突破し、出口で待ち構えていた巡航艦部隊を打ち破り、猛スピードでラインハルトの本隊を目指す。

 

 レーダーに膨大な光点が映った。数は一万三〇〇〇から一万五〇〇〇、距離は二二光秒(六六〇万キロメートル)。この宙域で大部隊は一つしかない。ラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥の本隊だ。モートン支隊は戦力の二割を失ったものの、ギリギリで持ちこたえていた。ラインハルトの計算を俺たちの速度が上回ったのである。

 

 

 

 

 

 交響曲「新世界より」第四楽章の勇壮なメロディが流れ、全艦にホーランド中将の等身大立体画像が現れた。逞しい肉体に闘志がみなぎり、金色の髪は逆立ち、目には烈々たる光が宿る。

 

「我らの手で幕を引くぞ! 全艦突撃!」

 

 ホーランド支隊一万隻がラインハルト本隊を背後から襲った。敵の防御陣が整うよりも早く懐に飛び込み、後衛をあっという間に敗走させた。

 

 

 

 

 

 ホーランド中将は部隊を二手に分けた。ラクロア分艦隊とクーパー分艦隊をモートン支隊の援護に回し、ホーランド機動集団とペク分艦隊がラインハルトの本営を目指す。前後から敵を挟み撃ちにする態勢だ。

 

 

 

 

 

「二〇光秒前方に敵部隊が出現! ローエングラム大元帥の直衛部隊です!」

 

 オペレーターが最終局面の到来を告げる。俺たちとラインハルトの間にあるのは、二〇光秒の距離と艦艇二〇〇〇隻のみ。数百光秒を踏破してきた俺たちにとっては、ひとっ飛びできる程度の障害物でしかない。

 

「狙うはただ一つ! ローエングラム大元帥の旗艦ブリュンヒルトだ!」

 

 俺はポターニン准将、マリノ代将、ビューフォート代将、バルトハウザー代将らを率いて突っ込んだ。敵の砲火をかいくぐり、蛇行しながら敵艦にビームと対艦ミサイルを叩き込み、どんどん距離を詰めていく。

 

 一二時五二分、ホーランド支隊はラインハルトの旗艦ブリュンヒルトから六光秒(一八〇万キロメートル)の距離に迫った。駆逐艦の中距離レーザー砲の最大射程である。

 

 スクリーンに白い流線型のブリュンヒルトが映った時、俺はやってはならないことをしたような感覚に襲われた。勝てるはずがないと思った。俺は小物にすぎないし、ホーランド中将は前の世界でラインハルトに惨敗した。前の記憶、戦記の記述、今の知識が「勝てない」と語る。

 

 脳裏をロイシュナー准尉とハルバッハ曹長の勇姿が通り過ぎた。四年前、ラインハルトに立ち向かって死んだ薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)の勇者だ。短い時間だったが、彼らは戦友だった。

 

 俺は軽く息を吐き、呼吸とともに不安を吐き出す。戦友の仇を討つ好機ではないか。ためらうことはない。軍神であろうとも突破するまでだ。

 

「行けーっ!」

 

 俺はまっしぐらにブリュンヒルトを目指した。行く手を遮るのはわずかな直衛艦のみ。兵力、練度、勢いのすべてにおいてこちらが上回っている。

 

 前方展開部隊がレーザーとミサイルを一斉に放った。レーザーは射程が短い代わりに狙いがつけやすく、一点集中砲火に向いている。ミサイルには中和磁場が通用しない。さすがのラインハルトもこの大火力には耐えられないと思われた。

 

 しかし、ブリュンヒルトには傷一つ付いていない。無数の爆発光に照らされながらも、圧倒的な威容を誇示し続ける。

 

「外れた!?」

 

 誰もが自分の目を疑った。正確に言えば、外れたのではなく別のものに当たった。数十隻の敵艦が前方展開部隊の前に飛び出し、ブリュンヒルトの代わりに攻撃を受け止めたのだ。

 

 前方展開部隊は絶え間なくレーザーとミサイルを吐き出し続ける。ハルエル部隊、エスピノーザ部隊などホーランド機動集団の精鋭もこれに加わり、火力密度が一層高まった。しかし、敵艦が次々と火力の海に飛び込み、ブリュンヒルトの盾になる。

 

 流れは完全にホーランド支隊に傾いていた。主力はモートン支隊の反攻を防ぐのに手一杯で、直衛部隊は完全に孤立した。ブリュンヒルトは未だに無傷であるが、直衛艦は凄まじい勢いで減っている。メルカッツ軍、キルヒアイス軍、リンダーホーフ軍、ミュッケンベルガー軍は、同盟軍と激戦を繰り広げており、援軍を出す余裕はない。

 

 一三時三一分、ハルエル少将配下の駆逐艦戦隊とスパルタニアン部隊が、一〇万キロの至近距離からブリュンヒルトに襲いかかった。電磁砲から放たれたウラン二三八弾の雨が、白くなめらかな艦体に傷を付ける。ブリュンヒルト側からの反撃はまったくない。

 

 俺は部下と一緒にブリュンヒルトの最期を眺めた。ラインハルトは旗艦を捨てて逃げることを潔しとしないだろう。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』を全巻読破した俺にはわかる。

 

「ブリュンヒルトを撃沈しました!」

 

 オペレーターが叫んだ瞬間、司令室は歓声に包まれた。部下たちは手を叩いたり、抱き合ったりして勝利を喜ぶ。

 

 俺は何も言わずに真っ黒なスクリーンを見つめていた。二人の戦友を悼む気持ち、戦いの終わったことへの安堵感、偉大な英雄のあっけない死に対する戸惑いが胸中を駆け巡る。

 

 それから五分後、歓喜は失望に変わった。ラインハルトがブリュンヒルトを捨てて戦艦ベアグルントに移乗したとの報告が入ったのだ。

 

「参謀長、いったいどういうことだ」

「直衛艦がやられた隙に逃げたのでしょうね」

「いや、そうじゃなくて……。あのローエングラム大元帥が逃げたんだぞ。信じられるか?」

「彼は必要なら逃げますよ」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長は逃げるのが当然であるかのように言う。

 

「納得できないなあ」

「第一次ヴァルハラ会戦でも逃げたではありませんか」

「うーん……」

 

 俺は考えこんだ。前の世界のラインハルトは常勝の栄光に縛られたが、この世界では逃げることもいとわない。敗北によって柔軟さを身につけたのだろうか? そうだとすれば厄介だ。

 

「何をためらっている! 逃げたら追うまでのことだ!」

 

 ホーランド中将の立体画像が拳を振り上げた。隊員たちは慌てて持ち場に戻り、全力でベアグルンドを追いかける。

 

 一三時五九分、前方展開部隊がベアグルンドに肉薄した。俺はマリノ戦隊とバルトハウザー戦隊を率いて突っ込む。ポターニン機動部隊、ウスチノフ独立機動部隊、ビューフォート戦隊は、半径一光秒の範囲を取り囲んだ。

 

「今度こそ……」

 

 俺は右手を強く握りしめた。一世一代の大役を演じることへの重圧と、ラインハルトを討ち取りたい気持ちと、自分なんかが討ち取って良いものかという不安が胸中に渦巻いた。

 

 一四時〇〇分、ベアグルンドはウラン二三八弾の集中砲火を浴びて沈んだ。わずか一分の速攻である。

 

「やったぞ!」

「俺たちの勝ちだ!」

 

 歓声が湧き上がる中、俺は呆然とスクリーンを眺めた。左隣のコレット少佐や右隣のイレーシュ副参謀長が笑顔で話しかけてきたが、何を言ってるのかわからない。こんな自分がラインハルトを討ち取ったなんて信じられなかった。

 

 間もなくラインハルトが戦艦フォーゲルヤクトに乗り移ったとの報が入った。ホーランド支隊は喜びの絶頂から突き落とされ、失望と疲労感だけが残った。

 

「ローエングラムは不死身なのか」

「そろそろ諦めてくれよ」

「勝てる気がしない」

 

 あちこちから小声の呟きが聞こえてきた。

 

「旗艦を何度沈めても死なない敵将。ほいほい身を投げ出す敵艦。ゾンビと戦ってるみたいだ」

 

 イレーシュ副参謀長が細い眉をひそめる。

 

 二時方向から鋭い矢が飛んできた。その矢は一〇〇〇隻ほどの艦艇で作られており、すべて真っ黒に塗装されている。銀河広しといえども、こんな部隊は一つしかない。ラインハルト配下の猛将ビッテンフェルト中将が率いる分艦隊だ。

 

「迎え撃て!」

 

 俺はビッテンフェルト分艦隊に集中砲火を浴びせた。密集隊形の敵はいい標的となり、数十隻が一瞬で蒸発する。

 

「もしかして勝てるんじゃないか」

 

 そんなことを思ったが、前世界最強の攻撃型提督は甘くなかった。集中砲火を浴びても、何隻撃沈されようとも、ビッテンフェルト分艦隊はお構いなしに進み続ける。猪突猛進しているように見えて、砲撃を加えるタイミングとポイントは計ったように正確だ。獰猛にして精密な攻撃が防衛線を解体していく。

 

 スクリーンが味方艦の爆発光で満たされた次の瞬間、ヴァイマールが激しく揺れた。俺は左側に転び、柔らかいものにぶつかってそのまま倒れこむ。

 

 ビッテンフェルト分艦隊は前方展開部隊を突破すると、臨時旗艦フォーゲルヤクトの周囲から同盟艦を追い散らした。

 

 フォーゲルヤクトを取り巻く同盟軍は四〇〇〇隻を超える。混乱から立ち直ると、ホーランド機動集団とペク分艦隊は包囲網をさらに強固なものとした。ビッテンフェルト分艦隊は直衛部隊とともに囲まれた。

 

「わざわざ死にに来たのか。物好きな連中だ」

 

 ベッカー情報部長は不可解なものを見るような目を向けた。帝国軍を知り尽くした者にとって、エゴイストの対極にいるような軍人は理解できないのだろう。

 

「鉄壁のような部隊ですね」

 

 ラオ作戦部長の評に俺はびっくりした。ビッテンフェルト提督と鉄壁は最も縁遠い言葉ではないか。

 

「あれが鉄壁? 超攻撃型だろう」

「命がけで主君を守るなんてなかなかできませんよ。昨日だってキルヒアイス提督を救ったでしょう?」

「けどなあ……」

 

 どうにも俺は納得できなかった。防御上手には二種類いる。一つは堅固に守るタイプ、もう一つは身を投げ出して壁になるタイプである。前世界の鉄壁ミュラーは身を投げ出すタイプだった。ビッテンフェルトが鉄壁と呼ばれても不思議ではない。けれども、戦記の読者にとっては、ビッテンフェルトイコール攻撃なのだ。

 

 ラインハルトを討ち取る機会を二度逃がしたにも関わらず、同盟軍の優勢は揺らいでいない。データを見れば誰だって「同盟軍が勝つ」と言うだろう。それなのに勝てる気がしなかった。何をどうすれば勝てるのかがわからなかった。

 

 味方の動きが目に見えて悪くなった。接近戦は遠距離戦よりはるかに心身を消耗させる。もともと戦意が低かったこともあり、緊張感を維持し続けるのは難しくなってきた。

 

 フォーゲルヤクトが右上方に向けて主砲を放ち、他の敵艦もそれにならった。数万本のビームがホーランド支隊目掛けて飛んで行く。練度が低いせいか、火力を十分に集中できておらず、見た目ほどの威力はないように思われた。

 

 ホーランド支隊の艦列に大きな裂け目が生じた。指揮官も兵士も唖然とした様子でスクリーンを眺める。この程度の砲撃に艦列を断ち切られた理由がわからない。

 

「うろたえるな! 薄い部分をやられただけだ! 大した被害は出ていない! 落ち着いて対処しろ!」

 

 俺は努めて冷静な表情を作り、状況を正しく把握していることを示し、部下を落ち着かせた。しかし、一番落ち着きを失っているのは俺自身だ。

 

 ホーランド中将はすぐさま艦列の再編成に取りかかった。今の練度ならすぐに完了すると思われたが、どの部隊も普段からは信じられないほどに動きが鈍い。ホーランド支隊の動揺は、艦隊運動に支障をきたすレベルに達していた。ラインハルトの一撃は艦列だけでなく、精神的均衡も打ち砕いたのだ。

 

 一瞬にして攻守が逆転した。ラインハルトとビッテンフェルト中将が突撃し、浮足立ったホーランド機動集団とペク分艦隊を敗走に追い込んだ。そして、本隊主力と交戦しているクーパー分艦隊へと矛先を転じた。

 

 前方に集中していたクーパー分艦隊はすぐに崩れ、その次に襲撃を受けたラクロア分艦隊、モートン支隊左翼のジルベルト分艦隊も崩れた。

 

 

 

 

 

 一四時五四分、ラインハルト直衛部隊は本隊主力と合流を果たし、反撃に打って出た。ホーランド支隊とモートン支隊にこれを押しとどめる力はない。挟撃作戦は失敗に終わった。

 

 

 

 第二次ヴァルハラ会戦は最終局面へと雪崩れ込んだ。同盟軍の勝ち目はなくなったが、帝国軍が勝ったとも言いきれず、戦況は混沌としている。

 

 右翼の第三統合軍集団、中央の第七統合軍集団、最左翼の第一統合軍集団は後退を重ねた。損害を押さえるのに必死で、他の味方を援護する余裕はない。第三統合軍集団は主軸のモートン中将を欠き、第七統合軍集団の相手は名将メルカッツ提督であり、第一統合軍集団はホーランド支隊に多数の戦力を割いた。これらの事実を踏まえれば、健闘してると言えよう。

 

 左翼の第四統合軍集団は鮮やかな戦いぶりを見せた。司令官ヤン大将は巧妙に敵を誘い込んで強烈な逆撃を加え、敵の攻勢を何度も跳ね返した。

 

 最右翼ではキルヒアイス軍が第二統合軍集団に猛攻を仕掛けた。中核部隊の第八艦隊は攻撃型の編成をとっていたことが災いし、司令官キャボット中将を失う大敗を喫した。ビュコック大将が善戦しているものの、戦力が少ない上に第二統合軍集団の指揮権を持っていないため、劣勢を覆すには至らなかった。

 

 モートン支隊は敵中に孤立し、ロイエンタール中将率いる三個分艦隊に襲撃された。兵力はモートン支隊の方が多かったが、戦意が低い上に戦力が分散しており、実力通りの力を発揮できる状態ではない。それでも全面崩壊に至らないのは、モートン中将の力量であろう。

 

 ホーランド支隊はミッターマイヤー中将率いる三個分艦隊の追撃を受けた。クーパー分艦隊とは連絡が取れず、ラクロア分艦隊は連携困難な距離にいて、司令部が動かせるのはホーランド機動集団とペク分艦隊のみ。敵より数が少なくて戦意も低くては、せっかくの練度も生かせない。力尽きて撃沈される艦もあれば、乱戦の中で行方知れずになる艦もあり、ホーランド支隊はやせ細っていった。

 

 

 

 

 

 一六時四八分、ホーランド中将の旗艦ディオニューシアが行方不明になった。支隊の指揮権は分艦隊司令官ペク少将、機動集団の指揮権は集団副司令官オウミ准将が引き継いだ。

 

 俺の心中で不安の渦が荒れ狂った。何よりも心配なのはダーシャだ。彼女がいない世界なんて考えたくもない。ホーランド中将の指揮なしで戦うのも怖かった。目前の戦いに没頭することで不安を押し殺す。

 

 ホーランド支隊の損害率が急に上昇し、ホーランド配下の勇将として名高い「無限軌道」ヴィトカ准将が戦死した。用兵巧者だが慎重すぎるペク少将と、統率力のないオウミ准将では、ホーランド中将の代役は務まらなかったのだ。

 

「セントクレアが撃沈されました!」

 

 機動集団司令官代行オウミ准将の乗艦が撃沈されたとの報が入った。

 

「オウミ提督は脱出したか?」

「確認いたします」

 

 部下が事実確認に動いている間、俺は靴の足底で床を叩いた。胸の中は焦燥感でいっぱいだ。オウミ准将は能力に欠けるし、こちらに敵意を向けてくるのには辟易させられるが、死んでほしくはない。曲がりなりにも指揮官なのだから。

 

 四分後、セントクレアから脱出した者の最上位であるヴェローゾ中佐が、オウミ准将の死を報告してきた。退艦を拒否してセントクレアと運命を共にしたという。

 

「オウミ提督は『疲れた』とおっしゃっていました」

「わかった」

 

 この返事に俺は二つの意味を込めた。一つは事実確認、もう一つはオウミ准将の心情に対するものだった。彼女の刺々しさの裏側を垣間見た気がした。

 

 オウミ准将の死が確定したことで、最も序列の高い俺が指揮権を引き継いだ。司令室にいる者すべてが司令官席を見る。指揮用端末には、ハルエル少将、エスピノーザ准将らの顔が現れた。機動集団は新しい司令官の指示を待っている。

 

 俺は背筋を伸ばし、胸を張り、呼吸を整える。気持ちを入れ替えたところでマイクを握った。

 

「ホーランド機動集団の将兵に告ぐ。私は前方展開部隊司令官エリヤ・フィリップスだ。

 オウミ提督は亡くなられた。よって、今から私が機動集団の指揮をとる」

 

 力強い口調で言い切り、誰が新しい指揮官であるかを将兵の聴覚に刻みつける。

 

「諸君も知っての通り、私は運がいい。

 一一年前のエル・ファシルでは味方に見放された。

 五年前のヴァンフリートでは殺される寸前だった。

 四年前のティアマトでは乗艦が撃沈されかけた。

 三年前のエル・ファシルではテロリストに至近距離から撃たれた。

 一年前に帝国領へ攻め込んでからは、敵の砲火が最も集中する場所で一〇〇度戦った。

 それでも、私は生き残った。幸運は常に私が生き残るための道を開いてくれた。

 つまり、私の後を付いてくれば生き残れる」

 

 ここで俺は大きなはったりをかました。何度も死線を越えた事実に、クリスチアン中佐やチュン・ウー・チェン参謀長から聞いた武運の話を盛り込み、自分を幸運な提督に仕立てあげる。

 

「諸君はなすべきことをせよ。何をなすべきかは私が教える。以上だ」

 

 要するに「何も考えずに付いて来い」と断言したのだ。自分でも酷い大言壮語だと思う。けれども、動揺する将兵を落ち着かせるには、虚像であっても頼れるリーダーが必要だった。失敗した時はあの世で謝ろう。

 

 マフィンを四個食べて糖分を補給すると、ホーランド機動集団の掌握に取り掛かった。ミッターマイヤー中将の猛攻を防ぎつつ、指揮系統を立て直し、ヴィトカ部隊の残兵を集め、バラバラになった部隊を組み立て直す。それは困難極まりない作業だった。チュン・ウー・チェン参謀長を始めとする幕僚チームが全力で俺を補佐し、ペク分艦隊の援護もあり、どうにかまとめ上げることができた。

 

 機動集団に残された戦力は二六二四隻。作戦開始前に与えられた増援を差し引くと、残った兵力は本来の半分程度にすぎない。エネルギーや対艦ミサイルは残りわずか。将兵の疲労は激しく、判断力と集中力は著しく低下している。

 

「参謀長、エネルギーはあとどれぐらいもつ?」

「補給しなければ二時間で切れます」

「つまり、二時間しかもたないってことか」

 

 苦笑いするより他になかった。旗艦が砲撃に晒されるような状況では、補給活動を行う余裕などない。

 

「出力を落とせば、一時間は伸ばせるかもしれません」

「たった三時間か。厳しいな」

「まだ三時間もあると考えましょう。生き残っていれば、運が巡ってくるかもしれませんしね」

「君も奇跡を信じるのか」

「閣下の武運に賭けさせていただきます」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長はにっこりと笑い、未だかつてないほどに端正な敬礼をした。

 

「期待には応えないとな」

 

 俺は笑って敬礼を返すと、指揮用端末に向かい合った。今は後ろを向く時ではない。敵はいつも前にいる。

 

 正直言って勝てる気はしなかった。敵将ミッターマイヤー提督は、前の世界では銀河統一戦争最大の功労者で、今の世界では無敵の同盟艦隊を初めて会戦で破った。俺の用兵が通用するとは思えない。

 

 だが、相手が誰であっても諦めるわけにはいかなかった。部下に対する責任がある。期待に応える義務がある。

 

 ホーランド機動集団は再び輝きを取り戻したかのように見えた。俺はチュン・ウー・チェン参謀長のアドバイスを受けながら指揮をとり、イレーシュ副参謀長は前線との連絡を緊密にする。攻守にバランスのとれた「東方の光」ハルエル少将、最強の戦闘力と最悪の浪費癖を持つ「九〇万ディナールの女」エスピノーザ准将らホーランド配下の勇将は、一致団結して戦った。

 

 だが、敵はこちらの上を行っていた。ミッターマイヤー中将の戦法は単純だが、判断速度が異常なまでに速く、どんな手を打ってもすぐに対処してくる。練度が低いわりには部隊の動きは早かった。中級指揮官に判断の速い人材を集めたのだろう。

 

 常に先手を打たれ、物量でも負けているとあっては、どれほど奮戦しても決定的な敗北を遅らせる以上のことはできない。

 

 時間を追うごとに味方は減り、敵は勢いを増した。俺たちの防御では敵の攻撃を防ぎきれない。俺たちの攻撃では敵の防御を破れない。ペク分艦隊が崩れ、ホーランド機動集団は三個分艦隊に囲まれた。

 

 ホーランド支隊は三度にわたって敵の攻勢を退け、その代償として多大な損害を被った。ハルエル少将とエスピノーザ准将は壮烈な戦死を遂げた。前方展開部隊も限界に近づいていた。

 

「第三六機動部隊より報告! 作戦支援群のソングラシン代将が戦死しました!」

 

 この報告を耳にした途端、視界が灰色に変わった。

 

「その報告は事実か?」

「間違いありません」

「聞き間違いではないんだな?」

「こちらをごらんください」

 

 オペレーターは交信記録を取り出した。

 

「そうか、ご苦労だった」

 

 俺はねぎらいの言葉を言うと、前を向いてマフィンを食べた。喪失感をマフィンの甘みで打ち消そうとした。

 

「ソングラシン代将、君のパンケーキを食べられなくなった」

 

 ソングラシン代将は第三六機動部隊時代の部下で、軍人をやめてパンケーキの店を開く予定だった。夢をかなえる前に人生を中断させられたのだ。これほど悲しいことがあるだろうか。私情を抜きにしても、前方展開部隊最大の支援戦力を失ったのは痛い。

 

 凶報は止まるところを知らない。第三六巡航艦戦隊司令フランコ先任代将が戦死した。第三六母艦戦隊司令ハーベイ代将は重傷を負い、副司令に指揮権を委ねた。

 

 第三六機動部隊は俺にとって特別な存在だ。提督として初めて指揮した部隊であり、前方展開部隊司令官に転じてからは中核戦力として頼りにしてきた。そんな部隊が崩れる様は、部下の死に対する悲しみ、自分の無力さに対する怒りなどを呼び起こす。だが、指揮官には感情に身を委ねることは許されない。奥歯を食いしばって指揮に集中した。

 

 敵の第四〇四戦闘部隊が猛スピードで前進し、前方展開部隊とハルエル部隊残存戦力の間に割り込んできた。ホーランド機動集団は完全に分断されるかのように見えた。だが、そう見えただけだった。

 

「狙い通りだ! フォーメーション・サーティーン!」

 

 俺が指示を出すと、前方展開部隊とハルエル部隊残存戦力が縦深陣を作り、縦隊で突入してきた第四〇四戦闘部隊に砲撃を浴びせかけた。この策を立てたのはチュン・ウー・チェン参謀長だ。

 

 ミッターマイヤー中将の直接の部下だけあって、第四〇四戦闘部隊の速度は凄まじかった。そのまま縦深陣を突破するのではないかと危惧したほどだ。しかし、チュン・ウー・チェン参謀長は対応策を用意していた。バルトハウザー代将を横から強引に突っ込ませ、ポターニン准将とビューフォート代将には縦深陣に蓋をさせた。身動きが取れなくなった敵にマリノ代将が襲いかかった。

 

「第四〇四戦闘部隊の旗艦を撃沈しました!」

 

 この勝報はホーランド機動集団を喜ばせた。第四〇四戦闘部隊の上位部隊はミッターマイヤー分艦隊だ。指揮官は不明だが、中核部隊を無力化したのは間違いない。しばらくは攻撃が止まるはずだ。

 

 この時、第四統合軍集団がミュッケンベルガー軍左翼部隊とメルカッツ軍を分断した。その一部がこちらに向かっているという。

 

「あと少しだ! もうすぐヤン提督がやってくるぞ!」

 

 俺は声を張り上げて叫んだ。エネルギーは三〇分しかもたない。兵の疲労は極致に達した。希望以外に頼れるものはなかった。

 

 一〇分後、ミッターマイヤー中将は四度目の攻勢を開始した。これまでになく苛烈で凄まじい攻勢だった。第四〇四戦闘部隊の敗北は、一〇分間の休息と引き換えにミッターマイヤー中将の烈気を引き出したのである。

 

 もはやホーランド機動集団にミッターマイヤー中将を食い止める力はなかった。第三六機動部隊司令官ポターニン准将、第三六戦艦戦隊司令代行タヌイ代将、第三六独立母艦群司令アブレイユ代将が戦死した。指揮官が健在な第三六駆逐艦戦隊、第三六独立戦艦群、第三六独立巡航艦群、第三六独立駆逐艦群も生き残るだけで精一杯だった。ウスチノフ独立機動部隊は半壊状態だ。

 

 帝国軍の通信波が同盟軍の回線に割り込み、メインスクリーンに軍服を着た青年が現れた。蜂蜜色の癖毛、明るい光で満たされたグレーの瞳、男前ではないが人柄の良さがにじみ出た顔。ウォルフガング・ミッターマイヤー中将である。

 

「反乱軍に告ぐ。小官は銀河帝国宇宙軍中将ウォルフガング・ミッターマイヤーだ。卿らは我が軍の包囲下にある。もはや脱出の道はない。これ以上戦っても、兵の生命を無意味に損なうだけだ。名誉ある降伏こそが兵を救う唯一の道であろう。卿らが示した勇気と忠誠は、万人の賞賛を受けるに値する。降伏しても卿らの名誉が損なわれることはない。勇者たるにふさわしい処遇を、帝国軍の名において約束する」

 

 ミッターマイヤー中将の勧告は、誠実さと道理に富んでいた。敵に対しても、彼の公明正大さは変わらない。

 

 俺は周囲を見回した。チュン・ウー・チェン参謀長の細い目は、いつものように穏やかだ。コレット少佐のきりっとした目には、俺への信頼がこもっている。イレーシュ副参謀長の鋭い目は、「好きにやれ」と無言で語った。ラオ作戦部長の小さい目には迷いがない。ベッカー情報部長、サンバーグ後方部長、ニコルスキー人事部長、ドールトン艦長らの目には、強い確信が宿っていた。カヤラル最先任下士官、バダヴィ曹長らの目は陽光のように暖かかった。

 

 端末を見た。マーロウ先任代将、ニールセン代将ら第三六機動部隊の諸将は、決死の覚悟を示した。マリノ代将は戦いたくてたまらないと言いたげだ。バルトハウザー代将は命令を待ち望むような目で俺を見る。ビューフォート代将は軽く微笑んで「ご一緒しますよ」と言った。ウスチノフ准将は無言で頷いた。

 

 降伏しようという者は一人もいなかった。この期に及んでも、部下が闘志を失っていないことに心から感謝した。

 

「回線を繋げ。ただし、映像はオフにしろ」

 

 俺はコレット少佐に命じてミッターマイヤー中将との回線を開かせた。相手の威厳に圧されたくなかったので、映像をオフにした。

 

「小官は同盟宇宙軍少将エリヤ・フィリップスです。貴官の厚意に心より感謝します。しかし、降伏はできません。我が部隊に降伏を望む者はいないからです。ご容赦いただきたい」

「承知した。卿らの選択を尊重する。お互い、悔いのない戦いをしよう。武運を祈る」

 

 ミッターマイヤー中将は惚れ惚れしてしまうほどにフェアだった。俺が帝国軍人だったら、彼の部下になりたいと願ったに違いない。

 

 戦闘が再開された。大量のビームとミサイルが旗艦ヴァイマール目掛けて飛んで来る。戦艦と巡航艦がヴァイマールを囲み、中和磁場を最大出力にしてビームを防ぐ。駆逐艦がミサイルを撃ち落とす。

 

「敵を寄せ付けるな! あらん限りの火力を注ぎ込め!」

 

 旗艦直衛部隊は物資を使い果たすつもりで撃ちまくった。接近戦の間合いに持ち込まれたら、中和磁場が通用しない電磁砲の集中攻撃を浴びてしまう。そうなったら逃げ道はない。

 

「敵ミサイル群が二時方向より接近! 避けきれません!」

 

 オペレーターが叫び、ヴァイマールは激しい衝撃に見舞われた。床が飛び跳ねているかのような揺れに見まわれ、俺の体に空中に投げ出された。視界がめまぐるしく回転した後、全身が堅いものにぶつかり、バラバラになるような衝撃を感じた。

 

「…………」

 

 体中が激しく痛む。悲鳴をあげたいのに声が出せない。呼吸ができない。口の中に生ぬるい鉄の味が広がる。

 

「艦橋要員を……」

「……は無事か!?」

「残念ながら……ほぼ……」

「核融合炉まで……」

「とにかく今は……する時……」

「……は全滅……は全滅……」

「……の代理は……」

 

 サイレン、悲鳴、怒声、足音などが耳の中で錯綜した。視界も意識もぼんやりしている。大きな混乱が起きていることだけはわかった。

 

 俺の周囲に人が集まってきた。ぼんやりとしか見えないが、どの顔が誰なのかはわかる。黄色くて平べったいのはチュン・ウー・チェン参謀長、卵型で太い眉はコレット少佐、髪の量がやたらと多いのはラオ作戦部長、髪が金色で目や鼻の形がわかりやすいのはサンバーグ後方部長だろう。彼らの背後にも何人かいるようだ。

 

 口を開けて「逃げろ」と言おうとしたが、出たのは血液だけだった。部下が何を言っているのかが聞き取れない。まったく意思疎通ができなかった。

 

 視界のぼやけがひどくなり、世界が真っ暗になった。聴覚も触覚も嗅覚もどんどん薄れてあらゆる感覚が消え失せた。

 

「いいから逃げろ! 俺を置いて逃げろ!」

 

 声にならない声を発した後、世界は完全な無に帰った。




暁とハーメルンでの二重投稿をやめ、今後はハーメルン一本に絞ります。挿絵管理、誤字修正などに手間が倍増し、体力的にしんどいからです。

暁でお読みいただいてる方のために一か月の移行期間を設け、それ以降は暁に投稿した分を削除する予定です。


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第70話:それでも前を向こう 799年5月7日~8月末 ヴァルハラ星系~病院船~惑星ハイネセン

 俺はベッドの上で意識を取り戻した。戦死しなかったし捕虜になることもなかった。主治医のリウ軍医少佐が言うには、部下が旗艦から助けだしてくれたのだそうだ。残された部隊は救援が来るまで持ちこたえた。部下の頑張りに助けられた形だ。

 

 怪我の程度は全治四か月、退院までは二か月かかる。手足はしばらく動かせないので、着替えや排泄は看護師の助けを借りる。内臓が回復するまでは流動食で栄養を補給する。

 

 第二次ヴァルハラ会戦が終わったことも知らされた。旗艦が撃沈されてから二〇分後、救援が到着してから二分後に、同盟と帝国の一時停戦が成立した。ホーランド支隊が敗れた時点で同盟軍の勝ちはなくなった。一方、帝国軍は予備戦力や物資を使い果たしており、同盟軍を追撃する余力などない。双方が戦闘継続を無意味だと判断したそうだ。これによってミズガルズ方面の戦闘も終わった。

 

 何ともすっきりしない結末だ。同盟軍は作戦目的を達成できなかったので、帝国軍が勝ったことになるのだろう。

 

「部下はどうなりました?」

「これをごらんください」

 

 リウ軍医少佐は数枚の紙を渡してくれた。安否確認リストをプリントアウトしたもので、前方展開部隊の司令部メンバーと主要部隊長の名前が載っていた。

 

「ありがとうございます」

「礼ならコレット少佐におっしゃってください。『フィリップス提督が気にするでしょうから』と言って用意してくださったのです」

「なるほど、俺は良い部下を持ちました」

 

 俺はリストに視線を移した。無傷の者は一〇人に一人もいない。重傷者が一番多く、意識が回復していない者や死亡した者も目立った。

 

 最後のページには前方展開部隊の状況がまとめられていた。第二次ヴァルハラ会戦が始まった時点で六九一隻を数えた艦艇は、三五二隻まで減った。挟撃作戦のために臨時配属された部隊も大損害を受けた。すべての部隊がエネルギーと弾薬をほぼ使いきっていた。数字を見るだけでどれほど奮戦したかが伺える。

 

 リストを作ったコレット少佐は右手首を骨折していた。利き手が使えないのに頑張ってくれたのだ。

 

「本当に良い部下を持ちました」

 

 リストを押しいただくように持ちかえて頭を下げた。体中にしびれるような痛みが走る。

 

「いたっ!」

「姿勢を変えてはいけません」

 

 リウ軍医少佐が慌てて俺の姿勢を元に戻す。

 

「しばらくは絶対安静にしてください。良いですね?」

「わかりました」

 

 こうして入院生活が始まった。音声入力端末が視界に入ったので、「電源オン」と言うと画面が明るくなる。

 

「これはいいな。退屈しなくて済む」

 

 俺はネットに接続すると、軍の安否確認サイトを見た。部下の安否はコレット少佐のリストで確認できた。今度は友人や知人の安否を確認するのだ。

 

「ダーシャ・ブレツェリ 第一一艦隊/ホーランド機動集団/副参謀長」

 

 真っ先にダーシャを調べた。ほんわかした丸顔が画面に現れ、所属、現在位置、現在の状態などが判明した。

 

「思った通りだ」

 

 ダーシャのページを閉じ、妹の名前で検索した。少年のようにも少女のようにも見える童顔が現れた。

 

「…………」

 

 何も言わずに俺は息を吐いた。胸の傷が痛まないように用心深く空気を吐き出した。

 

「次行こうか」

 

 妹の次は「アンドリュー・フォーク」を調べた。その次は「マルコム・ワイドボーン」、次の次は「カスパー・リンツ」、次の次の次は「フィリップ・ルグランジュ」……。友人、元上官、元同僚、元部下の名前を片っ端から音声入力する。

 

「終わった……」

 

 最後の一人を調べ終わった。悲しみはまったく感じない。ただただ疲労感だけが残る。壁のデジタル時計は五月七日の午前五時を示していた。

 

 神経が高ぶって眠れないので、電子新聞やニュースサイトを見た。情報を摂取することで心の空洞を埋めた。

 

 第二次ヴァルハラ会戦のニュースを見ると、どれもラインハルトを褒め称えている。絶体絶命の窮地から逆転勝利という劇的な展開、旗艦を二度乗り換えた不屈ぶりが高く評価された。ある新聞はヤン大将の「戦いが完全に計算通りに進むことは無い。計算違いが起きた時に修正できるかどうかが分かれ目だ。ローエングラム大元帥は恐ろしい修正力を持っている」とのコメントを載せた。天才は天才を知るというべきであろう。なお、身を挺してラインハルトを守ったビッテンフェルト提督は「鉄壁ビッテン」の異名を得た。

 

 同盟軍では唯一優勢を保ったヤン大将が高く評価された。ホーランド支隊もヤン大将に救われたのだから、どれほど高く評価してもし過ぎることはない。

 

 ホーランド中将は戦史でも稀に見る逆転負けを喫したことで、評価を落とした。生き残ったが再起不能の重傷と伝えられる。

 

 相対的に俺の評価は上がった。曲がりなりにも最後まで秩序を保ったこと、第四〇四戦闘部隊司令官バイエルライン少将を戦死させたこと、そして何よりも主要指揮官の中で唯一の生存者だったことが評価されたそうだ。ロシア遠征におけるネイ元帥の撤退戦と俺の戦いを重ねあわせる人もいる。「勇者の中の勇者」という異名が完全に定着した。

 

 停戦から四時間後、ボナール政権が総辞職した。評議会不信任案の審議が始まる九時間前の辞任劇だった。

 

 評議会が総辞職した理由は党内事情だそうだ。第二次ヴァルハラ会戦の敗北が決定的になったことで、与党議員の過半数が即時講和に傾いた。評議会不信任案が採決に持ち込まれた場合、与党が勝利による講和派と即時講和派に分裂し、野党が漁夫の利を得るだろう。ボナール政権にとって、ラグナロック作戦は政権を維持するための戦いだった。戦闘継続にこだわって与党が分裂しては本末転倒だ。休戦と総辞職以外の道はなかった。

 

「結局は党利党略か」

 

 俺はうんざりした。ボナール政権は連立与党体制の維持が国のためになると考えた。ロボス派は自分たちが主導権を握るのが軍のためになると考えた。アルバネーゼ一派はフェザーンの天秤を壊すのが銀河のためになると考えた。政治とはゴミを素手で拾うような仕事だ。自分が権力を握るのがみんなのためだと本気で信じる者だけが、政治の困難さに耐えられる。信念に支えられた党利党略ほど厄介なものはない。

 

 ボナール政権総辞職の翌日、同盟議会で最高評議会議長指名選挙が行われ、進歩党左派のジョアン・レベロ前財政委員長が新議長に選ばれた。遠征を推進した国民平和会議(NPC)、進歩党右派、ガーディアン・ソサエティも新政権への支持を表明し、統一正義党を除く全政党が与党となった。

 

 レベロ新政権の閣僚一一名のうち、三名が進歩党、二名がNPC、一名が反戦市民連合、一名が無所属議員、四名が民間人だ。党派バランスは完全に無視し、ラグナロック反戦運動の功労者はほとんど入閣させず、良識派の実務家だけを選んだ。各委員会の副委員長や委員も実務型の人物が起用された。党派や人気取りにこだわらない姿勢は、有権者から好感をもって迎えられた。

 

 レベロ議長の盟友ホワン前人的資源委員長は最高評議会書記となった。最高評議会書記局は議長官房にあたる部局で、各委員会や議会との調整を担当する。交渉上手のホワン議員にはうってつけの仕事だ。

 

 トリューニヒト派は即時講和派なのに、新政権では重用されていない。口利きと票集めに熱心な性質、積極財政と軍拡という主要政策、戦争を賛美する姿勢が忌避を買った。

 

 経費節減の一環として、レベロ議長は最高評議会直属の諮問機関を一四個から八個に減らし、諮問委員を入れ替えた。この改革によって、諮問委員として影響力を振るってきた官界・学界・財界の長老が一掃された。二〇年にわたって諮問委員を務めた「歴代議長の指南役」オリベイラ博士、ラグナロック作戦を仕組んだアルバネーゼ宇宙軍退役大将といった超大物も最高評議会ビルを去った。

 

 レベロ新議長は就任演説でハイネセン主義への回帰を訴えた。目標として「財政再建」「軍縮」「対外貿易の促進」「恒久平和の実現」の四つをあげ、緊急に遂行すべき課題として「帝国との講和」「インフレ抑制」「遠征軍の撤収」「移民の労働力化」の四つをあげた。

 

 四つの緊急課題の中で最も優先度が高いのは講和である。フェザーンが「講和できないのならせめて停戦しよう」と提案したので、一時停戦して講和交渉を続けた。現状は合意からほど遠い。

 

 同盟市民は帝国から奪った土地と財産を少しでも多く確保したかった。そうしないと、費やしたコストを回収できないからだ。

 

 帝国貴族は奪われた領土と財産を取り戻そうとした。ある鉱山主は占領中に採掘された資源の補償を求めた。ある企業家は同盟軍が占領地の軍需工場を使って生産した兵器の補償を求めた。妥協するには支払った代償があまりに大きすぎた。

 

 解放区から同盟本国に移住した五六〇〇万人、同盟軍とともに退避した親同盟派住民七三〇〇万人の存在が、講和交渉をややこしくした。帝国は「民は皇帝陛下の私有物だ」と返還を求め、同盟は「彼らは我が国の市民だ」と突っぱねる。国家理念に関わる問題なのでどちらも譲れない。

 

 軍部の要人は撤収が完了するまで現職に留まる。ただ、遠征軍総司令官ロボス元帥は「病気」を理由に辞職した。遠征推進派グループ「冬バラ会」のメンバーは、「越権行為」「虚偽報告」などの理由で罷免された。

 

 入院中のホーランド中将は冬バラ会のメンバーだったために解任され、生存者中最上位の俺が後任となった。ホーランド機動集団は旧名の第一一艦隊D分艦隊に戻った。

 

「戦記の愛読者だったら喜ぶんだろうな」

 

 俺は二度と読むことのできない書物を思い浮かべた。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』『ヤン・ウェンリー提督の生涯』『革命戦争の回想―伊達と酔狂』などで批判された人物は、ほとんど表舞台から消えた。そして、好意的に書かれた人物が活躍している。

 

 不意に眠気が襲ってきた。一度に情報を詰め込んだせいで脳が限界に達したらしい。端末のスイッチを切って目をつぶる。あっという間に眠りの中へ引きずり込まれた。

 

 

 

 五月一三日、ラグナロック作戦における人的損害の概算が発表された。死者・行方不明者は宇宙軍が一七〇〇万人、地上軍が二〇〇〇万人、民間人が九〇〇万人、合計で四六〇〇万人だった。この数字に現地人は含まれていない。「すべての戦争を終わらせるための戦争」と呼ばれた戦いは、三〇〇〇万人が死んだコルネリアス一世の大親征を超える惨禍となった。

 

 損害の三割は開戦から撤退戦開始までの一年二か月間、四割は撤退戦開始から終結までの一七日間、三割は第二次ヴァルハラ会戦開始から停戦までの六日間で生じたという。

 

「無断撤退を決めた時に講和すれば、三二〇〇万人が助かったのか」

 

 軽く目を閉じると、戦死した部下や友人の顔が次々と浮かんだ。ボナール政権や総司令部が面子にこだわったせいで、彼らは死んだ。

 

「あの連中が……」

 

 指導者の無能を批判しかけて止めた。

 

「いや、人のことは言えないな」

 

 俺は左側を向いた。前方展開部隊の戦死者リストが壁一面にびっしり貼ってある。看護師に頼んで貼ってもらった。

 

 彼らの死がすべて自分の責任だとは思わないが、無罪を主張するつもりもない。あの判断は正しかったのか? もっとできることがあったのではないか? 降伏勧告を受け入れるべきだったのではないか? 正しい指揮をすれば何人が助かったのか? 答えの出ない計算を延々と繰り返す。

 

 五月一六日、リウ軍医少佐の反対を押し切って軍務に復帰した。無為に過ごすことに耐えられなかったからだ。

 

 幸いなことに処理すべき文書と作るべき文書が山ほどあった。軍隊が動くたびに大量の文書が動く。命令は文書として下に与えられ、報告は文書として上に伝えられ、行動は文書として記録される。軍隊を人体に例えるならば、兵士が筋肉、物資が血液、司令部が脳髄、情報通信系統が神経、文書が神経信号だ。大きな戦いの後は文書量が数倍に増える。

 

 勤務時間中は副官コレット少佐が病室に常駐した。頼んだことは迅速かつ正確に遂行してくれるので、文字通り手足のような部下だ。着替えや排泄や入浴も手伝うと言ってくれたが、さすがに断った。

 

 仕事をしていない時は車椅子に乗って散歩した。広大な病院船の中には遊歩道や人工林があり、気分転換にはちょうどいい。勤務中の休憩時間はコレット少佐、勤務時間外は看護師に車椅子を押してもらった。

 

 見舞い客との面会も気分転換になった。直接会いに来てくれる人もいたし、通信を入れてくる人もいた。

 

 予定表をびっしり埋めることで、心の空洞を埋める日々が続いた。一日一日がすさまじい速度で過ぎ、あっという間に五月が終わった。

 

 部下や友人は「大丈夫そうで安心した」「思ったより早く立ち直ってくれた」と喜んだ。「薄情じゃないか」と咎める人すらいた。誰もが立ち直ったと感じるほどに俺は活発だった。しかし、D分艦隊衛生部長リンドヴァル軍医中佐の見解は違った。

 

「フィリップス提督、悲しみから逃げるのは良くありませんよ」

「逃げているように見えるか?」

「見えます」

「君が言うなら間違いないな」

 

 俺はあっさり同意した。自覚はないし納得もしていない。だが、リンドヴァル衛生部長は医療分野における幕僚であり、精神医療の専門家でもある。俺の自己診断よりずっと信頼できる。

 

 治療が必要だというので、リンドヴァル衛生部長に依頼したところ、代わりにキャレル軍医少佐という人物を紹介された。グリーフケア(死別の悲しみから立ち直るための支援)に造詣の深い人物なのだそうだ。

 

 キャレル軍医少佐は三〇代の男性で、同盟軍医療学校ではなく一般大学医学部の出身だった。軍医部門は技術部門と並んで一般大学出身者が特に多い分野である。

 

「親しい人との死別は世界をがらりと変えてしまいます。残された者はその人がいない世界で生きることを強いられる。それはとても大きな痛みを伴います。軍人は死別の痛みを経験する機会が特に多い職業です。私は軍人が喪失後の世界に順応するための手伝いをいたします」

「順応とは忘れることですか?」

「違います。あなたは家族や友人を忘れることができますか?」

「できません」

 

 考えるまでもなく俺は即答した。彼らとの関わりの中で自分という人間は作られてきた。命あるかぎり忘れるなんて不可能だ。

 

「決して戻ってこない人を待ち続け、決して忘れられない人を忘れようとしたら無理が生じます。喪失を受け入れ、故人との思い出を大事にしつつ、新しい世界と折り合いをつけていく。これが私の言う順応です」

「わかりました」

「こちらがパンフレットです。死別を経験した人が順応に至るまでの過程、どのような治療を行うかが書かれています。お読みになった上でよく考えて……」

「治療をお願いします」

 

 俺はキャレル軍医少佐が話し終える前に返事をした。いつまでも逃げていられないのはわかっていた。切り替えるきっかけがほしかった。

 

「よろしいのですか?」

「ええ、すぐ始めた方が順応も早いでしょう」

「勢いで決めてはいけませんよ」

「答えは二つに一つでしょう。片方を選ぶだけなら迷うのは時間の無駄です」

 

 かつてクリスチアン中佐から言われた言葉を俺は使った。

 

「なるほど。フィリップス提督は剛毅果断と聞いておりましたが、想像以上でした」

「しつこく念を押さなければいけない事情があるのですか?」

「治療が始まってから、人目を気にしてやめてしまう方が多いのです。精神医療に対する偏見は強いですから」

 

 キャレル軍医少佐はとても残念そうな顔をする。

 

「よくわかります。精神科医やカウンセラーを利用するよう兵士に呼びかけてきましたが、思うような結果は出ていません。メンタルの問題で人を頼るのは恥と思われてますから」

「根本にあるのは自助努力に対する本能的な信仰です。『自分の面倒は自分でみるのがまともな人間だ』『他人を頼るのは悪いことだ』という観念が染み付いている」

「ルドルフの悪影響は大きいですね。同盟市民も元をたどれば帝国の流刑囚ですし」

 

 俺は解放区での経験を思い出した。帝国人の強烈な自助努力信仰にはうんざりさせられた。

 

「彼一人のせいなのでしょうか? むしろ、人々の自助努力信仰こそが、ルドルフを皇帝に押し上げたと私は考えています」

 

 一瞬、キャレル軍医少佐とトリューニヒト議長が重なって見えた。

 

「同じことを言ってた人がいました」

「そうでしょう。私は独創的なことを言ってるわけではない。他人任せがルドルフを生んだなんて嘘っぱちです。我が国でも自助努力信仰はしみついています。ハイネセンの言う『自由・自主・自律・自尊』だって……」

 

 ここまで言ったところでキャレル軍医少佐は口をつぐんだ。一線を越えかけていることに気付いたのだろう。ハイネセン批判はこの国ではタブーだ。

 

「言葉が過ぎました。今の話は忘れてください」

「承知しました」

「ところで身上書には信仰は『特になし』と記されていますね。現在も同じですか?」

「はい、現在も無信仰です」

 

 妙なことを聞くんだなと思いつつ答える。

 

「あなたのカウンセリングは心理士が行いますが、希望があれば従軍聖職者のカウンセリングも同時に受けられます。すべての信仰に対応できるわけではありませんが」

 

 そう言うと、キャレル軍医少佐は一冊のパンフレットを差し出した。表紙に映っているのは、白いコートをまとった十字教の司祭、オレンジ色の長衣を着た楽土教の導師、粗末な麻のシャツを着た美徳教の神官、青いキノコ帽子を被ったテイタム教の教師だ。みんな同盟軍内部での活動を認められた宗教の聖職者である。

 

「宗教ですか……」

 

 俺は少し尻込みした。宗教の世話になるのは世間体が良くない。西暦二一世紀から二二世紀にかけての九〇年戦争がきっかけで、宗教のイメージは暴落した。神を真面目に信じていると言えば、二人に一人は「心が弱い」「騙されている」と答えるだろう。戦記の登場人物も宗教には非好意的だった。人類の九八パーセントが何らかの信仰を持っていた時代とは違う。

 

 宗教の有難みは誰よりも知っているつもりだ。前の人生では十字教や地球教の世話になった。無関係な人間を「同胞」と呼んで飯を食わせてくれるのは、信仰者ぐらいのものだ。それでも、世間に白い目で見られるのは恐い。

 

「やはり宗教は印象が悪いですか?」

「いえ、悪いというわけでは……」

 

 俺は慌てて否定した。軍隊には宗教的なものに共感する人が結構いる。宗教好きと思われるのはまずいが、理解がないと思われるのもまずい。

 

「宗教に救いを求めると、心の弱い人間だと言われます。しかし、弱いのが悪いことなのでしょうか?」

「そうは思いません」

「まともな人間なら神なんかに頼らずに、自分の力で自分を救うべきだと言われます。しかし、自分の力で自分を救えないのは悪いことなのでしょうか?」

「そうは思いません」

「宗教を信じると理性が無くなると言われます。しかし、宗教を信じて失われる理性とは、いったい何なのでしょうか?」

 

 キャレル軍医少佐はわずかに身を乗り出す。

 

「俺にはわからないです」

「こんな仕事をしていると、弱さこそが人間の本質のように思えてきます。神を信じるのも、弱い人間が弱いままで生きていく手段の一つではないか。数年前からそう考えるようになりました」

「それは何となくわかります」

 

 俺はトリューニヒト議長を念頭に浮かべながら答えた。人間の弱さに肯定的なところ、自助努力信仰に否定的なところ、宗教に好意的なところがキャレル軍医少佐と似ている。一方、戦記の英雄は人間の強さを信じ、自分のことは自分でやるべきだと言い、宗教に否定的だった。

 

 対極にいる両者のうち、格好良いのは英雄だが、俺が共感できるのは議長や軍医だ。前の世界で同盟が滅亡した直後、飢えをしのぐために地球教に入信した。教会に来た人の中には、俺と同じように食事目当てに来た人もいたし、仲間が欲しくて来た人、悩み事を相談しに来た人もいた。みんな弱かったから神に救いを求めた。「騙されている」と指摘するだけで何もしてくれない”理性ある人”よりは、騙す代わりに救ってくれる神の方が良い。弱い人間には頼るものが必要だ。

 

「人間が本質的に弱いのならば、何かに頼って生きるのが自然な姿ではないでしょうか? 救いを求めるのは恥じるべきことではありません。あなたにはサポートを受ける権利がある。心置きなく権利を行使すべきです」

「わかりました。よろしくお願いします」

 

 俺の中にあった迷いは消えた。パンフレットを受け取ってページをめくり、ダーシャ一家が信仰する楽土教救世派を選んだ。

 

 五月五日に止まった時間が再び動き出した。一人では向き合うには大きすぎる悲しみも、精神科医、心理士、従軍聖職者のサポートがあればどうにかなる。ハイネセンに戻るまでの一か月は喪失を受け入れる作業に費やされた。

 

 

 

 七月一〇日、第一一艦隊の撤収が完了した。一万光年の長旅を終えて帰ってきた将兵を待っていたのは、罵声とブーイングの嵐だった。

 

「どの面下げて帰ってきた!」

「税金泥棒!」

「負け犬め! 恥を知れ!」

「家族を返せ!」

 

 四方八方から罵声を飛んでくる。戦没者遺族は家族の死に怒り、反戦派は遠征軍の非行に怒り、主戦派は遠征軍の不甲斐なさに怒り、それ以外の人は税金の無駄遣いに怒った。

 

 俺が姿を現しても罵声は止まなかった。群衆が俺を嫌ってるわけではない。絶大な人気を誇るビュコック大将ですら、二日前に帰還した時には罵声を浴びた。反軍感情が個人的人気ではどうにもならないほどに高まっているのだ。

 

「市民に迷惑をかけたのだから、何を言われても仕方ない」

「俺たちだって苦労したんだ。温かく迎えてくれてもいいじゃないか」

 

 相反する感情が心の中に渦巻く。批判されるのもきついが、歓迎されたらそれはそれできつい。自責も自己正当化も中途半端なのが凡人である。

 

「貴様らあ! 兵隊さんに失礼だろうがあ!」

 

 凄まじく大きな声が鳴り響いた。声のした方向には、青地にPKCの文字と五稜星が描かれた憂国騎士団の団旗がたなびいている。

 

 旗の下には普通の服を着た一般団員数千人の他に、戦闘服を着用し白マスクをかぶった者が数十人いた。行動部隊が反軍行動潰しに出てきたのだ。

 

 憂国騎士団行動部隊、主戦派の過激分子、反戦派の過激分子が三つ巴の乱闘を繰り広げた。宇宙港の警備兵は民間人同士の争いには介入できない。しばらくしたら保安警察の機動隊が現れて、主戦派と反戦派だけを捕まえる。帰還兵が到着した宇宙港ではこんな光景が頻繁に見られた。

 

 レベロ政権は健闘している。徹底的な緊縮政策でインフレの進行を食い止め、予備役二五〇〇万人の撤収と復員を二か月で完了した。

 

 講和交渉は合意の兆しが見えた。レベロ議長が「同盟は解放区・接収財産を無条件で返還し、帝国は無条件で賠償請求権を放棄する」という案を出し、帝国側のラインハルトが賛同した。

 

 ラインハルトの所領ローエングラム伯爵領は、最も大きな損害を被った土地の一つだった。損害額は一〇〇〇億ディナールを超え、住民の三割が同盟本国に移民させられた。帝国政府から「復興の見込みはないから替わりの領地を与えよう」と提案されたほどだ。そんな土地の領主が賠償請求権を放棄すると言ったのである。

 

 帝国人はラインハルトの度量に度肝を抜かれ、賠償にこだわるのは狭量だとの空気が生まれた。こうなると体面を気にする貴族は黙っていられない。請求権を放棄することで度量を示そうとする者が続出した。

 

 もっとも、停戦期限の九月五日までに合意できるかどうかは微妙だ。同盟国内でも帝国国内でもレベロ案への反対意見は根強い。合意が成立しなければ、戦闘が再開される恐れもある。

 

 同盟軍は予備役の動員を解除したが、正規軍は臨戦態勢を保っている。比較的損害の少ない第九艦隊、第一二艦隊、第一三艦隊がアムリッツァ星系に留まり、ハイネセンから第二艦隊が援軍として派遣された。第二地上軍、第五地上軍、第七地上軍が後方支援にあたる。こんな状況なので軍部人事は動いていない。

 

 社会が騒然とする中、俺はリハビリをして身体機能の回復に励んだ。トレーニングを再開できる状態まで持っていくのが当面の目標である。

 

 メンタルの治療も続けた。まだ感情は安定していない。「もうあの人はいない」と悲しみ、「どうして俺を置いていなくなったのか」と怒り、「彼らのいない世界でどうやって生きていけばいいのか」と不安になり、「自分だけが生き残ってしまった」と罪悪感を覚える。キャレル軍医少佐はこれも必要なプロセスだと言った。

 

 それでも、進歩はいくつかある。これまで死んだ人の話題を避けてきたが、最近になってようやく話せるようになった。

 

「明るい色の物を身につける気がしなくて」

 

 ドールトン大佐は濃緑色のサマーニットにグレーのパンツという地味な出で立ちだ。彼女が艦長を務めたヴァイマールは、乗員の半数とともに吹き飛んだ。

 

「だから服装が地味になったのか」

「ええ」

「話してくれてありがとう」

 

 俺は礼を言った。病院船に乗っている間、職場が無くなったドールトン大佐は頻繁に見舞いに来てくれた。その時は彼女がいつものように彼氏の話をするだけで、死んだ人の話題には触れられなかった。お互いに整理がついてきたのだろう。

 

 生き残った部下の存在は大きな救いになった。立場を同じくする者がいるおかげで、自分が一人ではないと思える。

 

 遺族とも話した。直接面会した人もいれば、テレビ電話で会話を交わした人もいる。メールをやりとりした人もいた。

 

「私も軍人の妻です。覚悟はしていたつもりでした。しかし、いざ直面してみると駄目ですね。覚悟したぐらいではどうにもなりませんでした」

 

 第三六機動部隊司令官ポターニン少将(一階級特進)の妻がため息をついた。ただでさえ小さい体がさらに小さく見えた。

 

「気持ちは良くわかります。覚悟していても、ご主人がいなくなったことは変わりません」

「狭かった家がとても広く感じます。人間一人のスペースは思ったよりずっと大きいんですね」

「俺にとっても大きいですよ。ご主人より別働隊を上手に指揮できる人はいませんから」

「フィリップス提督にそう言っていただけて、主人も喜んでいると思います」

 

 何度も何度もポターニン夫人は頭を下げた。俺もつられるように頭を下げ続けた。提督になってから、ずっと副司令官を務めた故人への感謝を込めて頭を下げた。

 

「軍隊に入る前の娘は手の付けられない不良でした。フィリップス提督に感化されて更生したのです。メールでもフィリップス提督の話しかしないほどですから」

 

 副官付ミシェル・カイエ曹長(一階級特進)の父親は、意外なことを言った。

 

「彼女は根っからの仕事好きでした。家族と仕事の話はできないから、俺の話をしたんだと思います」

「そう言われても私にはぴんと来ないのです。家にいた頃は本当に酷かったので」

「根っから真面目だったんですよ。正直、彼女が高校を退学処分になったことは、俺にとっては世界の七不思議の一つでして」

「ご配慮いただきありがとうございます」

 

 カイエ曹長の父親はますます恐縮した。ひたすら謙虚なところが娘とそっくりだった。

 

「礼を言うのはこちらです。カイエ曹長は若いながらも人格者でした。俺の知る限り、彼女を嫌う人は一人もいなかった。よほどご両親の教育がよろしかったのだと思います」

 

 俺はただ本音だけを言った。持ちあげなくてもカイエ曹長は完璧だったからだ。父親と話してみて、あの人格のルーツがわかった気がした。

 

 すべての遺族と和やかに話せたわけではない。中には拒絶的な反応を示す人もいた。

 

「気持ちの整理がまだついていません。申し訳ありませんが、今はお断りします」

 

 当番兵だったマーキス兵長(一階級特進)の両親は対話を拒否した。俺は詫びを言って通信を切った。

 

「母ちゃんが死んだのに、なんであんただけ生き残ったんだ!? おかしいだろ!?」

 

 最先任下士官カヤラル少尉(一階級特進)の次男は、俺に詰め寄ってきた。

 

「申し訳ありません」

「あんたがしくじらなければ、母ちゃんは死ななかったんだ! わかってんのか!?」

「わかっているつもりです」

「もともと母ちゃんはヒューベリオンの乗員だった。あのヤン提督の旗艦だよ。つまり、あんたが母ちゃんを呼び寄せたせいで死んだんだ」

 

 彼の両目は涙で濡れている。

 

「返す言葉もありません」

「あんたにとっちゃ、何万人もいる部下の一人かもしれんけどな。俺にとっちゃあ、一人しかいない母ちゃんだった。わかるか?」

「はい」

 

 俺はひたすら聞き続けた。自分の指揮でカヤラル少尉が死んだこと、目の前の男性が一人しかいない母を失ったことを忘れないために。死んだ人間に対して生きている人間ができることはただ一つ、忘れないことだけだ。

 

 八月末の深夜、妹のアルマがやってきた。可愛らしい童顔もゆるくウェーブした亜麻色の髪も平たい胸も、いつもとまったく変わらない。

 

「生きてたのか」

 

 俺は目を丸くした。

 

「死ぬわけないじゃん。一度も死んだことないんだし」

 

 良くわからない理屈だが妙に説得力がある。

 

「それもそうか」

「行方不明だからって死んだと思われちゃ困るよ」

「ごめんな」

「死んだとしても幽霊になって会いに行くけどね」

「おいおい、洒落になんないぞ。時間が時間だし」

「しょうがないじゃん。北半球の宇宙港に降りたんだから。赤道超えて直行したらこの時間だよ」

「理屈は合ってる」

 

 それから俺は妹と話した。話したいことはいっぱいあった。嬉しいことも悲しいことも楽しいことも全部話した。

 

「そろそろ、帰るね」

 

 日が昇る前に妹は帰ると言った。

 

「朝日浴びたら消えるとか、そんな理由じゃないよな」

「そんなわけないじゃん。会合があるのよ。北半球時間で一九時から」

「一日で二回も赤道超えるのか。大変だな」

 

 笑って妹を見送ると、急に頭がぼーっとしてきた。夢うつつの中でベッドに入ってシーツをかぶった。

 

 目が覚めた時、ちょうどダーシャがやってきた。ほんわかした丸顔もつやつやした黒髪も馬鹿でかい胸も、いつもとまったく変わらない。

 

「おお、ダーシャか。おはよう」

 

 ダーシャはにっこり笑っておはようと言った。

 

「こないだ、お義父さんにもらったスメタナうまかったよ」

 

 ダーシャは当然でしょと笑う。

 

「君の料理はお義父さん仕込みだからな」

 

 ダーシャはとても誇らしげにまあねと言った。

 

「お義父さんの料理もいいけど、俺の舌に一番合うのは君の料理だ」

 

 勉強したからねとダーシャははにかんだ。

 

「本当に感謝してるよ」

 

 ダーシャは好きでやったんだからと言った。

 

「君は努力が好きだよな」

 

 ダーシャはうんと頷いた。

 

「俺も好きだよ。汗かくの楽しいよな。それに……」

 

 俺はダーシャの目をしっかり見る。

 

「努力していると君と同じ目線で世界を見ることができる」

 

 それから俺はダーシャと話した。話したいことはいっぱいあった。嬉しいことも悲しいことも楽しいことも全部話した。

 

 長い時間が過ぎた頃、ダーシャはそろそろ行くねと言った。

 

「そうか」

 

 また来るねと言ってダーシャは出て行った。

 

「いつでも待ってるぞ。君の席は開けておくから」

 

 ダーシャは振り向かなかった。彼女はいつも前しか見ていない。振り向くのに一秒を使うぐらいなら、一秒早く再訪問することを考える。

 

 急に部屋が明るくなった。時計は午前五時三〇分を指している。いつもの起床時間だ。地上にいる時の俺はいつも同じ時間に起きる。

 

「俺も前を向こう」

 

 涙が頬をつたった。この時、俺はダーシャがいなくなったことを完全に受け入れた。



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第71話:祭りの後、後の祭り 799年9月4日~12月 惑星ハイネセン~モードランズ官舎

 九月四日、同盟軍と帝国軍の間で無期限の休戦協定が結ばれた。ほぼレベロ案に沿った内容で、同盟はすべての占領地と接収財産を返還し、帝国は賠償請求と移住者の送還要求を取り下げた。相手国の戦争犯罪に対する裁判権の相互放棄、全捕虜の相互解放、同盟・帝国・フェザーンの三者による連絡会議の設置なども取り決められた。

 

 当初、ジョアン・レベロ議長は政府間の平和条約締結を望んだ。しかし、保守層の強い反対にあい、帝国が同盟の国家承認に踏みきれなかったこともあり、軍隊同士の休戦協定という形で決着した。それでも、両国が休戦で合意した意義は大きい。恒久平和に向けて大きな一歩を踏み出したと言える。

 

 作戦名を取って「ラグナロック戦役」と呼ばれる大戦は終結した。アムリッツァに展開していた大部隊はハイネセンへと向かい、同盟は戦時体制から平時体制に戻った。本国では捕虜送還の準備が進んでいる。

 

 同盟がラグナロック戦役に投じた経費は四五兆九〇〇〇億ディナール。昨年度一般会計予算の三五・一パーセント、国防基本予算の六九・二パーセント、国内総生産の九・六パーセントに匹敵する。この巨額支出は一般会計とは別に、戦時特別会計・解放区特別会計として計上された。また、戦時国債の利払い、戦没者遺族に支給される一時金や遺族年金、傷病兵に支給される治療費や障害年金、移民の教育費・社会保障費なども発生した。

 

 軍事的損失の大きさは金銭的損失に勝るとも劣らない。宇宙軍は宇宙艦艇一五万七〇〇〇隻を失い、一七〇七万人が戦死・行方不明となり、一二七九万人が負傷した。地上軍は二〇一九万人が戦死・行方不明となり、四一四三万人が負傷し、多数の地上車両・航空機・水上艦艇・宙陸両用艦艇を失った。

 

 対帝国戦の中核となる外征部隊は酷く消耗している。第五艦隊・第七艦隊・第八艦隊・第一〇艦隊・第一一艦隊は、兵力の半数近くを失った。第三艦隊と第六地上軍は、リッテンハイム軍主力の侵攻を防いだ。第四地上軍はヴァナヘイムの民間人退避作戦で大損害を被った。第三地上軍と第八地上軍は撤退戦の際に取り残され、降伏を余儀なくされた。

 

 いい加減な公式発表、同盟軍による戦争犯罪、解放区統治の失敗などは、政府と軍に対する信頼を大きく傷つけた。市民は民主主義を無邪気に信じることができなくなった。

 

 同盟がラグナロック戦役で得たものは、帝国人移民一億二九〇〇万人と帝国人兵士八〇〇万人、数兆ディナールまで目減りした接収財産だけだった。

 

「何のために我々は苦労したのか」

 

 市民は未だかつてない挫折感に打ちのめされた。これまでの戦争はイゼルローン回廊をめぐる局地戦に過ぎなかったが、ラグナロック戦役は国力を振り絞った総力戦だった。同盟が二七二年にわたって築いてきたものが敗北したに等しい。

 

 心が折れた時、人々は二つのものを求める。正義を体現する英雄と憎悪を一身に引き受ける敵役だ。左派は和平を推進した人々や反戦運動家を英雄視し、遠征を推進した人々や残虐行為をはたらいた軍人を敵視した。右派は遠征を推進した人々や武勲をあげた軍人を英雄視し、和平を推進した人々や反戦運動家を敵視した。

 

 英雄への顕彰を求める声と敵役への断罪を求める声が高まったが、レベロ議長はどちらにも応えようとしなかった。

 

「私は英雄や敵役を作ろうとは思わない。そのような存在は一時の気晴らしにはなるが、真の問題を解決する役には立たないからだ」

 

 彼の言う真の問題とは、財政危機、経済の悪化、中央と地方の対立、分離主義テロなどの内政問題である。

 

「今は再建に取り組む時だ。過去の行き違いは水に流そう」

 

 レベロ議長は市民に和解を訴えた。ラグナロック戦役中に生じた国論の分裂を修復し、内政問題に全力を注げる態勢を作るのが狙いだ。

 

 和解の第一弾として、ラグナロック戦役中の脱走兵や徴兵忌避者に恩赦が与えられた。ただし、犯罪を犯して処罰を免れるために脱走した兵士は、恩赦の対象から外された。

 

 和解の第二弾として、逮捕された反戦デモ・戦争支持デモの参加者に恩赦を与え、反戦運動と戦争支持運動の両方を免罪した。ただし、恩赦の対象は不法占拠や公務執行妨害などで、傷害や放火は対象外とされた。

 

 和解の第三弾は、戦争指導にあたった政治家や軍人、解放区政策担当者に対する恩赦だった。ただし、汚職や非人道的行為は恩赦の対象にはならない。

 

 このようなやり方には反対の声もあった。退役軍人団体は「脱走兵や徴兵忌避者に寛大すぎる」と怒った。戦没者遺族は戦争指導者への恩赦に強く反発した。帰還兵の一部は、戦争指導者や解放区政策担当者の断罪を求めるデモを行った。トリューニヒト派や反戦市民連合は戦争責任の徹底追及を望み、統一正義党はサボタージュや反戦運動を反逆罪と断じ、徹底的に反対した。

 

 それでも、和解政策は予想以上に受け入れられた。支持者の半数は混乱に嫌気が差していた人々で、残り半数はレベロ議長の誠実さに期待した人々だった。

 

 同盟全土が断罪に狂奔したパトリオット・シンドロームの再来は避けられたものの、処罰感情を完全に消し去るには至らない。戦犯探しは延々と続いた。

 

 マスコミは若手高級士官グループ「冬バラ会」が戦犯だと断言した。大々的な批判キャンペーンが繰り広げられ、冬バラ会が出兵案を統合作戦本部の頭越しに最高評議会に持ち込んだこと、冬バラ会が政府やロボス元帥に楽観論を吹き込んだことが明らかにされた。

 

 冬バラ会の中で特に憎まれたのはアンドリュー・フォーク少将であった。現実離れした楽観論を唱えたことで市民の反感を買い、前線部隊に無理難題を押し付けたことで軍人の反感を買い、同盟一の嫌われ者となった。

 

「天才ヤン・ウェンリーに嫉妬していた」

「栄達欲と英雄願望を満たすためだけに、ラグナロック作戦を計画した」

「実績も能力もないのに、士官学校主席卒業の学歴とロボス元帥の寵愛だけで高位を得た」

「病身のロボス元帥を操り人形にした」

「前代未聞の誇大妄想狂。自分を天才だと思い込み、最高評議会とロボス元帥に嘘の情報を吹き込み、願望に基づいて作戦を立てた」

「陰気で驕慢で尊大で、人に好かれる要素を一かけらも持ち合わせていない」

「恩師ロボス元帥も、先輩のコーネフ大将やビロライネン中将も、冬バラ会の仲間も出世の踏み台としか考えていなかった」

 

 どこかで聞いたような悪口が新聞紙上やテレビ画面にあふれ、あっという間に「無能参謀アンドリュー・フォーク」のイメージが作り上げられた。

 

 こうした報道の中には、「フォーク少将は一度も残業をしたことがない。他人に仕事を押し付けて自分だけは定時で帰った」など、あからさまに事実に反するものも少なくない。マスコミに匿名の「関係者」「同級生」とやらが大勢登場したが、俺のところには誰も取材に来なかった。

 

 あげくの果てに「最後に面会したフィリップス少将によると~」などと、俺の発言を捏造する報道が流れたので、さすがに我慢の限界を超えた。

 

「いい加減なことを言わないでください」

 

 テレビ局に訂正を求め、アンドリューとの通信記録を公開する用意があるとも伝えた。だが、担当者はのらりくらりと言い逃れる。

 

 抗議に行った翌日、第一統合軍集団司令官ベネット大将に「ウランフ元帥の指示を破るな」と叱られた。ウランフ元帥は抗命に踏み切った事実を隠し、総司令部のメンツを立てることで、撤退許可を取り付けてくれたグリーンヒル大将に酬いた。俺が通信記録を公開した場合、すべてが台無しになってしまう。

 

「わかりました」

 

 ここまで言われては、俺も引き下がるしかない。その一二時間後、アンドリューとの通信記録は機密指定を受けた。

 

 ある新聞はアンドリューが転換性ヒステリーを患っていたとの記事を載せた。医療関係者なる人物の証言はヤマムラ軍医少佐の説明そのままで、アンドリューが幼児的な人物であると印象付けるように書かれていた。

 

「驚くべきことに遠征軍の作戦指導を担っていたのは、チョコレートを欲しがって泣きわめく幼児同然のメンタリティの持ち主であった。小児性ヒステリーの暴走が数千万人を死に追いやったのである」

 

 この一文を目にした時、新聞を破り捨てたくなる衝動を我慢するのに苦労した。マスコミがいい加減なのはわかっていても、平静でいるのは無理だ。

 

 キャレル軍医少佐の診察を受けた時、胸中にわだかまっていた思いを吐き出した。

 

「キャレル先生、精神医学ってこんないい加減なものだったんですか」

「ヤマムラ軍医少佐は精神科医じゃないですよ。神経内科医です」

「そうでしたか。ヒステリーは神経症とも言うから、神経内科医の領分なんですかね」

「神経症は精神疾患なので精神科の領分です。神経内科の領分は、神経系の異常によって起きる身体疾患です。両者は似た症状が出ることもあるので、神経症を身体疾患と勘違いして神経内科に行ったり、神経系の病気を精神疾患と勘違いして精神科に行くことも珍しくありません。素人には判別しにくいのです」

「しかし、彼はアンドリューを見た瞬間に診断を下しましたよ」

「プロは見た瞬間に診断を下さないものです。精神疾患は外に現れる症状だけでは判別しにくいですから。ずっと前に診断がついていたとしても、プロには守秘義務があるので、聞かれた途端に得々と説明しだすなんて真似はしません」

「言われてみるとそうですね。俺の直感が正しかったのか」

 

 ヤマムラ軍医少佐をメンタルのプロだと信じた自分が恥ずかしくなった。指揮官としてメンタルの問題に取り組み、何人もの精神科医と一緒に仕事したのにでたらめを見抜けなかった。

 

「あと、転換性ヒステリーなんて言葉は、精神医学の世界では一五世紀前に廃れました。今は転換性障害と言います。まあ、ドラマなんかでは使われますが。インパクトがありますから」

「死語だったんですか」

 

 俺は目を丸くした。前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ギャラクティック・ヒーローズ』にも、「フォークはヒステリー」だと書いてあった。公式のように言われてる言葉が死語だったなんて、思いもよらなかった。

 

「説明も全部でたらめです。転換性障害に性格的な傾向はありません。ヒステリーという言葉が連想させる自己顕示性や自己中心性とは無関係です。ストレスが臨界点を超えたら、誰だってかかりうる疾患ですよ。体質とかそんなのも関係ありません」

「幼児がどうこうってのはでたらめだと考えていいんですね」

「でたらめです。フォーク少将に悪い印象をくっつけるための小細工でしょう。私は直接フォーク少将を診察していないので、転換性障害なのかどうかも判断しかねます。しかしながら、閣下のお話を聞く限りでは、睡眠も食事も不足しているようですし、何年も残業続きとのことでした。立場上、ストレスも大きかったことでしょう。どんな病気を発症したっておかしくないですよ」

「ありがとうございます。胸のつかえが取れました」

「ヤマムラさんは悪質です。素人が区別しにくいのをいいことに、素人受けしそうなことをプロが言ってるかのようにミスリードしています」

 

 キャレル軍医少佐は苦々しさを隠し切れないといった様子だ。

 

「軍やマスコミが鵜呑みにするのはおかしいですね」

「後ろに大物が付いてるんじゃないですか? 一介の軍医が将官を『わがままな幼児』『自我が異常に肥大してる』と悪しざまに言って、無事でいられるなんておかしいでしょう? ヤマムラさんは誰かが作った台本を読み上げただけとも思えます」

「そう言えば、グリーンヒル大将の態度が変でした。有無を言わせぬ感じでヤマムラ軍医少佐の説明を全肯定する感じで」

「ヤマムラさんが説明役、グリーンヒル大将がお墨付きを与える役とか」

「グリーンヒル大将が出てきたら、誰だって信用するでしょうけど……。あの人がそんな悪辣な手を使うとは思えません。済まなさそうな顔をしていたし」

 

 俺はあの時のグリーンヒル大将の顔を思い出した。心の底から悲しんでいるように見えた。だから、あれ以上突っ込めなかったのだ。

 

「グリーンヒル大将は台本を読まされただけかもしれないし、黒幕に騙されているかもしれないし……。わかりませんね」

 

 ここでキャレル軍医少佐は話を打ち切った。憶測だけで語るには危険過ぎると思ったのだろう。適切なタイミングだった。

 

 

 

 講和問題と敗戦責任問題が片付いたことで、財政・経済問題に市民の関心が集まった。ラグナロック作戦は同盟に財政赤字とインフレを残した。徹底的な緊縮策によって当面の財政破綻は回避され、インフレは抑制傾向に転じたものの、予断を許さない状況が続いている。

 

「同盟経済は瀕死の病人だ。根本的な治療をしなければ、いずれは死に至る」

 

 レベロ政権は同盟経済を治療するために二つの処方箋を選んだ。一つは緊縮財政、もう一つは軍縮である。

 

 最初に評議会メンバーと各政策委員会の副委員長・委員に俸給を返上するよう求めた。レベロ議長自身は「国民に負担を求めておきながら、高給を受け取るのは筋が通らない」との理由で、就任時から議長俸給を受け取っていないし、財政委員長も無給で務めた。自分が率先して痛みを引き受けるのがレベロ流なのだ。

 

 政治家にも身を切る覚悟が求められた。議員報酬の四〇パーセント削減、秘書雇用手当と政務調査費の五〇パーセント削減、次期選挙前の下院議員定数の二割削減などが決まった。

 

 ここまでやった上で、レベロ政権は支出削減をさらに徹底させた。政府職員の解雇や給与削減、公共事業の凍結、政府機関の統廃合、公営事業の民営化、地方補助金の廃止、政府資産の売却などにより、政府支出を大きく減らした。

 

 国防費に次ぐ規模の社会保障費に対しては、金銭やサービスの給付を減らし、自立を促進するための方策を講じることで根本的な解決を図った。失業保険を減らして再就職支援を充実させ、障害年金を減らして障害者向け職業訓練を充実させ、医療補助を減らして予防医療を充実させるといった具合だ。まさしく「魚を与えるのではなく、魚の取り方を教える」ものといえよう。

 

 フェザーン自治領は同盟と帝国に無利子融資を持ちかけた。貿易と金融を生命線とする彼らにとって、両国の復興は不可欠だったのだ。帝国宰相リヒテンラーデ公爵は受け入れたが、レベロ議長は「無利子でも借金は借金だ」と言って断った。同時に提案された汎銀河貿易投資協定には、喜んで参加した。

 

 ハイネセン経済学は自由競争・自由貿易・小さな政府・強い個人を柱とする。目指すところは五四〇年代から六一〇年代の高度経済成長時代だ。政府は小さくて税金は安かった。市民は豊かで経済的に自立していた。税金に依存して生きる人間は今よりずっと少なかった。勤勉かつ禁欲的な労働者は貯蓄に励み、貯蓄が投資に回り、投資が経済発展とさらなる貯蓄を促し、増加した投資がさらに経済を発展させるという好循環が続いた。

 

 レベロ政権の最終目的は、ハイネセン経済学が理想とする状態を作ることにあった。恒久平和を実現し、戦争中に肥大化した政府と軍隊を縮小し、経済構造を政府主導から民間主導に改め、帝国と自由貿易協定を結び、経済成長を実現するのだ。

 

 最大の障害は国家予算の半分を占める国防費だった。兵器産業だけでなく、食品産業・繊維産業・エネルギー産業・ハイテク産業などあらゆる産業が軍需に依存している。軍事費を少し減らすだけで、数千万人が失業し、同盟国内の消費が落ち込む。軍需で食べている人間の数、軍縮を行った際の景気悪化、軍部の反発を考慮すると、軍縮は恐ろしくリスクの高い政策だ。

 

 幸いなことに軍の上層部は軍縮の必要性を理解していた。軍拡派は力を失っており、緩やかに軍縮を進めるか、急速に軍縮を進めるかだけが問題だった。ラグナロック作戦の結果、緩やかな軍縮を唱えたロボス派は大打撃を受け、急速な軍縮を唱えるシトレ派の優位が確立された。

 

 同盟総軍司令長官ラザール・ロボス宇宙軍元帥は、「病気療養に専念する」と言って引退した。敗戦責任については一言も触れていない。最後まで責任を認めなかったのである。退き際の見苦しさは、帝都攻略を成し遂げた英雄の名声に傷を付けた。彼のためだけに作られた同盟総軍総司令部は解体された。

 

 統合作戦本部長シドニー・シトレ宇宙軍元帥も現役を退いた。ラグナロック作戦に批判的だったにも関わらず、軍令のトップとして責任を取らねばならなかったのだ。

 

「敗北を止められませんでした。すべて私の責任です」

 

 辞任会見の席でシトレ元帥は潔く責任を認めた。前政権やロボス元帥への批判は一言も口にしない。沈黙を決め込んだロボス元帥、責任転嫁に終始するウィンザー前国防委員長と比較すると、彼の潔さは際立っている。

 

 シトレ元帥はレベロ議長から安全保障担当議長補佐官への就任要請を受けたが、「老人がでしゃばれば、若い者がやりにくくなる」と言って固辞した。そして、ボロディン大将やヤン大将らを信頼して欲しいと述べた。トップの完全引退により、シトレ派は集団指導体制に移行し、「良識派」と呼ばれるようになった。

 

 若手高級士官グループ「冬バラ会」は厳しい処分を受けた。敗戦責任が免罪されたとはいえ、遠征推進派の中で最も目立った彼らへの風当たりは強かった。最も憎まれたアンドリュー・フォーク宇宙軍少将は精神疾患で入院したために、軍法会議への訴追を免れ、予備役に編入されるだけで済んだ。その次に憎まれたリディア・セリオ宇宙軍准将も、精神疾患によって訴追を免れた。ウィレム・ホーランド宇宙軍中将ら他のメンバーは全員予備役に編入となり、冬バラ会は一掃された。

 

 総参謀長ドワイト・グリーンヒル宇宙軍大将は宇宙軍予備役総隊司令官、副参謀長兼作戦主任参謀ステファン・コーネフ宇宙軍大将は宇宙軍支援総隊司令官に転じた。予備役総隊と支援総隊は宇宙艦隊と同じ総隊級部隊で、その司令官は大将級だが、練度管理だけを担当するので軍事行動には関わらない。名目上は昇格だが実質的には左遷といえる。冬バラ会の暴走を許した責任を問われた形だ。

 

 情報主任参謀カーポ・ビロライネン宇宙軍中将は第一一方面軍司令官、後方主任参謀アレックス・キャゼルヌ宇宙軍中将は第二〇方面軍司令官に転出した。彼らも冬バラ会を抑えられなかった責任を取った。

 

 地上軍総監・第二統合軍集団司令官アデル・ロヴェール地上軍大将は引退した。目立った失点はなく、遠征軍総司令官代行として撤収を指揮した実績もあり、次期統合作戦本部長に最も近いと思われた。だが、遠征推進派の一員として楽観論を唱えたことが問題となり、予備役に追いやられたのである。

 

 第三統合軍集団司令官イアン・ホーウッド宇宙軍大将は現役を退いた。ラグナロック戦役の前半で大活躍を見せたが、後半戦では精彩を欠いた。ヨトゥンヘイムでラインハルトに三連敗し、第三地上軍と第八地上軍を降伏に至らしめた責任を問われて、失脚に追い込まれた。

 

 第五統合軍集団司令官シャルル・ルフェーブル宇宙軍大将は、宇宙軍教育総隊司令官となった。教育総隊も宇宙艦隊と同格の総隊級部隊であり、格は高いが権限は少ない。遠征軍主力がヴァルハラで戦っていた頃、彼はミズガルズ方面でリッテンハイム派主力艦隊を食い止めた。ロボス元帥と近い人物だが、政治色の薄い実戦派で、戦功が大きかったために排除されなかった。

 

 後方勤務本部長ヴァシリーシン宇宙軍大将、科学技術本部長フェルディーン宇宙軍大将、ニブルヘイム統合軍集団司令官ジョルダーナ地上軍大将、インディペンデンス統合軍集団司令官シャフラン宇宙軍大将ら古参の大将は軒並み引退し、シトレ・ロボス世代の重鎮は同盟軍から消えた。

 

 シトレ・ロボスの二元帥時代が終わり空いたポストのほとんどは、一貫して遠征に反対しながらも多大な武勲をあげた良識派が埋めた。

 

 新たに統合作戦本部長となったのは、宇宙艦隊司令長官代行ウラディミール・ボロディン宇宙軍大将であった。平時にあっては自制的態度、戦場にあっては指揮官先頭を旨とし、リベラル軍人の理想像を体現している。ニダヴェリール撤退戦では軍勢をまっとうし、第二次ヴァルハラ会戦では名将メルカッツと互角に渡り合った。人格・手腕・実績のすべてにおいて軍のトップにふさわしい人物だった。

 

 宇宙艦隊司令長官には、フリーダム統合軍集団司令官アレクサンドル・ビュコック宇宙軍大将が抜擢された。第二次ヴァルハラ会戦では少数ながらも奮戦し、同盟軍最右翼の崩壊を防いだ。軍人の非行を厳しく取り締まった功績も大きい。志願兵出身で反骨心が強いことから、兵士からは叩き上げの星として尊敬されている。再招集された予備役大将で七三歳と高齢ながらも、人望を買われた。

 

 第一艦隊司令官ネイサン・クブルスリー宇宙軍中将は宇宙艦隊総参謀長となり、宇宙軍大将に昇進した。実戦叩き上げのビュコック大将は軍政や戦略に疎い。幕僚経験豊かなクブルスリー大将が実質的な指令塔になるだろう。

 

 最大の武勲をあげた第四統合軍集団司令官ヤン・ウェンリー宇宙軍大将は、統合作戦本部の作戦担当次長となった。トリューニヒト派を中心に元帥昇進と統合作戦本部長起用を求める声が大きかったが、グリーンヒル大将やビュコック大将が「自由にやらせた方がいい」と言ったために、次長に起用された。今後はボロディン本部長とともに同盟軍全体の戦略を統括する。

 

 地上軍総監には、第一統合軍集団司令官マーゴ・ベネット地上軍大将が起用された。故ウランフ元帥とともにヴァナヘイム撤退戦を指揮し、非戦闘員四〇〇〇万人を退避させたことで知られる女性将軍だ。

 

 七八〇年代後半の士官学校で暗躍した地下組織「有害図書愛好会」会員の進出は、大きな話題を呼んだ。ジャン=ロベール・ラップ宇宙軍少将は中将に昇進し、統合作戦本部作戦部長となった。ダスティ・アッテンボロー宇宙軍准将は少将に昇進して、国防委員会の戦略副部長と高等参事官を兼ねた。この二人にヤン大将を加えて「有害図書愛好会の三羽烏」と呼ぶ。また、ティエリー・モラン宇宙軍准将、レスリー・ブラッドジョー宇宙軍代将、セレナ・ラフエンテ宇宙軍代将ら愛好会の猛者八名が中央の要職に就いた。

 

「同盟軍が良識派に占拠されたみたいだ」

 

 それが異動表を読み終えた時の感想だった。

 

「有害図書愛好会グループでしょ」

 

 妹のアルマが「一緒にするな」というニュアンスを込める。彼女は良識派だが、有害図書愛好会グループに好意的ではない。

 

 良識派ほどの大派閥になると、内部にいくつものグループがある。派閥の中に派閥があるようなものだ。妹が属するグループはストイックさを重視しており、反骨精神むき出しの有害図書愛好会グループとは疎遠だった。

 

 今回の要職人事には、退任したシトレ元帥の意向が反映されたと言われる。新たに軍のトップに立ったボロディン大将、ビュコック大将、クブルスリー大将、ベネット大将は、変わり者を見ると「若者はこうでないと」と目を細めるような人たちだ。有害図書愛好会グループとの相性は抜群に良い。

 

 かつて、シトレ元帥は「上に噛みつく気概がない奴には、敵と戦う闘争心もない」「批判精神がない奴には、仕事を改善する能力はない」「人と同じことしかできない奴には、敵を出し抜くことなどできない」と言った。士官学校校長時代の教え子である有害図書愛好会グループは、彼が考える理想の軍人だった。

 

 

 

 軍部の新首脳陣は着任すると、大規模な改革計画を打ち出した。軍縮を契機に同盟軍を一から作り変えようというのだ。

 

 二年前、シトレ派が策定した大規模軍縮計画は、ラグナロック戦役が始まったためにほとんど実施されなかった。当時と比較すると、良識派の影響力ははるかに大きく、大規模戦役が起きる可能性ははるかに低い。念願の軍縮を実施するまたとない好機だった。

 

 軍縮はただ兵力を減らせばいいというものではなく、兵力減少に対応した戦略とセットにすることで効き目を発揮する。二年前に基本戦略となった「スペース・レギュレーション戦略」は、軍縮を視野に入れた少数精鋭戦略で、ラグナロック作戦でも多大な効果を上げたので踏襲されることになった。

 

 現在の同盟軍が保有する兵力は、宇宙軍が現役兵三七〇〇万人・予備役兵四五〇〇万人・現役艦艇三一万二〇〇〇隻・予備役艦艇一二万五〇〇〇隻、地上軍が現役兵一九〇〇万人・予備役兵六九〇〇万人だ。

 

 ラグナロック前と比べると、現役兵はほとんど減っていないが、予備役兵は二〇〇〇万人減り、現役艦艇は二万隻減り、予備役艦艇は六万隻減った。現役兵が減っていないのは、新兵と降伏兵による増加分が損失をやや上回ったためだ。現役艦艇は損失から新造艦と鹵獲艦による増加分を差し引き、微減となった。行方不明者の何割かが捕虜解放で戻ってくるので、現役兵は開戦前より増えるはずだ。

 

 現役兵の絶対数が減ってないと言っても、損失分の多くは正規艦隊や機動地上軍の精鋭だ。経験豊かな兵士が新兵と外国人に入れ替わったに等しい。開戦前より兵士の質は低下した。

 

 最初にラグナロックで損害を受けた部隊の統廃合を進めた。宇宙艦隊は第三艦隊が第七艦隊を吸収し、第五艦隊が第一〇艦隊を吸収し、第一一艦隊が第八艦隊を吸収し、一一個艦隊体制から八個艦隊体制に変わった。地上総軍は八個地上軍体制から六個地上軍体制に変わった。独立部隊の統廃合も進められた。

 

 部隊廃止を伴わない兵力削減も実施された。戦役中に現役期間が切れた徴集兵、任期が切れた志願兵が八〇〇万人もいた。徴集兵はそのまま復員させ、志願兵は契約更新を行わず、新兵募集枠を減らし、兵卒四〇〇万人を減らした。

 

 部隊の統廃合と兵力削減により、余剰気味になった士官と下士官を予備役に編入した。軍服を脱いだ士官は二〇万人、下士官は八〇万人にのぼる。

 

 ラグナロック戦役の戦訓に学び、会戦向きの大型編制部隊から持久戦向きの小型編制部隊に転換する計画が立てられた。宇宙艦隊は正規艦隊制を任務艦隊制に切り替え、八個艦隊を三六個分艦隊に分割し、艦隊司令部を八個から三個に減らすことで、人員削減と機動力強化を実現する。地上総軍は六個地上軍を二七個機動軍に分割し、機動地上軍司令部を六個から三個に減らす。細分化された宇宙艦隊と地上総軍は、平時は国内警備の主力となり、戦時は艦隊司令部や地上軍司令部のもとに集まって戦う。

 

 宇宙艦隊と地上総軍が国内警備に回されるため、地方駐屯部隊は大幅に削減される。方面軍を軍集団級部隊から軍級部隊、星域軍を軍級部隊から軍団級部隊、星系警備隊を軍団級部隊から師団級部隊に降格し、兵力の七割削減を目指す計画だ。ただし、イゼルローン方面国境とフェザーン方面国境の方面軍は、軍集団編制を維持する。

 

 実施前にラグナロック戦役が始まったせいで中止された兵站部隊の削減も、再度計画された。中央兵站総軍を総軍級部隊から軍級部隊に降格し、艦隊・地上軍・方面軍の兵站部隊も大幅に削減され、兵站業務の民間企業移管を進める。専守防衛なら国内の基地網を使えばいいとの考えだ。一部には、「兵站部隊を減らすことで、外征を抑えるつもりではないか」との噂もあった。

 

 予備役部隊の管理権を星系政府に譲り、「星系軍」に改編する構想もあるらしい。星系軍は正規軍の支援戦力であると同時に、星系内の治安維持や災害救援を引き受ける。これまでは星系政府の要請で国防委員会が現地の予備役を動員した。星系軍に改編すれば星系政府が直接動員できるようになり、迅速な対処が可能になるという。もっとも、これは思いつきの段階だそうだ。

 

 ヤン大将やラップ中将ら有害図書愛好会グループの幕僚が、軍縮計画策定の中心になった。ラグナロック戦役の戦訓、銀河情勢を踏まえた内容は、「新時代にふさわしい」との評価を得た。

 

「新時代に俺の席はないんだなあ……」

 

 俺はぼんやりと予備役編入の通知を眺めていた。大義なき戦いの果てに部下を失い、ダーシャを失い、軍籍まで失った。目も当てられないとはこのことだ。

 

「ごめんな、君の分も戦いたかったけど無理だった」

 

 ダーシャの写真に向かって謝った。返事は返ってこない。彼女はただ笑って俺を見つめる。八か月前だったら励ましか叱咤が返ってきたのに。

 

 生き残ったからには、彼女がやりたくてもできなかったことをしたかった。そして、彼女がやりたかったことの中で、俺にできることは祖国を守ることだけだった。それも叶わなくなった。

 

 同じ日に第二艦隊司令官クレメンス・ドーソン宇宙軍中将、第四方面軍司令官スタンリー・ロックウェル宇宙軍中将、エコニア収容所長ナイジェル・ベイ宇宙軍大佐らトリューニヒト派幹部四七名が、予備役に編入された。マルコム・ワイドボーン宇宙軍准将はミズガルズ方面で大きな戦功を立て、中央への復帰が有力視されたが、少将昇進と同時に予備役編入となった。

 

 メールボックスはトリューニヒト派からの怒りのメールで満杯だ。ドーソン中将からのメールは凄まじい長文で、内容を読まなくても長さだけでドン引きできる。

 

 国防委員会のサイトで公開されている異動表を見ると、トリューニヒト派以外の高級士官も予備役に編入された。名前を見ると、強硬な軍縮反対派、軍内政治に熱心な者、精神論や根性論を好んで口にする者、国家や軍隊への愛情が過剰気味な者ばかりだ。熱心な軍縮支持者、政治嫌いで有名な者、徹底した合理主義者、体制への反発心が強い者は、有害図書愛好会グループと仲が悪くても引き立てられた。

 

 軍首脳陣は軍縮と平行して意識改革も進めた。ラグナロック戦役の反省から「軍の政治的中立」を目指し、政治家や政党と距離を置いた。時間と費用の無駄だとの理由で、記念行事や式典の数を半分に減らしたり、規則を大幅に緩めたりした。批判精神を養い思考の柔軟化を促すため、兵士に同盟軍の敗戦や戦争犯罪について学ばせた。休まず働くのは非効率で精神主義的だとして、残業と休日出勤を大幅に制限した。

 

 戦争犯罪を調査するための機関「戦犯追及委員会」が設けられた。「市民に対する罪には時効はない」との理念から、非戦闘員を危険に陥れた者は戦争犯罪者名簿に登録され、ホームページで永久公開される。前の世界で俺が食らった「戦犯追及法」とよく似たものらしい。寛容と言われる良識派も、市民を苦しめた者には決して容赦しないのだ。

 

 教育改革も計画された。首脳陣は硬直化した士官教育が冬バラ会を生んだと考えた。そこでシトレイズムに基づく教育を目指したのである。評価基準を総合力重視から一芸重視に改め、欠点のない秀才より欠点のある奇才が評価される仕組みを作る。協調性は闘争心や批判精神や独創性を阻害するので重視しない。体育や精神教育の時間を減らし、合理的思考の基礎となるハイネセン経済学の授業を増やす。歴史感覚を養うために、士官学校の戦史研究科を復活させる。

 

「やっぱり俺の席はない」

 

 ため息をついたところに新着メールが来た。差出人はソリモンエス星系警察の総務局だ。

 

「辺境の警察が何の用だろう?」

 

 不審に思いながらメールを開くと、「航路保安隊を作るので司令官になって欲しい」との内容だった。軍縮で余った軍艦を買って自力で航路警備をやるつもりらしい。司令官になった場合、月給七〇〇〇ディナールと警視監の階級を用意するそうだ。

 

「ソリモンエスにそんな金があるのかなあ」

 

 いぶかしく思いつつ電子新聞を検索した。すると、隅っこにソリモンエス星系政府がフェザーンから莫大な金を無利子で借りたとのニュースが見つかった。

 

「昨日もこんなニュース見たぞ」

 

 昨日の電子新聞を開くと、スプレツァ星系がフェザーンから無利子融資を受け入れていた。財政委員会のクレームに対し、星系政府は「内政干渉だ」と反発しているという。地方政府が借金するのは自由だし、フェザーンから借りても問題ないのだが、それでもどこかひっかかる。

 

 新着メールが届いた。差出人はスプレツァ星系の内務省航路安全局。内容はソリモンエスと似たり寄ったりで、新設する航路警備部隊司令官への就任要請だった。

 

 フェザーンから大金を借りた星系が、払い下げの軍艦と退役軍人を雇って航路警備部隊を作ろうとする。まるで軍隊を作るために金を借りているかのようだ。

 

 同じような話が他にないかと思って検索してみると、一三件も見つかった。いずれも隅っこにちょこんと載ってるだけだ。国を揺るがしかねない事件なのに、同盟マスコミはいつものように辺境には興味を示さない。レベロ改革と軍縮と大都市で起きたテロのニュースばかりが、大きな扱いを受ける。

 

 急に端末から音が鳴った。トリューニヒト下院議長からの通信だ。高鳴る胸を抑えながら回線を繋ぐ。

 

「やあ、エリヤ君。元気かね」

 

 トリューニヒト議長はいつもと同じように微笑む。

 

「全然元気じゃないですよ」

「それはいかんな。君は元気がとりえなのに」

「妻がいなくなって、親友がマスコミに叩かれて、自分は軍を首になって、同盟は分裂の危機に瀕してるんです。元気でいられるわけないですよ」

「分裂の危機? ガリッサ広域連合の九星系が同盟税支払いを停止した件かね?」

「いえ、違います」

「では、イビクイで始まった同盟派と独立派の内戦か」

「それでもないです」

「もっと深刻な事件があるのかね」

「はい、それは――」

 

 俺が話し終えると、トリューニヒト議長は優しげに目を細めた。

 

「心配には及ばない。彼らは愛国者だ。同盟のためにならないことはしないよ」

「しかし、星系政府が外国から借金して宇宙部隊を持つなんて、穏やかではないでしょう」

「あれは軍縮で削減された軍艦や兵士の受け皿だ。強い同盟軍を維持するにはああするしかない」

「議長閣下も関わっていらっしゃるのですか?」

「もちろんさ。私も愛国者だからね」

 

 トリューニヒト議長はあっさりと関与を認めた。

 

「議長のなさることなら間違いはないと思いますが、しかし……」

「なんだね」

「一時的な受け皿で済まなければどうします? なし崩し的に星系政府の私兵になって、同盟軍と戦争することになったりしたら、目も当てられないですよ」

「問題ない。再来年の三月までには片がつく」

「上院・下院同時選挙ですね。何か仕掛けるおつもりですか?」

 

 脳内に二つの言葉が点滅した。一つは「クーデター」、もう一つは「反乱」だ

 

「何もしない。ただ待つだけだ。放っておけば、レベロと旧シトレ派は勝手に転ぶ」

 

 トリューニヒト議長の瞳には強い確信がこもっていた。

 

「私が選挙に勝って政権をとるまで一年三か月。しばらく辺境で骨休めしたらどうだね? ハイネセンに戻る時は、君は現役の中将だ」

「ありがとうございます」

 

 俺は額を触り出てもいない汗を拭いた。あまりにとてつもない話で、なんと答えればいいのかわからなかった。



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第72話:嵐の中の国 799年12月5日~800年5月6日 モードランズ官舎~ハイネセンポリス~パラディオン~マスジッド

 一二月五日、妹のアルマと義父のジェリコ・ブレツェリ宇宙軍代将が俺の官舎にやってきた。義母のハンナ・ブレツェリ宇宙軍准尉の姿はない。

 

「お義母さんはどうなさったんです?」

「ハンナは今日も体調が悪くてな」

 

 義父がため息まじりに答えた。ブレツェリ夫婦がラグナロック戦役で失ったのは、ダーシャだけではない。堅実な長男マテイ、お調子者の次男フランチ、物静かな長女ターニャも帰らぬ人となった。一度に四人の子をなくしたという事実は、長い軍歴の中で多くの死を経験した彼らでも耐え難いものだった。

 

「そうでしたか」

「年寄りは切り替えるのが難しいんだ。私は六一歳、ハンナは五九歳。失った過去は大きいのに、それを埋めるための未来は少ない」

「わかります」

 

 俺には同意することしかできなかった。ダーシャが生きていたら、「まだ平均寿命まで三三年もあるじゃない」と言うかもしれない。だが、一度八〇歳になった俺に言わせれば、若者にとっての三三年は未来に向かっていく三三年であり、老人にとっての三三年は終わりに向かう三三年だ。まったく意味が違う。

 

「まだ平均寿命まで三三年も残ってるじゃないですか」

 

 そう言ったのは妹だった。

 

「アルマ君らしくもないな。まるでダーシャみたいだ」

「ええ、ダーシャちゃんならきっとそう言うだろうと思いまして」

 

 妹は弱々しく微笑んだ。亡き親友が言いそうな言葉を口にすることで、自分を励ましているように見える。

 

「君の言うとおりだ」

 

 ブレツェリ代将は笑顔を作って頷く。妹の言葉に同意したというよりは、亡き娘を思い出して頷いたという感じだ。

 

 俺は妹とブレツェリ代将をベッドルームに招き入れた。床にも机の上にもダンボール箱が山のように積まれていた。扉からベッドに至る細い道だけが、この部屋が物置ではなくベッドルームだと教えてくれる。

 

「これが全部ダーシャの遺品かね」

「そうです」

 

 俺が妹や義父を呼んだのは、遺品整理を手伝ってもらうためだった。本音を言えばすべて自分の手元に置いておきたいが、残したままでは前に進めない。軍からは官舎を一週間以内に退去するよう求められた。早急に整理する必要があった。

 

「エリヤ君、アルマ君、始めようか」

 

 義父が何かを決意したように言った。

 

「はい」

 

 俺たちはダーシャの短い人生を整理する作業を始めた。大量の遺品を俺が保管する品、妹が保管する品、ブレツェリ夫婦が保管する品、友人知人に贈る品、公的施設に寄贈する品、捨てる品に分類する。

 

 最初に本を整理した。本棚は持ち主の人柄を反映するという。ダーシャの遺品の中には、『手裏剣党宣言』とか『空想から手裏剣へ』とか『裏切られた手裏剣』などの変わった本もあった。

 

「なんだ、この本は?」

 

 義父が一冊の本を手にとった。表紙には『二〇歳を過ぎても背は伸びる』と書かれている。

 

「あの子はまだ背を伸ばす気だったのか。一六九もあれば十分だったろうに」

「ダーシャは欲張りですから」

 

 俺はひきつった笑いを浮かべつつ、本を箱の中に入れた。この本の本当の持ち主は俺だった。ダーシャに貸しっぱなしだったせいで、遺品に紛れ込んだらしい。

 

「こいつも変わった本だな」

 

 次に義父が見つけたのは、『二〇歳を過ぎても胸は大きくなる』という題名の本だった。

 

「ダーシャには必要ない本ですよね。大きすぎて邪魔だって言ってましたし」

「だよなあ」

 

 二人で不思議に思っていると、妹が何も言わずに本を取って箱の中に入れた。

 

 本を整理し終えると、服の整理に取り掛かった。ファッション好きのダーシャは古着屋を開けそうな量の服を持っていた。優等生っぽい地味な服もあれば、ふわふわした服、最先端の奇抜なデザインを取り入れた服、セクシーで露出の多い服もあり、ダーシャの多面性が伺える。

 

「懐かしいな」

 

 俺はぴっちりしたスキニーパンツを見つけた。義父が興味深そうにこちらを見る。

 

「思い出があるのかね?」

「デートの時にダーシャが良く着てたんですよ」

「そうだったのか」

「俺が今着てるシャツを選んでくれた時も、このパンツを履いていました」

 

 あれはパトリオット・シンドロームが吹き荒れていた頃だった。まともな私服が欲しくなった俺は、ダーシャに頼んで私服を選んでもらった。

 

「三年前の一〇月だよね」

 

 妹が横から口を挟んできた。

 

「そうだぞ。なんで知ってる?」

「九年ぶりにお兄ちゃんを直接見た日だから。気づいてもらえなかったけど」

「すまん」

 

 俺は即座に謝った。あの時、旧友リヒャルト・ハシェクから妹が近くにいると知らされた俺は、必死で赤毛のデブを探し続けた。しかし、妹は痩せて可愛くなっていたし、髪を亜麻色に染めていたので見過ごした。

 

「ダーシャちゃんは、『赤毛じゃないから気づかなかったんじゃない?』って言ってたけど」

 

 妹は厚顔にも髪の毛のせいにした。専科学校を出た後の彼女と知り合った人は、かつてデブだったことを知らない。ダーシャも妹が太らない体質だと信じきっていた。

 

「まあな」

「ハシェクさんもそう言ってたよ」

「ハシェクが? あの後に話したのか?」

「メアド交換したもん」

「あいつのメアド、知ってるんだな」

 

 心臓が激しい上下運動を始めた。前の世界ではハシェクは帝国領遠征で戦死したのだ。

 

「昨日もメールしたよ」

「あいつ、生きてたのか!」

「知らないの? ずっと去年の冬に本国へ送還されたよ。解放区総選挙の日に爆弾テロで大怪我してね」

「良かった」

 

 俺は胸を撫で下ろした。この世界では前の世界で死んだ人が結構生き残っている。それでも、昔なじみが死なずに済んだというのは格別だ。世の中、悪いことばかりではない。

 

「あの時はハシェクさんはついてないって思ったけど、運が良かったのかもね。地獄を見る前に帰れたんだから」

「そうだな」

 

 妹の言うとおりだと心の底から思う。ラグナロック戦役の間に、多くの兵士が戦傷や病気で本国に送還された。彼らは本当に幸運だった。

 

「あー、これ懐かしい」

 

 妹がふかふかしたニットの帽子を手にとった。

 

「ほう、この帽子は思い出の品かな?」

 

 義父が細い目をさらに細める。

 

「初めて会った時にダーシャちゃんがかぶってた帽子ですよ」

「カプチェランカか」

「ええ、そうです」

「私は一度も行ったことがないんだが、同期が寒い星だと言っていた。そいつは灼熱の砂漠で死んだがね」

 

 カプチェランカは対帝国戦争の激戦地だ。一〇日のうち九日はブリザードが吹き荒れている極寒の惑星だが、膨大な鉱物資源が埋まっているために局地戦が繰り返された。

 

「あの時、ダーシャちゃんからもらったパウンドケーキの味は忘れられません。ブランデーがたっぷり染みこんでて、体があったまりました」

 

 妹は心の底から幸せそうな笑顔になる。どうやらダーシャに食い物で釣られたらしい。食い意地の汚さだけは前も今も変わらなかった。

 

「アルマ、本当にお前は食い意地が……」

 

 俺が言い終える前に妹が反撃してきた。

 

「そういえば、ダーシャちゃんがお兄ちゃんと最初に出会った時は、ロールケーキをあげたって……」

「このスカート、懐かしいな!」

 

 遺品を手に取るたびに思い出が蘇る。俺たち三人は遺品を整理しながら、それにまつわる思い出を語り合った。ダーシャのことだけを考え、ダーシャのことだけを語り合う。とても幸せな時間だった。

 

 それから三日間、三人で遺品を整理した。こんな時間がいつまでも続いたらと思った。しかし、遺品は無尽蔵ではない。

 

「終わったな」

 

 俺は整理された遺品の山を見て寂しくなった。

 

「始まりだよ。私もお兄ちゃんもジェリコさんもここから歩き出すの」

 

 妹が静かだが毅然とした口調で宣言した。前の世界では悪意と怠惰の塊だったのに、この世界では太陽のように強くて明るい。人間と世界の可能性を彼女は象徴している。

 

「私もハンナも立ち止まってはいられないな。歩き出さねば」

 

 義父は目を細めて笑う。ラグナロック戦役が終わった後、初めて見る笑顔だった。遺品を整理することで区切りがついたのかもしれない。

 

「ダーシャは俺たち三人の中に生きています。そのことに改めて気づきました。これまではダーシャと一緒に歩いてきたし、これからも一緒に歩いて行くでしょう。ずっと一緒なんです」

 

 俺は義父と妹の手を握りしめた。思えば、この三人の縁を繋いだのはダーシャだった。俺も妹もダーシャを通して義父と縁を持った。一度切れかけた俺と妹の縁を復活させてくれたのもダーシャだった。彼女がこの世界からいなくなった後も縁は生きている。要するに彼女は不滅なのだ。

 

 義父は空いている方の手で妹の空いている手を握った。三人が手を握り合う形になった後、義父は口を開いた。

 

「私たち三人もずっと一緒だ」

 

 この時、俺たち三人の間で神聖な盟約が結ばれた。それはフェザーンでループレヒト・レーヴェ及びその主君と結んだ誓い、ヨッチャンでトリューニヒト議長やベイ大佐と結んだ誓いに匹敵するほど神聖なものだった。

 

 

 

 遺品整理が終わった翌日に官舎を引き払い、ハイネセンポリスの短期賃貸マンションに仮の住まいを構えた。

 

 同盟首都は混乱のさなかにあった。失業者や退役軍人は救済を求めてデモを行い、全体主義者や科学的社会主義者は反ハイネセン主義運動を繰り広げ、ラグナロック反戦運動で活躍した学生運動家はハイネセン主義による革命を目指し、今にも騒乱が起きそうな雰囲気だ。低所得地区では小規模な暴動が頻繁に起きた。公園や地下鉄には路上生活者があふれている。宗教が大流行し、地球教による地球回帰の精神運動、イエルバ教が説く救世主セーミヤンダラ信仰が急速に浸透した。

 

 マルコム・ワイドボーン予備役少将と一緒に食事をした時、身の振り方について聞かれた。

 

「これからどうするんだ?」

「しばらくはのんびりします。お金に余裕がありますし」

「そういえばブレツェリの遺族年金もあるんだな」

「平均的な労働者より収入多いですよ」

 

 今の俺は結構な金持ちだった。二八万ディナールの貯金があり、軍人年金一八〇〇ディナールと遺族年金一四〇〇ディナールが毎月入ってくる。退職金一五万ディナールには復帰を見越して手を付けていない。統合作戦本部次長ヤン・ウェンリー大将が羨ましがりそうな境遇だ。

 

「ブレツェリの遺産や遺族補償一時金は全額寄付したんだったか」

「自分で使うより、戦没者遺族の支援に使った方がいいと思いまして」

「フィリップス少将は立派だ」

「当然のことをしただけです。俺の指揮で多くの兵が死にました。遺族を困窮させないのが彼らの忠誠に報いる道でしょう」

「そう言えるのが立派だと言ってるんだがな」

「小心なんですよ。自分だけいい目を見たら、生きた者と死んだ者の両方に恨まれる。怖いじゃないですか」

「真面目も度が過ぎると良くないぞ」

「気をつけます」

「余裕があるうちに休んどけ。来年になったら軍人年金も遺族年金も減らされるしな」

「はい」

 

 俺は間髪入れずに頷いた。軍人年金と遺族年金は来年度から大幅に削減される。階級が高い者、勤続年数が短い者、扶養家族のいない者が優先して減らされるので、俺の収入は激減する。

 

 国防費を削減するならば、退役軍人や戦没者遺族に対する給付金の削減は避けられない。軍事に詳しくない人は国防費イコール装備調達費と考えがちだ。しかし、退役軍人や戦没者遺族に対する給付金は、国防費の中で最も大きな比重を占める。

 

 退役軍人の総数は一〇億人を超えており、その扶養家族や戦没者遺族も含めると二〇億人以上が国防費から年金や医療給付を受け取っている。反戦市民連合が「軍艦を買う金があったら、退役軍人の年金を増やせ」と主張するのは、退役軍人による反戦運動から出発した歴史的経緯や、有力支持団体である反戦復員兵協会と反戦遺族会の意向が大きい。給付金を減らさないと国防費の削減も達成できないが、全人口の二割と反戦派最大派閥を敵に回す恐れがある。

 

 これまでの政権は退役軍人票の離反を恐れて、小幅の削減に留まった。それでも、「軍人年金を一パーセント減らせば一億票を失う」と言われるほどの打撃を受けた。

 

 レベロ議長は「必要な時に必要なことをするだけだ」と言い、大幅削減に踏み切った。これまでの政権とは違って彼は支持率など気にしない。不人気な政策でも必要ならやるし、人気のある政策でも不必要なら絶対にやらないというのが、レベロ流である。

 

「レベロも良識派もやり過ぎだ。あんな無茶は長続きしねえよ」

 

 ワイドボーン予備役少将はいつになく真剣だった。レベロ政権や良識派に対する嫌悪もさることながら、急進的すぎる改革に危惧を抱いている。

 

 同盟史上において、軍部良識派ほど軍を壊すことに熱心な集団は稀だ。財政委員会ですら腰を抜かすような国防費削減計画を打ち出し、主戦派の政治家や財界人と距離を取り、軍人的な思考の排除に力を尽くし、同盟軍の失敗を掘り起こした。彼らに言わせれば、現在の同盟軍は不合理と非効率の塊であり、叩き壊して合理的かつ効率的な組織に作り変える必要があるのだった。

 

 良識派にとって最大の敵は、「鉛の六角形」と呼ばれる軍部・軍需産業・政治家・研究機関・教育機関・報道機関の癒着構造だ。組織というよりはシステムで、構成員はそれぞれの計算や信念で好き勝手に動いている。特定の指導者を潰せば倒れるわけでもない。無秩序だがそれゆえに強靭だった。

 

 良識派は主戦派の政治家・財界人・学者・文化人と親しい軍人を予備役に回し、鉛の六角形とのパイプを潰した。俺やトリューニヒト派幹部に対する粛清もその一環である。

 

 それと並行して、退役軍人を介したパイプも潰した。軍需企業・研究機関・教育機関は退役軍人の再就職を受け入れることによって、軍部とのパイプを築いてきた。そこで再就職規制を強化する規定を作り、軍と取引のある企業・団体への再就職を厳しく制限したのである。また、国防委員会は退役軍人を高給で雇った企業・団体と取引しない方針を固めた。

 

 その結果、軍との取引を望む企業や団体は退役軍人を雇わなくなった。企業や団体から軍人出身の管理職や専門家が解雇された。民間警備会社は軍人出身者抜きでは成り立たないので、役員や管理職から軍人出身者を外し、規定の適用外となる戦闘職・技術職の契約社員だけを残した。

 

 厳しすぎる再就職規制に加え、反軍感情や不景気が退役軍人の再就職を妨げた。年金と退職金だけで暮らせるのは、勤続年数が四〇年を超える者と階級が高い単身者に限られる。多くの退役軍人が生活苦にあえいだ。

 

「必要なのはわかりますが、やりすぎではありませんか」

 

 あるテレビ記者が国防委員会高等参事官・戦略副部長アッテンボロー少将に疑念をぶつけた。

 

「やりすぎるくらいがちょうどいいんです。相手は鉛の六角形ですから」

 

 アッテンボロー少将の若々しい顔に鋭気がみなぎる。自分より強い敵と戦うことを生きがいとする男にとって、鉛の六角形は躊躇なく全力を出せる敵だ。

 

「結果として退役軍人の再就職を妨げる結果になっています。そのことについては、いかがお考えですか?」

「軍に頼らずに自分で仕事を探せば済む話です。兵士はみんなそうしてきました。将校や下士官だけが優遇されるいわれはない。自分で仕事を見つけられないのならば、責めるべきは制度ではなくて自分の無能でしょう」

「自己責任というのがアッテンボロー提督の見解なのですね」

「軍人特権で再就職できなければ困る。国防費のおこぼれで飯を食えなければ困る。再就職規制に反対する連中はそう言ってるんでしょう? 軍人が特権階級だとでも思ってるんですかね。勘違いも甚だしいとしか言いようがありません」

 

 アッテンボロー少将に言わせると、退役軍人の再就職斡旋は不当な既得権益であって、徹底的に排除すべきものである。既得権益に対する嫌悪は良識派が等しく共有する感情だ。

 

 既得権益にしがみつく側にも言い分はあった。同盟軍は功績を立てた若手をどんどん昇進させるので、何の取り柄もない軍人は四〇代から五〇代で退職を迫られる。公務員や会社員の定年は七〇歳が当たり前なのに、軍人だけが早く引退させられるのだ。しかも、子供の学費や親の介護費が必要な時期と重なる。現役時代と同等の待遇がほしいし、軍事と関わっていたい気持ちもある。

 

 しかし、良識派はこのような事情には配慮しようとしない。「軍隊にしがみつくな。自分でどうにかしろ」と突き放すだけだった。

 

「行き場を失った退役軍人が治安の悪化を招くかもしれない。再就職規制を緩和した方がいい」

 

 一部にはこのような声もあったが、アッテンボロー少将は拒否した。

 

「優遇しなければ騒ぎを起こすというのなら、取り締まればいいでしょう。妥協する必要があるんですか」

 

 一分の隙もない正論が緩和論を打ち砕き、退役軍人の再就職規制を見直そうとする声は出なくなった。

 

 良識派の進める改革はどれもこんな感じだった。合理的で効率的で理屈も通っているが、善悪と効率性で割り切りすぎる。相手を理解する意思も自分への理解を求める素振りも見せない。

 

「アッテンボローたちはジョリオ・フランクールと同じだ。不正と戦って悪人を倒すのが政治だと思っている。戦争をするようなやり方で政治してもうまくいかないぞ」

 

 ワイドボーン予備役少将は誰もが知る有名人を例にあげた。ジョリオ・フランクールは黒旗軍を率いて地球統一政府を打倒した名将で、軍事においては柔軟さだが政治においては偏狭だった。彼が地球経済を支配する巨大企業グループ「ビッグ・シスターズ」の解体に固執しなければ、シリウスの覇権は瓦解しなかっただろう。

 

「シリウスみたいにはなりませんよ」

「今の同盟は地球なんじゃねえか」

「考えたくないですね」

 

 正直に言うと、今の同盟は地球統一政府末期より悪い状況なんじゃないかと思える。抑えこまれていた矛盾が敗戦をきっかけに噴き出した。

 

 経済は悪化の一途をたどり、物価と株価は下落を続ける。多くの企業が倒産し、生き残った企業も賃下げや人員整理を余儀なくされた。失業率は二五パーセントに達し、失業を免れた者も賃金が大幅に下がっている。経済的な苦境が犯罪や自殺を急増させた。

 

 レベロ議長は直接的な救済を避け、企業と労働者の自助努力を促した。企業向けの大減税を行って雇用と投資の増加を期待したが、浮いた金は財務体質の改善に回された。規制撤廃を進めて市場競争の活発化に期待したが、過当競争を助長して企業の体力を削いだ。職業紹介や職業訓練を拡大して失業者の再就職に期待したが、仕事の絶対量が増えなかったので失業者は減らなかった。

 

 それでも、レベロ議長は自助努力を促し続けた。「政府の仕事は選択肢を増やすことだ。選択に介入すべきではない」と言って、企業や失業者の直接救済を拒んだ。「未来にツケを残さないのは今を生きる者の義務だ」と言って、積極財政への転換を拒んだ。彼は過去の改革が挫折した理由を「支持率低下を恐れてばらまき財政に逃げたため」と考え、ハイネセン主義を徹底する覚悟を決めていた。

 

 この頃、帝国人移民一億二九〇〇万人の処遇が議論を呼んだ。同盟加盟国が移民を分担して受け入れることになったのだが、人口の少ない辺境星系が多くの移民を受け入れることになり、辺境住民の反発を買った。

 

「移民受け入れは人道的に正しい。移民が経済成長に寄与した歴史もある」

 

 リベラル派が移民受け入れを主導し、同盟の道義的優越を誇示したい伝統的保守層、安価な労働力を求める経済界が賛成した。

 

「我々から故郷を奪うつもりか!」

 

 辺境住民は移民受け入れに激しい拒否反応を示し、リベラルのやることには無条件で反対する極右層、移民を競合相手とみなす低賃金労働者、移民に巨額の税金が使われることに怒った失業者が同調した。

 

 レベロ政権において辺境は見捨てられた。不景気と地方補助金の廃止によって自治体の財政が立ちいかなくなり、公務員への給与支払いは停止された。公的支出の激減は脆弱な辺境経済を壊滅に追いやった。政府に支援を申請しても自助努力を求められ、公債を発行しようとすると財政均衡の維持を求められるので、救済策の資金も調達できない。そんな時に移民を押し付けられて、住民の怒りが爆発したのである。

 

「これ以上、中央に好き勝手させないぞ!」

 

 反中央・反移民の風が辺境で荒れ狂った。大勢の住民が宇宙港を取り囲み、移民船の上陸を妨害する行動に出た。移民が入居する予定の建物は、住民に占拠されたり壊されたりした。自治体がこうした行動に加担するケースも多く、役場による住民登録の拒否、警察による宇宙港封鎖や移民住宅占拠、水道局による水供給の拒否が多発している。

 

 中央宙域住民は辺境の反移民運動に怒り、政府に移民擁護を求める空気が形成された。レベロ議長は話し合いでの解決を図ったが、世論は「差別者に甘すぎる」と反発し、軍部の提案によって軍隊が移民を保護することになった。宇宙艦艇が移民船を守り、陸戦隊が上陸を支援し、地上部隊が移民住宅の周囲を警備する。中央宙域住民は大いに喜び、同盟軍を自由と人権の戦士だと褒め称えた。

 

 帝国国内の混乱から逃れた難民一五〇〇万人がアムリッツァ星系に集まり、同盟に亡命しようとした。イゼルローン方面軍司令官ルグランジュ大将は、難民の流入は混乱を招くと判断し、回廊出口を厳重に封鎖した。難民は当座の食料も求めたが、ルグランジュ大将はそれにも応じない。しかし、軍部がレベロ議長に亡命受け入れを進言し、イゼルローン回廊は解放された。中央宙域住民は軍部の判断を絶賛し、辺境宙域住民は反感を募らせ、溝が一層深くなった。

 

 フェザーンでは、同盟と帝国が休戦協定を講和条約に発展させるべく交渉している。捕虜の解放は双方の国内が混乱しているために、予定の四分の一しか完了していない。同盟側が提案した移民の完全自由化、相互軍縮協定については、合意の糸口が見えてきた。

 

 一見すると明るい話に思えるが、移民の自由化も相互軍縮協定も同盟国内では反発が強い。さらなる混乱の種になることが予想された。

 

「いったいどうなるんでしょうね」

 

 俺がそう言うと、ワイドボーン予備役少将は「知らねえよ」と答えた。ここまで混沌としていると、考えるのも嫌になってくるのだ。

 

 

 

 一二月中旬、故郷パラディオンに帰った。妹はハイネセンから離れられないので、今回は俺一人である。

 

 二年ぶりのパラディオンはおそろしく寂れていた。中心街は空きビルが多く見られ、歩道には失業者が所在なげにたむろする。パラディオンの象徴ともいうべき巨大複合ビル「ネオ・アイギス」は解体工事中だった。どの店も閑散としており、賑わっているのは職業紹介センターだけだ。宗教団体や市民団体が配る食料に大勢の人が群がっている。車道や歩道にはひび割れが目立つ。

 

「パラディオンはまだマシな方だぞ。星都パルテノーンは退役軍人のデモでえらいことになってるからな」

 

 迎えに来てくれたのは父のロニーだった。市警察が全人員の半数を解雇した際に仕事を失い、今はスーパーマーケットで駐車場警備のバイトをしている。今日は休みなのだそうだ。

 

 警察官舎に住めなくなった両親は、姉夫婦の家に移った。狭いマンションに姉のニコール、姉の夫ファビアン・ルクレール、姉の長女パオラ、姉の次女マルゴ、父のロニー、母のサビナの六人が住んでいる。姉は三人目を妊娠中で、産休を取っている間に解雇された。定職についている姉の夫や母も安泰とはいえない。

 

「好きなもんを食え!」

 

 めっきり白髪が増えた父が大笑いする。テーブルの上にはご馳走が山盛りだ。俺を歓迎するために奮発してくれたのだろう。

 

「悪いね。家計が苦しいのに」

「構うものか! 苦しいのは今だけだ!」

 

 父は緊縮財政と軍縮を支持しており、中央宙域の中流層としてはごく標準的な感覚の持ち主だ。俺が積極財政・軍拡のトリューニヒト派なのは忘れている。政治家の政策的差異に疎いのが標準的な同盟市民だ。

 

「あと少しの我慢だよ。改革が終わったら景気も良くなる」

 

 姉の夫は穏やかに笑う。この人の感覚も標準的な中央宙域の中流層であり、標準的な同盟市民であった。

 

「ファビアン君、見ろよ。また辺境がごちゃごちゃ言っているぞ」

 

 父が姉の夫に新聞を見せる。

 

「あいつら、本当にわがままですね。貧乏なのは自由競争の結果でしょう。どうして中央に責任押し付けようとするんだか」

「わかってないな、君は。他人に責任転嫁するような連中だから競争に負けるんじゃないか」

「ああ、なるほど。無能なのはしょうがないですけど、我々の税金にたかるのはやめてほしいですね」

「まったくだ。辺境が無駄金を使うせいで景気が悪くなった。レベロさんが議長でよかったよ。ボナールさんやムカルジさんと違って妥協しないからな」

 

 俺は何も言わずに二人の会話を聞いていた。言いたいことがないわけでもないが、議論する気もなかった。中央宙域は自主自立の気風が強く、自由経済の利益を享受していることもあり、「自由競争は正しい」「政府支出は少ない方がいい」と考える人が多い。俺だって昔はそうだった。中央宙域の中流層は一〇人中七人が素朴な自由主義者なのだ。

 

 同級生が歓迎会を開いてくれるというので顔を出した。一二年前と違って不快感はない。逃亡者として過ごした六〇年より、軍人として過ごした一二年の比重が大きくなったせいだろう。

 

 変わったのは俺だけではなかった。前の世界で俺を非国民呼ばわりして殴ったムスクーリは、反戦団体に参加している。前の世界で俺に絶縁を言い渡したルオは、「英雄フィリップス提督」のファンだ。前の世界で俺を冷たい目で見たドラープは、LDSOの一員として解放区に入り、撤退戦の最中に行方不明になった。前の世界では俺が帰国する前に戦死したハシェクは、生き延びて将校になった。その他の同級生は三人に一人が失業中で、ラグナロック戦役で死んだ者もおり、時勢を感じずにはいられない。

 

 有名店のピーチパイを食べるために並んだ時、大人しそうな青年に声をかけられた。名前をフランツ・ヴァーリモントといって、俺の先輩であるルイーザ・ヴァーリモントという人の弟らしいのだが、姉も弟も記憶にない。

 

「一一年前、フィリップス提督がシルバーフィールド中学を訪れた際に激励していただきました」

「ああ、そんなこともあった」

 

 やっと思い出した。英雄になりたての頃、母校のシルバーフィールド中学を訪ねて生徒と語り合ったのだ。

 

「惑星を開拓するのが夢でした。不毛の大地を緑で埋め尽くせたら素敵じゃないですか」

 

 ヴァーリモントは見事に夢を叶えた。中学を卒業すると、予備士官課程を受講して奨学金を獲得し、農業工学を学んで銀河開発協力機構の農業指導員となった。ラグナロック戦役では予備役技術少尉として解放区の農業指導にあたり、三〇〇万ヘクタールの砂漠を農地に変えたそうだ。

 

「三色旗新聞で見たことあるぞ。緑の奇跡って記事だ」

「ご存知でしたか!」

「偉いなあ。俺よりずっと立派だ」

「ありがとうございます。あの時、一緒に激励していただいた二人も夢を叶えたんですよ」

 

 彼と一緒に激励を受けた二人のうち、「空戦隊員になりたい」と言ったレオニード・ザムチェフスキーは勇名高いポプラン空戦隊の隊員になり、「教師になりたい」と言ったジョスリン・オーダムは母校の教師になった。

 

「みんな頑張ってるね」

「ところで妹さんはどうしてらっしゃいます?」

「妹を知ってるのか?」

「同じクラスでしたので。専科学校に入ったとは聞きましたが、卒業できたんですかね」

 

 ヴァーリモントは本心から心配している。昔の妹は本当にだらしなかった。あれを見て軍人が務まると思う人はいないだろう。

 

「卒業したよ。今も軍にいる」

「あいつ、朝起きれるようになったんですか!?」

「まあね」

「凄いですね!」

「妹も頑張ったんだ」

 

 俺は反応に困った。妹が朝起きれるようになった程度で感動するような相手だ。特殊部隊で中佐をやってるなんて言ったら、心臓麻痺を起こすかもしれない。

 

 ともかく、新しい世代が着実に育っているのは嬉しいことだ。同盟の未来は捨てたものではないと思えてくる。

 

 パラディオンで二週間を過ごした後は、中央宙域や第一〇辺境星区を巡った。知り合いを訪ね、戦友や部下の墓参りをし、各地のグルメを味わうのが目的だ。

 

 残念ながら、気楽な旅行とはいかなかった。暴動が発生して外出できなくなったり、テロや宇宙海賊のせいで船が進めなくなったりして、何度も足止めを食った。治安の悪化は俺の旅路にまで影響を及ぼしたのである。

 

 中央と辺境の亀裂は決定的となった。反移民運動は同盟軍に対抗するために武装し、銃撃戦や爆弾攻撃を繰り広げる。経済格差に抗議する運動は、ハイネセン資本やフェザーン資本への襲撃に発展した。独立運動は反移民運動や反格差運動を取り込んで拡大し、暴動やテロが頻発している。同盟派と反同盟派の内戦が起きた惑星もある。

 

 辺境星系の間で手を取り合って中央に対抗しようと言う気運が強まり、各地で宙域統合体が誕生した。それらの多くは、かつて自由惑星同盟の軍門に下った国家共同体の勢力範囲と重なる。

 

 三月下旬、アラウカニア条約機構の五三星系は、同盟政府に地方補助金の復活・移民分配の中止・経済財政協定の廃止を突きつけた。受け入れられない場合は同盟脱退も辞さないという。スカラ共同体、アルティプラーノ協力連合なども同様の要求を行う方針だ。

 

 アラウカニア条約機構の要求に対し、レベロ議長は「民主主義と自由経済の根幹に関わる」と拒否したが、同時に同盟脱退も認めない意向も示した。

 

「民主主義と自由主義を守るために同盟は不可欠だ。どのような形であっても、同盟の枠組みを崩すことは認められない」

 

 レベロ議長が断固たる決意を示したにも関わらず、強硬論は盛り上がらなかった。

 

 第一の理由として軍部が独立阻止に消極的だった。大きな発言力を持つ有害図書愛好会グループは、国家の枠組みを相対的なものと捉えている、星系主権は移民の自由と権利よりは軽いが同盟よりは重く、独立阻止は民主主義に反すると考えた。他の軍首脳も同盟維持より民主主義を優先する姿勢だった。

 

 第二の理由として、中央宙域の富裕層・中流層が辺境を放棄したがっていた。自分たちの税金を辺境のために使われるのは我慢ならないし、辺境を切り捨てれば楽になるとの思いもある。また、中央宙域の情勢が悪化していて、辺境問題に関心を向ける余裕がなかった。

 

 トリューニヒト派の仲介でフェザーンから無利子融資を受けた四九星系だけが、例外的に安定を保っている。借りた金を使って金融システムの崩壊を防ぎ、公共事業で失業者を吸収し、航路警備部隊を作って退役軍人を吸収し、内政を安定させた。移民に対しては、隔離政策を取ることで住民の不満を抑えた。政策面ではレベロ政権と正反対だが、中央と対抗する姿勢は見せていない。

 

 自由惑星同盟は急速に求心力を失っていた。帝国はもっと酷い状況だ。ラグナロック戦役前にトリューニヒト議長が言った通り、和平は内乱の始まりだったのだ。

 

 五月六日、俺は最終目的地の惑星マスジッドに辿り着いた。辺境航路の要衝なのに宇宙港は閑散としている。星都タナメラは辺境で五番目に大きな都市なのに、テナントが入っているビルを探す方が難しい。公共交通機関は運行停止状態、民間交通機関も倒産や労働争議で機能していない。寂れているというより死んでいる。

 

 俺は郊外の市民墓地まで歩いて行き、目当ての墓を探した。管理事務所が閉まっているので広大な墓地の中を隅々まで歩いた。

 

「クリストフ・フォン・ケーフェンヒラー? どこかで聞いた名前だな」

 

 墓石に彫られた文字列を見ると、ケーフェンヒラー氏は宇宙暦七一七年に帝国領の惑星グリュンダウで生まれ、俺が英雄になった七八八年にマスジッドで死んだらしい。生前の身分は男爵・帝国宇宙軍大佐だったそうだ。れっきとした貴族がなぜ同盟の辺境で死んだのか。

 

「興味深いけど関係ないな」

 

 ケーフェンヒラー氏の墓石から視線を離し、辺りをきょろきょろと見回した。

 

「これだ」

 

 俺は小さな墓石の前に立ち、直立不動の姿勢をとった。墓石の表面には「マルキス・トラビ 宇宙暦七三八年三月九日-七九四年四月六日」「ヴァネッサ・トラビ 宇宙暦七三八年七月一日-七五九年八月二〇日」という文字が彫られている。ヴァンフリート四=二基地で戦死したマルキス・トラビ大佐とその妻の墓だ。

 

「あの時、君は俺が礼を言うのを遮った。だから、改めて言わせて欲しい。本当にありがとう」

 

 墓石に向けて最敬礼し、初めて指揮した戦いで俺を助けるために死んだ部下に礼を述べた。

 

「君は最後に『隊長代理は果敢ですが慎重さに欠けておりますな。今後はお気をつけください』と言ってくれた。結局、そのとおりになった」

 

 生前は仕事以外で話すことのなかった部下に向かって語りかける。

 

「あれから六年が過ぎた。一〇〇を超える戦いを指揮した、勝ったことも負けたこともあった。味方を救ったこともあったし、味方を死なせたこともあった。敵と味方の屍を山のように積み重ねた末に、ここにたどり着いた。俺は立派な指揮官になれたのか?」

 

 これは一種の儀式であった。死者に語りかけることで自分の中にある感情を引き出し、一人ではたどり着けない答えをもらう。

 

 他にもいろんなことを聞いた。妻を失ってからの三五年間をどんな気持ちで過ごしたのか? どうやって最愛の人がいない世界を受け入れたのか? トラビ大佐は俺が歩き始めたばかりの旅路を歩き通した人なのだ。

 

 墓地を出た時、空は薄暗くて空気はひんやりとしていた。入り口からトラビ大佐の墓までの距離はそれほど遠くないはずなのに、予想以上に時間がかかった。

 

 俺は両手を上に伸ばして背伸びをする。全身の筋肉が引っ張られて気持ちいい。船中でトレーニングばかりしていたおかげで、ラグナロック戦役中に落ちた筋力は元に戻った。体力十分、気力も十分だ。

 

「頑張るか」

 

 携帯端末を開いてにっこり笑った。画面の中ではダーシャが同じように笑っている。彼女が守ろうとし、トラビ大佐が守ろうとし、戦場で散った戦友や部下が守ろうとした国は、分裂の危機に瀕している。

 

「生きている人間が戦わないとな。予備役だってできることはある」

 

 決意を新たにした時、携帯端末から物騒なアラーム音が流れた。緊急速報の音だ。画面のテロップは驚くべき事実を伝えた。

 

「本日一八時二四分、ジョアン・レベロ最高評議会議長が銃で撃たれ、意識不明の重体」

 

 現職の最高評議会議長が銃撃を受けた。大事件に慣れきった同盟市民でも、衝撃を受けずにはいられない。第二次ヴァルハラ会戦が終わって一年、同盟はさらなる試練を迎えようとしていた。



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第73話:心情政治 800年5月~9月20日 ハイネセンポリス~国防委員会庁舎~最高評議会議長官邸

 五月六日、ジョアン・レベロ最高評議会議長は対話集会の最中に銃撃を受けた。一時は危篤状態に陥ったものの、迅速な処置によって一命は取り留めた。銃を撃ったのはマリーズ・エルノーという二五歳の女性だった。

 

 辺境情勢に関連するテロとの見方が有力だった。アラウカニア条約機構との緊張が極限に達し、「レベロ議長が大幅な譲歩を示唆」「レベロ議長は傭兵を使って武力鎮圧に乗り出す方針」という矛盾した情報が流れたりして、何かが起きそうな雰囲気だったのだ。容疑者としては、アラウカニアの強硬派、独立派テロ組織、反移民団体、補助金復活に反対する財政委員会、武力鎮圧と移民保護を提唱するハイネセン財界、移民保護には賛成だが武力鎮圧は認めない軍部良識派、補助金復活と分裂回避を求めるトリューニヒト派があげられた。

 

 他にもレベロ議長を狙う理由のある者はいた。「鉛の六角形」に属する軍需企業や各種団体、労働組合、農業組合はレベロ改革で途方も無い損害を被った。憂国騎士団や正義の盾などの極右民兵組織、銀河赤旗戦線などの極左過激組織は、レベロ体制打倒を掲げた。穏健改革派は急進的すぎる改革に歯止めをかけようとした。反改革派は改革そのものに反対だった。情報機関や警察は、分裂を辞さないレベロ政権の姿勢に危惧を覚えていた。誰が狙っても不思議ではなかったのだ。

 

「エルノーの単独犯。サイオキシン中毒に起因する衝動的犯行」

 

 警察の発表は犯人探しに熱中する市民に冷水を浴びせた。エルノーは意味不明の供述を繰り返していたし、サイオキシン使用で三度の逮捕歴があるのも事実だ。レベロ議長は警備費を三分の一にしたので警備体制は手薄だった。それでも、こんな大それた事件が麻薬中毒者の単独犯行だとは、誰も思わなかった。

 

 市民の怒りはエルノーに集中したが、病床のレベロ議長が「私刑はテロと同じだ。そんなことは望まない」と訴えたため、すぐに静まった。テロですらレベロ議長の高潔な精神を傷つけることはできない。

 

 エドアルド・バーニ最高評議会副議長が議長臨時代行となると、政権内部の対立が表面化してきた。富裕層課税をめぐって反戦市民連合が国民平和会議(NPC)と対立し、辺境政策をめぐって進歩党が独立と自由の銀河党(IFGP)と対立し、環境規制をめぐって環境党がNPCと対立するといった具合だ。

 

 六月一〇日、レベロ議長は病床から総辞職を発表した。バーニ議長臨時代行では復帰するまでの中継ぎが務まらないので、新政権を作った方が良いと判断したのである。辞職直前の政権支持率は五四パーセントだった。

 

 前政権の最高評議会書記ホワン・ルイ下院議員が新議長に選ばれた。レベロ前議長とともに急進改革派の筆頭格であり、「政策のレベロ、政局のホワン」と称される人物だ。政務と党務の双方に豊かな経験を持ち、民営化政策や社会保障改革に大きく貢献し、議会対策でも実績をあげた。レベロ政権では調整役として改革を支えた。理想主義者だが原理主義者ではなく、クリーンだが狭量ではなく、柔軟でバランスの取れたリーダーである。

 

 ホワン政権が船出した頃、俺はハイネセンポリスに戻った。旅に出る前よりも首都の状況は悪くなっている。失業者、退役軍人、帝国人移民が頻繁に暴動を起こした。市職員が人員整理反対・賃下げ反対を訴えてストライキを起こし、公共サービスは機能不全に陥った。数日に一回は暗殺未遂や爆弾事件が発生し、政府機関が集まるキプリング街ですら安全とは言えない。

 

 退役軍人が失業に苦しんでいるにも関わらず、俺のもとには再就職の話が押し寄せてきた。一番多いのは、航路警備部隊司令官、安全保障局長、テロ対策顧問といった地方の危機管理担当職である。エル・ファシル危機やラグナロックでの実績を買われたのだろう。テレビ番組の軍事解説者、右派系議員の政策顧問などの話も来ている。国会議員や地方議員への出馬依頼もあった。いずれも軍人時代と同等かそれ以上の待遇が見込める。

 

「もっと適任の人がいます」

 

 俺は用意された仕事をすべて他の人に譲った。トリューニヒト派の地方政府が様々な名目で退役軍人を雇っているが、吸収できたのは軍縮で失職した者の二割程度に過ぎない。余裕があるうちは困っている人に仕事を回そうと思った。

 

「フィリップス提督は若いのに立派だ」

 

 こういうふうに褒めてくれる人がいるが、立派なことをしたつもりはない。戦友を助けるのは当然のことだ。戦友を助けない者は戦友に見捨てられるだろう。俺には一人でやっていける能力がないので、見捨てられないように頑張るのである。

 

「格好つけてるだけだ」

「選挙に出るつもりなんだろう」

 

 冷ややかに見る声もかなり大きかった。不本意ではあるが、弁解はしなかった。他人の心象を良くするためにやってることだ。人気取りと思われても仕方ないとは思う。

 

 俺は退役軍人連盟本部のボランティアスタッフになり、退役軍人・戦没者遺族の支援活動に従事した。朝五時三〇分に起きてランニングとウェイトトレーニングをこなし、本部に出勤して相談を受けたり支援を行ったりして、退勤後は退役軍人が経営する格闘技道場で汗を流す。講師としてあちこちから呼ばれるし、第一一艦隊遺族会の活動もあるので休む暇もない。

 

 退役軍人連盟本部に俺を名指しで相談してきた人がいた。かつてホーランド機動集団の副司令官を務めたマリサ・オウミ准将の母親だという。

 

「軍は娘が戦死ではなくて自殺だと言ったんです。少将昇進と名誉戦没者勲章は取り消し、お墓をウェイクフィールド国立墓地から移動するように言われました。軍は娘の命を奪いました。名誉まで奪うなんてひどすぎませんか」

 

 オウミ准将の母親は涙を流しながら訴える。国防委員会は戦死認定の基準を変更し、「艦が完全に破壊された時、脱出可能なのに脱出しなかった指揮官・艦長は戦死扱いしない」との方針を示した。退艦を拒否して死んだオウミ准将は、少将への名誉昇進と名誉戦没者勲章を取り消され、ウェイクフィールド国立墓地に埋葬される名誉も失ったのだ。

 

「お気持ちはわかります」

 

 俺はやるせない気持ちになった。生前のオウミ准将とは仲が良くなかったが、戦友の一人であることには変わりない。第二次ヴァルハラ会戦は絶望的な戦いだった。オウミ准将が死を選んだ心情も痛いほどに理解できる。その結末が戦死認定の取り消しなんて納得できない。

 

 もっとも、国防委員会の側にも言い分はある。退艦を拒否して死ぬのは、指揮官としての責任を放り出すに等しい。その指揮官を育てるのにかかったコストが無駄になる。死に急ぐことを美化すれば、指揮官が命を粗末にするようになり、生きて戦うより美しく死ぬことを優先する風潮が生まれる。沈んだ艦を捨てた艦長が卑怯者扱いされて、自殺に追い込まれたケースもあった。退艦拒否を認めるなど百害あって一利なしというのも、筋が通った主張といえる。

 

 結局、俺はオウミ准将の母親の依頼で国防委員会庁舎へと出向いた。六〇過ぎの民間人女性は相手にされないが、予備役少将ならまともに対応してもらえる。官僚組織とはそういうものだ。

 

 パエス大佐という二〇代後半の女性士官が応対してくれた。この年齢で大佐ならトップエリートと言っていいし、胸の略綬を見れば将官になっていてもおかしくない戦歴だ。それなのに交渉はうまくない。

 

「ええと、それは……」

「この点については、お認めいただけるんですね?」

「ああ、いや、その……」

「どうなんですか? 私とあなたの主張に違いはないと思いますが」

 

 俺はどんどん切り込み、パエス大佐は後退を続ける。トリューニヒト派の軍官僚相手だったら、こうも簡単にはいかないだろう。

 

「申し訳ありません! 助けてください!」

 

 追い詰められたパエス大佐は携帯端末を掴んで援軍を呼んだ。

 

 やってきたのは国防委員会参事官・戦略副部長ダスティ・アッテンボロー少将だった。彼は国防参事官会議と戦略部という二つの国防政策中枢に関与し、有害図書愛好会グループの行動隊長であり、良識派のスポークスマンを務める超大物だ。藪をつついて大蛇を引っ張りだしてしまったのである。

 

 攻守は一気に逆転した。俺が何を言っても、アッテンボロー少将はあっという間に答えを返す。鋭くて正確な言葉が俺の矛盾を突き崩す。こちらが一つの言葉を考える間に、向こうは一〇個の言葉を考えているように見えた。思考と決断の速度がまったく違う。ミッターマイヤー提督と戦った時のことを思い出した。

 

「オウミ准将の心情を理解してほしい。それがあなたのおっしゃりたいことですか?」

 

 アッテンボロー少将は俺の主張から余計な部分を削ぎとって圧縮し、完璧なまでに要約してのけた。

 

「そうです」

「理解はしました。あなたがさんざん説明してくださったのでね」

「では、考え直していただけますか?」

「理解はしましたが、共感はできません」

 

 簡潔極まりない拒絶であった。

 

「付け加えますと、私が共感しても規則は変わりませんよ」

「何とかなりませんか」

 

 俺はすがるように言う。理屈で敵う相手ではない。泣き落としに最後の望みを繋ぐ。

 

「できませんな」

「規則は変えられなくても、運用は変えられます。脱出可能なのに脱出しないのが不合理なのはわかります。しかし、過去に遡って名誉昇進を取り消すのは酷すぎます。変更以降の死亡者にのみ適用するわけにはいきませんか?」

「酷いというのは感情の問題でしょう。感情を満足させるために、無駄死を美化する行為を認めろということですか? 人間の命を何だと思っているんです?」

 

 アッテンボロー少将の声に苦い響きがこもる。

 

「軍事関連は法の不遡及原則の適用外です。しかし、この件については、過去まで遡って裁く必要があるとは思えません」

「同盟軍が無駄死を名誉の死だともてはやした過去は、決して消えませんよ。死ななくていい人間が死んだ事実もね」

「おっしゃることはわかります。しかし……」

 

 俺は懸命に反論を試みた。相手に理があることは認めざるをえない。退艦拒否を美化する風習は無言の圧力となり、「乗艦を失った指揮官や艦長は死ぬべき」という空気を作った。指揮官が死に急ぐことは、残された人間にとっても迷惑だ。第二次ヴァルハラ会戦では、オウミ准将が死を選んだせいで指揮系統が混乱した。アッテンボロー少将は正しい。正しいのだが受け入れ難い。

 

「私の先輩が言ってたんですがね。過去を反省しない者は必ず敗北するそうですよ」

 

 アッテンボロー少将がいう先輩とは、統合作戦本部次長ヤン大将であろう。有害図書愛好会グループの頭脳で、軍の過ちを暴くプロジェクトを主導する人物だ。

 

「反省は必要です。しかし、名誉まで奪うことはありません」

「責任を放り出して得られる名誉、味方に損失を与えて得られる名誉、空気に流されて得られる名誉なんてこの世にあるんですかね? 不名誉を名誉だとごまかしてるだけでしょうが」

 

 やはり理屈ではアッテンボロー少将が圧倒的に強い。手加減なしに本質をついてくる。結局、完全に論破されてしまった。

 

「フィリップス提督、お互いの主張は出尽くしたと思うのですが。まだありますかね?」

「ありません」

「これ以上話しても、妥協点は見つからないでしょうな。終わりにしましょう」

 

 そう言うと、アッテンボロー少将は席を立った。

 

「そうですね。ありがとうございました」

 

 俺も席を立ち、ドアに向かって歩き出す。

 

「ああ、言い忘れていたことが一つだけありました。パエスは戦場で本領を発揮する奴でしてね。無能とは思わんでください」

「…………」

 

 驚きで何も言えなかった。パエス大佐が無能でないのは略綬を見れば分かる。それよりもアッテンボロー少将がフォローしたことに驚いたのだ。

 

 部屋を出た後、俺は携帯端末でオウミ准将の母親に連絡を入れた。交渉がうまくいかなかったことを謝り、裁判という選択肢があることを伝えた。

 

「国防委員会と戦います。娘が名誉の戦死を遂げたと証明されるまで戦います」

 

 オウミ准将の母親は裁判を望んだ。

 

「わかりました。俺個人としても、退役軍人連盟としても協力させていただきます。第一一艦隊遺族会にも話してみます」

 

 こうして俺は、オウミ准将の戦死認定を求める裁判に協力することとなった。退役軍人連盟と第一一艦隊遺族会に加え、右派議員や右翼団体も支援に乗り出し、右派と良識派の代理戦争の様相を呈したのである。

 

 

 

 ホワン政権はバランスの取れた政策を打ち出した。人事面では与党内のバランスを重視し、オリベイラ博士やアルバネーゼ退役大将らを諮問委員として呼び戻し、穏健改革派や反改革派との関係修復を図った。経済面では企業に低利で融資して倒産を防ぎ、失業者や退役軍人に無利子で生活費を貸した。辺境に対しては歩み寄りの姿勢を見せ、同盟政府が地方政府に低利の融資を行ったり、中央宙域に多くの移民を引き取らせた。

 

 理想と現実の双方に十分な配慮がなされた政策は、効力を発揮しなかった。支持率は二か月で六〇パーセントから四四パーセントまで落ち、地方選では敗北を重ねた。反戦市民連合、汎銀河左派ブロック、IFGP、環境党が政策上の対立から与党を離脱した。

 

 あらゆる問題が袋小路に落ち込み、同盟の混乱は一層ひどくなった。国内総生産は前年末より五パーセント低下し、平均所得は六パーセント低下し、失業者は一八億人を超えた。辺境では独立運動や反移民運動が激しさを増している。アラウカニア条約機構、スカラ共同体、アルティプラーノ協力連合との交渉は遅々として進まない。

 

 傷だらけのホワン政権にラビアナ事件がとどめをさした。若い帝国人移民がラビアナ市の地下鉄で身体障害のある女性に暴力を振るい、全治二週間の重傷を負わせたのだ。取り調べに対し、容疑者は「役立たずの障害者が優先席に座るのが許せなかった」と供述した。市民は帝国人移民からルドルフ的価値観が消えていないことに驚き、移民排斥の空気が強まった。そして、ラグナロック戦役中から移民導入に積極的だったホワン議長に対し、責任を問う声が出たのである。

 

 与党内部から「ホワン議長では来年の選挙は戦えない」との声があがり、九月一六日にホワン政権は総辞職を表明した。辞職直前の政権支持率は三三パーセントだった。

 

 議長の後任選びは難航を極めた。急進改革派には、レベロ前議長やホワン議長に匹敵する大物はいない。穏健改革派はラグナロック戦役を推進したグループであり、オッタヴィアーニ元最高評議会議長ら「ビッグ・ファイブ」、ウィンザー元国防委員長、ネドベド前NPC幹事長、ラングトン元最高評議会書記などの議長候補は力を失った。小物を議長に立てて大物が院政を敷くのは、ボナール政権を連想させるのでイメージが良くない。

 

 結局、反改革派のトリューニヒト下院議長が消去法で選ばれた。現時点で唯一傷を負っていない与党の議長候補であり、有権者を納得させられるだけの知名度を持っている。

 

「改革が後退するのではないか」

 

 このように懸念する声もあったが、別の声が打ち消した。

 

「辺境と交渉するには反改革派の方が望ましい」

「議会は改革派が抑えている。閣僚を改革派で固めれば、反改革志向は問題にならん」

「トリューニヒトだって馬鹿ではない。改革の流れを止められないのはわかっているはずだ」

「あいつの軍拡論や積極財政なんてただの看板さ。議長になれるなら、喜んで看板を掛け替えるだろうよ」

 

 改革派議員たちは、トリューニヒト議長を利用するつもりだった。議会さえ抑えておけばどうにでもなると考えたのである。

 

 最高評議会議長の平時における権限は強くない。銀河連邦で言えば国家元首と首相を兼ねるポジションだが、「閣僚の任免には議会の同意が必要」「重要事項は閣僚との多数決で決める」「議会の解散権を持たない」など、第二のルドルフを出さないための仕掛けが施されている。議会の同意がなければ何もできない。議会によって戦時特別法に基づく非常指揮権が付与された時のみ、最高評議会議長は議会の統制から自由になるのだ。

 

 九月一八日、俺は議長公邸の一室でトリューニヒト新議長と面会した。名目は「退役軍人の境遇について意見を述べる」だが、彼ほどそれを知り尽くしている政治家はいないので、実際は単なる個人的な面会だ。

 

「偉くなると時間を取るのも難しくてね。名目を付けないと友人と会うことすらできない」

 

 トリューニヒト議長の微笑に寂しさが混じる。

 

「そこまでして時間を作ってくださったこと、心より感謝しております」

「この機会を逃したらいつ会えるかわからないからね。君だってなかなかの多忙ぶりだ」

「予備役になってもこんなに忙しいとは思いませんでした」

「給料を出せないのが申し訳ないぐらいだよ」

「そのお気持ちだけで給料を頂いたような気分です」

 

 俺は恐縮しながらコーヒーに口をつけた。

 

「退役軍人連盟から給料をもらってもいいだろうに。事務局員になれば給料は出る」

「俺が事務局員になったら、他人の椅子が一つなくなります。余裕があるうちはボランティアでやりますよ」

「再就職の話を断り続けているのも同じ理由かね」

「家族のいる人やローンを抱えている人に、椅子を回した方がいいと思いまして。俺は身軽な立場ですし」

「なるほど、そうやって派閥を作っているわけか」

 

 意地悪そうにトリューニヒト議長が笑うと、俺は慌てて首を振った。

 

「あ、いえ、そんなつもりはありません。助けあいは大事ですから。いざとなったら、俺も誰かに頭を下げて椅子をもらいますし」

 

 これは完全な本音である。椅子を譲られた人は俺に感謝するはずだ。困った時はそういう人に頭を下げれば、部下として雇ってくれるのではないか。

 

「人に与えたものはいずれ何倍にもなって返ってくる。君から椅子を譲られた者は、君の頼みを断れなくなるだろう。表舞台に戻る時、君はより大きな存在になっているだろう」

「あまり褒めないでください。自分が大した政治家だと勘違いしそうになります」

「どうだね? 来年の選挙に出馬してみないか? 君だったら当選まちがいなしだ」

「遠慮しておきます」

「良識派の連中だって、君が選挙に出ると言ってるじゃないか。期待を裏切らないのが、エリヤ・フィリップスという男だ」

「勘弁してください。おととい、国防委員会でアッテンボロー少将に『選挙運動ご苦労さまです』と嫌味を言われたんですよ」

 

 俺は小さな体をさらに縮こまらせた。

 

「選挙に出たがってるのはアッテンボロー君の方だろうに。軍隊に長居できる男ではない」

「どうでしょう」

「ヤン君もそうだ。政界入りのタイミングをはかっている」

 

 トリューニヒト議長は真顔で決めつけた。どういうわけか、ヤン大将とアッテンボロー少将が政治家志望だと本気で信じている。この二人の「いつ退役しても構わない」と言いたげな態度が、彼の目には「軍人を高みを目指すための通過点と思っている」ように見えるそうだ。

 

「ところでこれからどうなさるおつもりですか?」

 

 俺は強引に話題を変えた。いくら言ってもヤン大将とアッテンボロー少将に対する疑いを解いてくれないので、話を逸らすのが一番なのである。

 

「何のことだね」

「政治です。成算はあるんですか?」

「もちろんさ」

 

 トリューニヒト議長はとても頼もしげな顔をする。

 

「議会では改革派が多数です。閣僚だって議長以外は改革派で固められています。手も足も出ませんよ」

「舌は出せる」

「冗談はやめてください。どうして議長を引き受けたんです? 来年の総選挙まで待てば良かったのに」

「国を愛していないと思われたら困る」

 

 世間体を気にするトリューニヒト議長らしい理由であった。

 

「愛国者でないヨブ・トリューニヒトに、誰が票を入れるというのだね? 指導者が愛国者でなくてもいいと思うのなら、レベロやホワンに票を入れれば済むことだ」

「おっしゃる通りです」

 

 さすがに「愛国者かどうかなんて関係ない」とは言えない。俺はトリューニヒト議長が反体制的でも投票するが、有権者の大多数は違う。彼らは愛国的な政策を期待して投票するのだ。

 

「エリヤ君、政治家には何が必要だと思う?」

「情熱と責任感と判断力でしょうか」

 

 俺は信じてもいないことを言った。本当の答えは知っているが、口にするのはためらわれた。

 

「違うね。敵だよ。強くて憎たらしい敵さえいれば、政治はできる」

 

 トリューニヒト議長はあっさりと答えを言った。

 

「議長のおっしゃる政治論は筋は通っています。ですが、心情としては受け入れ難いです」

「構わんよ。『筋が通っているから、受け入れなければならない』なんて決まりはない」

「助かります」

 

 俺は口元を緩めた。トリューニヒト議長は理屈より心情を優先してくれる。だから、一緒にいると心地良い。

 

「ここで私が『感情に流されるな。現実を見ろ』と答えていたら、君は不快になっただろうね」

「おっしゃる通りです」

「誰だって不快なことを言う相手は嫌いだし、快いことを言う相手は好きになる。普遍の真理だ」

「世の中には、甘い言葉が嫌い人や辛口の忠告を聞きたがる人もいますよ」

「そいつは甘味が嫌いで辛味が好きってだけだろう。快いかどうかで判断しているのに変わりはない」

「言われてみるとそうです」

「品の良い連中は、『トリューニヒトは甘いことしか言わないから信頼できない。レベロは厳しいことしか言わないから信頼できる』と言うがね。自分の辛口好みを『公平』『良識』と言い繕ってるに過ぎんよ」

 

 トリューニヒト議長は、自分とレベロ元議長の違いが相対的なものに過ぎないと言う。戦記にはない視点だ。

 

「結局、誰でも快いかどうかが基準になるんですか」

「人の耳に一番快く聞こえるのは、敵を否定する言葉だ。人々は自分の敵を否定してくれる政治家のもとに集まる。主戦論者のもとには帝国や反戦論者を否定してほしい者が集まり、反戦論者のもとには軍隊や主戦論者を否定してほしい者が集まる。改革者のもとには現体制を否定してほしい者が集まり、体制擁護者のもとには変革を否定してほしい者が集まる。急進的な者のもとには穏健主義を否定してほしい者が集まり、穏健な者のもとには急進主義を否定してほしい者が集まる。党派も政治家も敵がいなければ成り立たない」

「以前、あなたが『共通の外敵こそが内紛を抑える最良の手段』とおっしゃってましたね」

「敵は大きいほどいい。大きなものは大きいがゆえに憎まれる。巨人はただ歩くだけで地を這う者を踏み潰す。大きな星はただ輝くだけで小さな星の輝きを打ち消す。そこには何の悪意もないが、憎まれるには十分な理由だ。大きなものを敵とすれば、多くの人々が支持してくれる」

「帝国ほど良い敵はいないということですか」

 

 三年前にトリューニヒト議長と交わした会話を思い出した。彼は「同盟がまとまっているのは帝国という共通の敵のおかげだ」と言ったのだ。残念なことにそれは正しかった。「軍事費が減っても地方への再分配は進まない」「平和になれば地方切り捨てが始まる」という懸念も、現実のものとなった。

 

「そういうことになる。ダゴン星域会戦が始まる直前、同盟国内は事実上の内戦状態だった。リン・パオやユースフ・トパロウルが三〇代で中将になれたのは、同胞殺しの功績によるものだ。彼らが率いた精鋭は同胞との戦いで実戦経験を積んだ。いわゆる『ダゴン以前の平和』など、同胞の屍を積み重ねなければ維持できないものだった。帝国という強大な外敵が内戦を止めさせた」

「今になって思うと、主戦派と反戦派の対立など子どもの遊びでした。国内の亀裂はどうしようもないところまで来ています」

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲み、甘みで心中の苦味を打ち消した。国家分裂を心配せずに済んだ前の世界が羨ましいとすら思える。

 

「外敵がいないのならば、同胞の中から敵を見つける以外の道はない。レベロは既成勢力と対決した。帝国とフェザーンを除けば全銀河で最も強力な敵だ。大きな敵を用意したおかげで同盟は即時分裂を免れた」

「勝手に転ぶとおっしゃってませんでしたか?」

「ハイネセン主義なんてうまくいくはずがないからな。既成勢力との対決姿勢を打ち出したのは正しい。大きな敵を作ることで強力な多数派を形成できた」

「俺の目には強硬すぎて危なっかしく思えました」

「強硬であればあるほど敵は反発し、内部は堅固になる。中央宙域と軍部はレベロ支持で一致していた。与党九党の結束は揺らがなかった」

 

 トリューニヒト議長の言うように、レベロ元議長の支持基盤は堅固だった。しかし、別の問題もある。

 

「辺境はどうするんです? ホワン先生が妥協しなかったら、アラウカニアは独立したと思いますが」

「逆だよ。ホワンが妥協したせいで、アラウカニアは独立に望みを残した。表沙汰にはなっていないが、何もなければアラウカニアは解散し、強硬派だけで新しい宙域統合体を作る予定だった」

「そこまでアラウカニアは追い込まれていたんですか?」

「同盟憎しの感情だけで集まっていた連中だ。最初から足並みは揃っていないし、軍資金も持っていない。経済制裁だけで追い込める相手だった。だから、レベロは強気一辺倒だったのだ。政府が傭兵の大部隊を派遣するという噂も、大幅な妥協をするという噂も、揺さぶりをかけるために流した偽情報だよ」

「世界は複雑過ぎます」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。妥協を知らない理想主義者と怒れる地方の対立構図に見えて、水面下では高度な駆け引きが繰り広げられていた。

 

「レベロは真の理想主義者だ。理想を守るためには現実主義者にもなれるという意味でね。理想を言い訳に手を汚そうとしない連中とは覚悟が違う」

 

 レベロ元議長について語る時、トリューニヒト議長の雄弁ぶりに磨きがかかる。批判する時も評価する時も思い入れたっぷりといった感じだ。

 

 前の世界の戦記は、ジョアン・レベロが理想を守るために汚い手を使ったと批判した。しかし、そのような姿勢をトリューニヒト議長は高く評価する。両者の差は個人を至上とする戦記と、国家を至上とするトリューニヒト議長の差なのだろう。

 

「それに引き換え、ホワンは中途半端だった。穏健改革派や反改革派との対決を避けたが、急進改革路線は捨てなかった。失業者を救済しようとしたが、財政再建と軍縮は堅持した。辺境と和解しようとしたが、改革路線や移民政策は捨てなかった。帝国との講和路線も維持した。改革を進めたいなら、穏健改革派や反改革派と対決するべきだった。行き過ぎを抑えたいなら、急進改革派と対決すべきだった。講和を進めたいなら、主戦派と対決すべきだった。辺境と和解したいなら、中央宙域と対決すべきだった。敵のいない主張など誰も説得できない」

「中庸でいい政策だと思ったんですが」

「積極的に支持する気になったかね?」

「微妙です。退役軍人の場合、生活費の貸し付けですからね。本当に彼らが必要としてるのは仕事なのに」

 

 俺はため息をついた。退役軍人連盟でも生活費貸付制度を歓迎する声は出ていない。利用する人も少なかった。返すあてのない借金をするのが嫌だったのだ。

 

「生活費の支給や公共事業は、与党から『バラマキだ』だと批判される。軍縮の中止も与党が反対するからできない。貸し付けなら与党がギリギリ納得できる線だ。与党と退役軍人の両方を納得させようとして、どっちつかずの政策になってしまった」

「与党もかなり不満持ってましたよね。出費には変わりないですから」

「貸付金の原資調達でも揉めた。新規国債の発行には与党が反対する。増税して金を集めることになったが、誰に課税するかが問題だった。NPCが企業や富裕層に対する増税に反対し、進歩党が関税引き上げに反対し、反戦市民連合と汎銀河左派ブロックが間接税の増税に反対した。さんざん揉めた挙句に間接税を増税することになり、反戦市民連合と汎銀河左派ブロックの政権離脱を招いた」

「増税のせいで、失業者や退役軍人の生活はますます苦しくなっています。所得に関係なく持っていかれる税ですからね」

「ホワンは柔軟すぎた。敵を作るのを恐れて全員に不満を抱かせた。融和政策を成功させるには、喧嘩を徹底的に避けるのではなく、融和に反対する奴を殴って黙らせることだ。政治の世界では中庸など絵に描いた餅に過ぎん。見た目は美味そうでも食べることはできない」

 

 トリューニヒト議長はホワン政権が中庸ゆえに失敗したと指摘する。

 

「そういえば、レベロ先生は休戦に反対する勢力を徹底的に叩きましたね」

「争いを終わらせるというのはそういうことだ。政治を知らない者は、妥協を誰も傷つけないやり方だと思い込んでるがね。実際は敵も味方も全員傷つけないと実現しないものだよ」

「あなたもレベロ先生のようなやり方をお選びになるのですか?」

 

 俺はトリューニヒト議長の目をまっすぐに見た。

 

「私はもっとうまくやる。レベロは財政再建と市場主義を捨てられなかった。私は捨てる。政府が金を使わないことにはこの難局は乗りきれん」

「議会はどうするおつもりです?」

「クーデターしかあるまい」

「クーデター!?」

「冗談だよ。私は“自由惑星同盟”の元首になりたいんだ。国を割るような真似はしない」

「驚かさないでください」

 

 俺は右手を胸に当てて心臓を抑える。

 

「我が国には巨悪がいる。大罪を犯したのに裁かれていない。許しがたい悪だ」

 

 トリューニヒト議長はいきなり芝居がかった口調になった。

 

「巨悪とは誰のことか? それはラグナロック戦役の戦犯どもだ。奴らは私利私欲のために無用の出兵を起こし、人命と費用を浪費した。国家を守るべき兵士は異郷の地に虚しく散った。市民の福祉のために使われるべき金は異郷の地へと吸い込まれた。国家が被った損害は計り知れない」

 

 静まり返った部屋にトリューニヒト議長の美声が響き渡る。床が舞台、壁と窓と扉が大道具、調度類が小道具であり、俺は芝居を眺める観客であった。

 

「このような悪が存在することを市民が許すだろうか? 悪は裁かれるべきだ。それは市民が望んでいることだ。私は元首として市民の望みに応える義務がある。エリヤ君もそう思わないか?」

「おっしゃる通りです」

 

 反射的に肯定してしまった。見えない台本に載っていない行動をする勇気など持てなかった。背中は汗でびっしょり濡れている。

 

 トリューニヒト議長はぬるくなった紅茶に口を付け、俺は空のカップにコーヒーを注いで砂糖とクリームをたっぷり入れて飲む。カップが空になると、トリューニヒト議長は赤いポットから俺のカップにコーヒーを注ぎ、白いポットから自分のカップに紅茶を注ぐ。カップが空になると、トリューニヒト議長がすかさずポットを手にとって液体を補充する。

 

 静かな部屋の中でトリューニヒト委員長は紅茶を飲み続け、俺はコーヒーを飲み続けた。不思議な沈黙であった。

 

 俺とトリューニヒト議長の端末から、ニュース速報を知らせるチャイム音が流れた。トリューニヒト議長はリモコンを手にとってテレビのスイッチを入れる。

 

 画面には炎上するビルが映っていた。若い女性レポーターが目を大きく見開き、絶叫するように第一報を伝える。

 

「こちらハイネセンポリスのオークス区! ビルが炎上しています! スピアリング社の本社ビルです!」

 

 スピアリング社は休戦協定成立後に設立された星間運輸会社だ。イゼルローン回廊を経由する対帝国交易ルートの利権を握り、巨額の利益をあげている。

 

「スピアリング社の経営者はクリストフ・バーゼル氏! あのクリストフ・バーゼル氏です!」

 

 レポーターは興奮しながらクリストフ・バーゼルの名前を連呼する。バーゼルは市民人気の高い有名亡命者で、ラグナロック戦役の際にはエリジウム(ヴァルハラの同盟名)星系首相を務めた。来年の下院選挙に出馬するとの噂もある。

 

 俺は呆然としながら炎上するビルを眺めていた。バーゼルはサイオキシンマフィアの大幹部であり、ラグナロック戦役の開戦工作に関わったとも言われる。仇敵の持ちビルが炎上する光景には現実味がなかった。

 

 レポーターは駆け寄ってきた男性からメモを渡されると、まだ大きくなる余地があったのかと驚くほどに目を見開いた。

 

「犯行声明です! たった今、憂国騎士団が犯行声明を出しました! 今から画像を流します!」

 

 画面が切り替わり、白い不気味なマスクに戦闘服を着用した男五人が画面に現れた。一人が真ん中に立ってマイクを握り、他の四人は視聴者を威圧するかのように警棒を構える。

 

「我々憂国騎士団は九月二〇日一六時三一分、スピアリング社襲撃作戦を完遂した! これは国賊クリストフ・バーゼルへの鉄槌である!

 

 バーゼルはオリオン腕の支配者になろうという身の程知らずの野心を燃やし、腐敗政治家や軍閥と結託して市民をたぶらかし、数千万の精鋭を死に至らしめた!

 

 自ら命を差し出して罪を詫びるべきであるのに、バーゼルは会社を作って大儲けし、あげくの果てに政界進出するという! バーゼルには羞恥心というものがないのか! まったくもって許しがたい!

 

 我々は天に替わってバーゼルに鉄槌を下し、ラグナロック戦役の御英霊をお慰めする次第である!」

 

 白マスクの男はマイクを握り締めて声明を読み上げた。声もジェスチャーも言っている内容もすべて芝居がかっている。

 

「恥知らずの国賊ども! これで終わりではないぞ! 次は貴様の番だ! 天は貴様らの罪を決して許さぬ! 法が裁かぬのならば、我らが裁く! 逃げられると思うなよ! 国賊にふさわしい報いをくれてやる!」

 

 白マスクの男はカメラに向かって人差し指を突きつける。憂国騎士団の苛烈な断罪宣告に俺は度肝を抜かれてしまった。

 

「悪いことはできないものだな。そうは思わんかね?」

 

 トリューニヒト議長が微笑みながら問いかける。その瞳には凍てつくような光が宿り、不吉な雰囲気を醸し出す。

 

 この時、俺は悟った。トリューニヒト議長が何を敵とするつもりなのかを。政界・財界・官界・軍部に潜むラグナロック作戦の戦犯に対する攻撃が始まった。



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第74話:裁きの時 800年10月~801年3月29日 統合作戦本部前~ハイネセンポリス

 ラグナロック戦役は銀河に途方もない損害を与えた。戦死者は一億四〇〇〇万人、負傷者は三億人と推定される。その他、帝国領では一億人以上が経済的混乱による飢餓や疫病で死亡し、一〇〇〇万人が休戦協定後の混乱で死亡した。銀河総生産は開戦前の八九パーセントまで減少した。全人類の一・三パーセントが死傷し、銀河の富の一一パーセントが失われた計算だ。

 

 帝国が勝利宣言を出し、同盟が敗北宣言を行ったので、公式的には帝国がラグナロック戦役の勝者ということになった。しかし、同盟軍の未帰還者三七〇〇万人に対し、帝国軍の未帰還者は一億人以上と言われる。また、同盟軍が帝国領の五割を占領したのに対し、帝国軍は同盟領に一歩たりとも足を踏み入れていない。最終的に同盟軍を追い返したとはいえ、戦力も物資も枯渇しており、痛み分けに限りなく近い勝利だった。フェザーンも経済的に大きな打撃を被っている。ラグナロック戦役に勝者はいない。

 

 このような戦争を起こした人々に対し、憂国騎士団は宣戦を布告したのである。ラグナロック戦役を推進した政治家・軍人・官僚・財界人・文化人、解放区民主化支援機構(LDSO)の元幹部などが次々と襲撃を受けた。九月一八日から一〇月二日までの間に、五件の暴行事件、四件の放火事件、二件の爆弾事件が発生した。

 

 一連のテロ事件は、人々の目をラグナロック戦犯問題へと向けさせた。レベロ元議長の和解政策、マスコミの冬バラ会批判キャンペーンによって消えた火種に、暴力が火を着けたのだ。

 

「戦犯を許すか否か」

「正義のための暴力を認めるか否か」

 

 人々はこの問いに様々な答えを出す。リベラル層は非暴力こそが正義だと訴えた。保守層は秩序を重んじる立場から暴力を否定する。大衆主義者は「何よりも優先すべき正義」があると主張し、憂国騎士団への共感を示す。全体主義者は暴力を容認するが、「絶対的な指導者によって行使されるべき」と保留を付けた。リベラルな面と大衆主義的な面を併せ持つ反戦派は、暴力を否定する者と「反戦派も制裁を行うべきだ」と主張する者に分かれた。

 

 マスコミも盛り上がった。大手マスコミは遠征推進派の要人を「冬バラ会に騙された被害者」と擁護している手前、憂国騎士団を厳しく批判した。一方、右派マスコミは遠征推進派のスキャンダルを報道し、憂国騎士団を側面から支援する。左派マスコミは憂国騎士団を嫌っているが、権力者の粗探しは好きなので、遠征推進派のスキャンダルを追いかけた。

 

 最も人数の多い政治的無関心層は、大手マスコミの建前論よりも、右派と左派のスキャンダル報道に関心を向けた。

 

「オネスティ元情報交通副委員長に、第二次ヴァルハラ会戦の放映権をめぐる収賄疑惑が浮上」

「LDSO元幹部の退職金は三〇万ディナール、再就職先は超有名大学や超一流企業」

「第八陸戦隊司令部の裏金作りを、元経理部員が匿名で告発」

 

 こうしたニュースは無関心層の怒りをかき立てた。自分たちは不況で苦しんでいるのに、国費を浪費した連中が大金を懐に入れた。それだけで万死に値すると思われたのである。

 

「正義の味方!」

「反腐敗の闘士!」

「真の愛国者!」

 

 今や憂国騎士団はヒーローとなった。各地の支部に入団希望者が殺到し、ネットにはテロ行為を賞賛する書き込みが溢れる。風が右向きに流れ始めた。

 

 俺が関わっている「ペンション・アーミー(年金軍)」にとっても、憂国騎士団人気は追い風となった。ペンション・アーミーとは、待遇改善を求める退役軍人の運動だ。改革派には「税金にたかる奴ら」と批判され、ヤン大将ら軍部良識派には「右翼の集まり」と白い目で見られたが、最近は支持者も増えてきた。

 

「生きていけるだけの年金を寄こせ!」

「我々には報酬を受け取る権利がある!」

「兵士を人間らしく扱え!」

 

 首都圏ペンション・アーミーの一二万人が軍都オリンピアに結集し、巨大な統合作戦本部ビルを取り囲んだ。俺はその最先頭に立った。

 

「憂国騎士団が来たぞ!」

 

 青地にPKCの文字と五稜星が描かれた旗が現れると、退役軍人たちは歓声をあげた。統一正義党の支持者すら例外ではない。

 

 ラグナロック戦役の後、左側からは「間違った戦争をした」と責められ、右側からは「お前らが弱いから負けた」と責められた。軍の上層部ですら「敗軍に誇りなどあるか」と過去を否定する。唯一親軍的だった憂国騎士団を支持する退役軍人は多い。

 

 憂国騎士団数千人がペンション・アーミーと合流した。その中に白マスクと戦闘服を身に着けた行動部隊は含まれていない。前の世界の戦記には書かれていないが、団員のほとんどは私服姿の一般市民だ。年齢も性別も様々で傾向がわかりにくい。『憂国騎士団の真実』という本によると、大都市の中流層が多く、所得も学歴も同盟市民の平均より高いそうだ。

 

「ようこそお越しくださいました」

 

 ペンション・アーミーの指導者スラクサナ退役少将が、憂国騎士団の現場責任者に向かって敬礼をする。

 

「礼には及びません。軍人の皆様をお助けするのは、愛国者として当然の義務です」

「そうおっしゃってくださるのはあなた方だけですよ」

 

 スラクサナ退役少将の言葉は、この場にいる者全員の思いを代弁していた。

 

「今日は行動部隊も来ております」

「それは頼もしい!」

 

 退役軍人たちが大いに盛り上がる中、俺だけは真っ青になった。

 

「待ってください。行動部隊が来るなんて聞いてないですよ」

「スマラン裁判が延期になりましたので、こちらに来ることになりました」

「暴力沙汰は起こさないでください。ペンション・アーミーは規律ある軍人の運動ですから」

「心得ております」

「ごらんください」

 

 俺は前方を指差す。数千人の陸戦隊が統合作戦本部の周囲を固めている。

 

「彼らも軍人です。我々とともに命がけで国を守ってきた戦友です。戦友同士が殴り合っては不名誉の極み。行動部隊の方々には、自制いただけるようお願いします」

「承知しました」

「信じても良いんですね?」

「愛国者に二言はありません」

 

 憂国騎士団の現場責任者がたじろぎながら答えると、スラクサナ退役少将が救い船を出す。

 

「フィリップス少将、ほどほどにしておけ」

「こういうことはどれだけ確認しても、確認しすぎではありません」

 

 俺はあえて頑なな態度をとる。役割とは記号のようなものだ。行き過ぎと思われるぐらいでないと、規律の番人という役割は務まらない。

 

 押し問答のような会話を繰り返していると、西の方角から大きな雄叫びが聞こえた。白マスクに戦闘服を着た屈強な集団が駆けてくる。憂国騎士団行動部隊だ。

 

「うおおおおおおっ!」

 

 一人で二〇人分は叫んでるんじゃないかと思える行動部隊の叫びに、一般団員やペンション・アーミーが共鳴し、デモ会場は凄まじい怒号に包まれた。これまでにないほど盛り上がっている。予想外の事態が起きるんじゃないかと不安になった。

 

 行動部隊の先頭にいる人物がこちらを見たのに気づき、俺もまっすぐに見返した。本音を言えば視線を逸らしたい。だが、怯えているのがばれたら舐められる。

 

「フィリップス少将閣下ではありませんかっ!」

 

 先頭の人物が駆け寄ってきて敬礼をした。俺もとりあえず敬礼を返す。

 

「小官をお忘れになりましたかっ!?」

 

 忘れたのかと聞かれても、この怒号の中では声の違いがわからないし、マスクをかぶっているので顔がわからない。

 

「隊長、隊長! マスク取りましょう! 顔わかんないですよ!」

 

 行動隊員の一人が先頭の人物にマスクを取るよう促す。

 

「ああ、そうか。うっかりしていた」

 

 隊長と呼ばれた男はマスクを外し、改めて敬礼をした。

 

「ご無沙汰しておりました! ヴァンフリート四=二基地憲兵隊のラプシンであります!」

「ああ、貴官か! 懐かしいなあ!」

 

 俺の心は喜びで一杯になった。レオニード・ラプシン予備役大尉は、ヴァンフリート四=二基地にいた時の部下で、基地攻防戦で再起不能の重傷を負った。そんな人物が元気に動いているのだ。嬉しくないはずがない。

 

「今は憂国騎士団行動部隊で、大隊長を任せていただいております」

 

 ラプシン予備役大尉は誇らしげに胸を張る。

 

「今の任務に誇りを感じているんだな」

「もちろんです。私は幼い頃から祖国を守りたいと願ってきました。一度は軍人の道は断たれましたが、憂国の騎士として戦場に戻ったのです」

「それは良かった」

 

 八割は本音、二割は社交辞令だった。ヴァンフリート四=二基地憲兵隊の生き残りに対しては、負い目を感じている。だから、ラプシン予備役大尉が幸せなのは嬉しい。暴力集団にいるのは感心しないが、あえて口にすることでもない。

 

「行動部隊の仲間はすべて私と同じです。不本意な理由で戦場を去り、再び戦場に立てる日を待ち望んできました。憂国騎士団が我々に新しい戦場を与えてくれました」

 

 ラプシン予備役大尉に陶酔や狂信の色は見られない。非人間的な白マスクの下には人間の顔がある。

 

「統合作戦本部の軍服貴族どもは、軍人から戦場を奪いました。軍人を天職と決め、戦うための教育だけを受け、戦うことしか知らない者をゴミ屑のように放り出しました。軍隊に関わる仕事も癒着だと言って禁止します。けしからん奴らです」

「気持ちはわかる」

 

 俺は煽動になりかねない言葉を慎重に避ける。

 

「今の軍首脳には血も涙もありません。統合作戦本部次長のヤンは、『軍人になりたくてなったわけではない』『さっさと軍を辞めて年金で暮らしたい』と放言していると聞きます。首脳には聖職たる軍人の自覚がない。命がけで戦った兵士や大事な装備を『削るべきコスト』だと言う。私の愛した軍は過去のものになりました」

「言いたいことはわかるが、噂を事実のように言うのは良くないぞ」

「ヤンが言いそうなことです。国家を軽んじる男ですから」

「ラプシン大尉、『言った』と『言いそう』を混同するな。戦場にあるのは事実だけだ。期待で動いたら負けるぞ」

 

 俺は太い釘を刺した。ヤン発言を事実だと信じる人は多いが、現状では噂に過ぎない。

 

「失礼いたしました。『常に戦場にある心構えでいろ』という閣下の教え、心に刻みつけておきます」

 

 ラプシン予備役大尉は恐縮の極みといった感じだ。周囲の人々は感心したように俺を見る。単なる方便のつもりが、「勇者の中の勇者」という虚名のおかげで教訓になってしまう。

 

 実を言うと、俺もヤン発言は事実だと思う。前の世界で読んだ『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』や『ヤン・ウェンリー提督の生涯』にも、そういう発言が載っていたからだ。アッテンボロー提督やキャゼルヌ提督の回想録にも、似たような発言が載っていた。事実だと思っていても、この場では噂話だと言い張った方がいい。

 

 この世界には二つの陣営がある。一つは国家や軍隊に価値を感じておらず、自由に振る舞うのが好きな陣営。もう一つは国家や軍隊を価値あるものと感じ、全体に奉仕するのが好きな陣営。ヤン・ウェンリーは前者の陣営に属し、戦記も前者の価値観で書かれているので、軍人を軽く見る発言は賞賛される。しかし、俺が属する後者の陣営では、事実かどうか分からなくても怒りを買う。同じ発言も価値観が違うだけで正反対の評価を受けるのだ。

 

「フィリップス提督にお願いがあります」

 

 ラプシン予備役大尉が何かを決心したように言った。

 

「どうした?」

「我々に名将の訓示をいただけませんでしょうか」

「わかった」

 

 俺は即答した。元部下への善意もあるし、自分なりの計算もある。

 

「ありがとうございます」

「ここに来ている行動隊員を全員集めてくれ」

 

 三分後、俺の前に行動隊員五〇〇名が整列した。退役軍人や元警察官を集めた戦闘部隊だけあって、統率が行き届いている。

 

「行動隊員諸君! 諸君はかつて兵士であり警察官であった! 諸君は今も制服に誇りを持っているか!?」

「持っております!」

「兵士は死ぬまで兵士だ! 警察官は死ぬまで警察官だ! 体にどんな服を着ていようとも、諸君は心に制服を着ている!」

「その通りです!」

「よろしい! 私は諸君を兵士や警察官として扱おう! なぜなら、私も兵士だからだ!」

「かしこまりました!」

「兵士は規律に従って行動するものだ! 警察官は秩序の守り手だ! 制服に恥じない行動を期待する!」

「仰せのままに!」

 

 憂国騎士団行動部隊は俺の訓示に従い、騒ぎを起こさなかった。こんな時、「勇者の中の勇者」という虚名は役に立つ。

 

 

 

 オウミ准将の名誉回復を求める裁判は、おかしな方向へと進んでいた。当初、原告側弁護団は戦死認定を得るのが困難と見て、「ストレスに起因する公務災害」との認定を求める方針だった。公務災害と認定された場合、自殺者であっても戦死者と同等の扱いを受け、一階級特進や軍人墓地への埋葬資格などが与えられる。しかし、オウミ准将の母親はあくまで戦死認定にこだわり、右翼が同調した。その結果、法廷は退艦拒否が美しい死だとアピールする場と化した。

 

 違和感を覚えつつも頑張っていると、「スマランさんの名誉回復を求める会」から退会勧告のメールが来た。

 

「覚悟はしていたけど、やっぱりへこむな」

 

 俺はため息をついた後、マフィンを二個食べて糖分を補充した。オウミ裁判とスマラン裁判が両立できないのはわかっていた。わかっていてもきつい。

 

 オウミ裁判の対極にスマラン裁判がある。スマラン氏は沈没した乗艦から脱出したために、軍を追放された元艦長だ。何の落ち度もなかったのだが、僚友三名は死亡し、一人だけ生き残ったせいで卑怯者扱いされた。当人は批判を苦にして自殺し、遺族が二〇年以上にわたって名誉回復を求めている。

 

 前の人生で卑怯者として叩かれた経験から、スマラン氏のことが他人事とは思えない。だから、六年前に「スマランさんの名誉回復を求める会」の会員となった。現役軍人は政治活動への関与を制限されているが、署名用紙に名前を書いたり、末端会員として会費を支払ったりする程度の自由はある。微力ながらも名誉回復に寄与したかった。

 

 退会勧告のメールには、「オウミ氏の退艦拒否を名誉ある行為だと主張するのは、スマランさんの選択を不名誉であると主張するに等しいです」と記されていた。俺はオウミ准将もスマラン氏も肯定できるが、それはどちらにも共感しているからだ。

 

 理屈の上ではオウミ准将とスマラン氏の名誉は両立しない。オウミ准将が名誉ある死を遂げたのならば、乗艦を捨てて生き残ったスマラン氏は卑怯者になる。そして、スマラン氏の選択が正しいとしたら、オウミ准将の選択は間違いということだ。そして、規則や法律といったものは理屈で動く。ヤン大将やアッテンボロー少将らが戦死認定取り消しにこだわるのは、スマラン氏のような人物の名誉を選んだからだ。簡単に「ヤンやアッテンボローは冷たい」とは言えない。

 

 各地で同じような裁判が行われていたが、政治的無関心層はオウミ裁判に興味を持った。退艦拒否を美しいと思ったわけではない。オウミ准将の顔を美しいと思ったのだ。彼女は小動物を思わせる童顔と輝くような美肌を持ち、四〇歳手前だったのに二〇代半ばに見えた。提督としては無能だったが、かつては艦長や戦隊司令として偉功を立てた。美貌と過去の活躍が「悲劇の名将」というイメージを作った。

 

「結局はイメージか」

 

 俺はうんざりした。大多数の人から見れば、彼女がどんなキャラクターなのか、どの有名人が彼女を支持しているかだけが重要なのだ。

 

 そこまで考えたところで首を横に振った。イメージを支持しているにせよ、オウミ准将への支持に変わりはない。頭のいい人は行為が正しいかどうか、イデオロギー的に見てどうかを重視するので、オウミ准将本人はどうでもいい。

 

「イメージは活用しないと」

 

 俺は気を取り直して鏡を見た。ゆるくウェーブした赤毛、つり目気味の猫目、張りとつやのある頬。一一年前にエル・ファシルへ降り立った頃と比べると、張りとつやが増した程度の違いしかない。しかし、この平凡な童顔に付随するイメージは強烈だ。

 

 憂国騎士団の武器が暴力だとすれば、俺の武器はイメージだった。イメージは暴力より強い。ただのチビでも屈強な武装集団を抑えられるのだから。

 

 一〇月中旬、俺はラグナロック帰りの予備役軍人一〇五名と連名で、帝国領遠征軍首脳部に対する軍法会議を求める訴訟を起こした。

 

「公式見解によると、冬バラ会が敗北の全責任を負っているそうです。しかし、冬バラ会代表のフォーク少将は、五人いる作戦参謀の一人です。冬バラ会で最も階級が高いホーランド中将は、ずっと前線で戦っていました。一介の参謀や前線指揮官が遠征軍の実権を握っていたとすれば、首脳陣は何をしていたのでしょうか? 何もしなかったのならば、首脳陣の無為を責めるべきです。彼らに権限を委ねたのであれば、首脳陣の監督責任を問うべきです。すべて冬バラ会が悪いと言われても納得できません」

 

 そこまで言ったところで、俺は一旦言葉を切る。続きを読み上げるには覚悟が必要だ。息を吐いて呼吸を整える。

 

 心の中に迷いが残っていた。アンドリューはあくまでロボス元帥をかばうだろう。ロボス元帥やビロライネン中将とは一緒に働いたこともある。グリーンヒル大将は好意を示してくれた。キャゼルヌ中将は有害図書愛好会グループと親しい。できれば、敵対したくないが……。

 

 部下の顔を思い出した。ポレン・カヤラル、ミシェル・カイエら古参の忠臣たち。セルゲイ・ポターニン、エドゥアルド・フランコ、パチャリー・ソングラシン、チコ・アヴレイユら第三六機動部隊の精鋭たち。セバスチャン・マーキス、ルーベン・タヌイ、ロシル・アコスタら新参組。みんな俺には過ぎた部下だった。

 

 戦友の顔を思い出した。タリア・ハルエル、カルメン・エスピノーザ、マリサ・オウミ、ジャン=ジャック・ジェリコー、マニーシャ・バボール、クリスチナ・ヴィトカらホーランド機動集団の強者たち。みんな頼りになる戦友だった。

 

 そして、ほんわかした丸顔、くりっとした目、つやつやした黒髪のダーシャ・ブレツェリ。最高のパートナーだった。

 

 みんな回廊の向こうで死んだ。仇を討とうとは思わないが、納得はしたかった。部下、戦友、パートナーが死んだ理由を知りたかった。

 

 俺は決心した声明文の残りをゆっくりと読み上げる。目の前にいる生者と心の中にいる死者に聞かせる。

 

「遠征軍総司令官 ラザール・ロボス同盟総軍退役元帥

 遠征軍総参謀長 ドワイト・グリーンヒル宇宙軍大将

 遠征軍副参謀長兼作戦主任参謀 ステファン・コーネフ宇宙軍大将

 遠征軍情報主任参謀 カーポ・ビロライネン宇宙軍中将

 遠征軍後方主任参謀 アレックス・キャゼルヌ宇宙軍中将

 遠征軍地上作戦担当参謀 カレマ・デューベ地上軍中将

 遠征軍通信部長 アデルミラ・メディナ宇宙軍技術中将

 遠征軍政策調整部長 ルカーチ・イロナ少将待遇軍属

 遠征軍総司令部顧問 カール・フォン・ライヘンバッハ中将待遇客員提督

 

 以上の九名に対する軍法会議を要求します」

 

 遠征軍首脳陣九名の名前を読み終えると、一斉にフラッシュが光った。この光の数は訴訟に期待する人の数であると同時に、反感を持つ人の数でもある。

 

「私たちは罰を与えるために訴訟を起こしたのではありません。ただ真実を知りたいだけです」

 

 最後にそう付け加えた。俺の戦いは心の戦いだ。イメージを利用して他人の心を掴み、自分の心を納得させるために戦うのだ。

 

 

 

 イメージ戦略において、ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長の右に出る者はいない。何度となく失敗を繰り返し、一度は失墜したかに思われたが、イメージの力で頂点に上り詰めた。

 

 政権発足以降、トリューニヒト議長は穏健な政権運営を行った。議会を支配する改革派に対しては、協調的というより従属的な態度をとった。改革派の悲願だった「報道被害者救済法」や「反憎悪法」などの成立にも、彼は力を貸している。フェザーンとの債務交渉や辺境勢力との一時和解に成功し、交渉能力を見せつけた。

 

「トリューニヒト議長が憂国騎士団に戦犯を罰するよう命じた」

 

 このような噂がネットを中心に流れた。トリューニヒト議長本人は明言していないし、直接的な証拠は一つもなかったのだが、多くの人が信じた。少し前ならば、そのような疑いが生じた時点で辞任に追い込まれただろう。しかし、今はそうではない。

 

 改革者レベロが去った後、閉塞感は強まる一方だった。改革は停滞し、景気は真冬日のように冷え込み、収入は右肩下がりで落ち、税金は右肩上がりで増えていく。辺境問題は解決の糸口すら見えない。元からの同盟市民と帝国人移民は衝突を繰り返す。誰もが一日一日を生き残るのに精一杯で、長期的な計画をたてる余裕もなく、場当たり的な対応に終始する。治安の悪化、教育現場の荒廃、麻薬の蔓延、インフラの劣化、捕虜解放事業の停滞も深刻だ。

 

 同盟的価値観に対する信頼が大きく揺らぎ、カウンターカルチャーが盛んになった。自由主義や民主主義の限界が論じられるようになり、ファシズムや科学的社会主義の再評価が進んだ。ハイネセン流の「責任ある自由」に対し、「完全なる自由」を掲げて快楽を徹底追求する「ネイキッド」が現れた。ラグナロック反戦運動の一派が「より完全なハイネセン主義」を求めて過激化し、既成秩序に反抗した。自然回帰や脱文明を模索する動きも生じている。

 

 銀河連邦末期以来の宗教ブームが起きた。地球教団は貧困者や病人のための慈善活動を展開する一方で、上流階級にも影響力を広げ、全銀河を巻き込むムーブメントへと発展した。終末論を唱えるイェルバ教や光に満ちた千年王国、帝国から流入した古代宗教なども流行った。

 

 市民は風穴を開けてくれる何かを求めた。それが暴力であったとしても構わなかった。いや、暴力である方が望ましいとすらいえた。乱暴でなければ穴は開かないのだから。

 

 憂国騎士団、正義の盾、革命的ハイネセン主義学生連盟、銀河赤旗戦線が街頭で抗争を繰り広げる。彼らは政党の集会にも殴り込んだので、NPCや進歩党や反戦市民連合は武装警備隊を組織した。

 

 暴力肯定の風潮が強まる中、トリューニヒト議長が戦犯を制裁させたという噂は、「そうかもしれない」から「そうであってほしい」に変わった。

 

 一一月一四日、トリューニヒト議長はラグナロック戦犯問題に対する見解を明らかにした。

 

「政府には市民を納得させる義務があります。ラグナロックについては、恩赦取り消しや特別法廷設置も視野に入れた対応が必要でしょう」

 

 それは遠征推進派への宣戦布告であると同時に、与党に対する宣戦布告でもあった。国民平和会議(NPC)主流派と進歩党右派は、積極的にラグナロック戦役を推進した人々だ。ガーディアン・ソサエティ、人民自由党は野党の立場から支持票を投じた。進歩党左派と楽土教民主連合は反対票を投じたが、和解政策を進めてきたので責任追及には消極的だった。

 

 トリューニヒト議長は戦争責任者に対する恩赦の取り消しを閣議で提案したが、賛成一、反対一〇で否決された。賛成者はもちろんトリューニヒト議長自身である。

 

 ネグロポンティ下院議員ら下院議員九名が「ラグナロック特別戦犯法廷設置法」を提出した。議員立法とはいっても、提出者は全員トリューニヒト派に属している。当然のことながら、上院でも下院でも否決された。

 

 この頃からトリューニヒト議長は、改革派との対決姿勢に転じる。閣議に提出された改革案にことごとく反対し、「議長以外全員の賛成によって決定」という異常な評決が続いた。公共事業の拡大や地方補助金の増額など金のかかる政策を閣議で提案し、ことごとく否決された。トリューニヒト派議員が失業者のために大金を支出する議員立法を議会に提出したが、すべて否決された。

 

「私は市民のためを思っているのに、議会がノーと言うんだ」

 

 提案が否決されるたびに、トリューニヒト議長は力なく笑った。明るくて強気な彼が落ち込む姿は、同情を呼び起こした。

 

 一方、改革派は戸惑った。トリューニヒト議長を強引に辞めさせると、自分たちが「市民の敵」のレッテルを貼られかねない。NPC主流派と進歩党右派はグループ全体が戦犯に等しいし、進歩党左派にもハイネセン主義の見地から遠征に関わった者がいるのだ。与党に重量級の議長候補は残っていなかった。来年の選挙を考えると、トリューニヒト下ろしは難しい。

 

 トリューニヒト議長は改革派批判に戦犯批判を絡めることで、「トリューニヒトVS改革派」の構図を「市民VS戦犯」にすり替えた。レベロ元議長やホワン前議長など戦犯でない改革派には、「戦犯擁護者」のレッテルを貼り付ける。こうして、巨悪相手に孤軍奮闘するヒーローができあがった。

 

 トリューニヒト議長は与党議員の戦争責任を徹底的に批判し、改革案の成立を徹底的に妨害し、市民の喝采を浴びた。政権支持率が高まるにつれて、NPCと進歩党の支持率は下がった。

 

 一二月二七日、トリューニヒト議長に対する不信任案が可決された。与党は議長の人気稼ぎに使われることに耐えられなくなったのだ。新議長にはクリップス元法秩序委員長が選ばれた。かつてトリューニヒト議長とともにパトリオット・シンドロームを煽り、後にラグナロック反戦運動に参加した人物である。

 

 不信任案が可決された翌日、トリューニヒト派の上院議員二七名と下院議員五七名がNPCを離党し、新党「大衆党」を立ち上げた。前の世界で彼が率いた政党と同じ名前だ。上院では第六党、下院では楽土教民主連合と同数の第五党となった。

 

 大衆党代表となったトリューニヒト前最高評議会議長は、『ヨブ・トリューニヒトと市民の二〇の約束』と題された政策綱領を発表した。

 

「一つ、緊縮財政を積極財政に転換し、国の力で経済を動かします。

 二つ、公共事業を拡大し、国の力で雇用を作ります。

 三つ、社会保障を充実させ、国の力で市民の面倒を見ます。

 四つ、所得の再分配を進め、国の力で格差と貧困を撲滅します。

 五つ、辺境への再分配を進め、国の力で辺境を活性化させます。

 六つ、増税は行わず、景気対策と金融政策による税収増で財政を賄います。

 七つ、帝国との講和交渉を打ち切り、民主主義防衛の聖戦を再開します。

 八つ、外征部隊を一二個艦隊・八個地上軍体制に戻し、強大な機動戦力を再建します。

 九つ、地方方面軍を軍集団編制に戻し、航路警備体制と対テロ体制を再建します。

 一〇、地方部隊を統括する国内総軍を設け、国土防衛体制を確立します。

 一一、各星系共和国に民兵隊を作り、国防軍の補助兵力とします。

 一二、警察官の増員、街頭防犯カメラの増設を進め、分厚い防犯体制を作ります。

 一三、麻薬犯罪、性犯罪、組織犯罪の三悪を撲滅します。

 一四、公務員を増員し、民営化事業の再公営化を進め、強力な行政機構を再建します。

 一五、インフラ整備に多額の予算を投入し、社会基盤を再建します。

 一六、学校教育では同盟的価値観や同盟の偉大な歴史を重点的に教え、愛国心を育てます。

 一七、移民教育に力を注ぎ、同盟市民と移民の文化的統合を目指します。

 一八、新規移民の受け入れを一〇年間凍結し、今いる移民を大事にします。

 一九、捕虜となった同胞を速やかに帰還させます。

 二〇、フェザーンとの関係強化に務め、共存共栄を図ります」

 

 二〇の約束は「国家が全てを管理する」という理念で貫かれていた。自己選択と自己責任の原則とは真っ向から対立する。

 

 リハビリ中のレベロ元議長は「全体主義だ」と厳しく批判した。ハイネセン主義では、政府の役割拡大は独裁への道とされる。政府が社会や経済への統制を強めると、市民は政府に逆らえなくなり、奴隷同然になるとハイネセン主義者は言う。

 

 反ハイネセン的な思想は目新しいものではない。公然と反ハイネセン主義を掲げる国政政党もある。統一正義党はラロシュ主義という名前の全体主義を掲げる。汎銀河左派ブロックの科学的社会主義は、ハイネセン主義者が「ルドルフ主義と同等以上の危険思想」と評するイデオロギーだ。

 

 大衆党の何が目新しいかといえば、トリューニヒト代表のキャラクターであった。議会で選ばれたのに議会が歓迎しない提案を繰り返し、与党のトップなのに与党を叩き、あげくの果てに与党から不信任案を提出された。是非はともかくインパクトは凄い。

 

 トリューニヒト代表の強烈な個性が大衆党ブームを引き起こした。結党時に一七パーセントだった政党支持率は二五パーセントまで上がった。他政党から離党した議員や無所属議員が次々と入党し、国会議員の数は一か月で結党時の倍になった。全選挙区に候補者を立て、単独過半数を目指すという。

 

 人気が大きくなると、批判も大きくなるものだ。ウィンザー元国防委員長は、「詐欺師でも、もう少しましな嘘をつくんじゃないかしら」と切り捨てた。ホワン元議長は、「悪意を持って国政を混乱させた男が国を変えるなんてね。酷い冗談だ」と皮肉る。経済学者トリム教授はトリューニヒト政権の治績を分析し、「結果を出していないのに人気だけが膨れ上がった」と評した。知識層の間では強引な手法への反発が根強い。政治資金をめぐる疑惑もささやかれる。

 

「凄く批判されてますけど、大丈夫ですか?」

 

 俺が心配すると、トリューニヒト議長は茶目っ気たっぷりに笑った。

 

「彼らは頼まれもしないのに、私の名前を連呼してくれるんだ。広告費が節約できて助かるよ」

「悪口を信じる人がいたらどうするんです?」

「知られないよりは嫌われる方がずっといい。うちの候補者が街頭に立つ時は、『銀河一の嫌われ者、大衆党がやってまいりました』と言わせるようにした」

「あなたには敵いません」

 

 小物が心配するまでもなかった。今のトリューニヒト代表にとっては、悪評すら己を飾るアクセサリーでしかない。

 

 トリューニヒト代表は糾弾対象から冬バラ会を外し、メンバーの寝返りを誘った。冬バラ会の証言が取れれば、遠征推進派要人を攻撃する材料になる。しかし、これはうまくいかなかった。どのメンバーも家族ぐるみで囲い込まれていたのだ。敵は汚れ仕事の報酬をきっちり払っていた。

 

 憂国騎士団の暴力はいっそう過激になった。戦犯を拉致して土下座と自己批判を強要し、その様子を動画としてネットに流す。NPCや進歩党の集会に殴り込み、壇上を占拠して戦犯批判の演説を行う。襲撃対象は進歩党左派や軍部良識派など「戦犯擁護者」にも広がった。

 

 二月一三日、憂国騎士団はグエン・キム・ホア広場で集会を開き、反戦的な本・体制批判の本など三万八〇〇〇冊を焼いた。風に流されやすい同盟市民もこの行為には引いた。

 

「なんという奴らだ! 規律も何もない! ただの過激派ではないか!」

 

 携帯端末の向こう側から、クリスチアン予備役中佐の怒声が聞こえた。彼は規律と秩序の信徒である。反戦思想や体制批判は嫌いだが、過激な行動はもっと嫌いなのだ。

 

「俺もそう思います」

 

 俺は心の底から同意した。憂国騎士団に対する心証はラプシン予備役大尉の件で和らいだが、それでも許せないことはある。規律なき右翼に存在意義はない。

 

 焚書の後も憂国騎士団の人気に陰りは見えなかった。市民は戦犯への制裁をエンターテイメントとして楽しんだ。口先では「テロは良くない」と言いつつ、本音では新しい制裁動画を心待ちにしていたのである。

 

 世の中が大荒れでも、軍だけは安定している。良識派の指導のもと、合理化と意識改革が着々と進んだ。昇進して国防研究所幹部となったチュン・ウー・チェン准将によると、文書手続きが簡略化され、休みが取りやすくなり、パワハラやセクハラに対する対処が早くなったそうだ。また、現場が活発にアイディアを出し、上層部は積極的に良いアイディアを取り入れ、みんなで改善しようという空気があるらしい。業務の質は著しく向上したという。

 

「俺は軍にいない方がいいのかな」

 

 軍に残った人の話を聞くと、そんなことを思ってしまう。良識派の人事はかなり公平だ。能力やや人格や思想に問題がなければ、他派閥でも隔たりなく登用される。俺の元部下にしても、昇進した者や良いポストを得た者が多い。

 

 エル・ファシル危機以来の腹心ウルミラ・マヘシュ少佐は、戦略部入りを果たした。戦略部と言えば、国防委員会の政策中枢だ。地味な経歴からすると異例の抜擢である。

 

 所用でアッテンボロー少将に会った時に礼を言うと、「能力のある者を使うのは当然です」とつまらなさそうに返された。相手は実力主義者だ。これ以上の賛辞はない。自分が褒められるより、部下が褒められる方がずっと嬉しいものだ。

 

「政治家との付き合いで出世できる時代は、終わりましたんでね」

 

 アッテンボロー少将は最後に冷水を浴びせてきた。毒舌は本で読むと面白いが、自分が言われるのは嫌なものだ。

 

 リムジーヌ星系航路保安隊司令官ドーソン予備役中将は、サンドバッグを購入して「ダスティ」と名付けたらしい。ちなみに彼がサンドバッグを叩く時は、拳ではなく金属バットを使う。そうしたくなる気持ちが少しだけ理解できた。

 

 回廊の向こう側では、オーディン政府の中央集権改革が激しい抵抗を受けた。ラグナロック戦役中、同盟軍は親同盟派住民による民兵を作り、帝国軍は反同盟派住民の蜂起を促した。平民は両軍がばらまいた武器を手に入れ、戦乱の中で実戦経験を積み、巨大な武力を手に入れたのである。終戦後、増税に怒った平民が各地で蜂起した。特権削減に不満を持つ貴族、論功行賞に不満を持つ軍人、共和主義革命を企む親同盟派残党、貴族打倒と真の選民支配を目指すルドルフ原理主義者、辺境外縁部の独立政権がこれに絡み、収拾がつかない状態だった。

 

 こんなに混乱が酷くては同盟人捕虜の帰還が進まないので、同盟政府は一年前から四個分艦隊と六個軍を派遣し、帝国軍を手伝わせている。オーディン政府は「国内情勢の悪化」を理由に追加派兵を求めた。

 

 銀河の混迷が深まる中、宇宙暦八〇一年三月二九日に上院・下院同時選挙が行われた。上院は半数にあたる四一一議席、下院は一六三九議席すべてが改選される。

 

 トリューニヒト前最高評議会議長率いる大衆党は、上院で二六二議席、下院で九八三議席を獲得し、両院で第一党に踊り出た。辺境で圧倒的な強さを見せ、中央宙域でも大量の票を得た。勝因としては戦争責任問題もさることながら、七八〇年代から続いてきた改革路線への不満が大きい。アイランズ元天然資源副委員長など七九八年上院選挙で落選した者は復活を遂げた。

 

 一方、NPCと進歩党はほとんどの議席を失った。辺境では全滅に近い敗北を喫し、地盤である中央宙域の大都市圏でも大衆党に食われた。大衆党の勝因を裏返せば、そのまま彼らの敗因になるだろう。大都市圏偏重の改革路線、戦争責任問題が仇となった。レベロ元議長とホワン元議長が残った進歩党はまだ幸いだ。NPCは党最高幹部八名のうちクリップス議長を含む六名が落選し、党を支配してきた議長経験者「ビッグ・ファイブ」五名のうち二名が落選した。旧与党の痛手は計り知れない。

 

 旧野党は汎銀河左派ブロックがわずかに議席を増やしただけで、その他の党は大幅に議席を減らした。現状不満票が統一正義党と反戦市民連合から大衆党に移ったのが大きい。

 

 下院で単独過半数を獲得する政党が出たのは二〇年ぶりとなる。ただし、上院では今回改選された議席の六割以上を獲得したものの、七九八年に改選された議席をほとんど持っていないため、大衆党単独では過半数に届かない。それでも、下院を抑える大衆党から新議長が出るのは確実だ。ヨブ・トリューニヒトの時代がこれから始まるのである。



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第八章:勇者の中の勇者エリヤ・フィリップス
第75話:チーム・フィリップス復活 801年4月8日~8月 ハイネセンポリス~首都防衛軍基地~ハイネセンポリス


 上院・下院同時選挙から一〇日後の四月八日、ヨブ・トリューニヒト大衆党代表を首班とする新政権が発足した。統一正義党、汎銀河左派ブロック、独立と自由の銀河党(IFGP)、辺境市民連盟の四党を取り込んだことで、上院でもギリギリで過半数を越えた。

 

 トリューニヒト新議長は「頼れる国家」をスローガンに掲げ、「貧困と格差と利己主義と銀河帝国を撲滅する」と言った。優先課題として「国家分裂の回避」「景気回復」「軍事力の再建」「捕虜の早期帰還」「講和交渉中止」の五つをあげ、目標として「強大な軍隊」「手厚い福祉」「完全雇用」「内需主導の経済成長」「銀河帝国との徹底対決」の五つをあげた。あらゆる意味でこれまでの政権とは対照的だ。

 

 新政権では四個の無任所評議員ポストが追加され、閣僚ポストは一五個となった。トリューニヒト議長は四六歳、閣僚の平均年齢は四八歳と近年では最も若い評議会である。初当選したタレント出身議員が入閣する一方で、トリューニヒト議長の側近が要職を占め、他の四党にもポストが配分された。話題性と堅実さを兼ね備えた布陣といえよう。

 

 最も注目される国防委員長には、マルコ・ネグロポンティ大衆党幹事長が就任した。トリューニヒト派のナンバーツーを務め、「トリューニヒト派の総支配人」と称される重鎮だ。三月の選挙では選挙活動を指揮した。国防副委員長と国防委員をそれぞれ二度経験しており、政界有数の国防通と評される。

 

 俺のもとに現役復帰と中将昇進の内示が届いた。トリューニヒト議長が言うには、野党への根回しも済んだという。

 

「言ったとおりになっただろう?」

 

 トリューニヒト議長は陽光のような微笑みを浮かべる。かつて、彼は「選挙に勝ったら現役の中将にする」と言ったのだ。

 

「感謝しようもありません!」

 

 俺は何度も何度も頭を下げる。いつか復帰させてもらえると信じていた。それでも、実際に聞かされると嬉しくてたまらない。

 

「これからたくさん働いてもらう」

「お任せください!」

「頼もしい限りだ」

 

 トリューニヒト議長は満足そうに目を細める。

 

「次の任務はなんでしょうか?」

「首都防衛軍司令官をやってもらいたい」

「首都防衛軍司令官ですか?」

 

 我ながら間の抜けた答えだった。同盟人捕虜の帰還支援か、そうでなければ帝国人捕虜の送還支援を任されると思っていた。

 

「捕虜関係は良識派が仕切っている。セレブレッゼ君を押しこむので精一杯だった」

「なるほど、治安関係なら食い込めるということですか」

「その通りだ。あの連中は大艦隊を動かすのには向いている。だが、テロや海賊を押さえるのには向いていない。そこに我が派の伸びる余地がある」

「かしこまりました。期待に背かぬよう、全力で取り組みます」

 

 俺は口先では格好をつけた。しかし、心臓はゴムボールのように飛び跳ね、腹は強烈な痛みに襲われ、背中や手のひらは汗で濡れている。自分が負わされた責任の大きさを思うと、平静ではいられなかった。

 

 首都防衛軍は首星ハイネセンに駐留する常設統合部隊だ。創設以来、治安維持、災害派遣、実戦部隊への戦力提供を主な任務としてきた。兵員六一万人と銀河最強の防衛システム「アルテミスの首飾り」を有するが、その矛先が帝国軍に向けられたことはない。

 

 戦闘をしないとはいえ、首都防衛軍は暇ではなかった。一〇億三〇〇〇万人というハイネセンの巨大な人口は不安定要因だ。テロや暴動が起きやすいし、普通の惑星なら人が住まないような災害多発地域にも都市がある。非戦闘任務だけでも結構忙しいのだ。

 

「つまり、俺向けの部隊ってことか」

 

 そう結論づけた後、幕僚選びに取りかかった。なにせ六〇万人を抱える大所帯だ。少なくとも前方展開部隊司令部の倍は必要になる。

 

 最初に国防研究所戦略研究部長チュン・ウー・チェン宇宙軍准将に声をかけた。良識派体制で満足していそうな彼が来てくれるかどうか、結構不安だった。

 

「やりましょう」

「本当にいいのか?」

「今の体制は悪くないと思います。しかし、一強体制は良くありません。対抗勢力がいないと、立派な人物でもやることが雑になります。常に敵の目を意識するぐらいがちょうどいいのです」

「なるほど。対抗勢力として俺に期待してるのか」

「どうあがいても、この世から右翼は消えません。ならば、あなたのような人が右翼のトップになるのがベターです」

「君らしい理由だな」

「本音を言いますと、あなたの下で参謀をするのが楽しいのですけどね。あなたは意見をよく聞きますが、丸飲みにはしません。厳しくチェックした上で判断なさいます。ほど良い緊張感をもって仕事に取り組めます」

「褒められたと思っていいのかな」

「もちろんです」

 

 チュン・ウー・チェン准将はにっこり笑い、潰れたパンを差し出した。俺は受け取って口に入れる。程良い潰れ具合だ。こうして参謀長代行が決まった。

 

 副参謀長には、ドーリア星域軍司令官代理サフィル・アブダラ地上軍准将を選んだ。エル・ファシル七月危機で俺の副司令として頑張った。良識派からの評価も高いようで、ヤン大将とは確執があったのに軍縮後も現役に留まった。統合部隊には地上戦のプロも必要になる。

 

 サンジャイ・ラオ宇宙軍大佐を作戦部長、ハンス・ベッカー宇宙軍大佐を情報部長、マー・シャオイェン宇宙軍技術大佐を通信部長、アルタ・リンドヴァル軍医中佐を衛生部長とした。彼らが前方展開部隊にいた時と同じ職である。良識派体制でもいい待遇を受けていたのに、俺の下に戻ってきてくれた。どれだけ感謝してもしきれない。

 

 首都防衛軍に来なかった人もいる。元後方部長アルフレッド・サンバーグ宇宙軍大佐らセレブレッゼ派は、現役復帰したボスを助けに行った。元人事部長セルゲイ・ニコルスキー宇宙軍大佐のように、今の任務にやり甲斐を感じている人もいた。ドーソン系の人材はネグロポンティ国防委員長に呼ばれて国防委員会に行った。別の司令官と縁ができた人、退役して新しい人生を歩み始めた人もいる。

 

「君には世話になった。改めて感謝する。困ったことがあったらいつでも言ってくれ。どこにいても、俺たちは戦友だ」

 

 戻らなかった人には笑顔で別れを告げた。寂しくないといえば嘘になるが、幸せになってほしい気持ちはさらに大きい。

 

 イレーシュ・マーリア宇宙軍予備役大佐に、現役復帰と後方部長就任を要請した。俺の恩師の一人であり、前方展開部隊副参謀長であった彼女は、ラグナロック戦役の後に自ら軍を退いた。その後は故郷シロンに戻って茶産組合の事務員になっていた。用兵家としては今一つでも、相談役としては掛け替えのない人だ。

 

 エル・ファシルからずっと俺の下にいたセウダ・オズデミル宇宙軍大佐を人事部長、フィン・マックール以来の付き合いがあるシャリファー・バダヴィ宇宙軍准尉を最先任下士官とした。この二人に関しては、能力より忠誠心に期待して選んだ。

 

 作戦・情報・後方・人事・通信の各副部長には地上軍軍人を用いた。宇宙軍軍人の部長とのバランスを取ったのである。総務部、法務部、監察官室、広報官室については、長を地上軍軍人、副長を宇宙軍軍人とした。

 

「主要メンバーはだいたい固まった。残ったのは副官だな」

 

 俺は端末を操作して副官候補者のファイルを開くと、名前を身長の低い順に並べ替えた。身長の低い人に悪い人はいない。その中から有能そうな人を探す。

 

「だめだなあ」

 

 俺はマフィンを食べて糖分を補充した。検索対象を高身長者に広げても、いい人材が見つからない。リストに載っているのは、一流半から二流の若手である。一流の若手は主要機関や花形部隊に取られてしまう。

 

 良い副官とは忠実な手足であり、良きアドバイザーであり、人間関係の潤滑剤であり、ボディーガードでもある。だからこそ妥協はしたくなかったのだが。どうやら副官選びに苦労する星の下に生まれついたらしい。

 

 

 

 イレーシュ予備役大佐と一緒に首都防衛軍の下見をした時、副官選びの愚痴がこぼれ出た。弱い部分も恩師には見せられる。

 

「条件を下げても見つからなくて」

「絶対譲れないラインは?」

「コレット中佐の九割程度の力があれば十分です」

 

 本当に必要最低限と思う条件を俺が言うと、イレーシュ大佐は呆れ顔になった。

 

「贅沢すぎる条件だと思うけど」

「そうですかね?」

「知力、体力、人柄が全部あの子の九割でしょ。滅多にいないって」

「理想を言うなら一〇割です。妥協して九割にしました」

「その基準がおかしいのよ。あの子を取れたのは、本当に運が良かったんだから」

 

 完全な正論であった。コレット中佐のスペックは士官学校優等卒業者に匹敵する。本来なら主要機関や花形部隊にいる人材だ。士官学校の成績が最低に近く、父親が軍の名誉に泥を塗った人物だったので、簡単に取れたのだ。

 

「彼女クラスの人材が都合良く埋もれてるなんて、滅多にない話ですしね」

「なんだかんだ言っても、士官学校の成績は信用できるよ。総合力がないと上位になれないから」

「どうしましょうか?」

「あの子でいいじゃん。前みたいに副官事務取扱ってことにすれば」

「やめときます」

 

 コレット中佐を副官にする気はなかった。ラグナロック戦役が終わった時、彼女の正式な肩書きは「前方展開部隊司令部付・副官事務取扱」だった。佐官は少将の副官になれないからこうしたのだ。同じ手を使えば、中佐でも中将の副官にできる。それでも、彼女だけはだめだ。

 

「背が高いから?」

「違います」

 

 俺は即座に否定した。一八二センチの身長は重大な欠点ではあるが、他の美点を打ち消すほどではない。

 

「だったら何なの?」

「彼女は俺の言うことを聞きすぎるんです。一週間前のこと、覚えてますよね?」

「ああ、あれかあ」

 

 イレーシュ予備役大佐の顔に「だったらしょうがないよね」という文字が浮かんだ。あの場面にいた人は誰だってまずいと思うだろう。

 

 一週間前、イレーシュ大佐の現役復帰祝賀会を開いた時のことだった。俺、イレーシュ大佐、コレット中佐、マー技術大佐、カプラン少佐の五名が四次会まで残り、だらだらと話していた。

 

「もし、命令が間違ってると思ったらどうする?」

 

 俺が話題を振ると、コレット中佐が最初に口を開いた。

 

「命令者は誰ですか?」

「誰でもいい」

「信頼関係によって変わります」

「確かにそうだな。話せる上官とそうでない上官では答えは違う。両方を想定してくれ」

「かしこまりました。では、話せる上官の方から考えます」

「よろしく頼む」

「間違っていると思っても従います」

「根拠は?」

「私にとって話せる上官といえばあなたです。あなたは絶対に間違いません。ならば、間違っているのは疑った私です」

 

 コレット中佐は真顔でぶっ飛んだ答えを出した。

 

「間違ってばかりだぞ」

「あなたのおっしゃることはいつも正解でした」

「それは君の実力だ」

 

 俺が言ったのは単なる事実だった。曖昧な指示や抽象的な助言でも、彼女は足りない部分を補って結果を出してしまう。

 

「私は大した人間ではありません。正しい指示をいただいたおかげです」

 

 コレット中佐の顔には謙遜の色などなかった。本気でそう信じているのが見て取れる。

 

 ラグナロック戦役後、宇宙母艦艦長になったコレット中佐は俺の助言を求めた。俺が統率に関して「プライドを大事にしろ」と言うと、彼女は荒っぽい艦載機乗りの敬意を勝ち取った。俺が部隊運営の基本を教えると、半年で彼女の艦は模範艦となった。俺の助言だけ聞くのは良くないので、「上官ともっと相談しなさい」と言うと、彼女は二人の娘を持つ上官から「私の三人目の娘」と呼ばれるようになった。これらの実績を評価されて、母艦群司令代理に昇格したのだ。

 

 助言を生かせるのは優れた者に限られる。俺に助言を求めた元部下は何十人もいた。その中で成功をしたのは半分しかいない。仮に俺の助言が正しかったとしても、世の中には摩擦というものがある。助言と現実の摩擦を克服する能力こそが重要だろう。

 

「とにかく、俺が間違った指示を出すと仮定するんだ」

 

 俺は強引に話を戻した。コレット中佐の低すぎる自己評価については言いたいこともあるが、話をややこしくしたくなかった。

 

「仮定できません」

「常識的におかしな指示でもか?」

「そのような指示をなさるとは思いません」

「じゃあ、服を脱いで裸になれと言われても従うのか?」

 

 思いつく限り最も非常識的なことを言ってみた。これなら彼女も気づくだろうと思ったのだ。

 

「従います」

「えっ?」

 

 俺とイレーシュ大佐とマー技術大佐は呆然となった。カプラン少佐だけは気にせずにバナナを食べている。

 

「あなたは無意味な指示はしません」

「いや、でも、これはおかしいだろう」

「あなたの指示なら従います。お疑いでしたら、今すぐ命令してください」

 

 コレット中佐のアーモンドのような目が俺を見つめる。その手はブラウスの一番上のボタンにかかっている。命令と同時に脱ぎ始めるつもりだろう。

 

「君が俺を信頼しているのはわかった! 脱ぐな! これが命令だ!」

 

 俺が命令すると、コレット中佐はボタンから手を離した。イレーシュ大佐とマー技術大佐は胸を撫で下ろし、カプラン少佐は残念そうな顔をした。

 

 このようなことがあったので、コレット中佐を副官候補から外した。彼女を評価しているからこそ、俺の後を追うだけで終わってほしくない。追いつき追い越してほしかった。チーム・フィリップスに戻すにしても、広い世界を知ってからだ。

 

「師匠と弟子みたいだね」

 

 イレーシュ予備役大佐が母親のような笑みを浮かべる。

 

「初めて育てた部下の一人ですから」

「君は私を追い越した。彼女もいつか君を追い越すよ」

「俺はまだまだです」

「とっくに追い越してるって。私は冴えない大佐、君は当代の名将なんだから」

「そんなことはおっしゃらないでください。自分の器量はわかっています。部下や戦友に恵まれただけの凡将ですよ」

「君とコレット中佐は似た者師弟なのかもね」

「俺はあんなに自己評価が低くないと思いますが」

「もし君の一人称で書かれた小説があったら、読者はエリヤ・フィリップスが凡将だと思うんだろうねえ」

 

 イレーシュ大佐が遠くを見るような目つきで俺を見る。

 

「俺の評価は置いときましょう。とにかく副官を決めないと」

「カプラン君は?」

「副官に一番向いてないタイプじゃないですか」

「まあね」

「やっと外に出せたんです。戻ってこられては困ります」

 

 俺は軽く眉をしかめた。エリオット・カプラン少佐は意欲も能力もなかった。プライベートで付き合う分にはいいが、部下にするのは嫌だ。伯父のカプラン国務委員長に対し、「彼はリーダーシップがある。指揮官に向いている」とアピールし、艦艇勤務へ追いやることができた。

 

「じゃあ、誰にする?」

「ええと……」

 

 頭の中に浮かんだのは、妹のアルマ・フィリップス地上軍大佐だった。能力は飛び抜けている。俺を尊敬しているという悪癖はあっても、盲信はしていない。身長と階級がもっと低くて血縁者でなかったら理想の副官だ。

 

「あんな感じです」

 

 俺は視線を数メートルほど先に向けた。癖のないまっすぐな赤毛、きれいな卵型の顔、乳白色でつやつやした肌、ぱっちりとした目、ぴんと伸びた背筋。まさしく妹……。

 

 違う、あの女性は妹ではない。今の妹は染めるのをやめたが、ゆるいウェーブがかかっている。身長はもっと高い。では、一体何者なのか。

 

「ユリエ・ハラボフ大尉?」

 

 イレーシュ大佐が懐かしい名前を口にした。

 

「ご存知なんですか?」

「統合作戦本部にいた頃にね。接点は全然なかったけど。私は人事部、ハラボフ大尉は情報部だったから」

「俺とも古い知り合いなんですよ」

 

 俺は心の中で「いい知り合いではないけど」と付け加えた。七年前、俺とハラボフ大尉の間には確執があったのだ。

 

 ユリエ・ハラボフ大尉はドーソン中将の副官を務めた女性だ。前任者の俺は無神経なことを言って、悩んでいる彼女を怒らせてしまった。しかし、七年も経てば時効だろう。彼女も憲兵隊での挫折からとっくに立ち直ってるはずだ。今頃は大佐か准将になっているに違いない。

 

 ところが、ハラボフ大尉に声をかけると気まずい空気が流れた。俺が少将なのに対し、向こうは少佐で予備役軍人徽章を着けている。だいぶ前に予備役へと編入されたらしい。予備役訓練で基地に顔を出したようだった。

 

 家に帰った後、ハラボフ予備役少佐が予備役に編入された理由を調べた。すると、ある知人から「無能だと評判が立って何度も左遷された」と聞かされた。

 

 さらに詳しく調べるうちにとんでもない事実が判明した。無能の評判の元はこの俺だったのだ。いい加減な人が「ハラボフは英雄フィリップスと仲が悪い。きっと無能なのだ」と言いふらし、トリューニヒト派軍人が真に受けた結果、ハラボフ予備役少佐は四年前に予備役となった。

 

 俺は罪悪感に駆られた。知らなかったとはいえ、俺がハラボフ予備役少佐の軍人人生を終わらせたようなものだ。ダーシャはシトレ派の名将との不仲から無能と思われた。それよりずっと不幸な目に遭わせてしまった。

 

 おそらく向こうは俺と話したがらないだろう。そっとした方がいいと思わないでもないが、それでも謝罪の意思があることだけは伝えたい。断られて当然、対話に応じてもらえれば儲け物と考えた。

 

 意外にもハラボフ予備役少佐は対話に応じてくれた。ただし、通信画面の映像をオフにして欲しいという条件付きだ。俺は喜んで受け入れた。

 

「お久しぶりです。どのようなご用件でしょうか?」

 

 ハラボフ予備役少佐の声は七年前とあまり変わらなかった。

 

「今日は――」

 

 俺は悪評の元を作ってしまったこと、不遇に陥れてしまったこと、トリューニヒト派が悪評を信じてひどい仕打ちをしたことを謝った。

 

「そうですか」

 

 ハラボフ予備役少佐はそっけなく答えた。

 

「取り返しの付かないことをしてしまった。できる限りの償いをしたい」

「何をなさるおつもりですか?」

「経済的な償いも名誉回復の手伝いもする」

「名誉回復の手伝いって何でしょう?」

「訴訟したいなら証人に立つし、費用も出す。軍人としての評価を取り戻したいなら、相応のポストを用意する」

「相応のポストとは」

「俺は首都防衛軍司令官に内定した。だから、首都防衛軍の幕僚職はすぐ用意できる。時間は少しかかるけど、うちの派閥が抑えてる国防委員会のポストもある」

「でしたら、首都防衛軍の幕僚を希望します」

「いいのか?」

 

 俺は聞き返してしまった。選択肢として示しただけで、彼女が俺の下で働きたがるとは思わなかったからだ。

 

「七年前の失敗を取り返します」

 

 静かな決意に満ちた声だった。七年前、彼女は俺を意識しすぎて失敗した。もう一度俺と関わることで克服しようというのだ。

 

「悪いのは俺だ。変なプレッシャーをかけてしまった」

 

 俺は真っ暗な画面に向かって頭を下げる。かつてのハラボフ予備役少佐は、「あなたの後任を務めるのは大変です」とため息をついた。それに対し、俺は「雑な仕事したせいで苦労させてすまない」と答えたのである。後になって無神経だったことに気づいた。

 

「お気になさらないでください。私が閣下に及ばないのは事実でしたから」

「そんなことは……」

 

 反射的に否定しかけた時、過去の光景を思い出した。ダーシャ、スコット准将、ベッカー大佐の三人から、ハラボフ予備役少佐への対応を批判された時のことだ。

 

「――たぶん、彼女はフィリップス少佐に敵わないと思ってたんですよ」

 

 ベッカー大佐の言う通り、ハラボフ予備役少佐は俺に敵わないと思っていた。

 

「フィリップス少佐は変に謙遜し過ぎなんです。ほどほどにしないと嫌味ですよ。もっと自然体でいいんです、私みたいにね」

 

 ダーシャの言う通り、俺の謙遜はハラボフ予備役少佐に対しては嫌味になる。

 

 大事なのは俺がどう思っているかではなかった。ハラボフ予備役少佐がどう思っているかが大事だった。

 

「いや、確かに君は俺に及ばなかった。それでも、嫌味を言うのは間違いだ。部下を持ってみてわかった。自分よりできる人間なんて滅多にいるもんじゃない。辛抱強く接することが大事だと学んだ」

 

 俺は「できない人の気持ちがわからなかった」というストーリーを演じた。

 

「憲兵隊での君はいい仕事をしたと気づいたよ。憲兵司令官室は仕事をしやすい環境だった。君のことを思い出すたびに、『こういう仕事ができる部下が欲しい』と思ったもんだ。自分と比べたら物足りない。けれども、部下としてなら大満足だ」

「お気遣いは結構です」

「本気で言っている。五年前のエル・ファシルに君がいたら、俺の苦労は半分で済んだ」

 

 この言葉に嘘偽りはない。ハラボフ予備役少佐クラスの幕僚が一人でもいれば、かなり楽になった。

 

「わかりました」

 

 真っ暗な画面の向こうから無機質な声が返ってくる。今の一言にハラボフ予備役少佐がどんな意味を込めたのかはわからない。

 

「首都防衛軍で働いてみるか?」

「条件が二つあります」

「なんだ?」

「役に立たないと思ったら首にしてください。そして、この通信の内容は秘密にしてください」

「理由を聞いてもいいか?」

「実力で認めていただかないと、評価は取り戻せませんから」

 

 罪滅ぼしの気持ちだけで接してほしくないということか。士官学校を一六位で卒業したエリートらしい矜持だ。

 

「承知した」

「喜んでお引き受けします」

 

 こうしてハラボフ予備役少佐の現役復帰と副官代理就任が内定した。彼女が「本当に認めた時に正式な副官にして欲しい」と言うので、今は代理止まりだ。新生チーム・フィリップスの陣容は整った。

 

 

 

 四月二三日、俺は現役復帰を果たし、宇宙軍中将・首都防衛軍司令官となった。

 

「眠れる獅子が目覚めた!」

「勇者の中の勇者が現役復帰!」

「トリューニヒト議長、テロとの戦いに切り札を投入!」

 

 マスコミは凄まじい盛り上がりを見せた。エリヤ・フィリップスの名前は、予備役にいる間に大きく膨れ上がった。今では戦争の英雄であると同時に、ペンション・アーミーで活躍した退役軍人支援活動家であり、オウミ裁判やラグナロック戦犯裁判にも関わった政治的軍人でもある。復帰しただけでサプライズなのだ。

 

 その他にもサプライズ人事が連発された。反同盟派として名高いジェラントート星系のクロウチェク前首相を議長上級顧問に登用し、辺境との和解を強調する。テレビでお馴染みの右派文化人ヴァーノン教授ら右派人士十数人を、議長補佐官として迎え入れ、右派色を強く打ち出す。右派新聞『シチズンズ・フレンズ』論説委員から抜擢されたファン=デイク議長報道官、大手軍需企業ヘンスロー社会長から起用されたヘンスローフェザーン駐在高等弁務官らも注目を集めた。

 

 トリューニヒト議長は行動もサプライズに満ちている。応援Tシャツを着て立見席からプロフライングボールを観戦し、コンサート会場でファンと一緒にペンライトを振り、大食いコンテストに飛び入り参加して準優勝に輝き、市民の親近感をくすぐった。テロで殉職した警官の葬儀に足を運び、児童養護施設を訪れて子供たちと一緒に食事をとり、優しさを示すことも忘れない。

 

 その一方で脇の甘さを示す事件が起きた。選挙で勝った翌日に、二〇歳の大衆党新人議員が飲酒運転で事故を起こし、議員辞職に追い込まれた。その三日後には九五歳の大衆党新人議員が失言して批判を浴びた。その後も新人議員のスキャンダルや失言が連続した。地方首長や地方議員だった新人議員の中には、当選前の汚職疑惑を掘り返された者がいる。

 

 四月下旬、トリューニヒト議長は、フェザーンが提案した銀河経済復興計画「ルビンスキー・プラン」を受け入れる意向を示した。積極財政の資金を調達する目処がついたのである。ただし、進歩党と財政官僚が激しく抵抗しており、しばらくは論戦が続くだろう。

 

 帝国とは講和交渉を打ち切る方向で話を進めている。実のところ、帝国は打ち切りに前向きだった。講和条約を結んだ場合、同盟を対等の国家と認めなければならない。そうなると、帝国の国家としての正統性が揺らぎかねないのだ。移民の完全自由化、相互軍縮協定も受け入れ難かった。こうしたことから、休戦協定に留めたいとの合意ができつつあった。

 

 一方、同盟国内の講和派は交渉継続を強く主張した。彼らから見れば、講和交渉は同盟社会を軍事負担から解放するチャンスなのだ。

 

 トリューニヒト派と反トリューニヒト派は激しく対立した。戦争終結と軍縮を望む軍部良識派、改革継続を求める国民平和会議(NPC)と進歩党、戦争に反対する反戦市民連合、財政均衡にこだわる財政官僚、行政改革と講和交渉を主導した国務官僚、移民導入を進める人的資源官僚、貿易中心の経済を作りたい経済官僚が、緩やかな反トリューニヒト同盟を組んだ。財界・学界・マスコミの改革派がこの同盟に力を貸した。

 

「トリューニヒトは時計の針を逆行させようとしている!」

「逆行させて何が悪い! 改革は我々を豊かにしたのか!? 貧しくなっただけではないか!」

「改革前の同盟は腐りきっていた! 民主主義への信頼は失われていた! クーデター未遂が一年に五回も起きる時代に戻りたいか!?」

「腐っていても飯は食えた! 今は何もないぞ!」

 

 両派は激しい論争を繰り広げた。どちらにも根拠がある。トリューニヒト派の言うように、改革は経済を酷く痛めつけた。反トリューニヒト派の言うように、改革前の同盟は腐敗と混乱の極みだった。それゆえに言葉では決着が付かない。

 

 トリューニヒト派は議会を掌握し、反トリューニヒト派は主要官庁を掌握している。一見した限りでは、トリューニヒト派の方が優位に見えるだろう。しかし、実際は互角に近かった。

 

 政治家と官僚の関係は一筋縄ではいかない。制度の上では、政治家が方針策定と意思決定の担当者であり、官僚は政策の立案・実行の担当者だ。政治家が「こういう方針で行く。政策案を作ってくれ」と言うと、官僚は方針に沿った政策案を作って提出する。政治家が提出された案を承認すると、官僚は下部組織に政策を伝えて実施させる。司令官と幕僚の関係と言えばわかりやすい。

 

 官僚は政策のプロとして政治家に助言を行う。これもまた司令官と幕僚の関係に近い。政治家の方針がおかしいと思えば、プロとして反対する。政策案を示す時は、プロの視点からメリット・デメリットを伝える。

 

 官僚が「無知な政治家が変なことを言っている」と思い、政治家が「官僚は政治がわかっていない」と思うと対立が生じる。政治家が官僚を説得して意見を変えさせることもある。逆に官僚が政治家を説得できることもある。それが無理なら力勝負だ。政治家に力があれば官僚の「助言」を拒否できるが、力がなかったら「助言」に屈服させられる。組織を握っているのは官僚だ。官僚を動かせないなら組織も動かせない。

 

 大衆党には官僚を動かせる政治家が少なかった。総議員の八割以上が新人議員、入閣経験者はトリューニヒト議長ただ一人である。NPCでは中堅だったネグロポンティ国防委員長やカプラン国務委員長ですら、大衆党では大ベテランだった。他の与党のうち、統一正義党、汎銀河左派ブロック、IFGPは野党暮らしが長く、国政レベルの政務には疎い。辺境市民連盟のNPC離党組に、副委員長や委員の経験者がいる程度だ。これでは官僚を動かすなどおぼつかない。

 

 トリューニヒト派は政策論争で敗北を重ねた。各委員会内部の議論では、知識も人脈もない委員が官僚に翻弄された。議会においては、経験の浅い委員長や副委員長が、経験豊かな旧与党議員に圧倒された。

 

 国防委員会ではやや優位に立っていた。国防に詳しいネグロポンティ国防委員長が上に立ち、政策通の国防委員長補佐官ロックウェル予備役中将が脇で支える。トリューニヒト系の国防族議員が副委員長や国防委員を務める。国防委員会官僚との政策議論では苦労しなかった。

 

 問題は統合作戦本部であった。議長の軍事面における助言機関なので、軍隊の運用について決定的な発言力がある。シトレ門下の戦略家に対し、戦略議論で太刀打ちできる政治家はいなかった。市民は統合作戦本部にいるラグナロックの英雄たちの味方だ。軍全体が政治家との付き合いを避ける方針なので、懐柔することもできない。統合作戦本部の「助言」に対抗する術はなかった。

 

 トリューニヒト派は手持ちの資源に望みをかけた。議長の出身母体である同盟警察、その上部組織である法秩序委員会、そして辺境の親同盟派だ。

 

 五月一日、同盟警察は大規模な治安回復作戦に取り掛かった。辺境各地の星系警察から航路警備部隊を借り受け、艦艇二万二〇〇〇隻と地上戦闘要員一五〇万人が集まった。これらの兵力は星系警察配下なので、議会や軍部の同意がなくても動かせる。

 

 この作戦は「辺境正常化作戦」と名付けられ、同盟警察保安担当副長官チャン警視監が総指揮官に任じられた。リムゼーヌ星系航路保安隊司令官ドーソン警視監、ヤム・ナハル星系航宙警備隊司令官ワイドボーン警視監、サンタ・バルバラ航宙警察隊司令官パリー警視監の三名が実質的な指揮をとる。彼らは同盟軍の予備役将官でもあった。

 

 シヴァ星域からイゼルローン回廊に至る宙域に、軍艦や戦車を有する「警察」が雪崩れ込んだ。圧倒的な武力が反同盟武装勢力や宇宙海賊を押し潰す。主力を叩いた後は数万人の「武装警察官」が掃討作戦にあたる。親同盟派と反同盟派の内戦はすべて収まった。同盟体制からの分離を模索していた星系は大人しくなった。ほんの三か月で辺境の二割が静まったのである。

 

 市民は目の覚めるような戦果に大喜びした。ドーソン警視監、ワイドボーン警視監、パリー警視監の三名は一躍英雄となった。部隊レベルや個人レベルでの勇者は数えきれない。マスコミは辺境正常化作戦の英雄たちを褒め称え、ドキュメント番組や特集記事を量産する。

 

 もちろん、負の側面もあった。周到に住民を避難させたとはいえ、数千人の民間人が巻き添えになって死に、それに数倍する負傷者が出た。可能な限り人が住んでいる場所での戦闘は避けたが、それでも広い地域が焼け野原と化した。武装警察官による暴行や殺人も起きた。一〇〇個以上の有人惑星で戦ったにしては少ないが、それでも被害者がいることには変わりない。

 

 多大な被害に対し、政府は可能な限り誠実な対応をとった。損害を受けた自治体には莫大な補償金が降り注いだ。死傷者に対する補償も迅速に行われた。罪を犯した武装警察官は速やかに処罰された。この作戦に命運を賭けたトリューニヒト派は、神経質なまでに気を使ったのである。パトリオット・シンドロームの時とは正反対の対応は話題を呼び、市民は「トリューニヒトは変わった」と感じた。民間への被害は、結果としてトリューニヒト議長の評価を高めることとなった。

 

 相対的に評価を落としたのが軍部だ。市民を巻き込むことを恐れて、反同盟武装勢力討伐や内戦への武力介入に消極的だった。地方部隊はすべて住民保護と流通確保にあてられた。おかげで辺境は騒乱状態でもほとんど死者を出さずに済んだ。それでも、人々は軍にやる気がないと感じ、やる気をみなぎらせた「警察」を歓迎した。

 

 捕虜交換事業で軍部は有能さを示した。オーディン政府の求めに応じ、四月初めに復員支援軍を増員したのが功を奏している。

 

 増援を派遣するにあたり、統合作戦本部次長ヤン大将が復員支援軍の新司令官に任命され、旧第一三艦隊系部隊を率いた。トリューニヒト議長の意向によるものだ。

 

「ヤン君は勝手なことをしない男だ」

 

 理由を問われると、トリューニヒト議長はそう答えた。しばしば、復員支援軍配下の部隊が反乱者を勝手に支援する事件が起きた。同盟軍人はオーディン政府よりも、平民や親同盟勢力に共感を覚える傾向が強い。その点、ヤン大将は冷静だ。ラグナロック戦役において、ヤン大将は自由を尊重する立場から選挙介入を禁じ、内乱の種になると親同盟派住民への武器供与を止めた。こういう人物ならば安心できるというわけだ。

 

「きっとヤン君は任務を果たすだろう。すべてが終わった時は、元帥号と統合作戦本部長の地位をもって報いたい」

 

 トリューニヒト議長は全幅の信頼をヤン大将に示した。もっとも、俺が真意を聞くと、「統合作戦本部長を一期やらせて引退させれば、三年で軍から追い出せる」との事らしい。現本部長のボロディン大将を引退させる口実にもなるそうだ。政治家は恐ろしいことを考える。

 

 恐ろしいといえば、遠征推進派の大物の微罪逮捕が相次いだ。〇・五キロのスピード違反で逮捕された者、引っ越した当日に「居住地と免許証に記載された住所が違う」と言われて逮捕された者すらいる。相当な数の警察官が遠征推進派に張り付いているのだろう。遠征絡みの汚職摘発に繋げるのが真の狙いだと思う。それでも、強引すぎて怖くなる。

 

 憂国騎士団のテロは衰える気配を見せない。テロを取り締まるべき同盟警察公安部が放置しているのだ。公安部といえばトリューニヒト議長の出身母体であり、保安担当副長官が統括する「保安警察」の一部だ。ノンフィクション本『憂国騎士団の真実』には、保安警察・極右政治家・憂国騎士団が繋がっていると書かれていた。もしかしたら事実なのかもしれない。

 

 活動が派手になれば失敗も多くなる。憂国騎士団もその例外ではなかった。アッテンボロー少将に撃退され、ラグナロックの英雄を攻撃したことで市民の怒りを買った。この件以降、彼らはラグナロックの英雄を批判することすらやめた。八六歳の戦犯ルチオ・アルバネーゼ退役大将を襲った時は、隊員四人が老人一人に叩きのめされてマスクを剥がされた。支部が爆破されたり、隊員が何者かに襲われたりもした。

 

 一方、首都防衛軍は多忙を極めた。毎日のように新しい兵士が入ってくる。予備役部隊に編成替えされていた部隊が現役部隊に戻される。司令部は事務作業に追い回された。

 

 兵力を減らすのは政治的に難しく、兵力を増やすのは物理的に難しい。兵士が一人増えたら、一人分の衣服、一人分の食事、一人分のシーツ、一人分の装備が必要になる。一万人増えたら、ベッド一万台、食事一万食、シーツ一万枚、装備一万セットを調達することになるのだ。兵士は部隊に組み込み、適切な訓練を施し、規律を叩きこまないと戦力にはならない。

 

 できあがった部隊をどこに配置するかも難しい問題だ。首都防衛軍の場合、適切に配置しないと市民が困る。どこで災害やテロが起きてもカバーできるように配備する。

 

「旧第六地上軍の基地を使えるかどうか、交渉してくれ!」

 

 俺はマフィンを片手に指示を飛ばす。忙しくなると脳みそが糖分を求める。おかげでマフィンを食べる量が倍に増えた。

 

 こうした作業の間にも事件は起きる。俺が司令官になってから三か月の間に、三度の災害出動と一度の治安出動を経験した。六月の巨大台風が特に酷かった。災害派遣を指揮した功績で勲章をもらえたほどだ。一段落するまではマフィンを食べる量が三倍に増えた。

 

「お兄ちゃんはセンジュカンノンだそうだよ」

 

 マフィンを俺より多く食べる妹が変なことを言った。

 

「センジュカンノン?」

「ブッキョウって言う古代宗教の神様。千本の手があるんだって」

「なんだそりゃ」

「仕事がめちゃくちゃ早いから」

「早くしないとみんなが困るじゃないか。首都防衛軍は一〇億人の守りだ」

 

 俺は“一〇億人の守り”を強調した。首都防衛軍は前線に出ることはないが、艦隊よりもずっと直接的に市民を守る仕事だ。頑張るほどトリューニヒト議長の人気も上がる。忙しいけれども、やり甲斐は大いにあった。



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第76話:敵はどこだ? 801年8月16日~10月12日 グエン・キム・ホア広場~ハイネセンポリス~首都防衛軍司令部

 八月一六日、グエン・キム・ホア広場で、帰還兵二〇〇万人を歓迎する式典が開かれた。ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長が熱弁を振るい、数々の演出が出席者の耳目を楽しませる。広大な広場に熱気が充満した。

 

 トリューニヒト議長と復員支援軍司令官ヤン大将が握手した瞬間、興奮は頂点を突き抜けた。拍手と歓声が世界を包み込む。

 

「トリューニヒト! トリューニヒト!」

「ヤン! ヤン!」

 

 群衆が偉大な二人の名前を連呼すると、トリューニヒト議長は満面の笑顔で手を振った。それから少し遅れて、ヤン大将もぎこちない笑顔で手を振る。

 

「トリューニヒト! トリューニヒト!」

「ヤン! ヤン!」

 

 俺は大声で名前を叫ぶ。一二年かけて鍛えた腹筋と肺活量を使いきる。頭の天辺から足の指先までが喜びで震えた。

 

 夕方から記念パーティーが始まった。会場となったのは最高評議会ビルの別館である。議員、提督、将軍、総長、部長といったきらびやかな肩書きを持つ人々が、一万人を収容できるホールを埋め尽くす。

 

 ここでも主役はトリューニヒト議長とヤン大将であった。二人が座るメインテーブルに一万人が注目する。

 

「ヤン提督、遠慮なくビールを飲んでくれ」

「どうも」

「この料理はお好み焼きと言ってね。ビールにとても合うんだ。たれを少なめにつけるのがコツでね。多すぎると風味を殺してしまう」

「そうですか」

 

 酒を注ぎ料理を勧めるトリューニヒト議長に対し、ヤン大将はそっけなく応じる。このやり取りは軍人以外の出席者から好意的に受け止められた。

 

「あの二人は本当に仲がいいな」

「トリューニヒト先生の気さくさと、ヤン提督の慎み深さがうまく噛み合っている」

「理想的なコンビだ」

 

 人々は政治家と武人の麗しい関係をそこに見出した。世間一般のイメージを通すと、フレンドリーに接する政治家に対し、軍務一筋の武人が照れているように見える。

 

 事情を知る者の目には、二人が不可視の刃をぶつけ合っているように見えた。トリューニヒト議長は友好関係を演出しているに過ぎない。ヤン大将は軍部きってのトリューニヒト嫌いである。慣れ合いを演じる政治家に対し、政治嫌いの武人が鬱陶しく思っているのが本当のところだ。

 

 宇宙艦隊司令長官ビュコック大将、宇宙艦隊総参謀長クブルスリー大将、地上軍総監ベネット大将ら良識派重鎮は、遠目でも分かるほどに不機嫌だった。良識派の中でも特に清廉な人たちにとっては、トリューニヒト議長のパフォーマンスは不快でしかない。

 

 同じ良識派でも、統合作戦本部長ボロディン大将や統合作戦本部計画部長マリネスク中将らは、改革派の議員や官僚と話している。彼らはシトレ元帥から清廉さと政治性の両方を受け継いだ。

 

 統合作戦本部作戦部長ラップ中将、国防委員会戦略副部長アッテンボロー少将ら有害図書愛好会グループは、毒舌で盛り上がっている。トリューニヒト議長のパフォーマンスに反骨精神を刺激されたのだろう。交流を求めて近寄ったトリューニヒト派政治家は、尻尾を巻いて逃げ返った。前線でも後方でもパーティーでも闘争的なのが、有害図書愛好会グループである。

 

 宇宙軍支援総隊司令官コーネフ大将、宇宙軍教育総隊司令官ルフェーブル大将、バーラト方面艦隊司令官アル=サレム大将ら旧ロボス派は、静かに飲み食いしている。ロボス退役元帥と親しかった議員と交流する様子はない。

 

 宇宙軍教育総隊副司令官アラルコン中将、第七機動軍司令官ファルスキー中将ら過激派は、大量の酒を胃袋に注ぎ込む作業に忙しい。テーブルを訪れた統一正義党の政治家には、酒で満杯になった特大ジョッキを差し出す。彼らはどこにいても兵卒のように振る舞う。右翼といっても、役人臭いトリューニヒト派とは正反対だ。

 

 統合作戦本部管理担当次長ブロンズ大将、情報部長ギースラー中将ら中間派は、メインテーブルに見向きもしない。極右も極左も嫌いなので「中間派」と呼ばれるのだ。NPCや進歩党右派など中道政治家とばかり話す一方で、元国家安全保障顧問アルバネーゼ退役大将、半年前に落選したジャーディス元上院議員ら中間派長老との旧交を温めた。

 

 トリューニヒト派は政治家との交際に余念がない。トリューニヒト派新人議員とは付き合いが薄いので、この機会に関係を深める。セレブレッゼ中将ら新規加入組は、トリューニヒト派古参議員に挨拶回りをする。俺のところにはひっきりなしに議員がやって来た。

 

 宇宙軍予備役総隊司令官グリーンヒル大将は、あちこちのテーブルに顔を出す。一か所に留まることはない。良識派の外交官として走り回っているのだ。

 

 隅っこでは、宇宙艦隊副司令長官ルグランジュ大将、統合作戦本部安全管理部長バウンスゴール技術中将ら無派閥の人間が静かに飲んでいた。派閥に属していない者には、酒と食べ物の味だけが重要だった。

 

「ヤン提督がいない」

 

 俺はびっくりして会場を見回した。有害図書愛好会グループのテーブルにもヤン大将はいなかった。彼の養子であり、非公式なボディーガードでもあるユリアン・ミンツ准尉は姿を消している。口実を付けて早退したのだろうか? 名将は退却戦が得意であった。

 

 式典の翌日、トリューニヒト議長はヤン大将に元帥待遇を与えた。これによってヤン大将は最先任の宇宙軍大将となり、宇宙軍元帥と同額の俸給を受け取ることとなった。帝国人やフェザーン人からは、「アトミラール(宇宙軍大将)」ではなく、「ゲネラール・アトミラール(宇宙軍上級大将)」と呼ばれる。すべての帰還兵が戻った暁には、元帥に昇格するだろう。

 

 ヤン大将ほどトリューニヒト政権で厚遇された軍人はいない。もちろん、裏には政治的な思惑がある。復員支援軍司令官への起用は、統合作戦本部から追い出す口実に過ぎない。元帥に昇進させれば、統合作戦本部長の職を与えることになるので、現本部長のボロディン大将を引退に追い込める。トリューニヒト議長としては、調整力に欠けるヤン大将がトップになればやりやすいとの計算もある。圧倒的なカリスマと戦うには、足を引っ張るより持ち上げる方が有効だ。

 

 今回の一時帰還にしても、実務的には何の意味も無い。トリューニヒト議長は帰還式を開くためだけに、ヤン大将を帰還船団と同行させた。

 

 トリューニヒト政権は行き詰まっていた。政府は大規模災害や大型テロへの対応に失敗し、危機管理能力の低さを露呈した。大衆党議員は汚職、醜聞、失言を繰り返し、有権者の失望を買った。辺境正常化作戦以外には見るべき実績がない。イベントをでっち上げて、市民の不満をそらしたかったのである。

 

 帰還式の一週間後、同盟警察と地方警察の合同部隊による臨時視閲式が、ハイネセンで実施された。衛星軌道上の宇宙視閲式では、同盟警察軌道警備隊二〇〇隻と地方警察航路警備隊一六〇〇隻が列を作って航行する。ハイネセンポリスの地上視閲式では、同盟警察特別機動隊一万三〇〇〇人と地方警察武装部隊七万二〇〇〇人が練り歩く。すべて辺境正常化作戦で活躍した精鋭だ。

 

 宇宙軍観艦式や地上軍観閲式に匹敵する規模の視閲式は、退役軍人の精強ぶりを示した。市民の間で彼らの現役復帰を求める声が高まった。

 

 その一方で視閲式を批判する声も大きい。レベロ元最高評議会議長は、「軍事力と警察力の一体化は、自由を侵害しかねない」と苦言を呈する。反戦市民連合のアブジュ下院議員は、戦争再開の準備だと述べる。ウィンザー元国防委員長は、「警察が軍隊に取って代わろうとしています」と非難した。

 

 最も視閲式を激しく批判したのは、軍部良識派だった。公然と批判すれば政府批判になるので、表向きは沈黙を保っている。しかし、内部では激しい批判が飛びかった。

 

「トリューニヒトは同盟軍を私兵にするつもりだ」

「市民を撃つ奴らなど、民主主義の軍にはふさわしくない」

「同盟軍を金のかかる軍隊に逆戻りさせる気だ」

 

 視閲式は市民を巻き添えにした警察を持ち上げ、軍の方針を否定したに等しい。良識派は市民に銃を向けることを何よりも嫌う。政府から反乱鎮圧を求められても、統合作戦本部長ボロディン大将は「軍は市民を撃ちません」と言って、住民保護に専念したのだ。地方警察武装部隊がトリューニヒト議長の私兵であること、警察が金のかかるトリューニヒト・ドクトリンを採用したことも、不快感をかきたてる。

 

 良識派以外にも反発する軍人は多かった。星境警備をめぐる惑星警備隊と軌道警察の対立、対テロ作戦をめぐる地上軍と公安警察の対立、対海賊作戦をめぐる宇宙軍と刑事警察の対立は、恒例行事のようなものだ。こうしたことから、軍隊には警察嫌いが多い。俺がクリスチアン中佐に辺境警察の仕事を紹介すると、「警察だけは嫌だ」と言われた。

 

 強烈な反感が渦巻く中、辺境正常化作戦に参加した退役軍人一〇〇万人が現役に復帰した。残り二五〇万人も来年の六月までに復帰させる方針だ。

 

 クレメンス・ドーソン予備役中将は宇宙軍大将に昇進し、統合作戦本部作戦担当次長の地位を得た。作戦担当次長はヤン大将が転出した後、宇宙艦隊総参謀長クブルスリー大将が兼ねたポストである。良識派の牙城に大きな芋、いや楔が打ち込まれた。露骨な派閥人事とはいえ、辺境正常化作戦で示した手腕は本物だ。

 

 マルコム・ワイドボーン予備役少将は宇宙軍中将に昇進し、統合作戦本部作戦部長に就任した。作戦部のプリンスは二度の左遷と一度の予備役編入を経て、完全復活を果たしたのである。作戦立案能力は復員司令軍司令官ヤン大将に次ぎ、宇宙軍支援総隊司令官コーネフ大将に匹敵する。国内作戦に限れば、ヤン大将やコーネフ大将を凌ぐだろう。ドーソン大将と二人三脚で国内治安戦略を進める。

 

 上の二人に匹敵する功労者のコンスタント・パリー予備役少将は、地上軍中将に昇進し、特殊作戦総軍副司令官の地位を得た。良識派は通常戦力を減らして特殊部隊を増やし、少数精鋭化を図った。パリー中将には、増強された特殊部隊をトリューニヒト派に染めることが期待される。

 

 辺境正常化作戦に参加しなかった者の中では、元国防委員会官僚や元憲兵の一部が現役復帰を果たした。復帰者の中で一番の大物は、国防委員会事務次長の地位を取り戻したスタンリー・ロックウェル宇宙軍中将である。俺と古い付き合いのナイジェル・ベイ宇宙軍大佐は、ハイネセン北大陸東部憲兵隊長となった。

 

 トリューニヒト議長とネグロポンティ国防委員長は、自派を復帰させる一方で、他派の有力者を栄転の名目で中央から追い出していった。統合作戦本部作戦部長ラップ中将は、シヴァ方面艦隊副司令官に追いやられた。国防委員会戦略副部長アッテンボロー少将は、惑星バイレで発生した超巨大ハリケーンの災害派遣部隊五〇万人を指揮することになった。空いたポストのほとんどが、トリューニヒト派の復帰者に与えられた。

 

 その他、シャンドイビン少将やギーチン准将のように良識派体制でも生き残った者、セレブレッゼ中将のように予備役期間に加入した者もいる。トリューニヒト派は往時の強盛を取り戻しつつあった。

 

「我が派の未来は明るいぞ!」

 

 復帰祝賀会の席ではドーソン大将はずっと上機嫌だった。口ひげが普段より少しシャキッとしている。いつもは麦茶を二杯飲むのに、今日は三杯飲んだ。

 

「よくそんな細かいところまで見てるな」

 

 ワイドボーン中将が呆れたように言う。

 

「副官ですから」

 

 俺がそう答えると、ドーソン中将も「そうだ! 貴官は私の副官なのだ!」と叫ぶ。出席者は大いに盛り上がった。

 

 いい気分で官舎に戻り、ポストを開けた。たくさんの郵便物の中に、かわいい猫のイラストが描かれた封筒が混じっていた。差出人の名前は載っていない。

 

「なんだろう?」

 

 不審に思いながら開けてみると、一枚の写真が出てきた。五人の人物が映っている。ベレー帽にエプロンを着けた中年男性と中年女性、二〇歳前後に見える丸顔の女性、高校生か大学生くらいの大人しそうな少女、そして制服を着た小柄な少女……。日付は宇宙暦七八八年の三月一四日。

 

「これは……」

 

 小柄な少女には見覚えがあった。五年前に俺を殺そうとしたルチエ・ハッセルを幼くした顔だ。中年男性と中年女性のエプロンには、「ハッセル・ベーカリー」の文字が刺繍されている。

 

「…………」

 

 ハッセル一家が全員生きていた頃の写真だった。日付からすると、俺がエル・ファシルで兵隊をやってた頃だ。

 

 いたたまれなくなって写真を裏返すと、「エル・ファシルはエリヤ・フィリップスを忘れない」という殴り書きが視界に入る。ひどい目まいを感じた。エル・ファシルの怨念が再び姿を現したのである。

 

 

 

 九月一日、南大陸のウェントレット宇宙軍基地で惑星間ミサイルが爆発した。六一名が負傷して二三名が病院に運ばれたにも関わらず、死者は出ていない。ロボットにミサイル整備を任せたのが幸いした。軍縮前の人間が整備していた時期なら、かなりの死者が出たと思われる。

 

 その後も事故や故障が続いた。いずれも細かいミスによるものだ。事故率は先月の一二倍、平均的な部隊の一一倍まで跳ね上がった。死者が出ていないとはいえ、予断を許さない状況である。

 

 俺は必死で安全対策に取り組んだ。調査チームを作って事故を徹底的に検証した。安全教育の充実を図り、安全のための設備投資を行い、交代人員を増やして一人ひとりの負担を減らし、管理能力のない指揮官を交代させ、ミスを誘発する要素を丹念に潰していく。

 

 安全管理体制が飛躍的に強化されたにも関わらず、首都防衛軍の事故率は下がらなかった。あるパターンのミスを防げるようになると、違うパターンのミスが多発するようになるのだ。安全管理の専門家は、「首都防衛軍は軍人がなしうるあらゆるミスの見本市」と評する。国防委員会査閲部と統合作戦本部安全管理部が臨時監査を行った。

 

 こうなると、俺の責任問題に発展してくる。世間は「ラグナロックの英雄」を神聖視しているので、マスコミからの批判はほとんどない。一方、軍内部では「フィリップス提督の統率に問題があるのではないか」との見方が広まった。対海賊作戦を指揮させた方がいいとの声もある。

 

 ほんの一か月で、俺の評価は「センジュカンノン」から「戦闘しかできない男」に変わった。統合作戦本部に呼び出されて厳重注意を受け、ネグロポンティ国防委員長からは休養を勧められた。

 

 俺自身も災難に見舞われた。東大陸へ出張したら狙撃され、海底基地を訪れたら海水が第二隔壁まで流れ込む事故が起き、街を歩いたら無人運転のタクシーに跳ねられそうになった。一か月で三度も死にかけたのである。

 

「エル・ファシルの怨念に祟られた」

 

 俺は司令官室でがっくりと肩を落とす。

 

「そんなわけないでしょう」

 

 ラオ作戦部長が即座に否定する。オカルトなど彼は一切信じない。

 

「他に説明がつくか? できることは全部やった。同盟軍で最も安全な部隊よりしっかりした体制を作った。それでもミスが減らないんだぞ?」

「もっと調査しましょう。まだ見つかっていない理由があるはずです」

「調査はするさ」

「オカルトに逃げたくなる気持ちはわからないでもありません。ですが、司令官にはあくまで現実と戦っていただきたいものです」

 

 作戦参謀ほど合理主義を信奉する人種はいない。ラオ作戦部長もその例外ではなかった。

 

「わかっている」

 

 口ではそう答えたものの、内心では割り切れないものを感じる。そもそも、俺自身がオカルトの産物だった。一度死んだ人間が六〇年前に戻って人生をやり直したのだ。時間逆行がありなら、祟りがあってもおかしくない。

 

「人為的な力かもしれませんよ」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代行はのんびりした顔で不穏なことを口にする。

 

「人為的な力?」

「首都防衛軍はどの部隊よりも安全対策に力を注いでいます。これまでに八八通りの欠陥を潰しました。対策が末端に行き渡るまでは時間がかかります。それでも、事故率が下がらないのは不自然です。何者かの破壊工作だとすれば、説明がつきます」

「それは思いもよらなかった。しかし、誰が破壊工作なんて仕掛けるんだ?」

「二通り考えられます。一つは閣下が失脚することで得をする者、もう一つは首都防衛軍が機能低下することで得をする者です」

「どちらも山ほどいる」

 

 俺は苦い笑いを浮かべた。トリューニヒト派以外の全派閥が俺の失脚を望んでいる。すべてのテロリストが首都防衛軍の機能低下を望んでいる。

 

「動機を持つ者は山ほどいます。しかし、能力を持つ者はそれほど多くありません」

「管区ごとの事故率に差はないんだよな。これが破壊工作だったら、敵はどの基地にも入り込める奴だ」

「ドーソン提督に相談してみてはいかがですか?」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代行が提案すると、ラオ作戦部長、ベッカー情報部長らも頷いた。首都防衛軍だけで結論を出すには、あまりに深刻すぎる問題だったのだ。

 

 幕僚たちが出て行った後、俺はドーソン大将に連絡を入れた。首都防衛軍の事故が破壊工作によるものだというチュン・ウー・チェン参謀長代行の推測を伝え、自分自身の見解を示す。参考として事故関連のデータを転送する。

 

「クーデターかもしれん」

 

 一通り話を聞いた後、ドーソン大将の口から現実離れした言葉が飛び出した。

 

「ク、クーデターですか!?」

「噂ぐらいは耳にしたはずだ」

「あります」

 

 俺は表情を引き締めた。視閲式の前後からクーデターの噂が広がった。「ビュコック大将とグリーンヒル大将による反戦派政権樹立のクーデター」という噂もあれば、「アラルコン中将による軍事政権樹立のクーデター」という噂、「コーネフ大将とアル=サレム大将による旧与党復権のクーデター」という噂、「ブロンズ大将と特殊部隊による極右追放のクーデター」という噂もある。

 

「貴官がクーデターを企んでいるとの噂もあったな」

「でたらめもいいところです」

「言われんでもわかっとる」

 

 ドーソン大将は軽く顔をしかめる。

 

「ありがとうございます」

「どいつもこいつもでたらめばかりだ。トリューニヒト派が逆クーデターを仕掛けるとほざく奴がいる。改革派を粛清するためだそうだ。まったくもって馬鹿馬鹿しい!」

「そうですよね」

「反戦派ジャーナリストが考えそうな妄想だ。そういえば、アッテンボローはジャーナリスト志望だった。口だけは本当に達者でな。後にも先にも、あいつほどむかつく奴には会ったことがない。そもそも……」

 

 こうなると、この人は止まらない。俺は追従的にも無愛想にもならないように気をつけながら、最低限の返事を続ける。スイッチが入った時は聞き手に徹するのが、付き合いを続ける秘訣だ。

 

「つまり、何者かがクーデターを企んでいるのだ」

 

 気が済んだところで、ドーソン大将は本題に戻った。

 

「貴官一人を失脚させるだけならば、大きな死亡事故を起こせばいい。首都防衛軍を混乱させるだけならば、通信基地や補給基地をいくつか吹き飛ばせばいい。ハイネセン全域で小さな事故を起こし続けるよりよほど簡単だ。迂遠な手段を使う理由は一つしか無い。敵は首都防衛軍を無傷で手に入れたがっている」

「首都防衛軍はハイネセンで唯一の治安維持戦力ですからね。宇宙艦隊や地上総軍は正規戦向きの部隊ですし」

「クーデターに使いたいのか、中立化させてクーデター後に手に入れたいのかはわからん。いずれにせよ、首都を占拠する計画があるのは間違いない」

 

 実に鮮やかな推論だった。情報収集能力と情報分析能力こそがドーソン大将の持ち味である。

 

「ご明察に感服いたしました」

 

 俺は画面に向かって頭を下げた。この人が恩師で良かったと改めて思う。

 

「貴官の頭では考えつくまい」

 

 ドーソン大将の口ひげが誇らしげに反り返る。尊敬の気持ちが急にしぼんでいった。俺なんかに勝ち誇るのはやめてほしい。

 

 

 

 一〇月四日、クーデターを防止するための非公式組織「国家非常事態委員会(SEC)」が発足した。ネグロポンティ国防委員長がSEC委員長を兼ねる。

 

 SECの軍人は七名。統合作戦本部作戦担当次長ドーソン宇宙軍大将、国防委員会事務総局次長ロックウェル宇宙軍中将、特殊作戦総軍副司令官パリー地上軍中将、統合作戦本部作戦部長ワイドボーン宇宙軍中将、憲兵司令官代理イアシュヴィリ地上軍少将、第九機動軍司令官フェーブロム地上軍少将、そして俺だ。全員がトリューニヒト派なのは言うまでもない。

 

 SECの政治家は、ステレア情報担当国防副委員長、マッカラン防諜担当国防委員、テオドラキス国内作戦担当国防委員の三名だ。いずれも情報と国内治安の担当者である。

 

 SECの警察官は、同盟警察保安担当副長官チャン警視監、同盟警察公安第三課長ナディーム警視長、同盟警察警備第一課長マサルディ警視長の三名だ。彼らはトリューニヒト議長の出身母体である保安警察の幹部で、公安警察、機動隊、警察特殊部隊を動かせる。

 

 初日の会議では俺が話題の中心になった。イアシュヴィリ少将は、「破壊工作の犯人とフィリップス提督を狙撃した者は、同じグループではないか」と推測した。ナディーム警視長は、「海底基地や無人タクシーの件は単なる事故とは思えない」と述べる。敵は首都防衛軍への破壊工作と、俺の暗殺計画を同時に進めているとの結論が出た。

 

「写真の件については、いかが思われますか?」

 

 俺はイアシュヴィリ少将に質問した。ハッセル一家の写真については、憲兵隊が調査しているのだ。

 

「普通に考えるなら、エル・ファシル革命政府軍の仕業だろう」

「ですよね」

「革命政府軍を偽装したとも考えられるがね。裏の人間なら、君とハッセルの因縁は知っていてもおかしくはない。ハッセルの同志から写真を入手することもできる。革命政府軍に情報を流して、君を殺させるつもりかもしれん」

「エル・ファシル革命政府軍の仕業とは言い切れないんですね」

「まあな。しかし、少なくとも犯人と革命政府軍は、どこかで接触しているはずだ。そちらの線から調べてみよう」

 

 イアシュヴィリ少将は快く応じてくれた。俺の口添えによって当時の憲兵司令官ドーソン大将の信頼を得た憲兵の一人で、サイオキシンマフィアとの戦いでも活躍した人だ。こんなに信頼できる人はそうそういない。

 

 だが、憲兵隊にはあまり期待できなかった。レベロ政権とホワン政権が予算を大幅に減らし、良識派が組織を半分に縮小した。一度小さくなった組織を元に戻すには、倍の時間がかかる。視閲式の前後から事故や不祥事が続き、大きな混乱が生じた。首都防衛軍と似たような状況だった。

 

 SECは監視対象に優先順位を付けた。ハイネセン駐在部隊に影響力を持つ反トリューニヒト派将官、首都周辺の反トリューニヒト派部隊、兵力はないが情報力や資金力がある反トリューニヒト派組織が最重要監視対象に指定されたのである。憲兵隊はビュコック大将、グリーンヒル大将、ブロンズ大将、アラルコン中将ら一四名、バーラト方面艦隊、バーラト方面軍集団、第一機動集団、第一機動軍など一一部隊、国防委員会情報部、情報保全集団など八組織を監視する。

 

 俺は最重要警護対象に指定された。これまでは他の軍集団級部隊司令官と同様に、勤務時間中だけ二人の憲兵が警護についていた。今後は三チーム一二人が二四時間体制で警護する。SECが解散するまでは官舎に帰らずに、セキュリティが厳重な首都防衛軍司令部に泊まり込む。

 

 クーデター対策は非公然活動として進められた。通常勤務の合間に策を練り、真の目的を伏せて部下を動かし、ネグロポンティ委員長とロックウェル中将が別の名目で引っ張ってきた金を使う。公然と動ければ、時間も人も金も好きなように使えるのだが、敵がスパイを送り込んでくるかもしれない。相手が相手だけに、慎重を期する必要があった。

 

 一〇月一二日の昼一二時、副官代理ハラボフ少佐が「面会希望者がいる」と報告してきた。名前を聞くと、アンドリュー・フォーク予備役少将だという。

 

「会おう」

 

 俺は一秒で決断した。

 

「アポイントメントがございませんが」

「これから昼休みだ。食堂で飯を食いながら話せばいい」

 

 俺は手の平を振って「気にするな」のジェスチャーをすると、ハラボフ少佐と警護兵四人を連れて玄関まで出迎えに行った。

 

 アンドリューと最後に話したのは、二年前の四月一〇日だった。ロボス元帥への取り次ぎを求める俺と、それを断ろうとする彼の間で押し問答になった。俺が追い詰めたようなものなのに、あちらから会いに来てくれた。これほど嬉しいことはない。

 

 一瞬、前の世界のアンドリューが、統合作戦本部長暗殺未遂事件を起こしたことを思い出した。しかし、俺の命を狙ったりはしないだろう。ロイエンタールがミッターマイヤーの命を狙うようなものだ。

 

 首都防衛司令部の玄関にアンドリューが立っていた。二年前とまったく変わっていない。肌には血の気がなく、顔は痩せこけている。一八六センチの長身と薄すぎる横幅が対照的だった。

 

 俺は言葉を失った。二年間入院していたはずなのに、アンドリューの体調が良くなったようには見えない。いったいどういうことなのか。

 

「やあ」

 

 アンドリューが右手を弱々しく上げる。

 

「久しぶり」

 

 俺は右手を勢い良く上げる。たったこれだけのやり取りなのに、目頭が熱くなってきた。やはり彼は友人だ。とても大事な友人だ。

 

「出迎えありがとう」

「俺と君の仲だ。たとえフェザーンにいたって迎えに行くさ」

 

 俺はアンドリューの左隣を歩いた。前と後ろと左と右に一人ずつ警護兵が付き、ハラボフ少佐は俺の左斜め後ろに貼り付く。

 

「ところでいつ退院したんだ?」

「二日前だ」

「もう治ったのか?」

「治った。すぐにでもロボス閣下のために働ける」

「君は本当にロボス元帥が好きなんだな」

「何度生まれ変わったって、ロボス閣下にお仕えしたい」

 

 アンドリューのきらきらした目には既視感がある。コレット中佐と同じ目だった。彼の目にはロボス元帥以外は映っていなかった。上官の名声を守るためなら、国家の利益や兵士の生命を度外視できた。

 

「そうか。俺は何度生まれ変わっても、アンドリューと仲良くしたいぞ」

 

 俺は作り笑いでごまかした。ラグナロックで失われたものの大きさを思うと、親友の忠誠心を微笑ましく感じることはできない。

 

「友達として頼みたいことがある」

「なんだ?」

「ロボス閣下への訴えを取り下げてほしい」

 

 アンドリューはおそろしく真剣な表情になった。俺がロボス元帥ら帝国領遠征軍首脳部を訴えたことを知っていたのだ。

 

「いつ知ったんだ?」

「最近だ」

「なるほどなあ」

「敗戦責任はすべて俺にある。俺の作戦が敗北を招いた。ロボス閣下は一つも悪くない。戦犯を裁きたいなら、俺を訴えろ」

「それは難しい」

 

 俺も顔を引き締めた。他の頼みならなんだって聞く。しかし、ロボス元帥の件だけは譲れない。

 

「君は作戦参謀の一人だ。決定権は何一つ持っていない。君の作戦が敗因でも、総司令官には誤った作戦を採用した責任がある。総参謀長と作戦主任参謀と情報主任参謀と後方主任参謀には、誤った作戦を修正できなかった責任がある。誰に責任があっても、ロボス元帥に責任がないとは言えない」

「俺たち冬バラ会は全権を任されていた。出兵案を作ったのも、出兵案への支持を取り付けたのもすべて冬バラ会だ」

「だったら、冬バラ会に全権を任せた人の責任になるぞ? 冬バラ会の政治工作を容認した人や支援した人にも、責任が生じてくる」

 

 俺は淡々と基本的な話をする。政治の世界では、しばしば論理的整合性よりも政治的必要性が優先される。冬バラ会という絶対悪が政治的に必要だったので、専門家も矛盾だらけの冬バラ会悪玉論を支持した。俺はわかりきった矛盾をつくことで、相手の論理に乗らない意思を示したのである。

 

「とにかく訴えるのはやめてくれ。ロボス閣下は何年も前から病気なんだ。軍法会議に耐えられる健康状態じゃない」

 

 アンドリューはすがるような目で俺を見る。ラグナロック戦役が終わると、ロボス元帥は「実はずっと前から病気だった」と言って、病院にこもってしまった。おかげで俺が起こした裁判も進まない。責任追及を逃れるための仮病だと思っているが、それを口にできる雰囲気ではない。

 

「俺がどれほどロボス閣下を大事に思っているかは、エリヤだって知っているはずだ」

「アンドリュー……」

 

 俺は大きく息を吐いた。アンドリューの目にはロボス元帥しか映っていない。それが残念でたまらなかった。

 

「ダーシャはとても大事な人だった」

 

 ここで一旦言葉を切る。かつて俺、アンドリュー、ダーシャ、イレーシュ大佐の四人で話した時のことを思い出す。あれから七年が過ぎた。ダーシャは思い出の中にしかいない。

 

「俺には大事な戦友や部下がいた。その半分が生きて帰れなかった」

「…………」

「君がロボス元帥を大事に思っているように、俺も死んだ人たちを大事に思っていた」

 

 俺はもう一度言葉を切った。戦友や部下の顔が次々と頭の中に浮かんでくる。彼らは思い出の中にしかいない。譲れない理由を再確認してから口を開く。

 

「大事な人のために俺は裁判をやる。俺以外の原告一〇五人も同じだ。大事な人のために戦っている。君が譲れないのはわかる。けれども、俺も譲れない。そのことをわかってほしい」

「わからないとは言えないな……」

 

 アンドリューのやせ細った顔に微笑が浮かぶ。とても悲痛な微笑だ。

 

「裁判では譲れない。けれども、それ以外なら何だってする。君は大事な友人だ。何でも言ってくれ。軍に復帰する手助けでも、民間で働く手助けでも、名誉を回復する手助けでも喜んでする。自分の一存で動けないんなら、家族についても俺がどうにかする」

「エリヤはいい奴だ」

「君の方がずっといい奴だろうが。恩人のためにあれほど必死になれる人はそうそういない。十分に恩義を果たしたと思うぞ。これからは自分のために生きてもいいんじゃないか?」

「自分のため……」

「そうとも、人のためじゃなくて自分のためだ。友達を作り、家族を作り、みんなで一緒に人生を楽しむんだ」

 

 俺は「みんなと一緒に」を強調する。アンドリューはロボス元帥の背中を追いかけてきた。この先は多くの人と肩を並べて歩いてほしい。

 

「悪くない」

「悪くないどころじゃないさ。素晴らしいぞ」

 

 ここまで話したところで士官食堂に着いた。昼時なので席は九割がた埋まっている。

 

「飯を食おう」

 

 俺が声をかけた瞬間、アンドリューの顔が強張った。

 

「どうした? 具合が……」

 

 言い終える前に俺は左後方から引っ張られた。反射的に受け身の姿勢を取ると、ハラボフ少佐が俺の位置に来てアンドリューに掴みかかったのが見えた。アンドリューの右手にはブラスターが握られている。

 

 ハラボフ少佐は両手でアンドリューの右手首を掴むと、右腕ごと時計回りに大きく回転させて投げ飛ばす。アンドリューが倒れると、ハラボフ少佐は寝技で押さえ込む。

 

 ようやく、俺は自分が撃たれそうになったことに気づいた。警護兵がアンドリューの両手を背中に回して手錠をはめるのが見える。

 

「アンドリュー、どうしてこんなことをしたんだ?」

 

 俺は虚ろな表情のアンドリューに問いかけた。しかし、答えは返ってこない。

 

「どうしてこんなことをした? 教えてくれ」

 

 しつこく問い続ける俺の背後から冷たい声が聞こえた。

 

「司令官閣下」

 

 ハラボフ少佐の声である。振り返ると、いつもと同じように感情のこもっていない顔の副官代理がいた。

 

「司令官閣下、いかがなさいますか?」

「何をだ」

「フォーク少将のことです」

「ああ、そうか。俺が決めないといけないんだな……」

 

 俺はアンドリューの友人から首都防衛軍司令官に戻った。

 

「怪我人はいるか?」

「一人もおりません」

「食堂の入り口は?」

「警備兵が封鎖しています」

「それなら、この件は事件にしない。被害が出ていないんだからな。居合わせた者には秘密厳守を命じる」

「フォーク少将の身柄はどうなさいますか?」

「彼は体調が良くないようだ。病院に運んだ方がいい」

 

 この時、俺は二年前のグリーンヒル大将と逆のことをやった。心の病気ではないと印象づけたのである。

 

 アンドリューはハイネセンポリス第二国防病院へと移送された。首都防衛軍司令部から一番近いオリンピア国防病院では、ローズ軍医中将一派の医師が幅を利かせている。政治的配慮を医学に優先することで有名なローズ軍医中将は、ラグナロックで遠征軍衛生部長を務めた。アンドリューを「転換性ヒステリー」と決めつけたヤマムラ軍医少佐は、ローズ軍医中将の配下だった。オリンピア国防病院に移送したら、どんなことになるかわかったものではない。

 

 この日の夜、俺はSECの緊急会議で「不用心すぎる」と批判された。言い訳のしようもない。ただただ恥じ入るばかりだ。事件にしなかったこと、憲兵隊の影響下にある第二国防病院に移送したことについては評価された。

 

 イアシュヴィリ少将は取り調べの状況を報告した。アンドリューは俺を撃った前後の記憶が無いらしい。催眠術が使われた可能性が高いという。

 

「フォーク少将から直接情報を引き出すのは困難だ。彼が入院していた病院の関係者、入院中に面会に来た人物、退院後に接触した人物を洗い出してみよう」

「よろしくお願いします」

「この件には、国防委員会情報部か中央情報局が絡んでいる可能性が高い。催眠術を暗殺に応用できるレベルの術師がいるのは、国内ではこの二つだけだ。帝国やフェザーンの組織が絡んでいる可能性もないわけではないが」

 

 国防委員会情報部と中央情報局といえば、破壊工作の最有力容疑者である。どちらもアルバネーゼ退役大将の息がかかった組織で、反トリューニヒト感情が強い。国内はもちろん、国外であっても好きな場所に工作員を送り込める。最重要監視対象のブロンズ大将は昨年まで情報部長だった。能力も動機も十分すぎるほどに持っている。

 

 前の世界で起きたクーデターは、ヤン・ウェンリーの洞察によると、同盟軍が帝国内戦に介入するのを防ぐための策だったらしい。この世界の帝国は平民や貴族の反乱が続発しており、事実上の内戦状態だ。内戦の当事者の中には、復員支援軍が邪魔だと思う者もいるだろう。帝国の情報機関がクーデターを煽動してもおかしくはない。

 

 誰が裏にいても、やることは変わらない。首都防衛軍をしっかり掌握する。自分の身の安全を確保する。この二つを徹底するのだ。



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第77話:政治と軍事のすれ違い 801年10月12日~10月中旬 ハイネセンポリス某所~焼肉屋~首都防衛軍司令部

 民主国家においては、政治的対立は言論の形をとって現れる。対立する両派は「政党」と名付けられた疑似軍隊を作り、「議員」と名付けられた兵士を集め、「議会」と名付けられた疑似戦場に展開し、「政策論争」や「選挙」と名付けられた疑似戦争を戦う。野党は「政権交代」と名付けられた疑似革命を目指し、与党は政権を継続させるためにエネルギーを費やす。平和的手段による政権交代の制度化こそが、民主主義の最大の特徴といえる。

 

 一方、専制国家の政権交代が平和的に行われることは稀だ。暴力と陰謀なくして、権力者が倒れることはない。権力者が子供に権力を譲る場合でも、後継者が確定するまでには多くの血が流れるし、後継者を暴力で変更しようとする者は後を絶たない。政権が無事に継承された場合、他の後継者候補とその支持者は、天国や流刑地に追放されるだろう。

 

 もっとも、同盟でも暴力的な政権交代を試みる者はいた。主戦派軍人が国防体制を強化する目的でクーデターを企てたこともあれば、反戦派軍人が無謀な出兵を止めるためにクーデターを企てたこともある。

 

 建国からの二七八年間で発生したクーデター未遂事件は、記録に残っているものだけで一二回、表に出なかったものも含めれば四六回に及ぶ。蜂起までこぎつけたのは、マンフレート亡命帝との講和に反対する地上総軍が蜂起した七〇七年の「建軍記念日事件」と、第一艦隊がハイネセンポリスを三日間占拠した七六七年の「ハイネセン六月危機」の二件だけだ。

 

 近年では、統一正義党の影響を受けた過激派将校グループ「嘆きの会」が、三度のクーデター未遂事件を起こした。七九二年九月の事件は国防委員会情報部が防ぎ、七九三年八月と七九三年一二月の事件は憲兵隊が防いだ。いずれも計画段階で発覚したため、表には出ていない。

 

 国家非常事態委員会(SEC)には、かつてクーデターを防いだ人物が加わっている。統合作戦本部次長ドーソン大将は当時の憲兵司令官、憲兵司令官代理イアシュヴィリ少将は当時の憲兵隊調査部長、俺は当時の憲兵司令部副官だった。

 

「八年前と同じことをするだけだ」

 

 統合作戦本部次長ドーソン大将はそう豪語した。声は上ずっており、虚勢を張っているようにしか見えない。二度のクーデター計画を摘発した実績は本物なのだが。

 

 暗殺未遂から二日後の一〇月一四日、秘密の会議に一四名全員が集まった。もっとも、俺を含めた一二名は立体画像として参加している。これほどの高官が一か所に集まるなど、物理的に不可能だ。

 

 同盟軍には、トリューニヒト派、良識派、旧ロボス派、中間派、過激派の五大派閥がある。トリューニヒト派を除く四派閥に、クーデターの疑いがかかっていた。

 

「一番怪しいのは良識派だ」

 

 ドーソン大将が決めつけるように言う。異論のある者は一人もいない。正確に言えば、俺はグリーンヒル大将以外は大丈夫だと思っているが、前の世界の知識以外に根拠がなかった。

 

 良識派は前統合作戦本部長シトレ元帥の思想を受け継ぐ派閥である。ダゴン会戦以来の同盟軍リベラルの流れを汲み、軍縮・専守防衛・対帝国緊張緩和を掲げる。主な支持層は士官学校戦略研究科出身のエリート幕僚、個人プレーを好む陸戦隊員と空戦隊員、職人気質の強い特殊部隊隊員だ。武勲が多いことから、市民からの人気が最も高い。

 

「人気だけだがな」

 

 国防委員会事務局次長スタンリー・ロックウェル中将が、非友好的な視線を端末に向ける。そこには良識派の成果が書き連ねられていた。

 

「現役兵の一九〇〇万人削減、大型編制から小型編制への転換、後方支援や地方警備の民間委託、指揮系統の効率化、ハイテク装備の導入、情報通信機能の強化、パワハラやセクハラに対する厳罰化、危機管理能力重視の教育、民間との癒着排除……。聞こえは良くても、中身は空っぽだ」

「編制の小型化、ハイテク装備の導入、情報通信機能の強化、ハラスメント対応の強化なんかは、貴官の主張と同じでは?」

 

 そう指摘するのは、特殊作戦総軍副司令官コンスタント・パリー中将である。ロックウェル中将は不機嫌になった。

 

「口先だけなら何とでも言える。大事なのは実績だ。あの連中に私と同じことができるものか」

「一応の成果はあげていると思いますがね」

「そう見えるだけだ」

 

 ロックウェル中将はあくまで否定する。「自分ならもっとうまくやれる」と言いたいのか、敵がうまくやったことが悔しいのかは、誰にも判別できない。

 

「あいつらの目には、トリューニヒト議長が同盟軍を私物化しているように見えるらしいぞ」

 

 ドーソン大将が話題を変えると、すかさずロックウェル中将が食いつく。

 

「軍隊を『国家の中の国家』に作り変えたい連中に言われてもな」

「まったくだ。どちらが私物化しているのやら」

「口では『軍の政治的中立』『権力者ではなく市民を守る軍隊』などと言うが、政治家の言うことを聞きたくないだけだ。民主国家の軍人がすることではない」

「あの連中が言いたいことは、『馬鹿は黙ってろ。賢い俺たちに全権をよこせ』に尽きる。ただの戦争屋だ。軍隊の外にある光景が見えていない。戦術レベルや作戦レベルでは優秀かもしれんが、戦略レベルでは通用せんな」

 

 ドーソン大将は自分こそが本物の戦略家だと言いたげである。彼やロックウェル中将は政治家や市民との関係を重視する。予算を取ってくるのは政治家だ。税金を払うのは市民だ。だからこそ、スポンサーを満足させる戦略を立てないと駄目だと考える。軍隊を企業とすると、彼らの戦略はスポンサー重視と言えよう。

 

 一方、ヤン大将やボロディン大将ら良識派は、兵士の命を大事にする。命を賭けるのは兵士だ。だからこそ、犠牲の少ない戦略が必要だと思っている。スポンサーを満足させるためだけの戦略など論外だ。彼らは従業員重視の立場と言える。

 

「…………」

 

 俺は何も言わずに耳を傾ける。ラグナロックに従軍したワイドボーン中将、パリー中将、フェーブロム少将も黙っていた。

 

 ドーソン大将らの言い分を無批判に肯定することはできない。ラグナロックでは、政治家や市民を満足させるための戦略が破滅を招いた。戦友も部下もたくさん死んだ。良識派の言う通り、軍事的合理性のある戦いだけをやれば、こんなことにはならなかった。

 

 しかし、アピールが大事なのもわかる。兵士にうまい飯を食わせ、新しい装備を持たせ、実戦的な訓練を施すには金が必要だ。政治家や市民を満足させないと、兵士を手厚く待遇することもできない。軍事的に無意味な戦いでも、兵士にとっては意味がある。

 

「クーデターの動機は十分だ」

 

 ネグロポンティ委員長の声には確信がこもっていた。同意しない者は一人もいない。俺から見ても、グリーンヒル大将がクーデターを起こす動機としては十分だろう。

 

「ビュコックが一番危ない。持論を押し通すためなら、民主主義を無視しかねない奴だ」

 

 最も危険視されるのは宇宙艦隊司令長官ビュコック大将だ。二等兵から叩き上げた生粋の軍艦乗りで、誰に対しても遠慮しない。兵士からは「俺たちのアレク親爺」と親しみを込めて呼ばれる。トリューニヒト派を露骨に嫌い、目を開けばうさんくさげに睨み、口を開けばアッテンボロー少将も及ばないほどの毒舌を吐くといった具合だ。

 

「大丈夫だと思いますよ」

 

 俺はビュコック大将を擁護した。前の世界では民主主義のために殉じた名将だ。口が悪いから誤解されるだけで、持論より民主主義を優先すると思う。こんな人に監視をつけるのは人員の無駄遣いだろう。

 

「君はビュコックの何を知っているのだ?」

 

 ネグロポンティ委員長が鋭い目つきで俺を睨む。ドーソン大将とロックウェル中将は不機嫌になる。彼らは俺よりずっとビュコック大将と顔を合わせた回数が多い。それだけ不快な思いをさせられているのだ。

 

「いえ、申し訳ありません」

 

 俺はすぐに引き下がった。前の世界の記憶なんて証拠にはならない。この世界ではビュコック大将と数回しか会ったことがないし、そのすべてで冷淡な対応をされた。ビュコック大将が良い人だと客観的に主張できる材料は、持ち合わせていなかった。

 

「話を続けるぞ。二番目に危ないのはベネット、三番目はクブルスリー、四番目は――」

 

 次々とハイネセンにいる良識派幹部の名前が読み上げられた。地上軍総監ベネット大将は地上総軍の総司令官だ。宇宙艦隊総参謀長クブルスリー大将は、実働部隊を持っていないが、声をかけたら決起する将校は多いだろう。四番目以降はハイネセンに駐留する部隊の司令官であり、なおかつ反トリューニヒト的な人物だった。

 

「最後はボロディンだ」

 

 思い出したように、統合作戦本部長ボロディン大将の名前が出てきた。トップだから一応出したといった雰囲気だ。持論より民主主義を優先する人だと思われているので、あまり警戒されていない。

 

「グリーンヒル大将はいないのですか?」

 

 俺の質問に対し、ネグロポンティ国防委員長はうんざりしたような顔をした。

 

「あの男は問題ない。監視対象から外した」

「どうして外したんですか? 影響力はクブルスリー大将よりずっと大きいはずです」

「グリーンヒルは分別のある男だ。どんな時でも理想より秩序を優先する。ラグナロックでもそうだった」

「追い詰められたら、どうなるかわかりませんよ」

「裁判は被告側有利に進んでいるはずだが」

 

 ネグロポンティ国防委員長が指摘する通り、俺が起こした軍法会議請求訴訟は被告側に有利な方向で進んでいた。グリーンヒル大将は追い詰められていない。だが、実際に事を起こした実績があるのだ。

 

「しかし、万が一ということもありますし」

「ルイスの戯言を信じているのではあるまいな?」

「そんなことはありません」

 

 俺は慌てて首を振る。ルイス准将は何の根拠もなしに、「グリーンヒル大将がブロンズ大将やルグランジュ大将と一緒に、クーデターを企んでいる」と言いふらす。だが、俺には根拠があった。決してこの場では出せないものだが。

 

「人員には限りがあるのだ。優先度の低い者まで監視する余裕などない」

「そうだぞ、フィリップス提督。憲兵隊の状況は知っているだろうに」

 

 イアシュヴィリ少将が疲れたような表情で俺を見る。

 

「存じております」

「だったら、無茶は言わんでくれ」

「わかりました」

 

 俺はやむなく引き下がった。憲兵隊は組織再建という大きな課題を抱えているし、相次ぐトラブルへの対応にも忙しい。

 

 宇宙艦隊副司令長官ルグランジュ大将にも監視を付けるべきだと、俺は主張した。この世界では政治的に無色だし、俺個人としても信用できる人だ。それでも、前の世界ではクーデターを起こした。警戒するに越したことはないと思ったが、人が足りないと言われて却下された。

 

「軍がもう少し警察に好意的なら、簡単なのだがね」

 

 チャン警視監が苦笑いを浮かべる。軍隊ほど警察嫌いの組織はない。警察官が軍事施設に踏み込むには、嫌がらせとしか思えないほどに複雑な手続きが必要だ。無断で忍び込んだことが発覚すれば、責任者の首が飛ぶ。

 

「それは先の話だ」

 

 ネグロポンティ国防委員長はそう言って次のファイルを開く。

 

「過激派は何をするかわからん。分別がない」

 

 過激派は極右思想で結びついた地方閥や兵科閥の連合体である。軍事独裁・反フェザーン・革新主義が特徴だ。実戦部隊で体を張る人や、教育部門で若者を指導する人から支持を受ける。三度のクーデター未遂を起こした「嘆きの会」は、この派閥の一グループだった。

 

 彼らは良識派の改革で軍から追放されたが、母体の統一正義党が与党入りしたおかげで復権できた。ところが、復帰した途端に革新運動を始めたのだ。統一正義党が止めようとしても、「妥協した奴らの言うことなど聞けるか」と突っぱねる。

 

「最も警戒すべきは、アラルコンとファルスキーだ」

 

 ネグロポンティ国防委員長が過激派の双璧と称される人物をあげる。教育総隊副司令官アラルコン中将は、実働部隊を持たないが、ひと声かければ大勢の将校が立ち上がるだろう。第七機動軍司令官ファルスキー中将の人望は、アラルコン中将に次ぐ。

 

「旧ロボス派は単独では動けない。人気がないからな。事を起こすとすれば、他の派閥と組むだろう」

 

 旧ロボス派はすっかり衰えた。ダゴン会戦以来の同盟軍保守本流を受け継ぎ、シトレ派と軍を二分した派閥とは思えないほどだ。それでも、宇宙艦隊や地上総軍に根強い勢力がある。バーラト方面艦隊司令官アル=サレム大将、宇宙軍支援総隊司令官コーネフ大将、宇宙軍教育総隊司令官ルフェーブル大将らの影響力は侮りがたい。

 

「中間派にも単独で決起する力はない。良識派か旧ロボス派のいずれかと組むはずだ」

 

 厳密に言うと、中間派はハイネセン主義を支持する地方閥や兵科閥の緩やかな連合であり、派閥とはいえない。しかし、その緩やかさゆえに広い裾野を持っている。一貫して穏健勢力と行動を共にし、極左と極右を攻撃してきた。

 

「情報閥とシロン・グループは良識派より反トリューニヒト的だ。中間派全体が動かずとも、奴らだけは絶対に動く」

 

 この見解はSECメンバーの共通認識だった。情報閥は「国家の中の国家」と称される国防委員会情報部を支配する情報科軍人の派閥だ。シロン・グループは惑星シロンの出身者が結成した地方閥である。どちらもトリューニヒト議長の政敵、アルバネーゼ退役大将の影響下に置かれており、かつてはサイオキシンマフィアの中核を形成していた。

 

 俺、ドーソン大将、イアシュヴィリ少将、ネグロポンティ国防委員長、チャン警視監、ナディーム警視長、マサルディ警視長の七名は、七年前のマフィア捜査に関わった。ただし、この席ではサイオキシンマフィアのことは口にできない。最高度の軍事機密に指定されているからだ。

 

「厄介なのはブロンズ、ギースラー、ドワイヤンだな」

 

 名前を聞くだけで厄介だと思える三人である。統合作戦本部管理担当次長ブロンズ大将は、情報閥とシロン・グループの総帥だ。国防委員会情報部長ギースラー中将は情報閥のナンバーツー。国防委員会査閲部長ドワイヤン中将は、シロン・グループの重鎮である。

 

「意見があります」

 

 俺は満を持して立ち上がった。

 

「何だね?」

「ドワイヤンを査閲部長から外してください。サイオキシン中毒患者に銃を持たせるよりも危険です」

 

 査閲部は訓練・災害派遣・平和維持活動など、戦闘以外の部隊行動を監督する。前の世界ではグリーンヒル大将が査閲部長の地位を悪用し、訓練と偽ってクーデター部隊を動かした。今の査閲部長ドワイヤン中将はマフィアの二代目ボスだ。「クーデターをやってください」と言っているに等しい。

 

「確かにフィリップス中将の言うとおりだ」

 

 ネグロポンティ国防委員長は同意してくれた。他のSECメンバーも口々に賛成意見を言う。

 

「貴官にしては鋭い意見だな」

 

 ドーソン大将は嫌味たっぷりだ。彼としては褒めているつもりなのだろうが、悪気なしに嫌味を混ぜるのはやめてほしい。今年で六一歳なのだ。いい加減丸くなってくれないだろうか。

 

 

 

 帝国との休戦からトリューニヒト政権成立までの二年間で、同盟軍の現役兵力は五六〇〇万人から三七〇〇万人まで削減された。現役兵力の三分の一が削減された計算になる。

 

 七九九年から八〇〇年にかけて、同盟軍は大幅な組織改編を行った。ラグナロック戦役の戦訓から、会戦向きの大型編制を広域戦向きの編制に改めたのだ。

 

 宇宙軍は四個分艦隊・一個陸戦隊基幹の正規艦隊(レギュラー・フリート)を廃止し、二個分艦隊基幹の機動集団と三個陸戦軍団基幹の陸戦遠征軍を新たな戦略単位とした。宇宙艦隊の八個艦隊は一六個機動集団に再編成され、二個機動集団が解体されて、一四個機動集団体制となった。八個艦隊陸戦隊は八個陸戦遠征軍に再編成された。宇宙艦艇は運用コストが高いため、多めに削減されたのだ。

 

 地上軍は二個陸上軍・二個航空軍・一個軌道軍基幹の常備地上軍(スタンディング・アーミー)を廃止し、一個陸上軍・一個航空軍・二個軌道部隊基幹の機動軍を新たな戦略単位とした。地上総軍の六個地上軍は一二個機動軍に再編成され、一個機動軍が解体されて、一一個機動軍体制となった。

 

 二二個方面軍のうち一三個方面軍が軍級部隊に縮小され、地方部隊は軍縮前の半分となった。良識派は減少した兵力を運用で補うため、中央宙域を守る一個中央軍集団、辺境宙域を守る五個辺境軍集団を新設し、方面軍の上級単位とした。

 

 また、外征部隊を地方警備に応用する試みも行われた。バーラト星系、シヴァ星系、イゼルローン回廊に方面艦隊を創設し、機動集団と陸戦遠征軍を三か月交代で所属させた。機動軍をネプティス、パルメレンド、カッファー、ウルヴァシーに三か月交代で派遣した。ウルヴァシーはルイス准将の提言によって、フェザーン方面防衛の拠点となった惑星である。

 

 トリューニヒト政権が成立すると、四〇〇万人が現役に復帰した。宇宙艦隊には一個機動集団と一個陸戦遠征軍が増設され、地上総軍には一個機動軍が増設された。一〇月時点での現役兵力は四一〇〇万人にのぼる。

 

「ありがたくも何ともない」

 

 エーベルト・クリスチアン地上軍大佐は苦々しそうに舌打ちした。彼自身も現役復帰して大佐に昇進を果たしたのだが、トリューニヒト議長に対する感情が好転することはなかった。

 

「トリューニヒト議長ほど軍人を優遇する政治家はいませんよ」

 

 俺は焼けた肉を鉄板からクリスチアン大佐の取り皿に移す。今日は焼肉屋で一緒に食事をしている。

 

「あれほど軍人を尊重しない政治家もおらんだろうが。手の上げ方や足の出し方まで指図してくるような奴だぞ」

「議長も勝つためにベストを尽くしていらっしゃるのです」

 

 自分でも無理がある弁護だと思う。クリスチアン大佐がトリューニヒト議長を嫌う理由は、十分すぎるほどに分かっていた。

 

 プロの軍人にとって、理想の政治家はやりたいようにやらせてくれる人だ。どんな思想傾向であろうとも変わらない。右寄りの軍人は、好きなだけ攻撃を実施できる立場を望むだろう。左寄りの軍人は、無益な作戦を完全に抑えられる立場を望むだろう。軍事では判断ミスが死に繋がる。素人が変な口出しをしたせいで、自分や部下が死ぬ可能性もあるのだ。

 

 一方、トリューニヒト議長は良く言えば面倒見が良く、悪く言えばお節介だった。何かをやる場合、担当者に方針を与えて良しとするのではなく、隅々まで自分で指示を出す。予算を取ってきても、「金の使い方は任せる」とは言わず、「私の言うとおりに使え」と言う。

 

 軍事作戦にトリューニヒト議長が関わると、すべて細かい部分まで手を入れてくる。エル・ファシル海賊討伐の時には、佐官クラスの人選にまで気を配り、戦略・兵站・民事支援のすべてに口を挟んだ。レグニツァでも人選や戦略を取り仕切った。普通ならば、作戦司令部や統合作戦本部に任せるところだ。

 

「あいつの指図通りにしても勝てんだろうが。エル・ファシルでもレグニツァでも失敗した」

 

 そう吐き捨てると、クリスチアン大佐はフォークで肉を突き刺して口に放り込む。肉食獣を思わせる獰猛な食べっぷりだ。

 

「運がなかったんです。エル・ファシルの失敗は謀略によるものです。レグニツァは敵を褒めるべきでしょう」

「どちらも敵に隙を突かれた。トリューニヒトのやり方は奇襲に弱い。指揮官に自由な裁量を認めていれば、あんなことにはならなかった」

「それは思います」

 

 俺は恩師の言葉に頷いた。一般論で言うと、細かすぎる作戦は実戦向きではない。少し手順が狂っただけで取り返しがつかなくなってしまう。また、現場指揮官が予定を消化することに気を取られて、状況把握が疎かになる恐れがある。

 

 ふと、前の世界の記憶が脳内に浮かんだ。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』のアスターテ会戦である。同盟軍のパエッタ提督とムーア提督は、三方向から包囲する計画が破綻した後も、予定通りに進軍して敗北した。当時は馬鹿な提督だと思ったものだ。しかし、自分が提督になってみると理解できる。あまりに作戦が細かすぎて、現場で判断できる余地がなかったのだろう。

 

「軍人にとっての正解と、政治家にとっての正解は違う。だからこそ、政治家は軍事に口を挟むべきではない。良識派という連中は好かんが、政治家の口出しを許さぬ点だけは立派だ」

 

 クリスチアン大佐が良識派を褒めるのはよほどのことだ。プロ意識の強い彼にとっては、リベラルすぎる良識派よりも、干渉しすぎるトリューニヒト議長の方が不快なのである。

 

「まあ、俺としては、細かく指示してくれた方がやりやすいです」

 

 俺は笑いながら肉を焼く。実現したい構想があるわけでもない。与えられた任務を全うし、部下が喜んでくれるなら満足できる。

 

「貴官は依存心が強いからな。トリューニヒト式のやり方を歓迎するのは、依存心の強い者か、型にはまったやり方を好む者か、小さな利益を欲しがる者だけだ」

「凡人ってことですね」

「その通りだ。トリューニヒト派に秀才や能吏はいても、傑物はいない。規則を守るだけの者しかいない軍隊など役に立たん。戦う組織には、先頭に立って兵を引っ張る者、臨機応変に判断できる者が必要だ」

「耳が痛いです」

「貴官は兵を引っ張っているだろう」

「恐れ入ります」

「いつも素直だな。実に結構」

 

 クリスチアン大佐は満足そうに頷き、手に持ったスペアリブの骨をへし折ってかみ砕く。見ているだけで頼もしくなってくる。

 

「小官はこの年だ。二年もすれば軍を退くだろう。一度ぐらいは大きな戦いに参加したいが、今の情勢ではそれもかなうまい」

「帝国が荒れていますからね」

「だから、貴官には期待している。今すぐでなくとも良い。トリューニヒトの指示ではなく、軍人としての良心に従って戦うところを見たいものだ」

「頑張ります」

 

 俺は小さな体を縮こまらせる。すぐに期待に応えられないのが心苦しい。今はトリューニヒト議長のために戦っている。

 

 久しぶりに面と向かっての会話を楽しんだ後、俺とクリスチアン大佐は握手を交わした。ごつごつ分厚い手が俺の小さな手を包み込む。

 

 一瞬、頭の中に不安がよぎる。出世するにつれて、クリスチアン大佐と歩く道がずれていく。今はお互いに歩みよる余裕もある。だが、いつか完全に決別する時が来るのではないか? そんなことを思ったのだ。

 

 

 

 軍部とトリューニヒト議長の抗争は激しくなる一方だった。良識派は旧ロボス派や中間派とともに穏健派連合を組み、軍縮と少数精鋭化の貫徹を目指す。過激派は軍拡を進めつつ干渉から脱する方法を模索する。

 

「自由惑星同盟には『国家の中の国家』が二つある。一つはオリンピア、もう一つはキプリング街八〇〇番地F棟だ」

 

 トリューニヒト議長は定例会見でそう語った。「オリンピア」は首都圏の外れにある軍事中枢地区、「キプリング街八〇〇番地F棟」は国防委員会庁舎F棟にある情報部を指す。オリンピアにある軍中枢機関のほとんどは良識派の拠点である。

 

「自由惑星同盟は一つでなければならない」

 

 この一言が発せられた瞬間、会見場はどよめいた。情報部と良識派を潰す決意を示したものと受け取られたのだ。

 

 良識派の統合作戦本部長ボロディン大将、宇宙艦隊司令長官ビュコック大将、地上軍総監ベネット大将、復員支援軍司令官ヤン大将らは、ラグナロックの英雄なので批判できない。ラグナロックの英雄でない者が標的となった。トリューニヒト支持の右派マスコミやネットユーザーが、良識派軍人を徹底的に叩いた。

 

 最も激しく叩かれたのは、第二辺境軍集団司令官アレックス・キャゼルヌ中将である。娘を連れて歩いている写真が出回ると、「他人の子供を殺した奴でも、自分の子供はかわいいんだなあ!」と嘲笑された。食事をしている写真が出回ると、「兵士を首にして浮かせた金で食う飯はうまいか?」と皮肉られた。言いがかりとしか言いようがない。

 

 キャゼルヌ中将は同盟軍最高の後方支援専門家だ。彼が「最高」と評される所以は、少ない人数と少ない予算で組織を効率的に動かす手腕にあった。

 

 国民平和会議(NPC)と進歩党が与党だった時代には、人員を減らし予算を切り詰めた者が有能だと言われた。同盟軍もその点では変わらない。コストカットの達人は出世街道を疾走した。コストを減らすのが下手な軍人は、管理職に向いていないと思われた。俺は予算をたくさん使ったせいで、良識派から無能とみなされて予備役に放り込まれたのだ。

 

 嫌な言い方をすると、多くの人を失業させた者や、多くの人の収入を減らした者が出世したことになる。誠実に仕事をしても、切られた者から恨まれることは避けられない。コストカットのチャンピオンともいうべきキャゼルヌ中将は、ひときわ恨みを買っていた。

 

 さらに言うと、キャゼルヌ中将はラグナロック戦犯容疑者でもあった。帝国領遠征軍の後方主任参謀を務め、俺たちラグナロック帰還兵から訴えられたのだ。

 

 左遷後の行動も恨みを買うもとになった。キャゼルヌ中将は第二〇方面軍の経費削減と人員整理を素早く済ませ、軍集団級部隊から軍級部隊への縮小を成し遂げた。フェザーン方面を統括する第二辺境軍集団が新設されると、司令官に起用され、四個方面軍を軍集団級部隊から軍級部隊に縮小した。切られた人々はトリューニヒト支持者と一緒になって、キャゼルヌ叩きをやった。

 

 正直言って少し心苦しい。キャゼルヌ中将が叩かれる理由の一部は、俺が起こした訴訟にあるからだ。だからと言って取り下げることもできない。個人的な好き嫌いで訴えるかどうかを決めるなら、彼を訴える必要などなかった。

 

 その次に激しく叩かれたのが、宇宙軍予備役総隊司令官グリーンヒル大将だ。ラグナロック戦役の総参謀長だったので、殺人者呼ばわりされた。

 

 宇宙艦隊総参謀長クブルスリー大将、統合作戦本部計画部長マリネスク中将らは、「兵士を首にして偉くなった奴」と罵られた。彼らが軍縮に果たした役割の大きさは、ボロディン大将やヤン大将とそれほど変わらない。英雄でないから叩かれやすいだけだ。

 

 それと並行して、トリューニヒト支持者は旧ロボス派や中間派を攻撃した。コーネフ大将やビロライネン中将は戦犯呼ばわりされ、情報部は「開戦工作に関与した犯罪組織」と糾弾された。

 

 穏健派連合の勢力が弱まったところで、トリューニヒト議長はさらなる軍拡を決定した。二個機動集団、二個機動軍、三個陸戦遠征軍の増設を決定した。増設が完了すれば、一七個機動集団・一四個機動軍・一二個陸戦遠征軍体制となる。地方部隊の大幅増員も決定された。七〇〇万人が現役に復帰することとなった。

 

 穏健派連合は危機感を覚えた。公的年金、公的医療補助、地方補助金、農業補助金などの復活が決まり、社会保障予算が増額され、大規模公共事業が始まっている。それに加えて軍拡が実施されれば、レベロ政権とホワン政権が半減させた財政赤字が元に戻るだろう。レベロ元議長らは同盟がラグナロック戦役末期よりも危ういと警鐘を鳴らす。何としても軍拡の流れを止めたいと彼らは考えた。

 

 一方、過激派は軍拡支持なのに、トリューニヒト軍拡を歓迎しなかった。彼らから見れば、導入予定の新装備は質が悪く、再開される基地はトリューニヒト派自治体に集中し、復帰する軍人はトリューニヒト派が優先されている。支持者を豊かにするための軍拡と感じたのだ。

 

 一〇月中旬、同盟警察警備部長コロナード警視監率いる星系警察部隊の連合軍が、第二次辺境正常化作戦を開始した。宇宙艦艇九〇〇〇隻と地上戦闘要員六四万人が、ネプティス方面の諸星系に押し寄せる。彼らはみんなトリューニヒト派の退役軍人である。

 

 トリューニヒト派に対する反感はますます高まった。穏健派連合は市民に銃を向けるなど論外だと思っている。過激派は軍隊と警察が手を組むことが許せない。軍部の不満は沸騰寸前のように思われた。

 

 SECは最悪の状況に備えた。敵がハイネセンポリスの中心部を制圧することを想定した作戦、敵がハイネセンポリスが完全制圧することを想定した作戦、敵が首都圏全域を制圧することを想定した作戦、敵が惑星ハイネセンを完全制圧することを想定した作戦を整える。

 

 俺は想像しうる限り、最も悲観的な想定の作戦を作るよう命じられた。首都防衛軍が単独でクーデターに対処する想定である。

 

 首都防衛軍に非公式のクーデター対策司令部が設けられた。俺、参謀長代理チュン・ウー・チェン准将、副参謀長アブダラ准将、作戦部長ラオ大佐、情報部長ベッカー大佐、後方部長イレーシュ大佐、人事部長オズデミル大佐、通信部長マー技術大佐、作戦副部長メッサースミス中佐、首都防衛軍憲兵隊長ウェイ地上軍大佐の一〇名がクーデター対策を練った。ウェイ大佐は七年前に俺の後任として、チーム・セレブレッゼを監視した憲兵だ。副司令官カウマンス少将は信用できないので外した。

 

「参謀長代理、進行状況について報告してくれ」

「ミルフィーユ計画は五五パーセント、シフォン計画は七〇パーセント、プディング計画は八〇パーセント、ワッフル計画は六〇パーセント、トルテ計画は七五パーセント、バウムクーヘン計画は七〇パーセント完了しております」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理は、菓子作りの進行具合について話すパン屋のようだ。他の者もそう思っているのか、微妙な顔をしている。

 

「事故対策で忙しい中、よくやってくれた」

 

 俺は部下たちに感謝の言葉を述べた。予想したよりずっと早い速度だ。この調子なら来週には体制が整うだろう。

 

「元が良かったので」

 

 ラオ作戦部長が誇らしげに一冊のファイルを取り出す。題名は『午睡計画』という。三四年前、首都防衛軍がハイネセン六月危機を収拾した時の作戦計画書だ。対クーデター作戦のバイブルと言われる。

 

「君たちの力だ」

 

 俺は「君たち」を強調する。部下を評価しているというよりは、午睡計画の立案者を認めたくなかった。

 

「この方々に自分が勝てると思うほど、思い上がってはいません」

 

 ラオ作戦部長が作戦立案者たちの名前を指す。首都防衛軍司令官アルバネーゼ宇宙軍中将、首都防衛軍副司令官オリボ地上軍少将、首都防衛軍参謀長ジャーディス宇宙軍少将、首都防衛軍副参謀長カルローネ地上軍准将、首都防衛軍作戦部長バレンシア地上軍大佐、首都防衛軍情報部長カロキ宇宙軍大佐……。七三〇年マフィアが去った後の同盟軍を支えた人々だ。

 

 もっとも、この場にいる者は裏を知らない。アルバネーゼはサイオキシンマフィアの創設者、ジャーディスとカロキはサイオキシンマフィアの大幹部だった。

 

「勝つつもりでやってほしい。相手も午睡計画を十分に研究してるはずだ。アルバネーゼ提督を超えないとやられるぞ」

「かしこまりました。それにしても、情報部がクーデターを起こすとは思えませんが」

「大掛かりな妨害工作を仕掛けられる組織なんて、情報部でなければ中央情報局ぐらいだ」

「アルバネーゼ提督の薫陶を受けた組織です。クーデターとは無縁でしょう」

 

 ラオ作戦部長は情報部を信頼しきっている。裏を知らない者から見れば、情報部は穏健勢力の守護者、アルバネーゼ退役大将は国を救った英雄である。

 

「ブロンズ将軍が睨みをきかせてるしねえ。六月危機の英雄だよ」

 

 イレーシュ後方部長が同調する。前の世界ではクーデター首謀者だったブロンズ大将も、彼女にとっては郷里が生んだ名将だった。

 

 無数の功績に彩られたブロンズ大将の軍歴においても、ジャスパー元帥救出作戦「ゲットアップ・レイト」はひときわ輝いている。六月危機の時、二四歳のブロンズ中尉はコマンド部隊三〇名を率いて、一個陸戦師団が警備する敵基地に潜入した。そして、監禁されていた宇宙艦隊司令長官ジャスパー元帥を脱出させた。勇名高い七三〇年マフィアの元帥を味方につけたことで、首都防衛軍の優位が確立したのである。

 

 会議室全体に情報部とブロンズ大将を信じる空気が流れる中、チュン・ウー・チェン参謀長代理がのんびりと口を開いた。

 

「私もブロンズ将軍と情報部を信じている。それでも、警戒するに越したことはない。怪しくない奴が犯人だなんて良くあることじゃないか」

「参謀長代理の言うとおりだ。エル・ファシル七月危機の時だって、一番信用できそうな人間がスパイだった」

 

 俺は五年前のことを思い出した。暗殺者ルチエ・ハッセルは、兵卒時代の俺と親しかった。他のスパイにしても、親同盟派名士の子弟、親同盟団体の活動家、対帝国戦争の英雄など、体制に最も忠実なはずの人々ばかりだったのだ。

 

「苦い思い出です」

 

 アブダラ副参謀長が遠い目で過去を振り返る。エルファシル七月危機の時、彼は俺と一緒に戦った。

 

「そういうことだ。気を付けてくれ」

 

 俺が微笑んだところで、ブザーが鳴った。スクリーンにオペレーターが現れる。

 

「緊急事態です」

「何があった?」

「帝国で革命が発生しました」

「何だって!?」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理とハラボフ少佐以外の全員が声を揃える。

 

「労働者と兵士からなる『選民評議会』が、帝国首星オーディンを掌握しました。他の惑星にも革命の動きが広がっています」

「選民評議会か。ルドルフ原理主義者だな」

 

 俺は苦々しい気分になった。ルドルフ原理主義者は、真の選民による支配と弱者の完全排除を目指している連中だ。ラグナロック戦役中の暴れっぷりは酷いものだった。

 

「帝国政府はオーディンを脱出し、レンテンベルク要塞に臨時宮廷を置いたとのことです」

「全面対決だろうな。ルドルフ原理主義者は皇室や貴族を弱者扱いしてるから」

 

 俺はため息をついた。いつも事態は俺の予測を裏切ってくれる。帝国の革命は同盟政局にも影響せずにはいられないだろう。二年ぶりに銀河が燃え上がった。



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第78話:守るための努力 801年10月18日~10月31日 首都防衛軍司令部~ハイネセンポリス~郊外の墓地~首都防衛軍司令部

 帝国首星オーディンでルドルフ主義革命が発生したのは、一〇月一八日のことである。労働者の暴動に、平民出身の兵士が加わった。精強な装甲擲弾兵や野戦軍は前線で戦っていた。軍事的空白が革命を成功に導いたのだ。

 

 オーディンを掌握した労働者と兵士は選民評議会を結成し、真の選民国家樹立を宣言した。障害者、遺伝病患者、同性愛者を収容所に放り込む。汚職官僚や特権企業家は公開処刑された。一方、平民に対しては一切危害を加えない。

 

「貴族を倒せ!」

「選ばれし者の国を作るぞ!」

 

 革命に共感する民衆が各地で立ち上がり、鎮圧に向かった兵士は上官に銃口を向ける。ルドルフ原理主義の波が帝国全土を飲み込む。

 

 ルドルフ原理主義者は、前軍務尚書ラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥に即位を求める使者を送った。

 

 ラインハルトは能力、容姿、人格、功績のすべてにおいて完璧で、徹底した実力主義者である。ルドルフ主義が理想とする「超人」そのものだ。この世界ではルドルフ嫌いは知られていない。うってつけの皇帝候補だったが、彼は即位を承諾しなかった。

 

 レンテンベルク要塞に逃れたオーディン政府は、同盟に軍事支援を求めた。主力部隊を呼び戻したいので、一時的に航路警備を肩代わりしてほしいという。以前は同盟市民を劣等人種呼ばわりしたブラウンシュヴァイク公爵やリッテンハイム公爵が、同盟に頭を下げる。

 

 トリューニヒト議長は虫が良すぎる頼みを受け入れた。ルドルフ原理主義者は門閥貴族以上の選民意識を持っている。帝国領内の同盟人捕虜が害されてもおかしくない。

 

 復員支援軍司令官ヤン大将は、同盟軍の直接介入が必要だと提言した。理由を聞かれると、「帝国人であっても、人権侵害は見過ごせない」と答えた。もっとも、ヤン大将が人道的理由だけで動くと思う軍事専門家はいない。恒久講和への布石との見方が有力だ。共通の敵の存在は、同盟と帝国が手を結ぶ契機になる。

 

 ヤン大将を支持する声は大きかったが、トリューニヒト議長は受け入れなかった。恒久講和など彼から見れば論外である。ヤン大将が求めたシヴァ方面艦隊の増援も却下された。

 

 ルドルフ原理主義者がここまで大きくなった理由は三つある。一つは財政問題、一つは貴族に対する不満、一つは政治意識の高揚だ。そのすべてがラグナロック戦役と繋がる。

 

 ラグナロック戦役が始まる直前、帝国と同盟とフェザーンの勢力比は四八:四〇:一二、兵力比は六六:三三:一だった。勢力比はおおむね経済力と比例する。つまり、帝国は同盟の一・二倍の経済力で、二倍の兵力を養っていた。また、帝国の公務員は同盟よりずっと多い。兵士も公務員も半数以上は国民を監視するための人員である。経済力に釣り合わない軍事費と公務員人件費は、専制体制を維持するコストなのだ。

 

 対同盟戦争の経費、貴族領への財政支援、特権企業への補助金も財政を圧迫した。これらも体制を維持するための費用である。どれが欠けても、ゴールデンバウム朝は維持できない。貴族は免税特権を持っているので、平民が体制維持費を負担させられた。不公平な税制が消費や投資に回す金を吸い取り、経済を衰弱させた。

 

 ラグナロック戦役が帝国経済にとどめを差した。国庫には兵士の給与支払いにあてる金すら残っていない。帝国マルクの価値は紙くず同然となり、凄まじいインフレの嵐が帝国領を吹き荒れる。失業率は四〇パーセントを超えた。

 

 帝国政府には有効な手が打てなかった。財務尚書ゲルラッハ子爵は平民への課税強化で乗り切ろうとしたが、全国で増税反対の暴動が起きたために解任された。その次に財務尚書となった開明派のリヒター伯爵は、貴族から税金を取ろうとして辞任に追い込まれた。今の財務尚書シェッツラー子爵は、地位を保つことにのみ熱心だ。

 

 平民の怒りは貴族へと向けられた。武器をとって戦った者には何も与えられず、貴族や将校だけが恩賞にありついた。自分たちが増税で苦しんでいるのに、裕福な貴族は税金を払おうとしない。改革をしなければ国がもたないのに、貴族は既得権益にしがみつこうとする。

 

「貴族は自分のことしか考えていないのか!」

 

 全体主義教育を受けた者にとって、国益よりエゴを優先することほど大きな罪はない。まして貴族は生まれながらのエリートのはずだ。

 

「帝都を取られたのは貴族のせいだ!」

 

 貴族にラグナロックの責任を求める声も出た。同盟軍が攻めてきた時、貴族は主力決戦に使うべき兵力を領地防衛に回した。同盟軍が帝都に迫った時、貴族は内輪もめをやめなかった。貴族のエゴイズムが敗因だとの見解が広まっていく。

 

 解放区民主化支援機構(LDSO)が政治参加を促したことで、知識層でない平民にも政治意識が芽生えた。彼らはルドルフこそが理想の君主だと教えられている。皇室や貴族の堕落を批判し、「真の強者が大帝の理想を実現するのだ」と説くルドルフ原理主義は、政治に目覚めた平民の心を掴んだ。

 

 オーディン政府は選民評議会を「大帝の名を騙る共和主義者だ」と批判する。この解釈はある意味正しい。選民評議会メンバーには、親同盟派の元指導者、同盟軍現地人部隊の元将校、解放区の元首長や元議員が多数含まれていたからだ。

 

「貴族にも民主主義にも幻滅した人の集まりですね」

 

 首都防衛軍参謀長代理チュン・ウー・チェン准将はそう評する。のんびりした声と右手に持った小豆のペースト入りパンでごまかされてしまうが、本質を鋭く突いていた。

 

「微妙な気分だな。彼らに手段を与えたのは俺たちだ」

 

 俺はフェザーンの電子新聞に目を通す。解放区で行政経験を積んだ者が指導し、同盟軍から軍事訓練を受けた者が軍事指揮を取り、同盟軍がばらまいた武器が戦力となっている。

 

「こちらの民主主義は守らないといけませんね」

「まったくだ」

 

 壊すのは容易だが、再建するのは難しい。五〇〇年前は回廊の向こう側も民主主義だった。ルドルフとその子孫が全体主義教育を続けた結果、自由や人権の概念までが失われた。

 

 同盟の民主主義は安定してるとは言えない。最大の不安定要因は経済である。トリューニヒト政権の積極財政は、不満分子に対する懐柔策としては成功したが、景気対策としては失敗した。積極財政を続ければ懐柔する資金が尽きるが、緊縮財政に転じれば懐柔策をやめることになる。尖鋭化した反同盟勢力のテロ、ハイネセン主義者の抗議行動、反ハイネセン主義者の革命運動、帝国人移民のゲルマン至上主義組織、辺境住民の反移民組織も大きな脅威だ。

 

「少しでもかじ取りを誤れば、民主主義は吹き飛びます」

「何が何でも民主主義を守ろう」

 

 俺にとって民主主義と民主国家は不可分だった。自由惑星同盟が滅亡し、民主主義だけが生き残った世界で生きた。だからこそ、自由惑星同盟を守りたいと思う。

 

 前の世界で八〇一年一〇月までに消えたものの多くが、この世界では生き残った。トリューニヒト議長は議長の座にいる。ラインハルトは病死する気配もなく、帝国の重臣として反乱討伐に奔走している。ルビンスキー自治領主は、民主化運動に悩まされつつも健在だ。ブラウンシュヴァイク公爵は帝国首相、リッテンハイム公爵は帝国第一副首相を務める。地球教は自滅的なテロに走ることもなく、ルドルフ原理主義者に対する聖戦を宣言し、義勇兵数百万を帝国軍に提供した。

 

 変えられない歴史はないし、変えられない運命もない。ならば、自由惑星同盟を守ることもできるだろう。焼け野原で再建の苦労を味わうよりは、今ある物を守る方がずっと楽ではないか。

 

 

 

 国家非常事態委員会(SEC)の対クーデター計画は、大詰めを迎えた。誰がクーデターを起こすのかは特定できていないが、蜂起を防ぐ手立ては整った。

 

 最初の会議から二〇日目の一〇月二四日、会議室にメンバー全員が集まった。二名が生身で参加し、一二名は立体画像として席に着く。

 

「まずは首都圏の兵力配置を見てもらいたい」

 

 統合作戦本部次長ドーソン大将がキーボードを操作すると、全員の端末にハイネセンポリス都心部から半径一〇〇キロの範囲の兵力配置図が現れた。この地域が首都圏と呼ばれる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 首都防衛軍配下の首都管区隊が首都圏防衛を担う。二個歩兵師団が陸を固め、一個航空団と一個防空群が空に備え、一個沿岸警備戦隊が海を守る。一個独立警戒隊のレーダー網が陸・空・海を警戒する。鉄壁の守りと言っていい。

 

 その他に首都圏防衛網に組み込まれていない外征部隊が駐留している。宇宙戦力、陸上戦力・航空戦力・水上戦力を合計すると、一八万人に及ぶ。

 

「ワイドボーン中将、進行状況について報告せよ」

「かしこまりました」

 

 統合作戦本部作戦部長ワイドボーン中将が報告を始めた。全員の端末に対策案の文章が映し出される。

 

 宇宙部隊は戦争の花形だが、クーデターでは脇役だ。軍制改革によって宇宙部隊と陸戦隊は切り離された。宇宙部隊隊員は地上戦の訓練を受けていないので、地上では一般市民程度の戦闘力しかない。はっきり言うと、宇宙部隊抜きでもクーデターはできる。宇宙部隊が出動する際には、地上から乗員を乗せたシャトルが多数打ち上げられるので、監視するのは容易だ。第一機動集団の五個宇宙戦隊、第一機動軍の二個軌道戦隊の監視には、それほど労力を割かなかった。

 

 クーデターと聞けば、陸上部隊を思い浮かべない者はいないだろう。政府中枢を占拠するには不可欠な存在だ。第一陸戦遠征軍配下の一個陸戦師団、第一機動軍配下の三個師団は厳しく監視された。主だった将校には憲兵が貼りつく。中隊規模の訓練ですら、国防委員会への届け出なしには実施できない。実弾一発や燃料一リットルの増減にも厳しい目が光る。

 

 地上戦の主役である航空部隊は、クーデターでも重要な役割を果たす。制空権を握った者は、外にいる味方部隊をいくらでも首都圏に空輸できるし、敵が首都圏に部隊を空輸することを妨害できる。航空部隊の活躍は勝敗を左右するだろう。第一陸戦遠征軍配下の一個陸戦航空団、第一機動軍配下の二個航空団は、陸上部隊に勝るとも劣らない監視を受けた。

 

 水上部隊はほとんど脅威にならない。水上輸送は輸送力が大きいが時間がかかる。港湾封鎖には陸上部隊を使えばいい。水上封鎖は航空部隊でも可能だ。第一機動軍配下の三個水上戦隊は、宇宙部隊よりも優先度の低い監視対象とされた。

 

 使える人員と予算と時間の点から言って、すべてを厳重監視するのは不可能だ。軍事を知らない人は「すべてを警戒すべき」と言いたがるが、現実的ではない。

 

 元マフィアの国防委員会査閲部長ドワイヤン中将が科学技術本部次長に転出し、トリューニヒト派のシャイデマン中将が査閲部長となった。査閲副部長、査閲部参事官、即応計画課長も入れ替えられた。査閲部さえ押さえておけば、訓練や治安維持の名目で出動した部隊が反乱を起こすことはない。統合作戦本部に対しては、ドーソン大将とワイドボーン中将が押さえとなる。

 

「以上が首都圏における対クーデター作戦の状況です」

 

 ワイドボーン中将が報告を終えると、ドーソン大将が俺と憲兵司令官代理イアシュヴィリ少将に視線を向ける。

 

「軍事に絶対はない。敵は絶えず我々の穴を探している。密かに部隊を動かす可能性はゼロではない。警戒線を潜り抜けて、首都を襲うこともあり得る。針の先程度の小さな穴も見逃すな」

「かしこまりました」

 

 俺とイアシュヴィリ少将は同時に返事をする。首都圏の守りは首都防衛軍と憲兵隊にかかっているのだ。

 

「結構」

 

 ドーソン大将は重々しく頷くと、キーボードを操作して端末画面を切り替えた。

 

「今度はジェファーソン川流域だ」

 

 ジェファーソン川はハイネセン北大陸の中央部を流れる川で、全長は六〇〇〇キロに及ぶ。グエン・キム・ホア率いる長征グループは、この川の河口にハイネセンポリスを作った。現在は準首都圏ともいうべき位置にある。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 この地域を管轄するのは首都管区隊だ。三五個警戒隊がレーダー網を張り巡らせ、三個師団・一個航空団・五個防空群が首都圏の外を固める。

 

 ジェファーソン川の北岸には、第二機動集団と第二機動軍の拠点がある。どちらもハイネセンの外に派遣されているので、クーデター対策には関係ない。

 

 問題は南岸の平野部だ。第一機動集団・第一陸戦遠征軍・第一機動軍の主力が分駐していた。ハイネセンポリスを直接攻撃できる距離ではない。だが、クーデター側に味方すれば、首都を救援しようとする反クーデター側部隊を足止めしたり、クーデター側部隊の補給を助けたりするだろう。

 

 ワイドボーン中将が再び報告を始めた。対策は首都圏の駐留部隊に対するものとほとんど変わらない。ただ、投入するリソースが少ないだけだ。首都防衛軍と憲兵隊に加え、特殊作戦総軍、ジェファーソン川流域の南方三〇〇〇キロに駐留する第九機動軍が監視にあたる。

 

 ドーソン大将は特殊作戦総軍副司令官パリー中将、第九機動軍司令官フェーブロム地上軍少将の両名に視線を向けた。

 

「貴官らの役目は首都防衛軍や憲兵隊に勝るとも劣らん。どのような動きも決して見過ごすな。部隊を厳しく統率し、事が起これば即座に介入するのだ」

「お任せあれ」

 

 コンスタント・パリー中将は精悍な顔を引き締める。トリューニヒト派きっての特殊作戦指揮官でも、緊張せずにはいられない。

 

「命にかえても成し遂げて見せましょう!」

 

 エリン・フェーブロム少将はいささか大げさに答えた。四三歳という年齢、金髪碧眼の美人という容貌のおかげでエリートらしく見えるが、二等兵からの叩き上げだ。過剰なほどのアピールで出世のチャンスをつかんできた。

 

 今度は惑星ハイネセンの全体地図が端末に映し出された。ジェファーソン川流域以外は、クーデターと直接絡む可能性は低い。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ジェファーソン川流域を除く北大陸はハイネセン北部軍配下の三個管区隊、東大陸はハイネセン東部軍配下の二個管区隊、南大陸はハイネセン南部軍配下の二個管区隊が管轄する。また、中央大陸と三つの海は、ハイネセン太洋艦隊配下の一個管区隊及び三個分艦隊の管轄だ。各軍と太洋艦隊は軍級地上軍部隊、各管区隊と各分艦隊は軍団級地上部隊であった。小規模方面軍に匹敵する部隊が、一惑星に四つも置かれているのは、人口一〇億を擁する惑星ハイネセンの特異性だろう。

 

 大気圏の外はハイネセン宇宙軍の管轄だ。宇宙防衛管制部隊が迎撃衛星や警戒衛星など軍事衛星群を運用し、宇宙警備部隊の艦艇が周辺宙域を巡回する。宇宙軍は分艦隊級宇宙軍部隊、宇宙防衛管制部隊と宇宙警備部隊は機動部隊級部隊であった。

 

 これらの部隊には、各地に駐留する外征部隊の牽制が期待された。一五個機動集団・九個陸戦遠征軍・一二個機動軍のうち、八個機動集団・四個陸戦遠征軍・四個機動軍がハイネセンに残っている。中間派の第九陸戦遠征軍参謀長エベンス准将、過激派の第七機動軍司令官ファルスキー中将、良識派の第六陸戦遠征軍司令官ビョルクセン少将には、特に注意が必要だ。

 

 ハイネセンにいない部隊にも気を配った。来月の初めにストークス中将の第四機動集団と、ラッソ中将の第五機動軍が戻ってくる。宇宙からハイネセンを攻撃されてはたまらない。しかも、お祭り好きのトリューニヒト議長が、「第五機動軍に凱旋パレードをさせたい」と言い出した。首都に大軍を招き入れることになるのだ。帰還部隊が変な気を起こさないように警戒する必要があった。

 

 次の議題は要人の動向だ。憲兵隊が監視する一三名のうち、宇宙艦隊司令長官ビュコック大将、宇宙艦隊総参謀長クブルスリー大将、地上軍総監ベネット大将、支援総隊司令官コーネフ大将、統合作戦本部次長ブロンズ大将、情報部長ギースラー中将、教育総隊副司令官アラルコン中将の七名に怪しい動きが見られる。だが、確証は掴めていないという。

 

「尾行者の正体は掴めたかね?」

 

 ネグロポンティ国防委員長が、イアシュヴィリ少将に問う。二週間前から何者かが俺やドーソン大将らを尾行していた。

 

「ようやく判明しました」

「随分時間がかかったな」

「申し訳ありません。人手が足りないもので」

「わかっとる。で、誰の仕業だ?」

「宇宙艦隊作戦情報隊でした」

 

 イアシュヴィリ少将は調査資料を全員の端末に送付する。

 

「やはり、ビュコックがクーデターを企んでいたのだ!」

 

 ドーソン大将の口ひげが逆立つ。宇宙艦隊作戦情報隊といえば、トリューニヒト派の仇敵ビュコック大将指揮下の情報部隊である。

 

「クーデターとは限りませんよ」

 

 そう言ったのはフェーブロム少将である。

 

「だったら、何だ!?」

「我が派のスキャンダルを探っているのでしょう」

「そういうことか! 老害め! 足を引っ張ることしか頭にないのか!」

「ビュコック提督は今年で七五歳。痴呆が始まってもおかしくない年ですよ」

 

 フェーブロム少将は言葉の毒を注ぎ込む。叩き上げで出世した人は、追従的で上から気に入られるタイプ、剛直で上から一目置かれるタイプ、実直で上から愛されるタイプの三つに分かれる。賄賂や肉体まで使って出世した彼女にとって、叩き上げなのに正反対のビュコック大将は目障りだ。

 

「つまらん爺だ! 定年まで大人しくしていられんのか!」

 

 ドーソン大将の中では既成事実と化した。フェーブロム少将がさらに毒を追加し、ロックウェル中将やワイドボーン中将もつられたように怒り、ネグロポンティ国防委員長ら政治家が便乗する。日頃の怒りが溜まっているのだ。

 

 もっとも、全員が怒っているわけではない。パリー中将と警察官僚三名は傍観している。発端となったイアシュヴィリ少将は、困ったようにあたりを見回す。

 

「しかし、ビュコック大将が命令したとは限らないでしょう。副司令長官にも作戦情報隊の指揮権があります。作戦情報隊司令官の独断の可能性も……」

 

 俺はみんなをなだめようとしたが、怒声で中断された。

 

「黙れ! 黙れ! 黙れ! 貴官はビュコックの肩を持つのか!?」

「い、いえ、そういうわけでは……」

「だったら何だ!? どういうつもりだ!? 言ってみろ!」

 

 ドーソン大将は顔を真っ赤にして怒鳴る。ネグロポンティ国防委員長らも非難がましい目を向けてきた。こうなると小物は弱い。

 

「申し訳ありません。不見識な発言でした」

「わかればよろしい!」

 

 それから三分ほどビュコック大将の悪口が乱れ飛んだ。権力に媚びない老雄は、権力の側にいる者にとっては不快極まりないのである。

 

 悪口がひと段落したところで、ネグロポンティ国防委員長は、同盟警察副長官チャン警視監に声をかけた。

 

「チャン警視監、貴官が前に持ってきた画像をみんなに見せてくれんか」

「ああ、これですか」

 

 チャン警視監が全員の端末に一枚の画像を送る。防犯カメラに映っていたもので、公園のベンチで三名の人物が話し合っている。

 

「説明してくれ」

「これは八月一六日二一時頃の映像です。短い白髪に口ひげを生やした老人は宇宙艦隊司令長官ビュコック大将、ぼさぼさの黒髪の男は復員支援軍司令官ヤン大将、亜麻色の髪の少年は復員支援軍司令部副官付のミンツ准尉と判明しました。帰還兵歓迎式典の出席者に聞き込みをしたところ、一〇名以上が『この三名は途中で会場から姿を消した』と証言しております」

「やはりな。思った通りだ」

 

 ネグロポンティ国防委員長は画像を睨む。

 

「なるほど」

 

 ドーソン大将が何かに納得したような声を出す。

 

「ビュコックとヤンはクーデターの相談をしていた。国防委員長閣下はそうお考えなのですな」

「その通りだ。一時的に前線から戻ったヤンが、ビュコックと示し合わせたように姿を消し、人目に付かない場所で密談をする。怪しいとは思わんか?」

「小官も同意いたします」

 

 とんでもないことになった。前の世界の英雄二人がクーデターを企んでいるという方向に、話が進みつつある。

 

 俺はどうすればいいかわからなかった。否定したいが、この場にいるメンバーが聞いてくれるとは思えない。ヤン艦隊の会議で憂国騎士団を擁護するようなものだ。しかし、このままでは、クーデター捜査が見当違いの方向に進んでしまう。

 

「考え過ぎではありませんか?」

 

 俺の心の声をパリー中将が言葉にしてくれた。

 

「国防委員長閣下が間違っているというのか!?」

「物証がありません」

「ビュコックが我々に尾行を付けた! ビュコックとヤンが面会した! 状況証拠はある!」

「尾行を付けたのがビュコック大将とは限りませんぞ。ルグランジュ大将かもしれませんし、作戦情報隊が勝手に動いているだけかもしれません。もっと調査しましょう」

「調べるまでもない! ビュコックだ!」

 

 一度熱くなると見境がなくなるのが、ドーソン大将の悪いところだ。私情が絡んでいない時は名将なのだが。

 

 この時、俺の頭の中には一つの可能性が浮かんだ。前の世界の戦記によると、ヤン大将はビュコック大将と密談して、クーデター対策を依頼した。この世界でも起き得ることだ。ビュコック大将がトリューニヒト派を疑うのは、自然な成り行きだろう。

 

 だが、この考えを口にするには俺は小心すぎた。ドーソン大将はますます熱くなり、ネグロポンティ国防委員長らも同調している。怒りを買っても諫言を続けるなんて真似は、小物にはできなかった。

 

 

 

 最近、クーデター絡みの噂が急増した。すべてを信じるならば、二〇を超えるクーデター計画が進行中ということになる。前の世界でクーデターを起こしたグリーンヒル大将、ブロンズ大将、ルグランジュ大将、エベンス准将の四人を首謀者とする噂は、その一つに過ぎない。

 

 俺を首謀者とする噂も複数出回っていた。その中には、「フィリップス提督がルグランジュ提督と旧第一一艦隊を、クーデターに引き込もうとしている」というものもあった。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 俺はマフィンを食べて不快感を中和した。勘違いにもほどがある。ルグランジュ大将や旧第一一艦隊幹部と頻繁に会ってるのは事実だ。しかし、それは道を誤らせないためであって、悪巧みなどしていない。

 

「エル・ファシルを思い出しますなあ。あの時もたくさんデマが流れておりました」

 

 アブダラ副参謀長が緑茶をすする。

 

「あれは酷かった。スパイリストが大量に出回ったおかげで、星系政府は分裂状態になった」

「信じたら刺客を送り込まれる。信じなければ疑心暗鬼で自滅する。謀略戦など二度とやりたくないですな」

「まったくだ」

 

 俺は本心をそのまま口に出し、二個目のマフィンを食べる。最近はマフィンを食べる量が倍増した。

 

「事が近づくにつれてノイズも増えるものです。そう遠くないうちに始まりますよ」

 

 ベッカー情報部長が断言する。元帝国軍情報将校の言葉には重みがあった。帝国は謀略においては先進国だ。

 

 情勢が緊迫する中、俺は自分にできる最善を尽くした。首都防衛軍の幹部たちと面談し、味方に付きそうな将校に協力を求め、クーデターを起こしそうな将校にやんわりと釘を刺す。要するに人と会いまくった。目立たないように護衛を付け、身の安全に万全を期する。

 

 対クーデター計画の下敷きになった「午睡計画」は、三四年前に首都防衛軍が作った対クーデター計画である。しかし、本当に重要なのは本文の三倍にのぼる作戦評価書だった。

 

 作成者たちが書き込んだ反省点の中に、「有能さはリスクである」という一文があった。頭の良い指揮官は、上層部の無能に不満を抱きやすい。高潔な指揮官は、上層部の腐敗に怒りやすい。独創的な指揮官は、自分の構想を実現できないことに不満を持ちやすい。人望のある指揮官が非合法な行動を起こせば、部下は犯罪者になるのを承知で付いてくる。だからこそ、有能な指揮官ほどクーデターのリスクが高いのだそうだ。

 

 一方、無能な指揮官はクーデターを防ぐ側にとっては、歓迎すべき存在だという。無能な指揮官が参加すれば、失敗して計画を台無しにするし、まともな軍人はクーデター軍を敬遠する。人望のない指揮官が非合法な行動を起こせば、部下は犯罪者になるのが嫌で逃げ出す。午睡計画責任者のアルバネーゼ退役大将は、「無能な敵一人は有能な味方二〇人より頼もしい」と記している。

 

 簡単に言うとこういうことだ。クリスチアン大佐のような優れた指揮官は、警戒すべきである。逆に前の世界において、スタジアムの虐殺を起こしたクリスティだかクリステだかいうチンピラ軍人みたいな指揮官は、敵に回ってもらった方がありがたい。

 

 輸送総軍司令官代理シンクレア・セレブレッゼ中将と旧セレブレッゼ派軍人は、最優先で味方にしたかった。彼らが掌握する支援部隊は、対クーデター作戦では決定的な力を発揮する。

 

 幸いなことに俺と旧セレブレッゼ派の関係は良好だった。ヴァンフリート四=二で縁が生まれ、幕僚チームに旧セレブレッゼ派を迎え入れ、軍縮の時に再就職先を斡旋した。ダーシャはかつてセレブレッゼ中将の幕僚だった。こうした関係から、シロン出身者を除く旧セレブレッゼ派は、丸ごとトリューニヒト派に加わったのだ。

 

「いつでも声をかけてくれ」

 

 セレブレッゼ中将は胸を叩いて請け合った。だいぶ白髪が増えたが、それでも気力は衰えていない。

 

「心強いです」

「命令してくれたっていい。私も部下もフィリップス派だ」

「ご冗談をおっしゃらないでください」

 

 俺は肩をすくめた。大先輩に命令するなど、恐れ多いにもほどがある。ともかく、同盟軍トップクラスの支援部隊が味方に付いてくれた。

 

 宇宙艦隊副司令長官フィリップ・ルグランジュ大将は要注意人物だ。前の世界ではクーデターに加わり、この世界では故ウランフ元帥の抗命行為に賛同した。理由があれば造反を辞さない人だ。第一一艦隊系のストークス中将が来月初めに戻ってくるので、事を起こす機会もある。同盟軍人としての生涯をまっとうしてほしいと思い、必死で説得した。

 

「またクーデターの話か」

 

 うんざりした顔でルグランジュ大将は枝豆をつまむ。

 

「はい。旧第一一艦隊は俺にとって思い出の部隊です。一兵たりとも、クーデターに加わってほしくないのです。閣下からも軽々しく動かないように言ってください」

「騒がしい時は何も起きないもんだ。安心した時にドーンとくるんだぞ」

「騒ぎと言うものは世相を反映しております。備えないわけにはいかないのです」

「わかったわかった! きっちり言ってやる! だから安心して食え!」

 

 ルグランジュ大将が差し出したのはチキンの骨だった。すっかり酔っているらしい。俺は骨を受け取った後、大きなフライドチキンを皿から取ってかぶりつく。

 

「本音を言うとだな、娘を嫁にやりたくないんだ! わかるか!?」

「わかります」

「息子なら良かったんだ! こうして一緒に酒も飲めるしな!」

「俺は飲まないですよ」

「細かいことを言うな! だから貴官は背が伸びんのだ!」

 

 もうめちゃくちゃである。数百万の敵軍を恐れぬ闘将でも、娘を嫁に出すことは恐ろしいようだった。

 

 妹のアルマは連隊長を解任されたとかで、暇そうにしていた。納得がいかないらしく、パンケーキをもりもり食べながら愚痴を言い続ける。クーデターの事を話すと、妹は「起こすなら一言言ってね! 止めるから!」と言って、身長のわりに小さな拳をぐっと握った。

 

 クリスチアン大佐は秋季新兵教育の仕上げ、ベイ大佐は事件の捜査で忙しく、面会の約束を取り付けることはできなかった。彼らがクーデターに参加するとは思えない。だが、敵に回ったら一大事なので、いざという時は味方してくれるよう通信で頼んだ。

 

 ハイネセンにいる友人や元部下にも協力を要請した。カプラン少佐のような軽薄な人は避けた。ブレツェリ代将のような信頼できる人に個別で面会する。コレット中佐は信頼できるが、個別で会うのは怖いのでイレーシュ後方部長と三人で会った。

 

 付き合いの薄い人にも会いに行った。地上軍総監ベネット大将や宇宙艦隊総参謀長クブルスリー大将は、「反トリューニヒト派部隊を監視するために、クーデターの噂を流した」と俺を疑う。支援総隊司令官コーネフ大将は愛想は良かったが、何を言ってものらりくらりとかわされる。第九陸戦遠征軍参謀長エベンス准将には、難解な戦略論を延々と聞かされた。教育総隊副司令官アラルコン中将は、月末まで出張中とのことで会えなかった。

 

 統合作戦本部長ボロディン大将との会見は和やかに進んだ。同盟軍で最も紳士的な提督と言われるだけあって、トリューニヒト派にも丁寧に接してくれる。首都防衛軍は、宇宙艦隊や地上総軍と同格の最高司令官直轄部隊だ。最高司令官は最高評議会議長だが、文民には大軍を運用できないので、最高司令官代理たる統合作戦本部長が実際の指揮を取る。事実上の上官と協力関係を築けたのは大きい。

 

 宇宙艦隊司令長官ビュコック大将にクーデターの話題を振ると、冷たくあしらわれた。スパイをしに来たように思われたらしい。公園の密談や作戦情報隊のことは、SECの外に出せない情報だったので話題には出せなかった。

 

 統合作戦本部次長ブロンズ大将は、笑顔でシロン紅茶のリゾットを出してくれた。俺が何を質問しても、爽やかに笑って「リゾットを食べなさい」と言う。観念してリゾットを平らげると、とても嬉しそうに「ご苦労さん」と言って、俺を応接室から追い出した。イレーシュ後方部長から聞いた「シロン人の紅茶リゾット」は、事実だったのである。

 

 予備役総隊司令官ドワイト・グリーンヒル大将とは、なかなか面会が実現しなかったが、意外な場所で遭遇した。

 

 一〇月三〇日、雨が降る中で事故死した元部下の埋葬式に立ち会った。その帰り、ある墓石の前で傘を持ったまま立っている長身の男性を見付けた。それがグリーンヒル大将だったのである。妻の墓参りとのことだった。

 

「でも、今日は奥様の命日ではないですよね」

「軍務があるからな。なかなか命日には合わせられん。妻には申し訳ないと思うが……」

 

 グリーンヒル大将は軽く目をつぶる。まぶたの裏に何が浮かんでいるのかはわからない。

 

「クーデターの噂はご存知ですか?」

「知っている」

「ご自分の名前が出ているのは?」

「もちろんだ。ルイス君にはいろいろと期待していたからね」

 

 グリーンヒル大将の端整な顔に失望の色が浮かぶ。

 

「どうなさるおつもりですか?」

「何をだね」

「クーデターです」

「君もルイス君と同じように、私が事を起こすと考えているのかね?」

「脅威に備えるのが小官の仕事です。人望あるグリーンヒル提督が事を起こせば、大きな脅威になります」

 

 あえて遠回しな表現を選ぶ。クーデターを起こすと決めつけたら、「証拠はあるのか?」と言われて話が続かなくなるからだ。

 

「人望は評価してもらえるのか。君は私を嫌っていると思っていたが」

「嫌いなわけではありません。ラグナロックの真相について話していただきたいだけです」

「すまないが、今はその時ではない」

「わかりました」

 

 俺はここで一旦引き下がる。今はクーデターについて問う時だ。ラグナロックはすべてが終わってからでいい。

 

「君は私を脅威だと思っている。そう受け取っていいのかな?」

「はい」

「若い者はせっかちでなあ。すぐに『行動、行動』と言いたがる。確かに誤りは正さねばならん。だが、それは時間をかけてやるべきものだ」

「どういうことでしょう?」

「君の心配の種が増えるようなことにはならない。今さら信じてもらえるとは思わないが、できれば信じてほしい。結果は時間が教えてくれるだろう」

 

 グリーンヒル大将の言い回しはあまりに抽象的過ぎた。俺はあの手この手で真意を引き出そうとしたが、上手にかわされてしまう。役者が違うとはまさしくこのことだ。

 

 できることはすべてやった。味方になりそうな人を取り込んだ。敵に回りそうな人を牽制した。対クーデター計画を完成させた。グリーンヒル大将などSECの監視対象外の危険人物には、首都防衛軍の憲兵を貼り付けた。後は時を待つだけだ。

 

 一〇月三一日の朝、昨日とは正反対の快晴だった。首都防衛軍司令部で寝泊まりするようになってから、もうすぐ三週間になる。日当たりの悪い部屋にいつまで寝泊りすれば良いのだろう。写真立ての中のダーシャも少し寂しそうだ。早く日当たりの良い官舎に戻してやりたい。

 

 個人用端末を開くと、意外な人からメールが届いていた。かつての上官だったウィレム・ホーランド予備役宇宙軍中将だ。今は故郷でリハビリ中だと聞いている。

 

「すごい長文だな」

 

 俺は一旦メールを閉じた。帰ってからじっくり読もう。朝はトレーニングがあるのだ。他の事には時間を割けない。

 

 一通りのトレーニングを終え、朝食を食べてから出勤した。通勤に時間がかからないのは司令部暮らしの数少ない利点だ。

 

「よし、今日も仕事を始めよう」

 

 書類を手に取った。一つは明日予定される民間船の航行統制。ハイネセン入りする第四機動集団六一〇〇隻の通路を確保する目的だ。もう一つは一一月二日に行われるハイネセンポリスの交通統制。第五機動軍の凱旋パレードのためだ。

 

「大軍は出入りするだけでもひと仕事だ。機動集団と機動軍の半分を他の星に移せばいいのに」

 

 勝手なことを言いながら仕事を始めた時、緊急警報が鳴り響いた。

 

「情報回線に異常あり! 情報回線に異常あり! 外部より侵入を受けた模様!」

 

 首都防衛軍司令部に対するサイバー攻撃である。

 

「来たか!」

 

 俺は飛び上がるように席を立つと、執務室を飛び出した。副官代理ハラボフ少佐らと一緒にキックボードを使って廊下を駆ける。

 

 司令室には幕僚全員が集まっていた。オペレーターも全員戦闘配置についている。サイバー攻撃は武力攻撃と同等なのだ。

 

「状況は?」

 

 俺はチュン・ウー・チェン参謀長代理の方を向く。

 

「ネットワーク防護隊が迎撃にあたっています。じきに侵入者が判明するでしょう」

「馬鹿な奴らだ。サイバー戦で首都防衛軍に勝てると思ったか」

 

 俺は落ち着いて指揮を取った。サイバー攻撃は想定の範囲内だ。しかも、数ある中の想定ではかなり甘い部類に入る。首都管区隊の五個師団中、三個師団がクーデターに加担する想定の計画まで立てたのだから。

 

「防壁が次々と突破されています!」

「メインの通信網がダウンしました! 予備の通信網に切り替えます!」

「第一予備電源の制御が奪われました!」

 

 オペレーターは首都防衛軍の劣勢を伝える。

 

「馬鹿な! 首都防衛軍のサイバー防御は完璧なはずだ!」

 

 俺はうろたえた。

 

「外部との回線を遮断しましょう! このままでは防衛システムが乗っ取られます! 侵入者を突き止めるどころではありません!」

 

 マー通信部長が顔色を変えて進言する。

 

「それは駄目だ! 回線を切ったら、外の部隊を指揮できなくなる!」

「今は各軍の司令官に委ねましょう! システムの制御権を死守するのが先決です!」

「わかった! 外部との回線をすべて遮断しろ! 防御に専念するんだ!」

 

 しかし、俺の命令は実施されなかった。正確に言えば、ネットワーク防護隊は命令に従ったが、回線が遮断されてくれなかった。

 

「ネットワーク防護隊! どういうことだ!?」

「強制接続されました。画面に『反乱防止システム作動中』と出ております」

「反乱防止システム!? 統合作戦本部のか!?」

「そうです! 統合作戦本部のネットワーク作戦隊が、首都防衛司令部を接収しようとしているんです!」

「何だって!?」

「いったい何をなさったんですか!? 我々は反乱軍扱いですよ!」

 

 ネットワーク防護隊司令ソローキン技術大佐は取り乱している。反乱防止システムの発動は、首都防衛軍が反乱軍扱いになったことを意味するのだ。

 

「俺が知りたいぐらいだ!」

 

 急いで統合作戦本部との回線を開いた。単なる間違いか、クーデター部隊に占拠されたのかを確かめないといけない。

 

「通信権限がありません」

 

 端末画面に無慈悲な文字が浮かぶ。

 

「エリヤ・フィリップス中将の指揮権は停止されています」

「は?」

 

 俺は間抜け顔で端末を見た。いったい誰が指揮権を停止したのか? トリューニヒト議長以外にはそんな権限はないはずだ。

 

「フィリップス提督!」

 

 司令室に副司令官カウマンス少将が早足で入ってきた。声は上ずり、足取りは乱れ、顔はうろたえがひどく、一目見るだけで動揺しているのがわかる。

 

「これはどういうことです!?」

 

 カウマンス少将がノート型端末を開いた瞬間、俺にも動揺が伝染した。

 

「首都防衛軍司令官代理フェリー・カウマンス地上軍少将に命ず。

 前首都防衛軍司令官エリヤ・フィリップス宇宙軍中将を拘束せよ。

 

 統合作戦本部長代行・同盟軍最高司令官代理 マービン・ブロンズ地上軍大将」

 

 なぜ逮捕命令が出たのか? なぜブロンズ大将が統合作戦本部長代行を称するのか? トリューニヒト議長とボロディン大将はどうなったのか? 事態は想像を完全に超えていた。



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第79話:民主政治再建会議 801年10月31日 首都防衛軍司令部~オリンピア市街~カフェ「ライト・アンド・エアリー」~バーナーズタウン~サラパルータ駅~ボーナム総合防災公園

 たった三行の文章が首都防衛軍司令部に大きな衝撃を与えた。司令官を拘束せよとの命令が出たのだ。幕僚やオペレーターたちは呆然となり、一言も発することができない。

 

「フィリップス提督! 説明してください!」

 

 首都防衛軍副司令官フェリー・カウマンス地上軍少将が、早口でまくしたてる。悪意があるわけではない。胆力に欠けているのだ。

 

「その命令はでたらめだ」

 

 俺は腰に両手を当てて肘を張り、七センチほど背が高いカウマンス少将を睨む。決して弱気を見せられない場面だ。心臓はトランポリンのように飛び跳ね、背中を流れる冷や汗は滝のようであったが、それでも強気の姿勢を押し通す。

 

「本物の命令ですぞ! 統合作戦本部長の電子認証が付いているのです!」

 

 カウマンス副司令官が電子認証を指差した。どう見ても本物にしか見えない。

 

「偽造ですね」

 

 首都防衛軍参謀長代理チュン・ウー・チェン宇宙軍准将は、落ち着いているというよりのんびりした口調で言い切る。

 

「電子認証を偽造できるとでも言うのか!?」

「人間が作ったものです。他の人間が作れても、不思議ではありません」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理は悠然と受け流す。常識的に考えれば、統合作戦本部長の電子認証を偽造するなど不可能だろう。しかし、こうも余裕たっぷりに言われると、可能だと思えてくる。

 

「四年前、同盟軍は軍務尚書や統帥本部総長の命令を偽造し、イゼルローンの帝国軍を混乱させました。どの国においても、電子認証の技術に大きな違いはありません。統帥本部総長の命令を偽造できるならば、統合作戦本部長の命令だって偽造できます」

「ならば、誰が偽造したというのだ」

「わかりません。帝国軍かもしれませんし、テロリストかもしれません。同盟軍の一部が反乱を起こした可能性もあります。いずれにせよ、首都防衛軍の敵なのは確かでしょう」

「どうすれば良いのかね?」

 

 カウマンス副司令官はすがるような目でチュン・ウー・チェン参謀長代理を見る。

 

「フィリップス提督の下で一致団結することです。ヴァイルハイム大将の過ちを繰り返してはいけません」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理はイゼルローンの敗将を例にあげ、遠回しに「拘束命令なんか信じたら大恥をかくぞ」とほのめかす。半ば脅迫であったが、のんびりした口調と緊張感のない表情のおかげで、善意の助言に聞こえる。

 

「五年前を思い出します」

 

 首都防衛軍副参謀長サフィル・アブダラ地上軍准将が俺を見た。

 

「エル・ファシル星系政府は偽情報を鵜呑みにして自滅した。疑心暗鬼は大軍よりずっと怖い」

 

 俺は期待された通りの言葉を吐く。アブダラ副参謀長に「五年前」と言われたら、それはエル・ファシル七月危機のことだ。

 

 後方部長イレーシュ・マーリア宇宙軍大佐、情報部長ハンス・ベッカー宇宙軍大佐、作戦副部長エドモンド・メッサ―スミス宇宙軍中佐が、左右と後方からカウマンス副司令官を囲む。長身の三名はただ立っているだけで無言の圧力になる。

 

 正面からは俺がカウマンス副司令官を鋭く睨む。チュン・ウー・チェン参謀長代理ほど口は回らないし、イレーシュ後方部長らほど迫力はないが、司令官として揺るがぬ姿勢を見せつける。

 

 チーム・フィリップスの連携プレイが空気を変えていく。指示はしていないし、事前の打ち合わせもない。共に死線を越えた戦友同士だ。何も言わずとも、成すべきことはわかっていた。

 

「かしこまりました。拘束命令は偽命令と判断いたします」

 

 カウマンス副司令官は安堵したような息を吐いた。幕僚やオペレーターたちの動揺も収まる。彼らが求めていたのは正解だった。俺たちは証拠を示せかったが、言葉と態度によって正当性を示したのだ。

 

「よろしく頼む」

 

 俺は頷くと、カウマンス副司令官にいくつかの指示を与えた。指揮統制システムは俺を指揮権者と認識していないので、間接的に指揮を取る。

 

 だが、二分も経たないうちに、カウマンス副司令官も指揮統制システムを使えなくなった。新たな指揮権者に指定されたのは、最先任の少将である北部軍司令官ミーニ少将である。

 

「ミーニ少将はトリューニヒト議長の支持者だ。きっと味方に付いてくれる」

 

 有線電話に手を伸ばす。首都防衛軍は専用の有線電話回線を持っている。一六〇〇年前に時代遅れとなった通信手段だが、サイバー攻撃や妨害電波の影響を受けないのが強みだ。

 

 しかし、ミーニ少将は電話に出ない。受話器から着信拒否を知らせる機械音声が流れる。首都防衛軍の警戒網とネットワーク通信網が使えなくなった。ぶれやすい人が最悪のタイミングで最悪の方向にぶれた。

 

 俺は受話器を置いて通信オペレーターを見る。サイバー攻撃が始まった直後から、主要な政府機関と軍機関に警報を送り続けたが、一度も反応がなかった。

 

 メインコンピューターが乗っ取られるのは時間の問題だ。熱核攻撃に耐えられる地下司令室も、一個師団と戦える全方位迎撃システムも、制御できなければ役に立たない。

 

「サウスオリンピア基地を放棄する」

 

 それ以外の選択はなかった。司令部に立てこもっても捕虜になるだけだ。逃げる途中で捕まるかもしれないが、立てこもるよりは希望がある。

 

「総員退避せよ!」

 

 サウスオリンピア基地の首都防衛軍司令部、輸送部隊、通信部隊、教育部隊、作戦情報部隊、憲兵隊、音楽隊など九〇〇〇人が退避行動を開始した。基地を放棄する際のマニュアルは確立されている。固まっていれば逃げにくいので、数人から数十人の小集団に分かれて行動するのだ。

 

「これより非常階段に突入する!」

 

 俺は非常階段を全力で駆け上がる。幕僚やオペレーターがその後を追う。エレベーターには逃げ道がない。緊急時には非常階段を使うのが鉄則だ。

 

 あっという間に一階にたどり着いた。遅れた者は一人もいない。体力作りを重視した成果がこんな時に現れた。

 

「バラバラに出ろ!」

 

 号令と同時に部下が散らばった。全員が一つの出口に殺到したら避難しにくいので、複数の出口から同時に出る。

 

 俺は副官代理ハラボフ少佐だけを連れて隊員食堂に入った。その片隅にはひげ印のじゃがいもの段ボール箱が積み上げられている。

 

「これです」

 

 丸っこい文字で「訳あり品」と張り紙された箱を、ハラボフ少佐が開ける。中には地上軍下士官の制服が二着入っていた。一つは俺の着替え、もう一つはハラボフ少佐の着替えだ。下着、軍靴、財布、時計、偽造身分証などもある。

 

 三〇秒で着替えると、ハラボフ少佐に瞬間染髪スプレーと瞬間整髪スプレーをかけてもらう。ゆるくウェーブした赤毛がストレートの金髪に変わる。俺もハラボフ少佐の髪にスプレーをかけ、彼女の赤毛を金髪に変えた。

 

 変装を済ませて二人で食堂の窓から飛び出した時、遠くからプロペラ音が聞こえた。一〇機前後のヘリコプターが飛んでくる。地上軍のヘリコプター部隊が使うウッドペッカーだ。

 

「ウッドペッカーが飛んでるなんて報告は聞いてないぞ!」

 

 俺は走りながらハラボフ少佐に質問する。指揮統制システムを失ったのは一〇分前のことだ。

 

「監視がなくなったと同時に飛び立ったと思われます!」

 

 ハラボフ少佐は呼吸も足並みも乱さずに答える。

 

「ジェスタの第一飛行連隊か!? それとも、ナシミエントの第三〇七飛行連隊か!?」

「ヘリは離陸に多少の時間を要します! 最も近い第一飛行連隊でしょう!」

「もっともだ!」

 

 俺とハラボフ少佐は基地構内を飛ぶように駆け抜けた。体に翼が生えたみたいだった。以前に同じような感覚を味わった気がするが思い出せない。

 

 基地周辺の封鎖線は虫食い状態だった。外に出ようとする側の方が圧倒的に多く、先頭集団は封鎖が始まる前に基地を出ていた。俺とハラボフ少佐は混雑に紛れて市街地へと飛び出す。

 

 オリンピア市内に軍隊が姿を現しつつあった。武装した兵士が歩道を駆け抜け、装甲車両が車道を進む。市民は呆然とした顔でその様子を見つめる。

 

 軍隊はこちらに見向きもしない。まっしぐらに目標を目指しているのだろう。その隙に俺とハラボフ少佐はバスターミナルに駆け込む。そして、コインロッカーに隠してあった服を取り出し、隣接するスーパーマーケットのトイレで着替える。バスターミナルは警戒されにくい建物で、数日間借りられるコインロッカーがあるので、変装道具を隠すのにはちょうどいい。

 

 思ったより敵兵は少なかった。第一歩兵師団第三旅団と第一師団第一砲兵連隊の部隊章しか見かけない。参加しているのは第一歩兵師団の一部に留まるようだ。

 

「脱出できるんじゃないか」

 

 俺とハラボフ少佐はオリンピア脱出を試みた。しかし、市外に通じる道路は封鎖済みだった。宇宙港、鉄道駅、リニア駅には兵士が配備されている。敵は少ない兵士を運用する術を知っていたのだ。

 

 

 

 オリンピア市パレストラ区のカフェ「ライト・アンド・エアリー」は満席だった。通行止めが解除されるまでの間、コーヒーとスイーツを楽しもうという人が集まっている。

 

「お兄ちゃん」

 

 俺をそう呼ぶのはアルマ・フィリップスではない。ユリエ・ハラボフ少佐である。

 

「どうした」

「あげる」

 

 ハラボフ少佐はドーナツを差し出す。

 

「ありがとう」

 

 俺がドーナツを受け取って食べると、ハラボフ少佐は白い歯を見せてにっと笑う。普段は決して見せない表情だ。

 

 彼女は偽造身分証のキャラクター「メイ・ブラックストン 二三歳」になりきっている。服装はピンク色のゆるいニットにグレーのパンツ、髪の毛は茶色い巻き髪、肌は赤ん坊のようにつやつやだ。このふわふわした女性は何者なのか? 冷徹でプライドの高い副官はどこにいったのか?

 

 俺の偽造身分証は「アーリー・ブラックストン 二四歳」で、メイの兄という設定だ。細身の長袖Tシャツにカーディガンを羽織り、首の周りにはウールのマフラーを巻き、髪は茶色の直毛、顔には童顔ぶりを際立たせるメイクが施してある。日なたぼっこが似合いそうな感じで、メイの兄と言われたら万人が納得するだろう。

 

 はっきり言って、こんなふわふわした変装はしたくなかった。かなり若く見えるとはいえ、俺は三三歳、ハラボフ少佐は三〇歳である。ふわふわしていい歳ではないはずだ。

 

 しかし、ハラボフ少佐は、「だからこそ、意表を突けるのです」と主張する。確かに「勇者の中の勇者」が、ふわふわした若者に化けるとは誰も思わない。もっともなので反論できなかった。

 

 オリンピア市は驚くほど静かだ。兵士が乱暴をはたらくこともなく、市民がパニックを起こすこともなく、時計の針だけが淡々と進む。テレビやラジオはCMを流し続ける。携帯端末は完全に規制されていた。

 

 現時点では、兵士が街頭で配っているビラが唯一の情報源であった。しかし、その内容は交通規制や通信規制に関する通知で、「ご迷惑をおかけします」「ご協力をお願いします」といった腰の低い文言が並ぶ。目前の事態に関する説明はない。発行者の「民主政治再建会議」の正体は兵士ですら知らなかった。

 

「番組が始まったぞ!」

 

 誰かが叫んだ。店にいる者すべてがテレビに視線を向けた。画面に現れたのは意外過ぎる人物だった。

 

「市民の皆さん、私は同盟軍最高司令官ウラディミール・ボロディンです」

 

 綺麗に撫でつけられたアイボリー色の髪、美しく整った口髭、洗練された軍服の着こなし、上品だが嫌味のない物腰。宇宙軍士官の理想を一身に体現したスマートな風貌。統合作戦本部長ウラディミール・ボロディン宇宙軍大将である。

 

「本日一〇時〇〇分、市民の代表たる資格を失った最高評議会及び同盟議会に代わり、民主政治再建会議が自由惑星同盟の全権を掌握しました」

 

 ボロディン大将は穏やかに宣言する。ラグナロックの英雄がクーデターを起こしたことに、誰もが驚いていた。

 

 俺は内心で舌打ちした。ボロディン大将は大丈夫だろうと思い込んでいた。グリーンヒル大将やルグランジュ大将に気を取られていた自分が情けなくなる。

 

「最初にはっきりさせておきたいのは、これは軍事クーデターではないということです。我々は市民として抵抗権を行使しました。

 

 同盟憲章第二一条第三項には、『すべての同盟市民は、民主制及び憲章秩序を破壊しようとする者に抵抗する権利がある』と記されています。最高評議会評議員及び一部の同盟議会議員が、民主制を破壊しようと企てていました。我々は非暴力的手段による解決を目指しましたが、失敗に終わったため、やむなく直接行動に踏み切った次第です。

 

 民主政治は危機的な状況です。政治家は選挙に勝つために、市民同士の対立を煽ります。利権集団は政治家と結託してルールを曲げています。暴力集団は政治家の手先となって体制批判を封じます。民主主義の名のもとに、非民主的集団が政治を動かすようになりました。

 

 非民主的集団は全体主義体制の建設をもくろんでいます。戦時体制の名のもとに、市民の自由を制限しようとしています。ゆりかごから墓場までケアする福祉を作ると言って、市民の経済的自立を奪おうとしています。完全雇用を実現すると言って、計画経済をやろうとしています。帝国の脅威を強調し、市民を弾圧するための軍隊を集めています。

 

 辺境正常化作戦は非民主的集団の性格を現しています。軍事力を誇示するために出兵し、市民を傷つけました。軍事力を誇示する目的の出兵は以前にもありましたが、帝国軍が相手でした。市民の居住地を攻撃して力を示すなど前代未聞です。

 

 彼らの望みは戦争を続けることであって、帝国に勝利することではありません。権力を握るために戦時体制を必要としているのです。彼らがラグナロック戦役に反対したのも、戦時体制を維持するためでした。

 

 同盟に戦時体制を継続する体力はありません。宇宙艦隊は平時でも莫大な維持費がかかります。大規模な宇宙艦隊を維持し続けるならば、財政破綻は避けられないでしょう。

 

 非民主的集団はフェザーンからの借金に頼ろうとしています。金を借りた者は貸した者に依存させられます。今年に入ってから、同盟はフェザーンから莫大な金を借りました。その代償として、対フェザーン交渉で譲歩を続けています。彼らは権力欲しさに自立を捨てました。

 

 トマス・ジェファーソンは、『自分が使う金を子孫に返させるようなやり方は、未来に対する詐欺だ』と述べました。同盟市民が自立した存在として生きるには、自らの手で自らを救わなければなりません。

 

 帝国との恒久講和、大規模な軍縮、財政再建、民力休養のみが、唯一の現実的手段です。これは同盟市民が等しく望むところでもあります。

 

 この国に生きる一三二億人は一枚の白いページを持っています。それはアーレ・ハイネセンと流刑囚四〇万人が、アルタイル第七惑星を脱出した時に始まった物語の続きです。自らの手で自由と抵抗の物語を書き足しましょう。子供に次の白いページを渡し、『好きなことを書きなさい』と伝えようではありませんか。

 

 アメリカ独立宣言は言います。

 

『いかなる政府といえども権利に反する時は、人民は政府を改造または廃止して、新しい政府を作る権利を持つ』

『権力乱用と権利侵害が長期にわたって継続し、人民を絶対的な専制支配の下に置く意図が明らかな時には、そのような政府を捨てて、安全を保障してくれる新しい政府を作ることは、人民の義務であり権利である』

 

 善政を敷く者が選ばれ、悪政を敷く者が追放される。それが正しい民主政治です。同盟を市民の手に取り戻しましょう。政権支持率のために市民や兵士が殺される世界を終わらせましょう。ご協力をお願いいたします」

 

 声明文を読み上げると、ボロディン大将は深々と頭を下げる。格調高いスピーチと紳士的な風貌がぴったり合っていた。

 

 俺の中に残ったのは敗北感だった。ネグロポンティ国防委員長やドーソン大将を一〇〇人集めたとしても、勝てる気がしない。能力ではなくて風格の問題だ。真の大物はただ存在するだけで小物を畏怖させる。

 

「ドーナツをくれ」

 

 甘みで打ち消すしかないと思い、ハラボフ少佐からドーナツを三個もらって食べた。味はあまり感じなかったが、少し気持ちが落ち着く。

 

「なんだありゃ!?」

 

 窓際の席の客が驚きの声をあげると、他の客も窓際に集まった。俺もハラボフ少佐に誘われて窓際に行き、みんなと同じように上を見上げた。

 

「…………」

 

 とんでもない数のシャトルが空を埋め尽くす。おそらくは明後日のパレードに備えていた第五機動軍だろう。宇宙防衛管制司令部は制圧されたらしい。そうでなければ、アルテミスの首飾りが第五機動軍の進入を阻むはずだ。

 

 五〇万の大軍がクーデター側に味方した。これに匹敵する地上戦力は、ジェファーソン川流域では第一機動軍、北大陸全体では三〇〇〇キロ離れた第九機動軍のみだ。情勢は一気にクーデター軍に傾いたのである。

 

 

 

 俺がオリンピアで足踏みしている間、クーデターは着々と進んでいった。

 

 同盟全土に戒厳令が施行された。民主政治再建会議が全権を掌握するが、同盟憲章と同盟法は存続するという。ボロディン大将は「再建会議は暫定政権だ」と述べ、「一年以内に民主的な選挙を実施する」「新議会が発足したら再建会議は解散する」と約束した。

 

 夜間外出禁止令が発令され、夜二二時から翌日五時までの外出が禁止となった。社会の混乱を避けるため、勤務中の公務員・基幹産業従事者・物流業従事者・医療従事者は適用対象外となる。

 

 最高評議会と同盟議会の権限は停止された。同盟最高裁判所は引き続き職務を継続する。ボロディン大将は各委員会の事務総長を委員長代行に指名し、行政運営を任せた。事務総長は各委員会の筆頭官僚で、帝国の省次官に匹敵する立場だ。

 

 評議員一五名のうち、一三名は閣議の席で拘束され、一名は外遊先で拘束された。トリューニヒト議長だけが脱出に成功した。上院議長、下院議長、大衆党政審会長、統一正義党代表らも拘束された。拘束を免れた与党幹部に対しては拘束命令が出ている。

 

 民主政治再建会議は軍幹部の身柄も押さえた。宇宙艦隊司令長官ビュコック大将、地上軍総監ベネット大将、統合作戦本部次長ドーソン大将、宇宙艦隊総参謀長クブルスリー大将、バーラト方面艦隊司令官アル=サレム大将など、オリンピアにいた者はほぼ全員捕まったのである。オリンピアを離れていた宇宙艦隊副司令長官ルグランジュ大将、予備役総隊司令官グリーンヒル大将らは、出頭要請を受けた。ただし、トリューニヒト派軍人や過激派軍人に対しては、拘束命令が出た。

 

 市民生活には影響は出ていない。電車やバスは通常運行、商店は営業を続けている。役所も中央官庁以外は普段通りだ。道路で検問を行う兵士、重要施設を警備する兵士の姿が、クーデター中だと気づかせてくれる。首都圏では端末回線の通信規制、宇宙船・航空機・リニアの運航停止が実施されているが、明日には解除される見通しだ。

 

 また、五人以上の政治集会の禁止、メディアに対する規制、同盟政府が帝国やフェザーンと締結した条約の継承なども布告された。

 

 民主政治主義再建会議は会合を開き、野党政治家、高級官僚、財界幹部、労働組合指導者、マスコミ幹部、知識人を召集した。クーデターの趣旨について説明し、政権運営への協力を求めたという。

 

 一四時に民主政治再建会議の構成が発表された。議長は同盟軍最高司令官ウラディミール・ボロディン宇宙軍大将、副議長は統合作戦本部長代行マービン・ブロンズ地上軍大将、事務局長は統合作戦本部次席副官クリストフ・フォン・ファイフェル宇宙軍准将が務める。その他、宇宙軍将官四名、地上軍将官五名、宇宙軍技術将官一名がメンバーに名を連ねた。

 

 ファイフェル准将は前の世界の戦記にも登場する。ビュコック大将の副官で、過激な発言をするたびに上官からたしなめられる役回りだった。この世界でも四年前まではビュコック大将の副官を務めたが、上官が一度引退した時に、ボロディン大将の幕僚となった。ビュコック大将とボロディン大将は親友同士なので、移籍もスムーズにできるのだ。そんな人物がクーデター派の知恵袋ともいうべき事務局長になった。

 

 個人的には知人が二人参加していたことがショックだった。第四機動集団司令官レヴィ・ストークス宇宙軍中将には、旧第一一艦隊で世話になった。イゼルローン方面艦隊司令官フランシスコ・メリダ宇宙軍中将は、六年前に第一一艦隊副参謀長を務めた人で、剛直な性格ゆえにドーソン大将から嫌われた。知っている人と敵対するのはいい気分ではない。

 

 一五時三〇分、オリンピア市の通行規制がようやく解除された。一二〇万人が住む都市を完全封鎖し続けるなど不可能だ。もっとも、検問は継続された。電車の運行は再開されたが、短時間で長距離を移動できるリニアは止まっている。

 

 俺とハラボフ少佐はバスに乗ってオリンピアを出た。近隣住民が乗る短距離の一般路線バスである。バスなら一般路線、電車なら各駅電車の鈍行が最も警戒されにくい。

 

 バーナーズタウン二丁目でバスを降り、表通りから少し外れた場所にある駐車場に入った。クリーム色のミニバンが停めてある。

 

「これだ」

 

 俺は持っていたキーを回し、ハラボフ少佐と一緒に乗り込む。偽造身分証を使って一か月契約で借りたレンタカーを、偽造身分証で契約した駐車場に停めておいた。首都防衛軍クーデター対策チームは、この方法で逃走用の車を多数確保した。

 

 警戒線を通り抜けるのは予想以上に容易だった。真面目なのは第五機動軍だけで、首都管区隊や第一機動軍は明らかにやる気がない。連呼を何度も続けて行動に移らない部隊、わざと遅く行動する部隊、誰が通っても素通りさせる部隊も見かけた。

 

 車と電車を乗り継いで、ハイネセンポリス都心部から二〇キロの距離にあるサラパルータ市に到着した。ハイネセンポリスに西側から入る二つのルートの中間点だ。

 

 サラパルータ中央駅の伝言板は、書き込みで埋まっている。脇にある二枚のホワイトボードは臨時の伝言板だろう。通信規制は現在も継続中だ。普段はほとんど使われない手書きの伝言板も、災害などで通信規制がかけられた時は重宝される。

 

「チュン・ウー・チェン参謀長代理、ラオ作戦部長、マー通信部長か」

 

 俺は三つの暗号文を見付けた。クーデター対策チームはどの方向に逃げても、一度はサラパルータ中央駅に立ち寄り、駅の伝言板で連絡を取り合うと決めていた。

 

 打ち合わせ場所に選ばれたのは、駅の構内にあるオムライス専門店「キッチン・フラッフィー」である。ふわふわオムライスで有名な店だ。

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理は冴えない窓際社員、ラオ作戦部長は営業成績の悪いセールスマン、マー通信部長は野暮ったい女性会社員に見えた。三人とも地味な顔なので、仕事帰りの会社員のような変装が良く似合う。

 

 一方、俺とハラボフ少佐は赤いボーダー柄のパーカーである。ハラボフ少佐が言うには、兄妹は同じ柄の服を着ないといけないらしい。髪の色や偽造身分証を変えたのに、兄妹という設定は同じだった。

 

「デザートは何にしよう?」

「ミルフィーユかな」

「シフォンも捨てがたいけど」

「トルテはやめておこう」

 

 会社員風の三人とフリーター風の二人がオムライスを食べながら、スイーツについて話す。本当は宇宙軍中将、宇宙軍准将、宇宙軍大佐、宇宙軍技術大佐、宇宙軍少佐が、どの作戦案を使用するかを選んでいるのだ。

 

 どうでもいいことだが、チュン・ウー・チェン参謀長代理が米を食べるところを初めて見た。パン以外の主食は食べないと思っていたので意外に感じる。

 

 打ち合わせを終えてキッチン・フラッフィーを出た。チュン・ウー・チェン参謀長代理らと別れてハラボフ少佐と二人きりになる。逃げている者が五人も固まって歩くのはまずい。

 

「今日のデザートはミルフィーユ。いちごは少なめ」

 

 ハラボフ少佐が伝言板に丸っこい文字で暗号文を記す。後から来る者に作戦と集合場所を伝えるためだ。

 

 一九時一〇分、ハイネセンポリス西北部と接するボーナム市に入った。同盟の建国期に築かれた古都だが、地場産業はないし、交通の要所でもない。歴史の長さ以外には特徴がない都市だ。伝統的に右翼勢力が強く、「褐色のハイネセン」と呼ばれる右翼的地域の一部となっている。

 

 日が落ちた街並みを路線バスの窓から眺めた。兵士が配備されているのは、東の首都ハイネセンポリスとの境界、北の大都市コルヒオ市との境界、西の要衝ブール=ブランシュ空港に通じる道のみだ。歩道を歩く人々も、車道を走る地上車も、営業中の商店も緊迫した様子はない。車窓の外にはクーデターとは無縁の日常があった。

 

「懐かしいな」

 

 俺は独り言を口にする。自分の知っているボーナムはのどかな街ではなかった。それなのに懐かしいと思う。

 

 前の世界では、ハイネセンポリス西北部、ボーナム市、フォルッサ市、ピナマコール市の一帯に巨大なスラムがあった。あまりに殺人が多かったので、一度に五人以上殺されないと話題にならない。路上では麻薬や武器が堂々と売買される。そんな街だったので、反帝国勢力の拠点が乱立していた。

 

 あのスラムがいつ形成されたのかは知らない。俺が軍隊を脱走したのはバーラトの和約が結ばれる少し前だが、その頃からスラムだった。帝国軍が攻めてくる前から荒れていたのだろう。

 

 人生をやり直した俺が平和なボーナムに足を踏み入れた。隣には妹と似た顔の副官がいる。運命に導かれたとしか思えない。

 

「お兄ちゃん、降りるよ」

 

 ハラボフ少佐の声が俺を現実に引き戻す。次の停留所はボーナム総合防災公園前。最終目的地である。

 

 バスを降りた俺たちを九名の男女が出迎えた。チュン・ウー・チェン参謀長代理、アブダラ副参謀長、ラオ作戦部長、ベッカー情報部長、イレーシュ後方部長、オズデミル人事部長、マー通信部長、メッサースミス作戦副部長、ウェイ憲兵隊長である。みんな大きなスポーツバッグを持ち、ジャージやパーカーを着ていた。社会人のスポーツサークルのような格好だが、民主主義を守る最後の部隊だ。

 

「無事で良かった」

 

 俺は表情を緩めた。首都防衛軍クーデター対策チームが、一人も欠けることなく集まった。それ以上に嬉しいことはない。

 

「あなたが無事な方がうれしいよ」

 

 イレーシュ後方部長が両手で俺の右手を握る。美しい栗毛は極端に短くなった。神々しい美貌、一八一・六センチの身長、ミサイルのように張り出した胸を、変装でごまかすのは難しい。そのため、髪を切ってウィッグを取り換えながら逃げた。

 

「感謝してもしきれません」

 

 それが俺の本音であった。一二年前に知り合って以来、彼女はずっと俺を助けてくれた。今回は自慢の髪を切ることまでした。どれほど感謝しても足りないと思う。

 

 全員で防災公園の管理棟に入り、受付のベルを鳴らす。初老の警備員がふらついた足取りでやってくる。

 

「ああ、プリンセス通りベースボールクラブさんね」

 

 警備員は俺が差し出した会議室利用許可書を見ると、さっさと奥に引っ込んだ。

 

「あの人、酒の臭いがしませんでしたか?」

 

 メッサースミス作戦副部長が俺の耳に顔を近づけてささやく。

 

「そうだな」

「仕事中に酒を飲むなんて、いい加減にもほどがあります。それに今は国難の真っ最中でしょう」

「民主主義はああいう人のためにあるんだ」

 

 それだけ言うと、俺は薄暗い廊下を歩いて行く。六年前、ヨブ・トリューニヒト議長は場末のバーで、「凡人のための政治が必要だ」と語った。それは弱くて愚かで怠惰な人間のための政治だ。人間が強くて賢くて勤勉ならば、政治の力がなくても生きていける。

 

 俺たちは会議室の前を通り過ぎ、「防災司令室」と書かれた扉の鍵を開けた。その中は広間になっており、端末や通信機が据え付けられたデスク二二〇席、巨大なマルチスクリーン一台、サブスクリーン六〇台が並んでいる。

 

「これが欲しかった」

 

 俺は指揮端末の電源スイッチを入れ、防災指揮管制システムを起動させる。音声パスワード入力を求める画面が現れた。

 

「パスワードAの入力をお願いします」

「今日のおやつは、フィラデルフィア・ベーグルのマフィン」

「パスワード一致。解除しました。パスワードBの入力をお願いします」

「明日のおやつは、パティスリー・マルシェのフランボワジェ」

「パスワード一致。解除しました。パスワードCの入力をお願いします」

「コーヒーには角砂糖五個とクリーム三杯を入れてくれ」

「パスワード一致。解除しました」

 

 ボーナム総合防災センターの防災指揮管制システムは、俺を指揮権者として認識した。

 

「やったぞ!」

 

 俺は部下と一緒に歓声をあげた。この瞬間、首都防衛軍クーデター対策チームは武器を手に入れたのだ。

 

 総合防災センターは防災活動の中枢である。指揮通信機能を持つ司令室、物資集積所や宿営地として使える広場、ヘリコプター離着陸施設、食糧や水や燃料などが備蓄されている倉庫、本部要員の臨時宿舎などを備える。支援機能は軍事基地に勝るとも劣らない。

 

 防災指揮管制システムは防災通信ネットワークの中心にいる。有線通信、無線通信、衛星通信、移動通信を組み合わせた複合的な通信網で、あらゆる災害に耐えうる強靭性を持つ。

 

 すべての自治体は独自の防災計画と防災体制を有する。防災計画が発動すると、首長をトップとする災害対策本部が設けられ、公共施設・教育施設・公園・病院は防災活動の基地となり、行政機関や民間組織が動員される。複数の自治体を統括するのが総合防災センター、情報伝達を担うのが防災通信ネットワークだ。

 

「防災体制は軍事に応用できる。その要が総合防災センターなんだ」

 

 対クーデター作戦を作った時、俺は防災体制に目をつけた。正しい情報を集め、人員を必要な場所に投入し、物資を絶えず補給する点では、軍事作戦と防災活動は良く似ている。部隊運用のノウハウを応用できるのだ。名将アッテンボロー少将は、バイレの災害派遣で鮮やかな手腕を見せた。俺は彼ほど有能ではないが、災害派遣を指揮した功績で勲章をもらったことがある。

 

 また、防災拠点は軍事施設や警察施設と違って警戒されにくい。強力な支援機能を持つ総合防災センターも、平時は休眠状態にある。運営者の首都圏広域連合防災局は、戦闘員も工作員も持っていない。まともな軍人なら注目しないだろう。

 

 首都圏の総合防災センター四か所と、それ以外の総合防災センター八か所を予備司令部として選んだ。メンバーが視察の名目で各地を巡り、司令室に入って命令とパスワードを仕込み、どこに逃げても戦えるように準備した。

 

「さっそく情報を集約しよう」

 

 俺は表情を引き締めた。クーデターとの戦いは時間との勝負だ。敵が軍隊と官僚機構を掌握する前に、事を起こさなければならない。

 

 報道規制のおかげで首都圏の状況すら掴めなかった。民主政治再建会議による発表、目と耳で確認した情報から推測すると、第四機動集団、第五機動軍、第一機動軍、特殊作戦総軍配下の第一地上特殊作戦群が再建会議陣営だ。ただし、第一機動軍は積極的な部隊が少ない。首都防衛軍の首都管区隊は検問に協力していたが、無理やり動員された印象だ。ハイネセン宇宙軍は降伏した可能性が高い。第一機動集団、第一陸戦遠征軍の動向は不明だ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 首都圏の外は未知の世界だった。ハイネセン北部軍が裏切ったこと、イゼルローン方面艦隊がクーデターを支持したことだけが分かっている。その他の部隊の動向はまったくわからなかった。

 

 要人たちの態度もわからなかった。進歩党のレベロ代表やホワン幹事長、NPCのウィンザー下院院内総務、反戦市民連合のアブジュ下院議員といった野党政治家の動きは、ほとんど報じられていない。ルグランジュ大将やグリーンヒル大将が、出頭要請にどんな返事をしたのかも不明だ。

 

 惑星ハイネセンにいない復員支援軍司令官ヤン大将らについては、手がかりすらない。前の世界のクーデターでは、救国軍事会議が強硬路線だった。だが、民主政治再建会議は明らかに和平路線で、復員支援軍の後方を塞いだメリダ中将は気骨の人だ。ヤン大将がどう対処するのかは想像できない。戦記にはそんな局面はなかった。

 

 逃走した与党幹部や軍幹部の多くは、逮捕されるか自分から出頭した。国家非常事態委員会(SEC)メンバーの中で拘束されていないのは、俺、フェーブロム少将、チャン警視監、ナディーム警視長の四名だけだ。

 

 今のところ、トリューニヒト派部隊がクーデターに介入する気配はない。フェーブロム少将の第九機動軍は沈黙している。パリー中将は二個地上特殊作戦群を掌握していたのに、あっさり出頭してしまった。ハイネセン北部軍は司令官が驚くほど簡単に屈服した。

 

「圧倒的不利だな」

 

 他に現状を形容する言葉が見当たらなかった。

 

「まだ情勢は流動的です。逆転する余地はいくらでもありますよ」

 

 のんびりした顔のチュン・ウー・チェン参謀長代理にそう言われると、余裕がありそうに思えてくる。声と表情はとても大事だ。でも、胸元のパン粉ぐらいは払ってほしい。



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第80話:市民軍決起 801年11月1日 ボーナム総合防災センター

 防災指揮システムは首都圏の防災ライブカメラをコントロールできる。俺たちはボーナム総合防災センターにこもっていても、外の光景を眺めることができた。

 

 人々はクーデターを受け入れたように思われた。今のところ、民主主義再建会議に抵抗する動きは見られない。市民はいつもと同じように過ごし、官僚機構は再建会議布告を粛々と実行し、軍隊は持ち場を守ることに努める。

 

 もっとも、再建会議の命令を聞く者が支持者とは限らない。積極的に支持する者はごく一部で、その他はとりあえず従っているだけだろう。正当な政府が消えて市民は戸惑っている。だから、唯一の秩序にすがろうとするのだ。

 

 俺は画像を消すと、マフィン三個とシュークリーム二個を食べた。今から一世一代の演説を始めるのだ。糖分はいくらあっても足りない。

 

「開始一分前です」

 

 防災司令室に副官代理ハラボフ少佐の声が響く。クーデター対策チームの一一名全員が、息を殺して時計を見つめる。

 

「五、四、三、二、一……」

 

 カウントがゼロになった瞬間、俺は青いボタンを押す。

 

「緊急事態速報! 緊急事態速報! 惑星ハイネセン全域に緊急事態が発生しました!」

 

 一一月一日一二時〇〇分、ハイネセン全域に緊急事態速報が発信された。通信端末、テレビ、ラジオ、館内放送のすべてからサイレン音が鳴り響く。そして、すべての通信端末とテレビに、俺の顔が現れる。

 

「市民の皆様、私は首都防衛軍司令官エリヤ・フィリップス宇宙軍中将です。昨日より首都圏で進行中の事態に対して説明いたします。

 

 一〇月三一日午前九時、ウラディミール・ボロディン宇宙軍大将率いる反乱部隊が、ハイネセンポリス特別市及びオリンピア市を占拠しました。そして、市民の代表から権力を奪い取り、『民主政治再建会議』と称する軍事独裁政権を樹立したのです。

 

 首都防衛軍は防戦に務めましたが、戦闘継続が困難になったために退却いたしました。司令部を一時的に放棄し、予備司令部で反撃の機会を伺ってきました。

 

 反乱部隊は最高評議会と同盟議会の権限を停止し、『民意を代行する』と言って命令を出しています。しかし、民主的選挙によって選ばれた代表以外には、民意を代行する資格はありません。要するに資格のない者が勝手なことをしているのです。

 

 この戦いは権力争いではありません。むろん、政策をめぐる争いでもありません。トリューニヒトとボロディン、戦争継続と講和、積極財政と緊縮財政、軍拡と軍縮という対立軸は、この戦いには存在しません。

 

 重要なことは二つだけです。民主主義を守りたいのか? 軍事独裁を容認するのか? この戦いは民主主義と独裁政治の戦いなのです。

 

 三年前、私は民主主義が失われた世界を知りました。帝国領はかつて民主国家だったとは思えないほどに荒廃していました。インフラや福祉なんてものはありません。民衆は貧困に苦しみ、反乱を鎮圧するための軍隊と警察だけが肥え太っていました。

 

 非民主的な体制においては、政治家は民意に従う義務を持っていません。市民の要望からかけ離れた政策を推進できます。そのことを知った時、私の頭から民主主義に対する懐疑は消えました。何があろうとも、民主主義を守るために戦おうと誓いました。私は衆愚政治より哲人政治を恐れます。

 

 今のところは反乱部隊が優勢です。主要な官庁や司令部は占拠されました。閣僚や軍首脳は捕虜となり、トリューニヒト議長は行方不明です。ジェファーソン川流域は制圧されました。ハイネセン周辺宙域の制宙権を奪われました。イゼルローン要塞も敵の手中にあります。

 

 しかし、対抗できないと結論付けるのは早まった考えです。ジェファーソン川流域の市民二億人と兵士一〇〇万人が結束すれば、反乱部隊の足元は崩れるでしょう。ジェファーソン川流域の外にいる市民八億人と兵士七〇〇万人が結束すれば、反乱部隊を地上から包囲できるでしょう。ハイネセンの外にいる市民一二二億人と兵士三六〇〇万人が結束すれば、反乱部隊を宇宙から包囲できるでしょう。

 

 結束こそが何よりも大事です。一人では対抗できない相手でも、一〇〇人が集まれば対抗できます。もっと多くの人が結束すれば、数百万の反乱部隊にも対抗できるのです。

 

 ようやく反撃の準備が整いました。これより首都防衛軍は、対クーデター作戦『ミルフィーユ』を開始いたします。

 

 すべての首都防衛軍隊員に命じます。首都防衛軍は国防基本法第六八条第二項の規定に従い、自主派遣を開始します。司令官エリヤ・フィリップスの指揮下に戻ってください。

 

 すべての同盟軍人にお願い申し上げます。反乱部隊の命令は違法ですので、実行しないでください。クーデター鎮圧作戦に対する支援を待っています。

 

 すべての同盟市民にお願い申し上げます。積極的でも消極的でも良いので、反乱部隊に対しては不服従を貫いてください。そして、首都防衛軍にご協力ください。

 

 自由惑星同盟は銀河にまたたく民主主義の灯火です。何があろうとも、この灯火を消してはなりません。重ねてご協力をお願い申し上げます」

 

 俺は最敬礼の姿勢をとる。民間人は部下ではない。また、首都防衛軍以外の部隊には指揮権を行使できない。お願いするという形式が必要なのだ。

 

 画面から俺の姿が消え、テロップが表示された。ハイネセン緊急事態対策本部の設置、首都防衛軍司令部のメールアドレス、義勇兵志願者の集合場所などを知らせる。

 

「終了です」

 

 ハラボフ少佐が放送終了を告げると、部下たちが次々と近寄ってきた。

 

「お召し上がりください」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理は潰れたブリオッシュ・ブレッサンを差し出す。

 

「ありがとう」

 

 俺は迷うことなくブリオッシュを受け取る。この演説で三時間のランニングに匹敵するエネルギーを使った。腹の中にはパンくずすら残っていない。

 

 他の部下たちも次々と食べ物を持ってきた。ラオ作戦部長はカシューナッツ入りの乳粥、イレーシュ後方部長はケチャップをたっぷり付けた極太ソーセージ、マー通信部長はマンゴープリン、メッサースミス作戦副部長は潰れていないサンドイッチと言った具合だ。

 

「お見事でした。トリューニヒト議長を見ているようでしたよ」

 

 ベッカー情報部長は帝国風蜂蜜ケーキを俺の手に乗せる。

 

「最高の褒め言葉だ」

 

 俺は満面の笑みを浮かべた。

 

「恥ずかしがらないんですな」

「謙遜するなと言ったのは君じゃないか」

「そんなこともありました」

「あの時はダーシャとスコット提督もいた」

 

 それは遠い過去だった。俺はハイネセンポリス第二国防病院の入院患者で、ダーシャもベッカー大佐もスコット准将も同じ病棟にいた。

 

「懐かしいですな」

「もう七年前だ。俺とダーシャは知り合ったばかりだった」

 

 デスクの上に視線を移す。そこには三つの写真立てが飾ってあった。一つは敬礼をする軍服姿のダーシャ、一つは優しく微笑むダーシャ、一つは子供のように口を開けて笑うダーシャだ。

 

「今はダーシャはいない。俺たちが頑張らないと」

 

 そう言って俺は蜂蜜ケーキを食べた。ダーシャと一緒に歩くことはできなくなった。だが、彼女が歩きたかった道を代わりに歩くことはできる。彼女が守りたかったものを代わりに守ることはできる。

 

 防災指揮システムは緊急事態計画の手続きを始めた。文書を自動的に処理していく。惑星ハイネセンの軍隊・自治体・警察・消防・公益事業者・民間防衛組織に対し、協力要請書を送付する。首都防衛軍所属部隊に対しては命令書を送った。

 

 機械が自動操作で動いている間、人間は人間にしかできない仕事をやる。クーデター対策チームの一一名は調整や応対に奔走した。

 

「ボーナム市が味方に付きました」

 

 オペレーター役のハラボフ少佐が淡々と報告する。

 

「市長と話をしたい。回線を繋いでくれ」

「かしこまりました」

 

 すぐに市長室と回線が繋がり、スクリーンに厳格そうな老婦人が現れた。室内には同盟国旗、愛国的な標語が書かれたポスター、トリューニヒト議長の写真などが飾られている。

 

「わ、私はボーナム市長ジュリア・サンティーニであります! 愛国の名将フィリップス閣下にお目にかかれて光栄であります!」

 

 サンティーニ市長の敬礼はぎこちなかった。手も声も震えている。皇帝から直接言葉をかけられた平民のような緊張ぶりだ。

 

「首都防衛軍司令官エリヤ・フィリップス中将です。ご協力感謝いたします」

 

 俺は姿勢を正して敬礼を返す。

 

「市民の義務を果たしただけのことです!」

「あなたの愛国心を見込んでお願いしたいことがあります。私どもへの支援をお願いできませんでしょうか」

「何なりとお申し付けくださいませ!」

「ありがとうございます。それでは――」

 

 俺は人員と物資を送ってくれるよう依頼した。オリンピアの司令部を失ったため、司令部運営に必要な基盤が不足していた。特に人員不足は深刻だ。防災司令室を運用するには、最低でも一五〇人の人員が必要になる。

 

「かしこまりました!」

 

 期待通りの答えが返ってきた。サンティーニ市長は愛国者を自認する人物だ。「愛国心を見込んでお願いする」と言われると、イエス以外の答えは返せない。

 

「あなたの愛国心に心より敬意を表します」

「もったいないお言葉ですわ……」

 

 八〇歳を過ぎた老婦人が感涙にむせんだ。英雄崇拝の傾向を持つ人々にとって、「勇者の中の勇者」の名前は美しい響きを持つ。それを見越した上で直接通信を入れたのだが、ここまで感激されると少し引いてしまう。

 

 ハイネセンポリス西部の八区、フラテルニテ州東部の五市が味方に付いた。これらの自治体とボーナム市は、首都圏最大の右翼地域「褐色のハイネセン」に属する。

 

「予定通りだ」

 

 俺は胸を撫で下ろした。首都圏で最も親トリューニヒト的な地域を味方にできなかったら、クーデター軍と戦うなどおぼつかない。

 

 新たに味方となった自治体のうち、ボーナムと隣接する四つの自治体に通信を入れた。俺自らが交渉にあたり、サンティーニ市長の時と同じ要領で支援を引き出す。これで人員と物資のめどがついた。

 

 ボーナム総合防災センター前の広場には、大勢の人が集まっていた。私服を着た者は義勇兵志願者だ。軍服を着用しているのは予備役軍人だろう。クーデター糾弾とトリューニヒト支持の叫びが飛び交う。広い駐車場には次々と車が入ってくる。

 

「広場に何人集まった?」

「二〇〇〇人は越えています」

「そんなにいるのか!?」

 

 俺は絶句してしまった。放送終了から二〇分も経っていない。今は平日の昼間だし、ボーナムは人口密集地域から外れている。それなのに二〇〇〇人も集まったのだ。

 

「参謀長代理、指揮を頼む!」

 

 俺はチュン・ウー・チェン参謀長代理に指揮を任せると、広場へと急いだ。リーダーが姿を見せなければ、人々は失望するだろう。この熱気を冷ますわけにはいかない。

 

 階段を下りたところで携帯端末が鳴った。発信者はマー通信部長だ。

 

「通信部長か。どうした?」

「ボーナム市の支援部隊一〇〇名が到着しました。指示を求めております」

「参謀長代理に一任する」

「そうもいかないのです。向こうの責任者が『フィリップス提督から直接指示をいただきたい』と申しておりまして」

「わかった。これから行くと伝えておいてくれ」

 

 俺は先に支援部隊と会うことに決めた。ところが、一分も経たないうちにまた端末が鳴った。

 

「今度は何があった」

「ピナマコールの大衆党市議団が面会を求めています。フィリップス提督を激励したいとのことです」

「まいったな」

 

 激励に来てくれるのはありがたい。今後のことを考えると、ピナマコール市議会との関係強化は不可欠だ。しかし、もう少し後に来てほしかった。

 

「申し訳ありません。たった今、緊急連絡が入りました」

「悪い知らせかな」

「はい。ボーナム警察より連絡が入りました。装甲車両が星道六五号線を埋め尽くしているので、フィリップス提督と協議したいとのことです」

「…………」

 

 面倒なことになった。俺はセンジュカンノンではない。複数の問題を同時に片づけることなどできないのだ。

 

 自分が出なければ収まらないのはわかっている。今のところ、緊急事態対策本部は俺の個人的な信用だけで成り立っている組織だ。知名度の低いチュン・ウー・チェン参謀長代理が出てきても、人々は納得しないだろう。

 

 俺は休む暇もなく走り回った。敵の動きに対応し、味方と連絡を取り、重要人物と交渉し、警官隊や消防隊を運用し、支援部隊に仕事を割り振り、広場に集まった人々を盛り上げる。糖分を補給する余裕すらない。ミッターマイヤー提督と戦った時ですら、これほど忙しくはなかった。

 

 

 

 落ち着いたのは一六時頃のことだ。指揮系統を構築し、補給や通信を整え、各組織の役割を明確にし、緊急事態対策本部を頂点とする体制が完成した。

 

 緊急事態対策本部には、指揮部・計画部・物流管理部・総務部・運用部という五つのセクションがある。文民を充てるポストは空席にし、有資格者が加入した時に埋めることとした。マニュアル通りの組織を作ったのは、合法性を強調するためだ。

 

 本部はボーナム総合防災センターの防災司令室に置かれた。あらゆる情報がこの部屋に集まり、あらゆる活動がこの部屋で統制される。

 

 この体制を俺たちは「市民軍」と名付けた。ハイネセン緊急事態対策本部は司令塔であって、組織全体の呼称としてはふさわしくない。

 

 市民軍の勢力圏は二つに分けられる。一つはハイネセンポリス西部からフラテルニテ州東部にまたがる褐色のハイネセン、もう一つは各地に点在する市民軍支持の自治体だ。この二つの間には再建会議や中立派の勢力圏が広がる。

 

 褐色のハイネセンが市民軍の本拠地だ。その四方を再建会議側の四個師団が取り囲み、上空を航空機やヘリコプターが飛び回り、陸路も空路も封鎖された。

 

 一見すると孤立したように見える。しかし、それほど追い詰められた状況ではない。陸路を封鎖する部隊のうち、第一首都歩兵師団と第三七歩兵師団は士気が低く、第四四空挺師団と第一二〇歩兵師団は大都市で行動することに慣れていなかった。おかげで人も物も自由に出入りできた。

 

 封鎖線の外では、大勢の軍人・警察官・役人が密かに味方してくれた。ある者は情報を流し、ある者は物資を供給し、ある者は意図的な手抜きによって敵の行動を遅らせる。俺や国家非常事態委員会(SEC)メンバーが組織した人々である。

 

 旧セレブレッゼ派の活躍は特に素晴らしかった。輸送総軍司令部は制圧されたが、支援部隊が頑張ってくれた。整備系の者は敵の装備をわざと故障させた。通信系の者は敵の通信系統を故障させたり、市民軍の通信手段を確保してくれたりした。輸送系の者は故意に輸送を遅らせた。物資を送ってくれる者、褐色のハイネセンに入って幕僚となった者もいる。彼らの働きは数十個師団に匹敵すると言っても過言ではない。

 

 様々な人物が褐色のハイネセンに入った。義勇兵志願の市民もいれば、正当な政府のために働こうとする軍人・公務員もいる。首都防衛軍司令部から脱出した者も集まってきた。

 

 アルマ・フィリップス地上軍大佐は俺の妹だ。連隊長を解任されて地上軍総監部付になっていたが、単身で馳せ参じてくれた。

 

「何だ、その格好は」

 

 俺はあきれ顔になった。腰まで届くほどに長い金髪、ダーシャ並みに大きな胸、セクシーなニットのワンピース、派手なメイク。それに加えて一八四センチの長身だ。目立つための変装としか思えない。

 

 普段の妹はショートカットの赤毛、平たい胸、男女兼用のジャージ、薄めのメイクだ。少年っぽい雰囲気があるし、身長は並みの男性よりも高い。男装した方が目立たないのではないか。

 

「変装は意外性が大事なのです」

 

 妹は大真面目に答える。敬語なのは、妹でなく軍人としての発言だからだろう。

 

「プロが言うなら正しいんだろうな」

 

 納得するしかなかった。特殊部隊隊員は敵地で活動する訓練を受けている。しかも、妹は帝国領で一〇か月にわたって偵察活動を続けた。俺なんかよりずっと変装に詳しい。

 

「私は空腹です。厚かましいお願いではありますが、食事の提供をお願いします」

「わかった」

 

 妹は変装を解いて野戦服に着替えてから食事を始める。トレイの上に盛られたチーズリゾット、ローストチキン、ポテトサラダ、ソーセージと豆のスープ、プロテイン入り牛乳、ジャムクラッカーはあっという間に胃袋へと移動した。

 

「おかわりをお願いします」

 

 同じメニューのトレイがすぐに運ばれてきたが、それも空になった。妹が満足するまでに五人分の食料が消費された。

 

 俺の右隣ではハラボフ少佐が端末を操作していた。見れば見るほど妹と似ていると思う。妹を冷たい感じにすればハラボフ少佐になり、ハラボフ少佐を幼くすれば妹になる。

 

 食料を消費しすぎるのは問題だが、それでも妹は大きな戦力だ。武器を持てば一人で兵士三〇人と戦えるし、指揮を取れば一個小隊で一個大隊を足止めできる。一〇〇人分働いてくれるなら、一〇人分の飯を食っても構わない。

 

 過激派の大物サンドル・アラルコン宇宙軍中将がやってきた。指名手配を受けたにも関わらず、正面から堂々と通ったそうだ。

 

「どんな方法を使ったのですか?」

 

 俺が質問すると、アラルコン中将は笑って答えた。

 

「このアラルコンは策など弄しません。ただ通せと言いました」

「なるほど」

 

 実にわかりやすい答えだった。封鎖部隊の中に仲間がいるということだ。

 

「頭を使うのは苦手でしてな。正面からぶつかる以外のことができんのです」

 

 アラルコン中将の言葉は謙遜ではない。指揮官としては猪突猛進、教育者としては熱血指導で知られる人だ。前の世界では前進しすぎて討ち死にした。

 

「俺もそうです」

「ご謙遜を。あなたの戦上手を知らぬ者はおりません。ゴッサウで五倍の敵を降伏せしめたこと、ヴァナヘイム撤退戦で追撃を食い止めたこと、第二次ヴァルハラ会戦でミッターマイヤーの猛攻を防いだことは、戦史に残る武勲でありましょう」

「部下に恵まれただけのことです」

「軍人は上官次第で有能にも無能にもなります。部下が有能ならば、それはあなたが有能だということでしょうな」

「そうだと良いのですが」

 

 俺は曖昧な笑いを浮かべる。

 

「あなたは数時間で首都圏のど真ん中に解放区を作った。それが有能でなかったら、この世に有能な者はおりませんぞ」

 

 アラルコン中将は口を大きく開けて笑う。きつそうな釣り目、一九〇センチを超える身長は見るからに強面と言った感じだが、話してみると気さくなおじさんといった印象を受ける。

 

 慌てて気持ちを引き締め直した。相手は過激派将校のまとめ役だ。反共和制の陰謀や非戦闘員殺害に関与したとの噂もある。俺のような小物を手玉に取るのはたやすいだろう。隙を見せてはならない。

 

 アラルコン中将は雑談に終始し、俺は言葉を選びつつ応対する。気の抜けない状況が数分ほど続いた。

 

「お嬢さん、コーヒーのおかわりをいただけるかな」

 

 アラルコン中将はハラボフ少佐に声をかける。

 

「どうぞ」

 

 ハラボフ少佐は新しいコーヒーを差し出す。五杯目のコーヒーだ。

 

「これはうまそうだ! ご馳走になりますぞ!」

 

 アラルコン中将は熱いブラックコーヒーに口をつける。

 

「熱いですなあ!」

「そうですね」

 

 俺は心の中で「当たり前だろう」とつぶやいた。猫舌なのになぜ熱いコーヒーを頼むのか? なぜ毎回口をつけて熱がるのか? この人は馬鹿なんじゃないか? 疑問が脳内を駆け巡る。

 

 そういえば、ダーシャも猫舌なのに熱いココアを欲しがった。冷ましてから飲むのである。ぬるいココアを最初から頼めばいいと言っても聞かない。変な奴だと呆れたが、目の前の中年男性よりはましだ。

 

「フィリップス提督」

「はい」

「国防について、いかが思われますかな?」

 

 急にアラルコン中将は話題を変えた。

 

「由々しい状況です。一刻も早く事態を収拾しなければなりません」

「質問の仕方が悪かったですな。トリューニヒト政権の国防政策についてお伺いしたい」

 

 おそろしく不穏な話題である。俺は慎重に答えた。

 

「良い方向に向かっていると思います」

「なぜそう思われるのです?」

「トリューニヒト政権になって国防予算が増えました。人と金をたくさん使える。指揮官としてこれ以上に嬉しいことはありません」

 

 半分は建前で、残り半分は本音だ。

 

「小官も同意しますぞ」

「同意していただけるのですか?」

「もちろんですとも。小官が政治にうるさくなったのも軍縮がきっかけです。幕僚連中は予算がいくら減っても、痛くもかゆくもない。しかし、部隊は違います。兵士が一人減れば、残った者がその分の仕事を背負う。予算が一万ディナール減れば、古くなった物を交換できなくなる。実に惨めです。兵にそんな思いをさせたくないので、小官は全体主義者になりました」

 

 アラルコン中将の言ってることは途中までまっとうだ。しかし、結論がおかしい。

 

「民主主義でも軍拡はできます」

「物足りませんな」

「来年になれば予算が増えます。再来年になればもっと増えるでしょう」

「そういう問題ではありません。兵のためになる軍拡をやってほしいのです」

「トリューニヒト議長ほど、兵のことを考える政治家はいませんよ」

「果たしてそうですかな?」

 

 アラルコン中将の釣り目が鋭く光る。

 

「誰のためでも、兵が利益を受けるなら良いじゃないですか」

 

 俺は割り切ったように見せた。政治家は善意だけでは動かない。軍需産業は注文をもらう見返りとして、政治資金を提供する。低所得層は軍隊で職を得る見返りに票を投じる。トリューニヒト議長の軍拡は、支持者の期待に応えるための軍拡だ。それでも軍縮よりはましではないか。

 

「あなたは正直だ。目が『割り切れない』と申しております」

「割り切っていますよ」

「小官の見たところ、あなたは理屈で割り切る人ではない。情で動く人だ」

「意外と理屈っぽいつもりですが」

「あなたは理念や政策に賛同しているわけではない。議長を好きだから賛同している。そうでしょう?」

 

 アラルコン中将は初対面なのに本心を言い当てた。さすがは大物だ。小物の心中などあっさり見通してしまう。

 

「トリューニヒト議長は良い人です」

 

 思っていることを素直に話すしかなかった。ごまかしが通じる相手ではない。

 

「ははは、そうですか。あなたは良い人ですな」

「ありがとうございます」

「ヨブ・トリューニヒトは信用できません。しかし、エリヤ・フィリップスは信用できそうだ。我ら一党はあなたの指揮に従いましょう」

 

 こうしてアラルコン中将が味方になった。彼を支持する過激派将校たちも、次々と市民軍の味方に付いたのである。

 

 褐色のハイネセンの外でも、多くの人が市民軍に加わった。有名人は市民軍支持のコメントを発表する。一般人は義勇兵やボランティアになったり、再建会議派の自治体で抗議デモを行う。

 

 東大陸西部のラガにおいて、宇宙艦隊副司令長官フィリップ・ルグランジュ宇宙軍大将が記者会見を開いた。

 

「いかなる理屈をもってしても、ボロディン大将のクーデターは正当化できない。宇宙軍は断固として戦う」

 

 前の世界でクーデターに加担した提督が、この世界ではクーデターに反対した。俺の心配は取り越し苦労に終わった。事前に説得したことが功を奏したのかもしれない。状況が変われば人間も変わるのだ。

 

 記者会見を終えると、ルグランジュ大将は宇宙軍の全部隊に指示を与えた。

 

「宇宙艦隊司令長官代行より宇宙軍の全部隊に命じる。クーデター派の指示に従ってはならない。市民軍のクーデター鎮圧作戦に協力せよ」

 

 かつての上官が素晴らしいプレゼントを贈ってくれた。市民軍にとって、ラガの宇宙艦隊臨時司令部は心強い同盟者となった。

 

 予備役総隊司令官ドワイト・グリーンヒル宇宙軍大将は、北大陸南部のペセタから直接通信を送ってきた。端整な顔には吹っ切れたような色がある。

 

「私は市民軍を支持する。君が脅威だと言った力を、君のために使わせてほしい」

 

 信じられないことに、前の世界のクーデター首謀者までが味方になった。

 

「感謝いたします」

 

 俺は頭を低くして礼を述べた。半分は礼儀、残り半分は疑ったことへの罪悪感だ。

 

「頭を下げる必要はない。私なりの償いなのだから」

「俺に対する償いですか?」

「ラグナロックで戦った者すべてだよ。それが私の最後の仕事になるだろう」

 

 グリーンヒル大将は淡々と語る。

 

「知っての通り、私が動かせる兵士は一人もいない。予備役総隊は予備役艦艇を管理するための部隊だ。しかし、私の友人には兵士を動かせる者がいる。彼らを説得してみよう」

 

 グリーンヒル大将は説得工作を行うこととなった。ただし、表には出ない。ラグナロック帰還兵やトリューニヒト派の反発を懸念した。

 

 市民軍はトリューニヒト派、軍国主義過激派、前世界のクーデター勢力を基盤として出発した。戦記だったら再建会議が善玉、市民軍が悪玉になるだろう。俺は主人公に向かない体質だ。

 

 

 

 一八時の時点で、一九四四自治体が市民軍に味方した。これは惑星ハイネセンにある自治体の二割に相当する数だ。その他に警察や消防だけが味方した地域もある。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「首都圏で伸び悩んでいますね」

 

 メッサースミス作戦副部長が難しそうな顔をする。

 

「そうだな。もう少し支持が広がってくれたら完璧なんだけど」

 

 俺はメインスクリーンを睨む。ハイネセンは中央宙域の中でも改革志向が強い。そして、首都圏はハイネセンで最も改革志向が強い地域なのだ。再建会議の改革路線とは相性が良い。

 

 首都圏の軍隊はすべて再建会議の指揮下に入った。曖昧な態度だった第一機動集団と第一陸戦遠征軍も、今日になって再建会議支持を明言したのだ。自治体の態度が決め手になったのだろう。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 フェーブロム少将の第九機動軍とは連絡がついた。首都圏に進軍する意思はあるが、最前衛部隊の第七七機甲軍団が寝返ったために前進できないそうだ。

 

 ラガのルグランジュ大将は、三個機動集団と二個陸戦遠征軍を指揮下に収めた。衛星軌道を再建会議が押さえているので、二個陸戦遠征軍以外は戦力にならない。そして、シューマッハ少将の第七陸戦遠征軍は東大陸西部、アムリトラジ少将の第九陸戦遠征軍は北大陸の東端にいる。首都圏からあまりに遠すぎた。

 

 過激派の力で相当数の地上部隊が市民軍に加わった。ファルスキー中将の第七機動軍は一兵残らず市民軍に付いた。第一五機動軍の陸上部隊が市民軍に味方し、再建会議派の司令官フィーゴ中将及び航空部隊と対立している。首都圏では師団長三名、旅団長一〇名が内通を約束した。

 

 首都防衛軍の主要部隊のうち、太洋艦隊・東部軍・南部軍だけが俺の指揮下に戻った。北部軍・宇宙軍・首都管区隊は再建会議に従っている。ただし、再建会議派の三部隊は士気が低い。

 

 惑星ハイネセン全体を統括する首都政庁は敵になった。エルズバーグ都知事は進歩党の元上院議員で、予算削減と不正追及を生きがいにする人物だ。首都議会では進歩党が第一党、国民平和会議(NPC)が第二党である。知事も議会も強烈な改革志向を持っていた。

 

「市民軍はテロ組織だ!」

 

 サブスクリーンの一つから、エルズバーグ都知事の大声が飛んできた。一三時頃から公共放送を使って、休むことなく俺を批判し続ける。

 

「勘弁してくれ」

 

 耳を塞ぎたくなった。しかし、映像を消すことはできない。都知事が出演する番組は貴重な情報源なのだ。

 

 エルズバーグ都知事は市民軍にテロ対策条例を適用し、経済制裁を仕掛けた。市民軍に味方した自治体は、電気・水道・ガス・通信を止められた。市民軍に協力した首都政庁職員は、懲戒解雇を受けた。市民軍側の組織・個人の口座は凍結された。

 

「水やガスは備蓄で賄える。通信は外部の同志のおかげで確保できる。電気も発電所を動かす燃料がある間はどうにかなる。しかし、長期戦はきついな」

 

 当初は二三〇〇を超える自治体が市民軍支持を表明したが、首都政庁の圧力によって四〇〇自治体が脱落した。ライフラインを自前で賄えるのは、州レベル以上の自治体に限られる。はっきり言うと、今の段階ではボロディン大将よりも、エルズバーグ都知事の方が厄介だ。

 

 クーデターの最中にも関わらず、ハイネセン株式市場は値上がりしている。ハイネセン主義経済政策に対する期待と、トリューニヒト政権の経済政策に対する反発が、投資家を動かした。

 

 投資家と正反対の態度を取ったのが製造業界である。軍需に大きく依存しているので、ハイネセン主義政策は容認できない。再建会議に対し、「軍事予算を削減すれば、労働者三〇億人が失業する」「同盟経済の主役は金融街ではない。工場だ。そのことを忘れるな」と警告した。

 

 ハイネセンに本社を置くマスコミはもともと改革派寄りだ。当然、再建会議に好意的な報道を行った。あまりにも好意的過ぎるので、再建会議側が自重を求めたほどだ。親トリューニヒト・反改革のマスコミは、「暴力的な煽動」「過剰な個人攻撃」を理由に活動停止処分を受けた。

 

 ハイネセンの外の様子は未だに分からない。再建会議が恒星間通信を管理しているので、星外情報は完全に統制されている。船乗りが情報を持ってくるのは、もう少し先になるだろう。

 

 一九時〇〇分、最高評議会庁舎において民主政治再建会議の記者会見が行われた。昨日の記者会見には軍服姿の人物しかいなかったが、今日は軍服と背広が半分ずつといったところだ。

 

「暴動を起こそうと計画する者がいます。我々に反対するのは自由ですが、市民を危険に晒すことだけは認められません」

 

 ボロディン大将は市民軍を厳しく批判した。そして、褐色のハイネセンの封鎖については、市民の安全を守るためだと述べた。

 

 この席で新しい再建会議布告が発表された。昨日は治安に関わるものが多かったが、今日は政治に関わるものが大半を占める。

 

 新議会の選出方法については、全議員を辞職させてその補選を同時に行うことになった。同盟憲章は議会の解散を禁止している。銀河連邦末期、内閣不信任と解散総選挙の繰り返しが混乱を招いた。その教訓から解散禁止規定が設けられたのだ。再建会議は補選という形式で憲章違反を回避した。

 

 再建会議は六つの委員会を設けた。平和推進委員会、行政改革委員会、経済改革委員会、自立共生委員会、不正防止委員会、自由と権利委員会である。平和推進委員は軍人と文民から半分ずつ選ばれる。その他の委員は全員が文民だ。ボロディン大将が平和推進委員長を兼任し、その他の委員長・委員は一週間以内に選ぶ。

 

「レベロ下院議員、ホワン下院議員、エルズバーグ都知事、アブジュ下院議員、エルファシル民主派のロムスキー氏、ハイネセン記念大学のシンクレア教授、文学者平和クラブのジェメンコフ氏らに委員会入りを要請します」

 

 ボロディン大将は良心的なことで知られる人物の名前をあげた。反トリューニヒトのクーデターを起こした以上、右翼の支持は見込めない。リベラル路線を徹底するしかないのだろう。

 

 公的年金・公的医療補助・地方補助金・農業補助金は、トリューニヒト政権が復活させた制度だが再び廃止された。理由としては、しばしば「憲章違反」だと指摘されたこと、戦時体制下の不満解消策として始まったこと、政治家や官僚の財布として悪用されたことなどがあげられる。

 

 再建会議は軍縮路線に回帰すると述べた。徴兵制の廃止、完全志願制への移行、地方警備部隊の廃止、予備役兵からなる治安維持部隊「星系軍」の設立、後方支援任務の民間委託などを進め、常備兵力を二五〇〇万人まで減らす。ヤン大将らのグループが二年前に作った提言書、『この先数十年の平和を目指して』に沿ったものだ。

 

 また、ボロディン大将が復員支援軍司令官ヤン大将に対し、一通の命令文を送ったことが明らかになった。

 

「帝国との講和交渉を開始せよ。貴官にはあらゆる権限が与えられる。貴官が求めた支援はすべて与えられる。貴官の裁量は最大限に尊重される。最善と信じる方策を取るように。責任はすべて私が負う」

 

 束縛を嫌うヤン大将が喜びそうな文言である。それと同時に、再建会議は「宇宙軍元帥」「同盟軍最高司令官首席代理」「国外総軍司令官」「帝国領駐在高等弁務官」の肩書きをヤン大将に与えた。

 

「ほとんど全権委任ではありませんか」

 

 記者の一人が疑問を口にすると、ボロディン大将は穏やかに微笑んだ。

 

「ヤン君は大きな翼を持っています。縛ったら翼を傷つけてしまう。自由にやらせるのが一番ですよ」

 

 これ以上に完璧な答えはない。名将は天才の本質を見抜いていた。ここまで見込まれたら、大抵の人間は断れないはずだ。

 

 テレビを見た者は、ヤン大将が再建会議に味方するだろうと考えた。ハイネセンのヤン派もそう考えたらしい。放送中に「第六陸戦遠征軍司令官ビョルクセン少将が、再建会議支持を表明」との速報が流れた。

 

 なお、ヤン大将のコメントは発表されていない。ボロディン大将によると、調整を続けているとのことだ。

 

 この放送の直後、俺はボーナム総合防災センター前の広場に姿を見せた。五万人の群衆が「民主主義万歳!」「フィリップス提督万歳!」と叫ぶ中、スピーチを始める。

 

「市民の皆さん! 民主政治再建会議を称する反乱部隊は、皆さんが選んだ代表を追放しようとしています! このような暴挙を許してはなりません!

 

 敵は我々を挑発しています! 我々に暴力をふるわせて、民主主義の信用を貶めようと企んでいます! しかし、そのような企ては決して成功しません! 我々は民主主義を信頼している! 我々は祖国を愛している! 大義は我々にある! 策略で大義を打ち破ることなどできはしない!

 

 徹底的に戦い抜きましょう! デモ、ストライキ、抗議集会、市民的不服従を始めましょう! 独裁者にノーを突きつけましょう!

 

 自由万歳! 民主主義万歳! 祖国万歳! 民主主義を取り戻せ!」

 

 俺が拳を前方に振り下ろすと、歓声は何倍にも膨れ上がった。音波だけで再建会議を押し潰せそうな錯覚すら覚える。

 

 広場の様子は市民軍側の自治体に放送された。また、映像を収録した超小型光ディスク数百万個が、協力者の手で外部にばらまかれた。

 

 各地で労働組合が反クーデターのストライキに打って出た。公務員労働組合、水道労働組合、電気労働組合、運輸労働組合が加わったため、経済活動に支障が生じている。これらの組合は進歩党の支持団体だったが、緊縮財政への反発から大衆党支持に転じた経緯がある。

 

 市民軍は正規軍三九〇万人、義勇兵六二〇万人、ボランティア一〇〇〇万人に膨れ上がった。なお、この数字に非公式の協力者は含まれていない。

 

 褐色のハイネセンではバリケードの建設が進んだ。工兵将校が指揮を取り、自治体や建設業者が機材を提供し、義勇兵やボランティアが作業を行う。工事責任者のハイネセン第二工兵学校校長シュラール技術少将は、旧セレブレッゼ派の工兵将官である。

 

 二一時二〇分、第四四空挺師団の第六連隊が封鎖部隊から離脱し、市民軍に加わった。人々は一九〇〇人の空挺隊員を熱狂的に歓迎した。

 

「お祭りみたいですね」

 

 そう言ったのは、一個連隊を引き抜くという大仕事を終えた妹だ。今も敬語を崩そうとしない。

 

「本当に楽しそうだ。俺もあっち側にいたかった」

「あなたはプロデュースする側ですから」

「わかっている。偉くなったら楽しむことすらできないね」

 

 俺は苦い笑いを浮かべた。この祭りは一週間以内に終わる。人々は無責任に楽しみ、無責任に帰っていくだろう。それまでに決着を着けなければならない。



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第81話:無数の信念、一つの大義、我々は一つ 801年11月2日~4日 ボーナム総合防災センター

 青地に二丁のライフルが斜めに交差したマークの旗がたなびいている。市民ボランティアが作った市民軍の旗だ。

 

 堅固なバリケードが褐色のハイネセンを囲んでいる。義勇兵一五万人、警察官三万人、軍人一万人が警備にあたる。市民ボランティア四〇万人と自治体職員二〇万人が後方支援を行う。一〇〇〇万を超える住民も市民軍の味方だ。防災倉庫に蓄えられた膨大な物資がこれらの人々を支える。

 

 市民軍は調略戦に力を入れた。中立派を取り込み、再建会議を切り崩し、数の力で敵を屈服させるのだ。

 

 将官、政治家、高級官僚といった要人に対しては、幹部が水面下で接触する。再建会議をベストだと信じる者は一握りだ。ほとんどはベターな選択として選んだに過ぎない。損得で動く者はより大きな利益を示せば転ぶ。理屈で動く者はより正しい理屈を示せば転ぶ。強者に従う者はより大きな力を示せば転ぶ。

 

 中堅以下の軍人や公務員に対する切り崩しも進んだ。義勇兵や市民ボランティアから再建会議派組織に知り合いがいる者を選び、組織的な説得工作を繰り広げる。家族、友人、職場、学校、同郷などあらゆる人脈が動員された。

 

 市民軍は要請や命令を敵味方問わず送る。もちろん、再建会議派の組織が実施するとは思っていない。敵の最大の弱点は正統性がないということだ。成り行きで従っている者が、「市民軍に従った方がいいんじゃないか」と迷うことを期待した。

 

 こうした工作に対し、再建会議は封鎖部隊の入れ替えや防災通信の遮断などの措置を取る。市民軍との接触を減らそうという狙いだ。

 

 向こう側からの接触もあった。密かに市民軍に心を寄せる者もいれば、再建会議と市民軍の二股をかけようとする者、探りを入れてくる者、こちらを説得しようとする者もいた。足元を見られないように注意しつつ説得を行う。

 

 クーデター三日目の一一月二日、コンスタント・パリー中将が通信を入れてきた。国家非常事態委員会(SEC)のメンバーにも関わらず、抵抗せずに出頭した人だ。しかも、翌日には釈放されて再建会議の配下になった。

 

「どのようなご用件でしょう?」

 

 俺は不快感を礼節で隠す。

 

「和睦を勧めに来た」

「お断りします。それでは」

「話ぐらいは聞いてくれんかね」

「トリューニヒト議長に政権を返すとか、そういう話ではないんでしょう? だったら話す余地はありません」

「貴官は本当に頑固だな。だからこそ信頼できるとも言えるが」

 

 パリー中将の精悍な顔に困ったような笑いが浮かぶ。

 

「俺はあなたを信頼していました。過去形で言わなければならないのが残念です」

「許してくれとは言わんよ」

「なぜ裏切ったんですか? トリューニヒト議長はあなたを高く評価していたのに」

 

 俺はパリー中将の目をまっすぐに見つめた。和睦には興味がないが、裏切った理由には興味がある。

 

「気持ちが切れた」

「どういうことです?」

「言葉の通りさ。トリューニヒト先生なら強い軍隊を作ってくれると信じていた。しかし、政権を取ってみると、がっかりすることばかりだった。支持率を稼ぐために過剰な戦力をぶちこむ。見かけの兵力を増やすだけで、練度の向上には興味がない。軍需産業に金を落とすために、使える装備を破棄し、不要な新型装備を買い揃える。こんな政治家に国防を任せられるかね?」

 

 パリー中将の言うことは事実だった。国防費が増えたのに、同盟軍の質は低下している。良識派が軍縮と質的向上を両立させたことを思うと、トリューニヒト政権の無能は明白だ。

 

「我々軍人が補佐すればいいじゃないですか」

「トリューニヒト先生は人の話を聞いているようで聞いていない。都合のいい意見以外は耳をすり抜ける。貴官だってわかってるだろう」

「それでも、補佐するのが軍人の仕事です」

「軍人は私や貴官だけではないんだぞ? SECの会議を思い出してみろ。トリューニヒト先生はああいう軍人を重用しているんだ。頑張ったところで、イエスマン連中が台無しにする」

「…………」

 

 何も言えなかった。パリー中将のような理想家がやりづらいのはわかる。個人的な好意からトリューニヒト派に属している俺とは違う。

 

「クーデターが起きたと知った時、抵抗する気が起きなかった。気づかないうちに限界を越えてたんだろうな」

 

 パリー中将はおそろしく晴れやかな顔をしていた。

 

「一時の迷いだと信じています。気持ちが変わったら、いつでも戻ってきてください」

 

 俺は爽やかに笑いかけた。演技をする必要はなかった。できることなら戻ってほしいと思う。その一方で絶対に戻らないだろうという確信もあった。

 

 その四時間後、レヴィ・ストークス中将と通信を交わした。第一一艦隊の副司令官をしていた提督で、クーデターには計画段階から関わっていた。

 

「フィリップス提督とは戦いたくないんだがなあ」

「俺もストークス提督とは戦いたくありません」

「ルグランジュ提督もそっち側だろう? やりにくいことこの上ない」

「市民軍に来てください。旧第一一艦隊が一つにまとまれば心強いです」

 

 俺もストークス中将もくつろいだ雰囲気で話す。気心の知れた相手だし、憎くて敵対しているわけでもない。

 

「君とルグランジュ提督が再建会議に来ればいい」

「それは無理です。俺には治安を守る任務がありますから」

「こちらから見れば、治安を乱しているのは君だよ」

「あなたが市民軍に来たら、再建会議が治安を乱しているように見えるはずです」

「そりゃそうだ」

「一緒に治安を守りましょう」

「お断りだ。部下を政権支持率のために死なせたくない」

 

 ストークス中将の表情が引き締まる。

 

「ラグナロックを思い出せ。我々は政権支持率に振り回された。艦隊戦も地上戦も占領行政も、すべてが支持率が基準だった。敗色が濃厚になっても、支持率低下が怖いという理由で撤退できなかった。おかげで第一一艦隊は仲間の半数を失った」

「決して忘れはしません。あまりに多くのものを失いすぎました」

 

 俺は両手を握り締める。忘れたくても忘れられない。ラグナロックは決して癒えない傷だ。

 

「ならば、再建会議に味方しろ。ボロディン提督は兵を無駄死にさせない人だ」

「俺はトリューニヒト議長を支えます。ラグナロックに反対した方ですし」

「あいつもウィンザーと同類だろうが。レグニツァでも辺境正常化作戦でも、支持率を稼ぐために出兵した」

「兵の待遇を改善するには、戦果が必要なんです」

「わかっている。政治家の仕事は有権者を満足させることだからな。軍人は協力する見返りとして予算をもらう。部下の待遇を良くできるのなら、支持率稼ぎにも意味がある。そう思って不満を飲み込んできた。だが、心には嘘をつけんよ」

 

 ストークス中将は寂しそうに笑う。

 

「お気持ちはわかります。しかし、クーデターは容認できません」

「そこが君の最後のよりどころか」

「俺は民主主義の枠内で戦います。ストークス提督にもそうしていただきたいと願います」

 

 決別の言葉は口にしない。ストークス中将は半端な覚悟で動く人ではない。前の世界ではクーデター勢力の一員となり、死ぬまで戦った。この世界でもそうするだろう。それでも諦めたくはなかった。

 

 やるせない気持ちになったので、マフィンを四個食べる。飲み物は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーだ。糖分を補給しないとやっていられない。最近はマフィンを食べる量が三倍に増えた。

 

 そのことを話すと、宇宙艦隊司令長官代行フィリップ・ルグランジュ大将が、スクリーンの向こう側で笑った。

 

「良く太らないな」

「トレーニングの賜物です」

「まあ、あれだけ体を動かしてたら太るはずもないか」

「体脂肪率が一一パーセントにならないよう、努力しています」

「私は少し体脂肪率が上がった。走る時間が取れなくてな」

「執務室にルームランナーを置けばいいんですよ」

 

 筋肉と運動について数分ほど話した後、ストークス中将の事に話題が移る。

 

「ストークスの奴がそんなことを言っていたのか」

「責められないですよね」

「気持ちはわかる。私も一度は抗命したからな」

「誘いはなかったんですか?」

 

 俺はまっすぐに切り込んだ。ストークス中将が決起するなら、ルグランジュ大将に声を掛けないはずがない。

 

「なかったぞ」

「正直におっしゃってください。腹の中に収めておきますから」

「まったくなかった。通信を入れてきても雑談ばかりでな。クーデターに参加したと聞いて仰天した」

 

 ルグランジュ大将は困ったような顔をする。嘘をついているようには見えなかった。もともと騙し合いは苦手な人だし、隠し事をする理由もない。

 

「どうしてでしょうね」

「貴官がうるさかったからじゃないか? 『クーデターが起きる』と騒いでいる奴と、しょっちゅう飯を食ってるんだ。普通は警戒するだろう」

「そんなものでしょうか」

「私は隠し事が苦手だ。他人には話さないことも、身内同然の貴官には話してしまう。あいつならわかってるだろう」

「ストークス中将から誘われたら、どう返事したと思いますか?」

 

 俺は真顔で質問する。前の世界のルグランジュ大将はクーデターに加担した。この世界で加担する可能性があったのか? 気にならないと言えば嘘だ。

 

「貴官に話すさ。そして、二人でストークスに『馬鹿なことはよせ』と言ってやる。それが戦友というものだ」

「俺がいなかったと仮定してください」

「貴官のいない人生なんぞ想像もつかん」

「お願いします。ヴァルハラで死んだとでも思ってください」

「妙な仮定だな」

 

 ルグランジュ大将は角ばった顎に手を当てて考え込む。

 

「話は聞くだろう。戦友を追い返すのは道理に反する。承諾したかもしれん。兵を無駄死にさせたくないのはわかる。私だって部下の半分をなくしたんだ。あんな戦いは二度とやりたくない」

「やっぱり……」

 

 前と今の違いが紙一重でしかなかった。その事実に落ち込んでしまう。

 

「暗い顔をするな。貴官は生きていて、私はクーデターに加わっていない。それが現実だぞ」

「それはわかっています。わかっているんですが……」

「ストークスがああなったのを悔やんでいるのはわかる。しかし、あいつ以外の旧第一一艦隊はクーデターに参加しなかった。貴官が走り回ったおかげだ。それで十分ではないか」

 

 ルグランジュ大将は俺を励まそうとした。少し勘違いしているようだったが、それでもありがたい。前の世界でこの人の部下は死ぬまで戦った。そうなるのも当然だと思える。

 

「おっしゃる通りです。ありがとうございます」

「あまり気に病むな。あと、マフィンが三倍というのは多すぎる。せめて二倍にしろ」

 

 俺の体にまで気を使ってくれた。このような人が味方に付いているのだ。いつまでも落ち込んではいられない。

 

 

 

 市民軍は調略戦を優位に進めた。中隊単位や大隊単位で帰順してくる者が相次いだ。寝返らなかったものの、動きが取れなくなった部隊も多い。自治体、警察、消防などもかなり切り崩した。

 

 北大陸北部の第九陸戦遠征軍は首都圏を目指す。この部隊の参謀長エベンス准将は、前の世界でクーデター首謀者の一人だった。皮肉な巡り合わせと言えよう。

 

 北大陸南部では第九機動軍が再建会議派部隊と睨み合っている。司令官フェーブロム少将は有能だが人望に欠ける。最精鋭の第七七機甲軍団は敵に寝返った。こうしたことから、市民軍側では珍しく士気が低い。

 

 東大陸の市民軍は西部の再建会議派都市を封鎖した。前の世界でクーデターに参加したルグランジュ大将が総指揮を取る。過激派のファルスキー中将率いる第七機動軍が、中北部から西に進む。前の世界で皇帝を誘拐したシューマッハ少将の第七陸戦遠征軍が、西南部から北上する。カオスとしか言いようがない組み合わせだ。ハイネセン東部軍、ハイネセン太洋艦隊も作戦に加わった。

 

 中央大陸では、再建会議派の第六陸戦遠征軍が太洋艦隊陸上部隊を圧倒している。前の歴史を知る者から見れば、ヤン派部隊がクーデターに加担するのは信じられない。

 

 南大陸は安定状態にある。ハイネセン南部軍が市民軍支持でまとまっており、北西部に駐留する第一五機動軍は内紛で動けない。

 

 海上においても争いが繰り広げられた。市民軍派のハイネセン太洋艦隊・第七機動軍水上部隊・第九機動軍水上部隊に対し、再建会議派の第一機動軍水上部隊と第五機動軍水上部隊が挑む。海を巡る争いは、太洋艦隊を擁する市民軍が優位に立った。

 

 これらの争いでは火力は用いられず、機動力だけが用いられた。優位な位置を占め、補給線を遮断し、退却に追い込む。死者を一人も出さず、負傷者もわずかしかいない。陸地や海洋や空を舞台とした陣取り合戦だ。

 

 市民は軍人に負けじと頑張る。市民軍を支持する者が、再建会議派の都市で抗議デモを繰り広げた。大衆党系の労働組合が無期限のゼネストに突入した。

 

 クーデター四日目の一一月三日、反トリューニヒト派に分裂の兆しが生じた。公然と再建会議に反対する者が現れたのだ。

 

 進歩党のレベロ代表とホワン幹事長は記者会見を開き、再建会議に退陣を求めた。この良識的な決断は、民主主義より改革を優先する者の反発を買うこととなった。ハイネセン各地の進歩党支部は次々と二人の除名勧告を決議し、緊急両院議員総会において除名が決定された。

 

 反戦市民連合は再建会議支持派と反再建会議派に分裂した。反再建会議派のソーンダイク下院議員、アブジュ下院議員らは市民軍には参加せず、独自の抵抗運動を組織するという。

 

 国民平和会議(NPC)のウィンザー元国防委員長は、再建会議派の党執行部に離党届を叩き付けた。記者に対し、「どれほど犠牲が多くとも、なすべきことがあります」と述べ、反クーデターの意思を示している。再建会議がラグナロック戦役の推進者を任用しないため、反クーデター闘争に活路を求めたとの見方が強い。

 

 ジャーナリストのパトリック・アッテンボローは、親友のエルズバーグ都知事から再建会議報道官のポストを提示されたが拒否した。「ジャーナリストは権力と戦わなければならない」との信念によるものである。そして、再建会議を批判する記事を書いた。エルズバーグ都知事は親友に深く感謝し、「我々を腐敗から救ってくれるのはパトリックだ」と語った。

 

 再建会議も手をこまねいていたわけではない。国防委員会情報部が中心となり、トリューニヒト政権の基盤を掘り崩す動きに出た。

 

 大衆党、統一正義党、銀河左派ブロックの三党に対し、「テロ活動防止法」に基づく解散命令が出た。所属議員は規定により、被選挙権を一〇年間停止されることとなった。

 

 憂国騎士団は初めてテロ組織に指定された。危険度はエル・ファシル革命政府やエリューセラ民主軍と同じSSである。再建会議を支持しない者もこの決定を歓迎した。

 

 選挙前からトリューニヒト派への肩入れが露骨だった同盟警察と中央検察庁は、徹底的な粛清にあった。トリューニヒト議長の出身母体であり、極右勢力との癒着が噂される同盟警察公安部は、課に格下げされた。同盟警察所属の重武装部隊は解散させられた。トリューニヒト政権と親密な警察官僚や検察官僚は免職処分となった。

 

 地球教、十字教贖罪派、楽土教清浄派、美徳教など一〇二教団が、宗教法人認証を抹消された。これらの教団が加盟する愛国宗教者協会は、トリューニヒト政権の有力支持団体である。

 

 大衆党系の労働組合は活動禁止処分を受けた。トリューニヒト政権成立の原動力となった巨大組織は、この状況下においても大きな脅威だったのだ。

 

 警察と憂国騎士団の圧力がなくなったため、マスコミはここぞとばかりにトリューニヒト政権を叩いた。もともと疑惑まみれの政権であったし、再建会議が未公開情報を次々と公開したこともあり、批判材料には事欠かなかった。

 

 これらの動きは反トリューニヒト派を満足させる一方で、トリューニヒト政権を支持する人々の怒りを買った。

 

 大衆党を勝利させたのは、低所得者と辺境出身者の票である。「トリューニヒトを支持するのは貧乏人と田舎者」という反トリューニヒト派の言葉は、偏見まみれであるが間違いではない。学歴も教養もない人々にとって、エリートだが知的に見えないトリューニヒト議長は親しみやすい存在である。辺境で生まれ育った人々は、田舎の農場主の子であるトリューニヒト議長に仲間意識を抱いていた。マスコミがトリューニヒト批判を行うほど、彼らは再建会議への反発を強めた。

 

 人々に先を争うように市民軍に加入した。そのほとんどは無名の市民や軍人であるが、名を知られた人もいた。

 

「エリート層の支持が今ひとつなんだよなあ」

 

 俺はプリントアウトされた市民軍名簿をめくる。ハイネセンで最も頭が良い人々は再建会議を支持していた。

 

「再建会議の政策は現実的ですから」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理が再建会議の政策パンフレットを開いた。

 

「財政再建、帝国との講和、軍縮、移民の自由化、交易規制の撤廃、補助金の撤廃、社会保障の縮小、所得税率の引き下げ、辺境植民の推進、軍需産業の民需転換、経済統制関連法の廃止、戦争犯罪の厳罰化、自由惑星同盟からの離脱容認……。ハイネセン主義者は大喜びだね。時計の針がダゴン以前の『古き良き時代』に戻るんだ。レベロ先生とホワン先生を追い出してもお釣りがくる」

「選挙で選ばれた政権がやってくれるのなら、喜んで支持するのですが」

「それが正しい民主主義者のあり方だよ」

「改革してくれるなら民主主義はどうでもいい。そんな人間がハイネセン主義者に混じっていたのは残念です」

「君はそうだろうね」

 

 俺は心の底から同意した。前の世界のチュン・ウー・チェンは民主主義に殉じた。改革のために民主主義を捨てるなど論外であろう。

 

 しかし、良心的な人士が再建会議に加担した。作家ジェメンコフ氏、元警察官僚フランカ氏らは、パトリオット・シンドロームに立ち向かったことで名高い。ロムスキー氏はエル・ファシル改革の指導者だった。エルズバーグ都知事、カステレン元人的資源委員長らは、クリーンな政治家として知られる。市民派弁護士のジエン氏は弱者を守るために四〇年以上戦ってきた。

 

 再建会議の経済力に魅力を感じる者も多い。スポンサーになっているのは、平和になることで利益を得る金融界と貿易業界だ。四大都市圏は再建会議の地盤である。衛星軌道は再建会議の統制下に置かれていた。星内経済、星外交易、星外情報を一手に握ったことになる。

 

 星外の状況は不明だが、再建会議が星外からの支持表明を次々と発表したため、クーデターが支持されたとの印象を受ける。実際は反再建会議派や中立派も多いのだろうが、星外情報が入ってこないのでわからない。

 

 ヤン派はクーデターに加担したものと思われた。ヤン大将の動向に関する続報はないが、再建会議と調整を続けているらしい。ヤン派のビョルクセン少将は再建会議派として動いている。ヤン派ではないが親ヤン的なルイス准将は、ボロディン大将がヤン大将に全権委任すると述べた直後に、再建会議への忠誠を誓った。

 

 進歩党と反戦市民連合が分裂した翌日、副官代理ユリエ・ハラボフ少佐がとんでもない報告を持ってきた。

 

「ジョアン・レベロとホワン・ルイが来たって!?」

 

 その報告を聞いた途端、俺は椅子から転げ落ちそうになった。

 

「そうです」

 

 副官代理ハラボフ少佐は眉一つ動かさずに答える。

 

「偽物じゃないのか!?」

「面識のある者が確認いたしました。間違いなく本人だとのことです」

「わかった! 今すぐ出迎える!」

「レベロ議員は『出迎えは不要だ』とおっしゃったそうですが」

「元国家元首が二人も来てるんだぞ! 待たせたら失礼だ!」

 

 俺は防災司令室を飛び出した。ハラボフ少佐が真横を並走し、チュン・ウー・チェン参謀長代理らが後から付いてくる。

 

 登録所には人だかりができていた。レベロ議員やホワン議員を見に来たのだろう。幸いなことに罵声は聞こえない。元国家元首を至近距離から罵る度胸はないようだ。

 

 長身で髪がふさふさな中年男性と小柄で髪の薄い中年男性を見付けると、俺は駆け寄って敬礼をした。付いてきた部下たちも整列して敬礼を行う。

 

「お初にお目にかかります! 首都防衛軍司令官エリヤ・フィリップス宇宙軍中将です!」

「丁寧な挨拶、痛み入る。私は下院議員のジョアン・レベロだ」

 

 レベロ議員は堅苦しすぎるほど丁重だった。身長は俺より一五センチほど高い。端整だが神経質そうな顔、シャープなメタルフレームの眼鏡、ふさふさのロマンスグレーは、政治家というより学者のようだ。

 

「君がエリヤ・フィリップス君か! 私はホワン・ルイだよ!」

 

 ホワン議員は朗らかに笑う。一目見ただけで良い人だとわかった。男性なのに俺より身長が七センチほど低いのだ。髪の毛は薄く、手足は短く、声は大きくて、親しみやすい感じがする。

 

「良くお越しくださいました。こちらへどうぞ」

 

 俺はよそ行きの笑顔を作り、レベロ議員とホワン議員を応接室に案内した。

 

「なぜ私どもに味方してくださったのですか?」

 

 席に着いたところで、俺は疑問をぶつけた。市民軍は右翼が主流を占める。リベラルな彼らとは相性が悪いはずだ。

 

「私は選択の自由を尊重したい。市民に改革を支持してほしいとは思う。そのための努力を惜しむつもりもない。だが、決定権は市民にある。独裁者が押し付けた改革よりは、市民が選んだ反動の方がましだ」

「改革の機会を捨てても構わないのですか?」

「私は何よりも自由を重んじる。改革は自由を拡大するための手段だ。手段のために目的を捨てるのならば、本末転倒としか言いようがない」

 

 レベロ議員は生真面目な表情で語った。改革派の政治家が改革の機会を捨てるなど、支持者への裏切りに等しい。それでも民主主義を貫こうとする。並の政治家にはできない決断だ。真のステイツマンがここにいた。

 

「納得できました。ありがとうございます」

「もう一つ理由がある。リベラルを抵抗運動に参加させたい。再建会議はリベラルの右翼アレルギー感情を利用することで、支持を固めた。民主主義を優先すべきと考える者も、トリューニヒト政権を守るために戦う気にはなれない。私が市民軍に味方すれば抵抗感が薄れるはずだ」

「あなたの立場なら、ソーンダイク議員のグループに加わる方が自然ではありませんか? 彼らもリベラルです。共闘した経験もあるでしょう」

「リベラルの間には、『抵抗運動は右翼を利する行為だ』という風潮がある。反戦市民連合党員のほとんどは、ソーンダイク議員らに背を向けた。市民軍にリベラルなイメージを付与できれば、ソーンダイク議員らも支持を拡大できる」

「そういうことでしたか」

 

 俺は心の底から感心した。リベラル同士で固まるより、市民軍に対するアレルギーを弱める方がいいという判断だ。トリューニヒト議長の「レベロは現実主義者になれる男」という評価が、正しいことを実感させられた。

 

「別の計算もあるよ」

 

 ホワン議員が横から口を挟む。

 

「とおっしゃいますと?」

「一度、右翼と共闘してみたかった。左右の垣根を越えて手を結ぶんだ。美しいとは思わんかね」

「確かに……」

 

 俺は返答に困った。あまりに冗談っぽい感じなので、どう答えていいかわからない。

 

「本気だよ。今回の件で思うところがあった。右翼を叩けばリベラルが味方になり、リベラルを叩けば右翼が味方になる。小学生でもわかる計算だ。あまりに楽に票を取れるもんだから、我々は右翼叩きを頑張った。その結果がこれさ」

 

 ホワン議員は苦笑しながら新聞を取り出す。進歩党のエルズバーグ新代表が、再建会議への全面支持を約束したと言う記事だ。

 

「右翼とリベラルの対立なんて、民主主義というコップの中の嵐だと思っていた。しかし、完全な誤解だった。リベラルは右翼を憎むあまり、コップを叩き割ったのだからね。再建会議がリベラルを叩いたら、右翼がコップを割ったかもしれんよ」

「小官にはわかりかねます」

 

 俺は曖昧な笑いを浮かべた。ホワン議員の推測は正しいと思うが、口にはできなかった。

 

「私は前例を作りたいんだ。右翼とリベラルが共闘したという前例をね。普段はいがみ合っていても、いざという時は民主主義というコップを守るために戦う。それが当たり前だとみんなが思ってくれたら、この先何度でも右翼とリベラルは民主主義のために共闘できる」

 

 恐ろしく壮大な話であった。俺は目の前のことしか考えていないのに、ホワン議員は未来に思いを馳せている。身長は俺より低いのに、器量は何倍も大きい。

 

「及びもつかない話です」

「軍隊だってお役所だ。『前例がある』という呪文の力はわかるんじゃないかね?」

「確かに」

「君は三日前の演説で、重要なことは二つしかないと言った。『民主主義を守りたいのか? 軍事独裁を容認するのか?』と。その言葉に嘘偽りはなかろう」

「ありません」

「それなら、我々と君の利害は一致する。民主主義のために手を組もうじゃないか」

「小官の一存では決められません。幹部会議で話し合ってから返事いたします」

 

 俺は慎重に答えた。うまみのある話なのは確かだ。しかし、市民軍には反リベラル感情を抱く者が多い。安請け合いはできなかった。

 

 

 

 市民軍は緊急幹部会議を開いた。会議室に姿を現したのは軍人一二名と文民一八名で、その過半数が立体画像として遠隔地から出席している。

 

「――という提案を受けた。諸君の意見を聞かせてほしい」

 

 説明を終えると反対意見が噴き出した。

 

「冗談じゃない! あんな奴らと組めるか!」

「我々には庶民の支持がある! エリートなど不要だ!」

「市民軍を乗っ取られるぞ!」

「リベラルは信用できん!」

 

 空想の中の同胞と団結するのはたやすいが、現実に存在する同胞と団結するのは難しい。目の前の右翼が身をもってその事実を示す。

 

「今さら歩み寄ろうとは虫が良すぎる。亀裂を作ったのはあいつらではないか」

 

 教育総隊副司令官アラルコン中将は、いかつい顔を不快そうに歪めた。軍縮への不満から右翼になったので、「先に喧嘩を売ってきたのはあっちだ」という意識がある。

 

「土下座して許してくださいと言うんなら、末席に置いてやってもいいがね」

 

 タラカン州のカルモナ知事は吐き捨てるように言う。豊かなハイネセンにも地域間格差は存在する。タラカン州は最も貧しい州だ。地方補助金を廃止したレベロ議員への恨みは大きい。

 

「あの連中に借りを作ってはいかんぞ。何を要求されるかわかったものではない」

 

 緊急事態対策本部のダスーキー運用部長は、不信感を隠そうとしない。彼が幹部を務める首都政庁公務員労働組合は、進歩党の支持団体にも関わらず、レベロ改革の際に権益を奪われた。裏切られたという思いがある。

 

 感情論だと切り捨てることはできない。アラルコン中将は過激派軍人、カルモナ知事はタラカン州民、ダスーキー運用部長は首都政庁職員という大きな集団の代表者でもある。彼ら以外の出席者も似たような立場だ。数百万人や数千万人を背負った感情論は、政治的要素といえる。

 

「好機だと思います。市民軍はエリート層に浸透できていない。レベロ議員やホワン議員はエリート層に人気がある。渡りに船ではありませんか」

 

 前向きな反応を示したのは、緊急事態対策本部のアドーラ計画部長だ。首都政庁危機管理局の総括参事官で、単身で市民軍に加わった。そのため、自由な立場で発言できる。

 

「馬鹿なことを言いなさんな」

 

 すぐにアラルコン中将が噛み付いた。

 

「おかしくはないでしょう」

「庶民と兵士がいれば事足りる。エリートなんぞいらぬわ」

「組織を掌握しているのはエリートですぞ」

「大衆が蜂起したら、組織なんぞ一瞬で吹き飛ぶ」

「組織を丸ごと寝返らせた方が効率的です」

「庶民にそっぽを向かれてもいいのかね? 我らは無条件で支持されているわけではない。反エリートだから支持されている。そのことを忘れてはいかんぞ」

 

 二人は激しい論争を繰り広げた。出席者の八割がアラルコン中将を支持し、二割がアドーラ部長を支持する。

 

 どちらにも一理あるだけに判断が難しかった。レベロ議員とホワン議員が味方になれば、エリート層に支持を広げることができる。しかし、庶民の反エリート感情を刺激するかもしれない。エリート層の支持は欲しいが、そのために庶民の支持を失ったら本末転倒だ。

 

 乏しい脳みそを必死で回転させる。感情と効率性のどちらを優先するべきか? 両方を手に入れる方法はないものか?

 

 俺は初めて口を開いた。頭の中でパズルが完成したのだ。せこい方法ではあるが、感情も効率性も満たせるのではないか。

 

「アラルコン提督」

「どうなさいました」

 

 アラルコン中将は姿勢を正す。

 

「貴官はラロシュ議員を支持しているか?」

 

 マルタン・ラロシュ議員は極右政党「統一正義党」の指導者だ。

 

「与党入りしたのは気に入りませんが、それでも偉い先生だと思っております」

「仮定の話として質問したい。ラロシュ議員が再建会議に加わったなら、貴官は失望するか?」

「失望するでしょうな」

「リベラルの連中がラロシュ議員の再建会議入りを知ったら、どんな反応を示すと思う?」

「右翼が分裂したと言って笑うでしょうな。祝杯をあげるかもしれません」

 

 仮定の話なのにアラルコン中将は苦々しげだ。リベラルの勝ち誇った顔を思い浮かべているのだろう。他の出席者も同じ想像をしているらしく、不快そうな表情になる。

 

「諸君」

 

 俺は意地悪そうな笑顔を作る。

 

「レベロとホワンが市民軍に加わったら、リベラルの連中が同じ思いを味わうんだぞ」

 

 そう言った瞬間、出席者の表情が一気に明るくなった。

 

「それは見物ですなあ!」

「想像するだけで心が躍ります!」

「大声で笑ってやりましょう!」

「こんなに愉快なことはありません!」

 

 反対意見はあっという間に消え去った。リベラルを仲間にするメリットを説いても、「あんな奴らの力など必要ない」と反発されるだろう。しかし、リベラルに恥をかかせる機会だと言えば、反対する者はいない。小物にしかわからない心理である。

 

 レベロ議員とホワン議員には市民軍顧問という肩書きが与えられた。名簿の中では上位だが、実務的には関わらない。ただ座っているだけの仕事である。リベラルの象徴みたいな人物を指導部に加えたら、市民軍がリベラルに乗っ取られたと思われてしまう。名誉職にするのがちょうどいい。

 

 それと同時に、大衆党のアイランズ副代表、統一正義党のスビヤント上院議員団長、汎銀河左派ブロックのムルヴィライ政治局員の三名を市民軍顧問とした。与党議員を顧問にすることでバランスを取ったのだ。

 

 四日一八時、レベロ議員は総合防災公園に現れた。野次と怒号の嵐が吹き荒れる中、丁寧な言葉で群衆に語りかける。

 

「はじめてお目にかかります。私は……」

 

 スピーチが始まった途端、数万人が一斉に罵声を叩き付けた。

 

「帰れ!」

「死ね!」

「売国奴!」

 

 圧倒的な憎悪に直面しても、レベロ議員は顔色一つ変えずに話し続ける。トリューニヒト議長が少女一人にうろたえたのとは対照的だ。評価が分かれる政治家ではあるが、臆病者でないことだけは万人が認めるだろう。

 

 罵声は一秒ごとに大きさを増した。レベロ議長の冷静な態度は立派であったが、感情的になった相手に対しては逆効果であった。

 

「マイクを貸していただけますか? 小官がこの場を収めます」

「わかった。君に任せよう」

 

 レベロ議員が後ろに下がり、俺がマイクを握る。

 

「戦友諸君! 諸君は祖国を愛しているか!?」

「愛しています!」

「諸君は民主主義を愛しているか!?」

「愛しています!」

「諸君は自由を愛しているか!?」

「愛しています!」

「私の気持ちは諸君と同じだ! 祖国を愛している! 民主主義を愛している! 自由を愛している! 我々は同じものを愛する! ウィー・アー・ユナイテッド(我々は一つだ)!」

 

 俺は拳を振り下ろす。

 

「ウィー・アー・ユナイテッド!」

 

 数万人の叫びが広場を揺るがした。

 

「人々はこう言っている。『自由惑星同盟は分断された。自由惑星同盟は一つではない』と。

 

 しかし、私はそれが嘘だと知っている。証拠はここにある。諸君がここにいることが、自由惑星同盟が一つだという真実を証明しているのだ。

 

 多様な背景を持つ人々がこの広場に集まった。若者も老人もここにいる。金持ちも貧乏人もここにいる。右翼も左翼もここにいる。ホワイトカラーもブルーカラーもここにいる。中央出身者も辺境出身者も移民もここにいる。異性愛者も同性愛者もここにいる。無神論者も神を信じる者もここにいる。ハンディのある者もそうでない者もここにいる。みんな祖国を守るために集まった。

 

 私は断言する。自由惑星同盟は青(保守)と黄色(リベラル)と白(右翼)と赤(科学的社会主義者)のパッチワークではない。青い同盟など存在しない。黄色い同盟など存在しない。白い同盟など存在しない。赤い同盟など存在しない。主戦派の同盟など存在しない。反戦派の同盟など存在しない。同盟はずっと一つだった。

 

 私は断言する。同盟は金持ちと貧乏人のパッチワークではない。同盟は中央出身者と辺境出身者と移民のパッチワークではない。同盟はエリートと庶民のパッチワークではない。同盟はずっと一つだった。

 

 共通の大義が我々を一つにしている。それは祖国、民主主義、自由だ。大義を共有することによって、我々はあらゆる差異を乗り越えた。

 

 前提をもう一度確認しよう。対立点は二つしかない。民主主義を守りたいのか? 軍事独裁を容認するのか? 敵は右翼とリベラルの争いにすり替えようとしているが、騙されてはいけない。これは民主主義と独裁の戦いなのだ。

 

 ジョアン・レベロ氏と私が同じ側に立ったことは一度もない。反戦平和主義者のレベロ氏と軍拡主義者の私は、相容れない立場にある。

 

 今日、私は初めてレベロ氏と同じ側に立つ。私と彼の相違点は無視できないものではあるが、祖国、民主主義、自由という大義の前では無視できる」

 

 ここで一旦言葉を切り、レベロ議員にマイクを向けた。

 

「ミスター・レベロ、あなたは祖国を愛しているか?」

「君とは違うやり方だが、私は私なりに祖国を愛してきた」

「ミスター・レベロ、あなたは民主主義を愛しているか?」

「民主主義を愛しているがゆえに、私はここにいる」

「ミスター・レベロ、あなたは自由を愛しているか?」

「自由より尊いものはない」

 

 打ち合わせをしていないのに、レベロ議員は望み通りの答えを返した。一流政治家はアドリブも一流だ。

 

「あなたは祖国と民主主義と自由主義を愛している。私も祖国と民主主義と自由主義を愛している。

 

 私は兵士で、あなたは政治家だ。私はナショナリストで、あなたはリベラリストだ。私は主戦派で、あなたは講和派だ。私は軍拡論者で、あなたは軍縮論者だ。私は高卒で、あなたは経済学博士だ。私は警察官の息子で、あなたは大学教授の息子だ。

 

 共通点は一つもない。しかし、同じ大義を共有している。ならば、あなたは仲間だ」

 

 俺は左手でレベロ議員の右手をつかみ、高々と掲げる。

 

「ウィー・アー・ユナイテッド!」

 

 この瞬間、空気が弾けた。人々は拳を振り上げて「ウィー・アー・ユナイテッド!」と叫ぶ。レベロ議員は同志として認められたのである。




ジョアン・レベロの容姿はオリジナル設定です。原作小説には記述無し。キャラを立てるためアニメ設定には従いませんでした。


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第82話:崩れゆく祖国 801年11月6日~8日 ボーナム総合防災センター

 ジョアン・レベロ下院議員とホワン・ルイ下院議員の加入から二日が過ぎた。リベラル派を代表する大物の存在は、市民軍が中道寄りになったとの印象を与えた。

 

 レベロ議員らが加わる前日から、再建会議は境界線の警備を緩めている。自動車の通行だけを取り締まり、徒歩・自転車・エアバイクは無条件で通過させた。警備兵は脱走兵ですらチェックせずに通してしまう。

 

 市民軍支配地域に大勢の人々が押し寄せた。中道層、日和見主義者、政治的無関心層などが加わり、一一月六日には市民軍は三〇〇〇万人を越えた。

 

 俺の戦友や元部下が次々と市民軍に合流した。再建会議の監視が解けたのだという。ニコルスキー大佐など故あって俺の元を離れた者も駆け付けてくれた。

 

 憂国騎士団行動部隊のレオニード・ラプシン予備役大尉が参戦してきた。三一名の行動隊員が一緒だ。

 

「憂国騎士団ミーマンサ大隊三二名、ただいま到着いたしました」

「よく来てくれた」

「愛国者が命を投げ出す時は、今をおいて他にありません。三二名の命、好きなようにお使いください」

「君たちの覚悟のほどは分かった。国家のために死んでもらうぞ」

 

 俺は両手でラプシン大尉の手を握り締めた。再建会議が憂国騎士団を厳しく取り締まる中、これだけの人数を集めるのは大変だっただろう。

 

 憂国騎士団にはあまりいいイメージを持っていない。トリューニヒト議長を支持しているといっても、やることが乱暴すぎる。秩序と規律を破壊する存在だ。できることなら解散してほしいと思う。こんな連中を野放しにしていては、トリューニヒト議長のイメージが悪くなる。

 

 それでも、危険を冒して馳せ参じてくれた相手には冷たくできなかった。まして、ラプシン大尉はヴァンフリート四=二にいた時の部下だ。

 

 多くの退役軍人が死に場所を探しに来た。失脚した者、社会に適応できない者、戦場で死にたいと願う者、生活苦にあえぐ者などが市民軍の受付に現れた。

 

 ジェフリー・パエッタ予備役少将は、「一兵卒として使ってほしい」と言ってきた。かつては宇宙艦隊副司令長官を務めた大物だ。レグニツァ会戦の敗戦責任により、二階級降格されて予備役に放り込まれた。何度か復帰の話があったが、そのたびに良識派に妨害された。支持率目当ての出兵に協力したことが怒りを買ったのだ。再就職もままならず、朝から晩までテレビをぼんやりと眺めていたそうだ。

 

「私は戦うしかできない男だ。雪辱できずに生きるぐらいなら、華々しく討ち死にしたい」

 

 パエッタ少将の顔は悲壮な決意に満ちていた。

 

「かしこまりました。提督が本懐を遂げられるよう、尽力させていただきます」

 

 俺はパエッタ少将の加入を認め、最も危険な部署に配備した。屈辱に満ちた生より名誉ある死を選ぶ気持ちは良くわかる。逃亡者として生きた六〇年は辛いだけだった。

 

 サミュエル・アップルトン予備役准将は不運な人だ。ロボス派のホープだったが、九年前のアルレスハイム会戦で惨敗したために失脚した。再招集されてラグナロック作戦に参加したものの、武勲を立てることができず、帰還後に再び予備役となった。良識派が退役軍人の再就職を規制したために、宇宙船製造会社部長の職を失った。現在はコンビニ店員のアルバイトをしているという。

 

「私はアルレスハイムで死ぬべきだった」

 

 そう語るアップルトン准将に、かつての自分が重なった。エル・ファシルで死ねばよかったと思ったことは数えきれない。今の世界でも前の世界でも不運な提督に同情した。

 

 新たに加わった者の中には有名人が少なからずいた。特に多かったのが失脚した政治家である。市民軍で名前を売りたいのだろう。

 

 コーネリア・ウィンザー下院議員がやってきた。ラグナロック戦役当時の国防委員長で、講和を妨害し続けたことで悪名高い。前の世界では帝国領侵攻作戦を引き起こしている。正直言うと市民軍には来てほしくない。

 

「フィリップス提督の演説に感動しました」

 

 ウィンザー議員は両手で俺の右手を握り締め、熱っぽい口調で市民軍の大義を称賛する。

 

「私たちには崇高な義務があります。クーデター軍を打倒し、独裁から市民を救う義務です。提督はそのことを教えてくださいました」

「ありがとうございます」

「私も市民軍の戦列に加えてください。使い走りで結構です。この神聖な戦いに参加できるだけでも、身に余る栄誉ですから」

「ウィンザー先生のお気持ちはわかりました」

 

 俺はたじろいだ。目に映るのはウィンザー議員の上品な美貌。耳から飛び込んでくるのは音楽的な美声。手から伝わってくるのは温かい体温。平常心ではいられない。

 

 ウィンザー議員には人を魅了する魔力があった。ラグナロック戦犯という先入観があっても、ここまで心を揺さぶられる。俺のような小物が太刀打ちできる相手ではない。彼女といい、レベロ議員といい、ホワン議員といい、有名政治家は飛び抜けた人間ばかりだ。

 

 大量の新戦力を獲得した市民軍も、リベラル層は取り込めなかった。政治意識が高い人は、「誰が言っているか」より「何を言っているか」を重視する。大物であろうとも、改革を蔑ろにするような人物を支持することはしない。

 

 再建会議に反対するリベラリストは、反戦市民連合ソーンダイク派に身を投じた。小勢力とはいえ、反戦市民連合創設メンバーのソーンダイク議員、反戦派のシンボルのアブジュ議員らを擁している。市民軍よりは参加しやすいのだろう。

 

 市民軍に参加したリベラル層は、予想よりもはるかに少ない。レベロ効果はレベロ議員の本来の支持層には発揮されず、それ以外の連中を動かすという皮肉な結果に終わった。

 

 構成員が急増したことで、市民軍の足並みが乱れ始めた。数は力と言う言葉がある。だが、まとめられない数は無力だ。

 

 ある時、大衆党のアイランズ上院議員が、会議室にトリューニヒト議長の肖像画を掲げた。この会議室には、決起した時から国父アーレ・ハイネセンの肖像画が掲げられている。その横にトリューニヒト議長の肖像画を並べたのだ。

 

 このことを知ると、アラルコン中将やスビヤント議員ら統一正義党支持者が激怒した。

 

「神聖不可侵の国父をトリューニヒトごときと並べるとは何事か! 不敬の極みだ!」

 

 反ハイネセン主義者は、国父ハイネセンを完全無欠の超人だと考えている。ハイネセン主義に反対するのも、「あれは後世の人間がでっち上げたものだ。超人が矛盾だらけの思想を作るはずがない」という理由だ。

 

 会議室前の廊下は大騒ぎになった。統一正義党支持者一〇数名が中に入って肖像画を下ろそうとした。トリューニヒト派一〇数名がドアの前に立ちふさがる。両者は激しく怒鳴り合った。

 

 俺が仲裁に駆け付けた時、今すぐにも乱闘が始まりそうな雰囲気だった。発端となったアイランズ議員は姿を消していた。

 

 このような揉め事が一日に何度も起きた。俺が仲裁すれば収まるのだが、すぐに別の揉め事が起きる。

 

 市民軍は価値観も方向性もバラバラなグループの寄せ集めである。トリューニヒト派はトリューニヒト議長の復権を最優先に考える。統一正義党支持者はエリート的な再建会議に敵意を燃やす。科学的社会主義者は「プロレタリア革命軍」である市民軍が、「ブルジョワ反革命軍」の再建会議を打倒するのだと叫ぶ。中道派は混乱の収拾を願っており、再建会議への敵意は薄い。リベラル派は市民軍の右傾化を防ごうとする。日和見主義者はその時々で有利なグループの肩を持つ。

 

 このような集団をまとめるのはおそろしく難しい。全グループの利害が対立しているので、全員を満足させることは不可能だ。ある者を満足させれば、他の者が不満を抱く。それが果てしなく続くのである。

 

 ホワン議員が言うには、超党派運動の内情は似たり寄ったりだそうだ。二年前のラグナロック反戦運動でも苦労したという。

 

「揉めるのは当然さ。普段はいがみ合ってる連中が集まってるんだ」

「妥協してもらわないと困ります」

 

 俺は苦々しさを隠さない。

 

「そいつは無理だ。何も言わなきゃ、他人の言い分が一方的に通ってしまう。政治というのはそういうもんだ」

「でも、妥協しないと前に進みません」

「前とはどこにあるのかな?」

 

 ホワン議員は皮肉っぽい笑いを浮かべる。

 

「前でしょう」

 

 内心ではむっとしたものの、表情は変えない。

 

「組織人は前後の区別に悩むことがない。組織には構成員全員が共有する目標がある。軍隊の場合は勝利。企業の場合は利潤。こういったものに近づくことが前進、遠ざかることが後退といえる。しかし、政治の世界は違う」

「どう違うんです?」

「一〇〇人いたら、一〇〇人が違う方向を『前だ』と言い張る。全員が違う方向を『前だ』と思い込んでいる。主観的には自分だけが前に向かっていて、他人は後退しているように見えるのさ」

「国益に近づくことが前進とは言えませんか?」

「国益の定義も人によって違うんだよ。私は帝国と講和することが国益にかなうと思うが、トリューニヒトは戦争を続けることが国益だと言うだろう。私は移民を一〇億人導入することが国益にかなうと思っているが、トリューニヒトは移民を増やさないことが国益だと言うだろう。私にとっての前進は、トリューニヒトにとっての後退だ」

 

 ホワン議員の例え話はわかりやすかった。リベラル派の中でも、ヤン・ウェンリーのように国家をくだらないと思う者は少数派だ。大多数はレベロ議員が言ったように、リベラリストなりのやり方で国家を愛している。

 

「納得できました」

「真面目だから妥協できないんだ。どのグループも市民軍を勝たせたいと思っている。そして、他のやり方だと勝てないと思っている。だから、必死になって言い争う」

「独善と切り捨てることはできませんね」

「市民軍にはラグナロック反戦運動より有利な点が一つある。エリヤ・フィリップスという圧倒的なカリスマの存在だ。どんな揉め事も君が出るだけで収まる。曲者のアラルコンですら、君には頭が上がらない。妥協が成り立つかどうかは君次第だ」

「努力いたします」

 

 俺はかしこまって答える。いつもなら謙遜するところだが、決起中は頼れる指導者を演じることに決めている。みんな俺の後を歩いているのだから。

 

 

 

 市民軍には副司令官がいないため、俺は休まずに働いた。午前と午後に一時間ずつタンクベッドで眠るだけで、その他の時間は仕事をしている。一日五回の食事はすべて幹部や義勇兵との会食なので、公務のようなものだ。

 

 俺の身辺には護衛一〇名が交代で張り付いた。元特殊部隊隊員、元空挺隊員、元陸戦隊員といった猛者である。最初は四人だったが、アラルコン中将に「護衛を増やしなさい。今のあなたは同盟そのものだ。あなたが死んだら同盟が終わるんだ」と言われたので、一〇名に増やした。自分より一〇センチ以上背が高い男女に囲まれていると、窮屈な気分だ。

 

「疲れた」

 

 マフィンの箱を取り出そうとすると、副官代理ユリエ・ハラボフ少佐が俺の腕を掴んだ。

 

「本日の摂取制限を超えています」

「そうだったな」

 

 俺はため息をついた。ルグランジュ大将が心配するので、マフィンの量を平時の二倍に抑えている。

 

「こちらをお召し上がりください」

 

 ハラボフ少佐がクーラーボックスを開けて、ノンカロリーのパイナップルゼリーを差し出す。彼女がボランティアにレシピを渡して作らせたものだ。

 

 甘味が無ければ激務に耐えられないが、食べ過ぎたら心配される。この問題を解決したのがノンカロリーゼリーであった。パイナップルとキウイ以外のレパートリーがないことを除けば、おおむね満足できた。

 

「おかわりをもらえるか?」

「駄目です」

 

 ハラボフ少佐は蔑むような目で俺を見る。食糧の残量をわきまえろと言いたいのだろう。ボーナムの防災備蓄物資はほとんど残っていなかった。

 

 物流管理部は各地の市民軍が持ちこたえられる期間を見積もった。首都圏は三日、北大陸南部・東大陸西部・中央大陸は四日、その他の地域は一週間前後だという。

 

 物資不足は内部対立よりずっと深刻な問題だ。再建会議が衛星軌道を掌握しているため、市民軍の勢力圏には輸入物資が入ってこない。食糧やエネルギーを自給できないハイネセンにとって、星外からの輸入は生命線である。構成員が急増したこと、自動車が出入りできないことも物資不足を助長した。

 

 俺の周囲はピリピリしている。イレーシュ後方部長は食事が四人分から二人分に減ったため、ただでさえ鋭い目が一層鋭くなった。食事を五人分から三人分に減らされた妹は、ストレスが溜まっているのか、ハラボフ少佐やイレーシュ後方部長に敵意のこもった目を向ける。一人前しか食べない人たちが食事を減らされたら、市民軍全体がこのような空気になるのだろう。そう思うと一般構成員への支給量削減には踏み切れない。

 

 市民軍がよろめいたところに、再建会議が特大の爆弾を投げ込んだ。

 

「三月の上院・下院選挙は不正選挙だった」

 

 再建会議のスポークスマンは、トリューニヒト政権の正統性を根底から否定した。反トリューニヒト派に対する微罪逮捕が相次いだこと、警察が憂国騎士団のテロを取り締まらなかったこと、警察情報と検察情報がマスコミに流れていたこと、警察機密費が大衆党に流れた形跡があることなどが、不正の証拠としてあげられた。同時に公開された文書は衝撃的なものだった。

 

「法秩序委員会、同盟警察、中央検察庁による選挙干渉は明らかだ。三月選挙は民主的な選挙ではなかった」

 

 再建会議は同盟最高裁に「三月選挙は無効だ」との申し立てを行った。これによって、三月選挙そのものを否定したのである。

 

 サンテール元法秩序委員会事務総長、ツァン元同盟警察長官、マスキアラン元同盟検察総長ら元法秩序委員会系官僚五名が、公職選挙法違反の容疑で指名手配された。再建会議のスポークスマンによると、この五名は選挙干渉の首謀者であり、トリューニヒト政権の黒幕だそうだ。

 

「トリューニヒト政権のために戦う理由などない。速やかに降伏せよ」

 

 再建会議はそう呼び掛けたが、俺は即座に反論した。

 

「三月の選挙が不正選挙と認定されたわけではない。まだ疑惑の段階だ。不正が事実だったとしても、最高裁に申し立てるだけで済むことだ。クーデターを正当化する理由にはならない」

 

 このコメントの後、レベロ議員やホワン議員らもクーデターを改めて否定し、市民軍の正当性は保たれた。呼びかけに応じて離脱した者は一〇万人程度に留まる。

 

 人々は「フィリップス提督の反論が功を奏した」と語ったが、俺が考えたロジックではない。レベロ議員、ホワン議員、アドーラ計画部長ら文民のブレーンがこしらえてくれたものだ。俺はただ読み上げただけである。

 

 与党国会議員、市民軍派地方首長、宗教右派団体、極右団体、労働組合などのスキャンダルを記した怪文書が、市民軍支配地域にばらまかれた。そのほとんどは真偽が怪しい情報であったが、人々を動揺させるには十分だった。

 

 俺は一枚の怪文書に目を留めた。題名は『地球通信』と言い、地球教団の機関紙と同じ名前だ。地球教の信徒によると、紙もインクもレイアウトも地球通信の号外と同じだそうだ。他の怪文書と比べると、完成度が格段に違う。

 

 怪文書の内容は衝撃的だった。地球教団総書記代理ド=ヴィリエ大主教が資金管理団体「信徒基金」を使い、マネーロンダリングを行っていると言うのだ。顧客として、多くの政治家・企業・団体の名前があがっていた。その中にはトリューニヒト議長や憂国騎士団の名前もある。再建会議の怪文書がこの両者を悪く言うのは当然だ。しかし、ある組織の名前があったことに驚いた。

 

「カメラート……」

 

 帝国語で「仲間」を意味する名前は、帝国系の大手麻薬組織のものだ。アルバネーゼ一派や旧カストロプ派の組織「メーアヒェン」とは、サイオキシン市場の覇権を争ってきた。

 

「まさか」

 

 俺は首を横に振った。前の世界では地球教団がサイオキシンをばらまいたとの噂があった。戦記にもそのように書かれていた。自分の経験から嘘だと思っていた。だが、地球教団とカメラートが繋がっていたとしたら……。ド=ヴィリエ大主教がカメラートを援護するために、トリューニヒト議長と手を組んだとしたら……。

 

「君はどう思う」

 

 俺は地球教の信徒を呼び止めて聞いた。きっと否定してくれるだろう。怪文書の書いてることなんて嘘っぱちだ。

 

「あいつならやりかねませんよ」

 

 禁欲的な風貌の信徒はあっさり肯定した。しかも、教団ナンバーツーを「あいつ」呼ばわりだ。

 

「そうなのか?」

「ええ、あいつは邪心が法衣を着ているような男です。サイオキシンの常習者だと言われても驚きませんよ」

「聖職者がそんなことをするのかな」

「あいつは聖職者なんかじゃありません。大主教のくせに酒を飲み、カジノに出入りし、男とも女とも性交をするような男です。三年前、総本部で――」

 

 信徒はド=ヴィリエ大主教がいかに不道徳かを語る。よほど嫌っているのだろうが、そんなことを聞かされても困る。

 

 その後、流行の服を着た若い信徒に同じ質問をしたら、「あの方がそんなことをするはずはありません」と答えた。そして、ド=ヴィリエ大主教が進歩的な宗教家だと絶賛する。地球教団にはド=ヴィリエ派と反ド=ヴィリエ派がいるらしい。

 

 考えてみると、あれほどの大教団に派閥争いがない方がおかしい。銀河広しと言えども、惑星を所有している宗教団体は地球教団だけだ。ド=ヴィリエ大主教はあの若さでナンバーツーに抜擢された人だから、賛否両論があるのは当然だろう。怪文書なんか気にしてもしょうがない。検証のしようもないのだ。

 

 怪文書は市民軍に不信の種をばらまいた。政党や団体の構成員は動揺した。一般参加者は政党や団体と距離を置くようになった。俺ですら疑心を抱いたのだ。他の人たちが動揺するのも無理はない。

 

 自らの重量が市民軍を押し潰そうとしていた。三〇〇〇万人という人数は、一週間程度の歴史しかない組織には重荷でしかなかった。

 

「わざと警備を緩めたのかもしれませんね」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理が不吉なことを言った。

 

「そうかな」

「考えてみると、市民軍の兵力が増えても再建会議は困りません。不満分子が市民軍に行ってしまえば、デモやストライキに加わる人間が減り、再建会議支配地域の治安は安定する。一方、市民軍は損をします。人数が増える分だけ物資が減り、結束力が弱くなります」

「そういうことか」

 

 ここまで説明されたら、頭の鈍い俺でもさすがに気づく。敵は不満分子を市民軍に押し付けた。もしかすると、左右共闘も敵の計算のうちだったのかもしれない。

 

「事前に気づいていればよかったのですが。私が気づいた時はいつも手遅れです」

「気づいたとしても、どうにもできないさ。俺は市民全員の戦いだと言ってしまった。罠と分かっていても、志願者を受け入れるしかなかった。ここは相手を褒めよう」

 

 俺はチュン・ウー・チェン参謀長代理に潰れていない野菜サンドイッチを渡した。メッサースミス作戦副部長が作ったものだった。

 

 最近になって気づいたことだが、チュン・ウー・チェン参謀長代理は謀略に向いていない。戦略家と謀略家は本質的に別物だ。客観的な情報をもとに現状を分析し、大局的な計画を立てるのが戦略である。見えない腹を探り合い、相手をうまいこと陥れるのが謀略である。戦略はロジックの技術、謀略は直感の技術だ。チュン・ウー・チェン参謀長代理は正統派の戦略家なので、情報が少ない時は本領を発揮できない。だから、謀略に気づくまでに時間がかかる。

 

 ここまで考えたところで、自分が上から目線になっていることに気づいた。この世界では上官と部下だが、本当は違う。俺が小物で相手は偉大な英雄だ。偉そうに評価するなど許されない。

 

「ああ、すまなかった。少し偉そうだった」

「そんなことはないでしょう」

 

 そう言うと、チュン・ウー・チェン参謀長は潰れたハムサンドイッチをポケットから取り出し、俺の手に乗せてくれた。

 

「ありがとう」

「ラグナロックよりはずっとましですよ。パンがありますから」

「あの時はきつかったなあ。君のポケットから潰れたパンが出てこなかった。びっくりしたよ。パンが湧き出してくる魔法のポケットだと思っていたから」

「苦しいのは我々だけではありません。ミルフィーユ計画は効果を発揮しています。前向きに考えましょう」

「君の言うとおりだ」

 

 俺は微笑みを浮かべた。彼の大局的な視点は、視野の狭い俺に広い世界を見せてくれる。彼ののんびりした態度は、悲観的になりがちな俺を落ち着かせてくれる。これこそが参謀チュン・ウー・チェン・ウー・チェンの本領だ。

 

 市民軍は敵を揺さぶる道具としての役割を十分に果たした。ハイネセンポリスの一角に反クーデター勢力が居座っている事実が、再建会議の足元を大きく揺るがせている。

 

 再建会議支配地域には、正式な構成員ではないが市民軍を支持する人々がいる。低所得層と退役軍人と旧移民(ラグナロック以前からに移住した帝国人)が中心だ。彼らの活躍は義勇兵に勝るとも劣らない。

 

 再建会議の支持基盤である四大都市圏は大混乱に陥った。市民軍支持のデモ隊が中心部を埋め尽くす。トラック運転手、鉄道員、水上船員、港湾労働者、航空労働者、宇宙船員の一斉ストライキにより、物流が麻痺した。ゴミ収集員がストライキを起こしたので、市内にゴミがあふれた。学校や病院などもストライキによって休業した。電気労働者や水道労働者がストライキを始めたため、ライフラインが止まった。警察はこうした動きを放置している。

 

 ボロディン大将は予備役軍人五〇〇万人を動員した。デモやストを鎮圧するためではない。軍隊にストライキ参加者の肩代わりをさせようと考えたのだ。敵の支持者であっても、市民に銃を向けることはできなかった。

 

 この決定にブロンズ大将が反発した。軍隊を投入するのなら、デモやストの鎮圧に使うべきだというのが彼の意見だ。

 

 二人の意見の相違は経歴に負うところが大きい。ボロディン大将は正規軍同士の艦隊戦に従事してきたので、味方と敵と民間人を区別しようとする。ブロンズ大将は対テロ戦の経験が多いため、敵と民間人の境界線を曖昧なものと考えており、怪しいと思ったら民間人でも躊躇なく攻撃する。

 

 エルズバーグ都知事らの支持により、ボロディン大将の意見が通った。リベラル派は市民に銃を向けたくないという信念を共有していた。トリューニヒト政権との違いを強調する狙いもある。

 

 ハイネセンの騒乱が投資家の不安を煽り、ハイネセン株式市場は上昇から下落に転じた。銀河第二位の金融センターであるハイネセンの混乱は、銀河経済全体の不安材料となった。

 

 再建会議内部の情報提供者によると、ハイネセンの株安は星外に大きな影響を与えた。同盟国内の主要マーケットはすべて下落し、フェザーン株式市場も下落に転じた。二年ぶりの全銀河同時株安が始まりつつある。

 

 これに慌てたのが金融街と貿易業界だ。株安、金融システムの混乱、星間交易の停滞などによって生じた損失は、一日あたり一兆ディナールと推定される。同盟経済は崩壊の危機に陥った。同盟銀行協会、同盟証券業協会、同盟星間貿易組合などの代表が最高評議会ビルを訪れ、ボロディン大将に事態の収拾を求めた。

 

 市民軍は物資が尽きかけているが、再建会議は経済的に追い込まれている。どちらも追い詰められていた。

 

 

 

 星外の政治情勢が次第に分かってきた。再建会議は今でも星外情報を独占しているが、情報提供者や星外からの来訪者などが断片的な情報を流してくれる。

 

 同盟に加盟している四一一星系のうち、七六星系が再建会議を支持し、一四三星系が再建会議に敵対し、一三七星系が中立を宣言し、五五星系が態度を保留している。中央宙域の裕福な星系が再建会議支持に回った。辺境の貧しい星系は再建会議と敵対している。中立・保留の星系には、豊かな星系も貧しい星系もある。

 

 もっとも、これらは星系政府のスタンスであって、住民全員のスタンスではない。ほとんどの星系では両派がせめぎ合っていた。

 

 分裂状態に陥った地域もある。ある星系では首星が再建会議を支持し、従星が再建会議に敵対している。ある惑星では本星が再建会議に反対したが、衛星は再建会議支持に回った。ある惑星では全一四州のうち、八州が再建会議を支持し、六州が再建会議に反対した。全星系の三割から四割、全有人惑星の四割から五割がこのような状態だと言われる。分裂を回避するために中立を選んだ星系政府も多いそうだ。

 

 各地で再建会議派も反再建会議派がぶつかり合った。両派は競うようにデモを繰り広げた。二〇〇〇以上の都市で暴動が発生した。一部の地域では暴動が市街戦に発展したらしい。軍隊、警察、傭兵、極右民兵、反同盟テロ組織などが絡んだため、争いの規模が拡大しつつあった。

 

 混乱に乗じて、テロリスト、宇宙海賊、辺境の独立派武装勢力などが暴れ始めた。地方警察にはこうした連中を押さえ込む力はない。軍隊や同盟警察は動きが取れない状態だ。加速度的に治安が悪化している。

 

 同盟領内には三つの方面艦隊が駐留している。惑星ハイネセンのバーラト方面艦隊は、再建会議派と市民軍に二分された。シヴァ星系のシヴァ方面艦隊一万四〇〇〇隻と陸戦隊二七万人は、再建会議議長ボロディン大将の片腕コナリー中将の指揮下にある。イゼルローン回廊のイゼルローン方面艦隊七〇〇〇隻と陸戦隊二五万人も、再建会議に味方した。

 

 地方には地上軍の四個機動軍が交代で派遣されている。パルメレンドの第六機動軍は再建会議支持でまとまった。カッファーの第二機動軍は再建会議支持だが、一部部隊が反対に回った。ネプティスの第一一機動軍は陸上部隊が再建会議に反対し、その他の部隊は支持している。ウルヴァシーの第八機動軍は、分裂を避けるために中立を宣言した。

 

 地方部隊はバラバラに分裂してしまった。地元政府や近隣の有力部隊の動向に左右され、惑星単位や星系単位で帰属先を決めた。星域軍や方面軍には直轄部隊だけが残った。

 

 各地の軍集団は形骸化したが、フェザーン方面の第二辺境軍集団だけは、再建会議反対でまとまった。管内に有人星系がほとんどなく、司令官キャゼルヌ中将が部隊をしっかり掌握したこともあり、分裂を免れた。同じウルヴァシーに駐留する第八機動軍とは不可侵協定を結んだ。現在はフェザーンとの交易路を確保することに力を入れている。再建会議派星系の船でも、民間船は「民間人の生活を守るのは軍人の義務だ」と言って無条件で通過させた。

 

 ボロディン大将はキャゼルヌ中将の行動に感銘を受け、第二辺境軍集団の管轄区域に立ち入らないと約束した。航路警備に専念できるよう配慮したのである。

 

 惑星バイレの災害派遣部隊司令官アッテンボロー少将は、再建会議を糾弾する檄文を作り、反クーデターの戦いに立ち上がるよう呼び掛けた。その配下には一個機動軍五一万人と一個陸戦支援軍二六万人がいる。同盟国内では屈指の地上戦力だ。ただ、艦隊戦力を持っていないので、星系間移動はできない。星間巡視隊から艦艇を借りるための交渉をしているそうだ。

 

 帝国領にいる復員支援軍は、戦局を左右しうる存在だ。司令官ヤン大将は同盟史上最高の天才。宇宙戦力司令官ムライ中将率いる三個機動集団一万九〇〇〇隻は、精強を誇った旧第八艦隊と旧第一三艦隊の流れを汲んでいる。陸戦戦力司令官シェーンコップ中将率いる二個陸戦遠征軍四九万人は、薔薇の騎士連隊と旧第一三艦隊陸戦隊の勇士を中核とする。地上戦力司令官イム中将率いる二個機動軍一〇一万人は、ラグナロックで活躍した精鋭が名を連ねる。

 

 同盟軍屈指の大部隊にも関わらず、動静はほとんど伝わってこない。再建会議は味方だとアピールするのだが、復員支援軍側のコメントが全く出てこなかった。そのため、様々な説が流れた。最も有力な説は、「非再建会議・非トリューニヒトの第三勢力を目指している」というものだった。

 

 ただし、復員支援軍と再建会議が敵対したのは確実らしい。アムリッツァに全軍を集結させ、イゼルローン回廊に侵攻する準備をしているそうだ。

 

 復員支援軍がイゼルローン要塞を短期間で攻略するのは、困難とみられる。二年前に実施されたイゼルローン攻防戦のシミュレーションにおいて、ヤン大将は一勝四敗に終わった。

 

 二年前、国防委員会はヤン大将に要塞戦教範の作成を命じた。同盟軍は宇宙要塞を運用した経験を持っていない。ラグナロック戦役中に占拠した要塞は、ルイス准将の提案により、帝国軍の要塞にぶつけられて消滅した。質量兵器としての使い方はわかるが、防衛拠点としての使い方はわからなかった。そこで要塞戦の権威の出番となった。

 

 ヤン大将はイゼルローン要塞の弱点を「物理的な弱点がないこと」だと考えた。宇宙要塞には全方位散開攻撃に弱いと言う致命的な欠点がある。しかし、イゼルローン要塞は回廊の中に設置されているので、攻撃方向が限定されており、物理的な弱点は存在しない。このことが防御側の慢心を生み、心理的な罠を仕掛ける余地が生じた。

 

 ヤン大将の教範は「隙を作らない」という一点を徹底的に追求した。仕事を簡略化し、手順を守ることを徹底させ、チェック体制を整備し、ヒューマンエラーをなくす。回廊全域の監視体制を強化し、ささいな変化も見逃さない。駐留部隊は敵を足止めすることに専念し、トゥールハンマーの射程内に留まったまま戦う。並行追撃、一撃離脱攻撃、無人艦突撃など想定される攻撃に対し、標準的な対応策を確立した。

 

 イゼルローン方面艦隊司令官を選ぶ時、ヤン大将は四名の提督を候補に挙げた。旧第一三艦隊のエリック・ムライ中将、旧第七艦隊のエドウィン・フィッシャー中将、旧第三艦隊のターオ・ゴシャール中将、そして旧第九艦隊のフランシスコ・メリダ中将である。

 

 多くの人がこの人選を疑問に思った。四名とも豊かな経験と堅実な運用能力を持ち、与えられた役割を確実にこなす。だが、戦術能力は平凡だった。イゼルローン防衛の大任が務まるとは思えない。

 

 理由を問われたところ、ヤン大将は「イゼルローンに名将は必要ない。やるべきことをやれば勝てる」と答えた。勇敢な提督は危険を恐れないので、深入りする恐れがある。知謀に長けた提督は複雑な作戦を好むので、隙が生じやすい。だから、堅実な凡将がいいという。

 

 思い返してみると、前の世界のヤン・ウェンリーに敗れた提督はみんな有能だった。勇将は積極性を逆手に取られて敗れた。知将は思慮深さを逆手に取られて敗れた。有能で自信に満ちた者ほど罠に引っ掛かった。このことを踏まえれば、平凡だが堅実な提督を選ぶのは納得できる。

 

 候補者の中からメリダ中将が選ばれた後、コンピュータで模擬戦闘を行った。五回戦ってメリダ中将が四勝した。ヤン大将が勝った時も二週間を費やし、八〇〇〇隻の艦艇を失った。自らの敗北によって、ヤン大将は教範の正しさを証明したのだ。

 

 復員支援軍は無視しても構わない。イゼルローン方面艦隊には奇策が通用しないのだ。決着が着く頃には、ハイネセンの戦いは終わっている。

 

 星外にはハイネセン情勢はほとんど伝わっていないらしい。騒乱状態になっていることは何となくわかっていても、情報統制が真実への道を塞いだ。様々な噂が流れているが、いずれも実態を反映したものではなかった。

 

 星外情報のファイルを読み終えた時、俺の脳内に浮かんだのは「内戦前夜」という言葉だった。一歩間違えば、同盟は国家としての形を保てなくなる。

 

「情報提供者が送ってきた文書です」

 

 ハラボフ少佐が一枚のファイルを渡してくれた。再建会議の内部文書だ。市民軍を武力鎮圧するシミュレーションの結果が記されている。

 

「ずいぶん悲観的な想定だな」

 

 俺はため息をついた。再建会議の予測によると、両軍合わせて二〇万人から四〇万人が死亡し、二〇〇万人から三〇〇万人が負傷するという。

 

「我が軍は三〇〇〇万人。その他に二億人の支持者がいます。妥当な予測かと」

「ああ、そうか。母数がでかすぎるんだ。死亡率が一パーセントでも三〇万人になる」

 

 俺はファイルを閉じた。再建会議は武力鎮圧を避けたいだろう。数十万人も死なせたら、リベラル派は激怒する。最も重要な支持層に見放されるのだ。

 

 もっとも、兵糧攻めを続けることはできない。決着が一日遅れるだけで、中堅星系のGDPに匹敵する大金が失われる。金融街と貿易業界は早期決着を望むだろう。ビジネスマンは血の量より金の量を重視するはずだ。

 

「長引いたら経済破綻。短期決着は流血の道。どちらを選んでも中央政府は信望を失い、内戦が始まる」

 

 背筋に戦慄が走った。ミルフィーユ計画は想定より大きな効果をあげた。再建会議の足元を崩すだけに留まらず、同盟という国家の足元を根こそぎ崩してしまった。同盟は崩壊の危機にある。反クーデターの戦いは予想もつかない方向に転がった。

 

 再建会議が複数のルートから和睦を打診してきた。彼らも現状を理解していたのだ。

 

「トリューニヒト政権の退陣、大衆党幹部の公職追放、三月選挙の無効、再選挙の実施、法秩序委員会・警察・検察の政治介入の排除。この五点は譲れないが、それ以外はどんな要求にも応じる」

 

 この提案を歩み寄りと見る者もいれば、非妥協的と見る者もいた。トリューニヒト派だけに不利な提案なので、トリューニヒト派とその他の者を分断する策略のようにも見えた。

 

 会議の結果、市民軍は交渉に応じることになった。再建会議に対する不信感がなかったわけではないが、それ以上に同盟崩壊を避けたいという声がそれを上回った。

 

「トリューニヒト政権の復帰、大衆党幹部の公職追放解除、三月選挙の尊重。この三点を受け入れるならば、和睦に応じる」

 

 市民軍は再建会議の提案と真っ向から対立する案を出した。俺が最初に「トリューニヒト政権の復帰は最低条件だ」とはっきり言ったため、トリューニヒト派を切り捨てて和睦するという声は出なかった。

 

 一一月八日早朝、和睦交渉が始まった。同盟崩壊を回避するための話し合いである。そして、トリューニヒト派排除を唱える再建会議と、トリューニヒト政権復帰を主張する市民軍のどちらが先に折れるかという勝負である。

 

 両陣営の幹部による非公式の会談が始まった。調整が済み次第、公式の会談に移る。俺はボーナムで行方を見守っている。

 

 再建会議派の人間が入れ代わり立ち代わりで、俺との対話を求めてきた。探りを入れる者もいれば、俺を説得しようとする者もいた。前哨戦は既に始まっている。

 

「あ、あなたは……」

 

 俺は直立不動で敬礼をした。本能がそうさせた。クーデター開始から九日目、市民軍の戦いは大詰めを迎えていた。



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第83話:破局への疾走 801年11月8日~9日 ボーナム総合防災センター

 どんな顔をすれば良いのかわからなかった。この人が敵になることは予想できた。だが、実際に敵として現れると、平静ではいられない。

 

「お久しぶりです、クリスチアン大佐」

 

 俺は再建会議の使者エーベルト・クリスチアン大佐と握手を交わす。かすかに手が震えた。

 

「顔色が少し悪いな。ちゃんと飯を食っているか? 睡眠は足りているか?」

 

 クリスチアン大佐はじろりと俺を睨む。凶悪な人相のせいで怒っているように見えるが、実際は心配する顔だ。

 

「二日前から節食しています。タンクベッドを一日二時間使っていますので、睡眠時間は問題ありません」

「いい状態ではないな。貴官は頭脳も肉体も人並みだが、人の何倍も動かすことで並以上の働きができる。カロリー不足はパフォーマンスを低下させる。タンクベッドは肉体には効くが、メンタルには効かん。何日も続けると抑うつ状態になるぞ」

「お気遣いありがとうございます」

「感謝には及ばん。食糧不足も多忙も我々の責任だ」

「お互い様です。あなたの苦労は俺たちの責任ですから。戦場とはそういうものでしょう」

「まったくだ」

 

 笑いあった後、俺は顔を引き締めた。

 

「本題に入りましょうか」

「単刀直入に言う。民主政治再建会議と和睦せよ」

「条件は?」

「これを読め」

 

 クリスチアン大佐はバッグから文書を取り出し、俺に手渡す。説明するのが面倒なのだろう。この人はそういう人だ。

 

 再建会議は想像以上に良い条件を出してきた。市民軍を政治勢力として認めるという。一つの組織として活動しても構わないし、グループ単位に分かれて活動しても構わない。再建会議への参画を望むなら、市民軍幹部を副議長や委員長に登用する。批判勢力として活動するのも自由だ。次期選挙への参加資格も与えられる。また、同盟選挙管理委員会の構成を再建会議系二名、市民軍系二名、中立派一名とし、左右両派が共同で選挙を管理する。

 

 市民軍を大衆党の後継勢力にする形だ。大衆党幹部とトリューニヒト派官僚さえ切り捨てれば、大きな権力が手に入る。

 

「凄い譲歩ですね。内部から不満が出てもおかしくないですよ」

「そんなに凄いのか」

「目を通していないんですか?」

「貴官ら兄妹の処遇以外はどうでもいい」

 

 クリスチアン大佐らしい答えである。

 

「まずいでしょう。使者なんですから」

「構わんだろう。読みたくないなら読まんでいいと言われたしな」

「なるほど」

 

 敵の意図が理解できた。俺とクリスチアン大佐の個人的な関係に頼ったのだ。和睦案といい、使者の人選といい、再建会議はうまい手を打ってくる。

 

「貴官がトリューニヒトを好きなのはわかるが、愛国者なら国家を第一に考えろ。再建会議は軍の独立性を尊重するそうだ。どちらが正しいかは明らかだろう。軍人としての良心に従え」

「俺は民主主義の軍人です。議長を支えるのが良心的判断だと考えます」

「軍人は政治家個人に仕えているのではないぞ? わかっているのか?」

「心得ております」

「シビリアン・コントロールとは、市民が決定権を持つということだ。政治家は軍事のプロたる軍人を尊重し、軍人は市民の代表たる政治家を尊重し、協力して国を守る。それがあるべき姿だ。政治家と軍人の関係は上官と部下の関係であって、主君と臣下の関係ではない」

 

 クリスチアン大佐の目が鋭く光る。

 

「だが、トリューニヒトは違う。他人が自分の思い通りに動かなければ気が済まない。市民も軍人もみんな自分の臣下だと勘違いしている」

「そんなことはありません」

「トリューニヒトと貴官の関係も、政治家と軍人の関係ではない。主君と臣下だ」

「違います」

 

 声がかすかに少し震える。

 

「あるいは父親と子供の関係かもしれん。貴官はトリューニヒトを喜ばせたいと思い、孝行を尽くす。トリューニヒトは貴官を可愛がり、様々なことを教える」

「俺の父はパラディオンに……」

「貴官と小官は一三年の付き合いだが、父親の話題は一度か二度しか出ていない。貴官は実の父より、トリューニヒトに親しみを感じているのではないか?」

「…………」

 

 完全に図星だった。前の人生で見捨てられてから、父に対しては一線を引いていた。トリューニヒト議長の方が父親のように思えた。

 

「トリューニヒトは親しい者には甘く、疎遠な者には冷淡だ。一家の父親ならそれでいい。だが、一国の指導者としては最悪だ」

「でも、良い人なんですよ」

「そう答えるしかないだろうな。貴官はあの男の“子供”なのだから」

「子供が親を見捨てるとしたら、それは親が親であることをやめた時でしょう。あの人は“父親”として俺をかわいがってくれる。ならば、俺は“子供”として『悪いことはしないでほしい』と願います」

 

 前の人生で俺は親から見捨てられた。あれほど辛い経験はなかった。だから、自分から見捨てることはしたくない。

 

「わかっている。小官には子供も孫もいるからな。親が親でいる間は、子供は子供であることをやめない」

「申し訳ありません。俺には議長を捨てることはできません」

「予想はついていた。万に一つの可能性に賭けたが駄目だな」

「申し訳ありません」

 

 心が激しく痛む。恩師の厚意を裏切りたくない。しかし、トリューニヒト議長の信頼を裏切ることもできない。

 

「謝らんでいい。対象が誰であれ、人を裏切れないのは賞賛すべきことだ」

「恐れ入ります」

「貴官は大食いでよく眠る。軍人向きだと思った。だが、ここまで大きな存在になるとは予想できなかった」

「大佐のご指導のおかげです」

「貴官を相手に一戦するのも悪くない。強敵と戦うのも戦の醍醐味だ」

 

 クリスチアン大佐は口を大きく開けて笑う。

 

「絶対に死ぬなよ。貴官を捕まえたら、助命されるよう掛け合ってやる」

「大佐もお体を大事にしてください。市民軍が勝利したら、すべてに替えてあなたの助命をお願いします」

「生意気なことを言うではないか」

 

 クリスチアン大佐は俺の肩を叩く。

 

「それぐらいの覚悟がなくては、あなたとは戦えません」

「妹にもよろしく伝えておいてくれ」

「かしこまりました」

 

 俺は笑顔で敬礼をした。クリスチアン大佐との関係に涙は似合わない。

 

「小官は帰るぞ。兵の面倒を見てやらねばいかんのでな」

「返事は聞かなくてもよろしいのですか?」

「すぐには決まらんのだろう」

「ええ、会議にかけて結論を出します」

「上からは『話が終わったらすぐに戻れ。返事を持ち帰る必要はない』と言われている。結論が出たら、再建会議事務局のファイフェルに送ってくれ」

 

 それだけ言うと、クリスチアン大佐は背を向けて早足で歩きだす。何かを振り切ろうとしているようだった。俺はずっと頭を下げ続けた。

 

 クリスチアン大佐と別れてから一〇分後、市民軍は幹部会議を開いた。出席者は部長、管区司令官、顧問など五三名。過半数は遠方から立体画像として参加する。

 

 幹部たちは配布された和睦案のコピーを見ると、驚きの表情を浮かべた。チュン・ウー・チェン参謀長代理ですら意表を突かれたような顔だ。敵がここまで譲歩するというのは、誰にとっても予想外だった。

 

「論外ですな」

 

 サンドル・アラルコン中将は、和睦案のコピーをわざとらしく放り投げた。積極攻勢の猛将は会議の席でも真っ先に発言する。

 

「悪くないと思うがねえ」

 

 ホワン・ルイ下院議員が肯定的な姿勢を見せると、アラルコン中将が噛み付いた。

 

「悪いことばかりでしょう。我々の要求は一つも通っていない」

「完全な民主主義とはいかんが、民主主義寄りにはなった。暫定政権を左右両派が共同で運営し、再選挙も左右が共同で管理する。市民軍が大衆党支持者の受け皿になるから、トリューニヒトに投票した者の民意は尊重されるだろう。いい落としどころではないかね」

「馬鹿な! トリューニヒト政権を見捨てて民主主義を守るなど、詭弁にもほどがある!」

 

 アラルコン中将は声を荒げる。

 

「重要なのは政権を守ることではない。市民を守ることだ。市民あっての民主主義なんだ。政権存続なんぞ、市民数十万人の命の代償としては安いものさ」

「ご立派な信念ですな。自分の政権が潰されそうな時にも、同じことを言えますか?」

「もちろんさ。私の首ごときで流血を避けられるなら、喜んで差し出すよ」

 

 ホワン議員は表情も声色も変えずに答えた。自己犠牲の精神を誇るようでもなく、崇高な理想を語っているようでもなかった。夕食のメニューについて話す時も、この人は同じような顔をするだろうと思える。

 

「流血を恐れていては、国を守ることはできませんぞ」

「民主主義国家においては、市民を守ることは国家を守ることと同義だ。市民を守らない国家など誰も信用しない。首星で市民数十万人が死ぬような事態になれば、同盟の威信は地に落ちる」

「引くべきでない場面で引くよりはずっとましです。譲歩してばかりの国家には、市民を守ることなどできません。妥協しない姿勢こそが必要です」

「市民数十万人の命は、妥協する理由としては十分だ」

 

 和睦をめぐる対立は価値観の対立でもあった。ホワン議員は市民あっての国家だと考えるが、アラルコン中将は国家あっての市民だと考える。ホワン議員は犠牲を抑えることを重視するが、アラルコン中将は強さを見せることを重視する。

 

「多少の犠牲も必要だろう」

 

 トリューニヒト派のウォルター・アイランズ上院議員が口を挟んだ。

 

「数十万人の命だぞ。『多少』と片付けるには多すぎやせんかね」

「先人は自由を血であがなった。長征グループは二四万人の同志を失った。自由を望むのならば、流血は避けられん」

「犠牲が必要な時はある。それは認めるさ。今は違うがね」

 

 ホワン議員はアイランズ議員をあっさりと退けた。政界有数のリベラル論客には、右翼の建前論など通用しない。

 

 ジョアン・レベロ下院議員が立ち上がった。ホワン議員と並ぶリベラルの巨頭に出席者の注目が集まる。

 

「クーデターによる政権交代など容認できない。市民に選ばれていない者による統治は、民主主義の原則に反する」

 

 生命と原則という二択に対し、レベロ議員は原則を取った。

 

「市民を犠牲にすることはできん」

 

 ホワン議員は盟友の顔をまっすぐに見据える。

 

「ホワン、私だって血は流したくない。だが、クーデターを認めたら、もっと多くの血が流れるのだ。政策が気に入らないからクーデターを起こす。選挙結果が気に入らないからクーデターを起こす。そんなことを認めれば、選挙や議会を尊重する者はいなくなる。市街戦が政局を動かす時代になるのだぞ」

「将来より今に目を向けてくれ。経済は破綻寸前だ。地方政府や軍隊は自分の判断で動いている。混乱に乗じて分離独立を目指す動きもある。そんな時に首都で市街戦が起きたらどうなる? 行きつく先は内戦だ」

 

 幹部の意見は真っ二つに分かれた。統一正義党支持者、科学的社会主義者は強硬論を唱える。中道派は和睦論を支持した。日和見主義者は曖昧な態度をとる。トリューニヒト派は六割が強硬論者で、四割が和睦論者だ。リベラルの大多数は流血回避を望んだが、レベロ議員の原則論に同調する者もいる。

 

 俺は黙って聞いていた。議論の軸になっているのは、アラルコン中将、ホワン議員、レベロ議員の三名だ。アラルコン中将の主張は、庶民や兵士には受けるだろうが情緒的過ぎる。ホワン議員の主張は、合理的だが共感を得るのは困難だろう。レベロ議員の主張は、わかりやすい正論だが堅苦しい。

 

「フィリップス提督の意見を伺いたい」

 

 誰かがそう言うと、全員の視線が司令官席に集まった。議論はほぼ出尽くしている。強硬論者と和睦論者はほぼ拮抗状態だ。俺の決断が大勢を決するだろう。

 

 感情と計算と理想が脳内を交錯し、目の前にいる人と別の場所にいる人と死んだ人の顔が浮かんでは消えていき、一つの答えをはじき出す。俺はおもむろに口を開いた。

 

「この条件では不十分だ。同胞同士で殺し合うのは不本意だが、それでも受け入れられない。私は民主主義国家を守るために戦ってきた。クーデターを認めることは、共に戦った戦友への裏切りであり、信頼してくれた上官への裏切りであり、命を賭けてくれた部下への裏切りであり、支えてくれた市民への裏切りであり、国家の礎となった先人への冒涜だ。トリューニヒト政権の復帰、大衆党幹部の公職追放解除、三月選挙の尊重を求めたい」

 

 市民軍は再建会議から提示された和睦案を突き返し、トリューニヒト政権の復帰、大衆党幹部の公職追放解除、三月選挙の尊重を改めて要求した。

 

 水面下で交渉が続けられた。誰も内戦は望んでいない。経済的にも追い込まれている。それでも合意には至らなかった。

 

 再建会議が譲歩した背景には、「目的を実現するためなら何でも差し出す」という強固な決意がある。彼らは三年後の下院選挙まで待てなかった。ハイネセン記念大学経済研究所によると、国家財政が三年以内に破綻する確率は八五パーセントだという。警察と検察の急速な権力拡大、極端な外資優遇政策なども危機感を呼び起こす。トリューニヒト政権の存続など論外だ。

 

 市民軍は譲歩できない立場である。トリューニヒト議長がいれば、ハイネセン主義政策を部分的に実施するとか、小規模な軍縮をやるとか、そういった譲歩もできる。しかし、市民軍には政治的なことを決める権限がない。支持者の反リベラル感情や反エリート感情も障害となった。

 

 一五時二〇分、俺と再建会議議長ボロディン大将のトップ会談が始まった。直接対面するのではなく、通信回線を開いて話し合う。

 

 ボロディン大将は完璧に身なりを整えていた。クリーム色の頭髪を丁寧に撫でつけ、口ひげをきれいに刈り込み、軍服にはしわ一つない。端整な顔立ちと相まって、ダンディな印象を与える。スマートで知的という宇宙軍軍人の理想を体現したような風貌だ。

 

 本物を目の前にすると、自分が外見を飾っただけの小物だと思い知らされる。ボロディン大将を黄金とすると、俺は金ぱくを貼り付けたプラスチックにすぎない。

 

 敬礼を交わし合った後、ボロディン大将が柔らかい声で語りかけてきた。

 

「フィリップス提督、和睦に応じる気はあるかね」

「トリューニヒト政権の復帰、大衆党幹部の公職追放解除、三月選挙の尊重。これらの条件を受け入れていただけるのなら、喜んで応じましょう」

 

 俺は毅然とした態度で応じた。相手の貫禄に圧されているが、態度には出さない。動揺を隠すのが司令官の義務である。

 

「譲ってはもらえないか」

「それだけはできません」

「トリューニヒト政権を復帰させるべきではない。なぜなら――」

 

 ボロディン大将はトリューニヒト政権批判を始めた。バラマキと軍拡のせいで同盟経済が破綻寸前だとか、軍需産業と癒着しているとか、警察と検察を使って批判者を潰しているとか、人気取りのために兵士や市民を死なせたとか、不正選挙で政権を取ったとか、いつもと同じ話だった。それでも、具体的かつ論理的な話し方のおかげで、説得力がありそうに聞こえる。

 

「あなた方のやったことには正当性がない。まず――」

 

 俺は再建会議の非を責めた。あなたたちのやっていることは独裁だとか、言葉を飾ってもクーデターに過ぎないとか、民意を無視しているとか、市民軍の公式見解と全く同じ内容である。具体的な話には踏み込まず、原則論や精神論を振りかざす。

 

 話し合いは平行線のまま進んだ。事前交渉が終了した段階で、和睦は不可能との結論が出た。この会談は単なる儀式でしかない。

 

 和睦交渉は打ち切りとなり、市民軍も再建会議も警戒レベルをレッドに引き上げた。帝国軍がハイネセンから二光秒(六〇万キロメートル)の距離に迫った場合と同じレベルだ。全面衝突は避けられない情勢となった。

 

 

 

 緊張が高まる中、「再建会議派の正規軍がハイネセンポリスに向かっている」との報告が相次いだ。前線部隊は持ち場から離れ、予備役部隊と交代した。戦闘車両やトラックが首都に通じる星道を占拠する。兵士と装備を満載した列車が首都へと向かう。輸送機が首都圏の空を埋め尽くす。

 

「首都以外の地域を捨てるのか。何を狙っているんだ?」

 

 俺は右隣を向いた。そこにいるのは、最も信頼すべき助言者チュン・ウー・チェン准将である。

 

「褐色のハイネセン攻略に全力を注ぐものと思われます。戦場を一か所に絞ることで、戦いに巻き込まれる人間を減らす。大軍を投入して速戦即決をはかる。指揮系統を破壊し、物資不足に苦しむ市民軍を瓦解に追い込む。少ない犠牲で勝つための策です」

「なるほど」

「犠牲者数十万というのは、ハイネセン全土で戦うことを想定した場合の数字です。褐色のハイネセンだけなら数万人で収まります」

「再建会議は本当に戦争がうまいね」

「褐色のハイネセンだけで戦ったら確実に負けます。戦闘員のほとんどが素人ですから」

「敵が集結したらおしまいだ。全力で食い止めるぞ」

 

 市民軍は敵の集結を阻止することに全力を注いだ。義勇兵やデモ隊が道路を塞ぐ。太洋艦隊、東部軍、南部軍は、敵の大陸間移動を妨げた。再建会議内部の協力者は、意図的な手抜きをした。

 

 第一陸戦遠征軍はマナサスタウンを集結地点に定めたが、一一師団中の七個師団しか集まらなかった。トレモント陸戦隊航空基地から到着した輸送機が空っぽだったのだ。

 

「再建会議は第七八陸戦航空団による組織的犯行と断定、同航空団司令ジェリコ・ブレツェリ宇宙軍代将ら将校一六六名の逮捕状を発行しました」

 

 ハラボフ少佐が淡々と報告を読み上げる。

 

「輸送機の乗員はどうなった?」

「全員逮捕されました」

「トレモント基地の様子は?」

「ブレツェリ代将と将兵二〇〇〇人が守りを固めています。大半は航空兵と後方支援要員で、陸戦部隊は警備部隊一個中隊のみです」

「まずいな」

 

 俺は眉間にしわを寄せた。外征専門部隊である陸戦隊の基地は、防衛拠点としての機能を持っておらず、正規軍の攻撃に耐える能力はない。一個中隊では守り切れないだろう。

 

 トレモント基地のブレツェリ代将に連絡を入れた。彼はダーシャの父親で、俺の義父だ。第七八陸戦航空団は、再建会議内部で隠れ市民軍として頑張ってきた。何としても救援したい。

 

「第九機動軍先遣隊の一部を援軍に送ります。ヘリなら一時間の距離です。どうか持ちこたえてください」

「援軍はいらんよ」

 

 ブレツェリ代将はそっけなく答える。

 

「一個中隊ではどうしようもないですよ」

「一個旅団が来たってどうしようもない。敵はいくらでも援軍を出せる。君が一個連隊を送ったら二個連隊が来るし、一個旅団を送ったら二個旅団が来るだろう。本格的な戦闘に発展したらどうする? 今のハイネセンは、密室にゼッフル粒子が充満しているような状況だ。一つの火花が大爆発を起こすかもしれん。下手なことはするな」

「おっしゃることはわかりますが……」

「援軍を送らなくたって私は死なんよ。まだ平均寿命の三分の二しか生きていないんだ。あの世に行ったら、子供たちに『早すぎる』と怒られる」

 

 これほど沈痛な笑いを見たことはなかった。ブレツェリ代将には四人の子供がいたが、みんな戦死した。

 

「かしこまりました」

「君も死ぬなよ。義理の子供にまで先立たれたりしてはたまらんからな」

「大丈夫です。ダーシャに叱られたくないですから」

 

 俺はダーシャの怒り顔を思い浮かべながら微笑む。もう一度彼女に会えるのならば、叱られたっていい。だが、今はやるべきことがある。

 

「私の心配などするな。一兵でも多く集めろ。褐色のハイネセンを守り切れ。自分が勝つことだけを考えろ。君の勝利は私の勝利だ」

「ありがとうございます」

「感謝するなら、私ではなく部下に言ってやってくれ。逮捕覚悟で輸送機に乗った連中も、トレモント基地にこもっている連中も、君とは何の縁もない。それなのに命を賭けたのだ」

「おっしゃる通りです」

 

 俺は通信対象をブレツェリ代将個人から基地全体に切り替えてもらい、トレモント基地の将兵に感謝の言葉を伝えた。言葉しか送れないのは心苦しいが、何も言わないよりはずっといい。

 

 首都圏西部で軍隊が反乱を起こしたとの情報が入った。ジェファーソン川河岸地域と首都圏を結ぶ交通路が停止し、敵の五個師団が動けなくなったという。

 

「反乱部隊は宇宙軍の軍服を着用し、『市民軍エリヤ・フィリップス戦隊』を称しています。指揮官、兵力規模などについては不明。オレンジ色の旗を掲げているとの情報もあります」

「エリヤ・フィリップス戦隊?」

 

 俺は首を傾げた。市民軍には、「アーレ・ハイネセン自由旅団」や「アッシュビー連隊」など偉人の名前を称する部隊もある。しかし、俺ごときの名前を使うとはどういうことか? オレンジ色の旗というのもわからない。右翼なら白旗、保守なら青旗、リベラルなら黄旗、科学的社会主義者なら赤旗を使うはずだ。

 

 そこに「エリヤ・フィリップス戦隊が交信を求めている」との知らせが入った。交信に応じると伝えると、スクリーンに見覚えのある顔が映った。

 

「エリヤ・フィリップス戦隊副司令シェリル・コレット中佐であります!」

 

 アッシュブロンドの髪とぽってりした唇を持つ美人が敬礼をする。俺の副官だったコレット中佐だ。クーデター中は内通者として市民軍のために働いた。

 

「おお、君だったか。良くやってくれた」

「もったいないお言葉です!」

 

 勢いの良すぎる返事が返ってきた。声はトランポリンのように弾み、アーモンド型の大きな目がきらきらと輝き、白い頬が真っ赤に染まり、コレット中佐が興奮していることが一目でわかる。

 

「いくら褒めても足りないぐらいだよ。君はいつも予想以上の成果を出してくれる」

「大したことはしておりません。閣下のご指示のおかげです」

「君の実力だ」

 

 俺は苦笑いした。協力者とは連絡が取りづらいので、大雑把な指示しか出していない。

 

「部下の功績は上官の功績です」

「まあ、そうだな。君の上官と話がしたい。エリヤ・フィリップス戦隊の司令に代わってくれないか」

「閣下が司令です」

「俺が司令!?」

「私の上官はフィリップス提督です! 部隊旗の色は閣下の髪の色に合わせました! 人参色の赤毛ですから!」

 

 コレット中佐のテンションは急上昇し、俺のテンションは急降下していく。

 

「君が事実上の司令ということでいいのかな」

「閣下が司令です!」

「最上位者なんだから司令ってことでいいじゃないか」

「他に副司令が二名います! カプラン君とキサ中佐です!」

「カプラン君って君の友達か?」

「私と一緒に閣下にお仕えしたカプラン君です!」

「ああ、あのカプランか」

 

 俺は笑顔をひきつらせた。カプラン少佐は元部下だが、仕事ぶりがいい加減なので「指揮官向きだ」と適当なことを言って追い出した。一緒に仕事をしたくない人物ナンバーワンである。

 

「とりあえず、カプラン君に代わりますね!」

「今は一刻を争う時だ。戦いに専念してくれ」

 

 俺は逃げを打った。コレット中佐一人でも頭が痛いのに、カプラン少佐まで出てきてはたまらない。

 

 通信を終えると、俺は左側を向いた。副官代理ハラボフ少佐は目が合った途端、さりげなく視線を逸らす。嫌われている気がするが、好かれすぎるよりはましだと思えてくる。

 

 敵を足止めする一方で、味方を呼び寄せた。北大陸の第九機動軍と第九陸戦遠征軍は、手薄になったジェファーソン川流域を進軍する。東大陸の第七機動軍と第七陸戦遠征軍は、輸送機に乗って飛び立った。ジェファーソン川流域の義勇兵一〇〇万人もハイネセンポリスへと向かう。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「私もハイネセンポリスに行くぞ」

 

 スクリーンの向こう側で、宇宙艦隊司令長官代理ルグランジュ大将が笑っている。

 

「どういうことです?」

「ラガにいるよりは、決戦場にいた方が役に立てるだろう。角材を振り回すぐらいはできる。こいつには自信があるんでな」

 

 ルグランジュ大将は軍服の袖をまくって力こぶを作る。

 

「かしこまりました。提督が来るまで持ちこたえてみせましょう」

「負けても構わんぞ。私が褐色のハイネセンを取り返してやる」

「指揮をとるのは、ファルスキー将軍とシューマッハ提督でしょう」

「細かいことを気にしすぎだ。だから、貴官は背が伸びんのだ」

「まだ諦めていませんよ」

 

 俺はぐっと拳を握る。指揮官はいつも前向きでなければならない。おしまいだと思っていても、表向きは諦めていないように振る舞うものだ。

 

 意外なところから援軍がやってきた。リベラリスト三万人が志願してきたのだ。人間の盾となって、褐色のハイネセン攻撃反対の意思を示したいのだという。

 

 市民軍は喜んで彼らの申し出を受け入れた。攻撃に反対する人々の存在は、味方の士気を向上させ、敵の士気低下を促すだろう。妹は「敵の工作員が紛れ込んでいるかもしれない」と懸念を示したが、首脳陣はメリットの方が大きいと判断した。

 

 リベラリストは何よりも流血を嫌う。ジェメンコフ自由と権利委員長が辞表を提出するなど、高名なリベラリストの再建会議離脱が相次いだ。反戦派のマスコミは再建会議批判に転じた。リベラル系の市民団体が相次いで抗議声明を出し、武力行使を中止するよう求めた。

 

 再建会議の軍人には、同胞と戦いたくないと考える者が少なくない。辞表を提出する者や脱走する者が相次いだ。第一機動軍配下の第一航空軍は、褐色のハイネセン攻撃作戦に協力しない意向を示している。

 

 和睦交渉決裂の影響は市民軍にも及んだ。和睦論者は流血を避けられなかったことに失望した。日和見主義者は逃げ出すタイミングを計っている。軽い気持ちで参加した者は怖気づいた。

 

 反戦市民会議ソーンダイク派は再建会議や市民軍の離脱者を吸収し、有害図書グループのモラン准将と手を結び、勢力を急拡大させた。ハイネセン記念スタジアムで集会を開き、再建会議や市民軍の双方に戦闘中止を求めている。

 

 一八時、再建会議は復員支援軍に対し、武装解除を求めたと発表した。復員支援軍との対立を初めて認めたのである。

 

 イゼルローン回廊は一触即発の状態となった。要塞周辺では復員支援軍とイゼルローン方面艦隊が睨み合っている。シヴァ方面艦隊がイゼルローン方面艦隊の支援に向かった。ハイネセン駐在の宇宙部隊には、イゼルローンへの出動命令が下された。復員支援軍司令官ヤン大将はトリューニヒト政権の復権を求めており、全面衝突は避けられないだろう。

 

 再建会議と復員支援軍の対立は、ハイネセン情勢に多少の影響を与えた。ヤン派の第六陸戦遠征軍司令官ビョルクセン少将が辞任し、自宅に引きこもった。心労によるものとみられる。親ヤン的なことで知られるルイス准将は、ソーンダイク派に身を投じた。

 

 一九時、再建会議は「復員支援のために借りた帝国軍基地三四か所を返還する」と発表した。復員支援軍の後方拠点を帝国に引き渡したのである。ニヴルヘイム総監メルカッツ元帥率いる帝国艦隊三万隻は、復員支援軍の兵站拠点「アムリッツァ・ドライ」基地の接収に向かった。

 

「絶体絶命だなあ」

 

 俺はイゼルローン回廊周辺の勢力図に視線を向けた。どう見ても、再建会議と帝国軍が復員支援軍を挟み撃ちにする態勢である。メルカッツ艦隊は一週間、シヴァ方面艦隊は二週間でイゼルローンに到達する。四週間後にはボロディン大将率いる再建会議本隊がやってくるのだ。第二次ヴァルハラ会戦の結果から推測すると、ボロディン大将の用兵は、メルカッツ元帥とほぼ互角だ。イゼルローン要塞を早期に攻略しない限り、ヤン大将に勝ち目はない。

 

「現実逃避はやめようね」

 

 イレーシュ後方部長が勢力図を取り上げた。実のところ、イゼルローンより褐色のハイネセンの方がずっと危ういのだ。

 

 市民軍は敵のハイネセンポリス集結を阻止できなかった。デモ隊は催涙ガスによって無力化された。再建会議派の予備役部隊一三〇万が義勇兵を封じ込めた。再建会議内部の協力者が次々と逮捕され、無事だった者は逃亡した。太洋艦隊が第六陸戦遠征軍の移動を阻止したものの、その他の部隊はハイネセンポリスに到着したのである。

 

 二三時二〇分、褐色のハイネセンは完全に包囲された。北のコルヒオに第一地上軍の六個師団、東のフックス川対岸に独立部隊四個師団、南のチャンセラーズに第一陸戦遠征軍の五個師団、西のブール=ブランシュに第五地上軍の八個師団が集結した。一五個師団相当の兵力が予備として控える。首都防衛軍の首都管区隊と北部軍は、包囲軍に加わっていない。第五地上軍司令官ラッソ中将が三八個師団五六万八〇〇〇人の大軍を指揮する。

 

 市民軍は七重のバリケードを築いた。その内側を守るのは、民間人義勇兵二八万人、退役軍人義勇兵一〇万人、正規軍人四万人、警察官三万人など戦闘員四五万人。市民ボランティア八四万人は非戦闘員だ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「数だけなら互角なんだけどな」

 

 俺はマフィンを食べながらため息をつく。民間人義勇兵は完全な素人だ。警察官は武器の扱いには慣れているが、集団戦闘に慣れていない。正規軍人や退役軍人義勇兵にしても、軍艦乗り、パイロット、後方支援要員などは戦力にならなかった。武器は質量ともに不足している。

 

 援軍は未だに到着していない。フェーブロム少将の第九機動軍は、予備役部隊と北部軍南部管区隊に挟まれた。アムリトラジ少将の第九陸戦遠征軍は、北部軍東部管区隊及び予備役部隊と睨み合っている。ファルスキー中将の第七機動軍とシューマッハ少将の第七陸戦遠征軍は、第五航空軍に阻止された。

 

 さらに悪いことに、敵は化学戦部隊を投入してきた。催涙ガスを使ってデモ隊を一人も死なせずに鎮圧した部隊である。市民軍が持っているガスマスクは二〇万個に過ぎない。戦闘員の過半数が戦わずして無力化されることになる。

 

 日付が変わって九日になっても、ソーンダイク派はハイネセン記念スタジアムに居座っていた。戦闘が中止されるまで動かない構えだ。クリスチアン大佐がスタジアム周辺の守備隊を指揮しているので、前の世界と違って虐殺事件は起きないだろう。妹は「クリスチアン大佐は短気だから」と心配するが、考え過ぎだと思う。

 

 九日〇時二〇分、復員支援軍がイゼルローン方面艦隊を攻撃したとの情報が入った。正面から艦隊戦を挑んだそうだ。

 

 一時になると、俺は最後の見回りに出た。車に乗って褐色のハイネセンを巡り、自らの目で市民軍の現状を確認し、人々に親しく声を掛ける。指揮官先頭の精神は戦ってない時も必要である。

 

 数えきれないほどの旗がバリケードを飾っていた。同盟国旗、同盟軍旗、市民軍旗は団結の象徴だ。与党と野党が党旗を並べ、反戦市民連合を除く全国政政党が一堂に会した。市民団体、労働組合、宗教団体、市民軍派自治体なども旗を掲げる。地方出身者は星系旗や惑星旗を持ち込んだ。旗の数は市民軍が超党派連合軍であることを示す。

 

 市民ボランティアは横一列に並んで手を繋ぎ、人間の鎖を作った。非武装の民間人を前面に出すことで、敵の戦意を喪失させるのだ。リベラリスト三万人もこの中にいた。

 

 正規軍人と義勇兵と警官がバリケードを守った。地上戦の経験が乏しい二線級部隊で、小火器しか持っていない。

 

 地上戦経験者を要所に配置した。装備は正規軍並みであるが、部隊の質にばらつきがあった。部隊組織を維持したまま市民軍に加わった部隊は強い。実戦経験者を適当に集めた部隊は強くない。傭兵部隊は意外と強力で、地球教系列のアース・セキュリティサービス(ESS)は主力部隊の一つだ。

 

 司令部が特殊部隊の奇襲を受ける恐れがあったため、妹のアルマは総合防災公園と総合防災センターを人間で満たす策を立てた。特殊部隊はプライドが高い。非武装の民間人が大勢死ぬような作戦には同意しないだろうと考えた。また、狭い場所に密集した群衆に対しては、催涙弾を使いづらいことも見越している。市民ボランティア一〇万人がボーナム総合防災公園に集められた。

 

 絶望的な状況にあっても、市民軍は活気を失っていない。パイプテントの下では、軍人と警官と民間人が笑いながら食事を楽しむ。屋内では住民が火炎瓶や簡易ガスマスクを製造中だ。バリケードの周辺では最後の補強工事が進んでいる。楽器を演奏したり、歌を歌ったり、ダンスを踊ったりする者もいた。

 

 俺は「市民軍工兵隊司令部」と書かれたテントに入り、市民軍工兵隊司令官シュラール技術少将に頭を下げた。

 

「補強工事はおしまいにしてください。重機を瓦礫作りに回したいのです」

「もう少し続けさせていただきたいんですがねえ」

「大丈夫でしょう。シュラール将軍のバリケードですから」

 

 これはお世辞ではない。シュラール技術少将はチーム・セレブレッゼの一員で、銀河最高の工兵と呼ばれたこともある人だ。

 

「今度こそ完璧にやりたいんですよ」

「ヴァンフリートでも完璧でした。あれだけ兵力差があったら、イゼルローンの外壁だって壊れます」

 

 俺は必死になってなだめる。シュラール技術少将はヴァンフリート四=二基地の工事責任者を務め、基地攻防戦では防御工事を指揮した。完璧な工事ができなかったせいで負けたと悔やみ続けているのだ。

 

「ヴァンフリートの失敗を繰り返してはいかんのです」

「…………」

 

 何も言えなかった。俺もシュラール技術少将もヴァンフリートの生き残りだが、その後の人生は対照的だった。光の当たる道を歩いた者の慰めなど白々しいだけだ。

 

「あなたに声をかけていただいた時、生き伸びた理由がわかりました。この戦いのために生かされたのです」

 

 シュラール技術少将の表情は晴れ晴れとしていた。探し物を見つけたかのようだった。

 

「絶対に勝ちますよ」

 

 俺は力強く言い切った。シュラール少将がどのような心情を抱き、何を見付けたのかはわかったが、それは口にしない。

 

 ボーナム総合防災センターに戻り、司令室に入った。部隊を率いている人はみんな前線に出ていき、幕僚・顧問・オペレーターなどが残っている。

 

「参謀長代理、パンはあるか?」

「ありますよ」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理はポケットから潰れたポテトサンドを取り出した。

 

「ポテトサンドか。幸先がいいな」

 

 俺はドーソン大将を思い出しながら、ポテトサンドをほおばる。

 

「喜んでいただけて何よりです」

「君の潰れたパンを食べないと、戦ってる気がしないんだ」

「妹さんもそうおっしゃってました」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理が左斜め前をちらりと見た。妹が潰れたバターロールを両手で持って食べている。

 

「あいつは食べ物だったら何でもいいんだ。食い意地が汚いから」

「あなたと同じじゃないですか」

「一緒にしないでくれ」

 

 俺が不満顔をすると、司令室に笑い声が響いた。アラルコン中将、ホワン議員、アブダラ副参謀長、ベッカー情報部長らが口を開けて笑う。コレット中佐、メッサースミス中佐らは控えめに微笑む。イレーシュ後方部長は子供を見るような優しい目だ。ハラボフ少佐は無表情を崩さない。レベロ議員はいつもの神経質な表情だ。チュン・ウー・チェン参謀長代理はのほほんとしている。妹は潰れていないサンドイッチに手を伸ばした。

 

 警報が笑い声を中断させた。スクリーンに敵兵の姿が映る。

 

「サウス・セブンティーンのグラナダ義勇戦士団です! バリケードを強行突破されました!」

「こちら、ノースウェスト・ファイブのESS第三大隊! 大量の催涙弾が飛来しています!」

「イーストエンド・ナインのカール・パルムグレン連隊より報告! マーカットビルが占拠されました!」

 

 一一月九日四時一一分、早朝の静けさを光と音の洪水が破壊した。装甲服を装備した歩兵が怒涛のように押し寄せる。戦闘車両がまっしぐらに突き進む。催涙弾が雨のように降り注ぐ。上空をヘリと航空機が飛び回る。再建会議の総攻撃が始まった。



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第84話:自由万歳! 民主主義万歳! 祖国万歳! エリヤ・フィリップス提督万歳! 801年11月8日~9日 ボーナム総合防災センター~ボーナム総合防災公園

 ボーナム総合防災公園から北西三キロの地点で、再建会議軍第六四〇歩兵師団第一旅団と市民軍ブラボー義勇旅団がぶつかり合った。

 

 光と轟音がメインスクリーンを満たす。敵砲兵が放った大型閃光弾が上空で炸裂したのだ。市民ボランティアは目や耳を押さえてうずくまり、人間の鎖が崩れる。義勇兵はサングラスやインカムを装備しているため、ダメージを受けていない。

 

 光の向こう側から銃撃が飛んできた。ニードルガンから針状の電極が放たれ、火薬銃から催涙弾が飛び出す。市民ボランティアは感電して動けなくなり、催涙ガスを吸い込んでせき込む。義勇兵もガスマスクを着用していない者は行動不能になる。戦闘開始から数分も経たないうちに、ブラボー義勇旅団の戦力は半減した。

 

 敵の歩兵がバリケードに突入し、義勇兵や市民ボランティアを次々と取り押さえた。装甲服を着用しているので、光と音と催涙ガスに満たされた空間でも自由に動けるのだ。

 

 戦力の半数を失ったにも関わらず、ブラボー義勇旅団は果敢に戦う。バリケードの上から義勇兵が銃を放つ。大型車がバリケードと敵兵の間に割り込み、車体で敵を食い止めようとする。荷台に義勇兵を乗せたトラックが火炎瓶をばらまく。無人運転の小型車が敵兵に突っ込む。義勇兵が建物の窓から火炎瓶や瓦礫を敵の頭上に投げ落とす。

 

「やるなあ」

 

 俺はスクリーンに見入っていると、妹が話しかけてきた。

 

「義勇兵が活躍すると盛り上がりますね。エル・ファシル地上戦でもそうでした」

「弱兵の奮戦は、『自分もやれる』という気持ちにさせてくれるんだ」

「私もエル・ファシル義勇旅団の活躍に励まされました」

 

 妹の目がきらきらと光る。エル・ファシル義勇旅団が活躍したと本気で信じているのだ。

 

「ブラボー義勇旅団は第五大隊の活躍に引っ張られていますね」

 

 参謀長代理チュン・ウー・チェン准将が話題を切り替えてくれた。宇宙軍の軍服を着た義勇兵が近接戦闘を繰り広げる様子が、スクリーンに映し出される。

 

「宇宙軍退役軍人の部隊だね。宇宙戦闘の技術は地上では通用しないけど、勇気はどんな場所でも発揮できる」

 

 俺の言葉を何よりも雄弁に証明したのは、ジェフリー・パエッタ予備役少将である。最前列で二メートル近い合金製の警杖を振り回し、電気棍棒を持った敵兵を蹴散らす。屈強な体格と決死の覚悟が拙劣な戦闘技術を補った。かつて宇宙軍屈指の勇将と呼ばれた提督は、地に足を着けた戦いでも勇敢さを示した。

 

 サミュエル・アップルトン予備役准将の戦いぶりは、パエッタ予備役少将に勝るとも劣らない。馬鹿でかい対戦車ビームライフルを槍のように構え、銃床で敵を殴り、銃剣で敵を突き、当たるべからざる勢いだ。

 

「美しいな」

 

 俺はパエッタ予備役少将やアップルトン予備役准将に見とれていた。かつての名提督が再び輝いた。生命力を燃やした光だ。不完全燃焼のまま軍服を脱ぎ、軍人として死ぬために戻ってきた男の光だ。彼らは生き残ろうとは思っていないだろう。死より辛い生があることを俺は知っている。

 

 司令室は粛然とした空気に包まれた。冷静なチュン・ウー・チェン参謀長代理も、血の気が多いアラルコン中将も、生真面目なレベロ議員も、皮肉屋のホワン議員も感嘆の目を向ける。コレット中佐のように涙ぐむ者もいた。

 

「奮戦しているのはあの二人だけじゃないぞ。勇者はどこにいても勇者なんだ」

 

 俺は言い聞かせるように言った。第五大隊は軍艦乗り、単座式戦闘艇乗り、整備員、補給員などの寄せ集めで、民間人義勇兵と同レベルの戦力しか持っていない。それでも、地上戦のプロ相手に奮闘した。

 

 退役軍人が参加した動機は様々だ。死に場所を求める者、理想に命を捧げようとする者、再就職のために実績を作ろうとする者、自己顕示欲や名誉欲を満たしたい者。戦場の匂いを忘れられない者などもいる。他人から見ればくだらなくても、彼らにとっては命を賭けるに値した。

 

 画面が切り替わり、エイブラハム・リンカーン義勇旅団の担当区域が映った。バリケードの前面に放水車五台が並び、大量の水を敵兵に浴びせた。青いシャツを着た義勇兵がビームライフルを乱射し、バリケードと近づこうとする敵を牽制する。

 

「ウィンザー隊も健闘しておりますな。真っ先に逃げ出すと思っていましたが」

 

 アラルコン中将が一台の放水車を指差した。青いシャツを着た細身の女性がルーフの上に立ち、屈強な男性四名とともにホースを振り回し、敵の頭上に水をぶちまけている。リンカーン義勇旅団第三大隊の第五中隊長コーネリア・ウィンザー下院議員だ。

 

「第五中隊は強いね」

 

 俺は嫌悪感を抑え込むと、ウィンザー隊の勇戦を讃えた。嫌いな相手でも評価すべき点は評価する。それができなかったら指揮官は務まらない。正式名称の「第五中隊」と呼んだのはささやかな抵抗だ。

 

 リンカーン義勇旅団第三大隊の第五中隊は、ウィンザー隊の通称で知られる。一〇〇名ほどの隊員はウィンザー議員の支持者を称しているが、練度や装備の充実ぶりを見ると、プロの傭兵であろう。放水車はウィンザー議員が持ち込んだものだ。隊員が着ている青いシャツや放水車には、ウィンザー議員の名前と顔がプリントされていた。これだけのものを用意するには、最低でも一〇〇万ディナールが必要になると思われる。

 

 頭の悪い俺でもウィンザー議員の狙いは理解できた。ホースから放水しているのはウィンザー議員が乗った車だけで、他の四台の放水車は砲塔から放水している。隊長がホースを振り回しているのに、隊員の動きは秩序だっており、プロが指揮を代行している可能性が高い。ウィンザー議員は市民軍の英雄になることで、人気を取り戻そうとしているのだ。

 

「パフォーマンスだとしても大した根性です。メッセージの一つも出さない誰かさんよりは、ずっと評価できます」

 

 アラルコン中将はトリューニヒト議長が出てこないことを皮肉った。「表に出られなくても、メッセージぐらいは出せ」と思っているのだ。

 

「動機は何だっていいんだ。理想のためでも、生活を守るためでも、売名行為でも構わない。人の数だけ動機がある。けれども、大義は一つだ。民主主義には、あらゆる動機を持った人を一つにする力があるんだよ」

 

 俺はトリューニヒト批判の部分を無視し、パフォーマンスを容認するか否かに話題を絞る。ウィンザー議員の動機は不純だが、傭兵一〇〇人と放水車五台を自費で集めた功績は否定できない。役に立ってくれるなら売名したっていいと思う。無償で奉仕を求める方が間違いなのだ。

 

 市民軍には大勢の政治家義勇兵がいる。部隊長となった者もいれば、兵卒となった者もいたが、命知らずという点は共通していた。彼らの戦いぶりは勇敢というより無鉄砲だ。大義のために戦う者もいたが、ほとんどは売名目的である。

 

「もう少し協調してくれたら文句なしです」

 

 妹が冷たい視線をスクリーンに向ける。政治家義勇兵は自分が目立つことを優先するあまり、スタンドプレーに走りがちだった。

 

 同盟は戦争中の国なので、戦功がある人は世間から尊重される。エリート層には、箔をつけるためだけに前線に出る者がそれなりにいた。反戦派が批判する「安全な場所から戦争を煽る奴」は迷惑だが、「戦功欲しさに危ないことをするお坊ちゃん」も迷惑だ。

 

「先頭を切る勇気は大事だよ」

 

 俺はきれいごとでごまかした。無鉄砲さを批判するよりは、積極性を評価した方がいい。寄せ集めに連携プレーなど期待していないのだ。

 

 市民軍は予想以上の健闘を見せた。退役軍人義勇兵は決死の覚悟を示し、政治家義勇兵が蛮勇を振るう。民間人義勇兵は大いに奮い立った。精鋭部隊はプロとしての力を存分に発揮した。建物とバリケードが市民軍を守る。

 

 戦闘開始から一時間後の五時二四分、敵は予備部隊八個師団を投入してきた。また、通常兵器の使用が許可されたらしく、敵はレーザーや硬質セラミック弾を撃ち始めた。味方の善戦は敵の本気を引き出したのである。

 

「犠牲者が出ても構わないというわけか」

 

 背中に冷たい汗が流れた。敵が方針を変えることは予想できた。和睦交渉が失敗した後、ボロディン大将らリベラリストは主導権を失い、再建会議は強硬論に傾いた。スポンサーの金融街や貿易業界は、「何人死んでもいいからさっさと鎮圧しろ」という立場だ。ただ、こんなに早く通常兵器を出してくるとは思わなかった。

 

 ハイネセン記念スタジアムに鎮圧部隊が向かったとの報が入っている。なりふり構わずに反対勢力を制圧するつもりらしい。クリスチアン大佐なら虐殺は起こさないだろうが、万が一ということもある。

 

「いいだろう。来るなら来い。とことんやろうじゃないか」

 

 静かだがはっきりとした声で宣言した。もちろん、内心では震えあがっている。心臓が激しく鼓動し、腹が痛くなり、汗が背中を濡らす。

 

 俺は椅子にどっしりと座り、スクリーンをまっすぐに見据える。司令官の態度は部下に伝染するものだ。司令官が落ち着いていれば、部下は冷静になる。司令官が動揺すれば、部下も動揺する。七年前のヴァンフリートや六年前のティアマト会戦は、司令官の動揺が悪い影響を与えた戦いだった。平常心を保っているように見せるのは司令官の義務だ。

 

 副官代理ユリエ・ハラボフ少佐が指揮卓に大きな皿を置き、その上でマフィンの箱をひっくり返す。マフィンの山ができた。砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーも用意してある。準備は整った。

 

 俺は全力で落ち着いているように見せた。張りのある落ち着いた声を出す。迷っていても迷っていないように見せる。不利になっても顔色を変えない。心が折れかけたら素早く糖分を補充する。作戦はアブダラ副参謀長や妹ら地上戦の専門家に任せ、部隊を掌握することに専念した。

 

 敵の戦術は堅実をきわめた。最初に閃光弾と催涙弾と電気針を撃ち込み、防護装備を持たない者を戦闘不能に追い込む。装甲服と電気棍棒を装備した歩兵が突撃し、戦闘車両と連携しながら残った者を排除する。それでも排除できない者に対しては、レーザーや対人弾を撃ち込んだ。砲兵はバリケードや建物に砲撃を加える。空挺部隊の強襲降下、特殊部隊の奇襲は大きな脅威だ。

 

 市民軍は練度でも装備でも大きく劣っていた。予備兵力も残っていない。精神力と希望だけを頼りに戦う。

 

 無名の人々が英雄的精神を発揮した。ある者は敵中に飛び込んで味方を救った。ある者は味方を逃がすために体を張った。ある者は奇策を使って敵を苦しめた。ある者は人間離れした勇気で敵を震え上がらせた。ほんの数時間で数百人が英雄となったのだ。

 

 褐色のハイネセンでは宗教右派の活動が盛んで、立てこもっている義勇兵の二割が信徒だ。信徒義勇兵は団結力があり、褐色のハイネセンの地理に詳しいこともあって、普通の義勇兵よりも強い。宗教右派系列の傭兵企業は正規軍に匹敵する戦いぶりを見せた。

 

 宗教右派の中でも、地球教団は飛び抜けて強かった。地球教徒の義勇兵は祈りながら銃を撃ち、賛美歌を歌いながら火炎瓶を投げ、強敵に遭遇しても恐れる色を見せない。信仰心に加え、軍隊経験者が多いことが地球教徒義勇兵を強くした。

 

「地球教徒は人の形をした城壁だ!」

 

 どこからともなくそんな声があがる。地球教徒の堅固さは、歴戦の軍人ですら舌を巻くほどだ。

 

「ESSがまた勝った!」

 

 地球教団系傭兵企業アース・セキュリティサービス(ESS)は、少人数に分かれて奇襲を繰り返し、敵の進軍を妨げた。

 

「極右も頑張っているぞ」

 

 敵兵に向かって突っ込む屈強な集団が映った。白マスクにオリーブ色の戦闘服は憂国騎士団、黒い山岳帽とジャンパーは正義の盾、ヘルメットをかぶりサングラスとマスクで顔を覆っているのは銀河赤旗戦線である。三大極右民兵が肩を並べて戦っている。信じられない光景だ。

 

「軍人も負けていない」

 

 ある幕僚がサブスクリーンの一つを指差す。宇宙軍の軍服を着た部隊がバリケードに陣取り、押し寄せてくる敵兵と激闘を繰り広げる。薄闇の中に人参色の旗がそびえ立つ。

 

「さすがはエリヤ・フィリップス戦隊だ!」

 

 司令室の宇宙軍軍人たちが歓声をあげた。

 

「先頭に立っているのはカプラン少佐ですか。さすがはフィリップス提督門下の人材だ。戦いを楽しんでいるように見えます」

 

 アラルコン中将が最前列で戦う長身の男性を凝視した。戦隊副司令エリオット・カプラン少佐である。司令部幕僚となったコレット中佐に代わって戦隊を指揮していた。

 

「彼は指揮官になるために生まれた男なんだ」

「フィリップス提督は人事の達人だと聞いておりましたが、これほどとは思いませんでした」

「偶然だよ」

 

 これは謙遜でも何でもない。指揮官向きというのは、カプラン少佐を司令部から追い出すための口実だった。ところが、コレット中佐が真に受けてしまい、エリヤ・フィリップス戦隊を結成する時に声を掛けたのだ。

 

「フィリップス閣下は謙遜なさっているだけです」

 

 コレット中佐が誇らしげに胸を張った。身長と胸がものすごく大きいので、有無を言わせぬ迫力がある。

 

「言われんでもわかっとる」

 

 アラルコン中将の口調はぞんざいだが目は笑っていた。性格的にも思想的にも面倒な人だが、素直な若者には甘い。

 

 カプラン少佐以外の元部下も頑張っている。空母フィン・マックール、ヴァンフリート四=二憲兵隊、第八一一独立任務戦隊、エル・ファシル防衛部隊、第三六機動部隊、ホーランド機動集団前方展開部隊にいた者たちは、俺の下にいた時以上に奮戦した。

 

 地上軍の英雄アマラ・ムルティ大佐は単独で行動し、野戦指揮所の指揮端末をピンポイントで撃ち抜き、数キロ先から敵将校が手にする携帯指揮端末に風穴を開けた。銀河広しといえど、このような芸当ができる者は五人もいない。

 

 この時、誰もが英雄だった。有名人も一般人も心を一つにして戦った。動機は様々であったが、一つの目標のために団結した。

 

 だが、勇気と献身をもってしても、敵の攻勢を止めることはできなかった。巧妙な戦術が勇敢だが未熟な義勇兵を翻弄した。物量が正規兵や傭兵を飲み込んだ。六時の時点で市民軍は二〇〇〇名が死亡し、七万名が捕虜となった。

 

 希望は残されていた。首都管区隊への切り崩しが成功し、一部部隊が「市民軍には協力できないが、再建会議にも協力しない」と確約してくれた。これによって首都圏防空網に穴が生じた。調整の結果、第七陸戦遠征軍がハイネセンポリスに向かうこととなった。

 

「到着は九時前後か。先は長いな」

 

 俺が六個目のマフィンを口にした時、緊急事態を知らせるサイレンが鳴り響いた。

 

「ウェスト・セブンが突破されました! 敵の二個旅団が都道一〇号線を北上しています!」

 

 オペレーターはボーナム市防衛線の一角が崩れたことを伝えた。

 

「金羊義勇旅団が三個旅団に包囲されています!」

「ハンマー・アンド・シックル義勇旅団は損耗甚だしく、戦闘継続が困難です!」

「ウェスト・トゥエルヴに敵の大部隊が出現しました!」

「ドーリア星民義勇旅団が交戦状態に入りました!」

 

 ボーナム周辺の部隊から次々と報告が入ってくる。

 

「ここが勝敗の分かれ目だ! 諸君の奮闘に期待する!」

 

 俺は自らボーナム防衛の指揮をとった。手持ちの兵力は三万二〇〇〇人で、その大半は各地から撤退してきた敗残兵だ。

 

「司令部警備隊、総員出撃せよ!」

 

 総合防災公園を守る正規軍二個大隊と義勇兵二個大隊を投入した。もはや予備を残しておける段階ではない。妹、コレット中佐ら司令部幕僚の一部も前線に出た。

 

「司令部防空隊、砲撃開始!」

 

 フィッツシモンズ少佐率いる司令部防空隊の対空砲火が始まった。ビームとミサイルがボーナム上空を乱舞し、航空部隊の接近を阻む。

 

 七時一九分、ボーナム防衛戦が始まった。敵は遠慮なしに通常兵器を使ってくる。一〇〇〇名以上が戦死したが、市民軍の士気が衰える気配はない。

 

 妹はムルティ大佐や特殊部隊隊員一二名とともに突撃した。じぐざぐに走りながらレーザーをかわし、炭素クリスタル製の棍棒で敵兵を殴り倒す。本来、特殊部隊は目立つ戦い方はしない。しかし、空気の読める妹は士気高揚を優先し、あえて蛮勇を振るった。勇名高いムルティ大佐を同行したのも味方を盛り上げるためだ。

 

「戦斧が一番苦手なんて嘘だろう」

 

 俺は誰にも聞こえないように呟いた。軍用棍棒は戦斧から斧頭を取り除いたもので、戦斧と同じ要領で使う。装甲服を着た敵を一撃で倒すなんて、達人にしかできない業だ。

 

 コレット中佐は最も銃撃が激しい場所に飛び込み、最も狙われそうな場所に立ち、強引に突破口を切り開く。その後をカプラン少佐らエリヤ・フィリップス戦隊の兵士たちが駆け抜ける。妹たちを戦闘機械とすると、コレット中佐らは狂戦士だ。軍艦乗りや単座式戦闘艇乗りの部隊なのに、陸戦隊員よりも迫力がある。

 

「戦い方があなたとそっくりですな」

 

 アラルコン中将が俺とスクリーンを見比べる。

 

「彼女の方がずっと凄いだろう」

「そっくりです。迫力はあなたの方がずっと上ですが」

「知名度の違いだよ。みんなが凄いと言っていたら、それだけで凄く見える」

 

 勇者とは評判によって作られるものだ。小物の俺でも勇者という看板があれば、味方は勝手に安心するし、敵は勝手に恐れる。今ならマフィンを食べるだけでも、勇者らしく見えるだろう。

 

 八時二二分、ハイネセンポリスとボーナム市を隔てるクインサー橋が突破された。他の拠点もことごとく陥落し、四方向から敵が雪崩れ込んできた。

 

 司令室に重苦しい空気が流れる。アイランズ議員は小声で「おしまいだ」などと呟くが、他の人は何も言わなかった。こんな時に明るい顔をするなんて無理だろう。暗いのは困るが、取り乱すよりはありがたい。

 

「迎撃に出るぞ! 公園が最後の決戦場だ!」

 

 俺はとっさに指示を出した。勝てる見込みはまったくない。迎撃に出た兵士はほとんど戻ってこなかった。総合防災公園はバリケードで囲まれているが、平地のど真ん中に立っているので防御に向いていない。それでも諦めることはできなかった。

 

 

 

 ボーナム総合防災公園は大海に浮かぶ小石のようだった。周囲には第一六六歩兵師団配下の二個旅団八〇〇〇人が隙間なく配置されている。市内には第一六六歩兵師団の他に、第一九空挺師団と第一〇三歩兵師団も入っており、分厚い包囲網が作られた。

 

「どうすりゃいいんだ」

 

 早くも俺の心は折れかけていた。公園の中は、市民一〇万人と義勇兵四〇〇〇人と正規兵一〇〇〇人がぎゅうぎゅう詰めだ。兵士は逃げてきたばかりで、武器を持たない者も少なくない。

 

 目線を周囲に向ける。左隣にはハラボフ少佐、右隣にはチュン・ウー・チェン参謀長代理が控える。脇を固める妹、イレーシュ大佐、コレット中佐、アラルコン中将ら一五名は、身を挺して盾になる覚悟だ。

 

 少し離れた場所にレベロ議員、ホワン議員ら文民メンバーがいた。当初は総合防災センターに残ってもらう予定だった。しかし、レベロ議員は「市民が危険を冒しているのだ。代表者たる議員が隠れるわけにはいかない」と言い張った。ホワン議員は「この事態を招いたのは私だ。責任は取らねばなるまい」と呟いた。彼ら以外の政治家や役人も残ることを潔しとしなかった。ただ、アイランズ議員は「腹が痛くなった」と言って、トイレにこもってしまった。

 

 許されるものなら俺もトイレにこもりたい。緊張で腹が痛む。自分よりこの場にふさわしい人がいると思う。なぜジョアン・レベロでなくて俺なのか? なぜホワン・ルイでなくて俺なのか? なぜチュン・ウー・チェンでなくて俺なのか?

 

 敵はすぐには仕掛けてこないはずだ。密集した群衆はちょっとしたことでパニックを起こす。催涙弾を打ち込んだら、直撃で相当数の死者が出るし、将棋倒しの危険もある。閃光弾や電気針もパニックを誘発する可能性が高い。説得して降伏させるか、数千人を殺す覚悟で攻撃を仕掛けるかの二択を強いるのが妹の作戦だった。

 

 バリケードから一〇メートルほど離れた場所に、長身に端整な顔立ちの若い男性が現れた。指揮通信車の上に立ち、拡声器を手にしている。再建会議事務局長ファイフェル准将だ。

 

「市民諸君! 五人以上の政治集会は再建会議布告第三号に違反している! 即刻解散せよ!」

 

 張りのある声が広大な総合防災公園に響き渡る。

 

「我々はフィリップス中将を逮捕するために来た! 諸君の責任を問うつもりはない! 捕虜となった者はじきに釈放される! 負傷した者は病院で治療を受けている! 亡くなった者の遺族に対しては、再建会議より弔慰金が支払われるだろう! 市民軍に加わったことで諸君が不利な扱いを受けることはない! 重ねて言う! 即刻解散せよ!」

 

 巧妙な呼び掛けであった。捕らえられた者が人道的な扱いを受けていること、死んだ者に配慮する意思があることを示し、市民軍メンバーを政治集会の参加者として扱う。降伏への心理的ハードルは大きく下がった。疲れ切った群衆は降伏を選ぶだろう。さすがは再建会議の知恵袋だ。アメとムチの使い方がわかっている。

 

 敗北感が胸の中を侵食し始めた。膝ががくがくと震えた。心臓が激しく鼓動した。腹の痛みがひどくなった。吐き気がこみ上げてきた。

 

「構うものか。一人になっても戦ってやる」

 

 誰にも聞こえないように呟いた。俺は勇者ではない。期待に背くのが怖かっただけだ。ここにいる人もいない人も、勇者エリヤ・フィリップスを信じてくれた。ならば、最後まで勇者を演じようではないか。

 

「俺はフィリップス提督に付いていくぞ!」

 

 背後から大きな声が飛んできた。驚いて振り返ると、公衆トイレの屋根の上に人が集まっているのが見えた。

 

「こいつを見ろ! 俺はラグナロックで両足を失くした!」

 

 軍服を着た三〇台前半の男性は右手で拡声器を持ち、左手で自分の足を指差す。膝までまくり上げたズボンから覗く両足は義足だった。

 

「命がけで戦ったんだ! それなのにお払い箱さ! 年金は飯代にもなりゃしねえ! 技術を使える仕事はさせてもらえねえ! あんたらお偉いさんは兵隊を金食い虫と思ってやがる! フィリップス提督だけが兵隊のために頑張ってくれたんだ!」

 

 退役軍人はファイフェル准将に怒りのこもった眼差しを向ける。群衆は「いいぞ!」「よく言った!」と叫ぶ。

 

 次に拡声器を手にしたのは五〇代に見える中年男性だ。脂ぎった顔に無精ひげを生やし、作業服はしわだらけで、清潔感がまったくない。エリート風のファイフェル准将とは真逆の人種である。

 

「てめえらは『トリューニヒトに投票するのは馬鹿だ』と言ってるけどな! 馬鹿言ってんじゃねえよ! 面倒見の悪い政治家に投票する方が馬鹿だろうがよ! 仕事を欲しがるのが悪いか!? 年金欲しがるのが悪いか!? 貧乏人を舐めるんじゃねえ! 馬鹿野郎!」

 

 中年男性がファイフェル准将を指差し、馬鹿という言葉を連呼する。歓声がいっそう大きくなった。

 

「俺にも言わせろ!」

 

 群衆は先を争うようにトイレの屋根に上がり、交代交代で拡声器を手にする。

 

「帝国と講和するなんて不可能に決まってんだろ! 現実見ろよ!」

「クーデター起こして民主主義を再建するってなんだよ! わけわからんぞ!」

「同胞と仲良くできない奴が外国と仲良くできるもんか!」

「金融街からいくらもらってるんだ!?」

「クーデターのせいで旅行に行けなくなった! 金返せ!」

 

 下品だが素朴な叫びだった。追い詰められたことで、反再建会議感情が燃え上がったように思われた。

 

 人間は捨てたもんじゃないでしょと彼女がささやいた。

 

「自分勝手だけどな」

 

 ここにいる人は好きでエリヤを選んだのよと彼女は笑う。

 

「言われてみるとそうだ。自分勝手な連中がみんな戦う気でいるんだ」

 

 彼女は私が言った通りでしょと自慢げになる。

 

「そうだな。人間は俺が思っているよりずっと強かった」

 

 もっと信じなさいよと彼女は笑った。

 

「そうするか」

 

 俺は微笑んだ。公園を取り囲む完全武装の兵士も、こちらに銃口を向ける戦闘車両も、颯爽としたファイフェル准将も怖くないように思えた。丸顔の彼女は俺の味方なのだから。

 

 誰かが俺の左肩を軽く叩いた。左を向くと、ハラボフ少佐が拡声器を差し出してきた。俺が受け取ると、ハラボフ少佐の口元がわずかに綻んだように見えた。

 

「ありがとう」

 

 俺は礼を言って拡声器を握り締めた。そこで重要なことに気づいた。ここに出てからの計画が何もないということだ。

 

「チュン・ウー・チェン参謀長代理」

 

 顔を右隣に向けた。最も信頼できる助言者がそこにいる。

 

「わかりません」

 

 チュン・ウー・チェン参謀長代理が苦笑いを浮かべた。

 

「君もわからないのか?」

「戦略戦術でどうにかなる状況ではありませんから」

「何でもいい。思いついたことを言ってくれ」

「時間を稼いでください。どんな方法でも構いません。一秒引き伸ばせば、援軍が一秒近づきます」

「やってみよう」

 

 俺は力強く頷き、一歩前に進み出た。左手で拡声器をしっかりと構え、敵兵に視線を向ける。

 

「第一六六歩兵師団の戦友諸君。私は諸君を待っていた。私の気持ちを諸君に伝えたいと願っていた。その機会が訪れたことを嬉しく思う」

 

 はっきりした声でゆっくりと語りかけた。顔には優しい表情を浮かべる。

 

「フィリップス中将! 悪あがきはやめるんだ! これ以上の戦いは無益だ! 我々は平和的解決を望んでいる! 貴官がそれを妨げている! 苦しむのは貴官でも我々でもない! 市民が苦しむのだぞ!」

 

 ファイフェル准将は真っ向から正論を唱えるが、俺は何も言わずにブラスターを抜いた。空気が少し緊張した。

 

「これは私の銃だ」

 

 俺は右手を上にまっすぐ伸ばし、ブラスターを高々と掲げる。

 

「私は諸君に向ける銃を持たない」

 

 右手をぱっと開く。ブラスターは足元に落ち、乾いた音を立てる。

 

「私は二〇〇回以上の戦いを経験した。軍艦に乗って宇宙で戦った。装甲服を着て地上で戦った。国内でも国外でも戦った。帝国軍と戦った。海賊と戦った。テロリストと戦った。ゲリラと戦った。あらゆる場所であらゆる敵と戦った。しかし、一つだけ共通することがある。祖国と民主主義を守るための戦いだということだ。私の銃は諸君を撃つための銃ではない」

 

 俺は敵と味方の双方に語りかけた。群衆は拍手をもって同意を示す。敵兵は何の反応も見せない。

 

「これは私のボディーアーマーだ」

 

 軍服のジャケットを脱ぎ、その下のボディーアーマーを外して右手で掲げる。

 

「私は諸君の銃を恐れない」

 

 ボディーアーマーは手から離れ、ブラスターの上にかぶさった。

 

「諸君はあらゆる場所で戦った。街で戦った。野原で戦った。丘で戦った。森で戦った。山で戦った。砂嵐の中で戦った。ブリザードの中で戦った。豪雨の中で戦った。どこにいても祖国と民主主義を守るために戦ってきた。ならば、諸君が私に銃を向けることはない」

 

 俺は確信を込めて言い切った。群衆が手を叩く音がさらに大きくなった。敵兵は不動の姿勢を崩さない。

 

「私は戦うためにここにいる。公園にいる一〇万五〇〇〇人も同じだ。みんな、独裁と戦うために集まった。

 

 では、諸君は何のためにここに来た? 祖国と民主主義を守るためか? ならば、諸君の敵はここにはいない。我々は祖国と民主主義を守ろうとしている。同胞を守るためか? ならば、諸君の敵はここにはいない。我々は同胞を守るために立ち上がった。自衛のためか? ならば、諸君の敵はここにはいない。我々は攻撃されたら抵抗するが、無用の争いは望まない。

 

 今一度考えてもらいたい。敵はどこにいるのか? 与えられた命令は正当なものなのか? 何のために戦っているのか? 正義に反していないか? 諸君の良心が答えを出すはずだ」

 

 俺は穏やかに問いかけた。人は与えられた答えには納得しない。自分の口で答えを言わせることでわからせる。トリューニヒト議長が習得した一〇八の人心掌握術の一つだ。

 

 群衆が大声で「そうだそうだ!」「ちゃんと考えろ!」と叫ぶ。一〇万五〇〇〇の援護射撃が背中を押してくれる。

 

「フィリップス中将! 見え透いた演技はやめろ! 争いたくないなら降伏すればいい! 市民を野心の……」

 

 ファイフェル准将は俺を厳しく糾弾したが、野次に遮られた。

 

「うるせえ!」

「黙れ!」

「クソして寝てろ!」

 

 群衆は好き勝手に罵倒を浴びせる。

 

「貴官は最悪のマキャベリストだ! 銀河経済を人質に取り、今度は市民一〇万人を……」

「人のせいにしてんじゃねえよ!」

 

 ファイフェル准将が口を開くたびに野次が飛ぶ。自慢の弁舌も聞こえなければ意味がない。流れは完全にこちらに向いた。

 

 俺が演説を続けていると、妹が早足で近づいてきた。

 

「閣下、お耳を」

 

 他の者には聞こえないような小声だ。

 

「どうした?」

「戦闘車両の砲塔がわずかに動いています。おそらくは射撃準備でしょう」

「虐殺者になる覚悟を決めたってわけか」

 

 目線を公園中央の大時計に向けた。八時四九分だった。

 

「一一分足りなかった」

 

 俺は笑顔を浮かべた。失望を隠すために作った笑顔だ。

 

「退避してください。戦いはこれからです」

 

 妹は今まで見たことがないほどに真剣な顔で迫る。

 

「この包囲を突破できるのか?」

「私たち特殊部隊が退路を切り開きましょう」

「死ぬ気か?」

「必要とあれば」

 

 その言葉に嘘がないことは一目でわかった。前の世界で俺を裏切った妹が、この世界では身代わりになろうと願い出た。

 

 他の者も俺のところに集まってきた。そして、妹の提案を受け入れるよう求める。イレーシュ後方部長は「年上が先に死ぬのは道理だから」と爽やかに笑う。コレット中佐は「閣下のために死ねるなら本望です!」と口走る。カプラン少佐は「かっこいいとこ見せますよー」と言って、銃を振る。アラルコン中将は空を見上げ、「死ぬにはいい日和ですなあ」と呟く。チュン・ウー・チェン参謀長代理らは無言で銃を握り締めた。

 

「やめておこう」

 

 俺は首を横に振る。

 

「しかし、勝ち目はありません」

「後ろを見ろ。凄い盛り上がりじゃないか。市民はまだ諦めていないんだ。俺たちが諦めてどうする」

「いくら盛り上がっても、正規軍が攻撃してきたら終わりです」

「勢いはこっちにあるんだ。徹底的に攻めるぞ」

 

 俺は公園の方を向き、一〇万五〇〇〇人に向かって呼びかけた。

 

「第七陸戦遠征軍はすぐそこまで来ている! 国歌を歌おう! 戦友を歓迎するには国歌こそがふさわしい!」

 

 盛り上げるなら歌がいいと何となく思った。半ば自暴自棄である。

 

「総員起立! 国歌斉唱!」

 

 合図とともに、自由惑星同盟国歌『自由の旗、自由の民』がスピーカーから流れ出す。

 

「とーもよー、いつのひかー、あっせいしゃをだとうしー」

 

 俺は歌い始める。一二年間鍛え続けた腹筋と肺活量を解き放つ。音程もリズムも関係なく、ひたすら声を張り上げる。

 

「友よ、いつの日か、圧制者を打倒し

 解放された惑星の上に

 自由の旗をたてよう」

 

 部下、兵士、市民が一斉に唱和した。バリケードの上にいる者も地上にいる者も肩を組み、勇ましいメロディを歌った。

 

「吾ら、現在を戦う、輝く未来のために

 吾ら、今日を戦う、実りある明日のために

 友よ、謳おう、自由の魂を

 友よ、示そう、自由の魂を」

 

 一〇万五〇〇〇人の大合唱がボーナムの空いっぱいに広がる。音程もリズムも声質もバラバラだが、心は一つだ。

 

「専制政治の闇の彼方から

 自由の暁を吾らの手で呼び込もう」

 

 俺は右手をチュン・ウー・チェン参謀長代理の肩にかけ、左手をハラボフ少佐の肩にかけ、肩を組みながら歌った。心と体が歓喜に包まれた。この場にいることが何よりも誇らしく思える。

 

 目前では攻撃の準備が進んでいた。装甲服を着た兵士が銃を構え、戦闘車両がビーム砲の照準をバリケードに向ける。だが、そんなことはどうでもよかった。この瞬間に射殺されたとしても悔いはない。

 

「おお、吾らが自由の民

 吾ら永久に征服されず」

 

 最後の一節を歌い終えると、公園全体から大きな叫び声があがった。

 

「自由万歳! 民主主義万歳! 祖国万歳! エリヤ・フィリップス提督万歳!」

 

 一〇万五〇〇〇人が拳を振り上げ、銃を掲げ、国旗を振る。何度も何度も歓呼を繰り返す。バリケードの中が焼けつくような熱気に満たされた。

 

「自由万歳!」

 

 その叫び声はバリケードの外から聞こえてきた。一人の兵士が銃を地面に叩き付け、装甲服のヘルメットを外し、右手の拳を突き上げる。

 

「自由万歳! 民主主義万歳! 祖国万歳! フィリップス提督万歳!」

 

 兵士は次々と銃を捨ててヘルメットを外し、叫び声をあげた。俺たちの叫びがバリケードの向こう側に届いたのだ。

 

 バリケードに駆け寄ってきた者がいた。他の兵士と同じようにヘルメットを脱ぎ捨てており、興奮気味の顔でこちらを見上げる。

 

「俺をバリケードに上げてくれ!」

「よし、わかった!」

 

 俺は兵士を上に上げると、拡声器を渡した。

 

「好きなように話せ」

「かしこまりました!」

 

 兵士は大袈裟なほどに丁寧な敬礼をした後、群衆に向かって語りかけた。

 

「俺はアマンシオ・バランディン! 地上軍伍長だ! たった今、部隊から脱走した! 一人の市民として戦いたい! 仲間に加えてくれ!」

 

 バランディン伍長が話し終えると、俺は彼の左手を掴んで高々と掲げた。

 

「我々は市民バランディンを歓迎する!」

 

 その瞬間、広場を歓声と拍手の大波が包み込んだ。

 

「俺も歓迎するぞ!」

「市民バランディンは仲間だ!」

 

 人々がバランディン伍長に駆け寄り、握手を求め、抱擁をかわし、頬に口づけし、新しい同志を祝福する。

 

「俺たちも市民だ!」

「仲間に入れてくれ!」

 

 自由の波が再建会議軍を飲み込んだ。歩兵は武器を捨てて走り出し、戦車兵や砲兵が車両から飛び出す。兵士を止めるべき将校もバリケードに向かって走った。ファイフェル准将と第一六六歩兵師団長ルフタサーリ代将は拘束された。一個師団が戦わずして崩壊したのだ。

 

「自由万歳! 民主主義万歳! 祖国万歳! フィリップス提督万歳!」

「自由万歳! 民主主義万歳! 祖国万歳! フィリップス提督万歳!」

 

 バリケードの内と外で同じ歓声が沸き起こった。群衆はバリケードの外へと飛び出し、兵士はバリケードの中に入り、一緒になって歓声をあげる。広大な公園でさえも、彼らの熱気を閉じ込めておくには狭すぎた。

 

 俺のもとにも次々と人がやってきた。賞賛や祝福の言葉を聞き、握手を交わし、抱擁し合い、勝利の喜びを共有する。

 

「民主主義が勝ちました! 先生のおかげです!」

 

 俺は両手でジョアン・レベロ議員の手を握り締める。

 

「違う」

 

 レベロ議員は沈痛そうに首を振る。

 

「エリヤ・フィリップスの勝利だ」

 

 それだけ言うと、レベロ議員は背を向けて歩き出す。呼び止めて真意を聞こうと思ったが、人の波に遮られた。

 

 九時〇三分、第七陸戦遠征軍がボーナムに到着した。航空機と戦闘ヘリが上空を埋め尽くす。歩兵と戦闘車両が地上から雪崩れ込んだ。勝敗は完全に決した。

 

 再建会議軍は撤退を開始した。ボーナムの混乱が波及し、降伏者や脱走者が相次いだため、作戦継続を断念したのだ。

 

 勢いに乗る市民軍は再建会議を崩壊させるべく、都心部への進軍を開始した。抵抗する者はほとんどいなかった。一〇時四四分、ハイネセン都心部西端のメロン・スクエアに到達した。

 

 再建会議は残存部隊をわずかな時間で再編し、強固な防衛線を敷いた。首都圏の兵力は五分の一に減少したが、他地域の部隊は健在であった。第六陸戦遠征軍司令官代理カディオ准将率いる六個師団がまもなく到着する。衛星軌道を掌握しているため、経済的な優位は揺らいでいない。

 

 市民軍はメロン・スクエアで足踏みした。第七機動軍が到着するめどはたったが、他の部隊が到着する見込みはない。防衛線を突破できるだけの戦力がなかった。食糧とエネルギーは二四時間以内に底をつくだろう。完全に決め手を欠いていた。

 

 一三時二七分、復員支援軍がイゼルローン要塞を攻略したとの知らせが入った。司令官メリダ中将は自決し、残りの者は降伏したという。

 

 一三時四〇分、再建会議は市民軍に降伏した。イゼルローン陥落が最後の一押しとなったのである。自由惑星同盟を二分したクーデターは、一〇日目で終焉を迎えた。



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第85話:帰ってきた人、去っていく人 801年11月9日 ハイネセンポリス都心部~グエン・キム・ホア広場

 民主政治再建会議の降伏から一〇分後、ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長が臨時指揮所に現れた。議長秘書官オーサ・ヴェスティンら男女五名を従えている。

 

「エリヤ君、苦労をかけたね」

 

 トリューニヒト議長の笑顔はとても温かかった。まるで春の日差しのようだ。

 

「よくぞご無事でいらっしゃいました」

 

 全身が喜びで震える。生きててくれてよかった。この笑顔を見れただけで、戦ったかいがあったと思う。

 

「彼らが私をかくまってくれたんだ」

 

 トリューニヒト議長は傍らの男女を紹介した。ヴェスティン秘書官以外の四名は、地球教の紋章「太陽車輪」のペンダントを身に着けている。

 

「地球教の方々ですか」

 

 いろんな意味で納得できた。地球教団はトリューニヒト議長の有力支持団体だ。前の世界でクーデターが起きた時も、トリューニヒト議長は地球教団にかくまってもらった。

 

「そうとも、私は彼らとともに、反クーデターの地下活動を繰り広げていたんだ」

「議長閣下も戦っていらしたんですね」

「君たちが協力してくれたおかげで、クーデター勢力を打倒できた。よくやってくれた」

「もったいないお言葉です」

 

 深々と頭を下げる。トリューニヒト議長が俺たちの功績を認めてくれた。そのことが何よりも嬉しい。

 

「記者会見の用意をしてくれ。市民に私が健在だと知らせねば」

「かしこまりました! さっそく手配いたします!」

 

 俺は勢いよく返事をすると、部下たちの方を向いた。

 

「あれ……?」

 

 臨時指揮所の空気は冷めきっていた。つまらなさそうな視線、冷笑混じりの視線、怒りのこもった視線が、トリューニヒト議長の長身を撫でまわす。

 

「我々の“協力”のおかげですか。ご自分が主役のような言いぐさですな!」

 

 気まずい沈黙を馬鹿でかい声が切り裂いた。サンドル・アラルコン中将である。

 

「あんたはずっと隠れていた! メッセージを出そうともしなかった! すべてが終わってから顔を出し、偉そうにふんぞり返るとは! 何様のつもりだ!」

「君は誤解している」

 

 トリューニヒト議長は微笑みを崩さずに答えた。一見すると余裕のある態度だが、俺の目には動揺しているように映った。目が微妙に泳いでいたのだ。

 

「議長に失礼だぞ!」

 

 俺が注意しても、アラルコン中将はこちらをちらりと見ただけだ。

 

「アラルコン君、彼は全市民の代表者だ。相応の敬意を払いなさい」

 

 ジョアン・レベロ下院議員が諭したが、アラルコン中将は見向きもせずに批判を続ける。

 

「トリューニヒト議長、あんたは喧嘩ができない人だ。逆風が吹いている間は引きこもり、風向きが良くなってから出てくる。ラグナロックの時もレベロ政権の時もそうだった。今回だって同じだろう。あんたはフィリップス提督が負けると踏んだ。だから、再建会議が転ぶのを待ち続けた。計算が外れたのを知って、慌てて出てきたんだ」

「違う」

 

 トリューニヒト議長の顔から微笑みが消えていた。明らかに余裕がなかった。

 

「じゃあ、なぜ出てこなかった!? あんたは国の看板だ! 表に出るのが仕事だろうが!」

 

 アラルコン中将は顔を真っ赤にして、トリューニヒト議長を怒鳴りつけた。

 

「アラルコン提督! 暴言にもほどがあるぞ!」

 

 俺が飛び出そうとすると、誰かが後ろから右腕を掴んだ。強く握られていて振りほどけない。

 

「秘密組織を作っている最中だった。表に出る余裕はなかった」

「メッセージは出せただろう!? 記憶媒体にメッセージを吹き込み、褐色のハイネセンに送ればいい。地球教徒は包囲網をくぐって大量の銃器を持ち込んだ連中だ。記憶媒体一つぐらいはどうにでもなる」

「追跡をかわすので精いっぱいだった。下手に動けば捕まる恐れがあった」

「捕まっても構わんだろう! 囚われの指導者を救い出すという大義名分ができる!」

「敵は私の排除にこだわっていた。私が殺されたら正当な指導者がいなくなる」

 

 言い訳にしか見えなかった。言葉の内容ではなく、発言者の態度がそう見せた。

 

「そうなれば、より強力な大義名分ができるではないか! 非業の死を遂げた指導者の仇討ち! これほど正当性のある主張はない!」

 

 アラルコン中将の怒声が逃げ場を叩き潰す。

 

「指導者なくして国家は成り立たん」

 

 トリューニヒト議長はすがるような目で人々を見た。

 

「議長のおっしゃるとおりです」

 

 同意したのは俺だけだった。レベロ議員は「何もわかっていない」といった顔でため息をつき、アイランズ上院議員らトリューニヒト派は気まずそうに目を逸らし、他の人々は非好意的な沈黙をもって答える。

 

「エリヤ君はよくわかっている」

 

 トリューニヒト議長の顔に安堵の表情が浮かぶ。

 

「小官にはさっぱりわからん!」

 

 アラルコン中将は容赦なく追い打ちをかける。

 

「こそこそ隠れている指導者よりは、死んだ指導者の方がましだ! 民衆を捨てて逃げたわけではないからな!」

「よさないか!」

 

 俺は腕を掴まれたまま叫ぶ。

 

「フィリップス提督の頼みでも聞けません」

「じゃあ、どうすれば聞くんだ!?」

「小官は軍人です」

 

 その一言が答えを教えてくれた。

 

「上官として命ずる! 議長閣下を誹謗することは許さん!」

「命令とあらば異存はありません。フィリップス提督のご命令ですからな」

 

 アラルコン中将は「命令」を強調し、トリューニヒト議長の方を向く。

 

「暴言が過ぎました。弁解のしようもありません。いかなる処分も甘んじて受ける所存です」

「気にすることはない。君たちは徹夜で戦った。疲れた時は余裕がなくなる。苛立つのも無理はないさ」

 

 トリューニヒト議長は優しく微笑みかける。寛容な態度を見せることで自分自身とアラルコン中将の双方を救った。

 

「さて、エリヤ君には一仕事してもらいたい」

 

 俺は一枚の命令書を受け取った。

 

「首都防衛軍司令官 宇宙軍中将エリヤ・フィリップス

 

 同盟軍最高司令官代理・統合作戦本部長代理・宇宙艦隊司令長官代理・地上軍総監代理を命ず 

 宇宙歴八〇一年一一月九日

 

 最高評議会議長・同盟軍最高司令官ヨブ・トリューニヒト」

 

 この瞬間、同盟軍四八〇〇万の指揮権が俺の手中に収まった。

 

「最高司令官として命じる。民主政治再建会議を称する反乱勢力を一掃せよ」

「謹んでお受けいたします!」

 

 俺は勢い良く敬礼をする。これまでは「ハイネセンの治安回復に努める」という名目で戦ってきた。首都防衛軍以外の部隊は、正規軍も義勇兵も公的には「協力者」に過ぎなかった。トリューニヒト議長の命令によって、再建会議を討伐する正式な権限を得たのだ。

 

 市民軍は二手に分かれた。俺が率いる本隊はハイネセンポリス都心部に入った。ルグランジュ大将率いる別動隊は、統合作戦本部などを擁する軍都オリンピアに向かう。

 

 一四時五〇分、俺はトリューニヒト議長とともに最高評議会ビルに入った。同盟政府の中枢であり、クーデターの間は再建会議の本拠地となった場所だ。

 

 トリューニヒト議長は、再建会議議長ウラディミール・ボロディン宇宙軍大将がたてこもる部屋の前に立つと、テレビ電話の受話器を握った。自ら降伏を勧告しようと考えたのだ。ところが、ボロディン大将は通話に応じなかった。

 

 俺が電話を入れると、すぐに回線が繋がった。スクリーンにボロディン大将の顔が映る。身なりは完璧だが、昨日と比べると生気に欠ける。

 

「抵抗するつもりはない。部下たちには降伏するよう命じてある」

「では、なぜこの部屋にこもっておられたのですか?」

「君を待っていた。短い時間だが付き合ってもらえるかな?」

 

 ボロディン大将は感じの良い微笑みを浮かべる。

 

「少々お待ちください」

 

 俺は後ろを向いた。三メートルほど離れたところにいるトリューニヒト議長が、指で「OK」のサインを作る。

 

「許可をいただきました。お付き合いさせていただきます」

「感謝する」

 

 ボロディン大将は微笑みを気さくな笑顔に切り替えた。

 

「私の完敗だ」

「いえ、惜敗です。紙一重でした」

「勝利を確信したのはいつだね?」

「イゼルローン要塞が陥落したと聞いた時です」

 

 俺は思ったことを正直に話す。

 

「私もイゼルローン要塞が陥落するまでは、勝ち目があると思っていたよ」

「あなた方が無能だったら、もっと早く勝てたのですが」

 

 嘘偽りのない本音であった。再建会議は本当に優秀だったと思う。首都防衛軍の無力化、首都圏制圧などで示した手際は素晴らしかった。市民軍の決起という予想外の事態に、柔軟な対応を見せた。武力行使に追い込まれても、非武装の市民を死なせない戦法を編み出し、戦死者を予想の一割程度に抑えた。ファイフェル准将の降伏勧告は時宜を得ていた。

 

「その点については認めてくれるのか」

 

 ボロディン大将が口元を綻ばせる。

 

「認めなければ、小官は嘘つきになってしまいます」

 

 俺は照れ笑いを浮かべた。

 

「私たちは周到に準備をした。最悪のシナリオを想定し、徹底的にシミュレーションを行った。起こりうるアクシデントのすべてに備えた。軍部右派の抵抗、右翼の反対運動、リベラリストの一部離脱なども織り込み済みだった。だが、彼らが手を結ぶところまでは予想できなかった」

「右翼もリベラリストも同胞です。普段はいがみ合っていても、いざという時は結束します」

「君の力だ。エリヤ・フィリップスという接着剤が、対立する者同士を結合させた」

「小官は来る者を拒まなかっただけです。結束する動機はもともとありました」

「君は来る者をただ受け入れただけではない。リベラリストを憎悪しているはずの人々を説得し、リベラリストを仲間として受け入れさせた」

「話せばわかるんですよ」

 

 俺は抽象的な言葉でごまかした。「リベラリストに恥をかかせたいという感情を利用した」などと言える雰囲気ではない。

 

「その言葉を現実にできるのが、君の恐ろしさなのだろうな」

 

 ボロディン大将は納得したように頷いた。

 

「我々は君を正規軍一五個師団に匹敵する脅威だと想定した。君個人の統率力と人望には、それだけの価値があると考えた。だが、甘すぎる想定だったよ」

「それほどのものでもありません」

 

 謙遜したわけではなく、本心からそう思う。

 

「今の言葉は本音だな。君は自分に幻想を抱いていない」

 

 心を読まれたのかと思った。俺が「自分は大したことがない」と言うと、大抵の人は謙遜だと勘違いする。だが、ボロディン大将は一発で本音だと見抜いた。

 

「戦っている間、ずっと考え続けた。エリヤ・フィリップスとは何者なのか? なぜエリヤ・フィリップスの器量を読み違えたのか?」

 

 ボロディン大将は俺の目をまっすぐに見据える。

 

「ようやくわかった。君の本質は演技者だ。他人が何を求めているのかを正しく理解し、求められた役割を演じることができる。それでいて自分の演技に酔うことはない。自分にも他人にも幻想を持たないからだ。読み違えたのも無理はない。君の器量は舞台の大きさによって変わるのだから」

「あなたの目にはそう見えるのですか?」

 

 俺は目を白黒させた。演技をしていると言われたのは二回目だ。しかし、その後が違った。ファルストロング伯爵は俺を「馬鹿」だと言ったが、ボロディン大将は冷徹な現実主義者だと言う。

 

「君は最高のプロフェッショナルだ。優れた演技者は自信過剰や自己陶酔に陥りやすいが、そういうところがまったくない。役割を演じ切ることだけを考えている。戦場では勇者を演じきった。オフィスでは能吏を演じきった。マスコミの前では愛国者を演じきった。解放区では現地人の理解者を演じきった。大衆の前では指導者を演じきった。すべて完璧な演技だった」

 

 ボロディン大将の顔から微笑みが消え、真剣そのものの表情に変わる。

 

「フィリップス提督、君なら平和の使者を演じることもできるのではないか?」

「できません」

 

 そう答えるより他にない。俺は主戦派指導者ヨブ・トリューニヒトの腹心なのだ。

 

「人々が平和を望んだらどうする?」

「無意味な仮定です」

「いずれ現実になる。そう遠くないうちに我が国は分岐点に立つだろう、破綻するまで戦争を続けるか、同盟存続のために戦争をやめるかを選択する時が来るのだ」

「その時になったら考えます」

「先のことを考えるのは苦手かね?」

「はい。小官はあなたほど視野は広くありません。期待に応えるだけで精一杯です」

 

 俺は思っていることを正直に伝える。これまでは役割をこなすだけで精一杯だったし、これからもそうだろう。大砲にも長距離砲と短距離砲がある。未来のことはヤン大将やチュン・ウー・チェン准将のような長距離砲に任せればいい。

 

「いつか君は分岐点に立つだろう。その時になったら、私の言葉を思い出してほしい」

 

 ボロディン大将はこれ以上ないぐらい爽やかに笑う。

 

「心に留めておきます」

「そろそろ終わりにしよう。トリューニヒトを待たせるのも悪いしな」

「議長とお話しいただけるのですか?」

「直接会おう。五分後にロックを解除する」

「なぜ五分後なのですか?」

「正装に着替える時間がほしい」

「かしこまりました」

 

 後ろを向いてトリューニヒト議長に伝えたところ、笑顔で承諾してくれた。敵将が正装に着替えてくれると聞いて嬉しくなったのだろう。

 

 五分後、部屋に入った俺とトリューニヒト議長は、ボロディン大将の死体と対面することとなった。正装に着替えた後、ブラスターで頭を撃ち抜いたのである。デスクの上にバスタオルが何枚も重ねられ、血で汚さないように配慮されていた。前の世界で降伏を拒否して死んだ提督は、この世界でも降伏を潔しとしなかった。

 

 ボロディン大将は賢明で度量のある人だった。他の良識派とは違って、俺個人に敵意を向けることもなかった。そんな人がクーデターを起こして不幸な結末に至ったのである。いろんな意味でやり切れない。

 

 再建会議ナンバーツーのマービン・ブロンズ地上軍大将は、国防委員会庁舎で逮捕された。「恥じるべきことは一つもない」と胸を張り、毅然とした態度で護送車に乗り込んだ。

 

 特殊作戦総軍副司令官コンスタント・パリー地上軍中将は、拘束される直前に毒入りのカプセルをかみ砕き、数分後に絶命した。執務室のパソコンには、祖国の未来を悲観する内容の遺書が残されていた。

 

 リオン・エルズバーグ都知事は自ら出頭してきた。犠牲者への謝罪を述べた後、「責任はすべて自分にある。都職員は命令に従っただけなので、寛大な処分を願いたい」と語る。自己弁護の言葉は一切口にしていない。その堂々たる態度は居合わせた者すべてに感銘を与えた。

 

 恩師エーベルト・クリスチアン地上軍大佐は、オリンピアで逮捕された。ハイネセン記念スタジアム周辺の警備担当者だったが、エル・ファシルで命令違反を犯したことから「何をするかわからない」と思われて、オリンピア警備に回されたそうだ。クリスチアン大佐の後任者が機転を利かせたおかげで、スタジアムの反戦派との衝突は回避された。

 

 ハイネセンは急速に秩序を取り戻していった。再建会議の幹部は次々と拘束され、再建会議派部隊は政府の統制下に戻った。

 

 一七時一五分、俺とルグランジュ大将は、衛星軌道上の第四機動集団旗艦「ドモヴォーイ」に通信を入れた。第四機動集団司令官レヴィ・ストークス宇宙軍中将に降伏を求めたのだ。前の世界で逃亡兵だった男とクーデターに加担した男が、この世界ではクーデターを鎮圧する側にいる。皮肉な巡りあわせであった。

 

「降伏してください。これ以上抵抗しても兵を苦しめるだけです」

「馬鹿を言うな。私は兵のために立ち上がったんだ」

 

 ストークス中将は聞く耳を持とうとしない。

 

「いい加減にせんか。戦いは終わったのだぞ」

 

 ルグランジュ大将がストークス中将をたしなめる。

 

「終わっちゃいません。部下もやりたがっています。ヴァルハラのフィリップス部隊と同じです」

「あの時とは状況が違うだろうが」

「自分で選んだ戦場なんですよ。二八年間軍人をやってきましたが、自分の意志で戦うのは初めてなんです。引くわけにはいきません」

 

 ストークス中将は意地だけで戦っていた。そして、第四機動集団の隊員は司令官に付き合う覚悟だった。

 

「惜しいですね」

 

 俺はため息を漏らす。

 

「何が惜しいんだ?」

「この艦隊が帝国軍と戦ったら、きっと活躍したんだろうなと思ったのです」

「第一一艦隊の血を受け継いだ部隊だからな。鉄壁ビッテンだって突破してみせるさ」

 

 ストークス中将は大きく口を開けて笑う。「鉄壁ビッテン」とは、献身的な守備で知られる帝国軍の勇将ビッテンフェルト提督だ。

 

「あなたなら簡単に突破できますよ」

「お世辞はいらんぞ」

「正直に申し上げたまでです。俺が鉄壁ビッテンと戦ったことをお忘れになりましたか?」

「そういえばそうだった。あの男はフィリップス提督らと戦って、『鉄壁』の称号を手に入れたのだ」

「彼の本領は攻撃です。勢いが凄まじいので、相手は防戦一方になります。激しい攻撃で敵の攻撃を封じるのです」

 

 俺はビッテンフェルト提督が攻撃型提督だと説明した。この世界ではなぜか防御型提督にされてしまった彼だが、前の世界では最強の攻撃型提督だったのだ。

 

「結果として損害が少なくなるわけか」

「はい。防御力はそれほど高くないと思います。おそらくはエネルギーの半分以上を火力に配分していますね。中和磁場に使うエネルギーは、普通の部隊の六割程度でしょう」

「簡単に突破できそうだな」

 

 ストークス提督がにやりと笑う。

 

「ビッテンフェルト提督は自分の体を投げだして守るタイプです。この手の提督は防御戦術はうまくないのはご存知でしょう」

「貴官と同じだな」

 

 ルグランジュ大将が横から口を挟む。

 

「防御戦術が下手ってところは似ていますね」

「貴官は攻撃戦術も下手だろう。戦意と練度で押し切っているのだ」

「ルグランジュ提督だって似たようなものでしょう」

「馬鹿にするな。貴官よりはましだぞ」

「おっしゃる通りです……」

 

 俺はたじたじとなる。

 

「フィリップス提督、副司令官には優秀な戦術家を選ばないといかんぞ。レヴィ・ストークスのような名将が理想的だな」

 

 ストークス中将が生き生きとした顔で冗談を飛ばす。

 

「自分を名将っていうのはやめましょうよ」

「少しぐらい威張らせてくれ。戦術下手の司令官を支えてきたんだからな」

「ははは……」

 

 どう答えればいいかわからなかったので、曖昧な笑いでごまかした。

 

「ストークス、貴官は名将だ。銀河最高の副司令官だった」

 

 ルグランジュ大将は惜しむように言った。その目には涙が浮かんでいた。

 

「ありがとうございます。あなたからいただいた評価は勲章一〇〇個に勝ります」

「そろそろ終わりにしないか。十分に戦っただろう?」

「はい、十分に戦いました」

 

 ストークス中将は胸のつかえがとれたような顔になる。

 

「第四機動集団六六万四三二一名、降伏いたします」

 

 一八時一四分、第四機動集団の降伏により、ハイネセンの再建会議勢力は完全に潰えた。同機動集団司令官ストークス中将は自決した。

 

 

 

 二〇時、ハイネセンポリスのグエン・キム・ホア広場で勝利記念集会が開かれた。三〇万人の群衆が夜空の下で気勢をあげる。勝利の興奮が生々しく残っているのだ。

 

 俺は貴賓席に座らされた。トリューニヒト議長の隣の席である。考えてみると、国家レベルの式典でこれほどいい席に座ったのは初めてだ。俺とトリューニヒト議長の間には、大勢の政治家や高官が挟まっていた。今は手を伸ばせば届く程度の距離しかない。席の配置が今の立場を教えてくれる。

 

 トリューニヒト議長が演壇に上がった。俺は真っ先に立ち上がって拍手をする。人々も一斉に立ち上がる。

 

「親愛なる市民諸君!

 

 三五八九!

 

 この数字が意味するものは何か? 民主主義者なら誰でも知っている。正義のために生命を捧げた英霊の数だ。

 

 三五八九!

 

 この数字を決して忘れてはならない。全人類にとっての恩人の数だ。彼らのおかげで人類は自由になった。

 

 三五八九名の英霊は教えてくれた。正義のために死ぬことは美しい! 正義を持つ者は圧倒的に強い! 正義を持たぬ者は圧倒的に弱い!

 

 生命は何よりも尊い。だが、生命を引き換えにして守るべきものがあるのだ。我々はこのことを胸に刻まなければならない。

 

 我々が守るべきものとは何か? それは祖国、民主主義、自由だ! 人が生きていくためには祖国が必要だ! 権利を守るためには民主主義が必要だ! 尊厳を保つためには自由が必要だ! 祖国、民主主義、自由を守ることが正義だ!

 

 我々と反乱勢力の戦いは、民主主義という絶対善と軍国主義という絶対悪の最終戦争だった。諸君は民主主義を守るために立ち上がり、軍国主義に怒りの拳を叩きつけ、偉大な勝利を収めた。

 

 市民諸君! 今日は素晴らしい日だ! 我々が偉大な勝利を収めた日だ! 民主主義が軍国主義を完膚なきまでに打ち破った。世界は自由を取り戻した。

 

 私は民主主義のために戦ったすべての兵士と市民に対し、心からの敬意を表する。諸君は死を恐れることなく戦った。諸君は民主主義こそが正義であると証明した。諸君こそが真の愛国者だ! そして、真の民主主義者だ!

 

 だが、戦いは終わっていない。二つの回廊の彼方、オリオン腕でゴールデンバウムの帝国が侵略の牙を研いでいる。

 

 市民諸君! 今日は素晴らしい日だ! 次の勝利に向けて踏み出した日だ! ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの王朝を倒し、銀河から専制主義を追放しよう! 敵に一〇〇万隻の艦隊があろうとも、恐れるには値しない! 我々には正義がある! 正義は勝つ! 絶対に勝つ!

 

 祖国万歳! 民主主義万歳! 自由万歳!」

 

 トリューニヒト議長が拳を振り上げて叫ぶ。

 

「祖国万歳! 民主主義万歳! 自由万歳!」

 

 三〇万人が立ち上がり、腹の底から声を振り絞って万歳を叫ぶ。高揚感が首都の夜空を覆いつくす。

 

「祖国万歳! 民主主義万歳! 自由万歳! トリューニヒト議長万歳!」

 

 俺は立ち上がって叫んだ。何度も何度も叫んだ。三〇万人と気持ちを一つにした。この高揚、この一体感は何物にも代えがたい。

 

「フィリップス提督」

 

 声をかけてきたのはトリューニヒト議長だった。暖かい微笑みを浮かべている。俺が無我夢中で万歳を叫んでいる間に、演壇から降りてきたようだ。

 

「言いたいことはあるだろうが、今日はめでたい日だ。政府と市民軍の間に確執があると思われては困る。誤解されないように気を付けてほしい」

「どういうことでしょう?」

 

 一瞬、頭の中が真っ白になった。トリューニヒト議長は何を言っているのか? どうして他人行儀な話し方をするのか? 俺たちは親子のような関係のはずだ。

 

「市民を不安にさせるような顔はしないでほしいということだ」

「おっしゃるとおりにいたします」

 

 不審に思いつつも従うことにした。言われなくても、市民を不安にさせるつもりはない。

 

「行こうじゃないか」

 

 トリューニヒト議長は満足そうに微笑み、俺の手を引いて演壇へと連れていく。

 

「では、ここで二人の闘士に握手をしていただきましょう! 最高評議会議長ヨブ・トリューニヒト先生と市民軍総司令官エリヤ・フィリップス提督です!」

 

 エイロン・ドゥメック下院議員が俺たちの方を向き、紹介するように右腕を伸ばす。テレビ文化人出身だけあって、こなれた司会ぶりだ。

 

 トリューニヒト議長の大きな手と俺の小さな手が握り合わされた。尊敬する人の体温が手を通じて伝わってくる。感動で胸がいっぱいだ。

 

「トリューニヒト議長万歳! フィリップス提督万歳!」

 

 三〇万人が沸騰した。歓声が津波となって押し寄せる。拍手が空気を激しく揺らす。

 

「トリューニヒト議長万歳! フィリップス提督万歳!」

 

 俺たちを称える声が止まらない。とてつもない圧力に押し潰されそうな気分がした。三〇万の歓声をたった二人で受け止めているのだ。小物には辛い状況である。

 

 隣に視線を向けると、トリューニヒト議長が笑顔で手を振っていた。うらやましくなるほどに自然体だ。

 

「トリューニヒト議長万歳! フィリップス提督万歳!」

 

 一二回目か一三回目の叫びを耳にした瞬間、恐ろしい事実に気が付いた。人々は俺とトリューニヒト議長を一緒に称えている。少なくともこの場では同等に扱われているのだ。

 

 トリューニヒト議長は、自分がナンバーワンでないと気が済まない人だ。小さくまとまった人物を重用する傾向がある。対等な盟友といえるような人はいない。

 

 前の世界の戦記でも、トリューニヒト議長の盟友的な人物が出てきた記憶はなかった。ド=ヴィリエ大主教やルビンスキー自治領主は、取引相手のようなものだろう。ヤン・ウェンリーを取り込もうとしたが、対等な付き合いを求めるというよりは、屈服させて下に置きたいようだった。

 

 全身に寒気を感じた。自分がトリューニヒト議長に敵視されるかもしれない。そう思うだけで恐ろしくなる。市民軍にはアラルコン中将のように、俺をトリューニヒト議長より上に見ている人も多いのだ。

 

「フィリップス提督、みんなが君を呼んでいるよ」

 

 トリューニヒト議長が声をかけてきた。その顔には暖かい微笑みが浮かんでいる。

 

「はい」

 

 俺は素直な笑顔で答えた。

 

「エリヤ・フィリップス提督万歳!」

 

 三〇万人が俺の名前を叫び、俺は笑顔で手を振る。傍らではトリューニヒト議長が微笑みを浮かべる。

 

 本来、俺は広場の中にいるべき人間だった。それが期待を裏切りたくないと頑張っているうちに出世してしまい、トリューニヒト議長と一緒に歓呼を浴びるまでになった。人々の期待はますます大きくなるだろう。ボロディン大将の評価が正しいとしたら、俺はどんな期待にも応えられる。自分はどこに向かっているのだろうか? 想像するだけで不安になってくるのであった。



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第九章:渦の中のエリヤ・フィリップス
第86話:みんな英雄になった 801年11月10日~11月中旬 ハイネセンポリス~テレビ局控室


 同盟全土にエリヤ・フィリップスブームが吹き荒れていた。人々はエリヤ・フィリップスの話題を挨拶代わりにした。エリヤ・フィリップスが笑うだけでニュースになった。エリヤ・フィリップスが何かを言っただけでニュースになった。エリヤ・フィリップスが何かを食べるだけでニュースになった。エリヤ・フィリップスが姿を現すだけで人だかりができた。エリヤ・フィリップスがテレビに出るだけで、視聴率が跳ね上がった。エリヤ・フィリップスが新聞や雑誌に載るだけで、飛ぶように売れた。何もかもがエリヤ・フィリップスだった。

 

 市民軍総司令官エリヤ・フィリップス宇宙軍中将は、宇宙軍大将に昇進した。三三歳七か月での大将昇進は、同盟宇宙軍史上第五位の早さとなる。

 

「アッシュビー提督より早いのか。凄いなあ」

 

 俺は新聞を読んで驚いた。同盟宇宙軍史上最高の戦術家ブルース・アッシュビー提督は、三四歳二か月で宇宙軍大将・宇宙艦隊副司令長官となった。そんな英雄よりもフィリップス大将の昇進は早いのだ。

 

「ヤン提督よりは遅いんだな。当然と言えば当然か」

 

 うんうんと頷き、マフィンを口に放り込む。ヤン・ウェンリー提督は三一歳七か月で大将に昇進したそうだ。さすがのフィリップス大将も、戦うたびに奇跡を起こす男には及ばない。

 

「へえ、ヤン提督でも宇宙軍史上第三位なんだ」

 

 むしろ、ヤン大将より早く宇宙軍大将になった人が、二人もいる方が驚きだ。一人は二九歳一一か月、もう一人は二九歳六か月だという。想像もつかない世界である。

 

「士官学校を出ていない宇宙軍軍人としては史上最速。トリニダーデ提督の記録を一三〇年ぶりに更新」

 

 なるほどと思い、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーに口をつける。フィリップス大将は徴兵されて二等兵からスタートした。これまでの記録保持者だったトリニダーデ提督は、専科学校出身者で伍長からのスタートだった。二重の意味でフィリップス大将は凄い。

 

 電子新聞を置き、週刊誌を手に取った。フィリップス大将の写真を使った表紙をめくり、フィリップス大将の特集記事に目を通す。

 

「凄いなあ」

 

 俺はため息をついた。どれほど頑張っても、ここまで凄い人になれそうにはない。どこで差がついたのだろうか?

 

「エリヤ・フィリップスって本当に……」

 

 ここまで言ったところで、赤毛の女性が一枚の紙を突き付けてきた。

 

「フィリップス提督、今日のスケジュールです。ご確認ください」

 

 優しさの成分が一グラムもこもっていない声が、現実逃避を終わらせた。

 

「わかった」

 

 俺は赤毛の副官代理ユリエ・ハラボフ中佐から紙を受け取り、今日のスケジュールを確認する。テレビ出演、インタビュー、対談、写真撮影、行事出席などの予定でいっぱいだ。

 

 英雄エリヤ・フィリップス大将とは、俺のことなのである。クーデター鎮圧の功績により、偉大なアッシュビー提督やヤン提督と昇進速度を比べることになってしまった。あまりに恐れ多くて身長が縮んでしまいそうだ。

 

 右翼系のマスコミからは、「共和国の盾」と呼ばれるようになった。この異名は最大級の国難を防いだ者に与えられる。歴史上、共和国の盾と呼ばれた者は、建国期の英雄ジェシー・バンクス、六二〇年代に内戦の危機を防いだカトリーナ・ツクダ、七六七年の六月クーデターを鎮圧したルチオ・アルバネーゼの三名だ。麻薬王アルバネーゼと同じ異名で呼ばれると、微妙な気分になる。

 

 一方、ヤン大将は「共和国の剣」の異名を手に入れた。一一月九日、彼が率いる復員支援軍は正面攻撃でイゼルローン要塞を陥落させ、全銀河の度肝を抜いた。並行追撃を仕掛けて混戦状態に持ち込み、敵に「味方ごと復員支援軍を吹き飛ばすか、復員支援軍を見過ごして味方を生かすか」の二択を示した。敵将メリダ中将は味方を生かすことを選び、戦闘中止を命令すると、頭を撃ち抜いて自決したのである。ヤン大将が攻めたのは要塞ではなかった。メリダ中将の良心を攻めたのであった。

 

 イゼルローン要塞を二度陥落させた功績は、「共和国の剣」を名乗るにふさわしい。過去にこの異名を得た者は、ダゴンの勝者リン・パオ、第二次ティアマト会戦の勝者ブルース・アッシュビーの二名である。帝国領から膨大な亡命者を連れ帰ったネイスミス・ウォード、シャンダルーアの勝者スラージ・バンダレー、フォルセティの勝者エルゼ・オストヴァルト、帝都オーディンを攻略したラザール・ロボスですら、共和国の剣とは呼ばれなかった。

 

 人々は「剣と盾が揃った。フィリップスが内を守り、ヤンが外に備えれば、同盟は盤石だ」と語り合う。前世界の逃亡者が、史上最高の軍事的天才と並び称されるまでになった。戦記を読んだ人なら冗談だと思うに違いない。

 

 エリヤ・フィリップス以外にも大勢の英雄がいた。褐色のハイネセン攻防戦とその前哨戦で勇戦した者、再建会議の命令を拒否して逮捕された者、再建会議から市民軍に寝返った軍人、ゲリラとして後方かく乱を行った者などが、賞賛の的となった。ライフラインを遮断された市民軍支配地域での助け合いは、美談として報じられた。

 

 トリューニヒト政権は英雄に手厚い待遇を与えた。命がけで戦った者を一階級昇進させた。特別な功績のあった者は、一階級昇進させた直後に再び一階級昇進させ、階級を二つ引き上げた。負傷者には名誉戦傷章、捕虜となった者には名誉捕虜章を与えた。戦死者のうち、軍人と義勇兵には二階級昇進及び自由戦士勲章、警察官と消防士には二階級昇進及び国家功労勲章を授けた。

 

 褐色のハイネセン攻防戦で南部方面隊を指揮したロマン・ギーチン地上軍准将は、地上軍中将に昇進した。「事実上の二階級昇進は、将官には適用されない」という前例を覆す人事である。昇進と同時に最高勲章の自由戦士勲章を授与された。俺に次ぐ殊勲者だと認められたことになる。

 

 他の方面隊司令官は一階級昇進し、ハイネセン記念特別勲功大章を授与された。西北方面隊のセノオ地上軍准将とル=マール予備役宇宙軍准将、北部方面隊のギーゼブレヒト予備役地上軍准将、東部方面隊のガオ宇宙軍准将は少将となった。西南方面隊のヘイズ予備役地上軍少将は、予備役地上軍中将に昇進した。余談ではあるが、ル=マール予備役少将は、七年前のヴァンフリート四=二攻防戦でも一方面の指揮官を務めた人だ。

 

 最も奮戦した部隊は「ダイヤモンド部隊」と呼ばれた。名誉戦傷章はダイヤモンドのような形をしているので、同盟軍では死傷率の高い部隊をダイヤモンド部隊と呼ぶのだ。エリヤ・フィリップス戦隊、ブラボー義勇旅団、エイブラハム・リンカーン義勇旅団、イオン・ファゼカス長征部隊、聖シルヴァ騎士団がダイヤモンド部隊として認定された。

 

 エリヤ・フィリップス戦隊の献身的な戦いぶりは高く評価され、全隊員が一階級昇進することとなった。前哨戦で捕虜となり、褐色のハイネセンに参戦できなかった者も昇進できた。二階級昇進した者は一五名にのぼる。三名の副司令は二階級昇進と自由戦士勲章という名誉に輝いた。シェリル・コレット副司令は宇宙軍中佐から宇宙軍准将、ファジル・キサ副司令は宇宙軍中佐から宇宙軍准将、エリオット・カプラン副司令は宇宙軍少佐から宇宙軍大佐に昇進した。コレット准将とカプラン大佐は俺の元部下である。

 

 最も高い死傷率を記録したブラボー義勇旅団は全隊員が一階級昇進し、一九名が二階級昇進を遂げた。重傷を負ったパエッタ予備役少将、アップルトン予備役准将らは、新しい階級章と名誉戦傷章・名誉捕虜章を病院のベッドで受け取った。

 

 エイブラハム・リンカーン義勇旅団は全隊員が一階級昇進し、一二名が二階級昇進を果たした。第三大隊の第五中隊長ウィンザー下院議員は、義勇軍大尉から義勇軍少佐に昇進し、名誉戦傷章を授与された。

 

 聖カーロス騎士団は全隊員が一階級昇進し、一〇名が二階級昇進を遂げた。聖カーロスとは、地球統一政府の宇宙省長官であり、地球教の聖人でもあるカーロス・シルヴァを指す。精強な地球教徒義勇兵の中でも、この部隊の勇敢さは際立っていた。

 

 イオン・ファゼカス遠征部隊は全隊員が一階級昇進し、九名が二階級昇進を果たした。その名の通り、熱烈なハイネセン主義者の部隊である。

 

 特殊部隊隊員を率いて突撃したアルマ・フィリップス地上軍大佐は、二階級昇進して地上軍少将となった。二八歳七か月での少将昇進は地上軍史上第二位、同盟軍史上第四位、士官学校を出ていない者としては最速である。前の世界で中卒無職だった妹が将軍閣下になったのだ。

 

 チーム・フィリップスのメンバーは戦闘に参加しなかったが、俺を補佐した功績を買われた。参謀長代理チュン・ウー・チェン准将は宇宙軍少将、副参謀長アブダラ准将は地上軍少将となった。作戦部長ラオ大佐、情報部長ベッカー大佐、後方部長イレーシュ大佐、人事部長オズデミル大佐、通信部長マー技術大佐、憲兵隊長ウェイ大佐らは准将の階級を得た。メッサースミス宇宙軍中佐は宇宙軍大佐、ハラボフ宇宙軍少佐は宇宙軍中佐になるなど、佐官級や尉官級の幕僚も昇進した。

 

 総司令部勤務の軍人は昇進の対象となった。アラルコン宇宙軍中将はトリューニヒト議長を罵倒したにも関わらず、宇宙軍大将の階級を得た。シュラール地上軍技術少将はバリケードが突破されたショックで倒れ、病院のベッドで地上軍技術中将に昇進したとの知らせを聞いた。

 

 ボーナム救援作戦に加わった第七陸戦遠征軍の隊員は一階級昇進した。シューマッハ司令官は宇宙軍少将から宇宙軍中将となった。前の世界で皇帝を誘拐した人物が、同盟軍の中将にまで昇進したのである。戦記を読んだ者には信じられないだろう。彼らと行動を共にしたルグランジュ宇宙軍大将は、元帥待遇を受けることが決まった。

 

 第七八陸戦航空団は前哨戦での功績が大きかったことから、全隊員が階級を引き上げられた。ブレツェリ司令は宇宙軍代将から宇宙軍准将となり、六三歳にして将官の地位を得た。

 

 政府は派手に活躍した者だけに恩賞を与えようとしたが、俺が「裏で頑張った人も評価してほしい」と頼んだため、秘密協力者も昇進や叙勲の対象となった。セレブレッゼ宇宙軍中将はクーデターが終わるまで監禁されていたが、セレブレッゼ派の兵站部隊を市民軍に協力させた功績により、宇宙軍大将に昇進した。説得工作に功績のあったグリーンヒル宇宙軍大将は、同盟軍殊勲星章を与えられたが丁重に断った。再建会議司令部勤務将校ルンヴィサイ宇宙軍少佐は、市民軍のスパイとして多大な功績があったので、二階級昇進で宇宙軍大佐になった。

 

 今回の人事は間に合わせ的な性格が強い。昇進者は現職に留まり、逮捕などで空いたポストには代理が立てられた。宇宙艦隊司令長官ビュコック大将と地上軍総監ベネット大将は辞表を提出したが、現職に留まるよう命令された。空席となった統合作戦本部長は、ドーソン大将が代行することとなった。本格的な人事異動は来月下旬に実施される予定だ。

 

 これが物語であれば、スタッフロールが流れる場面であろう。現実の世界では戦後処理という難題が立ちはだかってくる。

 

 一〇日間の分裂は力の空白を生み、治安を著しく悪化させた。クーデターを支持した自治体や軍隊が降伏し、再建会議の勢力はほぼ消滅したが、混乱は収まっていない。都市部では暴動や略奪が続発し、辺境では独立派武装勢力が息を吹き返した。海賊やテロリストの活動が活発になった。予断を許さない状況が続いている。

 

 ハイネセンの混乱は、交易の停滞と金融の混乱を引き起こした。星間国家を一個の生命体とすると、交易は消化器であり、金融は循環器である。株とディナールの低落は止まったものの、経済が著しく悪化し、倒産や失業が急増した。企業の倒産が相次いだ。ディナール安と物資不足により、物価が跳ね上がった。

 

 市民は軍を信用できないと思うようになった。制服組のトップがクーデターを起こし、数千人の同胞を死なせたのだ。軍の体質に問題があると思われても、反論はできない。

 

 トリューニヒト議長は事態の収拾に乗り出した。乗り出さざるを得なかったと言う方がより正確であろうか。クーデターの間、沈黙を続けていたことは、彼の評価を著しく損ねた。リーダーシップを見せる必要がある。

 

 クーデターに関与した者が次々と粛清されていった。一週間で軍人三五万人、政府職員一六万七〇〇〇人、自治体職員七万二〇〇〇人、民間人一二万四〇〇〇人が拘束された。軍人五二万人と政府職員三〇万人が、職務停止処分を受けた。事情聴取を受けた者は二〇〇万人を超える。同盟議会はクーデターに加担した議員の除名決議を可決し、野党議員の半数が議席を失った。クーデターを支持した首長や地方議員は失職に追い込まれた。

 

 出頭要請に応じなかったとして、三七〇名が指名手配を受けた。その中には、前国家安全保障顧問アルバネーゼ退役宇宙軍大将、ジャーディス前上院議員、科学技術本部次長ドワイヤン宇宙軍中将といった麻薬関係者もいる。

 

 国民平和会議(NPC)、進歩党、反戦市民連合、環境党の四党がテロ組織認定を受けた。これらの党の執行部はクーデターを支持し、再建会議に抵抗した者を除名したため、テロ組織とみなされたのである。

 

 法秩序委員会は四党の解散請求を行った。NPC除名議員の指導者ウィンザー議員、反戦市民連合除名議員の指導者ソーンダイク議員、環境党除名議員の指導者ゴンスン議員は、解散請求を受け入れる意向だ。

 

 進歩党除名議員の指導者レべロ議員は、「国政政党の強制解散は悪しき前例になる」と言って、最高裁に異議を申し立てた。解散請求が却下された後に、進歩党を自主解散させるとのことだ。

 

 当初は軍部がクーデターを起こし、改革派勢力が後から乗ってきたと思われていたが、最近になって異なる見方が出てきた。計画段階から改革派勢力が関与していたというのだ。トマシェフスキ同盟警察長官は、「再建会議は巨大な氷山だ。ボロディンやブロンズは水面に突き出た先端に過ぎない」と語る。

 

 反クーデター派を粛清する一方で、不穏分子を一掃する作戦が始まった。作戦指導を行うのは統合作戦本部長代行ドーソン宇宙軍大将だ。ギオー地上軍中将の部隊は中央宙域、モートン宇宙軍中将の部隊はシャンプール方面、シャイデマン宇宙軍中将の部隊はフェザーン方面、ジャライエル地上軍中将の部隊はネプティス方面、ホルヘ宇宙軍中将の部隊はカッファー方面、メネンディ地上軍中将の部隊はパルメレンド方面に向かった。モートン中将以外の方面司令官五名は、トリューニヒト派の幹部である。

 

 トリューニヒト議長はフェザーン自治領から巨額の融資を受けると、大規模な市場介入に踏み切った。これによって当面の危機を回避することができた。

 

 イゼルローン方面は完全に安定している。復員支援軍司令官ヤン大将はイゼルローン方面艦隊と要塞防衛隊を指揮下に収めると、回廊の守りを固めた。シヴァ方面艦隊は同盟政府に降伏し、帝国軍のメルカッツ艦隊は根拠地に引き返していった。

 

 多数の国会議員・地方議員・首長が失職したため、統一補欠選挙が一二月二二日に実施されることとなった。大衆党は上院での単独過半数確保を目指す。統一正義党と汎銀河左派ブロックは、反クーデター闘争での実績を強調し、党勢拡大を狙う。ウィンザー議員は市民軍で活躍した旧与党系政治家を集め、中道新党を結成すると発表した。旧進歩党、旧反戦市民連合、旧環境党、楽土教民主連合の四党は、合同して反戦リベラル新党を結成する予定だ。

 

 同盟が混乱している間に、帝国のルドルフ原理主義革命は鎮圧された。ラインハルトが選民評議会主力を撃破し、オーベルシュタイン大将とジーク将軍が帝都オーディンを奪還した。ルドルフ原理主義者五〇〇万人が即決裁判で処刑されたという。キルヒアイス上級大将は辺境のルドルフ原理主義者を打ち破った。ヴァーゲンザイル大将がクレーフェ星域で敗れたものの、ラインハルト派がほぼ独力で勝利を収めた。

 

 クーデターとルドルフ原理主義革命の余波が銀河を揺らし続ける。静かになるには時間が必要であろうと思われた。

 

 

 

 マスコミに出るのも英雄の仕事である。俺はテレビ局に到着すると、控室に入った。その中には妹のアルマがいた。初めての共演である。

 

 妹は最も人気のある英雄の一人だった。身長一八四センチの女性が敵兵を棍棒で殴り倒す姿は、「ボーナムの赤鬼」と称された。可愛らしい童顔とパワフルな戦いぶりのギャップが、人々を驚かせた。作戦立案や切り崩しに活躍した頭脳派でもある。優等生的な言動、英雄エリヤ・フィリップスの妹という看板が好感度をさらに高めた。

 

 口の悪いネットユーザーも妹を好意的に見ている。有名コミュニティサイトのアルマ・フィリップススレッドは、「胸が平たいけど、モデルみたいでかっこいい」「胸が小さいけど可愛い」「胸が薄いことを除けば完璧超人」など、好意的な書き込みで占められる。

 

「なかなかの人気じゃないか」

 

 俺は冗談まじりに言った。

 

「全然いいことないよ」

 

 妹はすっかり落ち込んでいる。本来は友達のいないデブだし、軍人になってからも地味な仕事ばかりやってきたので、注目されることに慣れていない。

 

 ある番組で好きなスイーツを聞かれると、妹は「フィラデルフィア・ベーグルのドライフルーツ入りマフィン」と答えた。その直後から、フィラデルフィア・ベーグルにドライフルーツ入りマフィンの注文が殺到し、三か月先まで予約が満杯になったのだ。軍人はファンからのプレゼントを受け取れない決まりなので、妹は好物を食べられなくなった。

 

「クーデターが終わったら、おなか一杯食べようと思ってたのに……」

「これでも食べて元気出せよ」

 

 俺が潰れていないフルーツサンドイッチを渡しても、妹の表情は暗いままだ。

 

「どうした? 糖分が足りないか?」

「前の件が結構こたえててさ」

 

 妹はデブだった過去を必死に隠してきたのに、ある週刊誌が中学時代の写真を発掘した。デブだったことが知られても、人気が落ちることはなく、「さすがはフィリップス将軍。ダイエットも超一流だ」と称賛された。地上軍には女性の志願者が殺到しているそうだ。それでも、妹は喜んでいない。

 

「過去を暴くなんて最低だよ」

「制服ピース写真が発掘されるよりはましだろう」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。二年前、ダーシャの遺品の中から、妹が中学の制服を着てピースしている写真が発見された。デブではなくて痩せていた。しかも、制服のサイズはぴったりだった。身長一八四センチの女子は特注の制服になる。つまり、妹は軍人になってから、中学の制服を特注で作って写真を撮り、ダーシャに「中学時代の写真だよ」と言って渡した。想像するだけで情けなくなってくる。

 

「やめて」

 

 妹は耳をふさぐ。

 

「英雄なんだから、もっと堂々としろよ。ああいうふうに」

 

 俺はテレビを指さした。三人の男女が画面に映っている。真ん中にいる長身で胸の大きい美人はコレット准将、右にいるへらへらした長身の男性はカプラン大佐、左にいる屈強な中年男性はキサ准将だ。いずれも市民軍エリヤ・フィリップス戦隊の副司令である。

 

「あの子嫌い」

 

 妹はそっぽを向いた。彼女はコレット准将を嫌っている。

 

「何が嫌なんだ?」

「嫌いなものは嫌いなの」

 

 どうして嫌いなのかは言おうとしない。妹はコレット准将、イレーシュ准将、ハラボフ中佐を激しく嫌っていた。この三人には美人という以外の共通項はないので、理由は不明だ。

 

 スター揃いのエリヤ・フィリップス戦隊の中でも、コレット准将の人気は抜群だった。拙劣だが一生懸命な戦いぶりから、「フィリップス提督の一番弟子」と呼ばれた。自分を誇るよりも俺を褒めることに熱心なところは好評だ。色気のある美貌、大きな胸と尻、すっきりしたウェストは男性受けがいい。もっとも、「男受けを狙いすぎ」「狂信者みたいで気持ち悪い」「ポルノ女優が軍服を着ているように見える」という声もある。

 

「カプラン君が一人で出ればいいのに」

「あいつ、へらへらしてるじゃないか」

「可愛いじゃん」

 

 不可解なことではあるが、カプラン大佐は人気者だった。へらへらした笑顔やピントがずれた言動が、女性の目には可愛く見えるらしい。

 

「背が高いと得だよな。何をやっても好意的に見てもらえる」

 

 俺は憂鬱な気持ちになった。カプラン大佐はコレット准将よりも背が高い。妹もコレット准将もその他の人気者も平均以上の身長を有する。小柄な人気者はマノン義勇軍少佐ぐらいのものだ。

 

「カプラン君は性格良さそうだから。お兄ちゃんと雰囲気が似てる」

「似てないだろう」

「似てるって」

 

 やがて三人の出番が終わり、妹がチャンネルを変えた。俺がボーナム総合防災公園で演説する場面が映る。

 

「またやってんのか」

 

 うんざりした気分になった。マスコミはボーナム総合防災公園の攻防戦を、「ボーナムの奇跡」と名付け、繰り返し放送した。

 

「英雄エリヤ・フィリップスの最大の名場面だからね」

「もっといい場面があるだろうに」

「私は好きだけど。お兄ちゃんと一緒に映ってるから」

「俺は好きじゃない」

 

 ボーナムの奇跡を見たくない理由は単純だ。背が高い人が周りにいるせいで、俺の背の低さが目立ってしまう。

 

 ネットでは「エリヤ・フィリップスはチビ」というのが定説となった。有名コミュニティサイトには、「エリヤ・フィリップス身長検証スレッド」なんてスレッドもあり、俺の身長が何センチなのかを議論している。最も有力な説は一六七センチだ。本当の身長より二センチも低い。これほど酷いデマは人類史上でも稀だろう。

 

「アルマの姉ちゃんがいるぞ」

 

 俺がハラボフ中佐を指さし、話題転換を図った。

 

「どう見てもあっちの方が年下じゃん」

 

 妹は頬を膨らませる。ハラボフ中佐より年下だと思われることが我慢ならないのだ。どう見ても年下なのに本人だけが気づいていない。

 

 副官代理のハラボフ中佐は武勲を立てる機会がなかったが、俺の左隣にいたことから注目を浴びた。クールな雰囲気の美人で、体はすらりとしていて、身長は俺とほとんど同じだ。イレーシュ准将やコレット准将には及ばないが、十分にインパクトはある。俺や妹と同じ色の髪の毛、妹と似た顔立ちから、「エリヤ・フィリップス提督の妹で、アルマ・フィリップス将軍の姉」との説が根強い。

 

「彼女、今年で三〇歳だぞ」

「嘘でしょ。化粧で大人っぽく見せてるけど、絶対に私より年下。肌を見たら一目でわかるよ」

 

 赤ん坊のような肌の持ち主に言われても説得力に欠ける。

 

「アルマより年下に見える士官なんて、士官学校を出たばかりの新品少尉ぐらいだろうが」

「私は年相応だけど」

 

 妹は童顔とつやつやした肌がどう見られるかを都合よく無視した。立派な軍人になっても、せこいところは変わっていない。

 

「お兄ちゃんは基準がおかしいのよ。周りが変だから。あれだって四〇歳手前には見えないし」

 

 あれと呼ばれたのは、俺の恩師であるイレーシュ准将だ。確かに三九歳には見えない。一三年前からずっとこんな顔だった。肌のつやはむしろ良くなっていた。まさしく年齢不詳である。

 

 イレーシュ准将は目立った武勲がなかったものの、ボーナムの奇跡の画像が公表されると、「あの美人は何者だ?」と騒がれた。顔は氷のように美しく、目つきは殺気に満ちており、髪の毛はほとんど坊主に近い短さで、身長は女性と思えないほどに高く、胸は大きく張り出している。どう見てもただ者ではない。ネットでは、「フィリップス提督直属の殺し屋」「議長警護室から派遣された特殊ボディーガード」などと噂された。

 

 俺の部下に目立つ容姿の女性が多いことから、一部のネットユーザーはチーム・フィリップスを「ハーレム・フィリップス」と呼んだ。

 

 本当は背の低い女性が好みなのに、背の高い女性を好んでいると勘違いされることもあった。同盟人女性は平均一六三センチだが、俺の女性幕僚は平均一六八センチだ。妻のダーシャは一六九センチ、前副官のコレット准将は一八二センチ、副官代理のハラボフ中佐は一六九センチである。小柄な一〇代の女性兵をオペレーターとして採用すると、急激に身長が伸びた。縁のある女性はみんな背が高かった。背が低い人と知り合ったと思えば、ブーブリル議員のように罵倒してきたり、ハッセルのように命を狙ってきたりする。神が嫌がらせをしているとしか思えない。

 

 後ろ向きなことを考えている間に画面が切り替わる。ギーチン中将が陣頭指揮をとり、敵の大軍を食い止めていた。褐色のハイネセン攻防戦の一場面だ。

 

「またギーチン将軍かあ」

 

 妹がつまらなさそうな顔をした。

 

「そんなこと言うな」

「ギーチン将軍の功績は認めるけど持ち上げすぎでしょ。本当の殊勲者はセノオ将軍とル=マール提督なのに」

「大人の事情だ」

 

 本音を言うなら、俺だって最大の殊勲者はセノオ少将とル=マール予備役少将だと思う。この二人が指揮した西北方面は、褐色のハイネセン攻防戦で最も重要だった。ボーナムから五キロしか離れていない地点に敵の集結拠点があった。一歩間違えばあっという間に突破されただろう。あの状況で三時間も戦線を維持できたのは奇跡と言っていい。

 

 政治的事情がギーチン中将を殊勲者に仕立て上げた。良識派のセノオ少将や年老いたル=マール予備役少将を持ち上げても、トリューニヒト議長にはうまみがない。一方、ギーチン中将はトリューニヒト議長のお気に入りで、見栄えのする容姿を持っており、持ち上げるにはうってつけの人材だ。

 

「ギーチン将軍をお兄ちゃんの対抗馬にしたいのかな?」

「まさか」

「討伐軍だって露骨な牽制人事じゃん。お兄ちゃんと付き合いがない人ばかり選んでるし」

「偶然だ」

「お兄ちゃんと仲が悪い士官学校七八八年度組も、たくさん参加してるよ。首席のマリキさんはカッファー方面の作戦主任だって」

「うってつけの人選だろう。彼女はエリートだからな」

 

 俺は笑いながら否定した。もっとも、妹なら作り笑いだと見抜くだろう。

 

「トリューニヒト議長は新しいスターを作りたいんだろうね。市民軍には嫌われてるから」

 

 妹はいい気味だと言いたげな顔をする。アラルコン大将がトリューニヒト議長を罵った時、止めに入ろうとした俺の腕を掴んだのは彼女だった。黙って見ていた者も内心では同意していたのだ。

 

「悪く言うのはやめろ。議長には議長の事情があるんだ」

「表では言わないよ。約束だからね。でも、陰口ぐらいは言わせて。黙ってるとストレスたまるんだから」

「ああ、わかってる」

 

 俺が「人前で議長の悪口を言うな」と釘を刺したため、市民軍隊員がトリューニヒト議長を公然と批判することはない。だが、不満はくすぶり続けている。

 

 世論に弱いトリューニヒト議長は、市民軍との関係に気を配った。戦功審査が始まったばかりなのに、昇進や勲章をばらまいた。市民軍幹部に対しては、名指しで褒めたり、会食に誘ったり、議長記念賞の名目で金品を贈ったりした。露骨すぎる機嫌取りはさらなる反発を生んだ。

 

 妹がトリューニヒト批判をしていると、若い女性が控室に入ってきた。地上軍の英雄アマラ・ムルティ准将である。今日は三人の英雄が共演するのだ。

 

 ムルティ准将を一目見た途端、ひざまずきたい衝動にかられた。根本的な格の違いを感じる。涼し気な切れ長の目、すっきりした高い鼻、つややかな唇、きめ細やかな小麦色の肌、シャープで無駄のない輪郭、美しい黒髪、まっすぐ伸びた背筋、高い身長、平たい胸……。美神の寵愛を一身に集めたかのような容姿だ。一流の女優やモデルですら、彼女には一歩及ばないだろう。軍服を飾る略綬の数は、彼女の伝説的な武勇が事実だと語る。前の世界に登場しなかったのが不思議なほどの神々しさだ。

 

「あ、お兄ちゃんっすか。初めまして。アマラ・ムルティっす」

 

 女神のような美貌から雑な言葉が飛び出した。

 

「お初にお目にかかる。小官はエリヤ・フィリップス宇宙軍大将だ」

「どうもっす。それにしても、本当にちっさいっすね」

 

 ムルティ准将は言ってはならないことを口にする。

 

「そう見えるか」

「ところでタバコ吸いたいんですけど、いいっすか?」

「この部屋は禁煙みたいだよ」

 

 俺は壁の張り紙を指差す。

 

「そうっすか」

 

 ムルティ准将は残念そうな顔をすると、ポケットからタバコとライターを取り出した。そして、何事もなかったかのように火をつけようとする。

 

 俺は唖然となった。彼女はいったい何を聞いていたのか? わざとやっているのか? 俺を試しているのか?

 

「パール! 何やってんのよ!」

 

 フリーズしていた妹がようやく動き出し、ムルティ准将からライターを取り上げる。

 

「シュガーはケチくせーな」

 

 ムルティ准将は舌打ちするとタバコをしまう。シュガーとは妹のあだ名で、パールはムルティ准将のあだ名らしい。この二人は長い付き合いなのだ。

 

「ごめんね、お兄ちゃん。この子は強いけど馬鹿なの」

「シュガーと比べたら誰だって馬鹿じゃんか」

「パールは誰と比べても馬鹿だから」

 

 妹はムルティ准将を馬鹿と決めつける。付き合いの長い彼女がそう言うのなら、本当にただの馬鹿なのだろう。こんな真実は知りたくなかった。

 

「ムルティ将軍、喫煙所に行った方がいいんじゃないか」

「了解っす」

 

 ムルティ准将が喫煙所に行った後、俺は妹に話しかけた。

 

「とんでもないな。入隊したばかりの少年兵みたいだ」

「自覚が育つ暇がなかったの。専科学校を出てすぐ英雄になっちゃって、その後はスピード昇進だったから。悪い子じゃないんだけどね」

「成果主義の弊害だな」

 

 俺はため息をついた。同盟軍はダゴン以前から成果主義を採用しており、功績をあげた者を年齢や実績に関係なく昇進させる。士官学校上位卒業者の昇進が早いのは、功績を立てやすいポストに配属されやすいからであって、学力だけで昇進するわけではない。功績さえあげれば、エリートでない者や素行の悪い者でもスピード昇進できるが、弊害も大きかった。

 

 最大の問題は精神面だ。若くして高位を得た軍人の中には、軍事能力はあるが内面は普通の若者と変わらない者が多い。人間的に未熟な者が出世し、部下を掌握できない高級軍人、味方と協調できない高級軍人、責任を取ろうとしない高級軍人になってしまう。このような人物は勇猛であっても、用兵センスが優れていても、戦力としては使いにくい。

 

 意外に思われるかもしれないが、能力面でも問題があった。同盟軍は艦長が功績を立てたら部隊長に昇進させ、部隊長が功績を立てたら提督に昇進させるシステムである。しかし、有能な艦長が有能な部隊長になるとは限らないし、有能な部隊長が有能な提督になるとは限らないのだ。実力以上の地位を得たせいで駄目になる者は珍しくない。あまりに早く出世したせいで、知識や経験が身に付かないうちに大任を任されてしまい、悲惨な目にあうなんて話はよく耳にする。

 

 公平な人事と士気向上のために導入された成果主義は、逆の結果を生んだ。功績の大小を厳密に審査することが難しいため、目立つ活躍をした者の評価が高くなり、不公平感が広がった。功績をあげるために何でもする風潮が強く、スタンドプレーや足の引っ張り合いが頻繁に起きた。功績のある者は自分たちが軍を支えていると威張り、功績のない者を侮る。功績のない者は出世を諦めて保身に走る有様だ。

 

「同盟軍が心配だよ。一線級の人がごっそり消えたからね。宇宙艦隊最大派閥の第一二艦隊系は壊滅だし。今回のばらまき人事で昇進した人が穴を埋めるんでしょ。やっぱ、成果主義はまずいよ」

「どうにかなるんじゃないか。地方には生きのいい予備役軍人がたくさんいる。パエッタ中将やアップルトン少将も、退院したら現役復帰するだろうしな」

「私が少将だよ。クーデターとラグナロックがなければ少佐程度だった女だよ。そんなのが軍司令官クラスなんて終わってる」

「俺が大将になるよりはましだぞ。トリューニヒト議長が目立つ所に置いてくれなかったら、中佐か大佐がせいぜいだ」

「お兄ちゃんは実力だよ」

「運が良かった。アルマみたいな優秀な妹がいるだけで、他の軍人よりずっと恵まれてる」

 

 俺は素直な思いを語った。

 

「ありがとう」

 

 妹は顔を真っ赤にしてうつむく。一〇万人の市民を盾にするという非情な策を立てた彼女も、本質的には俺の妹なのだ。

 

 ムルティ准将が喫煙所から戻り、三人で少し話した後、本番だとの連絡が入った。俺とムルティ准将は英雄の顔になり、妹は自信なさげについてくる。

 

 今日の番組のテーマは「恩師」であった。妹は専科学校時代に第一の恩師クリスチアン大佐が食べさせてくれた焼肉の話、最初の上官モウロ分隊長からもらったクリームパンの話、第二の恩師ディッキンソン将軍と一緒に食べた牛の丸焼きの話などをする。ムルティ准将は控室とは別人のような礼儀正しさで、英雄稼業のベテランとしての貫禄を見せた。

 

「フィリップス提督のお話をお聞かせください」

 

 司会者が俺にマイクを向ける。

 

「出会った人全員が恩師と言いたいところですが、あえて絞るなら……」

 

 俺はこれまで出会った恩師たちの話をした。

 

「――で、考えさせてくれと言うと、今すぐ決めろって怒鳴られたんですよ。ほんと、むちゃくちゃな人です」

 

 自分を軍人にしてくれたクリスチアン大佐の話。

 

「――イレーシュ提督が初めて笑ったんです。子供みたいにね。それを見て合格したって実感がわきました」

 

 勉強の楽しさを教えてくれたイレーシュ准将。

 

「――ドーソン提督から徹底的にご指導いただきました。駆け出しだった俺に真摯に向き合ってくださいました。神経質に見えますが、本当はとても人情味のある方です。最高の師に最高の教育を授けていただきました」

 

 仕事のやり方を教えてくれたドーソン大将の話。

 

「――トリューニヒト議長がおっしゃった言葉は忘れられません。『すべての人間が笑顔で同じ食卓を囲める世界を作りたい。議員と兵士と貴族と農奴が同じ食卓で同じ物を食べるんだ』と。心が震えました。いつか、そんな世界を見たいと思ったのです。あらゆる人々が一緒になってクーデターと戦った時、トリューニヒト議長の理想は現実のものとなりました」

 

 世界を見せてくれたトリューニヒト議長の話。

 

「素晴らしい師に出会えたことに感謝します。生き続けた甲斐がありました。戦い続けた甲斐がありました。本当にありがとうございます」

 

 俺はカメラに向かって頭を下げた。観覧席から割れるような拍手が飛んでくる。

 

 恩師たちはこの放送を見ていてくれるだろうか? ハイネセンポリス地上軍拘置所のクリスチアン大佐、国防委員会庁舎のイレーシュ准将、統合作戦本部のドーソン大将、そして最高評議会ビルのトリューニヒト議長……。

 

「わかってほしい」

 

 そんな思いを込めながら頭を下げた。トリューニヒト議長にわかってほしかった。じゃがいもを食べながら語り合ったことを覚えている。お好み焼き屋で交わした誓いを覚えている。場末の酒場で語ってくれた話を覚えている。今も理想を共有する同志なのだと。



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第87話:どうやら俺は偉くなりすぎた 801年12月上旬 国防委員会庁舎の一室

 一二月上旬、統一補欠選挙の告示が迫りつつあった。しかし、市民の盛り上がりはいま一つだ。リベラル勢力と保守勢力はクーデターで大打撃を被った。右翼勢力はトリューニヒト派に勢いがなく、全体主義者と科学的社会主義者だけが気を吐いている。補欠選挙なので政権交代には結びつかない。国論を二分するような争点は見られなかった。新党にしても、既成政党の後継組織に過ぎないので新鮮味に欠ける。

 

 トリューニヒト議長は再建会議との対決姿勢を打ち出した。クーデターはとっくに終わっているため、「反民主主義勢力を根絶やしにする」と言って、再建会議関係者やリベラル勢力へのバッシングを煽る。共通の敵を作り、自分を正義の味方に仕立て上げ、支持を集めようとしたのだ。ところが、今回は失敗に終わった。

 

 市民は再建会議支持者を叩く一方で、何もしなかった者も叩いた。いつの間にか、「すべての市民が反クーデターに立ち上がった」という「市民軍神話」が生まれた。市民軍に参加した者は功績を誇り、参加しなかった者は市民軍との接点を強調し、反クーデター闘争の思い出を語り合う。クーデター支持者や傍観者は「裏切り者」とみなされた。このような風潮の中では、逃げ回っていたトリューニヒト議長は裏切り者であり、叩かれるべき対象である。

 

 市民軍神話は嘘っぱちだ。そもそも、市民軍は惑星ハイネセンのローカル組織に過ぎない。ハイネセン星民一〇億人のうち、正式な市民軍隊員は三〇〇〇万人、非公式の協力者は一〇〇〇万人、支持者は二億人程度である。再建会議が報道規制をかけていたため、星外の人々はハイネセンの混乱を「右翼の暴動」と思い込んだ。星外の反再建会議勢力は市民軍の存在すら知らなかった。

 

 クーデターが顕在化させた断絶を修復するには、神話が必要だった。すべての市民が市民軍の一員となり、クーデターと戦った記憶を共有し、分裂した事実を都合よく忘れる。それが国家を再統合する唯一の方法だったのだ。

 

 トリューニヒト議長は、「国家をまとめるには大義が必要だ」と言ってきた。だが、大義が自分を叩く道具になるとは、さすがの彼も予想できなかったようだ。

 

 大衆党はトリューニヒト色を薄める一方で、有権者の歓心を買う戦略に出た。目標とする上院の単独過半数獲得、首都知事選の勝利、首都議会の過半数確保は微妙な情勢だ。

 

 リベラル勢力は真っ二つに割れた。旧進歩党・旧反戦市民連合・旧環境党・楽土教民主連合の四党が合同して、新党「和解推進運動」を結成した。和解推進運動に反発したグループは、「反戦・反独裁市民戦線(AACF)」を立ち上げた。

 

「今は和解する時だ。憎悪を乗り越えよう。異なる思想を持つ者が共存できる社会を作ろう」

 

 ジョアン・レベロ下院議員を代表とする和解推進運動は、和解が必要だと訴えた。反クーデター闘争の経験から、右翼と和解する必要性を痛感したのだ。

 

「トリューニヒト政権は、無為・無能・無責任の展示場。クーデターを起こされた責任を取れ」

「市民軍は右翼とごろつきの集まりに過ぎない」

「エリヤ・フィリップスは市民を盾にした戦争犯罪者だ」

「和解推進運動は右翼に媚びる負け犬」

 

 コニー・アブジュ下院議員を代表とするAACFは、戦闘的な姿勢で注目を浴びた。何も考えずに悪口を言っているわけではない。リベラリストから見れば、右翼は自由の敵であるし、特定の勢力が神聖化されることは危険極まりない。そんな中で起きたレベロ議員らの路線転換は、独裁にレールを敷いたように思われた。だから、市民軍や右翼との全面対決をあえて選択した。

 

「市民軍の戦いはまだ終わっていません。取り戻した民主主義を守らねばならないのです」

 

 コーネリア・ウィンザー下院議員が率いる中道新党「民主主義防衛連盟(DDF)」は、市民軍との関係を武器にした。候補者には市民軍で戦功を立てた人物をずらりと並べる。各地の党支部には、ウィンザー代表が奮戦する写真、候補者と市民軍の英雄が一緒に写っている写真を飾った。旧国民平和会議(NPC)左派の流れを汲んでいるため、政策面では堅実である。

 

 統一正義党と汎銀河左派ブロックは、クーデター鎮圧の功績を党勢拡大に繋げようと必死だ。大衆党が上院で過半数を獲得すれば、与党としての存在価値が失われてしまう。一つでも多くの議席を獲得したかった。

 

「どこの党もぱっとしないな」

 

 俺はリモコンのスイッチを押し、チャンネルを変えた。これほどつまらない選挙は珍しい。勢いのある党が一つもないのだ。

 

「そりゃ当然でしょう」

 

 前首都防衛軍情報部長ハンス・ベッカー准将が苦笑いを浮かべる。

 

「スターが出ない試合は盛り上がりません」

「期待されても困る」

 

 俺は砂糖とクリームでどろどろになったコーヒーを飲む。最近は「フィリップス待望論」なんてものが聞こえてくる。糖分をとらないと体がもたない。

 

「テレビや新聞は、あなたがどの党から出るかという話題で持ちきりですよ」

「立候補の話は山ほどあるんだけどね」

 

 二つのリベラル政党を除くすべての主要政党から、立候補の話が舞い込んできた。大衆党からはハイネセン都知事選への出馬を依頼された。統一正義党は上院タッシリ選挙区補選、汎銀河左派ブロックは下院バーラト三三区補選、独立と自由の銀河党(IFGP)は下院エルゴン一区補選、辺境市民連盟は上院ルンビーニ選挙区補選に出てほしいという。その他、地方の首長選に俺を擁立しようという動きもある。

 

 DDFのウィンザー代表はとんでもない条件を出してきた。立候補するなら、「好きな選挙区から出馬する権利」「党代表の地位」「選挙資金と別に裏金五〇万ディナール」をくれるそうだ。トリューニヒト議長から自意識を差し引き、無鉄砲さを加えれば、この人になるのだろう。

 

「全部断るんですか?」

「当然だ」

「びびっているんでしょう。あなたは小物ですから」

 

 ベッカー准将は俺という人間をよく理解している。

 

「そうなんだよ」

 

 俺はマフィンを二つに割り、大きな方を口に入れる。小物は権威に弱い。政治家になってほしいと言われると、自尊心をくすぐられる。しかし、所詮は小物なので、政治家になるなんて恐れ多いと思ってしまう。

 

「こんな話に巻き込まれるのは嫌でしょうしねえ」

 

 ベッカー准将は今朝の朝刊を開き、政治面を指さした。大衆党のホバン総務会長が党副代表に昇格したという記事だった。

 

「俺には関係ない」

 

 本当は大いに関係のある話である。数日前、ホバン総務会長が「下院ハイネセン四区から出馬してほしい」と持ち掛けてきた。俺がトリューニヒト議長に問い合わせると、そんな話は聞いていないという。その数日後、ホバン総務会長が七人目の党副代表に任命された。大衆党の副代表は実権がない名誉職である。

 

 大衆党の過半数は、トリューニヒト人気に乗っかっただけの人々だった。一二派閥のうち、トリューニヒト議長の子飼いは四派閥しかない。残りの八派閥は忠誠心のない外様派閥だ。

 

 ホバン総務会長は元進歩党右派の幹部で、労働組合出身議員を率いて大衆党に寝返った。彼自身は再建会議に逮捕されたが、配下の労組は市民軍の勝利に貢献し、党内での影響力を強めた。人気が落ちたトリューニヒト議長を追い落とし、党の実権を握るために、俺の人気を利用しようとしたらしい。労組の組織力と資金力、反クーデター闘争の功績をもってすれば、地盤のない俺を言いなりにできると思ったのだろう。迷惑極まりない話である。

 

「人気がありすぎるのも考えものですな」

「俺が政治家になりたがってると勘違いしている人が多くてね。支援や献金の申し出がたくさん来てるんだ。組織や資金がないと政治家になれないなんて嘘だ。人気があるというだけで、人も金も勝手に集まってくる」

「私の祖国では考えられない話です」

 

 ベッカー准将はグリーンティーをうまそうにすする。八年前に亡命してきた元帝国軍将校も、同盟風の飲み方を身に着けた。

 

「帝国は大変なことになってるみたいだ」

 

 俺はテレビに視線を移す。ニュースが帝国情勢を報じていた。レンテンベルク要塞に避難しているエルウィン=ヨーゼフ帝が、帝都に帰還するという。

 

「ずいぶん遅いお帰りだね。帝都を奪還してから三週間も過ぎているのに」

「調整に手間取ったんでしょう。皇帝が三〇キロ移動するだけで国家行事になるんです。まして、レンテンベルクは一二〇〇光年離れています」

「帝国全土で三〇〇万人が戦死、五〇〇万人が処刑されたんだろ。後始末が大変だよなあ」

「反乱の規模を考えると、信じられないほどに少ない犠牲ですがね。帝国にサジタリウス平和賞があったら、ローエングラム大元帥とオーベルシュタイン大将が満場一致で選ばれますよ」

「帝国人はそう考えるんだよな」

 

 俺は肩をすくめた。同盟人は戦死者三万人、処刑者五万人でも狂気の沙汰だと思うだろう。しかし、帝国人は少ないと考えるのだ。帝国文化をそれなりに理解しているつもりでも、極端な人命軽視だけは受け入れ難い。

 

 クーデター終結後、ルドルフ原理主義者討伐に関する詳しいニュースが入ってきた。ラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥一派の手並みは、同盟市民を驚愕させるには十分であった。

 

 革命軍討伐の勅命が下ると、ラインハルトは五〇〇〇隻を率いてオーディンへと直行した。そして、第三次ヴァルハラ会戦において、選民評議会艦隊一万二〇〇〇隻を壊滅に追い込んだ。衛星軌道を制圧した後、帝都奪還部隊一〇〇〇万人が降下した。

 

 帝都奪還部隊司令官オーベルシュタイン大将が用いた手段は、その苛烈さから「オーベルシュタインの首狩り」と称された。選民評議会軍に対し、「降伏すれば恩赦を与える。上官を捕らえて降伏すれば恩賞を与える。恩赦対象外の者を捕らえて降伏すれば恩賞を与える」との勅命を伝えた後に、攻撃を仕掛けた。降伏者はその場で釈放した。上官や恩赦対象外者を捕らえた者に対しては、テレビカメラの前で恩賞を与えた。戦って捕虜となった者は公開処刑した。降伏者に危害を加えた軍人は公開処刑した。これを繰り返した結果、選民評議会は三〇時間で消え去ったのである。

 

 キルヒアイス上級大将は辺境へと向かった。ダルムシュタット星域において、ルドルフ原理主義者の連合軍二万五〇〇〇隻を半数に満たない兵力で撃破した。

 

 震え上がったルドルフ原理主義者に対し、ラインハルトは最終勧告を叩きつけた。

 

「卿らは病人や老人をいたぶって、強者を気取っただけに過ぎぬ。誰が真の強者であるかを理解したならば、速やかに降伏せよ。強者の度量をもって卿らを受け入れよう。己が強者であると信じるのならば挑んでくるがいい。私が相手をしてやろう」

 

 痛烈極まりない皮肉であり、強烈な覇気の発露であった。絶対強者ラインハルトから見れば、強敵を恐れない姿勢こそが強者の証である。ゲルマン系男性というだけで強者を名乗ったり、劣悪遺伝子排除法を振り回して弱者を虐待したりする行為は、軟弱さの証明でしかない。

 

 ルドルフ原理主義者は迷うことなく降伏を選んだ。彼らのほとんどは平民である。生まれた時から強者として育てられた貴族とは違い、力の差を素直に受け入れることができた。

 

「ローエングラム一党は大したものです。戦争のやり方を知っています」

「凄いのは認めるよ。力の信奉者を屈服させるには、圧倒的な力で蹂躙するのがベストだ」

 

 俺は複雑な気分になった。ラインハルトとキルヒアイス上級大将が少数で多数に挑んだのも、オーベルシュタイン大将がテレビカメラの前で処刑を続けたのも、力を見せつけるためだ。流血の量を抑えたのは認める。前の世界で起きたヴェスターラント虐殺事件と違い、非戦闘員を無差別に殺したわけでもない。帝国人の基準なら人道的だろう。それでも嫌悪を覚える。

 

 結局のところ、価値観の問題なのだ。俺は人命の価値が高い社会の一員である。前の世界では、民主主義のバーラト自治区で過ごした。自治区が廃止された後は、選挙で選ばれた旧同盟人知事が統治者になったので、バーラトには人命を重んじる風習が残った。こうしたことから、人命尊重という民主主義者の常識が染みついていた。

 

「犠牲が少なく済んだとしても、ゼロではありません。政界の力関係も変わるでしょう。当分は帝国との戦争はないでしょうな」

「門閥派と先帝側近グループの対立が激しくなるね。ローエングラム大元帥は勝ちすぎた。バランスは先帝側近グループに大きく傾いてしまった。ブラウンシュヴァイク首相やリッテンハイム副首相としては、何としても巻き返したいところだろう」

 

 二つの大派閥が帝国を二分していた。一つは帝国首相ブラウンシュヴァイク公爵や第一副首相リッテンハイム公爵ら保守派門閥貴族を中心とする派閥で、門閥派と呼ばれる。もう一つはラインハルトや元老会議議長リヒテンラーデ公爵など、先帝フリードリヒ四世に抜擢された官僚や軍人を中心とする派閥で、先帝側近グループの名で知られる。

 

 両派の最大の対立点は財政問題である。先帝側近グループは貴族の免税特権を廃止しなければ、財政を立て直すことはできないと考えた。一方、門閥派は「貴族に課税すれば国内に金が回らなくなり、財政赤字が拡大する」と言って反対した。

 

「貴族財産に手を付けるのは禁じ手中の禁じ手です。同盟に例えると、地方政府の収入に課税するようなものですから」

「しかし、貴族財産は増えているじゃないか。ラグナロック前は三〇〇兆ディナールだったのに、今じゃ三三〇兆ディナールだ。物資不足は戦災を免れた地域の貴族を潤わせた。戦後復興事業のおかげで、フェザーンの金が貴族のポケットに収まった。国家財政が破綻したのに、貴族だけが豊かになったんだ。ルドルフ原理主義者が怒るのも無理はない」

 

 前の世界の戦記では「貴族財産」という言葉は、「無限の財源」と同義であった。門閥貴族を滅ぼして貴族財産を手に入れたラインハルトは、福祉政策を充実させ、フェザーンに新しい帝都を築き、毎年のように大軍を動かした。派手に使いすぎたおかげで、ラインハルト死後の為政者が財政難に悩まされたということは、戦記とは別の話になる。

 

「帝国経済における貴族の比重は飛躍的に高まりました。だから、厄介なんです」

「内戦をやって貴族を滅ぼすってのはどうだ?」

 

 俺は前の世界の記憶を参考にした。ラインハルト率いる改革派は、ブラウンシュヴァイク公爵率いる門閥貴族を打ち破り、莫大な貴族財産を獲得したのである。

 

「リンダーホーフ元帥の宇宙艦隊は門閥派です。九つの総軍のうち、メルカッツ総軍、オフレッサー総軍、シュターデン総軍、グライスヴァルト総軍、エッデルラーク総軍が門閥派を支持しています。私兵も加えると、先帝側近グループの不利は明白です」

「ローエングラム大元帥なら勝てるかもしれないよ。不可能を可能にする男だからね。二年前、ヴァルハラで嫌というほど見せつけられたじゃないか」

「門閥派にはメルカッツ総軍がいます。対同盟戦を想定した精鋭で、戦力的には大元帥府の部隊と互角です。メルカッツ司令官の手腕については、言うまでもありません」

「他の部隊だけを相手にすればいい」

「ゲリラ戦に持ち込まれたら苦しいですよ。ラグナロックのおかげで、帝国軍は防衛戦のノウハウを蓄積しました。四年前なら艦隊戦だけでケリが付いたでしょうが、今は違います。宙陸一体の防衛戦が当たり前になっています」

「結局、ラグナロックに行き着くんだよなあ」

 

 人類史上最大の大戦は、用兵思想をがらりと変えた。艦隊決戦で勝ったら決着する時代は終わった。ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ローエングラムといった前世界の天才は、この世界の変革にも柔軟に対応してのけた。それでも、できることとできないことはある。負けず嫌いの貴族とゲリラ戦という組み合わせは、攻める側にとっては悪夢に等しい。

 

「内戦は起きないでしょう。フェザーンが金を貸しません。帝国がこれ以上弱体化したら、勢力均衡政策が崩壊します」

「貴族は資産のほとんどを投資に回しているからね。先帝側近グループの資金源になっている皇室財産も同じだ。有価証券と不動産は山のように持っているけど、現金がない。借金しないと現金を調達できないんだ。大金持ちってのはみんなそうだけど」

「しばらくは宮廷闘争が続くでしょうな。その次は財政再建が待っています。先帝側近が勝てば貴族への課税、門閥貴族が勝てば平民とフェザーン企業への課税強化。どちらにしても国内の反発は必至です」

「フェザーン自治領主府は中立を守るだろうね。貴族に課税されたら、貴族マネーの運用で儲けている金融業界がダメージを受ける。関税が強化されたら、交易業者がダメージを受ける。どっちに肩入れしても、フェザーン経済界はごたごたする」

「少なくとも五年間は平和ですよ」

「その分、こちらは部隊錬成に専念できるわけだ」

 

 俺がそう結論付けた時、部屋に男女六人が入ってきた。チュン・ウー・チェン少将、サフィル・アブダラ少将、イレーシュ・マーリア准将、サンジャイ・ラオ准将、セウダ・オズデミル准将、エドモンド・メッサースミス大佐ら腹心の幕僚である。

 

「食糧を調達してきました」

 

 部下たちが袋をひっくり返すと、机の上にパンの山ができた。

 

「グリーンヒル大将からの差し入れです」

 

 メッサースミス大佐がバスケットの蓋を開けた。潰れていないサンドイッチがきれいに並べてある。

 

 宇宙軍の重鎮ドワイト・グリーンヒル大将は、料理の達人としても有名だ。サンドイッチ、クレープ、ハンバーガーなど挟むものにかけては、プロも顔負けだと言われる。彼に好意的な人は「挟撃作戦が得意だから、挟むものが得意なのだ」と称賛し、非好意的な人は「他の料理が作れないんだろう」と皮肉る。

 

「うまそうだなあ」

「私とは年季が違います」

 

 メッサースミス大佐は胸を張った。グリーンヒル大将の薫陶を受けた軍人は、みんな挟撃作戦とサンドイッチ作りが上手になる。前の世界の戦記は、グリーンヒル大将の娘フレデリカを「サンドイッチなど挟むだけの料理しか作れない」と評したが、それも父親のせいなのだろう。

 

「準備が整ったことだし、ミーティングを始めよう」

 

 今日はチーム編成を決めるために集まった。英雄扱いされていない幕僚たちは、市民軍の後始末をする部局で働いている。そこにテレビ出演を終えた俺が合流したのだ。

 

「参謀長は引き続きチュン・ウー・チェン少将に任せる。アブダラ将軍は地上担当の副参謀長だ。宇宙担当の副参謀長は、ここにいるメンバーの中から選びたい。部長クラスは――」

 

 俺は自分の構想を説明した。参謀長、副参謀長、部長級を古参で固め、副部長以下に新規採用者を加える。幕僚は頭脳であり、手足であり、耳目でもある。使い慣れた人物が一番いい。

 

「大物を引っ張ってくる気はないんですか? 今の司令官閣下なら、統合作戦本部のエリートだって取れますよ」

 

 ラオ准将が確認するように質問する。

 

「やめておこう。士官学校優等卒業者を三人も抱えているんだ。元統合作戦本部部員、元宇宙艦隊総司令部部員なんかもいる。これ以上欲張ったら恨まれる」

 

 チーム・フィリップスは規模の割にエリートが多い。失脚した提督の幕僚を引き取ったり、左遷された人物を拾ったりしたおかげで、充実したチームを作ることができた。しかし、人材を抱え込み過ぎているという批判もある。

 

「参謀が足りないもんねえ」

 

 イレーシュ准将は参謀有資格者名簿をぱらぱらとめくる。ラグナロックとレグニツァの敗北、戦後の粛清や軍縮により、大量の参謀有資格者が失われた。クーデター関係者の粛清が進めば、相当数の参謀有資格者が消えるだろう。

 

 一方、参謀需要は大いに高まった。選挙後に同盟軍再編が実施される予定だ。高級司令部の数が急増するという。参謀教育を行う士官学校の卒業者は、一年で五〇〇〇人前後に過ぎない。平凡な参謀ですら不足している。

 

「国防委員会は参謀を集めるのに必死ですよ。結婚して専業主婦になった人とか、民間に転職した人にも現役復帰を求めていると聞きます」

 

 ラオ准将の声に憂いが混じった。

 

「そういえば、不祥事で予備役になった人を復帰させるという噂を聞いたね」

 

 イレーシュ准将が形の良い眉をひそめる。

 

「優秀な予備士官課程出身者を集めて、即席の参謀教育を施すという話もあります」

 

 アブダラ少将が難しそうな顔で腕を組む。

 

「無茶苦茶だな」

 

 俺は憂鬱な気分になった。参謀は一種の特殊技能だ。中途退職者を呼び戻すのはいい。しかし、不祥事を起こした人や予備士官出身者まで使うのはやりすぎだろう。

 

「問題は副司令官です」

 

 チュン・ウー・チェン少将が話題を変える。

 

「指名権をもらったんだ。思う存分活用しないとね」

 

 本来、司令官は幕僚チームの人事権しか持っていないが、部隊編成権をもらえる場合もある。俺はクーデター鎮圧の褒美として編成権をもらった。正規艦隊司令官の指名権まで持っていたアッシュビー提督には及ばないが、副司令官と司令官直轄部隊長は自由に選べる。

 

 副司令官は参謀長と並ぶ要職だ。参謀長が幕僚チームのまとめ役であるのに対し、副司令官は部隊長のまとめ役を担う。平時は司令官の分身として隊務を補助し、戦場に出ると別動隊や予備戦力の指揮をとる。司令官が留守にしている時や倒れた時は、副司令官が代理を務めるのである。

 

 優れた副司令官なくして強い部隊は生まれない。前の世界のヤン提督はフィッシャー中将、今の世界のヤン提督はムライ中将という優れた副司令官とコンビを組んだ。旧第一一艦隊のストークス元中将、旧第一二艦隊のコナリー元中将、旧第一〇艦隊のモートン中将、旧ラップ分艦隊のアッテンボロー少将らは、実力派の副司令官として名高い。

 

 無能な俺には優れた副司令官のサポートが必要である。ヴァンフリート四=二基地憲兵隊の故トラビ大佐、エル・ファシル防衛部隊のアブダラ少将、第三六機動部隊や前方展開部隊の故ポターニン少将らがいなければ、生き残ることはできなかっただろう。第八一一独立任務戦隊のオルソン准将、首都防衛軍のカウマンス少将は頼りにならなかった。力のある副司令官を選びたいと思う。

 

「意中の人物はおられますか?」

「エドウィン・フィッシャー」

 

 俺は大本命の名前を口にした。俺ごときが部下にするのは恐れ多い。だが、英雄チュン・ウー・チェンを参謀長にしているのだから、今さら遠慮することもないだろう。

 

 エドウィン・フィッシャー中将は前の世界の名将である。ヤン・ウェンリーの副司令官を務め、天才の作戦を滞りなく実施する役割を担った。この世界でも速攻で知られた故ヘプバーン提督を副司令官として支えた。部隊を素早く動かす能力は超一流だ。天才の副司令官を部下にできると想像するだけで、心が躍りそうになる。

 

「だめでしょう」

 

 チュン・ウー・チェン少将は簡潔明瞭に否定した。

 

「君たちは賛成するよな?」

 

 俺は幕僚たちの顔を見回す。

 

「他の人を選んだ方がいいんじゃないですか」

「賛成できません」

「やめときなよ」

 

 誰も期待に応えてくれなかった。

 

「どうしてだ?」

「司令官と副司令官の両方が戦術下手というのはまずいです」

 

 チュン・ウー・チェン少将は常識論で反対する。

 

「そこは練度と士気で補うさ。フィッシャー提督は練度管理の名人だからね」

 

 部隊管理の中で特に重要なのが練度管理である。時間をかけて訓練しても、経験の共有、知識の蓄積、訓練と休養のバランス、日程の組み方、モチベーションの維持などを考えないと、漫然と手を動かしただけに終わってしまう。また、人員入れ替え、艦艇のドック入り、部隊の再編成は練度を低下させる。フィッシャー中将は練度を高水準で維持する手腕の持ち主だ。

 

「フィッシャー提督は優秀な戦術家の下で本領を発揮します。高練度を維持する能力と、素早く行軍させる能力はあります。しかし、消極的すぎるので、司令官の適切な指示が必要です」

「練度と士気で押し切るんだ」

 

 俺は一歩も譲らない。優秀な戦術家を選ぶのがベストなのはわかる。ストークス元中将にもそう言われた。しかし、戦術能力と相性の良さを兼ね備えた人がいないのだ。ベストが望めないなら、長所をとことん伸ばすのがベターではないか。

 

「ローエングラム大元帥やメルカッツ元帥に通用すると思いますか?」

 

 チュン・ウー・チェン少将は穏やかだが容赦がない。

 

「厳しいかな……」

「あなたは同盟軍の主力を率いるのです。ローエングラム大元帥、メルカッツ元帥、キルヒアイス上級大将あたりを仮想敵だと考えてください。戦術能力、練度、士気を最高水準で備えなければ、彼らには対抗できません」

「わかった」

 

 俺はがっくりと肩を落とした。帝国のトップクラスと戦うと想像するだけで、気が重くなってくる。出世しすぎるのはいいことではない。

 

 ミーティングが終わると、俺はテレビ局が寄越した車に乗った。これから夜のニュース番組にゲスト出演するのだ。

 

「この人の部下だった時は楽だったなあ」

 

 ノート型端末を開いてため息をつく。画面に映っているのは、かつての上官ウィレム・ホーランド予備役中将からもらった長文のメールだった。クーデター終結から三週間が過ぎ、フィーバーが多少収まってきたため、目を通す余裕ができた。

 

「クーデター前に読まなくて正解だった」

 

 俺にしては珍しく正しい判断だったと思う。大仕事の前に読むには、重すぎる内容であった。

 

「これからは上官に頼れないのか」

 

 端末を閉じて車の背もたれに体重を預ける。次のポストは未定だが、どこかの総軍の司令官に収まる可能性が高い。自分より上位の司令官がいない状況で戦うことになる。それはとてつもなく心細いことだった。



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第88話:祭りの後は雨模様 801年12月中旬~12月19日 エルビエアベニュー~カフェ「パリ・コミューン」~郊外の墓地

 同盟全土が選挙一色に染まっているように見えた。候補者は街角に立って演説を行い、運動員はビラを配り、宣伝カーは候補者の名前を連呼する。ポスターと立て看板が街を埋め尽くす。テレビと新聞は選挙関連のニュースを流し続ける。事情を知らない人が見れば、同盟市民は選挙のことだけを考えていると錯覚するに違いない。

 

 しかし、こうした盛り上がりは上辺だけだった。市民が関心を寄せる問題については、九か月前の選挙で結論が出た。改選対象議席の九割は野党議席なので、与党が議席を増やすのは確実だ。どうでもいい選挙である。

 

 選挙戦が始まると同時に、市民軍フィーバーは終焉を迎えた。一か月も騒ぎ続けると、めぼしいネタは出尽くしてしまう。賞味期限が切れた話題より退屈な話題の方がましだ。

 

 一二月中旬の休日、俺はハイネセンポリスの都心部に出かけた。一人で外出するのは二か月ぶりとなる。染髪スプレーで髪の色を変え、目にカラーコンタクトをはめ、正体を見破られないように工夫した。

 

「きれいだなあ」

 

 久しぶりに歩く街がとても懐かしく感じられた。人間であふれかえった歩道、真新しい立派な建物、ショーウィンドーに並ぶ色とりどりの商品、しきりに流れるクリスマスソングは、この時期の大都市なら平凡な風景だ。クーデターを乗り越えたおかげで、その平凡さが何物にも代えがたいと思う。

 

 ファッション街「エルビエアベニュー」に足を踏み入れる。最初に来た時は、あまりのおしゃれな空気に恐れを感じたものだ。今は一人で服を選べるし、他人の服選びにアドバイスすることもある。ファッションという分野と俺の性格は相性が良い。イメージを気にする生き物にとって、時と場所をわきまえた服装は必要不可欠な武器だ。

 

 何となしに左隣を向いた。誰もいないことを思い出し、少し寂しい気持ちになる。そこを定位置にしていた人物は、二年前に世を去った。

 

 携帯端末を開き、ダーシャの写真を眺めた。五年前、彼女に服を選んでもらい、一日で二二〇〇ディナールが吹き飛んだ。今となっては良い思い出である。

 

「ジレッティ先生をよろしくお願いします」

 

 明るいオレンジ色のウィンドブレーカーを着た女性が、ビラを差し出してきた。俺は反射的に受け取って目を通す。

 

「治安を守る! 犯罪をなくす! テロと戦う! 安全な社会を作ります!

 

 大衆党下院議員候補 元首都警察公安部長 シルヴェリオ・ジレッティ」

 

 宣伝文句と肩書きは強面っぽい印象だが、顔写真は枯れきった老人だった。どんなに若く見積もっても、八〇歳以下とは思えない。元警察官僚というだけで引っ張り出されたのだろう。クーデター以降、トリューニヒト議長は出身母体の警察への依存を強めている。

 

「あれ?」

 

 女性は不思議そうな表情になった。

 

「どこかでお会いしませんでした?」

「初めてだと思いますが」

「エリヤ・フィリップス提督じゃないですか?」

「違いますよ」

 

 俺は即座に否定したが、内心では焦っていた。髪の色も瞳の色も変えたのに、なぜ見破られたのか。

 

「おかしいなあ。髪と瞳の色は違うけど、どう見てもフィリップス提督なんですよね」

「見間違えじゃないですか? どこにでもいる顔ですから」

「私、一度見た人の顔は絶対に忘れないんです。微妙な違いも一目でわかっちゃいます。数少ない特技でして」

 

 彼女は自分の目に自信があるらしい。一度見た顔を完全に記憶できる能力の持ち主は稀にいる。同盟軍だと、ヤン大将配下のフレデリカ・グリーンヒル代将が有名だ。

 

「どこで見かけたんです?」

 

 俺は質問しながら彼女を観察する。トレーナーには候補者名と党名がプリントされているので、大衆党の運動員なのは間違いない。年齢は二〇歳前後だろう。目がぱっちりしていて可愛らしい顔だが、化粧っけがまったくなく、口紅や眉カットすらしていない。ゆるくウェーブした赤毛は腰まで伸びており、前髪の分け目はきっちり分かれていた。漂白されたような清潔感を感じる。

 

「覚えていませんか?」

「ええ……」

 

 別人だと言い張ることに決めた時、彼女の左手首に目が止まった。地球教の紋章「太陽車輪」のブレスレットが巻かれている。

 

「六年前です。シャンプール基地の近所で、少しだけお話させていただきました」

 

 その一言でわかった。海賊討伐作戦の時に出会った地球教徒だ。エル・ファシルの出身で、困窮したところを地球教団に救われたと言っていた。

 

「本当に覚えていらっしゃらないですか?」

「ああ、エル・ファシルの子か。だいぶ前のことだから忘れていた。本当に申し訳ない」

 

 他人の振りをすることもできたが、良心が許さなかった。エル・ファシル人に対しては負い目がある。

 

「いいですよ。お目にかかれただけでも嬉しいですから」

 

 彼女の笑顔からあふれそうなほどの喜びか伝わってきた。社交辞令の成分は見られない。本当に喜んでくれているのだろう。

 

「ありがとう。今はハイネセンに住んでいるのかな?」

「はい。家族全員でシュガーランド区の区営住宅に入居しました」

「愛国的な地域だね。地球教の信徒もたくさん住んでいるから、住みやすいんじゃないか」

 

 俺は得心したように頷いた。シュガーランドは右翼的地域「褐色のハイネセン」の一部で、クーデターの時は市民軍に味方した。

 

「はい。本当にいい街です」

「仕事は見つかったか?」

「私と父はテイラー・ハミルトン、母はヘンスローに就職しました。姉はずっと前から軍隊にいます。弟は今年から首都警察の警察官です」

「いい仕事を見つけたね。テイラー・ハミルトンといえば、宇宙船業界の最大手だ。他のご家族もみんな愛国的な仕事をしている」

 

 右翼軍人という俺の立場からいえば、彼女の一家の就職先は理想的であった。テイラー・ハミルトンとヘンスローは大手軍需企業、軍隊は国を守る仕事、警察は治安を維持する仕事だ。

 

「信仰の力です。母なる地球が助けてくださったのです」

 

 彼女の目が純粋な光で満たされる。

 

「信じることは何よりも強い」

 

 俺は彼女の言葉を肯定した。半分はポジティブな意味、半分はネガティブな意味である。もっとも、相手はネガティブな意味には気づかなかったようだ。

 

 地球教団は宗教右派団体「愛国宗教者協会」の一員であり、大衆党の支持団体でもある。宗教右派の勢力が強いシュガーランドなら、地球教徒は区営住宅に入居しやすいはずだ。大衆党の口利きがあれば、軍隊・警察・軍需企業への就職には有利だろう。確かに信仰の力である。

 

 彼女は教団の指示で運動員になった可能性が高い。宗教団体が選挙運動に信者を動員するのは、珍しいことではなかった。

 

 もっとも、クーデター前だったら、太陽車輪を付けたままビラを配ったりはしなかっただろう。リベラリストや保守派など「良識ある市民」は、宗教右派の宗教色と右翼色を嫌った。クーデターが「良識ある市民」を失墜させ、政治家と宗教右派の関係を大っぴらにできる世の中を作った。

 

 一瞬、背筋に冷たいものを感じた。宗教右派が勢力を広げたらどうなるのか? 同盟政府と協調できるなら構わない。だが、教団の利益と同盟の国益が常に一致するとは限らないのだ。前の世界では、ローエングラム朝と地球教団が抗争を繰り広げた。この世界でも同じことが起きるかもしれない。

 

 宗教右派の中で最も強力なのは地球教団だ。大勢の退役軍人を動員できる上に、アース・セキュリティサービス(ESS)という強力な傭兵部隊まで抱えていた。大衆党とのコネを利用すれば、軍隊・警察・軍需企業に信者を送り込み、安全保障の根幹に食い込むことができる。フェザーンとの関係を抜きにしても、十分すぎるほどに大きな脅威といえよう。

 

 その他の教団も決して無視できない。十字教贖罪派、楽土教清浄派、美徳教団は、地球教団に次ぐ戦闘力を有する。

 

「どうかしました?」

 

 彼女が心配そうに俺の顔を覗き込む。

 

「いや、なんでもない。心配させてすまなかった」

「悩み事があったら、いつでも教会に来てくださいね。主祭様が相談に乗ってくださいますから」

「信徒でなくても聞いてくれるのか?」

 

 元地球教徒なので答えはわかっているが、知らないふりをして質問する。

 

「もちろんです。人類はみんな地球神テラの子供ですから」

 

 予想通りの答えが返ってきた。

 

「君たちの神様は優しいんだな」

「わかってくださるんですね」

「君の一家を救った神様なんだ。優しいに決まっている」

 

 俺は本音を口にした。神様は優しい。神様を信じる者も優しい。前の人生では、大地神テラとその信者が飯を食わせてくれた。

 

 彼女と別れた後、街を歩きながら考えた。地球教団とは敵対したくないと思う。個人的に恩を感じているし、この世界でも対立する理由はない。だが、同盟に牙をむくことがあれば、戦わざるを得ないだろう。

 

「あるいは……」

 

 怪文書『地球通信』に記された地球教団のマネーロンダリング疑惑。これが事実だったら許すことはできない。

 

 七年前、アルバネーゼ一派とカストロプ公爵の関係を同盟に伝えたのは、主教になったばかりのド=ヴィリエだった。同盟軍に巣食う麻薬マフィアを一掃し、イゼルローンルートを潰すことができたのは、彼の尽力によるところが大きい。だが、地球教団が大手麻薬組織「カメラート」のマネーロンダリングをしていたとなると、話が変わってくる。フェザーンルートを支配するカメラートを潤わせるために、情報を流したとも受け取れるからだ。

 

「仮定を重ねても無意味だな」

 

 俺は地球通信を脳内の奥深くにしまい込んだ。手の込んだ作りだったが、しょせんは怪文書である。アルバネーゼ一派は再建会議に加担していた。地球教のイメージダウンを図るために、カメラートと結びつけた可能性もある。真偽を確認する術がない以上、今のところは事実でないと判断するのがベターだろう。

 

 とりあえずは同盟軍内部における宗教右派の動きに注意することだ。有用な戦力と危険分子は紙一重である。強いのはいいが、強すぎるのは困る。

 

 地下鉄に乗り、ウィナーフィールド駅で降りると、カフェ「パリ・コミューン」へと入った。四年前、友人アンドリュー・フォークから帝国領侵攻作戦の原案を見せられた店である。

 

 九か月ぶりのパリ・コミューンは、相変わらず反戦的な店だった。ドアを開けると、反戦・反独裁市民戦線(AACF)のポスターが目に飛び込んでくる。その横には、パトリック・アッテンボローの新著『エルファシル独立戦争史――ワンディー・プラモートの九四四日』の宣伝ポスターがあった。壁には反戦団体のポスターが隙間なく張られている。バックミュージックはもちろん反戦歌だ。

 

「よう、ちび兄ちゃん。久しぶりじゃないか」

 

 長髪に口髭とあご髭を生やしたマスターが声をかけてきた。

 

「最近は忙しかったもので」

「いろいろあったからなあ。テントウ虫の姉ちゃんやトリプラさんは、パクられちまったし」

 

 マスターは力なく笑った。「テントウ虫の姉ちゃん」はハイネセン記念大学の大学院生、「トリプラさん」はトリプラ星系出身の弁護士で、どちらもこの店の常連客だ。

 

「再建会議の関係ですか?」

「そうなんだよ。再建会議のスタッフになったせいで捕まった。武力行使が決まった瞬間に抜けたんだけどな。一度でも再建会議に入ったら逮捕ってのが権力の方針だ。市民軍に寝返ってりゃ、無罪放免になったんだろうが」

「早く釈放されるといいですね」

 

 本心からそう言った。再建会議とは敵だったが憎しみはない。テントウ虫姉さんやトリプラさんみたいな末端構成員については、逮捕する必要はないと思っている。

 

「ところで今日も列で頼むのか?」

「もちろんです」

 

 俺はメニューが書かれている黒板を見た。

 

「あれ?」

「どうした」

「レべロ先生のポスターはなくなったんですか?」

 

 黒板の脇はジョアン・レベロ議員のポスターの定位置なのに、違うポスターが貼ってある。

 

「あんな奴、先生じゃねえ。クソ右翼だ」

 

 マスターが苦々しげに吐き捨てる。

 

「和解なんてできるわけないだろう。右翼は戦争をしたがってる。人殺しなんだ」

「そうですね」

 

 俺は曖昧な笑いを浮かべる。

 

「フィリップスにたぶらかされたんだ。あいつはルドルフやヒトラーの同類だ。人を洗脳する魔力があるのさ」

「どこにでもいそうな兄ちゃんでしょう」

「物事を軽く見るのがちび兄ちゃんの悪いところだ。敵を憎むのはいいが、舐めちゃいかん」

「そんなに怖そうには見えませんよ」

「ちゃんと考えろ。銀河経済を人質にとって降伏を要求するなんて、並の人間に考え付く策じゃないぞ。オーベルシュタインなんかよりずっと悪辣なマキャベリストだ。一個師団を舌先一つで武装解除するなんて離れ業もやってのけた。フィリップスは本物の怪物だ」

 

 マスターは真剣そのものだった。根っからのリベラリストから見れば、エリヤ・フィリップスは怪物なのだ。その事実を直接確認できただけでも、来た甲斐があった。

 

「気を付けます」

「選挙はAACFに入れてくれよ。フィリップスと市民軍を阻止できる唯一の党だ」

「考えておきます」

 

 マスターとの会話を終えた後、俺は隅っこの席へと歩いて行った。小物なので隅っこの方が落ち着くのだ。

 

 席に着いた俺はバイトを手招きし、黒板の一番左の列を指さした。この列の食べ物を上から下まで全部注文するという意味である。

 

 出てきた食べ物を食べ尽くしたら、今度はバイトを呼んで一つ右の列を指さす。それを食べ尽くしたらもう一つ右の列といった具合に、片っ端から注文していった。パリ・コミューンには「列料金」というのがあり、列で注文して全部食べ尽くすと、その列については一割引きになる。

 

 パリ・コミューンはいい店だった。列料金をやってる店なんて他にはない。エリヤ・フィリップスを英雄だと思っている人間が一人もいないので、ただの「ちび兄ちゃん」でいられる。自分の悪口を言われていても、実像とかけ離れすぎているので気にならなかった。

 

「もう一度、アンドリューと一緒に来たいなあ」

 

 そんなことを思いながら、パリ・コミューンを後にした。のんびりと街を歩きながら駅へと向かう。

 

 ウィナーフィールドの街には、AACFのポスターしかなかった。和解推進運動のポスターは一枚も見かけない。この街のリベラリストが二つのリベラル政党をどう見ているのかがよくわかる。

 

 和解推進運動のレベロ代表は、「普通の人々の信頼を取り戻さなければならない」と語り、右翼とリベラルの和解を訴えた。左右が同意できる「国家存続」という目標を掲げ、そのためには「国内対立の解消」「財政破綻の回避」「対帝国講和の実現」が必要だと述べる。リベラル政党が得意としてきた他党批判や既得権批判は抑えた。改革については、「必要だが今はその時ではない」と述べる。

 

 こうした努力にも関わらず、和解推進運動は伸び悩んだ。右翼に歩み寄ろうとする姿勢が反発を買った。従来の支持者はAACFに流れた。右翼や保守層の心象は良くなったが、彼らは講和論者には投票しない。「政策で勝負する」と言って、市民軍との関係をアピールしなかったので、浮動票を掴めなかった。

 

 資金難も和解推進運動を苦しめた。母体となった四党のうち、楽土教民主連合以外の三党はテロ組織認定を受け、資産を凍結された。支援していた企業・団体は、クーデターに加担して活動停止に追い込まれたり、AACF支持に回ったりした。テレビコマーシャルすら流せない状況だ。

 

 一方、AACFの勢いは凄まじい。他党や既得権を徹底的に批判し、右翼を「馬鹿」「無能者」と罵るスタイルがリベラリストの心を掴んだ。市民軍神話に対する批判、クーデター支持者バッシングに対する批判は、現在の風潮に違和感を持つ人々から共感された。

 

 大衆党はかつての国民平和会議(NPC)のような組織選挙を繰り広げた。軍需企業、宗教右派教団、右翼団体、退役軍人連盟、労働組合が組織ぐるみで大衆党を支援している。派手な公約を次々とぶち上げ、帝国人捕虜一六〇〇万人及び難民五〇〇万人を帝国に送り返すなど、注目を集めるための手を繰り出す。右翼票目当てのリベラル叩きと再建会議叩きにも余念がない。

 

 統一正義党、汎銀河左派ブロックといった反ハイネセン主義政党は、リベラル叩きと再建会議叩きに精を出す。反クーデター闘争の功績でイメージは良くなった。しかし、反資本主義・反フェザーンの主張が災いし、企業献金が集まらない。

 

 NPCの後継組織である民主主義防衛連盟(DDF)も他党批判に力を入れた。右翼を「無学な貧乏人」と蔑み、リベラリストを「夢見がちな理想家」と嘲り、自分たち保守主義者こそが現実的だと誇る。しかし、穏健なハイネセン主義・緩やかな改革・対外積極策という「現実的ハイネセン主義」は、この一〇年間で無効だと証明された政策だ。保守層以外には支持されなかった。

 

 ほんの一か月前、「ウィー・アー・ユナイテッド(我々は一つ)」と叫んだ人々が、亀裂を広げることに熱中している。市民軍の勝利は分断を深めただけではないか。そんな思いを禁じ得ない。祭りの後にはつまらない日常が待っていた。

 

 

 

 一二月一九日、レヴィ・ストークス元宇宙軍中将の葬儀がひっそりと行われた。小雨の中、故人の親族や友人など一五名が最後の別れを告げるために集まった。

 

 出席者の過半数が軍人であるにも関わらず、軍服を着用する者は一人もいない。ストークス元中将は公的には反逆者である。軍人として参列することは許されないのだ。立派な肩書きを持つ者も会葬者名簿に姓名と連絡先のみを記し、私人として参列した。

 

 俺はストークス元中将の墓前にひざまづいた。階級を剥奪されたため、墓石に階級は刻まれていない。

 

「あなたのような名将をよこしてください」

 

 真剣な思いを込めて祈る。帝国の名将と渡り合うには、ストークス元中将と同等かそれ以上の名将が必要なのだ。

 

 立ち上がって後ろを向くと、泣き崩れている少女が視界に入った。ストークス元中将の末娘アシュリン嬢である。

 

「父は『お前の選んだ道ならとことんやり通せ』と言いました。身をもって手本を示してくれたんです」

 

 彼女は劇団員で、軍人一家のストークス家ではただ一人の非軍人だった。役者になりたいと言った時、ストークス元中将は猛反対したが、「最後までやり通す」という条件で認めた。

 

「立派な役者になってください。それが何よりの弔いになります」

 

 俺はアシュリン嬢に優しく笑いかける。

 

「何かあったら我々に相談してくれ。みんなお父上の戦友だからな」

 

 宇宙艦隊副司令長官ルグランジュ大将が力強く励ました。

 

「ありがとうございます」

 

 アシュリン嬢は何度も何度も頭を下げた。両目から大粒の涙がこぼれ、雨とともに地面へと流れ落ちる。

 

 元艦隊参謀長エーリン中将、元B分艦隊司令官ペク中将らも、アシュリン嬢に励ましの言葉をかけた。元D分艦隊司令官ホーランド予備役中将ら星外にいる者は、メッセージを送ってきた。旧第一一艦隊の団結は今も健在だった。艦隊がなくなっても、戦友の絆が消えることはない。

 

 ストークス元中将の妻マリシャ夫人、長男リアン氏、長女キアラ嬢も涙を流して感謝した。よほど嬉しかったのだろう。

 

 クーデター関係者の家族は、激しいバッシングにあっている。自宅にマスコミが押しかけ、近所や職場では白い目で見られるようになり、ネットには誹謗中傷や個人情報が書き込まれた。退職や退学に追い込まれたケースもあった。この世には、「罪人の家族には何をしてもいい」と考える者がいるのだ。ストークス家の苦労は想像に難くない。

 

 葬儀が終わり、俺たちはやりきれない気分で墓地を出た。ストークス元中将がああするしかなかったのは理解できる。それでも、残された者の現実を思うと、複雑な思いに囚われるのである。

 

 墓地の入り口に差し掛かると、十数名の人影が飛び出してきた。カメラのフラッシュが光り、目の前にマイクが次々と突きつけられた。

 

「ストークス容疑者の葬儀に出たんですよね!?」

「旧第一一艦隊の方々は、ストークス容疑者を肯定的に見ている。そう受け取ってよろしいのでしょうか!?」

「これは市民への裏切りですよ! わかっているんですか!?」

「納得のいく説明をお願いします!」

 

 レポーターたちは質問とも糾弾ともとれるような言葉を浴びせてきた。遺族は恐怖で固まり、ルグランジュ大将らの視線に怒気がこもる。

 

「おっしゃる通り、ストークス元中将の葬儀に出席いたしました」

 

 俺は穏やかな表情で答えた。

 

「なぜ反逆者の葬儀に出席なさったんです!?」

「旧第一一艦隊の戦友だからです」

「戦友なら反逆罪も許される! そうおっしゃるのですね!?」

「彼の罪は許されるものではありません。国家への反逆より大きな罪はないですから」

「あなたは反逆者を戦友と呼びました! そして、葬儀にも出ています! 許したということではないのですか!?」

 

 レポーターは「反逆罪を許した」と頭ごなしに決めつけた。

 

「戦友だから許せないのです。彼は道を誤った。旧第一一艦隊隊員の信頼を裏切った。共に戦ってきた者だから許せないんだ」

 

 声の中に「残念だ」「裏切られた」というニュアンスを込める。

 

「本当に残念でたまらないんです。『なぜこんなことをしたのか?』と問いたいんだ。『どうして止められなかったのか?』と悔やんでいるんだ。おわかりいただけませんか?」

 

 俺はレポーターの目をまっすぐに見据える。質問の名を借りた糾弾が止まり、墓地は静けさを取り戻す。完全にこちらのペースになった。

 

「取材熱心なのは結構です。しかし、何事にも限度はあります。遺族や友人まで犯罪者呼ばわりして追い掛け回すというのは、限度を超えていると思いますよ」

「しかし、市民には知る権利があります」

「遺族や友人だって市民でしょう。市民はみんな平等なんです。片方だけが尊重されて、片方だけが尊重されないのは不公平ですよ」

「…………」

 

 レポーターたちは気まずそうに顔を見合わせる。

 

「取材をしたいのなら、喜んでお受けしますよ。心の準備が必要ですので、アポを取ってからにしてくださいね」

 

 俺は爽やかそうに見える笑顔を作り、レポーターたちに連絡用アドレスを記した名刺を配る。

 

「ありがとうございます。お話ししたいことがございましたら、いつでもご連絡ください」

 

 レポーターたちは頭を下げて参列者に名刺を配ると、そそくさと去っていった。

 

「さあ、行きましょうか」

 

 俺は参列者に本物の笑顔を向けると、墓地の外に出て、ルグランジュ大将やエーリン中将とともに地上車に乗り込んだ。

 

「貴官を連れてきてよかった。私なら怒鳴っていたところだ」

 

 ルグランジュ大将が疲れたような顔で息を吐いた。

 

「慣れていますから」

 

 俺は力のない笑いを浮かべる。

 

「ハイエナに付きまとわれるのも、英雄の仕事のうちか」

「付きまとうのがレポーターの仕事です」

「寛大なことだ」

 

 ルグランジュ大将は半ば感心、半ば呆れたといった感じだ。

 

「これがジャーナリズムの自由ですよ」

 

 エーリン中将が横から口をはさんできた。達観したような物言いだが、彼女の手はレポーターからもらった名刺をちぎっている。今は腹を立てる自由を行使しているらしい。

 

「参謀長が怒るのを初めて見た」

「怒っていませんよ。レポーターの名刺をいただけますか? 手持ちがなくなりましたので」

「おう、わかった」

 

 ルグランジュ大将はたじろぎながら名刺を渡す。

 

「相変わらず女性に弱いですね」

 

 俺が冷やかすと、ルグランジュ大将は太い眉をひそめた。

 

「貴官だって弱いだろうが」

「俺は老若男女すべてに弱いですよ。小物ですから」

「さっきの対応は小物らしくなかった」

 

 ルグランジュ大将が真剣な表情に切り替わる。

 

「正直なところ、貴官は来ないと思っていた。空気に逆らうことはできないタイプだからな」

「ストークス提督は戦友ですから」

「他にも理由があるだろう。義理を立てるだけなら、人目につかない方法はあったはずだ」

「…………」

「理由を聞かせてくれんか」

 

 難しい問いであった。常人には理解できない理由だからだ。

 

「言えない理由か? それなら黙っていても構わんぞ」

「申し訳ありません」

 

 真実など説明できるはずがない。別の世界で生きていた時、親しかった人にもそうでない人にも見捨てられた。だから、見捨てられた人の味方になりたかった。今ならすべての人が俺の言葉に耳を傾けるだろうから。

 

「構わんよ。どんな事情があろうとも、貴官は貴官だ」

「ありがとうございます」

 

 俺は心から感謝した。温情がうれしかった。

 

「今の貴官は空気を作る立場だ。トリューニヒトは頭を抱えているんじゃないか。バッシングで点数を稼ぐつもりなのに、身内が邪魔したのだからな」

「トリューニヒト議長ならわかってくださいます」

 

 俺はカバンから一枚の紙を取り出した。多種多様な人々が笑いながら食卓を囲む写真に、「ウィー・アー・ユナイテッド!(我々は一つだ!)」の文字が躍る。大衆党が作った統一補欠選挙のビラである。

 

「市民軍の機嫌取りだろうが」

「本心です。こういう光景を実現したいと思っていらっしゃるのです」

「政治家の綺麗ごとを真に受けるなよ」

「あの方には綺麗ごとを現実にする力があります」

「信じたいのなら止めはせん。トリューニヒトが貴官を信じ続けるとは限らんがな」

 

 ルグランジュ大将は痛いところをついてきた。

 

「信頼関係は強くなっています。一緒に食事をする回数が増えました。以前は半年に一回だったのに、今は週二回です」

「マスコミの前で会食しているのだろう? 選挙前に貴官と親密なところを見せたいだけだ。政治に疎い私でも、その程度は理解できる」

「お役に立てるなら、会食なんていくらでもします」

「プライベートでの誘いは増えたか? 記者のいない場所で会ったか?」

「それは……」

「クーデターが終わってから、トリューニヒトとプライベートで何回会った?」

「一度もありません……」

 

 俺は小さな声で答えた。トリューニヒト議長の信頼は明らかに薄れた。わかっていても受け入れたくない事実だ。

 

「これからどうするんだ?」

「トリューニヒト議長に付いていきますよ」

「そうではない。次の任務だ」

「まだ内示はいただいておりません。イゼルローン総軍か戦略機動総軍あたりだと思いますが」

「統合作戦本部次長ではないのか?」

 

 ルグランジュ大将が首を傾げる。軍の内部では、「ドーソン提督が統合作戦本部長、フィリップス提督が統合作戦本部次長になる」という噂が流れているのだ。

 

「ドーソン提督が願望を言ってるんですよ。統合作戦本部は良識派の巣窟ですからね。気心の知れた人間がいないと不安なんです」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。

 

「ドーソン提督とうまくいっているのか。貴官の活躍に嫉妬すると思っていたが」

「最近は『フィリップスのおかげで、私のやり方が正しかったと証明された』とご機嫌です。俺が出る番組は全部録画しているそうですよ」

 

 ドーソン大将のピンと立った口ひげを思い浮かべると、顔が綻んでくる。恩師が喜んでくれることは素直に嬉しい。

 

「あの人らしいな。貴官が感謝する映像を見せびらかすところが、目に浮かぶようだ」

「そんなことはしませんよ」

 

 本当はしているのだが、言わなくていいこともある。

 

「貴官の統合作戦本部次長があり得ないのは分かった。ドーソン提督の手腕と貴官の人望が結びついたら、トリューニヒトの手には負えなくなる」

「議長は統合作戦本部の力を弱めようとしています。ドーソン提督には、弱い本部長でいてもらわないと困るんです」

「せこい男だ」

 

 ルグランジュ大将は軽蔑の色を浮かべた後、何かに気づいたような表情になった。

 

「だったら、貴官を司令官にするのも嫌なんじゃないか? これ以上武勲を立てられたら困るだろう」

「トリューニヒト議長は評判を気にする人です。俺を前線に出す以外の選択はないでしょう。スターが出ない試合は盛り上がりませんから」

 

 ベッカー准将に言われた言葉をぱくった。

 

「確かにそうだ。市民は貴官の活躍を見たがっているからな。昔のアッシュビーや今のヤンと同じだ。ギャラリーを喜ばせるために、激戦地を転々とさせられる」

「俺一人ではどうにもなりません。いい副司令官を付けないと」

「候補はいるのか?」

「ワイドボーン中将、カールセン中将、リサルディ中将です」

「一長一短だな。ワイドボーンは戦略戦術に長けているが統率力がない。カールセンは戦闘に強いが管理能力がない。リサルディは何でもできるが逆境に弱い」

 

 ルグランジュ大将は太い腕を組む。

 

「あなたなら誰を選びます?」

「この三人から選ぶこともないだろう。もっといい人材がいる」

「どなたです?」

 

 俺は聞き逃すまいと耳をそばだてる。

 

「パエッタ提督だ」

 

 ルグランジュ大将は意外な名前を口にした。

 

「超大物じゃないですか!?」

 

 俺は目を丸くした。ジェフリー・パエッタ中将は、宇宙艦隊副司令長官まで務めた人だ。七八〇年代に将官になり、俺が少尉に任官した時点では正規艦隊副司令官だった。あまりにも格が違いすぎる。

 

「今はそうでもない。レグニツァの失敗で評価が暴落した。ラグナロックに参加していないのも大きい。武勲の総量が相対的に少なくなった」

「しかし、大ベテランですし……」

「パエッタ提督は何をやっても超一流だ。指揮能力はウランフ元帥と並び称されたこともある。管理能力はドーソン提督に勝るとも劣らない。このレベルの提督が安く手に入る機会なんて、滅多にあるもんじゃないぞ」

 

 ルグランジュ大将は掘り出し物を扱うセールスマンみたいなことを言う。

 

「だったら、パエッタ提督を司令官にした方が早いでしょう」

「ああいう人はトップに向いていない。あまりに仕事ができすぎる。自分と同水準の仕事を要求するから、上に置くと下が委縮する。頭が良すぎるから、上に置くと下は意見を言えなくなる。結果は出せても部下が育たん」

「わかる気がします」

 

 俺は同じタイプの提督を知っている。ドーソン大将だ。人を引っ張る力はあっても、人を育てることはできない。一から一〇まで指示しないと、動けない部隊になってしまうのだ。

 

「レグニツァは統率で負けた。細かく指導しすぎたせいで、前線の混乱を収拾できなくなった。何でも自分で取り仕切るスタイルは、大軍の司令官には不向きだ。目が届く範囲でしか勝てないからな」

「なるほど。そういう人は副司令官だと座りがいいですね。チェック役に専念してもらえば、完璧主義を活用できる。補佐役として意見を言ってもらえば、頭脳を活用できる。臨時編成の別動隊を指揮させるなら、指揮能力を活用できる。部下を育てるのは司令官がやればいい」

「わかっているではないか」

 

 ルグランジュ大将が満足そうに頷く。

 

「四年も司令官をやっていますからね。頭が悪くても気づきます」

「それは大多数の司令官に失礼だな。貴官ほど部下を使うのがうまい司令官は滅多におらんよ」

「良い部下に恵まれたんです」

「誰の下でも良い部下でいられる人間など、滅多にいないぞ。私の下で駄目だった人間がよその部隊で活躍することもある。逆に私の下で活躍した人間がよそで駄目になることもある」

「ビョルクセン提督は、ヤン提督と離れてから駄目になりましたね」

 

 俺はヤン大将の腹心でありながら、クーデターに加担した人物の名をあげた。

 

「あいつは本当にみっともなかった。態度をころころ変えた挙句に入院だ。ヤンに付いていく以外に能がなかったんだな」

「小物としては親近感を感じます」

「逆に言うと、あの程度の男を使っても勝てるヤンが凄いといえる」

「同意します」

 

 才能がない人も上手に使うのが指揮官の器量である。ヤン大将の器量は並外れていた。

 

「部下の力を引き出すのは上官の仕事だ。貴官ならパエッタ提督の力も引き出せる」

「頑張ってみます」

「パエッタ副司令官、ワイドボーン参謀長なんてどうだ? ワイドボーンは第六次イゼルローン攻防戦で、ローエングラム大元帥を追い詰めた男だ。この二人を従えたら、ローエングラム大元帥とも五分で戦えるぞ」

「今の参謀長を変える気はないですよ」

「チュン・ウー・チェンは副参謀長にすればいい。少将だしな。ワイドボーンの鋭さとチュン・ウー・チェンの柔軟さを組み合わせるのだ。完璧ではないか」

「凄そうですね」

 

 目の前が明るくなったような思いがした。パエッタ副司令官、ワイドボーン参謀長、チュン・ウー・チェン副参謀長の組み合わせなら、帝国のトップクラスと戦えそうな気がしてくる。

 

「私と代わってくれんか。そのメンツを率いてローエングラム大元帥と戦ってみたい」

「馬鹿なことは言わないでくださいよ。あなたは次期宇宙艦隊司令長官なんです。ハイネセンで頑張ってください」

 

 俺は呆れ顔で元上官をなだめる。

 

「司令長官は来年から練度管理専門になるんだぞ。つまらなくてあくびが出そうだ」

「しょうがないでしょう。総軍制が導入されるんですから。指揮は各地の総軍、管理は宇宙艦隊と地上総軍に一元化して、部隊を融通できるようにする。ラグナロックの直後から出ていた話です」

「面倒なことだ」

 

 ルグランジュ大将は、「考えるのも嫌だ」と言いたげな表情になった。根っからの戦闘屋にとって、軍政なんて面倒なだけなのだ。

 

「政治を面倒くさがってはいけませんよ。大将の仕事の七割は政治なんですから」

 

 エーリン中将が上から目線で突っ込みを入れる。

 

「私は大将の器じゃない」

「そんなことはみんな知っています。中将止まりの器なのに、上がいなくなったおかげで繰り上がった。要するに人数合わせの大将ですよ。ヤン大将やビュコック大将を一等大将とすると、あなたは二等大将です」

「はっきり言うなよ。傷つくだろうが」

 

 ルグランジュ大将は憮然となった。

 

「どうして喜ばないんですか? 三等大将よりはましでしょうに」

「あのなあ」

 

 二人の提督が愚にもつかない言い争いをしているのを聞き流し、俺は窓の外を見る。墓地を出た時は小降りだった雨が豪雨に変わっていた。この雨がやんだとしても、同盟を覆う暗雲が晴れることはない。



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第89話:英雄たちの休暇 801年12月22日~12月24日 ハイネセンポリス~トレモント市~ブレツェリ家

 一二月二二日、統一補欠選挙が行われた。投票率は五割に届かず、この五年間で最低の水準となった。

 

 大衆党は悲願だった上院の単独過半数を確保した。逆風に苦しめられたものの、組織選挙と宣伝攻勢で乗り切った。組織票の分厚さは他党の追随を許さない。「我々がいなくなれば、リベラルな奴らが戻ってくるぞ」と叫べば、ブルーカラーと自営業者と辺境住民の票も上積みできるのだ。

 

 反戦・反独裁市民戦線(AACF)は躍進を遂げた。自らを少数派と位置づけ、多数派の矛盾を厳しく批判したため、少数派は「よく言ってくれた」と喜んだ。この場合の少数派とは、社会的なマイノリティではなく、多数派の論理になじめないリベラリストを意味する。一方、多数派に属する人々は「俺たちを馬鹿にしやがって!」と怒った。多数派の票が分散したため、少数派の票を一手に集めたAACFが浮上した形だ。

 

 和解推進運動は信じられないほどの敗北を喫した。本来の支持層であるリベラリストがAACFに流れ、右翼や保守派の理解も得られなかったのである。「分断を煽る政治からの脱却」「批判ではなく相互理解が必要」というレべロ代表の訴えは、党派対立に飲み込まれた。

 

 その他の政党は、大衆党とAACFの対立構図の中で埋没した。統一正義党と汎銀河左派ブロックは、与党陣営・反ハイネセン主義という部分が大衆党とかぶってしまい、独自色を打ち出せなかった。民主主義防衛連盟(DDF)は、反クーデターの功績を強調したが、前身にあたる旧国民平和会議(NPC)の悪いイメージに足を引っ張られた。

 

 大衆党が上院と下院で単独過半数を確保したことは、リベラリストと保守層を失望させた。

 

「今日、自由惑星同盟の民主主義は死にました。犯人は皆さんです。政治的無関心が民主主義を殺したのです」

 

 良心的な姿勢で知られるニュースキャスターのアニル・ディキシットは、喪服を着用して画面に登場し、民主主義の死を悼んだ。親が死んでもこれほど悲しまないだろうと思えるほどに、悲痛な表情であった。

 

「私たちは歴史的な瞬間に巡り合った。歴史学者としては喜ぶべきなのだろう。だが、民主主義者としては悲しみを禁じ得ない。市民は自ら考えることをやめ、責任を投げ捨て、煽動政治家に政治を委ねたのだ。五世紀前に銀河連邦で起きた悲劇が目前に迫っている。今からでも遅くはない。自分の頭で考えよう。歴史を学ぼう。政治に参加しよう。悲劇を繰り返してはならない」

 

 歴史学者ダリル・シンクレア教授は、危機感に満ちた声明を発した。ルドルフ研究の第一人者であり、再建会議の招聘を断った大学者の訴えは、マスコミでも大きく取り上げられた。

 

 自覚を促そうとする知識人たちの試みは、完全に逆効果だった。人々の耳には、「ちゃんと考えれば、我々と同じ結論に行き着くはず」「大衆党に投票した奴は、みんな馬鹿で無責任」と言ってるように聞こえたからだ。自分なりの信念をもって大衆党に投票した者は、プライドを傷つけられた。何となしに大衆党に投票した者も不愉快になった。

 

 大衆党が勝利した要因を選挙妨害に求める者もいた。国防委員会は現役軍人の退職願いを却下したり、予備役軍人や義勇兵を臨時招集するなどして、市民軍の英雄の立候補を妨げた。リベラル派の大物の中には、AACFからの出馬が噂されたシトレ退役元帥のように、「クーデター関与の疑い」で拘束された者が少なくない。警察が事情聴取や家宅捜査を繰り返したため、クーデターに加担した政党の関係者は、身動きがとれなくなった。憂国騎士団の殴り込みも頻繁に起きた。

 

「今回も大規模な選挙干渉が行われた。公正な選挙とはいいがたい」

 

 AACFは最高裁に選挙無効を申し立てた。再建会議が行った三月選挙の無効申し立ては破棄されたが、AACFが再度申し立てを行った。現在、最高裁は二つの選挙について無効審査を行っている。

 

 一方、右翼は素晴らしい時代がやってきたと喜んだ。抵抗勢力が弱体化し、リベラルと保守に配慮する必要がなくなった。帝国との休戦協定はすぐに破棄されるだろう。飛躍的に強化された軍隊が帝国を打ち破り、強硬な治安対策がテロリストを一掃し、同盟は偉大さを取り戻す。彼らの目には、薔薇色の未来が待っているように思われた。

 

 かつて、ダーシャは良識派軍人を「自由の敵と戦うことが自由主義。平和の敵と戦うことが平和主義」と評した。今の同盟に当てはまる言葉だ。他者の自由を尊重する者ではなく、自由の敵を憎む者がリベラリストを名乗る。争いを嫌う者ではなく、平和の敵を憎む者が平和主義者を名乗る。同胞を愛する者ではなく、異端者を憎む者が愛国者を名乗る。伝統を愛する者ではなく、伝統に従わない者を憎む者が保守主義者を名乗る。何かを愛することではなく、何かを憎むことが信念の表明になってしまう。

 

 統一補欠選挙の翌日、国防委員会に呼び出され、一か月の長期休暇を与えられた。功績に対する特別報酬だそうだ。

 

「申し訳ありませんが、辞退させていただきたく思います」

 

 俺は辞退する意向を示した。

 

「なぜだね?」

 

 ネグロポンティ国防委員長が軽く眉をひそめる。

 

「市民軍の残務処理があります。部下が休日返上で働いているのに、小官だけが休むわけにはいきません」

「それならば、休暇命令を受け入れるべきだ。君の部下にも休むように言ったんだがね。みんな、『休暇を取りたくない』と言っている。上官が休まないと部下も休めないのだよ」

「残務処理を済ませるのが先決だと考えます。恩賞をもらっていない者がたくさんいます。死傷者への補償も進んでいません」

「その件については、我々国防委員会が責任をもって処理する」

「小官にも手伝わせてください」

 

 俺は必死に食い下がった。国防委員会は同盟軍再編以外の課題に対しては、熱意が薄いように感じる。旧市民軍メンバーが仕切らないと、いつまでたっても終わらない。

 

 組織の規模と残務処理の量は比例する。一〇日間しか存続しなかったとはいえ、市民軍は三〇〇〇万人を擁した巨大組織だ。兵士が一人増えたら、一人分の人事手続きが必要となった。一食分の食事を用意すれば、一食分の代価を支払う必要が生じた。銃を一丁手渡せば、一丁分の支給手続きが必要となった。それが三〇〇〇万人分も積み重なれば、想像を絶する事務量になるのだ。

 

 組織を拡大するのはあっという間だが、整備するには時間がかかる。つまり、急成長した組織ほどシステムが整備されていない。市民軍は一一人で決起し、一〇日間で三〇〇〇万人に膨れ上がった。そのため、場当たり的な運営に終始した。勝利の後には、不備だらけの書類と矛盾だらけの記録が大量に残された。義勇兵の名簿ですら、脱退者の名前が残っていたり、加入者の名前が抜けていたりする有様だ。事実確認だけでも一大事業である。

 

 クーデター終結から一か月が過ぎても、義勇兵の従軍記章すら発行できなかった。誰が従軍したのかを確定できないのだ。功労者に恩賞を与え、負傷者を戦傷者として認定するなど、遠い先の話である。クーデター直後の論功行賞は、政治的な理由から調査なしに行われたものだった。市民軍メンバーの大多数は、未だに見返りを受け取っていない。

 

「君はずっと働きっぱなしだった。戦っている間は一日二時間しか休まなかった。鎮圧後は広報の仕事で走り回った。休まないと体を壊すぞ」

「小官が復帰してから八か月しか経っておりません。その前は二年も休んでいました。休養は十分です」

「予備役期間中も動き回っていただろう。仕事熱心は結構だが、仕事中毒はいかん」

 

 ネグロポンティ委員長は体を気遣うようなことを言う。しかし、表情には温かみがなかった。

 

「残務処理が遅れたら市民と兵士が困るんです」

「国防委員会を信用できないのか?」

「信用しております。国防委員会のパワーを一〇〇といたしますと、小官ら市民軍総司令部のパワーは五です。一緒に仕事をすれば、一〇五のパワーになり、能率が一層向上いたします」

 

 俺は国防委員会を持ち上げつつ、市民軍総司令部を関与させるメリットを説く。

 

「いいから休みなさい」

「しかし……」

「委員長命令だぞ」

 

 ネグロポンティ委員長は険しい目つきで俺を睨む。意見を聞いてくれそうな雰囲気ではない。

 

「かしこまりました」

 

 俺は命令書を受け取った。残務を片付けたいという気持ちはある。だが、国防委員長命令には逆らえない。

 

 この日、市民軍で指導的役割を果たした軍人、市民軍総司令部で勤務した軍人が休暇を命じられた。文民メンバーは本来の勤務先へと戻された。残務処理の主導権は、旧市民軍総司令部から国防委員会に移ったのである。

 

「我々を市民軍から切り離したいのでしょうな。褐色のハイネセンで戦った連中だけが恩賞をもらえば、その他の連中は不快になり、市民軍に亀裂が生まれる。トリューニヒトらしい姑息なやり口です」

 

 打ち上げの席で、サンドル・アラルコン大将が釣り目を釣り上げた。この老提督は用兵下手だが政治的な嗅覚は鋭い。

 

「同盟軍再編の関係もあるでしょうね。市民軍の功労者に口を挟んでほしくないでしょうから」

 

 アルマ・フィリップス少将が生真面目な顔で指摘すると、アラルコン大将がうなずく。

 

「妹さんの言う通りだ。トリューニヒトは我々の発言力を削ぐつもりです」

「構わんだろう」

 

 俺はあえてぶっきらぼうな口調を作る。

 

「フィリップス提督、積極的に主導権を取りに行くべきですぞ。そうしないと、トリューニヒトと良識派が軍をめちゃくちゃにします」

 

 アラルコン大将はいつものように熱っぽい表情で語る。

 

「市民軍を政治勢力にする気はない」

 

 俺もいつも通りの答えを返す。

 

「トリューニヒトへの借りは返したでしょう。むしろ、あなたの貸し出し超過だ。貸しを取り立てたって、誰も文句は言いません」

「人事で便宜を図ってもらう。パエッタ提督とワイドボーン提督を取るには、トリューニヒト議長の力が必要だ」

「あなた一人の力で取れるでしょう。あの二人は政治的に難しい立場です」

「トリューニヒト議長の力を借りた方がいい。意図して借りを作ることも大事だよ。政治家は頼ってくる相手には冷たくできない」

「いっそあなたが政治をおやりになればいいんです。あなたほどの政治感覚がある人は、同盟議員にもあまりいませんからな」

 

 アラルコン大将がいつものように「政治をやれ」と勧める。

 

「市民軍は非政治的だから人が集まったんだ。政治性を前面に打ち出したら、大きくなる前に潰れるぞ」

「まあ、それはおっしゃる通りですな。ヤンあたりがトップだったら、クーデターに加担した方がましだと思えてきます」

「そういうことは冗談でも言わないでほしいな」

「年寄りは病気になりやすいもので。今は穏当な表現を使えない病気にかかっておるのです」

 

 アラルコン大将は大きく口を開けて笑うと、コーヒーをがぶ飲みした。

 

「熱いですなあ!」

 

 猫舌なのにわざわざ熱いコーヒーを飲み、「熱い!」と叫ぶ。周囲の人間は「馬鹿じゃないの」と言いたげに眺める。いつもの光景だ。

 

「事情はどうあれ、せっかくいただいた休みです。家族サービスに励みますよ。もうすぐ年末パン祭りが始まりますしね」

 

 チュン・ウー・チェン少将の目が無邪気に輝く。クーデター騒ぎのおかげで、秋のパン祭りには行けなかった。それだけに年末パン祭りにかける意気込みは大きい。

 

「私は筋肉を付け直すよ。忙しくて筋トレどころじゃなかったからねえ」

 

 イレーシュ・マーリア准将が顎に人差し指をあてる。肉体派参謀の彼女にとって、筋肉量は生命線に等しいのだ。

 

「姪が帰ってくるので、一緒に飯でも食います」

 

 ハンス・ベッカー准将は少し恥ずかしそうに笑う。曲者の情報参謀も士官学校に通っている姪には弱い。

 

「ベッカー提督の姪御さんって、帝国の赤毛のファンでしたっけ」

 

 妹は丁寧だが少しとげのある口調で問う。帝国の赤毛とは、真っ赤な赤毛で有名なジークフリード・キルヒアイス上級大将を指す。赤毛つながりで俺と比べられることが多いので、フィリップスファンはキルヒアイスファンと仲が悪かった。

 

「そうですよ。背の高い赤毛が好きなもので。妹さんのサインがほしいと言ってました。書いていただけるとありがたいんですがね」

「書きます!」

 

 あっという間に妹は態度を変えた。ちやほやされることに慣れていないので、持ち上げられるとその気になってしまう。

 

 俺は苦笑いを浮かべつつ、シェリル・コレット准将を見る。この二か月で恐ろしく垢ぬけた。彼女もちやほやされることに慣れていなかった。世間から「美人だ」とか「かっこいい」とか言われたのが嬉しくて、お洒落に気を遣い始めた。大罪人アーサー・リンチの娘という事実は知られていないが、本人は気にしていただろう。ようやく胸を張れる立場になったのだ。元逃亡者の立場としては喜ばしい限りである。

 

「そういや、リンチが帰ってくるらしいっすよ」

 

 カプラン大佐の能天気な声が耳に飛び込んできた。

 

「まじ?」

 

 イレーシュ准将が眉をひそめる。民間人を見捨てて逃げたリンチ少将は、一三年経った今でも嫌われ者だ。

 

「エル・ファシルで逃げた連中が、来月の最終復員船団で帰ってくるんですけどね。リンチもいるらしいっす」

「へえ。よく帰る気になるね。死刑間違いなしなのに」

「伯父さんが言ってたんで、あてになんないっすけど」

「カプラン先生は適当だしね。君とおんなじ」

 

 何気ない会話のはずだった。しかし、二人の人間にとっては別だった。一人は俺、もう一人はコレット准将である。

 

「シェリーちゃん、どうしたの? 顔色悪いけど」

 

 イレーシュ准将が心配そうにコレット准将を見る。

 

「疲れた時はバナナっすよ、姉さん」

 

 カプラン大佐がバナナを差し出す。

 

「あ、いや、何でもないですよ」

 

 コレット准将は笑って否定した。イレーシュ准将は安堵の表情を浮かべ、カプラン大佐はバナナの皮をむく。リンチ少将の話はあっという間に終わる。

 

 英雄たちの休暇が始まった。思い通りにならないことはある。触れられたくない過去もある。それでも、彼らには輝かしい前途が開けているように思われた。

 

 

 

 一二月二四日、俺は妹と一緒にリニアに乗り、トレモント市へと向かった。ブレツェリ夫妻の官舎を訪ねるのだ。

 

「お急ぎのところ、ご迷惑をおかけいたします。運行管理システムのトラブルのため、一旦停止いたしました。ただいま、全力で復旧作業を進めております。しばらくお待ちください」

 

 リニアが停止し、車内にアナウンスが流れる。今の同盟では交通機関のトラブルなど珍しくもない。七九〇年代後半から深刻化したインフラの劣化は、現在も続いていた。

 

「まいったなあ」

 

 俺はうんざりした気持ちでマフィンの箱に手を伸ばす。こういう時は糖分を補充するに限る。

 

「あれ?」

 

 箱の中は空っぽだった。右側を向くと、マフィンを食べる妹が見えた。

 

「アルマ、それは俺の……」

「なに?」

 

 妹がこちらを向いた。食べかけのマフィンを両手で持ち、童顔に幸せそうな笑みを浮かべる。

 

「いや、何でもない」

 

 何も言えなかった。あまりに妹が幸せそうなので、マフィンの所有権を主張することに罪悪感すら感じてしまう。

 

 俺は携帯端末を開き、保守系新聞『リパブリック・ポスト』の電子版に目を通す。右翼系新聞は親フィリップスだが裏付けのない記事が多い。リベラル系新聞は記事の質が高いが、反フィリップス色がきついので、読んでると辛くなる。リパブリック・ポストが一番読みやすいのだ。

 

 最初に目に飛び込んできたのは、ヤン大将ら現役大将四名、ロヴェール予備役大将ら予備役大将二名に対し、元帥号が授与されるという記事である。授与理由は「ラグナロック戦役の功績」だそうだ。一二月二五日で発令されるため、「トリューニヒトのクリスマスプレゼント」と言われた。現役の元帥が一度に四名も誕生するなど、前例のないことだ。トリューニヒト議長らしいサプライズといえよう。

 

 その他の一面記事は、革命的ハイネセン主義学生連盟のデモ隊二〇万と警官隊の衝突、最高裁判事のクーデター関与発覚、フェザーン資本による大手金融機関の買収であった。

 

 ページをめくり、軍事面を開いた。一番大きな記事は階級制度改革だ。来年度から上級大将の階級を設置し、将官の階級を「上級大将」「大将」「中将」「少将」「准将」の五階級制に再編成する。代将の職位は廃止される予定だ。現任の将官は一階級ずつ昇進し、代将は准将となることが決まった。

 

 ネグロポンティ国防委員長は、「同盟軍の国外派遣を視野に入れた上での判断だ」と語る。大将が軍のトップにいたり、佐官が代将として師団長をやったりする同盟軍の階級制度は、帝国人にはわかりにくい。階級を帝国軍と横並びにすれば、カウンターパートが明確になり、帝国人への根回しが円滑になるという。

 

 反トリューニヒト派は「軍人の機嫌取りだ」と批判した。将官全員の階級が上昇し、代将が全員准将になるので、将官が五倍に増える。機嫌取りと言われても仕方のない面はあった。

 

 スポーツ面がスポーツの試合結果を報じるように、軍事面は戦争の勝敗を報じる。政府が地方に派遣した六つの討伐軍は、いずれも苦戦を強いられている。クーデターの影響で将校数十万人が拘束されたことが響いた。司令部の指導力にも問題があるらしい。

 

 スポーツ面がスポーツ選手の入退団や移籍を報じるように、軍事面は同盟軍の人事を報じる。統合作戦本部長代理ドーソン大将は、新設の国防監察本部長に内定した。第九機動軍司令官フェーブロム少将の中将昇進と、首都防衛軍司令官への就任が決まった。二人とも国家非常事態委員会(SEC)のメンバーだ。市民軍はSECの一部門であり、クーデター前の準備段階ではその支援を受けた。こうしたことから、SECメンバーはクーデター鎮圧の功労者とみなされる。

 

 軍事評論家のコラムは、来年から復活する正規艦隊一二個艦隊及び新設される六個艦隊の司令官予想だ。俺は第一一艦隊司令官の本命にあげられた。正規艦隊が配備される総軍は、司令官が正規艦隊司令官を兼ねるのだ。叩き上げのカールセン中将、中将昇進が決定したアッテンボロー少将、ヤン派のデッシュ中将とジャスパー中将らも、艦隊司令官就任が確実視される。

 

 社会面にはクーデター捜査の記事が載っていた。終結から一か月が過ぎても、協力者の摘発は終わっていない。今日捕まった最高裁判事のような大物が次々と出てくる。しかし、ボロディン元大将が自決し、ブロンズ元大将が黙秘を続けているため、肝心なことは不明なままだ。

 

 国際面を見た時、唖然となってしまった。ラインハルト派の重鎮オーベルシュタイン大将を、軍法会議に告発する動きがあるという。軍事監察官フレーゲル男爵は、「処刑した反乱者の数が極端に少ない。しかも、家族を連座させなかった。怠慢の極みである」と語る。政争絡みの告発なのは間違いない。それでも、数百万人処刑が「極端に少ない」と言われることには、驚きを禁じ得なかった。

 

「長らくお待たせいたしました。これより運転を再開いたします」

 

 リニアが再び走り出した。俺は携帯端末を閉じる。一度走り出したら、トレモントまではあっという間だ。新聞をのんびり読む余裕などない。

 

 トレモント駅を出ると、俺と妹は駅前を散策した。義父ブレツェリ准将は仕事中、義母ブレツェリ退役准尉はボランティアに行っている。二人が官舎に戻るまで時間を潰すのだ。

 

 通行人が好奇のまなざしを向けてきた。俺は視線をかわすように体を縮め、妹は見られることを楽しむかのように胸を張る。

 

「注目されたら、変装した意味がないぞ」

 

 俺は小声で妹に話しかけた。

 

「木は森の中に隠せって言うでしょ」

 

 妹は俺の顔を見下ろす。銀河広しといえど、兄を一五センチ上から見下ろす妹など他にはいないだろう。

 

「密林でも隠せないな」

 

 注目されるのはどう見ても妹の責任だった。一八四センチの身長なのに、派手な髪型のウィッグをかぶり、色っぽく見えるメイクをほどこし、胸は特製パッドのせいで大きく膨らんでいる。体のラインを強調する服装が、大きな胸と長い手足をセクシーに見せた。芸能人がお忍びで外出するような格好だ。

 

 俺は髪を茶色に染め、黄色いフード付きウィンドブレーカーを着ている。耳あてのついたニット帽で耳元と髪を隠し、マフラーをぐるぐる巻きにして首元を隠すのは、副官代理ハラボフ中佐のアイディアだ。

 

「お兄ちゃんはふわふわしすぎだね」

「それでいいんだ。同盟軍大将には見えないだろ」

「あの女に騙されてるよ。メルヘン趣味が軍服を着てるような女じゃん。学生みたいな顔だし」

「お前は何を見てるんだ。ハラボフ中佐より冷徹な人なんて、帝国のオーベルシュタインぐらいだぞ」

 

 とりとめのない雑談をかわしながら歩き回った。街はすっかり冬景色だ。一六時だというのに空は暗い。木々からは葉っぱが抜け落ち、幹と枝だけが残った。人々はコートやダウンジャケットに身を包み、白い息を吐きだし、寒さを振り切るかのように早足で歩く。

 

 今日はクリスマスの前日だ。どこにいても、クリスマスソングが聞こえてくる。クリスマス商品が店頭に並び、店員はクリスマスキャラクターの格好で接客する。

 

「いろんな衣装がいるね」

 

 妹はきょろきょろと周囲を見回す。赤い帽子と赤いコートは、同盟でおなじみの「サンタクロース」。金色と白の派手な衣装に金髪のかつらは、帝国風の「クリストキント」。青い帽子と青いコートを着た男女二人組は、フェザーン風の「ジェド・マロース」と「スネグーラチカ」。各国のクリスマスキャラクターが一堂に会した形だ。

 

「移民に配慮してるんだ。ハイネセンはリベラルな星だからな」

 

 どの国の人間にとっても、クリスマスはおなじみの祝祭である。人類が地球に住んでいた頃に始まり、「祝うのが当然」とされるが、なぜ祝うのかは誰も知らない。「古代の偉大な君主が即位した日だから」という説と、「一三日戦争後に消滅した宗教の祝日だから」という説が有力だが、どちらも決め手に欠ける。

 

「来年はサンタクロースだけになるかもね。大衆党が上院で過半数取ったから」

「大丈夫だと思うけどな」

「大衆党は同化主義でしょ。帝国やフェザーンのクリスマスキャラクターなんて認めないよ」

 

 妹の認識は同盟市民の一般的な認識でもある。右翼は移民に同化を求め、リベラルは移民のアイデンティティーを尊重する。保守派は右翼とリベラルの中間だ。大衆党は移民の同化政策を強化する方針を打ち出していた。

 

「どうなるかはわからないけど、来年もクリスマスはやってくる。それだけは間違いない」

 

 俺は確信を込めて言い切った。クーデターが起きた今年も、ラグナロックで負けた二年前も、シャンプールでテロが起きた六年前もクリスマスはやってきた。大都市に核が降り注いでも、地球の地表が死体で埋め尽くされても、銀河連邦が簒奪されてもクリスマスはやってきた。何があろうとも、人類はクリスマスを祝うことをやめなかった。クリスマスとは日常感覚の象徴なのだ。

 

 古本屋に足を踏み入れた。紙の本は端末を使えない場所でも読めるが、場所を取るのが難点だった。大抵の本好きは新刊を紙で買い、よほど気に入った本以外はすぐに売ってしまう。読むための紙、保管用の電子書籍という住み分けができている。読みたい時に買い、いらなくなったらぱっと売るのが紙の本だ。

 

 安売り本コーナーには、かつてのベストセラーが並んでいた。題名を見るだけで発売時期がわかる。『ロボスはアッシュビーを超えた!』『コーネリア・ウィンザーが銀河を変える』『民主主義の最終的勝利』などは、帝都陥落直後に出た本だろう。

 

「現代エル・ファシル史の年表じゃないか」

 

 目の前にエル・ファシル関連本が並んでいた。『三〇〇万人を救え! 青年中尉の挑戦』『故郷を取り戻せ』『辺境の理想郷』『七月危機――瀬戸際の一〇日間』『エル・ファシル崩壊』といった本を並べれば、そのまま年表として通用する。パトリック・アッテンボローの新刊『エル・ファシル独立戦争史』を、『七月危機』と『エル・ファシル崩壊』の間に挟めば、完璧になるだろう。

 

「懐かしいな」

 

 俺は『沈黙は罪である』を手に取った。亡命者知識人カラム・ラシュワンの代表作で、解放区統治のバイブルと言われた本だ。当時は軍人と解放区民主化支援機構(LDSO)職員のすべてが、この本の影響を受けた、今では、「妄想の産物」「同盟軍八〇〇〇万を敗北させた本」などと酷評される。

 

「うわあ……」

 

 ある一角を見た瞬間、いたたまれない気持ちになった。ウィレム・ホーランド中将を主人公とする漫画『永遠に向かって進軍せよ!』が、一冊一〇フィルスで投げ売りされていたのだ。一〇〇フィルスで一ディナールになるので、ほとんどただ同然である。表紙に描かれたホーランド中将の爽やかすぎる笑顔が虚しい。

 

 俺は『永遠に向かって進軍せよ!』を二〇冊買った。これでもたったの二ディナールである。三年前は定価五ディナールだった本が、二〇冊買っても二ディナール。悲しくなってくる。持ち歩くわけにはいかないので、官舎に送るよう手配した。

 

 お目当ての『リオヴェルデ星系観光ガイド』『メディアルナの歩き方』を買い、古本屋を後にする。

 

 ブレツェリ家で、義父のジェリコ・ブレツェリ准将、義母のハンナ・ブレツェリ退役准尉が歓迎してくれた。テーブルの上には、ジャガイモと玉ねぎの炒め物「プラージェンクロンピール」、ポテトサラダ「オリヴィエ・サラダ」、ひき肉カツレツ「ゴヴャージエ・コトレートィ 」、パプリカ風味のシチュー「ポグラチ」、豚と雑穀の腸詰め「クルヴァヴィツェ」など、フェザーン風料理がずらりと並ぶ。

 

「おいしいですね!」

 

 俺はクルヴァヴィツェを次々と平らげた。一口ごとに懐かしさがこみあげてくる。ブレツェリ夫妻の料理は、ダーシャが作った料理と味付けがそっくりだ。

 

「おかわりください!」

 

 妹はポグラチが入った丼を一瞬で空にした。ぱっちりした目には喜びが充満し、ふっくらした唇の周りはべたべたに汚れている。

 

「いくらでも食べてね」

 

 義母が笑顔でキッチンの片隅を指さす。料理が詰まった大鍋、料理が盛られた大皿などがずらりと並ぶ。

 

「はい!」

 

 俺と妹は声をそろえて返事をした。

 

「いつ見ても、君たち兄妹の食べっぷりは豪快だな。育ち盛りだった頃の子供たちを思い出すよ」

 

 義父が細い目をさらに細める。

 

「ダーシャたちも昔は小食じゃなかったんですか?」

「よく食べる方だった。みんな道場に通っていたからな」

「だから体が大きくなったんですね」

 

 俺は心の底から納得した。義父と義母は小柄だが、その子供は大柄だった。二人の義兄は一八〇センチを超えていたし、義姉はちょうど一七〇センチだ。一六九センチのダーシャも女性としては背が高い。背を伸ばすには栄養が必要だ。

 

 幸福なひと時だった。俺は料理をかみしめながらダーシャを思い出す。妹は一心不乱に食べ続ける。義父はうまそうにビールを飲み、義母は空になった皿に新しい料理を乗せる。一家団らんとはこういうものであろう。

 

 食事が終わった後は全員で後片付けだ。手分けして食器を洗いながら雑談を交わす。一人では面倒な後片付けも、みんなでやると楽しいものだ。

 

「エリヤ君は里帰りするのか?」

 

 義父が洗剤のついた皿を差し出してきた。

 

「もちろんです。こういう時でないと、家族と会えませんから」

 

 俺は洗剤を洗い流しながら答える。

 

「でも、私と一緒じゃないんですよ」

 

 妹が不満そうに口をはさんできた。

 

「アルマ、先に寄りたい所があると言っただろう」

「里帰りの後でもいいじゃん。急ぎの用じゃないんだしさ」

「早めにけりをつけておきたいんだ」

 

 俺は妹に濡れた皿を手渡す。

 

「リオヴェルデかね?」

 

 義父は皿の汚れを落としながら聞いてきた。

 

「はい。ようやく決心がつきました」

「そうか」

 

 それだけ言うと、義父は口を閉ざした。リオヴェルデに住むウィレム・ホーランド予備役中将に対しては、複雑な思いがあるのだ。

 

「恨んでいないと言えば嘘になるね」

 

 妹と一緒に皿をふく義母の顔に影が差す。ホーランド予備役中将はダーシャの上官であり、ラグナロック戦役の推進者でもある。二つの意味でダーシャの死に責任を負う立場だ。

 

「俺は複雑な気分です。ホーランド提督には世話になりました。ダーシャを参謀の仕事に復帰させてくれた恩もあります。しかし、ラグナロック作戦を推進したことは許せません」

「野心に巻き込まれたと思っちゃうのよねえ」

「そうなんです。結局、あの人は野心を捨てられませんでした。撤退に同意したのだって、英雄になりたかったからですよ」

 

 俺はホーランド予備役中将の顔を思い出す。彼が撤退論に傾いた理由については、「フィリップス提督の理路整然とした諫言」が決め手になったといわれる。だが、実際は俺に「英雄になるチャンスだ」と煽られて、撤退戦をやりたくなっただけだった。

 

「ああいうタイプは反省を知らないから。いつも前しか見ていないもの」

「だから、自分の目で確かめたいんです」

 

 ホーランド予備役中将からもらったメールは、「ダーシャの死に責任を感じている」「復帰する気はない」という内容だった。書いてあることが事実かどうかはわからない。本当だったら少しは救われた気持ちになる。ラグナロック戦役の推進者を断罪する気はない。だが、責任を感じてほしいとは思う。

 

「上辺だけだったらどうする?」

 

 義父は手を止めて顔を上げた。

 

「がっかりします。それだけです」

 

 俺は何のためらいもなく答えた。ホーランド予備役中将は戦闘狂だ。戦場に立つためなら、何だってするだろう。気を引くために反省したふりをする可能性もある。駄目でもともとだ。反省していなかったら、リオヴェルデ観光を楽しめばいい。

 

「エリヤ君らしい答えだ」

 

 義父は軽く頷くと、再び手を動かし始めた。彼は俺という人間をよく理解してくれる。

 

「やりたいようにやりなさいね」

 

 義母の丸っこい顔に微笑みが浮かぶ。彼女は俺の背中を押してくれる。

 

「お兄ちゃんは甘いね。別にいいけどさ。私は甘党だし」

 

 妹は無邪気に笑う。彼女は何があろうと俺を好きでいてくれる。

 

 かつて、俺の左隣にはダーシャ・ブレツェリがいた。彼女は誰よりも俺を理解し、誰よりも俺の背中を押し、誰よりも俺を好きだった。この世界からダーシャがいなくなっても、ダーシャが繋いでくれた縁が消えることはない。彼女は形を変えて生き続けているのだ。



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第90話:英雄になれなかった男 801年12月28日 インカダ市郊外の星営住宅

 リオヴェルデ星系第三惑星メディアルナは、同盟首星ハイネセンから二日の距離にある。俺とイレーシュ・マーリア准将は一二月二六日にハイネセンを出発し、二八日午前六時にメディアルナへと降り立った。

 

 星都カンタールからリニアと電車を乗り継ぎ、北極圏のインカダへと向かう。インカダはウィレム・ホーランド予備役中将の出身地であり、現住地でもある街だ。俺はホーランド予備役中将の真意を知りたかった。イレーシュ准将は、士官学校に通っていた頃からホーランド予備役中将と仲が悪かったが、「一度会ってみたい」と言って着いてきた。

 

 インカダ駅に降り立った瞬間、世界が真っ白になった。雪が風に乗ってホームの中を舞い踊る。床やベンチには雪が積もり、屋根の端からつららが垂れ下がっていた。巨大な冷凍庫の中に無理やり駅を作ったかのようだ。

 

「寒い!」

 

 情けない悲鳴が俺の口から飛び出した。体がぶるぶると震えだす。歯がかちかちと音を立てる。目に涙がにじんできた。

 

 寒さには十分に備えたつもりだった。耳当てが付いた合成毛皮の帽子をかぶり、合成毛皮のコートの下には厚手の服を五枚も重ね着し、ズボンを二枚重ねて履いた。首の回りにはマフラーを重ね巻きにした。分厚い防寒手袋を手にはめた。重ね着のせいで体が丸っこく見える。それなのに寒いのだ。

 

「寒がりすぎ」

 

 イレーシュ・マーリア准将は呆れ顔で俺を見た。俺と同じような格好だが、体の輪郭はほっそりしている。

 

「あなたがおかしいんですよ。コートの下、二枚しか着てないんでしょう?」

「十分だけど」

「シロン生まれじゃないですか。俺より寒さに弱くないとおかしいですよ」

 

 俺はイレーシュ准将が寒さに強いなんておかしいと力説する。茶産地なんて熱帯か亜熱帯だ。

 

「とりあえず、そばでも食べようか」

 

 そう言ってイレーシュ准将は歩き出した。俺は後を付いて行く。階級が三つ上になっても、プライベートでは教え子のままだ。

 

 売店でインカダそばを三杯食べ、体を温めてから駅を出た。雪色に染まった街並みが目の前に広がる。建物にも道路にも雪が積もっていた。ブーツが足首まで埋もれるほどだ。年末だというのに人通りが少なく、活気が感じられない。

 

「ホーランドはこんな街で生まれ育ったんだねえ」

 

 イレーシュ准将は感慨深げに呟いた。以前と比べると、ホーランド予備役中将に対する反感は薄れたようだ。だからこそ、会いに行くのだろう。

 

 ホーランド予備役中将が住む退役軍人向けの星営住宅は、寒い街の郊外にあった。大きな川のほとりに古びた長方形の建物が連なる。薄汚れた建物の外壁は白い。氷が浮いた川の水は暗色だ。空はどんよりとした灰色に染まり、真っ白な雪が地面と建物を覆う。白黒写真のような光景だ。見ているだけで気分が暗くなってくる。

 

「ここです」

 

 俺は「F棟」というプレートがかかった建物を指さした。だが、イレーシュ准将は入ろうとしない。

 

「一人で行ってきな。私は街に戻るから」

「ホーランド提督に会わないんですか?」

「明日にするよ。こういう話は二人きりの方がいいでしょ」

「確かに」

 

 イレーシュ准将に頭を下げると、俺は一人でF棟に入った。昼の一三時だというのに、やたらと薄暗い。壁はひび割れており、手すりはさび付きがひどく、メンテナンスされていないことが一目でわかる。隙間から入り込んでくる寒風が共用廊下を吹き抜けていく。

 

「こんなところに住んでいるのか……」

 

 ホーランド予備役中将が気の毒になった。宇宙軍のエースだった人の住まいとしては、あまりにみすぼらしすぎる。

 

 俺は首を横に振った。気を抜いてはいけない。不遇だからこそ、俺を騙すのに必死だとも考えられるからだ。追い詰められると人間は何でもする。そのことを前の人生で嫌というほど思い知らされた。

 

 エレベーターらしき扉を見つけたので近寄ってみると、「故障中」と書かれた紙が貼ってある。貼り紙はかなり黄ばんでいた。長い間修理されていないようだ。

 

「仕方ない。階段を使うか」

 

 階段を一つ一つのぼっていく。こんなに寒い建物の中を歩くのは嫌だ。それでも、エレベーターが使えないのだから仕方がない。

 

 六階に上がり、「六〇五号室」と書かれたドアを控えめに叩く。アポを取った時、「インターホンが壊れているから、ドアを直接ノックしてくれ」と言われたからだ。

 

「どちらさんだね?」

「フィリップスです」

「入ってくれ」

 

 二年八か月ぶりのホーランド予備役中将は、別人のようだった。金色の髪は長めでぼさぼさ、端正な顔は肉付きが薄く、平凡な優男といった感じだ。透き通るような青色の瞳には、穏やかな光が宿る。着ているネルシャツは見るからに安っぽい。体は一回り細くなり、かなり痩せたように思われる。かつての覇気はまったく感じられない。

 

 俺は呆然とした。以前とまったく別の人間になってしまったように思えたのだ。見た目は多少変わっているが、俺の知っているホーランド予備役中将なのは間違いない。しかし、中に入っている魂が別物だと感じる。

 

「ご無沙汰しておりました」

 

 内心の動揺を隠し、背筋を伸ばして敬礼をする。

 

「よく来てくれた」

 

 ホーランド予備役中将は敬礼を返すと、俺を室内に通した。足がややふらついている。怪我の後遺症だろうか。

 

 キッチンとリビングを兼ねる部屋を通り抜け、個室へと入った。両側には本棚が並び、正面には大きな窓がある。白一色に統一された壁紙と家具は、病室のような印象だ。明るい感じがするのは整頓されているからだろう。写真がたくさん飾ってあるが、ホーランド予備役中将が一人で写った写真はなく、すべて他の人と一緒に写った写真だ。勲章や賞状は一つも飾られていない。

 

「飲み物は何にする? コーヒー、紅茶、グリーンティーがあるが」

「コーヒーをお願いします」

「砂糖とクリームは?」

「砂糖を六杯、クリームを五杯入れてください」

 

 俺は笑顔を作り、心の中で「あなたはこんな人じゃないだろう」と呟いた。誰に対しても熱いグリーンティーを出し、「私が入れたんだから、うまいに決まってる」と胸を張るのが、ウィレム・ホーランドではないか。

 

 出てきたコーヒーは意外とうまかった。酸味が強くていかにもインスタントといった感じだが、濃度がこれ以上ないほどに適切だ。

 

「味はどうだね?」

「おいしいです」

「気を使わんでもいいぞ」

「本当です。工夫なさったのですか?」

 

 適当にいれても、おいしいコーヒーは作れない。ビューフォート准将あたりは、「砂糖を六杯も入れたら、誰が作っても同じだ」と笑うだろう。だが、単純な味だからこそ技量が物をいうのだ。二年前に亡くなったマーキス兵長が作るコーヒーは、おそろしくまずかった。

 

「何もしていないが」

「感覚でわかったんですね」

「昔から要領をつかむのはうまいんだ」

「あなたは戦場でもそうでした。一目で敵の弱点を見抜いてしまう」

「要領がいいだけだがね」

 

 ホーランド予備役中将の痩せた顔に、自嘲の色が浮かぶ。

 

「そんなことはありません」

 

 俺は即座に否定した。こんな顔をするウィレム・ホーランドなど見たくない。「私がナンバーワンだ」と高笑いしてほしかった。

 

「フィリップス君は優しいな。第一一艦隊はみんな優しい」

「先日は葬儀にメッセージを送っていただき、ありがとうございました。ストークス提督のご遺族も喜んでおられました」

「ストークスさんには世話になった。これぐらいのことはしないとな」

 

 ホーランド予備役中将は小さく笑うと、グリーンティーに口をつけた。ゆっくりと味を噛み締めるように茶をすする。

 

「ホーランド提督らしいですね。安心しました」

 

 俺は本心と嘘を同時に言った。英雄的精神の良い面が残っていたことには安心した。だが、茶の飲み方を見て不安になった。以前なら、二年前なら煮えたぎるような茶を一気に飲み干していたはずだ。

 

 しばらくの間、茶を飲みながら雑談をかわした。政治や軍事の話を振っても、ホーランド予備役中将が乗ってこないので、日常的な話に終始する。「身寄りがないから星営住宅に住んでいる」とか、「病院代で年金の半分が消える」とか、「金がないから酒をやめた」とか、そういう話は聞くことができた。だが、本当に知りたいことは聞き出せない。

 

 俺は切り札を出すことに決めた。ホーランド予備役中将の本心を確かめるには、最適の話題であろう。

 

「第二艦隊司令官に内定しました。第一辺境総軍司令官と兼任ですよ」

「第一一艦隊じゃないのか?」

 

 予想通り、ホーランド予備役中将は乗ってきた。

 

「ドーソン提督に頼まれまして」

「なぜだ? フィリップス君は第二艦隊と縁がないだろう。再建される艦隊の司令官は、OBから選ぶと聞いたぞ」

「ドーソン提督は旧第二艦隊が解散した時の司令官だったでしょう? 第二艦隊を譲ることで、エリヤ・フィリップスが自分の後継者だと示したいんです」

 

 俺は詳細な説明を付け加えた。

 

「ああ、なるほどな」

 

 ようやくホーランド予備役中将は気づいたようだ。政治音痴は以前と変わらない。

 

「そういうわけで、第一一艦隊司令官は未定になったんです」

 

 俺は「未定」を強調し、「第一一艦隊司令官のポストが空いてるぞ」と遠回しに伝える。ホーランド予備役中将に野心が残っているなら、興味を示すはずだ。

 

「ペクさんがいるだろう」

 

 ホーランド予備役中将は、旧第一一艦隊の元B分艦隊司令官の名前をあげた。

 

「ペク提督は『自信がない』といって辞退しました」

「生え抜きから出せないとなると、よそから呼ぶことになるな」

「トリューニヒト派はマスカーニ提督、良識派はアッテンボロー提督を第一一艦隊司令官にしたいようです」

「どっちに決まっても嫌だな」

「第一一艦隊OBはみんなそう思っています。いっそ、予備役のOBを推薦しようって意見も出てますよ」

 

 俺はさらに餌を追加した。

 

「OBにそんな権限はないだろう」

「今回はOBの意見が重視されるんです。伝統ある艦隊が復活したと印象付けるには、旧艦隊の伝統を引き継ぐ人材を司令官にしないといけません」

「しかし、モディセレさんが復帰しても、一年しかやれんぞ。来年で定年だからな」

 

 ここまで言われても、ホーランド予備役中将は「私がやる」とは言わない。あまりに反応が鈍すぎる。頼まれなくてもやりたがるのが、ウィレム・ホーランドという人なのに。

 

「あなたがいるじゃないですか」

「私はやらんよ。メールに書いただろう? 復帰する気はないと」

 

 ホーランド予備役中将は静かに言い切る。

 

「よそからちゃんとした人を呼んでくれ。第一一艦隊は思い出の部隊だからな。めちゃくちゃにされたくない」

「努力いたします」

「パエッタさんを呼んだらどうだ? トリューニヒト派でもあの人だったら構わんぞ。あれほど軍人らしい軍人は滅多にいない」

「お嫌いではないんですか?」

 

 俺は目を丸くした。ホーランド予備役中将とパエッタ中将の不仲は有名だ。

 

「嫌いじゃないさ。相性は悪いがね。あの人は自由にやらせてくれなかった」

「パエッタ提督はうちの副司令官になりますよ」

「艦隊司令官にしないのか? トリューニヒト派では数少ない実戦派じゃないか」

「良識派が認めません。現役復帰に反対する人すらいます。花形の正規艦隊司令官は無理です」

 

 俺はため息をついた。軍部良識派やリベラル勢力から見れば、パエッタ中将は『政治屋と組んで無用の戦を起こした男』だ。レグニツァの大敗が未だに尾を引いていた。

 

 良識派の勢力は今もなお強大である。イゼルローンを攻略したヤン元帥は、俺と並ぶクーデター鎮圧の功労者だ。セノオ少将のように市民軍で活躍した人もいた。自派の不始末を自ら片づけた形になる。反戦・反独裁市民戦線(AACF)とは、講和・軍縮の理想を共有する盟友であり、人脈的な繋がりも強い。以前ほどの力はないものの、トリューニヒト派と拮抗しうる存在だ。

 

 派閥の勢力よりも厄介なのが個人的な名声だった。市民は発言内容よりも発言者の名前を重視する。良識派には市民から英雄視される人物が何人もいた。「ヤン提督が反対している」と聞けば、市民は無条件で「あの件は間違いだ」と考えるだろう。「ビュコック提督が反対している」と聞けば、市民は「あの件は間違いかもしれない」と疑問を抱くはずだ。トリューニヒト議長は世論を気にする人なので、鬱陶しいと思っても、無視することはできない。

 

 こうした背景があったので、俺はパエッタ中将を副司令官として引っ張ることができた。良識派は当然のように反発した。だが、市民は「フィリップス提督の人事」というだけで納得するので、政治的な障害にはならないのだ。

 

「頭の固い連中だ」

 

 ホーランド予備役中将は苦笑いを浮かべた。以前なら豪快に笑い飛ばしただろう。

 

「彼らのおかげでパエッタ提督を登用できました。感謝したいぐらいです」

「フィリップス君は前向きだな」

「突撃ばかりしていましたから」

「総軍司令官になったらそうもいかんぞ」

「ワイドボーン中将を参謀長にして、チュン・ウー・チェン副参謀長との二頭体制にしました。作戦能力がぐっと上がりますよ。参謀の智謀は掛け算ですから」

 

 俺は右手の拳を握って親指を上に向ける。

 

「そんなことができるのか? ワイドボーン君は統合作戦本部の作戦部長じゃないか」

「俺とワイドボーン提督は友人です」

「なるほど」

 

 ホーランド予備役中将はこの説明で納得した。頭は切れるが単純なので、複雑な話は苦手なのである。

 

 参謀長人事の裏には複雑な事情があった。ワイドボーン中将は俺の友人であり、国家非常事態委員会(SEC)メンバーとして功績をあげた人物だ。彼を作戦部長に留めておくと、ドーソン・ワイドボーン・フィリップスのラインが、トリューニヒト議長を凌駕しかねない。ワイドボーン中将を外に置きたいトリューニヒト議長の思惑と、優秀な参謀がほしい俺の思惑が重なり、大物参謀長が誕生した。

 

「しかし、大丈夫なのか?」

「何がです?」

「君は揉め事が苦手だろう。パエッタさんとワイドボーン君を用いたら、良識派を刺激するぞ」

「構いません。どう転んでも仲良くできない相手です。だったら、とことんやりますよ」

 

 俺は涼しい顔で答えた。良識派と敵対することは織り込み済みだ。自分なりの計算はあるが、ここで話すことではない。

 

「フィリップス君、コーヒーのおかわりはどうする?」

「お願いします」

「甘いものも持ってこよう」

 

 そう言ってホーランド予備役中将は出て行った。この部屋に入った時と同じように、頼りない足取りだ。

 

 俺は目をつぶって考えた。今のホーランド予備役中将には野心が感じられない。「復帰を考えていない」というのは事実だろう。ほっとする一方で、寂しいとも感じる。「反省してほしい」「元気でいてほしい」という相反する感情があった。

 

 ホーランド予備役中将がキッチンから戻ってきた。カップ二個と大きな蒸しパンが乗った皿二枚を、不慣れな手つきでテーブルに置く。

 

「甘い物は好きだろう」

「はい」

「この蒸しパンはジャンボ・マンジューといってな。インカダの銘菓なんだ。甘ったるいぞ。小豆のペーストがぎっしり詰まっているんだ」

「おいしそうですね」

 

 俺はジャンボ・マンジューを見た。小豆のペーストは大好物だ。

 

「ゆっくりしていってくれ。せっかく来たんだ。すぐ帰るのもつまらんだろう」

「お言葉に甘えさせていただきます」

 

 俺はうれしそうな表情を作り、ジャンボ・マンジューにかぶりついた。だが、心の中は沈み切っていた。ホーランド予備役中将の柔和さの中に、不吉なものを感じる。エネルギーが尽きかけているように思えてならない。

 

 ジャンボ・マンジューを食べる俺に対し、ホーランド予備役中将は優しいまなざしを向けた。老人が孫を見るような目だ。三九歳の壮年とは思えないほどに枯れ切っている。

 

「ホーランド提督」

 

 俺は空になった皿を置き、姿勢を正した。

 

「何だね?」

「妻の最期についてお話しいただけませんか」

「それが本題かね」

 

 ホーランド予備役中将の表情が引き締まる。

 

「はい」

「メールに書いたとおりだぞ」

「同じ話を聞かせてください。直接話さないと、伝わらないものがあるでしょう」

 

 俺はまっすぐにかつての上官を見つめた。

 

「わかった。私は好きなように話す。判断は君に委ねよう」

 

 ホーランド予備役中将は軽く目をつぶった。脳内に散らばった記憶の断片を集めているように見えた。一分ほどの沈黙の後、目を開けた。

 

「今日は八〇一年一二月二八日か。あれから二年が過ぎたのだな――」

 

 七九九年五月五日一六時四八分、ホーランド機動集団の旗艦ディオニューシアは、至近距離からの直撃弾を受けた。炎と衝撃波が艦内を蹂躙した。

 

 気がついた時、ホーランド中将は崩れた機材に埋もれていた。体中が激しく痛むものの、致命傷ではない。

 

「生存者はいるか!」

 

 返事はなかった。部下は即死したか、致命傷を負ったかのどちらかであると思われた。壁面を炎が覆う。破壊された電子機器から火花が散る。赤色灯が視界を真っ赤に染める。ディオニューシアは巨大な火葬場と化しつつあった。

 

「本艦の核融合炉で爆発が生じました。乗員は直ちに避難してください。繰り返します。本艦の核融合炉で爆発が……」

 

 核融合炉の爆発を伝える機械音声が響いた。脱出できる見込みは薄いだろう。死は間近に迫っている。

 

「これも天命か」

 

 ホーランド中将は小声で呟いた。死ぬことが恐ろしいとは思わない。ずっと生死のぎりぎりで戦ってきた。勝者が生き残り、敗者が死ぬのが戦場の摂理だ。ラインハルト・フォン・ローエングラムに敗れたのは天命である。ならば、敗者は潔く死のう。天命を受け入れるのも英雄の度量というものだ。

 

 死を受け入れる気持ちになった時、炎の中から人影が現れた。副参謀長ダーシャ・ブレツェリ代将である。

 

「司令官閣下! ご無事でしたか!」

 

 ダーシャが機材を動かそうとしたが、ホーランド中将は首を横に振った。

 

「私に構うな。生存者を連れて逃げろ」

「司令官を助けるのが幕僚の仕事です」

「ハイネセンを出発して以来、私は一〇〇度戦って一〇〇度勝った。それなのにこのざまだ。天命としかいいようがない」

 

 ホーランド中将は差し伸べられた手を振り払う。己の生涯を英雄らしく終える。その以外のことは頭の中になかった。

 

「戦いはまだ終わっていません! 味方がまだ戦っているじゃないですか! この戦いが敗北に終わったとしても、再戦の機会がめぐってきます! その時にローエングラム大元帥を討ち果たせばいいんです!」

 

 ダーシャはホーランド中将の両肩をつかみ、必死の形相で訴えた。騒ぎを聞きつけた生存者が集まってくる。

 

「もういいんだ。私はローエングラム大元帥には勝てない。天がそう定めたのだ」

 

 ホーランド中将は力なく息を吐いた。終わりにさせてくれと言いたかった。肉体の傷は致命的ではない。だが、心が完全に折れてしまった。折れた剣に存在価値などない。潔く死ぬのが筋ではないか。

 

「何が天命ですか! あなたは指揮官なんです! 勝利の栄光も敗北の不名誉も背負う! それが指揮官の務めです! 勝てないなら、生存者を一人でも多く収容しましょう! 敵の追撃を防ぎましょう! できることはたくさんありますよ!」

 

 ダーシャの言葉は諫言というより、叱責であった。普段の礼儀正しさをかなぐりすてるほどに、彼女は必死だった。他の部下もすがりつくように懇願する。

 

「卑怯者にならずに済んだ。感謝する」

 

 ホーランド中将は自分の逃げを自覚した。敗北を受け入れたつもりだった。しかし、潔く死ぬことはできても、敗者として生き延びることはできなかった。常勝のプライドがそれを許さなかったのだ。

 

 ダーシャと部下五名がホーランド中将を引っ張り出し、航行可能な唯一のシャトルに乗せた。シャトルが飛び立った直後、ディオニューシアは大爆発を起こし、宇宙の塵と化したのである。

 

 話し終えた後、ホーランド予備役中将の視線が動いた。そして、一枚の写真の前で止まった。移ってる顔ぶれから、ホーランド機動集団司令部の集合写真であることがわかった。

 

「ダーシャ・ブレツェリ、リュー・メイユ、アントニア・ノールズ、ネーメト・エルジェーベト、マレナ・メサ、カール・フォン・グリンメルスハウゼン……。この六人が命の恩人だよ」

 

 この人の悲しむ顔を見るのは初めてだった。夜の水面のように静かで穏やかだ。

 

「フィリップス君、あの辺りにある写真は機動集団の写真だよ。懐かしい顔ばかりだろう?」

「はい」

「みんな、私が殺したんだ。写真に写っている連中だけじゃない。ホーランド機動集団の戦死者二一万三〇〇〇人も私が殺した。帝国領遠征軍の戦死者三七二六万八〇〇〇人を死なせたのも私だ」

 

 ホーランド予備役中将は申し訳なさそうに目を伏せる。肉付きの薄い顔には深い苦悩があった。細くなった体には罪悪感が張り付いていた。戦後の二年をどんな思いで過ごしたのかは、想像するまでもなかった。

 

「私は英雄になりたかった」

 

 ホーランド予備役中将はため息とともに声を吐き出す。

 

「私は何でもできた。私の頭は教えられたことをすぐ覚えた。私の体は教えられた動きを完璧にこなした。私の直感は要点を一瞬で見抜いた。何をやっても一番だった。競争で負けたことは一度もなかった。自分は選ばれた存在だと思ったよ。『人にできることは何でもできる。ならば、人にできないことをやるために生まれたに違いない』と信じた」

 

 自分を誇る様子はまったくなかった。あまりに自然すぎるからだろう。世の中には、食事をとるような感覚で一番になってしまう人種がいる。人から評価されることに慣れているので、自慢する必要もない。アンドリュー・フォークやマルコム・ワイドボーンがそうだった。

 

「とんだ勘違いだったがね。本物を目にすればわかる。ラインハルト・フォン・ローエングラムの前では、私などちっぽけな存在だった。人より要領がいいだけなのに、自分を特別だと勘違いしていたんだよ」

「…………」

「私は英雄ではなかった。三七年かけて幻を追いかけてきた。幻のために大戦を起こし、多くの人間を死に至らしめた。弁解のしようもない」

 

 それは悲痛な告白であった。生涯をかけて追い求めた夢は幻だった。多くの犠牲を出したのに、何一つなしえなかった。そんな事実を認めるのは死ぬよりも辛いことだ。

 

「ありがとうございました」

 

 俺は頭を下げると、ぬるくなったコーヒーに口をつける。糖分ではなく水分がほしかった。話を聞いているだけだったのに、のどが乾ききっていた。

 

「許してくれとは言わんよ。私にはそんな資格はない。君の妻と部下を死なせたんだからな」

 

 ホーランド予備役中将の表情は恐ろしく柔和だった。俺が罵ったとしても、甘んじて受け入れそうな雰囲気がある。

 

 何かがおかしいと思った。心から後悔しているのは間違いない。だが、彼の柔和さには後悔と別の成分も混じっている。その成分がどういうものなのかは想像できた。気分が重くなってくるのを感じた。

 

「どうした? そんなに私の顔が気になるのか?」

「いえ、あれが気になりまして」

 

 俺はとっさにホーランド予備役中将の背後を指さす。

 

「ただの本棚だぞ」

「本が入っていないでしょう」

 

 話題を逸らすために指さした本棚は、よく見ると変だった。本は一冊もなく、同じ形のクリアファイルが隙間なく詰まっていた。どのファイルにも、「GO-二」「FA-四」など二文字のアルファベットと数字が記されており、名前順に並んでいるようだ。

 

「あのファイルは何です?」

「戦死した部下の名簿だ」

「そうでしたか」

 

 俺は納得した。戦死者の名簿を手元に置く人はいる。ホーランド予備役中将のように、部下と親密な関係を築くタイプならあり得ることだ。

 

 しかし、そうなると別の疑問が生じてくる。他の本棚も名簿がぎっしり詰まっていた。一〇万人を超える戦死者のデータをなぜ紙で保管するのか? これほど膨大なデータを保管する場合、普通は電子化するものだ。狭い船室暮らしに慣れた艦艇乗りなら、間違いなくそうするだろう。この家の間取りは一DKと思われる。唯一の個室の収納スペースを無駄遣いするなんて、非効率としか言いようがない。

 

「電子化なさらないのですか?」

「手書きだからな」

「どういうことです?」

「戦友会から借りた電子名簿を手で書き写した」

 

 ホーランド予備役中将が一冊のファイルを開いた。

 

「凄いですね」

 

 俺は目を大きく見開いた。戦死者の姓名、階級、所属部隊、役職、年齢、戦死場所、戦死年月日などがすべて手書きで書かれている。

 

「別のも見るか? 好きなのを取っていいぞ」

「ありがとうございます」

 

 俺は「BU」と書かれたファイルすべてを取り出す。

 

「あった」

 

 姓名:ダーシャ・ブレツェリ 階級:代将たる宇宙軍大佐 ※死後、宇宙軍准将に昇進 所属部隊:ホーランド機動集団司令部 役職:副参謀長 年齢:三〇 戦死場所:ヴァルハラ星系 戦死年月日:七九九年五月五日

 

 胸の中が熱くなった。ただの文字列のはずなのに温もりを感じる。手書きの文字が生命を吹き込んでくれた。そんな錯覚を覚える。

 

「手書きはいいぞ。『こいつはこういう奴だったな』とか、『こいつはここで死んだのか』とか、そんなことを思いながら書く。そうすると、そいつが側にいるような気持ちになるんだ」

 

 ホーランド予備役中将が微笑んだ。とても穏やかで儚い微笑みだった。

 

「他のも読ませていただいてよろしいですか?」

「構わんぞ」

「遠慮なく読ませていただきます」

 

 俺は次々とファイルを取り出し、必死になってめくる。懐かしい部下がそこにいた。頼もしい戦友がそこにいた。

 

「フィリップス君、ずいぶん嬉しそうだな」

 

 ホーランド予備役中将が読み終えたファイルを片付けながら笑う。

 

「嬉しくないわけがないでしょう」

 

 俺は笑顔で返した。この部屋で初めて心から笑った。

 

「喜んでもらえて何よりだ。まだ半分しかできてないがね」

「半分でも一〇万人です。ここまで書くのは大変だったでしょう。なぜ手書きの名簿を作ろうとお考えになったのですか?」

「忘れないためだ」

 

 ホーランド予備役中将の顔から笑みが消える。

 

「私は根っからの軍人だ。だから、軍人としてのやり方を貫く。部下のことを絶対に忘れない。寝ても覚めても部下のことを考える。最後まで彼らを背負い続ける」

「あなたらしい答えだと思います。部下は上官に自分を知ってほしいと願うものです。彼らを気にかけ続ける。それこそが何よりの供養になるでしょう」

 

 俺は納得した気持ちで頷いた。

 

「遺族には自己満足だと言われるがね」

「遺族と交流なさっておられるのですか?」

「部下を知るためには欠かせんだろう。君にメールを送ったのもその一環だ」

「批判の方が多いでしょうに」

「返事の九割以上は批判だ。それで構わない。勝って称賛を浴びるのが当然なら、負けて批判を浴びるのも当然だろう」

 

 ホーランド予備役中将は事も無げに言い切った。当たり前のように聞こえるが、誰にでもできることではない。

 

「あなたはやはり英雄です。英雄としての名声は失いました。しかし、心の持ちようは英雄そのものです」

「私は普通の人間だよ。ローエングラム大元帥と戦ってわかった。あれが本物の英雄なんだ」

「選ばれた者でなくても英雄になれます。少しの責任感、少しの勇気、少しのプライド、少しの向上心さえあれば、誰だってなれるんです。あなたには英雄たる資格があります」

 

 俺は「誰だって」を強調した。二か月前、ハイネセンに大勢の英雄が現れた。非凡な者も平凡な者も英雄になった。誰の中にも英雄的精神の卵が眠っているのだ。

 

「フィリップス君、君は私の責任を問いに来たんじゃないかね?」

「俺が責める必要はありません。あなた自身より厳しい批判者はいないでしょうから」

「私が私を責めたところで、自己満足にすぎんぞ」

「責任を取ってほしいというのも俺の自己満足です。少なくとも、俺はあなたのやり方に満足しています。それに……」

 

 ここで言葉を一旦切った。続きを言うべきかどうか迷ったが、思い切って言うことにした。

 

「長くないんでしょう?」

「わかっていたのか」

 

 ホーランド予備役中将は暖かい表情になった。その暖かさはかつて燦然と光り輝いた太陽の余熱だ。

 

「放射線障害ですね?」

「核融合炉の爆発に巻き込まれたんでな」

「どうしてそこをぼかしたんです? 隠さなくてもいいでしょう」

 

 俺はほろ苦い気分になった。放射線障害とわかっていたら、反省していなくても許せた。他の遺族だって批判の手を緩めるはずだ。

 

「手加減されたくないんでな」

「普通は病気のふりをしてでも、憎まれたくないと思うんですけどね」

「多くの兵士が私を英雄だと信じて散っていった。みっともない真似をしたら、そいつらが『自分はこんなくだらん奴のために死んだのか』と嘆くだろう」

 

 ホーランド予備役中将はすべてを失ったのに、矜持だけは失っていない。勇気や智謀よりずっと貴重な資質ではなかろうか。

 

「余命はあと何年ですか?」

「二年前、医者に『余命五年』と言われた。今は余命三年ということになる」

「どう答えればいいんでしょうね。良かったというべきなのか、残念だというべきなのか」

 

 俺は判断に困った。助かったのは幸運だった。しかし、余命が三年しかないのは不幸だ。西暦二三〇〇年代に癌の治療法が確立されると、放射線による病気は著しく減少した。だが、一度に大量の放射線を浴びてしまうと、手の打ちようがない。余命を伸ばすのがせいぜいだ。

 

「私は運が良かったと思っているよ」

 

 そう言うとホーランド予備役中将は立ち上がり、窓の前で足を止めた。

 

「来てくれ」

「はい」

 

 俺も窓の前に立つ。気づかないうちに日光が強くなっていた。

 

「あの川はリオ・ブランコ川だ。古代スペイン語で『白い川』という意味でね。雪が降ると真っ白になるんだ」

 

 ホーランド予備役中将が窓の外を指さす。雪景色の中を大きな川が流れていた。氷の浮いた水面に冬の日光が反射し、白銀色の輝きを放つ。まさしく「白い川」である。

 

「きれいな眺めですね」

 

 俺はリオ・ブランコ川を食い入るように眺めた。雪とは縁のない人生を送ってきた。故郷パラディオンは雪が降らない街だ。ハイネセンポリスやオリンピアは、年に数回しか雪が降らないし、真っ白になるほど積もることもない。それ以外の勤務地は温帯か亜熱帯だった。氷の浮いた川を見るなど初めてだった。

 

「私は一五歳までこの街で過ごした。いつもうんざりしていたよ。リオ・ブランコなんて、ちっぽけな惑星の地べたに貼りついた小川だ。こんな川のほとりに住みたくなかった。天空に飛び出したかった。星の大河を自由に泳ぎたかった」

 

 ホーランド予備役中将は、リオ・ブランコに優しいまなざしを向ける。

 

「しかし、すべてを失った時、リオ・ブランコがどうしようもなく懐かしくなった。だから、この部屋にしたんだ。川沿いは家賃が安いしな」

「よくわかります」

「君にはわからんだろう」

「知り合いにお爺さんがいましてね。故郷にいられなくなった人なんですが、いつも帰りたいと言ってたんです。不思議ですよね。いい思い出がないのに帰りたいなんて。でも、そういうものなんだと思います」

 

 俺は自分の経験を架空の「お爺さん」の話として語る。前の人生で年老いた時、故郷パラディオンに帰りたいと思った。家族に裏切られ、友人に見捨てられ、逃げるように出て行った街なのに、それでも懐かしくてたまらなかった。

 

「地に落ちて初めて分かることもある。地べたに貼りついて生きるのも悪くない。そのことを知っただけでも、生き延びた甲斐はあった」

 

 ホーランド予備役中将はとても満ち足りた顔をしていた。それが何を意味するのかは明らかだった。彼の人生は本当の意味で終焉を迎えつつある。

 

 この人を失いたくないと痛切に思った。ダーシャが生かした人だ。ダーシャを知る人だ。上官だった人だ。同じ戦場を生き抜いた人だ。過ちを率直に認めた人だ。誇りをもって敗北に向き合った人だ。俺が前の世界で見た物を見た人だ。ようやく真情に触れることができた人だ。それなのに死ぬなんて寂しすぎるではないか。

 

「ホーランド提督」

「なんだね?」

 

 ホーランド予備役中将はこちらを向いた。窓から入ってくる日光のせいで、表情は見えない。

 

「第一一艦隊司令官をやってみる気はないですか?」

「やらないと言っただろう」

「一期二年で構いません。ホーランド機動集団のような精鋭を作ってください。次の戦争は早くとも五年後ですから、実戦はたぶんありません」

「余命三年というのは、『三年以内に死ぬ確率が五〇パーセント』という意味だぞ。明日死ぬかもしれないんだ」

「逆に言うと、三年以上生きられる可能性も五〇パーセントなんですよ。医学は日々進歩しています。一世紀前なら一年以内に死亡するほどの被ばく量が、今なら一〇年は確実に生きられる水準になっています。正規艦隊の艦隊病院なら、公費で最先端の医療が受けられます」

「何が言いたいんだ?」

「俺はあなたに長生きしていただきたいと思ってるんです」

「なぜだ?」

「ダーシャが命と引き換えに助けた人だからですよ」

 

 俺は機動集団司令部の集合写真を指差した。中央の一番目立つ場所で、笑顔のダーシャがピースサインをしている。

 

「ダーシャの分も戦ってください。そういう責任の取り方もあるはずです」

「しかし、私は……」

「ジェリコー参謀長の分も戦ってください。ソリアーノ大佐の分も戦ってください。ソレル中佐の分も戦ってください。ラヴィルニー中佐の分も――」

 

 旗艦と運命を共にした幕僚の名前を片っ端からあげる。

 

「彼らは戦いたくても戦えないんです。彼らが守ろうとした国を代わりに守る。どうです?」

「…………」

「見てください」

 

 俺は別の写真を指差した。機動集団の部隊長が集まった写真だ。

 

「写っている七人のうち、生き残っているのは俺とあなただけです。他の五人はヴァルハラで死にました」

「…………」

「俺たちが頑張らなくてどうするんです! ハルエル提督の代わりに戦いましょう! エスピノーザ提督の代わりに戦いましょう! バボール提督の代わりに戦いましょう! ヴィトカ提督の代わりに戦いましょう! オウミ提督の代わりに戦いましょう!」

「ハルエルたちの代わりか……」

「そうです! そして、戦死者二一万三〇〇〇人の代わりです!」

 

 俺はホーランド予備役中将の仲間意識に訴える。

 

「凡人には凡人のやりかたがあります。軍人なんてほとんどは凡人です。凡人だけど必死で戦ってるんです。あなたが英雄でなくても、できることはいっぱいありますよ」

 

 むしろ、英雄でないウィレム・ホーランドにこそ期待したかった。前の世界では敗北と同時に死んだが、この世界では生き残った。敗北を知ったウィレム・ホーランドは、より大きな提督になるかもしれない。天の頂上と地の底を両方知っているのは稀有なことだ。

 

「私は冬バラ会だぞ。戦犯中の戦犯だ」

「流れは変わっています。中心メンバーでなかったあなたなら大丈夫です」

「少し考えさせてくれ。いろんな人に相談したいんでな」

 

 ホーランド予備役中将が承諾したのは、三日後のことだった。ルグランジュ大将の一言が決定的だったようだ。

 

 英雄になれなかった男は、第一一艦隊司令官として現役に復帰する。奇しくも前の世界で率いた艦隊と同じ艦隊を率いることとなった。違うのは敗北を知り、地の底を知っているということだ。翼を失ったグリフォンは四本の足で地を歩く。その先に何があるのかは誰も知らない。




新版を作った最大の理由の一つは、このエピソードでした。本来は要塞VS要塞の後に入れるはずだったのですが、伏線が足りなさすぎることに気づき、ホーランドとの絡みを増やす必要を感じました。また、要塞VS要塞の後では遅すぎました。長年温めていたエピソードを披露することができ、喜びに堪えません。


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第91話:凱旋する英雄、粛軍の嵐 802年1月4日~1月11日 パラディオン市

 年が明けた八〇二年一月四日の早朝、俺は故郷パラディオンの土を二年ぶりに踏んだ。宇宙港の到着口を出た瞬間、歓声の嵐が巻き起こり、拍手の雨が降り注ぐ。数えきれないほどの群衆が到着ロビーを埋め尽くす。すべての電子看板に、「フィリップス提督、お帰りなさい!」という文字が浮かぶ。

 

「ありがとうございます!」

 

 俺は笑顔で手を振った。歓迎されることには慣れていた。それでも、故郷の人々から「お帰りなさい」と声をかけられると、嬉しくなってくる。

 

 退役軍人墓地に参拝した後、一〇時から市主催の歓迎式に臨んだ。平日の午前だというのに、三万人を収容できるパラディオン市運動公園は満杯だ。来賓席には、市長、市議会議長、商工会議所会頭など地元政財界の大物が顔を連ねる。俺が二度目の市民栄誉賞を受け取り、感謝の言葉を述べると、数万の拍手が鳴り響いた。

 

 初日と二日目は多忙を極めた。公式行事、要人への表敬訪問、インタビュー、テレビ出演に時間を費やした。

 

 二日目の夜にテレビ出演が終わると、俺は両親が住むエクサルヒア警察官舎に直行した。父がクーデター鎮圧後に市警察に復帰したため、姉夫婦の家から引っ越したのだ。

 

「お兄ちゃん! お帰り!」

 

 玄関のドアを開けると、先に里帰りしていた妹のアルマが飛び出してきた。小柄で華奢な女性なら微笑ましいであろう。しかし、妹は身長一八四・六一センチ、体重七六キロという筋肉の塊である。格闘選手がタックルを仕掛けてきたようなものだ。

 

「おう!」

 

 俺は両手を広げて妹を受け止めた。強烈な衝撃が全身を揺るがす。身長一六九・四五センチ、体重六三キロの俺は、どうにか踏みとどまる。

 

「あらあら、アルマは甘えん坊ねえ」

 

 母のサビナがのんきに笑う。妹が二八歳の少将だという事実を無視し、「甘えん坊」の一言で片づけた。親とはこういう生き物である。

 

「エリヤも立派になったよ。昔は吹き飛ばされてたもん」

 

 姉のニコールは満足そうに目を細めた。弟の成長が嬉しくてたまらないといった様子だ。

 

「家族仲良しが一番だ!」

 

 父のロニーは口を開けて大笑いし、俺と妹の肩を強く叩く。親から見れば、子供は何歳になっても子供なのだ。

 

 家族全員が大笑いし、姉の娘のパオラ、マルゴ、ジュリーもはしゃいだ。そんな中、義兄のファビアンだけが微妙な表情を浮かべる。血が繋がった者同士のノリについていけないらしい。

 

 俺、父、母、姉、妹、義兄、三人の姪が食卓を囲んだ。全員がパラス人らしく食べ物を両手で持って食べ、カップを両手で持って飲み物を飲む。マカロニ・アンド・チーズ、ジャンバラヤ、フィッシュチャウダー、フライドポテト、ローストチキン、パラシアンピザといった料理は、パラス人のソウルフードである。生野菜が詰まったボウル、野菜ジュースやフルーツジュースが入ったボトルも並んでいた。

 

 うまいものを食べ、笑いながら話す。これほど幸せなことはない。かつて、トリューニヒト議長は、「すべての人間が笑顔で同じ食卓を囲める世界を作りたい」と言った。つまり、「すべての人間を幸せにしたい」と言ったのだ。俺もこの幸せをすべての人と共有したいと思う。

 

 三日目は軍の関連団体を訪ねた。退役軍人連盟や傷痍軍人援護会では、退役軍人と語り合う。愛国遺族会や戦没者遺児支援協会では、遺族の言葉に耳を傾ける。兵士とその家族の気持ちについて理解を深めることができた。残念ながら、反戦派系の反戦復員兵協会と反戦遺族会には、訪問を拒否された。

 

 四日目は福祉施設に足を運んだ。野宿者保護施設では、家と仕事を失った退役軍人が寝泊まりしていた。犯罪者更生支援センターでは、刑務所を出所した退役軍人が更生支援プログラムを受けていた。薬物中毒者更生施設やアルコール中毒者更生施設では、依存症に陥った退役軍人が治療を受けていた。

 

 退役後に身を持ち崩す軍人は少なくない。怪我の後遺症、心的外傷、病気が社会への適応を困難なものとする。十分な保障がなければ、現役軍人の士気にも悪影響を及ぼすだろう。軍最高幹部としては見過ごせない状況だ。

 

 俺個人の思い入れもある。前の人生で軍隊を脱走した後、犯罪で刑務所に入ったり、合成麻薬サイオキシンやアルコールに溺れたりした。他人事とは思えなかった。

 

 五日目はゆかりのある場所を訪ねた。実時間で七〇年以上前の記憶なんて、ほとんど残っていない。自分の知らない自分を掘り起こすのも楽しいものだ。

 

 スターリング高校を訪ねると、冬休みの最中なのに全生徒が出迎えてくれた。校長は「フィリップス提督が来ると聞いて、自主的に集まりました」と胸を張る。だが、嬉しそうなのは俺が卒業した職業教育コースの生徒だけで、進学コースの生徒はつまらなさそうだ。

 

「フィリップス提督のおかげで、職業教育コースの倍率が跳ね上がったんですよ。『英雄と同じ教室で学びたい』という子がたくさんおりまして。別の州から受験する子もいるんです」

 

 中年の女性教師が得意げに胸をそらす。

 

「嬉しいですね」

 

 俺は笑顔で応じたが、内心では「こんな高校に入っても意味がないのに」と思った。スターリング高校の職業教育コースはEランクだ。卒業したところで就職にはつながらない。職業教育コースというより、フリーター直行コースである。

 

「数年前から求人が急増しましてね。企業は『フィリップス提督のような教育を受けた若者がほしい』とおっしゃいます。提督が卒業なさった時はEランクでしたが、今はCランクです」

「そこまでレベルが上がったんですか!」

 

 驚かずにはいられなかった。職業教育コースでCランクといえば、歩兵専科学校と同じランクである。Bランク校の卒業生でも就職に困る時代なので、確実に仕事が見つかるとは言えないが、それなりに有利だ。英雄効果は母校のレベルまで上げてしまった。

 

 俺と妹が通っていたシルバーフィールド中学では、希望者だけが登校した。それでも、全生徒の半数が講堂に集まった。壇上にいるだけで熱気が伝わってくる。俺がスピーチを始めると、一生懸命な表情で耳を傾けてくれた。

 

「うちの生徒は、みんなフィリップス大将閣下とフィリップス少将閣下を尊敬しています!」

 

 髪の毛が赤くて童顔で背が低い女子は、目をきらきらと輝かせた。小さな体いっぱいに喜びが詰まっているといった感じだ。

 

 教師によると、数年前から軍への就職を目指す生徒が激増したそうだ。優秀な生徒は専科学校を受験し、そうでない生徒は志願兵になるという。

 

「恥ずかしながら、我が校は平凡な学校です。士官学校やハイネセン記念大学に進学できる子はいません。運動部のほとんどは一回戦負けの常連です。あなたがたご兄妹が唯一誇れるものなんですよ」

「憧れてもらえるなんて光栄です」

 

 俺は心からの笑顔で応じた。凡人として生きてきた自分が、平凡な子供から憧れられる存在になったのだ。これほど嬉しいことはない。

 

 世話になった小学校や保育園、小学校時代に在籍した少年野球チーム、中学校時代に通った補習塾にも足を運んだ。大人は俺のことを覚えていた。子供は憧れのまなざしを向けてくれた。残念なことに、バイト先だったコーヒーショップは潰れていた。

 

 六日目からはのんびり過ごした。五時三〇分に起床し、妹と一緒に一時間ほど走る。七時に軽い朝食をとった後、妹と一緒に家を出て、一〇キロ離れたゴルディアス市の市立体育館まで走る。八時三〇分の開館と同時にトレーニングを始め、終わってからシャワーを浴び、一〇時三〇分頃に外に出る。それからは勉強したり、食べ歩きをしたり、妹と二人で過ごす。両親と姉が帰ってくる頃には実家に戻り、家族全員で夕食をとる。二三時に寝るまでは、勉強をしたり、家族と話したり、マイペースに過ごす。規則正しい生活で心身を休めた。

 

 俺は精一杯休暇を楽しむつもりだった。次の長期休暇がいつになるかはわからない。休暇をもらう前に死ぬ可能性だってある。戦う時も休む時も全力で臨む。それが軍人の生き方だ。

 

 

 

 故郷でのんびりしている間、軍人事が刷新された。上院と下院で過半数を獲得し、他党との連立を解消したトリューニヒト政権は、人事権を遠慮なしに使った。

 

 最初にクーデターに加担した者への処罰が始まった。トリューニヒト政権が絶対善になれる数少ない機会だ。これほど叩きやすい「悪人」は滅多にいない。

 

 再建会議に協力した将校、再建会議の命令に従った将校は、「反乱参加者」として軍法会議に告発された。再建会議支持を表明しただけの将校は、予備役編入となった。将校には命令が正当なものかどうかを判断する責任がある。不当な命令に従えば、将校としての責任を果たしていないことになるのだ。

 

 下士官と兵卒を軍法会議にかけようとする動きもあった。だが、俺が「彼らは責任を負う立場ではない」という意見書を各所にメールで送りまくったため、立ち消えとなった。結局、具申権を有する部隊最先任下士官だけが処分を受けた。

 

 再建会議の中心メンバーは、階級を剥奪されてから軍法会議にかけられた。クーデターを主導したことが「軍人にあるまじき非行」に該当したため、国防基本法の規定により、懲戒免職処分を受けたのだ。統合作戦本部次長ブロンズ地上軍大将、国防委員会情報部長ギースラー地上軍中将、シヴァ方面艦隊司令官代理コナリー宇宙軍中将、第五機動軍司令官ラッソ地上軍中将、統合作戦本部次席副官ファイフェル宇宙軍准将らは、軍服を着ることが許されない身となった。

 

 第九予備役分艦隊副司令官ルイス宇宙軍准将は、悪質な情報操作を行ったため、階級を剥奪された。クーデター前に「グリーンヒル、ブロンズ、ルグランジュ、エベンスがクーデターを企んでいる」という噂を流し、真のクーデター計画から目を逸らさせた。クーデターが始まると、「市民軍こそが本当のクーデター部隊。フィリップスは傀儡に過ぎん。グリーンヒル、ルグランジュ、エベンスの三人が黒幕だ!」と叫んだ。逮捕後は「ヤン提督が味方すると聞いたから協力しただけ」と供述しているが、そんな言い訳が通るはずもない。

 

 反乱中核勢力に指定された旧第一二艦隊、情報部、シロングループは、徹底的な粛清にあった。多くの将校がクーデターに加担した疑いで告発された。クーデターに加担しなかった将校も、「世代交代」の名目で予備役に編入されたり、「栄転」の名目で地方に飛ばされたりした。

 

 シロングループが粛清されたことにより、麻薬関係者にも捜査の手が伸びた。ジャーディス元上院議員、第五辺境軍集団副司令官ハリーリー地上軍少将らは、クーデターに加担した容疑で逮捕された。ライガール星系のカロキ前首相は自殺した。アルバネーゼ退役宇宙軍大将、ドワイヤン宇宙軍中将らは逃走中だ。

 

 拘束される前に死亡した者は告発されなかった。統合作戦本部長ボロディン宇宙軍大将、第四機動集団司令官ストークス宇宙軍中将、特殊作戦総軍副司令官パリー地上軍中将らは、死によって裁判を回避した。ただし、クーデター鎮圧の翌日に階級を剥奪されている。

 

 クーデターが始まってから再建会議に協力した者は、予備役に編入されて軍法会議を受けることとなった。後方勤務本部長ツァイ宇宙軍大将、特殊作戦総軍司令官ギュール宇宙軍大将、第一機動集団司令官コルビン宇宙軍中将、第一機動軍司令官ドナート地上軍中将らは、一時の過ちでキャリアを失った。

 

 第六陸戦遠征軍司令官ビョルクセン宇宙軍少将は、ヤン派幹部の中でただ一人、軍法会議にかけられた。「ヤン提督が再建会議に味方した」という偽情報に惑わされ、市民軍側部隊の根拠地を制圧したことが問題視されたのである。

 

 中立を宣言した者は、「クーデターを黙認した」として予備役に編入された。陸戦隊総監グリーソン宇宙軍大将、士官学校校長ホッジズ地上軍中将らが、現役を退いた。

 

 シヴァ方面艦隊副司令官ラップ宇宙軍中将は、「クーデターを積極的に抑止しなかった」との理由で、予備役に編入された。しかし、彼がクーデターに反対して拘束されたことは、多くの人が証言している。実のところ、有害図書愛好会のメンバーは、ラップ中将の人望にひかれて集まった同期生や後輩だ。良識派の中核部隊は実質的なリーダーを失った。

 

 第二辺境軍集団司令官キャゼルヌ宇宙軍中将は、反再建会議の姿勢を打ち出したにも関わらず、予備役編入となった。再建会議派の民間船を拿捕しなかったこと、ボロディン元大将から称賛されたことなどから、クーデターを黙認したとみなされたのだ。ラグナロック戦役の戦犯容疑者という立場も影響したと思われる。政治力のあるキャゼルヌ中将の失脚は、有害図書愛好会にとっては後見人の喪失を意味した。

 

 責任を感じて自ら現役を退いた者もいる。地上軍副総監カルガーリ地上軍大将、バーラト方面艦隊副司令官デサイ宇宙軍中将らは、自らの意思で予備役に入った。宇宙艦隊司令長官ビュコック宇宙軍大将、地上軍総監ベネット地上軍大将、バーラト方面艦隊司令官アル=サレム宇宙軍大将らも辞表を提出したが、国防委員会は受理しなかった。

 

 クーデター加担者の処罰が一段落すると、トリューニヒト政権は「クーデター再発を防止するための措置」と言って、粛清人事を行った。

 

 熱烈な軍縮支持者、政治家を露骨に嫌う者、徹底した合理主義者、体制への反発心が強い者が、粛清の対象となった。宇宙艦隊総参謀長クブルスリー宇宙軍大将、国防研究所所長ナラナヤン宇宙軍中将らは、閑職に追いやられた。宇宙艦隊副参謀長モンシャルマン宇宙軍中将、統合作戦本部安全管理部長バウンスゴール宇宙軍技術中将らは、地方に飛ばされた。技術科学本部長マディソン宇宙軍大将、国防委員会事務総長ユーソラ地上軍大将らは、予備役に編入された。

 

 軍拡支持者、政治家と協調できる者、愛国心が強い者、体制に従順な者でも、トリューニヒト派と仲が悪ければ粛清された。第三陸戦遠征軍司令官リャオ宇宙軍中将らは、実権のないポストに移された。バーラト方面地上軍参謀長シュトローマン地上軍中将らは、地方に左遷された。国防委員会防衛部長カルドゥッチ宇宙軍中将らは、予備役となった。

 

 ラグナロック戦犯に対する恩赦が取り消され、遠征軍首脳陣は被告席に座ることとなった。軍法会議開始に先立ち、宇宙軍予備役総隊司令官グリーンヒル宇宙軍大将、宇宙軍支援総隊司令官コーネフ宇宙軍大将、第二機動集団司令官ビロライネン宇宙軍中将ら現役軍人の被告人は、予備役に編入された。

 

 市民軍で活躍したサンドル・アラルコン宇宙軍大将は、予備役となった。表向きには「世代交代のため」とされるが、過去の非戦闘員殺害疑惑の新証拠が出たことが決定的だった。また、「アラルコン四天王」と称されるカヴィス宇宙軍中将、リリエンバーグ宇宙軍少将、カンニスト宇宙軍少将、ハッザージ宇宙軍少将も、予備役に編入された。市民軍系勢力から、最も反トリューニヒト的なグループが消滅したのである。

 

 一連の粛清人事によって軍を去った将校は三二万一〇〇〇人、左遷された将校は一七万七〇〇〇人に及んだ。クーデター鎮圧直後の同盟軍は、三四二万八〇〇〇人の将校を抱えていた。七人に一人が粛清対象になったのだ。良識派がラグナロック戦役後に行った粛清とは、比較にならない規模だった。この強烈な人事は「トリューニヒト粛軍」と呼ばれる。

 

「なんだかなあ」

 

 俺から見ても、トリューニヒト粛軍は不公平すぎた。トリューニヒト派の利益と心象だけで決まったように思える。思想や政策が一致する人物でも、トリューニヒト派に嫌われたらおしまいだ。

 

 アラルコン大将の失脚は残念だった。過去の疑惑があるので、擁護するのは困難だ。それでも、俺が休暇中でなかったら、アラルコン四天王の予備役編入は阻止できただろう。

 

 良識派が三年前にやった粛軍もかなり酷かったが、一貫した基準があったので納得はできた。彼らの構想に合致する人材なら、嫌われていても排除されることはなかった。俺は構想外だったから排除されたに過ぎない。

 

 苛烈な粛軍の中にも良いことはあった。麻薬関係者の逮捕、ラグナロック戦犯の起訴と予備役編入は、ずっと望んでいたことだ。

 

 ようやく本当の戦犯を裁くことができる。むろん、俺だってロボス元帥やグリーンヒル大将に全責任があるとは思っていない。背後にいる政治家・財界人・官僚を引っ張り出すには、遠征軍首脳陣を裁判にかけるしかないのだ。

 

 トリューニヒト政権は発足当初から、「冬バラ会が諸悪の根源」という前政権の見解を否定してきた。旧与党と良識派の力が強かったために、軍法会議を開けなかったのだ。クーデターで力関係は完全に変わった。だから、ホーランド中将の復帰が実現しても、良識派以外からの反発は薄かった。いずれはアンドリューの名誉回復も実現するだろう。

 

 麻薬関係者の政治生命は完全に断たれた。政治犯として裁かれるのは少し残念だ。もっとも、希望がないわけではない。クリストフ・バーゼルが麻薬取引に関与した疑いで逮捕された。バーゼルの線から真実が明らかになることを期待したい。

 

 ヴァンフリートの仇討ちも半ば終わった。帝国軍を呼び寄せた四人のうち、自由の身なのはドワイヤン元中将だけだ。ハリーリー元少将は逮捕された。ロペス中将とメレミャーニン少将は、ラグナロック末期に帝国軍に降伏したが、逃亡を図ったために射殺された。悪党にしてはあっけない最期である。

 

「終わる時はこんなもんなのか」

 

 振り返ってみると長い戦いだった。麻薬組織との抗争は九年間、ラグナロック戦犯との裁判闘争は二年間続いた。どちらもあっけなく終わった。俺と関係ないところで決着してしまったのだ。

 

「そういえば、あの人はどうしてるんだろう」

 

 帝国の使者ループレヒト・レーヴェの顔を思い出した。フェザーンでの会見の後、彼は辺境に飛ばされると語った。生き残っていてほしいと思う。ハリーリー元少将が捕まり、ロペス中将とメレミャーニン少将が殺されたことを知れば、喜ぶに違いない。

 

 そう思ったところで、俺は首を横に振った。レーヴェのような人は、自分の手でケリをつけたがるものだ。他人に殺されたと知ったら悔しがるかもしれない。二人の悪党を殺害したのは、ラインハルト配下のケスラー提督だった。

 

「結局、俺もレーヴェさんも、ケスラー提督に仇を討ってもらったことになるんだな」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。まさか、前の世界の有名人が仇を討ってくれるなんて、予想もしなかった。もっとも、ケスラー提督は感謝されても喜ばないはずだ。逃げようとした捕虜を殺すなんて、武人の仕事ではない。

 

「問題はこれからだ」

 

 壁にかかった軍服に視線を向けた。襟元の階級章には四つの星がついている。俺は宇宙軍上級大将に昇進したのだ。国防委員会はわざわざ実家に新しい階級章を送ってくれた。

 

 どんな組織においても、人事の不満は致命傷になりうる。粛軍人事に納得できない人は多い。再びクーデターが起きてもおかしくないだろう。

 

「これがうまくいったらいいんだけど」

 

 俺は「新人事」と書かれたフォルダを開く。昇進や補職に関する情報だ。粛軍の不満をどれだけ解消できるかが今後の鍵となる。

 

 鞭を打った後は飴を舐めさせる番だ。トリューニヒト政権は粛軍という鞭を振るった後、昇進や栄転という飴をばらまいた。

 

 一二月二五日、復員支援軍司令官ヤン宇宙軍大将、宇宙艦隊司令長官ビュコック宇宙軍大将、地上軍総監ベネット地上軍大将、宇宙軍教育総隊司令官ルフェーブル宇宙軍大将、元地上軍総監ロヴェール予備役地上軍大将、元中央兵站総軍司令官ランナーベック予備役地上軍大将の六名が、元帥に昇進した。いずれもラグナロックの功労者である。

 

 一月二日、国内平定軍を指揮したギオー地上軍中将、モートン宇宙軍中将、シャイデマン宇宙軍中将、ジャライエル地上軍中将、ホルヘ宇宙軍中将、メネンディ地上軍中将の六名が、大将に昇進した。彼らの配下にも昇進する者が多かった。

 

 一月三日、上級大将の設置と代将の廃止が実施された。大将ポストは上級大将ポスト、中将ポストは大将ポスト、少将ポストは中将ポスト、准将ポストは少将ポスト、代将ポストは准将ポストに切り替わった。指定階級の切り替えに伴い、将官は無条件で一階級昇進し、代将は准将となった。国内平定軍に参加した将官の中には、二日で二階級昇進した者も少なくない。

 

 予備役将官への救済措置として、半年以内に予備役となった者も一階級昇進した。ただし、クーデター加担者とラグナロック戦犯は昇進対象から除外された。これによって、アラルコン予備役大将は予備役上級大将となり、四天王も階級が上がった。

 

 良識派はこの大盤振る舞いを「でたらめなばらまきだ」と批判したが、同調する声は広がらなかった。ばらまきでも昇進したいと思うのが普通の軍人だ。

 

 大多数の支持を受けたトリューニヒト政権は、機構改革を進めていった。幕僚主導の軍運営を政治主導に改めるのだ。

 

 統合作戦本部長が有していた「同盟軍最高司令官代理」の称号が、国防委員長に移った。これによって、統合作戦本部長は作戦指揮系統から外れ、最高司令官代理として采配を振るうことができなくなる。最高評議会議長の首席軍事参謀としての権限だけが残された。

 

 良識派は「戦争指導にはプロの力も必要だ」と言って、この改変に反対した。だが、現職の統合作戦本部長がクーデターを起こした後では、説得力に欠ける。

 

 新体制の統合作戦本部長に、宇宙艦隊司令長官アレクサンドル・ビュコック宇宙軍元帥が選ばれたことは、大きな話題を呼んだ。兵卒出身者が統合作戦本部長に就任するのは、同盟軍史上初めてとなる。七五歳一か月での統合作戦本部長就任は同盟軍史上で第二位だ。もっとも、第一位は元帥が終身現役だった時代の記録だった。軍歴五九年は現役最長、参加戦闘数一三一七回・参加会戦数八八回・受勲回数一二一回は現役最多である。三年前の第二次ヴァルハラ会戦では、同盟軍右翼の崩壊を防いだ。これほど話題性に富んだ人物はいない。

 

 国防委員会戦略部出身のメネンディ地上軍上級大将が作戦担当次長、同盟軍最高の兵站参謀セレブレッゼ宇宙軍上級大将が管理担当次長となった。実務経験豊かな次長が叩き上げの本部長を支える。

 

 国防委員会組織令改正により、国防委員会事務総局トップの事務総長は、統合作戦本部長と同格になった。政治主導の体制においては、軍官僚の頂点にいる事務総長は要職の中の要職だ。

 

 宇宙軍教育総隊司令官シャルル・ルフェーブル宇宙軍元帥が、国防委員会事務総長となった。士官学校を卒業してから五四年、艦艇勤務一筋で過ごしてきた生粋の軍艦乗りだ。ラグナロック戦役ではミズガルズを死守した。老元帥の威信が事務総長の職に重みを加えるだろう。

 

 事務総局の次長に選ばれたのは、国防委員会生え抜きのリバモア地上軍大将である。軍政のプロをナンバーツーに持ってきた。手堅い布陣といえる。

 

 宇宙艦隊総司令部と地上軍総監部はいずれも分割された。宇宙艦隊総司令部から作戦指導機能が分離され、宇宙軍幕僚総監部が一世紀ぶりに復活した。地上軍総監部から地上総軍総司令部が独立し、地上軍幕僚総監部と地上総軍総司令部が並び立つこととなった。作戦指導機関と実戦部隊司令部を切り離したのだ。

 

 バーラト方面艦隊司令官ジャミール・アル=サレム宇宙軍上級大将が、宇宙軍幕僚総監に任命された。ラグナロック戦役で活躍した提督だが、最も得意なのはデスクワークだ。宇宙軍の統括者としてはうってつけの人材と言える。

 

 クーデター鎮圧の功労者フィリップ・ルグランジュ宇宙軍上級大将は、宇宙艦隊副司令長官から司令長官に昇格した。勇猛さは宇宙軍でも五本の指に入る。市民や兵士からの人気は高い。宇宙軍実戦部隊のトップたるにふさわしい人物だ。

 

 地上軍総監マーゴ・ベネット地上軍元帥が地上軍幕僚総監となったことは、市民を安心させた。彼女の名声はビュコック元帥に匹敵する。非戦闘員四二〇〇万人を退避させたヴァナヘイム撤退作戦は、同盟軍史に残る金字塔であろう。地上軍の頂点に立つ人は彼女以外にはいない。

 

 市民軍で活躍した第七地上軍司令官トマシュ・ファルスキー地上軍上級大将が、地上総軍総司令官に抜擢された。盟友のアラルコン予備役上級大将と明暗を分けた形だ。獰猛な風貌と粗野な振る舞いは、兵士に頼もしい印象を与えるだろう。

 

 トリューニヒト派は目立たないポストに就いた。ロックウェル宇宙軍上級大将が後方勤務本部長、ドーソン宇宙軍上級大将が国防監察本部長、ジャライエル地上軍上級大将が国防情報本部長、シャイデマン宇宙軍上級大将が宇宙軍幕僚副総監、ギオー地上軍上級大将が地上軍幕僚副総監となった。ルスティコ地上軍技術上級大将は、技術将校としては初めての技術科学本部長である。

 

 市民も軍人もこの人事を高く評価した。中学時代の友人であるリヒャルト・ハシェク宇宙軍少尉もその一人だった。

 

 帰郷してから八日目の一月一一日、俺は中学時代の同級生が開いた飲み会に出た。丸顔のルオ・シュエ、優等生のフーゴ・ドラープ、チビのリヒャルト・ハシェクなどがいた。記憶にない顔も見かける。反戦派になったミロン・ムスクーリは来なかった。

 

「史上最強の首脳陣だよ。みんな実戦派だ。戦争がわかってる人が上にいる」

 

 ハシェクは両手でピーチパイを持ち、満足げな表情を浮かべた。

 

「実績があるってことだからな」

 

 俺も同意するように笑い、両手でカップを持ってコーヒーを飲む。

 

「この布陣なら帝国に圧勝できるぞ。あっちの三長官はパッとしない奴ばかりだしな。実戦部隊で怖いのは、ローエングラム、メルカッツ、オフレッサーの三人だけだ」

「キルヒアイス提督も手ごわいぞ」

「クリンガー提督の足元にも及ばないよ。しょせん、エリヤの二番煎じじゃないか」

 

 ハシェクは大きく口を開けて笑う。フィリップスファンとキルヒアイスファンは仲が悪い。どっちも赤毛がトレードマークだからだ。

 

「足元に及ばないなんてことはないだろう。クリンガー提督相手でも、少しは粘るはずさ」

 

 内心ではキルヒアイス提督が勝つと思っているが、口には出さない。クリンガー大将はグエン大将に匹敵する名将だ。それでも、キルヒアイス提督の才能には敵わないだろう。

 

「エリヤは甘すぎる。糖分の取り過ぎだ。脳みそが砂糖漬けになってるんじゃないか」

「俺は司令官だ。敵には甘く、味方には辛いぐらいがちょうどいい」

「なるほどなあ」

 

 心の底から感心したような顔のハシェクに、金髪の女性が同意を示す。

 

「フィリップス君は私たちよりずっと先を見てるのよ」

 

 妙に得意げなこの女性は、マリアナ・サンタンジェロという名前の宇宙軍技術曹長だ。俺の同級生だったらしいが記憶に残っていない。

 

「上級大将だもんなあ。俺より階級が一〇個も上なんだ」

「凄いよねえ。昔はどんくさかったのに」

「エル・ファシルで覚醒したんじゃねえか」

「もともと天才だったのよ。妹さんも凄いし、遺伝の力でしょ」

「アルマちゃんもなあ。昔はだらしなかったんだけど」

 

 ハシェクとサンタンジェロ技術曹長が話しているところに、熊のような巨漢が割り込む。

 

「住んでる世界が違うんだ。俺たちは人間の世界、フィリップスは神話の世界に生きてるのさ」

 

 アラン・ヨルゲンセンという名前の地上軍大尉が、苦笑いを浮かべる。彼も同級生だが記憶にはなかった。

 

「ヨルゲンセン君も立派よ。専科学校出て三三歳で大尉なんだから」

 

 サンタンジェロ技術曹長の言ってることは正しい。専科学校出身者の八割は下士官止まりだ。士官になっても、半数は大尉で定年を迎える。ヨルゲンセン大尉の出世はかなり早かった。二〇代で佐官になった薔薇の騎士連隊隊員や撃墜王は、専科学校出身者の中では規格外である。

 

 同級生三四名の中で、専科学校卒業者はハシェク、サンタンジェロ技術曹長、ヨルゲンセン大尉の三人しかいない。シルバーフィールド中学のレベルだったら、クラスに尉官二人がいるだけでも上出来だ。軍服を着ていない者まで範囲を広げると、一番出世したドラープは惑星政庁係長で、大尉に匹敵する。俺の宇宙軍上級大将という階級だけが浮いていた。

 

「ヨルゲンセン、俺たちはついてるぞ。神話の英雄が味方に付いてるんだ。ビュコック元帥、ルフェーブル元帥、ベネット元帥、アル=サレム提督、ルグランジュ提督が中央にいる。エリヤとヤン元帥が実戦部隊をまとめる。チーム・フィリップスとヤン・ファミリーは、現代の七三〇年マフィアだ。想像するだけでわくわくするな!」

 

 ハシェクは目をきらきらと輝かせる。年のわりに純朴そうに見えるのは、童顔のせいだけではない。

 

「帝国は運がない国だよな。同盟と遭遇した時点で負けは決まっていた」

 

 ヨルゲンセン大尉は同情の色を見せる。同盟が滅んだ前の世界では、「帝国と遭遇した時点で、同盟は敗北する運命だった」と主張する人がいた。しかし、この世界ではまったく逆だ。

 

 帝国崩壊は避けられない流れだと思われた。財政問題と軍制改革を発端とする対立は、信じられない事態に発展した。帝国首相ブラウンシュヴァイク公爵と第一副首相リッテンハイム公爵が、民主化路線に転じ、同盟との永久停戦、議会創設、憲法制定、立憲君主制の導入を打ち出したのだ。一方、元老会議議長リヒテンラーデ公爵、大本営幕僚総監ローエングラム大元帥、宮内尚書ブラッケ侯爵らは、絶対君主制の維持にこだわる。最大の門閥貴族が民主化を口にするなど、末期状態としか言いようがない。

 

 実のところ、同盟と帝国の地力には大きな差はなかった。七九六年の時点では、帝国のGDPは同盟の一・二倍だった。帝国には弱体な産業基盤、極端に薄い中間層、低い教育水準という弱点がある。同盟には高い生産性、厚い中間層、高い教育水準という長所がある。実質的な経済力はほぼ互角といえるだろう。

 

 前の世界では巨大な人口や貴族財産を理由に、帝国の国力が高いと主張する人がいたが、大きな間違いだ。帝国人全員が同盟人並みの健康と教育水準を有していれば、人口は長所になるだろう。しかし、不健康で教育を受けていない人間が多いだけなので、人口は短所でしかない。国防費の大半は多すぎる兵力の維持に費やされ、近代化は遅々として進まなかった。同盟にも貴族資産に匹敵する埋蔵金がある。帝国領侵攻作戦とリップシュタット戦役がなければ、前の世界における帝国の優位は確立しなかった。

 

 この世界には高い生産性を理由に、同盟の国力が高いと主張する人がいるが、これも正しいとは言えない。生産性を上げるには金がかかる。莫大な教育費、莫大な技術研究費、莫大な設備投資、莫大な社会資本投資が、同盟の高い生産性を支えた。こうしたコストを負担できなくなった時点で同盟は破綻する。個人の権利が尊重される同盟では、医療費や社会保障費の負担も大きい。今の優位はぎりぎりの優位だった。

 

 両方の世界を見た俺に言わせると、同盟と帝国の国力差は小さい。指導力の差が勝敗の決め手になるだろう。

 

「同盟軍は盤石だ」

 

 ハシェクが断言し、サンタンジェロ技術曹長とヨルゲンセン大尉が頷いた。他の同級生も口々にハシェクの主張を肯定する。俺は食べることに熱中するふりをして、ハシェクに同意することを避けた。

 

 表面的に見れば、有能な人材が出世し、無能な人材が淘汰されたように見えるだろう。知名度の高い人物が要職に就いた。知名度の低い人物が粛軍によって消えた。

 

 有名でない軍人が無能だとは限らない。高級軍人の大半は地道な努力によって出世した人物である。無名の大将や中将は、「大した武勲を立てたわけでもないのに出世した」のではない。彼らは「大した武勲がなくても出世する力の持ち主」なのだ。

 

 粛清された高級軍人の大半は、事務や調整を得意としていた。優秀な裏方がごっそり消えてしまったのだ。

 

 どんなに優れた人物でも一人では動けない。司令部を公的な幕僚チームとすると、派閥は私的な幕僚チームである。派閥の助けがなければ、根回しや情報収集や人材確保はできない。大きな仕事をするには派閥が必要だ。ビュコック元帥らは孤立した。

 

 複雑な気分だった。政治的に見れば、反トリューニヒト派の凋落は喜ぶべきことだ。しかし、それは同盟軍の戦力低下を意味していた。他派閥にはトリューニヒト派にできないことができる。弱くなりすぎるのは危うい。

 

「同盟軍の未来に乾杯!」

 

 ハシェクたちが乾杯する声が聞こえた。のんきなものだと思うが、非難する気はない。俺が彼らの立場なら乾杯するだろう。

 

 同盟軍ほどの超巨大組織になると、上層部には末端の様子がわからないし、末端には上層部の動きが伝わってこない。末端にとっては、公式発表や報道だけが上層部の動きを知る手段である。

 

 ハシェクやヨルゲンセン大尉のような叩き上げ士官は、専門領域に関しては詳しいが、組織全体を見渡す視野は持っていなかった。知能ではなく知識の問題である。生まれつきの知能はこの二人の方が優秀だろう。並以上の頭がないと専科学校には合格できない。ただ、俺は上層部に近い場所にいた。視野の広さを作るのは立場と経験だ。

 

「期待してるよ! 英雄!」

 

 サンタンジェロ技術曹長が俺の肩を叩いた。顔は真っ赤に染まっている。だいぶ酔いが回ったようだ。

 

「任せとけ!」

 

 俺は右の拳をぐっと握る。軍の未来を明るくするのが上級大将の仕事だ。悲観に酔っている暇などなかった。



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第92話:上に立つ者の義務 802年1月16日~1月17日 パラディオン市

 実家のリビングにエアロバイクが二つ置いてあった。帰省している間だけレンタル業者から借りた。おかげでテレビを見ながら運動できる。

 

「そろそろ始まるね」

 

 妹が声をかけてきた。エアロバイクを漕いでいるというのに、息がまったく乱れていない。

 

「わくわくするな」

 

 俺もエアロバイクを漕ぎながら返事をする。ほんの少しだけ息が荒かった。一時間近く重めの負荷で漕いでいるのだ。

 

 一月一六日、自由惑星同盟軍は銀河帝国軍に、捕虜一六〇〇万人と難民五〇〇万人を引き渡す。イゼルローン要塞で引き渡し式典が行われることになった。これから式典中継が始まるのだ。

 

 帝国軍の代表団が会場に到着した。警備兵が捧げ銃の敬礼を行い、軍楽隊が帝国軍歌を演奏する中、銀と黒の軍服を身にまとった男たちが悠然と歩く。

 

 先頭に立つのは絶世の美貌を持つ金髪の青年だ。画面に「帝国軍代表団長 大本営幕僚総監 侯爵 帝国軍大元帥 ラインハルト・フォン・ローエングラム」のテロップが流れる。銀河帝国最高の天才が自ら乗り込んできた。前の世界では八〇一年に病死したのに、この世界では若々しい生命の輝きに満ち溢れている。

 

 ラインハルトの横に、燃えるような赤毛を持つ長身の青年が寄り添っている。画面に「帝国軍副代表団長 近衛第一艦隊司令官 帝国宇宙軍上級大将 ジークフリード・キルヒアイス」という文字か浮かんだ。ラインハルトの親友であり、大元帥府三傑の一人に数えられるキルヒアイス上級大将である。前の世界では七九七年に亡くなった彼も、この世界では健在だった。

 

 その後に三人の壮年男性が続いた。見るからに優男といった感じの人物は、大元帥府参謀長のエルネスト・メックリンガー帝国宇宙軍大将。貴公子風の美男子は、第三竜騎兵艦隊司令官を務めるシュテファン・フォン・プレスブルク帝国宇宙軍大将。オレンジ色の髪を持つ屈強な男性は、“鉄壁ビッテン”こと黒色槍騎兵艦隊司令官フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト帝国宇宙軍大将。プレスブルク大将以外は、前の世界でも知られた人物だった。

 

 童顔で黒い髪の青年がラインハルトらを出迎えた。彼の名前はヤン・ウェンリーという。現在は同盟宇宙軍元帥であり、イゼルローン総軍総司令官と同盟軍代表団長を務める。同盟軍最高の用兵家が、意外な場面で帝国軍最高の用兵家と相対することとなった。

 

 髪が薄くて気難しそうな中年男性が、ヤン元帥の隣に立っている。送還船団一〇万隻を指揮するスティーブン・サックス宇宙軍上級大将である。恒星間輸送の専門家で、正確な仕事ぶりから「歩く時刻表」の異名を持つ。

 

 後からイゼルローン総軍最高幹部が歩いてきた。神経質そうな中年男性は、第六艦隊司令官エリック・ムライ宇宙軍大将。人が良さそうな巨漢は、イゼルローン総軍総参謀長フョードル・パトリチェフ宇宙軍大将、浅黒い肌に精悍な風貌の女性は、第四艦隊司令官スカーレット・ジャスパー宇宙軍大将。不敵そうな面構えの美男子は、イゼルローン要塞司令官ワルター・フォン・シェーンコップ宇宙軍大将。ヤン元帥の常勝神話を支えた人々だ。

 

 両国の代表団は肩を並べて会場内に入り、共に中央のテーブルに歩み寄る。そして、ヤン元帥が捕虜名簿を差し出す。ラインハルトは合意書にサインをした。合意書が帝国語と同盟語で読み上げられた瞬間、会場に拍手が鳴り響いた。

 

 帝国人捕虜一六〇〇万人と難民五〇〇万人の引き渡しが完了すると、スピーチが行われた。最初に演壇に登ったのはラインハルトである。

 

「私の力が足りなかったせいで、卿らに苦労をかけた。捕虜になったことは卿らの罪ではない。我ら軍首脳の罪である」

 

 ラインハルトは捕虜に向かって頭を下げた。会場は驚きで静まり返る。誇り高き金髪の獅子が頭を下げた事実が人々を驚愕させた。

 

「卿らは力尽きるまで戦った。囚われの身となっても節を曲げなかった。比類なき忠勇というべきだ。称賛される理由はあっても、責められる理由はない。胸を張って祖国へ帰ろうではないか。勇者として帰るのだ」

 

 スピーチが終わると同時に、画面の中が拍手で満たされた。帝国軍人も同盟軍人も捕虜も一人残らず拍手しているように思われた。俺と妹もエアロバイクを止めて手を叩く。これを聞いて感動しない者は軍人ではない。

 

 次にスピーチをしたのはキルヒアイス上級大将ではなく、プレスブルク大将だった。伯爵家の三男でありながら、早くからラインハルトに仕え、キルヒアイスに次ぐ古参幹部として活躍した。際立った才幹はないが、誰に対しても礼儀正しく接し、部下の福利厚生に気を配ったので、兵士から絶大な支持を受けた。前の世界では名前が残らなかった人物である。

 

「私は元捕虜であります。一五年前に捕虜となり一二年前に帰還するまで、エコニア収容所で三年間過ごしました。皆さんもご存じのとおり、我が国は捕虜になることを恥とする国であります。帰国すると、『恥さらしめ。死んで先祖に詫びろ』と言われ、前線に放り込まれました」

 

 プレスブルク大将は知られていない過去を明かした。帝国は生還した捕虜に自殺を強要したり、前線に送り込んで戦死させたりする国だ。彼がどれほど苦労したかは想像するまでもなかった。

 

「その日から私はずっと戦ってきました。元捕虜でも立派に戦える。そのことを証明するために戦ってきました。私個人の名誉などはどうでも良いことです。名誉を取り戻せずに死んでいった捕虜仲間がいます。一緒に帰った者のうち、三人に二人はこの世におりません。生き残った者として、彼らの名誉のために戦う義務があります」

 

 彼は静かに語り続けた。どれほど大きな叫びも、どれほど多くの涙も、彼の静かさほど雄弁ではない。

 

「私は元捕虜であります。大勢の捕虜と友人でした。彼らの中には、私より勇敢な者や忠義に厚い者がたくさんおりました。ですから、皆さんの中にも、大勢の勇者や忠臣がいると確信しております。皆さんは立派に戦えます。そのことを証明しましょう」

 

 プレスブルク大将のスピーチは、ラインハルトに勝るとも劣らない拍手を浴びた。捕虜の席からは、「よく言ってくれた!」「俺たちも戦えるんだ!」といった声が飛んでくる。

 

「いいこと言うなあ」

 

 全身が感動で震えた。これこそが前の人生で聞きたかった言葉だった。エル・ファシルの逃亡者に対し、「君たちは卑怯者じゃない」「君たちはやり直せる」と言ってくれる人がいたら、あんなことにはならなかった。

 

 この世界の逃亡者が同盟領に入るのは二日後のことだ。マスコミは叩いてやろうと待ち構えているに違いない。俺はプレスブルク大将のように彼らを擁護しよう。それが上に立つ者の義務だ。

 

「どうしたの、お兄ちゃん?」

 

 妹が不思議そうな表情をする。彼女は俺が逃亡者として生きた六〇年も、前の世界で自分が兄を見捨てたことも知らない。

 

「今の言葉はちゃんと覚えておけよ。敵を殺すことよりも、味方を切り捨てないことの方がずっと大事なんだ。わかったな?」

 

 俺は妹の顔をまっすぐに見つめた。本当の気持ちは決して伝わらないだろう。それでも、プレスブルク大将を見習わせるだけで、いくらかは寛容になるはずだ。

 

「わかった」

「期待してるぞ」

 

 妹を納得させたところで、俺はテレビに視線を戻した。同盟軍代表の番になり、ヤン元帥が演壇に上がる。

 

「本日は――」

 

 ヤン元帥のスピーチはあっという間に終わった。短い上にメッセージも伝わってこない。失礼にならない程度に、儀礼的な言葉を並べただけだ。

 

「捕虜交換はきわめて神聖な行事であります。どれほど神聖かと申しますと、古代の人は捕虜を生贄として神に捧げておりました。捕虜は神聖だったんですな。神に捧げても失礼ではないということですからな。要するに捕虜を返すのは神聖な行事でありまして、それは宇宙歴九世紀の現在でも変わりないと。まあ、そういうことなんですな。捕虜交換は神聖な行事なのです。そこを踏まえた上で言いたいのです。今日、この式典に参加できたことは幸運だったと。これほど神聖な行事はめったにありません。二一〇〇万の人間を返す。これはどれほど神聖なことか。そもそも――」

 

 サックス上級大将の話はうんざりするほどに長かった。しかも、何を言いたいのかがまったく伝わってこない。あまりにつまらないので、俺も妹も再びエアロバイクを漕ぎ始めた。

 

 メーターに表示された消費カロリーがだいぶ増えたところで、宇宙軍捕虜代表のケンプ中将が演壇に登った。二メートル近い長身が観衆を見下ろす。軍服は筋肉で盛り上がっていた。七年間も収容所で過ごしていたとは思えない体だ。獄中で筋トレに励んでいたのだろう。

 

「まずは感謝を申し上げたい。帝国軍の皆さん、迎えに来ていただいたことに感謝します。同盟軍の皆さん、イゼルローンまで送り届けていただいたことに感謝します。次は戦場で会いたいものです。帝国軍の皆さんとは戦友として。同盟軍の皆さんとは好敵手として」

 

 ケンプ中将の武人らしいスピーチは、会場を大いに沸かせた。帝国軍人は「期待してるぞ!」「今度は勝とうぜ!」と励ましの声をかける。同盟軍人は「いつでも来やがれ!」「また捕虜にしてやるからな!」と言い返す。

 

 同盟軍の捕虜収容所における生活水準は、一般社会より劣り、刑務所を上回る。国防予算が削減された時も、良識派が「待遇を切り下げたら捕虜虐待になる」と主張したため、捕虜の給養費は維持された。警備兵より捕虜の方がいい暮らしをしているほどだ。それでも、収容所では精神を病む者や自殺する者が後を絶たない。祖国にいた時より生活水準が向上したはずの兵卒ですら、精神を病んでしまう。

 

 堂々としているケンプ中将は例外中の例外だった。彼が大物であることは疑いようもない。前の世界で晩節を汚したとはいえ、英雄と呼ばれるだけの器量はあった。

 

 地上軍捕虜代表のヴァイトリング大将は、気の毒なほどに萎縮していた。猛将として知られた人なのに弱々しい。捕虜としては普通の態度といえる。

 

 特別番組が終わると、俺はエアロバイクを降りた。運動を続けている妹の後ろを通り、キッチンに足を踏み入れる。

 

 冷蔵庫の中には、ホールケーキの箱が三つも置いてあった。中を見てみると、一つはイチゴのショートケーキ、一つはブラウンチョコケーキ、一つはフルーツタルトだ。冷蔵室の大半をケーキの箱が占拠している。なんとも壮観な眺めである。

 

「おやつにしよう」

 

 俺はショートケーキとフルーツタルトケーキを四分の一ずつ切り取り、口の中に放り込んだ。疲れた体に糖分が行き渡る。トレーニング後のおやつは格別である。

 

 式典の翌日、俺と妹はパラディオンの中心街にいた。雨が降っているというのに、「カフェ・アトランタ」の前には長蛇の列ができている。パラディオン、いや惑星パラスで最もおいしいと評判のピーチパイ目当ての人々だ。

 

「出直さないか」

 

 俺はおそるおそる妹の顔を見た。

 

「やだ」

「雨の中で並ぶなんてきついだろ」

「特殊部隊の訓練はもっときついけど」

「こんな日はホットチョコレートの方がうまいぞ」

「ピーチパイじゃないと嫌だ」

「じゃあ、雨が止むまでどこかで時間を潰そう。風邪はひきたくない」

「お兄ちゃんは風邪なんかひかないでしょ。馬鹿だから」

 

 今日の妹はやけに厳しい。ケーキを食べられたことを根に持っているのだ。

 

「悪気はなかった。アルマのおやつだと知らなかったんだ」

 

 俺は必死で弁解した。親が家族で食べるために買ってきたと思っていたのだ。三個ものホールケーキを一人で食べるために買った人間がいるなど、ヤン提督でも予測不可能であろう。

 

「だったら誠意を見せて」

「わかった。好きなだけピーチパイを食わせてやる」

 

 仕方なく列の最後尾に並んだ。英雄の名前を使えば、並ばずに店に入れるかもしれない。だが、それはやってはいけないことだ。注目を浴びないように変装してきた意味もなくなる。

 

「変な人がいるよ」

 

 妹が小声でささやき、三メートルほど前方に視線を向けた。馬鹿でかい胸パッドを詰め込んだ彼女より変な人がいるとは思えないが、とりあえず同じ方向を見る。

 

 行列の中に妹よりずっと変な人がいた。八〇歳前後に見える長身の老人だ。背筋はまっすぐに伸びている。雰囲気は抜き放たれた剣のように鋭い。見るからに高級そうな帝国風のコートに、ジャボと呼ばれる胸飾りが良く似合う。美しく刻まれたしわ、綺麗に整えられた銀髪と口髭が、端整な顔に年輪の深みを加える。生まれたばかりの赤ん坊でも、この老人が高貴な存在だと理解できるだろう。

 

 どう見ても場違いな人物であった。だが、好奇の視線を向ける者はいない。傲然とした老人の雰囲気が、ここにいるのは当然だと思わせるのだ。

 

「あのお爺さん、貴族だよね。なんで並んでるの?」

 

 妹がまっとうな疑問を口にする。老人のように高貴な存在には、ピーチパイを食べるために並ぶなどという庶民的な行為は似合わない。

 

「さあ、わからないな」

 

 俺は知らんふりを決め込んだ。老人のことは嫌いではない。だが、こんな時には会いたくなかった。

 

 老人がこちらを向き、ゆったりした足取りで近づいてきた。彼の目は真実を的確に捉える。外見を変えたぐらいではごまかせない。

 

「久しいな。息災であったか」

 

 老人が帝国語で尋ねる。彼ほどの高貴な人物になると、単なる挨拶ですら重々しく響く。

 

「どうにか永らえておりました」

 

 俺は直立不動の姿勢をとり、帝国語で答えた。人間としての格は老人の方がはるかに上だ。二等兵と上級大将の差よりもずっと大きい。

 

「ふむ、それは重畳であるな」

「かたじけないお言葉です」

 

 平凡なチビがへりくだり、高貴な老人が尊大な態度で応じる。地方都市のカフェの前とは思えない光景だ。俺と門閥貴族マティアス・フォン・ファルストロング伯爵は、予想もしなかった場所で再会を果たした。

 

 

 

 一時間並んだ後、俺たちはようやく店内に入ることができた。俺、妹、ファルストロング伯爵は同じ席でピーチパイを食べる。

 

「ほう、妹君にせがまれて来たのか」

 

 ファルストロング伯爵はナイフとフォークを使い、ピーチパイを綺麗に切り分ける。

 

「はい」

 

 返事をした俺の右隣では、妹が幸せそうにピーチパイをほおばる。

 

「女は甘い物が好きであるからな。わしも若い頃は良く付き合わされたものだ。おかげでオーディンの甘味に詳しくなってしもうた」

「苦労なさったんですね」

「今となっては良い思い出じゃよ」

 

 ファルストロング伯爵の老いた顔に、枯れた笑いが浮かぶ。若い頃は女性に弱かったらしい。

 

「兄も甘い物が大好きなんですよ。私のケーキを勝手に食べちゃったんです」

 

 妹はケーキのことをまだ根に持っていた。

 

「その埋め合わせということか。納得がいった」

「ええ、兄は本当に大食いなんです」

「救国の英雄も、妹君から見ればただの食いしん坊かね」

「兄が兵役に行ってから、実家の食費が三分の二になったんです。五人家族なのに」

「一人で食費の三分の一を使っていたとは。呆れたものだ」

 

 妹は自分の大食いを棚に上げ、ファルストロング伯爵は愉快そうに笑う。俺は肩身の狭い思いをしながら四個目のピーチパイを平らげる。

 

「ところで、なぜパラディオンにいらしたんですか?」

「英雄兄妹の面を拝みに来たんじゃよ」

 

 ファルストロング伯爵がとぼけた顔で答える。

 

「恐縮です」

 

 五個目のピーチパイを食べようとした俺は、顔を引きつらせた。

 

「冗談じゃよ。七三〇年マフィアゆかりの地を巡っておるのだ。この店のピーチパイは、かのウォリス・ウォーリックが贔屓にしておったと聞いた」

「パラディオンは、ウォーリック元帥が一一歳から一五歳までお過ごしになった街ですからね。ゴルディアスの人は、『我が街こそがウォーリック元帥の故郷だ。お生まれになった病院はこちらにある。お過ごしになった期間もこちらの方が長い』などと言っていますが、信じてはいけません。ウォーリック元帥が最も多感な時期をお過ごしになったのは、パラディオンです。精神的影響を考えると、パラディオンこそが本当の故郷というべきでしょう。ゴルディアスはパラディオンのベッドタウンですので、実質的には生誕の地もパラディオン……」

「卿の言いたいことはわかった。ウォーリックはパラディオンが生んだ英雄なのだな」

 

 ファルストロング伯爵はうるさげに手を振る。

 

「もちろんです。栄光ある七三〇年マフィアの一翼を担ったお方ですから」

 

 俺は精一杯胸を反らした。ウォリス・ウォーリック宇宙軍元帥といえば、ブルース・アッシュビー元帥の指揮下で無敵を誇った「七三〇年マフィア」の一人だ。パラディオンが誇る英雄である。

 

「当時は内務省でデスクワークをしておってな。悔しくて悔しくてたまらんかった。戦うたびに帝国軍が負けるのだからな。軍に入ってアッシュビーをやっつけてやろうと思ったこともあった」

 

 ファルストロング伯爵は懐かしそうに目を細める。かつては純粋な若者だったようだ。

 

「俺たちにとっては英雄でも、帝国人にとっては憎むべき敵だったんですね」

「そうじゃな。本当に憎たらしい敵じゃった。わしも友人と一緒に、アッシュビーを倒す方法を話し合ったものだ。『帝国軍を改革しないといかん』とか、『戦場で勝てぬなら謀略を仕掛けよう』とかな。『いっそ同盟に亡命して、アッシュビーを暗殺しよう』とほざく馬鹿もおった」

「伯爵閣下にそんな頃があったなんて、想像できません」

 

 俺は口元を綻ばせた。ファルストロング伯爵には、勝敗を超越したような風格がある。そんな人が何かに一生懸命なところを想像するだけで、微笑ましくなってくる。

 

「昔を振り返ろうと思った時、七三〇年マフィアが頭の中に浮かんできた。かつての敵をしのびながら旅をする。それもまた一興であろう」

「なるほど、良くわかりました」

「卿と会えたのは僥倖であった。この街を案内せよ。食費はわしが払ってやる」

 

 ファルストロング伯爵は、俺を食べ物で釣れると思ったらしい。案内するのはやぶさかではないが、食べ物目当てと思われては困る。どう答えるべきだろうか。

 

「喜んでお引き受けします!」

 

 食べ物に釣られたのは妹であった。

 

「決まりじゃな」

 

 ファルストロング伯爵が満足そうに俺の顔を見た。フィリップス家では女性の方が強い。妹が承諾したものを拒否できるはずがなかった。

 

 その日から、俺たちはウォーリック元帥ゆかりの場所を巡った。ウォーリック元帥が住んでいた地区、ウォーリック元帥が卒業した学校、ウォーリック元帥が通った手裏剣道場、ウォーリック元帥がフットサルを楽しんだ公園、ウォーリック元帥が仲間と一緒に演奏したライブハウス、ウォーリック元帥が部活帰りに寄ったラーメン屋、ウォーリック元帥が彼女と一緒にパンケーキを食べたカフェ、ウォーリック元帥の士官学校合格祝賀会が開かれた焼肉屋などを訪ねる。

 

「ウォーリックは充実した青春を送ったのじゃな」

 

 ファルストロング伯爵は感慨深そうだ。

 

「多芸多才なお方ですからね。中学時代だって凄かったんですよ。学力はトップクラス。フライングボールと手裏剣競技のスーパースター。同級生とバンドを組み、タッシリ星系中学生バンドフェスで受賞。パラス中学生奇術コンクールで大活躍。女の子には大人気でした」

「全部二位だったんじゃろ?」

「まあ、そうなんですが」

 

 俺は曖昧に笑った。ウォーリック元帥は「何をやっても一流の寸前だった」と言われる。付き合った女性は、彼を本命だと思っていなかった。天才アッシュビーと出会う前から、永遠の二番手になる宿命だったのである。

 

 あっという間に三日間が過ぎ、別れの時が来た。俺、妹、ファルストロング伯爵の三人は、ホテルで最後の夕食を共にした。

 

「これで卿らとも最後か。時が過ぎるのは早いものだ」

 

 ファルストロング伯爵は少し寂しそうに見えた。

 

「本当に楽しかったです」

 

 満面の笑顔でそう言った後、妹はナジェールエビの香草焼きを食いちぎる。この三日間、彼女がやったことといえば、ファルストロング伯爵を食べ物屋に引っ張っていくことと、飲み食いすることだけだった。

 

「わしも楽しかった。若い者に飯を食わせるだけで嬉しくなるとはな。冷酷非情のマティアス・フォン・ファルストロングが、好々爺になって人生を終える。それはそれで悪くない」

 

 自嘲半分、照れ半分といった感じで、ファルストロング伯爵は微笑む。こんな人が冷酷非情と恐れられたとは想像できない。

 

「伯爵閣下はお優しい方だと思います」

 

 妹は口の周りの食べかすをナプキンで拭くと、生真面目な顔で言った。

 

「卿の辞書では、『優しい』とは『飯を食わせてくれる』と同義じゃろうが」

「冷酷非情とは、ブラウンシュヴァイク公爵のためにある言葉です。見るからに悪人面じゃないですか」

「何も変わらんよ。わしもオットーも同類だ」

 

 ファルストロング伯爵は、帝国最大の貴族をファーストネームで呼ぶ。彼の家とブラウンシュヴァイク公爵家は親戚なので、三〇歳年下のオットーを身内の若者扱いする。

 

「ブラウンシュヴァイク公爵は人間じゃないです」

 

 妹は嫌悪感を込めて言い放つ。彼女はブラウンシュヴァイク公爵領に潜入し、圧政の実態を目の当たりにした経験がある。

 

「あの人に好意を持つ理由はないですね」

 

 俺は控え目に妹を支持した。敵国の政治家とはいえ、ブラウンシュヴァイク公爵の振る舞いは酷すぎる。

 

 権力争いで不利となった門閥派は、「火のないところに煙を立てる」戦略に出た。先帝側近グループ要人に関する疑惑をでっちあげ、支配下のマスコミに報道させる。貴族のサロン、職能組合、ルドルフ青年団、民衆の口コミ情報網、ネット、フェザーンのゴシップ紙を通し、マスコミの報道を補完する情報を流す。複数の非公式な情報ルートに同じ情報を流すことで、疑惑が真実だと思い込ませる。宮廷が「疑惑は真実」という空気に傾いた時、門閥派の警察や情報機関が「捜査」を始めるのだ。

 

 国内予備軍司令官パウル・フォン・オーベルシュタイン大将に、劣悪遺伝子排除法違反の疑いがかけられた。オーベルシュタイン大将が義眼を使っているのは、全銀河に知られている話だ。生後二か月の時に事故で失明したため、義眼を使うようになったとされる。だが、最近になって、失明が事故によるものではなく、先天的な視覚障害である可能性が出てきたという。

 

 帝国は先天的な障害者を重罪人扱いする国である。マクシミリアン=ヨーゼフ晴眼帝による劣悪遺伝子根絶宣言以降は、「存在しない者を殺すことはできない」という理屈で、組織的な障害者迫害はなくなった。それでも、障害者に対する差別規定は残っている。先天的な障害が見つかった場合は、劣悪遺伝子排除法が適用されるのだ。

 

 前の世界の戦記によると、オーベルシュタイン大将は先天的な視覚障害者だった。この事実が明るみになったら、懲戒免職は確実である。上官のラインハルトは任命責任を問われるだろう。

 

 また、軍事監察官フレーゲル男爵は、オーベルシュタイン大将を職務怠慢で告発した。オーディンの反乱を鎮圧した時に、反乱者を数百万人しか処刑せず、反乱者の家族を一人も処刑しなかったことが問題になった。帝国の支配階級の常識では、反逆者は家族に至るまで根絶やしにするべきであって、見逃すなどあってはならないことだ。先帝側近グループの間でも、オーベルシュタイン有罪論が広がっている。

 

 オーベルシュタイン大将は休職を命じられたそうだ。失職は免れないだろう。ラインハルトがオーディンを離れているため、彼を擁護できる者はいない。前の世界で銀河最高の陰謀家だった人物が、陰謀によって追い落とされた。

 

 フェザーンのゴシップ誌が、全裸で抱き合う健康的な黒髪美人と清楚な金髪美人の画像を表紙に掲載した。写真としか思えないほどに精巧なCGである。黒髪美人がマグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ男爵夫人なのは、幼児園児が見てもわかる。金髪美人はさほど有名な人物でもないが、帝国の宮廷に詳しい人が見れば、アンゼローゼ・フォン・ミューゼル男爵夫人なのは明白だ。

 

 ヴェストパーレ男爵夫人とミューゼル男爵夫人の同性愛疑惑が、メイン記事であった。この二人は深い親交を結んでいる。また、ヴェストパーレ男爵夫人は青年芸術家を愛人にする一方で、男装した金髪の美女を私設秘書として連れ歩いており、バイセクシャルだと言われる。ミューゼル男爵夫人の弟は、同性愛疑惑が根強いラインハルトだ。それだけに現実味がありそうに思われた。

 

 ヴェストパーレ男爵夫人は誰もが知る銀河最高の女傑だ。七人の若手芸術家を愛人とする「歩く博物館」、ラグナロック戦役中に反同盟ゲリラを指揮した「ジーク将軍」、開明派が集まるサロンを主宰する「開明派の女王」など、様々な顔を持つ。前の世界ではヒルデガルド皇太后が執政した時代に活躍した。この世界では、キルヒアイス上級大将やオーベルシュタイン大将とともに、大元帥府三傑の一人に数えられる。

 

 ミューゼル男爵夫人とは、ラインハルトの姉アンネローゼである。先帝が死んだ後、グリューネワルト伯爵位を返上し、実家のミューゼル家を継いだ。帝国騎士から男爵に昇格した後は、公式の場から姿を消した。昨年一二月に宮廷のクリスマス会に出席するまでは、死亡説も流れていた。

 

 ゴシップ誌は帝国、フェザーン、同盟の三か国で大々的に広告を出した。同盟領の僻地を走る電車の電子看板にも、ヴェストパーレ男爵夫人とミューゼル男爵夫人の全裸画像が映し出される。二人から名誉棄損で訴えられると、出版社は超一流の弁護士を集めた弁護団を結成し、「最高裁まで戦う」と宣言した。莫大な広告費や弁護士費用を負担する財力など、ゴシップで食っている零細企業にはない。誰が金を出しているのかは明白であった。

 

 帝国では同性愛は「遺伝性の精神障害」とされており、発覚した場合は死刑もありえた。同性愛疑惑をでっちあげ、ヴェストパーレ男爵夫人の動きを封じ、開明派にダメージを与える。ミューゼル男爵夫人に同性愛の疑いをなすりつけ、同じ遺伝子を持つラインハルトの名誉を傷つける。陰湿なやり口だが効果は大きい。ラインハルトはさぞ怒っていることだろう。

 

「卑劣にもほどがあります。障害やセクシャリティを攻撃材料にするなんて、まともな人間がすることじゃありません」

 

 妹は右の拳を固く握りしめた。掌の中のリンゴが砕け、果汁が流れ落ちる。

 

「わしがオットーの立場なら、同じことをするがね」

「えっ?」

 

 俺と妹は同時に声を発した。ファルストロング伯爵がこんなやり方を肯定するなど、思いもよらなかった。

 

「考えてみろ。オーベルシュタインとヴェストパーレを消すには、どれだけのコストがかかる? 同盟軍はあの二人を殺すために、大軍を動かし、腕利きの暗殺者を送り込んだ。それでも殺せなかったのじゃぞ。金を使うだけで済むなら安いものだ」

「消す理由がおかしいです。国民を守るためなら、許せないけど理解はできます。でも、ブラウンシュヴァイクは違います。税金を払いたくないだけじゃないですか」

 

 妹は貴族への課税を阻止しようとする門閥派を、「税金を払いたくないだけ」と切り捨てる。

 

「ブラウンシュヴァイクは民主化するとか、講和したいとか言ってますけどね。信用できません」

「オットーは本気だと思うがな」

「どうして……」

 

 妹が大声を出しそうになったので、俺は手を伸ばして遮る。

 

「理由をお聞かせ願えますか?」

 

 俺は姿勢を正して質問した。そして、右隣の妹にアイコンタクトで「落ち着け」と指示する。

 

「簡単な話じゃ。リヒテンラーデやローエングラムは、皇帝陛下の威光を拠り所としている。陛下の威光が弱くなれば、奴らの力も弱くなる。貴族から税金を取ることもできなくなるのじゃよ」

 

 ファルストロング伯爵の回答は明快だった。権力を皇帝から議会に移す。そうなったら、貴族に課税しようとする先帝側近グループは、権力を失うわけだ。

 

「そう考えると、民主化はうまいやり方ですね。皇帝はリヒテンラーデ公爵に囲い込まれている。武力をもって皇帝を廃立するのは難しい。だったら、皇帝権力を弱くするのが正解です」

「選挙を操作するのはたやすい。卿らが三年一か月前にやったことを真似れば良いだけだ」

「耳が痛いです」

 

 俺はいたたまれない気持ちになった。七九八年一二月、同盟軍は解放区の総選挙に干渉し、民意をねじ曲げた。俺もその片棒を担いだ。解放区を安定させるためとはいえ、正当化はできない。

 

「貴族ならもっとうまくやるであろうな。平民が働く企業も、平民が物を買う店も、平民が借りている家も、平民が金を預ける銀行も、平民に金を借すローン会社も、すべて貴族の持ち物じゃ。締め付ける方法などいくらでもある」

「有権者の仕事と食べ物と家と預金と借金を握ってる政党ですか。恐ろしいですね」

「役所やフェザーン企業の世話になっている者でも、貴族から自由になることなどできん。縁をたどれば、貴族の世話になっている者にたどり着く。『お前の兄をクビにする』と脅されたらどうする? 逆らえるか?」

「無理です」

「選挙は操作できる。卿らがオットーにそう教えた」

「…………」

 

 俺は無言で首を振った。特権階級にコントロールされた議会政治。思いつく限り、最悪の政治体制だ。同盟と講和してしまえば、体制が外圧で倒れる可能性もなくなる。自分が開けてはいけない扉を開けたことに気づいた。

 

「ローエングラム大元帥が選挙に出たら、勝つかもしれませんよ。あの方には軍隊票があります。昨日の式典で二一〇〇万人が味方についたはずです」

 

 妹が反論を試みた。ブラウンシュヴァイク公爵が勝つなんて認めたくないと、その目が語っていた。

 

「ローエングラムの小僧は金を持っているのか?」

「侯爵ですから、お金は持っていると思います」

「貴族の資産とは一門企業全体の資産じゃぞ? オットーの一門が経営する企業は三〇〇〇社を超える。ウィルヘルムの一門が抱える企業も三〇〇〇社を超えるじゃろう。二〇〇〇社以上の企業を抱える一族は五家、一〇〇〇社以上の企業を抱える一族は二〇家前後、数百社や数十社を抱える家となると数え切れぬ。ローエングラムの小僧は、どれだけの企業を抱えているのだ?」

「あまり持っていないでしょうね」

「ローエングラム家の財政事情はわからん。じゃが、ある程度は推測できる。復興から五年しか経っていない家じゃ。領地以外の権益は持っておるまい。大貴族と結婚しておらぬゆえ、一門の支援はあてにできぬ。ローエングラムの小僧には、兵士とその家族を囲い込むだけの金がない」

 

 ファルストロング伯爵は、ラインハルトが勝つ可能性を資金力の面から否定した。

 

「リヒテンラーデ公爵やブラッケ侯爵はどうです? お金を持っていそうですが」

「どっちも金は持っとらんよ。官僚貴族というのは爵位は高くても、一門の数は多くない。不正蓄財に励んだところで、一門企業が集める金に比べれば微々たるものじゃ」

「勝つ方法はないですか?」

 

 妹は諦めきれないといった表情で、ファルストロング伯爵を見る。

 

「選挙をやったら、ローエングラムは確実に負ける。人気なんてものは何の役にも立たん。金がすべてだ。それがわかっているからこそ、あの男は民主化に反対した」

「民主化ってお金の問題なんでしょうか?」

「金の問題じゃよ」

 

 ファルストロング伯爵はきっぱりと言い切る。

 

「結局のところ、金が欲しいだけに過ぎぬ。ローエングラムやリヒテンラーデらは、貴族から取った金を国庫に移し、国家予算という名目で子分に配りたい。オットーやウィルヘルムらは、自分や子分が稼いだ金を守りたい。金のためなら議会を作るし、講和もする。それが権力者というものじゃ」

「他の人はともかく、ローエングラム大元帥はお金を欲しがる人には見えません」

「あの男は権力を求めている。ならば、金を欲しがるのは当然のこと。金は力を生む。金を持っていれば、人が群がる。人を集めれば、やりたいことができる。問題を解決するにも、理想を実現するにも金が要る。誠実な権力者ほど金を欲しがる。金を集めるのは上に立つ者の義務だ」

 

 元権力者が語る金と力の原理は、単純だがある種の真実を突いているように思われた。金がないところに力は生まれない。トリューニヒト議長は金集めの名人だ。クリーンなイメージがあるレべロ議員にしても、スポンサーを引っ張る力はあった。

 

「帝国情勢はどうなるとお考えでしょう?」

 

 俺は今後のことについて質問した。混沌とした帝国情勢も、彼なら的確に分析できそうだ。

 

「民主化の流れが加速するじゃろうな。金を守れるとなれば、有力貴族はこぞってオットーに味方する。宮廷政治というのは金のある方が勝つ」

「先帝側近グループが逆転する可能性はあるでしょうか?」

「わしがリヒテンラーデなら、オットーとウィルへルムに取り引きを持ちかける。『民主化を潰してくれたら、娘を皇帝にする。摂政はあなただ』とな。議会の黒幕より、専制君主の摂政の方がうまみは大きい。取り引きが成り立つ余地はある。成功しなかったとしても、敵の足並みを乱すことはできる。どう転んでも損はしない」

 

 ファルストロング伯爵にとって、策略を練ることは料理を作ることよりも容易いようだった。本当に恐ろしい人だ。

 

「ローエングラム大元帥が活躍するシナリオはありますか?」

「ありえんな。兵士の支持なんてものは、取引材料にはならん。リヒテンラーデに敬遠されているふしもある。この時期に外へ出されたのだからな」

「武勲を立てすぎたんですかね」

「そうじゃろうな。ローエングラムを先帝側近グループのトップにしたい者は多いはず。リヒテンラーデは知恵はあるが人望がない。引退したら殺されかねないという理由で、現役を続けている男じゃからな」

「帝国は厳しいですね」

 

 俺は肩をすくめた。同盟政界は引退してもただの人になるだけで済む。だが、帝国政界には殺されるのが怖くて引退できない人がいる。想像を絶する世界だ。

 

「同盟も厳しいと思うがな」

「平和ですよ」

「武勲を立てすぎて外に出された提督が、同盟にもいるではないか」

 

 ファルストロング伯爵は意地悪な笑みを浮かべる。

 

「偶然でしょう」

 

 俺は言葉を濁し、三品目のシーフードピラフを注文した。その提督は褒美として休暇をもらったのだ。警戒されたわけではない。恐れるに値しない小物なのだから。

 

「それなら良いのじゃがな」

「当面は平和が続くとみてよろしいんですよね?」

「世の中に絶対はない。わしは常識的なシナリオを提示しただけに過ぎん。物事が常識通りに進むとは限らん」

 

 ファルストロング伯爵はどこまでも慎重だった。百戦錬磨の老貴族は己の智謀を過信しない。

 

「非常識的なシナリオになったら、ブラウンシュヴァイクが負けるかもしれないんですね」

 

 やけ食いをしていた妹の表情が少し明るくなる。

 

「常識的なシナリオを望みます。帝国人には申し訳ないですが、ローエングラム大元帥が失脚してくれた方がありがたいですから」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。敵なんて弱い方がいい。軍人の仕事は国を守ることであって、強敵と戦って満足感を得ることではないのだ。

 

「食えるだけ食え。どんなシナリオになろうとも、飯は必要じゃぞ」

 

 ファルストロング伯爵は口を開けて笑い、俺と妹の肩を叩いた。そして、ウェイターを呼び、大量の料理を注文してくれる。ディナーは始まったばかりだ。



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第93話:すべては守るために 802年1月26日~2月上旬 ハイネセンポリス

 一月二六日一八時、俺と妹は一か月ぶりにハイネセンの土を踏んだ。場所と時間を事前に告知したため、宇宙港には大勢の市民が集まった。足の踏み場もないほどに混雑している。

 

「エリヤ・フィリップス提督万歳! アルマ・フィリップス将軍万歳!」

 

 到着ロビーに足を踏み入れると、群衆が周りを取り囲み、歓呼の叫びをあげた。俺と妹は手を振って応える。同盟で最も大きな宇宙港が興奮のるつぼと化した。クーデター終結から二か月が過ぎても、「英雄フィリップス兄妹」の人気は衰えていない。

 

 人混みをかき分けながら進む俺たちの前に、マイクを持った男女十数名が現れた。彼らはリポーターだ。有名人が姿を現すと聞くと、どこにでもやってくる。

 

「お話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか!?」

 

 最初に質問してきたのは初老の女性リポーターである。

 

「もちろんです」

「ありがとうございます!」

「ところで、これは生放送ですか?」

 

 俺は笑いながらカメラを見た。普段なら録画でも構わないが、今日は事情が違う。

 

「もちろんです! 視聴者の皆様にフィリップス提督の肉声をお届けできますよ!」

「承知いたしました。では、市民と直接会話するつもりで話しましょう」

 

 この瞬間、俺は賭けに勝った。時間と場所を告知したのも、到着時刻を夕方のニュースの時間に合わせたのも、都心部に近い宇宙港に入ったのも、生放送をさせるためだった。録画放送では編集される恐れがある。これからやることは生放送でないと意味がない。

 

 その場で即席の記者会見が始まった。リポーターが交代交代で質問し、一問一答の形式で進められた。

 

「休暇中はいかがお過ごしでしたか?」

「故郷でのんびりしておりました」

「コンディションは万全といったところでしょうか?」

「もちろんです。今すぐにでも戦場に行けますよ」

「次の任地はシャンプール方面。ヤン提督のイゼルローン総軍とは隣同士ですね」

「偉大な名将の背中を守るポジションです。光栄だと思っています」

「フィリップス提督が指揮する第一辺境総軍には、市民軍の英雄が多数参加します。市民軍のような部隊を目指しているということでしょうか?」

「市民軍の精神を保ちつつ、より完璧な部隊を作るつもりです」

 

 当たり障りのない質問に当たり障りのない答えを返す。言葉の中身はそれほど重要ではない。期待されたキャラクターを演じることが重要である。

 

「帝国に講和の動きがあるそうです。ご意見をお聞かせください」

 

 際どい質問が飛んできた。リポーターが言うところの「視聴者が知りたいこと」には、軍事に関する意見も含まれる。

 

「権力闘争に絡んだ動きだと思います。先帝側近グループは、『反乱軍討伐の戦費を調達する』という名目で、貴族に課税するつもりです。こうした動きに対抗するために、ブラウンシュヴァイク公爵は講和カードをちらつかせたのでしょう」

「国内向けのポーズに過ぎないということでしょうか?」

「自分はそう考えております」

 

 俺のコメントは平凡で穏当なものだった。同盟軍の機関誌を読めば、同じようなことが書いてある。エリヤ・フィリップスに求められるものは、理論的考察や独創的視点ではなく、平凡だがみんなが共感できる意見だ。

 

「エル・ファシルの逃亡者が戻ってきましたね。元同僚として、いかが思われますか?」

 

 待ちに待った質問がやってきた。この時のために俺は人生をやり直した。前の世界では証明できなかった無実を証明しよう。逃亡者の無罪を勝ち取った時、前の世界で着せられた罪も消える。

 

「他人事ではないと思っております。自分は彼らと同僚でしたから」

「どういうことでしょう?」

 

 リポーターの笑顔に困惑の色が見えた。激しい逃亡者批判を期待していたようだ。普通に考えれば、俺以上に逃亡者を批判する者はいない。

 

「彼らは不運でした」

「しかし、市民を見捨てて逃げ出した輩です。同情する必要があるのですか?」

「リンチ提督とその幕僚たちは市民を見捨てました。軍需物資まで持ち逃げしたのですから、弁護の余地はありません。しかし、その他の者は違います。間違った命令の犠牲者です」

「軍人には違法な命令に反対する義務があります。しかし、それを果たしたのはフィリップス提督だけでした。逃亡者の罪は明白ではありませんか」

「自分はリンチ少将から『援軍を求めに行く』と聞かされておりました。正当な命令だと信じていました。おかしいと思ったのは船に乗り込む直前です。とっさに走り出さなければ、逃亡者と呼ばれていたことでしょう」

 

 俺は用意していた答えを述べた。前の世界で軍法会議にかけられた時、同じことを言ったが、誰もが嘘だと決めつけた。初めて英雄になった時、同じことを言ったが、誰も興味を示さなかった。今は誰もがエリヤ・フィリップスの言葉に耳を傾ける。生放送なので黙殺することもできない。

 

「そうですか……」

 

 リポーターはそれ以上突っ込もうとしなかった。しょせんは一四年前の事件だ。それほどこだわりがないのだろう。

 

 会見終了後、俺は二つのニュース番組に出演し、「エル・ファシルの逃亡者は騙されていた」との見解を述べた。反論は返ってこなかった。他の出演者がエル・ファシル脱出について知っているのは、「アーサー・リンチが市民を見捨てた」「ヤンとフィリップスが市民を救った」の二点だけだ。リンチ少将の命令を直接聞いた俺が、「逃亡者は悪くない」と言えばうなづくしかない。

 

 マスコミは「帝国の講和論は国内向けのポーズ」というコメントを大きく報じた。逃亡者に関するコメントは小さな扱いだ。失望はしていない。こうなることは予想できた。

 

 名前が卑怯者の代名詞となっていたアーサー・リンチ少将は、既に亡くなっていた。昨年の八月に泥酔状態で外に出て、一か月が過ぎても戻ってこなかったので、死亡宣告が下された。この世界で逃亡者が収容された惑星バルスは、全域が灼熱の砂漠で、建物の外にいたら三日以内に死んでしまうそうだ。戻ってくるというのは誤報だったのである。

 

 リンチ少将死亡のニュースはほとんど話題にならなかった。しょせんは一四年前の卑怯者に過ぎない。市民にとっては、天文学的な額の脱税が発覚した経済開発委員長、二〇〇人が死んだモーメント爆弾テロの犯人、テルヌーゼンの連続強姦殺人犯の方が許せない存在だ。

 

 エル・ファシル逃亡事件はすっかり風化していた。本当に気にしているのは関係者に限られる。一四年前の事件だし、リンチ少将と一緒に逃亡した将兵は三〇〇〇人、被害者は民間人三〇〇万人と軍人四万八〇〇〇人にすぎない。単体で見ると大きな事件なのは確かだろう。しかし、より新しくてより関係者が多い事件はいくらでもある。

 

 ブラウンシュヴァイク公爵が非公式に提示した講和案が、大きな反響を呼んだ。対等な国家同士の平和条約という形式はとらない。帝国は「反乱勢力は沈静化した」と宣言し、同盟を「現地の自治的集団」として扱い、サジタリウス腕における自治的集団の統治権を「尊重」する。同盟は「銀河帝国との戦いは終結した」と宣言し、帝国を「現地統治者」として扱い、オリオン腕における現地統治者の統治権を「尊重」する。両国が戦闘終結と不干渉を別々に宣言し、承認問題を棚上げすることで、実質的な講和を実現するという。

 

 保守反動勢力の領袖といわれるブラウンシュヴァイク公爵が、講和に前向きな姿勢を見せた。しかも、皇帝に議会開設と憲法制定を提案したという。驚かない者は一人もいなかった。

 

 世論は講和推進派と戦争継続派に分かれた。反戦派が講和推進派、主戦派が戦争継続派という単純な対立構図ではない。主戦派の一部が講和推進派に加わった。

 

 主戦派が求めるものは同盟の勝利である。何を「同盟の勝利」と定義するかは人それぞれだ。しかし、帝国を滅ぼしたいと望む者は少ない。民主的な政治改革、身分制の撤廃、過去の圧政に対する謝罪、帝国政府によるルドルフ批判、同盟に有利な経済協定といった要求を、帝国に飲ませることができれば、主戦派の大多数は満足する。

 

「我々は勝ったのだ!」

 

 民主化という結果に満足した者が講和論を唱えた。帝国最大の門閥貴族が民主主義の優位を認めたのだ。民主政治と専制政治の対立という観点から見れば、民主主義の勝利である。勝利したのだから戦いを続ける必要はない。

 

「政治改革だけで満足するな。帝国が身分制を撤廃し、正しい歴史認識を受け入れるまで戦うべきだ」

 

 このように主張する者もいた。逆に言うと、帝国が身分制を撤廃し、正しい歴史認識を受け入れれば、彼らは講和に賛成するということになる。消極的講和派というべきポジションだ。

 

「帝国は崩壊寸前だ。手を緩めるな」

 

 トリューニヒト派は徹底抗戦を訴えた。帝国を滅ぼしたいと本気で思っている者、帝国に不信感を抱く者、反戦派への反感から主戦派になった者がこの主張を支持している。

 

 主戦派は積極的講和派、消極的講和派、徹底抗戦派に分裂した。積極的講和派が講和に賛成し、消極的講和派と徹底抗戦派が講和に反対する立場だ。帝国が身分制や歴史認識問題で大きく譲歩すれば、最も数が多い消極的講和派は賛成に転じるだろう。

 

 反戦・反独裁市民戦線(AACF)の呼びかけにより、反戦派が一斉に立ち上がった。ハイネセンポリスの都心部をデモ隊一〇〇万人が埋め尽くし、同盟第二の都市パロットで行われた反戦大行進には七五万人が参加した。ガルフリア、オスティアダ、アウトメーレン、アドリヤといった大都市では、数十万人が平和集会に集まった。その他の都市でも数万人規模の平和集会が開かれた。

 

 AACFの隊列には、有名な反戦主義者の姿が見られる。ラグナロック反戦運動の闘士は、「三年前、我々はボナールを倒した! 今度はトリューニヒトを打倒するぞ!」と気勢を上げた。シトレ退役元帥ら退役将官二五名が結成した「平和将官会議」は、退役軍人に対し、平和のために立ち上がるよう訴えた。ジャーナリストのアッテンボロー氏は、バスの屋根によじ登り、「革命だ! 革命を起こせ!」と叫ぶ。シンクレア教授らリベラル知識人も姿を見せた。

 

 革命的ハイネセン主義学生連盟の反戦学生は、「AACFに連帯するぞ! トリューニヒトを倒せ!」と叫び、過激な闘争を繰り広げた。ハイネセン記念大学の反戦学生一万人は、アジュバリス学長らトリューニヒト派教官を追放し、キャンパスをバリケードで封鎖した。国会議事堂の周辺では、首都圏の反戦学生四〇万人と警官隊がぶつかり合った。反戦学生に占拠された大学は二〇〇〇校を超える。紛争状態にある大学は数えきれない。

 

 レベロ議員の和解推進運動はAACFから共闘を拒否されたため、独自の戦いを進めた。超党派を標榜し、反戦派、主戦派、中道派の結集を目指す。かつての同志はAACFに行ってしまった。孤独な戦いを強いられている。

 

 反戦のうねりが大きな波となり、トリューニヒト政権を激しく揺さぶった。大衆党議員四五名が講和を支持する声明を出した。ホバン派など五派閥がトリューニヒト下ろしの動きを見せる。閣議では戒厳令の導入を求める声が相次いだ。トリューニヒト議長は、「声がでかい少数派が騒いでいるだけだ。多数派は私を支持している」と強気の姿勢を崩さない。

 

 同盟軍の内部でも講和論者と戦争継続論者が争っている。統合作戦本部長ビュコック元帥、地上軍幕僚総監ベネット元帥らは、即時講和を主張した。後方勤務本部長ロックウェル上級大将、国防監察本部長ドーソン上級大将、地上総軍総司令官ファルスキー上級大将らは、講和など有り得ないという立場だ。宇宙軍幕僚総監アル=サレム上級大将、宇宙艦隊司令長官ルグランジュ上級大将らは、「この条件では講和できない」と慎重な姿勢を示す。イゼルローン総軍総司令官ヤン元帥は、沈黙を保っているが、即時講和を支持しているとみられる。

 

 講和問題の次に注目を集めているのは帝国情勢だ。捕虜回収事業を主導したブラウンシュヴァイク公爵は、捕虜一六〇〇万人と難民五〇〇万人を取り返した功績により、二人目の帝国大元帥となった。ラインハルトは政敵の出世を手伝うために、回収船団を指揮したようなものだ。回収船団が帝都に帰還したら、宮廷闘争は本格化するだろう。ブラウンシュヴァイク公爵が独走するか? ラインハルトが巻き返すか? まだまだ目が離せない。

 

 市民の興味を引く話題は他にもたくさんあった。経済政策、社会保障改革、教育改革、同盟軍再編は国論を二分するほどの大問題だ。スキャンダル、犯罪、災害、事故に関するニュースは、絶え間なく供給される。

 

 今の人生で気づいたことだが、エル・ファシルの逃亡者は市民にとってはどうでもいい存在である。前の世界で無茶な断罪論が通用し、人々が煽動に乗せられてしまったのは、真面目に調べようとする人がいなかったからだろう。声の大きな人が「これが真実だ」と叫べば、人々はそのまま受け入れる。つまり、免罪論者が断罪論者より大きな声で叫べばいい。

 

 断罪論者の中心は極右団体と反戦団体だ。極右は逃亡者を敵前逃亡した卑怯者だと罵った。反戦派は逃亡者を市民を見捨てた犯罪者だと批判した。どちらも声の大きさは並外れている。

 

「だけど、俺の声の方がずっと大きい」

 

 俺が公式の場で発言すれば、電子新聞の記事になり、ニュース番組で紹介され、ファンサイトや議論サイトに掲載される。俺に好意的な人は好意的に解釈するだろう。俺に反感を持つ人は必死であら探しをするはずだ。この世界では誰もが俺の言葉に興味を持つ。

 

 注目されることはあまりありがたくないが、今回に限っては話が別だった。マスコミやネットユーザーが免罪論を広めてくれるだろう。

 

 

 

 ハイネセンに戻った翌日から、本格的な戦いが始まった。マスコミの前で免罪論を繰り返し唱える。水面下で有力者や有名人への根回しを行う。世論が免罪論に傾けば、世論に弱いトリューニヒト議長は逃亡者を救済するに違いない。再建会議に参加した兵卒や下士官を救った時に使った手法だ。

 

 エリヤ・フィリップスの名前には人を動かす力がある。俺に好意を持つ人、俺を尊敬する人、俺を盲信する人、俺に媚びる人が免罪論者となった。俺が免罪論者だと明らかになり、妹ら市民軍の英雄が免罪論支持を表明すると、右翼は逃亡者バッシングをやめた。軍主流派の幹部や国防族議員からは、免罪に前向きな発言が相次いだ。一般市民は俺の言葉を無批判に信じた。

 

 もっとも、すべてがうまくいったわけではなかった。リベラリストは重い刑罰を好まないが、軍人の非行については別人のように厳しくなる。反戦団体は俺の行動を「身内のかばい合い」だと非難した。ジャーナリストのパトリック・アッテンボローは、『公正なる裁判を求む』という記事を書き、「世論に流されるな。一兵卒に至るまで厳しく処罰せよ」と訴える。ビュコック元帥は不機嫌そうな顔で、「貴官の人気取りに協力する気はない」と言い放つ。ヤン元帥は対話に応じようとしない。

 

 ハイネセンに戻ってから一週間が過ぎた頃、国防委員会法務部から連絡が入った。エル・ファシルの件で話を聞きたいという。

 

 俺は国防委員会庁舎に出向き、逃亡者問題の担当者と面会した。当初は向こうが第二艦隊司令部に来る予定だった。しかし、国防委員会の高官を呼びつけるのは失礼だと思い、こらちから足を運んだ。

 

 担当者はロザリンド・フォン・ヴァルケ宇宙軍准将という人物である。名前に「フォン」が付いていることから分かる通り、亡命貴族の出身だ。一般大学卒業者という将官としては珍しい経歴を持つ。入隊後に弁護士資格を取得し、宇宙艦隊総司令部や正規艦隊司令部の法務部門で活躍した。ラグナロック戦役の時は、「アウシュビッツに匹敵する蛮行」と称されるヴィンターシェンケ事件の捜査に携わり、高い評価を得ている。

 

 見るからに切れ者といった感じの経歴だが、目の前に現れたのはおっとりした感じの中年女性であった。

 

「お忙しい中、お越しいただき、誠にありがとうございます」

 

 ヴァルケ准将は丁寧にお辞儀をする。

 

「国防委員会に協力するのは当然だからね」

 

 俺はことさらに丁寧な態度をとる。同盟軍が軍政主導に変わった後も、実戦部隊には国防委員会を軽く見る者が多い。だからこそ、国防委員会を重んじる姿勢が必要だ。

 

「恐れ入ります。実戦部隊の幹部が、みんなフィリップス提督のような方なら有難いのですが」

 

 ヴァルケ准将は上品な微笑みを浮かべ、分厚いファイルを取り出した。表紙には「エル・ファシル逃亡事件資料」と書かれている。

 

 こうして事情聴取が始まった。ヴァルケ准将はファイルをめくりながら質問し、俺は知りうる限りの事実を伝えた。

 

「ありがとうございました。最後にご意見をお聞かせください」

「寛大な処分をお願いしたい。リンチ少将とその幕僚以外の者には責任はないんだ」

「それは無理です」

 

 ヴァルケ准将の笑顔から無情な一言が放たれた。

 

「彼らは違法な命令だと知らなかった。騙されたんだ」

「いいえ、彼らは違法だと知っていたはずです。あなただってそうでしょう。だから、出発直前に抜け出した」

「それは違う」

「ヤン元帥は、『リンチ少将の部下は知っていたはずだ。そうでなければ、あんな命令は聞かないだろうね』と証言しておられます。こちらの方が信用に値します」

「あの方は推測を口にしているだけだ。小官はこの耳で『援軍を呼びに行く』と聞いた。どちらが信用できるかは明らかだろう」

 

 俺は懸命に反論した。崇拝する提督が相手でも、この件については譲れない。

 

「私はヤン元帥を信じます。第三者としての冷静な意見ですから」

「当事者の意見を無視するのか?」

「あなたは被疑者への思い入れが強すぎます。元同僚を救うために、嘘の証言をしているように見えます」

 

 この一言がヴァルケ准将のスタンスを明らかにした。「元同僚を救うために偽証している」というのは、断罪論者のお決まりの主張だった。

 

「小官が偽証すると思うのか?」

「フィリップス提督は戦友を大事にする方だと聞いております。逃亡者に同情するあまり、ルールを破ったとしても不自然ではありません」

 

 彼女の指摘は半分だけ正しかった。俺は逃亡者に強い思い入れを持っている。だが、嘘はついていない。

 

「嘘をついていると思うのなら、調査してほしい。真実が明らかになるはずだ」

「調査は一四年前に終わりました」

「あの調査はおざなりだった。一か月で打ち切られたんだからね。裁判をやるんだったら、もっと念入りな調査が必要になる」

「調査記録はすべて読みました。これ以上ないほどに完璧でした」

「どこが完璧なんだ? 有力な証人が小官とヤン元帥の二人しかいなかった。被疑者から事情聴取することも、現場検証することももできなかった。不十分もいいところだろう」

「調査は終わったんです」

「終わっていない。もう一度調べてくれ。小官の証言の裏を取れるはずだ」

 

 俺は再調査をしつこく求めた。ちゃんと調べてもらえたら、逃亡者が無実だとはっきりする。

 

「お言葉ですが、あなたのなさりようは目に余ります」

 

 ヴァルケ准将の表情が急に険しくなった。遠慮するのはやめたと言わんばかりである。

 

「どういうことだ?」

「あなたは事実を曲げようとしています。客観的に見れば、逃亡者が一人残らずリンチと共謀していたのは明白です。援軍を呼びに行くなら、リンチがエル・ファシルを離れる必要はありません。部下を脱出させれば済むことです。また、逃げる前にリンチ一派は軍需物資を積み込んでいます。幼稚園児だって持ち逃げする気だってわかりますよ。騙されたとしたら、逃亡者は幼稚園児以下の知能しかないことになります」

「あの時はみんなパニックになっていた。普段なら気づくことでも、混乱してる時は気づかないもんだ」

 

 俺は一般論を事実であるかのように語る。実のところ、命令が出た直後の記憶なんて残っていない。前の世界でリンチ少将の命令を受け入れた理由は、忘却の彼方に消えてしまった。

 

「嘘ですね。あなたの行動がそれを裏付けています」

 

 ヴァルケ准将は思いもよらないことを言った。

 

「小官が何をしたというんだ?」

 

 俺は冷静な表情を作る。内心では唖然としていたが、顔には出さない。

 

「エル・ファシルに残った理由を問われた時、あなたは『逃げたくなかった』『卑怯者と呼ばれたくなかった』と答えました。卑怯なことをしているという自覚があり、飛び出す機会をずっと伺っていた。そして出発直前にようやくチャンスが訪れた。あの時のあなたは衝動ではなく、確信によって動いていたんです。だからこそ、ああいう言葉が出たのではないですか?」

「誤解もいいところだ」

「事実を隠そうとする理由はわかります。仲間は卑怯者になったのに、自分は英雄になった。仲間は収容所で過ごしている時、自分は出世街道を突き進んだ。そのことが後ろめたいんでしょう? あなたは罪悪感から解放されるために、仲間を救おうとしていらっしゃる」

 

 ヴァルケ准将の目は確信に満ちていた。この見解の恐ろしいところは、完全な妄想であるにも関わらず、論理的に見えるということだ。俺を動かしているのは、罪悪感でもなければ、薄っぺらな同情でもない。前の人生で苦しんだ経験が原動力になっている。俺の脳内を覗くことができない人なら、彼女の妄想に説得力を感じるだろう。

 

「君の言うことには根拠がない。推測に推測を重ねただけじゃないか。裁判では通用しないぞ」

「根拠はすぐ見つかります」

「見込み捜査をするつもりか?」

「真実を明らかにしたいんです。あなたは世論を動かして、真実を闇に葬ろうとしている。法律家として見過ごせません」

「君の目にはそう見えるんだな」

 

 これ以上話しても無駄だと悟り、俺は会話を打ち切った。常識的に考えれば、俺が元同僚をかばったように見えるだろうし、支持者やマスコミを使って圧力をかけたと思うだろう。

 

「あなたの贖罪に付き合うつもりはないんですよ」

 

 ヴァルケ准将は静かに話を締めくくる。彼女との会話は不毛の極みであったが、前の人生の記憶に基づく行動がどう見えるかを理解した点では有益だった。

 

 帰りの車の中で、俺は考え込んだ。ヴァルケ准将がひとかどの人物なのは認める。だが、人間の理性を信じすぎていた。他人が自分と同じように合理的に動くと思い込み、不合理な行動に合理的な理由をつけようとするのだ。その結果、不合理な現実より合理的な妄想を信じてしまう。彼女の思い込みの強さは、ヴィンターシェンケ・グループのような巨悪と戦う時には役立つが、弱い者に対しては凶器となる。

 

 ヴァルケ准将を交代させた方がいいと思った。圧力をかければ、交代させるのは簡単であろう。法務部が法務官室から昇格したのは二週間前のことだ。歴史の長さと政治力はある程度比例する。俺の政治力は法務部よりずっと強い。

 

「さすがにそれはやりすぎだ」

 

 俺は担当者を変えるという策を破棄した。他人を納得させるだけの根拠がない。大義名分のない行動は反発を招く。それで利益を得たとしても、最終的にはより大きな不利益を被るものだ。

 

 結局、ヴァルケ准将は放置することに決めた。軍事司法は軍隊という行政機構に従属する。そのため、裁判所が行う普通の裁判と比べると、軍事裁判は政治的圧力に弱い。ヴァルケ准将が使命感に燃えていても、「天の声」が下りてくればすべてが終わる。

 

「いざとなったら、これがあるしな」

 

 俺は軍服の懐から超小型録音機を取り出す。先ほどの会話はすべて録音していた。彼女が真面目に捜査してくれるのなら構わない。見込み捜査をやったら、録音内容を公開するだけのことだ。

 

 超小型録音機をかばんに入れた後、フライドポテトを取り出し、遅めのおやつを楽しんだ。ほくほくしたジャガイモと塩と油のハーモニーが、舌を楽しませる。

 

 会話を録音するというのは、ドーソン上級大将のアイディアだった。録音機を持っていくところまでは俺も考えた。だが、相談した時に「録音することを事前に通告します」と言ったところ、ドーソン上級大将は隠すべきだと教えてくれた。

 

「事前に通告したら、相手は言葉に気を付けるはずだ。『機密保持のため』などと理由をつけて、録音機を取り上げるかもしれん。隠して本音を言わせろ。失言したらこっちのものだ」

「おっしゃる通りにいたします」

「こっそり録音するのはフェアではないと思ったのだろう。甘いにもほどがある、フェアなだけでは駆け引きはできん。多少の悪意も必要だぞ」

「気を付けます」

「貴官は頭が良くないからな。人の二倍は気を付けないといかん。それでようやく人並みだ。人の教えに耳を傾けるのは立派だが、半分も身についていない。まあ、私が六一年かけて身につけた知恵を、一〇年程度で完全に習得できるはずもないのだがな。貴官はよくやっているぞ。私の教え子の中でここまで伸びた者は他にいない。アッテンボローの奴は私の言うことを聞かなかった。だから、大将にしかなれんのだ。奴が大将で貴官が上級大将ということは、私の教えが正しかったということだな。階級は嘘をつかん。軍隊とは――」

 

 ドーソン上級大将は話が長いのが欠点である。仕事は簡潔明瞭なのに、話は長くてくどい。不思議な人だと思う。

 

 前の世界で戦記を読んだだけなら、ドーソン上級大将が逃亡者擁護に力を貸すなんて、絶対に信じられないはずだ。しかし、彼は威張ることが大好きなので、他人が頭を下げてきたら、「貴官は人を見る目があるな」と言って力を貸してくれる。逃亡者が無罪かどうかには興味がない。

 

 実のところ、逃亡者擁護に協力してくれた人は似たようなものだ。俺に頼まれたから、協力しているだけに過ぎない。逃亡者が無罪だろうが有罪だろうが関係ないと思っている。

 

 彼らの好意がありがたいと思う反面、危ういとも思う。筋が通らないことでも、彼らは協力してくれる。俺が判断を誤ったら、彼らが泥を被ることになるのだ。

 

 権力とは実に便利なものだ。あることについて知りたいと思えば、あっという間に情報が集まってくる。物が欲しいと思えば、あっという間に手元に届く。人に会いたいと思えば、あっという間にアポイントメントを取ることができる。プロジェクトを立ち上げたいと思えば、あっという間に計画案が送られてくる。便利だからこそ、大事に使わなければならない。権力は消耗品である。使いすぎると枯渇してしまう。

 

 部下の中には、逃亡者問題への介入に反対する者もいた。優先順位の低い問題に力をつぎ込むべきではないというのだ。

 

 俺には三つの重要な仕事があった。一つは第一辺境総軍の編成、一つは第二艦隊の編成、一つは講和に反対することだ。勤務時間中は第一辺境総軍と第二艦隊の編成を進め、退勤後はマスコミや軍人に対して講和反対論を述べる。その合間に逃亡者を救うための活動をしていた。

 

 第一辺境総軍は七つある総軍の中で最大の戦力を有する。主力となるのは、第二艦隊・第一一艦隊・第二二艦隊・第六地上軍・第二二地上軍を基幹とする第一辺境統合軍集団だ。第二方面軍はシヴァ星系を中心とする宙域の警備、第七方面軍はエルゴン星系を中心とする宙域の警備、第二二方面軍はアスターテ星系を中心とする宙域の警備を担う。

 

 俺は第一辺境総軍と第一辺境統合軍集団と第二艦隊の司令官を兼任した。第一辺境総軍司令部は第一辺境統合軍集団の司令部でもあるので、実質的には二つの司令官職を保持することになる。

 

 二つの大部隊を同時に編成するという大事業の中心となったのは、第一辺境総軍副司令官パエッタ大将と第一辺境総軍参謀長ワイドボーン大将であった。この二人の実務能力はずば抜けている。チーム・フィリップスの新戦力二名は早くも存在感を発揮した。

 

 最大の悩みは人材の確保であった。トリューニヒト派の国防委員会官僚が台頭したおかげで、事務のできる人材には事欠かない。しかし、経験豊かな指揮官や作戦立案に長けた参謀が不足している。トリューニヒト粛軍によって追放された者の多くは、一線級の指揮官や参謀であった。正規艦隊と機動地上軍の復活、総軍の創設により、幹部ポストが大幅に増えた。供給が減って需要が高まったのだ。各総軍、各艦隊、各地上軍は激しい人材争奪戦を繰り広げた。

 

 第一辺境総軍には優先的に人材が回された。国防委員会は第一辺境総軍をイゼルローン総軍と並ぶ前衛部隊に位置付ける。俺とワイドボーン参謀長は、国防委員会官僚と良い関係を築いているので、交渉が円滑に進んだ。それでも、一部の幕僚は、「逃亡者にかまけてる暇があったら、国防委員会との交渉に時間を割いてくれ」とぼやいた。

 

 講和反対を主張することは、私的にはトリューニヒト派の一員としての義務であり、公的には国防委員会から頼まれた仕事であった。拳を振り上げて講和論者を罵るなんてことはしない。優しげな笑顔を浮かべ、講和問題をわかりやすい言葉で解説し、「講和はしない方がいい」という意見をそれとなく伝える。一般市民や下級軍人の間では、俺の解説は「わかりやすい」と好評なので、こうした仕事には向いていた。

 

 もちろん、俺自身も講和には賛成できない。正確に言うと、反戦派主導の講和には賛成できなかった。物語の世界ならば、「講和が成立しました。平和になりました。めでたしめでたし」で終わる。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』は、ローエングラム朝とイゼルローン軍が講和して幕を閉じた。しかし、現実の講和はハッピーエンドではない。新しいチャプターの始まりだ。

 

 講和が実現した後は、平和を前提とした新秩序の建設が始まる。ほとんどの場合、講和を主導した勢力が新秩序を主導することになるだろう。講和と新秩序はセットである。

 

 反戦派主導の新秩序の中には、俺や兵士の居場所はない。それだけははっきりしている。レベロ政権時代の同盟は反戦派の天国であり、兵士の地獄であった。反戦派を主導するAACFは、レベロ政権与党よりずっと過激な勢力だ。穏健分子を失った良識派は以前よりも危険だ。AACFと良識派が講和を成立させたら、戦争よりも過酷な平和が始まる。だから、俺は講和に反対する。

 

 三か月前、ボロディン提督に、「破綻するまで戦争を続けるか、同盟存続のために戦争をやめるかを選択する時が来る」と言われたことを思い出した。分岐点の到来は予想よりずっと早かった。彼が生きていたら、俺は「戦争を続けます」と答える。そうしなければ、居場所は守れない。

 

 俺は親しい人の顔を思い浮かべた。チュン・ウー・チェン中将、ラオ少将、カプラン准将、メッサースミス准将、ハラボフ中佐らは、反戦派の世界でも生きていける。ルグランジュ上級大将、イレーシュ少将、ベッカー少将、ドールトン少将らは、多少窮屈に感じるだろうが、どうにかなると思う。しかし、こうした者は一握りだ。

 

 反戦派の世界では生きていけない人があまりに多すぎた。民衆を盾にする作戦を立てた妹、冬バラ会の中心人物だったアンドリュー、主戦派の旗振り役だったホーランド大将、レグニツァの戦犯であるパエッタ大将らは、反戦派に憎まれていた。ドーソン上級大将、ワイドボーン大将、アブダラ中将らは、良識派と確執がある。セレブレッゼ上級大将やベイ准将らは、政治的に良識派と相容れない。クリスチアン予備役大佐は反戦思想が大嫌いだ。ビューフォート中将は軍縮政策など願い下げだろう。トリューニヒト議長やアラルコン上級大将は考えるまでもない。

 

 最後に浮かんだのはシェリル・コレット少将の顔だった。今では英雄として絶大な人気を誇っている。エル・ファシルの逃亡者が帰ってきても、アーサー・リンチの娘という出自が暴かれることはなかった。リンチ少将の訃報を聞いた時、どう思ったのかは知らない。俺が「逃亡者はリンチに騙された」と言い張ることについて、どう思っているのかも語らない。俺は彼女の出自を知らないふりをしてきた。

 

「彼女はどうかな」

 

 一分ほど考えて、コレット少将も生きていけないという結論に達した。良識派は彼女を受け入れるだろう。憎まれる理由が一つもない。けれども、彼女は俺がいない世界で生きようとは思わないのではないか。

 

 一週間前、第三六機動部隊司令官に指名されたコレット少将は、顔を覆って泣き始めた。理由を聞くと、「フィリップス提督が率いたナンバーを継いだんです! 光栄で光栄で……」と涙を流しながら答えた。奮起を促すため、そして逃亡兵問題で苦しんでいる彼女を慰めるために、第三六機動部隊のナンバーを与えたのだが、ここまで感激されると重たく感じる。

 

 彼女の俺に対する感情は、もはや崇拝の域に達していた。何がきっかけでこうなったのかはわからない。

 

 信者と化したコレット少将に対し、副官代理ハラボフ中佐は冷淡極まりない。いつも冷ややかな目で俺を見る。俺と視線が合ったら顔を背ける。飲み会の席では、俺との会話を露骨に避ける。声をかけただけで、顔を怒りで赤くすることもあった。しかも、「仕事に私情を絡めたくない」という理由で、他の部隊への移籍を希望した。ここまで嫌われるとへこんでしまう。

 

 情熱的すぎる部下も冷淡すぎる部下も、大事な戦友であることには変わりない。側近も外様も将官も兵卒もみんな大事な戦友だ。彼女らの立場を守るために頑張りたいと思う。

 

 戦友を守るためにも、兵士の生活を守るためにも、今の段階での講和には賛成できなかった。帝国では門閥派の講和論が優勢だ。同盟の人間がしっかり反対しないと、地獄を見ることになる。

 

「すべては守るためか」

 

 今の俺がやっていることはすべて守ることだ、逃亡者を守るために動き、国を守るために部隊を編成し、仲間を守るために講和反対論を主張している。

 

 考えてみると、軍人になってからずっと何かを守るために戦ってきた。市民を守るため、部下を守るため、国を守るため、約束を守るため、立場を守るため、イメージを守るために戦った。これからもきっとそうなのだろう。



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第94話:過去と現在が交わる時 802年2月10日~2月中旬 第二艦隊司令部士官食堂~カフェ「ロンゲスト・マーチ」~第二艦隊司令部

 エル・ファシル逃亡者問題はあっけなく片付いた。二月一〇日、国防委員会が「リンチ少将配下の兵卒・下士官を不起訴処分とする」と発表したのだ。逃亡者全員に事情聴取を行った結果、「将兵の大多数は共謀関係になかった」との見方が強まり、不起訴処分となった。

 

 断罪論者が根拠とした七八八年の報告書は、証拠にならないと判断された。掲載された「証言」のほとんどは、証言者の推測に過ぎない。リンチ少将が完璧に計画を隠ぺいしたため、ヤン元帥ですら逃亡部隊の内情を把握しておらず、推測で話すしかなかった。俺が「リンチ少将は『救援を求めに行く。第七方面軍司令部の承認は得た』と言った」と証言したのに、第七方面軍司令部への事情聴取はなかった。こんないい加減な代物が通用するのは、断罪論者の脳内だけである。

 

 不起訴となった兵卒と下士官は一階級昇進し、名誉捕虜章と一時金を受け取った。通常の捕虜と同じ扱いである。エル・ファシルの逃亡者は名誉を取り戻した。

 

 士官は軍法会議にかけられることとなった。国防委員会が「全員がリンチと共謀したとは考えにくい」との見解を示しており、ほとんどの者は無罪になる見通しだ。

 

 逃亡者擁護を始めてから二週間で、俺は完全勝利を収めた。国防委員会が要求を完全に受け入れた。前の世界では無視された主張が公式見解となった。しかも、士官の免罪というおまけ付きだ。予想以上の成果であろう。

 

「夢じゃないのか」

 

 自分の頬を力いっぱいつねった。これが夢ならば痛みを感じないはずだ。頬に感じた痛みは現実のものだった。

 

 立ち上がって椅子をよけると、右足で左足を力いっぱい踏んだ。足に感じた痛みは現実のものだった。

 

「何やってるんすか?」

 

 亜麻色の髪の美男子が呆れたような顔をする。彼はワイドボーン宇宙軍大将だ。

 

「何でもない」

 

 そう答えると、俺は周囲を見渡した。同じテーブルにいるのは、参謀長マルコム・ワイドボーン大将、副参謀長チュン・ウー・チェン中将、通信部長マー・シャオイェン技術少将、副官代理ユリエ・ハラボフ中佐の四人だ。他のテーブルにも見慣れた人々がいた。おかしなところはない。いつもと同じ第二艦隊司令部の士官食堂である。

 

 やはり、これは現実なのだろうか? いや、簡単に判断するのは良くない。他人の判断を仰ぐべきだ。

 

「ハラボフ中佐、こちらに来てくれ」

 

 俺はハラボフ中佐を手招きした。空気が読めない参謀長は、つねらなくていい時につねり、つねるべき時につねらないだろう。副参謀長はナイフとフォークを使っているのに、なぜか手が油とソースで汚れている。通信部長は握力が弱い。冷徹な副官代理なら安心できる。

 

「どのようなご用件でしょう?」

「俺の頬を力いっぱいつねるんだ」

「かしこまりました」

 

 ハラボフ中佐は眉一つ動かさずに答えると、俺の頬に触れた。指でつんつんと突いたり、円を描くように撫でさすったりする。

 

「何をしてるんだ?」

「痛点を探しているのです」

「なるほど。君は本当に冷徹だな」

 

 俺は心の底から感心した。並の軍人なら力任せにつねるだろう。しかし、彼女は最大限の痛みを与えるための努力を惜しまない。

 

 ハラボフ中佐は数分かけて痛点を見つけると、右手の親指と人差し指でつまみ、おもいっきり引っ張った。頬に激しい痛みが走る。

 

「痛い!」

 

 俺の口から情けない叫び声が飛び出し、目に涙がにじんでくる。この痛みこそが現実だ。エル・ファシルの逃亡者は罪人ではない。俺は過去に打ち勝った。

 

 記憶の洪水が脳内を駆け巡る。故郷で過ごした時の記憶、エル・ファシル警備部隊に配属された時の記憶、捕虜になった時の記憶、ゼンラナウ矯正区で過ごした時の記憶、帰国した時の記憶、家族や友人に見捨てられた時の記憶、軍隊で古参兵にリンチされた時の記憶、軍隊を脱走してスラム街で過ごした時の記憶、酒とサイオキシンに溺れていた時の記憶、口にはできない罪を犯した時の記憶、刑務所に入った時の記憶、麻薬中毒更生施設にいた時の記憶、救貧院で戦記を貪り読んだ時の記憶、再びエル・ファシルに降り立った時の記憶、そして……。

 

 エル・ファシルを脱出する日、星系政庁の廊下を全力で走った。隣では女の子が走っていた。髪の毛の色は俺と同じ人参色の赤毛だ。身長と年齢は同じぐらいだろう。

 

 星系政庁を出てバスに乗った。隣には女の子が座っていた。髪の毛の色は俺と同じ人参色の赤毛だ。身長と年齢は同じぐらいだろう。

 

「いつか、エル・ファシルに帰れるんでしょうか?」

「帰れるよ、きっと」

「ありがとうございます。信じます」

 

 赤毛の彼女は俺の言葉を信じてくれた。いや、信じたかったのだろう。あの時は生き残れるかどうかも定かではなかった。どんなに小さな希望でもないよりはましだった。

 

「俺は故郷に帰った。君はエル・ファシルに帰れたのか?」

 

 記憶の中の彼女に問いかけたが、答えは返ってこなかった。当然と言えば当然だ。俺は彼女の行方を知らない。

 

「司令官閣下」

 

 冷たい声が耳に飛び込んできた。赤毛の少女の姿が消え、赤毛の副官代理が現れる。髪の毛の色は俺と同じ人参色の赤毛で、身長は俺より三ミリ低く、年齢は三歳若い。

 

「ハラボフ中佐、どうした?」

「質問したいのは私の方です。お体の調子が良くないのですか?」

「いや、大丈夫だ」

 

 俺は微笑みでごまかした。本当のことなど言えるはずもない。

 

「フィリップス提督」

 

 苦笑いを浮かべたワイドボーン参謀長が俺の肩を叩く。

 

「なんだ?」

「みんな見てますよ」

 

 彼が言う通り、士官食堂にいる人々の視線がこちらに集中していた。どう反応していいかわからないといった感じだ。

 

「どういうことだ、これは?」

「びっくりしてるんすよ。司令官が自分の頬をつねったり、自分の足を踏んだり、部下に頬をつねらせたり、呆然と立ち尽くしたりしてるんです。誰でも驚きますって」

「…………」

 

 俺は顔を引きつらせた。自分の行動が奇行にしか見えないことに、ようやく気付いたのである。

 

「働きすぎもほどほどにしてくださいね。体を壊したら元も子もないですから」

「気を付けるよ」

 

 この一言で場は収まった。人々は俺の多忙ぶりを知っているので、過労といえば納得する。働き者という評判はこういう時に役に立つ。

 

 仕事が終わった後、祝賀会を開こうと思ったが、部下たちが「休んだ方がいい」と言うので官舎に帰った。現在住んでいる官舎は単身者用のマンションタイプだ。大して広い部屋ではないが、設備は充実している。

 

 俺は食卓の上に作り置きの料理一〇皿とダーシャの写真を並べ、一人だけの祝賀会を始めた。黙々と料理を食べ、黙々と飲み物を飲み、勝利の余韻に浸る。

 

 携帯端末には祝いのメールがひっきりなしに入ってきた。ドーソン上級大将は、「私の力だぞ。感謝しろ」といういつも通りの内容である。妹やコレット少将らは、ひたすら俺をほめちぎった。アラルコン予備役上級大将らは、反戦派に一泡吹かせたことが嬉しいようだ。アンドリュー、イレーシュ少将、ルグランジュ上級大将、ベイ准将らは、自分のことのように喜んでくれた。ドールトン少将は冒頭で祝いを述べただけで、それ以降は付き合っている男の愚痴が延々と続く。

 

 メールとは不思議なものだ。単なる文字列なのに温もりが感じられる。文字列に目を通し、返事を書くだけで会話をしている気分になってくる。

 

 一四年前にエル・ファシルに降り立った時、俺は一人だった。寂しいとは思わなかった。前の人生ではずっと一人で生きてきた。そして、これからもずっと一人だろうと思っていた。

 

 今の俺は一人じゃない。恩師がいる。上官がいる。僚友がいる。部下がいる。エル・ファシルに降り立ってから、ずっと仲間に囲まれてきた。これからもずっと仲間に囲まれているだろう。前の人生との最大の違いは仲間の存在だ。

 

「俺が勝ったんじゃない。みんなが俺を勝たせてくれたんだ。そうだよな?」

 

 俺はダーシャの写真に問いかけた。返事はないが、肯定してくれると思う。彼女も仲間を大事にする人だったから。

 

 自分のやったことが褒められたものではないという自覚はある。利己心をくすぐらなければ、人は動かない。他人のために動いているつもりでも、心の底には「あの人に気に入られたい」「自分が正しいことをあの人に知ってほしい」という思いがある。世の中をきれいものと汚いものに分けるならば、人を動かすことは汚いものに分類できるだろう。エル・ファシル逃亡者問題を早期解決に導いたのは、人々の利己心だった。

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長のメールには、「貸しということでしょうね」と書いてあった。その通りだと思う。トリューニヒト議長は逃亡者を免罪することで、俺に恩を売った。エル・ファシル逃亡者問題は優先度の低い問題だ。譲ったところで懐は痛まない。

 

 法務副部長ミルカンダニ中将のメールは、「うまくやっておきました」という内容だ。法務部の上層部は、俺に付いた方が得だと計算した。

 

 俺が直接介入したことは波紋を呼んだ。客観的に見ると、エル・ファシル問題は上級大将が出てくるほどの問題ではない。俺と断罪論者の実力差は圧倒的だった。マリノ中将は、「空手マスターがチンピラのキンタマを全力で蹴り上げるようなもんですな」と評する。権力を振り回したと思われても、文句は言えない。

 

 逃亡者擁護を身内びいきだと批判する声もある。反フィリップス派は、俺が元同僚の犯罪を隠そうとしたと決めつけた。反戦派は軍部が罪を犯した兵士をかばったと思い込んだ。

 

 免罪論者の言動も反発を招く要因となった。頭ごなしに怒鳴りつけたり、偉そうに説教したり、恫喝めいたことを口にしたりするなど、高圧的な言動が目立つ。威張ることや善意を押し付けることは、彼らにとっては体に染みついた習慣である。俺が自制を求めても、九割程度に抑えただけに留まり、根本から言動を変えようとはしなかった。末端の人間は俺が自制を求めたことすら知らない。凡人集団の短所が露骨に現れた。

 

 いずれにせよ、エル・ファシルの逃亡者は救われた。前の世界と違って、無実の兵士が逃亡者のレッテルに苦しむことはない。それだけは事実であった。

 

 

 

 二月中旬の日曜日、俺はワイドボーン参謀長と一緒に、カフェ「ロンゲスト・マーチ」でランチを楽しんでいた。第二艦隊司令部から二〇キロ離れた場所にあるこの店は、愛国カフェとして知られており、客のほとんどが右翼だ。

 

「いい店だろ」

 

 ワイドボーン参謀長が得意げに胸を張る。昔馴染みなので、プライベートでは敬語を使わない。

 

「そうですね」

 

 俺は敬語で答えた。居心地の悪い気分を感じていたが、口には出さない。店内には自分の写真が何十枚も貼られているのだ。小物には耐え難い状況である。

 

 ワイドボーン参謀長の視線は、一人の女性店員を追い続けていた。絶世の美女という言葉は、この女性のために作られたのだろう。年齢は二〇代後半に見えた。まっすぐに伸びた髪の毛は黒い絹糸のようだ。肌の白さは新雪を思わせる。気品に満ちた清らかな顔に、宝石のような青い瞳とコーラルピンクの唇が彩りを添える。

 

「あれがこの店を気にいった理由ですか?」

 

 俺が小声で聞くと、ワイドボーン参謀長は嬉しそうに頷いた。

 

「良くわかったな」

「わからない方がおかしいですよ」

「美人だろ?」

「ええ」

「惚れるなよ。あの子は俺のもんだからな」

 

 そう語るワイドボーン参謀長の目は、恋する少年の目であった。

 

「俺はダーシャ一筋です」

「そうか。じゃあ、応援してくれよ」

「応援はしますけど。でも、厳しいでしょうね」

「そうか?」

「あの人、既婚者だと思いますよ。同盟語が片言でしょう? たぶん帝国人移民です。帝国人は結婚が早いんで、あの年で独身ってことは考えにくいです」

「わからんぞ? 離婚してるかもしれん。旦那と死に別れた可能性だってある」

「どうなんでしょう」

「あの子はきっと一人だ。天涯孤独の女性が言葉の通じない異国で頑張ってるんだ。けなげじゃないか」

 

 ワイドボーン参謀長は自分に都合の良すぎる答えを出した。この人の鋭さは仕事する時と議論する時にしか発揮されない。普段は筋肉で思考しているのだろう。

 

「そうですかね」

 

 俺は曖昧に笑った。正直、あの女性店員には魅力を感じなかった。ただ突っ立ってるだけで、接客しようという姿勢がない。単に顔が良いだけだ。

 

「守ってあげたいよな……」

 

 美男子のワイドボーン参謀長が、憂い顔で女性店員を見つめる。絵になる構図のはずなのに、残念な印象しか受けないのはなぜだろう。

 

 真面目に対応するのが馬鹿らしくなったので、テレビへ視線を向けた。画面に映っているのはリベラル番組だ。客は出演者を罵ったり、嘲笑ったりして盛り上がる。

 

「この店は愛国カフェですよね。なんでリベラル番組なんか流してるんですか?」

「リベラル番組を見て怒るのが愛国的なんだとさ」

 

 ワイドボーン参謀長は明らかに他の客を皮肉っていた。トリューニヒト派に属し、パトリオットシンドロームを歓迎したことがある人なのに、右翼に対しては非好意的だ。伝統保守の彼から見れば、リベラルも右翼も規律を乱す存在でしかない。

 

「気持ちはわかります」

 

 俺は心の中で「共感はできませんが」と付け加えた。右翼がリベラルを憎む気持ちはわかる。だが、共感することはできなかった。

 

 テレビに俺の顔が映り、マレマ氏というリベラル文化人が「フィリップスはつまらない男だ。ヤン元帥の足元にも及ばない」と批判した。先輩のキャゼルヌ予備役中将や腹心のビョルクセン元少将が告発されても、親友のラップ中将が予備役に編入されても、ヤン元帥は擁護しなかった。それに対し、逃亡者を擁護した俺は身内びいきが酷いというのだ。

 

 ロンゲスト・マーチの客は大いに怒り、マレマ氏に罵倒を浴びせた。あちこちのテーブルでブザーが鳴った。店員は飲み物を乗せたトレイを持って走り回る。

 

「うまくできてますね」

 

 俺は感心してしまった。リベラルの悪口を言い続けていれば、客はのどが渇き、飲み物がほしくなる。飲み物はフードと比べると利益率が高い。リベラル番組を流すだけで、利益が転がり込む仕組みだ。

 

「そうか?」

「飲み物を注文させるための手ですよ。悪口をずっと言ってたら、飲み物がほしくなりますよね。飲食店にとっては、飲み物は儲かる商品なんです」

「そんなに儲かるのか?」

「めちゃくちゃ儲かりますよ。飲み物は原価が極端に安いんです。飲み放題に行くと、あなたは元を取るといって飲みまくるでしょう? でも、トータルでは損してますよ」

「フィリップス提督は物知りだなあ」

 

 ワイドボーン参謀長は素直に関心してくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は嬉しそうに微笑む。飲食店経験者なら誰でも知っていることだが、それは言う必要がないことだ。

 

 職業軍人は世間知らずである。中学校を出て、士官学校や専科学校に入学し、卒業後は軍隊に入るのだ。世情に通じる機会などない。大卒の予備士官課程出身士官にしても、大学生活の経験だけでは、世間を知っているとは言えないだろう。世間知らずという点では、士官学校出身のエリート参謀も、専科学校出身の下士官も大して変わらない。ワイドボーン参謀長が飲み物の原価を知らなくても、軍人としては普通のことなのだ。

 

「フィリップス提督はヤンよりずっと上だよ。バイト経験がある将官なんて滅多にいないだろ。宇宙船育ちで学校に行ってないヤンより、ずっと現実が見える」

 

 切れ者のワイドボーン参謀長ですら、嫌いな相手を世間知らずと思いたがる弊習からは、自由になれなかった。

 

 トリューニヒト派は、宇宙船で少年時代を過ごしたヤン元帥を「学校に行かなかったから、世間を知らないんだ」と嘲笑う。しかし、同年代の子供しか通っていない学校なんて、大して広い世界でもない。宇宙船育ちの子供は、年齢も文化的背景も違う人々との集団生活を経験しているので、学校に通った子供より経験豊富という見方もできる。

 

 良識派は、ワイドボーン大将のような秀才参謀を「世間知らずのエリート」と決めつける。しかし、秀才参謀も実戦派も、軍隊以外の社会を知らない点では同じだ。

 

「俺だって少しバイトしただけですよ。世間を知らないという点では、あの人といい勝負です」

「ヤンなんかフォローしなくてもいいんだぞ」

「本心ですけどね」

 

 俺はさりげない風に答えると、コーヒーカップを片手で持ち、砂糖とクリームでドロドロのコーヒーを飲む。今は変装中なので両手持ちはしない。

 

「どんなに頑張ったって、ヤンは振り向かないぞ」

「期待はしていません」

「だったら、なんでアプローチを続けるんだよ。逃亡者の件だってそうだ。ヤンが証言すると思ってたのか?」

「思っていました。あの人は寛容な方です。兵士を救うためなら、協力してくれると信じていました」

 

 俺は残念そうに笑った。ヤン元帥は俺を嫌っているが、それ以上に弱い者いじめを嫌っていた。直接話すことさえできれば、逃亡者の件に限っては味方になったはずだ。

 

「あいつが寛容? 冗談だろ」

 

 ワイドボーン参謀長が眉をひそめるが、俺はひるまない。スポーツマン相手には正面から切り込むのが正解だ。

 

「はみ出し者を受け入れてるじゃないですか。薔薇の騎士やトランプのエースを引き取ろうとする人なんて、ヤン元帥以外にはいませんよ」

「あいつははみ出し者に寛容なだけだぞ」

「ヤン元帥はムライ提督やパトリチェフ提督を重用しています。二人とも型にはまったタイプでしょう」

「俺から見ればはみ出し者だけどな。ムライは規則にうるさいけど、口が裂けても『祖国を愛せ』とは言わない奴だ。パトリチェフは勇猛だけど、『同胞のために死ね』と命令することは絶対にない。どっちもヤン好みのリベラリストさ。シェーンコップより行儀がいいってだけでね。普通の部隊なら変人扱いだろうよ」

「おっしゃるとおりです」

 

 俺は相手が正しいことを認めた。戦時国家の同盟では、レべロ議員のように愛国心を口にするのが普通のリベラリストだ。ムライ大将やパトリチェフ大将のスタンスは、リベラリストとしてもかなり極端な部類に入る。こういう人物でなければ、ヤン元帥の腹心は務まらないのだろう。

 

「ヤンが寛容ってのは大間違いだ。はみ出し者としか仲良くできねえんだよ」

「マイノリティにも寛容ですよ」

 

 俺は別方向からの反論を試みる。戦記がヤン・ウェンリーを「寛容」と評したのは、さまざまな人間を受け入れたからだ。前の世界のウィリバルト・フォン・メルカッツは、古風な思想を持つ亡命者であったが、ヤン・ウェンリーに重用された。

 

「はみ出し者とマイノリティは違うぜ」

「ヤン元帥は帝国人に寛容です。同盟軍で帝国人幹部の比率が最も高い部隊は、イゼルローン総軍でした。あの人より移民保護や難民受け入れにも熱心な提督はいません」

「確かに普通の帝国人には寛容だ。普通の同盟人には冷たいけどな」

 

 ワイドボーン参謀長は突っかかるような口調で否定した。悪意があるわけではない。むきになりやすいだけだ。

 

「そうですかね」

 

 俺は必死で食い下がる。記憶に焼き付いた「ヤン・ウェンリーは寛容」というイメージを捨てきれなかった。戦記の中のヤン・ウェンリーは、寛容な人物だ。この世界のヤン・ウェンリーは冷めた人にしか見えないが、「愛想は良くない」と戦記に書いてある。ヤン元帥と本音で話すまでは、不寛容だと決めつけることはできない。

 

「ヤンはマジョリティでない奴に寛容なだけさ。それって寛容なのか? 俺だってマジョリティには寛容だぞ」

「マジョリティの論理を押し付けないから、ヤン元帥は寛容と言われるのでは」

「俺が押し付けてるっていうのか? 今日のフィリップス提督はきっついなあ」

 

 ワイドボーン参謀長は心外だと言いたげな表情をする。目が笑っているのは、俺が本気だと感じるからだろう。真剣勝負こそ彼の望むところだ。

 

「数が多いだけで圧力になるでしょう。俺は自覚してますよ。自分の意見を数の圧力で押し付けてるって」

「ヤンはマイノリティの論理をマジョリティに押し付けてるんだ。俺は戦争に反対する奴を見ると嫌な顔をする。ヤンは戦争に賛成する奴を見ると嫌な顔をする。どこが違うんだ? やってることは同じじゃないか? マジョリティがやったら不寛容で、マイノリティがやったら寛容なのか?」

 

 ワイドボーン参謀長はヤン元帥が寛容でないと力説した。根底には感情的な反発があるのだろうが、論理的には筋が通っている。

 

「ヤン元帥は話し合いが大事だと言ってますし……」

 

 自分でも苦しい主張だという自覚はあった。戦記に出てくるヤン元帥は話の分かる人物だ。しかし、俺とは話してくれなかった。

 

「ヤンが主戦派とまともに話すと思うか?」

「話さないでしょうね」

「ヤンが主戦論にひとかけらでも理解を示すと思うか?」

「思いません」

 

 俺は首を横に振る。事務的な会話ならできる。しかし、ヤン・ウェンリーが主戦派と本音で話すところは想像できないし、主戦論に理解を示すこともないと思う。戦記でも彼の主戦論嫌いは一貫していた。

 

「あいつほど狭量な奴はいないぞ。対話をする気がないんだからな」

「対話は難しいかもしれません。けれども、話すことさえできればわかってくれるはずです。ヤン元帥には自分を疑う姿勢があります。あの人が『絶対的な正義はない』とおっしゃってるのは、参謀長だってご存知ですよね?」

 

 俺はなおも反論を試みた。戦記に登場するヤン・ウェンリーは、「正義は相対的だ」と語り、自分の正義を疑った。ならば、俺の正義を説く余地もあるはずだ。

 

「知ってるさ。ヤンは他人の価値観を否定するために、相対主義を振り回す奴だ」

「自分の価値観も疑ってると思います」

「あいつほど自分を疑わない奴は見たことないけどな。あいつは反体制思想を疑ってるのか? あいつは反戦思想を疑ってるのか? あいつは自由主義を疑ってるのか? そういうふうには見えないがな」

 

 ワイドボーン参謀長の主張は、戦記の内容と矛盾していない。ヤン・ウェンリーが反体制思想・反戦主義・自由主義を疑ったことは、一度もなかったと思う。ヤン・ウェンリーが疑ったのは、自分が戦う意義だった。

 

「まあ、そうですね」

「ヤンなんてただの原理主義者だ。体制や権威を批判することが絶対正義だと思ってる。戦争に反対することが絶対正義だと思ってる。個人の権利と自由はすべてに優先すべきだと思ってる。違う考えを認める気はひとかけらもない。ルドルフがリベラリストだったら、ヤンみたいになるんだろうよ」

「さすがにそれは言いすぎでしょう」

「そうだな。ここまでにしとくか。あんな奴でもフィリップス提督にとっては恩人だ。ヤンがいなきゃ、エル・ファシルから脱出できなかったんだしな」

「ありがとうございます」

 

 俺は胸を撫で下ろした。実のところ、七〇年以上前に読んだ本の知識以外には、ヤン元帥に好意的になる理由はない。戦記を読んでいなかったら、「才能は認めるけど好きになれない」と思っていたはずだ。マルコム・ワイドボーンは、あやふやな根拠で議論できるほど甘くはなかった。

 

 

 

 第二艦隊司令部で打ち合わせをした時、副参謀長チュン・ウー・チェン宇宙軍中将の意見を聞いてみた。親ヤン派とも反ヤン派とも縁が薄い彼なら、別の評価があるだろうと思ったのだ。

 

「参謀長は的外れなことは言ってないと思いますよ」

 

 予想外の答えが返ってきた。チュン・ウー・チェン副参謀長の顔は、いつもと同じようにのんびりしている。

 

「そうか?」

「私もヤン元帥は信念の人だと思っていますよ。自分の正義を疑わない。自分の正義に反することはできない。違う考えを認めない。彼ほど信念が強い人は見たことがありません」

「でも、あの人は信念という言葉を嫌ってるぞ」

「彼が嫌っているのは、言葉じゃなくて、それを口にする人なんだと思いますよ。自分は信念に命を賭けている。だからこそ、覚悟もないのに信念を口にする人が許せない」

「そういう見方もあるか」

 

 俺は感心してしまった。こういう解釈も十分に成り立つのである。戦記の記述とは多少矛盾するが、この世界で見たヤン元帥の行動とは矛盾しない。

 

「ヤン元帥は厄介な人ですが、それを補って余りある美点があります。市民の生命を守ることが、民主国家の使命だと本気で信じています。そして、どんな時でも市民の生命を最優先します。非難されることが分かっていても、不利になることがわかっていても、彼は市民の生命を守ろうとするでしょう」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長がヤン元帥を評価する理由は、市民の生命を優先するという点にあった。

 

「あの人はそういう人だよね」

「私は彼の狂信を信頼します。我々を滅ぼさなくても、彼は目的を達成できる。我々が市民を守る側に立つ限り、彼は我々を嫌うことはできても、排除することはできない。だからこそ、安心して対立できます」

「君はいつも言ってるな。ヤン元帥とは対立した方がいいと」

「あなたは他人に取り込まれることに抵抗を感じない人です。ヤン元帥と手を組んだら、彼に従属する形になるでしょうね。そうなったら、行き場がなくなる者がいる」

「そうだね。右寄りの連中はあの人の下ではやっていけない。穏健なリベラルでも、拒否感を示す者はいるだろうね」

 

 俺が反戦派と対立する理由は、人々の行き場を作るためだった。反戦・反独裁市民戦線(AACF)の下でやっていけない人は多い。ヤン元帥の下でやっていけない人は、さらに多いだろう。

 

「あなたはヤン元帥と対立すべきです。ヤン元帥の下でやっていけない者が、あなたの下に行く。あなたの下でやっていけない者が、ヤン元帥の下に行く。こうすれば、みんなが生きていけます」

「俺とヤン・ウェンリーの二極体制か。信じられないね。俺ごときがあのヤン・ウェンリーと対等だなんて」

 

 口では信じられないと言いつつも、俺は自分の立場を受け入れていた。才能や器量では、ヤン・ウェンリーの足元にも及ばない。それでも、みんなが高みに押し上げてくれた。相手が誰であっても逃げることはできない。

 

「しょせん、推測は推測ですけどね」

 

 いきなりチュン・ウー・チェン副参謀長がはしごを外す。

 

「ヤン元帥は信念の人のふりをした野心家かもしれません。ワイドボーン参謀長が言うように、最短距離で頂点を目指している可能性もある。主戦派をこの世から消そうとしている可能性もある。そうだとしたら全面対決です」

「それは困る」

「真実を知っているのは本人だけですよ。ヤン元帥は何を考えているかわかりません。行動から推測するしかないのです」

 

 最も誠実な答えは「わからない」なのである。ヤン元帥のコミュニケーション嫌いは、「沈黙の提督」と呼ばれるほどだ。自分の意見を発信しようとしない。身内以外とはほとんど話さない。自発的に動くことはほとんどない。だからこそ、さまざまな憶測が生まれる。

 

「帝国もそうだね。何を考えてるかわからない。行動から推測するしかないんだ」

 

 俺は帝国情勢に思いを馳せた。現在の国内情勢は帝国情勢と密接な関係があるので、無関心ではいられないのだ。

 

 もはや、門閥派の優位は動かぬものとなった。帝国首相ブラウンシュヴァイク公爵と第一副首相リッテンハイム公爵が、民主化を求める上奏文を提出した。署名した門閥貴族は四三二〇名。この上奏文は、署名が行われた別荘地の名前から「リップシュタット上奏文」と呼ばれる。

 

 先帝側近グループは分裂の兆しを見せた。副首相ゲルラッハ子爵ら中道派官僚は、門閥派との妥協を模索している。宮内尚書ブラッケ侯爵ら開明派は、貴族課税にこだわる姿勢を崩さない。八〇歳を迎えた派閥領袖のリヒテンラーデ公爵の後継者争いが、内部抗争を助長した。

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥率いる捕虜回収船団は、捕虜を送り届ける作業に従事中だ。ラインハルトの本隊は、アースガルズの諸惑星に捕虜を送り届けながら、帝都オーディンに向かう。その他の部隊は各総監区に向かい、捕虜を送り届ける。大元帥府留守部隊は、司令官オーベルシュタイン大将が停職となったため、身動きが取れない。

 

「向こうが講和を申し込んでくるのは、時間の問題です」

「議長はつっぱねるよ」

「トリューニヒト議長なら拒否するでしょうね。違う人が議長なら話は別ですが」

「そこが問題なんだ」

 

 俺は窓際に立ち、防弾ガラス越しに地上を見下ろした。即時講和派のデモ隊と基地警備隊がにらみ合っている。

 

 即時講和を求める動きが中央宙域全体を飲み込んだ。都市部では大規模デモが頻発し、交通渋滞が慢性化していた。国会議事堂や主要官庁の周囲には、デモ隊があふれており、ヘリを使わなければ出入りできない有様だ。革命的ハイネセン主義学生連盟の反戦学生は、警察、憂国騎士団、正義の盾と激闘を繰り広げた。

 

 AACFはこの戦いにすべてを賭けた。弱体化したリベラル勢力にとって、講和問題は最後の機会だ。この機を逃せば、主導権を握る機会はなくなり、リベラリストにとっての地獄が始まる。公共安全局設置法、良心法、市民奉仕法、改正学校教育法の可決は、何が何でも阻止したい。ラグナロック開戦以降に移住してきた移民に対する市民権再審査、市民権を持たない難民の強制送還などは論外だ。軍縮と緊縮財政を強行しないと、経済が破綻するという危機感もある。

 

 トリューニヒト政権は反戦運動への対応に忙殺された。同盟軍再編を進める余裕はない。その他の政策も停滞気味だ。

 

 大衆党内部では、トリューニヒト下ろしの動きが活発化している。軍需企業との関係が薄いグループは、「講和の主導権を握った方が得策だ」と判断し、AACFとの連立政権樹立を企てた。軍需産業や極右との関係が強いグループは、「トリューニヒト議長では難局を乗り切れない」との考えから、新しい徹底抗戦派リーダーを擁立する動きに出た。

 

「議長の足元が崩れてるんだよ」

「AACFはこれを狙っていたんでしょうね」

「俺もそう思う。ボナール政権を倒した実績がある人たちだ。十分な勝算があるんだよ」

「デモというのは足払いみたいなものです。政府にひたすら足払いをかける。足腰の強い政府はびくともしません。しかし、足腰の弱い政府は倒れます」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長のたとえは、わかりやすい上に的確だ。

 

「難しい言い方をすると、政権支持層の造反を促すってところかな」

「そうなります」

「抗戦派まで造反している。一番の支持層が揺らいでるんだ」

「クーデターが響いてますね。ボロディン提督は、間接的にトリューニヒト議長を倒したのかもしれません」

「そうだね。イメージは政治家の命綱だ。トリューニヒト議長は命綱を切られてしまった」

 

 俺は席に戻り、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲む。こんな時は糖分が欲しくなる。

 

 クーデターの時、トリューニヒト議長は最悪の選択をした。逃げのびた代わりに、タフなリーダーという評価を失った。議長官邸で逮捕された方がましだったと思う。反クーデター勢力が勝ったら救出されるし、クーデター勢力が勝ったとしても殺される可能性は低い。

 

 しかし、前の世界と比べると、これでもましな展開なのだ。国防研究所が行ったシミュレーションによると、市民軍が敗北した場合、同盟は内戦状態に陥るとの結果が出た。内戦のシナリオは五パターンある。最も前の世界に近いシナリオでは、ヤン提督が五か月で内戦を終結させ、軍事政権を樹立するそうだ。ちなみにどのシナリオでも同盟経済は破綻する。

 

 前の世界では、救国軍事会議とヤン提督の戦いは四か月続いた。当時は引きこもっていたので、詳しい状況は覚えていない。ただ、ある程度は想像できる。救国軍事会議はハイネセンを完全に制圧していた。星内経済を停滞させるような抵抗運動は発生しない。しかし、四か月も内戦が続いたら、恒星間交易は停滞し、同盟全土が猛烈なインフレに見舞われるはずだ。経済損失はこの世界のクーデターよりはるかに大きくなる。前の世界の同盟経済は、七九七年に破綻した可能性が高い。戦記は人物を描くために、経済の話をあえて省いたのだろう。

 

 こうして考えてみると、前の世界の同盟末期は謎に満ちている。クーデターを鎮圧したヤン提督は、なぜ軍事政権を樹立しなかったのか? 当人が拒否しても、同盟市民が担ぎ上げたはずだ。そうしなければ同盟は存続できない。トリューニヒト議長がなぜあっさり復帰できたのか? 四か月も隠れていたら、この世界よりもイメージが悪化したはずだ。

 

 俺は背伸びをして、浮かんでくる考えを振り払う。前の世界よりずっと恵まれた状況なのは間違いない。

 

 歴史がいい方向に動いているのは確実だ。エル・ファシルの逃亡者は救われた。クーデターを早めに鎮圧することができた。チュン・ウー・チェンは戦死しなかった。ヤン・ウェンリーは暗殺されなかった。ラインハルト・フォン・ローエングラムは政権を握れなかった。

 

 司令官室のドアが開き、ワイドボーン参謀長ら幕僚数名が入ってきた。これから軽いミーティングが始まる。

 

「みんな、始めようか」

 

 俺は立ち上がって部下に笑いかけた。トリューニヒト議長が踏み止まっても、即時講和派が勝利しても、大衆党強硬派が勝利しても、やることは一つしかない。目の前の課題を全力で片づける。エリヤ・フィリップスはいつも前を向いている。



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第95話:第三期チーム・フィリップス 802年2月20日~2月23日 第二艦隊司令部~基地内のレストラン~第二艦隊司令部~ブレツェリ家

 チーム・フィリップスは三期目を迎え、幕僚一〇〇〇名を抱える大所帯に成長した。チームには一二個の部局があり、将官が部長、准将・大佐が副部長、大佐・中佐が課長、中佐・少佐が班長、少佐以下の士官が部員となった。首席副官・次席副官・最先任下士官も幕僚に含まれる。

 

 二月二〇日、モアランド市の第二艦隊司令部で、最初の幕僚会議を開いた。これといった議題はない。今回は顔合わせのようなものだ。

 

 最も俺の近い席に座る三人がチーム・フィリップスのまとめ役を務める。一人は参謀長、一人は宇宙作戦担当の副参謀長、一人は地上作戦担当の副参謀長だ。

 

 第一辺境総軍参謀長マルコム・ワイドボーン宇宙軍大将が、第三期チーム・フィリップスのリーダーとなった。鍛え上げた長身と凛々しい顔を持つ正統派の美男子である。独創性はまったくないが、古今東西の戦略戦術を脳内に詰め込んでおり、必要なものを即座に取り出すことができた。彼の速さと正確さをもってすれば、ありきたりな正攻法が鋭い刃となる。

 

 宇宙作戦担当副参謀長チュン・ウー・チェン宇宙軍中将は、チーム・フィリップスの第一期と第二期でリーダーを務めた人だが、第三期ではサブリーダーに転じた。軍人としては平均的な体格と身体能力の持ち主なのに、のんびりした風貌のせいで貧相に見える。広い視野とバランス感覚を有し、後ろから全体を見渡す点で右に出る者はいない。

 

 地上作戦担当副参謀長はサフィル・アブダラ地上軍中将が務める。第二期からチーム・フィリップスに加わった。頭髪と口ひげは白鳥の羽のように白い。小柄ながらもがっちりとしており、将軍らしい風格が漂う。

 

 一二名の部局責任者は、参謀長と副参謀長の次に重要なポジションだ。作戦部長は部隊運用、情報部長は情報、後方部長は兵站、人事部長は人事・教育、計画部長は長期計画、通信部長は通信、総務部長は総務・会計、法務部長は法務、衛生部長は医療・衛生、首席広報官は広報、首席監察官は内部監察、首席政策調整官は民軍調整を掌る。

 

 俺と同い年の作戦部長サンジャイ・ラオ宇宙軍少将は、第一期からチーム・フィリップスの作戦責任者を務めてきた。外見にも内面にも目立った特徴はない。ワイドボーン参謀長のような鋭さはないし、チュン・ウー・チェン副参謀長のような柔軟性もないが、信頼を裏切ることもない。士官学校七八八年度卒業生の中では、数少ない親フィリップス派だった。

 

 情報部長ハンス・ベッカー宇宙軍少将は、ラオ少将とともに第一期から頑張ってきた人だ。身長は俺より頭一つ高い。帝国からの亡命者で、かつては情報将校だったという。情報処理能力に長けた参謀であると同時に、信用のおける友人でもある。

 

 後方部長ジェレミー・ウノ宇宙軍少将は、第三期からチーム・フィリップスに加わった。身長は一五八センチで、女性の平均身長より五センチ低い。童顔と黒縁眼鏡がトレードマークだ。俺が旧第一一艦隊の後方部長代理を務めた時は、副部長として支えてくれた。士官学校七八七年度卒業生の一人で、ワイドボーン参謀長やヤン元帥の同期にあたる。士官学校時代に風紀委員会と有害図書愛好会の間に立ったり、曲者揃いの旧第一三艦隊で後方部長を務めたりするなど、気苦労が絶えない人生を送っている。

 

 恩師の一人であるイレーシュ・マーリア宇宙軍少将は、第三期では人事部長を務める。チームが改編されるたびにポジションが変わっており、第一期では副参謀長、第二期では後方部長を担当した。美しい栗色の髪、氷の彫刻を思わせる美貌、一八〇センチを超える身長は、見る者に強烈な印象を与える。用兵能力は俺と同等で、事務能力は水準程度だが、人をまとめるのがうまい。スポーツ選手に例えると、控え選手なのにキャプテンに選ばれるタイプであった。

 

 第三期から新設された計画部長には、リリヤナ・ファドリン地上軍准将が就任した。身長は一五九センチだが、本人は一六〇センチだと言い張る。小麦色の肌と大きな胸を持つ健康的な女性である。部長の中では唯一の二〇代で、将来性を見込んで抜擢した。

 

 通信部長マー・シャオイェン宇宙軍技術少将は、第一期でも第二期でも通信部長を務めた。身長は俺より〇・八五センチほど高い。顔は美人でもなければ不細工でもなく、高い身長と平たい胸を除けば平凡な外見だ。技術者としては平凡だが、仕事については話し出せば止まらないほどの情熱を持っている。

 

 チーム・フィリップスの衛生部長は、アルタ・リンドヴァル宇宙軍軍医准将の指定席だ。一六四センチの身長は、女性としては平均的な部類に入る。精神衛生を重視するチーム・フィリップスにとって、精神科医の彼女は必要不可欠な戦力であった。

 

 新設の首席政策調整官には、首都政庁官僚のビジアス・アドーラ氏を起用した。身長は平均よりやや低いものの、骨太で肩幅が広い。市民軍では計画部長として活躍した。

 

 総務部長オディロン・パレ宇宙軍准将、法務部長イーリス・クライバー地上軍准将、首席広報官ズオン・バン・ドン地上軍准将、首席監察官ウィニー・グリラブ地上軍准将らも信頼できる人物である。

 

 最先任下士官は特別な地位にある。階級は新米士官より低い。だが、下士官・兵卒を代表する立場なので、参謀長に匹敵する重みを持つ。

 

 第三期の最先任下士官には、旧第一一艦隊の最先任下士官フリーダ・ザカリア宇宙軍一等准尉を起用した。身長と階級は低いが、貫禄は元帥並みだ。チーム・フィリップスには、女性を最先任下士官に起用する慣例がある。第二期の最先任下士官バダヴィ准尉が定年を迎えたため、ザカリア一等准尉が後任となった。

 

 副部局責任者は部局責任者に次ぐポジションである。各部に副部長、広報官室に次席広報官、監察官室に次席監察官、政策調査官室に次席政策調整官を置いた。最も重要な作戦副部長には、グリーンヒル系のエドモンド・メッサースミス宇宙軍准将、クブルスリー上級大将の姪であるキャロライン・バウン地上軍准将を起用した。

 

 参謀長一名、副参謀長二名、最先任下士官一名、部局責任者一二名、副部局責任者一八名が会議室に集まった。副部局責任者は幕僚会議の正式なメンバーではないが、顔合わせのために呼んだ。

 

 ワイドボーン参謀長が会議をリードし、チュン・ウー・チェン副参謀長とアブダラ副参謀長が潤滑油となり、話し合いは和やかに進んでいった。全員が一致団結して頑張ろうと誓い合った後、会議は終了した。

 

 仕事が終わった後、俺とイレーシュ人事部長は基地内のレストランに行った。ささやかな打ち上げである。

 

「かんぱーい!」

 

 スウィートティーが入った俺のグラスと、ワインが入ったイレーシュ人事部長のグラスがぶつかり合う。

 

「いいメンバーが揃いました。ベストではありませんがベターです」

「チームの平均身長がだいぶ低くなったしね。一五八センチのウノ提督、一五九センチのファドリン将軍、一五五センチのグリラブ将軍、一五三センチのザカリア准尉が来たから。アドーラさんやパレ提督も男性としては小さい方だし」

「そんなことはどうでもいいんです」

 

 俺は強引に話題を変えた。本当はどうでも良くないのだが、そんなことは口にできない。身長を気にしていると思われては困る。

 

 料理を待ちながら会話を交わし、料理が来たら食べながら話す。話題が尽きることはない。話したいことも聞きたいことも山ほどある。彼女と俺は半分家族のようなものだ。

 

「できれば、一人も出したくなかったんですけどね」

 

 俺は寂しげに微笑んだ。避けられないことなのはわかっている。それでも、いなくなった仲間を思うと寂しくなるのだ。

 

 新メンバーが加わる一方で、多くのメンバーがチームを去った。第一期から人事部長を務めてきたセウダ・オズデミル宇宙軍少将らは、新規部隊の基幹要員として転出していった。第二期の総務部長アンネリ・モーエン地上軍准将らは、粛清された人材の穴埋めとして起用された。

 

「やろうと思えばできたでしょ」

「他の部隊に人材を回した方がいいと思ったんです。どの部隊も苦労してますからね。知り合いに助けてほしいと頼まれたら、嫌とは言えませんし」

「立派に政治家やってるねえ」

 

 イレーシュ人事部長が冷やかすような目で俺を見る。

 

「俺は人の助けで大きくなりました。人からもらった力は、人のために使うのが道理です」

「君に助けられた人は、恩を返そうとする。そして、助けてくれる人がどんどん増えていく。君はますます大きくなるんだね」

「大きくならないと、できないことがありますから」

「逃亡者の件とか?」

「そうです」

 

 俺は力強く頷いた。逃亡者の帰還が二年早かったら、断罪論者が勝ったはずだ。大きくなったおかげで、昔の仲間を守ることができた。

 

「君は変わらないね」

「自分ではだいぶ変わったと思ってますけど」

「変わったのは立場だよ。昔は偉い人の権力を借りた。今は偉くなったから、自分の権力を使ってる。それだけの違いでしょ」

「確かにそうですね。権力を使うことは嫌いじゃないですから」

「エリヤ・フィリップスという人間は変わってないし、今後も変わらないと思うよ。私が好きな君は絶対に変わらない」

 

 イレーシュ人事部長の表情が柔らかくなった。彼女は無条件で俺を信じてくれる。それはとても有難いことだ。

 

「俺はあなたのおかげで大きくなりました。これからも助けてください」

「もちろんだよ。子供の踏み台になるのは親の役目だから」

「子供扱いしないでくださいよ。せいぜい弟でしょう。六歳しか違わないんですから」

「どっちでもいいじゃん」

「良くないですけど、よろしくお願いします」

 

 子供扱いされることに不満を抱きつつも、俺は恩師と握手をかわした。

 

「ところで、首席副官はどうする? 出発前に決めないと」

 

 第三期チーム・フィリップスはまだ完成していなかった。総軍司令官には二人の副官が配属される。次席副官には、二一歳のクリストフ・ディッケル地上軍大尉を抜擢した。しかし、首席副官がまだ決まっていない。

 

 第二期の副官代理ユリエ・ハラボフ宇宙軍中佐は、「仕事に私情を絡めたくない」と言って、首席副官就任を拒否した。何度話しても「私情を絡めたくない」と繰り返すだけだ。

 

 彼女の「私情」の正体はわかっている。俺の顔を見ようとしない。言葉がやたらと冷たい。事務的な会話以外は避ける。飲み会の席では俺と話そうとしない。用があってメールを送っても、すぐに返信しない。休みの日に街ですれ違いそうになると別方向に歩き出す。頬をつねった時は数分かけて痛点を探し、最大級の痛みを与えた。これで嫌われていないと思える方がおかしい。

 

 それでも、ハラボフ中佐を首席副官に起用したかった。前副官のコレット少将と比較すると、頭の回転は遅いし独創性もないが、丁寧な仕事をしてくれる。そして、何よりも評価できるのは俺を嫌ってるところだ。ほとんどの若い士官は、俺を英雄として崇拝している。俺に批判的な若い士官は、チーム・フィリップスには近寄ろうとしない。チームメンバーでありながら俺を嫌うハラボフ中佐は、得難い存在であった。彼女なら遠慮なく間違いを指摘してくれるだろう。

 

「ハラボフ中佐にお願いしたいと思っています。何度説得しても聞いてもらえませんが」

「同期の説得なら耳を貸すんじゃない? メッサースミス君はユリちゃんと同期でしょ。同じ戦略研究科だったし」

 

 イレーシュ人事部長はユリエ・ハラボフ中佐を「ユリちゃん」と呼ぶ。

 

「うまくいきませんでした。もともと付き合いが薄かったみたいで」

「そういえば、ユリちゃんは編入組だったね」

「生え抜きと編入組では距離があるみたいです」

 

 士官学校を出ていない俺にはわからないが、入学経路の違いは人間関係に影響するという。メッサースミス准将は中学卒業後、士官学校に入学した生え抜きだ。ハラボフ中佐はハイネセン工科大学の学生だったが、編入試験を受けて三年次から士官学校に入った。同期意識を持ちづらいのかもしれない。

 

「仲良くしたら意味がないもんね。編入制度はそういう制度だから」

 

 イレーシュ人事部長の表現は大雑把であっても、事実を歪曲しているわけではない。かつての士官学校は、「一年は奴隷、二年は平民、三年は貴族、四年は皇帝」と言われるほどに、上下関係が厳しかった。上級生による暴力は日常茶飯事で、自殺者や退学者が相次いだため、士官学校廃止論が出るほどだった。この問題を解決するために導入されたのが、編入制度である。

 

「同期が通用しないなら、手の打ちようがありません」

「ユリちゃんのヒーローを探すとか」

 

 彼女が言う「ヒーロー」とは、事あるごとにハラボフ中佐が「私が尊敬する人なら~」と引き合いに出す軍人だ。ハラボフ中佐の言葉を信じるならば、オーベルシュタイン提督のように冷徹で、ラインハルトのように勇敢で、メルカッツ元帥のように重厚で、シュターデン元帥のように理性的らしい。

 

「手がかりがなさすぎます」

「私はヤン提督だと思ってるけどね。ユリちゃんはエル・ファシル生まれでしょ? 士官学校に入ったのは、エル・ファシルの奇跡の翌年だし。ヤン提督に憧れて士官学校に入ったと考えたら、辻褄が合うのよ。オーベルシュタイン並みに冷徹な軍人なんて、他にはいないから」

「エル・ファシルは多分関係ないです。彼女は小学四年の時にミトラに引っ越してます。エル・ファシルの事件の時は、ハイネセンで大学生活を送ってました」

「エル・ファシルの親戚から話を聞いたのかもよ」

「憶測はやめておきましょう。ヤン提督だったとしても、どうしようもありません」

 

 俺は苦笑して首を横に振った。ハラボフ中佐以外には、ヒーローの正体はわからない。ヤン元帥に説得を頼むことも不可能だ。

 

「じゃあ、どうすんの?」

「もう一度説得します」

「何度も失敗してるじゃん」

「いい方法はないですか?」

「ぶっちゃけるしかないんじゃない? 『君は俺を嫌いなんだろ?』って」

 

 イレーシュ人事部長は真正面から切り込んでくる。身も蓋もないところがこの人の強さだ。

 

「みっともないでしょう。小物丸出しですよ」

「取り繕ってもしょうがないじゃん。いつも、そこで話が止まってるんだから」

「わかりました。正直に言いましょう」

 

 俺は覚悟を決めた。上官が部下に「俺を嫌いなのか?」と聞くなど、みっともないと思う。しかし、小物とは本質的にみっともない存在だ。一〇〇万個の恥に一個の新しい恥が加わっても、大した問題ではない。

 

 翌日、俺はハラボフ中佐に通信を入れた。なかなか回線が繋がらない。数分待たされるのはいつものことである。

 

「嫌いなんだろうな。他の人が通信を入れたら、すぐに出てくるっていうし」

 

 俺はマフィンを食べ、砂糖とクリームでドロドロのコーヒーを飲みながら待つ。糖分がほしい気分だ。

 

 通信を入れてから五分一九秒で回線が繋がった。スクリーンはいつもと同じように真っ暗だ。ハラボフ中佐の声だけが聞こえる。

 

「どのようなご用件でしょう?」

 

 ハラボフ中佐はゆっくりと抑揚のない声で話す。顔が見えないので、感情がまったく伝わってこない。

 

「いつもと同じだよ。首席副官になってほしい」

「お断りします。仕事に私情を挟みたくありません」

「私情を挟まないところが、君のいいところだと思ってるんだけどな」

 

 俺は穏やかに語りかける。ハラボフ中佐は俺を嫌っていたが、俺を裏切ることはなかった。いつも期待通りの仕事をしてくれた。私情を挟むような人間にはできないことだ。

 

「私の気持ちはご存知でしょう?」

 

 ハラボフ中佐は確認するように問いかける。わかっているなら諦めろと言いたいのだろう。いつもなら、ここで俺が「知らない」と言って話が止まるところだ。

 

「知っている」

 

 俺は禁断の扉を開けた。

 

「君は俺を嫌いなんだろう?」

 

 ここで言葉を切り、ハラボフ中佐が返答するのを待った。彼女が俺を嫌っているという事実を、彼女自身の言葉で語ってほしかった。しかし、返事は返ってこない。

 

「答えられないか?」

「…………」

「無理に答えろとは言わないよ。できることなら、君の口から『嫌いです』と言ってほしかった。でも、言いたくないならそれでいい」

「…………」

「嫌いな人間と一緒に仕事をしたくないという気持ちはわかる。それでも、俺は君と一緒に仕事をしたい。俺を嫌っている人間でないと、できない仕事があるんだ」

「…………」

「俺は偉くなりすぎた。将官ですら俺の顔色を気にしている。佐官や尉官は、俺を完全無欠の神様みたいに思ってる。遠慮なく物を言ってくれる人は、副官になれない階級になった。俺に意見してくれる佐官は、君だけなんだよ」

「…………」

「嫌っているがゆえに、君は俺を冷静に見ることができる。嫌っていても、君は率直に意見を言ってくれる。そういうところを評価しているんだ」

「…………」

「今の話は全部俺の都合だ。君には君の都合があるだろう。嫌いな人間と一緒に働くのは、ストレスがたまるからな。一緒に働きたいけど、君を苦しめたいとは思わない。俺と離れることで楽になるんだったら、遠慮なく離れてほしい」

 

 俺は真っ暗なスクリーンの前で語り続けた。ハラボフ中佐は沈黙を続ける。どんな表情をしているのかはわからない。聞いているのかどうかもわからない。それでも俺は語り続けた。

 

 話すべきことを話した後、俺は真っ暗なスクリーンの前で待った。ハラボフ中佐が悩んでいるのなら、答えが出るまで待とう。断られてもいい。無視されてもいい。これが彼女との最後の対話になるかもしれない。それでも構わないと思う。俺にできるのは待つことだけだ。

 

「フィリップス提督……」

 

 ハラボフ中佐が再び口を開いたのは、「私の気持ちはご存知でしょう?」の問いかけから三四分後のことだった。

 

「閣下の副官を引き続き務めさせていただきます」

「よろしく頼む」

 

 この瞬間、第三期チーム・フィリップスが完成した。イゼルローン総軍総司令官ヤン元帥のチーム、宇宙艦隊司令長官ルグランジュ上級大将のチーム、地上総軍総司令官ファルスキー上級大将のチームに匹敵する巨大チームである。一〇〇〇名の幕僚を生かすか殺すかは、俺の両肩にかかっている。

 

 

 

 第三期チーム・フィリップス発足の翌日、第一辺境総軍指揮官会議を開いた。第一辺境総軍所属部隊のうち、ハイネセンで編成された部隊は二日後に出発し、シャンプールへと向かう。今日は行軍の打ちあわせであった。

 

 会議室の大きなテーブルには、俺、総軍副司令官二名、正規艦隊司令官二名、即応艦隊司令官一名、常備地上軍司令官一名、即応地上軍司令官一名、独立分艦隊司令官二名、独立作戦軍司令官二名、総軍特殊部隊司令官一名、各艦隊の副司令官・分艦隊司令官・陸戦隊司令官・直轄部隊司令官など二六名、各地上軍の副司令官・陸上軍司令官・航空軍司令官・水上艦隊司令官・軌道艦隊司令官など一四名、総軍特殊部隊副司令官一名が着席している。将官五二名が一堂に会したのだ。

 

 俺の後方には、ワイドボーン参謀長、チュン・ウー・チェン副参謀長、アブダラ副参謀長、ラオ作戦部長、ベッカー情報部長、ウノ後方部長、イレーシュ人事部長、ファドリン計画部長ら総軍幕僚八名が控える。

 

 俺が会議をリードし、パエッタ副司令官とヘイズ副司令官がサポートする。年長の副司令官二名の貫禄のおかげで、スムーズに進んだ。

 

 この日の仕事が終わった後、俺は義父ジェリコ・ブレツェリ宇宙軍少将の官舎を訪ねた。ブレツェリ少将と義母ハンナ・ブレツェリ退役宇宙軍准尉が出迎えてくれた。

 

「我、幸いにも食を得る。聖人様の加護と生きとし生けるものの恩恵に感謝せん。いただきます」

 

 ブレツェリ夫婦は楽土教式の食前の祈りを唱えた。

 

「我、幸いにも食を得る。聖人様の加護と生きとし生けるものの恩恵に感謝せん。いただきます」

 

 俺も食前の祈りを唱える。楽土教徒ではないが、ブレツェリ家で食事をする時は一緒に祈ることにしている。

 

 テーブルの上に並んだフェザーン料理は、パプリカ風味のシチュー「ポグラチ」、豚と雑穀の腸詰め「クルヴァヴィツェ」、ひき肉カツレツ「ゴヴャージエ・コトレートィ 」、重ねパイ「ギバニッツァ」、ポテトサラダ「オリヴィエ・サラダ」、マッシュルームリゾットなど、ダーシャが得意だったものばかりだ。

 

 俺は懐かしい味を楽しみながら、義父や義母と会話をかわす。つけっぱなしのテレビに流れる二四時間放送ニュースは、時どき会話のネタを提供してくれる。

 

「今日の会議はどうだった?」

 

 ブレツェリ少将の話し方は、子供に「学校はどうだった?」と聞く父親のようだ。

 

「うまくいきました」

「揉めなかったのか? うるさいのが何人かいただろうに」

「パエッタ提督が睨みを利かせてくれました」

「古豪の威厳は健在ということか」

「大物がいると、空気が引き締まります」

「今の大将クラスは二線級ばかりだからな。勇名はあっても大軍の指揮に向いていない奴ばかりだ。旧正規艦隊なら分艦隊司令官止まりの人間が、艦隊司令官をやっている」

「耳が痛いです」

 

 俺は肩をすくめた。分艦隊を率いて戦った経験すらないのに、艦隊を三つも率いている。分不相応とは俺のためにある言葉だ。

 

「私も人のことを言える立場ではないがね。ラグナロックがなかったら、大佐で退役するはずだった。それが少将に昇進して、正規艦隊の陸戦隊副司令官になったんだ」

「おかげで助かりました」

「最後の奉公と思って頑張るつもりだよ」

 

 ブレツェリ少将は右手で胸を叩いた。俺の推薦で第二艦隊陸戦隊副司令官に就任したのだ。

 

「徹底的に隊員を鍛えてください。講和が実現しなかったとしても、五年は平和なはずです」

「五年計画と考えると、私が受け持つのは前半の二年だな。基礎作りの期間だ」

「一年あれば兵士は一人前になります。問題は兵士を訓練する側の人間です。我が軍はラグナロックとクーデターで多数の人材を失いました。経験豊かな将校と下士官が不足しています」

「将校と下士官を鍛えろということか」

「はい。一人前の艦長を育てるには一五年、一人前の大隊長を育てるには一五年、一人前の下士官を育てるには一〇年かかると言われます。基礎がしっかりしていたら、もう少し短縮できると思うんですよ」

「私が育てるのは大隊長と下士官だな。どっちもたっぷり経験させてもらった。やり方はわかっている」

「心強いです」

 

 俺と義父は訓練計画について語り合い、義母は微笑みながら見ている。話題が軍事であることを除けば、家族団らんのひと時だ。

 

 トリューニヒト政権が作成した「八〇二年長期国防計画」は、空前の軍拡計画であった。八〇二年から八一一年までの一〇年間で、現役兵力を三七〇〇万人から七〇〇〇万人、現役宇宙艦艇を一九万隻から四五万隻まで増強する。宇宙艦隊は一六個正規艦隊及び八個即応艦隊、地上総軍は一二個常備地上軍及び八個即応地上軍を編成する。目標を達成するまでは外征を控える方針だ。

 

 現在の同盟軍は現役兵力六〇〇〇万人、現役艦艇三五万隻を有する。良識派が予備役に編入した兵士と艦艇をすべて現役に戻し、予備役兵力の一部を招集したため、ラグナロック戦役直後よりわずかに増えた。宇宙艦隊は一二個正規艦隊及び六個即応艦隊、地上総軍は八個常備地上軍及び六個即応地上軍に改編された。もっとも、経験豊富な人材がいなくなり、旧式艦を艦隊に組み込んだため、質は落ちている。

 

 国防委員会は一〇年間で近代化を進め、旧式艦を新型艦に入れ替え、地上軍や陸戦隊の旧式装備を新型装備に更新するなど、質的向上をはかるという。同盟の造船設備をフルに回転させれば、年間五万隻の宇宙艦艇を生産できる。ラグナロック開戦前は予算の都合から生産数を年間三万六〇〇〇隻に減らし、一万二〇〇〇隻を損耗した戦力の穴埋めに使い、二万四〇〇〇隻を旧式艦と入れ替えていた。今後は毎年五万隻を生産し、新造艦をすべて旧式艦との入れ替えにあてるという。

 

 ラグナロックの敗因について、トリューニヒト政権は「兵力が少なさすぎた」との見解を示し、軍拡の必要性を説いた。これはレベロ政権時代の「戦争の長期化が敗因を招いた。兵力は十分だった」という公式見解と、真っ向から対立するものである。

 

 国土防衛戦略については、トリューニヒト政権は「スペース・ファビアン戦略」という戦略を打ち出した。大軍をもって守りを固め、小部隊を放って補給線を遮断し、長期戦で敵を疲弊させる戦略だ。一方、レベロ政権が策定した「スペース・レギュレーション戦略」は、少数の精鋭で機動戦を仕掛け、敵の指揮中枢や補給線を速やかに破砕することを目指した。トリューニヒト政権=国防委員会官僚の長期戦・物量戦志向と、レベロ政権=軍部良識派の短期戦・少数精鋭志向の対立が、ここでも見てとれる。

 

 弱体な部隊を鍛え直し、長期戦に耐えうる戦力を整えるというのが、俺やブレツェリ少将に与えられた課題であった。困難だがそれだけにやりがいはある。何よりもありがたいのは損害が出ない任務だということだ。

 

「今の同盟軍は史上最強ともいえる――」

 

 テレビから流れた声が、俺とブレツェリ少将を苦笑させた。

 

「エリヤ君、我々は史上最強の軍隊にいるらしいぞ」

「市民にはそう見えるんですよね」

「このチャンネルはリベラル系だ。史上最強の軍隊を持っても、無意味だって言いたいのさ」

「名将と新兵器が並んでるだけで、市民は強い軍隊だって思っちゃうんですよね」

「ヤン・ウェンリー、エリヤ・フィリップス、ライオネル・モートン、モシェ・フルダイ、ジュディス・カニングの名前が並んでたら、私だって腰を抜かす」

 

 ブレツェリ少将は総軍司令官五名の名前を列挙する。生まれたばかりの赤ん坊ですら名前を知ってるような面々だ。

 

「大軍を動かした経験があるのは、ヤン元帥とカニング将軍だけです。モートン提督とフルダイ提督は旧正規艦隊の副司令官、俺に至っては分艦隊司令官代理でした。人気だけで選んだんですよ」

「トリューニヒト議長らしい人事だな。中央宙域とフェザーン方面は腹心で抑える。他の五方面は人気者を看板にする。こういうところにだけは鼻が利く」

「俺も議長の腹心ですけど」

「そう思っているのは君だけだ」

「困りますよね」

 

 俺は眉を寄せてため息をつく。自分ではトリューニヒト議長の部下のつもりなのだが、世間は同盟者扱いする。

 

「トリューニヒト派の一員というには、君は大物すぎるからなあ」

「議長の下で大きくなりたかったんですけど」

「そりゃあ無理だ。あの人は器が小さすぎた。見てみろ」

 

 ブレツェリ少将はテレビを指さした。国民投票に関するニュースだ。

 

「世論調査で徹底抗戦派が負けている。ほんの一・二ポイントだがな。信じられるか? あのAACFや平和将官会議に負けているんだぞ? 指導力がないにもほどがある」

「頑張ってほしいんですが」

 

 俺は心配そうにテレビを見る。抗戦派には巨大与党の大衆党がついている。反戦・反独裁市民戦線(AACF)は、完全にマイノリティ寄りの政党だ。平和将官会議は市民に好かれているが、軍人には嫌われている。普通に考えれば、抗戦派が負けるはずがないのに、苦戦しているのだ。

 

 講和の是非を問うための国民投票が実施されることが決まり、宣伝戦は過熱している。メディアは国民投票一色に染まった。

 

 即時講和派は理性と良識に訴える戦略をとった。反戦・反独裁市民戦線(AACF)は集会や学習会を開き、講和への理解を求める。経済専門家は客観的なデータを提示し、「講和しなければ、同盟経済は破綻する」と警鐘を鳴らす。知識人と学生は徹底抗戦派に対話を求め、徹底的に論破して間違いを自覚させる「ソクラテス作戦」に取り組む。平和将官会議は同盟の経済力に見合った兵力を「現役兵力二〇〇〇万人、宇宙艦艇一〇万隻」と見積もり、抜本的な軍縮を求める。

 

 徹底抗戦派は多額の宣伝費を投入し、ネガティブ・キャンペーンを繰り広げた。ブラウンシュヴァイク公爵やリッテンハイム公爵ら門閥派要人の悪行を取り上げ、「こんな奴らと握手できるものか!?」と叫ぶ。講和派知識人を「鼻持ちならないインテリ」と罵り、講和派政治家を「エゴイスト」と決めつけるなど、人格攻撃を繰り返す。テレビやネットに大量のコマーシャルを流し、あらゆる場所にポスターを張り、駅やビルの壁面に巨大な宣伝看板を出し、芸能人やスポーツ選手を集会に呼び、注目を引こうとする。

 

「抗戦派が勝ってもうれしくないな。何というか、素直に応援する気になれん。講和派が勝つよりはましだがね」

 

 ブレツェリ少将は困惑の色を浮かべる。常識と地位がある人にとって、抗戦派を肯定するのは困難だ。

 

 講和派と抗戦派の品性の差は明白であったので、心ある人は講和派に好意を抱いた。公の場で抗戦派支持を明言するのは、恥ずかしい行為とみなされる。講和派支持と理性的というのは、ほぼイコールであった。

 

 トリューニヒト政権は門閥派の体面を傷つける戦術に出た。政府高官がブラウンシュヴァイク公爵を「這いつくばって和を乞うている」とあざ笑う。ブラウンシュヴァイク公爵、リッテンハイム公爵、オフレッサー元帥ら門閥派要人二五名を軍法会議に告発し、欠席裁判で死刑を言い渡した。スタウ・タッツィー元大佐を死刑から懲役六四六万九五一三年に減刑するなど、ヴィンターシェンケ事件の首謀者一一名を死刑から終身刑に減刑し、帝国人の怒りをかきたてた。

 

 何者かが帝国国内に大量の怪文書をばらまいた。鞭で打たれて歓喜するブラウンシュヴァイク公爵が描かれたもの、全身を緊縛された全裸のリッテンハイム公爵が描かれたもの、素肌の上にウェディングドレスを着用したオフレッサー元帥が描かれたもの、全裸で卑猥なポーズをとるエリザベート副帝が描かれたものなど、複数のパターンがあった。表紙の画像は、写真と見分けがつかないほどに精巧なCGだ。本文には門閥派要人の変態ぶりが、同盟なまりの帝国語で面白おかしく書き連ねられている。

 

 このような侮辱に対し、ブラウンシュヴァイク公爵らは一切言及していない。知らないふりをしているのだろうと思われた。無視を続ければ、銀河の笑い者になる。抗議をしても、さらなる侮辱が返ってくることは明白だ。報復をすれば、戦争を終わらせた大功臣となる目論見が崩れる。どの道を選んでもいばらの道である。先帝側近グループに対する優位は揺らがないだろうが、勢いは削がれるだろう。

 

「どうなるんでしょうかね?」

「わからんが、誰が勝ってもただじゃ済まんだろうな」

 

 ブレツェリ少将はプリントアウトされた電子新聞のあるページを指さす。平和将官会議のラップ予備役中将が、「同盟の枠組みにこだわるべきではない」と発言したとの記事が載っていた。

 

 AACF、平和将官会議などの即時講和派は、自由惑星同盟解体を視野に入れている。国民投票で敗北した場合、すべての講和派星系は住民投票を実施し、講和支持が過半数を占めた星系が同盟から離脱する計画を明らかにした。そして、離脱星系のみで連合を組み、帝国と講和するという。また、国民投票で勝利した場合、抗戦派星系が同盟を離脱して、対帝国戦を継続しても構わないとも述べた。「戦いたい奴だけが戦えばいい。我々を巻き込むな」というのが、彼らの主張である。

 

 徹底抗戦派は同盟の枠組みを堅持する構えだ。加盟国の同盟離脱は一切認めない。講和派星系が同盟を離脱した場合、武力行使も辞さないという。

 

 同盟軍内部では徹底抗戦派の優位が確立した。宇宙軍幕僚総監アル=サレム上級大将ら消極的講和派が、同盟分裂は避けたいとの判断から、徹底抗戦派に回ったのである。宇宙艦隊副司令長官マリネスク上級大将は、「シトレ元帥の一番弟子」と呼ばれた人だが、徹底抗戦派に転じた。統合作戦本部長ビュコック元帥や地上軍幕僚総監ベネット元帥は、完全に孤立している。有力な即時講和派勢力は、イゼルローン総軍総司令官ヤン元帥のみとなった。

 

「トリューニヒト議長は大丈夫だとおっしゃってます。国民投票は抗戦派が勝つし、住民投票をやっても離脱する星系はひとつもないと」

「信用できんなあ」

「オリベイラ先生も同じことをおっしゃってますよ。国民投票を提案したのは、オリベイラ先生ですし。勝算があるんでしょう」

「だったら、信用してもいいかもしれんな」

「銀河最高の策士が太鼓判を押してるんです。きっと大丈夫です」

 

 俺は自分に言い聞かせるように断言した。この世界での評判を信じるのならば、オリベイラ博士の策略が外れることはない。だが、前の世界のオリベイラ博士は大失敗をやらかした。完全に信用するのはためらわれる。

 

「投票で勝ったとしても安心はできん。力ずくでひっくり返そうとする奴がいるかもしれんぞ」

「それはないと信じたいですが……」

「私たちの最初の戦いは、同じ同盟軍相手の戦いかもな」

 

 ブレツェリ少将は不吉なことを言って、ぬるくなったビールに口をつけた。アルコールがないとやりきれない気分なのだろう。

 

 公にはできないことだが、俺はイゼルローン総軍の迎撃を命じられていた。同盟軍が独立した講和派星系を制圧に向かったら、イゼルローン総軍は市民を守ると言って妨害するだろう。そうなったら、俺が全力で迎撃しなければならない。天才ヤン・ウェンリーに勝てる気がしないが、それでも戦わなければならないのが軍人の辛いところだ。

 

 講和派が国民投票で勝利した場合も、同盟軍同士の戦いになる可能性はある。講和に納得できない者が反乱を起こすのは確実だ。軍縮に反発する者が反乱を起こすことも考えられる。もっとひどい事態になることも予想しているが、それについてはあまり考えたくなかった。

 

 二月二三日、第一辺境総軍はシャンプールに向けて出発した。国民投票まで残り五三日。その先に何が待っているのかは誰も知らない。



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第96話:ジェットコースタードラマ 802年2月24日~3月14日 第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグ~イースト・シャンプール宇宙港~第一辺境総軍司令部

 どんなに忙しくても、朝のトレーニングだけは欠かさない。毎朝五時三〇分に起き、ランニングと筋トレをこなす。軍人にとって体力は元手だ。体力さえあれば、激務に耐えることができるし、不眠不休で指揮をとることもできる。

 

 宇宙にいる時もトレーニングに励んだ。恒星間航行能力を持つ艦艇には、トレーニングルームが設置されている。間近にマシンがあるので、地上よりも体を鍛えやすい環境といえるだろう。

 

 ハイネセンを出発した翌日の朝、第一辺境総軍旗艦「ゲティスバーグ」のトレーニングルームでは、三〇人ほどがトレーニングをしていた。仕事が終わった後は、さらに多くの人がこの部屋を利用する。

 

 俺は念入りにストレッチを行った後、バーベルを背負ってスクワットを始めた。大きな筋肉は疲れにくくて傷みにくい。だから、大きな筋肉を先に鍛え、小さな筋肉を後で鍛えるのだ。

 

 右隣では、昇進したばかりの首席副官ユリエ・ハラボフ大佐がバーベルを背負い、スクワットをしている。上半身はピンク色のブラトップ、下半身はピンク色のホットパンツというインストラクターのような服装だ。引き締まった腹筋、くびれた腰、しなやかな手足、美しい背筋がよく目立つ。赤毛特有の白い肌が汗で光る。男性も女性も、彼女の健康的な美しさに見とれた。

 

 肌を露出した女性が隣にいると、落ち着かない気分になる。彼女自身も落ち着かないらしく、トレーニングが終わるとすぐに上着を羽織る。それなのに服装を変えようとしない。

 

 アンドリューによる暗殺未遂の後、彼女は俺の安全に過敏になった。露出が多いトレーニングウェアを選んだのは、「暗殺者に素早く応戦するため」という理由だそうだ。嫌いな上官のためにここまで尽くす人は滅多にいない。小物にはもったいない部下である。

 

 少し離れた場所では、人事部長イレーシュ・マーリア少将が腹筋をハードに追い込む。タンクトップの丈が短いため、きれいに割れた腹筋が露わになった。胸は豊かに膨らみ、腰は細さと丸みを合わせ持ち、太ももには張りがあり、名工が作った彫刻を思わせる。四〇歳手前になっても、スタイルは二〇代の頃と変わらない。誰もが彼女の女性美に圧倒された。

 

 参謀長マルコム・ワイドボーン大将は、一九〇キロのバーベルをあげる。腕はたくましく、胸板は厚く、肩は盛り上がっており、力強い美しさが感じられる。無駄な贅肉も無駄な筋肉もない。男性美の極致と言えるだろう。

 

 副司令官ジェフリー・パエッタ大将は右手でバーを掴み、腰におもり付きのベルトを巻き、片腕だけで懸垂を行う。完璧主義者は肉体の鍛錬も欠かさないのだ。

 

 副参謀長チュン・ウー・チェン中将は、のほほんとした顔でエアバイクをこぐ。機械化が進んでも、パン職人は肉体労働である。だから、「パン屋の二代目」の異名を持つ彼も体を鍛えた。

 

 チーム・フィリップスは、トレーニング好きを優先的に採用した。短期間で効果が出るトレーニングは存在しない。長期間継続しても、漫然と体を動かすだけでは効果が出ない。鍛えられた肉体の持ち主は、努力を継続できる人間であり、創意工夫を欠かさない人間である。

 

 スクワットの三セット目を始めようとした時、緊急速報のチャイムが鳴り響いた。俺はバーベルを置いて周囲を見回す。部下も一斉にトレーニングを止めた。

 

「帝国で政変が発生しました。詳細はテレビか端末をごらんください」

 

 アナウンスの後、トレーニングルームのスクリーンに一人の男性が現れた。帝国軍の軍服を身にまとっている。

 

「オットー・ブラウンシュヴァイク、ウィルヘルム・リッテンハイム、カール・ヴァイセンブルクによる国家転覆の陰謀が明らかになった!

 

 ブラウンシュヴァイク・リッテンハイム・ヴァイセンブルクの一味は、共和主義者及び売国勢力と結託し、エリザベート・ブラウンシュヴァイクを帝位に就け、最高権力を奪取しようと企んだのである!」

 

 軍人は首相ブラウンシュヴァイク公爵、第一副首相リッテンハイム公爵、枢密院議長ヴァイセンブルク公爵の三人を激しく糾弾した。フォンを付けずに呼ぶのは、三人の貴族身分を剥奪したことを示すためだろう。

 

 具体的な罪状については、「エルウィン=ヨーゼフ帝を廃位し、エリザベートを正帝、サビーネを副帝に即位させようと企んだ」「絶対帝政の原則を否定し、皇帝を象徴に祭り上げ、共和主義国家を作る計画を立てた」「クロプシュトックをそそのかし、先帝フリードリヒ四世を暗殺させた」「反乱軍と内通し、敗退行為を繰り返した」「帝国軍の団結を阻害し、反撃を遅らせた」「共和主義を国内に流布した」「サジタリウス腕を反乱者に引き渡した」「国家財産一〇〇〇兆マルクを横領した」「食料を買い占め、六〇億人を餓死させた」などがあげられた。

 

 帝国で政変が起きると、敗者は絶対悪に仕立て上げられる。五八個の罪状の中には、明らかなでっち上げが含まれていた。共和主義国家の建設、フリードリヒ四世の暗殺、ラグナロックにおける敗退行為、共和主義の流布などが事実とは思えない。国家財産の横領、食料買い占めなどは事実であろうが、示された数字は非現実的だ。

 

「すべての権力は、全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の守護者、最も高貴な血筋の継承者、大神オーディンの最高司祭、神聖にして不可侵なる皇帝陛下の御手に帰する! この原則を踏みにじることは決して許されない!

 

 大神が定めたもうた法則と大帝が定めたもうた祖法に背き、銀河の至高権威を否定し、大帝の血筋にとって代わろうとする者は、その思い上がりにふさわしい罰を受けなければならない!

 

 銀河帝国特別軍事法廷は、ブラウンシュヴァイク・リッテンハイム・ヴァイセンブルクが大逆罪に該当すると認定し、死刑判決を下した! 奴らの与党もことごとく懲罰を受けた! 正義は明らかになったのである!」

 

 軍人は空疎な決まり文句を並べ立てたが、肝心なことは何一つ言わなかった。これでも帝国にしては親切な部類だろう。公式発表は何もなく、「誰々が処刑された」「誰々が解任された」などの断片的な情報が流れ、しばらく経ってから「政変が起きたらしい」とわかるのが普通だ。

 

 政変から九時間後の一五時四〇分、「帝国フェザーン高等弁務官臨時代理」を称する帝国人フンメル氏が、同盟のフェザーン高等弁務官ヘンスロー氏に一枚のディスクを手渡した。「帝国摂政 クラウス・フォン・リヒテンラーデ」の肉声メッセージだという。ブラウンシュヴァイク公爵の講和案を破棄し、講和交渉を打ち切るという内容だった。

 

 一七時一五分、フェザーン自治領主ルビンスキーは、リヒテンラーデ摂政の就任を祝うメッセージを送った。これにより、リヒテンラーデ新政権が帝国の全権を掌握したことが判明した。

 

 二二時頃には新政権の輪郭が明確になった。元老会議議長リヒテンラーデ公爵を帝国摂政、経済担当副首相ゲルラッハ子爵を首相、宮内尚書ブラッケ侯爵を第一副首相、大元帥ラインハルトを国防担当副首相とする体制である。リヒテンラーデ摂政とゲルラッハ首相は中道派官僚、ブラッケ侯爵は開明派官僚、ラインハルトは改革派軍人を代表する人物だ。

 

 ラインハルトは軍務尚書・統帥本部総長・宇宙艦隊司令長官の三長官を兼任し、「帝国軍最高司令官」の称号を得た。三長官を兼任する者が現れたのは七二年ぶりとなる。地上軍総司令官と装甲擲弾兵総監のポストも獲得した。一人の人物が宇宙艦隊・地上軍・宇宙軍装甲擲弾兵の指揮権を手に入れたのである。

 

 二六日、同盟の国民投票が中止された。帝国の新政権が講和案を破棄したため、国民投票を実施する理由がなくなった。

 

 講和派は「投票が実施されていたら勝てたのに」と悔しがった。二月二二日の世論調査では、講和支持が講和反対を引き離した。クーデターの前日に開かれた反戦集会は、これまでにないほどの参加者を集めた。勝利は間違いないと思える情勢だったのだ。

 

 反講和派は「中止になってよかった」と胸を撫で下ろした。講和派が勝ったら、レベロ政権よりも容赦ない緊縮財政が実施されたはずだ。反講和派が勝ったら、講和派星系は独立しただろう。いずれにしても同盟分裂は避けられなかった。

 

 帝国で内戦が起きるとの見方が強まり、出兵を求める声が高まった。大衆党右派、憂国騎士団、統一正義党などの右翼勢力が出兵論の中心にいる。

 

 軍部良識派のコートニー・ボウヤー少将が、小規模派兵を提案した。片方の陣営に援軍を送って恩を売り、講和の糸口にするための出兵だ。ヤン・ウェンリー提督が提案した「鎚と金床」作戦が破棄された後も、「講和のための派兵」への支持は根強い。

 

 リッキー・コナハン准将を中心とするトリューニヒト派若手将校グループは、ラグナロックを上回る規模の出兵案を作った。大衆党右派がコナハン・グループを後押しする。

 

 五年前のラグナロック戦役が再現されるかに思われた。支持率低下に苦しむ主戦派政権、勢いのある野党、出兵を求める民衆、功績をほしがる軍人、二つに割れた帝国……。大戦が起きる条件は整った。

 

「出兵はないよ」

 

 俺が確信を込めて言い切ると、次席副官ディッケル大尉は首を傾げた。

 

「トリューニヒト議長としては願ってもないチャンスでしょう」

「頭を抱えてると思うけどね。長期国防計画が始まったばかりなのに、出兵論が盛り上がった。最悪の状況だよ」

「ヤン元帥も喜んで出兵するとお考えのようですが」

「絶対に出兵はない。トリューニヒト議長の目はいつも国内を向いている」

 

 表には出せない話だが、トリューニヒト議長の真の狙いは、フェザーンの天秤を維持することにある。冷戦状態を継続することで、国内をまとめようとしていた。均衡を崩しかねない大規模出兵など論外であろう。

 

 極右が均衡政策の打破を求めても、トリューニヒト議長は聞き入れないはずだ。フェザーンの機嫌を損ねたら、軍需企業から兵器を買うこともできないし、辺境に補助金をばらまくこともできないし、公務員の給料を上げることもできないし、低所得層に福祉の金をばらまくこともできない。トリューニヒト議長が野党だったら、反帝国を叫ぶだけで支持を得られるだろう。しかし、与党には支持者を豊かにする義務も課せられる。

 

 軍部は大規模出兵を望んでいない。ラグナロックは悪夢そのものだった。帝都を落としたのに勝てなかった。解放軍として乗り込んだはずなのに、圧制者として叩き出された。終戦後はすべての責任を押し付けられ、大軍縮を強いられた。良識派もトリューニヒト派も旧ロボス派も過激派も、「大規模出兵はこりごりだ」と思っている。

 

 こうした事情を踏まえれば、二度目のラグナロックが起きる可能性はないと断言できる。もっとも、「議長は全面戦争を望んでいない」とは言えないので、俺の楽観論は説得力に欠けた。

 

 結局、トリューニヒト議長は、「帝国が分裂する可能性は低い」と言って出兵を避けた。極右に対しては、「軍拡競争で帝国を疲弊させ、経済破綻に追い込む」という戦略を披露し、軍拡こそが真の戦いだと説いた。

 

「俺の言ったとおりになっただろう」

「さすがです」

 

 ディッケル大尉は俺を尊敬のまなざしで見る。

 

「ずっと議長にお仕えしてきたからね。あの人の考えることは全部わかる」

「そういうものなんですか?」

「心が通じ合っているんだ。俺にはあの人の考えることがわかるし、あの人には俺の考えることがわかる。こういう関係を以心伝心というんだよ」

「閣下とハラボフさんみたいな関係ですね」

「えっ!?」

 

 俺はコーヒーをこぼしそうになったが、ハラボフ大佐が駆け寄ってカップに手を添えたため、何事もなかった。

 

「こんな感じです」

 

 ディッケル大尉がにっこりと笑う。

 

「ハラボフ大佐は気配りができる人なんだ」

 

 俺が褒めると、ハラボフ大佐は顔を背けて自分の席に戻った。気分を悪くしたのだろう。心がまったく通じ合っていない。

 

「ただの気配りではありません。お二人は深い絆で結ばれているんです。閣下が何かを知りたいと思ったら、ハラボフ大佐がすぐに資料を持ってくる。閣下が物を探したら、ハラボフ大佐がすぐに見つける。閣下がコーヒーを飲みたくなったら、ハラボフ大佐がすぐにいれる。最初はテレパシーで話してるんじゃないかと思いました」

 

 ディッケル大尉は俺とハラボフ大佐を交互に見る。

 

「優秀な副官はこういうもんだよ」

「閣下もハラボフ大佐のお気持ちをよくご存じじゃないですか」

「そうでもないよ。鈍いからね」

 

 俺は苦笑いしながら書類を整頓した。ハラボフ大佐の細かい手癖に合わせ、仕事をしやすいように並べ直すのだ。

 

 チーム・フィリップスのメンバーは、俺とハラボフ大佐の仲が悪いことを知らない。過去を知っているベッカー情報部長は、仲直りしたと思っていた。イレーシュ人事部長は単なるコミュニケーション不足だと考えたようだ。メッサースミス准将に至っては、「ハラボフ大佐はフィリップス提督を好きなのでは」と勘違いした。

 

 他人の評価とは不思議なものだ。俺とトリューニヒト議長はお互いを理解しているのに、他人にはドライな関係に見える。俺とハラボフ大佐は仲が悪いのに、他人には心が通じ合っているように見える。

 

 目の前のディッケル大尉にしても、評価と実質は大きく異なる。幼い頃に両親を殺されて孤児となり、亡命した後に苦学して士官学校に首席で入学したと聞くと、ハングリーな人物のように見える。しかし、一緒に働いてみると、素直でおっとりした感じの人物だった。内面は違うのかもしれないが、知りようがないことだ。

 

 ややこしいことを考えたせいか、糖分がほしくなった。俺の脳みそは燃費が悪い。人の二倍回してようやく人並みなのだ。つまり、人の二倍の栄養が必要になる。

 

「どうぞ」

 

 ハラボフ大佐が砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを置いた。驚くほどに的確なタイミングだ。

 

 もしかしたら、ディッケル大尉の言ってることは、半分だけ正解なのかもしれないと思った。ハラボフ大佐は俺の心を読めるのではないか。時間を逆行した人間がいるのなら、心を読める人間がいてもおかしくない。

 

 試しにハラボフ大佐が喜びそうなことを考えた。だが、彼女はそのまま席に戻ってしまった。心を読まれたのかどうかはわからなかった。

 

 

 

 帝国情勢はトリューニヒト議長が言った通りになりそうだ。フェザーンマスコミの報道、情報機関が入手した情報は、帝国が分裂していないことを指し示した。

 

 ブラウンシュヴァイク公爵家、リッテンハイム公爵家、ヴァイセンブルク公爵家の三家は、「一族全員に対する死刑」の判決を受けた。弑逆者ウィルヘルム・クロプシュトック、戦争犯罪者スタウ・タッツィーと同等の重刑である。女性や生まれたばかりの乳児も処刑対象となった。

 

 連座して処刑された者は数千人と言われる。治安担当副首相フレーゲル侯爵、国務尚書レムシャイド伯爵、近衛兵総監オッペンハイマー元帥、ヴァナヘイム総監グライスヴァルト元帥、アルフヘイム総監エッデルラーク元帥、帝都防衛司令官ヒルデスハイム伯爵らが処刑されたそうだ。

 

 ブラウンシュヴァイク夫人アマーリエ、リッテンハイム夫人クリスティーネ、ブラウンシュヴァイクヴァイク公女で副帝でもあるエリザベート、リッテンハイム公女サビーネは、先帝の血を引いているため、終身刑に減刑となった。

 

 同盟中央情報局によると、貴族・高級官僚・高級軍人・警察幹部など数万名が、反逆者の一党として処刑されたという。国防担当副首相エーレンベルク元帥、枢密院第一副議長シュタインホフ元帥、内務尚書ノルデン子爵、軍務尚書シュタイエルマルク元帥、宇宙艦隊司令長官リンダーホーフ元帥、帝国軍情報総局長官ミヒャールゼン上級大将、フェザーン高等弁務官シェーンコップ男爵、首相府顧問ルッツ博士らの処刑については、裏付けが取れたそうだ。

 

 フェザーンのマスコミは、門閥派拠点がラインハルト派に接収されたことを突き止めた。帝国国内の報道において、ロイエンタール大将がニヴルヘイム総監代行、ミッターマイヤー大将がミズガルズ総監代行、ルッツ大将がスヴァルトアールヴヘイム総監代行、ミュラー中将がガイエスブルク要塞司令官代行、アイヘンドルフ中将がレンテンベルク要塞司令官代行、ビューロー中将がガルミッシュ要塞司令官代行の肩書きで紹介されたらしい。

 

 帝国政府がフェザーンに門閥派要人の手配書を送った。これによって、軍事監察官フレーゲル男爵、ミズガルズ総監オフレッサー元帥、ブラウンシュヴァイク公爵の首席副官アンスバッハ中将ら四七名が逃走中であることが判明した。彼らが武装蜂起する可能性は低いとみられる。

 

 様々な情報から推測すると、門閥派要人の拘束、門閥派拠点の接収は一時間で完了したようだ。フェザーン駐在の高等弁務官ですら、逃れることはできなかった。

 

「鮮やかだな」

 

 俺は感嘆の吐息を漏らした。さすがはラインハルトだ。誰もが不利だと思っていたのに、あっさり逆転してのけた。

 

 クーデターの詳細についてはわからなかった。非民主的な政府には、情報を公開する義務などないし、民衆への説明責任を果たす義務もない。臣民に対しては、「門閥派は滅んだ。今後は我々が国を仕切る」と宣言すれば、それで十分なのだ。

 

 同盟やフェザーンの専門家は、捕虜帰還を祝う式典がクーデターに利用されたとみている。二月二四日は捕虜回収船団の本隊が帝都に到着する日だった。ブラウンシュヴァイク公爵は全土から有力者を呼び集め、自分の功績を誇示しようと考えた。地方では、捕虜回収船団の支隊が捕虜を送り届ける仕事に従事していた。門閥派の権勢を揺るぎないものとするセレモニーは、クーデターの機会でもあった。

 

 祝賀式典を利用したなら辻褄は合うが、それでも疑問は残る。近衛兵と皇宮警察は門閥派の影響下にあった。ラインハルト配下の兵士が式典会場に入ることは難しい。式典参加を許された捕虜五〇〇〇名がラインハルト派だったとしても、近衛兵と皇宮警察を排除することは不可能だ。

 

「天才の考えることはわからないな」

 

 そう言って俺は思考放棄した。公表されている情報は少ない。推測を重ねても、正解に行き着くことはないだろう。

 

 通信端末を開き、マティアス・フォン・ファルストロング伯爵に通信を入れた。帝国人の知り合いはたくさんいるが、彼より帝国政治に詳しい人はいなかった。

 

「宇宙港で仕掛けたんじゃろうな。出迎えに来たオットーらを一網打尽にしたのであろう」

 

 ファルストロング伯爵は事も無げに言った。

 

「それなら辻褄が合いますね」

 

 俺は心の底から納得した。見栄っ張りのブラウンシュヴァイク公爵は、出迎え式を盛大に行うはずだ。そして、警備兵よりも回収船団の兵士の方がずっと多い。兵士が船から降りると同時に雪崩れ込めば、宇宙港に集まった要人を一網打尽にできる。

 

「地方に残った連中は、一か所に集まったところを襲われたんじゃろう。ローエングラムの手下が『みんなで式典を見よう』と言って、大型スクリーンがある部屋に幹部を集める。そうすれば、乗っ取るのは簡単だ」

「ヤン提督のイゼルローン攻略作戦と同じ手ですね。堅固な要塞も中からの攻撃にはもろい」

「大した小僧じゃ。流れを強引に変えおった」

 

 ファルストロング伯爵は、一本取られたといった感じの笑いを浮かべた。百戦錬磨の彼ですら予想できなかったのだ。

 

「今後の政局はどうなるとお考えですか?」

「しばらくは主導権争いが続くじゃろうな。貴族の金を手に入れた者が勝者になる」

「まだ終わったわけではないんですね」

「権力闘争は金の奪い合いだ。敵の首を取るだけでは、勝ったとは言えん。敵の金を手に入れることが肝心なのだ」

「なるほど」

 

 俺は感心したように頷いた。門閥派と先帝側近グループの抗争は、金を守ろうとする者と金を奪おうとする者の抗争だった。金を奪ったら、分け前をめぐって争うのが自然な成り行きだろう。

 

「リヒテンラーデ派が有利じゃろうな。あの連中は宮廷政治に長けている」

「ローエングラム派には、オーベルシュタインという策士がいますよ」

「オーベルシュタインの三男坊が策士か。卿にしては面白い冗談だ」

 

 ファルストロング伯爵は、誰もが恐れるオーベルシュタイン大将を子供扱いした。いかにも親しげといった感じである。

 

「オーベルシュタイン提督をご存じなんですか?」

「子供の頃から知っているぞ。わしの又従兄弟の子供じゃからな」

「親戚じゃないですか!」

 

 俺は心臓が飛び上がるほど驚いた。知人と銀河一の策士が親戚なのだ。平静でいられる方がおかしい。

 

「驚くこともなかろう。門閥貴族は婚姻や養子縁組で繋がっている。全員が親戚のようなものだ。わしの祖父はブラウンシュヴァイク家からの婿養子じゃしな」

「でも、あのオーベルシュタインですよ」

「パウルは真っすぐな奴でな。曲がった道を真っすぐに歩こうとする。そういう奴だから揉め事が絶えなかった」

 

 ファルストロング伯爵の口から語られるオーベルシュタイン像は、策士というイメージとは程遠い。熱い男といった感じだ。

 

「閣下が亡命した後に変わったとは考えられませんか?」

「まったく変わっとらんな。パウルの行動原理はおそろしく単純だ。敵を見つけたら、問答無用で排除する。異論には真っ向から正論をぶつける。駆け引きというものがまるでない」

「目的のために手段を選ばない人は、立派な策士でしょう」

「パウルには妥協や懐柔という選択肢はない。強硬手段を辞さない男ではなく、強硬手段しか使えない男なのだ。策士とはいえんな」

「そういう見方もあるんですね」

 

 オーベルシュタインが強硬手段しか使えないという指摘は、俺の先入観を打ち砕いた。目的のために手段を選ばない人物なら、妥協することもできるし、相手を抱き込むこともできるだろう。しかし、オーベルシュタインはいきなり強硬手段を使う。前の世界でもそれは同じだった。

 

「権力闘争で勝つには味方が必要だ。パウルは敵を潰す方法を知っていても、味方を増やす方法は知らぬ。根っからの戦士じゃよ。政治向きではない」

 

 ファルストロング伯爵はオーベルシュタインをこきおろすが、表情と声は妙に優しい。単純さを褒めているようにすら見える。

 

「そうなると、ローエングラム派は苦しいですね。根回しができない人ばかりですから」

「ローエングラムに勝ってほしいのか?」

「負けてほしいです。敵は弱い方がいいですから」

 

 俺はきっぱりと言い切った。ラインハルトがトップに立てば、強力なリーダーシップで帝国をまとめ上げるだろう。同盟にとってはありがたくない事態だ。

 

「わしの予想なんぞあてにならんがな」

「不吉なことはおっしゃらないでください」

「馬鹿の考えることはわからん。宇宙港に着いた瞬間に仕掛けるなど、わしにはない発想だ」

「あなたは見抜いたじゃないですか」

「終わってから分析しただけに過ぎん。所詮は後知恵じゃよ。わしがオットーの立場だったとしても、虜になったであろうな」

 

 ファルストロング伯爵はお手上げだといったふうに笑う。

 

「ローエングラムは銀河一の大馬鹿だ。真の馬鹿には計算も駆け引きもない。一旦決めたらひたすら突っ走る。曲がった道をまっすぐ歩き、船がないのに海を渡り、翼がないのに空を飛ぶ。不可能を可能にするのはそういう男であろう」

 

 馬鹿は強いというのが、ファルストロング伯爵の持論である。知恵者はすぐに諦めるが、馬鹿は諦めない。知恵者は考えてから行動するが、馬鹿は考えずに行動する。知恵者は冷めているが、馬鹿は情熱がある。それゆえに強いのだという。

 

 ラインハルトがなぜ「天才」なのかが理解できた。彼に匹敵する戦術家は何人もいる。彼に匹敵する戦略家は何人もいる。彼に匹敵する勇者は何人もいる。しかし、彼ほど単純な人はいない。やろうと思ったら、万難を排して成し遂げる。ただそれだけだ。彼が天から与えられた才能とは、単純ゆえの粘り強さ、単純ゆえの行動力、単純ゆえの熱意ではなかろうか。

 

 

 

 俺たちが惑星シャンプールに到着したのは、三月一三日のことだった。惑星と同じ名前の星都は亜熱帯にある。今の気温は二六度。この時期の平均最高気温より三度高い。

 

「懐かしいね」

 

 イレーシュ人事部長が微笑む。この惑星は彼女と俺が出会った星なのだ。

 

「まったくです」

 

 俺は笑いながら頷いた。マー通信部長も頷く。この惑星はマー通信部長と俺が出会った星でもある。

 

 一三年前、シャンプールで幹部候補生養成所の受験勉強に励んだ。イレーシュ人事部長とマー通信部長は、その時の家庭教師だった。そして、この星にある第七幹部候補生養成所に入学した。受験生活と幹部候補生生活を合計すると、二年間半を過ごしたことになる。エル・ファシルから脱出した時に降り立ったのもこの星だった。

 

「暑い星ですなあ」

 

 第一一艦隊司令官ウィレム・ホーランド大将は、苦笑いしながら汗を拭く。上半身はTシャツ、下半身はハーフパンツ、足にサンダルを履き、首にタオルを巻いている。そんな格好なのに暑がっているのだ。

 

「ホルトンと大して変わらないと思うけど」

 

 俺は旧第一一艦隊D分艦隊司令部があった街を例に挙げた。

 

「今だから言えることですが、あの街の暑さには参っておりましたよ」

「怖いもの無しのホーランド提督にも弱点があるんだね」

「雪国育ちですからな」

 

 ホーランド大将は折り畳み式ファンで顔をあおぐ。本当に暑さに弱いらしい。

 

「私は知ってたけどね」

 

 イレーシュ人事部長が意地悪な笑いを浮かべる。ホーランド大将は意外そうな顔をした。

 

「人に話したのは初めてだぞ」

「ずっと前から知ってたよ。士官学校の時からずっとね。夏になると死にそうな顔をしてた」

「ばれてたのか」

「みんな知ってたよ。言わなかっただけでさ」

「隠したつもりだったんだがなあ」

 

 ホーランド大将とイレーシュ人事部長は、打ち解けた様子で会話を交わす。わだかまりは残っていないようだ。

 

「もう見栄を張らなくてもいいの。あんたはただの人なんだから」

「そうだな」

「楽しくやろうよ。ただの人には楽しいことがたくさんある」

 

 イレーシュ人事部長はホーランド大将に笑顔を向けると、売店の方へ歩いて行った。そして、アイスクリームを三個持って戻ってくる。

 

 俺、イレーシュ人事部長、ホーランド大将は一緒にアイスクリームを食べた。そこにワイドボーン参謀長、コレット少将、ドールトン少将らもやってきて雑談が始まる。

 

「ハラボフ大佐はフィリップス提督を好きなんですよ」

 

 ドールトン少将が片手に本を持って力説する。本の題名は『好きな人を避けたくなる心理』。恋愛で失敗し続けているのに、恋愛本が大好きなのだ。

 

「それはないと思うけどなあ」

 

 俺は右前方へ視線を向ける。四メートルほど離れた場所にいるハラボフ大佐は、すぐに目をそらした。こんなに離れていても彼女は嫌がる。好かれてるはずがない。さらに言うと、主張者が信用に値しない。

 

 それでも、ドールトン少将は自説を崩さなかった。俺は困惑し、ホーランド大将とコレット少将は真面目な顔で聞き、ワイドボーン参謀長とイレーシュ人事部長は無責任に冷やかす。

 

 雑談が終わった後、俺とホーランド大将はアイスクリームを買いに行った。シャンプール特産のキウイアイスである。三月は一年で最もキウイがうまい時期なのだ。

 

「暑い星に骨を埋めるのも悪くありませんな」

 

 ホーランド大将は小声で呟いた。彼に残された時間は多くない。司令官職を一期二年務めたら、引退することになるだろう。

 

「シャンプールはいい星だよ」

 

 俺は満面の笑顔で応じた。シャンプールの食べ物は辛いけどうまいんだ。シャンプールの飲み物は甘いけどうまいんだ。シャンプールの街は賑やかなんだ。シャンプールの海は青くて透き通ってるんだ。シャンプールの山は緑が豊かなんだ。シャンプールの祭りは楽しいんだ。シャンプールの人は陽気なんだ。きっと楽しくやれる。

 

 三月一四日、第一辺境総軍は本格的に始動した。五つの軍集団級部隊と四つの軍級部隊を基幹としており、宇宙艦艇五万四六〇〇隻、兵員九三五万人を有する。担当宙域は有人星系五九個、無人星系八九一〇万三〇五七個に及ぶ。名実ともに最大最強の総軍である。

 

 本拠地シャンプールには、サンボラ大将の第七方面軍、俺が直率する第二艦隊、ホーランド大将の第一一艦隊、シューマッハ大将の第二二艦隊、フリスチェンコ大将の第六地上軍、ベロッキオ大将の第二二地上軍、マリノ中将の第五五独立分艦隊、ビューフォート中将の第五七独立分艦隊、セノオ中将の第三七独立作戦軍、ラフマディア中将の第四〇独立作戦軍、ドレムラー中将の第一辺境特殊作戦軍が司令部を置いた。第七方面軍以外の部隊は、特定の警備区域を持たない機動運用部隊である。

 

 シヴァ星系第四惑星ミトラにはシュトライト大将の第二方面軍、アスターテ星系第五惑星アイヤムルにはメイスフィールド大将の第二二方面軍が司令部を置いた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 今のところ、第一辺境総軍の管内に大きな問題は起きていない。昨年の辺境正常化作戦と国内平定作戦が、テロリストや宇宙海賊に打撃を与えた。当分の間は部隊の錬成に専念できる。

 

 講和派が独立する可能性は完全に消えた。国民投票が中止された後、講和派は急速に勢いを失っている。地方選挙で講和派が敗北を重ねた。講和派自治体でリコールを求める動きが広がり、首長失職や議会解散が相次いだ。

 

 最近になって、「国民投票を実施しても、講和派は勝てなかった」という見方が出てきた。クーデターの一時間前、ケリム星系議会選挙の開票が終わった。圧勝すると思われた講和派政権は、議席の九割を失う大敗を喫し、現職の星系首相も落選した。講和派の敗北は中止前から始まっていたというのだ。

 

 右翼系マスコミによると、帝国でクーデターが起きたことを知った時、トリューニヒト議長は落胆したらしい。国民投票で完全勝利を収め、講和派に止めを刺すことができなかった。それが残念なのだそうだ。

 

 誰が正しいのかはわからない。講和派の勢いが凄まじかったのは事実だし、講和派が地方選挙で敗北したのも事実だ。「八〇二年四月一七日の国民投票が実施されていたら、同盟はどうなったか?」という問いは、研究者を悩ませ続けるだろう。

 

 国民投票が中止されると、経済問題が新たな争点となった。トリューニヒト政権は、積極財政による経済成長と雇用安定を掲げる。反戦・反独裁市民戦線(AACF)を中心とする反戦勢力は、緊縮財政による財政再建を打ち出した。

 

 同盟の財政赤字は危機的水準を大きく越えていた。借りた金を利子の返済に回し、デフォルトをぎりぎりで回避している状態だ。ハイネセン記念大学経済研究所のベラミー教授は、「我が国の財政を人間に例えるならば、昨年末に死亡した。今はゾンビだ」と述べる。再建会議やAACFが一定の支持を得た背景には、「戦争を続けたら財政が破綻する」という危機感があった

 

 和解推進運動のレベロ代表はリベラル・保守・右翼に対し、「もはや争っている時ではない。挙国一致で緊縮財政を進めよう」と呼びかけた。そして、トリューニヒト議長と会談し、間接税の税率を三倍に引き上げるよう求めた。

 

「増税こそが唯一の景気対策だ。政府が緊縮に転じたことを知れば、投資家は安心し、金融市場が活性化する。間接税は公平に徴収されるため、市民の不満は少ない」

 

 レベロ代表の提言は、学問的にも政治的にも非の打ち所がなかった。大衆党からも賛同の声が相次いだ。

 

 だが、トリューニヒト議長は、「公約に反することはできない」と言って拒否した。彼に政権を与えたのは、緊縮財政に反対する人々だ。市民感情を何よりも優先するのが、彼の流儀である。

 

 それでも、レベロ代表は食い下がった。今が国家滅亡の瀬戸際だと考えた。財政再建に取り組むなら、全面的に協力するとも述べた。ジョアン・レベロに私心はない。自由と民主主義と自由惑星同盟を愛する気持ちが原動力だ。

 

 政界では、レベロ代表への支持がじわじわと広がっている。レベロ代表が設立した議員連盟「財政危機と戦う議員連盟」の役員には、民主主義防衛連盟(DDF)のウィンザー代表、大衆党のシャノン前代表代行といった非リベラルの大物も名を連ねた。AACFのシュミット議員はレベロ批判の急先鋒であったが、涙を流して謝罪し、財政再建に協力することを誓った。大衆党・AACF両党の主流派は加わっていないが、それでも無視しえない勢力だ。

 

 財政危機と戦う議員連盟が発足したことを知った時、俺は微妙な気持ちになった。イデオロギーより国家を優先する政治家がいることは喜ばしい。だが、手放しで喜ぶことはできなかった。

 

「こんなことのために共闘するのはやめてほしいな」

 

 そう呟くと、俺は窓の外を見た。ここは第一辺境総軍司令部仮庁舎の最上階だ。外では基地の建設工事が進んでいる。

 

 惑星シャンプールは建設ラッシュに沸いていた。二個分艦隊・三個陸上軍・二個航空軍を受け入れる設備しかない惑星に、二個正規艦隊・一個即応艦隊・一個常備地上軍・一個即応地上軍・二個独立分艦隊・二個独立作戦軍の司令部が移転してきたのだ。新しい基地を作らなければならない。シャンプールの建設需要は巨大な雇用を生み出し、辺境経済の起爆剤となった。

 

「緊縮財政をやったら、この工事が全部中止になる。外にいる連中はみんな失業する。そうなったら……」

 

 俺は途中で考えるのをやめた。想像するだけで恐ろしくなったからだ。砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲み、糖分で気持ちを和らげる。

 

 同盟軍の地方移転は、基地建設事業とセットであった。中央総軍の本拠地テルヌーゼン、イゼルローン総軍の本拠地ラハム、第二辺境総軍の本拠地ウルヴァシー、第三辺境総軍の本拠地ネプティス、第四辺境総軍の本拠地カッファー、第五辺境総軍の本拠地パルメレンドでも、建設ラッシュが起きている。

 

 ハイネセン学派の経済学者は、国家の金で雇われた人間を失業者とみなす。「労働市場の実態を正しくとらえるには、公務員と公共事業従事者を除外するべきだ。国が借金して人を雇えば、失業率が下がるというのはおかしい」というのだ。

 

 しかし、俺には窓の外にいる人が失業者だとは思えなかった。大局的な視点から見れば、国が借金して雇った労働者も、失業者も同じかもしれない。だが、局所的な視点から見れば、仕事がある人と仕事がない人はまったく違う。

 

「ここで『彼らを失業から救うには、財政再建をやるしかない』と考えるのが、レベロ先生なんだろうな」

 

 俺もレベロ代表も、国家を守りたいという点では一致する。国家を守ることは、国民の生活を守ることに等しい。レベロ代表は、彼らを守るために緊縮をやろうとするのだろう。「自由に生きればいい」と突き放す人よりはずっと共感できる。それでも、何かが違うと思う。

 

 思い悩んでいるところにハラボフ大佐が入ってきた。両腕に書類を抱えている。これから一日の仕事が始まるのだ。



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第97話:ドリームチーム 802年4月中旬 第一辺境総軍司令官官舎

 四月一四日、第一辺境総軍公式サイトが開設されてから一か月が過ぎた。アクセス数は同盟軍ナンバーワンだ。

 

 第一辺境総軍公式サイトは、国防委員会公式サイトよりも充実している。週二回更新の「司令官日記」、すべての軍種・職種を網羅する「兵隊さんのお仕事」、各部隊の食事を紹介する「兵隊さんのごはん」、管内の街並みや食文化を紹介する「第一総軍管区を歩こう」、第一辺境総軍に配備されていない兵器も紹介する「同盟軍兵器図鑑」、連載漫画の「栄光の同盟軍史」「同盟軍英雄列伝」は人気が高い。

 

 司令官日記のコメント欄に、「旅団と連隊の違いが分からない」「駆逐艦の役割を教えて」といった質問が散見された。軍隊に詳しくない読者が多いようだ。

 

「新コーナーを作ろう」

 

 こうして、第一総軍公式サイトに、「同盟軍について学ぼう!」というコーナーが設けられた。同盟軍に関する基礎知識をわかりやすく解説するのである。

 

 部下に下書きを書かせてみたが物足りなかった。参謀長ワイドボーン大将の説明は、軍人にはわかりやすいが民間人にはわかりにくい。副司令官パエッタ大将の説明は細かすぎる。副参謀長チュン・ウー・チェン中将の説明は、面白いのだが脱線が多い。その他の部下の説明は「プロの文章」といった感じで、素人には難しいように思える。

 

 結局、俺が自ら解説コーナーを執筆することになった。士官学校卒のエリートに素人向けの文章を書かせるのは、エアバイクを自転車と並走させるようなものだ。自転車の横には自転車を並べるのが正しい。

 

 解説コーナーでは、階級、職種、部隊編制、待遇、兵器、歴史などについて紹介した。自己解釈は一切加えず、誰もが基本だと認めることだけを書く。文章を書きあげたら、国防委員会の広報部に送って許可をもらう。

 

 基本的なことを一通り書き終えた後、同盟軍再編に関する項を設けた。「同盟軍再編について教えてほしい」という読者の要望に応えたのだ。

 

 官舎に戻った後、俺は下書きを書き始めた。机の上には資料と甘味が山積みになっている。どちらも執筆作業には欠かせない。

 

「同盟軍再編を一言で言うと「地方分権」です。非常事態に素早く対応するため、軍事力の地方移転を進めています。

 

 同盟軍の最上級部隊は「総軍」です。宇宙軍の宇宙艦隊・陸戦隊・教育総隊・支援総隊・予備役総隊、地上軍の地上総軍・陸上総隊・航空総隊・水上総隊・軌道総隊・予備役総隊、統合部隊の特殊作戦総軍・輸送総軍が総軍に該当します。ラグナロック戦役の際に編成された統合軍集団は、実質的には総軍です。

 

 同盟国内に七個の地域別総軍が設置されました。担当地域における全部隊の指揮権を有し、半径数百光年に及ぶ宙域を守ります。他の総軍と同様に、最高評議会議長及び国防委員長の指揮を受けます。国土防衛の要となる部隊です。

 

 中央総軍-中央宙域担当

 イゼルローン総軍-イゼルローン回廊担当

 第一辺境総軍-シャンプール方面(イゼルローン方面航路)担当

 第二辺境総軍-ウルヴァシー方面(フェザーン方面航路)担当

 第三辺境総軍-ネプティス方面担当

 第四辺境総軍-カッファー方面担当

 第五辺境総軍-パルメレンド方面担当

 

 中央総軍は、バーラト星系第三惑星テルヌーゼンに司令部を置き、中央宙域の防衛を担当しています。最も人口が多い地域を担当しているため、地上軍と陸戦隊が多く配備されています。

 

 イゼルローン総軍は、ティアマト星系第四惑星ラハムに総司令部、イゼルローン要塞に前方展開司令部を置き、イゼルローン回廊の防衛を担当しています。対帝国戦を専門としており、治安維持部隊を持たない唯一の総軍です。

 

 第一辺境総軍は、エルゴン星系第二惑星シャンプールに司令部を置き、中央宙域とイゼルローン回廊を結ぶ宙域の防衛を担当しています。治安維持部隊と対帝国部隊を兼ねており、最大の戦力を擁する総軍です。

 

 第二辺境総軍は、ガンタルヴァ星系第二惑星ウルヴァシーに司令部を置き、中央宙域とフェザーン回廊を結ぶ宙域の防衛を担当しています。宇宙海賊以外の脅威がないため、最も戦力が少ない総軍です。

 

 第三辺境総軍は、エネアド星系第三惑星ネプティスに司令部を置き、ネプティスを中心とする宙域の防衛を担当しています。テロや海賊が多発する宙域を担当しているので、宇宙軍と地上軍がバランス良く配備されています。

 

 第四辺境総軍は、タウリカ星系第四惑星カッファーに司令部を置き、カッファーを中心とする宙域の防衛を担当しています。人口密度が低く航路が長大な宙域を担当しており、宇宙軍を中心とする総軍です。

 

 第五辺境総軍は、ノルトホラント星系第三惑星パルメレンドに司令部を置き、パルメレンドを中心とする宙域の防衛を担当しています。不安定な惑星が多いため、地上軍が多めに配備されています。

 

 総軍の次に大きな部隊は「軍集団」です。軍集団級宇宙部隊を「艦隊」、軍集団級地上部隊を「地上軍」、軍集団級統合部隊を「方面軍」と呼びます。

 

 第一艦隊から第一三艦隊までの一二個艦隊は、旧正規艦隊の伝統を受け継ぐ部隊です。第一二艦隊は欠番となっています。旧正規艦隊と同じ四個分艦隊編成ですが、一個分艦隊は二〇〇〇隻前後なので、直轄部隊と合わせた定数は一万隻前後になります。

 

 第一艦隊-バーラト星系

 第二艦隊-エルゴン星系

 第三艦隊-バーラト星系

 第四艦隊-ティアマト星系

 第五艦隊-バーラト星系

 第六艦隊-ティアマト星系

 第七艦隊-バーラト星系

 第八艦隊-バーラト星系

 第九艦隊-バーラト星系

 第一〇艦隊-バーラト星系

 第一一艦隊-エルゴン星系

 第一三艦隊-ティアマト星系

 

 正規艦隊は首星ハイネセンに司令部を置き、戦略予備部隊としての役割を担います。宇宙艦隊に所属しており、必要に応じて各総軍へと派遣されます。

 

 第二艦隊と第一一艦隊が、第二辺境総軍に派遣されています。主力部隊がエルゴン星系に前方展開し、留守部隊がハイネセンの艦隊司令部に残っています。

 

 第四艦隊・第六艦隊・第一三艦隊が、イゼルローン総軍に派遣されています。主力部隊がティアマト星系に前方展開し、留守部隊がハイネセンの艦隊司令部を守っています。

 

 第二一艦隊から第二六艦隊までの六個艦隊は、新しく編成された即応艦隊です。三個分艦隊編成で、直轄部隊と合わせた定数は九〇〇〇隻前後です。巡航艦・駆逐艦・軽母艦が中心となっているため、一個分艦隊あたりの定数が多くなっています。

 

 第二一艦隊-中央総軍

 第二二艦隊-第一辺境総軍

 第二三艦隊-第二辺境総軍

 第二四艦隊-第三辺境総軍

 第二五艦隊-第四辺境総軍

 第二六艦隊-第五辺境総軍

 

 即応艦隊は地方に常駐し、各総軍の即応戦力としての役割を担います。中央総軍に第二一艦隊、第一辺境総軍に第二二艦隊、第二辺境総軍に第二三艦隊、第三辺境総軍に第二四艦隊、第四辺境総軍に第二五艦隊、第五辺境総軍に第二六艦隊が配備されています。

 

 イゼルローン総軍には、即応艦隊の代わりに要塞艦隊が配備されています。三個分艦隊編成で、直轄部隊と合わせた定数は八〇〇〇隻前後です。戦艦と宇宙母艦を多数保有しており、火力と装甲は正規艦隊に匹敵します。

 

 要塞艦隊はイゼルローン要塞に常駐し、要塞軍集団とともに要塞の守りを担います。帝国軍との最前線に立つ部隊です。

 

 第一地上軍から第八地上軍までの八個地上軍は、常備地上軍・機動地上軍の伝統を受け継ぐ部隊です。二個陸上軍・二個航空軍・一個水上艦隊・一個軌道軍という編成は、旧常備地上軍と変わりません。しかし、一個軍あたりの定数は以前より少なくなりました。

 

 第一地上軍-バーラト星系

 第二地上軍-バーラト星系

 第三地上軍-バーラト星系

 第四地上軍-バーラト星系

 第五地上軍-バーラト星系

 第六地上軍-エルゴン星系

 第七地上軍-バーラト星系

 第八地上軍-ティアマト星系

 

 常備地上軍は首星ハイネセンに司令部を置き、戦略予備部隊としての役割を担います。地上総軍に所属しており、必要に応じて各総軍へと派遣されます。第八地上軍がイゼルローン総軍、第六地上軍が第一辺境総軍に派遣されました。

 

 第二一地上軍から第二六地上軍までの六個地上軍は、新しく編成された即応地上軍です。新常備地上軍と同じ編制ですが、軽装備の部隊が多くなっています。

 

 第二一地上軍-中央総軍

 第二二地上軍-第一辺境総軍

 第二三地上軍-第二辺境総軍

 第二四地上軍-第三辺境総軍

 第二五地上軍-第四辺境総軍

 第二六地上軍-第五辺境総軍

 

 即応地上軍は地方に常駐し、各総軍の即応戦力としての役割を担います。中央総軍に第二一地上軍、第一辺境総軍に第二二地上軍、第二辺境総軍に第二三地上軍、第三辺境総軍に第二四地上軍、第四辺境総軍に第二五地上軍、第五辺境総軍に第二六地上軍が配備されています。

 

 軍集団の次に大きな部隊は「軍」です。軍レベルの宇宙戦部隊を「分艦隊」、軍レベルの陸戦部隊を「陸戦隊」、軍レベルの陸上部隊を「陸上軍」、軍レベルの航空部隊を「航空軍」、軍レベルの水上部隊を「水上艦隊」、軍レベルの軌道部隊を「軌道軍」と呼びます。艦隊に所属していない独立分艦隊や独立陸戦軍、地上軍に所属していない独立軍もあります。

 

 総軍と軍集団の編制は大幅に変更されましたが、軍以下はレべロ政権以来の軽量編制を引き継ぎました。ラグナロック以降、軽量編制が銀河のトレンドとなっています。

 

 広域戦は数十光年から数千光年を戦域とする戦いです。一個艦隊一万三〇〇〇隻という重量編制は、イゼルローン回廊周辺の局地戦には向いていますが、広域戦には向いていません。広い地域をカバーするためには、小さな部隊をたくさん作った方が良いのです。

 

 地方部隊の参事官が文官ポストに切り替えられました。参事官は副司令官補ともいわれ、惑星警備隊より大きな部隊に設置されるポストです。広域戦には民間との協力が欠かせません。文官をナンバースリーにすることで、民間と一体になった国土防衛体制を作ります。

 

 警察官は予備役軍人を兼ねることとなりました。警察での階級に比例した階級が与えられます。国内での軍事行動にあたっては、警察との協力が欠かせません。軍と警察が共同作戦を行う機会も増えるでしょう。こうしたことから、警察官を予備役軍人に任用し、指揮系統をわかりやすくしました。

 

 国防委員会査閲部を国防監察本部、国防委員会情報部を国防情報本部に改組し、同盟軍は三本部体制から五本部体制になりました。監察本部は問題点の改善と不正防止のための組織です。情報本部は同盟軍の情報活動を統括します。これによって、国防指導機構が強化されました。

 

 新生同盟軍は『ドリームチーム』と呼ばれています。伝統ある正規艦隊と常備地上軍が復活しました。それを指揮するのは、ラグナロックや市民軍で活躍した人たちです。市民が夢見た同盟軍といえるでしょう」

 

 俺は文章を保存すると、校正ソフトを起動させた。対象読者は中学二年に設定する。進路を意識する年頃に合わせることで、入隊志望者を増やすのだ。

 

 下書きが完成した後は、完全なプライベートタイムになる。風呂に入って汗を流す。体が温まったら念入りにストレッチを行う。最後に身長を測り、一ミリも伸びていないことを知って少し落ち込む。

 

「久しぶりにネットを見よう」

 

 俺はネットサーフィンを始めた。暇な時にネットを見ると、時間を無駄にしてしまう。寝る前に少し見るぐらいでちょうどいい。

 

 最初に見るのは国防委員会の公式サイトである。トリューニヒト政権になってからは、手の込んだ作りになった。

 

 連載されている漫画は、商業誌の漫画にひけを取らないクオリティを誇る。『ヤン提督の最終指令-イゼルローンを奪回せよ!』に登場するヤン元帥は、クールな美青年という一般的なヤン・ウェンリー像に忠実だ。『ウィー・アー・ユナイテッド!』という市民軍漫画は、俺の身長が妹よりやや低い程度になっており、読んでいて気持ちがいい。

 

 国防委員会の主要指揮官一覧には、地域別総軍司令官の名前が記されていた。名前の横に異名がついているのは、トリューニヒト政権の方針によるものだ。

 

 中央総軍司令官     「ボーナムの獅子」ロマン・ギーチン地上軍上級大将(陸上)

 イゼルローン総軍司令官 「不敗の魔術師」ヤン・ウェンリー宇宙軍元帥

 第一辺境総軍司令官   「勇者の中の勇者」エリヤ・フィリップス宇宙軍上級大将

 第二辺境総軍司令官   「歩く時刻表」スティーブン・サックス宇宙軍上級大将

 第三辺境総軍司令官   「冷えた鋼鉄」ライオネル・モートン宇宙軍上級大将

 第四辺境総軍司令官   「ダイナマイト」モシェ・フルダイ宇宙軍上級大将

 第五辺境総軍司令官   「銀髪の魔女」ジュディス・カニング地上軍上級大将(航空)

 

 地域別総軍に選ばれた七名は、最も名声のある軍人七名でもある。名前だけで市民を安心させることができるだろう。

 

 イゼルローン総軍のヤン元帥は、戦うたびに奇跡を起こす男だ。リン・パオやアッシュビーといった歴代の名将も、彼の才能には及ばない。知られているだけで二〇個以上の異名を持つ。味方からは「不敗の魔術師」「奇跡のヤン」「共和国の剣」と称えられ、敵からは「ロキの化身」「大神をも欺く男」「キリングマシーン」と畏怖される。

 

 第三辺境総軍のモートン上級大将は、兵卒から提督まで出世した叩き上げの星である。前の世界でも名将として高く評価されていた。

 

 他の総軍司令官五名は、戦記には登場しない人物であった。市民軍の英雄ギーチン上級大将は、半年間で四階級昇進を遂げた。サックス上級大将は二一〇〇万人送還作戦を成功に導いた。フルダイ上級大将の勇名は、モートン上級大将に匹敵する。カニング上級大将は、ラグナロック戦役のアルフヘイム戦線で勇名を馳せた。俺については説明する必要もない。

 

 宇宙艦隊公式サイトへのリンクをクリックし、宇宙艦隊の主要指揮官一覧へと飛んだ。艦隊司令官の名前が並んでいる。いずれも宇宙艦隊最高の勇将と言われる提督だ。

 

 第一艦隊司令官  「平等の騎士」クルト・フォン・エルクスレーベン大将

 第二艦隊司令官  「勇者の中の勇者」エリヤ・フィリップス上級大将

 第三艦隊司令官  「絶対障壁」ヴィンセント・クリンガー大将

 第四艦隊司令官  「レクイエム」スカーレット・ジャスパー大将

 第五艦隊司令官  「超光速の貴公子」ベニート・リサルディ大将

 第六艦隊司令官  「教頭先生」エリック・ムライ大将

 第七艦隊司令官  「ヴァルハラの戦乙女」ユスラ・メルワーリー大将

 第八艦隊司令官  「マッド・タイガー」グエン・バン・ヒュー大将

 第九艦隊司令官  「頑固親父」ラルフ・カールセン大将

 第一〇艦隊司令官 「暴れ馬」ファビオ・マスカーニ大将

 第一一艦隊司令官 「グリフォン」ウィレム・ホーランド大将

 第一三艦隊司令官 「不敗の魔術師」ヤン・ウェンリー元帥

 

 俺は第一辺境総軍司令官と第二艦隊司令官、ヤン元帥はイゼルローン総軍司令官と第一三艦隊司令官を兼任することとなった。総軍司令官や艦隊司令官は、他の役職と兼任できるほど軽いものではない。「英雄に艦隊を指揮してほしい」という声に応えた結果、非合理的な人事が実現した。

 

 艦隊司令官一二名のうち、ヤン元帥、第六艦隊のムライ大将、第八艦隊のグエン大将、第九艦隊のカールセン大将、第一一艦隊のホーランド大将ら五名は、戦記にも登場する。

 

 カールセン大将の抜擢は、すべての人に歓迎される人事だった。主戦派は彼のような闘将が大好きである。反戦派は彼の反骨精神を好ましく思った。サプライズ好みの一般大衆は、下士官あがりの彼が栄達したことを喜んだ。

 

 ホーランド大将の復帰に対しては、賛否両論の声があがった。主戦派はかつてのような活躍を期待した。反戦派は戦争を推進した男が戻ってきたことに怒った。情緒的なものを好む一般大衆は、落ちぶれた英雄が戻ってきたことに心を揺さぶられた。

 

 俺、第一艦隊のエルクスレーベン大将、第三艦隊のクリンガー大将、第四艦隊のジャスパー大将、第五艦隊のリサルディ大将、第七艦隊のメルワーリー大将、第一〇艦隊のマスカーニ大将ら七名は、前の世界の有名人ではない。

 

 ジャスパー大将はヤンファミリーきっての勇将として知られる。彼女の祖父の「マーチ」ジャスパー提督は、天才アッシュビーの下で第四艦隊司令官を務めた。「第四艦隊司令官ジャスパー」という響きを聞くだけで、市民は興奮した。

 

 エルクスレーベン大将は故ルートヴィヒ皇太子配下の勇将、メルワーリー大将は二六歳の若き新星である。この二名の抜擢も大きな話題を呼んだ。

 

 司令官の名前を眺めた後、地上総軍公式サイトを開いた。主要指揮官一覧には、常備地上軍司令官の名前が記されている。彼らは地上総軍で最も勇敢な将軍だった。

 

 第一地上軍司令官 「沈黙のフランシスカ」フランシスカ・サンパイオ大将(陸上軍)

 第二地上軍司令官 「地上軍の至宝」カイ・ヴァタレン大将(航空軍)

 第三地上軍司令官 「奇跡の翼」ジャスミーヌ・マレルブ大将(航空軍)

 第四地上軍司令官 「ゲルツェンの虎」アルベルト・フォン・ラウディッツ大将(陸上軍)

 第五地上軍司令官 「ニンジャマスター」フー・ジェンロン大将(陸上軍)

 第六地上軍司令官 「ヴィクトル雷帝」ヴィクトル・フリスチェンコ大将(水上軍)

 第七地上軍司令官 「薔薇王」アシュリー・ハルハラ大将(陸上軍)

 第八地上軍司令官 「タンクキラー」ランドン・フォーブズ大将(陸上軍)

 

 地上軍司令官八名の中に、前の世界で有名だった人はいなかった。戦記は宇宙軍中心の物語である。ラインハルトとヤンの戦いは艦隊戦が中心で、数少ない要塞戦では陸戦隊が主役を務めた。地上軍が目立つ機会がなかったのだ。

 

 第四地上軍のラウディッツ大将は、帝国反体制派ゲリラの指導者を務めた人物である。アルフヘイムで活動し、ゼッフル粒子を使った爆破攻撃でリッテンハイム軍を苦しめた。かつてはリッテンハイム公爵配下の私兵軍将校だったという。

 

 各総軍のページには、即応艦隊司令官と即応地上軍司令官の名前が記されている。半数はラグナロックの英雄、半数は市民軍の英雄だ。

 

 第二一艦隊司令官 アンドラーシュ・ラースロー大将

 第二二艦隊司令官 「ターミネーター」レオポルド・シューマッハ大将(陸戦隊)

 第二三艦隊司令官 「戦場の哲学者」フリスト・サルパコフ大将

 第二四艦隊司令官 カルン・アムリトラジ大将(陸戦隊)

 第二五艦隊司令官 「主演女優」キャロライナ・プリチェット大将

 第二六艦隊司令官 「光の大天使」マイア・レボアーゼ大将(陸戦隊)

 

 第二一地上軍司令官 「赤い悪魔」ニティン・アドウェイル地上軍大将(航空軍)

 第二二地上軍司令官 エンマ・ベロッキオ地上軍大将(軌道軍)

 第二三地上軍司令官 「狩人」ヘレーネ・シュレッター地上軍大将(陸上軍)

 第二四地上軍司令官 リュシアン・ロス地上軍大将(航空軍)

 第二五地上軍司令官 ヴァレリアン・マラフスキ地上軍大将(水上軍)

 第二六地上軍司令官 「ベールナウの救世主」モーリス・ラブレー地上軍大将(水上軍)

 

 この一二名の中には、前の世界の有名人は二人しかいない。一人は戦記の主要人物、もう一人は戦記に登場しない大物であった。

 

 第二二艦隊のシューマッハ大将は、最も人気のある亡命者軍人の一人だった。エル・ファシル七月危機、ラグナロック戦役では、一〇月クーデターでの活躍を知らない者はいないだろう。前の世界で皇帝を誘拐した人物が、この世界では同盟軍の英雄なのだ。

 

 イゼルローン総軍のページには、要塞艦隊司令官と要塞軍集団司令官の名前がある。二人とも馴染みのある名前だった。

 

 要塞艦隊司令官  「不屈のダスティ」ダスティ・アッテンボロー大将

 要塞軍集団司令官 「薔薇の騎士」ワルター・フォン・シェーンコップ大将(陸戦隊)

 

 要塞艦隊のアッテンボロー大将は、同盟市民好みのヒーローである。敵が強ければ強いほど闘志を燃やす。誰に対してもずけずけと物を言う。同盟市民はこういう人物がたまらなく好きだ。古巣の第一二艦隊は消滅したが、「アッテンボロー提督に艦隊を指揮させてほしい」と望む声が強かったため、要塞艦隊を率いることとなった。

 

 要塞軍集団のシェーンコップ大将は、ヤン・ファミリーの第二人者と目される。前の世界でも大物だったが、この世界ではそれ以上だ。ラグナロック戦役という新しい形態の戦争は、陸戦隊の活躍の場を大きく広げた。今ではヤン・ファミリーの武勲の半分を独占すると言われる。紳士的な風貌とユーモアに富んだ話術のおかげで、一般市民からも好かれていた。

 

「凄いメンバーだよなあ」

 

 俺はため息をついた。今の同盟軍実戦部隊は、同盟軍オールスターチームと言っても過言ではない。前の世界に例えると、キルヒアイス・ミッターマイヤー・ロイエンタール・ミュラー・ビッテンフェルト……といった勇将だけを集めた軍隊なのだ。

 

 国防委員会は実戦第一主義だと言うが、実際は人気第一主義だった。高級司令官人事は良く言えば「実戦派重視」、悪く言えば「人気取り人事」であった。勇名と人気はほぼ比例する。勇名が高ければ、傲慢でも「覇気がある」と褒められるし、無愛想でも「不器用な人だな」と好意的に見てもらえる。勇将を集めることは、人気者を集めることに等しい。

 

 正規艦隊の司令官人事には、旧正規艦隊隊員の意向も大きく影響した。伝統ある艦隊が復活したとのアピール、旧正規艦隊隊員の懐柔といった政治的事情によるものだ。その結果、市民に人気があり、その艦隊とゆかりのある人物が司令官に起用されたのだ。

 

 常備地上軍の事情は正規艦隊と似ていた。市民からの人気、旧常備地上軍との繋がりを兼ね備えた人物が司令官となった。

 

「凄いメンバーなんだけど……」

 

 俺はもう一度サイトを開き、総軍・正規艦隊・常備地上軍の司令官一覧を眺めた。実戦に強い人が揃っている。だが、その半数以上は実戦に強いだけの人だった。マネジメント能力の欠如ゆえに昇進できなかった人、大軍を統率する器量がない人が司令官になってしまった。

 

 即応艦隊と即応地上軍の司令官はさらに微妙だった。指揮能力に疑問符が付く人もいるのだ。市民軍の英雄には、個人的な勇敢さによって名をあげた人も含まれる。アンドラーシュ大将は凡庸な指揮官であったが、名将の子孫というだけで抜擢を受けた。

 

 最も簡単な人気取りはサプライズ人事である。トリューニヒト議長は市民から期待された人物を登用し、若手・叩き上げ・帝国人を大胆に抜擢した。こうした人事は市民を大いに喜ばせた。

 

「実戦部隊はお飾りってことか」

 

 俺はトリューニヒト議長の意図を察した。帝国と戦う気はないということだ。国防委員会及び五つの本部にトリューニヒト派が集まり、実戦部隊にトリューニヒト嫌いの実戦派が集まっている。軍備の充実こそが本当にやりたいことなのだろう。

 

 一瞬、違和感を覚えた。トリューニヒト議長のやり方はフェアではない。肯定してもいいのだろうか?

 

「あれほど軍人を尊重しない政治家もおらんだろうが」

 

 焼肉屋で食事を共にした日、クリスチアン大佐は苦々しげに吐き捨てた。彼はクーデターに加担した容疑で裁判を受けている。

 

「兵のためになる軍拡をやってほしいのです」

 

 市民軍に加わった時、アラルコン提督はこのように語った。彼はクーデター鎮圧に貢献したが、トリューニヒト議長によって粛清された。

 

「こんな政治家に国防を任せられるかね?」

 

 クーデターに加担した故パリー将軍は、トリューニヒト議長のやり方を批判した。彼はクーデターが鎮圧された直後に自決した。

 

 様々な言葉が脳内を駆け巡る。トリューニヒト議長は本当に正しいのだろうか? 彼に任せておくのはまずいのではないか?

 

「これでいいんだ。あの人は兵士のために頑張っているんだから」

 

 俺は違和感を振り払った。兵の面倒を見るには金が必要だ。トリューニヒト議長が引っ張った金は、兵のために使われる。何の問題もない。問題はないはずなのだ。

 

 

 

 門閥派が粛清された後、帝国で主導権争いが始まった。エリート層は中道派官僚を中心とするリヒテンラーデ派、開明派軍人を中心とするラインハルト派、開明派知識人を中心とするブラッケ派の三派に分かれた。

 

 前の世界との最大の違いは、ラインハルト派とブラッケ派が別行動をとっていることだ。どちらも開明派であるが、ラインハルト派は富国強兵・強硬外交、ブラッケ派は民力休養・協調外交という違いがある。前の世界のローエングラム朝を支えた文官は二つに分かれた。野心的なシルヴァーベルヒらはラインハルト派、良識的なリヒターらはブラッケ派に加わった。

 

 戦記では少ししか触れられていないが、ローエングラム朝における富国強兵派と民力休養派の対立は、きわめて深刻であった。ゴールデンバウム朝を打倒した後に噴出した対立が、この世界では早い段階で現れた。

 

 門閥派から没収した財産の大半は、リヒテンラーデ派が手に入れた。皆殺しとなった家の家名と財産は、リヒテンラーデ派幹部の子弟に受け継がれた。存続を認められた家は、税金と罰金によって借金まみれになり、リヒテンラーデ派幹部に邸宅・有価証券・宝石・美術品などを売り渡した。

 

 特権企業は門閥貴族の資金源であり、帝国経済の病巣でもある。貴族は自分が所有する企業の商品を領民に買わせた。また、国内やフェザーンから輸入した商品を領民に売りつけた。貴族が粗悪な製品に高い値をつけても、領民は拒否できない。こういうことを何百年もやっていたので、軍需産業と高級品産業以外の企業は競争力を失った。自分で製品を作ることをやめ、安価なフェザーン製品を領民に高く売りつけるだけになった企業も少なくない。

 

「特権企業は解体すべきだ」

 

 ラインハルト派ととブラッケ派は企業改革を主張した。このような企業が残っている限り、経済発展は見込めない。特権企業のシェアを奪おうとする新興企業やフェザーン企業が、彼らのバックについている。

 

 しかし、リヒテンラーデ公爵は強引に企業改革を潰した。粛清と相続により、リヒテンラーデ派は数万社にのぼる企業を手に入れた。また、借金漬けにした家が所有する企業の利益も、リヒテンラーデ派のものになる。金のなる木を手放すなどありえないことだ。特権企業と取引していたフェザーン企業も、リヒテンラーデ支持に回った。

 

 貴族の私兵は正規軍に編入される予定だったが、リヒテンラーデ公爵は「私兵の任務は治安維持だ」といって内務省の管轄下に入れた。そして、すべての私兵を「帝国警備隊」という新組織に所属させた。リヒテンラーデ派は帝国軍の半数を手中に収めたのである。

 

 クーデターの論功行賞により、大元帥府査閲監キルヒアイス上級大将と内務次官ラングが元帥号を得た。キルヒアイス元帥は、ブラウンシュヴァイク公爵位と産業担当副首相の地位も獲得した。ラング元帥は男爵に昇格して「ラング男爵」となり、帝国警備隊司令官に任命された。銀河帝国は階級社会なので、爵位を持たない者が頂点に立つことはできない。平民が元帥に任命される時は、爵位を同時に授与される決まりなのだ。

 

 ブラウンシュヴァイク元帥府が発足した翌日、元帥府参謀長ベルゲングリューン大将、元帥府査閲監ビューロー大将、元帥府前衛司令官ジンツァー大将ら幕僚六名が、上級大将に昇進した。「皇帝陛下のご配慮」による昇進であった。また、ベルゲングリューン大将は男爵号を授与された。ビューロー大将は、本家にあたるビューロー伯爵家を相続することとなった。

 

 ミューゼル男爵夫人アンネローゼはフレーゲル侯爵夫人の称号を賜り、ブラウンシュヴァイク公爵と結婚することとなった。彼女はラインハルトの姉であり、ブラウンシュヴァイク公爵とは幼馴染にあたる。また、長年にわたって彼女の家令を務めたコルヴィッツは、男爵号を得た。

 

 エルウィン=ヨーゼフ帝は、ブラウンシュヴァイク公爵とフレーゲル侯爵夫人の結婚を祝福し、結婚祝い金一〇〇〇万帝国マルクと荘園三五か所を賜った。

 

 ラインハルトとブラウンシュヴァイク公爵は、ほぼ同列となった。軍隊での階級はラインハルトの方が高い。貴族としての地位はブラウンシュヴァイク公爵の方が上だ。政府における地位は、ラインハルトが国防担当副首相、ブラウンシュヴァイク公爵が産業担当副首相であり、完全に対等といっていい。

 

 ラインハルト派に対する褒賞は薄かった。ラインハルトは部下五七名の昇進を推薦したが、一三名しか許可されなかった。大元帥の推薦状を皇帝が却下することは珍しい。参謀長メックリンガー大将、査閲監オーベルシュタイン大将らも昇進しなかったため、大元帥府には上級大将が一人もいない状態だ。

 

 門閥派のオーベルシュタイン子爵が処刑されたため、叔父にあたるオーベルシュタイン大将が継承権の最上位となったが、相続は認められなかった。ゲルラッハ伯爵の甥にあたる人物が子爵家の新当主となったのである。このようにラインハルト派は爵位においても冷遇された。

 

 帝国専門家は、ブラウンシュヴァイク公爵がリヒテンラーデ派に寝返ったと見る。平民出身者が元帥号を与えられた場合、帝国騎士に叙任された後、元の姓のままで男爵に昇格するのが慣例である。ブラウンシュヴァイク公爵号の授与は異常としか言いようがない。

 

「完全にリヒテンラーデ派になり切ったのだろう。そうでなければ、これほどの厚遇は受けられない」

 

 常識のある人はみんなそう考えた。新聞や週刊誌も、ブラウンシュヴァイク公爵をリヒテンラーデ派として扱っている。

 

「愛のために親友を裏切ったんです!」

 

 イブリン・ドールトン少将の説によれば、ブラウンシュヴァイク公爵は、アンネローゼと結婚するためにラインハルトを裏切ったという。先帝の寵姫と結婚するには、最低でも伯爵でなければ釣り合わない。だから、リヒテンラーデ派に寝返ったのだそうだ。

 

「位打ちであろう」

 

 マティアス・フォン・ファルストロング伯爵は、事も無げに言った。

 

「位打ち?」

「宮廷闘争ではポピュラーな戦術じゃよ。分不相応な位を与えて自滅を誘うのだ」

「効果はあるんですか?」

「強烈じゃぞ。器の小さい者なら驕り高ぶって自滅する。身を慎んでも、嫉妬されて足を引っ張られる。嫉妬をかわしても、プレッシャーがおそいかかる。地位を退いても、高位にいた経歴はついて回り、相応の振る舞いを要求される」

「恐ろしいですね……」

 

 俺は寒気を感じた。宮廷人の考えることは恐ろしい。肩書きを与えるだけで、人間を破滅させることができるのだ。

 

 リヒテンラーデ公爵の強みは、皇帝を握っていることにある。自ら皇帝に帝王学を伝授した。親族や腹心を皇帝の側に仕えさせた。そのため、素直な少年皇帝は、「爺や」に言われるがままに詔勅を出す。慣例や旧習に精通している彼は、無茶な詔勅に前例という根拠を与えることができる。

 

 軍の人事権はラインハルトが有しているが、リヒテンラーデ公爵は詔勅を使って人事介入を行った。次男のカールスバート伯爵を軍務省査閲総局長として送り込み、軍の監察権を掌握した。娘婿のオクセンハウゼン子爵を近衛兵総監、ボイレン大将を憲兵総監、ティレンブルク大将を帝都防衛司令官に任命するなど、腹心に帝都の軍権を与えた。

 

 メルカッツ元帥はクーデター直後に逮捕されたが、釈放されて宇宙艦隊副司令長官となった。彼の配下にいる旧ミュッケンベルガー元帥府の勇将たちも、艦隊司令官に任命された。帝国軍宇宙艦隊は、ラインハルト、ブラウンシュヴァイク公爵、メルカッツ元帥に三分されたのである。

 

 老獪なリヒテンラーデ公爵は、ラインハルトを着実に追い込んでいる。前の世界のラインハルトがリヒテンラーデ公爵を排除できなかったら、このような状況になったのかもしれない。

 

 いずれにしても、ラインハルトの苦戦は喜ぶべきことだ。彼が頂点に立たなければ、帝国軍が大挙して攻めてくることはない。

 

 国民投票が中止になった後は穏やかな日々が続いた。トリューニヒト政権は着実に足元を固めている。



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第一〇章:エリヤ・フィリップスの決意
第98話:課題だらけの今、見えない未来、失った過去 802年5月上旬 第一辺境総軍司令部~第二艦隊司令部~シャンプール市内


 司令官の朝は早い。早朝の五時三〇分に起床し、ランニングと筋トレで汗を流す。シャワーを浴びてから朝食をとる。七時になると、公用車に乗って司令部へと向かう。

 

 俺は二つの司令部を持っている。一つはシャンプール市ダンガニア区の第一辺境総軍司令部、もう一つはランカイ市の第二艦隊司令部だ。二つの司令部を掛け持ちする者は二人しかいない。チュン・ウー・チェン中将は総軍副参謀長と艦隊参謀長、ハラボフ大佐は総軍司令部副官と艦隊司令部副官を兼務した。

 

 第一辺境総軍司令部に出勤した日は、総軍全体に関わる仕事を処理した。宇宙部隊と地上部隊の統合運用計画を策定し、後方支援体制を整え、予算と人員を確保し、隣接部隊や自治体との関係を調整する。

 

「デスクワークになると本当に生き生きしますな」

 

 総軍情報部長ハンス・ベッカー准将が意地悪な笑いを浮かべた。

 

「戦争の才能はないからね。せめてこっちで頑張らないと」

 

 俺は善良そうな笑顔を作った。一〇〇を超える戦いに参加したことにより、ただの凡将から歴戦の凡将となった。どんなに頑張っても、凡将は凡将なのだ。勝利を収めるには準備段階で頑張る必要がある。

 

 艦隊・地上軍・方面軍の統合訓練も、第一辺境総軍の仕事である。最大の課題は秋の統合演習であった。実施場所はイゼルローン回廊で、イゼルローン総軍との合同演習になる。参加兵力は艦艇四万隻、兵員八〇〇万人に及ぶ。

 

 第二艦隊・第一一艦隊・第六地上軍・第五五独立分艦隊・第五七独立分艦隊は、演習に向けた訓練を進めている。初期段階では同一艦種・同一兵種ごとの訓練を行い、戦隊単位・旅団単位の練度向上を図る。応用段階では複数艦種・複数兵種による連携の強化に努め、訓練規模を拡大し、艦隊単位・地上軍単位の練度向上に繋げていく。複数軍種による統合訓練はその先にある。

 

「第一一艦隊は気合が入ってますねえ」

 

 総軍参謀長ワイドボーン大将が報告書を見て目を細めた。

 

「ホーランド提督は練兵手腕も超一流だよ。芸術的艦隊運動を成し遂げた手腕は今も健在だ」

 

 俺は得意そうに胸を反らした。部下が褒められることは、自分が褒められることよりも嬉しい。ホーランド大将が往年の手腕を発揮してくれたことも嬉しかった。

 

「他の部隊はまだまだ時間が必要です」

「一日でも早く仕上げたいもんだ」

「焦ることはありません。腰を据えて取り組みましょう」

 

 ワイドボーン参謀は拙速を良しとするタイプの用兵家だが、第一辺境総軍については長い目で見ている。客観的に見れば、他の部隊が遅れているとはいえない。第一一艦隊の向上が早すぎるのである。

 

「緊急速報です」

 

 チャイムが指令室に鳴り響き、俺の心臓が激しく飛び跳ねた。一体何が起きたのか?

 

「シャンプールのジャンガラ諸島でマグニチュード九・一の地震が……」

「なんだ、地震か」

 

 俺は胸を撫でおろした。ジャンガラの地震は二週間前から予知されていた。地震による被害が予想される地域にはほとんど人が住んでいない。わずかな住民は疎開を済ませた。津波対策もとっくに完了している。被害はほとんど出ないだろう。

 

 最近、緊急速報恐怖症になった。第一総軍管内で大事件や大災害が起きたら、俺が対処しなければならない。エル・ファシル革命政府との戦いは今も続いている。アポロニア人民党黄旗派や秋風旅団は、何をしでかすかわからない。麻薬組織メールイェンは、ライバルのカメラートに反撃する機会を伺う。宇宙海賊、反戦運動、極右民兵、分離主義者、宗教テロリスト、反移民運動、ゲルマン至上主義運動も油断のならない存在だ。惑星規模や星系規模の災害にも備える必要がある。

 

 管内でテロや大規模災害が発生しても、俺が前線指揮をとることはない。大抵は各星系警備隊や各星域軍のレベルで処理できる。重大な事態に対しては、方面軍が対処する。方面軍単独で対処できない場合は、艦隊・地上軍・独立部隊を増援として送る。総軍司令官の仕事とは、平時には危機管理体制を構築し、有事には増援を迅速かつ的確に送ることだ。

 

 第一辺境総軍は治安維持作戦と対帝国作戦を想定しているので、帝国情勢にも気を配る。総軍独自で情報収集を行う一方で、国防情報本部・中央情報局・国務委員会・同盟警察公安部と情報交換を行う。

 

 四月末に帝国で政変が発生した。摂政リヒテンラーデ公爵と首相ゲルラッハ伯爵が記者会見を開き、引退を表明したのである。先帝の叔父にあたるジギスムント大公が新摂政、最高司令官ラインハルトが新首相となった。九七歳のジギスムント大公は傀儡に過ぎず、ラインハルトが実権を掌握したとみられる。

 

 ブラウンシュヴァイク公爵夫妻は爵位と所領を返上し、夫はキルヒアイス男爵、妻はミューゼル男爵夫人を名乗った。新興男爵家は爵位保有者の末席になる慣例により、キルヒアイス男爵は貴族筆頭から末席に下がった。

 

 ラインハルトはキルヒアイス男爵を帝国軍副最高司令官に任命し、軍務省第一次官・宇宙艦隊首席副司令長官・統帥本部第一次長・無任所尚書を兼任させた。宇宙軍及び地上軍の筆頭元帥の称号も与えた。公爵位と副首相職を失ったものの、軍令と軍政の全分野に関与する権限を与えられたため、実質的な権力は増大した。無任所尚書なので閣議に出席する資格を持っている。名実ともに帝国のナンバーツーとなったのである。

 

 新体制は首相ラインハルト、副最高司令官キルヒアイス元帥、第一副首相ブラッケ侯爵、第二副首相キールマンゼク伯爵の四頭体制となった。キールマンゼク伯爵はリヒテンラーデ公爵の側近中の側近だ。リヒテンラーデ派のラング元帥とワイツ男爵、ブラッケ派のリヒター伯爵、ラインハルト派のシルヴァーベルヒ都市開発局長官が副首相に起用された。

 

 現時点では粛清は起きていないようだ。リヒテンラーデ公爵とゲルラッハ伯爵は子供に家督を譲り、フェザーンへと移り住んだ。リヒテンラーデ派の高官には、官職や爵位が引き上げられた者も少なくない。地位を退いた者には巨額の終身年金と慰労金が下賜された。「病死」や「事故死」は一件も報告されていない。

 

 不可解極まりない政変であった。リヒテンラーデ派に対する粛清の動きはない。リヒテンラーデ公爵は引退したが、リヒテンラーデ家の権力と財力は健在だ。帝国警備隊は解体されたが、ラング元帥は副首相に昇進した。近衛兵や憲兵などもラインハルト派の手に渡ったが、解任された司令官たちは十分な見返りを受け取った。リヒテンラーデ派の勢力はほぼ温存されている。何を目的とした政変なのかは明らかになっていない。

 

 同盟軍は必死になって帝国の情報を集めた。新政権の方向性がわからなければ、対帝国戦略を立てることもできない。

 

「国防情報本部より資料が届きました」

 

 ハラボフ大佐が俺のデスクの上に一冊のファイルを置いた。国防情報本部が作成した帝国情勢に関する分析書だ。

 

「随分薄いなあ」

 

 俺は不満顔でファイルをめくる。目新しい情報がまったくないし、分析にも独自の視点が見られない。

 

 対外諜報力の低下ぶりが薄っぺらなファイルに現れている。クーデター鎮圧後、再建会議に加担したアルバネーゼ系の対外諜報専門家が粛清された。その結果、同盟軍、国務委員会、中央情報局の対外諜報部門は空っぽになった。国外にいた潜入工作員は、帝国やフェザーンに亡命した。

 

 今のところ、対外諜報部門を再建する動きはない。国防委員会情報部が国防情報本部に改組された時、対テロなどの国内諜報部門を中心とする組織になった。中央情報局や国務委員会調査部を掌握した保安警察出身者は、反体制勢力の情報収集に力を入れた。統合作戦本部長ビュコック元帥は対外諜報力の強化を求めたが、相手にされなかった。

 

「先が思いやられるな」

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲みほした。空になったカップに、ハラボフ大佐が新しいコーヒーを注ぐ。コーヒーをいれるのは司令官付き当番兵の仕事だが、第一辺境総軍ではハラボフ大佐が担当している。

 

 背後も安全とは言えない。巨額の公共投資が政権支持率と経済成長率を急上昇させた。トリューニヒト政権は安定したかに見える。だが、ハイネセン学派に言わせると、「真の成長率」は急落しており、ラグナロック戦役末期の帝国よりも危険な状態だそうだ。危機感に駆られたハイネセン主義者による反トリューニヒト運動が先鋭化している。統一正義党と汎銀河左派ブロックは、フェザーンの経済進出に危機感を抱き、独自の反トリューニヒト運動を展開した。先行きは不透明だ。

 

 二人の総軍副司令官は、司令官と負担を分かち合う。完璧主義者のパエッタ大将は全体の動きに目を光らせ、間違いを修正した。温厚なヘイズ大将は司令部と現場のパイプ役を担った。

 

 幕僚チームは司令官に助言や助力を与える。処理能力に長けたワイドボーン参謀長が効率的に仕事を処理した。視野の広いチュン・ウー・チェン副参謀長が大局的な視点から分析を行った。アブダラ副参謀長は地上戦の専門家としての意見を述べた。ラオ作戦部長は作戦立案、ベッカー情報部長は情報活動、ウノ広報部長は後方支援、イレーシュ人事部長は人事管理、ファドリン計画部長は長期的な計画、マー通信部長は通信の確保をそれぞれ統括した。

 

 副官は常に司令官の脇に寄り添い、あらゆる仕事をサポートする。首席副官ハラボフ宇宙軍大佐は副官業務に精通している。次席副官ディッケル地上軍大尉は経験が浅いが、一生懸命頑張った。司令官としての仕事に専念できるのは、二人の副官が細かいことを片付けてくれるおかげだ。

 

 司令官はオフィスの外でも仕事をする。会議や式典に出席したり、配下部隊を視察したりするのだ。そういう時は副司令官が代わりに司令部を取り仕切る。副司令官が俺の代理として会議に出たり、視察に出かけたりすることもあった。

 

 多忙な司令官には、打ち合わせに割ける時間は無い。そのため、移動の合間に副官と打ち合わせを行う。

 

「交通違反防止キャンペーンの成果はまずまずだね。でも、パランティアだけは違反者が増えている。どういうことかな」

「パランティアの道路交通法は二か月前に改正されました。第一四条、第一七条、第二一条、第三四条の適用範囲が飛躍的に拡大しています。リューカスよりずっと厳しい内容です」

 

 ハラボフ大佐は俺が欲しい情報を的確に提供してくれた。

 

「君は星系法にも詳しいんだな」

「そうでなければ、お役に立てないと思いまして」

「さすがはハラボフ大佐だ」

 

 俺は感嘆の目でハラボフ大佐を見る。副官の鑑とは彼女のことだろう。

 

「指示をお願いします」

「リューカスより厳しいんだろう? 車のエンジンを掛けただけでも、罰金を取られかねない。対策が必要だね。資料を用意しておいてくれ」

 

 司令官にとっては移動時間も貴重な時間であった。知るべきことは多いのに、勉強に使える時間は少ない。昔は星系法を少し勉強したが、今は司令官としての仕事を学ぶだけで精一杯だ。勤勉な副官の存在はありがたいと感じる。

 

 第二艦隊司令部に出勤した日は、第二艦隊に関わる仕事を処理した。艦隊の運用計画を立て、兵を訓練し、規律を引き締める。第二艦隊幕僚を第一辺境総軍司令部に呼びつけた方が楽なのだが、それでは第二艦隊を軽く見ることになる。

 

 俺は週二日しか司令部にいないので、艦隊副司令官アップルトン中将の役割は極めて大きい。ジェニングス中将を副司令官補に任命し、アップルトン中将の補佐役とした。

 

 俺と同じ立場のヤン元帥は、デッシュ大将を第一三艦隊司令官代理に任命し、隊務を完全に委ねた。二週間に一回しか艦隊司令部に顔を出さないそうだ。合理的なやり方だと思うが、俺は自分で艦隊を運営したいと思った。

 

 第二艦隊幕僚チームのトップは参謀長チュン・ウー・チェン中将、ナンバーツーは副参謀長イブリン・ドールトン少将だ。俺がいない時は参謀長もいないので、副参謀長が幕僚チームを取り仕切ることが多い。兵站出身でリーダーシップのあるドールトン少将は、大任に耐え得る人物だ。パヴロヴィッチ少将を副参謀長補に任命し、ドールトン少将を補佐させた。

 

 余談だが、副参謀長補を選ぶ時にドールトン少将の希望を聞くと、「年下で未婚の美男子」という答えが返ってきた。無視したのは言うまでもない。

 

 艦隊司令官の最も重要な仕事は兵を鍛えることだ。第二艦隊は秋の統合演習で中軸を務める。可能な限り練度を高めなければならない。

 

 第二艦隊は最強の正規艦隊といわれる。旧第二艦隊出身者は、ラグナロックにもクーデターにも参加しなかったため、経験豊富な人材が生き残った。新鋭艦が多く配備されており、艦隊旗艦と分艦隊旗艦はトリグラフ級大型戦艦、巡航艦の半数がレダ級高速巡航艦という充実ぶりだ。それだけに期待も大きい。

 

「仕上がりはどうだ?」

「完成とはほど遠いですな」

 

 アップルトン中将は険しい表情を浮かべた。人参色の赤毛には白髪が混じっている。かつては立派な髭を生やしていたが、バイト先が髭を禁止していたのでそり落とした。そのため、軍人というよりは体育教師のように見える。

 

「リーダーシップの問題だね」

「その通りです」

「うちの士官はみんな真面目だ。でも、真面目なだけなんだ。規則を順守する。仕事を円滑に処理する。自分の意見は言わない。下士官ならそれだけでいいけど、士官としては物足りないね」

 

 俺はため息をつくと、高級指揮官たちの顔を思い浮かべた。A分艦隊司令官ケンボイ中将、B分艦隊司令官モンターニョ中将、C分艦隊司令官デュドネイ中将、D分艦隊司令官バルトハウザー中将、陸戦隊司令官コクラン中将……。主体性があるといえるのはコクラン中将だけだった。

 

 士官には意見を述べる責任、十分な説明を求める責任、より良い手段を提示する責任がある。自分の意見を述べない士官、疑問があっても説明を求めない士官、問題点を改善しようとしない士官は、役割を果たしているとは言えないだろう。真面目でなければ士官は務まらないが、真面目なだけでは士官は務まらない。

 

「ドーソン提督とパエッタ提督の影響ですな。二人とも手の上げ方や足の出し方まで指示するような方です」

「トップが優秀すぎると下が育たないんだ」

「部下を育てるのもトップの仕事です。ドーソン提督とパエッタ提督は、前線指揮官としても参謀としても優秀ですが、トップとしては今一つですな」

 

 アップルトン中将ははっきりと物を言うタイプだ。ロボス門下の提督は、シトレ門下と違う意味で自己主張が強い。

 

 第二艦隊の気風を形成したのが、先代司令官のドーソン提督、先々代司令官のパエッタ提督の二人であることは明らかだった。彼らは部下に意見より服従を求めた。その結果、真面目だが主体性に欠ける士官が集まった。

 

 主体性と経験の二択を迫られた俺は、経験をとることにした。高級指揮官五名のうち、第二艦隊の生え抜きから三名を選び、俺の腹心から二名を選んだ。自己主張が少ないバルトハウザー中将と使命感が強いコクラン中将なら、生え抜きとうまくやれるだろう。五名の上に立つ副司令官には、市民軍出身だが俺の色が薄いアップルトン中将を据えた。

 

「当面は生え抜き中心でやっていく。今の同盟軍では貴重な即戦力だからね。時間をかけて変えていこう」

「国防委員会の方針に反してますな」

 

 アップルトン中将が苦笑いを浮かべる。新しい人事基準では忠誠心と協調性を重視しており、主体性のない人が高く評価されるのだ。

 

「俺は方針通りにやってるんだ。国家のために諫言する軍人、国家のためにアイディアを出す軍人を作ってるんだからね」

「物は言いようですな」

「言葉は便利だよ」

 

 俺はにやりと笑い、マフィンを二個食べた。言葉の使い方にかけては自信がある。官僚的な言葉をドーソン上級大将から学んだ。感情的な言葉をトリューニヒト議長から学んだ。良い師匠に学べば、凡人だってそれなりのことはできる。

 

「ロボス閣下も同じことをおっしゃっていました」

 

 アップルトン提督も笑いながらマフィンを二個食べた。良い人なのだが、俺とロボス元帥の共通点を探したがるところが玉に瑕だ。

 

「若い連中はどうだい?」

 

 俺は話題を変えた。自分なりの評価はあるが、他人の評価も聞いておきたい。

 

「センスも意欲もありますが、経験が伴っていません」

「一人前になるまでにどれぐらいかかると思う?」

「四年か五年といったところでしょうな」

「容赦ないな」

「最大限に甘く見積もったつもりですがね。本音を言うなら、八年は必要です。機動部隊司令官には、一年以上戦隊を指揮した者が一人もいない。戦隊司令官には、一年以上群を指揮した者が一人もいない。一段階下の経験すら持ち合わせていないのです」

 

 アップルトン中将の言葉は少々辛口であったが、俺の考えとほぼ一致していた。若手指揮官の経験不足は明白である。

 

 司令官直轄部隊には将来性のある若手を集めた。第三六機動部隊司令官コレット少将は俺の元副官で、「フィリップスの一番弟子」と呼ばれる。第九一機動部隊司令官ガイヤール少将は、第二艦隊生え抜きの星だ。エリヤ・フィリップス戦隊司令官カプラン准将ら六名の戦隊司令官も、気鋭の若手提督であった。彼らの育成も大きな課題となっている。

 

 第一辺境総軍も第二艦隊も一七時に課業が終了するが、司令官の仕事は終わらない。毎日のように残業をする。夜の会議に出席したり、部外者と会食したりすることもある。

 

 早く帰ることができた日は、部下と一緒に夕食をとった。第一辺境総軍や第二艦隊ほどの大部隊になると、幕僚以外の部下と直接顔を合わせる機会は少ない。だからこそ、意識してコミュニケーションをとるように努めた。

 

 部下との食事のほとんどは外食である。そっちの方が部下にとって楽だからだ。食事代はすべて俺が払う。

 

 俺と第二二艦隊司令官シューマッハ大将は、シャンプールの人気カフェレストラン「エンド・オブ・ザ・ワールド」に入った。

 

「ケーキ、一番上から八番目まで。あと、オニオンスープ一皿、ボイルドソーセージ一〇本、ピラフ二皿」

 

 俺が注文すると、シューマッハ大将は驚いたような表情を浮かべた。

 

「小官の分まで注文なさったのですか?」

「自分の分だけだよ。君も好きなものを注文するといい」

「そうですか……」

 

 シューマッハ大将はたじろぐ色を見せた。帝国人男性はスイーツを女性や子供の食べ物だと思っている。同盟暮らしが長くても偏見を捨てきれないのだろう。

 

 注文の品が来ると、俺は口をつけた。まずはラズベリーケーキ。うまい。あっという間に全部平らげた。その次はモンブラン。うまい。さすがはシャンプールで一番うまい店だ。オニオンスープをすする。甘さの余韻が残る舌にしょっぱい味が染みわたる。あっという間に食べ終えた。

 

「ケーキ、九番目から一六番目まで。あと、ピザ三枚、ボイルドソーセージ一〇本、ポタージュ一皿」

「ケーキ、一七番目から二四番目まで。あと、トースト三個、ポテトグラタン二皿、オニオンスープ一皿」

 

 注文しては食べ、注文しては食べる。どのメニューもうまい。同じクオリティの物をハイネセンで食べようとしたら、二割増しの値段になるであろう。地方には地方の良さがある。

 

「…………」

 

 シューマッハ大将は俺の顔を不思議そうに見た。

 

「どうした?」

「いや、どうしてそんなに甘い物を食べられるのかと……」

「俺はケーキと一緒に必ず温かいものを頼んでいる。それがコツなんだ」

「…………」

「スイーツばかり食べていると、舌が甘さに慣れるよね? そうなると、スイーツの味が分からなくなる。だから、時折しょっぱい物や脂っこい物を食べて、舌の感覚を取り戻さないといけない」

「そうなのですか……?」

「舌に甘さを残さないことが大事なんだ」

 

 俺はベイクドチーズケーキを食べながら答えた。何も考えずに食べているわけではない。食事にも戦略戦術が必要なのだ。

 

「それにしても、フィリップス提督は本当に甘い物がお好きなのですな」

「これも大事な仕事なんだ」

「仕事ですか……?」

「スイーツというのは一種の嗜好品でね。スイーツが凝っているかどうかは、社会の経済的・精神的余裕を示すバロメーターになる。客層も社会を分析する上で参考になるね。スイーツを楽しむ余裕がある階層は、最も有力な消費層だ」

「なるほど」

 

 シューマッハ大将は感心するような顔をした。こんなに感心されては罪悪感を覚える。すべて後付けなのだから。

 

 部下の方から家に来てほしいと頼まれることもある。手料理を作るのが好きな人、俺を家に呼びたい人など理由は様々だった。

 

「よくお越しくださいました」

 

 コレット少将が床に正座し、膝の前に手を置き、すべての指を床につけてお辞儀をする。着ている服は一分の隙もない正装だ。

 

 テーブルの上には、マカロニ・アンド・チーズ、ジャンバラヤ、ローストチキン、シーザーサラダなどパラス料理がずらりと並んでいる。テーブルとイスはぴかぴかに磨いてある。食器はすべて高級品だった。

 

「ありがとう」

 

 俺は頑張って笑顔を作った。気合が入っているのは良いことだが、限度というものがある。ここまでくると怖い。右隣に座っているイレーシュ少将も少し困り顔だ。

 

 料理の味付けは完全に俺好みであった。どうすれば、ここまで他人の舌に合わせることができるのだろうか? 恐ろしいほどの調査能力である。

 

 家に帰ったら、ダーシャの写真に「ただいま」と声をかける。彼女がこの世にいなくなった後も挨拶は欠かさない。

 

 着替えた後に勉強の時間が始まる。士官になってからは勉強漬けの日々だった。俺は士官学校を出ていないので、基礎的な素養が欠けている。軍事学は日々進歩しており、せっかく学んだ知識もすぐに陳腐化してしまう。政治や経済の知識も必要だ。

 

 仕事を家に持ち帰ることもあった。第一辺境総軍や第二艦隊の公式サイトにかかわる仕事は、家にいる時に行う。

 

 部下に聞きたいことや伝えたいことがある時は通信を入れた。すぐ出る人もなかなか出ない人もいる。ハラボフ大佐は相変わらず画像をオフにしていた。コレット少将は風呂やトイレにも防水式の携帯端末を持ち込んでおり、俺がいつ通信を入れても五秒以内に出てくる。

 

 勉強や仕事がひと段落したら風呂に入る。シャンプールは水が豊富な惑星なので、風呂を使うことができる。一日で最も落ち着く時間だ。

 

 風呂を出たら念入りにストレッチを行う。このやり方でストレッチをしたら背が伸びると、『二五歳を過ぎても背は伸びる』という本に書いてあった。

 

 仕事がある日は二三時に寝ることにしている。宇宙軍の消灯時間は二三時だ。官舎暮らしの士官には消灯時間など関係ないが、自分も一兵士に過ぎないという感覚は忘れたくない。

 

 一時間睡眠で八時間分の睡眠効果を得られるタンク・ベッドも持っているが、時間がない時しか使わない。精神的疲労が取れないので、頭がぼんやりしてしまう。司令官は常に頭をクリアに保つべきだ。

 

 ダーシャの写真に「おやすみ」と言った後、ベッドに入って一日が終わる。今日も銀河は平和だった。明日も平和であってほしい。

 

 

 

 司令官の休日の朝は早い。早朝の五時三〇分に起床し、ランニングと筋トレで汗を流す。シャワーを浴びてから朝食をとる。

 

 休日も予定がびっしり詰まっている。勉強・トレーニング・人付き合い・行事などをこなしていく。軍服を着ていない時も司令官は忙しい。

 

 部下と一緒に遊びに行くこともあった。一番多いのはカラオケやボーリングや食べ歩きだ。ベースボールやフライングボールを観戦したり、バーベキューをやったり、日帰りで温泉に行ったりすることもある。楽しみながら部下との関係を深めていくのだ。一石ニ鳥といえよう。

 

 チーム・フィリップスは、同盟軍で最もパーティーが多いチームの一つである。体育会系ほどパーティーが好きな人種はいない。俺自身は酒を飲まないが、パーティーの空気は気に入っている。

 

 良識派はチーム・フィリップスのパーティーが強制参加だと批判するが、そんな事実はない。顔を出さない幕僚もいるし、幕僚ではないのに毎回来る人もいる。本人が来ないのに家族だけが来ることも珍しくない。シャンプールに出張した人が顔を出すこともある。チーム・フィリップスの門扉は常に開けっ放しだ。もっとも、個人主義者には窮屈かもしれない。

 

 五月上旬、退役軍人が経営するレストランを貸し切りにして、パエッタ大将の誕生パーティーを開いた。今回は家族連れOKなので、配偶者や子供を連れてくる人もいる。

 

 主賓のパエッタ大将はむすっとしているが、腹を立てているわけではない。この人はいつもこういう表情だ。酒を飲むペースを見れば、いい気分であることは推察できる。素直な若者が多いチーム・フィリップスは、彼のような説教好きには天国なのだ。

 

 俺はいろんなテーブルを回り、いろんな人と話す。司令官自らが声をかけることで、部下は「フィリップス提督は自分を見てくれる」と感じるだろう。チーム内の派閥に対する配慮もある。

 

 コレット少将とハラボフ大佐の二人は、俺からくっついて離れない。俺を暗殺者からガードするためだそうだ。ルチエ・ハッセルが俺を殺そうとした時、コレット少将が助けてくれた。アンドリューは俺を殺そうとした時、ハラボフ大佐が助けてくれた。彼女らは上官のために命をかけてくれる部下だ。

 

「でもなあ……」

 

 誰にも聞こえないような小声で呟き、コレット少将とハラボフ大佐をちらりと見る。コレット少将は、上半身が丈の短いチューブトップ、下半身がぴっちりしたデニムのホットパンツという服装だ。ハラボフ大佐は背中と胸元が大きく開いたタンクトップを着ている。素早く動きたいのはわかるが、肌を出しすぎだ。

 

 ここでやめてくれといえないのが、俺の弱いところである。ハラボフ大佐とは話しにくい。コレット少将に困っていると伝えたら、「フィリップス提督にご迷惑をかけた」と嘆き、地の底まで落ち込むので、強いことが言えなかった。

 

 困ったことはあったものの、楽しいパーティーだった。チュン・ウー・チェンがレオポルド・シューマッハに潰れたパンを食べさせたり、ジェフリー・パエッタがサンジャイ・ラオに「早く結婚しなさい」と説教したりする光景は、めったに見れるものじゃない。前の世界の戦記を読んだ人は俺を羨むだろう。

 

 パーティーが終わり、家族がいる人、遠くに住んでいる人などが帰っていく。残った人が別の店に移動して二次会を開き、それが終わった後は三次会を開いた。タンクベッドがあるので、睡眠時間を気にせずに遊ぶことができる。

 

 三次会が終わった時には空が白くなっていた。早朝のひんやりした空気が心地良い。部下たちと別れ、コンビニで買ったマフィンを食べながら駅に向かう。

 

「おい!」

 

 叫び声とともに、後頭部に空き缶らしき物がぶつかる感触がした。ぶつかった物が地面に落ちて、カーンと軽い音を立てる。

 

 何事かと驚いて後ろを向くと、三〇代くらいの背が高い男性が近寄ってきた。顔はアルコールで真っ赤、上着もズボンもぐしゃぐしゃに乱れている。どう見ても立派な泥酔者である。

 

「お前、チビだな!」

 

 酔っ払いが俺の胸ぐらを掴んだ。

 

「そうですが……」

「俺はなあ、チビと赤毛と童顔が大っ嫌いなんだよ!」

「す、すいません……」

 

 俺は反射的に謝った。今は髪を茶色に染めているので赤毛ではない。だが、チビと童顔は事実である。

 

「エリヤの奴がチビで赤毛で童顔なんだよ! あいつのせいで! くっそー!」

 

 酔っ払いは俺のファーストネームを大声で叫んだ。

 

「エリヤ……?」

 

 俺は目を丸くした。初対面の人間にファーストネームを呼ばれたことに驚いた。マスコミやファンからは「フィリップス提督」と呼ばれる。妹と区別する場合もファーストネームで呼ばれることはなく、「お兄ちゃん」と呼ばれるのが一般的だ。

 

「エリヤのせいだ! エリヤが全部悪いんだ! ちくしょう!」

 

 酔っ払いは俺のファーストネームを連呼し続けた。理由はわからないが、俺を嫌っていることだけは間違いない。

 

「人違いじゃないでしょうか……?」

「うるせえチビ!」

「すいません……」

「謝って済むと思ってんのか!?」

「いえ、そういうわけでは……」

 

 罵詈雑言を浴びながら事情を聞きだせないものかと考えていると、見慣れた人影が目に入った。一人は背が高くて胸が大きくて、髪を人参色に染めた色っぽい女性。一人は細身で髪を茶色に染めたクールな女性。別れたはずのコレット少将とハラボフ大佐が駆けつけてきたのだ。

 

 俺はコレット少将に目で「来るな」と伝えた。コレット少将はぴたりと止まり、長い腕をすっと伸ばしてハラボフ大佐を止める。

 

 別の方向から男性二人が駆け寄ってきた。一人は水色のポロシャツを着た白髪の老人、一人は青いチェックシャツを着た黒髪の壮年男性。どちらも馴染みのない顔である。

 

「マーティン! 何やってるんだ!?」

 

 二人の男性は酔っ払いをはがいじめにすると、俺から引き離そうとした。

 

「学生さんに絡むんじゃない!」

「うるせえ! 俺は赤毛のチビが大嫌いなんだ!」

「この子は茶髪だぞ!」

「赤いじゃねえか!」

「よく見ろ! 茶髪だろうが!」

「チビといえばエリヤだ!」

「この世にチビが何人いると思ってるんだ!」

 

 怒鳴り合いが続いたが、コレット少将とハラボフ大佐が男性に加勢したため、酔っ払いは俺から引きはがされた。黒髪の男性が酔っ払いを引っ張って行き、白髪の老人がこの場に残る。

 

「ご迷惑をお掛けしました。申し訳ありません」

「お気になさらないでください」

「何かありましたら、こちらまでご連絡ください」

 

 白髪の老人が名刺を差し出した。彼の名前はエドワード・ファラー、退役軍人支援団体の職員だそうだ。

 

「我々は彼の保証人を務めております。怪我をなさっていたら、当方が治療費を全額負担いたします。服が破れていたら、当方が全額弁償いたします」

「マーティンさんは退役軍人なんですね」

「はい。仕事を見付けたばかりでして。普段は真面目な男なんです」

 

 ファラー氏はマーティンが真面目だと強調する。大事にはしてほしくないのだろう。

 

「彼が口にしていたエリヤというのは、エリヤ・フィリップス提督のことですか?」

 

 俺が一番知りたかったことを聞くと、ファラー氏は困ったような顔で首を振った。

 

「違います」

「本当に違うんですか?」

「ええ、マーティンとフィリップス提督は関係ないです」

 

 ファラー氏は否定しようとしたが、結局は真実を話すことになった。事情を説明しないと、俺が納得しないと思ったようだ。

 

「マーティンはフィリップス提督の友人でした」

 

 マーティン・ミッチェルはリンチ少将の元部下で、エリヤ・フィリップスとは同僚であり友人でもあった。のっぽのマーティン、ちびのエリヤ、丸顔のジュディス・ヒルの三名は、食事時間には同じテーブルで飯を食い、自由時間には雑談し、休日には一緒に遊びに行く仲だったという。

 

「あのフィリップス提督のお友達だったんですか……」

 

 俺は他人事のように言った。エル・ファシル警備部隊や矯正区にいた時の記憶は、ほとんど残っていない。ただ、人生をやり直した時に背の高い青年と出会ったこと、ファーストネームで呼ばれたことは覚えている。あの青年がマーティンだったのだろうか。

 

「本当に仲が良かったそうですよ。リンチ少将の事件が起きるまでは」

 

 七八八年八月一五日、仲良し三人組の運命は分かれた。リンチ少将に従ったマーティンとジュディスは、帝国軍の捕虜となった。エル・ファシルに残ったエリヤは英雄となった。

 

 マーティンらエル・ファシル警備部隊隊員は、惑星バルスの矯正区に放り込まれた。劣悪な環境と過酷な労働が心身を痛めつけた。後からやってきた者がリンチ一派の所業を広めたため、他の収容者から白い目で見られた。病気、栄養失調、事故、他の収容者からの虐待により、多くの仲間が死んでいった。親友のジュディスは六年目に病気で死んだが、マーティンは生き延びた。

 

 エル・ファシル事件から一四年が過ぎ、マーティンは再び祖国の土を踏んだ。そこで目にしたのは、上級大将に出世した旧友エリヤの姿だった。

 

 マーティンは納得できなかった。自分とエリヤに差があるとは思えない。リンチ少将の部下の中で、エリヤと最後に話したのは自分だった。エリヤは出航作業中に訳の分からないことを言って走り出した。自分は作業を続けた。たった一つの選択が運命を分けたと感じた。

 

「自分がフィリップス提督と同格だと思っているんですね。勘違いもいいところです」

 

 コレット少将が形の良い眉をしかめる。

 

「マーティンはそう思っているんです」

「フィリップス提督と同格の人なんて、銀河のどこにもいません」

「彼の主観ですから」

 

 ファラー氏はコレット少将をなだめた。

 

「一四年前までは本当に同格だったんだ。今も同格だと思うのは自然なことだよ。彼はフィリップス提督の活躍を見ていないからね」

 

 俺がたしなめると、コレット少将の顔に納得の色が浮かんだ。理屈で納得させたわけではない。感情で納得させたのだ。

 

「学生さんのおっしゃるとおりです。同格意識を捨てるのは難しいんですよ」

 

 ファラー氏はため息をついて、話を再開させる。

 

「マーティンは裁判にかけられそうになりましたが、フィリップス提督のおかげで無罪になりました。名誉昇進で上等兵になり、勲章とボーナスをもらいました。このことが彼のプライドをさらに傷つけたんです」

「きついですね……」

 

 俺は心の底から同情した。その同情はマーティンをさらに傷つけるだろう。それでも、同情せずにはいられない。

 

「この話は誰にも言わないでください。マーティンは仕事を見付けたばかりです。トラブルは避けたいのです」

「わかりました」

 

 俺たちが承諾すると、ファラー氏は安堵の表情を浮かべて立ち去った。こうして早朝の奇怪なトラブルは決着した。

 

 マーティンが俺を憎む理由は理解できる。彼にとって、俺は「ありえたかもしれない可能性」なのだ。彼は俺の凡庸さを知っているが、俺の活躍を知らない。それゆえに「一つの選択が運命を分けた」と感じるのではないか。

 

 マーティンは完全に正しい。前の世界の俺は出航作業を続けたせいで逃亡者になったが、この世界の俺は出航作業を投げ出して英雄になった。英雄と逃亡者の差は紙一重に過ぎない。俺と同じことをすれば、誰だって英雄になれる。マーティンが俺と同じことをしても、俺と同じ地位を得るかどうかはわからない。それでも、英雄としてちやほやされることは確実だろう。

 

 俺が前の人生でヤン・ウェンリーを憎まなかったのは、立場の違いによる。当時の彼は中尉で、一等兵の俺から見れば雲の上の人である。また、彼はリンチ少将の命令で仕方なく地上に残った。俺にとってのヤン・ウェンリーは、「ありえたかもしれない可能性」ではなかった。

 

 隣を歩く二人の女性のことを考えた。二人とも「英雄エリヤ・フィリップス」の被害者だ。俺が英雄になったおかげで、シェリル・コレットの父であるアーサー・リンチの醜態が際立つ結果となった。俺が英雄になったおかげで、俺と仲が悪いユリエ・ハラボフは無能のレッテルを張られた。「英雄エリヤ・フィリップス」の存在が二人の可能性を奪った。

 

 光あるところに影がある。一人の英雄の影には、一〇〇人の英雄になり損ねた凡人がいる。一人の英雄の影には、一〇〇人の可能性を失った凡人がいる。遠い昔の友人がそのことを教えてくれた。




マーティンのエピソードは旧版から暖め続けていました。本来はクーデター後に入れるつもりでしたが、機を逸してしまいました。これを入れるためにも最初から書き直す必要がありました。エル・ファシルの逃亡者の本題を描くには欠かせないエピソードでした。裁判よりむしろこちらが書きたかった。やっと書けました。


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第99話:トリューニヒト劇場 802年2月26日~7月上旬 第一辺境総軍司令部~官舎~第二艦隊司令部~ビューフォート家

 ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長は、政権獲得前に出版した『同盟再建宣言』の中で持論を述べている。

 

「市民の信頼を得るには、四つのものがあればいい。一つは安定した雇用、一つは充実した福祉、一つは良好な治安、一つは将来への希望である」

「真面目に勉強すれば、誰でも就職できる。真面目に働けば、誰でも家族を養うことができる。真面目に貯金すれば、誰でも家や車を買うことができる。真面目に税金を払えば、誰でも豊かな老後を過ごすことができる。正しい社会とはそういうものだ」

「国家と企業を混同してはならない。財政収支をプラスにすることにこだわり、市民に不便な思いをさせるのは本末転倒だ。良き政府とは、市民を豊かにするために赤字を出す政府である」

「行き過ぎた自由化が格差を生んだ。強者は自分の力だけで勝ったと思い込み、弱者を侮り、『国家など必要ない』と放言する。弱者は強者を恨み、『国家は何もしてくれない』と嘆く。これでは同胞愛など生まれようもない。格差是正に全力で取り組むべきだ」

「自由な競争は一握りの勝者と多数の敗者を生み出す。競争を抑制し、産業を保護しなければ、敗者なき社会を作ることはできない」

 

 安定と平等。この二つこそがトリューニヒト議長の求めるものだった。不安定な自由よりも、不自由な安定を望んだ。自由な競争がもたらす格差よりも、押し付けられた平等を望んだ。

 

 トリューニヒト議長の「思想」に対する評価は大きく分かれた。ある者は素晴らしい理想だと称賛した。ある者は不自由な安定を良しとする姿勢を「ファシズム的だ」と批判した。ある者は平等の押し付けを良しとする姿勢を「社会主義的だ」と批判した。ある者は「こんなのは美辞麗句だ。思想と呼ぶに値しない」と切り捨てた。

 

 俺は講和問題が解決した頃のことを振り返った。三か月前のことだ。トリューニヒト支持者ですら「自分たちは騙されたのではないか」と疑い始めていた。トリューニヒト議長に指導力が欠けていることは明らかだ。魅力的な公約を掲げても、実現できなければ意味はない。

 

 同盟経済は極めて深刻な状況にあった。八〇二年二月のGDPは、ラグナロック戦役開戦直前の九一・五パーセントに過ぎない。真の失業率は三一・七パーセント、非就業者から公務員を差し引いた「見かけの失業率」は二四・三パーセントにのぼる。見かけの失業率で計算しても、一六億三五〇〇万人が失業しているのだ。

 

 慢性的な不況が格差拡大の流れを加速した。中間層人口が減少し、高所得層人口と低所得層人口がダゴン会戦以降最大となった。非正規労働者が労働者の過半数を超えた。地域格差はますます広がり、最も豊かな星系と最も貧しい星系の平均年収格差は三・四倍になった。

 

 経済的困難に加え、経済政策や講和をめぐる世論の分裂、反戦運動の過激化、相次ぐ爆弾テロや暗殺が社会不安を増大させた。同盟国内はゼッフル粒子が充満した密室と化した。

 

 二月二六日一五時三七分、トリューニヒト議長の緊急演説が始まった。放送局は通常番組を休止し、すべてのテレビとラジオが演説を放送した。建物・電車・バス・航空機・水上船・宇宙船のスピーカーからも演説が流れ始めた。国民投票が中止された一五分後のことである。

 

「市民諸君、悪夢は終わった。圧制者との戦いを継続するという決定がなされた。国家分裂の計画は潰えた。分断された人々は再び一つになった。

 

 私は諸君の望みを知っている。それは安定した仕事、十分な年金、広くて日当たりの良い住宅、安くて高性能な自家用車、気軽に利用できる病院、しっかりした学校、犯罪者がいない地域、渋滞しない道路、時間通りに運行する交通機関、期日通りに届く郵便、誰でも利用できる保育園、安く入居できる老人ホーム、手厚い介護サービスだ。

 

 私が諸君に必要なものを与えようとすると、エリートたちは反対した。『施しに慣れるよりは、飢えに慣れる方がましだ』というのが彼らの言い分だ。

 

 諸君は望みを口にすることを禁じられてきた。何かが欲しいと望んだら、『欲しいなら自力で手に入れろ』と説教された。与えてほしいと望んだら、『他人を頼るな』と説教された。答えを知りたいと望んだら、『自分で考えろ』と説教された。

 

 この国では、望みを口にすることも、他人に望みを叶えてもらうことも悪だとされてきた。自分で何でもできる者以外は見捨てられた。異常としか言いようがない。

 

 私は自由惑星同盟を正常化するための戦いを始める。市民が統治する国、市民が幸福になる国、市民の望みが叶う国を取り戻す」

 

 この演説の中に彼の姿勢が凝縮されていた。変革ではなく正常化、進歩ではなく回復を指向したのだ。

 

 最初に評議会の正常化を行った。一月三日に中央省庁再編を実施し、最高評議会は九委員会体制から一五委員会体制となったが、旧省庁の長が新省庁の長を兼ねる状態が続いていた。講和問題に忙殺されたため、内閣改造に踏み切ることができなかった。

 

 三月一日、第二次トリューニヒト改造政権が発足した。新委員会の委員長一五名がようやく任命された。これに議長一名・書記一名・無任所評議員五名が加わり、評議員の総数は二二名となる。

 

 俺は司令官室でトリューニヒト議長の記者会見を眺めた。仕事をさぼったわけではない。「国家公務員は会見を見るように」という政府の通達に従ったのだ。

 

 最初に名前があがったのは、マルコ・ネグロポンティ副議長兼国防委員長だった。軍政のトップが続投することとなった。ありがたいことである。

 

 国務委員長には、シルヴェステル・スタピンスキー大衆党政審会長が就任した。大衆党外様の重鎮で、国民平和会議(NPC)にいた頃に国務副委員長を務めたことがある。堅実な人選だろう。

 

 財政委員長には、三八歳のトリッシュ・マロニー上院議員が就任した。昨年一二月の補選で初当選したばかりだという。テロップには「ホプキンズ大学経済学部卒 元北極星銀行上席副社長」と記されている。ホプキンズ大学はフェザーン最大の商科大学、北極星銀行はフェザーン五大銀行の一つだ。フェザーン帰りの金融エリートといった経歴だ。

 

「あれ……?」

 

 俺の目はマロニー委員長の頭にくぎ付けになった。三つ編みにした金髪を頭にぐるぐる巻きにして、王冠のような形にするという変わった髪型なのだ。

 

 この髪型は前の世界でも見たことがある。戦記には登場しないが記憶の中には残っている。自分の名前を忘れたとしても、この髪型を忘れることはあり得ない。トリューニヒト政権の財政委員長だったはずだ。二つの世界で同じ人物が財政委員長を務めている。どういうことだろうか。

 

 ニキータ・イグナティエフ司法委員長の年齢を見た時、目が点になった。一二〇歳なのだ。フェザーンが建国された年に生まれたことになる。元下院議長、入閣回数は五回、最高評議会副議長やNPCが野党だった時の代表を務めたこともあるそうだ。昨年一二月の補選で三五年ぶりに政界に復帰した。史上最高齢閣僚の記録を塗り替えるための人事だろう。

 

 天然資源委員長、社会福祉委員長、産業開発委員長、国土開発委員長、情報通信委員長、国土保安委員長には大物議員が就任した。大衆党の大物といっても、旧体制なら若手や中堅に分類される人だが。

 

 環境保全委員長のジャネット・パストーレ上院議員は、故ディエゴ・パストーレ元帥の三女にあたる。パストーレ元帥の評価は年を追うごとに高まり、今では「パストーレ元帥が生きていれば、同盟軍はラグナロックで完勝しただろう」と言われるほどになった。父親の名声が一九歳の少女を閣僚に押し上げたのである。

 

 国民教育委員長には、タレント文化人出身のエイロン・ドゥメック下院議員が就任した。バラエティ番組で「愛国心のない教師は全員解雇しろ!」などと叫んでいた人が、教育行政のトップになった。

 

 労働雇用委員長、食料資源委員長には若手の政策通が起用された。労働と農業にはまともな人を置きたいと思ったのだろう。

 

 科学技術委員長には、大衆党副代表アントン・ヒルマー・シャフト上院議員が就任した。前の世界の戦記にも登場した人だ。帝国軍技術総監を務めていたが、帝都陥落の二か月後に降伏し、貴族身分を捨てて名前から「フォン」を外した。同盟政界を巧みに泳ぎ回り、帝国時代に勝る出世を成し遂げた。

 

 ジャッキー・チャン最高評議会書記は続投することとなった。この人とボネ情報通信委員長が議長の知恵袋と言われる。

 

 宣伝担当評議員のウィリアム・オーデッツ上院議員は、右翼系のニュースキャスターだった。口が達者な人なので、宣伝担当は適任だろう。

 

 帝国対策担当評議員のマルティン・ブーフホルツ下院議員は、二六歳という年齢と帝国の元政治犯という経歴が目を引いた。どこかで聞いた名前のような気もする。ラインハルトやキルヒアイスと同い年だが、たぶん関係ないだろう。

 

 テロ対策担当評議員のベルトラン・デュビ下院議員は、三か月前まで憂国騎士団の団長を務めていた。極右民兵のボスがテロ対策担当というのは悪い冗談だ。

 

 消費者行政担当評議員のテオドール・フォン・ベルツ下院議員、防災担当評議員のエドナ・ルディシャ上院議員は市民軍の英雄である。ベルツ評議員は亡命者であった。一八歳のルディシャ評議員は史上最年少評議員となる。

 

 最高評議会メンバーの平均年齢は五〇歳。一二〇歳六か月のイグナティエフ司法委員長を除く二一名の平均年齢は四五歳。一〇代の評議員は二名、二〇代の評議員は三名、三〇代の評議員は六名で、評議会の半数を四〇歳以下の若手が占める。

 

 能力は未知数だが、良い意味でも悪い意味でも「何かやってくれそう」と思える顔ぶれだ。トリューニヒト議長にしかできない人事だろう。

 

 閣僚名簿が発表された後、トリューニヒト議長の演説が始まった。張りのある美声が新しい戦いの始まりを告げた。

 

「本日よりブラック企業に対する戦いを開始する。ブラック企業による殺人と略奪は、自由惑星同盟に対する侵略行為だ。総力をあげて反撃し、奴隷化された市民を解放し、奪われた国富を取り戻さなければならない。

 

 過去二年間において、ブラック企業に殺された市民の数は、帝国やテロリストに殺された軍人の数をはるかに上回る。これは組織的な虐殺だ。ブラック企業と呼ぶのは生ぬるい。殺人企業と呼ぶべきだ。

 

 殺人企業との戦いには、利用できるすべてのリソースを投入する。すべての国家公務員に殺人企業への攻撃を命令する。すべての同盟加盟国に殺人企業への攻撃を要請する。最大限の軍事力と警察力を殺人企業に叩きつける。

 

 我々は勝利するまで決して止まらない。すべての殺人企業を潰すまで戦い続ける」

 

 記者会見の一時間後、大手外食チェーン「スズカ」の全店舗に労働基準監督官が踏み込んだ。労働基準監督官が引き揚げると、保健所員が踏み込んだ。保健所員が引き揚げると、消防署員が踏み込んだ。

 

 スズカは殺人企業の代表格である。過労死の多さ、離職率の異常な高さ、未払い賃金の多さ、抱える訴訟の多さで悪名高い。創業者のミセル・ボースマ会長は、経営者であると同時に政治家・思想家・芸術家・社会奉仕家でもあり、従業員に対する冷酷さとマイノリティに対する慈悲深さで知られる。これほど狙いやすい標的はない。

 

 国家とスズカの戦争が始まった。労働基準監督署・保健所・消防署の波状攻撃により、店舗が次々と営業停止に追い込まれた。税務署がスズカの役員とその家族への強制捜査を行った。

 

 世論はトリューニヒト議長に味方した。殺人企業は従業員に過重労働やただ働きを強要し、安全管理や衛生管理を無視し、多数の死者や傷病者を出した。数々の悪行にも関わらず、ビジネスの自由という建前によって保護されてきた。保守派の中には合理的だと称賛し、積極的に擁護する者すらいた。そんな企業が叩かれることは喜ばしい。

 

 スズカには何をしてもいいという風潮が生まれた。右派マスコミやネットユーザーがネガティブキャンペーンを展開した。財政委員会は銀行に融資を引き揚げるよう圧力をかけた。司法委員会は被害者やその遺族に裁判費用を与え、スズカを訴えさせた。大衆党員、労働組合員、憂国騎士団団員が店舗の前に陣取り、客が入れないようにした。

 

 ボースマ会長個人に対しても熾烈な攻撃が行われた。同性愛者であるにもかかわらず、幼女九九人を強姦した容疑をかけられた。脱税・横領・詐欺・業務上過失致死・株価操作・外為法違反など三八の容疑で全銀河指名手配を受けた。資産はすべて凍結された。フェザーンへの亡命申請は却下され、自治領主府からも指名手配を受けた。

 

 このようなやり方に異論を唱える者がいなかったわけではない。コーネリア・ウィンザー議員は、保守派の立場からスズカを擁護し、「スズカ攻撃はビジネスの自由に対する攻撃」だと述べた。ジョアン・レベロ議員は、「どのような理由があっても、私刑は許されない」と訴えた。

 

 戦争開始から二か月後、スズカは七万三〇〇〇店中の六万九〇〇〇店が営業停止、従業員一一〇万人中の一〇五万人が退職、役員四五人中の三八人が拘留中という惨状に陥った。

 

 五月二〇日、俺は国防委員会の命令でアスターテ星系を封鎖した。ボースマ会長がイゼルローン回廊に入ろうとしている。イゼルローン総軍はスズカ攻撃に消極的だ。イゼルローン総軍のひねくれ者が、ボースマ会長を匿うかもしれない。イゼルローン経由で帝国に亡命することもあり得る。何としてもここで食い止めなければならない。

 

 五月二一日、ボースマ会長のクルーザー「マルキ・ド・サド」を捕捉した。軍艦二万隻がクルーザー一隻を取り囲み、降伏勧告を行う。

 

「君は完全に包囲された。逃れる余地はない。速やかに降伏せよ」

「やってみないとわからんさ」

 

 ボースマ会長は精悍な顔に不敵な笑みを浮かべると、総軍旗艦に向かって直進し、ビームの雨の中に消えた。敬礼したくなるほどに見事な最期であった。

 

「正義は必ず勝つのだ!」

 

 同盟全土が「絶対悪」の破滅と「絶対善」の勝利を祝う声で満たされた。政府が主催する祝賀式典には大勢の市民が集まった。

 

 下院にボースマ会長の死を祝う決議案が提出された日、ジョアン・レベロ議員は抗議演説を行った。

 

「ボースマ氏の死とは何か? それは民主主義の敗北だ。彼が犯罪者ならば、しかるべき手続きを踏んで告発するべきだった。

 

 人間は等しく権利を持っている。犯罪者が相手であってもそれは変わらない。相手の権利を尊重することを忘れ、限度以上の罰を加えれば、権力は暴力と化す。

 

 ボースマ氏と彼の会社に対して加えられた攻撃は、三〇〇以上の法律に違反している。ルールを擁護すべき立場にある者が、率先してルールを破った。政府と市民が超法規的なリンチを行ったのだ。これを恐怖政治と言わずして何と呼ぶのか?

 

 悪を滅ぼしたいという感情が民意なら、議会によって作られた法律も民意の表れだ。法律を尊重しよう。理性を取り戻そう」

 

 この警告に耳を貸す者はいなかった。議場では野次を浴びせられ、死を祝う決議案は賛成多数で成立した。市民からは殺人企業擁護だと曲解された。

 

 スズカとボースマ会長の破滅を目の当たりにした市民は、トリューニヒト議長のリーダーシップを見直した。一つの行動は百万の言葉よりも雄弁だった。

 

 スズカを滅ぼした後も、殺人企業への攻撃が止まることはない。量販店「スワンプマート」、レストランチェーン「ハピネス」、宅配便会社「エリューセラ・パーセル・サービス」など悪名高い企業が徹底的に叩かれた。

 

 潰れた殺人企業の店舗はフェザーン企業に買収された。元従業員の多くもフェザーン企業に雇われてまともな待遇を得た。

 

 殺人企業に苦しめられてきた低所得層は、トリューニヒト議長を真のヒーローだと考えた。政権支持率は急上昇を始めた。

 

 

 

 殺人企業と戦っている間、トリューニヒト議長は次々と正常化政策を打ち出した。必要な予算はフェザーンからの借金で賄った。

 

 マロニー財政委員長、ヤムナーム中央銀行総裁、ブゼレジ経済顧問会議議長の三名が、正常化政策の中心となった。財政委員長と中央銀行総裁はフェザーン帰りの金融エリート、経済顧問会議議長はフェザーン帰りのワトソン派経済学者という布陣だ。

 

 雇用の正常化政策は、膨大な失業者の救済を目指した。公共事業や軍拡による雇用創出を図り、国家公務員を大幅に増員し、二億人に仕事を与えた。地方政府に人件費補助金を与え、地方公務員の新規雇用を促した。

 

 労働の正常化政策は、労働者の権利を強化し、賃金上昇を促すことを目指した。非正規労働者の正社員化を進め、解雇規制を強化し、労働者の地位を安定させた。最低賃金は三〇パーセント引き上げられた。労働運動を制限する法律を撤廃し、下からの賃上げ圧力を強めた。長時間労働、残業代未払いなどに対する規制が飛躍的に強化された。

 

 福祉の正常化政策は、低所得層や社会的弱者の救済を目指した。生活扶助金、失業手当、障害者年金、公務員年金が増額された。昨年夏に復活した公的老齢年金や公的医療保険は、充実したものとなった。低所得層向けの無料医療、高齢者や障害者向けの公的介護サービスなども拡充された。

 

 辺境の正常化政策は、地域格差の解消を目指した。辺境政府への補助金が大幅に増額された。辺境振興事業で雇用を作った。食糧管理法を制定し、農産物の生産調整を行い、農産物価格の維持と農業惑星の経済安定を図った。水産物・鉱産物・林産物に関しても生産調整を実施し、価格維持と生産地の経済安定を目指した。新移民(ラグナロック開戦以降に移住した帝国人)による辺境開拓事業は、完全に中止された。

 

 税の正常化政策は、高所得層の負担増と低所得層の負担軽減を目指した。低所得層への課税最低限額が引き上げられ、非課税世帯が大幅に増加した。所得税の税率が変更され、低所得層への課税は軽くなり、高所得層への課税は強化された。配当・利子・地代など不労所得にかかる税金は、凄まじく高額なものとなった。法人税・相続税・贈与税なども引き上げられた。

 

 ハイネセン主義者には、正常化政策は容認しがたいものだった。自助努力を重視する和解推進運動、自由競争を最優先する民主主義防衛連盟(DDF)、個人主義を重視する反戦・反独裁市民戦線(AACF)が反対に回った。

 

 反正常化という点では一致したにも関わらず、ハイネセン主義勢力は団結できなかった。AACFが和解推進運動やDDFとの共闘を拒んだのである。もっとも、ハイネセン主義三党の議席を合計しても、全国会議員の二割に過ぎない。団結したところで、抑止力としては弱すぎた。

 

 七月上旬、同盟経済は急速に上向き始めた。見かけの失業率は二四・三パーセントから二〇・六パーセントに低下し、四半期別のGDP成長率は年率換算で五パーセントを叩き出した。いずれもラグナロック以降では最良の数字だ。賃金水準は七九八年以来の高水準を記録した。

 

 トリューニヒト政権の支持率は五か月で二八パーセント上昇し、七月の支持率は六二パーセントとなった。経済状況の改善が寄与したことは言うまでもない。

 

「トリューニヒト政権は盤石だ」

 

 俺は満足しながらテレビを眺めた。凡人のための政治が現実となった。七年前、トリューニヒト議長が酒場で語った理想は本物だったのだ。

 

 良い気分で家を出た後、公用車に乗り込んだ。その前後には護衛が乗った車が三台ずつ付いてきた。シャンプール知事がハイネセン訪問中に暗殺され、エル・ファシル革命政府が犯行声明を出したので、護衛を四台増やしている。

 

 俺はクロワッサンを食べながら新聞に目を通す。司令官にはぼんやりする余裕などない。移動中は情報を仕入れるための時間だ。

 

 新聞は明るいニュースに彩られていた。地上車や住宅の売上げは急増している。大都市では高層建築物の着工が相次いだ。繁華街には賑わいが戻りつつある。新卒学生の就職は昨年よりもはるかに容易になった。予算不足で中断されていたプロジェクトが次々と再開された。

 

 マンタル三丁目に差し掛かったところで渋滞に巻き込まれた。少し苛立ちを覚えたが、顔には出さない。

 

「渋滞なんて久しぶりですねえ」

 

 ドライバーのジャン三等准尉は後部座席の方を向き、口を大きく開けて笑った。

 

「そうだな」

「最近はスムーズすぎて怖いぐらいでした。二月頃はしょっちゅう渋滞してたんですが」

「言われてみるとそうだ」

 

 ようやく俺は苛立った理由に気付いた。渋滞のない生活に慣れ始めていたのだ。

 

「トリューニヒト先生のおかげですよ。交通管制システムに大金をぶちこんでくださったから」

「お金があるっていいよね」

「まったくです。うちも車を買い替えました。一四年ぶりですよ」

「ボーナスで買ったのか?」

「ええ、たっぷりもらいましたから」

 

 ジャン准尉は嬉しくてたまらないといった感じだ。トリューニヒト議長の政策がこんなところまで影響を及ぼしている。

 

 自分の選択が正しかったと結論付けると、俺は再び新聞に視線を戻した。新聞を読む時間が増えると思えば渋滞も悪くない。

 

 シャンプールの交通管制システム入札に関わる汚職の記事が、いい気分に水を差した。交通管制システムの更新は、渋滞を減らしたが汚職を増やした。

 

「また汚職か」

 

 ため息をついて他の記事を読む。視線を右に動かすと、水資源開発事業をめぐる汚職の記事が目に入った。視線を左に動かすと、新型装甲服調達をめぐる汚職の記事が目に入った。金が動けば利権が生まれる。公共投資と国防費の増大は、経済を活性化させる一方で、政治家や官僚に汚職の機会を与えた。

 

 どの記事にもウォルター・アイランズ大衆党幹事長の名前が出てきた。大衆党は利権屋の巣窟だが、彼の腐敗ぶりはひときわ目立っていた。

 

「またこの人か」

 

 俺はアイランズ幹事長に良い印象を持っていなかった。議会には顔を出さないのに、談合の席には顔を出す。市民軍にまったく貢献しなかったのに、英雄気取りでマスコミに登場する。無能や臆病は仕方がないが、無責任は容認できない。

 

 前の世界のウォルター・アイランズは悲運の政治家だった。議員人生の大半を利権屋として過ごしたが、七九九年の帝国軍侵攻の時に覚醒し、本土決戦を指導した。バーラトの和約直後に病気で倒れ、八〇一年に亡くなっている。本土決戦で活力を使い果たしたのだといわれた。だが、この世界では何の期待もできないだろう。彼個人にとっては幸福かもしれないが。

 

 国際面には帝国情勢の記事が載っている。一つはラインハルト襲撃事件の続報、もう一つは帝国の内部対立に関する記事だ。

 

 ラインハルトは生きていた。八日前、オフレッサー元帥ら一〇名がメイドに変装して首相府に忍び込み、ラインハルトを襲った。だが、キルヒアイス元帥の活躍により、かすり傷一つ負わなかった。式典の最中だったので、キルヒアイス元帥以外に銃を持っている者はいなかったそうだ。

 

 ラインハルト派の内部対立は、オーベルシュタイン上級大将がニダヴェリール総監として転出することで決着した。急進改革派の中心人物がいなくなったことで、ラインハルト派は穏健化路線へとかじを切った。奴隷解放案は退けられ、代わりに奴隷虐待を禁じる法律が制定される。奴隷制を維持しつつ待遇改善を図る路線を選択したのだ。

 

 銀河の国力比は、二月の時点で帝国四二:同盟四四:フェザーン一四となっていた。同盟以上に帝国が落ち込んだ。現在はさらに差が開いているだろう。帝国は無理をしない路線を選んだため、経済を根本から改革するのは難しい。いずれは帝国四〇:同盟四八:フェザーン一二に落ち着くものと思われる。

 

 この世界の帝国は前の世界と異なる歴史を歩みだした。七九九年に変異性劇症膠原病の治療法が見つかったので、ラインハルトが病死することはない。キルヒアイスは健在である。アンネローゼはキルヒアイスと結婚し、現在は妊娠している。ラインハルト夫人も妊娠しているので、二人とも来年には父親になる見通しだ。また、リヒテンラーデ公爵は引退する前に、キルヒアイスとアンネローゼの夫婦を皇帝の傳役とした。この状況で簒奪することは考えにくいだろう。

 

 ページをめくると、クーデター裁判の記事が目に入った。ブロンズ元大将が昨日の公判で黙秘権を行使したという。

 

 現在の焦点は「誰がボーナム攻撃の謀議に関わったのか?」だった。ボロディン元大将にボーナム攻撃を決断させたのは、財界人と財政官僚だと言われる。だが、決断を促した人物の名前がわからない。容疑者は山ほどいるが、ボロディン元大将が自殺し、他の被告人が黙秘しているため、決定的な証言が得られなかった。

 

 容疑者として逮捕された財界人や財政官僚のほとんどは、証拠不十分で釈放されたり、反乱幇助という軽い罪で処分を受けたりした。沈黙が市街戦の首謀者を救った。

 

 クーデター加担者は財界や官界から追放された。釈放された者も地位に留まり続けることはできなかった。計画段階から関与したとされる財政委員会は、幹部職員の六割が反乱幇助罪に問われ、懲戒免職となった。今はそれで納得するしかない。

 

 前の世界では、救国軍事会議の背後関係は判明しなかった。帝国の工作員がクーデターを仕組んだとか、そういう話ではない。クーデターの規模から考えると、相当数の財界人や官僚が計画段階から関与していたはずだ。しかし、軍人以外の首謀者は特定できなかった。史料が少なかったせいで、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』は、救国軍事会議を軍人だけの組織として描かざるを得なかった。

 

 俺はクロワッサンを食べて心を落ち着けた。全容を明らかにするのは難しいとわかっていても、良い気分ではない。

 

 気分を取り直し、ラグナロック戦犯裁判の記事を読んだ。グリーンヒル予備役大将、コーネフ予備役大将ら五名は、自分の責任については認めたものの、それ以外のことについては言葉を濁している。キャゼルヌ予備役中将ら四名は、関与の度合いが低いとの見方が濃厚だ。ロボス退役元帥は病気のために出廷しなかった。

 

 冬バラ会の責任については、グリーンヒル予備役大将らの証言により、世間のイメージよりずっと小さいことが判明した。幕僚チームの一員として謀議に関わっていたことは事実だ。しかし、遠征軍を動かすほどの権限はなかったらしい。

 

「うーん……」

 

 反応に困った俺は、クロワッサンを食べた。冬バラ会の責任が軽くなったのは良いことだ。しかし、政財界の戦犯を引きずり出せなかった。

 

 戦犯裁判が始まる二週間前、グリーンヒル大将と少しだけ話した。俺が「本当のことを言ってほしい」と頼むと、彼は首を横に振った。

 

「それはできない」

「なぜです?」

「この国を守るためだ」

 

 そして、グリーンヒル大将は小声で呟いた。「トリューニヒトより左側にいる者と、レベロより右側にいる者が政財界から根こそぎになる。それだけは避けねばならん」と。

 

 ラグナロック戦役が選挙のための出兵だったのは、誰でも知っている事実だ。遠征推進派は、トリューニヒト議長より左側(穏健右派)とレベロ議員より右側(穏健左派)で占められていた。極右と極左の脅威が、穏健派に史上最大の作戦を決意させた。そこまでは知っていても、穏健派が丸ごと関与しているというのは予想外だった。グリーンヒル大将らが口を閉ざすのも無理はない。右翼の俺ですら、急進派しかいない国は危ういと思う。

 

 黒幕を引きずり出せないのは残念だが、前の世界よりはましだと考えることにした。前の世界では、アンドリュー・フォークが一人で戦争を起こし、一人で同盟軍を壊滅させたかのように言われた。しかし、この世界ではロボス元帥らの責任も認められた。

 

 新聞を閉じ、親友アンドリュー・フォークのことを思い浮かべた。今年の一月から憲兵隊が管理する病院に移り、療養生活を送っている。

 

 アンドリューは自分がやったことに深い責任を感じているらしく、精神的に立ち直るには時間がかかりそうだ。完全に回復したら、身の振り方を考えることになるだろう。二度と軍服を着るつもりはなくて、民間への就職を目指すという。その時は全面的に協力するつもりだ。俺は八〇歳からやり直した。三二歳の彼ならやり直せる。

 

 新聞を読んでいるうちに渋滞が終わり、第二艦隊司令部に到着した。今日は艦隊司令官としての仕事を処理する。

 

 今の第二艦隊にとっては、帝国軍よりも内部からの腐敗の方が大きな脅威だった。いじめ・暴力・セクハラが増加しつつある。部隊の地方移転は、辺境経済を活性化させたが、軍と住民のトラブルの引き金になった。軍人と業者の癒着、サイオキシン汚染も大きな問題だ。

 

 軍規の緩みは同盟軍全体に共通する問題である。国防委員会は前例と世間体を何よりも重視する。そのため、事なかれ主義、形式主義、責任逃れが横行するようになった。

 

 報告書を読んでいると、シトレ元帥とその弟子が軍を仕切っていた頃が懐かしくなる。彼らは事なかれ主義と形式主義と責任逃れを何よりも嫌った。プライドを守ることよりも、不祥事を公表することを選んだ。こういう姿勢がいじめや体罰を激減させたのだ。

 

「過去を振り返っても仕方がない。頑張ろう」

 

 俺は綱紀粛正に取り組んだ。取り締まりを強化する一方で、隊員のストレス軽減を図り、硬軟織り交ぜた施策をとる。

 

 今の体制では、不祥事を公表すると「軍の体面を傷つけるな」と言われるし、病巣を抉ろうとすると「組織の和を乱すな」と言われる。劇的な改善は望めないだろう。それでも、一パーセント減らすだけで数十人が救われる。

 

 仕事が終わった後、ビューフォート中将の家で夕食をとった。この家の料理は大雑把な味付けだが量が多い。小柄な俺には食べきれないほどだ。

 

「子供が五人もいたから、味付けに気を遣う余裕がなかったんですよ」

 

 キュートなビューフォート夫人が白い歯を見せて笑う。

 

「結婚前はもっと大雑把だっただろうが」

 

 ダンディーなビューフォート中将がぶっきらぼうに言う。だが、彼の顔を見れば、大雑把な料理に愛着を持っていることが見て取れた。

 

 料理を満腹になるまで食べた後、俺が食後のコーヒーをいれた。三人でコーヒーを楽しみながら会話を交わす。

 

 ビューフォート中将は第一辺境総軍の若手提督を批評し、「ランド君は根性がない」「ウガルテ君は単純すぎる」などと切り捨てた。

 

「見込みがあるのはコレット君だけですな」

「ずいぶん高く買ってるんだな」

「悪い要素が一つもないでしょう」

「まあね」

 

 俺はにっこりと笑った。部下が褒められることは嬉しい。自分が見出した部下ならなおさらだ。

 

「エル・ファシルにいた時は、大した人材ではないと思っていたんですがね。第一一艦隊に来てから急成長した。あなたの指導が良かったんですな」

「俺はチャンスを与えただけだ。後は彼女自身の努力だよ」

「努力を引き出すのは司令官の器量です」

 

 ビューフォート中将は俺を褒めた後、「自分には器量はないようですが」と付け加えた。彼より部下をまとめるのがうまい提督は滅多にいない。だが、部下を伸ばす力は今一つだった。

 

「コレット少将の将来が楽しみだよ。シミュレーションで俺を破ったしね」

「あなたに勝っても自慢にならんでしょう」

「彼女の用兵は大したもんだったぞ。君も見てただろう。火線の敷き方が本当にうまかった。ウランフ元帥を思い出したよ」

「私は別の人を思い出しました」

「誰に似てるんだ?」

「あまり言いたくないのですが。聞きたくない名前でしょうから」

「構わないよ」

 

 俺は笑いながら答えた。おそらくアッテンボロー大将あたりだろう。彼に似ているのなら喜ばしいことだ。面倒な人だが名将であることは間違いない。

 

「リンチ提督です」

 

 ビューフォート中将の口から思いがけない名前が飛び出した。コレット少将の実父であり、かつては俺とビューフォート中将の上官だった人物だ。

 

「そ、そうなのか……?」

「一瞬、目を疑いました。戦い方が本当に似ていましたので」

「偶然だろう」

 

 俺は即座に否定した。コレット少将とリンチ提督の関係は隠さなければならない。

 

「悪い意味で言ってるわけではありません。リンチ提督は卑怯者ですが、用兵家としては一流でした。あの件がなかったら、宇宙艦隊司令長官になってもおかしくは……」

「全然似てない」

「…………」

 

 ビューフォート中将が驚いたように俺を見る。二倍の大軍に奇襲された時ですら見せないような表情だ。

 

 微妙な空気が流れた時、ビューフォート夫人が「コレット少将といえば……」といって、カプラン准将の名前を出した。俺とビューフォート中将の表情が緩んだ。すべての人から「馬鹿だが憎めない奴」と思われている提督は、名前が出るだけで場を和ませる。

 

 つけっぱなしのテレビから、「宇宙軍史上最年少の巡航艦艦長が誕生しました」という声が流れた。全員の視線が画面に向けられる。

 

「レダ級巡航艦「カストール」に就任することになったのは、二一歳のテレサ・オルランド少佐です。昨年の六月に士官学校を卒業して少尉に任官。褐色のハイネセン攻防戦の戦功により一一月に中尉に昇進。国内平定戦に加わり、今年の一月に大尉に昇進。巡航艦カストール艦長への就任に伴い、少佐に昇進。一年で三階級昇進したことになります」

 

 アナウンサーはオルランド少佐の経歴を紹介する。クーデター以降に二階級昇進した人は山ほどいるが、三階級昇進は珍しい。

 

「艦長職も安くなったものですな」

 

 ビューフォート中将はため息をついた。叩き上げの軍艦乗りにとって艦長職は聖職だ。

 

「ローエングラム公爵は一六歳で巡航艦の艦長になったよ」

「エル・ファシルから脱出した後でしょう? 奪った駆逐艦で数百光年を縦断したんです。軍艦乗りなら誰だって納得します」

「まあ、オルランド少佐は悪くない」

「わかっています。悪いのは子供を持ち上げる大人です」

「市民の支持が必要なんだ。税金を払うのは市民だからね。スポンサーを満足させないと……」

 

 俺はトリューニヒト議長を必死で弁護する。

 

「それはわかっていますがね。兵士を満足させる人事をやってもらわないと困ります」

 

 ビューフォート中将は苦々しさを隠そうとしない。サプライズ人事の乱発にうんざりしているのだ。

 

「議長にとって軍隊は人気取りの道具です。国防をまじめに考えているとは思えません」

「反戦派よりましじゃないか。予算はたっぷりもらえるんだ」

「飢え死にするよりは、利用される方がましですな」

 

 ビューフォート中将はため息をついた。トリューニヒト議長は信用できないが、反戦派はもっと信用できないのだ。彼のような人が、トリューニヒト政権に消極的な支持を与えていた。

 

「昔より良くなっているんだ。今はそれで満足しよう」

 

 俺はにっこりと笑った。何事にも良い面と悪い面はある。完全でないことを嘆くよりも、一歩前進したことを喜びたい。世界は確実に良くなっている。



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第100話:俺の正義、議長の正義、みんなの正義 802年7月10日~8月下旬 ブレツェリ家~第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグ

 トリューニヒト政権は帝国を敵視する姿勢をとっているが、行動はきわめて内向きである。政権発足以降、越境侵入などの軍事的挑発を控えている。兵力の大半を対テロ作戦や対海賊作戦との戦いに注ぎ込んだ。帝国の反体制勢力に対する支援は打ち切られた。国外での情報活動を縮小させ、国内での情報活動を拡大した。

 

 内向きの姿勢は国防政策にも反映されている。地域別総軍の創設、機動運用戦力の地方移転、国内基地の整備、戦艦戦力の削減、軽量部隊の増設などは、防衛的な政策といえるだろう。

 

 データだけを見ると、トリューニヒト政権はこの一〇年で最も平和的な政権であった。レべロ政権は難民を受け入れたことで帝国から反発された。だが、トリューニヒト政権は難民を問答無用で追い返した。口先では帝国を厳しく非難するのに、行動は妥協的なのだ。

 

 一部にはトリューニヒト議長を平和主義者だとみなす意見もある。フェザーンに亡命したブラウンシュヴァイク派高官が公表した機密文書によると、帝国の情報機関はトリューニヒト議長を「平和主義者」に分類しているそうだ。

 

「トリューニヒト議長は戦う気がないのか?」

 

 このような疑問を口にする人もいる。口先では戦争を煽るのに、実際は守りを固めるだけだ。言動が一致しないと違うと思うのも無理はない。

 

 義父ジェリコ・ブレツェリ少将も疑問を感じる者の一人だった。七月一〇日にブレツェリ家を訪ねた時、愚痴を聞かされた。

 

「トリューニヒト議長は何を考えてるんだ?」

「国内を固めるつもりです」

 

 俺はきっぱりと断言した。

 

「支持率稼ぎの出兵はあるだろう」

 

 義父の考えは常識的なものだ。主戦派政治家にとって、出兵ほど手軽な人気取りはない。旧連立政権は行き詰まるたびに出兵を行った。

 

「トリューニヒト政権には、ばらまきという選択があります。出兵をしなくても支持率稼ぎができるんです」

「じゃあ、軍拡は何のためにやっている? 帝国に勝つためじゃないのか?」

「長期国防計画が定めた軍拡期間は一〇年。そして、トリューニヒト議長は『戦力が整うまでは外征しない』とおっしゃいました。トリューニヒト政権が長期政権になっても、五年以上続くことはありません。つまり、任期中は外征する気がないんです」

 

 俺はトリューニヒト議長の真意を説明した。軍拡と出兵は必ずしもイコールではない。本気で出兵したいのならさっさと出兵するはずだ。現時点でも同盟軍の優越は揺るぎない。軍拡計画は出兵を避けるための方便なのだ。

 

「軍拡はやりたいが、戦争はやりたくない。そういうことか?」

「その通りです。あの人にとって軍拡は経済政策の一環。同盟経済は軍需を中心に回っています。軍需が活気づいたら、経済も活気づきます」

「七七〇年代と同じだな。ウェーバー派が同盟を牛耳った時代だ」

 

 ブレツェリ少将の表情に苦いものが混じる。中年以上の同盟市民にとって、七七〇年代は不快な思い出だ。

 

 七七〇年代の同盟は腐りきっていた。不正献金と賄賂が政治を左右した。選挙資金の額が選挙結果を左右した。政治家・官僚・高級軍人・企業家は協力して利権を拡大していった。国家予算と国家債務が凄まじい勢いで増えた。こうした動きの中心にいたのが、国民平和会議(NPC)最大派閥のウェーバー派だったのである。

 

「本当に腐った時代だった。与党は汚職にまみれていた。野党はやる気がなかった。変えたいのに変えられない。民主主義は無力だと感じたものだ」

「腐ってたけど、出兵は少なかったですよ」

「それは否定できん」

「格差が今より少なかったこともご存知でしょう」

「まあな」

 

 ブレツェリ少将は渋々といった感じで認めた。七八〇年代や七九〇年代と比べると、七七〇年代は平和だった。そのことは誰にも否定できない。

 

 腐った時代は人が死なない時代でもあった。第二次イゼルローン遠征は七六九年、ウェーバー派の政権掌握は七七〇年、反ウェーバー派の台頭は七七九年、第三次イゼルローン遠征は七八三年のことだ。

 

 腐った時代は平等な時代でもあった。軍需と公共事業はブルーカラーの所得を引き上げ、所得格差を縮小させた。都市の金を辺境にばらまく政策は、地域格差を縮小させた。

 

「戦争なき軍拡こそが安定につながるんです」

 

 俺はトリューニヒト路線が正しいと力説した。リベラリストの急進的な政策は、対外的な平和を実現できるが、国内を分裂に導くだろう。保守派の穏健な政策は、国内的には混乱を招き、対外的にはラグナロックを引き起こした。反動政策がベターなのだ。

 

「財政はどうする? ばらまく金がなくなればおしまいだぞ」

 

 ブレツェリ少将が痛いところを突いてきた。財政難がウェーバー派を失墜させた。ばらまく金がなくなった時、トリューニヒト議長も失墜するだろう。

 

「大丈夫です。フェザーンのバックアップがあります」

 

 俺は抽象論で逃げた。

 

「フェザーンから借金できなくなったらどうする? 財政赤字は凄まじい額だ。貸せないと言われても文句は言えん」

「トリューニヒト議長ならうまくやります」

「私は君ほど楽観的になれんよ」

「でも、緊縮よりはましです」

「そうだがなあ……」

 

 ブレツェリ少将は椅子に腰かけ直すと、ぬるくなったコーヒーをすする。ばらまきには不安を覚える。だが、緊縮に期待できないことも分かっているのだ。

 

 七八〇年代、ハイネセン主義改革は夢と希望の象徴だった。ハイネセン主義に回帰し、財政再建と政治浄化を進めれば、民主主義は蘇ると思われた。

 

 反ウェーバー派はハイネセン主義改革を標榜した。オッタヴィアーニ議員、ヘーグリンド議員、ドゥネーヴ議員、バイ議員、ムカルジ議員ら「ジャスティス・ファイブ」は、ウェーバー派によるNPC支配を打破するために戦った。ホワン議員ら進歩党若手議員は、ウェーバー派の放漫財政を批判し、財政再建と利権構造打破を訴えた。税金の無駄遣いを嫌う都市中間層、腐敗を憎むインテリ、ビジネスの自由を求める多星間企業が、反ウェーバー派を後押しした。

 

 七八七年にジャスティス・ファイブが主導権を握り、七八九年にNPCと進歩党による改革派連立政権が発足した。「共和制防衛と財政再建のための超党派十字軍」の誕生である。

 

 改革の夢は裏切られた。経済は衰退し、格差は広がり、地域対立が深まった。低支持率に苦しむ連立政権は、人気取りのための出兵を頻繁に起こした。ジャスティス・ファイブはビッグ・ファイブとなり、権力争いを繰り広げた。レベロ議員やホワン議員は、閣僚として手腕を発揮したが、議長としては成果を出せなかった。

 

 結局のところ、政治は行き過ぎと揺り返しの連続である。ある路線が失望を買ったら、それとは正反対の路線に期待が集まる。ある指導者が反感を買ったら、それとは正反対の性格を持つ指導者に期待が集まる。ウェーバー派の失敗は改革派の台頭を促し、改革派の失敗はトリューニヒト派の台頭を促した。

 

「トリューニヒト議長は大丈夫ですよ。どこかでブレーキを掛けるはずです」

 

 俺はブレツェリ少将にそう語った。分析ではなく願望に基づいた意見だ。これ以上過激になったら後戻りできなくなる。そうなる前にブレーキを掛けてほしい。

 

「掛けなかったらどうする?」

「その時は……」

「力ずくで止めるかね? 君にはできんだろう」

「…………」

 

 何も言えなかった。完全に図星だったのだ。

 

「ダーシャが言っていたよ。『エリヤは致命的な欠点を持ってる。相手が望まないことができないところだ』と」

「おっしゃるとおりです」

 

 俺は大きく息を吐いた。他人の望みを見抜くことはできる。望みに沿った解決案を提示することもできる。だが、望んでいないことはできない。

 

「これまでは、トリューニヒト議長の正義と君の正義は一致していた。だが、今後もそうだとは限らんぞ」

「一致し続けてほしいと願っています」

 

 今は願うことしかできなかった。この場にダーシャがいたら、「エリヤの欠点は願望と予測を混同するところだね」と笑っただろう。

 

 

 

 トリューニヒト政権が新しく打ち出した政策は、ラディカル極まりないものだった。後戻りする意思などひとかけらも見られない。

 

 治安の正常化政策は、強硬な犯罪対策を目指した。補助警察官の正規採用、退役軍人の大量採用などにより、警察官を二六〇〇万人から三三〇〇万人に増やした。街頭や室内の防犯カメラが三倍に増えた。自警団に補助警察官資格と武器を与え、警察力として活用する。同盟刑法が改正され、星間犯罪に対する刑罰が異常に重くなった。地方警察に軍艦や装甲車や戦闘ヘリを与えた。

 

 教育の正常化政策は、個人主義撲滅と愛国心の育成を目指した。忠誠・献身・団結など右翼的な価値観を重点的に教えた。自立心・自己責任などリベラルな価値観は軽視された。歴史教科書には栄光の歴史を記し、負の歴史を無視した。義務教育の教材費・給食費などを完全無料化する一方、大学の学費を引き上げた。レベロ政権時代に導入された「帝国語」や「異文化理解」の科目を廃止し、同盟と民主主義の優越性を教える「祖国理解」の科目を設けた。義務教育課程の生徒には、運動部・スポーツ少年団・ボーイスカウトのうち、いずれかに加入することが義務付けられた。

 

 移民の正常化政策は、移民の同化を目指した。移民の子供に対する帝国語教育が禁止された。帝国文化やフェザーン文化に対する助成金を打ち切った。移民に無審査で市民権を授与する「ホワン法」によって市民権を得た帝国出身者二億人に対し、市民権再審査を行うこととなった。

 

 その他、大学生に対する予備士官養成課程の受講義務化、軍隊に入隊していない兵役対象者に対する労働奉仕の義務化、市民権を持たない難民三億人の強制送還、反共和思想を取り締まる「公共安全局」の設置などが決定された。

 

 新しい政策の特徴としては、秩序と団結の強調、多様性の否定、自由と権利の制限などがあげられる。それは全体主義の特徴でもあった。

 

 トリューニヒト議長は強権化を進めると同時に、悪との戦いにも力を注いだ。相手の立場や権利には考慮せず、手続きを省略し、問答無用で叩き潰す。旧体制が手出しできなかった権力者は、より強大な力によって蹂躙された。自由の名のもとに野放しだった殺人企業や金融家は、指一本動かすことすらできなくなった。権利に守られてきた犯罪者は、安全地帯から引きずり出された。

 

 八〇二年上半期に最も憎悪された「コーディアルの鬼畜」は、裁かれない悪の典型であったが、制裁を逃れることはできなかった。

 

 今年の一月、ハダド星系のコーディアル市で男子中学生が自殺した。残された遺書、加害者が面白半分で公開した暴行動画などから、いじめが自殺の原因なのは明らかである。だが、学校は「いじめはなかった」と言い張り、調査を実施しなかった。教育委員会や警察も学校の言い分を鵜呑みにした。一方、マスコミの取材に応じた生徒は停学処分を受けた。

 

 隠蔽としか思えない対応が市民を激怒させ、コーディアルへの批判が巻き起こった。加害生徒を「コーディアルの鬼畜」と呼び、その個人情報をネットに書き込んだ。校長、市教育長、市警察本部長の三名は、「三匹の税金泥棒」と呼ばれた。一方、校長を殴って重傷を負わせた者、教育委員会の建物にペンキをぶちまけた者、教育長の自家用車を叩き壊した者、学校の内部資料を流出させた者は、義士として称賛を浴びた。

 

 トリューニヒト議長はコーディアル事件の再捜査を命じた。現地警察が隠蔽に関わった恐れがあるとの理由で、同盟警察が捜査を担当することとなった。ハダド星系政府とコーディアル市政庁が「主権侵害だ」と抗議すると、「子供を守れないのに何が主権だ!」と叱りつけた。

 

 捜査の結果、自殺はいじめによるものだと裏付けられた。また、主犯が大衆党星会議員マルタ・シンドロンの長女であること、シンドロン議員が学校や警察に圧力をかけたことも判明したのである。

 

 制裁を求める声が広がり、憂国騎士団が動いた。加害生徒と担任教師を拉致し、自殺した生徒が受けたいじめと同じ内容の拷問を行った。シンドロン議員や三匹の税金泥棒の自宅に乗り込み、窓ガラスや家具を叩き壊し、家族全員に土下座を強制した。これらの「制裁」を映した動画は、市民の溜飲を大いに下げた。

 

 大衆党執行部はシンドロン星会議員を「我が党の恥」と呼び、永久除名処分とした。最も重い処分を課したのだ。

 

 トリューニヒト議長はハダド星系政府に対し、加害者への制裁と義士の恩赦を求めた。いじめは星間犯罪ではないため、同盟政府が口を出す権利はない。だが、この要求を内政干渉だと批判できる者はいなかった。

 

 結局、コーディアルの事件は世論の全面勝利に終わった。加害生徒は暴行・傷害・脅迫・恐喝・強制わいせつなどの容疑で逮捕された。いじめを助長した担任教師は、懲戒免職及び教員資格永久剥奪の処分を受け、脅迫などの容疑で逮捕された。シンドロン議員は辞職に追い込まれ、証拠隠滅などの容疑で逮捕された。隠蔽に関わった教員や警察官は懲戒免職となった。四人の義士が恩赦を受けたことは言うまでもない。

 

 市民はトリューニヒト議長を「現代のミト・コーモン」と呼んだ。ミト・コーモンは西暦時代の世直しヒーローで、勧善懲悪の代名詞とされる。武力によって悪を制圧した点が似ているという。

 

 反トリューニヒト派も現代のミト・コーモンという言葉を使ったが、こちらは皮肉混じりだ。ミト・コーモンは目についた悪を叩き潰すだけで、構造的な不公正を改めようとしない。その点がトリューニヒト議長とそっくりなのだそうだ。

 

 いずれにしても、市民の大多数はトリューニヒト議長を支持した。悪を制裁する。憎たらしい奴を叩きのめす。これほど痛快なことはない。

 

「諸君! 私に力を与えてくれ! 悪を滅ぼすには力が必要だ!」

 

 トリューニヒト議長が支持を訴えると、市民は拍手喝采をもって応じた。全体主義への不安がなかったわけではない。だが、期待はそれ以上に大きかった。

 

 良識ある人々は危機感を募らせた。政府が強権化の道を突っ走っているのに、民衆は止めようとしない。それどころかばらまきと勧善懲悪劇を歓迎する有様だ。ルドルフに簒奪された銀河連邦の運命が自分たちの頭上に降りかかるのではないか。

 

 哲学者ボルジャンニ博士ら良心的知識人三六名が、民主主義精神を啓蒙する団体「ハッサン・エル=サイド運動」を結成した。ハッサン・エル=サイドは、宇宙歴四世紀の共和派政治家で、民衆がルドルフの恐ろしさを理解していないことを嘆いた人物だ。

 

「政治に興味を持てば、民衆はトリューニヒトの正体に気付くはずだ」

 

 ハッサン・エル=サイド運動は啓蒙活動に取り組んだ。文章を書き、テレビに出演し、ウェブ動画番組で議論し、民主主義に関する正しい知識を説く。

 

「自由と権利より大事なものはない」

「自分たちのことは自分たちで決める。それが民主主義だ」

「政治を人任せにしてはいけない」

「多様な価値観を尊重しよう」

「耳触りのいい言葉を疑え」

「目先の利益ではなく、長期的な視点で考えよう」

 

 彼らの正論はインテリから熱烈な支持を受けたが、それ以外の人々には無視された。難解な上に退屈だったのである。

 

 銀河史学者ダリル・シンクレア教授は、最高評議会庁舎に赴き、トリューニヒト議長に自分が書いた本を二冊贈った。一冊は『銀河連邦崩壊』、もう一冊は『民衆政治家ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム』だ。

 

「歴史に学んではいかがでしょうか」

「私は民衆から学んでいるよ」

 

 トリューニヒト議長は笑いながら本を返した。「お前は歴史を知らない」という皮肉に、冗談で応じたのだ。一週間後、シンクレア研究室の研究者全員に対し、研究補助金打ち切りの通知が送られた。

 

 八月五日、同盟議会に「良心法」が提出された。公務員の思想調査を目的とする法律だ。市民軍系や旧ロボス派が「軍人は軍人であるというだけで十分に愛国的だ」と主張したため、軍人は適用対象外となっている。

 

 良心法採決の前日、ジョアン・レべロ議員が下院において演説を行った。その内容は切実な危機感に溢れていた。

 

「トリューニヒト議長は、『我が国は危機にある。だから、非常手段もやむを得ない』と言う。だが、非常手段はあくまで非常のものである。非常手段が日常化した時、独裁が始まる。

 

 四九二年前のことを思い出してほしい。銀河連邦の議会は、非常手段だと言ってルドルフ・フォン・ゴールデンバウムに帝冠を与えた。市民は自らの手で自由を投げ捨てたのだ。

 

 法律が常に市民の味方であるとは限らない。条件が揃えば、誰でも法律を利用できる。独裁者が権力を握った時、法律は鞭となって諸君を打つだろう。良心法は未来のルドルフに武器を与える法律だ。決して容認するべきではない」

 

 レべロ議員は必死になって独裁の危機を訴えたが、返ってきたのは大衆党議員の野次だった。結局、良心法は賛成多数で成立したのである。

 

 反戦・反独裁市民戦線(AACF)による腐敗批判、ハイネセン学派経済学者によるばらまき批判、平和将官会議による軍拡批判、ソクラテス部隊による論破攻勢が勢いを増した。言論の砲火がトリューニヒト政権を滅多打ちにした。

 

 それでも、トリューニヒト政権の支持率は上がり続ける。ばらまきと勧善懲悪は正論よりもずっと強かった。

 

 八月上旬、良識派ブロガーPerestroika氏が、「さよならデモクラシー」という題名の記事をアップした。

 

「ぼくは当たり前のことを言ってるだけだ。政治家はサンタクロースでもないし、ミト・コーモンでもない。政治は万能薬じゃない。自分たちの問題は自分たちで解決する。政治は環境とルールを整えるための手段。正しい政治とは目立たない政治だ。市民の生活に介入しない政治、自由な環境を守る政治が本物の政治だよ。トリューニヒトの政治は完璧に間違ってる。

 

 政治や経済について正しい知識を持っていれば、反トリューニヒトにならざるを得ないんだ。トリューニヒト支持者に真実を知ってもらいたかった。真実を知れば目覚めると思ってた。

 

 ぼくは真実を伝えようと努力した。きついことを言っているという自覚はあるよ。でも、真実とは苦いものなんだ。みんなの理性は苦さを受け入れる。そう信じていたんだ。

 

 でも、現実は違った。いくら真実を伝えても、みんなは耳を貸そうとしない。お説教はたくさんだとばかりに耳を塞ぎ、トリューニヒトの甘い言葉を聞こうとする。

 

 結局、みんなは真実なんてどうでもいいんだろうね。今が良ければそれでいいって思ってる人ばかりなんだ。自由とか民主主義とかには興味がないんだ。トリューニヒト支持者は知識がないんじゃなくて、理性がないんだね。よくわかったよ。

 

 この国は衆愚主義になってしまった。サンタクロースとミト・コーモンの国になった。理性は消えた。民主主義は死んだ。さよならデモクラシー」

 

 Perestroika氏の文章からは、わかってもらえないことへの怒りと失望が伝わってくる。だが、他人をわかろうとしなかったことへの反省はなかった。それどころか、「理性がない」と罵る有様だ。その傲慢さがトリューニヒト議長の勝利を招いたというのに。

 

 俺は二人の人物からこのブログを見せられた。一人は部下のメッサースミス准将、もう一人は恩師のドーソン上級大将だ。

 

 メッサースミス准将は、Perestroika氏に同情していた。誰だって自分と同じ考えを持つ人には甘くなる。頭のいい人は理屈で物を考えるので、甘くなる度合いが大きい。Perestroika氏の傲慢さを不快に思っても、発達した理性が「あの人の言うことは正論だから」で許してしまう。

 

 ドーソン上級大将は俺に通信を入れると、ブログを指さして「負け犬がわめいているぞ!」と嘲笑った。七年前、Perestroika氏は、「ドーソン閣下、それは下士官の仕事ですよ!」という記事を書き、ごみ箱チェックを批判した。そのことをずっと根に持っていたのだ。

 

 批判者が知性を頼りにしている間は、トリューニヒト政権の優位が続くだろう。リベラル勢力の人気者にしても、知性によって支持されたわけではない。ヤン元帥は戦争に強いから支持される。レベロ議員の支持者の半数は、「無教養でわがままな連中」が緊縮政策で痛めつけられることを望む人々だ。結局のところ、敵をぶん殴る力が決め手になる。

 

 

 

 八月二一日、第一辺境総軍の第二艦隊・第一一艦隊・第六地上軍・第五五独立分艦隊・第五七独立分艦隊がシャンプールを出発した。イゼルローン総軍との統合演習を行うため、イゼルローン回廊を目指す。

 

 参加部隊の中にはハイネセンから臨時に派遣された部隊がいくつかあった。その中の一つが、妹のアルマを指揮官とする第一八特殊作戦群「ショコラティエール」だ。地上軍最強戦士のアマラ・ムルティ少将は、第一八特殊作戦群司令部付将官として参加する。

 

「大丈夫かなあ……」

 

 俺は参加者の名簿を眺めた。一番の心配事はイゼルローン総軍とのトラブルだ。総軍副司令官パエッタ大将、第一一艦隊司令官ホーランド大将らは、イゼルローンの旧良識派に嫌われている。総軍副参謀長アブダラ中将は、ヤン元帥を告訴したことがある。第二艦隊副司令官補ジェニングス中将は、ヤン元帥とムライ大将とパトリチェフ大将を恨んでいた。

 

「大丈夫です。みんな大人ですから。あいつらとは違います」

 

 総軍参謀長ワイドボーン大将が皮肉たっぷりに答えた。一番トラブルを起こしそうな人物に大丈夫と言われても安心できない。彼はヤン元帥やアッテンボロー大将と仇敵の間柄だ。

 

 第一辺境総軍とイゼルローン総軍の間には根強い確執がある。元市民軍、トリューニヒト派、旧ロボス派を中心とする第一辺境総軍には、規律と礼儀にうるさい軍人が多い。旧良識派を中心とするイゼルローン総軍には、自由奔放な軍人が多い。正反対の気質を持った部隊が隣り合っているのだ。仲良く付き合うのは困難であった。

 

 また、第一辺境総軍はイゼルローン総軍の監視という非公式の任務を帯びている。イゼルローンには、指向性ゼッフル粒子を装備した工作艦が一隻も配備されておらず、機雷除去能力は極めて低い。一方、アスターテを守る第二二方面軍には、銀河最大の機雷戦部隊が配備されており、三〇分で回廊出口を塞ぐことができる。第二二方面軍司令官のメイスフィールド大将は、ヤン元帥と仲が悪いため、些細な欠点も見逃すまいと目を凝らす。

 

 パエッタ副司令官とチュン・ウー・チェン副参謀長は、「イゼルローン総軍は、第一辺境総軍の監視を命じられているはずだ」と推測する。トリューニヒト政権が採用する分割統治と相互監視の原則に則るなら、イゼルローン総軍が監視を命じられるのは当然だという。

 

 しかし、トリューニヒト議長がそんなことをするはずがない。九年前から強い信頼関係で結ばれているのだ。俺はトリューニヒト議長を信じたい。いや、信じたいじゃなくて信じる。

 

 同盟軍内部ではトリューニヒト派の主導権が確立された。国防委員会は独力で二一〇〇万人送還を成し遂げたことに自信を持ち、実戦部隊への統制を強めた。憲兵隊や国防監察本部が監視網を張り巡らせる。人事交流の名目で軍に出向した警察官僚、寄る辺のない帝国出身者が非公式の監視役を務める。巨大な利権を握る後方勤務本部と技術科学本部は、トリューニヒト派の牙城と化した。

 

 トリューニヒト議長はクーデターを防ぐため、無力な人物をあえてトップに据えた。統合作戦本部長ビュコック元帥と国防事務総長ルフェーブル元帥は、一流の用兵家だが政治力は皆無に近い。統合作戦本部ナンバーツーのメネンディ上級大将は、有能な事務屋だが人の上に立つ器量はない。国防委員会事務総局ナンバーツーのリバモア上級大将は、派閥を渡り歩いてきた人物で、いざとなったら逃げだす人物とみられている。

 

 この頃になると、人気重視人事の裏にある意図が表面に現れた。ファルストロング伯爵が言うところの「位打ち」である。勇敢だが政治力に欠ける司令官たちは、部隊をまとめることができなかった。混乱を意図的に作り出すことで、トリューニヒト議長と国防委員会の優位性を確立した。軍人が団結して反乱することを防ぐ狙いもあった。

 

「やることがせこいよね」

 

 妹は俺のマフィンを勝手に食べつつ、トリューニヒト政権の方針を批判した。

 

「現職の統合作戦本部長がクーデターを起こしたんだ。軍を警戒するのは無理もない」

「クーデターを防げても、外敵を防げなかったら意味ないよ」

「しばらくは攻めてこないさ」

 

 俺は政府の公式見解をそのまま口にした。国防情報本部、中央情報局、フェザーン高等弁務官事務所が「帝国に外征の兆候なし」と言っている。

 

「信用できるの? 最近の情報機関はだめだめじゃん。ガセネタばかり掴んでる。フェザーンマスコミの方がまだ信用できるよ」

「信じるしかない。他の情報ルートはないから」

「私も動かないと思うけどさ。改革の真っ最中だし」

 

 妹も結論としては俺と同意見だった。客観的に見れば、帝国が攻めてくると考える材料は見当たらない。

 

 同盟が急速に専制化する一方、帝国では緩やかに改革が進んだ。奴隷解放、社会秩序維持局の廃止、思想犯と政治犯の釈放、報道の自由化などは、「混乱を招く」との理由で見送られた。その代わり、奴隷虐待の禁止、重罪犯以外に対する拷問の禁止、不敬罪の罰則軽減、報道規制の緩和などが定められた。

 

 貴族領の財政破綻を防ぐため、領地運営資金を貸し付ける特別金融公庫に巨額の公的資金が注入された。この措置により、一〇〇〇を超える貴族領が行政機能停止を免れたのである。

 

 帝国法の根底にあった「一〇〇〇人の無実の人を有罪にしてもいいから、一人の罪人を逃すな」という原則が緩和された。これまでは、犯罪者を捕らえるために民間人を巻き添えにしても構わないし、死傷者を出しても罰を受けることはなかった。だが、今後はある程度の罰則が設けられる。

 

 帝国軍再編は小規模なものに留まった。当初は私兵軍や予備役部隊の解体、貴族出身将校の大量解雇などが予定されていた。戦力にならない部隊や老朽化した兵器を整理し、浮いた国防費を近代化に回す予定だったのだ。しかし、大量の失業者が出ることが予想されたため、リストラは見送られた。

 

 軍規の「犠牲を恐れずに最大限の戦果を求めよ」という原則を廃し、「最小限の犠牲で最大限の戦果を求めよ」という原則に切り替えた。これまでの帝国軍では、五万人の犠牲で敵兵一〇万人を殺した指揮官よりも、二〇万人の犠牲で敵兵一五万人を殺した指揮官の方が高く評価された。それゆえに帝国軍の貴族将校は兵の命を粗末にした。しかし、今後は犠牲を抑えた指揮官の方が高く評価される。

 

 穏健な改革のキーマンは、帝国軍副最高司令官キルヒアイス元帥だ。もともとは開明一辺倒の人物だったが、あらゆる意見を聞くべきだと考え、保守的なラング元帥やキールマンゼク伯爵とも話すようになった。その結果、急進的な改革は危険だという結論に達し、緩やかな改革を志した。

 

 ファルストロング伯爵に意見を求めたところ、「帝国の赤毛は言いくるめられたな」と笑って答えた。彼が言うには、寛容な人・賢明な人・柔軟な人ほど言いくるめやすいのだそうだ。寛容な人はどんな意見にも耳を傾ける。賢明な人は理屈に弱い。柔軟な人物は持論にこだわらない。説得のプロである官僚から見れば、キルヒアイス元帥ほど与しやすい相手はいないらしい。

 

 俺が「帝国の官僚と会ったら、俺も言いくるめられるんですかね?」と聞くと、ファルストロング伯爵は「大丈夫じゃよ。卿は馬鹿で頑固だ」と答えた。正しい評価だと思った。俺が賢明で柔軟だったら、レベロ議員を支持したはずだ。

 

 同盟の知識人たちはゆっくりと変わりつつある帝国を羨んだ。トリューニヒト政権を嫌い、帝国に亡命した者もいた。

 

 だが、俺から見れば帝国の改革は遅すぎる。前の世界では、ラインハルトの政権掌握から四か月以内に、奴隷解放、社会秩序維持局の廃止、思想犯と政治犯の釈放、報道の完全自由化、特別金融公庫の廃止、貴族財産の没収と平民への再分配、私兵軍の完全解体、無能な貴族将校の解雇などが実現した。保守勢力と協調するキルヒアイス元帥の存在が、改革にブレーキをかけた。

 

 ラインハルトのリーダーシップが制約されることは、同盟にとっては幸運であった。あの天才が制約から解き放たれたら、豪腕をもって旧弊を一掃し、強大な軍隊と効率的な官僚機構を短期間で作り上げるだろう。ラインハルトの権力は小さいほどいい。

 

 むしろ、同盟国内の方が心配だった。最も熱烈なトリューニヒト派を自認する俺ですら、危ういものを感じる。

 

 スズカを倒した時は、多少行き過ぎた程度だと思っていた。冤罪のでっち上げ、過剰なネガティブキャンペーンなどは問題だ。それでも、殺人企業の残虐ぶりは知っているし、生半可な手段で倒せる相手ではないので、非常手段のうちだと自分を納得させることもできた。ボースマ会長のクルーザーを撃沈した件については、野党から相当批判された。だが、降伏勧告を拒否して突進してきた以上は、規定に則った対応をせざるを得ない。

 

 今の行き過ぎは多少どころではない。ぎりぎりでグレーゾーンに留まっているが、限りなく黒に近い。余裕のある状況でも、乱暴な手段を使う。公然と法を破る一歩手前といったところだ。

 

 トリューニヒト議長が過激な行動をとり、市民が賞賛する。それを繰り返すうちに、市民はさらに過激な行動を求め、トリューニヒト議長もそれに応えようとする。両者が相互作用を起こし、暴走していった。

 

「どうするんだろう……」

 

 俺は落ち着かない気分だった。同盟全体がジェットコースターに乗っているかのようだった。経済と治安が比較的安定しているので、国家の根幹が揺らぐことはないだろう。それでも、今の状況はまずい。

 

 不安を紛らわそうと思い、副参謀長チュン・ウー・チェン中将の意見を聞いた。「パン屋の二代目」と称されるのんきな風貌、緊張感のない声、ポケットに入っている潰れたパンは、俺の心を落ち着かせてくれる。

 

「これからどうなるのかな?」

「私にもわかりません。今の議長はブレーキが付いていない自動車です」

「ダーシャも同じようなことを言ってたね。気流に乗る凧だって」

「軽くてどこにでも流されるという意味ですか?」

「良くわかったね」

 

 俺は軽く微笑むと、潰れたチョコドーナツをもらって食べた。ちょうどいい潰れ具合である。

 

「悪人ではないんでしょうね。もしかしたら善人かもしれない。しかし……」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はいったん言葉を切り、ぬるくなったカフェオレを飲む。パンを食べながら話すとのどが渇きやすくなるのだ。

 

「悪人であった方がましかもしれませんよ」

「どういう意味だ?」

「善意や使命感でおかしなことをやらかす可能性があります」

「考えたくないなあ」

 

 俺が苦笑いを浮かべた。

 

「今は考えなくてもいいですよ。考えたところで読めませんし」

「君の割り切りぶりが時々うらやましくなる」

「他に考えるべきことがあります」

「なんだい?」

「あなたの正義とトリューニヒト議長の正義が食い違った時、どちらを選ぶのか」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は、のんびりした顔できわどい問いを突き付ける。

 

「食い違わないと願いたいね」

「いずれ食い違いますよ」

「なぜそう言い切れる?」

 

 周囲に誰もいないのに、俺は声を潜める。

 

「あなたは秩序と規律の申し子、トリューニヒト議長はルール破りの常習犯です。ぶつからない方がおかしいです」

「…………」

「それでも、あなたはトリューニヒト議長を選ぶでしょう。あなたの辞書に裏切りという言葉はない」

「そうなるだろうなあ」

 

 無意識のうちに顔が綻んだ。トリューニヒト議長と対立せずにすむことに安心を覚える。

 

「では、仲間の正義とトリューニヒト議長の正義が食い違った時、どちらを選びますか?」

「…………」

 

 それはあまりにも深刻すぎる問いだった。トリューニヒト議長を裏切れないのは、彼が「仲間」の一人だからだ。トリューニヒト議長と別の仲間が対立したら? どちらかを取らねばならない時が来たら?

 

「あなたの仲間の中には、トリューニヒト議長と相容れない者が少なくありません。食い違うことは十分にあり得ますよ」

「そうだな」

 

 俺は仲間たちの顔を思い浮かべた。幕僚や部下にはトリューニヒト嫌いが少なくない。チュン・ウー・チェン副参謀長のような性格なら、対立を避けることもできるだろう。しかし、妹のような性格なら、衝突することはあり得る。

 

「トリューニヒト議長と仲間が対立し、和解の余地がない。あるいはトリューニヒト議長が仲間を一方的に潰そうとする。こういう状況になったら、あなたはどちらを助けるんです?」

 

 ここで「どちらを裏切るのか」と言わないところが、チュン・ウー・チェン副参謀長の優しさだろう。

 

「すまん、わからないと答えていいか?」

「結構ですよ。その時にならないとわからないでしょうしね」

「ありがとう」

 

 俺は軽く頭を下げた。相談に乗ってくれたこと、逃げを許してくれたこと、そして彼が自分の参謀であることに深く感謝した。

 

 仕事が終わった後に自室に戻ると、端末から呼び出し音が鳴った。発信者欄にはとても懐かしい名前が映し出されていた。直接通信するのは一年ぶりだ。

 

「ああ、俺を信じていてくれたんだ」

 

 俺は喜びに震えながら通話ボタンを押す。一秒たりとも相手を待たせたくない。一秒でも早く相手の顔を見たい。様々な感情が胸の中を踊り狂う。

 

 画面に懐かしい顔が現れた。すっきりとした鼻筋、垂れ目気味の目、きれいに撫でつけられたくすんだ茶髪を持つ壮年男性が微笑みを浮かべる。ヨブ・トリューニヒト議長だった。



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第101話:忠誠の意味 802年8月下旬~9月9日 第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグ~ティアマト星系第四惑星ラハム

 トリューニヒト議長の微笑みは、少し温かみに欠けるように見えた。親しく付き合ってきた者だからこそ、微妙な違いが分かる。

 

「フィリップス君、久しぶりだね」

「ご無沙汰しております」

 

 俺は笑顔で答えたが、内心では少しだけがっかりした。ファーストネームで呼んでもらえなかったからだ。わだかまりが残っているのだろうか。

 

「君に極秘任務を頼もうと思ってね」

「どのような任務でしょう?」

「最高評議会はヤン・ウェンリー元帥を首都に召還し、査問にかけることを決定した。フィリップス提督にはイゼルローン総軍を預かってもらいたい」

 

 トリューニヒト議長が口にしたことには既視感があった。自分が体験したことではない。前の世界で同じような事件が起きた。

 

 前の世界の七九八年、国防委員会はイゼルローン方面軍司令官ヤン・ウェンリー大将を召還し、非公式の査問にかけた。名将をいい加減な理由で召還したこと、違法な査問会を行ったこと、査問中に帝国軍が攻めてきたことなどから、トリューニヒト政権の愚行の一つとされる。

 

「査問会ですか……」

 

 俺は確認するように言った。悪い予感がしたが、表情には出さない。

 

「イゼルローンでは、これといった事件は起きていないはずですが」

 

 言葉の裏に「公開の査問会ですよね?」という意味を込めた。同盟法には査問会に関する規定が存在しない。違法ではないが法的拘束力もないのだ。公開要求を拒否する法的根拠がないため、公開で行うことが慣例となっていた。

 

「ヤン元帥が反乱を企んでいるとの情報が入ったんでね。事情を聴くための査問会だよ」

 

 トリューニヒト議長は事も無げに答えた。食後のおやつを選ぶ時でも、もう少し迷いがあるんじゃないかと思える。

 

「……冗談ですよね?」

 

 俺は冗談であってほしいと願いつつ質問した。冗談としても面白くない。トリューニヒト議長ならもっと面白い冗談が言えるはずだ。

 

「残念ながら本当だ。君の監視は少々甘すぎたようだね」

 

 トリューニヒト議長の静かな声が、俺の願いをあっさりと打ち砕いた。

 

「少なくとも決起間近ではないはずです。昨日の時点では、イゼルローン総軍に大きな動きは見られませんでした」

「今は疑惑の段階だ」

「確証はないんですね?」

「事情を聴くための査問会だよ」

 

 トリューニヒト議長は微笑みながら話をはぐらかす。

 

「査問会は事件が起きた後に開くものです。事情を聴くだけなら、ヤン元帥を召還する必要はありません。イゼルローンの憲兵に任せれば十分でしょう」

 

 俺は査問会の必要性を否定した。「ヤン元帥が反乱を起こすはずはない」と言っても、トリューニヒト議長は聞き入れないだろう。査問会は必要ないと主張した方が見込みはある。

 

「最高評議会が直々に尋問したいんでね」

「疑惑があるというだけで査問会を開くんですか? 市民が納得しないですよ」

 

 嫌な予感がするものの、それでも俺は公開の査問会という前提で話を続ける。

 

「納得させる必要はない」

「どういうことです?」

「査問は秘密で行う」

 

 トリューニヒト議長は秘密の査問会を開くと言い切った。政府が違法行為に手を染めると明言したに等しい。査問会は秘密保護法の適用対象外である。違法な手段を用いなければ、査問会の秘密を守ることはできない。

 

「おやめください!」

 

 俺はうろたえて叫んだ。トリューニヒト政権はぎりぎりでグレーゾーンに留まってきた。合法だと強弁する余地は残されていた。しかし、これは完全な真っ黒だ。

 

「違法行為に手を染めるおつもりですか!?」

「フェザーンとの債務繰り延べ交渉が難航していてね。『不安定要素を取り除かない限り、繰り延べには応じない』というのが向こうの言い分だ」

「ヤン元帥が不安定要素なのですか?」

「彼は反体制思想の持ち主で、才幹・名声・野望を兼ね備えている。ゼッフル粒子が服を着て歩いているようなものではないか」

 

 トリューニヒト議長が口にしたのは、彼の個人的見解というより、軍部良識派と反戦派を除く全勢力の共通見解である。

 

 ヤン元帥ほど誤解される人間はいないだろう。雑用嫌いは「功績を立てることしか考えていない」、反権威主義は「自分以外の権威を認めない」、非社交的な態度は「妥協なき信念」、地位や金銭への淡白さは「飽くなき野心の表れ」と受け取られた。本人が弁解を面倒くさがったため、虚像が独り歩きするようになった。右翼や保守派は彼の「野心」を恐れた。反戦派は彼の「信念」に期待した。庶民は彼を強いリーダーだと考えた。

 

「その点には同意します。確かに彼は危険人物です。しかし、それだけの理由で排除するのはおかしいですよ」

 

 俺は「ヤンの野心」を信じるふりをして説得を続けた。耳を貸してもらうための苦肉の策だ。

 

「フェザーンの要求は内政干渉じゃないですか。聞き入れてはいけません。国家として毅然とした態度を示しましょう」

「交渉が失敗してもいいのかね」

「こちらが強い態度で出れば、フェザーンは折れるはずです。借金の額が大きくなるほど、借り手の立場は強くなります。破産した時に貸し手が大きな損失を被るからです。我が国がデフォルトに陥れば、フェザーン経済は破綻します。繰り延べに応じるしかないんです」

 

 俺はトリューニヒト派エコノミストの受け売りをそのまま話した。政府のブレーンがテレビで話したことなので、トリューニヒト議長の考えと近いはずだ。

 

「君の言う通り、フェザーンが債務繰り延べを拒否することはない。だが、いつ応じるかかが問題なのだ。交渉が一日延びるたびに同盟経済への不安が広がり、株と通貨が下落する。経済回復のブレーキになりかねん」

「経済のためにヤン元帥を犠牲にする。そういうことでしょうか?」

「私は同盟の元首だ。一三二億人の生活を守るためなら、一人の軍人を犠牲にするのもやむを得ない」

 

 トリューニヒト議長の瞳には断固たる決意が宿っていた。

 

「おっしゃることはわかりますが、秘密の査問会はまずいですよ。相手が殺人企業やテロリストであれば、非常手段もやむを得ません。速やかに排除しなければ、市民に危害が及びます。ですが、ヤン元帥は単なる危険人物です。あえて非常手段を用いる必要はありません」

「悠長なことを言える状況ではない。期限が迫っている」

「ヤン提督は国民的英雄です。下手に手を出せば、世論を敵に回すことになります。その点にもご留意ください」

「わかっている。だから、秘密で査問を行うんだ。公式な取り調べを行うのはまずい。政権が不安定だという印象を与えかねん」

「秘密にしたいのなら、憲兵隊や情報保全隊に秘密調査を命じればいいでしょう。反乱計画が明るみになれば、ヤン元帥を合法的に処断できます。何もなかったら、フェザーンを安心させることができます。どのような結果が出ても、悪い方向には転びません」

 

 俺は合法的な調査に転換させようと努力した。調べればヤン元帥の潔白が証明できる。それで十分なのだ。

 

「それでは不十分だ」

 

 トリューニヒト議長の微笑みの上に、一瞬だけ不快そうな色が浮かんだ。なぜわからないのかと問いかけるように見えた。

 

 この時、俺はようやく気付いた。トリューニヒト議長はフェザーンの要求を受け入れたわけではない。フェザーンの要求を口実にヤン元帥を排除するつもりだ。調査すれば潔白が明らかになる。冤罪を着せるのはリスクが大きすぎる。更迭すればトリューニヒト政権のイメージが傷つく。秘密の査問会でヤン元帥を精神的に追い込み、自発的に辞表を書かせれば、イメージを傷つけることなく排除できる。

 

「ヤン元帥を辞めさせたいんですか?」

「野心に満ちた戦争屋など害悪でしかない。早めに退場させるべきだ」

「人間的には信用できませんが、才能は……」

「制御できない才能など不要だ」

 

 トリューニヒト議長の表情は穏やかだが、一片の容赦も感じられない。

 

「フェザーンの天秤は再び動き始めた。いずれ、銀河の勢力比は四八:四〇:一二に戻るだろう。どの国が四八になるかが問題だ。私は同盟を四八にしたい。そのためにはイレギュラーを極力排除する必要がある」

「…………」

 

 俺は言葉に詰まった。これほど強い決意を見せ付けられたら、何も言えない。

 

「ヤン君はいつも退役したいと言っているそうだ。きっと体を悪くしているのだろう。フェザーンにタマニという保養地があってね。空気が凄くうまいんだ。タマニの空気を一年ほど吸えば、病気も良くなる。健康になった暁には、フェザーン駐在高等弁務官に推薦するつもりだ。外交官として手腕を振るってもらいたい」

 

 トリューニヒト議長はヤン元帥の処遇を遠回しに語った。病気療養という理由で辞職させた後、フェザーンの保養地に引っ越しさせ、中央政界から遠ざける。一年ほどの「療養生活」を終えた後は、フェザーン駐在高等弁務官に起用する。

 

 フェザーン駐在高等弁務官は、政治家でない者が就任しうる最高のポストである。事務総長や元帥よりも格が高い。フェザーンにおける外交と情報活動の責任者だが、七八〇年代から官邸外交が活発になったため、存在感は縮小の一途をたどっている。英雄を重用してほしいという市民感情への配慮、政界進出を阻止したいトリューニヒト議長の思惑を両立できるポストだろう。

 

「いいアイディアだとは思わないかね?」

「……思いません」

 

 俺はありったけの勇気を動員し、首を横に振った。誓いがあまりに重すぎたので、首を縦に振ることができなかった。八年前の八月、俺、トリューニヒト議長、ベイ少将の三名は、お好み焼き屋で神聖な誓いを交わしたのだ。

 

「こういうやり方には同意しかねます。八年前、あなたはサイオキシンマフィアと戦うために立ち上がりました。そして、『ルールの中で正しく戦おう』『信頼こそが我々の唯一にして最強の武器となる』とおっしゃいました。ルールと信頼があなたの武器です。ヤン元帥を秘密の査問にかけることは、自ら武器を捨てるに等しい行為です。どうかお考え直しください」

「君に意見を求めたつもりはないのだがね」

 

 トリューニヒト議長ははねつけるように言った。剥がれかけた微笑みの仮面の下から、隠しようのない苛立ちが顔をのぞかせる。

 

「…………」

「意見を求めたつもりはないと言っているんだよ」

「わかっています。ですが……」

 

 俺は遠慮がちに言葉を続けた。市民のためなら多少の逸脱もやむを得ないと思ってきた。だが、これ以上引くことはできない。小物でも超えてはならない一線は理解している。

 

「求められなくても、言わねばならないことはあります。俺ほどあなたの恩顧を受けた人間はいません。あなたがいなければ、俺はここまで出世できませんでした。だからこそ、曲がったことはしていただきたくないのです」

「フィリップス君」

「何でしょう?」

「君と私はどういう関係だね?」

 

 トリューニヒト議長の顔から笑みが完全に消えていた。

 

「俺は……」

 

 答えを言いかけたところで、画面の向こう側から伝わってくる冷気に気付いた。真夏の夜だというのに背筋が寒くなる。

 

 この瞬間、トリューニヒト議長が期待する回答が分かった。それを口にした時にすべてが終わることも分かった。それでも、期待を裏切ることはできない。俺はそういうスタイルで生きてきた。

 

「……小官はあなたの忠実な部下です」

「分かっているならそれでいい」

 

 トリューニヒト議長は正解だと言いたげに頷いた。満足そうに見えなかったのは、俺の願望であろうか。

 

「君は私の部下だ。勝手なことをする権利はないんだ。わかったね」

「はい」

「これからも忠誠を尽くしてもらいたい。君が裏切らない限り、私が裏切ることはない。ずっと君の後ろ盾であり続ける。君の友人も私が保護しよう」

「ありがとうございます」

「このプロジェクトの責任者はネグロポンティ君だ。彼の指示に従うように」

「かしこまりました」

 

 俺が頭を下げた後、画面が真っ暗になった。心の中も真っ暗だ。一年ぶりの直接通信は後味の悪さだけを残した。

 

 

 

 九月一日、イゼルローン回廊で統合演習が始まった。帝国軍から回廊を防衛するとの想定の下、電子的に作られた最高練度の仮想敵と戦う。艦艇四万二〇〇〇隻と兵員八六〇万人が参加した。

 

 第一段階では、艦隊と陸戦隊が一体となった防衛戦が展開された。アッテンボロー大将率いる要塞艦隊が要塞前面に展開し、敵艦隊を迎え撃つ。シェーンコップ大将率いる要塞防衛部隊は、要塞艦隊への支援を行う。防衛線をくぐり抜けた敵に対しては、陸戦隊、対空火器、単座式戦闘艇「スパルタニアン」が連携して、近接防御戦闘を繰り広げる。

 

 第二段階では、敵と味方に増援が到着し、本格的な戦闘に移行した。同盟軍の増援は総軍総司令官ヤン元帥が指揮する混成艦隊だ。ティアマトでは、イム大将率いる地上部隊とオイラー大将率いる宇宙部隊が後方支援にあたる。

 

 第三段階では、第一辺境総軍の増援を得たイゼルローン総軍が反撃に移った。俺、ヤン元帥、アッテンボロー大将が一斉に前進し、敵艦隊をさんざんに打ち破る。要塞主砲トゥールハンマーの一撃がとどめをさした。

 

 演習の合間に握手会やサイン会を行った。第一辺境総軍からは、俺、妹、コレット少将、カプラン准将ら市民軍の英雄が参加した。イゼルローン総軍からは、シェーンコップ大将、アッテンボロー大将、ジャスパー大将、ポプラン少将といった勇士が顔を出した。ヤン元帥は多忙を理由に欠席したが、いつものことなので誰も気にしない。

 

 最終日には陸戦隊と地上軍の合同格闘大会が開催された。シェーンコップ大将が「若い奴らに花を持たせてやらんとな」と言ったため、旧薔薇の騎士連隊(ローゼンリッター)出身の将官は参加していない。アルマら第八強襲空挺連隊出身の将官も参加を見送った。勇将対決は実現しなかったが、佐官以下の猛者は一人残らず出場した。

 

 同盟市民一三二億人が勝負の行方を見守る。陸戦隊最強のローゼンリッターと地上軍最強の第八強襲空挺連隊のどちらが強いのか? 最強同士の決着がつく時が来た。

 

「個人戦優勝は第一八特殊作戦群のアマラ・ムルティ少将です!」

 

 同僚が自粛する中、空気を読まずに出場したアマラ・ムルティ少将が、個人戦の優勝カップをかっさらった。

 

「団体戦優勝はイゼルローン総軍司令部です!」

 

 驚くべきことに、イゼルローン総軍司令部が団体戦優勝を果たした。ローゼンリッター系部隊と第八強襲空挺連隊系部隊が潰し合ったため、漁夫の利を得た形だ。総司令部チームのエースとして活躍したユリアン・ミンツ准尉は、一躍有名人となった。

 

 現地で演習を観覧した者は、一般観覧者や招待客など三〇〇万人にのぼる。国防委員会からはグローブナー第一副委員長、統合作戦本部からはセレブレッゼ次長、フェザーン自治領からはボルテック国務長官が視察に訪れた。

 

 演習の様子は同盟全土とフェザーンで放映された。数万隻が入り乱れる艦隊戦には、立体映像によって作られた仮想敵との戦いとは思えない迫力があった。次々と繰り出される最新兵器、綺羅星のような有名軍人も見る者を興奮させた。

 

「同盟軍は銀河最強!」

「イゼルローンは難攻不落!」

 

 市民は同盟軍に惜しみない賛辞を浴びせた。人間は自分の目で見たものを信じる。トリューニヒト議長の狙い通り、演習は同盟軍の武威を知らしめたのである。

 

 第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグは安堵の声で満たされた。演習が終わるまでの苦労は並大抵ではなかった。それだけに喜びは大きい。

 

 同盟史上最大の軍事ショーを成功させた俺だったが、気分は晴れなかった。ヤン元帥召還のサポートという任務が控えている。重要だが気が進まない任務であった。副司令官や参謀長にすら事実を話せないこともストレスを募らせる。おかげでマフィンを食べる量が倍増した。

 

「召還前に帝国軍が攻めてこないかな」

 

 俺は心の中でそんなことを考えた。前の世界では帝国軍の侵攻が査問会を中止させた。同じことが早めに起きたら、ヤン元帥を召還する話は潰れるはずだ。

 

 査問会は帝国軍が攻めてこないという前提の上に成り立っている。帝国軍との戦いになったら、市民は「病気でもいいから、ヤン元帥を出せ」と騒ぐだろう。病床から指揮をとってほしいというのが市民の素朴な感情だ。そうなれば、世論に弱いトリューニヒト議長は、査問会を中止さざるを得ない。

 

「いや、そんなことを考えるのは良くないな。戦いになったら兵士が死ぬんだ」

 

 俺は頭の中に浮かんだ考えを打ち消すと、マフィンの皿に手を伸ばした。苦々しい思いを打ち消すには甘味が必要だ。

 

「空っぽだ」

 

 マフィンが残っていないことを俺が理解した瞬間、紙袋を抱えた首席副官ハラボフ大佐が駆け寄ってきた。ひっくり返された紙袋からマフィンがどさっと落ちてくる。そして、ハラボフ大佐は礼を言う間も与えずにデスクへと戻っていく。驚くべき早業である。

 

 ベッカー総軍情報部長が俺のもとに資料を持ってきた。帝国情勢に関する内容だ。国防情報本部の情報があてにならないので、総軍情報部も独自の情報収集を行っている。

 

 資料には、フェザーンで発行された新聞や雑誌の切り抜きが貼ってある。独自の情報収集とは、フェザーンでの報道を収集することであった。

 

 フェザーン情報と聞くと、自治領主府の情報操作を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、自治領主府の情報操作力は、言われているほど強くない。情報はフェザーン経済の生命線である。情報操作によって情報流通を抑えるよりも、報道の自由を認めて情報流通を促進するメリットの方が大きい。フェザーンマスコミは政治的党派性が薄く、同盟マスコミより公平だというのが定説だ。

 

「国外報道の収集・分析なんて、本来は国防情報本部の仕事なんですがね」

 

 ベッカー情報部長の顔にほろ苦い笑みが浮かぶ。国防情報本部のふがいなさに不快感を覚えているのだろう。

 

 俺は要塞ワープ実験の情報をチェックした。帝国は要塞をワープさせる実験を成功させた。戦記を読んだ者なら見過ごせない事件だ。

 

 八月三一日、帝国軍務省は「ガイエスブルク要塞を八〇光年ワープさせた」と発表した。今後も研究を続け、艦隊と同じ速度で航行できる「機動要塞」の完成を目指すという。

 

 このニュースは同盟市民を仰天させた。機動要塞といえば、シリウス戦役で役立たずぶりを露呈し、「軍事史上最大の無駄」と言われた兵器だ。そんなものを研究するなど馬鹿げている。元帝国軍技術総監のシャフト科学技術委員長は、「正気とは思えない。私が技術総監ならこんな研究はすぐに中止させる」と述べた。

 

 同盟国内では、要塞ワープ実験を「単なる国威発揚の道具。軍事的意義は皆無」とする見方が強いが、俺は異なる見解を持っている。機動要塞は駆逐戦隊よりも弱い。だが、使い方次第では大きな力を発揮する。

 

 前の世界の七九八年、帝国軍のガイエスブルク要塞がイゼルローン回廊にワープし、同盟軍のイゼルローン要塞を攻撃した。司令官ヤン・ウェンリー提督が査問を受けていたため、イゼルローンの同盟軍は苦戦を強いられた。

 

 二つの世界の状況は完全に違う。前の世界で機動要塞を使った作戦の提案者だったシャフト技術総監は、この世界では同盟の閣僚だ。前の世界でガイエスブルクの司令官だったケンプ提督は、この世界では分艦隊司令官に過ぎない。軍事力も経済力も同盟の方が優勢だ。それでも物理法則は変わっていない。回廊内で運用された機動要塞は大きな脅威になる。

 

「新情報はないか……」

 

 資料の中には要塞ワープ技術に関する新情報はなかった。どの記事にも「機動要塞の実用化には最低でも五年かかる」とか、「帝国財務省が開発打ち切りを求めている」とか、見慣れた情報しか載っていない。

 

「気にすることもないと思いますが」

 

 ベッカー情報部長は大多数の人々と同じように、機動要塞を脅威だと思っていなかった。

 

「放置しておけないだろう」

「心配しすぎですよ。統合作戦本部にも意見書を送ったそうじゃないですか」

「今のうちに研究しておいてほしいと思ってね」

「もしかして、ルイスの大予言を信じてるんですか?」

「あんなのとは一緒にしないでくれ」

 

 俺はきっぱりと否定した。実体験に基づく懸念とルイス元准将の戯言を一緒にされては困る。客観的な根拠がない点では同じかもしれないが。

 

 ハラボフ大佐がやってきて、第三六機動部隊司令官シェリル・コレット少将が到着したと報告した。俺は急いで迎えに出る。

 

「ただいま到着いたしました」

 

 コレット少将は教本で紹介される見本のような敬礼をした。アーモンド形の大きな目が潤み、繊細でしなやかな手が震える。心の底から感動しているのだ。

 

「よく来たね」

 

 俺は笑顔で敬礼を返したが、内心では引いていた。顔を見るだけで感動されても困る。生まれて初めて会うのならわからないでもない。自分が英雄視されているという自覚はある。だが、彼女は三年間も一緒に働き、プライベートでもしょっちゅう顔を合わせている。

 

 第一辺境総軍の幕僚は慣れ切っているが、新参の副司令官パエッタ大将や参謀長ワイドボーン大将は引いている。

 

 一方、第三六機動部隊の幕僚は、素晴らしいものを見たと言わんばかりの表情だ。彼らは上官を心から慕っていた。コレット少将が鼻くそをほじったとしても、好意的に受けとめるに違いない。

 

 コレット少将の人心掌握力は相当なものだ。誰に対してもにこやかに接する。他人の長所を大切にし、他人の短所を忘れ、優れた人を尊敬し、無能な人を見捨てない。誰よりもよく働く。一兵卒の食事にも気を使い、自ら厨房に入ってゴミ箱をチェックする。ベテランも若手も同性も異性も彼女を慕った。

 

 そんな彼女が旗艦に来た理由は「軽い打ち合わせ」であった。時間ができたので俺の顔を見に来ただけらしい。

 

「提督のお顔を拝見できるだけで幸せな気分になります」

「君は俺がどんな命令を出しても従うんだろうなあ」

「もちろんです」

「明らかに違法な命令を出したらどうする?」

 

 俺は声を潜めて質問した。

 

「喜んで従います」

 

 コレット少将は迷うことなく答えた。

 

「俺を止めようとは思わないのか?」

「提督の命令が違法だとしたら、それは法律が間違っているんです」

「…………」

 

 俺は質問したことを後悔した。しかし、彼女の忠誠の対象が自分でなければ、別の見方もあるだろう。彼女の単純さは羨望に値した。

 

「ここだけの話なんですが、相談したいことがあるんです」

「なんだ?」

「部下のことです。私が何を言っても肯定する人がいるんですよね」

 

 コレット少将の美しい顔に憂いの色が浮かぶ。

 

「否定されるよりはいいんじゃないか?」

「肯定されるだけよりはましです。私は完璧な人間ではありません。悪いことは悪いと言ってもらわないと困ります」

「気持ちはわかるよ」

 

 今の彼女の気持ちを俺以上に理解できる人間はいないだろう。いつも彼女に同じ思いをさせられているからだ。

 

「忠誠と狂信は違うと思うんです。肯定すべきは肯定する。否定すべきは否定する。上官が危機に陥らないように注意する。上官の過ちを全力で止める。忠誠とはそういうものでしょう」

「…………」

 

 どう答えればいいのかわからなかった。とりあえず、笑ってごまかすことに決めた。それでも、彼女は「わかってくれた」と思ったらしく、心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。

 

 コレット少将が帰った後、俺は首席副官ハラボフ大佐と護衛三名を連れて地上に降下した。ティアマト星系第四惑星ラハムには、住宅やビルが建ち並んでいる。数年前まで無人惑星だったとは思えない繁栄ぶりだ。

 

 星都エンニガルディの都心部から五〇キロほど離れた場所に、第一八特殊作戦群「ショコラティエール」のキャンプがあった。丘陵の上に堅牢なコンテナハウスが規則正しく配置されている。キャンプの前後に川が流れており、天然の堀を形成する。野戦陣地としても通用するだろう。

 

 キャンプの一角に目当ての人物がいた。俺は首席副官ハラボフ大佐と護衛三名に待機するよう命じると、目当ての人物に歩み寄った。

 

 名工が彫り上げた彫刻のような目鼻立ち、滑らかな小麦色の肌、黒い絹糸のような髪……。天空に瞬く星々ですら遠慮するほどに美しい女性が、かかとを地面につけてしゃがみ、両足を大きく広げ、タバコを吸っていた。地上軍最強のアマラ・ムルティ少将である。

 

「お兄ちゃんっすか。お久しぶりっす」

 

 ムルティ少将はしゃがんだままで顔だけ上げた。上級大将ではなくて、友達の兄と話してるつもりなのだろう。

 

「久しぶり」

 

 俺は声をかけると、しゃがんで目線を合わせた。

 

「どうしたんすか?」

「君に聞きたいことがあってね」

「シュガーのことなら教えないすっよ」

 

 ムルティ少将は少しだけ不機嫌そうな顔をする。彼女は妹を物凄く気に入っていた。俺と長い間共演しなかった理由は、「私のシュガーに冷たかったから」だったらしい。

 

「そんなんじゃない」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。

 

「君とシェーンコップ提督のどっちが強いと思う?」

「私の方が強いっすね」

 

 ムルティ少将は何のためらいもなく答えた。

 

「随分あっさり答えるんだな」

「若い方が強いに決まってるっしょ」

「そんな単純な話じゃないと思うけどな」

「レベルが違ったらそうっすね。でも、同じレベル同士なら若い方が強いっす」

「経験の差は大事なんじゃないか?」

 

 俺は懸命に食い下がった。彼女は残念な人だが文句なしに強い。あのユリアン・ミンツですら歯が立たなかったのだ。それでも、二つの世界で銀河最強とうたわれた男より強いとは思えない。

 

「体が衰えたら意味ないっす。経験で成長するのは三〇代前半までっすね。三五を過ぎたらガタ落ちっすよ」

「しかし、シェーンコップ大将の勇名は知ってるだろう? 簡単に勝てるとは思えないけどな」

「戦ったらおっさんが勝つんじゃないすか」

「どういうことだ?」

 

 俺は首を傾げた。ムルティ少将は自分の方が強いと言い切った。それなのに戦ったらシェーンコップ大将が勝つという。わけがわからない。

 

「ガチンコなら私が勝つけど、何でもありならおっさんが勝つっすよ」

「駆け引きがうまいということか?」

「そうっすね」

 

 ムルティ少将にはこだわりがまったく見られない。強いから強いと言う。勝てないから勝てないと認める。実にシンプルだ。

 

「他の連中はどうだ? リンツ、ブルームハルト、デア=デッケンには勝てるか?」

「ルールは?」

「何でもありだ」

「リンツはやばいっすね。一〇〇回やったら五五回負けるっす。ブルームハルトとデア=デッケンなら五分っすね。一〇〇回やったら五〇回負けるっす」

「君から見ても、あの三人は強いんだな」

 

 俺は安心と不安を同時に感じた。戦記を読んだ者としては、薔薇の騎士は最強であってほしいと思う。しかし、ムルティ少将が必勝の切り札になり得ないのは不安だ。

 

「あいつらはガチっすよ」

「アルマと比べたらどうだ?」

 

 薔薇の騎士最強の男たちと妹を比べるなど不遜の極みだが、それでも気になる。

 

「話にならないっす。シュガーはトップレベルじゃないんで。おっさんとガチンコでやっても勝てないっすよ」

「レベル差は絶対なんだな」

「そうっすね」

「ありがとう」

「いいっすよ、別に」

「これは礼だ。とっといてくれ」

 

 俺は手土産のタバコを渡した。ムルティ少将は軽く頭を下げた後、再びタバコを吸い始める。そんなにタバコを吸ったら体に悪いんじゃないかと思ったが、口には出さなかった。

 

 部屋に戻った俺は戦力を計算した。戦いにならないに越したことはないが、戦いへの備えを怠るべきではない。最悪に備えるのが軍人の義務である。

 

 第一辺境総軍の強みは、俺に忠実な人物がそろっていることだ。臨時配属の第一八特殊作戦群も指示に従うだろう。

 

 イゼルローン総軍の強みは、ヤン元帥、アッテンボロー大将、シェーンコップ大将など規格外の傑物を擁していることだ。もっとも、副司令官イム大将を筆頭とする地上部隊は、傑物たちと仲が悪い。もう一人の副司令官オイラー大将は、トリューニヒト議長が派遣した目付け役だ。強力だがまとまりに欠けていた。

 

 警戒すべきはシェーンコップ大将とその部下たちだ。薔薇の騎士連隊は薔薇の騎士師団に改編された。規模は大きくなったが、かつての強さはない。それでも、シェーンコップ大将と三人の腹心は大きな脅威になる。イゼルローン要塞から出てこないことを祈りたい。

 

 ヤン召還計画の大筋は既に決まっている。ヤン元帥が召還命令を受諾すればそれでいい。受諾しない場合は、オイラー大将らがイゼルローン総軍の切り崩しを始める。俺は大軍を握ったままティアマトに居座り、ヤン派に無言の圧力をかける。イム大将らイゼルローン地上部隊は、「ヤンは嫌いだがトリューニヒトも嫌い」という人々なので、中立を守るはずだ。

 

「オリベイラ先生が立てた策だ。万に一つの間違いもない」

 

 通信画面の向こう側では、ネグロポンティ国防委員長が自信たっぷりな表情を見せる。

 

「戦闘には絶対になりませんよね?」

「ヤンは戦闘を避けるはずだ。基地の周囲には、一般観覧者の宿舎があるからな。ヤンは政治的基盤を持っていない。頂点を目指すには大衆の支持が不可欠だ。だから、市民を傷つけることを徹底的に避けてきた。奴の野心が我らを助けてくれる」

 

 得意げに言っているが、ネグロポンティ委員長が考えた意見ではない。オリベイラ博士の受け売りだ。

 

 軍部良識派と反戦派以外の人間は、ヤン元帥を野心家だと思い込んでいる。市民を絶対に傷つけないという信念も人気取りだとみなした。

 

「ばれたらどうするんです?」

 

 俺は恐る恐るといった感じで切り出した。

 

「問題ない。ガードは万全だ」

「俺は軍人です。万に一つの可能性についても、考慮せずにはいられません」

「その時は私が責任を取る」

 

 ネグロポンティ国防委員長は右手で自分の胸を叩いた。ジェスチャーが大袈裟すぎるせいで、心にもないことを言っているように聞こえる。

 

「大丈夫なんですか?」

「私を信じなさい。議長にも君たちにも指一本触れさせんよ」

「わかりました」

「本心から納得したわけではないな」

「そ、そんなことは……」

 

 俺の背中に冷や汗が流れた。さすがは政治家だ。あっさり内心を見抜かれた。

 

「気にするな。私も馬鹿じゃない。自分が世間からどう見られているのかは知っている」

 

 ネグロポンティ国防委員長は大きく口を開けて笑う。

 

「私は三流の政治屋だよ。親父が議員だったから、何も考えずに地盤を継いだ。見識も理想も持ち合わせていない。議席を埋めているだけの男さ」

「…………」

「そんなつまらない男だが、トリューニヒト議長に目をかけていただいた。実力以上の地位に就けていただいた。良い思いをさせていただいた。どれほど感謝しても足りないほどだ」

「俺もトリューニヒト議長に目をかけていただきました。ですから、委員長閣下のお気持ちはわかります」

「私も君も本来なら頂点に立てない人間だ。議長が引っ張り上げてくださったんだ」

「おっしゃるとおりです」

「トリューニヒト議長は素晴らしいお方だ。私の首一つで守れるなら安いもんさ」

 

 ネグロポンティ国防委員長はもう一度右手で胸を叩いた。今度は信じてもいいと思えた。

 

「それほどのご覚悟であれば、喜んで頼らせていただきます」

 

 俺は深々と敬礼をした。国防委員長という肩書きに敬礼したのではない。マルコ・ネグロポンティ個人に敬礼したのである。

 

 忠誠という言葉にはいろいろな意味がある。主の過ちを命がけで止めることを忠誠という。主と一緒に過ちを犯すことを忠誠という。主の代わりに死ぬことを忠誠という。死んだ主の代わりを務めることを忠誠という。主を地獄から救うことを忠誠という。主と一緒に地獄に落ちることを忠誠という。

 

 ネグロポンティ国防委員長が忠臣であることは間違いない。主のためなら一緒に過ちを犯す。主のためなら喜んで死ぬ。主のためなら喜んで地獄に落ちる。主のやることは何でも肯定するタイプの忠臣だ。

 

 俺はトリューニヒト議長の忠臣なのだろうか? 過ちを止めようとしたが止められなかった。一緒に過ちを犯そうとしているが、心から納得したわけではない。

 

 九月九日、国防委員会は第一辺境総軍に対し、「テロの可能性あり。警戒せよ」との指示を与えた。ティアマト駐在の第一辺境総軍は待機状態に移る。その意図を知る者は、総軍司令官以外にはいない。

 

 同じ頃、イゼルローン総軍総司令官ヤン・ウェンリー宇宙軍元帥に対し、秘密の召還命令が出された。陰謀は静かに幕を開けたのである。



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第102話:戦士と軍人 802年9月10日~9月15日 イゼルローン総軍司令部庁舎~惑星ラハム~イゼルローン総軍司令部庁舎

修正の末、再投稿しました

※修正点
前半部分は人物紹介に多少加筆
パエッタとアッテンボローの議論に加筆
会議後の会話に加筆
会議後の会話後に、一つの新エピソードを加筆
最終エピソードを次回使う予定だったものと差し替え
削除した二つのエピソードは修正のうえで次回に回す



 九月一〇日、国防委員会は「ヤン・ウェンリー元帥に特別休暇を与えた」と発表した。活躍した軍人に特別休暇が与えられることは珍しくない。ヤン元帥は昨年春から前線に留まってきた。過労を心配する声があるほどだ。このような事情があったので、怪しむ者はいなかった。

 

 イゼルローン総軍幹部に対しては、「極秘の相談をするために呼び出した」と説明した。怪しむ者もいたが、「軍事機密だ」と言われると引き下がるしかない。

 

 ヤン元帥のハイネセン行きも「軍事機密」となった。テロや暗殺の危険があるので、高級司令官の所在は隠さなければならない。高級司令官が公の場に姿を見せる時は、厳重な警護体制が敷かれる。査問会は機密ではないが、ヤン元帥の所在は機密なのだ。

 

 同盟軍の規則は、前線勤務中の軍人が任地から離れることを禁じている。休暇中であっても、四八時間以内に戻れる場所にいなければならない。市民はヤン元帥が回廊周辺で休暇を楽しんでいると考えた。

 

 ヤン・ウェンリー元帥は三つの肩書きを持っていた。一つは「イゼルローン総軍総司令官」、一つは「対帝国戦線総司令官」、一つは「国外派遣軍総司令官」である。イゼルローン総軍と対帝国戦線はイコールといっていい。国外派遣軍は書類上にしか存在しない部隊で、政府が帝国との対決姿勢をアピールするための小道具だ。

 

 ヤン元帥が召還された後、俺は対帝国戦線と国外派遣軍の指揮権を握った。イゼルローン総軍司令官代行イム大将も俺の指揮下に入った。指揮系統の上では、対帝国戦線総司令官代行たる俺が二つの総軍を統括する形になる。

 

 査問会が終わるまでイゼルローン回廊を預かる。とても面倒な任務だった。部下にも真実を明かすことはできないのだ。

 

 俺がイゼルローン総軍総司令部庁舎に入ると、険悪な空気が漂った。優等生集団のチーム・フィリップスと個性派集団のヤン・ファミリーの相性は最悪だ。

 

 庁舎の中ではヤン・ファミリーが待ち構えていた。有害図書愛好会グループのブラッドジョー少将、ヤン元帥の養子ミンツ准尉らは、敵意を隠そうとしない。キャゼルヌ派のハンフリーズ中将らは顔をしかめた。「ついていけない」と言って俺の下を離れたカンダガワ少将は気まずそうだ。逃亡者断罪論者のヴァルケ准将は、俺の前に来て「まだ諦めてませんよ」と笑う。

 

 チーム・フィリップスは俺の後から入ってきた。ワイドボーン参謀長、アブダラ副参謀長、バウン准将らはヤン・ファミリーを睨みつける。イレーシュ人事部長、首席副官ハラボフ大佐らは、俺をガードするように立ちふさがった。ラオ作戦部長、メッサースミス准将らは困り顔だ。ベッカー情報部長は皮肉っぽい目を向けた。「差別発言」を理由にヤン・ファミリーから追い出されたウノ後方部長は、みんなの背中に隠れた。チュン・ウー・チェン副参謀長はのほほんとしている。

 

 見えない火花が飛び交う中、俺は悠然と歩いた。もちろん、内心では震え上がっている。敵意はトゥールハンマーよりずっと恐ろしい。

 

 ヤン・ファミリーの総参謀長パトリチェフ大将が歩いてきた。身長は俺より頭一つ高い。胴回りはでっぷりと太っている。腕や足や首は丸太のように太い。丸々とした顔と長いもみあげが親しみやすさを醸し出す。

 

 俺はパトリチェフ大将の前で立ち止まり、三〇センチほど上方を見上げた。そして、気さくな口調で呼びかける。

 

「やあ、パトリチェフ提督。これから世話になるよ」

「喜んでお手伝いさせていただきます」

 

 パトリチェフ大将は笑顔で応じた。プライベートで会話をかわしたことはないのに、俺の意図を察してくれた。

 

「一緒に仕事するのはエル・ファシル以来だね」

「時がたつのは早いですなあ。いつの間にか、もみあげがこんなに伸びました」

「六年前から長いじゃないか」

「おや、そうでしたか」

「君の身長は二メートルだ。もみあげが五センチでも一〇センチでも同じなんじゃないか?」

「図体がでかいせいで、大雑把になってしまいます」

「俺はチビだから細かいんだ」

 

 俺はパトリチェフ大将の頭に向かって右手を伸ばし、身長を比べるような仕草をした。二人の間には大人と小学生ほどの身長差がある。

 

 上官が笑い合っているのに、部下がいがみ合うのは馬鹿らしい。張り詰めた空気はみつみるうちにほぐれていった。

 

「じゃあ、始めましょうか」

「時間がないしね」

 

 俺とパトリチェフ大将が室内を見回すと、全員がうなずいた。プロフェッショナルは切り替えが早い。チーム・フィリップスとヤン・ファミリーは、協力しながら作業を進めた。

 

 話し合いが終わると、チュン・ウー・チェン副参謀長が大きな紙袋からパンを取り出した。潰れていないパンだ。

 

「そろそろ腹ごしらえをしましょうか」

 

 この提案に異議を唱える者はいなかった。のんびりしたチュン・ウー・チェン中将の前では、ひねくれたヤン・ファミリーですら毒気を抜かれてしまう。全員がパンを受け取った。ミンツ准尉が紅茶をいれ、当番兵がコーヒーをいれた。みんなで一服してからオフィスを後にした。

 

 俺はイゼルローン総軍司令官代理イム・ソンジン地上軍大将を訪ね、協力を求めた。トリューニヒト議長とヤン元帥の双方を嫌う気難しい人物だが、イゼルローン総軍の指揮権を持っている。ヤン・ファミリー以外では最大のキーパーソンだ。

 

「軍人として力を尽くしましょう」

 

 イム大将は「軍人」という言葉を強調した。軍務には協力するが、政治的に協力するつもりはないと言いたいのだろう。

 

「ありがとう」

 

 俺は頭を下げた。相手が好き嫌いを仕事に持ち込まない人なのは知っている。それでも礼を言った。当たり前のことを当たり前にやる。それは何よりも尊いことだ。

 

 イゼルローン総軍副司令官ヨハネス・オイラー大将は、露骨なまでに媚を売ってきた。おだてに弱い俺ですら引いてしまう。

 

「わざわざ足をお運びいただけるとは! 光栄の至りであります!」

「喜んでもらえてうれしいよ」

「フィリップス提督のためなら、小官は何でもいたしますぞ!」

「それはありがたい」

 

 俺は笑顔が引きつらないように努力した。相手はトリューニヒト議長が重用する亡命者提督である。平民出身でありながら二〇代で帝国軍提督となった。ラインハルトが元帥府を開くと、ミッタ―マイヤー提督やロイエンタール提督とともに副査閲監を務めた。前の世界では無名だったが、戦記の基準なら超有能なはずだ。おざなりな対応はできない。

 

「なんでもお申しつけください! 自殺を命じていただいても結構です! あなたのために命を捧げるのなら、死んでも悔いはありません!」

 

 オイラー大将の唇は歯の浮くようなセリフを次々と吐き出す。

 

「副司令官としての仕事をこなしてほしい。それで十分だ」

「おまかせください! あなたに逆らう者は徹底的に潰してみせます!」

「君はわかってないな」

 

 俺が大げさに顔をしかめると、オイラー大将はうろたえた。

 

「どういうことでしょう?」

「ウィー・アー・ユナイテッドの精神をわかってない」

「申し訳ありません……」

「潰したら戦力が減るだろうが。仲たがいは同盟軍の伝統だ。リン元帥もトパロウル元帥もアッシュビー元帥も仲間と喧嘩した。それでも、戦う時だけは団結した。市民軍ではトリューニヒト派も反トリューニヒト派も一緒に戦った。仲が悪くても共存できる。仲が悪くても協力できる。それがウィー・アー・ユナイテッドの精神なんだ」

「なるほど……」

「喧嘩をしてもいいが、潰しあいはするな。わかったか?」

「かしこまりました」

 

 オイラー大将は恐縮しながら答える。

 

「期待してるよ」

 

 俺は優しそうな笑顔を作った。媚を売ってくる人間には、「俺の機嫌を取りたいならこうしろ」とはっきり教えてやればいい。そうすれば、望みどおりに動いてくれる。これはトリューニヒト議長から学んだ一〇八の人心掌握術の一つだ。

 

 二人の重鎮から協力を取り付けると、ヘリコプターに乗って各地に点在する艦隊基地や地上軍基地を訪ねた。実戦部隊司令官からも協力を取り付けておきたい。

 

 第一三艦隊司令部は、イゼルローン総軍総司令部から五〇キロ離れた場所にある。ヤン元帥が直率する艦隊なので、旧第一三艦隊のカラーが最も強い。

 

 廊下で艦隊副司令官サイラス・フェーガン中将とすれ違った。丁寧に敬礼してくれたが、視線は冷ややかだった。

 

 フェーガン中将はエル・ファシル海賊討伐の時に、俺の旗艦「グランド・カナル」の艦長を務めた人だ。ヤン・ファミリーでは旗艦ヒューベリオンの初代艦長を務め、提督としても活躍した。清廉な人なので俺とは相性が悪く、ヤン元帥とは相性がいい。

 

 応接室で第一三艦隊司令官代理クリストファー・デッシュ宇宙軍大将と面会した。良くも悪くも無難な人という印象だ。もっとも、無難なだけではヤン元帥の腹心は務まらない。正規艦隊司令官代理を無難にこなせる時点で、相当な実力者だといえる。

 

 イゼルローン総軍総司令部から四〇〇キロ離れたセンナケリブに、第四艦隊司令部が置かれていた。旧第一三艦隊隊員が基幹となり、新兵と再招集された予備役がわきを固める。旧第四艦隊のカラーはほとんど残っていない。

 

 駐車場で第四艦隊D分艦隊司令官セシル・ラヴァンディエ中将を見かけたので、俺は次席副官ディッケル大尉の背中に隠れた。できることなら避けて通りたい人なのだ。

 

 ラヴァンディエ中将はエル・ファシル海賊を討伐した時に、俺の配下となった人物だ。歴戦の勇士だったが、あまりに無責任だったので更迭した。しかし、ヤン・ファミリーに加入した後は武勲を重ね、「ヤン・ウェンリー一二星将」の一人に数えられた。反フィリップス派は、俺が彼女を解任したことをフィリップス無能説の根拠にあげる。

 

 司令官室に足を踏み入れた瞬間、帰りたいと思った。部屋の奥から強烈な冷気が流れてくる。冷房ではない。人間が冷気を放っている。

 

 第四艦隊司令官スカーレット・ジャスパー宇宙軍大将は、「レクイエム・ジャスパー」の異名を持ち、一二星将最強の呼び声が高い勇将である。七三〇年マフィアの「マーチ・ジャスパー」の孫にあたり、祖父とは正反対の冷徹な用兵で勇名を馳せた。この世界ではダスティ・アッテンボローの加入が遅れたため、彼女がヤン・ファミリーの切り札になっている。

 

 彼女自身は「ヤン・ウェンリー随一の忠臣」を自称した。自分が一番の忠臣だと思っているので、ヤン元帥の忠臣を自負するグリーンヒル准将やミンツ准尉とは仲が悪いらしい。

 

 ジャスパー大将は敵意を隠そうとしなかった。刃のような眼差しが俺の全身を切り刻む。精悍な顔にはウラノス山脈よりも険しい表情が浮かんでいる。引き締まった長身から強烈な冷気が立ち上る。向かい合うだけで体温が下がりそうだ。

 

「どのようなご用件でしょう?」

「挨拶に来たんだ。一緒に頑張っていきたいと思ってね」

「わかりました」

 

 そっけなく答えると、ジャスパー大将は口を閉ざす。話を続けられる雰囲気ではない。俺は逃げるように退出した。

 

 南半球のアトラ・ハシース高原の中央部には、第六艦隊司令部がある。人員構成は第四艦隊と似ており、旧第一三艦隊隊員、新兵、再招集された予備役の混成部隊だ。

 

 第六艦隊司令官エリック・ムライ宇宙軍大将は、独創性に欠けるが堅実な艦隊運用が持ち味だ。前の世界では参謀だったが、この世界では指揮官として活躍した。ムライ大将の几帳面さとパトリチェフ大将の社交性が、個性派集団のヤン・ファミリーを組織として機能させている。

 

 ムライ大将は薄めの黒髪を七三分けにした中年男性で、見るからに生真面目な感じだ。「教頭先生」という異名がよく似合う。愛想は良くない。こちらの顔色をうかがう素振りもない。好意も悪意も交えず、事務的に話を進める。

 

「我々と協力したいとおっしゃるのですな?」

「その通りだ」

「異存はありません。できるかぎり協力いたしましょう」

「そういってもらえると助かる」

 

 俺はにっこりと笑った。ムライ大将には威厳がある。イゼルローンのひねくれ者を動かしやすくなるだろう。

 

「私からもお願いしたいことがあります」

「なんだい?」

「秩序を乱さないでいただきたい。軍務に差し支えますので」

 

 ムライ大将は釘を刺すように言った。

 

「心配はいらない。引っかき回すようなことはしないよ。俺の任務は平穏を保つことだからね」

 

 俺は本心からそう答えた。イゼルローン回廊は預かりものだ。平穏であれば、それに越したことはない。

 

 その他、第八地上軍司令官ランドン・フォーブズ地上軍大将、ティアマト星域軍司令官アリダ・アダーニ地上軍中将らとも面会した。二人とも協力要請を受け入れてくれた。

 

 ラハムから六・二光年離れたイゼルローン要塞の司令官二名は、ヤン・ファミリーでも屈指のひねくれ者だ。できることなら避けて通りたいが、彼らだけを無視するのは礼儀に反する。俺は憂鬱な気分で超光速通信を入れた。

 

 要塞艦隊司令官ダスティ・アッテンボロー宇宙軍大将は、やや不機嫌そうであったが、対話には応じてくれた。反抗を生きがいにしていても、仕事に関してはきっちりしている。

 

「仕事なら協力しますがね」

「よろしく頼む」

 

 俺は安堵の笑みを浮かべた。最大の山を越えた気分だった。

 

「あまりお役に立てないかもしれませんが」

「謙遜することはない。君は俺よりずっと有能だろう」

「ごみ箱漁りは下手なんですよ」

 

 アッテンボロー大将は皮肉っぽい口調で答えた。

 

「君は宇宙のことに専念してくれ。ごみ箱漁りは俺がやるから」

 

 俺は全力で笑顔を作った。隙を見せてはならない。動揺したら追い打ちを食らう。アッテンボロー大将との会話は戦争なのだ。

 

 要塞軍集団司令官ワルター・フォン・シェーンコップ宇宙軍大将は、愛想良く対応してくれた。もっとも、笑顔の中に刃を隠す人なので油断はできない。

 

「私とあなたの仲です。何なりとお申し付けください」

「ありがとうございます」

「ヴァンフリートのような状況になったら、お助けいたしますよ」

「なんでヴァンフリートなんです?」

 

 俺は首を傾げた。なぜ、ここでヴァンフリートを持ち出すのだろう?

 

「状況が似ていると思いましてね」

「共通点がないですよ」

「一つだけあります。あなたの動きが怪しいということです」

 

 シェーンコップ大将は意地の悪い笑いを浮かべる。

 

「何か隠しているんじゃないですか?」

「隠していませんよ」

 

 俺は笑顔で否定したが、内心では寒気を覚えた。シェーンコップ大将はさすがに鋭い。何かあると感じたようだ。

 

「八年前、あなたは部下を欺きながら何かをやった。今回も同じではないかと思いましてね」

「見たまんまです」

「あれから私なりに調べました。ヴァンフリートの数か月後、将官数十名が不自然な理由で退役した。同じ時期、数百個部隊が根こそぎ改編された。これほど大きな再編成がニュースになっていない。不自然でしょう? 当局は『たまたま重なった』と言っていますがね。偶然にしてはできすぎです」

「妙な話ですけど、俺には関係ありません」

 

 俺は必死になって否定した。シェーンコップ大将が指摘した件は、サイオキシンマフィアの粛清だった。ヴァンフリートでやった任務とは明確な因果関係がある。決して表には出せないが。

 

「そこまでおっしゃるのなら、関係ないことにしておきましょう。調べたところで軍事機密の壁にぶち当たる。あなたは何を聞かれても否定する。お手上げです」

「本当に関係ないですけどね」

「妙な真似はしないでいただきたい」

 

 シェーンコップ大将が真顔になった。六・二光年の彼方から放たれた眼光が突き刺さる。

 

「しませんよ」

 

 俺は笑顔で答えた。味方を騙すのは心苦しい。大義のあったヴァンフリートですら、大きなストレスを感じた。今回の任務には大義がない。ストレスに耐えきれるだろうか? 正直言って自信がなかった。

 

 

 

 第一辺境総軍の部隊は、各地のイゼルローン総軍基地に仮住まいした。異質な者同士が同居しているのだ。軋轢が生じるのは自然な成り行きであった。

 

 九月一六日、第一辺境総軍とイゼルローン総軍の合同会議が開かれた。上級大将一名、大将一二名、独立部隊司令官たる中将五名が参加した。南半球やイゼルローンにいる者はホログラム通信を使っている。

 

 打ち合わせが一通り終わった後、第一辺境総軍のパエッタ副司令官が立ち上がった。一言言いたいと言わんばかりの表情だ。

 

「イゼルローン総軍にお願いしたいことがある。髪型指導を強化していただきたい」

「理由をお聞かせいただけますか?」

 

 質問したのはアッテンボロー大将である。彼の髪は長髪だった。

 

「髪型の乱れは風紀の乱れにつながる」

「乱れたら困るんですか?」

「イゼルローンに来てからというもの、我が総軍では髪型違反が増えている。君たちの影響なのは明らかだ」

 

 パエッタ副司令官は苦々しげに言った。第一辺境総軍は髪型規定を厳格に守る部隊だ。隣に髪型自由な部隊がいたら、何かとやりづらい。

 

 国防委員会は「望ましい髪型」を定めた。男性は短髪か坊主頭、女性はショートカット・ポニーテール・ハーフアップが良いとされた。髪を染める場合も地味な色しか認められない。もっとも、髪型規定が厳密に適用されるかどうかは、指揮官の裁量に委ねられる。前線部隊は「散髪する余裕がない」との理由で緩くなりがちだ。リベラルな指揮官が率いる部隊も緩い傾向がある。

 

 ヤン元帥は自分の髪を伸ばし、髪型規定を無視する姿勢を見せた。トップが無視した規定を部下が守る理由はない。イゼルローン総軍の隊員は好きな髪型を選んだ。男女ともに流行りの髪型にする人が目立つ。アフロ、ドレッド、モヒカン、紫髪、青髪、緑髪、桃髪などもわずかだがいた。

 

「髪型なんてどうだっていいでしょう。大事なのは中身です」

「何事も型から入ることが大事だ。生まれながらの軍人はいない。軍人らしい格好をすることで、若者は『自分は軍人なのだ』と自覚する。外見が中身を作っていくのだ」

 

 パエッタ副司令官はスタンダードな軍隊教育論を説いた。軍隊には毎年一〇〇〇万人前後の若者が入隊してくる。「軍人らしさ」という鋳型に当てはめなければ、大勢の若者を軍人に仕立て上げることはできない。だからこそ、軍隊は形式にこだわる。

 

「馬鹿馬鹿しいですね」

 

 アッテンボロー大将は不快そうに吐き捨てた。

 

「画一化された『軍人らしさ』なんぞ、実戦では役に立ちません。戦争は喧嘩です。喧嘩できる奴を育てるべきです」

 

 彼の主張はスタンダードではないが、一定の支持を得ているものだ。形式主義は組織を堅固にするが、実戦に必要な闘争心・自立心・合理性を殺してしまう。自主性を重んじる教育を行い、実戦向きの資質を伸ばすのも一つの方法だ。

 

 同盟軍史を紐解けば、軍事能力と形式主義が相容れないことは一目でわかる。リン・パオ元帥、ユースフ・トパロウル元帥、ブルース・アッシュビー元帥をはじめとする過去の名将は、激烈な性格の持ち主だった。伝説的な勇者の多くは、伝説的な変人でもあった。ある軍事史学者は「同盟軍英雄列伝は同盟軍嫌な奴列伝だ」と述べた。ある意味では個性重視が同盟軍の伝統といえる。

 

「結束しなければ戦争には勝てん。強くても和を乱す奴など必要ない」

「強い人材を集めなければ、戦争には勝てません。歴史が証明しています」

 

 彼らの対立は軍人と戦士の対立であった。軍人は義務を果たすために戦うが、戦士は自分のために戦う。軍人は形式にこだわるが、戦士は形振り構わない。軍人は組織の力を頼るが、戦士は自分の力を頼る。勝つためには両者が必要だ。しかし、両者は本質的に相容れない。

 

「喧嘩と戦争を混同するな。個人が集まって軍隊になるのではない。軍隊という枠に個人を収めることが大事なのだ」

「じゃあ、あなたは百戦百勝なんでしょうな。完全に枠にはまっていますから」

 

 アッテンボロー大将はぶっきらぼうに言い放つ。

 

「小官は軍人らしくないので苦戦続きです。レグニツァでは危うく死にかけました」

「…………」

 

 パエッタ副司令官は何も言わずに座った。レグニツァの生き残りに「あんたのせいで死にかけたんだぞ」と言われたら、返す言葉がない。彼は恥を知る武人であった。

 

 第一辺境総軍幹部は不快な気分になったが、アッテンボロー大将の正論には反論できない。アッテンボロー嫌いで知られるワイドボーン参謀長も黙っていた。

 

 イゼルローン総軍幹部の反応は様々だ。ジャスパー大将はパエッタ副司令官に冷笑を浴びせ、ムライ大将はため息をつき、パトリチェフ大将は肩をすくめ、イム大将は顔をしかめ、シェーンコップ大将は「面白くなった」と言いたげに微笑む。

 

 困ったことになった。パエッタ副司令官は高圧的すぎる。アッテンボロー大将は容赦がなさすぎる。言いたいことを言わなければ、妥協点を探ることはできない。だが、言い方を選ばなければ、妥協は成立しない。

 

「まあ、どちらにも一理……」

 

 俺が無難な言葉で場を収めようとした時、第四艦隊司令官ジャスパー大将が立ち上がった。

 

「こちらからも言わせていただきたいことがあります。お聞きいただけますか?」

「言ってくれ」

「あなた方は残業が多すぎます。迷惑です」

 

 ジャスパー大将は咎めるような目つきだ。

 

「できるかぎり配慮したつもりだけど……。不十分だったかい?」

 

 俺は相手の顔色を伺うように問うた。

 

「不十分です。我が艦隊の基地だけで二〇万人が残業しています。残業が終わらないと、基地要員は帰れない。光熱費や警備費もかかります。残業をやめていただかないと、こちらが潰れます」

「わかった。残業時間を短縮しよう」

「どの程度短縮なさるおつもりですか?」

「即答はできない。現場の意見を聞かないと、正確な数字を出せないからね。一〇パーセントから一五パーセントになると思うけど」

 

 第一辺境総軍にとっては最大限の譲歩だったが、ジャスパー大将は首を横に振った。

 

「五〇パーセント短縮していただきたい。これは最低限の数字です」

「それは無理だ。仕事が回らなくなる」

「仕事を減らせばいいでしょう」

「代わりに人と金を出そう。光熱費と警備費はうちが負担する。基地業務隊に応援を派遣する。それでどうだ?」

「お断りします。余計な仕事を増やし、フォローのために余計な金を使う。エル・ファシルの時と同じです。あなたは全然進歩していない」

 

 ジャスパー大将の声には深い嫌悪がこもっていた。

 

「慰謝料のつもりで受け取ってもらえないか」

 

 俺は腰を低くして説得した。他人を援助する時は、「援助させてください」とお願いするのがコツだ。偉そうに「援助してやる」と言えば、相手のプライドは傷つき、恨みを買うだろう。頭を下げて援助を差し出せば、相手は引け目を感じ、恩を返したいという気持ちになる。これはトリューニヒト議長から学んだ一〇八の人心掌握術の一つだ。

 

 それでも、ジャスパー大将は援助を受け取ろうとしなかった。彼女は手間とコストを徹底的に削るヤンイズムの信者だ。トリューニヒト派に借りを作りたくない気持ちもあるのだろう。

 

 俺が悩んでいると、オイラー大将が「任せてください」と目くばせを送ってきた。まずいと思ったが、止める暇はなかった。

 

「ジャスパー提督、善意は素直に受け取るべきですよ」

 

 オイラー大将は五歳年上のジャスパー大将に上から目線で語りかける。

 

「フィリップス提督はトリューニヒト議長が任用なさったお方。フィリップス提督の善意を拒否することは、トリューニヒト議長の意向に背くことと同義です。あえて拒否なさるのであれば、議長への不忠と受け取られてもおかしくないですよ」

「ちょっと待て!」

 

 俺はうろたえた。パエッタ副司令官らも呆然とした。オイラー大将がここまで滅茶苦茶なことを言うとは思わなかったのだ。

 

「なに勘違いしてるんですか?」

 

 心底から軽蔑するような声の主は、アッテンボロー大将であった。

 

「議長の名前を持ち出したら、恐れ入ると思ってるんですか? この国はあなたの祖国と違う論理で動いています。軍人も議長も市民に仕えている。議長はただの上官であって、主君ではない。そして、軍人には上官に意見を述べる義務がある。ジャスパー提督は必要ないものを必要ないと述べただけです。不忠などと言われる筋合いはないですね」

 

 アッテンボロー大将はオイラー大将を厳しく糾弾した。ジャスパー大将とは目も合わせない仲だが、権威を振りかざす輩が現れた時は別だ。

 

「貴方、私を誰だと思っているんですか……」

 

 オイラー大将は笑顔の仮面を脱ぎ捨て、アッテンボロー大将を睨みつけた。さらなる論戦が始まるかに思われた時、別方向から冷笑まじりの声が飛んできた。

 

「存じておりますよ」

 

 傍観を続けていたシェーンコップ大将が初めて口を開いた。

 

「ヨハネス・オイラー。帝国歴四六一年、惑星オーディン生まれ。両親ともに平民。四七七年に士官学校に入学し、四八一年に首席で卒業。四八四年に皇太子府に加入、四八六年に宇宙軍准将に昇進。四八七年春に宇宙軍少将に昇進。四八七年冬に宇宙軍中将に昇進し、ローエングラム元帥府副査閲監を拝命。四八八年にミュッケンベルガー元帥府に参画、副査閲監補を拝命。四八九年に同盟軍に参画」

 

 シェーンコップ大将はオイラー大将の経歴を並べ立てた。

 

「素晴らしい経歴ですなあ。アッテンボローなんぞよりはるかにご立派だ」

「…………」

 

 オイラー大将は真っ青になった。亡命後の彼は、帝国批判やラインハルト批判で有名になった。投げ捨てた経歴を褒められても有り難くない。

 

「アッテンボロー提督、オイラー提督に頭を下げるべきではないかね。貴官の一歳下なのに大将になった御仁だぞ。すばらしい武勲を立てたに違いない。敬意を払わずにはいられんだろう?」

 

 シェーンコップ大将の慇懃無礼は芸術の域に達している。亡命後のオイラー大将が武勲を立てていないのは周知の事実だ。

 

 完全に面目を失ったオイラー大将は、第一辺境総軍に救いを求めた。俺は困った顔をした。パエッタ副司令官はシェーンコップ嫌いだが、それ以上に追従が嫌いだった。アッテンボロー嫌いのワイドボーン参謀長は、理に傾くタイプなので、好き嫌いより道理を優先した。その他の第一辺境総軍幹部も黙っていた。

 

 会議が終わった後、俺はオイラー大将と二人きりで会い、言葉を尽くしてフォローした。こんな人物でも見捨てるわけにはいかない。それが凡人主義だ。

 

 オイラー大将の能力に対する幻想は消えた。一〇人登用して一〇人成功するなんてことはない。一〇人登用して五人成功すれば、賞賛に値する。彼は失敗した五人に属していたのだろう。

 

 フォローを終えた俺は、第一辺境総軍幹部を集めた。会議に出席しなかったチュン・ウー・チェン副参謀長らも加わり、今後について話し合う。

 

 アッテンボロー大将の無礼さを非難する声があがったが、パエッタ副司令官が「あれはレグニツァで戦った男だ」と言ったので、すぐに収まった。

 

 髪型については、これ以上の要求を行わないことになった。パエッタ副司令官の要求はアドバルーンに過ぎない。アッテンボロー大将の毒舌が目立ったものの、それよりも重要な事実がある。ムライ大将やイム大将ですら、譲歩を口にしなかった。相手が要求を受け入れる可能性はない。二か月以内に撤収することを考慮すると、我慢するのがベターだろう。

 

 残業問題は難航しそうだ。ジャスパー大将の主張は、イゼルローン総軍の総意であろう。だが、残業を減らすことはできない。隊員の面倒をきっちり見ようとすると、仕事が多くなる。

 

「どうしようかな」

「部隊の一部をイゼルローン要塞に移すという手もあります」

 

 ワイドボーン参謀長が新しい案を出した。

 

「悪くないな。イゼルローン要塞はスペースが余っていると聞く。光熱費は無料だ。いくら残業しても文句は言われない」

「問題は家主です。アッテンボローとシェーンコップがトップですからね」

「めんどくさそうだ」

「ポプランもいますよ」

「リンツとグリーンヒル准将が頼りだな」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。要塞軍集団のカスパー・リンツとは、幹部候補生養成所時代からの付き合いだった。要塞艦隊のフレデリカ・グリーンヒル准将は、イゼルローン総軍と非公式に接触する際のパイプ役である。

 

「さっさと帰りたいですな。訓練もろくにできやしない」

 

 マリノ中将がぼやいた。イゼルローン総軍の基地に間借りしているため、好きなように訓練できないのだ。

 

「同感です。一分一秒でも無駄にしたくありません」

 

 第一一艦隊司令官ホーランド大将は静かに言い切った。彼に残された時間は少ない。

 

「イゼルローンに兵を置いたって、役に立ちません。最大の脅威はテロリストですから」

 

 ワイドボーン参謀長が難しい顔をする。トリューニヒト政権の強権政策は反同盟勢力を刺激し、テロの活発化を招いた。第一辺境総軍の管轄区域でもテロが発生している。

 

「帝国のテロ攻勢も激しくなっているね。はっきり言うと、艦隊より工作員の方が恐ろしい」

 

 俺は両腕を組んでため息をついた。移民や難民に紛れ込んだ帝国の工作員は、戦犯や亡命者の暗殺、政府施設の破壊、反体制組織の支援などさまざまな活動を繰り広げた。

 

「出兵の代わりにテロをやっているんです。忌々しいですが正しい戦略といえます」

「何とかしないとなあ」

「一日でも早くシャンプールに戻り、対テロ作戦に全力を注ぐべきです。イゼルローンで道草を食う余裕などありません」

 

 ワイドボーン参謀長の言葉に、全員がうなずいた。イゼルローン回廊に留まりたいと思う者は一人もいない。

 

 俺は心の中で「すまない」と頭を下げた。事情を知っている自分ですら、ひとかけらの意義も感じない任務だ。何も知らない彼らが不満を覚えるのは無理もない。本当に申し訳ないと思う。

 

 話し合いが終わると、チュン・ウー・チェン副参謀長がポケットからパンを取り出した。潰れたパンである。

 

「そろそろ腹ごしらえをしましょうか」

 

 この提案に異議を唱える者はいなかった。全員が潰れたパンを口にする。新参のパエッタ副司令官やワイドボーン参謀長も潰れたパンに慣れた。みんなで一服してから会議を終えた。

 

 一七時に課業時間が終了した。第一辺境総軍隊員は小休憩をとった後、残業を始める。一方、イゼルローン総軍隊員は帰っていった。この光景は二つの総軍の違いを象徴していた。

 

 第一辺境総軍は忙しい部隊だ。他の部隊よりも隊員を厳しく管理した。他の部隊よりも隊員の待遇改善に力を入れた。他の部隊よりも隊員の健康に気を使った。他の部隊よりも隊員の悩みに向き合った。他の部隊よりも研修や勉強会を多く開いた。他の部隊よりも隊員の再就職支援に力を入れた。他の部隊よりも広報活動に力を入れた。その結果、仕事が多くなった。

 

 一方、イゼルローン総軍は拘束時間が短いことで知られる。仕事が少ないので、残業する必要がないらしい。

 

 スタンダードに近いのは第一辺境総軍の方だろう。同盟軍はもともと残業が多い職場だ。有事の際の忙しさは言うまでもない。平時であっても、仕事は山ほどある。そして、部隊規模と仕事量は比例する。総軍でありながら残業しないイゼルローン総軍は例外中の例外だった。

 

「どうやったら、あんな部隊を作れるんだ?」

 

 俺は首を傾げた。常識的に考えたら、大部隊で残業禁止を徹底することは不可能だ。残業を嫌う提督は多いが、艦隊司令官になると部分的でも認めてしまう。大部隊の司令部はそれほど忙しい場所なのだ。

 

「隊員が飛び抜けて有能だとは思えないしなあ」

 

 イゼルローン総軍と一緒に演習した時のことを思い出した。新兵と予備役が過半数を占める部隊と考えれば、練度は高いといえる。しかし、ラグナロック以前の正規艦隊とは比べ物にならない。定時以内に仕事を処理する能力はないだろう。

 

 俺は「わからない」と結論付けて、残業に取りかかった。トリューニヒト政権は残業代を満額支払ってくれる。相応の報酬がもらえるのならば、徒労感はない。リベラリストは「人気取りのためのばらまきだ」と批判するが、そうだとしてもありがたいことだ。

 

 二時間の残業をこなした後、官舎に戻った。独身者用の狭い部屋だ。仮住まいなので荷物はほとんどない。

 

「ただいま」

 

 俺はダーシャの写真に微笑みかけた。ダーシャは何も言わず、ほんわかした丸顔に微笑みを浮かべる。

 

 査問会をサポートする命令を受け入れた日、ダーシャの写真に布をかぶせようとした。汚いことをする自分を見せたくなかったからだ。しかし、叱られた方がずっとましだと思ったので、布をかぶせるのはやめた。

 

 俺はキッチンに行ってコーヒーとココアを作った。コーヒーには大量の砂糖とクリームを放り込む。ココアは煮えたぎるほどに熱くした。

 

「ココア持ってきたよ」

 

 ダーシャの写真の前に熱いココアを置いた。この世界にいた頃のダーシャは、熱いココアを冷まして飲むのが好きだった。

 

「君がこの世界にいたら、俺を叱るんだろうな」

 

 俺は糖分たっぷりのコーヒーを飲みながら、ダーシャに語り掛ける。

 

「君はヤン元帥を嫌っていたけど、それ以上にルール違反が嫌いだった。ヤン元帥を排除するためにルールを破るなんて許せないだろ」

 

 返事は返ってこないが、それでも構わない。ダーシャなら「許せないね」と答えるはずだ。その確信だけで十分だった。

 

 心に潤いが戻ったところで端末を開き、二冊の電子書籍を同時に開いた。一冊はリン・パオ元帥の回顧録、もう一冊はブルース・アッシュビー元帥の言行録だ。

 

 同盟軍史を代表する二人の名将は、対照的な考えを持っていた。リン元帥は個々の力を引き出すことがリーダーの仕事だと述べた。それに対し、アッシュビー元帥は統制されたチームを作ることがリーダーの仕事だと主張する。

 

 勝利をゴールと考えるならば、二人とも正しいといえるだろう。リン元帥は仲の悪い提督の力をうまく引き出し、ダゴン会戦で勝利した。アッシュビー元帥は同期生チーム「七三〇年マフィア」を最強のチームに育て上げ、第二次ティアマト会戦で大勝利を収めた。どちらのやり方でもゴールにたどり着ける。

 

「正解は一つじゃない」

 

 俺は二冊の本を見比べながら呟いた。一匹狼のリン元帥は自分のチームを持たなかったため、与えられた駒を活用せざるを得なかった。リーダー気質のアッシュビー元帥は、自分の周囲に集まった若者を手駒として育てる立場だ。二人の違いは立場の違いに過ぎなかった。

 

 立場が違えば正解も変わる。ヤン・ウェンリーにはヤン・ウェンリーの正解がある。エリヤ・フィリップスにはエリヤ・フィリップスの正解があるはずだ。

 

「正解は一つじゃないけど、そう言っても無意味なんだろうなあ……」

 

 俺はアッテンボロー大将とパエッタ大将のことを思い浮かべた。二人とも多大な実績を持つ名将だ。自分のやり方を信じるのも無理はない。

 

 一流の人物はプライドも一流だ。温厚に見えても、心の中には強烈な自信を秘めている。力量を認めた相手であっても、自分のやり方を否定することは許さない。そうでなければ、チャンスをものにできないし、逆境を乗り切ることもできない。だから、「どのやり方が正しいのか」という議論はこじれる。

 

 大抵の場合、実績と自信は比例する。成功経験は自分が正しいという確信を与えてくれる。自信家は自分を信じて突っ走ることができるし、逆境に陥っても挫けないので、さらに成功を重ねていく。成功と確信を積み重ねた結果、強烈な自信家が生まれる。天才なのに自分を疑うヤン・ウェンリーみたいな人物は例外中の例外だ。

 

「イゼルローン総軍を理解しないとな」

 

 俺は思い切り背伸びをした。相手の本質を知っていれば、第一辺境総軍の隊員は「ああいう連中だからしょうがない」と思うようになる。二つの総軍の関係は大きく前進するだろう。

 

 翌日、第一辺境総軍司令部はイゼルローン総軍の調査を開始した。ラハムへの移駐作業が一段落したところだ。調査を行うなら今がベストだった。



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第103話:厳しい自由、優しい干渉 802年9月17日~9月25日 第一辺境総軍臨時司令部~第二艦隊臨時司令部~臨時官舎

 古代の軍事学者は「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」と述べた。敵を理解していない指揮官には、臨機応変の対処ができないだろう。自軍を理解していない指揮官には、兵を適切に動かすことができないだろう。だからこそ、両方を知る必要がある。

 

 俺はイゼルローン総軍の文書を集めた。一人では処理しきれない量なので、幕僚が手分けしてまとめる。デスクの上にはレポートが山のように積み上げられた。

 

 最初に目についたのは拘束時間の異常な短さだ、残業が極端に少ない。司令官や幕僚ですら定時で帰る。休日に勉強会を開くことはないし、隊員を広報活動に動員することもないので、休日出勤もなかった。それに加えて、有休申請が異常に通りやすかった。

 

 部隊運営は徹底的に効率化されていた。文書は簡略を極める。会議やミーティングの回数は他の部隊の半分以下だ。隊員を細かく管理しようとせず、個人の自己管理に委ねた。時間外の研修や勉強会を一切実施せず、自学自習に任せた。

 

 広報活動は極めて不活発だ。公式サイトはテンプレ通りの内容で、通知と活動報告以外は更新されていない。記念行事の規模を著しく縮小した。基地の一般開放は「隊員の負担が大きい」との理由で年一回に留め、平日午後に実施することとした。訓練の一般公開は可能な限り避けた。地域住民からイベントへの協力を求められても断った。

 

「仕事が極端に少ないのか」

 

 イゼルローン総軍が残業禁止を徹底できた理由が、俺にも理解できた。普通の軍人が必要最低限だと考える仕事も、イゼルローン総軍は大胆に省いてしまう。これほど仕事が少なければ、定時で終わらせることも不可能ではない。

 

「しかし、これほど少ない仕事量で部隊が回るのかな」

 

 俺は新しい疑問を覚えた。組織を動かすには相応の手間が必要だ。この仕事量で組織を維持できるとは思えない。

 

 文書に記されたデータを信じるならば、イゼルローン総軍の運営は健全そのものだ。常識では考えられないことだった。

 

「自分の目で確かめよう」

 

 俺は現場に足を運んだ。データは大事だが、それがすべてではない。同じ数字でも意味合いは違う。無理して出した成果なのか、余裕をもって出した成果なのかは、この目で見ないとわからないのだ。

 

 完璧を期するため、様々な種類の基地を視察先に選んだ。群基地・戦隊基地・機動部隊基地・分艦隊基地・艦隊基地をすべて回った。艦種が違えば乗員の生活も変わるので、全艦種の基地に出向いた。陸戦隊や地上軍についても、全階層・全兵種の基地を回った。

 

 俺が現場に姿を現すと、イゼルローン総軍隊員は仰天した。本来の司令官であるヤン・ウェンリー元帥は、直率する第一三艦隊の基地にもほとんど顔を出さない人物だ。政治家や軍幹部が視察に来ても、小さな基地を訪ねることはない。それなのに他の部隊の上級大将がやってきたのだ。

 

 五感をフルに使って情報を吸収した。自分の足で現場を歩く。自分の目で現場を見る。自らの耳で兵士の声を聴く。自分の肌で空気を感じる。自分の舌で兵食を味わう。自分の手でゴミ箱を開ける。自分の尻を便器に下ろす。一人では回り切れないので、幕僚と手分けして視察を行う。

 

 一週間かけて視察を終えた。俺は幕僚と一緒に情報をまとめる。デスクの上にはレポートが山のように積み上げられた。

 

 食事の質は普通だが、量は平均より多い。栄養バランスにはあまり配慮していなかった。一食あたりの予算は平均より安い。満腹感を重視しているようだ。

 

 兵舎の環境は良いとも悪いともいえなかった。最低限の清潔さは保たれているが、目立たない部分は汚れている。トイレはきれいでもないし、汚くもない。トイレットペーパーや石鹸などの補充は、やや遅れ気味だと感じた。給湯器からはちゃんとお湯が出る。照明や空調の故障は少ない。建物や設備は新しいが、手入れが行き届いていなかった。

 

 規律は驚くほど緩い。制服を着崩したり、派手なアクセサリーをつけたり、おしゃれな髪型をしたりする隊員が目立つ。飲酒・ギャンブル・女遊びについても、うるさく言われることはない。国家や軍隊を軽んじる発言をしても、大目に見てもらえる。ただし、パワハラ・セクハラ・民間人とのトラブルは厳しく罰せられた。

 

 戦力は同盟軍の看板部隊にふさわしい充実ぶりだ。トリグラフ級大型戦艦、レダ級巡航艦などの最新兵器が大量に配備された。高名な勇士が多数在籍している。予算には不自由していない。弾薬や物資は潤沢である。

 

 総軍全体に自由闊達な気風があった。休みが多く、おしゃれや遊びを好きなだけ楽しめるので、ストレスが少ない。個性に寛容な者が多く、他の部隊が持て余した豪傑や硬骨漢を受け入れた。出過ぎた発言をしても許されるため、隊員は活発に意見を述べた。上層部は良いアイディアを熱心に取り入れた。

 

「こういう方法もあるんだなあ」

 

 俺はしきりに感心した。自由にさせることでストレスを減らし、意欲を高める。意見を聞き入れることで自覚を持たせ、創意工夫を促す。個人主義的な組織運営の極致といえる。

 

「良識派が主導権を握ってた頃は、どの部隊もこんな感じでした。イゼルローン総軍ほどうまくやった部隊はありませんでしたが」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が説明を付け加える。彼は基本的にポジティブなことを言う。

 

「なるほど」

「欠点もありますよ」

 

 ワイドボーン参謀長が口を挟んできた。参謀としての彼は、基本的にネガティブなことしか言わない。

 

「できる人とできない人の格差だね」

「その通りです。どの部隊も少数のトップグループに依存しています」

 

 ヤン嫌いのワイドボーン参謀長だが、欠点を指摘する時は冷静そのものだ。データは有能な者と無能な者の格差を示している。

 

 イゼルローン総軍の「自由」は「厳しさ」でもあった。意欲のある者はどんどん伸びるが、意欲のない者は伸び悩む。個性が強い者は活躍できるが、個性が弱い者は埋もれる。自制心に乏しい者は放埓に流れる。自由は優れた者の成長を促すが、劣る者の成長を阻害した。

 

 能力格差と自由な気風が相乗作用を起こし、無能者に厳しい風潮が生まれた。部下は無能な上官を遠慮なく批判する。上官は有能な部下だけを手元に置き、無能な部下を遠ざけた。有能な者が主導権を握ったことで、部隊運営は著しく効率化されたが、隊員の一体感は失われた。

 

 ヤン・ウェンリー一二星将ですら一枚岩ではない。本物の実力を持つ名将と、ヤン・ウェンリーに従ったおかげで実力以上の名声を得た凡将の間には、深い溝がある。

 

「うちとは正反対だ」

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲むと、別のファイルを開いた。端末画面にイゼルローン総軍と第一辺境総軍を比較した資料が現れる。

 

 第一辺境総軍の環境は、イゼルローン総軍よりずっと良好だ。おいしくて栄養バランスのとれた食事を腹いっぱい食べられる。清潔で快適な兵舎に住むことができる。教育体制が充実している。専門家が健康管理をサポートする。悩みがあったら相談に乗ってくれる。トラブルがあったら、迅速に解決してくれる。再就職を全面的にバックアップしてもらえる。

 

 第一辺境総軍は落ちこぼれを見捨てない。細かい指導と充実した研修のおかげで、やる気のない者にもそれなりの勉強を積ませた。一定の型にはめることで、無能者にも最低限の力を身に着けさせた。

 

「我が総軍は能力格差が少ないですが、トップグループの力量は今一つです」

 

 ワイドボーン参謀長は第一辺境総軍の欠点を指摘する。落ちこぼれは少ないが、飛び抜けた人材も少ない。

 

 第一辺境総軍の「優しさ」は「干渉」の裏返しだ。自立心の強い人は、面倒見の良さを「お節介だ」と感じるだろう。個性が強い人は、細かい指導を「押し付けだ」と感じるだろう。干渉は劣る者の成長を促すが、優れた者の成長を阻害する。

 

「ここまで正反対だと、清々しさすら覚えるね」

 

 俺が苦笑を浮かべると、チュン・ウー・チェン副参謀長がのんびりした口調で言った。

 

「イゼルローン総軍と第一辺境総軍の共通点は二つあります。一つは訓練の厳しさ、もう一つはパワハラ・セクハラ・民間人とのトラブルに対する厳しさです」

「分かり合う余地はあるかな」

 

 俺は幕僚たちの顔を見回した。

 

「無理でしょう。体質が違いすぎます」

 

 ワイドボーン参謀長は率直な言葉で否定した。

 

「不可能ではないと思いますが、すぐに分かり合うのは困難でしょう」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は困ったような微笑みを浮かべる。遠回しな表現だが、言っていることはワイドボーン参謀長と変わらない。

 

「イゼルローンはこちらに興味がないみたいだしね。視察に来てもいいといったのに、一人も来ない」

 

 俺はため息をついた。二つの総軍が歩み寄る光景が想像できない。糖分がほしい。甘味で心を癒したい。そう思った時、目の前が暗くなった。

 

 顔を上げると、ハラボフ大佐が威圧感たっぷりの無表情で俺を見下ろしていた。その右手にはマフィンを乗せた皿がある。

 

「あ、ありがとう……」

 

 迫力に押された俺はマフィンを受け取り、口の中に放り込んだ。ワイドボーン参謀長、イレーシュ人事部長らの視線が妙に温かい。チュン・ウー・チェン副参謀長は、出来立てのパンを見る時のような目つきをする。

 

 ミーティングが終わり、幕僚たちが退室した。俺、ハラボフ大佐、次席副官ディッケル大尉だけがこの部屋に残った。三名とも自分の仕事を黙々とこなす。

 

 俺は頭の中から前の世界の記憶を引っ張り出した。戦記に記されたヤン・ウェンリー像をレポートと照らし合わせる。

 

 ヤン・ウェンリーは束縛を好まない。部下を職場に縛り付けたくないから、残業をなくした。部下を規則で縛りたくないから、行儀の悪さを大目に見た。

 

 ヤン・ウェンリーは自由意思を尊重する。人間は自由に生きるべきだと考える。人間は自由に選択するべきだと考える。国家や指導者のためではなく、自分自身のために戦ってほしいと願う。

 

 ヤン・ウェンリーは効率主義者だ。可能な限り手間とコストを省いた。苦労して完全勝利するより、楽に判定勝ちする方を選んだ。精神主義や家族主義を切り捨てた。市民や政治家を満足させるためのサービスを削った。凡人が大事にするものは、天才の目から見ると無駄でしかない。

 

 ヤン・ウェンリーは他人にどう見られるかを気にしない。それゆえに軍隊らしさを演出するための装飾を削った。軍人らしい身なり、細々とした規則、市民受けするパフォーマンスなど不要だ。市民や政治家の心証を良くする暇があったら、部下を休ませる。

 

 ヤン・ウェンリーは他人の生き方に干渉しない。努力したいなら努力すればいい。怠けたいなら怠ければいい。働き者だろうが、怠け者だろうが、手持ちの駒は有効に使う。

 

 レポートと戦記の記述はおおむね一致している。おそらく、ヤン・ウェンリーの実像は、戦記とそれほどかけ離れていない。

 

 そして、もう一つ気づいたことがあった。ヤン・ウェンリーは本当に俺と正反対なのだ。正反対ゆえに親しくできる場合もあれば、正反対ゆえに相容れない場合もある。この場合は相容れない正反対だった。

 

 エリヤ・フィリップスは束縛も必要だと思っている。部下に間違いを犯してほしくないから、規則で縛り付けた。それは独善ともいえる。

 

 エリヤ・フィリップスは秩序を尊重する。人間は秩序を守るべきだと考える。秩序を整えることが個人を幸せにすると考える。秩序のために戦ってほしいと願う。それは権威主義ともいえる。

 

 エリヤ・フィリップスはコストを惜しまない。必要な成果を得るためなら、いくらでもコストをかける。予算を惜しみなく使う。人を惜しみなく使う。時間をたっぷりかける。それは非効率ともいえる。

 

 エリヤ・フィリップスは他人にどう見られるかを気にする。軍人らしい身なりを整えさせた。細々とした規則を守らせた。市民受けするパフォーマンスに力を入れた。それは迎合ともいえる。

 

 エリヤ・フィリップスはお節介だ。他人を幸せにするために頑張る。他人が不幸にならないために頑張る。他人を努力させるために頑張る。他人を怠けさせないために頑張る。それは押し付けともいえる。

 

 結局のところ、第一辺境総軍とイゼルローン総軍の違いは、俺とヤン・ウェンリーの違いであった。司令官は自分で方針を選び、自分で幕僚を選び、自分の基準で規則を運用する。部隊には司令官の個性が如実に現れるのだ。

 

 

 

 平時の軍隊にとって最大の仕事は訓練と教育である。イゼルローン回廊にいる間も第一辺境総軍は兵の育成に取り組んだ。

 

 今月上旬、第一辺境総軍はイゼルローン総軍とともに統合演習を行った。その結果、多くの課題が浮き彫りになった。貴重な経験を改善につなげるべく、議論と研究を重ねている。

 

 九月二四日、第一辺境総軍臨時司令部の一室で、幕僚と一緒に統合演習の動画を視聴した。軍艦数万隻が艦首を進む。単座式戦闘艇「スパルタニアン」数万機が縦横無尽に飛び回る。陸戦隊数十万人が要塞外壁を固める。素人の目には一糸乱れぬ動きに見えるだろうが、プロから見れば乱雑の極みであった。

 

「合格点といえるのは第一一艦隊だけです。第二艦隊は練度のわりに動きが悪い。第五五独立分艦隊と第五七独立分艦隊は練度が不足しています」

 

 欠点を指摘する時、ワイドボーン参謀長は銀河で最も鋭い参謀になる。人の失敗を無神経にえぐる性格は、指揮官向きではないが、作戦参謀には向いていた。

 

「独立分艦隊はこんなものでしょう。ゼロから立ち上げた部隊です。マリノ提督とビューフォート提督はよくやってると思いますよ」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が二つの独立分艦隊を擁護した。長所を探す時、彼の本領が発揮される。

 

「問題は第二艦隊か……」

 

 俺は憂鬱な気分になった。第二艦隊は練度が十分なのに動きが悪い。独立分艦隊よりずっと深刻だ。

 

「第二艦隊の練度は低くありません。それだけに中級指揮官の力不足が目立ちます」

 

 ワイドボーン参謀長の目が鋭く光る。

 

「俺の責任だ。中級指揮官を選んだのは俺だからね」

「その問題については第二艦隊で話し合ってください」

「わかった」

「今は現状に適した運用法を考えましょう。総軍の本分は運用です」

 

 ワイドボーン参謀長の発言の後、幕僚たちは議論を始めた。第一一艦隊以外の部隊は弱いという前提を踏まえた上で、どのように運用していくのかを考える。

 

 議論の結果、運用上の最大の弱点は俺の指揮能力だという結論に達した。幕僚が俺の下手くそな指揮を批判するのはいつものことだ。

 

「決断が遅すぎます。慎重も度が過ぎると鈍重です」

 

 ワイドボーン参謀長は咎めるように俺を見た。

 

「すまん」

「相手を警戒するのは結構ですけどね。決断が遅れると、味方が動けないんですよ」

「本当にすまん」

「我々幕僚はあくまで補佐役です。作戦を立てることはできる。助言することはできる。しかし、司令官の代わりに決断することはできない。あなたが決断しない限り、我が軍は動けないのです」

「わかった」

 

 一分の隙も無い正論だったので、俺には頷くことしかできなかった。

 

「パエッタ提督に前線指揮を任せた方がいいんじゃないでしょうか」

 

 ラオ作戦部長が俺と副司令官パエッタ大将を交互に見る。

 

「フィリップス提督の本領は後方支援にあります。後ろから支えた方が力を発揮できるはずです」

「私も作戦部長と同意見です」

 

 ワイドボーン参謀長はラオ作戦部長の提案を支持したが、パエッタ副司令官が異論を述べた。

 

「フィリップス提督は前線に立つべきだと思うがね」

「指揮能力はあなたの方がずっと上でしょう」

「エリヤ・フィリップスのネームバリューは絶大だ。勇者の中の勇者が前線にいる。それだけで士気が上がる」

「士気だけでは戦争はできません」

「勢いが計算を凌駕することは珍しくない。一〇か月前、市民軍はボーナムで戦った。敵の練度と武器は優秀だった。敵の作戦は的確だった。だが、市民軍は心を一つにして戦った。寄せ集めの集団が、フィリップス提督のために戦ったのだ。私もその一人だよ」

「…………」

「フィリップス提督には心を湧かせる力がある。ボーナムで戦った者ならわかるはずだ」

 

 パエッタ副司令官は幕僚たちの顔を見回す。二人に一人はボーナムで戦った人間だ。

 

「別の手もありますよ」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は、新作のパンを売り出す時のような口ぶりだ。

 

「どんな手だ?」

「パエッタ提督が主力を統率し、フィリップス提督が予備戦力を統率するのです」

「ここぞという時にフィリップス提督が突撃するのだな」

「その通りです。我が軍が劣勢に陥った時は最後の守りになります」

「フィリップス提督が背後に控えていれば、兵も安心して戦える」

 

 パエッタ副司令官が頷き、幕僚たちは議論を始めた。幕僚たちは活発に意見を交わす。俺はマフィンを食べながら耳を傾ける。

 

 話し合いがひと段落した後、イゼルローン総軍の動画が上映された。他の部隊と比較することで第一辺境総軍の相対的な位置を確認するのだ。

 

 ヤン元帥は第四艦隊・第六艦隊・第一三艦隊の混成艦隊を率いた。国防委員会がヤン・ウェンリー一二星将を全員参加させるために臨時編成した艦隊だ。ヤン直率部隊、デッシュ分艦隊、フェーガン分艦隊は第一三艦隊隊員、ジャスパー分艦隊は第四艦隊隊員、ムライ分艦隊は第六艦隊隊員で構成されている。

 

 アッテンボロー大将率いる要塞艦隊は、ゼロから編成された艦隊だ。コアとなる集団を持たないので練度は低い。

 

「混成艦隊も要塞艦隊も練度不足ですが、動きは悪くありません」

 

 ワイドボーン参謀長が微妙な表情を浮かべる。

 

「指揮官が部隊をしっかり掌握しているね。さすがはヤン元帥とアッテンボロー提督だ」

「まったくです」

 

 嫌々ながらといった感じで、ワイドボーン参謀長が頷いた。本音では認めたくないのだろう。だが、理に適うものを否定することなどできない。彼は理論を重んじる人間なのだ。

 

「艦隊単位ならどうだろう? 混成艦隊は各正規艦隊から選りすぐった兵の寄せ集めだ。艦隊ごとの練度を知るにはいい指標になる」

「練度にばらつきがみられます。第一三艦隊が最優秀、第六艦隊はやや劣ります。第四艦隊は明らかに劣っています」

「第一三艦隊は旧第一三艦隊のベテランを多く抱えている。練度が高くなるのは当然だね」

「第四艦隊と第六艦隊の差は、育成能力の差だと思われます」

「教頭先生の異名は伊達じゃないってことか」

 

 俺はムライ大将の神経質そうな顔を思い浮かべた。育成がうまいのは当然だろう。旧第一三艦隊の練度管理を一手に引き受けた提督なのだ。

 

「要塞艦隊の練度は、第四艦隊とほぼ同等です」

「コアがいないことを考慮すると、要塞艦隊の成長率は凄いな。第一一艦隊にも劣らない成長だ」

 

 俺はアッテンボロー大将の力量を素直に称賛した。「喧嘩の準備に関する限りは骨惜しみしない男」と評される提督は、兵を育てるための努力を惜しまない。

 

「その通りです」

 

 ワイドボーン参謀長は複雑な表情を見せる。要塞艦隊の練度を評価するなら、大嫌いなアッテンボロー大将の手腕も評価せざるを得ない。

 

「シェーンコップ大将の要塞軍集団はどうだ?」

「練度は今一つですが、統率が取れています」

「艦隊と同じだね」

 

 俺は頷くと、他の幕僚たちに意見を聞いた。ワイドボーン参謀長の意見と大きな違いは見られなかった。

 

 イゼルローン総軍は精鋭ではない。ヤン元帥の下で転戦したベテランの半数は、同盟軍再編の時に引き抜かれた。残りの半数は、旧第一三艦隊系の三個艦隊に分散配備された。代わりにやってきたのは新兵と再招集された予備役だ。練度の伸びは早いが、精鋭になるには時間がかかるだろう。

 

 ヤン元帥、アッテンボロー大将、シェーンコップ大将らの指揮により、練度の低い部隊が実力以上の動きを見せる。優秀なトップグループが落ちこぼれを引っ張る図式が、ここでも見られた。

 

 前の世界のヤン艦隊は、敗残兵と新兵の寄せ集めだった。そんな部隊がヤン・ウェンリーの手腕によって最強部隊となった。同盟軍が壊滅した前の世界と比べると、この世界のヤン艦隊は恵まれている。それでも、寄せ集めという本質は変わらない。

 

「勝てると思うか?」

 

 俺はもう一度幕僚たちの意見を聞いた。首を縦に振る者はいない。兵士の質はほぼ互角だ。中級指揮官の質にも大きな差はない。パエッタ大将やホーランド大将がいれば、一二星将にも対抗できるだろう。しかし、ヤン・ウェンリーに勝つことは不可能だ。

 

 議論が終わると、チュン・ウー・チェン副参謀長がポケットから潰れたパンを取り出し、参加者に手渡した。

 

「そろそろ腹ごしらえをしましょうか」

 

 この提案に異議を唱える者はいなかった。ハラボフ大佐とディッケル大尉が新しいコーヒーや茶を用意し、みんなで一服して解散した。

 

 三〇分後、俺は第二艦隊臨時司令部に入った。同行者はパエッタ副司令官、チュン・ウー・チェン副参謀長、首席副官ハラボフ大佐、護衛兵四名である。

 

 臨時司令部の一室に第二艦隊幕僚が集まり、統合演習の動画を視聴した。この場においては、俺は第二艦隊司令官、チュン・ウー・チェン副参謀長は第二艦隊参謀長、ハラボフ大佐は第二艦隊司令部副官となる。パエッタ副司令官は第二艦隊幕僚ではないが、元第二艦隊司令官としての意見を述べるために出席した。

 

 第一辺境総軍のミーティングで指摘された通り、第二艦隊の動きは良くなかった。幕僚たちは険しい表情で画面を見つめる。

 

「まともなのは陸戦隊と第三六機動部隊だけですね。A分艦隊は整然としているけど消極的。B分艦隊は素早いけど気力に欠ける。C分艦隊は巧妙だけど動きが鈍い。D分艦隊は積極的だけど粗雑すぎる。第九一機動部隊は足並みが揃っていない。全然だめです」

 

 第二艦隊副参謀長イブリン・ドールトン少将が容赦なく欠点を指摘した。参謀としての彼女は、ワイドボーン大将と同じタイプである。

 

「練度は決して低くないんだ」

「それだけに中級指揮官の力不足が目立ちます」

「五人とも無能ではないんだけどなあ」

 

 俺はため息をつき、パエッタ大将に同意を求める視線を送った。この場にいるメンバーの中で、旧第二艦隊出身者の有能さを知っているのは彼だけだ。

 

「ケンボイ、モンターニョ、デュドネイの三人は、優秀な“機動部隊司令官”でした」

 

 パエッタ大将は“機動部隊司令官”の部分を強調する。

 

「ガイヤールは優秀な“戦艦乗り”でした。彼女が旗艦の艦長でなければ、レグニツァで負けた時に私は死んでいたでしょう」

 

 パエッタ大将は“戦艦乗り”の部分を強調する。

 

「残念ながら、彼らは器量以上の地位に就いてしまったようです。地位と器量が釣り合う間は昇進を続ける。地位が器量を上回った時、職責を果たせなくなる。私自身がそうでした。一個艦隊を率いる器量はありましたが、複数の艦隊を率いる器量はありませんでした」

「君は自分にも他人にも辛口だな」

「他の者が甘いだけでしょう」

 

 パエッタ大将は面白くもなさそうに言うと、砂糖がたっぷり入ったウーロン茶をすすった。自分にも他人にも辛いのに、味覚は甘党だ。

 

「俺は甘口だけど、バルトハウザー提督は本当に優秀な戦隊司令だったと思うよ」

 

 俺はバルトハウザー中将を擁護した。派閥バランスを重視したとはいえ、可能な限り有能な人物を選んだつもりだった。

 

「見る目がありませんでしたね」

 

 ドールトン少将が身もふたもないことを言う。男を見る目がない人には言われたくないが、正論なので反論できない。

 

 第二艦隊の中級指揮官は俺が選んだ人物である。旧第二艦隊で最も優秀な人材は、同盟軍再編の時に引き抜かれた。エル・ファシルやラグナロックで俺を支えた「フィリップス一六旗将」の多くは、新設部隊の幹部となった。そのため、「より優秀な人材」ではなく、「よりましな人材」を選んだ。

 

 A分艦隊司令官のジョゼフ・ケンボイ中将は、管理能力に長けた提督だ。しかし、切れ者過ぎて部下を委縮させるところがあった。

 

 B分艦隊司令官のハイメ・モンターニョ中将は、献身的な戦いぶりで知られる提督だ。しかし、他人にも献身を求めるため、部下を疲れさせてしまう。

 

 C分艦隊司令官のガブリエル・デュドネイ中将は、用兵を知り尽くしている提督だ。七九〇年代半ばには、同期のヤン元帥やワイドボーン大将と並び称された。しかし、考えすぎて積極的に動けない。

 

 D分艦隊司令官のアレクサンデル・バルトハウザー中将は、フィリップス一六旗将の一人で、忠勇無比の帝国人提督だ。しかし、目の前の仕事に集中しすぎるため、全体を見ることができない。

 

 第九一機動部隊司令官のウジェニー・ガイヤール少将は、行動力に定評がある提督だ。しかし、せっかちで粘り強さに欠ける。。

 

 五人とも決して無能ではない。ケンボイ中将、モンターニョ中将、デュドネイ中将らは、階級インフレが起きる前に将官となった人物だ。バルトハウザー中将は前の世界でも名将だった。並みの軍人よりはずっと有能なはずだ。しかし、中将になった途端、欠点が長所を打ち消した。パエッタ大将の言葉を借りるならば、地位が器量を上回ったのだろう。

 

「俺が甘かったんだ。彼らは悪くない」

「堅くなったパンを嘆いても仕方がありません。湯気に当てれば良いのです」

 

 チュン・ウー・チェン中将はいつも前向きだ。パンのまずさを嘆くよりは、まずいパンをおいしく食べる方法を考える。

 

「参謀長の言うとおりだ。湯気を当てれば、堅いパンは柔らかくなる。砂糖とクリームをたっぷり入れれば、苦いコーヒーは甘くなる。一二星将の半数は平凡な提督だけど、ヤン提督が采配を振るえば、一流提督並みの活躍ができる。工夫を凝らせば、二流の人材も力を発揮するんだ」

 

 俺は柔らかいパンを口に入れ、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーをのどに流し込む。同じ素材でもほんの少しの工夫で味が変わる。

 

「悪い人事だったとは思いませんがね」

 

 第二艦隊副司令官アップルトン中将がおもむろに口を開いた。

 

「そもそも、ろくな人材がいないのです。消去法で選ばざるを得ない。そんな人事が成功した試しはありません」

「私がフィリップス提督の立場でも、このメンバーを選ぶでしょうな。強いて言うなら、デュドネイの代わりにダルビーを入れます。大して変わらんでしょうが」

 

 パエッタ大将が気難しい表情で応じ、アップルトン中将が頷いた。

 

「ベストとはいえませんが、ベターな人事だと思います。才能あるコレットを獲得できた。コクランが予想外の成功を収めた。この二点だけでも、望外の幸運というべきでしょう」

「そうだね……」

 

 俺は困った顔をした。この世界では、コレット少将は「フィリップス提督が自ら引っ張った期待の若手」、コクラン中将は「消去法で選ばれた人物」だと思われている。本当は逆なのだが。

 

 実を言うと、シェリル・コレット少将を自分の下で使う気はなかった。彼女はあまりに俺を信じすぎている。他の提督の下で修業させないとまずいと思った。しかし、トリューニヒト議長が英雄同士を共演させたいと望んだため、俺の下に配属された。幕僚として使う予定だったが、ちょうどいい人材がいなかったので、機動部隊司令官のポストを与えた。要するに消去法の人事だった。

 

 オーブリー・コクラン中将は才能を見込んで登用した。この世界ではあまり評価されていない。七月危機で活躍したのにも関わらず、フィリップス一六旗将には数えられなかった。だが、前の世界では銀河統一後における名将だった。艦隊陸戦隊司令官にはこの人しかいないと思っていた。新しい形態の戦いでは、治安維持と後方支援が陸戦隊の役目になるからだ。

 

「コレット提督とコクラン提督を取ったことは大きい。でも、ベターで満足する気はない。ベストが望めなくても、ベストにより近いベターを目指したい。一歩一歩、理想に近づいていこう」

 

 幕僚たちは議論を始めた。力不足の駒をいかに使いこなすか? 駒をいかに成長させるか? ベテランも若手も真剣に語り合う。

 

 議論がひと段落すると、チュン・ウー・チェン副参謀長がポケットから潰れたパンを取り出し、参加者に手渡した。

 

「そろそろ腹ごしらえをしましょうか」

 

 この提案に異議を唱える者はいなかった。アップルトン中将やジェニングス中将も潰れたパンに馴染んでいる。ハラボフ大佐が新しいコーヒーや茶を用意し、みんなで一服してから解散した。

 

 

 

 ミーティングの翌日の二五日、第二艦隊臨時司令部で幹部会議が開かれた。俺、アップルトン中将、チュン・ウー・チェン中将、ジェニングス中将、ドールトン中将、ハラボフ大佐の六名が着席した。空いた席に分艦隊司令官四名、陸戦隊司令官一名、独立機動部隊司令官二名の立体画像が現れる。

 

 昨日の議論の結果を踏まえた上で、問題点について話し合った。しかし、中級指揮官たちの反応は鈍い。ケンボイ中将とモンターニョ中将は、自分のやり方にこだわった。デュドネイ中将はできない理由を言い訳した。バルトハウザー中将は黙っている。ガイヤール少将は勢いよく返事をするが、話を理解しているとは思えない。まともな反応をしたのは、コクラン中将とコレット少将の二人だけだった。

 

 会議が終わった後、俺はアップルトン中将ら五名とともに軽い食事をとった。反省会のついでに腹を満たすのだ。

 

「あの人たち、変わる気がないですよね」

 

 ドールトン少将は大きな胸を抱え込むように腕を組み、憂鬱そうな顔をする。

 

「変われる人間なんて滅多にいないさ」

 

 アップルトン中将が諭すように言う。チュン・ウー・チェン中将とジェニングス中将が、無言で首を振った。年配者は人間が簡単に変われないことを知っている。

 

「それでは困るんですけどね」

「変えないままで伸ばすしかあるまい」

「あのスタイルで成長するとは思えませんけど」

 

 ドールトン少将の懸念はもっともだった。知識や経験が増えても、それを生かそうとする姿勢がなければ成長しない。彼女の恋愛遍歴を見ればわかることだ。

 

「少しは伸びるさ。平凡な新人が平凡なベテランになる程度だがね」

 

 アップルトン中将はあっさりした口調で言って、アップルティーに口をつけた。

 

「司令官閣下はいかが思われます?」

 

 納得いかないといった感じのドールトン少将が問いかけると、俺は一ポンドステーキバーガーを口から離した。

 

「変わってほしいとは思うけど、みんなが変われるとは思わない。変われない者でもやっていける方法を考えよう」

「つまり、我々が苦労するということですな」

 

 アップルトン中将が皮肉っぽく微笑した。

 

「変われる者だけで部隊を組んでも、別の苦労が待っているよ。有能な部下は扱いづらいからね」

「それは言えています」

「どう転んでも苦労するんだ。だったら、自分らしい苦労をしようじゃないか」

 

 俺が微笑むと、ハラボフ大佐以外の全員がつられるように笑った。アップルトン中将とジェニングス中将は、降格後に予備役編入となったことがある。ドールトン少将は男の甘言に乗って犯罪に加担しかけたため、「後方参謀として不適格」の烙印を押され、航法に回された。笑っていないハラボフ大佐も一時は予備役だった。苦労に慣れ切った面子である。

 

 食事が終わり、俺たちは食堂を後にした。荷物を抱えた兵士が廊下を行きかう。床に箱が積み上げてられている。第二艦隊臨時司令部は移転作業の真っ最中だった。

 

「来週からイゼルローン要塞なんですよね」

 

 ドールトン少将がぽつりと呟いた。イゼルローン総軍との軋轢を軽減するため、第二艦隊はイゼルローン要塞に移転することになった。

 

「揉め事にならなければいいんだが」

 

 アップルトン中将が心配するのは無理もないことだ。イゼルローン要塞には、アッテンボロー大将、シェーンコップ大将、ポプラン少将らのような曲者が集まっている。

 

「コレット提督が心配です。あの子、フィリップス提督の悪口だけは絶対に許さないから」

「想像するだけで胃が痛みそうだ」

「ヤン元帥の養子と鉢合わせしたら、大変なことになりますよ」

「ああ、あのガキか。我々がやってきた二日後に、要塞艦隊へ転属したんだったな」

「コレット提督が許すとは思えないんですよね。『フィリップス提督の下につきたくない』といったも同然ですから」

 

 ドールトン少将とアップルトン中将は、トラブルを懸念している。ジェニングス中将は「それはそれで構わん」と独り言を言った。ハラボフ大佐は何か言いたそうな目をする。

 

「何も起きないよ。コレット提督には、『イゼルローン総軍と仲良くしろ』と命じたからね」

 

 俺はきっぱり言い切った。コレット少将が俺の命令に逆らうことは絶対にない。銀河一のフィリップス信者と銀河一のヤン信者の対決は起きないだろう。

 

 二時間の残業を終えて官舎に戻り、司令官日記の執筆に取り掛かった。今回の題名は「エリヤ・フィリップスのイゼルローン総軍紀行 第三回」という。イゼルローン総軍について知りたいという読者の要望に応えるための企画だ。

 

 前回掲載分のコメント欄には、「ヤン元帥の偉大さがわかりました!」「ヤン元帥は本当の名将ですね!」といったコメントが並んでいた。読者が喜んでくれたことが嬉しい。そして、自分がヤン元帥を潰す陰謀に加担していることを改めて自覚し、胸が痛くなった。何事もなければ、同盟軍は天才提督と個性的な部隊を失ってしまう。

 

「何とかして残せないかな」

 

 俺の心の中で、イゼルローン総軍を惜しむ気持ちが生まれつつあった。査問会を阻止できる立場ではない。それでも、できることはあるはずだ。ヤン元帥が作った部隊を残したい。ヤン元帥が育てた個性を残したい。対極にいるがゆえに、自分が作れない物が尊いと思う。

 

 通信端末から同盟国歌が流れ、スクリーンに「P1028」という文字が浮かぶ。ネグロポンティ国防委員長からの通信だ。俺は慌てて受信ボタンを押した。

 

「C8234であります」

「P1028だ。報告を頼む」

 

 ネグロポンティ国防委員長は符牒を使って話す。決して傍受できない暗号通信を使い、部屋には盗聴防止用の遮音力場を張り巡らしているが、それでも油断はしない。

 

「かしこまりました」

 

 俺も符牒を使い、イゼルローン総軍の様子について報告した。

 

「パーティーの件に感づいたものはいないようだな」

「手がかりがありませんから」

「私の策が的中したのだ」

 

 ネグロポンティ国防委員長の丸々とした顔に、満面の笑みが浮かんだ。

 

「知っている情報を漏らすことはできる。だがな、知らない情報を漏らすことはできんのだよ」

「おっしゃる通りです」

「誰にも情報を教えるな。信用できる相手にも打ち明けるな。人間は意外なところで繋がっているものだ。漏洩を防ぐ唯一の手段は、情報を与えないことだからな」

「肝に銘じます」

 

 俺は納得したような顔で頷いたが、内心では不審を覚えていた。知らない情報を漏らすことはできない。ならば、トリューニヒト議長はなぜ査問会の存在を俺に伝えたのだろうか?

 

 査問会の情報は徹底的に隠された。全銀河で査問会の存在を知る者は一七名しかいない。俺と警備担当のベイ少将以外は大物中の大物だ。閣僚や与党幹部ですら知らされていない。誰かが怪しんで徹底的に調査したとしても、情報を手に入れることは不可能だろう。

 

 ここまで秘密保持に気を使っているなら、俺には知らせないほうがいいはずだ。後になって気づいたことだが、この任務は査問会について知らなくても遂行できる。査問会関連の任務に携わる人の大多数は、裏の事情を知らない。イゼルローン総軍の監視だって、裏を知らなくてもできる任務だ。情報漏れを防ぎたいなら、俺には査問会の存在を隠すべきだった。

 

「どうした? 気になることがあるのか?」

「いえ、ありません」

 

 俺は嘘をついた。疑問をぶつけても、満足できる答えは返ってこないだろう。トリューニヒト議長は誰にも答えを教えないはずだ。根拠はないけれども、そう思った。



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第104話:エリヤ・フィリップスのイゼルローン日記 上 802年9月28日~10月上旬 第一辺境総軍旗艦ゲティスバーグ~イゼルローン要塞

 サルガッソー・スペースに点在する狭い安全地帯を繋げ、航路として整備したものを「回廊」と称する。同盟領と帝国領を結ぶ回廊は、イゼルローン回廊とフェザーン回廊の二本であった。

 

 ティアマト星系の惑星ラハムを出発した第二艦隊は、小刻みなワープを繰り返し、安全地帯を飛び石のように伝っていく。八年前、俺はイゼルローン攻略部隊の一員としてこの道を通った。五年前、俺は帝国領遠征軍の一員としてこの道を通った。平時にこの道を通るのは初めてだ。

 

 数時間後、スクリーンにイゼルローン要塞が映った。恒星アルテナの光が鏡面装甲に反射し、銀色の輝きを放つ。

 

 イゼルローン要塞は銀河最大の要塞である。出力九億二四〇〇万メガワットの要塞主砲「トゥールハンマー」は、一撃で軍艦数千隻を吹き飛ばすことができる。外壁に据え付けられた砲塔群の火力も相当なものだ。鏡面処理を施された超硬度鋼と結晶繊維とスーパーセラミックの複合装甲が、直径六〇キロの巨体を覆っている。

 

「わくわくするな」

 

 俺はスクリーンを眺めた。これが聖地イゼルローンだ。英雄たちが幾多の戦いを重ねた場所に降り立つのだ。

 

 九月二八日八時三〇分、第二艦隊旗艦ゲティスバーグは、ウォリス・ウォーリック宇宙港に到着した。要塞の外壁が開き、ゲティスバーグを迎え入れる。イゼルローンでは、衛星軌道上に軍艦を係留する必要はない。軍艦に乗ったまま入港できる。

 

 タラップを降りた俺を出迎えたのは、要塞軍集団司令官シェーンコップ大将と要塞艦隊司令官アッテンボロー大将だった。警備兵の数が少ないのは、大げさな儀礼を好まないイゼルローン気質の反映であろう。

 

「よくぞお越しくださいました」

 

 シェーンコップ大将は柔らかい笑みを浮かべ、うやうやしく敬礼した。仕草の一つ一つに美しさが感じられる。きれいにセットされた髪と折り目正しい着こなしが、端整な容貌を引き立てた。その気になれば、「慇懃無礼」から「無礼」の二文字を取り去ることもできる。

 

「お待ちしておりました」

 

 アッテンボロー大将の挨拶は丁寧だったが、顔は笑っていない。儀礼的な挨拶だとアピールするかのように見えた。

 

「ありがとう」

 

 俺は笑顔で礼を述べ、足を一歩踏み出した。そこで動きが止まった。どちらと先に握手をすればいいのか迷ったのだ。

 

 要塞軍集団司令官と要塞艦隊司令官は完全な同格である。帝国軍がイゼルローン要塞を所有していた頃も、同格の司令官二人が共同で要塞を守っていた。同盟軍がイゼルローン要塞を手中に収めると、「命令系統の混乱を防ぐ」との理由で、一人の司令官が守備隊と駐留艦隊を指揮する体制に変更された。しかし、イゼルローンの司令官が再建会議に加担したため、一人に委任するのは危険だとの声が強まり、指揮権が二分されることとなった。

 

 将校名簿の記載順位に従うならば、シェーンコップ大将が先任者として扱われる。アッテンボロー大将は格式にこだわらない人なので、後回しになっても気にしないだろう。だが、部下が気にするかもしれない。帝国統治時代のイゼルローン要塞では、要塞守備隊隊員も駐留艦隊隊員も、自分たちの司令官が格上だと信じていた。

 

 俺が悩んでいると、アッテンボロー大将が一歩下がり、シェーンコップ大将が一歩踏み出した。要塞艦隊司令官が要塞軍集団司令官の優越を認めたことになる。

 

 軽く頭を下げて感謝の念を示した後、俺は右手を差し出した。最初に握手したシェーンコップ大将の手はごつごつしていた。次に握手したアッテンボロー大将の手は大きくて柔らかかった。

 

 宇宙港を出た後は軍事施設の視察を行った。宇宙港三〇か所に収容できる艦艇は二万隻、基地五四か所に収容できる兵士は三〇〇万人にのぼる。イゼルローンは全域が軍用地なので、数百隻を直接収容できる巨大港や数万人を収容できる巨大基地が立ち並んでいた。

 

 最初にリン・パオ宇宙軍基地を訪ねた。イゼルローン要塞の軍港には、過去の名提督の名前が与えられている。ダゴンの英雄の名前を与えられた基地は、イゼルローン最大の軍港で、要塞艦隊司令部の所在地だった。

 

「大きいなあ」

 

 俺は背伸びしながら港内を見回した。広い港内に数えきれないほどの軍艦が停泊している。地の果てまで軍艦が連なっているかのような光景だ。

 

「グリーンヒル提督、何隻いるんだ?」

「一〇〇〇隻です」

 

 要塞艦隊情報部長グリーンヒル准将が笑顔で答える。長きにわたってヤン元帥の副官や参謀を務めた彼女は、同盟軍が再編された時に要塞艦隊に転じた。

 

「そんなにいるのか! 凄いなあ!」

 

 俺はハラボフ大佐から借りた双眼鏡を持ち、脚立に乗って遠くを見た。軍艦が果てしなく連なっていた。宇宙での一〇〇〇隻は豆粒だが、地上での一〇〇〇隻はとてつもなく大きい。

 

 直接収容式の軍港は、係留式の軍港よりも一隻あたりのスペースが大きくなる。同盟軍は係留式を採用しているが、一〇〇〇隻が停泊できる規模の軍港は少ない。リン・パオ宇宙港は規格外の軍港だった。

 

 二番目の訪問先はミッキー・コフリン陸戦隊基地である。イゼルローン要塞の陸戦隊基地には、過去の陸戦隊の勇士の名前が与えられている。要塞軍集団司令部や要塞砲兵司令部などがあるコフリン基地は、要塞防衛の中枢を担う。

 

「ここが中央司令室か……」

 

 俺は感動に震えていた。要塞軍集団司令部の中央司令室は、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』の愛読者にとっては、聖地の中の聖地なのだ。

 

 心の中で「あれがヤン提督のデスク……」と呟いた。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』によると、ヤン・ウェンリーは司令官席のデスクであぐらをかき、左隣の席に副官フレデリカ・グリーンヒルが座り、右隣の席に参謀長エリック・ムライが座り、後ろの席に要塞防御司令官ワルター・フォン・シェーンコップが陣取ったという。

 

「司令官席に座っていいか?」

「構わんぞ」

 

 案内役のカスパー・リンツ中将の許可を得ると、俺は司令官席に腰を下ろした。デスクの上であぐらをかきたいという衝動を懸命に抑える。

 

 他の席にも座らせてもらった。フレデリカの席で副官気分に浸り、ムライの席で参謀長の気持ちに思いを馳せ、シェーンコップの席で大物のような気分になった。リンツや幕僚は微妙な表情でこちらを見た。

 

 要塞砲兵司令部の主砲指揮所で、トゥールハンマーの射撃演習を見学することになった。演習と視察がたまたま重なったのだ。

 

「…………」

 

 俺は何も言わずにスクリーンを眺めた。要塞から放たれた雷が漆黒の宇宙空間を切り裂く。演習だとわかっていても圧倒されてしまう。

 

 イゼルローン要塞空戦隊司令部を訪ねた。トランプのエース四人のうち、面会できたのはコーネフ少将一人だけだった。ヒューズ少将とシェイクリ少将は周辺宙域で飛行訓練中、ポプラン少将は「どこに行ったかわからない」のだそうだ。

 

 コーネフ少将が言うには、「ポプランは地に足が着いてない奴なので」とのことだった。意味がよくわからない。他意はないと言いたかったのだろうと思うことにした。

 

 要塞艦隊九五万人と要塞軍集団八〇万人を支えるのは、イゼルローン要塞の強力な支援能力である。軍病院三一六施設の病床数の合計は二〇万床、ミサイル工廠が一時間に生産するレーザー核融合ミサイルは七五〇〇発、低温倉庫に貯蔵できる穀物は七〇〇万トンにのぼる。ビーム砲用エネルギーパック、ウラン二三八弾などを生産する設備も備えていた。

 

 ジェームズ宇宙軍病院は八〇〇〇床の病床を有し、一日の外来患者は三万人を超える。イゼルローン最大の軍病院であり、同盟軍最大の軍病院でもあった。

 

「でっかいな」

 

 我ながら独創性に欠ける感想だと思うが、でかいとしか言いようがなかった。八年前に入院したハイネセンポリス第二国防病院は八〇〇床で、軍病院としては大きな部類に入る。それでも、この病院の一〇分の一に過ぎない。

 

 シルベリオ・アゴスティーニ宇宙軍基地は、民間宇宙港としても使われている。軍港の半数はこのような共用港だった。民間人三一四万人が住むイゼルローンは、辺境星系並みのGDPを誇る。貨物船や客船が入港できる港が必要なのだ。

 

 モーガン・スキナー宇宙軍補給基地は、広大な空きフロアに食糧や衣服を詰め込み、警備兵詰め所と防犯システムをくっつけただけの代物だった。要塞内部は九〇〇〇以上のフロアに分かれており、使い切れないほどのスペースがある。その気になれば、基地などいくらでも増やせる。

 

 視察を終えると、俺は臨時官舎に移動した。キッチンとバスルームとトイレの他に、五つの部屋がある。内装はやたら豪華だ。帝国統治時代は、出張してきた高官が泊まる部屋だったらしい。

 

 第一辺境総軍司令部スタッフ三〇〇〇名と第二艦隊隊員一二四万四〇〇〇名も、割り当てられた宿舎に入った。これほどの大人数が移動したにもかかわらず、混乱はほとんど生じなかった。広大なイゼルローンは、一〇〇万人を超える臨時滞在者ですら余裕で受け入れてしまう。

 

 最近読んだ『セバスティアン・フォン・リューデリッツ伝』によると、当初は五万隻を収容できる要塞を作る予定だった。予算不足に陥り、計画を大幅に縮小し、収容艦艇数を二万隻に減らしたそうだ。多くのフロアが工事半ばで放棄された。そのため、建設計画を立案したリューデリッツ伯爵ですら、正確なフロア数を把握できなかったらしい。

 

 二日目は民間人居住区の視察を行った。イゼルローン要塞には民間人三一四万人が住んでいる。民間人との関係構築は必要不可欠だ。

 

 自治体としてのイゼルローン要塞は、「イゼルローン軍政区」と呼ばれる。要塞自体が一つの巨大基地なので、軍が直接統治することになった。行政権と立法権はイゼルローン軍政府、司法権はイゼルローン軍事裁判所に属する。軍政府と軍事裁判所は別系統の組織だ。

 

 イゼルローン総軍総司令官が軍政府主席、要塞軍集団司令官と要塞艦隊司令官が軍政府副主席を兼ねた。総軍総司令部はティアマトに置かれているため、二人の副主席が軍政府を取り仕切った。

 

 主席と副主席の下に、主席官房、管理局、住民代表会議が置かれた。主席官房は総軍総司令部と一体化しており、組織としての実態を備えていない。管理局は文民で構成される事務機関である。住民代表会議は民間人で構成される諮問機関で、議決権は持っていない。

 

 イゼルローンの行政を実質的に動かしているのは、管理局だと言われる。優秀な軍政家と優秀な行政官はイコールではない。一般行政と軍事行政は根本的に違う。俺がシュテンダールを統治した時は、人道支援を重視する方針を示し、行政のプロである政策調整部員に具体的な政策を任せた。民間人を統治するには、専門知識のある行政官が必要なのだ。

 

 イゼルローン要塞管理局の庁舎はひどく古びた建物だった。伸び放題の樹木が周囲を取り巻いている。コンクリート造りの庁舎は、長方形の石に窓と扉をくっつけたようなデザインで、外壁には汚れやひび割れが目立つ。

 

「素晴らしいです」

 

 作戦副部長メッサースミス准将が目を輝かせる。クリーン志向の人の目には、ぼろい庁舎は好ましく見える。

 

「清廉気取りもここまでくると見苦しいですな」

 

 情報部長ベッカー少将が非好意的な視線を庁舎に向ける。実利志向の人の目には、ぼろい庁舎はあざとく見える。

 

 俺は幕僚五名と護衛兵八名を連れて庁舎に入った。どう見ても未成年の女性なのに、「基地対策課長 アーノルド・スールズカリッター」という名札を付けた職員が案内してくれた。

 

 屋内は意外ときれいだった。掃除が行き届いているのだろう。建物の老朽化はひどいが、荒廃した印象は受けない。職員のほとんどは私服姿だ。

 

「ここは本当に役所なんですか?」

 

 ディッケル大尉が小声で言った。彼の視線の先には、移民推進部生活支援課の窓口がある。薄汚れた服を着ている無精ひげの男性、スキンヘッドで唇にピアスをつけた女性、派手なシャツを着た遊び人風の男性が応対していた。

 

「役所だろ。生活支援課って書いてるし」

「フェザーンのベンチャーにしか見えないですよ」

「服装規則がないんだろうね」

「役所として成り立つんですか?」

「成り立ってるみたいだよ。リベラル系の自治体には、服装自由のところが多いんだ。ヌーディストの全裸勤務を認めた自治体だってある」

「僕には理解できないです」

 

 ディッケル大尉は理解できないというより、理解したくないようだった。苦学して士官学校に入った人なので、秩序へのこだわりが強い。

 

「こういう役所もあるということを覚えといてくれ」

 

 俺は話を打ち切った。事実を伝えることはできる。自分の意見を伝えることはできる。受け入れるかどうかは彼自身が決めることだ。

 

 応接室に足を踏み入れると、少し引いてしまった。ソファーの黒い表皮がはがれかけている。木製のテーブルはきれいに磨かれているが、くすんだ塗装や細かな傷は隠しようもない。観葉植物や絵画といったインテリアは見当たらない。ちり一つ落ちていない床と埃っぽさのない空気が、殺風景さを引き立てる。

 

 貧相な部屋の中心で炎が燃え盛っていた。その炎は細身の中年女性の形をしていた。炎の名前はマリーズ・ジレという。

 

 要塞管理局長マリーズ・ジレは、自由と理性を何よりも愛し、不正と不合理と無駄を何よりも憎んでいる。惑星ケイローン知事として剛腕を振るい、利権構造を一掃した。議会と対立して失職した後は、エル・ファシル政府顧問やLDSO行政改革本部長を歴任し、リストラの大ナタを振るった。レベロ政権では民間人でありながら経済開発委員長を務め、戦争利権集団「鉛の六角形」の解体を進めた。トリューニヒト支持者とは相容れない経歴の持ち主である。

 

 俺の器量を一とすれば、ジレ局長の器量は一万を超えるだろう。偉大な人物の言葉には強い力がある。何気ない一言に見えても、トゥールハンマーの一撃よりも痛烈で、アスピドケロン海溝よりも深い。

 

「本日はありがとうございました」

 

 俺は一五分の予定だった会談を八分で切り上げた。型通りの握手をかわし、早足で応接室から出て行った。「勇者の中の勇者」でも逃げたくなることはある。

 

 広報課の部屋に赴き、施政に関する説明を受けた。広報課員が懇切丁寧に説明してくれた。渡された資料は要点を的確に押さえている。

 

「――以上です」

「ありがとう。わかりやすかった」

「管理局は説明責任を徹底しております。正しい情報がなければ、正しい理解は得られません。十分に説明を尽くし、市民の理解を得ることは何よりも重要なのです」

 

 広報課員は誇らしげに胸を張った。仕事への誇りが感じられる。彼女のような人が管理局を支えているのだろう。

 

 行政情報センターで統計資料、予算書、計画書、刊行物、広報資料などをコピーした。データを知ることは組織を知ることと同義なのだ。

 

「すごいな。こんな情報まで開示してるのか」

 

 俺は目を丸くした。普通の自治体なら不名誉な情報は隠そうとするだろう。それなのにイゼルローン管理局は堂々と公開する。

 

「局長は『ミス・コンプライアンス』ですからね。他人が自分の過ちを知らないことを恐れる人です」

 

 受付の職員の瞳はきらきらと光っていた。ジレ局長の下で働けることが嬉しくてたまらないといった感じである。

 

 俺は微妙な気分になった。トリューニヒト政権は、情報公開に逆行する動きを進めている。過ちを隠すことが当たり前になりつつある。味方が不公正で、敵が公正を守ろうとしているのだ。

 

 思い悩みながら歩いていると、前方からアロハシャツを着た男性が近づいてきた。天然パーマの茶髪と太い眉が特徴的だ。

 

「よう、久しぶり」

 

 グレアム・エバード・ノエルベーカー氏が、気さくに笑いかけてきた。四年前にカルシュタット星系LDSOの代表を務めた人である。

 

「お久しぶりです」

 

 俺は笑顔を浮かべたものの、あまり嬉しくはなかった。カルシュタットではノエルベーカー氏としばしば対立した。嫌いではないが、気まずい気持ちになる。

 

「こんなところで再会するとはなあ。人生、何があるかわからんもんだ」

「まったくです」

「立ち話もなんだから、外に出ないか。そろそろ昼飯の時間だ。飯を食いながら話そう」

 

 ノエルベーカー氏はわだかまりを持っていないようだ。小物とは器が違う。

 

「そうですね」

 

 俺はノエルベーカ―氏の誘いに乗り、昼食を共にすることになった。管理局には職員食堂がないので、庁舎を出てうどん屋「諸国民の春」に入った。

 

 諸国民の春はかなり広い店だった。俺は一番奥のテーブルを選んだ。ノエルベーカー氏は俺の向かい側、ハラボフ大佐はノエルベーカー氏の左隣、ディッケル大尉は俺の右隣に座る。その他の幕僚と護衛兵は、近くの席に座った。

 

「今の名刺だ」

 

 ノエルベーカー氏が渡してくれた名刺には、「イゼルローン要塞管理局 政策企画部 政策企画課 課長補佐 グレアム・エバード・ノエルベーカー」と記されていた。

 

「課長補佐ですか……」

 

 俺は言葉を失った。イゼルローン軍政区は特別市と同等なので、ノエルベーカー氏の地位は市役所の課長補佐に相当する。あの基地対策課長より格下なのだ。悲しくなるほどの凋落ぶりだった。

 

「暗い顔をするなよ。これでもやりがいのある仕事なんだぞ」

 

 ノエルベーカー氏は今の仕事がいかに充実しているかを語る。心の底から仕事を楽しんでいるように見えた。

 

「管理局は素晴らしい職場だ。上司も同僚も部下も超一流の人材がそろっている。ヤン提督とアッテンボロー提督はやりたいようにやらせてくれる。戦争に巻き込まれる心配もない。最高の環境だよ」

「良い職場を見つけたんですね」

「カルシュタットもいい職場だったがね。時間が足りなかった」

「えっ……?」

 

 俺の頭の中で疑問符が飛び回った。この人は何を言っているのかと思った。時間が足りなかったのは確かだ。しかし、彼の施政はそれ以前の問題だった。

 

「カルシュタット経済の悪化は短期的なものだった。政策が軌道に乗れば、君が懸念していた問題は解決できたはずだ。生みの苦しみを乗り切る前に、戦局が悪化してしまった。本当に残念だ」

 

 ノエルベーカー氏の主張は、学問的には常識的かつ穏当なものであった。経済学者や行政学者の間では、「LDSOの改革は正しかった。五年あれば成功した」という意見が主流を占める。

 

「…………」

「軍を責めようとは思わん。LDSOには『軍に足を引っ張られた』と恨む者が多いがね。そういうのは好かん。君たちはベストを尽くした。感謝することはあっても、恨むことはない」

「……ありがとうございます」

「今度こそ自由の天地を作ってみせる」

「頑張ってください」

 

 俺はにっこり微笑んだ。言いたいことは山ほどあったが、腹の中に収めた。じっくり話し合う時間はない。皮肉を叩きつけるのは俺の流儀ではない。笑って別れるのがベターだ。

 

「信じてくれとは言わない。見ていてほしい。私がイゼルローンでやっていることを見れば、きっとわかるはずだ」

 

 ノエルベーカー氏は静かに言い切った。口元には優しくて暖かな笑みが浮かんでいた。瞳の中には理性に基づく確信が宿っていた。

 

 難しい話が終わった後は雑談に終始した。ノエルベーカー氏との会話は楽しかった。食べっぷりの良さにも好感を持てる。仕事さえ絡まなければ良い人なのだ。

 

「イゼルローンに来るまでにはいろいろあってなあ」

 

 ノエルベーカー氏の経歴は紆余曲折を繰り返した。ラグナロック戦役の末期、独断で親同盟派住民と元自治領民を脱出させたために解任された。レベロ政権が発足すると、最高評議会書記局に復職し、ホワン書記の秘書官補を務めた。トリューニヒト政権下では、書記局の抵抗勢力の一員となり、反改革政策に抵抗した。クーデターが起きた時は、ソーンダイク派の一員としてスタジアムに立てこもった。粛清人事で書記局から解雇され、イゼルローンに来たそうだ。

 

 スールズカリッター氏について聞いてみると、本物の基地対策課長で、以前は旧人的資源委員会の事務総局人事課長だったそうだ。とんでもないトップエリートである。前の世界の英雄スーン・スールズカリッターとの関係はわからなかった。

 

 昼食を終えてノエルベーカー氏と別れた俺たちは、公共施設を巡った。民間人居住区は一五の行政区に分かれる。各区には、学校、公園、図書館、体育館、病院、保育園、コミュニティセンターなど、健康で文化的な生活に必要な施設が揃っている。

 

 どの施設でも管理局を訪ねた時と同じ印象を受けた。職員は親切で礼儀正しい。建物は古びているが清潔に保たれている。都合の悪い情報でも隠すことはない。手続きは簡潔で分かりやすい。利用者のストレスを最小限に抑える工夫がなされていた。

 

「理想の役所だな」

 

 俺が心の底から感嘆した。公僕とは、イゼルローン管理局員のためにある言葉だろう。普通の公務員は組織のために働くが、管理局員は市民のために働く。

 

「人件費も安いですしね」

 

 メッサースミス作戦副部長が満足そうに笑う。

 

「基本給が全国平均の七割だからなあ。いい仕事をしてるのに」

「非常勤職員率も高いですよ」

「ワークシェアを徹底してるんだね。だから、少ない人件費で済んでるんだ」

「職員数は少ないのに、一人あたりの労働時間は全国平均よりはるかに短いです。残業がないことも人件費の抑制につながっています」

「そして、有給消化率はぶっちぎりに高い。有給が残っていたら、強制的に休まされる。ヤン元帥が絶賛しそうだ」

 

 管理局のやり方は俺とは違うが、それでも称賛せずにはいられなかった。管理局員ほど安い給料で働く公務員はいない。管理局員ほど休んでいる公務員はいない。それなのに素晴らしい成果をあげている。高い志と優秀なマネジメントの賜物だ。

 

 翌日から幕僚たちは資料の分析に取り掛かった。戦略研究科や経理研究科の出身者は、社会科学を学んでいる。政策を作るほどの知識はないが、政策を理解する程度の知識はある。

 

 イゼルローン軍政区の施政は、典型的なハイネセン主義政策であった。公務員人件費を抑制し、予算の節約に努め、健全財政を実現した。多くの公共サービスを外部に委託することで、経費削減とサービス向上を図った。説明責任と情報公開の徹底により、市民の信頼を獲得した。不正や汚職の温床を徹底的に叩き潰した。税率を低く設定し、規制をなくし、経済を活性化させた。差別に厳しい姿勢を打ち出し、移民保護政策を進めたため、各地から帝国人移民が移住してきた。

 

「やはり、ハイネセン主義は正しかったんです」

 

 メッサースミス作戦副部長が頬を紅潮させる。若い幕僚数名が同意を示した。

 

「完全な間違いじゃないといった方が適切じゃないか?」

 

 ベッカー情報部長が皮肉っぽい目で若手幕僚たちを見た。帝国のエリートだった彼の中には、ハイネセン主義への幻想は存在しない。

 

「要するに正しいってことでしょう」

「間違いじゃないと正しいはイコールじゃないぞ」

「何が違うんです?」

「一〇〇パーセント間違いじゃないってだけさ」

 

 部下たちの会話を聞きながら、俺はレポートをめくっていた。イゼルローンの社会構造に関する分析だ。

 

 イゼルローン軍政区は裕福な自治体であった。人口の三五パーセントを軍人、四三パーセントを軍人家族、二二パーセントをその他の民間人が占める。その他の民間人とは、管理局職員、基地従業員、軍と契約した企業の従業員などである。軍人は前線手当のおかげで内地勤務者より収入が多い。一〇代の少年兵ですら、三万ディナールの年収を受け取っている。軍人とその家族は手厚い福利厚生を受けており、可処分所得が多くなる。軍が住民の所得と雇用を保証しているのだ。

 

 充実したインフラがイゼルローン住民の生活を支えた。要塞内に張り巡らされた自動車道と鉄道は、住民の交通路となった。巨大な水素動力炉は、住民に安価なエネルギーと水を提供した。内部完結型の給排水システムは、水素動力炉が作り出した水を循環させた。これらのインフラは軍事用途に用いられるため、軍が維持費を負担する。

 

「イゼルローンは恵まれている」

 

 管理局のハイネセン主義政策が成功した理由が、俺にも理解できた。仕事を失うと同時に在住資格も失うため、イゼルローンには失業問題や貧困問題が存在しない。軍用インフラを利用できるので、インフラ維持費を負担する必要がない。効率化に専念することが許された環境なのだ。

 

 過去にハイネセン主義改革が成功した星系は、いずれもポテンシャルの高い星系だった。人間に例えれば、大柄な肥満児だった。贅肉を落とし、過保護と過干渉をやめ、自立心を持たせれば、健康体に生まれ変わる。

 

 もっとも、ポテンシャルが高いだけでは成功しない。贅肉を落とすにもコツがいる。ダイエットのやり方が間違っていたら失敗する。正しいダイエットをしても、肥満児が途中で投げ出したら失敗する。正しい方法を選び、なおかつやる気を持続させなければならない。政治においては、適切な改革手段を選択し、改革に対する支持を維持し続けることだ。

 

「この人たちも使いようなんだな」

 

 俺は管理局の幹部職員名簿に目を通した。課長級以上の職員全員の略歴が詳細に記されていた。幹部の四割が元LDSO職員で、残りの六割も改革派である。悪い言い方をすると、「同盟と帝国をぼろぼろにした人物リスト」であった。

 

 彼らは多くの問題を起こしたが、決して無能ではない。リストラした人数、減らした支出額、摘発した不正の件数などを基準にすれば、文句なしに優秀だろう。

 

 ただし、優秀な人材を集めただけでは成功しない。正しい方針を与え、提案を取捨選択し、適切な支援を与え、人材同士の対立を調停することが必要である。

 

「アッテンボロー提督は本当に有能だ」

 

 レポートによると、軍政府副主席決裁の九割は、アッテンボロー大将が出したものだった。シェーンコップ大将は行政に興味がないようだ。

 

 どんな立場にいても、アッテンボロー大将は変わらない。不正を正すために戦い、束縛を打破するために戦い、多数派のエゴを抑制するために戦い、少数者の権利を擁護するために戦う。反骨精神と情熱にあふれた彼は、改革者に必要な資質を備えていた。

 

 前の世界では、要塞事務監アレックス・キャゼルヌが、イゼルローンの行政を取り仕切った。戦記によると、彼が病気で寝込んだ時は、事務が停滞したそうだ。軍官僚は一般行政の専門家ではないので、政策には疎いが、組織を動かす方法を知っている。効率的に組織を運営するリーダーだったと思われる。

 

 二つの世界のイゼルローンを比較すると、先進性においてはアッテンボロー体制が勝り、効率性においてはキャゼルヌ体制が勝る。アッテンボローの本質は政治家、キャゼルヌの本質は官僚であった。前の世界のバーラト自治区では、アッテンボローは議員として国政を担い、キャゼルヌは軍事官僚として政府を支えた。

 

「住みたいとは思わないな」

 

 俺は誰にも聞こえないように呟いた。イゼルローンの施政が素晴らしいことは認める。だが、あまりにリベラルすぎる。もう少し保守的でないと落ち着けない。

 

 後ろのテーブルでは、幕僚数名が「こういう街に住みたい」と語り合っていた。イゼルローンのリベラルさを心地良く感じる人もいるのだ。すべての街が俺好みの街になったら、彼らは落ち着けないと感じるだろう。

 

 ヤン・ファミリーを残したいという気持ちが一層強くなった。ヤン元帥の更迭は避けられない。それでも、何らかの形で残したいものだ。チーム・フィリップスだけが残ったら、リベラリストやひねくれ者の居場所がなくなる。

 

 残業を終えて家に戻り、司令官日記の執筆に取り掛かった。今回の題名は「エリヤ・フィリップスのイゼルローン日記 二日目」という。読者はイゼルローンの実態を知りたがっている。期待に応えるのがエリヤ・フィリップスのスタイルだ。

 

 昨日掲載したイゼルローン日記一日目のコメント欄には、「フィリップス提督とアッテンボロー提督のツーショット、素敵です!」「シェーンコップ兄貴、マジかっこいい!」「ポプラン様がいなかったのは残念」「イゼルローンに引っ越したい!」といったコメントが並んでいた。市民は英雄が大好きなのだ。

 

 更新を終えた俺は仕事用のメールボックスを開いた。数通のメールが来ていたが、期待したものはなかった。

 

 三日前、国防委員会に一通の作戦案を送った。回廊の帝国側出口と要塞の間に機雷原を作り、密航を防ぐという内容だ。もっとも、密航を防ぐというのは名目に過ぎない。本当の目的は、機動要塞の侵攻を防ぐことにあった。ワープポイントに機雷をばらまいておけば、相手は回廊に進入できなくなるはずだ。

 

 ラインハルト政権が報道規制を緩和すると、門閥派が抑えていた平民のナショナリズムが吹き上がり、「固有の領土イゼルローンを取り返せ」と叫ぶ声が全土に広がった。キルヒアイス元帥とラング元帥が強硬論を抑えているものの、収まる気配はない。

 

 大規模な出兵が行われる可能性は低いと思われる。ルドルフ原理主義勢力「銀河帝国正統政府」の脅威、三二代ブラウンシュヴァイク公爵を襲名したフレーゲル男爵のテロ活動、キルヒアイス元帥とロイエンタール上級大将の対立など、不安定要素が多い。ただし、ガス抜きとして、小規模な出兵を行う可能性はあった。

 

 出兵が行われるとしたら、機動要塞を使うんじゃないかと俺は考えた。ガイエスブルク要塞に一個艦隊を乗せれば、ちょっとした遠征軍になる。要塞という兵器は、回廊の地形と相性が良い。大軍を動かさなくても、「反乱軍の心胆を寒からしめた」といえる程度の戦果は挙げられる。

 

 機動要塞を使うという予測には、客観的な根拠は一つもない。ワイドボーン参謀長やチュン・ウー・チェン副参謀長に意見を聞いたら、合理的な反論が返ってきて、「帝国は機動要塞など使わない」という結論になるだろう。

 

 勘違いしないでほしいが、俺はポルフィリオ・ルイス元准将の予言を信じているわけではない。あんなものを信じるのはオカルティストだけだ。

 

 ルイス元准将はいくつかの予言を当てたおかげで、異才として注目された。ヤン・ウェンリーの才能を最初に見抜いた教官で、無理やり戦略研究科に転籍させたことは、慧眼ぶりを示すものとされる。第五次イゼルローン攻防戦やヴァンフリート戦役に関する予言も的中させた。だが、ラグナロックの時の「同盟軍は焦土作戦を食らって壊滅する」という予言や、クーデターの時の「グリーンヒルとルグランジュがクーデターを起こす」という予言を外したため、笑い者になった。

 

 根拠のないことを言っても、まともな人間は信用しない。予言など外れれば馬鹿にされるし、まぐれ当たりすれば変な人間が寄ってくる。どちらにしても信用を失う。ルイス元准将はクーデターに加担した挙句、懲役一五年を宣告された。だから、機動要塞が来るなどとは口にできない。

 

 回廊に要塞がやってくると、想像するだけで眠れなくなる。万に一つの可能性だとしても、小物の安眠を妨げるには十分だ。

 

 機動要塞対策は俺がぐっすり眠るための作戦だった。前の世界の記憶がなければ、こんな作戦は必要なかっただろう。

 

「客観的に見れば、こっちの方が脅威だよな」

 

 俺は別のメールを開いた。正統政府の工作員がイゼルローンに進入し、スタウ・タッツィーの妻子を狙っているという情報だった。

 

 ラグナロック戦役が終わり、休戦協定が結ばれた後も、水面下の戦いは終わらなかった。ブラウンシュヴァイク公爵は処刑部隊を同盟領に送り込み、戦犯を暗殺させた。復讐は高貴な血の欲するところだ。帝国の権威を踏みにじった者には制裁を与えなければならない。貴族への批判を逸らすという目的もある。

 

 処刑部隊が最も執拗に狙ったのは、開戦工作の関係者、LDSO幹部、ヴィンターシェンケ事件の関係者、ブラケナウ事件の関係者であった。これらの人々は帝国貴族の誇りを深く傷つけた。

 

 ヴィンターシェンケ事件とブラケナウ事件は、発覚当初は死者数千人と言われたが、最終的に数百万人が死亡したことが判明した。帝国の支配階級は領民を家畜と思っている。家畜を殺す権利は主人にのみ帰する。家畜数百万頭を勝手に殺した者を許すわけにはいかない。

 

 多くの戦犯を血祭りにあげた処刑部隊は、ブラウンシュヴァイク公爵が死ぬと分裂した。半数はラインハルトの命令に従って祖国に戻った。納得できない者は同盟に残り、正統政府のオフレッサー総司令官に忠誠を誓った。

 

 ヴィンターシェンケ・グループのトップであるスタウ・タッツィーは三回結婚し、九人の子供を作った。処刑部隊は二人の元妻と八人の子供を殺した。生き残った元妻一人と子供一人は、各地の自治体で住民登録を拒否された。アッテンボロー大将の計らいにより、親子はイゼルローンに住処を得た。

 

「タッツィーの妻子なんて守りたくないけど」

 

 そう言いかけたところで、俺は横に首を振った。ヴィンターシェンケ事件は本当にひどい事件だった。裁判記録を少し読んだら吐き気がして、三日間食欲が湧かなかった。凄惨な場面を見慣れた妹ですら、裁判記録を三ページ読んだだけで吐いてしまったほどだ。あまりに酷いので、家族に罪はないという基本的な事実すら忘れてしまう。

 

「家族に罪はない。軍にはすべての市民を守る義務がある。アッテンボロー提督は正しい」

 

 俺は自分に言い聞かせるように言った。感情に流されてはならない。タッツィーは前の世界で俺を虐待し、この世界ではヴィンターシェンケの住民一〇〇〇万人を虐待した。でも、その妻子には守られる権利がある。

 

「アッテンボロー大将と同じことが俺にできるかな」

 

 俺は腕組みをして考え込んだ。スタウ・タッツィー、アリオ・プセント、ベン・マキャン……。ヴィンターシェンケの汚物一一名の顔と名前を思い浮かべる。彼らの家族を受け入れることができるだろうか?

 

 おそらくできないだろうと思った。嫌悪感を抑えることはできる。家族の罪を負うべきではないと言える。俺一人だったら受け入れる。だが、他の者が嫌がったらどうするのか?

 

 ボロディン提督の言葉を借りるならば、俺は他人が何を求めているのかを理解し、求められた役割を演じようとする人間だ。つまり、他人が嫌がることはできない。道理に合わなくても、他人の感情を優先する。それゆえに、パトリオット・シンドロームやトリューニヒト議長の強権化に対しては、何もできなかった。

 

「だからこそ、ああいう人間は必要だ」

 

 俺はダスティ・アッテンボローの価値を改めて理解した。他人に迎合しない人間でなければできないことはある。

 

「そして、ああいう人間を収めておける器も必要だ」

 

 ヤン・ウェンリーのような大器でなければ、アッテンボローを収めることはできないのである。大人物でなければ、大人物を受け入れることはできない。彼は単なる戦争の天才ではなく、偉大なるカリスマだ。

 

 器を壊す企みに手を貸したことで、器の本当の価値に気づいた。皮肉なことだと思う。どうにかしたいがどうにもできない。

 

 週末になったら、スイーツを食べに行こう。イゼルローンにはタルトの人気店がある。糖分をたっぷりとらなければ、この状況は乗り切れない。



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第105話:エリヤ・フィリップスのイゼルローン日記 下 802年10月3日~10月11日 レストラン「ル・セルマン・デュ・ジュー・ドゥ・ポーム」~イゼルローン市街~第一辺境総軍臨時司令部

 週末の一〇月三日、俺はお忍びの視察を行った。髪を茶色に染め、目に青いカラーコンタクトをはめ、帽子をかぶり、ハラボフ大佐が選んだ服を着用し、ふわふわな若者に変装する。

 

 護衛兼話し相手として、妹、イレーシュ・マーリア少将、ハンス・ベッカー少将、シェリル・コレット少将、ユリエ・ハラボフ大佐、エリオット・カプラン准将の六名が随行した。全員が変装しているのは言うまでもない。

 

「今からスイーツを食べに行く」

 

 俺は六名の部下に対し、重々しく宣言した。

 

「勘違いしないでもらいたいが、これは重要な調査である。スイーツは市民生活を理解するためのバロメーターだ。俺の好みとは関係ない」

「イエッサー!」

 

 全員が一斉に答えた。妹とコレット少将は真剣な顔をしている。イレーシュ少将とベッカー少将は苦笑いを浮かべた。ハラボフ大佐は冷ややかに俺を見た。カプラン准将は気の抜けた顔だ。

 

 俺たちは、イゼルローンで一番タルトがうまい「ル・セルマン・デュ・ジュー・ドゥ・ポーム」に足を踏み入れた。客も従業員も一斉にこちらを見る。

 

「変装していても、フィリップス提督の威厳は隠せないんですね」

 

 コレット少将が俺の耳元に口を寄せ、小声でささやいた。髪を人参色の赤毛に染め、露出の多い服装をしているせいで、ただでさえ過剰気味の色気がさらに増した。胸を小さく見せる下着を使っているにも関わらず、その胸は見る者を圧倒するサイズを保っていた。

 

「あんたが目立ってるのよ」

 

 妹がとがめるような目でコレット少将を見た。豪奢な金髪のウィッグをかぶり、大人っぽいメイクをほどこし、特製パッドで胸を大きく盛り上げているため、ものすごく目立つ。

 

「自分を棚に上げるのはやめようね。でかいってだけで目立つんだから」

 

 イレーシュ少将は自分が目立つことを自覚していた。身長一八〇センチ以上の身長と豊かな胸を持つ女性は、どこにいても注目を浴びる。メイクも服装も地味で、胸を小さく見せる下着を使っているのに、高い身長と豊かすぎる胸が強烈な存在感をアピールする。

 

 一八〇センチレディースほどではないが、ハラボフ大佐も目立つ外見だった。一六九・一一センチの身長は、女性としてはかなり高い。メイクのおかげでやけに若く見える。へそ出しで背中が大きく開いたセーターが、鍛え上げられた腹筋と背筋を強調する。おそろしく丈の短いスカートから見える足がとても美しい。

 

 三〇歳の宇宙軍大佐とは思えないハラボフ大佐の服装は、俺を護衛するためだった。コレット少将が露出度の高い服装をするようになったのも、ハラボフ大佐の影響だ。前副官と現副官は、一緒に風呂に入るような付き合いをしていた。

 

 エリート風のベッカー少将、体育会系美男子のカプラン准将らも一八〇センチを超えており、かなり目立つだろう。一六九・四五センチの俺だけが目立たない。

 

「ちび兄ちゃん!」

 

 右の方から大きな声が聞こえた。窓際の席で一人の老人が帽子を振っている。窓から差し込んでくる人工太陽の光が、老人のハゲ頭に反射してまばゆい輝きを放つ。

 

「いきなりちび呼ばわりなんて、失礼なハゲだね」

 

 妹がむっとした顔になり、コレット少将が同意した。仲の悪い二人だが、こういう時だけは意見が一致する。

 

「人違いでしょ。普段と違う格好なんだし」

 

 イレーシュ少将がなだめるように言うと、妹たちは納得した。

 

「そうですね。あんなハゲはほっといて……」

「いや、あの人は知り合いだ」

 

 俺は窓の方を向いた。ハゲ頭の老人が一人で使っている四人掛けの円卓には、スイーツや料理が所狭しと並んでいる。銀河広しといえども、これほど食い意地の汚い年寄りは一人しか知らない。

 

「そうなの?」

「挨拶してくる。みんなは座っててくれ」

 

 部下たちを席に行かせ、俺は早足で老人のもとに向かう。

 

「ご無沙汰しておりました」

「おお、やはりちび兄ちゃんであったか!」

 

 老人は口を大きく開けて笑った。産毛すらないハゲ頭を持つ彼は、パリ・コミューンの開店当初からの常連客である。二〇年前からハゲ頭で反戦主義者だった。パラスなまりの公用語を話し、食器を両手で持ち、ピーチパイにこだわることから、「パラスの爺ちゃん」と呼ばれる。

 

「こんなところで会えるとはなあ!」

「まったくです」

 

 俺はつられるように笑った。演技の必要はまったくなかった。

 

「わしは嬉しいよ。君に友達がいることがわかったんでな」

「これでも友達は多い方なんですよ。ハイネセンっ子は社交的ですから」

 

 俺はいたずらっぽく見えるようにウインクした。パリ・コミューンでは、「ハイネセン出身」という設定で通している。

 

「何でイゼルローンに来たんだ? 旅行か?」

「まあ、そんなところです」

「運が悪かったな。あのフィリップスが来ている真っ最中だ。空気がすっかり汚染されておる」

 

 パラスの爺ちゃんは、いわゆる「オールド・パシフィスト」である。反戦市民連合結成のきっかけとなった「七六九年の衝撃」以前からの反戦主義者だった。エリヤ・フィリップスを好きになる理由など持ち合わせていない。

 

「何も感じませんが……」

「ファシズムの臭いがわからんのか? 臭くて臭くてたまらぬわ」

「鼻が悪いもので……」

「わしは自由な空気を吸いたくてイゼルローンに来たんだ。なけなしの貯金をはたいてな。フィリップスのちびが、孤独な老人の楽しみを台無しにしおった」

「すぐ帰るでしょう。ただの出張みたいですし」

「それはともかくだ」

 

 パラスの爺ちゃんは真顔になり、声を潜める。

 

「誰が本命だね?」

「どういうことです?」

「べっぴんさんを四人も連れてるんだ。何もないってことはなかろう」

「まあ、秘密です」

 

 俺は頭をかいてごまかした。幸いなことにそれ以上の追及はなかった。

 

「そろそろあっちに行ったらどうだね。彼女を待たせるのはよろしくない」

 

 パラスの爺ちゃんは苦笑しながら部下のいるテーブルを見た。

 

「それでは、お元気で」

 

 俺はパラスの爺ちゃんに頭を下げると、部下のもとに向かった。いささか話が弾みすぎた。彼女でなかったとしても、人を待たせるのは良くない。

 

 八人掛けの円卓につくと、俺は空いている二つの席の左側に荷物を置き、右側に腰を下ろした。プライベートでは、左隣に誰も座らせないことに決めている。エリヤ・フィリップスの左隣は、ダーシャ・ブレツェリの指定席なのだ。

 

 席に着いて間もなく、店員がタルトを大量に運んできた。これからが調査の本番だ。タルトの味を舌に刻み付ける。

 

 イチゴタルト、ピーチタルト、プリンタルト、グレープフルーツタルト、ブルーベリータルト、バナナタルト、レモンタルト、マロンタルト、チェリータルト、キウイタルト、チーズタルト、キャラメルタルト、アップルタルト、オレンジタルト、カスタードタルト、イチジクタルト、アンズタルト、ティラミスタルト……。

 

 タルトを食べつつ、ピザ、パスタ、サラダ、スープを口に入れ、甘味以外の成分も補給する。こうすることで甘味がより引き立つ。

 

「味、質、値段ともに申し分なし」

 

 俺は舌によってイゼルローンの豊かさを理解した。

 

「本当に調査してたんですねー」

 

 カプラン准将は心の底から感心したようだった。

 

「理屈じゃわからないこともあるんだ。君だって理屈は苦手だろう?」

「そうですねー」

「考えるんじゃなくて感じる。結局のところ、感性が一番頼りになるんだ」

 

 もっともらしい俺の言葉をカプラン准将が真顔で聞いている。その周囲では、妹とイレーシュ少将がタルトを貪り食い、ベッカー少将がグリーンティーを楽しみ、コレット少将がメモを取り、ハラボフ大佐はぼんやりしている。

 

 妹とイレーシュ少将が火花を散らしあった。妹は一か月後に四〇歳を迎えるイレーシュ少将に対し、「本当に肌がきれいですよね。四〇歳なのに」「スタイルが良いですね。四〇歳には見えません」などと嫌味を言った。イレーシュ少将は胸パッドを詰め込んだ妹に対し、巨乳特有の悩みを語り、「あんたもわかるでしょ」と皮肉をぶつける。女の戦いは恐ろしい。

 

 困り果てた俺は話題を探すために周囲を見回した。窓の外に救い主がいた。金褐色の髪を持つ美人が、亜麻色の髪を持つ美青年と並んで歩いていたのだ。

 

「イゼルローン一の美人と美青年が歩いているぞ」

 

 この一声で不毛な戦いは終わり、妹もイレーシュ少将も窓の外を見た。他の四人も窓の外に注目した。

 

「やっぱり、グリーンヒル提督とミンツ准尉は付き合ってんだね」

 

 イレーシュ少将が目を輝かせる。超然とした雰囲気を持っているが、中身は普通のお姉さんである。有名人同士のゴシップには食いつかずにはいられない。

 

 二八歳のフレデリカ・グリーンヒル宇宙軍准将は、イゼルローン総軍一の美女だ。大きなヘイゼルの瞳、緩くウェーブした金褐色の髪、優しげな美貌、すらりとした肢体には、女性を恋愛対象とする者すべてを惹きつける魅力がある。

 

 二〇歳のユリアン・ミンツ宇宙軍准尉は、イゼルローン総軍一の美青年だ。さらさらの亜麻色の髪、繊細で儚げな美貌、柔らかい笑顔には、男性を恋愛対象とする者すべてを惹きつける魅力がある。

 

 美しい二人が一緒に歩いている姿は、一枚の名画のようであった。知性、品性、美貌のすべてにおいて均衡が取れていた。彼らが交際するのは定められた運命のように思われた。

 

「付き合ってないですよ」

 

 そう断言したのはコレット少将だった。

 

「なんでわかるの?」

「ミンツ君に聞きましたから」

「えっ!?」

 

 コレット少将以外の全員が目を丸くした。銀河一のフィリップス信者が、銀河一のヤン信者と会話したという事実がみんなを驚かせた。しかも、かなり親しげな口ぶりである。

 

「ユリアン・ミンツと話したの?」

 

 最年長のイレーシュ少将が全員を代表して質問する。

 

「ええ、一緒にご飯を食べた時に聞きました」

「そこまで仲良くなってるの?」

「ええ、フィリップス提督のご指示通りにいたしました」

 

 コレット少将は忠犬が主人を見るような目を俺に向けた。他の者も彼女と同じ方向を見る。

 

「そんな指示はしていないぞ」

「はっきり指示なさったでしょう? 『イゼルローンの連中と仲良くしろ』と」

「確かに言ったけど……」

 

 俺は困惑していた。ここまでやれと言ったつもりはなかった。喧嘩しないように釘を刺しただけなのに、コレット少将はあのユリアン・ミンツと一緒に食事をする仲になったのだ。

 

「あなたのご指示の賜物です」

 

 コレット少将は誇らしげに胸を張った。指示した以上のことをやっても、彼女は指示が正しかったおかげで成功したと思い込んでしまう。

 

 俺たちは、「あの二人は誰を好きなのか?」という話題で盛り上がった。ただ、妹だけは輪に入ろうとせず、冷ややかな目を向けた。

 

 議論の結果、「ユリアン・ミンツはヤン元帥の愛人もしくは配偶者」との結論でまとまった。ユリアンはヤン元帥と同じ官舎に住み、家庭内では家事を行い、外では非公式のボディーガードとして付き従っている。また、ヤン元帥と正式な養子縁組を結んでおらず、ヤン姓を名乗っていない。

 

 これだけの条件が揃えば、常識的な同盟人は愛人関係か別姓の配偶者だと考えるだろう。同性同士の恋愛や結婚があり得ないと考えるのは、新移民(ラグナロック会戦以降に移住してきた帝国人)ぐらいのものだ。俺は反論したかったが、客観的な根拠がないので諦めた。

 

 グリーンヒル准将については、「わからない」との意見が大勢を占めた。今のところ、男性の影も女性の影も見当たらない。

 

「メッサ―スミス君でしょう」

 

 コレット少将はチーム・フィリップス発足当初からの友人の名前をあげた。だが、彼がグリーンヒル准将に相手にされていないことは明白だったので、誰も同意しなかった。

 

「グリーンヒル提督の本命はヤン元帥だよ。エル・ファシルで彼女を救ったのはヤン元帥だ。副官として身近で仕えていれば、憧れが恋心に変わる機会もある。要塞艦隊に転属したのは、ヤン元帥に本気でアタックするためだね。直属の上官とは結婚できないから」

 

 俺は前の世界の知識にもっともらしい根拠を付け、ヤン元帥こそが本命だと言い張る。

 

「違います!」

 

 どういうわけか、ハラボフ大佐が顔を真っ赤にして否定した。勢いに押された俺は持論を引っ込めざるを得なかった。

 

 前の世界を知る者から見れば、ユリアン・ミンツとフレデリカ・グリーンヒルをゴシップネタにするなど、大それた行為であろう。この二人は天才ヤン・ウェンリーの側近であり、銀河に共和主義の種を残した指導者であった。俺ごときとは根本的な格が違う。

 

 前の世界のユリアン・ミンツは、「ヤン・ウェンリーの思想的後継者」とされる。ヤン・ウェンリーの養子になり、家事や護衛を行った点はこの世界と同じだ。しかし、前の世界では八〇〇年にヤンが暗殺されて、ユリアンがヤン派残党の軍事部門指導者となった。シヴァ会戦で判定勝ちを収め、ラインハルトに共和主義の存続を認めさせた。ヤン派残党がローエングラム朝に帰順すると、政治の世界から身を引き、ヤンの顕彰活動に取り組んだ。

 

 一方、前の世界のフレデリカ・グリーンヒルは、「ヤン・ウェンリーの政治的後継者」と言われた。ヤン・ウェンリーを副官として支えた点は、この世界と変わらない。だが、前の世界ではヤンと結婚し、ヤンが暗殺された後はヤン派残党の政治的指導者を務めた。ヤン派残党がローエングラム朝に帰順すると、フレデリカは初代自治政府議長や与党八月党党首を歴任した。

 

 以前の俺には、ユリアンとフレデリカが高く評価される理由がわからなかった。有能な側近だったことは認めるが、単体では大したことのない人物だと思っていた。ヤン・ウェンリーの威光を借りて偉くなったように見えたのだ。

 

 指導者としての経験を積んだ今なら、彼らの苦労と偉大さが理解できる。自分で獲得した名声を持つ俺ですら苦労した。借り物の名声を使った彼らは、さらに苦労したはずだ。覇王ラインハルト相手に戦い抜いただけでも立派であろう。バーラト自治区の衰退については、条件が悪すぎた。俺を苦しめた戦犯追及法にしても、リベラル勢力の支持を得るためには、ああするしかなかったのだろうと思う。

 

 みんながゴシップに興じている間、妹はひたすらタルトを食べ続けた。人見知りするタイプではないが、イレーシュ少将、コレット少将、ハラボフ大佐を大嫌いなので、話の輪に入らなかった。

 

 伝票に記された数字は馬鹿げた額になった。三分の一は妹、六分の一は俺、六分の一はイレーシュ少将、残り三分の一はコレット少将ら四人が食べた分だった。

 

 精算を終えた俺は、パラスの爺ちゃんに向かって軽く会釈した。山積みのタルトと料理を平らげていた爺ちゃんはこちらに気づき、右手を上げた。

 

「ん?」

 

 俺の目は爺ちゃんが右手に持った紙に釘付けになった。その紙には、オールド・パシフィストが使う独特の崩し字で、「君の彼女が誰かわかったぞ」と書いてあった。

 

 一体、誰を彼女だと勘違いしたのだろう? 不審に思っていると、爺ちゃんはにやりと笑い、右手の紙を取り替える。

 

「…………」

 

 新しい紙には「茶髪の子じゃな。ずっと君を見ていた。恋する乙女の目じゃ」と書かれていた。

 

「どうしたんですか?」

 

 緩くウェーブした茶髪の女性が、微笑みながらこちらを見た。その女性の名前はユリエ・ハラボフという。今日は「可愛い女の子」という設定なので、俺に対しても愛想が良い。

 

「いや、何でもない」

 

 俺は微笑み返してから、爺ちゃんの方を向いて両手でバツ印を作った。天地がひっくり返ったとしても、俺とハラボフ大佐が付き合うことはない。そもそも、彼女は俺を嫌っているのだ。

 

 他の人には、俺と爺ちゃんが何をしているのかわからないようだった。普通の人にはオールド・パシフィストの崩し字など読めない。俺にしても、パリ・コミューンに通わなければ読めなかっただろう。

 

 調査を終えた俺たちは店を出た。爺ちゃんが、「素直になりなさい。つんつんするほど人生は長くないぞ」と書かれた紙を掲げていたが、見なかったことにして通り過ぎた。

 

 イゼルローンの豊かさを実感できたので、今度は健康事情について調べることにした。一五フロアをぶち抜いた超巨大スポーツセンターへと足を運ぶ。

 

「素晴らしい……」

 

 俺は感動した。これほど広いトレーニング室など見たことがない。しかも、イゼルローン陥落の際に接収された帝国製の高級マシンが設置されている。

 

 美しい肉体こそが優等人種の証であると考えたルドルフは、トレーニングを奨励した。建国当初の重臣や貴族は、アスリートのような肉体を持っていた。帝国が堕落すると、支配層もトレーニングを怠るようになり、アウグスト流血帝のような弛んだ肉体を持つ皇帝も現れた。それでも、建前上はトレーニングを重んじ、多額の予算を投じた。帝国軍の提督にマッチョが多いのは、ルドルフの遺風によるところが大きい。

 

 ルドルフが残した唯一のまともな遺産を存分に使わせてもらった。体にため込んだ糖分が燃焼する。筋肉がフル回転する。汗が体中から噴き出す。俺たちは人間機関車だ。

 

 周囲には見知った顔がいくつもあった。地味なジャージを着たパエッタ大将は、無表情で逆立ち腕立て伏せを続ける。ワイドボーン大将は、はちきれんばかりの筋肉をぴちぴちのタンクトップで包み、筋肉美を見せつけた。昨日、「ミス・グリーンヒルを映画に誘います」と笑っていたメッサースミス准将は、黙々と腹筋を繰り返す。最近男に逃げられたドールトン少将は、サンドバッグにパンチの猛打を浴びせる。

 

「お姉さん、一人で来てるの?」

 

 タオルで顔の汗を拭いているコレット少将に声を掛けたのは、遊び人風の青年であった。

 

「友達と一緒ですよ」

 

 コレット少将はにっこりと笑い、ハラボフ大佐の方を指さす。ハラボフ大佐が微笑みながら頷いた。この二人は姉妹同然の仲だ。

 

「そっか。頑張ってね」

 

 青年は笑顔で立ち去り、少し離れた場所へ移動した。そして、プロテインドリンクを飲んでいる妹に声を掛けた。

 

「お姉さん、それおいしそうだね」

「あんまおいしくないですけど」

 

 妹は不機嫌そうに青年を睨みつけた。遊び人が大嫌いなのだ。金髪のかつらと特製胸パッドで変装していても、性格はいつもと変わらない。

 

「ごめんね」

 

 青年は笑いながら頭を下げると、別の場所に移動して、レオタードを着た黒髪の女性に声を掛けた。今度はうまくいったようだった。

 

 トレーニングそっちのけでナンパに励む青年の名前は、オリビエ・ポプランという。人々が彼の名前を聞けば、「通算撃墜数第一位の撃墜王」「自由戦士勲章受章者」「スパルタニアン八〇〇〇機を擁する要塞空戦隊のトップ」といった華々しい経歴を思い浮かべるであろう。そんな大物がその辺の若者のようにナンパをしているのだ。イゼルローンならではの光景といえよう。

 

 体を鍛えた後は、風呂に入って汗を流す。帝国統治時代のスポーツセンターでは、高級将校と貴族だけが豪華な浴場を使った。しかし、今は提督も一兵卒も同じ浴場を利用できる。民主主義は素晴らしい。

 

 風呂を出た俺たちは街中をぶらぶらと歩いた。ひんやりした秋風が心地良い。イゼルローン要塞の気候は、ハイネセン北半球と同じになるように調節されている。今は秋なのだ。

 

「あの人、トレイマー博士じゃない?」

 

 イレーシュ少将がこじゃれたレストランの前で立ち止まり、ガラス越しに店内を見た。みんなもつられるように立ち止まる。

 

「本当ですね。あのトレイマー博士がこんなところで飯を食ってる」

 

 俺は目を丸くした。確かに「同盟最高の知性」トレーマー博士だった。哲学界のヤン・ウェンリーともいうべき人物が、なぜイゼルローンにいるのだろうか?

 

「トレイマー博士の向かいにいる人も見覚えがあります。ラヴリーヌ博士です」

 

 コレット少将の視線の先には、「知の巨人」ラヴリーヌ博士がいた。この人は社会学界のラインハルト・フォン・ローエングラムである。

 

「クラルク博士とペニー博士もいるよ」

 

 イレーシュ少将が切れ長の目を大きく見開いた。「人類の至宝」クラルク博士と「真理に最も近づいた女」ペニー博士までいるのだ。

 

 俺たちは呆然とした。帝国出身のベッカー少将も例外ではなかった。四人の雷名は銀河の隅々まで轟いている。読み書きができない者でも、名前だけは聞いたことがあるはずだ。そんな偉人がガラス一枚隔てた場所で飯を食っている。

 

 四人の天才の他にも、有名な知識人を何人か見かけた。面識のある無名知識人も数人いた。知らない人も知識人かもしれない。そう思うと、通行人全員が知識人に見えてくる。

 

「やけに知識人が多いなあ」

「逃げてきたんじゃない? 締め付けがきつくなってるから」

 

 妹の推測は納得できるものだった。同盟における言論の自由は、急速に縮小しつつある。自由に発言できる環境を求めて逃げてきたとしても、不思議ではない。

 

 イゼルローンには、軍人家族向けの学校がたくさんある。転勤が多い士官の子弟のための通信制大学も置かれた。知識人たちはこうした学校の教員として雇われたのだろう。

 

 ハイネセン主義者はルーチンワークを軽視し、クリエイティブな仕事を重視する。イゼルローンでもその傾向は変わらない。イゼルローンの教員給与は全国平均を上回る。大学教員の給与は、ハイネセンの一流大学に匹敵するほどだ。教員の拘束時間は極めて短かいため、研究活動に没頭できた。一流知識人がイゼルローンに集まるのは、当然の成り行きといえる。

 

「知識人の天国、労働者の地獄か」

 

 俺は飲食店の求人ポスターを眺めた。給与は全国最低時給ぎりぎりの額で、「年齢不問。学生とお年寄り歓迎。同盟語が苦手な方でも働けます」と書いてある。

 

「連立政権時代と同じですな」

 

 ベッカー少将は冷ややかに切り捨てた。イゼルローンに住む未成年者と老人は、軍人の扶養家族なので、低い時給でも生活できる。同盟語が話せない移民は仕事を選べない。

 

 求人ポスターの隣には、全国最低賃金撤廃を訴える講演会のポスターが貼ってある。講演者はエル・ファシル改革、解放区経済改革、レベロ改革に参画し、現在はイゼルローン大学教授を務める学者だった。

 

「地球教の教会がやたらと多いですな。今日だけで四軒も見つけました」

 

 ベッカー少将が視線を向けた先には、太陽車輪のエンブレムを付けた建物があった。門前に「教会バザー」と書かれた看板が掲げられており、大勢の人が出入りしていた。

 

「イゼルローンは軍人の街だからね。地球教徒も多いんだ」

 

 俺はバザーの客を眺めた。その三分の一が軍服を着用している。地球教は軍人信徒を多く抱える宗教であった。

 

 イゼルローン軍政府のリベラリストは宗教を嫌っていたが、信教の自由は尊重した。カルト指定を受けた団体以外の宗教団体は、民間人居住区での宗教活動を許可された。二〇〇団体以上の宗教団体がイゼルローンで活動している。

 

 この世界の地球教の勢いは凄まじい。クーデター鎮圧に大きく貢献したことで、著しく評価を高めた。昨年の補欠選挙では、地球教の支援を受けた候補が大勢当選した。地球教徒の地方首長や地方議員は数多い。軍拡によって、失業中に地球教の世話になった予備役軍人が再招集されたため、同盟軍内部での影響力が拡大しつつある。

 

 地球回帰の精神運動は、国家の垣根を越えた一大ムーブメントに発展し、同盟・帝国・フェザーンの三国に巡礼協定を結ばせるに至った。地球への巡礼船は国籍によらず、帝国領を通過することが認められた。これにより、同盟人も地球に巡礼できるようになったのだ。

 

「一三日戦争以前もこんな感じだったんですかね」

 

 ベッカー少将は宗教の信用を失墜させた戦争の名前をあげた。古い記録によると、一三日戦争以前の世界では、宗教が支配的な地位を占めていたという。

 

 この問いに答えられる者は一人もいなかった。士官学校卒業者は戦史に詳しくても、歴史には詳しくない。宗教の影響力が大きかったことは義務教育で習う。けれども、具体的にどうだったのかは知らなかった。

 

 駅に入り、構内を歩いていると書店が目に入った。店頭に「社会の問題は自分の問題 社会派フェア」と書かれたポップが置いてある。台の上には、体制を批判する本や社会の暗部に迫る本が平積みになっていた。

 

「駅の書店にもこういう本が置かれているんだな」

 

 俺はパトリック・アッテンボロー氏の本を手に取った。大書店でしか見かけないような本が、駅の書店にも置いてある。さすがはリベラルの楽園だ。

 

「この人たちがいないからじゃない?」

 

 妹は憂国騎士団のイラストが表紙に描かれた本を指さした。イゼルローン要塞では、憂国騎士団の活動は禁止されている。

 

「ああ、そういうことか」

 

 俺はようやく事情を理解した。文句をつけに来る人間がいないから、駅の書店でも体制批判の本を堂々と置けるのだ。

 

 トリューニヒト政権が発足した頃から、憂国騎士団一般会員の抗議行動が激しくなった。体制に批判的な組織・団体に対し、抗議のメールや電話をしたり、大人数で押しかけたりした。声がでかいだけの一般人でも、束になると行動隊員より厄介だ。威力業務妨害や不法侵入の罪を犯しても、警察は取り締まろうとしない。被害者が裁判を起こしたら、優秀な弁護士を雇って対抗してくる。その結果、「目をつけられたら面倒だ。体制批判は控えよう」という空気が生じた。

 

 書店も憂国騎士団一般会員の標的となった。体制批判の本を置くと、一般会員がやってきて「なぜあんな本を置くんだ!」と怒鳴り出す。お引き取りを願っても帰ろうとしない。警備員が強制的に排除しようとしたら、仲間が集まってくる。警察に通報しても、憂国騎士団だと聞いたら帰ってしまう。トラブル慣れした書店以外は、体制批判の本を置かなくなった。

 

「慣れって恐ろしいな。こういう本が見当たらないのが普通だと錯覚した。本当は異常なのに」

「考え直した方がいいんじゃない?」

「何を考え直すんだ?」

「ボスとの関係」

 

 妹はさりげない顔でとんでもないことを言い放った。イレーシュ少将とベッカー少将が無言で頷いた。チーム・フィリップスの中核メンバーですら、トリューニヒト議長と距離をとるべきだという考えに傾きつつある。

 

 俺は無言で首を振った。こんな世界は望んでいなかった。みんなが笑いながら同じ食卓を囲む世界を望んでいた。明るい世界を作るために戦ったはずだった。どこでボタンを掛け違えたのだろうか?

 

 

 

 イゼルローン要塞は平穏を保っていた。第一辺境総軍とイゼルローン総軍の不仲は相変わらずであったが、軍務に支障が出るほどではない。

 

 俺が国防委員会に送った作戦案は却下された。費用のわりに効果が少ないという理由である。密航対策と考えれば、コストパフォーマンスが悪いのは事実だった。

 

 次善の策として、「回廊封鎖訓練」の名目で二個分艦隊を動員し、機動要塞の通路になりそうなワープポイントに艦艇を配置する計画を立てた。とにかくワープポイントに何かを置いておけば、大質量物質のワープアウトは困難になる。

 

 ところが、回廊封鎖訓練案も却下されてしまった。しかも、ネグロポンティ国防委員長からお叱りを受けた。帝国軍の侵攻に備えるつもりではないかと疑われたのだ。

 

 国防情報本部は、帝国軍が攻めてくる可能性を「無視できる程度に低い」と見積もった。そんな時に帝国軍の侵攻に備えたら、国防情報本部の分析を信用していないと言ったに等しい。「国防情報本部の面子を潰すな」というのが、ネグロポンティ国防委員長の言い分であった。

 

「ここまで言われたらどうしようもないな」

 

 機動要塞のワープを防ぐことは諦めるしかない。それでも、機動要塞対策を完全に諦めるつもりはなかった。

 

 俺は配下の宇宙部隊に対し、帝国軍のヘルムート・レンネンカンプ上級大将を仮想敵とした訓練を行うよう命じた。

 

「レンネンカンプ提督は正統派の用兵家だ。彼を仮想敵とすることで、帝国軍の標準的な用兵に対応できる力が身に着くだろう」

 

 第一辺境総軍の提督たちはこの説明に納得し、レンネンカンプ上級大将と戦うことを想定した訓練を始めた。イゼルローン要塞に駐留する第二艦隊は、宇宙空間を好きなだけ使えるという地の利を生かし、実戦的な訓練を行った。ラハムに駐留する第一一艦隊、第五五独立分艦隊、第五七独立分艦隊は、訓練スペースの確保に苦労したものの、最大限の努力を重ねた。

 

 もっともらしい理由を付けたが、これも機動要塞対策だった。要塞ワープ実験の責任者を務めたのはレンネンカンプ上級大将である。現時点では、彼以外に機動要塞を運用できる提督はいない。機動要塞がイゼルローンに攻めてくるならば、レンネンカンプ上級大将が指揮をとるはずだ。

 

「ずいぶん積極的に作戦を立てていますね」

 

 総軍副参謀長チュン・ウー・チェン中将が、俺の作った作戦方針書をめくる。

 

「有事のために準備を整えておきたいんだ。才能のなさを努力でカバーしたい」

「立派な心掛けです」

「ありがとう。で、俺の作戦はどうだ?」

「全然だめですね。細かすぎます。実戦では通用しません」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長の返答は、のんびりした口調とは裏腹に容赦ないものだった。

 

「きっちり決めないと安心できないんだ」

「作戦は精神安定剤ではないですよ」

「そ、そうだな」

 

 俺は少しうろたえた。機動要塞対策は自分が安心するために作成したものだった。本当に攻めてくるとは思っていないが、対策を用意しておかないと不安になる。

 

「余計なところは我々が削っておきます」

「ありがとう」

「それが参謀の仕事ですので」

 

 涼しい顔で答えると、チュン・ウー・チェン副参謀長は、潰れたハムクロワッサンを俺の手に乗せた。作戦立案は参謀の仕事、潰れたパンの提供は彼個人の仕事である。

 

 ワイドボーン参謀長、ラオ作戦部長、メッサースミス作戦副部長ら参謀八名がやって来て、チュン・ウー・チェン副参謀長とともに作戦案の検討を始めた。チュン・ウー・チェン副参謀長が天使に見えるほどに厳しい指摘が飛び交う。

 

 俺は心の中で参謀たちに頭を下げた。真の意図を隠していることが申し訳なかった。不要な仕事をさせているわけではない。密航防止が必要なことは確かだ。レンネンカンプ上級大将を仮想敵とする訓練は、それなりの効果をあげるだろう。作戦の必要性を否定した参謀は一人もいなかった。それでも、後ろめたさを感じる。

 

「我々がいる間は、帝国軍との戦いはないんじゃないですかね」

 

 ラオ作戦部長が楽観論を述べた。

 

「どうしてそう思う?」

「あなたが心配したことは起きなかったでしょう。クーデターの時だって、あなたが警戒した人は動きませんでした」

「…………」

 

 俺には何も言えなかった。彼の言うことは実際正しかった。過去を振り返ると、心配したことは起きないのに、起きないと思ったことは起きた。

 

 帝国軍が攻めてくる気配はない。駐フェザーン弁務官事務所経由の情報で、キルヒアイス元帥が二万隻を率いて出撃したことが判明したが、正統政府を討伐するための出兵だそうだ。国防情報本部が入手した情報によると、メルカッツ艦隊の動員は演習目的だという。機動要塞に関する情報はなかった。

 

 水面下ではテロへの警戒を続けている。戦犯タッツィーの妻子の暗殺をはかった正統政府の工作員が、ティアマト星系の宇宙港で逮捕された。また、個人によるテロ計画をいくつか摘発した。それでも油断はできない。さらなる警戒が必要だろう。

 

 国防委員会の指示により、イゼルローンに居住する戦犯とその家族に十分な警護を付けた。トリューニヒト政権は治安対策を売り物にしている。嫌われ者の戦犯を全力で守らなければ、テロに強い政権というイメージを保つことはできない。

 

 公共安全局から驚くべき情報が送られてきた。逃走中の麻薬王ルチオ・アルバネーゼがイゼルローンに潜入し、地球への巡礼船に乗り込み、帝国領に渡ろうとしているというのだ。

 

「これを全部貼らなきゃいけないのか」

 

 俺は顔を軽くしかめた。予想できる変装パターンが二〇通りもあるのだ。アルバネーゼはライオンのたてがみのようなふさふさ頭で、ほおひげと口ひげを繋げて生やし、あごひげを剃るという特異な風貌で有名だった。目鼻立ちは平凡なので、ひげと髪型をいじればどうにでも化けられる。

 

 資料の備考欄に、「アルバネーゼを発見したら必ず応援を呼ぶこと。最低でも一個分隊は必要」と書いてあった。俺は「一個分隊」を「一個小隊」に書き直した。相手は完全武装の憂国騎士団四人を素手でぼこぼこにした怪物だ。武器を持ったら、憲兵一個分隊など軽く片付けるだろう。

 

 イゼルローンの治安維持は予想以上に大変だった。繁華街では軍人同士の喧嘩が頻発した。ポプラン少将のように、自ら喧嘩沙汰を引き起こす将官の存在は頭痛の種となった。新移民による差別事件が後を絶たない。治安維持を担う憲兵は、実戦派軍人から軽視されているため、やる気に欠ける。

 

 軍政府というより、アッテンボロー大将の対応は手ぬるいの一言に尽きた。軍人同士の喧嘩については、「好きにやらせておけ」というスタンスだ。差別事件については、被害が重いものは厳しく処罰したが、被害が小さいものについては穏便な解決をはかった。そのため、不満を抱く者が少なくなかった。

 

 俺が修正を求めても、アッテンボロー大将は聞き入れない。そもそも喧嘩を悪いことだと思っていなかった。より弱い者を擁護するというスタンスなので、ちょっとしたことで強制送還されかねない移民に肩入れした。

 

 実戦派将校、管理局員、知識人たちは、アッテンボロー大将の姿勢を「寛容だ」と褒め称える。イゼルローンの「自由」と「寛容」は、非凡な人を満足させる一方で、凡人の不満を募らせた。

 

 本筋とは関係ない仕事に忙殺されている間に、ヤン元帥がハイネセンに到着し、査問会が始まった。ヤン元帥が自ら辞表を書いた時に、査問会は終わるだろう。

 

 俺の中には、早く終わってほしいという思いと、ヤン元帥を引退させたくないという思いがあった。終われば俺は楽になるが、ヤン元帥は引退させられる。ヤン元帥が引退しなければ、俺は楽にならない。どっちにしても茨の道だ。

 

 一〇月一一日、通信端末のチャイム音が俺を叩き起こした。時計を見ると、四時三〇分だった。いつもの起床時間より一時間早い。

 

「何があったんだ……」

 

 寝ぼけ眼をこすりながら通信画面を開く。

 

「ああ、君か。どうした」

「――――」

 

 相手の言葉が右耳から左耳に抜けていく。脳みそがまだ眠っているらしい。

 

「すまん、よく聞き取れなかった。もう一度言ってくれ。ゆっくりはっきりと喋るんだ」

「――――」

「何だって……!?」

 

 俺の脳みそはあっという間に覚醒した。眠気は数万光年の彼方まで飛んで行った。しばらくは眠れないだろう。

 

 一〇月一一日四時三〇分、イゼルローン回廊に巨大要塞と艦隊が出現した。偵察衛星の情報から推定される兵力は、四万五〇〇〇隻から五万五〇〇〇隻。休戦は三年一か月で破られた。



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第106話:赤毛VS赤毛 802年10月11日 イゼルローン要塞

 会議室に軍服を着た人々が集まった。半数は生身の人間、半数はティアマト星系にいる人間の立体映像である。

 

「ガイエスブルク要塞は直径四五キロの人工天体です。三重に重なった複合装甲が表面を覆っています。主砲の硬X線ビーム砲は七億四〇〇〇万メガワット。対空砲の数はおよそ六〇〇〇基。艦艇一万六〇〇〇隻を収容できる補給基地であると同時に、強力な通信基地・索敵基地でもあります」

 

 第一辺境総軍首席副官ユリエ・ハラボフ大佐は、イゼルローンから四光秒(一二〇万キロメートル)の距離にワープした物体について説明した。

 

「九億四〇〇〇万メガワットと七億四〇〇〇万メガワットの撃ち合いか。盛大な花火大会になりそうですな」

 

 要塞軍集団司令官シェーンコップ大将は冗談を口にしたが、いつもの余裕は感じられない。笑い飛ばすには状況が深刻すぎた。

 

「早期攻略は困難です。蜂群戦術は使えません。正面から突っ込めば、要塞砲の餌食になります。要塞攻略のセオリーが通用しません」

 

 第一辺境総軍参謀長ワイドボーン大将は険しい表情でスクリーンを見た。

 

「手探りの戦いになりますな」

 

 イゼルローン総軍総参謀長パトリチェフ大将がため息をついた。彼がヤン元帥とともに策定した回廊防衛計画は、要塞という未知の要素によって価値を失った。指針がない状態で作戦を練らなければならないのだ。いつもの陽気さが失われるのも、やむを得ないことであった。

 

「ヤン元帥に戻っていただかないと、どうしようもないですね」

 

 第四艦隊司令官ジャスパー大将が出席者の顔を見回す。「フィリップスでは駄目だ」と遠回しに言っているのは明白である。

 

「そうだな」

 

 俺は即座に同意すると、部下の顔を見回した。目で「我慢しろ」と語った。緊張しかけた空気が元に戻る。

 

 ミーティング終了直後、第一辺境総軍とイゼルローン総軍は、国防委員会からの通知を受け取った。ヤン・ウェンリー元帥との「極秘の相談」を打ち切り、イゼルローンに帰還させるという内容であった。

 

 トリューニヒト議長は予想通りに動いた。市民は「フィリップスがいれば、ヤンは必要ない」などとは考えない。英雄が二人いるなら、肩を並べて戦ってほしいと願うものだ。ヤン元帥が戻ってこなければ、市民は「早く出せ!」と騒ぐだろう。騒ぎになる前にヤン元帥を解放する以外の道はなかった。

 

「先見の明を誇る気にはなれないけど」

 

 俺は大きく息を吐き、要塞軍集団司令部の中央司令室に入った。八〇メートル四方の広さと一六メートルの高さを持つ広大な部屋の中を歩き、司令官席に腰を下ろす。左隣に首席副官ハラボフ大佐、右隣に参謀長ワイドボーン大将、後ろに要塞軍集団司令官シェーンコップ大将が座る。周囲の席には、副参謀長チュン・ウー・チェン中将をはじめとする主要幕僚が腰かけた。

 

 チーム・フィリップスはてきぱきと動いた。最高評議会と国防委員会に敵襲を知らせ、支援を求める。回廊全域に緊急事態宣言を発令し、民間人の避難準備、民間船の航行制限、星間通信及び星間輸送の統制などを行う。指揮下の全軍に出動準備を命じる。ラハムから第四艦隊と第一一艦隊を呼び寄せる。エリヤ・フィリップスは無能だが、チーム・フィリップスは優秀だ。

 

 六時三五分、イゼルローン要塞のアンテナが、ガイエスブルク要塞から流れてきた通信波をキャッチした。同盟軍との交信を求めているという。

 

「いかがなさいますか?」

「チャンネルを開け」

 

 俺が交信許可を出すと、炎のように真っ赤な赤毛を持つ人物がメインスクリーンに現れた。

 

「小官は銀河帝国宇宙軍元帥ジークフリード・フォン・キルヒアイスです。皇帝陛下の命により、あなた方と戦うことになりました。小官には民と国土を守る義務があります。あなた方をこれ以上前進させるわけにはいきません」

 

 ジークフリード・キルヒアイス元帥は、顔をきりりと引き締め、背筋をまっすぐに伸ばし、きれいな同盟公用語で語り掛けた。見ているだけで魂が浄化されそうな爽やかさである。

 

「銀河に帝国の領土でない土地はなく、帝国の民でない人間はおりません。あなた方も帝国の民です。できることならば、降伏していただきたいと願います。降伏が無理であれば、退いていただきたいと願います。退くことができないのであれば、全力で戦いましょう。我々は最善を尽くすことによって、あなた方への敬意を示したいと思います。武運を祈ります」

 

 キルヒアイス元帥は体を前方に折り曲げて、最敬礼の姿勢をとった。宣戦布告というより、選手宣誓のように見えた。

 

 感動を受けない者は一人もいなかった。同盟人を蔑んできた国の元帥が、自分たちの言葉で語り掛けてきた。そして、最敬礼をしたのだ。ここまで礼を尽くされたら、誰だって心が震える。

 

「大したものだ」

 

 シェーンコップ大将が小声で呟いた。皮肉屋の彼ですら、キルヒアイス元帥を称賛せずにはいられない。

 

 俺は負けを悟った。味方の足を引っ張る小物と、敵を感動させる武人。ありふれた童顔と爽やかな男前。一六九センチと一九〇センチ。ありふれた人参色の赤毛と、炎のような赤毛。武人としても、人間としても、赤毛としても格が違う。

 

「返信なさいますか?」

 

 人参色の赤毛を持つハラボフ大佐の問いに対し、俺は首を横に振った。

 

「やめておこう。敵がヤン提督の不在に気づくのは時間の問題だ。それでも、こちらから知らせてやる義理はない」

 

 もっともらしい理由をつけたものの、本当は顔を見せたくないだけだった。俺ごとき小物がキルヒアイス元帥に顔を見せるなど、非礼の極みである。

 

 メインスクリーンからキルヒアイス元帥が消え、ガイエスブルク要塞が再び画面に現れた。イゼルローン要塞と同じ色の外壁に、大きな光点が浮かんだ。

 

「ガイエスブルグ要塞の主砲、エネルギー充填中です!」

 

 オペレーターの悲鳴に近い声が鳴り響いた。

 

「総員、衝撃に備えろ!」

 

 俺はマイクを握って叫んだ。前の世界で学んだ知識がそうさせた。イゼルローン要塞の装甲は、要塞砲の直撃には耐えられない。

 

 禿鷲の鉤爪がイゼルローン要塞に襲い掛かった。エネルギー中和磁場はあっという間にかき消された。耐ビーム鏡面処理を施された外壁は、巨大な熱量に耐えられない。四重に重ねられた超硬度鋼と結晶繊維とスーパーセラミックの複合装甲は、数秒で突き破られた。

 

 七億四〇〇〇万メガワットが要塞内部で炸裂した。広い範囲で爆発が生じ、轟音とともにイゼルローン要塞が激しく揺れる。

 

「うわっ!」

 

 俺はバランスを崩し、左側に倒れた。そして、柔らかいものにぶつかった。

 

「RC三三ブロック、RC四七ブロック、RC六一ブロック、RD七〇ブロックが破損!」

「RF五二ブロックの外壁が大破!」

「RG二九ブロックの生命反応が消滅!」

「第二〇四警戒群、第二一〇警戒群、第二一五警戒群が応答しません!」

「RG七一ブロックの第一一三防空群が全滅した模様!」

 

 オペレーターが被害状況を次々と報告する。多数の対空砲やレーダーサイトが、兵士もろとも吹き飛ばされた。要塞砲の一撃はすさまじい損害をもたらした。

 

「破損したブロックはすべて放棄だ! 生存者の救出を急げ! 被害状況の把握に努めろ!」

 

 俺は床に右手をつき、上半身を起こした姿勢で指示を飛ばした。今は一刻を争う時だ。立ち上がる時間すら惜しい。

 

 要塞軍集団司令官シェーンコップ大将が足早に歩み寄ってきた。身をかがめ、目線の高さを俺に合わせる。

 

「司令官閣下、反撃の命令をお願いします」

「艦隊を出撃させる余裕なんてないぞ」

「こちらも主砲をぶっ放すんです」

「主砲を撃ち合えと言うのか!? 相打ちになるぞ!」

 

 俺は真っ青になって首を振った。

 

「相打ちの可能性があることを教えてやるんです。そうすれば、敵もうかつに主砲を使えなくなります」

 

 シェーンコップ大将は噛んで含めるように説明した。

 

「なるほど、そういうことか」

 

 俺はシェーンコップ大将の手を借りて立ち上がると、要塞砲兵司令部に連絡を入れた。

 

「トゥールハンマーを発射する! エネルギー充填を開始しろ!」

 

 銀河最大の大砲にエネルギーが充填されていく。充填率を示すメーターが白から黄色、黄色からオレンジへと切り替わる。

 

「エネルギー充填完了! 照準固定完了!」

 

 この報告を耳にした途端、心臓が激しく飛び跳ねた。史上最強の大砲が自分の手に委ねられた。その事実は小物を震え上がらせるには充分である。

 

「撃て!」

 

 俺が手を振り下ろした瞬間、雷神の槌が禿鷲の城を殴りつけた。九億四〇〇〇万メガワットの熱量が炸裂する。エネルギー中和磁場と複合装甲が吹き飛び、外壁に爆発光が閃いた。

 

「やったぞ!」

 

 司令室が歓声に包まれた。得体の知れない敵にもトゥールハンマーが通用する。その事実が人々を勇気づけた。

 

 次の瞬間、禿鷲の鉤爪がイゼルローンに突き刺さった。爆音が鳴り響くと同時に地面が激しく揺れる。俺は派手に転び、柔らかいものにぶつかって一緒に倒れこんだ。

 

「FR五七ブロック、FR八八ブロック、FX一二ブロック、FY四一ブロックが破損!」

「第三二防空群、第三六防空群が壊滅!」

「FQ九四ブロックのレーダーサイトが全壊しました!」

 

 オペレーターが次々と凶報を伝えた。一撃目に勝るとも劣らない損害である。

 

「トゥールハンマーを撃つぞ! エネルギーを充填しろ!」

 

 俺は柔らかいものに手をついて立ち上がり、反撃を命令する。

 

「撃て!」

 

 トゥールハンマーが再び振り下ろされた。ガイエスブルグの外壁を爆発光が彩る。敵が相当な損害を被ったことは疑いようもない。

 

「敵が主砲を撃ってきました!」

 

 悲鳴のような報告と同時に、要塞が激しく揺れる。俺は柔らかいものにぶつかって転んだ。被害状況を伝える情報が次々と入ってくる。幕僚やオペレーターは対応に追われた。

 

「撃ち返せ!」

 

 トゥールハンマーとガイエスハーケンの撃ち合いが続いた。二つの要塞が取っ組み合っているかのような光景である。

 

「司令官閣下」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が話しかけてきた。

 

「どうした?」

「レーダースクリーンの両端をごらんください」

「わかった」

 

 俺は急いで立ち上がり、レーダースクリーンを見た。二つの光点の群れが、回廊外縁に貼り付くように移動している。左右からイゼルローン要塞に回り込む態勢である。

 

 敵の意図がようやく理解できた。ガイエスハーケンは陽動に過ぎなかった。俺たちが救難活動や情報収集に追われている隙に、艦隊を回り込ませるつもりなのだ。

 

「やってくれるじゃないか」

 

 俺は喉まで出かかった狼狽の声を抑え、余裕ありげに呟いた。部下を安心させるためには、こうした演技が必要になる。

 

「トゥールハンマーで吹き飛ばしてやる」

「それはいけません」

「なぜだ?」

「要塞を回転させたら、軍港群が要塞砲の射程に入ります」

「それはまずいな」

「艦隊を出動させましょう」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長の進言は、独創的とは言えないが、心を落ち着かせてくれた。のんびりした声を聴くと、何があっても大したことではないように思える。

 

 俺は艦隊を出動させた。第二艦隊副司令官アップルトン中将率いる六〇〇〇隻が右側、要塞艦隊司令官アッテンボロー大将率いる六〇〇〇隻が左側に展開した。第一辺境総軍副司令官パエッタ大将率いる六〇〇〇隻は、予備として残す。

 

 アップルトン中将とアッテンボロー大将は斜め前に進み、敵の側面を突く態勢をとった。このまま進めば、敵は同盟軍と危険宙域に挟まれ、身動きが取れなくなるだろう。

 

 敵は回廊外縁から離れて針路を変えた。ミュラー大将の第三驃騎兵艦隊が右斜め前に進み、アイヘンドルフ大将の第三胸甲騎兵艦隊が左斜め前に進む。挟まれる前にすり抜けるつもりだ。

 

「全速力で突っ込め! 乱戦に持ち込むんだ!」

 

 レダ級巡航艦を中心とする部隊が突入し、敵を乱戦に引きずり込んだ。要塞と危険宙域に挟まれた狭い空間で、敵と味方が入り乱れて戦う。どの艦も速度を落とし、他艦と衝突しないように注意しつつ、短距離砲を放つ。母艦から発進した単座式戦闘艇は、小さな機体を生かして縦横無尽に飛び回り、肉薄攻撃を仕掛ける。

 

「要塞空戦隊、出撃せよ!」

 

 単座式戦闘艇「スパルタニアン」四〇〇〇機が出撃した。四個空戦戦隊に匹敵する空戦戦力が加わったことにより、同盟軍の戦闘力は著しく向上した。

 

 イゼルローン要塞の右側で、白熱した戦いが繰り広げられた。両軍ともに練度は今一つであったが、指揮官の卓越した手腕により、生き生きとした動きを見せる。柔軟なアッテンボロー大将と果敢なミュラー大将の戦いは、名人戦の様相を呈していた。

 

「あの二人が互角とはね」

 

 俺はアッテンボロー大将の手腕に舌を巻いた。あのナイトハルト・ミュラーと互角に戦えるとは思わなかったのだ。

 

 前の世界のナイトハルト・ミュラーは、偉大な提督であった。二〇代で艦隊司令官となり、主君ラインハルトの危機を救い、双璧に次ぐ功績を立てた。バーミリオン会戦では、旗艦を三度撃沈されても戦い続けて、「鉄壁ミュラー」の異名を得た。アレクサンデル帝の時代には、帝国軍三長官・宮内尚書・貴族院議長を歴任し、ローエングラム朝の安定に尽くした。

 

 ダスティ・アッテンボローは前の世界でも偉人であったが、ミュラーと比べると見劣りがする。艦隊を率いる機会に恵まれず、「ヤン艦隊最強の分艦隊司令官」に留まった。トップクラスの艦隊司令官と対等の立場で戦ったことは一度もない。彼の好敵手は、「帝国軍最強の分艦隊司令官」バイエルライン提督であった。バーラト自治議会では与党非主流派の指導者、帝国議会では小政党の党首に過ぎず、銀河政局に影響を及ぼすことはなかった。

 

 イゼルローンに前の世界を知る者がいたら、呆然とするだろう。優秀な分艦隊司令官に過ぎなかった提督が、偉大な艦隊司令官と互角に戦っているのだから。

 

「まったくです。ミュラー提督がここまでやるとは思いませんでした」

 

 ラオ作戦部長が意外なことを言った。

 

「えっ!?」

「格上のアッテンボロー提督と互角に渡り合っているんですよ。大したものです」

「…………」

 

 俺は言葉に詰まった。ラオ作戦部長は常識的な意見を述べたに過ぎない。この世界のアッテンボロー提督は、ミュラー提督よりずっと格上とされる。しかし、心の奥底に「ミュラー提督の方が格上」という固定観念があるので、素直に受け入れられなかった。

 

 この世界のナイトハルト・ミュラーは、「火の玉ミュラー」の異名を持っていた。炎のような闘志を持ち、まっしぐらに敵に突っ込んでいき、多大な戦果をあげた。もっとも、突出しすぎて危機に陥ることも少なくない。勇猛な分艦隊司令官だが、艦隊を率いる器ではないというのが一般的な評価だった。

 

「ごらんください」

 

 ラオ作戦部長はミュラー艦隊を指さした。

 

「猪突猛進に見えますが、いいタイミングでいいポイントを突きます。なかなかの戦術眼です。評価を改めないといけないかもしれません」

「そうだな」

 

 俺はこの世界の常識に妥協した。ラオ作戦部長がミュラー大将に与えた評価は、前の世界でビッテンフェルトに与えた評価と同じなのだが、あえて突っ込もうとは思わない。

 

 今になって思うと、前の世界の「鉄壁ミュラー」の戦いぶりは無茶苦茶だった。バーミリオン会戦では、強行軍で戦場に駆け付け、名将モートン提督の艦隊を粉砕し、ヤン本隊とラインハルト本隊の間に割り込み、同盟軍の艦列に突っ込んだ。そして、旗艦を三度撃沈されても戦い続けた。マル・アデッタ会戦や回廊の戦いでも、主君を守るために体を張った。温厚な人柄のせいで、慎重派というイメージがあるが、本当は燃えるような闘魂の持ち主なのだ。

 

 ビッテンフェルト提督が「鉄壁ビッテン」の異名で呼ばれる世界なら、ミュラー提督が「猪突猛進」と言われたっておかしくない。彼らのような熱い男は、堅陣を突き破る鉾にもなるし、主君を守る盾にもなる。

 

 周囲では、幕僚たちが「まぐれだろう」「まぐれで渡り合えるほど、アッテンボロー提督は甘くないぞ」などと語り合っていた。用兵のプロでも、ミュラー大将の真価を計りかねている。

 

 ワイドボーン参謀長とチュン・ウー・チェン副参謀長の二人は、真剣なまなざしをスクリーンに向けた。ミュラー大将の善戦がまぐれでないと見抜いたのだろう。さすがは名参謀だ。

 

 イゼルローン要塞の左側では、締まらない戦いが続いている。第二艦隊は練度が高いのに、動きが良くない。第三胸甲騎兵艦隊は勇敢で戦い慣れているが、連携がまったく取れていない。両軍ともに拙攻を繰り返した結果、拮抗状態になった。

 

 第二艦隊を指揮するアップルトン中将は努力を重ねたが、中級指揮官に問題があった。ケンボイ中将は部下を萎縮させた。モンターニョ中将は部下をうんざりさせた。デュドネイ中将は部下を不安にさせた。

 

「あの三人はあなたが直接指揮した方がいいかもしれません。アップルトン中将では荷が重すぎるようです」

「どういうことだ? 彼は俺よりずっと有能だぞ」

「能力の問題ではありません。名前の問題です」

「そういうことか」

 

 俺は苦い気分になった。アップルトン中将は有能だが、一〇年前に大敗してから武勲を一つもあげていない。兵士にしてみれば、上官も総指揮官も信頼できないのだろう。

 

「唯一の救いは敵が同レベルだってことですね」

 

 ラオ作戦部長が身も蓋もないことを言う。戦記に登場するラオ参謀は大人しいのに、チーム・フィリップスのラオ作戦部長は口が悪い。同一人物とは思えないほどだ。

 

「まあね」

 

 俺は言葉を濁した。敵が弱いことは好ましいが、敵が弱いことに感謝したくなる状況は好ましくない。

 

 第三胸甲騎兵艦隊は二流の部隊だった。司令官のアイヘンドルフ大将は、キルヒアイス元帥の信頼が厚い人物で、第一級の用兵家とされる。しかし、将校の大多数は、勇敢だが協調性に欠ける貴族将校だった。

 

「心配は無用です。第二艦隊の相手がミュラー艦隊だったとしても、作戦は成功します」

 

 ワイドボーン参謀長は力強く言い切る。第二艦隊の弱さを計算に入れた上で、この作戦を立てたのだ。

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は無言で頷いた。彼はワイドボーン参謀長とともに作戦立案に携わった。参謀の頭脳は掛け算である。マルコム・ワイドボーンの鋭さとチュン・ウー・チェンの柔軟さを兼ね備えた作戦には、付け入る隙などない。

 

 同盟軍は優位に立ちつつあった。帝国軍がガイエスハーケンを撃てば、多くの帝国艦が吹き飛ばされる。帝国軍が援軍を出せば、乱戦が激しくなり、動けなくなった帝国艦はスパルタニアンの餌食にされる。何もしなければ、消耗戦に引きずり込まれるだけだ。どう転んでも、優位は動かないだろう。

 

「第一一艦隊より通信が入りました。あと三時間で到着するとのことです」

 

 その報告を聞いた時、同盟軍の勝利が確定した。第一一艦隊のスパルタニアンを投入すれば、空戦戦力の差は圧倒的になる。援軍が接近した段階で、敵が退く可能性は高い。

 

「勝ったな」

 

 俺が確信を込めて呟いた瞬間、オペレーターが叫んだ。

 

「RC四七ブロックに生命反応あり!」

「生存者がいたのか?」

「いえ、敵です!」

「どういうことだ!?」

「外壁の穴から突入してきたと思われます!」

 

 ガイエスハーケンが開けた穴から敵が突入してきた。イゼルローン要塞は建造三五年目にして初めて、強襲上陸を許した。

 

「RC三三ブロック、RC六一ブロック、RD七〇ブロックに、何者かが侵入しました!」

「FR五七ブロック、FR八八ブロック、FX一二ブロック、FY四一ブロックに侵入者がいます!」

 

 破損ブロックに次々と敵が現れた。守備兵は一人もいない。自動迎撃システムは故障している。占拠されるのは時間の問題だと思われた。

 

「何が起きた!? あいつらはどこから来た!?」

「正面を通ってきたのでしょう」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が俺の問いに答える。

 

「トゥールハンマーの射程内を通ってきたというのか? 無理だろう」

「敵は我々の思い込みを利用したのです」

「俺たちが錯覚していても、レーダーは反応するはずだ」

「正面の警戒網は虫食いだらけです。レーダーサイトが壊れていますから」

「そういうことか……」

 

 俺はようやく状況を把握した。要塞砲は陽動ではなく、外壁とレーダーを破壊する手段だった。艦隊は真の目的を隠すためのおとりに過ぎなかった。敵は「トゥールハンマーを避けるはずだ」という思い込みを利用し、無警戒の正面を通ったのだ。

 

「申し訳ありません」

 

 ワイドボーン参謀長が参謀チームを代表する形で謝罪した。

 

「気にするな」

 

 俺は柔らかい声で答えた。要塞同士の戦いなど誰も想定していなかった。既存の防衛計画が通用しないため、手探りで模索せざるを得ない。後手後手に回るのは仕方ないだろう。

 

「シェーンコップ大将を呼んでくれ。善後策について協議……」

「御用でしょうか」

 

 シェーンコップ大将は呼び出す前に現れた。人を食った態度も、こんな時には頼もしく見える。

 

「状況はどうだ?」

「芳しくありませんな。敵が多すぎます」

「多いといっても、せいぜい五万人だろう」

「一五万人から二五万人と推定されます。全員が装甲擲弾兵です」

「…………」

 

 俺は口を閉じ、考え込むような表情を作った。口を開けたら、取り乱した声で叫んでしまうかもしれない。

 

 帝国軍の装甲擲弾兵は精鋭の代名詞である。重装甲服を着用したまま疾走し、銃撃の雨をかいくぐり、敵に肉薄して戦うなど、並の兵士にはできない。体力・精神力・戦闘技術を兼ね備えた兵士だけが、装甲擲弾兵を名乗ることを許される。

 

 要塞軍集団は八〇万人の兵力を持っているが、装甲擲弾兵と戦える兵士は少ない。陸戦要員の半数は、軽装甲服を装備した軽歩兵部隊である。砲塔要員・レーダー要員・後方支援要員・空戦要員などは、白兵戦の訓練を受けていない。重装甲服を装備した重歩兵部隊は、全軍の一割程度に過ぎなかった。

 

「あなたの部下をお貸しいただきたい」

「わかった。第二艦隊陸戦隊と第一八地上特殊作戦群(ショコラティエール)の指揮権を君に委ねる。好きなように使ってくれ」

 

 俺はためらわずに即答した。この件に関しては、誰かに相談する必要を感じなかった。

 

「一兵残らずお貸しいただけるとは。気前がよろしいですな」

「有効に使える人間が持っていた方がいい。それだけのことだ」

「感謝いたします」

 

 シェーンコップ大将は軽く一礼すると、要塞軍集団幕僚を呼び集めた。そして、俺や第一辺境総軍幕僚と打ち合わせを行う。

 

 七時四六分、第二艦隊陸戦隊とショコラティエールが、要塞軍集団の指揮下に移った。第二艦隊陸戦重歩兵部隊五万とショコラティエール五万が加わったことで、上陸部隊に対抗できる戦力が整った。軽歩兵は抜け道を通ってくる特殊部隊に備えた。

 

 要塞軍集団配下には薔薇の騎士(ローゼンリッター)師団、ショコラティエール配下には第八強襲空挺師団がいる。師団に昇格した二つの最強部隊が共演するのだ。質の面でも期待できる。

 

 破損ブロックを占拠した装甲擲弾兵は、要塞中枢部に繋がる一二本の通路に雪崩れ込んだ。彼らを迎え撃つべき無人銃架は沈黙している。ゼッフル粒子の濃度がレッドゾーンに達したのだ。

 

 自動迎撃システムは火器の使用を断念し、冷兵器に切り替えた。超硬度鋼製の矢や球が雨のように降り注ぐ。煙幕が通路を覆いつくす。強力な潤滑剤が床に撒き散らされる。

 

 装甲擲弾兵は盾で矢玉を防ぎ、暗視装置で視界を確保し、中和剤を床に流し、戦斧を冷兵器に叩き込みながら進む。同盟軍が現れた時、彼らの歩みは初めて止まった。人間を止めるのはいつだって人間だ。

 

 両軍は正面からぶつかり合った。戦斧や銃剣を持った兵士が突進する。クロスボウ隊が援護射撃を行う。小部隊と小部隊が衝突し、ひるんだ側が退く。疲れた者が後ろに下がり、元気な者が前に出て再び突進する。激しいが単調な戦いが続いた。

 

「きついな」

 

 俺はスクリーンを眺めながら、額の汗をぬぐった。この汗は冷や汗だった。消耗戦ほど心臓に悪いものはない。司令官であればなおさらだ。

 

 狭い通路では大部隊を展開できないし、背後や側面に回り込むこともできない。このような戦いでは個人の武勇が物を言う。

 

 帝国軍の砂漠の狐(ヴューステン・フクス)連隊長ギュンター・キスリング大佐が、第一四通路を駆け抜けた。相手との間合いを一瞬で詰める。受ける暇など与えない。避ける暇など与えない。反撃する暇など与えない。逃げる暇など与えない。至近距離からの一撃が相手の生命を断ち切る。彼の戦斧は平等主義者だった。前列にいる者にも後列にいる者にも死を与えた。

 

「シュクチ……」

 

 ハラボフ大佐が聞いたことのない単語を口にした。

 

「なんだ、それは」

「古代ジャパン武術の奥義です。間合いを一瞬で詰めることができます」

「足音を立てずに歩くこともできるのか?」

 

 俺は声を潜めて質問した。前の世界で聞いた「皇帝親衛隊のギュンター・キスリングは、足音を立てずに歩ける」という話を思い出したのだ。

 

「できます。シュクチには気配を消す術も含まれますので」

「なるほど、君は本当に物知りだな」

「たまたま知っていただけです。私の流派でも習いますから」

「君も使えるのか?」

「はい。彼と比べれば、子供のお遊戯ですが」

「どれぐらい差があるんだ?」

「彼のシュクチを一〇〇とすれば、私のシュクチは二二・三六です」

「十分凄いじゃないか」

 

 俺が褒めると、ハラボフ大佐は無言で顔を逸らす。ここで会話が途切れた。ハラボフ大佐を起用して以来、何度も繰り返された光景である。

 

 スクリーンに視線を戻し、第一四通路の戦況を見守った。キスリング大佐と砂漠の狐連隊を先鋒とする帝国軍は、プラス三三一二レベルまで到達した。要塞中枢部とは一二キロ程度しか離れていない。

 

 薔薇の騎士(ローゼンリッター)師団を差し向けても、キスリング大佐の勢いを止めることはできなかった。師団規模に膨れ上がり、平凡な者が多く加わったため、薔薇の騎士はかつての精強さを失った。

 

 迎撃を指揮するシェーンコップ大将は、険しい視線をスクリーンに向けた。彼が戦斧を持てば、キスリング大佐を退けることも可能だろう。だが、今の彼は陸戦隊と砲塔群とレーダー網の統括者であり、全体に目を配らなければならない。歯がゆくても手を出すことはできないのだ。

 

 要塞陸戦隊司令官リンツ中将、ローゼンリッター師団長ブルームハルト少将、第三陸戦特殊作戦師団長デア=デッケン中将の三名は、シェーンコップ大将と同じジレンマを抱えている。彼らの武勇はキスリング大佐と互角だが、一人の戦士として戦うことが許される立場ではない。

 

 一人の部下も持たないアマラ・ムルティ少将は、第二一通路で戦士としての本領を発揮した。飛ぶように走る。踊るように戦斧を振るう。舞うように攻撃をかわす。前に立った敵が倒れる。突進してきた敵が倒れる。側面に回り込もうとした敵が倒れる。取り囲もうとした敵が倒れる。彼女と戦った者はことごとく地に伏した。それは殺戮の舞踊であった。

 

 EAA師団の部隊章を付けた兵士たちが、ムルティ少将の後を追いかけた。死の女神と肩を並べて戦える者はいない。彼らも師団化によって弱体化していたのだ。

 

 一〇時四〇分、第一一艦隊が到着した。空戦隊が要塞側面に突入し、第二艦隊と要塞艦隊を援護する。陸戦隊は要塞に入り、シェーンコップ大将の指揮下に入った。艦艇部隊は要塞から二光秒の地点で待機する。

 

 ミュラー艦隊とアイヘンドルフ艦隊は撤退に移った。これ以上戦っても意味がないと判断したのだろう。

 

「こちらも撤退だ!」

 

 俺は第二艦隊と要塞艦隊に撤退を命じた。敵艦隊を追い払うという目的は達成された。追撃を仕掛けたら、ガイエスハーケンの餌食になりかねない。並行追撃を仕掛ければ、ガイエスハーケンをかわせるかもしれないが、四万隻を超える大軍と直面することになる。今が潮時だろう。

 

 要塞内部では装甲擲弾兵が後退を始めた。消耗戦の決め手になるのは予備兵力の量である。援軍を得た同盟軍を突破するのは難しいと判断したようだ。

 

「徹底的に殲滅しろ!」

 

 俺は装甲擲弾兵を追撃した。要塞の中なので、ガイエスハーケンや敵艦隊を恐れる必要はない。叩ける相手を徹底的に叩くのは軍事の基本だ。

 

 シェーンコップ大将が追撃の指揮をとった。油断を誘うために重歩兵部隊を後退させる。特殊部隊は抜け道を通り、背後を遮断する。重歩兵部隊が浮き足立った敵を一気に叩く。要塞の中に敵を閉じ込めて、降伏に追い込むのだ。

 

 敵の撤退速度はおそろしく早い。最短距離をまっすぐに通り、脱出口を目指す。無傷の精鋭部隊が殿軍として追撃を食い止める。特殊部隊が同盟軍による後方攪乱を阻止する。周到に準備していたことは明白だった。

 

 逃げようとする者と捕えようとする者の戦いは、三時間で終わった。捕虜となった兵士の総数は五万人を超える。シェーンコップ大将の迅速さが敵の周到さを上回ったのである。

 

「終わった……」

 

 俺はぼんやりとスクリーンを眺めた。敵を追い返した。味方の損害は敵より少なかった。それでも、「勝った」という言葉は口にできない。

 

 キルヒアイス元帥の用兵は凄まじいの一言に尽きた。同盟軍を二重の陽動で引っ掛け、イゼルローンへの強襲上陸を成功させた。一歩間違えば、イゼルローンは陥落していただろう。ここまで一方的にやられた戦いは初めてだった。

 

 一七時三〇分、マルコ・ネグロポンティ国防委員長は、委員長職を退く意向を表明した。帝国軍の侵攻を予測できなかった責任と、ヤン元帥を前線から離した責任を取ったのである。呼び出した理由については、「私一人の判断」「ヤン提督と二人きりで話したいことがあった」と述べた。

 

 一八時一〇分、ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長は、ネグロポンティ委員長の「独断」に対し、遺憾の意を示した。そして、「危機管理体制の見直しを進めたい」と述べた。

 

 ヤン元帥は「一秒でも早くイゼルローンに戻りたい」との理由で、記者会見を行わなかった。代理人を通して発表したコメントは、ネグロポンティ委員長の主張と完全に同じだった。

 

 査問会の存在が明るみに出ることはなかった。ヤン元帥が沈黙した理由はわからない。前の世界の戦記に記された通りの人柄ならば、面倒くさかったのだろう。

 

 もっとも、ヤン元帥が査問会のことを口にしたとしても、「国防委員長の独断」で終わったはずだ。国防委員長を除く査問官は、国防委員会の諮問機関「国防軍改革推進会議」のメンバーでもある。俺はたまたまイゼルローンに居合わせた人間だった。査問会関係者には、「立場上、委員長の指示に従わざるを得なかった」と言い訳する余地があった。

 

 査問官の一人には、和解推進会議のホワン・ルイ元最高評議会議長が含まれていた。彼のような人物が、主体的に悪事を犯すと思う人はいないだろう。言い訳に説得力が出てくる。トリューニヒト議長はこういう「保険」もかけていた。

 

「たぶん、俺も『保険』だったんだろうな」

 

 俺は自分が引っ張り込まれた理由をようやく理解した。そして、マフィンを二個食べた。こんな時は糖分が無性にほしくなる。

 

 二〇時頃、ネグロポンティ委員長から通信が入った。「宇宙艦隊の動員手続きに入るが、どれだけ援軍が必要か教えてほしい」という内容であった。

 

「ヤン元帥は何個艦隊を要求しておられるのですか?」

「二個艦隊だ」

 

 ネグロポンティ委員長は忌々しそうに言った。二個艦隊という数ではなく、ヤン元帥という人物が忌々しいのであろう。

 

「四個艦隊を出してください」

「即応状態の艦隊を全部出せというのか!?」

 

 ネグロポンティ委員長は目を大きく見開いた。

 

「はい」

「三個艦隊で我慢してくれ。ハイネセンに艦隊がいないと不安なのだ」

「四個艦隊を出すのは政治的な理由です。ぎりぎりの戦力で勝てば、市民はヤン元帥の力で勝ったと考えます。ヤン元帥の名声を高めるだけです。ありったけの戦力を出せば、市民は数の力で勝ったと考えるはずです。そうなれば、動員を決定した人の手柄になります」

「トリューニヒト議長の手柄になるのだな」

「ヤン派に恩を売ることにもなります」

「一石二鳥だな」

「いえ、一石三鳥です。国防委員会の手柄にもなりますから」

 

 俺は“国防委員会”を強調した。

 

「私へのはなむけかね」

 

 ネグロポンティ委員長が笑った。いつもの気取った笑顔ではなく、無邪気な笑顔であった。

 

「あなたにはお世話になりましたので」

 

 俺は端末の前でお辞儀をし、ネグロポンティ委員長は敬礼で応じた。こうして、最後の業務連絡は終わった。

 

 二番目に大きな問題は解決できた。トリューニヒト議長は、最良のシナリオを実現するために力を尽くすだろう。ガイエスブルクへの総攻撃を命じられる可能性はなくなった。右派マスコミの強硬論もかなり弱まるはずだ。

 

 三番目に大きな問題は、イゼルローン総軍副司令官ヨハネス・オイラー大将である。客観的に見れば、彼ほどイゼルローン防衛指揮官にふさわしい人物はいない。ヤン元帥を除けば、イゼルローン総軍で最も位の高い宇宙軍軍人だ。かつてはミッターマイヤー提督を上回る勇名を誇っていた。第一線を退いた今でも、世間では一流扱いされる。

 

 地位と実績を兼ね備えたオイラー大将であったが、兵士に信用されていなかった。指揮官としては使い物にならないのに、指揮官にふさわしく見えてしまう。最も厄介なタイプである。オイラー待望論が強まれば、面倒なことになるだろう。

 

 その他にも心配事は数えきれない。俺の部下とイゼルローン総軍の不和は相変わらずだ。本国では強襲上陸を許した俺を批判する声が出ている。右翼はガイエスブルクへの突撃を主張した。左翼は危険人物、テロリスト、帝国人工作員の動向も気になる。

 

「前も中も後ろも問題だらけだ」

 

 中央司令室に戻った俺はガイエスブルク要塞を眺めた。一番大きな問題とはこの人工天体とその背後にいる艦隊であった。

 

 キルヒアイス元帥の遠征軍は、二個主力艦隊及び五個遊撃艦隊を基幹としている。ミュラー艦隊は勢いがすさまじい。レンネンカンプ艦隊とルッツ艦隊は精強だと言われる。クロッペン艦隊、アイヘンドルフ艦隊、プレドウ艦隊、マンスフェルド艦隊は評判の良くない艦隊だが、キルヒアイス元帥が采配を振るえば、実力以上の力を発揮するだろう。勝てる気がしない。

 

「四週間耐えれば、我々の勝ちです」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は、「二時間たったらパンが焼きあがります」と語るパン職人のような口調で言った。彼が頼りにしているのは、援軍ではなくて時間であった。貧乏な帝国には、五万隻を一か月以上前線に貼り付ける余裕などない。

 

「頑張るか」

 

 俺は潰れたクロワッサンをもらって食べた。ちょうどいい潰れ具合だ。潰れたパンを食べた戦いでは負けなかったことを思い出す。少し希望が湧いてきた。



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第107話:戦争は政治の一部にすぎない 802年10月12日~10月24日 イゼルローン要塞

 帝国軍は皇帝の私兵なので、勅書を使わなければ動員できない。緊急性の高い作戦においては、密勅を使って軍隊を動員し、交戦開始と同時に公表するという手法が用いられる。

 

 第九次イゼルローン攻防戦が始まると、帝国政府は反乱軍討伐の密勅を公開した。その内容が同盟に伝わったのは、開戦翌日のことであった。

 

「反乱軍は六個艦隊をティアマトに集結させた。演習と称しているが、ニヴルヘイムに侵入せんとする意図は隠しようもない。

 

 ティアマトの主帥ヤン・ウェンリー、副帥ヨハネス・オイラー、副帥ウィレム・ホーランド、副帥スカーレット・ジャスパー、副帥ワルター・フォン・シェーンコップの五名は、反乱軍の中でも特に凶悪な者である。放置すれば大きな災いとなろう。

 

 宇宙軍元帥ジークフリード・フォン・キルヒアイス男爵を征討軍総司令官、宇宙軍上級大将ヘルムート・フォン・レンネンカンプ帝国騎士を副司令官に任命する。ティアマトの反乱軍を討ち、辺境の安寧を保て」

 

 勅書を字面通りに受け取るならば、出兵の目的は辺境防衛ということになる。帝国は同盟軍のティアマト集結に危機感を抱き、大軍を動かした。

 

 キルヒアイス元帥は挨拶の中で、「民と国土を守る義務がある」「これ以上前進させるわけにはいかない」と述べた。勅書の内容とほぼ合致している。単なる挨拶だと思われていたが、実際は討伐理由の説明だった。

 

「余計なことをしやがって!」

 

 将兵は国防委員会に怒りをぶつけた。第一辺境総軍を国境に駐留させなければ、帝国軍は動かなかっただろう。ヤン元帥を召還しなければ、イゼルローンに上陸されることはなかったはずだ。

 

「最悪だ……」

 

 俺はどん底まで落ち込んだ。トリューニヒト議長の陰謀に協力した結果、無用な戦いを引き起こし、多くの兵を死なせてしまった。悔やんでも悔やみきれない。

 

 だが、落ち込む余裕は与えられなかった。一〇月一二日の朝六時、「敵艦隊が出撃した」との報告が飛び込んできたのである。

 

 帝国軍はガイエスブルク要塞の一光秒(三〇万キロメートル)前方に布陣し、数十個の梯隊を並べた。細長い梯隊は柔軟性と機動性に富み、戦力を一点に集中しやすいため、狭い場所での戦いに適している。側面攻撃に弱いという梯隊の欠点は、多数の梯隊を並べ、側面を危険宙域と密着させることでカバーした。要塞砲の直線的な射線をかわしやすいというメリットもある。回廊内での戦いに特化した陣形と言えよう。

 

「中央の第一驃騎兵艦隊は一万隻前後、右翼の白色槍騎兵艦隊は六〇〇〇隻前後、左翼の第二胸甲騎兵艦隊は六〇〇〇隻前後、右翼後方の第二五五独立分艦隊は二〇〇〇隻前後と推定されます」

 

 首席副官ユリエ・ハラボフ大佐は、いつものように淡々と報告した。

 

「一個主力艦隊と二個遊撃艦隊か」

 

 俺はスクリーンを見ながら呟いた。帝国宇宙軍には二種類の艦隊が併置されている。主力艦隊は艦艇一万隻を保有しており、艦隊と呼びうる規模をぎりぎり保っている。遊撃艦隊は六〇〇〇隻に過ぎず、艦隊というよりは小艦隊だ。

 

 第一驃騎兵艦隊司令官クロッペン上級大将はキルヒアイス派、白色槍騎兵艦隊司令官マンスフェルド大将はメルカッツ派、第二胸甲騎兵艦隊司令官ルッツ大将はラインハルト派である。第二五六独立分艦隊司令官トゥルナイゼン中将も、ラインハルト派に属していたはずだ。三派のバランスを取ったのだろう。キルヒアイス元帥らしい布陣といえる。

 

「キルヒアイス元帥の旗艦、バルバロッサが確認されました」

 

 メインスクリーンが切り替わり、真紅の戦艦が映し出された。赤毛の驍将ジークフリード・フォン・キルヒアイスの代名詞とも言うべき艦である。

 

「最悪だ……」

 

 俺は絶望的な気分になった。心臓が激しくダンスを踊った。腹が締め付けられるように痛む。滝のような冷や汗が背筋を流れ落ちた。手や膝が小刻みに震えた。

 

 ジークフリード・フォン・キルヒアイス元帥は、ラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥に次ぐ実力者である。大元帥府にいた頃は別働隊を指揮し、同盟軍の別働隊を破ったり、地方反乱を平定したりした。同盟軍主力と戦った経験が少ないため、格下殺しと嘲る者もいるが、帝国軍で一〇本の指に入る名将との評価もある。

 

 この世界では微妙に評価の低いキルヒアイス元帥だが、前の世界では銀河最強の一角であった。提督としての活躍期間は一年程度にすぎない。だが、その短い期間でカストロプ公爵の反乱を平定し、同盟軍第七艦隊を壊滅させ、アムリッツァ会戦で同盟軍にとどめを刺し、リップシュタット戦役で帝国辺境を平定し、キフォイザー会戦でリッテンハイム公爵の大軍を壊滅に追い込み、ガイエスブルク要塞攻防戦で貴族連合軍を潰走させた。彼を賞賛しない者は一人もおらず、敵将ヤン・ウェンリーから「能力的にもラインハルトの分身」と評された。

 

 イゼルローンへの強襲上陸を成功させたことを考えると、前の世界の評価が正しいキルヒアイス評なのだろう。俺ごときが太刀打ちできる相手ではない。

 

 要塞軍集団司令官シェーンコップ大将が要塞防衛、第二陸戦隊司令官コクラン中将が治安維持をそれぞれ統括した。強襲上陸に備えたシフトである。シェーンコップ大将が装甲擲弾兵と戦い、コクラン中将が特殊部隊や潜入工作員と戦う。妹が率いるショコラティエールは、半数をコクラン中将の配下に派遣し、残り半数を司令部や重要施設の警備に回した。

 

 イゼルローン要塞主砲「トゥールハンマー」が、巨大な砲口を敵艦隊に向けた。雷神の鎚が振り下ろされれば、敵は艦艇数千隻を一瞬で失い、戦闘を継続できなくなるだろう。だが、その最大射程は六光秒(一八〇万キロメートル)で、一四光秒(四二〇万キロメートル)離れた敵には届かない。現時点ではこけおどしでしかなかった。

 

 昨日、イゼルローン要塞とガイエスブルク要塞は、主砲の撃ち合いを演じた。四光秒(一二〇万キロメートル)しか離れていなかったため、双方が相手を射程内に収めることができた。しかし、強襲上陸作戦が終わった時、同盟軍は敵が要塞砲の射程から外れたことに気づいた。上陸部隊に気を取られている間に、ガイエスブルク要塞は一一光秒(三三〇万キロメートル)も後退していた。

 

 シェーンコップ大将が予想した通り、撃ち合いの中でキルヒアイス元帥は共倒れの危険に気づいた。そして、予想しなかった方法で解決した。射程の外に退避し、要塞砲の撃ち合いそのものをやめてしまった。これほど柔軟な人物が敵軍を指揮しているのだ。

 

「いっそ、ルイス・ハンマーを使ってくれないか」

 

 俺はガイエスブルク要塞を見た。あの要塞に通常航行エンジンを装着し、こちらに向かって突撃してほしい。そうしたら、トゥールハンマーがエンジンを撃ち抜き、バランスを崩したガイエスブルク要塞はスピンし、味方を巻き込みながら崩壊するだろう。

 

 もちろん、敵が要塞をぶつけるルイス・ハンマー戦法を使うとは思わない。前の世界でこの作戦が高く評価されたのは、対抗手段が確立されていなかったからだ。この世界では、要塞を分解してワープさせ、別の要塞にぶつけるという戦術が多用された。最初のうちは大きな効果をあげたが、帝国軍が対抗手段を見つけたため、あっという間に陳腐化した。発案者のルイス元提督は、完全無欠の戦法だと思っていたらしいが、大きな間違いだった。

 

 現実逃避をやめた俺は、周囲をちらちらと見回した。励ましてくれる人はいないだろうか。優しい人がいい。でも、優しいだけの人に励まされても、不安が深まるだけだ。優しくてなおかつ頼りがいのある人に、大丈夫だと言ってほしい。

 

「ご用ですか?」

 

 こんな時、頼りになるのは、やはりチュン・ウー・チェン副参謀長だった。のんびりした声と表情が、心を落ち着かせてくれる。潰れたパンが心を豊かにしてくれる。

 

「君の話を聞きたくてね。勝算はあるか?」

「持久戦に持ち込めば、我が軍が有利です。我が軍も敵も要塞から補給を受けています。イゼルローン要塞の体積は一一万三〇九七・三平方キロメートル。一方、ガイエスブルク要塞の体積は四万七七一二・九平方キロメートルです。体積が広いほど備蓄できる物資の量も増えます。同盟軍は敵の二倍以上の備蓄物資を抱えているのです」

「後方から輸送される物資を計算に入れたらどうなる? 敵は遠征軍だ。輸送体制を整えていると見るべきじゃないか?」

「我が軍の優位は変わりません。敵は五万隻を超える大軍。消費量や輸送コストを考慮すると、要塞への依存度が高くなるでしょう」

「でもなあ……」

 

 俺は再びスクリーンに目を向けた。真紅のバルバロッサを見ると、不安が頭をもたげてくる。

 

「相手はあのキルヒアイスだぞ。俺ごときが太刀打ちできる相手じゃない」

「エリヤ・フィリップスとジークフリード・フォン・キルヒアイスが戦えば、エリヤ・フィリップスが負けます」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はきっぱりと断言した。

 

「その通りだ」

「しかし、同盟軍と帝国軍が戦うのであれば、話は違ってきます」

「同じじゃないのか?」

 

 俺は首を傾げた。同盟軍の司令官は俺、帝国軍の司令官はキルヒアイス元帥だ。エリヤ・フィリップスとジークフリード・フォン・キルヒアイスの戦いではないか。

 

「昨年のことを思い出してください。エリヤ・フィリップスは、ウラディミール・ボロディンより優れていましたか?」

「いや、ボロディン提督の方が優れていた。俺よりずっとリーダーシップがあった。俺よりずっと頭が良かった。俺よりずっと勇敢だった。俺よりずっと風格があった。人として勝てる要素は、一つもなかった」

「私もそう思います。しかし、あなたが率いる市民軍は、ボロディン提督が率いる再建会議に勝ちました」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はにっこりと微笑み、潰れたフルーツ入りロールパンを俺に手渡した。

 

「よくわかった。キルヒアイス元帥ではなく、帝国軍と戦う。自分が戦うのではなく、同盟軍を戦わせる。そういう心積もりでやってみよう」

 

 俺は微笑み返し、ロールパンを口に入れた。ちょうどいい潰れ具合だ。戦場で食べるパンは潰れていないと物足りない。

 

 同盟軍はイゼルローン要塞から二光秒(六〇万キロメートル)の宙点に布陣した。第四艦隊一万一一〇〇隻が左翼、第一一艦隊一万〇三〇〇隻が右翼を担う。第五二独立分艦隊二一〇〇隻と第五七独立分艦隊二二〇〇隻は、第一一艦隊の後方に控える。艦艇二万五七〇〇隻、兵員二六九万八五〇〇人という大軍である。

 

 俺は要塞に留まり、第一辺境総軍副司令官パエッタ大将に艦隊指揮を委ねた。総司令官は方針を定め、諸活動を調整し、将兵数百万を統制し、支援体制を整えなければならない。戦闘に専念できる立場ではないのだ。

 

 帝国軍が動き出した。すべての梯隊が一斉に前進する。ガイエスハーケンの射程限界線が近づいても、速度を落とす気配はない。要塞砲に頼るつもりはないようだ。

 

 同盟軍は前進してくる敵に連続斉射を浴びせた。戦艦や巡航艦が装備する長距離ビーム砲の射程距離は、要塞砲の射程距離より長い。ビームの雨が敵を殴りつける。敵の砲撃に対しては、中和磁場を最大出力にして対処した。

 

 トゥールハンマーの射程限界線「D線(デッドライン)」が近づくと、帝国軍は前進を止め、上下左右に広がった。D線に貼りつくような陣形である。

 

「予想通りです」

 

 ワイドボーン参謀長は得意気に鼻を膨らませた。D線が主戦場になると予想したのは彼だった。読みは正確だが、それをいちいち自慢するところが鬱陶しい。

 

 帝国軍はD線の上で往復運動を始めた。複数の梯隊がD線を越え、別々の方向からイゼルローンに接近し、トゥールハンマーが狙いを付ける前に後退する。一つの梯隊が退いたら、別の梯隊がD線を越え、蝿のように飛び回る。撃てるものなら撃ってみろと言わんばかりだ。

 

「懐かしいな。D線上のワルツと同じ動きだ」

 

 俺は過去のイゼルローン攻防戦で用いられた戦法の名前を口にした。八年前、ロボス元帥率いる同盟軍は、敵を欺くためにD線上のワルツを用いた。しかし、本来は要塞駐留艦隊をD線の内側から引っ張り出し、袋叩きにするための戦法である。

 

「キルヒアイス元帥は、我が軍の戦法をかなり研究したようですね」

 

 ワイドボーン参謀長は感心したように言った。D線上のワルツや梯隊を連ねる陣形は、もともと同盟軍が編み出した戦法だった。

 

「そうだね。さすがは名将だ」

「しかし、我々も彼を研究しています」

 

 その言葉は静かな自信に満ちていた。彼は残念な人だが、無意味な大言壮語はしないし、慢心もしない。

 

 同盟軍は踊り狂う敵を相手にせず、後方から砲撃を続けた。火力の波が休むことなくD線に打ち寄せる。ビームの大半は中和磁場に弾かれたが、拡散したエネルギーがうねりを起こし、敵艦を揺さぶった。

 

 戦闘開始から一〇時間後、踊り疲れた帝国軍はガイエスブルク要塞に引き上げた。同盟軍もイゼルローン要塞に撤収し、戦いは中断された。

 

 D線上の攻防は一週間にわたって続いた。帝国軍がワルツを踊り、同盟軍が後方から砲撃を続ける。最大出力のビームと最大出力の中和磁場がぶつかり合う。対艦ミサイルの雨が迎撃ミサイルの傘めがけて降り注ぐ。要塞からエネルギーと物資が絶え間なく補給される。

 

 同盟軍は専守防衛に徹した。敵が隙を見せても戦わない。敵が後退しても追撃しない。敵の主力が帝国側出口近辺まで退き、少数の駐留艦隊だけを残しても動かない。無人艦の群が突入しても、砲撃だけで対処した。高速部隊が一撃離脱攻撃を仕掛けても、ビームとミサイルを浴びせるだけに留めた。

 

 キルヒアイス元帥は手詰まりに陥った。同盟軍がD線に接近すれば、艦隊決戦に持ち込める。並行追撃を仕掛けるという手もある。だが、後方に引きこもったままでは、手の出しようがない。

 

「こういう攻略法があったんだな」

 

 俺は素直に感心した。前の世界の戦記には、キルヒアイスの欠点は書かれていなかった。この世界でもキルヒアイスは一度も負けていない。だから、攻略法など存在しないものと思っていた。

 

 ワイドボーン参謀長の作戦は、敵との接触を徹底的に避けるというものだった。敵が側面や背面に回り込もうとすれば、危険宙域に阻まれる。敵が正面攻撃を仕掛ければ、トゥールハンマーの射程に入ってしまう。キルヒアイス元帥に残された選択は、奇襲、並行追撃、誘い出して撃滅の三つに絞られる。接触しなければ、奇襲部隊に突っ切られることはないし、並行追撃を食らうことはないし、撃滅されることもない。どんな名将であっても、物理法則には逆らえないのだ。

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長の進言により、物資を惜しみなく注ぎ込んだ。こちらがビームを最大出力にしたら、相手は中和磁場を最大出力にせざるを得ない。こちらが中和磁場を最大出力にしたら、相手はビームを最大出力にせざるを得ない。火力を引き上げることで、敵の継戦能力に打撃を与える。

 

 客観的に見れば、きわめて退屈な戦いである。同盟軍がひたすら砲撃し、近寄ってくる帝国軍を追い払う。同じことを延々と続けているだけだ。被る損害も与える損害も少なかった。指揮官が独創性を発揮する余地はないし、武勇伝が生まれる余地もない。

 

「これでいいんだ」

 

 俺は確信を込めて呟いた。真っ向勝負を挑むつもりはない。現在のペースで物資を消費し続ければ、帝国軍を撤退に追い込める。

 

 現時点においては、キルヒアイス元帥よりも味方の方が厄介だった。将兵が消極的な姿勢に不満を抱いているのだ。

 

「損害を出したくないんだ」

 

 俺は将兵を必死でなだめた。積極論者の多くは戦意旺盛であり、実戦で役に立つ人間だ。彼らのやる気を尊重しつつ、消極策への同意を求める必要があった。皮肉を言われても辛抱強く語りかけた。おかげでマフィンを食べる量が倍に増えた。

 

 本国でも消極策への批判が高まっている。トリューニヒト政権の息がかかったマスコミは、俺の戦いぶりを擁護した。だが、それ以外のマスコミは、第九次イゼルローン攻防戦を「世紀の凡戦」と酷評した。ネットではトリューニヒト支持者ですら批判的だった。

 

 外部から見れば、イゼルローンの同盟軍は銀河最強の精鋭だろう。ヤン・ウェンリー一二星将の名声は、過去の七三〇年マフィア、前の世界の獅子泉の七元帥に匹敵する。フィリップス一六旗将のうち三人が戦列に加わり、勇名高いウィレム・ホーランド、ダスティ・アッテンボローらも一軍を率いて戦う。勇者の中の勇者が綺羅星のような名将を指揮する。そして、この精鋭が装備するのは、トリグラフ級大型戦艦、レダ級巡航艦、次世代宇宙戦闘機チプホといった最新兵器だ。

 

 実のところ、同盟軍は見た目ほど強くないのだが、一般市民にはそんなことはわからない。戦えば勝つのに戦わないのはおかしいと思っている。

 

「フィリップス提督は消極策に反対しているが、愛国者なので政府に逆らえないのだ」

 

 主戦派でありながら反トリューニヒトの立場をとる人々は、消極策を批判すると同時に俺を擁護した。俺が記者会見を開き、「消極策は自分の判断です」と述べても、彼らは「政府に言わされた言葉だ」と言い張った。勇者の中の勇者が消極策をとるなどありえない、と思い込んでいるのだろう。

 

「勇者の中の勇者が臆病者のような戦い方を強いられているのです。フィリップス提督の苦衷を察すると、胸が張り裂けそうになります。一市民として、対帝国の聖戦を支持する者として、そしてフィリップス提督の戦友として、政府に要求します。今すぐ消極策を破棄し、フィリップス提督に新しい命令を与えてください。『ガイエスブルク要塞を総攻撃せよ!』と」

 

 コーネリア・ウィンザー議員は、「不本意な作戦を押し付けられたフィリップス提督の苦衷」を勝手に忖度し、積極策への転換を訴えた。彼女の熱弁は支持者のみならず、反トリューニヒト派の主戦論者全体から喝采を浴びた。トリューニヒト派の一部も遠慮がちに賛同した。

 

 消極策を擁護する意見もあった。俺がやることなら何でも賛成する者は、消極策にも無条件で賛成した。俺に否定的だが、消極策には理解を示す者もいる。

 

「フィリップスはよくわかっている。専守防衛は正しい。大艦隊など必要ない。自らの行動によって、フィリップスは大艦隊が必要という持論の欺瞞を明らかにした」

 

 反戦派は消極策を肯定したが、俺を皮肉ることも忘れない。第九次イゼルローン攻防戦は、彼らに専守防衛論や軍縮論の正しさを主張する機会を与えた。

 

「機動要塞が戦場に現れたのは九〇〇年ぶりのことだ。慎重を期するのは当然。ベストではないがベターな判断といえる」

 

 平和将官会議のシドニー・シトレ退役元帥は、俺と激しく敵対する人物だが、消極策に高い評価を与えた。彼が皮肉抜きで俺を評価したことに、反フィリップス派とフィリップス派の双方が戸惑いを覚えた。

 

 これといった思想を持たない大多数の人々は、同盟軍の戦いぶりに不満を抱いた。彼らにとって戦争はエンターテイメントである。戦争の意義なんてものはどうでもいい。最新兵器が敵の旧式兵器を圧倒し、名将が無能な敵将を叩きのめし、勇者が惰弱な敵兵を蹴散らす場面を見たいのだ。

 

 消極策をめぐる議論に対し、トリューニヒト議長と国防委員会は沈黙を保った。説明を求められると、「フィリップス提督に一任している」と答えた。

 

 責任者は批判を一手に引き受ける義務を負っている。最高司令官たる最高評議会議長は批判者と相対し、司令官は敵と相対するというのが本来の役割分担だ。しかし、俺は敵と批判者を同時に相手取ることになった。ヤン元帥のように、「わかる奴だけわかればいい」と突き放すこともできない。おかげでマフィンを食べる量が三倍に増えた。

 

 トリューニヒト議長や国防委員会は責任を押し付けたにも関わらず、頻繁に介入してきた。表向きには「指導」や「勧告」という形式を取っており、従う義務はない。許されるものなら無視したかった。二つの総軍を指揮するだけでも精一杯なのだ。だが、俺は予算面や人事面で優遇してもらった。世話になった相手の言葉は無視できない。

 

「なんだこりゃ?」

 

 俺は『コルネリアス・ルッツが亡命した場合の対応』という文書を受け取った。「ルッツが亡命したら、刑事犯罪者と同等の扱いをするように」「提督や閣下などの敬称で呼びかけるな」「軍服の着用を認めてはならない」などと書かれている。

 

 平民でありながら高官を輩出する「フォンが付かない貴族」の中でも、ルッツ家は五本の指に入る名門であった。だが、コルネリアスの祖父であるテオドール・ルッツ博士は、大逆罪に問われて処刑された。父親のハインリヒは内務省消防総局局長の職を解かれ、無期限謹慎処分を受けた。叔父たちも失脚した。新たにルッツ家の主導権を握ったフリードリヒは、テオドールやその子孫と仲が悪い。こうしたことから、コルネリアスはいつ亡命してもおかしくないと思われていた。

 

 トリューニヒト政権は、コルネリアス・ルッツを「ルドルフ崇拝者」として亡命拒否リストに登録した。祖父のテオドールは狂信的なルドルフ崇拝者として知られる。そのため、孫もルドルフ崇拝者だとみなされた。

 

 コルネリアス・ルッツが亡命するとか、ルドルフ崇拝者だとか言われても、俺には理解できなかった。戦記と事実の違いは知っている。それでも、前の世界の彼が忠臣であり、主君を守るために死んだことは、疑いようもない事実だ。彼がルドルフ崇拝者ならば、ラインハルトに登用されることはなかっただろう。

 

 前の世界の記憶を根拠とする擁護は不可能なので、「ルッツは戦争犯罪者ではありません。軍人として処遇するべきです」と書いて返信した。ルドルフ崇拝者であったとしても、いきなり犯罪者扱いするのは道義に反する。

 

 最高評議会や国防委員会の要求のほとんどは、馬鹿馬鹿しいものだった。自己満足、人気取り、点数稼ぎ以上の意味があるとは思えない。それでも、俺はすべてに目を通し、問題ないと判断したら受諾し、問題のあるものについては再考を求めた。おかげでマフィンを食べる量が四倍に……。

 

「これ以上はいけません」

 

 ハラホフ大佐が俺の右手首を掴んだ。マフィンの量が限度を超えそうになると、彼女が止めてくれる。マフィンを食べる量は三・九倍に留まった。

 

 国防族議員、トリューニヒト派の軍高官、軍需企業家らも干渉してくる。彼らは大切な協力者なので、丁寧に対応せざるを得ない。

 

 外部からの干渉を許していることに対し、反発する者が現れた。第四艦隊司令官ジャスパー大将は、真っ向から俺を批判した。要塞艦隊司令官アッテンボロー大将、要塞空戦隊司令官代理ポプラン少将らは、痛烈な皮肉を浴びせてくる。彼らは消極策に対しても批判的だった。

 

 幹部会議はフィリップス派と反フィリップス派の戦場と化した。ジャスパー大将やアッテンボロー大将がフィリップス批判を展開し、ワイドボーン参謀長らが猛然と反論する。オイラー大将の追従が状況を悪化させた。チュン・ウー・チェン副参謀長やパトリチェフ大将がなだめたが、焼け石に水だった。

 

 一〇月二四日、いつものように不毛な会議を終えた俺に対し、ラオ作戦部長が一つの提案を行った。

 

「ヤン元帥にとりなしを依頼してはいかがでしょうか。信頼する上官の言葉なら、ジャスパー提督らも受け入れるでしょう」

「気が進まないなあ」

 

 俺は煮え切らない返事をした。ラオ作戦部長には知り得ないことだが、ヤン元帥追い落としの陰謀に加担した負い目がある。それを抜きにしても、ヤン元帥がトリューニヒト派に手を貸すとは思えない。

 

 部下たちに促されて通信を入れたが、ヤン元帥はスクリーンの前に現れなかった。代わりに現れた首席副官クレメンテ大佐によると、体調不良で寝込んでいるのだそうだ。

 

「わかりました。お大事になさってください」

 

 俺は気遣いの言葉を述べ、通信を切った。残念だという気持ちはない。むしろ、ヤン元帥と顔を合わせずに済んだことに安堵した。体調不良が本当かどうかはわからないが、嘘だとしても構わない。彼にはそうするだけの理由がある。

 

 休憩時間になったので、オイラー大将に指揮権を委ねた。パエッタ大将は艦隊を率いているし、イム大将はティアマトで後方を固めている。留守を任せられる副司令官は彼しかいないのだ。

 

「二時間ほど昼寝する。何かあったら起こしてくれ」

 

 俺は部下にそう言い残し、宿舎に入った。タンクベッドを一時間使えば、八時間分の睡眠効果が得られるが、精神的疲労は回復しない。指揮官の精神が疲弊したら、冷静な判断力を失い、全軍を危機に陥れてしまう。そのため、一定以上の階級を持つ指揮官は、可能な限りベッドで睡眠をとることになっていた。

 

「今日もアンドリューにメールするか」

 

 私用の携帯端末を開き、友人のアンドリュー・フォークに短いメールを打った。友人はたくさんいるが、総軍級部隊の中枢を経験した人は少ない。ロボス元帥の腹心だった彼は、俺の苦労をわかってくれる。

 

「ロボス元帥の苦労がようやく理解できた」

 

 この文章には万感の思いが込もっていた。総司令官になって初めてわかった。ロボス元帥は無能だったわけではなく、無能にならざるを得なかったのだ。

 

 古代の軍事思想家クラウゼヴィッツは、「戦争は異なる手段をもってする政治の継続である」と述べた。要するに戦争は政治の一手段にすぎないということだ。帝国と同盟の間に外交関係が存在しないので、戦争が国際政治の手段として用いられることはない。つまり、現代の戦争は、国内政治の一手段である。

 

 民主国家においては、政治が軍事に優先する。軍事的必要性と政治的必要性が対立した場合、軍人は政治的必要性を選択しなければならない。政府の要求を満たすために、軍事的に無意味な作戦をあえて行うこともあるのだ。

 

 皮肉な言い方をすると、ロボス元帥は民主的な軍人だった。軍事的合理性を追求するためではなく、政府の要求を満たすために戦った。堅実に戦って損害を減らすより、派手に戦って市民を喜ばせることを選んだ。国防族の政治家と協調し、予算面や人事面での優遇を引き出した。軍部内のパワーバランスを重視し、シトレ派の幕僚も重用した。あらゆる方面に気を遣った結果、内部では対立が生じ、外部からは横槍が入り、用兵の硬直化を招いた。

 

 アンドリューの話を聞いていると、ロボス元帥の苦労が他人事とは思えない。俺もまったく同じ苦労に直面しているからだ。

 

「才能とはまた別の要素があるのかもな」

 

 俺は目をつぶり、癖のある黒髪と童顔を持つ青年を思い浮かべた。彼は軍事的合理性を徹底的に追求し、損害を減らすことを何よりも優先し、政治家と一切付き合おうとせず、幕僚チームを波長の合う人間だけで固めた。

 

 ヤン・ウェンリー元帥の無神経さは、用兵家としては長所なのかもしれない。勝つことだけに集中できるからだ。

 

「ああ、それはあの人も同じか」

 

 俺の脳裏に浮かんだのは、豪奢な金髪と美しい顔を持つ若者であった。彼は軍事的合理性を徹底的に追求し、損害を減らすことを何よりも優先し、宮廷人と一切付き合おうとせず、大元帥府を波長の合う人間だけで固めた。

 

 帝国軍のラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥は、ヤン元帥と正反対の人物のように思える。だが、司令官としてのスタイルは驚くほど似ていた。

 

 結局のところ、性格も才能の一部なのだろう。俺の目から見れば、ロボス元帥はラインハルトにひけをとらない用兵家だ。しかし、ロボス元帥がラインハルトに勝つところが想像できない。力量が等しいならば、性格の差が決め手になる。

 

 ジークフリード・フォン・キルヒアイス元帥はどうだろうか? ラインハルト派に所属していた頃は、軍事的合理性を追求し、損害を減らすことを優先した。だが、現在は政治的なバランスに配慮し、戦果をあげることを優先している。元帥府幹部の過半数は、旧リヒテンラーデ派出身者であるが、旧ブラウンシュヴァイク派や旧リッテンハイム派の生き残りも採用された。

 

 彼の配下の主要司令官は、上級大将二名、大将五名、中将三名である。クロッペン上級大将、プレドウ大将、アイヘンドルフ大将、エルラッハ中将らは、キルヒアイス派に属する。レンネンカンプ上級大将、マンスフェルド大将、ヴァイゼ中将らは、メルカッツ派に属する。ルッツ大将、ミュラー大将、トゥルナイゼン中将らは、ラインハルト派に属する。戦う時は各派閥を均等に出撃させた。見事なまでのバランス人事といえよう。

 

 正直なところ、今のキルヒアイス元帥の行動は、旧体制の元帥と大して変わらなかった。常識人ゆえの限界なのだろうか。頂点に立ち、広い世界が見えるようになっても、空気を無視できる人間は多くない。この世界の彼は一流だが、ラインハルト並みの実力者だとは思えない。俺が戦ったら間違いなく負けるだろう。しかし、同盟軍のトップクラスなら互角に戦えそうな気がする。

 

「いや、敵を甘く見たらだめだ」

 

 俺は髪をくしゃくしゃとかき回し、甘い考えを振り切った。キルヒアイス元帥はイゼルローンへの強襲上陸を成功させた。その一点だけでも旧体制の平凡な元帥とは違う。

 

 二時間後、目覚めた俺は仮眠室から出た。隣の仮眠室から出てきたハラボフ大佐、護衛兵一〇名と一緒に歩き出す。

 

 司令室に入り、オイラー大将から報告を受けた。無事に任務を果たしてくれたようだ。上の顔色を伺うタイプなので、余計なことはしない。そこそこの処理能力や危機管理能力を備えている。前線を任せるには心もとないが、留守番役としてはそれなりに使えた。

 

 仕事を再開してから一時間後、国防委員会から通信が入った。重要な話なので俺と直接話し合いたいという。

 

 別室に移動し、通信端末のスイッチを入れた。スクリーンに恰幅の良い中年男性が現れる。ネグロポンティ国防委員長であった。

 

「言わんでも、用事はわかっているだろう。ガイエスブルクを攻撃してくれ」

「もう少し時間をください。帝国軍の動きに乱れが生じています。この調子で一〇日が過ぎたら、敵は自壊するでしょう。戦わずして勝利が転がり込んでくるのです」

「君は待てるかもしれんが、我々は待てんのだ。主戦派は攻撃を催促してくる。反戦派は軍縮しろと騒ぐ。無党派層は不満たらたらだ。君が何を言おうとも、市民は政府が消極策をとったと勘違いする。政権支持率は下がる一方だ」

「おっしゃることはわかります。しかし、我が軍は戦える水準に達していません。大損害を被ったら、政権支持率にも悪影響を及ぼします」

「とにかく、三日以内にガイエスブルク要塞を攻撃するんだ。我々はさんざん君に投資してきた。予算も人もたっぷり与えた。もらったものに見合う仕事をしてくれ」

「わかりました。では、期限を一週間に延ばしていただけませんか? ガイエスブルクを攻撃するなら、相応の準備が必要です」

 

 俺は引き伸ばしにかかった。先送りを続け、情勢の変化を待つのだ。

 

「待てないと言っただろうが」

「一週間が無理なら、五日に延ばしてください」

「本当は明日にでも攻撃してほしいのだがね」

 

 ネグロポンティ委員長は困ったように顔をしかめる。

 

「急がなければならない事情があるのですか?」

「明後日の週刊サジェスション・ボックスに、エルクスレーベン君のネタが出る」

「えっ!?」

 

 俺は驚きの声をあげた。エルクスレーベン大将が指揮する第一艦隊は、援軍としてイゼルローンに向かっている。司令官のスキャンダルが露見したら、援軍が遅れるかもしれない。

 

「差し止めてください! サジェスション・ボックスは、トリューニヒト派の息がかかった雑誌です。圧力が効くはずです」

「漏らしたのは我が派の人間だ。サジェスション・ボックスとのルートも押さえられている。どうしようもない」

「内紛ですか……」

「我が派は大きくなりすぎた。仲間同士の利害が衝突することは珍しくない。エルクスレーベン君を排除したい連中が、エルクスレーベン君を擁護する連中に勝った。それだけのことだよ」

 

 ネグロポンティ委員長はため息をついた。何を嘆いているのかは容易にわかった。彼は俗物だったが、派閥に対する愛着は人一倍強い。

 

「エルクスレーベン提督は恨まれています。身内から刺されても、不思議ではありません。でも、このタイミングは困るんです」

 

 俺は身を乗り出した。エルクスレーベン大将の失脚は避けられないだろう。あんな火種を抱えていたのに、ここまでもったことが凄いとすら思う。しかし、そのために援軍が遅れたら、こちらが困るのだ。

 

「止められるものなら止めたいが、じきに辞める人間だからな。言うことを聞く者がいない」

「…………」

「私は重みのない政治家だが、重石としては役に立っていたらしい。失脚した途端、内部抗争が激しくなった。均衡が崩れたんだな」

 

 ネグロポンティ委員長は力なく笑った。

 

「そういうわけでな、スキャンダルを吹き飛ばすような勝利がほしいのだ」

「難しいと思います」

「何が難しいんだね? 勝つことか? スキャンダルを吹き飛ばすことか?」

「両方です」

 

 俺は率直に意見を述べた。今の戦力では、市民を満足させる勝利は得られないだろう。そして、エルクスレーベン大将のスキャンダルは、勝利の一つや二つで吹き飛ぶようなものではない。

 

「ガイエスブルク要塞を攻略しろとは言わん。今の同盟軍にそんな力がないことは、議長も私も承知している」

「どの程度の戦果なら、ご満足いただけますか?」

「外壁にミサイルをぶち込め。一発でいい。そうすれば、大戦果として宣伝できる」

 

 ネグロポンティ委員長の小さな目が俺をまっすぐに見つめる。首を横に振ることは許さんぞと言っているかのようだ。

 

「やってみましょう」

 

 少し考えた後、俺は首を縦に振った。自分は限界まで粘ったし、相手は限界まで譲歩した。ここが潮時であった。



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第108話:エリヤ・フィリップスの限界 802年10月25日~10月30日 イゼルローン要塞

 ガイエスブルク要塞攻撃が決定したとの知らせは、同盟市民を狂喜させた。勇者の中の勇者はどんなミラクルを起こすのか? 名だたる勇将たちはどんな活躍を見せてくれるのか? 最新兵器はどれほど強いのか? 否が応にも期待が高まる。

 

「皆さんの期待に応えられるよう、全力を尽くします」

 

 俺は控えめな表現で勝利を約束した。勝つ自信など持ち合わせていないが、勝てないとは決して言えない立場である。

 

 かつてのロボス元帥も同じ立場だったのだろう。敗勢が明らかになっても、決して「勝てない」とは口にしなかった。勝利を確信しているかのように振る舞い続けた。状況を理解していないかのように見えた。練達の用兵家である彼ならば、勝ち目がないことを誰よりも理解できたはずだ。それでも口にできなかった。彼が「勝てない」と言った瞬間、軍部の発言力が失われるからだ。

 

 政治の世界において、発言力は生命に等しい価値を有する。発言力を失った者は誰にも相手にされない。組織全体が発言力を失ったら、すべての構成員が冷や飯を食わされる。ラグナロック戦役が終わった後、発言力を失った同盟軍は徹底的に痛めつけられた。

 

「まるで悪役だな」

 

 俺はため息をつき、マフィンを二個食べた。政治家と手を組み、主戦論を唱え、軍拡を求め、組織を守ろうとする。物語の世界ならこんな軍人は悪役だ。しかし、悪役にならなければ、部下の待遇を改善することはできないし、物量を揃えることもできない。

 

 チーム・フィリップスは不眠不休で準備を進めた。「二六日午前一〇時までに攻撃を実施してほしい」というのが、国防委員会の要望である。敵と味方の能力を見積もり、最適な作戦を立案し、支援体制を整える。これだけの作業を二日に満たない時間で完了させた。

 

 ガイエスブルク要塞攻撃作戦は、「オペレーション・モンブラン」と名付けられた。第六次イゼルローン攻防戦で同盟軍が使った作戦を下敷きにして、問題点を修正した。作戦指揮官ホーランド大将の証言、立案者フォーク予備役少将の覚書なども参考にしている。

 

 過去の作戦とは違い、敵に察知されることを想定している。キルヒアイス元帥ほどの将帥が気づかないはずはない。ワイドボーン参謀長らは敵ができうる対処を予想し、その上を行こうとした。

 

 秀才でも名将を出し抜くことはできる。ラインハルトは八年前にワイドボーン代将が仕掛けた罠にはまり、三年前にコーネフ大将らの挟撃作戦で旗艦を撃沈された。メルカッツ提督はフォーク中佐のイゼルローン奇襲作戦を見抜けなかった。名将とは決して出し抜かれない人間ではなく、出し抜かれてもすぐに取り戻せる人間だ。出し抜かれたと気づいた瞬間、名将は状況を正しく把握し、的確な対策を打ち出すだろう。しかし、命令が末端に行き渡り、対策が実行されるまでには多少の時間がかかる。そのわずかな時間にすべてを終わらせてしまえばいい。

 

 作戦実施部隊はすべて身内で固めた。俺の第二艦隊とホーランド大将の第一一艦隊が囮役、マリノ中将の第五五独立分艦隊が要塞奇襲部隊、ビューフォート中将の第五七独立分艦隊が予備戦力となる。失敗できない作戦なので、チームワーク重視の布陣で臨んだ。ヤン元帥の配下を政治のために利用するのは申し訳ないという気持ちもあった。

 

 ところが、作戦実施の一二時間前に作戦を一部変更することとなった。ネグロポンティ国防委員長が修正を求めてきたのだ。

 

「第一一艦隊を外し、第四艦隊を使うのだ」

「世論対策ですか?」

 

 俺は単刀直入に切り込んだ。

 

「一二星将を使わなければ、市民が失望する」

 

 ネグロポンティ国防委員長は遠回しな言い方で肯定した。政権基盤の弱いトリューニヒト政権にとって、支持率向上は最優先課題である。

 

 ヤン・ウェンリー一二星将の実績と名声は、凄まじいの一言に尽きる。「レクイエム」スカーレット・ジャスパー、「教頭先生」エリック・ムライ、「マタドール」クリストファー・デッシュ、「青天白日」サイラス・フェーガン、「秒速二光秒」セシル・ラヴァンディエ、「追跡者」オーギュスト・ダロンド、「ザ・エニグマ」ルーカス・マイアー、「万能工具」ロジャー・ザーニアル、「ビッグバン」モレノ・マリネッティ、「サンダーバード」ステーラ・モカエ、「南天の流星」ネリー・キャラハン、「不規弾」カール・フォン・ゾンバルトらの名前を聞くだけで、同盟人は誇らしい気持ちになり、帝国人は骨の髄から震え上がる。

 

 第四艦隊には無敵の一二星将が五人も配属されていた。ジャスパー大将が司令官、ゾンバルト中将がA分艦隊司令官、マリネッティ中将がB分艦隊司令官、ザーニアル中将がC分艦隊司令官、ラヴァンディエ中将がD分艦隊司令官という布陣である。その下には勇名高い艦艇部隊指揮官、エース艦長、エースパイロットが集められた。艦艇の過半数は新鋭艦である。これほど強そうに見える部隊はない。

 

「同盟軍は市民の軍隊だ。市民の要望を優先するのは当然ではないか」

「…………」

 

 俺は返答できなかった。頭の中で二人の自分がせめぎ合っている。一人は公務員としての自分、一人は軍事のプロとしての自分であった。

 

 公務員としての自分は、ネグロポンティ国防委員長に理解を示した。第四艦隊を使わなければ、市民が不満を抱くだろう。軍事は政治の一手段にすぎない。政治的配慮を優先させるのは当然といえる。

 

 軍事のプロとしての自分は不満を覚えた。一二星将は見かけほど強くない。政治嫌いの第四艦隊隊員は、この種の任務ではやる気をなくすだろう。ジャスパー大将は俺を嫌っており、意思疎通が取りづらいのは明白だ。第四艦隊を使うべきではないのに、政治的制約がそれを許さない。軍事的に非合理な判断を強いられる。作戦成功率が低下し、将兵が命を落とす。軍事のプロにとっては耐え難い状況だ。

 

 結局、俺はネグロポンティ国防委員長に押し切られた。一流から程遠いとは言え、相手はプロの政治家である。葛藤を抱えた状態ではどうにもならなかった。

 

 

 

 一〇月二四日八時五〇分、イゼルローン要塞の正面に同盟軍二万五六〇〇隻が展開した。第二艦隊一万〇一〇〇隻を左翼、第四艦隊一万〇五〇〇隻を右翼に置いた。俺は第二艦隊の指揮をアップルトン中将に委任し、全体指揮に専念する。第五七独立分艦隊を始めとする独立部隊は中央に集まり、旗艦ゲティスバーグの周囲を取り巻いた。

 

 一二光秒(三六〇万キロメートル)前方に、帝国軍が集結している。白色槍騎兵艦隊と第三胸甲騎兵艦隊が右翼、第二胸甲騎兵艦隊と第二猟騎兵艦隊が左翼という布陣だ。キルヒアイス元帥の旗艦バルバロッサも姿を見せた。総兵力は二万六〇〇〇隻から二万八〇〇〇隻と推定される。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ルッツが出てきたか」

 

 俺は腹を軽く押さえた。キルヒアイス元帥だけでも強敵なのに、第二胸甲騎兵艦隊司令官ルッツ大将とも戦うことになった。想像するだけで腹が痛くなってくる。

 

 他の艦隊は強敵ではない。白色槍騎兵艦隊司令官マンスフェルド大将は、二等兵から叩き上げた老将だが、「進め」と「突っ込め」以外の帝国語を知らないと評される。第三胸甲騎兵艦隊司令官アイヘンドルフ大将は有能だが、配下が無能である。第二猟騎兵艦隊司令官プレドウ大将は査閲将校あがりで、実戦経験に乏しい。ルッツ大将さえいなければ完璧だった。

 

 第四艦隊の存在が腹の痛みを助長した。司令官ジャスパー大将は俺を激しく嫌っている。そんな人物を指揮しなければならないのだ。

 

「マフィンとコーヒーを持ってきてくれ」

 

 俺はマフィンを四個食べ、砂糖とクリームでドロドロのコーヒーを三杯飲み、糖分を補充した。それでも腹痛は収まらない。

 

「リン・パオ元帥みたいですね」

 

 次席副官クリストフ・ディッケル大尉が目を丸くする。

 

「全然違うぞ。俺はマフィン、リン・パオ元帥はトーストだからね」

「僕から見ればどっちも同じです。戦闘前に大食いするなんて、普通の神経ではできません」

「特別なことをしているわけじゃない。軍人にとって食事は義務なんだ。腹が減ったら戦えない。だから、たくさん食べる。最後に勝つのはやるべきことをやった人間だ」

 

 俺がもっともらしく語ると、ディッケル大尉と若手幕僚数名が目を輝かせた。ワイドボーン参謀長はその通りだと言いたげに頷く。イレーシュ人事部長、ベッカー情報部長、ラオ作戦部長らは、苦笑まじりに微笑んだ。

 

「パンはいかがですか?」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が潰れたサンドイッチを取り出した。

 

「ポテトサンドか。幸先がいいな」

「食欲はいつも通りですね」

「ああ、いくらでも食べられる」

「それなら心配はありません」

 

 その言葉は俺ではなく、周囲に向けられたものだった。みんなの緊張をほぐそうと考えたのだろう。チュン・ウー・チェン副参謀長は配慮のできる人だった。

 

 九時一二分、帝国軍が動き出した。ガイエスブルク要塞主砲の射程限界線に近づいても、スピードを落とそうとしない。トゥールハンマーの射程限界線「D線」を目指しているのは明らかだ。

 

「前進しろ!」

 

 俺が手を振り下ろすと同時に、同盟軍二万五六〇〇隻が動いた。長距離ビーム砲を斉射し、敵のビームを中和磁場で防ぎつつ前進する。

 

 同盟軍はD線の手前でスピードを落とし、艦列を上下左右に広げた。D線の向こう側では帝国軍が艦列を広げている。両軍の距離は三光秒(九〇万キロメートル)にすぎない。軍艦ならひとっ飛びできる距離だが、見えない線の存在がそれを許さない。

 

 帝国軍右翼部隊の一部がD線を越え、散開しながら飛び回った。やや遅れて左翼部隊の一部もD線を越えた。ある程度飛び回るとD線の後方に退き、別の部隊がD線を越える。

 

「鬱陶しいな」

 

 俺は少し苛立った。イゼルローンを守る側から見ると、D線上のワルツは蝿が飛び回るようなものだ。実害はないが目障りである。

 

「だからこそ、挑発として有効です」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はのんびりとした口調で指摘する。彼の辞書に苛立ちという言葉は存在しない。

 

 ダンスタイム開始から一時間も経たないうちに、苛立ちは解消された。敵の動きに乱れが生じたのだ。まともに踊っているのはルッツ艦隊だけとなった。タイミングの合わないダンスなど何の意味もない。

 

 同盟軍は砲撃を加えつつ、前進と後退を繰り返した。敵の足並みを乱し、突出した部分をD線の中に引っ張り込み、袋叩きにするのだ。

 

 第二艦隊は生き生きとした動きを見せた。ベテランのアップルトン中将は大部隊を統制する術を心得ている。分艦隊司令官たちは艦隊運用の手腕を遺憾なく発揮した。将兵は練度が高く、協調性に富んでおり、複雑な動きをやすやすとこなした。

 

 第四艦隊は明らかに足並みが乱れていた。個々の動きは悪くないが、艦隊としての一体感が乏しい。組織内の意思疎通がうまくいっていないようだ。スター集団の欠点が露骨に出た。

 

「ここまでは折り込み済みだ」

 

 俺はスクリーンをまっすぐに見据えた。敵の動きは想定の範囲から一歩も出ていない。第四艦隊があてにできないことも予想できた。

 

 オペレーション・モンブランは順調に進んでいる。第二艦隊と第四艦隊は敵の目をD線に引きつけた。マリノ中将は回廊外縁部を進み、ガイエスブルク要塞に迫ろうとしていた。これからの一時間が正念場だ。

 

「敵の一部が回廊外縁部に向かっています」

 

 オペレーターの報告は、敵にこちらの狙いを察知されたことを告げるものだった。

 

「予定通りだな」

 

 俺は幕僚たちの顔を見回した。ワイドボーン参謀長、チュン・ウー・チェン副参謀長、ラオ作戦部長らが無言で頷く。

 

「第四艦隊A分艦隊が突出しています!」

 

 オペレーターが叫び、人々がスクリーンを見た。ゾンバルト中将率いる第四艦隊A分艦隊がD線を越えて突出し、縦横無尽に暴れまわっている。

 

「…………!」

 

 俺は喉まで出かかった怒声を飲み込み、スクリーンを睨みつけた。どれほど罵っても飽き足りない気分だった。ゾンバルト中将が戦線のバランスを崩してしまった。今の同盟軍は片足で立っているに等しい。キルヒアイス元帥やルッツ大将はこの機会を見逃さないはずだ。敵の攻勢が始まる前にゾンバルト中将を呼び戻し、戦線を立て直さなければならない。

 

 第四艦隊にあらゆる手段を使ってA分艦隊を呼び戻すよう求めた。妨害電波が入り乱れているため、数分後にようやく指示が伝わった。

 

 ゾンバルト中将を呼び戻そうと努力している間、戦況は予想しなかった方向に転がっていった。何を思ったのか、ラヴァンディエ中将率いる第四艦隊D分艦隊が突撃を開始した。やや遅れてマリネッティ中将の第四艦隊B分艦隊もD線に向かって突っ込んだ。三つの分艦隊は先を争うように突き進み、プレドウ艦隊の前衛を破り、ルッツ艦隊を後退させた。

 

 ジャスパー大将が通信を入れてきた。ゾンバルト中将らを呼び戻すより、前進を続けさせた方が良いのではないかというのだ。

 

「今から呼び戻しても間に合いません。後退する時に逆撃を被る恐れもあります。勢いを生かして進み続ける方がむしろ安全です」

 

 彼女の提案は理に適っている。勢いが計算を凌駕することは珍しくない。他の部隊がゾンバルト中将らの後に続き、戦線全体を押し上げれば、不均衡は解消されるだろう。前進も一つの選択だ。

 

 しかし、当初の案も捨てがたかった。D線の内側で戦うほうが安全だ。前進を続けたら、攻勢終末点を越えてしまうかもしれないし、ガイエスハーケンの射程範囲に誘い込まれる可能性もある。逆撃を承知の上で後退するのも間違いではない。

 

 自分では判断できなかったので、部下の意見を聞いた。ワイドボーン参謀長は「どちらの案もリスクが大きいですが、後退させた方がまだ良いです」と主張した。チュン・ウー・チェン副参謀長は「判断が難しいですが、前進させるのがベターでしょう」と言う。その他の参謀は後退と前進が半々だった。作戦のプロでも判断に迷う局面である。

 

「意見が割れたか。前線の判断はどうだろう?」

 

 俺は第二艦隊司令部に通信を入れ、アップルトン中将の意見を聞いた。「後退するのは危険ですが、前進を続けるよりはましです」という答えが返ってきた。

 

 部下の意見は真っ二つに割れた。用兵は多数決で決めるものではない。多数意見が正しいとは限らないからだ。前の世界のアスターテ会戦における帝国軍のように、部下全員が戦況を読み違えたケースもある。結局のところ、すべては司令官の決断にかかっている。

 

 さんざん悩んだあげく、三人を後退させることに決めた。前進するリスクより後退するリスクの方が小さいと考えたのだ。

 

 指示が伝わる前に戦況が動いた。ルッツ艦隊が反転攻勢を開始し、突出した同盟軍を両側から押し包む。レーザー砲の十字砲火が艦艇を突き刺す。ウラン弾の雨が艦艇を打ち砕く。ゾンバルト中将らは窮地に陥った。

 

「やられたか」

 

 俺は自分の無能を呪った。最初に迷い、次に意見を聞き、ようやく決断を下した。決断を下すまでに三ステップを費やした。ルッツ大将は即座に決断を下した。二ステップの差は、戦場においては致命的である。

 

 キルヒアイス元帥はこの機を見逃さなかった。ルッツ艦隊に予備兵力を送り、攻勢を強める。プレドウ艦隊は反撃に移った。右翼のマンスフェルド艦隊とアイヘンドルフ艦隊も前進を開始する。

 

 たちまちのうちに帝国軍は優位に立った。ルッツ艦隊、プレドウ艦隊、ヴァイゼ独立分艦隊がゾンバルト中将らを袋叩きにした。マンスフェルド艦隊とアイヘンドルフ艦隊の猛攻が、難局に弱い第二艦隊を浮き足立たせた。

 

「救援に向かうぞ!」

 

 俺はビューフォート中将らを率いて突入した。迷う必要はなかった。味方を見捨てないというのは最低限のルールだ。

 

 目の前にルッツ艦隊の右翼分艦隊が立ちはだかった。小細工なしの正面衝突だ。戦術を駆使する余地などない。勇気と戦意と練度がすべてを決する。俺は旗艦ゲティスバーグを最前線に出し、陣頭指揮をとった。ビューフォート中将らはルッツ大将の部下と激しくぶつかり合った。

 

 味方艦が爆発し、その衝撃波がゲティスバーグを激しく揺らした。俺は前のめりに転び、柔らかいものに頭から突っ込む。砲火の集中するポイントが少しずれていたら、爆発したのはゲティスバーグだっただろう。陣頭指揮は死の危険と隣り合わせである。それでも、連絡の容易さやリアルタイムの戦況把握といったメリットには替えられない。

 

 ジャスパー大将はザーニアル中将を救援に送ると、直属部隊を率いてプレドウ艦隊に突っ込んだ。鋭い刃が敵の艦列を切り裂く。プレドウ艦隊の右翼分艦隊と左翼分艦隊がたちまちのうちに敗走した。プレドウ大将の旗艦ハイデルベルクは直属部隊とともに逃げ出した。一個分艦隊程度の兵力で、三個分艦隊に匹敵する敵を破ったのだ。

 

 孤立したルッツ艦隊は素早く戦力を集中し、防御を固めた。下手に手を出せば、猛烈な反撃を食らうだろう。包囲しようとしたら、薄くなった部分を突破されるに違いない。

 

 ゾンバルト中将らが戻ってきたので、俺とジャスパー大将はD線の後方に下がった。帝国軍も兵を引き、戦線は再び膠着した。

 

 この日の戦いで同盟軍は艦艇二〇〇〇隻と将兵二二万人を失い、ほぼ同数の損害を敵に与えた。ガイエスブルク要塞を攻撃することはできず、マリノ中将は虚しく引き返した。オペレーション・モンブランは失敗に終わった。

 

 

 

 イゼルローン要塞に戻った俺は記者会見に臨んだ。従軍記者が一人残らずティアマトに避難したので、記者席に座っている者はいない。

 

「ガイエスブルク攻撃作戦は失敗いたしました。多数の犠牲を出したにも関わらず、目的を達成できませんでした。すべて私の責任であります。深くお詫び申し上げます」

 

 カメラに向かって頭を下げた後、作戦経緯を簡潔に説明した。自分に都合の悪いことも包み隠さず語った。

 

「最大の問題は何だとお考えでしょうか?」

 

 ティアマトにいる従軍記者が超光速通信を通して質問する。「敗因」と言わず「問題」と言ったのは、政治的配慮というものだろう。

 

「私の決断の遅れです。古代の軍事学者は『慎重に行動することでメリットを得られるとしても、ただちに行動したほうが良い』と述べています。素早く決断しなければ、戦況の変化についていけません。ですから、熟慮して時機を逸するより、性急でも時機を捉えるほうが良いのです」

「第四艦隊前衛部隊の行動についてはいかがお考えですか?」

「調査中ですので、現時点で申し上げられることはありません。ただ、私の統制力不足が招いた事態であると認識しております」

「システム上の不備によるものではないということですね」

 

 記者は個人の失敗であると念を押すように言う。

 

「現時点ではそう認識しております」

 

 俺は“現時点”を強調しつつ、記者の言葉を肯定した。見る人が見れば、見え透いた茶番劇だと思うだろう。

 

 軍の記者会見に姿を見せる記者は、太鼓持ちや茶坊主の類である。昨年のクーデター以降、同盟軍の取材許可証の発行条件が極端に厳しくなり、政府や軍に批判的な記者は締め出された。

 

 その後も質疑応答が続いた。従軍記者は構造的な問題に触れる質問を避け、俺が“安全な返答”をするよう誘導し、事実を政府に都合のいいように解釈した。このようにして、「指揮官個人や前線部隊の失敗にすぎない。政策や戦略の失敗ではない」という印象を作り上げていく。

 

「ありがとうございます。今度の課題は何だとお考えでしょうか?」

「それは……」

 

 俺は模範解答を知っている。「頑張ります」「努力します」と言えば合格だ。政府は具体的な指摘など求めていない。市民受けの良い言葉を吐いてくれたら、それでいいのだ。しかし、それを口にしたいとは思わなかった。

 

「練度と経験です。三年ぶりの対帝国戦を指揮して感じたのは、我が軍の未熟さです」

「さらなる猛訓練が必要ということですね」

「違います。必要なのは時間です」

「訓練時間を延長なさるということでしょうか?」

 

 記者は根性論にすり替えようとしたが、その試みは失敗する運命にあった。

 

「私は年単位の時間を求めています。トリューニヒト政権成立から一年七か月、同盟軍再編から七か月しか経っていません。練度を積むには短すぎる時間です」

「有事はいつ起きてもおかしくありません。短期間で練度を伸ばす工夫こそが必要だとは思われませんか?」

「練度の伸びは、将校と下士官の力量にかかっています。しかし、その過半数は二年以内に昇進した人間で、現在の役職に慣れているとは言えません。それどころか、より低い役職の経験すら欠いている有様です。私は昨年の三月に中将、一一月に大将、今年の一月に上級大将となりました。中将としても、大将としても、上級大将としても未熟であります。このような将校や下士官が大勢おります。平時にあっては兵を鍛える術を知らず、有事にあっては対処する術を知らない。そういう状況なのです」

 

 俺は同盟軍の現状を率直に語った。自分が練度不足を世間に知らせていれば、ガイエスブルク攻撃を止められたかもしれない。自分が経験を積んでいれば、もっと早く決断できたかもしれない。そんな後悔が期待に反する言葉を紡がせる。

 

「市民の皆様にお願いします。時間をください。精鋭の多くがラグナロックで失われました。現役兵力の三分の一が軍縮で削減されました。ベテラン将校の多くがクーデターに加担しました。一年や二年で取り戻せる痛手ではありません。一人前の艦長を育てるには一五年、一人前の下士官を育てるには一〇年かかります。軍の再建は始まったばかりです。古人は『百年兵を養うのは一日のためである』と述べました。強兵を作るには時間がかかるのです。そのことをご理解ください」

 

 自分の意見を一通り述べた後、カメラに向かって頭を下げた。新しい質問は飛んでこない。かくして記者会見は終了した。

 

 記者会見の直後、国防委員会は「敵に痛撃を加えた」と発表した。勝ち負けについては触れなかった。俺が失敗したと明言してしまったので、勝ったと言い張れなかったのだろう。ネグロポンティ国防委員長が曖昧なことしか言わず、記者が深く突っ込まなかったため、歯切れの悪い会見になった。

 

 オペレーション・モンブランの失敗は、それほど大きな話題にならなかった。より大きな話題に塗り潰された。

 

 作戦が失敗した日に発売された週刊誌が、第一艦隊司令官クルト・フォン・エルクスレーベン大将のパワハラ疑惑を報じた。同盟軍入隊以降の四年間で、部下二六名に対して暴力を振るったり、大声で罵倒したり、トイレ掃除やゴミ拾いを延々とやらせたり、動物の物真似を強要したりしたという。被害者は有色人種、女性、同性愛者、両性愛者、トランスジェンダー、先天的障害者などのカテゴリーに属する人物だった。

 

 エルクスレーベン大将といえば、亡命者軍人の中でも五本の指に入る大物である。皇太子の配下だった頃は、「ルートヴィヒ・ノイン」の一員として勇名を馳せる一方で、ラディカルな平等主義者としても知られた。提督でありながら兵士と同じ部屋で眠り、同じものを食べ、同じ日用品を使った。一兵卒に対しても、友人のように接した。平民出身の軍人を救うために奔走し、大貴族と事を構えることも厭わなかった。同盟に亡命すると、彼を慕う軍人一万人が後を追った。こうした経緯から、右派からも左派からも高い評価を受け、「平等の騎士」という異名で呼ばれた。

 

 誰もが認める「理想の帝国人」が悪質な差別事件を起こしたのだ。市民が受けた衝撃ははかりしれない。

 

 エルクスレーベン大将の失墜は、トリューニヒト政権が進めてきた移民同化政策を根本から覆した。帝国人に同盟的価値観を受け入れさせることは正しいのか? 正しいとしたら、帝国人に同盟的価値観を受け入れさせることができるのか? エルクスレーベン大将ですら帝国的価値観を捨てきれなかったという事実は、同化政策の有効性を疑わせるに十分だった。

 

 トリューニヒト政権は批判の的となった。反戦・反独裁市民戦線(AACF)を始めとする左派は、多様性を認めない姿勢が事件を招いたとして、多文化政策への回帰を求めた。統一正義党などの右派は、同化政策は正しいが運用がいい加減すぎると批判した。最近結成された中立政党「新しい船出」は、同盟人と帝国人は根本的に異質な存在であり、住み分けるべきだと主張した。大衆党内部でも移民政策の転換を求める声が出ている。

 

 今のところ、イゼルローン要塞にはエルクスレーベン事件の影響は及んでいない。だが、それは平和とはイコールではなかった。

 

 イゼルローン要塞に撤収した後、第四艦隊と第二艦隊が激しくいがみ合った。ジャスパー大将は俺の決断が遅れたせいで、第四艦隊が大損害を被ったと思っている。アップルトン中将は、ゾンバルト中将らとそれを抑えられないジャスパー大将のせいで、第二艦隊がひどい目にあったと感じた。第二艦隊が第四艦隊より多く損害を出したことが、感情のもつれを助長した。

 

 イゼルローン総軍は第四艦隊の肩を持った。エリヤ・フィリップスとトリューニヒト議長に対する反感が、ジャスパー大将に対する反感を上回った。第四艦隊が人気取りのために引っ張り出されたことは明白である。ゾンバルト中将らの暴走は問題だが、戦場では予想外の事態など付き物であって、対処できない司令官の無能こそが問題だ。無能な司令官を任命したトリューニヒト議長の責任も問われるべきであろう。さらに言うならば、トリューニヒト議長は人気取りのために、コミュニケーション能力のないジャスパー大将を司令官に起用し、協調性のないゾンバルト中将らをその配下に付けた張本人ではないか。

 

 第一辺境総軍は第二艦隊の肩を持った。政治家と軍人は持ちつ持たれつだと考えているので、人気取りもある程度までは許容できる。そして、第四艦隊の編成と起用は許容できる範囲だ。政治家が金を出さなければ、軍隊は動けない。司令官が致命的なミスを犯したのは事実だが、そのような状況に追い込んだ第四艦隊の責任は大きい。

 

 この問題について、国防委員会は「誰も悪くない」という態度に終始した。国防官僚は事なかれ主義者である。心情的には第一辺境総軍寄りだが、面倒な問題に首を突っ込みたくなかった。ネグロポンティ国防委員長はトリューニヒト議長の指示がなければ動かない。世論を気にするトリューニヒト議長には、一二星将や勇者の中の勇者の責任を追及することなどできなかった。

 

 国防委員会が知らん振りを決め込んでしまったので、俺が第一辺境総軍とイゼルローン総軍の間に立たされた。事態の責任者でありながら、片方に肩入れすることが許されず、仲裁しなければならない。イゼルローン総軍の戦力抜きでは戦えないからだ。マフィンを食べる量が倍増した。

 

 一〇月二九日、ネグロポンティ国防委員長は再び会見を開いた。「痛撃を加えたが、問題点は少なくない」と語り、練度不足と経験不足を公式に認めた。そして、訓練予算の増加、教育体制の整備などの改善策を講じると述べた。前回の会見とはうって変わって雄弁だった。

 

 トリューニヒト政権の息がかかったマスコミは、オペレーション・モンブランを「失敗だが負けではない。次に繋がる戦いだった」と評価した。そして、問題点を早めに洗い出せたことを前向きに受け止め、練度と経験の蓄積に励むべきだと訴えた。一方でジャスパー大将の勇戦を大々的に報じ、「さすがはマーチ・ジャスパーの孫だ」と褒めちぎった。

 

 反トリューニヒト派はフィリップス擁護とフィリップス批判に分かれたが、どちらの声も大きくはない。痛み分けに近い戦いは、エルクスレーベン事件ほどの関心を集めなかった。

 

 軍需企業数十社がプライベート用のメールアドレスに、「フィリップス提督の見識に感服しました」「今後とも良いお付き合いをしていきましょう」といった内容のメールを送ってきた。

 

 これによって、俺は主導権を手に入れた。攻撃要請が来ても拒否できる。練度不足と経験不足を盾にすればいい。政府とマスコミと軍需企業が認めた事実だ。

 

「政府はあっさり折れましたね」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が潰れたジャムパンを差し出した。

 

「失敗は認めたけど、政府に都合の悪いことは何一つ言ってない」

 

 俺はすました顔で潰れたジャムパンを頬張る。ストロベリージャムがほどよく潰れたパンに挟まれることで、絶妙な甘みを醸し出す。

 

 記者会見では同盟軍の問題点を指摘したが、直接的な政府批判は避けた。間接的に政府を批判したとはいえるだろう。練度不足は無計画に数を増やしたせいだ。将校や下士官の経験不足は粗雑な人事政策によって生じた。しかし、ラグナロックや軍縮やクーデターによる消耗を強調することで、政府の責任を曖昧にした。さらに言うと、軍拡が間違いだとは言っていない。

 

「君は軍拡を支持し続ける。その上で時間がほしいと言った。長期にわたって兵を訓練し、将校や下士官を教育するってことだね」

 

 イレーシュ人事部長が答え合わせをする教師のような顔で、俺の思考をトレースする。

 

「導き出される答えは一つ。軍需企業が儲かるってわけだ」

「その通りです」

 

 俺は右手で髪を触り、カンニングを指摘された生徒のように笑う。トリューニヒト政権は実弾や実機を使った訓練を重視している。訓練すればするほど、燃料や弾薬の消費が増え、練習艦や練習機の注文が入り、軍需企業が潤う。教育体制の整備もビジネスチャンスだ。スポンサーが俺を支持すれば、政府とマスコミもなびいてくる。

 

「せこいねえ」

「小物ですから」

「いいんじゃないの? 小物には小物の戦い方があるから」

 

 イレーシュ人事部長の端正な顔に優しい笑みが浮かぶ。付き合いの長い彼女は最大の理解者の一人である。

 

「小物なのに大物ぶろうとしない。自分の限界をわきまえていて、その範囲で戦おうとする。そこがあなたの最大の強みです」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はのほほんと微笑んだ。前向きな言葉、のんびりした表情、素朴だが暖かみのある声が俺を元気づけてくれる。

 

 司令官は本質的に孤独である。部下の要望と上の要望を一人で受け止め、矛盾した複数の要望に優先順位を付ける。決断は自分一人で下さなければならない。責任も恨みもすべて自分一人で背負う。だからこそ、理解者は何者にも代えがたいと思う。

 

 ヤン元帥率いる援軍四個艦隊は順調に行程を消化した。エルクスレーベン事件が悪影響を与えるかに思われたが、現時点では何の問題も生じていない。

 

 第一艦隊は副司令官ユリジッチ中将のもとで通常運行を続けている。むしろ、航行速度が以前よりも上がっているらしい。パワハラ上官とその取り巻きが一掃されたため、士気が高まったのだろう。

 

 一〇月三〇日、援軍の副司令官エドウィン・フィッシャー大将から通信が入った。二週間以内にイゼルローン回廊に到着する見込みだという。彼が言うのなら間違いないだろう。前の世界では無敵のヤン艦隊の運用を掌り、この世界では最速のヘプバーン分艦隊の練度管理を掌った人物だ。

 

「あと二週間だ。二週間で援軍が来る」

 

 俺は将兵に向かって語りかけた。広い講堂が歓声に包まれる。仲の悪い第一辺境総軍とイゼルローン総軍も、援軍を待ち望んでいるという点では一致していた。



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第109話:強者の敵と弱者の味方 802年11月5日~11月6日 イゼルローン要塞

残酷な表現があります。ご注意ください。


 部下からの突き上げが激しさを増している。第四艦隊司令官ジャスパー大将と第一三艦隊司令官代理デッシュ大将は、俺の弱腰を批判し、攻勢に転じるよう要求した。要塞艦隊司令官アッテンボロー大将は理路整然と積極論を説き、若手や中堅の支持を集め、集団で突き上げてきた。第六艦隊司令官ムライ大将、第一一艦隊司令官ホーランド大将、第二艦隊司令官代理アップルトン中将らも控えめな言い方で方針転換を求めた。

 

「戦わなければ、士気を維持できない」

 

 それが艦隊司令官たちの言い分であった。実際、士気は著しく低下している。安全圏から砲撃を繰り返すだけの戦いは、将兵の意欲を著しく削いだ。ミスやトラブルは増加の一途をたどった。

 

 彼らに一理あることは認める。消極策は士気に悪影響を及ぼす。兵を指揮する者にとっては見過ごせない事態だ。俺が同じ立場なら、やはり積極論を唱えただろう。士気の低下を止めなければ、消極策への支持は得られない。

 

 俺は士気の維持に取り組んだ。食事会を開き、兵士の声に耳を傾けた。各種手当の臨時増額、食事の量と質の向上、甘味無制限食べ放題、酒と煙草の支給量増加、基地売店の商品値下げ、焼きたてパンの提供などを実行に移した。作戦終了後のボーナス支給と特別休暇付与を約束した。飴を与えるだけでなく、規律違反を厳しく取り締まった。

 

 できることはすべてやったが、将兵の不満を解消するには至らなかった。彼らが求めているのはやりがいある任務だった。金や物や娯楽を与えても、根本的な解決にはならない。

 

 同盟軍が劣勢ならば、立てこもるだけでもやりがいを感じただろう。しかし、今の同盟軍は優勢だった。オペレーション・モンブランは、同盟軍の弱体化を明らかにする一方で、帝国軍がそれ以上に弱くなったという事実も明らかにした。ヤン・ウェンリーの下で戦った者は、あまりに勝ちすぎたがゆえに、勝利を「戦えば得られるもの」と思い込んだ。その他の者も「同盟軍は強く、帝国軍は弱い」という先入観を持っている。弱敵相手に立てこもるなど、やりがいのかけらもない任務なのである。

 

 結局のところ、人間は成功体験に縛られる。帝都を攻略してから四年しか経っていない。勝利の記憶が薄れるには短すぎる時間だった。

 

「次はトラブル処理だ」

 

 俺は士気対策の書類を片付け、トラブル処理にとりかかった。指揮官にとってトラブル処理は重要な仕事である。うまく処理すれば部下は満足し、処理できなければ部下は不満を抱く。軍隊は人間の集まりなので、トラブルを完全になくすことはできない。だから、指揮官はトラブル処理の能力を試され続けることになる。

 

 ハラボフ大佐が持ってきた書類は、第一九五巡航戦隊のパワハラ事件に関するものだった。あまりに悪質で、パワハラと呼びうる域を超えていた。故意の殺人以外の何ものでもない。事態を重く見た俺は、戦隊司令バレンスエラ准将の指揮権を停止し、「懲戒免職が妥当」という意見書を国防委員会に送った。だが、人事部がクレームを付けたため、差し戻されたのである。

 

「処分を軽くできる要素なんて、一つもないぞ」

 

 俺は愚痴をこぼしながら書類を見た。初犯であったとしても、厳罰は免れないだろう。まして、バレンスエラ准将には、両手の指で数え切れないほどの前科があるのだ。

 

 人事部は人材不足の現状を訴え、「過失にこだわらず、人材を活用してほしい」と述べた。クーデターと粛軍の影響で、多くの人材が失われた。バレンスエラ准将のような優れた人材は、現在の軍にとって貴重である。だから、今回の件は大目に見てほしいという。

 

 世間一般の常識に照らせば、人事部の主張は支離滅裂である。民間企業が「彼は組織に必要な人材だ」と言って、殺人犯を擁護したら、頭がおかしいと思われるだろう。役所でもそれは変わらない。しかし、軍では一定の説得力をもって受け止められる。

 

 同盟軍は極端な実力主義をとっている。トラブルメーカーでも武勲を立てれば出世できた。変人でも能力があれば重用された。だからこそ、ヤン・ウェンリーやワルター・フォン・シェーンコップのような人物が、若くして高位を得たのである。このような風潮は、悪党にとっても都合が良かった。有能であれば、悪事が発覚しても「使える人材だから」という理由で見逃された。

 

 バレンスエラ准将は文句なしに有能であった。士官学校卒業後、一二年間で二〇〇回を超える戦闘に参加し、そのすべてで武勲をあげた。誰よりも勇敢に戦い、誰よりも勤勉に働いたので、部下から絶大な信頼を寄せられた。日頃から「部下を生かすことが指揮官の義務」と言い、それを実行してきた。弱い人間を徹底的にいじめ抜く癖さえなければ、本物の名将になり得ただろう。人事部が擁護するのも無理はないと思える。

 

「どうしようか」

 

 俺は幕僚たちの顔を見回した。処分を軽くするかどうかを問うたわけではない。結論は最初から決まっている。

 

 有能なら何をやっても許されるという風潮が、同盟軍を犯罪者の天国にした。八世紀前半の名将エルゼ・オストヴァルトは、判明しているだけで一二人の部下を自殺に追い込んだが、元帥・統合作戦本部長にまで上り詰めた。ドミトリー・マレニッチは有能だとの評判を得るために降伏者を殺し、戦功を水増しした。マンフレット・フェーネンダールやスタウ・タッツィーは、問題ある人物だったにもかかわらず、数々の戦功を評価されて昇進し、虐殺を起こすに至った。

 

 悪習は廃さなければならない。バレンスエラ准将の軍人生命を断ち切ることで、有能でも許されないことがあると示そう。そして、パワハラ軍人や犯罪常習者が出世する余地をなくすのだ。

 

「政治的には悪手ですね」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長がまずいパンを論評するような口調で言った。

 

「わかっている」

「わかっていてもおやりになるでしょう?」

「まあね」

 

 俺はいたずらっぽく笑った。今後は人事部の協力を得にくくなるだろう。最大派閥寛容派の不興を買うことも間違いない。それでも譲れないものはある。凡人のための軍隊には、パワハラを許容する余地などないのだ。

 

「それでこそあなたです」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は満足そうに頷いた。その眼差しは焼きたてのパンのように暖かい。

 

「良識派と連携できませんかね。パワハラ絡みなら、ビュコック元帥やヤン元帥も喜んで協力なさると思いますが」

 

 そう提案したのは、メッサースミス作戦副部長である。

 

「やめておこう。良識派と組んだら、支持者が離反しかねない。反パワハラより反良識派を優先する人が多いからね」

「かしこまりました」

「厳格派と旧ロボス派を引っ張り込めば、寛容派に対抗できる。今はそれで十分だ」

 

 俺は未練を断ち切るように言った。ヤン元帥やビュコック元帥と共闘したくないと言えば嘘になる。前の世界を生きた同盟人にとって、魔術師や老元帥は特別な存在なのだ。

 

「次の議題に移ろう。S四一五五のファイルを開いてほしい」

 

 俺が指示を出すと、全員の端末画面に一枚の文書が映し出された。イゼルローン要塞に残留する民間人四九九名の強制避難を求める文書だった。

 

 帝国軍が現れた時、イゼルローン要塞に居住する民間人はティアマト星系に避難した。しかし、ごく少数の者が避難を拒んだ。ティアマト星系は右翼の牙城である。トリューニヒト政権に目をつけられた者が避難した場合、星系政府や右翼団体から迫害を受けかねない。

 

 俺は残留者のリストを眺めた。トリューニヒト議長の政敵、ラグナロック戦犯とその家族、元解放区民主化機構(LDSO)幹部、再建会議の支持者、反トリューニヒト派の知識人、反体制活動家などの名前が並んでいる。

 

「有名人だらけだな」

「ボースマの"嫁”もいますよ」

 

 ワイドボーン参謀長が興味深げにリストを見る。

 

「ボースマ平和財団理事長、カスパー・ボースマ。一九歳か」

 

 俺は軽く目を伏せた。殺人企業経営者ミセル・ボースマを殺害したことについては、一切後悔していない。兵を死なせるぐらいなら、抵抗する相手を殺す方がましだ。しかし、遺族の心中を思うと、正当性を声高に主張できなくなる。

 

 ボースマは同性愛者であるにもかかわらず、熱烈な帝国びいきであった。帝国に出店することを夢見ていた。帝国人の生活を向上させたいと願い、巨額の資金をフェザーン経由で帝国に投資した。ラグナロック戦役が始まると、戦争国債を大量に購入する一方で、全解放区に店舗を置いた。終戦後は同盟と帝国の平和的経済統合を目指し、反戦政党や平和団体に巨額の寄付を行った。

 

 カスパー少年が“夫”の遺志を受け継いでいることは間違いない。名門リスナー家の嫡子でありながら、留学先のフェザーンでボースマと出会って恋に落ち、そのまま同盟に亡命した人物である。彼自身が「同盟人と帝国人はわかり合える」というボースマ主義の象徴なのだ。

 

「好きにさせたらいいんじゃないか」

 

 俺はさりげなさを装って笑った。カスパー少年と俺は相容れない存在である。それでも、右翼に引き渡そうとは思わない。

 

「他の連中はどうします?」

「こっちにいた方が安全だろう」

「シリトーだけ避難させるってのはどうです? ティアマトに行ったら大歓迎でしょうよ」

 

 ワイドボーン参謀長は冗談めかした口調で言ったが、目は笑っていない。三年前に軍人一〇〇〇万人の首を切ったシリトー元国防委員長は、主戦派の敵だ。

 

「やめておこう」

 

 俺が笑って流すと、ワイドボーン参謀長は何も言わずに引き下がった。理屈ではわかっているのだ。

 

「グレシャムお婆ちゃんとローズお爺ちゃんには、痛い目見てほしいねえ」

 

 イレーシュ人事部長がぽつりと呟いた。グレシャム元最高評議会副議長は、ラグナロックを始めた張本人の一人でありながら、最後まで非を認めなかった。ローズ元遠征軍衛生部長は、休養時間を削減したり、麻薬を「疲れの取れる薬」として処方したりするなどして、多くの将兵を過労死させた。ラグナロックで苦労した者ならば、この二人を恨まずにはいられないだろう。

 

「気持ちはわかるけど、民間人を危険に晒すわけにはいかない」

 

 俺は建前論で押し通した。守るべき対象を選別しないというのが原則である。好きな人を守り、嫌いな人を守らないなんてことは許されない。

 

 イレーシュ人事部長はそのことを理解していたので、反論しなかった。理解していても一言言いたくなるのが感情である。そして、一言言うだけで済ませるのが理性である。

 

「他はいいとして、アウグスト二世は許せませんな」

 

 ベッカー情報部長がある名前をあげると、幕僚たちは同意の声をあげた。俺も同意しそうになった。

 

 アウグスト二世とは、アンリ・プセント退役少将である。息子のアリオ・プセントが「アウグスト三世」と呼ばれているので、その父はアウグスト二世になるわけだ。帝国人らしい皮肉のきいた言い回しである。

 

「彼は息子を弁護しているだけだ。悪いことはしていない」

 

 俺は引きつりそうになる表情を全力で和らげつつ、ベッカー情報部長をたしなめた。手のひらには爪が深く食い込んでいる。

 

「あれは弁護なんてもんじゃありません。関係ない人間を片っ端から讒訴してるんですよ?」

「彼は弁護してるつもりなんだ。息子が全部悪いんだ」

「まともな人間なら、あんな与太話は真に受けないでしょうに」

「どんな子でも親から見ればかわいい子なんだ」

「糞の塊をかわいいと思える親なんているんですかね? 私ならさっさと捨てたくなりますが」

「彼は普通の親より愛情が強いんだ。だから、糞の塊でも愛せるんだよ」

「アウグスト二世には愛人が五人いて、ほとんど家に帰らなかったそうですよ。アウグスト三世とは月に二度しか顔を合わせなかったとか」

「父性愛に目覚めたんだろ。息子が犯罪者になったから反省したんだ。きっとそうだ。そうに違いない」

 

 我ながら無茶苦茶だと思いつつ、俺は抗弁を続けた。アウグスト二世、いやアンリ・プセント退役少将に好感を抱く理由はない。被害者や遺族や社会を愚弄し続ける姿を見ていると、ふざけるなと言いたくなる。それでも擁護しなければならないのが、辛いところである。

 

 プセント退役少将がアリオ・プセント元中佐の父親でなければ、ここまで不快感を覚えることもなかっただろう。「アウグスト三世」の異名の通り、プセント元中佐の残虐性は、史上最大の暴君アウグスト二世に匹敵する。そして、卑劣ぶりはアウグスト二世を遥かに凌ぐ。前の世界で最も卑劣な行為といえば、リッテンハイム侯爵の味方殺しであろう。だが、その程度の卑劣行為は、プセント元中佐にとっては寝起きの準備運動にすらならない。

 

 ヴィンターシェンケ事件は犠牲者の数よりも、異常な残虐性をもって知られる。同胞が同胞を殴り、同胞が同胞を犯し、同胞が同胞を殺し、同胞が同胞の肉を食らうというのは比喩ではない。単なる説明である。同盟軍がヴィンターシェンケを奪還した時、腕・足・指・目・鼻・耳・足・性器がすべて残っている者は、生存者の一割に満たなかった。生殖能力を奪われなかった女性の九割が妊娠していた。その責任の半分はスタウ・タッツィー、半分はアリオ・プセントに属する。

 

 帝国を心から憎悪していたとしても、プセント元中佐の悪業を許容することはできないだろう。生理的に不可能だ。ヴィンターシェンケ伯爵は軟弱な少年であったが、犬にされるいわれはない。ヴィンターシェンケ家の一族は怠惰であったが、極限の苦痛を与えつつ死なせない拷問を加えられるいわれはない。ヴィンターシェンケ家の三重臣は無能であったが、リョウチ三万回の刑に処せられるいわれはない。ヴィンターシェンケの住民は無知であったが、家族殺しや共食いを強制されるいわれはない。これほどの残虐さを許容できる者がいるとしたら、そいつは人間ではないと断言できる。

 

 ヴィンターシェンケでは同盟人も犠牲になっている。権力掌握の障害になる者は殺された。屈服しない者は殺された。命令に逆らった者は殺された。反対意見を述べた者は殺された。住民に情けをかけた者は殺された。理由がなくても殺された。総司令部の査察団は一人残らず殺された。鎮圧部隊がやってくると、タッツィーとプセントは時間稼ぎのために、部下を次々と自爆させた。

 

 プセント元中佐は残虐非道で、逮捕された後の言動も最低だった。こんな腐った人間が現実にいるのかと驚いたものだ。思い出すだけで胸がむかついてくる。この男の父親が憂国騎士団に殴られたら、胸がすっとするだろう。だが、感情に従うべき場面ではない。

 

「善人でも悪人でも関係ない。民間人を危険に晒すことはできない」

 

 俺は迷いを振り払うように言い切った。反対意見は出なかった。部下たちも理性では理解していた。

 

「それにしても、ヤンやアッテンボローは偉い男だね。屑だろうが敵だろうが保護するんだから」

 

 イレーシュ人事部長は半分呆れ、半分感心するように言った。ヤン元帥やアッテンボロー大将らにとって、グレシャム元副議長やローズ元衛生部長は理念的に許容できない人物だ。プセント退役少将に至っては、「ヤン・ウェンリーこそがヴィンターシェンケ事件の黒幕だ」と吹聴する人物である。そんな人物でも受け入れた。

 

「彼らは弱者の味方だから」

 

 俺が笑いながら答えると、ワイドボーン参謀長が首を横に振った。

 

「違います。あいつらは強者の敵です」

「何が違うんだ?」

「あいつらは強者に迫害された人間なら誰でも守ります。ですが、強者に追従する人間には例外なく冷淡です。それが弱者だとしても」

「そうかな」

「強者に敵対したいのであって、弱者を守りたいわけじゃないんですよ」

「…………」

 

 俺はワイドボーン参謀長に反論できなかった。強者の味方でなければ、弱者の味方だと素朴に信じていた。しかし、ヤン元帥やアッテンボロー大将が、強者に追従するタイプの弱者に冷たいのは事実である。自立心のない人間に対しても冷たい。強者の敵であって、弱者の味方ではないのだろうか……?

 

「避難の件は拒否ということでよろしいですね?」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が俺の迷いを察したかのように、声をかけた。

 

「もちろんだ」

「では、次の仕事に移りましょう」

 

 その他のトラブルも厄介なものばかりだった。艦隊レベルでも処理できないものが持ち込まれてくるのだから、厄介なのは当然である。地球教徒とイエルバ教徒と十字教徒は、三つ巴の喧嘩を続けている。地球教徒同士でも、進歩派と伝統派が衝突を繰り返す有様だ。サイオキシン汚染は深刻化している。ポプラン少将は無差別にナンパし、他人の彼女を平気で寝取り、喧嘩騒ぎに率先して首を突っ込むので、トラブルが絶えない。殺人事件や強姦事件も起きる。

 

 毎日がこんな感じである。糖分がいくらあっても足りない。おかげでマフィンを食べる量が倍増した。

 

「疲れた……」

 

 トラブル処理を終えた後、俺は仮眠室に転がり込んだ。タンクベッド睡眠では精神的な疲労は回復しない。可能な限り、自然睡眠を確保する必要がある。首席副官ハラボフ大佐に「敵襲以外は起こすな」との指示を与え、扉を閉じる。ダーシャの写真を枕の下に入れ、ベッドにもぐり込んだ途端、眠りの国へと旅立った。

 

 けたたましい音とともに眠りの国から追い出された。端末のランプが赤く点滅している。俺は慌てて飛び起き、受信ボタンを押した。

 

「ハラボフ大佐、何があった!?」

「アッテンボロー大将が面会を求めております」

「それだけか……?」

「はい」

「敵襲以外は起こすなと言っただろう」

「ご指示通りにいたしました」

 

 ハラボフ大佐の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。

 

「わかった……」

 

 俺は目をこすりながら仮眠室を出た。ハラボフ大佐の判断はいつも正確だ。彼女が起きるべきだと言うのなら、それが正しいのだろう。

 

 ドアの前にはハラボフ大佐と護衛兵一〇名が並んでいた。ハラボフ大佐はピンク色のキックボードを二つ抱えている。

 

「これをお使いください」

「ありがとう」

 

 俺はキックボードを受け取った。ピンク色でふわふわしたデザインだった。しかも、ハラボフ大佐とお揃いである。なぜ、ここで羞恥心を試されなければいけないのだろうか? モスグリーンのキックボードを抱える護衛兵たちが羨ましい。

 

「ああ、つまらんつまらん! こんなつまらん戦いははじめてだ!」

 

 廊下の向こう側から、要塞空戦隊司令官代理オリビエ・ポプラン少将の声が聞こえた。この人も積極論者である。大声で不平を言いまくるので、アッテンボロー大将やジャスパー大将と並ぶ頭痛の種であった。

 

「早く行こう」

 

 俺はピンク色のキックボードに乗り、全速力で駆け出した。ハラボフ大佐がぴったり横に並んで走り、モスグリーン色のキックボードに乗った護衛兵が周囲を固めた。ポプラン少将の横を突っ切り、あっという間に司令官室に到着した。

 

「会いたくないなあ……」

 

 ぼやきながらも面会の準備を整えた。各艦隊はイゼルローン要塞とティアマトを往復しているため、その司令官が俺と顔を合わせる機会は少ない。だが、アッテンボロー大将は軍港の管理責任者なので、要塞艦隊がティアマトにいる時も要塞に留まった。その立場を最大限に活用し、毎日会いに来る。

 

 アッテンボロー大将が司令官室に現れた。三人の姉に囲まれて育ったせいか、繊細で優しげな容貌を持ち、点々と広がるそばかすが素朴な印象を付け加える。しかし、緑色の瞳に宿る光はふてぶてしく、腕白小僧のようだ。すらりとした長身には不敵なたたずまいがある。まさしく英雄の器であるが、俺にとってはストレスの種でしかない。

 

「お昼寝中だったそうですな。お休みのところ、申し訳ありませんでした」

 

 アッテンボロー大将はうやうやしく敬礼した。目に値踏みするような光が宿る。言葉には隠しきれないとげがあった。

 

「そうでもないさ」

 

 俺は朗らかな笑顔を作り、悪意に気づいていないように振る舞った。挑発に乗る必要はない。少しでも苛立ちを見せたら、相手の思う壺だ。

 

「せっかく来たんだ。コーヒーでも飲みながら、のんびり話そうじゃないか」

「遠慮いたします。時間がありませんので」

 

 アッテンボロー大将はコーヒーに目もくれず、本題に入った。

 

「我が軍は危機に直面しています。士気の低下はとどまるところを知りません。規律は緩みきっています。敵は我が軍の乱れに付け込もうとするでしょう。そうなる前に軍を建て直さなければなりません」

「現状を深刻に受け止めている。あらゆる手を尽くすつもりだ」

「ならば、最善の手段をとるべきです。攻勢を仕掛けましょう」

「あえて攻勢に出る必要はない」

 

 議論はいつもと同じ展開をたどった。アッテンボロー大将は理路整然と積極論を説き、鋭い言葉で消極論の矛盾を突き、現実的な攻撃案を示した。俺の反論はことごとく粉砕された。

 

 会見が終わり、アッテンボロー大将は出ていった。机の上には、手付かずのコーヒーとマフィンが残されていた。彼はこちらが用意した飲食物には絶対に手を付けない。

 

「…………」

 

 俺は椅子の背もたれに体重を預けた。息切れがひどい。手と背中が汗で濡れている。体がひどく重く感じる。

 

「無礼な人ですね」

 

 次席副官クリストフ・ディッケル大尉が苦々しげに顔をしかめた。心から不快に思っているというより、不快さをあえて出そうと努力したように見えた。

 

「いや、彼は間違っていない。俺も同じことをやった。だから、わかる」

「どういうことです?」

「六年前、俺はエル・ファシルで戦った。上官はヤン・ウェンリー提督だった。部下はヤン提督の消極策に不満を持っていた。俺は部下の不満をそらすために、ヤン提督を批判した。何度もヤン提督のもとに通信を入れて、積極策に転換しろと言った」

 

 まぶたを閉じて昔のことを思い出す。あの時、俺はあえて敬愛するヤン・ウェンリーと一線を引いた。組織には敵が必要だ。そして、その敵は他陣営にいるとは限らない。ヤン・ウェンリーを敵とすることで、エル・ファシル防衛部隊は結束を固めた。

 

「後悔はしていない。ヤン提督には迷惑をかけたと思う。それでも、当時は必要なことだった。ああしなければ、部下が納得しなかった」

「アッテンボロー提督も同じだとおっしゃるのですか?」

「要塞艦隊には九〇万人の隊員がいる。彼らを納得させるために俺を批判する。それは“あり”な選択だ」

「上官はサンドバッグじゃないでしょう」

「責任者は叩かれるためにいる。すべて仕事のうちだ」

 

 俺は自分に言い聞かせるように言った。共通の敵を持った時、人間は最も強い絆で結ばれる。同僚や部下と話す時、上官の無能さは格好の話題になる。実のところ、上官は敵役としては敵軍よりも優秀なのだ。敵役を引き受け、批判を浴びる。それは上に立つ者が果たすべき仕事である。

 

 ハラボフ大佐が何も言わずにトレイを置いた。焼きたてのマフィン二個、砂糖とクリームでどろどろになったコーヒーが香ばしい匂いを放っている。

 

「ありがとう」

 

 俺は礼を言い、糖分の補充に取り掛かった。マフィンを噛み砕き、コーヒーを飲み干す。体と心に糖分が染み渡る。それでも体は重いままだ。

 

「疲れが取れないな。仮眠したばかりなのに」

「悪夢でも見ていらしたんじゃないですか」

 

 ハラボフ大佐は冷ややかに言った。

 

「夢なんか見てないぞ」

 

 俺は笑顔でごまかしたが、内心では心を読まれたのかと焦った。実を言うと、ジャスパー大将、アッテンボロー大将、ポプラン少将の三人に追い回される夢を見たのだ。間違ってダーシャのそっくりさんの写真を入れたのが、まずかったのだろうか。

 

 八日後に援軍が到着する。あと八日も耐えなければならないのだ。明日はジャスパー大将とデッシュ大将がやってくる。想像するだけで憂鬱な気分になった。

 

「もう一度仮眠しよう。寝れる時に寝ておかないと」

 

 今の俺にとって、睡眠が唯一のオアシスである。一日四度の食事はすべて提督や兵士との会食になっている。トレーニング時間を一日一時間しか確保できず、一度に使える時間は一〇分から二〇分なので、ストレッチ以外のことはできない。仕事から解放されるのは睡眠中だけだ。

 

 けたたましい音とともに眠りの国から追い出された。端末のランプが赤く点滅している。俺は慌てて飛び起き、受信ボタンを押した。

 

「ハラボフ大佐、何があった!?」

「ガイエスブルク要塞が動き出しました」

「なんだって!?」

「今すぐ中央司令室にお越しください」

「わかった!」

 

 俺は端末を切り、服装を整え、ベレー帽をかぶり、仮眠室を飛び出した。首席副官からピンク色のキックボードをひったくるように受け取り、廊下を疾走する。

 

 中央司令室は緊張に包まれていた。空いている席は一つもない。将官がひっきりなしに指示を与える。オペレーターは休むことなく手を動かす、幕僚たちは各所と連絡を取り、情報を集約し、状況把握に務める。

 

 ガイエスブルク要塞は一二個の通常航行用エンジンを稼働させ、イゼルローン要塞に接近している。二万隻を超える艦隊が要塞の周囲を固める。壮観としか言いようのない光景であった。

 

「ルイス・ハンマーではないな」

 

 スクリーンを見た瞬間、俺はそう判断した。要塞特攻戦術「ルイス・ハンマー」を使う場合、要塞の周囲から味方を遠ざける。そうしなければ、要塞の爆発に巻き込まれてしまう。しかし、帝国軍はガイエスブルク要塞の周囲に密着している。早めに離脱したら、同盟軍にエンジンを破壊されかねない。衝突寸前に離脱しても、この距離では逃げ切れないだろう。

 

「キルヒアイス元帥がルイス・ハンマーを使うような低能なら、楽に戦えるんですがね」

 

 要塞軍集団司令官シェーンコップ大将は憮然とした口調で言った。三週間前、キルヒアイス元帥の要塞強襲作戦に対処したのは彼だった。

 

 キルヒアイス無能説を主張してきたオイラー大将が何か言いかけたが、シェーンコップ大将と視線が合うと、慌てて口を閉じた。元帝国軍の名将もシェーンコップ大将には敵わない。

 

「あれは使い勝手の悪い戦術ですからな。素人さんの間ではやたらと人気ですが」

 

 第二艦隊司令官代理アップルトン中将は、腕を組みながらスクリーンを見た。ルイス・ハンマーの準備作業に携わった経験があるので、その限界を熟知しているのだ。

 

 ルイス・ハンマーの弱点は通常航行用のエンジンである。移動中にエンジンを一つでも破壊されると、バランスを崩し、スピン回転を始めるのだ。前の世界ではヤン・ウェンリーがひと目で見抜いたが、この世界では帝国軍が試行錯誤の末に発見した。エンジンに護衛部隊を付けたら、ローコストという最大の利点が失われる。こうして、ルイス・ハンマーは廃れた。

 

「艦隊を出動させよう。敵の狙いはわからない。だが、これは大きなチャンスだ」

 

 俺は第二艦隊と第一一艦隊を出動させ、パエッタ大将に作戦指揮を任せた。信用できる手駒がイゼルローンにいたのは幸いだった。

 

 敵はレンネンカンプ艦隊、ミュラー艦隊、アイヘンドルフ艦隊、トゥルナイゼン独立分艦隊という陣容である。総司令官キルヒアイス元帥は旗艦バルバロッサに乗り、最前線で指揮をとる。キルヒアイス軍のベストメンバーと言っていい陣容だ。

 

 パエッタ大将、ホーランド大将、アップルトン中将の三人が、正面の敵に対抗できるとは思わない。前の世界ではラインハルトとその配下に敗れた。この世界では過去の人という評価が一般的である。前の世界の名将だったキルヒアイス元帥、レンネンカンプ上級大将、ミュラー大将らと比べると、明らかに見劣りがする。それでも、彼らを使うしかない。

 

「俯角四〇度、二時方向に集中砲撃を加えろ! 他のポイントは無視しても構わない!」

 

 同盟軍二万隻が一斉にビームを放った。そのほとんどは中和磁場に阻止された。一回でけりをつける必要はない。何十回も撃ち続ければ、負荷に耐えきれなくなった中和磁場は消え去り、ビームがエンジンを貫くだろう。一つでもエンジンを吹き飛ばせば、こちらのものだ。

 

 帝国軍は守りを固めつつ前進を続けた。同盟軍が狙点を変えると、すぐに兵力を移動し、ピンポイントで守りを厚くする。

 

「砲撃だけでは届きません。接近戦を仕掛けましょう」

 

 ワイドボーン参謀長がスクリーンを指さした。砲撃が中和磁場に弾き返される光景が映し出されている。

 

「だめだ」

 

 俺は間髪入れずに却下した。

 

「これ以上砲撃を続けても無意味です。閣下ならお分かりでしょう」

「敵は要塞に貼り付いている。接近したら、ガイエスハーケンの射程範囲に入ってしまう」

「並行追撃に持ち込めば、ガイエスハーケンを無力化できます」

「罠かもしれないぞ。エンジン破壊という餌をちらつかせ、我が軍を誘い出して一網打尽にする。そういう罠だ。キルヒアイス元帥は策略に長けている。警戒するに越したことはない」

「乱戦に持ち込み、罠自体を無力化するという手もあります」

「そこまでする必要があるのか? リスクが大きすぎるんじゃないか?」

 

 俺はワイドボーン参謀長の進言を片っ端から否定した。進言の一つ一つは戦理に適っている。凡将相手なら有効だろう。だが、相手は前の世界の名将である。接近戦は避けるべきだ。大事な部下を失うことになったら、悔やんでも悔やみきれない。

 

「この程度のリスクは大きいとはいえません」

 

 ワイドボーン参謀長はあくまで食い下がる。理屈にあっていると思ったら、絶対に引き下がらないのが彼の流儀である。

 

「副参謀長、君はどう思う?」

 

 らちがあかないと思った俺は、チュン・ウー・チェン副参謀長に話を振った。彼なら反対してくれるに違いない。

 

「参謀長の意見に同意します」

 

 最も信頼する参謀の返答は、期待を裏切るものだった。

 

「リスクが大きいとは思わないか?」

「接近戦では質の高い方が有利です。弱体化したとはいえ、我が軍は質的優位を保っています」

「敵には優秀な提督が揃っている。慎重に慎重を重ねるべきだ」

「ホーランド提督なら勝てます」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は意外なことを言った。

 

「本気で言ってるのか? 相手はキルヒアイス元帥だぞ? レンネンカンプ提督とミュラー提督もいるんだ。ホーランド提督では厳しいだろう」

「我々はヴァナヘイムやヴァルハラで、レンネンカンプ提督と戦いました。結果は覚えておいでですか?」

「四回勝って二回引き分けた」

「我々を指揮したのはどなたでしたか?」

「ホーランド提督だ」

「レンネンカンプ提督は帝国宇宙艦隊の最強の一角です。それでも、ホーランド提督には勝てませんでした。キルヒアイス元帥やミュラー提督は有能ですが、レンネンカンプ提督には及びません。この戦場においては、ホーランド提督が最も実績のある提督なのです」

「…………」

 

 俺は言葉に詰まった。反論できる材料がなかった。この世界の人間が知りうる情報だけで判断するなら、チュン・ウー・チェン副参謀長の言葉は正しい。

 

 ラオ作戦部長、メッサースミス副参謀長らも接近戦に踏み切るよう進言した。砲撃戦の継続を支持する幕僚は一人もいない。

 

 オイラー大将は口を固く閉ざしている。接近戦を進言すれば、媚びるべき相手と意見が対立してしまう。砲撃戦を進言すれば、キルヒアイス元帥やミュラー大将を警戒していると受け取られかねない。政治的計算と個人的感情が彼を沈黙させた。

 

 賛同者が一人もいないにもかかわらず、俺は砲撃戦を続けさせた。その根拠となったのは、自分以外の誰も参照し得ない情報である。

 

 この世界の人はこの世界のことしか知らない。ウィレム・ホーランドが第三次ティアマト会戦で喫した敗北を知らないし、ジークフリード・キルヒアイスがキフォイザーで収めた大勝利を知らないし、ナイトハルト・ミュラーがバーミリオンで見せた活躍も知らない。だが、俺は二つの世界を知っている。ウィレム・ホーランドが大敗する可能性、ジークフリード・キルヒアイスが大勝する可能性、ナイトハルト・ミュラーが鉄壁になる可能性を知っている。そうなる可能性が存在する以上、計算に入れないわけにはいかない。

 

 結局、エンジンを破壊することはできなかった。部下たちが指摘した通り、砲撃は効き目がなかった。ガイエスブルク要塞はD線の手前で停止し、ガイエスハーケンの砲口をイゼルローン要塞に向けた。

 

 二つの要塞の距離は七光秒(二一〇万キロメートル)まで縮まった。ガイエスハーケンはイゼルローン要塞にぎりぎり届かない。トゥールハンマーはガイエスブルク要塞にぎりぎり届かない。同盟軍が艦隊を展開させたら、ぎりぎりでガイエスハーケンの射程範囲に入る。帝国軍が艦隊を展開させたら、ぎりぎりでトゥールハンマーの射程範囲に入る。微妙な距離であった。

 

 しかし、艦隊を出さないという選択肢はない。イゼルローンとガイエスブルクの外壁は、初日の砲撃戦で穴だらけになった。艦隊を繰り出し、中和磁場の壁を張り巡らさなければ、敵艦のビーム砲が傷ついた外壁を貫くだろう。

 

「戦うしかないのか……」

 

 俺は崩れ落ちるように椅子に腰を落とした。最悪の事態が起きた。これまでの努力がすべて無駄になった。ジークフリード・フォン・キルヒアイスと真っ向から戦うことになったのだ。オペレーション・モンブランの時は、D線の内側に逃げ込めば終わった。だが、今後はそうではない。

 

 戦っている間に日付が変わり、長い一日が終わった。援軍が到着するまで一週間。どうやって凌げばいいのだろうか? 考えれば考えるほど気分が落ち込んでくる。

 

 俺は端末を開き、メールチェックを始めた。デスクワークに逃げ込むことで、現実を忘れようとしたのである。

 

 メールボックスの中もまた現実だった。政財界の要人は「子供を後方に配置換えしてくれ」「あの件を穏便に処理してくれ」などと個人的な頼みを持ち込んでくる。軍需企業は「我が社の兵器をもっと使ってください」「頼りになる人を紹介してください」などと商売絡みの話をする。

 

「勝手なことばかり言うなあ……」

 

 うんざりしたが、無視するわけにはいかない。政治家は予算を配分する権限を持っている。財界人や官僚は政治家の意思決定に影響を及ぼせる。軍需企業は部下の再就職の受け皿になる。第九次イゼルローン攻防戦の開戦以降、彼らへの借りは膨らむ一方だ。彼らは善意で協力しているわけではない。借りを返さなければ見放される。

 

「後回しにしよう」

 

 返答する元気がなかったので、エリヤ・フィリップス公式ブログを開いた。励ましのコメントを見て、元気を貰おうと考えた。しかし、疲れている時は嫌なものほど目に入る。「僕の考えた必勝の戦略です。採用してください」「なぜあの戦法を使わないのか。あなたは勝ちたくないのか」といった類のコメントにうんざりさせられた。

 

「仮眠しよう……」

 

 俺はよたよたと立ち上がり、オイラー大将に指揮権を委ねると、出口に向かって歩いた。距離がやたらと長く感じる。疲れが溜まっているのだろうか。

 

 ハラボフ大佐に扉を開けてもらった瞬間、体がふらついた。バランスを崩し、柔らかいものにぶつかり、そのまま床に尻をついた。

 

「あれ……!?」

「失礼いたします」

 

 ハラボフ大佐がしゃがみ、覚悟を決めたような顔で自分の額を俺の額とくっつける。

 

「何をするんだ?」

「熱を測ります」

「そうか……」

 

 俺は「体温計を使えばいいのに」と思ったが、何も言わなかった。口を開くのすら億劫だった。

 

 部下がぞろぞろと集まってくる。チュン・ウー・チェン副参謀長が、俺の手に潰れたパンを握らせた。イレーシュ人事部長が心配そうに俺の顔を覗き込む。ワイドボーン参謀長、ラオ作戦部長、ベッカー情報部長らは何やら話している。帰投したばかりのパエッタ大将、ホーランド大将、アップルトン中将、コレット少将らも駆けつけてきた。シェーンコップ大将は少し離れた場所にいるようだが、表情はわからない。

 

「あんたのせいよ!」

 

 妹の叫び声が耳に飛び込んできた。誰かの胸ぐらを掴んでいるようだが、確認はしなかった。その程度の動作すら億劫に感じる。

 

 何も考えたくなかった。何も考えられなかった。ハラボフ大佐と額をくっつけたまま、騒然とする周囲を他人事のようにぼんやり眺めていた。



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第110話:認識を改めるべきだろうか 802年11月6日~11月8日 イゼルローン要塞

糖分注意


 意識を取り戻した時、俺はベッドの上にいた。頭が重い。体がだるい。喉が痛む。熱っぽいのに寒気を覚える。筋肉痛が酷い。これは死に至る病だ。直感がそう告げた。

 

 目を開けて周囲を軽く見回すと、見慣れた顔が視界に入った。パエッタ大将ら第一辺境総軍幹部が右側、シェーンコップ大将らイゼルローン総軍幹部が左側に並んでいる。アッテンボロー大将やポプラン少将の顔もあった。臨終を見届けに来たのだろうか。

 

 やり直してから一四年、休むことなく走り続けた。死線を何度も乗り越えた。ヴァンフリートでは重体になるまで殴られた。エル・ファシルでは至近距離から撃たれた。ヴァルハラでは乗艦が撃沈され、瀕死の重傷を負った。ボーナム防災公園では丸腰で一個師団と対峙した。それでも死ななかった。自分は死なないだろうと、なんとなく思っていた。だが、死は唐突にやってくるのだ。

 

「風邪です」

 

 軍医の答えはあっさりしたものだった。

 

「風邪ですか……?」

 

 俺は何度もまばたきをした。気休めではないかと思った。

 

「ええ、ただの風邪です。検査しましたが、感染症の可能性はありません」

「本当のことをおっしゃってください。覚悟はできています」

「事実を申し上げているんですがね」

 

 軍医は苦笑いを浮かべ、同意を求めるように周囲を見回した。そして、何かに気づいたような表情になった。

 

「医師としての名誉にかけて申しましょう。これは風邪です。原因は過労でしょう。二日も休んだらきれいさっぱり治ります」

「わかりました」

 

 俺は丁寧に頭を下げた。心の底から納得したわけではないが、プロが名誉をかけた言葉を否定するほどの度胸はなかった。

 

 看護師の助けを借りて上半身を起こすと、俺は大まかな指示を出した。パエッタ大将に指揮権を委ねる。戦闘はやむを得ないが、可能な限り損害を抑える。アッテンボロー大将に掴みかかった妹に対しては、処分が決まるまで謹慎を命じる。

 

「納得いきません」

 

 アッテンボロー大将が早速異議を唱えた。自分とアルマ・フィリップス中将の揉め事は個人的な喧嘩に過ぎず、処分に及ばないというのだ。

 

 イゼルローン総軍はパワハラに対しては異常なまでに厳しいが、喧嘩に対しては異常なまでに甘いことで知られる。アッテンボロー大将もその例外ではなかった。個人主義者は、「喧嘩は当事者同士で片付けるべきであり、公権力が介入すべきでない」と考える。

 

「ちょっと胸ぐらを掴んだだけでしょう。その程度で処分したらきりがありません」

 

 ポプラン少将はやや憮然とした表情で言った。アッテンボロー大将が口喧嘩を好むのに対し、彼は殴り合いを好んだ。勤務中は控えているが、プライベートでは数日に一度の割合で殴り合いを演じている。喧嘩に取り締まりに反対するのは、ある意味当然だろう。

 

「喧嘩は喧嘩だ」

 

 二人の英雄が反対しても、俺の意思は変わらなかった。秩序主義者は「パワハラも喧嘩も暴力であり、公権力が介入すべきだ」と考える。オフィシャルな場で目上の人物に掴みかかった。それだけで処分に値した。妹だからこそ甘くできないという理由もある。

 

 議論が始まるかに思われたが、アッテンボロー大将らはあっさり引き下がった。病人相手では闘志がわかないのだろう。

 

 部下たちが退出した後、俺は上半身を布団の中に潜り込ませた。病気で寝込むのは何年ぶりだろうか。やり直した後は一度も寝込んでいない。軽い風邪すらひかなかった。病気になった時の感覚を忘れてしまっていた。

 

 気がつくと部屋に光が差し込んでいた。いつの間にか眠っていたらしい。一晩眠ったせいか、少し具合が良くなったように感じる。

 

「おはよっす」

 

 その声は右手方向から聞こえてきた。光り輝く人影が窓際に立っていた。あまりの神々しさに息を呑んだが、よく見ると妹の友人アマラ・ムルティ少将だった。

 

「看病に来たっす。シュガーの代わりっす」

「君に看病なんてできるのか?」

 

 俺は疑いの眼差しを向けた。この女性に戦闘以外のことができるとは思えない。

 

「私、看護師なんで」

「衛生専科学校に半年通っただけだろう」

「見ればわかるっすよ」

 

 ムルティ少将は自分の平たい胸を指さした。略綬の上に徽章が並んでいる。空挺徽章、レンジャー徽章、格闘徽章、射撃徽章、体力徽章の中に一つだけ場違いな徽章があった。

 

「看護徽章だ。本当に看護師だったんだな」

「勘違いされてるけど、本職は看護師なんすよ」

 

 聞かれてもいないのに、ムルティ少将は看護師へのこだわりを語り出した。従軍看護師の母は、自分と妹と弟を女手一つで育ててくれた。母のようになりたくて看護師を目指した。いろいろあって歩兵学校に転校し、狙撃兵になったが、通信教育で看護師の資格を取った。他人がなんと言おうと、自分は看護師である。

 

「大船に乗ったつもりで任せてくださいっす」

 

 ムルティ少将は勝ち誇ったような顔になり、ポケットからたばこを取り出した。

 

「ちょっと待て。病室は禁煙だぞ」

「これ、無煙タバコっす。看護師の必需品っすよ。知らないんすか?」

「知らないな」

 

 俺は看護師の息子だが、無煙タバコが必需品だなんて話は聞いたことがない。しかし、面倒くさいのでそれ以上は突っ込まなかった。

 

「してほしいことあったら、何でも言ってほしいっす」

「じゃあ、そこのスイッチを押してくれ」

「オッケーっす」

 

 ムルティ少将に音声入力端末のスイッチを入れてもらうと、俺は司令部に連絡を入れた。通信画面に現れたのは次席副官ディッケル大尉だった。

 

「おはようございます。お加減はいかがですか?」

「少し楽になった。ハラボフ大佐を呼んでくれ」

「ハラボフ大佐は風邪で休んでおります」

 

 ディッケル大尉の表情に少し影がさした。

 

「風邪を移してしまったんだな。悪いことをした」

 

 俺は心の中で頭を下げた。額をくっつけた時に風邪が移ったのだろう。自分一人が病気になるのは仕方ない。しかし、部下まで巻き込んだのは不甲斐ない限りである。

 

「お気になさらないでください。ハラボフ大佐ならそうおっしゃるはずです」

「彼女ならそう言うだろうね」

「ご用件は何でしょうか? 私が代わりに承ります」

 

 ディッケル大尉は口調を事務的なものに切り替えた。意識してハラボフ大佐と似せていることはひと目でわかった。

 

「ありがとう。物を持ってきてほしい。いきなり倒れたからな。何もないんだ」

「かしこまりました。何をお持ちすればよろしいでしょうか?」

「まずは仕事道具を……」

「だめっす」

 

 ムルティ少将が端末の前に立ち、遮るように両手を広げた。

 

「せっかく時間ができたんだ。たまっている仕事を片付けたい」

「過労で倒れたの、忘れたんすか? ちゃんと休むっす」

「頼む。仕事をしないと落ち着かないんだよ」

「看護師として認められないっす」

 

 短い押し問答の末、先に折れたのは俺だった。

 

「仕事道具はいらない。身の回り品だけを持ってきてくれ。まずは――」

 

 俺が持ってくるべき品を伝え、ディッケル大尉がメモを取る。彼なら一度聞いたことを忘れたりはしないだろう。それでもメモを取ろうとするのは、ハラボフ大佐の影響である。努力家のディッケル大尉にとって、同じタイプの首席副官は良き見本なのだ。

 

「確かに承りました。当番兵に持参させます」

 

 ディッケル大尉の返答は完璧だった。ハラボフ大佐なら自分で持ってくるだろう。しかし、本来は当番兵の仕事である。

 

 数分もたたないうちに、紙袋を抱えた少女がやってきた。専属当番兵のオム・セリン上等兵である。身長が高いこと以外に欠点はないが、控えめな性格と何でもやりたがる首席副官のおかげで、出番が少ない。

 

「!?」

 

 オム上等兵は大きな目を見開き、俺とムルティ少将の顔を見比べた後、硬直してしまった。ムルティ少将が「お待ちしておりました」と挨拶し、よそ行きの顔で微笑みかけると、硬直ぶりはいっそう酷くなった。

 

「そこに置いといてくれ」

 

 俺は苦笑いしながらテーブルを指さした。

 

「かしこまりました!」

 

 オム上等兵はテーブルに駆け寄って紙袋を置くと、逃げるように出ていった。身近に接しているにもかかわらず、俺を神聖視する者は少なくない。彼女もその一人だった。崇拝する人物が地上軍のレジェンドと一緒にいるのだ。恐れ多いと感じるのは無理も無いであろう。

 

 看病するとは言ったが、自称看護師はそれらしい仕事をまったくしなかった。ベッドの左側で無煙タバコを吸いながら漫画を読み、時折話しかけてくる。

 

 俺はファルストロング伯爵の一四年ぶりの新刊『君臨すれども統治せず』を開いた。帝国の元国務尚書が書いたフリードリヒ四世の伝記だが、評判は最悪といっていい。著者の二代後の国務尚書である先代リヒテンラーデ公爵は、「先帝に対する誹謗中傷だ」と非難した。帝国研究の第一人者として知られる亡命知識人ラシュワン氏は、「論ずるに足りない」と切り捨てた。名のある学者や評論家は、この本を批判するか無視した。数少ない好意的な評価は、注目を集めたいだけの俗流知識人によるものだった。あまりに評判が悪いため、かえって注目を浴びた本である。

 

「眠い……」

 

 強烈な眠気が襲いかかってきた。決して難しい本ではない。前書きにおいて、著者は「私には馬鹿な友がいる。どうしようもない馬鹿だが悪い奴ではない。それゆえ、馬鹿でも理解できる本を書いた」と述べている。文体は平明で読みやすく、八二歳の亡命貴族が書いた本とは思えない。そんな本でも病人の頭には重すぎた。

 

 夕暮れ時のような部屋にいた。素肌にエプロンをまとったダーシャが料理を作り、俺はせっせと盛り付けた。ダーシャがエプロンを脱いで座った。俺はダーシャの口に食べ物を運び、ダーシャは俺の口に食べ物を運ぶ。食べ物がなくなり、俺とダーシャはベッドに寝転んだ。激しく体を重ね合った。俺はダーシャと同じ湯船に入った。一緒に湯船を出て、俺がダーシャの体を洗い、ダーシャが俺の体を洗った。キッチンに行って料理を始めた。

 

 俺とダーシャは飽きることなく料理を作り、飽きることなく食べ、飽きることなく体を重ね、飽きることなく風呂に入り、力尽きて眠り込んだ。目が覚めても同じことを続けた。順番は必ずしも一定ではない。ある時は風呂に入らずに料理を始めた。ある時は体を重ねたまま眠った。ある時は浴室の中で体を重ねた。

 

「いつもと同じじゃないか」

 

 苦笑いとともに俺は自分の行動を振り返った。ダーシャと二人きりになると、いつもこんな感じだった。服を脱いだり着たりする時間すら惜しんだ。俺もダーシャも忙しくて、やるべき仕事が山ほどあった。だから、二人きりの時は羽目を外した。

 

 楽しかったよね、と彼女は笑い、背後から抱きついてきた。

 

「ああ、凄く楽しかった」

 

 俺は高鳴る胸を押さえつつ答えた。肌と肌が密着する。柔らかいものが背中に押し付けられる。彼女の体温が背中越しに伝わってくる。とても懐かしい温もりだ。

 

 でもさ、もっと楽しみたかったよね、と語る彼女の声はとても寂しげである。

 

「まあな」

 

 ただ頷くだけで十分だった。俺と彼女の気持ちはまったく同じなのだから。

 

 ずっとここにいてもいいんだよ、と彼女はささやいた。華奢な体が俺の背中にもたれかかる。細い腕が俺の体を一層強く抱きしめる。

 

「できればそうしたいね」

 

 俺は精一杯の笑顔を作った。背中が彼女の体を受け止めた。彼女の鼓動が背中越しに伝わってくる。彼女と一緒にいたい。彼女を一人にしたくない。痛切にそう思った。

 

「でも、みんなが待ってるんだ。帰らないとな」

 

 そう答えた瞬間、体が自由になった。背後にいた人物は俺に抱きつくことをやめ、真正面に立った。

 

 エリヤならきっとそう答えると思ってた、と彼女は丸顔に満面の笑顔を浮かべた。

 

「帰る前に一つ聞いていいか?」

 

 うん、いいよと彼女が答えたので、言葉に甘えさせてもらった。

 

「これからどうすればいい?」

 

 答えはわかってるでしょ? と彼女は笑ったままで問い返す。質問に質問で答えるのはルール違反だ。しかし、今回に限っては許される。

 

「最後のひと押しが欲しくてね」

 

 俺は顔を真っ赤にした。こんなこと、彼女以外の人間には頼めなかった。立派なところも恥ずかしいところも知り尽くした相手でなければ、できないことがあるのだ。

 

 彼女は何も言わずに抱きついてきた。両手を俺の首の後ろに回し、自分の方に引き寄せた。柔らかい唇を俺の唇に重ねた。細い腕で俺の体を力いっぱい抱きしめた。大きな胸を俺の胸に押し付けた。引き締まった腹を俺の腹にくっつけた。しなやかな腰を俺の腰にくっつけた。

 

 俺はただ彼女を受け止めた。肌に彼女の温もりが染み込んだ。胸に彼女の鼓動が響いた。口の中に彼女の吐息が広がった。

 

 やがて彼女は唇を離し、腕を離し、体を離した。そして、再び俺の真正面に立ち、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「ありがとう。吹っ切れた」

 

 俺は彼女に礼を言うと後ろを向いた。そして、地面を踏みしめるように歩き出す。振り返ろうとは思わない。彼女はいつも前にいる。進み続けたらきっと会えるだろう。

 

 進んだ先にあったのは白い部屋だった。壁も天井も白く、調度品も白で統一されていた。その中央に鎮座するベッドが俺の居場所である。

 

 俺は上半身を起こし、周囲を見回した。窓の外はすっかり暗くなっている。ムルティ少将は顔を上げて「起きたっすか」と言うと、漫画に視線を戻した。世界は何も変わっていない。それなのにとても晴れやかな気分だった。

 

 

 

 エリヤ・フィリップスが倒れたという事実は、驚きをもって受け止められた。付き合いが薄い人間は、俺を「マッチョの中のマッチョ」だと思い込んでいる。付き合いが深い人間は、俺を「元気だけが取り柄の馬鹿」だと思い込んでいる。チュン・ウー・チェン副参謀長ですら空腹で倒れたと勘違いし、潰れたパンを握らせた。病気で倒れるとは誰も考えなかったのである。

 

 休んでいる間、仕事が滞ることはなかった。パエッタ大将は精力的に総司令官代行としての仕事をこなした。重要でない事項については、イゼルローン総軍副司令官オイラー大将に決裁させた。他の者もいつもどおりに仕事をこなした。

 

 倒れてから二日後、俺は仕事に復帰した。倒れる前より元気になったような錯覚すら覚える。休養に勝る薬はないということを思い知らされた。

 

 アッテンボロー大将やポプラン少将による突き上げはいくらか弱まった。理由はわからないが、ある程度は察することができる。艦隊戦が避けられない情勢となり、部下をなだめるための上官批判を続ける理由がなくなった。彼らの個人的な趣味もあるだろう。強敵と戦うことに生きがいを感じる人種は、病み上がりの相手と喧嘩しても面白くないはずだ。

 

「アッテンボローは、フィリップス提督が倒れても構わないと思っていた。だから、執拗に叩き続けたのだ」

 

 そう主張する部下もいたが、さすがに考えすぎだと思う。俺が倒れたことは、アッテンボロー大将にとっても予想外だったのではないか。

 

 六年前に上官のヤン・ウェンリー提督を突き上げた時、俺は相手が倒れるなんて思わなかった。根拠などまったくない。過去の記憶をたどれば、前の世界で読んだ戦記の内容を思い出し、ヤン提督がストレスに苦しんだ事実に行き着いたはずだ。しかし、考える余裕はなかった。考えればわかることも、考えなければわからない。

 

 ジャスパー大将やデッシュ大将らは、批判の手を緩めようとしなかった。彼女らのグループはヤン元帥個人への忠誠心で動いている。敬愛する上官の敵ならば、強くても弱くても関係ない。見舞いに来たジャスパー大将が「因果応報ですね」と言ったように、意趣返しの意味もあるだろう。六年前、俺の突き上げを受けるヤン提督の側にいたのは彼女らだった。

 

 いずれにせよ、倒れる前よりやりやすくなったことは間違いなかった。アッテンボロー大将とポプラン少将がおとなしくなるだけで、こんなにも快適になるのだ。

 

「帝国軍が出撃しました!」

 

 アナウンスと共に警報が鳴り響いた。軍艦が次々と宇宙港を飛び立ち、イゼルローン要塞の前に集まり、艦列を形成する。ガイエスブルク要塞の再接近以降、三度目の戦闘が始まった。

 

 モスグリーン色の同盟艦と黒灰色の帝国艦が入り乱れて戦った。戦艦と巡航艦は主砲を止め、副砲とミサイルを撃ち放つ。駆逐艦の半数は中距離レーザー砲で援護射撃を行い、半数はレールガンを乱射しながら突進する。母艦から飛び立った単座式戦闘艇は、敵艦に肉薄攻撃を仕掛けたり、敵の戦闘艇と格闘戦を繰り広げたりした。

 

 目の前の敵は旧体制の悪弊が凝縮された軍隊だった。ある者は抜け駆けして集団行動を乱した。ある者は突出しすぎて窮地に陥った。ある者は味方の苦戦を尻目に傍観を決め込んだ。ルッツ艦隊だけが整然と戦っている。

 

 キルヒアイス元帥は抜け駆けした部隊を引っ張り戻し、窮地に陥った部隊を救い、傍観を決め込んだ部隊を急かした。隊列維持は各部隊の指揮官がやるべき仕事である。しかし、キルヒアイス派の指揮官は統率力を欠いている。レンネンカンプ上級大将を除くメルカッツ派の指揮官も、統率力不足だった。そのため、総司令官が分艦隊の隊列に気を配るという馬鹿げた事態が生じた。

 

 同盟軍の状態はお世辞にも良いとは言えなかった。ベテランが少ないため、円滑に動けない。内部対立が味方同士の連携を妨げる。

 

 前線司令官パエッタ大将は重厚な防御線を敷き、巧妙に兵を動かし、偶発的なトラブルを迅速に片付け、敵が放った奇兵を退けた。その素早さと正確さは精密機械を思わせる。ミスター・パーフェクトの異名に恥じない用兵である。

 

「ここまでやるとは思わなかった。嬉しい誤算だ」

 

 俺はスクリーンを食い入る様に眺めた。どのような状況であれ、パエッタ大将がキルヒアイス元帥に対抗できるとは予想できなかった。

 

 前の世界では、ジェフリー・パエッタは天才ヤンの意見を聞かなかった愚将、ジークフリード・キルヒアイスは不敗の名将であった。戦記を読んだ者なら、この二人が互角に戦えるとは思わないだろう。戦記を読んでいない者なら、パエッタの名前すら知らないはずだ。

 

 戦闘が終了すると、俺はパエッタ大将を昼食に誘った。キルヒアイス元帥と実際に戦った感想を聞いてみたかったのだ。

 

「キルヒアイス元帥はどうだ? 手強いか?」

「言われるほど弱くはありませんな」

 

 パエッタ大将は眉を軽くひそめ、睨むような視線を右前方に向けた。

 

「キルヒアイスほど無能な男は見たことがないね。士官学校を出ていない。幕僚勤務もやっていない。金髪のガキのお付きしか経験していないのに、いきなり提督になったんだ。なぜかわかるか?」

 

 オイラー大将が取り巻き相手にキルヒアイス無能論を語っている。

 

「金髪の孺子の愛人だからですよね!」

 

 エレオノール・ポプラン少佐がおどけたように右手を上げた。

 

「そのとおりさ。キルヒアイスは尻穴を差し出して提督になった」

「格下にしか勝てない男ですからね。強敵に勝った経験なんてないでしょ。キャボット提督を討ち取ったのはまぐれだし」

「金髪のガキが楽に武勲を稼げる仕事を回すのさ。無能だから当然失敗するんだがね。で、俺たちが元帥閣下専属男娼の尻拭いをさせられる。尻穴提督の尻拭いさ」

「ひどい話ですね、本当に」

「ローエングラム元帥府はホモとのろまの巣窟だ。ミュラーのようなうすのろじゃなきゃあ耐えられんね」

 

 オイラー大将が皮肉たっぷりに言うと、取り巻きたちは大きな笑い声をあげた。

 

「注意してきます」

 

 ワイドボーン参謀長が我慢できないといった感じで立ち上がり、オイラー大将のテーブルに向かった。

 

「勝つ自信はあるか?」

 

 俺はパエッタ大将の顔に視線を戻し、質問を続けた。

 

「回廊の中なら負けることはないでしょう。能力の問題ではなく地形の問題です」

 

 パエッタ大将が周囲を見回すと、幕僚たちが頷いた。キルヒアイス元帥は回廊では弱いというのは、彼個人の意見ではない。チーム・フィリップスの幕僚全員が共有する意見だった。

 

 第一辺境総軍は発足直後から、ジークフリード・フォン・キルヒアイスの研究を続けてきた。今回の戦いにもその研究成果は反映されている。

 

 長所を見つけることが得意なチュン・ウー・チェン副参謀長によると、キルヒアイス元帥の勝ちパターンは二つあるという。一つは機動力を生かして側面や後背に回り込み、一気に突入する。もう一つは陽動によって敵を誘い出し、側面や後背に回り込み、一気に突入する。それ以外の勝利パターンはないらしい。極端な先制速攻型なのだ。

 

 欠点を抉ることが得意なワイドボーン参謀長は、キルヒアイス元帥の欠点を探した。先制速攻型の提督は正面決戦が苦手だと言われる。反撃される前に敵を倒してしまうため、守りを固めた敵への対応に慣れていない。キルヒアイス元帥にもこの法則が当てはまる。ビブリスでは包囲軍を攻めあぐねた。ヴァルハラでは第八艦隊相手に苦戦した。正面決戦に持ち込んでしまえば、キルヒアイス元帥は恐ろしくないという。

 

 イゼルローン回廊は攻め込んだ者に正面決戦を強要する宙域である。敵の側面や背後に回り込もうとすると、危険宙域にぶつかってしまう。正面から突破しようとすると、狭い戦場正面に密集した敵軍と直面することになる。敵と正面から対峙し、時間をかけて攻略する以外の戦い方ができない地勢なのだ。

 

「回廊の中で戦う限りにおいては、キルヒアイスは強敵ではない」

 

 これがチーム・フィリップスの出した結論だった。トリューニヒト政権は帝国領に攻め込むつもりなどない。つまり、トリューニヒト政権が続いている間は、同盟軍がキルヒアイス元帥に負ける可能性はないということになる。

 

 幕僚が何を言おうと、俺はキルヒアイス元帥を恐れた。彼の圧倒的な強さの前では、地形や弱兵などハンデにならないと思っていた。だから、作成者のワイドボーン参謀長が「慎重すぎて望ましくない」との所見を述べた持久戦法を採用したのだ。

 

 現実は俺の予測を裏切った。パエッタ大将はキルヒアイス元帥と三度戦ったが、劣勢に陥ったことは一度もなかった。

 

「慎重すぎたのかな」

 

 俺は少し後悔した。帝国軍と戦っても良かったのではないか。持久戦法を採用する必要はなかったのではないか。ガイエスブルク要塞を攻略できるとは思わない。だが、局地戦を延々と繰り広げ、兵の闘争心を満足させるという選択はできた。個人レベルの武勲を喧伝し、英雄を作り上げれば、政府や市民も満足しただろう。

 

「軽率よりはましです」

「そう思うことにしようか」

「キルヒアイス相手なら慎重に戦ったほうがいいですな。あの無能の集まりを、曲がりなりにも軍隊として機能させている。その一点において、平凡ならざる将帥と見るべきでしょう」

 

 パエッタ大将は念を押すように言った。この言葉が俺だけでなく、この場にいる者全員に向けられていることは明白である。

 

「今後は戦術面以外にも注意を払う必要がありますね」

 

 ラオ作戦部長が考え込むように腕を組んだ。戻ってきたワイドボーン参謀長らも表情を改めた。

 

「戦術レベルに限定すれば、どのような条件だろうが負ける気はしない。彼の戦術は単調だ。回り込んで突撃以外のパターンを持たない。戦術なら私に一日の長がある。陽動に気をつければ、恐ろしい相手ではない。だが、それはキルヒアイス個人に限った話なのだ」

「個人でない場合が問題ということですか」

「私はそう考えている。統率こそがキルヒアイスの本領なのだろう。戦術レベルの指揮を配下に任せ、全体指揮に専念する。そうすれば、戦術の単調さは問題にならん。彼自身の突撃力を生かす余地も広がる。突撃屋は正統派と組んだ時に真価を発揮するものだ」

「認識を改めなければいけませんね」

「ミュッケンベルガーには及ばんが、それに近い力はある。キルヒアイスは若干二六歳の若者だ。軍歴の半分は副官勤務で、部隊指揮の経験は少ない。用兵を体系的に学んだこともない。それなのにこれだけの力があるのだ。経験を積めば、さらに成長するだろう。侮れない相手だぞ」

 

 パエッタ大将は睨むような目で列席者の顔を見回した。「キルヒアイスを甘く見るな」と釘を刺すかのようだ。

 

 俺に言わせれば、パエッタ大将もキルヒアイス元帥を甘く見ている。この世界のミュッケンベルガー元帥は、大敗しないが大勝もしないことから、「一流だが超一流ではない」と評された提督である。前の世界で不敗を誇り、ヤン・ウェンリーに「ラインハルトの分身」と言わしめた男とは比較にならない。

 

 どうすれば、キルヒアイス元帥の恐ろしさが伝わるのだろうか? 前の世界の彼は、カストロプ家の反乱を平定し、同盟軍補給部隊を殲滅し、第七艦隊を降伏させ、第一三艦隊を追い詰め、アムリッツァ会戦で機雷原を突破し、帝国辺境の貴族連合軍を平定し、キフォイザー会戦でリッテンハイム公を大破し、ガイエスブルク攻防戦で貴族連合艦隊にとどめを刺した。この世界の同盟軍は、リッテンハイム公やリンダーホーフ侯を蹴散らしただけにすぎない。根本的に格が違うのだ。

 

「あれ!?」

 

 何が違うのかを考えたところで違和感を覚えた。戦績を羅列すると、前の世界のキルヒアイス提督が全然強そうに見えないのだ。カストロプ家は名家だが一領主である。第七艦隊は占領地に兵力を分散させ、物資不足や民衆暴動で疲れ切った状態で戦った。第一三艦隊は連戦の疲れがあり、兵力はキルヒアイス軍の四分の一に過ぎなかった。アムリッツァの同盟軍は機雷原に兵を置いていなかった。リッテンハイム軍は数が多いだけで、編成の統一性すら保たれておらず、軍隊とは言えない代物だった。補給部隊や貴族連合軍は考えるまでもない。

 

 前の世界のキルヒアイスは、強敵と戦っていないのではないか? ヤン・ウェンリーと戦った時だって、連戦の疲れがある相手に対し、四倍の兵力で攻撃を仕掛けた。負ける方がおかしい状況である。

 

「おかしいでしょう」

 

 その声にぎょっとした俺は顔を上げた。いつの間にかキルヒアイス元帥の話は終わり、部下たちは野球中継に見入っている。

 

 放映されているのはギャラクシーシリーズの二回戦だ。レベロ政権時代にイゼルローン要塞の通信機能が飛躍的に強化された。そのため、妨害電波が飛び交う前線でも、要塞の中にいれば本国の番組を見ることができる。

 

「なんでサブールなんですか。ブルスニツィンだって左です。十分抑えられるでしょうに」

 

 ラオ作戦部長が不平を鳴らしている。ハイネセン・ファイヤーズが四点差でリードしているにもかかわらず、左のワンポイントリリーフを投入してきた。それが納得できないようだ。

 

「当然だろう。ジャンソンには一発がある。ホームランが出たら二点差だぞ」

 

 パエッタ大将が険しい顔で反論した。彼は第一辺境総軍きってのプロベースボール通である。

 

「二点取られたって構わんでしょう。相手はピジョンズです。ファイヤーズのリリーフ陣なら逃げ切れます」

「君はわかっとらんな。ここで打たれたら、ピジョンズが勢いに乗るかもしれん。野球は戦争と同じだ。何が起きるかわからん。確実にジャンソンを仕留めるべきだ」

「そんなもんですかね」

「ファイヤーズがなぜ絶対王者なのかわかるか? 選手層が厚いからではない。格下相手の取りこぼしがないからだ」

 

 この一言を聞いた瞬間、キルヒアイスの真の武器がわかった。確実性である。格上が格下に必ず勝つとは限らない。戦史に残る天才でも思わぬ敗戦を経験している。格下を確実に仕留める提督は貴重な存在だ。ラインハルトが強敵と戦い、キルヒアイスが弱敵と戦えば、絶対に負けない。

 

 食事時間が終わったので、試合を最後まで見ることはできなかった。夜のニュースでファイヤーズが勝ったことを知った。



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第111話:勝利のために必要なもの 802年11月9日~11月13日 イゼルローン要塞

 一一月九日、首席副官ハラボフ大佐が職務に復帰した。少し痩せたように見えるのは気のせいではない。寝込んだ初日は、チキンスープすら喉を通らないほどに衰弱していた。

 

「すまなかった。俺のせいで風邪をひかせてしまった」

 

 俺が頭を下げると、ハラボフ大佐も頭を下げた。

 

「謝らなければならないのは私の方です。閣下の体調が悪いことに気づいておりませんでした」

「気にするな。君が気づかないなら、神様だって気づかない」

「ありがとうございます」

「礼を言うのは俺の方だ。ずっと心配してくれたそうじゃないか」

 

 これは社交辞令ではなく、心からの感謝であった。見舞客が来ると、ハラボフ大佐は「フィリップス提督の体調はいかがですか?」と質問し、良さそうだと聞いたら嬉しそうに笑い、悪そうだと聞いたらため息をついたそうだ。寝込んでいても上官のことを考えている。俺ごときにはもったいない部下である。

 

「し、仕事ですから!」

 

 ハラボフ大佐は早口で答え、走るような急ぎ足で自分の机に向かった。一秒でも早く仕事を始めたいのだろう。

 

「元気になってよかった」

 

 俺は胸を撫でおろした。ハラボフ大佐が寝込んでいる間、本当に心配だった。見舞いに行った人がいると聞くと、「ハラボフ大佐の体調はどうだ?」と質問した。彼女の好物を差し入れたり、彼女を見舞う人に「フィリップス提督は元気です」と言わせたりしたものだ。過保護だという人もいたが、それぐらいでちょうどいい。部下を大切にするのは、上官の義務である。

 

「帝国軍が出撃しました!」

 

 アナウンスと共に警報が鳴り響いた。今や艦隊戦は定例行事と化している。ティアマトから到着したばかりの要塞艦隊と第一三艦隊が、イゼルローン要塞の正面に展開した。

 

 帝国軍は第九次イゼルローン攻防戦が始まって以来、最大規模の攻勢に出た。二万隻を超える大軍が一斉に押し寄せる。貴族軍人は喜び勇んで突撃し、縦横無尽に飛び回り、ビームやミサイルを撃ちまくった。撃退されても態勢を立て直し、突進を繰り返した。損害度外視の猛攻は同盟軍を辟易させたが、それ以上の成果はなかった。

 

 この日を境に、帝国軍の戦法が一変した。力任せの突撃を繰り返すようになったのだ。この戦法はそれなりの戦果をあげた。その一方で損害も加速度的に増大している。

 

「どういうつもりなんでしょうか。損害が増えるだけでしょうに」

 

 メッサースミス作戦副部長は、咎めるような目をスクリーンに向けた。帝国軍のやり方はコストパフォーマンスが悪すぎる。戦果が損害に見合わない。敵の損は味方の得であり、歓迎すべきことだ。それでも、腹が立ってしまうのだろう。

 

「政治絡みじゃないか」

 

 俺はこともなげに答えた。英雄キルヒアイスが考えることはわからない。だが、政治家キルヒアイスが考えることなら、わからないでもない。

 

「どういうことです?」

「誰かに尻を叩かれたんだろう。お土産を持ち帰ってこいってね」

「どこの国も同じですね」

 

 メッサースミス作戦副部長が眉をひそめた。帝国情勢をある程度知っていれば、誰がどんな理由で尻を叩いたのかは容易に想像できる。

 

「うちの方がましだよ。選挙があるから」

 

 俺は心からそう思っている。同盟は主権者が兵士になる国である。損害を出しすぎると選挙で負けるので、政府は損害度外視の作戦をやりたがらない。民主主義は選挙目的の出兵を誘発するが、損害を抑える作用もあるのだ。

 

「人間は権力を持つと変わってしまうんですかね」

 

 ベッカー情報部長は残念そうにため息をついた。キルヒアイスファンの姪を持っているだけに、複雑な思いがあるようだ。

 

「個人の良心なんて、政治の論理の前では無力だ」

 

 俺はキルヒアイス元帥をかばうように言った。支持者の頼みを良心だけで拒否できるのならば、それほど楽なことはない。世話になった相手に懇願されたら、「いい人」は断りきれないだろう。権力者が支持者を利用する一方で、支持者は権力者を利用しようとするものだ。人の良い権力者は支持者に振り回される。

 

「キルヒアイス元帥は宇宙艦隊改革を潰しましたからね。古い軍隊でも勝てると証明する義務がある。そうしないと、古い軍人を守れない」

 

 ベッカー情報部長の言葉は、明らかに自分を納得させるためのものだった。だが、それほど的外れではなかった。

 

 帝国軍は銀河連邦軍の任務部隊方式を受け継いだ。艦隊と分艦隊は司令部組織のみを有し、任務ごとに必要な艦艇を指揮下に加え、部隊を編成した。唯一の例外はイゼルローン要塞駐留艦隊である。このやり方には戦力の効率的運用、反乱防止といったメリットがあった。その反面、連携不足を招いた。ポストを作るために、不要な司令部が増設されるという問題も起きた。

 

 ラインハルトは同盟軍と同じ固定編制を採用し、一万隻の艦隊を一二個作る計画を立てた。艦隊の数を絞り、新しい艦艇と優秀な将兵を集約し、質的向上を進める。旧式艦を退役させ、無能な将兵をリストラし、経費を削減する。連携不足という欠点も解消できる。

 

 一方、保守派軍人は一八個艦隊体制の維持を求めた。艦隊司令部を一八個から一二個に削減すれば、数千人の将校が路頭に迷うことになる。旧式艦の退役は、艦長や下級将校や下士官など数百万人の失職を招く。そのような改革は容認できない。

 

 キルヒアイス元帥は保守派を支持した。彼の元帥府は保守派軍人の巣窟である。独立した時、ラインハルトから預かった部下の大半は、ローエングラム大元帥府に残った。ずっとラインハルトに密着していたため、独自の人脈は持っていない。そのため、ラインハルト派に入れないが、メルカッツ派に行くつてもない軍人を迎え入れた。経験はあるが能力がない者、実績はあるが考えが古すぎる者がキルヒアイス元帥府に集った。前の世界で「ゴミ溜めの中にも美点を見出すタイプ」と評された彼は、無能な者や古い者を見捨てられなかったのだろう。

 

 結局、艦隊再編は中途半端に終わった。一万隻の主力艦隊を六個、六〇〇〇隻の遊撃艦隊を一二個編成し、一八個艦隊司令部体制は維持された。

 

「どこかで聞いたような話ですね」

 

 ラオ作戦部長が何気ない顔で言った。

 

「よくある話だね」

 

 俺は顔をひきつらせた。ラオ作戦部長に悪意がないのはわかる。それでも動揺した。キルヒアイス元帥が他人とは思えなかった。

 

 

 

 イゼルローン要塞正面の戦いは、戦略的には何の実りもなかったが、戦った者にとってはそれなりの意味があった。数々の武勇談がニュースを賑わせた。

 

 最も華々しい武勲を挙げた提督は、要塞艦隊司令官アッテンボロー大将である。猛り狂う敵を闘牛士のようにいなし、引きずり込んで叩き、多大な戦果をあげた。一週間で三度の戦闘に参加し、元ルートヴィヒ・ノインの勇将エルラッハ中将、少将二名を討ち取った。要塞艦隊の弱兵ぶりを考えれば、驚くべき戦果と言っていい。

 

 フィリップス一六旗将最強のマリノ中将は、その名に恥じない活躍を見せた。帝国軍に何度も突入し、艦列を次々と突き破った。一三日にはクロッペン艦隊旗艦アウズンブラに迫り、あと一歩まで追い詰めた。

 

 ビューフォート中将とバルトハウザー中将は、華々しいと言えないまでも十分な戦果をあげた。マリノ中将のような破壊力はないが、着実に仕事を果たす。フィリップス一六旗将らしいといえるだろう。

 

 二〇代の若手提督の中では、コレット少将の活躍が目を引いた。旗艦アシャンティを先頭に突撃し、敵を散々に打ち破るさまは、第三六機動部隊の復活を何よりも雄弁に示した。突撃一本槍の俺とは違い、高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処することもできる。

 

「懐かしいですねえ」

 

 第一辺境総軍の後方副部長テミルジ准将は、スクリーンをしみじみとした目で見詰める。コレット少将がミュラー艦隊の一部隊と激しく競り合っていた。

 

「何がだ?」

 

 俺は咎めるような視線をテミルジ准将に向けた。彼女はアーサー・リンチ元少将の用兵を直に見たことがある。コレット少将の用兵がリンチ元少将に似ていると言われたら、冗談では済まない。

 

「敵の戦いぶりです。ずいぶん古臭い用兵だなあと」

「ああ、それは感じる」

 

 俺は表情を緩め、コレット少将の敵手に注目した。確かに今どきの用兵家とは思えない戦い方である。

 

「予備役の年寄りでも引っ張り出したんでしょうか」

「それはないね。ローエングラム公は怠惰を嫌う人だ。古いやり方にしがみつく年寄りなんて使わない」

「でも、なかなかの強者ですよ。コレット提督と互角に戦っています」

「確かに強いな。コレット提督より数段上だ。練度や装備で劣っているのに互角なんだから」

「何者なんでしょうね……」

 

 二人で首を傾げていると、チュン・ウー・チェン副参謀長がやってきた。両脇にパンの入った紙袋を抱えている。

 

「パンはいかがですか」

「ちょうどいいところに来た。あれ、どう思う?」

「昔を思い出します。七八〇年代の我が軍が使った定石ですよ」

「…………」

 

 俺とテミルジ准将は顔を見合わせた。何となく古いと思っていたが、同盟軍の定石だったのだ。

 

「この提督は同盟風の用兵をしますね。帰順した同盟人ではないでしょうか」

「帰順者だとしたら、相当昔の人間だぞ。一〇年以上前に廃れた定石を使っているんだからな」

「海賊あがりかもしれません。七八〇年代に同盟軍を辞めて海賊になったと考えれば、辻褄は合います。現役軍人でなかったら、最新の用兵を学ぶ機会はありませんから」

「ありえるね。帝国と提携する海賊なんて山ほどいる」

「ローエングラム公は大したものです。外国人海賊までスカウトするのですから」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は手放しで感嘆した。良いと思ったら敵でも素直に褒める。彼にとっては味方も敵もパンなのだ。

 

 単座式戦闘艇同士の格闘戦は戦場の華である。味方艦に接近しようとする敵機を撃ち落とす。敵陣に突入し、護衛機を排除し、敵艦にレールガンやミサイルを叩き込む。妨害電波が飛び交う空間では、味方と連携することは難しい。そのため、パイロットの技量が勝敗を決する。

 

 エースパイロットは軍人というより戦士に近い精神の持ち主である。己の技量のみを頼り、一騎打ちにすべてを賭ける。若手のショーン・バトラー中尉やエディト・カニャール准尉らは、凄まじい勢いで撃墜数を伸ばした。ベテランのミュン・サヤン大尉、ノーラ・ハリントン中佐、フランシスコ・ブラガ少佐らは、古豪の貫禄を見せつけた。

 

 ヤン・ウェンリー元帥の養子ユリアン・ミンツ准尉は、要塞空戦隊の一員として活躍した。四日間でワルキューレ八機を単独撃墜、駆逐艦一隻を撃沈という武勲は、名だたるエースに勝るとも劣らない。

 

 俺はミンツ准尉に褒め言葉をかけようとしたが、冷ややかに無視された。理由はわかっている。二〇歳という年齢は、恩師の敵に対する敵意を隠すには若すぎる。それでもへこんでしまう。

 

 この話をコレット少将にしたところ、苦笑いとともに「ミンツ君に話を聞かせる方法」を教えてくれた。予想もしない方法だったが、確かに有効だと思える。憂国騎士団の白マスクがこの方法を使ったとしても、ミンツ准尉は一〇〇パーセント話を聞くだろう。

 

 エースの中のエース「トランプのエース」は圧倒的な強さを見せた。通算撃墜数第一位の「ハートのエース」オリビエ・ポプラン少将、通算撃墜数第四位の「クラブのエース」イワン・コーネフ少将、通算撃墜数第七位の「スペードのエース」ウォーレン・ヒューズ少将、通算撃墜数第八位の「ダイヤのエース」サレ・アジズ・シェイクリ少将らは、スパルタニアンを駆り、敵機を次々とヴァルハラに送り込んだ。

 

 トリューニヒト政権は「人材の有効活用」と称し、戦闘艇乗りの階級上限を撤廃した。この決定によって、司令官や教官や艦長として勤務していた往年のエースたちは、再びスパルタニアンに乗る資格を得た。トランプのエースもその一例であった。

 

 同盟軍の個人技に対し、帝国軍は三機が一体となった集団戦法をもって対抗した。本来、単座式戦闘艇は単独行動で真価を発揮する兵器である。だが、未熟な者は戦闘艇の力を十分に引き出せないため、集団で戦った方がましになる。

 

 集団戦法を編み出したのは、帝国宇宙軍空戦隊総監ホルスト・シューラー大将である。帝国の空戦隊はラグナロックで壊滅的な損害を被った。開戦四ヶ月後には、新兵がパイロットの七割を占める有様だった。帝国軍はフェザーン人傭兵を雇ったり、海賊に恩赦を与えて入隊させたり、軍学校生徒を繰り上げ卒業させたりして、パイロットの確保に努めた。生き残った数少ないベテランパイロットは酷使され、シューラー大将も塗炭の苦しみを味わった。その苦い経験が集団戦法を誕生させた。

 

「皮肉なもんだな」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。前の世界では、同盟軍のオリビエ・ポプランが集団戦法を編み出した。帝国領侵攻で同盟宇宙軍空戦隊が壊滅したため、未熟なパイロットでも戦いる方法を考えざるを得なかった。ホルスト・シューラーはポプランの集団戦法に対抗するために、集団戦法を用いた。二つの世界で正反対の現象が起きているのだ。

 

 単艦同士の戦いは空戦に負けず劣らずエキサイティングだ。エース艦長が指揮する艦は一騎当千の働きをする。レイラ・スクワイア大佐、サルバドール・ソロリオ少佐らは無人の野を行くような快進撃を続けた。アガサ・アリソン中佐は一日で敵艦八隻を沈めた。

 

 多くの武勇談が生まれたといっても、しょせんは局地的なものに過ぎない。全体としては低調な戦いである。

 

 第四艦隊のゾンバルト中将とラヴァンディエ中将は、競い合うように奮戦し、大いに武勲をあげた。オペレーション・モンブランの失敗を埋め合わせるかのように見えた。

 

「惜しくなりません?」

 

 そう言ったのは人事参謀イオホーパー少佐であった。

 

「何がだい?」

「ラヴァンディエ提督ですよ。手放なきゃ良かったと思いません?」

「惜しくない」

 

 俺はイオホーパー少佐の顔を見ずに答えた。

 

「どうしてです?」

「責任感がない。部下に興味がない。面倒な仕事をしない。武勲を立てることしか考えていない。そんな部下は必要ない」

「でも、強いでしょ」

「強くても必要ない」

「あれだけ強いなら十分……」

「不十分すぎる」

 

 その言葉を口にした後、俺は口を閉じた。ラヴァンディエ中将は軍人として許せない。顔も見たくないぐらい嫌いだ。ヤン元帥ならああいう人間でも使いこなせるのだろうが、俺にはそんな器はない。

 

 第四艦隊の戦いぶりは一見すると鮮やかであった。名将が敵部隊を散々に打ち破り、エースパイロットが狩りをするように敵機を撃ち落とし、エース艦長が敵艦を宇宙の藻屑に変えた。だが、おのおのが個人的武勲をあげることに熱中しているため、ほとんど戦況に寄与していない。それどころかたびたび劣勢に陥った。司令官直属部隊の奮戦により、どうにか戦線を維持している。

 

 ヤン・ウェンリー一二星将は著しく精彩を欠いた。第四艦隊司令官ジャスパー大将は統率力不足を露呈した。第六艦隊司令官ムライ大将は慎重すぎて後手後手に回った。第一三艦隊司令官代理デッシュ大将は、有事の司令官としては物足りない。第一三艦隊司令官代理フェーガン中将は柔軟さに欠ける。ラヴァンディエ中将、マイアー中将、キャラハン中将、ゾンバルト中将らはスタンドプレーに走り、たびたびピンチを招いた。ダロンド中将、ザーニアル中将、マリネッティ中将、モカエ中将らは、消極的な姿勢が目立った。

 

 第二艦隊司令官代理アップルトン中将の用兵は、無難だが面白みがない。面白みのなさこそが第二艦隊の持ち味である。バルトハウザー中将、コレット少将、カプラン准将らの活躍が、わずかに彩りを添えた。

 

 第一一艦隊司令官ホーランド大将は、慎重すぎるほどに慎重に戦った。かつてのダイナミックさは影を潜めた。損害は少なかったが、戦果も少なかった。衰えたわけではない。部下に基礎を叩き込むため、あえてオーソドックスな戦い方を選んだ。彼は残された時間を後進育成に注ぎ込む決意を固めていた。

 

 一一月一二日七時三三分、帝国軍の攻勢が始まった。ミュラー艦隊とトゥルナイゼン独立分艦隊を右翼、ルッツ艦隊を中央、レンネンカンプ艦隊を左翼に配している。派閥バランスを無視した構成なのは、他の艦隊の損耗が著しいからであろう。キルヒアイス元帥自身は、待機中の三個艦隊から引き抜いた一万隻からなる前衛部隊を指揮した。

 

 同盟軍は第六艦隊と第五一独立分艦隊を左翼、第二艦隊と第五七独立分艦隊を右翼に配し、レンズ形状の陣を敷いた。パエッタ大将は旗艦キングマウンテンを後方に置き、全体を見渡せる位置から指揮を取った。

 

「大丈夫かな」

 

 俺は誰にも見えないように腹を抑えた。敵はベストメンバーを揃えてきた。アッテンボロー大将とホーランド大将とマリノ中将を投入しても、このメンバーに対抗するのは難しいだろう。ムライ大将、ダロンド中将、アップルトン中将、ビューフォート中将の四人では荷が重すぎる。

 

 だが、俺の予想は裏切られた。同盟軍は四度にわたる敵の攻撃を難なく防いだ。帝国軍が退き、戦いはあっけなく終わった。

 

「どういうことだ? 弱すぎないか?」

「我が軍が弱いのではありません。敵が予想以上に強いのです」

 

 ワイドボーン参謀長が思いもよらない事を言った。

 

「えっ!?」

「もっと楽に撃退できると思っていたんですがね。予想以上に粘られました。ルッツとミュラーは手強いです」

「君なら彼らの強さはわかっていたんじゃないか」

「わかっていたつもりでした。我が国でも一線級の分艦隊司令官として通用するだろうと」

「…………」

 

 俺は絶句した。高く評価すると言いながら、その程度の評価しか与えていなかったのだ。信じがたいことであった。

 

「この数日間で認識が変わりました。彼らは一二星将相手でも五分で戦えます。正規艦隊司令官が務まる器です」

「そんなもんじゃないだろう」

「いえ、そんなもんです」

 

 ワイドボーン大将の眼差しは真剣そのものだった。危機感を感じていることは間違いない。この世界の常識では、同盟軍は帝国軍より強い。強い同盟軍の象徴である一二星将と正規艦隊を引き合いに出すというのは、相当高く評価している証拠だ。

 

 だが、二つの世界を知っている俺に言わせれば、甘すぎると言わざるを得ない。一二星将はヤン元帥のおかげで実力以上に評価された連中ではないか。正規艦隊司令官を務めたウランフ提督、ボロディン提督、ホーウッド提督、ルフェーブル提督らは、前の世界ではラインハルト軍にあっけなく敗れた。今の正規艦隊司令官はそれよりも格下なのだ。

 

 どうすれば、ルッツ提督やミュラー提督の恐ろしさが伝わるのだろうか? 前の世界の彼らは、帝国領に攻めてきた正規艦隊を壊滅させ、リップシュタット戦役で貴族連合軍に連戦連勝し、ラグナロック戦役で同盟を降伏させ、大親征で同盟を滅ぼした。ヤン・ウェンリー以外の相手には一度も負けなかった。ミュラー提督はヤン提督から良将と讃えられているのだ。リッテンハイム公やリンダーホーフ侯に勝っただけの連中とはとは格が違う。

 

「あれ!?」

 

 何が違うのかを考えたところで違和感を覚えた。戦績を羅列すると、前の世界のルッツ提督やミュラー提督が全然強そうに見えないのだ。帝国領侵攻作戦の同盟軍正規艦隊は、戦う前から疲れ切っていて、しかも占領地に兵力を分散させていた。貴族連合軍は命令を平気で無視する連中の集まりで、組織的な行動すら困難だった。帝国領侵攻以降の同盟軍は、戦力が圧倒的に少ない。

 

 前の世界のルッツ提督やミュラー提督は、弱い敵を叩いただけではないのか? ヤン・ウェンリーと戦った時だって、相手の方が戦略的に不利だった。

 

 ここまで考えた時、俺はパエッタ大将の言葉を思い出した。絶対強者は格下相手の取りこぼしがないがゆえに絶対強者なのだ。ルッツ提督やミュラー提督は、比類ない忠誠を持ち、与えられた任務を確実にこなす。前の世界のラインハルトが絶対強者であり続けるためには、このような人材が必要だった。

 

 認識を改めるべき時が来ていた。前の世界の名将と同盟軍主力の差は思った以上に小さい。一二星将では対抗できないだろう。しかし、アップルトン中将程度の力があれば、ルッツ提督と互角以上に戦える。パエッタ大将やアッテンボロー大将なら、キルヒアイス元帥が相手でも五分に渡り合える。

 

「君の言うとおりだ。認識を改めよう」

 

 俺がそう答えると、ワイドボーン参謀長は満足そうに頷いた。評価を上方修正したと勘違いしたのだろう。勘違いされても構わなかった。

 

 

 

 仕事が一段落すると、俺はプライベートルームに入り、ベッドの上に横になった。夕暮れ時の薄暗い部屋で思考の中に没入する。

 

 人材の差が小さいならば、なぜ前の世界の帝国は圧勝したのだろうか? ローエングラム朝が成立した後、様々な説を耳にした。

 

 圧倒的な潜在力が勝利をもたらしたという説は、最も人気のある説だった。同盟の二倍近い人口と貴族財産という埋蔵金があった。だから、帝国は国力の差で圧倒できたというのだ。帝国が本気を出せば同盟なんてすぐ潰れたはず、と主張する論者も少なくなかった。

 

 俺も昔は潜在力説を信じていたが、政治や経済を学んだことで意見が変わった。帝国が抱える人口の大半は、貧民や奴隷であり、単純労働以外の用途に投入できる人的資源は少ない。貴族財産を接収しても、地方政府や公営企業の財源が中央に移るだけである。新しい財源が生まれるわけではないのだ。帝国の潜在力なるものは存在しない。

 

 軍事力の優位に勝因を求める説もある。帝国正規軍は一八個主力艦隊と警備部隊を有しており、同盟正規軍より数が多い。それに加えて貴族の私兵軍がいる。だから、帝国は数の差で圧倒できたというのだ。ラインハルトが圧倒的な大軍を動かした事実から、この説を信じる者は多かった。

 

 一般的な軍事知識があれば、軍事力説は否定できる。帝国は同盟の二倍近い領土を持っており、多くの兵を警備に割かねばならない。同盟の正規艦隊は対外戦争専門部隊だが、帝国の主力艦隊は対外戦争と反乱鎮圧の両方に使われる。さらに言うと、帝国軍は任務部隊方式を取っているため、一八個艦隊が常時編成されているわけではない。帝国宇宙艦隊の総数は、同盟宇宙艦隊よりやや多い程度だった。貴族の私兵は軌道警察や武装警察のようなものだ。数が多くても、同盟との戦いに投入できる戦力は限られている。軍事力の優位なるものは存在しない。

 

 政治制度が本質的に優れていたために勝ったという説も人気があった。独裁政治は意思決定が早く、大衆の無責任な意見に左右されないため、効率的に国家を運営できる。民主政治は意思決定が遅いし、大衆の無責任な意見に左右されるため、非効率極まりない。だから、帝国は効率性で圧倒できたというのだ。

 

 この説は一見すると正しいように見えるが、実際は詭弁に過ぎない。失敗した民主政治と成功した独裁政治を並べたら、独裁政治が素晴らしく見えるに決まっている。独裁政治は大衆に左右されないが、独裁者の取り巻きに左右される。帝国を見れば、取り巻きが無責任なのはひと目でわかるはずだ。また、独裁者が取り巻きを完全にコントロールできるとも限らない。失敗した独裁政治は意思決定が遅く、取り巻きの無責任な意見に左右されるため、効率的とはほど遠い。そして、大抵の場合、独裁政治は失敗する。

 

 結局のところ、ラインハルト・フォン・ローエングラムがいたおかげで、帝国は勝利できた。そう考えるより他にない。前の世界の帝国の優位は、七九六年に同盟軍を壊滅させたことによってもたらされた。ラインハルトがアスターテで三個艦隊を潰し、帝国領侵攻作戦で七個艦隊を潰したおかげで、帝国は圧倒的優位を得た。帝国の軍事的優位や経済的優位はこの時に初めて生じた。同盟は七九六年に生じた差を最後まで埋められなかった。実に単純な話である。

 

「すべてはトップ次第か」

 

 俺は大きく息を吐いた。前のラインハルトは戦う前から必勝の条件を整えた。有能だが圧倒的に強いわけではない提督たちは、戦略的優位のもとで連戦連勝し、銀河最強集団の名をほしいままにした。前の世界の同盟政府は無能だったので、有能な提督が不利な戦いを強いられ、実力を発揮できないまま亡くなった。

 

「やはり、命令を出す側にならないと駄目だな」

 

 前々から考えていたことを初めて口に出した。人の上に立ちたいと思ったことは一度もない。これからもないだろう。しかし、最善を尽くすには権力が必要だ。

 

 ふと、頭の中にトリューニヒト議長の笑顔が浮かんだ。権力を求めるならば、彼との対立は避けられない。俺がやりたいことは、彼の意に沿わないだろう。

 

「敵対したいわけじゃない。支えたいんだ。トリューニヒト議長を支えるために、権力が必要なんだ」

 

 そう呟くことで、俺は自分を納得させた。一〇年前、彼は「みんなが笑顔でテーブルを囲める世界」という理想を語った。八年前、彼は「不正と戦いたい」と言った。七年前、彼は「凡人のための政治」という理想を語った。五年前、彼は「同盟の分裂を防ぎたい」と言った。その言葉に俺は心を打たれた。彼の理想を現実にしたいと思った。理想を叶えるためには力がいる。

 

 二一時一二分、ヤン・ウェンリー元帥から通信が入った。第二二方面軍配下の機雷戦部隊を貸してほしいというのだ。

 

「機雷戦部隊ですか?」

 

 俺は目をぱちぱちさせ、ヤン元帥の顔を見詰めた。

 

「そうだ」

「用途をお聞かせいただけますか?」

「機雷原を作るのさ」

「何のためにお作りになるのです?」

「敵を追い払うためだよ」

 

 ヤン元帥は少しうんざりしたような表情になった。

 

「かしこまりました。すぐに手配いたします」

 

 俺は承諾の意を伝えると、すぐに通信を切った。ヤン元帥が俺を嫌っているのは間違いない。査問会でさらに嫌いになったはずだ。俺を引き合いに出して嫌味を言われたであろうことは、容易に想像できる。なるべく話さない方がお互いのためだ。

 

 一一月一三日六時〇八分、援軍がイゼルローン要塞に到着した。ヤン元帥が指揮する第三艦隊と第八艦隊は、見せつけるように要塞の周囲を一周した後、宇宙港に入った。フィッシャー大将が指揮する第一艦隊と第九艦隊は、一〇〇光秒(三〇〇〇万キロメートル)離れた宙点で待機している。

 

「指揮権をお返しいたします」

 

 俺はヤン元帥に全軍の指揮権を引き渡した。第一辺境総軍は撤収を始めたが、俺自身は戦後処理があるので幕僚チームとともに残った。

 

 ガイエスブルク要塞は今のところ何の動きも見せていない。援軍が到着したことには気づいているはずだ。そう遠くないうちに何らかのリアクションを起こすだろう。第九次イゼルローン攻防戦は最大のクライマックスを迎えた。



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第112話:賽は投げられた 802年11月13日~11月下旬 イゼルローン要塞

 帝国軍が動いたのは援軍到着から九時間後のことである。一一月一三日一五時一四分、二万隻を超える大軍がガイエスブルク要塞正面に展開した。レンネンカンプ艦隊が右翼、ルッツ艦隊が左翼、ミュラー艦隊とキルヒアイス直属部隊が中央という布陣である。トゥルナイゼン独立分艦隊はキルヒアイス直属部隊の先鋒となった。

 

 同盟軍はグエン大将の第八艦隊を右翼、クリンガー大将の第三艦隊を左翼、スレッテゴード技術少将の第三機雷戦集団を後衛に置いた。総司令官ヤン元帥は旗艦ヒューベリオンを中央最前列に置き、陣頭指揮をとる。ダロンド中将の第五一独立分艦隊とマイアー中将の第五三独立分艦隊が、旗艦の周囲を固めた。

 

 不敗の魔術師と赤毛の驍将が互角の条件で戦う。戦記の読者なら誰もが一度は夢見たシチュエーションが、思わぬ形で実現することとなった。

 

「始まったか」

 

 俺は仕事の手を止め、スクリーンに視線を移した。指揮権を返上し、中央司令室から退去したため、一観客として観戦する立場である。

 

 帝国軍は両翼を前進させ、凹形陣を形作った。各艦の距離は大きく開いている。これはかつての帝国軍イゼルローン駐留艦隊が用いた戦法であった。凹形陣を敷いた帝国軍は、上下左右から圧力を加えつつ中央を後退させ、同盟軍を要塞砲の射程内に引きずり込む。要塞砲が放たれると、散開状態の帝国軍は素早く退避するが、同盟軍は逃げ切れずに直撃を食らうことになる。

 

 同盟軍は艦列を広く薄く展開させた。上下左右の端が危険宙域と密着し、中央部に向かって引っ込むように湾曲している。この陣形を編み出したのはヤン元帥である。上下左右と前方から放たれる砲火網に死角はない。敵が回廊外縁部を迂回しようとすれば、防衛陣の端にひっかかる。敵が並行追撃を仕掛けようとしても、散開した同盟軍に食らいつくことがはできない。敵が薄い艦列を強引に突破しようとすれば、要塞砲の餌食になる。巨大なレンズのように見える陣形は、通常の宙域では役に立たないが、イゼルローン回廊最狭部である要塞周辺では無類の威力を発揮するのだ。

 

 双方がカウンター狙いの陣形をとり、砲撃を交わしつつ相手の出方を伺った。こうなると正攻法は使えない。まったく先が読めない展開である。

 

「いったいどうなるんだ」

 

 まったく先が読めない展開である。水面下では奇策の応酬が繰り広げられているはずだ。ヤン元帥の策が失敗することはないだろう。しかし、キルヒアイス元帥がヤン元帥の策にはまる場面も想像できない。

 

「君たちはどう思う?」

 

 俺は幕僚たちの意見を聞こうとしたが、誰もスクリーンを見ていなかった。他の者はこの戦いを消化試合だと思っているのだ。

 

 先に動いたのは帝国軍であった。ガイエスブルク要塞が通常航行用エンジンを稼働させ、イゼルローン要塞と正反対の方向に向かった。艦隊は凹形陣を保ち、守りを固めつつ後退する。イゼルローン攻略を断念したように見えた。

 

 同盟軍は追撃を仕掛けるどころか、ゆっくりと後退した。艦列の密度は一層薄くなっている。敵をイゼルローン要塞の前面に引きずり込み、艦隊と要塞砲群の連携攻撃を加える態勢だ。敵の撤退が見せかけに過ぎないと判断したのだろうか。

 

 両軍の距離はどんどん開いていき、やがて長距離砲の射程外となった。同盟軍の第三機雷戦集団が機雷敷設作業に取り掛かった。

 

 三〇分もしないうちに、核融合機雷六〇〇万個が回廊最狭部を埋め尽くした。指向性ゼッフル粒子で穴を開けても、突破は不可能だ。穴が一個だろうが、一〇個だろうが、一〇〇個だろうが変わらない。豊富な兵力を持つ同盟軍は、機雷原の全域に迎撃部隊を配置し、穴から出た敵を狙い撃ちできる。機雷原を超えて追撃しようとしたら、同盟軍が狙い撃ちにあうだろう。意思を持たぬ機雷は敵も味方も通さない。

 

「わかったぞ! 機雷原が魔術の種だ!」

 

 俺は身を乗り出した。体中の血が沸き立った。期待が風船のように膨れ上がった。心が子供のようにときめいた。ヤンマジックをこの目で見るのは初めてだった。人目がなければダンスを踊りたい気分である。

 

 帝国軍はなおも後退を続け、イゼルローン回廊の帝国側出口を抜けた。レーダーに映った光点が次々と消えていく。通常航行からワープ航行に切り替えたのだ。レーダーが真っ暗になると、同盟軍はイゼルローン要塞に引き返した。

 

「…………」

 

 期待は完全に裏切られた。ヤン元帥は機雷をばらまいただけだった。キルヒアイス元帥はあっさり撤退した。夢の一戦は凡庸極まりない結果に終わった。

 

「消化試合だと言ったでしょう」

 

 副参謀長チュン・ウー・チェン中将が苦笑いを浮かべた。

 

「でもなあ……」

「敵には撤退以外の選択はありません。潰走したわけではないので、追撃しても返り討ちを食らうだけです。答えは自ずから決まってきます」

「常識的に考えればそうなる。でも、ヤン元帥なら何かやってくれると思った」

「用兵家としての彼は合理主義者です。無意味なことはしません」

「じゃあ、機雷は何のために使ったんだ?」

「メッセージでしょう」

「そういうことか」

 

 俺にもヤン元帥の意図がようやく理解できた。追撃ルートを自ら塞ぐことにより、敵の全面撤退を促したのだ。去る者は追わず。楽に勝てるに越したことはない。いかにもヤン元帥らしいやり方である。

 

 一一月一三日二〇時、イゼルローン要塞で記者会見が開かれた。ヤン元帥が演台の左側、俺が演台の右側に座った。退避先から戻った従軍記者が記者席を埋め尽くした。

 

 演台に登ったヤン元帥は、つまらなさそうな顔でつまらないコメントを述べた。「お前たちの期待に応える義務はない」と言わんばかりである。普通の人がこんな態度をとったら、生意気だと叩かれるだろう。だが、ヤン元帥ほどの実績があれば、クールだと称賛される。

 

 次に演台に登った俺は、爽やかな笑顔で優等生的なコメントを述べた。マスコミと軍は持ちつ持たれつの関係である。話題を提供するかわり、好意的な記事を書いてもらう。そんな取り引きが暗黙のうちに成立している。

 

「三年ぶりの対帝国戦はいかがでしたか?」

「苦しい戦いでした。ラグナロックの戦訓から学んだのは、我々だけではなかった。敵もまた学んでいた、ということです」

「一番危なかった場面は?」

「初日の強襲上陸です。恥ずかしながら、いきなり上陸されるとは思いませんでした」

「印象に残った敵将は?」

「レンネンカンプ提督は本当に手強かったです。キルヒアイス提督もかなりの強敵でした。ルッツ提督、ミュラー提督、トゥルナイゼン提督は予想以上に健闘しました。いずれも二〇代から三〇代の若手です。帝国軍は世代交代を着実に進めていると感じました」

「今後、警戒すべき敵将は誰だとお考えですか?」

「キルヒアイス元帥ですね。イゼルローンに上陸された時、驚きより感嘆を覚えました。こんなやり方があったのかと」

「機動要塞が九世紀ぶりに戦場に現れました。戦った感想は?」

「イゼルローン要塞を攻めているような気分でした。機動要塞の復活ではなく、第二のイゼルローン要塞の出現である。小官はそう受け止めております」

「他に脅威だと感じた兵器はありましたか?」

「既成兵器の使い方に見るべきものがあります。特に感心したのはワルキューレの集団戦法です。艦載機を集団運用するという発想は、我々にはありませんでした」

「帝国軍は強いということですね」

「その通りです。帝国軍は凄まじい勢いで再建を進めています。そして、より強大な軍隊に生まれ変わろうとしています。さらなる警戒が必要です」

 

 そう答えたところで、俺は水の入ったコップに口をつけた。喉が乾いたわけではない。「さらなる警戒が必要」という発言を印象づけるため、間を空けた。記者たちは感嘆の声を漏らし、この発言が最重要発言であるかのように演出した。

 

 ここまでの問答は、帝国軍の強さを印象付けるためのものである。俺は意識改革を促したい。政府は不手際をごまかし、「苦戦したのは帝国軍が強いから。さらなる軍拡が必要だ」という方向にもっていきたい。御用マスコミは政権批判を封じ、帝国脅威論を煽りたい。三者の思惑が一致した結果、帝国軍の強さが必要以上に強調されることとなった。

 

 左後方から強烈な冷気が流れてきた。そこに座る人物が不機嫌の極みであることは、考えるまでもなくわかった。大物の不興を買ったと悟り、小物は恐れおののいた。机の上に置いた手が小刻みに震え出す。膝がガクガクし始める。肌がぞくぞくと粟立つ。

 

「どの部隊が最殊勲部隊だとお考えですか?」

 

 この質問が助け舟となった。問答に集中している間は、黒髪の青年元帥を意識せずに済む。

 

「要塞艦隊です。彼らの武勲については言うまでもありません。新設間もない部隊とは思えない活躍ぶりでした。伝統ある部隊も彼らに負けじと奮戦し、競い合うように武勲を重ねました。敵を倒すだけでなく、味方の奮起を促した。二つの意味で最殊勲部隊です」

「一二星将を率いて戦った感想は?」

「びっくりしました。彼らの勇名はもちろん知っています。しかし、ここまで強いとは思いませんでした。噂では彼らの強さを伝えきれないのでしょう。味方で良かったと改めて思います」

「ホーランド提督が復帰第一戦を飾りました。元部下としての思いは?」

「嬉しいの一言に尽きます。お世話になった方ですから。同盟軍にとっても喜ばしいことです。頼もしい戦力が加わりました」

「フィリップス提督は第一辺境総軍司令官であると同時に、第二艦隊司令官でもあります。第二艦隊の戦いぶりをどう評価なさいましたか?」

「十分な手応えを感じています。アップルトン中将をはじめとするベテランは、安定した力を発揮しました。コレット少将などの若い力も育っています。今後が楽しみです」

「どの場面が印象に残っていますか?」

「オペレーション・モンブランの後半ですね。痛恨の判断ミスでした。第二艦隊と第四艦隊の奮戦に助けられました。無力さを感じるとともに、良い部下を持ったことに感謝しました」

 

 俺は必要以上に部下を持ち上げた。アッテンボロー大将やジャスパー大将の非協力的な態度は、頭痛の種だった。一二星将や第二艦隊幹部の実力不足は明白だった。普通の提督なら遠回しに非難しただろう。厳しい提督なら名指しで非難したかもしれない。だが、誰かを傷つけるような発言はしたくなかった。

 

「今回の戦いでは多くの新兵器が実戦投入されました。使い心地はいかがでしたか?」

「レダ級巡航艦は次世代の主力艦にふさわしい艦ですね。トリグラフ級大型戦艦は司令塔として艦隊を引っ張ってくれました。チグリス級駆逐艦やグラックス級宇宙母艦も良い艦です。新しい艦載装備は非常に使いやすく、しかも高性能です。装備を積み替えた既成艦は、著しく性能が向上しました」

 

 新兵器の名前を羅列したが、新型単座式戦闘艇チプホには言及しなかった。故障が多すぎて使い物にならないので、褒めようがない。チプホ導入の急先鋒であるトリューニヒト議長は、良い顔をしないだろう。それでも、無理なものは無理だ。

 

「軍拡の成果は出ている。そう考えてよろしいのでしょうか?」

「小官はそう考えております。数と装備が未熟さを補いました」

 

 ここで言葉を切り、俺は再びコップに口をつけた。ぬるい水が乾いたのどを潤す。記者たちは再び感嘆の声を漏らした。軍拡が成功したとアピールするための演出であった。

 

「同盟軍は強敵を見事に打ち破りました。最大の勝因は何でしょうか?」

「将兵が頑張ってくれました。以前に述べたとおり、我が軍は未熟です。それでも、一人ひとりが未熟なりにベストを尽くしました」

「愛国心の賜物ということでしょうか」

「そのとおりです。我々は祖国を愛しています。我々は民主主義を愛しています。我々は自由を愛しています。正義は必ず勝つのです」

 

 俺は右手の拳を握り、ガッツポーズを作った。努力をたたえ、愛国心と正義を強調するのは一種のお約束である。

 

「そして、手厚い支援を受けました。手持ちの六個艦隊に加え、四個艦隊もの援軍をいただきました。物とお金を好きなように使わせていただきました。大軍を与えてくださった政府、援軍を率いてくださったヤン元帥、そして市民の皆様のご協力に心より感謝いたします」

 

 付け加えるように述べたコメントが真の勝因を示していた。狭い回廊では一度に投入できる兵力は限られており、数で押せなかったが、それでも物量差は物を言った。四個艦隊の援軍の存在は心強かった。改革派政権だったら、最前線に大軍を置かないだろうし、援軍も少なかっただろう。物量主義のトリューニヒト政権だからこそ、消耗戦に持ち込めた。

 

「今後の課題は何だとお考えですか?」

「経験不足が目立ちました。小官自身も例外ではありません。練度も不十分でした。兵力を増やしても、戦い方がわからなければ無意味です。優れた装備を持っていても、使いこなせなければ無意味です。経験不足と練度不足を解消しなければなりません」

「フィリップス提督自身はこの戦いをどう総括なさっていますか?」

「今回の戦いでは四三万六五四三名の兵士が犠牲となりました。彼らに感謝すると同時に、謝罪しなければなりません。小官は判断ミスを犯しました。小官は戦力の質的向上に失敗しました。彼らの死の責任は小官にあります。償うためにできるかぎりのことをします」

 

 俺は直立不動の姿勢を取り、腰を九〇度に折り曲げて謝罪した。これは演技ではなかった。戦死者には本当に申し訳ないとことをした。やるべきことをやっていれば、彼らは死なずに済んだのだから。

 

 会見場は静まり返った。丁重だが中身のない謝罪を行い、記者たちが持ち上げるというのが本来のシナリオだった。俺が自分の責任を明言してしまったため、どう反応すればいいのかわからなくなったのだろう。

 

「質問ありがとうございました。ヤン元帥とフィリップス提督より最後の一言をいただき、会見を終了したいと思います」

 

 司会者は何事もなかったかのように締めに入った。

 

 ヤン元帥は面倒くさそうに立ち上がり、俺の左隣に立った。その顔には「不愉快でたまらない」と書いてある。本人は隠しているつもりなのだろうが、隠しきれていない。

 

「結果がすべてです」

「勝利はゴールではなくスタートです。次の戦いは既に始まっています。同盟軍は一致団結して勝利を目指します。良かった点については、さらに改良を進めます。失敗は必ず修正します。明日の同盟軍は、今日の同盟軍より強くなるでしょう。明後日の同盟軍は、明日の同盟軍より強くなるでしょう。同盟軍は市民あっての軍隊です。ご協力をお願いいたします」

 

 最後のコメントを述べた後、俺はヤン元帥と握手を交わした。こうして記者会見は終わりを告げたのである。

 

 マスコミは記者会見の様子を大々的に報じた。俺とヤン元帥のツーショットというだけで話題になった。人々は俺の長いコメントを深読みする一方で、ヤン元帥の短いコメントの「真意」を探ろうとした。しゃべったら深読みされる。しゃべらなければ、ありもしない「真意」を探られる。世間はそういうものだ。

 

 

 

 第九次イゼルローン攻防戦は幕を閉じた。同盟軍は兵士四三万六〇〇〇人と艦艇四八〇〇隻を失った。帝国軍は七〇〇〇隻前後の損害を被り、イゼルローン回廊から撤退した。

 

 同盟政府は勝利宣言を行った。イゼルローン回廊を守り切った。自軍が被った損害より、敵に与えた損害の方が多い。名のある敵将を討ち取った。勝利を主張する材料は揃っていたが、市民の同意を得られなかった。

 

 国立中央自治大学世論調査センターの世論調査によると、第九次イゼルローン攻防戦を「勝利」とみなす者は二七パーセントに留まった。四五パーセントが「引き分け」、二四パーセントが「敗北」と答えた。勝ったと思わない理由については、「イゼルローン要塞に上陸された」「ガイエスブルク要塞に接近できなかった」「一度も主導権を握れなかった」「戦力に見合った戦果をあげていない」などがあげられた。

 

 最大の戦犯とみなされたのは国防委員会である。帝国が攻めてくる可能性を低く見積もり、備えを怠った。最悪のタイミングでヤン元帥を呼び出した。経験不足や練度不足についても、大きな責任を負っている。エルクスレーベン事件などの不祥事が相次いだこともあり、国防委員会は無能の代名詞に成り下がった。憂国騎士団ですら国防委員会叩きを行う有様だ。

 

 ネグロポンティ国防委員長はかねてより辞意を表明していたが、正式に退任した。委員長職を退くだけでは責任を取り切れないとの理由で、議員辞職する意向を固めた。

 

 国防委員会の体制刷新を求める声が高まったため、ネグロポンティ委員長以外の首脳陣も交代させられた。国防副委員長六名、国防委員一七名は辞任した。国防事務総長ルフェーブル元帥は退役し、五五年の軍人生活に終止符を打った。

 

 人々の怒りが国防委員会に集中したため、その他の者に対する批判は広がらなかった。トリューニヒト議長は四個艦隊派遣を即決したことで株を上げた。俺については、「国防委員会に足を引っ張られた」と同情する声が大きい。国防情報本部は侵攻を予測できなかったにもかかわらず、責任を問われなかった。

 

 ネグロポンティ前国防委員長は大いに満足しているだろう。トリューニヒト議長を守れたのだから。忠誠にはいろんな形がある。彼が自分なりに忠誠を尽くしたことは疑いない。

 

 イゼルローン要塞は平時体制に移行した。四個艦隊とフィッシャー大将は引き上げた。労働者が職場に復帰し、兵器工場や食糧プラントは操業を再開した。企業や商店は通常営業に戻った。

 

 仕事は山ほどあった。人を一人動かすたびに、書類を作らなければならない。物を一つ動かすたびに、書類を作らなければならない。一〇〇〇万人を超える大軍を動かしたため、途方もない量の書類が必要になった。

 

 俺は死傷者にかかわる書類を最優先で処理した。戦死者がより大きな名誉を受けられるように取り計らった。負傷者がより手厚い待遇を受けられるよう取り計らった。遺族が一日でも早く補償を受けられるように取り計らった。叙勲推薦や昇進推薦を出しまくったので、国防委員会から「多すぎる」と苦情を言われた。

 

 トリューニヒト派の一派である厳格派のせいで、書類仕事は煩雑になる一方だ。必要な書類の量が五割増しになった。書式は頻繁に変更された。少しでも不備があれば、国防監察本部から注意を受けた。そのため、デスクワークに多くのリソースを割かれることとなった。

 

「シトレ元帥やボロディン大将の時代が懐かしいな」

「良識派は書類を減らしましたからね。書式にもうるさくありませんでした」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はこの種の愚痴をよく聞いてくれる。

 

「良識派と厳格派を足して二で割ったら、ちょうどいいのにね。どいつもこいつも極端で困る」

「あなたならできます」

「わかっている」

 

 俺はにっこりと笑い、潰れた野菜サンドイッチを口に入れた。ちょうどいい潰れ具合だ。自分で潰してもこうはならない。チュン・ウー・チェン副参謀長ならではの味といえよう。

 

 外部との調整も重要な仕事である。要塞艦隊や要塞軍集団とは定期的に話し合っている。イゼルローン要塞に移転したイゼルローン総軍総司令部との定期会合も始まった。アッテンボロー大将は相変わらず敵対的だ。シェーンコップ大将は何を考えているのかわからない。それでも、ジャスパー大将やデッシュ大将がいないので、前よりはましになった。

 

 イゼルローン総軍副司令官ヨハネス・オイラー大将は、ヤン元帥の代理として会合に現れた。それ以外の仕事は与えられていなかった。差別発言を繰り返したため、イゼルローン総軍と第一辺境総軍の双方から告発されて、権限を失った。取り巻きは一人残らず離れた。幕僚ですら食事に付き合ってくれないので、人目のない場所に隠れて飯を食っているらしい。そう遠くないうちに解任される予定だ。

 

 従軍記者は何かにつけて俺のもとにやってくる。ヤン元帥は何もしゃべってくれない。アッテンボロー大将やシェーンコップ大将はよくしゃべるし、視聴者受けが良いが、体制に都合のいいことは絶対に言わない。俺は体制に都合のいいことを言うし、記者をしばしば会食に招いた。彼らが俺のもとに集まるのは、必然的な成り行きであった。

 

 本音を言うと、イゼルローンの従軍記者は好きになれない。敵が来たら逃げ出し、敵がいなくなったら戻ってくるような連中が従軍記者を名乗るなんて、おかしな話だ。軍隊と行動を共にするのが従軍記者ではないか。そのくせ、軍のつけで飲み食いし、兵士に命令するような態度をとる。

 

 どうしようもない連中だが、権力を握るには彼らの協力が必要だ。俗物と付き合わなかったジョアン・レベロやシドニー・シトレは、頂点に立ったものの、本当の権力者にはなれなかった。彼らは財政再建や軍縮を求める時流に乗って上昇し、時流が変わった途端に失墜した。俺は本物の力を求めている。時流がどうなろうと、自分のやり方を押し通せる力が欲しい。

 

 統合作戦本部長の地位を当面の目標として定めた。制服組トップという地位より、国防調整会議の常任アドバイザーという地位の方が重要だ。宇宙軍幕僚総監や国防事務総長は、非常任アドバイザーに過ぎず、緊急事態の時しか呼ばれない。

 

 安全保障政策を審議する国防調整会議において、統合参謀本部長は軍事のプロとして意見を述べる。常任議員は文民なので、統合作戦本部長の「助言」は決定的な影響力を有する。レベロ政権が地方制圧に踏み切れなかったのは、当時の統合作戦本部長ボロディン大将の「助言」によるところが大きかった。やり方次第では最高評議会議長や国防委員長とも対抗できるポジションだ。

 

 今の立場でも非公式な政治介入ならできる。一九年にわたって宇宙艦隊司令長官の地位を占め、超法規的な権力をふるったフレデリック・ジャスパーという前例もある。それでも、公式に介入できるに越したことはない。

 

 今の俺にとって、統合作戦本部長が手に届くポストである。上級大将三五名の中で、功績、知名度、政治力のすべてにおいて、俺を上回る者はいない。地上軍幕僚総監ベネット元帥は、精彩を欠いている。現職の本部長ビュコック元帥、次期本部長最有力候補ヤン元帥の二名がライバルということになる。

 

「あの二人と戦うことになるのか」

 

 ライバル二名の顔を思い浮かべるだけで憂鬱になる。前の世界の歴史を知る者にとって、アレクサンドル・ビュコックとヤン・ウェンリーは神聖な存在である。それでも、戦うしかなかった。賽は投げられた。後戻りはできない。

 

 

 

 イゼルローンを出発する前日、要塞軍集団司令官ワルター・フォン・シェーンコップ大将が俺の執務室を訪れた。同行者は一人もいない。

 

「どうなさったんですか!?」

 

 俺はいぶかしげに質問した。敬語なのは、イゼルローン総軍が指揮下から外れたからだ。

 

「コーヒーを飲みにまいりました。前に言ったでしょう? 再び陣を並べることがあったら、飲ませていただきたいと」

「早速用意いたします」

 

 俺は早速コーヒーをいれて、シェーンコップ大将の前に置いた。首席副官ハラボフ大佐が砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを作り、俺の席の前に置く。

 

 シェーンコップ大将は右手でカップを持ち、ゆっくりとコーヒーを飲む。何気ない動作なのにこの上なく優雅に見える。

 

「美味ですな」

「ありがとうございます」

「ヴァレリーにも飲ませてやりたいもんです」

「そういえば、彼女にもコーヒーを飲ませると約束していました」

 

 俺はヴァレリー・リン・フィッツシモンズ中佐のことを思い出した。幹部候補生学校の同期で、ヴァンフリート四=二や褐色のハイネセン攻防戦で共に戦った。シェーンコップ大将の元愛人でもある。

 

「約束を守ってくれないと怒ってましたよ」

「彼女とまだ連絡を取っていらっしゃるんですか?」

 

 俺は目を丸くしながら問うた。シェーンコップ大将は後腐れなく別れるタイプだと思っていた。連絡を取っているというのは本当に意外だった。

 

「メールだけですがね。腐れ縁です」

「そうでしたか。約束を忘れたわけじゃないんです。忙しかったもので」

「いけませんなあ。女性との約束は最優先にするべきでしょう」

 

 シェーンコップ大将はとても意地の悪そうな笑いを浮かべる。

 

「本当に申し訳ないです」

「相変わらず素直ですな」

「小物が背伸びしたところで笑われるだけです」

 

 俺は嘘偽りのない気持ちを口にした。

 

「あなたは小物ではないでしょう。敵から逃げようとしない。悪口を言われても耳を塞がない。見下されることを恐れていない。そんな人間は小物ではありません」

「小物ですよ」

「トリューニヒトみたいな奴を小物と言うんです。敵から逃げ回る。悪口を言われたら耳を塞ぐ。見下されることを何よりも恐れる。自分を小物だと認めることすらできない」

 

 シェーンコップ大将はトリューニヒト議長を厳しくこき下ろした。

 

「そんなことはありません。トリューニヒト議長はつまらない人間でも受け入れてくださいます。だから、俺もあの方の下で働きたいと思いました」

 

 俺は間髪入れず反論した。

 

「トリューニヒトはつまらない人間しか受け入れられない。自分より優れた人間を恐れているのです」

「そんなことは……」

 

 反論を続けようとして言葉に詰まった。シェーンコップ大将の指摘は完全に正しい。トリューニヒト議長は凡庸な人物ばかり重用している。非凡な人物は冷や飯を食わされるか、追放されるか、自分から出て行った。

 

「否定できるのですか? あなたもトリューニヒトに恐れられる側でしょうに」

「買いかぶらないでください」

「自覚がないとは言わせませんよ」

 

 グレーがかったブラウンの瞳が俺をまっすぐに見つめる。

 

「…………」

 

 俺は何も言わなかった。恐れられていることはわかっている。だが、この場で口に出したくはなかった。相手はあのワルター・フォン・シェーンコップだ。わずかな隙が命取りになる。

 

「トリューニヒトにはめられましたな」

 

 シェーンコップ大将は思いもよらないことを言った。

 

「どういうことです?」

「あの男が一番恐れているのは、あなたとヤン元帥が手を組むことです。だから、第一辺境総軍をティアマトに駐留させた。正反対の部隊が仲良くやれるはずがない。部下同士がいがみ合えば、組みたくても組めなくなる。帝国軍が攻めてきたのは予想外でしょうがね」

「ヤン元帥を召還したのはネグロポンティ先生ですよ」

「ネグロポンティは独断で動く男ではありません。ヤン元帥を召還したのはトリューニヒトです」

「部下同士をいがみ合わせたいなら、召還するのはまずくないですか? 俺の部下にはヤン嫌いがたくさんいます。ティアマトにいた方が好都合のはずです」

「和解の可能性をゼロにするためでしょうな。あなたとヤン元帥がトップ同士で話をつける。その可能性を排除するためには、どちらかをティアマトから離しておく必要があった。あなたを召還したら、第一辺境総軍をティアマトに置く理由がなくなる。だから、ヤン元帥を召還した」

「面白い推理ですね。でも、証拠はありませんよ」

 

 俺は作り笑顔を浮かべると、ポットを手に取り、シェーンコップ大将のカップにコーヒーを注いだ。そして、自分のコーヒーに口をつけた。内心では一理あると思ったが、口に出さなかった。

 

 トリューニヒト議長にとって、俺は潜在的な敵である。長年の腹心ではあるが、独自の人脈を持っており、トリューニヒト議長への依存度は低い。与党に深く食い込んでいる上に、反戦・反独裁市民戦線(AACF)を除く全野党とのパイプがある。軍部での人望は厚い。合法的に政権を取る可能性も、クーデターを成功させる可能性も、ヤン元帥よりはるかに高いだろう。フェザーンが不安定要素の除去を求めるなら、俺が真っ先に排除されるはずだ。

 

 シェーンコップ大将の推理は、「なぜ俺ではなくヤン元帥を査問にかけたのか」という疑問を解決できる。ヤン元帥を俺と対立させることが目的であって、辞職に追い込む気など最初からなかった。そう考えれば辻褄が合うのだ。ヤン元帥を査問にかけたのは、俺への嫌悪感を煽るためではないか。俺に「ヤン排除」への協力を求めたのは、後ろめたさを持たせ、関係修復への努力を放棄させるためではないか。

 

「コーヒーをもう一杯いただけますか」

 

 二杯目のコーヒーを飲みほしたシェーンコップ大将は、人好きのする笑みを浮かべた。

 

「どうぞ」

 

 俺が新しいコーヒーを注ぐと、シェーンコップ大将は味わうようにすすった。

 

「本当にうまいコーヒーだ」

「気に入っていただけて何よりです」

「あなたは妙なお方だ。コーヒーのいれ方を知っているのに、飲み方がわかっていない。そんなに砂糖とクリームを入れたら、味がわからんでしょうに」

「こうした方が味が引き立ちます。単純ゆえに微妙な違いがわかるんです」

「のろけですか」

 

 シェーンコップ大将は顔を左に向けて、にやりと笑う。その視線の先にいるのは、俺のカップにコーヒーを注ぐハラボフ大佐であった。

 

「自慢です」

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーをすすった。無意識のうちに顔が綻んだ。うまいコーヒーは人を幸せにする。

 

「フィリップス提督、あなたはなぜ権力をお求めになるのですか?」

「やりたいことがあるからです」

「人生に必要なものは、いい女とうまいコーヒーの二つだけです。あなたはどちらも持っていらっしゃる。権力を手に入れてどうするんです?」

「持っているのはコーヒーだけです」

 

 俺は軽く訂正した。ダーシャは違う世界に旅立った。だから、今はコーヒーしかない。

 

「自分一人の人生なら、コーヒーがあれば十分です。でも、今は自分一人の人生ではありません」

「みんなのために権力を手に入れる、と。ルドルフのような言い草だ」

「俺はルドルフにはなりませんよ」

「ルドルフだって、みんなのためだと思っていたんじゃないですかね。みんなのために民主主義を滅ぼし、劣悪遺伝子排除法を制定し、四〇億人を殺した。みんなのためという理由があれば、人間はどんな残酷なことだってできます」

 

 シェーンコップ大将の声に苦い響きが混じった。彼のような人種は「みんなのため」という言葉を何よりも嫌う。

 

「俺がそんな人間に見えますか?」

「あなたは理由のないことは絶対にしません。そして、理由があれば何でもします。ヴァンフリートでも、エル・ファシルでも、解放区でも、ボーナムでも、イゼルローンでもそうでした。自分さえ納得するなら手段は選ばない。あなたはそういう人です」

「そうだとしたら、大丈夫ってことになりませんか? 俺が求めているのは合法的な権力です。独裁者になる理由はありません」

「今の立場に限界を感じたから、権力が欲しくなったんでしょう? 権力者になったら、制度の枠でしか動けない立場に限界を感じるかもしれない。そうなった時、独裁権力が欲しくなるんじゃないですか?」

「権力者になってほしくない。そう言っているように聞こえますが、気のせいでしょうか」

「気のせいではありません」

「どうしてです?」

 

 俺はわかりきった質問をした。この世界の人は俺が戦記を読んだことを知らない。戦記読者なら簡単にわかることでも、あえて質問しなければならないこともある。

 

「お節介だからです。あなたは何から何まで面倒を見ようとする。そんな人が権力を握ったら、どうなるかは考えるまでもない。すべてを統制しようとするでしょうな」

 

 シェーンコップ大将の回答は予想通りだった。ヤン・ウェンリーは面倒も見ないが、統制もしない。前の世界のワルター・フォン・シェーンコップは、そんな人物が権力者になることを望んだ。世界が違っても人間の本質は変わらない。俺が権力者になるのを望まないのは当然と言える。

 

「否定はできません」

「私はヤン元帥を気に入っていましてね。あの人は理想しか見ていない。他人に興味を持っていない。結果さえ出せば文句は言わない。だから、非常に付き合いやすいのです」

「なるほど」

 

 俺は微笑みながら頷いた。確かにそうだと思ったからである。放っておいてほしい人間にとっては、ヤン・ウェンリーこそが理想の上官であろう。

 

「好きにさせてほしい。私の願いはそれだけです。認めていただければ良し。認めていただけないなら、全力で抵抗するまでのことです」

 

 シェーンコップ大将は淡々と言った。

 

「なるべく争いたくないのですが」

「ここまで来たら、個人がどう思うかは関係ないでしょう」

「確かに」

 

 俺は何のためらいもなく認めた。自分が争いたくないと思っても、支持者がそう望んだら争わざるを得ない。エリヤ・フィリップスを支持する者は、聖域の存在を認めないだろう。ヤン・ウェンリーを支持する者は、聖域を守るために命がけで戦うはずだ。

 

「ごちそうになりました。機会があれば、また飲ませていただきたいですな」

「いつでもお越しください。門戸は開けておきます」

「あなたの人生が自分一人のものになった時、お邪魔させていただきます」

 

 その言葉を聞いた瞬間、刃を突き付けられたような気分になった。みんなのために頑張っている間は会わないと言われたに等しい。

 

「わかりました。その時までお元気でいてください」

 

 俺はやっとの思いで言葉を絞り出し、シェーンコップ大将を見送った。何かを求めるならば、代償を支払うのは当然である。求めるものが大きくなるほど、代償も大きくなる。シェーンコップ大将との決別も代償の一つなのだろう。寂しいが止まるわけにはいかない。

 

 シェーンコップ大将はドアの外に踏み出したところで立ち止まり、こちらを振り返った。その視線の先にいるのは俺ではなかった。

 

「ユリエ・ハラボフ大佐。人生に必要なものは、いい女とうまいコーヒーの二つだけです。そのことをフィリップス提督に教えてやってください」

「…………!」

 

 ハラボフ大佐は何も言わずに後ろを向き、テーブルの上を急いで片付け始めた。カップとソーサーとスプーンが乱雑な音を立てる。背を向けているので、表情はうかがえない。

 

 ドアが閉まり、俺はハラボフ大佐と二人きりになった。静まり返った部屋にガチャガチャという音が響く。彼女が何を考えているのかわからない。表情を確認しようとしたら、顔をそらされる。話しかけても答えない。シェーンコップ大将は非常に迷惑な置き土産を残していった。



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第?章:設定資料集2
自由惑星同盟政府(第113話時点)


赤字は新設されたポスト・組織、もしくは会議の新規メンバーです。


1.最高評議会

議長      同盟の国家元首。国防調整会議議長、経済調整会議議長

副議長     委員長職を兼ねる。

書記      国防調整会議議員、経済調整会議議員

国務委員長   国防調整会議議員、経済調整会議議員

国防委員長   国防調整会議議員、経済調整会議議員

財政委員長   国防調整会議議員、経済調整会議議員

司法委員長

天然資源委員長 経済調整会議議員

社会福祉委員長 経済調整会議議員

産業開発委員長 国防調整会議議員、経済調整会議議員

国土開発委員長 経済調整会議議員

情報通信委員長 経済調整会議議員

国土保安委員長 国防調整会議議員

環境保全委員長 経済調整会議議員

国民教育委員長

労働雇用委員長 経済調整会議議員

食料資源委員長 経済調整会議議員

科学技術委員長 経済調整会議議員

無任所評議員  定数なし。

 

2.最高評議会書記局 最高評議会の事務を統括する。

書記局

・書記

・第一副書記

・人事担当副書記

・総務担当副書記

・広報担当副書記

・法務担当副書記

・安全保障担当副書記

・行政担当副書記

・経済担当副書記

 

国防調整会議 安全保障政策に関する意思決定を行う。

・議長   最高評議会議長

・副議長  最高評議会副議長たる評議員

・常任議員 最高評議会書記、国務委員長、国防委員長、財政委員長、産業開発委員長

      国土保安委員長

・特別議員 安全保障にかかわる無任所評議員

・常任顧問 統合作戦本部長、中央情報局長官、同盟警察長官公共安全局長官

・書記   安全保障担当議長補佐官

 

・経済調整会議 経済財政政策に関する意思決定を行う。

・議長   最高評議会議長

・副議長  最高評議会副議長たる評議員

・常任議員 最高評議会書記、国務委員長、国防委員長、財政委員長、天然資源委員長、

      社会福祉委員長産業開発委員長国土開発委員長情報通信委員長

      環境保全委員長労働雇用委員長食料資源委員長科学技術委員長

・特別議員 経済政策にかかわる無任所評議員

・常任顧問 同盟中央銀行総裁、経済顧問会議議長

・書記   安全保障担当議長補佐官

 

科学技術調整会議 科学技術政策に関する意思決定を行う。

 

経済顧問会議 経済財政政策に関する諮問機関。

 

3.各委員会

国務委員会 加盟国や外国との交渉、加盟国間の調停、連邦選挙などを担当する。

・国務事務総局

・フェザーン高等弁務官事務所

・移民管理庁

・同盟選挙管理委員会

 

国防委員会 国防政策を担当する。

・国防事務総局

・統合作戦本部

・後方勤務本部

・技術科学本部

国防監察本部

国防情報本部

・宇宙軍

・地上軍

イゼルローン総軍 イゼルローン回廊及び帝国領全域の同盟軍を統括する。

・中央総軍     ハイネセンを中心とする宙域の同盟軍を統括する。

第一辺境総軍   シャンプールを中心とする宙域の同盟軍を統括する。

第二辺境総軍   ウルヴァシーを中心とする宙域の同盟軍を統括する。

第三辺境総軍   ネプティスを中心とする宙域の同盟軍を統括する。

第四辺境総軍   カッファーを中心とする宙域の同盟軍を統括する。

第五辺境総軍   パルメレンドを中心とする宙域の同盟軍を統括する。

・輸送総軍     戦略兵站部隊を統括する。

・特殊作戦総軍   特殊部隊を統括する。

統合電子軍    サイバー戦部隊を統括する。

・退役軍人庁    退役軍人の福利厚生を担当する。

 

財政委員会 財政政策、予算編成、金融政策などを担当する。

・財政事務総局

・同盟国税庁

 

司法委員会 法務行政を担当する。旧法秩序委員会。

司法事務総局

・同盟中央検察庁

 

天然資源委員会 資源政策やエネルギー政策を統括する。

・天然資源事務総局

・国営水素エネルギー公社

・国営水資源公社

・国営天然ガス公社

 

社会福祉委員会 福祉政策、社会保障、医療などを担当する。旧人的資源委員会。

社会福祉事務総局

・同盟年金庁

・同盟衛生研究所

 

産業開発委員会 産業政策や通商政策を担当する。旧経済開発委員会。

産業開発事務総局

価格適正化本部

産業支援部隊 労働力不足に苦しむ工場を救援する部隊。

 

国土開発委員会 国土開発やインフラ整備を行う。旧地域社会開発委員会。

国土開発事務総局

・国営植民事業公社  植民事業を統括する。

イゼルローン開発庁 イゼルローン回廊の開発を行う。

 

情報通信委員会 星間通信やメディア政策を担当する。旧情報交通委員会。

情報通信事務総局

・同盟国営放送 直営化。

 

国土保安委員会 治安維持、星間交通、防災などを担当する。旧法秩序委員会より分離。

国土保安事務総局

・同盟警察本部

 ・星間保安隊 治安維持や組織犯罪対策を行う部隊。

・同盟麻薬取締局

・航路保安庁 旧情報交通委員会より移管。

公共安全局 反体制分子や外国のスパイを取り締まる。

・民間防衛庁 防災、民間防衛などを担当する。国務委員会より移管。

 ・国民保護部隊 災害や事故から市民を守る部隊。

 

環境保全委員会 環境行政を担当する。天然資源委員会より分離。

環境保全事務総局

 

国民教育委員会 教育行政を担当する。旧人的資源委員会より分離。

国民教育事務総局

国民体育庁 スポーツ政策を担当する。

学生奉仕庁 学生によるボランティア活動を統括する。

学生保護部隊 国立学校生徒を校内暴力から守る部隊。

 

労働雇用委員会 労働政策や雇用政策を担当する。旧人的資源委員会より分離。

労働雇用事務総局

労働奉仕庁 失業者による奉仕労働を統括する。

労働救援部隊 劣悪な労働環境に苦しむ労働者を救援する部隊。

 

食料資源委員会 農業政策、漁業政策、食品管理などを担当する。旧経済開発委員会より分離。

食料資源事務総局

食料管理庁

農業支援部隊 労働力不足に苦しむ農家を救援する部隊。

 

科学技術委員会 科学技術政策を担当する。旧経済開発委員会より分離。

科学技術事務総局

・同盟知的財産庁

・同盟標準規格庁

 

3.独立機関

中央情報局 同盟政府の情報活動を統括する。

 

同盟中央銀行 同盟の中央銀行。

 

同盟公正取引委員会

 

同盟証券取引委員会

 

同盟郵便公社 星間郵便を運営する。

 

4.同盟上院

機構

・上院議長

・上院副議長

・常任委員会

・特別委員会

・特別調査委員会

・上院事務局

 

院内勢力(802年末)

順位  党名               立場 外交 政治・文化  経済

第一党:大衆党              与党 主戦 国家至上主義 国家資本主義

第二党:統一正義党            野党 主戦 国家至上主義 国家社会主義

第三党:独立と自由の銀河(IFGP)   野党 中道 個人重視   保護貿易

第四党:汎銀河左派ブロック        野党 中道 国家至上主義 科学的社会主義

第五党:民主主義防衛連盟(DDF)    野党 主戦 国家重視   自由経済

第六党:反戦・反独裁市民戦線(AACF) 野党 反戦 個人至上主義 自由経済

第七党:和解推進運動           野党 反戦 個人重視   自由経済

 

5.同盟下院

機構

・下院議長

・下院副議長

・常任委員会

・特別委員会

・特別調査委員会

・下院事務局

 

院内勢力(802年末)

順位  党名               立場 外交 政治・文化  経済

第一党:大衆党              与党 主戦 国家至上主義 国家資本主義

第二党:統一正義党            野党 主戦 国家至上主義 国家社会主義

第三党:汎銀河左派ブロック        野党 中道 国家至上主義 科学的社会主義

第四党:反戦・反独裁市民戦線(AACF) 野党 反戦 個人至上主義 自由経済

第五党:独立と自由の銀河(IFGP)   野党 中道 個人重視   保護貿易

第六党:和解推進運動           野党 反戦 個人重視   自由経済

第七党:民主主義防衛連盟(DDF)    野党 主戦 国家重視   自由経済



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第一一章:指導者エリヤ・フィリップス
第113話:資格がないなら手に入れればいい 802年12月9日~12月下旬 カトヤ・ペロンパー国立墓地~シャンプール市


 八〇二年一二月九日、俺とチーム・フィリップスはシャンプールに帰還した。星都シャンプール郊外のジョード・ユヌス宇宙港では、大勢の市民が出迎えてくれた。

 

 宇宙港を出た俺は、星都シャンプール市郊外のカトヤ・ペロンパー国立墓地を訪れた。冷たい風が頬を撫でる。亜熱帯とはいえ、一二月はさすがに寒い。雨が降っているとなればなおさらだ。

 

「傘をお差しください」

 

 ハラボフ大佐が傘を取り出したが、俺は首を横に振った。

 

「やめておこう」

「体を冷やしてもよろしいのですか?」

「君が心配するのはもっともだ。でも、彼らが雨に打たれている。自分だけ傘を差すわけにはいかない」

 

 俺は少し遠くに視線を向けた。墓石が雨に濡れている。先輩が雨に打たれているのだ。こちらも同じようにするのが礼儀ではないか。

 

「墓石は表札のようなものです。死んだ者は厚い棺の中で眠っておりますので、雨に打たれたりはしません」

「ああ、そうか。彼らと苦しみを分かち合うことにはならないのか」

「その通りです。そして、さらに大きな問題があります」

「なんだ?」

「司令官が傘を差さなければ、部下も傘を差せません」

 

 ハラボフ大佐は俺の目をまっすぐ見て言った。

 

「俺が間違っていた。傘を差そう。部下に寒い思いをさせたくないからね」

 

 俺は自分の過ちをようやく理解した。自分一人が寒い思いをするのはいいと思っていた。だが、部下に寒い思いをさせるわけにはいかない。

 

「お聞き入れいただき、ありがとうございます」

「感謝するのは俺の方だ。間違いを正してもらったんだから」

「恐縮です」

 

 ハラボフ大佐は眉一つ動かさずに答えた。どんな時でも彼女のポーカーフェイスが崩れることはない。

 

 軍人数百名が傘を差し、雨に濡れた参道を踏みしめながら進む。おしゃべりな者も言葉を発しようとしない。礼儀にこだわらない者も神妙な面持ちをしている。誰かに命じられたわけではない。墓地に漂う空気がそうさせるのだ。静まり返った空間に、足音と雨音だけが響く。

 

 俺は二人の副官と並んで歩いた。右側のハラボフ大佐は俺に傘を差しかけた。左側の次席副官ディッケル大尉は一人で傘を差している。俺が傘を持っていないのは暗殺対策であった。ハラボフ大佐が言うには、両手が空いていた方が逃げやすいのだそうだ。言いたいことはわかるが、相合傘をしているみたいで、微妙に恥ずかしい。

 

 昨年の暗殺未遂事件の後、ハラボフ大佐は俺の安全に神経質になった。俺と休憩時間を合わせたり、俺の官舎の隣室に引っ越したり、俺が出席する飲み会に必ず顔を出したりするのは、身辺で警護するためである。俺が仕事中に食べたり飲んだりするものを用意したり、俺が外で食べたり飲んだりするものを毒見したり、俺が非番の日に弁当やおやつを差し入れたりするのは、毒殺を防ぐためである。いつの間にか警護員資格まで取っていた。傭兵時代に知り合った身辺警護のプロを何人も推薦してきた。

 

 そこまでしなくていいと思うのだが、ハラボフ大佐は無意味なことをしない人である。過剰に思える暗殺対策も必要なのだろう。

 

 副官とは別に護衛部隊もついている。俺を取り巻く兵士八名は、第一辺境憲兵隊から選りすぐられた精鋭だ。一個小隊がチーム・フィリップスを守り、四個小隊が墓地全体の警備にあたる。墓地に通じるすべての道に兵士が配置された。狙撃ポイントになりうる場所はあらかじめ押さえた。

 

 厳重な警護のおかげで、俺たちは何事もなく目的地にたどり着いた。真新しい墓石が林のように連なっている。第九次イゼルローン攻防戦で亡くなった者のために設けられた区画だ。

 

 現役・退役・予備役を問わず、軍人は国立墓地に埋葬される資格を与えられる。戦死者と殉職者はウェイクフィールド、公務以外の理由で亡くなった者はその他の墓地に埋葬されることになっている。軍人にとって、ウェイクフィールドへの埋葬はこの上ない名誉であった。しかし、誰もが名誉を望むわけではない。故郷や思い出の地への埋葬を希望する遺言を遺し、ウェイクフィールド以外の墓地に埋葬される戦死者は少なくなかった。

 

 この区画にある墓標は三〇〇〇を超える。おびただしい数であるが、第九次イゼルローン攻防戦の戦死者の一パーセントにも満たない。三〇〇〇の命が失われ、三〇〇〇の人生が中断され、三〇〇〇の家族が不幸になっても、軍事的には「取るに足らないこと」なのだ。

 

「…………」

 

 俺は第九次イゼルローン攻防戦慰霊碑の前に立ち、何も言わずに頭を下げた。死という絶対的な事実の前では、何を言っても嘘になる。

 

 墓地を出た後、エルゴン星系政府主催の戦勝祝賀式典に出席した。祝うべき勝利などないし、称賛されるべき勝者などいない。第九次イゼルローン攻防戦は勝者なき戦いだった。けれども、式典を辞退するわけにはいかなかった。地方部隊にとって、地元政府との友好関係は何よりも重要なのだ。

 

 不本意ではあるが、これも仕事だと割り切ることにした。多くのマスコミが式典会場にやってくる。メッセージを伝えるには絶好の機会ではないか。

 

「私は失敗し、誤断し、逡巡しました。それでも勝てたのは、兵士が奮戦したからです。私が称賛に値するのであれば、兵士はその一〇〇倍の称賛を受けるべきであります。そして、彼らの犠牲に報いていただきたいと思います。戦没者の遺族が困窮しないよう、ご協力ください。傷病兵が手厚い治療を受けられるよう、ご協力ください。この戦いを最後に除隊する兵士が再就職できるよう、ご協力ください。よろしくお願いいたします」

 

 俺は兵士や遺族への支援を強く訴えた。自分の指揮によって、多くの者が生命や健康を失った。何をしても償いきれるものではない。それでも、できるかぎりのことはしたかった。

 

 このスピーチは大きな反響を呼んだ。主戦派は諸手を挙げて称賛し、犠牲者への支援を強化するよう求めた。反戦派は俺を嫌っていたが、犠牲者支援という大義名分には逆らえず、動きが鈍い政府に矛先を向けた。左右から突き上げられたトリューニヒト政権は、支援の充実化と迅速化を約束した。

 

 このようなやり方に批判がなかったわけではない。反戦派ジャーナリストのパトリック・アッテンボロー氏は、支援の必要性を認める一方で、「責任回避のために犠牲者を利用したのでは」と疑った。右派言論界の大御所ジョージ・ビルジン氏は、「人命を惜しむのは安っぽいヒューマニズムであり、偽善である」という立場から、フィリップス批判を繰り広げた。中立政党「新しい船出」の参謀長グエン・キム・ホア二世は、「見え透いた茶番。呆れるね」と吐き捨てた。中立派政治学者マリア・ビドリアレス博士は、「税金を使うことしか考えていない」と批判した。

 

 俺の采配も賛否両論を呼んだ。消極策が最善の選択肢だったかどうか、消極策によって損害を抑えられたかどうかが問題になった。

 

「マスコミは敵に自殺的攻勢を強いたことを名采配だというが、大きな誤りだ。損害の三割は自殺的攻勢によって生じている。早めに積極策に切り替え、主導権を取りに行くべきだった。そうすれば、敵に効果的な打撃を加えることができたし、早期撤退に追い込むこともできた。結果として損害を抑えられたはずだ。消極策は明らかに失敗だった」

 

 平和将官会議議長シドニー・シトレ退役元帥、サジタリウス安全保障研究所理事イアン・ホーウッド予備役大将、軍事評論家ジュスタン・オランド退役准将らは、俺の誤りを冷静に指摘した。彼らの分析は、第一辺境総軍幕僚チームの分析とほぼ一致していた。

 

「本当につまらない用兵だ。空気をまったく読んでいない。強い同盟軍が弱い帝国軍をさんざんにやっつける。それが戦争の醍醐味ではないか。フィリップスは一三二億人の期待を裏切った。ほとんど利敵行為だ」

 

 評論家ジョージ・ビルジン氏、人倫新聞編集長グンドルフ・フォン・クラウヴェル氏、救国同志会会長クロード・ウィズダム退役少将らは、俺の弱腰を厳しく批判した。彼らの主張は、戦争にドラマを求める人々の心情を代弁するものだった。

 

「フィリップス提督の判断は正しい。慎重に戦い、決戦を欲する敵の意図を挫いた。追い詰められた敵は暴発した。最小限の犠牲で最大限の戦果を得たのだ。名将の用兵と言うべきではないか」

 

 ジーグル社顧問サンドル・アラルコン予備役上級大将、退役軍人連盟理事ハムザ・スラクサナ退役少将、軍事評論家ナポレオン・ロンメル氏らは、俺を擁護してくれた。彼らの態度は、英雄が完全無欠であってほしいと願う人々の心情を代弁していた。

 

「彼らに擁護されてもなあ……」

 

 俺は渋い顔になった。アラルコン提督とスラクサナ将軍は、熱烈な親フィリップス派である。他の司令官が消極策を取ったら、アラルコン提督は弱腰だと批判しただろう。ロンメル氏は軍事評論家を名乗っているが、基礎的な軍事知識すら持っておらず、反リベラルのネット論客として人気を集めている。こういう人々に擁護されてもありがたくない。

 

 どういうわけか、新興宗教「光に満ちた千年王国」も俺を褒めたたえた。キルヒアイス元帥が退却するまで持ちこたえたことが、素晴らしい偉業なのだそうだ。

 

 真実がどうであれ、政府は同盟軍が勝利したと言い張った。勝ったのだから恩賞を与えなければならない。

 

 俺はハイネセン記念特別勲功大章や国防軍殊勲章など四つの勲章をもらった。総司令官に与えられる勲章のランクは、勝ちっぷりに比例している。普通の勝利なら国防軍殊勲章、大勝利なら国防軍殊勲星章やハイネセン記念特別勲功大章、歴史的勝利なら自由戦士勲章といった具合だ。この程度の戦果でハイネセン記念特別勲功大章をもらえたのは、政府の都合であろう。

 

 ヤン・ウェンリー元帥は最後に顔を出しただけなのに、ハイネセン記念特別勲功大章を与えられた。帝国軍を決意させた功績を評価したのだそうだ。人々は国防委員会が迷惑料を払ったのだと噂した。

 

 最も活躍したダスティ・アッテンボロー大将は、ハイネセン記念特別勲功大章を授与された。今回で三度目の受章となる。国父の名前を冠する勲章は、自由戦士勲章の次にランクが高い勲章である。彼の功績はこの勲章にふさわしいものだった。ハイネセン記念特別勲功大章所持者のD上級大将は、「なぜあんな奴にハイネセン勲章が……」と文句を言ったが、同調する者はいない。

 

 二番目に活躍したヘラルド・マリノ中将も、ハイネセン記念特別勲功大章を授与された。第二次ヴァルハラ会戦以来、二回目の受章である。俺の生え抜きの部下では、初のハイネセン記念特別勲功大章複数所持者となった。

 

 ジャスパー大将、ラヴァンディエ中将、ゾンバルト中将の三名も、ハイネセン記念特別勲功大章を授与された。第四艦隊はいいところがなかったが、隊員が戦況そっちのけでスコアを稼ぎまくったおかげで、要塞艦隊に匹敵する戦果をあげたように見えた。そのため、司令官と抜群のスコアをあげた分艦隊司令官二名が最高の恩賞を受けた。

 

 シェーンコップ大将、リンツ中将、デア=デッケン中将、ブルームハルト少将、ポプラン少将、コーネフ少将、シェイクリ少将、ヒューズ少将、コレット少将らは、宇宙軍殊勲星章を授与された。殊勲星章は宇宙軍最上位の勲章で、英雄的な活躍をした者に与えられる。

 

 パエッタ大将、ビューフォート中将、バルトハウザー中将、カプラン准将らは、宇宙軍殊勲章を授与された。その名の通り、殊勲章は殊勲者のための勲章である。

 

 ホーランド大将、アップルトン中将らは、銀色五稜星勲章を授与された。銀色五稜星勲章は所属に関係なく、抜群の勇気を示した者に与えられる。殊勲星章や殊勲章には及ばないものの、名誉だといえる。

 

 ムルティ少将が地上軍殊勲星章、妹とマルコフスキー少将が地上軍殊勲章を授与された。シェーンコップ大将らとともに上陸部隊を破った功績によるものだ。

 

 スコアをあげた軍艦乗りや艦載機乗り、上陸部隊と戦った陸戦隊員や地上軍軍人なども、功績に応じた勲章を授与された。

 

 功績がないのに勲章を授与された者もいる。スコアが抜群に高ければ、貢献度がゼロでも殊勲星章や殊勲章を与えられた。知名度が抜群に高ければ、スコアが低くても殊勲章や銀色五稜星勲章を与えられた。精彩を欠いた一二星将や問題を起こしたオイラー大将も、高ランクの勲章を受け取ることとなった。

 

 大量の勲章が授与された一方で、昇進者の数は低く抑えられた。昨年から今年の初めにかけて、トリューニヒト政権は昇進を大盤振る舞いしたため、階級がインフレ気味である。国防委員会は成果主義人事を改める方針を打ち出した。こうしたことから、勲章が与えられるだけに留まった。

 

「…………」

 

 俺は何も言わずにリストを眺めた。悪い意味でトリューニヒト政権らしいリストだ。貢献したかどうかより、目立ったかどうかが重視される。失敗してもなあなあで済ませてしまう。

 

「前向きに考えるか」

 

 そう言って、俺は自分を納得させた。パエッタ大将の貢献度に対する評価が、オイラー大将や一二星将下位陣と同レベルだと言われたら腹が立つ。しかし、レグニツァの敗将に対する評価が、名将オイラーや最強の一二星将と肩を並べたと言われたら、喜ぶべきことだ。

 

 同盟軍の勝利と帝国軍の敗北はイコールではない。今回のように勝敗が明確でない場合、双方が勝利を主張する。

 

 帝国軍は「反乱軍六個艦隊を大破し、ニヴルヘイム侵攻の企図を挫いた」として、勝利を高らかに宣言した。彼らの主観では、同盟軍の前進を一か月にわたって阻止し、ニヴルヘイム侵攻を断念させたことになっていた。戦闘が一か月続いたのも、同盟軍が前進しなかったのも事実である。結果だけを切り取れば、「激戦の末に侵攻を断念させた」という解釈も成り立つ。

 

 勘違いで六個艦隊と機動要塞を動員したあげく、何の成果もなく引き上げた。そのような事実をありのままに公表すれば、帝国軍の面目は丸潰れである。同盟軍に侵攻の意思がないことなど、とっくにわかっているだろう。それでも、侵攻の意思があったことにしなければならなかった。

 

 総司令官キルヒアイス元帥は、「ニヴルヘイム侵攻」を防いだ英雄として凱旋した。帝都に帰還すると、皇帝エルウィン=ヨーゼフ二世直々の出迎えを受け、盛大な凱旋式を行った。事実上の最高勲章である黄金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章し、荘園と八〇〇万マルクを賜った。副首相に昇格し、帝国安全保障会議と帝国経済財政会議に出席する資格を得た。帝国マスコミはこぞって彼の「功績」を褒めたたえる。その名声と権勢は絶頂に達したかに思われた。

 

 帝国軍の「勝利」に貢献した諸将は手厚い恩賞を賜った。功績第二位の征討軍査閲監カールスバート伯爵は、元帥に昇進し、鉱山を有する無人星系二つを加増された。功績第三位の征討軍副司令官レンネンカンプ上級大将は、男爵位を獲得し、皇帝から家紋を賜る栄誉に浴した。功績第四位の首席副査閲監リッテンハイム伯爵は家領の三分の一を返還された。功績第五位の次席副査閲監ゴータ公爵は惑星一個を賜った。功績第六位のマンスフェルド大将は、上級大将に昇進し、帝国騎士の称号を授与された。その他の者も領地を加増されたり、多額の報奨金を賜ったりした。

 

「なんだこれ……」

 

 俺はぽかんと口を開けた。キルヒアイス元帥がもらった恩賞は、ラインハルトが第二次ヴァルハラ会戦の後にもらった恩賞よりずっと多い。マンスフェルド提督はむやみに突撃し、無駄に損害を出した印象しかなかった。カールスバート伯爵、リッテンハイム伯爵、ゴータ公爵らはただの査閲将校だ。同盟軍とは比較にならないほど不可解な論功行賞である。

 

 査閲将校が手厚い恩賞を受けること自体はおかしくない。帝国軍はそういう組織である。それでも、自分が指揮した戦闘において、査閲将校が恩賞を受けるのを見ると、微妙な気持ちになってしまう。指揮官と戦った覚えはあるが、査閲将校と戦った覚えはない。

 

 帝国軍の貴族将官は三つのタイプに分かれている。一つ目は士官学校を出て、国軍や私兵軍において実績を積み、将官に昇進した者。二つ目は諸侯家の当主で、規定された軍役人数が多く、一個師団以上の兵力を動員できるため、予備役将官に任命された者。三つめは査閲将校として従軍し、将官に昇進した者。二つ目と三つめが、「家柄だけで将官になった」と言われる人々である。

 

 査閲将校は皇帝の命を受けて軍隊を監視する将校で、師団級以上の全部隊に配置される。指揮権を持たないが、すべての命令に副署する権限を持ち、指揮官の命令を差し止めることができる。皇帝直属の監察官なので、元帥といえども制約を加えることは許されない。所属部隊が勝利すれば、「後顧の憂いをなからしめた功」により、勝利した指揮官と同等の評価を受ける。敗北した場合でも、部隊が政治的に動揺していない場合は、敗北責任がないとされる。建国期には軍の反乱を防ぐためのストッパーとして機能したが、現在は宮廷貴族が箔をつけるためのポストと化していた。

 

 具体的な例としては、マクシミリアン=ヨーゼフ・フォン・フレーゲル男爵があげられる。彼が務めていた軍事監察官は高級査閲職だった。前の世界でも査閲将校として昇進したと思われる。職業軍人ではないので、戦功によって昇進することは困難だ。男爵は一郡から数郡程度を支配する小諸侯にすぎず、大部隊を動員できるとは思えない。ブラウンシュヴァイク公爵の甥という血筋のおかげで、査閲職にありつけたのだろう。

 

 説明するまでもない常識なので、前の世界の戦記には査閲将校に関する説明はない。ラインハルト配下には査閲将校出身者はいなかった。そのため、ほとんど無視されている。

 

「ローエングラム公がよくこんな論功行賞を認めたな」

 

 俺が苦い顔をしながら資料を見ていると、情報部長ハンス・ベッカー少将が新しい資料を机の上に置いた。

 

「ごらんください。キルヒアイス男爵夫人に関する記事です」

 

 その資料には、『先帝の寵姫が台頭』『アンネローゼ・フォン・キルヒアイスの正体』『新無憂宮の女主人』『リップシュタットの女帝』『ローエングラム公はキルヒアイス男爵夫人の傀儡か』といった題名の記事がまとめられている。キルヒアイス男爵夫人の妻であり、ラインハルトの姉であるアンネローゼ・フォン・キルヒアイスが、帝国政界で台頭しているという内容だった。

 

「冗談だろう」

 

 俺は間髪入れずに否定した。前の世界のアンネローゼは聖女のような存在である。この世界のアンネローゼに関する情報は持っていないが、本質は変わっていないはずだ。権力闘争に首を突っ込むとは思えない。

 

「最近の帝国情勢を説明する仮説としては、上出来だと思いますがね。ローエングラム公は姉のおかげで出世できた。姉がキルヒアイス男爵の意見を支持したら、ローエングラム公は折れざるを得ません」

「言いたいことはわかる。彼女ならローエングラム公を抑制できる。でも、動機がないぞ。フリードリヒ四世の寵姫だった頃は、政治に口出ししなかった。保守派とは距離を置いていた。そんな人がなんで政治介入を始めるんだ?」

「権勢欲じゃないですかね」

 

 ベッカー情報部長は歯切れの悪い言い方をした。本気でそう思っているわけではないが、他の理由も思いつかないといった感じだ。

 

「理想のためではないでしょうか。キルヒアイス夫婦が保守派だというのは今の基準です。門閥派と比べればはるかに開明的です。フリードリヒ四世は穏健改革派でした。キルヒアイス男爵夫人は主君の理想を実現するために立ち上がった。私はそう考えています」

 

 作戦副部長メッサースミス准将は、理想主義者らしい意見を述べた。帝国研究者の間では、フリードリヒ四世が開明的な名君だという説が主流を占める。ラインハルトはフリードリヒ四世の第一の忠臣だというのは銀河の常識である。忠臣の姉が忠臣であってもおかしくはない。いささか理想主義的に過ぎるが、常識はずれではなかった。

 

「どうかなあ」

 

 俺は納得しがたいといったふうに腕組みをした。ファルストロング伯爵が書いた本を読んだ後だと、フリードリヒ四世が痴愚帝以下の暗君に思えてならない。前の世界の知識があるので、ラインハルトが忠臣でないことを知っている。だから、説得力を感じなかった。

 

「愛ですね」

 

 第二艦隊副参謀長イブリン・ドールトン少将は、豊かな胸をふんぞり返らせた。自分の出番が来たと言わんばかりだ。

 

「愛……?」

「そうです! キルヒアイス男爵夫人は愛する人と結ばれました! 愛を失いたくない! 幸せを守りたい! 彼女は愛のために戦っているんです!」

「副参謀長、君はどう思う?」

 

 俺はドールトン少将の戯言を聞き流し、チュン・ウー・チェン副参謀長に声をかけた。

 

「案外、ドールトン提督の言う通りかもしれませんね」

「キルヒアイス男爵夫人は聡明で優しい性格だと聞いている。私情で動く人じゃないと思うよ」

「聡明で優しいからといって、常に節度を守るとは限りません。愛は理屈ではないですから」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は、ドールトン少将をちらりと見る。これ以上ないほどに説得力のあるサンプルだった。

 

 仕事が終わった後、俺はファルストロング伯爵に通信を入れた。帝国政界の常識を知り尽くした彼の意見を聞いてみたかったのだ。

 

「いかが思われますか?」

「ドールトンとやらが正しかろう」

 

 意外なことに、ファルストロング伯爵もドールトン説を支持した。

 

「キルヒアイス男爵夫人は聡明な方です。私情で動くとは思えませんが」

「聡明といってもたかが知れている。しょせん、女ではないか」

 

 ファルストロング伯爵は何の悪気もなく、差別発言を口にした。

 

「…………」

「女という言い方は良くなかったな。女にも色々いる。貴族の女と言うべきであった」

「その言い方でも不適切ではないですか? 貴族の女性にも色々いるでしょう」

「色々いるが、政治や経済を学んだ女はおらぬ。女が大学で学ぶ学問は、文学か芸術か家政学というのが相場じゃ」

「一人もいないのですか?」

 

 俺が念頭に置いたのは、ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢である。この世界では何をしているのかわからないが、前の世界では大学で政治学を学んだはずだ。

 

「わしは知らん。貴族が政治や経済を学ぶのは出世のためだ。女は仕官できぬ。学んだところで意味がない」

「そういうことですか」

「女の身で政治や経済を学ぶとしたら、よほどの変わり者じゃな。本人が望んでも親が許すまい。親が許したとしても、大学が受け入れぬじゃろうな」

 

 常識的な帝国貴族であるファルストロング伯爵から見れば、前の世界の皇后ヒルデガルドはとんでもない変人なのだろう。彼女の希望を受け入れたマリーンドルフ伯爵、彼女の入学を受け入れた大学は、想像を絶する存在に違いない。

 

「だから、聡明といってもたかが知れている。文学や芸術に通じていたところで、政治に益することはない。キルヒアイス男爵夫人は帝国騎士の娘で、一五歳で後宮に入り、ずっと宮廷で暮らしてきた。政治を学ぶ機会はなかろう」

「政治に疎くても、公私のけじめはつけられるのではないですか?」

「帝国は公と私の境界が曖昧な国だ。権力者は私生活の中で公務を処理し、公務の中で私生活を送る。公務に私情を挟まぬ奴の方が希少種さ」

「考え方が根本的に違うんですね。いつも感じることですが」

 

 俺は軽くため息をついた。

 

「貴族は国家を自分たちの所有物だと思っている。私情抜きで所有物を扱うことなどできぬ。私情を持たねばならぬ。私情があるがゆえに、貴族は国家のことを自分のことのように思い、守ろうとする。悪いのは私情ではない。結果を出せぬことだ。そして、政治とは結果を出す技術だ」

「キルヒアイス男爵夫人が私情で動いているかどうかは問題ではない。そう考えてよろしいのでしょうか?」

「構わぬ」

「私情にもさまざまな種類があります。なぜ愛だとお考えになったのですか?」

「消去法じゃよ。フリードリヒは忠誠に値する男ではない。それゆえ、忠誠心ではない。あの女には為政者としての知識がない。それゆえ、国家への使命感ではない。あの女にはイデオロギーがない。それゆえ、理想ではない。あの女には背負うべき家門がない。それゆえ、家門への使命感ではない。あの女には上昇志向がない。それゆえ、権勢欲ではない。あの女は夫と弟以外に何も持っておらぬ。ならば、愛であろう」

 

 ファルストロング伯爵の説明は単純明快だった。前の世界の知識とも矛盾していない。アンネローゼにとって、大事なものはキルヒアイス男爵とラインハルトだけだ。だから、その二人への愛で動く。実にわかりやすい。

 

 聡明だといっても、アンネローゼは政治の素人である。彼女が長年住んでいた後宮は、伝統的な保守勢力の牙城とされる。友人のヴェストパーレ男爵夫人は、開明派の女王と称される人物だが、進歩思想に詳しいわけではない。後宮に入る前は下級貴族の少女に過ぎなかった。こうしたことから考えると、政治意識は一般人と同レベルだろう。弟のような価値観を持つ可能性は低いし、古い価値観に染まっている可能性すらある。保守的な夫と開明的な弟が対立したら、夫に理があると考えるのではないか。

 

 あるいは、アンネローゼは、夫と弟の対立を「愛するジークとかわいいラインハルトの喧嘩」としか思っていない可能性もある。夫と弟が何やら喧嘩している。話を聞いてみると、夫はまともなことを言っていて、弟は理解しがたいことを言っている。だから、弟を叱って、夫と仲直りさせた。オーベルシュタインは弟に変なことを吹き込み、夫との仲を裂こうとする「悪い子」だから追い払った。その程度の認識で、政治に介入しているのかもしれない。

 

 いずれにしても、俺が真実を知ることはないだろう。アンネローゼの政治介入が事実かどうかすらわからない。事実であったら、ありがたいことだ。アンネローゼがラインハルトを止めてくれるのだから。

 

 

 

 一一月中旬から一二月下旬にかけて、大規模な人事異動が実施された。第九次イゼルローン攻防戦に端を発するごたごたによって、多くの軍高官が辞任した。その空席を埋めるための人事がメインである。また、国防体制を強化するために、小規模な組織改編が行われた。

 

 ウォルター・アイランズ大衆党幹事長が、国防委員長に就任した。金銭絡みのスキャンダルが多すぎるため、絶対に入閣できないと言われた人物である。初当選以来、エネルギー政策関連のポストを歴任しており、国防政策に関わった経験はない。政府寄りのマスコミは、「エネルギー産業は軍需産業の一部。新委員長の力量に不安はない」と言うが、信じる者はいなかった。無能なイエスマンだから起用されたというのが、大方の見方である。

 

 この人事を歓迎する者はほとんどいなかった。反トリューニヒト派は激しく反発した。トリューニヒト派は先行きに不安を覚えた。設立当初からアイランズ待望論を唱えてきた新興宗教「光に満ちた千年王国」だけが、歓迎の意を示した。

 

『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』は、ウォルター・アイランズを立派な政治家として描いている。帝国軍がフェザーンを制圧し、トリューニヒト議長が雲隠れした時、彼は半世紀の惰眠から目覚めた。その時、ウォルター・アイランズこそが同盟政府であり、同盟国家そのものだった。彼の献身的な指導により、ヤン・ウェンリーやアレクサンドル・ビュコックは縦横無尽の活躍ができたのである。

 

 俺は前の世界でのアイランズ国防委員長の活躍を知っているが、それでも喜べなかった。この世界では長年の知り合いだが、小物として共感を覚えることはあっても、立派な人だと感じたことは一度もない。市民軍では役立たずだった。国難に見舞われなければ覚醒しないのなら、覚醒しない方がいい。国難なんて起きないに越したことはないのだ。

 

 地上軍幕僚総監マーゴ・ベネット元帥が国防事務総長に起用された。この人事により、国防事務総長が統合作戦本部長と並ぶ要職であることが明確になった。

 

 航空部隊総監ハフィーズ・カンディール上級大将が、ベネット元帥の後任として地上軍幕僚総監となった。七八三年に士官学校を次席で卒業し、早くから将来のトップ候補として期待され、それにふさわしい実績を積んできた。ラグナロック戦役では、ウランフ元帥やヤン元帥の指揮下で華々しい勲功をあげた。旧シトレ派の出身だが、有害図書愛好会とは対立しており、独自路線を歩んでいる。マリネスク上級大将とともに、非トリューニヒト・非ヤンを掲げる勢力の筆頭である。

 

 イゼルローン総軍副司令官ヨハネス・オイラー大将は、国防調整会議副書記に転じた。国防事務次長と同格で、国防の中枢にかかわる要職である。差別発言によって更迭されたことは公表されていない。

 

 第六艦隊司令官エリック・ムライ大将が、イゼルローン総軍副司令官に起用された。ヤン元帥が希望したわけではない。国防委員会内部から練度の低さを危惧する声があがったのである。長きにわたってヤン艦隊の副司令官を務めた男は、久しぶりに指定席に戻った。

 

 第九次イゼルローン攻防戦で華々しい活躍を見せたカール・フォン・ゾンバルト中将が、第六艦隊司令官に就任し、大将に昇進した。前の世界では、ラインハルトの部下であったが、ヤン艦隊に惨敗したために自殺した。この世界では、皇太子に仕える「ルートヴィヒ・ノイン」として勇名を馳せた。二つの世界で数奇な運命をたどった男が、正規艦隊司令官に上り詰めたのである。

 

 オイラー大将とゾンバルト大将が要職に起用されたのは、帝国人を引き続き重用するというメッセージである。エルクスレーベン事件の影響で、帝国人排斥の空気が蔓延している。同盟に同化した「良き帝国人」に対する信頼も大きく揺らいだ。トリューニヒト政権にとって、良き帝国人は重要な票田であり、守るべき存在であった。

 

 宇宙艦隊司令長官フィリップ・ルグランジュ上級大将は、エルクスレーベン事件の責任を取って辞任した。本来ならば、国防委員長、統合作戦本部長、宇宙軍幕僚総監、宇宙艦隊司令長官がすべて辞任してもおかしくない。当時のネグロポンティ委員長は既に辞任した。「さらに辞任者を出したら収拾がつかなくなる」という理由で、被告人の直接の上官にあたるルグランジュ上級大将が辞任することとなった。

 

「収拾がつかないってのは言い訳だな」

 

 俺は政府の思惑を小物なりに察していた。統合作戦本部長と宇宙軍幕僚総監が空席になったら、好ましくない人物が後釜に座るかもしれない。また、宇宙艦隊司令長官は好ましくない人物の一人と深い関係にある。だから、宇宙艦隊司令長官を辞任させたのだろう。

 

 後任の司令長官として様々な提督の名前があがる中、俺のところに就任要請が来た。アイランズ国防委員長が言うには、「君なら市民が納得する」「綱紀粛正に取り組む姿勢をアピールできる」のだそうだ。

 

「お引き受けになりますか?」

 

 次席副官クリストフ・ディッケル地上軍大尉の目が、きらきらと輝いている。権限が縮小されたとはいえ、宇宙艦隊司令長官のネームバリューは衰えていない。

 

「断るよ」

「どうしてです? 名誉なことではありませんか」

「君と別れたくない。地上軍大尉は宇宙艦隊に入れないからね」

 

 俺が笑いながら言うと、ディッケル大尉は恥ずかしそうに頭をかいた。

 

「うっかりしていました」

「第一辺境総軍は生まれたばかりだ。一人前になるまで育てたい。全軍の手本になる部隊を作るんだ」

「そこでヤン元帥に差をつけるというわけですね」

 

 士官学校の首席卒業者だけあって、ディッケル大尉は察しがいい。

 

「育成なら対抗できる」

 

 俺は確信を込めて言った。指揮官の仕事の半分は戦争、半分は育成である。戦争では勝ち目がない。だが、育成なら勝ち目はある。

 

 ヤン・ウェンリーは人を使うのがうますぎる。優秀だが個性が強すぎる人物も、ぱっとしない人物も難なく使いこなしてしまう。だから、わざわざ育てる必要がない。前の世界でも、ヤン・ファミリーのメンバーは、スターと即戦力ばかりであった。

 

 軍隊における育成とは、平凡な人間を伸ばすことである。やる気のない者にやる気を出させる。才能のない者に力をつけさせる。経験のない者を一人前に育てる。こうしたことをうまくやるのが育成力だ。

 

 ユリアン・ミンツはヤン・ウェンリーの弟子と言われるが、勝手に育ったといった方がより正確だ。彼にはやる気も才能もあった。自分で学ぶべき課題を見つけ、必要なものを余すことなく吸収し、血肉にすることができた。誰の下にいても伸びるタイプである。善人の下にいれば優秀な善人になるだろうし、悪人の下にいれば優秀な悪人になるだろう。伸びる方向性が違うだけだ。そんな人間を伸ばしたところで、育成力の証明にはならない。

 

「育成だけでトップに行った人もいますからね。オルトリッチ提督とか」

「その路線を目指すよ。戦下手だから」

 

 俺は何の気負いもなく言った。オルトリッチ提督と肩を並べる資格があるとは思っていない。それでも構わなかった。資格がないなら手に入れればいい。それだけのことだ。

 

 優れた育成者が当代最強の用兵家を抑えてトップに立ったケースは、いくらでもある。殺すことはたやすいが、育てることは難しい。一万の兵を育てた功績は、一万の敵兵を殺した功績に優る。一〇人の将を育てた功績は、一〇人の敵将を殺した功績に優る。勝算は十分にあった。

 

「育成なら宇宙艦隊司令長官でいいじゃん。育成専門職だよ」

 

 そう言ったのは、恩師であり部下であるイレーシュ・マーリア少将である。プライベートなので敬語を使わない。仕事を二二時に終えた後、俺と彼女は久しぶりに二人で食事をとっていた。

 

「再編前だったら、引き受けても良かったんですけどね。宇宙軍のトップですから。でも、今はメジャーコマンド司令官の一人です。第一辺境総軍と引き換えにする価値はありません」

「宇宙艦隊司令長官を天秤にかけるご身分ですか。エリヤ・フィリップスも偉くなったもんだ」

 

 イレーシュ少将は肩をすくめ、端麗な顔におどけた笑みを浮かべた

 

「まったくです」

 

 俺は照れ笑いを浮かべた。出世しても小物気分は抜けていない。偉い人間のように振る舞うと、微妙な気恥ずかしさを覚える。そんなのは自分ではないという気がするのだ。

 

「嬉しいけど寂しいね。自分の手を離れていくみたいでさ。子供が巣立つのを見送る親もこういう気分なのかな」

「なんで親なんですか? せいぜい姉でしょう。六歳しか年が違わないんだから」

「身長差は一二センチ。ほとんど親子だよ」

「あなたがでかすぎるんです」

「君がガキすぎるのよ。全然変わってないじゃん」

 

 イレーシュ少将は右手で俺の左頬をつまんだ。

 

「肌の張りもつやも昔とおんなじ。顔つきも全然変わってない。むしろ若返ってるかもしれない。三四歳の顔じゃないよ」

「ほっといてください。気にしてるんですから」

 

 俺は少し困ったように笑い、左手でイレーシュ少将の細い右手首をつかんだ。そのまま手を引いて左頬から引き離そうとしたところで手が止まった。肌触りが以前よりわずかながら張りがないことに気づいたのだ。

 

「どうしたの?」

 

 イレーシュ少将がいぶかるように俺を見る。

 

「いえ、なんでもありません」

 

 俺は内心の動揺を隠すように微笑むと、彼女の手を左頬から離した。そして、彼女の手首を自分の手から解放した。逃げるような気分だった。

 

 自分と恩師が別の生き物のように感じられた。成長して年を取って死んでいくのが生き物として正しい姿だ。あの妹ですらわずかに老けている。一四年過ぎてもまったく老けていない自分は、生き物として間違っているのではないか。いや、普通の生き物は死んでから生き返ったり、過去にタイムスリップしたりしない。

 

 ここで俺は考えるのをやめた。どうせ答えは出ないのだ。答えの出る問題について考えた方がいい。考えるべき問題は山ほどあるのだ。



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第114話:生きていないはずの時間を生きている 803年1月1日~6月7日 第一辺境総軍司令部~第二艦隊司令部~寝室

 年が明けて八〇三年を迎えた。同盟人は「ハッピー・ニュー・イヤー!」、帝国人とフェザーン人は「フローエス・ノイエス・ヤー」と叫び、新しい年を祝った。八〇二年は銀河が大きく揺れた年であった。今年はどんな年になるのであろうか? 期待と不安が混在する中、新しい年がスタートした。

 

 八〇三年一月の第一辺境総軍は、方面軍レベルの問題を三個、星域軍レベルの問題を一一個抱えている。同盟軍で最も忙しい総軍といっても過言ではない。担当宙域はグローバルテロ、分離独立運動、麻薬問題、移民問題など多くの火種を抱えている。七九六年のシャンプール・ショックとエル・ファシル七月危機、七九七年のミトラ同時爆発テロ、八〇〇年のアラウカニア独立問題は記憶に新しい。

 

 重大問題に対処するため、三つの統合任務部隊を創設した。第二二方面軍副司令官コヴィントン中将が指揮するエル・ファシル統合任務部隊は、エル・ファシル革命政府軍に対処する。第七方面軍副司令官パン中将が指揮するカナンガッド統合任務部隊は、カナンガッド海賊の討伐にあたる。第四〇独立作戦軍司令官ラフマディア中将が指揮するパトリオット統合任務部隊は、同盟警察第一辺境管区総局の指揮下に入り、麻薬組織と戦う。

 

 統合任務部隊は司令官が所属する部隊を主力とし、総軍直轄部隊や正規艦隊や常備地上軍から派遣された部隊を指揮下に収める。エル・ファシル統合任務部隊とカナンガッド統合任務部隊は、二個分艦隊を基幹としており、かつての第一三任務艦隊やエルファシル方面軍に匹敵する規模だ。パトリオット統合任務部隊は、二個作戦軍を基幹としている。

 

「俺も偉くなったもんだ。統合任務部隊を三つも動かしているんだからな」

 

 エル・ファシル方面軍の一戦隊司令に過ぎなかった俺が、三個統合任務部隊を統括する身分に成り上がった。とてつもない出世と言えよう。だが、無邪気に喜んでいられる立場ではなかった。権限の大きさは、対処すべき問題の大きさと比例しているのだ。

 

 エル・ファシル統合任務部隊は、マズダク星系からアスターテ星系に至る同盟領外縁部の防衛にあたっている。担当宙域にエル・ファシル星系は含まれていない。エル・ファシル革命政府軍に対抗するための戦う部隊なので、エル・ファシルの名を与えられた。

 

 現在のエル・ファシル革命政府軍は、七月危機を起こしたエル・ファシル革命政府軍とは別物の組織と考えた方がいい。マーロヴィアから最短でも二〇〇〇光年以上離れた外宇宙に拠点を置き、数千星系を支配し、人口数百万と兵士数十万を抱える一大勢力である。

 

 六年前、同盟軍の攻勢によって壊滅的打撃を受けたエル・ファシル革命政府軍は、外宇宙に逃れた。「サジタリウスのロレンス」と呼ばれる帝国人軍事顧問の指揮のもと、星図のない宙域を踏破し、前人未到の場所に根拠地を築いた。同盟が帝国と全面戦争を繰り広げている間に、無人星系を支配下に収め、密貿易や海賊行為で資金を稼ぎ、同盟と帝国からの逃亡者を受け入れた。海賊やテロリストと手を結び、聖域を提供した。

 

 距離の防壁がエル・ファシル革命政府軍に味方している。マーロヴィアから革命政府領までの距離は、最短でも二〇〇〇光年以上と推測される。本拠地シウダ・リベルタの座標は未だに特定されていない。討伐軍を派遣するとしたら、星図が存在せず、安定したワープポイントを確保できず、中継基地がなく、相手の所在もわからないという条件で戦わなければならない。運よくシウダ・リベルタにたどり着けたとしても、恐るべきロレンスと革命政府軍本隊が待ち構えている。

 

「本当にとんでもない連中だ」

 

 俺はこめかみを押さえた。犯罪者が外宇宙まで逃げることは珍しくない。人口数十万人を擁する勢力は三つ、数千人から数万人の人口を擁する勢力は数十個ある。しかし、これほど遠い場所にこれほど大きな勢力を築いた者はいなかった。

 

 外宇宙への進出は技術的には可能だが、経済的には不可能だった。コストに見合った成果が見込めないのだ。既知宙域には未開発の可住惑星がいくらでもある。宇宙暦四世紀以降、銀河の資源埋蔵量は増加の一途を辿っている。有り余っているものを外宇宙で探す必要はない。前の世界のローエングラム朝は、外宇宙探査事業を一度も実施しなかった。

 

 エル・ファシル革命政府軍の執念には恐るべきものがある。普通の人間は二〇〇〇光年も逃げようなどとは思わない。天才航宙者ロレンスがいたとはいえ、よく耐え抜いたものだと思う。

 

「俺の責任だ」

 

 俺がやり直したせいで救われた者もいるが、不幸になった者もいる。二人目のエル・ファシルの英雄がいなければ、エル・ファシルが焼け野原になることはなかったし、エル・ファシル人が苦難を味わうこともなかった。ルチエ・ハッセルは家族と一緒にパンを売っていただろう。ワンディ・プラモートは平凡な政治家として生涯を終えたはずだ。

 

 同盟憎しの一念で戦うエル・ファシル革命政府軍は、外宇宙からの侵入を繰り返した。防衛部隊を三倍に増やしても、防衛線の隙間を潜り抜け、同盟領内に浸透する。長大で人口稀薄な宙域をカバーすることは不可能に近い。手をこまねいていたら、外縁部の住民が「同盟軍頼むに足りず」と判断し、革命政府軍になびくかもしれない。防衛体制の強化は急務であった。

 

 二月中旬以降、エル・ファシル統合任務部隊によるトラブルが多発した。ちょうど、第二艦隊B分艦隊がこの部隊に加わった時期と一致している。要するに第二艦隊B分艦隊がトラブルを起こしているのだ。

 

 B分艦隊司令官ハイメ・モンターニョ中将は、上官の意思と自分の意思を混同するところがある人物だ。良い方向にはたらけば、上官の意思をくみ、それを全力で実現しようとする。悪い面にはたらけば、自分の意思を上官の意思と勘違いし、虎の威を借る狐に成り下がってしまう。エル・ファシル統合任務部隊においては、完全に悪い面が出てしまった。

 

 辺境住民は同盟という国家に対して複雑な思いを抱いている。経済力に乏しいため、同盟政府からの支援に依存せざるを得ない。支援の代償として、何かを要求されるのは当然だろう。しかしながら、支援に比して要求が過大すぎるように感じることが少なくない。支援なしに要求だけされることもあった。イゼルローン方面の住民の場合、長きにわたって対帝国戦の前線にいたため、多大な負担を強いられた。最も同盟を必要としているのは辺境住民であるし、最も同盟に踏みつけられてきたのも辺境住民であった。

 

 細心の配慮をもって取り組むべきであったのに、モンターニョ中将は傲慢な態度をとった。隊員が酔っ払い運転で事故を起こしても謝罪しようとしない。地元の政治家やマスコミから批判されると、「反戦派の手先だから我々を批判するのだろう」と言い出すありさまだ。

 

 俺は地方勤務経験者だから大丈夫だと判断した自分の甘さを後悔し、モンターニョ中将を召還しようとしたが、各方面から横槍が入った。横柄な態度を歓迎する者が少なくなかったのだ。おかげでマフィンの量が倍に増えた。

 

 横槍は際限なく増えていった。威張り散らすことが国家の威信を示すことだと勘違いした者、辺境を「金食い虫の分際でわがままだ」と思っている者、あらゆる抗議行動に敵意を抱く者、辺境をガツンと叩いて屈服させるべきだと考える者がよってたかって介入してくる。そのほとんどが右翼や保守派だった。それなりの力と立場を持った相手ばかりなので、むげにできない。おかげでマフィンの量が倍に増えた。

 

 俺が動けない間に、右翼や保守派に煽られたモンターニョ中将はエスカレートした。部下が住民に迷惑をかけても、一切の謝罪を拒否した。騒音に関する苦情が出ると、取り合わないばかりか、その地域の近辺でこれ見よがしにシャトルや飛行機を飛ばした。部下が犯罪を犯すと、すぐにその星系から出国させ、引き渡し要求にも応じなかった。抗議した者を帝国の手先扱いするような発言を繰り返した。おかげでマフィンの量が倍に増えた。

 

 トリューニヒト議長は何もしなかった。意思表示すらしない。巻き込まれたくないと思っているのだろうか。こういう時に助けてもらえないのは困る。おかげでマフィンの量が倍に増えた。

 

 軍部のトリューニヒト派はあてにならない。良識派の弱体化により、良識派打倒という共通の目標を失ったトリューニヒト派は内輪もめを始めた。良識派の潔癖さを攻撃していた人々は、「寛容派」を名乗り、大きな問題でもうやむやにすることに血道を上げた。良識派の奔放さを攻撃していた人々は、「厳格派」を名乗り、些細な問題でも厳しく罰することに血道を上げた。完全免罪を主張する寛容派と問答無用の免職を要求する厳格派は、邪魔者以外の何者でもなかった。おかげでマフィンの量が倍に増えた。

 

 勤務時間が終わると、個室トレーニングルームにこもり、サンドバッグを叩いた。ストレス発散には体を動かすのが一番だ。

 

「くそ馬鹿野郎!! ふざけんな!!」

「何考えてんだ!? 頭おかしいんじゃねえか!?」

「死んじまえ!! 今すぐ死ね!! 死ねないなら殺してやろうか!?」

「同盟を分裂させるつもりか!? ふざけんじゃねえぞぉ!!」

「俺がどんだけ苦労してると思ってんだ!! てめえらには理解できねえだろうなぁ!!」

「何が愛国者だ!! てめえは売国奴だろうがぁ!!」

 

 パンチの一つ一つに殺気を込める。拳が写真を貫いた。サンドバッグが大きな音を立てる。実にいい気分だ。ドーソン上級大将はバットを使ったそうだが、俺は拳を使った。そうした方が手ごたえが感じられる。

 

 反戦派はフィリップス批判のキャンペーンを行い、各地で抗議デモを組織した。これはこれでしんどかったが、表玄関から入ってくるので、右翼や保守派と比べると対応しやすい。

 

 アッテンボロー大将やジャスパー大将が急に懐かしくなった。彼らは大声で文句を言う以上のことはしなかった。なんと素晴らしい人たちだろうか。裏でこそこそ動いたり、関係者に妙なことを吹き込んだり、第三者をけしかけたり、中立気取りでひっかきまわしたりする連中とは比較にならない。

 

 シェリル・コレット少将は暇があればメディアやネットを検索し、俺を褒める記事を見つけては勝手に送ってくる。俺を元気づけたいのだろうが、ちょっとうっとうしい。でも、やめろとも言えない。

 

 ある日、コレット少将が新興宗教「光に満ちた千年王国」の機関誌『約束の時』を送ってきた。俺の平凡な童顔が表紙を飾っている。見出しには、「エリヤ・フィリップスは使徒か!?」と大きな文字で書いてある。

 

 ページをめくってみると、エリヤ・フィリップスは時間逆行者だと言いたいらしい。その理由としては、「決して失敗しないのは未来を知っているから」「不死身なのは果たすべき使命があるから」「年を取らないのは一度寿命が尽きたから」「教祖カシア・ロスネルの予言に登場しない」などがあげられている。

 

 俺はうんざりして約束の時を閉じた。数え切れないほどの失敗をした。生き残ったのは運が良かっただけだ。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 ここまで馬鹿馬鹿しい本は滅多にない。一番馬鹿馬鹿しいのは、時間逆行者ごときを崇拝することだ。そんなものが崇拝に値しないことは、自分自身が一番良く知っている。逆行したからなんだというのだ。逆行者を名乗るロスネルだって、何もできずに三〇代で死んだではないか。逆行した程度で変えられるほど世界は甘くない。

 

 俺は手持ちの人脈を総動員し、時には強硬策を用い、時には懐柔策を用い、介入者を一人一人排除していった。横槍がなくなったところで、モンターニョ中将を呼び戻した。話を聞いてみると、「強く出なければ、フィリップス提督が左翼に舐められると思った」とのことだった。俺が厳しく叱責すると、モンターニョ中将は土下座して泣きながら謝った。

 

 五月中旬、モンターニョ中将に停職一か月の処分が下された。迷惑をかけた相手に対しては、俺が自ら謝罪した。右翼や保守派は「なぜ処分するのか!? 弱腰にもほどがある!」と激怒し、反戦派は「処分が甘すぎる! 身内びいきだ!」と批判したが、表向きにはこれでけりがついた。

 

 補償問題は未だに決着していない。国防委員会防衛部が「一ディナールたりとも払わない。徹底的に戦う」と言い出した。寛容派が防衛部を煽っているらしい。さっさと補償して住民感情を和らげたい第一辺境総軍との間で、綱引きが続いている。

 

 一連のごたごたで得をした者がいるとすれば、エル・ファシル革命政府軍であろう。エル・ファシル統合任務部隊は三か月近い時間を空費させられた。作戦宙域住民の対同盟感情は著しく悪化した。補償のために税金を支出しなければならない。指揮権行使を妨害されまくった俺の威信は傷ついた。エル・ファシル革命政府軍は、コーネリア・ウィンザー、マルタン・ラロシュ、ジョージ・ビルジン、エイロン・ドゥメック、ウィリアム・オーデッツら三五名に勲章を与えるべきだ。

 

 五月下旬、カナンガッド統合任務部隊は、大手海賊組織「地球教宇宙教会」の本拠地シャンバラ聖宮を急襲した。圧倒的な兵力差もあって、一時間もしないうちに決着がついた。しかし、第一一艦隊C分艦隊の不手際によって、首領のルイ三一世と聖宮騎士団を取り逃がしてしまった。

 

「…………」

 

 俺は無言で報告書を見詰めた。地球教宇宙教会壊滅の好機を逸した。二か月かけて情報を集め、内通者を作り、拠点を強襲し、連絡路を絶ち、包囲網の中に追い込んだ。その努力が一度の不手際で水の泡となった。

 

 地球教宇宙教会は海賊としての活動より、独特のスタイルによって有名になった。構成員は地球教への入信を義務付けられており、その戒律に従わなければならない。殺人と盗みと強姦と飲酒と賭博と麻薬は、「神がお許しにならない」ので禁止されている。野戦服や装甲服の上に地球教の祭衣を羽織って出陣し、讃美歌を唱和しながら進み、「地球は我が故郷! 地球に帰ろう!」と叫びながら銃を撃つ。積み荷や身代金を奪う際は、被害者に「寄付申込書」を書かせ、世直しに対する寄付という体裁をとる。

 

 首領が「地球及び全銀河の総大主教ルイ三一世」を自称していることからわかるように、地球教宇宙教会は地球教銀河教会の宗主権を認めていない。以前は「地球教救世修道会」と名乗り、私設修道会(もちろん認可は受けていない)として海賊活動に勤しんでいた。だが、二年前に銀河教会が海賊行為を禁止し、海賊を破門した。この決定に対し、救世修道会は「大地神テラはすべての魂を平等にお救いになるはず」と抗議したが、相手にされなかった。そのため、組織名を改め、自分こそが地球教の正統だと宣言した。首領は宇宙教会総大主教ルイ三一世の名において、銀河教会総大主教シャルル二四世と総書記代理ド=ヴィリエ大主教に「破門」を言い渡した。

 

 数々の奇行から笑い者になっている地球教宇宙教会だが、その実力は本物である。信仰と戒律の力により、強固な規律を誇る。主力部隊「聖宮騎士団」は、戦闘のプロを中核とし、最新兵器を装備する精鋭だ。政府や大企業の船だけを狙い、収益の一部を福祉団体に寄付し、負傷させた者に見舞金を贈るので、ヘイトを買いにくい。主な資金源はダイヤモンド鉱山で、フロント企業を使った合法的経済活動でも収益を上げており、単なる海賊とは一線を画する。

 

「ここで潰しておきたかったなあ……」

 

 逃がした魚の大きさを嘆いていると、第一一艦隊司令官ウィレム・ホーランド大将から通信が入った。部下の不手際に対する謝罪であった。

 

「指導が行き届いていなかった。私の責任だ」

「あなたはベストを尽くしました。それでも力の及ばないことはあります。謝罪には及びません」

 

 これは社交辞令ではなく、俺の本音だった。部隊が強くなるには時間が必要だ。ホーランド大将の手腕をもってしても、時間を飛び越えることはできない。

 

「そう言ってもらえるとありがたいがね。敵は我々の成長を待つほど親切ではない。万全の状態に仕上げておかねばならんのだ」

「お気持ちはわかりますが、長い目で……」

 

 そこまで言ったところで、俺は言葉を続けられなくなった。ホーランド大将に時間が残されていないという事実を思い出したのだ。

 

「時間が少ないなんてことはないさ」

 

 ホーランド大将は俺の懸念を打ち消すように笑った。

 

「今の時間は与えられたものだと思っている。私は死んだはずの男だ。本来なら生きていないはずの時間を生きている。それはとても素晴らしいことだ」

「わかります」

 

 俺は心の底から同意した。生きていないはずの時間を生きているという点では、自分も同じであった。本来の人生は一五年前に終わったが、思いもかけず第二の人生を与えられた。辛いことはたくさんあった。それでも、死んでいれば良かったと思ったことは一度もない。

 

「だから、時間切れなど恐れていない。私は第一一艦隊再建を心から願っている。だが、それを成し遂げる者が私である必要はない。私が倒れたら、誰かが後を継げばいい。その者が倒れたら、別の者が後を継げばいい。私がブレツェリ君たちの志を継いだようにな」

「踏み台でも構わないとおっしゃるのですか?」

「その通りさ。時間がある限り、一歩でも進みたい。私が一歩進めば、後に続く者の苦労は一歩分だけ少なくなるからな」

 

 ホーランド大将の表情は晴れやかで、ひとかけらの迷いもなかった。

 

「ありがとうございます」

 

 俺はスクリーンに向かって頭を下げた。かつて、自分一人の栄光を求めた人が、人々のために踏み台となる覚悟を決めたのだ。感激せずにはいられるだろうか。

 

「参ったな。頭を下げに来たつもりが、頭を下げられるとは」

「あなたを第一一艦隊司令官に推挙したのは俺です。あなたに責任があるのなら、俺にも責任があります。未熟な部隊を率いるようお願いしたのですから」

「では、ありがたく好意を受け取っておこうか」

「助かります」

「不思議なものだな。『許してやる』と言われたら腹が立つが、『許させてほしい』と言われたら申し訳ない気持ちになる」

「トリューニヒト議長から教えていただきました。『人を助けたい時は、助けさせていただくという気持ちで接しないといけない。助けてやると思ったら恨まれる』と」

「なるほど。君はドーソン提督やイレーシュ君の弟子であると同時に、トリューニヒト議長の弟子でもあるのだな」

 

 その言葉はとても嬉しいものだった。トリューニヒト議長と対決する決意を固めたが、敬意を失ったわけではない。敬意があるからこそ、対決せざるを得ないという面もある。

 

「ええ、おっしゃる通りです」

「では、ついでに一つ助けさせてもらえんかね」

「なんでしょう? できることならなんでもいたしますが」

「マリノ君を私に預けてほしい。彼なら芸術的艦隊運動を習得できるかもしれん」

 

 ホーランド大将は封印したはずの必殺戦術の名を口にした。

 

「どういう風の吹き回しです? 『あの技は墓場に持って行く』とおっしゃいませんでしたか?」

「状況が変わった。我が軍と帝国軍の差は想像以上に小さい。あの技が必要になる場面があるかもしれん」

「帝国軍が常に派閥バランス重視の編成を取るとは限りませんからね。実力重視の編成で攻めてきたら厳しいです」

 

 俺は帝国軍諸将の顔を思い浮かべた。ラインハルトが総指揮をとり、ミッターマイヤー提督とロイエンタール提督が両翼を指揮し、ビッテンフェルト提督が後衛を固めたら、同盟軍ベストメンバーと互角以上の戦いができる。メルカッツ元帥がファーレンハイト提督、レンネンカンプ提督、アイゼナッハ提督らを率いて戦ったら、同盟軍ベストメンバーでも苦戦を免れない。

 

「いつもの連中だけが相手ならどうにかなる。我が軍はローエングラム軍やメルカッツ軍と何年も戦ってきた。彼らの手の内はだいたいわかっている。あのメンツだけが相手なら、勝てないまでも負けることはない」

 

 ホーランド大将は「あのメンツ」を強調した。つまり、それ以外が問題だということだ。

 

「あのメンツに何かがプラスされたら勝てない。そうお考えなのですね?」

「その通りだ。そして、敵はその何かを持っている」

「教えてください。その何かがどういうものかを」

 

 俺は身を乗り出した。ホーランド大将は理詰めの分析を苦手としているが、それを補って余りある霊感がある。その霊感は帝国軍から何を感じたのか?

 

「ヘルマン・ボイス」

 

 ホーランド大将が口にした名前は、弱体な戦力と古い戦術でコレット少将と渡り合った敵将のものだった。

 

「我が軍でも一線級を張れる人材だよ。今の我が軍ではない。ラグナロック以前の我が軍だ。あのレベルの強豪が少将クラスにいる。ローエングラム公は苦境にあっても、着実に戦力を揃えているのだ。ボイスのような男が出世して、より多くの兵を率いるようになったらどうなる?」

「とんでもないことになりますね……」

 

 俺は左手で軽く腹を押さえた。想像するだけで腹が痛くなってくる。エース級の分艦隊司令官は得難い存在である。ボイス提督並みの分艦隊司令官が数名出現するだけで、帝国軍は飛躍的に強くなるだろう。

 

「だからこそ、絶対的な切り札が必要なのだ。敵がどんなに強い札を切ってきても勝てる札が」

「かつてのあなたみたいな札ですね」

「そうだ。マリノ君ならきっとなれるはずだ」

「承知いたしました。マリノ中将に話してみましょう。了承が取れたら、彼の部隊をあなたの指揮下に入れます」

「同意してくれたら良いのだが」

「大丈夫でしょう。マリノ中将は戦うことが好きでたまらない人です。強くなれるなら飛びついてきますよ」

 

 二週間後、マリノ中将率いる第五五独立分艦隊は、第一一艦隊の指揮下に臨時配属されることとなった。マリノ中将が芸術的艦隊運動を習得したら、銀河最強の分艦隊司令官になるだろう。習得できなかったとしても、名将ウィレム・ホーランドの薫陶は良い影響を与えるはずだ。

 

 事件は後方でも起きている。第一辺境総軍ほどの大部隊になると、何もない日の方が珍しい。大抵の事件は方面軍レベルで片が付く。総軍は個別の事件に対する対処ではなく、事件の背景にある長期的な問題への対処を行う。

 

「六月七日二一時頃、第二艦隊A分艦隊の下士官がプエルトモント市警に逮捕されました。麻薬取締法違反です」

 

 ハラボフ大佐が報告書を持ってきた。第一辺境総軍首席副官ではなく、第二艦隊副官としての仕事である。

 

「ありがとう」

 

 俺は第二艦隊司令官として報告書を受け取った。麻薬と聞いて少し嫌な気分になったが、表情には出さず、笑顔で応じる。

 

「サイオキシン……」

 

 報告書の中に忌まわしい単語を見つけた俺は、奥歯を強く噛み締めた。前の人生で俺の体を蝕んだ合成麻薬が、俺の部下を蝕んでいる。この薬はどこまで俺に祟るのだろうか。

 

「またA分艦隊ですか」

 

 艦隊副司令官補ジェニングス中将が呆れ顔で言った。サイオキシンで逮捕されるA分艦隊隊員はやたらと多い。他の分艦隊の倍近い人数だ。

 

「あの部隊は厳しすぎますからな。ストレスで潰れてしまう者が多いのです」

 

 艦隊副司令官アップルトン中将は困り顔で嘆いた。ベテランの彼ですら、A分艦隊の現状には困り果てている。

 

 A分艦隊司令官ジョゼフ・ケンボイ中将は、自分にも他人にも厳しい人物だ。酒を一滴も飲まない。煙草を一本も吸わない。賭博を絶対にしない。食べ過ぎることはないし、美食を楽しむこともない。子作り以外のセックスは絶対にしない。絶対に嘘をつかない。自己を完全にコントロールするのと同じように、部隊をコントロールしてみせた。自分に厳しくするのと同じように、他人に厳しくした。

 

 素晴らしい規律と引き換えに、A分艦隊は高ストレス環境と化した。残業は第一辺境総軍所属部隊の中で飛びぬけて少ない。休憩は義務であり、休まず働き続けたら叱られる。福利厚生に十分な配慮がなされている。ハラスメントは決して許されない。一見すればホワイトな環境なのだが、それを維持するための規律が極端に厳しく、羽目を外せない空気がある。

 

 ストレスで潰れる隊員があまりに多すぎたので、俺とアップルトン中将はケンボイ中将に厳しくしないよう求めた。すると、ケンボイ中将は何が厳しくて何が厳しくないかを厳密に定義し、厳しくない範囲から一歩でもはみ出した者を処罰した。隊員たちははみ出すことを恐れて萎縮した。何度注意しても、そのたびに厳しさの線引きを変えるだけだった。要するに何かを禁止する以外の方法を知らない人なのだ。

 

「悪い人ではないんですけどねえ……」

 

 艦隊副参謀長ドールトン少将は心配するような顔をした。彼女が言う「悪い人ではない」はあてにならないが、ケンボイ中将に限っては正しい。悪い人ではないからこそ厄介なのだ。

 

「ケンボイ提督のことはひとまず置いておこう。問題はサイオキシンだ。ストレスは薬を使うきっかけに過ぎない。そこに薬があったから使った。酒があれば、彼はそれを飲んだはずだ。甘味があれば、彼はそれを食べたはずだ。誰かが薬を持ち込み、彼に渡した。そこが一番の問題なんだ」

 

 俺は幕僚全員の顔を見渡した。自分の真剣さを少しでも共有してほしいという気持ちを込め、一人一人と目を合わせる。

 

 調査の結果、逮捕された下士官にサイオキシンを売った人物が判明した。ランカイ市のギャング団メンバーだった。薬の出どころは、銀河最大の麻薬組織「カメラート」だという。

 

「カメラートか……」

 

 夜明け時の寝室で、俺は同盟警察が作成したカメラートの資料を眺めた。薄っぺらで中身も空っぽだ。まともに調べる気がないのだろう。

 

 麻薬組織撲滅作戦の主導権を握る同盟警察組織犯罪対策部は、カメラートの対立組織「メールイェン」を徹底的に叩く方針を取っている。メールイェンを完全に潰した後、全力をもってカメラートと対決するのだそうだ。

 

 サイオキシン密輸のイゼルローン・ルートは、七九三年から七九四年にかけて実施された帝国と同盟の合同捜査によって、大打撃を受けた。七九七年のオーディン陥落をきっかけに復活し、七九九年にイゼルローン交易が始まると急速に輸送量を伸ばした。トリューニヒト政権が八〇一年にイゼルローン交易を完全禁止したため、再び遮断された。そして、イゼルローン・ルートを支配してきたメールイェンは壊滅的な打撃を被った。

 

 イゼルローン・ルートの衰退は、フェザーン・ルートに繁栄をもたらした。同盟に密輸されるサイオキシンの九八パーセントが、フェザーン・ルートで入ってきたものだといわれる。メールイェンの凋落により、サイオキシン業界はフェザーン・ルートを支配するカメラートの一強時代となった。

 

 密輸ルートを失ったメールイェンは、同盟国内に拠点を移し、細々とサイオキシンを製造している。かつて、業界を二分した大組織の面影はない。このような状況にもかかわらず、同盟警察はカメラートを放置し、メールイェンへの攻撃を続ける。警察がカメラートの強大化を望んでいるかのようだ。

 

 俺は引き出しを開き、一冊の冊子を取り出した。色褪せたその冊子は『地球通信』という題名を持つが、地球教の機関誌ではない。一〇月クーデターの時に何者かがばらまいた怪文書だ。

 

 偽の地球通信には、地球教総書記代理ド=ヴィリエ大主教がマネーロンダリングに手を染めていると書かれていた。その顧客としてあげられた者の中にカメラートがいるのだ。当時は見落としていたのだが、警察官僚や警察出身議員の名前も多数並んでいた。

 

「これは信じるに値しない」

 

 俺はそういって偽の地球通信をめくった。この文書単体なら信じるに値しない。客観的な証拠や情報源が記されていないからだ。

 

 警察とカメラートの繋がりを示す証拠は、今のところ見つかっていない。だが、警察と地球教の関係を間接的に示す証拠はある。極右民兵組織「憂国騎士団」がその鍵となる。この組織は警察と地球教の双方と深いつながりを有する。

 

 ダーシャの遺品の一つに、『憂国騎士団の真実――共和国の黒い霧』という本がある。有名な反戦派ジャーナリストのヨアキム・ベーンが書いた本で、憂国騎士団の背景を丹念に追っている。

 

 憂国騎士団の最大の謎といえば、警察との関係であろう。同盟警察は憂国騎士団に対して異常なまでに甘い。派手な暴れぶりにもかかわらず、同盟警察の取り締まり対象に入っていない。憂国騎士団団員が暴力事件を起こしても、警察は逮捕しようとしないし、逮捕されてもすぐ釈放される。他の極右組織は厳しい取り締まりを受けているにもかかわらず、憂国騎士団だけがお目こぼしを受けているのだ。

 

 警察に顔の利く右派政治家数名が、憂国騎士団を保護しているというのが定説だ。警察出身のヨブ・トリューニヒトと憂国騎士団の関係を考慮すれば、それなりの説得力がある。しかし、ベーンはこの説に否定的だった。警察の憂国騎士団に対する友好的姿勢は、末端に至るまで徹底されている。数人の政治家だけで、ここまで警察を統制できるかどうかは疑問だという。

 

 ベーンは発想を転換し、同盟警察こそが憂国騎士団の保護者なのではないかと考えた。右派政治家は警察の支援を受けているため、警察傘下の憂国騎士団を動かせる。そう考えると辻褄が合うというのだ。

 

 自分の仮説を証明するために、ベーンは論証作業を行っているが、膨大過ぎるので詳細には触れない。結論だけ書いておこう。白マスクの行動部隊については、警察式の訓練を受けており、警察から軍から払い下げられたものと同じ装備を使っている可能性が高い。ベーンが「憂国騎士団最強のコマンド」と呼ぶ法務部隊については、ほぼ全員が警察や旧法秩序委員会と関係の深い法律家である。政界との関係については、警察に好意的な政治家なら中道寄りでも支援するが、反警察的な政治家は右翼であっても支援しない。十分に納得のできる推論だった。

 

 仮説が正しいとすれば、警察がなぜ憂国騎士団を保護するのかという疑問が生じる。この疑問に関するベーンの回答はこうだ。憂国騎士団は警察の非公然部隊である。選挙支援、選挙妨害、世論操作、都合の悪い人物への攻撃など、警察が直接できない仕事を憂国騎士団に任せているのではないか。

 

 むろん、憂国騎士団を警察の非公然部隊だと認定できる証拠はない。確かなのは、この二つの組織が必要以上に親密だという事実のみだ。

 

 保守系ジャーナリストのラウラ・ソリータが書いた『愛国心と信仰心――彼らは何を信じたいのか?』という本は、憂国騎士団と地球教の関係について記している。組織運営や宣伝のノウハウを持つ地球教徒団員は、古くから憂国騎士団の枢要を占めてきた。憂国騎士団の大衆組織は地球教の信徒組織とうり二つの構造を持つ。憂国騎士団のイデオロギー綱領は、従来の右翼思想との関連性が薄く、地球教神学の根幹をなす「母子論」の影響を強く受けているらしい。

 

「警察と憂国騎士団。地球教と憂国騎士団。警察と地球教。そして……」

 

 俺は頭の中で「地球教とカメラート」と呟いた。地球教とカメラートを繋ぐ糸さえ見つかれば、警察とカメラートも繋がるのだ。

 

 ここで思考をいったん止めた。自分の思考がとんでもなく飛躍したことに気づいたのだ。今のところ、怪文書以外に地球教とカメラートの繋がりを示すものはない。前の世界では、地球教が組織的にサイオキシンを使用したとの記録がある。しかし、戦記に登場する地球教テロリストは、素人だった。カメラートは訓練されたテロリスト部隊を持っている。地球教がカメラートと組んでいたら、素人だけで皇宮に乗り込むのはおかしい。

 

 いや、真実はどうでもいい。本当はどうでもよくないかもしれないが、手が届かない真実を追い求めるのは時間の無駄だ。目に見えるもののことを考えよう。

 

 俺とメールイェンの戦いはほぼ終わった。二大巨頭のうち、カストロプ公爵は死に、アルバネーゼ元大将は指名手配を受けている。ドワイヤン以外のヴァンフリートの仇は、牢屋や地獄にいる。アルバネーゼとドワイヤンが自由の身なのは気に入らないが、今はこれで満足すべきであろう。

 

 次の敵はカメラートだ。自分が銀河最大の麻薬組織を倒せるとは思わないが、サイオキシンの流通量を減らすことぐらいはできる。

 

 今すぐにでもカメラートに総攻撃を仕掛けたい気分だが、それが許される立場ではない。麻薬戦争の指揮権は同盟警察が握っている。管内の麻薬組織ですら、警察の了承なしに攻撃を加えることは不可能だ。そして、警察がカメラート攻撃に同意する可能性はゼロに等しい。

 

「統合作戦本部長になったとしても、警察には勝てないな」

 

 俺は背もたれに体重を預け、資料にプリントされた警察のマークをじっと見つめた。国防調整会議には四名の常任アドバイザーがいる。一人は統合作戦本部長、一人は中央情報局長官、一人は同盟警察長官、一人は公共安全局長官だ。中央情報局長官は軍出身者の指定席であったが、トリューニヒト政権では警察出身者が任用された。同盟警察長官と公共安全局長官は警察官僚である。

 

 勢力比は一対三。警察はトリューニヒト議長の出身母体であり、最大の後援者だ。軍と違って、警察は一度もトリューニヒト議長を裏切ったことがない。疎まれている俺では勝負にならないだろう。

 

 ラインハルトを仮想敵とするならば、国内作戦の主導権は不可欠だ。前の世界の同盟は本土決戦を経験した。この世界でも本土決戦を視野に入れた防衛戦略が必要になる。戦力的な劣勢を補うため、ラインハルトがテロを仕掛けたり、同盟国内の反体制組織を蜂起させる可能性もある。国外作戦と国内作戦の両方で主導権を握らないと対抗できない。

 

 どうすれば、国内作戦の主導権を奪取できるのだろうか? 最も簡単なのは警察内部の反主流派と手を組むことだ。あるいは警察の主流派に直接食い込み、内部から切り崩すという手もある。麻薬取締局と組むのもありかもしれない。麻薬戦争の主導権を警察に取られている状況は、麻薬対策の専門家としては不本意の極みであろう。

 

「敵はヤン・ウェンリー、ラインハルト・フォン・ローエングラム、同盟警察、カメラート。目指すは統合作戦本部長。すごいな。物語の主人公みたいだ」

 

 俺は失笑してしまった。モブキャラ以外の何者でもない自分が、英雄や超巨大組織を向こうに回して戦うのだ。もう笑うしかない。

 

 本物の主人公ラインハルト・フォン・ローエングラムは、身動きのとれない状態が続いている。キルヒアイス元帥とアンネローゼという枷が、黄金の有翼獅子の飛翔を妨げているのだ。近衛兵総監ロイエンタール上級大将と副首相シルヴァーベルヒ男爵が、キルヒアイス夫婦に抵抗しているが劣勢は否めない。

 

 もう一人の本物の主人公ヤン・ウェンリーは、そもそも動く意思がなかった。動向は伝わってこないが、イゼルローンでのんびり過ごしているのだろう。あるいは窮屈に過ごしているのかもしれない。イゼルローン要塞事務監のポストに就いたルスラン・セミョーノフ大将は、オイラー大将の一〇〇倍、いや一万倍酷い人物である。政府が二人目の参事官を派遣したので、監視の目が一層厳しくなった。

 

 俺は生きていないはずの時間を生きている。その時間を使って歩みを進める。主人公が動けない間にどれだけ進めるのだろうか? 思ったより進めないかもしれない。進んでもあっという間に抜き返されるかもしれない。それでも、俺は歩き続ける。



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第115話:人が足りない 803年6月~8月 第一辺境総軍司令部

 第一辺境総軍は訓練に明け暮れている。若手を育て、ベテランを鍛え直し、同盟軍六〇〇〇万人の手本となる部隊を作るのだ。

 

「まだまだだな」

 

 俺はマフィンをもりもり食べながら、実戦訓練の様子を眺めた。できないことは悪いことではない。人間、誰しも欠点を持っている。できないことではなく、改善しようとしないことが問題なのだ。

 

「長い目で見ましょう。人の育て方とパンの作り方は同じです。焦ったら生焼けになります」

 

 苛立つ俺と対照的に、チュン・ウー・チェン副参謀長はゆったり構えている。

 

「わかっている。長い目で見よう」

「時間をかけるだけでは駄目です。意識を変えないと」

 

 ワイドボーン参謀長が苦々しげに言った。

 

「失敗しても、『指示を守っただけ。自分に責任は無い』と言い張る。下っ端ならそれでも構いませんがね。佐官や将官が言ってるんです。情けないにもほどがあります」

「意識改革も進めないとね」

 

 俺は腕を組んで考え込んだ。第一辺境総軍の士官はやるべきことを理解していない。分艦隊司令官ですら、細かく指示しないと何もできない人間が半数を占める。意識を変えなければ、これ以上の成長は望めないだろう。

 

 ゲルマン第二帝国の宰相ビスマルク侯爵は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と語ったそうだ。愚かな俺は過去の経験からヒントを引き出そうと試みた。

 

 七年前に指揮した第八一一独立戦隊は、言われたことすらできない部隊だった。やる気のない幹部を追い出し、真面目な人材を引っ張り、信賞必罰を徹底し、生活環境を改善したことで、言われたことができるレベルまで向上した。しかし、それ以上の進歩はなかった。

 

 六年前に指揮した第三六機動部隊は、当時の正規艦隊所属部隊としては標準的部隊だった。士官に任務を与えたら、最適な手段を考えて実行してくれた。下士官と兵卒は、士官の期待に応えるだけの力量を備えていた。意識の高さは喜ばしいことであったが、それゆえの困難もあった。みんなが自分なりのこだわりを持っているため、内部調整に苦労させられた。

 

 どちらの経験も第一辺境総軍には応用できない。環境は十分に整っている。士気はそれなりに高い。意識だけが低いのだ。

 

 環境を変えることはたやすいが、意識を変えることは難しい。どうすれば、意識を変えることができるのだろうか?

 

 幕僚たちの顔を見回した。ワイドボーン参謀長やチュン・ウー・チェン副参謀長のようなエリートは、一流の人材をさらに伸ばす方法を知っていても、二流の人材を引っ張り上げる方法は知らない。アブダラ副参謀長のような叩き上げは、乏しい戦力をやりくりする方法を知っていても、戦力の質を高める方法を知らない。

 

「人事部長。あなたの意見を聞かせてほしい」

 

 俺が意見を求めたのはイレーシュ・マーリア人事部長だった。エリヤ・フィリップスという最低の人材を育てた彼女なら、良い案を出せるかもしれない。

 

「私の意見は参考になりませんよ」

 

 イレーシュ人事部長は部下の一人として答えた。身内以外の人間もいる場なので、恩師として振舞うことはできないのだ。

 

「俺のケースは参考になるんじゃないか?」

「当時のあなたは努力を知らなかったし、限界も知らなかった。走り方を教えるだけでよかった。でも、第一辺境総軍の士官は違うんですよ」

「何が違うんだ?」

「士官は選ばれた人間なんです。士官学校を出たエリートもいるし、兵卒や下士官の中から抜擢された叩き上げもいる。努力の楽しさも苦しさも知っている。そして、努力では越えられない限界があることも知っている」

「確かに違うなあ」

 

 俺は納得せざるを得なかった。第一辺境総軍の士官は余白の少ないキャンバスだ。真っ白なキャンバスだった自分とは違う。

 

 もう一度幕僚たちの顔を見回した。イレーシュ人事部長以外にも教育畑の人間が何人かいたが、あてにはできないだろう。学生を教えることは、真っ白なキャンバスに絵を描くようなものだ。限界を知ってしまった者に対しては応用できない。

 

 首席副官ユリエ・ハラボフ大佐が右手をまっすぐに上げた。そして、何かを決意した表情でこちらを見る。

 

「意見があります」

「聞かせてくれ」

 

 その言葉を俺に言わせたのは自分の意志ではなく、見えない何かであった。

 

「定期的にレポートを課しましょう。考える習慣を身に着けさせるのです」

「レポートか……」

 

 俺は少し失望した。冷徹無比のハラボフ大佐なら、もっと現実的な意見を口にすると思っていたからだ。

 

 はっきり言って、レポートほど無意味なものはない。軍人の大多数は、無難に過ごせたらそれでいいと思っている。目を付けられたくないという気持ちもある。そんな人たちにレポートを書かせたところで、体裁を整えることしか考えないだろう。だからこそ、馬鹿正直に書いた俺はドーソン提督の目に留まり、添削と言う名のしごきを受けることとなった。

 

「私はレポートを書いて力をつけた提督を知っています。この部隊にも応用できるのではないでしょうか」

「レポートを書いて力をつけた提督……? 誰のことだ?」

「私が尊敬する提督です」

 

 ハラボフ大佐が嬉しそうに答えた。尊敬する提督の話をする時、彼女の冷徹さにひびが入る。

 

「それじゃあ、参考にならないな。その提督はもともとできる人だ。何をやっても伸びる」

 

 俺はハラボフ大佐の意見をやんわりと否定した。彼女が尊敬する提督といえば、オーベルシュタイン提督のように冷徹で、ラインハルトのように勇敢で、メルカッツ元帥のように重厚で、シュターデン元帥のように理性的で、レンネンカンプ提督のように公正で、クラーゼン元帥のように廉潔だそうだ。完全無欠の人間など例として不適切である。

 

「できない人にも応用できます」

「どうやるんだ?」

「中身ではなく姿勢を評価するのです。そうすれば、誰もが考えるようになります」

「少し楽観的すぎないか」

「そうでしょうか?」

「下は上の好みに合わせようとするものだ。姿勢を評価したら、上辺を取り繕う人が増える。今の我が軍を見ればわかることじゃないか」

 

 甘党の俺が見ても、ハラボフ大佐の考えは甘すぎた。数字にできない要素を評価することは難しい。同盟軍が成果主義を廃し、能力主義に切り替えると、努力したふりが流行るようになった。その結果、アピールのうまい者だけが得をしている。

 

「承知しております」

「考えるふりが流行っても構わないというのか?」

「はい。見せかけにも意味はあります。シトレ元帥が統合作戦本部長になると、清廉なふりが流行りました。皆が清廉なふりをしているうちに、汚職できない空気が生まれたのです」

「先に空気を作るということか」

「皆が考えるふりをするようになったら、『指示に従っただけ』なんて言えなくなります。それだけでも大きな進歩ではありませんか」

「ああ、素晴らしい進歩だ」

「全員が考えるふりをするとは限りません。本当に考えている人もいるはずです。これをきっかけに考え始める人もいるでしょう。偽物が本物になることだってあります。一〇〇人中九九人が見せかけだったとしても、本物が一人いれば成功です。〇が一になったのですから」

 

 ハラボフ大佐は俺をまっすぐに見つめた。その緑色の瞳には暖かい光が宿っている。

 

「まったくだ。君の言うことは完全に正しい」

 

 俺はにっこりと笑った。人間は自分が思っている以上に言葉に弱い。建前に過ぎない言葉でも、一〇〇回口に出したら、それが正しいと思えてくる。無意味な言葉でも、一〇〇回聞かされたら、その通りにしないとまずいと思ってしまう。模範的な軍人を演じているうちに、模範的に振舞わねばならないと思い込んでしまった小物の例もある。

 

「あなたらしいやり方ですな」

 

 情報部長ハンス・ベッカー少将が横から口を挟んだ。

 

「そうかな?」

「ええ。相手を変えずに動かす。エリヤ・フィリップスの得意技でしょう」

 

 その指摘は完全に正しかった。内心はどうでもいい、そういうふりをするだけで構わないというのは、俺らしい発想である。

 

「言われてみるとそうだ」

「疲れていらっしゃるんですな。自分らしさを見失っておられる」

「立っている場所、見通せる範囲、握っている権力、達成すべき目標、倒すべき敵……。何もかもが桁違いだからね。余裕がなかった」

 

 俺はここで言葉を切り、ゆっくりと視線を動かした。幕僚一人一人の顔を確認するように見る。それは部下との絆を確認すると同時に、自分自身を確認する行為でもあった。そして、最後にハラボフ大佐を見て笑った。

 

「ありがとう、ハラボフ大佐」

「…………!」

 

 ハラボフ大佐は早口で何か言った後、急に横を向き、手帳を確認し始めた。彼女らしからぬ慌てぶりである。重要な用件を思い出したのだろうか。

 

「彼女の案で行こうと思う。君たちの意見を聞かせてくれ」

 

 俺が意見を求めると、ワイドボーン参謀長が不機嫌そうに口を開いた。

 

「やむを得ませんな」

「不満があるのか?」

「あります。この案に対する不満ではなく、この案を用いざるを得ない現状に対する不満です」

 

 この言葉に対し、ラオ作戦部長、ウノ後方部長、ファドリン計画部長、メッサースミス作戦副部長、バウン作戦副部長らが頷いた。いずれも中央機関や正規艦隊を渡り歩いた面々である。

 

 エリートは自分にも他人にも高い水準を要求する。彼らにとって、標準的な部隊とはラグナロック以前の正規艦隊や常備地上軍、士官学校卒のエリートや優秀な叩き上げが普通の士官、百戦錬磨の鬼軍曹が普通の下士官、鍛え上げられた精兵が普通の兵士である。第一辺境総軍は「普通」とは程遠い部隊だった。

 

「パンを焼くのと同じですね」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は穏やかにほほ笑んだ。パン屋以外の職業が想像できないような人がパンを引き合いに出すと、尋常ではない説得力がある。

 

「おいしいパンを作ろう」

 

 俺は幕僚たちに向かってにっこりと笑いかけた。至高のパンを作る必要はない。安くてもみんながおいしいと言ってくれるパンを作ればいい。凡人を逸材に変えることはできないが、使えない凡人を使える凡人に変えることはできる。

 

 既存の人材を育てる一方、新しい人材の確保に力を入れた。第九次イゼルローン攻防戦で多くの隊員を失った。テロリストや海賊との戦いによる損害も少なくない。病気、出産、育児などを理由とする休職者は数十万人にのぼる。毎月のように新規部隊が創設された。人材はいくらいても足りなかった。

 

「気鋭の若手、歴戦の勇士、愛国者、市民軍の英雄、優等生、ムードメーカー……。ほとんど詐欺じゃないか」

 

 俺は呆れ顔で国防委員会から送られてきた人材リストをめくった。美辞麗句を弄したところで、中身のしょぼさは隠しようもない。

 

「何回も引っかかったもんね」

 

 人事部長イレーシュ・マーリア少将が意地悪そうな笑いを浮かべた。部屋にいるのは俺と彼女と副官二人だけなので、遠慮がない。

 

「それは言わないでください」

「君の騙されやすいところ、好きだよ」

「あなたに好かれるのは嬉しいですが……。でも、騙されるのは困ります」

 

 俺は苦笑いを浮かべ、もう一度リストを眺めた。若さだけが取り柄の「気鋭の若手」、経験年数だけが取り柄の「歴戦の勇士」、威勢の良さだけが取り柄の「愛国者」、市民軍在籍経験だけが取り柄の「市民軍の英雄」、大人しいだけが取り柄の「優等生」、要領の良さだけが取り柄の「ムードメーカー」が名を連ねている。この中から選ばないといけないと思うと、頭が痛くなる。

 

 少し離れたデスクで作業をしていたハラボフ大佐が立ち上がり、早足でこちらにやってきた。俺の机の上に大きな皿を置き、その上で紙袋をひっくり返す。どさっという音とともにマフィンの山が現れた。

 

「お召し上がりください」

「ありがとう。ちょうど糖分が欲しいところだった」

 

 俺が礼を言うと、ハラボフ大佐は無言で一礼し、早足で席に戻った。

 

「過保護だねえ」

 

 イレーシュ人事部長が微笑ましそうにハラボフ大佐のいる方向を見た。

 

「厳しくできないんですよ。俺は甘党ですので」

「君じゃないよ」

「えっ?」

 

 クエスチョンマークが頭の中を乱舞したが、イレーシュ人事部長は構わずに話を続けた。

 

「一番悪いのは政府だよ。人事政策がめちゃくちゃだから」

「認めるしかないです」

 

 トリューニヒト政権寄りの俺でも、今の人事政策を擁護することはできない。同盟軍再編の一環として施行された新人事基準は、建軍以来の伝統を誇る成果主義を廃し、能力主義への転換を図るものだった。着眼点は悪くなかったが、運用がいい加減であったため、アピールのうまい者だけが得をした。

 

「しばらくは変えないだろうけどね。間違ってたってことになるから」

「最善が無理なら次善を求めましょう」

 

 俺はマフィンを食べて糖分を補充すると、人選作業に取り掛かった。一〇月クーデターと粛軍によって多くの人材が失われた。狂った人事政策のおかげで、微妙な人材ばかりが登用されている。うんざりするような状況だが、それでも投げ出すわけにはいかない。

 

「士官と下士官はましだけどね。予備役を再招集できるから、頭数だけは揃えられる。問題は兵隊だよ。頭数すら揃わない」

 

 イレーシュ人事部長は豊かな胸を抱え込むように腕を組み、椅子の背板にもたれかかった。ふんぞり返ったわけではない。身も心も疲れ切っているのだ。

 

 同盟軍の兵士不足は深刻である。志願者数は七七〇年に匹敵する低水準となった。反戦運動が最高潮に達した年と同じ程度の志願者しかいないのだ。定数割れに陥った部隊は三割にのぼる。正規艦隊や常備地上軍ですら定数割れが生じた。

 

「軍が招いたことです」

 

 俺はやるせない気持ちを言葉にして吐き出した。同盟軍には返しきれないほどの恩義がある。自分を育て、あらゆるものを与えてくれた。だからこそ、悲しまずにはいられない。

 

 同盟軍に対する信頼は最底辺まで落ち込んでいる。ラグナロック戦役では国が傾くほどの金を使い、兵士数千万人を死なせ、虚偽発表で市民を欺き、非人道的行為を重ねた。ボロディン元大将が統合作戦本部長を務めていた時期には、移民保護を目的とした武力介入を繰り返す一方で、反乱鎮圧に消極的な姿勢を示したため、辺境住民の怒りを買った。八〇一年一〇月末に制服組トップがクーデターを起こし、市民に銃口を向けた。トリューニヒト粛軍以降は、汚職や人権侵害を立て続けに起こした。社会の敵と言っても過言ではない有様だ。

 

 軍人という職業に対するイメージの悪化が、同盟軍の不人気に拍車をかけた。七九二年から八〇一年まで続いた軍縮により、大量の軍人が解雇され、軍に残った者の待遇も切り下げられた。危険度が高いわりに、給料や福利厚生が良くない。現役で働ける期間が短いわりに、退職後の保障が少ない。命令に従っただけで犯罪者になりかねない。トリューニヒト政権が待遇改善に取り組んでいるが、悪いイメージを払拭するには至らなかった。

 

「競合相手も多いからねえ。軍より魅力的な職場がたくさんあるから」

 

 イレーシュ人事部長は力なく笑った。非凡な容姿を持つ彼女だが、内面はごく普通である。普通ゆえに、若者が軍以外の職場を選ぶ気持ちがわかるし、愛着ある職場の不人気ぶりを残念に思う。

 

 競合相手を作り出したのはトリューニヒト政権である。積極財政が巨大な雇用を生み、労働力需要を増大させた。星間保安隊、国民保護部隊、学生保護部隊、労働救援部隊といった新しい準軍事組織は、安全だが国家に貢献できる職場として人気を集めた。産業支援部隊、労働奉仕庁、農業支援部隊などは、若い労働力の確保に血道を上げた。安全でイメージの良い職場が、ただでさえ不人気な軍隊から志願者を奪い取った。

 

 徴兵数を増やすという最も手軽な案は、軍需産業界の反対にあって頓挫した。若い労働者が徴兵されたら、生産ラインを維持できなくなるというのだ。軍需産業は特に人手不足が深刻で、受注に生産が追い付かない状態が続いていた。

 

「地道に信頼を取り戻すしかありません」

 

 俺はため息まじりに言った。一度失った信頼を取り戻すのは難しい。それでも、地道に頑張るしかなかった。

 

 一番大事なのは任務を果たすことだ。テロを防ぎ、航路の安全を確保し、危険地域を警備し、治安の安定に務める。基地祭を開き、地域行事に協力し、市民との交流を深める。講師を学校や自治体に派遣し、国防や防災に関する知識を伝える。警察官や消防士や自治隊職員に訓練を施す。有人惑星に接近する小惑星や隕石を破壊する。体験入隊者を受け入れる。映画やテレビの撮影に協力する。これらの任務を着実にこなすことにより、実績を積み上げていく。

 

 広報活動によるイメージアップも同時に進めた。「同盟軍は信用できないが、市民軍は信用できる」と思っている市民は多い。軍が市民軍のような立派な組織だとアピールするため、市民軍の英雄を前面に押し立てた。メディアに出演させる一方、地域行事へのゲスト参加、学校や福祉施設への訪問なども行った。

 

 忙しい中、親友アンドリュー・フォークから届いたメールに目を通した。三日前に届いたメールだが、何回も読み返している。

 

 ラグナロック戦犯裁判の中で、冬バラ会悪玉論の誤りが明らかになった。国防委員会は冬バラ会メンバーに対する訴追を行わないとの方針を示した。それでも、無罪と認定されたわけではない。主犯ではないが共犯ではある。法律が許しても、世間が許さない。

 

 俺はコネを駆使して、アンドリューをフェザーンの名門大学に官費留学させた。人材不足とはいえ、彼の現役復帰を認める者はいないだろう。民間で働くのも難しいはずだ。アンドリューが勉強し直したいというので、ほとぼりが冷めるまで留学することとなった。

 

「元気そうで何よりだ」

 

 アンドリューのメールを見るだけで頬が緩んでくる。門閥貴族の坊ちゃん、上院議員の息子、官費留学した官僚、最先端の学問を学びに来た学者、キャリアアップを目指すビジネスマン、バイトしながら勉強する苦学生、勉強を老後の楽しみにする引退者、青春を謳歌する普通の学生……。国籍も年齢も階層もばらばらの学生と共に学び、共に遊び、絆を深める。本当に楽しそうだ。

 

 彼に手伝いを頼むことに軽い罪悪感を覚えた。軍事や政治と完全に決別させた方が良いのではないか? 大学生としての平穏な生活を妨げる権利があるのか?

 

 いや、今はアンドリューの力が必要だ。ロボス・サークルはロボス元帥に密着しており、旧ロボス派の中でも孤立した存在だった。アンドリューが仲介しなければ、ロボス・サークル残党を引っ張り込むことはできない。

 

 人材不足を解決するため、俺は旧ロボス派の取り込みを図った。かつての軍部最大派閥は、旧シトレ派に匹敵する人材の宝庫である。第一辺境総軍には旧ロボス派出身者が大勢いる。あまりに多いので、「ロボス総軍」と呼ばれるほどだ。そのコネを生かし、即戦力の人材を引っ張った。元冬バラ会など複雑な事情を抱える人物にも声をかけた。

 

 アンドリューには明かしていないが、旧ロボス派の取り込みには別の目的もあった。政党にとって、近しい軍人はブレーンであり、軍部に介入するための尖兵である。国民平和会議(NPC)残党から旧ロボス派軍人を引き剥がし、軍部に対する影響力を消滅させるのだ。

 

 ラウロ・オッタヴィアーニ、エステル・ヘーグリンド、エティエンヌ・ドゥネーヴ、バイ・ジェンミン、ビハーリー・ムカルジ、パヴェル・ネドベド、シャーリー・ラングトン、そしてコーネリア・ウィンザー。ラグナロックを起こしたNPCの指導者たち。謝罪の言葉すら口にせず、軍に責任を押し付けた。こいつらの復権は絶対に認めない。それが生き残った者としての務めだ。

 

 決意を新たにしたところで、新しいメールが届いた。差出人の名前を見た瞬間、息が詰まりそうになった。

 

「ジェシカ・ラップ……」

 

 人違いではないかと思い、肩書きを確認した。「平和と民主主義を守る母親の会」という団体の代表だそうだ。

 

 平和と民主主義を守る母親の会のサイトを見ると、代表の顔は見覚えのある顔であった。ジェシカ・ラップは、前の世界の反戦政治家ジェシカ・エドワーズだった。

 

「世界が違っても反戦活動をしてるのか」

 

 俺は意外な思いに打たれた。前の世界のジェシカ・エドワーズは、婚約者ジャン=ロベール・ラップの戦死をきっかけに反戦活動家となった。この世界のジェシカ・エドワーズは、婚約者と無事に結婚し、ジェシカ・ラップとなった。婚約者が生きているのに、反戦活動をやっている。

 

 前の世界で戦死したジャン=ロベール・ラップは、この世界では宇宙軍中将まで昇進し、予備役に編入された。現在はハイネセン記念大学平和研究センターの准教授を務めている。平和将官会議のメンバーで、反戦・反独裁市民戦線(AACF)の国防政策ブレーンでもある。若き反戦知識人といったポジションだ。

 

 平和と民主主義を守る母親の会のサイトを見ると、明らかにAACF系の団体だ。前の世界で反戦市民連合代表だったラップ夫人だが、一市民団体の代表に過ぎない。夫が生き残った分、割を食ったのだろう。本人にとってはこちらの方が幸せかもしれないが。

 

 ラップ夫人から送られてきたメールの件名は、「有力者子弟の兵役服務状況」であった。

 

「穏やかじゃない題名だ」

 

 俺は砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを飲みほし、糖分を補充した。AACF系の団体と兵役という組み合わせは不吉極まりない。十分な糖分を確保し、覚悟を決め、深呼吸する。

 

 平和と民主主義を守る母親の会は、政治家・軍幹部・高級官僚・財界人のうち、徴兵適齢期の子弟を持つ二五万二〇〇〇人に関する調査を行った。その結果、子弟を軍隊に入隊させた者は一四・二パーセント、前線に送り出した者は〇・八パーセントに過ぎなかったという。

 

「有力者の子弟のうち、軍隊に入った者は七人に一人、前線に出た者は一二五人に一人。この数字は何を意味するのでしょうか?

 

 彼らは『この戦争は民主主義を守るための聖戦だ』と言います。それならば、なぜ自分の子供を聖戦に参加させないのでしょうか? 民主主義を守りたくないのでしょうか?

 

 彼らは『戦わなければ、祖国を守れない』と言います。それならば、自分の子供を戦わせようとしないのでしょうか? 祖国を守りたくないのでしょうか?

 

 彼らは『戦死は名誉なことだ』と言います。それならば、なぜ自分の子供に名誉を与えようとしないのでしょうか?

 

 彼らは『兵役は崇高な義務だ』と言います。それならば、なぜ義務を果たそうとしないのでしょうか?

 

 戦争の大義を説き、敵国の脅威を煽り、名誉の死を賛美し、他人の子供を戦場に送り出しているのに、自分の子供だけは安全な場所に避難させる。これほど筋の通らない話はありません。彼らは自分ができないことを他人に求めているのです」

 

 メールの添付ファイルには、二五万二〇〇〇人全員のデータが添付されていた。自分の目で確かめさせるためだろう。

 

「確認してみるか」

 

 俺は添付ファイルを開き、知り合いの軍幹部二〇名と政治家二〇名をピックアップした。彼らの子弟の服務状況が俺の記憶と一致していれば、データが正しいということになる。

 

「捏造ではないのか……」

 

 データは俺の記憶とほぼ一致していた。一致していない件については、俺の記憶の方が間違っているように思われる。それほどに精度の高いデータだった。反戦派の調査能力は大したものだ。

 

 国防白書をフォルダから引っ張り出し、統計を添付ファイルと突き合わせた。データが正しいからといって、分析が正しいとは限らない。正確なデータを提示しておいて、それと矛盾する内容の分析をくっつけるというのは使い古された手法だ。大抵の人間は数字をポンと出された時点で信用してしまう。データを曲げられなくても、印象は曲げられる。

 

 徴集兵三一〇〇万人に、徴兵適齢期にあたる士官・下士官・志願兵・士官候補生九〇〇万人を加えると、徴兵適齢期人口の五・九パーセントが軍隊に入っている。有力者の子弟の入隊率は一四・二パーセント。平均的市民と比べるとかなり高い。

 

 全軍のほぼ半数が外征部隊の戦闘要員、危険地域の警備要員などの前線勤務者で、その三分の二が徴兵適齢期にあたる。前線で勤務する徴兵適齢期の若者はおよそ二〇〇〇万人。徴兵適齢期人口の三・〇パーセントが前線勤務者なのだ。有力者の子弟の前線勤務率〇・八パーセント。平均的市民よりかなり低い。

 

 高い入隊率と低い前線勤務率は、箔をつけるために入隊した者が多いことを示している。戦時体制が一世紀半続いた同盟では、軍歴はステータスになる。箔をつけるために入隊する者は少なくない。コネを使って後方勤務に回してもらえば、リスクを冒さずに軍歴を獲得できる。兵役経験を売りにする政治家の多くは、後方勤務しか経験していない人間だ。

 

「予想はしてたけどね」

 

 俺は予想の範囲内だと自分に言い聞かせた。後方勤務者に有力者の子弟がやたらと多いことは、軍人なら誰でも知っている。それでも、数字として提示されると胸が痛くなる。

 

 有力者の子弟に対する「配慮」を求められたことは、一度や二度ではなかった。親が直接依頼する場合もあるし、親から依頼された人間が話を持ち込んでくる場合もある。

 

 不当な要求だが拒否するのは困難だった。政治家も軍人も官僚も財界人も学者もジャーナリストも、無償で動くほど善良ではない。協力してくれた相手には、一定の「配慮」が必要になる。拒否するにしても慎重に説得しなければならない。高い入隊率と低い前線勤務率の背後には、こうした取引の積み重ねがある。問答無用で拒否できるのは、ヤン・ウェンリーのように有力者と一切取引しない人間だけだ。

 

「党派別の数字を出してみよう」

 

 政治家の所属党派で絞り込みを行い、党派別の服務率を算出した。民主主義防衛連盟(DDF)所属議員が一位、統一正義党所属議員が二位、大衆党所属議員が三位、独立と自由の銀河(IFGP)所属議員が四位、和解推進運動所属議員が五位、汎銀河左派ブロック所属議員が六位、AACF所属議員が最下位になった。

 

「良心的徴兵拒否者は除外しないといけないな」

 

 母数から徴兵拒否者を差し引き、服務率を計算し直した。権力を使って徴兵を逃れた者と、リスクを冒した者を一緒にすることはできない。

 

 良心的徴兵拒否は同盟市民に認められた正当な権利である。この権利を行使しても、法的な罰則を受けることはない。徴兵拒否者は公的な奉仕労働に従事することで、兵役を務めたものとみなされる。だが、社会的には大きなリスクがある。「兵役から逃げた奴」として白眼視されるのだ。就職や進学で目に見えない差別を受ける。同盟加盟星系の中には、徴兵拒否者に公務員試験受験や公的奨学金受給を認めない星系も少なくなかった。

 

 はっきり言うと、良心的徴兵拒否は割に合わない。徴兵されるのは兵役対象者の三パーセントにすぎないので、何もしなくても九七パーセントの割合で徴兵を回避できる。運悪く徴兵されたとしても、一度も戦場に出ずに任期満了を迎える者の方が多い。損得を考えるなら、あえて良心的徴兵拒否を選択する理由がないのだ。

 

 良心的徴兵拒否者を差し引くと、DDF所属議員が一位、統一正義党所属議員が二位、大衆党所属議員が三位、AACF所属議員が四位、和解推進運動所属議員が五位、汎銀河左派ブロック所属議員が六位、IFGP所属議員が最下位になった。

 

 この結果は意外でも何でもなかった。AACFは損得度外視でイデオロギーを貫く者が多いのだろう。和解推進運動の旧楽土教民主連合出身者は、宗教上の理由による拒否者が多いと思われる。汎銀河左派ブロックとIFGPは、同盟秩序そのものに懐疑的だ。

 

 次に党派別の前線勤務率を算出した。AACF所属議員が一位、統一正義党所属議員が二位、和解推進運動所属議員が三位、IFGP所属議員が四位、汎銀河左派ブロック所属議員が五位、DDF所属議員が六位、大衆党所属議員が最下位になった。二位と三位、五位と六位、六位と七位の間には大きな差がある。

 

 これも予想通りだった。AACFと統一正義党が極端に高いのは、前線勤務を志願する人が多いためだろう。和解推進運動は国防意識の高い人と道徳的非暴力主義者が混在している。IFGPと汎銀河左派ブロックは、前線勤務志願者も少ないが、「配慮」を求める力もない。DDFは腐敗したNPCの残党で、現在も軍部に一定の影響力を持っている。大衆党については、お察しくださいと言ったところだ。

 

「予想はしてたけど、へこむなあ……」

 

 俺はため息をついてマフィンを食べた。主戦派だろうが反戦派だろうが、潔癖な人は前線に行きたがるし、俗物は安全な場所に逃げたがる。非暴力主義以外のイデオロギーは闘争を否定していない。

 

 反戦運動をリードする退役軍人と戦没者遺族にとって、「安全な場所で戦争を煽る主戦派」は何よりも許し難い存在だ。戦場で味わった苦しみ、家族や友人を失った痛み、前線に理不尽を押し付ける者に対する怒りが、彼らを動かしている。

 

 七六九年三月の第二次イゼルローン攻防戦は、反戦運動に大きな転換を促した。同盟軍は無謀な突撃を繰り返し、兵士二〇〇万人を死亡させた。コルネリアス一世の親征以降最大の敗北は、同盟社会に大きな衝撃を与えた。最後の総攻撃が下院選挙前日に実施されたこと、総司令官ハウエル大将が戦場から五光年離れた場所で指揮をとったことが明らかになると、人々の怒りは沸騰した。知識人や宗教者による穏健な反戦運動は、帰還兵と戦没者遺族による過激な反戦運動にとってかわられた。この事件は「七六九年の衝撃」と呼ばれる。

 

 現在の反戦運動は、七六九年に立ち上がった「シックスティナイナーズ(六九年組)」の系譜を受け継いでいる。AACFのソーンダイク副代表は、第六艦隊副司令官として第二次イゼルローン攻防戦に参加し、子供三人がトゥールハンマーに吹き飛ばされる様を目の当たりにした。銀河平和主義者協会のエルゲン会長は、第二次イゼルローン攻防戦で撃沈された戦艦グラナダの唯一の生き残りだ。

 

 犠牲を払った人々に「安全な場所から戦争を煽るのはやめろ」と言われたら、普通の人間は沈黙するだろう。主戦派の戦場経験者はこの批判に当てはまらないが、反戦派に言い返すことはない。後方で勝手なことを言う連中に腹を立てているのは、反戦派だけではないのだ。

 

 後方には後方の言い分がある。「安全な場所で戦争を煽るな」と言われたら、彼らは「自分がいる場所と戦争の是非は別だ」と答えるだろう。「そんなに戦争が好きなら、自分が戦えばいい」と言われたら、彼らは「後方を固めるのも大事な仕事だ」と反論するだろう。「自分が戦えないのなら、身内を前線に出せ」と言われたら、彼らは「本人が決めることだ」と言うだろう。

 

 当事者の絶対化を問題視する立場からの反論もある。「安全な場所で戦争を煽るな」という主張は、「危険な場所にいたら、何を言ってもいい」と解釈することもできるのだ。

 

 主戦派にとっても、戦場経験や家族の死は強力な武器となる。右派政党の政治家には退役軍人や遺族会会員が多い。犠牲を払った者が「帝国は絶対に許せない」と言ったら、普通の人間は沈黙せざるを得ないのだ。そのため、前線に行って戦場経験を手に入れようとしたり、子供を前線に送って遺族会入会資格を獲得しようとしたりする者が後を絶たなかった。

 

 それでもなお、「安全な場所で戦争を煽るな」という主張が、説得力を失うことはないだろう。戦時国家において、血を流した人間の言葉は何よりも重い。

 

「反論はできない」

 

 俺は相手に理があることを認めた。ラップ夫人が血を流したわけではない。だが、義務を果たさぬ者を擁護する気がなかった。

 

 正直なところ、前線勤務を忌避する有力者の子弟に対しては、不快感を覚える。後方勤務だって立派な仕事だ。有力者の子弟は学歴が高く、将来のエリート候補なので、前線に出すのはもったいないという見方もある。だが、先頭に立って人々を引っ張るのは、エリートの仕事なのだ。汗のにおいを知らず、涙の苦さを知らず、危険を乗り越えず、恐怖を乗り越えず、苦しみを乗り越えず、理論と計算のみを知っている。そんな人間に誰がついていくというのか。

 

 結局のところ、人を動かすのは熱量だ。流した汗、流した涙、流した血、乗り越えた危険、乗り越えた恐怖、乗り越えた苦しみが言葉に熱を与える。

 

 熱があれば、何も持っていなくても人を動かせるし、上に立つ資格がある。理屈や戦略は必要ない。そんなものは上に立ってしまえば、誰かが用意してくれる。前の世界のジェシカ・エドワーズは平凡な女性だったが、巨大な熱量を持っていた。婚約者を失った悲しみが彼女の言葉に熱を与えた。熱い感情論を吐けるという一点において、彼女は頂点に手をかける資格があった。

 

 熱がなければ、あらゆるものを持っていても人を動かせないし、上に立つ資格もない。この世界のヨブ・トリューニヒト議長は、熱を失ってしまった。親子のような関係だった俺ですら、今の彼の言葉には説得力を感じないのだ。

 

「まずいことになった」

 

 俺は困った顔で髪をかきまわした。このメールが俺一人に送られたとは思えない。あちこちにばらまかれたはずだ。そう遠くないうちに表に出るだろう。

 

 同盟軍が信頼を失っている時に、組織ぐるみの不正人事が明らかになったらどうなるか。エルクスレーベン事件を凌ぐスキャンダルに発展するだろう。志願者はさらに減るはずだ。徴兵制廃止論が再燃するかもしれない。

 

 俺は国防委員会にメールを転送した。自分の一存で判断できる問題ではない。政治サイドに判断してもらおう。

 

 次から次へと問題が出てくる。ヤン・ウェンリーや警察やカメラートと戦うどころではない。明日になったらまた問題が増えるのだろうか? この国を亡ぼすのは国内問題ではないか? ラインハルトと対決する前に自滅するのではないか? そう思えてならなかった。



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第116話:ウッド提督の再来 803年9月12日~10月 第一辺境総軍司令部

 自由惑星同盟にとって、八〇三年は平穏な年であった。帝国軍との衝突は一度も起きていない。国内では大きな事件がいくつか発生したが、いずれも惑星レベルや星系レベルに留まり、同盟全体に影響を及ぼすことはなかった。

 

 経済は近年稀にみる好調を記録した。成長率が二年連続で五パーセントを超えたのは、七七八年のトリプル・バブル崩壊以降初めてのことだった。個人消費が急増し、地上車や衣料品や電化製品が飛ぶように売れた。政府が大規模公共事業を進め、民間で住宅やオフィスビルの建設ラッシュが起き、同盟全土が建設現場と化している。株価と地価は歩調を合わせるように伸びていった。

 

 国内の治安は安定している。犯罪発生率が低下し、犯罪検挙率が上昇した。テロリストや海賊との戦いは有利に進んだ。中央と辺境は比較的良好な関係にある。

 

 数々のスキャンダルにもかかわらず、トリューニヒト政権は高い支持率を保ち続けた。経済と治安の安定は、政治の安定につながるのだ。

 

 サジタリウス腕が久しぶりの平穏を享受する中、俺は惑星ミトラに出張した。第二方面軍主力部隊を視察するための出張だった。

 

 陣頭指揮の原則は平時においても変わらない。現場に足を運び、事実を目で確認し、空気を肌で感じ、においを鼻でかぎ、兵食を舌で味わい、兵士の肉声を耳で聞き、ゴミ箱を手で開ける。五感を使わなければわからないこともある。

 

 今回の出張では、五〇時間の間に一一個の基地を視察し、星系大統領や星系首相など要人九名と会談した。おそるべき過密スケジュールだ。

 

 九月一二日一八時、すべての日程を終えた俺は軍用機に乗り、旗艦ゲティスバーグが係留されているミルカ宇宙港へと向かった。出発地点から目的地までの距離は五六〇〇キロである。何事もなければ二時間四〇分程度で到着するだろう。

 

 俺は四人掛けの座席の一番左側に座った。ダーシャ以外の人間を左隣に座らせるつもりはない。部下に対しては、「何かあったらすぐ動けるから」と説明した。

 

 右隣には首席副官ユリエ・ハラボフ大佐が座っている。オフィシャルだろうがプライベートだろうが、彼女は俺の隣に座ろうとした。密着しないと、ガードできないからだそうだ。どんな時でも最悪の事態を想定し、万全の備えを行う。彼女の辞書に「油断」という言葉はない。

 

 マフィンを二個食べて一息ついたところで、俺は携帯端末を開いた。保守系新聞リパブリック・ポストの電子版にアクセスする。

 

 今日の正午、ラグナロック戦犯裁判が終結した。ロボス総司令官、コーネフ作戦主任参謀、ビロライネン情報主任参謀、イロナ政策調整部長、ライヘンバッハ総司令部顧問の五名は、「重大な背任行為」を犯したとの理由で、不名誉除隊と禁固刑の判決を受けた。グリーンヒル総参謀長とデューベ地上作戦担当参謀は、背任行為に加担したため、一階級降格と罰金刑の判決を受けた。後方主任参謀キャゼルヌ中将と通信部長メディナ技術中将は、無罪となった。

 

 最大の焦点であった政治家の戦争責任については、立証できなかった。被告人は頑なに証言を拒んだ。証人として呼ばれた政治家は、自己弁護と責任転嫁に終始し、都合が悪くなると口を閉ざした。関連文書や通信記録は、終戦直後に何者かの手で破棄されていた。史上最大の作戦をめぐる裁判は、疑惑とともに幕を閉じた。

 

 帰還兵や戦没者遺族は不満を露わにした。真相は何一つ明らかにならなかった。ロボス元帥の背後にいる者に責任を取らせることができなかった。納得できるはずがない。ラグナロック帰還兵の会のクーン会長は、「なぜ本当のことを話さないのか。戦友が浮かばれない」と嘆いた。

 

 遠征推進派は喜びや感謝の言葉を口にした。自分たちがやったことを隠し通した。責任を取らずに済んだ。完全勝利と言っていい。見苦しい自己弁護を続けたウィンザー元国防委員長は、「正義の勝利です」と満面の笑顔を見せた。「記憶にありません」「知りません」以外の単語を発しなかったオッタヴィアーニ元最高評議会議長は、「我々の立場をご理解いただけた。関係者の方々に感謝を申し上げたい」と微笑んだ。

 

 俺は奥歯を噛み締め、端末画面を睨みつけた。羞恥心と言うものがないのか? 犠牲者に申し訳ないと思わないのか? 真実を言わなかった理由は百歩譲って理解できる。だが、大はしゃぎする理由はまったく理解できない。

 

「あれ?」

 

 胸糞悪いコメントの群れの中に、一つだけ毛色の違うものが混じっていた。それは肥溜めの中に突如として現れたオアシスであった。

 

「事情があって詳しく言えませんが、僕は過ちを犯しました」

 

 このコメントを出したオラース・ラパラ元下院議員は、ボナール政権で情報交通委員長を務めた人物だ。閣議や下院本会議では開戦支持に一票を投じた。戦役末期にはメディア政策担当閣僚として情報統制に関わった。

 

「彼が一番まともだったとはね」

 

 俺は大きくため息をついた。オラース・ラパラといえば、無為無能の代名詞ではないか。七九〇年代前半に少年アイドルとして活躍し、一八歳で下院議員となり、一九歳で初入閣を果たした。開戦が決議された時点では二二歳だった。品行方正だが、見識も気概もなく、長老たちの言いなりに動いた。そんな人が責任を認めるとは思わなかった。

 

 今回の発言を踏まえると、ラパラ元議員に対する評価は大きく変わってくる。ボナール政権崩壊後は自己弁護も謝罪もしなかった。八〇一年の選挙に立候補せず、芸能界に復帰することもなく、表舞台から姿を消した。戦犯裁判では何も言わずに頭を下げた。責任逃れする頭すらないのだろうと思われていた。だが、彼には彼なりの意地があったのだろう。若くて美しいだけの人形ではなかった。

 

 真相究明を望む者から見れば、彼の行動は不十分だった。責任を認めるだけで許される立場ではない。元閣僚として真実を明かす義務があるはずだ。それでも、ほんの少しだけ救われた気分になる。

 

「まだ終わったわけじゃないしな」

 

 俺は新聞のページを切り替えた。機密文書を故意に破棄した疑いにより、ウィンザー元国防委員長ら二五名が告発されたという記事が載っている。

 

 戦犯裁判は終わったが、ラグナロック周辺の疑惑に関する裁判は続いている。レベロ政権の和解政策により、非人道的行為や汚職以外の疑惑に関する追及が遅れた。一〇月クーデターで旧与党勢力が壊滅し、トリューニヒト政権が恩赦を取り消したおかげで、ようやく戦争責任の追及が始まった。そう、戦いは始まったばかりなのだ。

 

 決意を新たにしたところで、違和感を覚えた。なぜ、戦犯裁判が一面を飾っているのか? もっと重要なニュースがあるはずではないか。

 

 一週間前、平和活動家ジェシカ・ラップ夫人は、有力者の子弟が前線勤務を逃れていることを示すデータをばらまいた。国防委員会から聞いた話では、軍人四三三名がこのデータを受け取ったらしい。届けていない軍人もいるだろう。民間人にも受け取った者がたくさんいるはずだ。一面で報じられないのはおかしい。

 

 俺はもう一度電子新聞を開き、注意深く読み進めた。目当てのニュースは政治面の片隅に取り上げられていた。

 

「AACFのカルカヴァン議員が徴兵逃れ問題について質問」

 

 見出しからして奇妙な記事だった。カルカヴァン議員は不正人事について質問したはずだ。徴兵逃れ問題について質問したことにすると、文脈が合わなくなる。国防委員長との問答内容についても記されていない。これだと、カルカヴァン議員が難癖をつけただけに見える。

 

 今読んでいる新聞は保守系のリパブリック・ポストだ。民主主義防衛連盟(DDF)と親密なので、故意にぼかしたと思われる。

 

 リパブリック・ポストを閉じて、別の新聞を確認した。ハイネセン・ジャーナル、シチズンズ・フレンズ、デイリー・スターの三紙は、リパブリック・ポストとほとんど変わらない内容だ。ソサエティ・タイムズだけが大きく扱っていた。

 

 検索エンジンを使い、不正人事問題がネットでどれだけ広まっているのかを調べた。カルカヴァン議員の質問自体は広く知られているようだ。しかし、著名なネット論客たちがカルカヴァン議員を激しく批判し、AACFが公表したデータを「信用に値しない」と決めつけた。退役軍人や軍事ジャーナリストが不正人事問題の重大性を指摘したが、罵倒の洪水に押し流された。そのため、一般的なネットユーザーは、「反戦派が難癖をつけているだけ」と思い込んでいる。

 

「矮小化したんだな」

 

 俺は何が起きたのかを理解した。国会議員の質問は同盟全土に中継される。議事録に記録されるので、改ざんすることも不可能だ。事実をできる限り矮小化し、「こんなことで騒ぐ方が馬鹿」という流れに持って行った方がいい。

 

 不正に関わった連中が一致して圧力をかけたのだろう。この問題は与党と軍部だけに留まるものではない。野党・官界・財界・学界・報道界にも関わる問題だ。内輪揉めが好きな大衆党の政治家たちも、自分自身とスポンサーを守るために団結せざるを得ない。DDFは大衆党と同じ事情を抱えている。統一正義党は不正に関わっていないが、AACFの尻馬に乗るのを避けたと思われる。

 

 今のマスコミは圧力に逆らえない。リパブリック・ポスト、ハイネセン・ジャーナル、五大テレビネットワークなどの大手マスコミは、再建会議に加担したために信用を失った。マスコミ幹部や一流ジャーナリストの多くが、クーデターの協力者として追放された。「クーデターの再発を防ぐため」という名目で、報道を規制する法律が次々と制定されていった。追放された重鎮の後釜に座った人々は、政府に睨まれることを何よりも恐れた。このような状況なので、少し押されただけで屈服してしまう。

 

 ネットは発信者の数が多すぎるため、圧力をかけづらいが、誘導しやすい。自分に都合の良い情報を流しさえすれば、それを信じたい発信者が飛びつき、勝手に拡散してくれる。トリューニヒト政権を本気で支持する者は少ないが、反戦派を憎む者は多い。憎悪で動く連中は敵を叩ければいいので、裏付けのない情報にも平気で飛びつくし、詭弁を弄してでも敵の敵を擁護する。圧倒的多数派である日和見主義者は、声が大きい者になびく。

 

「…………」

 

 俺は複雑な気持ちになった。不正人事問題が大事に至らずに済んでよかったと思う。だが、虚偽がまかり通ってしまう状況に不安を覚える。

 

 前の世界と比べてもましな状況とは言えなかった。当時のトリューニヒト政権が不正人事問題を隠蔽できたのは、追及側のエドワーズ委員会に国会議員がいなかったからだろう。マスコミを完璧に統制できたとしても、国会議員の質問をなかったことにすることはできない。

 

 戦記には書かれていないが、ジェシカ・エドワーズ以外の有名人も、スタジアムの虐殺で犠牲となっている。虐殺からしばらくの間、国会議員や大学教授といった人々の死亡情報を頻繁に見かけた。反戦派に属する政治家やオピニオンリーダーの多くが、ジェシカ・エドワーズと運命を共にしたのだ。エドワーズ委員会が国会議員を用意できなかったのも、やむを得ないことだった。

 

「議員が欲しいなあ」

 

 誰にも聞こえないような小声で呟いた。軍人は制約が多すぎる。警察とカメラートが癒着している証拠を見つけたとしても、政府に「公表するな」と言われたらそれまでだ。非公式ルートを使って公表したら、国防基本法違反に問われかねない。国会議員ならこれらの問題をクリアできる。

 

 今の立場でも議員を動かすことは不可能ではない。俺が「助言」を行い、議員の意見を変えるのが最も上品なやり方だ。自分の意見を代弁してもらう代わりに、議員の望みを叶えるという方法もある。条件さえ折り合えば、ジョアン・レベロやホワン・ルイやコーネリア・ウィンザーのような大物だって動かせるだろう。だが、俺が求めているのは一時的な協力者ではない。利害が一時的に一致しただけの人間は、必ずしも期待通りに動くとは限らない。常に利害が一致する人間が欲しいのだ。

 

 議員のスポンサーになるのが一番手っ取り早い方法だろう。軍人が同僚や部下を政界に送り込み、政治を動かした例はいくつもある。かつての宇宙艦隊司令長官フレデリック・ジャスパーは、一〇〇人以上の退役軍人を議席に座らせ、同盟国防委員会、両院軍事委員会、有力政党の国防部会を押さえることにより、一六年もの長期政権を築いた。ルチオ・アルバネーゼは、ジャスパーより洗練された手法を用い、情報機関の影の支配者として君臨した。

 

 いっそ、自分が政治家になるという方法もある。多くの先人がこの方法を使い、自らの手で政治を動かした。ダゴン会戦以降に最高評議会議長となった者の六割は軍隊経験者だ。故郷の英雄ウォリス・ウォーリックは国防委員長を務めた。

 

 歴史的に見ても、軍人から議員になるのはポピュラーな道だ。銀河連邦のクリストファー・ウッドは、議会のご意見番として重きをなした。直接選挙によって元首を選ぶ国では、古代アメリカのジョージ・ワシントンやドワイト・アイゼンハワー、古代フランスのシャルル・ドゴールといった軍人出身の元首がいる。そして……。

 

「それだけはだめだ」

 

 俺は鋼鉄の偉丈夫とちょび髭の男を脳内から叩き出した。自分がワシントンやアイゼンハワーの道を歩くとは限らない。ルドルフやヒトラーになる可能性だってある。

 

 シェーンコップ大将が言った通り、エリヤ・フィリップスは理由さえあれば何でもする人間だ。前の人生では犯罪を犯した。今の人生では軍人として許される範囲を何度も超えた。必要だと判断すれば、躊躇なく独裁者の座を取りに行くのではないか。

 

「体調がよろしくないのですか?」

 

 丁寧だが冷たい声が、俺を現実に引き戻した。ユリエ・ハラボフ大佐が固い表情でこちらを見ている。

 

「糖分が足りないみたいだ」

「かしこまりました」

 

 返事が聞こえると同時に、マフィンとコーヒーが現れた。まるで手品のようだ。ハラボフ大佐は本当に仕事が早い。

 

 落ち着きを取り戻した俺は、もう一度電子新聞を眺めた。大きな事件は起きていないかのように見える。その裏には未然で防がれた無数の事件が存在していた。大軍を率いて戦うことだけが国防ではない。事件を未然に防ぐことも国防なのだ。

 

 与えられた任務をまっとうしよう。政界に手を伸ばすのはその先のことだ。やるべきことをやれば、信望は自ずと高まっていく。

 

 

 

 外部の人間が視察に来ることは珍しくない。国防委員は上官として部隊視察を行う。軍部寄りの議員は軍との親睦を深めるため、軍部に敵対的な議員は軍を監視するためにやってくる。学者や技術者が訪れることもあった。こうした人々への対応も重要な仕事である。

 

 一〇月一日、シャンプールに戻ったばかりの俺は、反戦・反独裁市民戦線(AACF)の視察団に応対した。挨拶を交わした後、意見交換を行った。突っ込みの鋭さに何度も感心させられた。反戦政党の議員だけあって、団員は非常によく勉強していた。戦争を終わらせることは、戦争を続けることよりはるかに難しい。反戦派は主戦派以上の理論武装が必要なのだ。

 

 視察団が去った後のテーブルには、俺の菓子皿とコーヒーカップだけが残されている。AACFの議員たちは、持参した水筒から茶を注ぎ、持参した菓子を口にした。「一切の利益許与を受けない」というパフォーマンスだ。

 

 相手が口にしなかった茶菓子は、俺と部下の胃袋に収まった。こちらは礼儀正しく茶菓子を用意し、相手は礼儀正しく辞退した。そういう形式は必要なのだ。

 

 AACFの視察団はシャンプールに三日間滞在し、無駄遣いの有無とパワハラの有無を重点的に調べた。雑談には決して応じない。食事に誘っても、「弁当を持ってきたから」と言って断る。トイレを使ったら自分で掃除していく。基地を隅から隅まで調べ、書類を隅から隅まで読み、ひたすら問題点を洗い出す。送迎の申し出を断り、自費でチャーターしたタクシーに乗った。クリーンだが堅苦しすぎた。視察を受け入れた部隊では胃痛が流行した。

 

 一〇月五日の朝七時、AACFの視察団はシャンプールを後にした。第一辺境総軍管内を一か月かけてめぐる予定だという。シャンプール駐留部隊は安堵する一方で、視察団が訪れるであろう宙域の部隊を哀れんだ。

 

 同日の午前一〇時、大衆党の視察団が第一辺境総軍司令部を訪れた。挨拶を交わした後、意見交換を行った。あまりの不勉強ぶりにうんざりさせられた。専門家であるはずの国防委員経験者や退役軍人ですら、ろくに勉強していない。与党議員ともあろう者がこれでいいのだろうか? 笑顔で応対したものの、気分は地の底まで落ち込んだ。

 

 昼食は視察団との会食となった。相手の希望により、視察団が宿泊するホテル「白鳥城」のレストランを貸し切った。議員が取り巻きを大勢連れてきたので、ほとんどパーティーと呼んでもいい規模だ。参加者は一人一五〇ディナールのパーティーコースに舌鼓を打ち、グラス一杯二〇ディナールの高級酒を飲みまくる。ろくに飲み食いせず、料理と酒のうんちくを語り続ける者もいた。仕事とはいえ、苦痛以外の何物でもない。

 

 夜はシャンプール市主催の視察団歓迎会に出席した。会場となったのは白鳥城である。このホテルの社長は、ネッセルローデ侯爵家の家令を世襲した家の末裔だ。そして、大衆党下院院内総務ベアトリクス・フォン・ネッセルローデの実家は、ネッセルローデ侯爵家の嫡流にあたる。露骨すぎて乾いた笑いが出てくる。

 

 歓迎会は昼に輪をかけて酷いものだった。あちこちのテーブルで、公にできないビジネスについて話し合われた。自慢話を吹聴する者、年少者に説教して悦に入る者、ホステスやホストを口説く者もいる。こうした様子を冷笑し、上品な紳士を気取る者もいたが、この場にいる時点で同類だ。

 

 俺は忍耐力の限界を試されることとなった。ビジネスの話をスルーし、自慢話に相槌を打ち、説教を神妙な顔で聞き、セクハラをやんわりとたしなめ、冷笑に愛想笑いで応じた。

 

 一人で出席したのは正解だった。市民軍の英雄や美女軍人や美男軍人を連れてくるように言われたが、理由をつけて断った。部下を守るのは上官の仕事だ。

 

 大衆党の視察団はシャンプールに三日間滞在し、好き放題に振舞った。オフィシャルな仕事の話はいい加減に済ませ、公にできないビジネスに熱中した。行く先々で接待を受けた。見学先では、非公式なビジネスと関わるものに食いつくが、それ以外には無関心だ。ちょっとでも気に入らないことがあるとクレームをつけた。盛大に出迎えないと腹を立てた。数百メートル移動するだけなのに、わざわざ軍用車を呼び出すこともあった。視察を受け入れた部隊では頭痛が流行した。

 

 一〇月九日の朝一〇時、大衆党の視察団はシャンプールを後にした。第一辺境総軍管内を一か月かけてめぐる予定だという。シャンプール駐留部隊は歓声をあげる一方で、視察団が訪れるであろう宙域の部隊を哀れんだ。

 

「何をしているんだろう……」

 

 視察団を見送った後、空しい気持ちになった。ヤン・ウェンリーを蹴落とし、同盟警察から主導権を奪い、ラインハルト・フォン・ローエングラムに対抗できる体制を作るはずだった。現実はどうだろうか? 汚職政治家を接待しているだけではないか。いつになったら、目的地にたどり着くのか。

 

 同盟は一見すると平穏だが、不安要素がないわけではない。あらゆる業界で人手不足が表面化しつつある。物価上昇が加速しており、インフレが懸念される。加盟国の一部が強権的な政策への反発を強めている。星系レベルの治安は良好とは言えず、一九星系が騒乱状態、三五星系が騒乱の危機にある。移民をめぐる対立は深まる一方だ。世俗主義と道徳主義という新たな対立軸が浮上している。

 

 同盟軍はかなり危うい状況だ。寛容派は政治家や右翼団体と連携し、パワハラ規制の大幅緩和を目指した。厳格派は政治家や宗教右派と連携し、飲酒・喫煙・賭博・婚外交渉・ポルノの五悪の完全追放に向けて動いた。軍人と軍需企業の癒着は、NPC時代よりもひどくなった。地方では軍と住民のいさかいが泥沼化した。軍紀の緩みが著しく、犯罪やパワハラが増えた。入隊者不足が改善される見通しは立っていない。嘆きの会は未だに辺境大戦構想を捨てていない。新たに結成された親睦会や勉強会の中には、嘆きの会に匹敵する危険な集団が散見される。

 

 来年春の上院選挙が一つのターニングポイントになるだろう。高支持率にもかかわらず、大衆党が議席を減らすとの見方が強い。経済学者の多くは、好景気は長続きしないとみている。経済が低迷したら政権支持率も低下する。浮動票の動き次第では、AACFや統一正義党が勝利を収める可能性もあった。中立政党「新しい船出」と「夜明け前の光」も台風の目になる。

 

「でも、帝国よりはましだ」

 

 俺は小物らしく現実逃避をした。最大の仮想敵ラインハルト・フォン・ローエングラムの立場を思えば、自分はまだましだと思える。

 

 八月二六日、前帝国摂政クラウス・フォン・リヒテンラーデが、フェザーンで亡くなった。享年八二歳、死因はホルニッヒ病であった。

 

 一二歳の少年皇帝エルウィン=ヨーゼフ二世はクラウスの死を深く悲しんだ。全国民に一か月の服喪を命じ、公共機関に半旗を一年間掲げさせた。勅命により、「誰よりも皇室を敬い、誰よりも国家を憂い、誰よりも正義を愛した人、ここに眠る」という賛辞が墓石に刻まれた。帝国名誉大法官、帝国大元帥、枢密院名誉議長の称号を追贈され、政府と軍部と貴族の最高位者となった。

 

 クラウスの葬儀は国葬とされ、大公に準ずる格式を持って葬られた。首相と最高司令官を兼ねるラインハルト、副最高司令官キルヒアイス男爵、枢密院議長ヘッセン公爵、帝国塩業公社総裁リヒテンラーデ公爵の四人が、徒歩で霊柩車を先導した。政府高官、軍幹部、諸侯、自治領代表など一万名が葬列に加わった。近衛兵が棺と葬列を警護した。帝都市民は故人の徳を慕い、自発的に道路掃除を行った。クラウスの棺はフリードリヒ四世の霊廟に納められ、主君の棺の隣に置かれた。

 

 国葬の翌日、皇帝はクラウスの子に弔慰金を賜った。具体的な額は不明だが、長男リヒテンラーデ公爵は五〇〇〇万マルクから六〇〇〇万マルク、その他の子供は数千万マルクを受け取ったとみられる。クラウスは遺言により、キルヒアイス夫婦、ランズベルク伯爵、キールマンゼク伯爵、ワイツ男爵らに遺産の一部を譲ったが、それも国庫から補填されることとなった。

 

 葬儀委員一二一八名は「慰労金」、参列者は「交通費」を賜った。金額は公表されていない。前例から推測すると、閣僚級以上は数十万マルク、その他の者は数万マルク程度であろう。

 

 エルウィン=ヨーゼフ二世とリヒテンラーデ公女テレーゼの婚約が発表された。リヒテンラーデ家は偉大なクラウスを失ったものの、外戚としての地位を獲得した。巨額の金が結納金として下賜されたことは言うまでもない。

 

 財政難のため、下士官と兵卒の給与が五〇パーセントカットされることとなった。帝国では兵役は奉仕であり、見返りを求めるなどもっての外ということになっている。平民にとって奉仕させていただくことそのものが報酬なのだ。下士官や兵士の給与は、労働に対する報酬ではなく、「皇帝陛下のご慈悲」であった。軍隊にいれば、最低限の衣食住は保証される。ご慈悲がいささか減ったところで、道理には反していないし、兵が飢え死にするわけでもない。

 

「地位の高い者こそ、率先して報酬を返上すべきだ」

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラムは、そう言って反対したが、大勢を覆すには至らなかった。軍部ですら給与カットに賛成していたのだ。

 

 現在、帝国軍には一二名の現役元帥がいる。摂政ジギスムント大公、副首相ラング男爵、科学尚書ブリューエル伯爵の三名は、いわゆる「政治元帥」であって、軍部に対する影響力はない。残りの九名が本当の意味での元帥だった。

 

 ラインハルトは三長官を兼任しているが、軍務省、統帥本部、宇宙艦隊総司令部の三官衙を掌握したわけではない。中央勤務の経験が乏しいため、軍官僚に実務を委ねざるを得なかった。この世界の軍官僚は既成勢力の息がかかっている。前の世界と違い、ラインハルトに絶対服従する軍官僚は少ない。首相府や地上軍総司令部にも顔を出さなければならなず、三官衙を掌握するために使える時間もなかった。

 

 三官衙の筆頭次官を兼ねるキルヒアイス元帥は、軍官僚の代弁者と化している。本来はラインハルトの軍部掌握を助けるはずの人物だった。しかし、中央勤務の経験が乏しく、物分かりが良い性格だったので、軍官僚の理論的に正しい「助言」を拒めなかった。

 

 宇宙艦隊副司令長官メルカッツ元帥は、旧ミュッケンベルガー艦隊の残党に名目上の指導者として担がれただけの人物だ。保守派とも開明派とも疎遠で、影響力は皆無と言っていい。

 

 大本営幕僚総監シュターデン元帥は実権をまったく持っていない。門閥派の軍事参謀だったが、ブラウンシュヴァイク公爵に「理屈が多すぎる」と嫌われたおかげで、粛清を逃れた。あまりに理屈っぽいため、保守派や開明派からも疎まれており、閑職の大本営幕僚総監に押し込められた。

 

 軍務省第二次官シュトックハウゼン元帥、統帥本部第二次長クラーゼン元帥、宇宙艦隊副司令長官グライフス元帥、地上軍副司令官カーレフェルト元帥、帝国軍査閲総監カールスバート元帥の五名こそが、軍官僚の頂点に立つ人物であった。彼らとキルヒアイス元帥が組んでいる限り、ラインハルトは手も足も出なかった。

 

 給料カットが決定されると、兵士による暴動が相次いだ。ラグナロック以前なら「兵役は奉仕」という論理も通用した。兵役を務めあげた者は尊敬の的となり、就職や縁談の話が次々と舞い込んできた。今はそうではない。報酬以外に銃をとるべき理由はなかった。

 

 帝国政府は「小さな暴動にすぎない」と発表したが、信じる者は少ない。全国規模の暴動であるとの説が有力だ。

 

 九月二七日、全銀河の放送網に出所不明の電波が割り込み、演説を流すという事件が起きた。画質と音質が悪い上に、演説者のなまりがひどく、話が要領を得ないため、給与カットを批判していること以外は何もわからなかった。電波は一分ほどで止まった。

 

 この事件について、帝国政府は何のコメントも出さなかった。帝国広しといえども、全銀河の放送網に割り込めるだけの設備があるのは、皇宮、首相府、国務省、内務省、軍務省に限られる。主要官庁が政府批判を放送したのなら相当深刻な事態だ。それなのに都合の良い公式見解を出すことすらしない。

 

 帝国政府の不自然な態度は憶測を呼んだ。政局がらみの謀略放送という可能性は低い。真実を伝えるにせよ、嘘を流すにせよ、主張を明確に伝えるのが前提である。要領よく話せない人間を起用する意味はない。何者かが一時的に主要官庁を占拠し、演説を流したと思われた。

 

 九月二九日、黒色槍騎兵艦隊司令官ビッテンフェルト上級大将が逮捕された。詳細な理由は公表されていない。電波ジャック事件に関与したとの説、兵士暴動を扇動したとの説、クーデターを企んだとの説が流れている。

 

 一〇月一日、帝国政府は史上空前規模の増税を実施した。免税特権を廃止して、貴族に負担を求めた。それでも財政状態が改善しなかった。フェザーンはいくらでも金を貸してくれるが、保守派は財政均衡志向が強く、借金を好んでいなかった。最後に残ったのは、平民からの徴税という伝統的な方法であった。

 

 帝国国内で暴動が頻発した。詳細は不明だが、兵士の暴動を上回る規模らしい。鎮圧部隊が暴徒に合流したとの情報もある。難民がイゼルローン要塞やフェザーンに押し寄せた。「局地的暴動」という帝国政府の公式見解を信じる者はいなかった。

 

 保守派は明らかに柔軟さを欠いていた。妥協は悪だと考えるふしすらあった。クラウスの理想主義を受け継いだが、現実主義は受け継がなかった。キールマンゼク副首相は、故ブラウンシュヴァイク公爵ですらためらうであろう強硬策を次々と打ち出した。ワイツ副首相は「弱腰」を理由に解任された。ラング副首相は治安官僚としての役割を果たすことに専念した。

 

 一〇月四日、副首相シルヴァーベルヒ男爵と近衛軍総監ロイエンタール上級大将が解任された。軍人給与カットと増税の撤回、貴族課税を有名無実化した免税特権賜与制度の廃止、クラウス神格化への批判、暴徒に対する妥協策などを上奏したことが、「不敬である」とみなされたのだ。ロイエンタール上級大将が、オーベルシュタイン上級大将の中央復帰運動を展開したことも、解任の遠因になったとみられる。

 

 ミッターマイヤー上級大将らが抗議の声をあげると、キルヒアイス元帥がローエングラム大元帥府に乗り込み、「国家の大事」を説いた。具体的に何が話し合われたのかはわからない。決裂したことだけは確かだった。大元帥府から出てきたキルヒアイス元帥は、沈痛な表情で「わかっていただけなかった」と語ったという。

 

 ポケットマネーを兵に与えたことが「婉曲的な政治批判」であるとして、ミッターマイヤー上級大将ら将官五八名がけん責処分を受けた。宮廷や軍部では処分が軽すぎるとの声が出ている。

 

 キルヒアイス夫婦はラインハルトの家を頻繁に訪ねた。訪問目的は不明だ。ラインハルトは保守派に煮え湯を飲まされ続けている。ローエングラム公夫人はリヒテンラーデ家の傍系だが、ロイエンタール上級大将やオーベルシュタイン上級大将と旧縁があり、急進改革派寄りだといわれる。和やかな話し合いになったとは考えにくい。

 

 一〇月七日、ラインハルトとキルヒアイス元帥が暴動鎮圧を命じられた。最高司令官と副司令官が揃って出陣したのである。事実上の総動員に等しい。二人に下された詔勅には、「ノイエ・シュタウフェン公のごとくせよ」と記されていた。

 

 ノイエ・シュタウフェン公といえば、ルドルフ死後の反乱を鎮圧し、五億人を殺した人物だ。それにならえというのだから、仰天するしかない。

 

 ラインハルトにとって、今の状況が不本意であることは間違いないだろう。彼の不幸は同盟にとっての幸運であった。

 

「俺はまだ恵まれている」

 

 自分を慰める作業を終えた俺は、迎えに来た車に飛び乗り、シャトルが格納されている場所に向かった。同じ宇宙港の中なので、移動にさほど時間はかからない。

 

 シャトルに乗って飛び立ち、軌道上に係留された旗艦ゲティスバーグへと移乗する。久しぶりの出陣だ。

 

 俺は艦艇四〇〇〇隻と地上戦要員二〇万名からなる統合部隊を編成し、エル・ファシル海賊を攻撃した。第七方面軍と協力して包囲網を敷き、狭い宙域へと押し込んでいく。集結するよう強いられた敵に兵力を叩きつける。

 

「全艦突撃!」

 

 一個分艦隊が雪崩を打って押し寄せた。正規軍二〇〇〇隻が海賊を押し潰す。その先頭には、総軍旗艦ゲティスバーグの姿があった。

 

「総員突撃!」

 

 陸戦隊と地上軍が地表めがけて降下した。海賊の力の源泉は、各地に張り巡らされた基地網である。帰る場所と逃げ場所を奪えば、根を失った海賊は立ち枯れるしかないのだ。精鋭部隊が基地に突入した。その先頭には、戦斧を持ったエリヤ・フィリップスの姿があった。

 

 俺の勝利は約束されていた。辺境宙域に覇を唱えた五大海賊は見る影もない。ガミ・ガミイ自由艦隊とヴィリー・ヒルパート・グループは、外宇宙に撤退し、エル・ファシル革命政府軍第一戦域軍に編入された。ワシントン・ブラザーズは半数が革命政府軍第一戦域軍に加わり、半数が降伏した。黒色戦隊とドラキュラは七九七年に降伏した。今のエルファシルには、単独で一〇〇〇隻単位を動かせる勢力は存在しなかった。手堅く戦えば勝てる敵だった。

 

 順当な勝利にエリヤ・フィリップスをデコレーションし、市民軍の英雄や新兵器をトッピングした。偉大な勝利という名前の美味しそうなケーキが出来上がった。

 

「ウッド提督の再来!」

「サジタリウスの輝ける超新星!」

「小さな巨人!」

 

 同盟市民は俺が作ったケーキを喜んで味わい、あらん限りの称賛を浴びせた。平凡な勝利に過ぎないと指摘する者は少数派に留まった。

 

「これでやりやすくなる」

 

 俺は胸を撫でおろした。人間はわかりやすいものを好む。危機を未然に防ぐだけでは、軍が仕事をしていないのではないかと疑われる。目に見える結果を残すことも必要なのだ。

 

「ウッド提督に肩を並べましたね」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が、デスクの上にプリントアウトされた電子新聞を広げた。見出しには、「エリヤ・フィリップスはクリストファー・ウッドの再来だ!」と書かれている。

 

「趣味のいい冗談じゃないな。俺はウッド提督の足元にも及ばない」

「確かに趣味のいい冗談ではありません」

「どうしたんだ?」

 

 俺は相手の目が笑っていないことに気づいた。

 

「五世紀前、ウッド提督の再来と呼ばれた人のことはご存知でしょう?」

「知っている」

 

 その人物の名前はルドルフ・フォン・ゴールデンバウムという。

 

「あなたがウッド提督の再来になるのではないか。そんな気がしたのです」

「俺自身、そうならないと言い切れなくなっている。君が不安を覚えるのは無理もない」

「私も自信がありません」

「どういうことだ?」

「ウッド提督の再来が現れた時、それを否定できる自信がないのです」

 

 それは驚くべき告白であった。前の世界で民主主義に殉じた人が、民主主義を信じられなくなりつつあるのだ。

 

「理由を聞いてもいいかい?」

「やりたいことが多いのにできることが少ない。そんな時、力がほしいと思ってしまいます」

「俺も同じだよ。去年からずっと思っている。もっと力があれば、うまくやれたんじゃないかってね」

「今は保留でいいでしょう。頂点に立ったら、案外満足するかもしれませんよ」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はいつもののんびりした表情に戻った。どうしようもないことをどうしようもないと認める。認めた上で前を向く。それこそが彼の真骨頂だ。

 

「そうだな。統合作戦本部長になってから考えよう」

「統合作戦本部長で満足できなければ、政界に入りましょう。民主主義を早急に捨てる必要はありません。枠の中でも力をつける余地はあります」

「最高評議会議長でも満足できなかったら?」

 

 俺は何気なくその問いを口にした後、失敗したと思った。誰が相手であろうと聞くべきではないことだった。

 

「その時は一緒に地獄に堕ちましょう」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は穏やかだが覚悟を込めて答えた。

 

「よろしく頼む。君がいたら地獄だって寂しくない」

 

 俺は満面の笑顔で答えた。

 

「ところでパンはいかがですか?」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長がサンドイッチを差し出した。ずっとポケットに入っていたせいか、潰れていて固くて冷えている。見るからにまずそうなサンドイッチだった。

 

 俺は何も言わずに潰れたサンドイッチを受け取り、口に放り込んだ。ちょうどいい潰れ具合だ。潰れていても固くても冷えていても、これよりうまいパンはない。



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第117話:救国軍事会議 803年10月19日~11月30日 第一辺境総軍司令部~司令官官舎

 八〇三年一〇月一九日午前六時、救国軍事会議が銀河帝国の全権を掌握した。帝国全土に戒厳令が施行され、行政・司法・治安のすべてが軍の管理下に置かれるという。

 

「救国軍事会議……?」

 

 俺は目をぱちぱちとまばたきさせた。救国軍事会議といえば、前の世界の同盟でクーデターを起こした組織ではないか。

 

 テレビに全神経を集中した。どれほど見詰めても、テロップは変わらない。どれほど耳を澄ませても、アナウンサーが「救国軍事会議」と言ったように聞こえる。頬をつねったら痛みを感じたので、夢でもないようだ。

 

 オフィスに到着すると、国防委員会から「救国軍事会議名簿」が送られてきた。同盟フェザーン駐在弁務官事務所が入手したものだという。

 

「救国軍事会議議長、ラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥……!?」

 

 俺は自分の目を疑った。あのラインハルトが救国軍事会議の議長をやっているのだ。前の世界の人間なら仰天せずにはいられない。

 

 ラインハルトは救国軍事会議議長、帝国摂政、帝国宰相、帝国軍最高司令官、枢密院議長を兼任していた。貴族、軍隊、官僚の頂点を一人の人間が独占するなど前代未聞だ。「大宰相」ノイエ・シュタウフェン公、「準皇帝」エックハルト伯、「人形遣い」クラルボルツ侯、「不倒翁」カッセル公、「皇帝製造者」ヴィレンシュタイン公、「皇帝代行」オトフリート皇太子(後のオトフリート三世)ですら、これほど大きな権力を握ったことはない。

 

 副議長は、国務尚書ブラッケ上級大将、国家計画委員会議長シルヴァーベルヒ上級大将、帝国軍副最高司令官メルカッツ元帥の三名である。

 

「ブラッケ上級大将? シルヴァーベルヒ上級大将? 国家計画委員会議長?」

 

 俺の頭の中でクエスチョンマークが乱れ飛んだ。ブラッケとシルヴァーベルヒは諸侯でもあり、私兵隊の規模に比例した階級を持っている。だが、上級大将になれるほどの大諸侯ではない。国家計画委員会という組織も初めて聞いた。

 

 常任議員は、財務尚書リヒター上級大将、内務尚書オスマイヤー上級大将、宮内尚書マリーンドルフ上級大将、司法尚書ブルックドルフ上級大将、内閣書記官長マインホフ上級大将、帝国防衛委員会議長ファインハルス上級大将、近衛兵総監オーベルシュタイン上級大将、宇宙艦隊総参謀長メックリンガー上級大将、宇宙艦隊副司令長官ロイエンタール上級大将の九名である。

 

「えっ? えっ?」

 

 戸惑いはますます大きくなった。上級大将の階級を与えられる文官は、内務尚書と帝国防衛委員長と帝国警察総局長官の三名だけである。他の文官が上級大将になっているのはどういうことか。国務官僚のファインハルス子爵が、情報機関トップを務めているのも不思議だ。

 

 議員は三三名である。科学尚書グルック上級大将、典礼尚書インゴルシュタット上級大将、名誉職の元帥二名、国務省・軍務省・内務省・財務省の第一次官、帝国警察総局長官、統帥本部第一次長、地上総軍副司令官、兵站総監たる軍務次官、情報総監たる軍務次官、宇宙艦隊副司令長官、ガイエスブルク要塞司令官、上級大将たる艦隊司令官四名、憲兵総監たる軍務次官、人事総監たる軍務次官、技術総監たる軍務次官、帝国検事総長、装甲擲弾兵団司令官、猟兵団司令官、首都防衛司令官、ビフレスト要塞司令官、レンテンベルク要塞司令官、大将たる艦隊司令官八名の順に、名前が並んでいる。

 

 書記には、宰相府官房長・大元帥府事務局長・最高司令官首席副官を兼ねるフェルナー大将が就任した。

 

「完全に軍事政権だな」

 

 俺は議員の名前をまじまじと眺めた。各省尚書と警察総局長官は上級大将、軍務省を除く各省の第一次官と検事総長は大将の階級を有している。その他のメンバーは軍人だ。

 

 何よりも重大なのは、前の世界の名将が台頭したという事実だ。近衛兵総監パウル・フォン・オーベルシュタイン、宇宙艦隊総参謀長エルネスト・メックリンガー、宇宙艦隊副司令長官オスカー・フォン・ロイエンタール、ガイエスブルク要塞司令官ヘルムート・フォン・レンネンカンプ、タンネンベルク猟騎兵艦隊司令官ウォルフガング・ミッターマイヤー、黒色槍騎兵艦隊司令官フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト、白色槍騎兵艦隊司令官アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト、憲兵総監カール・ロベルト・シュタインメッツ、ビフレスト要塞司令官ウルリッヒ・ケスラー、デュッペル竜騎兵艦隊司令官エルンスト・フォン・アイゼナッハ、ポツダム竜騎兵艦隊司令官アウグスト・ザムエル・ワーレン、ゾーア竜騎兵艦隊司令官コルネリアス・ルッツ、ケーニヒグレーツ胸甲騎兵艦隊司令官ナイトハルト・ミュラー、ロイテン竜騎兵艦隊司令官カール・グスタフ・ケンプといった名前を見るだけで、戦慄を覚える。

 

 名将の下で活躍した者も、救国軍事会議に名を連ねた。統帥本部第一次長フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー、地上総軍副司令官コンラート・フォン・モルト、宇宙艦隊副司令長官ハンス・エドアルド・フォン・ベルゲングリューン、ライヒェンバッハ猟騎兵艦隊司令官ホルスト・フォン・ジンツァー、帝都防衛司令官オスカー・フォン・ブレンターノ、レンテンベルク要塞司令官ペーター・グリューネマン、ロイテン竜騎兵艦隊司令官ヴェルナー・フォン・アイヘンドルフ、マズーリ猟騎兵艦隊司令官ロルフ・オットー・ブラウヒッチ、最高司令官首席副官アントン・フェルナーらは、警戒に値する人物だ。

 

 戦記には登場しないが、前の世界で重きをなした軍人もいる。猟兵団司令官ハンス・フォン・ギーゼキングは、銀河ニンジャ四天王の一人で、ローエングラム朝帝国軍特殊部隊の創設者でもあった。技術総監アルトリート・ブレンナイスは、七九八年から八四五年まで技術総監を務めて、「終身技術総監」と言われた。軍務省第一次官イグナーツ・フォン・ハウプト、情報総監ノルベルト・フォン・キーファーらは、名前しか覚えていないが、ローエングラム朝の元帥だった。

 

 前の世界ではラインハルトに仕えなかった人材の名前もあった。副最高司令官ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ、大本営幕僚総監クルト・フォン・シュターデンらは、ラインハルトの宿敵だった。首席軍事参議官ユリウス・フォン・クラーゼンは、敵対しなかったが味方もしなかった。兵站総監シュテファン・フォン・プレスブルク、人事総監ルパート・フォン・ハーゼンバイン、装甲擲弾兵団司令官アロイス・ノヴォトニーらは、戦記にもニュースにも登場しなかった人物である。

 

 文官出身議員も前の世界で聞き慣れた名前ばかりだった。インゴルシュタット典礼尚書以外の閣僚は、ローエングラム朝で閣僚を務めた人物である。その他の人物も、麻薬中毒だった俺が名前を覚えているぐらいなので、ローエングラム朝の重臣だろう。記憶にない名前もたぶん大物だ。

 

「やばいぞ、これは。本当にやばい。やばすぎる」

 

 俺の乏しい語彙力では、「やばい」としか言えなかった。これは帝国のオールスターチームである。前の世界のラインハルト軍より強いかもしれない。

 

「やばいですね」

 

 そう言ったのは次席副官クリストフ・ディッケル大尉だった。

 

「君にもわかるか」

「ええ。帝国軍はおしまいですね」 

「帝国軍がおしまいだって?」

 

 意味がわからなかったので、相手の言葉をそのまま繰り返した。

 

「三〇代や四〇代の若手ばかりです。ベテランがほとんどいません」

「ああ、そういうことか」

 

 俺はようやく理解した。ディッケル大尉は年齢構成を問題にしているのだ。

 

「まともな閣僚はブラッケ侯とリヒター伯だけです。政府が回りませんよ」

「シルヴァーベルヒ男爵がいるじゃないか」

「まだ三〇代でしょう? 実績もない。ローエングラム公のブレーンという以外、起用する理由がありません。贔屓人事ですよ」

「マリーンドルフ伯はどうだ? 結構な年配だぞ」

「前職は枢密顧問官ですが、それ以前の官歴がありません。実務経験は皆無ですね。コネで起用されたと思われます」

「彼はローエングラム公と親しいのか?」

「娘がヴェストパーレ男爵夫人の秘書を務めています」

 

 ディッケル大尉は立て板に水を流すように答えた。

 

「詳しいなあ」

「仕事のうちです」

 

 そう言って、ディッケル大尉は照れるような表情になった。優秀だが根は純朴な青年である。

 

「頑張ってるよね、ディッケル君は」

 

 首席副官ユリエ・ハラボフ大佐は、優しいお姉さんと言った感じの笑顔を浮かべた。

 

「きょ、恐縮です」

 

 ディッケル大尉は平均よりやや小さな体を縮こまらせた。

 

「恐縮しなくてもいいのに。本当に頑張ってるんだから」

 

 ハラボフ大佐は白い歯を見せて笑い、ディッケル大尉の肩をぽんぽんと叩く。俺以外の人間に対してはひじょうに気さくだった。

 

 軽い寂しさを覚えつつ、救国軍事会議の名簿を読み返した。前の世界の記憶を隅に追いやり、この世界で知り得ることのみを参照する。確かにディッケル大尉が言う通りだ。この人選はいかれている。

 

 ラインハルトが若すぎるために目立たないが、政府首脳陣は異常なまでに若い。帝国の常識で考えれば、閣僚は五〇代から七〇代、次官は四〇代から六〇代といったところだ。しかし、現在の閣僚の半数は、三〇代から四〇代である。次官やその他の高官のうち、五〇歳以上の者は三人しかいなかった。畑違いの人物が起用されるケースも見られた。

 

 軍部首脳の若さはクレイジーな域に達している。半数以上が三〇代の若手だ。ベルゲングリューン上級大将(四五歳)、ケスラー大将(四三歳)、オーベルシュタイン上級大将(四二歳)らが、ベテランに見えてしまう。ジンツァー上級大将、ミュラー大将、ハーゼンバイン大将らは、三〇代前半だ。ブレンナイス技術大将に至っては、妹やコレット少将と同い年であった。しかも、艦隊指揮官あがりがやたらと多い。

 

「うちの国もたいがいだけど、帝国はもっとひどいねえ」

 

 イレーシュ・マーリア人事部長が名簿を一目見て、呆れ顔になった。

 

「ローエングラム公が好きなようにやったらこうなる、と」

 

 サンジャイ・ラオ作戦部長は失望と皮肉が半々と言った感じだ。

 

「私がキルヒアイスなら全力で止めるよ」

「足を引っ張ったように見えましたが、彼なりの忠義だったんですね」

 

 二人の参謀がため息まじりに語り合う。前の世界を知らない人が見れば、この人事は異常そのものだった。

 

 もしかしたら、前の世界でも最初は異常な人事だと思われたかもしれない。指揮経験のないキルヒアイスを艦隊司令官に抜擢した。一介の参謀だったオーベルシュタインに戦略立案を委ねた。戦隊司令に艦隊を与え、群司令や大型艦艦長に分艦隊を与えた。同盟戦派や貴族連合軍がラインハルトを甘く見るのも無理はなかった。

 

「帝国はおしまいだな」

 

 マルコム・ワイドボーン参謀長がぶっきらぼうに言うと、他の参謀たちもうなずいた。その顔には理論と経験に基づく確信がこもっていた。

 

 帝国は滅亡の瀬戸際にある。高圧的すぎる暴動鎮圧令が人心の離反を加速させた。給与遅配に腹を立てた警官が暴動に加わり、兵士や民衆と一緒に暴れまわった。オーディンでは兵士の脱走が相次ぎ、宇宙艦隊と地上総軍の兵舎は空っぽになった。討伐軍を組織するどころか、帝都を守る兵力すら確保できない。フェザーン人傭兵が最も信頼できる軍事力という有様だ。

 

 こんな状況でラインハルトはベテランをごっそり切り捨てた。滅亡に向かって直進しているようにしか見えない。

 

「キルヒアイス元帥の名前がありませんね。ポストも全部他人に取られています」

 

 そう指摘したのは、エドモンド・メッサースミス作戦副部長である。

 

「消されたと思わざるを得ませんな」

 

 ハンス・ベッカー情報部長は沈痛な面持ちで答えた。その顔には「消されたと思いたくない」と書いてあった。

 

「生きていると思うけどね。キルヒアイス元帥府の古参が参加しているし」

 

 俺はキルヒアイス派諸将の名前を指さした。ベルゲングリューン提督やビューロー提督が、上官を殺した人間に味方するとは思えない。

 

 ハラボフ大佐が机の上に書類を置いたので、俺たちは結論の出ようのない会話を打ちきった。やるべき仕事は山ほどある。司令部の日常業務だけでも膨大な量だ。部下がトラブルを起こしたり、政府や与党が自分の都合を押し付けてきたり、右翼と左翼が勝手なことを言ったりするので、予定外の仕事がどんどん増えていく。海外の政変にかまける余裕などないのだ。

 

「帰ったらあの人の意見を聞こう」

 

 マティアス・フォン・ファルストロング伯爵の高貴な顔を思い浮かべつつ、俺は書類に手を伸ばした。その瞬間、端末から緊急連絡のブザーが鳴り、壮年の女性軍人が通信画面に現れた。

 

「こちら、国防委員会です。銀河帝国皇帝が緊急勅令を発するとの情報が入りました。全銀河に向けて放送するそうです。R回線を繋ぎますので、ご覧になってください」

「わかった」

 

 俺が了承すると、メインスクリーンに荘厳な帝国国歌が流れ出し、帝国語の力強いアナウンスが響いた。

 

「全人類の支配者にして全宇宙の統治者、天界を統べる秩序と法則の守護者、最も高貴な血筋の継承者、大神オーディンの最高司祭、神聖にして不可侵なる銀河帝国皇帝エルウィン=ヨーゼフ陛下のお出ましである!」

 

 黄色いマントと元帥服を身にまとった少年が現れた。目鼻立ちはくっきりしていて、肌は抜けるように白く、焦げ茶色の髪はさらさらで、優美な雰囲気が漂っている。眼差しは優しすぎて儚さすら感じられた。体はガラス細工のように華奢で、触ったら折れてしまいそうだ。前の世界で見せた凶暴さの片鱗も見られない。

 

「はぁ……」

 

 オフィスのあちこちからため息が聞こえた。熱っぽい視線を画面に向ける者もいる。右翼思想を持つバウン作戦副部長ですら、「見た目はいいですよね、見た目は」と不機嫌そうに言った。

 

 俺は少年皇帝をまじまじと見つめた。顔の作りは前の世界とほとんど同じなのに、ものすごい美少年に見える。表情や立ち居振る舞いのおかげだろう。前の世界の彼がこのような人物だったら、俺も騎士症候群に感染したかもしれない。人間は教育次第で良くも悪くもなる。

 

 エルウィン=ヨーゼフ二世は頬を軽く紅潮させ、緊張した面持ちで詔勅を読み上げた。政策の誤りを認め、奸臣を用いたことを懺悔し、「責任はすべて朕一人にある」と述べた。

 

「己を罪する詔か」

 

 オフィスは驚きに包まれた。神聖不可侵の皇帝が自己批判を行うのは、一三二年ぶりのことである。一二歳の少年皇帝が自ら決断したわけではない。「己を罪する詔」は、玉座の背後にいる人物の決意表明であった。

 

 マリーンドルフ宮内尚書が記者会見を開き、「勅令第六五七号は偽勅である」と述べた。無差別虐殺を示唆する詔勅は、奸臣が勝手に作ったものであって、皇帝のご意思ではないというのだ。

 

「なんで偽勅にするんだ? 撤回の勅令を出せばいいじゃないか」

 

 俺が疑問を呈すると、帝国出身のベッカー情報部長が答えた。

 

「勅令で撤回できるものは、別の勅令で復活させることもできます。勅令第六五七号が生き返る可能性を残してしまうわけです」

「なるほど。虐殺の意思がないというメッセージなのか」

「ええ。キールマンゼクらを処刑する口実にもなります。詔勅を作ったのは彼らですからね。冤罪というわけでもない」

 

 ベッカー情報部長は険しい表情でスクリーンを見詰めた。事態の推移を一ミリたりとも見逃すまいとするかのようだ。

 

 一〇時四〇分、キールマンゼク前第二副首相、ラング前副首相、ケディッツ前内務尚書、ランゲンボルン前財務尚書、シュトックハウゼン前軍務省第二次官、カールスバート前査閲総監ら一二名が、詔勅を偽造した罪で公開処刑された。ギロチンの刃が罪人の命を断ち切る。近衛兵が切り落とされた首を高々と掲げ、「正義は執行された!」と叫んだ。その様子は帝国全土だけでなく、フェザーンや同盟でも放送された。

 

 正午一二時〇〇分、ラインハルトはテレビ演説を行い、兵士給与削減と平民増税の撤回、腐敗高官を裁く特別軍事法廷の設置、免税特権の完全廃止、貴族に対する課税の強化、軍人や警官や教師への未払い賃金全額支給などを宣言した。暴徒の要求を完全に受け入れたのだ。

 

 帝国政府はフェザーン金融庁から一〇兆マルクの融資を受けた。この金は暴動鎮圧活動の経費、配給物資の調達、軍人給与や公務員給与の支払いなどにあてられる。

 

 画面が切り替わり、新無憂宮東苑の勝利広場が映し出された。ダンボール箱やポリタンクや布袋が所狭しと積み上げられている。

 

 オレンジ色の髪を持つ屈強な青年将校が、ダンボール箱のふたを力づくで引きちぎり、箱を大きく持ち上げてからひっくり返した。雪崩れ落ちたリンゴを馬鹿でかいフルーツバスケットが受け止める。

 

「うおおおおおおおおおお!!」

 

 釈放されたばかりのフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト上級大将は、両腕を伸ばし、山盛りのリンゴを持ち上げた。

 

 身長二メートルを超える巨漢が、小麦袋を何個も両脇に抱え込んだ。その横には大量の小麦袋が無造作に積まれている。

 

「良民諸君! 兵士諸君! 小麦が取り放題だぞ!」

 

 カール・グスタフ・ケンプ大将は白い歯を見せて笑った。爽やかで温かみがあり、理想の軍人といった感じだ。

 

 カメラはめまぐるしく視点を繰り替え、毛布の山を抱えて運ぶワーレン大将、缶詰がぎっしり詰まった箱を両肩で担ぐキスリング准将、巨大な酒樽を背負うザルムホーファー大佐などを映した。屈強な男たちが持ちきれないほどの物資を抱える映像に、「これは君たちの物だ」というテロップが重ねられた。

 

 物資を満載したトラックが次々と発進していった。「トラックは君たちの家に向かっている」というテロップが浮かび上がる。

 

 ラインハルトが画面に再び現れた。美しい顔に浮かんだ笑みは、力強い父性と優しい母性に満ちている。切れ長の目から放たれた光は、春の日差しのように柔らかい。

 

「これより物資の配給を開始する。好きなだけ取るがいい」

 

 そう言って、ラインハルトはトラックの荷台に飛び乗った。陽光に照らされた金髪がまばゆい輝きを放つ。白いマントが翼のように広がる。翼を持った獅子が天高く飛び上がったのだ。彼を止められる者はどこにもいない。

 

 一四時頃、帝都が秩序を取り戻した。一発の銃弾も放たれなかった。一本のビームも放たれなかった。殺された者は一人もいなかった。逮捕された者は一人もいなかった。ラインハルトとその配下の諸将が姿を現すだけで、暴徒は恭順を誓った。

 

 物資を満載した輸送機が次々と空港から飛び立った。その様子は「飛行機は君たちの町に向かっている」というテロップとともに放映された。

 

 一五時一〇分、輸送機がハールバルズ空港上空を埋め尽くした。その中の一機から帝国宇宙軍の正装を身にまとった男性が飛び降りた。パラシュートは付けていない。

 

「なんだ、あれは?」

 

 俺も部下たちも首を傾げた。なぜパラシュートなしで飛び降りるのか? こんな映像をなぜ放映するのか? わけがわからない。

 

 男性は部下らしき兵士が広げた無重力トランポリンに飛び込んだ。体が数メートルほど跳ね上げられる。くるくるとバク転しながら宙を舞い、両足をきれいに揃えて着地した。狂暴な目が遠巻きに見る暴徒たちを睨みつける。

 

「俺はフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトだ!!」

 

 ビッテンフェルト上級大将の咆哮が滑走路に轟いた。見えない力が暴徒の武器を弾き飛ばす。ライフル数万丁と棍棒数万本が地面に転がった。

 

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

「ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳! ビッテンフェルト提督万歳!」

 

 暴徒数万人が一斉に跪き、狂ったようにビッテンフェルト上級大将を称えた。

 

「馬鹿者っ!! ローエングラム公万歳だろうがっ!!」

 

 ビッテンフェルト上級大将は暴徒たちを叱り、「手本を見せてやる!」と言った。

 

「ローエングラム公万歳!! ローエングラム公万歳!! ローエングラム公万歳!!」

 

 それは歓声といえる代物ではなかった。まさしく猛獣の雄叫びであった。

 

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

「ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳! ローエングラム公万歳!」

 

 暴徒たちはローエングラム公の名を称え、ビッテンフェルト上級大将は満足そうに大笑した。ハールバルズの暴動は収まった。

 

 画面が切り替わり、各地に降り立った将帥たちの姿が映し出された。ロイエンタール提督が姿を現すと、暴徒は何も言わずに平伏した。ミッターマイヤー提督が姿を現すと、暴徒は武器を捨てて歓声をあげた。その他の将帥が説諭すると、暴徒は恭順を誓った。首星オーディンの暴動は日付が変わる前に収まった。

 

「嘘だろう……」

 

 俺は呆気に取られた。数億人の暴徒が半日で消え失せた。消えたはずの中央軍が数時間で復活した。前の世界でラインハルトが成し遂げた偉業を知る俺ですら、首星の暴動がこんなに早く収まるとは予想できなかった。

 

 ファルストロング伯爵に通信を入れたところ、「今の段階でははっきりとは言えないが」と前置きした上で、二つの可能性を述べた。

 

「まず、フェザーンが噛んでいる可能性じゃ。一〇兆マルクは右から左に動かせる額ではない。ローエングラムとフェザーンは水面下で繋がっていた、とみるべきであろう」

「言われてみると怪しいですね。物資を集めるのが早すぎますし」

 

 俺自身の経験を踏まえると、あれだけの物資を数時間で集めることは難しい。官庁や軍隊から備蓄をかき集めるにせよ、民間企業から調達するにせよ、時間と手続きが必要になる。フェザーンのバックアップでもなければ不可能だ。

 

「次は、ローエングラムが『三月維新』を下敷きにしている可能性じゃな」

「晴眼帝の逆クーデターですね」

「うむ。三月維新と全く同じ手順を踏んでおるのだ」

「なるほど」

 

 戦史以外の帝国史に疎い俺には、相槌を打つ以外のことはできない。三月維新については、晴眼帝マクシミリアン=ヨーゼフ二世が「国家維新評議会」を設立したこと、皇弟ヘルベルト大公が公開処刑されたこと、抵抗勢力が一掃されたことしか知らなかった。

 

「意図的にやっているのであろうな。先例を忠実になぞることで、自分の行動を正当化する。陳腐な手じゃが効き目は大きい」

「三月維新をなぞっているとすると、次はどんな手を打つとお考えでしょうか?」

「維新軍じゃな」

 

 ファルストロング伯爵の正しさはすぐに証明された。ラインハルトが記者会見を開き、「治安維持のための任務部隊を編成した」と発表したのである。

 

 ウェブ辞書の「維新軍」の項には、「マクシミリアン=ヨーゼフ二世が設置した統合任務部隊」と記されている。表向きの任務は治安維持であったが、その矛先は抵抗勢力に向けられた。蓄積された腐敗を一掃するには、強大な武力が必要だった。

 

 救国軍事会議は統合任務部隊「救国軍」を各地に派遣した。救国軍司令官の威名と清廉さは、暴徒を信頼させるに十分だった。救国軍隊員が数日前まで暴動に参加していたという事実は、暴徒を安心させるに十分だった。暴動の波は急速に引いていった。民衆や兵士が救国軍に加担したため、保守派や地方勢力は呆気なく制圧された。

 

 救国軍のもう一つの任務は、腐敗の取り締まりである。憲兵隊とともに捜査を行い、銀行預金九兆マルクを凍結し、一七兆マルク相当の債券や株式を差し押さえた。その他に膨大な現金、不動産、自動車、貴金属、美術品などを押収した。腐敗高官として拘束された数万名の大半が、保守派であった。

 

 故クラウス・フォン・リヒテンラーデの部下たちは、帝国の官僚としてはごく標準的な倫理観を所有していた。収賄や公金横領を当然の権利だと考え、それをためらいなく行使した。ブラウンシュヴァイク派の遺産を懐に入れるのも、素直な少年皇帝から下賜金や免税特許状を引き出すのも、正当な権利の行使であった。不正とは度を超えたものだけを指すのだ。

 

 開明派や民衆の倫理観は、故クラウスの部下と異なるものだった。収賄や公金横領は規模に関わらず犯罪だと考えた。一ディナールだろうが一億ディナールだろうが、不正に変わりはない。

 

 特別軍事法廷の第一次裁判では、五七六名が死刑、一四五二名が終身刑、三一八〇名が懲役刑、二五四九名が財産没収の判決を受けた。無罪となった者は一人もいなかった。開明派や民衆の倫理観に寄り添う判決だった。

 

 一一月二五日、ワイツ前副首相、ブリューエル前科学尚書、ブレムケ前皇宮事務総長、カーレフェルト前地上軍副司令官、メッセンカンプ前帝国軍技術総監、ランゲブリュック・エムスラント前星域総督、ドレプガウ・前ヴァーダーン星域総督ら二五名が、汚職の罪で公開処刑された。民衆が歓声を上げる中、ギロチンの刃が二五個の首を切り落とした。その様子は帝国全土で生中継され、フェザーン経由で同盟に伝えられた。

 

 故クラウス・フォン・リヒテンラーデは勝ち逃げしたかに思われたが、追及を逃れることはできなかった。収賄や横領や職権乱用など五九の罪で有罪判決を受けた。死後に追贈された称号はすべて剥奪された。後継者のハインリヒに巨額の罰金が科せられ、全財産を差し出しても足りないほどの借金が残った。皇帝とクラウスの孫テレーゼの婚約は破棄された。遺体はフリードリヒ四世廟から運び出され、遺族のもとに戻された。キールマンゼクらが作らせたクラウスの銅像二万体、クラウス語録二〇億冊、クラウス著作集八億冊は、すべて廃棄処分となった。

 

 一一月三〇日、救国軍事会議が暴動終結を宣言した。暴徒は感情的にも経済的にも満足し、帝国に再び忠誠を誓った。

 

「何が起きたんだ?」

 

 俺は最初から最後まで経過を注視してきたが、それでも理解できなかった。強烈な嵐が吹き荒れて、何もかも吹き飛ばしていったような気分だ。

 

 ファルストロング伯爵に通信を入れると、「わしを質問箱だと思っているのか」と嫌味を言われた。しかし、その目は笑っていた。

 

「まあ、愚民を導いてやるのも貴族の義務だ。ありがたく思うのだな」

「ただただ感謝いたしております」

「感謝はいずれ形で示してもらうとしよう」

 

 頭を下げる俺を鼻で笑うと、ファルストロング伯爵は質問に答えてくれた。

 

「ローエングラムはトリューニヒトと同じことをやったのじゃよ」

「トリューニヒト議長と同じ? どういうことです?」

「ローエングラムは平民に媚びた。平民は媚びを売られることに慣れておらん。だから、媚びられただけで満足したのだ」

「俺の目には媚びたように見えませんが」

「帝国政界の基準では媚びじゃよ。『平民は愚民である。甘やかしてはならぬ』『平民と交渉するな。要求は無視せよ』『たまには飴をしゃぶらせる必要もあるが、要求が受け入れられたと思わせるな。格別のご慈悲であると思わせろ』というのが、政界の常識じゃからな」

「申し訳ありませんが、俺には理解できません」

「構わぬよ。理解を求めるつもりもないでな」

 

 小物に否定された程度で腹を立てたりしないのが、大物の余裕である。

 

「さらに言うならば、常識が常に正しいわけでもない。キールマンゼクやラングの対応は、『まとも』だった。軍人給与削減や平民への増税は、『正しい』判断じゃ。勅令第六五七号の内容は『完璧』じゃな。だが、現実には通用しなかった」

「ルールが変わったのですね」

「そういうことじゃ。貴族が弱くなり、平民が強くなった」

「今後はどうなるのでしょうか?」

「ローエングラムには二つの道がある。平民に媚びるか、平民と戦うかのいずれかだ」

「彼はどちらを選ぶでしょうか?」

「戦うであろうな。ローエングラムは熱烈な勤王家だ。皇室が平民に譲歩させられる現状を良しとするとは思えぬ」

 

 ファルストロング伯爵は確信を込めて言った。この世界の人はラインハルトを勤王家だと思っている。彼も例外ではなかった。

 

「晴眼帝と同じ道ですね」

 

 ラインハルトを勤王家でないことを知る俺は、話を微妙に逸らした。

 

「皇室にとっては、貴族も平民も弱いというのが理想であるな」

 

 ファルストロング伯爵の表情と声は淡々としていた。貴族と平民の双方から圧制者として恐れられた男の面影はどこにもない。

 

「フェザーンにとっては、帝国も同盟も弱いというのが理想であろう。だが、弱くなりすぎては困る。奴らはしょせん寄生虫だ。帝国と同盟という宿主がなければ存続できぬ」

「帝国の弱体化を阻止する。ローエングラム公とフェザーンの利害は、その点で一致しているのですね」

「常識的に考えればそうなる。フェザーンらしいやり方ではないが」

「おかしいところがあるとは思えませんが」

「フェザーンが汚職捜査に手を貸している。そうでなければ、一か月であれだけの証拠が集まるはずがない。ローエングラムに肩入れし過ぎじゃな」

「それは確かに不自然ですね」

 

 俺もフェザーンのやり方を一般常識として知っていた。彼らが片方の陣営にのみ肩入れすることはない。双方に投資し、どちらが勝っても利益を確保する。勝者に自制を求め、敗者の助命を働きかけ、勢力均衡を図る。ラインハルトの一方的勝利に手を貸すのはおかしい。

 

「フェザーンの常識が変わったのかも知れぬな。あるいは旧世界の亡霊か」

「旧世界の亡霊?」

「つまらん奴らじゃよ」

 

 ファルストロング伯爵の口調は冗談めいていたが、詮索を許さない雰囲気があった。こうして通信は終わった。

 

 旧世界という言葉は四つの意味を持っている。一つは古代地球におけるユーラシア大陸とアフリカ大陸、一つは地球統一政府における太陽系、一つは銀河連邦における旧地球統一政府領、一つは自由惑星同盟におけるオリオン腕である。一般的には、旧地球統一政府領という意味で用いられることが多い。

 

 単純に考えれば、旧世界の亡霊とは地球教であろう。前の世界では、地球教がフェザーンを操っていたことが判明した。この世界のトリューニヒト議長は、地球とフェザーンの関係について語った。ファルストロング伯爵なら、地球教の正体を知っていてもおかしくない。

 

 地球教がラインハルトの一人勝ちを望んでいるのだろうか? ラインハルトが強くなっても、彼らのメリットはないはずだ。

 

「わからないな」

 

 俺は現状において最も妥当な答えを出した。わからないものはわからない。わかったところでどうしようもない。地球教をどうこうできる権限など持ち合わせていないのだ。

 

 地球教がフェザーンの背後にいると信じる人は多い。書店には地球陰謀論の本が山積みになっている。ネットで「地球教 フェザーン」と検索したら、陰謀論サイトが大量に出てくる。地球陰謀論はフェザーン建国以前から人気があった。証拠なしに「地球とフェザーンは繋がっている!」と叫んだところで、おかしな陰謀論者と思われるだけである。

 

 一〇月上旬に四六歳で亡くなったポルフィリオ・ルイス元准将は、地球陰謀論にとりつかれていた。陰謀論を公然と口にするだけでなく、証拠もないのに地球教を強制捜査しようとしたり、地球教徒の兵士を軍から追い出そうとしたりした。その他にも問題行動が多かったため、一度は予備役に編入された。「士官学校三位卒業のルイス提督が准将止まりだったのは、地球教の陰謀だ」と騒ぐ人もいるが、大きな間違いだ。自業自得以外の何物でもない。

 

 目に見えない「陰謀」に対処するよりも、目に見える問題の方が今は重要だった。帝国の急激な変化は、同盟にも影響を及ぼさずにはいられない。

 

 一〇月七日に勅令第六五七号が出ると、同盟国内で出兵を求める声が上がった。右翼は全軍をもって帝国を攻めるべきだと考えた。反戦派は帝国に援軍と援助物資を送り、貸しを作った上で休戦交渉再開と虐殺停止を求める案を出した。

 

 トリューニヒト政権は帝国を「非人道的だ」と批判したが、介入することはなかった。政権支持率は高水準を保っている。あえて危ない橋を渡る必要はない。

 

 世論はトリューニヒト政権の判断を支持した。ラグナロック以降、同盟市民は内向き志向を強めた。対帝国戦争は最重要問題ではなくなった。政治意識の高いごく少数の人々以外は、「自分の国さえ良ければそれでいい」と思っている。大衆党支持者の大多数は、「主戦論者トリューニヒト」ではなく、「大きな政府論者トリューニヒト」や「治安に強いトリューニヒト」に投票した人々であった。

 

 軍部では出兵反対論が圧倒的多数を占める。軍の再建は未だ途上にある。大勝したところで意味がないことは、ラグナロックが証明した。軍人の間では安定志向が高まっており、出兵をチャンスだと思う者はいない。

 

 リッキー・コナハン准将ら右翼青年将校グループは、主戦派の高級将官のもとに出兵計画を持ち込み、「ヤン提督やフィリップス提督を出し抜く機会ですぞ」と囁いた。しかし、保身や私欲に凝り固まった将官の耳には届かない。心ある将官を説得しようとすると、出兵などもっての外だと叱られた。

 

 救国軍事会議が政権を掌握すると、民需物資の需要が急速に高まった。フェザーン企業が同盟製の食料品、衣服、毛布、衛生用品、医薬品などを大量に買い付けて、帝国政府に売りつけた。

 

 思わぬ特需は同盟企業に嬉しい悲鳴をあげさせる一方、同盟政府に本物の悲鳴をあげさせた。物価上昇に弾みがついた。供給力の伸びが鈍化しており、需要と供給のバランスが崩れつつある。暴動の影響で、原材料価格が高騰しており、供給面のコストも上昇した。インフレの懸念が強まっている。

 

「やばいぞ、これは。本当にやばい。やばすぎる」

 

 俺の乏しい語彙力では、「やばい」としか言えなかった。同盟経済に危険信号が点灯した。ラインハルトが帝国全土を手中に収めた。想像するだけで腹が痛くなる。



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第118話:壊し屋ラインハルト 803年12月1日~804年3月中旬 第一辺境総軍司令部

最新話改訂分です。説明不足が目立ったため、後半を加筆修正しました。


「体制に対する民衆の信頼を得るには、二つのものがあればよい。公平な裁判と公平な税制度。ただそれだけだ」

 

 一二月一日、救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラムはテレビ演説を行い、司法改革と税制改革に取り組む意思を示した。

 

「なんてことだ……」

 

 部下の半数が驚きの声をあげ、残り半数が絶句した。チュン・ウー・チェン副参謀長ですら、パンがのどを通らないといった様子だ。

 

「民衆と握手した次の日に、民衆弾圧を宣言するとは……」

 

 彼らは「公平な裁判と公平な税制度」を民衆への宣戦布告だと受け止めた。弱肉強食の国における「公平」は、強者優遇と弱者抑圧を意味する。ラインハルトがいずれ民衆弾圧に転じることは予想できた。勤王家がいつまでも甘い顔をするはずはない。しかし、暴動終結宣言の翌日に方針を転換するとは思わなかった。

 

 ファルストロング伯爵は高貴な顔に満面の笑みを浮かべた。ラインハルトが民衆弾圧に転じるまでの期間を「半年から一年」と見積もっていたので、予想を外したことになる。それなのに嬉しそうだ。

 

「このタイミングで仕掛けるとはな。恐ろしい男じゃ」

「ローエングラムは政治の要諦をわきまえておる」

「統治の天才とはあの男のことであるな」

「ノイエ・シュタウフェン公に匹敵する名宰相になるであろうよ」

「一〇年もしないうちに、帝国は隆盛に向かうであろう」

 

 八三歳の元国務尚書が五六歳年下の帝国摂政を手放しで褒めちぎった。「政治家の力量と動きの速さは比例する」というのが彼の持論である。

 

「そうなったら困るんですけどね」

 

 俺は曖昧な笑顔を浮かべた。ラインハルトが民衆弾圧に転じるとは思えなかったが、あえて議論する気もなかった。この世界で知り得る情報だけで判断するならば、ラインハルトが「苛烈な弾圧者になる」と推測するのは正しい。

 

 一二月二日、救国軍事会議常任委員会は、逆進課税廃止と累進課税導入を決定した。所得税、資産税、相続税に累進課税を適用するという。

 

「馬鹿な! ありえない!」

 

 部下の半数が驚きの声をあげ、残り半数が絶句した。チュン・ウー・チェン副参謀長ですら、潰れたパンを手にしたまま立ちつくしている。

 

「逆進課税を廃止するとは……、同盟が議会制度を廃止するようなもんだぞ……」

 

 帝国出身の情報部長ハンス・ベッカー少将が呆然として呟いた。奴隷解放論が「真の強者を見出す手段」として語られる国において、逆進課税は神聖不可侵の制度である。緩和するだけでも「不当な弱者優遇だ」と非難される。急進改革派ですら廃止論を口にすることはない。そんな制度が何の前触れもなしに廃止されたのだ。

 

「前例がないわけではないが……」

 

 歴史に詳しい参謀長マルコム・ワイドボーン大将が、ため息まじりに言った。逆進課税を廃止した皇帝が一人だけいる。その結果は惨憺たるものだった。

 

「滅びるんじゃないの……」

 

 人事部長イレーシュ・マーリア少将は腕を組み、懸念するような目をテレビに向けた。逆進課税なき帝国は存続できないだろうし、存続できたとしても帝国を名乗る別国家になるだろう。いずれにしても帝国はおしまいだ。

 

 家に帰った後、当然のように超高速通信を入れた俺は後悔した。スクリーンの向こう側にいたのは皮肉屋の老貴族ではなかった。人間の形をした怒気であった。

 

「奴は発狂したのか!? サイオキシンでもやったのか!?」

「ローエングラムは政治を分かっておらん!」

「無知無能とはあの男のことじゃ!」

「痴愚帝に匹敵する低能じゃ!」

「三年もしないうちに、帝国は滅亡するぞ!」

 

 ファルストロング伯爵はラインハルトにあらん限りの罵倒を浴びせた。長い付き合いだが、彼がここまで怒るのを見たことはない。

 

「いいか、逆進課税とは――」

 

 ひとしきり怒った後、ファルストロング伯爵は逆進課税の意義を語り始めた。帝国は逆進課税なくして存立し得ない。所得や資産が多い者の負担を軽くするのは「努力への報酬」、所得や資産が少ない者の負担を重くするのは「怠惰への懲罰」である。ルドルフ大帝が掲げた「弱肉強食、適者生存、優勝劣敗」「努力は必ず報われる」という原則とも合致する。これほど公平な税制はない。

 

「…………」

 

 俺は何も言わずに話を聞いた。頭の鈍い小物でも、相手が肯定や共感を求めていないことは理解できる。

 

 ファルストロング伯爵は妄信者でもないし頑固者でもない。逆進課税の緩和がきっかけで保守派の支持を失った人だ。限界を理解できる程度の見識はある。緩和できる程度の柔軟さもある。そんな人でも制度そのものを心情的に否定できない。

 

 一二月三日、救国軍事会議常任委員会は、貴族の法的特権をすべて廃止した。貴族は特別裁判所によって裁かれる権利、拷問を受けない権利(一般犯罪で逮捕された時のみ)、身体刑を受けない権利、恥辱刑を受けない権利、労働刑を受けない権利、名誉ある方法で処刑される権利、決闘の権利、仇討ちの権利を失った。

 

 一二月五日、救国軍事会議常任委員会は、間接税の減税に踏み切った。帝国税制は間接税から直接税に大きくシフトした。

 

 帝国はすさまじい勢いで変わっていった。人頭税の廃止、利子や配当や賃料収入に対する税率引き上げ、国税総局の権限強化、納税手続きの簡略化、帝国腐敗防止委員会の創設、身分による法的差別の禁止、刑法と民法の改正、政府機関や公務員による人権侵害を防ぐ法律の制定、一般犯罪者に対する拷問の禁止、身体刑と恥辱刑の廃止、残虐な処刑法の廃止、決闘と仇討ちの禁止、裁判の独立性確保などが年末までに決定された。

 

 ラインハルトは改革の内容を全臣民に知らしめた。救国軍事会議と中央官庁の記者会見を定例化し、帝国全土に向けて放送した。反体制系を含めたすべてのマスコミに詳細な資料を配った。

 

 救国軍事会議は、「全銀河が帝国領である」という建前を愚直なまでに守り、同盟市民も改革の内容を伝えるべき臣民とみなした。定例記者会見にサジタリウス方言(同盟公用語の帝国側呼称)の字幕を付け、同盟国内に向けて放送した。公開資料を同盟マスコミのフェザーン支局に送り付けた。

 

 同盟の世論は「うまくいくはずがない」と「どうでもいい」に二分された。改革と名がつくものに期待するほど無邪気ではない。自由主義や人道主義に幻想を持つほどピュアでもない。解放区改革やレベロ改革を目の当たりにした経験がそうさせた。

 

 帝国専門家は否定的な見解を示した。一〇〇人中一〇〇人が「失敗する」と太鼓判を押す。帝国に詳しいがゆえに、ラインハルトの無謀さが理解できる。

 

 一月三日、帝国は新税制を施行した。累進課税導入と間接税減税により、低所得層の負担は半分以下になった。高所得層の負担は数倍に膨れ上がった。

 

 新税制の最大の被害者は諸侯である。所領からの税収や公営企業の収益も所得に含まれた。先祖から受け継いだ株式や債券や不動産や美術品は、資産税の課税対象だ。超高額所得者であり超資産家である彼らにとって、累進課税は凶器以外の何物でもない。

 

 故クラウス・フォン・リヒテンラーデの支持者はさらに酷い目に遭った。免税特許状によって免れた税金は滞納扱いとなり、追徴金を上乗せして請求された。当主が処刑されたり隠居させられたりした家には、最高税率九五パーセントの相続税がのしかかる。

 

 巨額の請求書を突き付けられた諸侯は、領民に負担を転嫁しようと試みた。彼らには税率決定権と交易独占権がある。故クラウスが貴族への課税を実施した時、地方税の増税と生活必需品の値上げによって損失を補填した。貴族課税を口実にして増税や値上げを実施して、納めた税金の何倍もの収入を得た者も少なくなかった。今回も同じ方法を使えばいい。

 

 一月四日、救国軍事会議常任委員会は、「地方税を増税した者や生活必需品を値上げした者に追徴金を課す」との通達を出した。

 

 領民を搾取できなくなった諸侯には三つの選択肢が残された。一つは借金、一つは物納、一つは支払い拒否である。巨額の税金を現物で納めたら、資産がなくなってしまう。支払いを拒否したら処罰されかねない。借金が一番ましな選択であろう。政府系金融機関ならいくらでも金を貸してくれる。

 

 四日一三時、救国軍事会議常任委員会は、特定の社会的身分を対象とする金融サービスを禁止した。領主向けの無利子融資を専門とする特別金融公庫、政府系金融機関による貴族向け低利融資などが廃止された。

 

 資金調達ルートを絶たれた諸侯は、税金を払って無一文になるか、支払いを拒否するかの二択を迫られた。どちらを選んでも破滅の道である。

 

「諸侯が黙っておるまい。内乱が起きるぞ」

 

 ファルストロング伯爵は深刻な表情でそう言った。

 

「そんな力が残っているのでしょうか?」

「力があるかどうかは関係ない。戦わねば諸侯は滅びる。万に一つしか勝ち目がなくても、戦わずに破産するよりはましだ」

「兵が集まらなければ戦えませんよ。平民が諸侯に味方するとは考えにくいです」

「恐怖を煽ればいい。弱者を優遇する連中についていけるのか? 慣れ親しんだ習慣を踏みにじる連中についていけるのか? 人間は簡単には変われない。変わることへの恐怖の前では、多少の実利など意味を持たぬ」

「おっしゃるとおりです」

 

 俺には頷く以外の選択がなかった。ファルストロング伯爵の意見は正しい。帝国領で戦った経験がそう教えてくれる。

 

 前の世界の記憶は「違う」と言い張った。リップシュタット戦役とその後のクーデターで、力のある諸侯はことごとく粛清された。生き残った諸侯は手をこまねいているうちに特権を奪われた。当時の状況と帝国の現状は酷似している。同じ展開をたどるのであれば、ファルストロング伯爵の予想は外れるだろう。

 

 しかし、知識と経験が前の世界の記憶を否定する。既得権益を死守しようとする諸侯と戦った。古い価値観に固執する平民と出会った。五〇〇年かけて浸透した価値観が、五年で変わるとは思えない。間違いなく反乱が起きる。それ以外の答えは出せない。

 

 幕僚たちに意見を聞くと、全員が「内乱が起きる」と答えた。チュン・ウー・チェン副参謀長、ラオ作戦部長、イレーシュ人事部長らは、ラグナロック戦役を開戦から終戦まで戦い抜いた。ワイドボーン参謀長、アブダラ副参謀長、ウノ後方部長らもラグナロックに参加した。ベッカー情報部長は帝国で生まれ育った。彼らの知識と経験は本物だ。

 

 帝国専門家も「内乱発生」で一致していた。ラシュワン・テルヌーゼン星立大学教授、コーマック前国務事務総長、カンパタ前ケリム星系首相、メイウェザー自由と権利センター所長といったLDSO系残党は信用に値しない。オザキ・ハイネセン記念大学平和研究センター所長、アータシ中央自治大学教授らアカデミシャンは、LDSO残党の共犯者である。だが、クライトロプ元ミズガルズ特務機関長、チー元駐フェザーン副高等弁務官ら実務経験者は信用できる。

 

 一月五日午前八時、ラインハルトは各地の救国軍に税金取り立てを命じた。力ずくで諸侯から税金を取ろうというのだ。内乱は秒読み段階に入ったかに思われた。

 

 二一時、アイランズ国防委員長は、イゼルローン総軍総司令官ヤン・ウェンリー元帥を司令官とする統合任務部隊「ヘルメット」の編成命令を発令した。帝国有事に備えるための部隊である。イゼルローン総軍、第一辺境総軍、第七艦隊、第一〇艦隊、第二地上軍、第五地上軍が、ヘルメットに加わることとなった。

 

 治安出動命令を受けた第四艦隊と第六艦隊が、イゼルローン回廊の帝国側出口を塞いだ。国境を完全に封鎖したのである。

 

「どうなるんだ……」

 

 俺はマフィンを口に放り込み、砂糖とクリームでドロドロになったコーヒーを喉に流し込む。腹が痛くてたまらない。心臓が前後左右に飛び跳ねる。

 

「少なくとも兵が死ぬことはありません」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長はのほほんとした顔で応じる。胸ポケットから頭をのぞかせるサンドイッチが頼もしい。

 

「治安出動だからね。介入する意思はない。混乱の波及を防ぐための出動だ」

「気楽にいきましょう。おととしよりずっと楽ですよ」

「そうだね」

 

 俺はにっこりと笑い、潰れたサンドイッチを受け取って食べた。ちょうどいい潰れ具合だ。腹痛が少し和らぎ、心臓が少し大人しくなる。

 

「事態が急に動くことはないはずだ。一休みしよう」

 

 最低限の人数を司令部に残し、残りの者を帰宅させた。俺自身は仮眠室に入って休憩をとる。この先は長丁場だ。体力を蓄えておかなければならない。

 

 一月六日午前五時、俺はベッドから飛び上がった。真っ暗な仮眠室に緊急速報の恐ろしげな音が鳴り響く。通信スクリーンに首席副官ユリエ・ハラボフ大佐が現れる。

 

「国防委員会より緊急連絡です。帝国政府は駐フェザーン同盟高等弁務官事務所に対し、救国軍が行動を開始すると通知しました」

「なんだって!」

 

 俺はもう一度飛び上がり、ベッドから無様に転げ落ちた。当面は武力行使をちらつかせつつ、諸侯に税金支払いを迫るものと思っていた。いきなり兵を動かすとは予想もしなかった。

 

 ハラボフ大佐が迎えに来たので、一緒にオフィスへと向かった。ピンク色のキックボードに乗って早朝の廊下を駆ける。右側を並走するハラボフ大佐も、キックボードの恥ずかしいデザインも気にならない。

 

 オフィスには幕僚たちが集まっていた。帰宅した者もじきにやってくる。チーム・フィリップスは臨戦態勢に入った。

 

 メインスクリーンに異様な光景が映った。帝国宇宙軍陸戦隊の軽装甲服を着用した集団が、巨大な城館を包囲している。歩兵戦闘車や自走砲の姿も見られる。「臨時国税徴収官」と書かれた同盟公用語のテロップが重ねられた。

 

「これより交渉を開始する!」

 

 帝国語の掛け声とともに、臨時国税徴収官が突入した。反乱する暇もごまかす暇も与えない。武力を用いた「交渉」は大成功を収めた。

 

 近衛兵総監オーベルシュタイン上級大将は帝国債権管理公社総裁を兼務し、国が諸侯に貸し付けた金の回収に乗り出した。装甲服を着た「債権管理公社職員」が、債務者を経済的にも精神的にも追い込み、財産を剥ぎ取る。公社が有する債権は相続放棄の対象外なので、自殺しても逃れることはできない。血も涙もない取り立ては、「オーベルシュタインの切り取り」と称された。

 

 財政破綻の危機に陥った諸侯に対し、救国軍事会議は領地返上を命じた。「領主としての義務に耐えうる財力がない」という理由である。財力を奪った張本人がこんなことを言い出すのだから、マッチポンプとしか言いようがない。

 

 身勝手極まる命令であったが、大多数の諸侯は唯々諾々と従った。抵抗しても勝ち目はない。領地を返上すれば、政府が債務を肩代わりしてくれる。どちらを選ぶかは自明の理であった。

 

 理より誇りを選ぶ者もわずかながらいた。その代償は死であった。討伐軍が城館に攻め寄せた。私兵は給与支払い能力がない主君を見捨てた。傭兵を雇う金などない。一族や譜代家臣ですら逃げ出した。ごくわずかな忠臣だけが残った。こうなることがわからなかったわけではない。それでも諸侯としての誇りを捨てられなかった。

 

「私は帝国貴族だ。醜い生より美しい死を選ぶ」

 

 シュトレーリッツ公爵は降伏勧告を拒絶すると、高楼に昇って火を放ち、ヴァイオリンを弾き始めた。ルドルフがこよなく愛したワーグナーのタンホイザーである。妻子や家臣も手にした楽器を奏でた。炎が高楼を包んでも、旋律は乱れない。ルドルフの最古の同志ジョン・プレスコットの末裔にして、ブラウンシュヴァイク家に匹敵する名家はその歴史に幕を閉じた。

 

「貴様らには何も渡さぬ! 我が首も陰陽鍋もな!」

 

 ディーマー子爵が敵兵に向かって高笑いした瞬間、地面が炸裂した。稀代の名鍋「陰陽鍋」と敵兵数百人を道連れに自爆したのである。

 

「拙者がサムライの死に方を見せてやろう。後世の手本とせよ」

 

 ギスト男爵はサムライの作法で死ぬと宣言した。フジヤマが描かれた敷物をベランダに敷き、その上に正座する。身にまとっているのはゲイシャ装束だ。末期の食事としてスシとテンプラを食する。肌脱ぎになって短刀を腹に突き立て、十文字に切り裂く。後ろに立った従者が「カイシャクイタス!」と叫び、主君の首に刀を振り下ろす。古の作法に則った見事なハラキリであった。

 

「我らは弱さゆえに滅びるのではない! そのことを証明しようではないか!」

 

「暴風ウォルフ」の異名をとるリブニッツ侯爵は、一族郎党二八騎とともに打って出た。二メートル近い大斧が敵をなぎ倒す。愛馬「アルプスの白」が敵を踏みにじる。甲冑と馬鎧が銃撃を跳ね返す。兵士数百人を殺し、塹壕を突破し、連隊長や大隊長を斬り、軍旗を奪う。激戦の中で部下が討ち死にし、愛馬が倒れた。満身創痍の暴風ウォルフは自刎して果てた。

 

「せめて一太刀浴びせよう。そうしなければ、ご先祖に申し訳が立たぬ」

 

 ローベンシュタイン子爵は一族や家臣を降伏させた後、一人で敵を迎え撃った。狭い廊下に陣取り、ゼッフル粒子をばらまき、秘蔵の名剣数十本を床に突き刺す。突っ込んでくる敵兵を装甲服ごと切り裂く。剣が折れたら新しい剣を抜いて戦い、最後の剣が折れるまで戦って死んだ。

 

「家祖アルベルト卿が大帝陛下より賜りし領地、むざむざと明け渡したりはせぬ!」

 

 モンハウプト伯爵は一族郎党数百人を率いて城館に籠城した。討伐軍の攻勢を三度にわたって退けたものの、数の力に押し切られた。伯爵は銃撃を浴びて倒れたが、「わしは伯爵だ! 皇帝陛下の御前以外では膝をつかぬぞ!」と叫んで立ち上がり、空を見上げて敬礼する「宮城遥拝」の姿勢で息絶えた。

 

 彼らの悲愴な死とともに、諸侯の時代が幕を閉じた。領地を返上した者は帝都に移り住み、屋敷と年金を与えられた。爵位は完全な名誉称号に成り下がった。

 

「ゴールデンバウム王朝は終わった。自ら幹を切り倒したのだ。木が立っていられるはずもない」

 

 ファルストロング伯爵の嘆きは、開明派を除く帝国人すべてに共通するものであったろう。諸侯は領地を治めるだけでなく、軍部や官界でも重きをなしてきた。貴族、軍部、官僚の三位一体体制は、実質的には諸侯の一極体制であった。帝国は最大の支柱を失ったのである。

 

 諸侯の没落は同盟市民にも大きな衝撃を与えた。ジギスムント痴愚帝が国庫を破綻させても、アウグスト流血帝が虐殺の限りを尽くしても、ヘルベルト大公が大敗を喫しても、国民数十億人がサジタリウス腕に逃げても、アッシュビーが宇宙艦隊を壊滅させても、同盟軍が帝都を攻略しても、諸侯は生き残った。帝国が滅亡しても、諸侯は生き残ると思われた。そんな連中がほんの数か月で失墜したのだ。驚かずにはいられない。

 

「帝国の終焉をこの目で見ることになるとは。何が起こるかわかりません」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長は、珍しくため息をついた。ポケットからはみ出したパンの耳もどこか弱々しい。

 

「ローエングラム公だからね。何でもありだ」

 

 俺はお手上げといった感じで肩をすくめた。

 

「彼は天才的な壊し屋です。帝国を数か月で壊してしまいました」

「壊れたのは古い帝国だ。これから新しい帝国が生まれる」

「無理でしょう。再建不能ですよ」

「ローエングラム公は貴族財産三三〇兆マルクを手に入れた。やりたいことは何でもできる。天才の閃きがすべて現実になる。再建できないわけがない」

「貴族財産は遊休資金ではありません。地方行政を運営するための金であり、公務員や私兵に給与を支払うための金であり、金融市場に投資するための金です。ローエングラム公は三三〇兆マルクを地方と金融市場から引っこ抜いた。途方もない混乱が起きますよ」

 

 帝国に詳しい者から見れば、ラインハルトの諸侯潰しは狂気の沙汰であった。地方政府と公営企業と大口投資家を一挙に潰したのだ。諸侯が不当な既得権益を貪っていたことは事実だが、地方行政と金融市場を担ってきたことも事実である。簡単に潰していい存在ではない。

 

「彼ならうまく抑えるさ」

「どうやって抑えるのです?」

「彼は天才だ。俺たちが想像もしない方法で……」

 

 俺は小声で答えた。実のところ、「前の世界のラインハルトはうまくやった」以外の根拠はなかった。ラインハルト以外の人間が同じことをやったら、俺も「狂っている。絶対失敗する」と答えただろう。

 

「戦争の天才が統治の天才であるとは限りません」

 

 マルコム・ワイドボーン参謀長がはねつけるような口調で言った。他人の間違いを指摘する時、彼は必要以上にきつくなる。

 

「ローエングラム公はジョリオ・フランクールの同類です。戦争と政治の区別がついていない。敵を倒すことが政治だと勘違いしている。抵抗勢力を排除すればうまくいく。既得権益を破壊すればうまくいく。腐った人間を粛清すればうまくいく。その程度の認識しかないんですよ」

「そうは思わないけど……」

 

 俺の弱々しい言葉は賛同の声にかき消された。柔軟なチュン・ウー・チェン副参謀長も、帝国出身のベッカー情報部長も、常識人のイレーシュ人事部長も、リベラルなメッサースミス作戦副部長も、帝国嫌いのバウン作戦副部長も、その他の者もワイドボーン参謀長を支持した。

 

 プロは可能性があるかどうかではなく、高いかどうかで判断する。ラインハルトの改革が成功する可能性は限りなく低い。夢見がちなLDSO残党、理論先行のアカデミシャン、シビアな軍出身者、帝国を肌で知っている情報機関出身者が「改革は失敗する」と口を揃えた。

 

「平和将官会議議長シドニー・シトレ、元予備役総隊司令官ドワイト・グリーンヒル、ハイネセン記念大学経済研究所教授アレックス・キャゼルヌ、ハイネセン記念大学平和研究センター准教授ジャン=ロベール・ラップ……」

 

 俺は改革批判者の中に見慣れた名前を見出した。ヤン・ウェンリーに評価された人々ですら、ラインハルトが失敗すると判断したのだ。

 

 イゼルローン総軍内部の情報提供者によると、ヤン元帥もシトレ元帥らと同じ見解を抱いているらしい。もっとも、それが本心かどうかは不明である。ヤン元帥は親しいごく少数の人間以外には本音を明かさないからだ。情報提供者はイゼルローン総軍上層部の一員だが、ヤン元帥の側近ではなかった。

 

「彼は無視してもいい」

 

 俺はヤン元帥の名前の横にバツ印を付けた。彼の政治的識見は、平凡な良心的知識人の域を一歩も出ない。ラインハルトの改革を評価する可能性は低いし、評価したとしても他人事のように評論するだけだろう。

 

 人々は帝国の混乱が同盟国内に波及することを恐れた。同盟と帝国は国交を結んでいないが、金融と貿易によって深く結びついている。帝国の混乱は同盟経済に悪影響を及ぼす。難民が国境宙域に押し寄せることも考えられる。

 

 帝国崩壊が半ば確定した未来として語られる現状において、帝国脅威論は絵空事のように思われた。存続すら怪しい国の軍事力など恐れるに足りない。おととしに攻めてきた帝国軍は弱かった。今の帝国軍はさらに弱体化しているはずだ。イゼルローンに攻め寄せたところで、難なく撃退できる。それ以前に出兵する余力があるかどうかすら怪しい。

 

 本土防衛計画の中止を求める声が急速に高まった。帝国軍が同盟本土に侵攻する可能性は限りなく低い。崩壊しつつある帝国相手の軍拡競争が必要だとは思えない。反戦派は計画の即時打ち切りと軍縮を求めた。主戦派は計画の必要性に疑問を呈し、星間テロや宇宙海賊などの差し迫った脅威にリソースを集中するべきだと主張した。

 

 三月上旬、国防委員会は本土防衛計画の研究を打ち切った。内外からの批判に押し切られたのである。

 

「自分がやるしかないか」

 

 俺は独自に本土防衛計画の研究を進めていた。対案として示すつもりだった案が、唯一の案になる。自分の作った計画が来るべき戦いを左右するのだ。気合いを入れなければいけない。

 

 決意を新たにした時、幕僚が面会を求めてきた。ワイドボーン参謀長、チュン・ウー・チェン副参謀長、アブダラ副参謀長、ラオ作戦部長、ベッカー情報部長、ウノ後方部長、イレーシュ人事部長、ファドリン計画部長、マー通信部長の九名である。

 

「主要メンバーが勢揃いか。ちょうど良かった。今から本土防衛計画の研究を……」

「私たちもそのことで話に来たんだよ」

 

 イレーシュ人事部長が機先を制するように言った。敬語を使わないのは、プライベートの話ということだ。

 

「本土防衛計画の研究、中止してほしいのよね」

「理由を聞かせていただけますか?」

「若い子が嫌がってんのよ。こんなことに時間を使いたくないって」

「でも、大事な研究です」

「君個人の研究でしょ。公務としてやる研究じゃない」

「書類上は公務として扱っていますし、残業代も割り増ししています」

 

 俺は最大限に配慮していることを強調した。自分が個人的にやっている研究なので、勤務外の時間を使うしかない。幕僚には本当に申し訳ないと思う。だからこそ、最大限に気を遣った。

 

「そういう問題じゃないの。若い子はその研究に意義を感じていない。公務なら意義なんて感じなくていい。でも、君の個人的な研究だからね。意義がなきゃ付き合えないよ」

「帝国は必ず攻めてきます。その時のために計画を立てておかないと」

「イゼルローンを突破できる戦力なんてないでしょ」

「敵がイゼルローンから来るとは限りませんよ」

「じゃあ、どこから来るの? フェザーンなんて言わないよね?」

「…………」

 

 俺は言葉に詰まった。「フェザーンから来る」と口にしたら、ここにいる九名は「そんな妄想に若い子を付き合わせるのか!」と怒るだろう。

 

 真面目に考えたら、フェザーン侵攻は狂気の沙汰である。銀河は三つの国に分かれているが、経済的にはほぼ一体化している。フェザーンが武力制圧されたら、国際金融と国際貿易の中心地が混乱し、国境を越えた金や物や人の流れが止まる。攻めた側も巨大な経済的損失を被るのだ。自治領主府や財閥から財産を接収したら、経済的混乱がますますひとくなり、接収した額以上の損失が生じる。

 

 フェザーンが帝国軍を招き入れたとしても、同盟との交流が遮断されるし、大軍の存在そのものが混乱を引き起こす。どのみち、経済的混乱は避けられない。フェザーンと帝国の双方が狂っていなければ実施できない策だ。

 

 戦記を読むと「フェザーンに侵攻しないのはおかしい」と思えるが、実際は侵攻する方がおかしいのだ。フェザーン侵攻計画は何度も作成された。同盟軍や帝国軍がフェザーン突入の構えを見せたこともあった。だが、それらはフェザーンに譲歩を迫るためのブラフに過ぎず、本気で侵攻する者はいなかった。だからこそ、人々はフェザーン侵攻の可能性を無視できた。

 

 フェザーン侵攻の可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い。予算と人材と時間は有限である。小数点以下の確率に注ぎ込めるリソースなど、どこにもなかった。

 

「答えられないよね」

「はい」

「ぶっちゃけ、上司の家の草むしりと同じなのよ。意義も根拠もないって点ではね」

「草むしりですか……」

 

 俺は打ちひしがれたような気持ちになった。他の人間が意義を感じていないことはわかっていたが、草むしり並みとは思わなかった。

 

「うちはめちゃくちゃ忙しいでしょ? 残業や休日出勤は当たり前。帰宅後の呼び出しもある。で、少ない空き時間をどうでもいい研究にとられるわけよ。休みたくても休めない。勉強したくても勉強できない。若い子はみんなストレスためてるのよ」

「それはわかっています。申し訳ないと思います」

「申し訳ないと思ってるなら、休ませてあげて」

「研究をやめるわけにはいきません。埋め合わせはします。残業代を増やします。昇給や賞与にも色を付けます。次の異動は希望通りの配置になるようにします」

「無理。そういう問題じゃないから」

「どうにかなりませんか?」

「ならないよ。君をパワハラで訴える動きもあるし」

「パワハラになるんですか!?」

 

 俺は目を丸くした。パワハラ撲滅に尽力してきた自分が、パワハラで訴えられるとは思わなかったからだ。

 

「草むしりと同じだからね。ガイドラインが改訂されたら、パワハラじゃなくなるけど。君は改訂反対派だったよね?」

 

 イレーシュ人事部長は諭すような口調で言った。透き通るような青い瞳には強い決意がこもっている。真心からの諫言であった。

 

「……わかりました。本土防衛計画の研究は中止します」

 

 俺は肩を落とした。恩師にここまで言われてはどうしようもない。

 

「よかった」

 

 イレーシュ人事部長がほっとしたように微笑んだ。

 

「ご配慮いただき感謝いたします」

 

 ワイドボーン参謀長が一同を代表して感謝を口にする。

 

「丸く収まったことですし、腹ごしらえといきましょう」

 

 チュン・ウー・チェン副参謀長が潰れたパンをポケットから取り出し、この場にいる者全員に配る。空気が一気に柔らかくなった。

 

「焦ることはないよ。君は次期統合作戦本部長の最有力候補なんだから」

 

 イレーシュ人事部長が俺の肩をぽんぽんと叩く。

 

「フィリップス提督の評価はこの半年で急上昇しましたからな」

 

 ベッカー情報部長が自分のことのように目を細める。

 

「大したことはしてないんだけどなあ」

「他の上級大将は、大したことではないことすらできませんから」

「まあね」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。この半年間は辺境問題への対応に忙殺されてきた。現地政府との友好関係を築き、住民の反中央感情をなだめ、部下の非行を取り締まり、右翼の策動を阻止し、独立運動や反基地運動の拡大を防いだ。

 

「おかげでマフィンの量が倍増した」

 

 そう言ったのはウノ後方部長であった。

 

「心の声を横取りするなよ」

「たまにはいいじゃないですか」

「構わないけどな」

 

 憮然とした表情を作りつつも、満更ではなかった。新参のウノ後方部長もすっかりチーム・フィリップスのカラーに馴染んだ。それがとても嬉しい。

 

 第一辺境総軍司令官職は二期目に突入した。八〇六年二月に任期満了となるが、その前に交代する可能性が高い。

 

 統合作戦本部長ビュコック元帥は、早くて今年末、遅くとも来年春には引退するとみられる。トリューニヒト議長にとって、名声はあるが政治力も人脈もない老元帥は理想の本部長であった。辞表を提出するたびに突き返された。だが、市民の間から「ビュコック元帥がかわいそう」との声が出ており、これ以上引き留めるのは難しい。

 

 大きなトラブルを起こさなければ、俺がビュコック元帥の後任になるだろう。国防事務総長ベネット元帥、宇宙軍幕僚総監アル=サレム上級大将、地上軍幕僚総監カンディール上級大将らは、ラグナロック以降は見るべき功績がなく、過去の人になりつつある。中央総軍司令官ギーチン上級大将は、俺の対抗馬として立てられた人物だが、失敗を重ねて予備役送りとなった。辺境総軍司令官四名は精彩に欠ける。

 

 最大のライバルは、やはりイゼルローン総軍総司令官ヤン・ウェンリー元帥だ。功績も名声も俺を上回る。市民は「ヤン・ウェンリー抜きの対帝国戦などあり得ない」と思っている。同盟世論が帝国への介入に傾いたら、彼が総司令官となり、大勝利を収めるだろう。俺の優位を覆す可能性を持つ唯一の人物であった。

 

 それでも、最終的には俺が勝つだろう。ラグナロック戦役以降、同盟市民は帝国への出兵を嫌がるようになった。捕虜回収という大義名分のある復員支援軍ですら、激しい反対意見に晒された。トリューニヒト政権は世論に逆らえない。軍部には「帝国に出兵しても、ヤンに武勲をプレゼントするだけだ」という声もあり、出兵を望む者はいなかった。国内問題に比重を置いている間は、ヤン元帥の出番はないはずだ。

 

 上院選挙は二週間後に迫っている。経済問題が最大の焦点であったが。ここに来て帝国問題が注目を集めた。

 

 帝国経済の混乱が同盟に波及しつつある。原料価格が急上昇し、物価高に拍車をかけた。帝国向けの輸出は大きく落ち込んだ。帝国領内に進出したフェザーン企業の業績が軒並み悪化し、フェザーン株に投資した投資家は大きな損失を被った。このような現状に対し、どのように対処するかが議論の的となっている。

 

 俺に言わせれば的外れな議論であった。混乱の悪影響ではなく、ラインハルトの下で生まれ変わった帝国を恐れるべきだ。

 

 しかし、公人としてそのような発言をすることは許されない。「なぜ成功するのか」を他人が納得するように説明できないからだ。「ローエングラム公は天才だ」というだけで納得するのは、物語の世界の住人だけである。

 

 トリューニヒト政権は本土防衛計画を引っ込めて、市民の関心が強いテロ対策と海賊対策を前面に押し出した。大型艦艇や重装備の調達を打ち切り、小型艦艇や軽装備の調達を進める。対テロ訓練と対海賊訓練の時間を増やし、対帝国戦訓練の時間を減らす。対帝国部隊を治安維持部隊に改編する。正規艦隊と常備地上軍の地方移転、イゼルローン総軍の縮小なども検討しているという。

 

「まいったな」

 

 対テロと対海賊への全力投入を命じられた俺は頭を抱えた。ラインハルトとの戦いに備えた訓練ができなくなる。大型艦艇や重装備が入手しづらくなる。戦力を整備することすらおぼつかない。

 

 それでも、諦めようとは思わなかった。小物には小物なりの戦い方がある。本土防衛を研究する口実、対帝国戦の訓練時間を増やす口実、大型艦艇や重装備を調達する口実を考えよう。失望する時間などない。悩んでいる時間などない。ラインハルトは一秒ごとに強くなっている。全力で走らなければ、背中を見ることすらできないのだ。



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第119話:小物はなりふり構わない 803年4月下旬 惑星シャンプール

 八〇四年上院選挙は、トリューニヒト政権の中間評価を問う選挙だ。与党大衆党が単独過半数を維持できるかどうかが注目される。

 

「政治的無関心が広がっている」

 

 そう言われて久しい同盟だが、銀河連邦末期とは雲泥の差だ。少なくとも、「首相選挙当日のトップニュースが、有名フットボール選手の引退表明」なんてことは絶対にない。テレビと新聞とネットは、選挙の話題で持ち切りだ。パブやカフェでは、人々が政治論議に花を咲かせる。

 

 同盟軍もこの騒ぎと無縁ではいられない。同僚や部下と食事をしたがる者が急増し、基地周辺の飲食店を混雑させる。旧交を温めたいという衝動が高まるらしく、元上官、元同僚、名前しか知らない他部署の人間、何年も会っていない同期などからの通信が増える。友達がいなくても、この時期だけは話し相手に困らないだろう。

 

「今の政治についてどう思う?」

「誰に入れるか決めたか?」

 

 相手からこんな質問が出てきたら安心するべきだ。少なくとも、こちらの意思を確認する程度の良識は持ち合わせている。

 

「A党に投票しろ」

「B党に入れたら、ただではおかんぞ」

 

 いきなりこんなことを言われることもある。相手が他部署の人間や退役軍人ならまだましだ。上官や同僚に言われたら、運が悪かったと思うしかない。

 

 官舎の郵便受けに突っ込まれる選挙ビラもおなじみの光景だ。軍人官舎に部外者が立ち入ることはできない。誰が投函しているのかは言うまでもないことだ。

 

「失礼します」

 

 隣にいる首席副官ユリエ・ハラボフ大佐が、俺の郵便受けからビラを抜き取った。投函物に気を配るのも、ボディーガードの仕事なのだそうだ。

 

「ありがとう」

 

 俺は内心で困惑しつつも、にこやかにビラを受け取った。なぜ、彼女はビラを渡す時に、俺の右手を掴んで引っ張るのだろうか? こちらが手を差し出すのを待てないのだろうか? 疑問は募るばかりだが、冷ややかな目で見られたくないので黙っていた。

 

 三枚のビラを見比べる。大衆党、反戦・反独裁市民戦線(AACF)、和解推進運動のビラだ。ハラボフ大佐がやたらと顔を寄せてくるので、落ち着かない気分になる。

 

「読みやすいビラだな」

 

 俺は大衆党のビラに目を通した。実に読みやすい。一目見るだけで文章が頭に入っていく。実に読みやすい。デザインも文章も工夫されている。明らかにプロの仕事だ。

 

「でも、見た目だけですよね」

 

 ハラボフ大佐が俺の心の声を代弁した。

 

「見た目は大事だよ」

 

 俺は一般論でごまかした。世話になっている党を悪く言うのは気が引ける。けれども、ありもしない中身を「ある」と言い張るほど厚顔にもなれない。

 

 一枚目は候補者をアピールするビラであった。マリア・ガーランド候補は若くて美しい。「怪我で引退した女子サッカー元エルゴン星系代表の新たな挑戦」というドラマもある。だが、中身はまるでなかった。

 

「青少年政策とスポーツ振興に力を入れます」

 

 ガーランド候補はそう主張するが、「力を入れる」と言うだけだ。その他の政策は、大衆党のマニフェストの完全なコピペだった。

 

 二枚目は党そのものをアピールするビラだ。税金を減らし、賃金を上げ、大規模な公共投資を行い、年金を増やし、健康保険の自己負担額を減らし、所得格差をなくし、地域格差をなくし、移民問題を解決し、テロリストと海賊を潰すそうだ。負担やリスクに関する記述は一切ない。甘党の俺ですら糖分過多に感じるほどに甘かった。

 

「中身だけでも駄目ですけど」

 

 ハラボフ大佐はAACFのビラに冷ややかな目を向けた。

 

「そうだな」

 

 俺は二枚組のビラを食い入るように眺める。興味をひかれたわけではない。こうでもしないと読めないのである。

 

 一枚目は候補者をアピールするビラであった。ルシール・マンロー候補の経歴は尊敬に値する。こういう人なら信用してもいいんじゃないかと思える。だが、主張がわかりにくすぎた。わかりにくさを誇るふしすら感じられる。

 

「デザインは悪くない。金をかけている」

「銀色の哺乳瓶がスポンサーについてますからね」

「テン・ビリオン・アイズ、キリマンジャロ、フリーウェイも、AACFのスポンサーだ。IT業界のビッグ・フォーが全面支援している」

 

 頭の中でAACFのスポンサーを指折り数えた。ビッグ・フォーのほか、金融街や星間貿易業界の大手が軒並み名を連ねる。旧進歩党のスポンサーであり、レベロ改革や民主政治再建会議を金銭的に支えた連中だ。集金力だけなら大衆党と互角、あるいはそれ以上かもしれない。

 

「金と手間をかけて読みにくくしたとの印象を受けます」

「インテリにはこういうのが受けるのかな?」

 

 高卒の俺はビラから目線を放さずに問うた。少しでも顔を動かすと、副官の顔にぶつかりかねないからだ。

 

「人文系には受けるかもしれません」

 

 ハイネセン工科大中退・士官学校優等卒業のハラボフ大佐は、突き放すように答えた。「理系の私にはわかりませんけど」と言ったように聞こえるのは、気のせいだろうか。

 

 二枚目は党そのものをアピールするビラだ。文章の部分はやはりわかりにくい。インタビューの部分がわかりやすいのは、インタビュイーのおかげであろう。

 

「アレックス・キャゼルヌ影の国防委員長に聞く」

 

 見出しにはそう書かれていた。「影の国防委員長」とは、AACF政策部会「影の最高評議会」における国防政策部会のトップだ。大衆党政策審議会の国防部会長と同じ役割を果たす。

 

 影の最高評議会は省庁再編前の最高評議会と同じ構成をとっている。政権を獲得したら、影の最高評議会メンバーがそのまま最高評議会入りするそうだ。適材適所を実現するため、国会議員は憲章で定められた最小限に留まり、民間人を多数登用している。

 

 ハイネセン記念大学経済研究所のアレックス・キャゼルヌ教授は、民間人委員として影の最高評議会に加わった。かつては同盟軍最高の兵站専門家と言われた。ラグナロック戦役では、同盟軍数千万の補給を取り仕切るという難業に取り組んだ。終戦後は地方部隊削減に成果を上げた。リベラル陣営においては、国防政策の第一人者と目される。

 

「影の国防委員長、アレックス・キャゼルヌですか……」

 

 そう呟くハラボフ大佐の声を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。普段の彼女は冷ややかだがどこか安心できる部分がある。今はそうではない。

 

「善政の基本とは市民を飢えさせないことです」

 

 インタビューの冒頭にある言葉は、前の世界ではアレックス・キャゼルヌの名言とされるが、最初に言ったのはギュンター・マハト師である。誰でも知っている名言から切り出すあたり、他のインテリとは一味違う。

 

「国防も市民を飢えさせないことを第一に考えねばなりません。国防費と社会保障費の双子の赤字が、同盟経済を圧迫しています。市民は重過ぎる負担に苦しんでいます。失業率と貧困率は過去最高を記録しました。市民あっての国家です。軍隊と軍需企業を養うために、市民を飢えさせるのは本末転倒です。国防費を削減し、市民を軍事負担から解放する。それこそが最も必要な国防政策です」

 

 キャゼルヌ教授の現状認識は独創的なものではない。ハイネセン経済学を修めた者なら、誰でも同じことを言うだろう。人々が彼に求めるものは独創性ではなく、処理能力と調整能力だ。

 

「現在の同盟軍はいわば肥満児です。同盟軍は過剰な戦力を脂肪のように貯め込み、膨れ上がった体を維持するために税金を食い潰しています。肥満を治療するためにはダイエットが必要です。過剰な戦力を削減し、軍をスリム化します。無駄遣いをなくし、必要な分野に予算を集中します。これによって、国防費削減と実質的戦力強化を同時に実現します」

 

 方針を一通り述べた後、具体的な政策の説明に入る。常備兵力の七割削減、軍人給与削減、退役軍人年金削減、戦没者遺族年金削減、退役軍人医療への自己負担導入、徴兵制の廃止、任務部隊方式の導入、地域別総軍の廃止、即応艦隊と即応地上軍の廃止、予備役部隊の半数を星系政府管理下の「星系軍」に改組、特殊部隊の充実、後方業務の民間委託化推進などにより、国防費の六割を圧縮できるという。

 

 数千万単位で発生する失業軍人については、「民間企業が吸収する」と楽観的な見方を示した。軍事負担が減り、軍が抱え込んでいた人材が民間に流れることで、民間経済は活性化する。好景気が人手不足と賃金上昇を促し、失業軍人の八割が現役時代以上の収入を得る。軍人年金や遺族年金の削減分についても、賃金上昇によって補填できる。

 

 再就職への支援も怠らない。退役軍人向けの職業訓練制度を設け、選択肢が増えるよう後押しする。就職あっせんは自助努力を阻害するので行わない。軍・産・政・学・報の癒着構造を打破するため、軍と取引のある企業・団体への再就職を完全に禁止する。

 

「反省していないのか」

 

 俺は苦々しい気分になった。レベロ政権時代とほとんど同じ政策ではないか。確かに国防費を圧縮することはできた。しかし、失業軍人が民間企業に吸収されることはなかったし、賃金は上昇しなかった。退役軍人と戦没者遺族は貧困に叩き込まれた。同じ過ちを繰り返すつもりか。

 

「反省した結果がこれなのでは」

 

 ハラボフ大佐の声には優しさというものがない。

 

「そりゃそうだ」

 

 俺は心の底から納得した。小物でもわかることが、キャゼルヌ教授にわからないはずはない。わかった上で「この方法しかない」と割り切っているのだろう。

 

 七九〇年代はコストを減らせば減らすほど、「有能」とされる時代だった。そんな時代に「同盟軍最高の兵站専門家」と言われたキャゼルヌ教授は、同盟軍最高のコストカッターである。コストとして切り捨てた者にいちいち同情していたら、コストカッターなど務まらない。俺が殺した敵兵にいちいち同情しないのと同じことだ。

 

 軍縮と民力休養によって経済が活性化するという主張は、この社会においては「現実主義」とみなされる。前の世界で書かれた『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』も、軍縮・民力休養論の見地に立っていた。

 

 彼らの言いたいことはわからないでもないが、共感できない。非現実的だろうが、感情論だろうが、俺は軍人の側に立つ。

 

「…………」

 

 ハラボフ大佐が無言で袖を引っ張るので、俺はAACFのビラを閉じた。

 

「すまん」

「最後は和解推進運動ですね」

「ああ」

 

 和解推進運動のビラを開いた瞬間、俺とハラボフ大佐は顔を見合わせた。

 

「読みにくいなんてものじゃないですね」

「ああ」

 

 ビラに目を通したが、無意識のうちに視線が外れた。目が読むことを拒否したようだ。デザインも文章もひどすぎる。何を言いたいのかすらわからない。中身を問う以前の問題だ。

 

「紙も印刷も安っぽいですね」

「家庭用のプリンターで作ったんだろうな」

「これもレベロ流なのでしょうか?」

「違うね。単に金がないだけだ」

 

 和解推進運動の困窮ぶりは酷いものだ。支持者もスポンサーもAACFに流れてしまった。「家賃が払えない」という理由で、党本部をジョアン・レベロ党代表の自宅に移転した。全選挙区の一割に候補を立てるだけでも精いっぱいだった。

 

 和解を呼び掛けるより、分断を煽る方がずっと利益になる。ジョアン・レベロの凋落とAACFの隆盛がそのことを教えてくれる。

 

 ビラをポケットに入れて、階段を上がった。エレベーターは極力使わないようにしている。襲われても逃げられないからだ。エル・ファシルでテロリストと戦った時も、首都防衛司令部が再建会議のハッキングを食らった時も、エレベーターは役に立たなかった。それに階段を使った方がトレーニングになる。こんなことまで気にするのが、小物の小物たるゆえんであろう。

 

 ハラボフ大佐は右隣を歩いている。少し油断したら、俺の右肩と彼女の左肩がぶつかりそうな距離だ。俺を嫌っているのに、なぜ並んで歩きたがるのだろうか? 小物には理解できない。

 

 若い女性が上から下りてきた。三階に住むボンサナート少佐だ。左手で紙の束を抱えている。敬礼しないのはこちらに気付いていないからだろうか。

 

「おう、ボンサナート君じゃないか」

 

 俺の方から声をかけた。

 

「お疲れ様です!」

 

 ボンサナート少佐は「しまった」と言いたげな顔になり、慌てて敬礼した。左手に抱えた紙は統一正義党の選挙ビラだ。

 

「ご苦労さん」

 

 俺は苦笑して敬礼を返し、そのまま階段を登った。

 

「よろしいのですか?」

 

 ハラボフ大佐が俺の右耳に口を寄せ、小声でささやく。誰も守っていないが、現役軍人の政治活動は違法ということになっている。

 

「目くじらを立てるほどのことでもない」

 

 そう言って、俺は歩き続けた。勤務時間中に投函する者や職場に投函する者と比べれば、よほど良心的だ。

 

 屈強な青年が下りてきた。四階に住むリッジウェイ中尉だ。右手で紙の束を抱えている。こちらに気付き、慌てて敬礼する。

 

「ご苦労さん」

 

 俺は苦笑ながら敬礼を返す。リッジウェイ中尉が抱えていた紙が、汎銀河左派ブロックのビラであることに気付いたが、知らんふりをした。

 

 ビラを持たない人とすれ違うと、敬礼とともに生温かい視線を向けられた。ハラボフ大佐に「頑張ってるね」「応援してるよ」と声をかける人もいる。知らないところでハラボフ人気が高まっているらしい。

 

「最近、頑張っているみたいだな」

 

 俺はハラボフ大佐に声をかけた。

 

「いえ……」

「俺も応援してるぞ」

「…………!」

 

 ハラボフ大佐は急にそっぽを向いた。耳が真っ赤に染まっているのは怒りのせいだろうか。雑談に応じてくれるようになっても、敵意が薄れたわけではないようだ。

 

 

 

 帝国は同盟の選挙を表向き黙殺してきた。「凡人が凡人を選ぶ制度など馬鹿馬鹿しい」というのが建前、「何か言ったところで、面子が傷つくだけ」というのが本音である。

 

 一三八年前の上院選挙当日、コルネリアス一世は、当選者全員に祝福のメッセージを送った。皇帝が直々に声をかけてやれば、不逞な反乱軍も感激するだろうと考えたのだ。打算もあっただろうが、根底にあったのは君主としての善意だった。

 

 当選者たちはメッセージを「皇帝が媚びてきた」と解釈し、コルネリアス一世の軟弱さを嘲笑った。返信用に開かれた通信チャンネルは、嘲笑と罵声で満たされた。SNSで返信用チャンネルへの突撃を呼びかける者も現れた。悪乗りしたネットユーザー数千万人が乗り込み、皇帝に嫌がらせの言葉を浴びせ、下品なコラ画像を送り付けた。開設から一三分でチャンネルが閉鎖されると、ネットユーザーは「皇帝逃亡!」と叫んだ。

 

 このような侮辱を受けてもなお、臣従と和親を求め続けたコルネリアス帝は称賛に値する。しかし、それを真似る者は現れなかった。当然と言えよう。

 

 三月二二日、救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラムは、サジタリウス腕に向けて、「選挙は違法なので即刻中止するように」というメッセージを送った。帝国は銀河全域の領有権を主張している。サジタリウス腕に選挙中止を求めることも、帝国法においては可能だ。

 

 帝国の為政者が選挙に関心を示すのは一三八年ぶりのことだが、同盟市民の反応は冷ややかであった。罵倒すらなかった。

 

「相手にするのも馬鹿らしい」

 

 これがラインハルトに対する一般的な評価だ。真意を探るのも馬鹿らしいし、腹を立てるのも馬鹿らしいし、嘲笑を浴びせるのも馬鹿らしい。

 

「いつもの不規則宣言」

 

 専門家はばっさりと切り捨てた。選挙中止勧告には実効性がまったくない。支持者向けのポーズだとしても、喜ぶのは程度の低いナショナリストだけだ。政治的意味のある発言とは思えない。

 

「開戦の口実を作ろうとしているのかもしれません。コルネリアス一世の前例があります。注意が必要です」

 

 マスコミから見解を問われた俺は前例を引き合いに出し、注意するよう訴えた。六六四年から六六八年にかけて、コルネリアス一世はサジタリウス腕向けの詔勅を数百件も発した。そして、「度重なる勅令無視に対する懲罰」と言って、大親征を敢行したのである。

 

「攻めてくるはずがないだろう」

 

 素人も専門家も否定的な反応を示した。帝国崩壊は間近に迫っている。ローエングラムが出兵論に与したことは一度もない。救国軍事会議の主流を占める開明派は、伝統的に内政重視の傾向がある。国力的にも政治的にも、帝国の現政権が出兵に踏み切る可能性は低い。

 

「攻めてきたとしても、イゼルローンで阻止できる」

 

 帝国が攻めてくる可能性に思い至った者も、楽観的な姿勢を崩さなかった。イゼルローン総軍は銀河最強、いや史上最強の軍隊だ。弱小の帝国軍が、ヤン・ウェンリーと一二星将を突破できるはずがない。

 

「フェザーンから攻めてくる可能性があります」

 

 そう答えたのは俺ではなく、新興宗教団体「光に満ちた千年王国」であった。時間逆行者を自称するカシア・ロスネルの信奉者たちは、帝国軍がフェザーンから攻めてくると信じていた。

 

「馬鹿げている」

 

 人々はこの発言を嘲笑った。カシア・ロスネルの著書『銀河未来記』といえば、「当たらない予言」の代名詞だ。

 

「七九六年二月  同盟軍、黄金の獅子に大敗」

「七九六年五月  黒の魔術師、イゼルローン要塞を無血攻略」

「七九六年九月  同盟軍が帝国に侵攻するも、焦土作戦の前に苦戦」

「七九六年一〇月 同盟軍、黄金の獅子に大敗。宇宙艦隊の主力を喪失」

「七九七年四月  ハイネセンにおいて緑の人のクーデター発生。同盟は内戦に突入」

「七九七年八月  クーデター軍、黒の魔術師に降伏。同盟内戦終結」

「七九八年五月  黒の魔術師、帝国軍の機動要塞Gを破壊」

「七九八年八月  わがまま皇帝、同盟に亡命」

「七九九年一二月 帝国軍、フェザーン制圧」

「七九九年二月  同盟軍、黄金の獅子に大敗」

「七九九年四月  黒の魔術師と黄金の獅子が交戦」

「七九九年五月  小さな狼、ハイネセンに侵攻。自由惑星同盟降伏」

「七九九年六月  黄金の獅子が即位。ゴールデンバウム朝滅亡」

「七九九年一一月 黄金の獅子、同盟領に再侵攻」

「八〇〇年一月  同盟軍、黄金の獅子に大敗。宇宙艦隊壊滅」

「八〇〇年二月  自由惑星同盟滅亡」

「八〇〇年四月  黒の魔術師と黄金の獅子が交戦」

「八〇〇年六月  黒の魔術師、宗教テロリストによって暗殺」

「八〇〇年七月  黄金の獅子、フェザーンに遷都」

「八〇〇年八月  亜麻色の少年、イゼルローンで決起」

「八〇〇年一一月 黒青色の人、旧同盟領において反旗を翻す」

「八〇〇年一二月 小さな狼、黒青色の人の乱を鎮圧」

「八〇一年五月  亜麻色の少年、黄金の獅子と和解」

「八〇一年七月  黄金の獅子、病没」

 

 これらの予言は見事に外れた。同盟もゴールデンバウム朝も存続している。部分的に当たったものもあるが、「一部かすった」という程度だ。

 

 そして、肝心な出来事を予言できなかった。エル・ファシル奪還戦も、エル・ファシル七月危機も、シャンプール・ショックも、オーディン陥落も、オリーブの枝作戦も、第二次ヴァルハラ会戦も、ボーナムの奇跡も記されていないのだ。そんな予言を信じる者などいない。

 

 ロスネル本人にしても、目立った業績があるわけではない。宗教団体「輝ける千年王国」を設立し、投資家としての才能と異常な若々しさによって、多くの信者を集めた。しかし、七八八年夏に投資に失敗し、資産の大半を失った。起死回生を賭けた外宇宙移住計画も失敗に終わった。出所後に新教団を樹立したものの、七九五年に急死した。新興宗教の教祖としては平凡な部類だろう。

 

 千年王国を支持したのは、数名の自称時間逆行者のみであった。彼らはロスネル信者ではない。時間逆行者としての知識を生かし、独自の予言活動を行っていた。

 

「自称時間逆行者を利用して、フェザーン侵攻を警戒する世論を作る」

 

 そんな計画が頭の中に浮かんだ。千年王国や予言者を丸め込み、自分が言えないことを代わりに「予言」させる。権力を利用して彼らの予言が当たるように仕向け、信ぴょう性が高まったところで、帝国軍のフェザーン侵攻を予言させるのだ。メディアが予言を取り上げた頃に、「ありえないとは思うが、市民を安心させるために」と言い、フェザーン方面に大軍を送り込む。

 

 幸いなことに、向こう側は俺を仲間だと勘違いしているらしい。千年王国幹部や自称時間逆行者が、オカルト雑誌に「フィリップス提督は時間逆行者だ」という記事をしばしば寄稿した。思い込みを肯定してやれば、この種の人間は思い通りに動いてくれる。

 

 非常識極まりない計画なので、まっとうな人間なら全力で止めるだろう。この件に関しては、チュン・ウー・チェン中将もイレーシュ少将もあてにできない。

 

 俺が相談相手に選んだのは、シェリル・コレット少将だった。どんなに馬鹿げた話でも、俺の言うことなら何でも聞いてくれる。従順だが単に迎合するだけでなく、俺の望みを一〇〇パーセント叶えようとする。「反対意見を言ってほしい」と言えば反対してくれるし、「批判してほしい」と言えば批判してくれるし、「殺してほしい」と言えば殺してくれるだろう。

 

 さらに言うと、自称時間逆行者の存在を俺の耳に入れたのは、コレット少将だ。俺の名前が登場する記事すべてに目を通さずにいられない彼女は、オカルト雑誌まで網羅していた。

 

「どのようなご用件でしょうか」

 

 コレット少将が通信画面に現れた瞬間、俺は後悔した。巨大なヤシの実を思わせる乳房、鍛え抜かれた腹筋、へその横にある古傷が目に入った。真っ白な肌は瑞々しい輝きを放ち、アッシュブロンドの髪はたっぷりと水を含んでいる。入浴中に通信を入れてしまったのだ。

 

「こういう計画を立てたんだ。遠慮なく意見を言ってほしい」

 

 俺は動揺を押し隠し、自分の計画について話した。着替えさせたら、彼女は「フィリップス提督に時間を使わせてしまった」と嘆き、ブラックホールの底まで落ち込むからだ。「時間を大事にしないといけないよ。取り戻せないから」と教えたことが、思わぬところで仇になった。

 

「成功の見込みは薄いと思います」

 

 全裸のコレット少将は、普段とまったく変わらない態度で答えた。後ろに全裸の女性が一人いるようだが、そちらにもまったく気を配っていない。

 

「理由は?」

「この社会には、オカルティストの言説があふれ返っています。毎日のように大事故や大事件が予言されています。逆行者が何か言ったところで、埋もれるだけかと」

「予言が当たったとしてもか?」

「はい。当たっても注目されません。予言が当たること自体は珍しくないからです」

「そんなもんか」

「プロの予言者は大量に予言を出します。一〇〇に一つはまぐれ当たりしますし、当たらなかった予言は忘れられます。メディアはそれをわかっているので、予言者などいちいち相手にしません」

 

 コレット少将は理路整然と意見を述べる。全裸であることを意に介する様子はない。

 

「当たる予言者が数人増えたところで、何の意味もないんだな」

 

 俺は軽く目を閉じた。第一に考えをまとめるため、第二に現実から逃げるためだった。恋人でもない女性の裸体を平然と見続けるなど、小物には不可能である。後ろでわたわたしている女性の存在が、いたたまれない気持ちを増幅させた。

 

「お疲れなのですか?」

「疲れているように見えるか」

「私の知っているフィリップス提督は、オカルトなどに頼るような人ではないですから」

 

 コレット少将が知っているのは、俺ではなくて「英雄エリヤ・フィリップス」だ。英雄でない俺は頼ることを恥とは思わない。

 

「そうだね。確かに疲れている。オカルトでも頼りたくなる」

 

 俺は軽く微笑んだ。何割かは目の前の女性のせいだろうが、それを差し引いても疲れているのは事実だった。

 

「オカルトより私の方が役に立ちます。お疲れの時は私を頼ってください」

「ありがとう。遠慮なく頼らせてもらうよ」

「私に頼っていただけるのですね……。フィリップス提督が私に頼る……。フィリップス提督が私に頼る……。フィリップス提督が私に頼る……。フィリップス提督が私に頼る……。フィリップス提督が私に頼る……。フィリップス提督が私に頼る……。フィリップス提督が私に頼る……」

 

 コレット少将は恍惚とした表情を浮かべた。顔が真っ赤に染まり、アーモンド型の目に涙で潤み、瞳孔を限界まで見開き、口をだらしなく開け、両手を頬に当てる。この表情とグラマラスな裸体という組み合わせは、トゥールハンマーどころでない破壊力がある。

 

 背後の女性のわたわたぶりが一層ひどくなった。湯煙に隠れて顔も体も良く見えない。辛うじて赤毛なのが分かる程度だ。それでも、動揺ぶりが伝わってくる。

 

 コレット少将に軍人以外の友人がいるとは思えないので、この女性も軍人なのだろう。しかし、これで軍務を果たせるのだろうか? 同じ赤毛として心配になってくる。ハラボフ大佐のような怖い赤毛も困るが、彼女のような弱々しい赤毛も困る。

 

「君がいれば安心だ」

 

 俺は満足そうに頷くふりをして通信を終えた。火に油を注いだ気がしないでもないが、今さらどうしようもない。自分にできることは、この状態のコレット少将と二人きりになった赤毛のお姉さんの幸福を祈ることだけだ。

 

 同盟市民に帝国軍のフェザーン侵攻を警戒させることが不可能なのはわかった。もっと遠回しな方法を考える必要がある。発想を転換するのだ。政府や市民に警戒させなくてもいい。みんなが納得しそうな理屈をひねり出し、フェザーン方面に大軍を派遣させる。

 

「この計画を検討する必要があるか」

 

 俺は一枚のファイルを開いた。親友アンドリュー・フォークの意見をもとに作ったものだ。

 

『フェザーン派兵計画』

 

 帝国軍がフェザーンに侵攻すると思う者は少ないが、フェザーンに兵を送りたいと思う者は意外と多い。経済侵略、勢力均衡対策、帝国人諜報員の侵入などを防ぐには、フェザーン制圧が最も有効な手段なのだ。

 

 経済的には愚策中の愚策であるが、人間は理性より感情を優先する生き物だ。反フェザーン感情が高まり、エリートたちが制御できない水準に達したら、フェザーン派兵は可能になる。

 

 大義名分なんていくらでも用意できる。在留邦人の保護でもいいし、民主化運動の支援でもいいし、敵対行為やら謀略やらへの報復でもいい。

 

「我ながら狂っているな」

 

 俺は苦笑いした。オカルトを利用しようとしたり、友好国を攻めようとしたりするなど、まともな軍人が考えることではない。

 

「しょうがない。相手は超人だ。正気では勝負にならない」

 

 そう言って、自分を納得させた。常識的な方法で勝てるものならそうしたい。しかし、相手は天才の中の天才だ。

 

 司法改革と税制改革を一段落させたラインハルトは、軍制改革に着手した。俺が最も恐れていた改革である。

 

 救国軍事会議成立以前の帝国軍は腐っていた。名門出身者か権力者の取り巻きでなければ、出世できない。将校は国家のためではなく、名誉と栄光のために戦う。兵士は劣悪な待遇に苦しんだ。兵力が多すぎるため、国防予算の大半が人件費に消えてしまい、訓練費や装備調達費を確保できない。恣意的な人事、人命軽視、私的制裁、協調性の欠如、攻撃偏重、縄張り主義、精神主義といった旧弊も健在だった。

 

 クーデターとその後の粛清により、腐敗した高官は一掃された。しかし、現場レベルでは、旧弊に染まり切った将校や下士官が多数派を占める。平民出身者にしても、旧体制に適応した結果として昇進した者が多いため、上に諂い下に厳しい気風がある。帝国軍においては、叩き上げの老将は「暴君」の代名詞だ。古い軍人を追放しない限り、旧弊を改めることはできない。

 

『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』に登場するラインハルトの部下は、極端に若い者ばかりだ。大勢いたはずのベテラン将校は見当たらない。今になって思うと、家柄だけの名門出身者だけでなく、旧体制に適応しすぎた寒門出身者もパージしたのだろう。

 

 だから、救国軍事会議常任委員会が「世代交代のため、古参の将校や下士官を大量解雇する」と発表しても、不思議ではなかった。来るべき時が来た、と思っただけだ。

 

 残念なことに、危機感を共有できる相手はほとんどいなかった。能力と見識を備えた軍人は、口を揃えて「歴史的愚挙」と評する。逆張りが大好きな連中ですら、今回ばかりは大勢に従った。

 

「この手段を視野に入れるべきかもしれないな」

 

 頭の中に浮かんだのは「クーデター」という文字だった。政権を取ってしまえば、すぐにでもラインハルトと同じリングに立てる。

 

 敵はラインハルトだけではない。テロや政治介入すら辞さない同盟警察、イゼルローン総軍を掌握するヤン・ウェンリー、サイオキシン市場を牛耳るカメラート、同盟への憎悪に凝り固まったエル・ファシル革命政府、信念と合理主義のもとに軍縮を目指すAACF、反同盟勢力一掃のための内戦を企てる嘆きの会、味方面して背中から蹴りを入れてくるコーネリア・ウィンザー、同盟機構の有名無実化を諦めようとしないルベルト・ガルボア、半世紀にわたって極右運動の理論的指導者を務めるジョージ・ビルジン、軍縮派に資金を供給し続ける大企業……。主導権を握るには、最低でもこの半分を片付ける必要がある。

 

「クーデターならこいつらを一掃できる!」

 

 正攻法では何年かかるかわからない相手でも、非常手段を使えばあっという間だ。クーデターに際して最大の障害となるヤン・ウェンリー元帥は、事前に予備役に編入し、国防委員会関連団体の理事長にでも押し込めておけばいい。アッテンボロー大将、シェーンコップ大将、一二星将らは事務職に回し、兵力を引き剥がす。兵を持たぬ将など恐れるに足りない。

 

「何考えてるんだ。本末転倒だろうが」

 

 俺は首を大きく横に振り、「あかげのおうじさま」というサイトに癒しを求めた。疲れているから馬鹿なことを考えるのだ。ふわふわしたサイトを見て、心をぽかぽかさせようではないか。

 

「メンテナンス中か。まいったな」

 

 悪いときには悪いことが重なるものだ。周囲を見回し、考えずに読めるものを探す。ハラボフ大佐から資料として渡された少女漫画が目についた。

 

「やめておこう。読んでてイライラするから」

 

 あり得ないほど鈍感な男キャラが登場する漫画を押しのける。妹が資料として送ってきた少女漫画が視界に入った。

 

「精神衛生に良くない」

 

 ものすごく身長が高い妹キャラが登場する漫画を片付けた。コレット少将が資料として勧めてくれた少女漫画を手に取る。

 

「これだ!」

 

 俺は身長の低いヒロインが登場する漫画をむさぼり読んだ。一八〇センチや一九〇センチの強豪がひしめく大学女子バスケにおいて、一五三センチの少女が孤軍奮闘する。実に素晴らしい。コレット少将はエンターテイメントというものを理解している。

 

 クーデターを起こそうなどというよこしまな気持ちは、心の疲れとともに吹き飛んだ。それでも残ったものはある。

 

「ヤン派を切り崩す」

 

 俺はそう決意した。いずれにせよ、ヤン派は障害になる。ヤン・ウェンリー元帥個人は政治的に無害だ。ヤン派の存在意義は承知している。それでも潰さなければならない。

 

 統合作戦本部長に就任するには、元帥を全員引退させる必要がある。客観的に見て、今の自分は元帥号授与基準を満たしていない。基準を満たすだけの功績をあげるより、元帥を引退させる方がよほど簡単だ。

 

 ヤン元帥をお飾りの本部長に据え、統合作戦本部次長として主導権を握るという選択肢はなかった。傀儡にできるのは、ビュコック元帥のように取り巻きを持たない人間だけだ。ヤン元帥が本部長になれば、ハイネセンにいる良識派エリートが集まってくる。また、性格的にも人脈的にもAACFとの親和性が高い。彼個人は政治的に無害でも、彼を中心として形成されるであろう軍縮派集団は危険だ。絶対に退役させなければない人物なのだ。

 

 ラインハルトとの決戦は近いうちに訪れる。最大の政敵を放置する余裕などない。ヤン元帥個人に対しては、信仰に近い感情を抱いている。彼の取り巻きにしても、少し鬱陶しいけれども、あれはあれで立派だと思う。俗物揃いのトリューニヒト派より、よほど好感が持てる。それでも、同盟滅亡を回避するためならば、排除しないわけにはいかない。

 

「ああ、なるほど。彼らもそう考えたのか」

 

 ここまで考えた時、五年前の軍縮派に共感できた。「心の痛みがあればあんなことはできない」と思ったのは間違いだった。心の痛みを覚えていたとしても、必要ならば排除できる。財政破綻が近いうちに訪れる。破局を回避するためならば、手段を選んでいられないと思うだろう。

 

 そして、三年前のボロディン提督に共感できた。自分と彼の違いは、「どれだけ切羽詰まっていたか」の違いでしかない。掲げる旗が違っていても、避けたいものが違っていても、本質にあるものは同じだ。

 

 再建会議が崩壊した日、俺はボロディン提督と言葉を交わした。その時のことが鮮明に思い出される。

 

「いつか君は分岐点に立つだろう。その時になったら、私の言葉を思い出してほしい」

 

 ボロディン提督はおそらく見抜いていたのだ。俺がいつか自分と同じ場所に立ち、同じ決断を迫られることを。演技者という本質を見抜いた時、その先にある未来も見えたのだろう。

 

 分岐点は二年前の講和騒ぎとともに去ったと思っていた。しかし、今になって思うと、あれは同盟の分岐点であって、自分の分岐点ではなかった。

 

 エリヤ・フィリップスは七八八年八月一五日以降、最大の分岐点に立った。どちらに進むにしてもいばらの道だ。

 

「答えは決まっている」

 

 俺は四通のメールを書きあげた。一通はマッカラン人的資源担当国防副委員長、一通は国防監察本部長ドーソン上級大将、一通は統合作戦本部次長セレブレッゼ上級大将、一通はイゼルローン憲兵隊司令官コリンズ少将に宛てたものだ。

 

 ヤン元帥から取り巻きを一人一人引き離す。最初の標的は、要塞軍集団司令官ワルター・フォン・シェーンコップ大将。彼の地位と兵力を誰もが納得する形で奪い取り、無力化する。

 

 自分が悪役への道を突っ走っている気がしないでもないが、今に始まったことではない。この世界の主人公は、ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリーである。たまたま時を遡っただけの小物は、逆立ちしたって主人公になれやしない。それでいいのだ。たまには悪役が勝ってもいいではないか。




目上に「お疲れ様」を使うのはマナー違反ではありません。目上には「お疲れ様」、目下には「ご苦労様」を使うのが正しい敬語です。


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第120話:銀河悪役伝説 804年3月末 惑星シャンプール

後半、胸糞悪いエピソードあります


「なぜ、彼らはルドルフを選んだのか?」

 

 この問いは数世紀にわたって繰り返されてきた。後世の人々には、ルドルフが選ばれた理由が理解できなかった。だから問い続けた。

 

「騙されたからだ」

 

 ある者はそう答えた。まともに考えれば、ルドルフのような狂人を選ぶはずがない。無知な連中がルドルフに騙されたのではないか。

 

「責任を取りたくなかったからだ」

 

 ある者はそう答えた。まともに考えれば、ルドルフのような狂人を選ぶはずがない。無責任な連中がルドルフに政治を丸投げしたのではないか。

 

 銀河連邦末期、有権者は投票するたびに裏切られた。既成政党の堅実さに期待しても、金持ちや大企業を潤わせるだけだった。改革派の清新さに期待しても、綺麗事を聞かされるだけだった。強硬派のパワーに期待しても、闇雲にぶち壊されるだけだった。

 

「誰に投票しても変わらない」

 

 人々はため息をつき、政治に背を向けた。ミーイズムが銀河を覆いつくした。政治や社会を無視し、自分一人の生活を死守することが賢い選択だと思われた。

 

 歴史家に言わせると、その失望こそが無責任であった。投票だけが有権者の仕事ではない。期待に応えるよう要求し、仕事ぶりを監視し、おかしいと思ったら批判を加えるべきだった。政治に期待するだけで、要求も監視も批判もしない。うまくいかなければ、「期待外れだ」と怒って引きずりおろす。政治に失望する前に、自分たちの姿勢を省みるべきではなかったか。

 

「ルドルフの登場は、民衆が根本的に、自主的な思考とそれにともなう責任よりも、命令と従属とそれにともなう責任免除のほうを好むという、歴史上の顕著な例証である。民主政治においては失政は不適格な為政者を選んだ民衆自身の責任だが、専制政治においてはそうではない。民衆は自己反省より、気楽かつ無責任に為政者の悪口を言える境遇を好むものだ」

 

 ハイネセン記念大学文学部のダリル・シンクレア教授は、著書『民衆政治家ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム』にそう記した。

 

 大多数の人々が「失望」し、「賢い選択」を行った。それは単なる責任放棄だった。棄権は反対の意思表示でなく、白紙委任状であることを理解していなかった。その結果、ルドルフという怪物に権力を与えてしまったのだ。

 

 自由惑星同盟では、自主性と自己責任を重視する教育が行われている。自分で考えて判断する。責任をもって行動する。それこそがルドルフを超克する道だと思われた。

 

「無知は罪である。無責任は罪である。それを知るために歴史を学ぶのだ」

 

 ギュンター・マハト師がハイネセン記念大学開校式で語った言葉は、今もなお歴史教科書の冒頭に掲げられている。

 

 人類はルドルフを超克できたのだろうか? その問いに対する答えを知りたいならば、選挙を見ればいい。

 

「ひどい選挙だ」

 

 俺はため息をついた。トリューニヒト最高評議会議長個人を肯定できるかどうかが、争点になっている。肯定派は議長をひたすら持ち上げる。否定派は議長をひたすらこき下ろす。選挙戦は不毛な口喧嘩に堕した。

 

 その発端を作ったのはトリューニヒト議長自身である。特定の集団を敵と決めつけ、特定の価値観を頭ごなしに否定し、特定の人物や地域を名指しで叩いた。

 

「金持ちは泥棒だ。犯罪者に必要なのは減税ではなく懲罰だ」

「帝国には貴族、同盟には知識人という特権階級がいる」

「同盟市民の条件とは何か? 同盟を愛し、同盟文化に馴染み、同盟語を話し、人種に優劣があると勘違いせず、男は女より偉いと思い込まず、セクシャルマイノリティや障害者を差別しないことだ。それができない者は故郷に帰りなさい」

「テロリストは存在自体がギルティだ。裁判にかけるまでもない」

「国立大の学費は安すぎる。二倍にしよう。経済学部と法学部と工学部は五倍、医学部は一〇倍でいい」

「私はこの国の元首だ。市民を豊かにするためなら、帝国人が全員飢え死にしたって構わない。市民に仕事を与えるためなら。帝国人が全員失業したって構わない」

「ラウス反戦党は帝国の手先だ。同盟軍を追い出し、帝国軍を引っ張り込もうとしている」

「地方はいいねえ。空気が臭わない。都会は酷いもんだ。臭くてたまらない。インテリや金融屋がうろついているからね。選民意識の臭いがするのさ」

 

 これらの発言は賛否両論を引き起こした。ある者は「許せない!」と怒り、ある者は「良く言ってくれた!」と喝采する。

 

 トリューニヒト議長個人に注目が集まり、その他の論点は曖昧になった。最重要問題だったはずの経済と道徳は脇に追いやられた。野党が政策論争を望んでも、「そんなことはどうでもいい! トリューニヒトを叩け!」という支持者の叫びに流されてしまう。

 

 そんな中、国防委員会臨時会議が開催された。いろいろと名目を付けているが、実際はサプライズ人事に関する話し合いである。有名軍人を昇進させ、有権者の機嫌を取ろうというのだ。

 

「シェーンコップ大将を昇進させましょう」

 

 サリー・マッカラン人的資源担当国防副委員長の提案は、出席者たちを驚かせた。いろんな意味で有り得ない人事だったからだ。

 

「条件を満たしておりませんぞ」

 

 ゲアハルト・フォン・シュテーガー国防委員が難色を示した。宇宙軍上級大将に昇進するには、「大将として正規艦隊もしくはそれに準ずる艦隊を指揮した経験」、「大将として枢要機関に勤めた経験」のいずれかが必要とされる。シェーンコップ大将はどちらの条件も満たしていない。

 

「特例を認めれば良いではありませんか。近年ではフィリップス提督の例があります。将官五階級制が導入される前の話ですが」

「特例はあくまで特例です。簡単に認めていいものではありません」

 

 シュテーガー委員は孫と同世代の国防副委員長をたしなめた。エリヤ・フィリップス提督は国家分裂の危機を防いだ。シェーンコップ大将にそれだけの功績があるのか。

 

「上級大将は軍のトップですからな」

 

 ファルハード・カリミ国防委員が、遠回しに「あいつはトップにふさわしくない」と指摘した。トリューニヒト政権が重視する能力は、政府の意向を忖度する能力、大勢に迎合する能力、波風を立てない能力、不祥事を揉み消す能力である。シェーンコップ大将は比類ない武勲の持ち主だが、最も必要な能力を欠いていた。

 

「いいじゃないですか。現場で叩き上げた男がトップに立つ。同盟軍サポーターの夢ですよ!」

 

 ワン・ヤンミン国防委員の目がキラキラと輝いた。

 

「お国のために尽くしたら、叩き上げの帝国人でもトップに立てる。同化政策のアピールになりますな」

 

 ハリス・マシューソン後方担当副委員長も前向きな姿勢を示す。

 

「彼は専科学校卒の陸戦隊員です。大将でも異例の出世というべきです。功績に報いるには十分でしょう。あえて前例を破るのであれば、人事の公正を損ない、ひいては彼の名を傷つけることになりましょう」

 

 シュテーガー委員はさらに反論し、他の委員も次々と反対意見を述べた。ウォルター・アイランズ委員長とジョン・ドリンカー・コープ・ジュニア第一副委員長は、だんまりを込め込んだ。反対論が優位に立ったかのように思われた。

 

「前例がないなら、私たちが最初の例を作りましょう」

 

 マッカラン副委員長は、父母や祖父母のような年齢の委員たちを懸命に説いた。最も強硬なシュテーガー委員とカリミ委員が折れると、他の委員も納得した。

 

 会議終了後、俺のもとに四つのホログラムが現れた。金髪碧眼の若い美女はマッカラン国防副委員長、黒髪の野性的な美男子はカリミ国防委員、見るからに平凡な初老の男性はシュテーガー国防委員、ふくよかな老婦人はステレア下院軍事委員長だ。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は議員たちに頭を下げた。シェーンコップ昇進をめぐる論戦は、完全なやらせだった。

 

「私からも礼を申し上げます」

 

 マッカラン副委員長は美しい顔に笑みを浮かべ、感謝の言葉を述べた。君主が臣下をねぎらうかのようだ。

 

「恐れ入ります」

 

 カリミ委員とシュテーガー委員が声を揃えて答える。臣下が君主に応答するかのような恭しさである。帝国の諸侯であったシュテーガー委員ですら、「プリンセス・サリー」の圧倒的な気品に抗えない。

 

「……!」

 

 俺は片膝をついて頭を下げたい衝動に駆られたが、辛うじてこらえた。

 

「ご苦労でしたね。後は私に任せてください」

 

 ステレア下院軍事委員長の声は、「不死身のアレクサンドラ」という物騒な異名に似合わぬ優しさだ。将官の昇進には議会の承認が必要となる。彼女の役割は国防委員たちに優るとも劣らない。

 

「よろしくお願いしますね」

 

 マッカラン副委員長は、祖母のような年齢の軍事委員長に微笑みかけた。プリンセスらしい上品な笑顔だが、長いまつ毛の奥の目は笑っていない。視線が「脇役の分際で主役を気取るんじゃねえぞ、クソババア」と語る。

 

 彼女には銀河で最も高貴な家の末裔という自負がある。マッカラン家と比べれば、ゴールデンバウム家など成り上がりに過ぎない。銀河連邦は同盟と異なり、君主国の加盟を認めていた。星々に君臨する諸王家の中でも、第一次九〇年戦争期のハルモニア王の子孫であるマッカラン家は随一の名門だった。本家は連邦とともに滅びた。だが、サジタリウス腕に植民した分家は、五三八年までリューカス・ハルモニア帝国を支配し、現在はハルモニア財閥のオーナーである。そんな家に生まれた彼女は、貴種としてふさわしい才能と美貌を持ち、それを磨くための努力を続けてきた。

 

 才能と環境に恵まれた人間は、自分が選ばれた存在だと信じがちだ。当たり前のようにすべてを与えられ、当たり前のように期待され、当たり前のように結果を出した。そんな経験をしたら、誰だって天命を確信するだろう。

 

「あなた方のご尽力を無にはいたしませんよ」

 

 ステレア軍事委員長は、自分より半世紀遅く生まれた副委員長に柔らかい笑顔を向けた。だが、その目は笑っていない。視線が「しょせん、あんたは前座だよ」と語る。

 

 彼女には実力のみで生き抜いたという自負がある。父親の名前も顔も知らない。ウェイトレス兼娼婦の母親は行方をくらました。養護施設で育ち、一六歳で志願兵となった。乗った艦は六度事故に遭い、四度撃沈され、二度不時着した。宇宙艦隊旗艦「ハードラック」勤務になった半年後、流れ弾が直撃し、アッシュビー司令長官が戦死した。後方勤務に回されると、職場は二度爆破され、三度銃撃された。除隊後は奨学金をもらって大学に通った。一七年の教職生活を経て地方政界に入り、数々の危機を乗り越えて、国会議員に上りつめた。

 

 実力で叩き上げた人間は、自分が選ばれた存在だと信じがちだ。至近距離から後頭部を撃ち抜かれたり、飛行機が高度一万メートルで爆発したりしても生き延びた。そんな経験をしたら、誰だって天命を確信するだろう。

 

 選ばれし者同士は相容れない。「自分こそが本物で、相手は偽物」と信じているからだ。八〇一年初当選の女性国防族として一くくりに比較されることも、彼女たちの対抗意識を煽った。

 

「少しは遠慮しろよ、クソババア」

「礼儀をわきまえな、小娘」

 

 二人の選ばれし者は、笑いながら視線で罵倒しあうという高等技術を披露した。これでも進歩している。国家非常事態委員会(SEC)のメンバーだった頃は、声に出していた。

 

「まとめて消えてくれないかな」

 

 俺は内心でそう呟いた。彼女たちは政策や理念を持ち合わせていない。だから、マウンティング以外の方法では優劣をつけられないのだ。

 

「…………」

 

 シュテーガー議員は困ったような微笑みを浮かべる。気弱な農家のおじさんといった風情だ。元男爵・元帝国宇宙軍中将の威厳はどこにもない。

 

 見るからに平凡なそうな彼を議員に押し上げたのは、「身分制の犠牲者」という看板だ。宇宙軍幼年学校校長でありながら、大貴族の子息にいじめ殺されそうになった孫を救うため、生徒殺しに手を染めた。この話を聞いたら、誰だって同情する。

 

 同盟軍がオーディンを解放した時、刑務所から解放されたシュテーガー元中将は、「首席生徒の不正を暴いたら、相手の実家に陥れられた。生徒殺しは濡れ衣だ」と語った。その場に立ち会った俺も確かにそう聞いた。メディアも彼を冤罪被害者として扱った。

 

 ジャーナリストのパトリック・アッテンボロー氏の調査により、生徒殺しの事実が暴かれた。言い逃れできないだけの証拠が揃っていた。

 

 シュテーガー元中将は弁解すらせずに主張を変えた。帝国批判は何でも正しいとされる風潮の中で、最初の嘘はなかったことになった。ラグナロック戦役が失敗に終わり、帝国批判が下火になると、「外国人でありながら愛国右翼」という芸風に切り替えた。そして、右派言論人から下院議員に転身したのである。

 

 帝国の公式記録によると、シュテーガー元中将はエゴイステックな犯罪者に過ぎない。宇宙軍幼年学校校長でありながら、孫を首席に据えるため、次席生徒を殺し、首席生徒に罪をなすりつけようとした。身分制の問題ではない。

 

 大きな声では言えないが、俺は帝国側の主張が事実に近いと思っている。帝国を信じるというより、シュテーガー議員を信用できないのだ。

 

「…………」

 

 困惑の色を浮かべるカリミ委員は、七九〇年代前半を代表する名艦長の一人で、野性的な雰囲気の美男子だ。それ以外の取り柄はない。

 

 本当にどうしようもない面子である。凡庸でも無能でもない。一般人の基準なら優秀な部類に入る。しかし、叶えたい理想も譲れない信念も持っていない。能力が高いから出世し、結果として議席を手にしただけだ。やりたいことがないので、手にした権力を私利私欲のために使う。このような人間が大衆党議員の九割を占める。

 

 長く付き合いたくない相手だが、今の時点では貴重な手駒だった。同盟議員という肩書きには絶大なパワーがある。俺にできないことが彼らにはできる。俺が知り得ない情報も彼らなら入手できる。理想も信念もない人間は、目先の利益に転びやすい。

 

 俺は政界以外に対しても手を打った。国防委員会の提案が一〇〇パーセント通るとは限らない。前例主義と事なかれ主義に染まった国防官僚は反対するだろう。頭の固い退役将官も良い顔をしないはずだ。さらなる一押しが必要となる。

 

「誠に遺憾ながら……」

 

 俺は第一辺境総軍所属部隊のスキャンダルを公表した。トリューニヒト政権と軍部に対する非難の声が高まった。

 

「シェーンコップ大将の忠誠心に問題あり」

 

 国防監察本部長ドーソン上級大将は、シェーンコップ大将に関する秘密報告書を提出した。トリューニヒト政権は不安に駆られた。

 

「今や、イゼルローン要塞は国家の中の国家である」

 

 統合作戦本部次長セレブレッゼ上級大将は、イゼルローン要塞の実態を密かに報告した。トリューニヒト政権の不安は一層大きくなった。

 

「セミョーノフはヤンに取り込まれた」

 

 イゼルローン憲兵隊司令官コリンズ少将は、要塞事務監セミョーノフ大将の裏切りを伝えた。トリューニヒト政権の不安はどうしようもなく膨らんだ。

 

 新しい情報が与えられたわけではない。第一辺境総軍のスキャンダルは、いずれ公表されるはずのものだった。シェーンコップ大将の危険性、イゼルローン要塞の軍閥化、セミョーノフ大将の裏切りは一年以上前から知られていた。重要なのはタイミングだ。不安を再確認させる情報を繰り返し与え、「シェーンコップを昇格させる」という落としどころを示す。それで十分だった。

 

 シェーンコップ大将は五月一日付で宇宙軍上級大将に昇進し、陸戦隊総監に就任することが内定した。非士官学校卒業者の現役宇宙軍上級大将は三人目、亡命者を含めた帝国人移民一世の現役宇宙軍大将は五人目となる。また、亡命者及び帝国人移民一世の陸戦隊総監は、七八九年就任のエヴェルスヴィンケル大将以来一五年ぶり、通算一二人目となる。

 

「陸戦隊の強化は急務であります。名将シェーンコップ提督を起用することで、育成体制がより一層充実するものと期待しています」

 

 アイランズ国防委員長は、露骨な棒読み口調で起用理由を述べた。特別な意味はない。この人の棒読みはいつものことだ。

 

「意図は別として、いい人事なのは認める」

 

 人々はシェーンコップ昇進を歓迎した。パフォーマンスだとしても、名将が昇進すること自体は喜ばしい。

 

 陸戦隊総監というポストは、様々な意味でシェーンコップ大将にふさわしいと思われた。素人が見れば、最強の陸戦司令官が陸戦隊最高位に就くのは自然なことだ。玄人が見れば、陸戦しかできない人間に閑職をあてがうのは正しい。事情通が見れば、危険な人気者を閑職に押し込めるのはうまいやり方だと思える。

 

 シェーンコップ大将自身にとっても良い話だ。何もなければ、再来年の二月に要塞軍集団司令官の二期目を終え、予備役に退くはずだった。陸戦一筋の人間に務まる大将ポストは少ない。昇進もできず、横滑りもできないならば、引退するしかなかった。そんな人物が上級大将に昇進できた。閑職だとしても、退職金と年金が増えるし、再就職でも有利になる。

 

「誰もが得する人事」

「誰も傷つかない人事」

 

 この人事は好評を博し、トリューニヒト議長のイメージ向上に貢献した。そして、提案者のマッカラン副委員長は大きく株を上げた。

 

「これで統合作戦本部長に一歩近づいた」

 

 ヤン元帥の後退と俺の前進はイコールである。どんなに優れた人物でも、一人ですべてをこなすことはできない。取り巻きを一人一人引き剥がしていけば、ヤン元帥は無力になる。

 

 

 

 三月二九日、同盟上院選挙の投開票が行われた。投票率は四二・〇七パーセント。前回を六・五五ポイント下回り、過去三番目の低水準となった。

 

 主戦派と反戦派という対立構図が完全に消滅し、世俗主義と道徳主義が新たな対立軸として浮上した。「自由か道徳か」の二択を突き付ける選挙になると思われた。だが、トリューニヒト議長が目立ちすぎたため、議論は深まらなかった。

 

 もう一つの対立軸は積極財政と緊縮財政である。大衆党は景気回復と雇用拡大の実績を強調し、積極財政の継続を訴えた。汎銀河左派ブロックを除く野党は、スタンスの違いがあるものの、緊縮財政を求める点では一致する。国論を二分する議論になるはずだった。だが、トリューニヒト擁護派とトリューニヒト批判派の対立に埋没した。

 

「与党と野党が感情的な言い争いに終始し、肝心な議論ができなかった。それがサイレント・マジョリティの失望を招いたのではないか」

 

 国立中央自治大学法学部のセヴェリーノ教授はそう分析した。実名・匿名を問わず、人前で政治を語りたがる者は少数派だ。ノイジー・マイノリティの盛り上がりが、サイレント・マジョリティを白けさせることは珍しくない。

 

 大衆党は得票を減らしたものの、議席を微増させた。徹底した辺境重視戦略により、独立と自由の銀河(IFGP)との選挙協力を行い、辺境票を掘り起こした。放漫財政と政治腐敗に反発した都市中間層が他党に流れた。失った票の方がはるかに多いが、都市部と辺境の一票の格差に救われた。低い投票率も追い風となった。

 

 統一正義党は得票を伸ばしたが、議席は少ししか増えていない。財政再建と道徳主義を掲げ、厳しい秩序を求める人々の共感を得た。大衆党に愛想をつかした道徳主義右翼を取り込み、保守層や無党派層にも支持を広げた。しかし、辺境票をまったく獲得できなかった。

 

 反戦・反独裁市民戦線(AACF)は議席を大きく伸ばし、上院第三党に躍進した。財政再建と世俗主義を打ち出し、苛烈な改革を求める人々の支持を幅広く集めた。リベラル・モラリストの支持を失ったものの、リベラル右派や保守層などハイネセン主義強硬派を取り込み、無党派層にも浸透した。リベラルが弱いとされてきた辺境でも一定の支持を得た。

 

 和解推進運動は改選議席の半数を失った。財政再建と世俗主義という主張は、AACFや民主主義防衛連盟(DDF)とかぶっている。レベロ改革の反省を生かした改革案は、苛烈な改革を望む声に逆行していた。人材も資金も失われた。負けるべくして負けた選挙だった。

 

 DDFは壊滅的敗北を喫した。主戦派と反戦派の消滅は、ハイネセン主義強硬派政党の存在意義を完全に消失させた。

 

 汎銀河左派ブロックは得票率を落とし、上院第五党に転落した。積極財政論者と福祉国家論者は大衆党に流れ、道徳主義者は統一正義党に流れた。大衆党、統一正義党、AACFの三極構造の中で埋没した形だ。

 

 IFGPは手堅く戦い、現有議席を守った。地元の利益とキャスティング・ボートを確保できれば、それで十分なのだ。

 

 AACFから離党したリベラル・モラリストの新党「明日のために」は、議席の大半を失った。「モラルのためなら、大衆党や宗教右派との連携も辞さない」という姿勢は、道徳主義者としては正しい。だが、リベラル層には利敵行為と受け止められた。

 

 初参加の新しい船出は三議席を獲得した。「祖父母の一人が帝国人である者の完全追放」という公約が、既成政党に不満を持つ移民排斥論者の受け皿となった。候補者を建国の父の子孫で固め、先祖と同じ名前を名乗らせるという懐古趣味も、有権者の注目を引いた。

 

 同じく初参加の夜明け前の光は、議席を獲得できなかった。君主制と貴族制の導入を掲げ、インテリや若者を中心に一定の支持を集めたが、既成政党の分厚い壁に阻まれた。

 

 その他、メルカルト未来党やミトラ・トロツキスト党など一二党が一議席獲得した。いずれも地域政党である。

 

「大衆党の辛勝、統一正義党とAACFの躍進か」

 

 俺は右手で胸を軽く押さえた。手放しで喜べる結果ではない。上院の議席は人口に関係なく、各星系に二議席ずつ配分される。辺境の一〇〇万票は都市部の一〇〇〇万票と同等の価値を持つ。上院選だからこそ、大衆党はこの得票率でも勝てた。

 

 テレビ画面の中では、野党系のジャーナリストが「下院選なら野党勝利」と盛んに言い立てる。彼の主張は間違いではない。第一辺境総軍選挙分析チームも同じ見解を示した。下院の議席は一〇〇〇万人あたり一つの割合で配分される。人口一〇〇〇万人以下の星系も一議席持っているが、上院ほど一票の格差は大きくない。下院選ならば、大衆党の過半数割れは確実だろう。

 

 トリューニヒト政権は景気を回復させ、雇用を改善し、治安対策で一定の成果を収めた。政権支持率も決して低くはない。これだけの好条件が揃っていながら、得票率を落とした。

 

「飽きられたんだな」

 

 俺にはそれ以外の理由が思いつかなかった。おいしいマフィンも食べ過ぎると飽きてしまう。サプライズもやり過ぎるとマンネリになる。民主国家の政治家にとって、「有権者の飽き」は避けられない宿命だ。そして、トリューニヒト議長には、「飽き」を跳ね返すだけの強さがない。

 

 大衆党はむしろうまくやったと思う。上院選の勝利という一点に絞れば、うんざりするような罵倒合戦は正しい。

 

 大衆党の最大の弱点は道徳問題だ。世俗主義者は多数派だが、保守寄りの者やリベラル寄りの者が多く、忠誠心に不安がある。道徳主義者は少数派だが、極右や宗教右派などを含んでおり、「トリューニヒト親衛隊」というべき集団だ。トリューニヒト議長の出身母体である同盟警察も、明らかに道徳主義を指向していた。世俗主義を打ち出せば、最も信用できる集団の支持を失う。道徳主義を打ち出せば、数を確保できなくなる。

 

 今の同盟において、道徳問題抜きの政策論争などあり得ない。論争になった時点で、スタンスが明確な他党に後れを取るし、内部対立を招く恐れもある。トリューニヒト議長は論争を避けなければならなかった。

 

 上院選挙の翌日、じゃがいも料理店「じゃがいも天国」のホテル・ビザンチウム・シャンプール店で秘密会議を開いた。参加者は俺を含めた現役軍人一九名、予備役軍人五名だ。半数はシャンプールにいる。残り半数はハイネセンなど別の地域のじゃがいも天国にホログラム通信を持ち込み、立体映像として参加している。階級や役職ではなく、信頼性を基準として集めたメンバーだ。

 

「シェーンコップを消し、政府に恩を売る! 一石二鳥の策ですな!」

 

 サンドル・アラルコン予備役上級大将の笑い声が響いた。

 

「三羽目の鳥は欲張りすぎかな」

「二羽も三羽も変わらんでしょう」

「そうだといいんだけど」

 

 三羽目の鳥とは要塞軍集団司令官のポストである。アルツール・フォン・シュトライト大将をシェーンコップ大将の後釜に据えるつもりだった。

 

 トリューニヒト議長は俺のもとに三名の監視役を派遣した。第七方面軍司令官サンボラ大将がシャンプールを抑え、第二方面軍司令官シュトライト大将がハイネセンへの通路を扼し、警察から出向した第一総軍参事官グッドオール中将が司令部に陣取るという構図だ。サンボラ大将とグッドオール中将を抱き込むことはできた。しかし、シュトライト大将はなびこうとしない。

 

 帝国人亡命者の忠誠心には定評がある。血縁や地縁や学閥を持たないため、雇用者に頼らざるを得ないのだ。

 

 ラグナロック戦役初期、シュトライト男爵家当主シュテファンが同盟軍に降伏した。ブラウンシュヴァイク公爵は分家の裏切りに激怒し、シュトライト一族を皆殺しにするよう命じた。公爵の側に仕えていたシュテファンの弟アルツールは、家族を連れて逃亡した。彼らを救ったのが、トリューニヒト議長であった。

 

 前の世界でラインハルトの忠臣だったアルツール・フォン・シュトライトは、トリューニヒト議長に忠誠を尽くしている。有能で忠実な監視役ほど鬱陶しいものはない。

 

「敵に敵を監視させる。フィリップス提督らしい辛辣な策略だ」

 

 統合作戦本部次長シンクレア・セレブレッゼ上級大将が嘆息を漏らす。一〇年前のことを思い出したのだろう。俺の監視下に置かれたことも、今となっては昔話である。

 

「私の教え子だからな」

 

 国防監察本部長クレメンス・ドーソン上級大将の口ひげが跳ね上がる。エリヤ・フィリップスが褒められると、クレメンス・ドーソンが喜ぶ。宇宙暦七九〇年代に発見された物理法則だ。

 

「貴官あってのフィリップス提督だ。よろしく頼むぞ」

「言われんでもわかっておるわ」

 

 ぶっきらぼうな口調だが、ドーソン上級大将が機嫌を良くしていることは明らかだった。口ひげは飛び上がらんばかりの勢いだ。上半身はこれでもかと言わんばかりにふんぞり返る。目尻が下がり、口元が緩み、鼻が高さを増した。

 

「心強いな。あんたが味方で良かった」

「ははは! 貴官も少しは……」

 

 大きな笑い声とともに衝撃音が響いた。ふんぞり返りすぎて椅子ごとひっくり返ったのだ。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 俺とコレット少将が慌てて助け起こそうとしたが、相手がホログラフだったことに気付いた。

 

「なんでもない! なんでもないぞ!」

 

 ドーソン上級大将はばね仕掛けを思わせる瞬発力で立ち上がり、後ろを向いて怒鳴った。

 

「おい! ラッキー! 勝手に椅子を引っ張るんじゃない!」

「…………」

 

 俺とコレット少将は顔を見合わせる。ラッキーはドーソン家が飼っているマルチーズだが、それらしきものは見当たらない。

 

「いや、ラッキーというのは私の飼い犬でな! やんちゃな犬なのだ! 付いていきたいとうるさくてな! 仕方なく連れて行ったのだ! 大人しくしろと言ったのに、椅子を引っ張りおった! どうしようもない馬鹿犬だ!」

 

 ドーソン上級大将のセリフは、やたらと早口な上に説明じみていた。ラッキーがよぼよぼのマルチーズだとか、彼がいる店舗はペット入店不可だとか、そういった事実を知らない人でも騙されないだろう。

 

 コレット少将の視線が「どうします?」と問うたので、俺は視線で「合わせるしかないだろう。恥をかかせるわけにもいかない」と答えた。「とっくに恥をかいていると思いますが……」という常識的な突っ込みは無視した。

 

 他の出席者は「しょうがない人だ」と言いたげに苦笑した。遠慮を知らないアラルコン予備役上級大将も、無神経なワイドボーン大将も、きつい性格の妹も生暖かい視線を向けるだけに留めた。あえて突っ込まないのが優しさである。

 

「次のターゲットはどうする!? 予定通りか!?」

 

 ドーソン上級大将は無理やり話題を変えた。

 

「ムライ提督で決まりでしょうね。一二星将のまとめ役ですから」

 

 チュン・ウー・チェン中将が何事もないかのように応じ、俺の方を見た。人々の視線がドーソン上級大将から俺に移動する。

 

「いや、ミンツを先に外す」

「彼は後回しで良いのではないですか」

「状況が変わった。あのスティーヴン・ミンツが当選したからね」

 

 その名前を口にするだけで十分だった。ドーソン上級大将は「合格だ」と言わんばかりにふんぞり返り、他の者も納得の色を浮かべる。

 

 新しい船出から初当選したリヒャルト・ミンツ二世ことスティーヴン・ミンツ上院議員は、正真正銘のクズだ。一〇年以上前、遺族年金を横領したことが発覚し、有罪判決を受けた。

 

 遺族年金の横領自体は良くある事件だ。しかし、スティーヴン氏は戦死した兄の子を児童施設に放り込んだにもかかわらず、保護者と称して遺族年金を懐に入れた。ここまで悪質なケースは珍しい。

 

 少し調べれば、リヒャルト二世とスティーヴンが同一人物であること、ユリアン・ミンツ准尉がスティーヴンの甥であることは突き止められるはずだ。横領事件に限れば、ミンツ准尉は被害者である。同情されることはあっても、非難されることはない。

 

 しかし、スティーヴン氏は「醜聞のコンビニ」ともいうべき人物だ。横領事件については「かわいそうな被害者」になるユリアンも、その他の事件については「加害者の甥」になってしまう。同盟法には連座制の規定は存在しない。それでも、市民は親族の罪に連座するのが当然だと考えがちだ。スティーヴン氏の醜聞が明るみに出れば、ユリアンの昇進を望まない世論が生まれる。

 

 昇進できなくても、ユリアン・ミンツ個人は困らない。少尉になったら、人事権が国防委員会に移る。敬愛するヤン元帥の側から離れるよう命じられても、拒否することはできない。だから、幹部候補生養成所への入学推薦を拒否し、准尉に留まっていた。

 

「ミンツ議員は遅かれ早かれ炎上する。その前に甥を昇進させないといけない」

 

 ユリアンが昇進しなければ、俺が困るのだ。たかが准尉と侮ってはいけない。ヤン元帥のプライベートな空間に常駐し、雑事を片付け、来客や通信を取り次ぎ、愚痴に耳を傾ける。側近グループの一員だが、他のグループとも親しく、人間関係を調整できる。優秀極まりない私設秘書だ。下手な大将よりよほど影響力がある。

 

「それにしても、哀れな青年だ」

 

 同情心にあふれた声は、ドーソン上級大将のものだ。皮肉も嫌味も含まれていない。凡人として同情を覚えたのだ。

 

 国防委員会がユリアンを独身者の養子にするという異例の裁定を下した背景には、複雑な事情がある。スティーヴン氏以外の親族もクズだった。祖母の故アンジェリーナ・ミンツ氏は、ユリアンを自分の家に置いたが、遺族年金を横領し、孫が受け継ぐべき遺産や保険金も我が物とした。叔母や従姉妹も、よってたかってユリアンを虐待していたらしい。親族がクズ揃い、女性のいる家庭がNGとなれば、独身者か男性同性婚夫婦という選択しかない。軍部では知る人ぞ知る話だ。

 

「父は戦死、母は病死、親戚はクズ、入った施設はあのガルダ・ハイムですからな。運命が嫌がらせをしているとしか思えません」

 

 アラルコン予備役上級大将が忌々しげに顔をしかめる。「養父はヤン」とは言わなかった。下品なことで有名な彼にも、嫌いなだけの相手を本物のクズと並べない程度の分別はある。

 

「私も幼い頃に両親を亡くしましたが、ミンツ君に比べたら幸福でした」

 

 第一一艦隊司令官ウィレム・ホーランド大将が、ため息をついた。彼を引き取った伯母夫婦は善良な人間だった。

 

 かつて、彼らは対立関係にあった。クレメンス・ドーソンは他の二人を「はみ出し者」として嫌った。サンドル・アラルコンは他の二人を「鼻持ちならないエリート」として嫌った。ウィレム・ホーランドは他の二人を「くだらぬ俗物」として嫌った。そんな三人が同じテーブルを囲み、ユリアン・ミンツへの同情を共有している。

 

 この光景を同盟全土に広げることが、俺の望みであった。人間は憎しみを越えることができる。人間は手を取り合うことができる。人間が人間である限り、ボーナムの奇跡は何度でも起きる。

 

 ユリアンには申し訳ないと思う。敬愛する養父であり、不幸から救い出してくれた救世主から引き離すのだ。どれほど責められても文句は言えない。それでも、やめるわけにはいかない。

 

 俺たちはもう一つの議題についても話し合った。後方勤務本部長ロックウェル上級大将を何としても味方に付けたい。だが、ロックウェル派と旧セレブレッゼ派は、軍需利権をめぐって対立している。金の問題なので、俺やセレブレッゼ上級大将が譲りたくても、下の人間が納得しない。ロックウェル上級大将についても同じことが言える。

 

「ヤン派もロックウェル派を取り込もうとしている。軍需利権を完全に保障するそうだ」

 

 セレブレッゼ上級大将が「ヤン派」と呼んだ連中は、正確に言うと「自称ヤン派」である。俺を追い落としたい連中が、ヤン元帥の統合作戦本部長就任を画策している。自称とはいえ、現役上級大将六名が参加しており、本来のヤン派よりはるかに巨大な勢力だ。

 

 常識的に考えれば、ヤン元帥が「パワハラ容認」「辺境への締め付け強化」「欠陥機チプホの導入」「残業手当廃止」「クーラーの半数を撤去」などという主張に乗るはずがない。しかし、現状においては、俺が最も強硬な反パワハラ派であり、対辺境融和派の最右翼であり、最も先鋭的な反チプホ派であり、最も労働環境改善に熱心な軍幹部だ。それに比べれば、積極的に動かないヤン元帥は物分かりが良さそうに見えるのだろう。

 

「彼らはよほど俺が嫌いなんですね」

 

 俺はにっこりと笑った。自称ヤン派の正体はアンチ・フィリップスだ。ヤン元帥本人を支持する軍人より、フィリップス憎しでヤン支持に流れる軍人がずっと多い。

 

「私は好きだぞ」

 

 フィリップ・ルグランジュ予備役上級大将が初めて口を開いた。

 

「ええ、わかっています」

 

 俺にはわかっている。少なくとも、この部屋にいる人間は俺を好きでいてくれる。わかっているから安心できる。

 

 そして、面白い事に気づいた。『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』の悪役がやたらと多いのである。クレメンス・ドーソン、シンクレア・セレブレッゼ、フィリップ・ルグランジュ、サンドル・アラルコン、ジェフリー・パエッタ、ウィレム・ホーランド、マルコム・ワイドボーンらは、ヤン元帥やその仲間に敵対したり、足を引っ張ったりした人物だった。

 

『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』に登場しない者も、ヤン元帥やその仲間との相性は良くない。登場していたら、きっと悪役になっていただろう。

 

 フェザーンにいるアンドリュー・フォーク、仲間に引き込もうとしているスタンリー・ロックウェルも、『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』では極めつけの悪役として登場する。

 

 悪玉キャラを集め、権力者と結託し、世論を動かし、権力を拡大し、主役に対抗しようとする。まさしく悪役の所業ではないか。

 

 恥じることは何一つない。前の世界の善玉は同盟を守れなかった。ヤン・ウェンリーは不敗を貫いた。アレクサンドル・ビュコックは正義を貫いた。それでも、同盟は滅亡したのだ。悪役なら守れるかどうかはわからないが、試す価値はある。

 

「オリベイラ先生を味方に……」

「却下」

 

 俺はワイドボーン大将の言葉を遮った。悪役なら誰でもいいわけではない。何事にも限度があるのだ。



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第121話:エリヤ・フィリップスは頂上を目指す 804年4月~5月下旬 惑星シャンプール

 四月中旬、トリューニヒト議長はユリアン・ミンツ宇宙軍准尉を幹部候補生に推薦した。ミンツ准尉の昇進を求める世論に応えたのである。

 

 さすがのユリアンも、同盟軍最高司令官直々の推薦を拒むことはできない。シャンプールの第七幹部候補生養成所に入所することとなった。今年の七月から来年六月まで一般幹部候補生課程で学び、卒業と同時に宇宙軍少尉に任官する予定だ。

 

「第七幹部候補生養成所だって!?」

 

 ユリアン昇進を仕組んだ俺もこれには驚いた。第七幹部候補生養成所は俺の母校で、第一辺境総軍司令部と同じ惑星にある。

 

「やられましたな」

 

 情報部長ハンス・ベッカー少将が苦い顔をした。

 

「最悪だね。俺がミンツ准尉を人質に取ったかのように見える。ヤン派以外の印象も悪くなるぞ」

「誰の差し金でしょうかね」

「わからない。心当たりが多すぎる」

 

 俺は右手を額に当てた。権力を手に入れることは、誰かの権力を奪うことでもある。主張を通すことは、誰かの主張を退けることでもある。敵には事欠かないのだ。

 

「しょうがありません。マスコミに入所先を指定させるわけにもいきませんからな」

「国防委員会に手を回しておけばよかった」

「こんなことで借りを増やすわけにもいかんでしょう」

「でもなあ……」

 

 いったん落ち込むと、果てしなく沈んでいくのが小物である。

 

「まあ、今はミンツを排除できただけで良しとしましょう」

「もっとうまくやりたかったんだけどね」

「今さら悪評を恐れても仕方ありません。権力を取るというのはそういうことです」

 

 ベッカー情報部長の言葉には実感がこもっていた。平民出身とは言え、帝国軍の元エリートである。権力闘争と無関係ではいられない立場だった。

 

「わ、わかっている」

「声が震えていますな」

「まあね。偉くなっても、小心さは治らない」

「構いませんよ。私が尻を叩けば済む話です」

「そうしてもらえると助かる」

「上官をメンタル面で支えるのも幕僚の仕事です。そして……」

 

 ベッカー情報部長の視線が俺から逸れた。俺もつられるように視線を動かした。二つの視線がテーブルの上で交差する。そこにあったのは一つの写真立てだった。

 

「私はあなたがたご夫婦の友人です」

「ありがとう」

 

 俺は彼が言った言葉と言わなかった言葉の双方に対し、感謝を述べた。写真立ての中では、丸顔の女性が両手でピースしながら笑っていた。

 

 四月下旬、第二方面軍司令官アルツール・フォン・シュトライト宇宙軍大将が、要塞軍集団司令官の後任に内定した。シュトライト男爵の弟で、元帝国宇宙軍准将という経歴を持っている。帝国人亡命者が二代続けて対帝国の最前線を担うこととなった。

 

「帝国崩壊に備えるため」

 

 ウォルター・アイランズ国防委員長はそう説明した。帝国崩壊の影響が同盟に波及することを防ぐには、帝国通の実務家が必要だという。

 

 この説明に納得する者は少なかったが、反発する者も少なかった。今や、帝国よりテロリストの方がずっと大きな脅威である。イゼルローン要塞はもはや最前線ではない。対帝国戦しかできない部隊などどうでもいいのだ。

 

 第二方面軍司令官の後任には、イゼルローン要塞事務監ルスラン・セミョーノフ宇宙軍大将が起用された。トリューニヒト派には珍しい清廉潔白の士である。上官や同僚の不正を弾劾し、弱者の権利を擁護し、規律の緩みを引き締め、規則の不備を是正することに情熱を傾けた。決して腐敗しないことから、「黄金の人」の異名をとった。

 

「最悪だ……」

 

 俺は落胆のあまり寝込んでしまった。自分が知る限り、ルスラン・セミョーノフ以上のクズはいない。シュトライト大将の方が一〇〇倍、いや一〇〇億倍マシだった。

 

「うるさい隣人を追い出したら、オフレッサーが引っ越してきたようなもんだね」

 

 見舞いに来た人事部長イレーシュ・マーリア少将が、形の良い眉を寄せた。

 

「ただのオフレッサーじゃありません。エンジェルダストでハイになったオフレッサーです」

「それは言い過ぎじゃないの?」

「セミョーノフはやることなすこと支離滅裂、筋がまったく通っていません。私情とルールの区別すらつかない奴です。犬の方がまだ分別があります」

 

 俺にとって、セミョーノフはどれほど罵っても飽き足らない男だ。シェリル・コレットを「アーサー・リンチの娘」というだけの理由で嫌い、「コレットをハイネセンに近づけるな」という不文律をでっち上げた。そして、その不文律を無視した俺を憎み、事あるごとに足を引っ張ってくる。

 

 憎まれること自体は構わない。ろくでもないことをしてきたという自覚はある。意見や立場が異なる相手にも、彼らなりの正当性があることを知っている。アッテンボロー提督に批判されても、ジャスパー提督に罵倒されても仕方がないと思う。彼らには俺を憎むべき理由がある。鬱陶しいけれども納得できる。

 

 だが、セミョーノフの憎悪には、ひとかけらの道理もなかった。シェリル・コレットが気に入らないから排除しようとした。俺が言うことをきかないからむかついた。ただ、それだけである。

 

 コレット少将の件を抜きにしても、セミョーノフはクズだった。独善的な正義感を振り回し、迷惑をまき散らした。都合の悪いルールを無視し、勝手に不文律を付け加え、秩序を破壊した。解放区では貧民や奴隷に一方的に肩入れし、貴族や富裕層を迫害した。復員支援軍では民衆反乱を独断で支援し、帝国が捕虜返還の中止を検討する事態を招いた。

 

「本当、眼鏡委員長が嫌いなんだね」

 

 イレーシュ人事部長は呆れ半分に苦笑した。彼女もセミョーノフに好意を持っていない。「眼鏡委員長」というあだ名には、「学級委員的な正義感を振り回す奴」という意味がある。それでも、俺のセミョーノフ嫌いには辟易したようだ。

 

「嫌いです」

「誰がこんな人事を仕組んだんだろうねえ」

「わかりません。心当たりが多すぎます」

 

 俺はお手上げといった風に両手をあげた。自称ヤン派がセミョーノフに俺の足を引っ張らせようとしたのかもしれない。反ヤン派が俺にセミョーノフを封じ込めさせたいのかもしれない。第三者が俺とセミョーノフを争わせ、漁夫の利を得ようとしたのかもしれない。いずれにせよ、自分には知り得ないことだ。

 

「敵がたくさんいるからね」

「こんなことになるんだったら、第二方面軍司令官の後任も指名するべきでした」

「どうしようもないよ。シュトライトをイゼルローンに押し込むだけで精一杯だったから」

「見通しが甘すぎました。セミョーノフがこっちに来るなんて、想定していませんでした」

「想定できたとしても、結果は同じだよ。そっちに手を回す余裕なんてないし」

「順番を間違えたのかもしれません。セミョーノフを先に飛ばせばよかったんです」

 

 いったん落ち込むと、果てしなく沈んでいくのが小物である。

 

「しょせん、俺は小物……」

 

 愚痴を言い終える前に視界が暗くなり、口に柔らかい感触がした。

 

「わかってるよ。私はわかってる」

 

 六歳年上の恩師は俺の頭を抱えて胸に押し付け、優しく諭すように語り掛ける。

 

「だから、言わなくてもいい。私はわかってるから」

「…………」

「君は一人じゃない。君を決して一人にしない。私はここにいる。君がはぐれてしまっても、絶対に見つける。君が遠くに行っても、絶対に追いかける。だから……」

 

 恩師が俺の頭を強く抱きしめる。

 

「一人で抱え込むんじゃないよ」

「…………」

 

 俺は何も言わずに顎を上下に動かした。顔が恩師の胸とこすれ合う。頭が恩師の胸に深く埋もれる。髪の毛に恩師の指が差し込まれる。すべてを抱え込むつもりだったのに、すべてを抱え込まれた。

 

「いい返事だね」

 

 その一言とともに、イレーシュ人事部長の腕と体が離れた。美しい顔に浮かんだ笑みは果てしなく優しい。

 

「ありがとうございました」

 

 俺はあらためて頭を下げる。心は青空のように澄み切っていた。

 

「ダーシャちゃんが言ったとおりだ」

 

 イレーシュ人事部長が視線を別の方向に向けた。俺もつられるように視線を動かした。二つの視線が台の上で交差する。そこにあったのは一つの写真立てだった。

 

「あの子が言ってたのよ。『エリヤが落ち込んだ時はこうしてあげてほしい。そうしたら落ち着くから』って」

「そうでしたか……」

 

 俺は照れをごまかすように笑う。写真立ての中では、丸顔の女性がにっと笑いながら右手の親指を立てていた。

 

 ダーシャに「胸に顔を埋めさせてほしい」と頼んだことは一度もない。彼女が何も言わずに俺の頭を抱き寄せる、俺は何も言わずに彼女の胸に顔を埋める。それは一と一を足せば二になるのと同じぐらい、当たり前のことだった。

 

「裸だと効果倍増なんだよね」

 

 イレーシュ人事部長は写真立てに向かって声をかける。

 

「そんな話、どこで聞いたんですか!?」

 

 反射的に大声をあげた後、出所が一つしかないということに気付いた。写真立ての中では、ダーシャがにっと笑いながら右手の親指を立てていた。

 

 五月上旬、教育総隊司令官キャリー・ギールグッド宇宙軍上級大将は、勇退する意向を固めた。理由については、「一身上の都合」と語った。

 

「多年の功績に感謝する」

 

 同盟政府はかつての英雄をこれ以上ないほど盛大に送り出した。宇宙軍元帥に名誉昇進させ、トリューニヒト記念賞を授与した。引退セレモニーは最高評議会が主催する国家行事となった。ブローネ会戦があった日を「ギールグッドの日」に定め、宇宙軍の記念日とした。士官学校の寄宿舎、宇宙軍基地などに「キャリー・ギールグッド」の名を与えた。

 

「再戦が叶わなかったのは残念だ。ギールグッド提督の敢闘に改めて敬意を表する。第二の人生での活躍を心より祈りたい」

 

 救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラム大元帥は、ギールグッド上級大将の引退を惜しんだ。そのためだけに臨時記者会見を開き、肉声でコメントを出すという対応は、極めて異例である。

 

 五年前、ラインハルトが、キャシー・ギールグッドに「貴官の勇戦に敬意を表す。再戦の日まで壮健なれ」という通信文を送ったことは有名だ。彼の天才をもってしても、「不沈艦キャシー」の無敵神話を覆すことはできなかった。戦争を生きがいとする彼にとって、宿敵の引退は痛恨であったろう。

 

「あの女抜きで俺に勝てると思っているのか! 馬鹿にしおって!」

 

 コメントを求められたフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト上級大将は、怒声を張り上げた。「反乱軍は自分を舐めている。そうでなければ、あの女が引退するはずがない」と思ったらしい。こういうことを本気で考え、人前で口に出せるメンタリティは尋常ではない。

 

 ウォルフガング・ミッターマイヤー上級大将らも引退を惜しむコメントを出した。ラインハルト配下の諸将から見れば、二回しか戦っていない「魔術師ヤン」より、何度も戦った「不沈艦キャシー」の方が印象深い敵なのだ。

 

 イゼルローン総軍副司令官エリック・ムライ宇宙軍大将が、教育総隊司令官に内定した。就任と同時に宇宙軍上級大将に昇進する予定だ。この人事は六月一日付で発令される。

 

 ヤン・ウェンリー一二星将から初めて上級大将が誕生したことは、大きな話題を呼んだ。ムライ大将はいずれ上級大将に昇進するものと思われていた。それでも、一二星将初の上級大将誕生は大きなニュースであった。

 

「くくく……」

 

 俺は新聞を見ながら小声で笑った。

 

「ふふふ……」

 

 こらえきれなくなり、声が大きくなる。

 

「はっはっはっ! 計画通りだ!」

 

 笑い声が病室に響いた。

 

「悪人みたいに笑うの、やめようよ」

 

 ベッドの上の人事部長イレーシュ・マーリア少将が突っ込みを入れる。

 

「たまには増長させてください。久しぶりにうまくいったんですから」

「その顔で三段笑いされてもねえ。粋がった子供にしか見えないのよね」

「…………」

 

 俺は即座に悪人笑いをひっこめた。

 

「まあ、気持ちはわかるけどさ。ろくなことがなかったし」

 

 イレーシュ人事部長は右腕をぶらぶらと振った。ギプスの白さが痛々しい。一週間前、司令部庁舎で暴漢に襲撃されて、全治一か月の重傷を負ったのだ。

 

 情報部長ハンス・ベッカー少将も襲撃されて重傷を負い、セミョーノフが正式に着任した。不幸が続く中、ギールグッド上級大将の引退とムライ大将の昇進は久々の朗報だった。

 

「完全勝利ですよ」

 

 俺は目を細めて顔をくしゃっとさせて笑う。童顔にはこんな笑いが似合っている。三六歳という年齢を考えると恥ずかしいが、どうしようもない。

 

「国防委員会にも貸しを作ったしね」

「先生方から感謝の言葉をいただきました」

 

 言うまでもないことだが、ギールグッド上級大将の引退とムライ大将の昇進は、俺が仕掛けた謀略である。

 

 キャリー・ギールグッドが本物の英雄だったのは昔の話である。五年前、総崩れになったヨトゥンヘイム戦線の同盟軍を支えたのは、モートン前衛集団であった。その中で際立った強さを見せたのがギールグッド分艦隊である。その強さは説明不能で、良く言えば「神秘的」、悪く言えば「インチキ」だった。ヨトゥンヘイム撤退戦以前は見るべき功績もなく、ヨトゥンヘイム撤退戦以降も見るべき功績はない。ほんの一か月だけ異常な強さを発揮した提督だった。

 

 かつての銀河最強はお荷物に成り下がった。知名度だけで選ばれた人物なのに、お飾りに徹することもできず、不要な口出しを繰り返した。事故の責任を問われても、不適切発言が問題になっても、不倫が発覚しても居直り、市民の怒りを買った。俺が国防委員会に「彼女を引退させるから、後任人事を一任してほしい」と申し出ると、あっさり受け入れられた。

 

「あの人たちも情けないよね。老害を切ることすらできないんだから」

「彼女はあなたの二歳年下じゃないですか。老害というには若すぎます」

「年齢は関係ないよ。自分の経験と知識を絶対視する。新しい知識を学ぼうとしない。過去の栄光にしがみつく。老害そのものじゃん」

「否定はしませんけどね」

「それで済ませちゃうんだ。君だってさんざん迷惑かけられたのに」

「他人事とは思えませんので」

 

 俺はギールグッド上級大将を嫌いになりきれなかった。器量に見合わぬ名声は人間を狂わせる。彼女は否定されることを嫌うようになり、俺は期待に背くことを恐れるようになった。方向性は真逆だが、名声に振り回されたという点では同じだ。

 

「まあ、老害は組織の問題だからね。自浄作用がはたらいてないってことだし」

「だから、“俺たち”が頑張らないといけないんです」

「そうだね。私たちが変えないと」

 

 イレーシュ人事部長は決意を込めて言った。教え子への好意のみで協力しているわけではない。一人の軍人として現状を憂い、何とかしたいと思っていた。

 

「暴行の件もすぐに片を付けます。犯人には相応の報いを受けてもらいます」

 

 そう約束して、俺は病室を後にした。人を騙すのはしんどいものだ。相手が恩師ならなおさらである。

 

 俺の真の目的は、「ラインハルト・フォン・ローエングラムとの決戦に備える」というものだ。しかし、それでは最も身近な人間ですら動かせない。だから、「同盟軍の粛正」という大義名分を掲げた。仲間たちは粛軍のためだと信じ、権力闘争に協力してくれた。

 

「せめて約束は守ろう」

 

 俺はオフィスに戻り、分厚いファイルを開いた。イレーシュ人事部長襲撃事件に関する情報が記されている。

 

 将官が司令部の中で襲われるなど、前代未聞の事態だった。防犯カメラの映像は消されていた。侵入者検知センサーが反応しなかった。証拠品はいつのまにか保管庫から消えた。どう見ても内部の人間の犯行だ。

 

 四月に入ってから、各地で軍人が襲撃される事件が相次いでいる。犯行のほとんどが軍用地の中で行われた。六週間で一四一名が負傷し、三名が死亡した。

 

 これほど大規模な事件にも関わらず、犯人は一人も捕まっていなかった。目撃情報も物証も極端に乏しい。防犯カメラの画像は消去されているか、ダミー映像に差し替えられていた。被害者には軍人という以外の共通項がなく、動機から絞り込むこともできない。

 

「こりゃ難航するわけだ」

 

 俺は呆れ顔でファイルを眺めた。目撃情報も物証は「現場判断」で握り潰されていた。疑わしい人物は紛争地帯に配置換えされたり、「急病」で入院したりしたため、追及できなくなった。現場責任者が捜査を妨害していたのだ。

 

 報告書には「組織的な揉み消しではない」と記されていた。部隊長や基地司令の独断が積み重なり、結果として揉み消しが全国に広がったそうだ。犯人が内部の人間だとわかったら困るので、事件を迷宮入りさせようとしたらしい。

 

 俺の昇給率は三年連続で〇パーセントだった。事件や事故を包み隠さず報告した結果、「管理能力に問題あり」と評価されたのだ。相当な額の各種手当を受け取っているし、扶養家族がいないので、昇給しなくても困らない。点数を稼ぐだけでは元帥になれないので、上級大将にとっての昇級点はあってないようなものだ。だから、人事評価など無視できる。

 

 しかし、ほとんどの軍人はエリヤ・フィリップスではなかった。昇給しないと困る。昇級点を稼がないと昇進できない。揉み消しが横行するのはやむを得ないことだった。

 

「気持ちはわかるけど、見逃すわけにはいかない」

 

 俺は揉み消し犯を告発する決意を固めた。将校数百人が何の連絡もなしに証拠を揉み消し、事件の捜査を妨害した。同盟軍全体が隠蔽体質に染まっているのだ。処罰しなければ、上に情報を上げないことが正解になってしまう。

 

 事なかれ主義の行きつく果てはヴィンターシェンケ事件だ。スタウ・タッツィーとアリオ・プセントは、悪事が露見するたびに「全部公開してやる。お前の責任になるぞ」と居直った。上位者は責任を追及されることを恐れ、揉み消しに協力した。第四五方面軍司令官や解放区担当国防副委員長ですら屈服し、虐殺者の下僕になり下がった。最初に事態を把握した人物が軟弱でなければ、七九八年五月の時点で解決できる事件だった。

 

 犯罪を揉み消すことも犯罪である。俺は同じ軍服を着る人間を犯罪者にしたくない。だから、揉み消し犯を告発し、揉み消しが割に合わないことを明らかにする。そして、狂った人事システムを改めるよう訴えるのだ。

 

 襲撃犯については、ひとかけらの同情も覚えなかった。イレーシュ人事部長を襲撃したのはゲルマン至上主義結社「北方戦士団」団員、ベッカー情報部長を襲撃したのは反移民組織「本物の同盟人」団員だった。ゲルマン至上主義も反移民主義も好きではないが、信じるだけなら自由だ。しかし、軍人でありながらテロリスト認定された組織に加入し、軍用地の中で暴力事件を起こした。容赦するわけにはいかない。

 

 逮捕命令を出す二時間前、ウォルター・アイランズ国防委員長が通信を入れてきた。普段は何もしないくせに、こういう時だけは動きが早い。

 

「この件は内々で処理する。告発する必要はない」

「未遂も含めて二〇〇件以上の暴行事件。落とし前を付けないと、軍が軽く見られます」

「非合法組織が軍に浸透した。将校が捜査を妨害した。そんなことを公開できるものか」

「公開しなければなりません」

 

 俺はアイランズ委員長の目をまっすぐに見据えた。

 

「軍のイメージがさらに悪くなるぞ」

「こんな連中を野放しにすれば、もっと悪くなります」

「公にはしないが、野放しにするつもりもない。再発防止に全力を尽くす」

「懲戒処分なしなら、依願退職がせいぜいでしょう。野放しも同然です」

「そんなに事を大きくしたいのか!? 誰が責任を取ると思っている!?」

 

 アイランズ委員長は怒鳴り声をあげた。

 

「あなたの功績になります」

 

 俺は落ち着いた口調で応じた。責められたくないなら、自分が先頭に立って責めればいい。テロリストを糾弾し、揉み消し犯を処罰し、事なかれ主義を嘆き、軍首脳の無能を罵る。そうすれば、ウォルター・アイランズは英雄になれる。

 

「馬鹿なことを言うな!」

 

 予想通りの返答が返ってきた。アイランズ委員長は小物だが分をわきまえている。それゆえにトリューニヒト議長から重用された。こんな取引きに応じるはずがない。

 

「内々で処理することになったのだ! 国防委員会の決定だぞ! わかったか!?」

「かしこまりました」

 

 俺には引き下がる以外の選択肢が与えられていなかった。アイランズ委員長はメッセンジャーに過ぎない。決定権のない人間を説得したところで、何の意味もないのだ。ここで述べた意見はアイランズ委員長ではなく、バックにいる人間に向けたものだった。

 

 軍人連続襲撃事件はうやむやのうちに終わった。襲撃犯は依願退職させられた。揉み消し犯は左遷されただけで済んだ。懲戒処分を受けた者は一人もいなかった。

 

 その翌日、複数の国防委員から連絡が入った。国防委員会が今回の件で何らかの埋め合わせをするつもりだという。面子を潰してしまったと判断したのだろう。ヤン元帥が政治不関与を貫いているので、トリューニヒト政権は俺に頼らざるを得ない。

 

 

 

 宇宙暦八〇四年五月二四日は記念すべき日となった。ラインハルト・フォン・ローエングラムが初めて俺の名を口にしたのだ。

 

「エリヤ・フィリップスのごとき愚か者」

 

 それがラインハルトから下された評価であった。

 

 五月中旬、週刊誌がキャリー・ギールグッド引退の真相を報じた。エリヤ・フィリップス上級大将がギールグッド提督の行状を問題視し、引退を促したという内容だ。

 

 この記事が出た背景には、俺と国防委員会の合意がある。俺はギールグッド提督を引退させ、ムライ提督を後任に据えたい。国防委員会はギールグッド提督を引退させたいが、泥をかぶりたくない。両者の思惑が一致した結果、俺が名前を出すことになった。

 

「へえ、そうなのか」

 

 同盟市民は驚かなかった。あの「不沈艦キャリー」が自発的に辞めるはずがない。そして、彼女クラスの大物に引導を渡せるのは、ヤン元帥とフィリップス提督ぐらいのものだ。

 

「何ということだ!」

 

 帝国人は仰天した。あの「不沈艦キャリー」が引退に追い込まれた。最強の盾を自ら投げ捨てたのだ。信じがたいことである。

 

 報道の自由化により、同盟で刊行された新聞や電子が流れ込んだ。同盟情報は激増したが、それを読む者の価値観は変わっていない。週刊誌に記された「ギールグッドの不行状」は、帝国の価値観では罪ではなかった。強いていうなら不倫は罪だが、彼女ほどの強者なら許されてしかるべきであろう。さらに言うならば、民衆が上級大将に謝罪を求めること自体がおかしい。

 

 サジタリウス腕から流れてくる情報によると、エリヤ・フィリップスという男は兵卒から叩き上げた提督で、民衆受けが良いらしい。海賊やテロリスト相手の武勲など、奴隷が奴隷に勝っただけのことだ。ラグナロックでの武勲は、ウィレム・ホーランドに従ったおかげだろう。最大の功績とされるクーデター鎮圧にしても、クーデター軍が無能すぎた。第九次イゼルローン攻防戦では、大軍を擁しながらイゼルローンに引きこもった。要するに媚び諂いの輩だ。

 

 エリヤ・フィリップスの人格を疑う声は、サジタリウス腕でも小さくないらしい。ちょっと調べれば、フィリップス批判の記事がザクザク出てくる。

 

「反乱軍最高の名将がつまらぬ男に陥れられた!」

 

 帝国人はそう決めつけた。自国の名将が陥れられたかのように憤り、敵国の愚将を罵った。

 

「エリヤ・フィリップスのごとき愚か者」

 

 ラインハルトの怒りはひときわ大きく、エリヤ・フィリップスを激しく批判した。レベルの低い人間に関心を持たない彼が、敵将を名指しで批判するのは異例のことだ。

 

「なにもわかってない!」

 

 憤慨したのは俺ではなく、シェリル・コレット少将であった。

 

「言わせておけ」

「放置なさるのですか!?」

「敵に軽く見られても困らないよ。むしろありがたいぐらいだ」

 

 この言葉は強がりでも何でもなかった。敵が強ければ強いほど燃える男と戦うのなら、小物と思われた方がいい。

 

 獅子は兎を捕らえるにも全力を尽くすという。小物相手だとしても、ラインハルトは全力で戦うだろう。だが、それは作戦レベルの話だ。戦略レベルにおいては、ラインハルトは最も強い敵を意識した戦略を立てる。小物と思われたら動きやすくなる。

 

 ラインハルトに褒められるのは、大物だけに許された特権である。小物は小物らしくちまちま戦い、「くだらぬ奴」と言われればいいのだ。

 

 ギールグッド擁護論とフィリップス批判論はオリオン腕を席巻し、フェザーン回廊を通過し、サジタリウス腕に流れ込んだ。何かと外国を引き合いに出す連中が、「ギールグッド提督を引退させるべきではなかった」と言い出した。反フィリップス派がこの動きに便乗した。

 

「なにもわかってない!」

 

 憤慨したのは俺ではなく、シェリル・コレット少将であった。

 

「言わせておけ」

「放置なさるのですか!?」

「何をしたって反対する人間はいるんだ。いちいち腹を立てることでもない」

 

 この言葉は虚勢でも何でもなかった。自分のやることは絶対善ではない。正しくないと思う人や不利益を被る人から批判されるのは当然だ。

 

 かつて、トリューニヒト議長は「大きなものは大きいがゆえに憎まれる」と語った。大きなものはその影響力ゆえに多くの人々を巻き込み、運命を捻じ曲げる。俺の影響力は同盟軍人数千万とその家族の運命を左右しうる水準に達した。政治家や軍需企業も俺の顔色を窺っている。思想や利害が相反する人間にとっては、エリヤ・フィリップスは存在するだけで迷惑なのだ。

 

 俺はコレット少将の顔を見た。年齢差は五歳差であり、兄と妹と同じようなものだ。外見は俺が極端な童顔、彼女が年齢相応に色っぽい。しかし、関係においては親子に等しい。

 

 敵は周囲の人間を狙ってくるだろう。マスコミを総動員しても、エリヤ・フィリップスを潰すことはできない。ならば、側近を一人一人潰し、孤立させるのが上策というものだ。真っ先に狙われるのはコレット少将だろう。

 

「メディアに出演する予定はあるか?」

「ガーディアン八月号の美男美女特集に出ます」

「表紙か?」

「はい」

「そうか……」

 

 俺は心の中で舌打ちした。ガーディアンは同盟軍の広報誌で、大手月刊誌並みの部数を誇る。その表紙を飾るのは名誉なことだが目立ちすぎる。

 

 シェリル・コレット少将はアーサー・リンチ元少将の実の娘である。父親がエル・ファシルで醜態を晒した後、母親は離婚して旧姓を名乗った。この時、彼女と妹は姓をリンチからコレットに改めた。

 

 この事実を知る者は少ない。チーム・フィリップスでは俺一人だけだ。本人が隠しているものを勝手に言いふらすのもどうかと思い、口を閉ざしてきた。自分以外で確実に知っていると言えるのはセミョーノフのみである。彼女が士官学校に在籍していた頃の生徒や教官なら、知っていてもおかしくはない。セミョーノフのように仕事上の理由で知った者もいるはずだ。

 

 俺に反感を持つ者が、コレット少将の素性を暴いたらどうなるか? マスコミがハイエナのように群がるだろう。過去を隅々まで暴き立て、白日のもとにさらけ出し、傷口に塩をすり込む。コレット少将は俺を補佐するどころではなくなる。

 

「どうかいたしましたか?」

「いや、なんでもない」

 

 俺は何事もなかったかのように微笑み、コーヒーに口を付けた。砂糖とクリームとカフェインの力で心を落ち着かせる。

 

 できることなら、「ガーディアンに出るのはやめておけ」と言いたかった。コレット少将なら理由を聞かずに従うだろう。だが、広報部に迷惑をかけてしまう。人気軍人のスケジュールは数か月前からぎっしり詰まっている。彼女の代役を急に立てることは難しい。

 

 結局、これといった手立ては浮かばなかった。俺の人脈は軍関係に偏り過ぎている。マスコミにも伝手はあるが、スキャンダルを潰せるだけの影響力はない。

 

 家に帰った後、俺は端末の前で考え込んだ。一通のメールを何度も何度も読み返し、足りない頭を振り絞る。

 

 差出人はマスコミ関係に強いコネを持つ人物だった。大手新聞社の社長だろうが、イエローペーパーの編集長だろうが、金目当てのブラックジャーナリストだろうが、通信一本で話すことができる。

 

 俺の息がかかった国防委員たちも、あの人物ほどの人脈は持っていない。サリー・マッカラン国防副委員長の一族は、同盟とフェザーンの上流社会に閨閥を張り巡らせている。それでも、あの人物には及ばないのだ。

 

「この人と組んだら、マスコミ対策は万全になる。それはわかっている。わかっているけど……」

 

 俺はメールを隅々まで見つめた。要約すると「一度会いたい」というだけで、一度読めば理解できる内容だ。内容ではなく差出人の名前が俺をためらわせる。

 

 あの人物はあらゆる党派とあらゆる組織に「貸し」を作っている。マスコミ人脈はその一部に過ぎない。彼が差し出した手を掴むだけで、俺は政界、財界、官界、学界、報道界への足がかりを獲得できる。軍部だけでなく、各界を巻き込んだ国防体制建設が可能になるのだ。

 

 理性は「組め」とささやきかける。仲間に相談したところ、半数は「ぜひとも組むべき」、半数は「組むなら反対しない」と答えた。反対者は一人もいない。

 

 感情は「組みたくない」と叫ぶ。最高評議会議長ですら、あの人物にとっては取り換えのきく存在でしかない。彼と比肩しうる権力者は、銀河帝国皇帝、フェザーン自治領主、同盟最高裁長官ぐらいのものだ。強大なパワーを持っていることは認める。だからこそ好きになれない。

 

 あの人物は二〇年以上にわたって権力の中枢にあり、七八〇年代後半に頂点を極めた。最高権力者として、連立政権の内紛、支持率目当ての出兵、パトリオット・シンドローム、ラグナロック戦役、レベロ政権の暴走、ホワン政権とクリップス政権の混乱、トリューニヒト政権の迷走に直面した。それなのに「助言」を与えるだけで、自ら動くことはなかった。力があるのに責任を取ろうとせず、ひたすら事態を傍観したのだ。

 

「なぜ止めなかったのか」

「あなたなら止められたのではないか」

 

 そう問わずにはいられないのである。無能は罪ではない。単に力が及ばなかっただけだ。無為は罪である。力があるのになすべきことをなさなかった。

 

 俺は予言書『銀河未来記』を開いた。生まれ変わってから一六年も経つと、前の世界の記憶が怪しくなってくる。だから、前の世界の歴史を丸写ししたような本を手元に置いている。

 

「七九六年九月  同盟軍が帝国に侵攻するも、焦土作戦の前に苦戦」

「七九六年一〇月 同盟軍、黄金の獅子に大敗。宇宙艦隊の主力を喪失」

「七九七年四月  ハイネセンにおいて緑の人のクーデター発生。同盟は内戦に突入」

「七九八年四月  同盟政府、黒の魔術師を査問にかける」

「七九八年八月  わがまま皇帝、同盟に亡命」

「七九九年五月  小さな狼、ハイネセンに侵攻。自由惑星同盟降伏」

「七九九年七月  同盟政府、黒の魔術師の謀殺を図るも失敗」

 

 これらの出来事は政治の力で止められたはずだ。そして、あの人物は前の世界においても権力の中枢にいたが、適当な「助言」をするだけで、責任から逃げ回った。

 

 個々の事件は大きな流れの中の一場面に過ぎない。前の世界の同盟を滅亡に至らしめたのは、帝国領侵攻作戦「諸惑星の自由」だ。アンドリュー・フォークやラザール・ロボスを抹殺したところで、別の人間が似たような作戦を進めただろう。

 

 諸惑星の自由に至るレールは、ずっと前から敷かれていた。戦記には記されていないが、サンフォード政権の低支持率の原因は慢性的な経済不振である。イゼルローン無血攻略という空前の勝利も、不景気と失業には太刀打ちできない。戦争が唯一の政権浮揚の手段という状況は、ずっと前から続いていた。三〇年近く守勢を強いられてきた同盟市民は、鬱屈を晴らす場を求めていた。事を起こした人間ではなく、事を起こせる状況こそが問題なのだ。

 

 あの人物は二〇年以上にわたって権力の中枢にあり、流れ全体に関わっていた。短くて数か月、長くても二年で交代した最高評議会議長より影響力は大きく、責任は重い。まして、軍人とは比較にならない。

 

 前の世界の戦記によると、ヤン・ウェンリーは「安全な場所に隠れて戦争を賛美し、愛国心や犠牲精神を強調し、他人を戦場に送り出す人間」を何よりも嫌った。要するに主戦派の指導者が嫌いなのだ。

 

 軍人としてはヤン元帥に共感するが、主戦派の一員としては指導者を批判できない。生命の危険がないという点において、指導者は兵士よりずっと安全であろう。ただ、指導者は彼らなりのリスクを負っている。彼らは大勢の人間の期待を背負っており、それに応える義務がある。期待を裏切った瞬間、支持者は牙を剥いてくる。指導者とは玉座に据えられた奴隷にすぎない。真の主人たる支持者からボロクズのように捨てられても、文句は言えないのだ。

 

 それゆえ、俺は政治家やオピニオンリーダーに一定の敬意を払っている。無能さに苛立ちを覚えることもあるし、俗悪さに辟易することもある。それでも、大勢の人間に対する責任を負い、リスクをとっているという点において尊敬できる。

 

 前の世界のヨブ・トリューニヒトは、「保身の怪物」「無責任の権化」と言われる。だが、政治に関わった経験からみると、彼は保身に失敗したし、相応の制裁を受けている。帝国への降伏を強行し、主戦派の期待に背いた時点で政治家として死んだ。「支持者をなくしましたが、生命は残りました」というのは、保身の失敗に他ならない。支持者もスポンサーもブレーンもいない政治家など、凡人にも劣る。だからこそ、官僚や立憲運動家としてソロ活動しなければならなかった。

 

 あの人物はトリューニヒト議長をはるかにしのぐ力を持ちながら、「助言」を与えるだけで丸投げという姿勢に終始し、一切のリスクから逃げ続けた。彼の無責任な態度こそが同盟を滅ぼした。

 

 はっきり言うと、麻薬王ルチオ・アルバネーゼにも劣る人物だと思う。アルバネーゼは悪逆非道の男だが、悪党なりの信念はあったし、リスクを負う覚悟もあった。独善ではあっても最低限の筋は通っていた。

 

 さんざん罵倒してきたが、それでも俺はあの人物と組まねばならないのである。あの人物が動かなかったために同盟は滅びた。逆に考えるならば、あの人物を動かせば同盟を救うことができる。

 

「そんなにうまくいくものか」

「相手は本物の怪物だ。二〇年以上も魑魅魍魎の巣で生き残ってきたんだ。小物の手に負える代物じゃない」

「動かしたつもりが動かされるのがオチさ」

「自分ならうまくやれる。他の連中だってそう思っていたんじゃないか?」

 

 頭の中に警報が鳴り響く。そんなことはわかっている。小物が怪物に勝てるはずがない。取って食われるのがオチだろう。わかっているんだ。

 

「でもな、怪物の一つや二つ、飲み込めないようじゃ勝負にならないんだよ」

 

 小物が不世出の天才ラインハルト・フォン・ローエングラムに挑むのだ。政界の怪物ごときを恐れてどうする。飲み込んで糧にしろ。飲み込めないなら舞台に引っ張り出せ。数世紀に一人の英雄を相手取るなら、それぐらいのことはしてみせろ。

 

 俺は返事を書き上げると、送信ボタンを押した。今年の一一月、クーデター鎮圧三周年を記念する式典に出席するため、首星ハイネセンに出張する。その際にあの人物の家を訪問することになった。

 

「歴代議長の指南役」

「最大最強のフィクサー」

「サジタリウス腕の守護者」

「自由惑星同盟皇帝」

「闇議長」

「全能者にして万能者」

「不滅の人」

「老魔王」

「一三〇億人の師」

「腐敗の元凶」

「八世紀最大の妖怪」

「銀河の四割を支配する男」

「共和制最後の砦」

 

 これらはあの人物を形容する言葉の一部に過ぎない。名前を直接呼ぶのが畏れ多いから、異名をつけたのではないか。

 

「エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ」

 

 サジタリウス腕最大の学閥、国立中央自治大学閥の頂点に立つ男の名には、そう錯覚させるだけの重みがあった。



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第122話:不都合な真実 804年5月下旬~7月24日 惑星シャンプール

 二〇三九年一二月三一日、電子化時代は終わりを告げた。北方連合国家と三大陸合州国の局地的な紛争が、全面核戦争に発展したのである。核ミサイルが地表を焼き尽くした。核爆発の副産物として生じた電磁パルスが地表に降り注いだ。電子媒体と磁気媒体は記憶喪失に陥った。膨大な知識と富が消え失せた。それは数十億人の死に勝るとも劣らない損失であった。

 

 紙だけが人類の手元に残された。そのほとんどは核の炎で焼かれた。焼け残ったものの多くは、核の冬を乗り切るために燃やされた。わずかな生き残りが文明の記憶を語り継ぎ、人類復興の戦いを助けた。

 

 人類にとって紙は友であり恩人なのだ。優秀な記憶媒体とは言い難い。堅牢さにおいては比類ないが、収納性や軽便性に問題がある。それでも人類は紙を信じ続ける。

 

「受肉が完了いたしました」

 

 澄み切った機械音声が作業終了を告げた。「受肉」という言葉を使うのは、十字教製品特有の仕様である。各宗教が聖具として販売するプリンターは、安くて使いやすい。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は感謝の敬礼を捧げた。十字教徒ではないので、片膝をついて聖人の名を讃えたりはしない。楽土教徒ではないので、両手を合わせてお辞儀をすることもない。美徳教徒ではないので、両手を広げて聖句を唱えることもない。地球教徒ではないので、握りこぶしを掲げて大地神の名を叫ぶこともない。常識人として最低限の敬意を示すのみだ。

 

 プリンターが印刷してくださった名簿は、紙そのものの尊さを差し引いても価値がある。エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ博士と付き合いのある人々の名簿なのだ。俺はこの名簿を『Oファイル』という題名のファイルにまとめた。

 

「この名簿は挨拶代わりだ。登録者に会いたいと思ったら、私に連絡しなさい。私が相手にそのことを伝えよう。会えるかどうかは相手次第だ。理由や目的は一切問わない。話し合いの中身には一切関知しない。見返りは一切求めない。遠慮はいらない。感謝は必要ない」

 

 名簿に添付されたメールには、そう記されていた。「自分はメッセンジャーであり、責任を負う気はない」という態度が透けて見える。

 

「気に入らないな」

 

 そう呟いたものの、内面から湧き上がる喜びを抑えられない。喉から手が出るほど欲しいものが手に入ったのだ。

 

 俺はオリベイラ博士にメールを送り、マスコミ幹部や広告代理店幹部との仲介を依頼した。意のままに動いてくれる記者は数えきれない。新聞社のデスク、キー局のプロデューサー、雑誌の編集長も抱き込んでいる。彼らは都合のいい報道を流すことができるが、都合の悪い報道を潰すことはできない。報道機関に圧力をかけるには、経営サイドとのパイプが必要だ

 

 通信画面越しに会った第四権力の長たちは、権力者というより役人に見えた。こちらの言いたいことを一瞬で理解できる。言葉は簡潔だが要点を押さえている。人当たりが良く、話しているだけで良い気分にさせられる。エリート学という学問があるなら、彼らは生きた見本例になるに違いない。だが、凄みというものに欠ける。

 

「なんだ、普通の人間じゃないか」

 

 そう呟く俺の内心は安心と失望が半々であった。相手が怪物でなかったことに安心したが、怪物であってほしいという願いは裏切られた。

 

 今の気持ちをわかってくれる人は一人しかいない。帰宅して入浴し、余所行きの服に着替えてから超高速通信のスイッチを入れた。一分もたたないうちに、高貴な老人が画面に現れる。

 

「なんだ、また質問か」

「愚痴を聞いていただきたいのです」

「政治の愚痴かね」

「ええ。閣下ほど政治にお詳しい方はおりませんので」

 

 これはお世辞でも何でもなかった。ファルストロング伯爵には、生の政治に関わった経験という得難いものがある。

 

「良かろう。愚民を導いてやるのは、貴族の義務であるからな」

「ありがとうございます」

「感謝には及ばぬ」

 

 ファルストロング伯爵は嘲るように笑うと、俺の愚痴に耳を傾けた。

 

「ふむ。権力者が小物ではありがたみがない。自分ごときでは及びのつかない大物でなくば困る。卿はそう言いたいのだな」

「その通りです」

「小物らしい言い草だ」

「寄らば大樹の陰と言うじゃないですか」

「卿は大きくなりすぎた。どんな大樹も卿にとっては小さすぎる」

「いえ、彼らが小さいんです。穴埋めで出世した連中じゃないですか」

「大物とは誰のことだね?」

「ミスター・イソベ、ミセス・パパナイ、ミスター・ブロック、ミス・エリュアール、ミスター・ヨルダンのような人です」

 

 俺は数年前までマスコミに君臨していた人々の名をあげた。「リパブリック・ポストのゴッドファーザー」パブロヴィッチ・イソベ、「フロリス街(国営放送本社所在地)の最高評議会議長」チンタラー・パパナイ、「ミスター視聴率」アルヴィン・ブロック、「広告界の女帝」オリヴィア・エリュアール、「空気製造者」ユーリ・ヨルダンらは、真の大物と呼ぶに値する存在だった。

 

「卿に叩き落とされた連中ではないか」

「彼らを追放したのはトリューニヒト議長です」

「エリヤ・フィリップスは再建会議を倒した。イソベ、パパナイ、ブロック、エリュアール、ヨルダンを同時に相手取り、完全勝利を収めた」

「俺一人の勝利ではありません。民主主義の勝利です」

「違う」

 

 ファルストロング伯爵は俺の瞳を正面から見据えた。逃げを許さないと言わんばかりである。

 

「エリヤ・フィリップスの勝利だ」

 

 三年前、ボーナム防災公園で同じ言葉を聞いた。発言したのはマティアス・フォン・ファルストロングではなく、ジョアン・レベロであった。あの時は理解できなかった。今なら理解できる。

 

「あの時はそれでも良かった。民主主義は救われた。エリヤ・フィリップスは英雄になった。めでたしめでたし。エリヤ・フィリップスの勝利は、おとぎ話として完結するはずであった」

「俺もそれを望んでいました」

「だが、物語は完結しなかった。おとぎ話の英雄は現実に飛び出した。怪物を葬った剣を振るい、さらなる高みを目指した」

「そんな大層なものではありません」

 

 俺は肩をすくめた。大きな望みがあるわけではない。自分がやるしかないと思っているだけだ。

 

「自分ならうまくやれるはず。そう信じているのであろう?」

「現状においてはそうですね」

「権力欲などよりずっと立派な野心じゃよ」

「他にできる人がいれば、俺ごときが出しゃばる必要はないんです」

 

 これは建前でも何でもなく、完全な本音であった。トリューニヒト議長が優柔不断でなければ、理想を託すこともできた。レベロ議員が軍縮論者でなければ、手を取り合うこともできた。ヤン元帥が自由至上主義者でなければ、すべてを任せることもできた。誰もできなかったから、小物が代役を務めざるを得ない。

 

「焦ることもなかろうに。卿はまだ若い。時間をかけて足場を固めればいい」

「それでは遅すぎます。猶予は残されていないのです」

「誰と戦おうというのだ? 帝国は自滅しつつある。エル・ファシル革命政府はしつこいがそれだけだ。分離主義勢力には同盟を割る力などない。あえて勝負に出る必要はないのだぞ」

「善は急げと言います。一日でも早く粛軍を実施し、腐敗を一掃しなければなりません」

 

 俺は表向きの名目である粛軍を口にした。本当の目的を明かしたところで、頭がおかしくなったと思われるだけだ。

 

「まあ、年寄りが口を差し挟むことでもないな。じゃが……」

 

 ファルストロング伯爵は興味なさそうに言い、話題を変えた。

 

「政治の話ができる知り合いは他におらんのか?」

「素人なら大勢います。プロはトリューニヒト議長と閣下だけです」

 

 我ながら未練がましいと思うが、父親のように慕った人を他人扱いすることはできない。

 

「馴染みの官僚や学者はおるじゃろう?」

「知り合いならいるんですけどね。知り合いってだけです」

「帝国軍のエリートは軍服を着た官僚だ。軍務省や統帥本部にいれば、文民と一緒に働く機会は多い。同盟軍も似たようなものではないのか?」

「同じです。国防委員会、統合作戦本部、宇宙艦隊総司令部あたりにいれば、官僚や学者と付き合う機会は山ほどあります。他省庁からの出向者がいます。嘱託として雇われた民間人研究者もいます。でも、俺はそういう部署で働いたことがないんです」

 

 出世街道を駆け上がった俺だが、本当のエリートコースを歩いたわけではない。最初は単なる事務職、その次は不人気兵科の憲兵だった。花形の艦隊畑に転じたものの、軍政や軍令の中枢とは無縁のまま過ごした。

 

 司令官が出会う文民はあくまで外部の人間だ。役人は交渉相手もしくは一時的な協力者、学者は外部有識者に過ぎない。濃密な関係は望めないのである。

 

「民間人ブレーンはわしだけなのじゃな」

「政策調整部や広報部には民間人職員がいます。その一部はブレーンとして活用できる人材です。ただ、愚痴を聞いてくれるほど親しい人はいません」

「そこが卿の最大の弱点というわけか」

 

 ファルストロング伯爵は考え込むように顎を撫でる。

 

「素晴らしい贈り物をいただきました。存分に活用させていただきます」

 

 俺はOファイルをスクリーンの前にかざした。

 

「礼ならエンリケに言うべきではないかね」

「オリベイラ博士にこれを送らせたのはあなたでしょう?」

「気づいていたか」

「あの人は小心者です。自分を嫌う相手にわざわざ声をかけたりしません。誰かの口添えがあったと考えるのが自然です」

「いらぬお節介だったか?」

 

 答えはわかり切っているのに、ファルストロング伯爵はあえて質問した。高貴な顔に悪戯に成功した悪ガキのような笑みが浮かんでいる。

 

「喜んで受け取らせていただきます」

「迷惑料だと思え」

「御冗談を。迷惑をかけているのはこちらです」

「わしは嫌われ者なのでな。付き合ってくれるのは、卿やエンリケのような物好きだけさ」

「物好きなのは伯爵閣下でしょう。俺なんかに付き合ってくださるのですから」

 

 これは社交辞令でも何でもなく、純粋な本音であった。一国の最高行政官だった人が個人的な相談に乗ってくれる。身に余る幸運だと思う。

 

「わしには家族も家臣もおらぬ。今さら亡命貴族のサロンに足を運ぼうとも思わぬ。一人で生きて一人で死ぬつもりであった。自分の所業を思えば、やむを得ないことだ。だが、退屈せずに済むのならば、それに越したことはない」

「だったらウィンウィンですね」

 

 俺は歯を見せて笑い、右手の親指を立てた。迷惑料などいらない。感謝などいらない。貸し借りを清算する必要はないのだ。ひねくれた老貴族との関係は永久に続く。続いてもらわないと困る。

 

「わしは今年で八四歳じゃ。順当にいけば、卿より四八年早く死ぬ。元気なうちに遺産を譲っておきたいのさ」

 

 ファルストロング伯爵は当たり前の事実を口にした。老人は若者より早く死ぬ。彼は俺より早く死ぬ。

 

「寂しいことをおっしゃらないでください」

 

 俺は演技者としてあるまじきミスを犯した。笑顔を作ることができなかった。

 

「悪い奴ほど長生きするという。リヒテンラーデは去年死んだ。ならば、次はわしの番であろう」

「医学上の平均寿命は九四歳。まだ一〇年もあります」

「帝国貴族の平均寿命は八三歳。わしはいつ死んでもおかしくない」

「あなたは同盟人です。だから、寿命も同盟人と同じです」

「亡命者は亡命時期によって平均寿命が変わる。亡命が早いほど老化が遅くなる。中年以降に亡命した者の寿命は、帝国人とほぼ等しい」

 

 ファルストロング伯爵は誰でも知っている常識を述べた。理由は不明だが、帝国人は同盟人より老化が早い。何も知らない同盟人がファルストロング伯爵と対面したら、九〇歳を超えた高齢者だと勘違いするだろう。有り余る富を持つ貴族も老化には勝てない。クラウス・フォン・リヒテンラーデは八三歳、リヒャルト・フォン・グリンメルスハウゼンは七六歳で生涯を終えた。

 

「キング・マーキュリーは五〇歳で亡命しましたが、一八六歳まで生きました。あなただって長生きできます」

「超人と普通の人間を比べるな」

「あなたは冷酷非情のファルストロングじゃないですか。悪い奴ほど長生きするのなら、簡単には死にませんよ。一〇〇歳、いや一二〇歳まで生きます」

 

 俺は必死で食い下がった。自分でも詭弁とわかっていたが、それでも言わずにはいられない。

 

「中途半端に善行を積んでしまったのでな。図書館員の仕事を楽にしてやった。あれがなければ、一五〇歳まで生きられたのじゃが」

 

 ファルストロング伯爵の冗談は少々毒が強すぎた。一三日戦争以前の文献を含む古書二〇〇〇万冊を焼き捨てた「帝国図書館焚書事件」は、彼の悪名を不動のものとした事件である。

 

「三〇〇万人を収容所送りにした件があるじゃないですか」

「ああ、そういうこともあったな。わしにしては珍しい善行であった」

 

 知識人三〇〇万人を粛清した「正しい歴史観事件」は、帝国図書館焚書事件とともに彼の最大の悪行として名高い。

 

「そんなことを言われても……。今さらあなたを嫌いになったりはしませんよ」

「この二つだけは掛け値なしに善行だと思っているぞ。わしの本を読んだじゃろう?」

「ええ……」

 

 俺はファルストロング伯爵の著書をすべて読破した。帝国時代の過ちを率直に認める姿勢は、他の亡命者が書いた本と一線を画する。だが、帝国図書館焚書事件と正しい歴史観事件については、正当性を頑なに主張し続けた。

 

「悪党と付き合ったら、卿の名に傷がつくぞ」

「構いません」

「卿は頂点を目指しているのであろう。少しの傷が命取りになりかねん」

「頂点を取るにはあなたの力が必要です」

「卿は大きくなった。今さらわしの力など必要あるまい」

「そんなことはありません。教えていただきたいことがたくさんあります」

「ならば、別の者から教えてもらえ。わしが知っていることは、誰でも知っている」

 

 ファルストロング伯爵は子供を突き放す親のように言った。

 

「誰でも知っているのならば、あなたに教えていただきたいと思います」

「わしでなければならない理由などない」

「あなたでないと駄目なんです」

「わがままを言うな」

「マティアス・フォン・ファルストロングと同じことができる人は、たくさんいます。ですが、マティアス・フォン・ファルストロングは一人しかいません」

 

 俺はファルストロング伯爵を真正面から見据えた。首を縦に振るまで退かない。視線でそう語りかける。

 

「永久でないからといって、今すぐ別れる必要もないでしょう。その日がいつ来るかはわかりません。一年後かもしれませんし、五年後かもしれません。わかりませんが、最後までお付き合いさせてください」

「後悔するぞ」

「失うことには慣れています。軍人ですから」

「馬鹿者が……」

 

 ファルストロング伯爵はこれ見よがしにため息をついた。心底呆れたと言いたげである。

 

「ありがとうございます」

「死ぬまで付き合ってやる。だが、ブレーン探しを怠ることは許さんぞ。わしは万能ではないのだからな」

「心得ております」

 

 俺にとってブレーン探しは急務であった。安全保障は軍事力のみで成し得るものではない。前の世界のヤン・ウェンリーは百戦百勝したが、同盟を守れなかった。政治、経済、社会、法律などあらゆる分野の専門家を結集し、国家全体を視野に入れた戦略を立てる必要がある。

 

「古人は『君主の頭脳の程度は、その側近を見ればわかる』と言った。『人を見る目がある無能』なるものは存在せぬ。無知な者は専門知識をちりばめた詭弁を鵜呑みにする。実情を知らぬ者は、点数稼ぎで得た見せかけの実績に惑わされる。使える人材と役立たずを見分ける方法は一つしかない。卿自身の能力を高めることだ」

「力の限り努力いたします」

「ローエングラムを反面教師とせよ。あの男は優秀な軍人だが、軍隊以外の世界を知らなかった。知ろうともしなかった。だから、ブラッケやシルヴァーベルヒにたぶらかされたのだ」

 

 ファルストロング伯爵は、ラインハルトがブレーンに振り回されていると決めつけた。比類ない武勲の持ち主とはいえ、最終学歴は幼年学校卒に過ぎず、高等教育を受けていない。無知無学ゆえに詭弁家や空論家の言葉を鵜呑みにした。そう考えることで、自分を納得させていた。

 

「肝に銘じます」

 

 俺は二つ返事で頷いた。ラインハルトがブレーンに振り回されるとは思えない。それでも、真心からの忠告は有難いものだ。

 

「卿はハイネセンに来るのは一一月だったな」

「はい」

「最初に会った時の約束を覚えているか?」

「覚えております」

「うまい茶を飲ませてやる。ガニメデ自治領のショーグンティー。銀河にショーグンティーは数あれど、ガニメデ産の右に出るものはない」

「楽しみにしております」

「わしも楽しみじゃよ」

 

 ファルストロング伯爵は目を細めて微笑んだ。とても優しくて暖かい目だった。

 

「最後まで退屈せずに済みそうだ」

「永遠に退屈させませんよ」

 

 俺はできもしないことを言った。「最後」を「永遠」と言い換えたところで、永遠の命が約束されるわけでもない。こんなものは言葉遊びだ。馬鹿馬鹿しいが、終わりを認めるよりずっといい。

「そいつは有難い」

 

 大物は小物の逃げを許した。いつもの憎まれ口はなかった。こちらの気持ちを汲んでくれたのであろう。

 

 通信が終わり、スクリーンが真っ黒になった。形容しがたい寒々しさが心を怯ませた。ファルストロング伯爵との関係は永遠ではない。当たり前の事実がなぜこんなに恐ろしいのか。

 

 俺はファルストロング伯爵に嘘をついた。「失うことには慣れています。軍人ですから」という言葉は出まかせだ。ダーシャ・ブレツェリがいなくなった時も、レヴィ・ストークスが自決した時も、イーストン・ムーアがテロに倒れた時も、ルチエ・ハッセルが憎しみとともに死んだ時も、マルキス・トラビが自分の代わりに死んだ時も、ジュリエット・ヴィゴを射殺した時も、マルグレート・ゲーベルが殺された時も、ジュディス・ヒルが「故郷に帰りたい」と泣きながら死んだ時も、冷静ではいられなかった。

 

「ジュリエット・ヴィゴ? マルグレート・ゲーベル? ジュディス・ヒル? 誰だっけ?」

 

 知らない名前が飛び出したことに驚き、俺の脳内のサーチエンジンが起動した。ジュディス・ヒルの名前は聞いたことがある。二年前に知り合った老人が、俺が兵隊だった頃の友人だと言っていた。

 

 他の二人は何者だったか。前の世界の知り合いであることは間違いない。この世界で知り合った人間のことは覚えている。

 

「思い出せないな……」

 

 やり直した頃はそれなりに鮮明だった前の世界の記憶も、今は輪郭すら怪しくなりつつある。軍人として過ごした一六年間は勉強の連続であった。俺の頭脳の容量は大きくない。新しいことを覚えれば、古い記憶は消えていく。戦記関連の記憶は繰り返し引っ張り出してきたので、薄くなっても消えてはいない。使う機会もないプライベートの記憶が犠牲になる。

 

「まあいいや」

 

 俺は立体テレビのスイッチを入れた。非生産的な検索を打ち切ったが、生産的なことができる精神状態でもない。テレビでも見ていれば、気がまぎれるだろう。

 

「同盟はおしまいだ!」

 

 色付き眼鏡をかけた初老の男性が、大声とともに飛び出してきた。ジャーナリストのマレマ氏である。

 

「実質成長率! 失業率! 財政収支! 債務残高! 物価上昇率! 賃金上昇率! 全部、最悪だ! 同盟は崩壊間近なんだよ! 私がそう言ってるんじゃない! 数字がそう言ってるんだ!」

 

 マレマ氏は真っ赤に染まったグラフを指さしながら叫んだ。

 

「なんでトリューニヒト政権なんて支持するの!? 考えてないでしょ!? 政治は他人事じゃないんだ! 自分の事なんだよ! ちゃんと考えようよ!」

「考えて支持してるんだけどね」

 

 俺はマレマ氏に反論するように呟いた。ハイネセン主義者に任せたら焼け野原になる。精彩を欠いたトリューニヒト議長でも、元気なハイネセン主義者より百倍ましだ。そう確信している。

 

 そもそも、ハイネセン主義のモデルがおかしいのだ。公共投資の乗数をマイナス、公務員や公共事業従事者を失業者として計算している。公務員と公共事業を増やせば、経済が活性化しても成長率が低下し、失業率が上昇する。公務員と公共事業を減らせば、失業者を大量に出しても成長率が上昇し、失業率が低下する。こんなモデルに基づいた分析など、何の役にも立たない。

 

 チャンネルを変えると、真っ赤に染まったグラフとスーツ姿の若い男性が現れた。さっきの番組と比べると、ソフトな雰囲気を感じる。

 

「財政収支の対GDP比は前年比マイナス二一・六パーセント、経済成長率は前年比マイナス六・二パーセント、失業率は二六・七パーセント。この数字は何を意味するのでしょうか?」

 

 司会者は生真面目そうな表情で問いかける。

 

「帝国も大変だなあ」

 

 俺はため息まじりに同情した。敵国とはいえ、他国の窮状を手放しで喜べるほど憎んでいるわけではない。

 

「ハイネセン経済学の権威、バーナード・トリム教授に解説していただきましょう」

 

 司会者が俳優のように端整な風貌を持つ初老の男性に発言を促した。

 

「一つ一つ見ていきましょう。まずは……」

 

 トリム教授は立て板に水を流すような語り口で解説する。易しい表現とたとえ話を駆使して、難しいことをわかりやすくかみ砕く。温和な笑顔は目に優しい。柔らかい声が耳に心地良い。言葉の一つ一つが脳細胞に染み入っていく。本当に頭のいい人とは、彼のような人だ。

 

「なるほどなるほど。確かに同盟経済は……。ちょっと待て!」

 

 俺は半ば納得しかけていたが、不意に正気を取り戻した。何か何までおかしい。画面に表示されたグラフは、すべてハイネセン主義に基づいたものではないか。前提からして間違っている。

 

「こいつはトリム教授じゃねえか!」

 

 ぼんやり話を聞いていたので、この男があのトリム教授だということを忘れていた。ラインハルト・フォン・ローエングラムですら、自由惑星同盟に与えた損害という点では、彼に一歩を譲る。

 

 ハイネセン記念大学大学院経済研究科のバーナード・トリム教授は、ハイネセン経済学者の最高峰とされる。「実践できない理論は無意味」という信念を持ち、ハイネセン経済学を現実に生かすことに力を入れた。政策提言を行うだけでなく、自ら実務に携わった。

 

 トリム教授が関わった政府や企業はあまりに多いので、一つ一つ説明することはできない。国民平和会議(NPC)・進歩党連立政権の経済顧問会議議員、エル・ファシルのアマビスカ政権の経済戦略顧問、解放区民主化支援機構(LDSO)の経済改革本部長、レベロ政権の中央銀行総裁……。これらの肩書きから察してもらいたい。彼の理論は、ハイネセン主義の定義においては完全な成功を収めた。公務員と財政赤字を減らしたが、失業者を量産した。

 

 民主政治再建会議のクーデターが失敗に終わった後、トリム教授はクーデター協力者として懲戒免職になった。実のところ、協力者どころでは済まない疑惑がある。再建会議は表看板に過ぎず、「一〇愚人」と称する集団がクーデターを指導していた。彼が一〇愚人の一人だった可能性は極めて高い。

 

 憲兵隊幹部の一人は、「状況証拠のみで裁いていいなら、トリムを死刑台送りにできる」とオフレコで語った。しかし、決定的な証拠がない。ボロディン元大将が自決し、ブロンズ元大将が黙秘を貫いた。物証はブロンズ元大将の手で抹消された。トリム教授と一〇愚人を繋ぐ糸は消えた。

 

 半年もしないうちにトリム教授は復職した。現在は反戦・反独裁市民戦線(AACF)のブレーンとなり、経済政策を立案している。

 

「同盟経済を立て直す方法は一つしかありません。財政再建です」

 

 画面の中では、トリム教授が淀みなく語り続けている。

 

「付加価値税を現在の三倍に引き上げます。受益者負担の原則に則り、社会保障の受益者たる低所得層への課税を強化します。所得税は不公平な累進課税を廃止し、公平なフラット・タックス(一律税率)を導入します。国家公務員は多すぎる上に給料をもらいすぎているので、半数を解雇し、残り半数は給与を最低三割カットします。社会保障を給付型から自立支援型に転換し、社会的弱者の自立と支出削減を進めます。常備兵力を七割削減し、民間へのアウトソージングを進め、同盟軍をスリム化します。過剰な軍人向けの福祉を適正な基準に引き下げます」

「思い切った改革ですね」

「これは応急手当てに過ぎません。財政破綻を水際で食い止めた後、本当の改革を始めます。一切容赦せず、一切妥協せず、一切躊躇せず、一切手加減せず、徹底的にやります」

「徹底的にやる。これが最も困難です」

「答えは簡単にわかるんです。真面目に考えたらすぐわかる。みんな知っている。わかっていてもできない。だから、安易なバラマキに逃げてしまう」

「財政再建は財政赤字との戦いであると同時に、弱さとの戦いでもあるのですね」

「その通りです。僕はバラマキ論者や手加減論者を愚かだとは思いません。一人一人は真面目で善良です。だけど弱い。トリューニヒト議長は悪の権化みたいに言われてますけどね。実際は朗らかで優しい人なんですよ。でも優しすぎる」

「そうなのですか?」

 

 司会者は信じられないといった顔をする。

 

「そうなんだよ」

 

 俺は生まれて初めてトリム教授を支持した。

 

「僕は今でもレベロ先生を尊敬しています。あの人は本当に頭がいい。普通の人は正解を捜すんです。僕もそうです。でも、レベロ先生は違います。最初から正解しか見えていない。間違えたくても間違えられないんです。でも、挫けてしまった。刺客に襲われたのがまずかったのでしょう。だから、しょうもないアジテーターの口車に……」

「…………!」

 

 俺はブラスターをしたり顔の学者に向かって投げつけた。自分を悪く言うのは許そう。しょうもないアジテーターなのは事実だ。しかし、レベロ議員を臆病者呼ばわりすることは許さない。あの決断がどれほど勇気のいるものだったか。再建会議のど真ん中にいたくせに、そんなこともわからないのか。

 

「無知な者は専門知識をちりばめた詭弁を鵜呑みにする」

「実情を知らぬ者は、点数稼ぎで得た見せかけの実績に惑わされる」

 

 ファルストロング伯爵の言葉が頭の中を駆け巡る。トリム教授こそ専門知識を散りばめた詭弁、点数稼ぎで得た見せかけの実績の生きた見本だ。

 

 俺よりずっと頭が良くて教養のある人たちが、口を揃えてトリム教授を絶賛していた。シトレ元帥は彼のアドバイスに耳を傾けた。キャゼルヌ教授は彼の引きによって、ハイネセン記念大学に職を得た。アッテンボロー大将は彼の弟子をイゼルローンに招き、経済政策を委ねた。ハイネセン主義を信奉する者にとって、その理想を体現するトリム教授は眩しく見えるのだろう。

 

 人を見抜くことは本当に難しい。有能な人が有能ゆえに惑わされることもある。実情を知っている俺ですら、一瞬「正しいかも」と思ってしまった。あるいはトリム教授こそが本当に正しく、俺が間違っているのかもしれない。

 

 いずれにせよ、俺には走り続ける以外の道などなかった。勤務時間中は、対テロ戦や海賊討伐の指揮をとり、下から上がってくる書類を決裁し、国防委員会や統合作戦本部と折衝し、トラブル処理に駆け回り、訪問者を出迎え、外の会議に出席する。自由な時間は、肉体を鍛え、高級軍人として必要な知識を学び、私的な研究会を主宰し、華やかなパーティーに出席し、こじんまりした飲み会を開き、部下や知人の相談に乗り、同志とともに謀略を練り、総軍公式サイトを更新する。そんな日常にブレーン探しと軍事以外の勉強が加わった。

 

「寝る暇もない!」

 

 俺のスケジュールは、過密を通り越して殺人的な水準に達した。他人に任せられる仕事は可能な限り任せた。司令官としての仕事を副司令官や参事官と分かち合った。自分に集中した権限を部下に委譲し、多くのことを現場で処理できるようにさせた。それでも自分にしか処理できない仕事は山ほどある。私的な社交や話し合いは誰にも任せられない。

 

 今や自然睡眠は宝石のように貴重なものとなった。タンクベッドで体の疲れを癒し、車や飛行機の座席で自然睡眠をとり、限界が近くなったら仮眠室に駆け込む。一日の平均睡眠時間は二時間を割り込んだ。足りない分は糖分に頼った。マフィンの量が倍に増えた。

 

 七月二四日、同盟軍広報誌『ガーディアン』八月号が発売された。美男美女特集と称するだけあって、選りすぐりの美男美女が表紙を飾っている。左から一番目がアッシュ・ブロンドのセクシー美女、二番目が栗毛で雪のように白い肌の乙女、三番目が黒髪で小麦色の肌の女神、四番目が黒髪のクールなイケメン、五番目が気品と優雅さにあふれる茶髪の貴公子、六番目が見るからに軍人らしい短髪のナイスガイだ。

 

 クールなイケメンは姓をヤン、名をウェンリーという。引き締まった顔は三七歳と思えないほどに若々しい。小柄ではないが長身でもなく、美丈夫というには身長が足りない。だが、軍服をまとった肉体はひとかけらの弛みもなく、機械的なまでに正しい姿勢を保つ。オールバックにした長めの黒髪が、モスグリーンのベレーとよく似合う。その姿は生まれながらの英雄、軍人の中の軍人というにふさわしい。

 

「写真詐欺ですね」

 

 参謀長マルコム・ワイドボーン大将は決めつけるように言い放った。ヤン嫌いとしての意見ではなく、士官学校同期としての意見である。

 

「元は悪くないから」

 

 俺の言葉は社交辞令ではなく本音だった。普段のヤン元帥は表情に締まりがなく、ぼさぼさの髪を伸ばしっぱなしにして、背を丸めながら歩く。これではイケメンが台無しだ。

 

 ヤン・ウェンリーに対して辛辣な『レジェンド・オブ・ザ・ギャラクティック・ヒーローズ』ですら、その容姿を「見る人によってはハンサムに見えなくもない」と評した。表情を引き締め、髪をセットし、背筋をまっすぐに伸ばせば、「見る人によってはハンサム」が文句なしのイケメンに生まれ変わる。軍人がメディアに出る時は、国防委員会所属のスタイリストが身だしなみを整えてくれる。だから、一般人はヤン元帥をクールなイケメンだと思っている。

 

 ヤン元帥の左隣で光り輝く女神は、アマラ・ムルティ地上軍少将だ。彼女以外にヤン・ウェンリーと並び得る者はなく、ヤン・ウェンリー以外に彼女と並び得る者はいない。

 

「はあ……」

 

 俺は感嘆のため息をついた。頭が残念でも、しゃがみ方が下品でも、ヘビースモーカーでも、語尾が「っす」でも、私服が変なデザインのジャージでも、美しいものは美しい。

 

 貴公子はワルター・フォン・シェーンコップ宇宙軍上級大将、ナイスガイはダニエレ・パガーノ地上軍大佐、乙女はユスラ・メルワーリー宇宙軍大将であった。美男美女特集を組むならこの三名は外せないだろう。

 

 しかし、俺にとっては枝葉末節でしかない。大事なのはただ一人、メルワーリー大将の左隣にいる美女である。

 

 シェリル・コレット少将は右手を腰に当て、左足を前に出し、背筋をまっすぐ伸ばしている。軍服の着こなしも、髪の結び方も、ベレー帽のかぶり方も模範的で、服装規則の見本としてそのまま使えるだろう。目つきは鋭く、口元は引き締まり、戦場にいるかのような面構えだ。何もかもが軍人らしい。それなのにやたらと色っぽい。大きな瞳と厚ぼったい唇、はちきれんそうな肢体がフェロモンを放つ。下手なヌード画像よりよほどエロティックだ。

 

「…………」

 

 俺の胸は熱いものに満たされた。彼女は無事に表紙を飾った。アーサー・リンチの長女という素性が暴かれることはなかった。事情を知る人間からの横槍もなかった。逃亡者の娘がエル・ファシルの英雄と同じ表紙に収まった。シェリル・コレットは本当の意味で救われた。

 

 エル・ファシルの逃亡者エリヤ・フィリップスは、最後まで救われなかった。前の世界では宗教が飢えを救ってくれたが、逃亡者としての罪が救われることはなかった。この世界では罪そのものが存在しない。だから、自分が逃亡者とその家族を救いたかった。救済なき絶望を味わうのは自分だけでいい。

 

 表紙を飾ったことで、シェリル・コレットが歩む道はさらに険しくなるだろう。良からぬ輩に目をつけられるかもしれない。旧知の妬みを買うかもしれない。それでもいい。俺は最後まで彼女とともに歩こう。

 

 ふと、自分の思考に違和感を覚えた。なぜ、「最後まで」などと思ったのか。俺も彼女も若い。終わりを視野に入れる年齢ではないはずだ。ラインハルトが攻めてきた時、戦死する可能性はあるだろう。しかし、戦死を前提に将来を考えることはない。戦場での生死は運に左右される。死んでも仕方がないと思うが、人生設計は生き残ることを前提にする。それが軍人というものだ。

 

 もう一度、コレット少将の画像を見た。彼女の色気は生命の輝きだ。強烈な生命力が人をひきつける。死ぬところが想像できない。死んでも生き返るのではないか。

 

 ジュリエット・ヴィゴはコレット少将と正反対の女性であった。日光を浴びても暗がりにいるように見えた。不健康と退廃こそが彼女の本質であり、魅力であったのだと思う。サイオキシンをキメ過ぎて錯乱したらしく、でかい包丁を振り回しながら突っ込んできたので、仕方なく射殺した。いや、射殺なんて大層なものではない。驚き慌てて銃を撃ちまくったらたまたま当たった。死ぬとは思わなかったので、死体にすがりついて「ごめん! ごめん!」と泣き叫んだ。

 

「…………」

 

 何かがおかしい。なぜ、ジュリエット・ヴィゴの記憶がよみがえったのか? 彼女を殺したのは前の世界の宇宙暦八〇二年、実時間にして六二年前のことだった。それなのに昨日の事のように感じる。

 

 俺はトイレに行って鏡の前に立った。ごくありふれた童顔も、白髪一つないふさふさの赤毛も、つやつやした肌も一六年前とまったく変わらない。激務の疲れは隠しようもないが、それでもなお若さに溢れている。

 

「つまり、決戦の時は近いってことか」

 

 鏡の中にいる若々しいというより幼い顔を見れば、そう考えるより他にない。本能がラインハルトを脅威として認識した。若さが有り余っていても死にかねない。だからこそ、最後を意識し始めたのではないか。

 

 この推測が正しいならば、時間との勝負になる。ラインハルトとの差は絶望的なまでに大きい。ブレーントラスト一つをとっても、向こうは政府を組織できるレベルの質と量を備えている。形成途上の俺とは比較にならない。数か月で追いつけるのだろうか。同盟軍を掌握すれば、戦力面では優位に立つ。持てる戦力をすべて動かせるわけではない。統合作戦本部長の上には、最高評議会議長と国防委員長がいる。全権を掌握したラインハルトは戦力を好きなように動かせる。

 

 ラインハルトは、前の世界で同盟を攻める前に成し遂げたことをほぼやり終えた。自由と平等はもはや揺るぎない。同盟人の間にも肯定的評価がわずかながら芽生えてきた。

 

 俺の周囲には多様な人材が結集しつつある。綺羅星のようなオリベイラ人脈の中から、ハイネセン主義者ではない人物を選んだ。トリューニヒト政権で幅を利かせる俗流知識人でもなく、「右でも左でもなく中立」と称する反共和制主義者やレイシストでもない。フェザーン帰りが多くなるのは必然的な成り行きであった。

 

 決戦の時は近い。帝国は引き絞られた弓のようにその時を待ち構える。同盟は弦が切れた弓のように緩み切っているが、頑張って締め直そうではないか。



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第123話:妥協できない者だけが妥協できる 804年7月下旬~10月12日 惑星シャンプール

 星道二三号線を水のように流れる車列の中に、九台の車があった。三台が一組となり、三車線の道路を三つに分かれて正方形を形作る。デザインも大きさもばらばらだが、偶然並んだわけではない。装甲車並みの頑丈さを誇る特殊車両が、第一辺境総軍司令官を護送している。自家用車のような外見は、テロリストの目をくらますための偽装だ。

 

 安っぽい外見のミニバンが中心に位置する。一列目の座席には運転手ジャン・ユー准尉と次席副官クリストフ・ディッケル大尉、二列目の座席には俺と首席副官ユリエ・ハラボフ大佐、三列目の座席には護衛三名が座る。軍服を着ている者は一人もいない。

 

 右隣のハラボフ大佐が缶コーヒーに口をつけた。よほど缶コーヒーが好きなようで、冷徹極まりない表情がかすかに緩む。

 

「毒見、完了いたしました」

「ありがとう」

 

 俺はハラボフ大佐から缶コーヒーを受け取って飲んだ。ハラボフ大佐の唇が触れた場所に唇が当たる。お互いに異性として意識していない関係とはいえ、少々恥ずかしい。

 

「今朝の朝刊です」

 

 ハラボフ大佐は、『リパブリック・ポスト』『ハイネセン・ジャーナル』『シチズンズ・フレンズ』『デイリー・スター』『ソサエティ・タイムズ』の五紙を差し出した。

 

 相変わらず、ハイネセン茶会事件がトップを独占している。そこまで大騒ぎするほどの事件なのだろうか。話題性があることは認める。現職下院議員が一〇〇〇万ディナールもの大金を騙し取られた。犯人グループは、ジギスムント二世系帝位請求者カナギ大公の八男、元有名ベンチャー企業役員、最高評議会議長経験者の元秘書、異世界からの転生者を自称する占い師という顔ぶれだ。それでも、ありふれたS資金詐欺でしかない。

 

 二番目に大きな記事の方がずっと重要である。同盟の国運に関わる問題だ。展開によっては、後世の教科書に載るかもしれない。

 

 ザーヴィエップ星系は、同盟政府と個別に締結した四つの条約が不平等条約であるとして、改正を求めてきた。これらの条約は、ザーヴィエップを政治的・経済的に拘束している。植民地同然の現状は耐え難いものであった。

 

 同盟政府から見れば、四つの条約は国家戦略を進める上で欠かせないものである。ザーヴィエップの主権を制約することは国益に繋がる。一星系が膨大な天然資源を占有すべきではない。一星系が航路の要衝を占有すべきではない。

 

 両者の対立を抑え込んできたのは対帝国戦争であった。ザーヴィエップは帝国の脅威から身を守るため、多少の不満は我慢した。同盟政府は条約改正運動が帝国に利用されることを恐れ、一定の配慮を示してきた。

 

 戦争によって保たれた均衡は、戦争終結とともに崩れた。帝国はもはや脅威ではない。相手に遠慮する必要はなくなった。

 

「条約改正交渉を要求する。応じなければ同盟を脱退する」

 

 ザーヴィエップの条約改正運動は急速に先鋭化し、同盟脱退を視野に入れるに至った。

 

「交渉には一切応じない。これは同盟の民意である。ザーヴィエップには民意を尊重するよう求める」

 

 トリューニヒト政権は、議会に条約堅持と交渉拒否を求める決議を繰り返し可決させ、民意の名のもとに交渉を拒んだ。

 

 状況は坂を転げ落ちるように悪化していった。「同盟に留まる限り、条約改正は無理」と判断したザーヴィエップは、同盟脱退の是非を問う住民投票を計画した。トリューニヒト政権は住民投票を「国家に対する反逆行為」とみなし、自治権剥奪の手続きに入った。

 

「私は一軍人として民意を尊重する! ザーヴィエップは民意に背いた! すなわち、同盟市民の敵である! 敵を一人残らず殲滅し、市民の心を安んじる! それこそが私に課せられた神聖なる義務である!」

 

 第二方面軍司令官ルスラン・セミョーノフ大将は、ザーヴィエップ星系警備隊に出動を命じるとともに、在留邦人保護の名目で四〇万の兵を送った。この強硬姿勢は右翼と保守派の喝采を浴びる一方、ザーヴィエップの態度を硬化させた。

 

「第二方面軍の行動は明白な侵略行為である。即時中止を求める。さもなくば、自由と独立を確保するために必要な措置をとる」

 

 就任したばかりのザーヴィエップ閣僚評議会議長アメリア・アマドール氏は、抗戦を辞さない構えを示した。

 

「我々はザーヴィエップ独立を必ずしも支持しないが、侵略行為には断固として反対する」

 

 辺境の二四星系が第二方面軍を非難する共同声明を発した。受け入れない場合は同盟脱退もあり得るという。

 

「ザーヴィエップが臣従するならば、フェザーンやエル・ファシルと同等の自治権を与えよう」

 

 救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラムは、ここぞとばかりに揺さぶりをかけてきた。朝貢義務も参勤義務もない。帝国暦を使用し、季節ごとの挨拶状と慶弔状のみを送ればいい。同盟に留まるよりはるかに好条件だ。ザーヴィエップのみならず、不平等条約に悩まされる星系すべてにとって甘美に響くだろう。

 

 サジタリウス副王府とエル・ファシル革命政府は、「ザーヴィエップを支援する」と称し、一大攻勢に打って出た。独立には武力の裏付けが必要である。彼らの武力が同盟軍を上回ることを示せば、辺境星系は雪崩を打つように独立するに違いない。

 

「ちょっと待て!」

 

 辺境大戦勃発を恐れた俺は進軍停止を命じた。だが、第二方面軍はのらりくらりとかわし、進軍を続けた。

 

「第一辺境総軍司令官の職権に基づき、第二方面軍司令官の指揮権を停止する」

 

 辞表を出す覚悟で強権発動に踏み切った。だが、ウォルター・アイランズ国防委員長がセミョーノフの指揮権を回復させたため、失敗に終わった。

 

「第二方面軍は正式な命令を受けていないのに動いた。明白な反乱である」

 

 セミョーノフが上層部の黙認を受けていることを逆手に取り、「公認ではないのだから反乱」の論理で動くことにした。革命政府軍迎撃に向かった第一一艦隊を転進させ、第二方面軍の進路を塞いだ。俺自身は後背に布陣し、「一光秒でも前進したら反乱とみなす」と恫喝した。

 

「撤収しろ! 今すぐにだ!」

 

 通信画面の中のアイランズ委員長は大声で喚き散らした。

 

「正式な命令ではないので応じられません」

「私の言うことを聞けないというのか!?」

「手続きに基いた命令であれば、謹んで従いましょう」

「私は国防委員長だぞ!」

「命令をお願いします」

 

 俺はあえて融通の利かない態度をとった。専制国家の皇帝なら喚くだけで命令できる。だが、同盟は専制国家ではないし、アイランズ委員長は皇帝ではない。

 

「とにかく撤収するのだ!」

「なぜ撤収しなければならないのです?」

「国防委員長が撤収しろと言っている! それで十分だろうが!?」

「反乱軍が目の前にいます。それでも、撤収すべき理由があるのですか?」

「反乱ではない!」

「第二方面軍は進軍停止命令を三度も無視しました。正当な手続きに基づく命令を三度も無視したのです。これでも反乱ではないのでしょうか?」

「…………!」

 

 アイランズ国防委員長の禿げ頭が真っ赤に染まる。まるでゆでダコだ。

 

「反乱でないとおっしゃるのであれば、根拠を示してください。第二方面軍は正式な命令を受けているのですか?」

「命令はしていない」

「第二方面軍は命令もなしに動いています。小官が進軍停止を命じましたので、司令官の裁量による行動とは認められません。つまり反乱です」

「違う!」

「国防委員会は第二方面軍の反乱を容認した。そう受け取ってよろしいのですね?」

「違うと言っているだろうが!」

「では、誰が第二方面軍に命令を下したのです? あなたですか? それとも、トリューニヒト議長ですか? 小官は命令しておりません」

「…………」

「お答えいただけますか?」

 

 俺は畳みかけるように問いかけた。相手が答えられないことなどわかっている。答えた瞬間、アイランズ委員長はこの事態の全責任を負うことになる。

 

「貴官は責任を取れるのか!? 同盟軍が相撃つのだ! 軍法会議ものだぞ!」

 

 アイランズ委員長は話を逸らそうとした。

 

「やむを得ません。軍法会議にかけられるのであれば、喜んで出廷しましょう」

 

 俺は爽やかそうな微笑みを作りつつ、相手の濁った瞳を見据えた。声にならない声で「俺の首だけじゃすまないぞ? わかってんのか?」と語りかける。

 

「…………」

 

 アイランズ委員長は目を逸らした。三秒ももたなかった。変な取り巻きにそそのかされただけなのだろう。トリューニヒト議長の指示ならば、何が何でも突っ張ったはずだ。

 

 正規ルートがまったくあてにならないので、裏から手を回した。オリベイラ博士の仲介でしかるべき筋に話を付けた。第二方面軍内部の派兵反対派を煽った。憲兵隊を動かし、ハイネセンの自称ヤン派や辺境大戦論者を牽制させた。

 

 セミョーノフが黙っているはずもなく、四方八方から矢玉が飛んできた。右翼や保守派の大物が撤収要請をひっきりなしに入れてくる。エリート幕僚が辺境大戦論を理路整然と説いた。歴戦の勇士が真心から辺境大戦支持を訴えた。血気盛んな青年将校が押しかけてきて、「撤収せねば殺す」と言わんばかりの勢いでまくしたてた。

 

 俺はあらゆる圧力をはねつけ、トリューニヒト議長から「第一辺境総軍に任せる」とのお墨付きを引き出した。辺境大戦も同盟軍相撃もぎりぎりで防がれたのである。

 

 これらの経緯は新聞には載っていない。表に出た事実は、第二方面軍の派兵と撤収、第一辺境総軍の転進と撤収のみである。同盟軍相撃の危機も、俺が第一一艦隊を転進させる際に用意した「独立派過激分子とエル・ファシル革命政府軍の合流阻止」という名目でごまかされた。

 

 セミョーノフの暴走は収まったものの、根本的な問題は何一つ解決されていない。黙認を与えた連中が弁護したらしく、セミョーノフの命令違反は不問に処された。アイランズ国防委員長の軽挙に対するお咎めはなかった。辺境大戦論者の分厚く広い人脈は健在である。

 

 ザーヴィエップ情勢は依然として予断を許さない状況にある。条約改正派の闘士アメリア・アマドールを首班とする現地政府は、同盟政府が譲歩しない限り、住民投票を実施するつもりだ。トリューニヒト政権は譲歩する意思などひとかけらもなく、自治権剥奪の手続きを進めている。脱退派民兵と残留派民兵の小競り合いは、いつ全面衝突に発展してもおかしくない。

 

 人間は自分が見たいものしか見ない。他人の考えを知りたければ、彼が愛読する新聞を読めばいい。そこに彼の考えが記されている。五大紙を読めば、世間一般の考えをおおむね網羅できる。

 

「奴隷として生きるか、自由人として死ぬか。ザーヴィエップ星民は自由を選んだ。我々は彼らの選択を全面的に支持する」

 

 条約改正派寄りの論調をとる『ソサエティ・タイムズ』は、諸手を挙げてザーヴィエップ独立を支持した。

 

「独立などできやしない。ザーヴィエップは金が欲しいだけだ。相手にする必要などない。断固たる姿勢を見せろ。そうすれば、震えあがって許しを乞うてくる」

 

 トリューニヒト政権の広報紙と化している『シチズンズ・フレンズ』は、政府内部の見解を自社の意見として伝えた。

 

「これはチャンスだ! 愚か者の末路を全銀河に見せつけろ! 七〇〇万を皆殺しにしろ! 血文字をもって書き記すのだ! 愚か者どもの断末魔を!」

 

 辺境大戦を熱望する『デイリー・スター』は、血が流れるのが嬉しくてたまらないと言わんばかりに狂喜乱舞した。

 

「何もわかっていない」

 

 俺はため息をついた。加盟国脱退という事実を軽く見すぎではないか。ザーヴィエップ人を物乞い扱いする姿勢こそが、反同盟感情を煽ったのではないか。人が死ぬのがそんなに嬉しいのか。見通しが甘すぎる。甘党の俺ですら胸焼けしてしまう。

 

「なぜ妥協できないのか? 歩み寄りの余地はないのか? 必要なのは流血ではない。話し合いで解決すべきだ」

 

 保守的な『リパブリック・ポスト』とリベラルな『ハイネセン・ジャーナル』は、大手らしい穏健な見解を示した。

 

 もっともらしい主張だが、俺に言わせれば落第である。妥協できるものならここまでこじれたりしない。同盟政府もザーヴィエップも譲れないラインで争っている。「心臓を差し出せ」と言われて差し出す人間がいるだろうか? 当事者にとってはそのレベルの話なのだ。

 

 結局、他人事でしかないのだろう。脱退騒ぎは何度となく起きた。しかし、実際に脱退する者はいなかった。だから、無事に終わると無邪気に信じている。

 

 専門家面でしゃしゃり出てくる辺境大戦論者や辺境独立論者にしても、自分に都合のいいことしか考えていない。「辺境を武力制圧して直轄化する」というが、あのリン・パオですら反同盟武装勢力を根絶できなかった。「辺境を独立させて、経済的な繋がりを保てばいい」というが、独立した辺境が恨み重なる同盟と付き合うとは限らない。

 

「だから、自分がやらなければならない」

 

 誰にも聞こえないような小声で呟いた。崩れつつある同盟を一つにまとめる。市民一三二億人を一致団結させる。同盟の総力を挙げて、ラインハルト・フォン・ローエングラムを迎え撃つ。自分にしかできないことだ。能力の問題ではなく意欲の問題である。

 

 目を軽くつぶり、前の世界に思いを馳せた。ラインハルトがフェザーン回廊を突破した時、同盟市民は団結できなかった。左翼は自由のために戦おうとせず、右翼の無為無策を詰るだけだった。右翼は国家のために戦おうとせず、左翼の傍観的態度を罵るだけだった。誰も彼も他人の責任を追及することにのみ熱心で、帝国軍がやってくると逃げ出した。

 

 当時の政府は、加盟国に「無防備宣言」を発する許可を認めた。人道的な措置に見えるかもしれないが、実際は現状追認に過ぎない。加盟国に抗戦を命じたところで、無視されることはわかっている。だから、「寛大にも降伏を認めた」という形式を取り繕った。

 

 はっきり言うと、前の世界のラグナロック戦役は、同盟と帝国の戦いではなかった。戦争をやっていたのは宇宙艦隊のみで、その他の連中は傍観していた。ウォルター・アイランズ率いる同盟政府も、宇宙艦隊のサポート役でしかなかった。戦後生まれは、ラインハルトがヤン・ウェンリー撃滅にこだわったことを批判する。だが、戦中を生きた人間なら誰だって正しいと思うだろう。ラグナロックは同盟の戦争ではなく、同盟軍宇宙艦隊の戦争だった。

 

 ラインハルトをバーミリオンで討ったとしても、それは同盟の勝利ではなく、宇宙艦隊の勝利でしかない。ヨブ・トリューニヒトが降伏したことで、同盟はある意味救われた。国家として致命的な事実に向き合わずに済んだ。

 

 俺も同盟を見放した市民の一人である。当時は何の罪悪感もなかった。見放されても仕方がない国だと思っていた。今はそうではない。理想とは程遠いが、それでも守るに値する国だと思う。

 

「フィリップス提督……?」

 

 心細げな声が耳に入ったので、目を開けた。若い女性の顔が視界を独占していた。鼻と鼻がくっつきそうな至近距離である。

 

「ああ、ハラボフ大佐か。どうした?」

「お加減がよろしくないように見受けました」

「何でもない。大丈夫だ」

「あまり無理はなさらないでください」

「気を付けるよ」

「本当に気を付けてくださいね」

 

 ハラボフ大佐は顔をさらに寄せた。彼女の細い鼻と俺の低い鼻が一瞬触れる。

 

「わ、わかった……」

 

 俺は気圧されるように答えた。ただでさえ怖い顔が至近距離にある。本気で怒っているのか、首筋から耳まで真っ赤に染まっている。

 

 二年前に倒れて以来、俺はしばしば体調を崩すようになった。今年に入ってからは、二か月に一回のペースで寝込んでいる。それでも仕事を減らそうとしない。傍から見れば懲りないように見えるのだろう。

 

 右隣ではハラボフ大佐が突っ伏している。両膝を抱え、靴を脱いだ足をシートに乗せるという姿勢だ。まっすぐな赤毛からのぞく耳はマグマのように赤い。内心ではどれほどの怒りが渦巻いているのだろうか。想像すらしたくなかった。

 

 

 

 体調を崩しているのは俺だけではない。健康管理の徹底ぶりから「病院総軍」と呼ばれてきた第一辺境総軍だが、最近は別の意味で病院総軍になりつつあった。原因は言うまでもない。過労である。

 

 司令部に到着した俺は、副司令官ミリセント・ヘイズ大将が倒れたとの知らせを受け取った。命に別状はないものの、一週間ほど入院が必要だという。

 

 副司令官が一人減ったため、四人分の仕事を三人でこなすことになった。単純計算すれば仕事量が一・三三倍に増える。参事官は文官なので、できる仕事の幅は広くない。俺とパエッタ大将の負担が大きくなった。タンクベッド睡眠をとる時間すら確保できない。食事は車や飛行機の中でとった。官舎に帰るなど夢のまた夢だ。マフィンが四倍に増えた。

 

 こんな無茶が長続きするはずもなく、俺はヘイズ大将が復帰した日に倒れた。「一週間の休養が必要」と診断されたが、どうしても外せない仕事がある。二日間だけ休むことになった。

 

 復帰当日、ザーヴィエップ星系のアメリア・アマドール閣僚評議会議長との会談に臨んだ。駐留軍問題に関する話し合いである。ザーヴィエップは兵力削減を望んでいる。同盟軍は現状維持を口にしているが、増やしたいというのが本音だった。

 

 同盟とザーヴィエップが結んだ個別条約の一つに、「同盟・ザーヴィエップ防衛協定協定」というものがある。この条約を踏まえるならば、ザーヴィエップと話し合う必要などない。同盟政府の「国防上必要」という判断のみで十分だ。しかし、ザーヴィエップ人は、防衛協力協定を不平等条約だとみなしている。この時期に防衛協力協定を押し通すのはまずい。

 

「お時間です」

 

 ハラボフ大佐が電子音声のように無機質な声で告げた。

 

「わかった」

 

 俺は右手首に華奢な金色の腕時計を巻き、ゆったりした足取りで応接室に向かった。歩調の乱れは心の乱れにつながる。一世一代の大芝居を打とうというのだ。いささかの失敗も許されない。

 

「アマドール議長はスカーフを着けているか?」

 

 歩きながら顔も視線も動かさず、ハラボフ大佐に質問する。

 

「着けています」

「色は?」

「水色です」

「ありがとう」

 

 俺は表情も歩調も崩さなかったが、内心ではスキップしたい気分だった。水色のスカーフは「ザーヴィエップは和解案に同意である」というメッセージだ。

 

 アマドール議長が俺と同じ気分であろうことは疑いない。右手首の腕時計には、「同盟政府及び同盟軍は和解案に同意である」とのメッセージが込められている。

 

 第一辺境総軍はザーヴィエップ星系政府と駐留協定を結んだ。駐留期限を五年と区切り、延長する際は星系政府の合意が必要となる。兵力を増やしたり減らしたりする際は、星系政府の許可を得なければならない。隊員の治外法権を放棄し、基地の外で犯した犯罪については現地の官憲に委ねる。基地を抱える自治体への交付金は、星系政府ではなく第一辺境総軍が負担するものとする。

 

 協定と同時に、駐留軍の削減、基地の一部返還、ザーヴィエップで犯罪を犯した隊員全員の引き渡しなどで合意した。

 

「四本の鎖の一つが断ち切られた! 同盟・ザーヴィエップ防衛協力協定はもはや存在しない!」

 

 ザーヴィエップ星系政府は高らかに勝利を宣言した。だが、これは詭弁に過ぎない。同盟・ザーヴィエップ防衛協力協定は未だ健在である。それでも、要求が達成されたとして、住民投票を取りやめた。

 

「同盟・ザーヴィエップ防衛協力協定は有効である。駐留協定は第一辺境総軍が結んだ協定であって、同盟軍全体に適用されるものではない」

 

 ウォルター・アイランズ国防委員長は、同盟政府が妥協したわけではないと述べた。だが、これも詭弁に過ぎない。第一辺境総軍とは、第一辺境総軍区内で活動する部隊すべてを指す。中央直属の部隊であっても、ザーヴィエップに派遣された時点で第一辺境総軍の指揮下に入り、駐留協定の適用対象となる。

 

「ザーヴィエップの同盟残留を歓迎する」

 

 ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長は駐留協定に触れず、結果のみを受け入れた。残留したのだから制裁を加える必要はない。自治権剥奪の手続きを中止した。

 

「現地部隊との協定とはいえ、辺境が同盟当局に要求を丸呑みさせた。不正が正義を踏みにじる時代は終わった。すべての市民は平等である。すべての星系は平等である。この当たり前の主張が通る時代がやってきた」

 

 反戦・反独裁市民連合(AACF)のグリゼル・ヒルトン上院議員は、駐留協定を辺境の勝利だとみなした。リベラル勢力と辺境ナショナリズム運動は、深いつながりを持っている。自己責任原則を重んじるハイネセン主義者は、財政支援や公共投資には消極的であるが、権利問題には積極的に取り組んできた。ザーヴィエップの勝利は、リベラルの勝利であった。

 

「誠に残念である」

 

 エル・ファシル革命政府のヘルムート・リンケ主席は、遺憾の意を表した。ザーヴィエップ危機は分離主義勢力にとって好機だった。それだけに失望は大きい。

 

「平和の使者エリヤ・フィリップス」

 

 マスコミは俺に新しい異名を与えた。敵を倒した者だけが英雄ではない。自由戦士勲章受章者の半数は、戦友や民間人を救った功績によって受章した。犠牲を減らした者もまた英雄であり、称賛に値する。美辞麗句の雨が「平和の使者」の頭上に降り注いだ。

 

「調子がいいなあ」

 

 俺は苦笑いしながら報道を眺めた。両派の対立を煽ったのは彼らではないか。和解を妨げてきた連中が和解の立役者を絶賛する。掌返しもここまでくると笑うしかない。

 

「腹が立たないのですか?」

 

 次席副官クリストフ・ディッケル大尉は、明らかに腹を立てていた。彼は二三年しか生きていない。世の中の汚さを許容するには短すぎる年月である。

 

「今さら腹も立たないさ。英雄稼業を一六年もやってきた。マスコミの掌返しには慣れている」

「さすがはフィリップス提督です」

「違う違う」

 

 俺は若い副官の目の輝きをかき消すように両手を振った。

 

「最初から期待していないだけだ」

 

 怒りを抑えたのではなく、怒る必要すら感じていないのだ。俺は前の世界で八〇年、この世界で一六年生きた。世の中の汚さを許容するには十分な年月である。

 

 受けるべきでない称賛を当たり前のように受ける自分も、きれいとは言い難い。平和の使者と呼ぶべき人物は他にいる。条約改正派が交渉を諦めていないことを知ったのも、俺が妥協を求めていることを条約改正派に伝えたのも、アマドール議長の側近に接触できたのも、警察幹部や情報機関幹部に接触できたのも、フェザーン自治領主府に接触できたのも、第一辺境総軍の単独協定という落としどころを見つけたのも、その人物のおかげであった。

 

「ありがとうございます。先生のおかげです」

 

 俺が超光速通信で礼を述べると、エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ博士は渋い顔をした。

 

「感謝は不要と言ったのだがね」

「先生は祖国を救ってくださいました。感謝しないわけにはいきません」

「私はアドバイスを与えたにすぎん。祖国を救ったのは君たちだ」

「先生のアドバイスこそが祖国を救ったのです」

「君たちは決断して実行した。採用されないアドバイスには何の価値もない。決断した者こそ称賛に値する」

「先生のご労苦に報いないわけにはいきません」

「自由惑星同盟が救われた。これに勝る報酬はない」

 

 オリベイラ博士はそう言って微笑んだ。称賛も見返りも求めず、国家が救われたことのみを喜びとする。小物だと思ったのは誤りだった。真の国士とは彼のことだった。

 

「かしこまりました。何があっても、先生の名前は出しません」

「君の言葉を信じよう。ただ、世の中には万が一と言うこともある。何も起きないとは思うが、念のために警護を手配してもらいたい」

「憲兵一個小隊を付けておりますが。不足でしょうか?」

「不足とは言わんがね。用心するに越したことはない」

「了解いたしました。憲兵隊に働きかけて、さらに一個小隊を派遣させましょう」

 

 俺は快く引き受けた。憲兵閥の重鎮という立場を利用すれば、警護を増やすなど朝飯前である。

 

「よろしく頼むよ。アドバイスしただけで命を狙われては、たまったものではないのでね」

 

 いかにも心外だと言いたげなオリベイラ博士の表情が、俺の感動を打ち砕いた。国士だと思ったのは誤りだった。真の小物とは彼のことだった。

 

 前の世界のジョアン・レベロ最高評議会議長は、ヤン・ウェンリー抹殺に失敗すると、提案者のオリベイラ博士を詰問した。だが、返ってきた答えは、「提案を採用しろと強制した覚えはない。決めたのはあなただ」というものだった。

 

 このエピソードを知った時、オリベイラ博士を小物だと思った。成功すれば称賛を求め、失敗すれば責任逃れをする。小物とはそういう生き物である。

 

 しかし、本物の小物は称賛すら恐れる。世の中には一〇〇パーセント称賛されるものなどない。誰かの正義は誰かの不正義、誰かの利益は誰かの不利益、誰かの満足は誰かの不満である。誰かが称賛するものは、誰かが批判するものでもある。称賛を浴びることは、自分に責任があると示すに等しい。だからこそ、かつての俺は称賛されるのを嫌がった。

 

 オリベイラ博士は俺とアマドール議長に称賛される権利を譲った。自分が負うべき責任を擦り付けたのである

 

 筋を重んじる人間は駐留協定を厳しく批判した。現地部隊が加盟国政府と独自に協定を結んだ。加盟国政府は中央政府と結んだ協定が消滅したと主張する。中央政府は現地部隊が勝手にやったことで、自分たちには関係ないと言い張る。グレーゾーンというのもおこがましい。

 

「第一辺境総軍の行為はシビリアンコントロールに反する。二重外交ではないか」

 

 ジョアン・レベロ議員は、シビリアンコントロール違反だと指摘した。加盟国との交渉は政府の専管事項である。防衛協力協定を是正することは正しい。だが、それは同盟政府がやるべきことである。第一辺境総軍は加盟国と独自に協定を結び、公式な協定を形骸化させた。こんなことがまかり通ったら、同盟政府の信用は地に堕ちる。

 

「ザーヴィエップの危機は去った。だが、それをはるかにしのぐ危機が迫っている。エリヤ・フィリップスという危機だ」

 

 ジャーナリストのパトリック・アッテンボロー氏は、俺の台頭に警鐘を鳴らした。内戦が防がれたのは結構なことである。だが、加盟国と個人的に条約を結んでしまう軍人が現れた。民主主義の危機ではないか。

 

「見せかけの譲歩に騙されるな。調印したのは第一辺境総軍であって、同盟政府ではない。命令一つで覆せる程度のものに過ぎん」

 

 脱退派急先鋒のサンス・トーレス氏は、協定の有効性に疑問を呈した。同盟政府は正式な合意すら平気で無視する連中だ。軍司令官の名前で結ばれた協定を守るとは思えない。

 

 内戦が回避されたこと自体を喜ばない者も存在する。すべての人が人命重視という前提を共有しているわけではない。

 

「フィリップス提督は悪しき前例を作った。辺境諸国に同盟脱退の脅しが有効だと教えた。条約改悪を求める動きはさらに加速する。同盟軍は兵士一人動かすたびに、辺境から文句を言われることになる。まともな軍事行動は望めない。譲歩すべきではなかった。ザーヴィエップを焦土と化してでも、覚悟を示すべきだった」

 

 元地上軍総監アデル・ロヴェール退役元帥は、俺を厳しく批判した。辺境は戦場なのだ。地元民の顔色を伺う余裕などない。だからこそ、先人は辺境から文句を言う権利を奪った。主権侵害だというが、同盟軍の傘に守ってもらうのだから、当然の代償である。そんな道理もわからぬ輩を相手にするのは筋違いだ。一度曲げた筋は決して戻せない。

 

「軍人が犠牲を恐れるとは何事か!? ザーヴィエップに譲歩する必要などない! 血などいくらでも流せばいい! どれほど犠牲を払おうとも、無法な要求に屈してはならぬ!」

 

 統一正義党のマルタン・ラロシュ代表は、大いに憤慨した。強者と弱者が平等であろうはずがない。強者が優遇されるのが公平というものだ。ザーヴィエップ人は、弱者の分際で強者との平等を要求した。万死に値する。

 

「こんな協定など無効だ! フィリップスを反逆罪で逮捕せよ!」

 

 評論家ジョージ・ビルジン氏は怒りを爆発させた。防衛協力協定は疑問の余地なく正しい。なぜなら、リベラルが見直しを求めているからだ。一歩でも譲歩すれば、敵は際限なく増長する。話し合う余地などない。黙るまで殴れ。黙らないなら殺せ。譲歩など論外である。

 

「フィリップスは義務教育を受けていないのか。長征船団は二四万人を失ったが、一六万人が生き残った。ザーヴィエップ星民七〇〇万人を皆殺しにしたって、サジタリウス腕には一三二億五八〇〇万人が残る。何の不都合もない。小学生でもわかる計算だぞ」

 

 新しい船出のグエン・キム・ホア二世参謀長は、流血を回避する姿勢そのものを冷笑した。「右でも左でもなく中立」と称する中立派の特徴は、デモクラシーやヒューマニズムといった建前を否定することにある。ザーヴィエップ問題自体はどうでもいい。

 

 俺が絶対的に正しいと信じ、大多数が称賛するものでも、これだけ多くの批判を浴びる。何をやっても批判はつきまとう。

 

「勝って称賛を浴びるのが当然なら、負けて批判を浴びるのも当然」

 

 ウィレム・ホーランド提督はそう語った。批判を恐れぬことを勇気というならば、称賛すら避けることは臆病というべきであろう。

 

「気に食わないね」

 

 器の小さい俺は、オリベイラ博士の臆病さを許容できなかった。国を動かしたいが責任を取りたくない。そんな話が通るものか。

 

 気に食わなくても、縁を切ろうとは思わない。右翼にも左翼にもフェザーンにも顔が利く。どんな情報でも入手できる。イデオロギーに囚われず、依頼者が求める策を提示できる。見返りを与える必要はない。責任逃れはしても、能動的に裏切る可能性は低い。味方にしてもデメリットは一つもなく、メリットは無数にある。

 

「そりゃ切れないよな」

 

 苦笑まじりに俺は納得した。歴代政権は俺と同じ判断を下したのだろう。罷免したレベロ政権にしても、議長本人はОファイルに名を連ねている。

 

 オリベイラ博士に恩はあっても恨みはない。内戦を阻止できた。巨大な功績を譲ってもらった。最高評議会と国防委員会に大きな貸しを作れた。ザーヴィエップのみならず、辺境全域の好感を獲得できた。その代償が憲兵二個小隊で済むなら安いものだ。

 

「全然安くないでしょ」

 

 人事部長イレーシュ・マーリア少将がため息をついた。その視線は机の上に積まれた紙束に向けられている。

 

 極右組織一〇九団体が殺人予告を送り付けてきた。田舎者に譲歩したことが許せない。リベラルを喜ばせたことが許せない。同盟に盾突く輩の権利を奪う機会を捨てたことが許せない。同盟に盾突く輩を皆殺しにする機会を捨てたことが許せない。強者と弱者を平等に扱ったことが許せない。何から何まで許せない。

 

「問題ないですよ。殺人予告なんていつものことです」

 

 俺は一枚の紙をひらひらさせた。極右民兵組織「正義の盾」の機関誌の第一面である。俺への死刑宣告が大書されていた。

 

「それ、この机の上に直接置いてあったんでしょ」

「ナイフが刺さっていました。炭素クリスタル製の逸品です」

「アピールしてるんだよ。『いつでもお前を殺せる』って」

 

 イレーシュ人事部長はすらりとした長身をすくめた。自分が死刑宣告を受けたかのようだ。

 

「大丈夫でしょう。いざという時は彼らが守ってくれます」

 

 俺は二人の副官に微笑みかけた。次席副官ディッケル大尉の目が純粋な輝きに満たされた。首席副官ハラボフ大佐は顔を赤くして両手で口を押さえた。

 

 統一正義党は市民軍参加者全員に党員バッジ提出を命じた。応じない場合は永久除名処分にするという。

 

 ルドルフ主義者と辺境大戦論者はほぼイコールといっていい。辺境の反同盟勢力を挑発して内戦を起こし、武力によって吹き飛ばす。介入してきた帝国軍を引きずり込んで包囲殲滅する。その夢を叶えるため、統一正義党、正義の盾、嘆きの会はあちこちに騒乱の種をばらまいてきた。それを邪魔してきたエリヤ・フィリップスは、憎んでも憎み足りない怨敵だ。取り込もうと手を差し伸べたが、ことごとく振り払われた。

 

 主戦派という一点のみで友好関係を保ってきたものの、戦争が終わってしまったら怨恨だけが残る。国内政策は完全に正反対だ。AACFの方がまだ折り合う余地がある。ザーヴィエップの件がなかったとしても、決裂は時間の問題だった。

 

 むろん、ルドルフ主義者でない辺境大戦論者も多数存在する。ダゴン会戦以前は辺境大戦論が対辺境戦略の主流を占めた。その遺伝子は右翼と保守派に広く根付いている。辺境を地盤とする大衆党も、都市選出議員の多くが辺境大戦論者である。国防委員の半数近くが辺境大戦を支持するという有様だ。

 

 自称ヤン派は何の信念もない連中なので、ルドルフ主義者や辺境大戦論者と握手を交わした。反フィリップスなら何でもいいのだ。

 

 自称ヤン派・ルドルフ主義者・辺境大戦論者連合は、本物のヤン派にも共闘を申し入れた。反辺境大戦の姿勢が明確な俺より、何もしないヤン元帥の方が与しやすい。ヤン元帥の取り巻きに食い込みたいという思惑もある。コントロールできない神輿には意味がない。

 

 ひねくれもの集団がこんな話を受け入れるはずもなく、本物のヤン派は、自称ヤン派・ルドルフ主義者・辺境大戦論者連合と抗争状態に入った。

 

「融和政策を成功させるには、喧嘩を徹底的に避けるのではなく、融和に反対する奴を殴って黙らせることだ」

「争いを終わらせるというのはそういうことだ。政治を知らない者は、妥協を誰も傷つけないやり方だと思い込んでるがね。実際は敵も味方も全員傷つけないと実現しないものだよ」

 

 トリューニヒト議長から聞かされた言葉が頭の中をよぎった。まったくもって正しい。妥協とは修羅の道だ。ジョアン・レベロと比べれば、統一正義党もAACFも穏健極まりない。穏健ゆえに支持されたとすら思える。

 

「何が何でも同盟の枠組みを死守してみせる」

 

 俺は拳を固く握りしめた。統一と秩序を維持するためなら何だって譲る。敵に利益を与えても構わない。味方に損害を与えても構わない。一〇〇年先に禍根を残しても構わない。命を狙われても構わない。後世からどれほど酷評されようとも構わない。どんな犠牲を払ってでも妥協する。

 

 分裂した国家が統一された国家に勝てるはずがないのだ。ラインハルトと戦うならば、同盟軍でもなくヤン・ウェンリーでもなく、同盟という国家をぶつけるべきである。

 

 一〇月一二日、俺は首星ハイネセンに向かって出発した。旗艦ゲティスバーグの周囲を取り巻くのは、シェリル・コレット少将率いる第三六機動部隊である。数百隻も護衛を引き連れるのは万が一を防ぐためだった。

 

 二人の要人が俺と一緒にハイネセンに向かう。優しさと暖かさのみで作られていそうな老人は、ロンドリーナ自治領ラグラン出身のヴァリオ・パルムグレン、法名をシャルル二四世という。抜け目ない金融マンといった風貌の若い男性は、地球自治領ドウトンボリ出身のエマニュエル・ド=ヴィリエ大主教である。地球教のトップとナンバーツーは、クーデター鎮圧記念式典に来賓として出席する。

 

 一人の小物と二人の大物を乗せた船団はまっしぐらに進む。虚空に瞬く星々は何も言わずに見送る。遮るものは何もない。時間と距離のみが横たわっている。



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第123話:分断の式典、小物の意地、地球の夢 804年11月9日~11月10日 ボーナム総合防災公園~最高評議会別館~宿舎

 八〇一年一一月九日午前八時三〇分、大敗した市民軍はボーナム総合防災公園家族広場に逃げ込んだ。武器を持つ者は五人に一人もいない。粗末なバリケードが唯一の守りである。再建会議軍の精鋭が水も漏らさぬ包囲網を敷いた。唯一の頼みは第七陸戦遠征軍だが、到着まで持ちこたえる見込みは薄い。敗北は目前に迫っていた。

 

 それから三年が過ぎた。市民軍が逆転勝利を収めた同じ日、同じ場所において、クーデター鎮圧三周年記念式典が開催された。元市民軍隊員や戦没者遺族など二〇万人がひしめく会場の中でも、俺はとりわけ目立つ場所に席を与えられた。

 

 市民軍で特に目立った連中が座る席は、ゼッフル粒子が充満した密室のような様相を呈している。彼らの忠誠心は本物であった。統一正義党に「市民軍を抜けなければ除名する」と言われた者は、一人残らず市民軍を選んだ。忠誠心はあるが協調性はない。

 

「勘弁してくれ」

 

 うんざりした俺だが、止めるつもりもなかった。彼らへの期待値は果てしなく低い。声や手を出さないなら、それで良しとしよう。三年前と比べればはるかにましだ。

 

 英雄たちの席から少し離れた場所に、海外からの招待客が座っている。フェザーン政財界の要人がこの種の式典に出席することは珍しくない。ルビンスキー自治領主本人の出席は、珍しいものの十分にあり得る。ゴールデンバウム朝の帝位請求者は、貴賓席に座るのが仕事のようなものだ。しかし、旧世界諸国の元首の存在は目を引いた。

 

 帝国の自治領は二種類に分類できる。一つは非ゲルマン系住民を押し込めるために作られた事実上の流刑地、一つは距離やコストの問題から放置された小国である。旧世界の自治領は後者に属する。

 

「ロンドリーナ王」

「ジュピター連邦大統領」

「マーキュリー大公」

「アエネアス共和国総統」

 

 このような肩書きを名乗る旧世界の元首は、特別な存在に見えるかもしれない。だが、その内実は「しょぼい」の一言に尽きる。政治的にも経済的にもまったくの無力なので、臣下にあるまじき肩書きを名乗っても放置された。

 

 元首を名乗るのもおこがましい連中でも、自治領主が一五人も集まったことは事実である。同盟史上、これほど多くの帝国要人を呼び寄せた例はない。しかも、教科書に名前が登場する国々の元首なのだ。出国許可を取り付けるにあたっては、フェザーンを動かしたという。トリューニヒト政権の親フェザーン外交が実を結んだ形だ。

 

「…………」

 

 俺の全身が凍り付いた。右側から吹いてくる寒風は激しくなる一方だ。意識を逸らす努力は失敗に終わった。許されるものなら逃げ出したい。

 

 絶対零度のブリザードは人間の形をしており、ヤン・ウェンリーという名前を持っていた。目深にかぶったベレー帽と長い前髪が、度の入っていない眼鏡に重なり、顔の上半分を覆い隠す。真一文字に結ばれた口はすべてを拒絶する。顔はまっすぐ正面を向き、いささかの揺らぎも感じられない。固く組まれた両手と両足は絶対障壁だ。

 

 ヤン元帥が不機嫌な理由は考えるまでもない。この式典はトリューニヒト議長のための政治ショーだ。くだらぬ権力争いに巻き込んだ張本人が右側に座り、愛国者や軍国主義者が周囲を取り巻いている。何から何まで気に入らないという心境だろう。

 

 俺は顔も目も動かさず、意識だけをヤン元帥に向けた。彼がここにいる理由がわからない。イゼルローン無血攻略の立役者として招待されているのだが、断ろうと思えば断れたはずだ。第九次イゼルローン攻防戦以降、トリューニヒト政権は彼を腫れ物に触るように扱っている。なぜ、

出たくもない式典に出席したのか。ハイネセンに行かねばならない理由があったのだろうか。

 

 壇上ではヨブ・トリューニヒト議長が弁舌を振るった。美辞麗句の豪雨が犠牲者に降り注ぐ。きらびやかな賛辞が市民軍を輝かせる。絶対正義の鞭が民主政治再建会議を打ちのめす。朗々たる美声が大義を謳い上げる。

 

「つまらないな」

 

 俺は拍手しながら呟いた。トリューニヒト議長の演説を聞いたのに、何も感じなかった。沸騰するような興奮もなく、痺れるような歓喜もない。悪い演説ではなかった。上品ではないが、アジテーションとしてはよくできている。話術は相変わらず素晴らしい。しかし、心に響くものがないのである。

 

 他の人もそう思っているらしく、大きいが心のこもっていない拍手が鳴り響いた。素晴らしい原稿を用意しても、素晴らしい話術を駆使しても、それだけで人を動かすことはできない。

 

 トリューニヒト議長が下がり、ヤン・ウェンリー元帥が壇上にのぼった。無難だが退屈な文章を適当に棒読みする。何かを伝えようという意欲は感じられない。持ち時間の一八〇秒を漫然と消化しただけだ。それでも、聴衆は熱烈な拍手を送った。

 

 俺はヤン元帥と入れかわるように登壇した。聴衆二〇万人の目を正面から見据える。「同盟市民」や「市民軍」という曖昧なものではなく、この場にいる一人一人に向けて話す。市民軍司令官が語るべきことはただ一つ、「ウィー・アー・ユナイテッド」だ。一八〇秒で語りつくせるものではないが、それでも語らねばならない。

 

 演説を終えた瞬間、二〇万人が沸騰した。怒涛のような拍手が会場を覆いつくす。「ウィー・アー・ユナイテッド!」の叫びが空高く鳴り響く。

 

 俺は笑顔で手を振ったが、内心は不安に満ちていた。自分は彼らの期待に応えられるのだろうか? 彼らはいつまで自分を信じてくれるのだろうか? そう思うと、無邪気に喜べないのである。

 

 二人の人物が視界に現れた。緋色の法衣を着た老人は地球教総大主教シャルル二四世、黒い軍服を着た少女は黒旗軍(BFF)総帥シャナズ四世である。俺は軽い戸惑いを覚えた。一緒に登壇するつもりなのだろうか? 次がシャルル二四世、次の次がシャナズ四世という順番ではなかったのか? プログラムにはそう書いてあったはずだ。

 

 司会者が駆けよってきて、「二人一緒です。早く下りてください」とささやいた。サプライズらしい。

 

 トリューニヒト議長はうまいところに目を付けた。「地球の下の平等」を掲げる地球教は、反地球至上主義という点でシリウスと一致する。地球教を信仰するシリウス人は少なくない。現在の総大主教シャルル二四世ことヴァリオ・パルムグレンは、ラグラン出身で、地球統一政府(GG)を倒したカーレ・パルムグレンの子孫を称している。地球教総大主教と黒旗軍総帥のツーショットは、実現するのがたやすく、しかもインパクトが大きい。

 

 二人が壇上に現れると、大きなどよめきが起きた。大抵の人は、地球教の名前を見ただけで理解したつもりになり、中身を調べようとしない。だから、地球教総大主教と黒旗軍総帥が一緒にいるだけで仰天する。

 

「驚かれましたか?」

 

 シャルル二四世が穏やかに微笑んだ。どよめきがぴたりと止まる。

 

「地球とシリウスは不倶戴天の敵。そう思っていらっしゃるのではありませんか?」

 

 シャナズ四世の透き通った声が響き渡った。

 

「大きな誤解です。人類はみな地球の子。シリウス人もまた地球の子です。同じ親から生まれた子同士が憎しみ合う道理はありません。ラグラン生まれで聖パルムグレンの血を引く私が、地球代表を務めています。大地神テラの前では、地球人もシリウス人も子供として等しく愛されるのです」

「フランクール公はおっしゃいました。『子供から労働の成果をとりあげて贅沢をし、抗議すればなぐりつけるような母親がいまさら何の権利を主張するか』と。人類はみな地球の子。GGのえこひいきが親子の絆を壊しました」

「聖フランクールのお言葉こそ真理であります。人類はすべて地球の子。地球人もシリウス人も等しく愛さねばなりません。GGは地球人のみを愛した。神罰を被るのは当然です」

「シリウスの敵はGGであって、地球ではありません」

「地球はシリウスを恨んでおりません。恨むべきはGGです」

 

 二人の演説はなおも続いた。ウィー・アー・ユナイテッド、地球の下の平等、黒旗軍精神が同じものだと語る。市民軍に参加した者に再建会議を赦すよう求める。再建会議に参加した者に市民軍を赦すよう求める。同盟社会の分断を憂い、和解を訴える。

 

「ジョリオ・フランクールの継承者、ナスリーズ・バフラーミーの末裔、シリウス及びロンドリーナの大元帥、シリウス連邦議長、ロンドリーナの王、黒旗軍総帥シャナズ・バフラーミーの名において宣言します。地球は我らの親であり友である、と」

「使徒アンリの継承者、全銀河の総大主教、太陽系及び地球の総大主教、アジア大主教、チベット主教、地球自治政府主席、大地神テラの召使いシャルルの名において宣言します。シリウスは我らの子であり友である、と」

「銀河は一つ、人類は一つ! ウィー・アー・ユナイテッド!」

 

 シャルル二四世とシャナズ四世が叫んだ瞬間、熱風が渦巻いた。割れんばかりの拍手が巻き起こる。「ウィー・アー・ユナイテッド!」の叫びが会場を席巻した。

 

「ウィー・アー・ユナイテッド!」

 

 俺は周囲に合わせつつ、壇上を眺めた。地球教総大主教が日の当たる場所に登場し、スピーチを行う。前の世界では考えられないことだった。この世界においても、数年前なら実現しなかったはずだ。

 

「ウィー・アー・ユナイテッド!」

 

 群衆が繰り返し叫んだ。なんと空しい響きだろうか。この会場には市民軍を支持する者しかいない。統一正義党はボイコットした。反戦・反独裁市民会議(AACF)は、ハイネセン記念スタジアムに集った反戦派がクーデターを鎮圧したと主張し、独自の記念式典を開いた。団結を強調すればするほど、断絶が浮き彫りになる。

 

 

 

 一八時、最高評議会ビル別館において夕食会が開かれた。政治家、軍人、官僚、財界人など五〇〇〇人が参加した。

 

「帰りたい……」

 

 俺は獅子に囲まれたネズミの心境であった。右を向いたらヤン・ウェンリー元帥、左を向いたらフェザーンのアドリアン・ルビンスキー自治領主、正面を向いたらヨブ・トリューニヒト議長がいる。トリューニヒト議長の右隣にシャルル二四世、左隣にはシャナズ四世が座る。恐れ多すぎて心臓が止まりそうだ。

 

「この料理はチキンの唐揚げと言ってね。レモンの汁をかけるとうまいんだ」

 

 トリューニヒト議長は俺の皿の上でレモンを絞り、唐揚げに果汁をかけた。

 

「食べてごらん」

「はい」

 

 俺は唐揚げを頬張った。最高評議会議長、フェザーン自治領主、地球教総大主教、黒旗軍総帥がこちらを注視する。不敗の魔術師はつまらなさそうな目を向けた。こんな状況で味を感じるはずもない。

 

「どうだね?」

「おいしいです」

「自由の味だからね。うまくないはずがない」

 

 トリューニヒト議長は誇らしげに言った。「唐揚げにレモンをかける国」は、自由な国を意味する慣用句である。

 

「唐揚げにレモンをかける自由。何にも代えがたいものだと思います」

「帝国は好きな味を楽しむことすら許さない。その一点において、私は独裁を否定できる」

「唐揚げにレモンをかける国に生まれた幸運に感謝したいです」

 

 台本通りの発言だが、本音でもあった。

 

「やってみるかい?」

 

 トリューニヒト議長はにっこり微笑み、輪切りのレモンを差し出す。

 

「かしこまりました」

 

 俺はレモンを手に取り、皮の部分を下にして絞る。果実がぐちゃりと潰れた。

 

「フィリップス提督、強く絞りすぎだ」

「申し訳ありません」

「しょうがないな。私が絞ってあげよう」

 

 トリューニヒト議長は苦笑しつつレモンを絞った。世話焼きの父親が不器用な子供の面倒を見ているといった感じだ。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は作り笑いしながら、唐揚げを口に入れた。強張る顔を必死で緩めた。おいしそうに食べているように見せかける。

 

 ルビンスキー自治領主、シャルル二四世、シャナズ四世が次々と話しかけてくる。ヤン元帥が何を言われてもそっけない返事しかしないため、愛想のいい俺が相手をすることになった。最高評議会議長と同じテーブルに座り、外国の貴人と会話を交わす。名誉であることは疑いない。だが、小心者には重すぎる名誉であった。

 

 食事と会話を一通り済ませたところで、トリューニヒト議長が立ち上がった。ルビンスキー自治領主らも席を立つ。見せるための食卓は終わった。これからが本番である。

 

 要人たちは人の海を泳ぐように歩きまわった。知っている顔を見つけては声をかける。知らない顔を見つけたら挨拶し、名刺を交換する。腰を据えて話し込む者もいる。「宴会政治」は帝国貴族の専有物ではない。同盟でもパーティーは政治の場なのだ。

 

「最初の挨拶はどうなさいますか?」

 

 プラチナブロンドの美人が耳元でささやいた。副官二人をシャンプールに置いてきたので、シェリル・コレット少将が副官役を務める。

 

「誰だっていいじゃん」

 

 可愛い赤毛の女性が投げやりに言い放った。妹であるアルマ・フィリップス中将の本音は、手に取るようにわかる。挨拶などせず、自分ひとりに構ってほしいのだろう。

 

「良くないっすよー」

 

 茶髪の男性が甘ったるいマスクにへらへらした笑いを浮かべた。エリオット・カプラン准将は何も考えていないように見えて、本当に何も考えていない。だが、良い家の生まれなので、挨拶の重要性を理解している。

 

「あっちだ」

 

 そう言って俺は歩き出した。妹、コレット少将、カプラン准将の三人が後からついてくる。妹が来れば、アマラ・ムルティ少将が来ないはずはない。コレット少将がいる場所に、ファジル・キサ少将がいるのはいつものことだ。

 

 五〇〇〇人の視線がこちらに集中した。エリヤ・フィリップスが誰に最初に挨拶するかを注視している。

 

「ご無沙汰しております」

 

 俺は統合作戦本部本部長アレクサンドル・ビュコック元帥に声をかけた。最も強い者ではなく、最も親しい者ではなく、最も自分を嫌う者こそ最初に挨拶すべき相手だった。

 

「元気そうで何よりだ」

 

 ビュコック元帥は最低限の礼節をもって応じたが、その声には嫌悪がにじみ出ていた。挨拶されるだけでも不快なのだろう。反骨の老将は小物を許容できない。

 

 会話を続ける余地がなかったので、俺は逃げるように退散した。受け入れられるかどうかは重要ではない。仲が悪くても挨拶する。何度はねのけられても、手を差し出し続ける。自分を嫌う者に対しても門戸を開き続ける。その姿勢を示すことが重要なのだ。

 

「失礼な爺だね」

 

 背後では妹が憤慨している。自分の敵に対しては寛大な彼女だが、兄の敵に対しては容赦しない。かつて尊敬していたビュコック元帥も、今はゴミクズ以下である。

 

「さすがです」

 

 コレット少将はうっとりした目で俺を見た。彼女は俺の敵を絶対に許さない。だが、俺に「許せ」と命じられたら絶対に許す。そして、「敵をお許しになったフィリップス提督の度量」に感動する。

 

 他の三人は何の反応も示さなかった。カプラン准将は良く言えば鷹揚、悪く言えば適当であった。ムルティ少将とキサ少将は、俺のことなどどうでもいい。

 

 最も嫌いな者に対しても挨拶を欠かすことはない。俺は特殊作戦総軍司令官オム・クリシュナーマ上級大将に歩み寄った。視界に入るだけで嫌な気分になる。顔を見るだけでむしずが走る。声を聞くだけで吐き気がする。それでも笑顔で接するのだ。

 

「おおっとぉ! てがすべったぁ!」

 

 クリシュナーマは右手に持ったコップの中身を俺に向かってぶちまけた。

 

「おおっ! そんなところにおったんか! ちっこすぎてみえんかったわ!」

「…………」

 

 俺は何も言わずに苦笑いした。笑うしかなかった。六一歳の上級大将がこんな馬鹿げた嫌がらせをしてくる。ただの上級大将ではない。「ミスター地上軍」「七七〇年代最高の英雄」と称された英雄なのだ。あのオフレッサーと三度戦って生き残った唯一の戦士なのだ。二三八センチの長身、はち切れんばかりの筋肉という立派な体の持ち主なのだ。笑うしかないではないか。

 

「びびっとるんか!? こわがらんでもええんじゃぞ!? わしゃあ、おとなじゃからの! がきにはやさしいんじゃ!」

 

「武神の如き」と形容されるクリシュナーマの厳めしい顔に、にやけた笑みが浮かんだ。自称ヤン派の上級大将や大将が同調するように笑った。俺を嘲笑しつつ、ヤン元帥とビュコック元帥をちらちら見るところが嫌らしい。

 

 こいつらは内輪しか見えないのだろう。自分たちのノリが、ヤン・ウェンリーとアレクサンドル・ビュコックにも通用すると思っている。

 

 馬鹿馬鹿しくなった俺は足早に立ち去った。激発しかけた妹とコレット少将を制止し、自称ヤン派から距離をとった。市民軍が気づいたら、会場を二分する騒ぎに発展しかねない。この会場には海外要人や民間人が大勢いる。恥をかくのは俺でもクリシュナーマでもなく、主催者のトリューニヒト議長だ。

 

 自ら挨拶に来る人もいた。小物を自認する俺だが、次期統合作戦本部長の最有力候補である。政界に転じるとの噂も流れている。好き嫌いは別として無視できない。

 

「八年ぶりですなあ」

 

 にこやかに笑う地球教総書記代理エマニュエル・ド=ヴィリエ大主教は、相変わらずビジネスマンにしか見えなかった。

 

「月日が経つのは早いですね」

「まったくです。俺もすっかり老けました」

「御冗談を。しわ一つないではありませんか。うらやましい」

「見た目だけですよ。中身はボロボロです」

「私は外見もボロボロですよ」

「疲れていらっしゃるのではありませんか?」

 

 俺は無難極まりない答えを返した。高い地位にある人間は大抵の場合、過労気味である。疲労のせいにしておけば間違いない。

 

「休む暇がないんですよ。朝から晩まで仕事漬け。先月の睡眠時間は八〇時間。一日平均三時間以下です。休みたくても休ませてもらえません」

 

 ド=ヴィリエ大主教は愚痴を言っているように見えて、どこか自慢げである。

 

「じゃあ、今回の同盟訪問は良い機会ですね。移動中はのんびりできるでしょう?」

「普段と同じです。携帯端末が鳴りやみません。誰も彼もが私の意見を聞きたがる。少しは自分で考えてほしいものですが」

「仕方がないですよ。大主教猊下ほど仕事のできる方はおられませんから」

 

 忙しさをステータスだと考える人種に対しては、こう答えておけばいい。ドーソン上級大将と付き合った経験からそう学んだ。

 

「仕事ができるというのもつまらんものです。息抜きする暇もない。六年前に新調したウェットスーツ、まだ一度も着ていないのですよ」

「大主教猊下の趣味はダイビングでしたね」

 

 妹と部下がうんざりしつつあることに気づいた俺は、さりげなく話題を変えた。

 

「ええ。澄み切った海。雑音のない空間。無邪気な魚たち。やみつきになります。地球が失ったものですから」

「どんなきっかけで始められたのですか?」

「故郷のドウトンボリにはこんな言い伝えがあります。『古のドウトンボリはダイビングの名所として栄えた。ドウトンボリダイブはジャパン人ダイバーの夢であった』と。しかし、ドウトンボリには海などありません」

「ダイビングの名所なのに海がない。気になりますね」

「一三日戦争の影響だと言われています。ジャパンは核の被害が大きかった地域ですので」

「失われた海ドウトンボリですか……」

 

 俺はかみしめるように呟いた。失われた海ドウトンボリ。なんと甘美な響きであろうか。九六年生きた俺ですらそう感じるのだ。ありし日のド=ヴィリエ少年がどう思ったかは、想像に難くない。

 

「一五年前、宣教師としてローエングラムに赴いた時、海を見ました。美しい海でした。ドウトンボリはこんな海だったのだと悟りました。それがダイビングを始めたきっかけです」

「ロマンチックですね」

「いずれ、ロマンは現実になります。地球は真の姿を取り戻すでしょう。ドウトンボリの海は甦るでしょう。大地神テラがそうお定めになったのです」

 

 そう語るド=ヴィリエ大主教には熱がなかった。あらかじめ用意した模範解答を口にしただけに見えた。ドウトンボリの話は事実かもしれない。だが、彼がその頃の気持ちを失ったことは明白であった。

 

 立ち去る彼の背中を見送りつつ、俺は内心でため息をついた。どこまでも底の浅い人だ。小物ですら見透かせる程度の器量しかない。宗教家が「俺は冷静だ。狂信者とは違う」なんて態度を取ったら、反感を買うに決まっているではないか。心の中でどう思っていたとしても、表に出した時点でアウトだ。肩書きから「代理」が取れないのも納得できる。

 

「油断ならない人ですね」

 

 コレット少将が小声で呟いた。

 

「なぜそう思った?」

「必要以上に自分を小さく見せようとしています。どんな目的があるにせよ、手札を隠そうとする人間は危険です」

「君たちの意見は?」

 

 俺は他の者たちの顔を見回した。

 

「二重のトラップだね。ロマンを長々と語り、最後にそれを馬鹿にするかのような顔をする。本音を隠しているけど隠せないという感じで。そんで、底が見えたと錯覚させる。本当は二重底なんだけどね。将来のための布石だよ。見え透いた底に隠れて、不意打ちを仕掛けるためのね」

 

 妹はコレット少将と同意見だった。回りくどい話し方をするのは、嫌いな奴に同意したと思われたくないからだろう。

 

「ゲームはとっくに始まっているわけか」

 

 俺は小さく肩をすくめた。

 

「つまらないゲームです。フィリップス提督の勝利は確定していますから」

 

 何があろうとも俺の勝利を断言するのが、シェリル・コレットという人である。

 

「やってみないとわからないぞ」

「私にはわかります。フィリップス提督はあえて引っかかったふりをなさいました。あの男に策が成功したと勘違いさせました。しょせんは掌の上です」

 

 コレット少将は目をきらきらさせた。過大評価にもほどがあった。

 

「いや……」

 

 俺は否定しかけたが、すぐに思い直した。

 

「負ける気はしないけどね。彼の側には、シェリル・コレットもアルマ・フィリップスもいないから」

 

 自分一人では見抜けなかった策だが、仲間が見抜いてくれた。一対一ならド=ヴィリエ大主教には太刀打ちできない。しかし、総合力なら勝てる。

 

「やあ、フィリップス提督ではありませんか」

 

 ぎこちなく右手をあげた老人は、オーロラ・グループのクリスト・キューパー会長である。針金が服を着たような痩せっぷりだった。

 

「お久しぶりです」

 

 俺はとても気まずい気分になった。オーロラ・グループは、新型単座式戦闘艇「チプホ」を開発した会社の親会社である。キューパー会長の体重を削ったのは、俺を筆頭とする反チプホ派なのだ。

 

「フィリップス提督はお元気そうですな」

「ぼちぼちやっております」

「飯はちゃんと食っておられますかな?」

「朝昼夜の三食は欠かさないようにしております」

「僕はね、飯が喉を通らんのです」

「それはきついですね……」

「嫌味ですかな?」

 

 ぎょろりとした目がこちらを睨む。俺はたじろいだ。

 

「いえ、そんなつもりはありません」

「医者に叱られましたよ。『死にたいんですか?』と」

「…………」

「だからね、正直に答えました。『死んだほうがましです』と」

 

 キューパー会長は追い詰められていた。チプホが正式採用される見込みは薄い。新兵器採用には莫大な金がかかる。チプホが採用されなければ、開発費を回収できず、巨額の負債だけが残される。

 

 俺は気の毒な気持ちになったが、チプホ採用反対の方針を変えるつもりはなかった。チプホのスペックが素晴らしいことは認める。「一人乗り駆逐艦」という触れ込みは、誇大表現でも何でもない。しかし、単座式戦闘艇の機体は、駆逐艦級の戦闘力を詰め込むには小さすぎた。第九次イゼルローン攻防戦においては、事故死率が戦死率を上回り、三回で出撃中止となった。そんな機体に兵士を乗せるわけにはいかないのだ。

 

 人が俺を見るように、俺も人を見る。誰と話しているか。誰と話さないか。誰に挨拶するか。誰に挨拶しないのか。歩きながらじっくり見極める。

 

「トリューニヒト派だらけですねー」

 

 カプラン准将が周囲をきょろきょろと見回す。お世辞にも行儀がいいとは言えないが、変な目で見る者はいない。彼のキャラクターなら茶目っ気と受け取られる。

 

「そうだなあ」

 

 俺は用心深く視線を動かした。右を見ればトリューニヒト派、左を見ればトリューニヒト派、前を見ればトリューニヒト派、後ろを向いたらトリューニヒト派がいる。ひょっとすると、上にも下にもトリューニヒト派がいるかもしれない。

 

 彼らがみんな味方だったら、どんなに心強いことだろう。しかし、現在のトリューニヒト派は「現政権支持」以外の共通項を持たない集団である。トリューニヒト派同士が対立することも珍しくない。自称ヤン派は広い意味でのトリューニヒト派に含まれる。オーロラ・グループは、トリューニヒト議長が新人議員だった頃からのスポンサーだった。

 

 凡人が世俗主義に傾くと俗悪になる。寛容派は節度がまるでなく、ルールを蔑ろにした。彼らに協力を求めると、金品、地位、口利き、違法行為のもみ消し、コンプライアンスに関わる規則の緩和などを見返りとして要求された。

 

 凡人が道徳主義に傾くと潔癖になる。厳格派は禁欲的すぎて妥協できず、むやみに束縛しようとした。彼らに協力を求めると、軍における嗜好品や娯楽の規制、道徳的でない軍人の排除、兵士のプライベートを束縛する規則の制定などを見返りとして要求された。

 

 どちらも付き合いたくない連中だが、無視することもできない。政治は妥協の連続である。嫌な人間と共存することはそれ自体が政治といえる。

 

 道徳をめぐる対立とは別に、親フィリップスと反フィリップス、古参と新参、リベラルと保守と右翼、ハイネセン主義と宗教といった対立もある。当事者ですら状況を把握できない有様だ。

 

「市民軍もたくさんいるよ」

 

 妹は満面の笑みを浮かべた。子供のように無邪気な笑いだ。

 

「多けりゃいいってもんじゃないけどね」

 

 俺は会場全体を見渡した。この場においては、市民軍の数はトリューニヒト派に勝るとも劣らない。英雄枠を差し引いてもなお多い。

 

 彼らが一つにまとまっていたら、どんなに心強いことだろう。しかし、市民軍は「ハイネセン市民軍メンバー」以外の共通項を持たない集団である。共通の敵が存在した頃ですら、内輪もめが絶えなかった。

 

 市民軍の内情はトリューニヒト派よりさらに込み入っていた。右翼ポピュリスト、ルドルフ主義者、科学的社会主義者、保守主義者、リベラリスト、中道派、日和見主義者、宗教勢力の寄り合い所帯である。そして、寛容派と厳格派の対立はすべての党派に及んでいる。妹とコレット少将、アラルコン上級大将とエベンス中将、フリスチェンコ大将とセノオ中将のような個人的確執も存在する。

 

 こんな連中が喧嘩しつつも「市民軍」という一つの枠に収まっているのは、俺の努力によるところが大きい。内輪もめが絶えなくても、派閥というには緩すぎても、枠は必要である。同じ枠に収まる者同士は、どんなに憎しみ合っていても、最低限の団結を維持できる。ラインハルトと対決する時、市民軍という巨大な枠は大きな意味を持つだろう。

 

 トリューニヒト派と市民軍を除く派閥は、この会場においては一〇人に一人もいなかった。統一正義党とAACFは出席を拒んだ。この二党以外の反政権勢力は絶対数が少ない。

 

「あれ?」

 

 俺の視線は会場の片隅にくぎ付けとなった。教育総隊司令官エリック・ムライ上級大将、陸戦隊総監ワルター・フォン・シェーンコップ、第一艦隊司令官フョードル・パトリチェフ大将の三人が、酒を飲みながら会話をかわしている。

 

「どうしたの?」

 

 妹がいぶかしげに俺を見た。

 

「ヤン元帥がいない」

「トイレでしょ」

「それもそうだな」

 

 適当な返事を返し、別の方角を見た。そこにいたのは、国防事務総長マーゴ・ベネット元帥、予備役総隊司令官ネイサン・クブルスリー上級大将の二人だった。

 

「ビュコック元帥も……」

 

 そう言いかけたが、声には出さなかった。ヤン元帥とビュコック元帥が姿を消した。そのことに何らかの意味を見出すのは、軍上層部の中でもごく限られた人間のみである。明日になれば報告が入ってくるだろう。

 

 誰にでも分け隔てなく挨拶し、誰からの挨拶も分け隔てなく受けた。そんな俺の姿を見た人はこう考えるはずだ。「エリヤ・フィリップスは誰とでも話そうとする」と。

 

 あらゆる党派が先鋭化の道を直進していた。A派に挨拶するだけでA派とみなされ、A派の敵から憎まれる。A派の挨拶をはねつければ、A派の敵から絶賛を受ける。誰も彼もが味方しか見ていない。味方を喜ばせるために敵を侮辱する、味方から見捨てられないために敵を侮辱する。こんな社会で話し合いが成立するはずもない。

 

 俺が率いる派閥ですら先鋭化と無縁ではなかった。クリシュナーマや自称ヤン派の如き輩は、あらゆる党派において圧倒的多数を占める。支持者は声を揃えて「敵を侮辱せよ! 話し合いを拒絶せよ!」と叫ぶ。だからこそ、上に立つ者がそれを否定しなければならないのである。

 

 ハイネセンの一日目は無事に終了した。二日目以降は公務はほとんど入っておらず、休暇を楽しむことになっている。むろん、のんびりするわけではない。非公式会談で飛び回る予定だ。

 

「オリベイラ博士が最初か」

 

 頭の中に、エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ博士の顔が浮かんだ。資料では決してわからないことがある。通信画面からは伝わらないことがある。同盟政界の怪物はどんな人なのだろうか。それを知るために訪ねる。

 

 翌朝、俺は朝の五時三〇分に目を覚ました。筋トレとランニングをこなし、シャワーを浴び、朝食を平らげた。いつもと同じ朝である。

 

 ふと、首席副官ユリエ・ハラボフ大佐のことを思い出した。普段は彼女からもらった余り物を朝食にしている。量の加減がへたくそらしく、一人分の食事を作ろうとすると、三人分や四人分の食事が出来上がるそうだ。食べきれないし、捨てるのももったいないというので、俺が余り物をもらい受けた。俺がいない間は余り物を処分する人がいない。どうしているのだろうか。心配になってくる。

 

 テレビに地球教総大主教シャルル二四世の顔が現れた。これから緊急記者会見を開くらしい。何を話すのだろうか。

 

 フェザーンのルビンスキー自治領主が、シャルル二四世の隣に立った。記者たちが驚きの声をあげる。この世界では地球教とフェザーンの関係は明らかになっていない。驚くのは無理もないことだった。

 

 さらに人が入ってきた。フェザーン一〇大財閥の総帥が二列に分かれ、ルビンスキー自治領主とシャルル二四世の左右に並んだ。

 

「えっ!? えっ!? えっ!?」

 

 俺は驚き慌てた。展開が全く読めない。前の世界の知識もあてにならない。地球教とルビンスキーが何をしたかったのかは、戦記には記されていなかった。

 

「銀河の皆様――」

 

 シャルル二四世は人類に向かって語りかけた。

 

「嘘だろう……」

 

 俺は絶句した。前の世界で八〇年、今の世界で一六年生きた。歴史的事件をいくつも目の当たりにした。自ら歴史を動かしたこともあった。しかし、今回はとびきりだ。

 

 地球教団は地球再生計画『The earth was bluish』を発動した。西暦一九六一年、人類史上初めて宇宙空間に到達したユーリ・ガガーリンは、「The earth was bluish(地球は青かった)」と述べた。それから一六四三年が過ぎた。地球は再び青くなる。期間は三〇年、予算は八〇〇兆フェザーンマルク。人類史上最大のプロジェクトである。

 

 フェザーンの自治領主府と一〇大財閥は、地球再生計画への出資を決定した。理由を問われたルビンスキー自治領主は、「史上最大の儲け話、フェザーンが仕切るのは当然でしょう」と述べた。

 

「いったいどういうことだ」

 

 俺は部屋の中をぐるぐる歩きながら考えた。このような状況など想定していなかった。どんな影響が生じるのだろうか、ヤン・ウェンリーやラインハルト・フォン・ローエングラムはどう対応するのか。何から何までわからない。

 

 通信端末が鳴り響いた。車が宿舎に到着したという。待たせるわけにはいかない。俺は混乱した精神状態のまま、オリベイラ博士のもとに向かった。



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第124話:主戦派崩壊 804年11月10日 メープルヒル~オリベイラオヤシキ~ハイネセン第二国防病院~宿舎

 車はメープルヒルに差し掛かった。ハイネセンポリス有数の高級住宅街である。古臭いが上品な家が並んでいる。町名の由来となった楓が鮮やかに色づき、街並みに彩りを添える。平日の朝七時だというのに、人通りが少ない。

 

「アルフレッド・ローザス元帥記念館」と描かれた看板が、視界を通り過ぎた。故アルフレッド・ローザス元帥の旧宅は、オリベイラ邸と同じメープルヒル一七番地にある。

 

「皮肉だな。いや、お似合いか」

 

 誰にも聞き取れない小声で、俺は呟いた。ローザス元帥は「アッシュビー病」を蔓延させた張本人だ。行き過ぎたアッシュビーの神格化は、同盟軍の用兵を硬直化させ、帝国軍に立ち直る時間を与えた。

 

 英雄が英雄として生きられる時間は短い。神話は終わり、長くて退屈な後日談が始まる。清く正しい英雄は汚くて愚かな人間に成り下がる。

 

 残された物語をどう読むかは、読者に委ねられる。汚くて愚かな人間の物語など面白くない。清く正しい英雄の物語だけが繰り返し読まれる。前の世界でもそうだった。獅子の泉の七元帥も、ヤン・ファミリーの勇士たちも多くの愚行を犯した。それでも、英雄は英雄なのだ。彼らの愚行を目の当たりにしてもなお、仰ぎ見ずにはいられないのだ。

 

 上品な家並みが途切れ、奇妙な邸宅が現れた。やたらと屋根が多い。塀にも門にも屋根がある。敷地内に植えられた樹木の隙間から、馬鹿でかい屋根がいくつも突き出している。

 

「オリベイラ先生のオヤシキです」

 

 運転手は前方を向いたまま説明した。余計な説明だった。「メープルヒル一七番地のオヤシキ」といえば、それはオリベイラ邸以外の何ものでもない。

 

「フィリップス提督」

 

 コレット少将がこちらを向いた。透き通った声が俺の耳を撫でた。金糸のようなプラチナブロンドが揺れた。大きな瞳が俺の顔を捉えた。強烈な目力が俺の目を射抜いた。ぽってりした唇が柔らかく綻んだ。白くなめらかな肌が日光を浴びて輝いた。それは一個の芸術作品であった。

 

「どうした?」

 

 彼女の方がよほど神話的だと思いつつ、俺は返事をした。

 

「オリベイラ先生がおられます」

「どこだ?」

「門の前です」

 

 コレット少将が指さす先に山があった。いや、山ではない。山のようにでかい人間だ。パトロールの憲兵より頭一つ高い。憲兵を三人束ねれば、これぐらい太くなるのであろうか。ボタンのない長衣に太い布帯を締めた服装は、サムライドラマの登場人物が着るオキモノである。

 

「秘書だろ」

 

 俺は間髪入れずに答えた。体格も服装もオリベイラ博士と酷似している。だが、別人だと断言できる。彼は大物の中の大物だ。俺ごときを自ら出迎えるはずがない。

 

「オリベイラ先生にしか見えませんが」

「常識的に考えろ。オリベイラ先生は最高評議会議長より偉いんだ。トリューニヒト議長が来たって出迎えたりはしない」

「秘書にしては貫禄がありすぎます」

 

 コレット少将はなおも食い下がる。願望がそうさせるのだろう。だが、当人が副官にしては貫禄がありすぎるため、説得力に欠けた。

 

「そりゃそうだ。オリベイラ先生の秘書なんだ。そこらの国会議員よりずっと大物だよ」

「お言葉ですが、その理屈はおかしくありませんか?」

「そうかな」

「大物の秘書が大物。そうであれば、私は最高評議会議長より偉いはず。フィリップス提督の元副官ですから」

「ちょっと待て。君の方がおかしいぞ」

「フィリップス提督は天高く輝く恒星、私はどぶ川を漂う小石。恒星の光に照らされても、小石は小石。惑星にはなれません」

「…………」

 

 あれこれ話していると、オリベイラ邸に到着した。警護車両から降りた憲兵たちが周囲の安全を確認する。指揮官のイグレシアス中佐がこちらに向けて親指を立てた。

 

 コレット少将と一緒に下車した俺は、人の形をした山に歩み寄った。顔がはっきり見えた。髪の毛の薄い老人である。福々しい顔に幅広の眼鏡をかけ、見るからに善良そうだ。

 

「あ、あなたは……」

 

 俺の足がぴたりと止まった。動かしたくても動かせない。全身から冷や汗が流れ出す。これはどういうことか。現実なのか。夢を見ているのではないか。

 

「やあ、待っていたよ」

 

 老人が気さくに笑いかけてきた。身長は俺より頭一つ高い。肩幅は広く、胸板は厚く、腹回りは太く、縦にも横にも厚みがある。巨漢というにふさわしい体格だが、ふっくらしているせいか、威圧感は感じられない。

 

「何を驚いている? 私のオキモノ姿がそんなに珍しいか?」

 

 そこに立っていたのは、前中央自治大学長エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラ博士であった。

 

「いえ……。先生直々のお出迎えとは思わなかったもので……」

 

 俺はひきつった笑みを浮かべた。光栄に思うどころではない。畏れ多くて正気を保つことすら難しい。

 

「格下が格上を出迎えただけのこと。何の不思議もない」

「ご冗談を……」

「君は総軍司令官、私はただの年寄り。どちらが格上なのか? 考えるまでもない。小学生だって理解できる」

 

 肩書きだけを比べるならば、オリベイラ博士が言うとおりである。彼は三年前から同盟奨学財団の理事長を務めている。このポストは国立大学学長経験者の持ち回りで、閑職と言っていい。

 

「恐れ入ります」

 

 俺は声を震わせながら答えた。完全に呑まれていた。エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラにとって、肩書きなんてものは飾りでしかない。その事実を骨身にしみて思い知らされた。

 

「それにしても小さいなあ」

 

 オリベイラ博士は右手を俺の頭上にかざす。

 

「マティアスが言ったとおりだ。本当に小さい」

「先生が大きすぎるんです。俺より二〇センチも高いじゃないですか」

 

 小物特有の追従笑いを浮かべた俺は、身長差を勝手に三センチ縮めた。

 

「もっと小さく見えるぞ。存在自体が小さいんだな」

「先生と比べれば、誰だって小さいでしょう」

 

 小物呼ばわりされたところで、俺は何とも思わない。安心感すら覚える。変に持ち上げられるよりはずっといい。

 

 右隣で何かがぶちりと切れるような音がした。コレット少将の怒りが頂点に達したようだ。何の問題もない。彼女は激しい気性の持ち主だが、それを完全にコントロールできる。怒りを微笑みに包む程度のことは簡単にやってのける。

 

「こちらのお嬢さんは元副官だそうだが、君の方が副官に見える。いや、従卒か」

 

 オリベイラ博士の評価は的を得ていた。俺は平凡な童顔で、筋肉はあるが背は低く、軽はずみで落ち着きがない。コレット少将は魅惑的な美貌を持ち、背は高く体つきは力強く、堂々としていて威厳がある。先入観なしで見れば、一〇〇人中一〇〇人が俺を従卒扱いするだろう。

 

「まあ、比べるのが酷かもしれん。お嬢さんは並の人間ではない。見ればわかる。天性の風格が備わっている。英雄の器というべきじゃな」

「さすがはオリベイラ先生、お目が高いです」

 

 俺は満面の笑顔を浮かべた。自分が褒められるより、部下が褒められる方がずっと嬉しい。

 

「フィリップス提督のご指導のおかげです」

 

 コレット少将はにっこり笑った。内心では激しい怒りが渦巻いているはずだ。自分はどう言われても構わないが、「尊敬するフィリップス提督」への侮辱は絶対に許さない。

 

「わかっているとも。類は友を呼ぶという。お嬢さんほどの人物から忠誠を勝ち取る。凡人にできることではない。フィリップス君こそ英雄の中の英雄だ」

「おっしゃるとおりです!」

 

 彼女の機嫌はたちまちのうちに急上昇した。自分が褒められるより、「尊敬するフィリップス提督」が褒められる方がずっと嬉しい。

 

「案内しよう。ついてきなさい」

 

 オリベイラ博士は大物らしい悠然とした足取りで歩き出した。

 

「かしこまりました」

 

 俺は返事をすると一歩下がった。並んで歩く度胸などない。後からついていくのが分相応というものだ。

 

「どうして下がるのだね? 隣に来なさい」

「先生の側を歩くのは畏れ多いのです」

「水臭いことを言うなよ! 友人じゃないか!」

 

 オリベイラ博士が笑いながら、俺の右肩に手を置いた。一目で作り笑いとわかる笑顔である。聞いた瞬間に嘘だとわかる棒読み口調である。実にしらじらしい。しらじらしすぎて恐怖を覚える。

 

「か、かしこまりました!」

「結構!」

 

 悠然と構えるオリベイラ博士、戦々恐々とする俺が並んで歩いた。得意顔のコレット少将が一歩下がってついてくる。イグレシアス中佐率いる憲兵一一名が、俺たちをガードした。

 

 前の世界の戦記では、エンリケ・マルチノ・ボルジェス・デ・アランテス・エ・オリベイラは、小物だった。まず、名前が無駄に長い。上から目線で偉そうに説教する。得意顔で語った戦争賛美論は、ヤン・ウェンリーに論破された。自信満々に提案したヤン・ウェンリー暗殺計画は、無様な失敗に終わった。ジョアン・レベロから失敗を詰られると、「自分は提案しただけ」と答えた。いいところなど一つもなかった。

 

 この程度の人物ですら、直に会ってみると圧倒されてしまうのだ。彼が大きいというより、俺が小さすぎるのかもしれない。

 

 

 

 オリベイラ博士は俺を「ハラキリの間」という部屋に通した。床に敷かれた網状の敷物も、格子状の紙窓も、壁にはめ込まれた白い長方形の引き戸も、サムライドラマでお馴染みのものだ。

 

「私は君をハラキリの間に招いた。ハラキリをするつもりでもてなす。そういう覚悟であると思ってほしい」

 

 そう言うと、オリベイラ博士は見たこともない方法で茶をいれた。釜から陶器に湯を注ぐ。茶粉を湯が入っていない方の陶器に入れる。陶器の中の湯を茶粉入りの陶器に移し替える。泡立て器のようなものを使って、湯と粉末を練り上げるように混ぜる。十分に泡立ったら、泡立て器を上げ、大きな泡を丹念に切り刻む。

 

「ショーグンティー。歴代ショーグンが愛した茶。ゆえにショーグンティー」

「これがショーグンティーですか……?」

 

 差し出された茶は、どう見てもグリーンミルクティーであった。クリーミーな泡が浮いている。表面はなめらかな光沢を帯びており、見るからに甘そうだ。

 

「作法通りにいれた茶はこうなる。ショーグンティーは本来こういうものなのだ」

「知りませんでした」

「茶葉はウジ産のものを使った。シューグンティーは数あれど、ショーグンが口にしたのはウジ産のみ。本物のショーグンティーを味わってもらいたい」

「頂戴いたします」

 

 手を伸ばした瞬間、俺は重大な事実に気づいた。受け取り方がわからない。サムライドラマではどうやって受け取っていただろうか。

 

「好きなようにしなさい。君はサドウの徒ではないのだから」

「かしこまりました」

 

 俺はパラス人らしくカップを両手で受け取った。手が小刻みに震えた。サムライ・アシガル・ニンジャの三兵戦術を創始したラクーン・イエヤスも、ミト・コーモンに世直しを命じたドッグ・ツナヨシも、自ら悪人を成敗したアンフェタード・ヨシムネも飲んだ茶である。歴史の重みが喉を滑り落ちる。

 

「…………」

 

 強い視線を感じた。オリベイラ博士がこちらを注視しているのだ。生きた心地がしない。

 

「どうだね?」

「……わかりません」

 

 一瞬迷ったものの、俺は正直に答えた。見栄を張ってもしょうがない。わからないものをわかるといったところで、恥をかくだけだ。

 

「正直に言いたまえ。しょせんは素人の茶だ。口に合わぬこともあろう」

「本当です。緊張しておりまして。味わうどころではありませんでした」

「ふむ。勇者の中の勇者でも緊張することがあるのだな」

 

 オリベイラ博士は二杯目の茶をいれた。

 

「緊張をほぐすには茶が一番だ。飲みたまえ」

「よろしいのですか?」

「味わえとは言わんよ。喉を潤すつもりで飲みなさい」

「では、いただきます」

 

 俺は二杯目の茶を飲んだ。泡が舌に乗ってころころと転がる。芳醇な味わいが広がった。

 

「どうだね? 今度は味を感じたのではないか?」

「感じました」

「うまいだろう?」

「はい」

「ジャパンのものは銀河一うまい。酒は例外だがね。アグスタ産のブランデーに勝る酒はない」

 

 オリベイラ博士は大笑いした。アグスタは彼の故郷である。もっとも、この世界では「ブルース・アッシュビーの故郷」、前の世界では「アレクサンドル・ビュコックの故郷」といった方が通りがいい。

 

「だが、酒では政治はできん。古代ジャパン人は『サドウはゴセイドウ』と言った。茶の道は政治の道なのだ。君は茶の味を知った。政治の味を知ったのだね」

「政治の味ですか……?」

「その通りだ」

「申し訳ありません。自分には理解できないようです」

「君は本当に正直だね」

「俺は小物です。背伸びしたって足元を見られるだけです」

「小物は『自分は小物だ』などと言わんよ。小さい奴ほど自分を大きく見せたがるもんだ」

「大物の考えることは同じなんですね」

「ほう、私と同じことを言った者がいるのか。名前を聞かせてくれんかね」

「シェーンコップ提督です」

 

 俺がその名を口にした瞬間、オリベイラ博士の表情が変わった。どす黒い悪意が福々しい顔を塗り潰した。一瞬で温和な表情に戻ったが、小物を怯えさせるには十分であった。

 

「なんだ、小物ではないか」

「ご存知なのですか?」

「会ったことはないがね。会うまでもない。評判を聞けばわかる」

 

 声色も表情も穏やかであったが、内容は完全な決めつけだ。

 

「類は友を呼ぶ。大物の周りには大物、小物の周りには小物が集まるものだ。シェーンコップ君はヤン君の腰巾着。その時点で小物だとわかる」

「小物の取り巻きは小物。そういうことでしょうか?」

「ヤン君はどうしようもない小物だよ。ちょっと意見しただけで逆切れした。見下されたと勘違いしたのだろうね」

「気難しい方ですから」

 

 愛想笑いを絶やさぬ俺だが、内心では呆れていた。でたらめにもほどがある。ちょっと意見しただけで逆切れしたのも、見下されたと勘違いしたのも、オリベイラ博士ではないか。

 

「あれは気難しいなんてもんじゃない。ただの――」

 

 延々とヤン元帥を詰るオリベイラ博士には、大物感のかけらもない。二年前のことをまだ根に持っているのだろう。この世界でも、オリベイラ博士はヤン元帥に言い負かされた。

 

「リーダーの条件とは何か。それは愛国心だ。人は愛するもののために命を賭ける。国家のために命を賭ける人物こそ、リーダーにふさわしい」

「おっしゃる通りです」

 

 俺は大きく頷いた。まったくもって正論である。愛国心のないリーダーは信用できない。オリベイラ博士のような人物はリーダー失格だ。

 

「ヤン君には愛国心がない。国家のために命を賭ける男ではない。リーダーとして不適格だ」

「俺もそう思います」

 

 俺は大きく頷いた。まったくもって正論である。リーダーは国家を何よりも優先する人物であってほしい。ヤン元帥は理念を何よりも優先する。オリベイラ博士は利益と保身を第一に考える。このような人物は、どんなに有能であってもリーダーになるべきではない。

 

「君は愛国者の中の愛国者。リーダーになるべき人材だよ」

「ありがとうございます」

 

 俺は無邪気そうな笑顔で応じた。まったくもって的外れである。愛国心がなければ、リーダーは務まらない。しかし、愛国心があるだけの凡人にも、リーダーは務まらない。オリベイラ博士はそれをわかった上でおだてたのだろう。

 

「おだてたわけではないがね」

 

 オリベイラ博士は俺の心中を見透かすように言った。

 

「君はおだてに乗るような男ではない。お世辞を言われるよりは悪口を言われたい。媚びを売られるよりは喧嘩を売られたい。そんな男をおだてたりはせんよ」

「調査済みなのですね」

「調べてわかることはすべて調べた。君だってそうだろう?」

「はい」

 

 否定する理由もないので、俺はあっさり認めた。オリベイラ博士と付き合うと決めた後、徹底的に調査した。本人に知られたら怒られそうなことまで調べた。

 

「君は大物の中の大物だよ。敬愛するヤン君と敵対する。嫌いな私と握手する。そんな真似ができるんだ。小物であろうはずがない」

 

 オリベイラ博士は何気ない顔で、「敬愛するヤン君」「嫌いな私」と言った。すべてお見通しだったのだ。

 

「いえ、俺は……」

「構わんよ。この世界では日常茶飯事だ。嫌われることも、自分を嫌う者と握手することも。君は私を味方にする価値があると考えた。ならば、文句はない」

「恐縮です」

「人は見たいものを見ようとするが、君は見えるものを見る。幻想を持たない。好き嫌いに流されない。願望を交えない。理念に囚われない。強者を恐れない。弱者を見下さない。ただ、事実のみを見て判断する。だから、私は君を評価する」

 

 オリベイラ博士は人好きにする笑みを浮かべた。

 

「…………」

「どう答えていいかわからん。そういう顔だな?」

「……困っております」

「君はツン=デレなのだな」

「なんですか、それは?」

「古代ジャパン語の慣用句だよ。素直になれないことを意味するのだそうだ」

「なるほど……」

 

 言葉の意味は分かったものの、的外れだと思った。俺ほど素直な人間は滅多にいないからだ。だが、あえて反論することもない。誰にでも間違いはある。

 

「朝のニュースは見たかね?」

 

 オリベイラ博士は微笑んだまま話題を変えた。

 

「見ました」

「近いうちに講和交渉が始まるが、どうするつもりだね?」

「講和ですか……?」

 

 俺は首を傾げた。なぜ「講和」なんて言葉が出てくるのか。地球再生計画以外には目立ったニュースはなかったはずだ。

 

「朝のニュースは見ただろう?」

「ええ。地球教とフェザーンが地球を再生するそうですね」

「だから講和なんだ」

「どういうことでしょう?」

「地球再生計画には途方もないコストがかかる。ここまで言えばわかるな?」

 

 あからさまに呆れつつも、オリベイラ博士は説明してくれた。

 

「ああ、なるほど。そういうことでしたか」

 

 ここまで言われれば、頭の悪い俺でも理解できる。地球再生計画を実現するには、全銀河の富を結集しなければならない。その障害となるのが戦争だ。地球教とフェザーンは、講和の仲介を申し出るだろう。同盟も帝国もフェザーンに借りがあるので、この提案を拒否できない。

 

「改めて聞こう。君はどうするつもりだね?」

「高度の柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処することになろうかと思います」

「講和も選択肢に入れる。そう受け取っていいのかね?」

 

 オリベイラ博士は静かだか重々しい声で問いかける。

 

「軍人の仕事は国防です。そして、戦争のみが国を守る手段とは限りません」

 

 俺はきっぱり言い切った。主戦派だが戦争好きではない。帝国と戦ってきたが憎しみはない。反戦派と対立してきたが嫌悪はない。頭は良くないが、「講和は絶対不可能」という支離滅裂な主張を信じるほど愚かではない。講和も選択肢のうちにある。

 

「戦争は国際的及び国内的な矛盾を解消するための、最も賢明な手段だよ」

 

 オリベイラ博士はありきたりの戦争擁護論を口にした。

 

「人は堕落しやすい生き物だ。平和になれば向上心を失う。自由になれば自制心を失う。戦争による緊張感のみが、人に向上心と自制心を与え、進歩をもたらすのだ」

「…………」

 

 俺は反応に困った。これが最高学府の学長まで務めた人物の言葉なのか。素人目にも雑な論理である。突っ込もうと思えば、いくらでも突っ込める。突っ込みどころが多すぎて、「わざとやってるんじゃないか」とすら思えてくる。

 

「どうした? 反論はないのかね?」

「……試されても困ります」

 

 これが俺の弾き出した答えだった。

 

「本当に冷静だね、君は」

「突っ込み待ちにしか見えなかったので」

「二〇人中一九人は喜んで突っ込んでくるよ。自分が賢いと思っている奴は、論理の穴に突っ込もうとする。自分が正しいと思っている奴は、倫理的欠陥を突こうとする。人間の本質は見過ごせないものにこそ現れる」

「俺の本質は見えましたか?」

「ああ。君は信じられたいのだろう? だから『試すな』と言った。違うかね?」

 

 オリベイラ博士は俺の本心を正確に言い当てた。

 

「正解です」

「まったく酷い話だよ。君ほど謀の多い男はいない。息を吐くように嘘をつく。瞬きするように演技をする。敵も味方も他人も自分自身も区別なく欺く。そんな男が何よりも信頼に飢えている。本当に酷い。酷すぎて笑えてくる」

「自分でも酷いと思っていますよ」

 

 相当酷いことを言われたにも関わらず、俺の頬は緩んでいた。オリベイラ博士の表情が妙に優しかったからだ。

 

「私も君に賛成だ。戦争のみが国を守る手段とは限らない。あらゆる選択肢を検討すべきだ」

「戦いたくても戦えません。フェザーンが嫌な顔をします」

「フェザーンも一枚岩ではない。ルビンスキーと一〇大財閥は地球再生計画に乗った。だが、他の者が乗るとは限らん。ルビンスキーを蹴落としたい奴も、一〇大財閥に儲けさせたくない奴も大勢いる」

「体制そのものが倒れるかもしれませんね。民主化運動が激しくなっています。戒厳令はほとんど意味を成していません」

「地球教の派閥争いは一層激しくなる。進歩的解釈に基づいて再生するか。伝統的解釈に基づいて再生するか。宗教家にとっては死活問題だ」

「伝統派が騒ぐでしょうね。シャルル二四世もド=ヴィリエ大主教は進歩派ですから」

「我が国も帝国も割れる。地球再生計画に乗るか。講和を支持するか。親地球と反地球が新たな対立軸になる。ダゴン以降最大の大変動が始まるのだ」

「ダゴン以降最大……」

 

 俺はその言葉を噛みしめるように呟いた。大げさな表現ではない。同盟と帝国が講和に向けて動き出す。フェザーンの天秤はその役目を終える。銀河の均衡は崩壊する。講和が実現しなかったとしても、元通りにはならない。

 

「君が対処するのだ。フィリップス統合作戦本部長、期待しているぞ」

「全力を尽くします」

「うむ」

 

 オリベイラ博士は大物らしく鷹揚に頷いた。

 

「茶が本当にうまくなるのは三杯目からだ。飲むかね?」

「はい」

「好きなだけおかわりしなさい。お菓子もあるよ」

「お言葉に甘えさせていただきます」

 

 俺は茶をがぶがぶ飲み、菓子をぱくぱく食べた。遠慮してはいけない。年寄りは若者の大食いを喜ぶものだ。

 

「よく食べるねえ」

 

 オリベイラ博士はにこにこしながら俺を見た。息子や孫を見るような目ではない。何か別のものを見る目だ。

 

「どうかなさったのですか?」

「……いや、何でもない」

「…………?」

 

 こうして会見は終わった。直に会うのは初めてなのに、他人という気がしない。すっかり術中にはまってしまったようだ。

 

 

 

 車に乗り込んで携帯端末を開くと、大量のメールが届いていた。同志や部下からの問い合わせである。

 

「地球再生計画のニュースをご覧になりましたか? 帝国との講和交渉が近日中に始まります。どう対応なさるつもりでしょうか?」

 

 概ねこのような内容だった。彼らも地球再生計画のニュースを見て、「これは講和だぞ」と感づいた。コレット少将に質問したところ、やはりわかっていた。彼らが鋭いというより、俺が鈍すぎるのだろう。

 

 第二の訪問先はハイネセンポリス第二国防病院である。地下の秘密入口から入り、非常階段を上がり、人払いされた廊下を歩く。誰にも見られぬまま、病室にたどり着いた。

 

「時間通りだな」

 

 ベッドに半身を起こしたマティアス・フォン・ファルストロング伯爵が、にやりと笑った。

 

「軍人ですので」

 

 俺は微笑みながら敬礼をした。

 

「どうだった?」

「とんでもない人でした」

 

 苦笑いしつつ、俺はオリベイラ博士との会話内容を語った。そのためにやってきたのだ。

 

「さすがはエンリケだ。よく人を見ている」

 

 ファルストロング伯爵は満足そうにうなずいた。

 

「わしは人を見る目がない。だから、エンリケに見せた。わしには見えないエリヤ・フィリップスを見るために」

「オリベイラ先生のお話もお聞きになったのですか?」

「ああ。通信をもらったぞ。卿が帰った直後にな」

「呆れておられなければ良いのですが。小物ぶりを晒してしまったので」

「卿が言ったことと変わらんよ。エンリケが卿を認めた。これで安心して死ねるというものだ」

「そういう冗談はやめてください」

 

 俺は眉をしかめながら苦言を呈した。こんなことは冗談でも聞きたくない。ファルストロング伯爵が倒れたと聞いた時、本当に慌てたのだ。

 

「冗談ではないがな。まあ、やめろというならそうしよう。マフィンを粗末にするのも、コーヒーで床を汚すのも、女性の胸をクッションにするのも本意ではない」

「素直ではないですね」

「権力者を長いことやっていたのでな。職業的習慣というやつじゃよ」

 

 ファルストロング伯爵はことさらに皮肉めいた笑いを作った。照れているのだろう。本当に素直ではない。彼こそツン=デレと呼ぶべきではなかろうか。

 

「安心しました。意地を張れるうちは大丈夫です」

「茶を馳走するまでは死なぬよ。ウジ産ごときで満足されてはかなわぬ。ショーグンティーはガニメデ産こそ至高なのだ」

「楽しみにしております」

 

 ファルストロング伯爵の軽口に対し、俺は軽口を叩き返した。無意味な言葉の応酬が心を癒す。オリベイラ博士との会見で疲れた神経がほぐれていく。

 

「お時間です」

 

 携帯端末からコレット少将の声が響いた。楽しいひと時はあっという間に終わった。

 

「伯爵閣下、これにて失礼いたします」

「卿にくれてやる。持っていけ」

 

 ファルストロング伯爵は懐から小さな記録媒体を取り出した。

 

「これは?」

「亡霊と守銭奴どもの関係じゃよ」

「…………」

 

 俺は記録媒体をまじまじと眺めた。前の世界でローエングラム朝時代を生きた人間は、地球教とフェザーンの関係を知っている。だから、「地球教とフェザーンの関係」と言われたところで、驚きはしない。

 

「なんだ、驚かないのか」

「伯爵閣下のおっしゃることですから」

「つまらん奴だ。妹を見習え」

「アルマにも渡したのですか?」

「当然じゃろう。情報というのは共有せねば役に立たん」

 

 ファルストロング伯爵と妹の関係は、今も続いている。俺がシャンプールに赴任したため、直接会った回数は妹の方がずっと多い。

 

「ご配慮いただきありがとうございます」

「二〇年前の情報だ。参考程度に留めておけ」

「かしこまりました。資料として活用させていただきます」

 

 俺は深々と頭を下げた。情報の価値は鮮度に比例する。二〇年前のものなど無価値に等しい。それでも嬉しかった。

 

 ファルストロング伯爵の病室を後にして、誰にも知られないように病院を出た。訪問記録は一切残らない。俺とファルストロング伯爵は、表向きには無関係ということになっている。偉くなったせいで、見舞いに行くだけでも気を遣う。

 

 一三時三〇分、地球教銀河教会とフェザーン自治領主府は同盟政府に対し、「帝国との講和を仲介する」と申し出た。帝国政府に対しても同様の申し出がなされた。

 

 その二時間後、銀河帝国救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラム公爵が記者会見を行った。総大主教特使と帝国枢密顧問官を兼ねるデグスビイ大主教、フェザーン自治領のケッセルリンク駐オーディン高等弁務官が同席している。

 

「興味深い提案である。即答はできかねるが、前向きに検討したい」

 

 ラインハルトの口から飛び出した言葉は、全銀河を震撼させた。帝国政府が講和に前向きな姿勢を示したのだ。マンフレート亡命帝以来、一世紀ぶりのことであった。

 

 ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長は、深刻なジレンマに直面した。仲介を受けなければ、積極財政を継続できない。仲介を受ければ、主戦派の離反を招く。どちらを選んでも破滅する。

 

 右翼のトリューニヒト離れは既に始まっている。彼らはトリューニヒト議長を機械的に称える集団ではない。「三年間で出兵回数ゼロ」という現実に直面すれば、さすがに目が覚める。軍拡と反帝国パフォーマンスでごまかせる期間は、とっくに過ぎた。憂国騎士団が右翼のトリューニヒト批判を潰そうとしたが、団員を激減させるだけに終わった。講和問題はそれをさらに加速させるだろう。

 

 軍需産業は真っ二つに割れた。賛否を分けたのは地球特需との関係だ。賛成派企業はトリューニヒト政権やフェザーンと親しく、利権にありつける。反対派企業はトリューニヒト政権やフェザーンと疎遠で、プロジェクトから排除される可能性が高い。

 

 宗教右派は分裂状態に陥った。ある教団は全面支持を打ち出した。ある教団は激烈な批判を行った。ある教団は静観の構えをとった。教義も背景もバラバラな彼らを結びつけていたのは、世俗的な反戦派への敵意であった。宗教勢力主導の講和なら拒否する理由はない。だが、どの教団にも自分なりの主張と利害がある。地球教と噛み合わない教団は少なくなかった。拝金主義の総本山たるフェザーンへの抵抗感はぬぐいきれない。こうしたことから、足並みが乱れた。

 

 ルドルフ主義者は徹底反対でまとまった。フリードリヒ大帝、オットー鉄血公、リヒャルト絢爛公、アドルフ先覚帝、モーリッツ純粋公、ルドルフ大帝、アーレ長征公と受け継がれてきた強者の思想は、一切の妥協を許さない。腐敗した帝国も、弱者に媚びる地球教も、拝金主義に囚われたフェザーンも許容できない存在なのだ。

 

 反リベラルや反反戦派はトリューニヒト批判に転じた。帝国などどうでもいい。「講和」という単語の反戦臭が、彼らを怒らせた。

 

 保守派は前向きな者も後ろ向きな者もいるが、いずれも慎重な姿勢である。彼らが夢見てきた「帝国を完膚なきまでに打ち破り、有利な講和を押し付ける」というシナリオは、決して実現しないだろう。正規軍を撃滅し、帝都を陥落させた。それでも帝国は屈しなかった。戦争を続けても得るものはない。さっさと講和するのが賢明というものだ。しかし、崩壊寸前の救国軍事会議政権は交渉相手として適当なのだろうか。地球教やフェザーンへの不信感もある。これらの要因が彼らを慎重にさせた。

 

「歴史が変わった……」

 

 俺は宿舎の一室で呆然としていた。主戦派がほんの数時間で消滅した。たった一つの提案が、二大勢力の一角を葬り去ったのだ。

 

 主戦派崩壊の影響は俺自身にも及んだ。フィリップス派は「無条件で受諾すべき」論者、「条件次第で受諾すべき」論者、「徹底的に拒否すべき」論者に三分された。ラインハルトと戦うどころではない。派閥の崩壊を食い止めるだけで手いっぱいだ。

 

 反戦派はその歴史的役割を終えた。どの勢力も一様に講和支持を打ち出した。そのため、他の部分での齟齬が余計に目立つ。世俗主義者はフェザーンに好意を寄せる一方、地球教を邪魔だと感じた。道徳主義者は地球教に好意を寄せる一方、フェザーンを邪魔だと感じた。むろん、講和できるなら他のことには構わない者もいる。「反戦派」は消滅し、世俗主義者、道徳主義者、功利主義者のみが残った。

 

「ああ! そういうことだったのか!」

 

 俺は勢い良く立ち上がった。勢いが付きすぎたせいか、バランスを崩してひっくり返る。いつもなら柔らかいものにぶつかるところだが、コレット少将は入浴中、ハラボフ大佐は長期休暇中、イレーシュ少将とドールトン少将は数千光年の彼方である。そのまま床に倒れ込んだ。

 

 天井を眺めたまま、俺は頭を回転させた。前の世界とこの世界が一つに繋がった。今起きていることこそ、戦記に記された「地球教による銀河支配の陰謀」ではなかろうか。

 

 地球教の狙いは「平和的手段による銀河統一」だと思われる。同盟と帝国の戦争を長引かせる。両国が疲弊の極致に達したところで、フェザーンとともに講和の仲介を申し出る。筋金入りの強硬派以外は耳を傾けるはずだ。銀河は親地球と反地球に二分される。そんな中、地球再生計画が始動するのだ。

 

「人類が一丸となり、母なる星を復活させよう」

 

 地球教は全銀河にそう呼びかける。人々は雪崩を打つように地球教を支持するはずだ。地球教の言葉には夢がある。反地球の言葉には否定しかない。どちらを選ぶかは自明の理だ。夢には見向きもしない者も、地球再生計画が生む巨大マネーには魅力を覚える。

 

 すべてが終わった時。地球教は戦争終結と地球再生の立役者になる。全人類を指導するにふさわしい実績だ。圧倒的な支持のもと、地球教は新銀河秩序の中心を占めるであろう。

 

「考えすぎか」

 

 俺は苦笑いしながら立ち上がった。妄想もいいところだ。地球教がそこまで状況をコントロールできるとは思えない。オリベイラ博士と話したように、地球教やフェザーンも盤石ではない。彼らが嵐に吹き飛ばされる可能性も十分にあるのだ。

 

 どこまでが陰謀でどこまでが偶然かはわからないし、わかる必要もない。この状況をいかに活用するかだけを考えればいい。

 

 俺の考えはほぼ固まっている。地球教と手を組み、講和の主導権をいち早く握る。戦争を続けられないのであれば、終戦後の世界を作る側に回った方がいい。新秩序の中で、軍の権益を確保する道を探るのだ。

 

 現時点において、地球教は最も手頃な同盟相手である。思想的にも政策的にも共通点が多く、意に沿わぬことを押し付けられる心配がない。元市民軍は地球教に一目置いているので、手を組んだ方がまとめやすくなる。付き合いが長いので気心が知れている。漫画やアニメやゲームに厳しすぎるところには、少々辟易するが、我慢できないほどではない。こういうものは甘すぎるより厳しすぎる方がましだ。

 

 懸念すべき点があるとすれば、地球教と麻薬組織カメラートの関係であろう。直接的な証拠はないが、間接的な証拠は山ほどあり、「限りなく黒に近い灰色」といったところだ。それでも、意思は変わらない。むしろ、カメラートを叩くチャンスだと判断した。

 

 教団全体がカメラートと結託している可能性は低い。というか、不可能である。進歩派と伝統派の双方と組むよりは、大衆党とAACFの双方と組む方がはるかに容易だろう。そして、両派とも複数の派閥に分かれている。進歩派の最も穏健なグループと最も急進的なグループの差は、大衆党とAACFの差よりずっと大きい。伝統派も似たようなものだ。カメラートと結託する派閥に喧嘩を売れば、そこと対立する派閥の支援が期待できる。

 

 俺が地球教に利用される可能性はあるが、仕方がないと思っている。お互いに利用し合うのが、政治というものだ。利用されるのが嫌なら、最初から政治などやるべきではない。

 

 右手の人差し指が送信ボタンを押した。主だった同志と部下にメールが送られる。俺の決意を伝える。どんな反応が返ってくるだろうか。一人一人の顔を思い浮かべながら考える。満場一致とはいかないだろう。

 

 リーダーは支持者に逆らえない。これは永久不変の原理である。手足になる者がいなければ動けない。耳目になる者がいなければ情報が入らない。支持者を持たぬリーダーは、手も足も耳も目もない人のようなものだ。だからこそ、リーダーは支持者を恐れ敬う。逆に言えば、支持者でない人間は怖くない。

 

 リーダーには決断という権利が与えられている。誰が支持者であるかを決めることができる。俺には支持者を選ぶ権利がある。



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第125話:小物は走る、獅子は飛ぶ 804年11月11日~14日 ハイネセンポリス

「後世の人は時代をこう区分するだろう。『プレ一一・一〇』と『ポスト一一・一〇』に」

 

 ルドルフ研究の第一人者として知られるダリル・シンクレア教授がそう語った。誇張表現ではない。一六四年続いた戦争の終わりは、一つの時代の終わりであった。

 

 俺にはポスト一一・一〇を祝う余裕は与えられなかった。フィリップス派の構成員は全銀河に散らばっている。ハイネセンポリス時間では深夜でも、他の地域では朝や昼や夕方である。起床した者、昼休みに入った者、仕事を終えた者が問い合わせを入れてくる。

 

 個人で捌ききれる量ではないので、宿舎にしているウィリアム・ブラウン陸戦隊基地の予備司令室を借り、二〇人ほどの人員を集め、臨時オフィスを設けた。

 

「なんでこんなに忙しいんだ!」

「そりゃそうでしょ」

 

 妹であるアルマ・フィリップス中将は呆れ顔で言った。

 

「誰にも相談せずに講和するって決めたんでしょ? みんな戸惑うに決まってるじゃん」

「アルマは戸惑わなかったじゃないか」

「妹だから」

 

 妹は平たい胸を張る。

 

「本当、助かるよ」

 

 俺は妹に向かって手を合わせた。彼女は仕事が終わると同時に飛行機に乗り、五〇〇〇キロ離れた街から駆けつけてくれた。どれほど感謝してもし足りない。

 

 問い合わせに対応する一方、今後の計画を練った。本格的なプランではない。この人数で作れるプランなどたかが知れている。それでも叩き台は必要だ。

 

「同盟を講和支持でまとめ、フェザーンや地球と連携し、帝国に講和するよう圧力をかける。これがお兄ちゃんの計画だね」

「ああ。成功すれば平和になる。失敗しても、フェザーンと地球が味方になり、帝国を国際的孤立に追い込める。どっちにしても損はない」

「標的はフェザーンと地球ってことだね」

「よくわかったな。さすがは俺の妹だ」

 

 俺は笑顔で嘘をついた。

 

「問題は帝国が講和成立まで存続するか、という点です。反対派はこの点をついてくるでしょう。崩壊寸前の国との講和に意味があるのか、と」

 

 首席副官シェリル・コレット少将は狂信者だがイエスマンではない。俺がイエスマンを嫌うことを知っているからだ。

 

「帝国に副王軍を解散させると言えば、無意味な講和にはならない」

「言えないでしょ。副王軍は帝国の唯一の実働戦力だよ」

 

 妹はプロとしてごく常識な意見を口にした。

 

「フェザーンに圧力をかけさせる。戦力を捨てるか。スポンサーを捨てるか。帝国に究極の二択を迫る」

「そうなったら、副王軍を捨てるしかないね。フェザーンの援助でもってる国だから。貴族財産を換金できるのもフェザーンだけだし」

「帝国に副王軍を解散させる力はない。それでもいい。命令に従わなければ、副王軍は反逆者になる。帝国企業やフェザーン企業と取引できなくなるわけだ」

「お兄ちゃんは講和を副王軍潰しに利用するんだね」

 

 妹の可愛らしい顔に納得の色が宿る。

 

「さすがはフィリップス提督です!」

 

 コレット少将が豊かな胸を張った。

 

「ウザっ……!」

 

 どす黒い声が聞こえたが、無視して話を続けた。

 

「考えるだけなら誰でもできる。実現するためのプランを立ててほしい。よろしく頼む」

 

 俺がそう言うと、コレット少将は大いに喜び、妹はぶつぶつ言いながらうなずいた。感情はどうあれ、同意してくれたようだ。全力で嘘をついた甲斐があった。

 

 言うまでもないことだが、真の標的はラインハルトである。講和が成立すれば、ラインハルトと戦わずに済む。成立しなかったとしても、ラインハルトを孤立に追い込める。副王軍を潰すのは、ラインハルトから戦力を削ぐためだ。

 

 午前四時、援軍を解散させた。時差が大きい地域から呼び寄せた人たちなので、この時間帯に起きていても問題はなかった。しかし、これ以上起きていると、向こうの時間でも深夜になる。好意のみで深夜労働をさせるのは気が引ける。

 

「株はどうなっているかな」

 

 経済チャンネルを開いた瞬間、俺は凍り付いた。こんな株価チャートは見たことがない。真下にストンと落ちている。暴落という言葉すら生ぬるい。墜落と言うべきだ。

 

 午前〇時頃、株式投げ売り大会が唐突に始まった。きっかけは軍需株が低落から急落に転じたことだった。軍需株が暴落した。軍需企業と取引している企業の株が暴落した。軍需企業と取引している企業と取引している企業の株が暴落した。軍需企業と関係ない企業の株が暴落した。

 

 ブレーンの経済学者数名に聞いたところ、「一時的なもの。すぐに反発する」との返答が返ってきた。それなら大丈夫だろうと思っていたが、完全に外れたようだ。

 

 銀河株式市場は半ば麻痺している。フェザーンは全取引所にサーキットブレーカー制度を設けているため、終日取引停止となった。帝国にはサーキットブレーカー制度がないものの、救国軍事会議がすべての取引を停止させた。同盟はサーキットブレーカー制度のある取引所とない取引所が混在しており、現在進行形で下落が続いている。

 

「政府はどうして取引停止命令を出さないんですかね?」

 

 次席副官クリストフ・ディッケル大尉は常識的な疑問を口にした。サーキットブレーカーには、株価の下落を加速させるという欠点がある。しかし、そんなものを気にする情勢ではないはずだ。

 

「わからないなあ」

 

 俺は真顔でとぼけた。本当はわかっているが、あえて口にしない。

 

「出せないんですよ」

 

 首席副官シェリル・コレット少将は正解を口にした。

 

「少しはオブラートに包めよ」

「包み隠さず申し上げることが忠誠。そう心得ております」

「君の言う通りだけどね」

 

 俺は苦笑いを浮かべた。講和要請以降、政府は二つに割れた。トリューニヒト議長は誰にでもいい顔をする人なので、こういう局面では動きが取れない。

 

「勘弁してほしいですね」

 

 ディッケル大尉は眉をひそめた。トリューニヒト議長直々の表彰に感激したのは、もはや過去の話であった。

 

「しょうがない。ああいう人なんだから」

 

 毒にも薬にもならない言葉を吐いたところで、緊張感のあるチャイム音が流れた。緊急ニュース速報である。

 

「帝国救国軍事会議のラインハルト・フォン・ローエングラム議長が緊急声明を発表。同盟・フェザーン・地球に対し、金融危機打開のための国際協調を呼びかける」

 

 信じがたいニュースだった。銀河一の戦争好きが国際協調を呼びかけたのだ。生まれながらの征服者が他国と手を取り合おうというのだ。

 

 上辺だけの声明であることは疑いない。しかし、何のためにこんな声明を出したのだろうか。ラインハルトの狙いが読めない。

 

「信じられないですね」

 

 コレット少将は大きな目をさらに大きくした。

 

「君もそう思うか」

「ええ。本当に動きが早いですよね」

「そっちかよ」

 

 俺は拍子抜けした。

 

「他にも何かあるのでしょうか?」

「ローエングラム公が国際協調を口にした。ありえないだろ?」

「あり得ると思いますが。彼は非戦派です」

 

 コレット少将はごく常識的な見解を口にした。この世界の知識だけで判断するならば、ラインハルトは非戦派と言わざるを得ない。同盟への敵意が乏しい。同盟人への差別意識がない。対外強硬論を口にしない。同盟に対する賠償請求権を真っ先に放棄した。主戦派とは毛色が違う。

 

「ブラウンシュヴァイク公の講和案に反対した男だぞ」

「あれは国内政治の問題です。門閥貴族主導の講和が成立したら、彼は失脚します」

「非戦派なら反対しないと思うけどなあ……」

 

 我ながら無理筋だと思う。ブラウンシュヴァイク公が門閥貴族主導の出兵案を出したとしても、ラインハルトは反対しただろう。

 

 それにしても、ラインハルトの勤勉ぶりには驚かされる。ハイネセンポリスとオーディンの時差はほとんどない。あっちも深夜だ。これほどの大事を独断で決められるとは思えないので、ずっと話し合いをしているのだろう。いつ休んでいるのか。勤勉な天才なんて反則だ。

 

「フィリップス提督、起床から二三時間が経過しました。睡眠をお取りになってはいかがでしょうか」

 

 コレット少将はものすごく心配そうな顔で言った。

 

「ああ、そう……」

 

 ここまで言ったところで、自分がうなずきかけたことに気づいた。危ないところだった。

 

「いや、今日は徹夜する。仕事がいっぱいあるからね」

「無理をなさらないでください。ただでさえ、体調がよろしくないのですから」

「じゃあ、あと一時間だ。一時間したら寝る」

「一時間前も、二時間前も、三時間前も、四時間前もそうおっしゃっておられました」

 

 コレット少将は俺の体を自分の体より大事にしているので、こういう局面では譲らない。

 

「一時間待ってくれ。頼むから」

「上官が休まないと。部下も休めないのです」

「君は起床から何時間経った?」

「一二時間です。フィリップス提督がおられない間に、タンクベッドに入りましたので」

「ディッケル大尉、君はどうだ?」

「一四時間前にタンクベッドに入りました」

「休んだ方がいいな」

 

 俺は即座に判断した。働きすぎて倒れるのは本末転倒だ。しっかり休まなければ、しっかり働くことはできない。

 

「君たちはタンクベッドに入るんだ。俺は一人で仕事してるから」

「かしこまりました」

 

 コレット少将は返事をすると、俺の仕事用端末からコンセントを抜いて持ち去った。追いかけたが間に合わない。驚くべき早業であった。

 

「ディッケル大尉、端末を貸してくれ」

「僕も持っていかれました」

「コレット少将の端末は……。ないな」

「どうなさいます?」

「寝るしかないだろ」

 

 俺はしぶしぶ部屋を出た。頭がゆらりと揺れる。この程度の揺れならまだ大丈夫だ。足がふらふらする。この程度のふらつきならまだ大丈夫だ。不完全燃焼の思いだけが残る。

 

 タンクベッドに入ってから一時間が過ぎた。体が重い。筋肉が悲鳴をあげた。関節がきしんだ。頭がひどく痛んだ。心臓が飛び跳ねた。息が苦しい。一時間のタンクベッド睡眠は、八時間の自然睡眠に匹敵するはずだ。それなのに休んだ気がしなかった。

 

「もう一時間寝ようか」

 

 延長ボタンを押しそうになったが、ぎりぎりで思い留まった。仕事が俺を待っている。のんびりしてはいられない。

 

 部屋に戻った瞬間、俺は目を疑った。コレット少将が全裸で出てきた。嘘だろうと思って見直したが、やはり全裸だった。

 

「なんで服を着ていないんだ……?」

「着替える暇がありません」

「一瞬じゃないか」

「フィリップス提督は不眠不休で仕事に取り組んでおられます。副官が着替える暇などないのです」

「…………」

 

 俺は相手が言わんとすることを察した。

 

「わかった。俺が悪かった。これからはちゃんと寝る。だから服を着てくれ」

「では、お休みになっている間に着替えましょう」

「俺が信用できないのか?」

「信じております。信じるがゆえに、今のお言葉が嘘だとわかります」

「頼むから服を着てくれ」

 

 俺が土下座をすると、コレット少将もすかさず土下座をする。

 

「私はあなたに休んでいただきたいのです」

「休むから! 君の言ったとおりにするから! 服を着てくれ!」

 

 土下座したまま言い合いをしていると、緊張感のあるチャイム音が流れた。緊急ニュース速報である。

 

「帝国救国軍事会議はサジタリウス副王府を廃止。サジタリウス高等弁務官事務所が新たに発足」

「嘘だろ!」

 

 俺は反射的に飛び上がった。こんなことがあり得るのだろうか。事実上の講和宣言ではないか。

 

 ダゴン会戦以降、帝国はサジタリウス腕に名目上の統治機関を設置した。名前は何度も変わった。どのような名前であろうとも、帝国はサジタリウス腕が自国領であるとの建前を崩さなかった。この建前が講和の障害となった。

 

 マンフレート亡命帝の命取りとなったのは、いわゆる「サジタリウス総督府問題」であった。講和が成立した場合、サジタリウス総督府は廃止され、地図上の領土が半減する。亡命帝を暗殺した青年貴族は、「帝が帝国領の半ばを放棄しようとしている」という主戦派の宣伝に惑わされ、凶行に及んだのである。

 

 サジタリウス副王府は、これまでの統治機関とは異なり、実質的な力を持っている。反同盟テロリストや宇宙海賊を取り込み、帝国自治領とした。配下の軍勢は自称一〇〇〇万、実数数百万とみられる。外宇宙に築いた勢力圏は、同盟領を半包囲するように広がる。中核勢力のエル・ファシル自治領は、エル・ファシル革命政府軍そのもので、最も強硬な反同盟組織である。これを廃止するとなれば、サジタリウス総督府どころではない問題になるはずだ。

 

 ラインハルトが新たに置いた高等弁務官事務所は、自治領において帝国政府を代表する機関である。「事実上の総督府」と称されることもあるが、統治権は持たず、行政・軍事の監督権のみを有する。自治領以外の領有権を放棄したに等しい。

 

「勘弁してくれ」

 

 俺はテレビを苦々しげに見詰めた。いきなり副王府を廃止するとは思わなかった。自治領と軍隊は残るが、領有権を放棄したので、同盟領を攻める口実はなくなる。テロリストや海賊が反発することは疑いない。大義名分と一〇〇〇万副王軍をあっさり捨てた。予想外の事態である。計画を一から練り直さなければならない。

 

 画面にラインハルトが現れた。緊急記者会見をやるそうだ。強面の提督を引き連れて会見場に入ってくる。

 

「不死身のパウル、疾風ウォルフ、氷剣オスカー、鉄壁ビッテン、猛犬ロルフ、火の玉ミュラー、闘鬼ケスラー、揺るぎなきカール……。本当に記者会見なんですか? 殴り込み要員ばかりですよ」

 

 いつの間にか戻っていたディッケル大尉が言った。

 

「印象操作だよ。上品なのを並べたら、いかにも譲歩しましたって感じがするだろ?」

「オーベルシュタインだけでも迫力十分ですからね。両目が義眼、両耳が義耳、両腕が義手、両足が義足。見た目からしてやばいです」

「帝国の義体は見た目がものものしいからな。いかにも機械って感じで」

「このメンバーがこんな時間まで起きてるってのも凄いですよね」

「呆れるよな。こいつら、いつ寝てるんだ? 働き過ぎだろ」

「えっ……!?」

 

 ディッケル大尉が信じられないと言った顔で、こちらを見る。

 

「昨日から重大発表の連続じゃないか。たぶん一睡もしていない。むちゃくちゃだ。こんなペースで働いたら早死するぞ」

 

 最後の言葉は俺の願望であった。ラインハルトと戦う覚悟はある。覚悟はあるが、戦わないに越したことはない。

 

「…………」

 

 コレット少将は立ち上がって俺の両肩に手を置いた。

 

「どうした?」

「…………」

「言いたいことがあるのか?」

「…………」

 

 一八三・〇三センチのコレット少将が、一六九・四五センチの俺を見下ろす。髪を後ろに束ねているので、豊満な裸体が丸見えである。美しい顔は仮面のように無表情だ。大きな目を半分だけ開き、じっとりした目つきでこちらを見る。ものすごく怖い。

 

 

 

 日中は支持固めに走り回ることになる。幸いなことに会談やメディア出演の予定がぎっしり詰まっている。状況が変わったからと言って、キャンセルされることはない。むしろ、こんな時だからこそ、俺の声を聞きたいと思うはずだ。

 

「朝の六時三〇分からNNNモーニングニュースに出演、七時から……」

 

 ディッケル大尉が俺のスケジュールを読み上げる。

 

「一一時からドーソン提督との会食……」

「不安だなあ」

 

 俺はドーソン上級大将からもらったメールの内容を思い出した。ただ一言、「説明しろ」とのみ書かれていた。長くもなくくどくもなくつまらなくもないメールが怖い。

 

「大丈夫でしょう」

 

 真正面に座るコレット少将が言った。未だに全裸なので、心臓によろしくない。

 

「他人事だと思って気楽に言うなよ」

「あの人、ちょろいじゃないですか。自分の意見がないし」

「少しはオブラートに包めよ」

「何事も包み隠さないことが忠誠。そう心得ております」

 

 正論であったが、全裸で言われると微妙である。

 

「七時からおはよう動画、八時からさわやかモーニング……」

 

 ディッケル大尉がコレット少将のスケジュールを読み上げる。日中はほとんど別行動になる。

 

「コレット提督、外に出る時は服を着てくれよ」

「もちろんです。帰ったら脱ぎますが」

「脱がなくていいから」

「フィリップス提督がお休みになるまでは着替えません」

 

 コレット少将は聖戦に挑む騎士のような表情で言った。彼女にとってはこれが聖戦なのだ。エリヤ・フィリップスに徹夜させないための戦いなのだ。

 

 ミーティングを終えた後、俺は客室に戻った。汚れた軍服を脱ぎ、シャワーを浴び、背が伸びるストレッチを行い、きれいな軍服に着替え、髪型を整える。

 

「これも片付けないと」

 

 大量のファイルがデスクの上に積み上げられている。カバーはピンク色で、丸っこいタイトル文字と丸っこいイラストが可愛らしい。冷徹無比のユリエ・ハラボフ大佐がなぜこんなカバーを作ったのか。題名を見ればわかる。

 

『責任者退艦禁止規定』

『降伏罪』

『国防娯楽健全化法(軍人のゲーム・漫画・アニメを制限)』

『同盟軍人忠誠審査法』

『記録断罪法』

『国防用地収用法』

『国防五悪追放法(軍人の酒・タバコ・賭博・ポルノ・婚前交渉を完全禁止)』

『現地司令官に対する治安出動決定権の付与』

『参事官に対する命令副署権及び指揮権の付与』

『参事官を配置する部隊の拡大』

『青少年国防奉仕法』

『三分間憎悪の義務化』

 

 こんな法律や規則が成立したら、同盟軍は軍隊としての体を成さなくなる。トリューニヒト政権は右翼や道徳主義者を満足させるためだけに、百害あって一利もないルールを作ろうというのだ。

 

『国防入札正常化法』

『同盟軍人倫理規程』

『同盟軍人権利擁護法』

『国防ハラスメント防止法』

『国防賠償法』

『国防環境整備法』

 

 これらの法律や規則が廃止されたら、同盟軍のモラルは地の底に落ちる。トリューニヒト政権は右翼や利権屋や世俗主義者を満足させるためだけに、必要不可欠な法律をルールを廃止しようというのだ。

 

『次世代単座式戦闘艇チプホ』

『イオン・ファゼカス級超弩級宇宙母艦』

『八〇四年型標準戦艦(仮)』

『バレーエフ級ミサイル巡航艦』

『無敵戦車ヘプナー』

『ノーチラス級陸海空汎用戦闘艦』

『軌道要塞ガリバー』

『巨大強化外骨格キング・マーキュリー』

 

 こんな装備が導入されたら、同盟軍はハリボテと化してしまう。トリューニヒト政権は右翼や軍需企業を満足させるためだけに、役に立たない装備を導入しようというのだ。

 

 さらに言うと、ヘプナー将軍はヒトラーに反逆した人物、バレーエフ大統領はルドルフの最大の政敵であり前任の連邦元首だった人物、キング・マーキュリーはジークリンデ皇后とルートヴィヒ皇太子を殺した人物である。兵器の名前自体が帝国への嫌がらせになっていた。

 

『二個正規艦隊増設』

『二個地上軍増設』

『一星系一戦隊、一星域一分艦隊構想』

『揚陸艦隊創設』

 

 こんな部隊が作られたら、同盟軍は空箱になってしまう。トリューニヒト政権は右翼や軍需企業を満足させるためだけに、必要ない部隊を作ろうというのだ。

 

『軍用性処理人形 鋼鉄の巨人』

『軍用性処理人形 金髪の孺子』

『軍用性処理人形 歩く博物館』

『軍用性処理人形 裸足の公爵夫人』

『軍用性処理人形 ミンチメーカー』

『人型便器 ルドルフ・ザ・グレート』

『人型便器 エンペラー・コルネリアス』

『人型便器 エンプレス・ジークリンデ』

 

 説明もしたくない。

 

 中身が不快極まりないので、せめてカバーを可愛くしよう。それがハラボフ大佐の考えだった。正しい判断だと思う。

 

「こればかりは、フェザーンと地球教に感謝しないとな」

 

 俺は誰にも聞こえないような小声で呟いた。ハイネセン行きの本来の目的は、これらの案件を白紙撤回させることにあった。しかし、講和要請が国防政策に根本的な見直しを迫った。

 

 講和が成立した後、主導権を握るのは講和を強く推進した勢力である。馬鹿な政策をやめさせるには、俺たちが主導権を掌握し、戦後の国防政策をリードすることだ。

 

 国防監察本部長クレメンス・ドーソン宇宙軍上級大将はじゃがいもである。彼の栄光はじゃがいもとともに始まった。彼の出世街道はじゃがいもによって舗装された。市民は彼を「じゃがいも提督」と呼んで尊敬する。軍人は彼を「じゃがいも野郎」と呼んで畏怖する。そんな彼と飯を食うならば、じゃがいも料理店以外の選択肢はない。

 

「その髪はなんだ。綿菓子になったつもりか」

 

 席につくなり、ドーソン上級大将は説教を始めた。

 

「カムフラージュです。イメージとかけ離れた格好をすることで、敵の目を欺いているのです」

 

 俺はふわふわした金髪を右手でつまんだ。「赤毛の驍将」というには金色すぎる。「勇者の中の勇者」というにはふわふわすぎる。

 

「金髪に染めるだけで十分だろうが。ふわっとさせる必要があるのか」

「念には念を入れようと思いまして」

「空気感を出しすぎだ。貴官の髪はもともとウェーブしている。さらにウェーブさせれば、綿菓子になるのが道理だ。そもそも、金髪というものは……」

 

 くどくどねちねちした説教が続く。小物の説教は気持ちよくなるための説教であって、わからせるための説教ではない。

 

「ご注文をお願いします」

 

 店員がやってきたので、説教は中断された。

 

「じゃがいもランチAセット」

 

 ドーソン上級大将は注文すると、俺にメニューを渡した。

 

「好きなものを注文しろ」

「お言葉に甘えさせていただきます」

 

 俺はにっこり笑った。

 

「じゃがいものスープ」

「じゃがいものハンバーグ」

「じゃがいもの団子」

「じゃがいものグラタン」

「じゃがいものパンケーキ」

「じゃがいもと鶏肉のフリカッセ」

「じゃがいもとソーセージの油炒め」

「じゃがいもとニシンの酢漬けのサラダ」

「じゃがいもとベーコンのクリームパスタ」

「じゃがいものアイスクリーム」

「じゃがいもの……」

「待て」

 

 ドーソン上級大将が遮るように右手を伸ばした。

 

「払うのは私だぞ」

「ごちそうになります」

「しょうがない奴だ」

 

 お許しをいただいたので、注文を続けた。

 

「じゃがいものオムレツ」

「じゃがいもとアスパラガスのサラダ」

「じゃがいものチーズ焼き」

「じゃがいもと野菜とベーコンの卵とじ」

「じゃがいものアルミホイル焼き」

「じゃがいもの……」

 

 名を呼ばれるたびに、ドーソン上級大将は「誰が払うと思っておるのだ」と呟いた。だが、うきうきした口ひげときらきらした目が本音を語っていた。

 

 店員が去ると、説教が再開された。今度の標的は服装だ。ふかふかしたキャスケット、白いカットソー、淡いピンクのカーディガン、空色のパンツという格好がふわふわしすぎだという。

 

「少しは年を考えろ。それが三六歳の着る服か」

「だからこそ、カムフラージュになるのです。三六歳の上級大将がふわふわした格好をする。誰が予想するでしょうか」

「ハラボフに騙されとるんじゃないか? 自分好みの服を着せとるだけだ」

 

 ドーソン上級大将の口ひげが少ししおれる。本当に心配しているらしい。

 

「彼女に限ってそんなことは無いと思いますが」

 

 俺は笑いながらハラボフ大佐を擁護した。彼女ほど冷徹な人はいない。冷徹な計算の結果、ふわふわした服が最適と判断したのだ。そうに違いない。

 

「あいつはああ見えて残念な奴だぞ」

 

 ドーソン上級大将は少し嬉しそうに言った。下を見て安心する性質なので、残念キャラには優しい。以前は嫌っていたハラボフ大佐だが、何かのきっかけで残念キャラだと判断したらしく、今ではお気に入りである。

 

「彼女が上官にふわふわした服を着せて喜ぶ人だとしたら、残念すぎて泣けますよ」

「ハラボフならありえる。奴の士官学校時代のあだ名は『ポンコツ姫』だからな」

「うちではしっかり者ですよ。真面目すぎて連勤数がすごいことになったので、休暇を取らせています」

「休むのを忘れただけではないのか」

「彼女に限ってそれはないでしょう」

「好きすぎて忘れたというのもありうる。あいつは貴官を大好きすぎるからな」

 

 ドーソン上級大将は盛大な勘違いをした。ハラボフ大佐が俺を好きというデマを真に受けているらしい。

 

「再婚する気はないか。貴官とハラボフなら残念同士でうまくいくと思うが」

 

 今度はお節介が始まった。彼には説教モード、お節介モード、愚痴モード、自慢モードがあり、ランダムに切り替わる。

 

「左隣はダーシャのために空けておくつもりです」

「気持ちはわかるがな。ぞの年齢と立場なら、ずっと独身というわけにはいかんぞ」

「縁談はたくさん来ているのですが。有力者の縁戚になると、紐付きになります。それが嫌なんです」

「そこでハラボフだ。あいつと結婚しても紐付きにならんぞ」

 

 今日のドーソン上級大将はやけにハラボフ大佐を推してくる。芋でももらったのだろうか。誰からもらったのかはわからないが。

 

 料理が来て、皿が空になり、追加注文しても、話はモードを切り替えながらだらだらと続いた。俺は食欲を満たし、ドーソン上級大将は説教欲・節介欲・愚痴欲・自慢欲を満たす。ウィンウィンの関係である。

 

「ああ、ところで講和の話だが」

 

 ドーソン上級大将はようやく本題を思い出した。

 

「自分の考えを申し上げます。まず……」

 

 俺は講和論を語った。

 

「しかし、それでは反戦になるぞ」

「リベラルを利することにならんか」

 

 ドーソン上級大将が問題にしたのは、反戦になるかどうか、リベラルになるかどうかという点だった。それ以外の点は問題にしなかった。

 

「反戦にはなりません。なぜなら……」

「むしろリベラルには不利になります。どういうことかと申しますと……」

 

 この手の方便をひねり出すのはたやすい。

 

「何よりも俺がやるんです。エリヤ・フィリップスがやる時点で、反戦でもリベラルでもなくなります」

「もっともだ」

 

 ドーソン上級大将の口ひげがピンと跳ねた。彼には思想がない。反戦アレルギーとリベラルアレルギーのみで動いている。「反戦でもリベラルでもない」という方便さえ用意すれば、講和を支持できる。

 

 後方勤務本部長スタンリー・ロックウェル上級大将は食通である。美食と美酒を何よりも愛する。うまいものを味わうことが生きがいだ。医師に「血圧が高めなので節制した方がいい」と言われても、彼は美食をやめなかった。うまくてヘルシーなものを探した。そして、ヴィーガン・レストラン「グリーン・キッチン・ボブ」にたどり着いた。

 

「ヴィーガンとベジタリアンの違いは~」

 

 ロックウェル上級大将のうんちくを聞きながら、俺は大豆蛋白のカツレツを味わった。

 

「君は糖分を取りすぎなのだ。野菜をもっと食べなさい」

 

 うんちくが小言に変わり、俺はベジタブルランチを食した。支払いはすべて相手持ちだ。ロックウェル上級大将は優越感を満たす。俺は食欲を満たす。この関係はずっと変わらない。

 

「本題に入ろうか」

 

 三〇分ほど過ぎた頃、ロックウェル上級大将は居住まいを正した。

 

「納得できる説明を聞かせてもらえるのだろうな」

「納得いただけるよう、努力いたします」

 

 俺は自分の意見を述べた。

 

「副王軍……、いや弁務官軍はそれで弱体化するのかね。疑問だなあ」

「そこまで帝国に譲歩させるなら、相当の手土産が必要だぞ。何を差し出す?」

 

 ロックウェル上級大将が問題にしたのは、現実的に可能どうかという点だった。

 

「長期的には弱体化します。ルートが切れますから」

「ラグナロックで持ち帰った文化財の一部返還。ここらへんが現実的ではないかと」

 

 我ながら苦しい説明である。

 

「雑すぎやせんかね」

「即興で作った案ですから。ロックウェル提督のお目に叶う案となると、時間が必要です」

「まあ、今の段階で詰めることではないわな」

「重要なのは方針を決めることです。講和をするか否か。講和に何を求めるか」

「国家を守るための講和というのなら、喜んで協力しよう。重要なのは民主主義を守ることではない。民主国家を守ることだ。反帝国のイデオロギーを貫いて亡国を招くのであれば、本末転倒と言わざるを得ない」

 

 ロックウェル上級大将は気難しい表情を崩さずに答えた。彼には確固とした思想がある。譲れぬものがあれば迷わない。

 

 前の世界のスタンリー・ロックウェルは二つの大罪を犯した。ジョアン・レベロを見捨て、ヤン・ウェンリーの抹殺を図った。国家の危機が迫った時、彼は冷酷非情の決断を下したのだ。ジョアン・レベロを殺し、ラインハルトに降った。国家の滅びが不可避となった時、彼は狂ったのだ。この事実は彼が国家にすべてを捧げたことを示している。

 

 ボッタ社副社長フィリップ・ルグランジュ宇宙軍予備役上級大将は、安っぽいビアホールが大好きだ。上品な店は性に合わない。高級な店は妻が許さない。静かな店は居心地が悪い。酒はビールに限る。喧騒の中、ギトギトで固い肉をかじりながら一杯やる。それにまさる喜びはないという。

 

「講和のことですが……」

 

 俺は言葉を選びながら語った。本来は遠慮など必要ない。家族同然の仲だ。いや、家族以上かも知れない。フィリップス家の構成員のうち、彼と同等かそれ以上に親しいのは妹だけである。それほどの仲でも言いにくいことはある。

 

 この世界では不安要因のないルグランジュ予備役上級大将であるが、前の世界では極右クーデター集団の一員だった。ただ参加しただけではない。全滅するまで戦う気合を見せて、ヤン・ウェンリー提督をドン引きさせた。そんな人に対して講和論を説くのは、勇気のいることだった。

 

「支持しよう」

「えっ?」

 

 あまりにもあっさりした答えだったので、俺は面食らった。

 

「どうした? そんなにおかしいか?」

「いえ……。ルグランジュ提督は主戦派だと思っておりましたので……」

 

 俺は奥歯に物が挟まったような言い方をした。「前の世界で極右クーデターに加担した人だから」などとは言えない。

 

「確かに主戦派だがね。戦うために戦ったわけではない。帝国に負けを認めさせたかった。同盟に手出ししないと約束させたかった。五〇〇年の圧政が誤りだと認めさせたかった。だから戦った。貴官もそうだろう?」

「はい」

「それができないことがわかった」

 

 ルグランジュ予備役上級大将の顔に陰が差す。

 

「勝って勝って勝ちまくった。数十万隻を破壊した。数千万人を殺した。帝都を攻略した。それでも終わらなかった。じゃあ、どうすれば終わるんだ? 帝国軍を皆殺しにするか? 帝国領を全部占領するか? 我々にそれができるのか? できないだろうが」

「できません」

「ハイネセンを出発した時、私には一五〇万人の部下がいた。ハイネセンに戻った時、私には七〇万人の部下しかいなかった。八〇万人が帰れなかった」

「…………」

「あの戦いには、彼らの犠牲に見合う価値があったのだろうか。私は彼らにどう顔向けすればいいのか」

 

 ルグランジュ予備役上級大将は力なくうつむいた。

 

「…………」

 

 俺には何も言えなかった。ルグランジュ予備役上級大将の痛みは、ラグナロックで戦った者すべてに共通するものだった。体の痛みはいずれ消える。しかし、心の痛みは消えない。

 

「それが賛成する理由だ。納得したか?」

「ええ。これ以上無いほどに」

「一つだけ注文がある」

「なんでしょう?」

「講和となれば相互軍縮は避けられんだろうが、最小限にしてくれ。軍人以外の仕事ができない奴はたくさんいる」

 

 ルグランジュ予備役上級大将は情の人であった。いかつい風貌の奥にナイーブな心を秘めていた。そのナイーブな心こそが士心を得た理由であり、用兵家としての甘さであろう。前の世界でクーデターに加担した理由も、ナイーブさゆえかもしれない。

 

 彼らのほか、予備役上級大将二名、現役大将三名、予備役大将二名と面談して、支持を取り付けた。統合作戦本部次長シンクレア・セレブレッゼ宇宙軍上級大将は、メールを送った時点で支持を表明してくれたので、純粋に食事を楽しむことができた。

 

 一三日の深夜二三時、俺は仕事を終えて宿舎に戻った。コレット少将、ディッケル大尉らと軽いミーティングを行う。

 

「足元はほぼ固まったな」

「アラルコン提督は未だに返事がありません」

 

 ディッケル大尉は資料をパラパラとめくった。

 

「一緒に飯を食うのは明後日だ。それまではわからない」

「支持してくれると良いのですが」

「駄目なら駄目で仕方がない。思想を捨てろとはいえないよ」

 

 俺は自分に言い聞かせるように言った。サンドル・アラルコン予備役上級大将については、ここまで付いてきてくれただけでありがたいと思う。これ以上は望まない。

 

「他派の動きが気がかりです」

「自称ヤン派は派手に動いているね。AACFにすり寄ったり、大衆党にAACFとの連立を提案したりしている」

「無節操ですね。受け入れられると思っているんでしょうか」

「生存率〇パーセントの選択肢と生存率一〇パーセントの選択肢、どっちを選ぶ?」

「一〇パーセントを選びます」

「自称ヤン派も同じ心境だよ。俺がトップになったら、彼らは絶対に生き残れない。だから少ない可能性に賭ける。ヤン提督が話の通じる人間である可能性、ヤン提督を傀儡にできる可能性にね」

 

 俺は自称ヤン派が大嫌いだが、それなりの合理性を持った相手だと思っている。

 

「真のヤン派はいかがでしょう?」

 

 コレット少将が質問する。

 

「ヤン元帥が文化人と対談しまくっている。AACF支持者も無党派もいるけど、みんな反戦リベラルだ」

「下院選に向けた選挙運動という噂があります。事実なのでしょうか?」

「わからない」

 

 俺は現時点で最も誠実な答えを口にした。憲兵隊と公共安全局がヤン元帥の意向を必死に探っているが、何も出てこないという。宿泊先のキャゼルヌ家は、傭兵が厳重に警備しており、脱法的手段による情報収集が不可能なのだそうだ。

 

 この問題については、前の世界の知識はあてにできない。AACFにはヤン元帥の恩師や友人がいる。政治嫌いとは言え、親しい人に頼まれたら断れない気もするのだ。

 

 トリューニヒト政権は未だ沈黙を保っている。講和要請以降、何も発信せず、何も決定していない。

 

 官邸筋から聞いた話によると、閣議自体は開かれているそうだ。しかし、アントン・ヒルマー・フォン・シャフト科学技術委員長とマルティン・ブーフホルツ評議員がごねまくり、トリューニヒト議長が決を採らないので、何も決められない。

 

 シャフト委員長やブーフホルツ評議員がごねるのは、故なきことではなかった。帝国系移民は右翼と密着し、圧制の被害を訴え、主戦論を唱えることで地歩を築いてきた。統一正義党は帝国系の議員や党員が多く、「ゲルマン党」の異名を取るほどだ。大衆党は統一正義党には及ばないものの、帝国系の比率は他党より高い。戦争が終われば、帝国系は右翼から重用されなくなり、ただのマイノリティに落ちぶれる。

 

 一四日午前一三時、銀河帝国救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラム、フェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキー、地球教銀河教会総大主教シャルル二四世の三名は、超光速通信会談を行い、金融危機打開に向けて協力することで一致した。合意文書には、帝国・フェザーン・地球の三国による共同委員会の設置、帝国に対する金融支援などが盛り込まれた。

 

「サジタリウスの民の参加を熱望している」

 

 ラインハルトは記者会見の場でこのように述べた。「サジタリウスの民」とは同盟のことである。帝国は同盟に対するテロ組織指定を九七年ぶりに解除し、「反乱軍」と呼ぶことを止めた。

 

 ルビンスキー自治領主とシャルル二四世は、ラインハルトに同調し、同盟に共同委員会への参加を強く求めた。

 

「やられた……」

 

 俺の計画は完全に破綻した。フェザーンや地球と組み、帝国に圧力をかけさせるつもりだった。ラインハルトは同盟との講和に消極的なはずだった。多少時間がかかったとしても、同盟・フェザーン・地球VS帝国の構図を作ることは可能だと踏んでいた。しかし、ラインハルトの動きは小物の予測を超えていた。フェザーンや地球でさえ、ラインハルトの後追いしかできない有様だ。

 

「いかがなさいますか?」

 

 ディッケル大尉が青ざめた顔で問いかける。

 

「問題ない。順序が逆になっただけだ。ゴールは同じだよ」

 

 自信たっぷりに断言する俺だが、内心では焦っていた。主導権を完全に取られた。ラインハルトの意図がまったく読めない。しかし、ここで迷いを見せるわけにはいかなかった。



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第126話:上を見れば果てしなく、下を見れば底がない 804年11月14日~15日 ハイネセンポリス

 銀河帝国・フェザーン・地球の三国が金融協力協定を結んだとの知らせは、全銀河を驚愕させた。三国の立場は完全に対等であるという。

 

「嘘だろう」

 

 人々は自分の目と耳を疑った。常識とあまりにかけ離れていたからだ。

 

 ルドルフ以来、帝国は「人類社会における唯一絶対の支配者」を自称してきた。この建前は自由惑星同盟の出現によって実質を失った。だが、同盟の憲章にあたる「大帝遺訓」に明記されているため、法的には有効であり続けた。

 

 帝国が他国と対等の協定を結ぶことなどありえない。亡命帝マンフレート二世は対等講和を模索したために殺された。皇帝弑逆は帝国においては最悪の犯罪とされるが、亡命帝を殺した者は一切の罪に問われず、恩賞を賜った。遺訓は皇帝の命より重い。救国軍事会議は帝国政治のタブーを次々と破った。それでも、遺訓タブーに挑むとは思われなかった。

 

「見間違いに違いない」

「聞き違いに違いない」

 

 人々は現実と常識の整合性を取ろうと躍起になった。三国協定に関する救国軍事会議議長ラインハルト・フォン・ローエングラムの会見動画は、一分間に数億回というペースで再生された。

 

 常識を守るための戦いは四時間で終わりを告げた。帝国がフェザーンと地球の独立を認めたことが判明したのである。フェザーン自治領は「フェザーン自由国」、地球自治領は「地球教国」となった。フェザーン駐在高等弁務官ウド・デイター・フンメルは「駐フェザーン大使」に任命された。太陽系・シリウス高等弁務官レナートゥス・フォン・ターク中将は、「駐地球大使」の兼帯を命じられた。

 

 それから間もなく、ロンドリーナなど八か国が金融協力協定に加わった。これらの国々は帝国自治領であったが、協定参加と同時に独立を宣言した。

 

「我が国は金融協力協定参加国をすべて独立国として承認する。サジタリウス腕諸国も例外ではない」

 

 ラインハルトはこのように述べた。同盟と国交を樹立する意思を明確に示したのだ。

 

「…………」

 

 俺はテレビを見ながら呆然とした。ラインハルトが何でもありなのは知っている。だが、知っているだけだ。何をするのかはわからない。そして、彼が打ってくる手は、凡人の予想など軽々と超えていく。

 

「どうなるんでしょうか……」

 

 隣に座る副官代理シェリル・コレット少将がこちらを見た。彼女は傑出した才能と精神を持っている。それでも、ラインハルトの圧倒的天才性には遠く及ばない。

 

「わからないなあ」

 

 それ以外の答えは思いつかなかった。この世界で身につけた常識は役に立たない。凡人が知識と経験を蓄えたところで、物知りの凡人になるだけに過ぎない。前の世界の記憶は役に立たない。このような状況が発生しなかった。

 

「フェザーンも地球も混乱しているようです。帝国との国交樹立について、何のアナウンスもありません」

 

 コレット少将は冷静に指摘した。

 

「上だけで勝手に決めちゃったんだろうな」

「気持ちはわかります。フェザーンと地球にとっては、願ってもないチャンスですから」

「ローエングラム公は怖いね。自治領主と総大主教が手玉に取られてる」

 

 俺は軽く肩をすくめた。アドリアン・ルビンスキーもシャルル二四世も無能とはほど遠い。しかし、常識の範囲内での優秀さは、規格外の天才には敵わない。

 

「しょせんはフィリップス提督の引き立て役ですが」

 

 とんでもないセリフを吐いた後、コレット少将は端末を開いた。年配の男性の写真が映し出された。凶悪な面相とえげつない肩幅を有しており、軍隊と警察と傭兵部隊と犯罪組織にしか居場所がなさそうな類の人種である。

 

「アラルコン提督との会食はいかがなさいますか?」

「行くよ。キャンセルしたところで、別れを先延ばしするだけだ」

「できれば、ずっと味方でいてほしかったのですが」

「しょうがない。主戦論者を六〇年もやってきた人に『講和に協力しろ』なんて言えないよ」

 

 未練を振り切るように、俺は言った。戦友の絆ほど大事なものはない。そして、戦友との別れほど辛いものはない。

 

 お好み焼き屋「ヨッチャン」に到着した俺は、憂鬱な気分でノレンをくぐった。食欲をそそる匂いが鼻孔をくすぐる。楽しげな話し声が耳に飛び込んでくる。それでも気分は晴れない。

 

「お待ちしておりましたぞ!」

 

 サンドル・アラルコン予備役上級大将は大口を開けて笑い、片手で大ジョッキを掲げた。先に一杯やっていたらしい。

 

「ご機嫌だな」

「それはもう!」

「ソフトドリンクも頼んでおきました! ペットボトルで!」

「ありがとう。のどが渇いていたんだ」

「お好み焼きはすべて私が焼きます!」

「いいのか?」

「私がなぜ今日まで生き残ってきたのか!? それは他人にヘラを決して預けなかったからです!」

「そ、そうか……」

「あと、白米を注文するのは禁止です! お好み焼きに白米は邪道ですからな!」

「わかった……」

 

 俺は少し引いた。そして、お好み焼き屋を選んだことを後悔した。

 

「じゃあ、さっそく本題に入りましょう!」

「えっ!?」

「私の性格はご存知でしょう!?」

「よく知ってる」

「では話が早い。単刀直入にいきます」

 

 アラルコン上級大将は真顔になった。

 

「わかった」

 

 俺は覚悟を決めた。ここまで来たら逃げられない。

 

「私はあなたに従います」

「本当か?」

 

 俺は自分の耳を疑った。

 

「このサンドル・アラルコンに二言はありません」

「俺が講和派なのは知ってるだろう?」

「知っております」

「本当にいいのか?」

「ええ」

「…………」

「嬉しくないのですか?」

「嬉しいんだけどね……」

 

 本来なら喜ぶべき場面であったが、俺は困っていた。筋金入りの主戦論者が簡単に転向するとは思えないからだ。

 

「お気持ちはわかりますぞ。サンドル・アラルコンと主戦論は同義語ですからな」

「理由を聞かせてくれ」

「エリヤ・フィリップスの物語に参加したいのです」

「は……?」

「いろいろ考えたんですがね。忘れられんのですよ。あの輝きが」

 

 アラルコン上級大将は眩しそうに目を細める。

 

「エリヤ・フィリップスという光に灼かれてしまったのです。思想も。信念も。憎悪も。怨恨も」

「市民軍ではたまたまうまくいっただけだ。同じことを期待されても困る」

「英雄の英雄たる所以は生き方です。利益を求めず、名誉を求めず、祖国の安寧のみを求める。敵を憎まず、友を贔屓せず、万民の幸福のみを求める。そんなあなたの生き方が、私にはどうしようもなく眩しく、仰ぎ見ずにはいられません」

「俺はそんなに立派な人間じゃない」

「真顔でそう言えるところが立派です。立派だから現状に満足せず、より良い自分を目指して努力する。あなたは常に進歩し続ける。あなたは常に変化し続ける。凡人にはなし得ないことですよ」

「よくわかった」

 

 俺はここで話を打ち切った。聞いてて恥ずかしくなるからである。アラルコン上級大将はなにか言いたげだったが、お好み焼きを次から次へと注文し、ヘラに集中するよう仕向けた。お好み焼き屋を選んだのは正解だった。普通の店なら、アラルコン上級大将はべらべら喋りまくり、俺の羞恥心に深刻な打撃を与えただろう。

 

 食事を終えると、俺はテレビ局に直行し、二一時のニュース番組に出演した。講和問題については一切発言しない。「こういうことを言ってほしい」という国防委員会からの要望はなかった。こちらから国防委員会に「こういうことを言いたい」と連絡したが、返事はなかった。

 

 その後もテレビ出演や動画配信をこなしたが、国防委員会は何も言ってこない。結局、何も言えないままに終わった。

 

「何やってるんだ」

 

 宿舎に戻った俺は、忌々しげに国防委員会公式サイトを睨んだ。講和問題に関する公式コメントは未だに出ていない。中心になって動くべき官庁がコメントの一つも出せないのだ。

 

 国防委員会の上部組織である最高評議会は、この期に及んでも沈黙を崩さない。外部への発信は完全に停止した。講和勧告以降、定例記者会見は一度も行われていない。主要SNSに設けられた官邸公式アカウントは何も語らない。ヨブ・トリューニヒト最高評議会議長の公式アカウントは、非公開となった。閣僚は議長官邸に集まっているらしいが、閣議は行われておらず、何をしているのかは不明だ。

 

 各委員会においては、委員長が登庁しないため、副委員長が委員長代理として職務を執った。議会には副委員長が出席している。

 

 同盟国内の諸勢力は様子見に徹した。動きたくても動けない。いつ盤面が引っくり返されるかわからない。ラインハルトというジョーカーの存在が彼らを慎重にさせた。

 

 事態が膠着化する中、ネットだけが活発に動いている。喋るだけならコストは必要ない。皆が軽い気分で感想を言う。何かあるたびに一言言わねば気がすまない人が騒ぎ出す。どの勢力も動きが取れないため、暇を持て余した専門家が参入してくる。電脳空間は講和問題一色に染まった。

 

 保守派とタカ派リベラルは、雪崩を打つように講和派を支持した。彼らの理想はラグナロック戦役で潰えた。講和派の誕生はいい機会だった。反戦派は嫌いだが、もとを辿れば同じハイネセン主義者であり、反ハイネセン主義者よりは親しみを持てる。新しい大義を得た彼らは、嬉々として自分たちの正しさを誇った。

 

 講和派の盛り上がりは、アンチ・リベラルやアンチ・移民の怒りを刺激した。彼らはハイネセン主義の建前とそれに基づくものすべてを嫌っている。嫌いな連中がはしゃいでいることが許せないのだ。

 

 中立主義者は右でも左でもない中立的見地に立ち、講和派に冷笑を浴びせた。彼らは基本的に何かの否定しかできない。

 

 反戦・反独裁市民戦線(AACF)を始めとする反戦リベラルは、大いに困惑していた。そもそも、彼らは対等講和など目指していなかった。マンフレート亡命帝が殺された後、両国の反戦派は対等講和を断念し、相互不干渉宣言による「国交なき講和」を追求した。数年がかりで相互不干渉に持っていくつもりだった。だが、ほんの数日で帝国が国交樹立を求めるところまできた。戦略は水泡に帰した。理論は通用しなくなった。態勢を立て直すにも時間がかかる。

 

 統一正義党を始めとする極右勢力は、夢の世界に逃げ込み、「市民一人一人が一万ディナール出せば無借金で戦争できる」といって募金を募ったり、「帝国は油断している。今攻めれば勝てるぞ」と叫んだりしている。戦争を心底から支持していた者は、想像よりはるかに少なかった。主戦派の大多数は、講和派にあっさり鞍替えしてしまった。反講和派の主流は、強硬な主戦論者ではなく、講和派のアンチであった。戦争が支持されていないという現実を突きつけられて、彼らは正気を失った。

 

 トリューニヒト派は蚊帳の外に置かれていた。これまでは戦争もフェザーンも地球教も肯定すべき対象だった。しかし、フェザーンと地球教が突如として講和派に回った。戦争を肯定すれば、フェザーンと地球を否定することになる。フェザーンと地球を肯定すれば、戦争を否定することになる。トリューニヒト議長は答えを教えてくれない。講和派にも反講和派にも加担できず、傍観するしかなかった。

 

 ネットと現実社会は表裏一体の関係にあり、双方が相互に影響を与えながら世論を形成していく。この構図はいずれ現実社会に波及するだろう。

 

「それにしても、無様だな。超無様だ」

 

 第一辺境総軍ネット監視部隊の報告書を読んだ俺は、憤りを覚えた。主戦派はこんなに脆かったのか。こんな連中のために命を賭けてきたのか。「英雄エリヤ・フィリップス」を支持していたのはこんな連中だったのか。

 

 結局のところ、主戦派の大多数は戦いたい人や国を守りたい人ではなく、みんながやってるからやるだけの人だったのだろう。だからこそ、あれほど無責任でいられたのだ。戦争をやっているという感覚すらなかったのだ。

 

 主戦派は自らを「リアリスト」と称し、「現実を見ろ。戦争は続いているんだ」と言い続けた。しかし、「現実を見ろ」と言う以上のことはしなかった。要するに「現実の見えている自分は正しい」と言いたかっただけだ。変わらぬ現状を肯定することで、変われぬ自分を肯定したかっただけだ。現状を変えようとする者を嘲笑することで、何もしない自分を肯定したかっただけだ。かつて反戦派に投げつけた「現実をわきまえぬお花畑」という言葉は、彼ら自身にこそ当てはまっていた。変われぬ自分から目を背け、何もしない自分から目を背け、自己肯定の花畑に安住していた。

 

 花畑にしがみつこうとする者は、エリヤ・フィリップスに望みを託した。第一辺境総軍広報部とエリヤ・フィリップス・ファンクラブ事務局に、講和反対を訴えるメール数百万通を送りつけた。SNSのエリヤ・フィリップス公式アカウントに、講和反対のコメントを出すよう求めるリプライ数百万回を送った。エリヤ・フィリップスが配信した動画に講和反対を訴えるコメントを大量に送った。

 

 武装蜂起、トリューニヒト政権打倒、主戦派軍事政権の樹立、フェザーン出兵などを期待するメッセージも寄せられた。むろん、憲兵隊に一件残らず通報した。一般回線の通信使歴は、すべて公共安全局に保存されている。放置したら俺が疑われかねない。

 

「フェザーンの皆さん! 騙されてはいけません!」

 

 テレビから叫び声が聞こえてきた。

 

「ローエングラムを信じてはいけません! これは謀略です! 平和主義者を装っているのは、フェザーンを油断させるための罠です! 彼はフェザーンを占領しようとしています!」

 

 どこかで聞いたようなことを叫んでいるのは、金髪碧眼の可愛らしい少女であった。テロップには「時間逆行者、ペトラ・ベーテル」と記されている。

 

「これ、まずくないか?」

 

 俺が気にしたのは副官たちに問いかけた。ベーテルは明らかに未成年である。中学校を卒業したかどうかも怪しい。こんな時間にテレビに出演させるのは、法律違反ではないか。

 

「五七歳だそうです」

 

 次席副官クリストフ・ディッケル大尉が答えた。その左手には端末が握られている。たった今検索したらしい。

 

「マジか。時間逆行者じゃなくて不老者だろ」

「時間逆行者って異常に若く見える人が多いそうです。ベーテル夫人みたいな人は珍しくないとか」

「そういや、千年王国のカシア・ロスネルはやたら若作りだった。若いというより幼かった」

「フィリップス提督も外見だけなら時間逆行者ですね」

「外見だけならな」

 

 俺は戯言に戯言を返した。本当は中身も時間逆行者なのだが、ここで言う必要はない。

 

「大預言者様のルイス提督だって、外見だけなら逆行者だ」

「あの人、やたら若かったですよね。士官学校の教官だった頃は、生徒と見分けがつかなかったとか」

「外見が若くたって、若死にしたら意味ないよ」

 

 そう言って、俺は軽く目を閉じた。ポルフィリオ・ルイス元准将は四六歳で世を去った。アンドリューをやたら敵視していたので、いい印象はないが、若死にしたことには同情する。

 

 二つの世界を合わせれば、九六年の歳月を過ごした。長生きしたと言っていい。過去の失敗は取り返した。過去になかったものを手に入れた。一人の人間としては幸せだった。あとは国家を守り抜くだけだ。講和が人生最後の仕事になっても……。

 

「……!」

 

 自分は何を考えていたのか。こっちではまだ三六歳ではないか。最後とは程遠い。

 

「ミッターマイヤーはフェザーンで市民五〇万人を虐殺し……」

 

 ベーテル夫人の叫び声が耳に飛び込んできた。とても不快な気分になった。ウォルフガング・ミッターマイヤーの五〇万人虐殺は、『R』史観お得意のデマである。そもそも、『R』史観の元ネタは、ヤン・リベンジャーズのプロパガンダ文書なのだ。彼女が本当に逆行者だとすれば、リベンジャーズに騙されたまま死んだのか、リベンジャーズの一味であるかのどちらかであろう。

 

 俺はチャンネルを変えた。画面の中では大人しそうな少年がフェザーン侵攻について語っている。他の出演者の話しぶりからして、少年は四〇代の自称時間逆行者らしい。

 

 端末で番組表を検索すると、他にも逆行者がゲスト出演する番組がいくつか放映されている。花畑を守るために自称時間逆行者を使おうとする人がいるだろう。

 

 テレビを見ながら仕事をしていると、コレット少将が近寄ってきた。ただならぬ雰囲気だ。一体何があったのか。

 

「フェザーン高等弁務官事務所から会談申し込みが入っております。極秘とのことです」

「時間は?」

「今すぐ」

「誰が出てくる?」

「高等弁務官です」

「聞き間違いじゃないのか」

「間違いではありません」

「信じられないな」

 

 俺は目を丸くした。高等弁務官がこの時間に緊急会談を申し込んでくる。よほどのことだ。

 

「向こうも焦っているのでしょう」

「最高評議会が押しても引いても動かないからね」

「いかがなさいますか?」

「会おう。軍幹部が友好国の外交官と”国防問題”について話し合う。何の問題もない」

「かしこまりました」

 

 コレット少将は颯爽と歩いていった。

 

「基本情報ぐらいは頭に入れておくか」

 

 俺はデータベースを開いた。権力掌握後に備えて、フェザーン政府要人に関する調査を進めてきた。こんなに早く役立つとは思わなかった。

 

 フェザーン自治政府駐ハイネセン高等弁務官フィオレンツァ・マニャーニは、いわゆる「ルビンスキー・チルドレン」の一人である。一六歳でゴミ収集作業員、二六歳で国務次官補、二九歳で国務次官、三二歳で自治領主補佐官、三四歳で駐ハイネセン高等弁務官となった。親族には有力者が一人もいない。中卒で働いていたが、ルビンスキー自治領主が学費を出してくれたおかげで、博士号を取得できた。能力は抜群だが、他人を見下すところがあるため、人望に欠ける。

 

「なるほど。追い込まれてるのか」

 

 それが俺の推測であった。マニャーニ弁務官は地盤を持っていない。ルビンスキー自治領主との関係が唯一の命綱だが、使えないと判断されたら切り捨てられるだろう。功績を立て続けなければならない立場である。しかし、ライバルのルパート・ケッセルリンクが、帝国を対等外交に転換させるという大金星をあげた。成果を挙げなければ詰んでしまう。

 

 一時間後、俺はホテル・ビザンチウム・ハイネセンポリスに到着した。地下駐車場で車から降り、従業員入口を通り、非常階段を登る。

 

「ディッケル君を置いてきて良かったんですか?」

 

 コレット少将が小声で言った。

 

「高等弁務官が相手だからな。随員にも相応の貫禄が必要だ」

「私では軽すぎるかと」

「君なら自治領主相手でも見劣りはしないよ」

 

 俺は率直な評価を述べた。

 

「貴官は自治領主府のヒラ相手でも見劣りするよな」

 

 刺々しい声の主は、フィリップ・ルグランジュ予備役上級大将である。正統派のマッチョが一人は欲しいと思って呼び出した。就寝中に叩き起こされたので、ものすごく機嫌が悪い。

 

「ええ。だから、あなたに同行をお願いしたんです」

「いかつい奴ならいくらでもいるだろうが」

「ですが、いかつくてなおかつ頼れる人はあなたしかいません」

 

 俺は元上官を懸命になだめた。本当は「なんだかんだ言って来てくれそう。お人好しだから」と思って呼び出した。むろん、言う必要もないことだ。

 

「早々に大役をお任せいただけるとは! まことにありがたい!」

 

 仲間になったばかりのサンドル・アラルコン上級大将は、上機嫌で笑った。

 

「これからたくさん働いてもらうぞ。覚悟しておけ」

 

 俺がそう言うと、アラルコン上級大将はますます機嫌を良くした。単純というには曲者すぎる。曲者というには単純すぎる。よくわからない人である。

 

「ワクワクするね。最終章って感じ」

 

 妹のアルマ・フィリップス中将が声を弾ませる。

 

「楽しそうだな」

「そりゃそうだよ。高等弁務官なんて滅多にお目にかかれないんだから」

「アルマは自治領主相手でも緊張しないんだろうな」

 

 俺はため息まじりに妹を見た。最近は幼顔から童顔に成長しつつあるが、可愛さは健在である。貫禄などない。こんなのを連れて行ったら、間違いなく舐められる。しかし、コレット少将とルグランジュ上級大将とアラルコン上級大将が推薦したので、仕方なく呼び出した。癒しも必要ということだろうか。

 

 高等弁務官との会談場所は六六六号室だ。扉の最下部を三回ノックすると、ロックが外れる音がした。心臓が飛び跳ねる。恐れるな。大丈夫だ。これだけのメンバーが付いている。覚悟とともに扉を開けた。

 

「……!」

 

 俺の全身が硬直した。背後から息を呑む音が聞こえた。動けない。俺も仲間も。

 

 巨人が立っていた。一九一センチのアラルコン上級大将よりはるかに背が高い。胸板は鉄板を何枚も重ねたように厚い。手足は丸太のように太くて長い。肩幅は鉄棒をまっすぐに通したかのように広い。肌は浅黒くて健康的だ。眉は太いというより幅広い。目も鼻も口も大きく、漫画家がデフォルメした顔をそのまま立体化したような顔だちだ。頭部には一本の毛髪もない。巨獣の如き風貌なのに、高級なスーツが上品にはまっていた。

 

「あ、あなたは……」

 

 俺は口をぱくぱくさせた。

 

「もうお忘れになりましたか? お会いしてから一週間も経っていないのに」

 

 フェザーン自治領主アドリアン・ルビンスキーは、冗談めかした口調で言った。

 

「い、いえ……」

「どうぞお入りください」

「かしこまりました」

 

 俺たち五人は言われるがままに室内に入る。ルビンスキー自治領主以外に、二人の女性と二人の男性がいた。男性は風貌と体格からボディーガードであると思われた。女性のうち、黒髪で背が低いのはマニャーニ高等弁務官だ。赤茶色の髪で平均的な身長の女性は、美人だがスーツを着慣れていない感じで、どう見ても役人ではなかった。

 

「ドミニク、客人に飲み物を」

 

 ソファーに腰掛けたルビンスキー自治領主がそう言うと、赤茶色の髪の美人がキッチンに向かった。戦記に登場したルビンスキーの愛人ドミニク・サン・ピエールは、あの女性だったのだ。

 

「どうなさいました? なにか疑問でも?」

「なぜ、ハイネセンにいらっしゃるのですか? 帰途にお着きになったとばかり思っていました」

「こっそり戻ってきたんですよ。心配で」

「なるほど」

 

 そう答えた俺だが、内心では納得していなかった。本国の方がよほど危ない状況だ。カーレ・ウィロックの逮捕は、民主化運動を沈静化させるどころか、さらに激化させた。金融危機により、フェザーンの大手金融機関がドミノ倒しのように破綻した。ハイネセンにいる場合ではない。

 

「こちらにも大人の事情がありましてね。元首だからといって、すべて決められるわけではないのです」

 

 ルビンスキー自治領主は苦笑しながら言った。言葉を各面通りに受け取るならば、ハイネセンにいるのは彼自身の意思ではないということだ。

 

 普通に考えれば、「大人の事情」とは長老会議のことであろう。長老会議は元老院の最高機関で、自治領主の任命権と罷免権を握っている。長老たちは有力財界人でもある。自治領主府を法的にも財政的にも支配しているのだ。

 

 しかし、俺は普通でない知識を持っている。前の世界の戦記によると、地球教はフェザーンの裏の支配者であった。地球教がどうやって具体的にどうやってフェザーンを動かしているのかは、この世界で知った。

 

 ファルストロング伯爵からもらった資料によると、銀河には地球人の互助会的なネットワークが存在しており、その中では地球教がフェザーンの「家主」とされる。地球教はビッグ・シスターズ系企業一〇社を「管理人」としてフェザーンに招いた。その後、二社が「契約違反」を理由に追放され、同盟系企業二社が後釜に座った。この管理人グループこそが一〇大財閥である。管理権を使えば無限に金が湧いてくるので、管理人は家主の言うことを聞いている。

 

「私をお呼びになったのはどなたのご意思でしょう?」

「このアドリアン・ルビンスキーの意思です」

 

 ルビンスキー自治領主がそう答えたところで、ドミニクが戻ってきた。

 

「どうぞ」

 

 ドミニクは五つのカップをテーブルに置いた。俺の前には砂糖とクリームでドロドロになったコーヒー。コレット少将の前には砂糖とクリームでドロドロになったコーヒー。ルグランジュ上級大将の前には砂糖が多めのレモンティー。アラルコン上級大将の前には茶色いバター茶。妹の前には砂糖とミルクでドロドロになった紅茶。

 

「…………」

 

 俺は呆然となった。全員の好みが完全に把握されている。事前に向こう側に伝えた随員の人数は「三人」で、名前は伝えていない。連絡後に妹を追加したので四人になった。誰が来ても対応できるだけの情報を持っていたのだ。

 

「これがフェザーン流のもてなしですか」

 

 アラルコン上級大将は皮肉を言いつつ、バター茶をすすった。

 

「お気にいっていただけましたかな」

 

 ルビンスキー自治領主が微笑みを浮かべる。

 

「いいバターを使っていらっしゃる」

「アラルコン提督はフェザーン嫌いだと聞いております。これを機に我が国の良さを見直していただければ幸いです」

「バター茶は好きですぞ」

 

 アラルコン上級大将はいつものキレがなかった。役者が違いすぎた。

 

「砂糖とミルクの量がぴったりですね」

 

 妹の言葉は失礼にならないギリギリのとげを含んでいる。

 

「こういうところに手を抜かないのがフェザーン流です」

 

 ルビンスキー自治領主は笑顔で受け流した。

 

「友人もそう言っていました」

「ブレツェリ提督ですな」

「何でもご存知なんですね」

「そんなことはありません。知るべきことを知るだけで精一杯です」

「私のことなんて知る価値もないですよ」

「大いにあります。私は気の強い女性が好きでしてね。お互いにガンガン言い合える関係が理想です」

「口の達者な男は嫌いです」

「ますますあなたを好きになりました。偉くなりすぎたもので。どいつもこいつも私に媚びてくる。歯ごたえがなくてつまらんのです」

「媚びたくなりました」

「おや? 媚び方をご存じなのですか?」

「知りません」

「でしょうなあ。あなたは媚びられる側の人間ですから」

「もっとフランクに接してほしいんですけどね。階級も年齢も上の人が、初対面で敬語使ってきた時は本当困りました。そんなに怖いのかなあ、って」

 

 妹はいつのまにか楽しげに談笑していた。役者が違いすぎた。

 

「…………」

 

 コレット少将は何もなかったかのような顔でコーヒーをすすった。

 

「…………」

 

 ルグランジュ上級大将は「勘弁してくれ」と言いたげな顔で、ミルクティーを飲んだ。

 

「ごちそうさまでした」

 

 俺はコーヒーを飲み干すと、ルビンスキー自治領主とドミニクに微笑みかけた。心の中ではルグランジュ上級大将に共感している。勘弁してほしい。こんな怪物に関わりたくない。しかし、戦争を終わらせるにも、ラインハルトとの戦いを回避するにも、フェザーンの力が必要だ。

 

「私はこれから議長官邸に向かいます。一緒に来ていただきたい」

 

 ルビンスキー自治領主は居住まいを正した。

 

「兵を動かせとおっしゃるのですか? それなら、承知しかねます」

「いえ、保証人になっていただきたいのです」

「保証人?」

「トリューニヒト議長がなぜ我々の要請に応じないのか? ご存知ですか?」

「心当たりがありません」

 

 俺は嘘をついた。議長官邸の内情はほぼ把握している。情報提供者の存在がばれたら困るので、表向きには知らないふりをする必要がある。

 

 トリューニヒト議長は暴力を恐れている。政敵を排除するために憂国騎士団の暴力を用いた。政権を守るために警察右派の暴力を用いた。講和を口にしたら、暴力の矛先が自分に向けられる。議長警護隊の隊員は、警官と憂国騎士団団員の中から、特に右翼思想の強い人物を選りすぐっている。ボディーガードに狙われる可能性すらあるのだ。

 

「彼は右翼から脅されています。講和交渉を開始したら襲撃する、と」

「信じられないですね。民主主義国家とは思えません」

「まあ、自業自得でしょう」

 

 ルビンスキー自治領主はさりげない顔で毒を吐いた。確かに自業自得ではあるのだ。トリューニヒト議長は暴力を濫用してきた。矛先が自分に向けられたとしても、文句を言う筋合いはない。

 

「いずれにしても由々しき問題です」

「議長が決断した場合の身の安全を保証していただきたい。この国で最大の軍事力を持つあなたに」

「私の役目はそれだけですか?」

「ええ」

「お役に立てることがあれば、手伝いますが」

「後は全部こちらでやります。フィリップス提督の手をわずらわせるのも心苦しいので」

 

 ルビンスキー自治領主は柔らかいが妥協のない口調で応じた。

 

「承知しました」

 

 俺は二つのことを承知した。トリューニヒト議長の身の安全を保証すること。ルビンスキー自治領主が俺との関係を最小限に留めたいということ。

 

 朝方、俺とルビンスキー自治領主は議長官邸に赴いた。トリューニヒト議長は話し合いに応じた。ルビンスキー自治領主だけが議長室に招き入れられ、俺はドアの前で待機した。話し合いは五分程度で終わった。

 

 それから間もなく、最高評議会は臨時閣議を開き、金融協力協定への参加を三票差で決定した。閣議決定の次は議会での審議である。現在の政権において、議会は最高評議会の決定をそのまま追認する場所と化している。金融協力協定への参加、帝国との国交樹立、講和交渉開始は時間の問題と思われた。

 

 鮮やかとしか言いようのない手並みであった。ルビンスキー自治領主が本気を出した途端、事態が一気に動き出したのだ。

 

 そして、確信した。ラインハルト・フォン・ローエングラムとの戦いは絶対に避けねばならない、と。今回の件で圧倒的な格を見せつけた自治領主ですら、ラインハルトには歯が立たなかった。戦ったら確実に負ける。負けたら確実に滅ぼされる。

 

 他人には期待できない。トリューニヒト議長は側近の造反に怯える有様だ。ヤン元帥は知識人と対談したり、古典アニメのコスプレをしたり、学会を見学したりするだけだった。オリベイラ博士はいつもどおりの全方位外交で、AACF、銀河左派ブロック、明日のために(FT)などの野党とも接触している。レベロ議員は勢力が小さすぎる。

 

 誰にもできないのならば。自分しかできないのならば。俺がやる。俺が戦争を終わらせる。数十年の平和ではだめだ。戦いが再開された時、ラインハルトが生きているかもしれない。恒久平和でなければ。再戦の可能性を永久に封じなければ。ラインハルト・フォン・ローエングラムとの戦いを避けるために。確実な敗北を避けるために。確実な滅亡を避けるために。失われた命に報いるために。今を生きる命を守るために。

 

「これからが本番だ」

 

 そう言って、俺はシャンプール行きの船に乗り込んだ。第一辺境総軍司令官の任期は残り一ヶ月半。それが終わった時、最大の戦いが始まる。講和交渉という名前の戦いが。



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