英雄になりたいと少年は思った (DICEK)
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迷宮都市に着いて

 『迷宮都市』オラリオ。

 

 この世界で唯一のダンジョンを有するこの街に、夢を持って足を踏み入れる人間は多い。

 

 その夢は地位であったり、名誉であったり、あるいは金であったり女であったり、その姿は人によって様々であるが、それぞれがそれぞれの大望をもって神の家族となり、冒険者となり―ーそして、志半ばにして命を落としていく。

 

 その数は決して少ないものではない。

 

 それでもオラリオを目指し、冒険者になりたいという若者が後を絶たないのは、多くの偉業をなして羨望を集める、数少ない成功者がいるからだ。自分もあんな風になってみたいと思う人間を、誰が止めることができるだろうか。

 

 唯一の親類であった祖父を亡くし、天涯孤独の身となった少年も、そんな大望をもってオラリオにやってきた人間の一人だった。

 

 少年の名前は、ベル・クラネル。14歳の人間種族である。

 

 このベル・クラネル、いかにも冒険者といったいかつい風貌をしている訳でも、腕っぷしに自信がある訳でもない。人と違うところと言えば、誰にどうやって育てられればこうなるのかというくらいの純朴で素直な内面と、ともすれば少女に見えてしまう線の細さくらいである。

 

 彼を見て冒険者に向いているという者はいないに違いなく、ベル本人ですら薄々とではあるが自分の不向きを感じ取っていた。放っておけば気持ちが細ってしまうと思ったベルは、そんな迷いを振り払うかのように生まれ育った地を離れ、オラリオに向かうことを決意した。

 

 そうしてやってきたオラリオである。なけなしの路銀片手に、はるばる時間をかけてやってきたオラリオは、ベルを圧倒した。

 

 ダンジョンを目指して冒険者が集まり、冒険者を目当てに人が集まる。当代、最先端都市の一つに数えられるオラリオのあまりの大きさに、田舎者のベルは飲まれてしまっていた。

 

 目の前の道を行きかう人々を数えるだけで、今まで生きてきた中で出会った人の数を余裕で越えてしまうほどの、人の多さ。人の喧噪は耳にうるさいくらいに聞こえている。今は夕刻。田舎では帰り支度を始めて家に戻る時間なのに、今日の日はこれからとばかりに、人々は皆生き生きとしていた。

 

 亡くなった祖父とその周辺くらいしか世界を知らなかったベルには、オラリオで見る物のすべてが新鮮に見えた。ただ、周囲を眺め立ち尽くすベルははっきりと通行人の邪魔になっていたが、田舎者がそうなることはよくあることである。人口の割合で言えば、オラリオ生まれでない人間の方が圧倒的に多い。かつては自分もああだったと思うと、邪険にできないのが人情というものであるが、世の中、人情だけで回っている訳でもない。

 

 一目で田舎者と解るベルの立ち姿は、ある種の人間にとってはまさに『カモ』だった。ベルはどう見ても金目の物を持っているようには見えないが、人が金を生み出す方法などいくらでもある。そういう輩にとってまずするべきことはカモの身柄を確保することだった。都市が大きくなればなるほど、悪い連中も集まるようになってくる。今このカモに目をつけているのも、自分だけではないかもしれないと、彼らは虎視眈々と、狩人のようにベルとの距離をゆっくりと縮めていったが、

 

「失礼。少しよろしいですか?」

 

 悪い人がいれば、良い人もいる。オラリオでベルに最初に声をかけたのは、ベルから見てとても良い人だった。オラリオの全てに見とれていたベルは、自分に向けられたらしい声に慌てて振り向き――その声の容貌に絶句した。

 

 白い肌に青い目。金色の髪からは、人間のものではない長い耳が覗いている。それは一目で森の妖精、エルフだと解った。お話の中では何度も聞いたことのあるその種族に出会うのは、ベルの短い人生の中でも本当に久しぶりのことだった。思わずじ~っと見つめてしまうベルに、エルフの女性は少しだけ不快そうに、身じろぎをした。

 

「……エルフが珍しいですか?」

「はい! あ、いえ、その……ごめんなさい!」

 

 ベルの正直は長年、彼を知る少ない人間には彼の美徳とされてきたものだったが、全ての人にそうである訳ではない。まして、物珍しいからという理由でぶしつけな視線を女性に向けてしまったのだ。まだ十四歳の子供とは言え、ベルとて男性である。しゅんとなって項垂れるベルに、しかし、エルフの女性は小さく笑みを漏らした。

 

「……正直で誠実なその言葉で、不躾な視線については許します。あまりお気になさらず。ところで、差し出がましいようですが貴方はオラリオは初めてですね? どこか、地方から出てきて今さっき着いたと見受けましたが、どうでしょうか?」

「はい、その通りです。でも、どうして?」

 

 本気で不思議がっているベルに、エルフの女性は沈黙で返した。田舎者が田舎者なことはオラリオで暮らす者ならば誰でも解るのだが、それを直接、しかも本人に向かって口にすることは、やはり憚られる。

 

 しかも相手は見たところ人間の少年である。色々と多感なその時期に、心無い言葉で心に傷を負わせてしまったらと思うと、不用意な言葉は使えないが、女性も決して弁が立つ方ではない。これが自分を救ってくれた人間の友人ならばと、今は職場にいる少女のことを思いながら、女性はベルを傷つけないよう、当たり障りのない言葉を選んだ。

 

「ここに来たばかりの私も、貴方と同じような行動をしていたものですから、気になって声をかけてしまったんです」

「そうなんですか。ご親切にありがとうございます」

 

 にこにこと微笑むベルは、女性の言葉をそのまま受け入れている。その笑顔を見て、エルフの女性ははっきりと悟った。この少年は放っておくと、悪い連中にいくらでも騙されるタイプの人間だ。世間知らずということではこの都市に来た頃の自分も似たようなものだったが、その時の自分には人を疑うだけの猜疑心があった。それは時々女性を傷つけもしたが、同時に守ってもくれた。ベルには必要最低限のそれすら、感じられない。

 

 それを不憫には思うが、今日出会ったばかりの人間の世話をあれこれ焼くのも違う気はする。ベルの年齢と背格好、軽装の旅支度に健康そうな雰囲気からして、冒険者の志望であることは、女性にも察しはついた。

 

 冒険者ならば最低限、自分の身くらいは自分で守るべきである。正義の天秤のエンブレムの下、日々使命に燃えていた頃の女性ならば、今日とはまた違った行動をしたのだろうが、今の彼女はしがない労働者だった。武器を持って戦い、ダンジョンに挑む冒険者ではない。

 

「都会は物騒ですから、注意してください」

「ありがとうございます!」

 

 お礼ばかりを言うベルの笑顔は、女性には酷く眩しく見えた。その笑顔から逃げるように、女性はもう一度小さく頭を下げ、職場に向かって足を向け――

 

「あ、すいません!」

 

 思い出したように声を挙げたベルに、その手を取られ呼び止められた。

 

「その、どうすれば冒険者になれるのか、僕何も知らなくて。良ければ、教えてくれそうな人を教えてくれませんか?」

 

 ベルにすれば至極当然の疑問だった。彼にあったのは冒険者になるという目標だけで、そのための手段については何も知らなかった。唯一、この地に降りた神様と契約しその眷属になることで力を得ると聞いてはいるが、その神様がどこにいるのか全く見当がつかない。この広い都市で神様を探すところから始めなければならないとしたら、田舎者のベルにはお手上げである。

 

 ベルの切羽詰まった声に、しかし女性は彼の顔も見ていなかった。女性の視線はベルが握った自分の手に向けられている。

 

 心を許した人間にしか触れないし、触れさせない。それはどこの集落で生まれ、どんな身分で育ったとしても、エルフならば大なり小なり備わっている習慣のようなものだ。中でも女性のそれは病的と言えるほどで、気心の知れた女性相手でさえ、抵抗なく触れられるようになるには大抵の場合、時間がかかる。男性の場合は言うまでもなく、職場で女性に触れようと絡んできた酔客は、例外なく殴られ投げ飛ばされ、店の外に放り出されてきた。

 

 今まで女性が出会った者の中で、初対面で触れることのできたのは二人だけ。いずれも女性で、男性はいない。眼前の少年は線こそ細いが、誰が見ても男性と解った。今日初めて出会った名前さえ知らない男性に手を握られ、それを振りほどかない自分がいる。それは女性にとって驚天動地のことだったが、握られた自分の手を見ている女性の視線を、ベルは別の意味に解釈した。

 

 慌てて離れるベルに見向きもせず、女性はベルの体温の残る手に視線を落とした。

 

 胸の高鳴りはない。少年に特に好意を感じたりもしない。ましてこの少年が、生涯を添い遂げるべき運命の相手とは、どうしても思えなかった。

 

 自分の意思ではない、言い知れない力を思わずにはいられない。『絶対に逃がしてはダメ』という、今は亡き親友の声が聞こえた気がした。

 

 運命の相手とは思わない。それでも、この縁を逃してはならないと、女性自身も思った。職場に向いていたその女性の足は、気づけばベルに向き直っていた。

 

「ギルドという、冒険者の管理をしている組織があります。今現在何も知らないのであれば、今後どのファミリアに所属するにしても、まずはそこで話を聞くのが良いでしょう。ですが、今の時間では新規の人間は相手をしてもらえないかもしれません。まずは宿を探して、明日出直すのが良いと思いますよ」

「何から何まで――」

「何も親切で言ってるのではありませんよ? 等価交換というのが、世の原則らしいですからね。ですので、私は今の情報の対価を貴方に要求させてもらいます。実は私は、とある酒場に勤めています。今日の食事を何にするか、まだ決まっていないのであれば売上に貢献していただきましょうか」

「それくらいなら……」

 

 それも、エルフの女性の親切と解釈したベルは、笑顔でその要請に応じることにした。

 

 ちなみに。ベルも女性も気づいていなかったが、二人のやり取りを見守っていた『悪い人』たちは、『やるな……』とか『やはりエルフか……』などと呟いて三々五々散っていった。彼らは女性を、自分たちと同じ側だと解釈したのである。親近感を覚える話題を振ってから、自分のテリトリーに引っ張り込む。これでぼったくった料金を請求するのが、田舎者を騙す定番だったからだ。女性が善人で、さらにその職場が真っ当な店であったことは、ベルにとっても幸運なことだった。

 

「では、私もお使いの途中なので早速案内しましょう。私が作る訳ではありませんが、料理は絶品ですので楽しみにしていてください」

 

 地味に都会の料理を楽しみにしていたベルの腹が、大きな音を立てた。溜らず恥ずかしさで顔を真っ赤にするベルに、エルフの女性は穏やかな笑みを漏らした。

 

「自己紹介がまだでしたね。私の名前はリュー・リオン。種族は見ての通りエルフで、『ただの』ウェイトレスです。どうぞ、よろしくお願いします」

 

 

 



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豊穣の女主人亭

「ただいま戻りました」

「リュー、おかえりニャー」

 

 「豊穣の女主人亭」に入ったベルとリューを出迎えた猫人の少女は、同僚のリューに連れがいたことに驚き、それが男性であったことに更に驚いた。くるくると動く大きな目に好色の色が宿ったのを見て、リューはしまったと思ったが、その制止の声は一瞬だけ間に合わなかった。

 

「皆、大変ニャ! リューが男を連れて戻ってきたニャ!!」

 

 猫人の大音声に、なんだどうしたとウェイトレスたちが仕事の手を止めて寄ってくる。人種、年齢もまちまちであるが揃いも揃って見目麗しい女性の集団に軽くパニックになっているベルの横で、リューは深々と溜息を吐いていた。集まってきた面々の中に、「豊穣の女主人亭」の女将であるミアの姿もあったからだ。

 

 そのミアが、一歩前に出てベルをじろりと見下ろす。大柄で結構な強面の彼女がそうするのを見て、リューは頭に思い浮かんだ『オークに襲われる人間の女性』の図を、軽く頭を振って振り払った。

 

「ウサギみたいな小僧っ子だね。その辺で拾ってきたのかい?」

「右も左も解らないようだったので、連れてきました。冒険者志望のようです。名前は――」

「ベ、ベル・クラネルです!!」

「冒険者ねぇ……」

 

 自己紹介を受けたミアの目が、ベルに向く。

 

 彼女はドワーフであるが、身長はまだ少年とは言え、ヒューマンであるベルよりも頭一つ以上高く、横幅はその三倍くらいある。今は食堂の仕事着を着ているが、これで武装でもしてたらその迫力は凄まじいものになっていただろう。

 

 自分よりも高い位置からじろりと見下ろす強面の女将の姿に、彼女と初対面のベルは思い切り腰が引けていた。それも無理のないことである。同僚で部下であり、ミアの人となりを良く知っているウェイトレスたちでさえ、酔客相手に凄むミアにはびびる時がある。ベルの気持ちがよく理解できたウェイトレスの一部がベルの行動にうんうんと訳知り顔で頷いていたが、ミアは背中に目でもついているかのように振り返り、ベルに向けていた以上の迫力をウェイトレスにぶつけた。

 

 猫人のウェイトレスは耳を逆立て、身震いすると、

 

「……仕事に戻るニャー」

 

 仲間を連れ、言葉の通り仕事に戻った。とは言え、全員がそれに従った訳ではない。一人残ったウェイトレスは、変わらず興味深そうに、ベルのことを眺めていた。耳は普通、尻尾もないことから、ベルには彼女が人間と解った。

 

「……そんなに良いもんじゃないと思うけどねぇ、冒険者なんて。まぁ、リューが声をかけたのも何かの縁だ。あんたの郷里じゃ食えないようなもんを使って、料理を拵えてやるよ。小兎、あんたどこの出だい?」

 

 ベルの告げた地名に、ミアは心当たりがなかった。オラリオでの暮らしは長いが、周辺の地理にまで通じている訳ではない。そこで彼女はベルにオラリオまでかかった日数とやってきた方角、それから住んでいた場所の周辺の状況などを聞き、大体あの辺り、という当たりをつけた。ついでにベルが、一定以上の読み書きと計算ができることも理解する。

 

「山育ちか。なら、魚料理でも出してやろうかね。だが、今は仕込みの最中だ。店が開くまでまだ時間はあるから、その間にこいつと一緒に待ってな」

 

 そう言って、ミアがベルに押しつけたのはテーブルの脇に置いてあったモップだった。食事をしに来たのに、掃除用具を渡されると思っていなかったベルは、モップを手に目を瞬かせる。

 

「あの、これは?」

「あんたの郷里じゃどう呼ぶのか知らないが、オラリオじゃそいつをモップって呼ぶんだよ。渡した意味は、働かざるもの食うべからずってことさ。さあ、働いた! 働いた!! ただ座ってるだけで飯が食えるのは、牢屋の罪人と神様だけだよ!」

 

 ミアの号令で、モップを手にしたベルは店の清掃に就いた。何だろう、何かが違う気がすると心の中で思ったが、あのミアに意見をする勇気はベルにはなかった。初めて会った人たちに、慣れない環境。掃除の手際も決しててきぱきとしていたものではないが、ミアの仕込みが全て終わり、他の準備がすべて整う頃には、ベルとリューと、もう一人人間のウェイトレスの受け持ちだった店内の掃除は、ちゃんと終了した。

 

 そうして、開店である。

 

 夕食時ということもあって、店内はすぐに人で溢れてしまったが、店の隅ではあるものの、ベルの席はしっかりと確保されていた。ちなみにミアの料理はまだ届いていない。他の客の注文と並行して作っているらしいが、果たして無事に届くのだろうか。もともと降ってわいた幸福である。食べられなかったところで、誰に文句を言うものでもないが、期待が高まっている身への肩すかしは、ダメージが大きい。

 

 まだかな、まだかな、と遠目に厨房の方を見ながら、お腹を空かせるベルのところに、仕事の合間を縫ったリューがやってくる。

 

「お疲れ様です。クラネルさん」

「リューさんも、お疲れ様です」

「まずは謝罪を。食事をしてもらうために呼んだのに、掃除をさせられては話が違うと言われても仕方がありません。ここの費用は私が――」

 

 元より、誘ったのはリュー自身である。適当な理由をつけて勘定は持つつもりでいたのだが、ベルがミアに掃除を押し付けられたことは、その良い口実になった。押しに弱そうなベルのことだ。そういう理由で、金銭ではなく現物でならば謝罪の気持ちと一緒に受け取ってくれるだろう。決して懐事情は良くないはずのベルは、リューの言葉に一瞬喜色を浮かべたが、男子としてのプライドか初対面の礼儀か、すぐに表情を引き締めて否定の言葉を続けようとした。しかし、

 

「年端もいかない小僧に店の手伝いまでさせて、この上金まで取るなんて、そんなケチくさい真似、私はしないよ」

 

 皿一杯の料理を持ってやってきたミアが、二人の言葉を遮った。食欲をそそる良い匂いに、思わずベルのお腹が大きく鳴る。恥ずかしくなって俯くベルに、ミアはにやりと豪快に笑うと、彼の前に皿を置いた。

 

 宣言の通り魚料理である。皿の真ん中には油で煮込まれた魚が丸ごと一匹。その周りには貝や野菜が下品でない程度に添えられている。ミアの見た目からもっと豪快な物を想像していたベルだったが、細かな考えはこの匂いの前には無意味だった。フォークを持ち、魚の身を崩す。良い感じに油の載った身を口に運んだベルの口から、思わず出た言葉は、

 

「美味しいです!」

 

 その一言だった。黙々とフォークを進めるベルに、ミアは満足そうに頷く。元々美味いと言わせる自信はあったが、実際に皿を舐めるようにしてがっついているのを見ると料理人冥利に尽きるというものである。目は口ほどに物を言うが、態度はそれ以上だ。全身で美味いと主張しているベルに、ミアは確かに自分の勝利を感じ取っていた。

 

「そうだろうとも、そうだろうとも。おっと、ただ食うだけで終わるんじゃないよ。その料理にはこいつが合うんだ」

 

 木製の杯には、液体が注がれている。魚料理の匂いに支配されていたベルだったが、わずかにアルコールの匂いを感じ取っていた。度は弱いようだが、間違いなく酒の仲間である。オラリオにも飲酒に関する法律は一応あり、14歳であるベルはそれに照らし合わせるとアウトなのだが、都市の慣例として、冒険者であるならば何となく許しても良いかな、という風潮はあった。風紀を取り締まる人間も、態々酒場の中に入ってまで文句を言ってはこない。

 

「幸い、そんなに強いもんでもない。これくらいなら、小兎にも飲めるだろ」

「でも、タダにしてもらった上に、ここまでしてもらう訳には……」

「小兎。お前、私の傑作を酒も飲まずに食おうってのかい? こういうのを、オラリオじゃサービスって言うんだよ。私が私の店で良いって言ってんだから、黙って飲み食いしときな!」

 

 ミアのあまりの迫力に、ベルはこくこくとうなずくばかりだった。小兎は自分の言う通りになったことに満足したミアは、のしのしと歩いて厨房に戻っていく。その勇ましい後姿を見送ったベルは、とりあえず杯に口をつけた。酒である。一瞬で軽い酔いが回ってくるが、その後に口に運んだ魚はまさに絶品だった。さっきまでも十分に美味しかったのに、この一口はそれ以上である。

 

 この料理にはこの酒が合う、というミアの言葉の意味が解った気がした。お酒一つで料理が美味しくなるなんて、ベルには目から鱗である。

 

「ご満足いただけたようで何よりでした」

「こんなおいしいお店を紹介していただいて、ありがとうございます」

「どういたしまして。これに懲りなかったら、またいらしてください。聊か料金は高めですが、味は保証しますから」

 

 それでは、とリューはぱたぱたと仕事に戻っていく。料理を楽しみながら、ベルは何となくその後姿を追ってみた。エルフらしい、整った顔立ちをしているリューのスカートが、彼女が動く度にひらひらと舞っているのを見ると、何だかそれだけで幸せな気分になってくるから不思議だった。このままいつまでも見ていたい気に駆られるベルだったが、口が留守になるとそれだけ、料理も冷めてしまう。

 

 料理は温かい内が一番美味しいというのは、ベルでも知っている常識である。せっかくの料理を冷ましてしまったら、ミアに何を言われるか解ったものではない。小さく身震いをして、食事を再開する。美味しいなぁ、と心の中で喝采を挙げながら、一人でもそもそと食事を続けるベルの背後に、今度は別のウェイトレスが立った。

 

「おつかれさまです」

 

 声に振り向くと、そこにいたのはモップを渡される時、最後までベルを眺めていた人間のウェイトレスだった。彼女はベルの顔を見てにっこりとほほ笑むと、小さく頭を下げる。

 

「私はシル・フローヴァ。人間です。どうぞシルと呼んでください」

「ベル・クラネルです。今日は、色々とありがとうございました」

「ベルさんを連れてきたのはリューですし、お料理を作ったのは女将さんです。私の手柄は何一つありませんよ?」

 

 くすくすと笑うシルに、ベルは俯いて頬を真っ赤に染める。軽い酔いが回っているせいか、小さなことでもとてつもない恥ずかしいことに思えた。目の前に立つシルの顔をまともに見ることもできないでいると、シルはベルの反応に、小さく小首を傾げていた。

 

 確かに女慣れしていなそうな少年であるが、言葉一つでここまでとは初心過ぎはしないだろうか。視線を動かすと、料理の皿の横に杯があった。中に注がれているのは酒だろう。シルの位置からでは匂いも感じ取れないが、ベルが今使っているのは酒用の杯なのだから間違いはない。

 

 シルはちら、と厨房の方を見た、ミアは忙しそうに厨房を動き回り、調理担当のスタッフにあれこれ指示を飛ばしている。ミアは良い人ではあるのだが、義理人情や倫理に反しないならば、平気で法律や規則を飛び越える豪快な人でもある。少年に酒というのもあまり感心しないことではあるが、料理については妥協しない人だ。おそらくその料理に合うからということで、一緒に酒を出したのだろう。初めて食べたのならば、料理の味が何倍にも感じられているに違いない。

 

 料理と酒の多幸感から赤くなっていると考えると、シルの女性としてのプライドが聊か傷つけられた気分であるが、それはそれだ。リューが男性を連れてくるという奇妙な縁で知り合うことになったこのベルを、シルはどういう訳か気に入っていた。周囲を見回して、一番最初に目があった同僚に、ぱぱっと手で『お願い』を伝える。

 

『五分 もたせて ください』

『ふざけん ニャ 三分 以上は 待たない ニャ』

 

 この忙しい時間である。お互い様ということで、なるべく時間は稼いでくれるようだが、それにしても限度があった。この忙しい時間に、いつまでも油は売っていられない。シルは自分の直感にしたがって、一気に勝負をかけることにした。

 

「どこのファミリアって、ベルさんはもう決めてるんですか?」

「それが全く。明日、ギルドに行って話を聞いてからって思ってるんですけど……」

 

 しめた、とシルの目がきらりと輝いた。さりげなくベルと距離を詰め、耳元に顔を寄せる。内緒話に、シルの心も踊ったが、女性に顔を近づけられたベルは、気が気ではない。どきどきしているベルに更に気分を良くしたシルは、用意していた言葉をつづけ、

 

「実はですね、ベルさん。私、さる神様と懇意にさせていただいて――」

「お~っすシル、久しぶりやなぁ」

 

 そうして、突然の来訪者に一瞬で台無しにされた。

 

 舌打ちをしなかったのは一重に、客商売で身に着けた習性故だった。シルはとびきり余所行きの笑顔を浮かべて振り返るが、先の声の主はもうそこにはいなかった。

 

「自分、見ん顔やなぁ。名前は何ていうん?」

「ベル・クラネルといいます」

「そか。ウチはロキ――・ファミリアのフェンリルや。これでも冒険者なんやで?」

「そうなんですか? 偶然ですね。僕、冒険者になりたくて、この街に来たばかりなんですよ」

 

 その言葉に、シルはあぁ、と小さく息を吐き、フェンリルはほぉ、と小さく声を漏らした。二人の表情は対照的である。

 

「ほぉ~、それは面白い縁やなぁ。それやったら、今ここでうちの入団試験でも受けてみぃひん?」

「良いんですか!?」

 

 ベルの立場からすれば、フェンリルの申し出は渡りに船だった。どういう手順を経てファミリアに入るのかも解らない有様なのだ。どこに、という拘りがなければ、声をかけてくれたところを優先するのは、当然のことである。

 

 ただ問題は、声をかけたのはフェンリルが初めてではないということだった。ベルは困ったように、シルを見る。ベルが何を考えているのか、顔を見れば解った。本音を言えばここで受けたいのだろうが、声をかけたのが先だからという理由で、彼にとっての良い話をふいにしようとしている。根が良い人なのだろう。普通ならば、こちらを気にするよりも先に、二つ返事で頷いている。

 

「良いお話じゃありませんか。私のことは、お気になさらずに」

 

 ここで恩着せがましく引き留めるのは、女のすることではない。そうした方が良いと判断したシルは、内心を強引に押し込めて笑みを浮かべた。それでもベルは気おくれしていたが、今この場でという欲求には抗えず、結局はフェンリルの提案を飲むことにした。

 

「そか。じゃあ、あっちに仲間がおるから、移動してな」

 

 残された料理に後ろ髪を引かれながらも、うきうきと移動するベルについて移動しようとしたフェンリルの背に、そっと近づいたシルは、ベルの時以上に顔を寄せて囁いた。

 

「神ロキ――・ファミリアのフェンリルさん。あまりあの子に、いじわるしたらダメですからね?」

「なんや、えらく乗り気やないかシル。そんなにあの子はめっけもんなん?」

「そういう訳じゃありませんけど、何か気になるじゃありませんか」

「シルがそこまで言うとはなぁ、ウチはウチで、ますます興味が湧いたわ。しっかり審査したるから、安心して見たってや」

「残念ですが、仕事がありますので」

 

 べーっと小さく舌を出して、シルは仕事に戻った。テーブルから皿を下げ、厨房の近くまで来ると、そこでリューとすれ違う。

 

「あれで良いのですか?」

「どこのファミリアに入るか決めるのは、私ではなくてベルさんですからね」

 

 あっさりしたシルの物言いに、リューは眉根を寄せた。シルの性格ならばもっと食い下がると思っていたのだ。それが横目で見た限りでは、随分あっさりと引き下がったものである。それに違和感を感じたリューは質問を重ねようとしたが、それを察したシルはそれよりも早く、別の質問をリューにぶつけた。

 

「リューこそ、こんなに早くベルさんがファミリア入りを決めるなんて、予想外だったんじゃありませんか?」

「縁ある人がチャンスを得たのですから、それは喜ぶべきことです」

 

 痛いところを突かれた形になったリューは、シルへの質問を諦め、そそくさと仕事に戻る。自分の気持ちではなく一般論を口にしたリューに、シルは苦笑を浮かべていた。燻った気持ちを抱えているのは、彼女も一緒なのだ。

 

 そして、リューはリューで自分の気持ちを持て余していた。

 

 ベルにチャンスが訪れたことは、喜ぶべきことである。それは間違いない事実だが、あれこれと世話を焼く予定が狂ってしまったのも、また事実だった。手をかけなくても良くなったのだからそれも喜ぶべきことであるのだが……

 

 何となく、本当に何となく、リューはベルのロキ・ファミリア入りが面白くなかった。

 

 




皆さんお気づきではないかもしれませんが、フェンリルというのは偽名です。


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ロキ・ファミリアの入団試験

 

 

 

 

 

 

「この中から、ベルが一番強いと思う奴を選んだってや。もちろん、誰かに質問したりするんはナシやで。大切なのはフィーリングや!」

 

 フェンリルが示した中には、人間もいればエルフやドワーフ、獣人もいた。年齢も性別も様々で、中にはベルよりも小さい少年までいる。その少年はベルと目が合うと、にこやかにほほ笑んで手を振ってくれた。思わず手を振り返しながら、この少年もここにいるということは、強い人なんだろうなぁ、と思う。

 

 戦闘に関して素人であるベルには、彼らが自分より強いということはすぐに理解できても、どの程度強いかというのは全く理解できない。まして質問もしないで最強を見つけ出せというのは、無理難題に近い。

 

 こうなったらもう誰か一人を適当に選んでみようか。奥まったところに座っている灰色髪の獣人の人なんて、そこはかとなく強そうだし……そこまで考えたところで、ベルはあることに気づいた。きょろきょろとロキ・ファミリア全員の席を確認し、条件に合致する席を一つ見つけたが、その席は空だった。

 

「あそこ、フェンリルさんの席ですか?」

「質問はなしって言うたけど、それくらいならえーか。せやで、あれはうちの席や」

「じゃあ、フェンリルさんが一番強くて、一番偉いんだと思います」

 

 ベルの答えに、ロキ・ファミリアの面々だけでなく、事の成り行きを見守っていた周囲の客までもが騒めいた。見当違いの答えを出した故の失笑、という訳ではなさそうだから、完全に的外れという訳ではなさそうである。

 

「――なんで、そう思ったん?」

「ここに集まってるロキ・ファミリアの皆さんの席を、一度に見渡せるのはあの席だけですから。そういう席に座って気を配れる人はきっと、誰よりも強くて、偉いんじゃないかと思いました」

「……なんやー、嬉しいこと言ってくれるやないの。フィン! この子、えー子やで!」

「それじゃあ、この場で決めるってことで良いのかい?」

「この子さえ良ければな。ベル。君さえ良ければ、うちのファミリアに入らへんか? 今なら色々サービスしたってもえーで?」

「…………すいません、うちのファミリアというのは」

「うちはうちや。うちの名前はロキ。このファミリアの主神様やで?」

「そ、そんな方とは知らず大変な失礼を」

「えーて、えーて。偽名使こうてからかおう思ったんはうちの方やからな。まさか、うちを選ぶとは思わんかったけどなー。で、どないするん? うちは寛大やから、シルの顔を立てて返事を待つー、言うんでもええけども」

「いえ、ぜひ、お願いします」

「そか。やったで、皆! 家族が増えたで! 今日はこのままベルの歓迎会や!!」

 

 ロキの声に、居並んだロキ・ファミリアの面々は杯を掲げて雄叫びを挙げた。三々五々に乾杯をし直し、料理を次々に注文する。ロキに伴われ、ファミリアの輪の中に入れられたベルは、次々に握手や抱擁を求められ、自己紹介を繰り返した。

 

「僕はフィン・ディムナ。ロキ・ファミリアの団長だ。新しい家族を歓迎するよ。おめでとう、ベル」

 

 先ほど、にこやかに手を振ってくれた少年は、あろうことか団長だった。神であるロキを除けばおそらく一番強くて一番偉い人である。彼を知らず、見た目の印象だけで選んでいたら、おそらく正解することはなかっただろう。ロキの問いがひっかけどころかいじわる問題であったことに、ベルは今さらながらに気づいた。

 

「リヴェリア・リヨス・アールヴだ。副団長をしている。困ったことがあったら言うと良い。で、こいつが――」

「アイズ・ヴァレンシュタイン。よろしく」

 

 恐ろしく容姿の整ったエルフの女性が、やはりおそろしく容姿の整った人間――にベルには見えた――の少女を紹介してくれる。金色の髪に金色の目というのは、よく見る特徴ではないから、知らないだけで何か別の種族の血が入っているのかもしれない。神秘的な容姿と言っても良かったが、自己紹介をする際でも芋のフライが刺さった串を手放さず、もぐもぐと食事を続けているのは、美少女らしからぬ小動物的な魅力があった。

 

「ティオネ・ヒリュテよ。よろしく、ベル」

「ティオナ・ヒリュテだよ。中々鋭いね、君」

 

 容姿が似ている上に家名が一緒だから、姉妹なのだろう。似すぎているから、双子かもしれない。褐色の肌はアマゾネスという種族の特徴である。

 

「後は……ほら、ベート、自己紹介くらいしなよ!」

「うるせえな……ベート・ローガだ。雑魚に用はねえ。面倒くせえことは物知り婆にでも聞け――」

 

 ベートの言葉を遮るように、すっ飛んできた杯が彼の頭を直撃した。それを放り投げたリヴェリアは、そんなこと知らないとばかりに涼しい顔をして、別の酒を飲んでいる。頭に一撃を貰い、中身を頭から被ったベートは怒りで顔を真っ赤にしてふるふると震えていたが、リヴェリアを一睨みしただけで、不機嫌そうに隅の席に戻った。

 

「口は悪いが根は悪い奴ではないんじゃ、許してやっとくれ。儂はガレス・ランドロック。今も残っている中では一番の古参ということになるかの。まぁ、年の功が役に立つこともある。物知り婆ほどではないが――おっと」

 

 飛んできた木製の皿を、ガレスはしっかりと受け止めた。攻撃を止められたと悟ったリヴェリアは既に次弾の準備を完了していたが、料理を運んできたミアが彼女の頭に拳骨を落とした。

 

「お前も良い年なんだから、つまらないことはやめな。ガレス、私の店でくだらないことをしたら、いくらあんたでも叩きだすよ!」

「あの小娘が肝っ玉母さんになるとは、儂も年を取ったもんじゃ――待て待て、もうやめるから料理と酒を持って帰るな!」

 

 最大手ファミリアの古参ドワーフの軽口も、食堂でその女将さんには通用しなかった。身を翻し酒と料理を持って戻ろうとしたミアに追いすがったガレスと他数名は、説教された後に蹴りを貰っていた。

 

「クラネルさん」

「リューさん。聞いてください! 僕、ファミリアに入れました!」

 

 声を挙げ、ベルはリューの手を握った。その光景を遠目に眺めていた面々、特にリューの同僚であるウェイトレスたちと、ロキ・ファミリアのエルフたちが次の瞬間に訪れるベルの大惨事を想像して眉根を寄せたが、殴り飛ばして投げ飛ばすはずのリューは、少し困った顔をするだけだった。

 

 ウェイトレスも、ロキ・ファミリアのエルフも、リューがどれだけ触れられることに嫌悪感を示すかは良く知っている。そんな彼女が、初対面であるはずの男性に、手を握られても抵抗していないのだ。

 

 これは驚天動地の事柄である。先ほどまでベルのファミリア入りを祝すムードだった酒場の中は、すぐに別の空気に変わってしまった。

 

「なんやー、うちのベルはもうお嫁さんを見つけたんかー?」

 

 子供の色恋沙汰が大好きなロキが、まず真っ先に乗ってくる。自分が何をしたのか、遅まきながらに察したベルは逃げようとしたが、その両脇は一瞬にしてティオナとティオネに押さえられてしまった。逃げようと抵抗しても、すさまじい腕力で抑え込まれてしまう。一体この細い体のどこにそれだけの力が、と戦慄するベルの目の前で、同じく逃げようとしたリューは同僚のウェイトレスに取り押さえられていた。

 

 そのままロキが座っていた席に二人で引きずられていく。もっとも、リューは今仕事中だ。こんなつまらないことで人手を失うなど、あのミアが許すはずが……と雇い主である女将を見れば、彼女は呆れた様子でリューを見ると、もう知らないとばかりに調理に戻った。

 

「それで、リュー。ベルさんのどこが気に入ったんですか?」

 

 最初に質問してきたのは、何とシルだった。酔客を恋に落とすような可憐な笑みを浮かべているのに、目は欠片も笑っていない。内心で、相当に怒っているのだろうが、リューには何が彼女の気に障ったのか解らなかった。必死にこの状況を打破しようと頭を巡らせるが、怪物に囲まれてもそこから抜け出す手腕はあっても、こういう質問攻めには弱かった。

 

 隣のベルを見れば、彼もこういう状況には慣れていないのだろう。また、ミアに飲まされた弱い酒が回っているのか、顔を真っ赤にしている。これでは戦力にならない。

 

 見渡せば、人、エルフ、ドワーフ、獣人。オラリオに集まる種族が、すべて集まっているような気さえする。周囲を埋め尽くす全員が、自分とベルの答えを今か今かと待っているのが解った。

 

 これはしばらく離してくれそうにない。どうせ酒の席でのバカ話だ。何を言っても笑い話で済ませてくれるだろうと、諦めの境地に達したリューは、よく考えもせずに最初に脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口にした。

 

「彼は私の、運命の人です」

 




前の話と一緒になるはずだった物なので、短めです。


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契約

 

 黄昏の館。

 

 館と呼ばれてはいるが、実際に館な部分はかなり少なく、その敷地のほとんどは高層塔で占められている。乱立するそれらを回廊でつなぎ合わせた、その異様で威容な姿は様々な建築様式が集まるオラリオの中でも珍しく、バベル、アイアムガネーシャの次くらいにオラリオで目を引く建物として、市民に親しまれている。

 

 宴席も終わり、ほろ酔い気分の家族もいる中、これから自分のホームになる場所にやってきたベルが最初に通されたのは、ロキの私室だった。

 

 ロキの部屋は神様の部屋らしく、ベルが故郷で暮らしていた家が二つ三つは軽く入るくらいの広さがあった。中には調度品が色々と飾られており、まるで実際の風景をそのまま落とし込んだかのような精密な絵などベルの目を引くものもあれば、まったく凄さの解らない置物もある。

 

 曲がった角が二本生えた兜などはまだ良い方だ。一番意味が解らなかったのは、背中に蝙蝠のような翼を持ち、紫の服を着て青白い顔をした、長い金髪の男の坐像である。確かに精密ではあるのだろう。しかし、間違ってもベルはこれを自分の部屋に置きたいとは思わなかった。

 

 元より、地上の生物と大きく違うから神なのである。半端もののベルとは違い、とても前衛的な感性をしている神のことだから、今から百年、千年後には、これも地上で持て囃される時がくるのかもしれない。

 

「さっさと契約してまうで。上着脱いでもらえるか?」

 

 脱げという言葉に、思わずベルは身を引いてしまう。神様とは言え、ロキは異性である。男がそこまで恥ずかしがるでもないが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。ベルの初心な反応に、ロキは寝台の上でけらけらと笑った。

 

「そこまで逃げんでもえーやん、男の子やろ? うちかて触るんやったら女の子のやわい身体のほーがえーて。エロいことはせーへんから、ほら、さっさと脱いで横になってな?」

 

 どうせなら女の子の方が良いというのは、ベルも同意である。完全に羞恥心が消えた訳ではなかったが、これは必要なことと思ったベルは大人しく上着を脱いで、寝台の上に横たわった。ここで普段ロキが寝ているのだと思うとおかしな気分になりそうだったが、無心になれと脳内で念じつつ、ロキの言葉を待つ。

 

「まず、ベルにウチの神血を与えて、背中にエンブレムを刻んでもらうな。あ、刻む言うても刺青みたいにちまちま掘るんやないで。一瞬で終わるから安心してなー。まぁ、オークに踏みつぶされるくらいの痛みはあるんやけども――あー、ほら冗談やからそんなに怯えんと。痛くない痛くない。安心しぃや?」

 

 不安そうに呻くベルの背中を見ながら、ロキは自分の背筋がぞくぞくするのを感じていた。確かにあれこれ触るなら女の子の方が良いが、ベルの反応は一々初々しい。今時女の子でも、ここまで初心な反応はしない。男の子でもこれはこれでえーかと新しく自分の子供となったベルに、ロキは大いに満足していた。

 

「ほい、これで契約完了や」

 

 契約が完了したベルの背中には、主神であるロキのエンブレムが浮かび上がってくる。滑稽な笑みを浮かべる道化師。ファミリアを作る際、ロキが自分で決めたエンブレムであり、子供たち全員の背にはこれと同じものが刻まれている。

 

 何の加工もしてないエンブレムには、神聖文字で裸のステイタス、スキルが記入されている。それは神聖文字を解読する技能があれば誰でも読めるもので、子供と契約した神がまず最初にすることは、それを他神がおいそれと読めないように細工をすることだった。

 

 多くの子供たちの面倒を見てきたロキには、朝飯前の作業である。もう晩御飯は食べてもうたけれども、と心中で呟きながら、ロキはベルのエンブレムに目を落とし――そして、硬直した。

 

 英雄志願(ヒロイック・ロード)

 

 スキル欄には、そんな名前が刻まれていた。最大派閥の片割れ、その主神であるロキは、他の神よりも多くの契約をこなしているという実績と、そこから得た知識がある。実際に子供の背中に刻まれたステイタス、スキルを見た数では、今はオラリオにいないゼウスやヘラを除けば、一番であるとさえ思っている。

 

 そのロキにさえ、このスキルは見たことがなかった以上、これはレアスキルに違いない。その内容は、こうだ。

 

 英雄志願(ヒロイック・ロード)

 

・大成する

・目指すべきものの形が明確に定まらない限り、効果は持続する。

・思いの丈に応じ、()()()()()効果が増減する。

 

(大成するって何やねん!)

 

 ロキの突っ込みも尤もだった。

 

 子供が経験値を積み、ランクアップするためのシステム構築は、神々が下界で暮らす子供たちのために作ったものだが、そこには曖昧でも許されあえて曖昧にしている部分と、そうでない部分が存在する。

 

 曖昧な部分の代表が、『子供にどんなスキルが発現するか』だ。

 

 可能か不可能かで言えば、子供に任意のスキルを発動させることは実は可能である。

 

 ただ子供を強くしたいのならば、経験値を稼いでレベルアップなどまどろっこしいことはせず、神がこれはと定めた子供に力を注ぎこめば良い。開発された当初の技術ならばそれも可能だったのだが、最初にそのプレイングを提唱したある神が他の神々から総スカンを食らったことで、そういった行為はチートと蔑まれるようになった。

 

 後に『チート行為は厳禁』という不文律ができ、システムはそのように修正されたのだが、技術的には今でも、そういったチート行為は可能であるとされている。

 

 ただ、既存の技術でそれを行おうとすると、どうしても一定以上の神力を使わざるを得なくなり、天界に送還されることになる。子供を強くしようと力を使っても、使った瞬間、今まで強くなった子供たちまで力を失うことになるのだ。ゲームを有利に進めようとしたら即座に参加権すら失うのでは、割に合わない。レベルに関してチート行為を模索する神は、少なくとも表面上はいなくなった。

 

 どんなスキルが発生するか解らないから、子供たちは面白いのだ。ロキは現在のシステムを支持しているし、ほとんどの神もそうだろうと確信している。一部の神はまだこっそりと、どうにかしてもっと簡単にレベルアップをできないものか方法を模索しているらしいが、おそらく上手くはいかないだろう。

 

 逆に、曖昧であると許されないのはスキルの内容、その記述である。

 

 子供はそれに命を預けてダンジョンに潜るのだ、そこに複数の解釈が存在する余地があるようでは、子供の生存率に大きく影響する。記述は可能な限りシンプルで明確に。そういう指針に沿ってテキストは導き出される訳だが、その点『大成する』という表現は、かなり黒に近いグレーだった。

 

 基本的に死なない神には無限に近い時間があるが、地上の子供たちは簡単に死ぬし寿命という避けられない終わりがある。遠い未来の話をされても、それまで生きていない可能性だってあるのだ。

 

 先の短い子供は、最終的な結果だけ示されたらそこだけを見て、足元が疎かになる。地に足がついていては天界にたどり着くことができないが、地に足のついていない子供は、天界どころかダンジョンで死ぬ。

 

 特にベルのような若い子供は、その傾向が強かった。スキルの詳細がある程度掴めるまで、秘匿しておくのが良いだろう。文章を読んだ限り、ステイタスか経験値、あるいはその両方に補正がかかるスキルのようだし、それがどの程度なのかは次のステイタス更新の際にベルに聞き取りをし、直接ステイタスを確認すれば良い。

 

「ま、それも追々やな。ともかく、明日はギルドまでいって、ちゃんと登録済ませてきてや? 長ったらしー説明聞かされるやろうけど、聞いてて損はない話やからちゃんと聞いたってなー」

「了解です!」

 

 服を着込んだベルが部屋を出ていき、しばらく経ってからロキは寝台の上で腕組みをした。

 

 良い子である。歓迎会の時の反応を見るに、他の子供たちに対する受けも悪くない。幹部の中では唯一、ベートが刺々しい態度を取っているが、ツンデレである彼はあれが素だ。いずれベルとも打ち解けるだろう。

 

 目下の問題は、ベルがレアスキルの所有者であるということだ。彼に対してどの程度スキルの内容を秘匿するにしても、行動の端々から情報が漏れないとも限らない。ロキが情報を打ち明けられて、かつ、何かあった時にも彼を守ってやれる者の庇護下に入るのが望ましい。

 

 ロキの脳裏に浮かんだのは一級冒険者の面々だが、彼らに直接頼むというのもそれなりに角が立つ。彼らはファミリアの幹部であり、子供たちの憧れである。レアスキルの所有者というのはあまり大っぴらにできることではないから、他の子供たちにはベルを誰かにつける理由を公言することはできない。

 

 それは他の子供の目には贔屓、と見えるだろう。ロキ・ファミリアの結束はそれほど緩いものではないが、不和が生まれる可能性を主神自ら取り込むのは、できることならば避けたい。

 

 要はどちらを優先するかという問題である。ただレアスキルを持っているだけならば、ロキもそこまで贔屓をしようとは思わなかったが、彼には既に豊穣の女主人亭でシルが目をつけていた。いずれあの女神にも、ベルの存在は知られることになるだろう。子供の可能性を見抜くという点において、あの女神は他の追随を許さない。

 

 契約する前であればまだしも、今は自分と契約し、レアスキルが目覚めている。魅了については何故かそこそこの耐性が付与されていたが、あの女神の前ではそれも絶対とは言い難い。

 

 少し悩んで、ロキはベルの保護を優先させることにした。喧嘩とかせんとえーけどなー、と軽く考えながら、白羽の矢を立てた者に使いを出す。

 

「今日は良い日だった。少し読書でもして気持ち良く眠れると思っていたんだが、そんな私を呼び出したということは、何か重要な案件ということか?」

 

 しばらくして、部屋にやってきた一級冒険者は、ロキを見るなり愚痴を零した。適度の酒を楽しみ、美味い料理を食べた。確かにぐっすり眠るには最高の環境だろう。まだ酔いが抜けきっていないのか、僅かに朱に染まった彼女の顔には神であるロキもくらくらとさせる色香が漂っていたが、今は仕事だ。

 

「ベルのことなんやけどな。ちょっと、頼まれてくれんか?」

「私が面倒を見るということか? それは別に構わないが、角が立つのではないかな。もう少し、レベルが下の人物に任せるのが良いかと思うが……」

「うちもそう思ったんやけどな、こいつを見るとそうも言ってられんのや」

 

 ベルの背中、ステイタスの内容を書き写した物を、彼女に放り投げる。神聖文字で書かれたものだが、高位の魔法使いである彼女にはその程度解読など、朝飯前である。

 

「……なるほどな。確かに監督が必要だろう。情報漏洩を防ぐ、という意味もあるのだな?」

「そういうことや。四六時中一緒におる必要はないけども、できる限り目をかけてくれると助かるな」

「解った。だがそれでも、私一人では手が回らないこともあるだろう。もう一人つけてやりたいのだが、構わないか?」

「細かいとこは任せるわ。近い内に、あいつがちょっかいかけてくるのは確定やろうからな。しっかり頼むで、リヴェリア」

「道化師のエンブレムを受け入れた以上、私にとってもベルは家族だ。万全を尽くそう」

 

 

 

 




当面の監督役はリヴェリア、さらに補佐で他一名がつくことになりました。
基本的にリヴェリアは話を聞くだけで、一緒に動くのは他一名の方になります。


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ギルドに行こう

 

 オラリオにおいて、一般人が逆らってはいけない組織というのは沢山あるが、その中でも三指に数えられるのがギルドである。

 

 ギルドは冒険者を管理統括する組織であり、ダンジョンから回収した利益を街に還元する業務も担うことから、不定期に開催される神の寄合、神会よりも実質的な権限は高いと目されている。

 

 ギルドの代表は神であるウラヌスである。これだけを見れば、ギルドはウラヌス・ファミリアであると捉えられなくもない。他のファミリアから出向しているレアケースを除けば構成員の全ては一般人なので、直接的な戦闘力は皆無とされているが、所属不明の冒険者が現れると、ギルドの非正規戦隊に違いないという噂が流れる辺り、表裏のない平和的な組織とは思われていないのが現状である。

 

 もっとも、そんな黒い噂もオラリオ歴が一週間に満たない、駆け出しの冒険者であるベルには関係がなかった。冒険者のフォローをしてくれるありがたい組織というロキの説明を額面通りに受け取った彼は、割り当てられた部屋でせっせと明日の準備を進めていた。

 

 必要事項を書く必要がある関係上、文字が読めないとその手続きには手間がかかるのだが、祖父から簡単な読み書き計算を教わっていたベルには問題なかった。

 

 全ての準備が整い、さて寝ようと思ったその時、ベルの部屋の戸がノックされた。

 

 は~い! と何も考えずに戸を開けたベルは、そこにいたとんでもなく美しいエルフに絶句し、軽いパニックになった。

 

 いきなり挙動不審になるベルがおかしかったのか、絶世の美女は腹を抱えて笑った後、明日ギルドに行くベルに、あれやこれやと世話を焼き始めた。彼の準備に抜かりはないかと一通り確認すると、リヴェリアはベルにある物を手渡した。

 

「ファミリアに所属しているという証明のためには、そいつを出すと良い。本当は明日の朝渡す予定だったのだが、今でも構わんだろう。今日はしっかりと寝て、明日に備えるようにな」

 

 言って、飲んだ後の割にしっかりとした足取りで去っていくリヴェリアに、母親の顔も良く覚えていないベルは母親の姿を見たのだった。

 

 

 そして、翌日。

 

 

 

 早朝に起床し、部屋で最低限の身だしなみを整えていると、昨夜に続きノックがあった。戸を開けると、やはりリヴェリアである。ベルの顔を見た彼女はずんずんと部屋に入り、文机の上に小さい鏡を置いた。

 

「自分の顔も見ずにどうやって身だしなみを整えるつもりなんだ、お前は」

 

 呆れた様子で溜息を吐いたリヴェリアは寝台に腰掛け、小さく手招きした。意味が良く解らなかったベルは目を瞬かせたが、彼女は苦笑し、今度は自分の膝をぽんぽんと叩いた。今度はベルにも『ここに座れ』という意味だと解ったが、それと同時に顔が真っ赤になる。

 

 意味の解らない言葉を発するベルに業を煮やしたリヴェリアは、問答無用でベルの手を掴むと強引にベルを自分の膝の上に乗せた。がちがちに固くなるベルを他所に、リヴェリアはその納まりの悪い白い髪に手櫛を入れていく。

 

「お前と違って、髪は根性が曲がっているな。世話のやりがいがあるとも言うが」

 

 よし、と仕上がりに満足のいったリヴェリアはベルを立ち上がらせ。自分の正面に立たせる。神も嫉妬するというリヴェリアの整った顔立ちが間近に迫り、ベルのドキドキは頂点に達していたが、彼女はそんな少年の気持ちなど知りもしないとばかりに顔を近づけて、服装をチェックしていく。

 

「まぁまぁだな。今の状態が最低限だから、良く覚えておけ。これ未満で外に出てきたら、きついお仕置きが待っているからそのつもりでいろ」

「わ、わかりました」

「よし。では気をつけて行って来い」

「いってきます!」

 

 逃げるように自分の部屋を出ていくベルを、リヴェリアは苦笑と共に見送った。

 

 生まれた煩悩を振り払うように、教えられた道を全力で駆けたベルは、予定の半分の時間でギルドに着いた。途中、リューに会うために『豊穣の女主人』亭に寄ったのだが、それでもまだ時間には相当の余裕があった。

 

 オラリオでも有数の壮麗な建物の門を潜ると、朝一番にも関わらず冒険者の姿が沢山あった。登録以外にも様々な要望を聞いているというが、早朝でもこれだけいるのだから、混雑する時間はどれくらいになるのだろう。まだまだ田舎者であるベルは人の多さに気を飲まれそうになるが、これが自分の冒険者としての第一歩と気合を入れ直して、手近な順番待ちの列に並んだ。

 

 周囲にいた冒険者は、小柄で童顔で全く冒険者に見えず、武装もしていないベルに奇異の目を向けていたが、初めてのギルドで緊張してたベルは、そんな視線に気づく余裕もない。緊張したまま順番を待ち、やがてベルの番が来る。

 

「ギルドにようこそ」

 

 にっこりと、営業スマイルを浮かべた受付嬢の耳はピンと尖っていた。またもエルフである。縁があるなぁ、と思いつつ、ベルはリヴェリアに教えてもらった内容を思い返し、

 

「え~っと……冒険者の登録をお願いしたいんですが」

「かしこまりました。失礼ですが、所属はどちらで?」

「ロキ・ファミリアです」

 

 ベルの告げたそのファミリアの名に、周囲に騒めきが走った。それが『ふかし』である可能性もないではない。どこのファミリアにも入れなかった人間が奇行に走ることは、数年に一度くらいではあるが、あるのだ。この小僧もそうなのだろうと思い、周囲で成り行きを見守っていた面々は、ベルがカウンターに置いたものを見て、沈黙した。

 

 古ぼけた、しかし凝った意匠のメダルである。

 

 ロキ・ファミリアが結成された時に作られたそれは、言わばファミリアの認印のようなもので、黄昏の館にはこれと同じものが 後何枚か存在する。ベルが今回持ち出してきたものは、リヴェリアの執務室から借りてきたものだ。

 

 メダルを見て、周囲の面々は流石にベルの言葉が本当のことなのだと理解した。

 

 ファミリアに入ることのできなかった人間が大嘘を吐いたくらいならば笑い話で済むが、エンブレムまで持ち出しては、嘘でしたごめんなさいでは済まなくなる。このオラリオでは神に不敬を働くとそれだけで罪になるが、神の作ったファミリアを騙ることも同様に罪なのだ。エンブレムを偽造してギルドでそれを見せたとなれば、よほど複雑な事情がない限り実刑は免れない。

 

 もっとも、こういう行き違いやアレな子供の出現を防ぐために、ギルドは神同伴での登録を勧めてはいるのだが、ギルドでまで子供につきまとって嫌われるんも嫌やし……と、神々には評判がよろしくない。やりたいことは是が非でもやるくせに、妙なところで体面に拘るのが、神々のおかしなところである。

 

「……確かに本物のようですね。確認しました。それでは、書類を提出の後、簡単な講習を受けていただきます。講習は引き続き私が担当しますね。え~っと…………ベル・クラネルさん。申し遅れました。私はエイナ・チュールと申します。本日は、よろしくお願いします」

 

 にこやかにほほ笑むエイナに、ベルはほんわかした気分になった。

 

 仕事のできそうな人で安心だ。やっぱりエルフの人って頼りになるなぁ、と喜んでいたのもつかの間。冒険者としての予習どころか、冒険者を目指す者ならば当然知っていそうなことを全く知らなかったベルに、講習を開始して十分で、エイナはキレた。

 

 デキる受付嬢の雰囲気はもうなく、そこにいるのは近所の世話焼きお姉さんといった風の、年齢相応の女性だった。

 

「ベルくん。君は冒険者というものを舐めています」

 

 断定されてしまった上に、エイナは口調まで変わっていた。思わず椅子の上で姿勢を正したベルに、エイナは教師のように説教を続けた。

 

「心構えもできてないと、いざという時大変なんだからね? 冒険者のいざという時って、どういうことか解る?」

「え~っと……死にそうな時ってことでしょうか?」

「その通り! まぁ、その辺りはファミリアの誰かが教えてくれると思うけど。人が多いとこういう時は助かるよね。これでベルくん一人のファミリアとかだったら、私胃に穴が開いてたよ」

 

 ここではないどこかの世界のことを想像してお腹を押さえるエイナに、ベルは苦笑を浮かべる。

 

 ギルドの職員というのは皆こんなに親切なんだろうかと疑問に思うが、何となく、このエイナが特別なような気がした。特に根拠はないが、強いて挙げるとしたら彼女の尖った耳が原因である。

 

「ご家族に仕送りをしたいって人も結構いるから、本当ならその説明もここでするんだけど、それは必要ないのよね?」

「僕、家族はファミリアの人たちしかいないので……」

「そう。ごめんね? 悪いこと聞いちゃって」

「いえ、冒険者になるっていうのは、おじいちゃんに勧められたことでもありますから……」

 

 ベルの言葉には、勧められたのだからなって当然、というくらいに祖父への信頼感が感じられた。家族仲が良いのは勿論良いことではあるのだが、祖父がいなくなって天涯孤独ということは当然、ベルには他に家族がいないということになる。その祖父が存命の時も、ベルと二人で暮らしていた可能性が高い。

 

 つまりは祖父から見ても、ベルはたった一人の家族であった訳だが、その家族に危険と隣り合わせの冒険者という職業を勧めることに、エイナは抵抗を覚えていた。亡くなったそのお爺さんに軽い文句の一つも言ってやりたい気分だが、その家庭にはその家庭の事情がある。ベル本人が抵抗を覚えているのであれば、今からでも遅くはないと力の限り止めただろうが、彼は彼で乗り気である。

 

 男性にしては聊か頼りない容姿を見ていると、本当に冒険者なんてできるんだろうかと不安になってくるが、ロキ・ファミリアくらい大手で優良なファミリアであれば、大事にはならないだろう。そう思ってエイナは自分を納得させようとしたが、母から受け継いだ世話焼きの気質は、そこで留まることを由としなかった。

 

 念のため、これは念のため……と心中で念じながら、エイナは手近にあった便箋を取り手紙を書き始めた。

 

「……さて、こんなところかな。くれぐれも無理をしたりしないこと。先輩の言うことはちゃんと聞いて、なるべく安全に冒険してね?」

 

 安全な冒険はもはや冒険ではないのでは、とベルは思ったが口にはしなかった。兄弟姉妹のいなかったベルだが、このエイナのことはどこか姉のように感じていた。祖父が言うには、姉というのはこの世で最も恐ろしい生き物で、怒らせると地の果てまでも追いかけてきて、弟に酷いことをする生き物だという。

 

 祖父の姉も美しい人だったそうだが、それ以上にとてもとても恐ろしい人だったようで、姉の話をする時の祖父の顔は、いつも青ざめていたことを、ベルは良く覚えている。

 

 エイナに地の果てまで追いかけられる自分を想像するが、祖父が語った程に怖くはない。きっと祖父の姉が特別怖くて、エイナさんは優しいお姉さんなんだろうと勝手に解釈したベルの前で、優しいエイナさんは手紙の最後をサインで結ぶと、それを封筒に入れて、ベルに差し出した。

 

「それからこれ。ベルくんからリヴェリア様に渡してもらえる?」

「エイナさん、リヴェリア様とお知り合いなんですか?」

「母の親友なの。それで今も付き合いがあるのよ?」

 

 へー、とベルは感心しながら手紙を受け取った。世界は狭いものである。もしかして自分の知り合ったエルフの人は、皆知り合いなんじゃと思えてくるが、リューには特にエルフの知り合いはいないというから、きっと勘違いだろう。

 

 昨日の今日なので大丈夫かしらと訪ねた『豊穣の女主人亭』では、リューが特に変わった様子もなく出迎えてくれた。昼食の予定がないのならとお弁当まで持たせてくれたのだが、その包みを受け取った時、ミアを始め従業員全員が気の毒そうな顔をしていたのが、ベルの印象に残った。

 

 まさか毒でも、と一瞬だけ疑ったベルはそんな自分を恥じた。エルフのリューがそんなことをするはずがない。

 

「あ、今思い出したんだけど、エルフのお嫁さんを貰ったのに、養いもしないで働かせてるロクデナシっていうのは、もしかしてベルくんのこと?」

「どこからそんな情報が!?」

「冒険者の人たちが皆噂してたよ。今日一日はその噂で持ちきりなんじゃないかな」

 

 エイナからは生暖かい視線が注がれている。噂は噂であると本気にしていない様子ではあったが、火のない所に煙は立たないと、ベルにも何か原因があるのだと決めかかっている風だった。

 

 どうしてああなったのか。ベルには全く原因が解らなかったが、既にお嫁さんを貰っていると、事実に反する話が広まっているのならば、火消しをしなければリューにも迷惑がかかってしまう。

 

 結局、講習にかかった以上の時間を噂の言い訳に費やしたベルは、来た時よりも大きく疲労した様子でギルドを後にした。疲れたらお腹が空いた。黄昏の館(ホーム)に戻る前にご飯を食べようと、ギルド近くで公園を見つけたベルは、そこのベンチでリューからもらったお弁当を広げ、サンドイッチを口に入れた。

 

 

 ベルが意識を取り戻したのは、それから一時間後のことである。サンドイッチのあまりのマズ――いや、個性的な味に自分を戒めたベルは、これからリューには誠実に接し、優しくしようと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、私のところに戻ってきた訳か」

「はい。これがそのお手紙です」

 

 ベルから手渡された手紙を、リヴェリアはさっと一読し、視線を上げた。容姿に優れると評判のエルフであるが、リヴェリアはその中でも飛びぬけて優れた容姿をしていると言われている。

 

 そんな絶世の美人が機嫌良さそうにほほ笑むのを見てベルはどきりとしたが、それ以上にあまり良くない未来をその笑顔に見て、思わず身構えてしまう。言えば本人は喜ばないだろうが、こういう時の顔は主神であるロキにそっくりである。

 

「エイナはお前が相当に頼りなく見えたらしいな。お前のことをくれぐれもよろしく頼むと、この手紙で念を押されたよ」

 

 本当は非常に堅苦しい言葉で持って回った言い回しが使われていたのだが、要約するとそういうことだ。あの娘はエルフの王族を里から連れ出すくらい豪胆な母親に似て、困っている者を見ると放っておけない性質らしい。

 

 リヴェリアの言葉に、ベルはがっくりと項垂れた。頼りがいのある男に見えると思ったことなど一度もないが、改めて言葉にされると堪えるものである。

 

 しょぼんとするベルに、リヴェリアはリヴェリアで母性本能が擽られるのを感じていた。

 

 どうやってベルへの監督を切り出したものか一日考えていたのだが、エイナからの手紙はリヴェリアにとって渡りに船だった。これがアイナの娘の手によって成されたのだと思うと、運命を感じずにはいられない。久しく顔を見ていない親友に感謝しながら、リヴェリアは一つ咳払いをし、ベルに向き直った。

 

「だが、よろしく頼まれたところで、私にも立場がある。ロキが直接ねじ込んだお前を、さらにレベル6で副団長の私が面倒を見ているとなれば、他の団員からは贔屓をしている、されていると思われるのは間違いがない。それは私にとっても、お前にとっても、ロキにとっても良くない結果になる。それは解るな?」

「解ってるつもりです」

「ならば良い。しかし、親友の娘たっての頼みを断ったとなれば、私があいつに顔向けできなくなる。そこでだ。私が推薦するある女に、お前の指導監督を任せようと思う。これからはその者を、師として仰ぎ、先達として崇め、姉として慕い、大いに尽くすように」

「先生をつけてくれるんですか?」

「先生というほど堅苦しいものではないが、似たようなものだ。これはロキにも許可を取ってある。これからはその者とダンジョンに潜ることになるだろう。ロキ・ファミリアでは、レベル1の間は、それ以上の者に監督してもらう習わしがあるのだ。普通は複数人でパーティを組むのだが、そいつならば一人で十分だろう」

 

 リヴェリアからの推薦でその団員が面倒を見るのならば、遠回しにそれも贔屓とされるのは否めないが、何度も直接面倒を見るよりはマシだろう。いずれベルが成長し、今の幹部たちと肩を並べるようになれば、やっかみも消えるはずだ。そこに至るまで、どの程度の時間がかかるか知れないが、人間の成長をゆっくり待つのも悪くはない。

 

 いよいよ冒険だ、と一人わくわくしてるベルに、リヴェリアはそっと慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

 

 




原作を読み返していたらリヴェリア様はお酒を飲まれないと聞きました。
……あの時は祝いの席だったから、という理由で一つ。


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ダンジョンに行こう

 レフィーヤ・ウィリディスという少女がいる。

 

 ロキ・ファミリア所属の冒険者で、種族はエルフ。3というレベルはファミリア全体では上位にランクインしており、後の幹部候補と目されている冒険者の一人である。魔力特化のステイタスは『魔法使い』と呼ぶに相応しく、内外にはリヴェリアの一番弟子として知られていた。一言でその立場を表すならば『若手の有望株の一人』といったところだろう。

 

 そのレフィーヤは今、上層用の軽装でもって黄昏の館、女子塔の廊下を歩いていた。何故今さら上層に……という疑問はあるが、リヴェリアからの指示であるから文句を差し挟む余地はない。どのような組織であれ、上司からの命令は絶対だ。リヴェリアはファミリアの副団長であり、レフィーヤにとっては魔法の師匠でもあり、さらに言えばとあるエルフの氏族のやんごとなき身分のお方である。ただのエルフである自分に、太刀打できるはずもなかった。

 

 眠い目を擦りながら、廊下を歩く。

 

 そう言えば、早朝からダンジョンに行くなんて久しぶり――とあくびを噛み殺しながら待ち合わせの十分前に集合場所に着いたレフィーヤが見たのは、早朝でも一分の隙もない美しさを保ったリヴェリアと、白い髪に赤い目と、まるで兎のような風貌をした少年だった。

 

「申し訳ありません、遅れました!」

 

 遅刻した訳ではないが、リヴェリアよりも遅く来ては立場がない。眠気も一気に吹っ飛んだレフィーヤは慌ててリヴェリアに駆け寄って頭を下げるが、リヴェリアは困ったように苦笑し、

 

「いや、私たちが早く来過ぎただけだ。予定ではもう少し遅く来るはずだったんだがな、黄昏の館の案内が思いのほか早く終わってしまって手持無沙汰だったのだ」

 

 まぁ許してくれ、と軽く言うリヴェリアに、レフィーヤはもう何が何やら解らなくなっていた。リヴェリアの隣には、兎のような少年がいる。その特徴のある風貌には見覚えがあった。先日、ロキの提案で入団試験を受け、見事突破して入団した人間(ヒューマン)の少年だ。名前は確か、ベル・クラネル。

 

 まだ冒険者になる前から美人で気立てのよいエルフの嫁を貰ったにも関わらず、養いもせずに働かせているクソ野郎だという噂を聞いている。いつ身を固めるかは人それぞれだし、種族によっても大きな違いがある。冒険者というのもいつ死ぬか解らない職業であり、飲む打つ買うなど刹那的な生き方もする冒険者も多い中、家庭を持とうという気概は中々立派なものだと思わないでもないが、女一人働かせてというのは、やはり女の身では感心できなかった。相手がエルフというならば猶更である。

 

 まぁ、その噂をしていたのは独身男性の冒険者であるから、ただのやっかみという可能性も大いにあるが、火のない所に煙は立たないのが世の中というものだ。ベルが噂のエルフとそれなりの仲なのは、真実と見て良いだろう。人間であるから見た目通りの年齢をしているはずで、その容姿が年齢に直結しているならば、彼は自分よりも年下のはずだ。高くても十代の半ばといった所だろう。生まれてこの方恋人がいたことのないレフィーヤである。幼くして、恋人(らしい人)がいるベルは、何だか眩しく見えた。

 

 そのベルであるが、今日が初ダンジョンにしては装備が整っている。なりたての冒険者に自前の装備を整える金があるはずもないから、今身を固めている装備は全て、ファミリアの倉庫から引っ張り出してきたものだろう。

 

 使ってみたけど合わなかった。でも売るのもなぁ……という武器防具が、黄昏の館の倉庫には山と積まれている。ある団員など『ここには何でも揃っている』と豪語するほどだが、その通りだなとレフィーヤも思う。正直、下手な店よりもよほど品揃えも品質も良い。しかも団員ならば無料で借りることができるのだから、商売をする側としては堪ったものではないだろう。

 

 初心者の内はそれこそ、ここの装備だけで消耗品以外の全てを賄うことができるが、一瞬一秒の遅れが生死を分けるのが冒険者である。装備は身体に合ったものを、というのがロキ・ファミリアに限らず、全てのファミリアが守る鉄則だ。ここの装備で始めて、ある程度まとまった金が手に入ったら、自分の身体に装備を合わせていく。ここの装備を借りるのは、ファミリアの通過儀礼のようなものだ。

 

 そして、先輩に面倒を見てもらうというのも、同様に通過儀礼であると言える。特に右も左も解らない内はある程度ダンジョンになれた冒険者による先導が不可欠だ。ロキ・ファミリアではこれを義務化しており、レベル1の冒険者はレベル2以上の冒険者と一緒でないとダンジョンに潜れないようになっている。過保護にも思えるが、子供が死ぬよりはマシというロキの配慮に寄る。これには過剰なまでの実力主義であるベートも異を唱えないのだから、良いシステムと言えるのだろう。事実、レフィーヤもお世話になった。

 

 この慣例に当てはめるなら、リヴェリアにも下の団員の面倒を見る義務はもちろんあるのだが、彼女はレベル6で副団長と、主神であるロキと団長であるフィンの次に偉いエルフだ。レベル1でド新人のベルの面倒を見るには、正直雲の上過ぎるエルフ選なのだが、あれやこれやとベルの世話を焼いているリヴェリアの姿は、まさに『お母さんと子供』といった風である。されるがままのベルもそうだが、特にリヴェリアはこの状況を楽しんでいるように、レフィーヤには見えた。

 

 ここにいるのが例えばティオナならば、自発的にベルの補佐を始めたと言っても納得できるが、自分の立場を自覚しているリヴェリアが、ベルの世話を自分から始めたとは思えなかった。つまりは上からの指示があった可能性が高いのだが、ファミリアの中でリヴェリアに指示を出せる者はロキとフィンしかいない。その二人が出した指示となると、それはそれで大事となる。ファミリアに入ったばかりのベルに、そこまで目をかける理由は早々ないはずだ。

 

 ベル・クラネルという個人が、何かファミリアにとって特別な存在と解ったのか、はたまた、先日ロキと契約し、レアなスキルがいきなり発現でもしたのか。そこまで考えて、レフィーヤは後者だと理解した。それならばリヴェリアが沢山いるロキ・ファミリアの冒険者の中で自分に声をかけたのかも理解できる。

 

 そしてその予想は、レフィーヤにとってはあまり嬉しくないものだった。

 

 要するにこれは、ベルと自分の顔合わせのようなものだ。今日リヴェリアがやることを、次は自分がやるのだろう。自分もしてもらったことだし、現在もしてもらっていることだ。それをベルにやれと言われれば文句はないが、同時にめんどくさいと思ってしまうのも人、いやエルフというものだ。

 

 特にレフィーヤは最近、自分が伸び悩んでいることを自覚している。空いた時間はできる限り自分の修行のために使いたいと思うのも、向上心のある冒険者としては自然なことだった。新人のお守りをするということになれば、多くの時間をベルに取られることになる。彼個人のことは別に好きでも嫌いでもないが、時間を取られるということを考えると、憂鬱になるレフィーヤだった。

 

「お前の考えていることは解る。私も同じ立場ならば、そう思うだろう」

 

 レフィーヤの内心を敏感に感じ取ったリヴェリアが、そっと顔を寄せてくる。ぞっとするほどに整ったその顔は同性のレフィーヤをもどきどきとさせたが、そういう内心には気づかず、リヴェリアは囁いた。

 

「だから今日のベルの行動と更新されたステイタスを見て、それでもお前の好奇心が刺激されなかったら、この提案は忘れてくれても良い。ただ、絶対にそうはならないと、リヴェリア・リヨス・アールヴが予言しよう」

 

 リヴェリアらしい、大仰な物言いである。ハイエルフであり、高名な魔法使いである彼女に予言されると、本当にその通りになりそうで少し怖い。そんな色眼鏡でもって、ベルを眺めてみる。童顔だが、顔立ちは整っている方だと思う。人によっては軟弱であると思うかもしれないが、エルフという種族故か、レフィーヤはいかつくて男臭い男性よりは線の細い顔立ちの整ったタイプを好む傾向にあった。その観点から見ると、ベルは容姿はそれほど悪いものではない。年齢故か身長が低いのが難点だが、それはこれからに期待である。なんとなく、噂のエルフの嫁は彼よりも大分年上のような気がした。

 

 見た目から解ることなど、その程度のものだ。少なくとも、この時点でレフィーヤの好奇心を満たすようなものを、ベルから感じ取ることはできなかった。

 

「さて、今日はこの三人でダンジョンに潜る。ベル、こいつはレフィーヤ・ウィリディスだ。私の弟子……というものになるのか? あまりそういう気はしないが」

「いいえ。常々、リヴェリア様にはお世話になってます。ちゃんと自己紹介するのは初めてですね。レフィーヤ・ウィリディスです。よろしくお願いします、ベル」

「こちらこそ、よろしくお願いします!」

 

 元気は良い。言うこともきちんと聞いてくれそうだ。後輩としては結構かわいいかもしれない。時間を取られるかもしれないという燻った気持ちと、この子ならば面倒を見ても良いかな、という仏心に折り合いが着かぬまま、レフィーヤは二人と共にダンジョンに足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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初めてのダンジョン

 ダンジョン、第一層。

 

 冒険者になったばかりの者がおっかなびっくりモンスターと戦って、喜んだり絶望したり悲喜交々なドラマが繰り広げられる場所である。レフィーヤも冒険者になりたての頃は、ここで先輩達に見守られてモンスターと戦った思い出があるが、今日、ここで戦うのは自分ではなくベルである。

 

 リヴェリアを先頭に歩くことしばし。適当なモンスターを見つけたリヴェリアは、それから十分な距離を取ってベルに向き直った。

 

「さて、一番最初に戦ってもらうのはあれだ。ロキの恩恵を授かったばかりのお前は一般人と大差ないが、借り物とはいえきちんと武装していることだし、一人でもどうにかなるだろう。もし危なくなったら私かレフィーヤが助けるから、安心しろ。死ぬほど痛い目を見ることはあっても、死ぬことはない」

 

 死ぬほど痛い、という文言に軽くベルが引いていたが、ベルをモンスターの方に押し出したリヴェリアは、レフィーヤにだけ見えるように腰の後ろについたポーチを開いて見せた。中にはエリクサーが三本。これなら即死でもない限り死ぬことはないだろう。第一層に随分と念入りなことだが、それだけ、リヴェリアのベルに対する思い入れがうかがえる。

 

「よし。では行って来い」

「わかりました!」

 

 うおー、と気炎をあげて突撃するベルの背中を、レフィーヤはぼーっと眺めた。足踏みするかと思えば意外や意外。モンスターに対して一歩も怯むことなく突撃し、ショートソードで切り付けている。さて、駆け出し冒険者の攻撃にモンスターも黙ってはいない。突然襲い掛かってきた兎小僧に対して反撃を試みるが、攻撃を当てた次の瞬間には、ベルは位置を移動していた。相手の回転とは逆の方に回り込み、一瞬ではあるが死角に入り込んでいる。

 

 冒険者相手ではこうはいかないだろうが、一層くらいのモンスターならば効果的な方法である。ここに来るまで、リヴェリアの話したことを律儀に守った結果だった。これにはレフィーヤも思わずお、と声を漏らしたが、その後のベルの行動は攻撃しては回り込み、回り込んでは攻撃し、の繰り返しだった。

 

 確かに効果的ではあるのだが、どうにもかっこよくはない。武器の使い方も、魔法使いのレフィーヤから見てもなっていなかったが、今日が初ダンジョンならばこんなものだろうと思い直す。

 

 少なくとも、自分が初めてダンジョンに潜った時はベルよりもずっと怯えていて、もっとかっこ悪かったに違いないのだ。

 

 モンスターを前に一歩も動けなくなる冒険者も少なからずいる中で、見守ってくれる者がいるとは言え果敢に突撃できるのだから、その点については少なくとも見どころがあると言えるだろう。時間はかかるだろうが、これならばベル一人でも倒せるだろう。そう思った直後、モンスターの足がベルの腕をかすり、服に血が滲んだ時は思わず手に汗を握ってしまったが、結局、彼はたった一人でそのモンスターを倒して見せた。

 

 動かなくなったモンスターの前で、油断なく剣を構えていること数秒。やっとモンスターを倒したと認識したベルは、そのままリヴェリアの元に駆けてきた。喜色満面とはこのことである。これで尻尾でもついていたら、千切れんばかりに振っていたに違いない。

 

「ただいま戻りました!」

「よくやった。初めてにしては上出来だ。だがまず、使い終わったら武器は鞘に戻せ。抜き身のままではいらぬトラブルを招く。他に直すべき所は……」

 

 まずは軽く褒めるところから始め、問題点を次々に指摘していく。褒められたことを忘れるくらいにずらずらとダメなところが指摘されていくが、ベルは一つ一つにしっかりと頷きながら、黙ってリヴェリアの言葉を聞いていた。リヴェリアの説明にも興が乗っているような気がする。元々面倒見の良い人ではあったが、ベルに対してはより親身になっている気さえした。ダンジョンに入る前、母親と子供と思ったレフィーヤは、さらにその思いを強くしていた。

 

「……とりあえずはこんな所だな。後はモンスターの生態についても、きちんと勉強しておくように。私の部屋にリストがあるから、ダンジョンから戻ったら部屋まで取りに来い。油断するなよ? 今日はないが、これから毎日テストするからな」

 

 はい! と何も考えずにベルは返事をしているが、流石にそれは安請け合いというものだとレフィーヤは思った。上層だけでもモンスターの数は相当数に上る。ベルが対峙したものだけならばまだ良いが、そうでないモンスターも含まれるのならば、その生態を答えよというのはかなりの難問だ。

 

 レフィーヤは今レベル3だ。ベルよりもずっとダンジョンやモンスターのことを知っているが、何しろ問題を作成するのはあのリヴェリアである。今そのテストを受けたとしても、完答することは難しいだろう。

 

 そして、リヴェリアが行ったテストでの落第は、更なる地獄がやってくることを意味する。その恐ろしさを知っているレフィーヤは、ベルに対する彼女の本気を見た気がした。

 

 その後、一種のモンスターにつき一回は戦わせ、そのモンスターの特徴と注意点、ドロップアイテムがある場合はそれも教え、その時々のベルの行動の問題点を指摘していく。遭遇したモンスターの中には当然、今のベルが一人で相手をするのは難しい個体も含まれていたが、そういう場合はリヴェリアが足元の石を蹴り上げ、それを杖で弾き飛ばして大穴をあけることで退治していた。

 

 絶世の美女であるリヴェリアが気軽にモンスターを滅していく様に、ベルはかなりショックを受けていた。その気持ちも解らないでもないが、冒険者になれば、見た目と強さが一致しないというのは見慣れた光景である。レフィーヤも、冒険者であるという先入観がなければ、例えばアイズなどがオラリオでも有数の実力者であるとは思いもしないだろう。その手のショックは日常茶飯事であると、諦めてもらうより他にはない。

 

 結局、リヴェリアとレフィーヤの監督の下、ベルは全身擦り傷と切り傷だらけになるまでモンスターと戦ったが、大きな怪我をすることもなくその日のノルマを終了することができた。幸運なことに、ポーチのエリクサーも出番なしである。

 

 ダンジョンから戻る道すがら、あれだけ指摘したのにまだあるらしい今日の反省点を講義しているリヴェリアと、それを大人しく聞いているベルの背中を見ながら、レフィーヤはダンジョンに潜る前、リヴェリアに言われたことを思い出していた。

 

 今日のベルの戦いぶりを見てきたが、頑張っているという印象はあっても飛びぬけて光るものは感じられなかった。当然、リヴェリアが目をかける理由も見いだせない。まさか好みの容姿をしていたからでは、と邪推まで考え始めるレフィーヤだったが、それだと思わせぶりに予言をしたリヴェリアがバカみたいである。

 

 戦いぶり以外に、見るべきところがあるのだろうか。スキルというのはダンジョンで戦う時にこそ発現するべきもので、先のベルの戦いぶりの中では、スキルを使っている様子はみられなかった。不慣れであるというよりは、存在そのものを知らないのだろう。スキルの存在を知らせていないとは、解せないことである。

 

 ますますベルに対する疑念を深めたまま、身繕いもそこそこに、レフィーヤたちは三人そろって黄昏の館のロキの部屋を訪ねた。元から約束がしてあったのだろう。所在不明なことも多いファミリアの主神は、部屋で手ぐすねを引いて待っていた。

 

「おー、おつかれー。無事に戻ってこれたみたいやな。さ、ステイタスの更新やで、服脱いでやー」

 

 ロキに促されベルは自分の服に手をかけたが、脱ぐ直前になってちら、とレフィーヤたちを見た。リヴェリアはベルの視線を受けても平然としている。高貴な出自であるが男社会で長く暮らしてきた期間が長いため、今さら少年の裸一つでは動じたりはしないのだ。むしろ、何を恥ずかしがっているんだと、ベルにからかいの視線を向けるくらいに余裕があった。

 

 問題は、レフィーヤである。

 

 ステイタスの更新に他人が同席することは、同じファミリアであってもほとんどない。レフィーヤが自分のことを振り返っても、アイズかリヴェリアが一度か二度立ち会ったことがあるかな、というくらいである。

 

 視線が気になるというベルの気持ちは、とても良く解った。貞操観念が固いと評判のエルフは、他人に肌を晒すこともあまり好まない。肌を露出することが女としてのステイタスを誇示するのだと言わんばかりのアマゾネスとは対照的だ。他人というのが異性であるなら、尚更恥ずかしいのも解るのだが、男性が脱ぐ立場で、女の視線を気にするのはやめてほしいと思う。恥ずかしがっているベルを見ていると、何もやましいところがないのに、自分がどうしようもない変態に思えて仕方がない。

 

 リヴェリアでもロキでもなく、レフィーヤの視線を気にしているベルに、ロキはぐふふ、といやらしく笑っていた。主神であるとは思うし尊敬もしているのだが、こういう顔をしているのを見ると杖で後ろ頭を叩きたくなってしまうから不思議だった。

 

「なんやー、ベルはレフィーヤがお気に入りか? ふられてもうたな、リヴェリア」

「男は皆若い方が良いと思ってるらしいからな。なに、これから挽回するさ。ほらベル。男が恥ずかしがるな」

 

 お母さん役の二人に促され、観念したベルはレフィーヤの方を見ないようにしながら服を脱ぎ、寝台の上にうつ伏せになった。ロキはその背中に馬乗りになり、指を滑らせていく。

 

 すると、ベルの背中にファミリアのエンブレムが浮かび上がった。滑稽に笑う道化師。ロキ・ファミリアの団員全員に刻まれている、主神ロキの眷属となった証である。

 

 その背中がぼんやりと光、ステイタスが更新されていく。魔法の知識があり、神聖文字もそれなりに読めるレフィーヤは、更新中のベルのステイタスを何となく盗み見て、そして絶句した。

 

 まず、その数値である。今日が初ダンジョンで契約以降初のステイタス更新ということは、ダンジョンに潜った段階でのベルのステイタスは全て0であるはずだが、今のベルのステイタスは魔力以外が全て60を超えていた。上昇値の合計は、250を超えている。

 

 桁を一つ間違えているのかと思わず目を疑ったレフィーヤだが、何度見ても上昇値は変わらなかった。無論、今まで経験していなかったことを経験しているのだからステイタスが『大きく』上昇するのは当然のことなのだが、それにしても限度がある。初心者であることを差し引いても、この上昇値は明らかに異常だ。

 

 多くの子供のステイタスを見たロキ、自分がどうだったかを知っているリヴェリアとレフィーヤはそれが良く解ったが、自分のことしか知らないベルは、それも解らない。僕のステイタスはどうだったんだろう、とわくわくどきどきしているのが、後ろ頭でも良く解る。

 

「ベルのステイタスはこんな感じやで」

 

 地上の言語に書き直されたステイタスを見て、ベルは歓声を挙げた。自分の成長が数値として実感できる。最初のうちはそれだけで嬉しいものだが、横目で見たその紙には、明らかにスキルの部分が欠損していた。

 

 英雄志願(ヒロイック・ロード)というそのスキルの詳細を見て、レフィーヤは言葉を失った。

 

 大成するという文言の壮大さにも驚いたが、レフィーヤの目を引いたのは経験値に補正がかかるという内容そのものだった。それが先ほどの異常な上昇に繋がるのだとしたら、恐ろしい話だ。レフィーヤが知る限り、レベル1からレベル2に上がる期間が最も短かったのは、敬愛するアイズ・ヴァレンシュタインその人で、彼女ほどの才能をもってしても達成には一年という時間がかかった。

 

 ベルの上昇率ならば、その記録を大幅に塗り替える可能性がある。リヴェリアの予言の意味が、今はっきりと理解できた。これは確かに、レフィーヤでも心が躍る。

 

「ところでリヴェリア。頼んどいたベルの先生の件やけども、レフィーヤで決まったってことでえーんか?」

「まだ返事はもらっていないが、この顔を見る限り大丈夫なようだ。どうだ、レフィーヤ。私の予言は当たっただろう?」

 

 不敵にほほ笑むリヴェリアは、女性であるレフィーヤが見ても恋に落ちそうなくらいに美しかったが、その笑顔が問題にならないくらいに、レフィーヤは興奮を覚えていた。

 

 大成すると神に保証されたこの少年がどこまで強くなるのだろう。『剣姫』アイズ・ヴァレンシュタインも、『九魔姫』リヴェリア・リヨス・アールヴも、『猛者』オッタルすらも越え、神話の英雄に並び立つ程になるのだろうか。更新されたステイタスを見て、無邪気に笑うその顔を見ていても、とてもそうは思えないが、レフィーヤは静かに、リヴェリアの頼みを引き受けることにした。

 

 

 

 

 



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閑話 とある女神の慕情と憂鬱

 

 フレイヤ・ファミリア本拠(ホーム)戦いの野(フォールクヴァンク)その執務室にて。

 

 その主神たるフレイヤは、己の子供たちと協力者からのベル・クラネルに関する報告書を読みながら、穏やかな笑みを浮かべていた。それは子供の成長を喜んでいる母親のようであり、離れた恋人に思いを馳せる少女のようにも見える。

 

 いずれにせよ、眷属ではない少年に対し己が女神が思いを馳せているのを見るのは、彼女の眷属として複雑な気分ではあったものの、そのもやもやとした気持ちを押しのける程に、オラリオ最強の冒険者たる『猛者』オッタルも、件の少年のことが気になっていた。

 

「あの子、凄い速度で成長してるようね」

 

 全ての報告書を読み終えたフレイヤは、それをオッタルに差し出した。一礼し、それに目を通したオッタルは。彼にしては珍しくその顔に驚きの表情を浮かべる。

 

「貴方でも驚くことがあるのね」

 

 フレイヤのからかいの声にも、興が乗っていた。それくらいに、ベル・クラネルの成長ぶりはできすぎている。

 

 ステイタスの正確な数値はそれこそ、背中に刻まれた神聖文字を見ることでしか把握することはできないのだが、それを推測する方法はいくつか存在する。その中で最も原始的なものが多くの人員を投入した対象の観察である。とにかく観察しその動きから現在のステイタスを予測するという方法は、精度こそ劣るものの人員さえ確保でき、かつ対象を観察できる環境にあればそこそこの成果が出せるというものだった。

 

 ベル・クラネルは最大手ファミリアの一つ、ロキ・ファミリアに所属している期待の新人ではあるが、存在そのものはガードされていない。常にベルを監督しているのはレフィーヤというエルフの少女一人で、かの『九魔姫』リヴェリア・リヨス・アールヴはたまにしか彼と行動を共にしない。

 

 仮に彼女が一緒に行動をしていればベルの観察もここまで上手くはいかなかっただろう。高レベルの魔法使いで、かつハイエルフであるリヴェリアは、とにもかくにも勘が鋭いのだ。レフィーヤも決して鈍い訳ではないようだが、リヴェリアに比べるとやはり脇が甘かった。

 

 ダンジョンでのベルの行動から、ギルドや酒場でのレフィーヤとの会話から、とにかく情報を吸い上げた結果完成した、現在のベルのステイタスの推測値がフレイヤの手の中にあった。

 

 あくまで推定の域は出ないものの、現段階では確認の方法がなかった魔力を除いて、全てのステイタスがAランクに到達していると思われると、複数の報告書が同様の結論を出していた。本来ならばここまで時間はかからなかっただろうが、調査している彼らも、自分の推測が信じられなかったのだろう。各々が各々の方法で裏を取り、報告書の裏付けをした。そのせいで提出が遅れたが、その分、報告書の信頼度は格段に上がっていた。

 

 その上で、全ての報告書が似たような報告をしているのだから、ベルのステイタスがこれを下回るということはないはずである。

 

 ともすれば、Sランクに至っているステイタスがあってもおかしくはない。彼が冒険者になって、そろそろ一月というくらいなのだから、前代未聞の成長速度である。この域までに達するともういつランクアップしてもおかしくはない。彼と同じファミリアのアイズ=ヴァレンシュタインが持つ一年という最短記録を、大幅に塗り替える最速レコードだ。

 

 だがランクアップは、ただ漫然と経験を積んでいるだけでは達成することはできない。分不相応な壁に挑み、それを乗り越えてこそ天へと至る階を登ることができるのだ。ステイタスがそのレベルにおける限界近くまで上がっているということは、ランクアップに必要な条件であっても、それだけで達成できるという訳ではないのだ。

 

 ほぅ、とフレイヤは熱の籠った溜息を洩らした。

 

 『豊穣の女主人亭』で、シルの目の前でロキが彼をかっさらっていた時から、フレイヤはベルに興味を持っていた。彼を観察する程にその興味は強くなり、今では自分の物にしたいと強く思うまでになった。

 

 フレイヤのこういう行動は、珍しいものではない。現在、フレイヤ・ファミリアに所属する冒険者の中にも、そういう経緯で入団した者は多くいる。この冒険者を調査せよ、というフレイヤの行動も子供たちにも、調査を請け負う外部の者たちにも、いつものことだった。

 

 そうして、いつものようにフレイヤは子供を腕に抱きしめるのだろう。その未来を彼女の周囲にいる者たちは疑っていなかったが、フレイヤ本人はベルに対し、かつてない程の高さの壁を感じていた。運命が自分を阻もうとしているのを、肌に感じる。おそらく彼を籠絡するのは、一筋縄ではいかないだろう。

 

 その恋い焦がれる感情を、フレイヤは面白いと思っていた。自分の生み出す試練に対し、彼はどういう行動を見せるのか。乗り越えて強くなるもよし、志半ばに果ててしまうのも構わない。その時はきっと、その魂を抱きしめて、未来永劫共にいる。フレイヤにとって、子供の生死はあまり重要ではないのだ。

 

「……うさぎさんの壁は、どういうものが良いかしら。やっぱり獅子?」

「私見ですが、人型のモンスターが良いのではないかと」

「それなら、ミノタウロスかしら……でも、ただミノタウロスを仕掛けるのではつまらないわ。オッタル、お願いできる?」

「御心のままに」

 

 フレイヤの『お願い』は具体性を欠いていたが、オッタルの返事に躊躇いはなかった。

 

 その日の内に、オッタルは自分で装備を整えると、フレイヤの身の回りの世話をアレン・フローメルに引き継ぎ、ダンジョンへと潜っていった。



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ベル・クラネルの長い一日①

 正式にレフィーヤの子分となったベルは、冒険者として行動する時は基本的にレフィーヤの監督を受けることになった。

 

 ダンジョンに行くのも訓練をするのも一緒と、顔を見ないと落ち着かないくらいの密度でレフィーヤと行動をするようになったベルは、他の団員から見ればレフィーヤが飼うペットの兎のようだった。最初こそ幹部に贔屓されているとのやっかみもあったが、ベル本人の人当りの良い性格とレフィーヤとのコンビの微笑ましさもあって、ベル・クラネルという少年は次第にロキ・ファミリアの冒険者達に受け入れられていった。

 

 後輩の面倒を見ることに時間を取られるというレフィーヤの懸念も、良い形で解消されることになる。ベルの監督をしているレフィーヤは、彼と纏めてリヴェリアの傘下に入ることになった。これは正式にファミリアとしての辞令が降りた訳ではないが主神であるロキが決定したもので、リヴェリアもそのように動いている。

 

 今までもリヴェリアには目をかけてもらっていたレフィーヤだが、これからはより彼女に面倒を見てもらえることになったのだ。現にベルと一緒にダンジョンに行く時は、たまにリヴェリアも同行してくれる。いくら話を聞きたくても声をかけにくい所にいた人が、向こうから声をかけてくれるようになったのだから、その成果はベルの面倒を見ることに時間を取られても余りある程である。

 

 そういう頼みをされるかも、という時にレフィーヤが感じていた懸念は、リヴェリアの指導の成果を実感するにつれ、綺麗に消えていった。自分の心配がなくなれば、後はもう後輩のベルのことだ。今はもう、ベルの教育に専念している程である。

 

 そのベルの教育であるが、自分の命を守るために鍛錬を欠かさない冒険者の中でも、更にストイックに鍛錬をすることで有名なロキ・ファミリアの団員でさえ、その密度に思わずげんなりする程、過酷なものだった。

 

 まず、朝起きて身だしなみを整えてベルが向かうのは、リヴェリアの部屋である。この時点で身だしなみが合格ラインに達していないと、朝から拳骨を落とされることになる。これは冒険者である以前に、人間として当たり前の行動だ。失格した時は小言を言われながら、リヴェリアの膝の上で髪を梳かされることになる。耳元で囁かれる穏やかな声も、何とも言えない良い匂いも、ただそれだけならばいつまで聞いていたい、嗅いでいたいものだが、女性の膝の上というのは男として恥ずかしい。

 

 せめて次はちゃんとしようと思いつつも、何度も何度も不合格を貰うベルである。一体何がダメなんだろうと、リヴェリアに素直に疑問をぶつけてみたことがあるが、その問いを聞いたリヴェリアは、小さく笑いながらベルの頭を小突き、言った。

 

「それが理解できない内は、私の膝はお前の指定席だな」

 

 朝から恥ずかしい思いを味わったベルは、その後にリヴェリアから今日の課題を言い渡される。

 

 それはその日によって様々であるが、その日ごとに前日よりも厳しいノルマが課せられるのだ。例えばこのモンスターを何匹討伐してくるように、というものだがそれは本人のコンディション、ダンジョンの状況を全く考慮しない厳しいものだった。日が悪ければそのモンスターと遭遇しないこともあるが、そのくらいではリヴェリアは許してくれない。

 

 多少のことでは自分の課題を曲げないと、一昼夜ダンジョンを彷徨ったことで心で理解したベルは、とにかく迅速に動くことを第一とした。素早く動いて素早く見つけて、素早く倒す。何よりそのモンスターを見つけなければ話にならないから、ダンジョン内をとにかく走る。

 

 そうして、大抵のノルマを昼を過ぎた辺りでこなせるようになってくると、今度は黄昏の館(ホーム)に戻って昼食を取り、訓練場での戦闘訓練である。相手を務めるのはレフィーヤだ。

 

 自他共に認める『魔法使い』のレフィーヤであるが、現在のレベルは三である。ステイタスの伸びは敏捷の伸びが大きい、手数を前提とした前衛型を示しているベルであるが、レベル二つの差は大きく、真剣な表情でレフィーヤの振る杖の動きを、まだ完全には捉えられないでいた。

 

 リヴェリアが科したのは、自分では及びのつかないものに対する、いざという時の対処法である。

 

 やり方は簡単だ。ベルがレフィーヤに襲い掛かり、それをレフィーヤが魔法を使わず杖でぶっ叩いて撃退するというものである。原始的な方法だがベルにはこれを回避することができず、強引に襲い掛かっては杖で返り討ちにされ、訓練場をごろごろと転がるという光景が繰り返されることになる。

 

 美女と美少女のエルフと訓練していることにやっかみを向けていた男性冒険者たちも、そのあんまりな訓練内容にあっという間にベルに同情的な視線を向けるようになったほどだ。リヴェリアの指示のもとやっていると解っていなければ、豪快ないじめと思われても仕方のない行為である。普通ならばこの辺りで心が挫けそうになりそうなものだが、ベルは全くめげずにレフィーヤに襲い掛かっては転がされ、たまにやってきたリヴェリアにも吹っ飛ばされ、とにかく訓練場をごろごろと転がって午後を過ごす。

 

 その一方的な訓練が終わると、シャワーを浴びてから夕食である。これは大抵レフィーヤとリヴェリアと三人で、たまにロキかフィンが混ざるくらいである。基本的に三人で行われるその食事に、他のメンバーが加わることは少ない。三人が他の団員から距離を置かれているかと言われれば、そうではない。食事の後に行われる座学に巻き込まれることを、どの団員も嫌っているからだ。

 

 祖父からの教育により読み書きは一通りできるベルであるが、その他の学識と言えば祖父が何故かため込んでいた英雄譚を読み込んだくらいで、お世辞にも博識とは言えなかった。頭のデキも決して良くはないから、リヴェリアの座学について何度も何度も追試を受ける羽目になる。

 

 ちなみに試験で一回落第するごとに、乗馬鞭で掌を叩かれるという古風なお仕置きをされる。痕も残らずただ痛いだけという絶妙な加減をされたそのお仕置きは地味に効果的で、最初は睡眠時間にすら影響の出る程だった座学の時間も、たまに追試があるというくらいに短くなった。

 

 この熱心な教育方針から、教育ママと陰口を叩かれるようになったリヴェリアを他所に、新しいことを学ぶのが嬉しいベルはどんどん知識を吸収していった。黄昏の館(ホーム)内で出会う冒険者を捕まえては、昨日はこんなテストをしたと嬉しそうに話すベルに、座学がとにかく嫌いなティオナとベートは近づきもしなくなっていた。

 

 そんな文字通り朝から晩までの休みない訓練と勉強を、ベルは文句や愚痴の一つも言わずに、一つ一つ丁寧にこなしていた。

 

 そして、ロキ・ファミリアに入って一月半も経つ頃には、上層のモンスターについてのベルの知識は同じレベルの冒険者の中では並ぶ者がいないほどになり、モンスターの討伐数において、目を見張るほどのものになっていた。流石にレベル1歴が長い冒険者と比べれば見劣りするだろうが、各々が駆け出しだった頃と比べると、ベル以上の成果を上げたのは、ロキ・ファミリアの中でもアイズを始めとした幹部たちくらいのものである。

 

 朝起きてはダンジョンに行き、戻ってきては訓練場で二人で訓練。それが終わればリヴェリアの部屋に呼び出され、彼女がテストを行う。この一か月でベルがしたことといえばそれくらいだが、たったそれだけのことでベルのステイタスは凄まじい伸びを見せた。

 

 ベルのステイタスの更新に付き合うのがもはや義務となったレフィーヤだが、ベルの背中に浮かんだ道化師のエンブレムを見る度に、ベルの成長のあまりの速さに驚かされる毎日である。何より恐ろしいのは、魔力以外のステイタスが全てAランクに達しても、ステイタスの伸びが全く衰えを見せないことだった。ほとんどの冒険者はBランクまで行けば喜び、Aランクまで行けば出来過ぎで、Sランクはもう夢のまた夢だ。

 

 何か一つでもその騒ぎであるのに、ベルは魔力以外の全てのステイタスがAランクで、一際才能があるらしい敏捷については既にSランクに突入している。この時点でも杯を投げられそうなくらいに異常なのに、まだ伸びる目があるというのだから、笑うしかない。

 

 ステイタスの数値では既に、レベル1の冒険者の中ではぶっちぎりのトップだろう。下位であればレベル2の冒険者と比べても、総合値では遜色ないかもしれない。アイズを超えて半年という概算を立てていたレフィーヤだがとんでもない。これはレフィーヤどころか、リヴェリアやロキの予想をも上回る驚異的な成長速度だった。仮に今日ランクアップしたとしたら、ロキと契約して45日。これまでオラリオでの最短記録であるアイズの一年よりも、ざっと計算して約八倍の速度である。

 

 他を知らないベルは皆がこういうものだと思って日々の訓練に励んでいるが、流石にランクアップしてしまったら、自分がどれだけおかしいのか、知ることになるだろう。

憧れのアイズの記録が抜かれるのは複雑な気分ではあるものの、ここまで速い記録だと期待と興奮しか生まれない。

 

 凄いスキルに目覚めたおかげだと揶揄する者も出てくるだろうが、そこまで含めてベル・クラネルの才能である。

 

 ランクアップした時は頭を撫でてあげたりして、沢山褒めてあげよう。

 

 心にそう決めたレフィーヤは、自分がベルの成長を素直に喜んでいることに少し驚いたが、兎のようなあのかわいらしい見た目のせいだと自分を納得させた。きっと愛玩動物的な情が移ってしまったのだろう。間違っても男性として素敵とは思わないが、とてもかわいい顔立ちをしているのは認めても良いんじゃないかと思わなくもない。

 

 思考すら言い訳がましくなってきたことを意識したレフィーヤは、邪念を振り払うように一つ咳払いをした。その音に、隣を歩いていたティオナが顔を挙げる。

 

 ダンジョンに蓋をするように建設された、バベル。冒険者御用達の商店が並ぶエリアを二人は歩いていた。ベルと一緒にダンジョンに向かう時間に、ティオナが急用があると嘘を吐いて、レフィーヤを連れ出したのである。

 

 その日、レベル2冒険者のルートが率いるパーティがダンジョンに向かうことは確認してあった。たまたまそこを通りかかった彼らに、自分が合流するまでという約束でベルをお願いし、レフィーヤはティオナの急用に付き合うことになったが、もちろん、彼女に急用などあるはずもない。ベルの目の前で怪しまれずに席を外す口実だ。事前に声をかけることのできた者は他にもいたが、こういう系統の頼みをできて、かつ後々尾を引かないような者はティオナしか思い浮かばなかったのである。

 

「ありがとうございます、ティオナさん」

「いーのいーの。内緒でプレゼント買いに行くなら、こういう方法しかないもんね」

 

 レフィーヤとティオナが並んで歩いている商店区画であるが、数層ぶちぬきでヘファイストス・ファミリアが借り上げている専用フロアではなく、それ以外の商業ギルドが営んでいる区画である。そこでレフィーヤは探し物を見つけることができた。ここにないようであれば、少し大枚を叩いてでも上の層に行く覚悟はあったが、下のフロアで見つけることができたのは、お財布的にも幸運なことだった。

 

 どうせなら普段身に着けられるものを、とレフィーヤが選んだのは一組のシャツとズボンである。ノンブランドではあるが防刃、耐火に優れた素材で編まれたもので、その機能の割に動きを阻害しないようにできている。ロキ・ファミリアではフィンやベートが愛用している類のもので、これならベルのちょろちょろとした動きにも邪魔にはならないだろうと、一週間ぐらいベッドの中で悩んだ末に購入を決めたものだった。

 

 荷物を抱え嬉しそうにほほ笑むレフィーヤの顔を見て、ティオナが嫌らしい笑みを浮かべた。

 

「会ってまだ二か月も経ってないのにプレゼントとか、身持ちの固いエルフにしては攻めてるんじゃない? そんなにベルのことが好きになっちゃったのかな?」

「好きとか、そういうことではなくて……最近、ベルも頑張ってますからそのご褒美というか、ほら、私が監督役になった訳ですから……」

 

 レフィーヤからすれば至極当然なことを言ったつもりだったが、言っている自分でも苦しい言い訳だなぁと思ってしまう辺り、聞いているティオナにはもっと苦しい言い訳に聞こえているのだろう。事実、レフィーヤの言葉を聞いたティオナは、機嫌良さそうに彼女のことを眺めていた。近い年代の少女の、こういう甘酸っぱい話がティオナの好物なのである。

 

 これは追求が厳しくなりそうだな、と思ったレフィーヤは視線をティオナから切った。その先で、綺麗な翡翠色を見つけた。目の良いティオナよりも先に見つけることができたのは、偶然だろうと思う。翡翠色の髪を見つけたレフィーヤは、反射的にティオナの影に隠れようと動いてしまった。急な動きは人の目を引く。勘が良い者ならば猶更だ。大分距離があったはずだが、それで綺麗な翡翠の髪の持ち主――リヴェリアの視線は、レフィーヤに固定された。

 

 遠くから歩いてくるリヴェリアの様子がただ事ではないと悟ったティオナは全力で逃げようとしたが、レフィーヤがそれを全身全霊の力でもって引き留めた。

 

 ベルを驚かせるという目的のため、監督役の監督役であるリヴェリアにも黙って出かけたのだ。言い訳を保証してくれる者が一緒にいないと、沢山怒られてベルとの合流が遅れてしまう。

 

 近くまで来たリヴェリアは、内心の怒りを抑えているのだということが解るほど怒気に満ちていた。美人が凄むとこうなるのかぁ、ともはや他人事のように思いながら、黙っているとその分リヴェリアの怒りは増していくと知っていたレフィーヤは、全てを正直に白状することにした。監督すべき人間を放ってサボっていたと誤解していたリヴェリアは、レフィーヤの言い分を聞いて深く溜息を洩らした。頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる仕草も、絵になっている。

 

「そういうことは私に言ってからにしろ。無駄に怒ってしまったではないか……」

「そういうリヴェリア様は、どうしてバベルに? お連れの方がいるようですが……」

 

 リヴェリアの横には、メガネをかけたエルフの女性がいた。エルフらしい清楚な感じの装いではあるが、この美人さんをどこかで、レフィーヤは見たことがあるような気がした。誰だろう、と考えていると、同じ疑問にぶち当たっていたらしいティオナが、先にあぁ! と声を挙げた。

 

「ギルドの人だ!」

「エイナ・チュールです。日頃のご愛顧ありがとうございます、ヒリュテさん」

 

 営業スマイルを浮かべるエイナに、レフィーヤも小さく声をもらした。ベルからもその名前を聞いたことがある。ギルドでベルを担当している職員であり、彼がギルドを訪れる時には色々を面倒を見てくれるとか。正直、ベルの口からエイナさん、エイナさんと聞くのは何というか、微妙にむかむかとして仕方がなかったのだが、ベルが世話になっているのならば強くも言えない。凛とした美人ではあるが、ベルに他意はないのだろう。それにしても、酒場の運命のエルフと言い、自分と言い、リヴェリアと言い、善く善くエルフに縁のある少年である。

 

「かく言う私も、お前と同じ目的だよ。日頃頑張っているから、その褒美とでも言おうか」

 

 リヴェリアの言葉に、微妙な歯切れの悪さを感じ取れたのは、事情を知っているレフィーヤだけだった。彼女もおそらく、ベルがそろそろランクアップするだろう、ということを感じ取っていたのだろう。こういうプレゼントは選ぶまでに時間のかかることもあるもので、ランクアップしてから選んだのでは時期を逸してしまう可能性がある。

 

 プレゼントというのは、渡すタイミングが肝心なのだ。一番欲しい時に実は前から用意してました、と渡すのが一番効果的なのであるが、それが被ってしまったというのは由々しい問題である。リヴェリアが相手では、彼女を押しのけてという訳にもいかない。どうにか角の立たないように、ベルに渡すようにしなければ、と考えながら四人はバベルを降り、ダンジョンの入り口へと向かって歩いていた。

 

 ギルドの職員であるエイナは当然冒険者ではないから、入り口までの見送りだろうが、リヴェリアもティオナもさも当然という顔でついてきている。今日も二人でと思っていたレフィーヤは聊か怫然とした表情を浮かべていたが、それもダンジョンの入り口が見えるまでだった。

 

 ダンジョンの入り口付近に、人が大勢集まっている。この時間ならばそれも珍しいことではないが、雰囲気がただごとではなかった。

 

 重傷者がいるらしい、という声を聴いて、リヴェリアが駆けていく。回復アイテムはタダではない。緊急事態とは言え、他のファミリアの者に使うのは気が引けてしまうこともある。そのせいで処置が遅くなって手遅れになれば目も当てられないが、回復魔法ならばその心配もない。

 

 人ごみをかき分け、怪我人を見たリヴェリアはその怪我人よりも血の気が引いた。応急処置を受けていたのはベルを引率しているはずのルートだったからだ。遅れてやってきたレフィーヤもその事実に気づき周囲を見回すが他のメンバーは全員いるのに、ベルの姿だけが見えない。レフィーヤの脳裏に浮かんだのは、最悪の想像だった。

 

「ベルはどこですか!」

「第一層、Lの13、ミノタウロスが……」

 

 どこで何が起こったのか、それを把握したリヴェリアは腰のポーチからエリクサーを投げつけると、脱兎のごとく駆けだした。レベル6の力で投げつけられた瓶が頭に直撃したルートはその痛みでのたうち回るが、頭からかぶったエリクサーは彼の傷を瞬時に治療していく。致命傷は脱したが瓶が直撃した分の痛みまでは消してくれない。

 

 用量さえ適正ならば、生きていればどうにかなるレベルの秘薬である。これでダメならばもう手遅れだ。元気にのたうち回るルートに大事ないと判断したレフィーヤは、

 

「ティオナさん!」

「舌噛まないでね!」

 

 その意図を察したティオナは、レフィーヤを抱えて走りだした。リヴェリアよりも1レベル低いレベル5だが、獣人と並んで高い身体能力で有名なアマゾネスである。華奢なエルフ一人を抱えたところで、走る速度で早々遅れは取らない。前を走っていたリヴェリアにあっさりと追いつくと、脳裏に浮かんだ地図を頼りに、ベルの元に向かう。

 

 ルートが言った番号は、ダンジョンの地点を簡易的に表したものである。全ての階層に割り振られている訳ではないが、浅い階層。とりわけ、一番通る回数が多くなる第一層については、どこを通ってどこで合流、という指示を簡単に出せるように文字と数字が割り振られている。Lの13番というのはバベルからの入り口と、第二層への階段のちょうど中間くらいの位置であり、間違ってもミノタウロスが出るような場所ではない。

 

 高いステイタスを誇っているとは言え、ベルはまだレベル1だ。レベル2のモンスターであるミノタウロスの相手は、手に余る。事情を聴き損ねてしまったが、レベル2のルートが重傷を負っているということは、既に一度は交戦している可能性が高い。自分よりもレベルの高い人間が既にやられているのだ。普通ならばその場で戦意を喪失していてもおかしくはないが、冒険者歴の浅いベルは、まだレベル一つの差がどの程度のものなのか、肌で実感してはいないのだ。

 

 おそらく自分が残るべきと普通に判断し、殿を務めたのだろう。ベルらしい判断だが、レベルが上回る相手にたった一人で、というのはあまり褒められたことではない。戻ってきたら説教だ。後から後から湯水のように文句が湧いて出てくるが、それと一緒に、レフィーヤの目からはぽろぽろと涙が毀れていた。最悪の想像が、どうしても頭から離れてくれないのだ。

 

 そんなレフィーヤを走りながら見て、リヴェリアは静かに言った。

 

「泣くな、レフィーヤ。例えこの先どうなろうとも、今この時点で泣く必要はない。泣くのは全て、人事を尽くしてからだ。その一粒二粒涙を流した分だけ、ベルの命が遠ざかるものと知れ」

 

 ベルの命。

 

 その言葉一つでレフィーヤの震えは収まり、涙は止まった。恐怖はやる気と怒りに変わり、拳が白くなる程に杖を握りしめる。ティオナに揺られながら黙っていることしばし、通路を抜けて、広間に出た。Lの13.ルートの報告にあった場所である。

 

 果たしてそこに、ベルはいた。

 

 満身創痍ではあるが、まだ生きている。しかも、武器を持って、戦意を失わずにミノタウロスと対峙していた。かの怪物もまた、健在である。大剣を持ち、ベルを殺さんと息を巻いている。こちらも無傷ではない。両者、頭から血を被ったように全身が真っ赤に染まっている。ベルの綺麗な白い髪も、今は見る影もない。痛々しいまでのその姿はしかし、いつものかわいらしい彼ではなく、いっぱしの冒険者のように見えた。その横顔に、いつにない男らしさを見て、一瞬だけどきりとする。

 

 とにかく、ベルは生きていた。その無事を確定させるべく、ティオナの腕を離れ、駆けだそうとしたレフィーヤの腕を、当のティオナが掴んだ。殺意すら籠った目でティオナを睨むと、彼女はいつになく真剣な表情で首を横に振った。

 

「今ベルを助けるのは、私、賛成しない」

「どうしてですか!」

「だって、今ベルは、頑張ってるもん。ここでレフィーヤが助けたら、あの子は絶対、一生後悔することになると思う。私、頭が悪いから上手く言えないけどさ。男の子が、男になろうとしてるんだよ? そこを、女の私たちが邪魔したらダメだよ」

 

 それは普段、ベートが口にするような男の理屈だった。男はそういう風に思うものだと女のレフィーヤも頭の片隅では理解していたが、自分とは関係のないものだとずっと思っていた。ベルは男性である。そういう願望を持っていることは、レフィーヤも薄々と感じ取っていた。英雄譚を読むことが趣味という彼が物語の英雄を語る時、その赤い瞳は、宝石のようにきらきらと輝くのだ。レフィーヤはその綺麗な瞳を見るのが好きだった。

 

 彼が憧れるという英雄はきっとこういう時、女に助けられたりはしないのだろう。ティオナは今、ベルが男になろうとしていると言う。これはベル・クラネルという少年が、英雄になるための第一歩であると。冒険しない冒険者は、どこにも到達することはできない。レフィーヤも、こういう壁を乗り越えて、レベルを一つ、二つと挙げてきた。

 

 壁に挑むべき機会が今、ベルにも訪れている。ただそれだけのことだ。ティオナの言葉も、冒険者としての一般論が形を変えたに過ぎない。多少なりとも命をかけなければ、冒険者として前に進むことはできないことは、レフィーヤも理屈では分かっていたが、それと心で納得できるかは別の問題だ。

 

 英雄になろうとしていようと、冒険者としての壁がどうであろうと、ベル・クラネルという少年が生命の危機に瀕しているという事実に代わりはなく、そして自分は今、彼を助けることのできる力を持ち、それができる場所にいる。レフィーヤに、ベルを助けない理由はなかった。

 

「それは……命がかかっててもですか? 無事に帰ってきてほしいって、そう思うのが悪いことなんですか!? そこをどいてください。今助けないと、ベルが死んじゃう!!」

「ダメ。絶対許さない。どうしても行くなら、私を倒していって」

 

 梃子でも動かない、と言った風のティオナを前に、レフィーヤは一瞬で沸点を突破した。相手が誰で、自分が何であるかなど関係ない。倒されなければどかないというのであれば、倒すまで。本気でそう考えて一歩踏み出したレフィーヤの肩を、しかし、リヴェリアが掴んだ。

 

「……ティオナの言うことも、一理ある。少し待て」

「リヴェリア様まで……ベルのこと、大切じゃないんですか? ベルがここで死んだら、私――」

「顔を立ててやることも大事、という一般論を言ったまでだ。何も愚かな男の意地を通すための迂遠な自殺未遂に、我々女が付き合ってやる必要はない。本当に、どうしようもなく危なくなったら、私が助ける。即死でなければ間に合うだろうが、もしものこともある。その時は……ロキ・ファミリア副団長、リヴェリア・リヨス・アールヴが命じる。ティオナ・ヒリュテ。我々と一緒に、喪に服してもらうぞ」

「いかようにも。でも、私はベルが勝つと信じるよ。だって、英雄になるなら、こんなところで死ぬはずがないもん」

「ベルはベルです。英雄ではありません」

「だって、そんな目をしてるよ。命がかかってるこんな状況なのに、あの子楽しそうだもん。これなら、私が面倒を見ても良かったかな。あの子と一緒だと、すごく楽しそう」

「ベルは私が監督するんです!」

 

 戦うベルの姿に見とれていた自分を恥じるように、隣で世迷言を言ったティオナに吠える。ムキになった姿がおかしかったのか、けらけらと笑うティオナを無視し、レフィーヤはベルの戦いに集中した。

 

 

 

 

 

 




次回、ベル側の視点に移ります。
ベルの話なのにレフィーヤの方を多く書いてるような……


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ベル・クラネルの長い一日②

「君がベル・クラネルか。よろしく、ルート・ダラスだ」

 

 にこやかに手を差し出してくるのは、二十代後半の人間の男性だった。使い込んだ装備にヒゲ面。一般人が想像するいかにもな冒険者という風貌のルートに、ベルは妙な安心感を覚えた。レフィーヤやリヴェリアのような『魔法使い、もしくは弓使いのエルフ』というのも定番ではあるが、こういう男性もまた冒険譚の中では定番である。

 

「レフィーヤは手が離せないってことで、あの子が合流するまで君を預かることになった。あっちの探索に比べたらあくびが出るかもしれないが、一つよろしく頼むよ」

 

 よろしく、と次々にパーティの面々が握手を求めてくる。ルートを含めて全部で五人。全員が人間で、レベル2のルート以外はレベル1である。レベルにおいてはレベル6のリヴェリアは元より、レベル3のレフィーヤと比べても見劣りするが、ロキ・ファミリアに限らずオラリオに存在する過半数のパーティはこういう構成である。人生初のパーティがレベル6と3というベルの方がマイノリティなのだ。

 

 ついでに言えば、男性とパーティを組むのも初めてのベルにとって、今回のレンタルは心の踊るものだった。レフィーヤが知れば拗ねること確定であるが、女所帯では得られない安心感というのもあるのである。そんなベルの心情を知ってか知らずか、ルートはベルを見据えて小さく咳払いをした。さりげなく、残りのメンバーがベルを囲むように移動していたのだが、ベルはそれには気づかなかった。

 

「……ところで一つ確認しておきたいことがあるんだけど、良いかな? これは俺たちだけじゃなく、ロキ・ファミリアに所属するほとんどの男性団員の総意だと思ってくれて構わない」

 

 一体どんなことを聞かれるんだろう。真面目な表情のルートに思わずベルの態度も固くなるが、

 

「リヴェリア様と一緒のベッドで寝てるって話は本当か?」

「レフィーヤと一緒にシャワーを浴びる仲とも聞いたぞ?」

 

 あんまりと言えばあんまりな内容に、ベルは思わず肩をこけさせた。

 

 他にも、ギルドのエルフと懇ろだとか、酒場のエルフとよろしくやっているとか、ベルからすれば身に覚えのない話が次から次へと出てくる。性に奔放なアマゾネスに比べ身持ちが固いことで有名なエルフやハーフエルフとばかりそういう話があるものだから、エルフ堕とし(エルフキラー)なる二つ名、というかやっかみをされていると聞いた時には、流石にベルもめまいを覚えた。

 

 とにもかくにも噂である。吹けば飛ぶようなそれらが真実であるなどと、ルートたちも本気にしている訳ではないのだろうが、世の中にはまさかということがある。噂のどれか一つが本当だったら、男として羨まし過ぎる。鬼気迫る表情でベルに問うのも、男としては当然の行動と言えた。

 

 ここで変に言い逃れをしたら、逆に疑われる。そう判断したベルはきっぱりと声を張り上げた。

 

「全然、全く、やましいことは何もありません!」

「…………そうか。それを聞いて安心したよ」

 

 ベルの言葉に嘘はないと直感したのだろう。ルートの顔から燻った怒りが霧散した。どうやら危機は脱したようだ。安心したベルはよせば良いのに、脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口にした。

 

「あ、でも毎朝リヴェリア様の膝に乗せられて、髪を梳かされたりはします」

「やっぱり死刑だな」

 

 やっちまえ、というルートの言葉に、団員の男性たちが殺到する。無意味に胴上げされたりジャイアントスイングをされた挙句芝生の上に放り投げられたり、痛くも痒くもないが何だか大変なことをされたりした。モテない男たちの報復が一通り済んだのは、十分も過ぎた後だった。

 

 やり遂げた感満載のルートは、全身やつれたベルを前に何事もなかったかのように、今日の予定を口にする。

 

「今日のベルの役割は途中まではサポーターだ。本来なら今日潜る予定だったのはサポーターがいらないくらい浅い階層の予定だったんだが、途中でレフィーヤが合流するならもう少し欲張れるってことで、今日は余分に設定してみた」

「普段は別にサポーターを雇ってるんですか?」

「いや、基本的にこの班で持ち回りでサポーターを決めてる。これはこれで大事な仕事だからな。フリーを雇うと別に金がかかるし、持ち逃げされたら俺たちだけの問題じゃ済まなくなるからな」

 

 内輪で選出したサポーターが仮に持ち逃げをしたとしても、それは班の内輪もめで済むが外部の人間――つまりは、ルートたちの主神であるロキ以外の神と契約した者を使って、彼ないし彼女とトラブルが起きた場合、これはルートたち当事者だけでなく、ファミリアとファミリアの、引いては主神同士の問題にまで発展する。金と異性はトラブルの原因の定番であり、それはオラリオに住む冒険者であっても変わらない。

 

 ギルドができ、冒険者たちが守るべきルールが定められた昨今でも、その手のトラブルは後を断たない。内輪でサポーターを使うというのは、そういうトラブルを回避する意味合いもあった。

 

「レフィーヤが合流したら、別の役割に交代してもらうから、そのつもりでいてくれ」

「別に最後までサポーターでも大丈夫ですよ?」

「俺も普通ならそうするんだけどな、あくまで預かった形のお前に最初から最後まで荷物持ちをさせてたとなったら、レフィーヤやリヴェリア様に何を言われるか解ったもんじゃないからな……」

 

 先輩後輩というのは入団した時期で決定する。つまるところ、一日でも早く入団していれば、後にレベルが逆転されたとしても上下の関係は変わらないのだ。ルートたちは全員、レフィーヤよりは早く入団しており、彼女から見れば先輩である。普通であればそこまでおっかなびっくりすることもないのだが、レフィーヤがベルのことを猫っかわいがりならぬ、兎かわいがりをしていることはファミリアの中でも有名な話であり、元々彼女と仲の良かったリヴェリアもベルを構っているというのもまた、有名な話だった。

 

 レフィーヤ一人であれば、先輩風を吹かせることもできたのだろうが、副団長であり、レベル6であり、ファミリアの先輩でもあるリヴェリアまで出てくると、話は変わってくる。実力とその立場が恐れられているのもあるが、女神も嫉妬するほどの美貌を持ったリヴェリアは、男性冒険者の憧れの的でもある。できるだけ覚えを良くしておきたいというのは、男のサガと言えるだろう。

 

「とは言え、どんな役割もやっておいて損はない。レベルが上がれば大遠征に召集されることもあるだろうが、その時はサポーターだって一人二人じゃないからな。どんな役割で参加しろって言われても対応できるようにしておくのが、理想ではある」

 

 ルートのもっともらしい言葉に、ベル以外の面々も頷いている。

 

 大遠征は何か一芸に秀でている場合を除いて、レベル1の冒険者を連れていくことはない。最大手ファミリアの一つであるロキ・ファミリアにとっても大イベントであり、それに参加することを一つの目標としてる冒険者もいる程だ。

 

 ベルは他人から見ればリヴェリア、レフィーヤのお気に入りであるが、それとこれとは事情が異なる。深層は浅層に比べると危険度が段違いであり、最低限自分の身を守れないようでは話にならない。お気に入りであるからこそ、ある程度のレベルになるまでは、いかにリヴェリアでも首を縦には振らないだろう。

 

 リヴェリアやレフィーヤの参加しているイベントに、自分が参加できないことを雰囲気で察したベルは当然落ち込むが、それを見たルートたちは苦笑を浮かべる。自分がかつて味わった落胆を、この少年も味わっていることに彼らは一種の連帯感を覚えていた。他人が自分と同じ道を歩いていると実感すると、人はそれだけで優しくなれるものである。

 

 微妙に落ち込んでしまったベルを励ましながら、一行はダンジョンに向かう。冒険者歴の長い彼らにとって、一層を通過するのは作業のようなものだ。あらかじめ決められた役割に従って周囲を警戒したり、モンスターと戦う彼らの姿を見て、ベルは素直に感嘆の溜息を洩らした。

 

 レフィーヤに監督されているとは言え、基本的に一人で戦っていたベルには複数で協力するルートたちの戦い方は目から鱗が落ちるものだった。一人では全てのことを自分一人でやらなければならないが、仲間がいればそれを分担することができる。同じモンスターを同じ数相手にするにしても、効率が段違いだ。

 

 その分、取り分も減ることになるので、一人でいる時よりも多くの仕事をしなければならないが、そのデメリットだけでより多くの安全を買えるのならば、十分にお釣りが来ると言っても良いだろう。

 

「何というか、思ってたよりも強いなベル。流石にリヴェリア様たちが面倒を見てるだけのことはある」

「ありがとうございます!!」

 

 自分が褒められたことももちろん嬉しいベルだったが、それ以上にリヴェリアとレフィーヤが褒められたことが嬉しい。ベルの一々素直でまっすぐな反応に、ルートたちはベルがリヴェリアたちに可愛がられる理由が解った気がした。自分が同じことをしても彼女らに気に入られるとは思えないので、見た目の愛嬌も多分に絡んでいることではあるのだろうが、生まれ持ったモノを才能というのであれば、ベルの人好きのする容姿もまた才能である。

 

 神様というのは往々にして不公平なものだ、というのは日々神様に接しているオラリオの住民ならば痛い程に理解している。とは言え、美女美少女に恵まれた人生に対して、男として思うところがない訳ではない。これで少しでも鼻にかけるところがあればベルを嫌うこともできたのだろうが、少し接してみた限りでベルは所謂『良い奴』だった。

 

 若いというか、幼い思考をしているところも儘あるが、それも愛嬌として済ませられる雰囲気は殺伐とした雰囲気になりやすい冒険者の間では重宝されるだろう。リヴェリアやレフィーヤが構うのも、解る気がした。

 

 いずれ自分をあっさりと超えて強くなる。そんな予感をひしひしと感じながら、ベルに冒険者としての心構えを、レフィーヤが想定しているであろう範囲を超えないように注意しながら説いていると、一行は広い場所に出た。

 

 ダンジョンの地理について、まだまだ詳しくないベルは知らないことだったが、その場所はロキ・ファミリアに所属する冒険者の間では『L-13』と呼ばれる場所だった。第二層に行くためにはいくつかの経路があるが、最短、もしくはそれに準ずる経路を通る際には、必ず通過することになる場所である。

 

「止まれ」

 

 そこに一歩足を踏み入れた時、先頭を歩いていたルートが警告を発した。そのただならぬ気配に全員が足を止め、ベル以外の全員が自分の武器に手をかけた。そこまで行くと、ベルにも何か深刻な事態になったのだ、ということが理解できた。

 

 冒険者歴の浅いベルにも解るくらい、そこには激しい戦闘の後があった。それも明らかに、一方的なものである。その場所に足を踏み入れたばかりのベルたちにも解るくらいに死臭が漂っているが、見えるのは破壊の痕跡と血だまりだけで、死体は一つもなかった。ダンジョンの中でモンスターが冒険者の死体を食うというのは聞かない話ではないが、ルートはこの破壊の痕跡が刻まれたのは、そう昔のことではないと判断した。

 

 何しろ、ここは最短ルート上にあり、第二階層に降りる冒険者のほとんどが通る場所である。こんな場所で一方的に冒険者が殺されるなんて事件があれば、すぐにギルドが布告を出す。自分たちがそれを聞いていないということは、この哀れな犠牲者たちが第一号で、自分たちがその次という可能性が高い。

 

「ルート、どういうことだ?」

「モンスターと戦って、冒険者が負けた。大きな血だまりの数から見て、冒険者の数は四人以上。対するモンスターはおそらく一匹、多くても二匹だと思うが」

 

 推測を述べていく内に、ルートは言い淀んだ。

 

 ここはまだ第一層だ。この場で殺された冒険者全員のレベルが1だったとしても、ここまで一方的に冒険者を殺せるモンスターが第一層に出たという記録は、少なくともルートの記憶にある限りでは一度もない。仮にそんなモンスターが現れたのだとしても、全滅というのはいくら何でも不運が重なりすぎている。一人か二人、無事に逃げることができたとしても良さそうなものだが、ルートたちはここに来るまでの間、一度も他の冒険者とすれ違うことはなかった。

 

 その事実から、件の冒険者はここか、あるいはここまでの間で殺されたと見て間違いはないが、そうなると件のモンスターは複数の冒険者を相手に逃走することも許さず、一方的に皆殺しにした挙句、全ての死体をどこかに片づけたということになる。

 

 無論、まだ遭遇していないだけで逃げたり隠れることに成功した冒険者がいることも否定はできないが、この場で殺されたであろう冒険者の数を想像するに、件のモンスターの脅威は既に、自分たちが関わって良いレベルを超えているとルートは見た。

 

 何か良くないことが起こっている。そう判断したルートは即座に撤収を決断したが、それを口にするよりも早く、ルートたちとは反対の入り口から、大きな足音が響いてきた。

 

 この場における正解は、わき目もふらずに踵を返し、全速力で逃げることだったのだろうが、自分たちは冒険者であるという認識がルートたちの足をその場に留めた。命が何より大切と解っている冒険者たちでも、『逃げる』という行為には決して少なくない精神的な抵抗があった。目の前に凄まじい脅威がやってくると解っていても、姿も見ない内から逃げ出すのは格好悪い行為だと、心のどこかで思っていたのだ。

 

 その見栄と判断の遅さが、ルートたちの命運を分けた。一瞬にしてその場の空気に飲まれた彼らは、最初にして絶好の逃げる機会を失ってしまう。

 

 かくして、大きな足音の主はルートたちの前に姿を現した。

 

 牛頭の巨人である。上層では珍しい人型のモンスターであるそれは、名をミノタウロスと言った。手には身の丈ほどもある雑な造りの大剣が握られており、その刀身は真っ赤に染まっていた。何を斬ってそうなったのかは、考えるまでもない。これが、この惨劇を引き起こした犯人だ。ルートがそう認識した時、ミノタウロスは雄叫びを挙げて、まっすぐに駆け出した。

 

「走って逃げろ!」

 

 そうなってからのルートの決断は早かった。残りのメンバー全員に撤退の指示を出し、自分は一人、剣を抜いてミノタウロスに向かっていく。ミノタウロスのレベルは2。レベル1の仲間たちではとてもでもないが対応できるものではない。逃げるにしても、ある程度は時間を稼ぐ必要がある。その役目ができるのは自分しかいないと解った上での行動だったが、まず一撃。ミノタウロスの大剣を紙一重で避けた所で、ルートは激しい違和感を覚えた。

 

 ミノタウロスと戦ったことは、何度かある。単独での撃破は経験はないが、レベル2の冒険者が複数でかかれば問題なく処理できるレベルのモンスターだったと記憶している。無理をすれば自分一人でも倒せない相手ではない、というのがルートの認識だったが、たった今避けた一撃はその認識を覆すものだった。想定していたよりも明らかに早く、重い一撃である。

 

 同じモンスターでも特別な個体が生まれることはあるが、これがそれなのだろうか。何と間の悪い。心中で毒づきながらも、ルートの動きに迷いはなかった。

 

 仲間のために少しでも時間を稼ぐ。強い決意に支えられた剣はなるほど、レベル2の冒険者にしては鋭く重い。ルートの攻撃を、ミノタウロスはその大剣で受け止めた。甲高い音が響き、火花が散る。力と力のぶつかり合い。ミノタウロスの巨体から生み出される膂力はすさまじい物があったが、ルートもレベル2の冒険者である。負けじと強く押し返した所で、なんと、ミノタウロスは僅かに身体の力を抜いた。

 

 本来はモンスターと最も縁遠いはずの『技術』に、ルートの身体は僅かに前につんのめった。

 

 そして、それを狙いすましたかのように、ミノタウロスは身体を折りたたみルートに蹴りを放った。それは、ロキ・ファミリアのベートのような洗練された動きではなく、目の前でひたすら繰り返された動きを、見様見真似で試してみたような不自然さがあったが、モンスターが技を使うはずがないという冒険者にとってはある種当然の固定観念に縛られていたルートには、効果覿面の攻撃だった。

 

 人間よりも二回りは大きいモンスターの蹴りである。それをまともに食らったルートは血を吐きながら吹き飛ばされ、ダンジョンの床を転がった。それでも、武器を手放すことがなかったのは冒険者としての意地だった。血を吐くルートを見て、ベルたちは慌てて彼に駆け寄った。ここでも、指示を無視した形である。一目散に逃げていれば犠牲は避けられないにしても、全滅は免れたかもしれないが、ベルたちは誰もそれをしなかった。

 

 仲間を見捨てることが、どうしてもできなかったのだ。人間として美しいはずのその行為はしかし、ベルたちに新たなピンチを生み出した。眼前にはミノタウロス。単体でアレと戦えるルートは既に負傷している。命に別状はないが、自分と同レベルの強敵とすぐに戦えるようなコンディションではない。

 

 残りのメンバーはベルを含めて全員がレベル1である。レベル差はほとんどの場合において、絶対である。それは冒険者にとって、ダンジョンで生き残るためにまず叩き込まれる常識の一つだ。冒険者はそれを肌で実感し身体に覚えこませていくのだが、この中に良くも悪くもそれを理解していない駆け出しの冒険者が一人いた。

 

「僕が残ります。皆さんはルートさんを連れて撤退してください」

「おいベル!」

 

 仲間の一人が抗議する。これは序列の問題だ。殿というのは一番危険な役目で、ここまで危機的状況であればそれは皆の代わりに死ぬ囮と同義である。そしてそれは新人に押し付けるべき役割ではない。より強い者、古参の者が張るべき役割だ。

 

 自分たちよりも足の速いミノタウロスと相対している以上、ここでメンバーが取れる選択肢は実質的に二つしかない。全員でここに残って、ミノタウロスと戦うか。誰か一人を犠牲にして、時間を稼ぐか。ベルは一人、その役割を背負おうとしている。一人の冒険者として実に勇敢な発言であるが、ここでそれを変わるのが先輩としての役割だ。

 

 しかし、目の前にはミノタウロスがいる。レベルが上の、敵うはずもない怪物だ。

 

 そんな怪物を前に、自分以外の誰かが残ると言っている。代わると言うべきなのは解っていたが、誰一人として声をあげることはできなかった。

 

 仮にここで生き残れたとしても、新入りを犠牲にして生き延びた自分たちに、冒険者としての道はない。それが解っていてもなお、彼らは足を踏み出すことが、言葉を発することができなかった。戦えば死ぬという恐怖は、それ以外の何物にも代えがたかったのだ。

 

「…………すまない」

 

 ルートを抱えた彼らは、ベルを残していくことを決めた。予備の武器を全て外し、その場に置いていく。うわごとのように、ルートが何かを言っていたが彼らは耳を貸さなかった。ルートを抱え、なるべく早くとミノタウロスとベルから離れていく。

 

 皆がとりあえず、安全な場所まで距離を取ったことを確認したベルは、自分の剣を構え、ミノタウロスと相対した。

 

 小柄なベルよりも三周りは大きく、頭は牛。筋骨隆々のそのモンスターは、鼻息も荒くベルを見下ろしていた。命の危機である。レベルが上のモンスターを相手に、経験の浅い冒険者が一人。生き残れる道理はないが、不思議とベルは落ち着いていた。武器を持つ手に、力を込める。今、自分の背後には撤退する仲間がいる。自分が死ねばそれだけ、仲間が危険に晒される。

 

 本音を言えばとても怖い。今すぐにでも逃げ出したい気持ちは、ベルの中にもある。

 

 だが果たして、ここで仲間を危険に晒す人間が英雄になることができるだろうか。物語の中の英雄はここで、何をするのか。武器を持って戦う。怪物と戦って、倒す。それが英雄のあるべき姿であり、自分のなすべきことだ。

 

 強固な意志の前に、震えはぴたりと止まった。

 

 




既に撤退の援護ではなく撃破が目標にすり替わっていますが、その辺は後でリヴェリア様にでも説教してもらおうと思います。


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ベル・クラネルの長い一日③

 間近で見るミノタウロスの大剣は、ベルが想像していたよりも重く、そして速かった。これをまともに食らえば一たまりもない。レフィーヤの杖と違い、ぼろぼろと言えど刃物の一種だ。強い力で斬られれば、人間の身体などすぐに泣き別れになる。それは規格外の人間である冒険者でも同じことだった。

 

 だが、その大剣は速いには速いが、レフィーヤの杖程ではない。レフィーヤの杖は動いたと思った時には当たっていたし、リヴェリアの杖は吹っ飛ばされてからでないと、動いていたと認識することもできない。動きが捉えられるだけ、ミノタウロスの攻撃は優しいものだ。避けることに集中してさえいれば、攻撃を避け続けることは、ベルにとってはそれ程難しいことではない。

 

 自身の行動が他人と比較した場合、どの程度のものなのか。面倒を見ているレフィーヤとリヴェリアが秘匿主義なこともあって、ベルは自身の相対的な価値というものを知らずにいた。レベルに劣る人間がレベルで勝るモンスターの攻撃を避け続けるというのは、驚異的なことだ。レベルが1違えば、全てのステイタスの、その合計値に大きな差が生まれる。ベルがミノタウロスの攻撃を回避し続けていることは、その常識に反するものだ。

 

 もっとも、その常識は、常識であるが故に冒険者の平均によって話を纏めている。ほとんどの冒険者はランクアップに際し、Aランクのステイタスを持つことはない。一つあっても大騒ぎの所、ベルは魔力以外の全てのステイタスがAに到達している。敏捷に至ってはSランクだ。

 

 一方のミノタウロスは、レベル2のモンスターの中でも決して素早い方ではない。レベル差はあれど、回避が成功し続けていることにはその辺りの要因もあった。ただ生き残るだけならば、このままでも十分に可能だ。本来の目的である時間稼ぎをするだけならば、今のベルでも十分にその役割を果たすことができただろう。

 

 しかし、ベルの目的はこの時点でミノタウロスを撃破することに変わっていた。避けているだけでは、この強敵を倒すことはできない。大剣を避け続けながら、ミノタウロスを観察する。その過程でベルの身体には無数の傷が刻まれるが、ベルの集中力はそれでも途切れることはなかった。高位の冒険者の攻撃を、どうすれば避けることができるのか。冒険者になってからは、それを考える毎日だった。それを実践し、失敗し、地面を転がり続けたことは、無駄ではなかった。

 

 とりあえず、くらいの軽い気持ちで、持っていた剣でミノタウロスに斬りつけてみる。腰が入っていない、借り物の剣での一撃は、ミノタウロスの固い皮膚にかすり傷を付けるのがやっとだった。圧倒的に力と、武器の切れ味が足りない。現状では、全くもってどうしようもないというのがベルの結論である。

 

 せめて、良い武器があれば。彷徨うベルの視線は、仲間が残した武器に留まった。ルートはレベル2で、ミノタウロスもそうである。使う武器が相応のものであれば、ミノタウロスにも傷をつけることができるのではないか。考えたベルの足は、速かった。少しでも身を軽くするために、剣を放り出して走る。ミノタウロスはそんなベルを追おうとして――何故か、足を止めた。

 

 背中を向けていたベルは、それに気づかない。滑り込むようにして、抜き身のままのルートの剣を拾い、構える。ベルよりも大きいルートが、鍛冶系のファミリアにオーダーメイドで発注した、彼のために誂えられた剣だ。まだ手足の伸びきっていないベルの身には重く大きかったが、そのちぐはぐさがベルには頼もしく思えた。

 

 ベルが剣を構えたのを見て、ミノタウロスが再び突進してくる。振り下ろされた大剣を十分に引きつけ、ベルは紙一重でそれを避けた。すれ違い様に、ミノタウロスの胴を薙ぎ払う。思わず剣を取り落としてしまいそうな重い手応えだったが、間違いなくルートの剣はミノタウロスの肌を斬り割いていた。

 

 この剣ならば、倒せる。確信は持てないが、ベルはそう思うことにした。

 

 後はミノタウロスの弱点を探し、そこを突くだけだ。レベル1の冒険者が撃破できる範囲のモンスターについて、それなりの知識を持っているベルであるが、ミノタウロスの弱点について、リヴェリアから教えを受けたことはなかった。

 

 ただ、人型のモンスターについては、その『ほとんど』全てに共通する弱点があると教えられている。人型であるモンスターの構造は、人やエルフと大差がない。皮膚の固さ、その強靭さ。頭が牛であるとか下半身が蛇であるとか諸々の違いはあるが、構造上の弱点は人間やエルフと共通している。モンスター全ての弱点である魔石を破壊する以外となれば『首を切り落とす』ことこそが人型モンスターを確実に撃破する最も可能性の高い方法である。

 

 ミノタウロスの首を見る。その首は強靭な筋肉によって守られていた。丸太のように太いその首を、自分の力で落とすのは不可能に思える。

 

 だが、これはベルにとって初めて見えたミノタウロス撃破のチャンスだ。ベルはこれを活かしたかったし、逃すつもりはなかった。全身全霊を賭けた一撃を、ミノタウロスの首に打ち込む。チャンスは一度。それを逃したらおそらく、自分の命はない。ここで脱兎のごとく逃げ出すのが、冒険者としては賢い選択なのだろう。冒険者は冒険をしてはいけない。エイナにも口を酸っぱくして言われた言葉だ。

 

 ベルだって命は惜しいし、ここで死にたくはない。死んだその先のことを考えると、身体が震えて仕方がないが、それ以上に、ここでこの強敵を撃破するという思いが勝っていた。普段の温厚で、人当りの良い彼と比べると狂的とすら言えるその執念が、ベルをその場に繋ぎとめていた。

 

 岩を砕く大剣が、ベルの身体を両断する――その直前、ベルは渾身の力を込めて飛び上がり、大剣を避けた。大きく飛び上がったベルは、ミノタウロスの首を見下ろしている。中空で、身体を限界まで捻って力を溜め、左薙ぎ。

 

 それはベルにとって、会心の一撃と言っても良かった。彼の剣の腕を考えれば、この時点で、これ以上の一撃は望むべくもなかった。少年の夢と希望を載せて、彼の全身全霊を賭けて放たれたその剣は、しかし、ミノタウロスの厚い筋肉に阻まれて止まった。血管が裂け、どす黒い血が噴き出るがそれでも、ベルが付けた致命傷ではなかった。ミノタウロスの固い筋肉は、僅かにその身を斬らせた程度で、ベルの渾身の一撃を受け止めていた。

 

 ミノタウロスと、ベルの視線が交錯する。血よりも真っ赤なその瞳の奥に、嘲笑の色が見えた気がした。

 

 その次の瞬間、ベルはミノタウロスの拳に吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられた。血を吐き、あまりの衝撃に呼吸もできないベルを、ミノタウロスは怪我の恨みとばかり何度も何度も踏みつける。骨が砕け、肉が裂ける音がダンジョンに響く。腕のガードも気休めに過ぎない。一つ踏みつけられるごとに、ベルは自分の命が削られていくのを感じていた。

 

 死にゆっくりと近づいていくと、それに反するようにベルの背中が熱くなっていく。その背中に刻まれたのは、滑稽に笑う道化師のエンブレム。ただの人間から冒険者になった証。神ロキの眷属にして、彼女の家族になったその証だ。

 

 脳裏に、リヴェリアやレフィーヤ、自分が強くなるために心を砕いてくれた、家族の姿が思い浮かぶ。今まで家族と呼べるのは、祖父だけだった。その祖父が死んで一人になり、英雄になる夢をもってオラリオにきた。何の取柄もない自分を、ロキは家族として迎え入れてくれた。立派な魔法使いであるリヴェリアやレフィーヤは、右も左も解らない自分のために、心を砕いて指導してくれた。

 

 ここで死ねば、それらが全て無駄になる。せっかくできた家族を失い、死んで、また一人になる。英雄になる。その夢を叶えられなくなる。

 

 そんなのは、死んでも御免だ。

 

 脳裏にリヴェリアやレフィーヤの顔が思い浮かぶ度に、力が漲る。どういう願いを持ってオラリオに来たのか。それを思い出す度に、背中が熱くなっていく。まだ死ねない。絶対に死にたくない。その思いがベルの内に木霊する度、背中は熱を持って行った。何度目かになるミノタウロスの踏みつけを、腕を挙げて受け止める。

 

 死にかけの獲物が再び動き出し、自分の攻撃をよりによって受け止めたことに、ミノタウロスははっきりと驚愕していた。獲物が、敵になった。ダンジョンに生まれ、冒険者を阻むために生きるモンスターは、眼前に現れた敵の認識を改めた。

 

 この死にぞこないは、自分を殺しうる。

 

 ミノタウロスに脅威を植え付けたベルは、剣を杖にして、ゆっくりと立ち上がった。

 

 何も知らない者がベルを見れば、幽鬼か何かと思うかもしれない。全身は自身が流した血とミノタウロスの返り血で真っ赤に染まり、左腕は半ばから折れてだらりと下がっている。筋が切れた左足は引きずっているし、腫れ上がった右目はほとんど見えていない。

 

 その姿は、ベルの好む英雄譚に出てくる英雄の姿とは似ても似つかない酷いものだった。それでも、元来、自ら戦うことを好まない優しい少年の心には、今炎が燃えていた。

 

 足を引きずりながら、一歩、また一歩とミノタウロスに向かって踏み出す。

 

 その気迫に押され、ミノタウロスは一歩退いた。満身創痍のこの少年を、ダンジョンの怪物は今、まさに恐れたのだ。

 

 その恐れを振り払うように、ミノタウロスは大剣を振りかぶり、ベルに向かって全力で振り下ろした。強力無比な一撃を、しかしベルは剣の一振りで払う。それは技術も何もなく、力任せに叩きつけただけの一撃に過ぎなかったが、ミノタウロスの怪力で放たれた大剣を確かに打ち払った。

 

 大剣を打ち払われたミノタウロスは体勢を崩すが、ベルもまた転びそうになる身体を剣で支える。大剣を打ち払い、一歩踏み出す。距離を詰めるのにも、一苦労だった。もはや動くことにも難儀するベルだったが、ミノタウロスがムキになり、その場に留まったのが幸いした。ミノタウロスの大剣を打ち払う度に、ベルは少しずつ距離を詰めていく。

 

 その過程で、ついにミノタウロスの大剣が悲鳴を挙げた。ベルたちと戦う以前にも冒険者と斬り結び、冒険者たちを斬り刻んだその大剣は、甲高い音を立ててへし折れたのだ。砕けた切っ先が肩を斬り、背後に飛んで行くのを感じた時、ベルはここが勝負所だと判断した。

 

 動くはずのない身体に渾身の力を込めて、踏み切る。ミノタウロスの腕は、下げられたまま。折れた大剣を引き戻すこともできていない。身体を捻り、剣を振りかぶる途中、ベルは自分がつけた傷以外にも、ミノタウロスの身体に無数の傷があるのを見つけた。

 

 天と地程も実力が離れた者を相手に、稽古でもつけられたかのようである。怪物でも訓練をするのだろうか。死闘の最中ではあるが、真っ赤に燃えるミノタウロスの瞳を見ながら、ベルはそんなことを考えた。

 

 思考の後に、剣が放たれる。

 

 満身創痍の身体で、渾身の力を込め放たれた剣は、狙い違わずミノタウロスの首に吸い込まれ――その半ばに到達した所で、真ん中からへし折れた。剣は首の骨にひっかかり、そこで止まっている。振りぬけてはいない。ミノタウロスの頭は、まだ首の上に乗っていた。攻撃は失敗である。反対側からも首を斬られたことで、またミノタウロスの首から吹き出した血がベルに降り注ぐ。もう受け身を取る力も残っていないベルは、頭から地面に倒れこんだ。

 

 もう、指一本を動かす力も残っていない。薄れていく意識の中、せめて目だけは逸らさないようにしようと、最後の力を振り絞って、仰向けになる。

 

 首が骨一本でつながっている状態でも、ミノタウロスはまだ戦う意思を失っていなかった。殺意の籠った視線でベルを見下ろすダンジョンの怪物は、折れた大剣をゆっくりと振りかぶり――そして、同じようにゆっくりと、仰向けに倒れていった。

 

 半ばまで断たれていた骨が重力に負け、辛うじて繋がっていた首が地に落ちる。どちゃり、と耳に残る音を立ててベルの前まで転がったその首は、砂となって崩れ落ちるまで、ベルから視線を逸らさなかった。

 

 首だけになっても戦うことを諦めなかった怪物を、ベルは素直に凄いと思った。

 

 そして、肺に残っていた息を全て吐き出すと、万感の思いを込めて言った。

 

「勝った――」

 

 勝利の言葉を聞く者は、誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ベル!」

 

 ミノタウロスが砂になり始めた瞬間、レフィーヤは駆け出していた。もう勝負は着いた。誰が止めても知るものかとばかりに全速力で駆け、ベルを抱き起す。ポーチから回復薬を取り出し、頭からぶっかけながらてきぱき鎧を外す。後衛であるレフィーヤは、応急処置の訓練を何度も受けている。特にベルと組むようになってからは、復習を繰り返した。救護専門の人員もかくやという速度で、負傷個所を点検していく。

 

 右目は、眼底が砕けている。左腕骨折、左足は骨折している上に、筋が切れている。あばらの骨折は最低六本。裂傷がない場所はなく、自分で流した血とミノタウロスの返り血で真っ赤に染まっている。真っ白な兎のような髪が真っ赤になっているのを見て、レフィーヤは涙が止まらなくなった。

 

 死んでいないのが不思議なくらいだ。応急処置だけでは足りない。このままではダンジョンを出るよりも先に、ベルは死んでしまう。

 

 エリクサーを。レフィーヤが振り返ったのと、リヴェリアが動いたのは、ほとんど同時だった。

 

 リヴェリアはポーチからエリクサーを取り出すと封を切り、自分の口に含んだ。レフィーヤがその一瞬で、リヴェリアが何をするつもりなのかに思い至ったのはまさに奇跡だったが、その行動を止めるまでには至らなかった。レベル6とレベル3の差である。レフィーヤが制止の声を挙げるよりも先に、リヴェリアはリヴェリアで衝動のままに動いていた。

 

 瀕死のベルを抱き起して軽くその顎を持ち上げると、自らの唇をベルのそれに重ねた。ひゅー、と軽い口笛を吹いたのはティオナである。一体何が起こったのか。頭が理解することを拒み完全に硬直したレフィーヤの目の前で、リヴェリアは舌でベルの唇をこじ開け、エリクサーを直接流し込んだ。

 

 死んだばかりであれば、死人さえも生き返すという秘薬である。その効果は伝説にある通り凄まじく、ミノタウロスとの闘いで激しく傷ついたベルの身体を内側から急速に癒していった。

 

 しかし、である。

 

 効果が強力であるということは同時に、その人体に激しい衝撃をもたらすということだ。何しろ死人を生き返すほどの秘薬である。無事なところがないというくらいにボロボロになっていた身体が、内側から急速に癒されるという味わったことのない衝撃に、自身でさえ死んだと思っていたベルは跳ね起き、その動きでまた痛みを思い出し、何をして良いか解らずとにかく悲鳴を挙げながら地面を転がった。

 

 奇声を挙げてごろごろ転がっていくベルを慌てて追いかけていくレフィーヤを見ながら、リヴェリアは何となく、自分の唇に指を触れた。

 

 古風な考えを持ったエルフはそれこそ、自分の一生を許した相手にしか、唇を許したりはしないものである。そこまで古風な考えを持ったエルフも少なくなったが、やんごとない血筋であるリヴェリアはその古風な習慣の中で生まれ、厳しく躾けられて育った。

 

 後に色々な物に反発し、親友と共に里を出てリヴェリアは冒険者となった。荒くれ者たちの中で過ごす内、エルフの王族であるという意識よりも、自分は冒険者であるという思いの方が強くなっていたが、生まれ育った場所で培った習慣というのは、リヴェリアの中に残り続けた。長いエルフ生の中でこれまで肌を許した者はおらず、口づけを交わした相手もいない。一緒に里から逃げてきたアイナは人間と結婚し、子供を二人も作ったというのにリヴェリアはまだ独り身のままだった。

 

 それが、ベルを相手に自然と口づけをしていた。

 

 自分が何をしているのかに気づいたのは、舌で唇をこじ開けエリクサーを流し込んだ後である。何てことをしてしまったのだろう、と考えても全てが遅い。そもそも、怪我人にエリクサーを飲ませる必要はどこにもない。外傷をどうにかするだけであれば外からぶっかけた方がむしろ効果があり、骨折くらいならばそれでも治る。エリクサーは高価な薬であるが、高位冒険者にしてロキ・ファミリアの副団長でもあるリヴェリアは、幾度となくそのエリクサーの世話になっていた。

 

 その効果の高さは骨身にしみて知っている。それにも関わらず、ベルに口移しでエリクサーを流し込むのは冒険者の理屈に合わせるならば筋が通らない。

 

 ベルに対して恋だの愛だの、そういう物に繋がりそうな胸のときめきはない。良いところ、手のかかる弟といった印象であり、断じて男性的な魅力を感じている訳ではなかった。人間同士であれば、弟とのスキンシップで済むが、リヴェリアはエルフであり、身持ちの固さは自他共に知るところだった。親友の子供よりも年下の少年が気を失っている時に、不可抗力とは言え勝手に唇を奪ったという事実は、真面目なリヴェリアを追い込んでいた。

 

 古風な感性を持ったリヴェリアは、相手の貞操観念もまた自分を基準に考える節がある。自分が古風な考えであるということを自覚している彼女だったが、とっさのことに頭が回っていなかった。立場の違いとか、性別の違いとか、年齢の差とか。諸々の条件を加味すれば、緊急時のとっさの対処ということで流すことはできただろう。

 

 他人が同じ行動をしていたら、普段のリヴェリアであればそういう判断をしていたに違いない。冒険者をしてそれなりに色恋も見てきた。そこまで初心ではないと頭で考えていたのに、いざ自分の立場になってみると全く考えがまとまらない。

 

 そして、そういう真面目な存在ははっちゃけた恋愛観を持った相手にとって格好の餌食だった。リヴェリアが視線を彷徨わせた先には、にやにやと品なく笑うアマゾネスの少女がいた。

 

『黙っていて欲しかったら……解るよね?』

 

 今なら大抵の言うことは聞いてくれるという確信が、ティオナにはあった。口づけ一つで大げさなことであるが、それは自分がアマゾネスだからということを、ティオナはよく理解していた。同時に、エルフがどれだけ身持ちが固いかということも、恋愛観についてよく比較されるアマゾネスだからこそよく理解できた。そのエルフの中でもリヴェリアはやんごとない血筋であり、貞操観念に筋金入りの堅物だ。

 

 姉のティオネがフィンにぞっこんであることは誰の目にも明らかだ。彼女はフィンのために変わろうと努力し、事実女らしくなってはいるが、がさつな内面は相変わらずだし、事あるごとに地が出ている。努力しているティオネでさえアレなのだ。変わったと思っているだけのリヴェリアが、そうそう変われるものではない。

 

 さて、人間の男性に自分から口づけをしたというのは、リヴェリア本人にとっても一大事であるが、それ以外のエルフにとっても一大事である。彼ら彼女らにとってやんごとない身分の者たちというのは尊ぶべきものであると同時に、その地位にふさわしい振る舞いを求める存在でもある。今回の行為は彼ら彼女らにもいずれ理解され、浸透するだろうが、そうなるまでは一大スキャンダルとして、オラリオ中のエルフの間を駆け巡るだろう。

 

 不祥事を黙っていてほしいのであれば、手助けをしてほしい。ティオナの要望はエルフの弱みに付け込んだ、ある意味最低のものだったが、ここで話を持ち帰られ、この事実がベルの耳に入り、怯えられでもしたらきっとリヴェリアは立ち直ることができない。これくらいの年頃の子供は、もの凄く多感な生き物であると、アイナから聞いていた。背に腹は変えられない。頭数が増えることは好ましいことではなかったが、リヴェリアはティオナの提案を飲むことにした。

 

 リヴェリアが力なくベルを指さすと、ティオナは喜び勇んで駆け寄っていく。体内の衝撃にも慣れたベルは、レフィーヤに羽交い絞めにされて漸く、転がることを止めていた。

 

「ベル、久しぶり。私のこと覚えてる?」

「ティオナ・ヒリュテさんですよね?」

 

 ベルの言葉に、ティオナは『うん!』と嬉しそうに微笑んだ。近づけば座学に巻き込まれるとなるべく接点を持とうとしなかったせいで、忘れられているかもと心配だったのだ。

 

 ベルにしてみれば、ファミリアの幹部の一人で、レベル5。アマゾネスの双子の片割れと属性過多なティオナは特に接点などなくても強く印象に残っていた。問題はどちらがティオナでどちらがティオネかだったが、今日パーティを組んだ一人が『Aの方が妹でEの方が姉だ』と本人を見れば一目で解るという覚え方を教えてくれた。最初はスペルのことかと思ったが、ティオナ本人を見てベルは心中であぁ、と彼が言いたかったことを確信した。同時に、これは本人の耳には絶対に入れないようにしようと心に決める。

 

 

「これからはたまに私も一緒にダンジョンに行くから、よろしくね」

「えっ!?」

 

 驚いたのはレフィーヤである。頭数を増やすなど、冗談ではない。その人員が前衛のティオナというのは、レフィーヤにとっては最悪とも言える人選だった。武器を持ってモンスターに挑み、ばたばたなぎ倒していくティオナの姿を見たら、少年の心を持ったベルはときめいてしまうかもしれない。それだけは何としても避けたいレフィーヤは『どういうことです!?』とリヴェリアを見たが、彼女は気まずそうに視線を逸らすだけだった。オラリオに名高い『九魔姫』でも、精神的な負い目には勝てないのである。

 

「そう言えばベル、英雄譚を読むのが好きなんだって? 何が好き? 私はねー」

「僕は――」

 

 お邪魔虫のティオナは、早速ベルと親睦を深めていた。共通の趣味を持っているらしく、話に花が咲いている。レフィーヤも皆が知っているようなものは齧っているが、ベルとティオナが話しているのは、少し齧ったくらいでは話に加わることもできないディープなもの。ベルも話の合う者が見つかったことが嬉しいのか、普段よりも饒舌になっている気がする。

 

 それがレフィーヤには面白くなかった。とてもとても面白くなかった。




書いてみたら随分あっさりとミノさんがやられてしまいました……
次回スキルの解説と事後処理編。


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ベル・クラネルの長い一日④

 

 

 

 

 

 

 

 エリクサーによる応急処置が完了したベルは、そのまま地上へと運びだされた。大事を取って、ティオナによるお姫様だっこのオマケ付きである。これには仮にも男子であるベルは強く抵抗したが、他全員の賛成に無理やり却下されてしまった。

 

 多数決+女の強権を振りかざしているようにも見えるが、実のところそうではない。

 

 エリクサーは傷を治してくれるが、失ったものを補充してくれる訳ではなかった。例えば腕を千切られ、その腕が完膚なきまでに破損してしまった場合、身体の負傷個所にエリクサーを振りかけても、腕は生えてこない。同様に、大量に失った血液は如何にエリクサーで傷が治癒されても、戻ってはこないのだ。今のベルは完全に血が足りていない状態である。冒険者の常識に照らし合わせれば、絶対安静の状態だ。血の足りない人間を、無事なアマゾネスが運ぶのは当然のことだった。

 

「リヴェリア様!!」

 

 駆けだしたリヴェリアたちを見送り、その場で処理に当たっていたエイナが駆け寄ってくる。

 

「エイナか。済まないが、ベルはこのまま黄昏の館に連れていくぞ」

「細かいところは、私の方で処理しておきます。ミノタウロスが出たポイントは?」

 

 エイナが広げた一層の地図の一点をリヴェリアが示す。浅い階層については地理の把握は進んでおり、ギルドもその地図を保有している。エイナが持っているのは、ギルドの職員ならば携帯を許されている簡易版だ。

 

「了解です。それでは、よろしくお願いします!」

 

 エイナの言葉を受けて、完全武装の冒険者数名が隊伍を組んでダンジョンに向かって歩き出す。第一層にミノタウロス出現という知らせを受けて、ギルドは緊急の依頼を発した。彼らはその依頼を受けて編成された討伐隊である。件のミノタウロスはベルが撃破したが、一匹見たら他にもいると疑ってかかるのが冒険者として当然の判断である。

 

 一度発見された以上、調査の手が入り安全と判断されるまで、レベル1の冒険者はダンジョンに入ることもできない。彼らは討伐の他に、安全確認も兼ねていた。

 

 討伐隊の冒険者は、ティオナに抱えられたベルに笑いかけるとすれ違い様に肩を強く叩いていった。冒険者歴の浅いベルは、彼らの行動の意味が解らずぽかんとしてしまう。ベルの疑問に応えたのは、お姫様だっこをしているティオナだった。

 

「よくやったな、ってことだよ」

「僕、あの人たちに会ったことないんですが」

「そんなの関係ないよ。すごいことをしたら、皆で大騒ぎする。冒険者なら当然だよ。一緒に喜ばなくちゃ!」

 

 そも、冒険者として褒められたことのないベルには、こういう時にどうするのが普通なのか、という知識もない。他人が偉業を達成した時、周りの者がどうしているのか。そういう体験を経て大抵の冒険者は、冒険者の流儀というものを学ぶのだが、ベルにはそれが欠如していた。

 

 本人の意図しないところで、レベル1の冒険者であるロキ・ファミリアの某がミノタウロスを撃破したという噂は、この間にもオラリオ中に広がり始めていた。その偉業からすればランクアップは間違いない。その内、二つ名と共に、ギルドから布告があるだろうが、ここに集まった面々はそれを待たずに詳報を知る権利を得た幸運な連中である。

 

 白髪に赤目の人間という、中々印象深い容姿のこの少年が、ミノタウロスを撃破したのだ。既に飛び回っている無責任な噂に、彼らの目撃談が加わるのも、そう遠くない未来の話であるが、今は今の話だ。

 

 そこに集まっていた面々はそのほとんどがベルのことを知らなかったし、ベルも彼らのことを知らなかった。人間もいれば、エルフもドワーフもいる。年齢も性別も様々、共通点と言えばダンジョンに関わっているというくらいで、ギルドの職員をはじめ、冒険者でない者も大勢いる。

 

 そんな彼ら彼女らは、少女に抱えられたままの、あまりかっこいい状態とは言えないベルに、惜しみない拍手を送った。レベルで勝るモンスターに単独で挑むことの恐怖を、冒険者は良く知っている。偉業をなした者を褒め称えることを、渋る者はここにはいなかった。

 

 自分に拍手が向けられるなど、夢にも思っていなかったベルは、変わらずぽかんとしている。普通はここで拍手に対する返礼の一つもするものだが、その辺りの作法をベルはまだ理解していなかった。

 

「すまないが、これは負傷している。正式な発表はその内ギルドからあるだろうから、そちらを参照してもらいたい」

 

 助け船を出したのは、リヴェリアだった。オラリオに名高い『九魔姫』の言葉は、全ての冒険者に瞬く間に染み渡った。拍手に区切りをつけた冒険者たちは三々五々、その場から散っていく。一部は討伐隊を追って、我先にとダンジョンに突撃していく。依頼を受けたのは先の討伐隊の面々だけだが、その手伝いをしたということでも報酬はもらえるだろう。何か明確な実績を出す必要があるが、ミノタウロスを問題なく撃破できるレベルであれば、討伐隊に乗っかるのはそれなりに美味しい案件だった。

 

 何しろただ撃破しただけで、その行為に報酬が付くのだ。おまけにギルドに恩を売れるとなれば、手を出さない理由はなかった。

 

 リヴェリアの言葉に納得した冒険者たちの間を縫って、ベルたちは黄昏の館ホームに戻る。黄昏の館に残っていた団員にも、ギルドから事のあらましは伝わっており、ティオナに抱えられたベルについても、特に質問をされることはなかったが、

 

「ルートたちは?」

「全員医務室に。沙汰はこれから、団長たちが話し合って決まると既に神ロキから布告が」

「解った。要らぬ情報が拡散しないよう、留意するように」

 

 緊急時である。ルートたちの行動は全体としても見れば最適だったのかもしれないが、新人一人に殿を押し付けたという負い目は消えない。血気盛んな連中もいる。そういう連中から袋叩きにされる可能性を、リヴェリアは危惧していた。噂が広まる前に黄昏の館で確保できたのは、彼らにとってもファミリアにとっても幸運だった。

 

 その後、守衛に簡単な指示を出して、リヴェリアたちは男子塔にあるベルの部屋に直行する。訓練は訓練場で、座学はリヴェリアの部屋で行うため、ベル以外はこの部屋に入る機会はとても少ない。この中ではリヴェリアが一度入ったことがあるくらいだ。

 

 根本的に物が少ないという理由で、整理整頓されているように見える殺風景な部屋だ。寝台と文机がある以外には、ほとんど物がない。実家から持ち出してきた英雄譚と、身の回りのもの。それ以外はリヴェリアがこの部屋に置いていった、鏡があるくらいである。

 

 ここがベルの部屋、ということを思ったレフィーヤの身に緊張が走った。男性の部屋に入るなど、記憶にある限りでは実家で父の部屋に入って以来である。

 

 一人どきどきするレフィーヤを余所に、ティオナはベルを寝台に寝かしつけた。ダンジョンの入口でベルの危機を知って以来、リヴェリア達は漸く一息ついた。ベルを含めて誰も死んでいない。ファミリアとしても個人としても上々の結果である。

 

「まずは、良くやった。お前の偉業を、私は誇らしく思う」

 

 レベル1の冒険者が、単独でミノタウロスを撃破したのだ。レベル2以上の冒険者は数いれど、ベル以上の功績をレベル1の時に成し遂げたものは少ない。ロキ・ファミリアの中でも、フィンやアイズくらいのものだろう。今では名を馳せている面々でも、自分よりレベルの高いモンスターに単独で挑むなど、そうできるものではない。

 

 リヴェリアからの直球の褒め言葉に、ベルは照れ笑いを浮かべるが、そんなベルにリヴェリアは手を振りぬいた。乾いた音が部屋に響く。笑顔から一転。頬の痛みに、ベルは混乱していた。彼には自分が何故怒られたのか理解できなかった。

 

 これは本来ならば、もっと早くに教えておかなければならなかったことだ。ベルの信じられない程の成長速度にリヴェリアも手順を失念していた。

 

「状況から察するに、お前は仲間の撤退を援護するために一人で殿を務めた。レベル1の冒険者複数でミノタウロスを撃破することが現実的でない以上、誰かが残って足止めをするというのは、『より多く』が生き残るためには現実的な選択だ」

 

「私が問題にしているのはな、ベル。お前があくまでもミノタウロスの撃破にこだわったことだ。撃破することができれば無論、撤退のためにこの上ない援護になることだろう。しかし、お前自身もレベル1であることを、まさか忘れていた訳ではあるまいな」

 

 何故、怒られているのか理解できると、ベルは意気消沈した。言われてみれば、当たり前の話である。冒険者は冒険してはいけない。ギルドではエイナにも、日々言われていることだ。自分の身も守れないようでは、他人の命を預かることなどできるはずもない。

 

「身命を賭すことを悪いとは言わない。冒険をしていれば、そうしなければならない時もあるだろう。だが、そうでない時、我々は最大限、生き残ることを考えなければならない。私をはじめ、今のお前には沢山の家族がいる。死んだり、傷ついたりすれば、悲しむ者がいることを忘れないようにな」

「…………はい、絶対に忘れません」

「結構。ならば、わたしから言うことは何もない。繰り返すが、よく頑張ったな。私はお前のことを、とても誇りに思うよ」

 

 優しい声音に戻ったリヴェリアは、ベルを抱きとめた。物心ついた時から、母のいないベルである。リヴェリアの抱擁は、見たことのない母親を思い起こさせた。そのままであれば声を挙げて泣いていただろう。その気配を何故か察知することのできたリヴェリアは、ベルの背中を軽く叩くと彼から離れた。名残惜しくはあったが、これから副団長としての仕事がある。

 

「レフィーヤ、今日はベルについてやれ。また勝手にミノタウロスに突撃しないよう、しっかりと見張れよ?」

「あの、流石に誰か見舞いに来ると思うんですが……」

「誰であろうと叩きだせ。何だったら私の名前を出しても構わない」

 

 何時にない力強い言葉に、レフィーヤも苦笑を浮かべる。

 

「私はロキに事の顛末を報告してくる。ティオナ、お前はティオネとベートと、それからアイズを見つけて『ロキの部屋まで来い』と伝言を頼む」

「ティオネは街にいると思うけど、アイズとベートはダンジョンなんじゃないかな……」

「私は見つけて伝言を頼むと言ったぞ?」

 

 リヴェリアの声音には、有無を言わせない迫力があった。ダンジョンから出てきたと思ったら、またダンジョンにトンボ返りだ。水浴びをしたいという理由で18層までふらっと行けるだけの力のあるティオナだが、あの広いダンジョンで特定の存在を見つけることは一苦労だった。

 

 リヴェリアも、それは良く解っている。それでもなお、ティオナにいつ終わるのか解らないような指示を出したのは、レフィーヤにベルと2人きりになる時間を作ってやるためだった。ティオナもそういう配慮だというのは解っていたが、理性と感情は別である。面倒くさいものは、いついかなる時でも面倒くさいものだ。

 

 如何に面倒くさくても、副団長としての指示ならば団員の一人として従わない訳にはいかない。渋々と行った様子で部屋を出るティオナに次いで、リヴェリアも部屋から出ていく。部屋に残されたのはベルとレフィーヤの二人になった。

 

「……私が言いたかったことは、全てリヴェリア様が仰ってくださいました。ですので、私から言うことは一つだけです。ベルが死んだら、私は泣きますからね? 良く覚えておいてください」

「解りました」

 

 言い難いことは、全てリヴェリアが言ってくれた。お誂え向きに、ここはベルの部屋で二人きり。誰か見舞いに来るともしれないし、邪魔をされずに誉めるのは今しかない。

 

「責めてばかりでは何ですから、私からミノタウロス単独撃破のご褒美をあげます。何か、リクエストはありますか? 私がきける範囲のことなら、きいてあげますよ?」

「ほんとですか!?」

「――あんまり、無茶なことは言わないでくださいね?」

 

 ベルの食いつきの良さに、レフィーヤも及び腰になる。自分は女でベルは男だということを、今さらながらに思い出したのだ。もし卑猥なことを要求されたらどうしよう、と身を固くするが、そうなってから言ったことを反故にするのはどうなのだろうかと思わなくもない。

 

 思わせぶりなことを言ったのは自分で、既にベルは期待を持っている。ベルの期待を言った傍から裏切るのは、レフィーヤとしては忍びない……

 

 ベルがミノタウロスを単独撃破したのは、冒険者として褒めたたえられるべき偉業である。頑張っているベルを、褒めてあげたいとも常々思っていた。レフィーヤにとっても、これは良い機会と言える。ベルだって節度くらいは弁えているだろうから、卑猥なことでも『多少』ならば、きいてあげても良いかもしれない。

 

 一体何を言われるんだろう。どきどきしながら言葉を待つレフィーヤに、ベルは言った。

 

「レフィーヤの耳を触らせてもらえませんか!」

「…………耳ですか?」

「はい、耳ですっ!」

 

 ベルの力強い言葉を聞いたレフィーヤは、何だか自分が果てしないバカに思えてきた。散々期待を持たせておいて、耳である。こうなると、一人で悶々としていたことがとても恥ずかしい。

 

 とにもかくにも、たかが耳だ。用もないのにぺたぺた触られまくるのも困るが、それくらいならばご褒美枠を使うまでもないことだ。レフィーヤはベルに背を向け、髪をかきあげた。意図せず曝け出された普段は髪で隠されている真っ白な項に、逆にベルの方がどきどきしてしまう。

 

「どうぞ、好きなだけ触ってください」

 

 レフィーヤとて、エルフである。他人に、それも異種族の異性に肌を触られることに、抵抗がない訳ではないが、ベルなら良いか、という思いの方が強かった。

 

「それでは……」

 

 とベルはそっとレフィーヤの耳に触れる。エルフの耳、というと特に人間の男性はそれに神聖性を求める傾向が強いのだが、生物学的にはエルフの耳は、人間のそれと大差ない。違うところと言えば形くらいのもので、特別固かったり柔らかかったり、まして人間の男性が好んで購入する猥本のように、性感帯だったりすることはないのである。

 

 なので、レフィーヤにとってこの行いは『耳を触られている』以上のことではなかった。少しくすぐったく、他人の触れられている非日常感こそあるが、それだけだった。僅かに頬が朱に染まっているのは、異性に――ベルに耳を触られることが、思っていた以上にくすぐったかっただけである。それ以上の意味はない。

 

「ありがとうございました」

 

 一頻り触って満足したベルは、笑顔で指を引っ込めた。エルフの耳を触ることは彼にとって一つの夢だったのだが、それが叶った瞬間である。

 

「楽しんでもらえたようで、良かったです。さ、今日は疲れたでしょうからもう休んでください。対応は、私がやっておきますから」

「あの、レフィーヤ」

 

 食堂からお茶でも持って来ようかと席を立ったレフィーヤを、ベルが呼び止めた。

 

「……ただ触らせてもらっただけじゃ、やっぱり悪いです。何かお返しにしてほしいことはありませんか?」

 

 この子は本当に、ご褒美という言葉を理解しているのだろうかと不安になるレフィーヤだった。そんなものはいらないというのが姉貴分としての正しい行いなのだろう。レフィーヤはご褒美のつもりでベルのリクエストをきいた。その傍から返礼を受け取っていては、ご褒美の意味がない。

 

 だが、してほしいこと、とベルに言われるとレフィーヤの欲も刺激された。禁欲的であると言われるエルフであっても、レフィーヤとて年頃の少女である。してほしいこと、してほしいこと、と反芻したレフィーヤの脳裏に最初に思い浮かんだのは、

 

「それじゃあ、私の呼び方を変えてもらえますか?」

「レフィーヤと呼ぶのは、もしかして失礼だったでしょうか……」

「そうじゃありません。もっと親しみを込めて呼ぶようにしてください。昔、家族は私のことを『レフィ』と短く呼んでました」

 

 呼べとは言わない。あくまで事実を伝えるだけでも、ベルはレフィーヤの言いたいことを十分に理解できた。

 

「わかりました。じゃあ…………レフィ」

 

 しん、と部屋が静まり返った。

 

 名前を縮めて呼ばれただけだが、それが思いの他心地よかったことにレフィーヤは驚いていた。不満があるとすれば、ベルが随分あっさりと女性のあだ名を口にしたことだ。女性の名前を呼ぶことに、抵抗がないのだろう。もう少し初心な反応をしてくれても良さそうなものなのに、という気持ちはあるが、これからレフィと呼び続けてくれるならば、それも良いかと許せるように思えた。

 

 レフィーヤが知る限り、ベルが女性をあだ名で呼んだことはない。少なくとも、このオラリオにはいないはずだ。オラリオで一人だけ。そう思うと、自然と頬が緩んでしまう。

 

「お茶をもらってきます。ベルは寝ていてください」

 

 宣言して、ベルの返事を待たずに部屋を出ていく。振り返ると、閉めた戸にはこう書いてあった。これならば誰も入って来れないだろう。足取り軽く、食堂へと歩き出した。

 

 

 

『白兎の安寧を妨げるべからず。面会謝絶。我が名はアールヴ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




気づいたらレフィーヤ回になっていました。
スキル詳細は次回になりますごめんなさい。


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ベル・クラネルの長い一日⑤

「すまん、遅くなった」

 

 ベルの部屋を辞し、ロキの私室に着いた時には、既にロキ以外にフィンとガレスの姿があった。黄昏の館に戻ってきた時、ロキが既に守衛にまで布告を出していたことから、召集くらいはかかっていると思っていたのだが、案の定だった。

 

「ベルは大事ないんか?」

「エリクサーを使ったからな。しばらくは養生が必要だろうが、大事はない」

「血になる物を食わせてやれ。あれくらいの年なら、食って寝れば大抵のことはどうにかなるもんじゃ」

「誰もがお前と同じくらいに頑丈だったら、私も安心できるんだがな……」

 

 それが当然と言わんばかりのガレスの物言いに、種族的には特に頑強ではないフィンとリヴェリアは苦笑を浮かべる。ドワーフというのは一事が万事こんな調子だ。里にいた頃はガサツで野蛮で文明的でなく、エルフの対極にいるような種族とされていたが、いざ付き合ってみるとこういう豪放磊落な者も面白いと思えるようになった。

 

「それから、ルート班の連中のことだが……」

「さっきラウルを聖域(サンクチュアリ)まで使いに出したわ。聖域で再教育やー、て宣伝しておけば誰も文句は言わへんやろ」

 

 ロキの出した聖域という言葉に、ファミリア幹部であるところの三人は重々しく頷いた。

 

 聖域とは戦神アテナの本拠地(ホーム)である。アテナは地上の子供たちが武器を持たずに拳で殴り合うのを見るのが何よりも好きと、変わり者が揃っている神の中でも変わった趣味を持った女神だ。

 

 そのファミリアも変わっており、数あるファミリアの中でも珍しい子供の教育を請け負うシステムを持っていることでも有名である。冒険者のレベル向上のために、という建前はさておき、より多くの子供がなぐり合っているのが見たいという最低な理由で始められたこのシステムは、主に弱小のファミリアによって利用されているが、大手のファミリアも利用することが度々あった。

 

 このファミリア、その修練がオラリオ一厳しいということで有名なのだ。大手がここを利用する時、それは団員に懲罰を課す時だ。普通は見過ごすことのできない行為であったとしても、聖域に行って戻ってきたとしれば、禊は済んだと冒険者たちに思わせられるくらいに、聖域の訓練は過酷なのである。

 

「……ルートんとこの話はもうええやろ。その様子やとベルのスキルの詳細が解ったみたいやけど、どないや?」

「スキルの一部、ということで聞いて貰えると助かる」

 

 はぁ、と大きく息を吐き、リヴェリアはダンジョンから戻ってくるまでに纏めた考えを口にした。

 

「ベルのスキルは、ステイタスに大幅な補正をかける効果を持っているのは間違いない」

「ティオナやティオネみたいにってことかい?」

「すまない、言葉が足りなかったな。ベルのスキルは基本アビリティをスキルの効果で任意に増減させている」

 

 リヴェリアの言葉に、居並ぶ面々の間に驚きが広がった。システムを作った側であるロキをしても、数値を任意に操作するなど聞いたことがなかった。

 

「見ていた限り、合計値は変わっていない。基本アビリティの合計値内で、その必要に応じて配分しなおしているようだ」

「……そんなゲームみたいなことが可能なのかい?」

 

 フィンの視線はロキに向く。『勇者』と呼ばれ、オラリオでも指折りの冒険者に数えられるフィンであるが、地上の子供に違いはない。『恩恵』のシステムに関することならば、神であるロキに聞くのが一番だ。神の権威を表すのに最も都合の良いシステムであるから、『恩恵』に関しては秘密主義を貫かれることもあるが、自分の子供のことならば話は別だ。

 

「まぁ、『恩恵』で与えられるのは子供からすれば後付けの能力やからな。可能か不可能かで言えば可能やろうけど、にわかには信じがたい話やで?」

「だが、事実だ」

 

 戦っている最中にベルの背中を見ていたリヴェリアは、実際に増減する数値を見た。例えばティオナがスキルで基本アビリティに補正を受けて、それが元に戻った時、数値の上での減少は発生するが、それ以前、戦う前の数値よりも下がるということは原則的にない。

 

 如何に信じがたくとも、リヴェリアは実際にそれを見た。面倒を見ているベルの安全にも関わることであるから、今後の対応についてもはっきりと決めておきたい。

 

 いつになく強気なリヴェリアの態度にロキは僅かな間逡巡すると、

 

「……自分のスキルについては、ベルもそろそろ知っといた方がええやろ。内容が内容やし、事故があっても困るしな。パーティを組むんは、これからも秘密を知っとる奴だけっちゅーことで、どないや?」

「どのレベルまで話す?」

「レベル5以上の団員は全員ってことでええやろ。ここ以外となると、アイズたんにティオナにティオネにベートか。まぁ、そのくらいやったらもうリヴェリアが手を回してそうやけども」

「既にティオナを遣いに出した。ティオネとアイズとベートを見つけ次第、ここまで戻ってくるよう言いつけてある」

「なら、ベルについてもとりあえずしまいやな。後はステイタスを更新して、レベル2になったベルと一緒に話そか――」

「あー、いやすまない。まだある」

 

 フィンが『過保護だねぇ……』と苦笑する。確かに自分でもそう思ったが、それでもこれは言わなければならないことだ。

 

「ベルのスキルと武装のレベルがかみ合っていないのは致命的だ。防具はいずれ揃えるにしても、奴のスキルに耐えられるだけの武器は、早急に用意しておく必要があると思うのだが」

「ルートの武器をぶっ壊したんやろ? あれ以上となると、結構お値段するで」

 

 良い武器というのはそれなりに値が張るもので、最終的にミノタウロス相手にベルがへし折ったルートの剣も、安く見積もっても八ケタには到達しているはずだ。レベル2のルートでは現金一括とはいかず、ローンを組んでの購入である。

 

 ロキ・ファミリアの団員ということであれば、それなりの信用が得られローンも組みやすいが、基本、冒険者というのはいつ死ぬか解らない危険な職業ということで、低レベルの内はローンはあまり歓迎されない。ルートがローンを組めたのは、ある程度の頭金を用意できたからだ。

 

 これからレベル2になるとは言え、冒険者になったばかりのベルにそんな蓄えがあるはずもないのだが、

 

「支払いは私がしよう。ロキにはヘファイストス・ファミリアに仲介を頼みたい」

「まさかファイたんに頼むつもりか?」

「命を預ける武器に、金を惜しむ道理はないだろう? どうせならば良いものを、だ」

「フィン、ガレス。このママ本気の本気やで」

「誰がママだ、誰が」

 

 怫然とするリヴェリアに、ロキたちは揃って笑い声をあげた。それがリヴェリアには不本意だった。確かに過保護かもしれないが、気に入った者に構うのは生物としては当然のことだ。ロキもアイズには相当に目をかけているし、いろいろプレゼントしたりもしている。

 

 それに比べれば自分のベルに対する態度など、大した問題ではないとリヴェリアは本気で思っていたが、神造武器を全額自腹でプレゼントしようとしている辺り、他人から見れば十分に正気を失っていた。アイズに対するロキと大差ない。フィンとガレスは、そう思って笑ったのである。

 

「悪いんやけど、ママにばっかりええかっこさせへんで。そういう事情ならウチも一枚噛んだる。最短記録の更新でしばらく神会でデカい顔できそうやしな。ウチが全額払ろうてもええんやけども、それやとママも納得せえへんやろ?」

 

 プレゼントしたいんやもんなー、とにやにや笑うロキの額に、リヴェリアは躊躇いなくデコピンを打ち込んだ。魔法使いとは言え、レベル6冒険者のデコピンである。神である以外はただの人間と大差ないロキは、痛みにのたうち回る。

 

「さて、話がまとまったのなら私はこれで失礼しよう。今日はベルについているから、用があるのだったら明日以降にしてくれ」

「君がいれば心配はないと思うけど、きちんと養生するようにベルには言い含めておいてくれ」

 

 心得た、と短く答えると、リヴェリアは足早にロキの私室を後にした。心は既にベルの所にあるようである。リヴェリアと知り合って久しいフィンには、彼女のベルに対する執着が意外に思えた。アイズにはよく母親のような表情、態度で接しているが、彼女は出自も境遇も特殊である。

 

 ベルも特殊には違いない。この成長の速さなど、リヴェリアが目をかけるだけのことはあるとフィンでも思うが、手取り足取りというのはやり過ぎなようにも思えた。ベルの人間性からか今のところ贔屓だ、という目に見えた声は団員から上がっていないが、リヴェリアを慕う女性エルフの動きが、些か剣呑になってきているという。

 

 だが、血統による上下関係が絶対なエルフにとって、リヴェリアの決定は絶対だ。彼女が好んでベルを周囲に置いて構っている以上、余エルフに意見を差し挟む余地はないが、だからこそ、彼女らには不満が溜まっている。人間と恋に落ちるエルフというのは、英雄譚の定番の一つでもあるが、それは人間側の定番であってエルフ側にはさほど浸透していない。数ある亜人種族の中で、最も純潔主義の割合が多いのがエルフである。

 

「フィンやガレスは、ベルのスキルどう思う?」

「あれがレフィーヤに目覚めた、というなら手放しに喜べたんだけどね……使い所は難しいと思うよ」

「そか? レベル1でミノタウロスを撃破できたんやから、凄いスキルちゃうの?」

「君もさっき言った通り、『恩恵』で与えられるのは僕らにとっては後付の能力だ。例えばベルは敏捷が高いけれど、敏捷の基本アビリティだけで速く動いてる訳じゃないだろう? それを支えるための力だって必要だし、そもそもこれは僕ら本来の力じゃない訳だから、それを扱うための器用さも必要だ。失敗して転んだ時のためにも、耐久だって残しておかないといけない。必要に応じて再分配ということだけど、自由度はそこまで高くないと思うよ。というより、任意に配分する方が危険度は高いんじゃないかな」

 

 その基本アビリティを行使するのに、どの程度他の基本アビリティが必要なのか。それをしっかり把握している冒険者は皆無と言っても良い。そもそも基本アビリティを自由に変更できる子供などいなかったのだから、検証などできるはずもない。確実なのは、何も修正を加えられていない状態の基本アビリティは、それで調和を保っているということくらいである。

 

 最悪、数値を少し弄るだけでも、危険度が爆発的に高まるということも考えられた。任意ではなく自動的に処理をされたのは、ベルにとっては幸運だったかもしれない。おそらく本能的に、ここまでなら大丈夫という範囲でスキルの処理がなされたのだ。

 

「つまり、数値を全部敏捷に突っこんだりは――」

「止めておいた方が良いと思うよ」

 

 転んだだけで、地面ですり下ろされて即死、では目も当てられない。それを想像したロキはうげー、と顔を顰めると、深く深く溜息を吐いた。

 

「上手くいかないもんやなぁ」

「魔力特化型なら、話は簡単だったんだけどね。器用さはともかく、力や耐久は魔法を扱うのにそこまで必要じゃないだろうから、魔力と器用さに振り直してもそこまで影響はないと思うけど」

 

 実際に体を動かす場合は、そうはいかないという訳だ。一瞬、一秒を争う時に任意に振り直し、それで失敗したら目も当てられない。ベルがあれを使いこなすには、訓練に多くの時間を割く必要があるだろう。ベルが魔法を使えれば、と思わずにはいられない瞬間だった。

 

「とにもかくにも、ベルがランクアップしてからやな。更に新しいスキルに目覚めるかもしれんし、もしかしたらもしかすると、魔法を覚えるかもしれんしな」

「ははは、まさかそんな上手いことが……」

 

 ある訳ないさー、と軽く否定しようとしてフィンは押し黙った。既にベルはレアスキルを入手している。これで打ち止めと見るか、これが始まりと見るかは考え方に寄るだろう。フィンはどちらかと言えば、一度起こった事はまた起こるという、ジンクスとかそういうものを信じる性質だった。

 

 それが悪いことでないのが救いだろう。一人の団員が強くなるということはすなわち、他の団員がより安全になるということでもある。普通は長いことをかけて、集団での戦い方を覚えていくものだが、このペースで行けばベルは、常識では考えられないくらいの速度で成長し続けるだろう。

 

 レベル3になれば、大遠征にも参加できるようになる。せめてその時までには、集団における自分の役割を意識した戦闘というものを、できるようになっていてほしいが、さて。これ程までに急速に成長する冒険者など例がないことから、こう育てるべきという指針が全く立たない。団長としては頭の痛い話だ。

 

 とは言え、ベルにはリヴェリアやレフィーヤもついている。聊か向こう見ずな所はあるが、仲間のために身体を張れると解釈すれば頼もしく思える。

 

 フィンの親指が軽く疼いた。彼が本当に頼もしくなる日は、そう遠くないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう。ステイタスを……」

 

 ダンジョンから戻ってすぐ、身支度を整えたオッタルは傍遣えをアレンと交代すると、ダンジョンで見聞きしたことの報告を己が女神に報告した。

 

 もっとも、フレイヤはフレイヤでダンジョンの中を鏡で覗き見る手段を確立している。どこで何が起こったかというのは、今さら話すまでもない。オッタルが話しているのは、ベルの動きに関するレベル7の冒険者としての考察だった。

 

 耐えられないはずの攻撃を耐え、殺せないはずのミノタウロスを殺した。レベル2のモンスターとは言え、あれはオッタルがこれはと思った個体を調教したものだ。

 

 ベル・クラネルがダンジョンに入ったという一報を受け、指定の場所でミノタウロスを解き放って待ち伏せていたら、第二階層から上がってきた冒険者と鉢合わせるというアクシデントがあった。

 

 ベルと戦ったあの場所にあった血だまりは、彼と戦う以前にミノタウロスが殺したものだ。レベル2以上の冒険者がいればオッタルも加勢するつもりでいたが、幸いなことに全員がレベル1。調教されたミノタウロスの敵ではなく、オッタルがしたことと言えば、ベル・クラネル一行が来る前にと死体を片付けたくらいである。

 

 レベル2のモンスターとして、あれ以上の存在はそういないだろう。現実的に考えて、レベル1であれを降すことは相当に難しい。調教したオッタル自身、やり過ぎたかと思ったほどなのだ。

 

 それが終わってみれば、ベル・クラネルの勝利である。あちらはあちらで瀕死になるまで追い込まれたのだから、完全勝利とはいかないが、相手が死に自分は生き残ったのだから勝利には違いない。

 

 オッタルの位置からは背中の神聖文字までは確認できなかったが、おそらくは敏捷を犠牲にして筋力や耐久の数値を上げたのだろう。戦闘中、背中のエンブレムはずっと淡い光を放っていた。神聖文字を解読できるものならば、それこそ詳細に事態を把握できたのだろうが、オッタルにできたのはベルの行動から彼に何が起きているのかを逆算することだった。

 

 窮地に追い込まれると基本アビリティが上昇するスキルを持った冒険者も多くいるが、それでは説明がつかないほどに、ベルは頑丈になり、力強くなっていた。冒険者としては荒唐無稽と思わざるを得ないが、現状解る範囲で合理的な推論を立てるのならば、基本アビリティが増減しているというのが最も可能性が高いように思えた。

 

「オッタル、貴方はそういうスキルを聞いたことがあって?」

「存じ上げません。レアスキルの類と推察しますが……」

「そう。私も聞いたことはないわ」

 

 少なくとも、ファミリアの子供たちの中には間違いなくいないし、そういうスキルがあるという話を耳にしたこともない。多くの男神と浮名を流しているフレイヤは、彼らの子供たちのスキルについても、それなり情報を得ている。ギルドに集積されている情報群を除けば、オラリオの神の中でも1、2を争うくらい、子供に発現したスキルを把握している女神であると言える。

 

「……ロキを突いて聞いてみることにするわ。ミノタウロスを撃破したのだから、ランクアップは間違いないでしょうし、神会で顔を合わせることになるでしょう」

「かの神が素直に吐くでしょうか」

「無理ね。あの子も、子供に対する愛はとても深いもの。レアスキルであるなら尚更。最短記録を大幅に更新した理由まで含めて、必死に隠そうとするでしょうね」

 

 それはそれで構わない。ファミリアの内情についてはギルドが定めた法に違反しない限り、干渉はしないというのが神の不文律だ。最大手ファミリアを率いるフレイヤとて、その例外ではない。ロキが秘密というならば、外には漏れまい。きっとファミリア内部にも緘口令が敷かれるだろう。

 

 詳細を知るのは幹部のみとなる。ロキ・ファミリアも結束は固い。団員から直接情報を引っ張りだすのは難しいだろうが、調べる方法はいくらでもある。

 

 詳細を知っている者が少ないこの状態でも、その周辺を観察するだけでベルに『何か』あると掴むことはできた。異常な速度で成長しているということも、彼を監督しているエルフたちとロキ以外では、唯一掴んでいたと言っても良い。

 

 オラリオの中で起こっていることを、詳細に把握する。その一点において、神の協力者の多いフレイヤはロキを上回っていると自負していた。時間をかければ、その片鱗くらいは見えてくるだろう。焦らされるのもまた良しである。そうすればそうするほどに、感情の炎は燃え上がるのである。

 

 それに時間をかければ、その内本人と話をする機会が得られるかもしれない。今の段階ではロキと監督役のガードは固いだろうが、そのガードをこじ開けるだけの恩を売ることができれば、律儀なロキのことだ。ベルと一対一で話す機会くらいは、作ってくれるかもしれない。

 

「そうと決まれば、早速動かなくちゃ」

 

 嬉しそうに身を翻したフレイヤは羽ペンを取ると、文机の上の便箋に手紙を認めた。手早く二通の手紙を書き、封蝋を施す。後はこれを所定のファミリアに届けるだけ。直接の関与を匂わせないためには、仲介役を手配する必要がある。それにも、うってつけの神がいることを、フレイヤは知っていた。

 

「ヘルメス・ファミリアに伝書鳩を飛ばしてもらえる? 文面なし。青い布をつけておいて」

 

 アナログな方法だが、子供を仲介に挟むよりは秘密漏洩の可能性は少ない。ちなみに青布の意味は『今すぐバベルまで来い』である。今でこそフレイヤの子分のような立場に成り下がっているが、神代には神々の伝令役を務め、ゼウスが健在だった頃には彼の派閥に属していた男神である。あれで顔が広く、他のファミリアに繋ぎを付けるにはもってこいの神選だ。

 

「それから悪いのだけれど、あれを片づけてもらえる?」

 

 伝書鳩の手配のため、身を翻したオッタルをフレイヤが呼び止めた。彼女が指さした先には完全にパーツごとに分解された椅子だったものが転がっていた。ノコギリなどで丁寧に切ったのではなく、何か衝撃を受け続けて耐えきれずに壊れたという風である。苛立ちまぎれに椅子を蹴ったり振り回して叩きつけたりすれば、か弱い女性の力でも、こんな風に破壊できそうなものだが……その辺りで、オッタルは考えることを止めた。

 

 オッタルが女神から頼まれたのはこれらを片づけることで、何故これがここにあるのかを考えることではない。破片を丁寧に回収すると、部屋の隅にあるベルを鳴らす。ほどなくして、少し離れた部屋に待機している小間使いがやってきた。小間使いの当番は持ち回りであるが、今日の担当はエルフの少女だった。その少女に、オッタルは布袋に入った椅子の残骸を手渡すと、

 

「決して中身を見てはならない、推測してもいけない。何も考えずにこれを裏手の廃棄場所まで運び、誰にも見つからないように捨ててこい」

「かしこまりました」

 

 ファミリアの団員にとって神意というのは絶対であり、団長であるオッタルはフレイヤの代理として言葉を伝えることもある。現在、オッタルはフレイヤの傍遣えをしており、部屋から顔を出して指示を出してきた。エルフの少女が『これは神意である』と解釈するのも無理からぬことではあった。

 

 神妙な面持ちで駆けていく少女の背中を見て、オッタルは彼女が勘違いをしていることを悟ったが、無理に訂正するまでもないと判断した。どの道表に出してはならないことに違いはないのだ。それが過剰であっても、秘密裏に処理されるのであれば、オッタルにも文句はなかった。

 

 神とは元来自由なものだが、それだけではその名誉は守れないのだ。エルフの少女の足音が遠ざかると、オッタルは神妙な面持ちで、階段を下りて行った。

 

 

 

 




とりあえずこれで長い一日は終了です。度々一番長い日と間違えたのは良い思い出。


次回(予定)ステイタスの更新とお祝いパーティ。
次々回(予定)神会で二つ名決定。
次々々回(予定)武器を作ってもらおう。


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ランクアップ1→2

「発展アビリティについてなんやけども、よう頑張ったみたいやな。候補は3つも上がったで」

「それは目出度いことだな。良い発展アビリティがあると、私としては訓練を施した甲斐があったというものなのだが……」

 

 リヴェリアには狙っていた発展アビリティがあった。神々が地上に降りてきてからこっち、発展アビリティの解析については、研究が進んでいる。達成度を別にすれば、概ねこういう行動をすればこの発展アビリティが発現する『だろう』ことは、いくらか解っていた。

 

 その内の一つが『狩人』である。この発展アビリティは短期間の内に大量のモンスターを撃破することで得られるもので、その効果は一度経験値を得たモンスターと戦った時、アビリティが強化されるというものだ。これはレベル2へのランクアップの時にしか発現しないとされ、アイズも習得したものである。

 

 達成が比較的困難であるが、基本、新規のモンスターと戦うよりは戦った経験のあるモンスターと戦う機会が多いことから、生存率を高めるためにと冒険者だけでなく神々にも人気の高いアビリティである。

 

 一日のノルマを決め、ベルには沢山のモンスターと戦わせた。なるべく多く、なるべく沢山のモンスターと戦わせたのだから、これで発現していなければお手上げなのだが、さて、どうなることか。

 

「その3つな、一つはリヴェリアのお目当ての『狩人』や。これはこれで人気が高いんやで? お次が『耐異常』でな。これは読んで字の如く状態異常をある程度遮断してくれる便利なもんや。で、もう一つが肝心なんやけども……うちは結構長いこと神様やっててな。ステイタスの更新もそれなりにこなしてるんやけども、この発展アビリティは初めてみるなー」

 

 ロキがさらさらと羊皮紙に書き上げたのは、発現した発展アビリティの3つの名前である。『狩人』『耐異常』と、もう一つは『幸運』とあった。これにはリヴェリアもレフィーヤも首を捻る。聞いたことがない上に、字面から感じられる印象が非常に漠然としており、正確な効果が想像しにくかったからだ。

 

「……運が良くなるということか?」

「それは間違いないと思うけどな、問題はどの辺りまで良くなるかっちゅーことやな」

 

 最高は勿論、ダンジョン外も含めたこれからのベルの人生全ての場合において幸運になるということであるが、流石にそれは高望みし過ぎだろうと、ベル以外の全員が思った。それに比較すれば、効果は大分限定されることは想像に難くない。ダンジョン内においてレアドロップアイテムが入手し易くなるとか、ランクアップ時に良い発展アビリティが出やすくなるとか、そんな所であると推察される。

 

 レアリティ相当の効果はあるだろうが、戦闘力やダンジョンでの生存率の向上は見込めない。ベルの安全を考えるならば、狩人や耐異常の方が良いのは言うまでもないが、レアというのは魅力的だった。

 

「ここで決を採っても良いが……やはり考える時間は必要ではないかな」

「せやかて、情報収集の成果は見込めないで? うちが知らんということはギルドにも記録はないやろうし、仮に知っている神がいたとしても、それを聞いて回るのは無理や」

 

 既に、レベル1のベルがミノタウロスを単独撃破したことはオラリオ中に知れ回っており、ランクアップが近いことも当然、知られている。レアな発展アビリティの情報をロキやファミリアの幹部が嗅ぎまわっていたらそれだけで、ベルにそういうレアな発展アビリティが発現した、あるいはその可能性があると看破されてしまう。

 

 最大手ファミリアであるロキ・ファミリアであるが、それだけに目の上のタンコブと思っているファミリアは多くある。フレイヤ・ファミリアにとってのイシュタル・ファミリアのように、一方から刺客が差し向けられる程に険悪なファミリアはないが、ステイタスに関する情報はどこのファミリアでも秘匿されている事柄である。

 

「なぁ、ベルはどうしたい?」

 

 ロキは自分の股下でうつ伏せに寝ころんでいるベルに問うてみた。ベルからすると、女性三人の前で上半身裸というこの状況は、羞恥プレイ以外の何ものでもない。討論するのは良いけれど、やるんだったらせめて服を着させてもらいたいというのが、青少年の本音だったが、女性三人はベルの羞恥よりも発展アビリティの方が重要なようだった。

 

 早く服を着るために、ベルもうつ伏せのまま考えてみる。毒などを食らわない、アビリティが上昇するというのは魅力的ではあるが、幸運がレアな発展アビリティであるというところに、ベルも魅力を感じていた。

 

 ロキが初めて見るくらいにレアということは、今のロキ・ファミリアにはこれと同じ発展アビリティを持っている団員はいないということで、そうなると自分は自分にしかできない仕事を、できるようになるかもしれない。まだまだ駆け出しであるベルにとって、団の誰かに明確に必要とされるということは、それだけ魅力的なことなのであった。

 

 勿論、ロキを始め、リヴェリアやレフィーヤは良くしてくれるが、ミノタウロスのことで心配をかけてしまった手前、何とか恩返しをしたいと思っていたところである。それがレアスキルで帳消しになるとは思っていないが、自分にしかできない貢献ができるというのなら、それに越したことはない。

 

「僕は、幸運が良いんじゃないかと思うんですが……」

「本人が言っているのなら、私もそれで良いと思うが……」

「私も異論はありません」

「子供らが全員そういうなら、うちにも勿論異論はないな。せやったら、幸運にするでー」

 

 ベルの意見がすんなりと通り、ステイタスの更新手続きが始まった。ロキがベルの背中に神血を垂らすと、そこにロキ・ファミリアのエンブレムが浮かび上がる。自分の背中にも刻まれている、滑稽に笑う道化師のエンブレムをぼんやりと眺めていると、ほどなくしてベルのステイタスの更新は終わった。

 

「おめでとさん、ベル。レベル2にランクアップしたで」

「ありがとうございます!!」

 

 やったー、とはしゃぐベルにリヴェリアとレフィーヤは拍手を送る。ベルほどはしゃいだ記憶はないが、リヴェリアもレフィーヤも、かつて通った道だった。誰もが強くなった自分を実感し、未来への希望を抱く瞬間である。

 

 もっとも、それを経て尚、高い壁にぶち当たることも冒険者ならば日常茶飯事であるのだが、ランクアップをしたその瞬間くらいは水を差すまい、という配慮は先達としては当然のことだった。

 

 ミノタウロスを撃破し、皆でダンジョンから帰還した翌日である。一晩ぐっすり寝たベルは、すっかり回復していた。そうして、満を持してのステイタス更新だ。朝一番に部屋に押し掛けたのだが、ロキは嫌な顔一つせずにステイタスを更新してくれた。見物しているのはお馴染みのリヴェリアとレフィーヤの二人である。

 

 本来はティオナも参加する予定だったのだが、幹部三人を見つけるために不眠不休で走り続けた疲労により、今は自室で爆睡している。頑強なアマゾネスも疲労には勝てないのだ。ティオナによって伝言を伝えられた幹部三名には、その日の内にロキから通達がなされていた。

 

 普段であればベートなどはそんなことで、と憤慨したのだろうが、超の付く実力主義者のベートをしても、ベルのレアスキルには大いに興味を刺激された。ロキの説明を聞いた彼は一先ず溜飲を下げ、自室に戻っている。他人にレアスキルが発現したところで、自分が強くなる訳ではない。本質的には、ベートには何も利益はないのだが、ファミリアの仲間が強くなることについて、彼が文句を差し挟むことはなかった。

 

 ベートにはベートの『強者の論理』というものがある。とかく言葉を尽くさず、乱暴な物言いのために敵は多く誤解もされやすいが、決して情に薄い訳ではないし、悪い奴でもない。ファミリアの中で、最もベートと衝突するのはリヴェリアであるが、そんな彼女をしても、ベートの人物評は『悪い人間ではない』である。

 

 半面、リヴェリアを慕うエルフには蛇蝎の如く嫌われているのだが、それはともかく。ベートたちに話が行き届いたことで、幹部全員にベルのスキルが伝わった。監督役はそのままリヴェリアとレフィーヤが行うが、パーティを組む際には、色々と選択肢ができたことになる。

 

 幹部たちと一緒にダンジョンに潜っても良いし、訓練をしても良い。凄まじい速度でランクアップしたベルには能力相応の基礎が身についていない。覚えなければいけないことは山ほどある。既に第一線で活躍している冒険者たちは、ベルにとっても大いに助けになることだろう。

 

「それでな、スキルについてなんやけども」

「もしかして僕にも魔法が!?」

「やー、それは発現せんかったなー」

「そうですか……」

 

 期待に目を輝かせたと思ったら、事実を告げられてしょぼくれてしまう。その落差がおかしくてレフィーヤは思わず吹き出してしまった。

 

「その代わり新しいスキルは発現したでー」

 

 ロキは英雄志願(ヒロイックロード)を、今目覚めました、という体で共通語に起こしていく。記載に嘘はないが、大成するという文言だけは削除されていた。今回これを告げることにしたのは、ベルにスキルを良く理解させ事故を未然に防ぐためだった。『大成する』という文言は、冒険者としての将来をある程度保証するものであり、とりわけ若い冒険者には毒にしかならないという判断である。

 

「――てな訳で、こういうスキルやと思う。間違いなくレアスキルや」

「レアスキル……」

「使いどころが難しいスキルやろうから、何ができて何ができないのか、ちゃんとリヴェリアたちの言うこときいてなー」

「解りました」

 

 型どおりのやり取りである。その他、細々とした注意をロキから聞いていたベルは、ふと思いついた。レベル1からレベル2にランクアップすることは、冒険者にとって特別なことがいくつかある。その筆頭とも言うべきものが、

 

「あの、神様。レベル2にランクアップしたということは、僕にも二つ名が?」

「そうやねんけど、二つ名は『神会』で話し合って決めるもんやから、付くのは三日後の話やな。安心し。うちが責任もってかっこいい二つ名にしたるさかい」

「おー……」

 

 スキルの話をした時以上に、ベルの瞳はきらきらと輝いていた。その目が、ロキには少し痛い。オラリオでも最大のファミリアを率いているロキは『神会』でも強い発言力を持っている。二つ名は話し合って決められるとなっているが、ファミリアの規模に比例して発言力が高まる現状では、ロキの子供に痛い二つ名が付けられることはほとんどない。ロキ・ファミリアの子供が命名式に上った時、二つ名は概ねロキが考えたものが採用され、『神会』はそれを承認するだけという形骸的な物になっていた。

 

 ロキとしてはそれで満足なのだが、子供には神々が悪ノリして考えられた痛い二つ名の方がウケが良く、ロキの目から見たベルは、どちらかと言わずともその痛い二つ名をありがたがるタイプに見えた。

 

 最短記録である。レアスキルである。ロキとしては無難でかっこいい二つ名を付けてあげたいのだが、子供の意思を汲んであげたいとも思うのだ。それで毎日毎晩、あまりの痛さにのた打ち回ることになったとしても、子供が笑顔になってくれるならそれで……というのは、子供を思うロキが『神会』の度に思うことでもある。

 

 結局、無難な二つ名に落ち着いてしまうあたり、神の痛い名前に対する拒絶反応も相当なものであるが、それは大抵の子供には理解されないものだった。今回も悩むんやろなぁ、と思いつつもそれは顔には出さないようにしつつ、

 

「それから明日の晩、ベルの最短記録更新の前祝をするでー。『豊穣の女主人』亭で大宴会や」

 

 宴会、という単語にベルはきょとんとした顔をした。リヴェリアからもレフィーヤからも、そういう話は全く聞いていなかったからである。

 

「……なんや、話しとらんかったんかいな。レベル1からレベル2のランクアップで、今までの最短記録はうちのアイズたんの一年やったから、ベルの一ヶ月半は大幅な記録更新や。その功績を称えての宴会も兼ねとるで」

 

 子の功績はその主である神の名誉にも繋がる。種々の記録はそのバロメータの一つであり、ランクアップの最短記録更新、ミノタウロスの単独撃破など、次の神会での興味はこれで持ち切りになることは間違いない。それは目立ちたがりのロキには、この上ない愉快なことだった。神の名誉に貢献した子供がその神から褒美を受けるのは当然のことである。

 

 ちなみにロキ・ファミリアで宴会そのものは珍しいことではない。オラリオでも一二を争う大所帯であるが、レベルに関わらず、子供がランクアップした時はロキは必ず宴会を開く。参加するメンバー、規模こそ違うがその全てにロキは必ず参加していた。誰がお気に入りかと言われれば、ロキは躊躇いなくアイズ・ヴァレンシュタインと答えるだろうが、それ以外の子供を愛していない訳ではない。

 

 軽い性格で対外的にはそう思われていないことが多いが、神々の間では子供に対する愛情が深い神として知られている。その辺りも、フレイヤ・ファミリアと並んで大派閥になった一因なのだろう。所属する団員達も己が主神を神にしては軽々しく扱いつつも、良く慕っているのだ。

 

「飲んで食べての大騒ぎやから、ベルも楽しみにしててなー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、翌晩。

 

 レベル2にランクアップしたことのお祝いとしてベルが連れられてきたのは、ロキ・ファミリア行きつけの『豊穣の女主人』亭だった。

 

 ロキが主催する大規模な宴会では、所用でオラリオを離れているなど、特別な理由が無い限りはレベル5以上の幹部とロキ本人は必ず参加することになっている。次いでレフィーヤやラウルなどのレベル3以上、レベル4以下の準幹部たちが席を埋め、余った席はそれ以外のメンバーの早い者勝ちだ。

 

 基本、ロキは給仕をしてくれる女の子がかわいい店を選ぶ上、支払はファミリアが行うのでタダ飯のタダ酒だから競争率は高い。更に普段は一緒にいることも憚られるリヴェリアやアイズなどと、特に理由もなく近づけるとなれば、参加しない理由はなかった。

 

 ベルを祝うという気持ちももちろんあるが、そういう俗物的な理由でもって参加する面々もいた。神ロキの性格を反映している。主役がベル、という意識があったのも最初だけだ。参加者は皆ベルに祝辞を述べて、背中をぶっ叩くなどお祝いの気持ちを行動で表した後、好き放題に飲んだり食べたりをし出した。

 

 リヴェリアの周囲には女性のエルフを始めとした、彼女を慕う面々で固められていた。これはいつものことで、リヴェリア本人の認識はともかくとして、彼女らはリヴェリアの従者のつもりでいる。高貴な女性を有象無象の異性から守るのは当然のことだ。

 

 男性の団員からは疎ましく思われているが、もともとロキ・ファミリアは主神の趣味で女性の割合の方が多い。男性団員の肩身が狭いのも、いつものことと言えばいつものことだった。

 

 向上心のある面々は、幹部や準幹部を捕まえては日頃の心構えなどを聞いている。口下手ではあるが、こういう時に剣姫アイズ・ヴァレンシュタインはモテにモテ、比較的若い冒険者たちに囲まれて、ダンジョンの話をしている。

 

 大騒ぎせず、飲み食いだけがしたい面々は、最初から隅の方に陣取り、ひたすら飲み食いだけをしている。コミュニケーションが苦手な連中のたまり場であるとも言うが、ここにいる限りはお互いに干渉せず、ただ黙々と食事をするという暗黙の了解があった。万事に攻撃的なベートも、ここでは口を開かずに、黙々と食事をする。誰が周囲にいようとお構いなしだ。ここは食事を楽しむ場所である。レベルもスキルも種族も性別も関係ないのだ。

 

 ただひたすらに酒や料理を楽しみたい面々は、ガレスの周りに集まって大騒ぎだ。身体は酒樽、血潮は麦酒。幾たびの酒宴を超えて不敗。ただの一度も酔いつぶれたことはないひげ面のドワーフは、酒さえあればそれで良いとばかりに酒飲みたちと杯を空けまくっている。

 

 ロキはそんな集団の間を行ったりきたりだ。男でも女でも万遍なく絡んで話をする辺りに、彼女の神性が伺える。

 

 ベルの周囲に残っているのは、監督係であるレフィーヤと、飲んで食べるのは好きだけれども、つるんでバカ騒ぎというのはあまり好きではないティオナといつもの面々だ。

 

「ベルはああいうのには参加しないんですね」

「どういう風に振る舞ったら良いのか解らなくて……」

 

 田舎で祖父と二人暮らしをしていたベルは、大勢で飲み食いする席に参加したことがほとんどない。祖父は元々都会で仕事をしていたらしく、宴席に参加することなど日常茶飯事だったというが、そんな人がどうして田舎で暮らすようになったのか、ベルは全く聞いていなかった。

 

「おじいさんと二人暮らしだったんですよね。どんな人だったんですか? ベルのおじいさん」

「とにかく明るくて、物知りな人でした。後はとっても、その、女性好きだったというか……」

 

 2人暮らしではあったが、女性が祖父を訪ねてくれることはそれこそ、数えきれないくらいにあった。若い頃は浮名を流していたとは本人の弁だが、女性たちが言うには『年を食ってからの方が酷い』ということである。その女性らも皆、祖父の若い頃というのは知らないらしいが、当事者が言うのだから間違いないだろうと、ベルですら思ったものである。

 

「英雄譚は、おじいさんが買ってくれたの?」

「いえ、買ってくれたんじゃなくて書いてくれたというか……」

「え、おじいさん作家なの?」

「普通に畑を耕したり色々やってました。昔は都会で仕事してたって言ってましたけど、具体的に何をしてたのかは知らないです」

「私はあまり英雄譚とか読まないんですけど、そういう人が書けるものなんですか?」

「どうだろうねぇ……ベル、ちょっと質問なんだけど」

 

 ベルの読んだ英雄譚が自分の知っている物と全く違っていたら困りものだ。ティオナは比較的有名な話の筋をベルに問うてみたが、ベルが答えたのはティオナが知っているものと大筋は同じものだった。一般に流通するものは写本が大半のため、細かな所が違うのは仕方がない。

 

「違わないみたい。ベルの家にはおじいさんが書いてくれた本しかなかったんだよね?」

「そうですね」

 

 ベルの答えに、ティオナが沈黙した。よく読み込んだティオナは現物がなくても話の筋を追うことができるが、本にできるほど細かく記憶しているかと言えば否である。ベルの英雄譚の知識は自分と同じくらいで、しかも良く読み込んでいるように思えた。

 

 ということは、少なくとも自分の部屋にあるのと同じくらいの量の英雄譚がベルの実家にはあったということになるが、彼の祖父はそれを現物を見ずに書きだしたということになる。その本を見ないことには何とも言えないが、それがきちんと本の体裁をなしているというのならば、凄い記憶力だ。

 

「凄いおじいさんだったんだね」

「はい。僕の自慢のおじいちゃんです」

 

 ベルのめったにない自慢話を聞きながらティオナはフライを摘み、ベルの前に差し出した。意図を察しあーっと開けられたベルの口に、ひょいとフライを放り込む。特に意識した訳でもないらしい自然なやりとりに、それを見ていたレフィーヤの背中に戦慄が走った。

 

 この二人は、もうここまで仲良くなってしまったんでしょうか。険悪になられるよりは遥かにマシであるが、あっという間に仲良しになられるのも、それはそれで困るのである。こういうことはもっと、きちんと段階を踏んでですね……心中で言い訳をするレフィーヤだが、あーんはティオナだからこそ自然にできたことだ。

 

 アマゾネスにしては貧相であるが、ティオナ・ヒリュテというのは快活で、人好きのする美少女である。がさつなところばかりが目につくが、英雄譚を読むのが好きなど、どこか夢見がちなところも持ち合わせていた。自分には一生かかっても真似できなさそうな気安さに、レフィーヤの心にも陰りが生まれる。

 

 そんなレフィーヤの心中など想像もできないロキは、酒に酔った赤ら顔で高らかに宣言した。

 

「よっしゃー、飲み比べ大会をするでー! 優勝者はリヴェリアのおっぱいを好きにする権利進呈やー!!」

「自分参加するっす!」

「俺も!!」

 

 勢いよく手を上げる男衆、その数は十ではきかない。良く見れば関係ないファミリアの冒険者も混じって狂喜乱舞している男衆に、女性エルフたちの冷め切った視線が突き刺さる。如何に神が許可を出したとは言え、そんな都合の良いことができるはずがないことは解りそうなものなのだが、酔ってテンションの上がった彼らはそれにも気づかなかった。

 

 男というのは可能性に生きる生き物である。何もしなければ絶対に触れないのだから、もしかしたらというロマンにかけて行動するのは彼らとしては当然のことだった。人間だけでなく獣人などの亜人や、中にはエルフの姿もある。種族を越え主義を越え、男たちは共通の目的のために熱を上げていた。

 

 それは一重にリヴェリアという存在がどれだけ異性として好意を持たれているかの証明でもあったが、リヴェリア本人はそんな沸き立つ男衆を苦笑と共に眺めていた。ロキが訳の解らないことを言うのはいつものことなのだが、

 

「……ベル、ちょっとこっちに来い」

 

 狂喜乱舞する男衆の中に、ベルが入っていないことがリヴェリアの癪に障った。その声音に周囲のエルフたちも彼女の虫の居所の悪さを敏感に察知した。主役にも関わらずレフィーヤとティオナと一緒に隅っこにいたベルを、強引にリヴェリアの前まで引っ張ってくる。

 

 大騒ぎを横目に見ながら、ひっそりと食事をしていたベルは、訳も解らずリヴェリアの前に引き出されていた。女神も嫉妬する美貌のハイエルフは、何故だか機嫌が悪いようだった。何か粗相をしたかと考えたが、さっぱり原因が解らない。小さい身体をさらに小さくするベルを前に、リヴェリアは大騒ぎする男衆を指して、言った。

 

「お前はどうしてアレに参加していないんだ?」

「どうして、と言われましても……」

「私の胸では不満か?」

「そんなことは!」

「よし。ならば参加してこい」

 

 もしかしてこの人は酔っているのだろうか。テーブルを見てみたが、酒の杯はない。基本的にリヴェリアは酒を飲まないので、周囲のエルフもそれに倣うのだ。彼女らの卓には一つも、酒の注がれた杯はなかった。

 

 つまり、リヴェリアは完全に素面である。エルフ流の冗談である可能性に賭けてベルはリヴェリアを見返してみたが、しばらくリヴェリアの表情は変わらなかった。周囲のエルフたちも、いつにないリヴェリアの態度に困惑している風である。

 

 その言葉が覆らないと判断したベルは踵を返し、男衆の輪に加わった。リヴェリアの寵愛を受けているベルが参加したことで、男衆のテンションは更に上がった。もしかするともしかするのでは。関係ない他の冒険者たちも巻き込んだ飲み比べ大会は、まさに最高潮だった。

 

 信じられないくらいの喧噪に包まれる酒場に、普段であればこの辺りでミアの拳が飛んできそうなものだったが、もはや貸し切りと割り切ったドワーフの女将は、ウェイトレスたちにせめて高い酒を売り込んで来いと檄を飛ばしていた。

 

 かわいらしいエプロンドレスで着飾ったウェイトレスは、ここぞとばかりに酒を押し売っていく。会計はどうせファミリア持ちだと解っている男衆は、何が持って来られるのかなど気にせず、ウェイトレスから渡されるままに杯を受け取っていた。

 

 ベルの前にも、酒が並々注がれたジョッキが置かれる。頼んでもいないそれは、やけに力強く置かれ、中身が少しベルのズボンにかかった。恐る恐る見上げると、金髪エルフの怜悧な瞳が見えた。男を軽蔑しきった女の視線である。何か謝らなければ、とベルが考えを巡らせている内に、リューは配膳に戻ってしまった。

 

 こんなはずでは……と暗い気持ちになるベルは、ロキの号令と共に、反射的にジョッキに手を伸ばし、中身を一気に煽って――しかし、喉を通り過ぎる凄まじい熱さと共に一瞬で意識を失った。

 

 酒、とアバウトな指定しかされていないため、各々の前に置かれている酒は一種類ではない。共通するのは比較的質が良く、値段が高いということくらいだ。沢山飲めるように度数の低い酒をこっそり注文する輩もいたが、ベルの前に勝手に置かれたのは『豊穣の女主人』亭で最も度数の高いドワーフの火酒である。火種を近づければ燃える程、強い酒だ。

 

 一瞬でぶっ倒れたベルに、レフィーヤが慌てて駆け寄り、自分の席まで引きずって行く。自分が煽った者が一瞬で脱落するとは想像の埒外だったリヴェリアが周囲を見回すと、給仕のエルフと視線が交錯した。ベルを『運命の人』と呼んだエルフは、リヴェリアの視線に軽く肩を竦めて見せた。挑戦的と言えば挑戦的なその仕草に、リヴェリアは苦笑を浮かべる。

 

 たまにはいじめてやろうと思って無責任に煽ってみたのだが、それが気に食わないという者もいたらしい。意外な伏兵に、むしろ気分を良くしたリヴェリアは、大騒ぎする男衆など存在しないかのように振る舞い、自分たちの食事に戻った。

 

 結局、参加者全員が凄まじいガッツを発揮した飲み比べ大会は三度の延長戦までもつれ込んだが、その時まで残っていた面々が都合、十五杯目を飲み干したところで、全員ダウン。勝利者なしという誰も得も損もしない結果となり、お開きとなった。

 

 ついでに、宴も酣でもありますが、と祝いの席そのものも解散となる。参加していた団員たちは、三々五々目的の場所へ散っていく。黄昏の館に戻って休むか、これから梯子して飲みなおすか、怪しいお店に直行して良い思いをするかはそれぞれだ。飲みなおす派はガレスに率いられて次の店へ。怪しいお店に行く連中はこっそりとイシュタル・ファミリアの縄張りである歓楽街へ。それ以外の面々はフィンと共に黄昏の館へと戻っていった。

 

 そして、第四の勢力である。酔いつぶれた団員が多い場合、それを介抱して黄昏の館まで連れていく貧乏クジの役割を担う者だ。普段はこれはただの貧乏くじであるのだが、先ほどの飲み比べで酔いつぶれた連中は自分の足で立ち上がり、三組のどれかに合流していった。飲み会慣れしているだけあって、回復も早いのである。

 

 立って歩けない程に酔いつぶれていたのは、酒に慣れていないベルだけだった。それだけに、ロキ・ファミリアから残った者は少なく、普段からベルの面倒を見ているリヴェリアとレフィーヤ、これからベルの面倒を見ることになるティオナの三人だけだった。リヴェリアの取り巻きのエルフたちも、彼女の一声で黄昏の館に帰らされている。

 

 ロキ・ファミリアが解散したことで、『豊穣の女主人』亭の営業も終了となった。てきぱきとした動作でイスとテーブルを片づけたウェイトレスたちは、素早く帰り支度をして店を後にした。女将であるミアも、戸締りだけはしっかりするようにと釘を刺して上がってしまった。

 

 ウェイトレスで残っているのはベルと縁の深いシルとリュー、それから面白そうだからと残ったクロエの三人である。彼女らから提供された店の余りものと、残った飲み物で一つのテーブルを囲んで世間話に花が咲いている。会話に乗り切れなかったレフィーヤは、ベルの傍らに残っていた杯に目を移した。

 

 ベルがぶっ倒れた時に、一緒に回収してきた杯だ。一気飲みしたために分量は大分減っていたが、まだ少し残っている。一体どんな酒を飲んだのだろう。試しに、と残った液体に舌をつけたレフィーヤは、それだけで強い眩暈を覚えた。

 

 一瞬で酔いが回ってくる。ベルはこんな酒を一気飲みさせられたのかと思うと怒りすら湧いてきたが、それは酩酊感によって霧散し、朦朧とした意識のままふらふら歩いたレフィーヤは足を滑らせると、額を思い切りテーブルに打ち付けた。

 

 冗談では済まないような音が響くが、レフィーヤとて冒険者である。今さらテーブルに額を打ち付けたところで死にはしない。むしろ、従業員たちはテーブルの心配をする始末だったが、目を回した所に頭部に衝撃を受けたレフィーヤは、そのまま意識を失ってしまった。

 

 テーブルに突っ伏すレフィーヤを見て、ティオナは軽く溜息を洩らした。何も知らずにドワーフの火酒を飲めば、そうもなる。ティオナが知る限り、これをがぶがぶ飲めるほど酒に強いのは、ロキ・ファミリアの中ではガレスくらいのものだ。

 

 ともあれこれで介抱するべき相手が二人に増えてしまった。黄昏の館まで戻るのは二人だが、まさかリヴェリアに人を背負わせる訳にもいかない。誰かが何かをいった訳ではないが、自分がこの二人を一度に運ぶのだということを、ティオナは理解していた。

 

 これがガレスやフレイヤ・ファミリアの『猛者』オッタルくらいデカくてゴツくて重い男であればティオナも拒否していただろうが、細身のエルフと人間の二人くらい、アマゾネスには軽いものである。

 

「それにしても、この少年はほんとに酒に弱いにゃ。冒険者とは思えないにゃ」

「冒険者の方が皆酒飲みって訳じゃありませんよ? クロエ」

 

 もっとも、シルも冒険者は酒のみであるという印象が強い。刹那的な生き方をする傾向が強い彼ら彼女らは食事にもそれを求める。特に比較的高めの価格帯である『豊穣の女主人』亭に来る冒険者たちは、その傾向が強かった。杯一杯で倒れる冒険者というのは、毎日冒険者の相手をしているシルをしても珍しいものだった。

 

「勿体ないにゃ。起きていればにゃーが色々とサービスしてやったのににゃ」

「クロエ、貴女まさか……」

 

 シルの声にお前もか、という強張りが生まれる。黙って世間話を聞いていたリューも、クロエの発言に長い耳を欹てていたが、クロエの答えは二人の予想とは全く違うものだった。

 

「にゃーが興味があるのは、少年そのものじゃにゃくて、このぷりっとしたお尻なのにゃ! にゃーはこのお尻に夢中なのにゃ!」

 

 軽くポーズまで決めて宣言するクロエに、シルははぁと大きく溜息を吐き、エルフであるリヴェリアとリューは無視を決め込み、アマゾネスであるティオナは腹を抱えて笑っていた。ジョークに関する受け止め方の違いが如実に出た形となるが、全員が先の発言をクロエなりのジョークと解釈していた。

 

 しかし、これをジョークと受け止めなかった者がいた。

 

「バカなこと言わないでください!」

 

 酔って突っ伏していたはずのレフィーヤである。酒に酔った赤い顔のままクロエの言葉を聞きつけたレフィーヤは、クロエを指差すと一気にまくしたてる。

 

「ベルは! 私が! 毎日面倒見てるんです! 私とパーティを組んでるんです! これは! 私のお尻です!!」

 

 言いたいことを全ていったレフィーヤは、またもテーブルに突っ伏した、酒場に痛いほどの沈黙が流れるが、酒場において、酒の勢いでした発言に責任を取れというのも無体な話だ。それが年端もいかないエルフの少女というならば、情状酌量の余地はあってしかるべきだろう。

 

「……色々あって、こいつも疲れているんだろう。すまないが、聞かなかったことにしてやってくれ」

 

 重々しい口調のリヴェリアに、クロエですら素直に頷いていた。酒場に流れた痛苦しい沈黙を打ち破ったのは、それまであまり発言をしなかったリューだった。静かに、リヴェリアに向けて手を挙げたリューに、リヴェリアは苦笑を浮かべる。

 

「なんだ。お前も尻の所有権を主張するつもりか?」

「クラネルさんの尻に興味はありません」

 

 ぴしゃりとした物言いであり、リューの視線は動きもしない。見ないようにしている、という不自然さもないから本当に尻には興味がないのだろう。一方、隣のシルはクロエと一緒にそろりとベルを盗み見ていた。欲に正直というのも、痛しかゆしである。

 

「私がこの人を見つけた時、とても冒険者に向いている人だとは思いませんでした。それが奇矯な縁を得てロキ・ファミリアに入り、貴女がたの元で戦うことになった。ミノタウロスを単独撃破したという話を聞いた時には驚いたものですが、それでも、私は冒険者として先達である、貴女の口から聞いてみたい」

 

 エルフとして生まれ、エルフとして育ち、冒険者としてオラリオにある、あるいはあった者は、例外なくリヴェリアの身分を知っている。他所の派閥であろうと廃業していようと、エルフとしての慣習は中々消えるものではない。無頼のリューにとっても、本来、リヴェリアというのは敬うべき存在であり、軽々に意見をして良い存在ではないのだが、その視線に籠る意思の強さは揺るぎない。

 

「ロキ・ファミリアが副団長。『九魔姫』リヴェリア・リヨス・アールヴ殿にお尋ねします。彼は、クラネルさんは、冒険者としてやっていけそうですか?」

 

 それ程までにしてリューが聞きたかったのは、ベルのこれからだった。生真面目なこのエルフにとって、ベルの今後はそれだけ重要なことなのだろう。何を聞かれるのか、少しだけ身構えていたリヴェリアは、その質問に相好を崩した。それはリヴェリアにとっても、他人事ではなかったからだ。

 

「心根はまっすぐな奴だ。話していて、それを良く感じる。真面目で、何事にも一生懸命だ。私の座学はあまり人気がないのだが、それでもこいつは良く付いてきてくれている。浅層でのモンスターの知識なら、うちのファミリアでもそれなりの物だ」

 

 リヴェリアはベルに視線を落とす。レフィーヤと仲良く赤ら顔でうんうん唸っている様は、とても褒められている者の姿ではないが、これはこれでベルらしいと思えた。

 

「仲間のために命を張ることができる。避けようのない窮状においても、動くことのできる胆力もある。確かに短所も多々あるだろうが、それを補ってあまりある程、こいつは可能性に溢れているよ。このまま成長を続けるならば、こいつはいずれ、私やフィンに並び、追い越していくことだろう。無論のこと、簡単に負けてやるつもりはないがそれでも、冒険者としてとてつもない可能性を秘めていると思う」

 

 それはオラリオでも最上位の冒険者である、リヴェリアをして最大級の期待の言葉だった。それ程までとは思っていなかったのだろう。リヴェリアの言葉を聞いたリューは相好を崩しかけ、慌てて表情を引き締めた。それを見ていたシルは忍び笑いを漏らしている。人前で笑顔を見せたがらないエルフはそんな友人に鋭い視線を向けるが、シルは両手を挙げて降参すると、クロエを引っ張って厨房に引っ込んでいく。

 

「この答えでは不満かな? リュー・リオン。かつて『疾風』と呼ばれた、我らが同胞よ」

「いいえ、十分です。お手数をおかけしました、『九魔姫』」

 

 そっけない風を装っているが、ベルを気にしていることが言葉や態度の端々から見て取れる。リヴェリアはリューがどういう経緯でこの店で働くことになったのか知っている。冒険者は死と隣り合わせの職業だ。知り合った人間がダンジョンで命を落としはしないか、気になって仕方がないのだろう。

 

 本音を言えば、同行したいに違いない。ブランクはあるだろうが、かつては『疾風』として名を知られた冒険者である、自分がダンジョンにおいて、ベルの助けになれるという事実をリュー自身が認識しているからこそ、歯痒い思いをしているというのも、また事実だった。

 

 振るうことができないならば、その腕はないのと同じである。冒険者としてはかつて『疾風』として鳴らした腕が腐っていくのは心苦しくはあるが、リューの現状はリヴェリアでも変えられるものではなかった。

 

「そろそろお開きにするか。ティオナ。悪いんだが、その二人を黄昏の館まで運んでくれないか」

「そう言われると思ってたよー」

 

 よいしょ、とティオナはレフィーヤを背負い、ベルを腕で抱きかかえる。ダンジョンから引き揚げてきた時に続いての、ベルのお姫様抱っこである。男性としての名誉を考えるならば、普通は逆にするべきなのだろうが、ティオナの感性でも自然とこうなっていたのだ。

 

「余りものですが、ベルさんと一緒に召し上がってください」

 

 厨房から戻ってきたシルが、その日の余りものを包んで戻ってくる。それを受け取ったリヴェリアは軽い挨拶をして『豊穣の女主人』亭を辞した。

 

「ねえ、リヴェリア。さっきの話、本当? ベルがその内、フィンもリヴェリアも超えて強くなるって」

「所謂希望的観測という奴だな。流石に私も言い過ぎたと思わないでもないが、件のスキルのこともある。見どころがあるということについては、お前も異論はないだろう?」

「そうだね。私もベルが私よりも強くなってくれたらって思うよ。これも希望的観測って奴」

 

 からからとティオナは笑う。好意を持っていたとしても、アマゾネスとしてはやはり、自分よりも『強さ』で劣る者を相手としては見れないものだ。ティオナはレベル5.オラリオに存在するアマゾネスの中では、トップクラスの実力を持っている。これに釣り合う相手は中々存在せず、存在したとしても好みではなかったりすると、それはそれでもうどうしようもない。

 

 ベルには戦闘以外の感性の面で、中々近い物を感じている。今すぐ子供を作りたい、というほど好意が募っている訳ではないが、将来の選択肢を増やすためにも、ベルには強くなってもらいたい。アマゾネスであっても、レベル5の冒険者であっても、ティオナ・ヒリュテは少女なのだ。いずれ番になるはずの異性に思いを馳せることだってあるのである。

 



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『神会』

1、

 

「ファイたん、ちょっと話があるねんけど」

 

 会議が始まる少し前、見知った後姿を見かけたロキは軽い気持ちで声をかけた。癖のある赤毛にパンツルック。右目を覆う黒い眼帯をした鍛冶の神は、ロキの姿を見て首を傾げた。

 

「貴女が改まって話なんて、珍しいわね。どういう要件かしら?」

「実はな、うちの子に武器を作ってほしいんや」

「貴女の子って言うと、噂のベル・クラネルかしら」

「せや。うちもそうやけど、リヴェリアが結構入れ込んでてな。予算はいくらかかっても構わんから、すぐに武器を作ってほしいやけど、どない?」

 

 最大手ファミリアの一つであるロキ・ファミリアの冒険者用の武器、それも主神からの依頼である。加えていくら予算を使っても良いとなれば、如何にヘファイストスと言えども断る理由はないのだが、鍛冶の神から返ってきたのは、ロキの望むものとは違う返答だった。

 

「貴女の頼みだし、私も彼には興味があるから引き受けてあげたいけど、その条件ならお断りするしかないわね」

「……どういうことや?」

「既に大口の依頼を受けているの。明日から仕事に取り掛かって二週間はかかりきりになると思うから、すぐにというリクエストにはお応えできないわね。その後からでも良ければ請け負っても良いけど、そこまでは待てないんでしょう?」

「……間が悪いなぁ、一体どこのどいつやねんな、その空気読めんのは」

「ウラノスよ。祭具をいくつか注文を受けているの」

 

 あぁ、とロキは心底悔しそうな溜息を漏らした。相手がギルドを率いるウラノスというのもあるが、依頼したのが祭具となると、オラリオに腰を落ち着ける神としては、口を挟む訳にもいかない。

 

「どうしてもすぐに、ということなら椿に話を通しておくわ。当面はそれで構わない?」

「まぁ、すぐに必要や言うたのはこっちやからなぁ。すまんな、気ぃ使わせて」

「こっちこそ。要望に応えられなくて申し訳ないわね。いずれ必ず作ると、リヴェリアにも伝えておいてもらえる? その時は可能な限り、リクエストには応えるから」

「ありがとな。楽しみにしてるで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2、

 

『神会』

 

 オラリオの実質的な意思決定機関であり、冒険者を統括するギルドや神々個々の勢力であるファミリアと並んでオラリオで最も権威ある機関の一つである。

 

 定期的な召集は三ヶ月に一度。ガネーシャ以外の神の中から適当に議事進行役が選ばれると、三か月の間に山積した議題を処理し、軽い情報交換をした後に、レベル2にランクアップした子供たちへの命名式が行われる。

 

 取り立てて、差し迫った危険のなかった今回は、議題は極めて適当に処理をされ、かつてない程の早さで命名式へと移った。『暁の聖竜騎士』『美尾爛手』『絶†影』など神々の優れた感性によって痛い名前が子供たちに次々と付けられていく中、今回、最も神々の注目を集めた子供の命名へと場は進む。

 

「最後はうちのベルやなー」

 

 非常に軽い口調と共にロキは居並んだ神々を見渡した。それまで自由闊達に痛い名前を提案していた神々が、その一睨みで押し黙ってしまう。『神会』において、神の発言力は率いる子供の数と強さで決まる。最大規模のファミリアを保有するロキの発言力は、フレイヤと並んでトップクラスのものだ。この場においてロキに意見できる神は少なく、また子供にとっては一生ものである二つ名について、痛い名前を提案できるほど勇気のある神もいなかった。

 

 ロキ・ファミリアの子供が二つ名をもらう時には、大抵こんな空気になる。他の有力ファミリアの場合、例えばヘファイストスやガネーシャなどは痛くない名前という前提で他の神から候補を募るのだが、ロキの場合は彼女が自分で考えた名前を付けることが多い。

 

 レベル1から2への最短記録の大幅更新というイレギュラー中のイレギュラーであるベルの二つ名であるが、今回もそれは同様だった。自分で考えた名前を提案し、それを形だけの承認で締めくくる。今回もその作業だけでベルの命名は終了するはずだったのが、一柱だけ、ロキの眼光を受け止めた女神がいた。

 

 それが旧知の存在であったことに、ロキは眉を顰める。自分に意見をするとしたら、こいつしかいないという程、ロキからすれば因縁めいた相手だった。『神会』においてロキが高い発言力を有するのと同様に、彼女もまた、ロキと同等の発言力を持っている。いかにロキでも、彼女を無視ことはできなかった。

 

 その旧知の存在――女神フレイヤは、わざとらしく居並んだ神々を見回した。

 

「誰もいないのかしら? それなら、私から良いかしらロキ」

 

 にこにこと、機嫌良さそうに微笑んでいるフレイヤに、ロキを含めた神々は不吉なものを覚えた。言葉の内容も問題である。彼女はそもそも会合には参加しないことが多く、しても意見を言うことは非常に少ない。

 

 それが戦力として拮抗しており、神話の時代からの友人であるロキの子供の二つ名命名に意見をするのだから、これにきな臭さを感じるなというのは無理な話だ。地元を同じくする二柱の神に、その二柱以外の神々は、さっと視線を交わし合う。

 

 最近、この二人に何かトラブルはあっただろうか。

 

 それについては全員が否と感じたが、一部の神はフレイヤが今回、声を挙げた理由について思い当たっていた。今まさに二つ名をつけられようとしているベル・クラネルというロキの子供の動向を、逐一報告するようにと依頼を受けていたからだ。

 

 決して他言するなと厳命されていたため、最も信頼のおける子供――言い換えればフレイヤのファンである子供を使ってベルの調査に当った。吸い上げた情報は全て隠すことなくフレイヤに伝えられたが、その過程でベルの情報を見た神々は、彼が異常な速度で成長していることを、オラリオにミノタウロス撃破の情報が広まるよりも先に掴んでいた。その成長速度を考えれば、フレイヤが執心するのも頷ける。

 

 そして、フレイヤは執心した子供を他の神から過去にも何度か奪ったことがある。それによるトラブルも後を断たず、ギルドから勧告を受けたことも一度や二度ではないが、対抗派閥であるロキ・ファミリアから奪ったことは一度もなかった。

 

 理由は簡単だ。他のファミリアであれば例え『戦争遊戯』を行う事態になったとしても余裕を持って勝つことができるが、同等の戦力を有するロキ・ファミリアが相手では勝敗が不明瞭になるどころか、最悪負けることも考えなければならないからだ。

 

 フレイヤも謀に優れた女神であるが、かつて『トリックスター』とまで呼ばれたロキはそれと同等以上の悪知恵を持っている。それを運よく完全に出し抜き、仮に勝てたとしても、ファミリアが大ダメージを受けることは想像に難くない。

 

 如何にフレイヤ・ファミリアが猛者揃いと言っても、ロキ・ファミリアと全力で戦った後に抗争をけしかけられればなす術はないだろう。子供の件で方々に良く思われていないということもあるし、ただでさえ男神にモテるフレイヤは色々な女神からやっかみを受けている。

 

 特に、歓楽街を取り仕切っているイシュタルとは、イシュタルからの一方的なものではあるが犬猿の仲である。彼女ならばフレイヤがロキとの戦いで消耗したとなれば、喜んで抗争を仕掛けるだろう。ロキ、フレイヤ両ファミリアには劣るものの、イシュタル・ファミリアも大手の一角で雑魚ではない。フレイヤ・ファミリアとて大打撃を食らうだろうが、そうなると彼女のファンである男神も黙ってはいないだろうし、それが面白くない女神も黙ってはいない。

 

 最終的に多くの神を巻き込んだ大規模な闘争になる可能性を、この二柱の女神の衝突ははらんでいるのだ。特に片方がフレイヤというのが問題をややこしくしている。生来の性格から打算で動くことのできるロキはフレイヤと本格的に喧嘩をすればどういうことになるか良く理解しているが、快楽主義的なところにあるフレイヤはやると言ったらやる。

 

 全ての男性を恋に落とす魅力的な笑顔を浮かべているフレイヤを他所に、居並んだ神々は一抹の不安と微かな興奮を覚えていた。その先に破滅しか待っていなかったとしても、闘争は神々の好奇心を刺激するのである。あのロキとフレイヤが衝突すればどういうことになるのか。気にせずにはいられない。 

 

「……なんや、フレイヤが発言するなんて珍しいな」

「たまには私も参加しないと、忘れられてしまうかもしれないでしょう? それにせっかく参加したのだもの。楽しまなくちゃ勿体ないわ。それで、私もいくつか二つ名を考えてみたの。聞いてもらえるかしら」

「まぁ、昔の好や。言うだけ言うてみい」

「ありがとう。貴女のそういう優しいところ好きよ」

 

 本音を言えば、さっさと自分で考えた名前を付けて閉幕させたいところだが、フレイヤの発言である。ロキと言えども無視することはできない。にこにこ笑う昔馴染みに先を促すと、フレイヤは機嫌良さそうに言った。

 

「あの子、かわいい顔をしているし。 『女神の化身(ヴァナディース)』なんてどうかしら」

「なんでやねん!!」

 

 神話の時代からの付き合いだから何を言いそうというのは顔を見た段階で予想できていたが、案の定だ。まるで自分の子供であるかの名前の付け方に、元々気の長い方ではないロキは一瞬でキレた。

 

 ちなみにヴァナディースというのは女神フレイヤの別名であり、間違っても男性に付けるような名前ではないのだが、ロキがこだわったのは女性用であることよりも、フレイヤ寄りであることだった。

 

「あら、お気に召さない?」

「当たり前やろ! ベルはうちの子やぞ!」

「それならこういうのはどう? 『女神の首飾り(ブリジンガーメン)』」

「せーやーかーらー! 何でお前の子供みたいな名前になっとんねん! いい加減にせんとドタマかち割るぞ!」

 

 テーブルを挟んで向こう側にいるフレイヤにロキは吠えるが、フレイヤは柔和な微笑みを崩さない。いつも通りと言えばいつも通りのやり取りである。特に付き合いの長いロキとは、からかいの度合いは一段と強い。

 

 しかし、いつものフレイヤならばこの辺りでからかうのを止め、話を先に進めている。調子こそいつもと同じなのに、いつにも増して強硬な姿勢だ。二つ名についても冗談である風を装っているが、ロキに怒鳴られても一歩も退かない辺り、本気で言っているのだろう。笑顔のフレイヤとキレるロキ。いつも通りの風景であるが、いつも以上に『神会』の空気は緊迫していた。

 

 これはいよいよヤバいかもしれない。ロキの忍耐にも限界がある。これでロキがきれてフレイヤに手を挙げるようなことがあれば、ファミリア間の抗争は避けることはできない。そうなれば、オラリオ全域を巻き込んだ大規模な『戦争遊戯』に発展しかねなかった。

 

 居並んだ神々のほとんどが、『そろそろ止めた方が良いんじゃないか』と思っていたが、ロキとフレイヤの口喧嘩である。巻き込まれたらと思うと、二の足を踏まざるを得ない。これに割って入れるとしたら、それはよっぽど考え無しのお馬鹿さんか、正義感にあふれたアホか、ただ単純に良い奴かのどれかだろう。

 

 そして――

 

「もうその辺にしておいたらどうだ?」

 

 ついに二柱の神に割って入ったのは、その三番目。単純に良い奴であるミアハだった。当たり前のように仲裁に入ったミアハに、普段は対立しているディアンケヒトでさえ内心で喝采を送っていた。誰も彼も、大手の戦争に巻き込まれるのは御免なのである。

 

「子供の二つ名に熱心になるのは悪いことではないが、それで我々が争っていては意味がない。二つ名を付けられる子も、争った末にそうなったと知れば心を痛めるだろう。聞けば、このベル・クラネルという子供は大変に性根真っ直ぐな子供だということだが、どうなのだ?」

 

 ミアハの視線がロキに向く。自分の子供のことだ。ここに居並んだ神々の誰よりも、ベルのことを知っているという自負がロキにはあった。子供だって、ケチのついた二つ名を付けられたら嫌だろう。ベルのことを引き合いに出されたら、ロキも怒りを引っ込めざるを得なかった。

 

「すまんな、フレイヤ。うちもちょっと熱くなってもうたわ」

 

 素直に謝罪の言葉を述べたロキに、神々の視線がフレイヤに向く。如何にフレイヤでも、その場の空気というものを無視することはできない。神心を操ることに才能を発揮しているフレイヤであるが、それは女神フレイヤというキャラクターの上に成り立っている部分も大きい。

 

 ベルの二つ名はフレイヤにとっても譲れない物ではあったが、ここで更に食い下がって空気の読めない女神と思われるのは、フレイヤとしても避けたいところだった。ミアハの仲裁と周囲の視線。本気でベルの二つ名に干渉するつもりだったフレイヤは、それで折れた。

 

「……そうね、私も言い過ぎたわ。ごめんなさいね、ロキ。貴女の子供なのに」

 

 フレイヤからも謝罪の言葉が出たことで、神々からも安堵の溜息が漏れた。ところが、一つの問題が解決したところで、また新たに問題が持ち上がった。

 

「さて、このベル・クラネルの二つ名をどうするかということだが……」

 

 ミアハの言葉は、神々全員の疑問だった。ミアハが仲裁に立ってロキとフレイヤが争いを止めた以上、慣習に従うならばロキに命名権が移るのが当然なのだが、一応争いが収束したとは言えそれではフレイヤの面目が一方的に潰れてしまう。

 

 波風立てずに収束させるならば、ロキにも命名を諦めてもらうのが良い。親である彼女にとっては業腹だろうが、無難に収束させるためにはこれしかなかった。

 

「……無難なところを僕らで考えようか」

 

 ミアハの問いを引き継いだヘルメスの提案によって、神々はいつになく真面目に、ベルの二つ名を考え始めた。普段ふざけているせいで、最初から無難というテーマが決まっていると中々決まらない。二つ名を決めるに当たり、神々が費やした最長記録を更新し、ようやくベルに与えられた二つ名は、オラリオの歴史に残る無難オブ無難な二つ名となった。

 

 ロキ・ファミリア所属、冒険者ベル・クラネル。与えられた二つ名は『白兎(ホワイト・ラビット)』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




本来ヘファイストス製の武器だけ買うはずだったのが、椿製の武器まで買うことになったので、ヘファイストス・ファミリアの収入は地味に増えています。


ベルくんにはナイト・クローラーとかクイック・シルバーとかかっこいい二つ名を付けたかったのですが、フレイヤ様が自分で付けたがったという話の都合上、原作と変わった上に無難なものとなりました。小人の四人組? 知らない人たちですね。


『ベル・クラネル? あぁ……ミノタウロスに襲われてた。可哀想に。残念だよ、惜しい奴を亡くした。あんなトマト野郎でもいないと寂しいもんだな』


次回、武器を作ろう回です。


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武器を作ってもらおう

 装備は身体にあったものを、というのが冒険者の常識ではあるが、全ての冒険者にそれが適用される訳ではない。経済的に余裕のない駆け出しの冒険者はその一つだ。オーダーメイドの武器は市販の商品よりも高額になる場合がほとんどで、レア素材を持ち込んだとしても技術料が高くついてしまい、結局のところ、金欠冒険者では手の出ない商品となっている。

 

 それでも、鍛冶師側の営業努力により格段に求めやすい商品も展開されるようになっており、神々が地上に降りた頃よりは、装備品の提供もある程度は体制が整ってきたと言えるだろうが、全ての冒険者にという訳にはいかないのが現状である。

 

 冒険者にとって根深い、しかも命に関わる問題と言えるが、金を積めば解決できる問題であるだけに、他の諸々の問題よりも解決は後回しにされている。

 

 金に糸目を付けないならば、大抵の鍛冶師は首を縦に振ってくれる。一見さんお断りというファミリア、鍛冶師もいるが、冒険者を紹介するのが神、それも最大手ファミリアの主神であるロキならば、断る神もいない。

 

 ベル・クラネルは駆け出しの冒険者にして、前述全ての条件を満たした幸運な冒険者となった。

 

 当初頼む予定だったヘファイストスに断られたことに、リヴェリアとレフィーヤは不満を漏らしたが、ヘファイストスが推薦したことにより団長である椿・コルブランドが武器を作ってくれること。いずれヘファイストスが武器を『リクエスト込みで』請け負うと約束したことで満足してくれた。ロキとリヴェリアの出費は増えることになるが、当初の予定よりも条件が良くなったのだから、文句を言うのは不敬というものだろう。

 

 鍛冶の神が手ずから武器を打ってくれるというのだ。地上の子供からすれば、これ以上の好条件はない。

 

「ここやな。ベルはヘファイストス・ファミリアに来るのは初めてやったか」

「そうですね。というか、武器屋さんに来るのがほとんど初めて……だったような気がします」

 

 これも最短記録を更新してレベル2になった弊害とも言える。

 

 レベル2と言えば普通は何年も冒険者をやっているベテランであり、修羅場の一度や二度は潜っているものだ。武器の新調やメンテナンスなど、必要最低限のことは自分一人でできるのが当然のことなのだが、ベルはレンタル品でほぼ全てを賄っている内にランクアップしてしまった。自前の武器を用意するのも、これが初めてである。

 

「まぁ、誰でも初めてはあるもんや。うちもついとるし、緊張せんと気楽に行こうや」

 

 ロキは気楽に言うが、神の身となれば怖いものなどないだろう。地上の子供は緊張もするし、怖い思いもする。冒険者となってオラリオで暮らすようになったとは言え、田舎育ちのベルは大きくて立派な建物にはまだ馴染みがない。それが初めて足を踏み入れる場所で、他人の本拠地(ホーム)であるならば尚更だ。

 

「おーっす。椿と約束してるんやけども、通してもらってええか」

 

 そしてロキは、他人の本拠地であろうとおかまいなしだった。ヘファイストス・ファミリアの団員も、今日ロキが子供を伴って来るということは聞いていたのだろうが、最大派閥の一つ、その主神であるロキを前にして緊張していた。

 

 こくこく頷く団員に軽く手を挙げ、勝手知ったる我が家とばかりにロキは歩いていく。その背中を見失わないようにしながら、ベルはきょろきょろ、物珍しそうに辺りを見回していた。

 

 黄昏の館とは随分と装いが違っている。探索系と鍛冶系というのもあるのだろうか。すれ違う団員も男女を問わず、肌が焼けている。これは日に焼けているのではなく、炉の炎の熱で焼けているのだとリヴェリアから聞いたことがあった。加えて団員も、女性よりも男性の方が圧倒的に多いが、これはロキ・ファミリアと比較してのものである。

 

 冒険者全体として見ても男性の方が多いのは事実であるが、ベルがヘファイストス・ファミリアでそれを感じたのはファミリア全体の中で見て、ロキ・ファミリアが特別女性の比率が高いからだ。ほとんど女性ばかりであるイシュタル・ファミリアのような例外を除けば、女性比率は全ファミリアの中でもトップクラスと言える。逆にアテナ・ファミリアなどは男性比率がとても高いのだが、それはさておき。ベルを連れたロキは、一つの鍛冶場の前で足を止めた。

 

 ヘファイストス・ファミリアでは団員一人一人に専用の鍛冶場が与えられている。腕の良い団員は更に自前の鍛冶場を持っているのだが、今日、彼女はここにいた。

 

 表札には、椿・コルブランドと書かれている。名前の響きからして、東の出身だろうということはベルにも解った。扉のノブに手をかけたロキが、一度振り返って小さくウィンクする。ベルが頷き返すと、彼女は勢いよく扉を開けた。

 

「おお? ノックもせずに誰かと思えば、ロキか。久しいな。直接ここに来るのは何か月ぶりだ?」

「ベートについてきて以来やから、ほんとに数か月ぶりやなぁ、椿。相変わらず、ええ乳しとるで」

「何、邪魔なだけの脂肪の塊よ。もらってくれるというのならば、くれてやるぞ?」

 

 卑猥なロキの冗談にも、椿は顔色一つ変えない。無乳のロキにとっては手痛い反撃に、逆に言った本人が渋面を作っている。彼我の戦力差は圧倒的で、それは誰の目にも明らかだった。

 

 神にさえ気安く物を言ってのけた椿は、笑みを浮かべてベルに歩み寄ってきた。サラシで覆われただけの豊かな胸が歩く度に揺れている。健全な男子であるベルはそれに目が釘付けになりそうになるが、慌てて逸らした。顔はもう、真っ赤である。

 

 それが椿には可笑しかったらしい。カカ、と大声で笑った彼女は、ロキに問うた。

 

「随分とまた、初心な男を連れてきたものだ。これが最短記録を更新した『白兎』とは、実に信じがたい話だな」

「せやかて、このベルがミノタウロスを単独で撃破したのも、最短記録を更新したのも事実やで?」

「ふむ。まぁ、人は見かけに寄らんもの。冒険者ならば特にそうだ。現状レベル2とは言え、仲間のために単身ミノタウロスに立ち向かう気概やよし。主神様の頼みでもあることだし、手前が主の武器を引き受けよう」

「ありがとうございます」

「それで、何を打ってほしいのだ? 剣か? 鑓か? ナイフか?」

「え?」

 

 全く考えてもみなかった椿の問いに、ベルはぽかんとなる。依頼主の渋い反応に、椿の方が今度は眉根を寄せた。

 

「え、ではない。ここは鍛冶屋で手前は鍛冶師。お前たちは武器を打ってほしくて、手前を訪ねたのだろう? 聞きたいのは手前の方だ。まさか何を打ってほしいのかも決めずに、ここに来たのか?」

「……神様、どうしましょう」

「せやな。そこまでは考えてなかったわ……」

 

 ロキもベルも武器を作るという漠然とした要望を持っていただけで、これは、と思う武器がある訳ではなかった。ベルの場合は、今まで使ったことのある剣やナイフなどが良いかな、というくらいだが、未来に希望を抱く少年としては見栄えのする剣や大剣、鑓も捨てがたく思える。つまるところ、希望を一つに絞れるほど、ベルには明確なヴィジョンが定まっていなかった。

 

 結論を出せないベルとロキに、呆れかえった椿は苦笑を漏らした。

 

「……それならば、お任せということで引き受けよう。とは言え、手前の好きな物を打っても、この小僧に扱えないのでは意味がない。噂の『白兎』がどれほど動けるのか、今後の参考までに見させてもらうとしようか」

 

 

 

 

 

「ロキ。手前をこの小僧のパーティに入れてもらえるか?」

 

 

 



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ダンジョンに行こう②

「おはよー、レフィーヤ」

「おはようございます。ティオナさん」

 

 黄昏の館、女子塔の入り口。ティオナとレフィーヤは共にダンジョンに行く時、いつもここで待ち合わせる。ベルが合流するのは、ここから少し離れた所にある訓練場か本拠地の大門なので、ここで合流する時は基本的にレフィーヤが一人だ。

 

 2人でダンジョンに潜っていた所に、別の者が加わるのである。レフィーヤも、最初は良い顔をしていなかったが、二度、三度と一緒に潜る内に少なくとも態度には出なくなった。悪いことをしたなぁとはいかにティオナとて思わない訳ではない。

 

 しかし、こういうことは何も早い者勝ちではないのだ。後からやってきた者だって、良い目を見たいのである。

 

「聞いた? ベルってば鍛冶屋まで行ったのに、何を作ってもらうか決めてなかったんだって」

「ヘファイストス・ファミリアまで行ったのにそれじゃあ、無駄足でしたね」

 

 実際にはヘファイストス・ファミリア団長である椿と繋がりができたのだから、完全に無駄足という訳ではないのだが、出来るだけ早くという注文を出していたのに、肝心の内容が決まっていなかったというのだから、レフィーヤに無駄足と評されるのも仕方ないことではある。

 

 とは言え、ベルは冒険者になって日が浅い。出した結果こそ華々しいものであるが、人生をかける武器をこれ、と決めるにはまだまだ経験が足りない。これについては、もう少し周囲の人間が相談に乗ってあげても良かったかもとティオナも反省していた。

 

「ティオナさんは、ベルはどういう武器を使うのが良いと思いますか?」

「あんまり大きな武器は止めておいた方が良いんじゃないかな。長くても、普通の剣。とりあえずは、短剣かナイフか、そんな所が良いと思うよ」

 

 敏捷特化のベルは、その速度を重視した戦い方が向いている……というのが、ティオナに限らず、ベルの面倒を見ている冒険者全員の見解である。大きな武器は取り回しが難しく、彼の最大の長所を殺してしまう。これが一生で唯一の武器というのではないのだし、まずは向いていそうな物をというのがティオナの考えだ。

 

 

 ベルの姿が見えると、レフィーヤは相好を崩した。正式にランクアップを果たしたベルに、彼女自身がプレゼントしたシャツとズボンを、ベルが身に付けていたからだ。プレゼントして数日経つのにこれなのだから、実に安上がりだとティオナは思った。自分ならば、リヴェリアがプレゼントしたものがベルの身体により近いことが気になって仕方なくなると思うのだが……

 

 それはともかく、ベルはその服の上に倉庫から借りてきた防具を身に付けている。微妙にサイズの合っていなかったそれは、ガレスの手によって今は調整されていた。本職ではないため、分類上は素人のはずなのだが、ドワーフだけあって手先が器用なのである。

 

 武器をオーダーメイドにするのだ。欲を言えば防具もというのは当然の流れだが、残念なことにベルにはそこまでの予算を捻り出すことができない。何の制限もなければこっそり捻出するかも、と危惧したフィンは資金を捻出しそうな団員筆頭であるところのリヴェリアに『高額なプレゼントは禁止』という団長命令を言い渡した。

 

 成果相応とは言え、ヘファイストス・ファミリアの団長が打った武器の入手が確定しているのだ。この上防具までオーダーメイドとなると、流石に他の団員に示しがつかないという訳だ。

 

 にこにこしているレフィーヤは気付いてすらいないのか、ベルの隣に別の誰かがいる。

 

 黒髪、ハカマ、褐色の肌に左目を隠す眼帯。これらの記号だけでも、オラリオに住む冒険者ならば誰のことか察しがつくだろう。ヘファイストス・ファミリア団長、椿・コルブランドだ。彼女は当たり前のようにベルの横に立って彼と談笑をしているが、その隣には大荷物が置かれている。

 

 ドラゴンの爪でも破れないのでは、という程頑丈な作りになっているその鞄からは、長物の武器がはみ出していた。ティオナの位置からはただの槍とハルバード、それからドワーフが好んで使う柄の長い斧があった。離れていても解る重量感からして、見えない部分にも武器が詰まっているのだろう。

 

 あれだけの重量となると、基本的な種類の武器は全て詰まっているのではないだろうか。流石鍛冶師と感心するが、これだけの大荷物を持ってきたとなると、これからの探索に参加するのは目に見えていた。まさか荷物を持ってきただけ、ということはあるまい。椿が持てたのだから自分でも持てるだろうが、あの大荷物を運搬するだけでも一苦労だ。レベル2と3のベルとレフィーヤにあれが運べるはずもないから、そうなった場合、運ぶのは必然的に自分ということになる。そんなのは御免だ。

 

 自分たち以外の人間がいることに、レフィーヤが早速目くじらを立て始めたが、ティオナはこの時点で椿を歓迎することに決めた。

 

「……『大切断(アマゾン)』に『千の妖精(サウザンド・エルフ)』か。ファミリアの事情が絡まぬところで話をするのは、初めてだったかな?」

「かもね。でも、その二つ名はあんまり好きじゃないから、できれば名前で呼んでほしいかな、『単眼の巨師(キュクロプス)』」

「それは申し訳ないことをした。手前も、自分の二つ名はモンスターのようであまり愉快ではないからな。気持ちは良く理解できる。それでは改めて。椿・コルブランドだ。今日は鍛冶師として同行させてもらう」

「ティオナ・ヒリュテだよ。よろしく」

「レフィーヤ・ウィリディスです。よろしくお願いします」

「話がまとまったところで、行こうか。これを全て片づけておきたいのだ」

「……まさか、これを全部ベルに試させるつもり?」

「そのつもりだが? できるだけ早急に、というのはお前たちからのリクエストだぞ?」

 

 何か文句があるか? という椿に、ティオナとレフィーヤは首を横に振った。これが武器作成に必要な行為であると言われてしまうと、冒険者は何も口答えすることはできない。そも、曖昧な注文を持ちかけたのはこちらの方なのだ。試し切りに付き合うくらいは、正当な要求の範疇だろう。

 

 今日はこっちがメインになるかな、と何も考えていなさそうな顔でにこにこしているベルを見て、ティオナは思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レベリングというものがある。高レベルの冒険者が低レベルの冒険者に着いて行き、低レベルの冒険者だけでは到達できないような場所で、安全マージンを取った上で戦わせ、経験値を稼ぐという手法である。

 

 レフィーヤがやっているのは、それに近い手法だ。経験値よりも安全を重視したプランであるが、その分時間をかけているので、全体としての取得効率はそれほど悪いものではなくなっている。安全を重視しつつも、早期にランクアップできるようにとリヴェリアが考えた手法であるが、これが安全をある程度犠牲にし、本当の意味でのレベリングを行っていたら、最短記録を大幅に更新した一か月半という記録でさえ、更に更新していたはずである。

 

 さて、ベルに行われているレベリングであるが、安全が重視されているため、付き添いの冒険者の役割というのは少ない。何かあった時のために手助けするのが精々で、それもベルが大抵のことを一人で何とかしてしまうために出番も少ない。精々、ここはこうするべき、というアドバイスをするくらいだ。

 

 レベル3とは言え、魔法使いであるレフィーヤ一人でも間に合っていたのだ。ここにレベル5のティオナと椿が加わるのは明らかに過剰人員であるが、これでもっと安全に深い所まで行ける、と考えたリヴェリアは人知れずほくそ笑んだのだが、それはまた別の話だ。

 

「では、手前が持ってきた武器を一通り使ってみてもらえるか。まずは明らかに向いていないと思われるものから行ってみよう」

 

 どしん、と眩暈のするような重い音を立てて荷物を置いた椿は、その中から一際目立っていた鑓を取り出してベルに放った。柄の部分まで金属でできた、それなりの重量のものだ。一般人であればそのままひっくり返るだろう重量にも、レベル2になったベルの筋力ならば安心である。

 

 難なくそれを受け取り――しかし、スムーズにいったのはそこまでだった。鑓などまともに扱ったことのないベルは、鑓をもったまま途方に暮れてしまう。いつまで経っても動き出さないベルに、椿は眉根を寄せて疑問の声を挙げた。

 

「……なんだ。フィンが使っているのを見たことはないのか?」

「一緒にダンジョンに潜ったことはないもので……」

「随分と勿体ないことをしているな、ロキ・ファミリアは。せっかくの逸材なのだ。もっと経験を積ませても良いと思うが……今まで何をやってたんだ?」

「浅層でのモンスターの撃退と黄昏の館での訓練。後はリヴェリア様による座学ですね」

「ベル坊、お前それでレベル2になったのか? 凄まじい才能……と片づけるのは早計だな。何か特別なスキルを持っているらしいと噂になっているが……」

 

 いきなり核心を突いてきた椿に、ベルを含めた三人は一斉に視線を逸らした。その態度は椿の言葉を肯定しているに等しかったが、同時に、聞いても答えられない類のものだと雄弁に語っていた。この話題を突き詰めていくと話が大きくなる。それを察した椿はあっさりと追求を諦めた。

 

 椿・コルブランドは鍛冶師である。彼女が興味があるのは打った武器の性能と、その担い手の強さそのものだけだった。担い手がどうして強いかなど、別段の興味はない。

 

「とりあえず、好きなように振ってみろ。この程度のモンスター相手ならば、慣れない武器でも遅れを取ることはあるまい」

 

 新しい武器を試すということで、実力相応の場所よりも浅い層でモンスターを狩ることにした。使い方もよく解っていない鑓だが、この程度ならば大丈夫だろう、という審議をレフィーヤとティオナで重ねて決定した場所だ。彼女らも大概に過保護だが、万が一があってはいけないのだ。

 

 ミノタウロス相手に死にかけたことで、現在リヴェリアがティオナたち以上に過保護になっていた。本来ならば自分でついてきたいと思っているのだろうが、他の団員の手前それは我慢しているらしい。立場があるというのも時に考えものだが、そのせいでレフィーヤはくれぐれも適切に無理をさせろ、と念を押されてしまった。

 

 腰のポーチには、リヴェリアから預かったエリクサーまである。それで、このメンバー、この階層だ。万が一にも死ぬことはないだろうが、それでもリヴェリアは不安らしい。お母さん役というのも大変なのだ。

 

 椿の言葉を受けて、鑓を持ったベルがモンスターに突撃していく。突く、突く、振り回す。本人なりに頑張っているのは見ていて解るのだが、ロキ・ファミリアで一番の鑓の使い手であるフィンの動きを見たことがあるレフィーヤとティオナには、ベルの動きははっきり言って遊んでいるようにしか見えなかった。

 

 早い話、とても恰好悪い。本人の顔立ちがそれなりに整っているだけに、それが余計に際立って見えた。レフィーヤには武術の心得はないが、少なくとも鑓に『これだ!』というものがないのは解った。

 

 女性陣の残念な視線の中でもベルは奮闘し、全てのモンスターを片づけて戻ってくる。ナイフや剣であればここまで苦戦はしなかっただろうが、これも使っている武器の差だろう。息を切らしているベルに、椿は次の武器を渡した。

 

「次だ。斧でも使ってもらおうか。こういうものを持ったことはあるか?」

「郷里に住んでいた頃に、木を切るのに使ってましたが……」

 

 ベルにとっては武器、というよりは日用品である。勿論、武器として使ったことは一度もない。とは言え、使ったことがあると言うだけあって、鑓よりは立ち姿も様になっていた。先程が先程だけに、それだけでレフィーヤはもしや、と思わずにはいられなかったが、薪を割るようにモンスターを割るとはいかず、動きも鑓程ではないがモタついていた。これも、ピンとこない。

 

 次々と武器を切り替えて行くが、椿にこれはと感じさせるのは剣の系統だった。ロキ・ファミリアに入ってから一番使っていたということもあるだろうが、その中でもベルの動きを阻害させない短い武器が、現時点では最も相性が良いように見えた。

 

 短剣、ナイフ。東の武器を入れて良いのであれば、小太刀や脇差など、強いて専門を挙げるとすれば刀剣類が専門である椿は、ベルに働かせながら、彼にあった武器を自分の中で模索し始めていた。

 

「最初の提案にあった通り、短めの武器というのが良さそうだな。東の武器が好みであれば、そういうものも作れるが……」

「カタナ、とかそういうものでしたっけ? ファミリアの倉庫ではあまり見なかったんですが」

「こういうものだな」

 

 鞄の中から、椿が取り出したのは小太刀である。斬ることを前提にした片刃の刀剣であり、西の剣に比べると重量も軽い。頑丈さという点では西の剣に劣るものの、とにかく良く斬れるということで、西の出身者の中にも根強いファンは多い。

 

 鞘から抜いたり戻したりしながら、小太刀を矯めつ眇めつ眺めてみる。ナイフなどよりは長いが、試しに剣帯に差し込んでみると、意外な程に邪魔にならない。鞘が木造というのが良いのかもしれない。オラリオで流通している西の剣の鞘は動物の皮か金属でできているものがほとんどのため、木鞘の手に馴染む質感が気に入った。

 

「やはりか……」

「何がやはりなんです?」

「いやな。ベル坊くらいの年齢の人間の男はな、どういう訳だか小太刀を二本まとめて使いたがるのだ。もしかしたらと思っていたのだが、ベル坊もその口か?」

「二刀流ってかっこいいなーとは思いますけど、使いこなせそうな気はしないので……」

 

 憧れがないと言えばウソになるが、見た目を重視して我が身を疎かにしては本末転倒である。好きな物を作ってもらえると言っても、他人のお金であるので、それじゃあ二刀流で、とも言い難い。ベルの物言いに、椿もうんうん、と大きく頷いた。

 

 鍛冶師である椿は今まで、分不相応な要求をする冒険者を嫌という程見てきたが、そういう連中は総じて早死にする。自分の程度を知っているというのは、生き残るのに必須のスキルと言えるだろう。冒険者は冒険してはいけないというのは、冒険者ならば誰でも知っている格言である。

 

「それが良いだろうな。そういう技術はこつこつ積み重ねて行くと良い。取り回しの難しい武器と同じだ。さて、大体の武器は使ってもらった訳だが――」

「ねえ椿。魔剣って持ってきてないの?」

 

 黙ってベルの動きを見ていたティオナの言葉である。普段使いの武器とは言えないものだが、これだけ武器があるのだから一本くらいは、と期待していたのだ。ティオナも自分の身体と武器を頼みに戦う冒険者であるから、普段自分では使うことのない魔剣が使われるのを、密かに楽しみにしていたのだ。だが、椿の返事はつれないもので――

 

「ない。あれはここぞという時に使うもので、普段使いにするものではない」

「僕も聞いたことがあるだけなんですけど、魔剣っていうのは『魔法みたいなことができる剣』ってことですか?」

「概ねその通りであるな。魔法を遣えない者でも、その魔剣の名前を唱えるだけで、一定の効果を発揮することができる」

「凄い武器じゃないですか!」

 

 魔法が使えず、魔法に憧れを持っているベルからの反応は良い。半面、魔法使いであるレフィーヤの反応は渋かった。ベルが魔法を使えるようになってしまったら、自分の役割が減ってしまう。ただでさえ、かなりのハイペースでランクアップしたのだ。数か月後にはおそらくレベルで並ばれ、一年もする頃には抜かれているだろうことは想像に難くない。

 

 一芸に秀でていることで、レベル3ながら準幹部の扱いを受けているレフィーヤと違い、ベルは純粋なレベル、力量で幹部の座に上り詰めるだろう。監督している者としてそれはそれで誇らしいことではあるのだが、どんどんベルが遠くに行ってしまうような気がして、レフィーヤも少し寂しいのである。

 

「……そうは言うがな。作り手によって威力が全く違うし、何回か使うと確実に破損する。この回数を補充する研究もされてはいるが、今のところ有効な手段は見つかっていないな。武器というよりは固形化した魔法のようなものだと思ってくれ。手前も武器というには、聊か抵抗がある。あれはもう、魔剣という種類のものだ」

「椿さんも打てるんですか?」

「ある程度以上の力量を持った鍛冶師ならば、打てないことはない。無論、かの『鍛冶貴族』の打った物には劣るだろうが……いや、すまん。エルフの前でする話ではなかったな」

 

 珍しく、椿の相手の気遣うような視線を受けて、レフィーヤは慌てて首を横に振った。エルフとして、かの『鍛冶貴族』に思うところがないではないが、話題一つに頭に血が登るほどではない。とは言え、ロキ・ファミリアの中でさえ、かの貴族を蛇蝎の如く嫌っているエルフは大勢いる。椿の配慮も、もっともと言えば尤もだった。

 

「魔法みたいなものを撃たない魔剣とかないんですか?」

「……言っている意味が解らんのだが、どういうことだ?」

「その、魔法みたいな効果を持ち続ける武器っていうのも、あると聞いたんですけど」

「ああ、そういうことか。代表的なものでは『不壊属性(デュランダル)』などがそうだな。早い話が、この力が摩耗しきらない限り、武器が破損することはない。どういう訳だか魔剣の消費回数と違って、こちらの力は鍛冶師が補修することで全快する。何度も使える魔剣と言えばそうなのだろうな。無論、剣の形をしていない武器にかけることもできる。ロキ・ファミリアで言うと、ベートに作ってやったフロスヴィルトなどもそうだな。あれは魔法を吸収するという他ではあまり類を見ない能力を付与してやったのだが、あの狼は装備を雑に扱い過ぎるきらいがあってな……ティオナ、奴にもう少し装備を大事に扱うように言っておいてくれないか?」

「無駄だと思うよー。装備を気にして自分が危なくなったら意味ないし」

「だろうな。手前もそれについては同意見だ」

 

 同じファミリアの、特別な効果の付与された武器の話を聞いてベルは目を輝かせたが、余計に広がってしまった選択肢に混乱することになった。武器の種類一つとっても決めることができないのに、これで特殊な効果の話までされてしまっては、いつまで経っても決められなくなる。

 

「大昔には色々な魔剣があったと聞くがな。この大陸の遥か南にある大陸の更に南にあるとされる、ロータスだかコーラルだか言う島には、かすり傷一つつけただけで魂をも砕く魔剣があるというが」

「不壊属性みたいな感じで、武器に魂を砕く効果がついてたってことかな?」

「手前どもの技術で強引に解釈するなら、そういうことになるな。どうやってそんな属性を付加するのか、手前には見当もつかんが……」

 

 武器が壊れない、という属性が付与できるだけでも、冒険者ではない普通の鍛冶師からすれば神の御業と言っても過言ではない。かつて存在したという以上、椿には見当がつかないというだけで、理論的には可能ということでもある。

 

「まぁ、鍛冶の道を究めていけば、いずれそういう武器を作れることもあるだろう。今はそんな未来のことよりも、こやつのことだ。ベル坊、お前はいくつになる?」

「今年で14になります」

「ならばまだまだ背が伸びる余地はあるな」

 

 からかいを含んだ椿の言葉に、ベルは反射的に苦笑を浮かべた。思春期の人間の少年にとって、身長というのはかなり悩ましい問題なのだ。身体を動かす行為のほとんどにおいて、大きい、高い、長い方が有利であるとされる。人間、14歳のベルはまだ成長期ではあるものの、人間種族の男性としては小柄な部類に入る。

 

 今の身長に合わせて武器を作っても、身長がすくすく伸びればやがて小さく感じるようになるだろう。それはそれで男の子であるベルにとっては好ましいことではあるのだが、椿の言葉はそうはならないだろう、という予想が混じっているように思う。

 

「フィンほどではないが、これはこれで可愛らしいからな。手前は別に成長してくれなくても良いのだが、人間の男としては癪だろう? 牛の乳が良いとも聞くぞ。試してみたらどうだ?」

 

 乳、という単語に、ベルの視線はこれ見よがしに衆目に晒されている椿の胸部へと吸い寄せられた。サラシに包まれただけのそれは、椿の動きに合わせて揺れている。その破壊力は凄まじいものがあり、見ないように見ないようにと念じているベルもついつい視線をやってしまうほどだった。

 

 そして、そういう視線に女性というのは敏感なものである。当事者でなくとも、ベルの視線を感じ取ったティオナとレフィーヤは、何の躊躇いなく拳を振り上げ、ベルの後頭部に思い切り叩きつけた。気絶しそうな程の衝撃にベルの脳裏に火花が散るが、無遠慮におっぱいに視線を向けていたのは事実である。

 

 今度から気を付けようと心中で呟いたベルは、多大な労力を要して椿の胸部から視線を逸らした。




椿のキャラを模索中です。
もう少し原作に出番があれば……


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トラブルの予兆

「――それでは小太刀を軸に短めの武器を中心に話を進めようか。手前の工房にいくつか試作品があるから、今日はそれも試してもらおう……いや、この後リヴェリアの座学があったのだったか? それなら別に明日でも構わないのだが……」

 

 ちら、と椿はベルではなくレフィーヤに伺いを立てた。

 

 鍛冶師の言い分としては、座学などキャンセルさせられるものならさせたいのだが、その座学を主催するのはここにいる面々ではなく『黄昏の館』にいるリヴェリアである。

 

 ベルの教師は血統が重視されるエルフ族において無類の高貴さを誇る存在にして、オラリオにおいては全冒険者の中で十指に入る実力のレベル6。女神も嫉妬する美貌すら持つ彼女の予定を妨害したとなれば、多くのエルフを敵に回しかねない。

 

 種族の坩堝と言われるオラリオに住む亜人の中で、エルフは多数派に属する。その多くが冒険者として登録されていて、オラリオでエルフと言えば概ね、実力が伴っていると言っても良い。つまり鍛冶師にとってエルフというのはそれだけで、潜在的なお客様なのだ。

 

 無論、全てのエルフが同じファミリアに所属している訳ではない。ファミリア単位で行動する冒険者たちは、それ以外の一般人が想像する程に横の繋がりは強くなく、いかにエルフと言えど普段は一致団結して行動することなどほとんどないのだが、出身地や氏族を越えて団結するケースがいくつかある。

 

 その中で最たるものが、高貴な血統による大号令である。声を挙げる必要はない。高貴な血筋に何かあったという、その事実だけでオラリオのエルフはファミリアも主義主張の壁も超えて一つになる。

 

 それ程までに、エルフにとって高貴な血統というのは重要視されている。最大ファミリアの片割れであるロキ・ファミリアの副団長という立場が影響していることもあるが、客商売でもある鍛冶師にとって、オラリオのエルフの顔役のような存在であるリヴェリアは、できることなら敵に回したくない者の一人だった。

 

 椿が伺いを立てたレフィーヤは、対外的にはリヴェリアの一番弟子として認識されている。この場で問うならば間違いなくベルではなく彼女だ。

 

「明日でも構わないなら、明日にした方が良いと思います。都合がつくようなら、リヴェリア様もそちらに行くかもしれませんし……」

「急いでいるのは手前ではなく、お前たちだからな。手前の方は別に問題はない。今週はずっと工房にいる。都合の付いた時間に、都合のついた面々で来てくれれば良い。他の団員には、話を通しておこう」

「ありがとうございます」

 

 椿の言葉に、レフィーヤは深々と頭を下げた。地上の子供たちの中では最高の腕を持つ鍛冶師である。金に糸目はつけないという条件とは言え、レベル2になったばかりのベルの武器作成に真剣に取り合ってくれるか若干不安ではあったのだが、今日の態度を見るに随分と乗り気のようである。

 

 ただでさえ最近はティオナも参加するようになって、パーティの女性比率が上がってきたところなのだ。これ以上人員が増えるのは正直、レフィーヤとしては歓迎できるものではなかったが、人員の充実は自分だけでなくベルの生存率にも影響してくる。

 

 前衛がベル一人で、残りは魔法使いの自分という編成では浅層ならばまだしも、深層まで攻略しようとなればいずれ無理が出てくるのは目に見えていた。いつまでも2人でというのが通らないのは解っているつもりなのだが、理性と感情は全く別のものだ。

 

 近場で見つけるならば同じファミリアの冒険者というのが手っ取り早いのだが、パーティというのは何も同じファミリアだけで組むものではない。椿ならば力量としては十分過ぎるほどだし、鍛冶師がパーティにいるというのは心強いものである。

 

 いずれにしても、ベルのパーティに入るのであればリヴェリアの『面接』を突破しなければならない。レフィーヤが思うに、あれは自分よりも遥かに高い壁だ。早々パーティメンバーは増えないと思うが、気になるものは気になるのだ。

 

「それにしてもさ。ダンジョン内を一気に移動できるような方法があると良いと思わない? 一層から十層まで一気に行ける方法とか、誰か発明しないかな。毎回お金がかかるとしても、それだったら私喜んで使うんだけど」

 

 内心で苦悩しているレフィーヤを余所に、ティオナが軽い口調で言う。一度でも浅層以下の場所まで行ったことがある冒険者ならば、誰もが思うことだ。移動にかかる時間を短縮できるのであれば、その分色々なことができるし、安全もより確保できるようになる。

 

 どういう方法にしろ、経路短縮ができるのであれば冒険者にとって夢のような話だが、そういう方法があるという話は、レフィーヤも聞いたことがない。

 

「その昔、ドワーフの工夫が床に穴を空けて固定化できないかと試行錯誤したようだが、上手くいかなかったようだな。ダンジョンが許容したものしか、永続的には形状を保てないらしい」

「魔法で移動、とかできないんですか?」

 

 これを問うたのはベルである。そんな便利なものがあったら良いな、という軽い気持ちで聞いたのだが、それに応えたのはレフィーヤの深い溜息だった。

 

「……そこまで行くと、もう神の御業と言っても良いですね。マジックアイテムを作成するスキルを持った人たちなら、そういう便利なアイテムを作ってくれるかもしれませんが、現状、良い話は聞いてません。ヘファイストス・ファミリアの方で、何か聞いてませんか?」

「手前どもは武器や防具が専門だからなぁ……そういうことは『万能者(ペルセウス)』にでも聞くが良いだろうよ。現状、マジックアイテムの分野において、オラリオの冒険者の中で最も神に近いのはあやつだろうしな」

「誰なんです? その『万能者(ペルセウス)』って」

「ヘルメス・ファミリアの団長で、レベル3の冒険者だよ。空飛ぶ靴とか見えなくなる兜とか、そういうマジックアイテムを作るのが得意なんだって」

「その人なら、一層から十層まで一瞬で移動するようなアイテムを作れるんでしょうか」

「私の専門は戦うことだからねー。できたらいいなって、そういう話。だからもし、私がそういう便利なアイテムを手に入れたら、特別にベルにも使わせてあげるよ」

「……ありがとうございます」

 

 特別に、という言葉を強調したティオナは笑みを浮かべながらベルとの距離を近くする。それをあまり警戒しないベルに、レフィーヤは僅かに眉を顰めた。性に奔放と言われるアマゾネスにとっては、異性であってもこれが普通の距離感なのかもしれないが、女慣れしていないベルにはきっと身体に毒な距離だ。

 

 異性関係について正反対の慣習を持っているエルフとアマゾネスは、その距離感から良く対立することがあるのだが、その種族間の縮図が、このパーティにも持ち込まれつつあった。レフィーヤも、ティオナがからかっているだけというのは解っていたが、それでもいらっとするのを止めることはできなかった。

 

 イライラする心を無理やり鎮める。私の心が狭いんでしょうか、と自問するレフィーヤの耳に人の声が届いた。

 

 複数人の声だが、それはどう聞いても、多数の男性が女性を含む少数を一方的にいたぶっているような物言いだった。何故こんな場所で? と疑問に思ったのはレフィーヤの他にはティオナと椿――つまりは、ベル以外の全員だった。

 

 誰かの窮地であると察したベルは、一も二もなく駆け出していた。どういう状況で誰が誰に襲われているのであろうと、それを見過ごす道理はない。ベルの行動は人倫に基づいた反射的なものだったが、それを椿が止めた。

 

 足を止めたベルは、彼にしては珍しく迷惑そうな顔をして振り返る。それを迎えた椿はいつも快活な彼女にしてはこれまた珍しく、神妙な面持ちでベルに問うた。

 

「よく考えて行動するんだな。冒険者同士の争いは、簡単には片付かないことが多いぞ? ここであの某を助けることは、争いの最後までケツを持つということだ。お前にそこまでの覚悟があるか?」

 

 その問いには答えずに、ベルは再び駆け出した。生意気で無鉄砲な態度に椿は苦笑を浮かべ、肩を竦める。普段であれば拳の一つも出ていただろうが、不思議と悪い気分ではない。冒険者とは刹那的な生き方をするものだ。感情の赴くままに行動するべきで、それがどうなろうと自分のしたことには責任を持つ。

 

 どんな職業であれ、それが一人前というものだ。思いのままに行動し、それが他人に誇れるようなものであるならば、なお良い。ベルの青臭い行動を笑う冒険者もいるだろうが、椿はそれをしなかった。周囲をみればレフィーヤもティオナも、それが困惑しつつも、ベルの行動を当然と受け入れていた。

 

 人間としては、それで良いかもしれない。

 

 問題は、今からベルが首を突っ込もうとしていることが明らかに面倒ごとであることだが、向こう見ずな後輩の面倒をみるくらい、先達としてやってやるべきだろうレフィーヤもティオナも満更ではないそぶりなのだから、ファミリアの中でもそれなりに愛されていることが伺える。

 

 あの見た目であの性格ならば、女性団員は放っておかないだろうと、椿でも思う。ヘファイストス・ファミリアは鍛冶師という職業上無駄にいかつく、火事場の炎で肌の焼けている者が多い。肌が白く線の細い人間の男性というのは、椿のファミリアにあっては希少な人種なのだ。

 

 見た目で良い武器が打てる訳ではないが、眺めるだけならば話は別だ。周囲にいかつい連中の多い環境で育った椿は、どちらかと言えば線の細いかわいらしい男性の方が好みなのである。問題はそういう連中は大抵椿のような豪放磊落な性分を好まないということなのだが……まぁ、それはそれだ。

 

「あれは中々良いな。一晩で良いから貸してくれんか? 小さくて抱き心地がよさそうだ」

「私の一存では何とも……リヴェリア様にお伺いを立ててみていただけますか?」

「あれはあれで猫っかわいがりをしているという話だから無理そうだな。時に、お前の一存で決められるとしたら、手前の問いに何と答える?」

「寝言は寝て言ってください!」

「了解した。愛されているようで何よりだ」

 

 お前は? と視線で問えば、ティオナは無言で首をかっきる仕草をしてみせた。こちらはレフィーヤ以上に取り付く島がない。レフィーヤほど好意を持っているようには見えないが、何しろティオナはアマゾネスだ。お友達程度の関係であっても、アマゾネスから男を取り上げるとなれば流血くらいは覚悟しなければならないだろう。

 

 抱き枕にするには、ハードルが高そうだ。とりあえず、今晩は毛布を代わりに抱きしめることを心に決めて、ベルを追って走り出す。そこそこに距離があったことが幸いしたのか、椿たちが追いついたのとベルが目的の場所に到着したのはほとんど同時だった。

 

 眼前ではやはり、いかにも冒険者といったなりの男が五人、一人の少女を囲んでいる。子供のように見えたが、小人族だろう。散々殴る蹴るをされた後なのか、薄汚れて自分の流した血にまみれている。もはや自分の力では動けまい。

 

 この場所で、これだけのことをしたのだ。ただの『落とし前』ということではないだろう。ここで殺すかあるいは動けなくして放置し、モンスターに処理をさせるか。いずれにせよ、少女を亡き者にしようとしていた可能性は非常に高い。最初からトラブルの臭いを感じていた椿だったが、予想以上のきな臭さに顔をしかめた。

 

 だが、そんなトラブルの臭いも頭に血がのぼっているベルには関係がない。彼は多数の男が少女を囲んでいると言う事実にのみ着目し、男たちに向かって声を挙げた。

 

「待ってください! その娘が何をしたって言うんですか!」

「俺の仲間の持ち物を何度も何度も盗んで金に換えてやがった。これはその落とし前だ」

「だからって――」

「待て、ベル坊」

 

 無抵抗の少女を多人数で囲んで、殴る蹴るをして良い訳ではない。倫理的に判断するならそうであるが、冒険者の事情が絡むと話は変わってくる。

 

 オラリオにおいていくつかの特権を有している冒険者であるが、神でない以上人の作った法律に縛られる。人の物を盗み、それが明るみに出れば当然窃盗として裁かれるのだが、冒険者が冒険者の物を盗んだ場合、特に荒っぽい連中の間では私刑が黙認される傾向が強かった。

 

 大抵の場合は金品が戻ってくることはなく、無い袖は振れないと盗まれた側が一方的に損をすることになる。ならばと、ある程度の報復ならば許容する風潮があり、殴る蹴るをされた方も負い目があるから傷害などで訴えることは少ない。

 

 少女が盗み男たちが盗まれたとなれば、その制裁に部外者が口を出すものではない。少なくとも、冒険者の慣習に従うならばそうであるが、冒険者になって日が浅いベルはその辺りの機微を理解していない。

 

 仮にしていたとしても、ベルは声を挙げていただろうという確信が椿にはあった。そういう向こう見ずなところは嫌いではないが、ここで直情的に突っかかられると、話がややこしくなってしまう。

 

 ベルの言葉を引き継ぐ形で、椿は前に出た。褐色の素肌にサラシ。袴姿に眼帯という特徴のある風貌に、少女を囲んでいた冒険者たちも、一目で椿が何所の誰かを理解した。

 

「手前が誰か分かるのならば話は早い。お前たちの怒りも理解できるが、ここは手前に免じてそこまでにしておいてくれぬか? 手前も一応女でな。目の前で男に、一方的に少女が嬲られているのを見るのは好かんのだ」

「だから、お前らには――」

「手前は、そこまでにしてくれと頼んだぞ? それとも何か? 頼む以外の方法でなければ、いけないのか?」

 

 椿が凄むと、冒険者たちは一歩後退った。ヘファイストス・ファミリア団長である椿は、レベル5の一級冒険者である。彼らが一致団結したとしても、勝てる相手ではない。

 

 加えて鍛冶系のファミリアは、ポーションなどの消耗品を製造するファミリアと並んで、冒険者たちの命を預かっている集団である。親子兄弟に暴言を吐いても、鍛冶師と薬師には阿るべしというのはオラリオに伝わる小話のオチもある。素材などの関係で意外と横の繋がりの強い鍛冶系ファミリアが、揃ってそっぽを向いてしまっては冒険者として生きていくことはできない。

 

 椿が止めろというのならば、内心でどう思っていたとしても、冒険者たちはそれに従わざるをえなかった。苦虫を噛み潰したような顔で、男たちの一人が吐き捨てる。

 

「…………好きにしろ」

「話を理解してくれて助かる。ああ、無論のことタダでとは言わん。これは手前の作った試作品なのだがな、これをお前たちにやろう」

 

 椿は男たちに、自分の持っていた鞄を放り投げた。椿は軽々と持っていたが、彼女はレベル5。現在オラリオにいる全ての冒険者たちの中でも上位五十人に入る強者である。対して男たちは高い者でもレベル2。その膂力には大きな差があった。

 

 武器をこれでもかと詰めた鞄は、男たちが全員で担いだとしても一仕事だ。試作品とは言え椿・コルブランドが作った武器が大量にある。捨て値で捌いたとしても一財産なのは間違いないが、全員で担いでも持っていけるかどうか……

 

「話は済んだ。もう行って良いぞ。失せろ」

 

 持てるかどうかというのは、この言葉の段階で関係がなくなった。自分たちのしなければならないことを理解した男たちは全員で分担して鞄を持ち上げた。ふらふらとした足取りである。これでモンスターに襲われたらどうするのかと心配になるベルだったが、今気にするべきは男たちのことではなく襲われていた少女のことだ。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 何とか起き上がった少女に、レフィーヤがポーションを振りかける。外傷はそれで何とかなるが、身体の中の傷はそうはいかない。痛みますよ、と前置きしてから、残ったポーションを少女の口に当てる。ゆっくりと薬品を嚥下するのに合わせて、少女の胸が揺れた。

 

 こっそりと、ティオナの視線が自分の胸元に向く。小人族だから見た目通りの年齢をしているとは限らないが、まず自分よりも年上ということはないだろう。頭二つは身長が低いのに、明らかにその胸元は自分よりも豊かだ。

 

 やっぱり助けない方が良かったんじゃないかな、と激しく私的な理由でティオナが人知れずやさぐれる中、一同を代表して椿が少女の前に立った。

 

「まぁ、知り合ったのも何かの縁だ。ここは共に食事でもしながら今後のことを話さないか?」

 

 言葉通りに受け取るならば、親睦を深めようという前向きなお誘いであるが、椿が少女を見る目にそんな友好的な光はなかった。レベル5の冒険者が放つ重圧を伴った眼光に、少女は自分がまだ窮地を脱していないことを理解して、そっと溜息を吐いた。



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宣戦布告

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 秘密の話をするのに適した場所はそうない。ある意味、先ほどまでいたダンジョンが最も適した場所であるといえるのだが、怪物の他、敵対勢力に遭遇する可能性を考えるとそのままという訳にはいかなかった。

 

 ならばどこか、ということで移動した先は、適当に見つけた大衆食堂だった。『火蜂亭』という名前のそこはそれなりに人が入っている。客層は冒険者ではない人間の方が多いだろうか。

 

その少ない冒険者たちは、新たに店に入ってきた集団の中に高位冒険者である椿やティオナの姿を見つけて目をむいた。まだまだ視線を集めることに慣れていないベルたちは、注目を浴びることに居心地の悪さを感じるが、当の椿たちにこれを気にした様子はない。 

 

 食堂をずんずん進み、一番奥まったテーブルを選ぶとさらに奥まった席に少女を押しこめた。その進路を塞ぐように、右にティオナ、左にレフィーヤが座る。椿は正面。ベルが所在なさげに座ったのは、椿とレフィーヤの間だった。

 

「まず、名前と所属を聞いておこうか」

「リリルカ・アーデ。ソーマ・ファミリアの所属です」

「やつらの仲間の装備を奪った、というのは事実に相違ないか?」

「……間違いありません」

「そうか。では、手前から聞くべきことはもうない。今後のためにもしかるべき所に突き出しておくべきだと思うんだが、ベル坊、お前はどう思う?」

 

 どう思うも何も、盗みが事実であるのならばベルたちにはそれ以外の選択肢はない。私刑にかけられていたところを助けた縁はあるが、お互いのことは名前と所属くらいしか知らないのだ。心苦しく思うところはあるものの、だからと言って罪を犯した者を助ける理由にはならないだろう。

 

 冒険者としてのベルたちの務めは、例えば罪を犯した者がいるとしたらそれを捕まえるところまでで、それを裁く権利はない。

 

「私は椿の案に賛成かな」

 

 既に気持ちの整理はついているのだろう。運ばれてきた麦酒に口を付けながら、ティオナが続ける。

 

「レベル1でサポーターの小人をダンジョンで私刑にかけてたんだから、殺すつもりだったんでしょ? この娘の命のことを考えても、ちゃんとしたところに突き出した方が良いと思うよ」

 

 とは言え、先々のことを考えれば、それも危うい。私刑にかけられるようなことをしたのならば、それ相応の恨みを買っているということでもある。冒険者が一般人に手を出すことは重罪だが、相応のペナルティを覚悟するならば、手を出せない訳ではない。

 

 完全に手を切りたいのであればオラリオを出るしかない。来るものは拒まないオラリオだが、冒険者が出ていくことには厳しい。追手が冒険者に限られるのであれば、外に出るのと出ないのではかなり安全度が異なるのだが、当のリリルカも冒険者である。出入りは大きく制限されるに違いない。

 

 結局のところ、当局に突き出されることが現時点では最も安全なのである。リリルカとしてはできればそれは避けたいところだろうが、コネも金もない現状、それを避ける手段もない。命を助けてくれたベルたちが突き出すと言えば、それに強く反対する手段はないのだった。もっとも――

 

「サポーターの扱いが悪いことは僕も知ってますけど、リリルカさんはどうしてそこまでしてお金が必要なんですか?」

「ちょっ――」

 

 ティオナが止める間もあればこそ、リリルカは待ってましたという表情を僅かに浮かべ、ベルたちにとっては最悪な答えを口にした。

 

「ソーマ・ファミリアから抜けるためです」

 

 ――向こうから不用意に首を突っ込んでくるならば、話は別である。

 

 リリルカの返答の受け止め方は、二つに分かれた。ベルは彼女の言葉を額面の通りに受け取ったが、彼以外の三人は渋面を作り、その言葉が齎す自分たち、そしてファミリアが被る被害について考えを巡らせていた。

 

 足抜けのために他人の物に手を付けるというだけでも問題なのに、それを他のファミリアの冒険者が助けたとなれば、話がより複雑になってくる。

 

 既に椿たちはリリルカを助けてしまった。話の流れからして、リリルカと初対面であることはあちらも理解はできただろうが、こういう込み入った話の場合は『そうではない』という論法で押し切ってくることも間々ある。リリルカの目的がこちらを巻き込み、話を大きくすることだとしたら既に目的は半ば達成されたと言っても良い。

 

 ここから先は、ベルや椿の所属するファミリアが問題になる。最大手の一つであるロキ・ファミリアに鍛冶系ファミリアの中で最大規模を誇るヘファイストス・ファミリアと、ソーマの販売を手掛けているとは言え中規模の域を出ないソーマ・ファミリアでは規模が違い過ぎる。

 

 話が大きくなり、ファミリア同士の問題となってもソーマと、ロキやヘファイストスでは『神会』での発言力が違う。強請集りの類はまず通らないし、そもそもソーマが神の集まりに全くと言って良いほど顔を出さないというのは、オラリオでも有名な話だ。ファミリアを仕切っているのが人間ならば、あくまで冒険者同士の話し合いで解決しようとしてくる可能性が高いだろう。

 

 その場合は、こちらの方から話を大きくしてやれば、あちらは引くかもしれない。あくまでソーマ・ファミリア『だけ』が相手の場合であるが、あちらは神を引っ張ってこられない以上、片方だけが神を持ち出せば一方的に押し切るということも可能ではある。

 

 リリルカの目的はその辺りだろうと、椿は当たりを付けた。元からこんなことを考えていた訳ではあるまい。命を助けられ、ここまで連れて来られる間に考えを纏め、これを口にしたのならば中々敏い少女ではある。金銭によってファミリアを抜ける制度があるとはそんなに耳にする話ではないが、それが非合法組織から抜けるのと同様の話であれば安い金額でないことは想像に難くない。

 

 所属しているのは冒険者ばかりの組織であるから、金額も冒険者なりの金額に設定されてるはずだが、リリルカは冒険者であってもサポーターだ。上下の振れ幅が大きい冒険者の収入の中でも、低レベルのサポーターは更に低い部類に属する。

 

 冒険者の装備をかすめ取って処分しているのであれば蓄えもあるだろうが、それでも目標金額を達成するには遠いに違いない。そも、設定された金額を収めた所でファミリアを確実に抜けられるとも限らない。冒険者でなくなるのは主神の承認が必要だが、組織を統括しているのが人間ならばそこで神が出てくるという保証はない。

 

 より確実に、と考えるならば他人の手を借りるのはそれほど的外れな手ではないだろう。余計なことに巻き込まれればその冒険者も良い顔はしないだろうが、それ以降冒険者でなくなるならばオラリオでの立場がどうであろうとあまり関係がない。

 

「お前を囲んでいたのは、ソーマ・ファミリアの連中で違いないな?」

「はい、間違いありません」

「奴らは仲間が物を盗まれたと言っていたが、それはソーマ・ファミリアの連中ではないな?」

 

 リリルカはそれで押し黙ってしまう。その態度から、椿はリリルカの仕事がソーマ・ファミリア以外の複数のファミリアに跨って行われていることを理解した。思っていた以上に複雑な話だ。ベルの判断である。協力したことに今更否やを唱えるつもりはないが、いよいよ話が複雑になってくると椿の口からもため息が漏れる。

 

「…………やっぱりさっさと突き出しましょう。これで私たちまで巻き込まれるようなことになったら、リヴェリア様やアイズさんに申し訳ないです」

「そこでロキの名前が出てこないところに、そちらの雰囲気の良さが感じられるが、まぁ良い。こんなところだ、ベル坊。まさか異論はないな?」

「…………はい、ありません」

 

 何も言いたいことがない訳ではないが、他の全員が反対をしている。ベルとて、感情の整理がついていないだけで理性ではリリルカを突き出すべき、と解ってはいるのだ。皆がそうすべき、というのであれば反対する理由はない。

 

 一方のリリルカは、一人明らかに人の好さそうだったベルが折れたことで、全ての希望が潰えてしまった。ダンジョンで魔物のエサになっていたことを考えればこれも上々の結果であるが、小人、安全な場所まで浮上すると欲が出てくるものだ。

 

 何か他に打てる手はないのか。何しろかかっているのはリリルカの人生である。生きてきた中で最も頭を使って考えていた、そのせいだろうか。高レベルの冒険者たちよりも先に、リリルカはそれに気づいた。

 

 一瞬遅れて椿、ティオナが気づいた時には、彼らはもう『火蜂亭』へと踏み込んでいた。

 

 冒険者の集団。十人は下らないだろう。先頭にいる身なりの良い男が、集団の代表に見えた。ベルたちの中で、その男が誰なのか察しがついたのは椿とリリルカだけだった。

 

 ヒュアキントス・クリオ。アポロン・ファミリアの団長で、レベル3の冒険者である。彼がいるということはすなわち、アポロン・ファミリアとして行動しているということ。彼は店内をぐるりと見回すと、まっすぐリリルカに視線を定めた。

 

 この時点で、リリルカが手をつけた冒険者の中にアポロン・ファミリアの団員がいたことが解る。どこのファミリアに手を出したかというのは、まぁ、この際あまり問題ではない。ベルたちはリリルカを突き出すと決めた以上、そこから先は彼女と被害者の問題であり、ベルたちは関知することではない。

 

 問題は、今現在ヒュアキントスが団員を引き連れてこの場にいることだ。これに疑問を持ったのはやはり、椿とリリルカである。彼らの目的がリリルカなのは間違いないが、それにしても登場が早すぎる。ベルたちはダンジョンを出てまっすぐこの店に来た。適当に選ぶ時間があったとは言え、それも誤差のようなものだ。

 

 アポロン・ファミリアの面々が最初から的をかけてリリルカの行動を追っていたのだとしても、ヒュアキントスも込みで動いていたのでなければ、このタイミングでの登場には説明がつかない。

 

 他所の団員に物を盗まれた、というのはファミリアとして決して小さな問題ではないが、結局はそれだけの話だ。団長まで出てくるということはファミリアとしてそれだけ話を大きくするということであり、延いてはファミリア同士の問題にまで発展する可能性もある。

 

 よほど金額が大きいならばともかく、たかがそれだけで、ファミリア全体が動くとは考えにくい。何か裏がある、と椿とリリルカは同時に直感した。

 

 椿がリリルカを見る。何か心当たりはあるか、という視線での問いに、リリルカは首を小さく横に振った。嘘を吐いている風ではない。事実、リリルカは本当に心当たりはなかった。確かに彼らの物に手を付けた。アポロン・ファミリアはオラリオにあるファミリアの中でも取り分け面子を大事にする連中であるが、当事者の片割れであるリリルカからしても、やはり大げさに過ぎる気がする。

 

 盗人一人に対する動員規模ではない。何か別の思惑が働いていると考えるに至るが、リリルカにはその心当たりが全くなかった。

 

 対して椿は、リリルカ以上に手がかりがない。ヘファイストス・ファミリアの団長という職業上、色々なファミリアの情報は入ってくる。ヒュアキントスというのはまさに神の子というべき男であり、主神であるアポロンのことを第一に考える。

 

 アポロン・ファミリアの団員の物に手を付けたのであれば、なるほど、アポロンの顔に泥を塗るということにも繋がるが、翻って言えばその程度で団員を動員する小物という、悪評にも繋がりかねない。これまた、やはり相当の額が動きでもしない限り、団長自らが動くということはないはずだ。

 

 ともすれば、リリルカが手を付けたのがヒュアキントス本人か、あるいはアポロンその神の物に手をつけた、という可能性もないではないが、それだと現状では明らかに規模が小さい。

 

 リリルカが行ったのが、彼女の身の丈相応の盗みであるならば、現状は明らかに不相応である。その差分を埋めるならば、それなりの道理がなければならない。アポロン・ファミリア団長であるヒュアキントスが動くだけの理由となれば――

 

(神アポロンの勅命である、か……)

 

 そう考えるのが自然ではある。

 

 だがそうなると、やはり『どうしてリリルカに』という疑問は残る。いずれにせよ神の勅命が出たというのであれば、これ以上を調べるとなると神か、それに近い立場の者の手を借りるより他はない。

 

 目下の問題は、現状、この場をどうやって切り抜けるかである。

 

 雰囲気からして、あちらの目的がリリルカなのは間違いがない。ダンジョンで彼女に手を出したのは彼女と同じくソーマ・ファミリアの団員であるが、それと同等のことをしでかしそうなことは、彼らの剣呑な雰囲気を見れば解った。

 

 リリルカとアポロン・ファミリアという組み合わせが衆目に触れてしまった以上、まさか命を奪うなどということはあるまいが、死なない程度に痛めつけるだろうことは、想像に難くない。

 

 椿個人としては、別にリリルカがどうなろうと知ったことではない。盗みが原因で私刑にかけられるならば、それが因果応報というものだが、ベルを中心に一度彼女を助けるという判断をした以上、最後まで面倒を見るのが筋というものだ。危害を加えられると解った上でリリルカを引き渡すのは、道義に反する。

 

 ここでリリルカを渡さないということは、アポロン・ファミリアと事を構えるということに等しい。ダンジョンの中で念押ししたことが、早速火の粉となって身に降りかかっているが、果たして我らがベル坊はどういう判断を下すのか。

 

 お手並み拝見、というつもりで椿は一歩退いた。判断をベルに譲る、という無言の意思表示に気づいたティオナがそれに続いた。これで先頭に立っているのはベルと、その背後に寄りそうようにしているレフィーヤである。

 

「私はアポロン・ファミリア団長、ヒュアキントス・クリオだ。我らが神の勅命である。その小人をこちらに引き渡してもらおう」

「お断りします。彼女は僕らで、しかるべきところに引き渡します」

 

 にべもなく、はっきりと断られたことに、ヒュアキントスの端整な顔が僅かに歪んだ。邪魔が入ることは想定していたが、それがこんな小僧だとは予想もしていなかったのだ。白い髪に赤い目。兎のようなその風貌には、ヒュアキントスも覚えがある。

 

 最近、レベル1から2への最短記録を更新した。ロキ・ファミリアの『白兎』だ。見れば、その背後にはエルフの少女が控えている。同じく、ロキ・ファミリアの『千の妖精』だ。それに件の小人の周囲には『大切断』に『単眼の巨師』もいる。

 

 ここまでとなると、流石に想定外ではあった。主命である。例えどんな障害があっても成し遂げるつもりではあったが、立ちはだかるのが大手のファミリアとなると、話は違った。

 

 戦が始まれば、勝つために全てをかける。それは神の子として当然の行いであるが、勝つに難しい相手と、そうでない相手というのは確実に存在する。アポロン・ファミリアにとって、ロキ・ファミリアとヘファイストス・ファミリアというのは、まさにその筆頭だった。

 

 神の名において行動する以上、そこにはそれらしい振る舞いが要求される。主命を成し遂げることこそ第一だが、そのために主神の顔に泥を塗るようなことがあってはならない。 勝てない――勝つことが難しいファミリアをことを構えることは、最後の最後の手段であるべきだ。

 

 しかし、である。

 

 神の名前を出して行動に移してしまった以上、子供の判断でその拳を降ろすことはできない。ヒュアキントスたちにとって、リリルカ・アーデを連行するということは決定事項であり、これはアポロン本人が命令を撤回しない限り、違えることはできない。

 

 だが、その過程でロキ・ファミリアやヘファイストス・ファミリアと事を構えることになるとなれば、熟考が必要だろう。早い話が割りに合わないのだ。既に、盗人の小人一人を捕まえるのに、主命とは言え大人数を動員している。

 

 この上、ファミリア間の抗争となれば、間違いなく更に衆目を集めることになるだろう。できれば穏便に話を済ませたいというのが、ヒュアキントスの本音であるのだが、目の前の『白兎』は如何にも正義感の強そうな、冒険者という単語に夢を抱いていそうな若造である。

 

 言葉の裏にあるものを読めと言っても、彼には通じまい。話が通じないとなれば拳を交えるより他はないのだが、彼らの所属するファミリアは自分たちよりも巨大で、強力である。勝負の内容にも寄るだろうが、ファミリアの1対1同士の戦いとなれば、アポロン・ファミリアの団員全員が死力を尽くしたとしても、勝利の目は限りなく薄い。

 

 そこまで解った上で、頑なな態度に出ているのであれば大したものだが、ヒュアキントスの目に『白兎』はやはり小僧として映った。忌々しいことこの上ないが、主命を成し遂げるためにはこの小僧を除かねばならない。思考するが、考えることのできる時間は少ない。

 

 さっさと判断を下さなければ、より悪い状況へと話が転がってしまう。振り上げた拳をどうするか、どの辺りを落とし所にするか。団長として、主神の名誉とファミリアの利益を考えていたヒュアキントスの横を、団員の一人が横切った。

 

 殺気立った彼の目に不穏な影がある。止める暇もあればこそ、彼は躊躇いなく拳を振り上げ、『白兎』に向かって振り下ろした。無抵抗にそれを受けた『白兎』は溜らず吹っ飛び、テーブルに直撃してそれをひっくり返す。

 

 『火蜂亭』が騒然となる。アポロン・ファミリアの団員が主神の名の元に、拳を振り下ろした。これは実質的な宣戦布告である。それを理解していたティオナは、それまでの傍観の態度から打って代わり、殺気だった雰囲気で自分の得物に手をかけた。

 

 オラリオにその名を轟かす『大切断』である。その特徴的な武器と、アマゾネスにしては貧相な身体は、関わり合いになってはいけない女の筆頭の特徴として、冒険者たちに知れ渡っていた。

 

 拳を振り下ろした男以外が、騒然となる。やるならば誰が相手でもやる、という強い気持ちできてはいるが、いきなり、それもレベル5の冒険者が相手ともなれば身も竦むというものだ。

 

 しかし、戦いの幕は既に斬って落とされている。それも斬り落としたのはこちらの方だ。手違いでしたで済まないのは、殺気だけで人を気絶させかねない程激怒している『大切断』を見れば解った。

 

 こうなればもはや、戦うより他はない。覚悟を決めたアポロン・ファミリアの面々が各々の武器に手をかける。巻き込まれてはかなわないと、食堂にいた客たちは我先にと逃げ出している。

 

 真っ先に戦うことを決めたティオナに、それを迎え打とうとするアポロン・ファミリアの団員たち。殴られたベルは、レフィーヤに介抱されている。どうしたものかと態度を決めかねているのは、椿だ。混乱に乗じて逃げようとしていたリリルカの首根っこを掴み、さて、と腰を落ち着けて考える。

 

 殴ったのはアポロン・ファミリアで、殴られたのはロキ・ファミリアのベルである。義理も人情もない表現をするならば、ヘファイストス・ファミリアの所属である椿は、これから始まるだろう騒動にはあまり関係がない。ファミリアの規模を考えるならば、規模が大きいロキ・ファミリアに分があるように見えるが、ここまでが何者かの仕込みであるならば、これより先にも何か、手が打ってある可能性は高い。

 

 ロキ・ファミリアと事を構えて、それでもなお、勝てる算段があると考えるのだとしたら。アポロン・ファミリアの背後にいるのが何者なのか、ぼんやりと影が見えてきた。このまま戦うのは、おそらく得策ではないのだろう。ベルのことを考えるのならば、この場で強引にでも割って入って、適当な落としどころを用意してやるべきだ。

 

 先に手を出したアポロン・ファミリアは少なくないペナルティを払うことになるだろうが、大手ファミリアの一つと戦うリスクに比べるならば、一考の価値はあるだろう。時間をおいて頭を冷やせば、まだこの段階ならばお互いに引き返すことができる。

 

 その仲裁ができるのは自分一人であると椿は自覚していたが、彼女はそれをしなかった。ロキ・ファミリアにとって、ベル・クラネルにとって、これはまさに災難であるが、同時に、器を量る良い機会でもある。最短記録を更新した『白兎』が、これからも英雄への階を上り続ける器であるのか。

 

 先達の冒険者として、また、彼の武器を請け負った鍛冶師として、椿は大いに興味があった。

 

「止めないんですか? リリはできれば、ここで止めてくださるとありがたいんですがっ」

「お前に言えた義理でもないと思うがな……まぁ、奴らやお前に事情があるように、手前にも希望があるのだよ」

 

 かかっと、小さく笑って見せた椿は、視線を上げて店の入り口を見た。何者かの仕込みであるならば、場が煮詰まったこの状況に、更に劇薬を突っ込んでくる可能性が高い。殺気立つ冒険者たちの背後で、店の扉が開く。

 

 神の伝令と呼ばれた男神を従えたその神は、店をぐるりと見回して、言った。

 

「で、これはどういう状況なん?」

 



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暗躍していた旧友

 

 

 

 

 

 

 

 

「話は聞かせてもろうたで」

 

 ベルたち、自分の子供から事情を聞いたロキは、にこにこと笑いながらヒュアキントスの前に立った。笑顔ではあるが、その目は全く笑っていない。自分の子供が殴られたのだ。情の深い女神ならば、当然の反応である。自らの主神でないとは言え、神の怒りをその身に受けたヒュアキントスは、冷や汗が止まらなかった。

 

 その横で、騒動の原因の一つであるベル・クラネルを殴った団員は、平然としていた。『貴様のせいで!』と怒鳴りたい気分ではあったが、団員が何かをしでかした時、責任を取るのが団長の仕事だ。些事であれば部下に丸投げしたところで、誰も責めはしないだろうが、これは勅命を受けての行動中であり、団長であるヒュアキントスも同道していた最中のことだ。対応を他人任せにすることはできなかった。

 

「アポロンの命令で動いてたなら話は早いな。今すぐ、アポロンをここに連れてきてもらえんか?」

 

 自分たちの不始末のために主神を呼び出すなど冗談ではないが、オラリオにおいて神の言うことは絶対で、それは自分の主神でなくても同様だ。ヒュアキントスはすぐに、ホームへ使いを出した。

 

『ロキ・ファミリアとトラブル。神ロキは既にあらしまし。早急にご足労願う』

 

伝えたのはそれだけだったが、たったそれだけでどの程度の危機なのか理解してくれるだろう。

 

 伝令を出してしまえば、ヒュアキントスにはもうすることがない。人が減った食堂の中で、さりとて帰る訳にもいかず。神ロキが『白兎』の手当てをしているのを、複雑な感情で眺めながら待つこと、十分少々。

 

「やぁ、待たせたねロキ」

 

 ヒュアキントスたちの主神であるアポロンが、姿を現した。アポロン・ファミリアの面々は、団長であるヒュアキントスまで含めて、残らず膝をつく。太陽の神たる偉丈夫は、そんな自分の子供たちを見降ろしながら、悠然とロキの前に立つ。

 

 そうすると、神ロキの小柄さが目立った。勢力こそオラリオでも最大規模であるが、ロキ本人にそれほど威圧感というものはない。豊満な体つきをした女神が多い中で、ロキはまさに少年のように華奢である。その点、真逆の容姿をしている女神フレイヤと良く対比されるのだが、ロキ本神はそれを特に気にしていた。

 

 では犬猿の仲かと言えば、これがそうでもない。対立こそしている。率いる組織のため、子供のため、隙あらば相手の寝首を掻こうと影日向に戦いを続けているが、そういうものと離れると、二神の仲はそう悪いものではなかった。オラリオ七不思議の一つである。

 

「いやぁ、そんなに待っとらへんよ。足運んでもろうて悪いなぁ」

 

 にこにこと、人好きのする笑みを浮かべたロキであるが、その糸目はちっとも笑っていない。どういう事情であれ、子供が一方的に殴られた現場に居合わせたのだ。ここが親の貫禄の見せどころとばかりに、ロキは土足大股でアポロン・ファミリアに切り込んでいく。

 

「で、うちの子が貴様んとこの子供に殴られた訳なんやけども、どう落とし前つけてくれるん? しかもなんや、聞けばこいつら貴様の命令で動いとったそうやないか」

 

 せやからお前の責任も重大やな、という言外の言葉に、アポロンは涼しい笑みを浮かべて応えた。

 

「そこの小さな彼女が先に、僕の子供に『おいた』をしたんだ。落とし前ということであれば、こっちの方が先だと思うんだけどね」

「せやな。それは別に間違っとらん。正直うちも、盗人がどうなろうと知ったこっちゃないんやけどな……その過程でうちの子供に手を挙げたんなら、話は別や。こっから先はうちが仕切る。そっちには引いてもらおか」

 

 最大ファミリアらしい大上段からの物言いであるが、それなりに筋は通っている。『戦争遊戯』にまで発展して白黒つけることは、弱いファミリアの方からすれば避けたい事態だ。別に叩き潰してしまっても構わないロキ・ファミリアからすれば、これでも譲歩していると言えるだろう。そこに至る事情はともかくとして、子供が殴られたことに対する対処としても、穏便であると言える。

 

 リリルカ・アーデを債権としてみた場合、ロキはそれを放棄しろと言っている。それも冒険者個人としてみれば決して安い金額ではないが、ファミリア全体として見れば微々たるものだ。これを放棄したところで金銭的な痛手はないし、元よりない袖は振れぬと私刑にかけようとしていたところである。ロキ・ファミリアに屈する形とはいえ、それを避けることになるのだからファミリアの面子も幾分保たれることだろう。

 

 だが、その債権の放棄が簡単でないことはヒュアキントスもよく理解していた。ロキの言い分が通ればリリルカはそのまま当局に引き渡され、公式に裁判を受けて順当にいけば冒険者としての身分を剥奪され、オラリオを去るだろう。

 

 リリルカが盗みを働いたのはアポロン・ファミリアだけではないと聞いている。私刑にかけようと思っていた連中も他にあるだろうが、ロキ・ファミリアから『債権としてのリリルカを放棄せよ』と圧力をかけられたのは、現時点ではアポロン・ファミリアだけで、おそらくこれからも増えることはない。

 

 つまるところ、リリルカ・アーデに何かあれば、そのツケをアポロン・ファミリアが支払わされる可能性が高いのだ。大手には大手の、中堅には中堅の競争がある。アポロン・ファミリアの権威失墜を狙っているファミリアは多くあり、この条件は彼らにとってはひたすらに都合が良い。

 

 加えて、アポロン・ファミリアも末端まできっちりと統率が取れている訳ではない。勝手に『白兎』を殴った団員がいたのが良い例だ。主神の命令は団員にとって絶対ではあるが、全員がヒュアキントス程にアポロンに忠誠を誓っている訳ではない。

 

 濡れ衣だとしても、ロキは最大限に陰険さでもって攻撃してくる可能性がある。本当に団員がリリルカに手を出したら、それこそ尻の毛まで残さない程にむしり取っていく。最大手と中堅の間には本来それくらいの力の差があるのだ。

 

 だから、普通に考えれば内心でどう思っていたとしても、ロキの提案は受け入れざるを得ない。ここでリリルカを放棄し、団員の行動をしっかりと制限し言い含めておく。リリルカが一度オラリオを出て行ってしまえば、後は知ったことではない。冒険者でなくなりさえすれば、リリルカも進んでオラリオに残ったりはしないだろう。それで万事が解決する。それが最良の手段であると、ヒュアキントスだけでなくその場に居並んだ多くの冒険者がそれを理解していたのだが、

 

「断る。僕は君の提案に従うつもりはないよ」

 

 アポロンは、ロキの提案を真っ向から跳ね除けた。誰の予想からも外れた行動に、ロキも僅かに目を見開く。自分たちの所よりも強いファミリアからの譲歩の提案を突っぱねることが、どういうことなのか。理解していない神はオラリオにはいない。確認、というよりも最後通告のつもりで、ロキは先ほどよりも強いトーンでアポロンに問うた。

 

「うちの提案を断ると、貴様はそう言ったんやな?」

「ああ、言った。何でもかんでも自分の思い通りにいくと思ったら大間違いだよ」

 

 神だけでなく多くの冒険者が心の中で思っても、決して口にはしなかったことをアポロンは平然と口にした。相手は、あの(・・)ロキである。主神の命令ならば何でもすると豪語して憚らないヒュアキントスでさえ、これから起こるだろうことを想像して、背筋が凍った。

 

 これから、非常に良くないことが起こる。それはもう、誰の目にも明らかだった。

 

「アポロン。つまりはウチに、喧嘩を売っとるって、そういうことか?」

「そういうことだね。ついでだ。ここで宣言しておこうじゃないか。私、アポロンは君、ロキのファミリアに対して『戦争遊戯』を申し込む」

 

 ヒュアキントスは、主神にばれないように大きく息を吐いた。これで頭を下げれば済む、という話でさえなくなってしまった。娯楽を何より重んずる神々の集まるオラリオだ。自由な立場の神とはいえ、証人のいる中で宣言された『戦争遊戯』の成立を撤回することはできない。『戦争遊戯』が開催されるとなれば翌日には『神会』も招集される。詳しい内容はその会合で決定するのだろうが、いずれにせよ、これでアポロン・ファミリアとロキ・ファミリアの対立は決定的となった。

 

 あまりの展開に心情的においていかれる者がほとんどの中で、しかし、この流れに違和感を覚える者もいた。かつて欺瞞の神と呼ばれ、トリックスターの名をほしいままにしたロキと、ヘファイストス・ファミリア団長という責任ある立場にある椿である。

 

 この『戦争遊戯』の成立は、どう考えてもおかしい。ロキ・ファミリアからはともかく、アポロン・ファミリアにとって見ると採算が取れる可能性は少ない。無論、金銭などに変えられない面子の問題ということもあるだろうが、『戦争遊戯』は勝敗如何によってファミリアそのものが吹っ飛ぶ可能性もある。自分たちよりも明らかに強いファミリアに、自分から喧嘩を吹っ掛けることはまずない。

 

 にも関わらず、アポロンは開戦に踏み切った。これを聞いて、ロキと椿は同時に着想する。

 

 彼らには何か、勝つ算段があるのだ。

 

 そこまで考えて、アポロンの後ろで糸を引いているのが誰か、ロキにはすぐに当たりがついた。ロキの目が、ヘルメスへと向く。神々の伝令者たる彼は、ゼウスやヘラがこの街にいた頃は彼らの同胞として活躍したが、彼らがオラリオを去ってからはロキと何かと縁の深いフレイヤの傘下に降っていると目されている。

 

 実際には、ヘルメスにはヘルメスの思惑があるのだろうがそれはともかく、現状、最もフレイヤと通じている神は誰かと問われれば、ロキでなくてもヘルメスの名を挙げるだろう。ロキの視線を受けて、ヘルメスは悪びれた様子もなく、肩を竦めてみせた。

 

 そもそも、今日一緒に行動しているのも、ヘルメスからの提案である。この店を選んだのも彼、となればこの状況を導くよう動いていたことも間違いはない。ロキは脳内で算盤を弾く。無論のこと、フレイヤが絡んだとて負けるつもりはないが、あの女のことだ。何をしてくるか解ったものではない。

 

「解った。その提案、うけたるで。細かい詰めは『神会』でやな」

「ああ、明日を楽しみにしているよ」

 

 余裕たっぷりのアポロンの表情は、まるでもう勝ったつもりでいるかのようだった。反対に、団長であるヒュアキントスの顔色は優れない。話はまだ神同士で詰めている段階で、子供たちにはまだ伝えていないらしい。

 

 アポロン・ファミリアが去った後、食堂を支配したのは沈黙だった。巻き込まれることを恐れた客は既に退店していたし、中で神が争っていると知って店に踏み込んでくる者もいない。店内に残っているのはベルたち数人とロキとヘルメス。後は食堂の従業員だけだった。

 

「ロキ! 戦うなら私にやらせて!」

「待ちぃや、ティオナ。どうやって戦うか解らんやろ。男限定みたいなおかしなルールつけられたらどないするねん」

 

 気持ちの逸るティオナに、ロキは深々と溜息を吐いた。『戦争遊戯』に大枠で決められることは、それを行う際のルールのみだ。どういう内容で戦うかは事前に開催される『神会』で決定される。特殊なルールが付帯することはあまりないが、既にフレイヤの手が回っている以上、特殊なルールが適用されることも考えておかなければならない。

 

 多少、特殊なルールを用いられたところで自分のファミリアが負けるとは思えなかったが、念には念を入れなければならない。

 

「ヘルメス。貴様はフレイヤに付くってことでかまへんのやな?」

「明言は避けておきたいけど、今回はそういうことになるかなぁと思うよ」

「そか。なら、()()()()()()()()によろしく言っといてくれんか? うちはこれから忙しくなりそうやからな」

「解った。必ず伝えておくよ」

 

 苦笑を浮かべて、ヘルメスは去っていった。個人的には信用ならない相手だが、あれでもゼウスには信頼されていた男神だ。フレイヤに肩入れしているのも事実だが、時に蝙蝠野郎と揶揄されるバランス感覚は神々の中でも卓越している。既にフレイヤに肩入れしていると言っても、相手側に何の保険もかけないということはあるまい。

 

「さて……思ってたんと違う決着になりそうやけど、それは今はええわ」

「ティオナ、黄昏の館まで伝令や。フィンに今のことを伝えて幹部全員集めてや」

「了解」

「それからおちびちゃん。君はうちで預かる。ソーマの子供やて聞いてるけど、それは今のうちらには関係ない。君を起点に話が起きた以上『戦争遊戯』が終わるまでうちかアポロンどっちかの預かりや。でもアポロンは君を見たのに置いて行った。せやからうちらのもんや。文句は言わせんで」

 

 有無を言わせぬロキの剣幕に、リリルカはこくこくと頷いた。何しろかかっているのは自分の人生だ。このまま上手く話が進んだとしても刑務所行きか追放だが、当面、私刑にかけられるところだったのを救われたのだ。不満がない訳ではないが文句を言える立場ではない。

 

 リリルカが従う風なのを見て、ロキは視線をベルに移した。殴られた頬は腫れており、隣にはレフィーヤが付き従っている。地上の子供たちを超越した神が見れば、一目で二人の間に強い信頼があることが解る。子供が見ても仲良しの恋人か新婚夫婦と思うだろうが、それはそれだ。

 

「今すぐ仕返ししてやりたいとこやけど、ごめんな。その代わり、毟り取れるだけ毟り取って泣かしたるから、それまで我慢してな」

「あの、僕のせいでごめんなさい……」

「ベルに責任なんてあらへんよ。ベルは正しいことをしたんや。うちはそれを信じて尊重するし、うちの子供たちは皆同じ意見や。誰が相手でも負けへんよ。大船に乗ったつもりでいてな。それから椿。頼みがあるねんけど」

「言われると思っておったよ。何だ?」

 

 

「ちょ~っとキナ臭い話になりそうやから、ベルを個人的に匿ってくれん?」 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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トリスメギストスの仕事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神とは元来自由な生き物である。神話の世界ならば派閥ごとの優劣は存在していたが、神力のほとんどが封印された地上ではその拘束力も少ない。地上で物を言うのは子供の数と強さ。一言で言うならば、所有するファミリアの規模である。

 

 現状、オラリオで最大の勢力を誇っているのはどちらも探索系であるロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリアだ。トップに限って言えば、ゼウスとヘラのギリシャ系の時代が終わり、現在は北欧系の時代と言ったところだろう。これに鍛冶ファミリアの最大手であるヘファイストス・ファミリアと、商業系大手であるガネーシャ・ファミリア、オラリオの歓楽街を実質的に仕切っているイシュタル・ファミリアなどが続いている。

 

 さて、これらの神々が参加する『神会』だが、何より神々の行動を制限しないために、三か月に一度の開催となっている。拘束されるのも一日だ。実質的なオラリオの最高意思決定機関が、平常時ならば一年に四日しか仕事をしないというのもあんまりな話であるが、実際の都市の運営は所謂お役所が行っているので、都市の運営そのものに今のところ問題は起こっていない。

 

 冒険者が絡む案件にはギルドが動くし、絡まない案件には他の治安維持部隊が動く。人口が多いため犯罪の発生件数そのものは多いが、解決率もそれに比例して高い。トータルで見ればオラリオはこの世界でも有数の治安の良い都市と言えるだろう。

 

 基本、年に四回しか開催されない『神会』であるが、臨時に召集されることがたまにある。都市にとって、あるいは『神会』そのものにとって重要な案件が持ち上がった時だ。ラキア王国など外部の勢力がオラリオに侵攻してきた時などが良い例であるが、それ以外――神々が最も楽しみにしている臨時開催が、『戦争遊戯』が成立した時である。

 

 神々の代理戦争である『戦争遊戯』は公正を期すため、『神会』の仕切りによって行われる。これは弱いファミリアが一方的に敗北して、ゲームがすぐに終わることを防ぐためだが、そも、ファミリア同士に優劣、強弱が定まっている時点で、真に公正な勝負などありはしない。

 

 あくまでゲームとして面白くするために神々も横やりを入れるが、基本、強いと目されているファミリアが勝ち、弱いファミリアが負けるというのがいつもの流れだった。

 

 今回『戦争遊戯』をするのは最大手の一つであるロキ・ファミリアと、あくまで中堅の域を出ないアポロン・ファミリアである。この『戦争遊戯』が成立したことは既にオラリオ中に知れ渡っている。冒険者を含めたオラリオの住人たちは、ロキ・ファミリアの圧勝ということで結果の予想は一致していた。

 

 これはアポロンの乱心であり、子供たちはそれに付き合わされている。これでアポロン・ファミリアは凋落するだろう。冒険者の間では既に、悲観論まで出ている始末だ。ヒュアキントスを始めとした、アポロン・ファミリアの団員にとっては、まさに生きた心地のしない期間である。

 

 彼らも他の冒険者たち同様、自分たちの敗北を予感――いや、確信していた。神のためとあらば誰とでも戦うが、それはあくまで気持ちの問題である。世の中には往々にして勝てる相手と勝てない相手が存在するのだ。ロキ・ファミリアの猛者たちはその典型であり、冒険者としての質、量ともに彼らに劣ると自覚しているアポロン・ファミリアには既にお通夜ムードが漂っていた。

 

 その暗い雰囲気を物ともしていなかったのは、『戦争遊戯』をしかけた主神アポロンその人と、アポロン・ファミリアの中では変人と目されているカサンドラだけだった。

 

 アポロン・ファミリアの敗北は規定事項である。相手であるロキもそれを認識していたが、裏でフレイヤが動いていると確信していた彼女は、この『戦争遊戯』にきな臭いものを感じ取っていた。

 

 とは言え、相手がどのように動くか解らないことには、手の打ちようもない。いまいち乗り切らない気分のまま『神会』に参加したロキは、その会合でも意気揚々と『戦争遊戯』の開催を宣言するアポロンに、やはり不審なものを感じ取っていた。

 

 最高の楽しみの一つである『戦争遊戯』の取り決めを行うとあって、ほとんどの神が出席している。主だったところで姿が見えないのは、ウラノスの依頼で祭具の作成を行っているヘファイストスと、後はイシュタルくらいだろうか。ヘファイストスは解るが、イシュタル欠席の理由は、ロキにも想像がつかなかった。

 

 彼女はフレイヤと仲が悪い。これもフレイヤの企みと何か関係があるのだろうか。考えを巡らせている内に、『神会』の議題は、『戦争遊戯』の内容へと至った。漸くか、とロキが小さく溜息を吐く。会議が始まってから十分少々。これまで時間を食っていたのは、アポロンの演説一つである。

 

 神の中にはこの手の自己顕示欲の強い者が多い。かく言うロキもその系統だが、他人の演説になど興味がない神がほとんどだ。それがまさにこれから喧嘩をしようとしている神ならば猶更である。大半の神に聞き流されていた演説を満足顔で終わらせると、アポロンは芝居がかった仕草でロキに向き直った。

 

「さて、ロキ。勝負内容を決める前に賞品を決めようか。君が勝ったら、私に何を求める?」

「貴様の処分はウチやなくベルに決めさす。何を言われても拒否すんなや」

 

 ロキが要求したのは、『戦争遊戯』における賞品で最も重いものだ。ここでそれを受け入れると、本当に何を要求されても拒否することはできない。個々神の契約ならばまだしも、これだけ立会い神がいる中でそれを反故することは、地上においての破滅に等しい。

 

 しかも、強いファミリアの神が、弱いファミリアの神にそれを要求しているのだ。普通に考えれば陰湿ないじめも良いところだったが、弱いファミリアの神であるはずのアポロンは、ロキの提案を二つ返事で受け入れた。

 

 ロキにとっては、予定通りである。おそらく彼は、この場に居並んだ神の中で最もアポロン・ファミリアの勝利を疑っていない。それだけ後ろについている女神のことを信頼しているのだ。それさえあればロキ・ファミリアに勝てると本気で思っているのである。実に我慢がならない。

 

「せやったら、貴様はウチに何を求める?」

「そうだね……特に希望はなかったんだけど、あの白兎くんでも貰おうかな」

「…………なんやて?」

 

 自分の苛立ちも忘れて、ロキはアポロンに問い返した。場にも、白けた空気が漂い始めている。あらゆる神にとって、アポロンの言動は予想外だった。ロキがちらと視線を向けると、フレイヤまで表情を引きつらせている。彼女にとっても、完全に予定外なのだ。情報交換が上手く行っていなかったのか、アポロンの独断専行なのか知らないが、いずれにしても、これで黒幕の予定が大きく狂ったことは間違いがない。

 

 予定が狂ったのであれば、付け入る余地は大いにある。元より、好みでないはずのアポロンにフレイヤが声をかけたのは、単純に利害が一致していたからだ。

 

 先の言動を振り返ってみるに、フレイヤの最大の利はベル・クラネルに他ならない。大前提としてベル・クラネルとの距離が近くならないのであれば、フレイヤがアポロンに手を貸すメリットは全くと言って良い程ないのだが、自分の勝利を疑っていないアポロンがそれに気付いた様子はない。

 

 そこまで観察して、ロキは思い至った。この前の命名式の時、アポロンはその場にいなかった。フレイヤがベルに執着しているという事実そのものを、彼は知らないのだ。神気者であるフレイヤの、誰それに熱をあげているという情報は神々の間でもそれなりの量が飛び交っているが、こと地上の子供相手であるとその頻度は激減する。

 

 特に今回は勝手が違った。ベル・クラネルはフレイヤのライバルであるロキの子供であり、この話を盛り上げることはロキの逆鱗に触れることにもなりかねない。他人の喧嘩に大盛り上がりする神々であるが、それは火の粉が自分に降りかからないという前提である。誰も彼も、当事者にはなりたくないのだ。

 

 つまりは、今回のロキの喧嘩相手がアポロン以外。あの日、命名式に参加していた神であれば、間違っても対価にベルを要求したりはしなかっただろう。自分の立場を良く理解している神々は、アポロンがそれを口にした瞬間、今回の『戦争遊戯』の趣向がどういうものかを理解した。

 

「そか。別にそれでええで。ウチが負けるはずないもんな」

 

 フレイヤが軌道修正を始めるよりも先に、ロキはアポロンの提案を受け入れた。これでアポロンが勝てば、ベルはアポロン・ファミリアに移籍することが決定する。ギルドとの協定により、一度改宗した子供はそれから一年、他の神に改宗することができない。アポロンの手に渡ったら、例えフレイヤであっても一年はお預けを食らうのだ。

 

 影でこっそり、という訳にもいかない。今回のことでロキ・ファミリアそのものを壊滅させることができたとしても、ベル個人が既に注目され過ぎている。フレイヤとて何でもかんでも好き勝手にできる訳ではない。既に何人も他のファミリアから引き抜きを行っているフレイヤはギルドから目を付けられており、ベルのことで強硬策に出ればギルドのマークがさらに厳しくなりかねない。

 

 最大ファミリアでこそあるが、フレイヤ・ファミリアだけで他全てのファミリアを相手にできる訳ではない。フレイヤ個人に忠誠を誓っている神もいるが、それらを含めてもそれ以外のファミリア全てと戦争することはできないだろう。

 

 ならばベルのことは我慢するより他はない。アポロンのところに一年預けて、ほとぼりが冷めたら改めてファミリアに迎え入れるというのが、フレイヤにとって現状、最も無難な選択肢である。神にとって一年など瞬きの間に等しいが、既に手の届くところまで――フレイヤ的には既に手に入ったつもりでいたベルのことを一年も待つなど耐えられないに違いない。

 

 付き合いが長いロキは、フレイヤの性格を良く知っている。子供への情愛に関して横やりを入れるような存在を、フレイヤは何があっても許すことはない。ロキはフレイヤに視線を送った。表情の変化は些細な物である。おそらくロキでもなければ見逃してしまいそうな程微かに、フレイヤは眉根を寄せて小さく頷いた。

 

 ロキはうつむき、笑みを深くする。その笑みは子供たちの背中に刻まれた、道化師の笑みに酷似していた。その笑みをおくびにも出さず、ロキは先程までの自分に戻った。直情径行と思われているロキだが、腹芸は何より得意とするところだ。伊達に一つの神話体系において、最高のトリックスターと持ち上げられている訳ではないのだ。

 

「では、勝負内容を決めようじゃないか。できるだけ公正なものをお願いしたいね」

「団員全員参加の、平野での総力戦なんてええんやない?」

 

 苛立っている風を装っているロキの語調は強い。先のアポロンの言動がなければ、本当に怒りを堪えて発言しているように見えるだろう。それを意識していないのはアポロンだけだ。ここまで話が傾いてしまうと、もはや茶番であるが、伊達や酔狂を楽しむのもまた、神の流儀である。

 

「それだと趣がないと思わない?」

 

 鈴を転がすような声で、フレイヤが言う。ここで口を挟むというのは、当初からの計画通りなのだろう。自分の生命線である対戦内容の取り決めに、よりによって対戦相手の知己が絡んできているというのに、アポロンに取り乱した様子はなかった。腹芸のできない男だ、とロキは心中で嘆息する。

 

「なんや、フレイヤ。貴様に何か良い案があるとでも?」

「ええ。聞けば、この諍いの発端には兎さんが関わっているんでしょう?」

「せやな。盗人の小人を私刑にかけようとしとったアポロンの子供たちから、そいつを庇おうとして殴られたわ」

「それはお気の毒ね。かわいい顔に傷が残らないと良いけれど……」

 

 フレイヤの声音から、彼女が本当に心配しているのが伝わってくる。誰の子供であろうと、自分が気に入った子供には惜しまずに愛情を注ぐのがフレイヤだ。子供の輝きを増すためならば、多少痛めつけてしまっても構わないという、ある種倒錯した愛情ではあるがそれでも、愛していることに代わりはない。

 

「……話が逸れてしまったわね。私としては、小人を守るために立ち上がった、兎さんの気持ちを尊重してあげたいのだけど――」

「言われるまでもないわ。今度の『戦争遊戯』にベルも参加するで」

「そうじゃないのよ、かわいいロキ。私は、兎さん()()()()()戦ってほしいの。勿論、アポロン・ファミリア全員とね。ロキ・ファミリアの構成員が協力するのはダメよ。兎さんには、ロキ・ファミリアを代表して、ただ一人で戦ってもらうわ」

 

 正気を疑うような提案である。そしてフレイヤは、この案が通るということを微塵も疑っている様子はない。既に彼女は敵ではないという認識でいるロキでさえ、フレイヤのこの物言い、態度にはカチンとくるものがあった。何も知らない状態で聞いていたらここが『神会』の場であることも忘れて怒鳴り散らしていただろう。本当に、この女神は得体が知れない。 

 

 その得体の知れない提案は、本来であれば神々の望むところではない。安全なところで見る喧嘩が一方的なものであることに、楽しみを見出せる神は少ない。一方的な蹂躙劇もそれはそれで需要があるが、神と、そして地上の子供たちが望んでいるのは、血沸き肉躍る緊迫した戦いなのだ。

 

 フレイヤの提案は、それを根本から覆すものである。いくらフレイヤの提案であっても、即座――とはいかないまでも、迂遠な方法で回避されるのが普通であるのだが、

 

「私の提案に賛成してくれるかしら?」

 

 フレイヤの言葉に、居並んだ神々が一斉に立ち上がった。ロキ以外、全員である。

 

 『神会』での決定は、多数決に依って行われる。ファミリアの規模も考慮されるため、弱小ファミリアと大手ファミリアの一票は等価値ではないが、ここまで大量に差がついてしまうと、ロキとは言え覆すことはできない。

そもそも、ロキ・ファミリアと同格であるフレイヤが賛成に回っているのだ。ロキ一人がどうこう言った所で意味はない。

 

 フレイヤが『神会』の場で発議した時点で、彼女の案は採用が約束されていたのだ。自分の知らないところで、ここまで根回ししていたことに、ロキは心中でフレイヤに称賛の声を送った。トリックスターの面目丸つぶれである。

 

 そして、この結果が事前に解っていたのであれば、アポロンの強気の態度にも合点がいった。ここまで有利な条件でカードを組めれば、アポロン・ファミリアの勝利は固い。おそらく助っ人くらいは認めるという譲歩がこの後にあるのだろうが、他のファミリアが全て敵に回っていること、時の人とは言えレベル2の冒険者が中堅ファミリアを相手に一人で戦う状況を強いられていること。

 

 その条件を加味してまでベルに味方をしようという冒険者は、極々少数に限られる。ましてこの提案はフレイヤが発議したもので、状況を見ればロキと抗争中であるのは見て取れる。ロキに恩を売れるというのは大きいかもしれないが、それは同時にフレイヤと彼女に属する神々全てを敵に回すということだ。

 

 個人的に、ベルの状況に思うところがあったとしても、自分の所属するファミリアのことまで考えれば、軽々味方をすることはできない。

 

 基本的に自由な神であるがオラリオに籍を置いている以上、『神会』での決定には拘束される。これに反逆するということは即ち、『神会』に名を連ねる神々全てに喧嘩を売ることに等しい。フレイヤは本気で、自分を潰しに来ていたのだ。

 

 全てが彼女の思い通りに行っていたら、ロキも大いに怒り全てを敵に回してでも強い行動を起こしていただろう。やはりあの女神は油断ならない。胸の内に渦巻く激情を全く顔に出さず――ロキには、激怒しているのが手に取るように解ったが――フレイヤは、怒りのあまり言葉もなく立ち上がったふりをするロキに声をかけた。

 

「ロキ。兎さんによろしく伝えておいてもらえるかしら?」

 

 軽い、友人同士の会話である。これはアポロンにはこの上ない嫌味に聞こえ、他の神々には悔し紛れの負け惜しみに聞こえ、そしてロキにはある提案に聞こえた。

 

「首を洗って待っとき。もう貴様と話すことは何もないわ」

「それは残念ね。あぁ、他のファミリアであれば助っ人を認めるわ。開催は二週間後。どういう内容で戦うかは――」

「知らん。そっちで勝手に決めい」

「細かいことが決まったらお知らせするわ。楽しいゲームにするから楽しみにしていて?」

「貴様も、ウチの怒りにやられてころりと天界に戻らんようにな。全く、こないにキレたんはアレや、トールのお友達の緑のデカ物にぶっ飛ばされて以来やな……」

 

 激怒した様子でバベルを出たロキは、ラウルの操る馬車に飛び乗って、黄昏の館への道を急いだ。馬車の中は無言である。明らかに機嫌が悪いロキに、態々話しかけるような真似を、ラウルはしない。準幹部筆頭格であり、かつて魔石をちょろまかしたことがバレたこともある彼は、自分が危ないと思ったものには、なるべく近寄らないようにしているのだ。

 

 中を沈黙が支配した馬車が道も半ばまで進んだ頃、馬車の屋根が軽く小突かれた。走っている馬車である。天界の乗り物と速度は比べるべくもないが、それでも飛び乗れるような代物でもないし、飛び乗ろうする人間を見れば、いくらラウルでも声を挙げているはずだ。

 

 それをしない、あるいはできなかった相手に、ロキは大いに心当たりがあった。自分宛の使者であることを確信したロキは、誰何の声も上げずに窓をあけ、彼女を中に招き入れた。ここまで来れば、ラウルも馬車の重さが変わったことに気づいていたが、それでも彼は声を挙げなかった。悪い顔をしている時の己が主神には、関わり合いにならないのが一番である。

 

 そんなラウルの焦燥と諦観を背中に受けながら、ロキの前で尋ね人は姿を現した。水色の髪にメガネの奥の理知的な瞳。オラリオにその名を轟かせる、アイテムメイカーはロキを前に、洗練された動作で恭しく頭を下げた。

 

「ヘルメス・ファミリアが団長。『万能者』アスフィ・アル・アンドロメダ。主命によりまかり越しました」

「ご苦労さん。それで、ヘルメスは何て?」

「馬車はこのまま黄昏の館へ。御身は私と共にフォールクヴァンクまでご足労願うと」

「……早速切られてもうたか。敵ながら、アポロンが少しかわいそになってきたわ」

「心にもないことを仰います」

「あら、流石に解るか? せやな、ええ気味や。奴は何より、ウチの子供に手ぇ出したんや。そのツケは何が何でも払わさんとな……」

 

 その報復に、フレイヤの手を借りるというのも業腹ではあるが、およそ利害が一致する限り、あの女神は全ての神の中で最も信頼できる。特に男が絡めば上出来だ。ベルをアポロンの手に渡さないためならば、彼女はもう何でもするに違いないのだ。

 

「それから、トリスメギストスにも礼言っとかんとな。アポロンを唆したんは、あいつなんやろ?」

「そんな名前の御神は存じ上げませんが、神ロキがそう仰っていましたことは主神に伝えておきます」

「よろしゅうな。さて、これから一世一代の大芝居や。いやー楽しみやなー」

「私は、ロキ・ファミリアの皆さんがどれだけ気をもむのかを思うと、他人事ではいられません」

「せやなぁ。まぁ、フィンとリヴェリアとガレスくらいには伝えとかんとな。アポロンに感づかれても興ざめやし」

 

 例え気づかれたとしても、既に成立してしまった『戦争遊戯』を取り消すことはできない。できたとしても中堅のアポロン・ファミリアでは払いきれない程の、莫大なペナルティを背負わされるだろう。

 

 既にアポロンの命運は決したのだ。

 

 

 

 

 



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『神会』の裏で

 

 

 

 

 

 

 

 ロキの神命で椿に匿われることになったベルは、アポロン・ファミリアとの『戦争遊戯』が実質的に決まったその日、ヘファイストス・ファミリアの本拠地にある椿の私室に連れ込まれた。事務仕事をするなら団長室、鍛冶仕事をするなら専用の鍛冶場と、仕事とプライベートをきっちりと分けている椿の部屋は、その豪放磊落な性格に反してきちんと整理整頓されている。

 

 これは本人が無駄に几帳面さを発揮したということではなく、単純に物が少ないことに由来していた。部屋にあるのは寝台とあまり使っている形跡のない文机。着物が収められている箪笥と秘蔵の酒が押し込まれている棚くらいだ。

 

 部屋の主である椿は、殺風景な自室にベルを放り込むと『今日はもう寝ろ』とだけ言い残して部屋を出ていった。寝ろと言われても、初めて訪れる女性の部屋である。初心なベルは緊張して仕方がないが、実は女性の部屋に入るのはこれが初めてな訳ではない。

 

 黄昏の館ではリヴェリアの部屋にも足を踏み入れたことがある。その事実だけでリヴェリアを敬愛する男性冒険者からは聞いたら耳が腐りかねないほど怨嗟の籠った罵詈雑言が投るに値する。女神も嫉妬すると言われるほどの美貌を持ったリヴェリアには、男女を問わずファンが多いのだ。

 

 実際、それを理由にベルに絡んでやろうという冒険者は多いのだが、『白兎』が『九魔姫』とその弟子である『千の妖精』の庇護下に入り、その寵愛を受けているというのは、ロキ・ファミリアだけでなく他の冒険者たちも知るところである。

 

 閉鎖的に暮らすことの多いエルフは血統を重視する傾向にあり、王族であるところのリヴェリアはオラリオにいる全てのエルフの中で、最も高貴な立場にある。王族である。エルフにとってはそれだけで、敬愛を向けられるに十分な条件なのだ。

 

 それ故に、オラリオのエルフのコミュニティは、エルフが人間にするにしてはそれなりに好意的にベルに接している。ベル本人に思うところがある訳ではなく、彼に何かあるとリヴェリアの不興を買うという理由だ。無論、これはリヴェリアがそうしろと号令をかけた訳ではない。単に、オラリオのエルフが自発的にそうしているというだけである。

 

 その事実もことさら流布した訳でないが、オラリオの冒険者たちの間には、既に浸透しつつあった。『白兎』に何かあったら、オラリオ中のエルフが立ち上がる。冗談のように語られていたそれが、ほとんど事実であるとオラリオの冒険者たちは後に知ることになるのだが、それはまた別の話である。

 

 椿の部屋で一人になったベルが最初に考えたのは、今日は座学は休みだな、ということだった。厳しいがちゃんと優しいリヴェリアから教わることは、ベルの密かな楽しみだったのだが、こうなってしまっては仕方がない。事情が切迫しており、自分が匿われているという事実も、ベルは自覚している。

 

 こういう時は無駄に動かない方が良いのだ。下手な考え休むに似たりである。勉強も訓練もないとすると、他人の部屋である。まさか女性の部屋を家探しすることもないし、ベルにはすることがなかった。椿には寝ろと言われたが、まだ日は高い。女性の寝台を勝手に使う訳にもいかないから、とりあえずごろりと床で横になる。

 

 石造りの床はひんやりとしていたが、今日はダンジョンに潜って色々な武器を試した。慣れない動きに、地味に疲労も溜っている。もそもそと装備を外したベルは、防具をその辺りに放り投げ、そのままくーくーと寝息を立て始めた。初めて訪れる女性の部屋の床で抵抗なく眠れるのだから、本人が思っている以上に彼の肝は太い。

 

「起きろ、ベル」

 

 すぴすぴ呑気に寝息を立てていたベルは、椿のそんな声で目を覚ました。床で寝ていたために身体の節々が痛い。痛む関節をごきごき動かしながら立ち上がると、眼前には椿の姿。窓から差し込んでいる日の光から、本当に一晩明かしてしまったのだと気づいた。頭もぼーっとしている。

 

 ほれ、と椿が差し出したコップを受け取り、中身を飲む。ただの水だが、寝起きの頭には心地よい。

 

 空になったコップを返す。見れば椿には同行者がいた。東洋風の着流しを着た、背の高い短い赤毛の男である。手にはタコ。大いに火に焼けたその褐色の肌から、彼も鍛冶師であることが解った。

 

「まずは紹介しよう。これはヴェルフ・クロッゾ。手前の後輩で、ヘファイストス・ファミリアのレベル1の冒険者だ。ヴェルフ。これはロキ・ファミリアの『白兎』ベル・クラネル。今から手前が武器を作ることになった」

「ヴェルフだ。よろしく、『白兎』」

「ベルです。こちらこそ、よろしくお願いします」

「これからどういう予定になるか解らんから、一応ホーム内の案内役ということで連れてきた。『戦争遊戯』の日程は定かではないが、何しろ片方が最大手のロキ・ファミリアだ。どんなに早くても二週間といったところだろうな。それに間に合うよう、一週間を目途に武器を完成させる予定だ」

「一週間で完成するんですか?」

 

 もっとかかると思っていたベルは純粋な疑問として聞き返したのだが、既に気持ちを高めて仕事人の顔になっていた椿は、それを挑戦と受け取った。ベルに間近まで顔を近づけると、息がかかりそうなその距離で獰猛に笑う。

 

「手前を舐めてもらっては困るな、ベル。手前はやると言ったらやるぞ。全身全霊を賭けて、お前に相応しい武器を完成させてやる。お前はそれまで、腕を磨いておくと良い。神の名の元にならば何をしても良いと考えているようないけ好かない連中だが、だからこそ、手前たちの武器の試し斬りにはもってこいだ」

 

 かかか、と笑って、椿は部屋を後にした。聞きたいことは山ほどあったが、その背に言葉をかけることはできなかった。武器を一週間で仕上げてくれるというが、そもそも『戦争遊戯』というのはどういうものなのか。冒険者歴の浅いベルは、それも良く解っていなかった。

 

 助けを求めるように、ベルはヴェルフを見た。どうにも名前の音が似ている赤毛の男は、年下の少年からすがるような視線を向けられて、気まずそうに頬をかく。

 

「俺もオラリオに来て日は浅いし、神やファミリア間の事情になんぞ興味ないから、知ってることはお前と大差ない。ついでに言えば、俺は今朝いきなり『白兎』の面倒を見ろって椿に言われただけで、お前たちの事情は何も知らん。椿の部屋で寝にくいって言うなら、俺の部屋に来ても構わないが……」

「そういうことではなくて……その、僕が色々やったせいで、よそのファミリアと戦争することになっちゃったんです」

「何とも難儀な話だな。そういや、今日が臨時の『神会』だってな。ファミリア間の抗争ならさっさとおっぱじめた方が良いような気もするが、椿が二週間って言うならそうなんだろう。あんなでも団長だからな。ファミリア間の事情には詳しい」

「その『戦争遊戯』は回避できないんでしょうか?」

「無理だろうな。俺が出会った神のほとんどは娯楽に飢えたロクでなしだ。他人が戦ってるのを見るのが、何より大好きな連中だ。よほどのことがない限り、戦争の中止は無理だろうさ」

 

 ヴェルフの言葉に、ベルは心底落胆の溜息を漏らした。

 

 神は元来自由な生き物だ。オラリオの法も人より神が貴いという前提に立って作られている。土台、神と地上の子供はまず平等ではないのだ。事の発端が地上の子供であったとしても、一度話が神々に移ってしまえば、子供たちにはどうすることもできない。全ては神の御心のままに。よくも悪くもそれがオラリオの法の根幹にある。

 

 その中でもロキは比較的子供たちの言葉に耳を傾ける神であるが、それ故に子供たちに対する情が深いことで知られている。他の事情であれば何とでもなっただろうが、自分の子供がよその子供に殴られたのだ。主義主張の違いというのもあるだろう。冒険者の流儀に倣えばベルに一点の非もないとは言えないのだが、ロキにそんなことは関係がない。

 

 子供の痛みは自分の痛み。子供の怒りは自分の怒りだ。普段ちゃらんぽらんで雑に扱われるロキであるが、ここぞという時自分たちのために本気で怒ってくれると知っているからこそ、子供たちは彼女に付いて行くのだ。

 

 ベルも、そんなロキの気質をよく理解している。自分のために他人が何かしてくれるというのはとても嬉しい。そうありたいと思っていたからこそ、ベルは小人の少女に助け舟を出したのだが、そのせいで己が主神と仲間たちに多大な迷惑がかかってしまっている。それがベルには心苦しかった。

 

 しかし、ベルは同時にそれを仲間たちの前で口にしてはいけないということも理解していた。仲間が困っている時に助ける。それに理由などいらない。今の自分の立場に立っているのが、例えばレフィーヤだとしたらベルは特に何も考えずに彼女の味方をしただろうし、助けられることが心苦しいと言われてしまったら、ほんの少しではあるが、傷ついてしまうだろう。だから助けてもらうことに否やはない。

 

 そして、自分の力の限り仲間のために戦うと心に決めた。そのためにはこんなところでじっとしている場合ではないのだが、椿に匿われるべしというのはロキの神命であり、それが撤回されない限りベルは椿の庇護下から動くことはできない。

 

 ロキの使いが来るまで本気で暇なのだ。身体を思う存分動かしたいのに、それもできない。色々な意味で途方に暮れるベルを、ヴェルフはぼんやりと眺めていた。

 

 ベルに言った通り、ヴェルフもオラリオに来て日が浅い。生まれ故郷でもとある神の眷属をしており、所謂冒険者になったのはオラリオに来るよりも以前の話だが、オラリオの外の話をヴェルフはあまり他人にしたことはない。

 

 事情を知っているのは主神であるヘファイストスと、団長であり根掘り葉掘り聞いてきた椿くらいのものであるが、ヘファイストス・ファミリアは鍛冶師の集団である。ヴェルフの家名である『クロッゾ』を聞いただけで、その来歴を想像できた。

 

 クロッゾと言えば、魔剣の代名詞である。その炎は海を焼き、数えきれない程のエルフの里を焼き払った。亜人の中には、クロッゾという名前に嫌悪感を抱く者もいる。家名を名乗る時は注意しなさいと、ヘファイストス・ファミリアに入って、主神から注意されたのがそれだった。

 

 自分の代より前のこととは言え、魔剣の炎で里を焼かれ同胞を殺されたのであれば、クロッゾに対する恨みもまた一入だろう。気持ちは解らないでもないが、自分には関係がない、というのがヴェルフの正直なところだった。当分魔剣は作らないと決めたのである、しばらくはただ、鍛冶の腕を磨くのみだ。無心で鎚を振るう毎日は、オラリオにやってくる前には得ることのできなかったもので、ここでの生活にヴェルフは大きな充足感を憶えていた。

 

 名前を聞き知った冒険者が魔剣を打ってくれと押しかけてくることも儘あるが、そんな輩も余裕を持って叩きだせるようになった。怒鳴ったり罵声を浴びせたりはしない。単にバケツにためておいた水をぶっかけて背中を蹴り飛ばすだけである。思えば紳士になったものだと自画自賛しながら、何の気なしにヴェルフは問うた。 

 

「興味本位で聞くが、お前魔剣には興味ないのか?」

「魔剣って……名前を叫ぶと魔法が飛び出すあの魔剣ですか?」

「他に魔剣があるなら聞いてみたいもんだが……」

 

 ヴェルフはベルの反応に戸惑っていた。もっと魔剣というものに食いついてくると思ったのだが、反応がどうにも渋い。命を賭けて戦う冒険者にとって、魔剣というのはただの『魔法が出る便利な剣』ということでは片付けられないものなのだが、ベルの認識はその程度に留まっている。

 

 こいつは本気で魔剣に興味がないのだろうか。魔剣を打てという連中にうんざりしていた身としては願ったりかなったりではあるのだが、興味がないというのはそれはそれで悔しい。悶々とした感情を持て余していると、今度はベルがヴェルフに問うた。

 

「椿さんと昨日話したんですけど、魔法を撃たない魔剣って作れないものですか?」

「………詳しく聞かせろ」

「えーと…………神代で、この大陸の更に南の大陸の南にある島には、かすり傷をつけただけで魂を砕く魔剣があったそうです。オラリオにある魔剣はそういう魔剣とは違うものらしいですけど、絶対に壊れないみたいな属性と一緒で、理屈の上では不可能ではないと椿さんは言ってました。だから、魔法を撃つ分の力を、そのまま剣に残しておくことができれば、消耗しない魔剣ができるんじゃないかなと素人考えで思うんですが……」

 

 どうでしょう、というベルの問いに、ヴェルフは答えない。鍛冶師の端くれとして、鍛冶貴族と呼ばれたクロッゾ一族の末裔として、ベルの口にしたことが可能なのか沈思黙考した。

 

 そもそも魔剣とは何だろうか。冒険者に問うてもまた鍛冶師に問うても、出てくる答えは同じだろう。それはベルの認識と大差ないものだ。つまり回数制限のある魔法を撃ち出すことのできる消耗品である。鍛冶師の腕によってその威力が増減するが、使用者が誰であってもその威力が変わることがない。

 

 魔法はそれそのもののスキルを持っていないと使用することもできないが、魔剣は本体を持っていれば誰でも同じ威力で、使用回数が残っている限り何度でも使うことができる。その分値段が張り魔剣というだけで大したデキでなくても目の飛び出るような値段がするが、魔剣を持つことは冒険者として一種のステータスとなっており、多少無理をしてもこれを求める者は後を絶たない。

 

 ヴェルフが出奔したクロッゾの一族が作った魔剣はその中でも最高峰とされ、その一撃は海すら燃やすと言われた。今はその力を失って久しく一族にもかつての勢いはないが、それはさておき。その末裔であるヴェルフですら、魔剣に対する認識はその他大勢と一緒だった。

 

 使用回数を増やすとか、放たれる魔法の威力を調整して浮いた分を他の方向に向けようとか、そんなことは考えもしなかった。クロッゾが没落しきった今こそ、そういう研究が求められているのだろうが、クロッゾの一族の中で唯一魔剣を打てるヴェルフが出奔してしまった今、かの一族の中に魔剣鍛冶は一人もいない。

 

 そしてそれは鍛冶師の研究課題として、ヴェルフの興味を大いに刺激した。世の冒険者や鍛冶師がそう呼ばないだけで、『不壊属性』なども所謂魔剣の一形態なのだとしたら、クロッゾの血の力で似たような現象を再現できても良いはずだ。自然から生まれた精霊から力を授かったという、クロッゾの一族が魔剣を打てるに至った来歴を考えれば、その方がより『らしい』とも言える。

 

 海すら燃やすと言われた炎が放たれず、剣に留まるのだとすればどんなにか。自分の産み出した魔剣が城塞を破壊するのを見てきたヴェルフ自身にも、見当がつかない。久しく忘れていた鍛冶師としてのやる気が、身体に満ちていくのを感じる。魔剣を打たないと決めたことも忘れていた。今ヴェルフが考えているのは、自分が一体どんな魔剣を生み出すことができるのか。それだけだった。

 

「そいつを今から打ってみる! 椿と一緒にお前の『戦争遊戯』には間に合わせてやるから安心しろ! アイデアをくれた礼に、その魔剣はタダでくれてやるから!!」

 

 それじゃあな! とヴェルフは振り返りもせずに部屋を飛び出していく。その背中をベルは茫然と見送った。椿の話では彼がこの場所の案内役だったはずなのだが、もう戻ってきそうにない。役目を放棄した理由が理由だけに文句を言う気にもなれなかった。上手くすればベル自身が想像する『魔法を撃てない魔剣』というのを見られるかもしれないのだ。今からわくわくが止まらないが、まず解決すべきは……

 

「僕はこれからどうすれば……」

 

 違うファミリアのホームで一人、外の事情を知ることもできないベルは途方に暮れた。

 

 

 




次回ベル以外のロキ・ファミリアの面々のお話。
謎のブルマスクエルフの登場はもう少し後になります。


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道化の戦い

 

 

 

 

「――ちゅー訳や」

 

 ヘルメスの繋ぎで行われた『神会』外での意思決定に至るまでの流れを説明し終えると、ロキ・ファミリアが誇るレベル6の冒険者たちは、それぞれの表情を浮かべて沈黙した。

 

 フィンは苦笑。団長である彼がまず考えることは、団の存続である。ロキの話を聞くにファミリアの大禍は去った。ならば地上の子供が神の争いに率先して首を突っ込む必要はない。最終的に自分の家族に痛い目を見せてくれた連中が痛い目を見るのであれば、団長として言うべきことは他になかった。

 

 リヴェリアは頭痛を堪えるように額を押さえている。アポロン・ファミリアのベルに対する仕打ちについて、レフィーヤから事のあらましを聞いたリヴェリアは、付き合いの長いフィンやガレスが引くくらいに激怒していた。『戦争遊戯』には率先して参加し、アポロン・ファミリアの連中には目にモノを見せてくれると息巻いていたのだが、ロキの話を聞いて怒りも沈静化してしまった。

 

 蓋を開けてみればそこにあったのは、神々の勢力争いの図である。それにベルが利用されたと思うと腹も立つが元より神というのはそういうモノだ。最大派閥の一つであるフレイヤ・ファミリアと『ベルは何処にも行かない』ということで話が付いたのであれば、当面気にすることはない。後はベルが殴られた落とし前をつけるだけで、それも既に結末が確定しているのだから、憂慮すべきことは何もない。

 

 ガレスは話の途中から大笑いをしていた。ドワーフである彼は豪放磊落な性格であり、お高く留まった存在とは馬が合わない。エルフらしいエルフ、神らしい神など馬が合わない存在は様々だが、数いる神の中でもアポロンのような神は、特にガレスの好むところではなかった。それが女神フレイヤの逆鱗に触れたというのだから、笑うより他はない。

 

 『戦争遊戯』と聞いた時は流石のロキ・ファミリア大幹部の三人も緊張したが、勝てる戦となれば話は別だ。もはや話は勝つか負けるかではなく、どのように勝つかに移っている。そうなればファミリアを預かる者として考えるべきは『如何に相手から毟り取るか』だ。

 

「そうなるとアポロン・ファミリアへの要求がベルに一任されているのが痛かったね。ベルのことだ。決着が付いたらそれで全部水に流してしまうんじゃないかな」

「人が良いというのも時には考えものだな……」

 

 とは言いつつも、リヴェリアは自分の顔がにやつくのを止めることができなかった。事の発端がどうであっても最終的には他人を許すことができる。ベルはそういう人間だ。単に人が良いと言ってしまえばそれまでだが、誰が相手でもそこまで振る舞えるというのは、ある種の才能である。

 

 フィンもリヴェリアもガレスも、ベルと同じ立場に置かれた時、絶対に我慢ができないという確信があったし、レベル4の準幹部まで含めてもロキ・ファミリア上層部の面々は、特に仲間や家族が絡むと肝心なところで気が短くなる傾向がある。

 

 上層部がそうなのだから、下の面々はもっと喧嘩っ早い。それでもファミリア間のトラブルが少ないのは、リヴェリアなどの比較的理性的な幹部がきちんと下を教育していること、加えてロキ・ファミリアが最大派閥であることが原因に挙げられる。

 

 誰も喧嘩の強い人間に態々喧嘩をふっかけるような真似はしない。ロキ・ファミリアの団員であることを自覚した上で喧嘩を売ることができるのは、よほどのバカかファミリア間のバランスを全く理解していない駆け出しくらいである。

 

 リヴェリアの考えでは、神アポロンはよほどのバカの部類に入る。如何に神フレイヤの手助けが確定しているとは言え、それと同等のファミリアに自分主導で喧嘩を売るとは正気の沙汰とは思えない。神々の契約がどういうものか。エルフであるリヴェリアには知る由もないが、何も裏もなく善意でという訳にはいかない。

 

 何よりフレイヤの立場に立って考えれば、自分と同等の戦力を持つロキ・ファミリアと戦うことのケツを持つことになるのだ。それ相応の報酬はあってしかるべき……というより、報酬は全てフレイヤ・ファミリアが持っていくくらいの条件でも、決しておかしくはない。

 

 負ければ破滅。勝ってもそこまで旨味はない、確かにロキ・ファミリアの勢力はある程度削ることはできるだろうが、それ以上にロキ・ファミリアの恨みを買う。

 

 元々フレイヤの望みはベルを合法的に引き抜くことだった。本来の形で『戦争遊戯』が成立していれば、最初の一回でフレイヤの目的は達成される。話の上では次も手を貸すということになってはいるのだろうが、目的を達成した以上、リスクに手を出す可能性は低い。

 

 一度の『戦争遊戯』でロキ・ファミリアを壊滅にまで追い込むことができなければ、いずれ報復で『戦争遊戯』を挑まれてアポロン・ファミリアは壊滅する。フレイヤの協力が確約されている内に全面戦争をし、勝利の報酬を駆使してロキを天界に送り返す……というのが考えうる限り最善のシナリオだろう。

 

 それでも復讐に燃えるロキ・ファミリアの残党は残るし、その残党を他のファミリアにまるごと吸収されれば同じことだ。そも、ロキが提案を飲まなければその最善は成立しない。残党狩りを含めて、フレイヤ・ファミリアの協力は必要不可欠だったのだが、協力者の立場上、アポロンを守らなければならないフレイヤがシナリオ通りに提案したのは、『ベル・クラネルが一人で戦うこと』である。ロキ・ファミリアの団員は協力することもできないというものだった。

 

 落ち着いて考えてみれば、フレイヤから感じられるのは悪意そのものだ。この条件では全面戦争をすることもできない。結局、全てが上手く行っていたとしてもアポロンは破滅するより他に道はなかったのである。

 

 そんな中、ロキ・ファミリアに喧嘩を売る代償としてアポロンが要求したのはベル一人だ。先々のことまで考えているとは思えない。どうしてそこまで、フレイヤの力を当てにできるものだろうか、とリヴェリアはかなりの時間をかけて真剣に考えたが結論は出なかった。

 

 神域の話術であるとか、話に出ていない交換条件があったとか、尤もらしい理由がリヴェリアの脳裏を渦巻いたが、顔色を見ただけで長年の友人が何を考えているのか看破した男性二人は、リヴェリアには理解できないだろうと心中で納得していた。

 

 男の立場に立って考えてみれば、『フレイヤがそう言った』の一言で説明はつく。

 

 そこにどこまで信を置けるかは人それぞれだろうが、男というのは往々にして美人のお願いに弱いものだ。まして相手は神々の中でも美を究めたとされる女神フレイヤである。理性的に対応しろというのも、無理な話である。

 

 その結果として、願いの相手であるフレイヤの逆鱗に触れているのだからお粗末な話と言うより他はない。これには神ヘルメスの暗躍があるというが、今はまず今後の話だ。

 

「フレイヤ・ファミリアとの共闘体制は、どこまで信用できる?」

「絶対、と言って今回は問題ないで。うちら流のやり方で契約までしてきた。これを違えることはまずありえん」

 

 とは言いつつも、ロキの表情は優れない。トップ同士で話が着いていたとしても、話は混沌としている。お互いの利益のために『戦争遊戯』は成立させないといけないが、共闘の話が組織の下部まで伝わってしまうと、いずれアポロンの耳にもそれは入るだろう。

 

 アポロンは勝てる勝負だから乗ったのである。それが勝てる勝負でなくなっただけでなく、フレイヤ・ファミリアまで敵に回っていると知られれば『戦争遊戯』そのものに及び腰になるのは間違いない。『戦争遊戯』中止に奔走しようにも、自分も含めた多数の神によって『神会』で成立させてしまった。

 

 これを覆すにはまた『神会』で審議にかけて多数を勝ち取らなければならないが、そもそもその多数派工作もアポロンではなくフレイヤが行ったものだ。彼女が敵に回っている以上、それも絶望的である。

 

 誰も敗北の確定した戦いなどしたくはない。追い詰められたアポロンがどういう行動にでるのか……ロキには容易に想像できた。

 

「フレイヤと手を組んどるのがバレたら、アポロンのやつ間違いなく『どろん』や。せやから話は、この四人の胸の中にだけしまっといてほしいねんけど」

「出来レースであることも隠す、ということか?」

「そうなるな。それについてはこっちにも妙案があるから、スケジュールは三人で相談して調整してや」

 

 ロキは絵に描いたようなドヤ顔で、フレイヤと話のついた『妙案』を口にした。小人、ハイエルフ、ドワーフ。種族も年齢もバラバラな三人は、神がドヤ顔で語る『妙案』を聞いて、揃って呆れた表情を浮かべる。

 

「……お前は、私たちにそこまで大がかりな芝居を打てというのか?」

「全てはアポロンに『どろん』されんためや。ベルが殴られ損になるかどうかは、お前らの芝居のデキにかかっとるからな!」

 

 たのむでー、とロキの口調は軽い。神である彼女は例え神と喧嘩するのだとしても、その辺の友人とど突き合いをする程度の感覚だが、地上の子供たちであるリヴェリアたちはそうではない。

 

 あくまで代理戦争。戦うのは子供たちだけと解っていても、神が相手となると勝手が違う。何度『戦争遊戯』を経験しても、この決まりの悪さは慣れそうにない。神とは本来頭上に仰ぎ見て敬うべきもので、間違っても刃を向けるような存在ではない。

 

「我々はその芝居に沿って行動するとして、ベルはこれからどうするのだ?」

「ベルにとっては真剣勝負の大舞台やからな。二週間後の『戦争遊戯』まで、死ぬ気でトレーニング漬けや」

「でも、芝居を通すなら僕らは協力できないし、フレイヤ・ファミリアとの共闘を隠す以上、他のファミリアに協力をお願いすることも難しい。修行相手にも事欠く状況な訳だけど、それに心当たりでもあるのかい?」

「それについてはヘルメスが既に話を纏めとった。先方も快くOKしてくれたらしいで?」

「しかし、何処の馬の骨とも解らん奴に、私のベルを任せる訳には――」

「その相手が『疾風』でもか?」

「……………………『疾風』というのはあの『疾風』か? アス――いや、正義の天秤の担い手の?」

「せや、その『疾風』や。まさか信用せんなんてことはないな、やんごとなきリヴェリア・リヨス・アールヴ」

 

 ロキの言葉にリヴェリアは押し黙った。ベルをファミリア外の女性に任せるなど激しく気は進まないが、オラリオの正義の象徴とも言えたかのファミリアで戦った『疾風』の人間性は、リヴェリアも良く知っている。不幸な出来事が重なり今は不遇の立場にいるが、魔法剣士としてその名を轟かせた実力が今も健在であるならば、ベルの訓練の相手としてこれ以上の存在はいない。

 

 実力もエルフ性も問題ないと判断したリヴェリアが懸念しているのは、つまるところ『そういうこと』だ。エルフは身持ちが固いことで知られているが、その中でも他人に触れられることすら嫌う『疾風』はその潔癖さでは群を抜いている。

 

 同じエルフとして、『疾風』はその将来を案じている存在であったのだが、彼女はどういう訳だが、ベルには抵抗なく触れることができ、また触れられることにも抵抗がないらしい。身持ちが固いというのはいざコトに及ぶまでの時間が長いだけの話で、そこに至ってしまえば後は他の種族と変わりがない。むしろ身持ちが固いだけに情も深くなると言える。

 

 エルフにとって最大の障害を、既にベルと『疾風』はクリアしているのだ。母親役を自認しているつもりでいるリヴェリアにとって、その事実は無視できないものだった。

 

「聞くまでもないことだが、ベルと『疾風』の修行は二人きりか?」

「たまにうちがステイタスの更新に行くけど、そんくらいやな」

 

 不安だ。物凄く不安だ。本音を言えば絶対にやめさせたいのだが、リヴェリアは性格的な問題でそれを口にすることができなかった。『疾風』のことはエルフとして信用している。ベルに脅威が差し迫っており、彼を訓練するのに適当な存在は、彼女しかいない。そんな苦労をかけてしまうエルフに対し、『自分の弟分に手を出すかもしれないから』と下世話な理由を突きつけることはどうしてもできなかった。

 

 それならば、別の理由をでっちあげるしかない。リヴェリアの明晰な頭脳はいくつもの彼女にとって都合の良い言い訳を考え出していたが、ロキ・ファミリアの冒険者がベルに協力することができない以上、『疾風』以上にベルの訓練に最適な存在を見つけなければならない。しかし、ファミリアの外となるとリヴェリアには心当たりがまるでなかった。

 

 強いてあげるならば椿・コルブランドである。レベル5の一級冒険者でもある椿は、その実力としては訓練相手として適当であるものの、基本力押しで攻める彼女はベルと戦闘スタイルが大きく異なる。それに椿は今、ベルの武器を作るために工房に籠っていると聞いている。

 

 次に外に出てくるのは武器が完成した後だ。それまでベルは、自分のことを『運命の人』と呼んだエルフと二人きり。それでは意味がない。

 

 そも、ヘファイストス・ファミリアの団長が、実質的なロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリアの抗争に首を突っ込むものだろうか。普通に考えれば答えは否であるが、こと鍛冶師などの職人に限って言えば、それが仕事と押し切れるところもある。

 

 鍛冶師が武器を作ることに、派閥も何もない。これが大した腕もないというのであれば圧力のかけようもあるが、ヘファイストス・ファミリアは鍛冶系の最大手であり、椿はその団長。しかも、冒険者の中では随一の腕を持つ鍛冶師だ。フレイヤ・ファミリアの中にも椿の手による武器を使っている冒険者は多くいる。

 

 下手に圧力をかけて『もうお前たちの武器は打たない』とへそを曲げられてしまっては困るのだ。ファミリア間のパワーバランスを考えれば実際にそこまで強硬な態度に出る可能性は低いものの、鍛冶師と薬師には喧嘩を売るなというのが、冒険者の鉄則である。

 

 鍛冶師が打った武器に、冒険者は命を預けるのだ。お互いの不和が武器のできに影響すれば、冒険者にとっては命に関わる。鍛冶師との仲は絶対に良好にしておかなければならない。フレイヤ・ファミリアとて、椿に対しては強硬に出ることはできず、アポロン・ファミリアならば猶更だ。

 

 それを知っているからこそ、ロキも椿を当日の参加者の一人に数えている。彼女の主神であるヘファイストスが不在のため正式な依頼こそまだだが、椿の性格を考えれば喜んで引き受けてくれるだろう。元よりその意思があったからこそ、あの状況でベルを自分のところで匿うことを了承したのだ。

 

 だが考えてみれば、あの椿もベルに近づけるには危険な気もする。基本的に華奢な身体であるエルフは、豊満な女性というのは少ない。女神も嫉妬すると評されるほどの美貌を持つリヴェリアであるが、身体の凹凸はそれほどでもないのだ。

 

 椿はドワーフの血を引きながら、その真逆を行っている。あの胸部はもはや暴力だ、というのは度々揉もうとしては返り討ちにあっているロキの弁だ。リヴェリアの体つきも決して貧相な訳ではないが、それには『エルフにしては』という枕詞が付く。ドワーフの血を引いているにも関わらず、誰が見ても巨乳である椿とは、豊満さの面では勝負にならない。

 

 今さら性の問題で悶々としているリヴェリアの肩に、ロキはそっと手を置いた。不安になる気持ちはロキには良く解った。自分がリヴェリアの立場だったら、きっと同じ気持ちになることが確信できたからだ。類稀な美貌を持つリヴェリアとてそうなのである。それを持たず、彼我の戦力差が絶望的なロキは、椿がライバルだとしたら憤死しかねない。

 

「大丈夫やってリヴェリア。これくらいでベルが大人の階段登るくらいやったら、そろそろレフィーヤ辺りはママになっとるはずやで」

「あぁ、ベルとレフィーヤだったらとてもかわいい子が生まれそうだね。将来が楽しみだ――冗談だよリヴェリア。そんな怖い顔で睨まないでおくれ」

 

 降参、と両手を挙げるフィンに、リヴェリアは視線をひっこめた。付き合いは長い。どのくらいまでならリヴェリアが怒らないのか、その境界はしっかりと理解してたつもりのフィンだったが、殺気すら籠っていた今の視線には『勇者』と名高いフィンも背中に冷や汗をかいた。いつの世も、女の激情ほど怖いものはないのである。

 

 フィンが素直に謝ったことで、リヴェリアは何とか溜飲を下げた。何度も何度も深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、しかし、絞り出すような苦しい声で、言った。

 

「……私では都合をつけられんだろうからな。お前の方から『疾風』にはくれぐれもよろしくと伝えておいてくれ」

「了解や。せや、今のうちに幹部を分けとこか。下の連中には先走らんように厳命するとして、上の連中はお前ら三人で面倒みてや」

「必然的に、僕はティオネの面倒を見ることになるかな」

「それなら儂はベートだな。他にも喧嘩っぱやい連中を何人か連れて、ダンジョンの中ででも仔細を話すとしよう」

「ならば私はアイズとティオナか。ついでにレフィーヤも連れていって構わないか?」

「かまへんで。この芝居には、沢山乗ってくれた方が皆安全やからな。特にレフィーヤとティオナはベルのことで激怒しとったから、ちゃんと手綱を握っといてや」

「聊か安請け合いをし難い状況ではあるが、任された」

 

 とりあえずの班分けが済んだところで、ロキはぱしんと手を鳴らした。既に噂は広まっている。先走る子供が出ないとも限らない。早い内に手綱を握っておかなければ、取り返しのつかないことになりかねない。この大芝居はアポロンを逃がさないものであると同時に、子供たちを守るためのものでもある。

 

 『神会』で決められた通り、ロキ・ファミリアの面々は『戦争遊戯』に参加することはできない。

 

 しかし戦場に赴かずとも、戦に影響を及ぼす手段はいくらでもある。トリックスターたるロキは、そういう姑息な戦いを熟知していた。今でこそ最大派閥を率い、正面切った戦いを主としているが、策謀、陰謀、騙しに騙りは本来ロキの最も得意とするところである。

 

 戦わずに戦い、ルールに反せずルールを破る。自ら筆を取り、本に起こした大芝居。これぞ道化の戦いである。 

 

 

 

 

 

 

 



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ロキ・ファミリア

 

 

 ベルの一件で先走る眷属が出ることを防ぐため、主神たるロキは主命によって待機を命じた。

 

 団印まで使った最上位のこの命令は、ロキの口頭及び書面にて彼女が『神会』に参加する前に全団員宛に通達されている。その日ダンジョンに出払っていた団員にまで使いが走る程の徹底っぷりだ。

 

 知らない聞いていないでは済まされない。これを破れば最悪除名追放もありうるという、非常に重い命令だ。ベルに対するアポロン・ファミリアの行動にキナ臭いものを感じ取っていた団員たちも、張りだされた命令書を見ていよいよ大事になったと確信を持った。

 

 だが、『神会』である。

 

 神アポロンから仕掛けられた『戦争遊戯』について、集まった神々が今日議論する訳だが、最大手のファミリアの一つであるロキ・ファミリアは、元より『神会』で大きな発言権を持つ。これに匹敵する発言権を持っているのはオラリオにおいてフレイヤ・ファミリアしかない。

 

 この二つのファミリアがいざ戦争となった時、どちらに付くのが正しいのか。神ならぬ身である地上の子供たちにも容易に想像がついた。

 

 いくら神が退屈を嫌うと言っても、勝算のない戦いを挑むとは考えにくい。神アポロンには何か勝算があるのだ。ロキ・ファミリアを相手にしても問題ない程の勝算となれば、答えは自ずと絞られてくる。まさかあのファミリアが……と信じがたくはあったが、中堅のアポロン・ファミリアがロキ・ファミリアと対等以上に戦うとなると、助力している存在はあの女神しか考えられない。

 

 かの女神はどの程度の助力を約束しているのか。どこのファミリアが相手でも負けるつもりのないロキ・ファミリアの面々だったが、それも相手ファミリアが単独であればの話だ。フレイヤ・ファミリアとアポロン・ファミリアが全面的に手を組んだとなれば勝利に危険の信号がともり、ここに更に別の大手ファミリアが手を貸すとなれば敗色が濃厚となる。

 

 そうなればロキ・ファミリアも他のファミリアの手を借りざるを得なくなるが、フレイヤを敵に回してもロキの味方をしてくれそうな神はオラリオ中を見てもイシュタルくらいしかいない。フレイヤを合法的に痛めつけられるというのならば、あの女神は本当に何でもするだろう。ロキ・ファミリアと合同でというならば、文句が出るはずもない。

 

 ロキイシュタル連合を相手にするとなると、フレイヤ・ファミリアから見てアポロン・ファミリアが相方では分が悪い。それに対抗するためには更に援軍を、と戦いの規模が際限なく大きくなっていくのは目に見えていた。オラリオを二分する全面戦争に発展する可能性も否定はできない。そうなると後は消耗戦で、神々もそれは避けたいところだろう。どの辺りを落とし所にするのか。それを探るための『神会』になるのだろうが、子供たちは神の思惑など知る由もない。

 

 一体これからどうなるのか。オラリオの他のどの場所よりも混沌としたロキ・ファミリアの本拠地に『神会』の第一報が届いた。神ロキが戻ってくるよりも早くの先触れは、怒りと興奮が混ざった口調で次のことを口にした。

 

 

 

 ロキ・ファミリア対アポロン・ファミリアの『戦争遊戯』が正式に成立。

 

 ただし、ロキ・ファミリアからの参加者は『白兎』ベル・クラネルのみとし、救援は他のファミリアからのみ認めるものとする。アポロン・ファミリアには何の制限もなし――

 

 

 

 最後まで聞き終わるよりも先に、食堂に轟音が響いた。『大切断』ティオナ・ヒリュテである。腕の一振りでテーブルを粉砕した彼女は、次いで怒りに満ちた雄叫びをあげた。正気を失っている。それを悟った他の団員たちは我先にとティオナの傍を離れた。ベルに対する仕打ちへの義憤も勿論あったが、今は何より身の安全が第一だ。

 

 手当り次第近くにある物を破壊して回っているティオナに、団員たちは近づくこともできない。これで得物のウルガが手にあったらそれこそこの部屋だけでなく塔まるごと破壊されることまで気にしなければならなかったろうが、ウルガは第一報が入った瞬間、ティオナの隣にいたレフィーヤによってひったくられ、今も彼女が腕の中に抱えている。

 

 咄嗟の状況判断は流石にパーティを組んでいるだけのことはあるが、ウルガがなくてもティオナの動きは止まらない。自らの怒りを発散するかの如く手当たり次第に物を破壊していくが、その怒りはいつまで経っても収まる様子がなかった。

 

 誰かが止めなければならない。それはその場にいた冒険者の誰も解っていたが、ティオナ・ヒリュテはレベル5。ロキ・ファミリア全体で見ても10指に入る高レベル冒険者である。人数でこそ勝っているが、この場に居合わせた冒険者で最もレベルが高いのはレベル3のレフィーヤで、後は全員2以下である。頭数ばかり揃っていても勝てるものではない。同等以上の冒険者でなければこの暴走は止められないが、その到着まで放置していると本当に塔が丸ごと破壊されかねない。既に知らせに走ってはいるが、塔が壊れる前に間に合ってくれるかどうか――

 

「ティオナ! やめなさい!」

 

 冒険者たちの真摯な祈りが通じたのか。報せを受けて最初にすっ飛んで来たのは、ティオナの双子の姉、ティオネだった。彼女も第一報は耳に入れて義憤に燃えていた口だが、双子の妹が怒り狂って暴れていると報せを受けてその怒りも吹っ飛んでしまった。自分よりも怒っている人間がいると、怒りは沈静化するという現象の良い見本である。

 

 冒険者たちが尻込みしている怒りの大嵐の中に、ティオネは躊躇なく突っ込んでいく。視界に動く標的を見つけたティオナは、それが双子の姉であるとすら理解しないままに、拳を繰り出した。唸りを挙げて飛んでくる拳。大岩すら粉砕するその一撃は、ティオネの目から見ても雑な攻撃だった。

 

 これが我が妹か、と嘆息しながらティオネはそれを最小限の動きで避けた。紙一重の距離を拳が通過するのを横目に、拳を軽く引く。

 

 そして、一閃。

 

 ティオナの身体が開いた瞬間を狙い澄まして放ったティオネの拳は、一直線にティオナの顎を打ちぬいた。夢に出そうな程の不快な音と共に、顎を打ち上げられたティオナの身体が宙に浮く。打ったティオネ本人だけでなく、戦いを見守っていた冒険者の誰もが、これで終わりだと確信した。それ程の会心の一撃だったのだが、怒りに我を失ったティオナの耐久力は、その場にいた全員の想像を越えていた。

 

 限界を超えた怒りが、ティオナを動かしている。意識を失わず獣のように四本脚で着地したティオナが、全力で床を蹴り、ティオネに突っ込んだ。殴る蹴るなど文明的と言わんばかりの体当たりは、来ると解っていて身構えていたはずのティオネを容易に吹っ飛ばした。

 

 ごきり、というのは肩が外れた音だろう。立ち上がったティオナの右腕には、全く力が入っていない。ついでに拳も砕けている。戦闘を続行できるような状況にはないが、怒りに満ちた目は次に破壊するものを求めていた。一方、吹っ飛ばされたティオネもレベル5の冒険者である。強引に空中で身体を捻ってこれまた四本脚で着地し、ティオナに突っ込んで行く。

 

 ティオナはこれを迎撃するべく、意識を完全にティオネの方に向けたが、それこそがティオネ『たち』の狙いだった。

 

「寝てろ、ド貧乳」

 

 双子のアマゾネスが戦っている間。気配を殺して背後に周っていたベートが、ティオナの首筋に手刀を撃ちこんだ。怒り狂っていても冒険者でも生物的な急所は健在であり、そこを同等の力を持った冒険者に攻撃されれば一溜りもない。

 

 普段であれば、ここまで簡単に背後を取られたりはしなかったのだが、怒りがティオナの判断を鈍らせていた。床に崩れ落ちるティオナの腕を取って支えたベートは、忌々しそうに溜息を吐いた。怪我をさせずに無力化するために仕方なかったとは言え、騙し討ちは彼の流儀ではない。

 

 もはや一秒でもこんな空間にはいたくなかったのだが、その前にするべきことがあった。

 

「手間をかけさせたわね」

 

 やってきたティオネにベートは視線で合図を送る。何を言った訳ではないが、それでティオネはベートの意図を察した。二人でティオナの身体を固定する。『行くぞ』というベートの掛け声で、二人は同時に動き――夢に出そうな耳障りな音と共に、ティオナの肩は元に戻った。

 

 肩が外れたのはベートの責任ではないが、治療の必要な冒険者を治療するのは発見者の義務のようなものである。大衆の前で治療を行っている自分という構図に耐えられなかったベートは、ティオナの肩がきちんと戻ったのを雑に確認すると足早に食堂を去った。その背中を苦笑と共に見送ったティオネは、改めて居並んだ団員たちに問うた。

 

「だれか、ハイポーション持ってない?」

「私がやります!」

 

 ティオネの声に、慌ててレフィーヤが駆けよる。過保護なリヴェリアのお達しで、回復薬は常に携帯するようにしている。生傷こそ絶えないが、大怪我をすることの少ないベル相手にはあまり出番はないが、備えあれば憂いなしだ。

 

 大暴れした下手人であるティオナの拳は、力加減を考えずに振り回したせいで砕けてしまっている。無事な指は一本もない。怪我人を見慣れているはずの冒険者たちも、あまりの酷さに顔をしかめる者がほとんどだ。

 

 そのティオナより酷い有様なのが、食堂である。椅子やテーブルで無事な物は一つもなく、ティオナに殴られた壁は所々に罅が入っている。まさか塔をへし折るなんて……と一般の人間は思うだろうが、身体へのダメージを全く考えず、武器を使ってならば、それはレベル5の冒険者にとって決して不可能なことではない。

 

 事態が収拾され、その場にいた全員が最初に考えたのは、塔が壊れなくて良かった、だった。

 

「レフィーヤ。それはしばらく預かっててもらえる? 武器が自分の手元にない方が、あの娘も安心できると思うのよ」

 

 応急処置を眺めていたティオネの視線がレフィーヤの傍らにあるウルガに向く。それは自分に危険地帯に居続けろということでしょうか、と聞き返すことはできなかった。これは誰かがやらなければならないことで、自分が断れば他の人間がその役目を担うことになる。危険地帯に好んで足を踏み入れる趣味はないが、ティオナは同じファミリアの仲間であり、現在は共にパーティを組む仲間である。それに加えて、元来のエルフ的な責任感の強さもあり、レフィーヤはティオネの頼みを二つ返事で引き受けた。

 

 ハイポーションの効果もあり、しばらくするとティオナの壊れた拳は『一応』元に戻った。とは言えこれはあくまで応急処置である。保護の固定のため、包帯でガチガチに拳を固め、ティオナと一緒にウルガも背負う。一旦自分の部屋に寄ってウルガを放り込み、その足でティオナの部屋に向かう。

 

 一緒にパーティを組むようになってから、レフィーヤがティオナの部屋に出入りする回数はかなり増えた。エルフとアマゾネスである。これまでは同じファミリアに所属しているということ以外に共通項などまるでなかった二人だが、ベル・クラネルという共通の話題ができたことで交流が進んだ。

 

 話をするのは冒険に関すること――言ってしまえば仕事の話ばかりだが、他愛のないこともいくらか話す。好きな食べ物の話、洋服の好みの話。どういう色が好きで、逆にどういう色が嫌いか。お互いのことを少しずつ理解していく内に、ティオナとは友人と呼べる程度には親しくなれた気がしていた。友人が傷つくのは、自分のことのように悲しい。

 

 ティオナを背負ったまま、行儀は悪いとは思ったが足でどうにか扉を開けて、部屋に入る。自分の部屋に比べて雑多な雰囲気であるが、寝台周辺だけはきっちりと片付いている。寝転がっていても手の届くところに英雄譚が置いてあるのには、部屋に来るたびに笑みがこみ上げる。

 

 ベルの部屋も、似たように物が配置されている。彼の部屋の方が物は少ないが、寝台の周りに英雄譚が置いてあるのは一緒だ。

 

 今、彼はどうしているのだろう。ロキの指示で匿われたというが、元気にやれているのだろうか。ベルのことを考えながら寝台の上にそっとティオナを寝かせる。積んであった荷物を適当に退かして椅子に座ると、レフィーヤは一人、大きく溜息を吐いた。

 

 状況は想像していた以上に混沌としている。ロキ・ファミリアの面々は当然、自分たちも戦うものだと思っていた。それは常識的な理解ではあるのだろう。助っ人ありとは言え、まさか個人対ファミリアというバカげたマッチメイクが成立するとは思うはずもない。ファミリアを代表して一人の冒険者が戦うという展開はそれ程珍しいものではないが、レベル2の冒険者に対して相手はファミリア全員というのは明らかに過剰である。

 

 何か政治的な動きがあったに違いない。オラリオにおいて政治とは神々の利害の調整に他ならず、そこに子供たちが関与する余地はない。神は何よりも自由な生き物だ。その都合は地上の全ての法に優先される。ベルはそれに巻き込まれた形になる訳だが、その過程でロキ・ファミリアも罠にハメられた。

 

 アポロン・ファミリアの後ろにはおそらくフレイヤ・ファミリアがある。戦って勝てる相手ではないと普通の神ならば泣き寝入りでもするのだろうが、喧嘩を売られたのはあのロキである。彼女が子供に対するこんな仕打ちに対して、黙っているはずがない。

 

 ロキのことだ。何か凄絶な報復を考えているのだろうが……それは同時に、オラリオに特大の火種を持ちこむことを意味する。元よりオラリオ全てのファミリアが共同歩調を取っている訳ではない。神が自分の都合で動く以上、ファミリア同士の戦いもまた神の都合で行われる。

 

 ロキのゴーサイン。それは即ち、全面戦争の開戦だ。最終的な勝者が誰になるのか、そもそも勝者が残るのかすら誰にも解らない。混沌とした戦いは退屈に飽いた神々にとっては望むところなのかもしれないが、巻き込まれた子供たちには堪ったものではない。

 

 ベルのためにも、どこか適当なところで落としどころを見つけてほしいのだが……さてどうなるものか。

 

「レフィーヤ?」

 

 思考にふけっていると、ティオナが目を覚ました。寝台の上で身体を起こし、自分の身体を見下ろす。完全に砕けていた両の拳は、ハイポーションを使ってある程度までは復元できている。包帯こそ巻かれているが、これも安全のためで、明日には完全に回復しているはずである。

 

「レフィーヤがやってくれたの? これ」

「はい。怪我を治療して、部屋までお連れしました」

「……ああ、私大暴れしたんだったね」

 

 口調が間延びしている。意識はまだはっきりとしていないのだろう。あれだけ暴れたのだから無理もない。今ティオナに必要なのは、休息だ。ティオナはベッドの上で寝がえりを打って、レフィーヤに背中を向けた。軽い拒絶の雰囲気を感じ取り、立ち上がったレフィーヤの耳に、か細いティオナの声が辛うじて届く。

 

「レフィーヤ」

「なんですか?」

「私、悔しいよ……」

 

 ティオナは寝台の上で背を向けていて、その表情は窺い知ることはできない。それでも、レフィーヤには彼女が泣いているのが分かった。気丈な性格である。ロキ・ファミリアを代表する冒険者であり、『大切断』の二つ名を持つ冒険者の、何と弱々しいことだろうか。

 

 レフィーヤだって、ティオナと同じ気持ちである。ベルのために戦いたいのに、神々の決定がそれを許さない。心の中は悔しさで一杯だ。握る拳には、力が籠る。

 

 同じ気持ちだ。それを言葉にしても、ティオナには伝わらないような気がした。心を伝える魔法があればどんなにか、と思いながらレフィーヤはティオナの手を包帯の上から軽く握った。

 

 ティオナは振り返らない。しかしぎゅっと、手を握り返した。

 

 ベルのために何でもしよう。二人がそれを決意した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フレイヤとの極秘会談からこっそりとロキが戻り、作戦の全容を大幹部三人に伝えた後。大幹部の一人であるリヴェリアは、足早に食堂へと急いだ。ロキの命令でそこには既にリヴェリアが面倒を見ることになっている面々が全員集められている。

 

 既に怒り狂ったティオナの手によって破壊しつくされた後という情報は入っていた。塔をへし折られなかっただけマシだった、と思うべきなのだろうか。物損だけで人的被害は出ていないというのが、不幸中の幸いである。狂戦士と化したアマゾネスになど、近づきたいと思う者はオラリオにもいはしない。

 

 これからは何より時間が勝負だと可能な限り急いだつもりだったが、居並んだ団員たちを見た瞬間、リヴェリアは自分が出遅れたと激しく後悔した。情報の通り、食堂に無事な所はない。嵐でも放り込んだのかと言わんばかりに、テーブルや椅子の残骸が散らばっている中、冒険者たちは思い思いの場所に立っていた。

 

 彼ら彼女らの目には、闘志が満ちていた。やれと言われたら何でもやるだろう。それはリヴェリアの目から見ても非常に頼もしいものだったが、同時に酷く危うくも思えた。

 

(やはり芝居は必要だったか……)

 

 芝居を打つというロキの方針に聊か懐疑的だったリヴェリアだが、団員たちの表情を見て絶対に必要なものだと考えを改めた。何か明確な指針を与えておかないと、彼ら彼女らは遠くない内に暴走する。特に食堂を破壊したティオナと、その面倒を見ていたらしいレフィーヤの雰囲気が酷く不安定だ。

 

 居並んだ団員たちはロキとリヴェリアたちで話しあい、班分けされた後だった。

 

 ガレスを中心とするのは比較的気性の荒いグループ。幹部ではベートが合流している。人数としては最も少ない彼らはガレスに連れられて、『戦争遊戯』の前日までダンジョンに潜ることになっている。

 

 フィンのグループはティオネと二人……で十分だとティオネ本人が強硬に主張したがそれは通らず、フィンの意思で比較的穏やかな面々が集められた。この班には特に行動の制限はない。ただダンジョンには潜らずに、各々が地上で思い思いに過ごす。自由時間を与えられたグループと言えば、一番解りやすいだろうか。

 

 リヴェリアはそれ以外の全員を受け持った形になる。中核となるのはリヴェリア閥とも言える、エルフを中心とした女性冒険者のグループだ。幹部ではティオナとアイズを受け持ち、エルフであるレフィーヤもここに属する。方針は学区などに赴き、勉強や交流をしたりなど固い行動が中心となる。

 

 状況を説明し終えると、何を悠長なという強い気配がエルフ組以外から漏れた。指針に対して明らかに不満を持っている。最初の時点で神命であると言っておかなければ、リヴェリア相手でも怒号が飛んでいた気配だ。

 

 不満が渦巻いていることをエルフたちも感じ取ったのだろう。彼女らにとって、リヴェリアに対して敵意を向けるなどあってはならないことだ。このままでは仲間同士で争うことになる。その気配を感じ取ったリヴェリアはこれくらいでなければな、と逆に心中で笑みを浮かべた。

 

 これから打つのは、オラリオ始まって以来の大芝居となる。この肌が焼けつくような殺気でなければ、真に迫ることはできない。

 

「そんな悠長なことしてないでさ。もうやっちゃおうよ。アポロン・ファミリア。団員全員半殺しにしてホームの前に並べてやったら、あっちの気も変わるんじゃない?」

 

 ティオナの言葉は物騒極まりないものだが、恐ろしいのはこれに追従する意見がいくらか上がったことだった。ファミリアの規模を考えれば、ティオナの言葉を実行するのはそれ程難しいものではない。各個撃破でも許されるのであれば、ティオナ一人であっても、十分に実行可能な内容であるが、それも平時の話。

 

 襲撃を警戒し、準備万端整えているアポロン・ファミリアが相手では、いかに『大切断』と言えども苦戦は免れない。

 

 それにいざ襲撃となれば、相手はアポロン・ファミリアだけでは済まなくなる。既に『神会』でルールは決した。ロキ・ファミリアから参加できるのはベルただ一人であり、それ以前に『戦争遊戯』の期日を前に、敵対ファミリアに対して攻撃をするのは、重大なルール違反である。

 

 ギルドからの制裁の対象となり、その命令を受けたファミリアが介入してくる可能性は高い。最大ファミリアの片割れであるロキ・ファミリアを蹴落としてやりたい。そう思っているファミリアはいくらでもある。ギルドから大義名分を与えられれば、彼らは喜んで剣を手にとり、襲い掛かってくるだろう。神アポロンは既に、制度と法を味方につけているのだ。こればかりは、腕っぷしだけではどうにもならない。

 

「アポロン・ファミリアの団員全員を半殺しにできたとしても、我々がペナルティを負うだけで奴らには肉体的な被害しかないぞ」

 

 『神会』で定められたルールからして、既にロキ・ファミリアにとって圧倒的不利にできているのだ。順当に考えるならば、このルールに沿ってロキ・ファミリアが勝ちを拾うのは不可能に近かっただろう。フレイヤとアポロンの意見交換が上手く行っていれば、フレイヤの一人勝ちだったのだからぞっとする。

 

「それに半殺しとは……アマゾネスにしては随分とお上品な発言だな? 首を並べるくらいは言うと思っていたぞ」

 

 普段であれば過激な発言を諌める立場であるリヴェリアが、ティオナを煽るような言葉を発したことに、普段と違う雰囲気を感じ取った団員たちの視線が集まる。全員の視線が集中するのを待って、リヴェリアはティオナに向かって言葉を続けた。

 

「やるならもっと、大きなことをしろということだ。しかし、お前がやる気ならばちょうど良い。『これ』は間違いなくロキ・ファミリア始まって以来の大きな作戦となる。そのやる気は大いに助けとなるだろう。実に心強い」

 

 現在の苦境に対して、やはり何か作戦があるのだ。自分にできることはないか。ずっと考えていた団員たちにとってリヴェリアの言葉は正に天啓だったが、彼女の言葉はロキ・ファミリアの善性と言われる程に持ち上げられる普段のリヴェリアからは、想像もできないものだった。

 

 

 

「我々で、神アポロンを弑逆する」

 

 

 

 地上の子供の手による、神殺しの提案である。実行されれば関係者全員最悪死罪となり、計画をしただけでも厳しく罰せられる行いである。理性的なリヴェリアがこの提案をしたことで、団員たちは状況を『正しく』理解した。ここまでやらなければ、仲間を守れないような状況なのだと。

 

 そして、この作戦が成功すれば、オラリオにおけるロキ・ファミリアの立場は非常に厳しいものになる。オラリオにいられなくなることも、考えなければならない。団員一人のために、主神であるロキはそこまでやると言っている。リヴェリアもこれに追従した。そうすることが当然だと思っているのは明らかだ。

 

「これに対し、ロキは全ての団員に改宗を認める。成功しようとしまいと、今まで通りとは行かなくなるだろう。今宵一晩、じっくり考え、己の進退を決めるように――」

「私はやるよ」

 

 迷いなく、それが当然であるかのように、ティオナは言った。拳に巻かれた包帯を解き、レフィーヤから差し出されたウルガを受け取る。本調子とは行かないが、問題ない。それが仲間のためになるならば、何だってやる。例えそれが、神殺しであってもだ。

 

「……良く考えろ。これから我々がやろうとしているのは、神殺しだ。仲間のために、そこまでやってやる義理があるのか?」

「ここでやらなきゃ、何のための仲間なのか解らないよ」

「この決断には、お前のこれから先の人生がかかっている。人生そのものがここで終わるかもしれないのだ。それほど重い決断を、この場で決めても良いのか?」

「何もできないって一人で泣くくらいなら、神殺しに挑んで死ぬ方がずっと良いよ。いつまで、どのくらい考えても私は絶対に同じ答えを出すよ」

「結構。ならば、お前と同じ愚か者が他にもいるか、問うてみるとしよう」

 

 

 

 

「我らが主神ロキの名において、ロキ・ファミリア副団長、リヴェリア・リヨス・アールヴが命ずる。『神殺しをせよ』この主命に反論なくば、今ここに跪け」

 

 

 

 

 

 

 リヴェリアの言葉に、ティオナが、レフィーヤが迷いなく跪く。彼女らだけではない。リヴェリアの受け持ちとなった団員全てが、仲間のためならば神殺しも辞さずとして、その場に跪いた。仲間たちの決意に、リヴェリアは満足そうに頷く。

 

「それでこそロキの眷属だ。我らの戦いを、神アポロンに見せつけてやろう」

 

 おお! と団員たちの雄叫びが響いた。ティオナも、レフィーヤも普段は控えめなエルフたちも全員が拳を突き上げて一つになっている。常であれば、リヴェリアも素直に喜べたのだろう。仲間が一体になっている。副団長としてこれ程嬉しいことはないが、リヴェリアは今からやることが茶番であることを知っていた。

 

 その事実を知っているのはオラリオでも極々少数である。『戦争遊戯』が始まるまで約二週間。その間、それをおくびに出してもならないというのは、想像するだけで苦痛だった。おまけにこの苦行を達成したとしても、仲間を茶番に巻きこんだとして、しばらく居心地の悪い思いをすることになるのは間違いない。この苦労は報われないのだ。

 

(この戦いが終わったら、しばらくベルを構ってやるのも良いかもしれんな……)

 

 早くも癒しを求める思考は顔にも態度にも出さない。やんごとなき立場に生まれ、そのように育てられたリヴェリアにとって、外面を取り繕うなど造作もないことだった。

 

 




次回からベルの修行編に入ります。


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修行場

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヘファイストス・ファミリアの本拠地(ホーム)で途方に暮れていたベルを迎えに来たのは、水色の髪に眼鏡をかけた、見覚えのない女性だった。女性の部屋の寝台で一人所在なさげに座っていたベルを呆れた様子で見降ろしたその女性は、品のある所作で一礼した後、自分の所属と名を名乗った。

 

「ヘルメス・ファミリア団長、アスフィ・アル・アンドロメダです。神ロキの使いで、貴方を修行場まで連れてくるようにと頼まれました」

「修行場?」

「貴方がここに匿われている間に『神会』で『戦争遊戯』の内容が決定しました。時間が惜しいので道中で話すとしましょう。ついてきてください」

 

 さ、とアスフィに促されて、ベルは椿の部屋を後にした。ベルにとってもアスフィにとってもこの本拠地はアウェーであるはずなのだが、アスフィは全く気にした様子もなくずんずんと歩みを進めている。職人たちの視線を一身に浴びながら、居心地の悪さを強く感じていたベルは下を向きながらアスフィの後を付いて行く。

 

 アスフィが目指していたのは、屋上だった。最大手の鍛冶系ファミリアだけあって、建物の身長は高い。普通の生まれではここまで高い建物に足を踏み入れることなく一生を終えることもあるだろうが、ベルは普段ここよりも遥かに高い建物で寝起きしているので、そういう感慨はなかった。

 

「ここから、どうするんですか?」

「目的地に向かいます。先に言っておきますが、これから見ること知ることは他言無用に願います」

 

 良いですね? と眼鏡の奥の怜悧な瞳が念を押してくる。その視線の鋭さに、ベルはこくこくとせわしなく頷いた。素直なベルの態度に満足したアスフィは、背中の鞄から二人分の兜を取り出す。

 

「これは姿隠しの兜というマジックアイテムです。その名前の通り、これを被ると他人から姿が見えなくなります」

「……これを僕に?」

 

 マジックアイテムを渡されたのだ。冒険者としてときめかないはずがないのに、ベルは悪い予感を憶えていた。いやさ、胸中には悪い予感しかない。兜を抱えて悶々としているベルを知ってか知らずか、アスフィは淡々と説明を続けている。

 

「貴方がどこで誰と修行をしているのか。それを知る者は極少数にしたいと神ロキは仰せです。そろそろ夜の帳も降ります。夜空を見上げる者たちに私たちの姿は見えないと思いますが、念には念を入れてです」

「今、ちょっと怖い単語が出てきたような気がするんですが……」

「察しが良いようで助かりました。じっとしていてくださいね。これを怠ると、いくら冒険者でもタダでは済まないので……」

 

 兜を取り出した鞄から麻縄を取り出したアスフィはそれをベルの腰で結び、反対側を自分に結び付けた。どうぞ、というアスフィの仕草に促され、ベルは姿隠しの兜をかぶった。魔法をかけられたという特別な感覚はない。それこそ一瞬で、ベルの姿は自分の目にも見えなくなった。

 

 見れば、隣にいたはずのアスフィの姿も消えている。気配はするのに姿は見えないことに内心慌てるベルだったが、縄の感触はしっかりと腰に残っていた。

 

「あまり距離を取ろうとしないでくださいね。他人を縄でつないで飛ぶのは、私も初めての経験なので」

「色々聞きたいことがあるんですけど、とりあえず一つだけ。もっと安全な方法はないんですか?」

「物語に出てくる姫のように、私が貴方を横抱きにするというのが一番安全で簡単です。それをご所望というのなら、応えてさしあげますが?」

「縄で良いです。縄でお願いします」

 

 縄でぶら下がるのも不格好だが、女性にお姫様抱っこされるのは更に恰好悪い。人に見えないというのは慰めにもならなかった。これはベルの男としての自尊心の問題である。

 

「話もまとまったようなのでいきましょう。なるべく低空を飛行します。下に声が届くとは思えませんが、あまり大騒ぎはしないようにしてください」

 

 言うだけ言って、アスフィはベルの応答を待たずにマジックアイテムを起動させた。自分が空を飛んでいる。その事実にベルは半狂乱になりかけたが、悲鳴を上げることはどうにか堪えた。普段、命をかけてダンジョンにもぐり、魔物と戦っている冒険者でも、自由に空を飛ぶことのできる者は少ない。豪傑無双の冒険者でも怖いものは怖いのだ。

 

 どこをどう飛んだのかもよく覚えていない。余裕のある冒険者ならば空からの光景を楽しむこともできたのだろうが、ベルにそれは無理な相談だった。ヘファイストス・ファミリアの屋上を立ち、瞬きをしたら目的地に到着していた。冗談のようだが気持ち的には、そんなものである。

 

 身体を繋いでいた縄をナイフで切られて、バランスを崩したベルは地面に尻餅をついた。しばらく地に足を付けていなかったので、感覚が狂ったのである。空を飛ぶのに慣れているらしいアスフィの足取りはしっかりとしたものだ。僅かに呆れた様子でベルを見下ろしているが、その口からバカにするような言葉は出てこない。大抵の者は最初に飛んだ時こうなるということを知っているからだ。事実、アスフィも最初の空を飛んだ時には、似たような有様になった。

 

「僕も空になれた方が良いんでしょうか……」

「空を飛ぶ怪物に空での戦いに付き合う義理はありませんし、私の知る限り、ダンジョンにおいて空を飛ばなければどうにもならない状況、というのは数える程しか聞いたことがありません。どうしても欲しいというのであれば神ロキの顔を立てて用立てて差し上げても良いですが、それなりの値段は覚悟しておいてくださいね」

「名残惜しいですが、それはまたの機会にお願いします」

「賢明な判断です」

 

 アスフィとのやり取りを終えて、平衡感覚を取り戻したベルはようやく周囲を見まわした。オラリオの中にもこんな場所があるのか、という木々の生い茂った場所。街の喧噪もここには聞こえず、人工物と言えばさびれた小屋があるのみである。ベルたちが到着したことを察知したのか、小屋の中から人影が出てくる。

 

「修行の相手は彼女ですよ」

 

 その人物の登場に、ベルは軽く目を見開いた。

 

 小屋の中から出てきたのは、一言で言うならば怪しい女だった。草色のマントに草色のフード。顔は覆面で半分を隠している。金髪に青い目。とんがっている耳から、種族はエルフであることが見て取れる。

 

 金髪碧眼というのは、おとぎ話に出てくるエルフによく見られる特徴であるのだが、実際にこの特徴を持つエルフは全体の半分にも満たない。事実、オラリオで最も有名なエルフであるリヴェリア・リヨス・アールヴは髪も目も翡翠色であるし、レフィーヤ・ウィリディスも目こそ青いが髪は明るい茶色である。

 

 そんなエルフは身体能力を犠牲にして魔法力を高めた種族、というのが一般の認識であるが、覆面の腰には小太刀が二本と、木刀が下げられている。

 

 どちらも相当に使いこまれた武器である。そこそこ経験を積んだ冒険者ならば、眼前の彼女が近接系であることが理解できるだろう。さらに事情を知っている者ならば、その装備とエルフらしい特徴から、『疾風』の二つ名まで言い当てることができるかもしれない。

 

 さて、そこへ行くとベルはどうだろうか。驚きの表情を浮かべているベルにアスフィが視線を向けると、彼は開口一番に、言った。

 

「リューさん!?」

 

 ベル以外の二人の動きが、一瞬だけ止まった。

 

 全く考えもせずに正体を言い当てたベルに、アスフィと覆面――リューは、はっきりと驚いた。確かに覆面の下にいるのはリュー・リオンそのエルフであるのだが、顔の半分が見えているとは言え遠目に、しかもフードに覆面の怪しい奴を知り人と看破できるものだろうか。

 

 驚きのままアスフィがリューを見ると彼女は勿体ぶった仕草でフードと覆面を外した。正体を知られたのならば、顔を隠しておく意味はない。

 

 エルフらしい怜悧で整い過ぎた顔が覆面の下から現れる……が、その無表情が微妙ににやついているように見えるのはきっとアスフィの気のせいではないのだろう。覆面をしていても自分を解ってくれたベルに、少なからず喜びを感じているようである。

 

 エルフにしても潔癖であるという情報は聞いていたが、それがどうしてベルに限ってここまで心を開いているのだろうか。一目ぼれと表現するのは安っぽいが、噂の通りに運命の人と表現するのは詩的に過ぎる。僅かに思考した後、軽く首を横に振ってアスフィは考えることを止めた。

 

 男女の間に、小難しい理屈など必要ない。そうあるべくして、そうなったのだ。まして他人であるのだから、目の前の事実を受け入れるだけで十分である。

 

「それでは、私はこれで。後はお二人に任せます」

「もう帰っちゃうんですか?」

「私が残っていてもできることはありませんし、対外的にはヘルメス・ファミリアがロキ・ファミリアに協力していると思われるのも問題なのですよ。その辺りの機微については、道中に話したと思いますが……」

 

 お忘れですか? とアスフィの怜悧な視線に射抜かれ、ベルは思わず背筋を伸ばした。アスフィは現状を懇切丁寧に説明してくれたのだが、空を飛ぶ恐怖と戦っていたベルはそれどころではなかった。要点のみを纏めるならばベルがロキ・ファミリアを一人代表して戦うということである。

 

 逆の立場ならばまだしも、それなら何も問題はない。まして他のファミリアに援軍を頼むこともできるのだ。確かに困難な道だろうが、こうしてアスフィもリューも協力してくれている。やってできないということはないだろうと、楽天的に考えることにした。

 

 どう見ても、問題の本質を全く理解していない様子のベルにアスフィは不安になったが、既に『疾風』は本番での協力も約束しており、椿・コルブランドも同様ということである。アポロン・ファミリアは圧倒的多数であるが、この二人の協力があるならば、どう転ぶかは解らない。

 

 もっとも、それも『神会』にとって決められた今回の『戦争遊戯』のルールを、真っ当に解釈したらの話であるが。既に神ロキと神フレイヤの間で同盟は成っているということを、アスフィはヘルメスから聞き及んでいた。最大ファミリアの二つが手を組んだのならば、オラリオの中で怖い物はない。

 

 神の代理戦争とは名ばかり。実際は消化試合も良い所だが、それを知らないベルやリューにとっては、その限りではない。ロキ・ファミリアの多くの団員にとってもそうだろう。実は茶番であると知っているだけに心も痛むが最終的に全員が笑って終わるのならば、文句もそれほどは出るまい。

 

 神の都合に振り回される眷属の身にもなってほしいものだが、神という生き物が全体として子供のことを真に考えていたら、今よりもっとつまらない世界になっていただろう。きっと、これくらいの距離感がベストなのだ。

 

「ステイタスの更新のために、神ロキをお連れします。物資の補給なども私が行うことになっていますので、何かあったらその時に知らせてください」

「ありがとうございました。アスフィさん」

「これも主命ですので。感謝は不要です」

 

 それでは、とまた品のある仕草で一礼し、姿隠しの兜を被って空へと消えていく。アスフィとは今日あったばかりで肩書と名前くらいしか知らないが、彼女の所作は印象に残った。ベルに近い所では、リヴェリアに通ずるものがある。リヴェリアはエルフのさる氏族の王族出身で、エルフ全体で見ても相当高貴な血筋に当たるという。

 

 アスフィもまた、どこかの王族なのだろうか。身体的特徴からおそらくヒューマンだとは思うのだが、田舎暮らしのベルの知識は、英雄譚に関するものしかない。生まれがオラリオの人間であれば、言葉の訛りや身体的特徴から出身地を推測できるのかもしれないが、オラリオ歴の浅いベルにはアスフィは『おそらく自分よりも大分上の階級の出身かもしれない』くらいしか推論を立てられなかった。勿論、それが外れている可能性も大いにあり、つまりは何も解っていないのと同じである。

 

「鼻の下が伸びていますよ」

 

 リューの冷たい声音に、ベルはまたも背筋を伸ばした。アスフィに『かっこいい人だなぁ』と見とれていたのは事実である。それに後ろ暗いことは全くない……はずなのだが、リューの声音にはいますぐそれを止めさせるような強い響きがあった。良く言えば素直、悪く言えば単純なベルの反応に、リューは深い溜息を漏らす。

 

 ベルの行動に呆れたのが一割、自分の行動に反省したのが九割である。彼の行動に制限を加えるような権利はないし、事実、リューの目から見てもアスフィはかっこよく見えた。中堅とは言えファミリアの団長を務め、神秘の希少スキルを持つアイテムメイカーである。

 

 公称ではレベル3となっているが、その程度ではないだろうとリューは見ている。レベルを偽装するのは決して軽くない罰則の対象であるのだが、それを指摘する理由もない。隠しているならば何か理由があるのだろう。レベルの管理はギルドが行っており、半ば独立しているとは言えかの組織は『神会』の下部組織である。

 

 偽装をしているならば、彼女の主神の意思が関わっているに違いないのだ。自分の事情に関わらない以上、神の決定に逆らう道理もない。何より今は、ベルのことだ。

 

「さて……これからクラネルさんには修行をしてもらいます。予算はいくらでも下りるということなので、とりあえず回復薬を可能な限り用意しておきました。『戦争遊戯』の前日まで、食事と睡眠以外は全て修行です。死ぬ気で……いや、今ここで死んだつもりで、修行に励んでください」

「解りました!」

「間違いなく理解していないようなので付け足しますが、これから始まる修行は、今まで経験してきたどんなものよりもキツいものとなるでしょう。逃げたくなると思います。私を恨むこともあるかと思います。ですが忘れないでください。貴方の肩には今、貴方自身と、貴方の信ずる神と、その眷属たち全ての名誉がかかっています。貴方の敗北即ち、名誉の失墜です。肝に銘じておいてください」

「……解りました」

「よろしい。本戦については、私も微力ながらお手伝いします。聞けば、椿・コルブランドも合流の意思ありとか。これならば勝負にならないということはないでしょう。貴方にも活躍してもらうので、そのつもりでいてください」

「あの、協力してくださるのは嬉しいんですが、リューさん、大丈夫ですか?」

「それが『所属するファミリアは大丈夫か』という意味の質問なのでしたら、気にしてくれてありがとうございます。ですが、私のファミリアは少々特殊な事情がありますので、問題ありません。そして『お前の実力で大丈夫か』という意味で問うたのでしたら少々心外ですが……初めてパーティを組む者の実力が解らないことが不安、というのは私にも理解できます。いいでしょう。ちょうど良い機会です。時の人である『白兎』に、私の微力を知っていただくとしましょう」

 

 リューはマントを翻しベルから距離を取った。一刀足の間合いとでも言えば良いのだろうか。踏み込み、剣を振るえば首を飛ばせる。そんな距離である。

 

「改めて自己紹介をしましょう。私はアストレア・ファミリア所属。レベル4、『疾風』リュー・リオン」

 

 話の展開から元冒険者というのは予想していたが、想定していたよりも高いレベルにベルは内心で驚いていた。冒険者は危険な家業であり、様々な事情で引退を余儀なくされることも多いが、リューは見たところどこにも怪我らしいものはないし、今も武装している。これから修行をつけてくれるというのだから、戦えないということでもないのだろう。

 

 ならば何故酒場でウェイトレスなどしているのかと考えたが、それこそ自分などでは考えもつかないような『複雑な事情』があるのだと思い至った。人に話さないことには、それなりの理由があるものだ。話したければ話してくれるだろうし、話したくないならそのままでも良い。

 

 知らない仲ではない。リューのことなら何でも知りたいと思うが、根掘り葉掘りする権利はない。そういう時にはじっと待つのも男の仕事だと亡くなった祖父も言っていた。

 

「貴方を信頼してこれを打ち明けました。できるだけ、他言は無用に願います」

「リューさんの信頼は、絶対に裏切りません」

「結構。それでは今から貴方に全力で攻撃を()()()()。何があっても、その場から一歩も動かないように。それから危機を感じても、目を閉じないこと。どこに窮地を脱する手段があるか解りません。目を閉じず、相手を観察することに全ての神経を費やしてください」

 

 気づけばリューの両手には、抜刀された小太刀が握られている。マントが風に流れるのが見えたその瞬間、リューがベルの視界から消えた。その次の瞬間にはベルの顔のすぐ横に、右の小太刀が突き出されていた。目を閉じるなと言われたが、閉じる暇もない。全身が恐怖で硬直するが、それを気合で何とかする。この恐怖に耐えること、それも修行なのだ。

 

「良い覚悟です」

 

 淡々とした言葉の後に、左の小太刀が来た。振りぬかれた小太刀はベルの鼻先を掠め、その次の瞬間には右の小太刀が来る。それでもまだ遅すぎるとばかりに、リューは段々と回転を上げていった。右、左、右、左、かろうじて交互に攻撃されていることだけは認識できていたはずの攻撃も、リューの興が乗ってくるとそれすらもできなくなる。

 

 一瞬たりとも途切れない刃の嵐の中に立たされているのではと、錯覚する程にリューの攻撃には切れ間がなかった。ベルもレベル2になって、地力が上がったことを認識していた。少しはやれるようになった、と思っていたのだが、それが思いあがりであることを思い知らされた。レベル一つで世界が違うのなら、レベル二つでは一体どれくらいか。

 

「集中してください。気も漫ろだと首が飛びますよ」

 

 ぴたり、と交差した二刀が、ベルの首を挟む直前で止まる。薄皮一枚が斬れて、僅かに血が流れた。リューの切れ長の目が、ベルを見つめている。青いその瞳を、ベルは素直に綺麗だなと思った。

 

「すいませんでした。どうぞ続けてください」

「いえ。この程度で良いでしょう。思っていた以上に目が慣れているようで安心しました。途中までは小太刀を追えていたようですしね」

「たまにリヴェリア様に訓練をしてもらっていたので……」

 

 訓練とは名ばかりの一方的な攻撃であるが、それでも訓練は訓練である。認識できないような速度で飛んでくる攻撃をレベル1の内に何度も何度も経験できたからこそ、攻撃に対する集中力が高まったと言える。

 

「それは何より。では、訓練の間はこれを」

 

 言って、リューは左の小太刀をベルに放った。持ち手には動物の皮が巻かれている。使いこまれた様子のそれはリューの手に合わせて作られたものだろうが、不思議とベルの手にも馴染んだ。

 

「椿・コルブランドには小太刀を発注したと聞きました。『単眼の巨師』のことですから本番前には完成させるでしょうが、武器に慣れるのは早い方が良い。幸い、私も小太刀には心得があります。本番前日まで約十二日。修行の間はそれを肌身離さず持つようにしてください」

「解りました」

 

 リューの前でかっこつけたい。そういう思いがあったのだろう。勢いよく小太刀を振ったベルの手から、いきなり小太刀はすっぽ抜けた。かしゃん、と遠くで小太刀の落ちる音がする。穴があったら入りたいと、顔を真っ赤にして硬直するベルに、リューは苦笑を浮かべながら小さく溜息を吐いた。

 

「まずは持ち方から教えましょうか。大丈夫です。死にもの狂いになってもらわないと困りますが、根気よく、一つずつ教えていきますから」

 

 

 

 

 



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強くなるために①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベルにとって修行というのは、杖で殴られるか地面を転がっているか、その二択だった。所謂剣術とかそういうものの教えを本格的に受けたことは今までない。

 

 その原因の一つは指導を受け持っていたリヴェリアとレフィーヤにある。彼女らは後衛の魔法使いであり、武術とは縁遠いポジションにいる。やんごとない立場であったリヴェリアは一応、武術の類を学んだことはあったがあくまで護身術の域を出ていない。

 

 それに、地上において連綿と続く『武術』というのは、あくまで子供たちがお互いに戦うことを想定し、受け継がれてきたものだ。ダンジョンで怪物と戦うには役に立たないという意見も冒険者の間でも根強いが、リヴェリアはその類ではない。

 

 使う使わないの選択を迫られるならばまだしも、できないのでは話にならない。学べるものは可能な限り習得するのが、リヴェリアの教育方針である。剣術もいずれは信頼のできる師匠を見つけて指導させるつもりだったのが、ベルがあまりに早くランクアップしてしまったせいで、伸ばし伸ばしになっていたのだ。

 

 それを今から、リュー・リオンは教えようとしている。リュー本人にそれについて思うところはなかったが、外部の人間に指導を持っていかれたことは、後にロキ・ファミリアのとある人々の間で決して小さくはない遺恨になるのだが、今はまだ別の話である。

 

 冒険者としてではなく、指導者としての観点である。武器を持ったベルの立ち姿を一目見て、リューは彼が武術の経験者から一度も指導を受けたことがないのだな、と察した。

 

 同時にレベル2になるまでこの状態で放置していたことに若干の怒りも湧くが、ベルの環境に思い至る。どれほどの見識を持っていたとしても、二か月かからずにレベル2になるなど予想することはできないだろう。二か月という時間だけを見れば、まだまだ駆け出しも良いところである。

 

 腕を磨いてから冒険者になるケースの方が多いが、ファミリアに入ってから腕を磨くというベルのようなケースもなくはない。

 

 そしてそういった場合、まともなファミリアならばその修練に慎重を期する。ダンジョンに連れていくにしても監督役を連れて浅層で経験を積ませ、ホームで基礎的な修練をさせるのだ。ベルに素振りをさせながら近況を語らせた結果、今の彼がその段階にあることは理解できた。リヴェリアに、ベルが大切にされているのが良く解るが、安全ではあっても決して平坦な道ではない。駆け出しに課す修練としては、かなりキツい部類に入るだろう。

 

(まぁ、私の修行についても、彼女たちの想定を遥かに超えるのでしょうが……)

 

 大汗をかきながら地面で荒い呼吸をしているベルを見下ろす。小太刀の素振り、順手の振り下ろし左右100回。回数としては軽いものだが、教えた通りに振れなければカウントを0に戻すルールである。無論、速度が足りなくても最初からだ。これがやってみるとかなりキツい。

 

 ベルは決して体力のない方ではない。田舎育ちで細いなりに身体は鍛えられていたし、オラリオに来てからはリヴェリアの課題を日々片づけるために武装をしてダンジョンを走り回っている。見た目程ひ弱ではないベルの体力を、リューの課した条件での素振りは根こそぎ奪っていた。

 

 美人さんのエルフなのに、この人ドSだ……と内心で戦慄しながら、呼吸を整え終えたベルは立ち上がった。その眼は既に、次の指示を待っている。明らかに疲れた様子なのに、弱音を吐くこともなければ態度にも表情にも出さない。よくよく躾けられている。リューは素直に感嘆の溜息を漏らした。

 

 これが生来のものでなく、リヴェリア達の調教の成果だとすれば素晴らしいの一言に尽きる。普通は過酷な状況を押し付けられれば多少なりとも視線や態度に反抗心が見えるものだが、ベルにはそれらが一切なかった。調教の成果でないというのなら、よほどの善人か被虐趣味のどちらか……あるいはその両方ということになる。指導する者としては、実に鍛え甲斐のある素材だった。

 

「それでは『戦争遊戯』を前提にした訓練を始めましょう。ロキ・ファミリアの代表として貴方は戦う訳ですが、その際、神ロキの眷属の助けを期待することはできません。私と椿・コルブランドは頭数として数えてもらって構いませんが、それでも、貴方個人の戦闘力を上げることは最低条件と言えるでしょう」

 

 ベルもリューも、この時点で敵の正確な数を把握していた訳ではない。関わり合いのないファミリアの情報などよほどの情報通でもなければ知っているはずもなかったが、リューは冒険者としての経験と複数のファミリアを同時に相手をしたとある経験から、アポロン・ファミリアのおおよその人数に当たりをつけた。

 

 冒険者の情報は全てギルドに保管されている。所属冒険者のレベルは公開情報であるから、コネがなくても時間さえあれば、構成員の人数とレベル分布くらいは調べられるはずだが、リューにもベルにもその時間はない。現状はとりあえず、レベル2の『白兎』が一人では、決して相手にできないくらい沢山という認識で問題ないはずだ。

 

 ではレベル4の『疾風』ならば簡単に行くかと言えば、そういう話でもない。一対一の戦いに於いて、レベル差というのは無視できない力量差を生み出すが、単体対複数であれば、数の差でそれを覆すことも不可能ではない。

 

 伝え聞いた情報では、アポロン・ファミリアで最もレベルが高いのは、団長のヒュアキントス・クリオのレベル3であり、これは彼単独のもの。残りは全てレベル2以下である。

 

 全て一対一で戦うのであれば、例え百人、二百人連続で相手をしても遅れを取ることはないだろうが、その全てが一斉にかかってくるとなると話は変わってくる。『戦争遊戯』の内容はまだ決まっていないが、ここまで有利なカードを組んだのだ。競技内容だけ平等公平になるとは考えにくい。

 

 数の有利を活かした上で準備万端となれば、如何にリューでも多数を相手にするのは難しい。ベル一人では何をか況やである。

 

「私も、そしておそらく椿・コルブランドも、早々他の冒険者に遅れを取るつもりはありませんが、私も彼女の手も二本しかありません。これはアポロン・ファミリアが売り、貴方が――ひいてはロキ・ファミリアが買った喧嘩です。最終的に勝者が我々となっても、その時立っているのが私や椿・コルブランドだけなのでは意味がありません。ルールの上では勝利となっても、その時に貴方も立っていなければ、観客は貴方の勝利と思わないでしょう」

 

 これはファミリアの名誉を賭けた戦いであると同時に、興行でもある。勝敗は広く賭けの対象とされ、オラリオ中の視線がここに集まる。『戦争遊戯』を開くに至った理由は多くの者が知るところだろうが、衆目に晒される以上、本来の『戦争遊戯』のルールとは関わりないところで、勝利の形には注文が付けられる。大衆とはそういうもので、そして数とは力だ。

 

 戦いが終わった時、ベル・クラネルは武器を手に立っていなければならない。そうでなければ『助っ人に頼って勝ちを拾った』と、心無い後ろ指を差されることになるだろう。ここまで不利なカードを強制しておいてとリューでも思うが、冒険者にとって評判というのは無視できるものではない。

 

 名誉でモンスターを打ち破ることはできないが、自尊心を満たすことができる。自己満足の範囲を出ないとしても、気の持ちようが全てのコンディションに影響することは、冒険者として生き抜いてきたものならば良く知っている。後ろ指を差されるというのは辛いものだ。ベルのような純粋な人間ならば猶更である。

 

「つまるところ、私と彼女の両方ともが手を離せない時、貴方は最低限、自分の身を守れるようになる必要があります。ダンジョンでモンスターと戦う修練をオラリオに来てから積んだと思いますが、これからやるのは多人数の冒険者を相手に生き残り、そして勝つための修練です」

 

 レベル2の冒険者、しかも冒険者になってまだ二か月という駆け出しに求めるには酷なハードルであるが、『神会』によって決が採られた『戦争遊戯』を回避することは難しい。やるかではない。できるかでもない。ベル・クラネルは己と主神と仲間の名誉のために、絶対にアポロン・ファミリアに勝たなければならないのだ。

 

「そのために必要なのは、体力と精神力です。何があっても足を止めないように。そしてどれだけ打ちのめされても立ち上がるように。まずは色々な武器と戦ってみましょうか。手始めに素手です」

 

 幸い、エルフにも関わらず前衛職の魔法剣士であるリューは、一通りの武器の心得がある。専門は小太刀と木刀であるが、それ以外も――あくまでそれなりという程度ではあるが、使うことができる。仮想敵としては十分に機能するだろう。アポロン・ファミリアが全員レベル3以下で良かったと、リューは内心で安堵していた。

 

 剣帯を外し、木刀と小太刀を地面に落とす。マントを羽織ったまま構えた拳は、専門ではないはずなのに様になっている。対してベルは借り物の小太刀を持ったまま、棒立ちである。武器を持った男と、無手の女性。状況だけを見れば男が一方的に悪者にされてもおかしくない。

 

 修行である。理解してはいるのだが、女性に対して武器を向けることに、ベルは抵抗を憶えていた。何を今さらと笑われるかもしれないが、これもベルの人間性である。自分が女性であるせいで、武器を向けることを躊躇っている。リューもベルの内心をそう理解していた。女性としては決して悪い気分ではない。むしろ、男性としてのベルの配慮はリューにとって非常に心地よいものだったが、今求められているのは男性としての優しさではなく強さである。

 

 心中に浮かんだ温かな気持ちを押し殺して、リューは言った。

 

「アポロン・ファミリアにも女性はいますよ? 敵対する全ての女性冒険者に、刃を向けることを躊躇するつもりですか?」

 

 リューの指摘に、ベルはすぐに意識を切り替えて小太刀を構えた。女性に手を挙げるのは趣味ではないが、この際その主義は引っ込める。相手は2レベルも上の冒険者である。一応、修練という名目だ。修練の目的はお互いを高め合うことで、殺すことではない。ポーションも十分に用意されている。死なないための予防線は色々と張ってあるが、例え万全の備えをしていても人間死ぬ時は死ぬものだ。

 

 修練だから安全だ、という気持ちも捨てる。目の前にいるのは倒すべき敵だ。そう認識して小太刀を構えたベルの姿は、アスフィと一緒にやってきた時よりも様になっていた。リューの顔に、ベルでも気づかないような薄い笑みが浮かぶ。

 

 大きく息を吐きだしたベルは、一気に踏み込む。フェイントも何もない。最短距離で、右手に持った小太刀を突きだした。リューの胴体を狙った一撃は、当たる寸前で避けられた。紙一重の距離。完全に見切られている。2レベルの力量差をベルが実感するよりも早く、リューは動いた。

 

 マントを翻したリューは避けた勢いのまま身体を反転させ、裏拳でベルの後頭部を狙った。直撃すれば昏倒するのは必至であるが、リューが消えた瞬間、ベルは身体を前方に投げ出していた。根拠があった訳ではない。足を止めるなというリューの教えもあるが、捕捉していた相手が視界から消えた時、その場に留まっていると危ないという経験則から、勝手に身体が動いたのだ。

 

 レベル差がある相手と戦うのは初めてのことではない。普段からレフィーヤを相手にしているし、たまにリヴェリアも相手になってくれる。前衛であるリューの動きは、後衛である二人とは明らかに違う洗練された動きだったが、とりあえず動くことはできた。

 

 起き上がり、身構える。これなら反応くらいはできなくもない――そう思ったベルの真正面で、リューの姿がかき消える。

 

 そして次の瞬間には、ベルの顔面にリューの拳が叩き込まれていた。視線は一瞬も逸らしていない。真正面に立っていたリューは、その場で踏み、拳を突き出した。何も特別なことはしていないのに、その動作はベルの想定の遥か上を行っていた。

 

「足を止めるなと言ったはずですよ」

 

 鼻を押さえて立ち上がろうとしたベルが見たのは、リューの靴底である。身体を倒し、地面を転がると後を追うようにリューが踏みつけて来る。背骨ごと粉砕しかねない勢いである。間近に迫る白く綺麗な生足に見とれる暇もない。飛び上がると、また正面から拳が来る。今度は辛うじて見えた。腕を交差して受ける。骨が軋みをあげるが、来ると解っていれば耐えられない程ではない。

 

 これならば、と足を動かそうとした矢先、容赦のない前蹴りが腹部に叩き込まれる。ビキ、という耳障りな音と呼吸が止まる程の激痛。身体の芯に響くような痛みに、ベルはその場に倒れ込んだ。動けない。身体に力が入らない。げほげほとせき込むベルに、リューはこれ見よがしに溜息を吐く。

 

「攻撃はできる限り避けること。どうしても受ける時には、その心構えをしておくことです。拳を受けて気が緩みましたね? 常在戦場。せめて鞘から武器を抜いている時は、気を抜かないように」

 

 返事をしたいが声も出せない。呻きっぱなしのベルに、リューはすたすたと小屋まで歩くとバケツを抱えて戻り、その中身をぶちまけた。頭から被った液体は、純度の高いハイポーションである。バケツ一杯。決して安くはない金額だが、今回ロキ・ファミリアは金に糸目はつけないという。最大手のファミリアは、金でベルの時間を買ったのだ。

 

 ポーションの効果で無理やり癒されたベルは即座に跳ね起き、小太刀を構えた。リューに対してやる気のあるところを見せようと思った訳ではない。構えた状態でリューを視界に入れておかないと、痛い思いをするだけで修行にならないと身体で思い知ったからである。

 

 結構、と小さく漏らしたリューはマントを翻し、踏み込んだ。閑静なオラリオ郊外。響くのは、ベルの悲鳴だけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、リューが一区切りついたと納得するまでの間に、拳で鼻にヒビを入れられること三回、前蹴りでアバラ骨にヒビを入れられること四回、ローキックで足の骨にヒビを入れられること二回と、リューの言葉を借りるなら全くもって大したことのないとても軽い怪我をベルは負った。その度にバケツポーションで無理やり癒され、立ち上がらされ、またヒビをいれられる。三回を超えたあたりから、もはや骨にヒビくらいではどうとも思わないようになってしまった。

 

 冒険者の身体というのは神の『恩恵』の効果で普通の人間よりも遥かに頑丈になっている。骨にヒビが入るというのは一般人であればそこそこ大事ではあるのだが、死ににくい冒険者にとってはまだまだ軽い怪我の範疇であるらしい。それでも痛いものは痛いのだが、痛みくらいならば気合で何とかなるというのはリューの弁だ。

 

「私は全身に刃傷を負い大量の血を失ったまま、左足と左腕が折れている状況で十人を超える追手を巻いたことがあります。骨のヒビくらい、怪我の内に入りませんよ」

「はぁ……」

「ですが、見込みはあると思います。思っていたよりも筋が良いですね」

「本当ですかっ?」

「はい。鼻もアバラも足も折るつもりでやりました。それがヒビだけで済んだのですから、クラネルさんはとても頑丈です」

 

 私が保証します、と誇らしげな顔をするリューに、ベルが返したのは苦笑である。頑丈、というのは英雄志望の少年の心には、あまり響かない褒め言葉だった。

 

「さて。区切りもついたことですし、一度食事にしますか」

 

 食事、という単語に、ベルの背筋に冷たい物が流れた。

 

 以前、リューにお手製の弁当を貰ったことを思い出したのだ。その味について品評するのはリューの名誉のためにも遠慮しておくが、控え目に言っても酷い味だった。約二週間後に大事な戦を控えた時期である。栄養をつけ英気を養うはずの食事で体調を崩すようなことはできれば止めておきたいのだが、修行を見てもらっている手前強く出ることもできない。

 

 元より、女が出したものはそれがどれだけふざけたものであったとしても、笑顔で平らげ美味いと言うのが男の仕事であると、祖父も言っていた。リュー本人にそのつもりはないのかもしれないが、これも男の修行、英雄の第一歩であると自分に言い聞かせる。

 

 ベルの全身に漂う悲壮感を知ってか知らずか、自分の荷物をごそごそとやったリューは、食材を持って戻ってきた。心なしか、むっとしているようにも見える。

 

「お前の料理は凶器だと同僚に言われてしまったので、当面は保存食で何とかします。干し肉は火で炙っていただきましょう」

 

 むっとしている理由が理解できた。料理下手を理解していたとしても、それを他人に言われるのはやはりリューでも傷つくのだろう。男の仕事をしなくても良くなったことに胸をなで下ろすベルだったが、食べられないとなるとそれはそれで残念な気がしないでもない。女性の手料理というのは、それだけで男にとっては魅力的なものなのだ。

 

 とは言え、今は体力勝負の時である。余計な体力消耗が避けられたと無理矢理良い方向に考えることにしたベルは、リューの手に見慣れない物を見つけた。

 

「そっちの紐はなんですか?」

「これは濃い目の調味料で野菜を煮た物を乾燥させ、縄のように編み込んだものだそうです。湯で戻すとスープになるとか……」

「食べたことはないんですか?」

「こちらに来る前に持たされたものなので、私も初めて見ます。当然食べたこともありません。ですがミア母さんのお墨付きですから、不味いということはないでしょう」

 

 手早く火を起こして、鍋を火にかける。水は小屋の裏手にある井戸から汲んできたものだ。小屋の中に甕があり、そこにいくらか溜めてある。干し肉を串に刺して火の近くに立てかけ、鍋には謎の縄を刻んで放り込む。空中でナイフを行ったり来たりさせただけで、謎の縄は一口サイズに分割された。

 

 手慣れた早業に、ベルからおー、と歓声があがる。この手際でどうしてあの料理ができたのか理解に苦しむが、手際だけで美味しい料理が作れるのならば、ロキ・ファミリアで言えばヒリュテ姉妹も料理上手になっているはずである。ほぼフィーリングで生きているあの二人は、決して下手くそではないが上手いとはお世辞にも言えない、女性として微妙な位置にいる。

 

 対してリヴェリアを始めとしたエルフは、概ね料理が上手である。アマゾネスとエルフの種族の差だとティオナは言い訳していたが、エルフ全てが料理上手な訳ではないということは、目の前の女性が証明している。結局は経験と才能に依るのだろう。リューにも才能がない訳ではないのだろうが、リヴェリアやレフィーヤほどにはきっと料理をした経験がないのだ。

 

 リヴェリアやレフィーヤと同じくらいの経験を積んでも、彼女らがたまに作ってくれる美味しいお菓子を作れるようになるとはどうしても思えなかったが、悪いことではなく良いことを考えようと思う。リューがお菓子を作ってくれたらそれだけで嬉しい。その気持ちに料理の腕は関係ない。

 

 ほどなくして料理ができあがる。材料を刻んで煮たり炙ったりしたのを料理と言えるのならばだが。それでも食べられる物がでてきたのはありがたいことだったし、初めて飲むスープは思いの外美味しかった。普段食べている量と比べると少なく、腹具合で言えば物足りないくらいだったが、どうせ満腹になっても吐きだしておしまいである。そも、食前の運動がアレだったことを考えると、満腹にしておくことがとても恐ろしく感じる。

 

「それでは腹ごなしと行きましょうか」

 

 ベルと同じく焼いた干し肉とスープを綺麗に平らげ、指を拭いたリューは立ち上がった。ベルも慌てて、それに従う。

 

「ではまた素振りから。今度は逆手の振り上げです。左右百回。一度でも形が崩れたら最初からになります」

「あの、参考までにお聞きしたいんですが、その後の訓練の内容は……」

「私との組手です。新たに物を憶えるには二週間というのはいかにも短い。今ある武器をより強化する方が良いでしょう。幸い、我々には『恩恵』の力がある。散々殴られ転がされることも、ステイタスになって戻ってくると思えば、やりがいもあるというものでしょう」

 

 ベルは苦笑を浮かべた。それさえなければただの虐待である。まぁ、相手は美人のエルフ。しかも二人きりだ。冒険者の中には大枚を叩いても是非にという者は腐るほどいるのだろうが、割に合っているかと言われると当事者であるベルをしても、首を捻らざるをえない感触である。

 

 そんな内心は微塵も出さずに、素振りを開始する。最初は振るだけで手からすっぽ抜けた小太刀も、リューとのシゴキを経て少しは手に馴染んできた。少なくとも、ただ振っているだけで取り落とすことはもうないだろう。小太刀について、リューから指導を受けたのは握り方と振り方だけだが、ただそれだけで座りが随分と違う。

 

 先達者から教えを受けると、これほどまでに違うものかと実感する。多くの冒険者が師を持ちたがる訳だと考えながら振っていると、鞘で頭を叩かれた。瞼の裏に星が散る。

 

「最初からです」

 

 リューが呆れた様子で嘆息する。顔立ちの整った女性が、軽く眉根を寄せる様に妙な色気を見たベルだったが、そのために一々鞘で叩かれたら頭の形が変わってしまう。雑念に身を任せるのは、戦に勝ってからだ。

 



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強くなるために②

 

 

 

 腹ごなしの運動は結局、二時間もの間続いた。ちなみに、その二時間の中に素振りをやっていた時間は含まれない。リューにとって素振りというのはただ準備運動であり、運動そのものには含まれないのだ。

 

 リューに突撃しては叩きのめされ、バケツポーションで回復してふりだしに戻る。果たしてそれを修行と呼べるのか。ベルの中に疑問が生じる。これはただの作業なんじゃないのか。そもそも強くなるとはどういうことなのか。人間の一生とは、神の一生とは……頭が混乱し、訳の解らない哲学的なことを考えていたベルに、リューの手によってバケツポーションがぶっかけられた。

 

 体中の怪我があっという間に治癒されていく感覚にも、この一晩で大分慣れてしまった。木刀で頭蓋骨を割られると頭の中で凄い音がするというのは比喩ではなく目が飛び出すかのような新発見だったが、結局リューにはかすり傷一つ負わせられず、拳で木刀で蹴りで体当たりで叩きのめされるばかりだった。

 

 これで本当に強くなれるのだろうか。疑問に思っていたベルに、空になったバケツをポーションサーバーの下に設置し終わったリューが言った。

 

「劇的にステイタスは向上していると思いますよ。流石にこれを続けてもランクアップはしないと思いますが、少なくとも彼我の差は縮まっていると思います。相手も決戦に備えて修行の一つや二つはすると思いますが、貴方の成長速度には敵わないでしょう。自信を持ってください。貴方は確実に強くなっています」

 

 レベル4の第一級冒険者からの褒め言葉である。普通ならば手放しで嬉しいことなのだが、これだけ良い所がないと自信を持つこともできない。実力の向上を実感できるのは、成功体験が伴ってこそである。

 

 かつてはリューも通ってきた道だ。ベルの不満と不安も十分理解できていたが、現状それを示す手段はなかった。

 

 しかし、冒険者は皆その歯痒さの末に強くなるのである。今はどうにか、我慢してもらうより他はない。

 

「きちんと水分は補給しておいてください。それと、何か腹に入れておくように。これだけ何度も回復したのですから、滋養をつけておいた方が良いでしょう」

 

 何度も死の淵から甦り、食欲もあったものではない……と思っていたら、リューの言葉を受けて空腹を思い出したのか、ベルの腹が大きく鳴った。気持ちがどうであろうと、疲れもすれば腹も減るのである。

 

 あまり気は進まなかったが、リューの言葉に従っていくつか果物をかじり、水を飲んでいく。最初はとりあえずのつもりだったが、果物を一齧りすると、その動きは止まらなくなった。気づけば果物は十個。大きめの水筒を三つも空にしていた。それだけ自分の身体から必要なものが抜け落ちていたのだと思うと、ポーションで回復するというのも『タダ』ではないのだな、ということを思い知る。

 

「落ち着いたようで何よりです。それでは身体を清めて就寝しましょう」

 

 ベルの動きが、一瞬だけ止まった。リューの言葉には聞き捨てならない単語がある。

 

 身体を清める。

 

 これが神の立場であれば、一番最初に出てくる選択肢はバベルにある浴場である。神々が利用するだけあって二十四時間いつでも利用でき、常に湯も張られている。神は無料で利用できるために採算など取れるはずもないが、神が贅沢をするのは本来当然のこと。自由にできる金を自らの眷属から捻出しているだけ、他の都市にいる神と比べるとオラリオの神は十分に謙虚であると言えるが、謙虚であっても神は神だ。

 

 神のために作られた施設を、地上の子供が使うことはできない。オラリオには子供が使える浴場もいくつかあるが、それは富裕層が使うものでサロンとしての性質が強く、庶民が普段使いにするには金額設定も少々高い。

 

 風呂の構造そのものは単純であるため、庶民であっても家に設置することは可能だが、実際に設置しているご家庭は少ない。風呂は贅沢品なのである。庶民にとっては少量の湯を沸かして身体を拭くという方が一般的だ。

 

 ここは郊外で、身体を拭く程の湯を沸かしていた気配はない。脳裏に浮かんだ選択肢の中では水を被るが一番可能性が高そうであるが……この辺りで、ベルの脳裏に邪念が浮かんでくる。

 

 ちらとリューに視線を向けそうになって、慌てて逸らす。心の中の邪念を見抜かれてはいまいか。まして、水浴びをしてるリューの姿を想像していたなどど、当のリューに見抜かれてしまっては恥ずかしさで死んでしまう。

 

 男のプライドにかけてベルは無表情を装わなければならなかったが、表裏がなく、感情が顔に出やすい性質であるベルに、それは無理な相談だった。一応、努力の跡は見えたが、付き合いの浅いリューの目から見ても、ベルが何を考え、そしてそれ故に無表情を装おうとして失敗しているのは丸わかりだった。

 

 知り合ってまだ日が浅いとは言え、ベルとは知らない仲ではない。店の酔客が同じ態度をしていたら嫌悪感しか覚えなかったろうが、ベルが相手となると堅物で有名なリューであっても悪い気はしなかった。薄い笑みを浮かべたリューは、しかし、すぐにそれを引っ込める。

 

 浮かんできたのは悪戯心である。努めて真面目な表情を浮かべると、強めの声を作り、

 

「言っておきますが、一緒にする訳ではありませんからね」

 

 その時のベルの表情を、何と表現すれば良いのだろう。リューの一言で、彼は顔を真っ赤にし、次いで顔を青くして、また真っ赤にして、身体ごと視線を逸らした。ベルは、耳まで真っ赤にして恥ずかしがっている。その事実を前に、リューは声をあげて笑いそうになったが、必死の思いで我慢する。

 

「あちらの方向に水場があります。クラネルさんの方が疲れているでしょう。先に水浴びをしてきてください」

 

 笑うのを堪えたリューの声音は不自然なほどに強張っていたが、眩暈を憶える程に恥ずかしがっていたベルはそれに気づきもしない。リューの言葉にこくこくと頷くと小屋に戻って準備をし、示された方へ向かってとぼとぼと歩いてく。途中、樹木にぶつかってひっくり返ったが、それでもゆっくりとした歩みは変わらない。

 

 少しからかい過ぎただろうか。ベルのしょんぼりした背中を見ながら、リューは大きく息を吐いた。女が思っている以上にあの年頃の少年というのは繊細な生き物なのだと、特に男性とお付き合いをしたことはないはずのアーニャが訳知り顔で言っていたのを思い出す。

 

 リューとて別に、男性とお付き合いしたことがある訳ではないが、ベルを見ているとアーニャの言う通りなのだろうと思わないでもない。ベルは喜怒哀楽がとてもはっきりとしている。嬉しい時に笑い、悲しい時に泣き、そして他人がそうである時にも当たり前のように共感し、何より、他人のために怒り、行動することができる。

 

 一言で言うならば、ベルは善人なのだ。あまり大っぴらにはできない過去を持ち、簡単には他人を信用しない者が多い『豊穣の女主人』亭のスタッフの評判も悪くないことからも、その善人っぷりが伺える。

 

 うおー、という水場の方から何やら可愛らしい雄叫びが聞こえた。それで煩悩を振り払っているのだと思うと実に微笑ましいが、雄叫びを聞くに至り、リューは考えた。

 

 普通に考えれば水浴びは男女別々とするのが当然だと思うが、ベルの視線には一抹の期待が籠っていた。

 

 多大なものではなく、もしかしてという程度のものである。それは男性ならば誰しも抱くレベルのものだったのだが、先のリューはそれに思い至らなかった。考えれば考えるほど疑念が湧いてくる。自分で気づいていないだけで、何か気を持たせるようなことをしてしまったのだろうか。

 

 もしそうであるならば悪いことをしたと素直に思うが、リューはエルフである。未婚の女が人前で、しかも男性に肌を晒すということは、あってはならないことと考えている。それは程度の差こそあれ、エルフであれば共通の認識であり、それが貞操観念の固さにも繋がっている。それを面倒臭いと考える者もいるようだが、女は貞淑であれという考えそのものを、リューは悪いものだとは思わなかった。

 

 対してベルは人間の男性で、しかも年若い少年だ。リューが異性に強い抵抗を覚えるのと同じように、異性に対して強い劣情を抱くのも無理からぬことと、リューも理解していた。酔客が店のスタッフに向ける無粋な視線とは、はっきりと種類が違う。自分の感情を持て余し、いけないことだとは解っていても、本能的にそれに従わざるを得なかった。とぼとぼと歩いていったベルの背中には、そんな後悔と葛藤が透けて見えていた。

 

 しかし、劣情は劣情だ。男が抱く感情に一々付き合っていては女の身が持たない。ベルが善人であろうと好ましく思っていようと、女としてリューが付き合わなければならない義理はどこにもないのだが、悪いことをしてしまったかな、と思わずにはいられなかったのである。

 

 そんな風に考える自分を、リューは不思議に思った。自分で思っていた以上に遥かに、ベルに心を開いていることが解ったからだ。

 

 同僚が知れば、また力の限りからかってくるだろう。特にシルは、微笑みながらも全く笑っていない怖い顔で詰問してくるに違いない。亡くなった親友ならば、力の限り応援してくれるだろう。脳裏に彼女の顔を思い浮かべれば、自然と声が聞こえるような気がする。

 

 彼を逃してはならない。脳裏の親友はそう言っていた。ベルは悪い人間ではない。むしろ、とても好ましく思う。可愛らしい顔立ちも、それなのにたまに見せる精悍な男性としての顔も、ひたむきな性格も、何より自分が抵抗なく触れることのできる、あの不思議な雰囲気も。全てがリューにとって好ましい。

 

 冒険者でなければ、あのような過去がなければ、普通のエルフの娘として彼と出会っていたら、燃えるような恋に落ちていたのだろうか。冒険者でない自分など想像もできないが、そういう間柄も悪くはないな、とぼんやり思った。

 

 そんな思索に耽っている内に、出ていった時と同じようにとぼとぼと歩きながらベルが戻ってくる。戯れにじっと視線を向けてみるが、視線に気づいたベルはすぐに真っ赤になって目を逸らしてしまった。こういうのを世間では『かわいい』というのだろうか。ベルのその仕草に、リューは自分の背筋がぞくぞくとするのを感じていたが、それを表情に出すことはなかった。

 

 シルがいれば、その微細な表情の変化に気づきもしたのだろうが、ベルにそれを見破れというのも酷な話である。何やら挙動不審になっているベルを他所に身支度を済ませ、リューはベルと入れ替わる形で水場に向かった。

 

 水場は小屋から少し離れた場所にある。道中の景色も何も変わらない。かつて仲間と一緒にここを使った時、自分はこの世には絶対の正義というものがあり、自分はそれを成すのだと使命に燃えていた。今やその時の仲間は皆いなくなってしまったが、水はその時と変わらずさらさらと流れている。

 

 世の無常を感じないでもない。何故自分だけが生き残ったのだろうという思いにも囚われるリューだったが、それは彼女個人の事情で、ベルには関係ない。今の自分の仕事は彼を鍛えることだと思いなおしたリューは手早く服を脱ぎ、頭から水を浴びる。

 

 レベル4のリューにとって、ベルとの訓練は運動と呼べるほどのものではなかったが、冒険者とて生物である。動けば汗が流れるし、髪にも汚れがつく。

 

 まして冒険者だった時ならばいざ知らず、今のリューは酒場のウェイトレスだ。身だしなみを整えるのはもはや習慣である。同僚のシルにあれこれと世話を焼かれる内に身繕いの知識も随分と増えてしまったが、今現在ここにいるのは、冒険者の腕を買われてだ。

 

 ならば身繕いにかける時間も冒険者に相応しいレベルで良いだろう。リューの理性はそう判断していたが、身体は勝手に、普段よりも念入りに身繕いを始めていた。

 

 髪を洗い、身体を洗い、そしてもう一度身体を洗い、くるりとその場で回って自分の身体を見下ろしてみる。

 貧相……ではないのだろう。あくまでエルフの基準ではあるものの、全体的に肉付きの薄いエルフにしては、リューは凹凸のはっきりとした体形をしている。その上十代の中盤に冒険者というカロリー消費の高い職業をこなし、色々あって給仕をやるようになってからも働き詰めで、無駄な肉が付く余地はない。

 

 ある意味においては、女性の理想の体型と言えるだろう。ただしそれは究極の一という訳ではなく、複数ある理想の一つである。美の極致とも言われる美を司る女神の造形が一種類でないことからも解るように、一口に理想の体型と言っても、それは種族年齢性別によって異なるものである。

 

 そして往々にして、男性から見た理想の女性というのは女性が思う理想の女性とは異なるものだ。歓楽街の主力がアマゾネスであることからも解る通り、大体の男性というのは肉付きの良い身体を好むものである……というのが、『豊穣の女主人』亭従業員の共通認識であり、リューもそれに倣っていた。

 

 今まではそんなものだろうとただ思っていただけだが、自分のエルフ生に男性の影が見え始めると、そんなものでは済まなくなっていた。リューの心にもやもやを生み出すのは、疑念ただ一つである。

 

 彼は一体、どういう体型が好みなのでしょうか。下世話な意味でも何でもなく。この身体を好きだと言ってくれたらとても嬉しいが、それはそれだ。

 

 リューは身体を清めながら僅かな期待を込めて、周囲の警戒を始めた。クロエの話では男は二人きりになると妙に強気になるもので、覗きの機会があれば命をかけて突撃してくるものであるという。

 

 あれだけ釘を刺した上に、ベルはあの性格である。覗き一つにそこまで情熱を傾けるような人間とも思えないが同僚にあそこまで強弁されては、警戒しない訳にもいかない。

 

 覗かれるという行為に対して、嫌悪一色でない自分に小さな驚きを憶える。ベルにならば見られても良い、という訳では勿論ないが、劣情を抱き行動に移すくらいまでならば許してやらなくもない。

 

 周囲に人の気配はないが、気配がないからといってそこにいないとは限らない。アスフィが姿を消すアイテムを持っているように、神から授かった技能として、他人に感知できないくらいに存在感を消す、ということも考えられないことではない。だが、伝え聞いたベルの技能に、そういう技能がないことは確認済みだ。

 

 稀に、生来の習慣と天賦の才能でもって、野生の獣の如く気配を消すのが上手い者もいるが、そういう特殊な技能を持つものは行動のどこかにその片鱗が現れるものである。散々叩きのめす過程で、ベルの行動は色々観察した。

 

 確かに光るものはあるが、それはおそらくオラリオにきてから身につけたものである。生まれた時から身につけているような特殊な才能は、少なくとも、リューが見た限りでは発見できなかった。

 

 つまり、ベルが近づいてきても、よほどのことがない限り、リューには感知できるということである。女性としてはこれで安心、ということなのだろうが、俯瞰して考えてみるとそれは『万が一』がないということでもあった。クロエならばこの状況をただ一言で表現することだろう。『面白くない』と。

 

 同僚に面白いことを提供するために生きている訳ではないが、この状況である。万が一が起こらないというのは、リュー自身、面白くないかもしれない、と感じないでもなかった。

 

 レベルの差はリューだけでなくベルも理解してる。近づけば感知されるだろう。まして、女性が水浴びをしているのである。周囲を警戒するのは当然のことだ。それでも、だがそれでも、劣情に任せて行動してくるのであれば、その行動力くらいには敬意を表してやらなくもない。

 

 リューの行動は、普段の彼女からすると遅々としており、例えばここにシルやクロエがいれば、彼女の意図は明確になっていたのだろうが、普段と変わらない水浴びをしているつもりのリューは、自分の行動に気づいてもいなかった。

 

 普段の時間の実に三倍もの時間をかけて水浴びをしたリューだったが、ついに彼女の感覚にベルがひっかかることはなかった。身繕いにも更に時間をかけたが、それでもベルの気配の片鱗も掴めない。まさか本当にそういうスキルが……という邪推の元、小屋に戻るまでの道すがら、トレーサーにでもなった気分で足跡など人間の痕跡を探したが、道中にあったのは来る時に既にあったベルの痕跡と、来る時につけた自分の足跡だけで、他には何もなかった。

 

 

 

 

 

 

「あ、リューさんおかえりなさい!」

 

 感情を持て余したまま小屋に戻ったリューを迎えたのは、ベルのそんな言葉だった。彼なりに今までの気まずい雰囲気を吹き飛ばそうと、努めて明るく振る舞おうとしているのが見て取れる。それがリューには、どうにも腹立たしい。自分の感情を持て余したリューは、無言でベルにデコピンを決め、小屋の自分のスペースに腰を下ろす。

 

 食事は外でするため、小屋の中は基本的には寝泊まりするだけのスペースである。事前の話しあいの結果、右側半分をリューが使い、左側をベルが使うことに決まっていた。境界線は公平に真ん中。女性だからリューの方が広いということはない。その境界線上にある布で作られた間仕切りは、ベルが作ってくれたものだ。

 

 荷物を整理しながら肩越しに振り返ると、ベルは痛む額を押さえながら目を白黒させていた。

 

 デコピンをされる理由は何となく察しているのだろう。純情で善人ではあるが、決して愚鈍な訳ではないベルは結局何も口にしなかった。それがリューにはありがたい。どうしてこんなことを? と聞かれても『何となくむしゃくしゃしてやりました』と正直に答える訳にはいかないし、かと言ってベル相手に嘘は吐きたくない。

 

 思いつきで行動するとロクなことにならないな、とリューは自分を戒めた。

 

「明日も早いですから、今日はもう休んでください」

 

 自分から言い訳をしてもボロを出すだけだと判断したリューは、何かを聞かれる前に間仕切りを閉めた。寝袋に入りこみ、さて寝ようかと思ったリューの脳裏にしかし、閃くものがあった。思いつきで行動するとロクなことにならないと思ったばかりであるが、これくらいならば良いだろうと自分に甘い判定を下して、間仕切りをそっと開く。

 

 簡易寝袋に入る直前だったベルは、間仕切りが開かれたことに気づいて、バランスを崩して転んでしまう。そんなベルに、リューは努めて笑みを浮かべて、

 

「寝込みを襲うなら、それなりの覚悟を固めてからお願いします」

 

 しゃっと閉めた間仕切りの向こうで、後頭部を壁にぶつけたような音が聞こえた。

 

 

 

 




遅まきながらあけましておめでとうございます。

次回、神ロキによるステイタス更新。運が良ければ椿が新しい武器を持ってきてくれる……はず


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強くなるために③

 

 

 

 

 ヘファイストス・ファミリアホーム。鍛冶師のファミリアだけあり、所属する団員には個別の鍛冶場が与えられ、彼らはそこで日々鎚を振るい腕を磨いている。

 

 その鍛冶場で、椿は自ら鍛え上げた小太刀を眺め、満足そうに頷いた。打ち始めてから一週間。不眠不休の作業によって、依頼の品はついに完成した。

 

 後は上等な拵えの鞘を……と行きたい所だったが、鞘まで作るには椿の腕を持ってしても時間が足りない。鍛冶場に籠る時点で既に、『戦争遊戯』の日程についてその大まかなところは決まっていた。『神会』の日からきっちり二週間後、というのが彼らの主張するところである。

 

 延期される可能性もないではないが、前倒しになる可能性はほとんどないため、最初に区切られた期限内であれば、日程も組みやすい。小太刀を作るのに一週間。この小太刀の出来を考えればそれでも、製作期間は異常に短いと言えるが、これに合わせた鞘を一から作るとなれば、やはり小太刀と同等の時間がかかる。

 

 当日まではまだ時間があるが、ベルにはこれを持たせて修行もさせなければならない。その時間を考えるとやはり、鞘まで作っている時間はなかった。

 

 小太刀が一品物であるならば、鞘だってそうでなければならない。一品物の鞘が現時点でできていない以上、それまでは仮の鞘を宛がわなければならないが、背に腹は代えられない。鍛冶師として、これ程恥ずかしいこともないが、一体としての武器の完成を優先して、ベルが最も武器を必要とする時に間に合わないのでは意味がない。

 

 全ては己の未熟故。納期に間に合わなかったのであれば、それは全て作り手が悪いのだ。この羞恥心は、いずれ己の糧になる。そう自分を慰めて、椿は手早く小太刀を組み立て、出立の準備を整えた。後はベルに届けるだけ。善は急げと鍛冶場を飛び出そうとした椿は、ふと自分の姿を見下ろした。

 

 一週間、不眠不休で小太刀を打ち続けた椿は当然、汗と煤に塗れている。鍛冶師としてそれは当然の環境であるのだが、鍛冶師以外が相手となればその理屈も通じはしまい。

 

 ましてこれから会うのは人間の、それも思春期の少年である。きっと女を知らぬ純朴な少年は、まだ異性に対して幻想を抱いていることだろう。

 

 これからあの小僧がどういう女と番になるのか知れないが、前途洋々たる若者の未来に水を差すのも、人生の先達としては忍びない。せめて身ぎれいにはしていくべきか、と思い直した椿は、鍛冶場の隅に設えられた水場に向かいながら、身につけていたものを脱いでいく。

 

 褐色の肌に健康的な肉付きに、豊満な胸。オラリオにあってそれはアマゾネスの種族的な特徴であるが、これだけアマゾネスっぽい特徴を備えていて、椿の身体にアマゾネスの血は一滴も流れていない。椿の両親は人間とドワーフだ。この世界の医学ではその二人から生まれた子供を『人間にドワーフの血が混じった』と解釈するため、種族分類ではハーフ・ヒューマンではなくハーフ・ドワーフとなる。

 

 圧倒的な遺伝的優位性を持っているアマゾネスを別勘定とすると、あらゆる種族と混血を作れるのは人間だ。大体の場合、その子供には人間でない方の特徴が薄められて遺伝する。男性女性に関わらず、ドワーフというのはずんぐりむっくりとした体型で、基本的に手足が短く背も小さい。見事な髭を生やした男性ドワーフは、大抵は酒に強いことから、歩く上に喋る酒樽などと揶揄されることもある。

 

 椿も本来であれば、その酒樽の特徴を強く受け継いで生まれるはずだったのだが、運命を差配する神にどういう気まぐれがあったのか、椿にドワーフの特徴はほとんど現れなかった。確かに小柄な部類には入るのだろうが、それは人間として十分に常識の範囲内である。

 

 加えて女のドワーフは貧相であることが多いのだが、それに反してその裸体は女性的な魅力に溢れていた。歓楽街を取り仕切るイシュタル・ファミリアのアマゾネスたちに混じっても、その美貌は見劣りしないだろう。どこか危うい気配のある戦闘娼婦と異なり、椿の性格は豪放磊落。加えて風雅を愛でる感性を持ち合わせた彼女には、友人もファンも多い。

 

 それ故に、専属契約を結びたいという誘いも多いのだが、椿はその全てを断っていた。何かに縛られて武器を打ちたくないという気持ちもあるが、誰の誘いでも今一つぴんと来なかったのだ。

 

 そんな中、現れたのがベル・クラネルである。今まで誘いを掛けてきた冒険者の中では文句なく一番弱っちい少年だが、椿の感性にどこか訴えかけるものがあった。あの少年の希望に沿ってやりたい。椿のその強い思いが、打った小太刀にも良く現れている。

 

 間違いなく、近年打った中では最高傑作だろう。ベルのためだけに自分が打った、最高の小太刀がここにある。ベルがこれを振るい、戦う様を想像しただけで胸がときめいた。武器を打った直後というのもあるだろうが、ここまで興奮したのは久しぶりのことだった。

 

 その興奮を振り払うため、頭から勢いよく水を被る。仕事が立て込んでいる時は鍛冶場で寝泊まりできるようにしてある。そのためここには酒も寝具もあるのだ。これからベルに武器を届けようという時に、勢いでいかがわしい行為に及んだのでは、流石にバツが悪い。

 

 邪念も振り払うためにいつもより入念に身を清めて、着物に袖を通す。普段であればサラシに袴とラフにも程がある恰好を好む椿だが、時と場所を弁えるだけの分はあるし、お洒落を全くしない訳ではない。黒い髪を器用に結い、控えめな色の簪を差す。ついでにアクセント程度に香水も付ける。お洒落をしたな、と他人に思われない程度に着飾るのが椿のお洒落である。

 

 姿見の前で自分の立ち姿をチェックする。小太刀を小脇に抱えて、一回転。束ねた黒い髪が宙に舞う様を他の団員が見れば、何というだろうか。想像するだけで気恥ずかしい。やはり洒落た恰好は他人に見せるものではないなと姿見の前で苦笑を浮かべた椿は、ベルの元に向かうべく鍛冶場を出て――

 

 そして、ホームを揺るがす程の轟音を聞いた。すわ敵襲かと椿は身構えたが、近くを歩く団員たちは誰もその轟音を気にした様子がない。既にこの轟音は、彼らの日常の一部となっているのだ。それはそれで危険なような気もするが、オラリオで最も権威ある鍛冶師のファミリアに、爆発物を投げ込む命知らずもいまいと思いなおした椿は適当に団員を捕まえて事情を問い正した。

 

 団員は椿の剣幕よりも、まず彼女が軽いお洒落をしていることに驚いたが、椿・コルブランドとて女である。お洒落をしたい時もあるだろうと、それを口にすることはなかった。

 

「クロッゾの奴が魔剣の試作をしてるらしいですよ。何でも、全く新しい魔剣を作って、ロキ・ファミリアの『白兎』にくれてやるんだとか」

「あの小僧が魔剣を?」

 

 椿の返答にもやはり、色々な感情がないまぜになる。ヘファイストス・ファミリアの団長である椿は、ヴェルフ・クロッゾの事情を、主神であるヘファイストスから聞いて、良く知っていた。

 

 魔剣貴族クロッゾ。鍛冶師でなくとも、その名前は広く知られている。祖先が精霊から力を授かり、絶大な威力を持った魔剣を打つに至った人間の一族である。その魔剣は最高品質とされ、かつては城が一つ買える程の値段でオラリオでも取引されたことがあるのだが、今ではその現物を見ることはまずなくなっている。 

 

 かつて、クロッゾの打った魔剣は山を割り海を燃やすとさえ言われていたが、その魔剣でもって精霊の怒りを買った彼らは今、その伝説的な力を失っている。かつての勢いは失ったが、それでもまだラキア王国ではそれなりの位置にある。

 

 失われたとは言え、伝説的な能力を有していたのだ。神の恩恵を受ければ、いずれその子孫に能力が開花するかもしれないという、淡い期待の元に飼い殺されているとも言える。彼らの主神も、そも彼ら自身すらもかつての力は望めまいと諦めていた矢先、彼らの末裔として、ヴェルフ・クロッゾは生を受けた。

 

 神の眷属となった彼に、魔剣作成のスキルが宿ったのだ。クロッゾの一族が、もう一度返り咲くことを夢見たことは言うまでもない。彼にかけられる一族の期待は、それはもう想像を絶するものであったのだろうが、その期待をあっさりと裏切ったヴェルフは国を出てオラリオにたどり着き、神ヘファイストスの眷属となった。

 

 現状、クロッゾの一族で唯一の魔剣鍛冶師である彼は、持ち主を置いて滅んでしまう魔剣の運命を嘆き、魔剣を打つまいと心に決めていた。オラリオに来て打った魔剣は、打たねば眷属としないとまで主神に言われて渋々打った一振りのみで、それ以降は誰に何と言われても頑なに打とうとしなかった。

 

 その主義主張は、椿からすれば随分と滑稽なものだったが、口に出して笑うようなことはしなかった。血統に宿るその力は、彼にとって生まれた時から備わっていたものだ。才能という言葉を軽々しく人は使うのだろうが、最初からあったその力は、彼にとっては自分の一部のようなものである。

 

 それを封印してまで武器を作る。その覚悟と誓いは、並大抵のものではない。きっと、彼には自分には見えないものが見えて、自分には感じられないものを感じて生きてきたのだ。その感性が生み出す武器はなるほど、己の一部を封印して作っただけあって、椿の目から見ても粗削りも良い所だったが、鍛冶狂の集まるヘファイストス・ファミリアの中にあっても、武器に対する情熱は見落とりしていない。

 

 そのヴェルフが、どういう訳かその気持ちに折り合いをつけたのだ。きっと、良い武器を作るだろうという確信があるが、それがいつまでに実を結ぶかは椿の目を以ってしても見通すことができない。如何に魔剣貴族のクロッゾといっても、今までにない全く新しい魔剣を打つとなれば、一筋縄では行くまい。

 

 ましてヴェルフは鍛冶師としての腕はまだまだ未熟も良いところだ。今も精々試行錯誤を繰り返しているのだろうが、さて、どのようなものが、いつ出来上がるのか……後輩の発奮が、椿は楽しみでならない。

 

 そしてそれは、他の団員たちも同じなのだろう。嫉妬と羨望と、クロッゾの血について鍛冶師として色々と思うところのある団員は多く、魔剣を打たないというヴェルフのスタンスから、団員たちから距離を置かれていた彼であるが、今、ヴェルフのことを語る団員に嫌悪感はない。

 

 あの魔剣貴族が新しい魔剣を作るというのである。これで心が躍らなければ、鍛冶師ではない。ヴェルフに限らず、ヘファイストス・ファミリアの団員は例外なく、炉の炎の熱と、槌が金属を打つ音に魅せられた大馬鹿者だ。

 

 だが今は、自らの顧客のことだ。ヴェルフが『戦争遊戯』に間に合うか知れないが、自分は宣言通りに間に合わせて見せた。これが実力の差よな、と満面の笑みを浮かべた椿は、足取りも軽くホームを後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神から『恩恵』を受けた時点で、地上の子供は神の眷属となる。オラリオで言えばそれは冒険者になるということと同義だ。『恩恵』によって基礎能力が上昇した冒険者は、そうでない子供とは明確に能力の面で差が出る。無論のこと、全ての冒険者が全てのそうでない子供よりも優れているという訳ではないが、こと身体能力という点では、ちょっとやそっとでは覆せない程の明確な差が出てしまう。

 

 それ故に、オラリオでは冒険者は特別な身分とされている。法により様々な恩恵を受けることができるようになっているが、その分、犯罪を起こした時の罰則であったり、納めるべき税金であったりと、そうでない子供とは別の義務も発生している。特別なのは神だけで、その恩恵を受けただけの子供ではない、ということの証左でもあった。

 

 さてその恩恵だが、子供が積んだ経験を神が手続きを踏んで更新し、その後に反映されるというシステムになっている。それ故に、どれだけ経験を積んでも神の手を経ない限り、明確な力として子供には反映されない。ベルはリューの手を借りて修行を積んでいる訳だが、それを明確に彼の力とするには、『戦争遊戯』までの間に最低でも一度、彼の主神であるロキの手を借りなければならない訳だ。

 

 『恩恵』は子供にとっては外付けの力であるため、馴染むまでにある程度の時間がかかる。欲を言えば即時更新が望ましいのだが、今は『戦争遊戯』の準備期間であり、オラリオもきな臭くなっている。神ロキが頻繁に行方を晦ませるような事態は、ロキ・ファミリアもできることならば避けたいはず。

 

 事情を理解していたリューはベルの即時更新をほとんど期待していなかったのだが、その期待をあっさりと裏切って、神ロキはアスフィに連れられて、リューの隠れ家へとやってきた。ベルと修行を初めて三日目の朝のことである。

 

 早速と言った様子でベルのステイタスを更新しようとするロキを前に、リューは冒険者の礼儀として席を外そうとした。どのようなスキルを持っているのか、また現在のステイタスがどのようになっているのか。それは冒険者にとってできることなら隠しておきたいことの一つである。

 

 同じファミリアである、同じパーティに属している、というのならばいざ知らず、リューとベルはともに修行をしているだけの仲である。流石に背中のステイタスを見る程の深い関係ではないだろうと思ったのだが、さりげなく席を外そうとするリューの歩みを止めたのは、彼の主神であるロキの言葉だった。

 

「リューたん、見ていかんのか?」

「私が見るべきとは思いませんので」

「そか? 当日も一緒にベルと戦ってくれんねやろ? 面倒みてもらっとる恩もあるし、知っておいてもろうた方が、今後の修行もやりやすい思うんや」

「それはそうですが……」

「まぁ、これもベルの勝利のためや思って、主義を曲げてくれんか? ウチからのお願いや!」

 

 頼むわー、とロキは軽い口調で手を合わせるが、それは地上の子供にとって、特にいずれかの神の眷属である冒険者にとって、命令に近いものだった。ロキはリューの主神ではないが、神には違いなく、今面倒を見ているベルの主神でもある。別にリュー自身に困ることはない。彼女が良いというのであれば、良いのだろう。

 

 異性の裸の背中を見るということに抵抗はあったが、それはそれだ。決して顔には出さないように注意しながら――ロキの目から見れば、緊張しているのはバレバレだったのだが――リューはステイタス更新中のベルの背中を見て、そして絶句した。

 

 神血によって、ベルの背中には滑稽な笑みを浮かべる道化師の紋章が浮かんでいる。オラリオ最大ファミリアの一つであるロキ・ファミリアの紋章だ。ロキの眷属の背中には例外なく刻まれているものだが、問題はそこではない。

 

 神聖文字の知識はあるが、問題なく解読できる程深くはないリューの手には、共通語に翻訳されたベルの更新したばかりのステイタスがある。背中の紋章を見て、改めて羊皮紙を確かめる。間違いはない。そのステイタスの伸びは、何というか異常だった。

 

 確かにベルは過酷な修行に耐えた。一度組み合えば大怪我をし、その度にポーションで回復してはまた大怪我をする。その繰り返しの末に溜った経験は普通の範疇に収まるものではなく、またレベル2という、修行相手であるリューに比べて二つもレベルが下であることから、ステイタスの大きな向上をリューは見込んでいた。

 

 二日の修行で各基本アビリティが20も増えてくれれば……というのが希望的観測込みのリューの願望だった。それでも十分に出来過ぎではあったのだが、これだけベルが過酷な修行に耐えているのである。それくらいの見返りはあってもと羊皮紙を見れば、現実はリューの想像を大きく越えていた。

 

 全てのステイタスが、200以上上昇している。特に耐久と敏捷は300を越えていた。見間違いではない。リューの願望を桁一つ越えた成長を、ベルは普通にしていた。それに驚いた様子は、ベルにもロキにもない。ベルはこんなに上がったんですね、と陽気に喜び、ロキは喜ぶベルを見てうんうんと大きく頷いている。

 

 この場にアスフィがいれば意見を聞けたのだろうが、別に仕事がある彼女は、ぶつくさ文句を言いながら飛んでいってしまった。消耗品のポーションをロキと一緒に運ぶことはできなかったのだろう。消耗品の運搬など『万能者』にさせる仕事ではないが、彼女以上に適任はいないのだから仕方がない。

 

 今度店に来た時に、何かサービスをしようと心に決めて、リューは再び羊皮紙に視線を落とした。

 

 ロキが態々エルフの古語で記載し説明してくれたところに寄れば、彼のスキルは『獲得する経験値が増大し、戦闘中、ステイタスに補正がかかる』スキルだという。後半のスキルはそれ程珍しいものでもないが、前半の記述がベルのスキルを希少なものとしている。常識外れの速度でのランクアップも、このスキル故なのだろう。

 

 前半のスキルがぶっ飛んでいるだけで、後半のスキルも詳細を見れば希少であることに違いはない。ステイタスが変動するとのことだが、その時点での総量を変えずに、基本アビリティを再分配できるのだという。任意に変動させることも可能なようだが、それは現状、ロキやフィンたちの判断で封印されているという。

 

 それが賢明だとリューも思う。ベルはそれ程器用な性質ではない。明らかに実地で学んで行くタイプで、経験の蓄積が彼を強くしている。スキルによって経験値を稼ぎ、急激にステイタスが上昇しているが、ステイタスを任意で補正するとなると、そこには経験から来る判断が必要になる。

 

 そして、短期間で急激に成長したベルには、その経験が圧倒的に足りない。一歩一歩、着実に成長した冒険者ならば当たり前のように備わっている、こういう時にはこうするべき、という経験が欠落しているのだ。

 

 どれだけ強かったとしても、これでは安心できるはずもない。羊皮紙を見る前よりも明らかに、リューはベルのことが放っておけなくなってしまった。

 

 おそらくこれが、ロキの狙いの一つなのだろう。リュー・リオンの性質を理解した上で、ロキ・ファミリアの中でも秘中の秘であるはずのベルのスキルを開示した。これでリューからベルを裏切る理由が一つ消え、今後ベルに付き合う理由が一つ増えた。

 

 リューはこの修行を最初で最後のつもりで引き受けたのだが、どうやらロキは末永い付き合いを望んでいるらしい。

 

 オラリオにあって、リューの立場は特殊である。ブラックリストにおける重要度こそ過去に比べれば下がっただろうが、それでも大手を振って冒険者として表を歩ける程ではない。冒険者としては死んでいるも同然だが、その死人は戦いもすれば考えもする、極めて特殊な死人である。

 

 特殊な死人には、それ故に使いどころがある。『豊穣の女主人亭』がどこの所属かを考えればロキもおいそれと依頼を出してくることなどできないだろうが、一つ依頼をし、ミアが了承する形で依頼を引き受けたという実績は残るのだ。

 

 加えてリューは今、ロキ・ファミリアの持つ秘密を共有させられた。そこにロキの強い意思を感じる。

 

 ミアの許可がいるとは言え、一番肝心なのはリューの意思だ。リューがやると言えば、ミアはその意思を尊重してくれるだろう。今まで仕事をしていなかったのは、仕事を頼む酔狂な存在がいなかったこともあるが、リュー自身にその意思がなかったことも大きい。

 

 冒険者だった頃、リューにとってファミリアの仲間と、彼らと共に標榜する正義が全てだった。今やその正義は都市を去り、仲間は全て死んでしまった。刃を振るう意味はない。そう考えていたはずなのに、今はベルを鍛えるために刃を振るい、彼のために戦おうとしている。リュー・リオンが刃を振るう理由の一つに、ベル・クラネルがなろうとしている。

 

 確かに彼は、自分が抵抗なく触れることのできる特殊な存在だ。今回の境遇にも同情できる余地はあり、そのために戦うというのも異論はないが、そこに今後は含まれない。

 

 考えれば考えるほど、彼の今後に関わっていきたいと思っている自分を見つける。そんなに、ベルが大事なのだろうか。かつての仲間と同じ程に、かつての正義と同じように。 

 

 自問しながらも、ベルとの修行は続いていく。

 

 ベルのスキルを知ってからでも、特にリューの修行方針は変わらなかった。戦いを挑ませ、叩きのめし、ポーションで回復。それを延々と繰り返す。闘争心は養われ、痛みに対する抵抗力も上がり、格上の敵を相手にする際の思考力も上がってきている。

 

 急激に伸びる基本アビリティも見過ごすことはできない。ロキが来るのは二日に一度である。全て200以上伸びたのは最初だけだったが、それでも常識では考えられない速度でベルは成長していく。そのせいで、上昇したステイタスが身体に馴染むのが、追いついていない程だ。急激に上昇した分のステイタスを、ベル自身が持て余している気さえする。

 

 基礎アビリティが戦闘中に変動するスキルを生み出す程である。臨機応変に戦う力はそれなりにあるのだろうが、その素質を持ってしても、成長スピードに身体と感覚が置いついていない。

 

 アポロン・ファミリアの団長はレベル3と聞いている。このまま修行を続けてステイタスを挙げたとしても、レベルで並ぶことはできないだろうが、その差は凄まじい勢いで縮まっている。あれは明らかにヒュアキントスの想定を超えているだろう。

 

 修行を始める前のベルと今のベルは、全く別の生き物と言っても差し支えないくらいに、変わっている。後は本番までにどれだけ仕上げることができるかだ。それは修行の面倒を見るリューの手腕にかかっていると言っても良いことだったが、戦力の向上という点でもう一つ見過ごせない要素が一つある。

 

 その要素がやってきたのは、ベルが修行を始めてから一週間の後。待ちに待ったその来訪者は、『万能者』に連れられて空からやってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おおよそ一週間ぶりか。久しいなベル坊」

「椿さん!」

 

 ヘファイストス・ファミリア団長、椿・コルブランドは、例によってアスフィに連れられて空からやってきた。ロキと荷物を運び、この日はアスフィはもう一往復している。自分の仕事が何なのか解らなくなるとぼやいている彼女が、今回の『戦争遊戯』における影の功労者ということになるのだろうか。

 

 どうせならば本番も一緒に戦ってくれるとありがたいと思うリューだったが、アスフィはヘルメス・ファミリアの所属であり、しかも団長である。神の伝令として、常にふらふらとしていてオラリオにもいないことが多いという噂のヘルメスであるが、ゼウス、ヘラの両神が去ったオラリオにあっては、特にフレイヤと昵懇である。

 

 本来であればこうして協力していることも、神ヘルメスの立場を考えれば不味いのだ。透明になり、空を飛ぶこともできる。アスフィが安全な移動手段を確保しているおかげで、リューたちは安全に修行をすることができるのだ。これ以上を望んだら、流石に罰が降る。

 

 さて、表の功労者の一人であるところの椿は、小脇に袱紗を持っていた。東方で伝わる、刀剣を運搬する際に用いる袋である。元より椿は鍛冶師。金に糸目はつけないという破格の条件で、ベルの武器を打つことを請け負ったという。『戦争遊戯』までに完成するのか未知数ではあったが、椿のことだから間に合わせるだろうとロキが言っていた通り、彼女はしっかりと期日に余裕を持ってここに現れた。

 

「主のために打った、主のための武器だ。受け取るが良い」

 

 差し出された袱紗を、ベルは両手で受け取る。ずっしりと、手に重い。生まれて初めて持った、自分だけの剣である。本来であれば、冒険者としてもっと上の位になってから持つはずの、自分専用の剣である。それも打ったのは、オラリオ最高の鍛冶師と名高い、ヘファイストス・ファミリア団長、椿・コルブランドである。

 

 刀剣の中では小さい部類に入る小太刀だが、小さいからと言って予算がかかっていないとは限るまい。少なく見ても五千万から六千万。下手をすれば一億ヴァリスを超える予算がかかっていてもおかしくはない。無論のこと、それは駆け出しの冒険者が持つような武器ではないのだが、武器も冒険者の力の内の一つである。

 

 本人の力量を上げるのにも限界がある。優れた武器というのは、共に戦うリューとしても何とも欲しいものだった。

 

 ベルはそれを鞘から抜き放った。

 

 片刃の刀身は、薄い紅色である。装飾はない。実用のために作った武器であることは見て解るのに、ただそこにあるだけで優美さを感じさせた。実用の極致が生み出した美しさが、そこにはあった。装飾のない鞘拵えも、それを際立たせている。ヘファイストス・ファミリアの団長が打った、今代の最上業物。

 

 それが今、ベルの手に渡った。

 

 感嘆の溜息を漏らすベルに、言葉はない。小太刀に見入っているベルに、椿は大きめに咳払いをした。豪放磊落を絵に描いたような彼女に、落ち着きがない。何か言い難いが言いたいことがあるのだろうが、自分の武器に夢中なベルは椿の様子に気づいた風もない。

 

 業を煮やした椿は、ベルの額を一思いに指で突く。痛みに慣れてきたベルだが、レベル5の不意打ちは流石に痛い。小さな悲鳴を挙げたベルは目を白黒させて椿を見る。ようやく望みの人間の視線を得た椿は、今度こそ、勿体ぶって咳払いをする。

 

「……実はな、昔から手前には決まり事があるのだ。刀を打った時は必ず、手前の名前をつけてやるのだとな」

「じゃあ、この小太刀の名前はコルブランド?」

 

 ベルの言葉に、後ろで聞いていたロキが思わず噴き出した。リューとアスフィは吹き出すことはどうにか堪えたが、肩を振るわせて椿の顔を見ないようにしている。直視してしまうと、声を挙げて笑わずにいる自信がなかったからだ。オラリオに名高いあの『単眼の巨師』が、年端もいかない少年を前に、酷く間抜けな顔をしているのだから、笑わずにはいられない。

 

 鍛冶師が自分の名前を付けると言ったのだ。まぁ、コルブランドと付けることもないではないのだろうが、この話の流れでそれはなかろう。特に、ベルは英雄譚を好んで読むと聞いている。その感性でもって少し考えれば解ると思うのだが、ベルはそれがさも当然という風にコルブランドと口にした。

 

 そうではないだろう、とベル以外の全員が思ったが、ロキは笑うだけで何も言わない。リューもアスフィもここが違うと指摘することはできたが、それをすると椿の立つ瀬が完全になくなることも理解できた。この悪い空気を打破するには、椿が自ら動くしかない。

 

 不思議そうな顔をしているベルに、椿はこれ以上ないというくらいの仏頂面だ。

 

 その表情を見て、流石に自分が何か、空気の読めないことを言ったのだとベルも理解できた。小太刀をもってしゅんとするベルに、椿は深々と溜息を吐く。この小僧はこう、どうして肝心な時に空気を読まないのか……

 

「それは家名であって、手前の名ではない。手前の名前が何か、ベル坊、言ってみよ」

「椿・コルブランド……椿さんです」

「その通りだ。それからお前はもう少し、風情とかそういうものを学ぶようにな……」

「すいません……」

 

 二人のやり取りに、ついにロキは声を上げて笑いだした。かっこよく武器の名前を言う場面だったのに、役者二人が揃って不景気な面をしているのだから、面白くて仕方がない。笑うロキに椿ははっきりとイライラを募らせていたが、ここで声を荒らげると恥の上塗りになると我慢する。

 

「ああ、くそ。ベル坊のせいで妙な空気になってしまったではないか……」

 

 ここで名前を告げるのはあまりにもあんまりだが、告げないではお話にならない。これも全てベル坊のせいだと

心中で念じながら、椿は用意していた名前を口にした。

 

「その小太刀の銘は紅い椿で、紅椿(くれないつばき)とした。手前の名を冠したのだ。負けは許さんからな、心して戦いに臨むが良い」

「はい!」

 

 元気よく返事をしたベルは小太刀を鞘に納め、自分の剣帯に刺しこんだ。そこには既にリューから借りた小太刀があるので、小太刀の二刀流である。かっこよく二本の小太刀を振り回す自分を想像したベルは、頬が緩むのを止められないでいたが、それに即座にリューが釘を刺した。

 

「不測の事態もありえます。武器を二本携帯するのは悪いとは言いませんが、一度に使うのは一本です。その夢を追いかけるのは、『戦争遊戯』が終わってからにしてください」

 

 一瞬で夢を打ち砕かれ、しょんぼりとするベルを見て、椿は笑い声を挙げる。少年は夢を追ってこそだ。それでこそ協力のし甲斐があると、持ってきた大太刀を担ぎ上げた。

 

「さて、これから約一週間か。手前もお前の修行に付き合ってやろう。『疾風』1人でも十分に贅沢な話ではあるが、なに、頭数が増えた所で困りはしまい。幸い、回復薬は腐るほどあるようだからな。多少の大怪我をしたところで死にはしないだろうよ」

 

 椿の大太刀は彼女自ら生み出した、ベルの紅椿に勝るとも劣らない最上業物である。リューの立ち姿も十分に強そうではあったが、装備の迫力で勝る椿はその比ではなかった。

 

 加えて彼女のレベルは5であり、リューよりも一つ上。ロキ・ファミリアで言うとティオナに匹敵する。膂力にも速度にも優れるティオナの攻撃を、ベルはいまだ受け切ったことがない。

 

 そも、一つ下のリューと戦ってすら、一々大怪我をしているのだ。レベルが一つ上がったらどうなってしまうのだろうという恐怖を、無理矢理闘争心に変換する。ここで立ち向かった分だけ、勝利が近づくと思えば我慢もできるが、痛いものは痛いのである。

 

 やる気の椿が大太刀で素振りをすると、突風がベルの頬を叩いた。その一振りで大木もへし折れそうな程に力強い。あれをこれから喰らうのか、と思うと気分の滅入るベルだったが、窮地とは乗り越えてこそである。その痛みの先に勝利があるのだと思えば気分も紛れたが、それも一瞬のこと。

 

 獰猛に笑う椿を見て、ベルは今日、百度は死にかけることを覚悟した。

 



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その頃、道化師の眷属たちは①

 

 

 

 ベル・クラネルが人気のない場所で秘密裏に、金髪ブルマスクエルフと褐色サラシ巨乳ハーフドワーフに喜んで半殺しにされている頃、オラリオの空気は少なくとも表面上は、不穏なものとなっていた。

 

 此度の『戦争遊戯』が出来レースであることをアポロンを除いた全ての神が知っていたが、余人はそうではない。大多数の子供は勿論知らなかったし、冒険者の中でも知っているのは極々一部のみ。その情報が直接漏れることはないから、先に待っているのが出来レースだとしても、表面上はどうしても不穏な気配にならざるを得ないのだ。

 

 街に不穏な空気が流れていても、大半の神はそれを気にしなかった。何より退屈を嫌う神々は、『神会』から二週間後に設定された『戦争遊戯』という名前の、一方的で愉快な蹂躙劇を今か今かと楽しみにしていたからである。

 

 神々が警戒しているのは『戦争遊戯』が流れてしまうことだ。

 

 出来レースであるという事実がアポロンに知られてしまえば、彼は当然脱兎のごとくオラリオから逃げてしまうだろう。全ての決定権は『神会』が握っているため、謀であると気づいてもアポロン一柱ではどうすることもできない。打てる手は逃げることだけ……ならばそういう時こそ、恩を高く売るチャンスであると考える神もないではなかったが、出来レースと決まった段階で打算的な話は既に戦後のことへと移りつつある。

 

 アポロン・ファミリアを丸裸にするとして、それを叩きのめして発生する収入は当事者たちで山分けということになる。一番の功労者は間違いなくベル・クラネルになるだろうが、個人で取れる量などたかが知れている。筆頭は当事ファミリアであるロキ・ファミリア。それに付き合うことになってしまったフレイヤ・ファミリアが追従する形となるだろう。

 

 彼らはアポロン・ファミリアを逃がさないために、赤字覚悟で芝居を打とうとしている。事の展開によってはギルドに莫大な金額を払わなくてはならないのだが、全てが悪い方向に傾いた場合、制裁金一つでファミリアが大きく傾く。『戦争遊戯』後の軟着陸は、二大ファミリアにとっては最低条件。後はどれだけ毟り取れるかの勝負なのだ。下手を打って取り分を減らすようなことになれば、二柱の女神とそのファミリアを敵に回すことにもなりかねない。

 

 彼女らは少なくとも表面上敵対しているからこそ、オラリオに存在するファミリアの力関係は均衡を保っているのである。まかり間違って二柱の女神ががっちり手を組み、そしてそれが長期間続くことになれば、他のほとんどのファミリアは追従を余儀なくされる。

 

 そんな力による平和な時代が来ないことを自分たちではない何かに祈りながら、神々は事の推移を静かに見守っていた。

 

 見守るだけで済まないのは、当事者たち。その中でも、事情を知っているが知らないふりをしなければならない面々である。ロキ・ファミリアで言えば最高幹部であるフィン、ガレス、リヴェリアがそれに当たる。ベルの安全は既に確保している以上、無事に『戦争遊戯』の当日を迎えることができればファミリアの勝利は確定するのだが、その間、神アポロンに逃げられる『万が一』を防ぐため、そして神フレイヤの謀によって、団員が窮地に立たされているという『事実』を前に、よりそれらしさを出す必要があった。

 

 アポロン・ファミリアを相手に、実力行使を行う。オラリオの民の間でそれは、既に確定事項となっていた。民の噂を本気にしたアポロンは籠城を決め込み、本拠地から一歩も出てこない始末である。当然、その本拠地はアポロン・ファミリアの全団員によって24時間体制で警備されていた。

 

 彼ら単体で用意できる中では、最も固い布陣であると言える。アポロン・ファミリアは中堅のファミリアであり、オラリオに存在するファミリアの中でも、それなりに規模が大きい部類に入るのだが、最大手の一つであるロキ・ファミリアが相手では、何の気休めにもならない。

 

 自分の眷属を信頼していない訳ではないが、ない袖は振れないのは神であろうと子供であろうと変わらない事実である。『神会』が終わると、アポロンはすぐにフレイヤへと使いを出していた。

 

 アポロン・ファミリアがフレイヤの意向を受けて動いたというのは、オラリオではもはや公然の秘密である。手足の如く誰かを動かしたのであれば、そのケツを持つのが筋というものだ。『神会』を終え、アポロンが自らの本拠地で籠城を決め込んだ後すぐに――実際には、ロキとの密談を終えた後に、フレイヤは自分の眷属をアポロン・ファミリア本拠地の周辺に配置した。

 

 公然の秘密が、事実に格上げされた瞬間である。オラリオの人々はフレイヤ・ファミリアが誇る一級冒険者たちの所在を確かめたが、誰一人として姿を捕捉されなかった。既にフレイヤの密命を受けて動いているのだ。まことしやかにそんな噂が囁かれるオラリオで、しかし、ロキ・ファミリアは大きな動きを見せないでいた。

 

 ロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリア。

 

 総力戦をすればどちらのファミリアが勝つのか。冒険者と共にあり、ダンジョンが風景の一部と化した街で暮らす者ならば、一度は考えることだ。ファミリア間の私闘はギルドの規定により『戦争遊戯』などの特殊な場合を除いて禁止されている。個人間の喧嘩程度ならば個人同士の話で済むが、組織戦となるとそうもいかない。どういう経緯で始まったものであれ、ギルドからの制裁は個人ではなくファミリア全体に及ぶ。

 

 衆目に晒された戦いは如何に最大手のファミリアでも誤魔化すことはできない。ロキ・ファミリアの狙いがアポロンであり、そのアポロンが本拠地から動いていない現状、アポロン本神が宗旨替えをしない限り、現場の一つはアポロン・ファミリアの本拠地周辺にならざるを得ない。

 

 アポロンの籠城には、それでもやるのか、という彼の意図が隠れている。言わば衆人環視を盾にした、神にしては非常に格好悪いものであるが、それに対するロキの返答は一つと誰もが知っていた。

 

 それでもやるのだ。

 

 ロキというのはそういう神であり、多くの神も民もそれを望んでいる。衆人環視はむしろ、ロキにプラスに働いていた。攻撃側が乗り気である以上、私闘を回避する手段はない。アポロンは表面上は気丈に振る舞いながらも眠れない夜を過ごし、オラリオの住民たちは『戦争遊戯』前の戦いを今か今かと待ちわびた。

 

 そしてそれ以上に、フィンたちロキ・ファミリアの最高幹部は頭を悩ませていたのである。

 

 ファミリアとしての事情もあるが、ここまで雰囲気が盛り上がってしまった以上、私闘を回避することはできそうもない。私闘を行うことが確定している以上、彼らの命題は極限まで被害を少なくすることである。ロキ・ファミリアも規律は行き届いている。末端まで話を通すことができれば簡単なのだが、話がどこから漏れるか分からない以上、それも難しい。

 

 多くの団員には、事情を知らせずに行動させなければならない。

 

 不当な扱いを受け、理不尽な戦いを強いられているベルのために戦おうとしている団員たちは、義憤に燃えている。そんな彼らを抑えるのは困難を極めたが、抑えなければファミリアの金庫が吹っ飛ぶことになるのだ。難しかろうと不可能だろうと、やるしかないのである。

 

 ベルを守る。団の名誉も守る。更に団の金庫も守り、当然『戦争遊戯』にも勝利する。全てを同時に達成しなければならないのが、最高幹部の辛いところだった。おまけに作戦行動中は愚痴を言える者も皆無なのだから、フィンたちの心労は貯まる一方である。

 

 勝負は一度。そう言い聞かせているおかげで、団員の暴発は防げている。同様に敵対勢力への不必要な接触も避けるように厳命してある。フレイヤ・ファミリアもロキ・ファミリアと同様に一部に事情が知らされているはずだが、一般の団員へはこちらと同様の命令が下されている……はずである、とロキから聞いていた。

 

 団員同士の結束という点で、ロキの眷属は他の追随を許さないと言われているが、主神への忠誠という尺度では逆にフレイヤ・ファミリアがオラリオ一であると言われている。彼らにとってフレイヤの言葉は自らの命よりも重いのだ。

 

 決行当日までは、自制心との勝負である。

 

 全てが動きだしたのは、『戦争遊戯』の前日、日付が変わる二時間前のことだった。学区に集まっていたロキ・ファミリアの団員、通称リヴェリア班が移動を始めたのを見て、オラリオの住人たちはこれから何かが起こるのを察した。

 

 普段であれば街から人通りもなくなる時間であるが、明日は『戦争遊戯』の当日である。オラリオの街はこの時間にも関わらず賑わっており、通りにも大勢の人がいた。そんな通りを、ロキ・ファミリア副団長、リヴェリア・リヨス・アールヴを中心に、武装した団員たちが行く。

 

 目指す先はアポロン・ファミリアの本拠地である。

 

 ちなみに本来、武装した冒険者が大勢で移動しているだけではオラリオの法やギルドの規定には抵触しない。冒険者は武装しているのが当然であるし、パーティを組むのもまた当然である。まして同じファミリアの団員で固まって移動しているだけなのだから、何を咎められることもない。

 

 平時であればその理屈は通ったのだろうが、『戦争遊戯』を翌日に控えたこの状況では、それも通らない。ましてロキ・ファミリアは当事ファミリアの片割れであり、対外的には不当な要求を押し付けられていた側である。

 

 大勢の団員が、アポロン・ファミリアの本拠地がある方角に移動している。それだけでギルドが動くには十分だった。学区を張らせていた職員から第一報が届くと、『戦争遊戯』のせいで夜通し通常営業を強いられていたギルドは即座に職員の派遣を決めた。同時に、冒険者たちにも協力依頼を出すが、この依頼で冒険者たちが動くことはなかった。

 

 普通に考えて、理があるのはロキ・ファミリアの方である。物騒な手段を用いようとしているとは言え、大体の冒険者は心情的にはロキ・ファミリアの味方だ。それを制圧するために力を貸せ、というギルドの言い分も解るしこの手のギルドの依頼は時間が経てばいずれ命令に変わる。抵抗したとしても時間稼ぎにしかならないのだが、それでも、心情的にロキ・ファミリアに寄っているほとんどの冒険者たちは動かなかった。

 

 加えて、あの日『神会』に参加したほとんどの神は、自分の眷属に余計なことに首を突っ込むなと厳命している。己が主神の意思を優先するのが眷属というものだが、全ての眷属がフレイヤ・ファミリアの眷属のように絶対的な忠誠心を持っている訳ではない。

 

 オラリオにおけるギルドの立ち位置を考えたら、ただの冒険者では断りきるのは難しい。最終的に自分の眷属がギルドの要請に屈して、ギルドの指示に従ったとしても、自分の眷属を責める神はいないはずだ。

 

 ギルドの職員も、冒険者たちがロキ・ファミリア寄りなことは良く理解していたし、最初の依頼で動くとは思ってなかった。ならばすぐにもっと強制力の高い命令を出す判断をすべきなのだろうが、ギルドの職員もそのほとんどが、ロキ・ファミリア寄りだった。

 

 仕事に私情を挟むべきではない。ロキ・ファミリアがやろうとしているのは私闘であり、民間人にも被害が出かねないものだ。加えて最悪の事態として、『神殺し』が起こることも考えられなくはない。いかに最大手ファミリアの片割れとは言え、その団員が神を殺したとなれば、主神であるロキ及び、眷属全てのオラリオの追放は免れない。

 

 三つに分かれた班の一つが動きだしたとなれば、もはや一刻の猶予もないのだ。オラリオの中でロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリアが抗争を始めるというのもぞっとしない話であるが、ロキ・ファミリアのオラリオ追放に比べば損失は微々たるものである。

 

 心情的にも打算的にも、ギルドとしてはロキ・ファミリアに何かがあっては困るのだ。アポロン・ファミリアを守るため、というよりもオラリオとギルドの今後を守るために、それでも、最初の一報から十分に時間を取ってからギルドは再度冒険者に依頼を、今度は強制力を持つものを発行した。

 

 そこで冒険者たちはようやく腰を上げた。その一部を引き連れて、ギルドは職員一名をリヴェリア班の元へと派遣した。選ばれたのはエイナ・チュールである。ベルの担当官であり、リヴェリアとも懇意にしているハーフエルフである。個人的にロキ・ファミリア――引いてはベルとリヴェリアに近いため、私情を挟むのではという懸念がギルド上層部にはあったが、なるべくならば相性の良い者をぶつけたいというのが上層部の決定である。

 

 職員歴こそ短いエイナだが、今回の『戦争遊戯』の発端となったベルとロキ・ファミリア副団長であるリヴェリアと繋がりがあるという、リヴェリア班とこれ程の相性を持った職員は、ギルドには他に存在しない。それに残りのフィン班とガレス班は、かなりの高確率で乱闘が予想される上、ガレス班はまだダンジョンから出てきていないのだ。冒険者でないエイナを使うのは、ここしかないという訳である。

 

 エイナに同行するのは建前上荒事を鎮圧するための人員であるが、最大手ファミリア同士の対決にその辺の冒険者が太刀打ちできるはずもない。彼らに期待されているのは、エイナが両方のファミリアにギルドからの警告を無事に伝えられる様に計らうこと。それから周辺の住民及び街区への被害を極力抑えることである。

 

 制圧せよ、という無理難題に比べれば幾分気が楽であるが、それでも、二つの最強ファミリアと戦うことに変わりはない。加えて心情的に冒険者たちはロキ・ファミリアの味方であるのだから、いくらギルドからの命令であっても、現場に赴く足は重い。 

 

 足取りの重い冒険者を引き連れながら、エイナは考える。ロキ・ファミリアが何かをやる、ということはオラリオの全住民が予想しており、当然ギルドもマークしていた。私闘を始めても即座にギルドから警告が飛ぶということは、ロキにも解っていたはずである。

 

 警告が到達するまでの間に、様々な妨害行為があることは予想されている。そのための冒険者の雇用であるし、そのために余裕を幾分、時間的な余裕を持って警告を出すことを決定した。その間に、全てに決着を付ける算段があるのかもしれない。ロキ・ファミリアとアポロン・ファミリアのみで話が完結するならそれも現実味があったがフレイヤ・ファミリアがアポロン・ファミリアの救援に動いているというのは、もはや公然の事実である。

 

 その事実は、ロキ・ファミリアも掴んでいるはずで、それでも尚実行に移したということは、やはりロキは相当に本気なのだろう。ベルのためにファミリア全体が、ギルドからの制裁も恐れずに立ち上がっている。エイナ個人的にはそれをとても嬉しく思うが、現状はロキ・ファミリアに決して芳しいものではない。

 

 今から全ての事柄がロキ・ファミリアに対して良い方向に転がったとしても、『戦争遊戯』開始までの大逆転は厳しいものとなっている。フレイヤ・ファミリアの睨みによって、他のファミリアからの救援に望みが持てない以上、ベルを守るためには『戦争遊戯』そのものを回避するしかない。

 

 そして、『神会』での多数派をフレイヤが握っている以上、残る手段はただ一つ。現在、ロキが取っている強硬手段。神アポロンの排除である。オラリオから叩きだす程度ならばまだ良いが、より直接的な手段を取るとなると、ギルドとしては黙っている訳にはいかなくなる。

 

 最悪、このまま『戦争遊戯』が成立してベルが敗北しても、彼が移籍するだけで話は片付く。最も穏便に、最もオラリオに被害の少ない手段を取るならば、『戦争遊戯』での敗北を受け入れ、その後改めてアポロンに報復するという手段を取るべきだった。

 

 現状フレイヤに『神会』の主導権を握られているというが、それもいつまでも続くはずもない。ファミリアの規模はロキも同等なのだ。自分の気に入った子供に対して、フレイヤは偏執狂的な拘りを見せる。他のファミリアから子供を引き抜き、トラブルを起こすという点で、アポロンと一致している。アポロンとフレイヤが手を握ったのもその辺に事情があるのかと思ったが、一連の事件でフレイヤが興味を持つ相手と言えば、ベルくらいしか存在しない。

 

 そして、そのベルはアポロンが自ら『戦争遊戯』の賞品としてしまった。フレイヤの目的がベルなのであればこの戦に彼女が協力する意味はない。むしろ、アポロンは忌むべき敵であるとさえ言える。そう考えると、アポロンとフレイヤの共闘にも、ロキ・ファミリアの動きにも微妙に不自然なところが見えてくる。

 

 ロキ・ファミリアにとって不利なこの状況が、実は有利に働いている結果だとしたら。自らの予想に、エイナは深く溜息を漏らした、そうなってはギルドの動きは、自分の働きは全くの茶番である。そこまで悪趣味なことをやる奴がいるのかと考えたものの、それにもすぐに結論が出てしまった。

 

 神ならやるだろう。あの連中はとにかく自由だ。自らの快楽のため、退屈を紛らわせるためならばあらゆることを平気でやる。

 

 目の前で、馬車の荷台が吹っ飛んだ。すわ襲撃かと冒険者たちが身構えるが、いくら待っても続くものがない。エイナにも冒険者たちにも、全く被害はなかった。

 

 土煙が晴れると、そこに広がっていたのは路地を埋め尽くすほどのガレキの山である。馬車に積載されていたものだけではここまでにはなるまい。両側の建物から重量物を好き放題落としてやったら、ちょうどこれくらいの山になるのではないか、という規模である。溜息と共にエイナは両側の建物に視線をやったが、既にそこに人影はない。遅延が目的ならば、自分の前に現れるのは最後の手段だろう。

 

 勧告をしにいくギルドの職員を、当該ファミリアの団員が妨害したとなれば、その時点で処罰は免れない。ロキ・ファミリアは今、そういう次元で話をしているのではないだろうが、この差し迫った状況で行動を制限されるというのは避けたいはずだ。

 

 現場に向かおうとする限り、こういう妨害が続くのだろう。職員に危害を加える意図がないのは見える。それは彼らなりの配慮なのだろうが、実力行使に出ている以上、不慮の事故というのはどうしても起こるものだ。

 

 大怪我の可能性を前に、エイナは益々気分が陰鬱になっていく。ギルド職員としての使命感のみで動いているエイナだったが、どうして危険を冒してまでリヴェリアの邪魔をしているのかと疑問が脳内で渦巻き始める。できることならば今すぐ仕事を放棄してやりたいが、生来の生真面目さがエイナを突き動かしていた。

 

 とはいえ、リヴェリア様の邪魔をしたとか後でお母さんに怒られないかなとか、ベル君に嫌な顔されたりしないかな、そんなことするお姉ちゃん嫌いとか妹に言われたりしないかな、と考えてるとまた憂鬱になってくる。ダメだ堂々巡りだと気付いたエイナは、力を込めて両頬を叩いた。人気のギルド受付嬢の行動に、同行した冒険者たちがぎょっとするが、気合いを入れ直したエイナは力強く彼らに先を促した。

 

 

「迂回しましょう。怪我なんてしないよう、できるだけ丁寧に進みます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話は戻ってリヴェリア班である。ギルドの職員が追い付くまでが勝負だと、急ぎ足で歩く集団はオラリオの街でも目立っていた。物々しい気配を察知した人々は、何を言われるまでもなくリヴェリアたちに道を開けていく。

無人の荒野を行くが如くであるが、それでも時間は足りていない。

 

 遅延行為を行う人員は配置しているが、それでも職員が到着するまでに稼げる時間は30分が限度だろう。建前上はそれまでに『結果』を出す必要があるが、私闘がギルド職員の見ていないところで行われていれば、その限りではない。

 

 加えて、公正を期すという名目で今回、当事ファミリアの主神の身柄は日付が変わった段階で『神会』へと移される。ギルド以外にも、タイムリミットがあるのだ。ヤるならばそれまでにヤらなければならない。事情を知らない団員たちもそれは理解しているから、特にティオナとレフィーヤは、鬼気迫った表情をしている。

 

 よくここまで持ったものであると、リヴェリアは感心していた。二人でも突撃するのではないかという危惧があったが、今日この日まで二人はちゃんと自分の言葉を信じ待っていてくれた。今なお騙していることを考えると申し訳ない気持ちで一杯になるが、それもこれもベルとファミリアのためだ。

 

 多くの団員からしばらく恨まれることを覚悟し、リヴェリアは足を速めていく。『学区』から分散してスタートし、アポロン・ファミリア本拠地周辺で再集合。そこから全員で通りを歩いて、本拠地へと向かう。先頭を行くのはリヴェリア・リヨス・アールヴ。ロキ・ファミリアの誇るレベル6の冒険者であり、『九魔姫』の異名を取る第一級冒険者である。オラリオに住むエルフの頂点に立つ高貴な血筋である彼女には、同様に、エルフに連なる冒険者たちが純血も混血もなく続いている。

 

 本拠地が見えてきた頃、通りを塞ぐようにして集団があった。人数はリヴェリア班と同規模であり、エルフに連なる者ばかり、というところまで共通していた。彼らの何があっても通さないという雰囲気に、リヴェリア班のメンバーにも緊張が走る。

 

 やがて、各々の顔が解るくらいの距離まできて、先頭を行くリヴェリアは足を止めた。集団から更に一歩前に出たリヴェリアを見て、対顔の集団からも一人のエルフが歩み出てくる。

 

 金髪に青い目。人間の思い描く、いかにもエルフという風貌をした優男は、リヴェリアを前に恭しく一礼した。

 

「お久しぶりでございます。フレイヤ・ファミリアのヘディンにございます」

 

 フレイヤを至上とするフレイヤ・ファミリアの団員たちが、神以外に頭を下げるということは基本的にない。それだけ、彼らの中でフレイヤの占める割合が大きいということでもあるのだが、ファミリアを代表する高位冒険者であるところのヘディンは、リヴェリアに頭を下げるのに何ら躊躇いを見せなかった。

 

 それだけ、エルフに連なるものにとって、リヴェリアというのは特別な立場にいるのである。見れば居並ぶフレイヤ・ファミリアの団員たちも、一様に緊張していた。それだけに、彼らがかなりの決意を持ってここに立っていることが見て取れる。エルフというのは数ある亜人の中でも、縦の繋がりが強いことで有名なのだ。

 

 自分一人のことで一族全てに被害が及ぶかもしれない。エルフに連なる者にとって、リヴェリアに何かをするというのはそういうことだ。縦の繋がりが強いとは言え、横の繋がりが薄い訳ではない。如何にフレイヤ・ファミリアに所属している冒険者とは言え、その全てが家族と縁を切った訳ではない。

 

 とは言え、彼らは女神の命を受けてここに立っている。それでもやるとなれば、やるのだろう。悲壮な顔をしている彼らを前に、冒険者として雌雄を決するのも悪くないと思うリヴェリアだったが、ファミリアの副団長としてはファミリアの利益を考えねばならない。眼前に立つヘディンの目を真っ直ぐ見据え、リヴェリアは用意していた言葉を口にする。

 

「我ら、義を通すために武器を取った。歩みを阻むとあれば、誰であろうとこれを蹴散らす覚悟である。見たところ、お前たちは皆エルフに連なる者のようだ。刃を交えるのは忍びない。もし、我らの義に少しでも共感するところあれば、道を開けよ。これは、道化師の紋章にかけた、我らの戦いである」

「貴女様を足止めせよ。主命なれば、ここをお通しすることはできませぬ。どうしてもここを通ると仰せであれば、我らも倒してからお通りくださいませ」

 

 予想していた言葉である。戦うならば受けて立つ。なるほど、オラリオの住民が思い描いた、最強ファミリアが激突する図、というのはこういう口上から始まるのだろう、とリヴェリアでも想像ができる。それだけに些か陳腐な言い回しな気がしないでもないが、そこに思い至っているのは全ての事情を知っているリヴェリアとヘディンのみである。

 

 その二人以外には一触即発の気配が漂うが、ここで激突してしまっては大損だし、何よりリヴェリアに割り当てられた役割を果たせなくなる。頼むぞ、という思いを込めて、リヴェリアは更に用意していた言葉を口にする。

 

「蹴散らすといった。如何にお前たちがエルフの血族であれそれは変わらぬが、覚悟を持った精鋭であることは見て取れる。遠き我が同胞よ。その決意に敬意を表して、私を含め、エルフの血族は全てここで足を止めよう。その代わりと言っては何だが、私の意向を汲んではもらえぬだろうか?」

「これが血族の問題なれば、そうでない者の行動に私は関知致しませぬ。主命は果たした。かの神への義理も果たした。であるならば、我々が貴女様に刃を向ける理由はございませぬ」

 

 昔言葉で持って回った言い回しをしているが、要するに『エルフ関係の者全員がこの場に留まるならば、自分たちは今後、そっちの争いには関知しない』とヘディンは言っているのだ。彼らが受けた命令は『リヴェリアを足止めせよ』という中途半端なものである。彼女に加えてエルフに連なる者が全て足を止めるというのであれば、無理に刃を振るう理由はない。

 

 リヴェリアからしても、これは予想通りの提案である。フレイヤ・ファミリアでも、アポロンのために損をしたくないと考えているのは明らかだ。ともに自分たちの利益を考えているのであれば、落としどころも見えてくる。ヘディンの言葉に、ふむ、とリヴェリアは考えるふりをした。

 

 実際、割の良い提案ではあるのだろう。血族全員をこの場に留め置くだけで、フレイヤ・ファミリアの精鋭とことを構えなくても済むのである。今、ロキ・ファミリアに最も必要とされているのは時間だ。ここでこれを節約できるならば、ヘディンの提案に飛びつかない理由はない。

 

 問題は大きく戦力が低下することである。リヴェリアは意図的にエルフとそれに連なる種族の団員を集めている。右を見ても左を見てもエルフの関係者ばかりであるが、全員ではない。この時のために連れてきた団員が二人いた。

 

「アイズ、ティオナ。行け。この班で、我々の中でエルフの血を引いていないと見た目から判断できるのはお前たちだけだ」

 

 リヴェリアの言葉を受けて、ティオナとアイズは無言で走り出した。時間がないことは2人とも承知している。ここで相対している内に、ギルドの職員はこちらに向かっているだろう。勧告を出されたら――出されても闘う腹積もりではあるが、実際に出るのと出ていないのとでは何もかもが異なる。

 

 事情を知らない者たちにとっては、そこが第一のレッドラインだ。それよりも前に、全ての事を成さなければならない。神すら殺す覚悟で集まった面々である。リヴェリアの指示とは言え、自分たちが戦いに加われないことに不満を覚えないでもなかったが、なるべくであれば血族と戦いたくはない、というのはロキ・ファミリアの面々とて同じだった。胸の中では不満が燻っている反面、安堵の溜息も漏らしている。

 

 そして、その安堵っぷりではフレイヤ・ファミリアの団員の方が一入だった。主命である。神フレイヤがやれと言えば彼ら彼女らは何でもするが、できればやりたくないこと、というのは存在する。エルフの血族である団員にとっては、リヴェリアに刃を向けるというのはそれだった。

 

 全ての血族を集めて、リヴェリアの前に立つ。いざとなれば闘う覚悟ではあったが、リヴェリアならば両方の戦力をここで遊ばせておく道を選ぶ――はずであると仲間を説得することには、些か骨が折れた。フレイヤ・ファミリアでは事情を知っているのはオッタルを始めとしたレベル6以上の団員と、ガリバー兄弟のみである。

 

 リヴェリアがおそらく戦いを選ばないと見通しが立っていたのは、大幹部だけだった。事情を知らない面々は、本気でリヴェリアと戦われなければならないというプレッシャーの下、この場に立っていたのである。他の神への義理立てのために、どうしてここまでしなければ……くたばれ神アポロン。それがこの場に集まったフレイヤの眷属の共通の思いだった。

 

 ともあれ戦闘が回避されたことで、両ファミリアの団員たちの緊張感が弱まる。それでも臨戦態勢には違いないが、お互いのリーダーが己が主神の名に懸けて行った停戦である。これを勝手に破ることは神の名前に泥を塗るに等しく、また『あの』リヴェリアが関与した停戦であるため、この場にいるエルフの関係者にとっては二重に破れないものとなっていた。

 

「お互い苦労をするな……」

「勿体ないお言葉です」

 

 ヘディンは慇懃に頭を下げる。その顔には緊張が見えた。腕の立つ彼はレベル6とオラリオの冒険者の中でも一握りの実力者であり、最大手ファミリアの一つであるフレイヤ・ファミリアの大幹部の一人であるが、エルフの血筋としては平凡も良いところである。本来であればリヴェリアとは会話どころか姿を見ることもできない立場であるのだが、それを自覚しているエルフは、主命を果たして気が抜けたからか、普通のエルフの感性を取り戻し緊張でガチガチになっていた。

 

 そんなレベル6の冒険者に苦笑を漏らしつつ、努めて何でもないように振る舞いながら、リヴェリアは話を続けた。

 

「我らはあの二人を出した訳だが、そちらの配置はどうなっている?」

「アレン・フローメルと、ヘグニを配置しました。ギルドが来るまでの時間であれば、良い勝負をすることでしょう。ヘグニなど、武者働きをしようと勢いこんでおりました」

 

 後々のためにも、どちらかが一方的に負けるという展開は好ましくない。同じレベル6であるアイズとアレンは拮抗した勝負をするだろう。冒険者歴ではアレンの方が長いが、冒険者としての勢いはアイズに分がある。激しくやるなとフレイヤ本神から念を押されているからアレンはそれを忠実に実行するだろうが、事情を知らないアイズの方は本気で向かってくる。

 

 手加減をして勝てるような相手ではないが、主命は絶対だ。その上、後々のことを考えれば一方的な展開になることも避けなければならない。今回、最も調整に苦慮しているのは、もしかしたら彼かもしれない。反面、もう一方のティオナとヘグニの戦いは、レベルに一つの差があるため、ヘグニの方に分がある。

 

 オラリオではダークエルフもエルフの一種族として扱われている。作戦上仕方のないこととは言え、エルフに連なるものを集めた集団から、一人外されてしまったヘグニの疎外感は察するに余りあった。全身全霊をかけて、程良い手加減をしてくれるのだろう。

 

 それを怒り狂ったアマゾネスを相手にしてくれるのだから、リヴェリアとしても頭の下がる思いである。

 

 これから怪我をするだろうアイズとティオナ以外には、傷一つついていない。フレイヤ・ファミリアの顔も立てることができた。後は程よい時間にギルドの職員がやってきて、戦いを仲裁してくれれば全てが終わる。後は勝敗の決まった戦いの終わりを固唾をのんで見守るだけだ。

 

「そちらは良いな。事情を伝える時も、気は楽だろう」

「全ては我らが女神のおぼしめしである。そう言えば大抵のことは納得しますので」

 

 縦の繋がりの方が強いか、横の繋がりの方が強いかの違いである。ロキ・ファミリアに不満を持ったことはここ最近ではないが、こういう時はフレイヤ・ファミリアを羨ましく思うリヴェリアだった。

 

 

 

 

 




リヴェリア班で一番悔しい思いをしたのは、待機組の中に組み込まれてしまったレフィーヤでした……

次回、フィン班とガレス班回。


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その頃、道化師の眷属たちは②

 

 

 

 

 

 ダンジョンを急ぎ足で駆けていく集団がある。ロキ・ファミリアの大幹部『重傑』ガレスの率いる一団である。

 

 こういう時期であるが、生活の全てをダンジョンにかけている冒険者たちの辞書に『開店休業』という文字はない。世の中がどういう事情であろうと、特にランクの低い冒険者は命を切り売りしなければ生活することもままならないのだ。

 

 そんな、どちらかと言えば食い詰めている冒険者とも、中層から浅層に来るまでの間にすれ違ったが、彼らは誰もガレスたちに声をかけたりはしなかった。

 

 『戦争遊戯』はオラリオの一大イベントである。開催が決定された段階で、どういう経緯で開催されるに至ったのか、その事情も『神会』の名の下に公表される。冒険者であれば、一般には布告されない事情についても、知る機会はあった。

 

 開催されるに至った経緯を知っている冒険者たちの中では、ロキ・ファミリアを支持する者が多数である。ベルがやったことを甘っちょろいと笑う者も多いが、それ以上にアポロンが相手というのが問題となっていた。

 

 アポロン・ファミリアはその強引な引き抜きによって多数のファミリアから恨みを買っている。

 

 引き抜きについてはフレイヤも似たようなものだが、彼女の場合は入念な根回しを神々に行っている。冒険者を引き抜かれることになる神が心底納得しているかはまた別の問題であるが、少なくとも表だってフレイヤを非難する神は、イシュタルを始めとした少数である。半面、アポロンに対しては公然と非難する神が相当数存在する。要するに神々の間で、アポロンというのは神気がないのだ。

 

 そして、アポロンの相手をするのは『あの』ロキである。かの神がここまで舐めた真似をされて、黙って引き下がるなどありえない。絶対に何かする。オラリオは恐れと共にそれを期待していた。

 

 その期待の視線を感じながら、雌伏の時を過ごすこと約2週間。ついにガレスたちは動きだしたのである。

 

 ダンジョンを出て、アポロン・ファミリアの本拠地を襲撃する。フィン班、リヴェリア班と協力して流動的に動き、結果、最も狙いやすい班が神アポロンの首を取る、というのがガレス班の筋書きだ。

 

 こういう場合、目立たぬよう有事の際までは分散している方が良いものなのだが、頭に血が上った連中は特に、ガレスの案に異論を挟むようなことはなかった。ダンジョンに籠るとガレスが言いだした時も、黙って従い現在に至っている。

 

 考えても見てほしい。これからカチコミに行くぞという集団が、いくら腕に自信があるとは言え、公には出口が一つしか確認されていないような場所に全員で居座るなんてことは、考えるまでもなく正気の沙汰ではない。何かの間違いで外に出られなくなってしまったら、その時点で計画に参加することもできなくなってしまうのだ。そういう意味で、待機場所がダンジョンというのは、他の二班と比べても条件が悪いと言わざるを得ないのだが、こと行動を起こすに至るまで、誰もそれを疑問として口にしなかった。

 

 こんなことで良いのだろうかと逆に不安になるガレスである。

 

 だが、ここに集まった面々の仕事は主に戦うことであって、中長期的な視点で物を考えることではない。ファミリアが結成された時からそういう頭脳労働は、フィンやリヴェリアの仕事だった。ガレスも大幹部ではあるが、深く物を考えることは今でも苦手としている。

 

 腕っぷしが強く、最終的に生き残ることができれば良い。彼らの考えは実にシンプルで、ガレスとしてはそれが最高に頼もしくもあるのだが、リヴェリアを信奉する『こまっしゃくれた』エルフ連中からは『脳筋軍団』と距離を置かれてもいる。

 

 この良さはエルフには解るまい……団を結成したばかりの頃の、種族的な偏見を思い出し自嘲気味に笑うと、広間に出た。後は道をまっすぐ。ほどなくして出口に到着。後はアポロン・ファミリアの本拠地を目指すだけ、という段になって、ガレスは足を止めた。

 

 後続の面々が早速文句を言うが、視線を先にやり、ガレスがどうして足を止めたのか理解すると、一様に沈黙した。

 

 そこには一人の男がいた。

 

 獣人の中でも一際大柄で知られる猪人である。分類としては同じ獣人であるベートも、同年代の人間種族と比べると十分に大柄で上背もあるのだが、彼はそのベートが子供に見えるくらいに大きい。強さとは筋肉だと言わんばかりに張り出した腕は筋骨隆々としており、赤銅色に焼けたその肌からは白い煙が立ち上っているのが見えた。

 

 軽い運動でもしていたのだろう。彼の周囲にあるものは、その悉くが粉砕されていた。素手か、あるいはその辺りに転がっているミノタウロスすらペシャンコにできそうな岩でも使ったのか。

 

 いずれにせよ、彼が臨戦態勢にあるのは、誰の目にも明らかだった。

 

 その男の名前を、オラリオに住む者皆が知っている。

 

 フレイヤ・ファミリア現団長。レベル7の冒険者『猛者』オッタル。全ての冒険者が目指すべき存在が、今、ガレスたちの前に立ちふさがっていた。

 

 事情が事情である。自分たちの前に彼が立ちふさがったことの意味が分からないロキ・ファミリアの面々ではない。『猛者』オッタルは明確に戦う意思を持って、ここに立っている。

 

 あの『猛者』が、目の前にいるのだ。ここはダンジョンだ。地上の法の及ばない、冒険者たちの聖地。ここでは冒険者としての流儀が全てに優先し、力こそが正義という野蛮な理論すらまかり通る。最低限の守るべき法はあるが、地上で生み出された法は、ダンジョンの怪物から冒険者を守ってはくれない。

 

 強い者が生き、弱い者は死ぬ。ダンジョンとはそういう場所であり、強さが全てのその場所でオラリオ最強の冒険者は、ガレスたちに相対していた。

 

 『猛者』が一歩、前に出る。これに退く者は誰もいない。じわりじわりと、最強の冒険者の熱気が感染したかのように、ロキ・ファミリアの冒険者たちに熱気が広がっていく。

 

 部屋の中央で、オッタルは足を止めた。身体を半身にし、彼にしては妙に芝居がかった仕草で腕を上げると立てた指を揃えて、手前に三度。指を深く傾けて見せた。

 

 かかってこい。

 

 それ以上、彼らに言葉は不要だった。

 

「上等だオラぁっ!!!」

 

 血気盛んなガレス班の中でも、更に血気盛んで気の短いベートが、我先にと飛び出していく。元より強さに固執することにかけて、ロキ・ファミリアの中でも彼の右に出る者はそういない。最強の冒険者からの『お誘い』に我慢ができるはずもなかった。

 

 蹴り殺す。明確な殺意を漲らせたベートは、強靭なその意志を乗せて加速していく。身体能力に優れた狼人の、その中でも更に敏捷に特化したベートである。速さにおいて、同じレベル帯の中では彼と並ぶ者はいないだろう。

 

 彼は自分の足に絶対の自信をもって駆ける。

 

 しかし、である。ベートの足が『絶対』であるのなら、オッタルの『絶対』はベートを遥かに凌駕していた。レベル一つ違えば世界が違う。それが二つ、まして相手は最強の冒険者である『猛者』だ。故にベートに油断は一切ない。殺すつもりでかかるのは、そうでもしなければ勝負にならないと理解していたからだ。加速し、フェイントを入れ、オッタルの前でベートは消える。

 

 戦いを見守っていたほとんどの冒険者には、そう見えた。次の瞬間、ベートはオッタルの死角にいた。十分に身体を捻り、力を溜め、加速の乗った足を手加減なく、オッタルの後頭部に叩き込む。

 

 人の形をしているならば、ダンジョンの怪物を含め、大抵の生物の弱点であるとされる頭部である。これが潰れればいかに冒険者といえども死ぬしかない。神速でその場に至ったベートの蹴りは、閃光の如く放たれた。

 

 仮に採点をするのであれば、彼にとって今までの生の中で最高の一撃であったと言えるだろう。もしかしたら、あの『猛者』に一太刀入れられるのでは。見た目にそぐわぬ現実主義者であるベート本人にさえ、淡い期待を抱かせる程の一撃はしかし、オッタルの固い頭蓋に防がれ、力を失った。

 

 轟音がする。オッタルの身体がぶれる。だが、それだけだ。ベートの渾身の蹴りが後頭部に直撃しても、オッタルの身体はビクともしなかった。蹴りを放った姿勢のまま、ベートの動きが止まる。疑問はある。怒りはある。だが戦闘中に動きを止めることは、冒険者が最もしてはいけないことの1つだった。

 

 ベートとて第一級冒険者である。動きを止めたことが冒険者としての落ち度であれば、彼が動きだしたのは生物としての本能だった。動きを止めていたのはほんの一瞬であるが、しかし、最強の冒険者にとってそれは絶対的な隙だった。

 

 足を引き、離れようとした時には既に、ベートの足はオッタルに掴まれていた。視線が一瞬、交錯する。ベートの目には燃えるような怒りがあったが、オッタルの目には何もない。彼にとって敵というのは主神の名の下に打ち滅ぼすべきもので、そこに彼自身の感慨はない。

 

 ただ淡々とオッタルは掴んだベートの足を、無造作に放り投げた。砲弾のようにすっ飛んだベートが、ダンジョンの壁を粉砕する。ただの人間であれば、今しがた破壊された壁と同じように、粉みじんになって死んでいたろうが、腐っても冒険者、彼はベート・ローガである。仲間の声に、うるせぇ! と応えた彼は、何事もなかった風を装って立ち上がった。

 

 ダメージがないではないが、それをおくびにも出さない。弱気は敗北に繋がる。元より相手は格上、オラリオ最強の冒険者である。ここで気持ちでまで負けてしまっては、勝ち目もなくなってしまう。

 

 最強の冒険者を相手に、彼らは戦い、そして勝たなければならないのだ。仲間の名誉のために、彼らは神を殺すことさえ覚悟を決めた。最強の冒険者くらい、何ということはない。たった今、第一級冒険者がなす術もなく投げ飛ばされたのを見ても、闘志が萎えたものは一人もいなかった。

 

 それどころか、これ以上ないというくらいの闘志を漲らせ、全ての冒険者が武器を取る。

 

 その狂奔に乗っかり武器を構えながら、ガレスはそっと注文通りの展開になったと安心していた。

 

 『戦争遊戯』までの二週間。ガレス班は地上全ての情報を断ち、ダンジョンに籠った。敵対ファミリアに動きを捕捉されないためである。他の二班が地上で睨みを利かせ、それまで目立っていなかったが故に、遊撃的に動けるように。我らこそが主攻であると言って、仲間を納得させた形だ。

 

 実際は、『敵対勢力』に最も捕捉され易い形を取ったに過ぎないのだが。ダンジョンへの入り口はバベルの一つしかない…………と言われている。実際には他にもあると固く信じられているのだが、公式にそれが詳らかにされたことは今のところない。

 

 ともあれ、入り口が一つしかないということは、地上に戻る際のルートが限定されるということでもある。広大なダンジョンに潜った冒険者を捕捉するのは困難を極めるが、そこから地上へ戻る冒険者を捕捉するのは、ただ帰り道で待っているだけで良い。もうすぐ地上。それくらいの場所に、必ず通る広い場所がある。

 

 例えば、最強の冒険者と最強のファミリアが戦うのにはうってつけ、そんな場所だ。彼らの他に人はいない。おそらく、オッタルが最初から手を回していたのだろう。『戦争遊戯』までにロキ・ファミリアが事を起こすだろうことは、オラリオの住民全員が知っている。

 

 その敵対勢力筆頭であるフレイヤ・ファミリアの団長が、これから一仕事しますという風でダンジョンに潜れば、誰もが道を譲り、口を閉ざし、そして関わらないことを選ぶだろう。

 

 ここは誰もが通る道。地上に近すぎて怪物などは現れない場所で戦闘があるとすれば、それは冒険者たちの小競り合いに違いない。この状況、この場所で冒険者が小競り合いとなれば、何処と何処が戦っているのかは自明の理だ。

 

 そして、まともな神経をしていたらその争いには関わってこないだろう。オラリオで最も大きい二つのファミリアが、己の名誉をかけて激突しているのだ。関わって良いはずはないし、関わりたいとも思わない。

 

 まさに注文通りの戦いだ。他者の邪魔が入らず当事者同士で戦うことができる。例え尋常でない被害が出るとしても、二つのファミリアだけで完結することができる。『戦争遊戯』が如何に出来レースであるとは言え、それまでにかかる出費は無視できるものではない。

 

 神アポロンの目を欺くために、既に多くの金銭的な犠牲を支払っている。アポロン・ファミリアから毟り取ったとしても、その全てを回収できるものではないだろう。他のファミリアを巻きこんで支出を増やすことは防ぎたいところだ。

 

 こういうそろばん勘定は本来ガレスの得意とするところではないのだが、ファミリアを預かる者の一人として考えない訳にはいかない。事情を知っているのは、ロキ以外にはガレスたち三人のみだ。いい加減、誰か一人くらいは気づいても良さそうなものだが、脳筋ばかりを集めたガレス班の冒険者たちは、喜々として『猛者』オッタルへと襲い掛かり、吹っ飛ばされている。

 

 彼が武器を持っていたらそれこそ大虐殺の現場となっていたのだろうが、彼の手に武器はない。手加減されているのが解るだけに、ベートを初めロキ・ファミリアの冒険者たちの腕にも力が籠る。武器を持つまでもない相手である。ベート達にはそう見えるのだろうが、実際には違う。

 

 フレイヤ・ファミリアとて資金が無限にある訳ではない。ましてオッタルは団を預かる身である。班の財政を考えるのも彼の大事な仕事の一つである。ロキ・ファミリアを相手になるべく被害を出さないようにという、涙ぐましい配慮であることは、同じく大幹部であるガレスには痛い程解った。

 

 全くどうしてこんな面倒なことをしなければならないのか。地上の子供の一人として、ロキ・ファミリアの大幹部として、一人の冒険者としてガレスは切に思ったが、そういう問いに関する答えはオラリオでは一つしかない。

 

 全ては神の思し召しである。己が主神が決めたことに、その眷属は従うのみだ。この都市は、この世界は、神の意思に寄って回っている。そこに子供が口を挟む余地は何処にもない。

 

 ただ、今回のことに良いところがあるとすれば、高慢ちきなあの神アポロンに、一泡吹かせることができる。その瞬間に立ち会うことができることが、ガレスにとっての救いだった。『猛者』と戦うことに、胸がときめかない訳ではないのだが。

 

 兜を深く被りなおし、ガレスはのしのしと歩く。レベル6、エルガルムの二つ名を持つ第一級冒険者である。最強の冒険者の座はオッタルに譲らざるを得ないとしても、これが出来レースであると知っていても、彼に背を向けて良い理由にはならない。

 

 元よりガレスも冒険者である。そしてベートを始め、喧嘩っ早い冒険者たちを率いるだけあって、戦そのものを忌避する訳ではない。彼はドワーフである。酒を浴びるように飲み、きらめく宝石や金属を愛で、太い指に似合わぬ器用さを持った、豪放磊落な種族(ドワーフ)である。

 

 目の前に最強の冒険者がいる。戦って良い建前まである。ならば挑まぬ理由などありはしない。心の底からガレスは吠えた。立場を得てから久しく発していなかった戦士としての咆哮である。ダンジョンの空気を震わせ、味方を鼓舞するドワーフの咆哮に、同じく出来レースを理解し、仕事としてここにいるはずのオッタルも笑みを浮かべた。

 

 信ずる神は違えども、彼も冒険者という道を選んだ存在である。先のガレスの咆哮に対する返礼とばかりに、彼も心の底から雄叫びを上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本格的な衝突を避けつつもその『本格的な衝突』を演出するため、旧友であるフレイヤとの協議の結果、ロキは自分の眷属を三隊に分けることにした。戦力を分けることで相手に対応され易くし、戦力を偏らせることでそれをより先鋭化させた。会議を開いてすぐにファミリアを分散させたのは、誰がどこにいるのかを把握し易くするためだ。

 

 ダンジョンに入るには多くの者に目撃される必要があるため、目撃者の情報を収集すればガレス班の陣容は割れる。リヴェリア班も『学区』に移動してからは決行日まで動かないため、調べる気になればすぐに、メンバーは割れるだろう。

 

 残りは『黄昏の館』にこもりっぱなしになるフィン班であるが、これは引き算ができれば何とかなる。後は離散集合に気を配っていれば、その陣容に変化はない。関係のない者が調べても解る陣容である。これが詳細が伝わっているフレイヤ・ファミリアであるなら、対応策を練るのは容易い。

 

 まして準備期間が約二週間もあるのだ。戦う相手と場所が解っており、そのための編制を練る時間も十分に取ることができる。こと、『戦争遊戯』前の戦いに限って言えば、最初からフレイヤ・ファミリア有利に仕組まれていたのだ。ロキ・ファミリアが恐れているのは、フレイヤ・ファミリアの団員に大怪我を負わせた挙句、アポロン・ファミリアにまで手が届いてしまうことだ。

 

 三隊の一つ。『学区』のリヴェリア隊、ダンジョンのガレス隊に続く三隊目。ロキ・ファミリア本拠地である『黄昏の館』から動かなかったフィン隊である。種族の偏りがあるリヴェリア隊、血の気の多い連中を集めたガレス隊に比べると、比較的穏やかで質の高い戦力が集まっていると言える。

 

 三隊の内どこが主攻かと冒険者たちに予想させれば、多くの者がフィン隊こそが主攻であると考える。そうであるが故に、『黄昏の館』に過剰に敵対戦力が集中したとしても何ら不思議ではない。『黄昏の館』にはダンジョンに向かったオッタルと、リヴェリア班を抑えるために『学区』に向かった面々を除いた、全てのフレイヤ・ファミリアの団員が集合していた。

 

 人数、質ともにロキ・ファミリアに匹敵するフレイヤ・ファミリアである。ほぼ均等にファミリアを三つに分けたロキ・ファミリアと異なり、フレイヤ・ファミリアは戦力の一つをオッタル一人で賄ったため、『黄昏の館』に投入した団員は、現状、籠城せざるを得なくなっているロキ・ファミリアの団員よりも大分多い。

 

 人的優位に立っているフレイヤ・ファミリアであるが、しかし、『黄昏の館』を包囲はしていない。彼らは『黄金の四戦士』を先頭に『黄昏の館』正門周辺に集結していた。そこだけを見ればロキ・ファミリアの進路を完璧に妨害していると言えなくもないのだが、『黄昏の館』の出口は正門だけではない。裏門やら秘密の隠し通路やら、出口は他にも色々とあり、その存在は全ての団員が知っている。

 

 そこを使って脱出しようという意見が団員から持ち上がってくるのは、当然の帰結ではあった。普段であれば即座にそれを採用しただろう。目的が明確であるのだから、何も無理に『黄昏の館』に留まっている必要はない。臨機応変な指示を出し、ファミリアに勝利をもたらす。

 

 それこそが『勇者』フィン・ディムナの真骨頂であるのだが、フィンと他の団員たちで明確に目的が異なる現状では、団員たちの目的達成イコール、ファミリアの破滅である。全力で戦っているというのはふりだけで、本当に戦ってはいけないのだ。

 

「僕らは名誉のために戦うんだ。正門を出て大路を行き、敵を打倒して仲間を助ける。そのために裏門からこそこそ出ていくなんて、あってはならないことだよ」

 

 綺麗ごとでフィンが斬り返すと、それきり団員たちは脱出論を口にしなくなった。神殺しを視野に入れているのに名誉も何もないものだが、これが正義の戦いであると標榜する以上、勝ち方には拘らなくてはならない。

 

 それに、フィンは最初から今回の作戦が失敗しても、次の作戦を考えてあると、自分に付き従っている団員たちに伝えていた。他の二班に比べると、更に精神的に余裕がある。ダンジョンや『学区』は少なからず人目に触れるが、流石にファミリアの本拠地ともなれば、その心配もない。

 

 情報が漏れないのであれば、作戦の全てを打ち明けてもと一瞬考えたフィンであったが、待機する面々の雰囲気まで弛緩するのは困るのだ。緊張感というのは他人にも伝わる。神フレイヤは今回の事情を全て知っているが、彼女の眷属全てがその事情を共有しているとは限らない。

 

 フレイヤ・ファミリアの団員が見ているということは即ち、アポロン・ファミリアの団員が見ている可能性もないではないし、見物していた冒険者からアポロン・ファミリアに情報が届くかもしれない。僅かな違和感もあってはならないのだ。

 

 今日がその最終日である。ヘルメス・ファミリアからの情報によれば、アポロン・ファミリアに動きはない。今日を乗り切り日付が変われば、その時点で神アポロンの身柄は『神会』の預かりとなり、逃げることも『戦争遊戯』を回避することもできなくなる。

 

 全力で作戦を考え、その通りに団員が動けば神アポロンの首の十や二十は簡単に取れるのだが、実際に取ってしまってはいよいよもってオラリオを出ていかなければならなくなってしまう。それはフィンの野望ともかみ合わないし、ベルの理想とも程遠い展開だろう。

 

 彼らにはダンジョンが必要で、オラリオを出ていく訳にはいかないのだ。そのためには、団員も騙すし、オラリオの民も騙す。全ては勝利のために。と言えば聞こえは良いが、そのために団員を騙すというのは気分の良いものではない。

 

 あぁ、癒しが欲しいとフィンは心の中で一人黄昏る。誰にも秘密を打ち明けることができないというのは、想像するよりも遥かにストレスが溜る。この作戦を打ち明けることができる仲間は、ガレスとリヴェリア、それに主神であるロキだけであるが、その二名と一柱とは作戦が動きだしてから連絡を断っているため愚痴ることさえできない。

 

 正門に動きがあることを、物見の塔からぼーっと眺めながら、フィンは今回の事の発端となった小人の少女のことを思い出していた。かわいらしい少女ではあると思う。ソーマ・ファミリアで、小人で、サポーターなのだ。さぞかし酷い扱いを受けてきたのだろう。

 

 ロキの調査では非常に手癖が悪いということではあるが、それは環境に寄るものが大きかったのだと信じたいところだ。この戦いが終われば、晴れて自由の身…………になるかは解らないことに、フィンは恐らく、オラリオで初めて気がついた。

 

 ロキとアポロンが『神会』の仲介で取り決めた『戦争遊戯』の概要に、あの小人の少女に関する項目は一切なかった。そもそも少女の所属はソーマ・ファミリアであるため、『戦争遊戯』に勝利し、ベルが好き放題に要求を通したとしても、少女の身柄を引き受けるということは、原理上できない。

 

 状況から見て、ソーマ・ファミリアの一部とアポロン・ファミリアが繋がっている可能性は高いのだが、ここで首を突っ込んでこない以上、その関係を公に立証することは難しいだろうが……まぁ、ロキにとっては大した問題ではあるまい。

 

 ソーマ・ファミリア所属の少女が引き起こしたことが原因で、ロキ・ファミリアは神アポロンに因縁を付けられ『戦争遊戯』までする羽目になったのだ。これをどうしてくれる、とロキが難癖をつければ、少女一人の身柄くらい、いかようにもしてください、としかソーマ・ファミリアは言えなくなる。

 

 仮に少女にどれほどの価値があったとしても、よろしいでは戦争だとロキが言いだしたら、今度はソーマ・ファミリアがアポロン・ファミリアの二の舞になる。酒類の販売でそれなりに羽振りが良いファミリアであるが、それだけに、腕の立つ冒険者はあまり多くはない。

 

 かのファミリアの内情に詳しいフィンではないが、おそらくラウル一人を支援なしで素手で突っ込ませても勝てるだろう。幹部以上が出ることになればそれだけで勝利は固い。戦いになればそれだけで負けてしまうのだ。アポロン・ファミリアがロキ・ファミリアとの『戦争遊戯』に踏み切ったのは、特殊な事情がある。自分のところにまでそんな幸運が――あくまで現時点の大多数の認識では、という話ではあるが――舞い込むとは如何にソーマ・ファミリアの酔っ払いどもでも思えないだろう。

 

 この『戦争遊戯』におけるロキ・ファミリアの勝利すなわち、小人の少女のソーマ・ファミリアからの解放を意味する。そのようにロキには既に話を通してある。少女のしたことは褒められたものではないが、誰にだって悔い改める機会は必要だろう。小人族のために戦うフィンにとって、小人の少女の行く末は他人事ではない。

 

 少女の可憐さに目が眩んだ、と言われては反論する術を持たない。如何に『勇者』フィン・ディムナと言えども私心が全くなかったと言えば嘘になるからだ。

 

 フィンにとっては既に少女の安全は確定したことであるのだが、大多数の者にとってはそうではない。まずは目の前の戦闘を片付ける。面倒この上ない仕事であるが、それはあちらも同じだろう。他の者を配置することもできたはずだが、『黄金の四戦士』のガリバー兄弟をよこしてきた辺りに、神フレイヤの配慮が窺える。

 

 種族が同じだからと言って、フィンと彼らが仲良しな訳ではないが、元々この『戦争遊戯』は出来レースである。違う種族の者が戦い、つまらぬ諍いに発展するのであれば、同じ種族の者で争い内輪の問題として処理する方がまだ平和だろう。配慮というよりは、損得の問題でもあるのだが。

 

 

 一団から進み出たガリバー兄弟は、四人で輪になり、歌いながら踊り始めた。その歌を聞いた誰もが、目を細めて首を傾げる。オラリオで使われている共通言語ではない、馴染みのない言葉である。ロキ・ファミリアにも様々な種族の眷属がいたが、ガリバー兄弟の歌を理解できたのは、フィンただ一人だった。

 

 生まれた土地、種族によって使っている言語が異なることは侭ある。酷い時には近くの森に棲んでいるエルフ同士でさえ、普段使いの言葉だと意味が全く通じないということもあるくらいだ。

 

 その問題を解決するために、神々はバベルを建てると同時に共通言語を生み出した。地上の子供たちは異種族間で意思疎通を図る時にはそれを用いるようになり、同時に世界の公用語となった。よほど単一の種族、地方の生まれで集まったのでもない限り、オラリオではこの共通語が用いられることになる。

 

 ガリバー兄弟が使っているのは、共通言語が生まれる前から小人族が使っている、小人族特有の言語、それもフィンの生まれた土地固有のものだった。フィンとガリバー兄弟は生まれが異なるから、彼らがわざわざこの日のために習得したのだろう。

 

 頭の下がる思いであるが、問題はその内容だ。節を付けて民族的な歌に仕上げているが、その内容はオラリオにおける現状報告である。ガレス班にはオッタルが向かい交戦中、リヴェリア班にはエルフたちが向かい、残りがここにきた。作戦は予定通り。味方に被害を出したくないから、四対一での戦いを望むのだが、そちらの意思はどうか。

 

 彼らが歌に乗せて伝えてきたのはそんなところだ。実に堂々とした情報のやり取りであるが、この場に集った二つのファミリアの中にフィンと同郷の小人族か言語学者でもいなければ、情報が漏れる心配はない。外から観察してる者がいれば問題だが、相手はフレイヤ・ファミリアである。その程度の対策は魔法使いの誰かがやっているだろう。

 

「団長、あいつらは何て?」

「ロキ・ファミリアの団長は玉無しの臆病者だってさ」

「そうですか。それじゃあ、私は今からあいつら全員玉なしにしてきますので、少し時間をください」

「まぁ待ちなよ。侮辱されたのは僕だ。恥辱を雪ぐ機会を奪うというのかい? それはちょっといただけないな」

 

 落ち着いた様子で、フィンはティオネを制止する。理性的に戦う今のスタイルよりも、怒りに任せて戦った方がティオネの攻撃は鋭い。理性的と野性的。どちらが強いのかは議論の余地があるが、理性ある敵を相手にするならば怒りに任せて動くアマゾネスというのは、なるべくならば戦いたくない相手と言える。

 

 フレイヤ・ファミリアの『黄金の四戦士』と言えば、連携の巧みさで有名である。全員がレベル5の第一級冒険者である上に、その巧みな連携でレベル6を相手にしても引けを取らない。全員まとめて相手にするのであれば、確かにティオネが劣勢であるが、ティオネのようなタイプは怒りで戦闘力を向上させる。

 

 普通は必ず持っている怪我を避けようとする動きを、ティオネは全くしなくなる。ロキ・ファミリアともなればエリクサーも常備している。よほどの致命傷でない限り治療は可能であるが、冒険者であっても、いずれ治ると解っていても、痛いものは痛いし、怖いものは怖い。

 

 総じてアマゾネスは怒りで戦闘力が向上する傾向にあるが、ティオネは更にそれが強かった。自分のことであればあっさりと沸点を突破することを、フィンはよく知っている。

 

 番狂わせは現状、フィンが最も危惧するものだ。フレイヤ・ファミリアとはいつか雌雄を決する時が来るのかもしれないが、それは今ではない。本気で戦っているという風を装わなければならない。当然、手を抜いていると思われてはならない。ロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリアの対決の構図ができあがった時点で、神アポロンもまさか自分が出来レースを仕掛けられているとは考えもしないだろうが、彼の身柄が『神会』に移されるまでは、念には念を入れなければならない。

 

 にこりと微笑むと、ティオネは大人しく引き下がった。大抵の場合、彼女は言うことを聞いてくれる。ティオネと団員たちの視線に見送られ、愛用の鑓を持ったフィンが歩み出る。違うファミリアの本拠地には、マナーとして中からの招待がないと入ることはできない。

 

 その主神や団員の許可なく本拠地に踏み入ることは、実質的な宣戦布告であり、諸々の事情関係なく看過することができなくなる。律儀に外で待っていた『黄金の四戦士』を、フィンは団長の権限で招き入れた。彼らに続こうとするフレイヤ・ファミリアの団員たちは、視線で制する。入って良いのは『黄金の四戦士』だけだ。大規模な戦いは、お互いの好む所ではない。

 

『おまたせ。苦労するね、お互い』

『全ては我らが女神のためである』

 

 小人語でのやり取りの後に、お互いに苦笑を浮かべた。自分の感性とは別の所での戦いであるが、種族が同じ者同士、思うところがないではない。仲間の名誉だとか主神の命令であるとか全く関係なく、フィンもガリバー兄弟も、この戦いが楽しみで仕方がなかった。

 

 出来レースの添え物であっても、お互いに被害をなるべく出さないようにと制限があっても、戦いは戦いだ。自らの心にともった炎に、フィンは鑓を振るい、滅多にやらない名乗りを挙げる。

 

 

 

 

 

「ロキ・ファミリア団長、『勇者』のフィン・ディムナが君たちに勇気を問おう! 僕の鑓の冴え、試す勇気があるならかかってくるがいい!」

 

 

 



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強くなるために④

 

 

 

 朝日が昇ると共に目覚めたベルは、違和感に苛まれながら身体を起こした。違和感がないこと。それが普通のことであるはずなのに、それに強い違和感を覚える。痛みも疲労もない状態で目が覚めるのは実に二週間ぶりのことだった。

 

 とにかく身体を痛めつけることに終始していた二週間だったが、『戦争遊戯』を明日に控えた今日は丸ごと休養日に当てられている。骨を折られたり血を流したりしなくても良いのだと思うと心は休まるものの、痛みと苦痛ばかりだったとは言え二週間も共にあった感覚が消えるというのも、不自然なことのように思えた。

 

 痛みに慣れるという意味では、修行の成果はあったということなのだろう。ステイタスを更新しにきていたロキが何をしたらここまで、と驚く程度にベルの『耐久』は上がっていたのだ。敏捷型であるベルにとって『耐久』というのはある意味死んだステイタスではあるのだが、ベルを鍛えることになったリューがまず懸念を覚えたのは痛みや怪我によって自慢の足が止まることだった。

 

 ベルが討ち取らなければならないヒュアキントス・クリオはレベル3。レベル1つの差は冒険者にとって絶対である。この差をどうにかして埋めることがベルの命題だった。唯一の売りである『敏捷』を殺されるようなことだけは、何としても避けなければならない。

 

 呼吸する度に骨を折られているのでは、という程に厳しい訓練を経て、リューが決めた目標は達成されつつあった。途中から鍛錬の相手が増えたことも、目標達成に大きく貢献している。口にこそしなかったが、リューも一人では流石に限界があると思っていた。まずは基礎ということで一人でもどうにかなったが、どうしても人手が必要となれば自分の流儀を曲げて同僚に頭を下げる覚悟さえあった。事実、とある猫人などは声をかけられるものと思って準備をしていたのだが、椿が想定よりも大分早く合流したことによってその問題は解消された。

 

 椿はリューよりも高位のレベル5であり、鍛冶師でありながら腕も立つ。ドワーフの血を引く彼女は酒をこよなく愛するため、『豊穣の女主人』亭にも何度か足を運んだことがある。付き合いなどその程度であるが、腕が立つのであればこの際、他の要素には目を瞑ることにしていた。

 

 二人が三人になり、訓練の密度も更に上がった。約二週間に及ぶ訓練も今日が最終日であり、丸一日を休養日としている。後はいつものようにステイタスの更新をし、十分に英気を養って本番に臨むだけだったのだが、神ロキとそれを運ぶアスフィ以外に来客があった。リューは初めて見る顔だったが、着流し姿の赤毛の男は、ベルと椿にとっては知り人だった。

 

 

 

 

 

 

 

「すまねぇ!」

 

 やってくるなり、ヴェルフは地面に手をつけて頭を下げた。東洋に伝わる謝罪の一種である『ドゲザ』である。ラキア王国出身のヴェルフに東洋との接点は特にないのだが、服装や武器の着眼点から彼が東洋文化に凝っている節があると、ベルは椿から聞いていた。

 

 なるほど、この方法なら謝罪の意思があることは伝わるだろうと感心しながらも、ベルは混乱していた。ヴェルフから謝罪される理由に全く心当たりがなかったからだ。それでも、彼が頭を下げるからには何か理由があるはずだと考えたベルは、そこでようやく彼が自分のために魔剣を作ると言ってくれたことを思い出した。

 

 確かに魔剣があれば心強いという思いはあるが、凄さこそ色々な冒険者から聞いていたものの、実際に魔剣が使われている所を見たことのないベルの勘定に、魔剣は最初から入っていなかった。作ってくれるだけで嬉しい提案である。『戦争遊戯』に間に合わなかったところで怒る道理はないのだが、鍛冶師たちの考えは違ったらしい。

 

「息巻いた挙句この様か。情けないのぉ、ヴェル吉」

 

 ベルが言葉を発するよりも先に、椿が動いていた。元より、ヘファイストス・ファミリアの本拠地で一度顔を合わせただけの縁であるベルよりも、同じファミリアに所属している彼女の方が縁は深い。遠慮のない間柄なのかゲタを脱ぎ足袋を履いた足でヴェルフの背中をぐりぐりと踏みつけている。痛みは全くないだろうが、相当な屈辱なのだろう。後ろ頭の向こうからぎりぎりと歯ぎしりが聞こえるが、ヴェルフは決して言い返しはしなかった。

 

 鍛冶師として魔剣以外の全てにおいて上回っている椿を前に、唯一上回っているはずの魔剣作成で失敗したという話を持ってきたのだ。ここで言い訳をしても恥の上塗りにしかならない。返す言葉もないというのはこのことである。

 

「……いや、魔剣そのものはできたんだ。俺の要求するレベルに全く達してなかっただけで」

 

 悔しそうな表情はそのままに、ヴェルフは荷物から袱紗を取り出した。そこでようやく椿はヴェルフの背中から足を退ける。最初からそう言えと毒づきもするが、その眼はしっかりとヴェルフの袱紗を見ていた。彼女とて鍛冶師の端くれである。魔剣貴族と呼ばれたクロッゾの一族。その最後の末裔とも言えるヴェルフの作品に、興味がないではなかった。

 

「要求にこそ満たなかったが、今の俺に打てる限界の剣だ。受け取ってくれるか、ベル」

「喜んで」

 

 膝をついたままのヴェルフから受け取った袱紗から、魔剣を取りだす。簡素な拵えの鞘から抜き放つと、まずベルの目に入ったのは透き通った刀身だった。血のように真っ赤に染まったその刀身からは、僅かな熱が感じられる。魔剣というものを初めて見たベルだったが、確かに不思議な『何か』を感じずにはいられなかった。素人目にも何かありそうというのが、手にとって見て良く解る。

 

「『不滅ノ炎(フォイア・ルディア)』と名付けた」

「要求するレベルに達していないと言ったな。それはどういうことだ? 何度でも使える魔剣を目指すという話だったが」

「いや、一応それは達成できた。その魔剣は現時点でも、()()()()()()何回でも使える。もっとも何が起こるか解らんからしばらく俺が整備をしなきゃならんだろうが、その辺は勘弁してくれ」

 

 ヴェルフの言葉に、ベルはおーと軽く唸っただけだったが、熟練の冒険者である二人は驚きで声も出なかった。魔剣が消耗品であるというのは作成者である鍛冶師だけでなく、担い手である冒険者にとっても共通の認識だった。魔剣の使用回数を回復させたり、使用回数の多い魔剣を作ることは鍛冶師の間でも長年研究されているが、それを解決したと言う話は、現状、オラリオ最高の鍛冶師とされる椿でも聞いたことがない。

 

 それを、クロッゾの血を引いているとは言え、レベル1の鍛冶師が二週間ばかりの時間で解決したというのか。しかも作成した魔剣を持ってきているという。鍛冶師として、冒険者の先達として興味は尽きない。

 

「ただその代り、俺が打つ従来の魔剣よりも威力が下がった。加えて一発撃つごとに補充しなきゃならん」

「補充って言うと……魔力とか?」

「いや、そいつは炎熱の魔剣だから炎熱を補充してやれば良い。一発撃つ分の十分の一も補充してやれば、剣が勝手に増幅して一発撃てるようになる」

「すごいね……僕には補充する手立てがないけど」

「そこなんだよな。だが幸い、お前の相手らしいヒュアキントスとやらはそういう魔法の使い手らしいから、全く役に立たねえってことはないだろう」

「相手の魔法でも補充できるの?」

「炎熱なら何でもな。後な一発分以上の補充はできねえから注意しろ。どの程度補充できてるかってのは見れば解るようになってるから確認は怠らないようにしてくれ」

「見れば解るって……どこで?」

「その色が満タンの状態だ」

 

 解るだろ? とヴェルフは首を傾げるが、ベルはじっと刀身を見つめるだけで返答できなかった。これより少し薄くなっていたとしても、それを見分ける自信がない。

 

「一応、どれくらいの威力があるのか試し撃ちしておいた方が良いと思うが、あれだな。補充する当てがないならそのままでも良いか?」

「それなら手前の魔剣を使い潰しても良いだろう。『戦争遊戯』で試し撃ちするつもりで何本も持ちこんでおるから問題はない。手前の魔剣で十分補充はできるのだろう?」

「問題ないはずだ。ベルの専属なんだろう? 試し撃ちの時には立ち会って、ベルにアドバイスしてやってくれ」

「貴様は既に威力を確かめたのだろう? その後はどうやって補充したのだ」

「やじうまやってた鍛冶師どもに協力してもらったよ」

 

 ヴェルフ個人で補充できれば良かったのだが、彼の魔法は彼単体では役に立たない。ヘファイストス・ファミリアは鍛冶師の集団であるが、中には実践的な連中もいる。その筆頭が椿であり、彼らの中には魔法を嗜む者もいた。はぐれ者扱いのヴェルフに良い感情を持っている鍛冶師はそれほど多くはなかったが、クロッゾの魔剣の新作を見れた興奮から、彼らは日頃のわだかまりを全て忘れ、ヴェルフにも喜んで協力してくれた。

 

 彼らは鍛冶師である。良い武器や防具を作れる者には、それがどういう存在であれ敬意を払う生き物なのだ。

 

「ファイたんとこの坊ちゃんは、どんな剣を作りたいんや」

「そいつに付けた名前の通りですよ。不滅の炎を形にしたような、そんな魔剣を作りたいんです」

「昔、ゼウスの爺が『雷霆』を使うのを見たことあるけど、そんな感じかな。あれは轟雷そのものが形になったようなもんやけども、そこまでっちゅうと炎の概念を結晶化せんとあかんかもな。神の御業やけども大丈夫か?」

「ええ。それでこそ挑み甲斐があるってもんです」

 

 かか、とヴェルフはにこやかに微笑む。つい最近まで忌避していた血族由来の力を使っているとは思えない朗らかな笑顔である。神の恩恵に寄って目覚めたものとは言え、魔導書などと違って資質のない者に能力は目覚めない。由来が何であろうと魔剣を生み出す能力はヴェルフ個人の才能である。

 

 そして本来、才能というものは使われるのが自然な形である。忌避していようといまいと、自分の能力を制限して物事に打ち込むのはヴェルフにとってもストレスであったに違いない。自分の才能に方向性を見出すことができたことは、若い鍛冶師にとって、そして鍛冶バカの集まるヘファイストス・ファミリアにとって大いに刺激となることだろう。

 

 無論、ヴェルフにとっては良いことばかりではない。自らの持つ能力に従い物事を成す上で逆境はつきものだ。そういう逆境を自ら乗り越えてこそ、神の恩恵はより深く地上の子供の身体に刻み込まれるのである。地上の子供が神の御業に挑むとなればそれは並大抵のことではないが、冒険に苦労はつきものだ。

 

 ここは冒険者の街オラリオ。あらゆる物事に挑む者の街である。

 

 その後『不滅ノ炎』は、修行をしていた広場で試し撃ちをすることになった。轟音と共に木々が炭化し、広場の面積が四倍程度に広がってしまったのを見て、ベルは自分の成したことに顔を青くしていたのだが、魔剣を生み出したヴェルフはと言えば渋い顔だ。やはり彼からすると威力が低いらしい。

 

 それでも『不滅ノ炎』の威力はオラリオで出回っている魔剣の水準を大きく上回っており、子供の中では最高の鍛冶師であるところの椿が作る魔剣よりも威力は高いそうなのだが、ヴェルフの顔は渋いままである。

 

 いずれにしても冒険者に向けてぶっぱなすものではないとベルは思ったが、レベル2の彼にとってヒュアキントスは力の出し惜しみをして勝てるような相手ではない。使う使わないは最悪その時々で判断するとして、魔剣は持ちこんだ方が良いのでしょうかと問うたベルに、先達三人はよりによって各々違う意見を出した。

 

「訓練もなしに大きな力を持つべきではありません。魔剣が有用であることは認めますが、それなら椿かリューが持つべきでしょう」

 

 ベルの知り合いの中ではリヴェリアの次に賢そうなアスフィが言うと、妙な説得力があった。きらりと光る眼鏡が頼もしい。いきなり説得されて剣帯から『不滅ノ炎』を外しそうになったが、それに椿が待ったをかけた。

 

「最終的にヒュアキントスはベル坊が討たねばならん。レベル2がレベル3に挑むのだから元より博打のようなものだ。打てる手は多い方が良いのではないか?」

 

 地力は付いたがそれでも決定打に欠けるのは事実である。魔剣はそれだけで勝負を決定づける威力はあるが、アスフィの言うように訓練していない力を使いこなせるかは微妙なところである。

 

 それに何度でも使えるという機能を優先した結果、補充する手間がかかる分『不滅ノ炎』は従来の魔剣よりも次を放つまでに時間がかかってしまう。一発目を外したら、攻撃手段としての価値は激減してしまうのだ。そもそもベルの腕では当たるかどうかも疑わしい。

 

「魔剣はもちろんクラネルさんが持つべきですが、攻撃手段として使うのはアスフィと同じ理由で賛成しかねます。聞けば防御手段としても使えるようではありませんか。攻撃は自らの手に専念し、魔剣は防御に回しても良いのでは?」

 

 次から次へとよく違う種類の意見が出てくるものだとベルは感心したが、感心するだけで肝心の案は彼から出てこない。誰の案を採用すべきなのかも当然、新米冒険者であるベルには判断がつかなかった。困った様子のベルは意見を出してくれた三人の視線から逃れるように、魔剣の製作者であるヴェルフを見た。

 

「……ヴェルフはどう思う?」

「鍛冶師に戦のことを聞くなよ……と言いたいところだが、作り手として防御に回すのはオススメできません」

「理由を聞いても?」

「効率が良すぎましてね。10の火で100の炎を出せると言いますか……」

「つまり相手が100の炎を撃ってきたとして、魔剣の力で相殺できるのは10のみということですか」

「はい。相殺できなかった90は直撃することになります」

「どの程度相殺できるかを見誤ると痛い目を見るということですね……」

 

 威力が下がったと本人が言っているとは言え、仮にもクロッゾの魔剣である。その威力がレベル3の冒険者が使う炎熱の魔法一発の十倍、ということはないだろう。一発ならば十分受けきれるというのがリューの直感であるが、直感のみを根拠に本番に挑む訳にはいかない。

 

 リューの理屈で言えば本番で魔剣を持つのはベルなのだから、何より彼本人がどの程度までなら大丈夫なのかを理解していなければならない。どう見ても実地で学ぶタイプであるベルは、加減を理解するためには身体で覚えるくらいに訓練をする必要があるだろうが、『戦争遊戯』は明日で、そこまでやる時間はない。

 

「あくまでベルが使うっちゅーなら、攻撃に回すのを優先した方が良いってことやな」

「アイテムメイカーの端くれとしてはオススメできませんけれどね」

「『万能者』は参加せんのか?」

「毎日毎日透明化して空を飛んで物資を運び神ロキの送迎をし、これからうちの主神の謀にまで手を貸す予定の私にまだ働けというのですか貴女は……」

「苦労しておるのだな。惚れた弱みという奴か?」

「黙りなさい!」

 

 頬を染めて椿に吠えたアスフィは、ベルの視線に大きく咳払いをする。彼女の事情を知らないベルは、惚れた弱みというのが誰に対してのものなのか良く解っていなかった。無知な視線に居心地の悪さを感じたアスフィは、その視線から逃れるように、ロキに目を向けた。

 

「神ロキ、そろそろ参りましょう」

 

 今日は例の作戦が決行されるため、スケジュールがいつも以上にタイトなのだ。既にほとんどの準備は済ませてあるが、早く戻って現場指揮に戻りたいというのがアスフィの本音である。

 

 ロキとしてはもう少し、自分の眷属との会話を楽しみたいところだったが、既に多大な迷惑をかけている苦労人に急かされては従うより他はなかった。

 

「そか。ほな、ウチはもう行くで。『戦争遊戯』は明日の昼過ぎからや。それに間に合うように迎えを寄越したるからな」

「明日もアスフィさんが?」

「朝から三往復もできませんからね。別の者を寄越す予定ですよ。現地までは徒歩で行ってもらいますので、今日は十分に英気を養ってください」

 

 言うだけ言って、アスフィはロキと共にオラリオ中心部へと戻っていった。『戦争遊戯』は明日であるが、どうやらあちらはあちらで大事なイベントがあるらしい。

 

 アスフィたちの姿が完全に見えなくなってから、ベルはさてと自分の両手を見下ろした。

 

 冒険者として日の浅いベルをして強くなったと思わせる程、この二週間の鍛錬には効果があったが、それでもランクアップをするには至らなかった。今回、最も倒すべき相手とされるヒュアキントス・クリオはレベル3。ベルよりも高位の冒険者である。二重の意味で骨を折ってくれたリューや椿よりは低位であるものの、それは何の慰めにもならない。

 

 あくまで個人では、レベル差を覆すことはできないというのが冒険者の間の定説である。そのレベル差を覆すための一番手っ取り早い方法が、個々の力不足を徒党を組んで補うというものだ。レベル3と2しかいなくても、ファミリアで徒党を組めばレベル5のゴライアスを討伐することは可能であるように。

 

 ランクアップできなかった以上、鍛錬は無駄になるかもしれない。ベルの胸にも不安はあるが、自分がやらなければならないという思いが、ベルを踏みとどまらせていた。自分の肩に仲間の名誉がかかっていると思えばこそ、無様な姿を見せる訳にはいかないのだ。

 

 今まで寝る時間と食事の時間以外は全て鍛錬に当ててきた。その度に骨を折られ胃の中の物をまき散らし地面を転がされ続けてきたが、それをされないとなると途端にすることがなくなってしまう。思えばオラリオにやってきてロキの眷属となってから、ベルは修行と勉強の毎日だった。休息せよと言われても、寝て起きたばかりで眠気も疲労もそんなにはない。

 

 ただ寝転がって過ごせば良いのだろうか。しかしそれも時間を無駄にしているような気がする。できることなら身体を動かしていたいのだが、休息せよというのはどうにも至上の命題であるらしく、リューも椿もきらりと目を光らせている。これでは身体を動かせそうもない。

 

「体を休めることも鍛錬と考えてください。何もしないというのは歯痒いでしょうが、息を潜め機会を待たなければならない時が必ず来ます」

 

 『豊穣の女主人』亭のスタッフは特殊な事情を抱えている者が多いが、その中でもリューの特殊さは群を抜いている。『何もできなかったこと』の辛さを誰よりも知っているからこそ、べルの気持ちが良く解った。

 

 

 

 



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『戦争遊戯』①

 

 

 

 

 この世界において最も活気のある街であるオラリオにあっても、『戦争遊戯』は特に人気のある娯楽である。最強のファミリアはどこかというのは冒険者の街ならではの議論の種であるが、ギルドの規則によってファミリア間の私闘は禁じられているため、明確に雌雄が決する機会というのは少ない。『戦争遊戯』はその数少ない機会である。

 

 しかもその片方のファミリアが、最大手の一角であるロキ・ファミリアとなればこれを見逃す手はない。難点があるとすれば、ロキ・ファミリアから参加するのがレベル2である『白兎』ベル・クラネルのみということであるが、既にヘファイストス・ファミリアの団長である椿・コルブランドが彼に味方することを正式に表明していた。

 

 彼女はレベル5相当の鍛冶師である。オラリオ全体で見ても高位の実力者であり、中堅のアポロン・ファミリアが相手ならば、彼女一人でも戦況を左右するだけの実力を持っている。加えて、今回の『戦争遊戯』のルールはロキ・ファミリアの冒険者でさえなければ、誰でもベル・クラネルを援護できるようになっている。

 

 フレイヤ・ファミリアがアポロン・ファミリアの後援となっている都合上、大半のファミリアはおいそれと援護を出すことはできないが、それは後先さえ考えなければ援護はできるということである。アポロン・ファミリアの言い分にはオラリオ住民の間でも怒りが溜っており、あのファミリアならばという憶測も飛び交っている始末である。民衆の感情としては大分ロキ・ファミリア――正確にはベル・クラネル寄りだったが、それでも賭けの倍率はロキファミリアとアポロン・ファミリアで拮抗していた。

 

 如何に椿・コルブランドが加勢すると言っても、それだけではまだ心許ないというのが民衆の結論である。

 

 だが事情を知っている者からすると、見方は少々異なっている。勝ちが決まっている戦いというのも面白いものではなく、まして当事者として関われず見ていることしかできないというのなら猶更だった。

 

 通常、神以外の子供たちはオラリオ各地に設置された大型モニタで『戦争遊戯』を観戦する。個人でこれを所有している者はほとんどいないため、神以外は実質的に外に出て観戦しなければならない。

 

 ファミリアでもこれを所有しているのは限られており、最大手であるロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリア、後は興業を主体とするガネーシャ・ファミリアが主な所有団体であるのだが、彼らとて伊達と酔狂を愛する冒険者の集団だ。ほとんどの者が外で見るのであればそれに倣うというのが風情であると理解している。

 

 常であれば全員が街に繰り出しお祭り騒ぎに便乗していたのだが、ロキ・ファミリアの冒険者はアテナ・ファミリアに研修に出ていた者も含めて全員が本拠地である『黄昏の館』に集っていた。ベルに加勢してはいけないというルールを守っていますというアピールのためでもあるが、ネタバラシの前に感づかれては興ざめだと、バベルに集ったアポロン以外の神々から引きこもっていろと言われたためでもあった。

 

 そのため、腹芸が得意なロキ以外は全員がここにいる訳だ。後少しで『戦争遊戯』が始まるという段階になっても、彼らの半分を支配していたのはどうしようもないお通夜ムードだった。壮絶な茶番に付き合わされたやるせなさや、それを知らされていなかった怒りもある。

 

 何も考えずに行動しても良いなら、どうしてこうなったと怒鳴り散らしたい者がほとんどだったが、それを決めたのは主神であるロキを含めた神々であるから公然と異を唱えることはできず、また周知させないことを決めたのは団長フィン以下、大幹部の二人であるためにこれもまた、異論を挟むことはできなかった。

 

 元よりアポロンに逃げられないためにやったのだ、と言われてしまっては反論のしようもない。同じ立場に立たされたとしたら同じ行動をしただろうことも理解できるがそれでも、何も知らずに本気で行動していた自分に後悔はなくても、それを振り返ってみるとやはり恥ずかしい。

 

 その症状が最も深刻なのがティオナだった。彼女が頭に血が登って本拠地を破壊した挙句、前後不覚の状態のまま突っ走っては、アポロン・ファミリア本拠地を守る形で現れたフレイヤ・ファミリアのレベル6を相手に、何も良い所がないまま一方的に敗北。そうこうしている内に時間切れを迎え、引きずられて戻った本拠地でロキからネタバラシをされたのである。

 

 直情径行のティオナは一つのことにぐだぐだ悩んだりはしないのだが、今回のことは相当堪えたらしくレフィーヤが連れ出すまで部屋で不貞寝をしていた程だ。

 

 ちなみにガレス班の面々は特に何も考えることもなく『戦争遊戯』の行く末を楽しんでいた。何も損失がないのであれば特に言うこともなく、また彼らは都市最強の冒険者であるところの『猛者』オッタルとの戦いを全力で楽しんだ。気性が荒いベートでさえ、今はご機嫌で乾きものをつつきながらモニタに見入っている。今この場で最も機嫌が良いのはおそらく彼だろう。

 

「勝ちが決まってるなら別に見なくても良いんじゃないかな」

 

 不貞腐れた様子のティオナに、レフィーヤは苦笑を浮かべながら飲み物を差し出す。それが彼女の本心でないことが理解できていたからだ。例え勝利が約束されていたとしても、ベルが苦境に立たされていることに変わりはない。飲み物をちびちびやりながらも、既に視線は画面にくぎ付けにされている。言葉では何といっても、やはりベルのことが気になるのは隠しようもない。

 

 視線の端にモニタを捉えながら、レフィーヤが広場を見渡す。そこにはロキ・ファミリアの団員が全て集まっていた。テーブルの上には料理が所狭しと並び、ガレス班の連中などは既に酒盛りを初めてバカ騒ぎをしているが、それ以外の二つの班は、思い思いの場所に陣取って『戦争遊戯』の行く末を見守っていた。

 

 ちなみにレフィーヤとティオナの席は最前列の一等地である。ベルとパーティを組んでいるということでロキが優先的に席とテーブルを割り振ってくれたのだ。近くにはリヴェリアたちエルフが集まった席もある。本来であればレフィーヤもそこに座るべきであるのだが、リヴェリアの配慮で別の席となった。リヴェリアの隣ではアイズが暇そうに黙々とじゃがまるくんをかじっている。

 

「それにしてもさ」

 

 モニタから視線を逸らさないまま、ティオナが言う。グラスが空になっていることに気付いたレフィーヤは、それに御代わりを注ぎながら、相槌を打った。

 

「事情を知らなくてもベルを助けてくれる人がいるんだね」

 

 映像は現在二画面中継になっており、片方はアポロン・ファミリアの待つ古城を。もう片方はベルたち『三人』を映している。『戦争遊戯』の種目は抽選の結果『攻城戦』となり、ベルたちが攻め手となっていた。多勢に無勢である。普通であれば無勢側であるベルたちをアポロン・ファミリアも侮っていたのだろうが、古城で準備を進めるアポロン・ファミリア団員の顔には、はっきりと緊張の色が見て取れた。

 

 相手はたかが三人であるが、その内一人が問題なのだ。

 

 椿・コルブランド。レベル5相当の鍛冶師であり、ヘファイストス・ファミリアの団長である。『単眼の巨師』の二つ名を持ち、自ら打った武器を自ら振るって試すという鍛冶師の中でも指折りの武闘派として知られている。

 

 アポロン・ファミリアでレベルが最も高いのは、団長であるヒュアキントス・クリオのレベル3。単騎で彼女に勝てる者はアポロン・ファミリアの中に存在しないと言っても良い。加えて椿が恐れられる最大の理由は、彼女の打った魔剣の存在である。

 

 事前情報として、オラリオ全域に『魔剣のストックの全てを放出する』という椿の方針は伝えられていた。魔剣貴族たるクロッゾの魔剣には及ばないものの、現状、オラリオの子供の中で最高の腕を持つ椿の打った魔剣の威力は、中堅であるアポロン・ファミリアの面々でさえ伝え聞いている。

 

 それを相手にすると考えるだけでも相当に憂鬱なのだが、同じくヘファイストス・ファミリアが流した情報によれば、クロッゾの魔剣の一本が既にベルたちに流れているという。

 

 その真偽は分からないものの、まさかそんな……と一笑に付すこともできない。かの貴族は魔剣を打てなくなって久しいが、その唯一の例外が神ヘファイストスの眷属となったことは、知る人ぞ知ることである。魔剣の威力は一度目にした者ならば、それを侮ることはない。まして海さえ燃やすと言われたクロッゾの魔剣だ。用心してし過ぎることはないだろうと、ヒュアキントスを始め全ての団員が緊張を持って準備に臨んでいる訳である。

 

 ベルに対するもう一人の援軍である者は、名前も所属も明らかになっていない。神ヘルメスの紹介で身元を保証されている謎の冒険者という建前になっているが、新緑のマントにフード、覆面を纏ったそのエルフが、かの『疾風』であることはもはや公然の秘密だった。

 

 やったことの大きさからギルドのブラックリストに載ってはいるものの、事情を知る神々からの評価はそれ程厳しいものではない。ヘルメス一柱の紹介で参加が認められる辺り、風当たりの弱さが伺える。

 

 無論のこと、あのエルフがどこの誰ということはアポロンも知っていた。自分に不利な状況はできる限り避けなければならない。本来であればレベル4の冒険者の介入など事前に防いでしかるべきであるのだが、ベルへの救済措置として設けた付帯条項に、ヘルメスが身元を保証している『疾風』は何一つ違反していないのだった。

 

 身分の後ろ暗さを突くこともできるが、それを大っぴらに行うことはフレイヤの援助を受けているアポロンには難しい。複雑な事情を持った団体が数多く存在するオラリオでも、フレイヤ・ファミリアと懇ろな仲である『豊穣の女主人亭』はとびっきりだった。

 

 後ろ盾の筆頭がフレイヤというだけで、他にもあの店に噛んでいる神は何柱もいるのである。

 

 今回の『戦争遊戯』の勝ち馬がアポロンであるとしても、そこまで手を貸してくれる神がいるかと言えばそれはまた別の話だ。他の神々と喧嘩になってまでアポロンに義理立てをしてくれるような奇矯な神は、現状オラリオには存在しないのである。

 

 モニタの中央に映っているベルはと言えば、椿手ずから防具の調整をされていた。これを用意したのは椿ではなく、ベルに魔剣を贈ったヴェルフ・クロッゾである。流石の椿でも防具までは手が回っていないだろうと、彼が独自に用意していたのだ。オーダーメイドで作成した訳ではないためベルの身体に合わせた調整が必要だったが、それを椿が代わりに行っていた。

 

 ベル個人のために誂えたのでないにしては、小柄なベルの身体にしっくりきている。椿の目から見れば至らない所は多々あるが、ヴェルフなりに丁寧な仕事をしていることは見て取れた。これならばベルの身体を守るに十分だろう。ならば先輩の鍛冶師としてすることは、時間の許す限り調整をすることだと椿にしては真剣な表情で調整を続けているのだが、その間、自分の近くでサラシで巻かれただけの巨乳が揺れているのを見続けていたベルは気が気ではない。

 

 できればもう少し離れて、というのが男性として正直な所ではあるものの、一週間一緒に過ごして椿の人となりは理解したつもりである。そういうことを言うと彼女は必ず悪ノリするのだ。黙って耐え忍ぶのが無難に過ごすコツであると、ベルも何となく理解している。別に良い思いをしない訳ではないし……と羞恥心と煩悩と闘いながらされるがままになっていると、

 

「こんなものか」

 

 満足のいく調整を終えた椿は、ベルの肩をばしばしと叩いて立ち上がる。

 

 完成されたベルの装いは、いかにも冒険者というものだった。レフィーヤから贈られた若草色の服の上に、ヴェルフから贈られた軽装鎧を着こんでいる。その鎧は椿による調整で、ベルの身体に驚く程馴染んでいた。首からはリヴェリアから贈られたお守り。服の下に隠れているために人目に触れる機会は少ないが、ベルがリヴェリアの寵愛を受けているという情報と、その組紐が綺麗な翡翠色をしていることから何か凄いものなのだろうということは余人にも察せられる。

 

 武器は三つ。椿に贈られた『紅椿』に、リューから借りたままになっている無銘の小太刀はそれぞれ剣帯の左と右に下げられている。

 

 まずは紅椿を主に使い、無銘の小太刀はその補助という具合だ。ベルにとって虎の子である『不滅ノ炎』は背中側に下げられている。都合三本。修行を始める前に比べると防具を含めて中々の重量が加わることになったが全身の骨を一通り折られ冒険者として一回り大きくなったベルは、多少の重量の増加など物ともしていなかった。

 

「本来であれば打ち合わせをすべきなのだろうが、今更特に話すことはないな。手前とそこなエルフで露払いをしベル坊がヒュアキントスを討つ。二段階で済む楽勝の仕事であるな」

「簡単に言ってくれますね……」

 

 かかか、と笑う椿に、リューはため息で応える。レベル5とレベル4の冒険者である。本来であれば有象無象など問題にならないのだが、相手は準備万端整えて陣地で待ち構えている中堅ファミリアだ。一対一であれば冒険者のレベル差というのは絶対だが、レベル4相当のゴライアスがそれ以下の冒険者の集団に倒されることがあるように、冒険者というのは本来連携してこそ、その真価を発揮するものだ。

 

 高レベルの冒険者を相手にすることを想定した冒険者を、100人から相手にするのである。負けるつもりはなくても、中々に骨の折れる仕事だ。

 

「洒落た装いで決めている割に随分に弱気なことだ。あれらが仮に200いるとして手前が100、お前に99任せようと思っていたのだが、手前がもう少し多く受け持ってやろうか?」

「等分に受け持つとしても、私が100で貴女が99です」

「こういう事情であっても、手前も鍛冶師として心が躍っていてな。何しろ魔剣の実験台にしても構わない、活きの良い冒険者がごろごろしているのだからな。武者働きしたいのは解るが、そう易々と獲物はくれてやらんぞ?」

「お好きなように。それから前言は撤回しましょう。目端についた者を片っ端から斬れば良いだけなのですから、貴女の言うように私たちにとっては楽勝な仕事だ」

 

 今更武者働きに拘るような立場でもないが、ベルに最初に目をつけたのは自分だという小さな自負がリューにはある。文字通り後から来た椿に美味しい所を持っていかれるのは、我慢のならないことだった。絶対にこいつよりも多くの敵を倒してやる。覆面の下で密かに決意を固めたリューの心情が手に取るように理解できた椿は、更に彼女を煽ることにした。

 

「では、出陣前の景気づけと行こうか。リュー・リオン。ベル坊に接吻の一つもしてやるが良い」

 

 椿は何でもないことのように言ったが、ベルとリューにとってはそうではなかった。言葉の意味すら理解できないとばかりに数瞬硬直した二人は、しばらくの後に行動を再開する。呆れた様子で溜息を漏らすリューの反応は静かなものだったが、ベルは顔を真っ赤にし、驚きと共に声をあげた。

 

 酒場で働いているリューは、そういう反応が酔客を調子に乗らせることを良く知っている。酒場であればその酔客を叩きだせば済むことだが、これから一緒に戦う椿に対してそれはできない。おまけに冒険者としての実力が上となれば、多少睨みをきかせたところで怯みはしないだろう。

 

 どうにも波長の合わない相手であるが、彼女がいるからこそ空気がほどよく弛緩していることも理解できる。堅物の自分だけではこうもベルはリラックスできなかっただろうと自覚していたからこそ、椿に敬意を払って反論をしなかった。

 

 悪のりを無視し続けることでその提案には同意しないという内心も伝えたつもりのリューだったが、椿もそれを正しく理解していた。彼女にとってこれは予定調和である。にやにや笑いを引っ込めないまま椿は、リューに絡み続けた。

 

「お前はこれから死地に赴く男に、心残りをさせるつもりか? 女の一つも知らずに死んだ男は化けて出ると言うぞ?」

「あの、椿さん?」

 

 故郷にいた女性は大分年上か大分年下ばかりで、年頃の女性とはほとんど会話をしたことがないベルであるから、女性とお付き合いした経験は当然ない。農村部であればベルの年齢でも家庭を持っていることはないではないのだが、ベル自身は椿の見立ての通り清い身体のままだった。

 

 とは言え、ベルも多感な年頃の少年である。事実であるからこそ、それを女性から指摘されるのは恥ずかしいことではあった。自分が中心にいるはずの話なのに自分以外の二人が勝手に話を進めていく様は、神がこの世に好き勝手に干渉する世界の縮図を思わせる。

 

 どうにもならないことというのがこの世にはあって、今まさにそれが目の前で展開されている。世の無常を内心で嘆くベルを他所に、リューは早速椿に敬意を払うことをやめた。

 

 だからと言って、私がそういう不埒なことに付き合う義理はありません。リューの答えは普段であればこの一言で済んだだろう。実際、寸での所までこの言葉は出かかっていたのだが、リューの口から突いて出ることはなかった。椿・コルブランドは姑息なことに、ベルを楯にしている。

 

 リューとて貞淑を重んずるエルフに連なる者だ。冒険者稼業をしているだけあって、他人のそういう行動にはエルフの中ではそれなりに理解のある方ではあるが、自分がそれに関わるとなるとそうもいかない。他人との接触を極端に避け、いざ了解を得ずにそうなれば拳が飛んでくるというのは冒険者の中にあっても聊か過剰な部類に入ると言える。

 

 当然、公衆の面前で異性に単純接触を図るというのはエルフの価値観で言えば相当破廉恥なことであるのだが、冒険者の理屈を持ち出されてしまうと口答えもし難い。心の中に忌避感しかないのであれば力強く反対することもできたはずだが、椿の提案を受けてリューの心に浮かんだのは、椿に対する怒りと羞恥心のみだった。

 

 ベルとの行為を忌避している自分はおらず、むしろ期待する向きすらあることにリュー自身戸惑っていた。ちらとベルに視線を向ける。これで彼が忌避しているようであれば……と見てみれば、満更でもない様子だった。

 

 とは言え、ならば仕方がないかとはならない。貞淑というのはやはり重んずるべきもので、エルフが公然とそういう行いをしたということは当然、他のエルフの評判にも関わる。既に日陰者の身である『疾風』もエルフであることはやめられるものではない。

 

 まして、ベルが所属するロキ・ファミリアにはアールヴの王族であるリヴェリアがいる。そのお気に入りである『白兎』に他のエルフが勝手に手を出したとなれば、彼女の不興を買ってしまうかもしれない。

 

 普通のエルフであればここまで考えたところで、大人しくすることを選んだだろう。リヴェリアの不興を買うということはそれだけ、エルフにとっては重いものなのだ。

 

 だが、『戦争遊戯』の直前。ベルに味方するのは自分ともう一人だけという特殊な状況が、リューの背中を後押しした。

 

 結局のところ何故かという事を一言で纏めるのならば、我欲に負けたというのが正直なところである。この時の『疾風』リュー・リオンには『白兎』ベル・クラネルのことが、とてもおいしそうに見えたのだ。

 

 普段の物腰こそ丁寧であるが、昔から行動力はあるということで有名なリューは今でも即断即決を旨としている。それは良くも悪くも彼女の特徴であり、今回はそれが彼女にとっては悪い方に働いた。

 

 椿の言葉を良く吟味していればそうはならなかったのだが……いずれにせよ、それを行動に移していた時のリューに否やはなかったし精神的に追い込まれていたとは言え彼女自身が決めたことである。

 

 

 後にリューの記憶に鮮烈に残ることになるこの行いは、全くもって自発的に行われた。

 

 

 ベルの肩をがっしりと掴んだリューは、ベルが反応する間もあればこそ、目を閉じ覆面を取り、行動の勢いそのままにベルと唇を重ねた。隣で見ていた椿はあまりの行動に呆然とし、彼らを遠巻きに見ていたバベルの神々はいきなりのキスシーンに大盛り上がりである。

 

 その場で唯一盛り下がっていたとすればフレイヤであるが、彼女は誰にも聞こえない程の歯ぎしりを少しした程度で、余所行きの笑顔を崩さなかった。お気に入りの『白兎』がああなっても、実に寛容なことである。一番嫌な顔をしそうだったフレイヤが普段と変わらないこともあり、色事大好きな神々は大騒ぎを続けたが、この場で最も付き合いの長いロキには、フレイヤが内心で怒り狂っていることが見て取れた。

 

 これは今晩、あっちの子供たちは大変やろなぁ……とは思いつつも、顔には出さないし勿論口にも出さない。元はと言えばフレイヤが蒔いた種であるからして、ロキはこれをフレイヤの自業自得であると思うことにした。これで少し留飲も下がったと、ロキが画面に視線を戻すと、椿が腹を抱えて大笑いをしているところだった。

 

「やるな! やるな! エルフは風情も理解しない堅物ばかりだと思っていたが、お前は話の解る者のようだ! 精々頬にすれば上出来と思っていたのだが、そこまでやるとは思いも寄らなんだ!」

 

 からから笑う椿と、硬直している二人が対照的な構図である。リューにとって接吻というのは唇にするものであったから、やると決意して唇にいったことはそう責められるものではない。決意したことそのものにも後悔はないが、頬で済んでいたのならばそっちが良かったと考えた所で後の祭である。

 

 覆面をしていて良かったと、リューはベルから視線を逸らした。まともに顔を見れるような精神状態ではない。少しばかりクールダウンする時間が必要だった。それでも、エルフ特有の尖った耳は先の方まで真っ赤になっていて、内心を少しも隠せてはいなかったのだが、今のリューにそこまで自分を顧みる余裕はなかった。

 

 同じく、真っ赤になって硬直したままのベルに、今度は椿が近づいていく。

 

「二番煎じで申し訳ないが、これも景気づけだ。受け取るが良い」

 

 軽くベルに抱き着いて、頬に口付けでいく。これもベルにとっては驚天動地のことであるが、リューとのことがあった直後だけに、その反応は淡泊なものだった。それには椿も聊か自尊心を刺激されたものの、ここで声を挙げるのも面白くないと、場の勢いで押し切ることにした。

 

「緊張も解れたろう? 降ってわいたような幸運は、勝利の報酬が先払いされたと思えば良い。もっとも、勝利の暁にはここから先を支払ってやることも吝かではないようだが……まぁ、それは自分で交渉するのが良かろう」

 

 報酬を確約されてしまっては困ると、ベルの背後で復活したリューが小太刀に手をかけていた。これ以上となれば刃傷沙汰も辞さないという雰囲気に、椿はあっさりと白旗を挙げる。

 

 ばたばたしたが、良い意味で緊張も解れた。これ以上のアクシデントは早々起こるまいと遠目に視線を凝らした椿が、三人の中で最初にそれに気付いた。

 

 何者かが隊伍を組んでこちらに歩いてくる。間違いなく百人を超えるその集団は、明らかに訓練された足並みでまっすぐ椿たちの方を目指していた。椿に遅れてリューが気付き、その怪しさに目を細めた。更に遅れてベルも気付いたが、彼だけ前の二人と危機感を共有できないでいた。

 

 この一帯は既に『戦争遊戯』のために封鎖されている。その封鎖は『神会』の名前で行われているため、これを破ることは許されていない。封鎖された領域に入ったということは、冒険者であり、更に言えばどちらかの陣営に属しているということなのだが、境界線を挟んでこちら側はロキ・ファミリアの陣営である。

 

 アポロン・ファミリアの陣営が『戦争遊戯』開始前に境界線を越えることは明確なルール違反だ。違反者が退場させられるだけでなく、アポロン・ファミリアにも何かしらのペナルティが発生するため、事前にこちらに人員を送り込むことは考え難い。

 

 ロキ・ファミリア側がそれを承知で相手陣営を装って工作をするというのもないではないが、流石のロキも全ての神々の目を欺いて公然と工作を行うことは難しい。

 

 いずれにせよ、開始前にこちら側にいる時点で彼らはロキ・ファミリアの陣営で間違いはないはずなのだが、あれだけの数が救援に来てくれる当てがあるのであれば、そもそもこんな事態にはなっていない。椿は援軍が来るという話は全く聞いていなかったし、視線で問うてみればリューも首を横に振る。ベルには聞くまでもない。

 

 それでは奴らはどこの誰でどういう立場なのか。じれったい思いを抱えながら、彼らが近づいてくるのを待つ。

 

 そして先頭の大男の顔を見えるようになると、今度こそ椿の表情は驚愕に染まった。

 

 その男の名前をオラリオに住む者は皆が知っている。現在のオラリオ最強の冒険者。フレイヤ・ファミリア団長にしてレベル7。『猛者』オッタル。猪人である大男を先頭に、かのファミリアの団員たちは整然と行進をしていた。

 

 エルフがいる。ドワーフがいる。小人もいれば獣人もいる。種族としては何ら統一感のない彼らは、己が女神の刻んだ紋章を旗として掲げ、堂々とベルたちの前に整列した。これからダンジョンへ遠征でも行くのかという程の完全武装である。彼らが戦うためにここに来たのは明らかだった。立ち位置から、自分たちの味方であることも理解できる。

 

 しかし、ベルも、椿もリューも、彼らにかけるべき言葉が見当たらなかった。それ程までに、ベルたちにとって彼らは場違いであり、ありえないものだったのだ。

 

 先頭にいた『猛者』オッタルが、前に進み出る。都市最強。レベル7の猪人も、鎧を着こみ背に大剣を背負った完全武装だ。その威圧感は凄まじい。思わず後退ったベルの肩をリューが支える。そんなリューを見て、椿を見て、最後にベルをじっと見たオッタルは努めて平坦な口調で言った。

 

 

「女神フレイヤの全眷属。主命により馳せ参じた。これより我らが道を切り開く。大将首は残しておいてやろう。存分に戦うが良い」



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『戦争遊戯』②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どういうことだフレイヤ!」

 

 バベル上層部。いつもは『神会』が開催される会議室に設置された『戦争遊戯』の神用観戦室において。ロキ・ファミリア側の救援として現れたフレイヤの眷属を見てアポロンは怒鳴り声を挙げた。話が違うと全身で主張する男神の怒りを、美の女神はどこ吹く風と受け流す。

 

「貴方とロキだったらロキを取るというだけの話よ。こう見えても私は、友誼を大事にするの」

 

 フレイヤの隣のロキは『どの口で……』と内心で毒づく。北欧神話大系(出身)が同じだけあって付き合いは長いし気心も知れているが、それは決して仲良しという意味ではないし信頼しているという意味でもない。長い神生である。手酷く裏切ったこともあるし、裏切られたこともあった。

 

 それでもフレイヤの言う友誼が続いているのはそれなりにウマが合っていることの証明でもあるんやろなぁとも思うがそれはともかく。フレイヤははっきりと信用のならない女神ではあるが、子供へ向ける愛だけは良くも悪くも本物だ。

 

 その愛故に、他神の子供であると認識していても手を出すことはしばしばある。それでもアポロンほど問題が表沙汰になっていないのは、これも彼女の愛故のことだ。取られる主神や外から見れば無理筋かもしれないが、フレイヤに改宗した子供はフレイヤに心酔している。加えて男神に多い傾向であるが、主神そのものがフレイヤに心酔しているケースも多い。

 

 その分、女神の中にはフレイヤを蛇蝎のごとく嫌っている者もいる。オラリオの歓楽街を仕切っているイシュタルなどがその筆頭だが、彼女でさえ精々『神会』で嫌味を言い合う程度で表だって喧嘩を吹っ掛けたりはしない。

 

 眷属の力量差があることも勿論理由の一つであるが、同時にフレイヤはやる時は躊躇いなくやるというのが神々の共通認識であるからだ。あまりに彼女を怒らせると『こういうこと』になる。今回のことはそれを改めて知らしめる良い機会になったはずだ。

 

 最悪、あれと戦うことになっていたかもしれないと思うと、楽天的なロキでさえぞっとする。その現実を回避できたことを考えれば、仲介役を担ってくれたヘルメスには感謝をしなければならなかった。最低のコウモリ野郎と欠片も彼のことを信用していないロキだが、働きには相応の報酬があるべきだと考えている。フィンたちに怪我人は出なかったし、ベルの修行場への送り迎えをしてくれたのはアスフィだ。

 

 今回の騒動で、最も懐を傷めずに多くを得たのは彼だろう。無論、話がこじれた責任をフレイヤから追及されるだろうが、神を相手にコウモリできるだけあって彼のバランス能力はオラリオの神々の中でも屈指のものだ。最終的には一番美味しい思いをすることだろう。それだけは忌々しいが、それ以上の喜びがロキの胸中を支配していた。

 

 謀が成功しその被害者が目の前で悔しがっているのだ。悪趣味と言われようとこれで心が躍らない訳がない。フレイヤの眷属が味方したことで既に勝敗は決した。ヒュアキントスとの格付けだけはベルが行わねばならず、この内容には厳しいものが予想されるものの、実の所最終的な勝敗にその決着はあまり関係がない。

 

 ベルが勝つならばそれで良し。勝てないならば、リューなり椿なりがトドメを刺せば良いだけのことだ。ベルの面目は丸つぶれだし、何よりロキ本神がベルの勝利を願っているが、負ければ規定の通りにベルが改宗してしまうのだ。名誉など後で回収すれば良い。ベルにはそれだけの才能があるし、それを支えてくれるだけの仲間がいる。

 

 唯一足りないものがあるとすれば時間だが、それは文字通り時間が解決してくれる。今回は窮地を乗り越えることができたのだ。全ては終わったことと考えられることの何と幸せなことだろう。これだけ心が躍るのは大昔にヤンチャをしていた頃、トールが仲間のはずの緑のデカブツと戦いボコボコにされた時以来である。

 

 アポロンはフレイヤに言いたいことが山ほどあったようだが、顔を真っ赤にしながらもそれを口にはしなかった。今回の絵図を描いたのはフレイヤで、アポロンはそれに乗っかったに過ぎない。確かにベルは彼の好みだろうが、元々執着している訳ではなかった。フレイヤに唆されたと言えばそうなのだろうが、ロキが問題にするのは何をしたかであって、何故したかは関係がない。やったことへの落とし前はつけさせる。ただそれだけのことである。

 

 それにアポロンは元々、強引な引き抜き工作で『神会』での評判も決して良いものではなかった。神々の力関係は眷属の数と強さで決定されるオラリオとは言え、この地に集った神々には本来、地上において定められた程の立場の優劣は存在しない。

 

 弱小ファミリアの主神と大手ファミリアの主神が、天界では同等以上の戦いをするというのは良くある話である。長い神生だ。オラリオにいる間は縛りプレイを楽しむということで、この境遇について面と向かって文句を言う神はいないが、それは内心まで納得しているということではない。

 

 アポロンへの恨みは神々の心中で燻っていた。最終的にフレイヤがケツを持つとは言え恨みを買うかもしれないことを承知の上でロキを巻きこむことに神々が同意したのは、偏に彼の日ごろの行いのせいである。フレイヤの眷属が直接的に介入したことで神々の溜飲も大分下がった。アポロン・ファミリアの敗北は既に決したのだ。であるならば、後はどれだけアポロンから毟り取るかの勝負だ。

 

 たった一柱と残り全員。二週間前と全く同じ構図であるが、槍玉にあげられている神は異なる。流れは今はっきりと変わった。その認識をこの場に集った全ての神が共有していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 攻城戦は元来、守り手に有利な『種目』とされる。ファミリアの規模や実力に差があったとしても、劣る側が守り手であれば、ある程度の勝負にはなるのだ。逆に言えば攻め手を任されれば目も当てられない訳だが、一方的な勝負は観客が最も嫌う。そうならないための配慮は『神会』もするが、バランス調整をしてもどうにもならない展開というのが存在する。

 

 普通、それほど実力差があるファミリアの間に『戦争遊戯』は発生しない。実力に勝るファミリアの立場になれば『種目』によっては敗北を喫することもある『戦争遊戯』を行うよりも、手を回して相手を黙らせる方が簡単だからだ。

 

 最大手のファミリアであるフレイヤ・ファミリアにとってそれは常套手段である。元よりフレイヤのファンは神にも子供たちの中にも大勢いる。彼女が一つ微笑みを浮かべれば、大抵の物事は解決してしまうのだ。故に、フレイヤ・ファミリアの『戦争遊戯』のカードは、めったに組まれることはない。

 

 ライバルであるところのロキ・ファミリアと同様、探索系ファミリアであり、現状オラリオ最強の冒険者である『猛者』オッタルを有する最大手の一角である。どの程度強いのか、どんな戦い方をするのか。他のファミリアと共同で探索に当たることも少ないため、その実力の全容を知るものは少ない。

 

 彼ら彼女らが戦うのを、特にオラリオの市民たちは心待ちにしていた。それが劣勢と思われるファミリアの救援に、しかも全軍で現れたのだ。戦いの行方を見守っていた市民たちは女神フレイヤの眷属たちの登場に大いに沸いた。心情的にロキ・ファミリアに味方するものがほとんどだったのに、それに最強のファミリアが味方についたのだ。もはや勝利は疑いない。逆にアポロン・ファミリアの勝利に大金を突っ込んだ連中は既にお通夜ムードになったが、それも一過性のこと。沈んだ気分でフレイヤ・ファミリアの戦いを見るなど、冒険者のすることではない。ヤケ酒を注文し、浴びるように飲みながらも、素寒貧になった連中でさえモニタを食い入るように見つめていた。

 

 オラリオ全市民の視線を集めるフレイヤの眷属たちは、モニタの中で神アポロンの眷属たちを蹂躙していた。それは間違っても戦闘ではなかった。古城周辺を囲んでいた神アポロンの眷属は『女神の戦車』アレン・フローメルの槍でまとめて吹っ飛ばされた。本来であれば一番槍を任された連中である。アポロン・ファミリアの中でも腕の立つ者が選ばれたのだが、流石にレベル6の一級冒険者である。集団でもレベル2以下では話にならない。

 

 まとめて吹っ飛ばされた冒険者が、地面に落ちるのすら待たず空いたスペースに突っ込んだのはレベル7『猛者』オッタルである。元より堅牢な作りであった城門は、神アポロンの眷属によって諸々の工作が施された。そこそこに堅牢な作りであり、これがベルたちだけであれば破壊するのにも多少は難儀したことだろう。

 

 その城門を、オッタルは腕の一振りで破壊した。戦士のように雄叫びをあげることも、気合を入れることも全くしていない。彼にとって城門は障害物でも何でもなかった。粉砕された城門の破片が舞う中、手柄を求めて神フレイヤの眷属たちが駆けこんでいく。一級冒険者たちは元より、所属する団員全てが意気軒高。老いも若きも人もエルフも獣人も小人も並々ならぬ熱意でもって駆けていく。

 

 これはアポロン・ファミリアとロキ・ファミリアの戦いで、彼らには本来関係のない話だ。主神同士が知己とは言え、神ロキのために神フレイヤの眷属たちが武者働きをする理由は何一つない。眷属たちは神フレイヤに熱をあげている面々であるからして、神ロキは容姿が優れていることを認めるのに吝かではないものの、はっきりと対象外である。

 

 なのにここまで熱意をもって取り組んでいるのはどういうことか。それはこれが神フレイヤの勅命ではなく彼女からの『お願い』だからだ。神フレイヤが自らの眷属を集めて行った『お願い』には、かの女神手ずからのご褒美があるのだ。決して神フレイヤは払いが渋い訳ではない。働いた子供にはそれ相応の報酬を与えるが、ご褒美となると勝手が違う。

 

 一体何が行われるのか! 冒険者として一応彼らは敵対する神アポロンの眷属たちを見ていたが、頭の中は神フレイヤからの『ご褒美』で一杯だった。自分が自分がと誰もが敵を求めて動いているのはそのためである。

 

 雄叫びをあげて彷徨う神フレイヤの眷属たちの後をついていくベルたちは、反対に不景気な面をしている。楽に話が進んでいるのは本来喜ぶべきことであるはずなものの、先ほどまで自分たちこそが主役だと思っていた面々がその座から引き下ろされたのだから、その気分は複雑だった。

 

 倒すべき敵はいるのに、振るうべき刃はない。武器を構えるまでもなく、敵は吹っ飛ばされて意識を失うからだ。倒された連中は邪魔にならないよう神フレイヤの眷属たちが古城の外まで引っ張っていく。後に残るのは古城のガレキ。進む道の先には雄叫びと敵方の悲鳴が聞こえている。もはや自分たちで行うはずだったことの九割は完了していた。

 

 オッタルの言ったことが事実であれば、大将首――アポロン・ファミリア団長であるヒュアキントス・クリオは残しておいてくれるらしいが、この分ではついうっかり吹っ飛ばしてしまう、ということにもなりかねない。

 

 第一目標は勝利だったはずだが、このままでは見せ場がなく終わってしまう。英雄志望の少年にはそれはいかにも寂しいことだった。自然と早足になるベルに合わせて、椿とリューも足を速める。彼を追い抜くようなことはしない。主役は彼で自分たちは脇役である。

 

 ベルの露払いをするために協力を申し出た彼女らは、神フレイヤの眷属によってそれが達成されつつある今、仕事のほとんどが終わってしまった。椿もリューも立場がある。見せ場を潰されたことに思うところがないではないが、ベル程に英雄願望がある訳でもない。楽に仕事が済むならばそれに越したことはないと、割り切って歩みを進めている。

 

 だがベルがヒュアキントスに負けるようなことがあれば、代わりに彼を討ち取らなければならない。ベルの名誉の戦いとは言え、これは同時にファミリア同士の戦いでもある。この『戦争遊戯』での敗北即ち、ロキ・ファミリアの敗北であり、事前の取り決めによりベルは強制的に改宗させられることになる。

 

 それだけは避けねばならない。取り巻きがいる。攻城戦であるというハンデ込みであれば、ベルたちが負けるということも考えられないではなかったが、取り巻きが全滅するのは時間の問題であり、古城の防衛機能はもはや役目を果たしてはいなかった。

 

 相手がヒュアキントス・クリオ一人であれば、もはや負ける道理はない。人数が少なければ少ない程、レベルの差というのは如実に出る。レベル2のベルがレベル3のヒュアキントスに挑むのは大仕事であるものの、それはヒュアキントスがレベル4のリューやレベル5の椿に挑むのでも同じことが言える。

 

 ルールが決まった時、アポロン・ファミリアの面々は勝って当然くらいに思っていたはずだが、その気持ちは今やリューと椿の物になっていた。もはやベルの肩にファミリアとしての敗北はない。後はベルがヒュアキントスを倒すだけだったが、彼にとってはそれが一番の問題だった。

 

 できるだけのことはした。ベル・クラネルという高い才能を持つ冒険者に、考えうる限り最悪の方法で戦闘技術を叩きこんだ。ステイタスもロキの協力を得て更新されている。レベルこそ上がらなかったが、二週間前と比べてベルの力量は別人と思えるくらいに進化した。

 

 それでも、レベルに差があるという事実に変わりはない。ヒュアキントスとの対決に勝てる確率は一割もあれば良い方だろう。ベルほどの才能をもってしても、レベル差というのは容易に覆せるものではないのだ。

 

 その事実をオラリオにいる冒険者の中で、肌身に染みて感じているのはベルかもしれない。この二週間、彼は自分より二つも三つもレベルが高い冒険者に骨を折られ続けてきた。今日戦う相手とのレベル差は一つとは言え、強敵であることに変わりはない。

 

 ファミリアの看板を背負っているという事情がなければ、自分よりもレベルの高い冒険者と戦うのは間違いなく罰ゲームだ。戦闘が回避できなくなった時点で考えるべきことは、自分以外の要素でどれだけ戦力差を埋められるかということだ。魔剣などの装備を使うなり、援軍を頼む形である。そも、ソロで戦うということそのものが正気ではない。

 

 これが英雄の資質と言えばそうなのかもしれない。ベルは歩みを進める度に、戦いに向けて気持ちが入っていく。下手をすれば死ぬかもしれない。そういう戦いを前に、それを避けようとする気配がリューの目から見ても全く感じられなかった。

 

 恐怖に背を向けないということは、冒険者にとって大事なことだ。それは自らの、そして仲間の窮地を救う力となるものだが、同時に冒険者を窮地に追い詰めるものでもある。この精神性がどうか彼自身の首を絞める結果にならなければ良いと祈りながら歩いていると、ベルたちは終点についた。

 

 謁見の間、と言えば良いのだろうか。ヒュアキントスたちが『旗』を置く場所として設定した、最終戦場である。そこからぞろぞろとアポロンの眷属を抱えたフレイヤの眷属たちが出てくる。最後尾を歩くのはオッタルだ。団長である彼は団員たちに指示を飛ばすと、ベルに歩み寄ってくる。彼自身、武器を振るい戦ったはずであるが、汗の一つもかいていない。アポロン・ファミリアも決して雑魚ではないはずなのだが、最強の冒険者である彼にとってはまさに、ものの数ではなかったのだろう。

 

「約束の通り、大将首は残しておいた。存分に戦え」

 

 言って、ベルの返答も待たずに歩いて行く。残されたベルは、一度、リューと椿を見た。戦うのはベル一人。それは何度も打ち合わせをしたことであるが、それの最終確認である。できれば助けてほしい、という後ろ向きな視線ではない。この未熟者にぜひとも手を貸さないでくれと強く視線で訴えかけてくる『白兎』に、椿は笑みを浮かべて鷹揚に頷き、リューは小さく目を真っすぐに見返して頷きを返した。

 

「存分に戦ってくると良い。骨は拾ってやる」

「勝利を祈ります」

「はい! ご助力、ありがとうございました! 勝ってきます!」

 

 ベルはそれが当然とばかりに宣言して、踵を返した。その物言いに、リューは僅かに違和感を覚える。ここまで強気に出る少年だっただろうか。心根はまっすぐで正義感の強い少年であるが、それは必ずしも強気とは繋がらないものである。

 

 リューの抱くベル・クラネルという少年の印象は、そういう心の強さを持ちながらも少年らしい初心さを持った年齢相応の純朴なものだった。そういう少年であると判断したからこそ、オラリオにきたばかりの彼に手を貸そうと思ったのだ。少なくともリュー本人はその認識である。

 

 そんな純朴な少年の背中に、歴戦の冒険者であるところのリューは僅かではあるが頼もしさを憶えていた。確かに修行は酷いものだったが、それでもたった二週間でここまで変わるものだろうか。自分の感情と理性的な部分に折り合いが付けられないリューを見て、逆に既に全てを受け入れている椿はからからと笑う。

 

「男子三日会わざれば……というのは古代の格言であったかな。あれを男と言うにはまだまだ抵抗があるが、少なくとも男を張ろうとしているのだ。それを黙って見守るのが、女の役目というものだろう。お互いこういう稼業をしているのに、性別を持ち出すのもおかしな話ではあると思うが……」

「おかしな話という部分には個人的には同意できますが、同僚に言わせると冒険者であるということは、女という性別を忘れても良い理由にはならないとのことです」

「ほう? かの『疾風』も冒険者である前に一人の女であったという訳か」

「貴女まで同僚のようなことを言わないでください……」

 

 フードで視線を遮り、リューは椿から目を逸らし口を閉ざした。本心を全て曝け出してしまうと、自分が負けてしまうことが解っていたからだ。椿自身、決して色恋に強い訳ではないが、堅物であると見たリューの態度からベルに対する微妙な心情を察した彼女は、何も言わずにリューの肩を軽く叩いた。

 

 そんな仲間たちを背に、ベルは一人戦意を胸に歩みを進める。

 

 謁見の間。本来玉座があるべき場所に、その『旗』はあった。アポロン・ファミリアのシンボルが刻まれたそれはかのファミリアの団旗であり、それは本来ファミリアの『本拠地』に掲げられているべきものである。『戦争遊戯』における『攻城戦』のために、『神会』の権限で用意させたものだ。これを手にすることがベルにとっての勝利条件である。

 

 その『旗』の前に一人の男が座っていた。アポロン・ファミリア団長。レベル3、『太陽の光寵童』ヒュアキントス・クリオは『旗』の前で項垂れていた。周囲に仲間はいない。いたはずだが、全て先ほどすれ違ったフレイヤ・ファミリアの面々が担ぎ出していった。

 

 それをヒュアキントスが黙って見ていたはずはない。現に彼は戦闘の匂いを感じさせる程度には薄汚れていたが、怪我と呼べるほどのものはなかった。相手にされなかったのだ、ということはベルほどの駆け出しでも想像に難くない。それが彼にとってどれほどの屈辱であるのかも理解できたベルは他人の、それも敵である彼に酷く同情を覚えたがそれをすぐに打ち消した。

 

 年若いベルをしても、それが哀れみにしかならないことは理解できた。ヒュアキントスもまた、こういう感情を抱かれることを好ましくは思わないだろう。これは同じ冒険者としての流儀である。そう強く思いなおしたベルは表情を引き締め、ヒュアキントスの前に立った。

 

「私を笑いに来たか、『白兎』よ」

「いいえ。僕は貴方と決着をつけにきました」

「お前にとって、もはや勝敗は決したも同然ではないか? この上何を望むのだ?」

「貴方からの勝利を。貴方が勝つことをまだ諦めていないように、僕もまだ勝ったとは思っていません」

「強欲な男だ……」

 

 自嘲気味な笑みを浮かべて、ヒュアキントスは立ち上がった。大剣を握った手にはまだ力が籠っていた。歩みは力強く、ベルを見つめる視線にも、一歩、また一歩と歩く度に、力が甦っていく。

 

「確かに、私はまだ勝利を諦めていない。お前を倒し、お前の仲間を倒し、フレイヤ・ファミリアの全団員を倒す。大仕事だ。お前に関わっている時間などないのだよ」

 

 明らかな大言壮語であるが、ヒュアキントスの言葉を笑う者はこの場にはいなかった。相手にとって不足なしとベルの心でも闘志が燃える。眼前の敵は自らが戦うに値する。ヒュアキントス・クリオという男を打倒することは自らを高めるに足る行いである。

 

 

 好敵手なるものが自分にあるとすれば、それは彼のような人間のことを言うのだろう。主義主張は異なり、仰ぎ見る旗は違っても、今はお互いを倒すことしか頭にない。ベルの顔に笑みが浮かぶ。それは普段多くの揶揄を込めてうさぎさんと呼ばれる彼にしては酷く獰猛で、太々しい笑みだった。

 

「それでも、お付き合い願います。僕は貴方を倒し、僕の仲間と神様に勝利を捧げる」

 

 ベルのその言葉が、戦いの開始を告げる合図となった。ヒュアキントスは大剣を掲げるとベルに向け、天に届けとばかりに大音声をあげる。

 

「私はアポロン・ファミリア団長! 『太陽の光寵童』ヒュアキントス・クリオ!! 我が前に立ちふさがる愚かなる者よ! 己が信ずる神に恥じ入る所がないならば、名を名乗るが良い!」

「僕はロキ・ファミリア! 『白兎』のベル・クラネル!! 我が主神の名の下に、ヒュアキントス・クリオ、貴方に決闘を申し込む!」

「受けて立とう『白兎』よ。我が大剣の切れ味、その身で味わうが良い!」

 

 

 

 

 



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『戦争遊戯』③

 

 

 

 

 

 

 

 

 その戦いの初手はベル・クラネルが取った。彼は自分を激しく痛めつけつつも鍛えてくれた先達の冒険者たちの教えを忠実に実行する。それは先手必勝を旨としての行動であるが、これが明確に勝利に繋がるとはベル本人も教えた冒険者たちも考えていなかった。

 

 全ては最終的な勝利のための布石である。途中経過がどうであろうとも、最後に立っていればそれで勝ちなのだ。その過程でどれだけ痛めつけられようと関係ない。ベルのレベルが2で相手のヒュアキントスは3である。その差は絶対的で普通であれば一対一の戦いで勝つ見込みなどないが、冒険者として色々な意味で規格外なベルにはヒュアキントスに勝る点があった。

 

 ヒュアキントスもベルから視線を逸らした訳ではない。必勝のつもりで挑んだ勝負だ。敵を侮る気持ちも自分の力を過信するつもりもなかった。レベルで劣ろうとも眼前にいるのは強敵だ。そこに一切の油断はなかった……つもりでいたのだが、ヒュアキントスはベルが自分に向かって踏み込んだ次の瞬間、ベルの姿を見失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レベルが一つ上がるとステイタスの数値はリセットされるがそれは見た目だけの話だ。一度上がったステイタスは見えない所で累積し続け、それは『貯金』などと呼ばれる。

 

 仮にレベル1の時全てのステイタスが500の冒険者がレベル2になったとすると、レベル2になった段階でのステイタスは0(+500)となっている訳だ。

 

 これに加えて現段階でのレベル分の補正がかかる。このレベル分の補正が大体の場合『貯金』の累計よりも大きいために『レベル差は絶対』という考えが冒険者の中に強く根付くことになった。魔力特化のレフィーヤでもレベル差が1でもあれば、ミノタウロスを殴り殺せるというのが補正の良い例と言える。

 

 そういう事情から大体の冒険者はランクアップできるとなった段階で即時実行する。ランクアップをしただけでレベル分の補正を即座に受けることができるのだ。その分命の危険が減ると考えればそれをしない理由はない。神と違って地上の子供たちは死んだらそれでおしまいなのだから。

 

 だが最終的な数値がどれだけ高いかを追い求めるのであれば、レベルが低いうちにステイタスを上げられるだけ上げるという選択肢も存在する。ステイタスは表面上の数値が大きくなればなる程に伸びが鈍化するが、一度上げたレベルを元に戻すという選択肢が地上の子供に存在しない以上、レベル1時点でのステイタスの伸びやすさはレベル1の時にしか実感することができない。

 

 ならば少しでも、と考える者はオラリオでも一定数存在するが、最終的には即時のランクアップを選択するようになる。ランクアップが可能になった時点で大体の冒険者はそのレベルでの伸びが頭打ちになっており、レベルを維持したまましがみついても、危険に見合っただけの伸びが期待できないためだ。

 

 身の安全を犠牲にしてまで得ようとしたステイタスが誤差の範囲となれば、やはり危険を冒すだけの価値はない。それをしているのはベルの周囲では魔力の伸びを期待しているレフィーヤのみだ。

 

 しかし、ベルは自身のスキルによって異常なまでに高い経験値効率でステイタスを上げることができる。数値が増しても伸びが鈍化しないそのスキルは、全ての冒険者と神が求めてやまないものだ。そのスキルを如何なく発揮したベルは、ミノタウロスを倒した段階で通常のレベル1冒険者では考えられない程のステイタスを有していた。

 

 その分を『貯金』してレベル2となり、この二週間地獄のような特訓を繰り返した彼は並のレベル2では考えられない程の累計ステイタスを有していた。元から伸びの良かった敏捷であれば、レベル差による補正を上回る程に――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レベル2でありながら自分よりも明らかに素早く動いてみせたベルに、ヒュアキントスは僅かに動揺した。彼とて冒険者であり神の名の下にその眷属たちの命を預かる団長である。今がどういう時かを理解した身体は瞬時に動き出したがその一瞬は『白兎』には十分過ぎる時間だった。

 

 十分に加速したベルはヒュアキントスの死角から『紅椿』を打ち込む。人間の男性としてまだ成長期であるベルの身長はヒュアキントスよりも大分低く、狙える急所は限られている。殺すつもりであれば首でも狙うのが常道であるが大抵の場合急所というのは防具で守られていて、いかに不意打ちの攻撃とは言え一撃ではそれを貫通することは難しい。

 

 駆け出しの冒険者とは言え、ロキ・ファミリアに入団してからのベルの面倒を見ていたのはレベル6のリヴェリアである。後衛である彼女がベルに仕込めたのは知識のみだったが、この二週間ベルの面倒を見ていたのは前衛型であるリューと椿だ。

 

 レベル2にしては豊富な知識は、ようやく実践的な経験でもって裏打ちされた。自分のステイタスでは防具で守られた急所を攻撃しても意味がないのでは。ベルは率直な疑問をリューたちにぶつけたが、それを否定したのは椿だった。

 

『誰がお前の武器を作ったと思っているのだ!』

 

 ただの防具など問題にならないとオラリオ最高の鍛冶師である椿は保証した。それを実感しないまま戦闘に臨んだベルだったが、今はそれを信じるのみである。

 

 一方のヒュアキントスはベルの姿が視界から消えた段階で一撃もらう覚悟を固めていた。高位の冒険者たちとは比べるべくもないが、アポロン・ファミリアの団長だけあって他の団員達よりもヒュアキントスの装備は良いものだ。使っているフランベルジュも業物であり、防具一つにもそれなりの金額がつぎ込まれている。

 

 弘法こそが筆を選ぶのだ。それだけ金を突っ込むことが許されているのは、ヒュアキントスが団長でアポロンのお気に入りということもあるが、単純にアポロン・ファミリアの中で最も優れた冒険者だからだ。力あるものはそうでない者を導き、時には守らなければならない。端整な顔立ちに反して団員たちとダンジョンに潜る時にはヒュアキントスも泥臭い戦い方を強いられるのである。

 

 その経験則から、レベル2の攻撃であれば一度くらいは……と判断した。それを起点に反撃する。受ける覚悟を固めてさえいればその後に動くことは容易い。不意を打たれたことは忌々しいが、今は何よりも勝つことだ。ベルの方がレベルが低いということは、もはやヒュアキントスの中でただの情報にまでなり下がっていた。

 

 そこに油断はない。だが、認識の甘さがあった。

 

 相手を強者として認めた。自分が怪我を負うことも考慮にいれ覚悟を固めたヒュアキントスだったが、相手が自分の想定を上回ってくることにまでこの時考えが回らなかった。防具は質の良いものであるが、ベルのために椿が打った『紅椿』は、オラリオに出回っている武器の中でも最上の業物である。

 

 ベルの剣の腕は大したものではないが、武器の質と冒険者としての腕力はヒュアキントスの防具の強度を容易く上回った。ダメージを貰うことは覚悟していたヒュアキントスだったが、よもや防具がほとんど抵抗もなく斬り割かれるとは思ってもみなかった。

 

 それでも反撃の手を止めなかったのはヒュアキントスの経験の勝利であり、逆に手足を止めないまでも自分の成したことに目を奪われてしまったベルは経験のなさが裏目に出た形である。

 

 速度による奇襲で先手を取ったベルだが、その一瞬で有利を使いきってしまった。斬撃を貰いながらもベルに向かって強引に踏み込んだヒュアキントスは柄尻でベルの顎をかち上げる。速度、耐久力ではレベル3に伍する準ずると言っても腕力まではそうはいかない。1レベル上の腕力でクリーンヒットを貰ったベルは溜らず吹っ飛んだ。

 

 アポロン・ファミリアの団員との稽古では一瞬で意識を刈り取るのが常なのだが、かち上げた瞬間ヒュアキントスは入りが浅いと直感した。それでも手は止めない。返す刀で振り下ろされたフランベルジュを、ベルは不利な体勢のまま身体を捻って中空で避ける。

 

 背中から地面に倒れ込むと獣のように低い姿勢で距離を取る。速度を活かすためには距離を詰められてはいけない。この戦いの前に口を酸っぱくして言われたことの一つが、戦う時には距離を取りなるべく場所を広く使って戦うことだ。

 

 自分の不利をしかしヒュアキントスは理解していた。距離を取ろうとするベルを追いかけ、フランベルジュで連撃を加える。身体を両断せんと迫る大剣をベルは紙一重の動きで避けていく。その様に恐怖はまるでない。自分を殺しうる攻撃を受け続けた二週間は、相手の攻撃を冷静に分析するだけの余裕をベルに与えていた。

 

 ヒュアキントスは間違いなく自分よりも強者であるけれども、椿やリューに比べれば力量は低い。自分を殺しうる攻撃にも程度があり、ヒュアキントスの攻撃はまだまだマシな部類だ。当たり所が良ければ自分がヘマをしない限り死なない致命傷で済むのだから、椿やリューよりも優しいとさえ言える。

 

 それでも窮地には変わりない。戯れに殺しうる椿たちの攻撃には殺意や敵意というものはまるで感じられなかったが、今のヒュアキントスからは全身からそれが感じられる。ここにバケツポーションはないし、仮にあったとしても即死であれば対応はできない。当たり所が悪ければやはり死ぬのだ。

 

 今さらながらにそれを理解するが、自分が死ぬということさえ今のベルにはどこか他人事のように思えた。これは修行の功罪の罪の部分と言える。致命傷を受けすぎて、一時的に死を身近に感じるようになってしまったベルは自分を殺しうる攻撃にさえ無頓着になっていた。

 

 無論のこと生物として痛いのは嫌だから全力で回避防御はするがそれだけだ。この二週間致命傷を受けても回復され続けた弊害である。

 

 臆病過ぎては前に進むこともできないが、考えなしに前に進んでは死ぬだけである。そのさじ加減を冒険者たちは身体で覚えるのだが、経験が浅く急激に強くなったベルはその辺りの感覚が曖昧だった。明らかに危うさの残るベルの立ちまわりを見て、リューは眉を顰めていた。

 

 今のところ、1レベル上の冒険者を相手に良く戦っているが、これから先もこういう戦い方をしていては遠からず命を落とすだろう。二週間前のベルより格段に強くなったが、強さを追及するあまり肝心なことを置きざりにしてしまった。

 

 急激に強くするにはこれしかなかったと断言できるが、これ以降はもう少し丁寧に教え導く必要がある。これから彼を強くするにはどうしたら良いのか。ベルの戦いを見ながら、自分ならどうするかを考えている自分にリューはかすかな驚きを憶えた。

 

 駆け出しの冒険者にとっては地獄の日々だっただろう。折れるだけの骨は全部折ったしそれらの痛みだけでも全てを投げ出して逃げてもおかしくはない苦難だったはずだが、ベルは痛みに涙を流すことはあっても弱音を漏らすことは一度もなかった。どれだけ骨を折って血を流しても、ポーションで回復した彼は立ち上がりまた骨を折られた。

 

 今の危うさはその成果である。真剣に相手の攻撃を見極めギリギリのところで避け続けている彼の姿は、まさに彼の目指した冒険者の姿であり英雄の雛型だ。

 

 兎のような真っ赤な目がせわしなく動き大剣の動きを捉える。完全に避け、あるいは受け流し、機を見ては踏み込み、ヒュアキントスに一撃を加える。最初こそ防具を割かれたヒュアキントスだが、武器の鋭さを意識してからは立ちまわりを変えていた。

 

 ベルは踏み込んでいるが、それはヒュアキントスが踏み込ませているようなものだった。自分がベルに速度で劣ると最初のやり取りで理解したヒュアキントスは、攻撃を加えながらも迎え撃つ戦法を選択した。

 

 移動しながらの攻撃ならば致命傷にはならず、足を止めての攻撃ならばベルを捉えられるという確信があったのだ。反撃で倒せなくても良いのだ。自分に勝る要素があるとしても、総合力で劣っているはずはない。地力では勝っているのだ。持久戦になれば自分が有利である。

 

 とは言えレベルで勝るヒュアキントスからしても、ベルは楽に勝てる相手ではなかった。スタミナを気にせず短期決戦で決めに来ているということは、裏を返せばそれで勝てる算段があるということだ。まさか最初から仲間頼みという後ろ向きな姿勢ではあるまい。

 

 消極的ではあるが攻めの姿勢を続けるヒュアキントスに、ベルの方でも攻めあぐねていた。土台、技量で勝る相手に速度だけで勝てる程世の中甘くはない。あくまで自分の力のみで決めるつもりであれば、最初の奇襲で致命傷を与えるくらいのことが必要だった。

 

 それに失敗し現在もどっしり構えられると、技量と経験で劣るベルにこれを崩すのは難しかった。加えてトップスピードを維持したままの立ち回りは、短期決戦を前提で動いているにしても、ベルの体力を急激に消耗させていた。大剣というこれまた体力を消耗する武器を振り回しているヒュアキントスよりも、常に動き続けているベルの方が先に体力の限界がやってくるのも自明の理と言えるだろう。

 

 息が上がり始めたベルを見ても、ヒュアキントスは攻め方を変えなかった。一発逆転などあってはならない。確実に仕留められる時にこそ、彼を仕留めるべきだ。対外的にはもはやアポロン・ファミリアの敗北は決定的であるが、後のことを考えるならばヒュアキントスはここで拾えるだけの勝ち星を拾っておかなければならない。

 

 ベルに勝つのは現在の最低条件だ。万が一にも負ける訳にはいかないのだ。普段の彼であれば我慢できずに早い段階で決めに行っていただろう。自分で思っている程、ヒュアキントスは我慢強い方ではない。今日これだけ耐えていられるのは、それだけファミリアが追い詰められているということでもあったが、レベルで劣る眼前の少年を侮らないという思いが何より強かったからだ。

 

 そしてとうとうベルの膝ががくりと落ちた。足に限界が来ていたにも関わらず踏み込んだ彼の姿勢が大きく崩れる。待ちに待った好機だ。飛びかかりたいのをなけなしの精神力で堪えたヒュアキントスは冷静に、前のめりになった『白兎』の顔面に左の膝蹴りを加えた。浮いた身体を追いかけるように、その場で限界まで身体を捻り、腕を畳み込むようにして振りぬいた大剣の腹を叩きつける。左腕の骨を砕いた感触がヒュアキントスに伝わった。

 

 レベル3の冒険者のフルスイングを受けたベルは、砲弾のように吹っ飛んだ。受け身も取れないまま壁にぶつかり顔から床に倒れ込む。判官贔屓でベル一色だったオラリオ中に悲鳴が響いた。これは決まったと誰もが思ったがベルをアップにした映像は、彼がまた意思を持って動き出そうとしている所を映し出していた。手をつき立ち上がろうとしているが、足に上手く力が入らないのか、立つことすらできないでいる。

 

 口は静かに動いている。何かを呟いているらしいが、小さすぎて映像はそれを拾えていない。使えねえな! とバベルに神々の怒号が響くがここが天界であるならばいざ知らず、様々な制限のかかった下界では技術的にも限界があった。

 

 ベルの声は対決しているヒュアキントスにも届いていない。彼は大剣を持つ手に力を込めながら、ゆっくりとベルに歩み寄った。反撃を狙っている可能性を潰すように、一歩一歩踏みしめて距離を詰めていく。ベルが顔を上げヒュアキントスを見た。血の赤が白い髪によく映えている。ともすれば少女のようにも見える童顔も相まって、その痛々しさは冒険者であるヒュアキントスをしても痛々しいものだったが、髪の白と血の赤。その向こうに見えるベルの赤い瞳はまだ意思を失ってはいなかった。

 

 こいつはまだ勝つつもりでいる。それを悟ったヒュアキントスは、自分が慎重に過ぎたことにようやく気が付いた。今この場で勝負を決めなければと焦ったヒュアキントスはそれまでよりも大きく踏み込み――そして、それこそがベルが待っていたチャンスだった。

 

 それまでの動きが嘘のように素早く、上着に隠してあった『武器』を取りだし投擲する。低い軌道。ナイフなどの殺傷を目的とした投擲武器であれば、あるいは多少の怪我を負わせることはできたかもしれないが、ベルが放ったのはそういう目的の武器ではなかった。

 

 ボーラと呼ばれるそれがヒュアキントスの足に絡みついた。動きが制限されるが、それは下半身に限ったことで振り上げた大剣には影響がない。無駄な抵抗か。ヒュアキントスさえそう思ったが、投擲した腕を引っ込めると同時、逆の腕で抜き放ったそれをベルは掲げる。

 

 燃え盛る炎を凝縮したような真っ赤な刀身を見て、それが何であるのかヒュアキントスは理解してしまった。情報はあったのだ。クロッゾの魔剣がベル・クラネルの手に渡ったということ。それを今回の『戦争遊戯』にも持ち込んでいるということ。

 

 今回の『戦争遊戯』は攻城戦だ。城を攻めるに、高威力の魔剣というのは都合が良い。フレイヤ・ファミリアが乱入したことで機会はなかったが、本来はそういう用途に使うものだと、ヒュアキントスを始め、アポロン・ファミリアの全員が考えていた。

 

 海すら燃やすと言われたその魔剣を、同業者相手に向ける冒険者がいるとは考えもしなかったのだ。それはどう考えても地上の子供のすることではない。何をも恐れない神の所業である。

 

 加えて場所と位置取りも良くない。高威力の魔法なり武器というのは開けた場所で十分に距離を取って使うものだ。間違っても武器を振り回して当たるような距離にいる相手に屋内で使うようなものではない。ともすれば余波に仲間が巻き込まれる、と思って横目に見れば、観戦していた二人はどこから取りだしたのか耐火用のマントで防御を固めていた。あれだけ距離があれば多少焦げたとしても大怪我まではするまい。

 

 今この場で危険なのはぶっ放されるヒュアキントスと、ぶっ放すベルの二人だけである。こけおどしであってほしいとヒュアキントスは心の底から己が主神に祈ったが、据わった目をしたベルはヒュアキントスが一番聞きたくなかった言葉を口にした。

 

「――――目覚めろ、『不滅ノ炎(フォイア・ルディア)!!』

 

 

 次の瞬間、爆炎が世界を包んだ――――

 

 

 

 

 



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『戦争遊戯』④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「死ぬかと思った!」

 

 ガレキを押しのけるようにしてベルは勢いよく立ち上がった。全身煤に塗れており無事な所など一か所もないが声は挙げられるし身体は動く。軽く点検してみるが、当面命に別状はないと判断する。

 

 魔剣攻撃のバックファイアである。攻撃された方よりはマシとは言え、それでもベルも決して小さくないダメージを受けた。懐から取り出し口に放り込むのは最高級のポーションに漬け込んだ芋茎を乾燥させ丸めたものだ。液体で飲むよりも遥かに効率は落ちるが薬草を直接齧るよりはマシな回復量という、ベルでさえこれは売れないと確信が持てる代物だ。

 

 アミッド・テアサナーレが団長になるよりも随分昔にディアンケヒト・ファミリアで開発された商品らしいが、全く売れなかったために倉庫で塩漬けにされていたものを何の因果か椿が捨て値でまとめ買いしたものだ。

 

 良薬口に苦しというのは世界共通の原則であるが、これは回復量がイマイチな癖に絶妙に不味い。時間をかけてこんなものを作るくらいならどうして頑丈な容器を作ろうと思わなかったのか理解に苦しむ。椿も安いというただ一点の理由で買ったものの、処分に困ってベルに押しつけたのだ。

 

 破損を気にせず携行できるという開発目的以外は全て置き去りにしたその回復薬によって、体内から傷を癒される生命として慣れない感覚に悩まされながらも、ベルはゆっくりと呼吸をし気分を落ち着かせた。

 

 魔剣の攻撃により、屋内は屋外へと姿を変えていた。かつて出入り口であったところには耐火マントで難を逃れたリューたちが平然と突っ立っている。ヒュアキントスは少し離れた所でガレキに埋もれていた。全身程良く火傷を負っているがまだ動いている。少なくとも現時点で死んではいないことに、ベルは無理やり安堵した。

 

 レベル3であればまぁ死なないだろうという椿のふわっとした保証がなければ、いくらベルでも魔剣による攻撃を躊躇っただろう。その保証の通り生きてはいるようだが、戦闘を続行できるかは彼の気力がどれだけ残っているかによる。

 

 この『戦争遊戯』でベルにとっての勝利条件は相手の団旗を奪うことだ。既にアポロン・ファミリアの団員はヒュアキントス以外フレイヤ・ファミリアの団員たちによって連れ出されていた。最後に残ったヒュアキントスが意識不明となれば自動的にまだ動けるベルの勝利が確定する。

 

 今すぐ団旗に駆けだせば勝利を掴むことはできるのだが、そういう決着をベルは望んでいなかったし、この戦を見ている神々も、オラリオの住民たちもそれでは興ざめだろう。身体は心底休息したいと訴えていたが、ベルはそれを無視した。

 

 アポロン・ファミリアの団旗に背を向け、倒れているヒュアキントスに向かって声を張り上げる。

 

「僕はまだ立っているぞ! 僕はまだ戦える!」

 

 意識不明の相手を煽り始めたベルに、遠く離れたオラリオでは喝采があがった。一方的な蹂躙劇もそれはそれで胸のすく戦いではあったが、観客が見たいのはやはり手に汗握る激闘なのだ。

 

 声が聞こえたのか、倒れたヒュアキントスの指がぴくりと動いた。後一押しと悟ったベルは、更に言葉を続ける。

 

「ヒュアキントス・クリオ、貴方はどうだ! 貴方の忠義はそんなものか!」

「……この、小僧が!」

 

 膝をつき立ち上がったヒュアキントスの姿は酷いものだった。防御は最低限しか間に合わなかったのだろう。防具は全て吹っ飛び、上半身は二度の火傷に覆われている。全身血と煤で汚れフランベルジュはどこかに消えた。ふらふらとした足取りには力強さなどなく、冒険者でなくても押せば倒れるような頼りなさだ。

 

 しかし、その眼だ。ベルを睨みつけるヒュアキントスの目には、はっきりとした意思の力が宿っていた。ベルの挑発に憤り、戦いはまだ終わっていないと自分を叱咤し歩み寄るヒュアキントスの姿に、バベルの中では血気盛んな神々も喝采を挙げた。

 

 一歩一歩距離を詰め、お互い腕を伸ばせば触れられるくらいの距離になる。

 

 ヒュアキントスも薄汚れているが、ベルも負けてはいない。直撃こそ避けたものの首から上と手に軽い火傷がある。回復薬を使ったがそれでも折れたアバラ骨がしくしくと痛んでいた。足にも違和感がある。最初の時のように高い機動力に任せた戦いは、もうできないだろう。

 

 中身を使いきってしまった『不滅ノ炎』を放り投げる。紅椿はガレキの下だ。武器は唯一、剣帯に差しこまれたリューから借りた小太刀であるが、ベルはそれを剣帯ごと外して床に落とした。

 

「私は、アポロン・ファミリア団長、ヒュアキントス・クリオ! 我が忠義はこんなことで燃え尽きたりはせんのだ! 戦える私を前に勝利気分など片腹痛いわ!!」

 

 大音声を合図にしたように、ヒュアキントスが拳を放つ。ベルはそれを顔で受けた。口の中に広がる血の味にそれでも歯を食いしばりながら踏ん張る。足に腕に力を込めながら雄叫びを上げ、渾身の拳をヒュアキントスの腹に叩き込んだ。

 

 ベルの拳で、ヒュアキントスの身体がくの字に折れ曲がる。上背のあるヒュアキントスの顔が下がったのを見て、右を引き戻したベルはその勢いを利用してアッパーを放った。身体が僅かに浮き上がるが吹っ飛びはしない。堪えたヒュアキントスは頭上で両手を組み動きの止まったベルの頭に叩き込んだ。

 

 脳がシェイクされるような衝撃に意識が一瞬飛んだベルの腹に、ヒュアキントスの膝が叩きこまれた。回復しかけたアバラ骨がまた砕ける感触に呻き声があがりそうになるが、ベルはそれを気合で堪えた。この二週間ずっと味わってきた痛みだ。ヒュアキントスの蹴りは確かに鋭いが、リュー程ではない。

 

 彼女の白い膝は一瞬でベルの骨を砕き、容赦なく内臓にまでダメージを与えた。想像するだけで背筋が凍るような痛みを思い出したベルの意識は、ヒュアキントスに集中する。アバラ骨を砕かれながらもベルはヒュアキントスの足を掴む。思わぬ抵抗にヒュアンキントスの身体が強張るが、既に遅い。

 

 ヒュアキントスの足を掴んだまま床に倒れ込むようにして体重をかけると、バランスを崩したヒュアキントスも一緒に床に倒れこんだ。両者共に受け身も取れずに倒れたが、ベルの方が動きだしが僅かに早い。

 

 足から手を離したベルはそのままヒュアキントスに馬乗りになった。怒りに歪んだ顔に拳を叩き込む。殴る場所など気にしない。拳を握って力任せに振り下ろす。まるで子供の喧嘩であるがベル・クラネルはレベル2の冒険者だ。男性にしては華奢な体格をしているとは言え、その腕力は一般人との比ではないが、

 

「調子に乗るな小僧が!!」

 

 同様にヒュアキントス・クリオはレベル3の冒険者だった。レベル差以上に解りやすいベルとヒュアキントスの差が身長の差である。まだ身体的な成長期のベルとそうではないヒュアキントスでは体格に大きな差があり、当然リーチにも差が出てくる。馬乗り殴打の最中、背中に膝が叩き込まれるとベルの呼吸と連打も止まった。

 

 その一瞬の間にヒュアキントスはベルを振り落として立ち上がる。咳き込むベルは自分の顔を蹴り飛ばそうとしている足に気づいて慌てて床を転がった。そのまま追いかけては……来ない。その場でベルを睨んだまま、ヒュアキントスは荒い呼吸を整えていた。対するベルも飛びかかったりはしない。同じく呼吸を整え、ヒュアキントスの一挙手一投足を観察する。

 

 怪我の具合は最初に観察した通りだ。その後幾度の交戦で多少酷くなっているはずだが意気軒高。まだまだやる気に満ち溢れていた。対戦するベルが引くくらいの士気の高さである。

 

 普通に考えればネガティブな観察結果であるが、まずそれが目につくということはそれだけ身体にきている証拠でもあった。ヒュアキントスは気力で立っているような状態だった。エリクサーのような完全回復する手段を隠し持ってでもいない限り、この不利は容易に覆せるものではない。

 

 であればこそ、ここまでに攻め切るべきだったと思う者もいた。

 

「関節の極め方の一つでも教えておいた方が良かったのでしょうか」

「生兵法は怪我の元だ。あの『白兎』めは筋は良いが物覚えはよろしくない。一度にいくつも教えても身につかんだろうさ」

 

 冒険者とはダンジョンに潜り、そこで怪物と戦うことを主な仕事にしている。そのためその戦闘技術も怪物と戦うために洗練されたものが中心となっているが、怪物としか戦ったことのない神の眷属など圧倒的少数だ。

 

 実際にはそこそこの頻度で同業者とも戦うのが冒険者の常である。故に同業者相手の戦闘方法を修めるが常道であり、リューと椿が二週間かけてベルに教え込んだのはそういう戦い方だ。普段リヴェリアたちが教え込んでいるダンジョンで生き残るための戦い方とはまるで種類が違うものである。神が地上に降りてくる前から存在した、子供が子供を殺すために編み出した泥臭い戦い方なのだ。

 

 田舎の山育ちであったために身体こそ背丈の割に頑丈だったが、武術の類は何も修めていなかったベルである。武器の持ち方、武装しての歩き方さえ本格的に学んだのは神ロキの眷属となってからだ。

 

 ベル本人は決してもの覚えの良い方ではない。憶えたことを実践する力は目を見張る物があっても、そこに至るまでが長い。椿やリューからすればそれは物足りなさを覚えるレベルであるが、この二週間のベルはそれを試行回数でカバーした。

 

 大怪我をしてはポーションで回復し、また大怪我をして技術を一つ一つ身に着けていく。言葉にすればそれだけで済むことだが、ポーションは感じた痛みまで忘れさせてはくれない。また大怪我をすると解っていてもそれに立ち向かえるだけの精神的な強さを持った者がどれだけいるだろう。

 

 強くなるということについて、ベル・クラネルは果てしなく貪欲だった。その貪欲さがレベルで勝るヒュアキントスに食らいつくという結果を生み出しているのだと思うと、教えたリューも椿も感慨深い。

 

 睨み合いから先に踏み込んできたのはヒュアキントスだった。自分の方がより時間がないことは自覚しているのだろう。これ以上時間をかけてはいられないと最後の力を振り絞って猛攻を始める。ベルがヒュアキントスに明らかに勝っているのはその俊敏さだったが、ダメージの蓄積によってその『足』は失われていた。万全の状態であれば避けるなりしていた攻撃も、足を止めて受けざるを得ない。

 

 ベルのステイタスの向上による耐久の上昇はレベル2にしては目を見張るものがあったが、ヒュアキントスの攻撃を受け続けていられるほどに頑丈な訳ではない。リューよりは下と言っても自分よりは上なのだ。元より単純な戦闘技術では冒険者歴の長いヒュアキントスの方に軍配が上がる。お互いダメージによって力が均されれば最後に物を言うのは地力の高さだ。

 

 初めは防御できていたベルも次第に手が回らなくなっていく。ヒュアキントスの拳を顔で身体で受ける度に意識が飛びそうになるのを気合で堪える。リューの拳はもっと速く鋭かった。椿の拳はもっとずっと重かった。痛みに耐えそれを乗り越えた経験がベルの意識を繋ぎとめていた。

 

 自分はまだ戦える。まだ負けていない。最後に勝つべく攻撃を耐えていたベルを、ヒュアキントスの拳がついに吹き飛ばした。ガレキの中を転がり止まったその先でベルの右手が何かを掴んだ。

 

 それはベルが自分で手放した『不滅ノ炎』だった。一度の放出で中身は空になっている。真紅に染まっていた刀身は中身を示すように透き通っていた。文言を唱えても炎が出ないことは明らかだったが、その仕組みを正確に理解しているのはベルたちのみだ。ヒュアキントスは当然、それを知らない。

 

 ベルが手にしているものが自分を酷い目に合わせた魔剣だということは、その形状から理解することができた。

泥臭い殴り合いを繰り広げてこそいたが、それは明文化されていた訳ではなく本人たちが自主的に行っていたものである。これから先も殴り合いを続けなければいけないという強制力はなく、先程ベルが魔剣を使ったように今まさに魔剣を使ったとしても、それを非難する権利はヒュアキントスにはない。

 

 そしてそれ以前の問題として、次に同じ攻撃を食らったらおしまいだということはヒュアキントス本人が良く理解していた。被害者の当然の対応として、一気に距離を離して防御態勢に入る。魔剣を拾って自分に向けた以上、すぐにぶっ放すのは明らかだと判断したからだ。

 

 しかし、ベルはヒュアキントスの予想とは全く違う行動を取った。『不滅ノの炎』を握ったまま、後退したヒュアキントスを上回る速度で距離を詰めたのだ。魔剣の攻撃が来ると思っているヒュアキントスの前でベルは『不滅ノ炎』を放り投げ、拳を握りしめた。速度で勝るベルが追い付く。一歩、二歩。ヒュアキントスの前で強く踏み込んで、身体を捻る。

 

 雄叫びを上げ、真っすぐに突きだされたベルの拳はヒュアキントスの腹に突き刺さった。ベルの拳とヒュアキントスのアバラが砕ける音が重なる。拳を引こうとしたベルは、砕けた拳の痛みに思わず足を縺れさせた。今しがた殴ったばかりのヒュアキントスに肩口から倒れ込んでしまう。

 

 腹部への一撃と勢い余ったベルの体当たり。加えて受け身も取れずに倒れ込んだことは、激闘を経たヒュアキントスにトドメを刺すには十分だった。床に思いきり頭を打ち付けたヒュアキントスは今度こそ意識を失った。起き上がったベルが身体をゆすってもぴくりともしない。

 

 これでアポロン・ファミリアには戦う者がいなくなった。ロキ・ファミリアの勝利だ。勝利ではあるのだが……ベルは釈然としない面持ちで、ゆっくり立ち上がった。

 

 ベルの視線の先にはアポロン・ファミリアの団旗がある。それを取ることを阻む敵は今度こそ存在しない。望んでいた勝利なのだ。二週間の苦労が実を結ぶ瞬間なのだ。リュー達に骨を折られながらおぼろげに夢見ていた瞬間が目の前に迫っているのにベルの心には高揚はなかった。

 

 このまま勝って良いのか。ベルの心中を一つの疑問が渦巻く。

 

「旗を取るのだ、ベル・クラネル」

 

 それを促したのは、それまで黙って観戦していた椿だった。やめておけ、とリューが視線で訴えるが椿は言葉を止めない。

 

「抵抗があるのは解るが、それはお前の義務だ。お前はお前の名誉だけを賭けて戦った訳ではない。それを忘れるな」

 

 戦う者こそ神の眷属である子供たちだが、『戦争遊戯』は神の名代として行われるもの。言わば彼らの代理戦争だ。神の意志で実行されるそれを、子供の意思で捻じ曲げるようなことがあってはならない。それは神に対する反逆であり、冒険者にとって忌避すべきものだ。

 

「此度のことはお前の弱さが招いたことだ。お前が一人でアポロン・ファミリアを平らげられるならば手前たちが協力することもなかったろう。お前が一人でヒュアキントス・クリオを倒せるならば魔剣を使うこともなかったろう。誰憚ることなく胸を張れる勝利が欲しかったのだろうがそれは無理な相談だ。それができないくらいにお前が弱いからこそこうなったのだからな。一人では勝利できなかったお前に、勝利の形に注文を付ける権利などないのだ」

 

「だが思い出せ。何が何でも勝ちたかったのはお前自身のためだけか? 手前たちに骨を折られている時に、仲間の顔が一度も過らなかったというのであれば前言の全てを撤回するが、お前はそのような薄情な人間ではないな?」

 

「であれば、その苦しみと痛みは全て仲間のためと心得ろ。言いたいことも沢山あるだろうが、今はそれを飲みこんで旗を取って胸を張れ。全てはそれからだ。仮にお前の勝利にケチを付ける者がいたとしても手前だけは――」

 

 と、リューの拳が椿の後ろ頭に振り下ろされる。ごちん、と目の覚めるような音が響いた。僅かに涙を浮かべて睨みやるが、下手人のエルフは口笛を吹くようにして視線を逸らしている。自分は何も悪くないという態度にハーフ・ドワーフの鍛冶師の頭に血が上るが、元より配慮の足りない真似をしたのは自分の方であると文句を飲みこんだ。

 

「手前たちだけは、それを称えてやろう。同じ釜の飯を食った仲だ。これから弱さと向き合うのであれば、その手助けもしてやる。足りない強さはこれから補えば良いのだ。だから今は自分の弱さも痛みも全て飲みこんで胸を張れ。どういう事情であれ、お前が勝ったことに違いはないのだからな」

 

 さぁ、と椿が団旗を示す。不満と不安はまだベルの心の中で燻っていたが、今度はその歩みを止めなかった。

 

 ベルの手が、アポロン・ファミリアの真紅の団旗を手にする。その瞬間、バベルの中に、そしてオラリオ中に歓声が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 



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『戦争遊戯』⑤

 

 

 

 

 

「これは一体どうしたら……」

 

 アポロン・ファミリアの団旗を手にし自らの勝利を確定させたベルだったが、その後はというと途方に暮れていた。耳目を集める時の人と言っても、その実は十代の少年であり冒険者になってまだ日も浅い。『戦争遊戯』に参加するのは無論初めてであり、そも巻き込まれるまで存在も知らなかった程である。

 

 加えてこの二週間は仲間のエルフとハーフドワーフに全身の骨を砕かれ続けていた。理解していたのは自分が戦うこと、それに勝たなければならないことまでで、その後にどうするのかという段取りは全く聞かされていなかったのだ。

 

 これは共に時間を過ごした椿とリューにも落ち度がある。オラリオ歴の長い彼女らからすれば、『戦争遊戯』の勝利者が()()()()()振る舞うことなど当然のことだったのだ。おほん、とすました咳払いをした椿がリューに先んじて一歩前に出る。

 

「旗は元の場所に置け。身一つで外に出るぞ。主役は勝ったお前であり、旗ではないからな」

 

 勝者を目立たせるという意味合いもあるが、団旗は本来そのファミリアに帰属するもので、翻って言えばそれは神の所有物である。『戦争遊戯』が発生した経緯とベルが勝者であることを加味すれば多少雑な扱いをした所でそこまで大事にはなるまいが、オラリオが神を中心に回っている以上、子供の神に対する無法が衆目に晒されてしまうと、それを処分しないという訳にはいかない。

 

 その辺りの機微を理解している訳ではあるまいが、ベルは自分の持っている旗が他人のものであることには考えが回っており、それが大事なものであることも理解していた。自分が戦った相手に、それなりの敬意を払っている様子に椿は内心で感心する。

 

 とかく、冒険者というのは粗野な者が多い。冒険者の流儀ということで、彼ら彼女らは時間をかけて身体で慣習やら何やらを理解する訳だが、ベルのように最初から行儀が良い人間というのは少数派だ。自分がそうでなかったからこそ、ベルの振る舞いは椿には好ましく思えた。

 

「ヒュアキントスさんたちは……」

「負傷者の回収は対戦相手の仕事ではない。それ専門のスタッフがおるからそれに任せよ。勝者はまず己の主神の所へ勝利の報告へ行かねばならんのだ」

「そうだったんですか……」

 

 細かな違いはあるのだが、特別な取り決めがない場合は慣例としてそうすることになっているのだ。これはベルには知らされていないことだが、今回の『戦争遊戯』の裁定はロキとアポロンの取り決めにより、ベルが行うことになっている。ベルがどう思うかに関わらず、彼がアポロンの前に行かない限り今回の『戦争遊戯』そのものが完結しない。ベルのオラリオへの早急な移動は参戦者である椿とリューにとっても義務と言えた。

 

「歩けるか? 辛いようであれば肩を貸してやるぞ……そこなエルフが」

「そこは自分が肩を貸す、というべきところでは?」

「ポイントを稼ぐ機会を譲ってやろうというのだ。接吻までした仲だろう? 今さら恥ずかしがることはないぞ」

 

 カカカ、と笑う椿に、ベルとリューは一瞬で顔を真っ赤に染めた。人間にしてもエルフにしても、二人はどちらも奥手であり、どういう意図があるにしても、公衆の面前で唇を重ねたという事実は二人にとって羞恥心を大いに刺激するものだった。

 

 穴があれば入りたい心境だったが、リュー・リオンというのはとりわけ責任感の強いエルフだった。己の神のため仲間のため辛い修行に耐えて勝利を勝ち取った人間の少年に、何かをしてあげたいというのは当然のこと。『辛い修行』の際、そのベルの骨を折り続けたという負い目もある。肩を貸すくらい何ということはない。たとえ先ほど唇を重ねた相手であろうとも、彼のために何かをしてあげるのは当然のことだ。

 

 自責と羞恥と理性と好奇心と、その他色々な感情がない混ぜになり、自分を納得させる理屈をくみ上げるまでの僅かな間に、エルフの美女よりも先に初心な少年が先に羞恥に負けた。

 

「いえ! 大丈夫ですので!」

 

 そうベルに言われた時のリューの僅かな表情の変化を見ることができたのは、椿だけだった。思っていた以上に脈ありなエルフに、内心でほくそ笑む。

 

ドワーフとエルフが仲が悪いというのは有名な俗説である。関係とは種族ではなく個人同士で結ぶもの。特に種族のるつぼであるオラリオではその傾向が強く、この種族同士だからというのはあまり当てはまらないのだが、数ある俗説の中でいまだ残り続ける程度には、それを補強する事例が存在する。

 

 かく言うドワーフの血を半分だけ引く椿も、こまっしゃくれたエルフというのは好んで付き合おうと思うタイプではないのだが、生真面目潔癖金髪碧眼とテンプレートな特徴ばかりを持ったこのエルフのことが好きになっていた。そこな『白兎』のことを好いているのであれば応援してやりたいとも思うが……ただでくれてやるのはもったいないとも思うのだ。

 

 それでは共にパーティを組もうと言えれば話は早かったが、リューは事情が複雑であるし、ロキの眷属であるベルの所には異なる神の眷属が入り込む余地は少ない。

 

 ふむ、とそっと旗を元の場所に戻すベルを眺めながら椿は小さく息を吐いた。

 

 柄にもなく興奮した二週間だったが、鍛冶師としての本分を忘れるつもりもない。元よりヘファイストス・ファミリアはロキ・ファミリアと友好関係にある。しばらくはベルの専属ということになるであろうし、それで満足するとしようと自分を納得させた椿は、地味に不貞腐れている様子のリューの背中を小突いた。

 

 むっとした表情を見せるリューだったが、すぐに何故自分が小突かれたのかに気づく。白い両の頬に手をやりながら椿に視線を向け、小さく首を傾げる。『そんなに解りやすかったですか?』というリューの問いに椿は笑みを浮かべながら、体越しのベルを指し首を横に振る。『あいつ以外ならな』という椿の切り返しに、リューは渋面を作った。運命のエルフは運命のエルフで事情が複雑なようである。

 

 戻してきました! というベルは妙に肩肘を張りながら先立つようにして歩き出した。肩を貸してもらわなくても大丈夫、という彼なりのアピールであるらしい。そう強調されると逆に構ってやりたくなるのだが。椿はからかい倒してやりたい衝動を無理やり抑え込んだ。

 

 自分が調子に乗っていることは自覚している。ベルの面倒を見るためということでこの一週間は好き放題にやってきたが、既にロキ・ファミリアの勝利が確定した以上、椿の重要度は当初よりも大分薄くなっている。具体的にはそろそろ母親役のリヴェリアから苦情が入ってきそうな気配であるのだ。

 

 『神会』の仕切りである『戦争遊戯』はオラリオ中に中継されており、その中には当然リューがベルの唇を奪った所も含まれているはずである。問い詰められれば実行犯はリューだけだと仲間を売り渡して逃げるつもりではあるものの、はいそうですかと納得してくれるとは思えない。その後に唇にではないとはいえ、椿も似たようなことをしているのだ。同罪であるとリヴェリアから沙汰が下れば面白くないことになる。

 

 ロキ・ファミリアに対し――より具体的にはリヴェリアに対し恩を売っている立場ではあるが相殺して余りあるとなれば、今後ベルとの接触を制限されることにもなりかねない。リューの口づけが問題にあるのだとすれば既に手遅れである気もするが、何もマイナスを好んで重ねることもない。椿の頭の中では既にこの勝利を軸に、今後どうやってベルと付き合っていくかのシミュレートが行われていた。

 

 豪放磊落を絵に描いたような椿だが、理屈で動くべき所は理屈で動く。多分に感性と技術で成り立つ鍛冶の世界であるが、それだけでは集団の長にはなれない。少なくとも集団を率いるだけの手腕があると神ヘファイストスに見込まれたからこそ、椿・コルブランドはヘファイストス・ファミリアの団長なのだ。

 

 椿とリューを引き連れて――内心はどうあれ、対外的にはそういう構図になる――ベルが外に出ると、そこにはずらりとフレイヤ・ファミリアの団員たちが整列していた。先頭には『猛者』オッタル。その後ろには『女神の戦車』アレン・フローメルを始め、高位の冒険者たちが並んでいる。

 

 種族も多種多様だ。鍛冶系のファミリアにはドワーフが多くエルフが少ないとか、イシュタル・ファミリアはアマゾネスが多数を占めるなどいくつかの例外はあるが、これは基本的には探索系のファミリアには広く当てはまる特徴である。男女比率は男性の方が高いだろうか。この辺りは女性に大分偏っているロキ・ファミリアと大きな違いだ。

 

 最強の評価をロキ・ファミリアと二分する精鋭たちの視線がベルに集中している。彼らの目的が自分であるのはベルにも解ったが、彼に解ったのはそこまでだった。心当たりがないではないが、眷属全てが残る合理的な理由がベルには解らない。

 

 目を白黒させているベルとは対象的に、同行者であるリューと椿はフレイヤ・ファミリアの事情が理解できていた。

 

 彼らはベルを待っていたが、ベル本人に思う所がある訳ではない。彼らは女神フレイヤの命令を受けて参戦した。彼らにとってはそれが全てである。そこに感謝を向けられても向けられなくても、彼らにとっては大した問題ではない。

 

 彼らにとって重要なのは主神フレイヤから命令が下されたことと、自分たちがそれを果たしおおせたことだ。極論を言ってしまえば、ベルの生き死ににさえ彼らは大した興味はない。むしろ最近、主神の寵愛を集めている『白兎』のことを忌々しく思っている者さえフレイヤ・ファミリアにはいた。

 

 だが、手を出したり絡んだりするような者はいない。忌々しいというのは子供の感情である。主神が寵愛を向けているというのであれば、眷属にとってはそれが最も重視すべきことだ。『白兎』の身に何かあってフレイヤが心を痛めるようなことがあるとなれば、彼らは全力をもって『白兎』を守るだろうが、フレイヤの愛は深くともまっすぐではないということは眷属全てが知る所である。

 

 神の考えは子供に計り知れることではない。守れと言われれば守るが、特に何も言われなければ干渉することもない。勝手な判断でフレイヤの不興を買うようなことがあれば、それこそ眷属にとっては大損である。

 

 そんな彼らがベルを待っていたのは、これもやはり女神と、そして自分たちのためだ。

 

 主命が全てである彼らは、己が主神にアピールする機会を貪欲に欲している。この中継はフレイヤもバベルで見ているはずで、現在、近くに『白兎』がいる。自分たちの振る舞いを見てもらえる、まさに絶好の機会なのだ。フレイヤ・ファミリアがそういう集団だというのは、オラリオにいれば解ることで、これがベル以外のロキ・ファミリアの面々であれば、その意図を組んで行動することができただろう。

 

 冒険者の流儀とでもいえば良いのだろうか。その暗黙の了解が、ベルにはまだ理解できていない。この場の主役はベルであるから、フレイヤの眷属たちもそれを無視することはできない。主役あっての脇役なのだ。美をつかさどる女神は己の眷属がその領分を破ることを由とはしない。ベルが行動しない限り、フレイヤの眷属たちも動けないのだ。

 

 右往左往するベルを見てみたくはあったが、これではいつまで経っても話が先に進まない。リューにこの手の仕事を任せるのもコトであるし、ここは手前が一肌脱ぐか、と考えた椿はベルを追い越し先頭に立った。どうしたものかと途方に暮れていたフレイヤの眷属たちは椿の登場に、これでやっと先に進めると顔には出さずに色めき立つ。

 

 そんな冒険者たちを前に、ヘファイストイス・ファミリア団長である椿・コルブランドは大音声を挙げた。

 

「偉大なる我らが先達にして、オラリオ最強の冒険者。フレイヤ・ファミリア団長『猛者』オッタル殿に申し上げる! そこなベル・クラネルは田舎生まれの粗忽者故、冒険者の作法というものを存じ上げない! どうかオラリオの冒険者の流儀というものを、この者に見せてやってはくださらぬか!」

 

 芝居がかった椿の口上に、待っていましたとオッタルが、フレイヤの眷属たちが歩み出る。肯定を行動で示した彼らを前に、椿は深い笑みを浮かべて一歩退いた。ここから先は、しばし彼らが主役である。多種多様な種族、年齢で構成された一団が一つの目的のために一糸乱れぬ行動をする様は流石に壮観だった。

 

「今日、卑小なる我らの一人が英雄の階に足をかけた! かの者の名は、ベル・クラネル!」

 

 オッタルに続き、フレイヤの眷属たちが三度ベルの名を連呼する。一度名前を呼ばれる度に、ベルは自分の中で心が燃え立つのを感じた。倒すべき敵を倒し、果たすべきことを果たしたことで消えようとしていたものが再び燃え上がってくる。

 

 彼らは皆冒険者。それもベルよりも遥か先を行っている者達である。信じる神も異なり、彼らから見れば実力も下。普通に考えれば誉め称えるような義理はない彼らが自分の名前を連呼することに、初心なベルは素直に感動していた。

 

 そんなベルの背中をリューと椿は生暖かい目で見守っていた。冒険者歴の長い二人は、フレイヤの眷属たちが純粋にベルのことを思ってやっている訳ではないことが良く解っていた。

 

 信じる神の異なる者たちが、どういう事情であれ劣勢である者の加勢にきてその勝利に貢献した。対外的にこれは大きな貸しである。自分たちの存在をアピールすることで、貸しを忘れるなと念を押しているのだ。これはベルに対してというよりも、主神であるロキに対してのもの。フレイヤの指示かどうかまでは解らないが、いずれにせよ『戦争遊戯』が終わればロキは何らかの対価をフレイヤに支払うことになるだろう。

 

 これがフレイヤが仕込み、加勢することになったのはたまたまだったとしても、加勢したという事実に代わりはなく、ベルとロキの勝利に貢献したことは疑いようがない。勝利した側のロキの心情は複雑なものがあるだろうが神々の関係というのは地上の子供たちが考えるよりも遥かに複雑なものだ。地上の子供であれば絶縁するようなことでも、彼らは笑った許したりもする。そもそもの感性が子供たちとは異なるのだ。

 

(それでもロキは、この有様を見て地団駄を踏んでいるのだろうが……)

 

 熱しやすい糸目の神を想像し、椿は苦笑を浮かべる。椿も貸しを回収する側であるだけに、ロキの怒りは想像するに余りあるが、それはまだしばらくは先の話で、子供が考えるべきことでもない。先達の放つ大音声に興奮しきった『白兎』の背中を、椿はそっと叩いた。

 

「勝ち名乗りでも挙げると良い。それがお前の権利であり、義務だ」

「でも、どうやって……」

「何も考えずに吠えれば良い。後は勝手に奴らが盛り上げてくれよう」

 

 ほら、と背中を押されてベルは前に出た。大音声の余韻冷めやらぬ場の空気を前に、ベルの興奮と緊張は頂点に達する。

 

 自然と、彼は腕を振り上げていた。何を叫んだのか、後から振り返ってみても覚えていない。ただベルは、腹の底から、心の底から吠えていた。

 

 そうして、自分が勝ったのだということを理解した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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『戦争遊戯』⑥

 

 

 

 

 

 

 

 ぞろぞろとフレイヤ・ファミリアの冒険者たちを引き連れてオラリオに帰還したベルを出迎えたのは、人々の大歓声だった。行く手を阻むことはないが、誰もが通りに並び『白兎』ベル・クラネルを称えていた。中にはこのクソヤローと罵声を浴びせる者もいる。賭けに少なくない額を突っ込んで大損した冒険者たちだが、彼らも一様に笑顔を浮かべていた。

 

 レベル2の冒険者がレベル3の冒険者を倒したのだ。レベル差が絶対と言われているこの世界で、それを覆す偉業を成した者を称えない冒険者などいない。信じる神も種族も何もかも異なる者たちが自分を褒めてくれている。英雄になることを夢見て故郷を出て、冒険者になってまだ日の浅い少年にとって、目の前の光景は信じがたいものだった。

 

 今さっき自分が成したことが夢だったのではないかと頬をつねってみるが、痛みがあるだけで目は覚めない。どうもこれは現実であるらしい。自分がここまで褒められることがあって良いのか。ベルは興奮しつつも猛烈な不安に襲われるという複雑な精神状態になっていた。顔を青くしたり赤くしたり忙しいベルを横目に見た椿は、その初々しさに苦笑を浮かべる。

 

 これ以上姿を衆目に晒したくはないとオラリオに戻る途中でリューは何処へと姿を消してしまった。此度の主役の隣を歩く栄誉は椿一人のものとなっている。これはこれで気分は良いが、この二週間付きっ切りでベルの修行に付き合ったのはリューだ。

 

 あれだけ実直な女である。しかも少し煽られただけで自分から唇を奪いに行くだけの行動力のあるエルフだ。本音を言えば共に歩き、ベルを褒めてやりたかったに違いない。苦楽を共にし栄誉を勝ち取った。先んじてやりたいという思いも当然あるが、冒険者であるならば正当な報酬は受け取るべきだ。

 

 これは一つ借りであるな、と椿はリューに後で埋め合わせを押し付けることに決めた。

 

 そんな椿の内心を知らないベルは、戦っていた時よりもがりがりと精神力を削られながら視線を彷徨わせていた。バベルに向かうまでの道には多くの者がいたが一番顔を見たい人たちがいなかったからだ。

 

「『戦争遊戯』の終結はまだ宣言されておらんからの。主がロキたちに報告を済ませるまでは、姿を見せる訳にはいかんのだろう。バベルで用事が済んだら黄昏の館まで走って戻るのだな。この百倍は手荒い歓迎をしてくれるだろうから、楽しみにしておれ」

「それは……楽しみですね」

 

 この百倍となればショック死しそうではあるが、それで死ぬなら幸せかもなとベルは思った。自分の活躍を仲間が褒めてくれる。想像するだけでこんなにも嬉しいのだ。きっと楽しい時間になるのだろう。久しぶりに皆の顔が見たい。ベルの脳裏にはレフィーヤやリヴェリアなど、ロキ・ファミリアの仲間たちの顔が次々に浮かんでくる。

 

 話したいことが沢山ある。聞いてほしいことが山ほどある。顔が浮かんでしまうと、もう会いたくて会いたくて仕方がなくなってしまうが、自分にはまだすべきことがあると、バベルの影を見て思い直した。

 

 オラリオの中心部に立つ巨大建造物である。ダンジョンに蓋をするように建てられた世界でも最高の建造物とされているが、ベルにはいまいちピンとこない。人間、理解を超えるとすごいとか沢山とか大雑把な尺度でしか物を理解できなくなるものだ。

 

 ベルにとってのバベルはもはやその領域にあり、そのカテゴリーはガネーシャ・ファミリアの本拠地(アイ・アム・ガネーシャ)と同じ所にある。バベルを設計した神様がいるとすれば憤死しかねない感想であるが、尺度が根本的に異なる者の感想などそんなものである。

 

 ベル以外の全員が、足を止めた。一人先に歩かされてしまったベルは、不安と共に振り返る。ここまで一緒に来てくれたのに、どうしていきなりこんな意地悪を……内心をありありと浮かんだベルの表情に、椿は母性本能がものすごくくすぐられるのを感じていたが、心を鬼にして言う。

 

「ここから先に入れるのは神とそれに招かれた者のみだ。手前たちは同行できぬ。一人で栄誉を受けてくるが良い」

「その……椿さん。色々とありがとうございました」

「良いってことよ。礼は後でたんまり受け取ってやる故、忘れんようにな」

「はい。その時は改めて」

 

 フレイヤ・ファミリアの団員たちの前に歩み出る。『猛者』オッタルを先頭にずらりと並ぶ冒険者たちの迫力にひるみそうになるが、意を決したベルは彼らの前で深々と頭を下げた。

 

「此度はありがとうございました。この御恩は忘れません」

「神命である。我らに感謝する必要はない」

「それでも、助けてくれました。重ね重ね、ありがとうございます!」

 

 オッタルを始め、神フレイヤの眷属たちは答えない。神命である。それが彼らにとっては全てなのだ。女神の寵愛を集めているベルは憎悪の対象でさえあったが、眷属が彼を憎むことを女神は由としないだろう。彼らの全ては女神のためにある。女神がそう望むのであれば、そうするのが彼らの務めであり望みだ。

 

 つまり、仲良くせよと命じられぬ限り『白兎』と仲良くしてやる道理はない。彼らはこれっぽっちもベルからの感謝を欲してなどいなかったのだが、良くも悪くも鈍感であるベルにその機微は伝わらない。それでもベルはもう一度深々と頭を下げて踵を返した。その背中が見えなくなると、眷属たちは隊列を組み直した。

 

 ベル・クラネルの援軍という神命は果たした。ならば本拠地へと戻るのみである。団長であるオッタルは隊伍を組む時、先頭を歩く義務がある。隊列が組みなおされたのを見届けたオッタルが移動しようとした矢先、

 

「のお」

 

 ヘファイストス・ファミリア団長、椿・コルブランドがその背に声をかけた。神命を果たした今、ここにとどまる理由はない。その辺の名もない冒険者であれば無視しただろうが、椿・コルブランドという名前は無視するには大きすぎた。仏頂面に僅かな怒気を込めて、オッタルは振り返る。並の冒険者であればその顔を見ただけで委縮してしまうだろうが、椿とて第一級相当の冒険者、気性の荒い鍛冶師たちの頭目である。

 

 見上げる程巨大な猪人を前にも全く物怖じしない。大きな胸を誇示するように張った椿は、ん、と気息を整えながらオッタルの前に立った。

 

「手前からも礼を言いたい。『白兎』めを助けてくれて感謝する。正式な礼は日を改めて主神と共に行う故に、神フレイヤにもそのように伝えていただきたい」

「承ろう。確かに我らが女神に伝える」

 

 話は終わりと言ったつもりはないのだが、それで義理は果たしたとばかりにオッタルは話を打ち切り、眷属たちと共にバベルを後にした。残された椿は、一人で途方に暮れる。共に戦ったリュー・リオンは行方が知れない。主神であるヘファイストスは上にいるだろう。ベルをからかい倒してやりたい気分だが、降りてきた彼を拘束しても良いのは、同じ旗を仰ぎ見るロキの眷属たちのみだ。

 

 そこに混ざるような無粋な真似を椿は好まなかった。気持ち的には不完全燃焼も良い所だったが、これもまた一興と気合を入れなおして、椿はバベルを後にした。ベルをからかい倒すのはまた後で良い。流石に今からリューを捕まえるのは無理だろう。

 

 ならば本拠地に戻り、飯を食い、酒をかっくらって泥のように眠るに限る。一人が寂しければ、昨日の今日だ。血沸き肉躍る戦いに興奮した鍛冶師どもが多くいるに違いない。適当に彼らを捕まえて酒盛りの二つ三つをするのも良いだろう。それなりに良い仕事をしたヴェルフを褒めてやるのも良い。

 

 とりあえず、ベルを援護するという椿・コルブランドのやるべきことは終了した。寝て起きたら次の準備だ。普段は頼まれても参加する催しものではないが、主役がベルというのであれば参加するのも吝かではない。リュー・リオンはこないだろうから、共に戦った仲間として彼を独占できるまたとない機会だ。

 

 自らの意思で着飾るなど何年振りのことだろうか。年頃の娘のように心弾ませながら、椿は本拠地に向けて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エレベータを降り、広いホールを抜けると、大きな大きな両開きのドアがあった。学のない地上の子供でも一目でわかる。これは地上の子供が本来踏み入ってはいけない場所だ。その扉の前に立つのは――

 

「ベルーっ!!」

 

 敬愛すべき赤毛の神様だった。飛びついて頬ずりしてくる主神様に、年頃の少年であるところのベルは羞恥で固まってしまった。ここが『黄昏の館』にある主神の部屋であれば多少のことでもされるがままだが、外でされるのは気恥ずかしさが勝る。

 

 例えギャラリーが一人もいなくても、ここは神々のみが足を踏み入れることを許されるバベル上層部だ。そういう神聖な場所でこういうことをするのは不謹慎なのではと思うが、当事者の片割れが神様であると許されるのかもしれない。しかも自分は彼女の眷属であるから、猶更問題がない。

 

 それに気づいてしまうと抵抗する気も起きない。されるがままにされるのが眷属の義務というものだ。

 

「ようがんばったなぁ。ウチはベルのことを誇りに思うで」

「僕の力なんて……リューさんや椿さんは元より、フレイヤ・ファミリアの皆さんにも沢山助けていただきましたし」

「それでも最後に戦ったのはベルやんか。他の誰が何言うても気にしたらあかんで。ウチが頑張った言うんやから、それは正しいんや。まぁ、今のオラリオにベルのことバカにする奴はそうおらんやろうけども……」

 

 ぼそっとつぶやかれたロキの言葉に、ベルは首を傾げる。冒険者歴の短いベルは『戦争遊戯』が普段どう行われているのかを知らない。今回の『戦争遊戯』はオラリオの外で行われた訳だが、まさか自分が戦っている様子がオラリオでも見られていたとは夢にも思っていない。

 

 ここ最近の成長株ということで冒険者の間で話題になっていたベルだったが、今回の『戦争遊戯』の中継で冒険者やギルド関係者以外にも顔と名前が知られる様になった。しかも勝利者であり、種族のるつぼであるオラリオでも特徴的な白髪赤目の人間種族である。

 

 ロキの独り言はそんなベルの将来を若干心配してのものだ。ロキ・ファミリア所属であり、リヴェリア・リヨス・アールヴのお気に入りである。時の人とは言えまさかそんなベルにちょっかいをかける者がいるとも思えないが、そのまさかの事態が発端となり今回の『戦争遊戯』へと発展した。

 

 現状、ロキはフレイヤとは協定を結んでいる状態だが、ベルのことを考えるのであればもう少し顔を突き合わせて話し合いをする必要があるだろう。旧知の仲である。仲も決して悪いものではないが、口の上手さには自信のあるロキもフレイヤを相手にするのは聊か難儀する。付き合いが長く地元が同じこともあり、他の神々よりも手の内が知られているのも問題だ。

 

 だがまぁ、今はベルのことだ。あのフレイヤもまさか勝利者であるベルの晴れ舞台を台無しにするような真似はするまい。冒険者としてのベルはまさしくこれからだが、ベル・クラネルの人生を一つの戯曲とするのであればこれからの数時間は一つの山場となるだろう。

 

 人が神を見下ろす機会などそうあるものではない。『神会』の許可を得た子供が、神へと沙汰を下す。オラリオの歴史の中でも他に例のない娯楽に飢える神々としても楽しみにしている娯楽だ。その主役を自分の眷属が担えることに、ロキは大いに満足していた。

 

 これを機に、ベルは更に冒険者として成長していくだろう。レベルも上がるはずだ。その飛躍の一助となったのであれば、忌々しいアポロンの言動も全て許せる気がした。

 

「さ、準備ができてへんでも行くで。ここが今日、ベルの晴れ舞台や!」

 

 普段は神々しか踏み入れない場所に、ベルは人間として足を踏み入れた。中央に巨大な円卓があり、その周囲にずらりと並んだ椅子には全て神々が腰を下ろしている。男神もいる女神もいる。子供のように見える者から、老人のように見える者もいる。その全てが神であると思うと、ベルの呼吸も不規則になる。

 

 常日頃から神に接している冒険者であるが、それが束になると迫力もまた違った。その存在感に、自分との差をひしひしと肌で感じる。

 

 その中に、一柱だけ床に膝をつけている者がいた。ベルにも見覚えがある。神アポロン。『戦争遊戯』で戦ったヒュアキントスたちの主神である。誰もが振り返るような金髪の偉丈夫は、今は力なく項垂れている。敗戦の将なのだからそれも当然と言えば当然なのだが、神々の雰囲気と自分に向けられる視線から察するにただそれだけではないように思えた。

 

 何か、自分の想像の埒外なことを期待されている。本能的にそれを察知したベルは、更に身体をこわばらせるが、それを見て取ったロキがパンパンと手を叩く。

 

「ほらほらほらほら、ウチのベルが固まっとるやろ。もっとにこやかにいこうや! 勝者を脅してどないすんねん!」

 

 ロキの音頭に神々の視線が散る。それでも注視されないというだけで意識はされている。やはり神様となると視線にさえ力が宿るのだろう。強者にはオーラが見えるというが、それの視線版だと思えばこの居心地の悪さにも納得ができた。

 

 ベルと会場が落ち着くのを待ち、ロキは満足そうに薄い胸を張った。そして床で項垂れているアポロンをベルに顎で示す。

 

「さ、ベル。今から少しだけお前の言葉は『神会』の言葉や。何を言うても罰せられたりすることはないから、このアホンダラに好きなこと言ったり!」

 

 何故、という問いはベルの口から出てこなかった。他の神々が何も文句を言ってこないことから、それがベルの知らない所で話がついていることは察せられた。

 

 おそらくこれが『戦争遊戯』の賞品なのだろう。地上の子供が神に直接命令できる権利となれば、ベルの立場とレベルを考えれば破格の報酬である。

 

 ついでに神々が何故自分を注視しているのかも、ベルなりに理解できた。神様は娯楽に飢えているという。子供が神様に命令することなどそうあるものではないし、珍しいことが娯楽になるのは子供でも神様でも一緒なのだろう。

 

 神々の無聊を慰める足しになるのならそれはそれで良いことだが、好きに言えと言われてもベルには良く知りもしない特に恨みもない神様に言いたいことなど何もない。

 

「えーっと……そういえばあの娘のことなんですけど」

「どの娘や?」

「ほら、『戦争遊戯』をやる切っ掛けになった小人の……」

 

 ベルの言葉にロキは本格的に首を傾げた。全く心当たりのない様子に、もしやあの娘は僕の妄想の産物だったのではと不安になるベルだったが、それにヘルメスが助け舟を出す。

 

「手癖の悪いソーマの眷属だろ? 君の所で預かってるって聞いたぜ?」

「ああ、そんな娘もおったなぁ……その娘がどないしたん?」

「その娘の借金……がどれだけあるのか知りませんけど、それを棒引きしてもらうというのはどうでしょうか」

 

 ベルの提案に、神々は沈黙した。金子の要求というのは如何にも子供らしい俗物的な発想であるが、それを『戦争遊戯』の商品にされるのはどうかと思ったのだ。普通の人間には大金でも冒険者からすればそうではない。まして『戦争遊戯』の勝者が何でも言っていいと言われた末の言葉だ。

 

 何でも良いと言ったのは神々なのだから何を言われた所で文句をつける筋合いはないのだが、それが端金とあってはどうにも締まらない。

 

「そんくらいウチが何とかしたるから他のにしい」

「そうですか? それじゃあ……一緒に戦ってくれた人たちも呼んで宴会をしたいんですけど」

「それもウチが何とかしたるからもっと他のにしいや!」

 

 自分がベルの立場であったら相手の懐の限界まで毟り取るというのに、この子は何でこんなにも欲がないんやろとロキは内心で首を傾げた。とは言え、その欲のなさもベルの魅力と言えた。所謂良い人な神などは、ベルの無欲さに感心している所である。

 

「それなら……」

 

 結局、うんうんその場で唸っていたベルは考えに考えた末と言った様子で自分の願望を口にした。

 

「僕は今日、貴方の眷属と戦いました。と言っても、僕が戦ったのはヒュアキントスさんだけですけど……それでも今日のこの戦いのために、沢山準備をして真剣に臨んだと思うんです。それがこんな結果になってしまった訳で……」

 

 ベルは苦しそうな表情をする。倒した相手を慮っているのだろう。間違っても勝者がする顔ではない。主神としてロキは自分の子がそんな表情をしていることに耐えがたい苦痛を味わっていたが、空気を読んだ他の神が彼女が怒鳴り声を上げるのを寸での所で止めた。

 

「勝った僕が言うのもおかしいかもしれませんけど、その……ヒュアキントスさんたちを怒らないであげてくれませんか? 本拠地に戻ったら、よくやったなって褒めてあげてほしいんです」

 

 『白兎』の口から出てくるのは何とも殊勝な言葉だった。自分本位な者の多い冒険者にあっても、同じ主神を信じる眷属を大事にする者は多い。彼ら彼女らは共に戦う仲間であり命を預ける戦友だからだ。同じ冒険者ということで共感を覚えることはあるだろうが、それを理由に連帯したりはしない。

 

 命を預けるに足る理由というのは、定命の子供にとってそうあるものではない。精神性が優れている者も中にはいるが、それにしても昨日今日出会った人間のために、神からもたらされた権利を自分でも仲間でもなく、今日今まで戦っていた敵のために使うというのは、前代未聞だ。

 

 自分の名誉のためにそれを言ったというのならば理解できる。名誉というのは金銭と一緒で、地上の子供が命を張るに足る理由となるものだし、即物的だと納得もできる。

 

 しかし、地上の子供の嘘を見抜くことのできる神々の目と耳をして、ベルの言葉に嘘や欺瞞は全く感じられなかった。この年若い『白兎』は純然たる気持ちで、敵方の冒険者のことを案じているのである。

 

 長い長い溜息がアポロンの口から漏れた。膝をついたままの視線で床をじっと見つめていた金髪の偉丈夫は、ゆっくりと顔を上げる。

 

「何億年生きても、学ぶことはあるものだね、ロキ」

「高い授業料やったな、アポロン」

「なに、これで済んだのならば安いものだよ。私はもう少しで一番大切なものを失う所だった。でも、本当に良いのかいベルくん。君は子供の身で中々の犠牲を支払っただろう。それに見合った報酬が得られていると、僕は思えないのだが……」

「とんでもないです。僕はもうこの戦いで沢山の物を得ました。そのお気持ちだけで十分です、神様」

「聞いたかフレイヤ!? あれウチの子やぞ!!」

「……だから貴女は昔からモテないのよ、ロキ」

 

 目に涙を浮かべながらウザ絡みするロキを、フレイヤが面倒くさそうにあしらっている。それでも億年単位で関係を続けているのだから仲良しではあるのだ。組織としても個人としても対立することが多い二柱であるがこと最近に至るまで関係が切れる程の反目をしたことはない。タイプが完全に違っても波長が合うことはあるのだという良い見本である。

 

 先の言葉が『白兎』ベル・クラネルの願いである。ならば『神会』に否やはない。『戦争遊戯』の勝者として『神会』の音頭を取っていたロキが宣言する。

 

「『白兎』ベル・クラネルの願い、確かに『神会』が承った。以降、これは『神会』の理念に沿い、忠実に履行されるものとする。アポロン、異論はないな?」

「是非もない。『神会』と『白兎』の寛大な対応に感謝する」

 

 頭を下げ、ようやくアポロンは立ち上がった。ベルに視線を向けるが、すぐに逸らす。感謝の言葉はいくら尽くしても足りないが、それをしたところで彼が言うことは一つである。それはアポロンにとって自身の願望であると同時に、『戦争遊戯』の勝利者である彼の願いでもある。

 

「それじゃあ、僕はもう行っても良いかな。ヒュアキントスたちに言ってやりたいことが沢山あるんだ」

「ええてええて。行ってやり言ってやり。細かい話は明日でええから」

 

 どこか晴れ晴れとした様子のアポロンはロキに小さく頭を下げると、その後ろに立っていたフレイヤに視線を向けた。様々な感情を含んだその視線に、フレイヤは笑みを返すだけである。遺恨は残った。お互いに言いたいことは山ほどあったが、地上の子供であるベルの願いによって事態は一応の決着を見た。

 

 ファミリア規模で言えば、アポロンが一方的に損をした形になるが、ベルに言った様に彼は失うはずだったものを失わず、得難いものを得ることができた。恨み言はいくら吐き出しても言い足りないが、それを口にするのは無粋というものだろう。それは自分と眷属の誇りを貶める行為であり、勝者であるベルの名誉を汚すことになる。

 

 視線が交錯したのは一瞬である。それでフレイヤから視線を外すとアポロンは部屋を出ていった。部屋に入った時とは異なる晴れ晴れとしたその背中に、ベルはべルで暖かい気持ちになっていた。やはり神様と眷属は仲良くしていてほしいものである。それは他所の神と眷属でも同じことだ。

 

「さ、ベルはベルで話してやらなあかん連中が沢山おるやろ。リヴェリアなんて首ながーくして待っとるから、沢山甘えたりや」

「甘えるってどうしたら……」

「言葉なんていらん! 何というかもう、ほら、ぎゅーってしたり! ウチが許す!」

 

 自分の眷属が仲良くしている所を想像しているのか、早くもロキは頬が緩んでいた。彼女はそれで良いだろう。彼女は主神であり、多くの眷属を従える立場であり、仲良くしている眷属を見守る側だ。

 

 問題なのは眷属であるベルの方だ。あくまで許可であり命令ではない。ヒュアキントスが決意を断固として守ろうとしたそれよりも大分優しいものであるが、主神の希望をなるべく叶えるのも、眷属の役目というものだ。

 

 ロキ・ファミリアはロキの願望を反映して、女性の比率の方が高い。それでなくても、ベルの周辺は女性比率100%だ。必然的に、ぎゅーっとするのはその内の誰かということになる。

 

 想像して、絶句した。誰が相手でもハードルが高い。知った仲とは言え、一体どんな顔をしてぎゅーってさせてくださいと言えば良いのか。羞恥と興奮から思考がぐるぐると回りだす。

 

 そんなベルを見て、狡知の神(ロキ)はくふふと微笑んでいた。

 




この後黄昏の館に戻って当日の話がもう少し続きます。
後は戦後処理という名の宴会パーティをやった後、怪物祭編となります。
いわゆるデート回。相手は誰にしよう……


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『戦争遊戯』 その後①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠ざかっていく馬車の音を、アポロンは遠くに聞いていた。意気揚々と出立した本拠地に戻ってきた彼はただの一柱だ。自らの眷属と共に戻ってくることを夢想していた、それが数日前のことのはずなのに随分遠い昔のことのように思える。

 

 前代未聞の大恥をかかされた。数日前の彼であれば怒りと屈辱に震えていたことだろう。今もそれがないとは言わないが、アポロンの心はとても穏やかだった。

 

 足早に本拠地に足を踏み入れたアポロンが最初に見たのは、地に額をこすりつけるようにして伏せているヒュアキントスだった。彼に追随するように幹部の数名も同じようにしている。残りの眷属たちも全員揃っているはずだが、彼ら彼女らは皆、事の成り行きを遠くから見守っているだけだった。

 

 数億年の時を過ごしてきたアポロンをしても、ヒュアキントスたちの背には悲壮な決意が感じられた。穏やかな気持ちであるアポロンとは反対に、彼の心中では後悔やら恥辱やら怒りやら激しい感情が渦巻いていたのだ。

 

 その気持ちもアポロンにはよく理解できた。同時に愛する彼らをそういう気持ちにしてしまったのは、他ならぬ自分の浅慮であることも良く理解していた。言い訳をすることもない。黙しているヒュアキントスの近くに、アポロンは膝をついた。務めて、穏やかになるように声をかける。

 

「顔をあげなさい、ヒュアキントス」

「尊顔を拝するには無様を重ねすぎました。我が神に合わせる顔などございませぬ」

「君がそうなっていることには、私にも重大な責任がある。もっと君たちの言葉に耳を傾け、真剣に考えるべきだったと後悔してもしきれないが……まぁ、今は他ならぬ君たちのことだ。私のために戦った君たちに、これ以上無理を強いるのは耐えられるものではない。言ってもきかないようだからここで神命を下そう。顔を見せておくれ」

 

 恥辱に打ち震えるヒュアキントスはその精神状態で主神の顔など見れるはずもない。だが、彼にとって主命は絶対である。ゆっくりとあげられたヒュアキントスの顔を見た時、アポロンは息を飲んだ。ヒュアキントスは冒険者だ。その職業柄危険な場所に飛び込むこともある。荒事など日常茶飯事でケガをすることももちろんある。

 

 しかし同時に、ヒュアキントスは頭の良い男でもあった。大怪我をして戻ってきたことなどアポロンの記憶にはない。まして衆人環視の中でぼこぼこにされるなど、二週間前の時点、誰に予想することができただろうか、と考えてアポロンは心中で自嘲した。おそらく自分以外の神は皆解っていたのだろう。この惨状は自分の愚かさが招いた結果だ。

 

 それを重々理解した上で傷だらけになったヒュアキントスの顔を見たアポロンに沸き上がったのは、

 

「傷ついた君の顔を見てそそると思ってしまった私を許しておくれ……」

「いや、許すなど恐れ多い……」

 

 普通に返答をしてしまったが、ヒュアキントスは困惑していた。予定外のことがあったとは言え、自分は主命に背いたのだ。主神の性格を考えれば厳しい叱責を受けるだろうことも覚悟していた。首を差し出せと言われれば喜んで差し出しただろうし、共に跪いた者たちも同じ覚悟だった。

 

 彼らにとって主命とは絶対で、これに背くというのはこういうことなのだ。居並ぶ他の眷属たちもこれから繰り広げられるであろう凄惨な場面を想像していたのだが、彼らの前に現れた主神は驚く程に穏やかで、あろうことか跪いたヒュアキントスの前に膝をついている。

 

 自分たちは一体何を見ているのだろう。困惑する眷属たちの中、唯一、こうなることが解っていたように振る舞うカサンドラが満面の笑みで眷属の中から進み出ている。基本的に非戦論者である彼女だが、どういう訳かこの『戦争遊戯』には最初から乗り気だった。

 

 それを他の眷属は不思議に思ったものだが、非戦論者というだけで変わり者であるという認識に変わる所はなく、変わり者の主義主張が変わった所で誰も気に留めなかった。果たしてこの女はこうなることまで予見していたとでも言うのだろうか。彼女の対応を疑問に思い、カサンドラのファミリア内での地位に変化が起きるのは、これから少し先のことである。

 

「ともあれ、そんな泥だらけではかわいい顔が台無しだ」

 

 そこまで言ったアポロンが顔をあげた先に、笑みを浮かべたカサンドラがいた。自分の眷属。未来を見通す娘。その精度には疑いを持っていたアポロンであるが、このカサンドラが開戦初期から乗り気であったことは、アポロンも記憶している。こうなることまで予見していたのだ。眷属たちと異なり、神であるアポロンは『未来を見通す』力というものに長い神生の間で慣れ親しんでいた。予見、予言、予知というのはあらゆる神話につきものである。

 

 カサンドラは無理やりファミリアに引き込んだ一人だ。負けることまで予見できたのであれば、離れる決断をすることもできただろう。改宗できると喜んでいたのであれば納得もできるが、アポロンの目にはカサンドラは心底喜んでいるように見えた。自分の都合を考えているのではない。他人と、喜びを共有できることを喜んでいる風である。

 

 気が弱い娘だ。しかし、何と心根の綺麗なことだろうか。自分は良い眷属を持った。そのことに、大負けに負けてアポロンはようやく気付いたのだった。

 

「カサンドラ、湯殿の用意を」

「もうしてあります!」

「話が早くて結構なことだ。それならダフネと一緒に食事の用意をしてもらえるかな。どうせ私たちは素寒貧だ。ならばいっそのことここで使い切ってしまおう」

「その、債務は……」

 

 ダフネの疑問は当然のものだ。これだけ大掛かりになった『戦争遊戯』で敗北した。そこから発生する債務は莫大なものでファミリアの貯蓄だけで賄えるものではなく、眷属全ての財産を処分しても足りないだろう。ファミリアそのものがロキ・ファミリアか、あるいはギルドに対して莫大な債務を背負うことになる。

 

 数字に強くないダフネでもこれがヤバい事態だとはっきりと認識できる程だ。神々の信用の元に発生した債務は子々孫々未来永劫その眷属に付きまとう。神が天に還るまでの間、それが消えることは絶対にない。ここオラリオにおいて神の名において行われたことは絶対なのだ。それは神々であっても破ることは許されない。

 

 そんなことは子供でも知っている。神々ならば猶更、その取り立てが深刻であることを理解しているはずなのだが、神アポロンはダフネの方を見やって片目をつぶり、悪戯っぽく微笑んで見せた。

 

「無い袖は振れまい?」

 

 それが苦し紛れの冗談であることは解っていたが、ダフネはアポロンの眷属になって初めて心の底から笑った。

望んで眷属になった訳ではないとは言え、この主神のことを何も知らなったのだと改めて思い知る。この神はこんな風に冗談を言う方なのだと思うと今までのこともほんの少しだけ許せるような気がした。

 

 全てを許せる訳ではない。それでも、こんな風に己のために戦った眷属を労うこともできる神なのだと思うと、もう少しだけこの方の下にいても良いのではないかと思えた。

 

 そう考えたのはダフネだけではなかった。ヒュアキントスたちを遠巻きに見守っていた眷属たちにも暖かなものが広がっていく。ダフネと同じような経緯で眷属になった者は数知れない。これを機会に改宗を考えていた者も少なくはなかったが、ダフネと同様にもう少しここにいても良いのではと思い始めていた。

 

 それは彼らが初めて、神アポロンの眷属となってから感じた連帯感だった。自分たちは今、ようやく眷属という言葉の意味を知り、眷属となり始めた。同じ旗を仰ぎ見て、同じ主神に仕える。冒険者であれば当然のことを倦んでいた彼らは今ようやく思い出したのだった。

 

「あまり吉事、という訳でもないが派手に行こう。ヒュアキントス、こういう会合のことを巷では何というのだったかな」

「残念会。そんな所でよろしいのではないかと」

「残念会か。良いね、素晴らしい。まさに我々の再出発には相応しい名だ。それから私の眷属たちよ!」

 

 

「ひとしきり騒ぎ、喰い、泥のように眠ったら大事な話がある。だが、まずは乱痴気騒ぎだ。予算のことも明日のことも気にしなくて良い。好きなようにしなさい」

 

 傲岸不遜。自分がこの世で最も貴いのだと振る舞っていた神が、穏やかに微笑んでいる。これが自分たちの仕える神なのだ。ヒュアキントスが、カサンドラが、ダフネが、居並ぶ眷属たちは自然とその場に跪いていた。全てはここからだ。ここから始めるのだ。無様に敗北し、全てを失って初めて、アポロン・ファミリアは一つになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づけばベルは『黄昏の館』に戻っていた。その間、ロキと共に馬車で移動していたはずなのだが、道中に何があったのか全く覚えていない。意識を失っていた訳ではない……はずだ。目は開けていた。耳も塞がっていなかったことは記憶にあるのだが、例えばロキと何を話したのかを全く覚えていないのだ。

 

 興奮と疲労から来る混乱だろうと御者をしていたラウルが教えてくれた。ロキ・ファミリアの二級冒険者の中では筆頭と目されている人間の男性だ。二つ名は『超凡夫』。短く刈り込んだ茶色の髪。地味ではないが派手でもないという、冒険譚に慣れ親しんだベルの感性では冒険者というよりも街の兵士と言った風貌の青年であるが、ベルはラウルのことが気に入っていた。

 

 神ロキの眷属となって数か月。冒険者としての経験を積んだベルであるが、肝心の眷属たちとの交友関係は一向に広まっていない。主に話しているのはリヴェリアとレフィーヤ。後は途中から加わったティオナくらいのもので実は顔と名前が一致しない所か、顔も覚えてもいない眷属の方が多い有様である。

 

 そんな中、接点がないながらもラウルは何かにつけてベルに話しかけていた。レフィーヤもティオナもいない時間を見計らってこっそり団員の紹介をしてくれたり、自分なりにベルの面倒を見ようとしていた。眷属のことを『ほとんど知らない』ではなく『知らない顔の方が多い』という表現で済んでいるのは一重にラウルのおかげだった。

 

 そのラウルに促され、ベルは『黄昏の館』の通路を歩いていく。眷属たちのことがあまり頭に入っていないように、ロキ・ファミリアの『本拠地』であるこの場所の構造も実はよく理解できていない。

 

 基本、オラリオに来てからは勉強か訓練かダンジョンであるため、遊びに出ることもない。

 

 故にどこどこに行けと言われても地図でもないとたどり着くこともできない有様だ。ラウルによれば『本拠地』で宴会をやる時に使用する所謂『ホール』であるらしいのだが、ここで宴会をやることは稀であるという。

 

 神やその眷属にとって身内という言葉、その事実は特別な意味を持つものだが、それは常に最前面に出ているものでもない。実利が関わってくるのであれば猶更だ。料理を外から持ち込んでくるよりは作ってくれる所に押しかけた方が前後の処理をしなくても済む分、宴をやる側にとってはとても都合が良い。

 

 ロキの趣味で『豊穣の女主人亭』を贔屓にしているように、普段はロキも外で宴会をやることを好むのだが、今回は特例である。ベルの勝利――つまりはロキ・ファミリアの大勝利が確定してから、神ロキの眷属たちは上も下もなくその準備に一斉に奔走した。

 

 食糧庫は空になり足りない酒は外に買いに走った。いつもは予算を気にするような面々も、何も気にすることはないという大盤振る舞いである。奇しくもこの時、別の場所でアポロンの眷属たちも同様の準備を始めていたのだがそれはまた別の話である。

 

 疲れたベルのことを察してか、饒舌だったロキも『黄昏の館』についてからは何も言わなくなった。にやにやと嬉しそうに笑いながら、ラウルに代わり手ずから眷属であるベルを先導して歩く。それに黙って付き従うベルの足元はどこか危うい。既に外に見えるケガは修行で余ったポーションで回復しているが、疲労までは抜け切るものではない。最後尾を歩くラウルはそのフォローのためにいるようなものだ。

 

 自分は主役を張る柄ではないと自覚しているラウルだからこそ、主役の大事さは理解している。ベルのママは実に過保護なのだ。修行の間は、可愛いベルがどれだけ瀕死になっても目を瞑った。スナック感覚で骨を砕かれていると知った時にはかの『九魔姫』も卒倒しかけたというが、『戦争遊戯』に勝利しベルが無事に戻ってきた今、かの『九魔姫』はベルが転んで膝を擦りむくことも許容しない。

 

 

 ラウルの行動には多分に保身も入っていたが、それを責める者はロキ・ファミリアにはいなかった。程度の差こそあれ、勝者は大切にされ、敬われるべきという認識は眷属たちの間に根付いている。神の代理戦争である『戦争遊戯』での勝利は、冒険者が受けるものの中でも最上に属するものであり、複雑な経緯を辿ったとは言えベルはロキ・ファミリアの全てを背負い、眷属の代表として戦い勝利した。

 

 神と眷属の名誉は、ベルの手によって守られたのだ。今日の主役はベル・クラネル。あのベート・ローガでさえ仏頂面で黙々と準備に協力しているのだから、その事実に揺らぎはない。

 

「到着!!!」

 

 着いたのは大広間。屋内訓練場を除けば『黄昏の館』で最も広い場所だけあって、扉も大きい。自分の背丈の倍以上もある扉を見上げるベルを他所に、ロキはそっと扉を開く合図をする。すると、

 

「ベルーっ!!!」

 

 大広間からティオナが飛び出してくる。まさか突撃されると思っていなかったベルは『戦争遊戯』の疲れも相まって吹っ飛ばされ、その勢いのまま後ろにいたラウルに追突した。想定外であったのはラウルも一緒だったがそこはレベル4の冒険者。ティオナごとベルを受け止めるが、抱き着いたベルの近くに別の男がいると見るや空気読めとばかりにぎろりと睨む。

 

 理不尽っす……とは思ったが口答えはしない。祝いの席に無粋な真似はするべきではないという思いがラウルにもあったからだ。すごすごとラウルが引き下がるのを見ると、ティオナは改めてベルを抱きしめた。そこに言葉はない。色々と言いたいことはあったが、それが口を突いて出ることはなかった。

 

 ただ、自分の思いの深さを示すように力強くベルを抱きしめる。レベル5の抱擁だ。レベル2のベルには息苦しさを感じるほどだったが、当のティオナがぐすぐすすすり泣いているのを見て身体の力を抜いた。それが男の役目と背中をさするようにすると、ティオナは声を上げて泣き始めた。

 

 おめでとー! とかありがとー!! と言うティオナの言葉に、ベルは一々頷き、お礼の言葉を返した。誰かが自分のために泣いてくれている。そのことがとても嬉しかったのだ。

 

「…………ごめんね。ありがとう」

「いえ。僕の方こそ、お祝いありがとうございます」

 

 えへへ、と照れ臭そうに笑ったティオナは小走りに仲間の元に戻った。主賓のベルはまだ会場に足を踏み入れてもいない。改めて、ロキの仕切り直しで大広間に入ったベルを、万雷の拍手が包んだ。

 

 人間がいる、エルフがいる、アマゾネスがいる、獣人がいる、ドワーフがいる。神ロキの眷属の全てが勢ぞろいし、一人の冒険者のために手を叩いていた。耳をふさぎたくなるような大音量に、ベルは呆然としている。仲間が自分のためにやってくれている。事実としてそれは理解していたのだが、いざ目の前にしても実感が沸かない。

 

 自分は場当たり的に行動をしていただけだ。確かにトドメを刺したのは自分であるが、そこに至るまでには多くの人の協力があった。一人だけでは絶対に達成することはできなかっただろう。これではまるで自分一人が英雄のようだ。称えるのであれば、共に戦ってくれたリューや椿も一緒でなければ。ベルの顔に浮かぶ僅かな不満と戸惑いを敏感に察知したロキが、そっと耳打ちをする。

 

「まずは、ベルっちゅーことや。内輪だけの会やかんな。他の神の眷属を呼ぶ訳にはいかんのや」

 

 それなら、とベルはゆっくりと気持ちを切り替えた。それを見計らったかのように、ベルにもグラスが渡される。それから先はとんとん拍子だ。荷物を担がれるように主賓席に移動させられ、ロキは全員を見回す。乾杯の音頭は主神である彼女の役目なのだ。

 

「ま、今更言葉はいらんやろ? 飲めや歌えや! うちらの勝利に!!」

『勝利に!!!』

「乾杯!!」

『乾杯!!!!』

 

 唱和と共に杯が掲げられると、やってきたのは喧噪である。代わる代わるやってくる眷属たちに飲み物を勧められ、勢いに任せて飲み干すのを繰り返す。そういう事態を見越してベルのグラスは小さなものになっていたのだがそれでも二十を超える頃にはベルに限界が訪れる。

 

 ベルの前にはお祝いのための行列ができていたが、主賓がげんなりしていては宴会も締まらない。気を回したロキが手を叩き、眷属たちの注目を集める。

 

「そんな訳でベルへのご褒美第一弾や! ぎゅーってしてほしい子を選んだってや!」

「選ぶ……というのは」

「今回一番頑張ったんはベルやかんな。まぁ、ええ目を見てもええやろって話や。誰指名してもかまへんで? 今日のこの日にまさか嫌や言う奴はおらんやろうしな!」

 

 ロキのド直球な同調圧力に一部の眷属からも苦笑が漏れるが、それでも反対意見は出なかった。基本冒険者というのは一般人に比べて気位が高いが奔放であり、功績に対しては報いるべしという感覚が染みついている。ベルは主神を同じくする眷属であり、今回の『戦争遊戯』で一番の功労者だ。交わって子を成せというのならばまだしも、ぎゅーっとするくらいならば目くじらを立てることもない。

 

 身持ちが堅いと思われがちで実際そうであることの多いエルフだが、種族的に信賞必罰はむしろ徹底している。気位が高いからこそそれに相応しい振る舞いが求められるのだ。その分排他的な感性に偏りがちであるが、ここにいるのはエルフであると同時に神ロキの眷属。種族は違えどもベル・クラネルは身内だ。

 

 異性である。未婚である。そこにエルフ的な問題は発生するものの、彼の功績と実質的に主神からの神命が飛んできたことを考えると、眷属としては拒否できるものでもない……というのが、エルフ的な理論武装だった。実際の所エルフだって溜まるものは溜まるし好きなものは好きなのだ。番う相手を選ぶのならばまだしも、一時の相手に求めるものは人間でもエルフでも獣人でも変わるものではない。

 

 はっきり言えば、最初に求めるものは容姿だ。

 

 そしてベル・クラネルは男性としては物足りなく見えるものの、少年としては十分に及第点を超える容姿をしていた。絶世のという枕詞をつけるには聊か難があるが、がんばったという事実さえあれば一時のやんちゃを受け入れさせる程度には、彼の容姿は神ロキの眷属たちに好意的に受け止められていた。

 

 この時点で、イモフライに夢中になっていたアイズ・ヴァレンシュタイン以外の全ての女性眷属が受け入れ態勢を整えていたが、同時に自分は指名されないだろうという確信を持つに至っていた。

 

 ベル自身も把握していたことだが、冒険者歴が浅いこともあって彼は非常に眷属との接点が少ない。訓練にしても勉強にしてもダンジョンにしてもパーティ内だけで完結してしまうことが大きな理由だ。つまる所、ベルと交流のある眷属は、リヴェリアとその弟子と目されているレフィーヤ、途中からパーティに加わったティオナくらいのものである。

 

 こういう時に指名できる相手というのは普段から交流のある相手に偏るものである。勿論、そうでない相手を選ぶことも考えられるが、ベルの性格でその対応は考えにくい。

 

 そんな訳で指名候補は三人に絞られる訳だが、この内リヴェリアだけが可能性がとても低い。

 

 女神も嫉妬するとされるほどの美貌である。その容姿に、内面にベルが惹かれている可能性も十分に考えられる。こと容姿という点では粒揃いのロキ・ファミリアであっても、リヴェリアの容姿は群を抜いているが、それ以前に立場が重い。エルフという種族全体を見てもリヴェリアよりも高貴な存在はほとんどおらず、オラリオでは間違いなく最も立場が高い。

 

 ロキ・ファミリアにおいては副団長という立場であり、ベルの母替わりでもある。十分すぎる程に頼りにしているのはベルの態度を見れば解るのだが、内心でどう思っていたとしてもここでリヴェリアを指名できる程、彼の肝は太くないだろう。

 

 ロキの提案をリヴェリアも予想していたようであるが、その顔には早くも諦めの雰囲気が漂っていた。自分が指名されることはないだろうと、彼女本人も悟っていたのだ。彼女を慕うエルフなどはその満更でもなさそうな態度に軽くショックを受けていたが、それは後でも考えることもできる。今はベルが誰を指名するかだ。

 

 リヴェリアが候補から外れると残りは二人である。エルフのレフィーヤか、アマゾネスのティオナだ。ラウルが密かに胴元になっている賭けにおいて、この二人のオッズは他の追随を許さない。ファミリア外まで目を向ければ『運命のエルフ』であるリュー・リオンが先の『戦争遊戯』のこともあって猛追してきているが、今はファミリア内のことである。

 

 推しの人数で言えば、レフィーヤの方に軍配が上がる。年齢が近いこともあり、最初にパーティを組んだことから一緒にいる時間も多い。ベルの勉強の面倒を見ているのはリヴェリアであることもあり、一緒に講義を受ける姿も度々目撃されている。

 

 ただ、エルフということもあって押しが弱いのも事実だ。その点、アマゾネスであるティオナは色々な意味で奔放だ。スキンシップに躊躇いがなく、顔を真っ赤にして照れるベルの姿も散見されている。こういう提案なら頼みやすい雰囲気というのも助けになっているだろう。

 

 事実、自分が指名されることを疑っていないらしいティオナはひっそりと柔軟体操を始めていたのだが、それにロキが待ったをかけた。

 

「あ、ティオナはなしや。さっき自分でぎゅーってしたもんな? 二回目は後にしてくれんか?」

「横暴だーっ!!!」

 

 となると、もう候補は一人しかいない。レフィーヤ・ウィリディスそのエルフだ。ベル以外の眷属は全て、彼女が指名されるものとして動き始め、他の眷属たちと同様、消去法で自分が指名される可能性が高いという想像に至りカチコチになっているレフィーヤを誘導する。

 

 ベルはうんうん悩んでいるが、ティオナが候補から外れた時点で彼の内心でもレフィーヤ一択になっていた。悩んでいるのは既に誰を指名するかではなく、どうやってなるべく穏便にレフィーヤという名前を切り出すかになっていた。

 

 だが悩んでも答えは出ない。ここで優雅に女性を誘えるようなら、賭けが白熱したりもしない。下手な考え休むに似たり。結局、直球でレフィーヤに頼もうと心を固めて顔を上げたベルは、そこでようやく眷属だかりが二つに割れ、レフィーヤまではっきりと視線が通るようになっていることに気付いた。

 

 まさか僕の考えは見透かされていたのか! と衝撃を受けると同時に、固まっていた決意も微妙に萎びて行く。いざ現実を前にすると怖気づいてしまうのは誰にでもあること。まして十代半ばの初心な少年が年頃の少女を公衆の面前でお誘いするのだから、その緊張もかくやというものだ。

 

 しかし、ベル・クラネルも神ロキの眷属である。嘘と欺瞞を司る自分の主神が、ここで怖気づき後退ることを由とするはずもない。こと女性関係において『空気読め』と言われることは、この年代の少年にとってとてもキツいことなのだ。

 

 周囲からは期待の視線が注がれている。もう既に場は固まっていたが、あえて言葉を口にすることを期待されている。肌でそれを感じ取ったベルは、からっからになった口を何とか動かし、言った。

 

「レ、レフィにお願いしたい……です!」

「よう言った!! さ、レフィーヤご指名やで。ベルのことぎゅーってしたってや?」

「え!?」

「何がえ!? やねん。今回ベルが一番頑張ったんやから、こっちから色々したらんとな!」

 

 そうだそうだと、周りの眷属からも次々とロキ擁護の声があがるに至り、レフィーヤは周囲に味方がいないことを悟った。一縷の望みをかけてエルフが集まる一角を見るも、肝心のリヴェリアはレフィーヤの位置からでは姿が見えず、姿の見える面々は頑張れーと囃し立てている。もはや逃げ場はなかった。

 

 別に嫌な訳ではないのだ。ベルが頑張ったことはレフィーヤも良く解っているし、それを労うつもりではいた。でもそれは一人でこっそりと、できれば二人きりでと考えていたもので、ここまで人目につく場所で行うつもりなど毛頭なかった。

 

 恥ずかしさで卒倒しそうだが、ここで倒れてお流れになることなど、レフィーヤ自身を含めて誰も望んではいない。恥ずかしくても人目があってもやるしかないのだ。

 

 やると決めたら早い方が良い。何やら慌てているらしいベルを目指して猛ダッシュをしたレフィーヤは、まるでタックルという勢いでベルに飛びついた。

 

 ベルは溜まらず体勢を崩すが、ここで転んでは男が廃ると何とか踏みとどまった。その勢いでレフィーヤの背に手を回し、強く抱きしめてしまう。ハグというには強い抱擁。理想的なぎゅーに、眷属たちから歓声が上がった。下世話な内容で囃し立てる声も、しかし二人には聞こえていなかった。

 

 思春期真っ盛りのベルの耳に聞こえるのは、レフィーヤの荒い吐息である。目の前にはレフィーヤのとがった耳があった。ああ、この耳を触らせてもらったんだなと、茹った頭でぼんやりと考えていると年頃の少女の柔らかさやら良い匂いやらがやってきて、たまらずパニックになる。

 

 叫んで大暴れしなかったのは、単にレフィーヤに抱きしめられていたからだ。後衛職ではあるがレベルで一つ勝るレフィーヤの腕力は、まだまだベルを上回っている。逃げられないと悟ると、ようやくベルも落ち着きを取り戻した。身体から僅かに力を抜き、レフィーヤに身を預けた。

 

 時間が経って冷静さを取り戻したのは、レフィーヤも同様である。細いと思っていたのに意外と厚い胸板とか、冒険者特有の血と汗の混じり合った匂いに眩暈を覚えると、触った手の先に、目に見える首筋に無数の細かい傷が見え隠れしている。

 

 それは彼が自分の知らない所で研鑽を積み、自分以外の者と共に戦った証である。彼の成長を一番近くで見守り、共に戦うべきは自分であったはずだ。少なからず、その自負のあったレフィーヤはベルの傷を見て心を乱される。

 

 彼はまた偉業を達成した。ランクアップは間違いない。ベルが神ロキの眷属となったその日、二つあった差はこれでなくなってしまう。それはレフィーヤが導く立場でなくなることを意味していた。そうなった自分に居場所はあるのだろうか。考え始めると、嫌な想像は頭を離れない。暗く、自分勝手な想像を振り払うように、レフィーヤは努めて明るい声を出し、ベルに問うた。

 

「ところで…………どうですか?」

「どうって?」

「嫁入り前のエルフがここまでやったんです。一つ二つ、機嫌を取るような感想をくれても罰は当たらないと思いますよ?」

「感想って……あ」

「あるんですね? では正直に言ってください」

「いやあの、でも……」

「なんですか? 私には言えないようなことなんですか?」

「そんなことは、ない、です……はい」

「解りました。ならこうしましょう。ここでだんまりを決め込んだら、そのことで私は怒ります。でもここで正直に話せば、怒らないことを考えてあげます」

 

 どっちにしろ怒られる未来しかないことを、ベルはこの時はっきりと悟った。レフィーヤとのやり取りは周囲の眷属の耳にも届いている。場の雰囲気に舞い上がっているのだろう。自分の身体がどうであったのかと人目のある所で異性に問うなど、エルフにしては相当に攻撃的な問いかけである。

 

 眷属たちは大盛り上がりだが、その中でも特に盛り上がっているのがエルフ組だ。最も年若いレフィーヤに春が来ている事実には色々と思う所があるものの、同朋として応援したい気持ちがあるのも事実。今まさに彼女のエルフ生で初めてだろう異性の少年との戦いを、エルフの先達たちはかたずを飲んで見守っていた。

 

 眷属たちの視線を受けてベルはようやく観念した。じっとこちらを見つめるレフィーヤの視線を正面から受け止め、それでも、恥ずかしさは拭い切れずに小さく、しかしはっきりと呟いた。

 

「その……………………結構()()んだなって――」

 

 言葉が終わるよりも早く、ベルの顔に頭突きが叩き込まれた。鼻を押さえて後退するベルの足に、容赦のないローキックが叩き込まれる。溜まらず膝をついたベルの頭に、先ほどまでとは別の意味で顔を真っ赤にしたレフィーヤは内心で渦巻く羞恥を振り払うように声を張り上げ、力任せに拳を振り下ろす。

 

「貞淑な! エルフに向かって! なんてことを言うんですか!」

「でも正直に言えってレフィが――」

「言い訳しないこのスケベ! 変態! エロウサギ!」

 

 甘酸っぱい空間が広がったと思ったらもう修羅場である。このカップルは前途多難だなと爆笑に包まれる大広間の隅に、ひっそりと佇んでいるのはリヴェリアである。いつもの取り巻きも、この時ばかりは近くにいない。年若いレフィーヤの恋愛模様に興味を惹かれ、輪の最前線に行ってしまったからだ。

 

 グラスも持たず、腕組をしてじっとしている彼女の元に歩み寄ってきたのは団長、フィン・ディムナである。結団以来の付き合いである小人の『勇者』は、ハイエルフの同朋に向かって苦笑を浮かべた。

 

「慶事なんだ。あまり難しい顔をするものじゃないよ」

「普通にしていたつもりなんだが、修行が足りんな」

「君ほど勤勉に研鑽に励むエルフを僕は知らないけどね。さて、友人として質問するけど、何か悪いことを考えているね? 君がそういう難しい顔をするのは、波乱の前兆だと記憶しているんだけど」

「人聞きの悪い。私はただ、たまには本気を出して良いものかと考えていただけだ」

 

 こともなげに言う旧友に、自分の考えが間違っていなかったことを悟ったフィンはそっと溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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『戦争遊戯』 その後②

 

 

 街中大騒ぎだった『戦争遊戯』にも一区切りがつき、オラリオにも日常が戻って――は来なかった。非日常というのは日常を押しのけて存在する訳で、その間に押しのけられたものは、なかったことにはならない。

 

 つまるところ、その間に処理されるべきだった先送りされた物は当然その未来において、処理すべきだった者の所に舞い戻ってくる。

 

 それは全ての職種、全ての種族に共通するものだった。とりわけ、日々業務が多岐に渡るギルドは大わらわである。彼らの主な職務は冒険者の対応であるが、その冒険者たちが曲者だ。彼らの中にはまだ『戦争遊戯』の熱気が残っているのだ。

 

 冒険をしてやるぜ! とテンションの上がった冒険者たちがひっきりなしにギルドを訪れ、テンションの上がった状態のままギルド職員と折衝をしたり、同業者と衝突したり、挙句ギルド内で乱闘騒ぎを起こしていた。乱闘が起こっているのはギルドに限った話ではなく、オラリオ全域でのことらしい。

 

 その辺りの対処のために、一部の冒険者に依頼が出る程だ。いつにも増して忙しいというか、エイナが職員となってから一番忙しい日々が続いているが、この熱気をエイナは悪くないと思っていた。

 

 何しろ憎からず思っている少年の大活躍の結果なのだ。まぁ、彼の『運命のエルフ』としてその筋には評判のリオン某との色々が、オラリオ中に広まってしまった訳だがそれはそれだ。リオン某は純血のエルフであるが、その血はエイナにも流れている。あれは自分にも通ずるものだと無理矢理思えば気分も悪くない。

 

 具体的にベルに対して何をしたいとか思い詰めている訳ではないものの、エイナとて年頃の女性である。自分の将来について、考えたことがないでもないのだった。

 

 結婚するならどんな男性が良いのだろう。厳つい、いかにも冒険者らしい筋骨隆々とした男性は威圧的に感じてしまってあまり好ましくない。リードはしてほしいという思いもあるが、できることなら自分が面倒を見てみたい、というのがエイナの偽らざる欲求だった。

 

 身長はあるに越したことはないが、自分と並んで歩けるくらいがちょうどいいと思う。それを考えると小人族やドワーフというのは自分の男性観としてはあまり好ましくない。

 

 愚者であれば困りもするが、賢者である必要はない。学識こそ全てと考える者はどの種族にもいるが、生きていくに十分な知恵を持っていればそれで良い。

 

 別に養ってくれなくても良い。慎ましくも幸せに、手を取り合って日々を生きていけたらそれで良い。

 

 できれば年下で童顔が良いなーと、仕事をしながら自分の将来に思いを馳せていると、不意にギルドの喧噪が不自然に途切れる。その一瞬はエイナの思考を引き戻すには十分なものだった。資料から視線をあげて見た入り口には、オラリオで最も有名で高貴なエルフがいた。

 

 かつて英雄譚にも登場した存在に連なる血筋であり、本物の姫にして高位の冒険者。ロキ・ファミリア副団長にしてレベル6。オラリオ最高の魔術師と名高い『九魔姫』リヴェリア・リヨス・アールヴ。病に臥せっているエイナの母アイナが今も変わらず忠誠を誓っている存在であり、人間である父との仲も取り持ってくれた、色々な意味でエイナにとって頭の上がらない存在だ。

 

 そのリヴェリアがまっすぐ、エイナに向かって歩いてくる。多忙な日だ。当然、エイナのカウンターの前にも他の冒険者たちが列を作っていたのだが、リヴェリアはその最後尾に並んだ。レベル6の冒険者にしては律儀なことであるが、ギルドからの召喚命令などの何らかの理由で予約でもしていない限り、順番は守れというのは冒険者の上から下までの鉄則である。

 

 かの『九魔姫』であっても例外ではない。他に並んでいるのがどこの誰であろうと順番を譲る理由にはならないのだが、実力主義の冒険者の世界にあって力による序列というのは絶対だ。エルフ世界の事情を全く加味しないとしても、リヴェリアのレベルは6。オラリオに存在するほとんどの冒険者よりも高位であるというその事実は、特にレベル1、2の駆け出しに毛が生えたレベルの冒険者たちからすれば、敬意と恐れを持つには十分だった。その『九魔姫』が急いでいる様子であれば猶更である。

 

 示し合わせた訳でもなく、一人また一人と列を抜けると、リヴェリアの前には誰もいなくなった。考え事をしている間に自分が列の先頭になっていることに気づいたリヴェリアは、周囲を見回し視線で問うた。良いのか? 良いに決まっているのだ。順番を譲った冒険者たちがばらばらの仕草で先を促すに至ると、すまんな、と小さく言葉を漏らし、リヴェリアはカウンターに手をついた。

 

 翡翠色の長い髪がさらりと流れる。美しさも磨かなければ光らないと言うが、凡人がいくら磨いた所で到達しえない美というものがそこにあった。女神も嫉妬するという美貌を前に、エイナは思わず立ち上がる。

 

「エイナ・チュール。お前はアイナから一通りの技術を伝授されたと聞いているが、それはどの程度だ?」

「思い上がられても困るが、これだけできるのであれば助手としてなら使ってやると言われました。ギルドに就職する、少し前の話です」

「結構。本来であれば我が親友である所のアイナを、寝所から引きずりだしてでも頼むのが筋というものなのだが、ことは急を要する。今この街において、お前だけが頼りなのだ。どうか力を貸してほしい」

 

 返事はもちろんイエスだ。アイナから忠節について、恩義について幼い頃から説かれていたエイナにとってリヴェリアの頼みを断るという選択肢はない。それでも即答を躊躇ったのは、ギルドが今ご覧の有様だからだ。ギルドには沢山の職員がいる。自分一人が抜けた所で、減少する総合力などたかが知れているが、猫の手も借りたい状況というのは今この時のことを言うのだ。

 

 務めてまだ短い組織ではあるが、愛着はあるし義理もある。仕事に忙殺される同僚を放って、個人的事情で席を立つことは、若いエイナには躊躇われた。

 

 そしてそれを察せないリヴェリアではない。

 

「昨晩の内に人を飛ばした。神ウラノスには話は通っている。個人的事情でエイナ・チュールを借り受けるとな。返答は是ではあったが、ギリギリまで仕事をさせてくれというのでやってくるのがこんな時間になってしまった訳だ」

 

 冒険者が自分の都合でギルドの職員を動かすのだ。可能か不可能かで言えば可能であろうが、当然、ギルドからも他の冒険者からも良い顔はされない。ギルドの理念は公正であり公平。いかに高位の冒険者であるとは言え、一個人の頼みを一々職員が受けていたら、組織さえ回らなくなる。

 

 公平公正がギルド職員の理念であるならば、独立独歩が冒険者の信条である。上に行けば行くほど、組織のしがらみというものを理解し、そういう行いをしなくなるものだ。団長であるフィンと共に、ファミリアの頭脳労働を担っている者として、リヴェリアはそれを熟知しているはずだ。

 

 それが、その上でなのだ。彼女の状況がどれだけ逼迫しているのか、エイナには手に取るように理解できた。これで協力しないとなれば女が廃るというものだ。エルフの宮廷儀礼は、幼い頃から母に仕込まれた。母はよりによって姫を連れて国を出てきた身である。どの面を下げて故郷に戻るのかという話であるが、それでも備えというのはしておくものだと頑として譲らなかった。

 

 子供の頃はそれを本気で疎ましく思ったものの、そういう厳しい躾を経て今の自分があるのだと思うと、母への尊敬の念も強まるのである。

 

 昔からの従者であるように。母を真似てエルフの古典礼でもって、リヴェリアに頭を下げる。

 

「アイナ・チュールの娘、エイナ。御意にお応えします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冒険者歴どころかオラリオ歴の短いベルにとって、宴と言えば宴会であり、その会場は主神ロキのお気にである『豊穣の女主人亭』か『黄昏の館』のどちらかである。なのでロキに宴やでと誘われた時は皆が賑やかにやるものだと思ったのだが、まずドレスコードがあるということに驚き、ロキ持ちで一張羅を仕立てることになって更に驚き、仕立て屋さんのお姉さんにあーでもないこーでもないと身体を触られて色々な意味で驚いた。

 

 驚き続きで目の回る中、それでも時間は流れていく。会場であるバベルの前まで立派な馬車で連れられた時には、見事に服に着られた一匹の『白兎』が出来上がっていた。

 

 田舎暮らしのベルにも、この服が良い物だというのは解る。何しろ自分が普段着ている平服とは肌触りからして違うのだ。高貴な生まれのリヴェリアなどは平服もこういう素材ばかりと聞くが、根が庶民であるベルはそれを想像すると気分が滅入るばかりである。

 

 そんな高価な服を着ていては気が休まらないはずだ。きっと、今の自分のように……

 

「まぁ、そこまで固くなる必要はないっすよ。ベルは今回の主賓っすからね。取って食われるようなことはないっす」

 

 今日も今日とて御者をしていたラウルが、ベルにそっと囁く。会場に入らない御者役の彼も今日は一張羅だ。物語の騎士というよりは兵士という風貌の彼であるが、流石にベルよりも年期があるせいか一張羅も着慣れている風である。良い意味での緊張感のなさはいまだに田舎者気分が抜けないベルの見習うべき所だった。

 

「今から休むという訳にはいかないでしょうか。何だか気持ち悪くなってきました……」

「慣れておいた方が良いっすよ。これから何度もこういうとこには来るんすから」

 

 からからと笑うラウルは完全に他人事である。

 

「それじゃ、俺は馬車で待機してますから、帰る段になったら呼んでください」

「おおきになー」

 

 ラウルは馬車と共に消えてバベルの影に消えていく。塔そのものが大きすぎて影裏手と言ってもかなりの距離がある。人の流れもあり、馬車がそれに乗って行くのを見送りながら、ベルは疑問を口にした。

 

「ラウルさんは一体どこへ?」

「馬車の駐輪場があっちにあってな。御者は連れてきたもんが帰るまでそこで待機や」

「……寂しくないですか?」

 

 自分たちは華やかな会場でパーティ。方やラウルは駐輪場で待機だ。主賓として招かれている身ではあるものの、気の良い先輩のラウルが寂しい思いをするとあっては、ベルとしても気が気ではない。

 

「この街の御者っちゅーんはそういうもんや。その分お小遣い渡しとるし、御者は御者でそれなりの給仕(サーブ)受けられるしな。案外楽しんどるんやないか?」

 

 言われてみれば確かに、馬車にからころ揺られるラウルに寂しそうな気配はなかった。慣れからくる強がりかと思っていたのだが、ロキの言うように別に楽しみがあるのなら、気にしすぎなのかもしれない。

 

 何より今は他人よりも自分のことだ。着慣れない服を着てキラキラした建物の前に立つのは、武器を持たずにダンジョンに入るよりも緊張する。事実、今の緊張感は数日前『戦争遊戯』に臨まんとしていた時に匹敵する。がちがちに緊張したベルを見て、ロキは柔らかく微笑んだ。いつもはヘソだしスパッツの彼女も、今日は鮮やかな赤のドレスである。

 

「ま、今日はベルが主役やさかいな。堂々としとき」

「そんなことを言われても……」

 

 言われて堂々とできたら苦労はしない。おろおろするベルを見て、ロキは母性本能をくすぐられていた。親としては何とかしてあげるべきなのだろうが、こういう困った様子のベルを眺めるのも中々オツなものだ。

 

(ウチの子はなんちゅーかこう、初々しい子はあまりおらんからなぁ……)

 

 手がかからないというのもそれはそれで問題なのだ。かわいい子ばかりであるが、ベルほど初々しいのは過去まで遡っても一人もいない。そのベルが一際優秀なのだから、世の中解らないものだ。

 

 悪い意味で神々の注目を集めるのはロキをしてもあまり良くないことと言わざるを得ないが、英雄の道というのは得てして困難が伴うものである。

 

 そのための主神、そのための眷属、そのための家族であり、そのための仲間だ。ベルが道に迷っているのであればその手を引いてあげれば良い。打ちひしがれた時には励まし、挫けた時には共に戦う。正しく、彼は今一人ではないのだ。

 

 自己弁護は済んだ。つまりは何かあった時にケツを持つのは自分たちなのだから、泣かない程度に存分にからかってかわいがったれというのがロキの主義である。女性の多いロキ・ファミリアだ。きっと多くの団員がこの意見に賛同してくれるだろう。

 

 ロキにからかわれながら、ベルはバベルを上る。エレベーターに驚き、すれ違う人のきらびやかさに驚き、ハイソな雰囲気に更に驚き、見るもの聞くもの感じるもの全てに驚くベルに、ロキのテンションも最高潮に達しようとしていた。楽しい。常にそうあるべきと考えているロキであるが、今は最高に楽しい。

 

 この瞬間をつかむために色々と不愉快なこともあったが、ベルのこの姿を見れたことを考えればおつりがくるくらいだった。不安そうなベルの手を握り、彼がぎゅっと握り返してきた時など、興奮で叫びそうになるのを堪えるのに苦労した程だ。

 

 後で絶対フレイヤに自慢したる。穏やかな笑みを浮かべながら内心、嫉妬で怒り狂うだろう古い友神の姿を考えていることをいつもの笑みに隠しながら、ロキはベルの手を引いたまま、従者役の冒険者に大広間の扉を開かせた。

 

 きらびやかな世界。着飾った人々。一柱の神に一人の眷属。そのルールを考えれば給仕を除いて、ここにいる半分は神様である。ほとんどの冒険者にとって、馴染みがある神というのは自分の所の主神くらいで、他の神とはあまり交流があるものではない。ベルとて名前を知っている神様は大勢いるが、それと顔が一致するのはロキくらいのものだ。

 

 ちなみにその彼ら彼女らは既にパーティを楽しんでいた。招待されるのも神々なだけあって、最低限の格式は求められるものの、その実は自由である。主催者から招待さえされれば、いつ来ても構わず、参加さえすればいつ帰っても良い。

 

 主賓主催がやってくる前にパーティが始まっているのも、そういう理由である。進行の事実上唯一のルールは、主催者と主賓が帰る前にパーティを終えてはいけないというものだけ。開始時間も終了時間も決められていない、中々混沌とした催し物なのである。

 

「まぁ、これを機に顔を売っとくのもえーやろ。ウチは謙虚で寛大な神様やから? 大抵のことは許したるでー」

「そうですね。ありがとうございます。神様」

 

 ベルの考えでは、ロキの言に異論はない。彼女は謙虚で寛大だ。それが偽らざるベルの本心だったのだが、ロキは自分がそうではないことをはっきりと認識している。自分の子供のキラキラとした視線を受けると、自分がそれだけ汚れた存在であるような気がして背中のかゆくなるロキだった。

 

「…………あー、あれや。まずは今回世話になった連中にご挨拶やな」

 

 微妙に動きがぎこちなくなったロキが最初に紹介したのは、髪の長い穏やかな表情の男神だった。その正装はベルの思い浮かべる理想の紳士然としていて、同性であるにも関わらず思わず視線を奪われた。物腰穏やかで女性に優しい。それがベルの思う男性の理想である。

 

 男神はロキを見て、深い笑みを浮かべた。ロキも気安そうに歩み寄り、その身体をバシバシと叩く。

 

「ミアハ。ウチの子のベルや」

「会えて光栄だ、『白兎』」

「今回大量に使うたポーションはな、八割くらいミアハのとこが用意してくれたんやで?」

「そうだったんですね。ありがとうございます!」

 

 バケツポーションには世話になった。具体的には、なければ千回は死んでいたというくらいに世話になった。その提供者であるならせめて沢山の感謝の言葉と感想を送りたかったのだが、口から摂取した時には血の味しかしなく、そもそも提供されたポーションは浴びることで摂取した。

 

 その分、誰より効果を体感していたが、果たしてこのようなコメントを薬屋さんが求めているのかどうか……

 

 何と言ったものかと百面相をしているベルを見て、ミアハは穏やかに笑った。彼からすれば自分たちの作った薬品が誰かの助けになっただけで十分だった。なのにこの少年は、ただの製作者に過ぎない自分たちに心を砕こうとしている。過分な対応に、仇敵に嫌みを言われたばかりで微妙にささくれ立っていたミアハの気持ちは穏やかになっていた。

 

「なに。今回の大量発注のおかげで珍しく儲けさせてもらった。これからも贔屓にしてくれたら幸いだよ。ナァーザ、お前もご挨拶なさい」

 

 ミアハの隣にいた獣人の少女が、ぺこりと頭を下げる。遠目にミアハと会話しているのを見た時は表情豊かに思えたのだが、今は固い。信用されていないと言われているようで地味に傷ついたベルだったが、初対面ならばこんなものだろうと努めて笑みを浮かべて、自分から手を差し出した。

 

「ベル・クラネルです。今回はお世話になりました」

「ナァーザ・エイスリス。今後とも青の薬舗をよろしく」

「もう少し気安くて構わないのではないか? 年も近いようだし、私としては彼女の友人になってくれると嬉しいのだ。この子も優秀で優しくはあるのだが、私の力不足のせいで、どうにも外と交流を持たなくてね」

「ミアハ様……」

 

 ベルと握手をしたまま、ナァーザは困惑した表情をミアハに向けた。眷属にとって神命は絶対だが、その絶対っぷりには個人差がある。ベルは神ロキの眷属なだけあって、比較的緩い雰囲気の中で過ごしているし、本人もそのつもりでいるが、他の神と眷属の関係が自分たちと異なることがあるということは理解しているつもりだ。

 

 その知識で考えてみるとナァーザは、例えば神命は絶対であり全てであるらしいフレイヤ・ファミリアよりも、自分たちロキ・ファミリアに近い感性を持っているように思えた。ただ、視線の種類にはフレイヤ・ファミリアの眷属たちに近いものが少しだけ見える。何というのか……恋をしている少女のようだ。

 

 ならばあまり、意中の相手の前で触れ合うのも具合が悪いだろう。さっと手を放したベルに、ナァーザは訝し気な視線を向けた。ベルは曖昧な笑みを浮かべてナァーザではなくミアハを見る。視線の意味に気づかないミアハは首を傾げるばかりだが、敏いナァーザはすぐに気づいた。

 

 余計な気を回して……と思ったナァーザだったが、久しくそういう配慮をされていなかったこともあって、照れを隠すように無理やり笑みを浮かべる。

 

「神命、だけでなく……貴方とは友人になっておきたい」

「ナァーザさんが良いなら、僕も喜んで」

「よろしく、ベル。私のことはナァーザって呼んで」

「よろしくね、ナァーザ」

 

 小さく手を振ると、ナァーザも小さく手を振り返してくれる。これだけ近い距離にいるのにおかしなことだ。顔を向けあい微笑みあっていると、ロキが肘で突いてくる。

 

「ほんならなー。パーティ楽しんでや! ウチが金出した訳ではないけどな!!」

 

 からからとロキは愉快そうに笑った。正確にはロキ・ファミリアが主催であるが、資金を供出したのは敗者であるアポロン・ファミリアである。書類の上では共催ということになるのだろうが、ここに集まった者は皆、ロキが主催したと思っているはずだ。

 

 とは言え神々は気安いものだ。主催者だからと言って態々挨拶に来たりはしない。神々のパワーバランスは常に決まっており、よほどのことがない限りは変動しない。今更ロキに取り入ろうとする神がいるならば、この時を待たずに行っている。行えないなら地上においてはその立場にないということだ。

 

 ロキに限らず、神々というのは自由な生き物だが、地上においては眷属の質と数がその神の力となる。特にここはオラリオだ。その傾向は顕著であり、ロキの機嫌を損ねることは如何にも不味いということは神々の共通認識である。

 

 『白兎』を目で追いつつも、ロキの邪魔はしない。ロキのことは怖くなくても、地上にいられなくなることは神々にとって重大事なのだ。

 

「で、こっちがディアンケヒトや」

 

 ミアハと別れたロキが次に案内したのは、気難しそうな白髪の老人だった。姿だけはベルも見ていた。ミアハと話している時に、不機嫌なのを隠そうともせずに佇んでいたのがこの神だった。不機嫌の理由はベルには全く分からなかったものの、それでも、立ち去りもせずにそこに佇んでいたのは自分たちに用事があるのだということくらいは理解できた。

 

 神だけあって身なりは良く、髪の色から服の色まで白で纏められている。ここまで白ければ穏やか、高貴な印象を受けてもよさそうなものだったが、ベルが感じたのは冬眠前の熊のような印象である。はっきり言って近づくのも怖いくらいだ。穏やかな印象を受けたミアハとは対象的だ。

 

 当然会ったことのない御仁であるが、ディアンケヒトの名前と少々の悪評はベルも聞き覚えがあった。

 

 装備は自分に合ったものを、ということで例えばロキ・ファミリアではアイズやティオナなどはゴブニュ・ファミリアに。ベートや当のベルなどはヘファイストス・ファミリアと本人の望むものや、鍛冶師の得意なもので依頼先が異なる。

 

 反対に誰が使っても効果が一定である薬や、素材の引き受け先などは一か所に絞ることが多い。個人とファミリアよりは、ファミリア同士の方が色々と融通が利くためであり、基本、ロキ・ファミリアが薬品を依頼する時にはディアンケヒト・ファミリアに依頼をすることが多いと聞いている。

 

 値段はお高めだが高品質のポーションを大量に用意できるというのがその理由だが、ロキが最初にベルに紹介したのはミアハだった。何か事情があったのだろうか、と首を傾げるベルに、ロキが耳打ちする。

 

「あるだけ大量に、いう依頼やったから対応できんかったんや。それはそれで信頼できる仕事やと思うけどもな。出せんいうもんは仕方ないし」

「在庫を全て放出しますと、他のお客様に対応できなくなってしまうもので……」

 

 ロキの言葉を引き継いだのは、ディアンケヒトの横に立つ白髪の女性だった。

 

「ディアンケヒト・ファミリア団長、『戦場の聖女(デア・セイント)』アミッド・テアサナーレです。此度の活躍、お祝い申し上げます。『白兎』」

「こちらこそご丁寧に。お名前は聞いています。オラリオでも最も高位の治癒魔法の使い手であるとか」

 

 最高の魔法使いということであれば『九魔姫』リヴェリアの名前を誰もが挙げるだろうが、こと治癒魔法に限ってであれば、アミッドは他の追随を許さない。エリクサーを凌ぐと言われるその手腕は数多のファミリアから重宝され、高品質な薬品の取り扱いも相まって、個人としても一目も二目も置かれる存在である。

 

 決して評判の良くないディアンケヒトの振る舞いにも関わらず、そのファミリアが機能しているのはアミッドの公平無私な人格に寄る所が大きいとも、ベルの耳にさえ入ってくる。

 

 ならば何故、そんなディアンケヒトの恩恵を受けるに至ったのか。素敵な神様に巡り合えたベルとしては疑問は尽きないが、公平無私だからこそかもね、と思い直した。人格的にも能力的にも非常に尊敬できる冒険者だ。しかも美人さんであるなら、敬意を払わない理由はない。

 

 多大な尊敬と少しばかりの下心をもってベルが差し出した手を、アミッドは無感動に握り返した。自分ではきりっとした表情を作っているつもりなのだろうが、微妙に間が抜けている。特に女にはその内面は手に取る様に見透かされてしまうだろう。

 

 悪く言えば単純、良く言えば純粋な彼の態度はアミッド個人としては好ましいものだった。彼のような人好きのする年下は多くの先達が構うものである。アミッドの目から見てもベル・クラネルというのは人気者の資質がある。

 

 人となりを知って行けば行く程味の出るタイプだ。最初からソロで行動していれば味が出る前に埋もれてしまった可能性もあるが、そこは大所帯のロキ・ファミリアだ。彼に目をかける者は大勢いるし、既に名前も売れている。

 

 そして人気者というのは、商売人にとって何より優先すべき上得意となる可能性を持っている。彼一人を狙い撃てば回りの人間もついてくるのだ。これほど楽で美味しい存在もない。既にロキ・ファミリアは上得意と言っても良いが『運命のエルフ』や椿・コルブランドのように、オラリオにやってきて半年にも満たないにも関わらず、ファミリアをまたいで付き合いがあるのは稀有なことだ。

 

 個人的にも打算的にも縁は切ってはならない相手。ならばもう少し愛想を良くしても良いのではと自分でも思うが、努力はしているものの未だそれが実を結ぶ気配はない。

 

 笑みを浮かべる白髪の少年をアミッドは眺める。彼が売り子をしてくれたら、それだけで売り上げが伸びそうなものだが……才能と願望と環境がかみ合わないということは往々にして存在する。彼の見た目と印象を考えれば、決して冒険者などの荒事などに向いているとは思えないのだが、その実は最速記録を塗り替え続けるレコードホルダーだ。

 

 周囲の視線に気づかない程鈍いということもないはずだが、自分の実績を鼻にかけるということもない。自制心があり、愛嬌があり、能力があり、将来性もある。『九魔姫』が熱をあげるのも解るなと薄く笑みを浮かべたアミッドは、彼女のお気に入りに手を出していると思われないよう、自分の好みとは切り離し、極めて事務的に対応した。

 

 それでも、普段の彼女と比べれば格段に愛想は良かったのだが、アミッドと初めて会うベルは去って行く彼女の背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

「何か失礼をしてしまったんでしょうか……」

「そか? ウチはそないな気はせんかったけどなぁ。ま、女の子の扱いは難しいから、気になるんやったら後で改めてポーションでも買いに行ってやり」

「そうします」

 

 思えば自分でポーションを買いに行くのも初めてのことだ。今日一日で薬屋さんと二人も知り合ってしまった訳だが、さてどちらに最初に買いに行こう。うんうん悩むベルに、ロキが紹介したのは燃えるような赤毛の女性である。

 

 その目には眼帯があり、それを見たベルは椿を連想した。ベルの視線が自分の赤毛、眼帯と移り、その後に解りやすい理解の色を浮かべたことに、ヘファイストスは小さく笑みを浮かべた。これはまた随分と椿が好みそうな性質の少年である。

 

「会うのは初めてね、ヘファイストスよ。うちの椿が世話になったわね」

「いえ、僕の方こそ椿さんにはお世話になりっぱなしで……」

「是非聞きたいわね。あの娘、結構やりすぎることがあるんだけど、具体的には何をしたの?」

「百回は骨を折られました!」

 

 ベルの笑顔に、神の中では比較的良心的な感性をしているヘファイストスの笑みが若干曇る。特殊な成長をしているベルにとっての普通は、平均的な冒険者の普通と比べると大分乖離している。予算がかかるからめったなことではできないとバケツポーション作戦のことを説明されたが、彼はそれを予算があれば皆がやりたがるものだと解釈していた。

 

 先輩は後輩の上達のためには容赦なく骨くらいは折るものなのだという『普通』がベルの中でできあがりつつある。これは矯正の必要あるなーと内心で思いつつ、このまま話が続くとベルの性癖が歪んでしまうと判断したロキは、ベルに見えないように、ヘファイストスに向かってベルを示し、『武器』と仕草で示した。察しの良いヘファイストスはそれだけでロキの意図に気付いた。

 

「あー、そう言えばまだ実物を見てないんだけど、椿のことだから良い仕事をしたでしょ? 小太刀を作ったんですって? あの娘が珍しく自分の名前を付けたんだって、うちの子たちの間で評判になったのよ」

「そうなんです!! 今回の『戦争遊戯』で勝てたのは、椿さんのおかげです!」

 

 鍛冶師からすれば大上段、最上級の評価である。弟子であり眷属でもある椿の仕事についてはヘファイストスも信頼していたが、それにしても素直に褒めるものだ。眷属のことながら自分のことのように嬉しくなるヘファイストスは、深い笑みを浮かべながらベルではなく、ベルの背後を見た。

 

「そこまで言ってもらえると私も主神として鼻が高いわ。直接伝えてあげると、あの子も喜ぶと思う」

 

 そう言えば椿さんは……と此度の恩人の姿を探そうとしたベルの背中を、暴力的なまでの柔らかな感触が襲った。健康的な褐色の腕が背中から回されることで、彼は本能的に誰が何を行ったのかを察したが、あまりの事に完全にフリーズしてしまう。

 

 これまた初心な反応に、背後からの襲撃者――今回の『戦争遊戯』勝利の功労者の一人である椿・コルブランドは喉の奥で小さく笑った。

 

 その装いも普段の彼女を知る者ならば驚くものである。東国出身であり、ハーフ・ドワーフという種族の坩堝であるオラリオでもあまり見ない肩書を持つ彼女は、鍛冶師という職業も相まってあまり女性らしい装いにほとんど興味を払わない。

 

 身なりについて気を使うことと言えば精々清潔にすることくらいのもので、基本、鍛冶場かダンジョンで過ごす彼女は、袴に薄手の羽織、後はサラシのみというラフ極まりない恰好で過ごすことが公私共に多い。女らしい装いをしている所など見たことがない、というのが椿を知る者のほとんどの認識なのだが、その認識に反して、今宵の椿は実に華やかだった。

 

 褐色の肌に、主神と色を揃えた真っ赤なドレスが映えている。性格を表すように収まりの悪い黒髪はその癖を活かすように結われ、身体の向きを変えればその健康的な項が覗いて見える。何より目を引くのはその見事な胸部だろう。零れ落ちるのではないかというボリュームと、その柔らかさを正に実体験していたベルは彼方にやっていた意識をようやく取り戻し、椿の腕の中でじたばたと暴れ出す。

 

 時の人である『白兎』であるが、まだレベルは2である。今回の功績で3に上がる見込みであっても、椿のレベルが5だ。戦闘の結果はレベルが全てではない、ということを目下証明し続けているベルであるが、単純な数値の勝負ではどうしようもない。レベルが3も上の冒険者に組み付かれたら、その時点で逃げる術など存在しないのだ。

 

 それでも、諦めきれるものではない。男としての本能はこのままでいたいと激しく訴えかけてくるが、このままでいることはベルの少年としての羞恥心が許さなかった。

 

 椿の本心として、このままいつまでもベルを抱きしめていたかったのだが、とうとう叫び声でも挙げそうな段になってくると、そっとベルを離した。名残惜しいが仕方ない。

 

 耳まで真っ赤にしてはぁはぁ息を吐くベルに、会場の女神たちの熱い視線が注がれていたが、それは言わない方が良いのだろう。椿とて人目がなければ、ベルが主賓でなければその場で襲い掛かっていたのだろうが、自重しなさいという主神の視線を受けて踏みとどまっていた。

 

 胸の中の燻ぶるような情熱を、椿は悪くないと思っていた。まさか異性に少しでも心を傾ける日が来るとはな、と思う。『運命のエルフ』のように純粋ではなく、肉欲的で即物的な不純なものであるが、本能の欲求に従うことに正直な椿は、その情熱を持てますこともなく、正直に、ベルへとぶつけた。

 

「噂の『白兎』殿は、どんな情熱的な言葉でダンスに誘ってくれるのだろうな?」

 

 女の方からダンスに誘うのはみっともないこととされ、いかに容姿に恵まれ立場のある椿でも、それは例外ではない。何よりベルは今回の主賓であり、彼と踊りたいと思っている者は神の中にも同伴する眷属の中にも少なからず存在する。

 

 そんな面々が礼節を守って前に出ないでいるのに、女神を差し置いて椿がそれを口にしたことで会場には僅かに緊迫した空気が漂い始めた。それは椿を責めるようなものではない。

 

 ルールを守るという体の側であっても、要するに誰が最初に口火を切るかという話でしかなかったのだ。

 

 女性に関しては奥手であるとベルの性格は広く知られている。全てを自由意志に任せていては、幾柱もの女神が余ることになり、それはそれで面白くない。口火は既に切られたのだ。ならば誰に遠慮することもない。

 

 会場の雰囲気を察し、自分の子の奔放な振るまいにヘファイストスは額を押さえるが、そんな様子も椿を愉快な気分にするばかりだった。

 

「最低限は押さえているつもりだぞ、主神様よ。元より作法などとは縁遠い育ち故な。()()の不作法は大目に見てほしいものだ。手前とて女だからな。自分でも忘れがちになることではあるのだが」

 

 懲りた様子のない眷属に、ヘファイストスは小言を諦めた。波乱の種となりベルは苦労するだろうが、椿の行いそのものは大っぴらには責められないだろうし、ロキもこれを気にしないだろう。ダンスを覚え経験を積む機会と思えば悪いものでもない。

 

 これからのし上がっていくのであれば、こういう付き合いは無視できるものではない。いつもまでも田舎者、新人気分のままでは済まないのだ。ロキや椿がそこまで考えているとはどうしても思えないヘファイストスだったが、当事者であるベルに必要なことであるのなら、これも『試練』だと口をつぐんだ。

 

 良識者としてオラリオでは知られているが、ヘファイストスとて神である。子供とはまた、感性が異なるのだった。

 

「ところで、ロキ。貴女、眷属は連れてこなかったの? ベルは主賓なんだから、他にも一人連れてこれたでしょう?」

「ん? 今は別行動しとるだけで声はかけてあるで。街を歩いとったらめっちゃかわいい娘見かけたんで、パーティ行かへん? て誘ったらオッケーしてもろうたんや」

 

 話題変更と、適当なことを聞いたつもりだったが、あまりに予想外な返答のために絶句する。他神と競合しない限り、神が誰を眷属とするかはその神の自由であり、この手のバベルで行われるイベントにおいて、神が連れてくるのは一人と書面で明記されているが、実は眷属を連れてこなければならない、とは明記されていない。

 

 むしろ重要なのは一人という人数の方で、これがないと色々な神が彼も彼女もと子供たちを沢山つれてくるためだ。

 

 それでも眷属を連れてくるというのが神々の暗黙の了解であったのだが、身元のはっきりしない者を連れてくることを危惧することはあれど、誰であれ神がその名において誘ったのであれば、その者がどういう不始末を起こしても、その神の責任となる。

 

 それが理解できているのであれば、他神も面と向かって文句などあるはずもないが、それにしてもロキの行いは前代未聞だった。

 

 当然ベルは他に同行者がいるなど聞いていないし、それが眷属でないということも当然聞いていない。神一柱につき眷属一人というルールは知っている。その一人は自分だと思っていたベルは、ファミリアからの出席者は自分一人だと思っていた。誰なんですかと視線で問うと、ロキは細い目を更に細めて笑みを浮かべた。

 

 その視線が大扉の方に向く。給仕による、来場を告げる声が広間に響いた。

 

 大扉が開く。そこにいた者を見て、神も子も等しく言葉を失った。

 

 普段は無造作に流している髪は丁寧に結われアップにされている。エルフの王族として育った彼女は、人前で肌を晒すことを由としていない。ベルが見たことがあるのは顔と手くらいで、普段は上から下まで隠されたその肌が、今は肩までではあるが露出している。

 

 女神も嫉妬する美貌。『九魔姫』のリヴェリア・リヨス・アールヴ。オラリオに来てから母親のように接してくれていた女性だ。常に美人だと思っていた。その美貌に見とれたことも数えきれないくらいある。だが、言葉を失う程に目を奪われたのはこれが初めてだった。

 

 全ての存在の視線を集め、その中を堂々と歩いたいつもより少しだけ幼く見えるリヴェリアは、ベルの前に立つと小さく可憐に微笑み。膝を折って礼をした。

 

「神ロキのご厚意により、言祝ぎの機会を得ました。『白兎』ベル・クラネル様。此度のご活躍、おめでとうございます」

 

 




ギャルゲーやエロゲーで複数のヒロインが集まる場所にいった時、誰に話しかけるかという選択肢が出て全員と話さない理由が解りました。
本当は他にも数組いたんですが削りました。長い……


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『戦争遊戯』 その後③

 

 

 

 

 リヴェリア・リヨス・アールヴ。ロキ・ファミリア副団長。レベル6。『九魔姫』の二つ名を持つ第一級冒険者であるハイエルフの王族。ベルにとっては冒険者となってから影に日向に面倒を見てくれる大事な人でありほとんど同じ年のレフィーヤを姉のような存在とするなら、母親のような存在でもある。

 

 そのリヴェリアが何やらドレスを着てめかし込んでいた。地味な装いを好む普段の延長として、居並ぶ女神達に比べると幾分地味な装いではあったが、リヴェリアの美貌にはよく似合っていた。

 

 リヴェリアだ。リヴェリアである。それは間違いない……はずなのに、ベルは心中で断言するのをためらっていた。

 

 ベルにとってリヴェリアは母親のような存在である。

 

 なのに今日はどういう訳か幼く見える。それでも人間の少年のベルよりは年上に見えるだろう。人間の容姿の基準を物差しにするとエルフの見た目から年齢を推察することは非常に困難だ。あくまで人間の男性であるベルの見た基準で判断するなら普段のリヴェリアを母親とすると、今のリヴェリアは少し年の離れた姉で通用する。

 

 それを正直に言って褒めてもらえるかは微妙な所だと思った。今若く見えるということは相対的に普段が年寄りに見えると言っているに等しい。おじいちゃんも女から聞かれて困る質問の一つに『私いくつに見える?』を上げていたくらいだ。女性にとって実年齢と同様にいくつに見えるかというのは切実な問題であるという事をベルは知り合いの女性らしき人にタコ殴りにされるおじいちゃんを見て学んでいた。

 

 今日はどうしたんですか? と聞きたいが聞けない。エルフにとってこれが普通のおめかしであるならリヴェリアに余計な恥をかかせることになってしまう。こういう時かっこよく問題を解決できるような男になりたいと心中で切に願いながら、ベルは全ての疑問を押し込めて流れに身を任せることにした。余計な事をすると墓穴を掘ると悟ったのである。

 

「あの……リヴェリア様?」

「いやですわ。『白兎』様。それは『九魔姫』様のことでしょう? 私はそんな大それた方とは何の関係もありません」

 

 えー、と口にしなかったことを自分でも褒めてやりたいくらいだった。目の前のエルフがリヴェリアであることは流石のベルでもここに来て確信が持てていた。いつもより幼く見える装いには何か理由があるのだということも解るが、それでも別人と勘違いする程ではない。

 

 少し落ち着いて考えてみれば当たり前のことだった。

 

 リヴェリアというのはちょっとその辺ではお目に掛かれない程の美人さんであり、仮にそれに匹敵するような存在が神以外にいるのならばベルの耳にだって入ってこなければおかしい。髪の色も瞳の色も種族もおそらく一緒。これで別エルフですと通すのはいくらなんでも無理があるが、

 

(もしかして別人として扱ってほしいのでは……)

 

 遅まきながらその可能性に行きついた。それにどういう得があるのか知れないものの、それがリヴェリアの意向であるならば否やはない。

 

 ベルにとっての問題はもっと別の所にあるからだ。別人として扱う。このまま押し切る。それはそれで良いのだが、この先どうしたら良いのか解らない。周囲はベルとリヴェリアを残して遠巻きになってしまっている。ロキでさえベルからは少し離れていた。今もダンスのための曲は演奏されているが、そもそもベルはダンスの誘い方は元より踊り方も良く解らない。

 

 途方に暮れるベルの横をナァーザが通り過ぎた。視線を向けるとちょっとだけ目を細める。見てろ。と彼女の声が聞こえた気がした。ナァーザはリヴェリアの横に立つとそれに向かい合うように神ミアハがベルの隣に立つ。ミアハは優美な動作で一礼すると、左手を差し出しながら言った。

 

「レディ、よろしければ一曲踊っていただけませんか?」

「喜んで」

 

 にこやかにほほ笑んだナァーザはミアハの手を取りダンスに興じ始める。男性が誘い女性が受ける。ここに例外は一切存在しない。それがマナーであり、男気の見せどころである。

 

 無論のこと誘っても必ず受けてもらえるとは限らない。女性の側にも断る権利はあり、事実何十柱もの男神がフレイヤにアタックしていたが、彼女はその全ての誘いを断っていた。今宵最初にダンスをする相手は決めているのだという。それが誰のことなのかは考えるまでもない。

 

 そんな美の女神のことを知らないベルは、翡翠色の髪をしたハイエルフを前にまだ動けずにいた。誘い方は解った。相手は難物だが誘わないといつまでも話は先に進まない。五月蝿い鼓動を無視しながら、汗ばんだ手を服で拭き、上ずった声と共にベルは手を差し出す。

 

「リ…………レ…………お、お姉さん、僕と踊っていただけませんかっ!!」

 

 踊り方など解りませんが! とは口にしない。誘っておいて相手にリードをお願いするというかっこ悪いことこの上ない有様である。ベルは今までの人生で最高に恥ずかしい思いをしていたが、顔を真っ赤にして手を差し出す様は女神たちと一部の男神には好評だった。

 

 勿論、眼前のハイエルフにもだ。時の人『白兎』が羞恥に耐えながら自分のために勇気を振り絞っている様は普段から立場やら何やらで私情を押し殺して行動している彼女の心を刺激した。それを顔には出さない。高貴な生まれである彼女にとって、腹芸はお手の物だ。

 

 内心を押し殺してにこやかに微笑む。男性誰もを恋に落とすその笑みはベルの視線も釘づけにした。握り返された手はほんのり暖かい。いつも髪を梳いてくれる手のはずなのに、全く違う女性の手に感じられた。

 

「喜んでお受けいたします。小さな英雄様」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダンスと一口に言っても色々な種類がある。地域年代によっても様々であり、特に長い時を生きる神々は各々得意なダンスが異なる。激しいダンスが好みの神もいれば静かなダンスが好みの神もいて、一人で二人で集団でと誰がどういう目的で主催するかでもバラバラになる。

 

 なので特に神々で主張がバラバラになる事柄については、ギルドを仲介してある程度のルールを設けられている。所謂『フォーマル』をギルド主導で制定したのだ。面倒なドレスコードなども一緒に制定されたそれは無駄な争いを回避することに一役買っていた。

 

 フォーマルとして静かな音楽静かなダンス穏やかな服装が採用されたため、そういう穏やかな宴を好まない神々からは苦情が出たものの、これらは公的な行事に限るということで納得させていた。好きなダンスをしたいなら同好の士を集めれば良いのだ。個々神主催のイベントにまで、ギルドは関知することはない。

 

 さて、今回の宴は『戦争遊戯』の祝勝会ということで半分は公的なイベントとされる。主催は勝利したロキ・ファミリアが行い、出費は全額アポロン・ファミリアが負担している。普通ならばロキが全て決めているはずの場面であるが、面倒な仕切りは任せるでと今回の宴はアポロン・ファミリアが――より具体的にはその団長であるヒュアキントスが担っていた。

 

 神の代理でその眷属が取り仕切る場合、その主神の好みが大きく反映されるのが通例であるが、ヒュアキントスの主神であるアポロンもロキの代理であるので、彼の知るロキの好みが迂遠に反映された形となる。

 

 厳密にロキの好みが反映されている訳でないのは一重にアポロンとロキの関係の薄さによるものだ。細かなことを言えばあれがダメこれがダメと口を挟みたいロキだったのだが、何よりも楽しむことを優先する神である。宴の席でそれを言うのは無粋であると解っていたし、何より自分の子供の晴れ舞台だ。

 

 よほどふざけた真似をされでもしない限り口を挟む気は一切なかった。何より今は自分の子供たちが手を取り踊っているのを嬉しそうに眺めている。これ以上の至福はないと満面の笑みを浮かべるロキに、旧友であるフレイヤが歩み寄った。

 

「何や話があるんやったら後にしフレイヤ。ウチは今忙しいんや」

「それなら用件だけ二つ伝えるわ。私、ウサギさんとダンスがしたいの。とりなしてもらえる?」

「ええで。もう一つは?」

「ウサギさんをお茶に招待するわ」

「何かしよったら戦争やからな」

「心配なら貴女もくれば良いわ。ここしばらく、貴女とゆっくり話す機会もなかったことだし」

「…………どういう風の吹き回しや?」

「さあ。どうしたのかしらね。そういう気分、ということではダメ?」

「ダメやないんやけどな……」

 

 怪しい、というのがロキの感想だ。欺瞞の神、トリックスターとして知られている彼女は基本、全てを疑う所から始める。その長い長い神生の中で、最も疑ってかかるべき存在がこのフレイヤだ。一筋縄ではいかないこの女は、どうやら自分の子であるベルに執心のようである。

 

 お茶の誘いもその一環と思えるが、この女神は自分の同席も許すと言っている。自作自演ということが知れ渡ってはいるが、対外的にはロキ・ファミリアはフレイヤ・ファミリアに借りを作ったようにも見える。

 

 誰のせいでこうなったのかを考えれば、ロキがフレイヤに何かしてやる義理は欠片もない。むしろ取り立ててやっても良いくらいの気持ちでいるが、少なくとも実際に戦ったベルはフレイヤとその眷属たちに恩義を感じていることだろう。

 

 迂遠な神々の戦いによってある程度の結末は定められていた。ベルの勝利もその賜物であるという傷がつくようなことはロキも本意ではない。この戦いの裏に何があったのか。冒険者を続けていればベルもいずれ知ることになるだろうが、偉業を達成し壁をまた一つ越えたベルの勝利を祝う。その気持ちに比べれば自分の確執など忘れられる程度のものだ。

 

「諸々決まったら連絡してや」

「そちらこそ。忘れちゃいやよ? 今日のダンスのことも忘れないでね」

「ロキ」

 

 ん、とロキは鷹揚に頷いた。今回の『戦争遊戯』の勝者の主神であるため、ロキの元には神々がわんさかやってくる。適当な連中であるため大抵は一言二言お祝いの言葉をかけて去っていくだけなのだが、律儀な神はここが良かったあそこが良かったと丁寧な感想を言ってくるのだ。

 

 子供が褒められて悪い気はしないが、少々対応が面倒になってきた所である。次は適当にやり過ごそうかと密かに考えていたのだが、フレイヤと入れ替わるようにしてロキの前に現れたのは、あまり付き合いがあるとは言えない女神だった。

 

「アテナか。久しぶりやな」

「ええ。今回の『戦争遊戯』はとても見ごたえがありましたからそのお礼をと。貴女の子供たちの戦いは小賢しくてあまり好きではありませんでしたが、あの『白兎』は見どころがありますね。やはり戦いは素手でやってこそです」

 

 ぐっと拳を握って力説する女神は、見た目だけを見れば楚々とした深窓の令嬢といった風であるが、それは見た目だけだ。子供たちが殴り合うのを見るのが三度の飯より大好きな変神は、他の神々と同じようにお供を連れている。

 

 金髪の背の高い人間の男性だ。アテナ・ファミリアは伝統的に団長を『教皇』と呼ぶのだが、彼がその『教皇』なのだろう。ロキが視線を向けたことに気づくと、青年は小さく一礼する。

 

「あと、預かっているルートたちですが無事に全過程を終了しています。卒業試験を突破したらそちらにお返ししますから」

「卒業試験ってあれか? 十二時間ぶっ通しで幹部一人ずつと戦い続ける」

 

 アテナ・ファミリアには教皇を含めて十三人の幹部が存在する。卒業試験はその内教皇を除いた十二人と十二時間という時間制限をつけた上で戦い()()()頭のおかしいイベントだ。卒業要件を満たすのは最後まで戦い続けること。戦意が挫けたら落第である。

 

 幹部たちは猛者揃い。対して預けられている面々は高くてもレベル2であり、そのほとんどがレベル1である。人数がいるとは言え、最低でもレベル3である幹部と戦うのは自殺行為であるが、訓練生たちの場合は倒れた傍から回復魔法やらポーションやらを用いて即座に復活させられる。戦意さえ挫けなければ戦い続けられるという、まさにアテナのために誂えられたようなイベントだ。

 

 そしてこれは訓練生を相手にする幹部にとっても容易いことではない。自分よりもレベルで劣る者たちが相手とは言え、倒れたそばからすぐに回復されて戦列に復帰してくるのだ。対する幹部は一人ずつ戦うことが義務づけられておりしかも回復不可だ。流石に十二時間以内に全ての幹部が敗北することはないものの、最初から三番目くらいまでの幹部は毎回死ぬ思いをしている。

 

 それでも幹部はじめ団員たちがストを起こすようなことはない。アテナの眷属をやり続けられるだけあって彼らもまた少し頭がおかしいのだ。

 

「良ければロキも見にきてね? うちの子たちの晴れ舞台でもあるのだから」

「であれば、次の卒業試験は聊か具合が悪いかもしれませんな。何せ一番手は弟ですから。奴一人で十二時間しのいだとあっては、他の連中の見せ場がなくなってしまいます」

「……本当、貴方はデフテロスのことが大好きね」

 

 趣味が特殊なだけで、彼女の子供に対する愛情はオラリオに存在する神々の中でも一際深い。彼女はアテナ。全ての戦意ある子供を愛する戦神である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これでダンスをしていると言ったら本気でダンスをやっている人には怒られるかもしれないとベルは思った。本当に流れに乗っているだけなのだ。右に左に動くリヴェリアに釣られている。それをダンスというならダンスなのだろうが、仮に自分を俯瞰してみる機会があったとしてもベルは絶対に見たいとは思わないだろう。とてもかっこわるい動きをしているのが見なくても解る。

 

 人前で醜態をさらすことは年頃の少年には我慢のならないこと。少年というのは皆女の子の前でかっこつけたい生き物なのだ。

 

 高貴な生まれであるリヴェリアにとってダンスのリードなど造作もないことだ。相手に恥をかかせないことも技術の一つ。ベルのように腕に全く覚えのない者が社交界に出てくることはそうないことだが、腕に差がある相手とペアを組まされることは往々にしてある。

 

 そういう時は、腕が上の者が下の者をリードするのは半ば義務のようなものでそこに性別は関係ない。相手に触れることを忌避する慣習のあるエルフなどはよりその傾向が強いと言えるだろう。人前でダンスを踊ることのできる異性というのは、それだけお互いを信頼しているということの証明となるのだから。

 

 概して、高貴なエルフほどその傾向が強いと言われている。普段リヴェリアが肌をほとんど晒さず異性に近づかないのは周囲のハイエルフのイメージに近しい行動と言えるが、全てのエルフがあらゆる状況で肌をさらさない訳ではない。

 

 神々は無論のことそれを知っているが、そのお供でやってきた眷属などは女神たちに比べれば楚々としているものの肌を晒しているリヴェリアに男女問わず視線を奪われていた。

 

 その向かいに立って踊る――と見せかけて半ば引きずられるようにしてステップを踏まされるベルは、リヴェリアに視線を奪われていた。息が触れる距離にリヴェリアの顔があるがここまで距離が近づくことは珍しいことではない。

 

 だが正面から本当に視線を奪われるのはこれが初めてのことだった。女神も嫉妬するほどの美貌というのも解る。ベルが今まで出会った女性の中で、神様を除けば間違いなく一番の美人さんだ。これで高貴な生まれで高位の冒険者というのだから、神様というのは不公平であると本気で思う。

 

 普段と違う匂いがする。香水の匂いだ。化粧っ気のない人なのでこの日のためにということなのだろう。普段よりも活動的で幼い雰囲気に似合っていると思う。

 

「どうかされましたか?」

 

 踊っている最中に顔を赤くしながらも気も漫ろということを気づかれる。少し怒っていますというポーズで顔を寄せるリヴェリアに、ベルはダンスの途中であることも忘れて急に身体を離そうとした。転ぶ! と反射的に身構えるベルを見越していたリヴェリアは、ベルが身体を離すと同時に強く腕を引き、強引にターンを決めた。

 

「ダンスの途中に他のことを考えるのは良くありませんよ」

「いえ、あの貴女のことを考えてました」

「あら嬉しい。小さな英雄様に見てもらえるなんて光栄ですわ」

「見てというか……その、良い匂いだなと」

 

 誰にでも想定外というのはあるものだ。自分の匂いについて言及されるなど、リヴェリアにとってはほとんど生まれて初めてのことだった。あっけにとられた表情を浮かべたリヴェリアがミスをする。体勢を崩しかけた彼女をベルが慌てて支えた所でちょうど音楽は終了した。背中から倒れそうになっているリヴェリアをベルが支えている形。たまたまダンスの終わりでこの形になった訳だが、意図してそうしたと見えなくもない。

 

 尤も、周囲にいる半分は神々である。それが偶然の産物というのは見ていた誰もが理解していたが、それを口にするような無粋なことはしない。むしろ『白兎』の方からエルフの美女にアプローチをかけたことにして囃し立てる。

 

 悪目立ちしていることに気づいたベルは慌ててリヴェリアから距離を取る。対するリヴェリアは落ち着いたもので周囲とベルに小さくカーテシーをすると、そそくさと会場を出て行ってしまった。ダンスを申し込もうとしてた男神は残念そうにしているが、それはベルも同じである。

 

 しかしあくまで別人として振る舞うのであれば長居しない方が良いことは解る。どうしてあんなことをしていたのかさっぱりだが、いつもと違うリヴェリアが見れたことは、ベルにとっても嬉しいことだった。

 

「目立っとったな!」

 

 ロキの元に戻ると、何が嬉しかったのかバシバシと背中を叩かれる。彼女の機嫌が良い時の振る舞いの一つだ。嬉しいことがあった時、彼女は何かと身体に触れたがるのである。

 

 次は私の番とオッタルを伴ったフレイヤがベルたちの元に歩み寄ってくる。フレイヤ本人が目立つのは元よりオラリオ最強の冒険者であるオッタルの巨躯は集団の中でも目を引いた。ベルもほどなく一組の主従の接近に気付くが、

 

「オッタルさん! 先日はありがとうございました」

 

 彼の視線を捉えたのは美の女神ではなく最強の大男だった。笑みを浮かべたまま、フレイヤは凍り付いた。ロキはその隣で必死に笑いを堪えている。あの美の女神が! 男相手に! スルーされる所を見れるなんて! 今回の『戦争遊戯』は良いことばかりではなかったが、旧友のこの姿だけでおつりがきそうだった。向こう百年はこのことでからかい倒せるだろう。近い未来遠い未来のことが、今から楽しみでならない。

 

 ベルも全てにおいて色気よりも食い気という訳ではない。普段であれば十分、フレイヤの美貌に目を奪われていたことだろうが、先ほどまでリヴェリアとダンスをしていた彼は美女についてある程度の耐性ができていた。

 

 そこに筋骨隆々の大男の登場である。フォーマルな服装をしていても隠し切れない圧倒的な体躯と見れば強者と解る佇まいは、冒険者になってまだ日が浅く、あまり体躯には恵まれていないベルにとって憧れなのだった。

 

 内外に寡黙で知られるオッタルは、珍しく焦りを覚えていた。そういう視線を向けられたことがないではないが、女神の共をしている場では初めてのことだった。凍り付いている主神を見るに、彼女にとっても想定外のことなのだろうと思う。

 

 アレン辺りがこの場にいればベルの振る舞いに激怒したろうが、この場は祝いの席である。神々も離れているからこのやり取りはフレイヤとロキの格差のある胸の内に収められるはずである。

 

「『白兎』よ。我が主神を紹介させてもらっても良いだろうか」

 

 これが元々の流れですという風を装って、ありがとう凄いですと周囲でちょこちょこ動くベルの視線を強引にフレイヤの方に向ける。自分の前に立つ人間が従者に水を向けられて初めて自分に視線を向ける。フレイヤが久しく味わっていなかった屈辱であるが、波立つ感情をフレイヤは強引に抑え込んだ。ここにはロキがいるのだ。感情に任せて事を荒立てたら恥の上塗りである。

 

「これなるは我らが女神フレイヤである。お前の奮闘した『戦争遊戯』について、我らが助力したのは女神のご決断あってのことだ」

「それは……ありがとうございました。僕が勝つことができたのは、フレイヤ様の助力あってのことでした」

 

 ベルの言葉にフレイヤは僅かに眉を顰める。何もされなくても勝てたと言うのは問題外であるが、来なければ勝てなかったというのも勝者の言葉としては頼りない。フレイヤ・ファミリア以外の助力もあったのだから猶更だ。かわいい子である。将来性もある。それでも英雄としてはまだまだだなというのが現時点でのフレイヤの見立てだが、人間種族の十代の少年であればこんなものだろうと気にしないことにした。

 

 至らない部分はこれから成長させていけば良いのだ。何しろ将来性については『白兎』は申し分ない。今このオラリオで最も将来が楽しみなのが彼である。ロキの子供というのは玉に瑕だが、焦らされるのもまた楽しみだ。後々になってみれば予定調和というのは神々の最も嫌う所だ。退屈を愛する存在など天界広しと言えどもそういないのである。

 

「良いのよ。私もアポロンには思う所があったから。難しいことはロキにでも任せて、貴方はしばらく褒められていなさい」

 

 フレイヤの視線を受けて、ロキはベルの背を軽く小突いた。振り向いたベルに視線でフレイヤを示す。男性の方から誘うというのは、神であろうと子供であろうと変わらないこの場のルールだ。今宵勝利者であるベルの仕事は、会う女神会う女神にダンスを申し込むことである。

 

 勿論、乗り気でない女神もいるだろうが、そういう女神はわざわざベルの前までやってこない。ベルの前まで移動してくるイコール、ダンスに誘ってほしいという意思表示だ。誘いを催促するというのも厳密にいえばはしたない行為であるものの、冒険者歴以上に社交界歴に浅いベルの自由意志に任せていては順番待ちの列が減ることはない。そう確かに認識した女神たちは無言で視線を交わし合い、連れて来た眷属に自分を紹介させるという名目で、暗にベルに誘わせる作戦を実行し始める。

 

 ベルは認識していなかったが、彼の知らない所で順番待ちの女神は既に二十柱を超えていた。二週目はなしということは全員が認識していても、ダンス一回の時間を考えれば全てを処理しきる頃には日付が変わっていることも考えられる。

 

 勝利者であるベルには遅れてくることも途中で退席する権利もあるにはあるが、次から次へと切れ目なく紹介されるなか退席する程の面の皮の厚さは彼には存在しなかった。

 

「その……フレイヤ様、よろしければ一曲いかがでしょうか」

 

 まだ慣れないのか、顔を真っ赤にして言葉と共に差し出された手を、フレイヤはにっこり微笑んで取った。

 

「お誘いありがとう、小さな『白兎』。よろこんでお受けするわ」

 

 

 

 

 



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仲間(パーティ)

 

 

 

 

 

 『戦争遊戯』翌日から数えて一週間。ロキによりベルに強制休暇が与えられた。その間勉強は禁止、鍛錬も禁止、冒険はもっと禁止とのお達しである。したいことしいやーという、ありがたいお言葉も一緒に貰ったのだが、オラリオに来てからは冒険者になるための勉強修行しかしていなかったベルは、したいことと言われてもすぐには思いつかなかった。

 

 そんな生真面目な人間であるから暇を持て余したら隠れて鍛錬勉強をすると思われていたのだろう。流石に監視まではついていないが、強制休暇を与えられたという話はギルドや他の冒険者にもロキ手ずから伝えられた。万が一それらしき場所でベルの姿を見かけたり、もしくは鍛錬勉強冒険をしている現場を目撃したら、即座にロキ・ファミリアに告げ口が行くことで話がまとまっている。ある意味全ての冒険者とギルド職員が監視役と言えた。

 

 ついでに言えばオラリオの街の人々も同様の役目を担っている。ベルは今や時の人。人間種族はオラリオで最も人口比率の高い種族であるが、赤目に白髪でおまけに少年で冒険者という特徴に当てはまるのはオラリオ広しと言えどもベル・クラネルだけだった。

 

 ベルがおいたをしているのを見かけたら告げ口をするだけで、ロキからご褒美がもらえるのである。むしろおいたをしてくれないかと期待する者までいる始末だ。じゃが丸くんを買いに出かけたら街の人々にぎらぎらした目を向けられ、流石のベルも大人しくしておいた方が身のためだな、ということが骨身にしみて理解できた。

 

 ならば知人と時間を潰せないものかと周囲を見回してみても、そも知人の数そのものが少ない。そのほとんどが集中しているロキ・ファミリアの仲間たちも、ベルの戦いに奮起してダンジョンにでかけたりしている。

 

 では僕はどうしたら良いのでしょう。こういう時まず真っ先に相談の相手として思い浮かぶリヴェリアであるが、彼女とは『戦争遊戯』後のパーティ以降、一度も顔を合わせていなかった。

 

 何でも体調を崩してしまったそうで、しばらく……特にベルは絶対に面会謝絶と、仲介役となったアリシアから伝言を受け取った。その際アリシアが終始苦笑を浮かべていたことが気にはなったが、リヴェリアとて神ならぬ地上の子供である。体調不良になることもあるだろうと気にしないことにした。

 

 だが、そうなると一つ問題が発生する。

 

 ベルは『戦争遊戯』での功績によってめでたく、しかしひっそりとレベル3にランクアップした。それ自体はベルも喜んだのだが、これによってかねてから考えていたことを実行に移すべき時が来てしまった。幸いなことに時間は一週間もあるので、時間を置かずに実行したい。

 

 問題はベルにはその手段がほとんどないことだった。元よりこの計画の実行にはリヴェリアを大いにあてにするつもりだったのだが、面会謝絶とまで言われては如何ともしがたく、相談することも叶わない。

 

「何か困りごとですか?」

 

 こんなことになるならもっと早めに相談しておけば良かった。十代半ばにして『ほうれんそう』の大切さを実感し途方に暮れているベルに、助け船を出したのはアリシアだった。

 

 リヴェリアを中心としたロキ・ファミリア、そのエルフの派閥において、リヴェリアに次ぐ顔役である。後継者ということであればレフィーヤがそれと目されているが、冒険者歴とレベルにおいてアリシアはレフィーヤの上を行っている。

 

 冒険者としての信頼、力量ということであれば、少なくとも現時点ではリヴェリア以外でもっとも頼りになるエルフである。ほとんどのエルフにとって、リヴェリアは神々よりも声をかけにくい存在であるから、エルフ関係の相談はまずアリシアというくらいに、ロキ・ファミリアのエルフの間で頼りにされていた。

 

 そんなアリシアであるからリヴェリアからの信頼も厚い。体調不良で面会謝絶のリヴェリアであるが、その彼女は実は体調不良でも病でも何でもなく、恥ずかしさのあまりベッドから出れないでいるだけだった。

 

 贔屓目に見れば体調不良というのは事実と完全に異なる訳ではない。アリシアの判断による面会謝絶も事実だ。特に今ベルと顔を合わせたらリヴェリアはショックで心臓が止まりかねない。アリシアにそう確信させるほど、今のリヴェリアは酷い有様だった。まるで絵物語で英雄様を前にした処女のようである。

 

 何があの『九魔姫』をここまでさせるのか。全ては『戦争遊戯』の祝勝パーティで起こったことが原因であると推察するのは簡単だった。中で何が起こったのかは参加していない者には解らない……

 

 というのが普通なのだが、人の口に戸が立てられないのに神の口に立てられるはずもない。噂話は凄まじい速度でオラリオ中を駆け巡り、あくまで噂だけど、という前置きをした上で真実よりも真実らしく語られている。問題はそれが非の打ちどころのない事実であるということくらいだ。

 

 当然それはロキ・ファミリアにも知れ渡っていた。別人のふりをしてドレスアップしてダンスである。主のまさかの姫ムーヴにリヴェリアを崇拝する女性エルフたちからはきゃーきゃー黄色い悲鳴があがったかと思えば、付き合いの長いガレスなどは腹を抱えて大笑いしていた。アリシアは直接見てはいないが、フィンもそれに近い反応をしたと言われている。

 

 パーティの後はしばらくこの話題で持ち切りだったのだが、ひとしきり騒いだ後、ロキ・ファミリアのエルフに連なるものたちの間に一つの疑問が持ち上がった。

 

 リヴェリアくらい高貴な存在になると、社交的な場に出る場合身の回りの世話をする者が必ずつくと言われている。リヴェリアが出たがりでないためにこういうイベントの時は大体フィンが顔を出してお茶を濁してきたのだが、そういうお世話係は必要だろうと、いつか必要になった時のために常々エルフたちの間では言われていたことだ。

 

 その時は私が! と腕に覚えのあるエルフも何人かいたのだが、パーティ当日、それらの誰もリヴェリアからは声をかけられなかった。リヴェリアとて王族である。身繕いの心得くらいは当然あるが、社交の場に出る際のドレスアップを一人で行うには無理がある。最低でも一人は世話係がいたはずなのだが、アリシアを始めロキ・ファミリアのエルフはその誰もが声をかけられていなかった。

 

 では誰がという疑問には、答えをもたらしたのはロキである。

 

 リヴェリアのおしゃれを手伝ったのは、ファミリア外のハーフエルフだという。事実だけを聞いた時エルフたちは何よりファミリア外ということに面白くなさを感じたものだが、それがかの『女傑』アイナ・レゴラス――今は結婚してチュールという姓を名乗っている――の実娘であり、そのアイナから高貴な人物の身繕いについて手ほどきを受けたとなれば黙らざるを得なかった。

 

 アイナ・レゴラスの名は特にロキ・ファミリアのエルフたちの中では畏怖と共に広く知られている。

 

 エルフの王族というのはとにかく閉鎖的な環境で生きており、純潔、血統を貴ぶ。その王族の側仕えともなれば競争率は凄まじいもので、大抵の場合は王族に準じる血統の由緒正しい家柄のエルフが選ばれるのだが、アイナ・レゴラスは所謂貴族の生まれではないのにリヴェリアの側仕え、それも筆頭の地位を獲得した。

 

 王族とて付き合いもある。こういう配置には政治的配慮が欠かせないものだが、そういったものを加味してさえ、リヴェリアの両親祖父母にアイナ・レゴラスしかいないと思わせる程、彼女は飛びぬけて優秀だった。

 

 古今のエルフの風俗に通じ、芸術方面の造詣も深い。学問においても優秀な成績を修め、アールヴ領都の学校で歴代最高の成績で入学し、一度も他人の背中を見ないまま卒業した傑物中の傑物である。

 

 下手な王族よりも遥かに優秀であることから、故郷にいた頃はアイナにも大分叱られたものだとリヴェリアはいつも懐かしそうに語る。そのリヴェリアの語る所によれば彼女の口癖は、

 

姫様(ひいさま)はご自分で思ってらっしゃるほど賢くありませんし、ご自分で思ってらっしゃる以上に短気です。何かする時は必ずこのアイナめに相談し、苛立ちを覚えた時には頭の中で十数えてください。その間にアイナが代わりに怒りますから』

 

 だったという。これを直接王族であるリヴェリアに何度も言い、それでもまだ首が繋がっているのだからどれだけ彼女が優秀だったのか解るというものだが、その才媛にまつわる話でエルフならば誰もが知っているものが、その仕える姫様を故郷から連れ出したことだった。

 

 発案は確かにリヴェリアである。それは本人が言っていたことだが、発案をしただけで計画の中身は全てアイナが考え、実行に移した時も嬉々としてその腕を引いていたという。正気にては大業ならずとはよく言われることであるが、エルフの常識からするとアイナの行動は正気の沙汰とは思えないものばかりだった。

 

 エルフの法律はその全ての氏族で、特に王族に対しての行いは罪が重い。他種族によるリヴェリアに対する不敬にロキ・ファミリアのエルフが騒ぎ立てることが多いのは偏にこのエルフの慣習と法による。

 

 不敬罪は王族に関する罪の中では比較的軽い罪であるが、略取誘拐となると話は変わってくる。アールヴの法律では王族でない人間が実行してそれが成立した場合、いかなる理由があったとしても死罪である。略取誘拐せよという提案がされる当事者である王族や、それ以外の王族からの物であったとしても覆ることはない。

 

 今でこそリヴェリアの脱出劇は『女傑』の活躍と共に語られているが、リヴェリアの両親が訴え出ていれば、アイナ・レゴラスはオラリオに到達する前に捕まり、リヴェリアは連れ戻されていただろう。リヴェリアの両親が娘の行動に対して寛容であったことは、ロキ・ファミリアに属するエルフとしては神に感謝せざるを得ない。

 

 もっとも後から聞いた話では『女傑』はリヴェリアの両親祖父母にさえきっちり根回しをしていたのだとか。話を聞けば聞くほど、本当にどういう人物だったのか謎が深まるエルフである。

 

 そんな『女傑』もリヴェリアと共に流れ流れてオラリオへ。色々あってロキの所で冒険者をやると決めた後も、最初はギスギスしていたフィンやガレスに対してさえ猛然と食ってかかったそうだ。自分の代わりに怒る彼女を見て、リヴェリアは少しずつ冷静になれるようになったという。

 

 『女傑』という二つ名は一般人のくせに冒険者に対しても全く怯まず、好き放題に物を言うアイナに感心したフィンとガレスがその当時に贈ったものである。何にしてもその胆力を市井に置いておくのは惜しいと当時から団長であったフィンがアイナを『冒険者にならないか』と口説いたこともあるそうだが、アイナは一言。

 

『私は姫様と違って杖を振り回して喜ぶような野蛮人ではないので』

 

 とすまし顔で断ったそうだ。故郷を飛び出した大冒険も偏にリヴェリアがいたからこそ。アイナ本人は別に冒険心など持っていなかったのだ。怒りと羞恥で顔を真っ赤にしているリヴェリアの横で、フィンとガレスは腹を抱えて笑ったらしい。ロキの子供がまだ少なかったころの懐かしい思い出である。

 

 そんな『女傑』もフィンとガレスが信頼に足りリヴェリアが一人でもやっていけると判断するとあっさりと結婚相手を、それも人間の男性を見つけて彼の家に嫁入りした。生まれた二人の娘の内、上の娘が今回、リヴェリアのお世話をしたエイナ・チュールである。

 

 そんな『女傑』の娘に世話をされてめかし込み、姫ムーブを楽しんだ結果、リヴェリアはベッドから恥ずかしさで起き上がれなくなってしまった。普段固すぎるのだから、祝い事の席でくらい羽目を外しても良いと思うのだが、根が真面目なリヴェリアはそう考えなかったらしい。

 

 多分に勢いでやったことであるからこそ、熱が冷めると凄まじい羞恥が身体を駆け巡ったらしく、もう二日も部屋からさえ出てこない。それでもベルとレフィーヤへのフォローを忘れない辺りは流石だと思う。これでベッドから出て平然としていれば格好もついたのだが、世の中上手くいかないものだ。

 

 ベルはアリシアの目の前でうんうん唸っていた。相談するならまずリヴェリアとでも決めていたのか、違うエルフ相手に話しても良いものか決めあぐねている風である。表裏がなくて結構なことだ。まっすぐなレフィーヤが好感を持つのも良く解る。自分がレフィーヤと同じ立場で、年齢が近ければ彼女と同じような反応をしただろうことは想像に難くない。

 

 基本的には真面目、固いというのはエルフにとって美点であり、上流に行くほどこの傾向は強くなる。言い換えれば過度に保守的ということだが、上も下も奔放というのでは組織は回らないし伝統も守れない。種族的な動きの固さと引き換えに、伝統を守りエルフという種族が社会的な地位を守れたと思えば受け入れるべき所ではあるのだろう。上も下も奔放になり、伝統を守れなくなった種族など枚挙にいとまがないのだから。

 

 だが全てのエルフがそういう考えをしている訳ではない。そうでない者が一定数いるからこそ、伝統を守るが固いということになるのだ。一生を森の中で過ごすエルフも少なくない中、冒険者など、世界を放浪する選択をするエルフも少なくはない。

 

 どういう事情でそれを志したのか。その辺りは個々の思いが強いものの、外に出ることを選択したエルフは森に残ることを選択したエルフよりも開放的な傾向が強い。それでも『ドワーフは豪放磊落』という動かしがたいイメージがあるように『エルフは堅物』というイメージが定着する程度には、開放的であると言っても保守的な傾向が強いと、少なくとも周囲は思っている。

 

 そしてそれは事実その通りなのだ。ファッションであったり男の好みであったり様々であるが、やはり野蛮、短気、喧嘩っぱやい、無知、と大体の男性冒険者に当てはまる傾向にある特徴はエルフ女性には好まれない。言い換えれば冒険者っぽくない男性が好まれる傾向にあるということだが、その点ベルはこの特徴に合致すると言っても良い、かもしれない。

 

 アリシア・フォレストライトの目から見れば大分頼りなく思えるのだが、そこが良いという者はロキ・ファミリアの中にも少なからずいる。リヴェリアのお気に入りでなければ、レフィーヤという相方がいるのでなければ、と考えている女性冒険者は少なくない。

 

 かわいいけれど整っている顔立ちが成長してまで維持できるとは限らないし、幼い頃はかわいかったのにという話はエルフの中にもある。アリシアのベルに対する男性としての評価は良くも悪くも『今後に期待』の域を出ないのだった。

 

「ベルが何を考えているのか。リヴェリア様から伺っています」

「え? でも――」

「相談も何もしていない? ベルの考えくらいリヴェリア様はお見通しですよ」

 

 自分のことでもないのに得意そうにアリシアが言うと、ベルは素直に感嘆のため息を漏らした。そうしてリヴェリア様への敬意を深めるが良いのです。従者根性を発揮したアリシアはベルの食いつきっぷりに満足しつつ、言葉を続ける。

 

「目的を成すには商人を頼るのが良いでしょう。エルフ専門の商いをしているお店を紹介しますから、そこに行って『それ』を見せなさい」

「それって…………これですか?」

 

 それは常にベルの首からぶら下げられている。レベル2になったお祝いに、リヴェリアが彼に送ったエンブレムだ。表に刻まれているのは天上の神々が地上に降りたつ前、エルフが信仰していた精霊の紋章である。アールヴ氏族だけでなく広くエルフ社会には見られるもので、これ自体は特に珍しいものではない。

 

 問題なのは裏面。エルフの古語で文面が二つ刻まれている。古い方の文は『リヴェリア・リヨス・アールヴより』となっており、最近彫られた新しい文面は『ベル・クラネルに捧ぐ』となっている。

 

 エンブレムそのものは、リヴェリアが生まれた時両親から与えられたものだ。二組一緒に渡される物で、一つは両親から生まれた子供に。両親から子供へという趣旨の文言が、個々人によって細かな違いはあるが刻まれている。

 

 もう一つは前半に子供の名前が刻まれ、後半は空白となったものだ。この空白は渡す相手の名前を子供が刻む為にあけられているもので、これに相手の名前を刻んで渡すことは最大限の信頼の証とされている。

 

 これはアールヴ系の氏族に広く見られる風習であるが、エルフ全体においては流行しているとは言難く風習としては古典に分類される。その伝播もエルフ内で止まっているローカルな風習だ。親から子へという似たような風習はどの種族にもあるが、この紋章をということであれば行っているのはエルフとそれに連なる者だけだ。

 

 英雄譚に精通しているベルもこれは知らなかったらしく、ただのエンブレムとして感謝の言葉を述べていた。人間にしてはそうだろうが、これがエルフになると話は違ってくる。王族であるリヴェリアが最大限の信頼を向けているという証は、翻って彼女の言葉を代弁しているということにもなりかねない。

 

 当然、法的にも倫理的にもそこまでの拘束力はないのだが、ベル・クラネルがリヴェリアに目をかけられているという事実が広く知られていても、それに形が与えられることにはまた別の意味がある。エルフ専用と看板を出してる店でもこのエンブレムがあれば門前払いはされまい。きっと最大限の敬意を払って迎えられることだろう。それほどまでにこのエンブレムは、特にエルフ社会では意味がある。

 

 ベルの目的を成すにはこの上ない助けになることだろう。そのためにはより多くのエルフの助けが必要に違いないのだが、仮にこのエンブレムがなかったとしても、ベルが何故これを成すのかを聞けばエルフの商人たちは喜んで協力してくれるだろうという確信が、アリシアにはあった。

 

 英雄譚に精通しているだけあって、ベルの考えは古典的な部分が目立つ。言い換えれば古臭いそれは、エルフの中でもより保守的な者に刺さるものである。商人たちはエルフの中年が主であり、彼らは若者よりも遥かに伝統を貴ぶ。人間の男性がエルフの女性に対して、そのエルフ的な伝統を持ち出すのだ。

 

 当のエルフの若者がその伝統を顧みない傾向にあることを鑑みると、彼らはベルが例え人間であっても喜んで協力するだろう。人間の少年がこんなにもエルフのことを理解しているのにお前らは何だ、ということである。どの種族も最近の若い者は、という中年や老人がいるのは一緒なのだ。

 

 ありがとうございます! と頭を下げてダッシュで『黄昏の館』を出ていくベルを見送ったアリシアは、腰に手を当て一人、深々と溜息を吐いた。

 

 これで頼まれた仕事は全て終了した。後は頼んだ本人であるリヴェリアがベッドから出てくるのを待つばかりだが、こればかりはいつになるか見当もつかない。せめてベルの強制休暇が終わるまでには何とかしてほしいものだが、こればかりは天上の神のみぞ知る所である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レフィーヤ・ウィリディスはベルの面倒を見るようになって初めて孤独を感じていた。

 

 この前の『戦争遊戯』によってベルは無事にランクアップを果たした。レベル2の時と同様レベル3への最速ランクアップ記録を大幅に更新したベルにオラリオは沸いた。

 

 ファミリア内でもそれは同様である。最大手のファミリアの一角であるロキ・ファミリアであってもレベル3ともなれば、団員の平均を上回る。ダンジョン最深部への遠征部隊への参加が現実味を帯びてくる位置だ。

 

 レフィーヤがリヴェリアの後継と目され、準幹部の一員に名前を連ねているのと同様、レベルだけを見ればそろそろ下の者を従えて指示を出すことも真剣に考えなければならない立ち位置である。レベル3というのは本来それくらいの立ち位置なのだが、冒険者になって一年にも満たない少年にそれを求めるのは流石に酷だった。

 

 レベル3がそうあるべしとなっているのは、ベル以外の全ての者はそこに到達するまでにベルの十倍以上の時間をかけているからだ。神でない地上の子供たちは経験を蓄積して成長していく。才能も勿論あるが、それも磨かなければ輝くことはない。冒険者歴だけを見ればベルはまだまだ新人の域を出ないのだ。

 

 これだけ短期間にランクアップを果たしただけありベルの素質は類稀なものがある。それは誰しも認める所であるが、その素質に技術と知識が追いついていないのは容易に想像ができることだ。

 

 レベルに相応しい実力を身に着けるのは急務と言って良いだろう。今までの訓練だって決して軽かった訳ではないのだが、レベル3になったことでその密度は一段と濃くなる見込みである。充電期間が終わればベルはまた厳しい訓練を始めることになるだろう。

 

 その相手は、レフィーヤ・ウィリディスではないが。

 

 そう。ベルのレベルは3になった。レフィーヤと同じである。お揃いですね! と喜んでばかりもいられない。レフィーヤは魔力特化の純後衛職であり近接戦闘は専門外である。対してベルは速度特化とは言え他のステータスも満遍なく上昇しており、レベル3になりたてにしては破格の総合ステイタスを誇っている。

 

 レベル2の段階でも時々遅れを取りそうになることがあったのだ。レベルで追いつかれたらベルの動きはもう目でも追えない。レベルで追いつかれた段階でレフィーヤはベルに関する役割の半分を失った。今後の組手の相手にはティオナが内定しており、それを察している彼女はベルがレベル3に上がった直後からうっきうきである。

 

 当初は気持ち悪ぃと直接文句を言っていたベートも、あまりにうっきうきのままのティオナを気味悪がり視界に入れないようにする始末だ。

 

 それだけならばまだ良い。全く何も良い所はないがしょうがないと割り切ることができる。レフィーヤが気にしているのはランクが上がってからのベルが何だかつれないことだ。

 

 二週間骨を折られ続けたことと『戦争遊戯』で勝利したことにより、ベルには一週間の休暇が強制されている。その間、お茶にでも誘ってみようかしらと色気づいたレフィーヤだが、その悉くを断られている。

 

 予定が入っている雰囲気ではない。そもそも強制休暇の最中なのだから勉強も鍛錬も冒険もなしのはずで、では何をしているのかと言えばレフィーヤにはどうもオラリオを走り回っているということしか分からなかった。

 

 何か目的があるのは解るけれどもその目的をレフィーヤは知らない。今まで一緒に頑張ってきたのに、秘密を作られるというのは何というか寂しい話だ。別にお互いを知り尽くした仲という訳ではないし知りたいです! と言った記憶もない。それでも何というかこう、もう少し女を気にかけてくれるのが男性の仕事なんじゃないんですか、と年若いエルフは思うのだった。

 

「それで愚痴を言いに来るのが私の所っていうのは相当追い詰められているのね……」

 

 レフィーヤの鬱屈した物言いを聞いて実はどういう事情かを全て知っているどころか、サプライズの片棒まで担いでいるアリシア・フォレストライトは深々とため息を吐いた。

 

 ロキ・ファミリアに限らず、大所帯になってくると種族なり出身地なりで固まることがある。特にロキ・ファミリアにはリヴェリアがいるため、エルフのグループはハーフも含めて頭数が多い。最大多数はここでも人間であるが、人間はどういう訳か人間という種族では固まらないので、種族派閥としての最大数はエルフがトップだ。

 

 なお、獣人は獣人という括りでは固まらない。彼らは種族ごとに縄張り意識が強く、狼人なら狼人で、猫人ならば猫人で固まる。そもそも獣人と彼らを一括りにしたがるのはそうでない種族たちに見られる傾向であり、狼人や猫人からすれば、他の奴らと一緒にするなということなのだろう。種族ごとに隔意がある訳ではないようなのだが、一緒にされるのは嫌らしい。

 

 と言ってもエルフだってエルフだけの派閥に属している訳ではない。エルフに限らず普段のパーティやらはレベルの近いもので組むことが多いので、後衛職が多いエルフだけではパーティが成り立たないのだ。アリシアも普段はエルフでない者たちとパーティを組んでいる。パーティ全員種族が同じということはイシュタル・ファミリアのように特定の種族の数が突出しているのでもない限りあることではない。

 

 そんな訳で、アリシアとレフィーヤの接点は種族が同じの割りにはそこまである訳ではないが、別に疎遠という訳ではない。同じエルフということで話はするし、たまに二人でお茶くらいはする仲だが、最近は鬱陶しいくらいにベルベルしていたので、二人で顔を合わせるのはご無沙汰だ。ベルが入団してからは初めてだろうと思う。

 

 お茶をしようと言い出してきたのはレフィーヤの方だ。話を、それもそこそこ深刻な話を聞いてほしいというサインであることはアリシアにはよく解った。

 

 そしてそのそこそこ深刻な事情というのにも察しが付く。現状ロキ・ファミリアでベルのサプライズについて全く察しがついていないのはレフィーヤただ一人だ。その状況をかわいそうだと思わないではない。最終的に良い思いをすると解っているのはレフィーヤ以外の者たちであるので、彼女自身が今感じている孤独感は、俯瞰してみれば的外れとは言え、今の彼女にとっては本物だ。

 

 それにアリシアは仕掛け人の一人でもある。ベッドでうんうん唸っているリヴェリアに代わって、商人やらにつなぎを作ったのは主にアリシアだ。かわいそうだし愚痴くらいは聞いても良いかな、と思ったのが思えば運の尽きだった。

 

 ぐちぐちぐちベルぐちベルぐちベルぐちベルベル。

 

 ネガティブなことを言っていたかと思えば、ベルへの惚気話とも取れるような話も差し込んでくる。その割合も、愚痴をカモフラージュに惚気話を聞いてほしいんじゃないかと思えるくらいに、ベルの話の割合が多いのだ。

 

 こいつらまとめて爆発しないかしら。

 

 半ば無意識に自分の杖に手が伸びていたのを慌てて引っ込める。衝動的に襲い掛かりそうになってしまったが、今回のサプライズはリヴェリアの肝入りであるから、エルフの自分がぶち壊す訳にはいかない。どうせ最後には良い思いをするのだから、たまには男関係で歯痒い思いをするが良いのだ。

 

 結局、アリシア相手に色々愚痴を吐いてもストレスは払拭できず、更にネガティブになってしまったレフィーヤは奇しくも師匠であるリヴェリアと同じ決断をした。自室に引きこもり、ベッドで布団をかぶり丸くなっているとドアがゴンゴンとノックされる。

 

 この遠慮のない音はティオナだ。ある意味今一番顔を見たくない相手である。

 

「レフィーヤー、ベルが呼んでるよー」

「嫌です。私は会いません」

 

 大体今更ベルにどんな顔をして会えば良いのか。悪い話でも切り出されるのだとしたら会わない方が良いまである。いつまでも会わないで済む話ではないかもだが、会わなければ少なくとも話は進まない。

 

 力の限り、ベッドから一歩も出ないのだと心に決めたレフィーヤだったが、迎えに来たティオナはレベル5のアマゾネスであり、レフィーヤはレベル3のエルフ。しかも後衛職だ。腕力の差はいかんともし難く、無理やり布団をひっぺがされると、嫌々するレフィーヤをティオナは無理やり引きずって行った。

 

 連れられてきたのは正門前の広場である。屋外で周回をやる時の定番の場所であり、つい数週間前までベルがレフィーヤに杖でぶっ叩かれていた場所だ。思い出してきたら何だか涙が出てきた。これからはもうベルを杖で叩くこともないんですねとしみじみしているレフィーヤの目に、ベルの姿が入った。

 

 後ろ手に何かを隠しながら、いつにも増してもじもじしている。何か言いにくいことがあるのだということは、レフィーヤの目にも一目で解った。しかし、ネガティブなことを言おうという様子ではない。ベルは良くも悪くも良い奴なので、どういう意図であれ他人を傷つけるようなことをする時にははっきりと顔や態度に出るはずである。あの顔と態度は『ベル本人にとっては良いことだけれども、それを実行するのは恥ずかしい』という時の顔だ。

 

 それに自分を呼び出したということは、自分に関係あることである。今の今まで会わないと布団をかぶっていたレフィーヤだ。言われることはネガティブなことだと決めてかかっていた。考えても考えても、ベルがこういう態度を取るような理由に心当たりがない。

 

 混乱するレフィーヤともじもじするベル。やがて、意を決してベルがきり、と表情を引き締めた――つもりで言葉を切り出した。

 

「レフィーヤ・ウィリディスさん!」

「はい! なんでしょうか!?」

「僕は先日、貴女の協力のおかげもあってレベル3になることができました。まだまだ、その頼りない僕ではありますが、ようやく、貴女と並びたてるようになりました。なので、改めてお願いします!」

 

 

「今まで以上に頑張ります! 改めて、僕とパーティを組んでください!!」

 

 

 後ろでにベルが隠していたのは、腕一杯の花束である。色は薄い赤。レフィーヤの故郷の森の原産であるオラリオではめったにお目にかかれない花だ。故郷にはあれだけ咲いていたのに、とエルフ向けの店でたまにドライフラワーを見かけると郷愁にかられていたものであるが、ベルが抱えているのはその生花だ。

 

 品種にもよるが、この辺りの気候で栽培が簡単な品種であるならばいざ知らず、そうでない品種の生花はドライフラワーの最低十倍の値段がする。デメテル・ファミリアなどの土地に強い技術を持つファミリアが決して少なくない予算をかけて栽培しているもので、数自体が少ないために入手も困難だ。

 

 それを腕一杯集めたのだ。お金もかかったろうし、足も使っただろう。これを自分のために……と思うと胸が熱くなるレフィーヤだった。そっとベルの手から花束を受け取る。故郷の匂いだ。冒険者になろうと決意する前、ただ草むらに寝そべり、木々の間から青い空を見上げたのを思い出す。

 

 やがて森の外に希望を抱き、機会を得て冒険者になった。今の生活に不満はないけれども、たまにあの頃のことを思い出す。思えば最近は忙しくて、それもなくなっていた。胸一杯に花の香を吸い込むと、何だか懐かしくて涙が出てきた。

 

「レ、レフィ、その……」

 

 ベルが何やらもじもじしている。一世一代の告白をしたのだ。返事が聞きたくて仕方がないのである。ベルとて冒険者。一応、ここには二人きりということになっているが、視覚化できかねない程の密度の視線が自分たちに降り注いでいることは理解していた。一刻も早くここから立ち去りたい! というのは年端もいかない少年の気持ちを考えれば無理からぬことだ。

 

 これはレフィーヤの人生にとっても大事なことである。ゆっくり考えてくださいと言うのが普通なのだろうが、そこまで頭が回っていないらしい。断られるのを想像しているのだろう。赤くなったり青くなったりしているのが、何だかかわいい。そんなはずはないのに、と涙をぬぐうとレフィーヤに笑みがこぼれる。

 

 置いていかれるのではと心配していたのは自分の方だ。彼の方から手を差し伸べてくれるのなら、これを断る理由はレフィーヤにはない。

 

「返事なんて、決まってるじゃないですか――」

 

 花束を抱え、ベルの元に駆ける。そして目いっぱい力を込めて抱きしめた。今までは苦しいかな、ゴリラみたいな女と思われたりしないかな、と思って手加減していたけれども、同じレベルになったのなら気にしない。これからは力の限り抱きしめることができるのだ。

 

「――喜んで、お受けします!」

 

 返事よりも先に体当たりをされるとは思っていなかったベルは、その場でひっくり返った。公衆の面前で男を押し倒したレフィーヤに、周囲から歓声があがる。そこでちゅーや! とエキサイトするロキを横目に見ながら、ベル担当の一人であるティオナはにこにこしながら、ベルとレフィーヤを見つめていた。

 

「あんた、ムカついたりしないの?」

「するわけないじゃん。あれ、未来の私の姿なんだから」

 

 私の時は何してくれるんだろーと考えるとティオナのにやにやも止まらない。憎からず思っている男性が自分以外の女にうつつを抜かしているのだ。普通であれば面白いはずもないのだが、いずれ自分にもアレをしてくれると思えば許せる気がした。ここ数日、そう遠くないだろう未来を想像して幸せいっぱいだったティオナだが、その幸せっぷりは周囲には大層評判がよろしくなく、気持ち悪いから何とかしてくれと双子の姉であるティオネの元に苦情が寄せられていた。

 

 普段喧嘩ばかりしているベートでさえ、気持ち悪がって視界に入れないようにするくらいだ。

 

 とは言うものの、懸想した相手に色ボケするのはアマゾネスの本能というか習性のようなものだ。それが気持ち悪さに直結しているのであれば手の施しようがないのだがティオネの見る限り、どうやら当たりのようだった。

 

 これはしばらく気持ち悪いままだな、とティオネは諦めの境地に達した。

 

 

 

 



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『お茶会』

 

 

 

 

 ロキによって約束されていた神フレイヤとのお茶会の当日である。

 

 冒険者にはおなじみのバベル、その最上階にフレイヤの居室はあった。『戦争遊戯』が終わった後、アポロンに対して沙汰があった『会議室』の更に上。オラリオを一望できるこの都市で最も眺めの良い場所だ。

 

 他所の神様をお訪ねするのである。ダンスパーティ同様粧し込むのかと思えば、親愛なる主神は普段着で良いとの仰せである。フレイヤと会うためだけにめかし込むのもバカらしーで、という主神本神の主張に従い今日のベルは平服でロキもいつものへそ出しルックだ。

 

 ところで、田舎育ちで他人との交流の少なかったベルの男性観は実の所とても単純である。英雄譚大好きなベルは『英雄のような男性こそ至高』という動かし難い観念があり、自身もそうありたいと日々努力を重ねている。

 

 かわいい女の子に沢山モテたいという邪な考えこそあるものの、己を高めたいという欲求は大抵の冒険者が持っているものでありそれほど特異なものでもないのだが、ベルには具体的な目標というか着地点というものが存在していなかった。

 

 英雄と言っても形は一つではない。種族、年齢、性別、主義主張など様々であり、そのどれにもベルは敬意を持っている。アルゴノゥトなどのお気に入りはいるにはいるがそうありたいと入れ込む程でもない。強いもかっこいいも千差万別なのだということを、ベルはオラリオに来て初めて自覚した。

 

 そんな訳なので、高位の冒険者であれば手当たり次第リスペクトを抱くのも当然のことで、それは他のファミリアであっても変わることはない。自分の先を行く彼ら彼女らは自分にないものを持っており、自分にない強さがある。それは本来とても尊敬すべきことなのだ。

 

 今日、フレイヤはバベルに到着した旧友とゲストを案内するためだけに高位の冒険者を配置した。『ただの案内』などとても高位冒険者にやらせるような仕事ではないが、女神フレイヤの眷属にとって女神からの直接のお願いは他の何よりも優先される。不満はあっても文句はない。彼ら彼女らにとって神命というのは絶対なのだ。

 

 この日、女神フレイヤの神命を受けたのはアレン・フローメル。『女神の戦車』の二つ名を持つ第一級冒険者でありフレイヤ・ファミリアの副団長でもある。『猛者』オッタルに次するレベル六の猫人。勇猛な槍の使い手でありベルの遥か先を行く非常に尊敬すべき相手……なのだが、女神フレイヤの眷属によくある傾向として、判断基準が女神、自分、身内、それ以外という非常に明確な線引きをしているため、それ以外に属する者に対する態度は無関心か敵対のどちらかとなる。

 

 荒っぽいアレンは特に『敵対』を選ぶ傾向が強い。加えて口が悪いことから一部の冒険者やギルド職員からの評判はあまりよろしくないのだが、それはベルにはあまり関係のないことだった。口が悪い人間ならば同じファミリアのベートで慣れているし、ベートに対するベルの認識は『かっこいい先輩』だ。アレンもその立ち姿から自分には全くないかっこよさを感じ取り、目をキラキラとさせていた。

 

 アレンも、何も知らない子供が向けてくるような無邪気な視線にむず痒さを感じていた。力の限り罵って窓から放り投げてやりたい気にかられるが、粗相のないようにということは女神フレイヤより厳命されている。ここでベルに邪険な対応をし神ロキの不興を買えば、女神に失望されることは想像に難くない。

 

 それはアレンにとって死よりも辛いことであった。だから努めて感情を殺して事務的に対応しているのだが、無視するにはベルの視線は鬱陶しすぎたし、それをおもしろがっている神ロキにも苛立ちが募っていた。それをよく解っていたロキはベルに水を向ける。

 

「ベル。アレンに何か聞いときたいことはないか?」

「え? でもアレンさんに失礼では……」

「なぁに、ベルは最近大活躍したばっかりやからな。おまけの一つくらいしてくれるやろ」

 

 図々しい! というのがアレンの率直な感想であるが、冒険者特有の流儀としてレベルアップしたばかりの後輩に対しての所謂『ご祝儀』は、内容にも依るがあってしかるべきものだ。冒険者本人が直接要求してきたのならばまだしも、その主神が言い出し眷属がそれに追従したのであれば、それが例え自分と異なる主神であり、自分と異なる旗を仰ぎ見ている冒険者であったとしても、これを無視するのはアレン・フローメルの冒険者としての度量に関わった。

 

 この場限りのことと言うなかれだ。度量や矜持というのは周囲の自分に対する評価であるだけでなく、冒険者自身の内面にも深く関わってくる問題である。心の狭い人間なのではと自身で感じてしまうことは特にアレンのようなタイプには受け入れ難いことだった。

 

 アレンの無言をロキは肯定であると解釈しベルに視線を向ける。と言っても、いきなり質問OKと言われても思い浮かばない。普段どんな鍛錬をしてるとかありきたり過ぎるかも……と考えた結果、ベルは目の前で動くアレンの尻尾を見て一つのことを連想した。

 

「あの、アレンさんはにゃって言わないんですね!」

 

 ぶっ殺すぞクソが! と怒鳴らなかったのは、偏に女神フレイヤへの忠誠心故である。ベルの横ではロキが少しも堪えずに大笑いしているのがまたアレンの怒りを煽った。ただのアバズレであれば怒鳴れば大人しくなるが、この糸目は地上の子供が敬意を払うべき神でありアレンの主神の旧友であり何より本日の客人である。

 

 そして客人というのは白髪頭も同様だった。下手に言い返すと話題を続けそうなので、アレンは自制心を最大限に動員してベルの発言を完全に無視した。普通の感性をしていれば怒りを堪えているというのが伝わるはずで、しかもその相手が高位の冒険者ともなれば何をおいても口を噤むはずなのだが、ベル・クラネルというのは良い意味でも悪い意味でも、冒険者としての常識の外にいた。

 

 アレンの様子に気づかなかったベルは、構わず話を続ける。

 

「豊穣の女主人亭のクロエさんとアーニャさんって猫人の方がいるんですけど、お二人ともニャっていうんで猫人の方は皆そうなのかと思ってました。と言ってもうちのアナキティさんは違うんですが……あぁ、そのアーニャさんなんですけど、今度僕と二人きりの時――」

「てめえあの愚図とどういう関係――」

「え、あの今度お歌を歌ってくれるとかで……」

 

 その瞬間、アレンの心に久方ぶりに訪れたものがあった。それは遠い過去に置き忘れてた慈愛だの優しさだのといった、他人を慈しむ気持ちである。

 

「…………キツい物言いして悪かったな。辛いことがあったら何でも言えよ。力になるから」

 

 ワイルド猫人がいきなり優しくなったことに流石のベルも不信感を覚えた。それと同時に猛烈な不安に襲われる。ヤバいヤバいとは聞いていたが、そこまでアーニャさんのお歌はヤバいのかしら。

 

「お前の所の団長を『勇者』なんて世間は呼ぶらしいがとんでもねえ、お前こそが真の『勇者』だ」

「いえ、あの……僕はどうしたら?」

「死にゃしねえだろう気にすんな。まぁ俺なら、あの愚図の歌なんざ聞くくらいなら使い古した油を一気飲みする方がマシだと思うが」

 

 お歌はそもそもいつだかの差し入れのお礼にとアーニャの方から言い出したことだ。その時はたまたま周囲に人がおらず、同僚である彼女らが止めに入ったのはベルが二つ返事で受けた後だった。止める理由は何となく察しがついたものの、一度受けたことを後から反故にするのも悪いとシルたちの忠告を無視する形で現在に至っている。

 

 日時はまだ決定していないが、最後に会った時にはそろそろと言っていたので近いうちに実行されるだろう。アレンの言葉を聞いた後だと感じる恐怖もまた一入だが、何をするにも今更だ。古い油を一気飲みする選択肢を最初からとれなかった以上、ベル・クラネルにはもう大人しくお歌を聞く以外の選択肢はないのである。

 

 青い顔になり、急に無口になったベルにアレンは大いに満足した。足取りも軽く、機嫌良さそうにふりふり揺れる尻尾を見ていたのは、神ロキの糸目だけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オラリオの一等地に位置するフレイヤの居室は、当然、個人の邸宅その一室としてはオラリオで最も広く設計されている。ワンフロア全て占領しているのだからそれも当然で、生活用品などは全て眷属が運んでくる手はずとなっているがそれらを保管するための倉庫もあり、無補給だったとしても一週間は快適な生活を維持するだけの蓄えがある。

 

 これに加えてフレイヤは自らのファミリアのホーム『戦いの野フォール・クヴァンク』にも私室を持っている他、オラリオ各地に『別荘』なども所有している。本拠地以外の『別荘』は使用頻度が極端に低く、実質的には所有しているだけの物件が数多いのだがともあれ、最大手ファミリアの一角、その主神であるフレイヤは、オラリオの中でもトップクラスにセレブな生活を堪能できる立場にあった。

 

 田舎暮らしの長いベルの人生の中で、今まで最もキラキラしていた場所は『戦争遊戯』の戦勝パーティの会場であったのだが、眼前に広がるのはそれ以上にキラキラした光景だった。そこかしこにお金がかかっているというのが、ド平民のベルにもはっきりと解る。

 

「ようこそ、うさぎさん」

「今日はお招きいただきありがとうございます!」

 

 これまた豪奢な造りのテーブルに、ロキとべル、その向かいにフレイヤが着席する。配膳をするのはオッタル一人だ。筋骨隆々の男が黙々と作業をする様はある種異様な光景であったけれども、食器を運ぶのもお茶を入れるのも中々堂に入っており、ベルは別の意味でも感嘆の溜息を漏らしていた。

 

 それが微妙に面白くないフレイヤは努めて感情を押し殺していたが、付き合いの長いロキにはフレイヤの感情の機微は一目瞭然だった。

 

「ベルはフレイヤよりもオッタルに夢中なようやな!」

「…………」

「ベルー、オッタルのどこがええんや?」

「それはですね!」

 

 待ってましたと言わんばかりにベルのオッタル口撃が始まる。よくもまぁそこまで見てるものだというくらいに冒険者としてのオッタルをほめる言葉がずらずらと出てくる。

 

 そんなベルとオッタルを見てケケケと下品に笑うロキに、フレイヤは無言で返した。視線を集めることに慣れているフレイヤは特に意識せずとも他人の視線を感じ取れる。それが自分に向けられていなくともだ。種族年齢、あるいは性別を超越してフレイヤは視線を集めるが、ベルの視線は自分に向いていることは解るものの、そこまで注視はしていないことが肌で解ってしまうのだ。オッタルが近くにいる時は特に顕著である。

 

 彼は明らかに自分よりもオッタルに熱い視線を向けている。

 

 オッタルは今のファミリアの団長で自慢の子供だ。彼が注目を集めることは主神としてとても鼻が高いことではあるが、流石に自分よりも視線を集めている現状に不満を覚えないではない。

 

 とは言えそれで自分の子供に当たり散らすのは格好悪いことだとフレイヤ本神も、それをからかうロキも分かっている。神としての完璧な体面を保つのであれば、ここは何も言わずに静かに我慢すべき場面だ。行き場のない燻ぶったようないら立ちを、フレイヤは紅茶と共に喉の奥に流し込んでいく。元来自由である神であるが、神には神なりの矜持があるのだった。

 

 生きた心地がしないのはオッタルである。寡黙で鉄面皮である彼の表情は傍目には動じているようには見えないが、フレイヤ・ファミリアの団長であり側仕えでもある彼はとりわけフレイヤの感情の動きに敏感であり、己が主神が今まさにご機嫌ななめであることが良く解っていた。

 

 何故我が女神を見ないのだ。フレイヤの眷属としてはベルの行動そのものが疑問であるのだが、それは同時にベルを観察した結果、己の主神が立てた仮説を裏付ける行動でもあった。

 

 授かった恩恵の一環として魅了の類が全く効かないか、効くとしてもとてつもなく効果が薄いと、フレイヤはベルの能力を分析している。神としての力のほとんどが封じられている現状で発揮できる力では、この能力を突破することはできないだろうとも。

 

 何しろ密着して視線を交錯させた上に一曲ダンスをしてもベルは多少興奮した程度だったのだ。美の女神を前にした人間の反応として、それはとてつもなく薄いものであり、ベルのその行動は美の女神としてのフレイヤの矜持を酷く傷つけていた。

 

 直前に翡翠色の髪をしたエルフを相手にした時よりも反応が薄かったことが、その思いに更に拍車をかける。ふつふつと沸きたつ苛立ちを抑えている間にも、ベルのオッタル攻撃は続いていた。

 

「――たくましい腕や厚い胸板には憧れます! 僕も鍛えていけばこんな風に……」

「あなたにはまだ早いと思うわ」

 

 苛立ちながらも話はちゃんと聞いていたフレイヤの言を受けてベルは素直にしょぼんと落ち込んだ。

 

 急スピードで成長したとは言えベルのレベルはまだ3である。冒険者の平均は上回っているものの、目の前にいるオッタルはオラリオでただ一人のレベル7であり、実質的な最強の冒険者である。比較するのもおこがましいというのを、優しい女神様はやんわりと指摘してくれたのだ。良い神様だ……と内心で感動しながらお茶を啜るベルの顔を見ながら、当の優しい女神様である所のフレイヤは、彼の内心を見透かしていた。

 

 そういう意図もないではない。分不相応な思いは時に薬となるが往々にして毒となる。ベルには類稀な才能があるが、それはあくまで磨く前提のものである。磨ききる前にダメになってしまう例など、永い時を生きる神の前では枚挙に暇がない。

 

 ベルにはそうなってほしくないという思いがその言葉を口にさせた、と言うと聞こえは良いが、本心は単純に邪な思いからだった。

 

 美の女神とされるフレイヤであるが本人が人智を超越した容姿を持っているだけに、眷属の容姿にはそれほど拘りがない。無論のこと整っているに越したことはないのだが、重視するのは真に内面である。ベルに心惹かれるのはその魂の輝き故。そこに嘘偽りは全くない。

 

 だが究極の美というものの形がたった一つではありえないように、美にも方向性というものがあり、個々によって合う合わないがある。時代によって、あるいは見方によってさえその時々変わるものであるが、不均衡、不調和というのは、それそのものに美を見出すのでない限りいつの時代も敬遠される傾向にある。

 

 フレイヤの美的感覚からすれば、人間でかつ童顔であるベル・クラネルに、オッタルのような筋骨隆々は許容できるものではなかった。ベルとて人間の、しかも少年であるからいずれ成長し、老いさばらえていくのだろうが、それが今である必要はないのだ。

 

「ウサギさん、お祝いがあるの」

 

 その言葉に、オッタルは部屋の隅に用意してあった箱をベルの前に持ってくる。簡易な包装をされたそれを見て、ベルはフレイヤに視線を送った。美の女神はそんなベルを眺めてにこにこしている。プレゼントは開けても良いという意味だと解釈したベルは、いそいそと包装を解いて箱を開けた。中から出てきたのは……

 

「本ですか?」

「魔導書よ。それを読めば魔法が使えるようになるわ」

 

 え!? とベルも思わず驚きの声を挙げる。その反応を見ることが一番の目的だったフレイヤは笑みを深くした。何故と言われれば一番の理由は『親切心』であるのだが、トータルすればそれよりも打算の方が遥かに強い。

 

 冒険者がパーティを組む場合、その役割分担は『何ができるか』によって決定される。近接攻撃しかできない者が後衛になることが決してないように、武器を振るい身を守る手段を持たない者もまた前衛を務めることはできないのだ。

 

 その『何ができるか』の中でも魔法使用の可否は決定的な要因の一つである。忌々しい『運命のエルフ』のように近接技能と魔法を高いレベルで両立させる者もいるが、冒険者全体として見ればそれは稀な方だ。

 

 それ故に魔法の専門職は死にもの狂いで魔法を磨く訳だが、ここで前衛がいきなり魔法を使えるようになると話は変わってくる。パーティとして戦術の幅が広がるようになるのは好ましいことではあるものの、魔法を使えるようになった前衛から見ると、ほんの僅かではあるが、後衛魔法使いの価値が相対的に下がってしまう。

 

 それで不和を起こすようであれば元よりパーティなど組むべきではない。変化を許容できないようであればそもそも冒険者などやるべきではない。例え不和が起こったとしてもいずれ修正されるだろう。

 

 フレイヤが望んでいるのはそんなことではない。

 

 ここ最近、フレイヤを最もイラつかせたあの翡翠色の髪をしたエルフは後衛特化の魔法職であり、前衛と魔法を高度に両立させた戦闘の指導はできない。足を止めて魔法を撃つ指導ならばできるかもしれないが、それは後衛の仕事であって、前衛もできる人間に学ばせるべきことではない。

 

 ロキ・ファミリアの中で候補を立てるのであれば、『戦姫』アイズ・ヴァレンシュタインの仕事となるのだろうが、天才肌の彼女では他人に物を教えるのには向いていまい。

 

 ならばとファミリア外に目を向ければ……おそらく、ベルが最初に白羽の矢を立てることになるのはこれはこれで忌々しい『運命のエルフ』だろう。最近ベルと共に行動しているのも翡翠髪のエルフの弟子とされる茶髪のエルフであり、ギルドでベルを担当しているのも翡翠髪のエルフの縁者であるハーフエルフであるという。右を見ても左を見てもエルフと、とかくベルの周辺にはエルフが多いのだ。

 

 だがその中でどれが一番マシかと言われれば『運命のエルフ』だ。翡翠と茶髪はロキの眷属(ロキ・ファミリア)だが、『運命のエルフ』は『豊穣の女主人亭』に籍を置いており、あくまで一応ではあるがフレイヤ・ファミリアの管理下にある。同じファミリアにいないだけ大分マシだ。

 

 そして、魔導書である。

 

 自分の主神を見つけて契約さえできれば授かれる『恩恵』とは異なり、それによってどういう力を授かるかは本人の資質なり、種族血統なりに依存する。魔法を使えるかどうかはほぼ本人の資質で決まるため、才能が全くない者はどれだけ待っても鍛えても魔法が目覚めることはない。

 

 そも攻撃向きでなくとも資質があるのであれば、レベル1でも魔法は覚えるものだ。レベルが2や3になっても覚えていないのであれば、それは先天的な資質が皆無に近いと判断しても良いだろう。

 

 魔術書というのはこの法則の例外に属するもので、後天的にその才能を付与するものだ。本人の資質のみでは開花しなかった才能を、強引に目覚めさせるものであり、その確実性故に数は少ない。

 

 ただ、元々魔法が使えなかった子供は向いていないから目覚めなかったのであって、強引に目覚めさせた魔法は天然物に比べて総じて威力が低い。ただの前衛職がステイタスを伸ばすのと大きく勝手が違うのも相まって、その威力は『使えないよりはマシ』という悲惨な状況にもなりかねない。それにより元々才に恵まれていた分野まで伸び悩むようなことがあればそれこそ本末転倒である。

 

 その点、ベルは何の心配もない。それがどういう理屈であるのか。正確な所は勿論主神ではないフレイヤには解らないものの、全てのステイタスが驚異的に伸びていることはこの前の『戦争遊戯』を見れば解る。ベルの動きそのものは冒険者歴が浅いこともあって、駆け出し特有の青臭さが残るが、動きの鋭さ、身体の頑強さはレベル2にしては相当高水準にまとまっている。レベル1の段階で相当に貯金をしていたのだろうことは想像に難くない。

 

 元来には魔法を扱う才能には恵まれなかったようだが、一度魔法を覚えればベル特有のステイタスの伸びで威力の程はカバーできるだろう。後は本人が使いこなせるかどうかであるが、こればかりは彼本人に頑張ってもらうより他はない。

 

「でも、ロキ様……」

 

 もらっても良いのかとベルは不安そうに視線で問うてくる。くれるというのだからもらっておけば良いというのがロキ個人の考えであるが、タダより高いものはないということを、特にフレイヤ相手は油断ならないことをロキは骨身に染みて理解している。

 

 何か裏があるのだろうと考えるのは極々自然なことであるのだが、ロキがそう考えることをフレイヤが読めぬはずもない。

 

「裏なんてないわよ、ロキ。これは本当に、本当にただのお祝いなの」

「せやかて魔導書なんて虎の子やろ? なんで自分のところの子にやらんねん」

「あげるつもりで用意してたものなんだけどね……いずれまた手に入れる見込みではあるし、それに私の邪魔をした神をやっつけるなんてことをしてくれたウサギさんにはご褒美をあげないと」

 

 マッチポンプを仕掛けた側の癖に……しかもそれが崩壊した後のシナリオを書いたのはフレイヤ本神ではなくロキであるにも関わらず、ここまで自然に開き直れるのだから旧友ながら大したものだとロキも感心する。

 

 そんな中、ロキとフレイヤの間で視線を行ったり来たりさせていたベルが、口ごもった。なんや? とロキが気軽に問うと、ベルは彼にしては珍しく言いよどんだ口調で、

 

「その、色々な所からお話を聞くんですが、ロキ様とフレイヤ様は仲が悪いって……」

 

 ベルの言葉にロキとフレイヤは顔を見合わせた。他人の認識ならばまぁそうなのだろう。事実、眷属たちの仲ははっきり言って悪い。状況さえ許せばいつまでも殴り合っていそうなくらい、どちらが上でどちらが下かをとても気にする実に微笑ましい間柄だ。今でこそ大分落ち着いているが、口論から乱闘に発展したことも十や二十ではきかない。

 

 ただ、眷属たちの仲ほど本神たちの認識ではロキとフレイヤの仲は悪くないのだ。たまに差し向いでお茶くらいはするしこっそりとではあるが相談ごとくらいはする。眷属たちの仲は悪くとも二つのファミリアが事実上の共同歩調を取っていることは察しの良い冒険者は気づいており、だからこそ、二頭体制がしばらく続くことを察し、他のファミリアに属している冒険者は暗澹たる気持ちになったりもするのだが、まさしく神ロキの眷属であるベルには関係のない話だった。

 

「そんなことないわ。私たち不仲ではないわよね? 喧嘩は万ではきかないくらいしたものだけど」

「せやんなー。一時期のトールとかに比べたら、フレイヤとは仲良しこよしや」

「あの頃の貴女たちほんと仲悪かったわよね」

「ウチは悪ないでー。『助けて』とかやらされてみぃや。投げられる役はいつもウチなんやぞ?」

 

 軽口を言い合いながら笑いあう二人を見て、ベルは安堵の溜息を漏らした。しかし、ロキはあくまで相対的にしか物を言っていないし、フレイヤも仲良しであるとは言っていない。加えて悪くはないというのも神の基準であり、地上の子供視点で見ると彼女らの仲というのは概ね世間の評判の通りであったりする。

 

 しかれども、神の感性というのは真には子供に理解できるものではない。神同士が『不仲ではない』というのであれば、それは真実であるのだ。額面以上に、かなり好意的に解釈したベルは、二人は仲良しなのだという認識を持つに至り、今までの不安を過去のものにした。

 

 良かったです! とにこにこ微笑むベルを見て、穢れがないというのはこういうことを言うのだなと女神二人はしみじみと思った。

 

 




どうしてうちのフレイヤ様は俗っぽくなってしまうのか。


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武器を作ってもらおう②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冒険者の街オラリオでも――いや冒険者の街であるからこそ対外的な催し物を定期的に開催しなければならない。万物は流転するからこそ全体としての形を保っているのであって、外部からの流入が止まってしまうと全てが停滞してしまう。

 

 それは経済のことであり政治のことであり、当然冒険者固有の問題でもある。何しろオラリオの全てを支える冒険者の99%はオラリオの出身ではない。外部へのアピールを怠ってしまうとそもそも『産業』の中心である冒険者の頭数が少なくなってしまうのだ。

 

 故にオラリオは一年を通して細かなイベントに事欠かない。不定期に開催される『戦争遊戯』はオラリオの華として有名であるが、一年のこの日と決められている名物イベントもいくつかある。

 

 有名な所ではアテナ・ファミリアの『銀河戦争(ギャラクシンアン・ウォーズ)』である。年間を通して優秀な成績を残したアテナの聖闘士――団長を教皇と呼ぶようにアテナ個神は自分の眷属のことをそう呼ぶ――たち十名がトーナメント方式で戦いを繰り広げる年間チャンピオンを決める戦いだ。

 

 戦いは階級(レベル)別に分けられておりレベルの低い方から順に試合が開始される。最終節のレベル3の決勝の盛り上がりもさることながら、それさえ前座にするレベル4以上の聖闘士達のエキシビジョンマッチは毎年最高の盛り上がりを見せ、特に前年度のレベル5同士――アテナ・ファミリア教皇アスプロスと教皇補佐イリアスの試合は過去最高の試合として内外に語り継がれている。

 

 世にはどちらかが死ぬまで戦うデスマッチが行われる街もあるが『死人は殴り合いをしないから嫌い』『怪物の戦いにはドラマがない』というアテナの主義により人死が出ることは基本的にはなく、聖闘士同士の純粋な殴りあい一本という世界でも他に類を見ない興行はこれぞオラリオと内外の評判も良く興行的にも毎年大成功を収めている。

 

 不定期に開催される『戦争遊戯』が毎年定期的に開催されていると思えば動く金額の大きさも解るというもので、これに繋がる試合も毎週開催して観戦料を取っているため興行団体としてのアテナ・ファミリアはオラリオでも無視できない程の経済規模となっている。

 

 普通であればその主神であるアテナの政治的な発言力もロキやフレイヤ、ヘファイストスに準ずるくらいにはあるはずなのだが、彼女は良くも悪くも自分の眷属が武器を持たずに殴り合うことにしか興味を示さないため、自分の本拠地である『聖域』から出てこない。

 

 飽きもせずに毎日毎日自分の眷属が訓練している様を眺めている――変わり者ばかりという評判に違わない変神なのだ。

 

 興行的に成功するということがオラリオとして大前提なのであるが『銀河戦争』は血なまぐさいということで、特にカップルには評判がよろしくない。

 

 せめてデートの一時に花を添えるようなイベントはないものか。神たちがああでもないこうでもないと試行錯誤を重ねた結果、現状、その最適解の一つとして愛されているイベントの一つが――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう言えば、もうすぐ『怪物祭』ですね」

 

 モップを休みなく動かしながら、リューがぽつりと呟く。

 

 今は開店前。『豊穣の女主人』亭のスタッフたちは開店準備に大忙しである。と言っても基本的に料理はミアが一人で仕込みも行うため開店前のスタッフの仕事は主にテーブルのセッティングと店内の掃除である。

 

 清潔をこころがけている店内だ。それに加えて他の飲食店よりも少しお高めの値段設定をしていることから『豊穣の女主人』亭の客層は比較的穏やかなはずなのだがあくまで()()()の範疇を出ないし、何より客のほとんどは冒険者であるため総じて振る舞いが荒っぽく、恰好も綺麗でないことが多い。

 

 一日でここまで……とスタッフとしては閉口することもあるが、そういう商売なのだと今では割り切っている。なのでミア以外のスタッフの仕事も事欠かない有様だ。テーブルを磨き床を磨きガラスを磨くが手の他にも口も動くのが年頃の少女というものである。

 

 それで手が止まるようならミアにも雷が落ちるが、手が動いているのならばと文句も出ない。世間話をしながら掃除をするのは『豊穣の女主人』亭では日常的な風景と言えた。

 

「市井では変わった趣向が流行しつつあるようですよ」

「変わった流行?」

「男性が意中の女性を誘う時に赤い花を一輪渡すそうですよ。女性がそれを受ける場合は、祭の時に髪に差して回るのだとか」

「花屋さんがうっはうはだにゃー」

 

 クロエの声音にはからかう色が強い。どの時代どの世代にも似たような習慣や流行はあり、今回はたまたま『それ』になっただけに過ぎない。新興の流行など大抵はそんなものだし、そもそも伝統的などと持ち上げられている慣習でさえ、大本を辿ればきっとそんな始まりであるのだろう。新興の流行と異なることは、それと違って確かめる手段がないことだけである。

 

 大方花屋の組合あたりが仕掛けた流行だろうと察しはつく。リューが口にするくらいなのだから、市民の間にはそれなりに深度で浸透しており、今度の『怪物祭』ではそこかしこに赤い花を差した女性が見られるのだろう。花一輪なら少額とは言え、カップル皆がそうするのであれば一儲けである。

 

 美味いこと考えたものだと感心こそすれ、責めることもない。強いて言うなら香りの強い花は食堂には向いていないからやめてほしいところであるが、女性の髪に差すならば花屋もそれなりに気を使うだろう。

 

 問題があるとすれば花を差していない女性の肩身が微妙に狭くなることであるが、どの道ここにいる面々は全員当日仕事なのだ。休憩時間にちょっと抜け出すことはあっても、基本は終日拘束される。世の流行など文字通り他人事である。

 

「ベルに花を渡されても、断ることになるのは心苦しいですね……」

「そうですねー…………ところでリュー、貴女いつからベルさんのことをベルって呼ぶように?」

「?」

「かわいく首を傾げても私はごまかされませんよっ!」

「ごまかしてなど。私は最初からベルのことはベルと呼んでいましたよ?」

「リューが真顔で嘘を吐く悪い子になりましたよ! 聞きましたか皆――」

 

 当然いると思っていた仕事仲間に順繰りに視線を向けるが最後の一人の姿が見当たらない。今日は全員出勤。そして全員で掃除を言い渡されており、会話こそ挟んではいるもののまだ掃除は終わっていない。職場を空ける理由はないのだが、確かにアーニャの姿は見えなかった。

 

 シルが言葉を切ったことで残りの三人もそれに気づく。シル以外の三人は――ここにいないアーニャを含めると四人だが、全員神の恩恵を受けておりオラリオに存在するほとんどの冒険者よりも強い。他人に対する感度もそれだけ高いのだが、それも同じ程度の力量を持つ冒険者が最初から警戒しているとすると話は変わってくる。

 

 仕事中とは言えここはダンジョンの外であり警戒も緩みもする。こそこそ隠れようと最初から考えられていたら、如何なリュー達でもそれを事前に感知することは難しい。

 

 つまり残った三人に感知されずに出て行ったということは、逆説的にそれだけ疚しいことがあるということだ。

 

「弁当の包み抱えて出てったよ」

 

 シルたちの視線を受けてミアは手元から視線をあげずに答える。その言葉が終わるよりも早く、シルは箒を放り出して裏口に向かって走りだした。それにクロエ、ルノアと続くが一番裏口から遠い所にいたリューは動き出しが遅れてしまう。

 

「誰もいなくなったら誰が掃除するんだい」

 

 底冷えのするミアの言葉にリューは肩を落として観念した。気にならないではないがそもそも自分もシルに追及を受けていた身である。これでうやむやになってくれれば安いもの。

 

 しかも一人で取り残されたことを加味すればアーニャを含めた他の四人に貸しを作ったも同然である。

 

 これでしばらく身は安泰だろう。アーニャとベルのことは気になる。本当に気になるが……流石に自分よりも『深い仲』ということはあるまい、とリューは内心で安堵しようとして失敗する。

 

 椿に乗せられたとは言え公衆の面前で接吻というのはエルフの感性からすると相当に恥ずかしいことであったのだ。数百年前の保守的なエルフの感性で言えばあれを理由に結婚を迫ってもおかしくないくらいの強烈な出来事である。

 

 流石にリューはそこまで保守的ではないが、他人に対して多少の優越感を覚えるくらいは許されるだろう。年頃の人間の男性である。当然異性に興味はとてもあるはずだ。人畜無害そうな『白兎』とは言え胸や尻に視線を感じない訳ではない。

 

 今や彼は時の人だ。もう少し彼に異性に対する積極性があって倫理観が今少し欠けていれば遊び相手の女など選び放題だったのだろうが、リューにとっては幸いなことにベルの女性観はとても初心で保守的である。

 

 それが良いという女も多々いるだろうが、そんな連中よりも自分が先に進んでいるという『事実』はリューの自尊心を暗くくすぐっていた。

 

 ともあれまずは店の掃除だ。黙々とモップを動かすリューの背に、気性の割に穏やかなミアの包丁の音が届いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 休憩時間というのは勿論『豊穣の女主人』亭にも存在するが、それは本当に休憩をするためのものでその時間に外に出るということはあまりない。基本的にはその日出勤した従業員たちが車座になってああでもないこうでもないと益体もない話をするだけの時間なのだが、あまりないというだけでその時間に用事を済ませることもないではない。

 

 ただその場合、休憩時間が終わるまでに店に戻ってこれないと大目玉なので、長時間拘束される可能性がある場合は、閉店後の深夜か休日に済ませることになる。なのに休憩時間に店を、しかもこっそり抜けてまでやらなければならない用事とは『時間はかからずすぐに済むけれど』『アーニャにとってはそれなりに緊急性があり』『かつ同僚には内緒にしておきたい』用事ということである。

 

 本気で行方をくらませるつもりであったのならば見つけるのも骨だろうが、休憩時間が終わるまでに戻らなければいけない縛りはここにいる全員が同じである。アーニャと言えどもそこまで尾行に気を使っていた訳ではないようで、目撃情報はすぐに見つかり、追跡者たちは彼女の姿を見つけるに至った。

 

 待ち合わせに良く利用される噴水の前。お仕着せの猫人の少女がお弁当の包みを抱えてもじもじしている姿は、アーニャの容姿と服装もあって非常に目立っていたが、明らかに待ち人がある様子の少女に声をかける無粋な人間はいなかった。

 

 どの種族の老若男女も非常に緊張した様子のアーニャを微笑ましく眺めながら通り過ぎていく。まさに青春の1ページという有様のアーニャと比べて、自分たちは一体何をしているのだろうとシルは暗澹とした気持ちになっていた。

 

 どういう目的でこっそり抜けだしたのかは、アーニャの姿を見た時点ですぐに解った。今のアーニャはお弁当の包みを見ながらにやにやしたと思えば急に身体を強張らせたり、きょろきょろと辺りを見回してみたり落ち着きがない。考えていることが二転三転しているのが離れていても良く見て取れる。

 

 単純に言えば絶妙に情緒不安定になっていた。悩み事などなさそうな突撃思考のアーニャにしては珍しい振る舞いであり、それも待ち合わせの目的を考えれば納得もいった。通行人の皆さまがアーニャに声をかけないのと同じ理由で、普通に考えればここに留まってのぞき見するのは無粋であることは解ってもいたのだが、特にシルには引けない理由があったし、クロエとルノアは単純に好奇心が勝っていた。

 

 どういう話の流れになろうとも、今日みたことで一週間はアーニャをからかい倒せるとなれば、多少の無理は受け入れる覚悟である。何しろアーニャがああなのだ。相手が誰かも大体予想はついたが、実際にどういうことになるのか見なければ引くに引けない。

 

 果たして、待つことおよそ三分。アーニャの待ち人は遠くから現れた。

 

「アーニャさーん!」

()()!!」

 

 ぱっと、花の咲いたような笑みを浮かべる。お前もか、と暗澹とした気持ちになったシルを他所にアーニャはてて、と小走りに駆け寄るとベルにずい、とお弁当を突き出した。

 

「これ、お弁当作ったニャ。この前のお礼……」

「お礼を言われるようなことしました?」

 

 小首をかわいく傾げるベルにシルも心中で同意する。そもそもベルとアーニャにはそれほど接点もなく、強いて言うなら『豊穣の女主人』亭に食事を来るくらいなのだが、と考えて思い出した。

 

 少し前、お歌を聞かせるのだとベルを連れ出したのだった。アーニャのお歌はシル達にとっては苦行そのものなので、お礼という単語と結びつかなかったのだ。

 

 思えばそのお歌の会から戻ってきてからアーニャの様子がおかしかったようにも思う。いくら優しいベルでもあの苦行である。遠まわしに下手くそとでも言われて流石のアーニャも傷ついたのだろうと仏心から放っておいたのだが、それがまさかこんなことになっているとはシルも思いもしなかった。

 

「とにかく! にゃーのありがとうの気持ちなのニャ! ありがたく受け取っておくのニャ」

「そうですね。ありがたくいただきます」

 

 嬉しいです、とベルは本当にありがたそうだ。人にちゃんと感謝でき、それを態度で示すことができる。喜怒哀楽がはっきりとしているのはベルの特徴の一つであるが、シルはそれを彼の最大の長所と考えていた。

 

 まさに笑顔を向けられているアーニャも同じ考えなのだろう、にゃーにゃー言いつつしどろもどろになりながらも、尻尾はぴょこぴょこ嬉しそうだ。

 

「それはそうとベル、今日は何だか嬉しそうなのにゃ?」

「解りますか! 実は今日の午後に新しい武器が届くんです。ヘファイストス様に会いに行くんですよ」

 

 えへへ、とベルは笑う。本当に嬉しそうだ。見ているものまで嬉しくさせる。アーニャの尻尾も勢いよく振られている。

 

 若人たちの逢瀬である。ここで話の華も咲くのが筋でありお約束でもあるのだが、何分アーニャには時間がなく、冒険者であるベルはこの後ダンジョンに行かねばならない。

 

 ベルのスケジュールは『豊穣の女主人』亭のスタッフには常識だ。『黄昏の館』で朝ごはんをいただいたあと、軽いストレッチと筋トレをした後にダンジョンへ。昼食は基本的にはダンジョンで取り、日が沈む前には『黄昏の館』に戻ってはティオナ・ヒリュテと戦闘訓練を行っているらしい。

 

 そして夕食を取った後、リヴェリア・リヨス・アールヴからの座学となりこれが終わった後に諸々の雑事を済ませて就寝となる。冒険者としてはありえないくらいに規則正しい生活だ。

 

 結構忙しいのだ。暇な時であればまだしも、彼の主神であるロキから申し付けられた強制休暇は終了し普段通りの日常が戻ってきている。相手のアーニャも普段着であればまだしも仕事着である。

 

 ベルとて『豊穣の女主人』亭の忙しさは知っている。抜け出してきていて時間はあまりないというのはベルにも解った。離れていくベルに手をふるアーニャは嬉しそうである。ベルの背中が見えなくなるまで手を振り続けたアーニャは、彼の背中が見えなくなるとにゃふーと満足そうに息を吐いた。

 

 幸せいっぱいと背中に書いてあるアーニャが諸々感づいたのは、下手人たちに確保される直前だった。暴れて逃げようとするも自分と同じレベルの冒険者二人に押さえられた状態ではそれもままならない。

 

 大通りにいては目立ってしまう。なおも抵抗するアーニャを暗がりに連れ込む様はまさに人さらいの所業そのものだったが、全員が同じお仕着せをしてれば見世物かと思いそれが『豊穣の女主人』亭の連中であれば関わり合いにならないようにしよう、と考えるのがオラリオ人にとっての日常だった。

 

 離すのにゃー、と抵抗するアーニャにシルがぐいと顔を近づける。座った眼はなるほど、普段彼女らに熱をあげている客たちが見たら悪夢にうなされそうな座った目つきをしていたが、アーニャとて休業中とは言え冒険者。自分より高位の冒険者や神が相手であればまだしも、()()()()()()()()()()()の視線の圧に臆したりはしないのだ。

 

「貴女、いつからベルさんのことをベルって呼ぶように?」

「何を言っているニャ、シル。にゃーは最初からベルのことはベルと呼んでいたのニャ」

「白髪頭とか呼んでいたの忘れてませんよ私は!」

 

 吠えてもアーニャはどこ吹く風だ。その態度にいらだちも頂点に達したシルは、普段の態度から仕事の姿勢からとにかく文句が口を突いて出てくる。

 

 振り返ってみれば、文句を言うシルもそれを聞くアーニャも、好奇心でついてくることを選んだクロエもルノアも、冷静ではなかったのだろう。

 

 休憩時間を大幅に過ぎてしまったことに気づいた時には後の祭り。かつてない程の雷を落としたミアに延々と説教されることになるのは、この数十分後のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ダンジョンから早めに戻り、身繕いをしてからの道程である。前回訪れた時にはロキの同道があったが、今回ベルについているのは謎の体調不良から復帰したリヴェリアである。

 

 ベル本人は正確にはあずかり知らぬことであるが、元々ベルの武器はリヴェリアが神ヘファイストスに自費で依頼するということで企画を持ち出したのだ。

 

 それがヘファイストスのスケジュールが合わないということでベルの主神であるロキがヘファイストスの眷属の中では最も腕利きの椿に依頼を出すに至った。その予算も勿論ロキのポケットマネーから支払われている。

 

 基本、冒険者の装備というのはその冒険者本人が稼いだ金によって賄われる。神にもお気に入りはいるが金銭的な面で大いに贔屓していては、他の眷属に対する面目が立たないからだ。神がいくら自由な生き物であるといってもそのファミリアを構成するのは地上の子供たちであるため、その信頼が損なわれては組織そのものが立ち行かない。

 

 あくまで神の基準であるが神も加減はしているのである。

 

 その基準で考えると、主神自らヘファイストスブランド、それも団長謹製の武器を与えるというのは聊か度が過ぎていると言えなくもないのだが、『戦争遊戯』勝利におけるお祝いの前払いと思えば、内外の視線も納得するというものだった。

 

 主神と仲間に勝利の栄誉を齎すというのは、冒険者にとってそれだけ誉高いことなのである。

 

 同様にファミリアの副団長がいくらお気に入りの団員のためとは言え身銭を切るというのもあまり推奨されることではないのだが、普段は自分がする側であるので神はあまり目くじらを立てることはない。後は仲間の眷属たちが納得すれば済む話だ。

 

 あれもこれもお祝いということで通すのは聊か無理があるものの、リヴェリアがベルのことを大層可愛がっているのは先日の姫ムーヴの件も含めて内外に知れ渡っている。神ロキの眷属たちに聞けば『まぁリヴェリア様のすることだから……』と苦笑と共に納得されることだろう。

 

 無論、贔屓されることに思うところがないではないが、神対子供と違ってこれは子供と子供の話である。神と比較すればその立場は非常に近しいものであり、そして特に冒険者となればレベルと実績が物を言う。

 

 早い話、レベル6『九魔姫』たるリヴェリアに直接文句を言う子供も、そのお気に入りであるベルにやっかみを言う子供も存在しないのだ。

 

 ベルを伴って歩くリヴェリアは視線を大いに集めていたが、目立つのはリヴェリアにとってはいつものこと。その歩みは堂々としている。逆にいまだに目立つことに慣れていないベルはそんな視線を受けて身を小さくしていた。

 

 視線から逃れるように足を速めると自然にリヴェリアとの距離が近くなる。ふわりと、長く綺麗な翡翠色の髪から香りが感じられるような距離まで近づくと、無言でリヴェリアは足を速めた。

 

 実の所まだ例の件から完全には回復できていないのであるが、それを誰に話す訳にもいかず、またこういう方面にはとんと鈍いベルはリヴェリアが足を速めていることにも気づいていなかった。

 

 ベルが足を速めてはリヴェリアも足を速める。そんな珍妙な追いかけっこを繰り返したことで、予定の時間よりも大分早めにヘファイストス・ファミリアの『本拠地』へと到着した。

 

 まだ見ぬ新しい武器を前にわくわくしているベルを他所に、待ち合わせの時間よりも早く到着していることと、その原因に思い当たったリヴェリアは心中で密かに溜息を吐いた。

 

 リヴェリアには立場がある。例の件をこの世でただ一人を除いてリヴェリアに直接言って来たりはしないのだが、その数少ない一人から先日文が届いた。

 

 感情が高ぶり筆圧がコントロールできていないその文字は、全エルフの中で最も流麗と言われた美しさなど見る影もない。途中で派手にインクが散っているのは筆圧に負けてペン先が折れたのだろう。そこからは(ここからは私が代筆します)という注釈と共に彼女の夫の筆跡へと変わっていた。

 

 曰く、『年端もいかない人間の少年を前に姫ムーヴ? どうしてそんな面白そうなことをやる前に私に相談してくださらなかったのでしょうか。未通女の姫様(ひいさま)が浅知恵を働かせて大失敗する様が目に浮かぶようです。次に黙ってこんなことをしたら病身を押して文句を申し上げに行きますからね。大勢の部下の前で大恥をかきたくなかったら、次からはアイナにちゃんと相談してください』

 

 手紙は『お子の乳母を他のエルフに任せたら呪う』といういつもの文言で締めくくられ、中にはアイナお手製の香水が同封されていた。長老たちよりも古典に通じている癖に誰よりも流行に敏感で『姫様が私に勝っているのはお顔だけです』と素面で豪語するだけあって多才な彼女は香水くらいならば病床の身でも自作する。

 

 調香を売りにしているファミリアの最高級品もかくやという香りは身繕いにはそこまで身を入れないリヴェリアすらも感嘆の溜息を漏らすほどで、今日も早速使用している。

 

 お洒落の方向性は種族によってまちまちであるが、エルフは特に華美に着飾るということをしないため、自己主張は必然的に他の方法でということになる。香水は知識と道具さえあれば家庭でも自作できることから、エルフの中でも上流階級に属する者のお洒落の定番でありリヴェリアも十を超える数を常備している。

 

 その常備している香水も全てアイナが精油してくれたもので、使い方さえアイナから教わった。今でも定期的にこうして送ってくれる。香水と言っても歓楽街の娼婦がするような香りの強いものではなく、自然にさりとて主張はするという――その娼婦の言葉を借りると『これを香ると表現するのは香水に対する冒涜である』というくらい薄いらしいのだが、リヴェリアはこういう派手すぎない香りを好んでおり、例のダンスの時に使っていたのは特にお気に入りのものだった。

 

 今日の香水にしても目ざといアリシアなどはすぐに気づいたものだが……香りについてあれだけ辱めを受けたにも関わらず、しかもその時の相手であるベルと並んで歩くのに新しい香水をつけてきたという事実に、リヴェリアは密かに自分の浮かれっぷりを痛感していた。

 

 アイナにああ書かれる訳だな、と気持ちを引き締めロキ・ファミリアの副団長の顔に戻ったリヴェリアは守衛に用向きを伝え、その後主神室に通された。

 

 それは主神用の執務室であり、神が訪ねてきた時の応接室を兼ねることも多いが、神に対して使われることは実の所あまり多くはない。大抵の神は他神の本拠地に足を踏み入れることを倦厭する傾向にあり、ロキもその例に漏れない。

 

 単純にお家にまで遊びに行く友達がいないだけかもしれないが、元より神の趣向など地上の子供に推し量れるはずもない。

 

 ともあれ今はベルのことだ。

 

 正面中央にはヘファイストス。彼女の右手には団長である椿・コルブランドが控えており、更に少し離れた後方に赤毛の青年が控えていた。東方の装束に身を包んだ年若い男性でありベルと視線が合うと軽く片手を挙げる。

 

 リヴェリアが直接顔を合わせるのは初めてのことであるが、彼がヴェルフ・クロッゾ……一部のエルフには忌み嫌われる『魔剣貴族』の末裔である。ベルの『不滅の炎』を打ったのも彼であり、ついにクロッゾの末裔が主義主張を曲げたのかと鍛冶の界隈では衝撃が走ったと言うが、どういう訳か彼はベルの()()()専属鍛冶師として付き合いを続けているという。

 

 主義主張など人それぞれその時々である。かくいうリヴェリアも、高貴な生まれではあるがそれらしい生き方などしていない。『魔剣貴族』が防具を打ったって構わないのだろう。本人がそれを由とし、彼の主神がそれを認めているのであれば他の神の眷属が口を挟むこともない。

 

 一方でベルの視線を受けた椿であるが、こちらは胸を張ったまま微動だにしない。普段の砕けた様子とは異なり余所行きの雰囲気である。主神の部屋で主神と共に他神の眷属と相対しているのだから、主神であるヘファイストスが良いというまでは仕事モードなのだろう。

 

 律儀なことであるが、ロキ・ファミリアならばその手の振る舞いはむしろリヴェリアの役目であるため椿の態度には妙な親近感を覚えるのだが、その無駄に張り出した胸を見ると忌々しさを覚えた。

 

 自分の胸と見比べそうになる視線はどうにか堪える。小さくはない、というのはあの質量の暴力を目の前にすると言い訳に過ぎなかった。

 

 アマゾネスや一部の獣人に比べるとエルフの女性というのは所謂、女性的な体格には恵まれないことが多い。

 

 リヴェリアも決して貧相ではないが、それはエルフにしてはという枕詞がつく。その体格的に劣るとされるエルフの中でもさして大きくないリヴェリアが、種族のるつぼとされるオラリオの中でも特に大きいと分類される椿と比較するのが土台として無理な話なのだ。

 

 個人として諦めはついても目をかけているベルが動く度に無遠慮に揺れる椿の胸に視線を奪われているのを見ると言いようのない苛立ちを覚える。私も修行が足りないなと深々と溜息を漏らしながら、隣に立つベルのつま先を躊躇いなく思いきり踏みつけた。

 

 奇声をあげるベルを見なかったことにし、リヴェリアは一歩進み出るとエルフの古典作法に乗っ取って一礼する。

 

「神ヘファイストスにおかれましてはご機嫌麗しく。神ロキが眷属『九魔姫』リヴェリア・リヨス・アールヴ。御意を得て罷り越しました」

「……椿、ごらんなさい。これがかつて私たちに取られていた態度よ? 私オラリオにいると自分が神だってこと忘れそうになるわ」

「主神様がそうしてほしいというのであればするが……違うのだろう?」

「そうね。まぁ、そうなのよね……あぁ、リヴェリアもそこまで固くならなくて結構よ。ロキにするように、というのも私が嫌だから努力して普通にしててちょうだい」

「ご配慮に感謝します」

「さて、気を取り直して武器だったわね。図らずも貴方にうちの子たちが武器を打ったと聞いたものだから私も大神気なくいつも以上に気合を入れたわ。ヴェルフに合わせて魔剣にするか椿に合わせて刀を打つか悩んだんだけど、そろそろ壁にぶち当たっても良いだろうって親心で刀にしてみたの」

 

 ヘファイストスの後ろでは椿とヴェルフが揃って複雑な表情を浮かべている。同じ武器を打ってほしかったという思いもあれば、比較されるのは嫌だという思いもある。どちらも鍛冶師としての本音であり、地上の子供としての本音でもある。

 

 何につけても自信たっぷりな椿が妙に後ろ向きな気配を出していることにベルは新鮮さを感じつつも、ヘファイストスが差し出した袱紗からそれを取り出した。

 

 椿に打ってもらい今もベルの腰に下げられている『紅椿』よりも僅かに長い。東の刀剣については詳しくないベルであるが、ともすれば小太刀という分類ではないのかもしれないと思った。

 

 恐る恐る鞘から引き抜くと、ベルの目に飛び込んできたのは淡く蒼い光だった。美しい波紋に磨き抜かれた刀身。紛れもなく戦うための刃であるはずなのに女神のような調和のとれた美しさがあった。薄い蒼色の刀身は屋内であっても光り輝いているようにも見える。

 

 その刀の完成度を見た椿とヴェルフは鍛冶師としての感性から絶句していた。へファイストスが打った武器は今まで何度も見たことがあるが、気合を入れたというだけあってその完成度は今まで見た武器の中でも群を抜いていた。

 

 美しく、そして力強い。地上の子供の感性ではまさに神の御業と言って良い出来であるが、椿とヴェルフの主神であるヘファイストスはこの武器を打つのに神力など使っていないのだ。地上の子供の持ちうる力のみでここに至ることができるという証明でもあるのだが、果たして自分たちがこの高みに至るまで一体どれほどの修練と試行錯誤が必要となるのだろう。

 

 呆然としている椿に、ヘファイストスが笑みを浮かべながら無慈悲に告げる。

 

「二年待つわ。椿、この刀に匹敵するものを完成させ私の前に持ってきなさい」

 

 二年!? という言葉が口を出そうになるのを止めたのは、椿の鍛冶師としての矜持だった。普通に考えれば無理難題であるが、達成できないことをこの主神は言わない。それこそ死にもの狂いの研鑽が必要となるだろうがそれでも、できると信じたからこそ主神はその言葉を口にしたのだ。

 

 これは試練だ。乗り越えるべき試練なのだ。今の自分では到達しえない領域に、自分が到達している光景を胸に、萎えそうになる気持ちを椿は自分で奮い立たせる。何より今は、自分の武器を振るい命をかける男が目の前にいるのだ。

 

 気弱な鍛冶師の作品では、剣も鈍ると言うもの。鍛冶師は傲岸不遜なくらいでなければ冒険者の前に立つことなどできまい。

 

「この刀の名は?」

「椿に対する試練だけれど名前についてはヴェルフの方を参考にしたわ。古典に則りその子のことを『果てしなき蒼(ウィスタリアス)』と名付けます」

「『果てしなき蒼』……あ、ということは僕もついに二刀流を?」

「最終的にはそれでも構わんだろうがまずは両方の腕で武器を振るえるようになれ」

「同じことでは?」

「すまん言い方が悪かったな。まずは左手でも武器を振るえるようになれ。利き腕とは違う腕で同じことをしろと言われても理解が追いつかないものだ。手前が教えられるようなことはないが……まずはリューに話を聞いておかしな癖がつかないようにしておけ」

 

 随分と親しみの込められた呼び方に、思わずベルの頬も緩んだ。

 

 椿は『戦争遊戯』が終わってからリューと友人付き合いを続けているようで、たまにふらっと仕事終わりの『豊穣の女主人』亭に現れては、リューを引きずって夜街に繰り出しているという。といっても如何わしい店に出入りしているのではなく、がばがば酒を飲む椿に付き合ってもそもそ食事をしているだけらしい。

 

 たまに晩酌もするそうだが特に酒には興味がなく酒飲みの癖にぐでんぐでんになるまで飲んだ椿に肩を貸しているリューの姿も目撃されている。全く性格の異なる二人であるが存外に馬は合うようでリューの方も邪険にしている様子はないらしい。

 

 ほっこりしているベルとは逆にリヴェリアはまた『運命のエルフ』かと内心で溜息を吐く。二刀流はどういう訳か人間の男性冒険者が特に憧れを持つ戦闘体系であるが、習熟の難易度が高く実際の戦闘でそれを使っている冒険者は極少数だ。

 

 ロキ・ファミリアでもそれを主体に使っている者はほとんどおらず、準幹部以上では辛うじてティオネとベートがそれに近い技術を持っているが、ティオネの武器はククリナイフであり武器の重量に任せて叩き切るという風である。ベートに至っては格闘が主体であり二剣はあくまでその補助と、二人ともベルの目指す所とは大きく異なっている。

 

 技術があるということであればなるほど、ベルに独学で学ばせるよりはマシだろうが、アマゾネスであるティオネと狼人であるベートでは、人間のベルと根本的な身体能力が異なっている。ベルに向いている、あるいは彼が望んでいる技術の習得を目指すのであれば椿の提案の通り『運命のエルフ』を頼るか、もしくは別に師を探すのが良いだろう。

 

 東の刀を使った技であればリヴェリアの脳裏に思い浮かぶのはゴジョウノ・輝夜の艶やかな姿であるが、残念なことに彼女はもういない。同じ東の技術であれば、そちらの神……オラリオであればタケミカヅチなどを頼るのも良いかもしれない。交流はほとんどないがロキを仲介して頼めば断りはしないだろう。

 

 主神の人間性に反してあちらのファミリアは主神が自ら働かねばならないほど財政的に困窮していると聞いている。下世話な話だが金子をいくらか積めば二つ返事で了解してくれるだろう。むしろ困窮する財政事情を考えれば、金子は受け取らせなければならないくらいだ。

 

 主神に労働をさせているようでは眷属の沽券に関わる。働きたくてそうしているのならばまだしもそうでないのであれば神には好きにさせておくべきだ……という主張は主に神の側から見られる主張であるが、見方を変えれば好きにさせておくべきと子供が言うのも不遜と言えば不遜である。

 

 自由にさせておくべきと子供の判断が入るのもどうかと言う訳だ。子供の追認などなくとも神とは元来自由な生き物である。好きにやった結果が今なのだとしたら子供が口を挟む所などなく、また自由にさせるべきという見解も子供の中で統一されている訳でもない。

 

 ある程度までは子供が律するべきという考えも特に神に振り回される眷属の間には根強く、リヴェリアに近い所ではアスフィなどがその筆頭である。

 

 タケミカヅチ本神やその眷属がどういう考えかは知らないが、ベルのためである。ロキを介して繋ぎを取るということでリヴェリアの内心はまとまった。誰かタケミカヅチ・ファミリアと付き合いのある者がいれば良いのだが、比較的古参で大手であるロキ・ファミリアと異なりタケミカヅチ・ファミリアは同じ探索系のファミリアとは言え零細な上に新参で弱小で、眷属の数も確か一桁だったように記憶している。

 

 数字だけ見ていると任せて良いものか不安になるが、眷属の数が神の力を示す物ではないし元より子供が神を推し量るなど不遜である。その辺りもロキが調整してくれることだろう。普段はふざけ通しであるが対神の交渉事においては本当に頼りになる。

 

「さて、鍛冶師としてはまだまだ言いたいこともあるけど貴方のその顔に免じてまた今度にします。今日は思う存分その子との関係を楽しみなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベルは腰に新たにつられた『果てしなき蒼』を歩きながら何度も嬉しそうに見つめている。新しいおもちゃをかってもらった子供のような彼の姿に心洗われつつも、リヴェリアは実用的なことを考え始めていた。

 

 毎回全てを持っていく必要はないが、ベルの武器もこれで三本目だ。これからも増える見込みである以上、そろそろ武器の取捨選択の必要が出てくるし、あるいは本格的にサポーターの同行を検討する必要も出てくる。

 

 本当であればもう少し時間をかけて検討すべき事柄も、ベルの急成長で前倒しを余儀なくされている。このままのペースで進んでいけば二年もすれば自分に肩を並べ、三年もすれば追い越しているのではと――聊か精悍な顔だちへと成長したベルについて歩く自分の姿を夢想していたリヴェリアの耳に、ベルの何気ない言葉が届く。

 

「それはそうとリヴェリア様」

「――ああすまん。考え事をしていた。なんだベル?」

「今日はいつもと違う香水なんですね」

 

 何気ない一言にリヴェリアの歩みは完全に止まった。リヴェリアの後ろを歩いていたベルはそれで追い越してしまい、どうしました? と振り向く。赤い円らな瞳を見た瞬間、リヴェリアの顔に血が上った。

 

「待て、来るな近寄るな。今私の顔を見たらお前に何をするか解らないぞ!」

 

 顔を背けたリヴェリアに腕を向けられベルは反射的に足を止めた。杖こそ持っていないが魔法を発動する直前のような姿勢に冒険者として身の危険を覚えたのだ。元々視線を集めていた二人である。リヴェリアのただならない様子に周囲もゆっくりと二人に影響を与えないように距離を取り始めていく。

 

 周囲のじんわりとした変化をリヴェリアはベルよりも遥かに敏感に感じ取っていた。羞恥から頭に上った血は、常に冷静であれと心がけているリヴェリアからほとんどの理性を奪い取っていた。ぐるぐると回った頭では何も考えがまとまらず、アイナ、助けてくれアイナと心中で親友へと助けを求めていた。

 

 しかし病床にある彼女から援軍が来ることなどなく、代わりに脳内にいる小さなアイナからは盛大に溜息を吐かれてしまう。如何にもあの親友がやりそうな仕草にムカっときたことで逆にリヴェリアは僅かな冷静さを取り戻したが、それは事態を立て直すには程遠いものだった。

 

「今日は寄り道――いや、個人的な使いを頼む。『青の薬舗』と……そうだな、アミッドの所に行ってマジックポーションをそれぞれ一本ずつ買ってきてくれ」

 

 それが長大な時間稼ぎというのはベルにも解った。魔法使いとしてオラリオでもトップクラスの実力を持つリヴェリアが、まさか今さらポーションの飲み比べやら品質のチェックをするでもない。

 

 良く解らないが一人になりたいのだろう。自分を無下にしている訳ではないのだし、リヴェリア様も難しい立場なのだからそういう時だってあると、言いたいことを全て飲み込んだベルはそのまま『青の薬舗』に向かって歩き出した。

 

 あ、と手を伸ばした時には既にベルの背中はオラリオの雑踏の中へと消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しょんぼり肩を落として歩き出すリヴェリアの姿を物陰からたまたま見てしまったエイナは、見るんじゃなかったと心底後悔していた。

 

 オラリオ中で噂になった姫ムーヴの件を耳に入れなかったことからエイナは母から気合を入った手紙を貰ってしまった。

 

 どうせ耳には入るだろうからと態々教えることなどしなかったのだが、大好きなリヴェリアのことであるから、とにかく早く知りたかったのだろう。次に何かあったら速達で知らせなさいという怨念の籠った母の字がエイナの脳裏で踊っていた。

 

 今見たことをそのまま母に伝えたら、母は喜々としてリヴェリアに手紙を送りつけるのだろう。同じ女としてそういうからかわれ方をする女性を見るのは心苦しく、またその相手は敬愛の対象であるリヴェリアだ。

 

 できることなら心穏やかに過ごしてほしいものだが……エイナとて身の安全を考える年頃である。いくら敬愛するリヴェリアが相手でも、母親にウザ絡みをされるのは嫌なのだ。

 

 せめて可能な限り控えめに描写しようと、無駄な抵抗をすることをエイナは決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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『荷物持ち』

 

 

 

 

 日々の糧を得るために生きてきたリリルカにとって何もしなくても良いという環境に放り込まれることは生まれて初めてのことだった。それがロキ・ファミリアの『本拠地』黄昏の館地下にある座敷牢の中だったとしても、飢えることも凍えることもなく命の危険もないそれは事実だけを見れば天国である。

 

 座敷牢に入れられた際に最初に目に入ったのは隅にうず高く積み上げられた食料だ。ダンジョン遠征の際にはお馴染みの水なしでは到底食べられないパサパサした保存食は一日三食ならば一月少々、二食ならばざっくり二ヶ月分が用意されていた。一日一食に切り詰めれば四か月は持つ計算である。

 

 これから追加の食糧の配付がないとして、想定される拘束期間は一か月から四か月の間ということになる。それまでに何もなければ餓死するより他はないが、それを今考えても仕方がない。

 

 水は蛇口をひねれば出てくるし牢の隅にはトイレもある。寝具は質素ではあるものの清潔なものが揃えられていた。地下にあるので窓はないが軽めの運動をできるくらいのスペースはあった。正直に言ってこの時点でリリルカの下宿よりも環境が良いくらいだ。

 

 元より窓から外の風景を眺めるなんて高尚な趣味は持っていないので窓のあるなしは関係ない。日の光が当たらないのが窮屈と言えば窮屈であるが、雨露が凌げて寒くもなく飢えもせず加えて盗人の心配をするでもなく命の危険も感じない生活は、一人で気を張った生活を続けていたリリルカにとっては非常に穏やかな時間だった。

 

 そんな穏やかな時間も終わりを迎える。釈放を言い渡されたのは座敷牢に放り込まれてから三週間の後のことだった――というのを外に出てから知らされた。食事をとるのも惰性になっていたために時間の感覚が曖昧になっていたのだ。

 

 身なりを整えさせられてから――湯の出るシャワーを使わせてくれた! ――主神であるロキの前に連れ出される。傍らには団長である小人族の『勇者』フィン・ディムナと副団長であるハイエルフ『九魔姫』リヴェリア・リヨス・アールヴがいた。

 

 これから沙汰が伝えられるのだろう。冒険者同士の私闘が基本的には禁じられているように、冒険者同士の私刑も同様に禁じられている。リリルカのしたことは何の落ち度もないベル・クラネルを巻き込んだ大事とは言えギルドの規則に照らし合わせるならば、如何に当事者の一団とは言えロキ・ファミリアにリリルカに危害を加える権利はないが、それが建前というのはリリルカも良く分かっている。

 

 自分の身が安全とは全く考えていない。そもそもここは『黄昏の館』である。ロキ・ファミリアのホームであり、周囲には当然神ロキの眷属しかいない。知らぬ存ぜぬを押し通せばギルドも深く立ち入って来たりはしないだろう。一般人に被害が出たのであればともかく、リリルカのしたことはほぼ冒険者相手で完結している。

 

 加えてリリルカ本人がレベル1の『小人族』のサポーターだ。彼我の立場の差を考えたら私刑の目こぼしは十分にあり得る。流石に命を取られるということはあるまいが、今までよりもずっと厳しい立場に置かれることは覚悟せねばならない。

 

 まったく、ロクなことのない一生だった。無表情に世をはかなんでいたリリルカの耳に届いたのは、ロキからの全く埒外の言葉だった。

 

「結果から伝えるなー。座敷牢に放り込まれる前に嬢ちゃんから聴取して分かっとった連中の主神に話はつけてきたわ。大雑把に被害額を算出してその二倍で手を打って債権として一本化したわ。ギルド仲介で公的な借金として記録されとる。今後は月々無理のない範囲でウチに返済するっちゅーことになったから、無理のない範囲で払ってな」

 

 世間一般の基準としては『冒険者』は定職とはみなされない。それ故に大体の所で借金はやりにくく冒険者の扶助を目的としたギルドでさえ基本的には金を貸さない。装備を支給してくれることもあるがそれは本当に本当の駆け出しの人間に対してであり、それも一回こっきりだ。

 

 故に駆け出しの冒険者は常に資金繰りが苦しい。生存率を上げるためには訓練をし装備を整えるしかない訳であるが、まず装備を整えるには金がかかる。

 

 そして冒険者にとっての金策というのはダンジョンに潜って怪物と戦うことだ。せめてある程度まとまった金を用意してから冒険者になれば違うのだが、リヴェリアのような生まれに恵まれた者を除き大抵の冒険者志望の子供は素寒貧である。

 

 一度冒険者になると本人の矜持の問題も勿論あるが、他の業種を圧迫することにもなるということで一般の事業者から歓迎されないため、所謂アルバイトというのはし難しく、結果として金銭を起因とする様々な問題が常に駆け出しの冒険者の死亡率の高さに繋がっている訳である。

 

 とは言え死ぬのは自己責任と突き放してばかりでは冒険者の総数は減る一方だ。現状希望者が後を絶たないとは言えそれもいつまで続くか解らない。冒険者としての力量を磨く一方、駆け出しの生存率を上げることはどのファミリアとしても無視はできない課題なのである。

 

 最大手の一角である探索系ファミリアであるロキ・ファミリアはこの手の問題では最先端を行っている。それは『黄昏の館』に存在する武器防具の倉庫であったり、レベルの高い者が低い者を引率するパーティの取り決めや、徹底した訓練の実施など、現団長であるフィンの発案で実行されていることは、駆け出しの冒険者の生存率を大きく高め、ロキ・ファミリアの実力を底上げすることにも繋がった。

 

 反面、ファミリアが団員に課す上納金も他のファミリアよりも割高という話であるが、それも冒険者としての生活を圧迫する程ではない。『黄昏の館』は部屋が余っている程であるし、そもそもここにいれば最低限の生活は保障される。食べるにも困って早まった行動をするという選択肢が、ロキの眷属にはそもそも存在しない訳だ。

 

 大変な額面の借金をしている眷属もいるが、それは本人が生存しちゃんとダンジョンに潜れば返済できる範囲のものである。基本的にはロキの眷属は金には困っておらずその主神であるロキも同様だ。リリルカの過去の行為を債権として一本化してローンとして縛ることの目的は金銭の回収が目的なのではない。

 

 勝者として寛大な所を見せる必要があるのは解るのだが、それでもロキのリリルカへの対応はどうにも甘いように思えた。

 

「寛大な処置に感謝致します神ロキ」

 

 とは言え処分が甘くなることに文句などあるはずもない。それに裏があると疑うこともできるが、それで表まできな臭くなっては困るのはリリルカ本人である。内心の懊悩を顔に出さないようにしながら頭を下げるリリルカに、ロキは続けた。

 

「それからソーマにも話をつけて来て改宗の許可は取ってきた。嬢ちゃんは今日からウチの眷属やから逃がさへんで。今晩にでもソーマ呼びつけたるからちょっと待っとってな」

 

 頭を下げたままリリルカは僅かに眉をひそめた。願ってもないことである。ことであるのだが……あまりに話が上手過ぎはしないかと気にしないと決めた心が現実を疑い始める。

 

 座敷牢に放り込まれていた間の出来事は想像するしかない。周囲の雰囲気とロキの態度からしてあの後に起こったであろう『戦争遊戯』にロキ・ファミリアは勝利したのだろう。でなければここまでリリルカに寛大である理由がない。

 

 それ自体には驚くことでもなかった。ファミリアの規模を考えればロキ・ファミリアが勝つのが当然である。それはオラリオに住んでいる者ならば誰でも理解できる当然の帰結だった。あらゆる勝負事で適用される訳ではないものの、基本的にファミリア同士が戦えば規模の大きい方が勝つ。

 

 ましてロキ・ファミリアは探索系最大手の一角だ。贔屓目に見ても中堅の域を出ないアポロン・ファミリアではそもそも勝負になるはずがない。

 

 にも関わらず、あそこまで好戦的に振る舞っていたのだから某かの手回しが済んでいたのだろうと思われる。ロキ・ファミリアに喧嘩を売ってまでアポロン・ファミリアの味方をする理由が見いだせないが、土台神々の考えることが子供に理解できるはずもない。

 

 神々には神々の事情があるのだ。悠久の時を生きる彼らと地上の子供たちは根本的に価値観が異なるが、現状地上に存在する神々はある程度、地上の常識に合わせて行動する。本来どれほどの力を持っているのかは別にして、地上においての彼らの力のバロメータは眷属の質と量であり、それを体現するのが各々が抱えるファミリアだ。

 

 冒険者は名誉と体面を気にする生き物だ。それは上位に行く程その傾向が強く早い話彼ら彼女らは個人として集団として格好悪い真似をすることはできない。『戦争遊戯』が発生した経緯はどうあれ勝った側としては、少なくとも表向きは小人族の一人や二人は見逃してやらなければならない。些事に拘って勝利に傷がつくようなことなどあってはならないからだ。

 

 無論のことそれは表向きの話で、裏ではひっそりと殺されている……なんて展開もないではないが、長期的な返済の計画を語った後でそんな短絡的なことはするまい。迂遠な復讐であると疑うこともできるが、そこまで疑っていてはキリがない。

 

 神ロキとその眷属は勝者の責務として寛容なところを示す必要がある。その一つがリリルカの扱いなのであるとしても、リリルカが理解できるのは債権の一本化とローンの返済までである。改宗まで面倒を見るのは勝者の寛容を通り越して不可解だ。

 

 一つか二つ。何か別の要因があるのだろう。神ロキや団長フィン・ディムナとは別の意思がここには働いているように感じる。

 

「お仕事やけど今まで荷物持ちやっとったんやよな?」

 

 それを仕事とは言いたくないリリルカであったが、ロキの問いに頷く。

 

 リリルカだってできることなら武器を振り回して自分で稼ぎたい。それができないのは他の種族に比べて体格的に恵まれない小人であったこと、何かあった時にそれをフォローしてくれる仲間に恵まれなかったことなど、冒険者としてのスタートダッシュに失敗したことが挙げられる。

 

 両親は神ソーマの眷属であり小人族だ。今日に至るハンデの大半は生まれる前から決まっていたと言っても良い。生まれで全てが決まる訳ではないと言うものの、その日暮らしのリリルカでは逆境を覆すための鍛錬の時間など取れないし、装備を買うようなお金も中々貯まらない。

 

 何より必要なのは仲間であるが、誰だってダンジョンに潜るのは命がけである。仲間にするなら強い冒険者の方が良いに決まっており、武器を持った荷物持ちなど敬遠される。

 

 ならば荷物持ちだけでパーティを組めないかと考えるも、逆境を抜け出したいと思っているのは全員が一緒であるが、そのために行動を起こそうという者は皆無と言っても良かった。ロキ・ファミリアのような大手で有望な若手が上位の冒険者を見て勉強するためにやっているケースを除けば、荷物持ちというのはそれしかできない者がやることだ。

 

 一発逆転の目がない以上、日銭をためて足抜けし、真っ当な生活に戻るより他はない。とは言え荷物持ちは稼ぎそのものが少ないため、実現するにしてもいつになるか見通しが立たない。それなのに命の危険はそれなりだ。

 

 とにもかくにも金である。それがリリルカが真っ当とは言えない手段に手を染めた理由の一つであったのだが……ここに来て小人生の雲行きが思ってもいない方向に向かおうとしていた。

 

「なら、まずはベルの荷物持ちやってや。しばらくは針のむしろや思うけど我慢してな」

 

 仕事は同じく荷物持ちであるが、ソーマ・ファミリアとロキ・ファミリアでは雲泥の差である。取り分が今までと同じだったとしてもリリルカには不満はなかった。看板が変わるというのはそれに依存する子供にとってはとても大きなことなのだ。

 

 ここまで至れり尽くせりで良いんだろうか。今回ベル・クラネルがトラブルに巻き込まれたのはリリルカが原因と言っても良い。自分を庇ったことでアポロン・ファミリアの団員に殴られ、矢面に立つことになった。

 

 結果として『戦争遊戯』には勝利し栄誉を勝ち取ることになったようだがそれは結果論だ。負わなくても良い怪我を負いしなくても良い戦いを強いられた。そこに至るまでにも粗相があったことを考えれば、間違えて殺してしまいましたと落とし前のために命を取られていてもおかしくはない。

 

 相手は最大手のファミリアの一角。ロキ・ファミリアの期待の新人『白兎』のベル・クラネルだ。よくよく考えるまでもなくカモにするには相手が悪い。彼個人は人格者、というかお人よしであるという話がリリルカの耳にも届くくらいだったが、面倒ごとに巻き込まれたとなったらその周囲が放ってはおかないだろう。

 

 神ロキの眷属と解った上で狼藉を働いたのであれば、それはファミリアに対して喧嘩を売っているに等しい。リリルカが今許されているのは偏にベルが『戦争遊戯』で勝利したという結果ありきのことである。負けていたらこの身があったかどうかも怪しいが、それにしても現状については温情が深すぎるように思えた。

 

 最低でも袋叩きくらいは覚悟していたし当然だと思っていたリリルカは、面食らう以前に神特有の悪質な冗談なのではと半ば本気で考えていた。何しろ相手は『あの』神ロキである。どのような冗談を仕掛けてくるか見当もつかない相手だ。

 

「……ロキ。お前の日頃の行いが悪いせいかな。言葉を全く信じられていないようだぞ」

「勝者のベルの頼みやからなぁ……叶えられる範囲なら何でも、って言われてあの子、お嬢ちゃんのこと頼むんやもん。こりゃあ叶えてやらんと主神の名が廃るってもんや」

 

 この待遇が『白兎』の要望であることがほぼ確定した瞬間だった。

 

 頭を捻って考えてみるが、過去に彼と接点があったことはないはずである。人間種族にしても目立つ風貌だ。白髪赤目とウサギのような人間種族となれば、流石にリリルカの記憶にも残っているはずである。

 

 良くない待遇にある女に同情しているというのが自然な線ではあるのだろう。何とも甘っちょろいことだと思うが、その甘さで自分の身が助かろうとしているのだから文句も言えない。

 

 まさか身体を求められたりするのだろうか。

 

 行動の対価に身体を求めるという発想には反吐がでるものの、それにしても限度というものが存在する。今のリリルカの現状を聞けばほとんどの冒険者は『身体で済むなら安いものだ』と取り合ってくれないだろう。

 

 ちなみにリリルカ・アーデというのは何だかんだで処女であるし、その最初の相手として考えた場合、ベル・クラネルというのはそんなに悪い相手ではないように思えた。

 

 自分は女であちらは男。実は面構えにはそれなりに自信があるリリルカだったが、小人族という種族そのものが多くの種族の男性から性的対象としては微妙に敬遠されていることは理解していた。

 

 年齢的には同年代だとしても、例えば猪人の男性が小人族の女性に手を出している様は、他の種族的には犯罪的に見えるらしい。

 

 そういう事情は男性の方でも解っているから、例え一時の相手だったとしても小人族に手を出すのは――穴があるなら誰でも良いという状態だったとしても――最後の方という風潮があるのだそうだ。

 

 イシュタル・ファミリアが取り仕切っている歓楽街でも小人族の娼婦は数が少なく、買いにくる男性も主に小人族とも聞いている。需要が少ない故に供給も少ないのである。

 

 だがあくまで少ないというだけだ。かの有名な『白兎』に特殊な性癖がないとは言えないしまして彼は人間の思春期の男性だ。断れるような立場ではないとリリルカも理解していたし、単純に男性として外見を見た場合、ベル・クラネルという少年は悪いものではなかった。

 

 どうせいつかその辺の野蛮人に無理やり奪われると思っていた初めてである。自分を悪い環境から救ってくれた人物が相手であるなら、そう悪いものでもないだろう。多少――いや、多大な被虐趣味があったとしても受け入れる覚悟を固めたリリルカを見て、やり取りを眺めていたフィンが深々と溜息を吐いた。

 

「全てを環境のせいにするのはどうかとも思うけど、全てを己で何とかすべしという考えにも同調できない。若い時には僕も自分一人が頑張れば全てが上手く行くと本気で思っていたものだけど、思い上がりだったと気付かされた。どんなに才能や環境に恵まれていたとしても、一人では限界が見えてくるのも早いものだ」

 

 励まされているのだ、とリリルカはそこまで聞いて気づいた。小人族の英雄、『勇者』のフィン・ディムナが、たかが荷物持ちの小人の小娘にだ。戸惑いと苛立ちの混じったリリルカの視線を受けて、フィンは構わずに続ける。

 

「だからと言って周囲に頼り切ってもいけない。僕と違ってまだ若いんだ。自分の限界が見えている訳でもないだろうし、これからは頼れる仲間もいる。腐って卑屈になるよりはとりあえず挑戦してみるのが良いんじゃないかな?」

 

 同じ小人族であるリリルカには解る。フィンとて非才ではないのだろう。才能に恵まれたからこそ彼の今があるのだというのは、彼本人にだって否定できるものではない。

 

 けれども多才の身であっても逆境を跳ねのけるには、他人には語りつくせない程の苦労があったに違いないのだ。同じ小人族であるリリルカにはそれが良く解った。

 

「悲観するのはまだ早いよ。頑張って」

「さ、励ましの言葉もあったところで、今日からびしばし働いてもらおか。リヴェリア、ベルはどないなっとる?」

「外で待つように言ってある。レフィーヤには別の用事を言いつけてあるから、奴一人だ」

「ということはベルが一人で引率か……早いものだね」

「それくらいはして良い時期……ではないと思うがレベルだろう。普通はレベル3ともなれば十分に経験を積んで他人に指示を出せねば話にならんのだが、その辺は追々だな」

「せやな。じゃ、とりあえず後は頼んだでリヴェリア」

 

 ああ、と短く返事をしたリヴェリアは視線でリリルカを促すと同意も何も待たずに歩き出した。ついてこいと言っているのだとは解ったが対応はそっけない。自分のしたことを考えれば無理からぬことではあるが、確かに神ロキの言った通り針の筵である。

 

 リリルカはロキとフィンに小さく頭を下げると、リヴェリアの後を追って歩き出した。

 

 目的地の解らない道程。その間に幾人かの団員とすれ違った。全ての団員はリヴェリアを見ると足を止め、深々と頭を下げるが、その後ろにリリルカがいるのを見とがめると何とも微妙な視線を送ってくる。

 

 ロキの言葉を受けたばかりだが、意外にも彼ら彼女らの視線に殺気のようなものは少ないように思えた。全くないという訳ではないが視線や態度に色濃く出ているのは困惑である。何故こうなったという戸惑いが男女どの種族の団員からも強く感じられた。

 

 それを聞きたいのはリリルカも同じである。ともあれ、強い敵意の中で生きていかなくても良い可能性が出てきたのは僥倖である。

 

 無言でリヴェリアに付き従い、たどり着いたのはとある塔の前だった。

 

 ロキ・ファミリアの本拠地は『黄昏の館』という名前であるが、その実は背の高い塔の集合体である。建築物の異様さでは神々の集まるオラリオの中でも屈指であり、リリルカも遠目にではあるが何度も眺めたことがあった。

 

 高い場所から見下ろす風景は一体どんなものなのだろうと夢想したこともないではない。まさかその塔の一つに足を踏み入れることになるとは思いもしなかったが、実際に足を踏み入れてみて抱いた感想は、塔だな、という無味乾燥なものだった。外見ほど中は特殊ではない。

 

 女子塔、という看板が見えたことから居住塔であると推察される。塔の中央に屋上まで続く螺旋階段があり、階層ごとに外周に沿った部屋があった。部屋割りに規則性があるかまでは階段を上っただけでは判断がつかなかったものの、リヴェリアの足取りから彼女の部屋は高層にあるのだと察せられた。

 

 おそらく上に行くほどレベルなり立場なりが上になるのだろう。ありえる話ですと内心で納得するリリルカを他所に、リヴェリアの足は止まらない。

 

 漸く足を止めたのは階層を七つ跨いでのことだった。この階層は八階。昇る前に見た窓の数から最上階の一つ下。上に行くほど立場が上、というリリルカの予想が正しいのならばこの階層にいるのは二級冒険者など、ファミリアの中でも準幹部クラスだと思うのだが、

 

 戸惑うリリルカに、足を止めたリヴェリアが視線を向ける。

 

 近くで見ると冗談のような美しさだった。女神も嫉妬する美貌とは良く言ったものだと思う。今まで出会った中で間違いなく一番の美貌のエルフは視線で扉を示した。『扉を開け』と仰せなのだと解釈したリリルカは、一応一言断りを入れてから扉を開いた。

 

 簡易寝台と文机のみのこじんまりとした部屋だ。地下の座敷牢よりも狭いがやはりこちらも清潔で、窓からはオラリオの市街の風景が見える。塔が円形で部屋が外周にそって配置されている以上、窓の向きには当たり外れがあるはずであるが、市街が見えるというのが当たりなのかは判断の付きかねる所だった。

 

 部屋の中央にはリリルカのものであるザックがぽつんと置かれていた。あの日リリルカが身に着けていた服と少ない装備も、きっちり洗濯とメンテナンスがされた上で寝台の上に置かれていた。

 

「ここが今日からお前の部屋だ。ファミリアとしての指示がない時は基本好きにしていてくれて構わない。下宿は早めに引き払って荷物を運びこんでおくように。細かいことはダンジョンから戻ってきてからにすると良いだろう。適当な団員を臨時の指導係につけておくから分からないことはそいつから聞いてくれ。聞きにくいようであれば私の部屋を訪ねてくれても構わない。私の部屋はここのちょうど真上にある」

「お、恐れ多くもお聞きしたいことが――」

「慣れぬなら無理な言葉使いはしないでも良い。立場もあるから敬意は払ってもらわねばならんが過度なそれはあまり耳障りも良くないしな。話を止めて悪かった。なんだ?」

「神ロキは何をお考えなのでしょうか……」

「さあな。あいつの考えることなど理解できた試しがない。昔も今も煙に巻かれてばかりなんだが、今回に限っては『ベルの希望を叶える』ということのみだろう。裏はないだろうから安心してくれ」

 

 それで安心できる冒険者はいないだろうとリリルカは心中で苦笑した。神ロキと言えば軽いノリと見た目で誤魔化されがちであるが、権謀術数で有名な神である。眷属の強さもさることながら、神としての彼女の手腕は、神を中心に回っているオラリオにあっても一目置かれる程のものだった。

 

「逆に言えば、ベルがお前を害することを望めばロキは躊躇いなくそれを実行しただろう。正直に言って奴はそれほどお前のことを好いても気にかけてもいない。眷属としたのもベルの望みを叶えたに過ぎない。お前にとってはまさに針の筵である訳だが……神ソーマの風聞を聞くに、お前から見た主神としては現時点での差はあまり感じられんだろう」

 

「信頼は行動によって勝ち取るものだ。頑張れ。私から言えるのはそれだけだな」

 

 言葉にトゲはあるが敵意はない。フィンと同じようにこの方もこの方なりに励ましてくれているのだと理解できた。何故ここまで、という疑問は消えないが敵意のない言葉をくれた相手に、敵意を向けるような感性はリリルカにはない。

 

 万感の思いを込めて、リリルカは頭を下げた。その後ろ頭にリヴェリアの戸惑ったような言葉が降ってくる。

 

「もっとも、私は私で執念深い。私はお前発のいざこざでベルが殴られたことは忘れていないからそのつもりでいろ」

 

 顔を伏せた状態のまま、リリルカは心底、顔を見られていないことに安堵していた。意外と可愛い方なのだなと思っていると、かの『九魔姫』に悟られては何かと面倒だからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 肌着も含めた衣類はきちんと洗濯されて寝台の上に置かれていたが、悲しいことに座敷牢に入れられてから身に着けていた囚人服……のようなものの方が上等であったので、装備はそれの上から身に着けることにした。

 

 荷物持ちであるリリルカの手持ちの装備は少なく、ダンジョン踏破用の頑丈なブーツと護身用の小さな短剣。後は服の上から羽織る耐刃織の白いコートとドロップ品を沢山詰め込める大きなザック。ちょろまかした装備は換金した物以外は下宿に置いてあるため、これがリリルカの装備の全てである。

 

 冒険者としては貧弱なことこの上ないが、荷物持ちとしては標準の範囲である。酷い扱いを受けることも少なくないので、置いて行かれた時のために最低限走れるだけの履物を、とブーツだけは冒険者と比べてもあまり遜色はない品だ。

 

 そのブーツの感触を確かめながら、指定された場所に向かっている途中である。装備の上には小さなメモ書きが残されており、装備を整え次第すぐに向かえと場所が記されていた。

 

 そこにベルが待っており、今日からすぐにダンジョンで荷物持ちだそうだ。小人使いが荒いのではありませんか神ロキ、という文句は出てこない。気持ちの上ではどうあれ、日銭を稼ぐために危ない橋を渡る生活を続けていたリリルカにとって、この三週間は長い休暇のようなものだった。

 

 本音を言えば身体を動かしたくて仕方がない。あれだけ行くのが億劫だったダンジョンが今は少し懐かしいくらいだった。

 

 果たして。指定された場所にはメモに書かれた通りの人がいた。

 

 おさまりの悪い白い髪に赤い目。人間の男性にしては小柄な体格だが、聞いた話では年齢はリリルカの一つ下である。年齢を考えればそんなものだろう。

 

 神ロキの眷属。レベル3。今をときめく冒険者の一人、『白兎』ベル・クラネル。風聞だけを聞けばそれだけ才気に満ち溢れ、冒険者然とした男なのだろうと想像するのだろうが、現実の彼は待ち合わせ場所で所在なさげにぼーっとしていた。

 

 顔立ちは悪くないのだが、威厳とかは感じられない。あの日、リリルカのせいで殴られた時に感じていた印象そのままだった。

 

「お待たせして申し訳ありません!」

「僕が早く来過ぎただけだから気にしないで」

 

 へにゃりと笑う笑顔には愛嬌があるがやはり威厳は感じられない。近くで見てもレベルの高い冒険者特有の威圧感のようなものは感じられなかった。今日からこの人とダンジョンに行くのかとぼんやりと考えながら、リリルカは頭を下げた。

 

「改めて自己紹介を。ベル様同様、本日より神ロキの眷属となる予定です。小人族のリリルカ・アーデと申します。レベルは1。職業は……荷物持ちです」

「僕は『白兎』ベル・クラネル。これからよろしくね、リリルカさん」

 

 

 

 

 



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ちゃんと変われるんだ①

 

 

 

 

『白兎』ベル・クラネルのスケジュールというのは実の所オラリオではかなり有名だったりする。管理を受け持っているという噂のリヴェリアの性分なのだろう。本拠地を出る時間は基本的にいつも一緒で、たまに『豊穣の女主人』亭に寄り道をしてからダンジョンに入る。

 

 ダンジョンに入る時間は毎日ほぼ変わらないが出る時間はまちまちだ。その後の予定に関係あることなのだろうというのが、ギルド関係者や行違う冒険者たちの感想である。

 

 昼食はダンジョン内で取るか、そうでない場合は『黄昏の舘』まで戻って済ませる。その後は戦闘訓練をしているのだそうで、レベル3に上がるまでは現在幸せ一杯の『千の妖精』レフィーヤ・ウィリディスが受け持っていたそうだが、現在は『大切断』ティオナ・ヒリュテが受け持っているそうな。

 

 レベル1の時から後衛とは言えレベル3が。レベル3に到達してからはバリバリの前衛職であるレベル5を、それも毎日相手にしているのだからリヴェリアの期待以上に本人の根気強さが伺える。

 

 才能のある人間がそれに胡坐をかかないのだから強くなるはずだ、と『戦争遊戯』での彼の活躍を目にした冒険者たちは、ダンジョンに挑む頻度もさることながら自己鍛錬にも余念がなくなったのだという。

 

 オラリオ一厳しいと評判で普段は懲罰くらいにしか使われないアテナ・ファミリアにもちらほらと入門希望者が現れ戦神を歓喜させたというのだから、修行ブームの熱狂っぷりも中々である。

 

 鍛錬が終わったら夕食を取り、その後はリヴェリアによる座学が待っている。ダンジョンそのものに関する知識から、判明している範囲でのモンスターの生態。更にはオラリオにおけるファミリアのパワーバランスから経済についてなど、ダンジョン攻略に関するものからそうでないものまで、実に幅広い知識を詰め込んでいくのだそうだ。

 

 定期的に行われるテストの判定は厳しく、合格ラインを超えるまで果てしない追試が行われるのだとか。元からリヴェリアの一番弟子のような扱いであるレフィーヤは何とかついていけているが、興味本位で首を突っ込んだティオナは早々に逃げ出している。

 

 懇意にしているギルド職員が根ほり葉ほり聞いた所に依れば、ギルドの初心者講習を上級向けに開放したらこうなるんだろう、というような内容だったそうな。

 

 このことから初心者以外にも講習をやっても良いのではないかという意見がギルド職員の間で上がるようになった。冒険者の死亡率の高さが減らないことは冒険者の入れ替わりを考えればそれは健全なことなのかもしれない。弱肉強食は自然界では当たり前の法則であるが、できることなら死んでほしくはないというのが人情というもので、それは神の立場でも地上の子供でも同じことだ。

 

 とは言うものの、教育というのは生活に余裕がある者が受けるもので、レベル1の冒険者の半数以上は生活に困窮しているような有様である。ギルドは本来そういった冒険者を扶助するのが目的だったはずなのだが、食うに困らないように釣りの仕方を教えようとするギルドに対し、冒険者たちは魚そのものを要求している。

 

 一向に減らない死亡率の高さからも解るように、ギルドの取り組みは上手く行っていないというのが現状だ。初心者の育成のほとんどは本人のやる気と経済力と、ファミリアの主神と先達たちに委ねられている。

 

 そういった意味では厳しくはあるものの、全てに至るまで面倒を見ているロキ・ファミリアは流石大手というだけあって手抜かりはない。とにかく殺伐としていたソーマ・ファミリアとはえらい違いだと、ベル一人を見ているだけでも良く解った。

 

 よろしくと笑顔であいさつされたのも、何でもない世間話をしながらダンジョンに向かうのも、如何に相手を出し抜くかの算段をせずに誰かの後をついて行くのも、久しぶり……いや初めてのことかもしれない。

 

「リリルカさんは――」

「ベル様。お立場のこともありますのでリリのことはリリとお呼びください。敬語も不要です」

 

 お立場、と強調しての言葉にベルは僅かに難色を示した。人の好さそうな少年のことだから他人を下に扱うような行いに抵抗があるのかもしれないが、リリルカもここだけは譲れなかった。

 

 リリルカの身柄がロキ・ファミリアに移される見込みとなったのは、ベルが『戦争遊戯』で勝利した結果に依るもの……つまりはリリルカ・アーデという冒険者の身柄そのものが、ベルにとってのトロフィーのようなものである。

 

 慣例に則るまでもなく『戦争遊戯』の結果は細かな所まで公開される。そこまで含めて娯楽だからだが、その際リリルカの経歴まである程度はつまびらかにされることだろう。まるで娼婦の身請けであるが、事実そのようなものであるとリリルカは認識している。

 

 何事もなければおそらく死ぬまで奴隷として食いつぶされたろうことは想像に難くない。それを考えれば奴隷のようにベルに尽くした所で罰は当たらないとリリルカは考えているし、周囲もそのように認識しているだろう。

 

 オラリオで最もリリルカ・アーデの立場を正確に認識してないのが、ベル・クラネルという少年だ。彼にとってリリルカは仲間の一人であろうが世間はそう見てくれないし、認識の齟齬から大きな問題に発展しないとも限らない。

 

 リリルカ本人もこれ以上面倒に巻き込まれるのは御免であったし、自分一人が酷い目に合うのであればまだしも、苦境から救ってくれたベルまで巻き込むとなればお願いする声にも力が籠る。

 

 それが顔にも態度にも出ていると理解してくれたのか。リリルカが梃でも動かないと悟ったベルは早々に諦めて苦笑を浮かべた。

 

「解ったよ。リリ」

「お気遣いいただいてリリは嬉しいです」

 

 ベルにとっては何でもないことかもしれないが、リリルカにとっては涙が出そうなほどに嬉しい。態度一つ。ここまで気にかけてくれる少年なのだ。自分にできることは荷物運びくらいだけど、これは精一杯お仕えしなければ……

 

 他人に使われるなど反吐が出ると一月前までは心の底から思っていた自分の変わりように、リリルカは心中で驚いていた。

 

「話を遮って申し訳ありませんでした。それでベル様、リリに何か?」

「今までダンジョンに潜る時、サポーターの人って一緒じゃなかったから良く解らないんだけど、サポーターって具体的に何をしてくれる人なの?」

 

 ある意味、荷物持ちにとって最も残酷な質問である。他にできることがない、もしくはないに等しいから荷物持ちをやっているのがほとんどだ。辛うじてスキルに恵まれたリリルカはそんな荷物持ちの中でも使える方ではあるが、何気ない一言が他人を傷つけることがあるということは、ベルにも知っておいてほしいことである。

 

 才能にも環境にも恵まれ、名声もほしいままにしている冒険者から、そんなことを言われたら人生に疲れたサポーターだったらその場で泣き崩れてしまうかもしれない。

 

 だがまぁ、これから初めてパーティを組んでダンジョンに潜る空気に水を差すのも無粋である。改宗予定とは言え現時点ではまだ部外者であるリリルカが、時の人に物言いもつけるのも外聞がよろしくない。

 

 これについてはいずれ知ってもらうということでリリルカは言いたいことを飲み込んだ。

 

「基本的には名前の通り荷物を運ぶことが主になります。冒険者様は装備を預けるのを嫌がるので行きは主に回復アイテムや野営用品などの管理運搬、帰りはこれにドロップアイテムが加わります」

「戦闘とかはしないんだよね。危なくないの?」

「危ないですね。戦闘力で他の冒険者様に劣りますので、最低限何とか走って逃げられるくらいのモンスターがいる場所でないと仕事はできません」

 

 自分で戦える冒険者からすれば、戦闘力で他の冒険者に大きく劣るサポーターというのは蔑みの対象でもあるのだろうが、戦利品の大部分を運んでいるのがサポーターである以上、ダンジョンの中にいる間はある程度の安全は保障してくれる。サポーターにとってダンジョンの中というのはある意味では安全なのだ。

 

 もっともダンジョンを出ればその限りではなく、せっかく運んだ戦利品の配分からもハブられて一定の賃金を渡されてさよならとなる。ギルドもダンジョン攻略中にサポーターがいなくなったとなれば調査もしようが、出てきた後に当事者たちの間で何があるとしても、当事者たちの問題として関知しない。

 

 こうして得る賃金はダンジョンに潜るという危険を冒すにしては少ない。フリーのサポーターが割りに合わないと言われる所以であり、それで稼ごうという冒険者崩れが少ない理由の一つでもある。

 

 潜れる階層が深くなればそれに比例して収入が上がる見込みはあるものの、戦闘力で劣ると自覚しているサポーターが安全マージンを取らない階層まで足を伸ばすことはないし、雇う側もそれは理解しているため、深い階層に行く冒険者程フリーのサポーターには声をかけなくなる。必然、フリーのサポーターが活動できるのはリリルカの言う通りに最低限自分の足で逃げられる範囲内ということになる。同行する冒険者の腕にも依るがどんなに冒険してもリヴィラに行くくらいが限界だと言われているのがフリーのサポーターだ。

 

「じゃあリリのことは僕が守るってことで良いかな」

「頼もしいお言葉ありがとうございます。そう言えばまだ本日の予定を聞いていませんでしたが……」

「ああ、ごめんね。今日はリリと顔合わせのつもりで、ダンジョンには軽く潜る程度なんだ。最近左手でも武器を使えるように訓練してるんだけど、それをモンスター相手にもやるように言われててさ」

 

 はは、と何でもないことのようにベルは笑うが、その物言いにどうしようもない能力の差を感じて若干憂鬱になるリリルカである。今日初めて会う小人族の女と一緒でも、今日中に行って帰れるくらいの距離であれば問題なく立ち回る自信があるのだ。しかも利き腕じゃない方の腕で戦う制限付きでだ。

 

(流石にレベル3の二級冒険者ですね……)

 

 童顔であまり強そうには見えませんけど、とリリルカは心中で付け加える。中々整っていて可愛い顔だちではあるのだが、頼もしさとはイマイチ無縁の雰囲気である。

 

 これで装備まで残念であればリリルカも不安になっていたのだろうが、前を少し前を歩くベルの装いは間違いなく冒険者のそれだった。

 

 皮のズボンにこれだけはやたら年期の入った頑丈なブーツ。ロキ・ファミリアは団員の使い古しの装備をストックすると聞くが、多分それなのだろう。

 

 上は何やら固そうな素材のシャツ――触ってみないことには確かなことは解らないが、リリルカの見立てでは防刃繊維のもので、これは冒険者だけでなく一般にも市販されている類のものだ。十代の人間男性が選んだにしては色合いが落ち着き過ぎていることから、他人からのプレゼントであると推測され、贈り主はあの日も一緒にいた『千の妖精』辺りかとリリルカは判断する。

 

 首から何やら下げているがそもそも見えないために詳細は不明である。ただそれを吊るすただ古典的なエルフ風の飾り紐はパッと見でもそれなりに高級品であると解る。ならばそれに吊られているものも高級品なのだろうと察しはつくが、ここまでのベルのやり取りから彼が好んでアクセサリーを、それも人目に付かない場所に付けるとは思えなかった。

 

 おそらくはこれも貰い物――古典的なエルフ風ということからリヴェリア辺りからの贈り物であると推察できる。

 

 ベルの細身の身体を覆うのはよく手入れのされた鎧である。これはシャツと違って身体に合わせたオーダーなのが解る。オラリオの冒険者の半分がレベル1で、彼らの最初の目標が装備品のオーダーであることを考えると、ベルはこの年齢で既に彼らの目標の一つをあっさりと達成していることになる。

 

 神様というのは不公平だ。と思いつつ、一際目を引く腰のものに目を滑らせる。

 

 装備は武器一つという冒険者も多い中、ベルは腰に三本も剣をぶら下げていた。左右に一本ずつと腰の後ろに一本。その全ての鞘に『Hφαιστοs』の銘が刻まれている。鍛冶系ファミリアの最高峰であるヘファイストス・ファミリアの主神ヘファイストスとその幹部が認めた証であり、その価格は一番安い短刀でもおよそ800万ヴァリスからとも言われている。

 

 上を見ればキリがない世界であるが、果たしてこのお値段はおいくら万ヴァリスなのだろうか……

 

「ぶしつけな質問で恐縮なのですがベル様。お腰の武器はどういう来歴で?」

「僕のレベルアップ祝いってことでリヴェリア様が依頼して作ってくれた武器なんだ。こっちが『紅椿』で椿さんが打ってくれたんだよ」

「椿さんというのはコルブランド様ですか? ヘファイストス・ファミリア団長の?」

「そうその椿・コルブランドさん。で、こっちが『果てしなき蒼(ウィスタリアス)』でヘファイストス様が――」

 

 予想を遥かに超えるビッグネームの登場にリリルカは眩暈を覚えた。ヘファイストスその神と眷属代表でオラリオを代表する鍛冶師である椿・コルブランドのオーダーメイド品。オラリオでは微妙に需要の少ない東洋系の武装であることを差し引いても、どんなに安く見ても二振りで一億五千万。材質やら属性やらが加われば倍々と跳ね上がっていくだろう。

 

「後ろのは『不滅ノ炎(フォイア・ルディア)』って言う魔剣で補充すれば何回でも使えるんだよ。この防具を作ってくれた友達のヴェルフが作ってくれたんだ」

「防具職人が魔剣を打ったんですか?」

 

 魔剣まで……と突っ込みたくなるのを無理やり飲み込み『何回でも使える』という危ない単語を無視して、別の無難な疑問をひねり出す。

 

 鍛冶の世界に精通している訳ではないが、防具なら防具、武器なら武器で住み分けをしているように思わないでもない。何でもできるに越したことはないのだろうが。

 

「元は魔剣鍛冶だったんだって。しばらく魔剣を打ってなかったんだけど、壊れない魔剣を作るんだって今頑張ってるんだよ」

「…………もしかしてそのヴェルフ様、姓はクロッゾというんじゃありません?」

「よく知ってるね」

 

 あー、と意味のない声を漏らしてリリルカは絶句した。山を削り海を燃やしたと言われる魔剣貴族の、それも現代の作である。単純な見た目で区別する方法はないと言われているが、基本的には()()()が威力が高く、現代に近づくにつれて威力が下がると言われている。

 

 その基準に当てはめるならば現代の作であるベルの魔剣は現存する他のクロッゾの魔剣に比べて威力が低いはずであるが、聞いた話ではラキアに本拠を構えるクロッゾの一族は既に魔剣を打てなくなって久しく、そんな中久しぶりに魔剣を打てるスキルを発現した唯一の一族はラキアを出奔して現在はヘファイストス・ファミリアに籍を置いている――という話は、彼が魔剣を打たないとへそを曲げているという事実と一緒に有名である。

 

 噂が全て真実であるならオラリオでは彼の作品である魔剣が威力を発揮している所を見たことがある者はいないはずだが、その噂では彼が先祖返りと言われる程に高い威力の魔剣を打てると言われている。事実はさておき、魔剣貴族の血統が打った魔剣となれば、神ヘファイストスやその眷属筆頭である椿・コルブランドが打った武器と比べても値段の上では遜色ないに違いない。

 

 このお方は全身レアアイテムで固めないと気が済まないお人なのでしょうか。

 

 上を目指すのであればこそ装備には拘るべきという気持ちも解らないでもないが、真っ当な稼ぎでは今日食べるものにも困っていたリリルカからすると、ベルのコーディネートは狂気の沙汰である。

 

 ロキ・ファミリア所属の二級冒険者という現在のベルの立場を考えても、装備のランクは聊か過剰なように思える。詳しくは知らないが、例えばベルの前に最短記録で話題になった『剣姫』アイズ・ヴァレンシュタインでも装備の総額はベル程ではないんじゃないかと思うが……その辺りはレベル1のリリルカが気にしても仕方のないことだ。

 

 世間話に興じつつ、ダンジョンに近づいてくると冒険者たちの姿も増えてくる。これからダンジョンに行くもの、ダンジョンから帰ってきて宿に戻るもの様々だが、そんな中でも白髪赤目の人間種族であるベルは目立っていた。

 

 普段からも人目を引くのに、今や時の人。それに加えて話題の小人を連れているのだから、冒険者の目は集めに集められている。来たな、とリリルカは身構えたが視線の圧はリリルカの想像を遥かに下回っていた。

 

 てっきり罵詈雑言くらいは飛んでくるものだと思っていたリリルカは凪のような雰囲気に釈然としないものを感じながらも、ベルについてダンジョンへと入っていく。

 

 二人の背中を見送ったその場にいた冒険者たちは、その姿が見えなくなると深々と溜息を吐いた。

 

 トラブルは既に解決したとは言え、リリルカ・アーデというのは二柱の神が『戦争遊戯』に踏み切る原因となった小人族であるという情報は冒険者の間には知れ渡っている。加えてベル・クラネルの預かりになったということ、ロキ・ファミリアに改宗という話も既に知られている今、ちょっかいをかける冒険者は皆無と言って良かった。

 

 それでも視線を向けられているのは、悪事に手を染めていたという事実から侮蔑の視線を向けるものなどリリルカの過去に少なからず思う所がある者と、後は単純に興味本位からである。

 

 とは言え、底辺層の冒険者がどういう境遇かというのは冒険者であれば皆知る所だ。悪事は悪事。良くないことと認識していても、自分がその状況に追い込まれたらそれに手を染めないとは言い難い所があった。

 

 明日は我が身となれば糾弾の声を挙げるのも躊躇われ、それも時間が経てば同情に近いものへと変わる。冒険者同士は商売敵であると同時に、苦楽を共にする仲間という面もあった。主神が違えど冒険者という括りに思う所がある者もあり、全体としてはとりあえず様子を見るということで概ね一致していた。

 

 一方で市井の評価はそれ一色と言って良い程に同情寄りである。劣悪な環境を悪事に手を染めてまで耐えていた少女を『白兎』が救い出したというストーリーがロキ・ファミリアに依って広められたためだ。完全にソーマ・ファミリアが悪者になってしまっているが、ファミリア内の雰囲気が劣悪なことは事実であること、ソーマ・ファミリアの冒険者たちの評判が市井、冒険者問わず良くなかったため、当のソーマ・ファミリアからの抗議を他所に受け入れられていた。

 

 自分で思っている程リリルカの風聞は悪い物ではないのだが、それを実感できるようになるのはもう少し後の話である。

 

「速かったら言ってね」

 

 ダンジョンに入るなりベルはリリルカにそう呟いた。何のこと、と思う間もあればこそ。ベルはリリルカの感覚では随分な速足で歩きだす。完全に鍛錬目的であれば想定したコースがあるのだろう。脇目も振らずに一直線だ。

 

 その割に周囲の警戒も怠っていない。低層を何度も往復していると警戒すべきポイントというのも身体に染みつくもので、ベルが視線を向ける場所はリリルカのそれと変わらなかった。

 

 ベルのレベルからすればこの辺りに出てくる怪物など敵ではないはずなのに、視線は真剣そのものである。童顔からくる『イマイチ頼りない』という第一印象とも、時の人『白兎』という言葉から抱いていたイメージとも違う。

 

 まだぎこちなさは残るものの、地に足を着けようとする振る舞いは冒険者になってまだ一年とはとても思えない。これが『九魔姫』たちの教育の成果なのだとすれば、実に行き届いたものだと思った。

 

 ベルの背を追いながらリリルカは第一層の地図を脳裏に思い描く。第二層への最短コースを外れベルは蛇行を繰り返していた。第一層にはいくつか集団での戦闘に適した広いスペースがあるのだが、ベルはそれを避けて第二層を目指しているように見えた。

 

 相対的に狭く細い場所では戦闘がやりにくい。第一層で戦うのが適当な冒険者からすると危険行為も良い所であるが、ベルのレベルであればそもそもこの層に出てくるようなモンスターはそれほど危険でもない。

 

 ではなぜこんなコースを取っているのか。本人は戦闘訓練のためと言っていたが、ダンジョン踏破のための訓練という向きもあるのだろう。既にレベルは3とは言えまだ冒険者になって一年も経っていないのであれば覚えるべきことは山ほどある。

 

 一人で行動する時の立ち回りを身体で覚えさせられている段階なのであれば、集団の構成員としてのベルの評価はファミリアの中ではあまり高くないのだと判断することもできる。 集団戦闘での連携作業はまだ早いという訳だ。

 

 リリルカの目で立ち振る舞いを見るにベルの行動は問題ないように見えるのだが、相手はロキ・ファミリアである。要求される水準はそもそも集団での戦闘行為の想定など皆無であったソーマ・ファミリア出身のリリルカには、どの程度ならば合格なのかという基準がそもそも解らなかった。

 

 この辺りはそれとなく確認しておく必要があるだろう。ベルがどういう期待をされているのかを知ることは、彼のサポーターとなったリリルカにとっても重要なことだ。それに水を差すような行動を取ってしまっては、リリルカの立場が悪くなる以上に、ベルに迷惑がかかってしまう。何より自分の身の安全が大事、という考えは今も変わっていないものの、どういう意図があるにせよ自分を助けてくれた人に迷惑はかけたくなかった。

 

 早歩きで動きながら10分程。途中に冒険者とすれ違うこともなく、最初のモンスターに遭遇する。ゴブリンが三体。ダンジョンでは最弱のモンスターの一つであるが、そのモンスターを前にベルは小さく息を吐くと足を止め左腕を突き出すようにして東洋風の武器――小太刀を構えた。

 

 薄暗いダンジョンの中、仄紅い刃を構える姿はそれまでの如才なさに比べると微妙にぎこちない。本来は右利きなのだとリリルカでも解る。

 

 ある程度は形になっているとは言え、利き腕でない方の腕だけで戦えと言うのはそれこそ新人冒険者相手では死んで来いと言っているようなものだ。ベルはレベルこそ高いが聞いた話が全て本当であれば冒険者になってまだ一年と経っていない。それだけを見れば新人駆け出しと言って差し支えないだろう。

 

 強さを信頼しているのだろうが、監督しているリヴェリアは良くこの状態でダンジョンに潜れと良く言えるものだと思う。

 

 そしてそれに従う方も従う方だ。よほど命がいらないか怖いもの知らずなのかと思えば、べルがダンジョンを舐めている訳ではないのは、歩き方一つを見ても解る。命を危険に晒して強くなろうと努力するのは、ベルにとっては既に日常の一部なのだ。

 

 他人から見れば狂気の沙汰であっても、これが強くなる人間の取り組み方なのだろう。小人族だからサポーターだからと言い訳をしている自分が果てしなく小さい存在に思える。才能という言葉一つでは片づけられないべルの取り組みっぷりが見て取れた。

 

 ベルが自分の動きを確かめるようにしながら、一体一体確実にモンスターをしとめていく。安全を確認し、ドロップアイテムを全て回収するのがリリルカの目下の仕事である。

 

 前衛の戦闘員一人にサポーターが一人。人数が多ければ生存の可能性は高まる――ある程度までならという但し書きのつく鉄則を無視したたった二人のパーティは、リリルカが過去に経験したどのパーティよりも迅速に、かつ安全にモンスターは駆除していく。リリルカが身の危険を感じるような場面など一つもない。

 

 見つけさえすれば後は近づいて殺す、ベルにとってはただそれだけの作業である。ここまでスムーズにやれるなら何か新しい動きを掴むもなにもないと思うのだが、ベルにはベルなりに見えるものがあるらしく、リリルカの目にさえぎこちなく見えていた動きは、一時間もする頃には幾分なめらかになっていた。

 

 こういう所に才能と努力の成果が見られるのだなとぼんやり思いながら、ドロップアイテムをいそいそと回収する。警戒しながら進んでいる割りにモンスターの排除は非常にスムーズなので時間効率も悪くない。

 

 レベルとして適正でない場所をうろうろしているのだと考えると、この速度も当然であるのだが、慣れない武器を慣れない腕で振るうという制限付きと考えると、やはりこれくらいが適正なのかもしれない。

 

 安全と成長を秤にかけた微妙に哲学的な問答をしているリリルカの背後に、笑みを浮かべたベルが忍び寄る。こほん、とわざとらしく咳払いをした彼は、上ずった声で知識を披露しようとして――

 

「さっきのモンスターだけどあれは――」

「もう少し深い階層に出てくるキラーアントの弱小個体でしたね。浅層の弱小個体はただの大きくて強いアリですが、本物はもっとアゴが強靭で蟻酸を吐く個体も多いとか。毒はないとされていますが、一年前に毒を使う変異個体と遭遇したという報告があります。用心に越したことはありませんね。解毒剤も用意がありますので入用でしたらお申し付けください」

「…………」

 

 あっさりと撃沈した。言葉が返ってこないことを不思議に思ったリリルカは、ドロップアイテムを全て回収し終わったのを確認すると、ベルを見上げた。

 

「どうかしましたかベル様。一晩考えた小話のオチを先にばらされたおじさんのようなお顔をしてますけど」

「リリってもしかしてモンスターの生態に詳しかったりする?」

「詳しいという程では……自分で足を運ぶ可能性のあるエリアに出たことのある個体くらいです」

 

 情報の確度は冒険者の生死を分ける。特にリリルカのように戦闘力で劣る冒険者であれば猶更だ。多くの情報は実地で仕入れたものであるが、ギルド発の情報に目を通すのも怠ったことはない。

 

 どこの階層でこんなイレギュラーがあった。自分が行く時にそれが起こらない保障はない。大抵は解決された後に掲載されるものであるが、どういうモンスターがどんなレベルでどれくらいの人数の冒険者を相手にどの程度の被害を出した上で殲滅したのかされたのか。

 

 自分がその場に置き去りにされた時にはどうするのか。そもそも置き去りにされないようにするためには。サポーターをしていない時には、いかにして自分の身の安全を確保するかに腐心してきた。

 

 加えてその知識は金にもなる。他にない情報であればギルドでさえ金を出すし、どのモンスターを相手にするのが最も安全で効率が良いのかも知識があれば判断できる。単独でダンジョンに挑み、そして生還するには心もとなかったため挑戦したことはまだなかった訳だが、いつか自分で使う時のために温めていた情報でもあった。

 

 知識の充実は力ないものが生き残るために必要な、その最たるものだ。リリルカは謙遜しているが、ことリヴィラくらいまでの浅層であれば、彼女のモンスターに対する知識は全冒険者の中でも上位に位置する。

 

 対して僕だって少しは知ってるんだぜとプチ自慢をしたかったベルは、オラリオ歴と冒険者歴がほぼ一緒で、ダンジョンに出てくるモンスターの知識は冒険者になってから詰め込まれたものだ。勉強して覚えまだ知識が先行している状態のベルと、必要に迫られて普段から知識を活かしているリリルカ。どちらの理解が深いかは比べるまでもない。

 

 一方、何やらしょんぼりしてしまったベルに、リリルカは気を揉んでいた。日陰に生きてきたリリルカは、まさか自分の知識に感心されているとは思いもせず、しかし何か踏んではいけない場所を無神経に踏みつけてしまったことを感じていた。

 

 俯いていたベルが顔を上げるとほぼ同時に、リリルカは反射的に防御姿勢を取った。気の短い冒険者の場合、こうなると即座に拳なり蹴りなりが飛んできたものだ。ベルはまさかそういうタイプではないと思う……思いたいが、外面だけは良いという冒険者というのもゴマンといる。

 

 ベルがそうでないという保障はどこにもない。恐る恐ると言った様子でベルを見上げると、彼はバツの悪そうな顔で小太刀を納刀していた。拳も蹴りも来ないし、リリルカが身構えていたことを見とがめてもいない。完全に自分の杞憂だった。

 

 すると、こんな良い人を疑ってしまった罪悪感が凄まじい勢いでリリルカの中を駆け巡った。そんな精神状態なのに童顔の少年が眼前でこれ見よがしに凹んでいるのだから、頭も上手く回らない。

 

「僕はまだまだだね……」

「い……え、そんなっ。ベル様は、ちゃんと強くてらっしゃいますよ」

「ありがとう。リリがいてくれてよかった」

 

 何でへこんでいるのか解らないが、それを押して気づかいの言葉まで掛けてくれている。そんな良い人に殴られる心配をしていたのかと思うと、自分のあまりの心の汚さに気分が滅入るリリルカであったが、落ち込むだけなら後でもできると、要反省と心のメモ帳に赤字で書きこむと気持ちを切り替えた。

 

 ここはダンジョン。いつ死んでもおかしくない場所なのだ。

 

 



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ちゃんと変われるんだ②

 

 

リリルカとベルの初冒険は――特に何事もなく終わった。土台、適正レベルを大きく下回るエリアで警戒心満点の冒険者が日帰りで行うようなクエストで危険があるはずもない。リリルカが行ったことと言えばベルが倒したモンスターからドロップアイテムをきっちり回収することと、その他雑事の遂行だけという実に簡単なものだけだった。

 

 リリルカにすればいつも通りの、それこそ誰でもできるようなことをしているだけだったのだが、ベルはしきりに感謝してくれ、むしろ居心地が悪くなってしまったくらいである。

 

 ありがとー助かったよと繰り返すベルと共にダンジョンを出たのは正午を大きく回って午後四時程のこと。もう少しで日が沈むことを考えると『日帰り』という言葉から連想するにしては少々遅い時間かもしれない。

 

 普段はもう少し早く帰ってくるそうなのだが、今日は午後鍛錬の日程がないために遅めにしたということだ。

 

 これから夕食を取った後に身繕いをしてから、リヴェリアによる座学が待っているという。これにはベルの他に『千の妖精』も参加する企画ということで、彼らの日課であるらしい。そんな中に今日からリリルカも参加することになる。

 

 タダで学べる絶好の機会だ。今や向上心の塊となったリリルカにとっては願ったり叶ったりの提案であるのだが、『千の妖精』が『白兎』にお熱だというのはオラリオの冒険者ならば誰でも知っているくらいに有名な話である。教師役のリヴェリアがいるとは言え意中の相手と二人でいる機会に自分以外の同性が増えることに、良い顔をする女はいないだろう。エルフだろうと人間だろうと小人であろうと、これは全種族共通のことである。

 

 そもそもベルと二人だけの固定パーティだったところに、荷物持ちとして割り込んだばかりなのだ。嫌みの一つや二つは言いたくなるのがエルフ情というものである。元より針の筵にしばらく座るつもりでいたリリルカは大体のことは受け入れるつもりでいるが、片方だけが覚悟完了しているだけでは回らないのが世の中というものだ。

 

 リヴェリアとは何となく上手くやっていけるんじゃないかと思っていた矢先のこと。これから毎日顔を合わせることになるかもしれない『千の妖精』とは、例えあちらからの一方的なものであっても喧嘩をしたくはない。

 

 ベルと世間話をしながら歩いていても、考えるのは『千の妖精』のことだった。後はロキ・ファミリア内では彼女に続いてお熱という噂の『大切断』。

 

 確かにベル様のことは憎からず思っていますし、求められれば伽でも何でもするつもりではおりますが、荷物持ちをやめるつもりはありませんし、貴女たちに敵対するような意思は全くこれっぽっちも持っていません!

 

 と彼女らに力強く主張した所で、次の瞬間に飛んでくるのは魔法か拳だろう。言葉を尽くせば尽くすほど泥沼に嵌っていくのが予想の段階でも理解できる。時間をかけて行動で示すしかありませんねと『現状打つ手なし』という結論に脳内で達する頃には、二人は目的地についていた。

 

 ダンジョンに潜って無事に帰還してきた、特に低位の冒険者が基本的に最初に向かうことになる施設――ギルドである。

 

 主な目的なドロップアイテムの換金だ。買い取りをしてくれる場所は他にもあるが、物を選ばず相応に良心的な値段を付けてくれるのはオラリオでもギルドだけだ。ギルドは冒険者から持ち込まれる小口の買い取りを一度集積し、オラリオの内外に相応の値段で販売している。

 

 当然、業者が冒険者から直接買い取るよりも安くなってしまう訳であるが、業者の方もよほど腕と中身に信頼の置ける冒険者を確保してでもいない限り、安定した供給を受けることはできないでいる。

 

 また低位の冒険者たちはそういった業者にコネなどあるはずもなく、かといって商人相手の足元を見られながらの交渉を切り抜けることもできない。消去法故の選択と言えばそれまでであるが、それに嫌気がさして一度他に持って行った冒険者も結局ギルドに戻ってくることがほとんどであるから、冒険者相手の『商売』としてはやはり良心的であるのだろうとリリルカは思っている。

 

 鑑定をしやすいように細かく分類しておいたドロップアイテムを全てベルに渡す。パーティにおいてドロップアイテムの換金役は、その中で一番信頼の置ける冒険者が行うのが慣例であり、特に取り決めのない場合は固定のパーティの場合はリーダーがこれを行い、臨時のパーティの場合は結成の発起人が行うのが慣例である。

 

 同じくこれも特に取り決めがない場合、ドロップアイテムを換金した時の取り分は共通の必要経費を差し引いた上で、メンバー全員で等分だ。

 

 これは後で揉めないための所謂暗黙の了解であるのだが、特に臨時で組んだパーティの場合はこれに納得しない者が多く、換金した後はその割合をどうするかを話し合うために酒場に行き――そしてそこでより多くを消費して下宿に帰るのが冒険者の定番である。

 

 その定番からつまはじきにされるのがリリルカのような荷物持ちなのだが、これまでのやり取りと世間での評判から察するに、流石にベルが荷物持ちへの報酬をゴネるような人間でないことは理解できる。今回のパーティは二人のみ。ひょっとして三割くらいはもらえるんでしょうか、とウキウキしながら待っていると袋を二つ抱えたベルが戻ってきた。

 

 ソロのパーティでもない限りは換金の後に配分の手続きがあるため、ギルドはそのためのサービスも行っている。パーティメンバーで予めの配分が決まっているのであればそのように配分もしてくれる。

 

 計算ができない冒険者も多いため、このサービスを利用する冒険者は多い。報酬を誤魔化して刃傷沙汰という事例が後を断たないためだ。ギルドが分けたという簡単な証明も出してくれる。ギルドの信頼あってこそのサービスと言えるだろう。

 

 ベルが抱えている袋は十個あった。ちなみにこれがギルドの等分サービスの最大数である。報酬の配分は大雑把でも良いパーティが良く行う配分だ。ベルが右手に七つの袋を、左手に三つの袋を持っているのを見たリリルカは興奮を抑えることができなかった。

 

(まさか……本当に三割もっ!?)

 

 ギルドの規定に反するために報酬がゼロということは流石にないが、事前の取り決めを反故にされたり、そもそも取り決めをしないで報酬が雀の涙ということも度々あった。等分なんて夢のまた夢で小銭をつかまされておしまいということもある。

 

 それが三割ももらえるのだ。ベルの探索としては小規模で報酬が少ないとしても、二人で行った時に三割ももらえるのであれば、固定のパーティメンバーである『千の妖精』が加わっても、等分に入れてもらえる可能性が高い。

 

 まさか『千の妖精』や他の冒険者と同じ割合ということはあるまいが、所謂パーティの最大数とされる五人になっても、自分の取り分が一割を切ることはないだろうとぼんやりとしたものではあるが、確信が持てた。

 

 それだけで涙が出るくらいに嬉しい。借金があるためにマイナスからのスタートであるが、これなら生活に問題がない程度に借金を返した上でもまだ、装備を整えたり、勉強する時間を取ったりすることもできる。貯蓄の額も大きく増すだろう。生活を切り詰めなくても良いかもしれない。興奮冷めやらぬといった様子のリリルカに、

 

「換金してきたよ。はいどうぞ」

 

 にこにこ笑顔でベルは報酬を渡してくれる――七割の方をだ。あまりのことにリリルカは言葉を失うが何もおかしなことはないと思っているのか、ベルはあくまで自分の取り分として『三割』の方をカバンに入れると、

 

「外でご飯を食べて戻ることになってるんだけど、特に行きたい所がなければ『豊穣の女主人』亭ってお店に行きたいんだけど大丈夫かな?」

「お店はそれで問題ないですが……ベル様、ちょっと待ってください。報酬に関してちょっと申し上げたいことがですね」

「あぁ、ごめんね。気づかなくて」

 

 言ってベルはカバンから報酬の一つを取り出し、リリルカに差し出してきた。落ち着いて説得しようという気持ちを、リリルカはあっさりと放棄した。

 

「どこまでリリは欲張りなんですか! 増やしてどうするんです今のままでもおかしいのに! 荷物持ちの方が取り分多いなんてありえませんよ!」

「え? でも今日こんなに稼げたのはリリのおかげだし、その分はリリに渡してもおかしくはないかなって……」

「ベル様あってのことでしょう? リリ一人ではこんなに稼げません」

「僕一人だってここまで稼げなかったよ。今日こんなに稼げたのはリリがアドバイスをくれたおかげだし、ドロップアイテムを沢山持ってきてくれたからじゃないか。増えた分全部持っていくのはそんなにおかしなことじゃないと思うけど」

 

 あくまで口答えをしやがるべルの言い分に、リリルカは一応、今回の配分に彼なりの配慮が見えることに気づいた。ベルもカバンを持ってはいるが、足の速さが売りの彼のカバンは冒険者の平均と比べても小さい。荷物持ちであるリリルカのザックと比較して容積にして四十倍くらいの差がある。リリルカのザックはオラリオに存在する荷物持ちの中でも文句なく一番大きいからだ。

 

 その四十倍の大きさを誇るリリルカのザックにドロップアイテムをパンパンになるまで詰め込んだ。ベルのカバンにもドロップアイテムは入っているが、単純にリリルカのカバンの分だけいつもよりも多く稼げたことになる。

 

 ならばその分だけと考えたのだろうが、それをそのまま実行したらベルの取り分は一割を切りかねない。流石にそれがまずいことは解っていたのか、その遠慮の結果が三対七の配分なのだろう。彼なりの配慮にリリルカの目がしらも思わず熱くなるが、彼は自分が前衛でリリルカがただの荷物持ちということをよく理解していない。

 

 役割分担だ。それも良いだろう。でも、だからこそ譲ってはいけない一線もあるのだ。主役よりも脇役の取り分が多いなどあって良いはずがない。

 

「とにかく! どんなに譲っても半々です。荷物持ちの取り分が、パーティで一番多いなんて絶対にあってはいけません」

「そういうものなんだね……」

「そういうものです! ですが、これにはリリにも落ち度があります。報酬の配分なんて最初に話しておかなければならないことでした」

「僕もちゃんと相談しておかなきゃだったし……。おあいこってことにしない?」

「そうしましょう。それでは改めて取り分なんですが、今の逆ってことで八二でどうです?」

「なら最初の逆にしよう。七三ってことで」

「…………どうあってもリリの取り分を少しでも多くしたいようですねベル様」

「リリのおかげっていうのは変わらないしね」

 

 にっこりほほ笑むベルに悪意はない。当たり前のことを当たり前のようにしている人間特有の頑固さが見える。ここだけは譲らないという意思の強さも見えた。

 

 リリルカ本人が後悔した通り、金の話は本来最初にしておくべきことだ。荷物持ちの取り分が多いことは本来、リリルカにとっても喜ばしいことである。自分の取り分が一番多いという大問題も修正されたことだし、今回はこれで良しとすべきだろう。

 

「解りました。ベル様のお気持ちを受け取ります」

「嬉しいよ。これからもよろしくね、リリ」

 

 手持ちの報酬袋をそっくり入れ替えてがっちりと握手を交わす。話はこれで終わり。双方これで納得したし、蒸し返さないという意思表示である。

 

 さて、後はごはんを食べて本拠地に戻るだけである。今までの暮らしから比べると何とも優雅な行いに、リリルカの心も軽くなっていたのだが――

 

「良い気なもんだな、え?」

 

 そこに水を差す者が現れる。リリルカが視線を上げると、ひげ面で人間で中年の冒険者がいた。見覚えはない。体格から冒険者歴が長いことは理解できるが、レベル3であるベルより強いということはないだろう。身なり、体臭、それからこの時間に酔ってギルドにいるという非常識さから、レベルは精々2であると当たりを付ける。

 

 ベルにちらと視線を向けると彼も小さく首を横に振った。後ろ暗い冒険者道を歩んできたリリルカと異なり、彼は日の当たる道を喝采を浴びながら歩いている途中である。ロキ・ファミリアでは間違っても見ないような風体の男と接点があるとは思えない。

 

 では自分の客かと、判断してリリルカが一歩前に出る。彼女を庇うようにベルが前に出ようとするが、それをリリルカは指で押しとどめた。既に大事になりかけているがここでベルが出てくると話が更にややこしくなってしまう。

 

 既に自分一人で対処できるような話でなくなってることはリリルカも自覚してたが、今が不味い状況だということは周囲の冒険者たちも理解していた。周囲の反応に全く気付いていない眼前の冒険者を他所に、自分たちのするべきことを理解していた冒険者たちはギルドの内外にひっそりと散っていく。

 

 後はそれらの結果が出るまで適当にやり過ごせば良い。冒険者になってからしばらく荷物持ちで過ごしてきたリリルカにとって、この手の冒険者の怒りやら苛立ちをやり過ごすのは日常茶飯事だった。時に拳なり蹴りなりが飛んでくることもあったが、命を取られるまでのことはなく現在に至っている。

 

 決して幸福な過去ではないものの、それが今の幸福な状況に繋がっているのであれば我慢もできた。その経験で今まさにベルの役に立とうとしているのだから、悪いものではなかったのではとさえ思えてくる。

 

 眼前の男は苛立ちを発散させたいだけなのは見て取れる。適当に話を合わせて二三発も殴られてやれば気も晴れるだろう――というのが今までのやり方であるが、現在のリリルカは非常に微妙な立場にいる。その方法は使えないし、使ったとしても背後で黙らせているベルが爆発してしまう。

 

 そうなったら先の『戦争遊戯』の二の舞だ。フレイヤ・ファミリアと共同で街中で私闘をでっちあげた廉でロキ・ファミリアはギルドから制裁を科されている。両ファミリアとも探索系では最大手であり決して貧乏ではないはずだが、それだけに科されるペナルティは重く、どちらのファミリアの財布にも打撃を与えた。

 

 ここで再び『戦争遊戯』となれば、金のなる木がやってきたとロキは喜んで食いつくだろうが、短期間に二度もトラブルを起こしたとなれば、ギルドの目もきつくなるに違いなく、ともすればまたペナルティを科される可能性だってある。

 

 それがまた自分発端となれば死んでも死にきれない。どうにかここは丸く収めると鋼の意思でのらりくらりしていたリリルカだったが、雰囲気から背後のベルがそろそろ限界なことを察していた。散っていった冒険者たちはまだ戻ってこない。

 

 早くしてください……というリリルカの内心を他所に、眼前の男の暴言はさらに続き、

 

「――フレイヤ・ファミリアの手まで借りやがって面白くねえ。俺はあんな『戦争遊戯』の決着なんて認めねえからな」

「つまりなんだ。お前は俺の女神の決定に対して不満があると、そういうことか?」

 

 背後に忍び寄っていた男の声に、一気に気勢をそがれた。恐る恐る振り返ってみると、そこには目つきの悪い猫人の姿があった。オラリオで一年も冒険者をしていれば、都市の最高クラスの冒険者の名前と容姿は自然と頭に入り、どの程度関わってはいけないのかまで頭に入る。

 

 短気で喧嘩っ早い冒険者たちの中でも更にその傾向が強い冒険者として、この男はロキ・ファミリアのベート・ローガと共に冒険者たちの間では要注意人物として知られていた。

 

 フレイヤ・ファミリア副団長。レベル6。『女神の戦車』アレン・フローメル。

 

 売られた喧嘩は買うが他人の喧嘩にまで首を突っ込むことはない。良くも悪くも他人には淡泊であり、女神フレイヤが関わっていないのであれば、彼にとっては――女神フレイヤの眷属にはあまり珍しいことではないが――些事である。

 

 実際、『知人』の関わるトラブルであるが、直前まで彼は見て見ぬふりをするつもりでいた。ただ、『知人』の関わるトラブルであるから事の推移を最後まで見るくらいはするつもりでいたのだが、無視できない単語が出てきたことで、首を突っ込むことにした。

 

 奇しくも、このトラブルを何とかするために散っていった冒険者たちはまだ戻ってきていない。不意のアレンの助け舟はリリルカにとって、そしてそろそろ爆発寸前だったベルにとってはまさに天の助けとなっていた。

 

 そしてリリルカたちにとって天の助けであるなら、眼前の男にとっては地獄への誘いである。ムカつくことがあった所にムカつく奴がいたから、適当に暴言でも吐いて溜飲を下げようという最低な理由でちょっかいだったのだが、引き時を誤ったせいで適当には引き下がれない状況に追い込まれてしまった。

 

 ただ、問題こそ大きくなってしまったが、解決手段は誰の目にもはっきりとしていた。元々ただのウザがらみであり、まだどちらも手は出していないしどちらの主神もここにはいない。

 

 男の方が平謝りをし、頭の二つ三つも下げればそれで話は終わりのはずだ。よりにもよって『女神の戦車』が首を突っ込んできたのだ。ベル・クラネルだけでも不味いのに、アレン・フローメルまで加わって話が大きくなってしまっては、先の『戦争遊戯』の二の舞だということは推移を見守っている冒険者やギルドの職員たちにも理解できた。

 

 頭を下げるしかないということは男も解っていたのだが、高位の冒険者を前に完全に身がすくんでいた。悪酔いをしていたこともあり、頭も上手く働いていない。

 

「はっきり言えよ。俺はお前と違ってこんな場所でクダ巻くほど暇じゃねーんだ」

 

 アレンも苛立ちながらも言葉を続けて暗に『さっさと謝れ』というのを促してくるが、この時点で男の頭は真っ白になっていた。

 

 男の顔色を見て、アレンは自分にとって事態が悪い方向に転がったのを理解した。謝ればそれで終わりではあるが、謝るという手段を取れないのであれば他の手段を取るしかない。トラブル上等の気質であっても、トラブルが好きな訳では勿論ないのだ。

 

 先日トラブルに関わったばかりであるから、話が大きくなるのはアレンにとっても好ましいことではないのだが、それしかないのであればしょうがない。力技で解決する。その決意をアレンが固めたのとほぼ同時に、ギルドの出入り口からぞろぞろと男たちが入ってきた。

 

 すっ飛んできた彼らは脇目も振らずに眼前の男に駆け寄り、問答無用で殴り飛ばした。男が文句を言う暇もあればこそ、続く面々が男を取り囲んでぼこぼこにする。夕暮れ時のギルドに聊か健全でない音がしばらく響くと、男は動かなくなった。

 

 死んではいないが治療が必要な様子であるのは見て取れる。誰の目にも明らかな状態にしてから、先頭にいた冒険者の男がベルの前に手をつき、頭を下げた。続いてやってきた男たちも同様にする。

 

「オグマ・ファミリアのモルド・ラトローだ。うちのバカがすまねえことをした。『白兎』に『女神の戦車』。ついちゃあ改めてあのバカとうちの団長、主神が詫び入れに行くんで、今日のところはこれで勘弁しちゃあくれねえか」

「俺は別に構わねえよ。これは元々『白兎』に売られた喧嘩だ。俺の女神のお手を煩わせるまでもねえ」

「えーっと……別に困ってないからもう大丈夫ですよ」

「助かるぜ!」

 

 話がまとまったと判断するが早いか、男たちは彼を担いで一目散に逃げていった。どうすればその場を乗り切ることができるのかを理解した、冒険者歴の長い者なりの早業である。できればアレンが出てくる前にこうなってほしかった所であるが、いずれにせよこれで最悪の事態は回避できた。

 

 後はアレンに借りを返すだけ、とリリルカが話をまとめようとしていた矢先に、ベルが飛び出した。

 

「アレンさん、ありがとうございました」

「構わねえよ。それにしても、昨日の今日でめんどくせえことしてんだなお前も。ああいう時は適当に殴り倒して『今日はこれで勘弁してやる』とでも言えば良いんだよ」

「ギルドの職員としては、拳を繰り出す前に表に出やがれとでも言っていただけると大変助かります」

 

 さりげなくアレンの近くに近寄っていたエイナがぽつりと付け足す。邪魔されたと感じたアレンは殺気さえ込めてエイナを睨むが、後は知らないとばかりにベルを盾にするようにしてエイナは走って逃げた。

 

 これだから女は、とアレンの額に青筋が浮かぶが、あれの言うことももっともだと思い直したアレンは、ぼりぼり頭をかきながら言い分を修正した。

 

「まぁそうだな。さっきのハーフエルフの言う通りケンカをするなら外でやれ。同じことが『豊穣の女主人』亭で起こったらと考えると解りやすいだろ?」

「さっきの人は無事じゃ済みませんね……」

 

 ギルド職員は基本的には一般人であるが『豊穣の女主人』亭の従業員はシルを除いて全員手練れである。明らかに店舗側に問題があるのであればまだしも、誰が見ても解るレベルの迷惑行為であれば即座に叩きだされて出禁になるだろう。

 

 それに抗うことは冒険者の平均レベルを考えると自殺行為であるし、あの店の従業員のレベルに相当するような冒険者はそんなつまらない問題は起こさない。

 

 ベルもようやくオラリオの雰囲気に馴染んできた所である。流石にあの店がただの店でないことくらいは理解して――どこかの偉い神様の持ち物なのだろうくらいのざっくりしたものであるが――いたから、アレンの軽口にもついて行けた。

 

 僕も少しは事情通ですというひよこ特有の雰囲気にアレンなどは内心呆れていたが、自発的な情報の解禁は厳禁という通達を女神本神から言われている以上、余計なことも言えない。如何に神同士の話し合いで共同歩調を歩むことになったと言っても、『白兎』はあくまでロキ・ファミリアであって、アレンとは違う旗を仰いでいるのだ。

 

 今日はたまたま目に入ったので口を出してしまったが、本来であればこれもする必要のないことなのだ。

 

「でも、僕も殴られて話が大事になったばっかりなんで、そこまでしても良いのかなぁと」

「時と場合に寄りけりだな。さっきみてえな奴の場合は殴り飛ばして問題ねえ」

 

 冒険者歴が短いベルとしてはどういう時が殴り飛ばしても良い時なのか具体的に聞きたいものであるが、話しあいの前に拳が飛ぶことの多い冒険者の中にあってはベルはまず話し合おうという大人し目の性格をしている。

 

 一度『戦争遊戯』を経験したことでベルも少しは覚悟を固めた。殴らなければいけないというのであれば勿論やる。自分以外の名誉がかかっているのであれば猶更だ。起こらないことが望ましいのは解っているものの、ここはオラリオ。神の都合で回るこの世界でも特異な都市である。

 

 何か起こった時に対処できるように、冒険者の流儀なり作法なりを身に着けるのはベルにとっても急務であるのだが、教育担当であるリヴェリアは『そんなことよりも覚えるべきことは沢山ある』とその辺の教育はしてくれない。

 

「まぁ何にせよ。貸し借りはさっさと清算しろってことだな」

「そうなんですね……教えてくれてありがとうございます!」

 

 きらきらしたベルの瞳に見つめられ、アレンがバツの悪そうな顔をする。ここまでのやり取りが冒険者としては小さな貸しになるということに思い当たっていないらしい。それを指摘するのは簡単だが、聴衆の前でかっこつけてしまった手前、ここでそれをベルに説明するのは興が削がれる。

 

 偉そうに講釈を垂れた手前、最後までベルが気づかないようならバツの悪さを飲み込んで自分で説明するしかないのだが、できることならベルが自分で気づくか、そうでなければ誰かが助け舟を出してくれるのが望ましい。

 

 他人の助けなど死んでも御免と考えているアレンだが、時と場合によってはその主義主張を曲げることもある。見栄のためには大抵のことを飲み込むのが冒険者というものだ。

 

 そして、そろそろ自分の手番が回ってくると理解していたリリルカはベルがアレンとの会話を乙女のように楽しんでいる最中に、そろりそろりとアレンの背後まで移動していた。

 

 ここがその時だと解ると、ザックの中から黒板とチョークを取り出して文字を書き込むとベルにだけ見えるように掲げてみせた。

 

『今日のお礼! 食事に誘う! アレン様の都合が良い時!』

「あ! あの……今日のお礼! という、訳ではないのですがっ。今度食事でもどうですかっ!? アレンさんの都合の良い時で良いです!」

 

 自然な物言いとは程遠い口調で、ベルがまくしたてる。視線はアレンとその背後を交互に彷徨っている。それに気づかないアレンではない。大方さっきの小人が文字で指示でも出しているのだろうと察していたが、ここで突っ込むような無粋な真似はしなかった。何より勢い任せで挙動不審な『白兎』は見ていて中々面白い。

 

「飯か」

「そうです! アレンさんの行きたい場所で構いませんので――」

『僕の奢りで!!』

「もちろん今日のお礼なので僕がおごります!」

 

 どうでしょうか! と迫るベルには勢いだけはあった。数々の修羅場を潜り抜けてきたアレンも、思わずたじろいでしまう程である。

 

 ぼんやりとアレンはベルの顔を眺めてみた。

 

 年齢相応の童顔に収まりの悪い白い髪。人間には珍しい赤い瞳も相まってなるほど、女神が『兎さん』と呼ぶのも理解できる。ある意味兎人よりもよほど兎っぽいこの人間のことがアレンは別に嫌いではなかった。

 

 元よりアレン・フローメルというのは他人とつるむタイプではなかったし、ベルのような暑苦しい夢見がちなタイプは本来であれば苦手を通り越して嫌いなタイプだ。他人の面倒を見るなどした記憶がない程なのだが……女神が目をかけているというのもあるのだろう。本来であればそれも嫉妬と憎悪の対象になるはずのことだ。

 

 それらの感情が全くないと言えば嘘になるが、一言で言うのならばアレンはベルのことがそれほど嫌いではなかった。それこそ、食事の誘いを断るという選択肢が、全く脳裏に浮かばない程度には、彼のことが嫌いではなかった。

 

「まぁ構わねえよ。来週の今日でどうだ。店はお前が決めて良い」

「良かった! じゃあ、ギルドの前で待ち合わせにしましょう。楽しみにしてますね!」

「ほどほどにな」

 

 じゃあな、と最後は軽い挨拶をして去って行くアレンに、ベルはにこにこ笑顔で背中が見えなくなるまで手を振り続けていた。

 

 男同士の会話にしては何だか甘ったるい気もするが、とにかくこれで脅威は去った。降って湧いたようなトラブルもとりあえず解決したと言って良いだろう。他のファミリアが絡むことであるので報告の必要はあるだろうが、起こってしまった後のことについては最善を尽くせたと言って良いかもしれない。

 

「ありがとうリリ、助かったよ。僕一人だったらどうなってたか」

「お力になれて良かったです。アレン様が食事のお誘いに乗ってくるとは思いませんでしたが……」

 

 軽い貸し借りの清算の定番ということでとりあえず食事の提案をしてみたリリルカだったが、てっきり断られると思っていたのだ。アレン・フローメルと言えば排他的でファミリア内でさえ協調性のないフレイヤ・ファミリアの冒険者の中でも、飛び切り孤高で俺様だと知られている。

 

 ロキ・ファミリアで言えば同じく俺様のベート・ローガなどがタイプとしては近いだろうか。実力はあるが友達は少なそうで、頼りにされてはいるが近づく冒険者は良くも悪くも皆無に近い。良い悪いとは別の所で関わり合いになりたいと思う者の少ないタイプだ。

 

 そんなアレンに歩み寄ることができ、あまつさえ食事の誘いに成功するベル・クラネルという少年は、ある種の天才と言えるのかもしれない。少なくともリリルカは彼の真似などできるとは思えないし、オラリオ中を探しても、同じ条件でアレンを誘うことのできる者は、女神フレイヤを除けば皆無と言っても良いだろう。

 

「奢りって最初に言っておいた方が良いんだね」

「アレン様とベル様のお立場だったら、お金に関して事前の取り決めなしに食事に行けば、確実にアレン様が奢ることになりますからね。普通はレベルの低い後輩に奢らせるなんてことはありませんけど、今日のお礼と念押しすれば折れることもあるかな……と」

「リリがいてくれて本当に良かったよ……」

「困ったことがありましたら何でもお聞きください」

 

 リヴェリアなどはいずれと考えているのかもしれないが、今日のようにロキ・ファミリアの中だけでは関係が完結しないケースも出てくるだろう。べルの純朴な所はリリルカにとっても魅力的な所ではあるのだが、良くも悪くも物を知らないというのは冒険者としては損である。

 

 個人的な見解を言えば、ファミリア外の冒険者ともパーティを組んでみるのが良いと思うのだが……その辺りはまだ改宗もしていない自分が口を出すことではないのだろう。囲っておきたいという気持ちも解らないではないのだ。リリルカもリヴェリアや『千の妖精』の立場だったら、外には出さずに自分たちだけで、ときっと考えていただろうから。

 

「それじゃあ、色々あったけどご飯にしようか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼食には大分遅く夕食には僅かに早い時間ではあったが、『豊穣の女主人』亭はほとんどの席が埋まっていた。装備やら荷物やらを持って歩く冒険者を想定しているのかテーブルの間隔はこの規模の食堂にしても聊か広く、別の冒険者の一行が隣あったテーブルに並んでもそこまで邪魔にならないように配慮されていた。

 

 冒険に出る時には基本大荷物なリリルカにはありがたい配慮である。ドアベルを鳴らして店内に入ると、たまたま前を通りかかった茶髪の猫人の女性が足を止めた。忙しなく店内を動き回り仕事中ですという顔をしていた彼女の顔が、ベルを見た瞬間に喜色に染まる。

 

「ベル! いらっしゃいだにゃ!」

「こんにちは、アーニャさん。二人なんですけど大丈夫ですか?」

「もちろんだにゃ!」

 

 にこにこ笑顔でテーブルに案内する猫人の、ふりふり機嫌良さそうに動く尻尾を見て、随分ウェルカムな接客だなとリリルカは思った。どんな客にもこの対応であればさぞかしこの猫人の少女はモテるのだろうと思うものの、周囲の冒険者たちの羨望の籠った険しい視線を見るに特別な対応であるらしい。モテているのは猫人ではなく兎さんという訳だ。

 

「ところでベル。おみゃー、今日うちの兄に会ったかにゃ?」

「さっきギルドで。こちらに見えたんですか?」

「うんにゃ。店の前を通っただけにゃ……けど、見たことないくらいに機嫌が良さそうだったから、ひょっとしてベルかにゃと」

「だったら嬉しいですけど、きっと違うと思いますよ」

 

 そーかにゃー? とアーニャは首を傾げる。機嫌の良いアレン・フローメル。辛いお砂糖くらい矛盾している。世界で彼と一番付き合いが長いと自負しているアーニャでも、脳裏に浮かぶアレンの姿はしかめっ面をしていることの方が多い。

 

 他人ではそれこそ普段と大して変化がないように見えるだろうが、近しい人間なら感情の機微が見て取れ、それはアーニャからすれば驚天動地のことだった。原因はと考えたらどう考えてもベルかフレイヤしか思いつかず、さっき会ったというのだからこれはもうベルで間違いがない。

 

 あの兄が、フレイヤ様以外の誰かに、良い方向に感情を動かされるなんてことがあるとは。世の中びっくりすることばっかりだにゃー、と驚きもそれなりに接客を再開する。

 

「会うのは初めてだにゃ?」

「はい。リリルカ・アーデと申します」

「……思う所がない訳じゃにゃーが。ベルが気にしないならにゃーも気にしないのにゃ。ただベルを裏切るような真似をしたらボコボコにしてやるからそのつもりでいるといいのにゃ」

 

 アーニャはいー、と歯をむいて威嚇する。かわいらしい仕草からベルは冗談と解釈して笑っているが、リリルカはアーニャのその意図を正しく理解していた。彼女はきっと本気でやるのだろう。ぶっ殺すと言われないだけマシだと思うより他はない。

 

 暗澹とした気持ちにならないでもないが、この手の威嚇もベルの人柄あればこそだ。リヴェリアも言っていたことだ。信頼はこれから、自らの手でつかみ取るより他はない。今は守ってくれる人もいる。以前の環境に比べたら天国なのだ。裏切りは元より、文句など言ってしまえばバチが当たってしまう。

 

 アーニャに案内してもらった席でベルと差し向いでメニューを見る。リリルカが最初に感じたことは『お高い』ということだった。大衆食堂には違いないが一般的なそれと比べるといくらかお高めである。

 

 無論のことそこらの高級店と比べればお安くはあるものの、冒険者向けとは言えその日暮らすのもやっと、というレベルからすると普段使いにするには抵抗がある価格帯である。

 

 以前のリリルカであればこの店を使うことなど考えもしなかっただろうが、今日の収入からこれからを予測するに生活のグレードは大分向上するはず。普段使いも十分に視野に入るはずだが、一人でここに来ることはなかろうな、とリリルカは判断した。

 

 真っ先に笑顔で駆け寄ってきたアーニャもそうだが、先ほどから何というか視線が刺さる。客のものではなく、かわいいお仕着せで店内を忙しそうに動く従業員のものだ。知り合いだから声をかける機会をうかがっている、というのではない。ベルに対する親しみと、ほんのりと自分に対する敵意を感じるリリルカである。道は険しい。

 

 メニューについてはベルと同じものということでお茶を濁すと、飲み物だけがすぐに運ばれてきた。杯を掲げたベルと視線が合う。リリルカもそれに合わせて杯を持ち上げた。

 

「何に乾杯する?」

「僭越ながらリリに決めさせてもらって良いでしょうか」

「良いよ。どうぞどうぞ」

 

 それでは、と断りを入れてからリリルカは()()()()()。杯を持って立ちあがった自分に周囲の視線が僅かに集まるのを意識してから、リリルカは声を張り上げた。

 

「私は! リリルカ・アーデ! 心優しき『白兎』様に助けられ、今日も冒険者を続けることができました。こんなリリを仲間として迎えてくれたベル様に、最大限の感謝と、精一杯の忠誠を捧げます! ベル・クラネルの未来に!」

『ベル・クラネルの未来に!』

「乾杯!」

『乾杯!!!』

 

 リリルカの号令に、酒場に居並んだ冒険者たちが一斉に杯を掲げる。音頭を取る者の最後の言葉を繰り返すだけの、冒険者なら大抵の者は追従できる作法である。自分が気に入られていないことは知っているリリルカだが、眼前のベルはそうではない。

 

 ベルをダシに使えば皆乗ってきてくれるだろうという勝算はあったし、何なら好感度の高そうな女給さんたちも乗ってきてくれるかと思ったら案の定、先のアーニャや他の配膳をしていた面々まで乗ってくれた。

 

 女給さんたちはその後、女将さんに怒られているが些細な問題だろう。冒険者というのはノリと勢いで生きるものなのだ。

 

 一仕事やり切った顔で席に着くと、ベルは何だか居心地が悪そうにしていた。オラリオきっての有名人なのに、まだまだ目立つことに慣れていないのだ。田舎から出てきたばかりの純朴な少年といった風のベルの杯に、自分のものを軽く打ち合わせる。

 

 一気に飲み干したジュースは、今まで飲んだ何よりも美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




遅れた理由はアリスとイズンとアマノザコです。あとハーベスト。


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『怪物祭』 その準備

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そろそろじゃない? とアリシアにからかわれるのはもう何度目のことだろう。『黄昏の館』の食堂の一風景である。

 

 例によってエルフで固まって食事をしているところに先のアリシアの言葉だ。その度に『ベルが決めることですから』とはぐらかしてきたが、内心でレフィーヤはアリシアと同じことを考えていた。

 

 今週末には『怪物祭』が開催される。既にオラリオはそれ一色となっており、既に前乗りで到着した観光客でオラリオは賑わいを見せていた。定期的に開催される催しとしてはアテナ・ファミリア主催の『銀河戦争』と並んでオラリオでも最大級のもので、オラリオに定住する者にとっては定番のデートイベントだ。

 

 主催はガネーシャ・ファミリアであるが、今年はデメテル・ファミリアも盛り上げ役を買って出ており今回は男性が女性を誘う時には花を送り、当日を過ごす時には女性の頭にその花を差すというイベントを演出していた。

 

 これにも紆余曲折があり、最初は赤い生花を推す予定だったところ飲食店の連合から反発を食らい用意しやすい造花でOKという風に相成った。既に売り込むつもりで赤い生花を大量に用意していたデメテル・ファミリアには少なくない損失が発生したが、流石に生花を始め作物の生産に関してはオラリオでも最大級の規模を誇るファミリアである。

 

 生花がダメなら造花で行こうと方針を転換し、元から大量にストックしていた造花――現在生産している生花のサンプル用で、その作成はご婦人方の内職によって賄われている――にアレンジを加えて大々的に売り出す方針に切り替えていた。生花ならともかく造花なら、と他のファミリアも生産販売に乗り出し、現在のオラリオでは造花が飛ぶ様に売れている。

 

 その造花をベルは既に購入し自室に保管しているという話である。流石に男子塔のベルの部屋にまでは忍び込めなかったため確定情報ではないが、オラリオに張り巡らせたエルフのネットワークからの筋なので間違いはないだろう。何しろベルに造花を販売したのはエルフで、内緒にしてくださいと念を押されたそうだから。

 

 あっさり情報を売り渡した同胞に思う所はないではないが、背に腹は代えられない。他の情報を総合するとベルが購入した造花は一本とのこと。皆で一緒にと仲良しの女性皆に造花を送るという展開が唯一の懸念だったが、少なくとも誘う相手は一人に決めているようである。

 

 ならばその一人はレフィーヤに違いないというのが、リヴェリア以外のロキ・ファミリア女性エルフの考えだ。ちなみに彼女らはラウルが胴元になっている『ベルのヒロインレース』で

全員がレフィーヤに賭けている。年齢が近いこともあり、ファミリアの中ではティオナを抑えて大本命だ。

 

 外に目を向ければ『運命のエルフ』ことリュー・リオンなる強敵もいる。時間をかけると出走馬が増える可能性が大いにあり、レフィーヤ一点賭けの身としては、ここいらで勝負を決めておきたいというのが正直な所なのだ。

 

 そんなことを知らないレフィーヤは、身だしなみを無駄に気にしたりと忙しい。放っておくと階段から転げ落ちそうな有様なので、エルフの誰かが自主的に張り付いている有様だ。今日も共に食事をしている訳だが、とにかく上の空で悶々としているため、今まさに食堂の入り口にベルが来たことにも気づいていない有様である。

 

 レフィーヤが一人で悶々としていると、一人、また一人と、ひっそりエルフたちが席を立っていく。食堂から出て行ったという訳でもなく、トレイを持って遠巻きにレフィーヤを眺められる位置に移動したのだ。

 

 しばらくして意識を取り戻すと、自分一人が取り残され皆が離れていることにレフィーヤは気づいた。何故? と視線でアリシアに問うと、彼女は苦笑を浮かべながら食堂の入り口を指す。

 

 食堂の入り口にはベルが立っていた。ついに幻でも見るようになったかと本気で自分を疑ったレフィーヤは、テーブルの下でひっそりと腿を抓ってみるが、痛いだけで目の前のベルは消えなかった。

 

 つまりこれは妄想ではなく現実である。現実のベルは花束をくれた時のように挙動不審で、肩まで真っ赤になっていた。アリシアが先に言った様に本当にこの時が来たのかしらと思ってしまうとレフィーヤもベル同様に真っ赤になった。

 

 ぎこしゃこ音を立てながらレフィーヤの前に立ったベルは、後ろ手に何かを隠していた。離れて見ていたエルフたちにはそれが赤い造花であることが解っていたので、盛り上がりも最高潮である。

 

 先の経験から時間をかけても良いことは何もないと理解していたベルは、

 

「レフィ、『怪物祭』なんだけど、僕と一緒に行かない?」

 

 赤い造花を差し出しながら、単刀直入に切り出した。ああ、とレフィーヤは熱の籠った溜息を漏らして、赤い造花に手を伸ばす。何も言葉は聞いていないが、OKという意思表示なのだと解釈したベルは内心嬉しさで悲鳴を挙げそうになりながらも、どうにか堪える。

 

 ちらと、真っ赤な顔で上目遣いで見てくるレフィーヤが、いつも以上にかわいい。

 

「…………私とベルと、二人で、ってこと…………ですよね?」

「うん。最近ゆっくり話す機会もなかったし、どうかな、と……」

 

 この腰抜けが! とエルフたちは思っていた。これはデートで貴女を誘っているのですと匂わせるくらいできないのかと。あれだけ受け入れ態勢のできているレフィーヤを相手に、ここまで受け身になれるものかと悶々とするが、その相手がベルであると考えるとこれでも進歩したのだろう。

 

 お上りさんの少年が、頑張っていますという風がエルフとしてはとても微笑ましい。純情な少年が自分から女の子を誘っているのだから、大した進歩のはずだ。冒険者にしては擦れてなさ過ぎるところが彼の魅力でもあり、同時に不安な所でもあるのだが余計なことをして話を良くない方に転がすのも面白くない。外野としては今はまだ、事の推移を見守る時だ。

 

「いいですよ。レフィーヤ・ウィリディスは、貴方のお誘いを喜んでお受け致します。当日はどうしますか?」

「ゆっくり見て回りたいし、朝に一緒に『黄昏の館』を出て――」

 

 べルの言葉を遮るように物陰から飛んできた杖は綺麗にベルの頭に直撃した。また俯きもじもじしだしたレフィーヤは幸か不幸かそれが目にも入っていない。

 

 痛む頭を摩りながら飛んできた方を見ると、ヤジウマエルフたちが全員揃って大きく『×』を作っていた。何はともかく一緒に出るのはダメらしい。女の子を誘うのって難しいなと頭を捻る。今の何がいけなかったのかとしばし考え、 

 

「外で待ち合わせなんてどうかな」

「良いと思います。中央の噴水なんてどうですか? ちょっと遅めに出て、一緒に外でお昼でも」

「お祭当日だとどこも混んでそうだけど」

 

 すす、と今度はレフィーヤには見えないようにカンペが出された。カップルに人気、お洒落なレストラン、場所はココ、予約済。ヤジウマエルフ達の手回しは気持ち悪いくらいに良かった。混んでいるという話の後に出てきたのだから混んではいない場所なのだろう。

 

 駆け出し冒険者のベルからするとお高いお店の気配がビンビンにするが、女性と会う時に金のことを気にするようなしみったれた男にはなるなとおじいちゃんも言ってたことだし、とヤジウマエルフたちの提案を受け入れることにした。

 

「楽しみにしてますね!」

「僕もだよ。それじゃあ」

 

 二三会話を繋いでからレフィーヤに手を振り、猛ダッシュで食堂を出ていく。どういう訳かお腹の底から笑い声が出てきた。それも全く止まらない。わははと笑いながら全力疾走する同胞にロキ・ファミリアの団員は奇異の目を向けてくるが、笑い声の主がベルであると認識すると、まぁベルだしなと納得した。

 

 しかし、である。笑うのにも走るのにも気づいたベルは、男子塔の入り口辺りで幸運にも気づいてしまった。

 

 ベル・クラネル。田舎生まれの田舎育ち。一念発起してオラリオにやってきて、どうにか冒険者として成功する……切っ掛けを掴んだ男。最近お金の出入りは激しいが貯金もしている。女の子と遊びに行って困るようなことは一応ない。

 

 だが、年端もいかないベルでも解る重大な問題が一つだけあった。お祭とは冒険ではない。いや女の子と遊びに行くのだからある意味冒険かもしれないが行先はダンジョンではないし、そこではモンスターと戦う訳でないから武器も持って行かない。

 

 つまりは普段ベルが着ている戦闘用の装束の出番は全くない。小太刀もいらなければ魔剣もいらないし、鎧も着なければレフィーヤからもらった防刃シャツも必要ない。実用ではなく嫌み過ぎない程度にお洒落な服というのが必要になるのは解るのだが……

 

 生まれてこの方、年頃の女の子と一緒に出掛けたこともなく、適当以上に見た目に気を使う機会がなかったため、必要に迫られなかったのだ。

 

 ベル・クラネルという少年は、ダンジョンでモンスターと戦うための装備と、休みの時に何となく着る服しか持ち合わせがなかった。余所行きの、所謂勝負服やら一張羅やらを一着も持ってはいないのだ。

 

 一応、『戦争遊戯』の後のパーティでダンスをした時の燕尾服はあるが、それが外に女の子と出かけるのに適当でないことくらいはベルにも解る。それがダメとなるともう普段の服を着ていくしか今のベルには選択肢がないのだが、特別な日に普段通りの恰好で出かけて行ってめかし込んだ女の子にがっかりした顔をされたらもう死ぬしかない。

 

 早急に服を調達する必要がある。お金はある。まだ時間もあるのだが……どこに行けば良いのか全くもって解らない。服は服屋さんで買えば良いのだろうか。オーダーは明後日までにできる? そもそも目当ての服はどの辺の界隈に行けばあるんだろう。解らない。何も解らない。今まで身繕いにほとんど時間をかけてこなかったことが、まさかこんな形で仇になるとは夢にも思わなかった。

 

 しかし、捨てる神様あれば拾う神様あり。そもそもここは『黄昏の館』である。ロキ・ファミリアのホームにして、

 

「お困りのようやな!」

「ロキ様!」

 

 主神ロキの住まいである。田舎者のベルからすれば相当に進んだファッションなロキは、ベルが振り返った先で壁に背を預けていた。出てくるのを狙いすましていたかのようなタイミングであるが、きっと気のせいなのだろう。何処を見ているのかイマイチ解らない糸目の女神は、いつも以上にニコニコしながら歩み寄ってくる。

 

「どうやらレフィーヤとデートみたいやからな。困ってるやろうと思って飛んできたで」

「デートとかそんな……」

 

 そういう甘酸っぱいことではない、とは思うのだ。デートというなら最低限、お互いの了解が取れていないといけないのでは……というのが一度もデートなどしたことのないベルの考えだ。そうでないと相手に悪いとどうやら本気で考えている様子のベルに、ロキは内心で深々と溜息を吐きながら、話を進める。

 

「着てくお洋服。ないんとちゃうの?」

 

 流石主神様。堂々の図星である。

 

 助けに来てくれたのは純粋に嬉しいのだが、自分の主神にまで『女の子と出かける日に着ていく服を一着も持っていない』と当たり前のように思われていることは、年頃の少年であるベルの心を少しばかり傷つけていた。これからは僕も少しはお洒落になろうと誓ったベルである。

 

「…………恥ずかしながら」

「まぁ仕方ないんやないかな。でもまぁ、ここはウチに任しとき。ウチの力でベルをイケメンウサギにしたるからな!」

 

 イケメンだろうとウサギはウサギな気もする。凛々しい兎というのがそもそも存在するのか疑問であるが、神様が言うのだからいるのだろうと前向きに考えることにした。

 

「じゃあ、神様が僕の服を?」

「いや、ウチは女の子専門やからそういうのは男の子に聞いたりや」

「男の子というと……」

 

 ロキ・ファミリアの団員の中で、ファッションということで頼りになりそうな男性を思い浮かべようとしてみるが、いまいちピンとこない。ベルの感性で行くとロキ・ファミリアの中で一番かっこいい男性はベート・ローガなのだが、そのベートはベルの周囲の女性にはあまり評判がよろしくない。特にレフィーヤの反応が顕著で、

 

『ベートさんにきちんとした考えがあるのは理解しています。考えそのものは立派だと思いますし、それに同調する人がいるというのも解ります。そこを今さらどうこう言ったりしませんし、尊敬に値する部分も勿論あります。ですが、誰に対してもああいう態度の人を好んで周囲に置きたいとは思いませんし、ベルにはそうなってほしくありません』

 

 何というかとりつく島もない。理解を示すと言うだけあって嫌いという訳ではないのだろうが、好きではないというのは本当のようだ。少なくとも自分からレフィーヤがベートに絡みに行っている所を、ベルは一度も見たことがない。

 

 今や正式にパーティを組むことになった女性の言葉である。ベルとしてはできる限り尊重したい。

 

 考えてみればベートのセンスはベートだからこそ合うものだ。兎と周囲に評されるだけあってベル・クラネルというのは童顔とまではいかないものの人間の少年としては年相応の風貌をしている。

 

 兎と狼は違う生き物だ。その狼にしても実用と元々の習慣からあの恰好に落ち着いているだけであって、努めて着飾ろうとしてああなった訳ではないような気がする。ベートは狼として振る舞うことに長けているのであって、兎を狼にする素敵な魔法を習得している訳ではない。

 

 今のベルが欲しいのは、今よりマシになるためのアドバイスだ。今日がベートの人生で最高に機嫌の良い日だったとしても、彼から適切なアドバイスがもらえるとは思えない。意見を聞く相手として、ベートが適当でないことはベルにも理解できた。

 

 では誰に聞けば良いのかという話だが、元より友人知人が多いとは言えない上、お洒落などオラリオに来てから考えもしなかったことであるだけにいざ必要に迫られても助言者がさっぱり思い浮かばない。本気で困っている様子のベルに、ロキはからから笑いながら助け舟を出した。

 

「おるやろ? 最近ベルが仲良しで、お洒落さんな男の子」

 

 お洒落さん、男の子……と考えに考えて、ようやくベルの脳裏に一人の男性の姿が浮かんだ。男の子と言われると違う気もするが、確かにお洒落さんではある。

 

「いましたね! でも、こんなこと頼みに行っても良いんでしょうか」

「かまへんかまへん。ギルドにも正式に届け出して、うちら『仲良し』になったばっかりやしな。ベルならフリーパスやろうし、本拠地にでも顔出してみたらどないや?」

「今からですか?」

「善は急げ言うやろ。時間もあらへんのやから、ぱぱっと行ってきーや」

「分かりました! ありがとうございます、ロキ様!」

 

 ほんならなー、とひらひら手を振りベルを見送ると、ロキは足早に『黄昏の館』の屋上に移動した。居住塔の最上階。オラリオを見渡せる景色の良い場所であるが、ただ景色を楽しむには聊か風が強い。髪を押さえながら方角を確認し、バベル上層と旧友の本拠地に向けて備え付けた大型の鏡で合図を送る。

 

 旧友が暇を持て余しているならどちらかから反応があるはずだ。風に耐えながらロキがしばし待つと、本拠地の方から反応があった。どうやら旧友自ら相手をしてくれるようである。

 

 自分でおもしろおかしく仕立て上げるのも良いが、たまには自然な成り行きに任せるのも良いものだ。ベルの認識こそ曖昧であるが、デートそのものは決定しているのだから後は当日を楽しみにするだけである。

 

 元よりロキも、アイズとデートの予定であるしちょうど良い。わざわざ追い回すようなことはしないが、同じ祭に行くのだから顔を合わせることもあるだろう。会えなくても一興。偶然を頼みにすることの、何と不確かで楽しみなことだろう。

 

 それが子供の明るい未来に関わることなら言うことはない。今夜は美味い酒が飲めそうだ。晩酌の相手を誰にするか考えながら、軽い足取りでロキは屋上を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お洒落さんに会うために息を切らせて走ったその先は、『戦いの野(フォール・クヴァング)』。ロキ・ファミリアと双璧を成すフレイヤ・ファミリアの本拠地だ。つい最近までは敵対とまではいかないものの緊張した関係であったのだが、ロキとフレイヤが共同で出した声明により、共同歩調を取ることが公式に名言された。

 

 期間は『ベル・クラネルが存命の間』となっている。色々な意味で簡単には死ねなくなったベルは、共同歩調の要にして象徴として、フレイヤからいくつかの特典を下賜されることとなった。

 

 その一つが『戦いの野』への入場権である。基本、異なるファミリアの本拠地に他の神の眷属は足を踏み入れない。ファミリアの本拠地は神の領域であり、足を踏み入れるためにはその主神の許可が必要になる。

 

 鍛冶系ファミリアを始めとした開かれたファミリアはともかくとして、探索系のファミリアは特にその傾向が強く、オラリオでも特に排他的として知られるフレイヤ・ファミリアはその最たる例として周知されていた。

 

 お茶に招待されるまでは足を向けたこともなかった場所に息を切らせて走ってきた『白兎』に今日たまたま『戦いの野』の守衛をしていた眷属二人は怪訝な目を向けた。

 

 何しろベルは目立つ風貌であり、フレイヤ・ファミリアの全団員に顔を知られている。知られているだけで決して好かれている訳ではないのだが、彼が女神フレイヤのお気に入りであることは、眷属たちも大変に忌々しいことではあるが理解は示している。

 

 女神の意思は基本的には何よりも優先される。女神への取次でも繋がない訳にはいかないのだが、

 

「ロキ・ファミリアのベル・クラネルです。アレン・フローメルさんにお取次ぎをお願いします!」

 

 渦中の『白兎』が指名したのは女神ではなく俺様の副団長だった。個人主義の極致であるフレイヤ・ファミリアにあっても特に俺様で有名なアレンに、態々本拠地まで訪ねてくる者があるとは驚きである。

 

 女神相手と思って機嫌を悪くしていたことも忘れて、守衛たちは純粋な好奇心でベルを見返した。

 

 レベル6の冒険者にしてフレイヤ・ファミリアの副団長。女神フレイヤに心酔しているフレイヤ・ファミリアの団員で、極度の俺様と知れ渡っていても、そういうのが良いという女は一定数いるし、裕福でさえあれば他の部分は全て無視するという女もいる。

 

 無論、それらを理由に忌避されることもあるのだが、アレンはフレイヤ・ファミリアの冒険者の中では比較的外の女にモテる方だった。その誘いは全て袖にしているとは聞いていたしそこまでは他の団員たちも予想の通りだったが、目の前の兎もその類なのだろうかと考えないでもない。

 

 思えば少し前、『白兎』がギルドでちょっとしたもめ事に巻き込まれた時に、他人に干渉しない主義のアレンにしては珍しく助け舟を出してやったそうだ。その礼という形で『白兎』がその場で食事に誘ったそうだが、その誘いをアレンは受けたそうである。

 

 あのアレンがと考えると驚天動地のことであるが、彼とて神ならぬ地上の子供だ。気に入る相手とそうではない相手というのはあるのだろし、その相手がロキ・ファミリアの『白兎』であるというのも解らないことではない。

 

 人畜無害そうな白髪頭を眺めつつあのアレンがねぇと心中でぼんやり考えながら、中と連絡を取るために、守衛の一人が走り出そうとした所で、直立不動の姿勢になった。

 

 守衛が呼びに行くまでもなく『戦いの野』の中からアレンが出てくる。相変わらず不機嫌そうな面構えであるが、その隣には供があった。というよりも、そちらの指示で一緒に出てきただけであってアレンの方が供なのだろう。我らが女神は『白兎』の訪いとその目的を知っていたようである。

 

 直立不動の姿勢になる守衛二人に軽く笑みを向けると、態々門まで歩いて出迎えに来るという、神としては最上級のもてなしをした女神は、『白兎』を前に微笑みを浮かべた。

 

「ごきげんよう兎さん。ロキから聞いているわ。アレンに用事があるとか」

「お久しぶりですフレイヤ様! できればこれからアレンさんをお借りしたいんですが」

「それはアレンに直接頼むと良いわ。私はロキから少し聞いたけど、彼は何も知らないから説明してあげて?」

「解りました! アレンさん、突然申し訳ありません。これから少しお時間をいただきたいんですが、大丈夫でしょうか!?」

「女神の話を聞いてなかったのかよお前は。それはもう把握してるから、何で態々俺に声かけに来たのか言えってんだよ」

「今度女の子と出かけるので、僕が着ていく服を選んでください!」

「他を当たれ」

「一度断られたくらいで諦めたらダメよ兎さん」

「アレンさんしか頼れる人がいないんです!」

「知ったことかよ」

「兎さん、もう一声よ」

 

 寸劇のような軽妙なやり取りをしだした女神と副団長と外の『白兎』を、守衛二人がぼんやりと眺める。如何にも洗練された言葉のやり取りに慣れていない風なベルはうんうん唸りながらその場で言葉を探し、意を決して大声を張り上げた。

 

「アレンさん、僕を男にしてくださいっ!!」

 

 しん、と『戦いの野』の門にベルの声が響いた。守衛二人もアレンも呆れ顔である。

 

 現在地上で最も神が住まうオラリオにあって、恋愛やら性欲の対象というのは何も異性だけとは限らない。主流派ではないが先にベルが戦ったアポロン・ファミリアの主神アポロンに代表されるように、男神の立場で少年青年を相手にする神もある。

 

 その趣味嗜好は地上の子供たちにも伝播しており、こちらも決して主流ではないものの、地上の他の地域に比べると遥かに、同性愛の気は多くある。

 

 そういう視点に立ってベルを眺めてみると、かのアポロンが懸想しただけあってその筋にはそそりそうな顔だちをしている、と思われる。アレンにはその気がないので完全な推測であるがともあれ、アポロンに懸想されそういう見た目をしているベルがそういう発言をするとどういうことになるのか。

 

 言われた相手もそういう相手だと思われるに違いないのだ。フレイヤ・ファミリアは狂人の集まりとして知られている。女神フレイヤを第一に考える集団であり、そこに余人が立ち入る隙はない。

 

 それは事実として周知されているが、噂というのはそれが事実であるかどうかを重視しない。らしいと思われればそれで噂というのは成立するのだ。それを口にする者たちとてもっともらしくありさえすれば、真実でなく事実でさえなくても気にもしないだろう。

 

 現にフレイヤ・ファミリアの団員は元よりオラリオでの評判はよろしくなく陰に日向に悪評が付きまとっている。副団長アレン・フローメルの『スキャンダル』となれば、人々は喜んでそれを吹聴する。

 

 アレン個人としては自分の悪評などどうでも良い。自分がどうであるかを決めるのは自分自身であり、それがブレさえしなければ他人の評価など心底どうでも良いと思っている。

 

 だがアレンは個人としてここに存在しているのではなく。恐れ多くもフレイヤ・ファミリアの副団長という職を賜り、何より女神フレイヤの眷属として存在している。

 

 己の悪評で女神の名前に傷や泥がつくことを、アレン・フローメルは良しとしていない。フレイヤ自神そんなことなど気にはしないだろうが、女神が女神としてあるように眷属にも眷属としての矜持がある。

 

 自分発の悪評が女神の名誉に傷をつけることなど、アレンとしてはあってはならないことなのだ。ベルの発言はそれこそ発したのがベルでなければその瞬間に拳が飛んでいたことであるが、多少の付き合いのあるアレンは、そこに悪意が全くないことを理解している。

 

 無神経な発言が飛んでくることもあるが、それはベルの無知故だ。それに一々怒っていてはキリがない。とは言え、何度もそんな発言をされても困るから、言って聞かせる必要はあるのだが。面倒くさいとは思うが、そこに嫌悪感はない。

 

 弟がいればこんな感じなのかと思いつつ、多分な嫌みを乗せて苦情を言ってやろうと口を開きかけたアレンの耳が、信じられないものを聞きつけた。

 

 隣に立つ女神が笑っている。淑女らしく楚々としているのではなく、そこらの町娘のように腹を抱えて声をあげて笑っていた。初めて見る女神の姿に眷属三人が呆然としていると、ひとしきり笑い終わったフレイヤは、涙を拭いながら

 

「久しぶりにこんな笑い方をしたわ。長く生きてみるものね。美しく、洗練されてもいないけれど良いわ。笑わせてもらったお礼に私が口添えしてあげる。アレン?」

「……はい」

 

 女神フレイヤの眷属としてはあるまじきことに、フレイヤの呼びかけにアレンの反応は一瞬遅れた。初めてみる女神の笑顔に見とれていたことを恥じた彼は、彼にしては珍しく固く姿勢を正した。

 

「兎さんのお手伝いをしてあげて? 貴方も美の女神フレイヤの眷属なら、美の何たるかを知らない訳はないわよね?」

 

 挑戦的なフレイヤの物言いに、アレンははっきりと顔を顰めた。

 

 お願いという体を取っているがこれは実質的な神命である。眷属にとってこれを拒否する選択肢は存在しない。フレイヤがやれと言った以上、アレン・フローメルはやるしかないのだ。

 

 それにフレイヤは、これで自分の器を図ろうとしている。何とも気まぐれなことであるが、ベルの願いはフレイヤにとっても渡りに船だったのだろう。

 

 冒険者が強くあらねばならないのと同様に、神の掲げる『看板』というものは、眷属たちを守護すると同時に縛りもする。フレイヤは美の女神だ。その美しさはオラリオだけでなく世界に知れ渡っており、その美しさ、評判に嫉妬する女神も少なくはない。

 

 フレイヤをこき下ろすネタをとにかく探している女神たちは、その嫉妬を眷属たちにも向けることがある。アレンたち眷属は、美の女神フレイヤの眷属。詰まる所、彼らはそんな連中にダサいなどと思われることなどあってはならないのだ。

 

 あのオッタルでさえ身だしなみには最低限以上の気を使う。副団長という立場上、オッタルの次に外向けの用事に駆り出されることが多いアレンも、その例に漏れない。それそのものに生きる連中には見劣りするのは否めないが、田舎から出てきたばかりのベルに比べたら試行錯誤の回数は比ではないし、それ故のアドバイスもできる。

 

 自分も嫌々ながらも通ってきた道で、女神の神命だ。助けてやる気がないのでもないのだが、他の神の眷属発で、自分の器を図られるこの状況に、アレンは苛立ちを覚えた。焦りと緊張の表情を浮かべる『白兎』の顔が、憎らしくて堪らない。

 

 深々と、身体の熱を吐き出すよう息を吐いたアレンは、神速のデコピンをベルに打ち込む。

 

「用意してくる。そこで待ってろ」

 

 痛みに蹲るベルの背中に吐き捨てると、アレンは踵を返す。

 

「照れてるだけだから許してあげて。あれで、アレンも兎さんのことが大好きだから」

 

 女神の言葉を、忠勇なる眷属は聞き流すことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、アレンとのデート編……ではなく、普通に『怪物祭』回になります。
アレンのセンスの成果は当日のベルの恰好を参考にしてください。


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『怪物祭』①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君一人?」

 

 俯いていた顔をあげ、声をかけてきた女性を見る。二十歳に僅かに届かないくらいの人間の女性だ。雰囲気から冒険者ではなく観光客という風でもない。オラリオ在住の一般人で、おそらくは現在恋人がいない人間の女性だ。

 

 苦笑を浮かべてリリルカは首を横に振った。懐から赤い造花を出すのも忘れない。それは待ち人がまだ来ていないというだけで今日この日に相手がいるという証明だった。女性は目に見えてがっかりした表情を浮かべたが、あっさりと引き下がってくれた。安堵の溜息を吐いたリリルカは苦笑を浮かべたままその背中を見送った。

 

 これで六人目である。

 

 今日は『怪物祭』の当日だ。相手は外で待ち合わせをしようというのでそれに付き合った形だが、それはリリルカにとっては不本意なものだった。同じ所に住んでいるのだから一緒に出れば良いのでは? と思っていたことを直接言ってみたのだが、こういうのは雰囲気が大事なのだと押し切られてしまった。

 

 その意見には同意できるところもあるし、何よりリリルカには相手の意見に異を唱えられるような立場ではない。意見は言うが最終的には相手に従う。それが今のリリルカ・アーデだ。意見も言えなかった今までに比べれば雲泥の差である。

 

 意見を言うことを許してくれる相手は、まだこの場に現れてくれない。この場――デートの待ち合わせ場所としては定番の一つ。ベルたちが待ち合わせをしている噴水とはまた別の噴水だ。

 

 噴水ならばどちらも同じではというのがリリルカ個人の考えであるが、街の中央に近い方が人気があるらしい。ベルたちの待ち合わせは一番中央に近く、リリルカが今いるのは彼女らの『本拠地』である『黄昏の館』に最も近い。

 

 やはり一緒に『黄昏の館』を出るべきだったのでは。そう考えるリリルカの恰好はいつものものと異なっていた。

 

 髪はちゃんと撫でつけて後ろで一つに縛っている。肌の露出は最小限にし、ズボンの丈も足首までのもの。いつもは白やら赤など、暗いダンジョンでも目立つ色を使っているが、今日は黒や草色などダンジョンではまず着ない色の服を着ている。

 

 総じて、年頃の少女が好む色でも服でもない。元の顔だちと種族も相まって、今のリリルカは人間の少年に見えていることだろう。

 

 それがリリルカの狙いでもあったのだが、流石に片手の指では数えられないくらいに女性に声をかけられると気分も滅入ってきていた。()()()で並んで歩くことが恥ずかしく思えたのでいっそ少年に見える服を着れば良いのでは、と思ったのが良くなかった。カップルの定番イベントだからと言って、カップルだけが来ている訳ではない。

 

 観光客もそこかしこにいるし、オラリオの住民も遊びに出ている。中には女同士、男同士で楽しんでいる者もいれば、一人でうろうろしている者もいる。一人でうろうろしている者にとって余っている異性というのは目の前にぶら下げられたエサなのだ。

 

 中には好んで一人でいる者もいようが、そうでない者の方が多いというのが今日この日を迎えたリリルカの感想である。

 

「お待たせ」

 

 声をかけられそうな視線を感じ、場所を移動しようか本気で考えていた頃、ようやく待ち人が現れた。

 

「待った?」

「少しだけ。でも、今来た所です」

 

 差し出されたティオナの手を取り立ち上がる。

 

 少年のような恰好をしているリリルカであるが、ティオナの恰好も普段とは違う。アマゾネスというのは仰ぎ見る主神に関わらず肌の露出を好む傾向にある。ロキ・ファミリアのヒリュテ姉妹もこの例に漏れず、ティオナもダンジョンに行く時は元より平素も肌の露出を避けない傾向にある。

 

 だがこれも絶対ではないらしい。肌の露出を好むことに宗教的な理由がある訳でも、ある種の強迫観念を持っている訳でもない。先祖も今も生きる同胞もこうであるから、自分もこうするという消極的な種族的特徴とでも言うのがアマゾネスのファッションだ。単純にその方が動きやすいというのもあるだろう。

 

 故にアマゾネスが他の恰好をするのに、特別な抵抗がある訳ではない。特別な理由は必要であるが逆にそれさえあればアマゾネスだって肌の露出をしないし、エルフのような服を着て街を歩くこともあるのだ。

 

 淡い色のブラウスにチェックのロングスカート。細かなアクセサリーこそアマゾネスといった風であるが、全体を見ればアマゾネスとは思われないだろう。ティオナ・ヒリュテの顔と名前を知らなければ、普通の年頃の少女にも見える。

 

「今日はそういう恰好なんですね」

「尾行するなら目立つ格好はできないしね」

 

 リリルカの言葉には『そういう服も持ってたんですね』という意味も込められていた。アマゾネスのイメージではないこの服は、見た感じおろしたてという風でもない。以前からこういう服を持っていたのだとしたら購入した経緯も謎だが、アマゾネスとてこういう服を着たくなる時は普段からあるのだろうと考えることにした。土台、ファッションについて他人にとやかく言える程、リリルカも精通している訳ではないのだから。

 

「リリも何だか男の子みたいだね」

「女二人というよりは、男女の方が目立たないかと思いまして」

 

 いかにも気を回しましたという風に言うと、ティオナは納得してくれた。女二人でカップルの祭典を歩くのはみっともないと思いましたと、正直に言うのは憚られたのである。

 

 人間の少年に見える服を持っているのもファッションではなく自衛のためだ。小人の少女というのは冒険者の中ではとかく下に見られるために、特に同業者からウザ絡みをされることが多々ある。

 

 その点、人間の少年に擬態することができれば問題はある程度解決できる。小人の少女が冒険者をしていることはままあるが、小人の少女が男装して誤魔化せる範囲の人間の少年が冒険者をしている可能性は皆無に近く、小綺麗な恰好をしていれば孤児にも見られることはない。

 

 細かな種族的特徴も魔法で調整すればどうということはないし、少女にしか聞こえない声も声変わり前と押し通せば通じる。問題があるとすればリリルカの実年齢よりも大分若く見えるということだが、小人の少女に見られなくなることに比べれば些細な問題ということで今まで気にしたことは一度もなかった。

 

 少年のふりをしている時は面倒なトラブルに巻き込まれたことはなかったから、リリルカはずっと自分の擬態に何も問題はないと認識していた。その認識に間違いはなかったのだが、それはリリルカ・アーデという小人の少女の顔が周囲に知られていない前提での話だ。

 

 『戦争遊戯』が終わり、『白兎』ベル・クラネルはまたその名声を高め、その『白兎』に助けられた小さなシンデレラの名前と容姿はオラリオ中に知られることになった。『戦争遊戯』の興奮を座敷牢の中でやり過ごしたリリルカにとっては、世間と自分の認識の乖離についてまだ理解が追いついていなかったのだ。

 

 同道するティオナは元々オラリオでも上位に入るレベル5で『大切断』の二つ名を持つ第一級冒険者であり、こちらは元々顔が売れている。

 

 有名人が二人並んで歩いているのだから人目を惹くのは当然のことだが、噂程度に彼女らのことを知っているオラリオの住民たちからすると、今の彼女らの恰好は奇妙の一言に尽きた。

 

 エルフのような装いのティオナが、どういう訳か男装しているリリルカを伴って歩いているのだ。

 

 アマゾネスがエルフのような恰好をしているというのはまぁ良い。ファッションというのは必ずしも民族的な主義主張を掲げてするものではない。

 

 エルフがアマゾネスのような恰好をすれば社会問題にもなろうが、逆な分には変わり者がいるなと思われるだけで済む。とにもかくにもアマゾネスだ。他種族のオスを狩ることに余念のない彼女らであるから、それが男を狩るために必要なことなのだと言われれば、大抵の者は納得する。

 

 これで隣を歩いているのが他種族のオスであれば話は早かったのだが、隣を歩いているのは間違いなくリリルカ・アーデであったし、オラリオの基準で言えば彼女はどう見ても男装していた。しかも堂に入っている。中々の美少年っぷりだ。

 

「あ、忘れてました。ティオナ様」

 

 少々お顔を。リリルカの手招きに大人しく顔を近づけたティオナの髪に、リリルカがそっと懐から取り出した赤い造花を差し込む。髪の短いティオナには少々収まりが悪かったが、そこは商売上手のファミリアが手掛けた商品である。髪飾りとしてもしっかり機能するよう、オプションも万全なのだ。

 

「この方が目立ちませんよ」

「リリってば賢いね」

 

 見ない組み合わせが見ない恰好でカップルの装いをしてカップルのイベントに繰り出していく。居合わせた者たちにとっては訳の解らないことばかりだったが、とりあえず目の前で起こったことは見たままのことなのだと認識して知り合いに言いふらすことにした。

 

 翌日、男にモテない貧相なアマゾネスがついにおかしくなって、立場の弱い小人の少女を男装させてまでカップルの祭典を連れ回したと噂が広まることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでベル様たちを尾行するというお話でしたけど、何かプランがあるんですか?」

「ないよー。必要ないかなって」

 

 ほらあれ、とティオナが指さす方を見ると、物陰にひっそりとエルフが佇んでいるのが見えた。ロキ・ファミリアの冒険者で、リリルカも顔と名前くらいは知っていた。ティオナがにこやかに手を振ると、あちらも手を振り返してくる。

 

 人目に付かないように、というよりは特定の相手の視界に入らないように振る舞っているように見える。尾行ではなく監視の要員だ。この場所をフォローしているのが彼女だとすると、他の場所にも人員が配置されているはずで、イベントの規模と彼女らのグループの大きさを考えると、相当な範囲をカバーしていることは想像に難くない。

 

「あれでベルのフォローするんだって。レフィーヤにはバレないようにベルを誘導するらしいから、見失うこともないよ」

「バレないものなんでしょうか。あれで」

 

 監視をされていてもそれが知らない相手であれば風景に溶け込むこともあろうが、知り合いばかりがそこかしこにいたら、いくら察しの悪い者でも気づく可能性が高い。監視をしているエルフも別に監視のプロという訳でもあるまいし。せっかくのデートの日なのにデバガメされていると解ったら、いくらレフィーヤでも傷ついてしまうのでは。

 

 そんな懸念が顔に出ていたのだろう。ティオナは笑みを浮かべて手をぱたぱたと振る。

 

「大丈夫だって。今日のレフィーヤはベルのことしか見えてないから」

「……それはそれで悔しいような気がします」

 

 懸想をしていると言うと大それた感じがするが、リリルカの中で今最も憎からず思っている異性はベルである。そのベルに他の女性が懸想をしているというのは、控えめに言っても愉快な話ではない。

 

 立場のある人間が異性を複数囲うという話は珍しい話ではないし、獣人やエルフの間には複数の夫や妻を持つ種族もあるが、全体としては一夫一妻を押し通す国や都市の方が多数派である。

 

 オラリオはその点については寛容で、ここで生まれたリリルカもそういった習慣には理解があるものの、個人の主義主張としては一夫一妻派だ。

 

 ベルの周囲にある女性としてはリリルカは最も後発で、現在は最も立場が低い。言えた義理ではないというのは解っているのだが、それは感情と別のものだ。

 

 平素であれば口にすることさえなかっただろうが、今日のティオナ相手ならば許してくれそうな気がした。事実、ティオナは笑って同意してくれる。

 

「ティオナ様はそれで良いんですか?」

「良いに決まってるじゃん。だって私はそれ以上のことをしてもらえるんだから」

 

 当然といった風でティオナは言い切る。その姿はまさに恋に夢見る乙女……と言えれば良かったのだが、遠目にベルたちの待ち合わせ場所を見るティオナの横顔はこれまで裕福でない生活を送ってきたリリルカには馴染み深い、何が何でも取り立てるという歪んだ意思を持った場末の借金取りと言った風である。

 

 つまりは恋する乙女というのは狩人であるということか。これをレフィーヤがやっていたらまた違ったのだろう。全くアマゾネスというのは損なところがありますね、と他人事のように考えながら、リリルカもティオナの視線を追う。

 

 カップル待ち合わせの聖地、中央の噴水の縁にレフィーヤ・ウィリディスが立っている。余所行きの恰好、軽いお化粧、髪には今日の主役の証である赤い造花が差し込まれている。ティオナのように同性に差し込まれたものとは違う、正真正銘主役の証だ。

 

 俯き、じっと佇んでいるレフィーヤのことを、周囲の人々は微笑ましそうに眺めている。彼氏待ちの少女というのは誰の目にも明らかだし、彼女本人もそれなりの有名人である。相手がベル・クラネルというのも想像に難くない。

 

 十代の少年少女のせっかくのデートなのだ。ヤジウマをしたいという気持ちは周囲の者たちにもあったが、邪魔をしない程度の風情を理解する心はあった。気分を害するような悪質なナンパに絡まれることもなく、レフィーヤはただ待っている。

 

 あれが乙女の姿ってものですよね、と思いながらリリルカは時計を見た。

 

 今日のリリルカの予定は、ベルたちについていくのに都合が良いようにとティオナが組んだものだ。ベルたちが無事に合流した後は案内のエルフたちに従うとして、当日の待ち合わせ場所を知っていても、既にベルたちが出発した後では意味がない。

 

 最低限、ベルたちの合流よりも先に待ち合わせ場所に来ている必要がある。つまりリリルカたちの予定は、ベルたちの予定を想定してかなり余裕を持って組まれた物なのだが、リリルカたちがここに来た時点で、レフィーヤは既に待ち合わせ場所にいた。

 

 時刻は今午前九時十分。半端な時間に待ち合わせるとは思えないから本来の待ち合わせはおそらく午前十時。ベルが時間通りに来たら一時間は待つことになるが、それより早く来てくれるという確信がレフィーヤにはあるのだろう。

 

 何とも甘酸っぱいことだ

 

 定番のコースとしては早めに待ち合わせをして二人で街を少し散策。ランチを一緒にとってショッピングを楽しみ、午後の『怪物祭』を一緒に鑑賞して夜の街に――

 

(そして朝帰り……は無理ですよねぇ)

 

 定番であり、大抵の若者の願望であるが、風紀的にリヴェリアが許してはくれないだろう。目をかけている二人が揃って朝帰りとなったらお説教では済むまい。

 

 ロキやフィン辺りは歓迎しそうであるが、ファミリアの心的な立場としてはリヴェリアの方が上の気配である。年齢のこともあるし、リヴェリアが早いと言えば早いのだろう。

 

 いくら若い勢いがあると言っても、相手はベルでレフィーヤだ。まさか一足飛びに大人の階段を登ったりはしないだろうとリリルカも安心している。勢いだの熱意だのが理性や常識を必ず上回るのであれば、世の中の未婚の男女はもっと少ないに違いないのだ。

 

 さて、と買った飲み物に口を付けているとレフィーヤの元に走ってくる少年の姿が見えた。そのベルを見て――リリルカは目を丸くする。横で眺めるティオナも同じような顔をしていた。

 

 お洒落というのは知識と経験が物を言う。流行の速度やら人種の多様さなど様々な影響が加味されるため、田舎者が都会者に洗練の度合いで劣るのは仕方がないことなのだ。

 

 加えてアールヴ領都とオラリオでの流行が異なるように、お洒落というのは万国共通ではない。誰が、何処で、どういう状況で、連れが誰かなど、様々な要素を加味して行われるものをコーディネートと呼ぶ。

 

 究極的にはセンスが物を言う世界であるが、ある程度までは知識と経験で何とかなるのは戦闘技術やリズム感と同じである。掴んだ結果こそ非凡なベルであるものの、蓄積された知識やら持って生まれたセンスやらに光る物があるとは言い難い所がある。

 

 少なくとも素晴らしいお洒落さんということはない。そのベルが今日初めてのデートなのだ。ティオナにデートを持ちかけられて以来、ベルには干渉しないようにしていたが、これでクソダサい恰好で現れてレフィーヤに幻滅でもされたらこっそり慰めてあげようと密かに思っていたことは、リリルカの杞憂に終わった。

 

 白のズボンに赤のシャツ。深緑のベスト。見立てた者はよほどの自信があったのだろう。余計な要素のないシンプルさが、ベルの白髪赤目の容姿にも馴染んでいる。服は高い程良いという者も多いが、遠目に見る限りではお高いお店のオーダーという風ではなく、既製の服をベルに合わせた物のようだ。

 

 それが行き過ぎた背伸びが滑稽に見えるという悪い結果を防いでいる。背伸びをしつつも常識の範囲内に押し込みつつ、それが押しつけがましくもない。見る相手にとっては『自分のために努力してくれた』という風が刺さるのだろう。

 

 そしてリリルカの見る限りレフィーヤはそのタイプだ。ベルの姿を見たレフィーヤは口を半開きにして目を丸くしている。程よいお洒落をしたベルが余程意外だったのだろう。その気持ちはリリルカにも良く解った。

 

 待った? という定番のやり取りをしているのだろう。ベルのかけた声にレフィーヤの反応が少し遅れる。今来た所です! と誰が見ても解る嘘を返したのだろうレフィーヤに、ベルが苦笑を浮かべたのが見えた。それを態々突っ込まないのがお約束というもので、男の役目だ。

 

 笑みを浮かべたベルが、左手を差し出す。そつのない恰好の割に、動きはぎこちない。これも服を見立てた者の入れ知恵なのだろうが、それを完遂するにはベルには経験が足りなかったようである。

 

 だがそのぎこちなさが、たまらなく愛おしく見える者もいるのだ。差し出された手を無視してレフィーヤは、ひったくるようにしてベルの腕を掴んだ。ぎこちなさは残るが、こちらは勢いで押し通した格好である。

 

 耳まで真っ赤なのが離れた所からでも見て取れる。年頃のエルフの少女にとっては、普段のダンジョンよりも大冒険だろう。それは人間の少年にとっても同じだ。手を繋ごうとするのもベルにとっては大冒険だったのだが、レフィーヤはあっさりとそれを超えてきた。

 

 とっさに悲鳴を挙げようとして――堪えた。何でもない。これは予定通り。僕は何も慌ててませんとレフィーヤと共にこちこち歩いて行く。あれでは今度の予定も全て飛んでいるのではないかと思わないでもないが、そこはデバガメエルフたちの想定の通りだ。

 

 レフィーヤには見えない位置からベルを誘導し、今回のデートコースへと先導していく。まずは大通りを見て回るのだろう。お洒落なランチの前には定番のコースである。

 

「じゃ、私たちも行こうか」

 

 あれだけ幸せ一杯のカップルを追い回して空しくならないんでしょうか。やっぱり止めませんかと言うことをリリルカは諦めた。いつか自分はそれ以上のことをしてもらうつもりのティオナはむしろ、先のやり取りを見てテンションをあげていたからだ。

 

 虚しさと戦うのは自分だけだと知ったリリルカはひっそりと溜息を吐き、ティオナに引きずられるに身を任せた。いつか絶対リリもああしてもらうんですから。そう割り切れるようになるのは、もう少し先のことのようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お洒落な服に袖を通して人格までお洒落になった気でいたベルは、それが錯覚であったことにすぐに気づいた。

 

 待ち合わせ場所にいたレフィーヤはいつにも増してかわいくて、思わず見とれてしまったほど。そんなかわいいレフィーヤと一緒に今日は『怪物祭』を楽しむということに相成った訳だが、腕を掴まれて歩き出してからベルは自分の準備不足を悟った。

 

 予定はあるのだ。打ち合わせは昨日のうちに呼び出されてしたし、そもそもそこかしこにエルフが潜んでレフィーヤにバレないように誘導してくれている。それは良いのだが、人間やエルフというのは目的地から目的地まで一瞬で移動できる訳ではない。

 

 その間、自分の足で歩いていかなければならないのだが、その間何を話したら良いのかベルには皆目見当がつかなかった。

 

 今日のこのイベントが特別なものであるというのは解る。世間一般で言う所の『デート』なのだろう。レフィーヤとの間柄が世間的にはどうであるのか。その辺りは置いておくとして、特別な今日のこの日用の会話というのが、ベルには解らなかった。

 

 普段してるような話をしても良いんだろうか。特別な日なんだから、何か特別な話題をするべきなのでは? そもそも『怪物祭』について良く知らない。オラリオに住んでいる期間はレフィーヤの方が長いのだから、自分が知っているような話はレフィーヤだって知っているだろう。そんな話をしたら退屈されてしまうのではないか。

 

 解らない。本当に解らない。

 

 こういう時英雄譚の英雄たちならどうするのかと考えてみた。英雄だけあって大抵の英雄は女性にモテる。それが特定の相手のこともあるし複数のこともあるが、いざ色事に及ぶという時、それが直接的な物であれソフトなものであれ、ほとんどの場合そのシーンはぼかされるか飛ばされる。英雄譚に求められているのはそういうものではないからだ。

 

 ベルはそのことに少しだけがっかりしたものだが、それとは別に数少ないデートやら逢引やらのシーンでも会話がないことが多く、お互いの手を握り見つめ合っているだけでそのシーンが終わることもある。

 

 いざそういう場面に遭遇してみると、その展開はちょっと特殊なんじゃないかしらとベルは思った。手を握り見つめ合っているだけで間が持つのだろうか。愛があれば可能なのかもしれない。では自分とレフィーヤの間にそれが全くないのかと考えると気分も滅入る。

 

 試しに自分の左腕を離さないレフィーヤの方をちらりと見てみる。ちょうどレフィーヤもこちらを見た所だった。視線が交錯すると、レフィーヤは花が咲いたように微笑む。それがいつにも増してかわいらしくベルの心も温まるのだが、それが余計にベルの心を焦燥感で満たすのだった。

 

 こんなかわいい子が一緒に歩いてくれているのに、退屈だったとか思われたらどうしよう。そんな話を後で聞いたらもう、『黄昏の館』から身を投げるより他はない。

 

 それはそれとして、レフィーヤと回る『怪物祭』は本当に楽しかったのだが、会話を繋ぐのに精一杯だったベルは、心中でどうにも乗り切れないでいた。

 

 通りを歩いていても、レストランでランチをしても、その後オラリオを散策しても変わらない。覚えていることは今日これまでの時間が凄く楽しかったことと、隣を歩くレフィが凄くかわいいということだけだった。

 

「ベル?」

 

 レフィーヤの声に気づくと、そこは今日のメインイベントである『怪物祭』の会場だった。瞬間移動でもしたのかと考えてしまうベルだったが、ここに至るまでの記憶が幸か不幸か全部残っている。凄く楽しいとレフィがかわいいしか考えていなかったせいで、何をしたのかは覚えていても、何を話したのかをほとんど覚えていないだけだ。

 

 曖昧な相槌を打ってレフィーヤから飲み物を受け取り、舞台に向き直る。

 

 イベントとしての『怪物祭』は、オラリオ全体で行われる催し物全てを総合したものであるが、同じ名前を冠したメインイベントは『グラード・コロッセオ』で行われる。

 

 大規模な興業を行うファミリアが共同で出資して建設したもので、アテナ・ファミリアの企画する『銀河戦争』なども行われるオラリオで最も大きな『ハコ』だ。

 

 立ち見で良ければ安価に観戦でき、かけた予算によって席が前の方に、あるいは見通しの良いVIP席などになる。ベルが取った――正確には取ってもらったチケットはほぼ最前列の、一般用に開放されているチケットとしては最も高額な代物だった。

 

 その席二つ分。余所行きの服を着てレフィーヤと並んで座る。二人とも有名人であるから人目を集める。中には話題の『白兎』と見て声をかけようとする者もあったが、隣を歩くのが赤い造花を髪に差した女性であるのを見て、デート中であると察して気を使ってくれた。

 

 にやにやと、若い二人を眺める周囲の視線は生暖かく、心中焦りを感じていたことも相まってベルの体温を無駄に上げていた。隣席に座ったレフィーヤが周囲の熱気にやられたのか、身体の熱を逃がすために胸元をぱたぱたやっており――思わず視線が吸い寄せられたタイミングと、たまたまレフィーヤが顔を向けたタイミングが重なってしまう。

 

 視線が交錯するのはその一瞬後のことだ。ベルが咄嗟に目線を挙げたことで何を見ていたのか理解したレフィーヤは僅かに眉を吊り上げ――ビンタが飛んでくると思ったベルは咄嗟に身構えたが、飛んできたのは手のひらではなく指だった。

 

 もう、と小さく息を漏らしたレフィーヤは、ベルの鼻の頭をちょんと突くとへにゃりと笑う。どうやら許してくれるらしいと理解すると、羞恥と嬉しさがベルを襲った。

 

 ひょっとして僕は今日死ぬんじゃなかろうか。故郷で寝る前に夢見ていた『女の子にモテる』が半ば叶っているこの状況に挙動不審になったベルは、このままレフィーヤを見ていたら倒れてしまうと、強引に舞台に視線を戻した。

 

 舞台上では調教されたモンスターによる演目がちょうど終わった所だった。司会の男性による次のイベント――と紹介されて舞台に上がったのは、ガネーシャ・ファミリアの主神であるガネーシャと同じ仮面をつけた女性の冒険者だった。

 

 裾の長いゆったりとした服をきたその女性は、司会の男性の紹介を気にするでもなくそれが役目とばかりに踊り続けている。それが後にベリー・ダンスと呼ばれる種類の踊りであるとベルは知るのだが、それはともかく。

 

 その女性冒険者は踊りながら観客席を見渡すと、ベルに視線を止めた。気のせいかとも思ったが、ガネーシャ仮面はじっとベルに視線を送ってくる。何か強い意思を感じるが一体何だろう。ベルが首を傾げていると、隣のレフィーヤが袖を引き、舞台を指さした。

 

「――誰か、このガネーシャ仮面に挑む者はいないか!?」

 

 どうやら観客席から参加者を募って戦闘をやらせるというイベントらしい。それでガネーシャ仮面の視線の強さには得心がいった。誰も名乗りを上げないのでは企画倒れだ。流石にそうならないための手配はしてあるのだろうが、できれば本物の参加者をというのは考えた側からすれば当然のことかもしれない。

 

 それなら最初から話を通しておいてほしいと思わないでもないが、女性に助けを求められたならば英雄志願の少年としては助けない訳にはいかない。

 

 ベルの心は既に決まっていたが、ハイ! とすぐさま手を挙げることはできなかった。今はデートの途中。一人の身ではないのである。

 

「レフィ――」

 

 許可を取ろうと振り返ったベルの口を、レフィーヤの指が塞いだ。正面に、真っ赤になったレフィーヤの顔が見える。強い決意の中にも、僅かな逡巡が見えた。羞恥と理性が戦い、結局は勢いで押し切ったレフィーヤは、ベルを前に微笑む。

 

「貴方の無事と幸運と、勝利を祈ります」

 

 ベルの首に腕を回したレフィーヤは、そっとその頬に口付けた。周囲からからかうような歓声が上がると羞恥に震えるレフィーヤだったが、どうにかベルの身体をぎゅっと抱きしめることで誤魔化し――きれなかった。周囲は大盛り上がりだ。

 

「がんばってください、ベル。いってらっしゃい!」

「いってきます!」

 

 レフィーヤの激励に応えると舞台に飛び出す。

 

 白髪に赤目の冒険者。遠目に見ても解る特徴に観客のボルテージも一気に上がり、『白兎』のコールまで始まる。

 

 そんなコールにベルは苦笑を浮かべながら片腕を挙げて応える。『戦争遊戯』を経てベルも少しは観客に対する対応を覚えたのであるが、自分を誇ることにはいまだに慣れない。いずれ慣れるとフィンなどは言ってくれるのだが、早く慣れたいものだとガネーシャ仮面に向き直る。

 

 舞台には既に二人だけ。舞台から降りた司会の男性が基本ルールの説明をする。武器の使用はなし。魔法を含めた飛び道具の使用はなし。時間以内に倒せなかったら挑戦者の負け。時間以内にガネーシャ仮面の仮面を奪えば挑戦者の勝ち。己の肉体のみで戦うならば、多少のことには目を瞑るという、アテナ・ファミリア辺りが好みそうなルールだった。

 

 深窓の令嬢然とした女神の姿を思い浮かべながらVIP席の辺りを見回すと、本神がいた。隣に『教皇』アスプロスを控えさせた女神は、まだ始まる前だというのに拳を握りしめて何やら叫んでいる。既にテンションは最高潮のようだ。

 

 視線を感じてその隣の部屋に目を向けると、こちらにはアレンを控えさせたフレイヤがいた。視線に気づくと笑みを浮かべて小さく手を振ってくれる。同じく笑みを浮かべてベルが振り返すと、隣のアレンがわざとらしく舌打ちをしてみせた。これだけ距離があるのに音が聞こえそうな見事な舌打ちである。

 

 アレンが気分を害するのも解らなくはない。彼のコーディネートのおかげで楽しいデートを過ごすことができたのに最後の最後でこんなことになってしまった。袖を通したばかりの服であるが、これから格闘するのだ。無傷という訳にはいかないだろう。

 

 お詫びに食事の一回や二回で許してくれると嬉しいのだが。ぶっきらぼうでもちゃんと話は聞いてくれるし、アレンとの食事は中々楽しい。ロキ・ファミリアの仲間にはあんな乱暴者と一緒で大丈夫かと心配されるが、噂されているほど俺様でもない。凄く良い人ですよ、と返すと皆意外そうな顔をするのが気になる所だ。

 

 さて、と気を引き締める。アレンに笑顔でお詫びをしに行くためにも、何より、女の子と一緒のデートで良い恰好をするためにも、このガネーシャ仮面とやらには勝たないとならない。

 

 ガネーシャ仮面がぴたり、とダンスを止めると構えて見せた。一部の隙もない構えに、自分よりも高レベルの冒険者だと自覚させられる。ベルの緊張を悟ったガネーシャ仮面が親指で僅かに仮面を持ち上げて見せた。

 

 怜悧な風貌の女性は、ベルにだけ聞こえる声音で、名乗る。

 

「こんな恰好で名乗るのは不本意だが……私は神ガネーシャの眷属(ガネーシャ・ファミリア)が団長。レベル5。『象神の杖(アンクーシャ)』シャクティ・ヴァルマ。例のパーティ以来だが『白兎』。大衆にとって今日を良き日とするために、今しばらく付き合ってもらうぞ」

 

 

 

 

 

 




「オラリオで初めて買ったお洒落な一張羅! 袖を通したその日に乱闘でボロボロにしました!」

次回デートの残りと小技のお披露目回です。


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『怪物祭』②

 

 

 

 

 

レベル差は絶対。それが冒険者の常識である。

 

 だからこそ冒険者たちはこぞってレベルを上げようとする。レベルの低い者が高い者に挑むのは無謀と言えるが、自分よりもレベルの低い者とだけ戦っていてはそもそもレベルは非常に上がりにくい。

 

 そのレベルに相応しいだけの知恵、相応の勇気、そこに至るまでの幸運。レベルを上げるために必要なものが多いが、もっと現実的な話として、自分よりもレベルの高い者と戦わなければならない状況というのは、特にダンジョンでの戦闘では往々にしてある。

 

 その厳しい状況を切り抜けるためにはどうしたら良いのか。

 

 最もスタンダードな方法が数を集めて対応するというもの。相手がモンスターであれば取り囲んだり、そうでない時にも役割を分担すれば一人では難しい状況を比較的容易に切り抜けることができるようになり、引いてはそれで個人の、あるいはパーティ全体の生存率を上げることになる。

 

 冒険者がソロを避け、基本的にはパーティを組むのはこのためだ。自分一人ではどうにもならなくても、数を揃えればどうにかなる。非冒険者同士の戦闘において有効な方法は、冒険者とモンスターに組み合わせを変えても有効である。

 

 数が集められない場合は、ベルが魔剣を用いたように外部出力に頼るという方法もあるのだが、絶対とされるレベル差を埋めるに足るアイテムというのはその分値が張るものであり、ほとんどの冒険者がそれを手にすることはない。

 

 モンスターであれば人間ほどに知恵は回らない。運が良ければソロでも倒せるかもしれないし、逃げ切れるということもあるかもしれない。

 

 だが、ダンジョンの中でなく都市部で、それも自分よりも2レベルも高い冒険者と逃げることのできないリングの中で相対するとなれば、両者が全力で戦うという前提だと、レベルの低い者が勝つことは不可能に近い。

 

 更にベルが今挑んでいるのは武器と魔法を含めた遠隔攻撃の禁止。要はアテナ・ファミリアお得意の、殴る蹴るぶん投げるで全てを決する非常にシンプルな戦闘方式である。地力と技術が物を言う方式だ。ますますベルが勝つことは不可能である。

 

 それは観客の理解も同じだ。観戦者には神や冒険者も多いが、トータルで見るとそうでない人間の方が多い。それでもここは冒険者の街オラリオである。レベル差は絶対という冒険者の常識は非冒険者にも浸透している。戦力差を実感できない分、その理解は非冒険者の方が深いかもしれない。

 

 ならばベルがガネーシャ仮面――中身がレベル5のシャクティ・ヴァルマだということは、ガネーシャ・ファミリアの興業を見に来るような人間であれば皆知っている――に勝つことは不可能なのかと言えば、それはそうでもない。真剣勝負であっても、これは興業なのだ。レベルが高い方が必ず勝つような興業であれば、観客は好んで足を運んではくれないのだ。

 

 目にも止まらぬ速さで踏み込んできたガネーシャ仮面の拳を受け、ベルは成す術もなくふっとんだ。拳が重い――が、重すぎない。その瞬間、この興業がどういう流れを想定していて、そこに登場したベル・クラネルにどういった役割が求められているのかをぼんやりと理解した。

 

 この試合形式でどちらも全力で戦った場合、ベルが勝つ可能性は皆無である。レベルが2つも上の、しかも前衛寄りの人間に本気で打ち込まれたらその時点で勝負が決まっていなければならないのだ。

 

 にも関わらず、吹っ飛んだベルは即座に起き上がった。早い話がレベル3のベルに合わせて加減してくれているのだ。レベル3がレベル5にはよほどのことがない限り勝つことはできないが、レベル5がレベル3に合わせることはそれほど難しくはない。

 

 決して器用な方ではないらしいティオナも、普段はベルに合わせて鍛錬をしてくれている。度々力加減を間違えられて意識を持っていかれるが、オラリオ郊外で二週間、美人のエルフに全身の骨を砕かれたベルには大した問題ではない。ポーションを飲まなくても動けるのだから誤差のようなものだ。

 

 殴ったガネーシャ仮面は腕を振り上げて観客に声援を求めている。応じた観客のボルテージはまた一段と上がっていく。前半の理想的な流れだ。

 

 日々受けているティオナの拳に比べて、ガネーシャ仮面の打撃は非常に()()()()だ。想定した通りの力で想定した通りの場所を殴っている。普段からやりなれているのだろう。ティオナとシャクティ。実際に戦えばどちらが上かは解らないが、少なくとも人前で加減して戦う分にはガネーシャ仮面の方に軍配が上がるように思える。

 

 人前でやっているだけでこれも訓練なのだ。そう思うと身も引き締まり冒険者としての血が騒ぐベルだったが、その興奮を遮るようにガネーシャ仮面の視線が向けられる。これは鍛錬ではなく、あくまで興業なのだ。求められる役割を、こなさなければならない。

 

 雄叫びを挙げて、ベルは踏み込んだ。それに合わせてガネーシャ仮面は僅かに立ち位置を変える。右、左の拳を受け、更に右の拳。受けたガネーシャ仮面のガードが何故か跳ね上がる。

 

 もう!? と考えている間に、ベルの身体は動いていた。打ち込んだ拳を引く勢いで身体を反転。格闘に慣れないベルにしては及第点以上の自然さで決まった回し蹴りは、先ほどのベルを再現するかのようにガネーシャ仮面をふっ飛ばした。

 

 ごろごろ転がるガネーシャ仮面に、観客のボルテージがまた一段と上がる。殴り合いの好きな人たちなんだな、と呆れながらもベルは先ほどのガネーシャ仮面を真似て腕を振り上げ、さらなる声援を求めた。

 

 起き上がったガネーシャ仮面が立ち上がり、ゆっくりと構える。先ほど立ち位置を変えたのはここで構えた時に、神様たちのいるVIP席を正面に見るためだったらしい。ベルからするとそれは背後の席になるが、拳を握りしめて熱い声援を送る神アテナが目に見えるようだった。

 

 ガネーシャ仮面がぽんぽんと腹を叩き、軽く指招きをする。効いていないアピールに、打って来いという挑発。それに乗るという形でベルは雄叫びを挙げて踏み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひょっとして僕には才能があるのでは。沸きに沸いた観客の歓声に勘違いする間もなく、ベルは腕と足を動かし続け、時には殴り時には蹴り飛ばされていた。地面を転がって立ち上がる度に観客のボルテージは一つ、また一つと上がっていく。

 

 観客の人数ということではこの前の『戦争遊戯』の方が多いものの、直接ベルが目視する人数としては、今回の試合の方が遥かに多い。これだけのヒトに囲まれるのはベルの人生でも初めてのことだ。

 

 会場を埋め尽くす程の人々が、ベルやガネーシャ仮面が拳を繰り出し地面を転がる度、ボルテージを一つ、また一つと上げていくのである。天井知らずのこの熱気は一体どこまで行くのか。ワクワクしつつも恐ろしさを感じる。

 

 それを支えているのは自分の才能……ではなく、偏にガネーシャ仮面の力量である。組み合う度に次にどう動くべきか的確な指示を出しつつ、手も足も決して止めない。打点がズレた時には自分から僅かに動いて軌道修正し、気持ちよく吹っ飛んでは観客から声援を浴びている。

 

 気持ちよく吹っ飛ぶのはベルも同じである。痛みがないではないが見た目ほど大げさでもない。ガネーシャ仮面の拳はアマゾネスであるティオナに言わせると『細く長く相手を痛めつけるための拳』であるが、こういう場合に使うとなるほど、これだけの盛り上がりになるのかと感心した。

 

 傍目には良い勝負に見えているのは観客の声援が物語っていた。ガネーシャ仮面を応援する声もあるにはあるが、観客の大半はベルの名を呼んでいる。送り出してくれたレフィーヤも、喉が裂けんばかりに声援を送ってくれていた。男としてはその声援に応えたいものだが、自分で手を挙げて参加し、シャクティの暗黙の要請に応えてしまった以上、ベルには観客の期待に応える義務があるのだった。

 

 何より、自分で望んでしまっている。大観衆の中、地も割れんばかりの声援を浴びて、勝利に酔う自分の姿。きっとレフィーヤも喜んで、褒めてくれるだろう。そのためには自分の仕事を全うせねば。力が入り過ぎていたのか、ガネーシャ仮面を狙って放った拳が僅かに逸れる。それを見逃す彼女ではない。

 

「あと少しだ。もう少し集中しろ」

 

 すぱん、と小気味の良い音を立ててベルの顔面に拳が炸裂する。観客の、特にレフィーヤから悲鳴が上がるが、音が良いだけで痛みはほとんどない。流れる鼻血を袖で拭い、ベルは照れ臭そうに笑うと拳を返す。

 

「ここからどういう流れで?」

「最終的にお前が私の仮面を取って終了という流れに変更はない。差し当たっていくつか流れを考えてあるが……単刀直入に聞こう。必殺技とかあったりしないか? 勿論、衆目に晒せるという前提ではあるのだが」

「あるにはありますが……盛り上がるか解りません」

「話してみろ」

 

 衆目どころか付き合ってくれたロキ・ファミリアの仲間以外にそれがあるという事実を知っている者はいない。まだまだ未完成、発展途上の技であるが、打ち合いながらのベルの言葉にシャクティは仮面の下で破顔した。

 

「それで行こう。私たちが考えた本よりもずっと良い。確認だが、それは確実に出せるんだな?」

「何とかします」

「その言葉の通りに行くことを祈るとするか。ならば、ベル・クラネル。しばらく殴られ続けて吹っ飛んでもらえるか? 一撃目は避けるから、二撃目で決めろ」

 

 ガネーシャ仮面の姿がブレると、その拳がベルの腹部を捉えていた。息を吐き出す間もあればこそ、的確にガードの間を抜いて拳を打ち込んでくる。始まった一方的な展開に、観客からはベル贔屓の声援が上がる。しめたものだと、内心ほくそ笑みながらシャクティは大きく踏み込み、ベルを吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「頼んだぞ、『白兎』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吹っ飛び、ごろごろ転がりながらも、シャクティの声が耳に残る。男が女の人に頼まれたのだ。なら、成し遂げなければ。拳が綺麗に入った分、今までよりも身体は痛むが動けない程ではない。やはり加減が良く解っている。シャクティの手腕を頼もしく思いながら、ベルは静かに呼吸を整えた。

 

 必殺技を作りたい。それは多くの冒険者にとっては普遍的な願望であるが、大抵の場合、その計画は途中で頓挫する。構想こそ多々あれど、それを実用的なレベルにまで昇華できる者はほとんどいないからだ。

 

 後衛の魔法使いが使う魔法が英雄譚の英雄像に最も近いかもしれないが、彼女らが魔法を使えるのは前衛が身体を張って時間的余裕を作っているからだ。自分でそれを作れる冒険者は極めて少ない。前衛で身体を張りながらそれをやれるとなると、また然りだ。

 

 ベル・クラネルは早い段階でそれをクリアすることのできた極めて稀な冒険者である。前衛寄りの中衛であり、速度特化の万能型。この度魔導書を入手したことで魔法まで覚え、リヴェリアやレフィーヤの指導介護のもと、魔力のステイタスもめきめき上昇している所だ。

 

 その魔法は単語一つで発動することができる超短文詠唱。その威力も発動までの短さを考えれば高く、牽制、トドメ、他人の援護などその足の速さもあって遠征でも多くの役割を期待されている。

 

 魔法一つを取っても他の冒険者にとってはまさに必殺技であるが、ベルには他の冒険者にはない、唯一無二の特性があった。

 

 ベル・クラネルはステイタスを意図的に振り替えることができる。

 

 理想は細かな一つの行動を取る度に、一々ステイタスを調整することであるが、今の時点でそこまで器用なことはできそうにないし、最終的にできるようになるかも不明である。

 

 ロキの見立てでは実際に戦闘している時も、細かな変動は既に行われているというが、これは無意識の内の行動であり、それ故に無意識的な安全マージンを取った上での行動であるとのこと。ざっくりとではあるが、これをするのにここまでは安全というのをベルの身体はその主よりも先に理解しているのだ。

 

 身体の理解に任せて後から頭で理解するというのも手ではあるが、それではどれだけ時間がかかるか解らない。意図的に能力を行使し、かつ安全を確保するにはどうすれば良いのか。

 

 魔力というある種の余剰ステイタスが生まれたことで、自由度が格段に増したのは僥倖と言えるだろう。

 

 最初に覚えたのは加速の方法である。ベルの売りである速度を十全に活かすためのそれは、厳密に言えば魔法ではない。起動するのに言葉を要するが、それは一種の安全弁である。呪文を唱えなければそれは発動しない。強く思い込むことで暴発を避ける。

 

 慣れれば戦闘の最中にもスムーズに発動させることができるようになるだろうとフィンは分析しているが、まずは問題なく、十全に効果を発揮できるようになることだ。

 

 最も向いていると思われる加速の方法でも習得に思いの外時間を要したが、先日漸くフィンに合格を貰うことができた。

 

 ここぞという時に使うんだよ、と言われてもいるのだが、まさに今がその時だ。

 

 意識を集中する。自分が纏う神の力を認識し、自分の特性としてそれに干渉する。イメージは万全だ。求めるのは加速。レベルで自分を上回る強者の裏をかくような、圧倒的な加速である。必ず成功する。させてみせる。気息を充実させたベルは、低く身構え、

 

 

 

 

 

 

『我が 双脚は 時空を 超える』

 

 

 

 

 

 

 その文言により、力を解き放った。

 

 一時的なステイタスの再配分による、魔法じみた超加速。呪文は聞こえていたはずだ。人は魔法と勘違いするだろう。反則では勿論ない。禁止されているのは武器と遠隔攻撃の使用のみであり、魔法でも身体強化の類は対象外だ。ましてベルのそれは厳密には魔法でさえないのだから、ルールの埒外である。

 

 一歩。爆発的な踏み込みにより瞬時に加速する。白と赤の残像を残して加速したベルは、二歩目には既にガネーシャ仮面を射程に捉える。仮面の下で驚いているのが見えるが、彼女の身体は既に回避行動に入っていた。想定外の速度ではあるが、レベル5の彼女には対応できない速さではない。

 

 だが驚きの分、回避が僅かに遅れた。一撃目は回避する。その予定ですれ違いざまに放ったベルの拳は、シャクティの仮面を僅かに掠めてしまった。

 

 ベルと、何よりシャクティが慌てる。勝利条件は仮面の奪取であるため、落ちただけで勝利が確定するものではないが、意図せぬ決着では観客も興ざめである。素早く仮面を押さえ、その状態を確認する。

 

 幸い、掠めただけで破損はしていない。続行は可能だ。仮面に気を取られたことで図らずもベルには数瞬の猶予ができた。走り抜け、壁際で反転。これで決着させる。加速中、シャクティからのどんな攻撃も回避する前提で、ベルは走り出した。

 

 直線ではなく、蛇行する。正確な速度で、左右に振れる。正面から見る人間が見れば、いつどこに来るのか読みやすいだろう。ベルなりのアドリブでの配慮だったが、シャクティにはありがたいことだった。

 

 狙うのは正面。首を狩らんとする回し蹴りを、ベルは中空に跳ねて回避する。天地が逆転した。重力に従い、身体が落ちるに任せながら身体を捻る。狙うは神ガネーシャを模した仮面。足を振り抜いた状態のシャクティと視線が交錯する。

 

 理想的な動きはすなわち、シャクティが今見せた動きだ。それを空中で、天地逆になった状態のまま相手の顔面に決め、仮面だけを綺麗に排除する。昨日までのベルならば無理難題と笑っただろう。試合が始まるまでのベルならば難色を示したかもしれない。

 

 今のベルには、できるという確信があった。

 

 足を、振り抜く。落下したまま、下から救い上げるように放った回し蹴りは、仮面を綺麗に跳ね上げた。顔は――大丈夫、傷はついていない。シャクティの怜悧な風貌に傷がないことを確認し、短く安堵の溜息を吐いたベルは、迫る地面に慌てて受け身を取り、地面を転がり跳ね起きる。

 

 狙い澄ましたように、跳ね上げた仮面はベルの前に落ちてきた。受け止め、それを審判役に掲げて見せると、会場は今日一番の大歓声に包まれる。

 

「神ガネーシャが宣言しよう。これで奴も、ガネーシャ仮面だ!!」

 

 どうやらそれが勝利宣言らしい。妙な二つ名がついてしまったものだがそれはともかく。勝った人間にはそれに相応しい振る舞いがあることを『戦争遊戯』で学んだベルは、両手を振り上げ、仮面を掲げ、勝利の雄叫びを挙げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前のおかげで大成功だった。ガネーシャ・ファミリアを代表して礼を言おう」

 

 余興であったガネーシャ仮面との戦闘も終了し、今は再び『怪物祭』の演目に戻っている。忙しそうに動き回っているガネーシャ・ファミリアの団員を他所に、ガネーシャ仮面改めシャクティはベルに小さく頭を下げた。

 

「こちらこそ良い勉強になりました」

「そう言ってもらえると助かる。ああ、その一張羅についてだ。やった私が言うのも何だが、そのくらいならば服飾系のファミリアに声をかければ何とかなるはずだ。かかった費用は私が持つから、後で請求書を回してくれ」

「そこまでしていただく訳には……」

 

 祭の余興とは言え、同意の上での戦いである。最初からそういう契約であったのならばともかく、戦闘で発生した装備の破損を相手に請求するというのは何だかかっこ悪い気がしたのだ。

 

 自分の不始末は自分で何とかする。ベルからすると当然の考えだったが、その物言いを聞いてシャクティは目を丸くした。若い冒険者というのは皆素寒貧だ。ベルのように才能に恵まれていようと、冒険者歴が浅いということは蓄えがなく、必要な出費も多いということでもある。

 

 ガネーシャ・ファミリアの冒険者ならば、『費用はこちらで持つ』というのは相手を喜ばせる魔法の言葉として知られている。ベルのようにプライドを優先させるのは少数派だ。二つ返事で頷かれるものだと思っていたシャクティは、久しぶりの反応に苦笑を浮かべた。

 

「私は主催のファミリアの団長で、お前はゲストだ。損失の補填は、我々の義務のようなものでもある。悪いがここは、私の顔を立ててもらうぞ。どうしてもというのであればそうだな。次にこういうことがあった時、お前に気持ちよくまた参加してもらうための投資とでも思ってくれ」

 

 笑みを浮かべながら言うシャクティを見て、ベルは素直に感心していた。いつの間にやら次も参加することがほぼ内定している。内心どう思っていても、次の時に声をかけられたら断りにくい。交渉とはこうやって進めるものなんだなという勉強代として、ベルはシャクティの提案を受け入れることにした。

 

「『怪物祭』ではいつもこんな興業をしてるんですか?」

「同じ絵ばかりだと客も飽きるからな。毎年合間に余興をやるんだ。演目は毎年違うんだが……何なら来年は企画からお前がやってくれても構わないぞ。何しろお前もガネーシャ仮面だからな」

「それはロキ様に確認してからということで……」

 

 放っておいたらどんどん仕事が増えそうだと、ベルは早々に話を切り上げることにした。その雰囲気を感じたのか。それとも高位の冒険者らしくここが引き際と感じ取ったのか。それ以上乗っかるでもなく、シャクティは視線で出口の方を示すと軽い挨拶をして退散した。

 

 そこには観客席にいたはずのレフィーヤがいた。関係者席を通って、大回りしてきたのだろう。冒険者にとっては長い道のりではないが、よほど急いできたのか少しだけ息があがっている。

 

 つかつか歩くレフィーヤの足音に、ベルは思わず姿勢を正した。顔を見るまでもなく、怒られるのが解ったからだ。

 

「もう……いつも私に心配ばかりさせて」

「これくらいの怪我はいつものこと――」

 

 最後まで言わせずに、レフィーヤはベルの襟を締め上げた。息苦しさの中見返したレフィーヤの顔はいつになく真剣なものだった。茶化すことは許さないという雰囲気に、ベルはさっさと白旗を上げる。

 

「ごめんなさい。僕が悪かったです」

「……いつも怪我をしているなら、貴方の隣にいる誰かさんが心を痛めない訳ではないんですからね。それにいつも怪我をしているからと言って、貴方が怪我をすることを許している訳でもありません。男性の冒険者は特にそうですよね。ベルも身体の傷を勲章みたいに思ってるんじゃありませんか?」

 

 思ってますと素直に答えると拳が飛んできそうなので黙っておいた。口答えしなかったことが功を奏したのか、レフィーヤは満足そうに微笑む。小言を言いつつも、その間にベルの身だしなみを整えるのは終わっていた。

 

「さて……ベル。新しいお洋服、欲しくはありませんか?」

「シャクティさんの紹介でこの服は修繕できそうな目途が立ってるんだよね」

 

 ボロボロになってしまったが思い出の品に違いはないので、シャクティの話はベルにとって渡りに船だった。ロキ・ファミリアは冒険者の数が多いから皆に話を聞いて回ればいつかは同じ場所にたどり着けただろうけれども、こういう話は早ければ早い程良い。

 

 ベルにとっては良いことがあった、というのをささやかに自慢したいと披露したに過ぎないのだが、目論見の外れたレフィーヤはぐぬぬと唸る。この『白兎』は全く、気の回せる時と回せない時の差が極端なのだ。そういう所も可愛いとは思いますが、言うべき所は言わないといつまでも先に進めないと、運命のエルフが白昼堂々と彼の唇を奪ったのを見てレフィーヤは悟ったのである。

 

 深呼吸して、決意を固める。長いエルフ耳は、先まで真っ赤になっていた。

 

「…………言い方を変えます。かっこよく勝ったことを建て前に、今日の記念ということで私が! ベルに!! プレゼントしたいんですっ!!!」

 

 闘技場の通路に、レフィーヤの声が響く。真っ赤な顔で荒い息を吐くレフィーヤを前にすれば、流石の『白兎』も他に解釈のしようがない。むしろ自分が気を回せず、女の子にここまでやらせてしまったことに恐縮するばかりだ。

 

「ごめん、レフィ。僕が――」

「やりなおしです!」

「…………ありがとう。僕じゃセンスが心もとないから、レフィに選んでもらっても良いかな!」

「合格です!!」

 

 物事を進めるには勢いが凄く大事だということを心で理解したベルである。何にせよこの後の予定も無事に決定した。怪物祭の途中であるが、ゲストで戦ったばかりだ。会場に戻ったらそこから出るまでにも難儀するだろう。

 

 田舎者故怪物祭のような派手なイベントに後ろ髪を引かれる思いはあるが、雄叫びを挙げる怪物とレフィーヤのようなかわいい女の子だったら、ノータイムでかわいい女の子を取る覚悟のあるベルだ。男の子だからしょうがないのだ。

 

「それじゃあささっといきましょうか。観客さんに囲まれてもコトですしね」

「服このままでも大丈夫かな」

「そういうと思って移動する間に上着を借りてきました。私はそれでも気にしませんが……一部の人には目に毒ですしね」

 

 手回しの良いことである。借りてきたというだけあって、ベルにはサイズは少し大きい。それに、と上着を目の前で広げてみる。背中の部分には大きくガネーシャ・ファミリアのエンブレムが刺繍されていた。オラリオの街中ではたまに見る、ガネーシャ・ファミリアの団員が警邏の際に着ている揃いの上着である。

 

 僕らは神ロキの眷属(ロキ・ファミリア)な上に警備の仕事をしている訳ではないのだけど、これを着ても大丈夫なんだろうか、と心配になるベルであるが、これを貸してくれたのはガネーシャ・ファミリアの人なのだから、少なくともあちら的には問題ないことのはず。

 

 後はうちの神様の問題であるが、これはへそを曲げてしまったら拝み倒すより他はない。あまり人目に触れるのもコトである。早い所服屋さんに行ってしまうのが無難だろう。

 

 迅速な行動を決意したベルがレフィーヤを見ると、何やら両手を腰に当ててベルの方を見ていた。ぼんやりと真似をしろということだと理解して同じようにすると、レフィーヤは満足そうに頷き、ベルの左腕を取った。

 

 結構ある感じのものがぐいぐい押し付けられてくる。勝ち星を拾ったばかりとは言え、こんな良い目を見ても良いのだろうか。横目にレフィーヤを盗み見ると、視線は返ってこない。自分で始めたことだと言うのに、何というか、見える範囲全部真っ赤になっているくらいに照れている。レフィーヤにとっては大冒険なのだ。

 

 恥ずかしいならやらなければ良いのにと、当たり前のことは言えなかった。

 

 真っ赤になっているのはきっと自分も同じだし、何よりこの柔らかさを失うのはとても惜しかった。女の子と二人で出かけるというのはもっと清く正しいものだと思っていたベルだったが、何だか半分以上は邪な感情でできているんだな、と悟った一日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ベルかっこよかったねー」

「そうですねー」

 

 怪物祭の会場は大入りだったが、席に関しては高位の冒険者は優遇される。立ち見になるが

スペースだけは冒険者専用に確保されているためだ。VIP席や神々の個室よりも位置は下がるが、当日販売の安い席よりは舞台が良く見える。

 

 冒険者専用の売店もあり、祭らしい食事に舌つづみを打ちながらイベントを観戦できると、このテの催しが好きな冒険者には好評なのだ。金を払ってまで調教されたモンスターを見たくないという冒険者も多いため、下の席よりもスペースに余裕があるのも一部の冒険者に人気の秘密である。

 

 ティオナとリリルカはその立ち見席でベルたちの監視を続けていた。広い舞台はともかく会場全体を、人物の顔まで判別するのは難儀するはずだがそれは一般人の話である。レベル5の冒険者であるティオナならばその程度は造作もなく、まして目当てであるベルは白髪赤目と目立つため、見つけるのは容易だった。

 

 ゲストで参戦して大立ち回り、観客の大喝采を浴びながら退場したベルを追って通路を行き監視を続ける。レフィーヤの大声を肴にお祭りグルメに舌つづみを打ちながら、彼女らに見つからないように世間話を続ける。

 

「それにしても最前列の席なんて良く確保できましたね、ベル様。中々入手困難だと聞きましたが」

「アリシアたちが手を回したんじゃない? 今日のプランは元々考えたのあっちみたいだし。はい、リリ」

「ありがとうございます」

 

 あーんされたイモフライに大きく口を開けてかぶりつく。最初は照れのあったこの作業も、一日に何度も繰り返されると慣れてしまった。

 

 レベル5の冒険者で、アマゾネス。何よりベルに懸想をしている相手で、彼が殴られる原因になったあの騒動の時も、その場にいた人である。二人きりでのイベントだ。上手くやっていけるか不安もあったのだが、実際に過ごして見ると中々良い人なのだと思えるようになった。

 

 身体そのものが小さい小人は、他の種族と歩く時に難儀する。コンパスが小さいために小人の方が合わせるとやたら急ぎ足になるし、あちらに合わせてもらうとペースが遅くなるのだがティオナはリリルカが急ぎ足になるとペースを落としてくれた。直情径行で喧嘩っ早く、色ボケと有名なアマゾネスが負い目のある小人の女のためにだ。 

 

 それにご飯もおやつも食べさせてくれるし飲み物も買ってくれる。他人の後ろを歩いて拳や蹴りを貰ったり金を巻き上げられたことはあっても、その金で飲み食いするという経験のなかったリリルカにとって、ティオナの付き添いは天国だった。そりゃあ口の周りについたソースを拭いてあげたり、衝動買いした物を持ってあげたりとお世話もするのである。

 

「さーて、と。うん、ベルたちはこれから服屋さんに行くみたいだけど、私たちはどうする?」

「最後まで尾行するんじゃないんですか?」

「ベルのかっこいい所も見れたし、これ以上はレフィーヤに悪いかなって」

 

 飽きたのかな、と思ったが口にはしない。元より尾行そのものは乗り気でなかったリリルカである。やめるというのならそれに越したことはない。用事が済んだのならばこれで解散でも良いのだが、祭はまだ催しが沢山あるし、荷物にはまだ余裕がある。女同士とは言えせっかく一緒に外に出たのだ。時間の許す限り遊んでみたいと思ったリリルカは、どこか行きたいところはあるかというティオナの質問に、素直に答えた。

 

「でしたら西の区画の出店で小物が見たいかな、と」

「小物?」

「リリのお部屋は少し寂しいので、一つか二つ彩りになるものが欲しいんですよね」

 

 ソーマ・ファミリアにいた頃は考えもしなかったことである。物に実用性しか求めていなかった自分が、生活に余裕ができた。自分とその周辺を飾ることを覚えた。同年代の普通の少女が、当たり前のようにやっている。それを当たり前のようにできることが、バカみたいに嬉しいのだ。

 

 ティオナはリリルカの幼年時代について、詳しくは知らない。ソーマ・ファミリアの評判は決して芳しくなく、そこで荷物持ちをしていた小人の少女がどういう立場だったのかは、ティオナの立場からしても想像に難くない。

 

 違う旗を仰ぎ見ていた頃は気にもしなかったろうが、今目の前にいる少女はそうではない。同じ主神の眷属として、気に掛けるくらいはしても良いのだろう。幼年時代が暗いのはティオナとて同じである。暗い過去など知らないとばかりに、一緒に歩き、一緒に笑い、一緒に祭を楽しんだのだ。目の前にいるのは、大事な仲間で、友達だ。

 

「じゃ、私が買ってあげるよ。そういうお店詳しくないから、リリが選んでよね」

「そのお気持ち有り難く頂戴しますが、今日はもう沢山良くしてもらっているので、ここから更にというのは恐縮です。なので、リリからもティオナ様に何かプレゼントさせてください」

「交換とか良いね。お揃いの物でも買う?」

「それじゃあ、沢山お店を見て回らないといけませんね」

 

 笑いあう二人は自然と手を握りなおす。何を買うか何が好きか。年頃のカップルらしい話をしながら会場を後にするリリルカたちの背を見送ったシングルの女性冒険者は、両方女であると解っていても、酷い敗北感を覚えた。リリルカの容姿が優れていたこともあって、ひょっとして女でも良いのでは、と思う者まで出る始末である。

 

 結果、朝には男装美少女を連れ回していることが醜聞として広まる予定だったティオナの名誉は少しだけ守られたのだった。

 

 

 

 



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『アマゾネス・ストライク』

 

 

 

 

 

 

「『白兎』だ!」

 

 ダンジョン探索を午前で切り上げ、昼食を適当に済ませての後。元々午後の鍛錬は休息日であったため、久しぶりに一人で午後を過ごすことになったベルが、たまには店売りの装備でも眺めに行こうかとバベルに足を向けていた所、それを呼び止めるような大声にあった。

 

 正面から金髪の少年が走ってくる。まだ10にもなっていないおそらく人間の少年だが、白い貫頭衣から除く腕は妙に引き締まっており、日に焼けている。何か武芸を学んでいることは明らかで、特に体幹の良さはただ走ってくるという動きの中でも感じられた。

 

 短く刈り込んだ金髪のその恰好から、アテナ・ファミリアの関係者であると察する。かのファミリアは冒険者同士の格闘興業をやる傍ら後進の育成にも力を入れており、格闘及び護身術の教室なども広く一般に向けて開放している。

 

 冒険者を目指してアテナ・ファミリアの門を叩く者も、最初はここに放り込まれる。見込みがあれば眷属となり、冒険者となってダンジョンに赴くなり興業に参加するという仕組みだ。

 

 そのため、大抵のファミリアは関係者というとほぼ眷属で占められるのであるが、アテナ・ファミリアは候補生と門下生を合わせると、冒険者以外の方が数が多いというオラリオでも珍しいファミリアである。

 

 候補生らしき金髪の少年は人好きのする笑みを浮かべてばたばたとベルに近寄り、殊更にベルのことを褒めたたえながら、ベルの身体をバシバシと叩き、周辺をぐるぐると回り出す。感情を表現するのにやたらバシバシくるのは女神アテナの眷属に見られる特徴である。少年の言葉に相槌を打ちながらベルが苦笑を浮かべていると、

 

「レグルス。その辺にしておきななさい。『白兎』も困っているぞ」

「はい、父さん」

 

 レグルスと呼ばれた少年によく似た面差しの偉丈夫だった。その立ち姿を見て、ベルは思わずため息を漏らす。武の研鑽に心血を注いできた男の姿がそこにあった。

 

「息子が失礼をした。先の『怪物祭』での君の戦いを見て以来こうなのだ。アテナに仕えるのならばもう少し落ち着けと日頃から言ってはいるのだが……どうか子供のやることと、寛大な心で許してほしい」

「お気になさらず。応援ありがとう」

 

 見ず知らずの少年であるが応援されるというのは純粋に嬉しいものである。ベルが特に気を悪くしていないと見るや、ほらー! と調子に乗るレグルスに、深い笑みを浮かべた父親は思い切りげんこつを落とした。

 

 ごつん。身体の芯に響く鈍い音に、ベルは思わず身震いする。頭を抑えて蹲っているレグルスをいないもののように扱いながら、

 

「聞いた予定では、この時間君は『大切断』と訓練をしているというが、今日は休暇なのか?」

 

 僕の予定はオラリオ中に知られているのかしらという疑問を心中に押し込めながら、ベルは今日ここにいる経緯を説明する。これからどこに行く予定だったか言わずにいると、要するに暇なのだと解釈した少年の父親はこんなことを言い出した。

 

「良ければうちで汗でも流していかないか?」

 

 その提案にベルは目を輝かせた。休息日というのは休まなければいけない日という訳ではなく、定期的に設けられた自由時間のようなものだ。予定が合うことは少ないので一人で過ごすことが多いが、軽い訓練をすることだってあった。

 

 できれば何か訓練したいというのがベルの本音で、そして一目で強いと分かる御仁から誘われているのである。冒険者としては乗らない手はない。ぜひ! と食いついたベルに、2つ返事で受け入れられることが意外だったのか、父親は僅かに苦笑を浮かべる。それでも『白兎』との経験は得難いものと判断したのか、ベルの食いつきをそのまま受け入れることにした。

 

「提案を受け入れてくれて感謝する。自己紹介が遅れたが、私はアテナ・ファミリア教皇補佐

獅子座(レオ)』イリアスという。今日はよろしく頼む」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ファミリアの慣習として、眷属の代表を団長ではなく教皇と呼ぶのだと思い出したのは、案内されたアテナ・ファミリアの訓練場で、イリアス相手の掛かり稽古で全く手も足も出なかった後のことだった。

 

 身体を地面に投げ出し荒い息をするベルを他所に、イリアスは涼しい顔をして座禅を組んで目を閉じている。休息をしているという訳ではない。彼は最初から訓練場の中央で座禅を組んで目を閉じ、ベルに好き放題打たせていた。

 

 舐められていると思ったのは拳を打ち込もうとした直後、上下さかさまに宙を舞うまでのことだった。速度を上げようが後ろから打ち込もうがとびかかってみようが全て当たり前のようにいなされてしまったのだ。目を閉じて座禅を組み、その場から一歩も動いていない相手にである。

 

 隔絶した実力差を肌で感じ取ったベルは荒くなった呼吸を整え、イリアスの元に歩み寄る。訓練は終わりと察したイリアスはようやく目を開き、その場に立ち上がる。汗一つかかず、呼吸も全く乱れていないのがいっそ清々しい。

 

「どうでしょうか」

「筋は悪くない。良い師の元で真剣に訓練していることも見て取れる。このまま訓練を続けていれば十二分に強くなれるだろうが……現状の問題として、君の能力は君の感性と釣り合っていない」

「どういうことでしょうか……」

「肉体の急速な成長に君の精神の方が追いついていないのだ。普通肉体と精神は共に成長するものなのだが……君の急激な成長の弊害だろうな。だがそれも、いずれは厳しい訓練をするようになれば解決するだろう。ロキ・ファミリアは人材豊富で相手には困らんだろうしな」

 

 精神と肉体の間に解決できない齟齬があったとしても、それを鍛錬で補うことができる。齟齬を生み出したのが神々の恩恵であれば、それを埋めるのもまた神々の恩恵なのだ。

 

 とは言え、ベルもまだまだ少年である。時間と努力で解決できると言われても、できれば今すぐどうにかしたいという思いが強く、またそれを隠せるような性格でもない。期待と不安と不満の絶妙に入り混じった、いかにも向上心のある少年らしい表情に、かつては自分もこうだったなと苦笑を浮かべたイリアスは、聊かの嗜虐心を持って助け舟を出すことにした。

 

「今時分、君に実行できるものがあるとすればアマゾネス・ストライクをおいて他にないと思う」

 

 イリアスの言葉に、神アテナの眷属に動揺が走った。ベルが視線を向けると気まずそうに逸らす者までいる。そのアマゾネス・ストライクというのはそんなに厳しいものなのだろうか。疑問渦巻くベルの心中だったが、それがどのようなものなのか聞くよりも先に、イリアスは遠巻きにベルの訓練を眺めていた一人に声をかける。

 

「シジフォス。お前は『アマゾネス・ストライク』に初めて挑戦した時どうだった?」

「兄上に促され、身も世もない悲鳴を挙げたことを昨日のことのように思い出せます。兄上のことは尊敬しておりますが、あの時ほどお顔に拳を叩き込んでやりたいと思ったことはありません」

「自制心のある弟を持った私は幸せ者だな。私の時はハクレイ殿に蹴りを飛ばしてやったらしこたま殴られたものよ」

 

 イリアスが笑うと周囲も笑う。女神アテナの眷属にあってはどうやら鉄板のジョークであったらしい。

 

「元々アマゾネスが行っていたものを先達が取り入れ改良したものであると聞く。シジフォスの言った通り苦しいものであるが……効果はある。女神アテナの眷属は誰もが通る道ではあるが、そうでない者としても効果はあると保障しよう」

「では……僕も?」

 

 ベルとて人間であるから苦しいと聞いて尻込みしないでもない。しかし、ベルとてまだ駆け出しとは言え冒険者であり、生まれた時から男であるのだから、先達が強くなれると言うのであればやらない訳にはいかない。

 

 強くなることに貪欲である。冒険者とはそうあるべきもの、というのがベルにもようやく染みついてきた。

 

 かの『白兎』が乗り気であるらしい。それを察した女神アテナの眷属たちが俄かに活気づき――

 

「話は聞かせてもらいました!」

 

 その眷属たちの前に、その主神が降臨した。足音高くやってきた女神アテナに、レグルスたち見習いも含めた眷属たちが跪く。

 

「時の人『白兎』がアマゾネス・ストライクに挑戦となれば、このアテナが見ない訳にはいきません! シジフォス! 『戦いの野』に使者として出向き、フレイヤにこのことを伝えなさい。『黄昏の館』の先ぶれには――」

「ドウコが暇を持て余していたようですので、奴をやりましょう」

「よきに計らいなさい、アスプロス。ああ、今日は何て良い日なんでしょう! 早速支度をしなければ!」

 

 言うが早いか、アテナはすっ飛んでいく。それに金髪の偉丈夫も続いた。後にはベルたちが残される。アテナは黙って立っていれば深窓の令嬢といった風であるのだが、一度心に火が入ると流石戦神という剣幕でまくしたてる。地上の子供とはどこか感性が異なる。やっぱり神様なんだなと不思議に思っていると、

 

「女神アテナにおかれては、地上の子供がアマゾネス・ストライクに挑戦するのを眺めるのが大層お好きであられる。見られて気分が良いものではないかもしれないが、寛大な心で受け入れてほしい」

「女神アテナの御心のままに」

 

 訓練など見られて困るような相手でもない。冒険者同士は同業者ではあるが競争相手ではない。共に手を取り合って助け合う可能性がある以上、できる限り仲良くしておいた方が良いに決まっている。

 

 加えて己の主神でないとは言え、神様の思し召しなのだ。自分の訓練が見たいと仰るのであれば、どうぞご覧になってくださいというのがベルの答えである。

 

「ここでやるというのであれば私がやっても良かったのだが、アテナの言葉から察するに『黄昏の館』に場所を移す腹積もりの様子。神フレイヤにも声をかけるようだし、遅れて待たせてもコトだ」

「僕も急いで戻ります」

「それが良いだろう。今日は私も良い訓練になった。懲りずにまた来てくれると嬉しい」

「機会がありましたら是非!」

 

 言うが早いかベルは己の二つ名の如く駆け出し『聖域』を後にした。後に残るのはこれから訪れる彼の苦難を我が事のように感じている女神アテナの眷属たちである。

 

 そんな中、不憫に思う心よりも好奇心が勝ったレグルスが父の袖を引いた。

 

「父さん」

「なんだレグルス」

「俺も『白兎』のアマゾネス・ストライク見に行きたい」

「お前はこの父と足腰が立たなくなるまで組手だ」

 

 えー、と口答えする息子に、イリアスは微笑みを浮かべると拳骨を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フレイヤ・ファミリア本拠地『戦いの野』。そこにアテナ・ファミリアの幹部の一人、シジフォスが伝令でやってきたのは今先ほどのことである。彼はよほど急いで書いたと思しきアテナの書状を携えていた。単語を殴り書いた、文と言うのはあまりに乱雑なものを見てフレイヤは苦笑を浮かべている。

 

「神アテナは何と?」

「兎さんがこれから『黄昏の館』でアマゾネス・ストライクに挑戦。貴方もいかが?」

「…………奴にはまだ早いように思いますが」

「貴方はこういうの苦手だものね。でも、アテナも私も、そういう子供が挑戦するのが好きなのよ」

 

 楚々とした笑みを浮かべるが、フレイヤの口の端は隠し切れない興奮で上がっていた。本神が言うように、どちらかと言わずとも嗜虐的な心を持っているフレイヤの嗜好は、こういう点に限り女神アテナと一致していた。

 

 オラリオで顔を合わせてからはあまり交流のない女神であったが、こういう時にきちんと知らせを寄越してくれるなど、意外と義理堅い女神なのである。戦神だけあって敵対するものには苛烈な所があるものの、同好の士には殊更寛容なのだ。戦とは基本的には徒党を組んでやるものだということを戦神だけによく理解しているのである。

 

「供にはアレンを連れていくことにするわ。呼んでもらえる?」

 

 フレイヤの命令に、オッタルは傍仕えを呼びアレンを呼んでくるように命ずる。今日はこの『戦いの野』に詰めているはずだ。

 

 程なく、部屋に現れたアレンはフレイヤの前で膝をついた。

 

「アレン・フローメル。御前に」

「これから『黄昏の館』に行くわ。供をお願い」

「御意に。しかし何用で?」

「兎さんがこれから、アマゾネス・ストライクに挑戦するの。アテナと一緒に見物に行くわ」

 

 アレンは伏せていた顔を上げた。主神より下命があったのである。眷属としてまずすべきはその下命に対する返事であるのだが、アレンが返したのは主神の言葉に対する疑問だった。

 

「…………奴にはまだ早いように思いますが」

「皆兎さんのことが大好きね!」

 

 フレイヤの言葉にアレンは渋面を作った。己が主神に返事をするよりも先に、彼女に対する疑問を口にしたことに、今この時気づいたからである。

 

 先の一件以来、彼の女神は何かと『白兎』の話題を振ってくる。フレイヤ・ファミリアにおける『白兎』担当くらいには思っているようで、暇を見ては聞いてもいないベル・クラネルの情報を耳に入れてこようとするのだ。

 

それらの情報は大抵、()()()()()()()()()知っている。最近はなんだかんだで週に一度は食事を共にしているからか話をする機会も多いのだ。

 

 アレン・フローメルを知っている者からすれば、彼が主神フレイヤと妹以外に気を払うなど驚天動地のことであるのだが、元より他の眷属と交流など持たぬ主義であるアレンは、他の眷属たちが自分のことをどう思っているかなど気を払うこともなかった。

 

 彼の女神が言っているように、アレン・フローメルは『白兎』と仲良しであるというのは眷属たちに留まらず、オラリオ中に知れ渡っている最中であるのだが、やはり自分の風聞に気を払わない彼がそれを知るのは、もう少し先のことである。

 

「貴方やオッタルの見立ての通り、兎さんにはまだ早いのでしょう。けれど、私もアテナもだからこそ、そういう兎さんが見たいのよ」

 

 ヒトの苦しむ姿を見て喜ぶともなれば悪趣味とも思われようが、フレイヤもアテナも地上の子ではなく神であり、また彼女らのような考えは神の中では珍しい物でもない。もっと悪辣で子に害が及ぶ行為もオラリオの外では散見される。地上の子の感性においても、まだ理解の範疇にある分だけ、フレイヤやアテナはマシと言えるだろう。

 

 アレンは深く息を吐いた。元より、不利益を被っているのはアレンではなくベルである。生きるの死ぬのという問題であれば腰も上げようが、この程度であれば何ら問題はないはずなのだ。胸に燻る言いようのない感情を錯覚であると強引に処理し、アレンは御意と短く答えた。

 

 その心の動きが手に取るように見えたフレイヤは、下げられたアレンの頭を眺めながら笑みを深くする。あの人見知りのアレンに友達ができたのだ。『白兎』のことはお気に入りだが、その友達に自分の眷属から、それもあのアレンが収まるとは喜ばしいことだ。

 

 愛情の示し方が複雑なだけで、アレンはこれで情の深い子供である。そのアレンが『白兎』がアマゾネス・ストライクに挑戦するのを見れば、彼に何もしてあげない訳がない。今これからの『白兎』も楽しみであるが、フレイヤは何よりそれが楽しみだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 イリアスたちと別れ『聖域』を出たベルは、その足で『黄昏の館』に急ぎ戻った。今日は午後の訓練は休養。その担当であるティオナもフリーのはずで居場所は不明。最悪ダンジョンに走っている可能性もある。

 

 走って『黄昏の館』に戻る間不安だった。アマゾネスならば誰でもできるという話なのでティオナが捕まらないのならティオネでも良かったのだが、今の担当はティオナな訳で彼女に不義理はしにくい。ティオネも頼めばやってくれるだろうし、頼むことそのものにベルも抵抗はないのだが、それを理由にティオナが悲しい思いをしてしまうというのは本意ではない。

 

 しかし、女神が出張ることが決まっている以上、子供の都合で予定に穴をあける訳にはいかない。『黄昏の館』でティオナが捕まらなかったらティオネに頼むことになるだろう。ティオネも不在だったら……それなら問題ない気がしてきたが、誰か別のアマゾネスに頼むことになるのであれば本末転倒だ。

 

 ティオナが『黄昏の館』にいてくれることが一番問題がないし、嬉しい。その思いが天に通じたのか、ティオナは部屋で読書をしていたらしくベルが『黄昏の館』に飛び込んだ時には既に彼を待っていた。相当急いで走ってきたつもりだったが、アテナ・ファミリアの先触れは既に到着し、もう帰ってしまったらしい。

 

 自分はまだまだとしみじみと実感しているベルに、ティオナが寄ってくる。

 

「何かアテナ様とかフレイヤ様が来るんだって?」

「アテナ様はそう言ってましたね。僕がアマゾネス・ストライクに挑戦する所を見たいんだとか」

「…………え? ベル、アマゾネス・ストライクやりたいの? なんで?」

「アテナ・ファミリアのイリアスさんの話ではそれをやれば強くなれるということでした」

「んー、強くなれるとは思うよ? 思うけどさー」

 

 どうにもしっくりこない様子のティオナに、今さらベルは不安になった。基本的には他人を疑うことをしないベルであるが、やはり人間なのでどの程度信用できるかというのは相手によって異なるものだ。

 

 年齢からおそらくイリアスの方がティオナよりも冒険者歴は長いのだろうが、ベルにとってどちらが信頼できるかと言われればティオナの方である。そのティオナが首を傾げているのだから不安にもなるというもので、ではどうしたものかと相談しようと口を開きかけたその時、

 

「ここにおったんかベル! 話がちょー大事になってしもうてな。聞いてるとは思うんやけども、これからアテナとフレイヤが来るからそれまで準備して待っといてな。何や、身体あっためとくのがええて聞くんやども、ティオナ、どないなん?」

「人間とかはそうするらしいねー」

「……アマゾネスはやらないんですか? その、アマゾネス・ストライクを」

「アマゾネス以外がアマゾネスみたいにするにはどうしたらってとこから始まったらしいよあれ。私もティオネも物心ついた時にはもう必要なかったし……あ、でもやってる所は見たことあるから私でもできるよ。ベルには私がやってあげるから安心してね」

 

 にっこりほほ笑むティオナを見ると、やっぱりまたの機会に、とは言えなくなってしまった。勢いで話に乗るとロクなことにならないんだな、と今更ながらに学びつつ、ロキの勧めでゆっくり熱めのシャワーを浴びてから訓練場に戻ると、今日のゲストが勢ぞろいしていた。

 

 フレイヤ・ファミリアからは主神フレイヤと、その供としてアレンがきていた。ひらひら手を振るフレイヤに頭を下げてからアレンを見ると、苦々しい表情を浮かべた――つまりはいつも通りの表情をしたアレンがいた。

 

 そのアレンにも頭を下げ、アテナ・ファミリアの方を見る。眷属の訓練を眺めるのが趣味のアテナであるが、自身は訓練をする訳ではない。

 

 先程『聖域』で見た時もドレス姿だったが、今は違うドレスを着ている。お化粧にもドレスのレベル的にも、気持ち気合が入っているのが見て取れた。まだ何も始まっていない今の段階で、興奮冷めやらぬといった風で、ロキに熱く今の気分を語っている。手に汗握るとはこのことだろう。

 

 一応、今回の主催であるロキは隣にお気に入りであるアイズと、団長のフィンを侍らせている。神が集まる時は神のみが参加を許される『神会』を除いて、誰か一人は眷属を侍らせる慣例なのだ。他の女神が一人の所にロキだけ二人連れているのは、主催が誰であるのかを明確にするためだ。

 

 一礼し、ベルは彼女らの前に立った。何しろロキ・ファミリアの本拠地である。訓練場の周辺には暇を持て余したロキの眷属の面々がおり、その中にはリヴェリアやレフィーヤの姿もあった。こういう時の定位置なのかエルフはエルフだけで固まっており、リヴェリアを先頭にその隣にレフィーヤ、アリシアの姿もある。

 

 物見遊山の気分でいるのかと思えば、揃いも揃って深刻な顔をしている。中でもレフィーヤは今にも卒倒しそうな顔色だ。まるで死地に赴く人間を見送るような有様にベルの内心も穏やかではなくなるのだが、状況がそれを待ってくれない。

 

 意を決してベルはティオナの前に立った。ロキたちの前、入念にストレッチをしていたティオナはやってきたベルを見て微笑む。

 

「ベル。準備できた?」

「はい。シャワーを浴びて身体もほぐしてきました」

「んー。もう少し時間かけた方が良いと思うけど、時間押してるみたいだしね。じゃあ、やろっか? アマゾネス・ストライク」

 

 ちょいちょい手招きするティオナに大人しく従う。いつもの装いのティオナはベルの身体を確かめるようにぱんぱん叩くと、両手をベルの肩に置いた。上から押され、それが座れという指示だと気づいたベルは大人しく腰を降ろす。ティオナも腰を降ろしたベルに合わせて膝をついた。

 

 目線と距離がいつもより近くなったことでティオナの整った顔が近くに見える。アマゾネスらしい薄着から見える胸元に、ベルは視線を彷徨わせた。温まった身体の体温が一気に上がる。

 

 ロキ・ファミリアでは主にベートなどがティオナのことをド貧乳などとからかっているが決してない訳ではない。大きい人たちと比べるとないように見えるがあくまでそれは比較しての話だし、別に小さい訳ではないというのがベルの認識だ。

 

 種族的にアマゾネスは豊満な体型をしていることが多いから、その特徴から外れたティオナをからかってのことだろう。最近ティオナと仲良しらしいリリルカは小人にしてはとても大きいらしいので、彼女とは逆のパターンである。

 

 そのリリルカよりも小さいとからかわれることもあるのだから、体型を気にしているティオナにも忸怩たる思いがあるのだろうが、それはベルの考えの及ぶ所ではない。

 

 今のベルからすれば胸の大きさについて論ずるのは意味のないことである。目の前に美少女がいて、しかも自分に密着しているのだから思春期の少年としては心も動くというものだ。

 

 どきどきしている内に、ティオナは細かな指示をしていく。既に向かい合うような形で座っているが、ベルは尻を地面につけ、ティオナに向けて足を広げるように姿勢を修正された。ティオナはそれに合わせてベルと同じように、しかしベルの両足の内側に足を合わせるようにして座る。

 

 ベルの手はティオナの両肩に置かれる。人間の身体の構造的にティオナの胸元が目の前に来るのだが、ティオナにそれを気にした様子はない。こんなことがあって良いのだろうかと視線だけを動かして周囲を気にするが、こういう時、決まって目くじらを立てるレフィーヤは今なお顔色を変えていない。彼女が気にする危険はまだ訪れてさえいないのだ。

 

「声は我慢しない方が良いらしいから好きに叫んで良いからね」

「…………え?」

「あと死ぬほど痛いらしいから頑張ってね。それじゃ、行くよー」

「あ、ちょっと待って――」

 

 

 

 

 

 

 

 その直後、『黄昏の館』にベルの絶叫が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東方においては股割りなどと呼ばれるこの試みは、神々が地上に降りたつよりも前、人間の格闘家がアマゾネスの種族的な柔軟さに目をつけ、教えを乞うたことが始まりとされる。

 

 とは言え、生まれた時からできるアマゾネスとしては、どうしたらそうなるのかと聞かれても解るはずもない。ならば無理やりやってみようと短絡的な考えで始まったこの方法は、やられる側の激しい痛みを無視すれば功を奏した。

 

 目標としたアマゾネス程ではないにしても比較的短期に、より確実に身体の柔軟さを手に入れた人間の格闘技術はそれまでよりも少しだけ高みに上ったという。オラリオでも徒手格闘を行う一派には取り入れられており、素手での殴り合いを主とするアテナ・ファミリアでは全ての眷属、あるいは候補生に義務付けられていることであるが、全ての探索系ファミリアに伝播している訳ではない。

 

 これを行えば全ての種族がアマゾネスのような柔軟さを手に入れられるかと言えばそうではなく、種族的に身体の固いドワーフなどには痛いだけで効果が非常に少ないと知られている。逆にアマゾネス程ではないにしても、身体が柔軟な狼人や猫人などは元々柔軟であるが故にドワーフとは逆の意味で効果が少ない。

 

 身体の柔軟さというのは種族だけでなく個々人においても差が大きく、人間でもアマゾネスのように柔軟な者もいれば、お前はドワーフかというくらい身体の固い者もいる。アマゾネス・ストライクはそういう者を対象に短期的に、より確実に身体の柔らかさを手に入れるための技術であるのだが、ではその柔軟さが果たして探索に必要なのかというのは、個々の判断による所である。

 

 ロキは『必要ないとは言わない』という消極的な賛成派だった。やりたい奴は好きにやれば良いという方針のため、興味がある者がティオナなりティオネなりに声をかけ、大抵が挫折して諦めていく。身体が柔らかいことに越したことはないが、これをやるくらいならば他にやることがあるだろう、というのが主流の考えである。

 

 旧友のフレイヤも似たような考えであるのだが、悟りを開いた修行僧のような顔でベルを眺めるロキと対照的に、フレイヤは恍惚とした表情を浮かべて、身も世もない悲鳴を挙げているベルを眺めている。反対側を見ればアテナなどは大興奮だ。

 

 自らの能力向上のため、痛みに耐える子供というのは一部の女神に非常に刺さるものであるらしく、定期的に子供にこれを施すアテナ・ファミリアに神々の訪問が絶えないのはこのためだ。

 

 卒倒しそうな表情でベルを眺めるレフィーヤを見ると申し訳ない気持ちになるが、悲鳴を挙げても痛いと口にしても、止めてくれとは言わないベルの姿には、ロキをしても心を打たれるものがあった。

 

 これを楽しむ感性というのは理解できないものであるが、定命の子供たちが少しでも前に進もうとするその姿勢は、貴いものであると思う。リヴェリアもレフィーヤもそう考えるからこそ、あんな顔をしてまでベルを止めなかったし、こうして見守っているのだ。

 

 神の恩恵を受けている身でも、アマゾネス・ストライクの効果が表れるのは個人差があると言う。痛みに耐えるベルはこれで終わりと考えているのだろう。

 

 継続して複数回やるのが普通だと知っても、きっと彼は首を縦に振るのだろうが。それを宣言され、絶望の表情を浮かべるだろうベルを想像し、ロキはいつもよりもずっと、彼に優しくしようと決めた。

 

 

 

 

 

 




次回からイシュタル・ファミリア編です。春姫が出ます!


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『女主の神娼殿』

 

 

 

 

 

 

「待ってたぜー」

 

 人の目を憚るようにして少年は待ち合わせの場所についた。その様子は人目を憚るように挙動不審である。待ち合わせの男が堂々としているのと酷く対照的である。椅子に腰を降ろしてさえ自らの二つ名にある兎のようにしている少年に、男は小さく声を漏らすようにして笑った。

 

「大丈夫だよ。誰も君だと気づいてないさ。だってここに来るまで声をかけられもしなかったろ? 時の人の君がだ。いつもより視線を感じもしなかったんじゃないか?」

「ヘルメス様のアドバイスのおかげです」

 

 笑みを浮かべた少年――ベル・クラネルは、自分の茶色い髪を指で擦って見せた。普段は真っ白い少年の髪はありふれた焦げ茶色に変わっている。染めた訳でもカツラを被っている訳でもない。髪の色を変えて見せるという、ダンジョン探索には全く価値のないマジックアイテムの一種だ。

 

 ダンジョン探索に向いていないだけで、需要がない訳ではない。変装には手軽なこともあり、ちょうど今この時の少年のように、人の目をひかずに行動したいという人間には少なからず需要があった。作成にかかるコストに比して高く売れることもあり、ある程度の腕のある技術者が小遣い稼ぎのために作る、技術者にとってはある種の定番のアイテムでもあった。

 

「で、来てくれたってことは行くってことで良いんだろ?」

 

 にやにや笑みを浮かべて問うヘルメスに、ベルは顔を赤くして押し黙る。予想通りの反応にもヘルメスは気分を害したりはしない。彼の男としての欲望を信じてはいたが、実を言えば来てくれない可能性も考えてはいた。

 

 その場合は違う手段を模索するより他はなかったのだが、ベルがこうして足を運んでくれたことで第一段階はクリアすることができた。後は如何にして彼をその気にさせ、欲望に火をつけるかだ。

 

 その点、ヘルメスは何も気にしていなかった。彼がこの場に来てくれた時点で、勝利は約束されたも同然である。口八丁で相手を煙にまき、相手をその気にさせる。神ヘルメスの得意技だ。

 

「君が心配する気持ちも分かる。君は時の人。冒険者として大事な時期だし、男としても同様だ。君の周囲にはかわいい子も美人も沢山だ。リュー、リヴェリア、レフィーヤにギルドのエイナ、ティオナに椿に、最近はリリルカも――何だか半分以上エルフ関係な気もする辺りに君の運命というか性癖を見た気もするけどそれは今は良い。とにかくいずれ君がモテ男になった暁には彼女らのおっぱいもお尻も思うがままだ。即物的だとか言う奴もいるだろうけど言わせておけば良いさ。命かけて頑張ったんだ。良い目を見るのがフェアってもんだ。そうだろう?」

 

 美女美少女が思いのまま、というヘルメスの言葉にベルの心はぐらりと揺れた。特定の誰かという思いは今のところないが、そんな彼女らの誰かとそういう仲に……と考えるとベルの胸も熱くなる。

 

 女の子にモテたい。それが一番の目的ではないと断言できるけれども、割と上位の目的であることは否めない。それが命を預ける眷属仲間であれば素敵なことだと思うし、そうでなくとも、気立ての良い女性と良い仲になるというのは男の本懐であるとも思う。

 

 ならば余計に、そういうお店に浮気をするのはいけないことではなかろうか。気持ちは強く引かれているけれども、ここは強い決意で持って神ヘルメスの言葉を撥ねつける場面だ。でも、おっぱいか……

 

「でもさぁベルくん。今言ったおっぱいもお尻も未来のことであって今じゃないんだ。今ちょっとだけ勇気を出せば、色々なおっぱいが君の思うがままなんだぜ?」

 

 これを乗り切ることができれば明日大金を得られることが解っていても、目の前の端金を無視することができないのが冒険者というものだ。中長期的な計画を立ててその通りに生きることができるのは少数派である。その少数派の代表のように思われているリヴェリアでさえ、王族としての安定した生活よりも冒険者を選んだとびっきりだ。

 

 年端もいかないベルが即物的な欲求に逆らえるほど意思が強いはずもない。英雄というのは逆境においてこそ無類の強さを発揮するが平素は誘惑の類に弱いものだ。転落の切っ掛けになるのが富か女というのは凡庸な者でも英雄でも変わらないのだ。

 

 おっぱいが思うがままというコピーが響いたのだろう。ぐわんぐわんとベルの心が揺れているのがヘルメスには一目で解った。もう一押しだと感じたヘルメスは、べルにそっと顔を寄せる。

 

「欲望ってのは適度に開放した方が良いんだぜ。君はその解放のさせ方がへたっぴさ。俺の紹介なら後腐れはないし、秘密も厳守。俺と君が黙ってりゃリヴェリアたちにもバレないって寸法だよ。もちろんその分金はかかるが、この道に紹介した縁で今回の分は俺が持つからお代の方は心配しないでも良い。こういう遊びが気に入ったなら自分でお金貯めて通えば良いし、バレるのが不安っていうなら、またこうして俺に会いに来てくれれば良い。さて、君の覚悟は固まったのかな? ベルくん」

 

 返事はない。ベルは俯いたままそっと右手を差し出した。自らの企みが成功したと悟ったヘルメスは満面の笑みを浮かべてその手を握り返した。いつの世も、真面目人間も悪い道に引きずりこむのは、楽しいものだ。

 

「任せてくれベルくん。このヘルメスの名にかけて、今日は最高の夜にしてやろう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バベルを中心に、そして冒険者たちと共に発展したオラリオは、地上に点在する所謂『古都』の中では比較的歴史の浅い都市として分類される。発展に神が関わり、ある程度規則性をもって発展してきたその歴史は、都市の区画に明確な役割分担を生み出すに至った。

 

 今宵ベルが足を延ばす歓楽街はその一つである。必要不可欠であるが公序良俗に反するという理由で直接的な性行為がサービスの一環に含まれる店舗は、オラリオにおいては営業できる場所が著しく制限される。女性が酌をしてくれる程度の店は他の区画にも存在するが、本番行為可能な店は歓楽街にしかなく、その総元締が神イシュタルという塩梅である。

 

 アマゾネスを抱えるファミリアがケツ持ちをしているだけでなく、娼婦として働いている区画である。娼婦を含めた全従業員のうち、冒険者が占める割合というのは一割に満たないが、誰も武闘派のファミリアが睨みをきかせている場所で問題など起こすはずもない。

 

 規模でオラリオに匹敵する都市は地上にも多々あるが、これだけ規模が大きく治安の良い歓楽街は他に類を見ないということで、スケベを求めてオラリオを訪れる外の者は数知れず、また娼婦として一旗揚げようという者も、容姿能力に自信があるのならばオラリオを目指すという環境ができあがっている。

 

 これも一重にイシュタル・ファミリアの営業努力の賜物だ。アテナ・ファミリアの格闘興行、ガネーシャ・ファミリアの『怪物祭』が表の産業だとすれば、イシュタル・ファミリアの歓楽街はまさに裏の産業、その筆頭と言えるだろう。

 

 昼間は扉も窓も閉め切り色町と気づかないような有様であるが、ある刻限を過ぎると一変、オラリオの夜を象徴する場所へと早変わりする。男も女も己の欲望を満たすために往来を闊歩する様は、良くも悪くも生命の象徴と言える。

 

 そんな中、身を縮こませるようにして歩くベルは酷く悪目立ちしていた。隣を歩くヘルメスともどもフードのついたコートを羽織っているが、それでも堂々としているヘルメスと対照的に、

穴があったら入りたいといった風に身体を小さくして歩いている。

 

 それを見てバカにする者はいない。特に男はべルの姿を見ると、生暖かい目を向けてその背中を見送るのである。ああ、こいつ今日童貞を捨てに来たんだな。誰もが通る道である。それが今日というのなら邪魔をしては悪い。荒くれ者の冒険者でもそれくらいの配慮はできるのだ。

 

 そんな男たちの視線を受けて、ベルとヘルメスはずんずんと通りを行く。外周と言っても正確な円形をしている訳ではないが、区画一帯が歓楽街となっている都合上外周にある店ほど低い予算で遊べる店が集中している。

 

 大抵の一見はほぼ外周にある店で様子を見て、懐具合に応じて奥の店に足を運ぶようになる。

迷わず奥に足を運ぶということは、それだけ懐に余裕があるということだ。いかにも一見であるべルにそこまで懐に余裕があるとは思い難いので、同行しているヘルメスが太い客なのだろうと当たりがつけられる。

 

 歓楽街には客引きも多い。太い客というのはそれだけ各々の飯のタネになるということでもある。普通であれば引く手も数多であるが、奥の店の常連ということはそれだけケツ持ちであるイシュタル・ファミリアに食い込んでいるということでもある。ケツ持ちの上客を奪ったとなればオラリオの歓楽街では生きていけない。

 

 後ろ髪をひかれる思いの客引きたちの視線を受け、ベルがたどり着いたのは『女主の神娼殿(ベーレト・バビリ)』である。女神イシュタルの宮殿であり、イシュタル・ファミリアの『本拠地』でもある。さらに娼館としても営業しているこの場所はオラリオ歓楽街の中でもトップクラスのサービスを誇る店であり、同時に最も高額の料金を取る店として有名だ。

 

 所属する娼婦はほぼ全てが女神イシュタルの眷属であり、つまりはほとんどがアマゾネスだ。オラリオは人種のるつぼである。娼婦のバリエーションが少ないのは娼館としての欠点ではあるものの、そこを娼婦の技量で補うというある種の力技でトップを守っている店だ。

 

 どうしてもアマゾネスは嫌だとか、エルフでなければ勃たないという者でもない限り、この店がトップという評価は揺るぎないだろう。そんな店にヘルメスは、一見であるベルを連れてきている。初心者に勧めるには大分敷居の高い店であり、普通の感性をしていたらそんな紹介の仕方はしないのだが……

 

 今の状況をよく理解していないベルを、店の前に立ったヘルメスは促した。

 

「さ、ここが俺のオススメの店だ。今日はここで楽しんでくると良い」

「ヘルメス様っ」

「良い感じに興奮してるじゃないか。良い夜を楽しめそうで何よりだ。失敗することもあるだろうが、何。その時は俺が伝えた通りに行動すれば上手く行く。何も心配はいらないぞ、ベルくん」

 

 軽く肩を叩き、ヘルメスは踵を返した。ここから先はベル一人で行く。店に到着するまでにヘルメスから説明されたことだ。一人は心細いというのが正直な所だが、お供がいるというのはカッコ悪いことなのだと道々説明された。紹介状は持っているので問題はない。男なら、と言われてしまうとベルも言葉を飲み込まざるを得なかった。

 

 違う店に行くというヘルメスを見送り、意を決したベルは『女主の神娼殿』に踏み込んだ。

 

 ファミリアの『本拠地』と言えばベルは主神であるロキの『黄昏の館』をイメージする。あれもオラリオにある建造物の中では少々特殊な部類に属するのだが、超一級の娼館を兼ねるイシュタル・ファミリアの『本拠地』であるこの『女主の神娼殿』は宮殿という単語がふさわしいように田舎者のベルには思えた。

 

 フレイヤ・ファミリアの『本拠地』である『戦いの野(フォール・クヴァンク)』と系統は似ているが、『戦いの野』が壮麗でありながらも実利を取った美しい城塞とも言えるのに対し、こちらはまさに英雄譚に出てきそうな宮殿である。

 

 どちらが好みかと言われればベルは『戦いの野』の方が好みであるのだが、ここが娼館であることを考えるとこちらの方が良いのだろうと納得する。

 

きょろきょろと内装に一々目をやりながらフロントまで歩くベルを見て、受付担当のボーイは自らの取るべき対応として『問答無用でこの田舎者をたたき出す』を選択肢の一つに数えた。ここ『女主の神娼殿』はオラリオ歓楽街の中でも最高のサービスを誇る娼館である。

 

 それ故に料金も高く、何より神以外は紹介がないと利用することはできない。娼婦本人の連れ込みでなければ一定以上の利用実績のある顧客のみが紹介する権利を持ち、後者の場合は大抵連れだってやってくるため、一人での来店というのは珍しい。

 

 その珍しいケースの場合でも優良顧客からの紹介状を持っていなければ利用できない訳だ。来店した客は見るからに素人で、今日童貞を捨てに来ましたという初々しさである。同じ男として無下にするのは心苦しいが、それがこの店のルールであり、法なのだ。

 

「恐れ入ります。紹介状はお持ちでしょうか」

「はい。これになります!」

 

 懐から取り出された封筒を見て、ボーイは軽く眉を顰めた。その封筒はこの『女主の神娼殿』で発行されるもの。つまりは所属する娼婦が、顧客の紹介に利用するものだ。

 

 確認すべきことは四つ。封筒が『女主の神娼殿』の発行のものであること。娼婦本人のサインがされていること。そして紹介をするという事前の告知がフロントにされていることだ。封筒とサインは問題ない。告知も――今リストを確認したがサインの主である娼婦からの告知はきちんとされている。しかも初回費用はその娼婦が持つという優遇っぷりである。

 

 よほど太い客なのかと思えば申請には補足事項があった。サインをした娼婦ではなく、別の娼婦を――この『女主の神娼殿』では特別な意味を持つ狐人の少女を案内するようにとされていた。

 

 不可解なことではあるが、娼婦が申請ついでに注文をつけるのはいつものことだ。無駄に多くの調達を申し付けられないだけマシというもの。相手の指定だけなら手間はかからないのだからフロントとしては文句のあるはずもない。

 

 後は娼婦からの申告のあった名前と、眼前の少年の名前が一致すればクリアだ。

 

「お名前を頂戴してもよろしいですか?」

「ク、クレス・ヘリエルです」

 

 たどたどしい名乗りに思わず吹き出しそうになる。リストと一致してはいるが偽名だろうなというのは察しがついた。オラリオにいれば誰もが知っているような冒険者でも、娼館には偽名で通うというのは良くあることだ。その方が『らしい』というのが理由である。

 

 そんな『らしい』理由に少年まで乗っかるというのだから、気分というのは重要だ。外にはない楽しみを求めて歓楽街にやってくるのだ。どうせならばとことんまで楽しみたいと思うのが人情というものだろう。

 

「承りました。それでは係の者が案内します」

 

 フロントの脇にいたボーイが、ベルを促す。

 

 娼館というものに抱いていた漠然としたイメージとしては、廊下を歩いているだけでも如何わしい声が聞こえてくる猥雑なものを想像していたベルだったが、『女主の神娼殿』の廊下は清潔で綺麗なものだった。これなら夜間の『豊穣の女主人』亭の近くの方がアレなくらいである。

 

 嬌声も耳を澄ませば聞こえる程度のもので、この廊下だけを見れば娼館だとは思わないのだろうが、足を踏み入れると色々と感じるものがある。デメテル・ファミリアのお店とかで良く見る『芳香剤』とはまた違う香りに、ベルの興奮も不思議と高まってくる。

 

「こちらです。嬢はまもなく来ます。今しばらくお待ちください」

 

 案内された部屋は東洋風のものだった。西洋風の扉の先、横滑りする仕切りをスライドさせて先、床には全てヘファイストス・ファミリアの椿の私室で見た畳が敷き詰められ、部屋の大体中央には直接寝具が敷かれている。枕は二つ。娼館なのだからそういう意図で置かれているのは当たり前なのだが、それを求めてきたというのにベルの緊張は無駄に高まってしまう。

 

 寝具の近くには大きめのサイドテーブルがあり、冷えた飲み物と軽く摘まめるお菓子。それから定食屋で見るようなメニューが置かれていた。何の気なしにパラパラとめくってみる。前半は軽食から酒。後半はベルには何やら用途のよく分からない道具が乗っていた。

 

 割とお高めな設定をされている『豊穣の女主人』亭の同じようなメニューと比べても三倍以上の値段に眩暈がしたが、後半の用途不明の道具はさらにその倍くらいの値段がしていた。貸出ではなく買い切りらしいが、一体何に使うのだろうか理解に苦しむ代物である。

 

 品名だけがずらりと書かれ、横にはその値段。解説などはないから、ここに来る人間にはその名前だけで用途が理解できる代物なのだろう。奥の深いことだと感心していると、部屋の扉が小さくノックされた。

 

「ど……どうぞっ!」

「失礼いたします」

 

 横滑りする仕切りの先、両膝をついた姿勢でそこにいたのは金髪の狐人の少女だった。立ち上がり、赤い着物の裾を乱さないよう音もたてずに歩いた少女は、仕切りを閉めると再びベルの前で両膝をつき丁寧に手をつく。

 

 東の国で、屋内でやる作法だと椿に聞いたことがある。ベルには馴染みのない作法であるが、少女の所作は淀みがなかった。赤い着物の示す通り東の生まれなのだろう。まっすぐな金色の髪に同じ色の狐耳がひょこひょこ揺れている。顔を上げた少女の碧色の瞳が見えた。肌は白く、緩く開いた胸元からは深い谷間が見て取れた。

 

「お初にお目にかかります。サンジョウノ・春姫です。今宵はどうぞ、よろしくお願いいたします」

「よろしくお願いします!」

「……お客様のことは何とお呼びすれば?」

「失礼しました! 僕はベ――じゃない、クレス・ヘリエル、です」

「ではクレス様と」

 

 くすくすと春姫は穏やかに笑う。もう少し年上の女の人が来ると思っていたのに、大分年の近い美少女がやってきた。緊張の度合いはお姉さんが来た場合でもそう変わらなかったろうが、同じくらいの年でアマゾネスでもないのにこういう仕事をしてるんだ、と眼前の美少女にこれから自分は如何わしい行為をするんだと思うと、うるさいくらいに心臓が高鳴っていく。

 

「それでは、クレス様。今宵、春姫はクレス様のもの。何なりとお申し付けくださいませ」

「な、なんなりと……」

「はい。娼婦として一通りの作法は教えられましたので、ご期待には沿えるかと」

 

 そこはかとない自負があるのか、春姫は目を閉じて胸を張る。豊かな胸が突き出されるようになり、思わず反射的に動きそうになる手を、ベルは多大な自制心で持って抑えなければならなくなった。

 

 ベルが動かず、また春姫は目を閉じたままなので、その豊かな胸は変わらずベルの前に存在している。目に毒だ。でも、これを自由にして良いのか……煩悩と戦うベルに、しかし時間はついてきてくれない。男の方からアクションがあるものと身構えていた春姫は、どうもベルからは動かないのだと悟ると目を開き、着物の衿に手をかけた。

 

「とりあえず脱ぎましょうか?」

「――とりあえず待ちましょう!」

 

 思い切りが良いのか返事の前に春姫は動き出していたため、まろび出そうになる白い肌に思わずベルの反応も遅れてしまった。あと一瞬止めるのが遅れていたら目の前の狐耳微少女が半裸になっていたのだと考えると惜しい気もしたが、半裸一つでここまでになってしまう以上、今の自分はどうしてもこれ以上すけべなことができる精神状態ではないとベルは判断する。

 

 今日はこの辺で、と帰ってしまうのが良い。しかし、料金は支払われてるのだとしても果たしてどうやって打ち切って帰れば良いものか。自分の気持ちの問題で帰るのに、客が勝手に帰ってしまったことでもしかしたら春姫にペナルティがあるかもしれない。すけべなことをしないで帰るにしても、角が立たない方法というのが必要だ。

 

 着物を直してちょこんと座りなおして黙って待つ春姫の美貌を見る。単純に、男として、即物的に考えるならば、この狐耳美少女と仲良くなる機会をふいにするのはもったいないような気がしてきた。こういう場所で考えることではないのだろうが、要は普通に仲良くなる方法があれば良いのだ。すけべな場所だからと言ってすけべなことをしなければならない訳でもないだろう。

 

「まずはその……お話でもしませんか? できれば静かな所で」

 

 道々ヘルメスが説明してくれた。娼婦というのも娼館に雇用された労働者なので、勤務時間が決まっている。娼館で対応された以上その娼婦は勤務時間内である訳で、よほど上客で金でも積まない限り、その時間内に外に連れ出すのは難しい。

 

 デートなどを積み重ねた結果すけべなことをする普通とは逆に、娼婦と娼婦としてデートするというのは上級者の遊びなのだ。その点娼館の内部で場所を変えるだけならばそれほどハードルは高くない。追加料金が取られるケースもあるが、ここならば問題はないとヘルメスも言っていた。

 

 問題は春姫が受けてくれるかである。場所を変えようという提案に春姫は目を泳がせていた。芳しくない反応である。自分では判断がつかないといった様子の春姫に、さてどうしたものかとベルが頭を捻っていると、遠くに鈴の音が聞こえた。

 

 その音にベルは周囲を見回す。音は状況を把握するために必要な大事な要素の一つである。周囲を警戒する際にも聞き漏らすことなかれとリヴェリアやリューにも教わった。ベル自身、聴力には人間にしてはそこそこという自負があるのだが、今の音は近いということ以外どこから聞こえたのか特定できなかった。だが、

 

「お受けします。静かということでしたら屋上が良いでしょう。今日は星が良く見えると思いますよ」

 

 首を傾げるベルを他所に、春姫はあっさりとベルの提案を受け入れた。先ほどの鈴が何かの合図だったのだろうと察すると共に、部屋の様子が第三者に見られている可能性に思い当たり、ベルの背に冷や汗が流れた。スケベなことをしていたら誰かに見られていたのだ。

 

 娼館はそういうものだと言われるとそれまでなのだが、やっぱり僕にはこういうお店はまだ早いらしいと悟ったベルは、お話だけして帰ろうと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、今日はどういう用向きだ」

 

 テーブルを挟んで相対する男神に、『女主の神娼殿』の主であるイシュタルは胡乱な目を向ける。イシュタルの私室であり、娼婦としての仕事をする部屋でもあるそこに招かれたのは上客でもあるヘルメスだ。

 

 伝令吏たる男神は出されたワインに口をつけつつ、相変わらず捉えどころのないへらへらした笑みを浮かべて応える。

 

「そう尖らないでくれよ。今日は君に良い情報を持ってきたんだぜ?」

「そうか? 本当に良い情報だったら良いんだがねぇ」

「良いに決まってるだろ。ベル・クラネルを知ってるね?」

「ロキ・ファミリアの『白兎』だろ? フレイヤの奴もお気に入りって話だ。寝取ってやれたら面白いと思っちゃいるが、その『白兎』がどうした?」

「さっき、ここの入り口で見たよ。うちの子供が作った魔道具で髪の色を変えちゃいるが、あれは彼で間違いない」

 

 ヘルメスの言葉に、イシュタルは目を細めた。男の冒険者が娼館を使うというのはそれこそ吐いて捨てるほどある話で、そこに時の人『白兎』が含まれていてもイシュタルとしては不思議ではない。

 

 若く力のある冒険者というのは金のなる樹でもある。『白兎』がただの冒険者であれば、イシュタルも気にせずそれどころか自ら相手をしてでも引き込みにかかっただろうが、彼はこのオラリオでも最大ファミリアの一つであるロキ・ファミリアに所属している。そして、そのロキ・ファミリアは、

 

「ロキとフレイヤが共同歩調を取るって宣言されたばっかりだからね。ここらで本腰を入れてくるってのもない話じゃない」

「お前が私に態々忠告するってのはどうしてだ?」

 

 かつてはゼウスのパシリとして活動していたが、彼とヘラがいなくなった今は、世界をふらふらしている男神である。オラリオにおいて神々はいくつかのグループに分かれて活動しているが、こちらでもヘルメスはふらふらしており特定の派閥を持たずに活動している。

 

 それでもいくらかの傾向というのはあるもので、ヘルメスに対するイシュタルを含めた神々の認知は、ヘルメスは特にフレイヤと昵懇であるというもの。そのフレイヤと敵対する自分に忠告などしてくる利はないはずなのだが。

 

 イシュタルが睨みやると、ヘルメスはへらへらと笑みを浮かべ、

 

「おいおい。俺は歓楽街をこよなく愛する男だぜ? 君が何をしようと関知はしないが、ここが休んだり、規模が小さくなるなんてことがあっちゃ困るんだよ。君の歓楽街の運営に関しては、俺は満足してるんだ」

 

 一応筋は通っている。とは言えこれで信用されるとは、ヘルメス本人も思ってはいないだろう。やはりこの男神は信用できない。上客であり遊びも綺麗でファミリアの規模も小さくはないが、顔が広く方々の派閥に手を広げてコネを維持している。イシュタルが何より気に食わないのは、フレイヤに通じていることだ。

 

 忠告にきたというのも本心ではあるのだろうが、何か裏があると見て良さそうである。

 

「それじゃ、俺は帰るよ。明日も明後日もその先も、歓楽街が残ってることを祈る」

 

 出した酒を飲み干し、ヘルメスはさっさとイシュタルの部屋を後にした。歓楽街に来たら大抵は楽しんで行くのだが、今日はそうではないらしい。深々とため息を吐き、イシュタルは部下のアマゾネスに指示を出した。

 

 今日来店した『白兎』らしき人間の男を確認し、本人であれば連れて来いというものである。人違いであれば良し。本人であればロキやフレイヤとの交渉にも使える。その場合は計画を早める必要があるだろうが、それは『白兎』本人かどうか確認してからだ。

 

 さて、と椅子に深く腰掛け、報告を待つ――その矢先、轟音がイシュタルの部屋を揺らした。外からの爆音である。何事だと窓に取り付いて外を見れば北の方角で黒煙が上がっていた。それとほぼ同時に、アマゾネスが転がるようにして部屋にやってくる。

 

「報告します! 『白兎』と思しき客は部屋にはいませんでした! 応対していたのは春姫らしいんですが、こちらも居場所不明! 今人をやって探しています!」

「何としても見つけ出せ!」

 

 転がるようにして部屋に来たアマゾネスは、また転がるようにして部屋を出て行った。北の爆音に『白兎』の不明。襲撃される心当たりはイシュタルには数え切れないほどある。今日がその日かと思考を巡らせていると、別のアマゾネスが飛びこんできた。

 

 北の爆音の一件だろう。もはや何が来ても驚かないと身構えていたイシュタルに齎された報告は、彼女の思考の埒外のものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ロ、ロキ・ファミリアのカチコミです! 先の下手人は『九魔姫』! イシュタル・ファミリアが誘拐した『白兎』を出せと言いがかりをつけ、手近の娼館を吹っ飛ばしました!」

 

 

 

 

 

 



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ある愛の女神の黄昏①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お待ちどうさん。本日はお招きどうも。まぁすぐ帰るんだけどさ」

 

 指定された部屋。バベル最上階、フレイヤの私室に入室したヘルメスは外套を預かろうとするオッタルを視線で制し部屋の中央まで歩いた。

 

 中央にあるテーブルには差し向かいで二柱の神が座している。上座に座るのがこの部屋の主である女神フレイヤ。従者オッタルの入れた紅茶を飲む彼女の差し向かいに座るのが女神ロキ。フレイヤの長年の友人であり、現在の盟友でもある。

 

 糸目の女神は自分で持ってきたらしい安酒を手酌で楽しんでいた。できあがっていたら事であるが、前後不覚になる程ではないようである。おう、と手を挙げたロキの動きは泥酔した時の彼女を知っているヘルメスをしてまだ辛うじて大丈夫と判断できるものだった。話は早いうちにしておいた方が良いと判断したヘルメスは早速話を切り出した。

 

「フレイヤにも協力してもらった内偵だけど、結果が出たよ。イシュタルは完全に黒だ」

「ようやくかー。えらい時間かかったもんやな」

「それだけあちらも慎重になってたってことなんだろう。何しろ地上にあっては神と言えども大仕事だ。ギルドに寄ってウラヌスからも了解をもらってきた」

「これから起こる私闘に目こぼしをしてくれるって? 悪い神もいたものだこと」

「俺たちが言えた義理じゃないと思うぜ?」

「まったくやな!」

 

 ははは、と全員で一笑いして一息入れる。

 

「つまりはイシュタルは排除ってことで話が進む訳だ。決行日と計画は事前の資料の通りに。仕込みも今の所予定通りに進んでる。そっちの役者の様子はどうだい?」

「私の所はこれからね」

「ウチは当日まで知らんぷりや。楽でええな!」

 

 計画の内容に反して、二柱の女神は気楽なものである。他神を陥れる程度、彼女らにとっては息をするのと同じくらい簡単なこと。まして今回排除するのは明確な敵であるのだからためらいなど生まれるはずもない。

 

 女神イシュタル。ロキ達やヘルメスとも生まれを異にする神であり、今回の敵である。

 

 例の事件以降、ウラヌスを中心とした一派は密に闇派閥の内偵を進めていたのであるが、今回尻尾を出したのがイシュタルだった。己の眷属の命を対価として他の眷属の大幅な戦力増強を図り、武力で持ってフレイヤ・ファミリアを打倒するのが彼女の目的だ。

 

 神同士、およびファミリア同士の私闘は『神会』での協議により禁止されている。まだ実行に移されてはいないが、これは明確な協定違反であり『神会』にかけられれば最悪追放処分もありえる重罪であるが、それは『神会』がまともに機能すればの話である。

 

 イシュタルに関しては排除ということでここにいる三神の見解は一致している。「神会」もまた表向きは闇派閥に対しては強い態度で臨んでいるが、神々の内心は様々だ。地上の子供以上に神は一枚岩ではない。闇派閥に属さないまでも消極的に支持している神はいるだろうし、そもそもロキたちとて構成神を全て暴いた訳ではない。『神会』の中にもまだ闇派閥に属している神はいるのだろう。今回はたまたまイシュタルが尻尾を出したに過ぎないのだ。

 

 そのイシュタルであるが、オラリオでは歓楽街の顔役をしている。事実上の支配者と言っても過言ではなく、歓楽街は区画全体がイシュタルの支配下にあると言っても良いだろう。イシュタルの排除により、その区画が一時的にでも立ち行かなくなるとなれば自分本位の考えでイシュタル排除に否という神が片手の指では数えられない程度にいる。

 

 イシュタルの排除に『神会』の力があてにできないとなると後は制裁を覚悟で私闘を行うより他はない。私闘に関する罰金は多大なものでありそれはファミリアの規模によって増減する。ロキもフレイヤもファミリアの規模はオラリオでも最大級であり、それが大規模な私闘を行ったとなれば、一撃でファミリアを傾けかねない程の制裁金が科されることは想像に難くない。

 

 それはロキやフレイヤでも拳を振り上げることを躊躇う理由になりえることであるが、そこを回避するためにヘルメスはウラヌスの所にまで話を通しに行った。

 

 私闘の禁止を破った制裁は例えそれがどのような理由であっても通常の通りに行われるだろうが、その裁定を行うのはギルドなのだ。全ての法には抜け穴がある。ウラヌスも本心ではロキやフレイヤがどうなろうと知ったことではなかろうが、眷属の強さがファミリアの強さであれば、資金力はその強さの持続力を象徴する。

 

 闇派閥に対して戦力として期待されている二つのファミリアが、肝心な時に資金不足で動けないとなれば目も当てられない。ギルドの代表としてはあまり褒められたことではなかろうが、イシュタルが行動間近となればその排除は何より優先される。ウラヌスも今回はそれだけ本気ということなのだろう。

 

 何にせよこれで戦うための体裁は整った。後は戦いイシュタルを排除するだけであるが、問題はイシュタルがオラリオでの立場を捨て、眷属を連れて逃げるという判断をした時だ。神及び冒険者はオラリオの出入りが厳しく監視されているが、戻ってこないことを覚悟すれば強行突破はたやすい。何しろ神には無限に近しい時間がある。オラリオの外でゆっくりと時間をかけて捲土重来を図るというのも悪い手段ではない。かかる時間によっては今回の虎の子である「狐人」は使えなくなるだろうが、無限に待つ気持ちがあるのであれば次の当たりを待てば良いのだ。いくらでも待つという気概さえあれば、神にはそういう戦法が取れる。

 

 とは言え、ロキもフレイヤもイシュタルという女神の気性を知っている。事が露見した場合、彼女の場合はそのまま打って悪あがきをするというのがロキたちの見解であるが、それでも逃げられては面白くない。万が一の可能性を潰すためこちらから先手を打ち確実に潰す必要がありそのための絵図も既に完成しつつあった。ロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリアが共同歩調を取り他のファミリアの加勢をさせないように奇襲を行うのだ。イシュタルの命はもはや風前の灯である。

 

「イシュタルのほえ面近くで見れんのは残念やけどもな」

「私もそれは気がかりだけど、兎さんの活躍を見る方が大事よね。特等席は用意しておくわ」

「助かるわ。とって置きの肴もっていくから楽しみにしとくと良いで」

 

 からからと笑うロキに、上品に笑うフレイヤ。主に二人の提案で、今回もベルが苦労をすることは内定している。その分良い目も見れる……ようにヘルメスは手を回しているが、この二神が関わる以上、目の前のごちそうに手を付けるような機会は訪れないだろうと見ている。

 

 作戦はヘルメスが立案した通りに進行するということで二神も同意したが、それが崩れない範囲であれば容赦なく手を入れてくるような性格であることはヘルメスも熟知していた。予想する着地点が大幅にずれるということはなかろうが、逆に言えばそこに到達するのであれば途中は何をしても良いのだ。そういう好き勝手な振る舞いが、この二神は抜群に上手い。

 

 味方にいる今の時点でさえ、何をされるのかと落ち着かない気分にさせられるのだ。事が起こり、絵図の向こうにいるのがこの二神だと気づいた時のイシュタルの心中を想像すると、敵のことながら複雑な気分になるヘルメスである。

 

(明日は我が身と負い目でもあるのかね……)

 

 今のところ敵対する予定はないのであるが、ふらふらする身の上がそうなった時のことを考えさせてしまうのである。自分のノリが下降線を辿ると察したヘルメスはそうなる前に努めて明るい声でその場を辞す。

 

 ベルの提案からこっち、以前と比べると格段に一緒にいる機会の増えたロキはしばらく差し向かいで酒を楽しんでから『戦いの野』を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後に残されたフレイヤは一人になった部屋でたっぷり時間をかけてお茶を楽しんでから、アレンを呼んだ。常に傍に付き従うオッタルも、アレンを呼び出した後に退出させている。フレイヤの私室では現在正しく、女神フレイヤとその眷属アレンの二人きりだった。

 

「アレン・フローメル。罷り越しました」

「イシュタルを排除することが決まったわ。細かい絵図はヘルメスが描くことになると思うけれど、私もロキと一緒に協力することにしたの」

 

 フレイヤの言葉を受けて、アレンの表情が僅かに歪んだ。神を排除する。オラリオでなくとも穏やかでない内容であるが、フレイヤとイシュタルの仲が険悪であることはオラリオではその辺の子供でも知っている。イシュタルの排除にしても前々から、かの女神には黒い噂が付きまとっていた。アレンもフレイヤ・ファミリアの代表として情報収集に当たらされたから良く覚えている。次の「神会」の開催はまだ先。それを待たずに行動を起こすということは強硬手段を取るということだ。

 

 腕が鳴るとこの世界に飛び込んだばかりの頃のアレンであれば思っていただろう。武器を存分に振るい敵を思うさまに打ち倒すのは冒険者を志すような者の本懐である。しかしながら彼の女神は最近殊更、例の兎について執心で自分を絡ませようとする。

 

 今回のこともフレイヤ・ファミリア単独でということならば少しは安心できたが、説明の最初からロキ・ファミリアの名前が出てきている。ほどなく奴の名前が出てくるだろう。別に俺は奴の担当ではないのですが、と心中だけでなく直接物言いもしたがフレイヤが気にする様子はなかった。

 

 別にそこに不満がある訳ではない。神とは自由な存在であり、アレンもそれに納得して眷属となったのだ。神に不満がない以上、これは自分の問題である。粛々と神命を遂行できないのは精神が未熟である故である。荒い気性は自分の欠点であると思っているが、レベルが上がってもこれが収まる気配はなかった。大方、死ぬまでこうなのだろうと諦めてもいる。穏やかな性分になった自分というのも想像できない。

 

「俺の仕事は奴のフォローですか?」

「察しの良い子は好きよ。愚鈍な子でも好きだけど」

 

 フレイヤは微かな笑みを浮かべて作戦の説明をする。イシュタルの作戦の核となる狐人の女を白兎が確保、イシュタルの管理下から外れた段階で、ロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリアの混成軍が歓楽街に向けて進軍する。

 

 歓楽街に通じるメインストリート及び、中小様々なルートを全て眷属で封鎖。外部からの援軍を防ぐ目的もあるが、何よりイシュタルを歓楽街から逃がさないようにする。

 

 そして封鎖するのは地上だけではない。大都市に様々な理由で地下空間が存在するというのは珍しい話ではく、オラリオもその例には漏れない。特に歓楽街の地下スペースは地下通路が無数にあることで有名だ。元々スペースを確保するために各々の施設が好き勝手に地下室を作り、それを繋げることを目的に非計画的に広がったそれはイシュタルの『本拠地』である『女主の神娼殿』からも伸びているという。

 

 フレイヤ・ファミリアもロキ・ファミリアも探索系ファミリアの中では最大手だ。戦力の質もさることながら頭数も他のファミリアに比べても、人がいればいるほど良いらしい農業系のデメテル・ファミリアのような例外を除けば飛びぬけて多い。

 

 だがそれでも高所を確保できれば目視で何とかなるだろう地上と異なり、蜘蛛の巣のように広がった地下通路を全てフォローすることは、如何に最強ファミリアでも困難を極める。

 

「どういう訳かヘルメスが歓楽街の地下通路の正確な地図を作製済みだそうよ。既にトラップも設置してあるそうだから、地下の受け持ちは彼の子供たちで何とかするって」

「負けるつもりはありませんができれば敵には回したくないファミリアですね」

 

 力技で押し切れない敵というのは戦っていてストレスが溜まる。倒せないということはなかろうが、戦って面白くないというのはいただけない。

 

「奴が狐人を確保して逃げ切れるように背中を守るということで良いのでしょうか?」

 

 イシュタルの作戦の核はその狐人である。それを確保するのだから戦功第一はあの兎ということになるだろう。それを見ているだけというのも当然面白くはないのだが、眼前の女神からの神命がこの程度で終わるはずがないということはアレンにも解っていた。

 

 その問いが嬉しかったのだろう。フレイヤは笑みをことさら深くして、アレンに告げた。

 

「アレン。貴方には兎さんの初めてを守ってほしいの」

「…………恐れ入ります我が女神。どうも俺の耳がイカれてしまったようで。今一度ご下命いただけますでしょうか」

「貴女に兎さんの童貞を守ってほしいの」

 

 自分の耳が正常であったことにアレンは全く安堵できなかった。できることなら何も聞かなかったことにして部屋で不貞寝でも決め込みたい所であるが、既に神命は下されてしまった。忠実な女神の眷属であるアレンにはもう、それがどれだけバカらしくくだらないものであっても神命を遂行する以外に道はないのである。

 

「……よろしければお心を聞かせていただいてもよろしいでしょうか」

 

 眷属として断腸の思いでそれを口にする。アレンだってこんな質問はしたくないのだが、敬愛する女神の顔に聞けと書いてあるのだから仕方がない。言外の望みまで十全に叶えてこそデキる眷属というものだ。

 

「私には理解できない考えだけど、地上の子供の中には殊更男性にまで処女性を求める傾向が強い種族がいるわよね?」

 

 問を深く掘り下げるまでもなく、アレンはこの時点でフレイヤの意図が理解できてしまった。

 

 アマゾネスほど奔放という訳ではないが、獣人は大体の種族で性に対して大らかな考え方をしている。強い個体に複数の異性という家族は地方に行けば行くほど珍しくはなくなるし、オラリオにもそういう家庭は少ないが存在する。

 

 番がいるのにそれ以外に手を出すというのは勿論獣人の倫理観を以ても褒められた行為ではないが、そうなる前に行為については男女ともに不問にするのが普通だ。獣人に限らずほとんどの種族は程度の差こそあっても全体としてはこの考えでまとまっているのだが、その例外がオラリオにも存在する。エルフというお高くとまった種族である。

 

 エルフは全体的に結婚という契約を重視しており、婚前というのはそのための準備段階であると考える。婚前交渉などもっての他。交わるのは生涯でただ一人……流石にここまで凝り固まっているのはエルフの中でも少数であるが、古き良きエルフとして持ち出されるのはこの考えであり、当のエルフたちでも手放しで同調するのはちょっと、と考えていても種族に根付いたその考えが日常生活の中で度々顔を出してくる。

 

 男女問わずエルフというのは遊んでいる者を許容しない。よほど高貴な者でない限り、複数の相手を持つことはない。浮気は死んでも許さない。一度火が点くと末永く燃え盛ることを『愛情が深い』と表現することもできるが、その炎は嫉妬深さにも直結する。風向きが変わればその炎はたやすく相手も飲み込むことは想像に難くない。

 

 人間種族の男性が好む猥本ではその高嶺の花っぷりからエルフが人気を誇るが、実際にカップルとなるケースが他の種族と比べても少ないのは、その気性が原因なのではというのがオラリオに住む男性諸氏の通説である。眺めている分には良いが一生一緒にいるのはちょっと、と考えるのは女神以外の異性に興味のないアレンでも理解できる。一言で言うなら息がつまって面倒くさい相手だ。

 

 そんなエルフであるから、異性には清廉であることを求める。これは血が濃いほどその傾向が強いと言われており――ここが女神にとっては大事なことなのだろうが、例の白兎の周辺にいるの女はエルフが一番多い。

 

 いくら平素から目をかけているとは言え、白兎が娼館に連れ込まれ一晩そこで過ごしたとなれば、事実として何もなかったとしてもエルフたちは疑いを持つことだろう。拒否感が態度に出るかもしれない。女神にとってはそこが狙い目なのだ。

 

 例え白兎がエルフが一番そそるというような性癖の持ち主であったとしても、そのエルフがいるのが分厚いガラスの向こう。しかし自分の近くを見れば魅力的な女性が他にも沢山いるという事実に気づいてしまえば目移りする可能性も高いというものだ。例えば彼の馴染みの食堂にいるウェイトレスなどであるが……アレンにとっては白兎が誰と交わったとしても奴が自分の義弟にでもならない限りどうでも良い話である。

 

「『女主の神娼殿』の中で何があったのか知っているのは、奴以外には貴女と俺だけで良いという訳ですね?」

「話が早くて助かるわ」

「地上の子供の傾向という話では?」

「あら。興味がないともいらないとも私は言っていなくてよ」

 

 口の端をあげて小さく笑う女神に、アレンは同じような笑みを返した。強欲なことだ。だからこそ女神らしいとも言える。

 

「神命。謹んで拝命いたします」

「期待しているわアレン。兎さんと仲良くね」

「…………御意」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま、アスフィ」

「おかえりなさいませ、ヘルメス様」

 

 会談を終え簡単に話をまとめた後、ヘルメスは彼にしては珍しくまっすぐに自らの『本拠地』に戻った。己の主神の帰りを待っていたアスフィは、彼が身支度を整えるまでの間に全体の進行状況を伝える。

 

 ロキやフレイヤに確認を取るまでもなくヘルメスの計画は既に進行している。下水道の詳細な地図を手に入れることもそうであるし、そこにトラップを仕掛けることもそうだ。既に眷属にはそれとなく動員をかけているし、一部の眷属は歓楽街に潜入までしている。

 

 二神に確認を取ったというのはあくまで通過儀礼であり、計画の中核は基本、自分が決めるという意思表示をするためのもの。ロキもフレイヤも大概自分が自分がというタイプであるからそういう意思表示はことさら大事なのだ。話が違うなどとは思っても口に出してはいけない。それは負け犬の言葉だ。子供は神が自由奔放に生きていると思っているのだろうが、神には神の苦労があるのだ。

 

「神イシュタルの排除は成功したものとして、歓楽街の勢力図はどのように?」

「話し合い次第だろうね。音頭を取ってたイシュタルがいなくなるんだから俺も私もって神は多い。だからって歓楽街が群雄割拠になっても困る訳だけど、今現在、歓楽街の支配に興味を持ちそうなファミリアで、今のイシュタル・ファミリアと同じ仕事ができる所はない。多くて十柱くらいの合議制ってところになるんじゃないかな」

「そこに、一枚噛むつもりはないのですね?」

「噛んでほしいのかい?」

「いいえ。むしろしてほしくないので釘を刺したつもりでした」

「理解のある眷属を持てて俺は嬉しいよ。権力やら立場なんて、何でも持てば良いってもんでもないからね」

 

 実より名がほしいという考えも解らないではないが、ヘルメスはその逆だ。土台ヘルメス・ファミリアの規模でイシュタル・ファミリアの代わりなどできるはずもないのだから、支配に噛んだ所で苦労が増えるばかりで旨味は少ない。ヘルメス自身、遊び目的で歓楽街に足を延ばすことはあるが、あくまで遊びでそこに仕事を持ち込みたくはない。

 

 ならば旨味を少しだけでも吸えればそれで充分だ。今まではそれすらできなかったのだから、それだけでファミリアとしては十分にプラスになる。ローリスクローリターン。良い言葉だとヘルメスは思う。

 

「それを合議制に参加する神全て相手にやれば良いんだから、全く楽な商売だよな」

「どういう経緯であれ『戦争遊戯』以外の私闘をする訳ですから、うちもギルドから制裁金を科されるのでは?」

「ギルドの規定では神が送還された場合、その資産はどうなる?」

「種類によります。眷属は個々人の意思に任せ、不動産やら貴金属はギルド預かり、債権などについては一旦その効力を停止。引き受けるファミリアがいればギルド立ち合いの元に引き渡し、そうでなければ基本的にはギルドが処理をすることになります」

 

 眷属個々人の資産は基本的にはその眷属に帰属するが、ファミリアとしての負債は神に帰属する。ファミリアはその主神を中心として成立し維持されるが、その主神が天へと送還された場合、その時点でファミリアは解散されたものとされ、眷属以外のかつてファミリアに類したものは全てギルドの管理下に置かれる。

 

 土地建物、あるいは貴金属など現金化が簡単なものの処理は良いが、問題になるのはそれ以外のものだ。神の名の下に交わされた契約が、神が送還されたからといって反故にされては他の神々の信用にも関わる。

 

 神が送還されようと、その名の下に交わされた契約はギルドが代わって履行することになる。負債があれば資産を売却してこれを補填することになるが、負債込みで資産が欲しいという神がある場合は、この段階で横やりが入る。負債はいらないが資産は欲しいというのは認められない。

 

 資産引き渡しの優先権が発生するのは、負債を引き受ける時のみだ。そして負債やら宙ぶらりんになった契約の処理が全て完了した後、資産の現金化が始まりそれが終了した時点で正式にそのファミリアは解散したと見做される。

 

「――というのが通常の流れのはずですが……言葉にする間に考えもまとまりました。負債の処理が送還された神の資産を使って優先的に行われるのであれば、発生の順序的に私闘の制裁金にもそれは適用される」

 

 発生の経緯、関わった神やその数によって割合は大きく変動するが、ファミリア同士の私闘が行われた場合、発生に至る経緯がどうであってとしても私闘に参加したファミリア全てに制裁金が科されることになる。

 

 重要なのは参加したファミリアの制裁金はゼロにはならないということ、その割合を決めるのはギルドであること、私闘に参加したファミリアが正式に解散したと見做されるのはその処理が終わってからということだ。主神が送還されようと所属する眷属が一人もいなかろうと、その処理が終わるまでギルドの規約的にはファミリアは存続しているのである。

 

 ウラヌスが了解している時点で制裁金の割合はイシュタルが相当高くなるはずだ。送還されるのだから文句など出るはずもないし、ファミリアが行った合法的な契約はそのほとんどをギルドが管理している。財産の差し押さえさえ上手く行けば、処理の方は問題ない。

 

「つまり神イシュタルに逃げられては全てがご破算になるということですか。なるほど、地下道まで埋める必要があると強く主張した理由が解ります」

 

 強制的な財産の接収には神が送還される必要がある。私闘に勝利してイシュタルを撃退しても

例えば眷属を連れてオラリオから逃げられるようでは困るのだ。戦いを始めたら最後、イシュタルには何としても天に還ってもらわねばならないのである。

 

「下水道のトラップ設置は抜かりないだろうね」

「既に設置そのものは完了し、現在は調整を進めているところです。当日は更に団員を増やしますので、ネズミ一匹通しませんよ」

「フレイヤほどじゃないがあいつは魅了の使い手だ。対策は怠らないように」

「地下班には改めて伝えておきます。ヘルメス様は、当日はどのように?」

「地上でベルくんの活躍を見たい所ではあるんだけど、俺も地下かな。アスフィ、お前の隣にいることにするよ」

「……地上では仕留めきれない、という読みですか?」

 

 後の功績を考えればイシュタルの送還に貢献したい所ではある。地上で送還されるということはアスフィを始めヘルメス・ファミリアの団員が待ち構える地下には到達できなかったということだ。トラップこそ設置したがあくまで万が一の備えという気持ちでいた。戦闘力でオラリオ最強を争うファミリアが両方参加しているのだから、彼ら彼女らが問題なく動くことができれば神一人始末することなど造作もないはずなのだが、

 

「ロキ・ファミリアはあくまでベルくんの奪還という名目で動くだろう。フレイヤ・ファミリアは地下には戦力を送らない。イシュタルが鈍くさくも『女主の神娼殿』から逃げられないのであればフレイヤの子供の誰かがやるだろうけど、あれも中々悪運が強い。地上がロキとフレイヤの眷属で埋め尽くされ、自分の供も少ないとなれば、地下しか道はないからね」

 

 加えて地下に潜伏するという選択肢はあのイシュタルにはない。あれだけ自己顕示欲の強い神だ。雌伏の時と解っていても暗い地下で耐えるということは彼女にはできないだろう。地下狩りまでされる可能性を考えれば、イシュタルはオラリオの外を目指すはずだ。

 

 オラリオ地下の道は入り組んでいるが、出発点が解っていれば後はその周辺を抑えれば良いだけの話だ。懸念があるとすれば早い段階で逃げを決め打たれること。ロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリアを相手に主力を温存し大人数で地下に逃げ込まれた場合、地下でも激闘が予想される。まさか準備万端待ち構えてイシュタルを逃がすということはないはずだが、地下道が崩落などしたら被害は地上の比ではない。イシュタルには命からがら地下までお越しいただきたいというのがヘルメスの本音である。

 

「絵図を描いた上に大将首まで取れれば功一等は俺たちのもので間違いないな。いやぁ内通者まで苦労して作った甲斐があったってもんだ」

「うちだけ儲けたら神ロキと神フレイヤに恨まれませんか?」

「あの二人なら気にしないよ。ロキはソーマでもおごってやれば喜んでくれるだろうし、フレイヤ様はイシュタルの最後を聞かせてやったら、褒めてくれるだろうさ。ま、私がやりたかったって恨み言くらいは言われるかもしれないけどね、そんなの俺にとってはご褒美さ」

 

 イシュタルが送還されたという結果さえ得られれば、フレイヤは文句など言わないだろう。逆に取り逃がしでもしたらヘルメスはオラリオにいられなくなるだろうが、そうならないために手回しにも全力を尽くしたし、眷属にも綿密な指示を出した。適当を絵に描いた神という世間の評判に反して、今回のヘルメスは本気である。

 

 懸念と言えばフレイヤよりもロキである。彼女の考えていることはイマイチ読めない。他神を刺す時に笑顔でやれるという点ではフレイヤと共通する所があるが、物事のどの辺りを妥協点とするのかが、ロキについては見えてこない。

 

 着地点がその線よりも手前で、彼女の不興を買うのも面倒な話である。最終的な取り分では損をしないどころか大儲けという所にまで調整している。それこそ、作戦の過程で娼館を目についた端から吹っ飛ばしでもしない限りは、赤字にはならないはずなのだ。ベルにも見せ場はきちんとあるし、何よりイシュタルの顔をしばらく見ないでも済むようになる。正直これ以上の絵図は描けそうにない。

 

 後は自分たちにとってのアクシデントが起こらないように祈るばかりだが、神たる身でもそればっかりはどうしようもない。もっとも、その不運をこよなく愛するからこそ天界を離れて地上にきたはずなのだが。神とて環境には慣れてしまう生き物なのだ。退屈こそが神を殺すとはよく言ったものである。

 

「俺も状況を確認しておこうかな。アスフィ、ガイドを頼むよ」

「おや、こう何度もお出ましとは今回は本気ですねヘルメス様」

「ここを落とすようじゃオラリオにはいられなくなるからね。いくら俺でも本気になるさ」

「お好きなようになさってください我が主神様。一応、夜逃げの準備も既に済んでおりますので」

「……やっぱりうちの団長はお前しかいないな。いつも頼りにしてるよアスフィ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 作戦決行当日。ロキはその日まで特に何をするでもなくただ待った。特等席で事態を見物するための準備だけ整え、バベルまでの馬車も既にこっそりと待たせてある。後は眷属をたきつけるだけだ。

 

 事細かに説明する必要もない。謀などたった一つの言葉だけで全てが転がり、行き着く所まで行きつくものだ。微に入り細に入り手を入れる気分でもない。今日のこの日は勢いで乗り切ると決めたロキは腿上げまでして息を切らせてから自分の部屋を飛び出し、眷属の屯している食堂に飛び込んだ。

 

 リヴェリアがいる。レフィーヤがいる。今日はエルフのグループがここを使うのは事前に把握していた。役者は揃っている。心中にやりと笑みを浮かべているのをおくびにも出さず、ロキは居並ぶ眷属に向かって大音声を上げた。

 

 

 

 

 

「大変や! ベルが……イシュタル・ファミリアの連中に攫われよった!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ある愛の女神の黄昏②

 

 

 

 

 

 

 金の動く場所には人間が集まり、人間が集まる所では更に金が動く。金が金を呼び人が人を呼ぶ。金が動く限り人が集まる限りこの流れが停滞することはない。冒険者の街オラリオはまさにこの地上世界の縮図とも言うべき場所であり、その欲望の象徴たる歓楽街もまたこの世のあらゆる欲望が渦巻くオラリオの中でも掃きだめと言えた。

 

 その掃きだめに翡翠の髪を持った一人のハイエルフが現れる。女神も嫉妬する美貌を持つ彼女に周囲のありとあらゆる存在が目を奪われるが、目端の効く者はその装いと供の多さを見て我先にと逃げ出した。翡翠の髪の美女を先頭にした女エルフの集団は、その全員がダンジョン深層もかくやというほどの完全武装をしていたからだ。

 

 その先頭に立つ翡翠の髪のハイエルフ――リヴェリアが大音声を挙げた。

 

「ロキ・ファミリア副団長、『九魔姫(ナイン・ヘル)』リヴェリア・リヨス・アールヴである! 女神イシュタルの眷属に告ぐ! 貴様らが拐かした『白兎』を今すぐ引き渡せ!」

「ついに『白兎』に逃げられたか行き遅れ! 歓楽街にやってきて男を返せとは、とんだ間抜け女もいたもんだね!」

 

 歓楽街はイシュタル・ファミリアの縄張りである。眷属の主構成員であるアマゾネスは歓楽街の治安維持も仕事であるので、そこかしこに監視の目が光っていた。オラリオの歓楽街が規模の割に安心して遊べるのは、彼女らがいるからこそでもある。

 

 そのアマゾネスたちはリヴェリアの宣戦布告とも言える言葉を鼻で笑って返した。お堅いエルフと奔放なアマゾネス。二つの種族が同じことについて論ずるのであれば、その結論が相容れるはずもない。アマゾネスたちの舐め切った態度にリヴェリアの連れのエルフたちが殺気立つが、当のリヴェリアが軽く右手を挙げ、それを抑えた。

 

「リヴェリア・リヨス・アールヴが女神イシュタルの眷属に再度告げる! 貴様らが拐かした我らが同胞『白兎』を今すぐここに連れて来い! さもなければ――」

 

 

 

 

「歓楽街の建物を端から吹っ飛ばす」

 

 

 

 

 

 最初の言葉が事実上の宣戦布告であれば今度の言葉は開戦の宣言である。オラリオでもトップクラスの冒険者であるリヴェリアのこれから実力行使を行うという言葉に、流石の百戦錬磨の娼婦たちも冷やかすことはできなかった。

 

 先のからかいの言葉が娼婦の論理で発せられたものなら、リヴェリアの言葉は徹頭徹尾冒険者として、引いては神の眷属として発せられたものである。完全武装をしていても所詮はパフォーマンスであるという希望を捨てきれていなかったアマゾネスたちは、ここにきてようやくリヴェリアが本気であることを――軽口にキレかけた供のエルフたちが比較にならないくらい激怒していることを理解した。

 

 歓楽街には通信のための鐘楼がいくつかある。その鐘楼に一番近かったアマゾネスが走るのとほぼ同時に底冷えのする声でリヴェリアは指示を飛ばした。

 

「行け」

 

 副団長の意を受けて、女神ロキの眷属が手近の建物に走る。押し問答をする間もあればこそ、着の身着のままで客や娼婦が建物から飛び出してくる。念入りに、建物の中に誰もいないことを確認したラウルが戻ってくると、リヴェリアは呪文を唱えだした。

 

 

【間もなく、焔は放たれる。忍び寄る戦火、免れえぬ破滅。開戦の角笛は高らかに鳴り響き、暴虐なる争乱が全てを包み込む。至れ、紅蓮の炎、無慈悲の猛火。汝は業火の化身なり。ことごとくを一掃し、大いなる戦乱に幕引きを。焼きつくせ、スルトの剣――我が名はアールヴ】

 

 

「レア・ラーヴァテイン!」

 

 

 リヴェリアから炎が放たれ、建物が瞬時に炭となって崩れていく。本来広域に展開するモンスターをまとめて薙ぎ払う規模の魔法を建物一つに絞って放ったのだ。おかげで建物は原型すら留めていないが、周囲に建物には多少コゲた程度の被害しかない。激怒しているくせに恐ろしいまでの集中力である。大魔法を放ってのこの結果から、アマゾネスは否応にも今晩のリヴェリア・リヨス・アールヴが過去一でイカれているということを理解した。

 

 燃やすべきものを燃やしつくした炎は既に消えている。ついさっきまで客を引き賑わっていた建物が炭になってしまったのを見て唖然としているアマゾネスと周囲の客たちに、リヴェリアは地面に強く杖を打ち鳴らした。

 

 

「私は寛大で理性的だ。次を()()のは五分待ってやる。その間に、お前たちが拐かした『白兎』をここに連れて来い! さもなければ歓楽街を更地にするぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春姫に連れられたベルは、『女主の神娼殿』のラウンジにいた。娼館にあるまじき落ち着いた雰囲気の庭園である。何故こんな場所が……と率直な疑問を浮かべるベルに、春姫は首を傾げながら答えた。

 

「お外の方が……そそる? お客様もおられるとのことで。雰囲気作りは意外と大事だと聞き及んでいます」

 

 要はプレイ用の場所である。平凡な風景も知らない人物がここでコトに及んでいたのだと思うと邪な思いが入ってならないが、今は自分のことである。その平凡な風景の中央にあるベンチに、ベルは春姫と並んで腰かけている。歓楽街の中でも『女主の神娼殿』は背が高いため、その中腹にあるこの庭園も、歓楽街にあるほとんどの建物よりは高い位置にある。

 

 そこからは人の営みが良く見えた。ベルの住む『黄昏の館』の方が高くはあるのだけれども、

立っている場所が違えば見える景色も違う。ベルが『黄昏の館』から外を見るのは、朝起きて身支度を整えている時とリヴェリアの座学が終わって部屋に戻ってきた時くらいだ。

 

 それ以外の時間は大体外にいる。この時間、宵の口。歓楽街のドギツい灯りから始まり、オラリオの夜の営みが見える。人々の生活が見える。人間もエルフも小人も狐人も、皆この灯りの中日々を生きているのだ。はぁと感嘆のため息を漏らすベルを見て、隣の春姫が上品に笑う。

 

「気に入っていただけたようで、ようございました」

 

 ふと小さく笑みを見せ、春姫は視線をオラリオへと戻す。その美しい横顔を眺めながら――ベルの視線はどうしようもなく少し下がってしまった。良い雰囲気だと思う。オラリオの夜景は美しいし隣の春姫は美人さんだ。それでも、何というかベル・クラネルというのは年若い人間の男性であるので、どうしても視線は開いた胸元に行ってしまうのだ。

 

 娼婦が卑猥なことをしてくれる職業だというのは解る。露出の高い恰好をして客の気を引くのが仕事の範疇であることも理解しているし、娼婦であるならそこに種族は問わないことも解る。ここに来るまでにアマゾネスを始め、人間の娼婦も獣人の娼婦も小人の娼婦も何だったらエルフの血を引く娼婦も見た。そこに共通しているのは自分は娼婦だという認識と、これから客を取って稼ぐのだという強い意思から見るたくましさである。

 

 往来、そういう人たちばかり見てきたので、ベルの認識では娼婦というのはそういうものだったのだが、眼前の春姫はここに来るまでに見た娼婦のお姉さんたちと共通点がまるでないのだった。

 

 経験が少ないとかそういうことではなく、ここに来るまでに見たお姉さんたちと眼前の狐人の少女は在り方がまるで違う。冒険者の装備で全身を固めても、神の恩恵を受けていない者が冒険者とは呼ばれないように、娼婦として紹介されて本人がそのように名乗っていても、ベルはどうしても春姫がそうだとは認識できなかった。

 

 では何が問題なのかと言えば、卑猥なことをするための場所でそれらしい卑猥な恰好をした、しかし自分のではないとは言えお金まで払って呼んだ少女を、娼婦と認識できない故に、どこまでやっても許されるのか、その境界が全く理解できなかったのだ。

 

 例えば大きく開いた胸元に手を突っ込んでおっぱいを触ってみたとする。人間の少年としては大興奮だ。そういうことをするための場所で、ベルは客の立場なのだから行動としてはおそらく間違っていない……はずなのだが、それをすると春姫は泣き出してしまいそうな気がする。

 

 冒険者としての危険を乗り越えるために磨かれた感性が、()この少女に手を出してはダメだと全力で警告を発している。理性では納得できる。ベル・クラネルという少年にとってこういう営みは愛があってするものなのだ。お金で一時の快楽を求めてするものではないのだ。こういう場所を全否定するようで気おくれもするが、そうあってほしいという理想なのだから曲げるもなにもない。ベルの希望はそうなのだ。

 

 だが本能はそうは言っていない。煽情的な恰好をした自分好みの美少女が、どうぞどうぞという体で隣に座っているのである。おっぱいの一つも揉んで――そこまで大それたことはしなくても、こうせめて触ってみたいと思うのは男心ではないだろうか。

 

 春姫がベルを見る。理性と本能が戦っている真っ最中とはつゆにも思わず、何やら難しい顔をしているベルににこりとほほ笑みかけた。男を恋に落とす美少女っぷりである。それでベルは心を固めた。触ろう。一回くらいは触りたい。本能が理性に勝った瞬間である。こういうことは勢いだ。決意が鈍らぬうちに、春姫の気の変わらないうちにいざ、と手を伸ばしたその瞬間、轟音が大気を揺るがした。

 

 ベルが春姫を押し倒したのは反射的なことである。押し倒した春姫と地面を転がり、爆音から隠れるようにベンチの影に転がり込む。驚いたのは春姫だ。そういうものだと心構えを持ってはいたがいざ殿方に押し倒されると身体が竦んでしまった。これでは娼婦失格である。

 

 部屋にお布団まで用意したのにまさか外で……轟音は春姫の耳にも届いていたが、一瞬で忘却の彼方である。自分を押し倒した殿方は今どんな顔をしているのだろう。抱きしめられた腕の中でそっと見上げると、そこには真剣な顔で彼方を見つめる男の顔があった。

 

 その横顔に春姫は視線を奪われた。自分を買ったお客様は、年齢の近い人間の男性だった。少年と表現した方が近いかもしれない。愛嬌のある童顔で、冒険者と言われても武器を持ちダンジョンに潜るのがイマイチ想像がつかない、そんな風貌の少年が今、冒険者の顔をしていた。

 

 胸が締め付けられ、頬が朱に染まる。凛々しいお顔……と呆然としている春姫を、先ほどまで邪な気持ちで見つめていたベルは思考の彼方に追いやっていた。轟音と同時に鐘の音が聞こえてくる。ギルドが定めた冒険者の通信用の符丁に依れば、

 

『北東 襲撃 戦闘態勢 救援乞う』

 

 聞き間違いかと耳を澄ませるが、同じ内容の音が更に二度聞こえたことでベルは事態の深刻さを理解した。

 

 宵の口、冒険者でない者も多くいるこの時間帯に、イシュタル・ファミリアが縄張りとする歓楽街に襲撃をかけてきた。冒険者の、それも高レベルを複数抱えグループに違いない。イシュタル・ファミリアも迎撃はしているようだが、鐘の内容を聞くに排除できていないようである。救援を求めている以上、初動に当たった部隊は拮抗しているか押され気味なのだろう。

 

 轟音は一度。最低でも魔法使いが一人はいる。魔法で建物を吹っ飛ばしたのだろうか。何て野蛮な魔法使いなんだろう。うちのリヴェリア様を見習ってほしいと思いつつ、ベルは冒険者としての思考で冷静に自分の取るべき行動を判断した。

 

 ベルの判断は『退避』である。

 

 鐘を打ったのもイシュタルの眷属であれば、救援はイシュタル・ファミリア他、歓楽街に常駐している冒険者に向けられたもの。つまり身内に向けてのものであり、部外者の介入は想定していないどころか歓迎もしていないものと思われる。

 

 一人の冒険者として一般人を巻き込みかねない状況で私闘を始めた魔法使いに思う所がないではないが、武装もおいてきたこの状況で堂々と私闘を仕掛けるような冒険者相手に挑む程ベルは向こう見ずではないつもりである。冒険者は冒険してはいけないのだ。

 

 何をするにもまずは自分と春姫の安全の確保。それでも介入するべきと判断するなら情報の収集である。建物を魔法で吹っ飛ばすような野蛮な魔法使いの襲撃を受けているのだ。できる限り急いで避難しなければ危ないのだが、そこでようやくベルは『女主の神娼殿』に詰める娼婦ならイシュタルの眷属で冒険者なのではという可能性に思い至った。

 

 ベルは今レベル3である。冒険者の75%がレベル2以下であることを考えると上の方と言っても差し支えないが、逆に言えば冒険者の四人に一人は自分と同等以上の力を持っているということでもあった。

 

 特に女の冒険者は見た目に依らない強さを持っていることが多いので、娼婦ではあるがアマゾネスでないからと言って自分が守らなければならないようなか弱い人、ということにはならないかもしれない。自分よりもレベルが高かったら赤っ恥も良い所である。

 

 冒険者のレベルというのは概ね自分から名乗るもので、レベルを尋ねる行為はマナー違反とまでは言わないが歓迎はされない。今は娼館にやってきた客と娼婦の関係である。緊急事態とは言えここで冒険の話を持ち出して良いものか悩んだベルがちらと春姫を見やると、視線を受け止めた春姫はわたわた視線を彷徨わせた末にぎゅっと力強く目を閉じて顎を上げた。

 

 一体何が起こっているのか。理解の及ばないベルが固まっていると、何を思ったのか春姫はえいと小さく気合を入れてベルの首に腕を回した。突然の行動にベルがぎょっとする。

 

「春姫さんっ!?」

「ご安心ください! 経験の浅いダメ狐ではございますがこれでも娼婦です! お客様のご期待には応えてみせますっ!!」

「期待どうこういうのであればとりあえずどこか別の場所に行った方が……」

「春姫は! お外でも! 問題ありません!」

 

 変な方向に覚悟が固まってしまってどうしようもない。抱き着かれているせいか春姫の良いにおいで頭がくらくらするが、素面の状態で煩悩に負けて危険を看過するようでは冒険者として命がいくつあっても足りない。理性と煩悩ならば煩悩が勝つことが往々にしてあるのが冒険者であるが、理性に危機感が加わると煩悩など凌駕するのだ。危機感のない人間に冒険などできるはずもないのである。

 

 組みついてきた春姫の力は意外と弱い。懸念の通り春姫が自分よりもレベルが高かったら最悪ここでいたすしかなかった所であるが、これなら担いで逃げることも可能だ。お外でいたすということに未練が激しくあるが、変装までして入った娼館でトラブルに巻き込まれて衆目にさらされるのは御免である。

 

 娼婦を担いで娼館を走り回るというのもそれはそれで特殊なプレイのような気がするが、ここは緊急事態なので由とする。善は急げと春姫の膝に腕を回そうと姿勢を変えようとして――ベルは初めて庭園に自分たち以外の存在がいることに気づいた。

 

 一体いつからそこにいたのか。地面に突き立てた大剣に手をかけてにやにや面白そうに自分たちを眺めていた。ベルが気づいたことに気づいたそのアマゾネスの女性は、両掌をベルに向けてどうぞ続けてと無言で促してくる。

 

 あんな感じでおっぱい触ろうとしていた所も眺められていたのかと思うと死にたくなる。ここで更に恥の上塗りは御免だと、ベルは春姫の頬をつかむと半ば無理やり女性の方を向けた。

 

 春姫もきつく閉じていた目を開き女性を見た。すると、言葉にならない悲鳴を挙げてその場ですてんとひっくり返ってしまった。慌てて春姫を抱き起すベルに、女性の笑い声が響く。

 

「お前がここまでガツガツ行けるとは思わなかったよ。意外と娼婦に向いてるんじゃないか? それともそこな坊主がよほど好みだったか」

「こ、好みなんて……」

「そこで色気のある言葉が吐けない内はまだまだ半人前だな。さて、あたしはアイシャ・ベルカ。まだ延長の確認が入るような時間じゃないんだが、こっちも立て込んでてね。悪いんだが『白兎』あんたにはここで死んでもらうことになった」

「一体またどうして」

「お前は関わりないことだと思うが上の事情が絡んでてね。こっちも、お前を誘拐してここに連れてきた手前、話が大きくなり過ぎるのも困るんだ」

 

 武装した冒険者に剣呑な雰囲気。刃傷沙汰になる気配は肌身に感じるが、それ以上に事情が見えてこない。誘拐したというのは一体どういうことなんだろう。上の事情があるというのは本当のことなのだろうが、どうにも行き違いがあるような気がする。

 

 名前を偽ってこういう所に遊びに来た以上ベルの方にも後ろ暗いことがあるのは事実だが、それでイシュタル・ファミリアの副団長が、武装してまでやってくるというのは理解ができない。

 

 弁解、はしても意味がないだろう。立場のある人が武装してここまできた。それにどういう訳だが身元までバレている。加えて、歓楽街は今襲撃を受けており、顔役であるイシュタル・ファミリアはその対応に動かねばならない。

 

 それにも関わらず、戦力的にも重要な位置にいるはずの副団長が武装してここに来て、死んでもらうとまで言っている。解せないことはあっても、本気なのは見て取れる。

 

「待ってくださいアイシャ様! この方は『白兎』様ではありません!」

「娼館で偽名を使うなんて客にも娼婦にもよくあることさ。特に男の客はね」

 

 装置を解くと本来のベルの姿が露になる。白い髪に赤い目。音に聞く冒険者『白兎』の特徴に春姫が目を丸くする。

 

「見逃してもらうという訳にはいきませんか?」

 

 無駄な問と理解しながら、ベルはアイシャに問いかける。その間も、視線は静かに周囲の確認を始めていた。高層階ではあるが飛び降りられない高さではない。相手の『本拠地』であるが今は襲撃の最中。爆発した方へ団員が向かっているのを感じるに、普段よりも眷属は少ない……はずだ。

 

 自分よりも高位の冒険者と真剣に戦う機会。ベル個人として戦いたいが、武装もなくまして敵地で緊急時。逃げるのが最善だろう。逃げ切れる確証はないが、勝ち目の薄い場所で勝ち目の薄い戦いをするのは冒険心が強すぎる。戦うのは最後の手段にするべきだ。

 

「話題の冒険者を逃がしたとあっちゃ娼婦の名折れさ。見た目の通り私は床上手でね。かの『白兎』にも満足してもらえると思うよ?」

「遊びに来たのは事実なので、本当に遊んでもらえるならそれでも良かったんですが、できればその武器から手を放してくれませんか?」

「こういう場所で、私は娼婦だ。初体験で冒険するってのも悪くないんじゃないかい?」

「冒険者は冒険してはいけないと、ギルドの担当の人に言われてるもので」

「生真面目な女、種族はエルフ……多分ハーフだね。年はお前と大して変わらないだろう。十九ってとこじゃないか?」

「…………」

「娼館で遊ぶなら、もう少し肝を太くしておきな。何でもかんでも顔に出してたら、骨も残さず女に食われちまうよ」

「肝に銘じておきます」

 

 苦笑と共に春姫から離れ、アマゾネスに向かい合う。あちらは完全武装、こちらは平服。不利を通り越して無謀の領域である。せめて装備があればと思うが、今日はダンジョンには行かないということで部屋に置いてある運搬も可能な装備箱に入れてきてしまった。アテナ・ファミリアに行った際に仲良くなったレグルスくんから勧められたもので持ち主の身体の大きさや装備品種類や数によって中身をカスタマイズできるという優れものだ。

 

 あの箱一つあれば当面の体勢は整うのだ。あの箱があれば……というベルの思考を遮るように天から降ってきた何かがベルの近くに着弾した。轟音と共に土煙が舞い上がる。襲撃を警戒していたベルは当然の行動として春姫を庇う位置に移動するが、対するアイシャは気安い顔だ。

 

 これも予定の内なのだろうか。それでは()()は一体何なのだろう。疑念と深まる中軽土煙が収まると、そこにはベルが脳裏に思い描いていた獅子の図柄が刻印された銅色の装備箱があった。思わず天を見上げる。快晴だ。雲がないではないが、装備箱が降ってきそうな空模様ではない。

 

 理解が及ばないベルに対し、どういう訳かアマゾネスの理解は早い。からから笑った彼女は大剣を収めて、装備箱を示す。

 

「ほー、装備が降ってくるとは天もたまには気の利いた天気にするもんだ。先輩としての礼儀だ。それつけるまでは待ってやるよ」

 

 待ってくれるなら見逃してほしいものだ。春姫を連れて逃げられないか。隙を探してみるが眼前のアマゾネスには隙がない。ティオナほどではなさそうだが少なくとも自分よりはレベルが上のように見える。逃げられないのであれば戦うより他はない。

 

 観念したベルは装備箱を開け、装備を身に着ける。レフィーヤから貰った防刃シャツは別に保管してあるので、今の服の上から身に着ける。普段着とは言え冒険者の着るものだ。普通の人が着るようなものよりは頑丈であるが、ダンジョンに潜るには、もっと言えば自分より高位の冒険者と戦うには心もとない。

 

 どうせなら予備の服も突っ込んでおこうと心に決めたベルは、剣帯に全ての武器を通した。左の腰に『紅椿』右の腰に『果てしなき蒼』を吊るし、魔剣『不滅ノ炎』も一緒に右に吊るす。以前は背中に着けていたが、転がる時に邪魔になるということで小太刀と一緒に横に着けることにしたのだ。

 

 フル装備となったベルは身体の感触を確かめるように二度三度飛び跳ねる。ここが娼館で相手が戦闘娼婦であるということを考えなければ感触は悪くない。

 

「まぁまぁの男っぷりだね」

「お褒めいただきありがとうございます」

「私も娼婦だ。宵の口、男とするのが武器を持った戦いってのも無粋で仕方がないんだが……これも仕事だ。諦めておくれよ。その代わりお互い生きていたら、ロハでサービスしてやる」

「楽しみにしておきます」

 

 

 

 

「イシュタル・ファミリア()()()()()()()、『麗傑(アンティアネイラ)』アイシャ・ベルカ」

「ロキ・ファミリア、レベル3、『白兎』ベル・クラネル」

 

 

 

「夜はまだ始まったばかりだ! イシュタル・ファミリアのアマゾネスの手管、存分に楽しんでいきな!」

 

 

 

 

 

 



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ある愛の女神の黄昏③

 

 

 

 

 

 

 

 

 神とは元来自由な生き物である。地上の子供の倫理とかけ離れた存在である彼ら彼女らは当然地上の子供とは異なる倫理観で動く。情を交わすのに血縁を忌避することなく、推しの違いで情や契約を飛び越えて闘争し、そして故あれば裏切り故なくとも裏切る。

 

 故に、好き勝手に生きる神々は、神々は落ち目とみるや攻撃することに躊躇いや容赦はない。

まして存在そのものが己の利益と相反するというのであれば、嬉々として号令を下すのである。

 

 自分が追い詰められた立場にいることを悟ったイシュタルは、しかし冷静だった。顔を突き合わせて『神会』などとつるんでいる方が異常だったのだ。神々で殺しあうことなど昔はそれこそ日常茶飯事だったのだから。

 

「フリュネは?」

「『九魔姫』の相手に現地に向かいました」

「アイシャは?」

「現在春姫の捜索中です。まだ見つけたという報告はありません」

 

 つまり最大戦力であるフリュネは帰ってくる見込みがなく、次点であるアイシャは『女主の神娼殿』の中にこそいるが行方不明。作戦の狐の子である春姫も同様だ。加えて今ロキ・ファミリアの『九魔姫』とその一党からカチコミを受けている……というのが現状だ。

 

 交戦中との報告を受けているのは奴らだけであるが、まさか大ファミリアの副団長が自分の一党だけで突撃してくるとは考えられない。奴らの主神はあのロキである。一つ手を打たれたと思ったら他にも無数の手を打っているとみて間違いない。

 

 最悪を想定するなら全ての眷属を投入していると考えるべきであるが、更に最悪を考えるのであれば、最近ギルドを介して態々『共同歩調を取る』とまで宣言したフレイヤ・ファミリアまで投入されているかもしれない。

 

 そしてその二つのファミリアがやるとなったら残り全てのファミリアもなだれ込んでくるだろう。ロキとフレイヤ。この二柱がやると決めたらそれは即ち遠からず実行されるということである。

 

 全く忌々しいことこの上ない。いずれ滅ぼしてやるつもりでいたフレイヤ・ファミリアであるが、それは準備万端整ってからの話だ。そもそも眷属の力で劣るからこそそれを埋める手段をイシュタルは求めたのだ。積み上げたものが脆くも崩れ去ろうとしている。自分がどうしようもない所まで追い詰められつつあると認識したイシュタルの行動は早かった。

 

「フケるよ! 『女主の神娼殿』の中にだけ撤退の鐘を鳴らしな!」

『了解!!』

 

 イシュタルの言葉は外にいる仲間を見捨てると言っているに等しかったが、それだけ追い詰められているということを理解していたアマゾネスたちの行動もまた早かった。ほどなく『女主の神娼殿』の中に一定のリズムで鐘の音が鳴り響く。それはイシュタルの眷属たちの間で決めた符丁であり、意味は『現在の拠点を放棄してオラリオの外まで逃げる』である。

 

 娼館でありイシュタル・ファミリアの『本拠地』でもある『女主の神娼殿』は、豪奢な造りでありながら、イシュタルの意思を反映して小型の要塞としても機能するように設計されている。防火壁という名目で設置された隔壁は逃走を妨害するための装置でもあり、イシュタルの私室から地下通路への入り口までの最短距離を守るように展開される――と見せかけて、見当違いの方向に誘導するように設計されている。

 

 実際に脱出口までのルートは通路ではなくほとんど部屋を経由して行われる。一つの階層に最低二つは下の階層に降りられる梯子が隠してあり、そしてその部屋を経由してでないと、隔壁が全て降りた状態で脱出口に辿り着けないようになっている。

 

 金目の物を詰め込んだカバンを背負い――口さがないアマゾネスたちはこれを夜逃げボックスと呼んでいる――近場にいた眷属たちに指示を出しながら、ふと思い立ったイシュタルは絵画の裏の金庫を手早く開けると、宝石箱の宝石を半分だけ掴みだし、三本あったソーマのうち二本を思い切り窓の外に向かって放り投げた。

 

 つまらない細工であるが『神会』の面子の大多数が入れ替わりでもしない限りはオラリオには戻ってこれない。僅かでも混乱すれば良いさと小さく笑みを浮かべたイシュタルはそれで未練を全て断ち切り、廊下を横切ると眷属を引き連れて梯子に飛びついた。

 

 眷属はできるだけ連れていきたい。『九魔姫』の迎撃に出てしまったフリュネは諦めるにしても、まだ『女主の神娼殿』にいるはずのアイシャはできれば拾っておきたいのだが、奴は眷属の中でも特に春姫に固執していた。オラリオからの撤退を決めた主神と春姫だったらあの女はこれ幸いと春姫を取るだろう。

 

 撤退の鐘も主命であるなら春姫を探せというのも主命である。緊急時とは言え眷属に主命に反することのできる建前を与えてしまった以上、こちらも諦めた方が賢明だろう。全く悪いことは重なるものだ。

 

 先を急ぐイシュタルの耳に轟音が聞こえた。三階層くらい上――おそらく隔壁が破壊されたのだろう。敵対しているとは言え別のファミリアの『本拠地』に乗り込んできた上、躊躇なく破壊行為に勤しむとは必殺の敵意というより他はない。

 

 オラリオの地において子供が神に手をかけるのは大罪であるが、それが大きかろうと小さかろうと、また神であろうと子供だろうと罪というのは表沙汰にならなければ罰せられたりしないものだ。

 

 これがロキの段取りであればその辺りに抜かりはあるまい。ギルドまで話が通っていると見るのであれば、これまで行ってきた悪事も既に筒抜けになっていると見て良いだろう。ここを乗り切ったとしても、オラリオにいては立場が危うい。やはり逃げを打って正解だった。

 

「となると、外の『九魔姫』は囮ってことかい。ぞっとしないねぇ……」

 

 先ほどの破壊音は居室のある最上階よりも下の階層から聞こえた。『女主の神娼殿』を吹っ飛ばす目的ならば小規模に過ぎ、戦闘の結果であれば単発で継続していない。どこから侵入してきたのか知らないが、私室がも抜けの空であったからそのまま下に降りてきたが、隔壁が邪魔だったので破壊した……そんな所だろう。

 

 侵入者は手練れが最低一人はいるが少数。加えて魔法使いはいないようである。ロキ・ファミリア単独であればアマゾネス姉妹のどちらかあるいは両方といったところだろう。どちらも現状レベル5。フリュネが『九魔姫』相手に外に行ってしまった以上、単独であれを相手にできる眷属はイシュタル・ファミリアには存在しない。

 

 逃走を邪魔されるのであれば戦闘も辞さない覚悟ではあるが、自分を捕捉するつもりで隔壁を破壊したのであれば、脱出口の場所もルートも把握していないのだろう。ダンジョンほど複雑な構造をしている訳ではないが『女主の神娼殿』はオラリオにある建造物の中でも単純に広い。

 

 まだ上の階層にいるのであれば、ここから捕捉されることもないだろうと密かに胸を撫でおろすものの、誰の元にも降って沸くのが幸運というものでそれは天上の神々にとってさえ埒外のものである。手練れの侵入者が既にいるという事実の前には女神とて逐電を急ぐより他はない。

 

 断続的な破壊音を遠くに聞きながら、イシュタルは程なくして地下二階の脱出口についた。酒蔵の隣に位置する、上の階層からの梯子でしか入る手段のない部屋である。イシュタルよりも先にそこに到達していたのが六人で、イシュタルと共に逃げてきたものが三人と合計九人。アイシャの姿はやはりなかった。今も春姫の捜索を継続しているという体でこのまま離反する腹積もりなのだろう。レベル5のフリュネに続きレベル4のアイシャを手放すのは惜しいが背に腹は代えられない。

 

「行くよ。五人前、四人が後ろだ。全員通ったら脱出口は封鎖しな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一か所だけ壁壊せってロキは何考えてるんだろうね」

 

 ブレイン役のリリルカの指示の下、自慢の『大双刃』で隔壁を破壊したティオナは、己の主神の指示の不可解さに首を傾げた。壁を一枚、下の階にいる奴にも解るようにできるだけ大きな音を立てて破壊せよ。それがロキの指示である。

 

 何故そんなことをするのかという意図をティオナはロキに確認しなかった。頭が悪いということは自覚しているし、聞いた所で仕事の内容は変わらないのだから確認など後でも良いと思っていたら、指示だけ聞いて意図を理解したらしいリリルカがここに来るまでの間に懇切丁寧に説明してくれた。持つべきものは頭の良い友達である。

 

 そのリリルカは同じくロキの指示の通り、それらしい部屋に入ってはそこを漁っている。いわく目ぼしいものを回収しているとのことだが、これまたティオナの関与できない部分だ。持つべきものはデキる仲間である。

 

「終わりました、ティオナ様」

「おっけー。それじゃ次に行こうか」

 

 ロキの指示を受けたティオナたちは、リヴェリアが襲撃をかけて周囲の視線がそこに集中した隙を見計らって歓楽街の建物の屋根を走り、真っすぐに『女主の神娼殿』へと直行した。友好的でないファミリアの『本拠地』に入るなどティオナなどは初めてのことだったが、ロキがどこからか入手してきた『女主の神娼殿』の正確な図面をリリルカが読み込んでくれたおかげで広い建物の中でも迷わずに済んだ。

 

 一度外壁から屋上まで登り、そこから侵入。一路女神イシュタルの私室を目指すもこちらはイシュタルが退去してから侵入すべしとのことでしばらく待機。イシュタルがカバンを背負って眷属たちと出ていくのを見計らってから私室に侵入し、物色をリリルカに任せたティオナは周囲に敵がいないことを念入りに確認してから、二階層を降りて隔壁の一つを思い切り破壊した。

 

 テンション的にはもう二つ三つ破壊したかった所であるが、一つで十分だというのはロキにもリリルカにも念を押されていたことなので、ささっとリリルカの元へ戻って現在に至る。暴れん坊のアマゾネスはリリルカとつるむようになってから無駄に素直になったと評判なのである。

 

「次は?」

「個人的には金庫を攻めたい所ですが、リリの技術で開錠は難しいようなので別の所にしましょう。ロキ様も鍵までは用意してくれませんでしたし」

「扉くらいなら私が壊せるかもよ?」

「ロキ・ファミリアは誘拐されたベル様以外はこの『女主の神娼殿』にいないことになっているので、できるだけ痕跡は残したくありません」

 

 お気持ちだけいただいておきます、とリリルカは小さく笑みを浮かべた。

 

 隔壁一枚ならばどうとでも誤魔化せようが、歓楽街の元締めであり最高級店の金庫の扉が力技で破壊されたとなればその目は冒険者に向かざるを得ず、リヴェリアの宣戦布告によって目下敵対状態にあるロキ・ファミリアが疑われることは必至だ。目撃証言を総合すれば最悪ティオナ個人まで状況証拠を固められてしまうかもしれない。

 

 既にイシュタルの排除が確定的となった以上、後はどれだけ毟り取れるかの勝負だ。フレイヤがそんなことをするはずがないと確信を持っているロキは、これ幸いと火事場泥棒に精を出すことにしたのである。

 

 しかし建前上、まだベルは誘拐されたということになっているので、それを成すためには身が軽く緊急事態にも腕っぷしで対応でき、なおかつ目利きのできる人物が必要になる。その全てを高レベルで満たしていたのがフィンであるのだが彼は陣頭指揮を行うために現場から外せない。

 

 身の軽さで行けば次点はベートなのだが彼は鼻はきいても目端は利かない。更にその次のアイズは鼻まで利かないため更にその次点のティオナに最近仲良しの頭脳労働担当のリリルカを付けて火事場泥棒を行うに至った。

 

 表沙汰にできない仕事に抜擢された。新参だから使い捨てにされたと以前ならば考えただろうが、今は期待されているが故と考えることができる。ティオナをつけてくれたのもその証拠だろう。根が純粋な彼女にコトが済んだら殺せという類の指示を実行する時までバレずにいることができるとは思えない。もっとも、

 

(ティオナ様に殺しても良い奴と思われたら、もう死ぬしかありませんしね……)

 

 ベルが殴られた原因であるにも関わらず、何だかんだでよくしてくれているティオナには心の底から感謝している。そんなティオナに刃を向けられるのであれば、それは仕方のないことなのだろう。死にたくはないが、生まれて初めての友人であるティオナに殺されるのであれば悪いものでもない。

 

 とは言え、死にたい訳では断じてない。生きるために生きていた間違いだらけの小人生が終わり、明日に希望を抱ける日々がようやくやってきたのだ。バッドエンドを迎えないためにもここで一つリリルカ・アーデは役に立つ小人なのだというところを見せなければならない。

 

 手を動かしながらリリルカは考える。

 

 金目の物を盗むのは素人のすることである。ロキ・ファミリアともなれば故買屋の一人や二人は抱えていようが、知らされていないようなものを当てにするようでは程度が知れる。

 

 では足のつかない金そのものを盗めれば良いのだろうが、可能であればそれを狙うということは金を持っている側とて熟知している。こちらにはティオナがいるのだ。彼女が提案した通り後先考えないのであれば金庫破りも可能だが、ロキ・ファミリアの犯行であるという証拠を現場に残してはいけない。破壊しないと手を出せない金庫は存在しないものとして考えるべきだろう。

金庫破りの技術は当面の課題の一つにする。

 

 足がつかない程度にものを持っていくというのもリスクにリターンが見合っていない。既に危ない橋を渡っている最中だ。橋が崩落して濁流に飲まれる可能性を加味した上で、手にした物が小銭では意味がない。リリルカ・アーデは冒険者になりたいのであって、コソドロでいたい訳ではないのだ。

 

 手にするべきはロキ・ファミリアにとって価値あるもの。その形は現金であっても良いし交換価値の高い貴金属やら宝石であっても良い。普通の火事場泥棒ならばそうするだろう。そして自分が例えば女神イシュタル秘蔵の宝石など持って帰ったらおそらく神ロキは褒めてくれるが、満点はくれまい。

 

 あの女神様から満点をもらうにはどうしたら良いのか。暇を持て余して『大双刃』の素振りを始めるティオナを横目に見ながら、リリルカは黙考する。

 

 イシュタル・ファミリアがきな臭いということはソーマ・ファミリアで燻っていたリリルカでも知っていたことだ。いつかフレイヤ・ファミリアなりロキ・ファミリアなりと目に見えた衝突があるだろうと予見されていたが、何故それが今、それも三ファミリア共同でしかもおおっぴらに行われているのか。

 

 勿論そうでなければならない理由があるからだろうが、共同歩調を取ることになったとは言え二大ファミリアが合同でかかるとなると緊急性は非常に高い。計画があった上でのことであっても、ここより先に延ばすとデメリットが上回ると考えたか。

 

 ならば何らかの時間経過すると現状への回復が難しくなるような計画ないし陰謀が進行していたと考えるべきだ。当然、イシュタル・ファミリアだけでは二大ファミリアの片方にだって勝てる訳はないのだから、直接ぶつかることを考慮していたのであれば最低限、片方のファミリアには完勝できるだけの――それも、時間をかけて少しずつではなく、一度で大打撃を与えるくらいの算段がついていなければ割に合わない。

 

 そこまで考えて自己採点を行う。裏で進行していたシナリオとしては、それなりに筋が通っているように思う。では、そんな計画があったとして、ロキ・ファミリアの取り分が最も大きくなるためにはどのような行動を取れば良いのか。

 

 無難に行くのであればイシュタル・ファミリアの汚れ仕事の証拠だ。事実今までリリルカが集めていたのは裏帳簿及び取引の記録。これを片っ端からカバンに詰め込んで現在に至る訳であるが、満点を狙うならばここから更に加点が欲しい。

 

 何しろここまでならば『書類を持ち出せるだけ持ち出せ』とティオナに頼んだだけでも達成できる。流石リリだね! と後でベル様に褒めていただくためにさて後は何ができるか。考えたリリルカはティオナを引き連れてイシュタルの私室に戻った。

 

 撤退が済んだのか喧噪は既に『女主の神娼殿』から消えている。戦闘の音は外からしか聞こえていない。ロキの話通りであれば、北東の方角でイシュタル・ファミリアの主力とリヴェリアたちエルフ組が交戦中のはずだが、まさか負けるはずもなし一先ずそれはおいておこう。

 

 仮に。3ファミリアが今攻めなければならないような事態が女神イシュタルの主導ないし参画で進んでいたとして。その確たる証拠となるようなものがまだこの部屋に残されているとして。それは一体どこにあるだろうか。

 

 部屋の中央に立ち、部屋をぐるりと見まわしたリリルカの目は壁にかけられた絵画に留まった。部屋のどの位置からも見やすい位置にかけられており、寝台から見るとそれは正面にある。はめ込みの金庫を置くならここしかないがさて……と、絵画をどけるとやはり金庫があった。

 

 取ってに手をかけるとすんなりと動く。鍵はかかっていない。よほど慌てていたのだろうかと思いながらドアを開けると、中には中身のほとんどがなくなった宝石箱と一本のソーマがあった。少し前までソーマの眷属であったからそれがソーマの中でも最高級の品であることは解る。

ファミリアの中毒者どもならば、これを得るためならば冒険者の二三人は平気で殺すだろう代物である。

 

 奥まった位置にあることから、元々三本あったうちの最後の一本だと思われる。脱出する時に宝石と一緒に掴んで前の二本を持って行った。この一本はその名残だろう。最高級のソーマはほとんど神々専用と聞いている。これ一本でも一財産であるしロキもソーマを嗜んでいたはずだ。これを持って帰るだけでも面目は余裕で立つと安堵したリリルカは、そのソーマを掴み……動きを止めた。

 

 動きを、見えない何かに誘導された気がしたのだ。ソーマを元の位置に戻し、金庫の中を眺めてみる。

 

 落ち着いて眺めてみると金庫の中は綺麗すぎた。宝石箱の位置もソーマの位置も、平素に決めた場所から動いていないように見える。宝石の取りこぼしもない。一番手前の一本だけを急いで取るならばともかく、ソーマは二本持ち出されている。宝石だってそうだ。掴んだ宝石を持っていく余裕があるなら、箱ごと持っていけば良いのだ。

 

 慌てていて理屈にかなった行動ができなかったということは神だってあるだろう。だが金庫の扉はきっちり閉められていたしそれを隠す絵画も別にズレていたりはしなかった。にも拘わらず鍵は開いていたのだから、そこには何か意図があるはずだ。本当に急いでいるなら金庫を閉めた上で偽装工作などするまい。急いでここを開けて中身を出したと次に開けた見知らぬ誰かを誘導させる意図が中途半端に働いている。隠す意図はあるが看破された所で問題ないという神らしい傲慢さを感じたリリルカは宝石箱とソーマを金庫から出し、その中身を調べ始めた。

 

 あった。奥の底。違和感のある場所をいじってみると、二重底からもう一つ箱が出てきた。金庫の中に残された宝石箱と異なり、東方風の古ぼけた木箱である。一度深呼吸をし、意を決して開けてみる。

 

 中から出てきたのは石が一つ。一目で曰くのある品だと解る真っ黒な石である。この手の品の鑑定はできないリリルカだが、金庫にあったソーマも宝石も、この石の価値には及ばないのだと理解できた。元々、あの金庫はこの石を入れるためのものだったのだ。

 

「お手柄だねリリ」

「ありがとうございます、ティオナ様。これとソーマでよしとしましょう。撤退します」

「ベルも探して引っ張ってく?」

「ロキ様の話では男をあげる最中ということらしいですからね。邪魔しちゃ悪いでしょう」

 

 如何わしい雰囲気を出してロキは言っていたが、戦闘娼婦に手ごめにされるベルというののもイマイチ想像しにくい。そういう危機があってもベルならば無難に乗り越える気がする。

 

 万が一戦闘娼婦に手ごめにされて大人の階段を上ってしまったとしても、リリルカには何も問題はなかった。男性の初めてをありがたがるなど身持ちの固いエルフくらいのものである。リリルカはそんなものに興味はないし、そういう状況はむしろチャンスとさえ思う。席順に拘りがないのであれば異性に手を出すことに抵抗がなくなることはプラスにしかならない。

 

 出遅れているリリルカにとってはまたとないチャンスだ。先を走る二人がエルフであるというのも追い風が吹いている。事実どうであったとしてもイシュタル・ファミリアに『誘拐された』という事実は変わらないのだ。それがエルフにとって無視できないことであっても良いし、なくても構わない。経験済みという風聞は誘う側にもメリットがある。ベル周辺の事情がどう転ぶのか解らないが、何にしても此度の結果待ちである。

 

「リリ、楽しみだね!」

「最初は二人きりでお願いしますねティオナ様」

「もちろん! あ、リリが先で良いからね」

「ティオナ様……」

 

 当たり前という風ににっこり微笑むティオナに、この方は何て良いアマゾネスなのだろうと、リリルカは感動した。



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ある愛の女神の黄昏④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姫君なだけあってリヴェリアは故郷で色々なものを学んだという。その内一つが杖術だ。きちんと指導を受け長い時間をかけて鍛錬を重ねた技術は、本職の前衛を前にしても目を見張るものがある。そこにレベル差があるのならば猶更だ。ほぼ前衛で占められるイシュタルの眷属のアマゾネスたちは、最もレベルが高い団長のフリュネでもレベル5である。

 

 レベルが1高ければ後衛職でも前衛を殴り殺せるのがレベル差というものだ。そこに技術が加わればどうなるのか考えるまでもない。

 

 アマゾネスと戦端を開いて以降、リヴェリアは一度も魔法を使っていない。迫りくるアマゾネスたちを杖のみで打ち倒し、今や彼女らは死屍累々である。倒れ伏すアマゾネスたちをつまらなそうに一瞥するとリヴェリアは杖を打ち鳴らし声を張り上げた。

 

「邪魔だてせぬなら通り抜けるまで。うちの兎は勝手に探させてもらうぞ」

「待ちな、まだ勝負は終わっちゃいないよ!」

 

 リヴェリアの言葉に、大型のヒキガエルのような風貌のアマゾネスが立ち上がる。オラリオにおいて現状最強のアマゾネスの一人であるイシュタル・ファミリア団長フリュネは、未だに起き上がらない仲間たちに向けて怒鳴り声をあげた。

 

「いつまで寝てんだい、さっさと起きな売女ども! ここは歓楽街! アマゾネスの縄張りだろうが! 男漁って生きてるアマゾネスが、ハイエルフに縄張りから男搔っ攫われるなんてあって良いとでも思ってんのかい!?」

 

 その発破がどれだけ効いたのか。ハイエルフであるリヴェリアには理解の及ばぬことであったが、それまで倒れて動かなかった者まで含めて、フリュネの言葉を聞いた全てのアマゾネスが立ち上がり武器を構えた。

 

「さあさ貧相なハイエルフのお姫さんよ、勝負はまだ終わっちゃいないよ! ここから男連れていくなら、あたしたち皆殺しにしていきな!」

 

 フリュネの啖呵にアマゾネスたちは雄たけびをあげる。オラリオ中に響けと言わんばかりの大声にリヴェリアに付き従うエルフたちは顔をしかめるが、リヴェリアは平素であれば顔を見ることもないアマゾネスたちの振る舞いに感じ入る所があった。

 

 そこにはいくらなんでも殺しはすまいという打算も確かにあったのだろうが、彼女らは彼女らなりに己とその環境に誇りを持っているのだということが見て取れた。腰を僅かに落とし、アマゾネスたちに向けて杖を構える。

 

「ならば私もいくらか敬意を持って相手をしよう。『九魔姫』の杖の冴え、試す覚悟の固まった者からかかってこい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アマゾネスたちが突っ込んでは返り討ちにされ、しばらくしてから起き上がりまた突っ込んでは返り討ちにされる。そんな大乱闘ループが始まったエリアを、背の高い建物の屋根から眺めながら、フィンは深々とため息を吐いた。

 

 フィンは昔、ファミリアを発足したばかりの頃、リヴェリアの親友でもあるアイナがリヴェリアのことを『野蛮』と評していたことを思い出す。理性的に振舞おうとするのは、本質的な短気や短慮を隠すためのものであるというアイナの弁は、こういう状況を目の当たりにすると流石に親友と思える着眼点だと唸らざるを得ない。

 

 副団長として指揮も取れる。魔術も達者で知識も豊富で団員の受けも良い。団員に限らず大抵の冒険者はリヴェリアのそういう所ばかりを見て彼女のことをそういう存在だと思い込む所があるが、ハイエルフの王族であるにも関わらずお供一人を連れて冒険者になろうと決意し、実際に実行し成功させたというエピソードの方が、リヴェリア・リヨス・アールヴという存在をよく表現しているようにフィンは思うのだ。

 

 そんなリヴェリアの一面も、こういう時であれば頼もしいものである。アイナ・チュール以外には負けたことがないという杖術を披露する機会を得て大興奮の彼女は、歓楽街に何をしに来たのかさえ忘れつつある。リヴェリアを取り巻くエルフたちもリヴェリアの雄姿に歓声を送っている始末だ。

 

 つまり『神意』は達成されているということである。リヴェリアのチームの本来の役割は歓楽街の戦力の大部分を引き受け、そこに釘付けにすること。ロキからすればリヴェリア達が『女主の神娼殿』に到達し、ベルの戦いに水を差す方が困るのである。

 

 襲撃の報を受けてすっ飛んできたアマゾネスたちは、事実上、今動員できる最大の戦力だろう。歓楽街を根城にしているファミリアは他にもいるはずだが、ロキ・ファミリアの襲撃という事態に動く気配を見せていない。今出てこないのであれば大勢が決するまでは出てこないだろう。これもロキと、フィンの読みの通りである。

 

 ロキ・ファミリア単体でも達成できただろうが、今夜の件にはフレイヤ・ファミリアとヘルメス・ファミリアの協力も得ている。主要路の封鎖は既に終了した。地下はヘルメスが請け負っており、万が一そこを突破されても地下通路の出口には既にフレイヤ・ファミリアの冒険者たちが抑えていた。アリの子一匹逃がすつもりはないという布陣に、フィンの顔にも思わず苦笑が浮かぶ。

 

 ほとんどのことはフィンの読み通りに進んでいる。女神イシュタルは今夜、天に召されることだろう。後は我らがベル・クラネル。彼は今宵飛躍できるかどうかであるが、

 

「そこは君の腕次第。良い夜を、ベル・クラネル。今日は死力を尽くすには良い月だ」

 

 天には赤みがかった満月が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベル・クラネル。今オラリオで最も注目されている冒険者だ。年単位の時間をかけてようやく上げるレベルを冒険者になってまだ一年もしない内に二つも上げた傑物である。

 

 だが女神イシュタルとその眷属たちにとっては、オラリオのパワーバランスを崩したという事実の方が印象に残る。

 

 ロキとフレイヤが共同歩調を取ることになったのだ。ギルドから声明まで発表されており、共同でダンジョン攻略に挑むことも計画されているという。同郷出身という妙な連帯感こそあったが決してなれ合うということをしなかった二柱が、ベルからのお願いという実に直接的な方法で結束を強めたことにより、最強の二つのファミリアがぶっちぎりで最強の一つのチームになってしまった。

 

 イシュタルの計画では全てが上手くいった暁にはフレイヤ・ファミリアを出し抜けるというものだったが、それはフレイヤ・ファミリア単独での話である。同等の戦力を有していると目されるファミリアが更に一つ追加となれば、単純にイシュタル・ファミリアの方もその分戦力を上積みしなければならない。

 

 潜在的に、ロキ・ファミリアやフレイヤ・ファミリアに消えてほしいと思っている神はそれこそごまんといるだろうが、そのために危ない橋を渡っても良いと思っている神はそれこそ皆無と言って良い。このまま計画を続行したとしても、破滅することが目に見えている。いくら主神のイシュタルはフレイヤ憎しと心に炎を燃やしていても、勝てる見込みの薄い勝負に全財産を突っ込むほどの向こう見ずではないと眷属としては思いたい所だ。

 

 喧嘩っぱやいアマゾネスたちの間でも、流石に計画は見送りだろうという空気の蔓延していた所に、今回のロキ・ファミリアのカチコミは起きた。フレイヤ・ファミリアでさえなく、ロキ・ファミリアが襲い掛かってきたのだ。アマゾネスたちにとっては寝耳に水だろう。事前に知っていたアイシャでさえ、実際に歓楽街の端で爆音が響いた時には肝が冷えたものだ。

 

 これでイシュタルは破滅する。アイシャの注文通りの展開がここまでは続いていた。後は眼前の『白兎』をどう料理するかにかかっているのだが……彼の攻撃を受け流しながら、アイシャはベルの観察を続けていた。

 

 白髪赤目の人間。性別男。レベル3までのランクアップ最速記録を持つ新進気鋭の冒険者であり時の人。レベル4以降の到達記録も塗り替える見込みの現在最も注目される冒険者であり――強い雄を求める傾向にあるアマゾネスにとっても垂涎の存在だ。

 

 ベルが最速記録を塗り替えたことからも解るように、強い冒険者というのは基本的に少年少女ではない。冒険者の平均年齢が若いのはレベル1だけで、レベル2以上からはそれがぐんと上がる。冒険者の中でも『強い』と一目置かれる存在は決して若くはないというのが普通なのだが、ベルはその常識を大きく覆した存在である。

 

 そしてアマゾネスも惹かれる雄の判断基準が全て強さにある訳では決してない。そのウェイトが強さに大きく傾いているのも事実であるが、娼婦をしているアマゾネスにさえやれ猪人みたいなデカい男が良いとか小人みたいな小さい雄じゃないと濡れないだの、容姿の好悪は少なからず存在する。

 

 だが同様に普遍的な願望だってあるのだ。少年から大人へと羽ばたこうとする年齢の人間の少年を思うさまに蹂躙し己の色に染め上げるというのは、強者に成すすべもなく蹂躙され思うさまに犯されて子を孕むのと同様にアマゾネスの雌心をくすぐるのだ。

 

 その両方が素晴らしいバランスで同居しているのがベル・クラネルという存在である。ヘルメスにこの計画を持ちかけられた時は、何故彼が自分に声をかけたのか考えもせずこの機会が訪れることを天に感謝した。己の主神にさえ心からの感謝を捧げたこともない罰当たりなアマゾネスがだ。

 

 そんなベルの強さはまず本物だ。力量が才能に追いついていないのはひしひしと感じるが、それを補うための鍛錬を欠かしていないことが見て取れる。売りの速さを活かすために常に動き続ける体力も見上げたものだ。付かず離れず戦い機を見ては攻撃を繰り返しているというのにまだ息切れもしていない。

 

 また、戦いながらも思考を切っていない。格上に勝つのは難しいと理解しながらも、それを手持ちのカードでどうやって打倒するのか。基本、一対一でレベルが上の者に勝つのは不可能であると考える冒険者にしては珍しい、勝負度胸の据わった小僧だ。普通の冒険者ならばよほど差し迫った状況でもない限り逃げを打つ。

 

 それをしないだけでも普段のアイシャならば十分に合格点を出して美味しくいただいている所であるが、今はまさにアイシャにとっての差し迫った状況だ。兎を美味しくいただくことよりも優先しなければならないことがあった。

 

 ベルの左右の斬撃を防ぎながら、一度僅かに隙を作る。狙い通りにベルは即座にそれに気づき飛びついた。フェイントを混ぜ、ガードの開いた脇腹に左の小太刀を一閃。レベルが同じであればこれで致命傷だったろう。ましてベルが使っている武器は全てがヘファイストス・ブランドであり、左の小太刀についてはまさに神ヘファイストスが鍛ったと入れる一品だ。武器の性能としては申し分ないのだが――

 

 振りぬいたと思った小太刀が止まってしまったことでベルの動きが一瞬止まった。『果てしなき蒼』はアイシャの腹筋に受け止められ肉を僅かに裂いた所で止まっていた。回避行動に移る暇もあればこそ、

 

「非力なんだよお前は!」

 

 強烈な前蹴りを食らってベルは吹っ飛んだ。追撃を警戒したベルは強引に受け身を取りつつ即座に起き上がり、低い姿勢で二刀を構える。口の端から血が流れていた。あばらの一本でも折れたのだろう。胸に激痛が走っているが、激しい痛みの中でもパフォーマンスを低下させずに動くことはベルの得意技になりつつある。

 

 全身の骨を砕かれまくった甲斐もあったというものだ。心中でここにはいないリューに感謝しつつ、追撃はないと判断したベルは懐からいつもの芋茎を取り出し口に放り込む。

 

「早いだけで浅い突きたぁ『白兎』、あんた女舐めてんのかい!?」

「実力不足は今痛感している所です」

 

 レベルが上の冒険者に挑もうというのだ。実力で自分に勝るというのは理解していたつもりだったが、その差が1レベルならという思いも少なからずあった。僕も経験を積んだ。良い勝負くらいはできるかも……という考えが甘かったというのをあばらの痛みと共に身に刻む。

 

 レベル差は絶対なのだ。それを覆そうというのだから、実力に何か足す要素がなければ話にならない。その要素がベルにはある。

 

 そしてその要素は困ったことに『戦争遊戯』を経た今、オラリオの住民全てに知れ渡ることとなってしまった。

 

 魔剣『不滅ノ炎(フォイア・ルディア)』。現状世界で唯一確認されている再使用可能な魔剣である。その威力は折り紙付きであり、レベル1の差を覆してベルに勝利を齎した。知られているベルの手持ちのカードの中では最も強力なものであり、それ故に最も対策されやすいものである。

 

 常に所在を把握し、自分に向けて撃たせなければ良いだけの話なのだから、実力で勝る冒険者であれば対策は比較的容易である。今現在『不滅ノ炎』はベルの腰に差されており、未だ抜かれていない。ベルも何度か抜こうとはしているのだが、その度にアイシャの攻勢が強まるのである。

 

 仮に抜けたとしても、発動するまでの間に潰される可能性も否定できない。レベルで劣るベルが魔剣を発動させるためには、レベルで勝る相手にそのお膳立てをしなければならないのだ。冒険者が皆ランクアップに必死になる理由がよく解る。

 

 魔剣が発動できないのであれば勝利の見込みは薄い。自分の有利を理解しているアイシャはベルから視線を春姫に向けた。

 

「男の背中を見守るのだけが女の役目だとでも思ってんのかいダメ狐。一つ発破でもかけてやったらどうだい? お前が力の一つも貸しゃあ、『白兎』にも勝ち目が出てくるってもんだろうさ」

 

 そんな都合の良い方法が? と戦闘中故アイシャから視線を逸らさずにベルは意識を春姫に向けた。彼女の表情は見えないが、背後から春姫の息を飲む音が聞こえた。

 

「確かに私はダメ狐ですがそれでも女です。ベル様は背中で仰ってます。これは自分の戦いだから女は手を出すなと」

 

 それは聞き間違いじゃないかな……とは言えなかった。ソロで戦うことに魅力を感じているのは事実だが、皆で協力して強敵を打ち破るというのも悪いものではないとベルは思っている。

 

 急に手を出されたら思う所もあろうが、今この状況から何か魔法でも使って助けてくれるというのであれば、それで春姫を責めたりは絶対にしない。

 

 それをどうにか春姫に伝えてあげたいが、アイシャから視線が切れないし何より空気が読めていない気がする。そんなベルの心情を知らず、春姫は言葉を続けた。

 

「私にできることは、ただ無事なお帰りを祈ることだけです」

「祈っているだけでこいつが目の前で死んだらお前はどうするんだい?」

「ここから身を投げます」

 

 春姫の正気を疑ったベルはついに我慢できずにアイシャから視線を逸らした。べルの視線を受けた春姫は自分の言葉に嘘偽りはないと動じもしない。覚悟の決まった者特有の雰囲気に、ベルの方は気おされてしまう。

 

 ここで負ければ今日会ったばかりの女の子がここから飛び降りてしまう。冒険者と言えども無事では済むまいし、身を投げるといっているのだから例えそこで無事だったとしても別の手段を取る可能性がある。

 

 今日であったというのは春姫の側から見ても同じである。戦うのはベル本人なのだ。一蓮托生する意味はないというのがベルの考えであるが、春姫は自分の言葉に違和感を覚えてはいない様子である。

 

「娼婦が行きずりの男に命を賭けるって? まさか一目で『白兎』に惚れたとでも?」

「私は娼婦。ベル様にお買い上げいただいたこの身は、今はベル様のもの。命がけで戦うお二人を前に、どうやら()()()()()()()アイシャ様を差し置いてベル様の勝利をお祈りする以上、私も命を賭けねばつり合いが取れません」

 

 春姫から視線をアイシャに戻したベルは小さく息を吐いた。言うだけならば誰でもできる。勢いで言ったということもあろうだろうが、女性が故あらば死ぬなどと言った以上、ベル・クラネルはそれを防がねばならない。

 

 元より戦い始めた以上負けるつもりはない。強者を相手でも勝つつもりで戦っていたベルであるが、春姫の言葉で負けられない戦いが絶対に負けることのできない戦いとなった。

 

「あたし以外でおっ勃てたってのは気に食わないが、ヤる男の顔になったじゃないか。これで舐めた腰使いだったら承知しないよ『白兎』」

「全力全開での戦いを、お約束します!」

 

 アイシャを相手に啖呵を切ったベルは二刀を構えたまま腰を落とした。来る。決め手が来ると確信したアイシャが身構えると同時、

 

 

『我が 双脚は 時空を 超える』

 

 

 呪文が耳に聞こえた。『怪物祭』のエキシビジョンマッチで、シャクティ・ヴァルマに見せた技、と思い出したのは戦いが終わった後のこと。加速すると本能で判断したアイシャは己の感性に従って大剣を左側に突き立てる。瞬間、大剣に火花が散った。

 

 駆け抜けた。背後にいるはずの『白兎』目掛けて大剣を振りぬく――その過程で右の脇腹に鋭い痛みが走った。駆け抜けた『白兎』がもう戻ってきたのだ。想定よりも明らかに動きが早いが捕捉できないほどではない。

 

 レベルを考えたら何か魔法を使っているにしても常軌を逸した速度であるが、レベルが二つも違えばそれくらいの速度で走る冒険者は多くいる。今のベルの速度は精々、デカいヒキガエルを思わせる我らが団長殿たるフリュネと同等か、それより僅かに速い程度だ。

 

 売りが速さだけならば猶更問題はない。先ほど非力さを指摘したばかりであるが、右わき腹の傷は死角から斬ったにしては傷が浅い。速度がある分切れ味は鋭いが、腹筋で受け止めた時と比べて傷が僅かに深い程度だ。速度が増した反動か、力はむしろ下がっているように思える。

 

 あるいは単純に、速度を御するだけの力量がまだベルにはないのか。いずれにしても、つけ入る隙は大いにある。

 

 回転を維持したまま、大剣を振りぬく。後退したベルは左の小太刀を鞘に納め、弓の弦を引き絞るようにして、右の小太刀を引いていた。真っ赤な刀身が自分を見ている。そうアイシャが錯覚するのとほぼ同時、ベルは踏み込んだ。

 

(――速い!!)

 

 自分の想定よりも大分速いと瞬時に判断したアイシャは、大剣による防御を即座に諦めた。大剣から手を離し、小太刀の軌道に重ねるようにして左腕を突き出す。次の瞬間、真っ赤な刀身がアイシャの手の平を貫いていた。久方ぶりの激痛に戦意が更に高揚していくのを感じる。戦いの痛みだ。戦いはこうでなくては。

 

 一方、避けずに迎え撃つと思っていなかったベルは動きがアイシャの手のひらを貫いた己の小太刀を直視し、動きが遅れた。その間にアイシャは無事な方の拳を握りしめる。攻撃が来る。たかが一息の間、遅れて動き出そうとしたベルの足は、その場を動かなかった。

 

 ベルが動き出すタイミングに合わせて、ベルの足を踏みつけるようにして踏み込んだアイシャは愉快そうに口の端を挙げる。

 

「ケンカの仕方がなっちゃいないね!」

 

 とっさには動けぬベルの顎に拳を一閃。並の冒険者であれば顎を砕き意識を刈り取る痛恨の一撃だったが顎を跳ね上げられながらもベルの視線はしっかりとアイシャを見ていた。追撃が必要だ。それもそれだけで戦意を喪失するような強い一撃が必要だ。

 

 顎をかちあげられたことで、ベルの身体はフリーになる。そのまま加速――となるはずだったが、加速しようと踏ん張ったベルの身体はがくん、と力が抜ける。意識を保っただけで足には来ていたのだ。それだけ隙があれば十分である。

 

 アイシャは自分の手のひらを貫通した赤い小太刀を引き抜くと、ベルの肩に手を置き、一息で腹を突き刺した。

 

「ベル様!」

 

 春姫の声が庭園に響く。普通ならば勝利を確信するまさに痛恨の一撃であるが、アイシャは己が生み出した光景に強烈な違和感を覚えた。

 

 アイシャ・ベルカはレベル4の冒険者である。イシュタル・ファミリアの副団長として()()()仕事にも携わってきた。並みの冒険者よりはよほど対人戦闘の経験があると自負しているのだが、その経験がこの手ごたえは『軽い』と言っている。武器が業物であることを考慮しても、レベル3の冒険者に対してこの手ごたえはありえない。

 

 眼前の『白兎』は何か理解の及ばないことをしている。その結論に辿り着いたアイシャの耳にベルの文字通り血を吐くような声が届く。

 

 

『我が 意思は 天蓋を 超える』

 

 

 口の端から血を流したベルがにやりと笑う。弱々しい力で肩を掴まれるのと同時、アイシャは後退しようとする――が、先ほどの意趣返しとばかりに合わせて踏み込まれたベルの足がつま先を踏みつけた。

 

 後退は失敗する。その時点で、アイシャは勝負がついたことを確信した。いたずら小僧のように笑うベルに、アイシャも笑みを返す。

 

「ファイア――ボルトっ!!」

 

 爆炎に包まれ、アイシャは意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あ、とベルが思った時には遅かった。覚えたばかりの己の魔法が炸裂し、アイシャが矢のように吹っ飛ぶのと同時に、ベルもまた同じくらいの速度で反対側に吹っ飛んだ。ヒュアキントスを相手に魔剣を使った時とは事情が異なる。両方立ったままの状態で相手が吹っ飛ぶ程の魔法が至近距離でぶっ放したのであれば、術者もまた同じ速度で吹っ飛ぶのが道理である。

 

 アイシャの背後には壁がある。ぶつかればそりゃあ止まるだろう。しかしベルの背後には何もない。『黄昏の館』の女子塔程ではないが、この庭園もそれなりの高さの場所にある。腐ってもレベル3の冒険者。この高さから落ちても死ぬということは……ないと思いたい所だ。

 

 勝負に勝ったのに高所から自由落下とは締まらないものである。後でからかわれること覚悟を固めると、軽い衝撃と共にベルの身体は柔らかなものに包まれた。

 

「春姫さん!」

 

 ベルの声に、春姫は応える余裕がない。吹っ飛んだベルを見てとっさに動いたのだろう。落下するベルを遮るように身体を差し込んだ。そこまでは良かったのだが、レベル4の冒険者をなすすべもなく吹っ飛ばすような爆発で吹っ飛ぶ人体を受け止められるほど、サンジョウノ・春姫というのは冒険者らしい冒険者ではなかった。

 

 多少速度は軽減されたものの、一人で落ちる予定が二人に増え事態はむしろ悪化した。死んでも守ると言いたげに自分を抱きしめてくる春姫のことは好きになりかけていたものの、ピンチであることは変わらない。

 

 地面に落ちるまでの間にせめて春姫だけは何とかしなければならないが、落ちるまでに自分の身体を下にするくらいしか思いつかない。そんな時、ベルにとって天の助けたる声が聞こえた。

 

「てめえの身くらいてめえで守れ間抜け」

「アレンさんっ!」

 

 落下するベルたちよりも速い速度で壁を駆け下りてきたアレンは、ベルと春姫を抱えると更に壁を蹴る。今落ちてきたばかりのコースを、今度は跳んでいる。中々体験できないことに密かに感動するベルを他所に、二人を元の庭園に放り投げたアレンは、質問されるよりも先に地を蹴り夕闇の中に消えた。

 

 アレンくらいの冒険者になれば、このくらいの高さは何てことないのだろう。もう見えない背中にそこはかとないときめきを覚えていたベルは、彼がまるで戦闘を最初から最後まで近くで見ていたとしか思えないようなタイミングで飛び出してきたことに、疑問を覚えることすらなかった。僕もいつかあんなかっこいい冒険者になるんだと決意を新たにしたベルは、ベルに全力で抱き着いたまま目を閉じている春姫に声をかける。

 

「春姫さん、春姫さん、もう大丈夫ですよ」

「……ベル様! お怪我は!? 大丈夫なのでございますか!?」

「僕にとっては一刺しされたくらいはまだまだ軽傷です。それより、装備箱からエリクサーを取ってきてもらえませんか? アイシャさんを助けないと」

「解りました!」

 

 機敏に動けるつもりで走り出した春姫は、その場で盛大に転んでしまった。ごろごろと、まさに転がるように駆ける春姫に苦笑を浮かべつつ、ベルはアイシャの容態を確かめるために歩き出した。遠目には、少なくとも呼吸をしているのが見て取れる。全身焦げているが、エリクサーが三本もあれば何とかなるだろう。

 

 遠くに爆音が聞こえた。歓楽街での戦闘はまだ続いているらしい。そう言えば僕は何故襲われたんだろうと歩きながら考える。こっそり娼館にやってきたという少年として後ろ暗い覚えがあるのは事実だが、それで会ったこともないアマゾネスのお姉さんに命を狙われる程とは思えない。当然アイシャが言っていたように誘拐もされていない。

 

 外の戦闘がどういう事情で始まったのかも全く知らないし想像もつかない。オラリオに来てから大変なことに巻き込まれることの多いが、ここまで蚊帳の外に置かれるのは初めてのことである。

 

 だが、まぁ、何とかなるのだろう。何しろ死闘を生き残ったのだ。無事に『本拠地』まで帰ったら改めて事情を知れば良い。まずは自分でこんがり焼いたアイシャを助ける所から始めなければ。走っていた時と同じように、転がるようにして戻ってきた春姫に、ベルは朗らかな笑みを向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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