IF GOD 【佐為があのままネット碁を続けていたら…】 完 (鈴木_)
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01

< インターネット >

 

PC上で世界中を繋ぐ人類史上最高の技術の一つ。

インターネットにアクセスするだけで、地球の反対側にいる人にさえもコンタクトを可能とする。

しかし、あくまでディスプレイの画面上に文字などの意志が現われるのみであり、カメラ機能等を別で使わない限り、相手の顔は見えない。

そこには意思のみが存在する。

 

 

 

 

中学最初の夏休み、ヒカルは佐為にインターネットで碁を打たせていたが、塔矢アキラの乱入と、その夏休みそのものが終わろうとしていることで、一度はヒカルと佐為の二人はインターネット碁から離れた。

しかし二学期が始まってさほど日が経たない秋晴れの日、ヒカルの家にデスクトップパソコンが届けられた。

業者が運び込む姿を横目に、ヒカルの母である美津子の冷ややかな視線が、明後日の方角を見て、決して視線を合わせないようにしている夫の背中に突き刺さる。

 

「知り合いがな、在庫処分で捨て値近くにまで下がったパソコンを売ってくれることになってなぁ。あまりの安さについ買ってしまった」

 

はははと誤魔化し笑いをする自分の父を横目に、業者の人が最初の設定をしていく様子をヒカルは傍近くからまじまじと眺める。

そしてPCをどこに置くかという段階になって、ヒカルはすぐに自分の部屋を上げた。

ほんの少しだけだが、携帯電話の絵文字も打てない家族より、多少はパソコン知識があると押し通して。

 

結局は、一階にPCを置くスペースが無いことから、PCの置き場所はヒカルの部屋に決まる。

母親として美津子は、ネットゲームに夢中になって本分である学業がおろそかになるのではと危惧したが、ヒカルの懇願に最後は折れてくれた。

 

――まさかうちにパソコンが来るなんてな~

 

――ヒカル、この箱はもしかして以前私が碁を打っていた箱と同じ物なんですか?

 

形に多少の違いはあるが、駅前のインターネットカフェという店でヒカルが佐為に碁を打たせてくれた箱と同じものに見え、佐為はパソコンにペタリと張り付いて隅々まで見渡す。

 

――そうだよ。ラッキーじゃん!ネットカフェだったら塔矢みたいに知ってるやつがいきなり来ることもあるけど、家の中なら誰も来ないから絶対バレねーよ!

 

――もしかして、また箱で打たせてくれるんですか?

 

――ああ。けど俺だってこれから学校あるんだから、夏休みのように一日何時間もってわけにはいかないぜ?

 

――やったー!!やった♪やった♪やった♪ヒカル嬉しいです~♪

 

実体を持たない幽霊の佐為が、ヒカルを本当に抱くなんてことは出来なかったが、無邪気に喜ぶ姿を見るとヒカルまで嬉しくなってくる。

 

「ヒカル?何一人ごと言っているんだ?」

 

いきなり父親から声をかけられハッすれば、どうも佐為との会話が頭の中だけではなく声にでていたらしいと気付く。

 

「ううん、何でもない。これって今日からでもネットできるんだよね?」

 

「ああ、できるぞ。買った時にプロバイダーとも契約しておいたからな。」

 

プロバイダーというものがヒカルにはサッパリ分からない言葉だったが、とにかく設定が終わればすぐにでもネットは出来るということだけは理解した。

 

――あんまり打つと、この前のように騒ぎになるかもしれないけど、少しくらいだったらいいよな

 

夏休み、ネットカフェでヒカルが囲碁を打っていた時、いきなり肩を掴まれ振り向いた真後ろにアキラが立っていたのは、本当に焦った。

たまたま休憩していた時で、ネット碁のウィンドウではなく別のサイトを開いていたからよかったものの、もし佐為が打っている最中に画面を見られていたら、言い逃れできず今頃どうなっていたことか。

今思い出しても怖い気がする。

 

その時アキラは言っていた。

 

saiというネット棋士がインターネット上で話題になっていると。

とてつもなく強く、並み居るネットの強者を蹴散らしていると。

saiが対局した相手の中には、プロ棋士もいて、アマかもしれないsaiの正体が誰なのか皆が騒いでいるのだと。

 

ヒカルがsaiであるとバレずに済み、安堵したのはもちろんだが、アキラの話でヒカルはようやく佐為がどれだけ強いのか、改めて認識できたのも確かだった。

出会ってからこれまでずっと佐為と打ってきたが、まだまだ棋力の低いヒカルでは佐為の実力は推し量れない。

その点、アキラはプロ棋士以上の実力と、そしてネットでsaiがプロ棋士にも勝ったという話から、佐為の実力がプロ棋士以上なのだと分る。

 

佐為が強いことはヒカルも分っていたつもりだったが、相手の顔が見えないインターネット碁で、そこまで『sai』が騒ぎになるとは予想もしていなかった。

家にパソコンがやってきて、これからいつでも打てるようになったのは喜ばしいことだが、また打ちすぎて騒ぎにならないようにだけは気をつけなくてはならない。

パソコンを操作するのはヒカルでも、石の打つ場所を指示し、本当に碁を打っているのは佐為なのだ。

佐為と対局したことでアキラがヒカルを追ってきたように、次はsaiとして自分が騒がれるのだけは勘弁してほしい、とヒカルは思う。

 

目の前で業者の人がPC機器を沢山のコードで繋げていく様子をヒカルが眺めながら待っていれば、約2時間くらいで組立から設定までの作業が終わったらしい。

 

「おまたせしました。初期設定は全て済ませましたので、これからすぐにネットもできますよ」

 

その言葉を待っていたとばかりにヒカルはPC用のイスに座る。

PCの電源立ち上げなどは、組み立てを業者の人がしている間に付属の説明書を読み、一応の手順は実地で教えてもらった。

 

電源を入れ、囲碁ソフトのウィンドウが立ち上がるのが待ち遠しい。

 

「それじゃ父さんは下でお茶をお出しするが、お前はいらんのか?」

 

「ん、いらない」

 

父親の言うことに顔も振り返らず、生返事だけして画面にウインドウが立ちあがれば教えてもらった通りにカーソルをクリックしていく。

 

――よっし。入れたっと。それじゃ行くぞ、佐為。

 

――はい!

 

参加者名簿の中から適当な人物を選んで対局を申し込む。

 

インターネット碁に再びsaiが現れた瞬間だった。

 

 

HNは以前と同じ< sai >

 

対戦成績は一敗一引き分けもついていない全勝の成績

 

 



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02

アキラと対局した日から消えていたsaiが、再びネット上に現われるようになった。

観戦者の数は日増しに膨大なものになっている。

これだけ強いのに関わらず、誰もsaiについて知らない。

根拠のない憶測だけがネット上を空回りする。

そしてsaiもまた以前と変わらず、チャットを一切せず、自身の素性は隠したまま碁盤にその軌跡だけを残していく。

 

ネット碁で強いと噂されているsaiと対局したあの日のことを、アキラは鮮明に覚えている。

自分の遥かに上を行く棋力、考え抜かれた深いヨミ。

そのどれもがアキラでは歯が立たなかった。

けれど、対局の途中で打たれた一手が、どうしてもある人物と重なってしまう。

 

一旦思い込んでしまうと、その先入観はなかなか捨てられない。

そしてsaiの対局を観戦するたびに、saiの碁の中に彼の存在を探した。

 

半年前、自身の碁になんの疑いも持たなかったアキラを無邪気に、そして徹底的に叩き落とした進藤ヒカルの碁が、アキラは忘れられなかった。

 

「昨日見たかい?」

 

「ええ、見ました」

 

兄弟子である緒方が何を言いたいのか、長年の付き合いのおかげか、主語が抜けていても多少のことならアキラには分かってしまう。

アキラが生まれる前から父の弟子となって囲碁を学んできた緒方は、血は繋がっておらずとも、本当の兄と言っても差し支えくらいだった。

小さい頃はよく遊んでもらった記憶がある。

それと同時に、数えきれないほど碁も打ってきた。

 

「で、どうなんだ?君はsaiの正体が誰か分かったのか?」

 

問われてアキラは顔を俯いてしまった。

 

何度ネット碁でsaiの対局を観戦しても、saiが進藤ヒカルなのか、それとも違うのか確信がどちらも持てない。

以前のヒカルは古い定石を平気で打っていた。

それでもアキラはヒカルに全く敵わなかったわけなのだが、ネットの saiの強さはそんなものに収まる範疇ではない。

実の父であり、名人のタイトルを持つ行洋と同等の棋力、気迫、胆力は、強かったとはいえヒカルと似ているどころか、それ以上だった。

なのに、あの一手だけがどうしても引っかかり、アキラを悩ませる。

 

「……わかりません。」

 

しばらく思案し、アキラはようやく言葉を紡ぐことができた。

 

「そうか」

 

「緒方さんはどう思いますか?」

 

「さあな。saiには惹かれるが、打ち筋は全く覚えが無い」

 

最近では棋院の中でもsaiの名前が聞かれるようになっていた。

名人の息子であるアキラが負けたことを知って安心としたのか、プロの中でもsaiと対局したことのある者が名乗りを挙げ出す。

まるで、それが自慢のように。

 

負けた対局を自慢するなんて到底信じられなかったが、どうやら勝ち負けではなく、saiと対局できたことを言いたいのだとアキラはいつしか理解した。

夜のほんの短い間だけネットに現れるsai。

かの存在に対局を申し込むネットユーザーは多い。

その中で自分が幸運にも打てたことが嬉しいのだろう。

 

世界中の棋士がsaiの打つ碁を見ていると言っても過言ではないことを、sai自身は気付いているのだろうか。

 

「昨日の棋譜を持ってきた。先生に見てもらおうと思ってな」

 

「お父さんにですか?」

 

「先生はこれまで海外のプロ棋士とも沢山打っている。前も見てもらったが、昨日の棋譜は……」

 

そこまで言って緒方は言葉を止めた。

最近saiは疑問手を打つ時がある。

それまでは、全く完全無欠の碁を打っていたのに、不意の一手と言ってもいい。

 

しかし意味がないかのようにさえ見える一手は、後になって来ると、全ての石と連絡しあう要石と変貌する。

それが昨日の対局でも現われた。

一歩間違えばsai自身を滅ぼす諸刃の一手に近い。

まるで手に入れた新しい武器の使い方にまだ慣れていないような、試行錯誤で試しているような印象を観戦者に持たせる。

古い定石から新しい現代の定石へと、saiの碁が生まれ変わろうとしている。

「ネットの中に隠れて何がしたいのかは分からんが、強さは本物だ」

 

「ええ、saiは強い」

 

それだけ言うと、二人は研究会用の部屋に足を向ける。

 

ネットでのsaiの国籍はJP。

それが唯一のsaiについての情報である。

そのせいで日本棋院には日本だけに留まらず、海外の棋士からもsaiを知らないかという問い合わせが後を絶たない。

 

< saiは何者か? >

 

これは世界が知りたがっていることだった。

 



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03

「あ~今日も勝った勝った」

 

――はい、さきほどの一局はなかなか面白かったです。でもその前のヒカルの一局も面白かったですね

 

ヒカルの部屋にパソコンがやってきて、再び佐為がヒカルの力を借りてネット碁を打つようになり一ヶ月が経つ。

しかし夏休みの頃と違い、少しだけ変化があった。

佐為が「sai」のアカウントで打つ以外に、ヒカル自身もsaiとは別にアカウントを取りネット碁を打つようになったのだ。

 

囲碁のルールをヒカルもだいぶ覚えてきたことで、誰かが打っている碁を見るのも、それはそれで面白かったが、マウスを操作しているのがヒカルである分だけ、やはり除け者にされている感は否めない。

むしろルールを覚えてきたからこそ、自分ならここに打ちたいという欲求が出てくる。

 

いろんな人と打つのはいい経験になるからと佐為もヒカルがネット碁を打つのを薦めてくれる。

そして打った碁について、対局後にヒカルは佐為と検討した。

 

けれど、ヒカルはまだまだで白星より、黒星の方がダントツに多い。

それでも、いつかこれを逆転させてやるんだと意気込む。

 

「でも最近っていうか、お前(sai)のアカウントで打つとほんと対局終了後にチャット申し込んでくるやつ多いよな。めんどくせーの」

 

――その<ちゃっと>とは何ですか?前も言ってましたよね、ヒカル

 

「ん~、なんていうか対局した相手とのお喋りかな?気に入った相手がいたら次の対局の約束したりとか、打った碁の検討とかしてるみたいだぜ?」

 

――え!?ヒカル!私も検討したいです!

 

やっぱり言うと思った、とヒカルはため息をつく。

佐為であれば強い打ち手と囲碁について延々と検討したがるし、実際にするだろう。

だが、

 

「無理。俺がキーボード打てないから。マウス動かすだけで精一杯」

 

――そうですか?残念ですぅ

 

佐為には悪いと思うが、如何せん本当にヒカルはこのキーボードが苦手だった。

チャットをする人は、よくこんな小さいキーを素早く間違えずに打てるものだと思う。

 

「まぁ、そう言うなよ。俺だってできるモンならやってみたいんだからさ」

 

ネットカフェで三谷の姉がキーボードを打っていた姿は、ヒカルが傍で見ていても、とてもカッコよかった。

自分もあんなふうにチャットできればなぁともヒカルは思うが、思うまでで終わるらしい。

 

――ヒカル、この箱の中にあの者はいないのですか?

 

佐為の言う<あの者>とは塔矢アキラの父親のことであると、ヒカルも既に分かっている。

塔矢行洋

いま囲碁棋士の中で、『世界で最も神の一手に近い』といわれている人物。

 

一度、無理やり連れて行かれた囲碁サロンでヒカルは塔矢行洋に会ったことがあったが、とてもネットなんてしそうになかった。

言うなれば、厳格な日本の父というイメージで、パソコンや携帯電話どころか電化製品の使い方もちょっと危ない印象を受ける。

 

「う~ん、多分いないだろうなぁ~」

 

――そうですか……。

 

目に見えて佐為が悲しそうな顔をする。

ヒカルも出来ることなら佐為を塔矢行洋と打たせたいとは思うが、ヒカルが表に出ればきっとsaiをヒカルと間違えて、佐為の影を背負うことになってしまうだろう。

他力で注目を浴びるのはヒカルの性には合わない。

それだけは避けたかった。

 

「でもさ、あの塔矢のオヤジさんってすっげー恐そうだったけど、口もそれ以上に堅そうだよな」

 

――もちろんです!強いということはそれだけ思慮深く行動するのですから当然です!

 

そんなお前が話したこともない相手のことを力説しなくてもいい、とヒカルは力強く語り始めた差為に内心呆れながら

 

「俺、塔矢のオヤジさんが口堅いんだったらお前の代りに直接打ってもいいかな。アキラとか他の人には内緒ってことでさ」

 

――ほんとに?!ほんとですか!?いいんですか、ヒカル!?

 

「ちょっと大変だろうけどさ」

 

――ヒカルぅ~!ありがとうございます!

 

しかし、どうすれば打てるのか?

相手はプロでタイトル取るような棋士であり、子供がいきなり打ってくださいと言ったところで快諾してもらえるわけもない。

何より他の人の目があるところで、そんなことを言うわけにはいかず、対局となればさらに誰にも見せるわけにはいかない。

 

――ねぇ、ヒカル。手紙ではダメなのですか?手紙にあの者の都合の良い日を指定してもらって、どこか人の目がないところで打つとか……

 

――手紙?

 

意外なことを言われて、一瞬ヒカルは頭が回らなかった。

メールが普及している現代で、小学校でも手紙という意思疎通の手段は、女の子でもないヒカルには馴染みが薄い。

馴染みがあるとすれば、年始の年賀状くらいだ。

だが、よく考えてみれば結構いいアイディアかもしれないとヒカルは思い直す。

手紙であれば誰かにヒカルの姿を見られることもなく、用件を相手に伝えることが出来る。塔矢行洋の住所を知らなくても、日本棋院にファンレターの一つということにして送れば渡してもらえるだろう。

 

「……いいかも、それ」

 

――でしょう!!

 

「けど俺、作文苦手だから、内容お前が考えてくれよ?」

 

――はい!いくらでも考えます~!

 

しかし、それでも何と言えば塔矢行洋は幽霊の佐為のことを信じてくれるだろうか。

子供の戯言だと思って、怒られるようだったら嫌だと思うが、ヒカルの不安を他所に、隣りでこんなに喜んでくれる佐為へ、今さら冗談でしたとも言えない。

とにかく一度、手紙を送って、それで運良く対局約束が出来て、佐為を塔矢行洋と打たせてみればなんとかなるだろうと、ヒカルは楽観的な考えに収まって いた。

 

 



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04

佐為とヒカルが2時間近く奮闘して書いた手紙を、日本棋院宛てに郵送してから一週間後。

音沙汰は全くない。

仕方なかったとはいえ、手紙の裏に差出人の住所と名前を記入しなかったことで、棋院側で不審な手紙として処分されたとしても不思議ではない。

本当に渡してもらえたのか、一度考えがネガティブな方向に向くと、不安は増す一方だった。

 

内容としては、簡単な挨拶と誰にも内緒で打ってもらえないかという手紙だった。

どこか失礼なところでもあったのだろうかとヒカルが思案しても、とくに変なところなんてなかったはずだ。

佐為が考えた文章だったので、多少、文面が古めかしいものになっていたことは別として。

 

一応、ヒカルと塔矢行洋は2度面識があり、表向きアキラと対局してヒカルが勝ったことも知っているだろうから、興味は持ってくれているはずだろう。

しかし、確証は無いから何も言えない。

棋院で手紙が処分されていれば、それ以前の問題だ。

 

――ヒカル、あの者から何も連絡ありませんね。

 

初めは明るかった佐為も、日に日に落ち込んで行く様子が、手に取るように分かる。

 

「う~ん。棋院の人が渡し忘れているとかは無しだよな~」

 

この言葉でさらに佐為がへこみ、扇で口元を隠しながら、よよよ、と泣き始めた。

となれば、当然のようにヒカルの体調も突然悪化して吐き気がしてくるので、急いで佐為の気分を変えるようなことを考える。

こうして24時間一緒にいることには全然慣れたが、コレだけは勘弁してほしいと心の底から願う。

 

「ほら、佐為。ネット碁しようぜ?お前がしないなら俺がするけど?」

 

――します!!打ちます!!

 

パッと顔を上げ、勢いよく佐為が叫べば、ヒカルを襲う吐き気もすっと消えていく。

PCに電源を入れ、ウィンドウが立ち上がる間に一階の冷蔵庫からコーラを取ってくる。

打ってる最中は、席を離れられない。

だから、あらかじめ用意できることはしておくに限る。

 

「よっし。じゃあ誰と打とうかなっと」

 

<sai>のアカウントでログインし、対局者待ちの欄を確かめて、ヒカルは手ごろなアカウントを探す。

けれどヒカルが申し込む前に、誰かしら対局を申し込んでくる方が早く、誰かに対局を申し込むということをずっとしていない。

佐為も対局を申し込まれれば、選り好みすることなく受けるので、

 

「佐為、こいつでいいか?」

 

――はい。お願いします

 

佐為の確認を取って、ヒカルは対局OKのボタンをクリックした。

 

□■□■

 

机に置かれた手紙と開けられた封筒を前に、行洋は両腕を組み、じっと眺める。

 

棋院の事務員から渡されたファンレターの中にソレが在った。

子供であることを思わせる稚拙な文字。

けれど文脈は大人以上にしっかりしたものとなって、行洋に奇妙な違和感を同時に感じさせた。

 

封筒の裏に差出人が記入されていなかったことで、棋院の事務員もファンレターとしてタイトルホルダーである『塔矢行洋』に渡していいものか迷ったという。

実際、行洋自身も不審に思いながら手紙の封を切ったが、手紙の冒頭に差し出し人の未記入に対する謝罪が書かれ、文末に住所と共に<進藤ヒカル>と書かれていた。

 

突然の手紙への侘びと、対局の申し込み。

 

これだけであれば、たまに来るアマからの手紙とさして変わりない。

少し腕に覚えのあるアマの棋士がプロと対局してみたいと考えるのはよくあることだ。

この手紙以外にも、同じようにアマの棋士から対局を申し込まれたことが、長いプロ経験から少なからずあった。

しかし文末にある<誰にも他言無用で>という内容に、一抹の引っかかりを行洋は覚える。

 

息子のアキラは2歳のころから石を持たせ、今ではプロ以上の棋力を持つまでになっている。

あまりに早熟しすぎる強さと、溢れる才能に行洋も父として大きな喜びを抱いたが、他の子供達との開きすぎる力の差を考え、アマの子供大会には低学年のころまでしか出さないようにした。

まだ芽が出たばかりの子供の才能を潰してしまわないようにという行洋の配慮だった。

 

己の判断が間違っていると思ったことは、これまで一度もない。

そのアキラに2度も勝った子供がいると聞いて、行洋は俄かには信じられなかった。

しかし、はじめて見る息子の落ち込みように、それが真実なのだと知る。

子供大会で進藤ヒカルという子供が見せた一手。

つい口をはさんでしまったと言っていたらしいが、プロでも一瞥しただけで分かるような死活ではない。

アキラ以外にそれができる子供がいると分かり、碁打ちとして好奇心に似た興味を持ったのは覚えている。

 

しかし、自身が経営している碁会所の前で見かけたと言って弟子の緒方に連れて来られた彼は、どこにでもいるごく普通の子供そのものだった。

囲碁とは無縁の外で遊ぶことを好み、明るく、そして自由奔放といった表現がよく似合う。

 

いきなり連れてこられたらしい彼は戸惑い、どこか途方に暮れており、数手打っただけで突然部屋から出て行ってしまった。

 

石の持ち方は初心者そのものの。

親指と人差し指で持つ握り。

石を持つ指先は一見マメも出来ておらず、これまで石を持っていたとは考えにくい。

 

打たれた石は数手だったが、石の流れに淀みはなく、定石の手本と言ってもいいだろう。

だが、最後に打った石だけは、それまでの打ち筋を覆えしていた。

悪手とも見れるが、よく読んでみると際どい位置。

アキラに勝ったという彼が、そこに何を見たかは結局分からないままだ。

 

その彼からの手紙。

 

彼の力を見れるのだとしたら願ってもいないことだと思う。

アキラに勝ったという棋力を自分の目で確かめれるなら、多少の無理をしても十分に価値があるだろう。

 

けれど、どうして他の誰かに対局をみられるのを拒み、嫌がるのか。

 

疑問を持ったまま返信の手紙に筆を走らせる。

あと少しすればタイトルの挑戦者を賭けたリーグ戦が始まり、行洋は忙しくなる。

他にも行洋が持っているタイトルの防衛戦やら地方対局やらで日程は詰まっている。

 

だから、その前に息子のアキラを退けたという進藤ヒカルの実力を確かめたいと行洋は思った。

 

 



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05

「ここで待ち合わせあってるよな?」

 

不安そうにヒカルが呟く。

手に地図を持ち、日本文化伝統の門構えの旅館を、ヒカルと佐為は見上げた。

全体的に質素な作りだが、地図上でも分かるほど広い敷地と不思議な風格と年季を漂わせる旅館で、こういった場所に来た経験がないヒカルは、店の門の前に立つだけで気後れしてしまう。

 

5日前に来た塔矢行洋の手紙に、ヒカルと佐為が一緒に喜んだのがつい昨日のことのようだ。

手紙には、対局の承諾の意と、場所、日時が達筆な字で書かれてあった。

しかもヒカルがまだ中学一年だということを気遣ってなのか、学校があるヒカルにとって不都合ではない日時、他言無用ということならと個室の場所も、行洋が提供してくれるという至れり尽くせりの対応に、ちょっと悪いことをしたような気もしてくる。

 

――おそらく合っていると思いますが、どなたかに尋ねてみたらどうです?

 

現世に戻り、現代の文化や生活習慣の違いにだいぶ慣れてきたとはいえ、地図の見方は佐為にはまだ難しい。

ここまで来る途中の建物などをヒカルと2人確かめながらようやくこの店の前に辿り着いたのだ。

 

「尋ねるって、もし間違ってたらどうするんだよ?」

 

――別に店を尋ねるくらいで怒られはしないと思いますよ

 

それは分かっているが、聞くこと自体がヒカルは怖く、怖気づいてしまいそうになる。

しかし、ただじっと門を眺めていても仕方ないので、覚悟を決め、深呼吸を一回してからヒカルが玄関を開けようとした時

 

<がらっ> 

 

「えっ?!」

 

「あら?」

 

ヒカルの手が玄関の取っ手を掴もうとするが、先に中から戸を開けられ、中年くらいの着物を着た女性が現れる。

不意のことに驚いて、口をぽかんと開けたままのヒカルに、女性の方から声をかけてくる。

 

「僕、もしかして、塔矢先生に会いにきたのかしら?」

 

僕?という子供扱いされたことはさて置いて、<塔矢>の名前が出てきたことにヒカルは過敏に反応した。

 

「はい!そうです!塔矢っ…先生はもうここに着いているんですか?」

 

「まあ、やっぱり。話は伺っております。先生は既にお部屋でお待ちになっていますから、すぐ案内しますね」

 

ふふっと女性が人好きする優雅な所作で口元を手元で隠しながら微笑み、こちらへ、とヒカルを店の中へ手招きする。

結い上げた黒髪と、華美過ぎない落ち着いた上品な着物を来た女性に案内されながら、古風な店に入るという初めての体験に、ヒカルは無意識に体が緊張して強張るのを感じた。

落ち着かないし、敷居が高すぎる。

和服を着ていた行洋や平安時代の着物を着ている佐為には似合うだろうが、洋服の自分には肩身が狭いし、何にもまして似合わない。

反対に佐為の方は、まだ江戸時代の名残が残る家があったのかと、案内される道すがら、見かける庭園のつくりや家の造りに歓喜する。

 

――よかったですね、ヒカル。無事辿り着くことができて。一時は道に迷い、どうなることかと思いました

 

「うるさいぞ、佐為」

 

痛いところを佐為に衝かれ、思わずヒカルは声に出してしまう。

 

「何か言ったかしら?」

 

「いえ!全然何でもないです!」

 

振り返る女性に、慌てて顔の前で手をブンブン振って否定する。

ヒカルが横目に佐為を見やれば、笑っているのが扇で口元を隠していても分かってしまう。

 

――お前のせいだからな!!

 

キッ、と睨み、ヒカルが佐為を批難すれば、

 

――責任転嫁しないでくださいよ。声を出したのはヒカルじゃないですか

 

――俺が声を出したのはお前が余計な一言言ったせいだろ!だからお前のせいなの

 

――ヒカル酷いです~!

 

などと、佐為とやり取りしている間に、敷地の一番奥らしい部屋の前まで案内される。

部屋は離れらしく、小さな家がたくさんの竹林に囲まれ、ぽつんとあるような部屋。

竹林に囲まれているせいか、この場所が都内であることも忘れてしまいそうになる。

 

「先生、お待ちの方が来られました」

 

「そうか」

 

たったそれだけの短い言葉のやり取りを交わし、女性は閉められていた障子を開く。

障子が開くスゥとした音に、ヒカルはつい身体に力が入ってしまう。

本当にこれから佐為と塔矢行洋が打つのかと思うと、俄かに信じられないような気がする。

しかし、打った後、どう佐為を説明しようかと不安も過ぎる。

 

女性がどうぞ、と部屋に入るよう促す。

 

もう来てしまったのだから後戻りはできない。

ぎゅっと拳を握り締め、なるようになれ、とばかりに室内に足を踏み入れる。

 

部屋の中央に碁盤が置かれ、その上に石の入った碁笥が二つ、そして塔矢行洋が碁盤を前にして上座に座っていた。

行洋の視線が碁盤からヒカルの方へ、ゆっくり移ってくるだけでも背中に冷や水が滴る。

 

「よく来てくれたね。立ちながら話しというのもなんだろう。そちらに座ってくれたまえ」

 

「あっいえ!俺から手紙出したのに、わざわざこんなところまで用意してもらってすいません!!」

 

あたふたとヒカルは動揺しながら、促されるがままに碁盤をはさみ、行洋の向かいの位置に正座する。

しかし、ヒカルの様子を気にかけるような素振りは見せず、行洋はたんたんと話を続ける。

本当にこういう何事にも動じない人がいるのだと、テレビ以外で初めて見たような気がした。

自分の周りにはこういった人は、佐為を筆頭に皆無だ。

反面、行洋だからこそアキラのような今時珍しいほど堅い性格の息子がいるのも納得できる気がした。

 

「いや、気にしないでくれ」

 

行洋が首を横に振る。

 

「先日会ったときは、緒方君が無理やり君を碁会所に連れてくるような真似をしてしまい済まなかった。その侘びだと思ってくれていい」

 

――緒方?

 

初めて聞く名前に、そんな人いたっけか?とヒカルが視線で佐為に問えば、

 

――ほら、ヒカルを碁会所前で見つけて引っ張っていった者ではありませんか?

 

以前、碁会所の前を通りかかった自分の腕を掴んで引っ張って行ったやつがいたようにヒカルは思い当たる。

あまり記憶力のいいと言えないヒカルが覚えていたのは、ヤクザも真っ青な全身真っ白のスーツを着ていたからだ。

このご時世に、あんな派手なスーツ着るような人がいるなんて、出来る限りお近づきになりたくない。

 

「ここは以前からよく来ている旅館でね、客のプライバシーは決して外に漏れるようなことはないから安心するといい」

 

「すいません、ほんとこっちのワガママいっぱい聞いてもらちゃって」

 

深々とお辞儀をするヒカルを、行洋は手を軽く上げ制す。

 

「それは構わないのだが、誰にも見られず打ちたいという理由は教えてもらえないのかね?」

 

「っ!……それは……打った後で話します」

 

やはり聞いて来たか、と覚悟していた筈なのに、いざ問われるとビクリとヒカルの体が震えた。

ちらりとヒカルが隣りに座る佐為の方を見やれば、すでに臨戦態勢に入っているのか、睨むような視線を行洋に向けたままだ。

 

「……正直、君から手紙を貰って、対局を受けるべきか、それとも断るべきか、私は迷った。プロがアマから個人的な対局を申し出され受けるというのは、あまり誉められた話ではない。君らからしてみれば、閉鎖的でプライドが高いだけと批難されるかもしれないが」

 

「そんなことはないです……」

 

「だが、そんな世間体より、私はアキラに勝ったという君の実力を知りたいと思った」

 

そこで行洋は言葉を一旦区切ると、碁盤の上に置いてある碁笥のうち、黒をヒカルの方へ寄越す。

そして自らの方には白石の碁笥を。

 

「石を三つ置きなさい」

 

「……お願いします」

 

ペコリと一回お辞儀し、ヒカルは黒の碁笥をとって碁盤の星に黒石を置く。

 

行洋が次に打つまでに数秒間の沈黙が流れた。

中学一年の自分がタイトルをとるようなプロ相手に互戦を望むのは、間違いなく不分不相応だとヒカル自身分かっている。

しかし、石を置くのはヒカルであっても、碁を打つのは1000年近く存在している佐為である。

そして佐為がどれくらい強いのか分からず、請われるままにアキラと打ち、無意識にアキラを打ちのめしてしまった苦い過去を思い出す。

行洋相手であれば、アキラと同じようなことにはならないだろうが、強さに対しての疑惑はさらに深まるだろう。

なぜ囲碁を初めて間もないヒカルが、これほどに強いのか。

 

パチリ、と。

 

行洋の指が碁盤に白石を置く音が、ヒカルの耳にいやに大きく響いた。

 

 



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06

ヒカルが気をつけることは、石を置き間違えないということだけだった。

佐為が言うままに石を置いていく。

 

佐為と、行洋。

2人は長考することなく、長くても10分ほどで次の一手を打ち続けた。

石を打つ音以外は、部屋の周りに生えている竹が風に揺れて、障子越しにさわさわと葉音を立てるくらいだった。

それ以外の雑音は存在せず、この部屋にヒカルを案内した女性も近寄らない。

石を3子置いての一局だったが、真剣勝負には変わりない。

碁盤の上に黒と白の石模様が形創られる様子を眺めながら、ヒカルは静かだと思った。

 

対局が終盤にさしかかった頃だった。

自らの番になっても瞼を閉ざしたままじっと考えこんでいた行洋が、すぅと瞳を開き顔を上げてヒカルを見やる。

 

「もう十分だ。ありがとう」

 

「え?」

 

対局途中に、行洋が突然何を言っているのかヒカルは理解出来なかった。

 

「君の実力は分かった。このまま終局まで打ってもいいが、君の勝ちは揺るがないだろう」

 

――この一局は真剣勝負ではありますが、実力を試すのを第一とした一局でもあったのです

 

行洋の言葉を補足するように、佐為が説明する。

しかし、まだ目算が苦手なヒカルには、碁盤を見ても、どちらが勝っているのか判別つかない。

行洋の前だということも忘れ、ヒカルは隣りに座る佐為の方を振り向く。

 

――佐為が勝ったのか?

 

――はい

 

対局中の真剣な佐為の眼差しが、穏やかに微笑み、ヒカルもまたニコリと安心したように微笑む。

それから行洋に振り返り

 

「ありがとうございました」

 

遅れながら、ヒカルも終局の挨拶を述べた。

ヒカルが佐為と出会ってから、一度も佐為が負けたところを見たことがないからだろうか。

常に勝ち続ける佐為しか見たことがなく、佐為の負けた姿をヒカルは想像できなかった。

しかし、今回の相手は現役のトッププロでタイトルホルダーということもあり、石を3つ置いた置碁だが、もしかすると佐為が負けるかもしれないという一抹の不安もあった。

事実、佐為の強さがどれほどなのかヒカルは完全には分かっていない。

プロ棋士にも引けを取らないくらい強い、というのがヒカルの中での漠然とした佐為の強さだ。

 

佐為が勝つのは、ヒカルも嬉しい。

現実にこうして佐為が行洋に勝ったことも素直に喜べる。

しかし、いくら佐為が勝っても、他の人の目に佐為の姿は見えず、ヒカルが勝っているようにしか映らない。

その勝った相手が、プロ棋士であれば、塔矢行洋であればどうなるのか。

勝ってしまった後、自分がどうなるのか予想出来ず、この対局が決まってからヒカルは何度も億劫になってしまった。

 

「君がsaiだったのだね」

 

「saiを知っているんですか?」

 

ネット碁などしないだろうと思っていた行洋からsaiの名前が出てきて、ヒカルと佐為の目が見開く。

 

「アキラと打った一局以外にも、弟子たちがsaiの棋譜を何度か研究会に持ってきたことがある」

 

弟子たちが見て欲しいと持ってきた棋譜を前に、行洋は初手から最期まで並べたこともあった。

韓国のプロ棋士と対局し打たれた棋譜を並べて行洋が思ったのは、saiの洗練され卓越した打ち回しが決してアマではないということだ。

けれど、打ち筋に心当たりもなかった。

3子の置き碁ではあったが、確かにこの実力があれば、アキラでは敵わないだろうと行洋は思う。

小さい頃から碁に親しんできたアキラ以上の棋力を持つ子供が本当にいたということに、行洋は感慨深く打たれた碁盤の盤面を見やる。

この歳でこの棋力であれば、これから先、日本はおろか世界の囲碁を牽引するのは、目の前の少年に違いないだろう。

それだけではない。

今からすぐにプロになっても十分通じる。

あっという間にトッププロの仲間入りを果たす筈だ。

どこで、どんな風に囲碁を学んだのか、多少の詮索をされるとしても、実力は否定できない。

しかし、ヒカルは首を横に振り、

 

「……自分がsaiかと問われれば、俺は違うと答えます。saiは俺じゃない。でも、マウスを持って打っているのは俺だから……塔矢と打った時だって、石を持っていたのは俺だから、結局は俺がsaiってことになるんだろうけれど」

 

目を細め、碁盤を眺める行洋を前に、ヒカルは一つ一つ言葉を選ぶように、途切れ途切れにゆっくり話し出す。

上手く説明できるかという不安より、これから言う話を信じてもらえるかどうかという事がヒカルにとって怖く、行洋を直視できずに知らず俯いてしまう。

 

「進藤くん、君の言っている意味が私には理解できない。先ほどの一局は君が打ったものではないのか?」

 

「……違います。俺は……佐為の言うとおりに置いただけです」

 

「saiの言ったとおりに?」

 

「……塔矢と初めて打ったときも、俺は囲碁のルールなんて全然知らなくて、佐為に言われたまま石を置きました」

 

「……では、先ほどの対局はズルをしたと?どこかでこの対局を見ていたsaiが、君に打つ場所を指示していたと言うのか?」

 

「どこかじゃありません。佐為は俺の隣りにいます。でも幽霊だから俺以外の他の人には見えなくて、声も聞こえなくて、……俺にしか佐為が分からなくて……佐為は幽霊だから石を持てないから、俺が代わりに打つんです」

 

言いながら恐る恐るヒカルが顔を上げれば、行洋は眉間に皺を寄せ、

 

「進藤くん、話の要領が見えない」

 

首を横に振る行洋に、ヒカルは失敗したと思ったが、それまでヒカルの隣りに座り、話の成り行きを静かに見ていた佐為が堪え切れなかったように立ち上がり叫ぶ。

 

――私はここにいる!ヒカル!もう一度対局を!!

 

――でもっ!

 

――次はヒカルは碁盤を見ずに、打つ場所だけをあの者に伝えてください。

 

――え?

 

――ヒカルは後ろを向き、碁盤を見ずに私が言う場所をあの者に伝えるのです!置き石も不要です!!

 

「進藤くん?」

 

隣りを向いたまま動揺したように口を開閉させるヒカルに、行洋は訝しみながら声をかける。

対局直後も、ヒカルは同じように誰もいない隣りを振り向いた。

 

――さぁ!ヒカル!

 

佐為と行洋の両方を交互に見やり、佐為の気迫に押し負けるようにしてヒカルは口を開く。

 

「……佐為が……もう一度打ちたいって。今度は俺が後ろを向いて置石無しで碁盤を見ずに、打つ場所だけを伝えてくれって言ってます」

 

「君は本気で言っているのか?碁盤を見ずに碁を打つと?」

 

「……はい。だって佐為は本当にいるんだ、俺の隣りに!俺が見てなくても、佐為はちゃんと見てる!佐為が誰にも見えなくても、俺は知ってる!」

 

最期の方で声が荒げてしまったと思ったが、ヒカルもこの期を逃せば、行洋に二度と話を聞いてもらえないということだけは何となく分かっていた。

だからこそ、行洋には佐為の存在を知って欲しいと思う。

幽霊の存在を信じてくれという方が初めから無理だろう。

ヒカルも佐為と出会うまで、幽霊なんて信じていなかった。

 

「……いいだろう。しかし、碁の内容次第では私は君を碁打ちとして一生信じられなくなるが、それでもいいかね?」

 

「はい」

 

碁盤に並べられた石を再度黒と白にわけ、碁笥ごと行洋へ渡したあと、ヒカルは碁盤から離れる。

そして、それまでヒカルが座っていた位置に佐為が座り、佐為と背中を合わせるようにして、ヒカルは後ろ向きに座った。

 

「お願いします」

 

ヒカルが対局の挨拶を述べた。

 

 

 



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07 行洋VS佐為

対局を終え、ヒカルが佐為との出会いを一通り行洋に話し終えたのは、夕暮れを過ぎ、陽が落ちる間際だった。

 

子供を遅くに家に帰らせては親御さんに申し訳ないと、遠慮するヒカルを説得し、行洋はタクシーを店側に頼んだ。

タクシーを待つ間は、運ばれてきたお茶で話疲れた喉を潤す。

 

「聞いてもいいだろうか?佐為のことは私以外に?」

 

「まさか!!先生がはじめてです。幽霊が見えるとか誰かに言ったところで笑われるのがオチだし」

 

「では、君はなぜ私に佐為のことを話そうと?」

 

一度碁会所で少し会っただけの自分ではなく、両親や友達など自らと親しい相手の方がもっと気軽に話すことが出来たのではないだろうか?

行洋が問うと、ヒカルは一瞬目を丸くし、無防備にきょとんとした表情をしたかと思うと、隣を見てからクスリと笑う。

 

「俺じゃない。佐為が、先生と打ちたいって言ったんです」

 

それがさも当たり前のようにヒカルは答える。

嘘を言っているようにはとても見えない。

 

「そうか、佐為が私と……」

 

行洋の目が細められる。

ヒカルから藤原佐為という幽霊がいるという話を打ち明けられ、後ろを向いたまま盤上を見ずに碁を打つという難業を実際にこの目で見ても、最後の方でどうしても納得できなかった部分が、ヒカルのこの一言で行洋の中から氷が溶けるようにすぅ、と消えていく気がした。

 

平安時代の棋士。

そして江戸時代に一度現世に蘇り、『本因坊秀策』として現代にまで名前を残していた佐為

 

「また打とう。次こそは初めから互戦で」

 

 

 

 

碁笥を己の方に両方置き、対局相手の分まで石を打つというのは、棋譜を並べる以外では行洋も初めての経験だった。

どちらが黒を持つか決める握りは行洋が行った。

それに対してヒカルは「2つ」と先に答えた。

しかし、握った石を数えても、行洋はそれを口にすることなく石を碁笥に戻す。

握られた石の数が偶数なのか奇数なのか、後ろを向いているヒカルには見えていない筈である。

時間にして3分経っただろうか。

 

「左下、星。先生の座っている位置から見てです」

 

ヒカルが黒石を置く位置を口にする。

行洋が握った石は偶数だったから、ヒカルの言った『2つ』は当たっている。

黒石はヒカルだ。

言われた通りに、行洋は黒石を左下星に置く。

そして、行洋は何も言わず右上星に白石を打つ。

 

「左上、星」

 

ヒカルが次の一手を示せば、行洋もまた無言のまま白石を打った。

 

交互に石を打ちながら、行洋はヒカルの様子を何度も確かめる。

ヒカルが背後の碁盤を伺う様子はない。

隠しカメラか何かで盤面を見ているのかと勘ぐるが、この部屋は店の常連しか通さず、碁を打つ場所も行洋が指定したから、予めカメラを仕込んだりすることは不可能だろう。

 

これまで打たれた石で、悪手はない。

それどころか、気を抜けばあっという間にやられるだろう。

先ほど打った置碁以上の、部屋を満たすピリピリとした空気、碁盤を通し伝わる気迫は、どのトップ棋士にも劣らない。

 

「左下、コスミ」

 

ヒカルが次の石の位置を言う。

しかし、行洋はここであえてヒカルが言った位置ではなく、違う位置に黒石を置こうとして、

 

「違う!先生そこじゃないです」

 

石を置こうとした行洋の指が、ヒカルの一言でピタリと止まった。

後ろを向くヒカルの背中をじっと見やる。

 

――本当に見えているのか?後ろを向きながらこの碁盤が

 

驚愕と困惑を抱いたまま、行洋はヒカルが正した位置に石を置く。

 

囲碁はシンプルなゲームだが、石の並びは無限にあり、決して同じ棋譜は出来ない。

こうして行洋が打っている非常識な碁もまた、過去に打たれたことのない、細かく、複雑な石模様が出来上がっていく。

 

幽霊という存在を行洋は信じる以前に、これまで考えたこともなかった

囲碁の高みを目指すことだけが行洋の生きる全てであったから、幽霊という存在は先祖を敬うくらいでしかない。

 

確かにヒカルの歳でこれだけの碁が打てるというのは奇跡だろう。

子供の碁は、必ずどこかに荒さが出る。

幼い頃から碁に親しんできたアキラも例外ではない。

しかし、打たれる碁には練達で研ぎ澄まされた一手があるだけで、荒さは微塵も見られない。

 

一手打つごとに、行洋は知らず胸の奥が熱くなるのを感じる。

それはまだ行洋が若くタイトルを取る前、自分より高段者を前にして、未知の一手を見つけたときや、納得できる碁を打てたときの高揚に似ている。

 

ここ数年、行洋は囲碁を打ち、気持ちが高ぶるといったことは無かった。

囲碁を打つことが辛いと思ったことは一度もない。

これからも囲碁の高みを目指すことに迷いはないが、けれど、ずっと欠けていたものがここに来てようやく見つかった気がした。

 

行洋が打つ一手に、それと同等かそれ以上の一手で応える存在

 

ヒカルが先ほどまで座っていた場所であり、そして今は誰も座っていない空間を行洋は眺める。

そこには後ろを向くヒカルが見えるだけで何も見えない。

碁盤の向かいには誰も座ってはいない。

けれど、

 

――そこに在るのか

 

この気持ちをなんと言い表せばよいか

言い表せる言葉が、この世に存在するのかすら疑わしい

 

――幽霊でもいい。そこに存在し、私の打つ石に応えてくれるのであれば

 

「8の10、ツケ」

 

ヒカルが示す一手に、行洋は無意識にひざの上に置いた拳を握り締める

 

――これは……

 

噛み付かれた、と行洋は思った。

眉間に皺がより、表情に険しさが増す。

一手前で行洋が打った石も決して悪手ではないかった。

しかし、ヒカルの示した石の方が、勝敗に及ぼす働きが強い。

非常識な碁に集中できなかったというのは、言い訳にしかならない。

碁笥から白石を一つとり、考えうる最善の応手をする。

 

対局は大寄せが終わり、小寄せになっても、ヒカルが悪手を言うことはなかった。

小寄せは細かいが、正しい道は一本。

盤面全体を見渡し、次に見えない存在にむかい、

 

「ありません」

 

行洋が投了する。

負けたのに、こんなにも心が晴れやかで満たされていたのは初めてだった。

 

 

 



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08

週に1度ある塔矢邸での研究会で、集まった棋士たちに振舞うお茶とお茶菓子を、アキラは部屋に持っていく。

すると、すでに部屋へ来て碁盤の準備をしている緒方の傍らに、大きな封筒が置かれていることに気付いた。

だいたい研究会が始まる少し前に来るのが緒方の常なのに、今日は珍しいこともあるものだと内心思いながら、

 

「緒方さん、それは?」

 

お茶の乗ったお盆を部屋の脇に置き、アキラが尋ねる。

 

「先生に頼まれた棋譜だよ」

 

「棋譜?お父さんが頼んだんですか?誰の棋譜です?」

 

塔矢行洋であれば取り寄せられない棋譜はないだろう。

その行洋が弟子の緒方に頼み、わざわざ取り寄せるほど、誰の棋譜を見たかったのかアキラは不思議に思い首を傾げる。

 

「sai」

 

無表情に緒方はその名前を口にしたが、眼差しだけは鋭くアキラの反応を伺っていた。

 

「……saiの棋譜?」

 

「ネットでしかsaiは打たないからな。以前、俺が研究会にsaiの棋譜を持ってきただろう。他にもsaiの棋譜はないかと聞かれたんだ」

 

――お父さんがsaiの棋譜を……

 

夏休み、ネット碁でアキラがsaiと対局し負けた一局を含め、高段者と打ったのだろうsaiの棋譜を、研究会で何枚か見て検討したことがあったが、行洋が自ら棋譜を取り寄せたいと思えるほどsaiに興味を持った素振りは見られなかった。

 

昨夜もアキラがネット碁の参加者をチェックすると、saiの名前をほどなく見つけることが出来た。

saiの対局は、観戦者数が他の対局とは比にならないので、すぐに見つけられる。

アキラもすぐに観戦したが、相手が弱過ぎて検討し得るところは何もなく、対局が終わると、いつものようにsaiは何も語らずネットから消えた。

 

「アキラ君もいるかい?」

 

少し鼻にかけたような緒方の声に、アキラはムッとする。

緒方は悪い人ではない。

本人は認めようとはしないが、囲碁に対する情熱は本物であり、実は後輩の面倒見がいいこともアキラは認めている。

しかし、棋士として順風満帆だったアキラを挫折させたヒカルと、子供かもしれないという憶測だけのsaiを、ことあるごとに突合せようとした。

 

「結構です」

 

きっぱりと断り、また何か緒方に絡まれないうちに、アキラも別の碁盤の準備にとりかかるが

 

「進藤が日本棋院に来てたよ」

 

ヒカルの名前を出され、緒方を無視できずアキラは振り返る。

 

「院生試験を受けたいと受付に来てた」

 

「……院生の受け付け期間は終わっているのでは?」

 

「だから俺が推薦しておいた」

 

誰かプロ棋士の弟子などで才能の見込みがあれば、推薦という形で特例として院生試験を受けられることはアキラも知っていた。

だが、師匠がいる様子が全くないヒカルが、申し込み締め切りを過ぎて院生試験を受けられる筈がないと訝れば、アキラの問いを見越していたように緒方が答える。

タイトルを取るのも間近と言われている緒方の口添えがあれば、特例で申し込みも通るだろう。

ニヤリと笑む緒方に、反応を見て楽しんでいる狙いを感じて、アキラはフイと顔を逸らし突っぱねる。

 

「僕には関係ありません」

 

「そうか?」

 

背後でクスクス笑う声が聞こえると、アキラのもう1人の兄弟子が部屋にやってくる。

 

「あ、緒方さん、今日は早いですね~」

 

「遅いぞ、芦原」

 

「そうですか?いつも来る時間ですけど?」

 

すでに緒方の理不尽な言いがかりにも慣れている様子で、芦原はのほほんと準備の輪に加わる。

そしてさほど時間を置かず、数人の研究会メンバーと共に行洋が部屋に現れ上座に座れば、行洋を中心にして碁盤の前に皆が集まった。

 

「先生、頼まれていた棋譜をお持ちしました」

 

「ありがとう」

 

「先生がそんなにsaiにご執心とは知りませんでした」

 

失礼ではない程度に緒方は行洋を見据え、saiの棋譜を取り寄せた真意を伺う。

けれど、行洋は封筒から棋譜を出し中身を確かめると、

 

「執心、という程ではないよ。面白い棋譜があればと思ったまでのことだ。わざわざすまなかったね」

 

やんわりと何事も無いように答え、そのまま棋譜を封筒の中に戻す。

どこにも不自然さは見当たらない。

しかし、行洋がsaiの棋譜を求めたという事実に、アキラは微かな動揺を覚えた。

 

そして行洋であれば、saiがヒカルであるかどうか分かるのではないかという気持ちが、同時に湧き上がる。

もちろん、それはアキラとヒカルが対局した最初と2回目の棋譜を行洋に教えればの話であり、一度は軽蔑したヒカルとの碁を父親に見せるのは憚られた。

 

saiはヒカルではない。

saiの強さは行洋のような百戦錬磨された強さだ。

だが、あの幻のような一局は確かに存在したのだ。

 

「先生、最近棋風を変えられましたか?」

 

緒方が問うと、

 

「え!?そうなんですか!?」

 

問われた行洋ではなく、芦原が反応し、行洋を見る。

いきなり話に割り込まれた緒方は、眉間に皺を寄せ嫌な顔をするも、弟弟子のいつものことと小さなため息を零しただけだった。

言葉を迷っているのか、話す雰囲気のない行洋を見て、アキラが控えめに話の間に入る。

 

「緒方さんも、そう思われましたか?僕もお父さんの打ち方が少し変わってきたなと」

 

「アキラくんも気付いたか、流石だな」

 

メガネの位置を中指で正しながら、緒方が口端を僅かに上げ笑む。

 

緒方とアキラの2人が納得する一方で、芦原は気付かなかったと気落ちするが、集まった研究会メンバーの中にも、行洋が打った最近の碁の棋譜で、棋風の変化に薄々気付いていた者がいたようで、とたんに話が膨んだ。

1人が行洋が打った碁を碁盤に並べはじめると、応手の一手一手の検討が自然と始まる。

順に並べられた石の中に、勝負の要になった一手をパチと打つ。

 

「ここで先生がこう打ってと……、この一手など面白いですよね。この切り替えしで、右下の攻防がより複雑になった。芹沢先生の応手も悪くないけれど、塔矢先生が打った一手と比べると、どうしても見劣りする」

 

皆が碁盤を眺め唸るそばで、それまでずっと傍観を通していた行洋が石を持ち、己が打った次の一手を続けた。

 

「棋風を変えたつもりはない。ただ、もし私の碁が変わったというのなら、もっと深い最善の一手をと望む気持ちの現われなのかもしれない」

 

腕を組み、行洋はじっと碁盤に並べられた石を眺める。

 

「凄いですね、塔矢先生。そのお歳でまだ一手の追求を深められるなんて」

 

「歳は余計だ」

 

ゴツ、と芦原の頭上に緒方の拳骨が落ちた。

とたんに和んだ部屋の雰囲気に、行洋の目がかすかに緩む。

 

アキラは毎朝、学校に行く前に行洋と一局打つのが、幼い頃からの習慣になっていた。

その行洋の打つ碁に微かな変化が出てきたのはいつからだろうかとアキラは思い返す。

微妙な変化は少しづつではあるが、着実に変化は形を成し始めた。

 

毎日打っているアキラだからこそだろう。

棋風が変わることは悪いことばかりではない。

行洋の棋風が変わったのも、悪いどころか、碁が若返り良い方向へ進んでいると言えた。

だが、一顧の棋士の時間をかけ成熟させた碁が若返りを見せるのは、どんな気持ちの変化があったのだろうという疑問が生まれる。

 

特に行洋ほどの棋士であれば、日本の名だたる棋士、果ては中国や韓国のトップ棋士達と打った多くの経験があるだろう。

その経験を含めて熟成した碁に、新しい風を吹き込んだ何か。

 

緒方にsaiの棋譜を頼んだことが、それと何か関わりがあるのか、アキラの胸の中で疑問が燻っていた

 

 

 

 



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09

院生試験当日、母親の美津子と一緒に日本棋院にヒカルはやってきた。

これから院生試験だと思うと、学校のテストより緊張してくる。

アキラに追いつくためには院生になり、もっと強くならなくてはならないと、意気込んでやって来るまではよかったが、まさか申し込み締め切りがすでに終わっていたのはヒカルも予想外だった。

偶然にも緒方が受け付けでごねて門前払いされる寸前のヒカルを見つけ、プロ棋士の推薦という形で試験申し込みを通してくれなければ、また次の申し込み受付を待つ羽目になっていただろう。

 

院生試験の受付を済ませ、廊下のベンチに座り自らの順番を待つ間、ヒカルはきょろきょろと見渡しては、棋院に来ている年配の老人や中年層の中から、たまに見る子供の姿を目で追ってしまう。

 

単に碁を打つ親に連れて来られただけの子供かもしれない。

しかし、試験を待つヒカルには、歳が低いような子供でさえ、棋院にいるというだけでヒカルより囲碁が強いように見えてしまうのだ。

 

――大丈夫です!ヒカルならきっと受かります!気持ちで負けてはいけません!

 

――さんきゅ。でも分かっているんだけど、もし落ちたら……

 

――初めから諦めては、本当に落ちてしまいます!自分を信じてヒカル!

 

耳元で佐為に励まされながらも、ヒカルは力なく頷く。

すでにプロ試験を通ったアキラと、院生試験をやっと受ける自分。

囲碁大会でアキラと対局し、ヒカルは自分の力の無さを思い知ったが、実際どれだけ力の差があるのか、こうして現実的に考えると果てしなく遠く、一種無謀のようにも思える。

遠いと分かっているアキラとの距離が、考えれば考えるほど、ヒカルはさらに遠くなる気がした。

 

――ところで、ヒカル

 

何気無い様を装っている佐為の声は、どこか浮き足立っている。

何言う前に目が物語る、というのはこのことだろうとヒカルは理解した。

口元を両手の袖で隠しながら、周囲を見渡す佐為の瞳は、この上なく輝いている。

 

――あの者と次はいつ打てるのでしょうか?

 

棋院に足を踏み入れたあたりから、そわそわと落ち着きがなかった理由はやはりそれか、とヒカルはげんなりした。

 

――知らねぇけど、時間が取れたら連絡くれるって帰りに言ってくれたじゃん。塔矢先生はお前と違ってすっげぇ忙しいんだから、いつでもどこでもホイホイ打てねぇんだよ!ワガママ言うな!

 

――ううっ……

 

――今の俺はお前と先生の対局より、これから受ける院生試験が大事なの!!

 

だいたい昨日の夜も、俺が院生試験前日なのにネット碁付き合ってやっただろ!、と試験直前で気が立っているヒカルは容赦ない。

第一、行洋が運良く棋院に来ていて、これまた運良く出会うことが出来ても、ヒカルから声をかけるのは不自然過ぎる。

初対面でもないので、ファンですとも言えない。

故に、ヒカルが出来るのは、すれ違い様、軽く会釈をする程度だ。

行洋の方も、ヒカルの姿に気付いても、声高に名前を呼ぶことはないだろう。

それを望んだのは他でもないヒカルなのだから。

 

佐為という幽霊の存在を信じてくれただけではなく、ヒカルがヒカルとして碁を打つのに支障がないよう佐為の存在を他言しないことと、今後も時間が取れたとき、佐為と内緒で打ってくれる約束までしてくれた。

これだけでも十分、恵まれ過ぎだと言える。

 

ガラッ、と。

 

試験を行っている部屋の戸が開き、ヒカルは振り返る。

 

「また次頑張ってきなさい」

 

部屋の中から落ち着いた壮年の男の声と共に、母親らしき人物に連れられて女の子が泣きながら出てきた。

聞こえた台詞と女の子の様子から、一目で試験に落ちたのだと察する。

 

自分があの部屋に入り、再び出てきたとき、あの女の子のように泣いているのか、それとも……

 

――ヒカル!

 

――お、おうっ!

 

持ってきた棋譜を片手にヒカルは椅子から立ち上がる。

 

「がんばってね」

 

「うん」

 

励ましの言葉と共に、部屋の外で待っているという美津子に手を振って別れ、ヒカルが室内に入ると、部屋には試験官と思わしき男が1人、碁盤の前に座っていた。

 

「次は、進藤ヒカルくんだね。そちらへ座って」

 

促されるまま、ヒカルは碁盤の前に正座し、その斜め後ろに佐為が腰を下ろす。

緊張で萎縮しながら、ヒカルは小さく会釈した。

 

「よろしく、お願いします……」

 

「そんなに緊張しなくていいから、リラックスして実力を思う存分出すように」

 

慣れた様子で試験官は言うが、判定する側ではなく、される側にリラックスしろというのは、無理難題だろう。

 

「では打とうか」

 

ヒカルの受付表に目を通し終えたらしく、ファイルを脇に置き、試験官が開始を告げた。

 

 



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10

――いけない。今のはハネておくべきだった

 

口を挟んではいけないことは分っている。

しかし、緊張のせいでヒカルの手が伸び悩み、それがさらに悪手を招いている悪循環に、佐為の表情が曇る。

本来の実力の半分も出せていないかもしれない。

試験官も予めそれも多少考慮に入れてくれるだろうが、やはり試験は結果が全てだ。

 

「ここまでかな」

 

試験官が対局の終了を告げる。

結果は目算が苦手なヒカルでも分かるくらい、一目瞭然だった。

『自滅』

我ながら、そんな言葉がぴったりだ、とヒカルは思う。

最初から最後まで全く自分の碁が打てず、情けなさしかない。

 

――落ちたな

 

ヒカルが心の中で小さく呟く。

それは本来ならヒカルにしか分からない一言だったが、ヒカルにとりつく佐為には聞こえてしまう。

 

――ヒカル……

 

かける言葉が見つからず、佐為もまた意気消沈した。

ただ試験に受かるだけでいいのなら、佐為がヒカルに打つ場所を指示すればいい。

だが、院生になり碁をもっと学びたいのはヒカルだ。

ヒカルが自分の力で乗り越えなければならないのだから、佐為があれこれ言うのは、ヒカルの為にならず、余計なお世話にしかならない。

 

院生試験を受けると決まってから、ヒカルのために尽力を惜しまなかった分、試験に落ちてしまったという事実は、佐為にもまた重く圧し掛かった。

そしてヒカルの方も、頭に入らない耳では、打った碁について試験官があれこれ言っても右から左状態だった。

 

「ここは、こう打てば、左右の連絡が取りやすかったね」

 

「はい……」

 

「そして、この棋譜だが……」

 

ヒカルが持ってきた3枚の棋譜を試験官が眺める。

院生になれば中学の大会に出られないことを知らず、無知だったヒカルを囲碁部のメンバーや加賀は、不器用な優しさでヒカルの背中を押し、応援してくれた。

その皆に、どうやって院生試験に落ちたことを話せばいいのか。

棋譜を眺める試験官の眉間に、小さく皺が寄ったのを見て、

 

「それ!試験の日までに時間なくて3人と同時に打ったんだ!でも初めての多面打ちですっごく大変で!」

 

「君、初めての多面打ちでここまで打ったのかね!?」

 

「そうです!!」

 

対局には負けてしまったけれど、どうにかならないかと藁にも縋る思いでヒカルは訴える。

すると、しばらく考えこんでいた試験官が

 

「いいでしょう。では、来月から来なさい」

 

思わぬ一言に、ヒカルは身を乗り出す。

 

「え?いいんですか!?俺負けたのに!?」

 

「対局は実力を見るためのものであって、勝敗は関係ないよ。もちろん勝つに越したことはないけれどね」

 

ヒカルが誤解していたと分かり、試験官は苦笑しながら説明する。

もっとも院生試験とはいえ、れっきとしたプロ棋士が試験官を勤めるわけだから、試験を受けに来る者が試験官に勝つことなど、まずありえない。

もし勝つとすれば、今年のプロ試験を受けた塔矢アキラが、前年の院生試験を受けていればありえたかもしれないだろうが、既にプロ試験に合格している。

面白い思い込みをする子もいたものだと試験官が内心思っていると

 

「なーんだ!てっきり落ちたとばっかり思ってた!」

 

落ちたと思い込んでいた窮地から一転合格と分かり、緊張が一気に解けて、ヒカルは後ろに倒れこむ。

 

――おめでとう!ヒカル!

 

――おう!!

 

ヒカルと同じく、対局に負けたことで試験に落ちたと思い込んでいた佐為も、合格と分かり、満面の笑みでヒカルを祝う。

 

「こら!なんだね急にその態度は!?」

 

合格と分かったとたんに正座を崩してその場に倒れたヒカルを、試験官が失礼だろうと嗜める。

けれど、一度緊張が解けてしまったヒカルの体は、それまで緊張と落胆で忘れてしまっていたが、慣れない正座を長時間していた為に、

 

「ごめんなさい!でも足が痺れて~!!」

 

「まったく……そういう時は一言断って足を崩してもいいんだよ」

 

「次からそうします~」

 

足の痺れに悲鳴を上げるヒカルに、試験官は呆れつつ、囲碁を覚えるのと同時に囲碁のマナーも教えていく必要を悟った。

 

行きとは打って変わって、試験合格という壁を無事乗り越えられたヒカルの足取りは軽い。

美津子もヒカルの様子に当然気付いていたが、試験に受かったのがそんなにうれしかったのかと、あえて言うことはなかった。

小学校の頃まで外で遊ぶのを好み、中学に上がる前ごろから、急に囲碁に興味を持ち、祖父の平八から高い碁盤まで買ってもらったときは、どうしたものかと美津子も頭を痛めたものだ。

しかし、すぐに飽きて納戸の肥やしにならず、こうしてずっと碁に興味を持ち打ってくれれば、そしてたまにヒカルが平八と打ってくれれば、進藤家の嫁として、義父に顔向けしやすい。

合格という達成感に心躍らせ、ヒカルが家の中に入る姿を視界の端に映しながら、

 

「ヒカル、手紙が来てるわよ。藤原としか書かれてないけど、知ってる人?」

 

ポストの中を確認していた美津子が、ヒカル宛の手紙を見つけて引き止めた。

ヒカルと佐為がバッと互いの顔を見合わせる。

 

「知ってる!!ちょうだいっ!!」

 

急いで引き返し、ヒカルは美津子から奪うようにして手紙を受け取る。

そこには達筆な筆字で書かれた自身の宛名と、裏面に『藤原』の名前を見つけた。

 

 



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11

バタバタと足音を立て、ヒカルは手紙を握り締め、二階の部屋に駆け上がる。

 

「ヒカル!早く!」

 

「待てって、佐為。今開けるから」

 

待ちに待った手紙に、佐為はもちろんだが、ヒカルも興奮を抑えきれない。

 

『藤原』

 

住所のない名字だけの宛名。

 

行洋とこれからどう連絡を取ろうかという話になったとき、本名での手紙のやり取りは念には念を入れて、控えたほうがいいだろうという話の流れになった。

『藤原佐為』という存在は、極めてデリケートだ。

幽霊という存在の佐為を、誰彼構わず話しても信じはしないだろうと行洋は言った。

もちろん以前、佐為がとりついた秀策のように、佐為の全面的に受け入れ佐為となって打つならいいが、ヒカルがヒカルとして碁を打ち、アキラを見返したいのであればなお更に。

 

現状、ごく一般的な中学生でしかないヒカルに比べ、行洋は現役トップ棋士で多忙を極める。

その多忙なスケジュールから佐為と打つための時間を作るのも限られ、すぐに何時どこでという判断は不可能なので、行洋の方からの連絡を待つことになった。

 

行洋の名は伏せ、人目につく裏の差出人には、佐為の名字である『藤原』を記入し、お互い連絡を取るときの名前にしようということにして。

 

長方形の封筒の上部を、ハサミを使い中の手紙まで切ってしまわないよう気をつけながら、ヒカルが封を切る。

封筒から出てきたのは、2枚の手紙だった。

佐為にも読めるように、机の上に2枚を重ならないように並べて置く。

 

――えっと……

 

ヒカルでも、行洋の書く字が達筆で綺麗なことは理解出来たが、見慣れない字であることに変わりなく、一文字一文字読むのに時間がかかった。

冒頭には、佐為という存在への困惑と同時に、歴史上の棋士でしかなかった『本因坊秀策』と本当に打てることへの喜び、話してくれたことに対する感謝が書かれてあった。

 

――碁を打つ人なら秀策と打てるのは本当にうれしいんだろうな

 

話す前は不安だったが、こうして手紙を読んでいると、ヒカルは行洋に佐為の存在を打ち明けて本当によかったと、しみじみ思う。

対して、佐為はヒカルが手紙の半分も読まないうちに

 

――3週間後の日曜日!10時から!

 

壁にかけてあるカレンダーに振り返り、日時を確認する。

 

――ヒカル大丈夫ですよね!?

 

――……大丈夫だけど、お前、もう少しゆっくり俺にも手紙読ませろ

 

幽霊が見えると話して、馬鹿にされるかもしれないという危険を犯してまで、行洋にお前のことを打ち明けたのは自分なんだぞ、とヒカルは口を尖らせる。

 

――す、すいません……つい、嬉しくて……

 

興奮し、はしゃぎすぎていたかと、佐為は気を落ち着けながら謝る。

そんな佐為に、ヒカルも気持ちを切り替えて、笑いかけた。

 

――そだな。よかったな。また塔矢先生打ってくれるって

 

――はい

 

――んじゃ、ネット碁でもするか。次は塔矢先生だって、最初から本気で打ってくるだろうから、お前が負けるかもよ?

 

パソコンの電源を押しながら、ヒカルが佐為をからかうと、佐為は冗談でかわさず本気で言い返す。

 

――では3週間後までにもっと強くなります!

 

――でも、俺だって院生試験受かって、もっと強くなんないといけないんだから。打つのは交代交代。

 

後ろで佐為がまだ何か訴えていたが、ヒカルは無視して、立ち上がったデスクトップウィンドウから、囲碁ソフトのショートカットをクリックした。

 

 

■□■□

 

 

『すごいな、これがsaiか』

 

パソコンで打ち出されただろう棋譜を眺めながら、太善が呟く。

ネット碁には興味は無かったが、プロ棋士の間でもsaiというネット碁の棋士の存在が噂され、アマの域に収まらない強さから、その正体について色々取りざたされているのは知っていた。

日本のプロ棋士の誰かが戯れに打っているという説が今のところ最有力らしいが、プロ棋士が誰彼構わず打つというのも疑わしい。

 

しかし、こうして目の前にsaiが打ったという棋譜を見せられて、太善は片時も目を逸らすことなく見入る。

これだけの強さなら、皆が騒ぐのも納得できた。

 

『一度打ってみたいね』

 

『運がよければ打てますよ。けど、saiにはすごい数の対局申し込みが入るんです。もし対局できたら、今年の運使い果たすくらいの幸運が必要でしょうね』

 

韓国棋院の事務員が、太善の呟きに、冗談半分大げさに笑う。

別の棋士から頼まれていたsaiの棋譜をプリントアウトし持ってきていたところに、偶然、太善が事務所に顔を出し、棋譜をみつけてからというもの、それからずっと棋譜を眺めている。

この様子では太善の分もコピーした方がいいかな、と思いながら、太善の傍に淹れたばかりのお茶を差し出した。

 

『ネット見てみますか?もしかしたらいるかもしれませんよ、sai』

 

太善のあまりの熱心さに、事務員は囲碁ソフトを立ち上げ、自身のアカウントでログインする。

saiがいるかもしれないという言葉に惹かれ、太善もようやく棋譜から顔を上げ、パソコンディスプレイをみやった。

 

『うーん、いませんねぇ。すいません、せっかく棋譜見ていたところを』

 

アルファベットの並ぶアカウントの中から、saiを探したが見つからない。

 

『いいさ、所詮はネット碁だから、いつ現れるともしれないし、そう都合よく……え?』

 

無音の中、新しくログインしたアカウントが追加される。

 

『saiが現れた!!』

 

事務員が場所を忘れsaiの名前を叫ぶ。

それと同時に、条件反射に等しい速さで、反射的にsaiの名前をクリックし、対局申し込みをする。

太善の耳に、事務員が唾を飲み込む音が聞こえた。

 

――ピッ

 

パソコン画面に、対局申し込みを受け入れられた流れで、対局画面が開く。

対局をsaiが受けたのだ。

 

『saiが……対局を受けてきた……。ど、どうしましょう……』

 

思わず対局申し込みしてしまったが、まさかsaiと対局が叶うとは全く思っていなかった事務員は、気持ちが動転し、傍にした太善に助けを求める。

また、さきほど大声でsaiの名前を叫んだことで、他の事務員たちも対局に気付き、仕事を放って、わらわらと対局画面が映し出されたパソコン周辺に集まった。

対局画面に映し出されたsaiの名前に、周囲のざわめきが大きくなる。

 

『どうしましょうって、打つしかないんじゃないかな?』

 

太善が答えると

 

『だって俺なんかじゃ絶対負けますって!』

 

『じゃあ、俺が打っていい?』

 

『安先生が!?』

 

『打たないんでしょう?』

 

それならば、自分が打ってもいいよね?と穏やかながらも有無を言わせない調子で太善が詰め寄る。

 

『ど、どうぞ……』

 

太善に言いくるめられる形で、事務員が席を太善にゆずるが、

 

『ねぇ、ここに日本語が分かる人いる?そうだな、来週の日曜日に対局したいってsaiに伝えて欲しいんだけど』

 

『え!?今打たないんですか!?』

 

『だって俺、この後、指導碁の仕事が入ってるから無理だし。誰彼かまわず打つsaiと違って、俺はプロ棋士で忙しい』

 

開き直ったように言う太善に、事務員は呆気にとられた。

確かに太善の都合はあるだろうが、元はといえば、事務員からsaiに対局申し込みをしておきながら、日時を改めようというのは、いささか図々しいというか都合が良いようにも聞こえる。

 

けれど、太善がこれ以上引く様子を見られなかったので、対局の打ち直しを言い出したのは太善であって、自分の所為ではないと己を説得すると、集まった事務員たちは日本語の通訳が出来るものを前に押し出し、椅子に座らせた。

 

『来週、日曜日。午前はちょっと仕事入っているから、昼12時から打ちなおしませんか、って伝えてくれる?』

 

『は、はい』

 

いきなり通訳を任された事務員が、震える手でチャット画面に文字を打ち込んでいく。

日本語は分かるが、漢字はあまり通じているといえず、すべてひらがなだけの文字で。

 

saiはチャットをしない。

 

それはネット碁をして、saiを知っている者であれば、有名な話だ。

下手にチャットをしてsaiがいなくなるより、今から打つ方が確実だろう。

この場に集まった者で、期日を改めようと申し出たところで断られるのがオチだろうと考えている者も少なくなかった。

しかし、しばらくして

 

――『わかりました』

 

saiがチャットを返してきた。

それだけでも大事のように喚声が上がる。

事務員が打ち込んだひらがなの日本文と同様に、たった一言、短い文章が返され、それを通訳したとたんに、事務所に二度目の大きな声が上がった。

韓国のトップ棋士である安太善とネット碁最強のsaiとの対戦が実現する。

すぐにsaiは対局画面から消えてしまったが、チャットのログは残っている。

確かにsaiは対局の打ち直しを了承した。

 

『そうだ、君。saiの棋譜、僕の分もコピーしてもらっていいかな?』

 

『はい!急いで用意します!』

 

『ありがとう。あ、今度の日曜日、そのアカウント貸してね』

 

初め、saiの棋譜を見せてくれた事務員に、太善は自分の分もと頼めば、自分の仕事をそっちのけで、コピー機へ向かう。

 

囲碁を打つ者であれば、強い相手と打ってみたいという気持ちは誰にでもある。

太善もネット碁を否定しているわけではない。

ネット碁の中にも強い者がいて、プロの中にもネット碁をしている者がいることも知っている。

 

俄かに興奮する事務所の中で、太善は思いがけず巡ってきた対局に静かな闘志を向けながら、コピーされた棋譜を受け取ると平静の様子を崩すことな事務所を後にした。

 

 



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12

事務員がくれた棋譜のコピーを片手に、太善は一手一手、ゆっくり確認しながら石を実際に並べていく。

棋院の事務所で棋譜を見て、すぐに思ったことだが、saiは強い。

それは韓国のトッププロと見比べて、些かの遜色もない。

棋譜を眺めるだけでなく、実際に石を碁盤に並べていくことによって、さらに深いヨミに気付かされる。

 

『それで断られたときのこととか考えなかったのか?』

 

碁盤を挟み座っていた男が太善に尋ねる。

幼馴染の友人が、saiの対局を早速聞きつけたらしく、太善がOFFと分かるや否や、朝から太善の家に押しかけてきていた。

2人とも幼い頃から囲碁を学んでいたが、才能を開花させ、どんどん強くなる太善と違い、友人の方は早期に才能が無いことを悟り、趣味として囲碁を打っている。

 

『考えたけど、実際ホントに仕事入ってたし、駄目なら駄目で縁が無かったということで仕方ないかな~と』

 

『で、一手も打ってないくせに、次の日曜日に打ち直そう申し出て、運良くOKもらったと?』

 

『そう』

 

『……お前の強運さには時々腹が立つぜ』

 

チャットはことごとく無視するsaiが、対局申し込みされながら、打ち直したいという身勝手な申し出をよく受け入れてくれたものだと呆れながらも、太善の強運さを改めて見た気がした。

昔から太善はついている。

小学校の頃、宿題を忘れれば、担任が急に体調不調で休みになったり、イベントで日本に行かなければいけない日に、事務員のミスで飛行機の予約日時を間違えれば、キャンセルが上手く出て搭乗できたり。

 

『なんだ、それ?』

 

本人を目の前にして睨みながら言う台詞か、と太善はクスクス肩を震わせ笑う。

 

『つまり、俺が何を言いたいかと言うとだな』

 

そこで一つ区切り、ゴホンと大きな咳払いをしてから、ぐっと前に身を乗り出す。

 

『勝て。太善。saiは今も全勝記録更新中だ。お前が連勝記録をストップさせろ』

 

『……顔が近い。しかもお前、何気にsaiに負けたことがあるな?』

 

だからsaiの様子を常にチェックして、今も全勝中だと知ってるのだろうと太善は当りをつけた。

 

『ぐっ……』

 

『そして、どこかのアマが調子に乗って打ってるみたいだが、俺がギャフンと言わせてやるとか思ってたくせに、逆にギャフンと言わされたんだな?』

 

太善がカマをかけて適当に言う一つ一つが、ピンポイントで当たってしまい、友人の頭が段々と項垂れていく。

太善の方も、へこんでいく友人の様子に、己が言っていることが少なからず当たっているのだと察して、だからそんなに熱を入れて自分を焚き付けてくるのかとため息をついた。

 

『……ああ、そうさ!どっかの馬鹿が調子こいてるとタカくくって打ったら、あっさり返り打ちにされたよ!!頼む!太善!俺の仇を打ってくれ!!お前ならきっと出来る!』

 

太善の胸倉を掴み、懇願する。

男に泣きつかれて喜ぶ趣味はないのだけどなぁ、と太善は思いながら、

 

『仇討ちどうのこうのは別として、対局は最善を尽くすよ』

 

当たり障りなく返事した。

 

■□■□

 

 

韓国のプロ棋士、安太善とsaiが日曜日に対局するという情報は、またたく間にネットに広がり、噂されるようになった。

対局の日取りのやりとりを、多くの目がある場所でしたこともあるだろうが、ここまで騒がれるのもsaiがどれだけ強く、過去に何人ものプロ棋士を倒してきたか推し量れるようだった。

安太善とsaiの対局を知った者の中には、日本語が出来る者や、日本人の知人がいる者もいる。

その者達から、さらに日本のネット上にも対局の情報が流れた。

 

「和谷?どうした?探したぞ」

 

院生の手合い日、短い休憩時間に外へ風に当たりに行くと行ったまま戻ってこない和谷に、伊角が呼び戻しに行く。

棋院の外に出れば、初秋の風が気持ちいい。

しかし、玄関の周囲を見渡しても和谷の姿は見つけられず、結局、自販機の前のベンチで、缶ジュースを片手に腰をかけていた。

 

「なんだ、伊角さんか。ちょっとね」

 

名前を呼ばれ、和谷は視線だけ声の主に向ける。

心ここに在らずな和谷の様子に、何か考え込んでいたのだろうと察して、伊角は心当たりを一つ出してみる。

 

「……またsaiのことか?」

 

「何で分かったの?」

 

ネット碁はしないと言っていた伊角がなぜsaiと言い当てたのか、そこでようやく和谷は顔を上げた。

 

「そりゃあ、棋院でもこれだけ噂されてれば嫌でも耳に入る。事務所の電話がsaiについての問い合わせで鳴りっぱなしだ。日曜日に仕事の入っていないプロ棋士は誰か?だとさ」

 

「そんな問い合わせ、事務の人はイチイチ答えてんの?」

 

「日本棋院はsaiについて一切関知しておりません。日本棋院に所属しておりますプロ棋士のスケジュールについては答えかねます。当然の対処だな」

 

クスリと肩を竦め、伊角は事務所の対応を思いかえす。

事務的、と言ってしまえばそこまでだが、saiというネットの棋士を探しているという理由だけで、棋士達の個人情報に繋がる情報はそう簡単に渡さないだろう。

おかげで断っても断ってもしつこく電話をしてくる者もいると、事務員は頭を抱えていたが。

 

「前に和谷がネットの中に強いやつがいるって話していたときは全然信じてなかったけど、こんな騒ぎになるなんてな」

 

相手の顔が見えないネット碁で、どこかのプロが遊びで打ち方を多少変えて、正体を隠しながら打っているのではと、伊角は深く考えないでいた。

しかし、日を追っても一向にsaiの正体は知れず、saiをめぐる騒ぎだけが大きくなった。

 

「でも、相手は韓国でもトップ棋士の安太善なんだろ。saiが勝てると思うか?」

 

「反対だよ、伊角さん。saiが勝てるか、じゃなくて、安太善がsaiに勝てるか、だよ」

 

「本気で言ってるのか?」

 

「アイツ、さらに強くなってる。夏休みの間、ずっと見てたときもどんどん強くなっていったけど、ここ最近は、それに輪をかけて強くなってる。底が見えない」

 

「秀策が現代の碁をどんどん吸収しているような?」

 

「そう。チャットだって普段全然しないくせに、安太善のときは打ち直しを承諾したらしいし、マジ分からねぇ」

 

相手が韓国プロ棋士とチャットで伝えなかったのにも関わらず、saiは打ち直しの申し出を了承したのだという。

一手も打たないでいきなり打ち直しを申し出られたら、和谷だってチャットを無視して即、対局画面を閉じただろう。

しかも、安太善との対局の話を聞きつけた者達が、同じようにsaiに対局の約束を取り付けようとしたが、返事どころかすべて無視されているのだという。

 

頭が混乱したように、和谷は「わからねぇ!」と叫び、頭を掻き毟った。

そんな和谷を見ながら伊角はポツリと呟く。

 

「俺はsaiを知らないし、どれだけ強いのかも分からないけど、安太善が勝つにしろ負けるにしろ、saiがどれだけ強いのか、一つの基準にはなるかもな」

 

「強さの基準か。確かにsaiはすごく強いってだけで、どれだけ強いのかはハッキリしてないし……」

 

saiが対局している中にプロ棋士も含まれているというが、その負けたプロ棋士達が誰かということまではハッキリしていない。

まだ段位の低いプロ棋士の中にはsaiに負けたことを認めている者も数人いる。

しかし段位の低い棋士では、もはやsaiの棋力は測れなくなっている。

 

また1人考えに更けこみ始めた和谷が、ブツブツ言い始めたところに、

 

「ちょっと!2人とも!休憩時間とっくに終わってるよ!!」

 

戻らない二人を呼んで来いと言われたらしい奈瀬が、怒り口調で和谷と伊角に怒鳴った。

 

「わりっ」

 

「す、すまん」

 

ようやく休憩時間がとっくに終わってしまっていることに気付いた和谷は、急いで部屋に戻ろうとする。

手合いの部屋に入ると、院生師範を務めるプロ棋士の篠田から2人に雷が落ちた。

 

 



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13 太善VSsai

午前の仕事を手早く終わらせ自宅に戻ると、太善はスーツから普段着に着替える。

 

コーヒーを淹れ、リビングテーブルの上に開いたノートパソコンの前に座ると、傍に置いていたバッグの中から手帳を取り出し、太善は挟んでいたメモ用紙を取り出した。

やってしまった後から言うのもなんだが、悪いかなと思いつつ事務員からから教えてもらったアカウントとパス。

saiの対局だけしか使用しないで、この対局が終わったらパスを変えてもらい、お礼に何か菓子折りでも持っていこうかと太善は思う。

 

ログイン画面が出て、メモを見ながらアカウントとパスを打ち込んでいく。

 

エンターキーを押すと現れるトップ画面から、ログイン中のアカウントを上からざっと見下ろしていったが、リストにsaiの名前は見あたらなかった。

壁にかけてある掛け時計を見やれば、時間は11時ちょっと前。

約束した時間が12時だから、対局までに1時間はある。

1時間もあれば、十分気持ちを落ち着けられ、対局に臨むことが出来るだろう。

 

直後、メールの着信音が鳴り携帯を開くと、友人から短く一言『頑張れ!』の文字が送られて来ていて、太善は小さな微笑を浮かべた。

 

もっとも、ネットでの対局約束など、反故にされたとしても何ら珍しくない。

saiが現れないという可能性も多分にある。

元々はと言えば、こちらから対局を申し込んでおきながら打ち直しを申し出た己の我侭だ。

saiが現れなかったからといって、文句を言うつもりはさらさらない。

それでも、もしこれだけの棋力を持つ棋士と打てるのならと、僅かな希望を抱く。

 

この日までにsaiの打った棋譜は何度も見た。

saiの棋力は熟知している。

ネット碁という手慰みのゲームではなく、一つの公式対局と思って打つ。

脳裏にsaiが打った一手を思い浮かべ、それに対する己の応手もまた同じ数だけ思い描く。

 

12時ジャスト。

saiの名前がログインリストに上がり、

 

――saiが黒石、持ち時間は3時間

 

太善は対局を申し込んだ。

 

打ち始めてからどれくらい時間が経っただろうか。

パソコンに表示されている画面を見る限り、3時間も過ぎていない。

しかし、太善の感覚としては5時間も、6時間も経っているような気がした。

公式の対局ではないのに、一手一手の緊張感はそれを凌駕し、無人のはずのパソコンの向こうから鬼気迫る気迫を感じる。

太善が持ち時間を半分以上使っているのに対し、saiは一時間も使っておらず、対局も全体の半分しか打っていない。

 

勝てる気が、しなかった。

考えぬいた場所に打っても、その一手はsaiのヨミの範疇でしかなく、鮮やかにさばかれていくような。

指導碁ならまだプロになる前、何度も打ってもらったことがあるが、それとは一線を引いて異なっていた。

 

『ッ!!』

 

saiの打った一手に、太善は目を見張り、マウスを持つ手にぐっと力がこもる。

背中を冷や汗が流れていく。

 

気付かなかったというより、そんな一手が存在するのかと太善は驚愕した。

最善の一手の追求は、棋士であれば当然の目標の一つではあるが、saiの打った一手は最善の一手には到底収まりきらない。

 

最強の一手

 

中央に置かれた石が、四方の攻防を寡黙に睨みつける。

盤上の石全てを見渡し、saiの黒石どころか太善の白石まで支配下に置かれたと太善は感じた。

しかし、

 

――なんだ……これ……

 

初めての経験だった。

対局に勝てないだろうということは、すでに太善自身分かっていたが、だからと言って早々と投了するのではなく、もっと打ちたくなる。

saiと打つことによって、己がより高みに押し上げられているのを太善は感じていた。

 

これまでの太善ならおおよそ考えつかなかっただろう一手が見えてくる。

ときに、その一点をsaiに導かれているような錯覚にもなる。

 

棋譜を見て並べるだけでは分からなかった部分に、気付かされる。

実際、saiを相手に打ってみて、太善はようやくsaiがここまで騒がれる理由を理解した。

saiの碁は、ただ強いだけではなく、打つ相手をより高みへ導いていく。

 

太善もプロになる前から、そしてプロになってからも数多くの棋士と打ってきたが、こんな打ち手は初めてだった。

そんな棋士が碁盤を挟み目の前に座るのではなく、ネットの中に存在するという奇跡。

 

盤面はsaiが優勢のまま、終局へと、一手一手近づいていく。

正確なヨミは寸分の間違いもない。

小寄せまで全て打ち終ってから太善はマウスカーソルを投了ボタンの上に置くと、ゆっくり瞼を落としクリックした。

 

それまでずっとパソコンから聞こえていた石を置く『パチ』という擬似音ではなく、『ピコン』という別の音が耳に届く。

瞼を落とした時より、太善はさらにゆっくりと瞼を開く。

ディスプレイの画面には、saiの勝利が宣言されていた。

 

対局が終わったことで、太善はようやく緊張がほぐれ、深く深呼吸をすることができた。

 

対局には負けてしまったが、恥とは思わない。

己の持てる全力を尽くしたいい碁だったと思う。

体を満たす満足感と興奮がそれを証明している。

 

いい碁が打てた自分を誉めたいのと同時に、この棋譜を共に創り上げてくれたsaiへの感謝。

 

対局終了間もなく、saiは画面上から消えていった。

 

■□■□

 

「sai ……」

 

パソコンに映し出された画面を見ながら、アキラは無意識に呟く。

決して負けてしまった安太善が弱かったわけでない。

saiの方が強かっただけの話だ。

 

緒方からsaiが韓国の安太善と対局すると聞いて、ずっと気になっていたが、膨大な観戦者数の中、対局を始終観戦していて、アキラはsaiの力を改めて思いしらされたようだった。

 

――また強くなっている……

 

ディスプレイに映し出される碁盤上の一点を眺めながらアキラは奥歯をかみ締めた。

夏にアキラが打ったときより、確実にsaiは強くなってきている。

 

対局半ばで打たれたsaiの一手。

アキラも気付かなかったが、対局している安太善も気付かなかったのではないだろうか。

囲碁を打つ者が、個人の差はあれど多少足踏みしてしまうところを、saiは一足飛びに強くなっていく。

強さに際限がない。

 

対局終了後、saiはすぐにネットの闇に消えた。

また一つ、名局といえる棋譜を残して。

 



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14

『安君、少しいいかな?』

 

棋院の待合室で不意に声をかけられ、太善は読んでいた新聞から顔を上げる。

そこに韓国トップ棋士の徐彰元が歩みよってきていて、太善は驚いたように立ち上がった。

お互い韓国棋院に所属するプロ棋士だ。

そこまで親しくはないが、面識はある。

 

『徐先生!?どうかしましたか?』

 

『いや、どうということはないのだがね。先日のsaiというネット棋士との対局、見せてもらったよ』

 

徐がネット碁をしているとは思えない。

誰かが太善がsaiと打った対局を教えたのかもしれないと思いながら、

 

『はは、負けてしまいました』

 

『いや、私は勝ち負けを言いたいのではない。とてもいい碁だった。それが言いたくてね』

 

穏やかに徐は微笑み、太善の打った対局を誉めた。

そこに正体不明のネット棋士に負けたという蔑みはなく、純粋に対局を讃えたものだった。

しかし、太善は対局への賛辞ではなく、徐の交流関係について気になった。

徐は日本語を話すことができ、日本棋院の棋士とも親しく交流していると聞く。

 

『先生は日本の棋士にsaiの心当たりはありませんか?』

 

『……それと同様のことを君以外にも数人から聞かれたよ』

 

『では!』

 

徐はすまなさそうに首を横に振った。

 

『私にsaiの心当たりはない』

 

『そうですか……』

 

「ありがとうございました」と太善が礼を述べると、徐も「すまない」と言葉を残し立ち去っていく。

その後ろ姿を眺めながら、太善はsaiの正体が誰か、知りたいと思う気持ちが徐々に膨らんでいくのを感じていた。

出来ることならもう一度対局したい、と小さな期待を胸に抱いて。

 

 

□■□■

 

 

森下の研究会の日、弟子の和谷が並べていく棋譜を、森下をはじめ、集まったプロ棋士達もじっと眺める。

 

「ここで、saiが……ここに」

 

中盤にsaiが打った中央の一手を置くと、周囲から声があがる。

 

「これは、唸りますね。四隅の攻防を睨んだいい手だ」

 

和谷の並べる石を眺めていた白川が、顎に手をあてながら言うと、森下も気付かなかったようで、腕を組み低く唸った。

その様子を伺いながら、和谷は自分の打った碁ではなかったが、得意満面に続きの石を並べていく。

 

「saiがここに打って、太善が投了っと」

 

最後の一手を打ち終わり、和谷はようやくそこで一息ついた。

棋譜を全て並べ終わったところで

 

「安太善の実力は噂以上ですね。でも、相手のsaiは……」

 

「これだけ打ててアマってことはないだろうけれど、……この一手が打てるんだ。有名な中国か韓国のトップ棋士の誰かじゃないか?」

 

白川に続くようにして、冴木が和谷にsaiの正体について問いかける。

 

「saiはJP、日本人としか分かっていません。アカウントを作るとき、日本で作ればJPに出来るかもしれないけど、わざわざそんな手間をかけてまで正体を隠そうとするプロがいるとは思えない」

 

それに、と言いかけて和谷は口を噤んだ。

一度だけsaiがチャットしてきたときの会話を思い出す。

 

『ツヨイダロ オレ』

 

たった一言、それだけの短い会話。

言葉から受ける子供じみた印象と、夏休みに突然現れ毎日のように打ち、夏休みが終わると少しの期間を置いて夜にまた現れるようになったことから、和谷は子供かと思った。

しかし、saiを知っている観戦者たちや、打ったことのあるプロ棋士たちは口を揃えて『子供ではない』と言う。

 

その理由として、saiの打つ碁に全く『荒さ』が無いことをあげた。

どんなに強い子供でも、その未熟さから必ずどこかに『荒さ』が出ると。

対してsaiの打つ碁は、『荒さ』は微塵もなく洗練された百選練磨の強さ。

 

すでにネット碁をする者だけでなく、プロの間でもsaiの名前は聞かれるようになってきているのに、一向にsaiの正体に繋がる手がかりは出てこない。

 

「オレが気になってるのはsaiが誰かってこともあるけど、他にも別にあるんです」

 

俯きながら和谷は神妙に呟くと、碁盤の上に並べた石を崩し、再度石を並べ始める。

それは先ほど並べた棋譜ではなく

 

「これは夏休み後半に、塔矢アキラとsaiが打った対局」

 

和谷が棋譜を並べ初めてさほどたたず、森下が首を捻った。

 

「これがさっきと同じ人物が打った碁か?」

 

「はい」

 

さらに続けて和谷は並べていく。

すると白川も森下と同様の印象を受けたらしく

 

「うーん……確かに強いんだけど……さっきの安太善の対局より、何か、若干弱く感じますね」

 

saiが打ったという棋譜が並べられていくのを、集まった誰も口を挟まずじっと注視する。

 

「そして夏休み初めにオレとsaiが打った対局です」

 

和谷が並べる最初の数手で冴木があっ、と何かに気付いたようにあっと声を上げた。

 

「定石が古い?最初のコスミも、秀策のコスミだ」

 

「そうなんです、打つ碁そのものが現代ではほとんど打たれなくなった古い定石なんです。ここもそうだ。」

 

石を並べながら冴木に賛同するように和谷が言う。

和谷が最後の一手まで並べると、しばらく碁盤を並べるだけで誰も口を開かなかった。

その静寂を破ったのは森下だった。

 

「夏休みから安太善との対局までたった数ヶ月。それでここまで打てるようになったのだとしたら、恐るべき成長だな。乾いた砂が水を与えられただけ全部吸収するような速さだ」

 

「森下先生は、saiに心当たりありませんよね?」

 

和谷が尋ねると、

 

「これだけ打てるやつを知ってたら、とっくに研究会(ココ)に引っ張ってきとる」

 

「ですよね……」

 

期待してないと言えば嘘になるが、予想通りの返答に、和谷は肩を落とした。

森下のような少し古い時代の棋士が、最近のネット碁に精通しているとはとても思えない。

 

「もし、このスピードのまま強くなっていったらどうなるんでしょうね」

 

白川が誰に言っているとも知れず小さく呟くと、森下は持っていた扇子をパチリと音を立て閉じた。

 

「どんなに強くなろうと頭打ちはいずれ来るだろう、囲碁は1人では打てん。必ず打つ相手がいるんだ」

 

囲碁は1人では打てない

 

強くなれるのは自分と同等かそれ以上の相手がいるからこそ強くなれる。

森下の言ったその一言に、和谷は唾を飲んだ。

 

 



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15

「もう外出された?今日はお休みと聞いていたのですが、何か急な仕事でも?」

 

塔矢邸の玄関で緒方が行洋の不在を妻の明子から告げられ、予想外のことに驚く。

前もって行洋と約束していたわけではないが、ハードスケジュールのたまの休みは、いつも家で静かに碁を打つのが行洋の慣例だったので、今日もそうだろうと勝手に思い込んでいた。

 

「個人的な約束があると言って朝早く出かけられて行かれましたよ。夜までには帰るとおっしゃってましたけど」

 

「先生が、個人的な約束……」

 

「どうせ囲碁関係ですよ。だってあの人、とても嬉しそうな顔してたもの」

 

思案する緒方とは反対に、明子はさほど気にした様子もなく笑って言ってのける。

余裕溢れたその様子に、あの塔矢行洋が嬉しそうな顔ねえ、と内心思いながら、緒方もくだけた調子で、

 

「妻の勘ってやつですか?」

 

「いいえ。女の勘かしら」

 

ふふふ、と明子は口元に手を当て、子供のように無邪気な笑みを綻ばせた。

 

 

□■□■

 

 

待ち合わせは前回と同じ店だったので、さすがのヒカルも、今回は道に迷うことなく辿りつくことができた。

店の門に取り付けてあるインターホンを押すと聞き覚えのある女性が出たので、名前を告げれば紺色の半被を着た中年の男性がすぐに出迎え、ヒカルを離れに案内してくれる。

 

――前に来たときも思ったのですが、こちらは本当に庭の手入れが行き届いてますね

 

一度見た庭を、佐為は飽きる様子もなく感慨深く見つめる。

 

――そうか?オレは庭なんか全然分からねぇけど?ていうか、落ち葉がたくさん落ちてるじゃん

 

――その落ち葉はわざとそうしてあるのです。紅葉して散った葉が季節のうつろいを見る者に伝わらせることで、より深い趣きを感じさせます

 

――落ち葉で趣きねぇ

 

関心なさそうにヒカルは呟く。

案内された離れの部屋に、中央に置かれた碁盤の前に座る行洋の姿を見つけて、一瞬待ち合わせに遅刻してしまったかとヒカルは焦ったが、腕時計を見ても時間よりまだ10分は早い。

 

「お、おはようございます……早いですね、先生……」

 

「おはよう進藤君。どうにも佐為と打てると思うと、年甲斐もなく気持ちが高ぶってしまってね、時間より早く来てしまった」

 

行洋が気持ちを高ぶらせるというのがヒカルは想像できなかったが、とりあえず遅刻して行洋を待たせたわけではないのだと分かり、ほっと安心した。

ヒカルが行洋から碁盤を挟み反対の位置に座ると、ちょうど見計らったように、以前、ヒカルを案内してくれた女性がお茶を運んでくる。

失礼いたします、と一声かけてから部屋に入り、2人にお茶を出す様子を、ヒカルはじっと見つめる。

 

「ごゆるりとお寛ぎください」

 

それだけ言うと、部屋から立ち去ろうとした女性にヒカルは、あっ、と声をかけた。

 

「待って。お茶もう一ついいですか?」

 

「お茶をもう一つですか?かしこまりました」

 

2人しかいないのにもう1人分のお茶を頼むヒカルに、女性は小さく首を傾げたが、それ以上の要らぬ詮索をすることなくすぐにもう一つお茶を差し入れた。

 

「どうぞ」

 

差し出されたお茶をヒカルはとりあえず自分のお茶の隣りに置き、女性が部屋から立ち去ったのを確認してから、隣に座る佐為の方に追加で頼んだお茶を差し出した。

 

「ほら」

 

――ヒカル?

 

「進藤君?」

 

「佐為の分です。飲めないけど、3人いるのに2人分しかお茶ないのってなんか寂しいし」

 

佐為を知らなければ、余分なお茶は不自然だろうが、この場にいる行洋には佐為の存在を話している。

 

「なるほど、それはそうだね」

 

――ありがとうございます!ヒカル!

 

ヒカルが差し出したお茶を、佐為は嬉しそうに見つめる。

生身の肉体を持たない己にお茶が差し出されたのは、虎次郎の頃を含めて、一度もなかった。

飲めない己にお茶が用意されても無駄ということは分かっているが、それでも自身ためにお茶が用意されるということは、佐為という存在を改めて認めてくれているような気がした。

 

出されたお茶に行洋は一口つけて、

 

「佐為と韓国の安太善の対局だが、私も見せてもらった。素晴らしい対局だった」

 

「アンテ?」

 

聞きなれない名前に、ヒカルは聞きとらえることができない。

 

「安太善。2週間前の日曜日、佐為がネット碁で対局した相手だよ」

 

「2週間前?ああ!アレ!」

 

名前を言われても分からなかったが、2週間前という一言に、ヒカルと佐為は顔を合わせた。

心当たりはあった。

2週間前、というよりもそれよりさらに一週間前、ヒカルが院生試験に合格し、行洋からの手紙も届いた日、対局申し込みをしておきながら、打ち直しをチャットで申し込んできた相手だ。

一手も打たないうちから、日程を変えての対局打ち直しを申し込んできたので、鬱陶しく感じ、初めヒカルはいつものようにチャットを無視しようとした。

けれど、チャット画面を閉じる前に、佐為が『私は構いません』と打ち直しの対局を了承したので、ヒカルは佐為が言うならと慣れないキーボード相手に両手の人差し指を駆使して、『わかりました』と短い文章を返すことに成功した。

 

「アレって韓国のプロだったんですね。佐為もすごく強かったって言ってました」

 

「相手が誰か分からずに、打ち直しを了承したのかね?」

 

「あ~、なんていうかオレも院生試験受かったばっかりで、佐為も佐為で塔矢先生からの手紙で浮かれてたから、まぁいいかなって。でもその後、いろんなヤツから日取りを決めた対局の申し込みみたいなのがいっぱいきて、面倒になって全部無視してるんですけど。それにネット碁だから相手なんか誰だか分からないし」

 

ただ、持ち時間が3時間だったのはヒカルも驚いた。

ネット碁をするとき、いつものように持ち時間30分くらいかと思っていたので、3時間と画面に表示されたときは、思わず対局を断ろうかと本気で思ったくらいだ。

 

だが、行洋はヒカルが何気なく言った言葉を意外そうに問い返す。

 

「院生試験?進藤君が受けたのかね?それで合格を?」

 

「はいっ!」

 

――ほらっ、ヒカル。行洋殿にもお礼を。試験を受けるのに推薦してくれた緒方という者は、行洋殿の弟子なのでしょう?

 

佐為が隣りからヒカルをつつく。

 

――あ、ああそっか

 

「えと、試験受けるときに、緒方って人から推薦してもらったんです。ありがとうございました」

 

「緒方君が君を推薦?そうか、それは知らなかった」

 

ヒカルのように何か特別な経歴があるでもなく、誰かプロ棋士の推薦がもらえるような様子もないのに、よく院生試験が受けられたものだと訝しんだが、緒方がヒカルを推薦するとはさすがの行洋も予想しなかった。

緒方も緒方で、アキラに勝ったというヒカルのことを気にかけていた様子だったので、それが理由で推薦したのかもしれない。

もっとも、ヒカルが院生に入るだけの力を見極めた上で、行洋自身が推薦してもいいが、そうなると周囲から余計な邪推を受ける可能性が高い。

 

「しかし、君が囲碁を始めたのは、佐為と出会ってからなのだろう?」

 

「そうです」

 

「それから一年足らずで院生に入れるほど力をつけられたのは、佐為の存在があったとしても、進藤君に碁の素質と努力があったからなのだろうね。おめでとう」

 

プロにはまだまだ遠い院生試験に合格というだけで、現役のタイトルホルダーに誉められ、ヒカルは満面の笑顔で喜ぶ。

 

「だって佐為に毎日扱かれてますから」

 

院生試験に入る前はそれこそ寝る時間を惜しんで、ヒカルは佐為に指導してもらった。

 

「では、今日は私に佐為と打たせてもらえるだろうか?」

 

「もちろん!」

 

碁盤の上に置かれた碁笥を行洋が取る。

そしてヒカルもまた碁笥を手元に引き寄せた。

 

 

 

 



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16

家を出る前、行洋は明子と約束した通り、夜までに帰れたことに安堵しつつ、もっと打ちたかったという気持ちが奥底で燻り続けるのを、気持ちを振り切るかのように頭を振って、玄関をくぐった。

 

時間を忘れ、碁を打ったのは本当に久しぶりだった。

プロ棋士同士の対局でも碁盤に集中し過ぎるということはあるが、やはり持ち時間が設定されており、心のどこかに残り時間を行洋は気にしてしまう。

だが、今日の対局は時間を気にすることなく、じっくりと碁を打つことができ、そして対局後の検討も心躍るものだったので、時間のことなど女将が時刻を告げに来るまですっかり忘れてしまっていた。

 

真剣勝負だったが、お金とかタイトルなどのしがらみが一切ない、ひたすら最善の一手のみを追求する純粋な対局だったと思う。

ヒカルと別れるときにも行洋は言ったが、本当に楽しい一時だった。

 

玄関に入るとすぐに台所から明子が現れ、帰ってきた行洋を出迎える。

 

「おかえりなさいませ」

 

「ああ」

 

「今朝ですけど、お出かけになった後、緒方さんがいらっしゃいましたよ?」

 

行洋が脱いだ草履を整えながら明子が言うと、部屋に向かおうとして行洋は立ち止まった。

弟子の緒方が行洋の家に来ることは何らおかしいことではないが、今日は研究会の日でもなく、来るという連絡も受けていない。

 

「緒方君が?」

 

「ええ、前もって約束していたわけではないから構わないとおっしゃってすぐ帰られましたけど」

 

振り向いた行洋に、明子はありのままを伝える。

 

「……そうか」

 

「すぐ夕御飯の用意も出来ますが、先にお風呂に入ります?」

 

「そうだな、風呂に先に入るか」

 

それだけ言うと、行洋はとにかく自室に戻ろうとするが、明子の一言で今日の出来事がとたんに罪深く思えた。

腕に覚えのある碁打ちならば、誰もが佐為と対局したいと願うだろう。

他の誰でもない、行洋自身のように。

 

そして現に、saiとネットで対局し、また打ちたいと願っているものが多数いる。

しかし同時に、佐為が表に出れば、アキラと対等に打ちたいというヒカルの気持ちや才能は、見向きされることなく潰されることも目に見えている。

 

ヒカルが佐為の存在を打ち明けてくれたお陰で、ヒカルと行洋の時間と都合が許せば、誰にも内緒ということを条件に、行洋は佐為と打つことが出来る。

己だけがヒカルの傍らに在る佐為の存在を知り、対局するということは、佐為と打ちたいと願う者達へ背を向ける行為なのだろうと、行洋は小さく頷いたまま目を閉ざした。

 

 

□■□■

 

 

「ただいまー!!」

 

玄関の扉を元気よく開け、バタバタとヒカルが家に帰ってくる。

 

「お帰り、ヒカル」

 

「お腹空いた!母さん今日の晩飯何!?」

 

「ハイハイ。今日はオムライスよ」

 

「やった!俺のは大盛りね!」

 

育ち盛りのヒカルに、美津子も苦笑しながらも、息子の子供らしい元気な姿にクスクス微笑む。

そのまま走るように二階に上がり部屋着に着替えたかと思うと、同じ速さで一階に戻り、出されたオムライスをガツガツ胃袋に収めていく。

あまりの急いだ食べ方に、美津子は冷たいお茶を出しながら、

 

「ヒカル、そんなに急いで食べたら喉に詰まるわよ。もう少しゆっくり食べたら?」

 

「へぃき!」

 

美津子が注意しても気にすることなくヒカルはオムライスを口いっぱいに詰め込み完食すると、出されたお茶を持って

 

「ごぉおうざま……」

 

吐き戻さないよう反対の手で口を押さえたまま二階へと戻っていく。

何をそんなに急いで食べる必要があるのかしら、と美津子は軽く頭痛を覚えつつ、米粒一つ残さず綺麗に食べられた皿を下げた。

 

――ヒカル、大丈夫ですか?

 

――ん!だいじょ……ぶ!

 

お茶で流し込むようにして口の中の食べ物を飲み込むと、ヒカルは急いで碁を打つ準備をする。

 

――打とうぜ、佐為!!

 

――今日はヒカルも楽しかったみたいですね

 

――ああ、なんか上手く表現できないけど、すごいのだけは分かるんだ。石の流れとか、ちょっと前までなら分からなかったことも、塔矢先生や佐為が言っていることも分かるんだよ

 

佐為と行洋によって、無機質な黒と白の石が確たる意思を持ったように複雑な模様を創っていく様は、佐為の言うままに石を置くだけのヒカルにとっても、片時も目を離せないほど興味深く刺激的だった。

アキラと佐為が以前碁会所で打った対局のように、1人取り残されるわけでなく、2人の真ん中で石の流れを見つめることができた。

そして対局後の検討も、2人が打つのを眺めていた所為か、置かれた石の意味が簡単に理解でき、ヒカルの中に入っていく。

 

――それだけヒカルが成長したということですよ

 

碁盤を前にして、興奮した様子で今日の出来事を語るヒカルに、佐為も嬉しそうに答える。

 

――はじめた頃に比べてだいぶ分かっていたつもりだったんだけどな。まだまだ全然ダメだ。もっとたくさん打って、もっともっと強くなって、俺もあんな碁が打ちたい

 

――ヒカルならきっと打てます

 

――そしてお前から負けましたって言わせてやる!

 

キラリと目を光らせて、ヒカルが不敵に笑めば、佐為も負けじと言い返す。

 

――言いましたね!出来るものならやってごらんなさい!

 

――プロにだってすぐになって塔矢を見返してやるぜ!!

 

――その意気です!!

 

ヒカルと佐為の2人が部屋で意気込みを熱く叫んだとき

 

「ヒカル!!1人でうるさいわよ!!」

 

一階から美津子の注意が飛んできて、ヒカルは自分が声に出して叫んでいたことにようやく気付く。

ヒカルは慌てて両手で口を押さえる。

だが、佐為と視線が合うと、どうしても堪えきれずヒカルは大声を出して笑った。

今度は美津子もどうしようもないと無視することにしたらしく何も聞こえてこない。

 

――打ちましょう、ヒカル!

 

――おう!

 

大きな素振りでヒカルは黒石を碁盤に打った。

 

 

 



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17

「真っ黒だな」

 

院生の対局成績表を眺めていたところに、背後から声がしてヒカルはバッと振り返る。

 

「塔矢アキラのライバルが2組で5連敗とは恐れ入るぜ」

 

痛いところを突かれたが、否定できない事実なので言い返すこともできず、ヒカルは口をへの字にして、からかってきた和谷を睨んだ。

今月から院生として参加するようになったが、未だに一度も勝てずにいる。

 

院生試験に受かった後、ヒカルは院生の対局部屋を見学した。

その際に、口が滑って中学囲碁大会でアキラがヒカルを追って出場してきたことを話してしまったことと、棋院の廊下で「打倒、塔矢アキラ」と言っていたのを和谷が聞いていたことから、ヒカルを塔矢アキラのライバルとからかい半分、揶揄するようになった。

 

アキラに勝ったのは佐為が打ったからであり、院生になったとはいえ、ヒカルの現状は2組の最下位。

初めこそ注目されていたヒカルも、今ではすっかり入りたての院生にありがちな戯言として片付けられている。

 

「あ!分かった!将棋かなんかのライバルってことだな!」

 

「だいたいお前は何位なんだよ!?」

 

1組の対局成績表を手に取り、ヒカルは和谷の名前を探すが、

 

「1組の6位……和谷って強いんだ……」

 

「2組のどんケツと比べりゃな」

 

2組最下位のヒカルとは正反対の好成績に、ヒカルの頬がヒクヒク痙攣した。

 

――気にしない、気にしない。ヒカルはヒカルです。ちゃんと力をつけてきてますよ

 

和谷の成績にショックを受けるヒカルを、佐為が懸命に励ます。

毎日ヒカルと打っている佐為には、少しづつ着実に力をつけているのが分かるのだが、やはりその力が成績に反映しないことには、ヒカルには実感しにくいだろう。

とにかく今は一局でも多く打って力をつけていくしかない。

2組ではあるが、これまで打った院生の者達の実力は、決して遠くないのだから。

 

「でも、それでも和谷は塔矢には2連敗かぁ」

 

「うるせぇ、2連敗だろうがお前より俺の方が塔矢に近いんだ!俺だって今年こそは絶対プロ受かるぜ!」

 

去年のプロ試験でアキラにのまれてしまったことを思い出し、悔しそうに和谷が言い返す。

技術以前に気持ちで負けてしまったことが、一番腹がたった。

 

「俺も今年こそ受かりたいよ」

 

2人の背後でため息をつきながら伊角が呟く。

 

「俺、今年18だから院生でいられる最後の年だもん」

 

「院生でなくたって30歳までプロ試験は受けれるじゃん」

 

と和谷。

 

「歳じゃなくて気持ちの問題だよ。一昨年も去年も、院生1位でプロ試験落ちてるんだ。今年もダメだったら情けなくてやってらんないぜ」

 

また一つ、伊角はハァと大きなため息をついた。

2人のやりとりを聞いていたヒカルは、そこで初めて院生でいられるのが18歳までということと、プロ試験を受けれるのが30歳までの制限があるのを知った。

しかし、そこでヒカルにふと別の疑問が沸く。

 

「プロ試験って、何人受かるの?」

 

「3人」

 

「え!?」

 

中学生のアキラが合格できたのなら自分にも出来るはずだ、と漠然と考えていたが、現実的な数字を出され、ヒカルは呆然とする。

たった3人という合格枠に院生を含めた30歳までの強者がしのぎを削るのなら、2組最下位の自分が合格できるのだろうか、とプロ試験合格が途方もなく遠い夢物語のように思えてくる。

 

「先が遠いな、5連敗」

 

呆然と立ち竦むヒカルに、和谷が追い討ちをかけるように言った。

 

■□■□

 

 

年が明けた頃を境に、saiのネットに現れる頻度が極端に少なくなった。

とりわけ土日はほとんど現れなくなった。

saiの現実での事情など知りようもなかったが、アキラの中で一つの引っかかりがあった。

緒方が推薦するという形でヒカルは院生試験に合格したという。

となると院生として研修に参加するのは年明け1月からということになり、院生研修日も土日と重なることから、saiがネットに現れなくなったことへの辻褄が合った。

 

見るたびに強くなっていくsai。

そして、もう1人、ここにきてさらなる強さを手に入れた者が、アキラの目の前にいた。

 

毎朝の習慣となっている対局を打ち終え、碁石を片付けながら

 

「お父さん」

 

「なんだ?」

 

「ずっとお父さんと打ってきましたが、最近はまたお父さんが一段と強くなったように感じます」

 

普段は気にすることのない碁笥のふたをすることさえ、アキラがこんなに意識したことは、中学囲碁大会でヒカルを前にし緊張と恐れで手が震えたとき以来だった。

 

父であり、ずっと碁打ちとして尊敬してきた行洋が強くなることに、決して異論や反論を言うわけではない。

一言で言えば驚きというのが最適だろう。

若い棋士が実力をつけ強くなっていくのとは、一線を画して異なる成長の仕方。

大手合いを含めタイトルをかけた対局の対戦相手も、新しい塔矢行洋に戸惑っているようだった。

 

対局後、『挑戦している自分こそが、若返った塔矢行洋に挑戦されているようだ』と言ったのは誰だったか。

 

「……お父さんは誰と碁を打っているのですか?」

 

アキラの一言に、行洋はピクリと反応する。

ヒカルを通し、佐為と内密で打っていることは誰にも話していない。

店に入るところを誰かに見られでもしたか、それとも気付かないうちにそんな素振りをしてしまったかと、顔には出さず行洋が考えていると、

 

「最近のお父さんの打った碁を見ると、対局相手ではない、別の何かと打っているような印象を受けるのです」

 

行洋がもっと強くなるのは喜ばしいことだとアキラは思う。

強くなることで、これからたくさんの名局が生まれていくことだろう。

ただし、行洋1人が強くなるだけで、他の誰も行洋に追いつける者はいない。

 

たった独りだけ突出した棋士

 

そんなことがありえるのだろうか、とアキラは疑問に思う。

 

「アキラは、神の一手がこの世に存在すると思うか?」

 

じっと行洋を見上げながら言うアキラに、秘密がばれてしまったわけではないのだと安堵しながら、行洋は少し考えて問い返す。

 

「神の一手ですか?僕は存在すると思います。最善の一手の追求の先にある一手。それが神の一手だと」

 

問いかけた事とは全く違うことを問い返され、アキラは困惑しながらも答える。

幼いころから行洋の傍らで碁を見続け、神の一手を極めることを目標として切磋琢磨してきた。

 

「最善の一手の先にある一手。それも確かに間違ってはいないだろう。しかし、私はこの歳になって思うのだが、神の一手は人には打てないからこその神の一手ではないだろうか」

 

「人には打てない?」

 

「そうだ。神の一手は神だけが打つことの出来る一手。人には決して打てない」

 

「では、何故お父さんは神の一手を求めるのですか?」

 

無意識かもしれないアキラの核心を突いた問いかけに、行洋は目を見開きアキラを見る。

最善の一手の追求が届かない神の一手に到達する唯一の方法というならば

 

「神が神の一手を打つところを見たいがため、なのかもしれん」

 

最善の一手を人が追求した盤上に、神が打つその一手を

 

あの時のように

 

 



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18

2月に成績がガタガタになり、3月からまた2組の最下位からスタートしたヒカルも、佐為の指摘と助言のお陰で持ち直し4月から1組に上がることが出来た。

自分の名前が書かれた1組の表を、ヒカルは興奮気味に和谷に見せびらかす。

 

「和谷!1組だ!今日から俺1組!」

 

「ハイハイ、1組のドンケツな」

 

ぺいっとヒカルは和谷につれなくデコピンされてしまい、それを見ていた周囲の院生も、漫才のようなやりとりにクスクス笑う。

 

「ようこそ1組へ」

 

伊角が1組を代表するように新しい仲間であり好敵手のヒカルを歓迎した。

 

1組に上がった初日の対局を、ヒカルは2回とも勝つことが出来た。

調子に乗っている部分はあるとヒカルでも自覚していたが、良いリズムと気持ちで打てていると思った。

闇雲に打つだけでなく、切り込まれる一手を見極め、ギリギリまで踏み込む勇気を知ったからだろうと思う。

だからと言って、盤上に切り込む佐為の一手は穏やかになるどころか、さらに厳しくヒカルを攻め立てるのだけれど。

 

その次の対局日、初戦のヒカルの対戦相手は和谷だった。

院生試験を受けに来た日からすで和谷とは顔見知りだったが、打つのはお互い初めてなので、どんな碁を打つのか、ヒカルはいつもより興味があった。

院生の研修部屋に入り、ヒカルは和谷の姿を探すと、すでに来ていたらしい和谷は別の院生と雑談しており、近づいてみると

 

「簡単だって!ネット碁なんて」

 

「ネット碁?」

 

和谷からでたネット碁の単語を、ヒカルは無意識に口にしていた。

くるりと、和谷が振り返り

 

「お、進藤おまえネット碁やってんの?ていうか、パソコンいじれるのか?見えねー!」

 

矢継ぎ早に言われ、ヒカルはムッとしながらも、近くの座布団を引き寄せ空いている位置に座って、雑談の輪に加わる。

 

「出来るよ!ネット碁だってしてるし!」

 

胸を張って自信満々にヒカルは言い返す。

ただしマウスはいじれても、キーボードを打つのはまだまだ苦手ということは、ヒカルの心の中だけに押し留める。

 

「へー、意外過。後でHN教えろよ!」

 

「うん、和谷のも教えてくれよ!」

 

いつもネット碁は見知らぬ誰かとしか打ったことがなかったヒカルは、和谷という同じネット碁をする仲間を見つけ素直に喜ぶ。

知り合いのHNさえ分かれば、家にいてもその人物と打てるのは便利でいいかもしれない。

 

先に雑談していた1人が、何気なく問いかける。

 

「なぁ、ネット碁って強い人いる?」

 

「そこそこいるよ、たまにプロがおふざけで時々打ったりもしてるしな。それにプロだけじゃない。アイツは、プロより強い」

 

最後の方で急に和谷の顔は真剣味を帯びる。

 

「有名なのは去年の年末に韓国の安太善と打った対局かな。持ち時間3時間の互戦でもアイツは危なげなく勝ちやがった」

 

「あ、それ聞いたことあるな。棋院の事務所にも問い合わせ来ているヤツだろ。おっと、時間だ、またな。俺もネット碁はじめたら教えてくれよ」

 

午前の対局開始時間が迫っていることに気付いたようで、雑談していたメンバーが自分の席へ戻り、和谷の対局相手のヒカルだけが残る形になる。

韓国の安太善。

その名前をヒカルと佐為は行洋から聞かされていた。

年末に佐為が打った対局相手と同じ名前に、もしかしたらと思い

 

「和谷、そのプロより強い人って名前は?」

 

「名前?sai、アルファベットでエスエーアイ。ってお前ネット碁するんだろ?saiのこと知らねぇのかよ?」

 

「あ、いや、そのもし違ったらなぁと思って。saiだろ、知ってるよ」

 

アハハとヒカルは苦笑しながら言い繕う。

ネット碁で佐為が全勝を続け強いことはヒカルも十分分かっていたが、チャットがほとんどできないことで他のプレーヤーと会話できないため、佐為がどんな風に噂されているのか詳しい内容までは知らなかった。

 

――だって私は隣りにいますからね

 

――そういや、塔矢もネットでお前が騒がれてるとか言ってたような……めんどうなことにならなきゃいいけど

 

三谷の姉がアルバイトしていたネットカフェに入り浸り、ネット碁をしていたときに、突然背後からアキラに肩を掴まれたことをヒカルは思い出す。

そのときは、たまたまヒカルがネット碁に疲れ休憩していて、対局画面ではなく別のHP画面を開いていたから、アキラにsaiの正体がバレることはなかったが、かなり肝が冷えた。

そこで一度は佐為にネット碁を打たせることを諦めたヒカルだったが、しばらくして家にパソコンが届き、再びネット碁が打てるようになったのだから、何が起こるか分からない。

 

「去年のちょうど夏休みくらいから現れて今も無敗の土なし全勝街道まっしぐら。俺も対局したのは一回だけど観戦はよくするぜ。塔矢アキラまでプロ試験サボってsaiと打つし。マジ誰なんだよ?ってお前だって思うだろ?」

 

和谷がsaiを思いながら語る傍で、佐為も

 

――へー。私って和谷といつの間にか打ってたんですね。それに塔矢も試験サボってまで私と打っていたなんて

 

打っていた本人すら知らないことを聞かされ、興味深げに和谷の話に聞き入る。

 

「saiと対局した人はたくさんいたけど、saiは対局者とチャットしないし……でも、そんなsaiが何故か俺に話しかけてきたことがあってさ……」

 

saiが話しかけてきた、という和谷にヒカルは目を見開く。

キーボードを打って文字の会話をするチャットをしたのは、ヒカルでも数えるほどしかない。

その中のチャットをした数人の誰かが和谷だったのだろうかと、ヒカルは内心考えていると

 

「俺を負かしたあと、『ツヨイダロ オレ』って言ってきたんだ。子供みたいだろ?」

 

「zelda!オレは院生だぞって言ってた!zeldaって和谷だったんだ!!」

 

――ヒカル!!

 

「あ」

 

口を滑らせたヒカルに、佐為が慌てて止めるも、すでに時遅かった。

ハッとしてヒカルが冷や汗を垂らしながら口を抑えるなか、固まってしまった和谷は、じっとヒカルを見ながら少しして、

 

「……なんでお前がオレとsaiの会話を知ってるんだ?」

 

当然過ぎる疑問を投げかける。

チャット画面は会話している者同士にしか見えない。

よって観戦者が知ることは出来ないのだ。

和谷は去年の国際交流囲碁大会でsaiと会話したことは話したが、自分のHNについては誰にも話していない。

saiとチャットした相手が会話内容からzeldaであると見分けることは、sai側から見たチャット画面でしか分かりえない内容だった。

 

「時間ですので始めてください」

 

対局時間になり院生師範の篠田が、対局開始を述べると、院生達はいっせいに礼をして対局を始める。

これにより雑談を続けることは出来なくなってしまったが、和谷は驚きと疑いの眼差しのままヒカルをじっと見ていた。

 

 

 



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19

塔矢邸での研究会がひと段落し、休憩をとろうとして碁石を片付けながら

 

「アキラくん、この間進藤に会ったらね。彼、若獅子戦に出ると言ってたよ」

 

緒方がさりげなくアキラに若獅子戦の話題を振る。

今年からプロになったアキラはプロ側で、そのアキラにヒカルは院生として挑むのだという。

 

「楽しみじゃないかい?」

 

進藤の名前を出しても無表情なアキラに言い重ねる。

 

「別に、僕は彼のことなど、どうとも……」

 

気にしていないとアキラは言うが、その口調は重い。

そのやりとりを見ていた行洋が小さく呟く。

 

「あの子が若獅子戦に……」

 

 

□■□■

 

 

対局が始まってしまっても和谷は疑惑の眼差しをヒカルに向け続け、ヒカルは対局に集中できない。

和谷の視線に晒されることに耐えられず、ヒカルは救いを求めるように隣の佐為を横目に見やった。

 

――う~~、俺またいらんことを言って

 

――ヒカル!そのことはあと!今は盤上に集中して!!

 

と、佐為もヒカルに盤面に集中するように注意するが、それはヒカルだけでなく疑いの眼差しを向ける和谷も同じようで、はじめて対局したのにも関わらず和谷の集中力が欠けているのが、盤面のいたるところに見て取れた。

お互い初歩的なミスの連発。

結局は和谷が自滅するような形で自ら敗北を認めた。

 

「ま、負けました……」

 

変な緊張感を伴う対局が一応終わり、ふぅ、とヒカルが息をつく。

 

――勝っちゃいましたね

 

1組に上がったばかりのヒカルが、和谷にまで勝って3連勝するとは佐為も考えていなかった。

しかし、対局前よもやこんな形でヒカルが勝つとは思わなかったが、正念場は対局後かもしれないと俯いたままの和谷を見ながら思う。

 

――ハハハ

 

ヒカルも自分が何することなく転がってきた勝利に、乾いた笑みを浮かべる。

 

「……進藤!おまえsaiの弟子だろ!?saiの後ろでsaiと俺の対局を見てたからチャットの会話知ってんだ!」

 

俯いていた和谷がバッと顔をあげ、ヒカルにいい詰めよる。

ヒカルがビクリとした。

 

――惜しいっ!後ろじゃなくて前っ!

 

和谷の鋭い勘に、佐為が細かいツッコミを入れるのを、そんなことはどうでもいい、とヒカルも佐為に向かって内心ツッコミをいれる。

 

「saiに碁を教わってるとしたら、塔矢アキラがおまえを追っかけてたっていうのも……それだって、おまえの中にsaiを見たとかさ」

 

盤上に打たれたヒカルの黒石を指差しながら、ヒカルがsaiと和谷の対局を知っていたことと、アキラがヒカルをライバル視する辻褄合わせを、独り言に近い形で述べていく。

 

――当たってるような、当たってないような……

 

――勘がイイですね、和谷

 

完全に当たらずとも遠からず、な和谷の推察に、ヒカルと佐為は少々驚きを隠せない。

 

「答えろよ!何故saiと俺の対局を知ってる?」

 

何も言わないヒカルへさらに強い口調で詰め寄る和谷に、佐為は心配そうにヒカルをみやる。

ヒカルはゴホン、と一つ咳払いをして

 

「和谷……俺がsaiとzeldaの対局を見たのは偶然なんだ。夏休みだったから暇つぶしにインターネットのできるネットカフェの店に行ったらさ、ちょうど碁を打っている画面が見えて、そしたらもう終局でさ。俺がネット碁の存在をはじめて知ったのもそのことがあったからで、印象深かったから、その時見たsai とzeldaの会話を覚えてたんだよ」

 

「……で、その人は!?」

 

「すぐ帰っちゃった。後姿だったから顔も見てねぇ」

 

――ヒカル、ウソがうまくなりましたね

 

ヒカルが述べた口八丁な嘘に、佐為がよくそんな嘘がスラスラ出てくるものだと驚く。

 

――全部お前のせいだよ

 

ヒカルは開き直ったように言い捨てた。

藤原佐為という幽霊にとりつかれてからというもの、これくらいの咄嗟の嘘がつけなくては、変人扱いされてしまう。

saiとzeldaの対局と、そのチャット内容を知っていたことに対して、ヒカルの説明に一応の筋は通っている。

これ以上のボロさえ出さなければ、知らぬ存ぜぬで押し通せるだろう。

 

「本当に全くsaiと関係ないのか?これっぽっちも?背格好とか少しくらい覚えてねぇのかよ?」

 

なおも食い下がってくる和谷に、

 

「全然。saiを知ってたら、とっくに自慢しまくってるぜ」

 

――おや、私を自慢したかったのですか?

 

――和谷を諦めさせるための言葉のあやだ。大体、そんなことしたらsaiは幽霊ですって塔矢先生以外にもバラすことになって、おれは皆から幽霊が見えるキチガイ扱いされるんだぞ!

 

saiがネット碁で活躍するのは大いに結構だが、佐為の存在が知られてしまうのは、これ以上はご免だとヒカルは憤慨する。

 

「関係ないのか……」

 

もしかしたらと期待した分、結局saiの正体について何も分からなかったことに、和谷は落胆したように頭を垂れた。

 

「いい碁だったぜ。布石、おもしろかった。お前強くなるかもな。いつかsaiのように」

 

saiの存在を求める姿を、ヒカルはアキラ以外で実際に見るのは初めてだった。

まだヒカルが佐為の言うままに打っていた頃、アキラが追いかけてきたように、ヒカルの知らないところで佐為の存在を追っている人が他にもたくさんいるのかもしれない。

 

「それでだ。saiを見たネットカフェはどこだ?教えろ」

 

一度は完全に諦めたかのように見えた和谷が、ヒカルがsaiを見たというネットカフェの場所を、いきなり真顔で尋ねる。

そのネットカフェでsaiが碁を打ったのは間違いないが、やはりヒカルが佐為の代わりに打たなければどうしようもない。

和谷もまだヒカルが店の場所を行ってもいないのに、saiの正体について都内在住の可能性が高い日本人などと勝手に推察している。

saiを諦めるどころか、僅かな手がかりにさえ縋ろうとする和谷に憐れみの眼差しを向け、絶対に佐為に会えることはないのになぁと心の中でそっと謝りつつ、ヒカルは店の場所を教えた。

 

そして午前の対局が終わり、休憩を挟み午後の対局になると

 

「3連勝?和谷にまで?」

 

そして午後の相手は、院生6位の和谷にまで一組に上がりたてのヒカルが勝ったことにびびり、そしてヒカルも連勝してさらに調子にのったことで4連勝した。

 

しかし、次の研修日からヒカルは負けが続き、最後に勝ちを一つ拾ったところで4月は終わったが、院生順位は1組16位に上がり、ギリギリ若獅子戦に出れることになった。

 

 



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20

机に向かい紙にペンを走らせ、また再び合間見えて碁を打つ日のことを思い、行洋は心はやらせる。

お互いの生活があり、そして大勢の目の前で大っぴらに打つことが出来ない対局。

過去では江戸時代で本因坊秀策として、現代にもその偉業が伝わるほどの棋神の存在を知りながら、決して他言せず隠れるようにして碁を打つ。

 

佐為と碁を打つのは楽しい。

行洋がヨミきったと思った盤上に、未知の、そして最強の一手を放ってくる。

対局後の検討も素晴らしいものだった。

 

行洋は手紙を書き終え、封筒に入れて、机の引き出しにしまう。

 

今日開かれる研究会に集まった者達にも、4ヶ月前に佐為と打った棋譜を見せてやれればと行洋は思う。

佐為と打てたことを自慢するわけではなく、検討するに値する対局として、息子のアキラや弟子たちにとっても十分勉強になるはずだろう。

しかし佐為の名前を伏せても、行洋相手にここまで打つ相手が誰であるか詮索され疑われる。

そして、行洋は尋ねられても返す答えを持っていなかった。

 

 

If God 20

 

 

「本因坊秀策。そう答えていたな、その棋士は」

 

笹木が思い出しながらそう言うと、話題に心当たりのあった芦原が雑話にくいつく。

 

「ずいぶん前の週間碁の記事ですよね、ソレ」

 

「囲碁の歴史上、一番強い棋士?」

 

雑誌の記事を知らない緒方が、今頃どうして江戸時代の棋士の名前が出てくるのか、と怪訝な表情になるが、さほど気にする素振りもなく笹木と芦原は雑話を続ける。

 

「ええ、囲碁って不思議ですよね。碁そのものの研究は日々重ねられていくのに、最強棋士で過去の棋士の名があがってくるんだから」

 

「棋士の技量は、個人の資質によりますから」

 

「まあね、秀策のヨミの深さにも、一手の厳しさにも。芦原はもちろん、俺だって太刀打ちできないからなぁ」

 

「あ、でも秀策の知らない定石でカクランぐらいは」

 

ふと良い案を思いついたように芦原が提案するも、笹木が

 

「秀策が仮に現代の打ち方を学んだら?」

 

「そりゃ最強だ」

 

芦原は肩をすくめ、両手を上げて降参のポーズをとった。

 

その傍らで、緒方は無表情のまま国際交流囲碁大会で、院生の少年が言っていた言葉を思い出す。

 

院生の少年はsaiを『現代の定石を覚えた本因坊秀策』と表現していたが、最近ではその言葉はネットの中でよく見られるようになった。

現れた当初からsaiを見ている者達は、古い打ち筋から現代の定石を吸収し、段々強くなっていく様を『現代の定石を覚えた本因坊秀策』と例え、それはネット碁をしてsaiを知る者達に広く浸透していった。

 

ネットの中にだけに存在し、未だにその一切の素性が知れない。

これだけの打ち手ならプロでではなくアマだとしてもとも、その周囲が打ち筋などで気付く者や、心当たりのあるものが1人くらい出てきてもおかしくないのに、そういった者も出てこない。

人が切り捨てることが出来ない人間のしがらみが、saiには一切無かった。

 

だからだろうか。

saiは人間ではなくコンピューターのAIではないかとさえ、言い出す者まで出てきた。

 

「塔矢名人でもどうかな」

 

芦原が秀策と対局して勝てるかどうか、冗談半分で行洋の名前を出す。

すると当の行洋本人がタイミングよく現れて、芦原は慌てて口を手のひらで覆った。

その芦原の慌てように隣りに座っていたアキラがクスクス笑う。

 

「最強棋士?何の話をしているかと思えば」

 

クスクスと笑いながら、上座に座る行洋に、芦原はあたふたと取り繕う。

 

「ですから、僕は先生のライバルに値する棋士は誰かな、と」

 

「みんなライバルと思っているよ。桑原先生も、座間先生も、緒方くんも」

 

「先生はどう思われます?いえ、140年前の棋神秀策がですね、もし今、この世に蘇ったとしたら」

 

興味本位での雑談として笹木は話題を行洋にも振った。

現段階で、行洋は囲碁界のトップに君臨し、神の一手に最も近いと言われている。

 

塔矢行洋 対 本因坊秀策

 

ありえない話ではあったが、行洋が秀策に対してどう答えるのか、話の流れで笹木の口から出た冗談だろうとこの場に集まっている誰もがそう考えた。

もちろん、行洋が先ほど皆ライバルだと言ったように、この質問も軽く流すであろうと思っていた。

だが、行洋は碁盤をじっと眺めたかと思うと、両手を正座した太ももに置いたまま、目を細め真面目な声で

 

「私でも秀策には敵わないだろうな……」

 

集まっていた全員が行洋の答えに目を見張った。

特に、話を振った張本人である笹木は、まさか行洋から真面目に返答が返ってくるとは思っていなかったので慌てふためき

 

「まさか!?塔矢先生が秀策に!」

 

「もしも、の話だろう。本因坊秀策が現代に蘇ったら、というね」

 

ついさっきの真剣みを帯びた声が嘘のように、行洋は穏やかに取り乱した笹木に落ち着くよう言う。

 

「なんだ、びっくりした~」

 

ほっとして、気が抜けたように笹木は後ろに手をつき、天井を仰いだ。

冗談で話題を振った自分が、逆に行洋にはめられたのだと気付く。

 

「先生も人が悪い」

 

メガネの位置を正しながら言う緒方も、思わず行洋の言葉を本気で受け取ってしまった。

はじめて弟子として行洋に出会ったときから、厳格で囲碁に対して真面目すぎる印象しかない。

まさか行洋の口から冗談を聞く日が来るとは、これからもあるかどうかというところだ。

 

「本当にそう思っているよ。もしも、の話ではあるが」

 

もしも、の話。

ありえない話。

 

その奇跡の中で、佐為と打つことが出来る幸福。

 

和んだ空気の中、行洋は言葉を続ける。

しかし、それも冗談と受け取られ、聞いていた者達のなかに真剣に受けている者はいなかった。

 

 

 

 



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21

父親の行洋が経営する囲碁サロンに入ると、顔馴染みの者達がアキラを嬉々と出迎える。

 

「いらっ――あ、アキラくん!」

 

「新聞見てますよ。デビューから3連勝、絶好調ですね!」

 

幼い頃から行洋や兄弟子達に連れられて来ていた場所なので、アキラも別段気に留めることはなかった。

すでに何度も打ち、気心知れた店の客に、アキラの方も気さくに返事する。

 

「ありがとうございます。奥、行ってるね」

 

いつも座る指定席をアキラが指差すと、受付の市河は慣れた様子で頷く。

 

サロンの一番奥の席で、アキラは黙々と棋譜を並べていく。

並べている棋譜は夏休みにアキラがsaiと対局した一局。

名人である行洋と打っているようなプレッシャーが始終あった。

そして日に日にsaiは力をつけ強くなっている。

 

不意に断りを入れることなく向かいの席の椅子が後ろに引かれ、アキラが顔をあげると兄弟子の姿があった。

 

「緒方さん」

 

恐らく店に入るとき、多少なり受付の市原や店の客が緒方に気付き騒いだはずなのだろうが、棋譜並べに集中していたアキラは全く気付けなかった。

内ポケットから緒方はタバコを取り出しながら、

 

「何を並べているかと思ったら、インターネットの君とsaiの一局じゃないか」

 

「緒方さんはご存知でしたね」

 

アキラが並べていた棋譜を一瞥して、それがsaiとの対局だと緒方は見抜く。

そのままアキラが石を並べていく様を眺めながら、緒方は咥えたタバコに火をつけ、深く吸った。

 

「saiか……魅力的な打ち手ではある。だが、何故表に出てこない。何かしら事情があるにしろ、これだけ打てれば碁打ちとしての噂の一つくらい立ってもよさそうなものだがな」

 

相手の分からないネット碁ではあったが、緒方も気晴らしや手慰み程度にたまに打つことがある。

その中でログインアカウントの中からsaiの名前を探すことも多いが、緒方がsaiを見かけたのは数えるほどでしかなく、それも誰かと対局中のものが全てで、緒方自身がsaiと対局したことは一度もない。

saiの出現頻度が下がったこともあるが、緒方もタイトルを狙うプロ棋士として多忙な為、ずっとパソコンに齧りついてはいられない。

 

だが、saiが打った棋譜は、saiのファンを自称するプレーヤーたちがネット上で情報を集めUPしているので、後でダウンロードすれば簡単に手に入った。

 

saiが初めて現れたのは去年の夏。

突如、ネットの中に現れるのはいいが、それより前はどうなのだろうか。

これだけ打てるようになるには、それだけ誰かと打ち競い合い、己の技量を切磋琢磨しなければ、決して打てない。

1人で本を読み、棋譜を並べ、詰め碁をするのも限りがある。

碁は相手がいなくては成り立たないゲームなのだから。

 

緒方の中で、根拠はなかったが、saiはプロではなくアマではないだろうか、と仮定するようになっていた。

saiの正体を求める大多数が、saiはプロの誰かだと口を揃えていうが、プロがこんなに派手に素人相手に打つというのは考えにくく、すぐに打ち筋から素性がバレるだろう。

 

打ち筋を変えたところで、必ずボロが出る。

逆にアマだからこそ、その素性が知れないのではないかと考えられる。

ネット碁の認知度と利用者の増加は、近年になってからパソコンの家庭内普及とともに比例して増えたが、まだまだ年配層の利用率は低い。

その中のネットをしない狭い間柄だけでsaiが打ってきたのなら、急にsaiが現れて、素性が一向に知れなくても納得がいく。

 

そこで緒方は一度思考を切り替え、棋院で見てきた若獅子戦の対戦表を思い浮かべた。

棋院の廊下で偶然すれ違ったヒカルは、行洋の研究会への誘いを断り、アキラと仲良く勉強するのではなく戦いたいと言い切った。

断り方も『ヤダ』の一言。

他の者達は礼儀がなってないと口を尖らせるが、大人顔負けの対応を見せるアキラを見慣れているせいか、緒方にはヒカルのこうした子供らしい態度が新鮮に映る。

 

サラブレッドのアキラと、アウトローなヒカル。

 

全く正反対な2人が、互いを意識し刺激し合っている。

恐らく、こういう関係をライバルと言うのだろうな、と緒方は頭の隅で思う。

 

「若獅子戦の進藤を見に行こうかと思ってるよ」

 

本来なら緒方が見に行くほどでもないのだが、今回はアキラが初出場することと、ヒカルも院生側で出場するのだという。

 

「君は彼の評価を下げたようだが、俺はまだ忘れられん。前に話しただろう?子供大会で難解な石の死活をチラッと見ただけで、彼が即答したこと。saiはネットに潜ったままだが、進藤は出てきた。名人の言葉通りだ」

 

「お父さんの言葉?」

 

「ああ、子供大会の時、進藤が去ったあと、『彼がそれほどの打ち手なら、遅かれ早かれいずれは我々プロの前に現れる』とね」

 

対局中に横から口を挟んでしまったことは悪いが、もしあのときすぐに帰してしまわず、自分や名人と対局してヒカルの力量を測れていたらと思うことが、今でも時々ある。

 

「……お父さんが……、期待ハズレですよ!」

 

行洋の言葉に、アキラは眼差しを少々険しくしながらも、期待ハズレと語尾を強くして言い捨てる。

しかし、普段物静かなアキラがムキになって言い捨てるからこそ、アキラがヒカルを意識しているのだと如実に語っているようだった。

 

「2回戦で君と進藤はあたるんだろう?是非、彼には1回戦勝ってほしいところだな」

 

「緒方先生、指導碁お願いします」

 

会話する緒方とアキラに遠慮するように、少し後ろで市原が緒方に指導碁を頼む。

その市原に緒方は軽く手をあげ了解すると、タバコを銜えたままアキラを残し席を立った。

 

胸のポケットからアキラは棋院から送られてきた若獅子戦の対戦表を取り出し開く。

お互い勝ち抜けば2回戦で対戦することになるが、偶然にもアキラとヒカルの名前は隣りあっていた。

 

一度は挫折を覚え、そしてそれ以上に落胆した。

 

中学囲碁大会の時のような碁なら、アキラに負けるつもりはない。

 

しかし、目にしている対戦表は、ヒカルが静かに音を立てず、けれど確かにアキラの後ろを追ってきている証のようだった。

 



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22

若獅子戦当日、開始時間までに棋院に到着し、すれ違う関係者や知人に挨拶してアキラは会場に入る。

会場に入れば、入り口近くで院生達が集まっており、その中に特徴的な髪色を見つけて、意識的に無表情を繕う己を自覚する。

年末の院生試験に合格し、緒方の言うとおり、本当にヒカルは若獅子戦までに院生16位まで上がっていたのだ。

しかし、ヒカルがアキラを見ているのは分かっていて、ワザと無視するような形でヒカルの傍を通りぬけ、背後にヒカルから向けられる視線を感じつつ会場の奥にいたプロ棋士たちに挨拶した。

 

背中合わせのようにヒカルが背後で打っている存在を感じながら、アキラは院生を相手に対局した。

対戦相手の本田という院生は、院生の中でも上位者ということもあり、それなりの手ごたえを感じたが、プロの域にはあと少し届かない印象を受ける。

まだアマの域を脱していない。

 

対戦相手がアキラということを意識しているのか、地に辛く、慎重に打っているのが伝わってきた。

だが、アキラには遠く及ばず、攻めてくるアキラに受けるばかりでどんどん地を取られていく。

 

少し時間が経つと対局が終わったらしい者たちが、アキラの対局する机の周囲に集まってくるが、力の差と縮まらない地合いに、対局中盤で相手が投了した。

直後、会場の一角で激しく騒ぎが起こったが、アキラは注意を引き付けられることなく碁石を片付け、まだ後ろで打ち合う気配が続く対局に目を向けた。

 

――これは……

 

盤面はすでに終盤へと入り、小ヨセでプロ棋士の打ちまわしにヒカルが翻弄されているだけだったが、それでも差は6目半とそこまで差は開いていない。

となると、ヨセまではヒカルがプロ相手に互角に打っていたことになる。

何より、見慣れない石の並びは、アキラでも打ち順が想像できなかった。

 

 

If God 22

 

 

大勢の前でヒカルの対局のことを緒方に聞くのは憚られた。

もっと正せば、緒方に聞くのも本当はしたくなかったが、ヒカルの対局を恐らく初めから見ていたのは緒方だけだった。

若獅子戦の翌日、アキラは外で緒方を捕まえられるかもしれない唯一の心当たりの店へ足を向けた。

1人暮らしの自宅で観賞魚を飼っている緒方の行きつけの店。

緒方が必ずいるという確証があるわけではなく、可能性だけでアキラが店に向かうと、店からさほど遠くない路上パーキングに見慣れた車が駐車されてあった。

 

店の中で観賞魚を見ていた緒方がアキラに気付き、

 

「よくここが分かったな」

 

「緒方さん、時々ここによるから、もしかしたらと思って」

 

「何か用でも?」

 

アキラが言いたいことを薄々分かっているハズなのに、もったいぶったように緒方は尋ね返し、あえてアキラから言わせようとしているようだった。

 

「……昨日の、若獅子戦……進藤の対局だけ見てすぐに帰られたでしょう……。お聞きしたいことがあって……」

 

緒方に尋ねることを躊躇しながらアキラは途切れ途切れに口を開く。

昨夜一晩、ヒカルが打った碁を検討してみたが、はやり序盤の打ちまわしがどのように打たれたのか、予想を立てることもできなかった。

 

しかし、尋ねている傍から、取り合う気がないように店員に魚の餌を頼み、そのまま店から出て行こうとする緒方の後を、アキラは急いで追う。

 

「緒方さん!」

 

「さぁ、家まで送っていこうか。それとも寿司でも食っていくか?」

 

今日はヒカルの対局のことを聞くためだけに、いるともしれないこの店までわざわざ足を伸ばしたのだろう、と緒方は言葉に含みを持たせる。

車のロックを外し、車に乗るようアキラに促しながら、緒方も車に乗り込みシートベルトをする。

 

「緒方さん!教えて下さい。昨日の進藤の一局。何か!何かあったんでしょう!?」

 

車に乗り込むとアキラは気にする周囲も無くなったことで、声を荒げて緒方に言い詰め寄った。

長い付き合いでアキラも緒方の性格を多少なり分かっているつもりだ。

緒方は興味の有無がハッキリしている。

もしヒカルの対局が興味を引くものでなければ、もったいぶらずにすぐ話しただろう。

なかなか話さないということは、9段の緒方の興味を引くだけの何かをヒカルがしたことになる。

その結果があの見慣れない石の並びになったのだ。

 

「僕が見たのは村上プロのヨセのうまさに押されっぱなしの進藤、ただそれだけです」

 

「そして結果は6目半の差。君の見たとおりだ」

 

「ヨセであれだけ先手を取られた上での6目半。ということはそれまで互角だったということ。進藤はプロ相手にそこまで力をつけているんですか!?それに見慣れぬ石の並び……手順が想像できないあの形!進藤は何かしたハズだ!」

 

「進藤の対局者に聞けばいいじゃないか」

 

対局について聞くなら、対戦相手に聞くのが一番の筋であり、当然アキラも対局が終わったあと、対戦相手に尋ねた。

けれど、返ってきたのは

 

「……き、聞きましたが……負けた進藤ではなく対局相手の俺を気にしたらどうだ、と話してもらえず……」

 

勝った自分ではなく進藤を気にしていたアキラに、対局相手の村上はプライドを傷つけられたようで全く取り合ってもらえなかった。

 

「で、2回戦、そんな大口を叩いておいて、そいつはあっさりキミにやられたわけだ。カワイソウに」

 

対局結果を教えてもらったわけでもなく、緒方は予想でその村上にも勝ったのだろうと適当に言ってみたが、アキラが反論しなかったので、それがやはり当たっていたのだと小さく嘲笑した。

緒方の知っている低段者のプロは少ないが、それだけ緒方の脅威になるほど腕の立つ打ち手がいないだけの話である。

もし去年であれば倉田がいたが、今年は年齢制限で倉田は出場できない。

となるとアキラと対局して勝つ可能性のある棋士は今年の若獅子戦にはいなかった。

ヒカルを除いて。

 

対局は負けてしまったが、ヒカルの打った一手の意図は緒方も気付けなかった。

悪手を好手に化けさせた見事な打ちまわしだったと言える。

最後の小ヨセで逆転さえ許さなければ、2回戦で対戦しただろうアキラとの一局も見ものだったろうと思う。

 

しかし、同時に、ヒカルの打つ石の打ち筋に緒方は奇妙な違和感を感じた。

ヒカルの対局を見るのは今回が初めてだったが、打ち筋をどこかで見た、もしくは似ている印象が頭を過ぎる。

似通った定石ではなく、応手の仕方など、もっと基礎的な部分の棋風。

どこで見た、この打ち方は誰に似ていると、ハッキリ断言できる程ではなく、ふわふわと外形を成さないイメージのような朧げで曖昧な印象。

 

――これは誰だ?

 

これまで対局してきた相手を緒方は思い返すが、結局、該当するような人物は思い出せなかった。

 

「緒方さん、教えてください、進藤は」

 

「進藤になど興味なかったんじゃないのか?」

 

矢継ぎ早に緒方はアキラが言っている途中で口を挟む。

若獅子戦にヒカルが出場すると言ったときも、アキラはヒカルのことをどうとも思っていないと言っていただろう、と付け足す。

それを言われると返す言葉が無いのかアキラも口を閉ざすしかない。

 

「………………」

 

「あせらずともじき答えは出るさ。2ヶ月も経てば」

 

「………プロ試験が始まる」

 

「そう。去年、キミが通った道をいよいよ進藤が歩む」

 

去年のプロ試験でアキラが難なく通り抜けた試験だったが、ヒカルにはどうだろうかと緒方は思う。

若獅子戦での一局は十分に評価出来るが、それを含めても期間の長い試験を考えると、足元がおぼつかない強さであり、そう何度も通用するものでもない。

あと2ヶ月の間にどれだけ力を上げられるかにかかっているだろう。

 

ヒカルがアキラに勝ったという対局を緒方は見せてもらったことがなく、どんな一局だったのか分からないが、もし初心者だったというヒカルが囲碁を覚えて一年でここまで打てるようになったのなら、著しい成長だと誰もが言うだろう。

ヒカルと同じような経歴の倉田でさえ、囲碁を覚えて間もなくプロの弟子になったというのに、ヒカルはそれもない。

森下の研究会に週一で出入りしていることを考えても、ヒカルが1人で碁を覚えたのなら、成長を促したのは才能という以外なくなる。

 

 

 

 



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23

若獅子戦の夜、負けた村上との対局をヒカルと佐為は検討していた。

全体的によく打てたし、中盤の一手は佐為も諸手を上げて誉めたが、惜しむらくはヨセで先手先手と打たれ逆転されてしまった。

 

――今日はホント惜しかったですね

 

最後の部分を、佐為が正しい応手でヨセていく。

そのヨセをヒカルは佐為の示す順に黒と白の石を置いていった。

 

「ん~、まぁな………。あ~こうやって打てばよかったのか~」

 

――細かい部分で見落としやすいですからね。これに勝てたら次は塔矢と対戦だったのに残念です

 

「それはそうなんだけど……俺、きっとこの対局で強くなったと思うんだ。結果だけ見れば俺は負けたし、その相手だって2回戦では塔矢に何も出来ないで負けてる。きっと負けてよかったんだよ、俺」

 

――ヒカル?

 

若獅子戦前はあれほど塔矢と対戦することを意気込んでいたヒカルが、塔矢と対戦できなかったことを悔やむどころか、負けてよかったと相反することを口にして、佐為は首を傾げた。

 

「俺は塔矢を見返したいけど、やっぱ対戦するなら勝つに越したことないじゃん。今日みたいな碁をもっとたくさん打って、もっと強くなって、自分の力だけで塔矢に勝つんだ」

 

――そうですね。今日の塔矢の対局、2回戦で塔矢が力を押さえている分を差し引いても、ヒカルには遠い道のりですね~

 

「なんだと!!言ったな!」

 

窓の外を眺めるように言う佐為に、ヒカルは並べていた碁石をさっさと片付け碁笥に戻す。

棋譜並べではなく打とうと言っているのだ。

 

――はい!打ちましょ!

 

佐為が嬉しそうに持っている扇をパタパタ振る。

それが碁を打つだけでなく別のことが要因で佐為が浮かれているのだとヒカルは分かっていて、あえて言うまいと思っていたが、負けた自分の前であまりの佐為の浮かれように耐え切れず

 

「………塔矢先生から手紙が来てたのがそんなにうれしいかよ?」

 

――それはもうっ!!

 

ヒカルの嫌味混じりの口調などどこ吹く風の佐為に、ヒカルの眉間がピクピク痙攣する。

数日前に届いていた行洋からの手紙に、佐為が歓喜したのは言わずもがなだが、ヒカルが若獅子戦前ということもあり、まずは佐為と行洋の対局よりヒカルの若獅子戦が優先と2人で決めていた。

 

「ていうか分かってんのか?来週日曜日に対局するってことは、俺は院生研修の手合いサボるってことなんだぞ?」

 

――大丈夫ですヒカル!研修も勿論大事ですが、より強い相手の対局を間近に見る機会はそうあるものではありませんし、ヒカルにとってもきっと院生研修以上の勉強になるはずです!

 

院生研修より塔矢行洋名人の対局の方が貴重だという意見はヒカルも理解できる。

だが、だからと言って、嘘をついて研修を休むのは佐為ではなくヒカルなのだ。

佐為と行洋が対局するので研修を休みます、なんて口が裂けても言えない。

すでに行洋との対局に気持ちが飛んでしまっている佐為を目の前に、どうやって研修日を誤魔化そうかとヒカルは肩を落とした。

 

 

□■□■

 

今年の日中天元戦は中国上海で開催され、3番勝負のうち、第1局と第2局を行洋が続けて中押しで勝ち、2勝0敗で下した。

相手も中国で天元のタイトルを持つトッププロ棋士であり、全体的に力をつけ始めている中国という勢いそのものもあったが、行洋の放つ一手に動揺を隠しきれない局面が、対局中、何度もあった。

それは行洋の対局相手だけではなく、別室で観戦していた他の中国プロ棋士達も同様で、映し出される画面と手元に並べられていく碁盤を食い入るように見つめていた。

 

対局を終えれば、通常対局者同士とプロ棋士で検討が行われるのが常だが、今回は予定されていた検討時間がオーバーした上、行洋が訪中している間に一度でいいから対局したいと申し出る者も現れた為、行洋はホテルに戻ることなく中国棋院に留まり碁を打った。

国が奨励していることで碁が盛んな中国だけあって、国籍に関係なく行洋の考えを請い、そしてそれ以上に如何なく意見を述べてくる。

礼儀は当然大事だと行洋も思うが、目上の相手に怯むことなく意見を述べ合う熱心さは、日本のプロも率先して学ぶべきことのように感じた。

 

「中国プロ棋士の間でも、今回の天元戦で塔矢先生がまた一段と強くなられたと話題ですよ」

 

検討がひと段落したとき、同行していた通訳者が、行洋の活躍を嬉しそうに語る。

身振り手振りのジェスチャーもだが、はやり言葉が分かれば、相手がどのように考えているか深く知ることが出来る。

その上で、行洋に向けられた賛辞を、できるだけそのままの意味で伝えたいと通訳者は持ちうるボキャブラリーを駆使し言葉を通訳した。

 

それらの言葉に、行洋はただ静かにありがとうございますとだけ返していたのだが、検討しているところに、突然ノートパソコンを持った1人が現れ、机の上に置いたかと思うと、中国語で慌てたように行洋に話しかけてくる。

当然、検討していた者が、慌しげに現れた者を、厳しい口調で嗜めようとしたようだったが、パソコンに映し出された画面を指が示す場所を見て、声を詰まらせた。

そして通訳に何事か話しかけている間に、パソコンを持った者が行洋の隣りにしゃがみこむ。

 

「対局中のネット碁を塔矢先生に見てほしいそうです」

 

困惑したように通訳が行洋に話す。

それに対し、行洋が返事をする前に、すっ、とパソコンのディスプレイが向けられた。

 

「今、ネットで話題になっている正体不明の棋士だそうで、名前は……sai」

 

通訳の口にした名前に、行洋が微かに目を細める。

その間にも行洋を取り囲む中国のプロ棋士達の間に何度も佐為の名前がささやかれるのを耳にしながら、

 

「saiの棋譜は私も何度か見たことがある」

 

と行洋が答えたのを、通訳がさらに中国語で訳すと周囲に声が上がった。

saiの名前が世界で騒がれていることは日本にいながらも時折耳にしていた行洋だったが、中国の地でsaiの名前を聞くと、どれだけ強い棋士としてsaiの名前が知られているか、その影響力を目の当たりにした気分だった。

それも下町などにある碁会所ではなく、中国棋院の中でである。

佐為の意思を代弁するヒカルと打った対局を思い浮かべながら、佐為の強さはネットの中だけに収まらなくなっているのか、と行洋は心内だけでそっと思う。

 

画面に映し出された対局は、中盤にさしかかろうとした頃だったが、形勢的には僅かにsaiが勝っている。

saiと対局している相手もプロだろうか。

押されてはいるが、saiを相手にしていると考えれば、決して弱いわけではない。

 

『やはりsaiが強いか』

 

『だが、相手もまだ負けてない』

 

粘ろうとするsaiの対局者に、行洋の周囲にいた1人が近くにあった碁盤を引き寄せ

 

『パソコンをどけるんだ。並べてみよう』

 

パソコンが退けられ、その位置に碁盤が置かれると、ディスプレイと交互に見合わせながら、画面に映し出された対局画面と同じ棋譜が並べられていく。

厳しいsaiの攻めに、相手もよく耐えていると言えた。

ここまで持ちこたえることが出来るのも、それだけの力量があってのことだろう。

 

『ここを先に抑えておけばどうだろう』

 

『だがそれより先にこちらを進めておくべきでは?』

 

対局画面を追って並べられていく石に、次の一手を予想したり、石の狙いを検討している様子を視界に映しながら、行洋は盤面に黙して集中する。

数ヶ月前に打ったときより、行洋と同様に佐為もまた強くなっているのだと碁盤から伝わってくるようだった。

 

パソコンの画面がsaiの番のまま打ってこない。

 

『ここでsaiが長考?持ち時間はもとからそんなに設定してないんだろ?』

 

saiの長考に首を傾げる周囲を他所に、行洋はおもむろに黒石を持ち

 

――おそらく、佐為ならばここに

 

対局中の盤面に石を打った。

 

『これはっ……』

 

観戦していた者達が息を呑む。

それは誰も気付けなかった証拠だった。

受けなければ地を食い破られる。

 

それでもその後の応手次第では、食い破られることは防いでも地を多く荒らされるだろう。

 

『saiも塔矢先生と同じ場所に打ってきた!!』

 

1人が声を荒げて叫ぶ。

saiのヨミに行洋だけが気付くことができたのだ。

 

saiが打った後、対局者は長考に入って打ってこないまま10分が過ぎた頃、持ち時間8分を残して対局者が投了する。

最後に打ったsaiの一手に諦めたのだろう。

saiの勝ちだった。

 

 

 



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24

森下の研究会がある日、いつものように学校が終わってから直で日本棋院に来ていたヒカルを緒方が捕まえる。

 

「進藤ちょっと待て」

 

「え?緒方先生?」

 

急に名前を呼ばれてヒカルは振り向く。

そしてすぐに周囲を見渡し、誰かに見られていないか確かめる。

ヒカル自身はそうでもないが、研究会を開いている森下は、プロ試験に同期で合格したらしい行洋にライバル心を燃やしていて、門下生の弟子達にも塔矢門下には負けるなと発破をかけていた。

ヒカルは森下門下ではないが、研究会に参加させてもらっている手前、出来るだけ塔矢門下である緒方と話している姿を見られたくないのが正直な気持ちだ。

 

「お前、森下先生の研究会以外に違う誰かの研究会に行ってるとか、研究会でなくても誰かプロに指導してもらっているということはないか?」

 

問う緒方に、ヒカルは一瞬ドキリとした。

プロではないが、プロ以上に強い佐為と毎日打っていると口にするわけにはいかない。

首を横にふるふる振り、しどろもどろに、

 

「……森下先生の研究会以外、プロの人と話す機会もないし」

 

こうしてトップ棋士の緒方の方からヒカルに声をかけてくるのは、例外として答える。

その内心では、次の日曜日にまたこっそり行洋と佐為が対局することを緒方がどこかで感づいた上で、こんな質問を自分にしてきたのでは、とヒカルは内心気が気でない。

行洋が弟子の緒方に佐為のことを話したとは考えにくいが、ヒカルか行洋が店に入ったりするところを誰かに見られでもしたのかと、疑心暗鬼が頭を駆け巡る。

隣にいた佐為もヒカルと同じことを考えたようで、ハラハラしながらヒカルと緒方を交互に見やる。

 

ヒカルの返事にふむ、と緒方は頷いたものの、ヒカルを離すつもりはないらしく

 

「じゃあ、囲碁の勉強は家で1人で本を読んだり棋譜を並べたりするだけか?」

 

確認を取るように再度質問をしてくる。

緒方本人は睨んでいるつもりはないのだろうが、白スーツにメガネから上から視線でものを尋ねられると、それだけでもヒカルには十分過ぎるほど威圧感がある。

 

「はい……」

 

「そうか」

 

「……それが何か?」

 

「いや、いいんだ」

 

質問してきて、勝手に1人納得したように立ち去る緒方の背中を眺めながら、誰かに見られる心配が無いにも関わらず、佐為は自身が幽霊だということも忘れて、扇で耳打ちするようにヒカルに話しかける。

 

――ヒカル、びっくりしましたね

 

いきなり誰かプロに指導してもらっているか、と緒方が尋ねてきたとき、佐為の頭には真っ先に行洋が思い浮かんだ。

しかし、ヒカルは行洋と佐為の対局と検討を見聞きしていただけで、指導らしい指導は受けたことはない。

ヒカルが碁をはじめるきっかけになったのは佐為であり、これまで指導してきたのもずっと佐為である。

 

――……何か感づいたのかな?

 

――私と行洋殿が内密に対局していることですか?

 

――それ以外なにがあるんだよ。今度、塔矢先生に会ったとき、念のためにこのこと話しておくか

 

睨んでくるヒカルに

 

――……そうですね

 

扇で口元を隠し、ヒカルからワザと視線を逸らせて佐為は頷いた。

 

■□■□

 

大手合いの打ち掛けで、休憩室で他のプロ棋士達が昼食をとる中、行洋が1人お茶を飲んでいると

 

「塔矢先生は昼食はとられないのですか?」

 

同じくプロ棋士の芹沢が昼食を食べた様子のない行洋に話しかけてくる。

対局途中に休憩を取ると集中力が乱れるといって、休憩を取らない棋士も中にはいるが、食べる量に差はあっても、これまで行洋は昼食に箸をつけていたと芹沢は思う。

それなのにお茶を飲むだけで、昼食を全く取らないでいるのはどこか体調が悪いのかと心配して声をかければ

 

「いえ、とくに平気ですよ。ただ今日は昼食を取る気分にならないだけで」

 

「そうですか?最近は対局続きで疲労がたまっているのではありませんか?無理は禁物ですよ」

 

言えば失礼になるが、行洋の歳を考えれば少しの異変が大事に至る場合もある。

複数のタイトルホルダーとして多忙は分かるが、やはり人間全ての資本は体であり、少しでも食べておいたほうがいいのではと芹沢は思いながら、無理強いするにもいかず、話題を切り替え

 

「まだ日中天元戦でのお祝いを言ってませんでした。おめでとうございます」

 

「どうも」

 

行洋が小さく頭を下げる。

 

「今年の日中天元戦は中国での開催でしたが、聞きましたよ。何でも天元戦の検討中にsaiの対局を観戦することになりsaiの一手を予測したのだとか。見ていた中国のプロ棋士達も誰も気付けなかったそうですね」

 

「……たまたまですよ」

 

「そのときのsaiの棋譜を見させてもらいました。たまたまで気付ける一手ではありません。さすが塔矢先生です」

 

打ち掛け中ではあったが、日中天元戦での出来事を芹沢は口にする。

saiはもちろん、その対局者もそれなりの実力者なのだとろうと棋譜から推察できたが、saiの打った最後の一手は絶妙なタイミングだった。

受けなければ破られるし、破られなくても地を多く荒らされる。

それまでずっと粘っていた対局者は、その一手で投了したが、saiは荒らすだけでなく本気で破る気だったのでは、と芹沢は思う。

芹沢自身、実際に棋譜を並べて破る道を探してみて、結局見つけることはできなかったが、saiの直前の長考は破るためのヨミにかかった時間のような気がした。

 

「芹沢先生はsaiをご存知なのですか?」

 

弟子で、トップ棋士の仲間入りを果たしている緒方は、年齢的にはまだ若く、パソコンで棋譜整理もしていると聞いていたが、芹沢までネット碁を嗜むとは考えられず行洋が尋ねると

 

「ええ、知ってます。私はネット碁をしませんので、棋譜だけですが。私がsaiかと聞かれたこともありますよ。もちろん違うと答えましたけれど。」

 

ハハハ、と苦笑しながら答える。

対局で地方に赴いたおり、見知らぬ相手から突然saiかと尋ねられたときは、何の前置きもなく唐突過ぎて、それが己のことを指して尋ねているのかどうか、芹沢は一瞬判断が出来なかった。

尋ねてきた相手も、何か確証や心当たりがあったわけではなく、芹沢がタイトル戦を戦うようなトップ棋士だからという理由だけであてずっぽうに聞いたようで、芹沢が違うと答えると、一言詫びて去っていき、呆気にとられてしまった。

 

「……本当にsaiとは何者なのでしょうね。こんなに世間で騒がれ、そして実際に強いのにネットの中にしか現れず、名前も歳も素性は何も分からない。本人はこんなに自分が騒がれていると知っているかも不明だ。でも、プロアマに関わらず、こんなにも多くの人から対局を望まれるのなら、碁打ちとしてこれ以上の幸せはないのではないでしょうか」

 

打ち掛けとはいえ、対局中に与太話をしてしまい申し訳ないと、芹沢は苦笑しながら行洋に詫びる。

そしてそろそろ対局部屋に戻りますと一言断り、芹沢が出て行ったあと、行洋は冷めてしまったお茶に視線を落とした。

薄い緑色の水の面に、行洋自身の顔が揺らぎ浮かぶのを眺めながら

 

「佐為が碁打ちとして幸せ……」

 

芹沢の言葉を行洋はポツリと繰り返す。

 

芹沢はsaiの正体を知らない。

佐為はヒカルの存在があって、初めてその意思を盤面に刻める。

だとしたら幸せなのは佐為ではなく、生きている自分達の方なのではないだろうか。

千年の間、神の一手を極めるために死んでもこの世に留まり続けている、というだけならすごいことなのかもしれないが、それだけならとても『幸せ』とは思えなかった。

肉体がなければ、石が持てず、打ちたくても碁を打つことは出来ない。

例え対局することをどんなに望まれても、それはただひたすらに歯がゆく苦しいだけで、幸せというには程遠い気がする。

 

だとすれば、幽霊である佐為がこの時代のヒカルと奇跡のように出会うことによって、佐為と打つことが出来た自分達こそが、幸せなのではないだろうか。

 

 

 



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25

「では次は私と進藤君で打ってみようか。前回も、その前も佐為と私が打つのを見ていただけだからね。私も君がどれくらい打てるようになったのか以前から見てみたかった。佐為はそれでいいかな?」

 

佐為と行洋が打った対局の検討が一段落した頃、見えないはずの佐為の方を見やり、行洋が確認を取りながら申し出た。

とたんに、ヒカルは滅相も無いと慌てて顔の前で両手を振り遠慮する。

 

「そっそんな俺なんかまだまだ全然強くないし!佐為と先生が打っているのを見ているだけでも十分勉強になります!」

 

――いいじゃないですか、ヒカル。せっかくですから行洋殿にも打ってもらえば

 

「何言ってんだよ!佐為!俺が塔矢先生と打つなんて!」

 

「そう遠慮することはない。軽い力試しと思えばいい」

 

穏やかに笑いかけながら、行洋は、ヒカルの承諾を待たず置石はどれくらいで打とうか、とヒカルに尋ねてくる。

現役のタイトルホルダーでトップ棋士相手に軽い力試しも何もないとヒカルは思ったが、ヒカルが研究会以外でプロ棋士と打つ機会がないのも事実だった。

もしこのように佐為と行洋を引き合わせることがなければ、ヒカルが行洋と打つ機会など、ヒカルがプロになり公式の手合いで対局でもしない限り無かっただろう。

 

――今のヒカルでしたら4子くらいじゃないですか?

 

「そ、それじゃあ……4子で、お願いします……」

 

肩身を狭くして恐縮しながらヒカルが申し出る。

 

「分かった」

 

行洋の了解を得て、ヒカルは黒石を碁盤に置きながら、ふと思い出す。

初めてヒカルがアキラに出会った頃、行洋はアキラと置石3子で打っていると言っていた。

だとすれば置石4子で打とうとしている自分とアキラの差がどれだけ開いているのか、具体的に見えたような気がした。

もっともアキラが置石3子で打っていたのは一年以上前の話で、プロとなった今はもっと強くなっているだろう。

上目遣いにヒカルが行洋を見やると、すでに笑みが消え、じっと碁盤を見据える行洋がいる。

行洋はさきほど軽い力試しと言ったが、どれくらいヒカルが強いのか己が力を試す以上に、アキラとの差を測られるのかもしれないとヒカルは思った。

 

 

If God 25

 

 

既に分かっていたことだったが、やはり行洋は強く、置石4子でもヒカルは負けてしまった。

対局が始まった序盤は、どうしても行洋と打っているという焦りと緊張で、打つ手が空回りしてしまったが、佐為が隣にいて静かに見守っていてくれたことで、次第に落ち着きを取り戻し、その後は変に力むことなく全力で打てた一局だとヒカルは思った。

 

「進藤君は、今日は院生研究を休んでここへ?」

 

「はい」

 

いつものように朝家を出てから、ヒカルはそのまま棋院に電話を入れ、体調が悪いので休む旨を伝えたが、事務員は事務的に休みの連絡を師範の篠田に伝えても、次の研修日に和谷たちからサボりかと色々つつかれるような気がした。

 

「やはりそうか、それは申し訳ないことをした。これからはこうして会う日の日程をもっと考えなくてはならないな。院生研修なら休んでもいいと言うわけではないが2ヵ月後からはプロ試験も始まるのだしね」

 

行洋と会うまで、どう切り出せばいいだろうかと思案していたところに、行洋の方から今後の日程について話題を出してくれたので、一度、佐為の方をチラリと見てから、ヒカルはこの機を逃すまいと戸惑いがちに緒方のことを切り出す。

 

「そのことなんですけど、つい先日なんですけど、森下先生の研究会以外で俺が誰かプロ棋士に指導してもらっているかって緒方先生に聞かれたんです」

 

「緒方君が?」

 

「あ、塔矢先生が内緒で佐為と打っていることを喋ったとか言ってるんじゃなくて、この店に入るところを誰かに見られたりとかして、それを知って俺に聞いてきたのかなと思って……」

 

推薦してもらったり、行洋の研究会に誘ってもらったりと、声をかけてもらうこと自体は有難いことだとヒカルも思うが、今回の件は聞かれるタイミングがタイミングだ。

行洋と佐為が対局する日が間近に迫っている時に、ヒカルに他に指導しているプロ棋士はいないかと尋ねられたら、否応なく行洋が思い浮かぶ。

この場に踏み込まれても佐為の姿はヒカル以外見えない。

だが、何故人目を忍ぶようにヒカルと行洋が会っているのか、疑われるのは間違いない。

 

「……進藤君は緒方君に院生試験を受ける際に推薦してもらっているんだったね」

 

「はい」

 

「これまで彼と対局した、対局してなくても君の対局を傍で見ていたとか、そういったことは?」

 

「緒方先生と対局なんかしたことないです。俺が打つところだって」

 

首を振りながら、打ったこともないと言おうとしたヒカルに、佐為が横から口を挟む。

 

――見てましたよ、若獅子戦

 

「え!?マジ!?」

 

――はい。ヒカルは対局に集中して気付いていない様子でしたけれど、ずっと隣で見てましたよ

 

「気付かなかった……」

 

囲碁を打ち始めると回りが見えなくなるのはヒカル自身分かっていたつもりだったが、若獅子戦の時、緒方が隣で見ていたのは本当に気付けなかった。

 

「俺は気付かなかったけれど、若獅子戦の時、緒方先生が俺と村上プロとの対局を傍で見ていたらしいです……」

 

「緒方君は佐為がネットで打った棋譜を集めているようだから、進藤君の打ち方をどこかで見た気がしたのではないだろうか。先ほど進藤君と打ってみて思ったが、 君と佐為の打ち筋はやはり似ている。ただ、緒方君も似ている棋士が佐為とまでは分からなかったから、漠然とプロ棋士の誰かと聞いたのかもしれない」

 

「俺と佐為の打ち方が似ている……」

 

「似ていても何らおかしくはない。進藤君はずっと佐為から碁を学んできたのだからね」

 

苦笑しながら言う行洋に、ヒカルは逆に慌てた様子で

 

「どうしよう!佐為と打ち方が似てるって疑われたら!?」

 

――和谷の時のように誤魔化せばいいのでは?

 

「チャットと碁の打ち方は全然違うだろっ!!」

 

声を荒げてヒカルは言うが、ネット碁の仕組みがいまいち分かっていない佐為には、そうなのですか?、としか言いようがない。

 

「打ち筋が似ているだけで確固たる証拠があるわけではないから、知らぬ存ぜぬを押し通せないこともない。しかし……」

 

言いかけて行洋は口を閉ざした。

ヒカルの方はまだ院生でほとんど知られていないからいいが、佐為の方はネット碁で世界中に知られている。

つい先日、日中天元戦で行洋が中国に行ったおりも、天元戦の検討中にも関わらず、佐為の対局を出してくるほど注目されていたのを目の当たりにしてきたばかりだ。

この先、このままヒカルが力をつけプロになりさらに強くなれば、ヒカルと佐為の打ち方の相似に気付く者が緒方以外にも出てくる可能性は大きいだろう。

ヒカルがプロとして活躍すればするほど、佐為への疑惑が広まっていく。

 

「先生?」

 

急に考え込んでしまった行洋に、ヒカルが不安そうに聞き返す。

 

「いや、なんでもない。気にすることはない。打ち筋が似てしまうことは致し方ないが、だからと言って進藤君が佐為と関係すると決定付けるものでもない。佐為の棋譜をよく並べるとでも言って、適当な理由をこじつけて言い逃れることは出来る」

 

行洋の言葉にホッとしたようにヒカルは胸を撫で下ろした。

その姿を見ながら、行洋は内心、誤魔化すことは出来ても疑惑を晴らすことはできないだろうと思った。

ヒカルの碁は本当に佐為と打ち筋が似ている。

息子のアキラも幼い頃から行洋と打ってきたが、同時に兄弟子達や家に出入りする多くのプロ棋士達とも打ってきた。

だから、行洋の打ち筋と多少似ているところがあっても、ヒカルと佐為ほど似通ってはいない。

対してヒカルは、院生研修日と森下の研究会以外は、佐為と2人っきりで打つだけではないだろうか。

 

「これからこうして会うときは、進藤君とも打つとしようか」

 

「いいんですか!?」

 

「ああ、もちろんだよ」

 

1人でも多くの強い棋士と打つことで、ヒカルの打ち筋に多少変化が出るだろうことを期待して。

 



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26 門脇VS佐為

若獅子戦がアキラの優勝で幕を閉じた後、ヒカルは着実に院生順位を上げていった。

 

5子置いての行洋との対局で、アキラとの距離がどれくらい開いているのか実感したこともそうだが、その対局で行洋から伝わってきた気迫に、ヒカルは圧倒されながらも惹かれている自分に気付いた。

トップ棋士の強さの象徴がそこに在り、圧倒する力で攻められる怖さを感じるのと同時に、そのそびえ立つ高い壁に無償に挑戦したくなる。

 

佐為はヒカルが碁を始めた頃から指導してもらっているせいか、指導者としての顔しか見たことがない。

佐為と打つだけでは、決して得られなかった経験と感覚だとヒカルは思う。

たった一度の対局で、まだ4子の置き碁だが、必ず置き碁なしで行洋と対局できるようになりたいと、そして佐為と行洋が打っているような碁を自分も打ちたいと強く思った。

 

「……ありません」

 

研究会での和谷との対局。

和谷が投了して、ヒカルも一礼し、

 

「ありがとうございます」

 

それまで張り詰めた気持ちをふぅ、と緩めた。

快心の一局だった。

隣の碁盤で、別の棋譜を並べていた森下が、和谷の投了に顔をあげ尋ねてくる。

 

「なんだ和谷、負けたのか?」

 

「ここ、まさか切られるなんて……」

 

森下から尋ねられながらも、和谷は盤面から顔を上げることなく、じっと見据え呟く。

 

「へっへっへ~。もうすぐ和谷の順位だって追い越すから待ってろ」

 

「院生研修で連勝しているからって調子に乗りやがって!」

 

「連勝?それはすごいね」と白川。

 

「5連勝!」

 

白川に向かって手を広げて言うヒカルに、さきほどの和谷との対局を傍で見ていた冴木も、ヒカルが強くなっている印象を受けたのか、盤面を眺めならがうんうん頷き、

 

「ん~、でも実際、進藤強くなってるよ。なんかあった?」

 

「まぁね!」

 

上機嫌で得意げにヒカルは答える。

もっと打ちたいという欲求の強まりと、それを後押しするような成績の向上。

家で打っているときも、佐為からも強くなっていると誉められ、学校を休んでもいいから碁が打ちたいというのがヒカルの正直な気持ちだった。

打てば打つほど自分が強くなっているのが実感できる。

そして次に果てしなく遠いけれど、未来を見据えた目標として、佐為と行洋が真剣勝負している光景が脳裏に思い浮かぶ。

 

「勝つのはいいことだが、だからってプロ試験で勝たなきゃ意味ねぇんだぞ!和谷!少したるんどるんじゃないか!?」

 

森下が畳を扇でバシバシ叩き発破をかけてきて、負けてしまった和谷がうう、と呻く隣で、ヒカルは隣で笑う佐為と視線があい、釣られるように笑った。

 

□■□■

 

 

院生研修が終わり、家に帰ろうとヒカルがエレベーターを降りてすぐ

 

「キミ、院生かい?」

 

不意に声をかけられ、ヒカルは立ち止まった。

声をかけてきた相手を見やり、それが見知らぬ人物であったことに、ヒカルは上目遣いに訝しむ。

 

「え、うん」

 

「プロ試験もうすぐだね。受けるの?」

 

「おじさん、誰?」

 

質問を続けざまにされてもヒカルは答えず、見知らぬ相手が誰なのかを聞き返す。

 

「おじっ!?」

 

しかし、20代でおじさんと呼ばれた門脇の方は、思わず噴出しそうになった。

確かに囲碁のプロは10代でプロになるのが普通だが、26でおじさんと呼ばれるのは、精神的ダメージが大きい。

へこんでしまいそうになる気持ちを奮い立たせ、食い下がる。

 

「あ、イヤ、少し腕に覚えがあってさ、一局打ってくれない?」

 

「ヤダ、家に帰るの遅くなるもん」

 

「ヤダって……外はまだ明るいし、ちょっとだけ腕試しさせてよ?」

 

「えー……」

 

断ってもしつこい門脇に、ヒカルは顔を思いっきり顰めたが、何か閃いたようにパッと顔を明るくさせ、

 

「あ、いいよ!打とう!」

 

門脇の申し出を快諾する。

突然、態度を反転させたヒカルに後ろにいた佐為も首をかしげながら、2人が向かう後を追う。

門脇が案内した先は棋院の中にある一室だったが、ヒカルも佐為も初めて見る場所だった。

部屋にある机の上全てに碁盤と碁石が用意され、いたるところで一般人と思われる者達が碁を打っている。

その様子をもの珍しそうにヒカルが眺めながら、

 

「へー、棋院にこんなとこあったんだ」

 

「一般のお客さんが打つとこだよ、知らないの?」

 

院生であるはずのヒカルが一般の対局部屋を知らない様子に、門脇は多少驚きつつ、空いている席にヒカルを促した。

促されるままヒカルは席に座り、背後の佐為に声をかける。

 

――佐為

 

――はい?

 

――お前打て

 

――え?

 

――通りすがりのような一局だから、お前が打っても問題ないだろ。いつもネット碁で顔が見えない相手との対局ばっかだし。顔合わせて対局出来るのも塔矢先生だけだもんな。それに腕試しって言ってるから、この人もそこそこ強いんだろ。でも、あんまり勝ちは過ぎるなよ。後で絡まれてもイヤだからな

 

佐為にそっと心の中で語りかけながら、門脇が握ったのに対し、ヒカルは黒石を2つ出す。

 

――先番だ、佐為

 

「お願いします」

 

「お願いします」

 

ヒカルが礼をすると、門脇も間をおかず礼をする。

しかし、打てと言っているのに、打つ場所を示さない佐為に、ヒカルは横目にどうしたのかと隣を見やった。

 

――佐為?

 

――こうして誰かを目の前にして打つのは、ヒカルと行洋殿以外では久しぶりですね

 

幽霊の佐為が石を持てないことはどうしようもなく、ネット碁もディスプレイに映された碁盤だけで相手の顔は見えない。

佐為が相手と面と向かって打てるのは、ヒカルと行洋の2人しかいなかった。

だが、平安時代や江戸時代で相手と向き合って打ってきたように、目の前に相手がいるというのは打つ気構えが全く違うものだと佐為は思う。

感慨深げに佐為は碁盤と相手を見やる。

 

――……長考はナシだぜ。早く帰りたい

 

――分かりました

 

「どうした?」

 

なかなか一手目を打たないヒカルに、門脇が煽るように言う。

すると、扇を持つ佐為の右手がすぅと持ち上げられ、

 

――右上スミ小目

 

佐為の示す場所にヒカルは石を置いた。

佐為もだが、門脇も長考することなく打ってくる。

腕に覚えがあると言ったとおり、打ち始めてすぐにヒカルも門脇が並外れて強いことに気付いた。

強かに佐為に喰らいついてくる。

しかし、佐為の前には、力及ばない。

着実に広がっていく差に、差が縮まらないと認め、門脇は頭をうなだれ投了した。

 

「……負けました」

 

もし佐為ではなくヒカルが打っていたら確実に負けていただろう。

どこが腕試しだ、とヒカルは内心悪態をつきながら、挨拶を返す。

 

「ありがとうございました」

 

「……おまえ、ホントに院生か?」

 

――ヤベッ!!

 

院生というには強すぎる実力に、門脇が訝しげに尋ねてきて、ヒカルは余計なことを聞かれないうちに逃げようと、門脇の問いに答えず急いで基盤の碁石を片付けていく。

まさか門脇がこんなに強いと思わなかったから、軽い気持ちでヒカルも佐為に打たせたのだ。

打つ前にヒカルが勝ち過ぎるなと釘を刺したとおり、佐為も力を押さえて打っていたようだが、その勝った相手の門脇の実力がプロ以上となると、問題が出てくる。

ヒカルの実力と、佐為に打たせたこの対局で、実力差が出てしまう。

 

ここまで打てるのなら、門脇自身、自分の実力がどれくらいかある程度把握しているだろうし、その上で院生であろうヒカルを捕まえ対局しようと誘ってきたはずなのだから。

 

「……歳は?名前は?ま、待てよ、おい、お前!」

 

「ごめん、急ぐんだ!」

 

下手に絡まれる前に逃げてしまおうとするヒカルに、門脇は質問を重ね、

 

「碁を始めてどれくらいになる?」

 

その問いに、ヒカルは出て行こうとした足を止め振り返る。

ヒカルが碁を覚えたのは1年と少し前だったが、さきほど門脇と実際に打ったのは佐為である。

ならば、

 

「千年」

 

――千年

 

グッ、と親指を立ててヒカルと佐為は答える。

そのまま部屋から走り去っていく後ろ姿を門脇はじっと見送り、座っていた椅子に腰を下ろして、既に片付けられてしまった盤面を見やった。

一手目から並べることは出来たが、そんな気力は沸かなかった。

自分の力を過信し、そして相手が院生と侮っていたことは認める。

しかし、負ける気の無かった対局で、見事に負けてしまった。

 

プロになる自信はあった。

しかし、プロになった後、己より年若いヒカルたちの院生が同様にプロになるのだとしたら、そのとき自分は彼らと渡り合っていけるのだろうか。

 

ふぅ、と息を深く吐き、門脇は持ってきた封筒に手を伸ばす。

そして未練も心残りも断ち切るようにプロ試験申し込み用紙の入った封筒を破り捨てた。

プロになれればいいという甘い気持ちと共に。

 

プロになるだろう彼らと渡り合い、さらに上を目指す覚悟を心に秘めて。



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27

プロ試験予選初日、ヒカルは見事に外来の対戦相手にのまれ負けた。

プロ試験というものがどういう風に行われるのか全く無知だったことで、外来という院生以外の者も試験を受けに来るとは知らず、いつも打っている院生のメンバーだけだと勝手な勘違いをしていた。

初めて打つ見知らぬ大人、それも髭が生えた大柄の態度が粗雑な相手に、打つ前から完全にのまれてしまい、平常心を失ってしまった。

 

佐為が見る限り、椿という初戦の相手も、いつもの調子で打てれば決してヒカルが勝てない相手ではなかった。

院生試験を受けたとき、緊張で思うように打てなかったときのヒカルの姿が重なった。

 

 

If God 27

 

 

「ヒカル、明日お母さん達でかけるから留守番しててくれる?」

 

冷蔵庫から飲み物を漁っているヒカルに、晩御飯の用意をしながら美津子が明日の留守番を頼む。

しかし、ヒカルはお目当てのジュースを取ると素っ気なく

 

「無理。明日もプロ試験あるからダメ」

 

「何?何の試験?」

 

「碁のプロになる試験」

 

「……誰が受けるの?」

 

「俺」

 

一瞬、美津子は混乱してしまい自分がヒカルと何の話をしているのか分からなくなってしまう。

試験までは理解できたが、その前に『プロ』という単語がついていたような気がしたが、聞き間違いだろうか。

 

「何を受けてるって?」

 

「だからプロ試験!!」

 

「何それ?何言ってんの?子供のお前が?」

 

初めて聞く話に、美津子は料理をしていた手を止め、ダイニングチェアーに腰をかけた。

 

「何って、俺と同い年のヤツだってもうプロになってるんだぜ」

 

「プロ?碁のプロって何よ?アンタそんな話一度もしなかったじゃない」

 

「そうだっけ?」

 

本気でそう思っているのか、それとも惚けているのか、とにかくヒカルが碁のプロになるために試験を受けているということだけは、美津子の混乱した頭でもなんとなく分かってきたが、

 

「お母さん、碁のプロのことなんて何も知らないわよ?」

 

碁そのものを知らない美津子には、碁のプロというのは未知の世界でしかなかった。

 

「お母さんは知らなくていいんじゃない?俺がなるんだし」

 

「あのね、ヒカルが碁に夢中なのはお母さんも悪くないと思ってるわ、でもアンタ期末テスト散々だったじゃない。もう少し勉強したら好きなことやってても母さんだって文句言わないわよ」

 

「期末テストって、プロ試験受かれば関係ねぇじゃん」

 

「え?」

 

「和谷が早く合格してプロになりたいって言ってた気持ちわかるぜ。俺、昨日負けてイライラしてんだ。もう黙っててよ」

 

「ちょっとヒカル!」

 

「メシできたら呼んで!」

 

苛立たしげに2階へ行ってしまったヒカルに、美津子は完全に頭が真っ白になった。

 

2階に戻り、仏頂面のまま碁盤の前に座る。

その向かいに佐為は腰を下ろし、先ほどのヒカルの態度を嗜めた。

いくら試験に負けて苛立っているというのは分かるが、だからといって母親をあそこまで邪険な態度を取るのは決して誉められたことではない。

 

――ヒカル、今のは八つ当たりです。お母上に失礼ですよ

 

――佐為まで、もー。ウルサイなー

 

イライラとヒカルは冷蔵庫から持ってきたジュースに口をつける。

ヒカル自身分かってはいるが、些細なことですら神経にさわり苛立ちを助長させる原因になってしまう。

これがもしごく普通の大人で院生研修と同じように打って負けたのなら、ここまで気が立つこともなかったのだろうが、椿の顔と態度を思い出しただけでも嫌気がした。

それでも明日はまた試験があり、ヒカルの気が落ち着くのを待ってはくれない。

少しでも多く打って明日に備えようとするヒカルの耳に、1階から美津子の声が聞こえた。

 

「ヒカルーヒカルー!ちょっとヒカル聞いてるの!?」

 

「もう何だよ!しつこいなー!!」

 

まだプロ試験を受けることに、どうのこうの言うのかとヒカルは易癖する。

 

「何言ってんの!あんたに電話だって言ってるでしょ!藤原さんという方から電話よ!」

 

しかし、そうではなく自分に電話だと分かると、めんどくさそうにヒカルは腰を上げた。

めんどくさそうに、重たい足取りでトントンと階段を降り、電話の受話器を取る。

 

「藤原?って誰だよもー。こんなときに」

 

――……藤原とはもしや、ヒカル!その電話は!

 

「はい、進藤です」

 

慇懃な口調でヒカルが電話に出る。

 

『進藤君?』

 

「へ?塔矢せんせえ?えっ?……ええ!?とっ、塔矢先生だ!どうしよ!?」

 

見知った低い落ち着いた声が聞こえて、ヒカルは声を裏返し、後ろの佐為に振り返る。

どうして行洋が自分の家に電話してくるのかと思った次には、なぜ藤原と名乗ったのか疑問に思い、そういえばお互い連絡を取るときは『藤原』と名乗ろうと約束していたことを思い出す。

 

――やはりですか?藤原と名乗ったのでもしやと思いましたが

 

藤原という名前に、先にピンときた佐為は、自分の推測が当たって嬉々とする。

 

『進藤くん?大丈夫かな?』

 

「は、はい!大丈夫です!ちょっとびっくりしただけで、すいませんっ」

 

『いや、私こそ済まない。急に電話をかけてしまい驚かせてしまったようだ』

 

ヒカルの動揺とは反対に、行洋はいつも見てきたような落ち着きを崩すことなく話かけてきて、ヒカルは驚きでバクバクと高鳴る心臓を押さえながら、勤めて丁寧な口調で

 

「あ、すいません……それで、何か用事とか、佐為に伝えたいことでも……」

 

『用事というほどではないのだが、今しがた棋院の事務の方で、プロ試験予選の対戦結果を見たよ』

 

「あ……」

 

行洋の言葉に、ヒカルは自分が予選初日に負けてしまったことを知られたのだと分かり、途端に声が気落ちした。

 

『佐為は負けた相手の実力は何と?負けた敗因は自分では何だと思うかね?』

 

「……佐為は、落ち着いて平常心で、いつものように打てば勝てた相手だって……それで、俺は、初めてヒゲゴジラみたいな知らない大人と打って、それで……」

 

『気持ちがのまれてしまったと?』

 

「……はい」

 

『2ヶ月前、私と打ったことを覚えているかな?』

 

「はい」

 

佐為との検討が終わったあと、それまでずっと2人が打つのを見ていただけだったヒカルに、置碁での指導碁を打ってくれたことを思い出す。

まさか行洋が自分と打ってくれるとは夢にも思っていなかったから、緊張しながらも名人という雲の上のタイトルホルダー相手に、震える指で石を打った。

 

『私はすでに見知らぬ相手ではないかもしれないが、君から見れば十分大人の部類に入るはずだ。ならば、これから対戦する相手を皆私だと思って打てばいい』

 

「外来の大人がみんな塔矢先生?」

 

それはいくら何でも言い過ぎだとヒカルは思った。

これから何人の外来と対局するか分からないが、その相手が全員行洋だとしたら、それだけで体力と気力を全部使い果たしてしまいそうだ。

もっとも行洋も自分を相手にしている時のような心構えを言いたいのだということはヒカルも分かっていたが、外来との対局で自身が行洋と対局している光景を想像して、クスリと笑みがこぼれた。

 

『そうだ。私と打ったときも君ははじめ緊張していたようだが、打つにつれて次第に緊張がほぐれしっかり打てただろう。佐為も言ったように、平常心を忘れてはどんなに強い棋士もまともな碁は打てない』

 

「先生……先生は塔矢が、アキラが去年プロ試験受けたときも、こんな風に話したんですか?」

 

『いや、あれは小さい頃から碁会所に通って見知らぬ大人相手にも打ち慣れている。実力的にも落ちるという心配はしなかったが。アキラがプロ試験で負けたのは、佐為とネット碁をするために不戦敗になった一度だけだ』

 

「え?あ……そういえば、和谷がそんなこと言ってたかも……。佐為と打つためにプロ試験サボったって……」

 

アキラらしいサボりの理由に、行洋が小さく笑っているのが、電話口を通してヒカルにも聞こえてくる。

佐為と対局するために試験をサボり一敗したアキラと、椿に対局前からのまれてしまい負けてしまった自分。

情け無いし、かっこ悪い。

けれど、行洋と話す前まで、自分が悪いのではなく、椿の態度が全部悪いのだとどこか他人の所為にしていたような気がした。

 

「ありがとうございます。俺、さっきまで負けたことに苛々してて。でも先生とこうして話して見失ってた自分を取り戻したような気がします」

 

『そうか。それは良かった』

 

「はい」

 

『では、明日からのプロ試験も頑張りなさい』

 

「はい。ありがとうございました」

 

電話を取る前とは正反対に、静かな気持ちでヒカルはゆっくり受話器を置いた。

そしてさっきまであれ程イライラしていた気持ちもどこかへ消えてしまっていた。

 

――行洋殿と話して少し気が紛れたみたいですね

 

ヒカルの表情が穏やかになり落ち着きを取り戻したのだと佐為は分かった。

あるもの全てに当り散らすほど、ヒカルの気が立っていたのが嘘のような顔つきだった。

 

――うん。やっぱり塔矢先生はすごい。なんか一つ一つの言葉の重みがさ、違うんだよ。平常心を忘れるなって一言も、みんな全部

 

――そうでしょう?だから私も言ったじゃないですか

 

さっきまで全く取り合おうとしなかった自分の言葉を、同じく行洋も言ったことに、佐為が自信満々に言うと

 

――だってなぁ……佐為とはいつも一緒にい過ぎて、同じ言葉でもイマイチありがたみが無いっていうか

 

――なっ!?ありがたみが無い!?

 

今度は逆に佐為がヒカルに当たりだし、ヒカルは惚けるようにして2階の部屋に戻る。

その足は、軽快で軽やかだった。

 

 



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28

第21回国際アマチュア囲碁カップが開催され、今年も審判長を務める森下が対局の開始を宣言すると、開始の合図を待っていた各国代表のアマチュア棋士達が次々と石を打ち始める。

その様子に、森下はこれまでの大会にはない懸念と不安を抱きながら、今大会が無事に終わってくれるよう頭の隅でらしくもなく願った。

 

去年、大会中に騒ぎが起こったのを、まさか今年も引き摺る形になるとは、大会開催側のスタッフも誰1人予想出来なかっただろう。

対局が始まったのにも関わらず、会場全体が微妙にざわつき落ち着きを取り戻さない。

 

「なんとか開始することができましたね」

 

森下の挨拶を英語に通訳していた年配のスタッフが、にじみ出た額の汗をハンカチで拭きつつ、森下に話しかける。

毎年、日本棋院で行われている国際アマチュア囲碁カップだったが、今年は会場に各国の代表選手が集まり始めると、とたんに話題は囲碁カップではなくネットのsaiに関する情報交換で会場が騒ぎになった。

静まる気配のない騒ぎに、スタッフ総出で静まるように注意し、予定開始時間15分遅れで対局を開始することができた。

 

「そうですね。saiは去年も一時騒ぎになったが、塔矢君の機転ですぐに収めることが出来た。それが今年も尾を引く形になるとは」

 

ため息を扇で隠し、森下は会場を見渡す。

去年、弟子の和谷がネットに強いヤツがいると訴えてきたときは、こんなに事が大きくなるとは思わず、軽く流してしまった。

しかし、saiの噂と話題は、現実に日本棋院にまで問い合わせが何本もくるほど大きくなっている。

にも関わらず正体は不明のまま。

 

和谷が持ってくる棋譜から推測するしかないが、森下もsaiの強さは認める。

類稀な碁打ちだろう。

これでアマだとすれば、相当なものだ。

しかし、森下自身がネット碁をしないので、パソコンに馴染みがない森下からすると、ネットの闇に隠れて碁を打つという胡散臭さがどうしても抜けない。

 

「今年も誰かが会場内でネット碁を始めるというようなことにならなければいいんですが」

 

「棋院内にはインターンネットができるパソコンを一般向けには提供しておりませんから、こちらが用意しなければその心配はないと思います」

 

森下の不安を気遣い、通訳スタッフが説明した。

そう言われると、去年は和谷がsaiについて熱弁していた姿を思い出し、軽い頭痛を覚えた。

 

午前の対局が終わり、昼食の時間になると、各国の選手達はsaiの情報収集に躍起になった。

去年もsaiの素性について、小さなことでも何か分からないだろうかと、連絡先の交換会などが行われたが、一年を通して誰1人、saiの情報を掴んだ者はいなかった。

その代わり、連勝を続けるsaiのファンを名乗り、個人HPを立ち上げ、saiが打った棋譜を収集し公開したり、saiのネット出現時間の傾向や打ち筋を分析したりと、水面下でsaiの正体に迫ろうとする者達も現れた。

HPの掲示板では、saiについての勝手な推測が常に行きかっている。

 

 

□■□■

 

 

プロ試験予選をヒカルは3勝1敗で無事通過し、本戦はまだあったが、とりあえず予選突破に安堵する。

初日の椿には対戦前から飲まれてしまい、自分の碁が全く打てなかったが、それ以降は外来と対戦しても落ち着いて打つことが出来た。

 

「やっぱり塔矢先生の電話の威力はすごいよな~」

 

電話で行洋に言われたとおり、外来から試験を受けに来た相手を行洋だと思いながら打つという、一見無謀で馬鹿らしく思えるような気構えで打ってみたところ、効果覿面でヒカルは全く危なげなく快勝した。

相手は見知らぬ大人かもしれないが、行洋と向き合って打ったときの気迫やプレッシャーとは比較にならない。

ヒカル自身、驚くほど盤面に集中することが出来た。

それに、もし名人の電話まで貰っておきながら、予選で落ちてしまったら、それこそ顔向けできなかったなと、通過した今でこそ苦笑しつつヒカルは思う。

 

――電話云々は別にして、平常心を常に心がけていないとすぐにまた負けてしまいますよ、ヒカル。あのヒゲゴジラのように!

 

「分かってるよ。今度、和谷と伊角さんが連れて行ってくれる碁会所って、塔矢と初めて会ったところみたいな店かな。なんか楽しみー」

 

――対局数を増やすことも大事ですが、その分、様々な年代の者と打つのも同じくらい大事ですからね。あまり多くの人と打つ機会の無いヒカルには、ヒゲゴジラを考えると、とてもいいだと思います

 

1敗した理由を和谷に聞かれ、正直にヒカルは答えると、見知らぬ大人と打ちなれていないことを知った和谷は、伊角と碁会所に行くとき、ヒカルも呼ぶと快く誘ってくれた。

佐為と出会い碁を知った当初、アキラとの事で、碁会所というもの自体がヒカルの中でトラウマのようになってしまい、自ら足を向けることも無かったが、1人ではなく和谷や伊角が一緒だと思うと心強く思える。

 

「いろんな人と打つだけなら、ネット碁で世界中の人と打てるんだけど、やっぱ面と向き合って打つのとは全然違んだなって改めて思い知らされたぜ」

 

――相手がどんな風貌で、どのような表情で盤面に向き合っているのか分かりますから。相手がどのような者であれ、自分を見失わず平常心で打つことの難しさが対局以前の戦いかもしれません

 

「じゃあ、お前にとってもネット碁の方が相手の顔が見えないから打ちやすいとかあるのか?」

 

――あ、いえ……私からしてみると相手の顔が見えないというのは、逆に味気ない気も、でも!碁が打てるのならば、文句など言いませんよ?

 

石も持てず、ヒカルと出会わなければ、ネット碁どころか誰かと打つことも出来なかったことを思えば、佐為の今の環境は十分に恵まれているといえる。

虎次郎が死んで約200年の間、碁盤にとりつき、いつかまた碁が打てる日をひたすら祈り待っていた。

そして、虎次郎の時はあくまで秀策であったが、現代ではただ1人ではあるけれど、藤原佐為として行洋と打つことができる。

 

「塔矢先生以外にも面と向かって打たせてやりたい気持ちはあるけど、あんまり言いふらして騒ぎになるのはイヤだし。当面ネット碁でいいか?たまにはこの前みたく、通りすがりの人となら打たせてやれる時もあるだろうし」

 

――はい!!

 

「それじゃ、ネット碁の続きでもするか。先言っとくけど、交代制!」

 

――それはいいですが、順番から言うと、さっきヒカルが打ち終わって休憩しましたから、次は私の順番ですよね?

 

にこやかに佐為がヒカルに確認を取ると、マウスを持ったヒカルの顔が渋く振り返った。

 

「……覚えてたのか」

 

――それはもう

 

 

 

 



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29

「和谷、今度はいつ碁会所行く?また3人で団体戦みたいなのやりてぇ!」

 

「はやるなって。伊角さんの都合だってあるんだから!」

 

昼間、和谷と伊角とヒカルの3人で碁会所を回って打ったことが余程楽しかったのか、急かしてくるヒカルに適当な返事をしながら、和谷は研究会のための碁盤と碁石の準備をする。

チラリとヒカルを見やれば、その目は輝き興奮しており、プロ試験予選で一般外来に気圧されて飲まれてしまったというのが嘘のようだった。

すると、すっと音を立て部屋に森下や白川たちが入ってくる。

 

「あ、先生!こんばんは!」

 

ヒカルと和谷の元気な挨拶に、森下は軽く頷き、後の白川も朗らかな微笑みを浮かべ、こんばんはと挨拶を返す。

 

「先生、今日も国際アマチュア囲碁カップだったでしょ?どうでした?」

 

和谷が何気なく振った話題に、森下の顔が曇る。

ようやく二日目も終えた大会だったが、あと二日残っている。

その二日間でまたsaiの話題で騒ぎがおきなければいいが、と思いながら、和谷が振った質問には答えず、少々八つ当たり気味に、

 

「和谷、お前も相手の棋力もわからねぇネット碁もほどほどにしておけよ」

 

「でもネット碁だってsaiは強い」

 

ムッとして言う和谷に、森下は今最も聞きたくない名前を出され、易癖としつつ

 

「またsaiか。まったく今日の代表選手達といい、緒方君もネット碁をしとるらしいし、最近の若いもんは俺には理解できん」

 

頭を横に振りながら、森下はため息をつく。

その横で、和谷がネット碁のよさについて熱心に説明していたが、

 

「緒方先生ってネット碁するんだ……」

 

呟いたヒカルの声は小さすぎて、その場にいた誰にも聞こえることはなかった。

 

 

If God 29

 

 

国際アマチュア囲碁カップの二日目を打ち終えた島野は、対局後の疲れとともに、慣れない別の気疲れで疲労感を覚えていた。

今年も日本代表になれたことは当然嬉しいし、代表として恥じない碁を打とうと心がけている。

しかし、対局以外のことで集中力と気力体力をそがれるとは思ってもみなかった。

昨日、会場に入った島野を外国から来た代表選手が捕まえ、拙い日本でsaiについての情報はその後何もないかと聞かれた後は、『sai』という言葉に釣られたように、島野の周りに人垣が出来てしまった。

 

大会が開催できないと、棋院のスタッフが騒ぐ人々を注意してまわり、人垣を解散させてくれたときは、本当に助かったとしか言いようが無い。

昼食の時も外国の代表選手に捕まらないよう人気がないところに逃げ、二日目の対局が終わった今も昨日の二の舞は御免だと誰かにつかまらないよう足早に帰ろうとしている。

 

「島野さん?もう帰られるんですか?」

 

「緒方さん!」

 

日本棋院を後にしようとした島野を、激励に来ていた緒方が声をかける。

 

「対局は……帰られるということは終わったということでしょうが、早いですね。何か用事でも?」

 

「用事もなにも大会開催前からsaiについて各国の選手から質問攻めです。日本はsaiを隠しているんじゃないかとまで難癖つけられたときは、ほとほと困りましたよ。ですから下手に捕まらないうちに逃げるが勝ちかと」

 

言いながら、島野は誰か外国の選手に見つかりはしないかと周囲を見回している。

緒方がアマチュア囲碁カップの激励に現れたのは、今日からだったから、島野が質問攻めにあっている姿は見ていない。

だが、島野のあまりの困り果てように、緒方は見ていないその光景が簡単に想像できそうだった。

 

「それはとんだ災難だ」

 

微笑を浮かべながら、緒方は島野が早く帰ろうとしている理由に賛成し、

 

「では、もし何かありましたら、私から適当に話しておきます」

 

「すいません。そうしてもらえると助かります」

 

緒方に申し訳ないと詫びを入れ、そそくさと日本棋院を後にした島野を見送り、緒方がアマチュア囲碁カップの会場に戻ると、対局を終えたらしい選手たちが、さっそく会場の隅で情報交換をする姿をみかけ苦笑する。

saiの情報が知りたいのはこっちも同じだ、と小さな人垣を内心冷ややかに見つつ、緒方は森下のところにまで行く。

そして隣に並び立ち、何事もなさそうに装いながら小声で

 

「島野さんはまたsaiネタで各国の選手達に絡まれないうちに退散するそうです」

 

「そうだな。それが一番いいだろうな」

 

森下も扇をパチ、パチ、と開閉を繰り返しながら、顔は会場に向けたまま小声で答える。

国際アマチュア囲碁カップは本来なら世界中のアマの選手交流を目的として開催される囲碁の大会なのだから、開催国の代表選手が対局が終わったからとすぐさま帰ってしまうのは非礼にあたる。

しかし、今回は仕方あるあるまい、と諦め気味に森下は付け加えた。

下手にまた騒ぎになるのも面倒なので、面倒が起こる原因となるものを、問題が起こる前に出来る限り避けておくのも大会運営側の当然の配慮だ。

 

「まったくsaiってヤツも人騒がせな。自分の知らないところで何か問題がおきても関知しませんってやつか」

 

「逆に案外私達の近くにいたら、それはそれで面白いですけれどね」

 

小さな笑みを称えながら答える緒方に、森下は開閉を繰り返していた扇をパチリと閉ざし振り向く。

 

「近くって、緒方くん、saiの素性を知っとるのか?」

 

「たとえ話ですよ。どう推測を立てたところで、真実はネットの闇の中。推測の域を出ることはないでしょう。出来るものなら私も一度saiと手合わせ願いたい」

 

「ということは、緒方君もネット碁はするのか?」

 

「気晴らし程度です。でもsaiの棋譜はたまに並べますよ。考えさせられる部分が多々ありますので、並べ甲斐もある。そういえば、今年はお弟子さんは連れて来られていないのですか?」

 

去年のsaiの騒ぎでは、saiが唯一チャットをした人物として注目されていた子供が、森下の弟子だったはずだが、と緒方は思い出す。

個人の素性のことを隠しても、対局した一局の検討なりをsaiがしていれば、ある程度の憶測も立っていただろうが、あれからsaiがチャットをしたという情報は、森下の弟子と韓国の安太善の2件しかない。

 

「ああ、和谷のことだったら、今年は本気でプロ試験受けさせようとキツイ発破をかけてやったもんで、出来るだけ試験に集中させてやろうと今年の手伝いは頼まなかったんだ。今頃、進藤と一緒に碁会所でも行って大人達にもまれてる頃だろ」

 

「進藤は森下先生の研究会に行ってるんでしたね。どうです、彼は?」

 

「緒方くん、進藤を知っているのか?」

 

「ええ、少しだけ。院生試験を受けるとき私が彼を推薦したのですが、森下先生から見て進藤はどうですか?」

 

「緒方くんが院生の推薦者だったのか。そうだな……才能はあるだろう。師匠の俺が言うのもなんだが、囲碁のセンスなら弟子の和谷以上だ。院生研修と俺の研究会、他は師匠も無しでたった1年半であれだけの力をつけたんだとしたら才能という他ない。9段の俺ですら、時折ハッとする手を打ってくる。指導者無しで人が本当にあれだけの棋力を身につけられるもんなのか、正直俺も……」

 

確かに和谷に誘われ研究会に参加しだした当時、ヒカルは院生になりたての初々しさがあり危なっかしい碁だった。

しかし、次第にめきめきと力をつけ、プロ試験に入る直前には院生1組の3位にまで順位を上げていた。

ただ、プロ試験では平均順位となるため院生8位以内に入れず予選からのプロ試験になったが、しっかり予選は通過している。

これまで森下は和谷の前にも冴木という弟子を取り、そして多くの新人棋士を見てきたが、ヒカルほど成長スピードの速い子供はいなかった。

 

「それで、緒方くんは何故進藤に興味を?」

 

「2年くらい前、子供囲碁大会で、プロでも一見して難しい石の死活を、彼は即断したんです」

 

「死活をねぇ?たったそれだけで進藤の推薦を?」

 

「ええ。面白そうな子供だと思いまして」

 

本当はそれだけではなかったが、緒方はここで口にするべき話でもないと言わずにおくことにした。

当時小学生ではあったが、すでにプロ並の実力を持っていたアキラをヒカルは負かしたのだという。

それも2度。

1度ならマグレもあるが2度はない。

 

若獅子戦の時の一局も、実力的にはプロにはまだ少し届かないかもしれないが、悪手を見事に化けさせた打ちまわしは、今後の才能の開花を伺わせる。

 

「ところで、進藤の碁ですが、どこかで見たような印象などはありませんか?打ち筋とか棋風で似通った棋士とか」

 

「似通った棋風?う~ん、とくにそういったのは無いが……」

 

「そうですか、ありがとうございました」

 

ニコリと営業スマイルを貼り付け、森下から何か言われる前に緒方も退散する。

若獅子戦でのヒカルの碁から受けた棋風。

はじめこそ見間違いか勘違いかと思ったが、どうしても気になり、忘れることができない。

誰かに似ている。

そう考え初めてから、ふとした瞬間、緒方の目の前に答が映されていることに気付いた。

ディスプレイに映されたsaiの棋譜に。

 

 

 



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30

石の並びが無限に近い数ほどあるように、師弟関係であっても、弟子が師の打ち方に完全に染まってしまうことはない。

現に親子であり、同時に師弟でもあるアキラと父親の行洋も、打ち筋は似ているが、全く同じではない。

 

だが、それでも受け継がれ、似通ってしまう部分があるとすれば棋風だろうか、と緒方は思う。

石の流れ、応手、打たれる碁から受ける漠然としたイメージ。

先人の意思が打たれる石に宿り、受け継がれていく。

 

saiとヒカルの打ち筋の相似も然り。

もっと言えば、アキラよりヒカルの方が打たれる碁から受ける印象は強い。

saiの棋譜を集め何度も並べてきたとはいえ、たった一度、対局を見ただけで緒方に近視感を抱かせるほどに。

 

しかし緒方が気付いたところで、打ち筋が似ているというだけでヒカルとsaiの関係を確づけるものではなかった。

saiが素性を隠していることはそうだが、ヒカルもまたsaiの関係どころか師匠の存在さえ周りに一切話していないのだ。

ネットで個人情報を話したくないというなら、緒方も理解できた。

しかし、プロを目指しているヒカルまで一緒になって、何故そこまで素性を隠したがるのかという疑問があった。

碁を打っているということを誰かに知られたくない、健康上の理由で人前に出られない、身元を明らかに出来ない何らかの事情がある、様々な理由は考えられる。

 

となると、下手に算段なく探りを入れれば、相手側の警戒が増すだけでsaiに近づくことはおろか、逆に遠ざかってしまうことにもなりかねないだろう。

 

ディスプレイに映されているのは、saiが打ったという最新の棋譜。

saiが相手を選ばないため、対戦相手が弱すぎて緒方の参考にならない棋譜も多々あるが、この棋譜は久々に見れたいい棋譜だと思った。

saiを相手にやはり負けてしまってはいるが、各所で工夫を凝らした手を打ち、終局まで善戦している。

 

sai本人に会えるならベストだが、この際、打てさえすればネット碁でも構わない。

 

「……歯がゆいな」

 

吸っていたタバコを灰皿に押しつぶし、パソコンの電源を落とす。

すぐ近くにsaiはいるのだ。

それなのに、saiと打つことはおろか近づくこともままならない。

出来ることといえば、ヒカルがボロを出すのを地道に待つことぐらいだろうか。

 

マウスに手を載せたまま瞼をゆるりと閉ざし、まだ待てる、そう緒方は自分に言い聞かせた。

 

 

■□■□

 

 

「は?緒方先生のアカウント名?」

 

碁会所へ一緒に行く約束の日、待ち合わせ場所に一番最初に着いたのはヒカルだった。

そして時間をおかず和谷が到着すると、開口一番にヒカルは話を切り出した。

 

「そう。ネット碁のアカウントって仮の名前だろ?現実で誰が打ってるかわかんないだろ。それでさ、緒方先生がネット碁してるって、この前の研究会のとき森下先生言ってたじゃん。緒方先生のアカウント名、知らない?」

 

「……何で俺が緒方先生のアカウントなんて知ってるんだよ?」

 

「知らないの?」

 

「当たり前だ!トップ棋士がこっそり隠れて打ってるネット碁のアカウント名なんて俺が知ってるわけないだろ!?」

 

「なんだ、ちぇっ」

 

口を尖らせて舌打ちするヒカルに、和谷は怒る気力も萎えてしまい、脱力してしまった。

最近ではプロ棋士がネット碁をするようになってきているとは言え、それはプロの中でもごく一部で、本人とは明かさずこっそり打つプロ棋士がほとんどである。

その中でも稀に本名をアカウントにして打っている一柳のように、ネット碁ユーザーの中でも有名なプロ棋士も存るにはいる。

 

だが、それはあくまで本人が公の場で認めているから知られているのであって、緒方がネット碁をしているらしいというだけで、ネット碁のアカウント名が何かまでは知りようがない。

それなのに、あたかも和谷なら知っていると信じきったような口調でヒカルが問う根拠が分からず、和谷は頭をかかえた。

 

「そんなに知りたいんだったら進藤が緒方先生本人に聞けばいいだろ。院生試験を推薦してもらって、塔矢先生の研究会にだって誘われてるくらいなんだから、聞けばすぐ教えてくれるんじゃねーのかよ」

 

「それが出来れば苦労しねえよ……」

 

ヒカルはそっぽを向きボソリと呟く。

行洋が言っていたが、ヒカルと佐為の打ち筋はとても似ていて、ヒカルの対局を観戦した緒方はそのことに薄々気がついているのかもしれないという。

ただし、打ち筋が似ているからといって、ヒカルとsaiが必ずしも関係すると確定づけるものでもないので、saiの棋譜並べをよくすると言い通せば、緒方もそれ以上追求できないらしい。

だとすれば、ヒカルの方から緒方に接触を持つのは、みすみす自分からsaiをバラしにいっているに等しいだろう。

 

できるだけ緒方に近寄りたくないのがヒカルの本音だが、もし緒方のネット碁でのアカウント名さえ分かれば、ヒカルと何ら接触を持つことなく、佐為は緒方と碁を打てるかもしれない。

 

「ん?なんか言ったか?」

 

「いや!何も!!」

 

笑い誤魔化すヒカルの隣で、佐為が落胆している姿が視界に端に映る。

ヒカルがネット碁を知る前から、ネット碁をしているらしい和谷に聞けば、多分分かるだろうという安易な頼みの綱は、あっさり切れてしまった。

和谷以外に目ぼしい当てなどヒカルにはないので、これ以上緒方のアカウント名を探る手立てはないのだが、

 

――そう落ち込むなよ、佐為。緒方先生がネット碁してれば名前分からなくたってきっといつか打てるって

 

打てるかもしれないと期待した分、余計にへこんでしまった佐為をヒカルはそっと励ます。

 

「進藤、お前もネット碁してるんなら、ネット碁の知り合いとかいねぇのかよ?そっちに聞いてみれば?緒方先生なら半端なく強いだろうから、強いプレーヤーとして心当たりあるかもよ?」

 

「そんなのいない」

 

「1人も?」

 

「うん。だって俺チャットできねぇもん」

 

当たり前のようにケロッと言いのけたヒカルに、和谷は本日二度目の脱力でその場にへたりこんでしまった。

 

「……昨今の中学生がパソコン持っててチャット出来ないって致命症だぞ」

 

「そか?碁が打てれば、とりあえず不便ないけど?」

 

チャットが出来れば対局相手と検討ができるという利点はそそられたが、どうにもヒカルはキーボードを打つことに慣れることが出来ない。

頑張っても、時間をかけて、両手人差し指を駆使して一行が精一杯。

 

「だいたい、なんでいきなり緒方先生のアカウント名なんだよ?それ以前に俺達はプロ試験真っ最中で、余所見なんてしてる場合じゃないのに」

 

「えっと、なんていうか……ネット碁でももし緒方先生と打てたらラッキーかなーって……」

 

しどろもどろにヒカルは適当な理由を口に並べる。

 

「そりゃあトップ棋士と打てれば勉強になるし経験にだってなるだろうけど、そんな薄い期待は持たない方がいいぜ?運良く打てたって、チャットもできなきゃどこが悪かったとか検討だって出来ないんだし。あー、でもsaiともし打てたら験担ぎにはなるかもな」

 

「アハハ、saiね……」

 

冗談半分に言っただろう和谷に、ヒカルは心の中で、saiとなら毎日イヤというほど打ってます、と呟く。

そこに伊角が到着し、これまでのヒカルと和谷のやりとりを聞いて

 

「は?緒方先生のアカウント名?進藤も酔狂だな」

 

「別にいいじゃん」

 

呆れながらいう伊角に、和谷も追随してヒカルを冷やかす。

3人そろったところで、紹介してもらった碁会所に向かうべく電車に乗ろうとして、和谷が持っていたチャージ残量が少ないことに気付き、2人を改札前に残しチャージを足しに走っていく。

 

「進藤、さっきはああ言ったけど、そういうネット碁って大概コミュあるだろ?」

 

「コミュ?」

 

突然、ネット碁に話を戻した伊角をヒカルは見上げた。

 

「コミュニティとかSNS。交流を目的としたHPみたいなもんかな。俺、調べといてやろうか?緒方先生くらいなら負けることなんてほぼ無いだろうし、戦勝履歴や対局者の感想とかで、もしかしたらある程度アカウント絞れるかもよ?ただし、期待はしないでくれよ」

 

クスリと笑み、伊角はヒカルを見やる。

安請け合いをするつもりは無かったが、ヒカルがそこまで熱心に緒方のアカウント名を知りたがっているのを聞くと、伊角も多少協力してやってもいいような気がして、軽い気持ちから口にしてしまった。

しかし、調べてやると言っているのに、ヒカルはぽかんと口を開いたまま伊角を凝視し、次の瞬間伊角に抱きついてくる。

 

「……伊角さん大好きっ!!」

 

「喜んでくれるのは嬉しいけど、あんまり誤解を招くようなことを公衆で叫ぶな」

 

大声で叫び抱きついてきたヒカルを落ち着けと宥めるが、そこにタイミングを合わせたようにチャージを終えた和谷が戻ってきて、ヒカルに抱きつかれた伊角を引き気味に尋ねた。

 

「何してんの?2人とも……」

 

「うっせー!和谷には関係ねえの!俺と伊角さんの秘密なんだよ!」

 

「だから、そんな誤解を招くようなことを言うなと、進藤……」

 

公衆の面前で伊角は頭を抱えた。

 

 

 

 



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31

棋院の事務所の受付にヒカルはひょこりと顔を出し

 

「すいません。院生の進藤ですが、プロ棋士の打った棋譜とかって見れます?勉強したいんで、できればそれ印刷して欲しいんですけど」

 

「プロ棋士の打った棋譜かい?タイトル戦での棋譜とか、高段者の棋譜なら全部記録に残っているよ」

 

受付をしていたのは20代後半ぐらいの男性スタッフで、まだ背が低いヒカルを見て、勉強熱心だねと微笑ましそうに話しかけてくる。

だが、棋譜が見れると分かったヒカルの次の言葉に、受付の男性は固まった。

 

「ほんと?やった!じゃあ、緒方先生の打った棋譜全部ください!」

 

「え?緒方先生の打った棋譜全部って……緒方先生のだけ欲しいのかい?他のプロ棋士の棋譜は?」

 

プロ試験真っ最中のこの季節。

院生だというヒカルがプロ試験予選に通過したか否かは分からなかったが、トップ棋士達の打った棋譜を並べて囲碁の勉強をするのかと思っていれば、特定の1人だけの棋譜を求められ怪訝に問い返す。

 

「えっと、とりあえず緒方先生だけ……、俺、緒方先生のすっごいファンで、尊敬してて、憧れてて……」

 

とってつけたような言い訳でヒカルはなんとか受付を誤魔化せないかと試みる。

すると、

 

「ああ、なるほど。でもいくらファンだからといって、特定の1人だけの棋譜を並べるばかりじゃなく、いろんな人の棋譜をバランスよく並べないと勉強にならないから気をつけてね」

 

「そうですね、他の人の棋譜はまた追々……」

 

「じゃあ、ちょっと待ってて。印刷してくるから」

 

適当な愛想笑いを浮かべるヒカルの嘘に、全く疑いを持たなかったらしく、事務所の奥へ入っていく受付の後姿を見送り、ヒカルはほっとする。

なんとかうまくいったな、とヒカルが安堵する隣で、

 

――ヒカル、ほんと咄嗟の嘘が上手になりましたよね

 

緒方のファンだなんて初めて聞いた、と佐為がヒカルを信じられないような目で見てくるので、ヒカルは頬をぴくぴくさせる。

 

――だから、全部お前のせいだよ

 

佐為と一緒にいることで、囲碁の実力もそうだが、日増しに嘘のレベルも上がっているのだとヒカルは再実感した。

 

 

If God 31

 

 

「この中に緒方先生がいる……かもしれないのか……」

 

伊角からもらった紙をヒカルは、自分の部屋の椅子に座り、羅列しているアルファベットの名前を上から下へざっと目を通す。

 

可能性が高いというアカウント数は全部で30弱。

このリストのほかに、リストのプレーヤーが打ったという棋譜も一緒にプリントアウトしてあった。

伊角も検索してみて初めて知ったらしいが、強い打ち手が誰であるか突き止めようとする者たちは少なくないらしく、ネット碁の対局した時間と、プロが公式手合いでネット碁が打てない時間などを照らし合わせ、勝手な推測ではあったが、おそらくこのアカウントはこのプロだろうという解析されたページまであったのは、 かなり驚かされたらしい。

 

よくここまで調べたものだと感心する一方、もし院生の自分達がプロになりネット碁をすれば、これらのアカウント者のように他人から根掘り葉掘り解析されるのだろうかと思うと、少し怖い気もする。

 

アカウントリストの名前は、意味不明な文字列であったり、果物などの単語から、日本人らしい名前であっても、緒方の名前にはかすりもしないアカウント名ばかりで、これらから緒方を特定することはヒカルには到底不可能だった。

いつ現れるともしれない相手に1人1人『あなたはプロの緒方先生ですか?』と聞いてまわるわけにもいかない。

仮に聞きまわったとしても、強い打ち手に手当たり次第、緒方を探している不審人物がいるとして、緒方当人の耳に入ってしまうことは避けたかった。

 

――どうです?どれが緒方だと思いますか?

 

ローマ字表記のアルファベット名を読めない佐為が、持っているリストをヒカルの後ろから覗く。

平安時代から江戸時代まで約600年。

多少の文化の違いはあれど、文字や着ている服などそこまでかけ離れた変化は見られなかったが、江戸時代から現代までのたった200年弱。

その200年で、人の文化や風習、街並み、ほとんど全てといっていいくらい様変わりしてしまっていた。

江戸時代ではご法度とされていた外国の本も簡単に手に入り、そして子供の教育に外国の言葉と文字が当然のように使われていたことは、しばらく佐為も信じられなかった。

 

「さーっぱり。どれが緒方先生なのかちっとも分からねぇよ。第一、このリストだって、もしかしたらこの中に緒方先生がいるかもし、れ、な、い、ぐらいの確率なんだろ?」

 

――では、ヒカル、伊角からもらった棋譜を床に全部並べて、私に見せてもらえますか?それと、緒方の打った棋譜も

 

佐為が頼むと、ヒカルは後ろを振り返り

 

「判別できそう?」

 

――見てみないと何とも言えませんが、棋譜から受ける棋風や打ち筋などで、もしかしたら分かるかもしれません。緒方は行洋殿の弟子なのでしょう?でしたら、少しくらいは打ち筋や棋風を、緒方も受け継いでいると思うのです。もちろん、もしこの名簿の中に緒方がいれば、の話ですが……

 

「打ち筋や棋風、ねぇ?」

 

そういう自分が、佐為と打ち筋が似ていると言われたばかりで、ヒカルはうーんと唸った。

他人から似ていると指摘されても、無自覚なのだからヒカルには佐為との相似は分からない。

アキラとネット碁をした時も、佐為はakiraが塔矢アキラでほぼ間違いないと断定した。

もっと碁が強くなれば、相手の特徴などにも気付くことが出来るようになり、見分けることも可能になるのだろうかとヒカルが考えながら、伊角にもらった棋譜と、棋院でもらった緒方の棋譜を、佐為が見やすいように床に並べていく。

 

――ヒカルにはその間、詰め碁問題を出しますからね。しっかり勉強してプロ試験合格しましょうね

 

閉じた扇で碁盤を指し、佐為は微笑む口元を優雅に手元の袖で隠す。

この前のように詰め碁をしながら寝ちゃだめですよ、と釘を刺しながら。

ついこの前、詰め碁をしながら寝てしまい、朝、美津子に見つかってしまって大目玉を食らったことを思い出し、ヒカルは眉間に皺を寄せ、寝そうになったら絶対起こせと佐為に頼んだ。

 

夏休みということとプロ試験真っ只中ということで、母親の美津子もヒカルの夜更かしにもそこまで目くじらを立てることはない。

それからずっと何度か棋譜を入れ替えながらヒカルは詰め碁を解き、佐為も床に並べられた棋譜を見続け日付が1時間も過ぎた頃。

 

――ヒカル

 

「ん?寝てないぞ?」

 

難しい詰め碁を出され、それに負けないくらい難しい顔で格闘していたヒカルが、佐為に名前を呼ばれ顔を上げる。

 

――違います。これ

 

佐為の扇が一枚の棋譜を指す。

伊角がくれたたくさんの棋譜の中から、佐為の示した棋譜をペラリとヒカルは手に取った。

 

「これ?これが緒方先生?」

 

――おそらくは

 

佐為の細められた目が、一枚の棋譜を鋭く射抜いていた。

 

 



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32

確証はないまま、恐らく緒方であろう可能性が一番高いアカウント名を佐為が特定することに成功しても、肝心の緒方がいつネット碁に現れるかまでは分からない。

碁のプロ棋士という世間一般のサラリーマンとは違った生活習慣を送る相手を捕まえようとするなら、気長に待つしかなくなる。

 

「はじめ俺のアカウントで緒方先生のアカウント探して、もし見つかったら、お前のアカウントに急いで切り替えて対局申し込むって形かな」

 

――ヒカルの名前で探す?初めから私の名前で探したほうが、対局申し込みするのに手早いのでは?

 

まだパソコンとネット碁の仕組みをよく理解していない佐為が首を傾げた。

 

「お前のだと皆がどんどん申し込んできて、緒方先生見つける暇がないんだよ」

 

負け無しの全勝を続ける佐為に、多くの人が次から次に対局を申し込んでくる。

現にヒカルは『sai』でログインして、対局申し込みするという手順を半年以上した記憶が無かった。

 

 

If God 32

 

 

「緒方先生、お疲れ様です」

 

棋院に現れたトップ棋士に慣れた様子で事務の受付が頭を下げる。

それに対し緒方の方も小さく会釈し、棋院に出す必要のある書類を封筒ごと手渡した。

 

「ではよろしくお願いします」

 

「はい、確かにお預かり致しました」

 

中身の書類に目を通し、書類を元の封筒に戻しながら

 

「そういえば、院生の中に緒方先生の熱心なファンという子がいまして、この間、緒方先生が打った棋譜だけ全部くれないかと頼まれましたよ」

 

「院生?」

 

受付が何気なく話しだした雑談に、緒方は表情を変えることなくピクリと反応した。

自身のファンだという話を聞いて、決して悪い気持ちはしない。

しかし院生という単語に、緒方は咄嗟にヒカルが脳裏に思い浮かぶ。

 

「ええ、名前はなんだったかな。でも前髪だけが明るくて特徴的な子供だったな。緒方先生の棋譜だけ欲しがるなんてよっぽど緒方先生に憧れているんでしょうね。棋譜を印刷してあげたら、すごく喜んでましたよ」

 

「……それ、もしかして、進藤と言ってませんでしたか?」

 

「え?あ……そうです!進藤ってその子名乗ってました!緒方先生ご存知だったんですか?」

 

院生とは言え、トップ棋士に名前を覚えてもらえるほど有望な子だったのかと受付は驚く。

 

「まぁ、知り合いといえば知り合い、ですね」

 

お互いたいした会話はしていないが、それでも知り合いというなら十分だろう。

それ以上、深く詮索されないうちにと緒方は足早に棋院を後にする。

 

――進藤が俺の棋譜だけ、をね

 

車中で緒方は運転しながらタバコをふかす。

saiとヒカルの関係に気付いても、緒方からは2人に行動を起こす術も手段も見つけられずにいる。

片やネットの闇に隠れ、チャットもしないで碁を打つだけの存在。

揺さぶりをかけれるとすれば、もう1人のヒカルの方だろう。

アキラと違い、子供らしく考えていることがすぐ表情や行動に出やすい。

 

そのヒカルが緒方の棋譜を欲しがった。

ヒカルが自分のファンだというのを、緒方がどうこう言う筋合いはないが、今更だろう。

緒方と出会ってからこれまでのヒカルの態度を思い返せば、それはまずありえないと思う。

目的が緒方の棋譜だったのは本当かもしれないが、ファンというのは棋譜を得るのに疑いを持たせないための取ってつけた嘘だ。

何のために緒方の棋譜を欲しがったのかまでは分からないとしても。

 

自宅のマンションに着き、家に戻ると、緒方がまずパソコンの電源を入れる習慣がついたのはいつごろだったろうか。

パソコンが立ち上がる間に、ネクタイを緩め、キッチンでポットに水を注ぎ、ガスコンロに火をつけてからパソコンに戻ると、ちょうどデスクトップが立ち上がっている。

それからWEBブラウザとネット碁ソフトのショートカットをダブルクリック。

 

――今夜は塔矢先生の研究会か

 

研究会では棋譜並べもそうだが、非公式な対局もそれ以上に打つ。

そして打った一局に対し、皆で意見を言い合うのが常だったが、ここしばらく緒方が行洋と対局すると実力を詰めるどころか、差を広げられているように感じていた。

決して緒方が弱くなっているのではなく、行洋がこの歳になってさらに力を付け始めている。

碁が若返り、勢いが増し、より高みへと成長している。

そして大手合もだが、タイトルをかけた対局でも、それらは結果として現れていた。

 

行洋は急に強くなった。

 

どんな気持ちの変化があったのか、強くなるどんなきっかけがあったのか、行洋は何も語らなかったが、トップ棋士が強くなるだけの要因が必ずあったハズだと緒方は思う。

それまでも日本や、韓国、中国を含めた世界で最も神の一手に近いと言われてきたが、必ず行洋の好敵手は存在していた。

対局で同じトップ棋士達としのぎを削り、競合することで碁を熟成させていった。

 

しかし今の行洋の碁は、好敵手が存在していない。

常に勝つということはなくても、相手が苦戦の末にギリギリ勝てただけであって、行洋そのものは1歩も2歩も先を歩いている。

若返り成長している碁が熟成の段階を迎えたら、誰も行洋に勝てないのではないだろうか。

 

行洋の強さは、誰もいない相手に向かい、一人で碁を打っているように緒方の目に映った。

 

「いないか……」

 

囲碁ソフトが立ち上がり緒方はログインすると、ログイン中のユーザーの名前からさほど期待することなくsaiの名前を探した。

しかし目的のユーザー名は見当たらない。

それほど期待もしていなかったから、見つからなかったとしても緒方が落ち込むことはないが、パソコンを立ち上げ、囲碁ソフトでsaiの存在を探すことが習慣のようになっている自分を嘲笑するしかない。

 

saiがログインしているかどうかだけを確かめるためにネット碁にログインしただけであって、緒方が気晴らしに誰かとネット碁で打ちたいわけではなかった。

なので、ログインユーザー画面のまま、飼っている熱帯魚に餌をやるために席を立つ。

餌を食べる魚の様子を鑑賞していると、キッチンからお湯が沸いた音がして、インスタントコーヒーを淹れてからパソコンデスクに戻り、緒方はディスプレイに映された名前に目を見張った。

 

――対局申し込み……

 

「え?」

 

ネット碁をするつもりは初めからなかったので、対局を断ろうとしてマウスを持った手に力がこもった。

申し込んできた相手の名前は『sai』

一瞬見間違いかと思ったが、間違いなくsaiである。

 

――saiが俺に対局を申し込んできている?

 

saiと対局したがるユーザーは多く、saiがログインした瞬間、多数の対局申し込みが寄せられる。

そのため、来るもの拒まずな姿勢のsaiが、自ら対局者を選ぶということはほぼ無いに等しい。

それなのにsaiが対局を申し込んできた。

 

――偶然か?

 

たまたまsaiがログインしたことに誰も気付かず、適当な相手にsaiが対局を申し込み、それが緒方だった可能性もある。

理由は何にせよ、思いがけずsaiと対局が叶ったことに、知らず緒方は武者震いを覚え、対局申し込みを受けるべくマウスカーソルを動かしたとき、

 

『打ちませんか?』

 

メッセージ画面がパッと開き、saiのメッセージを映す。

 

――こいつ!

 

このアカウントが緒方精次本人だと分かって、saiは対局を申し込んできているのだと緒方は直感的に思った。

チャットですらほとんどしないsaiが、対局中ではない相手に、それも一度も対局したことのない見知らぬ相手にむかってメッセージという手段を使ってまで対局したがっている。

対局申し込みした相手の反応がなければ、さっさと申し込みキャンセルして別の誰かに申し込みし直せばいいだけだ。

saiが対局を申し込んで断る馬鹿は、ネット碁経験が浅い素人ぐらいだろう。

 

そのsaiが緒方と対局を望んでいる。

 

――どうやって俺のアカウントを調べたか分からないが、いいだろう。受けてやるっ

 

ヒカルが緒方の棋譜を欲しがったことと、saiが対局申し込みしてきたことに関係があるのか分からなかったが、不敵な笑みを浮かべ、緒方は対局了承ボタンをクリックした。

 

□■□■

 

「いたっ!緒方先生だ!!」

 

目を見開き、ヒカルがパソコンディスプレイに食いつく。

 

――え!?ホントですか!?ヒカル早く!!

 

「ちょっと待てって!今急いでログインし直してるから!!」

 

カチカチとマウスでログアウトボタンをクリックし、ヒカルは再度ログイン画面でsaiのアカウントとパスワードを入力する。

すると先ほどヒカルが見ていたログインユーザー画面が現れ、リストの中から緒方のアカウントを探しているその短い時間に、対局申し込みが入り

 

「もう!今は相手してる時間ないんだって!!」

 

消しても消しても現れる対局申し込み画面にヒカルは、乱暴にマウスをクリックしキャンセルし続ける。

ようやく申し込みが落ち着き、元のログインユーザーのリスト画面に戻ると、急いでさきほど見つけた緒方の名前を探し出し対局申し込みをする。

 

なんとか申し込みできたとヒカルは安堵したが、今度は申し込み画面のままディスプレイの表示が動かなくなる。

 

「……何も反応ないけど、緒方先生パソコンから離れてないよな?」

 

申し込みしても何も反応が無い画面に、ヒカルはディスプレイをじっと睨み訝しむ。

 

――パソコンから離れるとは?

 

「だからログインしてるけど、本人はパソコンを放っておいて、どっか別のところで何かしてないかな、ってこと。えーと、確かメッセージが送れたはずだけど……名前をクリックして……」

 

慣れない操作でヒカルはメッセージ入力画面を開く。

それから、ゆっくり一つずつ間違えないように文字を入力していった。

 

『打ちませんか?』

 

短い文章ではあったが、とりあえず文章が打てたことにヒカルは満足し、

 

「送信っと。どうかな?」

 

カチリ、とマウスが音を立て、送信完了画面が現れる。

 

――対局受けてくれるでしょうか……

 

何時ネット碁をしようと約束しているわけではないので、また緒方のアカウントを見つけられるとも分からない。

ヒカルの言うとおり、対局申し込みされていることに緒方が気付かないでいるのだとしたらどうしようかと佐為が悩んでいると

 

「あ!きた!って、え?」

 

ヒカルが設定した対局条件が変更されて、対局申し込みが返ってくる。

対局条件は持ち時間3時間の互戦。

 

「持ち時間3時間って……このアカウント、ほんとのほんとに緒方先生?ていうかマジで打つ気満々だったり?」

 

――ヒカル、お願いします

 

さっきまでの穏やかな雰囲気が佐為から消えていた。

 

 



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33 緒方VSsai

「ちょっと俺、緒方さんに電話してきます」

 

研究会の時間になっても現れない緒方に、芦原は電話をするべく席を立ち廊下に出る。

手合いなどの対局の都合で来れない場合を除いて、緒方は必ず行洋の研究会に参加していた。

もし、どうしても来れない用事が出来たのなら、その旨を誰かに連絡の一つくらい入れてもよさそうなものだったが、緒方から連絡が入る気配はなく、事故か何かあったのではと芦原は緒方の携帯に電話をしてみる。

しかし、返ってくるのは規則的な女性の音声アナウンスが、『電波の届かないところにいるか、携帯に電源が入って~』というお決まりの文句を返してくるのみで繋がらない。

 

――緒方さん、電源切ってる?どうしたんだろ?

 

携帯での連絡を諦め、芦原が研究会の部屋に戻ろうとしたとき、携帯のバイブレーションが振動し、

 

『今、ネットでsaiと互戦で対局してるアカウントって、緒方プロだったよな?』

 

知人からの送られてきたメール内容に、芦原はギョッとしてメールを3度読み直してしまった。

緒方が気晴らしにネット碁をしているのは芦原も知っていたし、緒方のアカウント名も知っている。

メールを送ってきた知人もプロにはなれなかったが、芦原が院生だったとき、一緒に碁を学んだ仲で今でも交流があり、酒が入った勢いで緒方のアカウント名をこっそり話してしまった記憶がある。

 

「え?でも……え?……緒方さんがsaiとネット碁?何でいきなり?しかも互戦?」

 

何が起こってsaiと緒方が互戦をする流れになってしまったのか、頭がついていかない芦原は頭上に疑問符を飛ばす。

 

「芦原さん?緒方さんに連絡つきました?」

 

部屋の障子をすっと開き、アキラが芦原に様子を尋ねる。

その部屋の中で集まったメンバーが芦原に注目していた。

混乱し、整理のつかない頭で、芦原は戸惑いを隠せないまま、

 

「いや、緒方さんには連絡つかなかったんだけど、別のところから情報、みたいなメール来て、なんか緒方さん、ネットでsaiと対局してるっぽい……」

 

 

If God 33

 

 

打っている相手と対面しながら打つ公式手合いではなく、相手の見えないネット碁でこれほどの緊張感、気迫、プレッシャーを感じたのは、緒方は初めての経験だった。

マウスを握る手のひらにじわりと滲み出る汗、口の中がひどく乾いていたが、対局がはじまる前に淹れてきたコーヒーは全て飲んでしまっていた。

 

足がとても速く、少しでも甘い場所には容赦なく鋭く斬り込み、予想もしない場所に打ち込んでは、緒方の大石を追い立ててくる。

認めたくはなかったが、saiに翻弄されていることを緒方は否めない。

 

――打ち筋は確かに進藤と似ている部分があるが、強さは全く比較にならん!

 

姿の見えない相手にこれほどに畏怖を抱くものなのだろうか。

saiの打つ一手一手に怯えてしまいそうになる自身を叱咤し、無理やり奮い立たせる。

 

棋譜を見て並べるだけでも相手の力量は測れるが、実際にその相手と打ってみるとみないでは全然違う。

 

遥かな高みから見下ろされているような感覚になるのは何時ぶりだろうか。

少なくとも緒方がまだプロになっておらず、指導碁を受けていた頃、歴然の力の差がある行洋に、同じような感覚になったことはある。

しかしそれはあくまでプロになる前であって、プロ試験に合格し、タイトルを狙えるほど実力をつけトップ棋士の仲間入りを果たしてからは、そんなことは一度もなかった。

 

――なんだ、この強さは……まるで、塔矢先生と同じか、それ以上だ……

 

盤面を睨みつけたまま、緒方はギリ、と奥歯をかみ締める。

ふくらみ、自身の地を固めておくべきか、それともsaiの地を下から確実に削っておくべきか。

両方それほど差は無いように思えたが、やはり先に手堅く自身の地を固めておいたほうが、と緒方が思いかけて、一手前にsaiが打った一手と全体の石を見比べ、ハッとする。

 

――これは、俺を誘っている!?

 

置こうとした石がピタリと止まる。

確かに、緒方がはじめ考えた通り、ここでふくらみ、地を固めておけばより堅固となり、対局の流れはスマートになるだろう。

だが地を固めず、saiの地を荒らせば、その分複雑さが増しヨミにくくなる。

中盤にあって形勢的に優位なのはsai。

であれば、saiは自身の隙を補強し丁寧に打っていけば、確実に勝てる。

なのにそれをしないで、緒方につけ入る隙を与えているのは、優位であることを度外視し、確実に勝つことよりも緒方とのヨミ比べをsaiが選んだことになる。

ワザと隙を作り、saiがヨミくらべをしようと誘っているのだ。

 

このまま打っても負けは見えている。

 

――その誘い、乗ってやるっ

 

緒方の石がsaiの地に喰い込んだ。

 

その一手以降、対局の流れが全く変わり、緒方が打った下のsaiの地から盤面全体にヨミくらべが広がった。

薄い自身の地を補わず、相手の地に強引に入りこむ。

公式の手合いでは絶対に打たないだろう場所にも平気で打った。

 

小さいヨセに入るまでヨミくらべは続き、はやり緒方が投了して終局する形になったが、ここまで胸躍らせた対局は久しぶりだった。

対局中、緒方は碁を覚え始め、闇雲に打っていた頃を思い出した。

まだプロになるとかそんなことは頭になく、ただひたすら碁を打つのが楽しかった頃だ。

次の一手を盤上から無我夢中で探し、疑いも持たず無邪気に石を打った。

 

「……碁を打つのが楽しい、か」

 

ずっとタイトルをかけたプロとしての碁を打つばかりで、楽しむための碁は久しく打ってなかった気がする。

対局に負けてしまったことは、当然悔しいかったが、それ以上に緒方の胸を懐古の気持ちが緩やかに満たしている。

 

ディスプレイにはまだsaiの名前があることを確認してチャット入力画面にマウスカーソルを合わせ、緒方はキーボードに打ち込む。

 

『お前は誰だ?進藤と関係があるのか?』

 

恐らく何も答えずsaiは消えるだろうと緒方は思っていた。

もしかすると今もsaiの傍にヒカルがいるかもしれない。

となれば、名前を当てられたヒカルが、驚き慌てて画面を消してしまうかもしれない。

 

案の定、saiは緒方の問いかけに答える様子はなかった。

けれど、盤上から消える様子もなく、しばらくして

 

『また打ちましょう』

 

緒方の問いかけには答えず、その一文を残してそのままsaiは消え去った。

 

■□■□

 

『お前は誰だ?進藤と関係があるのか?』

 

「うげっ!どうしようっこれって完全気付かれてる!?」

 

チャット画面に現れた文章に、ヒカルは驚き過ぎて立ち上がった衝撃で、座っていた椅子が後ろに倒れてしまう。

名前を当てられ、ヒカルは急いで対局画面を閉じようとするが、

 

――待って!ヒカル!!

 

佐為の静止にマウスを動かそうとしていたヒカルの手が止まる。

 

「え!?何っ!?」

 

――その……あの……

 

歯切れの悪い佐為にヒカルが焦れる。

 

「だから何!?」

 

――また打とうと!また……打ちましょうと、緒方に伝えてもらえないでしょうか?

 

思い切って佐為が言った願いに、ヒカルは顔をしかめ、

 

「緒方先生に?だってほぼ確実気付いてるぞ、この人。俺が佐為と関係してるって」

 

――そ、そうですよね……無理ですよね……ただ、緒方と打ててとても楽しかったものですから……

 

俯きしょぼんと佐為は頭を垂れる。

やはりそうなると、佐為の落ち込んだ気持ちがとりつかれているヒカルにも流れこんでくるもので

 

「う~~~!!もうっ!責任取れよ!」

 

椅子に座りなおし、ヒカルはガチャガチャとキーボードを打っていく。

 

『また打ちましょう』

 

送信ボタンをクリックし、送信完了画面が現われるやいなや、ヒカルは囲碁ソフトそのものをあっという間にログアウトして、ベッドの中に潜りこんだ。

佐為とヒカルのうち筋が似ていることをすでに緒方は気付いている。

そして、佐為と対局してヒカルの名前を出してきたのに、すぐに消えず、チャットを返してしまった。

 

「あー、絶対バレた!!どうしてくれるんだよ!?バカ!!佐為のバカバカバカ!」

 

――ありがとう!!ヒカル!!でも大丈夫です、私に策があります!

 

バカを連呼し、もぐりこんでいた布団の小山から、ひょこりとプリン柄の頭だけが出てくる。

半分目がすわった目つきでヒカルは佐為を睨んだ。

チャットを返してしまったのに、どういい逃れる術があるというのか。

 

「……何?」

 

――それはですね

 

 



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34

森下の研究会の日。

棋院にやってきたヒカルを緒方が待ち構えたように捕まえた。

さすがにプロの緒方が、中学生のヒカルの家まで押しかけるのは躊躇ったらしい。

一般客の多い一階ではなく2階でヒカルを待つあたり、確信犯が伺える。

それでもプロ試験当日の対局直前でないあたりは、緒方も一応気遣ったのかもしれない。

 

しかし予め、ヒカルの方も佐為と作戦を練っていたので、突然現われた緒方の姿に慌てた素振りは見せなかった。

むしろ、来たなといわんばかりに、仁王立ちし緒方を迎え撃つ。

 

「進藤、お前、棋院の事務に頼んで、俺の打った棋譜を全部持って行ったらしいな」

 

「俺、超緒方先生のファンなんです!」

 

本人を眼の前に、無表情の無抑揚でヒカルは『ファン』という部分を強調して面と向かって言い切った。

しかし口ではファンと言っても、何の説得力もない。

顔には公然の嘘ですと太文字で書いてある。

 

佐為が緒方と対局したあと、ヒカルに授けた秘策は『開き直って、シラを切りとおす』だった。

 

佐為から言われた瞬間はヒカルも訝しんだが、確固とした証拠が無いのは確かである。

メッセージを送ったと言っても、内容は挨拶程度のもので、別に普段チャットをしないから変だというわけではない。

対局後に緒方から『進藤と関係があるのか』と問われはしたが、認めるどころか、それに対して返事をしていない。

強い打ち手にsaiがまた打ちたいと思って、『また打ちましょう』とチャットを返したのだろうとでも言って言い逃れることは可能である。

 

緒方がヒカルを疑っていることは明らかで、この状況で疑いを晴らすことはもう不可能かもしれないが、証拠さえなければヒカルが認めない限り手出しは出来ない。

疑惑と証拠では、天と地ほどの差があるのだ。

そして佐為が言ったとおり、半信半疑なまま怯むことなく堂々とヒカルが開き直ってみせると、緒方の方が逆に気圧されている様子に、このままシラを切りとおしてみせるとヒカルは臨戦態勢を強める。

 

――このやろう、開き直ってシラばっくれるつもりだな

 

ヒカルの警戒心剥き出しの様子に緒方も作戦を変更することにする。

saiとヒカルを関係付ける確固とした証拠がないことを、一番理解しているのは緒方の方だ。

答えは見えているのに、決め手がないということほど、歯がゆいものはない。

 

「だったら、俺の棋譜を隅々まで並べて勉強したってことか?」

 

「有難く隅々まで勉強させてもらいました」

 

警戒を解くことなく答えるヒカルを緒方はしたり顔でひっかける。

開き直るつもりなら、それはそれで好都合。

考えていることが顔に出やすいヒカルから、ボロを上手く引き出せばいいわけだ。

 

「それならこれから俺の言う問いに答えてみろ」

 

「え?」

 

「俺の棋譜をしっかり勉強したんだろう?」

 

ニヤリと口の端を斜めにした緒方に、ヒカルは顔を緒方に向けたまま

 

――ヤバイッ!佐為どうしたら!?

 

――任せて!緒方の棋譜なら私が全て覚えています!!

 

ヒカルの焦りを他所に、緒方は問題を出す。

 

「2月の大手合いでの乃木先生との一局、64手目」

 

――11の6

 

「11の6っ」

 

「去年の天元戦、第3局、52手目」

 

――8の5

 

「8の5」

 

2問とも即答したヒカルに、緒方の余裕も消えていく。

 

「…………3年前の棋聖戦、3次予選、40手目」

 

――15の10

 

「15の10」

 

3問とも正解され、緒方は内心たじろぐ。

ヒカルが緒方の棋譜を求めたのはsaiに渡すためだと考えていたのだが、本当にヒカルが勉強するために欲しがったのだろうか。

 

――棋譜をもらって数日で、本当に俺の打った対局、全部覚えてやがるのか?

 

本当にヒカルが緒方の棋譜を全て勉強したとしても、たった数日である。

その数日で全ての棋譜を覚えたのだとしたら、驚異的なものだろう。

 

――へへーんだ。棋譜なら佐為が全部覚えてるぜ!!

 

緒方の動揺を見越したように、今度は逆にヒカルがニヤリと笑む。

 

「じゃあ、話は変わるが、お前の打ち筋、棋風、ネット棋士のsaiにそっくりだよな」

 

「緒方先生もsaiをご存知だったんですね。俺、saiも好きだからsaiの棋譜もよく並べるんです」

 

ヒカルが答えた返答も、もちろん棒読みだった。

緒方の思惑は全てお見通しだと言わんばかりのヒカルに、緒方は舌打ちし、作戦を変えて正攻法に切り替える。

 

「saiとは何者だ?名前は?歳は?なぜプロでもないのに、あれほど強い?」

 

それまでの探りを入れるような姿勢から、急に真正面から佐為の核心をぶつけられ、ヒカルは思わずたじろぐ。

証拠がなければ正面から切り出せないだろうと踏んでいたから、予想外の展開にヒカルは対処する術を知らない。

 

「し、知りませんっ」

 

「だめだ、話せ」

 

「知らないってば!」

 

正面からじっと見られることに耐えられず、ヒカルが視線をそらしその場を離れようとするが、

 

「待て!」

 

「放してッ!!」

 

逃がすまいとヒカルの腕を掴もうとしてきた緒方の手を強引に振り払い、咄嗟にヒカルは緒方から走り逃げる。

すぐに緒方もヒカルを捕まえようと追ってきて

 

――ヒカル!あそこ!

 

――え!?

 

佐為の指差す方向を見て、ヒカルは急転回した。

そして見つけた人物の背後に隠れる。

 

「塔矢せんせっ!!」

 

「進藤くん?」

 

「進っ、塔矢先生!?」

 

「緒方君まで、どうか……」

 

行洋の後ろに隠れ、着ている着物をぎゅむっと掴み、縋るような眼差しを向けてくるヒカルと、恐らくヒカルを逃すまいと追いかけてきたであろう緒方を、行洋は交互に見やった。

過日に行洋が佐為とヒカルの打ち筋の相似に緒方が気付いていると話した矢先、佐為と緒方がネットで対局をしていると知ったときは、もしかすると、己の知らないところでヒカルが佐為の存在を緒方にも話したのかと行洋は思った。

 

緒方はあれでも口が堅い方だ。

佐為の存在を知っても他言するような性質ではないが、ヒカルが佐為の存在を話したとすれば、一緒に自分のことも話しているだろうに、緒方から行洋にそういった話を持ちかけられることはなかった。

 

ゆえに、下手に動くようなことはせず、事のなりゆきを静かに静観することにしていたのだが、ただならぬ二人の様子に行洋も何事かと怪しむ。

 

「先生は先日、俺がsaiと対局した一局をご存知でしたよね。進藤はそのsaiと繋がっているんです」

 

「……本当かね、進藤君?」

 

振り向き、自身の背中に張り付いているヒカルに問うと、ヒカルは首をブンブン横に振って否定する。

緒方からして見れば、ヒカルが首を横に振ったのは、単にsaiとヒカルの関係を否定している意味に映ったが、行洋からするとヒカルは緒方に佐為の存在を話していないと必死に訴えているように見えた。

 

だとすればヒカルの後ろにいる佐為の存在に、緒方が気付いてはいるが、確実な証拠を緒方は掴んでいないのだろう。

そしてヒカルも佐為の存在を緒方に打ち明ける気はない。

だからヒカルに詰め寄り強引に白状させようとし、ヒカルは緒方から逃げているのか、と行洋は推察する。

ヒカルが佐為の存在を緒方に話していないのなら、佐為の存在を秘密にするとヒカルに約束した以上、弟子とはいえ、行洋が緒方に味方してやることは出来ない。

 

「進藤君はこう言っているが?」

 

「本当なんです。saiが俺に対局を申し込む直前に、こいつは俺が打ってきた棋譜を棋院で全部印刷して手に入れている。それを進藤はsaiに渡したんです。何より、こいつの打ち方はsaiにそっくりだ」

 

「俺は院生試験の時も推薦してもらったし、緒方先生のファンだったから棋譜が欲しかっただけだ。それにsaiの棋譜だってしょっちゅう並べる!」

 

顔半分を行洋の背中から覗かせ、ヒカルが反論する。

 

「お前、よくそんな白々しい」

 

言いかけた緒方を、行洋が手のひらをすっとあげ制した

 

「緒方君、君の言い分は分かった。しかし、大の大人が、それも院生の見本となるべきプロ棋士が、大事なプロ試験の最中の院生に絡み、大声を上げるのはどうだろうか?何があるにせよ、今は進藤君はプロ試験に集中すべきだし、我々プロ棋士はそれを見守るべきだと思わないかね?」

 

「そ、それは……」

 

「お互いに言いたいことや聞きたいことがあれば、プロ試験が終わってからでどうだろうか」

 

師匠であり囲碁界の重鎮でもある行洋にそこまで言われたら、さすがの緒方も引き下がるしかなくなる。

そして、言葉が詰まったように何も言えなくなった緒方に、ヒカルもこれ以上、強引に詮索される内心ほっと安堵する。

行洋が棋院にいたのは偶然だったが、本当についていた。

 

「進藤君も目上の人に対して言葉使いをもう少し改めなさい。囲碁は強さもだが、それ以上に礼儀が最も大事だ」

 

振り向き、ヒカルにも諭す行洋の眼差しは苦笑している。

あまり派手に動くかないでくれと無言で言っているようで、ヒカルもしゅんと体を小さくさせ項垂れた。

人前でヒカルと行洋が親密にしている姿を見せるわけにはいかない。

弟子でもないヒカルがトップ棋士の行洋と親しくなる接点がない。

だから、これがヒカルを庇う行洋の精一杯の配慮なのだろう。

佐為の存在を秘密にしてくれている行洋を、決して困らせたいわけではない。

 

「はい、すいません……」

 

「進藤君は今日は棋院に何の用で?」

 

「これから森下先生の研究会が、あっ!」

 

廊下の向こうからやってくる森下の姿に気がつき、ヒカルは声を上げる。

森下もすぐにヒカルたちに気付いたようだったが、ただならぬ気配に、森下の眉間に皺が寄った。

 

「行洋?進藤、それに緒方君まで。どうかしたのか?」

 

「いや、何でもない。さあ、行きなさい」

 

ぎゅっと羽織を握りしめるヒカルの手を解き、行洋は森下の方へ行くようにヒカルを促す。

この場を穏便に済ませるには、問題の2人を引き離すのが一番手っ取り早い。

緒方はまだヒカルを睨んでいたが、行洋の促しに応じヒカルは森下の方へ行こうとして、チラリと行洋が自分を見てないことを確認してから

 

「なっ!?」

 

――ヒカルッ!?

 

ヒカルの顔を正面から見えていた緒方と佐為が、ほぼ同時に反応する。

明らかに緒方に向かって、ヒカルが舌をべっと出して、人差し指で目の下を引っ張ったのだ。

世間一般のいわゆる『あっかんべー』というやつで、時間にしてみれば1秒ほどだったので、緒方と佐為の他に気付いた者はおらず、

 

「ほら、さっさと来い、進藤」

 

「は~い」

 

こちらに来るかと思えば、いきなり緒方の方に再度振り向いたヒカルを、森下が急かすように手招きする。

何もないと言われても、場を満たすただならぬ様子なのは森下も感じていたし、そして行洋が緒方とヒカルを引き離そうとしていることも、長年の付き合いで何言うことなく察する。

事情は後で聞くとして、とにかくヒカルの方を連れて行こうとする森下に、何食わぬ顔でヒカルはついて行く。

 

――ヒカル、いくら開き直るといっても、そこまで調子にのってからかうのは……さっき行洋殿に言われたばかりで……

 

――いいのいいの。緒方先生って楽しー

 

上手く緒方から逃げることができ、鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌のヒカルに、佐為も苦言を呈すが、当人に全く聞く様子はない。

さすがに『開き直れ』というのは度が過ぎたかと、佐為は額を押さえ、己の考えの浅はかさを悔やむしかなかった。

 

その後ろで、

 

「緒方君?」

 

ヒカルがあっかんべーをしたことに気付かなかった行洋は、その場に立ち竦み、プルプル震え、表情に険しさを増した緒方に微かに首を傾げた。

 

――あんのクソガキッ!!

 

ギリリ、と歯をかみ締め、血が滲み出そうなくらい拳を強く握り締める緒方を他所に、ヒカルはさっさと森下の後ろについて研究会をするであろう部屋に行ってしまう。

ヒカルがsaiに繋がっていることは明白だったが、さっきのヒカルのイタズラで確信に変わった。

証拠を掴むかヒカルが決定的なボロを出さない限り、ヒカルとsaiのことを緒方が第三者に話しても妄想か戯言と一蹴されてしまうだろう。

そしてそのことをヒカルは最大限に活用し、緒方がヒカルとsaiの関係を疑っていることを承知で、一切認める気がないのだ。

 

ヒカルの『あっかんべー』は、自分はsaiの正体を知っているが緒方には絶対教えてやらない、と無言で宣戦布告しているに等しい。

 

子供であることを利用し、行洋と森下という若輩の緒方が手を出せない庇護下に隠れたヒカルの機転は、見事だと緒方も認めるしかない。

おまけに行洋にプロ試験の間は見守れと言われた手前、今年のプロ試験が終わるまではヒカルに手が出せなくなった。

大人の中で育ってきたアキラでは考えもつかないだろう。

実に子供らしく、そして緒方の気持ちをこれ以上ないほど逆撫でするイタズラだ。

行洋と森下さえいなければ、プロの見本や模範など蹴り飛ばして、saiの正体もお構いなしに、緒方は間違いなくヒカルにキツイ拳骨を落としていた。

 

 



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35

人差し指と中指に石を挟んだ緒方の指がしなり、盤上に黒石を打つ。

対戦相手の乃木がコクリとツバを飲み込む音が、対局する隣で記録をつけていた3人の係りの耳にも届いた。

 

「ッ……」

 

緒方の打った一手をじっと見つめる乃木の眼差しはひたすら険しく、空調の効いた室内は決して暑くないのに額から汗が流れ、太ももに置かれた右手は、ぎゅっとスーツのズボンを握りしめている。

対して、緒方は表情を崩すことなく冷静な眼差しで盤上を見つめている。

どちらが追い詰められているのかは、碁盤を見なくても2人を見比べるだけで一目瞭然だった。

 

「……ありません」

 

「ありがとうございます」

 

一礼し、緒方はふぅとそれまで張り詰めていた緊張を解いた。

それを皮切りに、記録係や対局の周囲で観戦していた倉田や他のトップ棋士たちも張り詰めていた気を解き、終局した盤面の周囲に集まる。

検討のためだ。

 

「参った。まさか、この一手にこんな狙いがあるとは思わなかった」

 

乃木が盤上の一手を指差す。

緒方が打ったワカレの一手に若干損がある違和感を受けながらも、隙を見せたと思い乃木が踏み込めば、うまくしのがれ反対に緒方の地が強固になる結果になってしまった。

 

「これは私が踏み込むのを誘ったのか?」

 

「いえ、乃木先生でしたらこういう見え透いた誘いには乗らず、慎重にこっちをこう受けて回るかと思いました」

 

「確かにそれも考えた。それでも十分だったと思う。だが、それが分かっていてなぜ緒方くんはここに?」

 

「もし乃木先生が受けてたら、ここをこう打とうかと……」

 

パチ、パチ、と緒方が頭の中で思い描いた模様を並べていく。

 

「あっ!!逆にこっちだと破られて大石を荒らされていたのかもしれなかったのか」

 

ハッと気付いたように乃木が持っていた扇で畳をパチンと叩いた。

どちらにせよ、緒方のヨミに気付けなかった時点で、乃木の敗北は決まっていたのだろう。

だが、そのヨミに気付けた者は対局者の乃木だけでなく観戦していた者達も同じだった。

 

「緒方さんまで、一皮剥けたっていうか、やっぱりsaiとの一局が機転になったとか?勝敗は別にしても、あの対局は面白かった。なんか緒方さん、タガが外れたように普段打たない場所にもどんどん打っていくし、でもその打った一手が面白い!」

 

観戦し、対局の検討に混ざっていた倉田が、乃木との対局の内容ではなく、緒方が先日打ったsaiとの対局について話題を述べる。

saiが互戦で対局したこともだが、その相手が緒方だったことが、最も話題になっていた。

韓国の安太善と互戦で対局したときには、その周囲に多く人がいて、どういう経緯で対局することになったのか明らかだったが、緒方の対局は寝耳に水といっていい。

予め約束していたわけでもなく、saiが対局申し込みを断り、狙っていたかのように緒方に対局を申し込んだ。

これで詮索するなという方が無理だろう。

緒方が何かしらsaiについて知ってて、それで互戦で対局できたのではないかと裏を勘ぐる。

しかし、緒方がsaiについて語ることは何もなかった。

 

「……打ちながら初心を思い出したことは認める」

 

「でも、本当にsaiについて何も知らないんですか?saiが他の人の対局申し込みを断ってまで、誰かと対局するなんて滅多にないって噂じゃないですか。しかも互戦!打てるなら俺もsaiと打ってみたい!」

 

なおも倉田が食い下がる。

これについては倉田だけでなく何人にも緒方は聞かれたことだったが、その全員に同じ返答を返した。

 

「本当に知らないのだから、どんなに食い下がられても何もでないぞ」

 

対局前にはメッセージ、そして対局後にはチャットを交わしたことは、緒方は誰にも他言しなかった。

その内容ついて誰かにしつこく追求されることが嫌だったからという理由もあったが、これで会話内容は緒方とsaiしか知りえない情報になる。

そこでもしヒカルが会話内容を少しでも口を滑らせれば、そこから集中して突くことができる。

 

行洋の影に隠れて、緒方だけに見えるようにしたヒカルのあのイタズラ。

思い出すだけでも緒方は腸(はらわた)が煮えくり返りそうになる。

いくら追い詰められてたとはいえ、よくあの塔矢行洋の背中にしがみつくことができたなと思う。

そしてその行洋なら緒方も手出しできないと踏んで上手いことヒカルに逃げられた。

あのときは、森下が急かすようにヒカルを連れていってしまったが、反対にあの場にヒカルがあと少しでも長くいたら、行洋の前であろうとも緒方の短い堪忍袋の緒が切れていたことだろう。

 

じわじわと追いつめ、必ずsaiの正体を突き止めてみせる。

 

そしてヒカルの頭に拳骨を一発落とすのだ。

 

□■□■

 

「そういうことだったのか」

 

緒方との事の次第をヒカルから聞かされ、行洋は納得したように、けれど面白そうにクスクス笑みを零す。

研究会の時間になっても現われない緒方が、いきなりsaiとネット碁で対局していると知らされたときは、一瞬本気でヒカルが緒方に佐為の存在を話したのかと思った。

前回会ったときに、緒方がヒカルのことを疑っているという話をしたばかりで、持ち時間3時間の互戦をネット碁で対局しているのは、ネット碁の約束を予めしていたのかと考えたが、前もって緒方から研究会を休むとの連絡がないことが逆に辻褄が合わない。

 

自分から緒方に何か尋ねて変な疑惑を持たれるわけには行かず、そのまま行洋が静観を決め込んでいれば、棋院で緒方に追いかけられているヒカルと出くわし、事の成り行きを知らない分、どうしたものかと戸惑ったものだ。

下手にヒカルを庇うわけにはいかず、かと言ってsaiの正体に迫る緒方にヒカルを渡すわけにもいかず、通りかかった森下にヒカルを預けて、どうにかやり過ごすことができた。

 

「しかし、緒方君が打ち筋の相似で進藤君と佐為の関係に気付いたように、まさかそれを逆手にとってネット碁の緒方君をつきとめるとはね」

 

「俺も最初は半信半疑だったんですけど、佐為がもしかしたらネット碁の棋譜から緒方先生を見つけられるかもって。それで見比べるために棋院で緒方先生の棋譜を全部貰ったら、それがどっかで緒方先生の耳に入ったっぽいんですよね~。対局終わったあと、チャットで俺と関係あるのかって聞かれたときは、もうっ!すっごい焦っちゃって!」

 

「全く君たちも無茶をする。緒方君にはプロ試験の間は大人しくするよう釘を刺したが、プロ試験が終わった後はどうするつもりかね?彼がこのまま大人しく佐為を諦めるとは思えない」

 

「開き直ってしらばっくれます。証拠がなければ緒方先生はどうにもできないって分かったし」

 

だから大丈夫、とヒカルは行洋に胸を張る。

人目があるところで緒方に騒がれるのは嫌だが、それはヒカル以上に緒方が避けるだろう。

子供が勝手な憶測で騒ぎたてるのと、大人が子供に向かって険しい顔で詰め寄るのでは、それを傍から見る印象は真逆だ。

プロ棋士という外聞を気にするであろう緒方ならきっとしない。

後は、1人の時に緒方に捕まらないよう気をつけて、もし何か強引に詮索されても大声を出して誰かしらの背中に張り付いて助けてもらえばいい。

 

「ときに、緒方君に佐為のことをこれからも話す気は?」

 

行洋の問いに、ヒカルは明後日の方角を睨みながら、腕を組み、口をへの字にして考え込む。

 

「ん~~まだいいかな。どうしてもって切羽詰ってるわけでもないし、俺的には佐為のこと知ってる人は1人でも少ないに越したこともないから、塔矢先生だけでいいです」

 

そして隣に座る佐為に向かっても、心の中で、

 

――緒方先生と打とうと思えば、ネット碁で対局出来ないこともないしな。なんだかんだって緒方先生のアカウントが判明したことだし

 

――そうですね。私が幽霊ってこと以外、ほとんど気付いているのに事情を話さないのは申し訳ない気持ちもしますが、どうしても特に話さないといけない理由もありませんから

 

現状、佐為はネット碁で碁を打つことはできるし、こうして行洋と対面して碁を打つこともできる。

多くの棋士と打ちたいという欲はあるが、ヒカルがヒカルだけの実力でプロになりたいのなら、余計な疑いをかけられないためにも、自身の存在は出来る限り内密にしておくにこしたことはないと佐為も思う。

 

――それにあの人、からかうと結構面白い

 

先日の一件をヒカルは思い出し、クククッと堪え切れなかった笑みが漏れてしまう。

師匠である行洋の言葉にはさすがの緒方も逆らえず、すぐそこにいるヒカルに手が出せないでジレンマしている姿は、一見の価値があるだろう。

緒方とのネット碁について、事の次第を何も話していないのに、緒方に追われているヒカルを見て、すぐに事情を察してくれた行洋にも感謝だが、何よりヒカルがあっかんべーをしてやったときの緒方のマヌケな顔は、一生忘れない自信がある。

 

――コラ!失礼ですよ!大人をからかうのは!

 

ヒカルの過ぎたイタズラに佐為が叱りつける。

それに不真面目な相槌をヒカルは返す。

 

「はいはい、分かってるって。もうしないってば」

 

「進藤君?」

 

「いえ、何でもないです。佐為もどうしてもって場合じゃなければ、秘密のままそっとしておいたほうがいいって言ってます」

 

行洋にも佐為の考えをヒカルは伝える。

すると、急に無表情になり口を閉ざした行洋の様子に、ヒカルはもしかすると行洋が自分達とは違う考えなのかと思い、隣の佐為を見やった。

なんと言っても緒方は行洋の弟子だ。

ここまでバレているのなら師匠として緒方にも佐為の存在を話してやりたいのかもしれない。

無言になってしまった行洋に、ヒカルは恐る恐る、

 

「塔矢先生は、緒方先生にも佐為のこと話した方がいいと思います?」

 

多少ビクビクしながらヒカルが問うと、行洋はじっと見えない佐為の方を見てから、すぐに手元の湯のみに視線を落とした。

 

「それは私からは何とも言えない。佐為と打ちたいと願っている者達が、緒方君以外にも大勢いることを私は知っている。その中には当然息子のアキラも入っているだろう。しかし、それを知ってて彼らに内緒で私はこうして人知れず佐為と打ち、たまにふと私だけが佐為を独占しているかのような気持ちになる瞬間がある。己だけが佐為の存在を知り、佐為と好きなときに打つことが出来る。恥ずべきことだ。私は君達と知り合うまで、自分の中にこんな醜い自分がいることを知らなかった」

 

そこで一度区切りると、行洋はヒカルを見やり、小さく微笑みながら、

 

「私には佐為の姿は見えず、声も聞こえない。にも関わらず、進藤君のお陰でこうして佐為と打つことが出来る。その奇跡にただ感謝するだけだよ。ありがとう、と」

 

「そんなっ!ありがとうだなんて!第一、誰にも話さないで内緒にしてって最初にお願いしたのはこっちなんだから!」

 

――ヒカルの言う通りです!行洋殿が気に病む必要はどこにも無い!

 

思わぬ行洋の感謝の言葉に、ヒカルと佐為は驚きふためきく。

自分達こそ佐為の存在を内緒にしてもらって感謝しているのに、逆に行洋から感謝されているとは夢にも思っていなかった。

 

「だが、君達が私を選ばなければ、こうして打っていることもない」

 

「それは、そうだけど……。いいんです!!塔矢先生が変に思うことなんてこれっぽっちも無いんです!塔矢先生と打ちたいってワガママ言ったのは佐為で、俺が佐為と一緒に見てほしくないから、佐為のことを先生に話して、内緒にしてってワガママ言ってるんです!だから!塔矢先生が恥ずべきとか言う必要はないんで す!」

 

懸命に行洋を庇うヒカルの姿に、行洋は表情をゆるめ、

 

「そうかな?そう思ってもいいかな?」

 

「ぜひ!それに佐為だけじゃなく俺だって塔矢先生に打ってもらえるし!こうして塔矢先生に指導碁打ってもらってるとか院生のみんなが知ったら絶対羨ましがるに決まってる!プロ試験だって先生と打ってるくせに落ちたりなんかしたら、絶対一生受かりっこない!」

 

「それはまた一大事だな。私の指導が足らずに進藤君がプロ試験に落ちてしまったことになる」

 

行洋の指摘に、ヒカルはどう補足すればいいか分からず、両手を胸の前でわたわたさせながら、

 

「え!?そんなつもりで言ったわけじゃなくて!」

 

「分かっている。だが、佐為と共に私も出来る限り尽力しよう。君がプロ試験に受かるようにね。今の成績は?」

 

「……6連勝中です」

 

「では全勝を目指そうか。一つも落とすことなくプロへ」

 

「はい!!」

 

ヒカルの目が大きく輝いた。

 

 



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36

プロ試験を11戦全勝で勝ち進んでいるのは伊角、越智、ヒカルの3人だった。

伊角、越智の2人はいいとして、ヒカルが全勝を続けていることに、院生の中には首を傾げる者もいたが、ヒカルと対戦するとその評価はガラリと変わる。

 

『進藤が変わった』

『進藤が強くなっている』

 

対局したことのない外来受験者は分からないが、ヒカルと対局した院生のメンバーは口を揃えて言う。

プロ試験予選の前も、ヒカルが急激に院生順位を上げ一時期騒がれたことがあったが、それはまだ調子がいいのだろうと捉えられていた部分もあった。

しかしそれがプロ試験予選を通過し、本戦でも連勝を続けているとなると話が変わってくる。

 

「次の伊角さんの対戦相手、進藤だっけ?マグレで進藤勝たないかな。とにかく誰でもいいから、伊角さんと越智に黒星つけないと俺が入り込む余地がない」

 

試験の帰り道、本田が伊角に冗談めかして言う。

 

「でも、それだと進藤が連勝続けることになるぞ」

 

「進藤はどこかでコケるさ」

 

あたかも絶対そうなると信じ込んでいるような本田の言いように、

 

「そうかな……俺、本気で進藤と当たるのが最終でなくて良かったと思ってるよ。アイツ、日に日に強くなってる。最終戦だと、どれくらい強くなってるか……」

 

「え?伊角さんも、進藤が強くなってる説を信じてるの?」

 

予想外の伊角の評価に、本田が顔色を変える。

小宮もヒカルに負けたとき、強くなっているというのを傍で聞いていたが、半分は負けた悔しさからそんな負け惜しみを言っているのだろうと思っていた。

だが、対戦前から伊角のヒカルに対する評価は高い。

 

「お前、プロ予選前だっけ?進藤と最後に対局したの」

 

「そ、そうだけど」

 

「本戦前にさ、俺と和谷が進藤連れて碁会所巡ったんだけど初めて見た。目に見えた人の成長ってやつ。打てば分かるって言いたいけど、本田が打つ時には既に遅かったりしてな。俺、進藤だからって甘くみないで、本気で打つぜ」

 

「……マジで?」

 

「今年のプロ試験、最大の難関は進藤だ」

 

 

□■□■

 

 

秒読みに入った対局時計を押しながら、終局が見えてきた、と伊角は苦々しく思う。

形勢はヒカルの白が若干良し。

プロ試験前に碁会所で見たときより、そして韓国の研究生だという洪秀英と打ったときより、ヒカルがまた強くなっていると盤上に打たれる石が伝えてくる。

院生に入ったばかりのヒカルを見て、誰がこの急激過ぎる成長を予想出来ただろう。

 

碁会所で最後に見たヒカルより、このプロ試験11戦の間に、また一段とヒカルが強くなっていると伊角は感じる。

 

だが、ヒカルの白良しといっても、形勢は細かい。

ヨセの応手次第では十分逆転は可能だ。

だがヒカルは悪手を打つことはなく、伊角の中に焦燥の気持ちばかりが増していく。

どうにかしなければと思いながら、盤面に向かい、石を置こうとして、

 

――あっ

 

頭では分かっていたのに、伊角の手はそのまま対局時計を押してしまう。

アテ間違って一度指から離れた石を再度打ちなおしてしまった。

指が離れたあとの打ち直しは、その場で反則負けになる。

しかもそれが自分自身分かっていて、言い出すことが出来ない。

お互い全勝同士でプロ試験はまだ中盤。

一個の白星も惜しい。

緊張と焦り、そして恐怖で、心臓の脈打つ音が、伊角の耳の近くで高鳴る。

 

――あれ?今、伊角さんの指、石から離れなかった?

 

自分の見間違いかとヒカルは佐為に尋ねる。

微妙だったのでヒカルも絶対という自信はなかったが、けれど伊角の指は離れていたと思う。

 

――離れたようには見えましたが、ハッキリとは……ヒカル?

 

――……伊角さんが何も言わないってことは石に指が離れていなかったら?でも……言っちゃダメ、かな?

 

――え?言うのですか!?

 

――だって!!本当に離れてたら!

 

その場で伊角が負けになり、ヒカルに白星が転がってくる。

盤上はヒカルが僅かに勝っていたが、どんな小さなミスで逆転されてもおかしくない。

 

――1勝が欲しい!伊角さんも1勝が欲しいから黙っているのかもしれないじゃないか!

 

ヒカルや伊角だけではない。

この対局場にいる誰もが1勝を喉から手が出るほど欲しがっている。

 

――その1勝は自分に誇れるものですか!?行洋殿に対して恥ずかしくないものですか!?

 

「え……」

 

佐為の言葉に、ヒカルは目を見開く。

 

――ヒカル、よく考えて。1勝に対する執着はお互い同じです。でも、ヒカルはその勝利を行洋殿に胸を張って言えますか?

 

――でも、塔矢先生と全勝でプロ試験合格するって……

 

――行洋殿が求めているのはそんな合格ではないと思います。例え、石から指が離れていないか聞いて、伊角が認めたとしても、そんな碁を行洋殿へ顔を向けて話せますか?ヒカルも分かっているはずでしょう?

 

佐為の言葉に、ヒカルの脳裏に行洋の姿が思い浮かぶ。

数ヶ月に一度しか会えない佐為との時間を割いてまで、プロ試験を受けているヒカルを応援し指導碁を打ってくれた。

俯き、ギュッと目を瞑り、それから小さく震える手でヒカルは白石を挟むと、そのまま震える指でヒカルは石を打つ。

自分より強い相手に、石を打つ指が震えてしまったことはあったが、眼の前にぶらさがった反則勝ちという誘惑に向かい石を打つのは初めてだった。

 

ヒカルの迷いをそのまま反映したような鈍い音が響く。

 

――これでいいんだ……もしこれで負けても……、全勝でプロ試験合格できなくても、……試験落ちても、塔矢先生に俺は顔を向けることが出来る

 

打ち終えた手を膝に戻し、ヒカルは自分にそう言い聞かす。

そのまましばらく顔を俯いたままじっとしていた伊角が、

 

「……進藤、ありがとう。何も言わないで打ってくれて」

 

「伊角さん?」

 

「負けました」

 

頭を下げる伊角をヒカルはじっと見つめた。

やはり伊角の指は離れていたのだと分かったのと同時に、そのことを口に出さず、打ち続けて良かったとヒカルは思った。

もしかしたら石から指が離れてしまったことを誰よりも分かっている伊角自身が、ヒカルよりももっと辛かったのかもしれない。

もしこのまま打ち続けて勝ち、そしてプロ試験に合格したとしても、伊角の中で一生しこりとなって悔やむのではないだろうか。

 

同じようにヒカルは1勝の欲しさで、石から指が離れたことを言い出そうとしたが、傍にいた佐為が止めてくれた。

しかし伊角に佐為のような存在はいない。

本当にたった独りで戦っているのだ。

そして1人で戦っている伊角の方がきっと正しい。

 

もし佐為の姿が皆にも見えていたら、さきほど石が離れていたかどうか、ヒカルは佐為に尋ねることなどできなかったのだから。

反則をしてしまったことより、それをヒカルが打つまで言い出せなかった伊角と、佐為が止めなければ恐らく反則勝ちに縋っただろうヒカル自身も同じだけ弱く、決して伊角だけを責めることはできない。

 

検討することなく石を片付け、立ち去ろうとした伊角に、

 

「伊角さん、これからだよ!まだ!まだプロ試験は終わってないからっ」

 

声を押し殺し、ヒカルは伊角に訴える。

 

「……そうだな、ありがとう」

 

苦笑しながら伊角は答える。

言葉と裏腹にその表情は冴えなかったが、ヒカルはそれ以上何も言うことができなかった。

 

家に戻っても、ヒカルの頭には伊角の後姿が頭から離れなかった。

少しでも反則勝ちに縋ろうとした自分が許せなかった。

 

――ヒカル、今日の続きを打ちましょう。伊角の代わりに私が打ちます。そうして心に決着をつけてまた明日へと踏み出しましょう

 

心の整理がつかないヒカルに、佐為は碁盤を示す。

 

「自分を信じる強さが欲しい。棋力だけじゃなく自分を信じきれる力が。今日のような碁なんか二度と打たない」

 

決意を口にしながら、伊角との対局を並べていくヒカルを眺めながら、佐為は今日の白星はどんな勝利にも勝る白星だと思った。

 

 

 

 

 



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37

――伊角さん、フクにも負けてる……

 

対戦表に押された伊角の黒星をヒカルはじっと見つめる。

ヒカル、和谷、そして福井にも負け、伊角は3敗になった。

急な不調は、ヒカルと対戦したときの反則負けがまだ尾を引いているのだろう。

和谷も越智に負け、全勝は越智とヒカルの2人に減った。

 

負けてしまった和谷に声をかけるのはしのばれたが、越智に負けてしまった悔しさで盤上の前で頭を抱えている和谷に、

 

「和谷、伊角さんの電話番号教えて!」

 

「……伊角さん?電話番号なんか聞いてどうするんだよ?」

 

「お願いっ!このまま負けるなんて伊角さんらしくない!!」

 

勝った者が負けた者に情けをかけている風でもなく、本気で心配している様子のヒカルに、和谷も自分がついさっき越智に負けてしまったことも忘れ、苦笑をこぼす。

和谷も伊角の連敗は確かに気になっていた。

ヒカルと伊角の対局がどんなものだったのか知りたかったが、2人が頑として口を閉ざした為、伊角がこれほど塞ぎ込む理由は和谷には分からなかった。

しかも、いつもなら負けないような相手にさえ負けてしまい、院生の中で一番仲の良かった和谷と顔を合わせるどころか顔すら見ようとしない。

伊角の様子がおかしいのは誰の目にも明らかだった。

 

「お前……ほんとバカだな……。ちょっと待て」

 

負けた相手のことより、自分がプロ試験受かるかどうかを先に気にしろ、と言いかけつつ、重い腰を上げ、和谷はカバンを取りにいく。

 

――ヒカル?どうするのです?

 

――きっと伊角さん、これで立ち直れなかったら囲碁そのものをやめる気がする。でも、そんなの絶対嫌だ

 

対局場に戻ってきた和谷が、伊角の電話番号を書いているらしいメモをヒカルに差し出す。

 

「ほら」

 

差し出されたメモを受け取り

 

「さんきゅっ!!」

 

ヒカルは全力で棋院を後にした。

 

 

If God 37

 

 

伊角と和谷、そしてヒカルの3人でまわった碁会所のうちの一つに。ヒカルは嫌がる伊角を呼び出した。

家に電話をかけても、伊角が出ることはなく、電話に出た母親に伝言を頼んだ。

ずっと待っているから、という言葉を最後に添えて。

 

カランというドアの開く音がして、ヒカルはパッと入り口を振り向く。

そして待ち人の姿を見つけ、ほっとため息をついた。

 

「……伊角さん、よかった」

 

「何が良かっただ。親に伝言なんか頼むから、年下の子供を待たせるなって怒られた」

 

「だって……伊角さん、電話出てくれないから、仕方なくて……」

 

「それで俺に話って?」

 

突然強引に呼び出したヒカルに、伊角は向かいの席に座り、矢継ぎ早に用件を聞こうとする。

なぜこんなに己が不調になってしまったのか、対戦相手のヒカルは分かっているだろうに、その当人が伊角を呼び出す理由が分からなかった。

もっと言うなら、今一番、伊角が会いたくないのがヒカルだった。

 

「伊角さん、あのときの対局の続き打とう」

 

「え?……打ってどうするんだ?打ったところで今更どうなるわけでもないのに……」

 

「そんなことない!中途半端に終わったままだからずっと引き摺るんだよ!それを断ち切るために最後まで打ち切ろう!」

 

そう言うと、ヒカルは伊角の返事を待たず、碁笥のふたを取り、盤上に石を並べていく。

そして最後にヒカルが打った一手で、ピタリと手を止めた。

その盤上に並べられた石を、伊角は険しい眼差しで眺め、フイと顔を逸らす。

 

「逃げちゃだめだよ……伊角さん……」

 

この場に強引だが伊角を呼び出し、伊角が反則してしまった対局の棋譜を並べるまでは出来た。

けれど、これから先はヒカルには何も出来ない。

伊角が自ら盤上に向き合わなければどうしようもない。

 

ヒカルは何も言わず、ただ伊角が打つのをひたすら待ちつづけてどれくらい経っただろうか。

盤面を見ようともしなかった、伊角が黒石を挟み、盤面に打った。

顔は俯いており、長い前髪で目元が影になり、ヒカルからは伊角の表情は分からなかったが、とにかく伊角が打ってくれたことに、ヒカルは顔を輝かせ、続きを打つ。

 

すでに終盤に入りかけていた対局だったので、さほど時間をかけず終局になった。

 

フッと小さな笑みと共に、

 

「結局、負けてたか……」

 

終局まで辿りついた盤面を、伊角は膝にひじを立て、その上に顎を乗せながら眺める。

伊角が3目半足らず、ヒカルが勝った。

 

「そうだね」

 

「進藤、ヨセ上手くなったな。お陰でヨセでの逆転狙ってたのに出来なかった」

 

「実を言うと、こうして伊角さんと打つ前にも、この対局を別のヤツと並べたんだ……。だからヨセもその分上手く打てたんだと思う……ごめん……」

 

「別にそんなの黙ってれば分かんないのに。でも、そっか結局、俺は負けてたのか」

 

それまでずっと俯いていた伊角が顔を上げ、ヒカルをみやる。

 

「なんか最後まで打ててスッキリした。実を言ってプロ試験どころか碁を打つのも嫌になってたんだ。棋院に入るまえ、このままふけようかと何度も思った。でも……こうして進藤のお陰でもう一度向き合えた。お前の言うとおりだ。俺も進藤もこれからだ。プロ試験はまだ終わってない」

 

「うん!!」

 

■□■□

 

――憑き物が取れたような顔でしたね

 

――うん。伊角さん、もう大丈夫だよな。よかった、ほんと。

 

碁会所で別れるときも、いつもの笑顔で手を振っていた伊角の姿を思い出し、ヒカルは知らず表情が緩んでしまう。

ヒカルに反則負けし、それを伊角は引き摺っていたが、もう大丈夫だろう。

途中で終わってしまった対局を最後まで打ち切ったことで、見失っていた自分を取り戻し、次の対戦ではいつもの伊角に戻っているとヒカルは信じる。

しかし、

 

――ほんと、この雨さえ無ければ、最高だったんだけどな……

 

店の窓からみえる雨をヒカルは憎々しく見やる。

伊角と別れたまでは良かったが、電車を降りて家に帰ろうとしたとき、急に雨が降り出して、それから逃げるようにして、雨宿りにと近くにあったカフェにヒカルは逃げ込んだ。

ハンバーガーなどのファーストフードの店なら、ヒカルも馴染みがあるが、今いる店は、客層からして少し大人向けのお洒落なカフェだ。

こういう類の店にあまり来たことのないヒカルは、どうにも居心地が悪く落ち着かない。

 

雨宿りのために駆け込んだとはいえ、何も頼まず、ただ店に居させてもらうわけにもいかないので、店で一番安いソフトドリンクと、小さなお菓子を頼んだが、それでも中学生のお小遣いには痛い。

プロ試験はまだまだ続くのだから、少しでも早く家に帰って、碁の勉強をしたいのに、とヒカルが愚痴をこぼしたところで、雨が止む気配は全くなかった。

 

――通り雨だと思うので、そんなに長く降り続けないとは思いますが……

 

――しょうがない、雨止むまでマグネット碁でもしてるか

 

カバンからヒカルがマグネット碁を取り出すと、雨のことなどどこかへ吹き飛んだかのように佐為が小躍りして喜びだす。

雨が止むまでの暇つぶしで始めた対局ではあったが、はやりそこは勝負事。

手加減されていると分かっていても、勝つことが出来ない佐為に、ヒカルの眼差しは次第に難しくなっていく。

打ちながら、『むぅ……』と何度もヒカルが独り言を呟き、けれど最後には

 

「あー!負けだ!」

 

ヒカルが投了を宣言した。

もちろん本気を出した佐為と戦えるのは、ヒカルより遥かに強い高段者か行洋くらいのもので、ヒカルだとコテンパンにやられてしまうのも目に見えている。

佐為がヒカルの棋力に合わせ、ある程度手心を加えた指導碁だ。

それでも負けてしまい、なおかつ佐為に手加減されて負けるということが一番ヒカルの癪に障る。

口をへの字にまげて、そこでようやくヒカルは顔を上げ、外の雨が小降りになってきていることに気付く。

これくらいなら走って帰れないこともないだろうと思い、出していたマグネット碁をバッグにしまおうとして

 

「4の4、星」

 

不意に碁盤の位置を示す声がしてヒカルは聞き間違いかと周囲をきょろきょろ見回した。

 

「4の4、星」

 

もう一度、同じ声が聞こえ、ヒカルはそれが聞き間違いでないことが分かると、その声の主が誰なのかを探した。

隣後ろにヒカルを見ている者はいない。

となればヒカルの向かい席になるのだが、テーブルは目の前が擦りガラスで仕切ってあり、向かい席の人物が見えないようになりつつも、その擦りガラスの下10センチ弱が空いていた。

擦りガラスで輪郭はぼやけてはいるが、スーツを着たサラリーマンのように見える。

視線だけ佐為の方を見やり、ヒカルが問いかける。

 

――これって、前の人?

 

――みたいですね

 

テーブル席で前を仕切っていても、その仕切られたテーブルの縦幅は狭い。

もしかしたらヒカルがマグネット碁をしているのが、擦りガラスが浮いた隙間から向かいの席の相手にも見えていたのだろうか、と思いながら、ヒカルは言われた通り、ヒカル側から見て『4の4、星』の位置に黒を置く。

そしてその碁盤を、確認するように擦りガラスの下から相手の方に押しやると、擦りガラスに透けた相手が、一度コクリと頷いた。

向かいの席に座っている相手が打とうと誘っているのだ。

 

――ヒカル!打ちましょうよ!

 

――いいけど、お前打てよ。俺パス

 

――いいんですか?

 

擦りガラス越しに対局するなど、いつもなら面白がって打ちたがるだろうに、自ら佐為に打たせようとするヒカルに、佐為は首を傾げる。

 

――とりあえずはまぁ、俺はプロ試験の対局に伊角さんとも今日打ってるし、それでさっきはお前に負けたし……休憩してる……。長考はなしだからな

 

『負けた』の部分でヒカルの声が若干小さくなりながらも、ヒカルは既に観戦者を決め込んだらしく、氷が溶けてだいぶ薄まってしまったソフトドリンクをストローでちゅるちゅる吸って飲む。

伊角と対局する前まで、本当に来てくれるかずっと不安で気持ちを張り詰めていたので、ヒカルも少し疲れたのかもしれない。

そう思いながらも、突然回ってきた対局に佐為は碁盤に目を輝かせて見やる。

相手の棋力は不明だったが、対局そのものが佐為にとっては何より嬉しい。

 

――では、16の17、小目

 



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38 芹澤VS佐為

相手の家に出向いて行う指導碁の帰り、突然の雨に降られ、芹澤は近くにあったカフェに雨宿りがてら駆け込んだ。

家を出る前に、雨が降り出しそうだからタクシーを呼んだほうがいいという相手の好意を、棋院に一度戻るにしても急いでもいないし駅につけば大丈夫だから、と断ったのが裏目にでてしまった。

若い客層をターゲットにした店内は、シンプルな内装で、白を基調とした家具で統一されている。

グレイのスーツに滴る雨を、内ポケットからハンカチを取り出し、軽く払う。

カウンターでアイスコーヒーとサンドウィッチを頼み会計を済ませたあと、空いてる席は、と軽く店内を見渡せば、芹澤と同じように雨宿りでカフェに立ち寄ったらしい人影が数名見えた。

 

その中に、このカフェには少しばかり背伸びして入ってしまったような1人の子供の姿を見つけ、その子供の手許に碁盤が広げられていることに芹澤は気付いた。

こんなカフェに碁盤が用意されているわけがないから、子供が持参している携帯用碁盤だろうかと思いながら、やはり職業病のように碁盤に吸い寄せられるようにして、子供の前の席に腰を下ろす。

テーブルの前には擦りガラスの仕切りがあり、子供の姿はぼけてしまいハッキリ捉えることは出来なかったが、ガラスの下の部分が空いており、顔を少し下に屈めるとその隙間から碁盤だけは覗くことが出来る。

 

偶然入ったカフェで、向かいに座る子供の碁盤を眺めてからしばらくして、芹澤は奇妙なことに気付いた。

 

――これは棋譜並べではないな。誰かと対局しているのか?

 

はじめは1人で誰かの棋譜でも並べているのかと思っていたが、途中途中の変な部分で手が止まったり、なにやらブツブツ独り言を言っているような声までする。

ありえないことだが、1人碁を打っているような。

もっと厳密に言えば、片方は院生クラスの実力と、もう片方はプロ並の実力者が指導碁を打っていて、それを1人2役で演じているような印象を芹澤は打たれる碁盤から受けた。

 

隣で誰かに打つ場所を指示してもらっているかと探れば、子供の両隣は空いており、そんな人物は見当たらない。

携帯電話で打っている場所を誰かに指示された様子もなく、1人で打っている。

自分で自分に指導碁を打つなど不可能だと思いながら、芹澤は雨宿りでカフェに立ち寄ったことを忘れ、じっと向かいの碁盤を眺める。

 

院生クラスの実力で打っている方も、世間一般からすれば十分強く、アマ高段の棋力だろう。

しかし、もう片方のプロ並の実力の方は、指導碁を打っていることからしてその実力を抑えている。

 

――指導碁をしている方は相当強いな

 

院生クラスの実力者相手に指導碁を打つというだけでも、その棋力が伺い知れるというものだが、隠し切れない実力が指導碁の中に見え隠れしていた。

 

1人で2人分を別々に打つなんてことが本当に出来るのかと、芹澤は怪訝に思いつつ観戦していると、

 

「あー!負けだ!」

 

今度こそハッキリ子供の声が擦りガラス越しに芹澤に聞こえた。

負け、というからには誰かと対戦していることを意味するのだが、相手もいないで1人碁を打って勝敗などつくのだろうかと疑問に思える。

マグネットの碁石を片付け始めた子供に、芹澤はつい無意識に

 

「4の4、星」

 

と口走っていた。

擦りガラスの向こうで、子供がキョロキョロと回りを見渡しているのが分かる。

誰が碁盤の位置を言ったのか探しているのだろうが、それもそうだろう。

急に見知らぬ相手、それも擦りガラスの向こうの相手が、碁石の置き位置を示してくるなどありえない。

 

「4の4、星」

 

もう一度芹澤が言うと、ようやく子供は擦りガラス向こうの芹澤が言っているのだと気づいた様子で、恐る恐る芹澤が言った位置に黒石を置き、擦りガラスの隙間から碁盤を差し出してきた。

本当を言うと、芹澤は位置を適当に口にしただけなので、どちら側から盤面をみた『4の4、星』なのかまで考えていなかったのだが、子供は自分自身から見た4の4に黒石を置いていた。

特にどの位置でも芹澤には不都合は無かったので、合っているという合図代わりに頷くと碁盤は引き戻され、そして白石が打たれ、また隙間を通して芹澤に差し出される。

 

もう一度、芹澤は置く場所を口にしようとしたが、いちいち相手の方向から見た位置に考え直し伝えるのは面倒だったので、少し碁盤を押し戻してから、相手によく見えるように人差し指で示し、石を置きたい場所を子供に伝えた。

すると、芹澤が指差したその位置に黒石が打たれ、子供も白石を次の場所に打った。

 

――こっちで打ってきたか

 

相手は1人なのだからこっちもそっちもないのだが、高段者、それもプロ程の実力者ともなれば、お互い10手も打てばその棋力は大体把握出来る。

先ほど子供は院生クラスの実力と、プロ以上の実力の双方で打っていたから、そのどちらで芹澤に挑んでくるかと注意深く見ていたのだが、芹澤の打ち込みにも動じることなく打ち返してきた。

院生程度の実力なら芹澤が本気になることもないが、プロ以上の実力で打ってくるのなら、相手の実力がどれほどなのか分からない以上、気を引き締めて打ってかからねばならない。

 

だたの通り雨に降られて雨宿りで入ったカフェだった。

その店内に碁盤を広げている子供を見かけ、何気ない気持ちで向かいの席に座っただけだった。

そして1人碁らしきものを打っている子供を珍しく思い、軽い気持ちで対局を持ちかけただけった。

それなのに、

 

――私が見ず知らずの子供に圧されている……

 

雨の湿気だけではない、ジワリとした嫌な肌の湿りを芹澤は覚える。

1人碁という奇妙な打ち方を眺めながら、指導碁をしている方は相当の実力だろうと思っていたが、それは芹澤の想像を遥かに超えていた。

同じプロ棋士と相対しているわけでも、ましてタイトルへ続く公式手合いを打っているわけでもないのに、子供から受ける気迫とプレッシャーに引き摺られるようにして、いつの間にか本気で打っていた。

そしてトップ棋士の1人である芹澤が本気で打ってしてなお、子供の実力はそれより勝っていた。

 

じわじわと広がっていく地合い。

どうにも後手に回ってしまう己の一手に、芹澤はテーブルの上に置いていた手で、思わず口を押さえてしまった。

 

――ダメだ……勝てない……

 

そう思ったとき

 

「お客様。大変申し訳ありませんが、店内でのテーブルゲームはご遠慮いただけないでしょうか?」

 

擦りガラスの向こうから、子供に店の店員が遠慮がちに注意する声が耳に届く。

 

「ご!ごめんなさい!!」

 

店員に注意された子供が、石を外すことなく慌ててそのまま折りたたんでバッグに詰め込んでしまう光景が、擦りガラスの空いた隙間から芹澤に見えた。

盤上に集中していたことで反応が遅れてしまい、あ、と芹澤が思った頃には、子供は席を飛び降り、外へ店を走り出てしまった。

 

「君!なんてことを!」

 

席を立ってテーブルを回り、子供を注意したらしい店員に自己中心的な言葉を浴びせ、芹澤も子供を追って急ぎ雨のまだ降る外へ出た。

左右を見渡し、傘を差し行きかう人の中から、傘を差さず走り行く子供の後ろ姿を見つけ

 

「待って!君!」

 

芹澤は公衆の目を気にすることなく叫ぶが、子供は立ち止まることなく、後姿は小さくなり曲がり角をまがったところで完全にその姿は消えてしまった。

こんなことになるとは全く思っていなかったから、芹澤は子供の顔をよく見ずに擦りガラス向こうの席に座ってしまったことがとても悔やまれた。

 

背格好から推察しても高校生はいっていない、中学生、もしかするとまだ小学生の可能性もある。

そんな子供がトップ棋士である芹澤を上回る棋力を持ち、現実に存在している。

同じプロ棋士だが、中学生ながらメキメキと頭角を現しているアキラの存在を芹澤は知っていたが、そんなアキラですらカフェで打った子供の前では霞んで見えるようだと思った。

 

それからどうやって芹澤は棋院に戻ったのか覚えておらず、覚えていたのは夢か幻だったのでは、と思える一局だった。

 

■□■□

 

水溜りの水が跳ね靴が濡れてしまうのも構うことなく、ヒカルは全速力でカフェから走り去る。

もちろん雨もまだ降っていたので、顔や体にも雨が降り落ちる。

 

―― なんでお前が打つ通りすがりの相手は、いつもいつもこんなに強いんだよっ!?

 

――私にそんなこと私に言われてもっ

 

――お前が打とうって言い出したんだろ!

 

――ヒカルが打たないでパスっていうから私が打ったんじゃないですか!

 

――顔見えなかったけど、あれって絶対プロだ!プロの誰かに間違いないって!

 

――バレたでしょうか?

 

――前は擦りガラスだったから、手もとしか見えてないと思うけど、どちらにしろヤバイことには変わりねえ!!

 

ヒカルの心の叫びは佐為にしか届かない。

 

 

■□■□

 

 

おぼつかない足取りで棋院に戻ってきた芹澤に、ちょうど棋院を出るところだった緒方が気付き

 

「どうしました?芹澤先生、そんな顔を顰めて何かって、濡れてるじゃないですか!?」

 

険しい表情で塞ぎ込んだままの芹澤の異変に、緒方が声を上げる。

さきほど通り雨が降ったことは緒方も気付いていたので、はじめ芹澤もその雨に降られたのだろうと思ったのだが、ただ雨に降られただけではない様子に、どうかしたのかと心配すると

 

「いや、大丈夫。軽く降られただけだから……」

 

「しかし、顔色が真っ青ですよ?本当に大丈夫ですか?君、事務員室から何か飲み物を」

 

近くにあった来客用の椅子に芹澤を座らせ、常にない様子の芹澤をとにかく落ち着かせようと、緒方は近くを通った事務員に飲む物を頼む。

普段から落ち着き滅多に取り乱すことのない芹澤が、緒方が傍にいるにも関わらず、気が動転しているようで、両手で口を押さえ、じっと考え込んでいる。

 

「もしかしたら、いや……しかし……、あれは……本当にあの子、なのか?」

 

「芹澤先生?」

 

緒方に言ったのではななく、自問自答に近い呟きだったが、緒方が芹澤の顔を横から覗き込む。

 

「私は……私は、saiと打ったのかもしれない……ネット碁ではなく、対面して……」

 

インターネット碁にしか現われず、アマらしいのにプロ以上に強く、誰にも負けたことのないsai。

そしてトップ棋士の芹澤を圧倒した、見ず知らずの子供。

 

擦りガラスの向こうにいた子供はプロでも院生でもない。

芹澤と同じプロであれば、その実力で話題になっているだろうし、院生であれば、とっくに騒がれ取りざたされているだろう。

稀代の碁の才能を持つ子供として。

 

アマで、院生でもプロでもなく、その正体は一切知れないsai。

そのsaiに似た圧倒的な強さを見せた子供。

 

芹澤の呟きに、緒方は全ての体の動きが静止した。

 



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39

自宅マンションのフローリングに置かれた碁盤と、その盤上に並べられた石を、緒方はフローリングソファーに深く腰をかけながら、視線を外すことなくじっと見つめる。

芹澤がカフェで見知らぬ子供と打ったという一局。

 

――間違いない。これは、saiだ

 

強いことはもちろんだが、芹澤のヨミを全て見越した上で、それをさらに超える打ちまわし、深いヨミは、saiそのものだと緒方は思った。

この対局が雨宿りで立ち寄ったカフェで安いマグネット碁で打ったというのだから、対局内容に反する不釣合いさに呆れるしかできない。

しかし、そんな場所だったからこそ芹澤も、そして相手の子供も、変な警戒心を持つことなく対局したのかもしれない。

お互いがまさか相手がこれほど強いとは、露ほども考えていなかったのだ。

相手の子供が、芹澤が投了する直前に碁を打っていることを店員に注意され、逃げるように店から出て行ったのはその所為だろう。

打ち負かしたまではいいが、対局後、芹澤に捕まり騒ぎ立てられるのを恐れて逃げた。

 

『私は……私は、saiと打ったのかもしれない……ネット碁ではなく、対面して……』

 

子供に負けたというショックで、気が動転しながらもそう呟いた芹澤。

たった一度打っただけで、その負けた相手をsaiと言い当てた芹澤の感の鋭さには、さすがの緒方も感服するしかない。

惜しむらくは、対面した相手が擦りガラスで輪郭がぼやけてしまい、顔がハッキリ見えなかったことと、店に入ったとき芹澤がその相手を注意深く見ず、軽く見流してしまったことだった。

 

saiと打ったという芹澤に、緒方はその相手についてすぐにどんな相手だったのか尋ねた。

 

『これだと断言できるほど相手の顔はよく覚えていない。それに声だって、1、2回短い言葉を聞いただけだ。子供の声だし、どれも同じに聞こえるだろう』

 

しかし、芹澤は青白い顔で首を横に振り、前が擦りガラスで仕切られてて、はっきりとは分からないと答えるばかりだった。

それでも、逃げる子供を追いかけ、店を出たとき、走り去る後ろ姿から大体の背格好は見て取れたという。

中学生ぐらいの身長、細身の体格、そして性別は男。

これまで緒方はずっとsaiは打ち筋から大人だと考えていたが、芹澤の証言で確実に子供だということが判明した。

その条件を満たしている人物が思い浮かび、

 

「進藤がsaiなのか?」

 

そう呟いてすぐ、間を置かず顔を数回横に振って、緒方はバカらしいと思考を打ち消す。

ヒカルはsaiではない。

若獅子戦の時、緒方が観戦した対局はsaiのそれではなかった。

悪手を見事に化けさせた一手は認める。

しかし、碁そのものは練達されたsaiには遠く及ばない。

例え打ち筋や棋風がsaiに似ているとしても。

芹澤も言っていたが、もしsaiが院生なら、その突出した実力でもっと前から騒がれている。

 

けれど、同時に芹澤が言っていた奇妙な打ち方が緒方の頭を過ぎった。

 

『片方が院生ぐらい、もう片方がトップ棋士並みの実力で、それぞれを1人二役で打ち分けているような碁を1人で打っていたんだ』

 

囲碁は2人で打つゲームである。

それを1人二役で打つことは不可能なのに、その子供は1人碁らしきものを打っていたから、そもそも芹澤は興味を持ったのだという。

でなければ、トップ棋士の芹澤が見ず知らずの子供と自ら対局しようとは初めから考えない。

 

片方の実力が院生クラスなら、若獅子戦で見たヒカルが当てはまる。

多くの棋士がその正体を求め、対局望まれるsaiに、最も近くにいるだろうヒカル。

しかしもう片方の棋力、芹澤を打ち負かしたsaiがヒカルかというと、判断つかなくなってしまう。

 

ヒカルが本当の実力を隠しsaiなのだと仮定すれば、アキラが碁会所で2度も負けてしまったということの説明が簡単についてしまうからだ。

 

「二面性の棋力……」

 

saiが垣間見せた、発展途上の棋力と、最強の棋力。

芹澤が相手の子供をハッキリ覚えていない以上、ヒカルを合わせたところで、無駄骨に終わるかもしれないし、芹澤の記憶がまだ新しいうちにと思っても、プロ試験中は大人しくするように行洋に釘を刺されてしまっている。

もし本当にヒカルが今回の一件に関係ないのだとすれば、プロ試験中に緒方と芹澤がなんの根拠も無く騒いで試験に集中できなかったなんてことになってしまい、それが行洋の耳に入りでもすれば、弁解の余地がない。

 

何より、何故saiのことを話してヒカルに引き合わせようとしたのか、逆に緒方が芹澤から疑われることになりかねない。

先日、ネット碁でsaiと対局して以来、saiの情報がないかと緒方を詮索する者は後を絶たないのだから。

 

芹澤にはsaiと対局したことを、騒ぎになるといけないから出来るだけ他言しないようにと口止めしてみたがどうだろうか。

これまでネットの中の存在だけしかなかったsaiに、芹澤もそれまで以上に興味を持ったことだろう。

もしプロ試験にヒカルが受かれば、芹澤がヒカルの存在に気付くのは時間の問題である。

そのとき、芹澤がヒカルを見てどんな反応をするのか。

カフェで打った子供にヒカルが似ているというのか、それとも全く見覚えがないと見向きもしないのか。

 

酷く嫌な胸騒ぎがした。

 

「そんなはずがない……進藤がsaiであるはずが……」

 

ない、と続けようとして、緒方は断言できなかった。

 

□■□■

 

 

「負けました」

 

第26戦の和谷との対戦で、ヒカルは完全に和谷の上を行き白星を掴んだ。

前回の第25戦を勝つことで、ヒカルはプロ試験の対局を2つ残し、プロ試験合格が決定していた。

 

――勝った……

 

体からどっと力が抜けて、ヒカルは正座をするその場に両手をついて、終局した盤面を見やった。

プロ試験に合格し、気が抜けてしまいそうになるのを踏ん張り、最後まで自分を見失わず打てたと思う。

合格が決まったからといって、手を抜いて戦うのは和谷に対して失礼だと心構えを入れ替え、向かってくる和谷にヒカルは正面から相対し全力で打った。

 

「……sai」

 

――はいっ!?

 

俯いた和谷の呟きに、ヒカルの隣に座っていた佐為が思わず声を上げる。

 

「saiって、ネット碁の強いヤツの話をしたよな。お前との初対局したとき」

 

――なんだ……私を呼んだのかと本気で思ってしまいました……あ―ビックリした

 

和谷の言葉が佐為が見えて名前を呼んだわけではないのだと分かり、佐為は胸を撫で下ろし、佐為と同じように驚いたヒカルも、ほっと息を吐く。

 

「あのとき、俺いつかお前はsaiのように強くなるかもって言ったよな?」

 

「うん、覚えてる」

 

「今日の一局はsai並みだったぜ」

 

「うん、ありがとう」

 

俯いた和谷の表情はヒカルからは分からなかったが、それが和谷からの精一杯の激励だということだけは伝わってきた。

盤上の碁石を片付け終え、ヒカルが対戦表にハンコを押すべく席を立つ。

そして最終戦の相手の試合結果を確認し、越智もまたヒカルと同じく残り一戦を残し一敗のままプロ試験の合格が決まったのだと分かる。

 

――越智も勝ってる……

 

――プロ試験合格した者同士の対局ですね

 

お互いプロ試験合格が決った者同士の対局。

越智の性格を考えて、プロ試験合格したからヒカルはどうでもいいと考える性質ではない。

ヒカルの全勝合格を阻止するべく全力で打ってくるだろう。

 

休憩室にカバンを取りにヒカルが戻ると、そこには帰り支度を済ませた越智が立っており、ヒカルは祝いの言葉をかける。

これで合格枠は残り1つとなった。

 

「合格おめでとう」

 

「ありがとう。その様子だと進藤も和谷に勝ったんだね」

 

「あ、うん」

 

「でも次の対局は僕だ。負けないよ。全勝合格なんて、絶対にさせない」

 

素っ気無い口調でも、次の対局への静かな越智の宣戦布告にヒカルは負けまいとして言い返そうとするが、

 

「僕は毎晩のように塔矢と打ってきた。君を倒すために」

 

「え?塔矢?」

 

越智の口から思わぬ名前が出てきて、ヒカルは宣戦布告を言い返すのも忘れてアキラの名前を反芻する。

越智がアキラにどんな関係があるのか、ヒカルは嫌が応にも気になってしまう。

アキラの名前を出したとたんに平静を乱したヒカルに、越智がヒカルを見下し嘲笑したように言う。

 

「毎日のように打ったよ、塔矢は仕事と枠を超えて、僕を熱心に鍛えてくれた」

 

「俺を倒すために塔矢と打ってきた?」

 

「プロをうちに呼んでおけいこをつけてもらっているんだ」

 

「……アイツ……塔矢、俺のこと何か言ってた?」

 

ヒカルが思い出すのは中学囲碁大会で、ヒカルを見下したような眼差しを向けるアキラの顔だった。

あれから会話一つどころか顔をあわせることすらない。

そんなアキラが、自分のことをどう思っているのかヒカルは恐る恐る尋ねるが、越智はそんなヒカルを嘲るように、

 

「何で塔矢が君なんかのことを言うのさ。うぬぼれるな。だいたい塔矢は4月から今日まで全勝!プロでだぞ!そんなアイツがお前なんか気にかけるもんか」

 

「別にうぬぼれてなんか……」

 

「でも塔矢は僕を評価してくれたよ。このプロ試験、君に勝てば塔矢は僕のことをライバルとして認めるって言うんだ」

 

「俺に勝てば?俺に?」

 

越智の言葉に、ヒカルは目を見開く。

さきほどまで越智はヒカルのことなどアキラは眼中にないと言っていたが、越智をライバルと認める条件にヒカルに勝つことを上げているのだという。

毎日のように鍛えに行っている相手に、眼中に無い相手を出すような真似をアキラはするだろうか、とヒカルは越智の言葉に疑いを持つ。

 

「っ!?いや!違うそれはただ!!と、とにかく最終戦で君にか勝てば、塔矢は僕を認めるんだ!」

 

己の失言に気付いた越智が、慌てて取り繕おうとするも、ヒカルは越智の嘘に気付いたようにキッと越智を睨みつける。

 

「じゃあ、お前に勝てば、塔矢は俺をライバルとして認めるんだな!」

 

塔矢がヒカルのことを気にかけているのを気付かれてしまったと、越智は自分のミスを悔やんだがもう遅い。

初めて家にアキラを指導碁で招いたときから、アキラは指導相手の越智ではなくヒカルのことばかり気にしていた。

プロ試験前にヒカルと打ったが、越智にはアキラがそこまでヒカルを気にする理由が分からなかった。

それよりも、プロ試験に合格すれば同じプロとして戦うことになるだろう自分を眼中にでもないかのように見ているアキラの態度が、越智のプライドに障った。

 

碁会所での韓国の研究生との対局。

アキラがヒカルに負けたという2年前の対局。

 

それがどうしたのだと越智は思う。

自分はヒカルより勝っているはずである。

 

「ッ―!僕はっ、僕は進藤になんか負けない!」

 

「俺だって!絶対勝ってみせる!」

 

越智に負けずヒカルも言い返す。

しかし、言い返した直後、ヒカルの頭をガシリと捕まえた大きな手があった。

 

「そうか。プロ試験合格が決まっても最後まで気を抜かないで対局しようとする心構えは誉めてやる。だが、まだ試験場では合格をかけて対局しているやつがいるのに大声を出すのは迷惑だぞ?」

 

「へ?」

 

突然、頭の上から聞きたくない声が聞こえ、ヒカルは素っ頓狂な声を上げてしまった。

ヒカルを逃がすまいとしっかり掴んだ手のひらは大きく、手の主が大人だということは見なくても分かる。

そして見知った声にそれが誰か予測がついても、絶望的希望からヒカルはその相手に振り向き認識したくなかった。

チラリと視界に入った佐為は、目も当てられないとばかりに顔を袖で覆っている。

けれど、ヒカルの考えなど見越したように、硬直してしまったヒカルの首をぐいっと回し、

 

「合格おめでとう、進藤」

 

上から目線で緒方はニコリとヒカルに合格を祝う。

 

「緒方先生!?なんでこんなところに!?」

 

アキラがプロ試験を受けた去年なら分かるが、緒方というタイトルを争うトップ棋士が、気に留めるはずのないプロ試験会場に現われ越智は唖然とする。

 

「プロ試験終わるまで見守るように塔矢先生から言われてたんじゃ……緒方先生……」

 

それまで越智と言い争っていた勢いはあっという間に消えうせ、蛇に睨まれたカエルのごとく、ヒカルは緒方の視線を逸らすことも出来ず、だらだらと汗をたらす。

顔こそ笑みを貼り付けているが、緒方の声は全く笑っていない。

緒方はsaiの正体にほとんど気付いており、そして前回問いただされたときに、行洋の影に隠れてヒカルは緒方にあっかんべーというイタズラまでしている。

眼の前の緒方の笑顔は、間違いなく『イタズラ』を根に持っている。

ヒカルは周囲に誰か大人がいないか探すが、越智以外には同じく対局を終えた和谷が口をポカンと開いて見ている以外に、大人は誰も近くにいなかった。

 

「俺もそう思っていたんだが、合格が決まった進藤に一秒でも早くおめでとうと言ってやりたくてな。プロ試験一発合格とは院生試験に推薦した俺も鼻が高いぞ。25戦目で決まってたんなら俺に連絡の一つもくれていいだろうに?」

 

「そんな緒方先生ともあろう人が勿体無い……」

 

ハハハ、と乾いた笑みを浮かべるヒカルの首根っこを緒方は捕まえ、それまで浮かべていた笑顔が一瞬で消え去る。

 

「飯でも奢ってやる。来い、進藤っ!」

 

「うわわぁっ!ちょっと待って!誰かっ!助けて!!」

 

首根っこを掴まれ、引き摺られていくヒカルの姿を、越智と和谷は呆然と眺めるだけだった。

 

 

 



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40

「放してっ!放してってば!!」

 

「暴れるな進藤!俺が変質者に見られるだろうが!」

 

暴れるヒカルを車の助手席に放り込み、バタンと扉を閉め緒方自身も運転席に回る。

運転席側から助手席柄の扉が開けられないようロックし、緒方はようやく一息入れ警戒心むき出しで己を睨むヒカルをチラリと見やった。

 

「何だ、その目は?」

 

「別にっ、ていうか何だよ?俺をどこ連れてく気?何も喋らないからな!」

 

ムッと言い返しながら、ヒカルはロックされ開かないドアをガチャガチャ開こうと無駄な努力を続ける。

 

「ドアが壊れるから止めろ。さっきも言っただろうが。合格祝いに緒方9段がプロ試験合格したお前にメシを奢ってやると言ってるんだ」

 

「そんなこと言って、どうせsaiの正体探ってるだけなんだろ?そんな見え透いた罠に俺は引っかからないぜ!」

 

「saiの正体は諦めん。だが、お前のプロ試験一発合格を祝わないこともない。俺が推薦してやったのに、プロになるどころか院生試験にさえ落ちていたら、俺の面目丸潰れだったんだ。メシぐらい奢ってやる」

 

目的を隠すどころか『saiの正体を諦めない』と臆面無く断言し、合格祝いに飯を奢るという緒方に、ヒカルは戸惑い判別つきかねて佐為の方を見やる。

確かにヒカルは緒方の推薦があったからこそ院生になることができ、そしてプロ試験に合格できたとも言える。

プロが推薦しておきながら、プロになれなかったとしたら、緒方の言うとおり面目は潰れていただろう。

 

――推薦していただいたご恩もありますし、お食事を頂くくらいよいのでは?

 

佐為の言葉にヒカルはそれまでの全面拒否から少しだけ譲歩し、

 

「飯奢る代わりにsaiの正体教えろとか言っても何も知らないよ?」

 

「そんなセコイ真似を俺がするか。何食いたいんだ?寿司か?食べたいもの好きに言え」

 

抵抗し暴れるのをやめ、少しは聞く耳を持ったらしいヒカルに、緒方は車のエンジンを入れ、ブレーキを踏みながらサイドブレーキを下ろす。

そのまま車を運転し棋院の駐車場を出ようとして

 

「ラーメン!」

 

「却下!」

 

ヒカルのリクエストに、緒方は間髪入れず却下しながら、こめかみに微かな頭痛を覚えた。

仮にも9段の棋士に奢ってもらえる食事に、その選択はないだろう。

 

 

If God 40

 

 

結局、押し問答の末にたどり着いたのは、合格したヒカルのリクエストが通りラーメン店だった。

ヒカルは希望が通り嬉しそうに空いている席に座り、緒方を待たずメニュー表を広げている。

そして仏頂面の緒方が席に着くと、『何でも頼んでいいんだよね?』と確認を取り、店で一番高いラーメンを頼む。

緒方も一言『ラーメン』と注文を取りに来た店員頼み、先ほど棋院でヒカルが越智と言い争っていた理由を尋ねる。

2人の会話を緒方がはじめから聞いていたわけではなく、言い争っていた相手を緒方は知らないが、ヒカルはすでに試験合格が決定し、前哨戦をする必要が見当たらない。

単に気が合わない同士で仲が悪いのなら話は違うが。

運ばれてきたラーメンを食べながら、

 

「なんでそんなに鼻息荒く意気込む必要がある?もう合格したんだろう?」

 

「合格云々の問題じゃない。アイツの、越智の後ろには塔矢がいる。越智を通して塔矢が俺を見てるんだ!」

 

「塔矢?アキラ君のことか?」

 

口では何と言おうとも、ヒカルとアキラが互いにライバル視していることは緒方も知っている。

しかし、なぜ今年のプロ試験にアキラの名前が出てくるのか分からず、緒方の箸が止まった。

 

「越智のやつ、塔矢から毎日のように鍛えてもらってたらしいんだ。それで、俺に勝ったら塔矢が自分のことをライバルとして見てくれるって。それって塔矢も俺のことを見てるんだ!」

 

「アキラ君が見ているねぇ……」

 

「それに全勝で合格するって約束してるし」

 

「約束?誰と?」

 

「教えないー」

 

ふふふんっ、とプイと顔を斜めにしながら、ヒカルの顔は嬉々としている。

緒方が子供と触れ合う機会は、それこそヒカルと初めて出会った子供囲碁大会などに限られるが、そこに出場している小学生の子供でも、ここまでガキっぽくはないだろう。

ヒカルのする仕草一つ一つがガキ臭い。

プロ試験に受かった今でも、一見するとヒカルは囲碁とは無縁に見えてしまう。

 

そしてこの姿を見てヒカルがsaiだとは誰も想像できないだろう。

saiのあの見事な打ちまわしは、とても子供が打てるものではない。

 

――まだ進藤がsaiと決まったわけじゃない……

 

得意げに鼻を鳴らしているヒカルに、緒方は箸を置いて、利き手を伸ばす。

 

「進藤」

 

「ん?イデッ!?何!?何すんの!」

 

名前を呼ばれ、緒方に振り向いた瞬間、おでこに鋭い痛みが走り、ヒカルは両手で額を押さえた。

振り向き様、痛みと同時にバチッと音まで聞こえる。

そして先ほどの痛みが、宙に浮いた緒方の手の形から、デコピンされたのだと分かり、むぅ、と睨みつけた。

しかし、ヒカルの睨みを全く気にした素振りもなく、緒方はスープが飛んで汚れないよう隣に置いていた白のスーツジャケットを抱え、

 

「この前のイタズラの仕返しだ。拳骨じゃなかっただけありがたく思え。ほら、さっさと食え。行くぞ」

 

まだ食べかけのヒカルを置いて、伝票を持ち、席を立つ。

急に席を立った緒方に、ヒカルは緒方の言いたい意味が分からず、

 

「えっ?行くぞってどこに?帰るの?」

 

「違う。一局打ってやる」

 

「へ?誰が?」

 

「俺がお前にだ。他に誰がいる?俺の気が変わらんうちに食ってしまえ」

 

「ちょっ、ちょっと待ってってば!!」

 

会計を済ませ、置いてけぼり食らいそうな勢いに、ヒカルは慌てて残りのラーメンを胃の中に流し込む。

駐車場にヒカルが走って出てくると、すでに緒方は運転席でタバコを吹かしており、ヒカルも今度は自ら車の助手席に乗り込んだ。

シートベルトをしながら置いていくなと文句を垂れるヒカルを無視し、緒方は車を発進させる。

さほど時間をかけることなくついた先は駐車場付きの碁会所で、緒方は受付を済ませてしまうと、さっさと奥に入ってしまう。

 

「……緒方先生、何考えてるの?」

 

向かいの席に座り、膝の上にひじを立て顎を乗せたまま、無表情でじっと碁盤を見ている緒方に、ヒカルは眉間に皺を寄せる。

9段のプロと打つ機会はそうあるものではないし、ネット碁では佐為と緒方が対局するのをずっと観戦しているだけだったヒカルも、実際に自分が緒方と打てるのは嬉しい。

だが、急にヒカルを食事に連れて行ったり、碁を打ってやると碁会所に行くというのは、何か度が過ぎている気がした。

 

「俺と打つのは嫌か?」

 

「そんなこと無いけど、突然だし、ここ来る途中もずっと無言だったし、様子はもっとおかしい。なんか変。うさんくさい。怪し過ぎる」

 

疑いの眼差しを向けてくるヒカルに、緒方は何か言い返そうとしたが、緒方の存在に気付いた客達が周囲に集まりはじめ、無言のまま口を閉ざした。

 

「俺が握ろう」

 

碁笥から白石を取り、適当に握って盤面に置く。

ヒカルが出した石の数は1個。

当たっている。

 

「俺が先番だね。お願いします」

 

「ああ」

 

挨拶を言うヒカルに、緒方は小さく頭を下げた。

 

若獅子戦で緒方が観戦したときより、ヒカルがずいぶん強くなっていると緒方は感じた。

あれから数ヶ月経ってるとはいえ、若獅子戦の時とは比にならない程、実力をつけている。

これだけ打てればプロ試験に全勝合格を目標にするのも納得できる。

しかし、たった数ヶ月でこれほど強くなれるものなのかという疑問も沸いて来る。

それとも、元々あった実力を少しずつ表に出してきているのだろうか。

 

ゆっくり時間をかけ打ちながら、緒方はヒカルの打つ石の流れを追っていく。

 

――今の打ち方なんか、ほんとsaiそっくりだな

 

余裕を見せながら打つ緒方とは違い、真剣な眼差しでヒカルは碁盤を見つめている。

もし本当にヒカルがsaiで、実力を抑え、一生懸命打っているフリをしているのだとしたら、相当な役者だろう。

 

「何?」

 

緒方が盤面ではなくヒカルの方を見ていることに気付き、声をかけると

 

「この打ち方、そっくりだな」

 

あえて、誰に、とは緒方は言わなかった。

ヒカルの動揺を誘っている風でもなく、淡々とヒカルが打った石を指差し見つめている。

何か答えるべきか、それとも緒方の独り言と流すべきか、また以前のように誤魔化すべきか、ヒカルは迷った末、緒方の指す一手を見やり、

 

「そう、かな?」

 

「ああ。自分では分からないか?」

 

「特に意識してないから」

 

「そんなものか」

 

小さく笑み、緒方は対局の続きを打ち始める。

 

やはりというべきか、対局は緒方の6目半勝ちに終わった。

突然店にやってきたプロ棋士の対局に、周囲に集まっていた観客も歓声を上げる。

それでも緒方がヒカルの実力に合わせ、力を抜いて打ってくれていることは、ヒカルにも伝わってきた。

 

遠慮するヒカルを、強引ついでだ、と丸め込み、緒方が車で家まで送る途中、

 

「はじめに言っておく。これは俺の独り言だ」

 

突然、話を切り出した緒方をヒカルはみやる。

 

「え?」

 

「先日、芹澤先生が雨宿りで立ち寄ったカフェで、1人碁らしきものを打っている子供に興味を持って、擦りガラス越しに対局したそうだ。対局結果は芹澤先生のが負け、相手の子供は名前を聞く前に店員から注意され走り去ったらしい。芹澤先生もまさか負けるとは思っていなかったから、店に入ったとき、子供の顔をよく見てなくて、顔立ちなどはよく覚えていないそうだが、擦りガラス越しにも前髪が明るい特徴的な髪色をしていたらしい。プロになるなら絶対お前の容姿は芹澤 先生の目に留まる。気をつけておけ」

 

正面を見据え、ヒカルをチラリとも見ることなく緒方は淡々と言葉を続ける。

 

「それって……」

 

緒方の言っている件に、ヒカルはもしかしてと、同意を確かめるように佐為を見やる。

すると佐為も頷き、

 

――先日、私が打った一局のことではないですか?

 

――だよな……。でも何で緒方先生、そのこと俺に?それに気をつけろって?

 

――ヒカル、これは緒方の独り言です。何も問い返したりしてはいけません

 

小さく微笑みながら、佐為は瞼を伏せ、首を横に振った。

唇に人差し指をあて、何も問い返してはいけないとヒカルを暗に諭す。

 

――緒方先生って、もしかして今日はこれを俺に伝えようかどうか迷って、それでご飯誘ってくれたのかな?

 

――かもしれませんね

 

ニコリと、佐為が微笑むのを見て、ヒカルは緒方に

 

「……ねぇ、緒方先生」

 

「なんだ」

 

「何か字書くもの無い?ボールペンとか」

 

「ペンならそこのダッシュボードに入ってるはずだが?」

 

「ちょっと借りるよ」

 

緒方に言われた通りダッシュボードからボールペンを探し見つけると、ヒカルは財布の中から適当なレシートを取り出し、その裏面におもむろに文字を書き始める。

そして書き終わったレシートを、ポイ、と一度、助手席の足元に捨てた。

 

「あっ!こんなところに裏にメルアド書いたレシートが落ちてる!誰のメルアドだろうね~。彼女?まさかsaiのだったり~?」

 

瞳にイタズラ心を輝かせ、ヒカルは先ほど自分が書いたレシートを、己の顔の横でくるくる回して緒方に見せびらかかす。

その一部始終を横目で見ていた緒方は、呆れ半分、苦笑半分という感じで

 

「お前のはワザとらし過ぎるんだよ」

 

左手でヒカルが持っているレシートを奪い、緒方は内ポケットにしまった。

 

家に着くと、最初の警戒心が嘘のように満面の笑顔でヒカルは緒方に手を振って見送ってくる。

緒方の去り際、『またラーメン奢ってね』と無邪気におねだりしてくる姿に、緒方は『次はラーメン以外だ』と苦笑しながら頷き、車を発車させた。

 

そしてヒカルの家から少し離れたところで、道路脇に車を寄せ、エンジンをかけたまま停車すると、緒方はハンドルに力なく突っ伏す。

 

「あのバカ……悠長にメルアド渡してる場合じゃないだろうが……」

 

――ちょっと優しくしてやれば、すぐ警戒心解きやがって

 

緒方の棋譜を数日で全部覚える頭があれば、それを少しは相手の話す言葉にも警戒するように使えと、緒方は思わずヒカルに言いたくなった。

 

芹澤が緒方に話したのは、中学生くらいの子供ということだけである。

擦りガラス越しに前髪が明るい特徴的な髪色とは全く言っておらず、緒方が勝手に付け加えた。

 

ヒカルがどういう反応をするかカマをかけたのだ。

プロになるなら気をつけろというのも、どう解釈してもヒカルとは別人の子供ではなく、プロ試験に合格したばかりのヒカルのことを指している。

しかし、それを言ってもヒカルは否定するどころか、あたかも自分のことのように受け取り、独り言のお礼にsaiのものであろうメルアドまで緒方に寄こした。

 

言葉の駆け引きに慣れていない未熟さだ。

 

ヒカルはsaiと知り合いどころか、自分がsaiであると無自覚に認めたのだ。

 

「saiが進藤……。嘘だろう、あんなガキが……あんなガキに俺は負けたのか?」

 

あれほどsaiの正体を知りたいと思っていたはずなのに、いざ正体が分かってしまうと怖気づいてしまう自分がここに在る。

今日、碁会所で緒方が打ったヒカルの中に、世界中の棋士を魅了して止まないsaiが潜んでいるのだ。

何故ヒカルがsaiの実力をネットの中に隠し、院生クラスの実力と別個で打ち分けているのかはまだ分からない。

 

何にもまして、どうやってヒカルがsaiほどの棋力を持てるようになったのかという疑問が先に立つ。

 

saiの正体を知ってさらに疑惑が深まるとは緒方は思ってもみなかった。

正体が分かったからこそ、聞きたいことや知りたいことは、山ほどある。

ネット碁だけでなく本物の碁盤に向き合い、もっと沢山打ちたいという気持ちもある。

 

ただ、saiの正体が分かったばかりの緒方には、ヒカルに尋ねる気力がなかった。

 

 

 

 



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41

最終戦開始時間ギリギリになって越智は現われ、碁盤を挟みヒカルに対座する。

じっと見据えてくる越智の後ろに、アキラの幻影が座り、ヒカルをじっと見ているように思う。

アキラが越智を通し、ヒカルの実力を見定めようとしている。

 

昨日、和谷との対局を終え、休憩室で越智からアキラの存在を聞かされたときはヒカルも動揺してしまったが、緒方と一局打ち、一晩経つことで平静を取り戻すことができた。

 

ふぅ、と一度深く息を吐き出し、越智から盤上に視線を移す。

これから打つ対局をアキラが見るかもしれない。

そう思うと、中学囲碁大会でヒカルを見下すアキラの眼差しが思い浮かぶ。

 

あれから自分はアキラにどれくらい近づけただろうか。

越智を通して見定めるのはアキラだから、ヒカルにはどれくらいその距離が縮まったのか分からない。

それともプロの中でもまれ、アキラはさらに遠い先に行ってしまったのだろうか。

 

対局開始時間になり先番の越智が黒石を打った。

 

 

If God 41

 

 

――ありえないっ!こんなっ、たった2ヶ月でこんなことっ!

 

越智がヒカルと最後に打ったのは2ヶ月前のことだったが、その時対局したヒカルは、自分の敵ではないという印象だった。

いつの間にか1組にいて、伊角や和谷たちとつるんでいたことは知っていた。

そして伊角に勝ち、先日の和谷にも勝ち、全勝で最終戦を迎えている。

 

ヒカルと対戦した者が、ヒカルが強くなっていると噂しているのも知っていたが、越智は信じなかった。

どんなに強くなろうともたった2ヶ月では自分には及ばないとタカをくくっていたことと、越智自身がアキラと何度も打ち、自らも強くなっているという自負があったからである。

しかし、そんな越智の自信さえ、脆くも崩れ去ろうとしていた。

 

――これが進藤!?塔矢はこのことに気付いていたのか!?

 

だからあれほどまでにアキラがヒカルに注意しろと繰り返し、そして指導相手の越智ではなく、ヒカルばかり気にかけていたのかと思う。

 

黒石を打つ越智の指が小さく振るえる。

 

その一手に、ヒカルの傍らで対局を観戦していた佐為は、動揺、困惑、そして驚愕が如実に反映されているようだと思う。

アキラも越智を出来る限り鍛えようとしたらしいが、もはやヒカルはそんなアキラの思惑の範疇に収まりきらない。

越智ではもうヒカルを押さえることは出来ない。

 

ヒカルは本当に強くなった。

 

佐為がヒカルと出会ってから2年で、ここまで上達するというのは、努力だけでは成しえない。

ヒカルの中に人知れず眠っていた才能が、佐為と出会い、アキラと打ち、多くの打ち手と対局をこなしながら、行洋と佐為の対局を一番近くで見ていたからこそ、育つことの出来た才能だろう。

そしてその才能が、しっかりと根を張り固めた地盤を基礎として、このプロ試験の間に、大きく開花した。

 

ぎゅっと握りしめた両拳を膝の上に置いたまま、越智が次の一手を打つことなく15分の時間が過ぎた頃

 

「……ありません」

 

「ありがとうございました」

 

越智の投了にヒカルは礼をする。

 

碁盤の傍でヒカルと越智の対局を観戦していた院生指南の篠田が

 

「予想以上に開いたな。進藤君の力が完全に越智君を上回っている。越智くんが進藤くんに勝つことが目標だと言ったのが分かる。それにしても進藤くんは本当に強くなったね。驚いたよ、プロ試験の短い期間によくここまで……」

 

ヒカルの打ちまわしに篠田が、ふむ、と小さく唸る。

 

「進藤……」

 

俯いたままの越智に名前を呼ばれ、ヒカルは盤面から顔を上げる。

 

「何?」

 

「この前、緒方先生に連れられてどこか行っただろ」

 

「うん」

 

「お前、緒方先生に指導してもらってたのか?」

 

「指導なんてしてもらってないよ。あのときは、合格祝いに食事奢ってもらって、そのあと一局打っただけだ。その一局だって緒方先生と初めて打ったものだし」

 

「……そう」

 

それだけ言うと、盤上の黒石を片付け、越智は席を立って試験場を出て行く。

 

――勝ちましたね。ヒカル

 

――うん。やっと、塔矢と同じ世界で打てるんだ

 

この対局の棋譜を、アキラが越智から聞くかどうかは分からない。

ただ、ヒカルが勝ったことだけは記録に残り、アキラの目にも留まるだろう。

 

■□■□

 

 

『はい。塔矢でございます』

 

電話口から聞こえてきた上品な女性の声にヒカルはドキリとして、思わず背筋がピンと伸びてしまう。

アキラが電話を取らなかっただけマシだったが、塔矢家に電話しているだけでヒカルはどうしようもなく緊張してしまう。

もちろん行洋が電話に出てくれるのが一番だったのだが、もし最悪、アキラが出たら、その時点で電話を切ろうと思っていた。

それを考えれば、おそらくアキラの母親が電話に出てくれたのはついていたのかもしれない。

 

「あっ、あの!」

 

『何でしょう?』』

 

「藤原と言います。塔矢先生はご在宅でしょうか?」

 

『はい。主人は門下の皆さんと研究会の最中ですが、何か主人にご用でしょうか?』

 

研究会中との返事に、ヒカルは受話器を手の平で押さえながら、クルリと後ろを振り返る。

 

――しまった!研究会中だって!どうしよっ!?

 

――えっと……でしたら伝言を頼むというのはどうです?

 

――なんて!?なんて伝言!?プロ試験合格しましたとか言ったら俺ってバレバレだろ!

 

――う~ん、あ!では、約束果たせましたというのは!?

 

『もしもし?』

 

無言になってしまったヒカルに、受話器の向こうから不審がる声が聞こえ、ヒカルはどうにでもなれと

 

「あ、あの……先生に約束果たせましたって伝えてもらえますか?」

 

『約束ですか?それだけでよろしいのでしょうか?』

 

「はい。それだけ伝えてもらえれば分かってもらえると思うので、よろしくお願いします……。失礼します」

 

相手の返事を待たず、ヒカルは電話を切る。

とたんに対局後でもないのにどっと疲れが出てきて、大きなため息を吐いた。

 

――わかってくれるかな、塔矢先生

 

――きっと分かってくれますよ

 

プロ試験中に行洋と全勝を目指そうと交わした約束。

途中、伊角との対局でくじけそうになったりもしたが、その対局を佐為と最後まで打ち直し、持ち直すことが出来た。

もしあのとき、伊角の反則を口にしていたら、例え全勝合格しても、今ほど行洋に胸を張って報告は出来なかっただろう。

 

――ありがとうございました

 

ヒカルは心の中でそっと呟いた。

 

■□■□

 

 

碁盤二つにそれぞれ分かれ、緒方と対局の検討をしていた行洋が、石を指していた手を膝に置き、

 

「何か気になることでも?今日の緒方君は何を言ってもうわの空だ」

 

いつにない緒方の様子に、苦笑しながら言う。

本人はどう言おうとも、緒方の碁に対する真摯な姿勢は行洋も認めるものなのだが、今日の研究会はどうにも集中できていない。

 

「も、申し訳ありません……」

 

行洋に注意され緒方はすぐに謝罪する。

緒方自身、己が全く集中できていないと自覚していた。

しかし分かっていても、思考は眼前の碁盤ではなく、先日のヒカルのことを考えてしまう。

緒方の言葉にうまく引っかかり、自分で自分がsaiだと認めたヒカル。

恐らくヒカルは認めたことにも気付いていないだろう。

でなければ、緒方がヒカルの家から去るとき、満面の笑顔で手を振って見送りなどできるはずがない。

 

そこに、

 

「失礼します」

 

一言、声をかけてから明子が研究会を開いている和室の障子を静かに開く。

そのことにより、研究会に集まり碁盤に集中していたメンバーがどうかしたのかと明子を見やった。

研究会中に明子がこの部屋に近づくことはこれまでなかったので、何事かあったのかと行洋が問う。

 

「どうした?研究会の最中だぞ?」

 

「ええ、それは分かっているのですが、先ほどあなたに藤原さんとおっしゃる方から電話がありまして伝言を預かりましたものですから」

 

「藤原?」

 

行洋の声が僅かに高くなる。

 

「ええ。約束果たせました、だそうです。そう伝えてもらえれば分かるからとおっしゃってましたけど、よろしかったですか?」

 

伝言を預かった明子も、それを研究会が終わってから行洋に伝えるべきか迷った。

しかし、伝言の内容が極端に短く、行洋もそれだけで分かってくれるような親しさを滲ませた子供と思われる声質に、念のためにと明子は研究会の部屋に行くことにしたのだ。

そして行洋の眼差しが穏やかになるのを見て、それが間違いではなかったのだと分かる。

 

「……そうか。分かった」

 

小さく頷いた行洋に、明子はそれ以上何も言わず、障子を閉め、部屋を後にする。

 

「先生?」

 

「いや、何でもない。すまなかった。続けようか」

 

対面する緒方に呼ばれ、行洋は一つ詫びてから、検討の続きを申し出る。

 

――全勝で合格したか

 

プロ試験に臨む目標として、行洋はヒカルにプロ試験全勝を口にしたのだが、本当に実現するとは思っていなかった。

最後に会い、そして指導碁を打ったときも十分プロになれる実力はあると思ったが、あれからまたヒカルは強くなったのだろうか。

 

行洋もヒカルの底の知れない成長には、目を見張るしかない。

下手な指導を受けず、はじめから佐為という最高の指導者の導きと、行洋と佐為の対局を一番近くで見ることにより、どんどん力を蓄え吸収している。

アキラを見返すためにプロを目指していると言っていたが、いずれアキラと並び、ヒカルが行洋たちプロ棋士の前に出てくるのもそう遠くないような気がした。

 

 

 



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42

――対局開始、10分前か……

 

北海道旭川で行われる王座戦。

その会場となるホテルのエレベーターを待ちながら、腕時計の針が示す時間を座間は確認する。

前日から旭川に入り、座間自身、心身ともに万全の状態で、己の保有する王座のタイトルをかけた対局に迎えることができたと思う。

 

『チン』というお決まりの音を立て、エレベーターの扉が開く。

そこに今日、王座のタイトルをかけ、挑戦者として座間に挑んでくる相手が立っていた。

 

「おはようございます。座間先生」

 

「おはようございます」

 

行洋の挨拶に、座間も持っていた扇をパチリと音を立て閉じながら挨拶を返し、エレベーターに乗り込む。

そして王座戦の前に行われた名人戦の話題を出す。

名人戦の結果は棋院から送られてきた棋譜のファックスで座間は知ることが出来たが、その結果内容は近年稀に見る現タイトルホルダーである行洋のストレート勝ちだった。

対局の内容も全て行洋の圧巻。

タイトルをかけた対局では、どんな棋士も大概一敗し、他の対局を勝ち取りタイトルを防衛、または奪取するものなのだが、行洋はそんな一分の隙さえ与えなかった。

 

「そういえば、名人位防衛6連覇のお祝いをまだ言ってませんでしたね。おめでとうございます。塔矢先生」

 

「どうも」

 

「しかし、先日の棋聖戦の挑戦権まで得られて、対局過多ではありませんか?」

 

「ご心配ありがとうございます。しかし、ご心配には及びません。おかげさまで、心身共に万全ですよ」

 

「……それは何よりです」

 

座間を一瞥することなく小さな微笑をたたえ、行洋はそつなく答える。

すでにタイトルをかけ戦うことも日常茶飯事となった行洋には、対局前の前哨戦ですら慣れたものでしかないのかもしれない。

行洋相手に盤外戦に至っては論外だ。

だが、それを分かっていて、揺らぐことのない行洋の落ち着きに座間はこれまでにない不気味さを覚える。

 

「どうぞ、座間王座」

 

対局用の部屋に着き、現王座である座間へ、行洋は対局部屋の入室順を譲る。

座間が入室すると、すでに対局用の部屋で準備をしていた係員が頭を下げ

 

「おはようございます」

 

という挨拶に、座間は小さな会釈のみを返し、上座に座った。

周囲が行洋に5冠の期待を寄せているのは、わざわざ聞かなくても自然と座間の耳に入ってくる。

名人位を防衛し、聖戦の挑戦者権も得た行洋の勢いは、座間も決して無視できるものではない。

急に碁が若返りそれまで以上に強くなった行洋の実力が、如実に反映された結果のように座間は思う。

熟した碁の中に新たに芽生えた、若さと勢い、そして最善の一手を求める渇望にも似た貪欲さ。

 

むざむざ王座のタイトルを行洋にくれてやる気は座間には無い。

実力の無い者がタイトルにしがみつくことが見苦しいとしても、タイトルという響きは甘く甘美で、手に入れることができるものなら、どんなことをしてでも欲しいと考えるのが人の性だろう。

 

しかし、対座し、薄く開いた眼差しでまだ石の置かれていない碁盤を見つめている行洋を見て、座間は行洋が己とは違うのだと思った。

行洋が求めているのはタイトルではないし、タイトルそのものを見ていない。

遥か遠く、そして高みだけを見ている。

タイトルは単に一手を追求する過程で付随してくるおまけ程度でしかないのだ。

 

 

If God 42

 

 

年末の対局スケジュールを受け取りに棋院へ顔を出すと、そこにふと見知った顔を見かけ、芹澤は足早に相手に歩み寄り声をかける。

軽く頭を下げながら、

 

「篠田先生、今年もプロ試験の監督、お疲れ様でした」

 

大手合や、何かタイトルの予選、事務手続きなどがなければ、棋院に顔を出すこともない芹澤をはじめとする多くのプロ棋士と比べて、篠田は院生師範として、棋院にいる頻度は間違いなく多い。

自身の碁の勉強もあるのに、後輩の育成のためと自ら進んで院生師範を務めてくれている篠田に、芹澤は感謝と共に、その苦労を労う。

 

篠田も声をかけてきた芹澤に気付き、柔らかな物腰で

 

「いえ、毎年のことです。もう慣れましたよ」

 

と答える。

その話の流れで芹澤は軽い気持ちでプロ試験の様子を尋ねてみた。

毎年行われるプロ試験ではあるが、近年はアキラを除き、これといって頭角を現してくる新人棋士はいない。

トップ棋士として、新人棋士達をだらしが無いと嘆くべきか、それとも新たなる強敵が現われないと喜ぶべきかは微妙だが、いずれ芹澤も歳を取り心身の衰えと共に引退する日が必ず来だろう。

 

「去年は塔矢君が1人抜きん出てしまった印象を受けたのですが、今年はどうでしたか?合格者に将来期待できるような新人はいましたか?」

 

「そうですね、誰々は期待できるできないと私が区別することはできませんが……強いて言うとすれば、進藤君でしょうね」

 

「進藤?」

 

「ええ、院生だった子なのですが、その成長たるや、長年多くの院生を見てきた私ですら目を見張るような成長です。院生試験を受けたばかりの頃こそ、まだまだ未熟さが多く見られましたが、あっという間に1組になり、今年のプロ試験は全勝で合格するまでになりました」

 

常日頃より院生を平等に見る姿勢を心がけているという篠田から、めずらしく特定の1人の名前が出てきて、芹澤は目を見張る。

先ほど期待出来る新人はいるかと尋ねても、世間話の一環であり、名前が出てくるのを期待していたわけではなかった。

進藤という名前を芹澤は初めて耳にするが、篠田が一目置くほど才能のある子なのだろうかと興味が沸いてくる。

 

「ほぉ、全勝とはすごいですね」

 

「ああ、ちょうどいいところに。この子ですよ。この前髪がちょっと明るい子です」

 

近くにあった週刊碁の新聞を手に取り、篠田はそこに載せられていた小さな記事を指差す。

今年のプロ試験に合格した3人の顔写真、その中の1人を。

 

「え?」

 

篠田が指差した1人の顔写真を見て、芹澤がピクリと反応する。

心臓がドクンと大きく脈打ったような気がした。

 

「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」

 

篠田から新聞を受け取り、顔を近づけじっと見つめる。

前髪が明るく、中学生くらいの幼さが見られる容姿。

 

――似ている……?

 

進藤ヒカルと顔写真の下に紹介されている子供が、芹澤の曖昧な記憶の中にいる1人の存在に被る。

擦りガラスの向こうにいたsaiと思われる子供。

たった一度の対局と、擦りガラス越しで子供の顔をはっきり見ておらず、曖昧ということから、誰かに話すことも無責任に思われ、直後に会った緒方以外の誰にも話してはいない。

しかし、その緒方にさえ言わなかったが、擦りガラス越しでぼやけた肖像からも、その子供の前髪が明るいように見えたように思う。

 

擦りガラス越しに対局した相手は、子供ではあったがその実力はトッププロの芹澤を打ち負かし、けれどプロではない。

だが、芹澤と対局する直前、子供は1人碁らしきものを打っていた。

片方は芹澤が負けてしまった脅威の実力、もう一つは院生クラスの実力。

その二つの実力を、奇妙に、そして器用に打ち分けていた。

 

強い方の実力で芹澤を打ち負かしたように、反対に弱い方の院生クラスの実力でプロ試験を打ち分けているとすればどうだろうか。

saiとして騒がれることなく、院生の中に紛れることが出来るかもしれない。

勝手な憶測ではあったが、一度考えてしまうと、どんどん新聞に映った顔写真の子供が、擦りガラス越しの子供に見えてくる。

 

「篠田先生、突然で恐縮なのですが、この子の打った対局をご存知ありませんか?」

 

「進藤君の打った対局ですか?」

 

ヒカルの顔写真を見た途端、急に顔色を変えた芹澤の気迫に篠田は推されながらも

 

「ええ、出来れば最近のものであればあるほどいい」

 

「プロ試験最終戦で打った対局でよろしければ、私もちょうど見ていましたので並べることが出来ますよ」

 

「では!是非それを見せていただけないでしょうか?」

 

頼み込む芹澤に、空いている部屋で並べましょうと、篠田は快く承諾する。

その篠田について行こうとして、芹澤はもう一度新聞の顔写真『進藤ヒカル』という名前と共に見やった。

 

 



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43

『ピコン』という音が鳴ると同時に、PCディスプレイに対局相手の投了が表示される。

佐為が勝ったのだ。

 

「よしっ」

 

それを確認してすぐにヒカルは対局画面を出る。

下手に対局画面を開いたままにしていると、対局相手がチャットをしてくるので、それを避けるためである。

しかし対局画面を出たら出たで、今度は対局が終わったsaiへの対局申し込みが押し寄せてくるのだが、そちらは断っても断ってもキリが無いのでヒカルは放置することにしている。

もし佐為が続けて打つのなら、ディスプレイに映っている対局申し込みを了承し対局するだけであり、対局しなければログアウトしてしまえばいい。

 

「ずっと俺のプロ試験優先にしてきたから、お前あんまりネット碁できなかっただろ?プロとしての対局は春からだし、しばらくお前に付き合ってやるよ」

 

――ほんとですか!?

 

沢山打てると分かった佐為が諸手をあげて嬉しそうに喜ぶ。

その無邪気な姿に、ヒカルもクスリと笑む。

プロ試験の合格が決まるまで、行洋もだが、佐為もまたヒカルのために一生懸命指導してくれた。

面と向かっては言わないが、これがヒカルなりの佐為へのお礼だった。

 

「負けたら俺に交代だけどな。それより、最近は強いやつしか対局申し込みしてこなくなったな。前は弱いやつでも平気で申し込みしてきたのに。……saiの名前が有名になり過ぎて、強いヤツしか申し込みしなくなったとか?」

 

放置している対局申し込み画面を見ながら、ヒカルは独りごちる。

対局申し込みしてくる適当な相手と対局しているだけなのに、先ほど対局した相手ももちろん強かった。

プロには少し棋力が足らないようだったが、アマでも十分高段者だろう。

 

チラリと時計を見て、晩御飯までにまだ時間があるのを確認してから、ヒカルが佐為にもう一局打たせられるかなと迷っていると、

 

『私は中国のプロ棋士、楊海(ヤンハイ)7段です。sai、あなたと是非対局したい。対局の日時はあなたのご都合に合わせます。持ち時間3時間の互戦で対局して頂けませんか?』

 

画面に表示されたメッセージの『中国のプロ棋士』という文字にヒカルの目がいく。

 

「中国の?日本語だけどマジで?」

 

これまでも数え切れないほど海外のプレーヤーからチャットやメッセージで話しかけられたことはあったが、それらはほとんど英語だった。

対局中のプレーヤーにメッセージは送れない。

だから、saiの対局待ち中の短い時間にメッセージ入力画面に文章を打ち込んで送れたとしても、内容の大半がsaiの素性に関するものだったので、ヒカルは全部無視していた。

例外として韓国のプロ棋士、安太善と知らず対局の約束をした時、日取りを改めての対局を打診されたことはあったが、その時ですら、文章は全てひらがなだけだった。

 

違和感のない日本語の文章。

 

――中国というのは唐の国のことですよね。この箱は本当にすごいですね。海を越えた者たちとも対局ができるなんて

 

メッセージの文章を眺めながら佐為は感心したように呟く。

けれど、ヒカルもインターネットの仕組みについて完全に理解しているわけではないので、説明できようもなく、佐為の呟きは無視することにして

 

「どうする?中国のプロ棋士だって」

 

マウスに手を置いたまま、顔だけ振り向いて佐為に問いかける。

 

――私はもちろん構いません。何時にしましょうか

 

「うーん、それじゃあ……」

 

 

■□■□

 

 

「きたっ、よし!了承だ!」

 

画面に映された『わかりました。次の日曜日、朝10時からでおねがいします』の文字に、思わず楊海はぐっと拳を強く握り締めた。

 

「朝10時……日本時間の10時か……」

 

saiの指定してきた時間に、楊海は承諾の旨を返信する。

すると送信して間もなくsaiはネットから消えてしまった。

 

ほんの短い時間のやりとりだったが、メッセージごときでこんなに緊張するのは、初めて女の子をデートに誘ったとき以来だと楊海は明後日なことを思う。

 

「楊海の語学力がこんなところで役立つとはなぁ~」

 

普段から周囲に『語学が趣味』と言ってはばからず、碁の勉強そっちのけで外国語を勉強している楊海に、劉が苦言をこぼしたことも何度かあったが、まさかsaiとの対局申し込みでその語学が役立つとは、何があるか分からない。

 

「少しは見直したか」

 

日本語を理解し、文章を打てるかどうかで、saiと対局したいと思う他の中国プロ棋士達を出し抜き、楊海とsaiの対局が叶ったのだ。

自慢げに鼻を鳴らす楊海に、劉は親指と人差し指で1ミリほどの幅を作り、

 

「ほんのこれっぽっちな」

 

「てめぇっ」

 

見直すどころかからかってくるに、楊海は大声を上げ睨む。

しかし、すぐにパソコンに向き直し、

 

「ホント、saiへの対局申し込みが集中し過ぎて、サーバー側が対局申し込み規制をかけてしまったせいで、4段以下はsaiへ対局申し込みできなくなってしまったとは恐れ入る」

 

段級位は、対局相手の段級位とその相手との勝敗数で決まる。

お陰でアカウントを登録してから、ゲーム内の段位をあげるために、アマであろうユーザーと楊海は何局も打つ羽目になった。

 

正確に言えば、囲碁ソフト内の段級位が自分より4つ以上には対局申し込みできない仕様になったことで、ゲーム内で最高段位の8段であるsaiへは最低5段以上でないと対局申し込み出来なくなったのだ。

絶対に5段以内でなければsaiと対局できないわけではなく、saiの方から低段者に対局を申し込めば対局可能だが、saiが誰かに対局を申し込むと言うこと自体がまずない。

対局制限が設けられた原因は、明らかにsaiだろうが、saiという特定ユーザーの名前を運営側は出すことなく、サーバー負担を軽減するためという理由を適当にでっちあげたらしい。

けれど、規制と同時にもサーバーそのものの補強などもしている。

その点で言えば、saiの対局を見ようとする観戦数の増加でサーバーダウンしないだけありがたいとも受け取れる。

 

「ただ、最大の問題は日本との時差、か」

 

と呟きならが、ふぅ、と壁にかけてある時計を楊海は見やる。

こればかりは中国と日本という距離的に致仕方ない。

saiの都合に合わせると申し出た手前、どうしても中国にいる楊海は日本時間に合わせることになり、楊海のいる北京が1時間早い朝9時になる。

 

「ていうか、対局はsaiの都合に合わせるったって、もし楊海自身の対局とかぶったらどうするつもりだったんだ?」

 

「リーグ戦とかの団体戦は落ち着いてる。もし他の手合いに重なったら、仕方ない」

 

「仕方ない?saiとの対局をすっぽかすのか?」

 

「逆だ」

 

「手合いをサボる気か!?」

 

健康上の理由や、どうしても行けない用事でもないのに、プロが公式手合いをサボるというのが、どれほど信頼を失うものか楊海も分かっているはずだろう、と劉は問い詰める。

しかし、楊海は至って平静のまま、

 

「それだけの価値は十分ある、このsaiは。でも多分、かぶらないと予想してた」

 

「何を根拠に?」

 

「saiの現われるパターンは平日は夜だけで、朝から打ってるのは土日くらい。となると、持ち時間3時間の互戦で打てるのは土日に限られる。公式手合は平日だからな。かぶるとしてもイベントくらいだ」

 

「……つまりは確信犯だったってことか」

 

「そゆこと。頭脳派と言ってくれ」

 

思惑通りにいったことに、楊海はニヤリと口の端を斜めにあげた。

 

 

□■□■

 

 

――似ている……と、思う……

 

石一つ一つを、芹澤は求める人物の面影を何一つ見逃さないよう、ゆっくり、時間をかけて何度も並べた。

そして同時に、カフェで打った一局と、インターネットでsaiが打った棋譜も取り寄せ、何時間もかけ見比べた。

黒石の先を行く白石は、プロになっても十分渡り合っていける実力だろう。

 

しかし、この棋譜を芹澤が院生師範の篠田に並べてもらっているとき、恐るべき事実を聞かされた。

白石の進藤ヒカルという子供は、囲碁を覚えて2年でここまで打てるようになったのだという。

それも師匠もおらず、森下の研究会に顔を出しているだけらしい。

 

俄かには信じがたい経歴だった。

プロになったほとんどの者が幼少から碁に慣れ親しみ、しかるべきプロ棋士に師事するなどして切磋琢磨し、ようやく一握りの者がプロになれるというのに、そんな経歴もなくたった2年でプロの世界に辿り着くことが出来るのだろうか。

 

だが、何度並べて、似ていると思っても、芹澤はそこに確信を持つことが出来ない。

どうしても不確定に終わってしまう。

 

認めるにしろ、否定するにしろ、進藤ヒカル本人に聞くのが一番早い。

 

しかし、もし違っていれば?

 

たとえ人目のないところで聞いたとしても、プロ試験に合格したばかりの子供に、『saiか?』と尋ねて否定されたときを思うと、どうしても行動に移すことが出来ない。

芹澤の歳にもなると、若い頃の勢いだけで行動するということが出来ない。

体が動くより先に、頭が行動を考える。

そこに確かな証拠や確証がなければ、動くことを躊躇ってしまう。

 

何もない若者と違い、大人になればそれまで培ってきたものに対して、恥や外聞が出てくる。

 

仮にゆずって2年でプロになれたとしよう。

碁を覚えて間もなくプロ棋士の下に師事しているが、倉田もまた2年でプロになった。

 

だが、その2年前にsaiはネットに現われ、並みいる強者を蹴散らしてきた。

 

となるとヒカルとsaiとの辻褄が合わなくなる。

辻褄を合わせようとすれば、やはり芹澤が最初に興味を持った独り碁。

saiは、1人で二つの棋力を打ち分けていた。

 

新聞に掲載された小さな顔写真。

 

「君なのか?」

 

返事がないと分かっていて、声に出てしまっていた。

 

 

 

 



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44 楊海 vs sai

地方で行われるイベントに芹澤はおもむき、午前の対局を少し長引かせながらも終えることができた。

対局といっても公式手合いではなく、イベントに参加している客へ分かりやすく見せるための碁でもあるので、そこまで神経を疲労するものではない。

 

しかし対局相手がイベントでの対局に慣れないらしく、その相手に合わせるように打ったため、予定時間を若干押してしまった。

相手は高段の芹澤に迷惑をかけてしまったと、イベント会場の外で生真面目に平謝りしてきたが、それに対し気にしてないから大丈夫だと苦笑しながら答えた。

ようやく食事休憩が取れるかと思い、関係者用の張り紙の貼られたドアを開けると、休憩室の一角に人だかりができ、その後ろに碁盤を広げ、食事休憩をしている棋士は1人もいなかった。

 

「どうかしたのかね?」

 

その人だかりに芹澤は声をかける。

すると、碁盤の前に座っていた1人が、芹澤の姿に気付き、

 

「saiが中国のプロ棋士、楊海7段と対局してるんですが、芹澤先生もごらんになりませんか?持ち時間3時間の互戦。すでに中国サイトでは観戦しながらチャットしているところまで現われて騒ぎになってるんです」

 

「saiが!?」

 

『sai』という言葉に、芹澤は走り去る子供の後姿が脳裏に浮かんだ。

 

 

If God 44

 

 

 

楊海がsaiと対局するにあたり、勝敗よりも確かめてみたいことがあった。

 

saiが人間かどうかということである。

ネット碁にsaiが現われてから一年と少し。

最強の強さを見せつけ、ネットのみならず、リアルの世界でもその強さが騒がれるようになった今でも、saiの正体は已然として何一つ不明のままだということに、楊海は疑問を持っていた。

 

ネット碁に現われた段階でsaiは既に強かったのだという。

 

となると、ネット碁に現われる以前はどうなのだろうか。

本を読む、詰め碁を解く、棋譜を並べるといった、囲碁を学ぶ方法はいくらでもある。

しかし、強くなるためには必ず自分以外の誰かと対局しなければ、自らの短所に気付き、鍛え強くなることはできない。

そしてsaiが強くなるにつれ、対局相手もsaiと同等かそれ以上に強くなければならない。

そうして碁打ちとして力をつけていく段階で、saiと他人との繋がりが築かれるのだ。

 

saiが人であれば。

 

けれど、saiが人ならば強くなる段階で周囲がそのことにいくらか気付き騒ぎ立てるだろう。

アマがプロ以上に強いのだ。

saiもそれだけの棋力をもつためにはプロ以上と対局を重ねなければならない。

騒がれない方がおかしい。

 

だが、そういったことが無く、人の繋がりを一切受け付けずに強くなることが出来る可能性を、楊海は模索した。

それが人を越えるのは、まだ100年かかると言われている存在。

それならば、ネット碁の中にしか現われないことも、誰もsaiの素性が知れないことも得心がいく。

 

「嘘だろ……」

 

それは対局している楊海ではなく、楊海の後ろからパソコン画面に映された対局画面を眺めていた劉の呟きだった。

saiと対局している楊海は瞬きも忘れたように、無言でディスプレイを見つめている。

趣味の語学とパソコンにはまっている楊海を劉は冷やかしもするが、楊海の碁の実力が決して劣っているわけではない。

中国棋院きっての実力派の棋士で、トップクラスの棋力を持っている。

 

その楊海が本気になって打ってなお、saiの実力は上を行っている。

 

囲碁なら日本だと言われていたのは、すでに遠く久しい。

国を挙げて奨励する韓国や中国の勢いに押され追い越されるのもそう遠くないだろう。

現に、日本で中韓と渡り合えるのは行洋1人ぐらいのものだ。

 

中国棋院でも楊海の力碁に対抗できる者は五本の指でも余るほどだ。

それなのに、日本人だというsaiは平然と黙して、楊海を力でねじ伏せようとしている。

元々はと言えば、楊海が最初に得意の力碁でペースを掴もうとしたことに発するが、その力碁をかわすどころか真っ向から迎え撃ち、逆に叩きのめさんばかりの力碁で楊海を追い詰めている。

 

無言のまま楊海が投了ボタンをクリックする横顔を劉はじっと見ているだけだった。

楊海の判断は正しい。

このまま打っても決して勝てない。

 

「AIじゃなかったか……」

 

公式手合い並みの真剣な表情がゆるみ、勝敗のことはいくらも気にした様子もなく楊海がポツリと零す。

 

「AI?」

 

「もしかしたら、saiはどこかの誰かが開発した人工知能かと思っていたんだ」

 

それを見極めるために、楊海は序盤から戦いを仕掛け、力碁でsaiを測ろうとした。

感情のないAIであれば力碁など見向きもしないだろう。

しかし、楊海の強引な力碁を無視するどころか、同じ力碁で迎え撃ってきた。

 

「コンピュータ―が囲碁で人の上にいくのは、あと100年かかると言われてないか?」

 

どんなに強いパソコンゲームでもアマの初段に到達できるかどうか怪しいと劉は首を捻る。

 

「だが、突然ネットの中に現われ、プロでもない正体不明の棋士なら、もしかしてと思ったんだよ。でも、これはAIじゃない。saiは……saiはとても人臭いよ。無感情じゃない」

 

楊海はおもむろに右手を上げ、ディスプレイを手の平で触ると、機械特有の熱が手のひらに伝わってきた。

 

相手の顔は見えなくても、打ってくる一手一手が、ピリピリとした空気と気迫と共に、相手の感情を伝えてくる。

AIに感情はない。

一手の中に感情を込めるのは人だけなのだ。

 

 

■□■□

 

 

 

楊海の投了で終了した対局に、

 

「やっぱりsaiが勝ったか……」

 

パソコン画面を見ていた川崎が呟く。

saiが楊海と対局をしていることが分かってから、イベントスケジュールが空いている者達は午前から交代するようにしてパソコンディスプレイでの観戦と同時に、碁盤にその対局を並べて検討していた。

今頃、昼のイベントが始まり、対局や解説、指導碁をしている者は、saiと楊海の対局結果が気になって仕方が無いはずだ。

中国棋院でも実力派という楊海は、噂以上の実力だろう。

近年力をつけ勢いを増している中国でトップ棋士の1人に数えられるだけの実力を見せた。

日本の棋士が打っていれば、楊海が打って見せた力碁にまずやられていたはずだ。

ただ強引にいくだけではなく、緻密(ちみつ)さと繊細(せんさい)さを兼ね合わせた力溢れる碁だった。

 

それをsaiは真っ向から迎え撃ち、同じく力碁でねじ伏せた。

ずば抜けたヨミがあってこそ成し得る力碁だろう。

全てにおいて計算し尽くされた大胆さと豪胆さ。

真逆の力碁で楊海を退けた。

 

「あ、どこにっ?芹澤先生」

 

それまでずっと、saiと楊海の対局を中心で見ていた芹澤が急に席を立ち、

 

「失礼……」

 

塞ぎこんだ様子で休憩室を出て行く。

そしてポケットから携帯を取り出すと、登録されている番号の一つに発信した。

コール音が耳元で鳴るのを聞きながら、人気が無い場所を探し廊下を歩く。

5コールが鳴る直前に週刊碁の編集部が出る。

 

『はい、週刊碁編集部です』

 

「棋士の芹澤です。天野さんはいらっしゃいますか?」

 

『はい、少々お待ちください』

 

『もしもし、天野です。芹澤先生、どうされました?』

 

電話にでた目的の人物に、芹澤は一呼吸おいて、思い切ったように用件を切り出す。

 

「折り入ってお願いがありまして……」

 

『お願いですか?何でしょう?』

 

「新人棋士とトップ棋士を対局させるという新初段ですが、私に出させていただけないでしょうか?」

 

『それは願ってもない!芹澤先生が出てくれるのでしたら是非!』

 

突然、トップ棋士の芹澤が己に電話してきたことに、なにか大事でもあったのかと怪しみながら天野は電話を取ったのだが、芹澤から切り出された話に天野は二の句もなく承諾する。

毎年、プロ試験に合格した新人棋士に対して行われる対局ではあるが、多忙なトップ棋士の時間を裂いてまで対局することに、どうしても快諾とまでにはいかない。

そのいい例として去年、一昨年と、天野は行洋に多忙を理由に断られている。

 

芹澤もタイトルホルダーではないものの、タイトルをかけリーグ戦で凌ぎを削るトップ棋士の1人であることは間違いない。

その芹澤から新初段に出たいと言われて断る理由はどこにもなかった。

 

「ただし、相手を指名させていただきたいのです」

 

『指名?』

 

電話口から聞こえてくる真剣味を帯びた芹澤の声に、天野も訝しむような口調になってしまった。

これまで新初段に出てくれたトップ棋士が、新人棋士を予め指名した前例はない。

 

「はい。進藤ヒカル、彼と対局させていただきたい」

 

新初段に出たい理由が、ヒカルがsaiかどうか見極めるためだと言えば、思慮が足らず大人気ないと思われるかもしれない。

囲碁を覚えてたった2年でプロ棋士になったとしても、なんの証拠もなくsaiかもしれないと周りに言ったところで、考えすぎと一蹴されてしまうだろう。

 

それでも、と思う。

これまで見たsaiの棋譜、カフェでの一局、プロ試験最終戦でのヒカルの一局、そしてついさっきみたsaiと楊海の対局。

 

誰に何を言われてもいい。

ヒカルがsaiでないかもしれなくても、もう一度擦りガラスの向こうにいたsaiに会う為には、プロ棋士としての面子もプライドも捨て、一介の碁打ちに戻り碁を打つことが必要なのかもしれない。

 

 



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45

年が明け、碁会所のマスターから譲ってもらった週刊碁の新聞を広げ、ヒカルはベッドにうつ伏せに寝転がる。

足をパタパタさせながら、面白そうに記事に載せられている王座戦第三局の棋譜を眺めていた。

王座にいた座間は、去年アキラが新初段で対局した相手だった。

その相手を行洋はストレートで3勝しタイトルを奪取した。

どの新聞も行洋の強さと勢いをトップに記事を書き連ねている。

 

「やっぱ塔矢先生強いなー。ここのシノギとかすっげぇカッコイイっ」

 

――行洋殿を褒めちぎるのはいいですが、ヒカルもこれからプロになっていずれは戦う相手なのですよ?

 

軽く窘められたヒカルがムッとして言い返す。

 

「分かってるよ、それくらい。でも佐為だってこの対局すごいってずっと見てただろ?」

 

――私はっ……いいのです!ヒカルと違って、私はしっかり分別と区別がついていますから。対局にも何も差し支えありません

 

と言いながらも、図星を当てられたらしく、佐為は少し頬を染めながら口元を袖で隠しそっぽを向いてしまう。

 

「手紙こなかったってことは多忙過ぎて時間取れなかったんだよな、きっと。塔矢先生にできたら去年のうちに一回会って合格の報告とお礼、ちゃんと言いたかった な。あとお祝いも。塔矢先生、5冠になったって碁会所の人言ってたから、これまで以上にもっと忙しくなって会える回数減ったりしたらイヤだけど……」

 

最後に行洋と会ったのは4ヶ月前になる。

複数のタイトルホルダーとして多忙スケジュールの毎日を送る行洋の都合の良い日に、ヒカルが合わせるようにして会っていたが、昨年内に可能ならば少しだけでも会っておきたかったのがヒカルの正直な気持ちだった。

ヒカルが自身の力で対局するために、佐為の存在を秘密にしておかなくてはならないとはいえ、会いたいときに会えないというのは、ヒカルと同様に佐為もまたやりきれない思いになる。

 

そのとき、一階の電話が鳴り響き、

 

「おっと、お母さん買い物だった」

 

家に自分だけだったことを思い出し、ヒカルは一階へ降りる。

 

「ハイ、進藤です」

 

『日本棋院の事務をしております鈴木と申します。進藤ヒカルくんでしょうか?』

 

「あ、ハイ!俺ですケド!」

 

突然、日本棋院からという電話に、ヒカルは不意を突かれたように声が上ずってしまう。

 

『新初段シリーズはもうご存知ですよね?』

 

「新初段シリーズ?知ってます!」

 

『その対局相手が決まりましたので連絡にお電話しました』

 

「はいっ!それで相手は?」

 

ヒカルはすぐに去年、幽玄の間で行われたアキラと座間の対局を思い出した。

掛け軸がかけられ、小さな石庭が隣接された12畳の和室。

全力で打ってくる座間に怯まず、守りに入らず、まるでヒカルに追って来いと言わんばかりに最後まで攻めの姿勢を貫き通した。

 

そして今年は、アキラが打った幽玄の間でヒカルが打つ。

アキラと同じように、それ以上にヒカル自身の力を見せるときが来たのだ。

 

その対局相手が誰に決まったのか、ヒカルは急いたように問いかける。

 

『芹澤8段です』

 

「芹澤、先生?」

 

対局相手の名前を聞いた瞬間、そんな名前のプロは知らないと思うも、しかし直ぐにどこかで聞いたような気もしてヒカルは首を捻る。

反対にヒカルの後ろで電話を聞いていた佐為は、らしくもなく口をあんぐり開けてしまった。

 

『詳しい日程は後日郵送しますので、そちらをご覧下さい。何か新初段について聞いておきたいことはありますか?』

 

「あ、イエ、とくには……」

 

『もし何かありましたら、棋院事務所にまでご連絡ください。それでは、失礼します』

 

「ど、どうも。ありがとうございました」

 

相手が電話を切ったのを確認して、ヒカルは受話器を下ろす。

新初段の対局相手が決まったことは良いことだ。

しかし事務員が言った『芹澤8段』がどんな人物だったか、のどの辺りまで出掛かっているのに、あとちょっとのところで引っかかって出てこない。

 

「佐為、芹澤先生って誰だっけ?知ってる?」

 

ヒカルが簡単に思い出すのを諦め、ギブアップして佐為に尋ねる。

きょとんとして、危機感が全く見られないヒカルに、佐為は頭を抱え

 

――雨宿りをした店で私が打った者ですよ!緒方が気をつけろと言っていたではないですかっ!

 

「え?緒方先生?……あ、ああ―――っ!!」

 

ヒカルの叫びが冬晴れの空に木霊した。

 

□■□■

 

 

「あんのバカ……」

 

自宅のパソコンの前で、緒方はヒカルから貰ったレシートをグシャリと握りつぶす。

パソコンディスプレイに映されているのはメールブラウザ。

そのメールブラウザの真ん中に小さなウィンドウが表示され、『送信できませんでした』の文字を映す。

 

saiの、と表向き言いながら、ほぼ間違いなくヒカルのものであろうメールアドレスに緒方がメールを送ると、送信した直後に『送信できませんでした』の文字が表示された。

一回目は、緒方自身がアドレスを打ち間違えたのかと思ったが、再度確認し、2度、3度目となると間違っているのは緒方ではなく、アドレスを渡したヒカルだと分かる。

 

メールアドレスが間違っていて、メールが送れない。

これをヒカルが確信犯でしているのだとしたら、現本因坊の桑原以上の狸だ。

 

メールアドレスの間違いを指摘しようとして、ヒカルを捕まえようにも、プロ試験に合格したヒカルは、春まで森下の研究会に出る以外に、棋院には近寄らないだろう。

棋院の事務所でヒカルの連絡先を聞くのも、不審がられるだろうし、もし芹澤が偶然でも緒方とヒカルが接触しているところを見られたらと思うと、下手に棋院内で捕まえることもできない。

合格祝いにラーメンを奢り、碁会所で一局打った後、家まで送っているのでヒカルの家の住所は分かっているが、アドレス間違いを指摘するためだけに、わざわざヒカルの家へ車を走らせるのは、緒方のプライドが許さない。

 

棋院から電話があり、よければ新初段に出てくれないかと打診されとき、緒方ははじめから断る気であった。

しかしなんとなくすでに対局が決まっているトップ棋士がいるのかと尋ねたところ、愛想の良い口調で『芹澤』の名前が返って来た。

無意識に事務員に聞いてしまったのは、何か虫の知らせだったのかもしれない。

しかも、対局相手にヒカルを指名したのだと言う。

事情を全く知らない事務員は、『やはり緒方が院生試験推薦をしていることと、プロ試験を全勝で一発合格しているヒカルに、芹澤先生も目を付けたのでしょうか』と上手くお世辞まで言ってきたが、緒方は新初段を丁重に断った。

 

やはり芹澤は、カフェで対局した子供とヒカルが似ていることに気がついたのだ、と緒方は思った。

 

擦りガラス越しに芹澤がどれだけ相手の容姿を見てとれたのか、緒方には皆目分からなかったが、やはり身長や体系以外の特徴もいくらか気付いていて、緒方に話さなかったのだ。

ヒカルの姿をどこかで見て、すぐにsaiだと言って行動しない辺りを考えると、芹澤もヒカルがsaiか確信はないのだろう。

それを見極めるために新初段で対局して見極めようとしているのかもしれない。

 

別にヒカルがsaiであり、どんな理由があってsaiであることを隠そうとしているのか、緒方には分からないし関係のないことなのかもしれない。

そしてヒカルには以前、上手くしてやられた過去もある。

ヒカルを庇ってやる義理はない。

ヒカルがsaiであると芹澤と一緒になって言えば、信憑性も増すだろう。

 

しかし、緒方にはめられたとも気付かず、逆に親切で芹澤のことを教えてもらったと勘違いし、間違っていたがsaiのメールアドレスをくれたヒカルの笑顔が、どうしても邪魔をする。

子供が大人を騙せばイタズラだが、大人が子供を騙すのは卑怯だ。

 

「どうするつもりだ……?」

 

仮にも相手はトップ棋士。

手を抜いたり、打ち筋を誤魔化そうとすれば、すぐに気付くだろう。

それは、逆に芹澤の疑惑を深めかねない。

 

ヒカルの元に、新初段の手合いの連絡がそろそろ行っている頃だ。

saiと知り合いという関係なら、緒方の時のように証拠が無いことを盾にしてシラを切ればいいかもしれないが、sai本人となれば話は全く変わってくる。

世界中の棋士がsaiの正体を知りたがっているのだから。

 

自らsaiであることを認め、緒方に助けを求めてくるのなら助けなくもない。

あくまでヒカルから認めてきた場合に限ってだが。

だが、緒方に向かってアッカンベーをやれる根性があるなら、ヒカルは今回も芹澤をどうにか誤魔化そうと策を練ってくる筈だろうと緒方は思う。

しかし、いくら考えても、対面して対局した芹澤を誤魔化すのは難しい。

 

今日何度目かも分からないため息が、緒方から零れた。

 

 



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46

その日は自身の対局やイベントがある訳ではなく、対局観戦のためだけだったので、いつも着る白スーツを脱ぎ、黒のタートルネックのセーターと革のジャケットという至ってラフな格好で緒方は棋院に出向いた。

新初段の行われる5階に行き、モニター室のドアノブを回す。

しかし、開いたドアの向こうに、意外かつ忌避する人物がモニター前に陣取っていて、緒方は目を見開く。

 

「桑原先生」

 

「ほほう。これはこれは、緒方君じゃないか。久しぶりじゃの!」

 

顔を見るなり、ムスッとした表情になる緒方に構わず、桑原は上機嫌で話しかけ続ける。

緒方が桑原を苦手にする理由も分かっていたし、それがすぐに顔にでるのもまだまだ可愛いらしいものだ。

 

「こうやって面と向かうのは本因坊戦以来か?ん?あの7番勝負は楽しかったのぉ、ひゃっひゃっひゃっひゃ」

 

「……あの時は勉強させていただきましたよ」

 

揶揄を含んだ桑原の物言いに、本因坊のタイトルをかけた7番勝負で、緒方は桑原の仕掛けた盤外戦にうまくしてやられた苦い過去を思い出す。

緒方が初めて体験する封じ手に、揺さぶりをかけてきた。

桑原ならではの年季の入った老獪さだというしかない。

結果は惜しいところで桑原に防衛連覇され、緒方はタイトルを奪取出来なかった。

 

「どうしてここに来たかと?その言葉、そっくりキミに返そうじゃないか。今日はたかだか新初段の対局。いくら芹澤君が打つからと行って、緒方君ほどの者がわざわざ見に来るようなもんじゃない。するとやはりこの小僧が囲碁界に新しい波を起こす1人なのかな?」

 

「進藤をご存知なんですか?どこかで彼の碁を見たことが!?」

 

「ほほう!やはりか!小僧をひと目見てピンときたわしのシックスセンスもたいしたもんじゃ!」

 

「シックスセンス?」

 

「第六感じゃよ。進藤とは一度すれ違っただけでな」

 

「すれちがっただけ?バカバカしい!」

 

表面上、緒方は桑原の言葉を鼻で笑いはしたが、内心は実は桑原は妖怪かなにかではないのかと思えてしまった。

たった一度すれ違っただけでsaiであるヒカルに目を付けるとは、どんなシックスセンスだと疑ってしまう。

 

そこに、モニター室の戸が開き、

 

「こっこんにちは!こっち座ろうぜ」

 

モニター室に既に先客がおり、それがトップ棋士であることにすぐ気がつき、越智と和谷は邪魔しないようにとドア近くの席に移動する。

まさか自分達以外に観戦しに来る者がいるとは考えていなかったので、越智は驚きを隠せないまま小声で

 

「何で新初段の対局をトップ棋士が2人も見に来てるんだ!?」

 

「そりゃ興味あるからだろ?緒方先生は若獅子戦の時も進藤を見てたし、進藤を名人の研究会に誘ったこともあるんだ」

 

越智の問いに、和谷は同じ小声ながら、至って自然に答える。

しかし、和谷が話した内容に越智はさらに驚く結果になった。

 

「名人の研究会に!?」

 

プロ試験中、アキラに指導に来てもらっていたとき、ヒカルしか見えていないアキラに越智は反発して、ヒカルに勝てば行洋の研究会に参加させてくれと言ったことがあった。

結局ヒカルに負けてしまいその話はなかったことになったが、越智が通いたいと願った研究会に、越智が頼む以前にヒカルはトップ棋士の緒方から誘われていたのだという。

そして、最終戦の前、緒方は門弟でもないヒカルにプロ試験合格祝いと食事を奢り、一局打ったのだとヒカルは言っていた。

 

「アイツは断ったけどな。俺の師匠の研究会行くところだったし。桑原先生の方は知らねぇ。桑原先生も進藤に目を付けてんのかな」

 

「進藤って何者?」

 

越智の目から見てもヒカルを気にするアキラは異常であったし、並み居るトップ棋士達もヒカルに注目している。

 

「俺達の同期でライバルで仲間!」

 

しかしそんな越智の動揺に気付くことなく、分かりきったことを聞くなとばかり和谷は言い切る。

そこにまたドアが開き、特徴的な髪型をした人物が入ってきて、和谷達ど同じように緒方と桑原の姿に驚きを見せた。

 

「緒方さんと、桑原先生!?」

 

片方の緒方は兄弟子ですでにアキラと見知った仲だったが、もう片方の桑原がなぜこの部屋にいるのかアキラは戸惑う。

 

「キミは確か名人の息子じゃな?」

 

「はじめまして、塔矢アキラといいます」

 

行洋の息子らしく丁寧に、そして物腰柔らかく挨拶を述べるアキラに、桑原は軽くカマをかける。

 

「キミも進藤のことが気になる1人か?」

 

「え?ぼ、僕はっ!」

 

途端にうろたえたアキラに、桑原は心底愉快そうに声を立てて笑った。

新しい波が来ると言っていた緒方本人がわざわざ観戦しに来て、その波の筆頭であろうアキラもまたヒカルを注目している。

編集部で聞けば、碁を覚えて2年、師匠はなく研究会の参加のみで、初めて受けるプロ試験を全勝合格するという大器さだという。

 

「そうかそうか、オモシロイ!これは楽しみな一戦じゃの。どうだ、緒方君。どっちが勝つか賭けんか?」

 

「賭けですか、オモシロイですね」

 

「逆コミ5目半のハンデはつくがどうかの。芹澤君は新初段に出るにあたり進藤を指名するほどの熱の入れようだ」

 

「芹澤先生の性格からして、ご祝儀で勝たせてやりたいためだけに指名はしませんね。で、どっちに張るんです?」

 

「小僧じゃ」

 

言いながら桑原は財布から一万円札を取り出し、机の上に置く。

 

「穴狙いですか?」

 

「なんの!勝算のないバクチはせんぞ、ワシは。それとも何だ?キミも小僧に張りたかったのかね?」

 

目上の桑原に先に張られてしまえば、後から緒方がヒカルに張るのは非礼にあたる。

緒方は無表情を装い、桑原が置いた一万円札の上に財布から出した一万円札を重ねた。

 

「芹澤先生の実力を疑う気はありませんよ」

 

芹澤の実力は緒方も既に何度も十分分かっている。

最終戦の前に打った実力であれば、逆コミ5目半のハンデがあっても、真剣に打ってくるだろう芹澤には叶わないだろう。

だが、もしsaiの実力を見せればハンデ無しの互戦でもヒカルは勝つだろう。

それこそカフェで擦りガラス越しに芹澤と対局したときのように。

 

ただし新初段は対局相手の芹澤もだが、記録係や観戦者、そして打った対局も記録に残る。

己がsaiであることを知られたくないなら、ヒカルは本当の実力を隠して打つと緒方は思うのだが、隠そうとしても相手は一度対局しているだろう芹澤だ。

芹澤もまたヒカルの碁にsaiの影を一つも見落とすまいと探してくるし、ヒカルの方も緒方が忠告していることで芹澤を警戒してくる。

 

その隣で、突然賭けを始めた桑原と緒方にアキラは視線を険しくしながら、テレビにモニターされている盤面を見やった。

賭け自体はアキラにとってどうでもよかった。だが、賭けをするほど桑原がヒカルを買っていることが分かり、そして緒方も恐らくはヒカルに賭けたかったに違いないだろう。

 

もうすぐ対局開始時間になる。

 

去年、アキラが通った道を一つも遅れることなく最速でヒカルが通ろうとしている。

周囲に何と言おうとも、この時を待っていたとアキラは思う。

ヒカルが緒方と桑原の見ている中、芹澤と打つ。

越智では測ることのできなかった今のヒカルの実力をようやく確かめることができる。

ヒカルはいったいどんな碁を打つのか、どんな碁をアキラに見せるのだろうか。

 

対局開始時間になり、ヒカルが一手目を右上星に打つのがモニターに映り、

 

「始まったな」

 

桑原がモニターを見やりながら言う。

 

盤面は不気味なほど平穏なまま進んでいった。

トップ棋士との初めての対局にヒカルが慎重になっているのは分かるが、芹澤もまたヒカルを警戒したように打っている。

一見すれば、プロ試験に受かったばかりのヒカルが芹澤相手に健闘しているように見える。

 

しかし、やはりと緒方は思う。

モニター室に用意されている碁盤に、芹澤とヒカルが対局している盤面の石ををそのまま並べていくが、緒方が予想した通り、ヒカルはsaiとしての実力を隠してきた。

碁会所で緒方と打ったときの実力で芹澤と打っている。

 

――ネット碁以外で本気で打つ気はないということか?

 

このまま最後までヒカルは打つつもりなのかもしれないが、芹澤はヒカルの碁の中にsaiを見つけるかもしれない。

その時どう言い逃れるつもりだと、緒方はモニターに映る芹澤の手を視界の端に捉えながら思う。

 

だが、部屋の雰囲気にそぐわないバイブレーションの音が小さく響き、持ち主の緒方が電話を切ろうとして、

 

「かまわんよ」

 

「失礼」

 

先に桑原から了承が出てしまい、一つ断ってから電話にでた。

 

『あ、緒方さん?』

 

「何の用だ」

 

タイミングの悪い芦原に緒方は眉間に皺を寄せて不機嫌な声で答える。

 

『つれないなぁ。せっかくいいこと教えてあげようと思ったのに』

 

「さっさと言え」

 

『ハイハイ。冷たい兄弟子ですよね緒方さんは。saiが今朝からずっとネットに現われているんです。一緒に観戦どうですかって誘いに電話したんですが』

 

「馬鹿なっ!?」

 

芦原の言葉に、緒方は思わず大声を出してしまい、慌てて口を押さえる。

 

saiであるヒカルは今、幽玄の間で芹澤と対局している。

ネットにsaiが現われるはずがなかった。

saiの名前を騙る偽者ではないのか、と緒方は一瞬疑ったが、ゲーム内でのsaiの勝率、段級位はどう偽ることも出来ない。

 

『馬鹿なと言われても、現にこうしてsaiは対局してますよ?』

 

ガタンと椅子を後ろに倒しそうな勢いで立ち上がり、

 

「緒方さん!?どこに!?」

 

「アキラ君、saiが現われた」

 

「えっ?」

 

固まってしまったアキラと桑原の存在を気にする余裕もなく、緒方は携帯を閉じポケットに押し込むとモニタールームを出る。

そして急ぐ足でそのまま棋院の事務所に向かう。

 

「緒方先生!?そんなに慌ててどうされたんですか?」

 

「ネットが出来るパソコンは空いてないでしょうか?もしあれば少し貸して頂きたいのですが?」

 

「ネットですか?少々お待ちください!」

 

慌てて事務員が空いている、と言ってもすでに立ち上げ、恐らく使っていただろうノートパソコンを表示していたファイルを閉じてから、緒方の方へ持ってくる。

突然申し訳ないと侘びをいれ、緒方はすぐにネット碁を立ち上げ、すでに観戦者がとんでもない数に膨れ上がっている対局観戦画面を開く。

 

――これかっ

 

saiのアカウントであることは間違いない。

しかしsai本人であるヒカルは芹澤と対局しているのなら、これは誰か別人が打っているはずなのだが、ディスプレイに映されたsaiの対局はこれまで緒方が見てきたsaiと比べて幾らも遜色なかった。

すでに中盤まで進んだ対局を最初の一手目から想像し追っていく。

 

――どういうことだ!?進藤がsaiだった筈だろう!?

 

やはりヒカルとsaiは別人だったのだろうか。

けれど、ヒカルは緒方の引っ掛けを、それと気付かぬ様子で肯定した。

それともsaiと同じ棋力の持ち主がもう1人いて、ヒカルと交互にsaiのアカウントを使い分けているというのか、とまで考え、緒方はありえないと思考を打ち払った。

sai1人だけでも十分過ぎるほど騒ぎになっているのに、もう1人、saiにならぶ正体不明の棋士がいてたまるか、と揺らぎそうになる自分を叱咤した。

 

saiへの対局申し込みは段位による制限がかけられていることで低段のユーザーは申し込むことが出来ない。

 

今、緒方の眼の前でsaiと対局している相手も十分強い。

だが、saiの相手には程遠い。

対局画面を今開いて緒方は対局をぱっと見ただけだが、打っているsaiはプロ以上、それもトップ棋士以上の強さと判断する。

saiではないのにsai並みの強さを持ち、saiとして打っている誰か。

 

「誰だ……これは……?」

 

芹澤と対局するにあたり、ヒカルも何かたくらんでくるだろうと緒方は思っていた。

ヒカルがsaiの実力を隠し芹澤と打っているのも想定内だった。

しかしヒカルが対局している最中にsaiが現われるというのは、緒方も全く想定していなかった。

 

自身をsaiと疑っている芹澤から疑惑を晴らすのに、これ以上の状況証拠はない。

ヒカルは最強の一手を用意したのだ。

 

 



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47 芹澤VSヒカル

普段のジーンズにパーカーというラフな服装から、新初段の対局の当日は、カッターシャツにベストという幽玄の間で対局するにあたり失礼でない程度の正装をして、ヒカルは棋院の玄関をくぐった。

新初段の対局が行われる5階に向かうと、すでに準備をしている者や一眼レフの大きいカメラを首から提げた取材記者らしき者が幽玄の間の前に集まっていた。

その集まりへ近づくにつれ、少しずつ交わしている会話がヒカルの耳にも届きだし、その中の中心に立ち、ピンと筋の通った姿勢の良い男がヒカルに気付き振り向く。

目を逸らすことなく、じっと視線を向ける相手に、ヒカルはこの男が芹澤なのだと直感的に思う。

 

「おはようございます」

 

頭を下げヒカルが芹澤に挨拶する。

 

――この人が芹澤先生……

 

緒方から忠告されていなければ、この新初段を初めてトップ棋士と対局でき、そして自身の碁をアキラに見せることが出来ると、喜び意気込むだけだったろう。

カフェで対局したときは擦りガラス越しだったのでグレイのスーツとぼやけた輪郭ぐらいしか分からなかったが、実際に至近距離で見ると、ヒカルが想像していた人物とは全く違っていた。

オールバックにした髪形に目鼻立ちのくっきりした顔。

とくに釣り目がちの目は恐らく普通にしているだけなのだろうが鋭い眼差しで、行洋や森下、緒方に似た勝負師の雰囲気が漂っているとヒカルは感じた。

 

「おはよう。今日はよろしく、進藤くん」

 

「よろしくお願いします」

 

じっと見つめてくる芹澤に、ヒカルは品定めされているような気分になり平常心が乱れてくるようだった。

隣にいた佐為が素早く気づき、ヒカルに声をかける。

 

――大丈夫です、ヒカル。すでに策は打ってあります。ヒカルはヒカルで対局に集中しましょう

 

――ああ、分かってる

 

幽玄の間へ先に入ろうとしている芹澤を見据え、ヒカルは頷く。

芹澤がどんな思惑を持ってヒカルを指名したのかは、今だけは考えない。

去年、アキラと座間の対局をヒカルが見たように、これから行われるヒカルと芹澤の対局はアキラの目に留まる。

今度は自分が見せ付ける番だ、とヒカルは気持ちを奮い立たせ、幽玄の間に足を踏み入れた。

 

 

If God 47

 

 

新初段の対局は、新人棋士が先番の逆コミ5目半のハンデ戦である。

それでもトップ棋士の方が、プロ試験に合格したお祝いにご祝儀で勝たせてあげようという気がない限り、新人棋士が勝つことは難しい。

それだけの歴然とした差が、トップ棋士と新人棋士の間には存在する。

 

対局が始まり、穏やかに進んでいるように見えた。

表面上は。

 

力試しと負けを承知で打つ新人棋士も少なくないが、ヒカルは違う。

座間に勝つつもりで本気で勝負を挑んだアキラのように、ヒカルもこの対局を負けるつもりは一切ない。

勝つつもりで対局する。

焦らず腰を据えヒカルは勝負の機会をうかがう。

 

――これだけの棋力であればプロ試験に全勝で合格するのも頷ける

 

ヒカルの一手一手に応じながら、芹澤はヒカルと盤上の石を見比べる。

名人である行洋の息子として幼い頃から手ほどきを受けてきたアキラも別格だが、対局するヒカルの実力も囲碁を覚えて2年ということを踏まえれば十分高い評価が出来る。

攻守のバランスが取れた良い碁だ。

ところどころに小さな隙は見られるものの、ギリギリのところをしっかり見極め踏み込んでくる。

 

穏やかな盤面に波が立ったのは中盤だった。

ヒカルが打った一手に、芹澤は一度碁笥から掴んだ石をおろし、手を膝に置いたまま、ヒカルの一手をじっと眺める。

 

――悪手に見えるが、逸ったか?いや、しかし……

 

視線だけ上を向き、芹澤はチラリとヒカルの様子を伺う。

己を見る芹澤に気付かない様子で、ヒカルはじっと盤上だけを片時もそらすことなく見ている。

そのヒカルの様子に、悪手ではない、と芹澤は判断した。

もしヒカルでなければ一見しただけで悪手と判断していたかもしれないが、ヒカルはsaiかもしれないのだ。

saiであればこんな悪手は絶対に打たない。

 

腕を組み、じっとその一手の先を読む。

 

芹澤が次の一手を打ったのは20分後のことだった。

芹澤の一手にヒカルは眉間に皺を寄せ奥歯をかみ締める。

ヒカルのヨミのさらに先を芹澤によまれてしまった。

ヒカルの一手は先をよんでの一手だったので、目下の部分で不利になるのを承知での一手だったので、それを芹澤に先の先をよまれたことで、ヒカルの黒石は一気に窮地になる。

 

芹澤もチャンスを逃さず攻めてくる。

その猛攻に耐えながら、ヒカルはじっとチャンスを待つが、けれど芹澤は小さなミスも犯さない。

大ヨセまで終われば、逆転する余地はなかった。

『ありません』とヒカルが投了する。

 

ヒカルの一手は先をよんでの一手なので、その先を相手によまれてしまえば、とたんに窮地に立たされる。

アキラに見せ付けるために打った一手だったが、逆に諸刃の剣だということをヒカルは思い知らされた一局になった。

 

「良い対局だった。あの一手は私も考えさせられたよ」

 

「………………」

 

芹澤が対局を誉めてきたが、ヒカルは俯いたままだった。

編集部の天野が幽玄の間に入ってきて

 

「では一手目から検討を」

 

と言ってきたが、芹澤は構わず俯いたヒカルに話しかけた。

記憶の中に埋もれた人物を、大事に手繰り寄せるように語っていく。

 

「私は以前、カフェで1人碁らしきものを打っている子供に興味を持ち、擦りガラス越しに対局したことがある。本当に興味本位の軽い気持ちだった。しかし……結 果は私の負けだった。まさか子供に負けると思っていなかったから、信じられない気持ちでいっぱいだった。負けたこともだが、私を打ち負かすほどの棋力を子供が持っているということのほうが衝撃だった」

 

そしてヒカルとの対局。

篠田に見せてもらった棋譜でもsaiと棋風が似ている印象を受けたが、実際にヒカルと打ってみて、それがsaiを求めるあまりの勘違いでないことを芹澤は確信する。

芹澤との対局で見せたヒカルの実力はsaiではない。

しかし、カフェで芹澤と打つ直前、1人碁を打っていた二面性の棋力のうち、saiではないもう片方の院生クラスの実力が目の前の盤上に並べられた石なのだ。

 

「あの時、カフェで私と打ったのは君だね?キミが」

 

「芹澤先生っ」

 

「緒方先生?」

 

突然会話に横から口を挟んだ緒方に芹澤は怪訝な眼差しを向ける。

芹澤だけでなくヒカルやその場にいた係りの者達も突然の乱入者に驚きを隠せない。

けれど、緒方はそんな周囲に構うことなく芹澤を向いて無言で数回首を横に振り

 

「芹澤先生、急ぎ見ていただきたいものがあるのです。手間は取らせません。検討室へ移られる前にお時間を少しだけいただけませんか?」

 

本来なら新初段の対局碁は検討が行われるものだったが、緒方の剣幕に気押され、誰も口を挟めない。

常にない険しい表情の緒方に、芹澤は何事かと腰を上げる。

緒方の後について廊下を足早に歩く。

 

「どうしました?」

 

「朝からsaiがネット碁に現われているんです」

 

「まさかっ!?ありえない!彼は幽玄の間で私と対局をっ」

 

「そうです。しかし、正午前からネットに現われ、今も対局してます」

 

ヒカルがsaiと思った直後、緒方からsaiがネットに現われていると聞かされ、芹澤は足を止めることなくじっと考え、

 

「……誰かに打たせるとか、偽者ではないのか?」

 

「私もはじめそれを疑いました。しかし私が見ているだけでもすでに3人のプレーヤーと対局していますが、あの強さはsai以外の何者でもない。間違いなくsaiです」

 

断言する緒方に芹澤は呆然と口を開く。

 

「で……では、進藤くんは……」

 

「saiではありません。saiは別人です」

 

棋院の事務所に入り、緒方はネット碁の対局画面を開いているパソコンの前に芹澤を誘導する。

打たれている対局はまだ途中のもので、対局者のHNを芹澤は確認する。

 

「これがさっきまで打たれていた対局の棋譜です」

 

緒方から差し出された棋譜を芹澤は受け取りじっと見つめる。

 

「そんな……」

 

深いヨミと圧倒的な強さ。

まぎれもなくsai本人。

 

ヒカルと対局し、打ち筋がsaiと似ていると芹澤が思ったのは、あくまで似ているだけなのだろうか。

ついさきほどした確信が、早くも崩れ去ろうとしている。

脱力し、芹澤は傍にあった椅子に力なく座りこむ。

誤解してヒカルがsaiであると公言せずに良かったと安堵するも、見つけたと思ったsaiが空振りになってしまい、全身を虚無感が襲った。

 

緒方と共に芹澤が出て行った幽玄の間で

 

――どうやら上手くいった様子ですね。ギリギリ間に合ったというところでしょうか

 

――すっげぇびびったけどな。芹澤先生、絶対あの後saiって言おうとしてたぜ?対局直後に言うとかなしだろ?一日くらいじっくり考えてからバラしてくれよ。そしたら俺とsaiの対局がかぶってるって分かるだろうに

 

本当に危なかったとヒカルと佐為は2人して大きな溜息をこぼし安堵した。

誰もいないところで2人だけの時に言われるのではなく、第三者、その他大多数がいる前で言われるのでは天と地ほどの差がある。

特にトップ棋士の芹澤があのまま『sai』の名前を口にしていたら、誤解だと誤魔化しても噂になり騒がれたことだろう。

 

「どうしたんだ、緒方先生は。芹澤先生も検討が済んでないのに慌てて出て行かれたが。それにさっき芹澤先生が仰られたことは本当なのか?子供に負けた?本当なのかね、進藤君?」

 

突然現われた緒方に連れられるようにして芹澤が出て行ったあと、大勢が何の説明もなく言われる取り残されてしまった中、天野が出て行く直前に芹澤が話していた内容の真偽をヒカルに問う。

カフェで芹澤が子供と対局したことは重要ではない。

もちろんトップ棋士の芹澤を打ち負かす子供が本当にいれば天野もそんなネタを放っておきはしない。

だが、今重要なのは芹澤が子供に打ち負かされ、その子供がヒカルかどうかということである。

 

この新初段の対局が組まれる前、芹澤から突然電話があり、出る代わりにヒカルを指名させて欲しいと打診されたときは、単にヒカルの全勝合格と緒方の院生試験推薦という履歴から注目しているのかと天野は考えていた。

しかし、そうではなかったのかとヒカルに問う。

 

「いえっ、俺は何も知らないです!先生は俺を誰かと勘違いされてたんじゃないですか?何が何だか……」

 

自分は全く見に覚えがないと、ヒカルは首を振って否定する。

今頃、芹澤は緒方からsaiがネットに現われていると知らされているだろう。

これで芹澤の中の『sai=ヒカル』説はほぼ崩れ去ったと考えていい。

 

内心、安堵するヒカルの隣にモニター室で観戦していた越智と和谷がやってきて

 

「塔矢、来ないね」

 

「あ、そういえば……」

 

芹澤は部屋を出て行ってしまったが、対局の検討が行われるのに塔矢が来ないこと越智は冷ややかに指摘し、和谷も越智に言われてそういえば、と部屋を見渡しアキラの姿がないことを確認する。

 

「塔矢来てたのか!?」

 

アキラの名前にヒカルが反応する。

 

「モニター室でさっきまで観戦してたよ。検討に出るつもりはないみたいだけど」

 

「……そっか、でも俺の対局、見てたんだ」

 

顔を合わせることはなかったが、ヒカルが打った一局をアキラが見ていたのだとヒカルは知る。

対局は負けてしまい、ヒカルが中盤に打った一手も芹澤に先を読まれてしまったが、それでも全力で打てた碁だった。

それをアキラがどう判断するか分からなかったが、アキラが確かにヒカルを見ていることだけは判明した。

芹澤によまれてしまったヒカルの一手を、アキラは気付いたのだろうか。

 

――まだあと少し足りない。でも、きっとすぐ隣に並んでみせる

 

先ほどまで芹澤が座っていた場所を見つめ、ヒカルは静かに闘志を燃やした。

 

 

 



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48

「失礼いたします」

 

すっと静かに障子を開け、

 

「お茶の換えをお持ちしました」

 

女将がしずしずと室内に入ると、盆に乗せて持ってきた急須を、中身の冷めてしまった急須と取替えて新しい湯のみに温かいお茶を淹れなおし、行洋へ差し出す。

 

「ありがとう」

 

「今日はヒカル君はご一緒ではないのですね」

 

部屋に1人きりの行洋に、女将はいつも行洋と一緒に碁を打っている子供の姿がないことを珍しく思う。

ヒカルは行洋の息子ではなかったが、数ヶ月に一度の頻度で店にやってきては、この離れで朝から夕方までずっと2人きりで碁を打っていた。

何故人目を避けるように碁を打つのか、という余計な詮索はしない。

だがその様子は親子というよりは、歳の離れた友人と言った方が相応しいような雰囲気だった。

 

「今日は私1人だ。すまないね、こんな我侭を聞いてもらって」

 

ヒカルは今頃、棋院の幽玄の間で芹澤と対局している真っ最中だろう。

その時間に合わせて、行洋はsaiのHNでネット碁にログインし、saiの足跡を残していく。

 

「いえ、滅相もございません。私などが先生のご指導をする日が来るとは夢にも思っておりませんでしたわ。よい体験をさせて頂きました」

 

普段、碁盤ばかりを前にしている行洋が、今日ばかりは机に置かれたノートパソコンに向かっている。

やっている内容はパソコンでもインターネットで碁を打っているのだが、行洋にパソコンはどうにも見慣れず、女将はつい笑みが堪えきれず、顔を横にそらし口元を押さえた。

 

女将自身は店の経営管理でパソコンは必需品なため、毎日使っていて慣れている。

そしてパソコンを初めて触るという行洋に、簡単なパソコン指導をした。

演算ソフトなどの難しいソフトではなく、ヒカルが分かりやすいように手順を書いたのだろうメモを一緒に見ながら、マウスをクリックするだけで出来るネット碁のやりかたを教えたことを思い出す。

教えると言っても、パソコンを立ち上げ、ネット碁のウィンドウを開いてしまえば、対局申し込みの手順を覚える必要もなく、次々と対局申し込みが入った。

あとは『了承』ボタンをクリックし、ネット碁を打ち、対局終了したら対局室を出る、の繰りかえしで、教えたと言えるほど指導はしてないと思う。

しかし、一度その光景を思い出すと、また笑みが込み上げてきそうになり、女将はまた笑っては失礼と一度会釈してから部屋を後にした。

 

 

If God 48

 

 

新初段のヒカルと芹澤の対局が行われる前。

 

「君から急ぎで会いたいという手紙が来たときは驚いたが、どうしたのかね?」

 

最初はヒカルから送られた手紙で始まったこの関係だったが、それ以降は多忙な行洋の対局の合間をぬうように行洋からの手紙で会う日程を決めていた。

それが久しぶりにヒカルの方から手紙が塔矢家に届き、相談があるので急ぎ会えないかという旨が書かれてあった。

 

棋院の事務に詫びを入れ日程調整をしてもらい、ヒカルと会う時間を行洋は作ったのだが、行洋と再会するやヒカルは挨拶やプロ試験の合格報告などもそぞろに、落ち着きがなく呼び出した本題を切り出す。

 

「実は……今度の新初段なんですが……」

 

言い難そうにヒカルがカフェでの出来事と、新初段の対局相手が芹澤ということ、そしてヒカルがsaiとして疑われていることを、行洋に説明する。

一通り説明を終えたあと、ヒカルが途中で言った言葉に行洋は眉間に皺を寄せた。

対面して打っているのなら顔がばれてしまい、言い逃れは出来ない筈だろう。

疑われるどころではない。

 

「芹澤先生と対面して打った?」

 

「対面なんですけど、擦りガラス越しだったし顔もハッキリと見られていないと思うんです。というか、もし顔をハッキリ見られてたのなら、新初段で対局指名するなんて遠まわしなことしないで、とっくに俺がsaiだろって言ってくると思うし」

 

そうしないということは、芹澤は断定できる確証がないのだろうとヒカルは思う。

確証がないからこそ、芹澤は一度ヒカルと対局しカフェでの人物と比べ確かめようとしている。

 

「ていうか、元々は急に雨が降ってきて雨宿りしようと思って偶然立ち寄っただけなんですっ!そしたら擦りガラス向こうから碁盤の位置を言われて、まさか芹澤先生だったなんて思わなくてっ……」

 

「ふむ。しかし芹澤先生から佐為について何かしら直接言われたのでは?だからこそ私に相談したいと手紙を送ったのだろう?」

 

「ああ、それは緒方先生が教えてくれたんです。芹澤先生がカフェで自分を打ち負かした子供がいるって言ってたから、気をつけろって。だから芹澤先生と俺が顔を会わせて話したことはまだ一度もなくて」

 

「緒方君が……」

 

行洋は思わず顎に手をあて呟く。

緒方がヒカルをsaiの知り合いとして疑っているのは行洋も知っている。

だが、そこで芹澤のことをヒカルに教えて気をつけろと忠告する理由が分からない。

緒方の性格を考えると、saiの正体を欲するなら芹澤とのことを引き合いに、saiについての情報を引き出そうとするように思える。

芹澤が疑っているのはヒカルがsaiでないかということであり、緒方が忠告したのも同じ意味だろう。

 

そこで、ふと思い当たり、行洋は思案していた顔を上げ、不安げな様子のヒカルを見やった。

ヒカルがそのことに気付かなかったとしても、緒方はすでに『知り合い』ではなく、ヒカルがsai本人であると感づいているから、芹澤の話をヒカルにしたのではないだろうか。

そう考えれば芹澤のことをヒカルに忠告した辻褄が合う。

 

だが、行洋の思案を他所に、

 

「で、 今度の新初段で対局相手が芹澤先生で、俺がsaiじゃないかっていう確証はないけど、間違いなく俺を疑ってます。緒方先生のときは、まだsaiと俺が知り合いだろうって別人で考えていたからシラをきり通せばよかったけど、芹澤先生は俺がsaiじゃないかって疑ってる……。どうしたらいいか分からなくて、 俺っ……」

 

緒方が気付いたように芹澤もsaiとヒカルの打ち筋の相似な部分を探してくるだろうと、ヒカルは懸念する。

新初段でトップ棋士側ならいざしらず、新人棋士の方が手をぬくというのは、前代未聞だろう。

緊張したフリをして手が引っ込んでしまったと誤魔化すことは出来るかもしれないが、余計に芹澤に疑われる可能性がある。

何より、新初段は棋譜が残りアキラが目にするかもしれないのだ。

そんな対局をヒカルは自ら駄目にするような真似はしたくなかった。

 

「俺が誰かと打ってるときに、saiがネット碁に現われるのが一番いいんだろうけど、そんなの絶対無理だし」

 

「ふむ、進藤君とsaiが同時に存在するということか」

 

ヒカルが溜息をつきながら何気なく呟いた一言を、行洋は反芻する。

 

「それでいこうか」

 

「はい?」

 

行洋が何を言いたいのか理解できず、ヒカルは首を傾げた。

 

「君が新初段で対局中、saiがネットに現われる。そうすれば、進藤君とsaiは別人という決定的証拠になる」

 

「でもっ!佐為は俺に取り憑いてるから俺の傍から離れられないし、それに姿や声だって俺にしか!」

 

ヒカルの隣に座っている佐為も、ヒカルの意見に同意して首を縦にブンブン振る。

 

「そう。だから私がsaiとして打とう。もし佐為がそれでよければだが。私がsaiとして打つことを了解してもらえるなら」

 

どうだろうか?、と突然の行洋の申し出に、ヒカルは絶句して佐為の方を見やる。

『どうする?』と佐為に問いたいのだが声が全く出ない。

 

佐為の方もヒカルの気持ちは十分分かり、何が言いたいのかも伝わってきたので

 

――この場合、致し方ないのでしょうし、そうすればヒカルと私が別人という証拠になるのでしょう?でしたら私の代わりに行洋殿に打ってもらえるのに、何ら断る理由などありませんが……

 

佐為の返事の半分も、ヒカルは頭に入らない。

5冠のトップ棋士にネット碁の代打ちをさせるなんてとんでもないと囲碁界に疎いヒカルでも分かる。

対局申し込みしてくる相手はsaiと思っているのに、実は違うというのは可哀想な気がしなくもないが、塔矢行洋と打っていると知れば責めるどころか逆に喜ぶだろう。

しかし、とヒカルはある一点がどうしても引っかかり、真顔で、

 

「佐為はOK、っていうか……先生がネット碁するんですか?」

 

碁盤は誰より似合っても、パソコンに向かいネット碁をしている行洋の姿が、ヒカルには全く想像できなかった。

言った後で、不躾な質問だったとヒカルは思ったが、言ってしまったのを今更取り消すことはできない。

 

「パソコンは不慣れだが、碁を打つのは得意だよ」

 

『心外だな』とばかりに微笑む行洋の瞳に、ヒカルは普段、厳格なイメージしかない行洋から微かな悪戯心が垣間見えた気がした。

 

「代打ちとしても、佐為の代わりだと思うと責任重大だな。決して負けてはいけないのだからね」

 

朗らかだった行洋の眼差しがほんの一瞬剣呑さを帯びる。

そうして芹澤だけでなく、いつ勘づいたか知らない緒方も共に煙に巻いてしまおうか。

これ以上<藤原佐為>に近づけさせないために。

 

 

■□■□

 

 

「緒方さん、先ほどモニター室で言われたのはどういう意味ですか?」

 

棋院から出てきた緒方を捕まえ、アキラは開口一番問いただす。

 

「……そのままの意味だが?」

 

駐車場に留めてある車へ向かいながら緒方は答えた。

その後ろからアキラは置いてかれまいと早歩きでついていく。

 

「僕に言う前に『馬鹿な』と仰ってましたよね。あれはsaiが現われる筈がないのに現われたことに対しての言葉ではないですか?」

 

「…………」

 

同じ弟弟子でも天然で能天気な芦原と違い、アキラは実に鋭いところを突いてくると緒方は思う。

もっとも緒方自身分かってて、アキラにそんなヒントを与えたので、問われたところで今更焦りはしない。

 

「家まで送ろう。話は車の中だ」

 

どこで誰が聞いているか分からない。

車に乗り込み、棋院を出てしばらくしたところで緒方はようやく口を開いた。

 

「アキラ君は進藤がsaiじゃないかと疑っているようだが、俺も最近になって同じ事を考えていた」

 

「では!緒方さんはどこかでsaiと進藤が繋がっている何か確証でもっ」

 

一年以上前にしたアキラとsaiとの対局。

saiの打つ一手がヒカルと被り、そして追っても追っても逃げられてしまったヒカルをようやく掴まえたような気がした。

しかし、ヒカルがsaiとするにはどうしようもなく棋力の差があり、誰に言うこともできなかったが、緒方も自分と同じ考えだったことが分かって、アキラはずっと心の中に溜めていたものが爆発するように、声を荒立て緒方に詰め寄る。

 

「根拠は言えない。何しろそう思っていたのに、進藤の対局中にsaiが現われたんだ。根拠そのものが崩れたと言っていい」

 

アキラが言い詰め寄る途中で口を挟み、緒方は否定する。

根拠が崩れたと口にしたが、やはりsaiはヒカルだと緒方は思う。

新初段の対局直後に芹澤がヒカルがsaiと言おうとしたのを、寸前で止めた時、ヒカルは明らかに安堵した表情を見せた。

 

ヒカルは自身の対局中にsaiが現われることを予め知っていたのだ。

 

ヒカルに詰め寄ったとき、まだ知り合い程度の疑惑だったからアッカンベーくらいの可愛い悪戯で自分は済んだのだと緒方は思う。

もしsaiがヒカルだとして正面からぶつかっていれば、芹澤と同様に緒方も煙に巻かれただろう。

ヒカルの背後にいて、トップ棋士に並ぶ棋力を持った誰かによって。

ヒカルは1人ではない。

誰かがヒカルの後ろにいて、ヒカルの中のsaiを守り、隠そうとしている。

 

「ところで、進藤の対局はどうだった?俺は途中で抜けてしまったが」

 

「途中の一手で、芹澤先生に上をいかれて、その後は猛攻に耐えられず投了しました……」

 

ヒカルの打った一手を新人棋士の気持ちが逸ったただの悪手と判断せず、20分かけてよみきった芹澤の冷静さは流石だとアキラは思った。

モニター前で対局を見ていた桑原も、芹澤が長考したことでヒカルの意図に気付いたようで『オモシロイ小僧じゃ』と言って高笑いしていた。

 

しかし、ヒカルが負けた直接の敗因はその一手のみ。

それ以前も、それ以後も、ヒカルに悪手はなく、トップ棋士相手に大健闘したと言える。

中学囲碁大会でアキラを落胆させた一局を思えば、そこからここまで力をつけたのだとすると、恐るべき成長だろう。

これまで見ることも聞くこともできなかったヒカルがアキラを追ってくる足音が、今日の対局で初めて見えた気がした。

 

 

 



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49

3月、新入段の免状授与式がある。

 

「なんだか似合わないわねぇ」

 

新調したスーツを着込んだヒカルを見て、美津子の第一声である。

小学校に入学するとき子供用のスーツをヒカルが着たことがあったが、そっちの方がまだ似合っている気がする。

 

「だいたいあんたがネクタイなんて……それでなくてもまだ中学生だっていうのに」

 

「越智も塔矢も中学生だいっ」

 

美津子のぼやきに、ヒカルがいい加減聞き飽きたというように乱暴に言い返す。

美津子に言われなくても、ヒカル自身が普段着慣れない着心地悪さを一番実感しているのだ。

 

「……なんて世界なの」

 

中学生がスーツを着て大人に混ざる世界。

痛くなってきた頭を美津子は押さえた。

 

 

If God 49

 

 

授与式の会場に着き、受付を済ませると、受付をしていた係りの人に、ヒカルは左胸に小さな花飾りを付けられる。

この花飾りが棋士とその他関係者を区別するものらしく、ヒカルは大勢の中から同じく花飾りをつけているだろう知り合いの姿をキョロキョロと捜す。

 

「いた!和谷」

 

「お前にしちゃ早いじゃん」

 

「へへ、それにしてもすごい人が集まってるんだな。人酔いしそうになる」

 

「ああ今日は表彰されるいろんな棋士が来るんだ。最優秀棋士は塔矢名人だし、他にも優秀棋士とか女流賞とか……いろいろだな。塔矢アキラは勝率第一位賞と連勝賞の二つを受賞してんだぜ」

 

「勝率一位と連勝……」

 

「今日はそういう表彰式がメインで俺達はオマケだよ」

 

「オマケかぁ……」

 

自分がプロとして認められる免状授与式と意気込んでいたのがオマケと言われ、途端に落胆するヒカルに

 

――オマケ?それが何だというのです!塔矢だって去年はオマケとしてここにいたんでしょ!?一局一局の積み重ねの上に今の塔矢があるのです!

 

佐為の励ましに、それもそうかとヒカルは思い直す。

今のヒカルと同じように、去年のアキラはプロとしてスタートを切り、それから一年、対局を重ねて勝率一位と連勝の2つの賞を取ったのだ。

 

「一局一局……てことは……俺の最初の手合いって誰になるのかなあ」

 

「俺かも。まぁでも相手は初段とは限らねーから、2段・3段の可能性もあるし」

 

「フーン」

 

ヒカルのプロデビュー戦が誰になるのかまだ連絡はない。

4月からプロとしての対局が始まるのでそろそろ連絡があっていい頃合なので、相手が誰になるか気になるヒカルは、和谷の『俺かも』という一言にドキリとした。

知り合いであろうとなかろうと全力を尽くすのは変わらないが、出来ることなら初戦は勝ちで飾りたい。

 

悩むヒカルの隣にいた佐為が、不意に

 

――あそこ、行洋殿が

 

「えっ?」

 

佐為の視線の先に、会場内でもとりわけ大きな人だかりの中心に和服に身を包んだ行洋の姿を見つけ、ヒカルの顔がパッと明るくなる。

しかし、見つけた直後に人垣が動いた隙間から白スーツが現われ、明るくなったヒカルの顔がそれ以上の速さで暗く沈んだ。

 

――いたけど、その隣に緒方先生が……

 

――……いますね

 

ヒカルの言葉を佐為が補足する。

年明けから行われた棋聖戦でタイトルを一柳から奪取し、行洋はさらに保有タイトル数を6に伸ばした。

このまま行けば残る本因坊も手にし、7大タイトルを全て制覇するのではとさえ言われている。

それだけ行洋の勢いは凄まじいのだと、研究会で森下が苦味を潰したようにブツブツ言っていた。

プロに受かったばかりの新人棋士であるヒカルが、そんな雲の上の存在で6冠のトップ棋士である行洋に話しかけるというのは、周囲からは不自然に映るだろう。

とくに、行洋と親しく会話している姿を緒方に見られるわけにはいかない。

 

――こんなに近くにいるのに話しかけることも憚れるとは、なんとももどかしいですね

 

――話せなくても、こっちに気付いてくれるだけでいいから……

 

ヒカルと佐為は行洋に向かって、こっちを振り向けと瞼を強く閉じ強く念じる。

『どうだ?』とゆっくりヒカルは瞼を開く。

が、行洋は変わらず周囲と談笑を続けてヒカルの姿に気付く様子はなく、その隣の緒方とヒカルはバッチリ視線が合ってしまった。

 

「マズッ!」

 

「オイッ!どこ行く気だ!?」

 

和谷に何か言う余裕もなく、脱兎のごとく、ヒカルは踵を返し人ごみに紛れる。

まさか振り向いて欲しい人が全く気付かず、その隣にいる振り向かなくていい人物が振り向くとは思っていなかった。

緒方の姿が見えなくなったであろう辺りで、ヒカルは後ろを振り返りほっとする。

 

緒方と初めて対局して以来、それ以前に比べて仲は良くなったはずなのだが、

 

――俺が塔矢先生見てたの気づいたと思うか?

 

――あの距離でしたらヒカルが誰を見ていたなんて分からないと思いますが、とにかく他人の目があるところで、下手に近づかない方が無難でしょうね。行洋殿は言わずもがなですが緒方にも

 

――だな。アドレスだってせっかく教えてあげたのに全然メールくれないし。あんなにsaiは誰だって迫ったくせに、佐為と対局したくねぇのかな。分かんねー人

 

――ヒカルッ!隣!!

 

佐為に促され、ヒカルは無防備に振り向く。

そして、そこに立ち、上から見下ろす人物に、ヒカルは反射的に仰け反り、

 

「ゲッ!」

 

「げ、とはいい度胸だ」

 

「いえっ、そんなつもりじゃなくて、おはようございます……緒方センセ……」

 

しまった、と失言を後悔しつつ、ヒカルはヒクついた不自然な笑みで挨拶する。

けれど、緒方がそれ以上何か言うことはなく、自身の内ポケットから小さなメモを取り出すと、有無を言わせずヒカルのポケットに突っ込み、その場を去っていく。

去ってゆく緒方の後ろ姿を唖然と眺めながら、ヒカルは突っ込まれたポケットを手探りし、メモを取り出す。

 

『アドレスが間違ってる そっちが俺にメールしろ』

 

という短い文章の下に緒方のプライベートであろうアドレスが書かれてあり、ヒカルは何故緒方からメールが来なかったのか理解し、『アハハ』と乾いた笑いがこぼれた。

しかも、もう一度ヒカルから正しいアドレスを聞き出すことをさっさと放棄し、緒方のアドレスへメールするように指示してきた。

これであれば正しいアドレスが自動的に緒方へ伝わるだろう。

アドレス間違いを、心の中でそっと謝り、緒方のくれたメモを大事にポケットに戻す。

 

何か言われると思って身構えたが、とりあえずこれで今日一日、緒方から何か言われることはないだろうと、ヒカルが安心してあの場に置いてきた和谷のところに戻ろうとして歩いていると

 

「塔矢!」

 

久しぶりに会うアキラにヒカルは目を見開く。

ヒカルの新初段の対局のとき、モニター室で対局を観戦していたことは越智から知らされたが、直に顔を合わせたわけではなかった。

アキラの方もヒカルの姿に気付き、ハッとしたように一瞬歩む足が止まるが、すぐに掻き消え睨むような眼差しでヒカルの方へ歩いてくる。

 

「塔矢、オレやっと」

 

プロになって追いついた、とヒカルが言おうとする傍を、アキラは無言で通り過ぎる。

名前を呼ばれ、そして視線が交わりお互い認識していて、話しかけられていることに気付かなかったということはありえない。

 

「なんでぇ、アイツ無視はねーだろ、無視は。アッタマくるな!ちょっと成績が優秀だと……」

 

ヒカルを探しにきた和谷が、ちょうど無視して通りすぎるアキラの姿をみかけ、ムッとしたように文句を言う。

しかし、文句を言おうとした最後の部分で、流石の和谷も文句の付けれないアキラの好成績に言葉尻が弱くなる。

 

「お前もどこ行ってたんだよ、急に」

 

「……追いつくだけじゃない、追い越してやるっアノヤロー」

 

アキラにお前など眼中にないと暗黙に言われでもしたかのように、ヒカルは表情を険しくさせ、両手をぎゅっと握りしめる。

ヒカルはアキラがいる同じ世界に立ったが、すでにアキラは一年前から走り出している。

その差が今日アキラが受賞する2つの賞なのだ。

対してヒカルはオマケ程度の免状授与のみ。

 

追いつくだけではなく、追い越さなくてはアキラを見返すことはできないのだとヒカルは知る。

 

午前の授与式が終わり立食パーティが行われたあと、午後は新入段者研修会がヒカルを待っている。

渡された封筒から書類を取り出し、

 

「あ、コレ大手合の対戦表だ」

 

と隣でパラパラ捲る和谷に、ヒカルはその表をヒョイと覗き込む。

 

「自分の見ろよ」

 

「オレどこ?」

 

「最後の方!」

 

和谷に指摘され、ヒカルが自分の対戦表に視線を戻すと、研修の係員が

 

「自分の名前の右に書かれている人が初戦の相手になります。順に右へ第2戦、第3戦となっていきます」

 

詳しく対戦表の見方を説明した。

言われた通りに、ヒカルは対戦表を指さしながら自分の名前を探していく。

 

「進藤ヒカルっと、……あった!俺の初戦は……え?」

 

対戦表に書かれていた名前に、ヒカルは数時間前、ヒカルを無視して通り過ぎた相手の横顔が脳裏を過ぎる。

 

――塔矢!初戦の相手が塔矢!

 

まさかプロになってこんなに早く対局が回ってくるとは考えておらず、ヒカルは無意識に口元を押さえた。

ヒカルの後ろからその対戦表を見ていた佐為も、

 

――塔矢との対戦、願ってもないところですね

 

――塔矢はこのこと知ってんのかな?

 

――もう宣戦布告してきましたよ、アキラは。すれちがったときのあの目!あれは既に自分がヒカルと対局することを既に知っていたからではありませんか?

 

佐為に問われ、ヒカルはすれ違ったアキラを思い出す。

話しかけたヒカルを無視するようにアキラは無言で通り過ぎたが、その視線だけはヒカルを睨み見据えていた。

 

本気で無視をする気だったのなら、視線すら合わせないのでは、とヒカルはようやく思い当たる。

アキラはこの対戦を既に知っていたから、ヒカルをワザと無視したのだ。

 

アキラはちゃんとヒカルを見ている。

 

「よぉし!!」

 

眼の前では研修の係員がまだ書類の説明を続けていたが、対戦に向けて気合を入れるように構わずヒカルは叫んだ。

 

 

 



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50 アキラVSヒカル

プロ初対局日。

対局開始時間に余裕を持とうと少し早めにヒカルは家を出たので、開始時間30分前には棋院に着いた。

エレベーターを出てすぐに、テーブルにもたれ掛け腕を組んでコチラを見る見知った顔を見つけ、ヒカルは駆け寄る。

 

「冴木さん」

 

「遅い」

 

「お、遅い?開始まで30分あるよ」

 

「お前の緊張をほぐしてやろうと、こうして俺が早めに来てやったというのに。俺なんか、初戦の日はすごく早く来てさ、始まったら始まったで緊張して石が持てなかったりしたんだぜ。進藤はそうでもないみたいだな」

 

冴木に言われ、ヒカルは思案する。

プロになって初の対局で、まったく緊張してないと言えば嘘になるだろう。

ヒカルが院生になって初めて初めて対局するときも、それなりに緊張した。

しかし、今日の対局はそれとも違う気がして、

 

「ん――、知ってる相手だからかな。気負いはあるけど……そういう緊張はあんまり……」

 

「塔矢か」

 

師匠の森下が塔矢門下を目の仇にしていることを抜きにしても、ヒカルは初めて森下の研究会に来たときからアキラに勝ちたいと意気込んでいた姿を冴木は思い出す。

それを聞いた当初は、英才教育のアキラ相手に、身の程知らずでオモシロイ目標を持っているヤツだとしか思わなかった。

だが、それから一年もたたずにヒカルはプロの世界に足を踏み入れた。

 

週一で行われる研究会で、冴木自身がヒカルと対局したり、白川のような高段の棋士と対局しているのを傍で何度も見てきたが、冴木の目からもヒカルの成長はハッキリ目に見て取れた。

見るたびに成長していく才能。

噂でアキラがヒカルをライバル視していると聞いたことがあったが、こうしてプロになったヒカルを前にすると、あながちヒカルの一方通行なライバル視ではなかったなと思う。

 

「冴木、今日の昼飯どうする?」

 

不意に声をかけられ冴木は視線を向けると、そこに同じプロ棋士の中でも親しい者が立っていて

 

「外で食おうぜ」

 

あえて冴木は外食をすすめる。

初手合いのヒカルには、気分転換のしやすい外での外食の方がいいだろうと思ってのことだった。

 

「その子は?今年入ったヤツ?」

 

「うん。俺とは森下師匠の研究会つながり」

 

「おはようございますっ」

 

見知らぬ大人から声をかけられ、ヒカルは少し緊張混じりに挨拶する。

対局場も院生研修の時の同じ部屋なので、実感が沸かなかったが、こうして大人から声をかけられ、そしてエレベーターから子供ではなく次々と見知らぬプロ棋士たちが現われてくると、本当に自分がプロの世界に入ったのだと思えてきた。

ホワイトボードに書かれた対戦表をヒカルは眺め、

 

――和谷も越智も今日はいない

 

もしかすると、今日の手合いでヒカルが知っている人物は冴木と対局相手のアキラぐらいなのかもしれない。

そのまま冴木に手招きされ、対局場の方へヒカルはついていく。

 

「対局場は院生研修と同じだけど、ちょっと違うのは、プロの手合いにはお茶がつく。他にもコーヒーとかコーラとか好きなものを持ち込んでいいんだぜ」

 

「へー」

 

「冴木さんは今日誰とやるの?」

 

「女流の桜野さん。進藤だいぶ落ち着いてきたな。エレベータから出てきたときは強張った顔してたぜ」

 

「そ、そうだった?」

 

顔が強張るほど緊張している自覚はなかったので、冴木に指摘され驚き戸惑う。

しかし、自分1人では気付かず強張った顔のままでアキラと対局していたかもしれないことを考えると、こうして冴木が自分を気遣い世間話してくれたことが、ヒカルは嬉しいような気恥ずかしいような気がした。

 

「緊張がほぐれ過ぎてもなんだから、必殺のオマジナイしとこう」

 

「何?」

 

「森下先生の顔を思い出せ」

 

ヒカルの脳は一瞬で冴木の出した名前の人物を脳裏に映像化する。

しかも森下は険しい顔で『塔矢アキラをなんとかせいっ!!』と扇子をこちらに向けて大声で怒鳴っている。

 

「すげープレッシャー!!やめてよ冴木さんっ!」

 

「あははは」

 

森下の怒鳴り顔を思い出したらしいヒカルの反応に冴木は面白そうに笑う。

休憩室から対局場内へ入り、それぞれ己の場所へ座り始めた気配に、冴木はヒカルの場所を指差し、

 

「そろそろみんなも来始めだな、進藤の場所は……一番後ろの向こうから二つ目だ」

 

自分自身も対局する席へと移動する。

そんな冴木に一言『ありがと』と礼を言ってから、ヒカルは自分の席に正座した。

まだアキラは来ていない。

しかし、ヒカルの目にはその姿が半分透けた幻のように、対面にアキラが座している。

 

――待ちに待った相手、ヒカルも力をつけたし楽しみですね

 

――もうじき塔矢と…………

 

「あっ」

 

引き寄せ、取ろうとした碁笥の蓋がヒカルの手からこぼれ落ちる。

手が滑ってしまった訳ではなかった。

碁盤に落ちた蓋を拾おうとしたヒカルの手が震えていた。

 

――あの時の塔矢と同じ……2年前の中学夏の大会で、塔矢は佐為を追ってきた。今は俺が塔矢を追ってここに座ってる。今なら、あの時の塔矢の気持ちがよく分かる。

 

2年前の大会で、対面したアキラは今のヒカルのように手が振るえ碁笥の蓋を床に落としてしまい、そして拾い上げる間もその手は振るえたままだった。

佐為を追い、恐れを抱きながらも、逃げずにヒカルの前に立ったのだ。

震える手をヒカルは一度ギュッと強く握り締め蓋を拾い傍に置いた。

 

俯きじっと見ていた盤面にうっすらと影が差し、ヒカルは顔をあげた。

 

「……君との対局は囲碁部の三将戦以来、約2年ぶりだ」

 

言いながら、アキラはヒカルの対面に座り、ヒカルをじっと見てくる。

 

「そんなになるのか」

 

「うん……長かった」

 

少し思案してアキラは視線を逸らし、2年の月日を思い出しながらゆっくりと呟く。

その言い様はまるで自分に追ってくるのが遅いと遠まわしに言っているようだなとヒカルは思った。

三将戦の後、インターネットカフェでネットをしていたヒカルをアキラが掴まえたときも、対局を申し込まれて、ヒカルは受けなかった。

打ちたいと願うアキラをヒカルはずっと待たせていたのだ。

 

「あの時は、お前に怒鳴られ落胆されたけど、今日は俺の力を見せる番だ。俺だってこの2年弱、ただ遊んでたわけじゃない」

 

対局開始時間まぎわになり、対局場から私語が消えていく。

シンとした静かな時間が流れ、対局開始時間を知らせる音が部屋に響く。

 

アキラがニギリ、ヒカルが先番になる。

 

「「お願いします」」

 

2人同時に礼を言い、黒石を持ったヒカルが右上スミ小目に打つ。

それに対し、アキラはその位置にヒカルが打ってくることを見越していたように即座に白石を打ち返してきた。

ヒカルもアキラ同様、時間をかけずに打っていけば、やはりアキラは同じだった。

 

――早い!とても持ち時間5時間の打ち方じゃないっ!早碁だ!

 

まるで、ヒカルと打つこの一局を待ちきれなかったように打ってくるアキラに、

 

――ゆっくり構える気はねーってことか……いいぜ!この一局を待ちきれなかったのは俺も同じだ!

 

ヒカルはアキラに呼応するように早碁で石を打ち返した。

やっと叶った対局だった。

一年前の囲碁部での大会は、前半を佐為が打ったので、全てヒカルが打ったとは言えない。

その前の碁会所で打った2局も佐為が打ったものだった。

眼の前で打っている対局が、ヒカルとアキラの初対局であることを知っているのはヒカルを除き、佐為と行洋だけだろう。

 

――この速さで打っているのに的確に読んでくる!

 

アキラの打つ一手に動じず、鋭く打ち返してくるヒカルにアキラは確信する。

海王中の囲碁部の顧問に見せてもらった、ヒカルと洪秀英の対局。

そして編集部で聞いたヒカルの全勝でのトップ合格。

越智はヒカルとの対局をアキラに見せなかったが、そんなものは対局している今はアキラにとってどうでもよくなっていた。

 

知りたかったヒカルの実力は盤上に映し出されている。

 

――間違いないっ!君は僕の生涯のライバル!

 

そうアキラが確信した瞬間、ヒカルの一手が別の人物の一手に重なり、アキラは思わずその言ってに見とれ、石を掴もうとした手がピタリと止まってしまった。

 

――sai……

 

ヒカルが打った一手にsaiの影がちらつき、似ている、とアキラは感じる。

ネットの中にしか現われない最強の棋士がヒカルに重なる。

顔は盤面を向きながら、アキラは視線だけ上を向きヒカルを伺うが、ヒカルはアキラの止まった手に動揺することなく盤面をじっと見ていた。

今は対局中で、saiのことを考えている場合ではないとアキラは気持ちを切り替え打ち続けようとする。

 

しかし、一度ヒカルにsaiの影がちらつくと、その後からヒカルが打つ全てにアキラはsaiの影を探してしまう。

ネットの猛者を、日中韓のプロ棋士をことごとく打ち負かしている無敗の最強の棋士。

正体不明の棋士が見せる圧倒的な強さは、決してヒカルではない。

けれど、よくよく見ればヒカルの打ち筋はsaiととても似ている。

 

昼食の打ち掛けの呼び音が鳴り、途端に対局場に石が打たれる音がやみ、人の声がざわめき出す。

 

けれど、対局の集中が抜け切らず、ヒカルがハッと気付いたときには皆昼食を取りに行き、周囲には誰もいなかった。

冴木と外に食べに行くことになっていたのだが、盤面に集中している自分に遠慮して、声をかけなかったのかもしれないと、後を追おうとして、

 

「あ、メシっ!塔矢、お前メシは?時間なくなるから俺いくぜ?」

 

ヒカルは声をかけてみたが、アキラが反応する気配はない。

食べない気なのかと、ヒカルはアキラに構わず昼食に行こうとして

 

「……sai」

 

――はいっ!

 

名前を呼ばれたと勘違いした佐為が、和谷の時とおなじく、条件反射で返事をしてしまう。

ヒカルも一瞬驚いたが、当然佐為の姿が見えていたわけではなく、アキラは正座し盤面を見据えたままだった。

 

「君と打っていてネットのsaiが思い浮かんだ」

 

「俺はsaiじゃねえぜ」

 

緒方や芹澤が気付いたように、アキラもまたヒカルの碁の中に佐為を感じ取ったのだろう。

そう思いながら、ヒカルはsaiではないと否定する。

打ち筋が似てしまうことはどうしようもない。

けれど、ヒカルは佐為ではないことだけは、きちんとアキラに言っておきたかった。

 

「……君だよ」

 

「塔矢?」

 

「もう1人の君だ。もう1人、君がいるんだ。僕達が出会った頃の進藤ヒカル、彼がsaiだ。碁会所で二度僕と打った、彼がsaiだ。キミを一番知っている僕だから、僕だけがわかる。君の中に……もう1人いる」

 

アキラの前だったが、ヒカルと佐為は反射的に顔を合わせた。

 

ヒカルと対局し、ヒカルの碁から受ける印象と初めて出会った頃に打った二度の対局から、アキラは思いつき、感じたままを語る。

ヒカルはsaiではないと何度理性で否定しても、本能はそれをまた否定する。

ヒカルと出会ってからアキラはずっと考えていた。

初めて対局したというヒカルが、アキラとの一局で見せた指導碁。

立ち向かってきたアキラを一刀両断のもとに打ち負かした二度目の対局。

 

夢か幻のような対局だった。

 

その後に、アキラが追いかけ中学の三将戦での対局が、ボロボロで無残であればあるほどに。

だが、その数ヶ月後にアキラが対局したsaiは、古い定石の影もなく、ヒカルに負けた対局より遥かに強い印象を受けたのに、途中の一手がヒカルの一手に重なった。

素人丸出しの親指と人差し指で石を持つその手に。

 

そして、今もまたネット碁で打ち続けるsaiとヒカルがアキラの中で重なる。

 

――塔矢が私に気付いた……

 

――話してもいないのに、俺しか知らない佐為に、俺の碁から佐為に気付いた……

 

もしも比べるとすれば、ヒカルより幽霊である佐為の方がヒカルより驚きが勝っていただろう。

虎次郎に取り憑いた時も、やはり虎次郎しか佐為の存在を知らず、他の誰も気付かなかった。

 

「……いや、なんでもない。おかしなことを言ってるな、僕は……」

 

言ってから支離滅裂なことを言っていると思い、アキラは気にしないでくれと先ほど自分が言ったことを自ら否定する。

 

「キミの打つ碁がキミの全てだ。それは変わらない。それで、もういい」

 

アキラに2度勝ち、次にボロ負けし、そして今、プロの世界まで追ってきてヒカルがアキラと互角の対局をしている事実だけは誰にも否定できない。

確かな真実だ。

 

「お前には……そうだな、いつか話すかもしれない」

 

誰に言うでもなく、ポツリとヒカルが零す。

考えて言ったわけではなかった。

アキラの言葉がヒカルにそう言わせたというのが自然だろうか。

 

もしアキラと出会わなければこうしてヒカルが囲碁のプロになることはなかった。

そのアキラが、はじめに追っていた佐為ではなく、今打っているヒカル自身の碁が全てだと言ってくれたのが嬉しかったのかもしれない。

 

――話すんですか?私のことを塔矢に

 

――いつかな、いつか

 

昼食を取るためにエレベータに向かいながら佐為に話しかけられ、ヒカルは曖昧に誤魔化す。

話すかもしれないし、話さないかもしれない。

だが、もし話すとしたら、さっきアキラがヒカルの碁が全てだと語り、それに対しヒカルが無意識に話すかもしれないと言った時のように、その瞬間は無意識にごく自然な流れで話しているのだろうとヒカルは思う。

頭で話そうと思って話すのではなく、体が話したいと思った時に話せればそれでいい。

 

「進藤!どういうことだ?」

 

「な、なんだよ」

 

突然名前を呼ばれ、ヒカルが体をビクリとさせながら振り向く。

声だけでも分かっていたが、やはりアキラが対局場からヒカルを追ってきて、ヒカルは戸惑いながら、ドアの開いたエレベータに乗り込む。

すると、アキラまで乗り込んできて、

 

「やはり謎があるのか!?話せ!」

 

「やだね!お前さっき俺の打つ碁が俺の全てとかいったばっかじゃん!それで、もういいんだろ!?」

 

「そ、それはそうだが……」

 

ヒカルの言葉にアキラは言葉に詰まる。

 

「ならしつこく聞くなよ!」

 

「でも僕には話すって!」

 

「いつかだいつか!お前までウルサイっ!!バカ!」

 

「バカとはなんだ!それにお前までってどういう意味だ!進藤!」

 

つい言ってしまったヒカルのボロを、アキラは買い文句で流さずしっかり拾い上げる。

 

「あーもうっ!だったら塔矢先生に互戦で勝てたら教えてやるっ!」

 

「なんだそれは!?どうしてそこでお父さんが出てくる!?」

 

昨日までは本当に会話すらしなかった2人が言い争う姿を眺めながら、佐為は扇で口元を隠し、クスリと微笑んだ。

 

 

 



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51

「緒方さんはこれ以上、ここで手抜きできないだろう」

 

「でも、例えばこう打つとすれば……」

 

アキラの指摘に、ヒカルは別の筋を示す。

ヒカルがプロになっての初対局以来、行洋の経営する碁会所でヒカルはアキラと検討したり、対局をするようになった。

そして現在、並べているのは先日ネット碁での佐為と緒方の二度目の対局。

ヒカルの方から緒方にメールして日程を決め、佐為と緒方の対局が行われたわけだが、対局が終わった直後、アキラから家に電話があったときは、ヒカルも驚きのあまり心臓が飛び出るかと思った。

 

恐る恐るヒカルが電話に出ると、『お父さんと十段戦を戦ってる最中だというのに』と電話口でアキラから散々愚痴を聞かされた。

愚痴を言いたいだけの電話なら、ヒカルも適当に返事して電話を切っただろうが、佐為との対局をヒカルが取り持ったという負い目がある分、無碍にすることも出 来ず、アキラの気が済むまで愚痴を聞いてやり、最後に『僕だってsaiと対局できるものならしたいんだ!緒方さんばかり!』と怒鳴り口調で本音が出て、よ うやくアキラの愚痴から解放されることができた。

 

「なんだか微笑ましいね~」

 

カウンターのところでヒカルとアキラの様子を眺めていた芦原が、微笑みながら言う。

少し前にこの碁会所に来ていたのだが、検討している2人の元へは行かず、こうしてカウンターから様子を眺めていた。

小さい頃から碁に夢中になっていたせいか、アキラが同い年の子供と一緒にいる姿を見たことがなかった。

大人に混じり、碁を打つ姿ばかりが思い出される。

 

それが久し振りに碁会所に顔を出してみると、今年のプロ試験で合格したヒカルと一緒になって仲良く検討しているのだ。

見た瞬間に芦原は自分の目を疑いかけたが、こうして落ち着いてみるとアキラが同じ年頃の子供と一緒にいる姿は、微笑ましい以外の何者でもない。

 

「そうですか?」

 

ヒカルとアキラを微笑ましそうに眺め、暢気な芦原の傍で、受付の市原は冷ややかに言う。

 

「進藤くんって、ここによく来るの?」

 

「来始めたのは最近ですよ」

 

「2人で検討するくらい仲いいなら、遠慮しないでもっと前からくればよかったのに」

 

「仲がいいかは微妙なんですけどね~」

 

名簿を整理しながら市原はふぅと溜息をこぼす。

少なくとも嫌いな相手と、わざわざ碁会所で待ち合わせしてまで検討はしないだろう。

しかし、2人で検討するのはおおいに結構なのだが、途中からがいただけない。

 

「ヤバくなってきた。そろそろ始まるぞ」

 

ヒカルとアキラの検討を傍で見学していた北島達が、とばっちりを食う前にと、そそくさと退散し2人から距離を置き始める。

 

「またぁ?全くもうっ」

 

「またって?」

 

すでに見慣れたこととはいえ、こう毎度毎度だと流石の市原も困り果ててしまう。

しかし、まだ2人のこれからを初めて見る芦原は周囲の反応の意図が分からず、これまた暢気に疑問符を飛ばすと

 

「『ああそうか』だって!?これくらい気付いたらどうだ進藤!」

 

「何言ってんだ!お前だってこの下がりが見えてなかったくせに!」

 

「その前にキミはこっちのツケを見落としてたろう!だいたい『ああそうか』ってもう何回キミが言ったと思う!?」

 

最初の怒鳴り声はアキラだった。

そしてヒカルも負けじと応戦する。

大人しく、怒鳴り合うアキラを一度も見たことがなかった芦原は初めて見る光景に面食らう。

 

「3回じゃない!4回だ!」

 

「数えてたのかよ!暇だな!お前なんか俺の言った事に6回も『ナルホド』って感心したじゃねぇーか!」

 

「デタラメ言うな!6回も言うわけないだろう!」

 

直後、ギリギリと歯を食いしばり、たっぷり10秒は睨めっこをして

 

「帰るっ!!」

 

ヒカルのお決まりの宣言を読んでいた市原が、受付後ろのロッカーから預かっていたヒカルのバッグを取り出し、出入り口に向かって息荒くドスドス足音を立ていくヒカルに渡す。

 

「はい、バッグ」

 

そのバッグを受け取り、店からヒカルの姿が消えてから

 

「ね、小学生のケンカですよ」

 

呆れたとばかりに市原が言う。

最初こそコスミやツケなどのレベルの高いミスの指摘応酬だが、それも長くは続かず、すぐに低レベルな言い争いへと変わる。

下手に2人ともプロなので、周囲の大人が注意できないのが悩みの種だ。

 

「アキラくんがケンカねぇ~……。でも初段の進藤君だとアキラ相手はちょっと荷が重いかな」

 

珍しいものを見たと楽観しながら芦原が笑うと

 

「僕だってたかが三段ですよ」

 

背後からアキラが芦原を睨みつける。

 

「どんなに力があっても始まりはみんな初段。段位と力は関係ありません!進藤を初段と思って侮らないでください!」

 

ヒカルを侮られたと憤慨しているようなアキラの物言いに、芦原は気圧されてつい『ごめん』と年下のアキラに謝ってしまう。

その謝罪を聞き届けて、検討していた席に戻るアキラの背中を見ながら、

 

「……ケンカしてたんだよね?」

 

「そうですよ」

 

ケンカするほど仲がいい、と最初に言ったのは誰だろうか。

 

 

□■□■

 

 

都内でのイベントで、自分の公開対局の時間になるまで緒方は控え室で、寄せられる周囲の視線を尻目に、1人で棋譜を並べては崩し、また同じ棋譜を一手づつゆっくり並べていくを繰り返す。

もともと、人を寄せ付けない雰囲気があることと、声をかけるのも憚られるほど、今の緒方が険しい顔で碁盤に集中していることがあり、必要外に誰も緒方に話しかける者はいなかった。

 

緒方がsaiと二度目の対局をしたことはプロ棋士と関係者の間ではほぼ周知の事実で、なぜ二度も互戦の対局が叶ったのかと噂になっている。

緒方は偶然を押し通しているが、偶然で二度もsaiと互戦で対局できたのを単なる強運で片付けるには、どうしても納得できない。

やはり緒方はsaiの正体を知ってて隠しているのでは、と無謀という名の勇気を出して尋ねた勇者に、緒方は冷たく

 

『正体を知っているんだったら、わざわざ他人に見られるネット碁で打って要らぬ疑いをかけられるより、どこかで対面してこっそり打つ方を選んでいる』

 

という至極最もな反論で退けた。

二度目の対局もsaiの3目半の勝ちだった。

突然の対局申し込みで打った前回と違い、今回は前もって対局する時間を決め、気持ち的に余裕を持って対局に臨むことができたのだが、saiの強さは揺らぐことはなかった。

緒方の厳しい打ち込みをするりとかわし、その上をいく。

 

対局後、お礼とまた打とうという旨のメールが、中学生らしくないほど丁寧な文章で緒方に届いた。

これをヒカルが考え文章を書く姿は想像できなかったが、やはり二度もヒカルに負けてしまった事実は、緒方を強かに打ちのめした。

 

だが、現在、緒方が並べている棋譜はsaiとの対局のものではなく、ヒカルが芹澤と対局しているときに現われたsaiの棋譜だった。

ヒカルにsaiを問い詰める前に大きく立ちはだかる壁。

どんなに緒方が確信していようとも、ヒカルとsaiのアリバイが成立していれば、確信も無力に等しい。

しかし、正面から行くのは、ヒカルの背後に誰がいるか分からない現状では決して得策ではない。

 

もう1人、saiとしてのヒカルと同等の棋力を持つ正体不明の誰かがいるとも考え難いので、ヒカルの背後にいる人物は恐らく緒方も知っている棋士だろう。

だが、あと一歩のところでその棋士が誰か分からず、苛立ちだけが増していく。

 

「なんだ?棋譜を並べてんのか、緒方くん。」

 

不意に声をかけられ、緒方は顔を碁盤からあげる。

普通の神経の持ち主なら、今の緒方に近づき声をかけるなんて真似は出来なかったろうが、相手はそれ以上の神経と度胸の持ち主だった。

 

「森下先生……」

 

さしものの緒方も目上にあたる棋士を、邪険に追い払うわけにはいかない。

どう対処するべきかと悩んでいる緒方を他所に、森下は緒方の並べていた棋譜をヒョイと見やる。

 

「行洋のか。それはいつんだ?見た記憶がねぇが」

 

「塔矢先生?」

 

思いがけない名前に、緒方は森下の出した名前を繰り返す。

 

「行洋んじゃねぇのか?いや、しかし……誰の棋譜だ?」

 

「森下先生はこれを塔矢先生だと思いますか?」

 

森下は行洋と同期で合格したプロ棋士で、その付き合いも長い。

その森下がひと目で、この誰が打ったとも知れない棋譜を行洋とあたりをつけた。

棋譜を見る前から下手に疑わず、見た瞬間の印象で森下は言っただけなのだろうが、だからこそ信憑性も増す。

 

「パッと見た感じはそんな印象を受けたが、やっぱり行洋なのか?行洋にしちゃらしくない打ち方してるな」

 

顎に扇子の先を当て、じっと碁盤を森下は眺め、緒方も驚愕のあまり思考の回らない頭で、緩慢な速さで視線を碁盤に戻す。

 

急に強くなった行洋。

 

以前、棋院で緒方の追及から逃れようとしたヒカルを追っていたとき、咄嗟に行洋の後ろに隠れたヒカル。

あのときは子供の無神経さで塔矢行洋の背中に張り付くなんて恐ろしい芸当が出来たのだと思っていたが、すでに2人が誰も知らないところで親しい仲だったからこそ近寄るのも憚られる行洋にヒカルは助けを求めることが出来たのか。

 

そして、行洋もヒカルがsaiの知り合いだという緒方の言い分を上手く退け、何も知らない森下にヒカルを預け逃がした。

 

そこで緒方はこれまで深く考えたことのなかったヒカルの一言が頭を過ぎる。

プロ試験に合格が確定していて、ヒカルは誰かと全勝合格する約束をして、そして研究会の日に、行洋へあった『約束を果たした』という電話。

 

すべての糸が繋がったと緒方は思った。

 

 

 



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52

行洋が初めてこの店に訪れたのはいつだっただろうか。

まだタイトルを持たずリーグ戦で己より高段の棋士達を相手に、日々揉まれていた頃に何かのタイトルのスポンサーをしていた会長に連れられてきたのが初めてだったと朧げに思い出す。

初めて訪れた行洋の目を奪ったのは庭の美しさだった。

華美な花はなく、松や紅葉、つつじなどの木々が細部にまで手入れされ、かといって神経質なほどに手入れをするわけでなく、落ち葉一つ、葉の落葉の様をありのままに残すことで、季節の移ろいを見るものに感じさせてくれた。

 

店の客は昔ながらの贔屓客か、その贔屓客の紹介でしか予約を取らなかったので、変な客はおらず、店の店員も最低限の少人数できりもりされ、礼儀やおもてなしなどの教育がきちんとほどこされている。

行き過ぎたサービスはせず、控えめな気配りと気遣いを気に入り、何度となく行洋は店に足を運んだ。

 

単に誰にも見られず打つだけなら、どこかホテルの一室でもよかった。

にも関わらず、数回しか会ったことのなかったヒカルを、この店に行洋が招いたのは、何か見えない運命が働いたからかもしれないと今更ながらに思う。

 

そしてこの店にヒカルを招いたのは間違いではなかった。

 

初めてヒカルと対局した日に佐為の存在を知らされ、たまに会う日は離れの部屋で時間を忘れて碁に没頭する。

弟子達や他のトップ棋士達と碁を打ち検討するのも、それはそれで行洋も勉強になったが、佐為と比べれば、どうしても天秤は佐為に傾く。

 

ヒカルにだけしか見えない平安時代の幽霊は、行洋に新しい世界を見せてくれた。

改めて碁を打つことがこの上なく楽しいと感じ、最善の一手の追求に無我夢中で没頭した。

それは行洋が碁を知ってから初めて見る世界であり、至福の世界でもあった。

 

「ここは?」

 

行洋の後ろから緒方がゆるりと近づき、手入れされた周囲の庭を見渡す。

意を決して緒方は行洋に2人きりで話ができないかと電話をしたのだが、これから出かける用事があると一度は断られた。

しかし、そこで諦めず5分だけでもいいから時間が欲しいと食い下がった緒方に、行洋はこの店に来るよう指示をした。

緒方より先に着いていた行洋は、店の庭の奥で、庭の木々を眺めており、緒方も急に時間を取らせてしまった非礼をまず詫びてから、この店を指名した意図を問う。

 

「私がたまに1人でいたいときなどに使っている店だ。客のプライバシーには特に厳しく守ってくれる」

 

「なぜそのような場所に私を?」

 

緒方の想定では行洋の家で人払いをして話すことになるだろうと思っていたのだが、行洋は外で会うことを提示し、そして恐らくこれから誰かとこの店で会う約束をしているのだろうと察する。

 

「ずっと、十段戦の最中から何か問いたそうな顔をしていたからね、君は。それは、私に対して聞きにくく、そして誰にも聞かれたくない話なのだろう?あまり時間は取れないから、用件を聞こうか」

 

「…………」

 

振り返らず庭を眺めたまま話す行洋に、緒方が問いたい内容に気付いていて、わざと塔矢邸を除外したのだと気付く。

いくら人払いをしても、いつ何時、行洋を尋ねてくる者が来るとも知れない家より、こうした店の方が話しが漏れることを心配しないで話すことができるだろう。

行洋がそのつもりでここに緒方を呼んだのならば、緒方も気をつかって遠まわしに言う必要はない。

正面から疑問をぶつける。

 

「先生は進藤がsaiであることをご存知ですね?そして、先日の……進藤が新初段で芹澤先生と対局した日、ネットに現われたsaiは塔矢先生ではありませんか?進藤がsaiではないかと疑っている芹澤先生の目を欺くために、先生がsaiとして打った……」

 

「気付くとすれば、君かアキラのどちらかだろうと思っていた」

 

行洋の顔は見えなかったが、そのどこかゆるやかな口調から、緒方は行洋が少し笑ったような気がした。

 

「気付いたのは森下先生です。私はsai本人ではないと思っていましたが、塔矢先生とまでは気付けませんでした。森下先生は塔矢先生がおかしな打ち方をしていると興味をもたれた様子でしたよ。」

 

「佐為になったつもりで、佐為ならばどこに打つか考えながら打ってみた。石の感触がないのは寂しかったが、あれはあれで面白かった。相手が誰かわからない分、どの相手にも全力で打つしかない。なにしろ、saiとして打つからには絶対に負けてはならないのだからね。まさか森下に見抜かれるとは思ってなかったが、 芹澤先生の目を逸らすには十分だったかな」

 

そうか、森下が気付いたのか、と行洋は面白そうに漏らす。

saiになったつもりで打ったという行洋に、緒方は見事にはまってしまい、もしあのイベントで偶然にも森下が緒方の並べている棋譜を覗かなければ、今もsaiの影武者が誰か分からずにいただろう。

十段戦で挑戦者の緒方が破れ、行洋はタイトルを防衛した。

 

その6冠の棋士が、息子のアキラならいざ知らず、今年プロになったばかりの子供の後ろにいると誰が考えるだろうか。

だがそれ以前に、行洋がsaiの正体を知っていて、一人秘密にしていたことが分かり、緒方は腹立たしい気持ちになる。

 

「……何故、そこまでして進藤がsaiであることを隠そうとするのですか?確かにあの歳であれほどの碁が打てるのは驚愕に他ならない。しかし、だからと言って本当の実力を偽る理由はどこにあるのです?対面し真剣に打ってくる相手に、力を抜いて負けたフリをしたり」

 

憤慨する気持ちを抑えきれず、緒方は感情に任せ責めるような口調で行洋に追求してしまうが、言っている途中で行洋がすっと体ごと振り返り、緒方を見据える。

そこに、それまでのヒカルがsaiであることを気付いたことに対する楽観した雰囲気や、ネット碁をしたと語っているときの、どこか弾んだ雰囲気は微塵もなく、静かに、そして射るように緒方を直視する。

 

「緒方君、見誤ってはいけない」

 

「え?」

 

「進藤君はsaiであって、佐為ではない」

 

「それはどういう意味……」

 

意味不明な行洋の言葉に、緒方は行洋から直視されていることでの動揺と相成り、怪訝な表情になる。

 

「私には彼が佐為を隠す理由が良く分かる。そして佐為の存在もまた、曖昧で儚い」

 

ヒカルが何故佐為の存在を隠すのかは、佐為が幽霊だという理由だけではないと行洋は思う。

もし世間が本因坊秀策であったという佐為の存在を知れば、途端に『ヒカルの碁』は見向きされず、どんなにヒカルが自分の力で碁を打とうとも、それは正当化されることはないだろう。

ヒカルが尽力を尽くした素晴らしい碁を打とうとも、佐為の助言があったのではと疑われる。

それだけでなく誰もが最強の幽霊をもてはやし、ヒカル自身は見向きされなくなる。

それは碁打ちに碁を打つなと言っているのと同然であり、行洋自身がもしヒカルと同じ境遇になれば、やはり誰にも言わず隠しただろうと思う。

 

となると、自分の力で碁を打つためには、表向き佐為に打たせず、その存在を隠すのが一番の良策なのだ。

 

だがヒカルはネット碁という相手の顔が見えない世界で佐為の存在を世界に知らしめてしまった。

 

行洋がそれを責めるつもりは全くない。

ヒカルが佐為にネット碁を打たせたからこそ、行洋がsaiを知るきっかけになった。

むしろネット碁だからこそ、江戸時代に佐為が取り憑いたという虎次郎のように、佐為の全てを背負い打つ必要が無くなったとも言える。

 

saiという正体不明の棋士の存在を、発達した現代の技術が許したのだ。

最強の強さと裏腹に、あまりにも儚い存在がこの時代に生きる人の目に留まることを。

 

「緒方君がどうやってsaiが進藤君であるのかということに辿りついたのかまでは、私は知らないし追求もしない。しかし、佐為に会いたいと緒方君が真実願うのなら、今はまだ静かに彼らを見守りなさい。いずれ、しかるべき時が来るまで。彼らが自ら話すそのときまで」

 

「しかるべき時とはいつなのです?それに彼らというのは、saiの存在とは……saiは進藤なのでしょう?」

 

「時がいつかは、私にも分からない。だが、そうでないと佐為は彼の中に隠れてしまい、対面して打つどころかネット碁ですら二度と現われてはくれなくなるやもしれない」

 

saiが現われなくなるという行洋の言葉に、緒方は言葉を失う。

理解できない行洋の言い様に、緒方は言及を重ねたが、行洋はさらに不可解な回答を返す。

話している途中から、緒方は行洋と話がどうにも噛み合わないと感じたが、行洋のこの言葉で漠然と察知する。

行洋はヒカルとsaiを別人として考えている。

だからヒカルとsaiを同一人物と考えている緒方と会話がずれてしまうのだ。

 

「進藤君は君を嫌い絶対に話さないと言っているわけではない。むしろ緒方君のことを好ましく思っている。ただ話すタイミングが見つからないだけだろう」

 

でなければ、メールアドレスを交換してまで緒方に佐為と打たせてやろうとはヒカルは決して思わないはずだ。

そのことを行洋に話したときも、緒方から合格祝いに食事を奢ってもらい、碁会所で一局打ってくれたと嬉しそうに話していた。

 

行洋の真剣な眼差しがふっと穏やかになり、

 

「そろそろ時間だ。お引取り願おうか。これから人と会う約束がある」

 

「先生待ってくださいっ!まだ何も!」

 

急な申し出で、用事があるという行洋に5分でいいからと強引に頼んだのは緒方の方だ。

行洋が時間だと話を打ち切れば、文句を言う筋合いはない。

しかし、肝心なところは何も話してもらえず、見守れという言葉に快く納得などできようはずがない。

 

庭から立ち去ろうとする行洋を追おうとして、

 

「彼が来る」

 

「……彼?」

 

「そう、彼だ」

 

行洋があえて名前を出さない相手に思い当たり、後を追おうとしていた緒方の足が止まる。

行洋と先約しており、これから会う人物は恐らくヒカルなのだ。

そう考えると、もし自分がここにいることをヒカルが知って二度と打てなくなるかもしれないと思うと、緒方は動けなくなる。

 

店の敷地そのものが広い。

母屋に戻る風でもなかったので奥に離れでもあり、そこで2人は会うのだろうかと、行洋が消えた方向を見ながら思う。

 

これから行洋と会うのが本当にヒカルなのか、自分の目で確かめるために、そしてもしヒカルなら店から出るところを見られない方がいいだろうと、緒方は母屋の影に身を隠しながらこれから来るであろう人物を待つ。

そこに前髪が明るい特徴的な髪型をした子供が、緒方が見ていることに全く気付かない様子で、すでに知ったる道と行洋が消えていった方へ軽い足取りで歩いて行った。

 



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53

ゴールデンウィーク。

岐阜の水明館で行われる日本棋院主催の囲碁ゼミナールに、ヒカルはプロとして初めての指導碁要員として参加することになった。

開催する棋院側のスタッフもだが、参加する一般客も水明館に一泊二日で泊まり、指導碁以外にもホテルの広間でプロ同士が対局しての大盤解説なども行われる大きなイベントである。

プロでも学生であるうちは、学校のある平日の仕事は学業を考慮して控えられるが、週末や大型連休のイベントではここぞとばかりに駆り出される。

 

ヒカルもその例外ではなく、朝早くから貸し切りバスに乗り込み、昼過ぎに会場に着くと、係員からスケジュール表を受け取り確認する。

 

――あ、緒方先生も来てる。イベントの合間にでも空いてたら、この前の対局の感想聞き行く?上手くいけば、検討とか出来るかも

 

――いいですね!是非!

 

イベントスケジュール表に緒方の対局を見つけ、ヒカルと佐為が目を輝かせる。

アキラとヒカルで一度検討しているが、やはり本人同士で検討するのでは話が違う。

もっとも佐為の代弁をヒカルがするだけで、上手く言葉を誤魔化しながら検討しなくてはならなくなるのだが、そこは仕方ないと割り切るしかない。

 

一度部屋に行って荷物を置き、相部屋の2人に挨拶すれば、少し休憩を取ってから指導碁の時間になる。

2人から3人を相手に同時に指導碁を打っていく。

ヒカルは指導碁に慣れているわけではなかったが、1人1人の棋力に合わせ、普段佐為がヒカルに打っている指導碁を思い出しながら丁寧に打った。

 

――ヒカル、次の指導碁、私が打ってもいいですか?

 

1回目の指導碁が終わり、碁盤の石を片付けていたヒカルに佐為が指導碁を打たせて欲しいと頼む。

 

――佐為?

 

――指導碁でしたら私が打ってもバレないと思うのです

 

プロですら勝てないのに、アマが2、3人寄って集ったところで、佐為の実力であれば力半分で蹴散らすだろう。

しかし、指導碁は勝つことが目的ではない。

本気さえ出さなければ、佐為の言うとおりバレる心配はないだろう。

 

――まぁ指導碁くらいならいっか

 

と、軽い気持ちでヒカルは答え、他のプロと交代制で行う指導碁を、佐為とも交代でヒカルは打った。

 

指導碁とひと括りに言っても、複数を相手に人それぞれに棋力が違えば、検討で指導していく内容も違ってくる。

どうすればこの人に分かりやすいだろうか、ということを考える気苦労を佐為と交代で分け合ったお陰か、初イベントの仕事だったわりにヒカルはそこまで疲れたということはなかった。

だから、出来るだけ参加している人に碁を指導してやりたいと思い、夜の11時を過ぎても会場に残り、参加者達の指導碁をすすんで引き受けた。

 

「だから、このサガリは今すぐにはきかないけど、他に狙いがあるんだ。出るだけならどうやっても出れるけど、それだけじゃ不満なんだってば」

 

自分が打った指導碁の一手の意味を、父親よりも年上の客達にヒカルは熱心に説明する。

佐為が指導碁を打ったとき、その佐為の説明も代弁したので、どう言えば相手に理解されやすいか、ヒカルにもいい勉強になった。

すると、客もヒカルの説明が理解できたようで、

 

「ほー、そういうことか」

 

と、相槌を打つ。

ヒカルが直接指導している相手ではない、指導碁席の周囲に集まっていた客達も、ヒカルの分かりやすい説明に感心したように

 

「あんた中学生でプロだって?たいしたもんだ」

 

「進藤ヒカルくんか、これから応援するからな」

 

などと口々に誉めるので、ヒカルは照れ笑いした。

いつも佐為から指導碁を受けるばかりなので、こうして自分が初めてプロとして指導碁を打ち、一生懸命話した説明が相手に分かってもらえることも十分嬉しいが、誉めてもらえばもっと嬉しい。

そこに、

 

「こんな時間まで打っているのか?もう夜も遅いぜ」

 

知っている声ではあるが、微かに舌ったらずな口調で、いきなり空いていた席に了承無く緒方が座る。

会場にも何人かプロ棋士が残り指導碁をしている姿はあったが、緒方の姿は夕食以降、見かけることはなかった。

それが急に現われたかと思うと、頬を紅潮させ、目もどこか据わっている。

昼間、指導碁の空き時間にヒカルと佐為が見学し、大盤で的確に解説していた緒方の姿はどこにもない。

 

「緒方先生っ!?」

 

「おいおい、そんなに驚かなくてもいいだろ」

 

ヒカルの驚きように、緒方はニヒルな笑みを浮かべる。

 

「緒方先生と飲みに行ってたんですか?」

 

「ああ、ワシのオゴリでな!」

 

恐らく緒方と一緒に飲みに行っていた連れも、緒方と同じく顔が赤い。

歩けないほどではないが、相当飲んだのだろう。

指導碁の席はいくらか離れているのに、それでも酒の臭いが漂ってきて、ヒカルはうっと顔を背けたい気持ちになった。

 

――酒くせぇっ

 

――見事な酔っ払いですね……

 

幽霊である佐為は、ヒカルのように緒方たちの酒の臭いは分からなかったが、大の大人が酒に酔っているからと言って、子供のヒカルに絡もうとしている態度には顔を顰(しか)めた。

 

「おい進藤、グーを出してみろ」

 

「ぐ…グー?」

 

この酔っ払いは何を意味不明なことを言い出すのか、と困惑しながらヒカルは手のひらを握りしめ緒方の方に差し出すと

 

「よし俺の勝ちだ!俺の質問に一つ正直に答えろ」

 

「はぁ!?」

 

緒方はパーを出し、じゃんけんに自分が勝ったと言うのだ。

後だしも甚(はなは)だしいが、それを言ったところで、この酔っ払いが相手ではどうにもならないだろう。

周囲も注意するどころか、緒方が酔っ払って子供に絡んでいるのを楽しそうに見ている。

どうしたらこの酔っ払いを追い払えるのかとヒカルが思案しても、酔っ払いは父親と親戚の類しか相手にしたことがなく、プロ棋士の先輩相手では全く対処法が思いつかない。

 

そうこうしている間にも、緒方が顔をヒカルへぐっと近づけ、

 

「おがっ……」

 

「何故実力を隠す?」

 

「え?」

 

ヒカルの思考が停止する。

2人のやりとりをヒカルの後ろで聞いていた佐為も、緒方の言葉に目を見張り、持っていた扇子を握る手に反射的に力が篭る。

 

「saiはお前だ。塔矢先生には話して、どうして俺には」

 

酒が回り、どこか間延びした口調で、緒方はヒカルを半開きの目で睨み、責めてくる。

が、緒方がまだ喋っている途中で、

 

「違うッ!!俺じゃない!!」

 

ヒカルは本能的に緒方を拒絶した。

大声を上げ、ヒカルが立ち上がった勢いで座っていた椅子が激しく倒れたことで、会場内にいた者たちが何事かと音のした方を注目する。

シン、と会場が静まり、ヒカルは直ぐにハッとして

 

「すいませんっ何でもないです!」

 

慌てて倒れてしまった椅子を起こす。

しかし、何も無いという言葉とは裏腹に、心臓は激しく脈打っている。

 

「ごめんなさいっ!俺明日早いからもう部屋戻ります!!」

 

指導碁の客への挨拶もそこそこにヒカルは会場から逃げ出すように出て行く。

途中、後ろを振り向いたが緒方が後を追ってくる気配はない。

足早にヒカルは自分の部屋に戻りながら、

 

――どうしよう佐為!あの人、俺がsaiだってことも塔矢先生のことも気付いてる!何で!?どうして!?

 

――ヒカル、落ち着いて!とにかく落ち着いて冷静に考えましょう!

 

自分がsaiであると疑っていたのは芹澤だけではなかったのか、とヒカルは困惑する。

緒方は芹澤のことをヒカルに教えてくれたが、それはヒカルがsaiと知り合いだと考えてのことだと思っていた。

現に、緒方は棋院でヒカルを問い詰めたときもヒカルとsaiは別人として見ていた。

それなのに、何時の間に知り合いから本人になっていたのだと、自ら気付かないうちにボロを出してしまっていたのかとヒカルはこれまでの行動を思い返す。

 

――明日はヒカルは何も予定無いんでしたよね!?

 

――そ、そうだけど……

 

――でしたら明日朝一番に、緒方に顔を合わせる前にここを出ましょう!考える時間は少しでもあった方がいい!

 

佐為の提案にヒカルは頷き部屋に戻るが、その夜はいつ緒方が訪ねてくるか分からない恐怖で、ヒカルは一睡も出来ず、次の朝を迎えた。

 

緒方に顔を合わせまいと、ヒカルは棋院のスタッフに今日の仕事は無いから帰ることを伝え、ホテルから出る一番早いバスに乗って家に戻った。

スケジュール表を見れば、緒方は今日もイベントの仕事が入っている。

バスにさえ乗ってしまえば、しばらくは緒方と顔を合わせる心配はない。

ほっとした安堵感で、昨夜一睡もしていない眠気がじわじわとヒカルを襲い、都内に着くまでヒカルはずっと眠ってしまっていた。

 

しかし、寝たといっても窮屈なバスの中で、熟睡出来たとは言えず、眠り眼で家に着くと、そのまま部屋に戻りベッドに潜り込んでしまった。

緒方のことはもちろん考えなくてはいけないが、こうも眠気があってはろくな考えは出てこない。

 

――言われた直後はテンパってどうしたらいいか分からなかったけど、塔矢先生に相談したら緒方先生のこともきっとまたいいアイディア出してくれると思うし……

 

とりあえず今はたっぷり寝て、全てはそれからだとヒカルは夢の中にダイブする。

それからヒカルが目覚めたのは5時間後のことだった。

時計を見れば既に夜の8時を回っている。

もそもそとベッドから起き出し、

 

「母さん、なんか食うもんない―?」

 

「やっと起きたのね。すぐに用意するわ」

 

ようやく起きてきたヒカルに、美津子は自分と夫が食べた皿を洗うのを止め、ヒカルの分にと別にしておいたオカズを暖めなおす。

イベントの話を聞いた当初こそ、中学生がホテルに一泊して仕事をするなど、どういう世界だと疑ったが、こればかりは美津子がどう言ったところで、ヒカルが選んだ道だ。

中学生だが社会人。

母親として出来る限りのことをやるしかないと、結局はそこにたどり着く。

 

「ふぁ……」

 

ヒカルから大きなあくびが漏れる。

慣れない時間に眠った所為で、起きても眠気が抜けず体もだるい。

ずっと眠っていた所為で乾いた喉を潤すために、ヒカルは冷蔵庫から適当に500mlのペットボトルジュールを取り出す。

しかしその蓋を取ろうとして、つけていた居間のテレビから聞こえてきたニュースに、ヒカルはピタリと立ち止まる。

 

知っている人の名前が聞こえた。

そしておかしなことをニュースキャスターは言っていた。

寝ぼけて聞き間違いか、と思いながらヒカルはテレビの方に振り向く。

そこには行洋の顔写真が画面中央に映され、『塔矢行洋、心筋梗塞で死亡』と白い大文字のテロップが書かれていると共に、

 

『繰り返します。囲碁界のトップ棋士、塔矢行洋6冠が昨夜未明、心筋梗塞で亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りいたします』

 

と、ニュースキャスターが抑揚の無い声で、行洋の他界を報道する。

 

――亡くなった!?まさか行洋殿がっ!?

 

突然の知らせに戸惑い動揺した佐為が声を荒げ

 

「……嘘だ」

 

ヒカルの手から持っていたペットボトルが力なく床に落ちた。

 



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54

その知らせが緒方に届いたのは、明け方近い5時頃だった。

部屋の戸をドンドンと叩き、同室の芦原と自分の名前が呼ばれているのは酒がまだ抜けない頭でなんとなく気付いたが、重い体は言うことをきかず、芦原が対応に出た。

そしてすぐにその芦原から緒方は叩き起こされ、事の次第を聞かされた。

 

体に残っていたアルコールや酔いなどは一瞬でどこかへ飛んで行った。

急いでスーツに着替え荷物をまとめると、すでに誰かが呼んでくれたらしいタクシーに芦原と一緒に乗り込み、そのまま行洋が運び込まれたという病院へ急いだ。

しかし、どんなに急いでも岐阜と東京では距離があり、病院に到着したのは昼前だった。

 

棋院の関係者が大勢集まる中に、動揺するなと自分に言い聞かせ病室の戸を開いてすぐ、そこに泣き崩れる明子夫人とその夫人の隣に寄り添うアキラの姿を見つけ、緒方は愕然とする。

当人である行洋が寝ているだろうベッドは、入り口に立つ緒方からは白い仕切り用のカーテンに隠れ見えなかったが、二人の姿を見ただけで知らせが本当なのだと緒方は悟った。

 

行洋が亡くなった。

 

あまりにも突然で早すぎる逝去だった。

明け方、連絡を受けたときはまだ病院に運ばれたという知らせだったのだが、その3時間後にはアキラからの電話で亡くなったことが伝えられた。

 

行洋が亡くなったその日の夜に、訪れるであろう弔問者の数を考え広い式場を借りて通夜が行われることになり、急過ぎる死去に誰もが驚き悼んだ。

心筋梗塞で倒れる原因の一端は、やはり対局過多で心労が溜まっていたのではないか、という推測が誰の口からも上がった。

タイトル戦は1年を通し対局時期をずらしているものの、7大タイトルのうち6つを保持していれば、ほぼ年中タイトル戦を戦っていると言って差し支えない。

そのタイトル戦を戦っている合間にも、大手合などの対局が組み込まれ、若いとは言えない行洋の心身にかかる疲労負担は計り知れなかっただろう。

もう少し対局数を減らし、負担を減らしてあげることは出来なかったのかと、今更ながらに悔やむ声が棋院関係者や後援会関係者からあがる。

 

しかし、故人を悼む声と同時に、声を潜めてはいても困惑したような声もまた式場内の所々で聞かれた。

現役の6冠の大棋士が突如他界したのだ。

囲碁界の損失は計り知れない。

通夜の最中に不謹慎だというのに、空位になったタイトルをどうするべきか、前例がないだけに今後の運営をどう行えばよいのか、誰もが今後の行方について勝手な推測が流れている。

 

「おう進藤、来たのか。遅かったな」

 

通夜に出席していた森下が、弔問も遅い時間にやってきたヒカルを見つける。

すでに弟子の冴木や和谷たち低段の若い者達は、夕方5時に弔問が始まった早い時間にやってきて、9時も過ぎようとしている現在はどうしても仕事や用事でこの時間になった者か、居残る親族くらいしかいない。

そこに親族でもない学生服を着た子供が通夜会場のロビーに現れれば、どうしても目立つ。

 

「俺、さっき知って……それで急いで来て……」

 

明らかに動揺し不安げに瞳を揺らしながら、ヒカルは森下を見やる。

 

「何で……?どうして?嘘でしょ?塔矢先生が亡くなったなんて……」

 

「俺も連絡を受けたときは信じられなかったが……行洋のやつ、くそっ……」

 

同じ年のプロ試験で合格し、それから頭角を現していく行洋に同期として負けてなるものかと森下は日々囲碁の探求を惜しまなかった。

リーグ戦で戦ったこともあったが、結局森下は一度も行洋からタイトルを奪うことが出来ないまま、行洋は逝ってしまった。

『勝ち逃げしやがって』『俺の許可なく死にやがって』と何度心の中で叫んだか分からない。

もう二度と行洋と碁を打つことが出来なくなったという行き場のない憤りだけが森下を苛む。

 

しかし、森下の言葉も何も耳に入っていない様子で、扉の開いた通夜会場の中を真っ青な顔でじっと見やるヒカルに、森下はどうかしたのかと声をかけようとして、

 

「だってっ、この前会ったときだって、すごく元気そうにしてたんだよ?」

 

「何だ、進藤?お前、行洋と会ってたのか?」

 

ヒカルの口から思わぬ事実が出てきて、森下は目を見開く。

研究会繋がりの森下ならいざしらず、門下でもないヒカルがタイトルホルダーでありトップ棋士の行洋とどこで会う機会があるというのか。

以前、棋院内で偶然行洋とヒカルが一緒にいるところを森下は見かけたことはあったが、そこまで親しいという印象は受けなかった。

行洋というよりも緒方の方とヒカルが何かあって、そこに行洋が間に入っていたという淡々とした感じだった。

 

けれど、目の前のヒカルの様子が明らかにおかしいと森下はこの時点で気付く。

真っ青な顔がさらに青ざめ、身体が小刻みに震えている。

会場内を見ているようでその焦点は合っていない。

 

「その先生がなんで死んじゃうの?変だよ、こんなのおかしいよ!」

 

「オイ?進藤!?」

 

ゴールデンウィークに入る前の日曜日に会った行洋の姿が、ヒカルの脳裏に走馬灯のように蘇る。

いつもと変わらない様子で行洋は佐為と対局していた。

何もおかしいところはなかった。

限界だった。

取り乱し、ヒカルは叫ぶ。

 

「また打とうって言った!別れるときだって塔矢先生は笑ってたんだ!!」

 

「saiッ!!しっかりしろ!!」

 

我を忘れたヒカルの顔を両手で掴み、自分の方を向かせ、緒方が大声で呼ぶ。

瞬間、ビクリと身体を震わせヒカルが反応した。

次第に我を取り戻し、ゆっくりと定まっていく焦点に、緒方の顔が映る。

呼吸を乱れさせながら、ヒカルは緒方の名前を呼んだ。

 

「お、おが、たせん…せ……」

 

「緒方君!?」

 

突然現われヒカルを怒鳴った緒方に、流石の森下も驚く。

普段から冷静で態度を崩したところを見たことがない緒方が、いきなり怒鳴ったのだ。

 

「少し落ち着け、進藤」

 

低い声で諭し、緒方はヒカルの顔から手を離し、そのまま下へ持ってきて肩から二の腕にかけて気が静まるように数度撫でてやった。

 

「動揺してるみたいなので、すこし外の空気吸わせてきます。すいません、『ウルサイ』なんて怒鳴ってしまって」

 

「あ、ああ。分かった」

 

「ほら、こっち来い、進藤」

 

森下が頷くのを確認しながら、緒方はまだ呆然とその場に立ち竦むヒカルを急かすように、ヒカルの腕を掴み引っ張り外へと連れて行ってしまう。

その森下の近くに、何事かとやってきた芦原は、

 

「なんだ、うるさいって言ったのか、びっくりした~~」

 

緒方が怒鳴った一言が一瞬『sai』に聞こえ、やはり聞き間違いだったのだと分かった反面、自分にはいつも冷たい兄弟子の珍しい光景を見たと興味深々でヒカルを連れて行く緒方の後姿を見ていた。

 

そして緒方がヒカルを連れて行った先は、緒方の車の中だった。

ガラス窓から中が見えるとはいえ、それでも他人に話を聞かれる危険性はほぼない。

助手席にヒカルを座らせ、

 

「……信じられない気持ちは分かる。俺も同じだ。いくらなんでも死ぬなんて早すぎるっ」

 

ハンドルにもたれかけながら緒方が言う。

寝耳に水とは本当にこのことを言うのだと思う。

寝ていたところに行洋が病院に運ばれ危険な状態であることが知らされたかと思うと、急ぎタクシーで帰っている途中の電話は処置の甲斐なく亡くなったと言う。

まだまだ行洋から学ぶ碁はたくさんあった。

行洋からタイトル一つも奪えていない。

saiについても何一つ話してもらっていない。

なのに、行洋は突然逝ってしまった。

 

「動揺するなとは言わん。だが取り乱すな。お前と先生の関係は誰も知らないんだ。お前が自ら周囲に疑いを持たれるような真似をしてどうする?先生はお前を守り隠そうとしてたんだろうが」

 

緒方は一つ一つの言葉に間を置きながら、ヒカルに言い聞かせるように話す。

すると、ずっと俯いていたヒカルが、おずおずと顔を上げ緒方を見上げた。

 

「お前が先生に会いに料亭に行った日、俺も直前に塔矢先生と会っていたんだ。お前の新初段の対局の日に現われたsai、それが塔矢先生であることに気づいて、真偽を確かめに行った」

 

「……塔矢先生は、なんて?」

 

「お前と先生が繋がっていたことはこっちが拍子抜けするくらい簡単に認めたが、お前はsaiであってsaiではない、そう先生は言われた。そしてその意味は教 えては下さらなかった。時が来るまで静かに見守れと……。だが、肝心なことは教えてもらえず、ただ見守れと言わたところで到底納得できるもんじゃない。正 直、先生とお前の世界に、俺が立ち入れない線引きをされた気分になった」

 

行洋がsaiであるヒカルを特別視しているのか、ヒカルがsaiの秘密を話した行洋だけを特別視しているのか、それともその両方なのかは緒方には分からない。

しかし、緒方がヒカルを問い詰めたとき咄嗟に行洋の後ろに隠れ助けを求めたり、ヒカルが窮地に立った時は似合わないネット碁を打ってまでsaiであることを隠そうとした行洋に、目に見えない確かな繋がりが2人の間に見えたのは確かだった。

 

「……イベントの時は悪かった。酒が入っていたとはいえ、他人の目があるところで問い詰めるようなことじゃなかった。俺はもう……saiの正体を追わない。 saiが誰であっても構わない。……ただ、もし許してもらえるなら、これからもたまにネットで打ってくれれば、それだけで十分だ。落ち着いたら会場に来 い。そして先生の顔を見てやってくれ」

 

落ち着くまで車にいていいから、車を出るとき鍵を閉めて来いと、緒方はヒカルに車の鍵を差し出す。

その鍵を受け取り、車から出て行こうとする緒方に、

 

「緒方先生……」

 

ヒカルに名前を呼ばれ、緒方は顔だけ振り向く。

 

「ありがと、助かった……。でも変な感じ」

 

「何が?」

 

「緒方先生が白のスーツじゃない」

 

ぎこちない笑みではあったが、ヒカルが見慣れない緒方の黒スーツを笑う。

 

「通夜に白のスーツで来れるか、バカヤロウ」

 

フンッ、と笑い飛ばし、緒方は車のドアを閉め、会場の方へ戻っていく。

 

ヒカルの顔から再び笑みが消え、手のひらに握られた車の鍵に視線が落ちる。

通夜の会場につき、集まった人を見ても行洋が死んだことがヒカルには信じられなかった。

皆で笑えない冗談でもしているんじゃないかと思った。

はじめは佐為の願いで会うようになった行洋が、いつのまにかこんなに自分の中で大事な人になっていたことをヒカルは失って初めて気付かされた。

 

思い出されるのは、射抜くほどに真剣な眼差しで碁盤をはさみ佐為と向き合う行洋の姿。

そして、検討している最中にふと見せる穏やかで優しい微笑み。

 

手のひらの鍵をヒカルはぐっと握り締める。

 

――行こっか、佐為

 

――はい。ちゃんとお別れを言いましょう

 

気持ちを静めるために一度深呼吸をしてから、ヒカルは緒方の車を出る。

それから会場に向かい、入り口近くに立っていた緒方に車の鍵を渡した。

また会場内で自分が取り乱したりしないか気になって、こんなところで待っていてくれたのだろうかと思うと、ヒカルは申し訳ない気持ちになり、もう大丈夫だと言う代わりに

 

「先生に、会ってくる……」

 

それだけでヒカルが冷静さを取り戻し落ち着いたのだと伝わったのか

 

「ああ、行って来い」

 

緒方も小さく頷いた。

 

「進藤、さっき取り乱したって聞いたけど、もう大丈夫か?」

 

会場内で通夜にやってきた客の相手をしていたアキラが、会場内に入ってきたヒカルに気付き、スタッフに一言断ってからヒカルの元へ歩み寄る。

 

「うん……ごめん、もう大丈夫だから。息子のお前じゃなくて他人の俺が動揺するとかありえないよな、はは……」

 

乾いた笑みを浮かべる。

しかし、何事もないと言うヒカルの目は赤かった。

落ち着かせると緒方に連れていかれたらしいが、そこでヒカルは泣いたのだろうかとアキラは思う。

そして、芦原が言っていたことが本当なのか、聞き難そうにアキラは尋ねる。

 

「……お父さんと打ったことがあったって聞いたんだけど」

 

その問いに、ヒカルは『うん』と一度頷き、

 

「先生すごく忙しくて、数ヶ月に一回とかぐらいしか会えなかったけど……たまに会ってくれて、俺が院生になってからは指導碁も打ってくれたんだ」

 

「お父さんが進藤に指導碁?」

 

「指導碁のあともいっぱい検討してもらった」

 

「知らなかった……お父さんが進藤に……」

 

何時の間に2人がそんな親しい関係になっていたのだろうと、アキラは初めて知った行洋の隠れた過去に素直に驚いた。

アキラがヒカルを気にしていたことで、行洋も多少なりヒカルに興味を持っている風ではあったが、多忙なスケジュールの合間をぬって会ってまで、ヒカルと打っていたとは知らなかった。

 

「お互い会ってることを誰にも話さないって約束してたからな。内緒で会って、打ってた」

 

「それって……どういう」

 

意味か、と問おうとしたがヒカルはパッとアキラを振り向き笑むと

 

「明日葬儀だろ?」

 

「え?ああ、そうだけど」

 

「また明日くるよ。お前も大変だろうけどしっかりな。じゃっ」

 

それだけ言うとヒカルは踵を返し帰ろうとする。

先ほど言ったヒカルの言葉の意味は何だ、と追いかけようとしたアキラの手が止まったのは、目を赤くしたヒカルの顔が過ぎったからだった。

 

家族でも親戚でも門弟ですらなかったが、知らないところで行洋と親しくなっていたヒカルは、行洋の死に自分と同じかそれ以上に傷つき悲しんでいる。

それで先ほど取り乱したのかもしれない。

そのヒカルに問い詰めるような真似はできず、今だけは静かにしてやりたいと思った。

 

 



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55

次の日、行洋の葬儀が行われた日、前日の通夜で言っていた通りヒカルは葬儀にやってきた。

通夜のように取り乱すことはなく、一番後ろの席に座り、ずっと静かに祭壇上に飾られた行洋の遺影を眺めていた。

焼香の時、棺おけに収められた行洋を見て、『眠ってるみたいだ』とヒカルは呟いた。

 

 

If God 55

 

 

埋火葬が終わり、精進落としのためにアキラたち家族親類と緒方ら門弟や棋院関係者は塔矢邸に戻った。

行洋が突然倒れてから葬儀まで本当にあっという間の出来事だったとアキラは思う。

突然主を失った家が、1人いなくなっただけなのにどこか寂しそうに見えたのは、アキラ自身が行洋がいなくなってしまった喪失からそう見えたのかもしれない。

 

精進落としも一通り終わった頃、行洋の弁護士がアキラを含めた門弟、そしてもしこの場に研究会に参加していた人がいたらその方も呼んで欲しいと明子に頼んだ。

弁護士が何事か、と緒方は思ったが、行洋からもし自分に何かあったら渡して欲しいと頼まれたものがあるという。

 

塔矢邸の一室に集められ、弁護士は一つの封筒を差し出す。

 

「こちらが塔矢先生からお預かりしていたものになります。もし自分に何かあったら葬儀後にでも弟子たちに渡してほしいと頼まれておりました。私は中身を見ておりませんが、確認をお願いしたします」

 

弁護士の事務的な言葉に、その場を代表するように息子のアキラがA4の大きさの封筒を受け取った。

後ろを留めてある紐を外し、中身を取り出す。

 

「棋譜……?」

 

中から出てきたのは十数枚にもおよぶ棋譜だった。

棋譜は手書きで書かれ、その字から行洋が自ら書いたのだろうと推察できた。

だが、書かれた棋譜の内容はアキラも初めて見るものだった。

何故こんな棋譜が、と疑問に思いながら、兄弟子である緒方や芦原たちにも棋譜を一枚一枚渡していく。

 

しかし、その棋譜は全て名局といってよかった。

渡された棋譜を見た緒方たちもすぐにそのことに気付いたようで、驚愕の眼差しで棋譜に食い入っている。

 

「これって誰の棋譜?先生が渡してほしいって言ってたんなら、1人は先生だろうけど相手は誰?」

 

戸惑いながら芦原が誰に問うとも知れない問いかけをする。

その棋譜の裏を最初にひっくり返したのは誰だったか。

部屋の一角で『あっ』という声が上がったかと思うと、

 

「佐、為?(さい)」

 

棋譜の裏の左下に小さく書かれている2文字を緒方は声に出して読む。

そして、その読み方はきっと間違っていないのだろうと緒方は思った。

行洋が当て字で名前を書いたとは考えられない。

HN:saiの本当の名前は『佐為』。

ヒカルではなかった。

 

「先生の相手はsaiだ……」

 

「sai!?」

 

緒方の言葉にその場にいた棋士達は騒然となった。

誰も正体を知らないsaiと行洋が知らないところで対局し、棋譜を残していたのだ。

驚くなという方が無理だった。

 

 

■□■□

 

 

行洋の四十九日もようやく終わった6月の終わり、まだ7月にもなっていないのに真夏を思わせる暑い日、アキラはヒカルに突然呼び出され、都内の料亭の前に立っていた。

行洋の葬儀の後、通夜でヒカルが言っていた『内緒で打っていた』という言葉の意味をアキラはヒカルに何度か尋ねたが、『今度話す』と言っていつも逃げられていた。

そして行洋が残した棋譜が、日本に留まらず中国や韓国でも騒ぎになり、アキラも少なからずsaiの正体を知っているのではと見に覚えの全くない疑惑に振り回され、余計なストレスになった。

 

判明したのは正体不明の棋士が、どこかで行洋と会い対局していたことと、名前が『佐為』であるということだけ。

 

日本でも珍しい名前なので、すぐにsai本人が見つかるのではと思われていた予測を裏切り、以前と変わらず何も情報は出てこない。

 

アキラもsaiの正体を知りたい一人である。

しかし、アキラの中のsaiは、ヒカルの中のもう1人のヒカルだと一度結論付けてしまった。

そこから全くの別人が出てくるとは思わず、行洋の棋譜の真意が分からず今も戸惑い続けている。

 

が、今はそのヒカルに呼び出された店の前で、この暑さにも関わらずきっちり白スーツを着込んだ見知った人物をアキラは眼の前に

 

「何故、緒方さんがここにいるんですか?」

 

「進藤に呼びだされたからだ。アキラくんこそ何故ここへ?」

 

「僕も進藤にここに来るよう呼ばれたんです」

 

お互い自分以外で呼び出された相手がいるとは思っておらず、そして知らされてもいなかったので、なぜお前がいるのか、と門の前で火花を散らす。

その2人を前に、熱い日差しですでにバテかけたヒカルが疲れ口調で

 

「……2人とも、なに店の前でにらみ合ってんだよ。営業妨害だぞ。暑いしさっさと入ろうぜ?」

 

と言って、2人の間を通り店の中に入っていく。

すぐに店の者がヒカルの姿に気付き、案内しようとしたが、ヒカルが自分達で部屋に行っているから構わないでくれと断り、母屋ではなく店の奥の離れの方へ歩いていく。

 

緒方は二度目、そしてアキラは初めて来た店だった。

なぜこんな店にヒカルが慣れた様子で入っているのかアキラは驚きながらついていき、緒方もこの店が行洋とヒカルが密会していた店ではないかと戸惑いながら後を追う。

 

少し歩いて着いた部屋は、すでに室内に空調が効いており、外の暑さからようやく逃げられたヒカルはだらしなく冷たい畳に寝転がる。

 

「オイ、進藤。呼ばれた俺が言うのもなんだが、本当に大丈夫なのか?この店、相当高いだろうが」

 

「それは平気。俺もそう思って確認しようとしたらさ、塔矢先生が自分に何かあったときにって一日分多めにもう払ってたらしくて、女将さんも気にしなくていいって」

 

予想外なヒカルの答えに驚いたのは緒方だけでなく、アキラもだった。

突然呼び出された高級そうな店で、いきなり何の前置きもなく行洋の名前がヒカルの口から出てきた。

 

「お父さんが!?」

 

「うん」

 

一つ頷き、ヒカルは寝転がっていた体を起こし座りなおす。

 

「ここで、塔矢先生といつも打ってた」

 

ヒカルが部屋を見渡す。

和式で掛け軸が一つかけられているだけの小奇麗な部屋。

料亭のはずなのに、室内の机は隅にやられ、代わりに碁盤と碁石が中央に用意されている。

 

「失礼いたします」

 

一言声がかかり、女将が部屋に入ってくる。

 

「お茶をお持ちしました」

 

そう言って持ってきた盆の上には急須が一つとお茶が4つ乗っている。

持ってきたお茶を緒方、アキラ、そしてヒカルへは2つ渡し、『ごゆっくり』と言い残し女将は部屋を出て行く。

 

――ありがとう、ヒカル

 

二つ渡されたお茶のうち一つをヒカルから差し出され、佐為は軽く頭を下げた。

 

「お茶がもう一つってことは、あと1人だれか来るのか?」

 

自分が飲む様子でもないヒカルに、お茶がもう一つ用意されている意図をアキラが問う。

 

「もう全員そろってるぜ」

 

「でも、このお茶は?」

 

「それはそれでいいんだよ。んじゃ、取り合えず打とっか」

 

ぐっと背伸びをして、まだ戸惑っている緒方とアキラを他所に、勝手に2人の座る位置を指示していく。

 

「緒方先生はそっちで、塔矢はこっちね。塔矢は俺が言うとおりに打ってくれればいいから。緒方先生はもちろん打った石の場所は黙っててね。俺はこっち向いてる」

 

と、自分のお茶を持ってヒカルは碁盤に背を向けてしまう。

ここで、兄弟子同様、短いアキラの忍耐の尾が切れた。

何も説明されず対局しろと言われたかと思ったら、アキラには自分が指示するところ石を打てと言い、ヒカルは後ろを向いてしまった。

 

これでは碁盤が見えない。

緒方がどこに打ったのかヒカルには分からない。

目隠し碁のようなものだ。

 

アキラと同じように緒方もまたヒカルが何をしたいのか分からない様子で戸惑っていた。

自分達をからかいたいだけなのかとアキラはヒカルを批難する。

 

「進藤、何がやりたい!?いきなり呼び出したかと思ったら、緒方さんと打て?しかも後ろむいた自分の言うとおりに打てとは、何がしたいのか全く分からない!もっと詳しく説明しろ!」

 

「塔矢先生の時は、塔矢先生1人で打ってもらった。初めて塔矢先生とここで会ったとき、こんな風に俺は碁盤を見ないように後ろを向いて、俺が言う位置に石を打ってもらって対局したんだ」

 

淡々とヒカル言って、お茶を一口飲んだ。

行洋とも同じような状況で碁を打ったのだというヒカルに、緒方とアキラは信じられないと絶句し互いに目を合わせた。

 

「緒方先生、本気で打ってね。本気で打っても多分勝てないけど。すでにコイツ、臨戦態勢入ってるし。2人とも会いたかったんでしょ?」

 

鼻歌でも歌うような風情で、ヒカルは面白そうに言うと、間をおいてからその名前を口にする。

 

 

「佐為に」

 

 

 

 

 



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56 ― 完 ―

ヒカルは碁盤に背を向け、一度も碁盤の方を振り向かなかった。

しかし、碁盤を見ることなく、緒方が無言で打つ石に対し、一度も打ち間違えることなく最善の一手で打ち返してきた。

緒方の動揺など全く意に介すことなく、容赦なく斬り込んでくる。

結果は対局前にヒカルが言った通りの結果だった。

 

「何故……」

 

見えていない碁盤の石の位置が分かるのだと、緒方は続けようとして言葉が出てこなかった。

ヒカルの言う位置に石を打っていたアキラの驚愕はそれ以上のようで、声すら失ったようだった。常識では絶対にありえない。

耳に届くのはヒカルの指示と石を打つ音。そして離れの周囲に植えられている竹の葉がさわさわと風に揺れる葉擦れの音だけの、静寂に満ちていた。

 

「俺は見えてないよ。でも佐為は見てる。俺の後ろで、塔矢の隣から碁盤を見てる。『藤原佐為』は確かにここに存在するんだ」

 

 

 

If God 56

 

 

佐為については行洋に話したのとほぼ同様のことをアキラと緒方に話し、そして行洋と密会して打つようになった経緯もヒカルは続けて話した。

碁会所で初めて出会い二度アキラと打ったのは佐為であること、中学囲碁大会の三将戦でアキラと佐為が打っていたのを途中でヒカルが打ちダメにしてしまったこと、ネット碁でアキラと対局したのは佐為であったということ。

そして今もネット碁でsaiとして打っているのは『藤原佐為』であるということ。

全てを話し終わったあと、ヒカルは苦笑しながら

 

「俺のこと軽蔑する?」

 

とアキラに尋ねた。

幽霊から絶対に見つからないカンニングのように打つ場所を教えてもらい、アキラに勝っていたのだ。

卑怯だ、ズルだと言われても仕方ないとヒカルは思っている。

 

「……たしかに君と対局したはじめの二度の対局はズルかもしれない。しかし、それから囲碁を覚えてたった2年でプロになって、大手合で僕と打ったのは佐為ではなく進藤、君なんだろう」

 

ヒカルの話は到底信じられる話ではなかった。

幽霊が見えて、その幽霊は過去に本因坊秀策にとりつき、秀策として打っていた本人なのだと言うのだ。

単に説明されていただけなら馬鹿にしているのかと怒鳴っていたかもしれない。

しかし、ヒカルは後ろを向いたまま石を打つ場所を言い、そしてsaiの実力そのままに緒方に勝ったのだ。

その様を見せ付けられて頭ごなしにヒカルを批難することはできない。

 

「まぁ、そうだな」

 

「対局のあと、キミの打つ碁がキミの全てだと僕は言った。その言葉は佐為のことを話してくれた今も変わらない。僕は君を軽蔑などしないよ。僕はこれからも君と打ちたい」

 

戸惑いを隠すことまでは出来なかったが、アキラはヒカルを責めることなくありのままのヒカルを受け入れようと思う。

 

「そっか……ありがと」

 

ヘラリと、気が抜けたようにヒカルは笑む。

そしてもう1人、佐為の存在を知った相手に、ヒカルは首を傾げ問いかける。

 

「緒方先生はどう?納得できた?塔矢先生が、俺がsaiであって佐為じゃないって言った意味」

 

「……大まかにはな。だが、全部が全部すぐに理解できたわけじゃない。俺は目に見えないものは信じない主義だったんだ」

 

本因坊秀策の幽霊が見えるだと、と緒方は顎に手を当てたまま苦悩している。

見えるものしか信じないという言葉がとても緒方らしく、ヒカルはクスクス笑う。

それから、説明を補足するように

 

「塔矢先生のこと、誤解しないで欲しいんだけどいいかな?」

 

ヒカルは前置き一つ置いて緒方に確認を取る。

 

「何だ?」

 

「塔矢先生、きっと緒方先生にも本当は佐為のこと話したかったんだと思う。一度、俺に緒方先生には話さないのかって聞いてきたことがあって……」

 

「それで?」

 

「俺が塔矢先生だけでいいって断った」

 

「お前……」

 

張本人はやはりお前か、と緒方は苦々しくヒカルを見やる。

しかし、ヒカルは緒方に構うことなく言葉を続ける。

 

「塔 矢先生は、誰にも内緒で佐為と打ってくれて、俺にも指導碁打ってくれて、それはそれですごく感謝してたし嬉しかったんだけど、先生が佐為の存在を信じてく れて、俺と佐為を同一視しなかったことが一番嬉しかったんだ。だからその関係が壊れるようなことは少しでもしたくなかった。ずっと先生と俺と佐為の3人で 打てればそれでいいって、俺、自分のことしか考えてなかった」

 

自分のことしか考えていなかったヒカルと違い、行洋はアキラや弟子たちに佐為と対局した棋譜を残した。

行洋が残した棋譜は、日本の棋士だけに留まらず中国や韓国の棋士にも伝わり並べられ検討されているという。

世界で最も神の一手に近いと言われていた行洋と、ネットで並み居るプロ棋士を打ち破り無敗のsaiの対局。

棋譜を手に入れ並べた棋士の大多数が、その名局と賞賛するのに相応しい棋譜に、驚き感嘆しているらしい。

 

だが、残した行洋本人は亡くなっている。

死人に口無し。

どんなに尋ねようとも行洋が佐為について答えることはない。

棋譜だけを残し、行洋は佐為についてのすべてを墓まで持っていってしまった。

 

「だから、その罪滅ぼしってわけじゃないけど、緒方先生と塔矢には佐為のことを知ってもらいたいって思ったんだ。佐為のことを誰もが信じてくれるとは思わない し、佐為じゃなくて俺が打つことも否定してほしくない。だから2人にも佐為のことは誰にも話さないでほしいんだけどいいかな?あと、こうしてたまに佐為と 打ってもらえるといいんだけど」

 

ヒカルが恐々とアキラと緒方を交互に見やる。

身勝手な頼みではあったが、それ如何ではヒカルがこれ以降プロとして打っていく人生全てに関わる大問題である。

けれど、アキラは至って尊大に

 

「馬鹿か君は」

 

「は?」

 

「君と佐為は別人なんだろう?どこにそれをわざわざ人に言いふらす必要がある?君は君で打って、佐為は佐為で打てばいい」

 

とアキラ。

それに続けるようにして間髪入れず

 

「それで俺たち以外はネット碁で打たせておけ」

 

とアキラに負けない尊大さと上から目線で緒方が付け足す。

この弟弟子にしてこの兄弟子ありだ。

あれほどsaiの正体を求めておいて、いざsaiの正体を知ると前もって口裏を合わせていたかのようなこの見事な手のひらの返しように、ヒカルは思わずぷっと噴出した。

 

「なんだよ、それ!2人とも性格わり―!」

 

「所詮はお父さんの息子だからね」

 

「俺も所詮は先生の弟子だ。独占出来るものを誰にでも分けてやるほど聖人君子じゃない」

 

開き直る二人に、ヒカルは腹を抱えて笑う。

しかし、アキラは冗談を言っている風でもなく、ヒカルを指差し、至って真面目な顔で

 

「だいたい進藤はお父さんを美化し過ぎだ。確かに尊敬できる人ではあるけど、事が碁に関しては誰よりも厳しいし執着心も半端ない。進藤がもし佐為のことを誰かに話したいと相談しても、きっと最後にはやめておいた方がいいって絶対言ってるよ。せっかく自分ひとりが独占できてるのを、あのお父さんが黙って見過ごすとは思えない」

 

自分の父親であり、6冠という前人未到の最高棋士と謳われる行洋を、ここまでズバズバ言ってのけるアキラの剣幕にヒカルは気圧される。

美化しすぎと言われても、死んだ者が多少美化されてしまうのは仕方ないことであり、そこまで行洋のことを言う必要はないんじゃないかと反論しようとしてヒカルはふと思い出す。

 

緒方に佐為のことを話そうかどうか行洋と相談しているとき、行洋は『私だけが佐為を独占しているかのような気持ちになる』と確かに言っていた。

となるとあながちアキラの言っていることは言い過ぎといえなくもないし、逆に自分の父親の性格をよく分かっていると手を叩いてやりたくなる。

 

呆然とするヒカルに追い討ちをかけるように

 

「あとは進藤、お前がボロをいかに出さないかだ」

 

「あ、そういえば何で緒方先生は俺がsaiだって分かったの?」

 

ふと思い出し、ヒカルは何故緒方がsaiがヒカルであると気付いたのか、ずっと疑問に思っていたことを緒方にぶつけてみる。

すると緒方は大仰に溜息をついてから、

 

「カマをかけたらお前は笑って引っかかったんだよ!芹澤先生とのことを話したとき、俺は前髪が明るいガキだって言っただろうが!」

 

「それが?」

 

「芹澤先生は子供と打ったとは言ったが、前髪の明るいガキとは言ってなかったんだ。しかもそのガキはsaiかもしれないんだぞ?それなのにお前は馬鹿正直に信じるし、前髪の明るいガキがお前以外に誰がいる?」

 

呆れた眼差しで緒方は説明してやると、少しの間呆然としていたヒカルがようやく理解したのか、バッと緒方を指差し叫ぶ。

 

「……ズリ―!!卑怯くせぇ!!」

 

「誰が卑怯だ!そんな簡単な引っ掛けに引っかかるほうがバカだ!分かったら少しは用心しろ!」

 

と緒方は指差すヒカルの手を叩きながら鼻で笑う。

 

「なんだよそれ!ラーメン奢ってくれて実はすっげぇイイ人だなって見直したのに損した!」

 

なおもブーブー口を尖らせ、ヒカルは緒方に文句を垂れる。

その傍で

 

「進藤、君はラーメンごときで口を滑らせたのか……」

 

アキラはあまりにもヒカルらしい顛末に額を押さえながら溜め息をついた。

 

人は違うが人が1人増えただけで、行洋のときにはなかった騒がしさが部屋に満ちる。

その様子が面白くて佐為は口元を扇子で隠しながらクスクス笑う。

 

行洋と同じく、アキラと緒方の2人も佐為のことを誰にも話さないでいてくれるだろう。

佐為の存在抜きでヒカルをヒカルとして見て、碁を打ってくれるだろう。

 

そしていつか行洋にも負けない棋士として成長し、佐為と対局する日がやってくる。

 

――どんなに強くなっても私は負けるつもりはありませんけどね、行洋殿

 

三人が言い争う傍で、佐為の呟きは扇子に隠れ、誰にも聞かれることはなかった。

 

 

 

 

 

― 完 ―

 



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番外 -行洋 森下

ガラ、と昔ながらの音を立て、玄関が中から開かれる。

全く見知らぬ相手というわけではないが、気安いというには些か語幣のある相手に、森下は無意識に身構えそうになる。

 

「いらっしゃいませ。お久しぶりですわね、森下先生。お待ちしておりましたわ」

 

物腰柔らかに、明子は森下を出迎えた。

夫と同期でプロになった森下とは、何かのイベントや行事でしか会う機会はなかった。しかし、その容姿から無骨な印象を受けそうになるが、面倒見がよく、周囲にも気を配り、なんだかんだと行洋と気が合うことを明子は察していた。

何が邪魔をしているのかまでは分からないが、気が合うのなら誰に遠慮することなく話しかけるなり、碁を好きなだけ打つなりすればいいのに、2人はあまり親しい素振りを見せたがらない。

意地張らなきゃいいだけなのに、男の人って面倒よね。

そう思いながらも2人が言葉を交わさなくても、何故かお互いを分かっているからおかしなものだ。

 

「いや、こちらこそお久しぶりです。ご無沙汰になってしまって申し訳ない」

 

「そんなことございませんわ。あの人もたまには森下先生をお招きすればいいのに。ちっともよんで下さらないんですもの。さ、どうぞお入りになってください」

 

頭を軽く下げる森下に、玄関で長話にならないうちにと、明子は家の中に招き入れた。

 

「あなた、森下先生がいらっしゃいましたよ」

 

言いながら閉められた障子を開き、森下を行洋のいる部屋に通す。

 

「邪魔するぞ」

 

「ああ」

 

変に畏まる仲でもないので、森下は簡単に断ってから上座に座る行洋と碁盤を挟み、対座に用意してある座布団に腰を下ろした。

部屋の隅にはもう一つ碁盤と碁石が1セット置かれている。

恐らくこの部屋でいつも研究会を開いているのだろうと推測できた。

 

森下を部屋に通し、お茶を台所から運んできた明子に、

 

「明子、しばらく部屋に誰も近づけないでくれ」

 

「分かりました」

 

行洋の短い言葉に明子は瞳を伏せ頷く。

それは言われた明子だけでなく、息子のアキラや門下生の誰かが訪ねてきても行洋が呼ぶまで本当に誰も通すなと言っているのだ。

珍しく森下を家に呼んだかと思えば、部屋で会うなり人払いをしてまで大事な話があるのかと一瞬考えたが、欠片も表情に出さず明子は部屋を後にする。

いい大人が2人して何の悪戯の算段かしらね、と思いながら。

 

「お前から話があると言うから何かと思えば、随分と言い出しにくい内容のようだな」

 

表情を顰めたままの森下に、行洋は言いながら明子が運んできてくれたお茶に口を付けた。

 

「どうでもいい話をするためにわざわざお前んとこ来るとでも思ってたか」

 

「いや。だが雹(ひょう)くらいは降るかもしれんとは聞いた瞬間思ったぞ」

 

行洋につられるようにして森下もお茶を飲む。

それで少しは気を緩めることが出来たのか、ふぅと一息入れ、

 

「打ちながら話すか。俺がにぎろう」

 

碁盤の上に置かれた碁笥を引き寄せながら森下が言う。

にぎりで先番は森下、後番は行洋になった。

軽く頭を下げ、森下は一手目を盤面に打つ。

公式の手合いでもないので、一手にかける時間はゆったりと短い。

数手打ってから、森下はゆっくり口を開いた。

 

「俺 が開いている研究会に、内弟子のほかに1人院生が通ってる。師匠の俺が言うのも何だが、囲碁のセンスは弟子と比べても全く比較にならん。研究会に通うよう になった当初こそまだまだ危なっかしい碁だったが、すでに弟子では相手にならんし、プロ4段の別の弟子でさえ気を抜けばやられる。今年のプロ試験、アイツ はまず確実に受かるだろう。名前は進藤ヒカルという」

 

すでにプロ試験本戦も中盤だが、ヒカルは全勝のまま勝ち続けている。

弟子の和谷も全勝を続けているが、ヒカルとの対戦は終盤だ。

恐らく、いやほぼ間違いなくヒカルは和谷に勝つだろう。

 

森下の研究会にヒカルが来るようになってからもだが、とくにプロ試験が始まる直前からの成長が著しい。

日に日に強くなっているとは、このことを言うのではないだろうか。

それまでじっくり培い固めてきた地盤を基として、一気に才能が芽吹いているようだ。

 

「囲 碁を覚えて2年ということだが、ハッキリ言って、あの成長は恐れすら俺は抱く。倉田君という前例と比べても、……あれは異常だ。倉田君は碁を覚えてすぐに プロ棋士に師事した。だが、進藤は誰かプロ棋士に師事するようなこともなく、碁の勉強は週末の院生研修と俺の研究会くらいだ。たったそれだけで、すでにプ ロ棋士に成り得る実力をつけたんだ」

 

「それだけの才能が彼にあったのではないか?」

 

「才能はもちろん必要だ。そして才能を育てる本人の努力も必要だろう。しかし、もう一つ必要不可欠なモノがある」

 

行洋自身、弟子を何人も持ち、そして育てた弟子達の多くがプロ棋士になっている。

師匠として弟子を指導しているのなら、それに気付けないとは森下には思えない。

ワザと行洋が分からない振りをして、はぐらかそうとしているのかは分からなかったが、

 

「導き手だ」

 

言ってから、森下は石を打とうとしたが、思わずその一手を打つのに力が入ってしまい、カヤの碁盤が高い音を立てた。

 

これだけは才能と努力がどんなにあっても、如何ともしがたい。

1人で打つだけでは他所にそれそうになるのを修正し、正しい道へ戻す導き手。

その存在が必要なのだ。導き手の良し悪し次第で、才能は開花もするし下手すればつぶれることだって十分にある。

森下自身が弟子を持ち師匠と呼ばれるようになってから、それを痛いほど痛感した。

持った弟子の中にも、プロになれた者もいれば、なれなかった者もいる。

そのたびに自分の指導が悪かったから、この弟子はプロになれなかったのではないかと何度も悩んだ。

 

「師匠か。だが、先ほどお前自身がその進藤君に師匠はいないと言ったばかりでは」

 

「そうだ。進藤の打つ碁に、それと思い当たるような棋士はいない。アイツの打つ碁は、力をつけてきたとは言え、俺から見ればまだまだ甘い部分がある。だが進藤 の成長を見ていると、碁を学ぶ者として成長の見本のように見える。まるで教科書かなんかの参考書にでも載ってそうなぐらいのな」

 

「成長の見本とは、また面白い例えだ。お前にそんなが詩人の部分があったとは知らなかった」

 

盤面から森下は顔を上げ、揶揄する行洋をひと睨みした。

 

「茶化すな」

 

森下自身、言ってから自分に似合わない言葉だと思ったのだから。

 

「碁を覚えて2年でプロになれる実力を身につけられることは、この際いい。才能は時に、努力と周囲の常識を覆す。しかし、進藤の才能は正しく修正され導かれている。多少の壁にぶつかっているのかもしれないが、その壁にぶつかり間違った方向にそれないよう誰かが常に傍にいて見守り、誰も知らないところで導いてい る。だからたった2年でプロ以上の実力を得られたんだ」

 

「面白い推理だな。それを話すために今日はここへ?」

 

「そうだ。しかし、……ここに来て考えが変わった」

 

ヒカルの異常に思える成長もだったが、ヒカルを導いているだろう存在に心当たりがないか問うために、またヒカルの碁を見る機会があれば目をやり、ヒカルの打つ碁を見て欲しいと言うために、森下はこうして行洋の家に足を運んだのだ。

タイトルを複数保持し、海外のプロ棋士との対局回数も多い行洋なら、ヒカルの棋風に1人くらい心当たりがあるかもしれないと思って。

だが、実際にこうして話して、行洋の言葉に森下は違和感を覚えた。

 

「行洋、お前知っているのか」

 

「何を」

 

平静を乱すことなく、行洋は盤面を見据え言いながら石を打ち続ける。

 

「進藤を指導しているのが誰かってことに決まっとる」

 

「まさか。進藤くんと話したことすら偶然すれ違い様に数回言葉を交わした程度なのに、同じ研究会に参加しているお前にも分からないことを、私が知っているとでも?」

 

「確かに進藤のことは、お前と比べりゃ俺の方が知っているかもしれん。だが、同時に行洋、俺とお前との付き合いはそれ以上にもっと長ぇんだ。お前の下手な嘘くらい見分けられる程度にはな」

 

断言した森下に、行洋は対局し始めてようやく顔をあげた。

 

「……何故、嘘と思う?」

 

盤面から顔をあげた行洋に、森下も石を打つのを止め、顔をあげる。

 

「お前んとこのアキラくんだって幼い頃からお前が指導してプロになった。悔しいが下手碁しか打てねねぇ俺のガキ共とは違う。だが、それでも何年もかけて手塩に育てて、ようやくそれだけの実力を付けたんだ。逆に言えば」

 

そこで一度区切ってから、幾分口調を強め、

 

「行洋、お前が指導してでさえ何年もかかったものを、アキラくんと同じ歳で、師匠のいない進藤がたった2年足らずで成し遂げられると、何故そんなに簡単に頷いてやがる?俺をはぐらかすつもりなら、もっと上手い嘘をつけ」

 

言ってから、森下は一口付けただけですっかり冷めてしまったお茶を飲む。

不貞腐れた態度を取る森下に、行洋は苦笑しながら視線を盤面に戻し、両腕を組みながら、

 

「……そうかもしれん。いい勉強になった」

 

「お前のそういう台詞を真顔で言うところが、昔からいけ好かねぇんだよ」

 

森下の指摘を素直に認めたというのに、行洋の受け答えが気に食わなかったらしい。

その気持ちが乗り移ったかのように、森下は少し乱暴に石を打つのを見て、行洋は詫びるかのように丁寧に応手する。

 

「進藤君は、心配ない。これからも正しく導かれるだろう」

 

森下が先ほど打った石とは正反対に、行洋の打った石は落ち着いた音を立てた。

 

「そこまで言って、誰かまでは教えないつもりか?」

 

「……まだ言う時ではない」

 

「嘘つけ」

 

間髪入れず、森下は行洋の言葉を跳ね除ける。

 

「言いたくないだけだろうが。お前がそんなに独占したがる相手ってことからして、嫌な予感が増してくるぜ」

 

「よく分かってるじゃないか」

 

真顔で一蹴されても逆に行洋は気分を良くし、開き直ったようにクスリと微笑った。同期でプロ試験に合格してからそれなりに長い付き合いではあるが、的確に行洋の嘘を嘘とすぐ見抜いてしまう森下に舌を巻くしかない。

低段者だった頃から何度も対局を重ね、いつの間にか相手の人となりや気心がすっかり知れた仲になってしまっている。

 

「お前が見てるのも、ソイツなのか?」

 

「どういう意味だ」

 

今度こそ森下の言っている意味が分からず、行洋は問い返す。

 

「お前の最近の対局、盤面は向き合ってるが、相手を見てねえぜ?盤面向かい合ってる相手を通り越して、別の、何かを見てる」

 

言いながら、森下は躊躇し、『誰か』ではなく『何か』と言い変えた。

 

「お前の碁が若返ったのもその所為か。認めたくねぇが……ふんっ、確かにお前は前と比べて強くなってるよ」

 

「森下に誉められると、どうにもくすぐったいな」

 

「誉めてるわけじゃねぇぞ、勘違いすんな。打つ碁だけなら前の方がまだ可愛げがあった。ちゃんと向かい合あう相手を見据えていた頃の碁の方が、俺は好きだったぜ。誰と打ってるともしれん碁なんぞ、薄気味悪りぃだけだ」

 

相手の一手にこそ応えているものの、行洋の一手は別の何かを追っていると森下は思う。

対局相手の一手を求めるのではなく、盤面に別の何かを探している。

なまじ行洋の強さが相手を上回るだけに、性質が悪すぎる。

行洋の心がどこに向いているのかということに、対戦相手が気付く気付かないは、森下の関知するところではない。

だが、強さを求めて対戦相手を見ていない碁は、森下には到底受け入れられなかった。

どんなヘボ碁だろうが関係ない。

しっかり相手と向き合い全力で打った碁なら、名局でなかろうが、他人に何と貶されようが、そんなことはどうでもいい。

対戦相手に全力で応えるということが、一番なのだ。強さも最善の一手もその次だ。

 

「誰と打ってるともしれんか……」

 

蔑みを滲ませた森下の言葉に、行洋は苦笑しながらも言い返す言葉は見つからなかった。

碁笥から掴もうとしていた石を離し、両手を膝に乗せ、姿勢を正した。

歯にモノを着せぬ言葉ではあったが、行洋にも全く心当たりがないわけでもなかったからだろう。

分かっている。

行洋自身、対局相手が佐為ではないと分かっているのに、盤面に打たれる一手に佐為を探してしまうときがある。

佐為の姿が見えず、声も聞こえない行洋に、ヒカルは佐為の意思を代弁し伝えてくれる。

だが、やはり行洋が見えない佐為を探すとき、最も佐為の存在を感じることが出来るのは盤面の上だった。

盤面の上だけは行洋にも佐為を見つけることが出来る。

 

「しかし、そこにあるかもしれんのだ。いや、きっとある。本当に、すぐそこに。あと、ほんの少し手を伸ばせば届くと思えるほどに」

 

石を打つ利き手の右手を持ち上げ、広げた手の平に視線を落とす。

何も持っていないその手のひらに、見えない何かが存在し、それを見るかのように。

 

意味不明な行洋の言動に、森下が眉間に皺を寄せた。

 

「行洋?」

 

「神の一手が、確かにそこに存在するのだ」

 

空を掴む手のひらを行洋がぐっと握り締めても、当然何も掴むことは出来ない。

それでも、この手に掴むことは出来なくても、その姿形を見ることが叶わなくても、確かに佐為は存在している。

そして他の誰でもなく、己を求めてくれた。

 

「……何時の間にか、また変なモンに魅入られてたもんだな」

 

最善の一手の探求は、全ての棋士に当てはまる。

その過程で、行洋がトップ棋士として『神の一手に世界で最も近い』と世間から評されていることは森下も知っていたが、行洋の口から『神の一手』という言葉を聞いたのは、恐らくプロ試験を同期で受かってから今までで初めてではないだろうか。

『神』という曖昧で人間には見えない存在を、行洋は本気で見ているのか。

通りで対局相手と向き合っていない碁を打つようになったわけだと、森下は行洋の打つ碁が変わってしまった理由が分かったような気がした。

『神』を求めてしまえば、人間などとても見る気になれないだろう。

 

けれど、孤独で寂しい碁だとも同時に感じた。

いるかどうかも分からない相手より、存在が確かな人間の方が遥かに楽だろうに。

 

そんな森下の心を見透かしたように、行洋は握り締めた手を緩め膝の上に置くと、何言われることなく、

 

「だが、後悔はしてない」

 

ありのままの素直な気持ちを述べた。

 

後悔などしようはずがない。

石を打つようになって、ずっと追い捜し求めていたモノが眼前にあるのだ。

ずっと碁を打ってきて、どうしても根底で満たされなかったものが、ようやく満たされようとしているのだ。

差し出されたその手のひらを拒むことなど、私にはできない。

 

行洋の答えに森下は呆れたような溜息をついた。

 

「もう帰られるんですか?」

 

森下が訪ねてきてまだ一時間しか経っていない。

部屋で対局しているような気配がしたから、検討する時間も含めて時間はいるだろうと明子は考えていたのだが、そうではなかったのだろうか。

部屋から出てきた二人に慌てて明子も見送るために玄関に急いだが、

 

「お邪魔しました」

 

「こちらこそ、大したお構いも出来ずに。でも、もう少しいてくださってもいいのに」

 

「はは、また今度来た時はお願いします」

 

残念そうな様子の明子に、森下は苦笑しながら小さく頭を下げる。

 

「行洋」

 

名前を呼ばれたが、行洋は返事をすることなくじっと視線を向けることで応える。

 

「変なもんに嵌るのもほどほどにしておけよ。どうせ届きゃしねぇんだ」

 

「そう簡単に手に入るものなら初めから求めなどせんよ」

 

行洋の答えに『口が減らねぇやつだ』と言い捨て、軽く手を振ってから森下は行洋の家を後にした。

 

 

 



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番外 2 緒方

拝啓 緒方精次様

 

突然のご連絡失礼致します。

そして緒方様にこうしてメールをお送りするのは初めてになります。

過日、緒方様とネット碁で対局しましたsaiと申します。

すでにご存知のことと思うのですが、進藤ヒカルより緒方様のご連絡先を教えていただき、このようなメールをお送りした次第になります。

あの折は急な対局申し込みを受けてくださり、大変ありがとうございました。

 

 

================================

 

……、……

 

見事な形式文句から始まるメール文。

 

――……なんだ、これは?

 

それがヒカルがくれたメールアドレスから届いたメール内容を一読しての、緒方の最初の感想だった。

自身のプライベートアドレスにsaiからメールが届くまではいい。

ヒカルから貰ったsaiのものらしきアドレスが間違っていて、正しいアドレスをもう一度聞くのもまた間違える可能性があり面倒で、緒方のプライベートアドレスをヒカルに押し付けた。

だから、いざsaiからメールが来ても驚きはしないが、その文面と文体に緒方は表情を顰めた。

 

saiの正体は十中八九ヒカルだ。

それなのに、あのヒカルがこんな格式 張った、営業サラリーマンでもここまで畏まった文書は使わないんじゃないか?と思うぐらいの丁寧な文章を書いてきた。

ネットで調べれば、多少の挨拶文 は載っているだろうが、それでもヒカルにこのメール内容は似つかわしくない。

 

――誰か大人に手伝ってもらったのか?

 

そう思うも、相手がヒカルと分かっていてなお、saiであるとヒカル自身が認めていない現状では、この差出人のsaiはヒカルとは別人として扱い、このメール内容に見合ったそれなりの文章で返信しなくてはいけなくなる。

メールの返信ボタンをクリックし、テキスト欄にマウスカーソルを合わせ、さて返信を書くかとキーボードに指を置くも、指は全くキーを押してくれない。

 

――あんなガキ相手に、俺は何を真面目に返信しようとしてるんだ……?

 

ヒカルの姿、とくに行洋の背中に隠れ緒方にあっかんべーをしてきたヒカルが一度思い浮かんでしまうと、脱力して返信する気力が一気に萎えてしまい、そのままキーボードに頭を突っ伏す。

それでも返信する気持ちが完全になくならないのは、相手がヒカルであろうとも、ネット碁で無敵を誇るsaiとしての実力で緒方と対局してくれる喜びがあったお陰だろう。

ヒカルに『お前がsai』だと詰め寄ることは簡単だが、ヒカルの背後にいる何者かが分からない現状では、詰め寄るのは完全に悪手だ。

今はまだヒカルの嘘に付き合い、ヒカルとsaiが別人として対応してやるのが最善である。

 

スケジュール帳を取り出し、手合日やイベントに重ならず、対局に支障のない日をいくつかピックアップする。

それからパソコン画面に向き合うと、緒方は大きな溜息を一度吐いてから、プライドや面子を諦め、メール返信画面に返信内容を打ち込んでいった。

 

 

 

別 の用事があり、緒方は本因坊リーグ戦を戦う行洋の観戦をしに棋院に来るのが遅れてしまった。

すぐに終わると思っていた用事は、相手の長い雑談に時間を取られ、半ば強引に話を打ち切ったが、すっかり対局は始まってしまっている。

始めから観戦できなかったことに多少苛立ちながら、気持ち足早に対局中継モニター室に向かう廊下の道すがら、一般客が入れる一階廊下の道すがら、特徴的な頭を見つけた。

モニター室に急ごうとしていた足がゆっくりとスピードを失っていく。

モニター室と同じように対局の中継画面が映し出されるテレビに、一般客と混ざってヒカルが行洋の対局を観戦している。

院生のときならいざ知らず、ヒカルも4月かられっきとしたプロ棋士だ。

プロ棋士ならこんな一般人に混ざって対局中継を観戦せずに、上のモニター室で観戦すればいい。

と簡単に言っても、恐らくモニター室で対局を観戦しているのは、同じ本因坊のリーグ戦を戦っている誰かトップ棋士か、タイトル保有者の桑原あたりで、プロになりたてのひよっこでは、1人で入るには多少気後れしたのかもしれないが、

 

 

――何遠慮してんだ?俺にはまったく礼儀知らずなくせに

 

じっと中継画面を見ているヒカルに近づいていくと、緒方の存在に気付いた一般客の声に反応するようにしてヒカルが振り向く。

 

「緒方先生」

 

「こんなところで観戦か?観戦したいのなら上のモニター室に行けばいいだろう。お前もプロ棋士なんだ」

 

「あー……うん」

 

 

緒方の最もな指摘に、ヒカルはどうしたものかと曖昧な表情を浮かべ思案する。

タイトル決定戦でもない限り、全国ネットでテレビ中継されるのは滅多にない。

よって家でゆっくり一目を気にせず行洋の対局を観戦することはできず、リアルタイムで観戦しようとすると、どうしても棋院の中に設置してあるテレビ中継に限られるのだ。

しかし、中継が見られると言って簡単にモニター室に入るには、足が億劫になってしまう。

観戦したいのはヒカルもだが佐為の希望が強い。

プロなりたての新人棋士がいきなり1人で来てタイトルのリーグ戦を観戦すれば、部屋の後ろで1人黙々と観戦していても変に見られるだろう。

もしかすれば、新初段でヒカルと対局した芹澤がいる可能性も十分ある。

新初段でヒカルと芹澤の対局中に、saiのアカウントを使用した行洋がネット碁を打つことでアリバイを作り、芹澤の疑惑はそらしたはずだが、何食わぬ顔で会う自信はヒカルには無い。

それを踏まえると、プロ棋士たちが観戦するモニター室にヒカルが行くのは憚られた。

 

――予想外の人物と鉢合わせしちゃいましたね

 

――そりゃそうだよな、十段戦の挑戦者って緒方先生なんだから、塔矢先生の対局気になって見に来るよな

 

ヒカルはそっと心の中で佐為と会話し、さてどうこの場を切り抜けようかと考え巡らせ、

 

「それはそうなんだけど、でもここでいいよ。プロ棋士なりたての俺が行ったって、観戦してる他のプロ棋士の人に迷惑だろうし」

 

ここはやはりそれらしい理由をつけて断るに限る。

すっかり得意になってしまった嘘八百でヒカルは切り抜けようと試みる。

苦笑しながらはにかむヒカルに、顔にこそ出さなかったが緒方はムッとした。

傍目には目上の棋士に対してヒカルが遠慮したように見えるだろうが、ヒカルがsaiであることを緒方は確信している。

そしてsaiであるヒカルに、以前ネットで対局し緒方は負けた。

 

 

――他の人に迷惑がかかるだと?どの口が言ってやがる?

 

 

ヒカルが本気で打てば、ヒカルが先ほど遠慮したモニター室のプロ棋士達とも平気で渡り合うだろう。

下手すれば全員に勝つかもしれない。

それほどの打ち手が誰にも知られず、こうして一般人に紛れて行洋の対局をひっそり観戦している。

一瞬、強引にヒカルをモニター室に引っ張っていこうかとも考えたが、こうギャラリーの目が沢山あるなかでそんなマネはできない。

 

「付いて来い、俺も一緒に検討してやる」

 

「えっ?」

 

戸惑うヒカルに構わず、緒方はさっさと歩きはじめる。

付いて来いと言われても、ヒカルはモニター室に行きたくない。

しかし、緒方の向かった先がモニター室とは違う方向で、モニター室ではないのかと予想外に驚きつつ戸惑いながらついて行けば、そこは一般対局室だった。

突然現われたトップ棋士に、対局していた一般客達が驚く。

その緒方の後ろをヒカルは申し訳なさそうに肩身を狭くして、緒方の向かいに座った。

 

「緒方先生?」

 

周囲から向けられる注目に居心地悪くヒカルは小声で話しかける。

緒方が何を考えているのかさっぱり分からなかった。

行洋の対局を観戦したいのならば、他のトップ棋士達のようにモニター室で皆と検討すればいいのに、何を思ってヒカルを連れて一般対局室へ来たのか。

 

「ここならモニター室に行かなくても対局中継見ながら検討出来るだろう。一緒に検討してやる」

 

緒方が両腕を胸の前に組み、不遜に言う。

一般客の目はあるが、ここなら碁盤と碁石があり設置されているテレビで対局も映し出されている。

 

「でも!それはそうなんだけどいいの!?緒方先生他のプロの人達とモニター室で検討しないで俺なんかと」

 

「別に誰かと観戦する約束をしていたわけじゃない。俺では不満か?」

 

「そんなことないよ!ないけどっ……」

 

ヒカルの視線はチラリと周囲を伺う。

本因坊の挑戦者を決めるリーグ戦とは別に、十段戦で挑戦者となり行洋と戦っている緒方が突然現われ、周囲に野次馬の人垣がさっそく出来始めた。

 

 

「だったら気にするな」

 

緒方と初めて対局観戦することもだが、同時に周囲の野次馬も無視しろと、存外に含ませ言う。

よく考えれば、十段のタイトルを戦う行洋の対局は当然気になるが、先日のメールで約束したsaiとの対局も同じくらい緒方にとって気合が入る対局だ。

そのsaiであるヒカルと、ネット碁で打つ前にこうして対局を観戦するのも相手を探るいいチャンスだろう。

前回は、突然の対局で心構えが出来ていなかった部分が否めない。

しかし、今回は前もって約束することで、気を引き締めて対局に臨むことができ、そしてsaiの正体も分かっている。

 

前回の時のようにはいかせない。

 

 

「緒方先生、来たばっかりなんだよね?」

 

「ああ」

 

「じゃあ初手から並べるよ。先手が塔矢先生、水沼先生は後手」

 

無理やりモニター室に連れて行かれなかっただけマシか、とヒカルは溜息一つついて諦め、対局を初手から並べていく。

リーグ戦は持ち時間5時間の、丸一日かけて行われる。

時間はまだ正午に入ったばかり。

けれど、それを考慮に入れても、対局の流れは酷くゆったりとしていて、まだ20手も打たれていない。

 

「忍耐勝負だな」

 

ヒカルが並べていく盤面を眺めながら、緒方が呟く。

石の流れから、すぐにどういう勝負なのか察したようだとヒカルは思う。

互いが互いを牽制し会い、相手の出方をじっと辛抱強く伺っている。

どちらが先に焦れて動きを見せるか、またはどのタイミングで動くべきか、薄氷の上を見極め歩くような緊張感が見ている此方にも伝わってくる。

 

打たれた石、全てを並び終え、ヒカルは中継画面が映されたテレビに一度視線を向ける。

並べている間に、石が打たれた形跡はない。

 

「水沼先生も正面から行っては塔矢先生を破れんと踏んだか」

 

通常、先手の黒石が流れを掴むのに有利になり勝ちだが、行洋の一手一手に対して水沼もそれに見劣らない一手で丁寧に応手を返し、相手の出方と隙を伺ってきているから、盤面の形勢は互角。

決して先んじようとはせず、相手の悪手を誘う。

白番ならではの戦術と言っていい。

このまま打ち続ければ、行き詰るのは先手黒石の行洋だ。

 

行洋と水沼、それぞれが数手打って序盤が終わりにさしかかろうかというとき、やはり予想通り行き詰ったのは行洋だった。

行洋が長考している。

 

 

「対局の分かれ目だな。いきなり動いても逃げるだけで、相手の地を固めるだけだ」

 

「……軽くわかして打つのは?」

 

「それだと隅に対して甘い。ハザマをつかれても応手に困る」

 

緒方とヒカル、それぞれが考えた応手を並べてみるが、これと言った打開策は出てこない。

 

――佐為、お前ならどうする?

 

――私ですか?

 

視線を佐為に向け、ヒカルが心内で尋ねると、佐為はしばらく盤上の石を見つめてから、閉じられた扇が盤面の一点を示す。

 

――その局面、私ならば様子を見ます。内からノゾくと逆に相手の応手が難しいのです。ツギなら軽くなりますし、押さえてくれれば、どうとでもサバけます

 

――あ、いいかも、ソレ

 

佐為の指摘になるほどと思った感情がそのままヒカルの顔に出る。

眉間に皺を寄せ、口をへの字にして盤面を睨んで唸っていたのが、急に止んですっきりした顔になっているのだ。

そのヒカルの変化に目ざとく緒方は気付く。

 

 

「なんだ?言ってみろ」

 

言ってみろと促されても、その一手に気付いたのはヒカルではなく佐為である。

それを緒方に言っていいものか少し躊躇い、けれど言わないでいるのもおかしいかと思い直す。

まがりなりにもヒカルとてプロなのだ。

偶然気付いたとしても不自然ではない筈だ。

 

「ここ」

 

ヒカルの指が一点を指す。

 

「内からノゾけば、逆に水沼先生の方が応手が難しいと思う。ツギなら軽くなるし、押さえてくれればどうとでもサバけばいい」

 

 

佐為が言った言葉をそのままにヒカルが代弁する。

そして緒方も、ヒカルが示す一手の狙いに気付き、目を見開く。

背中にもたれていた椅子から身体を起こし、

 

「なるほど、こういう狙いか。悪くない」

 

ヒカルの示した場所に緒方は黒石を打つ。

指摘されるまで気付かなかったが、確かに水沼はここに打たれれば応手に困る。

拮抗した盤面を打開する最善の一手だ。

この一手に行洋が気付けるかどうか、またはこの一手と同等以上の一手で、対局の勝敗の行方が左右されるだろう。

 

へへ、と曖昧に笑うヒカルを他所に

 

――やはり食えんやつだ。能天気に空ぼけて何を隠しているか分からん。この一手も俺が言わなければ、絶対気付かなかったフリして言わなかっただろうな

 

 

緒方自身気付けなかった一手に、ヒカルの中のsaiの片鱗を垣間見た気がした。

プロ棋士達が集まっているだろうモニター室でも、この一手に気付ける者がいたかどうか怪しい。

咄嗟の機転で、モニター室に向かうのではなく、ヒカルと共に一般対局室で観戦する方を選んだが、その判断は正しかったと言える。

 

――塔矢先生気付くかな?

 

――さぁ、どうでしょうか。けれど行洋殿でしたら……

 

口元を広げた扇子で隠しながら答えつつ、佐為はじっと盤面全体を再度見やる。

ヒカルがまだ院生で、家で佐為が指導碁を打っていたとき、不意にヒカルの打った一手が自分の打ち方に似ていると思ったことがある。

それについて問うと、ヒカルは打つ手に困ると、佐為になったつもりで考えるといい手が見つかるのだと言った。

同じように、佐為もまた行洋になったつもりで考える。

頭の中で一手目から打っていき、石の流れを追い、行洋が次に打つであろう場所を探す。

すると頭の中の行洋の手が、恐ろしいほど静かに黒石を打つ。

その一点は、佐為が気付いた一手と重なる。

間違いない。

行洋は己と同じところに目を付け、この最善の一手を攻撃の足がかりにする。

 

 

――行洋殿でしたら、きっと私と同じところに目を付けてくると思います

 

口元を隠しているため、ヒカルからは佐為の目元しか見えなかったが、まるで人目を忍んで料亭で行洋と対局している時のような凄みある笑みに、ヒカルは思わず唾を飲む。

 

不意に緒方とヒカルを取り囲む人垣から声が上がり、ヒカルが声に反射するようにしてパッと中継画面を見上げれば、

 

「塔矢先生もここに打ってきた!」

 

ヒカルが叫ぶ。

佐為の言った通り、行洋はその一手に気付き逃さなかった。

盤面の対局中継画面からは見えない水沼の唸る表情が想像できるようだと緒方は思う。

 

その一手を皮切りに、それまでの不気味な静けさが嘘のように、激しい応手が繰り返された。

しかし、あくまで冷静だったのは行洋だろう。

一手の厳しさの中にも、決して焦ることなく、深く切り込むギリギリのラインを見極めてくる。

 

最後は、水沼の投了で終わったが、終始見応えのある対局だったとヒカルは感じた。

序盤は老練され忍耐強く、そして中盤からは一手も気を抜けない気迫溢れる碁だった。

 

 

――俺も早くあんな碁打ちてぇな

 

対局の興奮が冷めやらぬヒカルが、心内でそっと想いを馳せていると

 

「何ぼけっとしてる。さっさと片付けて出るぞ。家まで送ってやる」

 

並べていた石を崩し、さっさと片付ける緒方に、ヒカルも急いで石を片付ける。

もう少し対局の余韻に浸らせてほしかったが、ヒカルが石を片付けている間も、緒方は周囲の人から今度の十段戦への激励やら応援の言葉やらかけられている。

対してヒカルはプロになったばかりの初段で、『がんばれ』と声をかけてもらうのが精一杯だ。

これがタイトルをかけて戦うトップ棋士とプロになりたて初段の違いなのだとヒカルは実感してしまい、同時に緒方がこの場から早く立ち去りたいのだろうということも伝わってきて、文句を言うことなく帰り身支度を整える。

 

「すいません、プロとは言えあまり子供を遅い時間まで引き止めるのはいけませんので、このぐらいで失礼します」

 

上手くヒカルをダシに使い、緒方は放してくれる気配のない一般人に挨拶し、ヒカルを棋院の駐車場に止めてある車へ向かう。

さすがにヒカルも周囲を巻くダシに自分を使われたのは感づいたが、緒方と一言でも会話しようとする客達の勢いは引いてしまうものがあった。

あれらを上手く受け流していた緒方に、これが大人の対応なのかとヒカルは半ば感心しつつ、他人事のように思いながら見ていた。

いずれヒカル自身も緒方のように客達をもてなさねばいけない日が来ることを思えば、少しくらい自分がダシに使われるのは目を瞑っていいだろう。

 

足早に止めてあるのだろう車の方へ歩いていく緒方の後ろを、置いてかれまいとヒカルも早歩きでついていく。

そして緒方もヒカルがちゃんと後をついてきているか、気にかけながらさっさと棋院を後にする。

最後まで観戦し、検討しても良かったが、恐らくモニター室で観戦しているだろう桑原と鉢合いたくないのが緒方の本音だ。

あまり苦手意識を持つのは対局にも影響されよくないと言われるが、桑原相手に苦手意識を持たない者などおらん、というのが緒方の認識である。

よって、桑原を避けられるものなら、避けておくに越したことはないのである。

 

ヒカルを助手席に座らせ、車を発車させて棋院を後にする。

 

「よくあの一手に気付いたな」

 

緒方が運転しながら、隣に座るヒカルに先ほど検討できなかった一手について尋ねる。

忍耐碁を強いた水沼もさすがだが、その淀みに似た状況を打破したあの一手が無ければ、行洋が勝つのも際どかっただろう。

行洋があの一手に気付くのはいい。

対局者同士でしか見えない一手というものは確かに存在する。

対局を観戦するモニター室の状況がどうだったのか分からないが、恐らくあの一手に気付けたものはいなかっただろうと緒方は予想する。

 

気付けたのはヒカルだけだ。

6冠のタイトルホルダーでトップ棋士の行洋と同じところに着目出来た。

これを偶然で片付けるのは浅はかな行いだ。

 

 

そんな緒方の心を知ってか知らずか、ヒカルはどう答えるべきか戸惑い、明後日な言葉を軽はずみに口にする。

 

「えっと……なんとなく?……とりあえず盤面全部試しに打ってみたら気付いたんだよ」

 

「盤面全部打つだと?」

 

ヒカルの答えに、緒方は思わず急ブレーキを踏みそうになった。

絶対にありえない方法ではない。

しかし、プロなら限りなくそんなことはしない方法だ。

 

「そうそう、いい手が浮かばないときとかたまにするんだ。アハハハ」

 

能天気に続けるヒカルに佐為は溜息をつきながら

 

――ヒカル、また適当なこと言って……どうなっても知りませんよ?

 

――適当なこと言っとかないと誤魔化せないだろ

 

馬鹿正直に佐為が教えてくれた、と言うわけにもいかないのだ。

 

 

「そう言えば緒方先生、今度佐為と打つ約束したんだってね!頑張ってね!」

 

身体ごと車を運転する緒方の方を振り向き、いきなりヒカルが話題を変えてくる。

白々しい話の話題変えだと緒方は思いながらも、あえてつっこむような真似はせず、ヒカルがsaiであると気付いていることを伏せたまま、

 

「どうせお前は俺よりsaiを応援するんだろうが?」

 

「まさか!だって佐為が勝つのは分かってるから、緒方先生がそれでも少しでも勝つように俺応援するよ?」

 

ヒカルに悪気があったわけでないことは分かっている。

単に無神経で無邪気なだけだ。

だが、さすがにヒカルのこの言葉には、さすがの緒方も無視することが出来ず、

 

「お前っ、それは応援しているのか?それとも遠まわしに貶しているのか?」

 

「えっ!?あ!そんなつもりじゃなくてっ!」

 

緒方に指摘されて、ヒカルは自ら掘った墓穴に気付き、慌てて顔の前で両手をブンブン振って意味を否定するも、緒方の機嫌は戻りそうにない。

損ねてしまった機嫌をとるためではあったが、ヒカルは緒方と再対局が決まったときの佐為の喜びようを思い出しながら、

 

「でも、佐為もさ、ホントすっごい楽しみにしてたよ?ネット碁だと世界中の誰とも打てるんだけど、本当に強い人とはなかなか打てないからさ。緒方先生とまた打てるって知って、すごく喜んでた」

 

「そんなに打ちたいんだったらネット碁じゃなく表に出てくればいいだろう。強制はせんが、saiがなにを拘って頑なにネット碁に隠れたがるのか、俺はそっちの方が理解できん」

 

つっけんどんに言い返す緒方の言葉に表情を曇らせたのは、ヒカルではなく2人の会話を傍で聞いていた佐為だった。

幽霊で身体がなく、佐為の姿が見え、声も聞こえるヒカルに代わりに打ってもらうことでしか、碁が打てないもどかしさ、歯がゆさ。

佐為が表に出れば、代わりにヒカル自身の碁が見てもらえなくなる危険が多分にある。

それは行洋も肯定した。

佐為は表に出るべきではないと。

佐為自身もヒカルが碁打ちとして生きていく以上、己が表に出るのは決してよくないと分かっている。

表に出なくとも、ネット碁で碁が好きなだけ打つことができ、ヒカルの才能を潰してしまう心配もない。

そして、佐為と同じく神の一手を目指す行洋と偶の日に打つことができる。

これ以上の欲は出すまいと思うのに、こうして緒方に言われると、無性に身体の無い身が歯がゆく、むなしく、そして悔しい。

 

そんな佐為の気持ちが伝わってきて、ヒカルは顔を俯かせ、先ほどのように下手な墓穴を掘らないよう言葉を選ぶ。

 

 

「……表に出てこないのは……表に出て来れないからだよ。佐為はネット碁しかできない」

 

常にないヒカルの落ち込んだ様子に、緒方は理由は分からずとも言い過ぎたかと思う。

けれどここで素直に言い過ぎたと謝るのは大人のプライドが邪魔をする。

 

「表に出て来れないなら、それでもいい。理解は出来んが無理やり聞き出すつもりもない。俺と打ってくれるならな」

 

それが緒方なりの精一杯の気遣いであることがヒカルも分かり苦笑した。

棋院で佐為の正体を迫ったときは、本当にヒカルをしばいてでも聞き出さんとする勢いだったのに、今はこうしてヒカルが踏み込んでほしくない領域に足を踏み入れない気遣いがありがたい。

 

――ありがとう

 

佐為の呟きが聞こえ、ヒカルは俯いていた顔をあげる。

 

「佐為がありがとうってさ」

 

「いきなりなんだ?ここには俺とお前しかおらんだろうが」

 

意味が分からないと怪訝な顔をする緒方に構わず、ヒカルは緒方とは反対の窓の外を見やる。

ヒカルに答えるつもりはないのだろう。

しばらく待ってもヒカルは後ろを向いたままで、緒方の方を見る気配はない。

単なる意味のない子どもの気まぐれかと、緒方は気にしないことにした。

 

プロとしてタイトルをかけた対局は大事だ。

だが、碁を打つ棋士としてsaiとの対局も優劣つけることができないほど大事な、気を抜けない対局だと緒方は認識している。

もしかすると、公式手合いより、saiとの対局の方が評価されるかもしれないのだ。

saiの対局はインターネットを通し、世界中で見られているのだから。

 

だれかsaiに最初の土をつけるのか。

saiの正体は誰なのか。

 

金銭が関係しないが、注目度は下手なタイトルより断然高い。

 

ヒカルの後ろにいる誰かは、とりあえず考えない。

そしてsaiとして打つヒカルとの対局に集中しようと、緒方は視界の端にヒカルの姿を映しながら思う。

 




+++++

いつのだろう……
サルベージされました;;;


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番外3 アキラ

お互いプロとして対局した大手合を境に、ヒカルとアキラは行洋の碁会所でたまに打つようになった。

公式手合いで打ったお互いの対局検討が主だったが、実際に2人で対局したりもする。

当然、一般客である北島たちがヒカルとアキラの対局を傍で観戦することも多いが、稀に観戦者無しで打つときもあった。

北島のように昔からの顔馴染みであれば別だが、中学生とはいえ、正式なプロ棋士2人が真剣に打っている姿は、一見して近寄りがたいほど凄みがある。

行洋が経営するこの碁会所に顔を出すようになって日が浅い客では、傍で観戦するのはどうにも気が引けた。カウンターで受付をしている市河も、それが分かっているから客達に強く観戦を勧めたりはしない。

 

そんな観戦者が1人も周囲にいない状況で、碁会所の隅でヒカルとアキラは対局していた。

お互いが負けず嫌いであり、何より対局相手はライバルと認識している。

公式手合いであろうがなかろうが、絶対に負けたくない。

けれど、対局も中盤に差し掛かった頃、膝の上に置かれていたアキラの手のひらが、ピクリと反応する。

 

今、一瞬だがヒカルの打った一手が誰かと重なった。

ヒカルと二年ぶりに打った大手合の対局でもアキラは感じたが、ヒカルの棋風は確かにsaiに似ている。

打ちながらヒカルの打つ碁にsaiの影が何度チラついたかすら分からない。

先ほどのヒカルの一手に感じた違和感も、またいつものようにsaiの影がチラついたのかとアキラは思ったが、その石を眺めれば眺めるほどsaiでは無い気がしてくる。

saiでなければ誰なのか。

アキラが違和感を覚えたというからには、アキラの知っている誰かだろう。

少し前の手順から、丁寧に反芻しながら影の正体をアキラは追う。

 

「塔矢?」

 

長考するような場面でもないのに次の一手を打とうとせず、目を細め考え込んでしまったアキラに、ヒカルは顔を碁盤から上げた。

 

「ここの一手……似ている?」

 

ヒカルが打った一手をアキラが指差す。

独り言に近い呟きだった。

自分の一手がまた佐為に重なりでもしたのか、とヒカルは思い、

 

「saiなら知らねーぞ」

 

アキラが何か言い続ける前にヒカルは否定した。

佐為に棋風が似てしまうことは、今更どうしようもない。

ヒカルが碁を始めた時からずっと佐為から碁を学んできたのだから、棋風が似通ってしまうのは致仕方ないことなのだ。

だが、佐為を知らないアキラには知らぬ存ぜぬを突き通す他ない。

 

「違う。saiじゃない。これは……」

 

アキラの脳裏に知っている棋士たちの顔が巡る。

影の主はよく知っている棋士だ。

この打ち方をアキラは幼い頃から見てきた。

塔矢門下の誰かではない。

もっと、自分に近い。

 

(僕?違う。影の主は僕じゃない。これは……)

 

アキラの脳裏に浮かんだ最後の人物が、ヒカルにチラついた影にピタリと重なった。

 

「お父さ、ん……?」

 

言いながら、最後の部分が疑問系になった。

顎に手を当て、じっと考え込む。

何故、ヒカルと接点が全く見当たらない行洋が思い浮かんだのかアキラ自身分からない。

どちらかというと、行洋よりアキラの方がヒカルと接点があり、偶然似たような打ち方になってしまったと考える方が説明がつくし、説得力もある。

しかし、ヒカルの一手はアキラを飛び越え、行洋に辿り着いた。

 

「えええっ!?」

 

アキラが口にした人物にヒカルは素っ頓狂な声を上げる。

 

「うん。これはお父さんだ」

 

理由は分からないが、アキラは影の主が行洋であると確信する。

幼いころから毎日欠かさず打ってきた相手だ。

父として、そして棋士として誰よりも行洋を知っているとアキラは自負している。

 

「進藤、君のこの打ち方、何でお父さんに似ているんだ?」

 

「何で!?何でって何でいきなり塔矢先生の名前が出てくるんだよ!?そっちの方が何でだ!!」

 

「君にsaiの影がチラつくのはしょっちゅうだし、この際、今はいい。だが、何でお父さんに重なるんだ?saiではなく僕のお父さんが!」

 

「そんなん俺が知るかよ!最近塔矢と打ってるから、それで塔矢先生の打ち方と似通ってる部分が俺にうつったんじゃないないのかよ!?お前、ガキの頃から塔矢先生と毎日打ってるんだろ!?」

 

「そうだ。今朝もお父さんと打った。毎日打っている僕だからこそ分かる。これは僕じゃない。お父さんだ」

 

アキラがビシリと断言する。

こっそり人目を忍んでだが、行洋とはたまにヒカルも指導碁を打ってもらっている。

もちろんアキラは知らないはずだ。

その為、ヒカルの打つ碁に行洋の棋風が漂ったのかもしれないと、ヒカルは動揺しながらも推察した。

 

だが、行洋の気配が漂ったのだとしてもごく僅かなはずだ。

アキラが行洋と毎日打っているように、ヒカルは佐為と毎日打っている。

それこそ一日も欠かさずに、時間があればいつでも。

たまにしか打たない行洋の影など、佐為の影に覆われ、殆ど隠れてしまうだろう。

それを微かであろうとも見逃さず、一発で行洋と言い当て、かつ確信しているように言いきるアキラの自信はどこから来るのか。

 

(あー。確かにこの打ち方、言われてみれば行洋殿っぽいですねー)

 

2人の対局を静かに横から見ていた佐為が、閉じた扇を口元に寄せ、うんうん頷きながら他人事のように述べる。

 

(塔矢先生っぽい!?どこが!?)

 

(ここの受け方、前回会ったときに行洋殿が打ってましたよ。すごい偶然ですね。この角の並びは、あのときの石の模様に似てますよ)

 

「マジで!?」

 

佐為の指摘にヒカルはアキラの前だということも忘れて声を上げてしまった。

特別、行洋を意識していたわけではない。

 

けれど改めて今打っている盤上と、前回行洋と打った対局を思い出し比べてみれば、佐為の言う通り確かに似ている。

幸か不幸か、ヒカルは一度並べたり見た対局は覚えてしまう特技があった。

違うのは似ている石の並びの部分が、ヒカルから見て左上か右下かの違いくらいだ。

 

「進藤」

 

ヒカルをアキラが睨む。

 

「知らないっ!俺は何も知らない!」

 

アキラが話している途中で遮り、ヒカルは首を横に振った。

行洋との間柄を話すわけにはいかない。

6冠のトップ棋士が誰にも内緒で隠れて誰かと碁を打っていたこともだが、対局やイベントで多忙を極める行洋が、わざわざ時間を作ってまで打つほどヒカルを特別扱いしていたことが世間に知られれば、大変なことになることくらいヒカルにも分かる。

行洋とヒカルを繋ぐ佐為の存在を秘密にすればするほど、行洋に特別視されるヒカルへ注目が向くことだろう。

ヒカルの中の佐為に薄々感づいているアキラであっても、そう簡単に話せる内容ではない。

特にアキラは行洋の息子だから、佐為のことと行洋とこっそり打ってましたなんて話した日には、内緒にしていた行洋に勢いアキラが噛み付きそうだと冗談ではなく本気で思う。

 

ヒカルの窮地に佐為がどう助け船を出すのが自然かと思案する。

この場合、ヒカルが何かボロを出したわけではなく、アキラの勘が鋭過ぎた。

佐為ですらアキラが言うまで打ち方の相似に気付かなかった。

常に佐為が傍にいることで、独力で碁の勉強をすることでありがちな変な癖も付くことがなかった。

全くの素人だった頃から佐為が丁寧に指導したことで、ヒカルは教えられたことや上手いと思った相手の打ち方を素直に吸収する。

それはたまにしか打たない行洋であっても、指導された碁をヒカルは無意識に、そして貪欲に自分の碁の中に取り入れてしまう。

そのお陰でヒカルは碁の上達が早く、碁を覚えてたった二年でプロに受かることが出来たのだが、アキラ相手では裏目に出てしまった。

 

 

(行洋殿の棋譜ばかり並べていたとでも言い逃れては?)

 

佐為のアイディアに藁を縋る思いのヒカルは飛びついた。

 

「あっ!わかった!ここずっと塔矢先生の棋譜ばっかり並べてたからだ!」

 

「お父さんの棋譜を並べてた?」

 

「そうそう!だって塔矢先生、来月から始まる本因坊も取ったら7冠だろ!?気になるじゃん!今やってるリーグ戦も観戦しに行こうかなーなんてさ!」

 

佐為のアイディアにヒカルもそれらしい理由をこじつけて、どうにか誤魔化そうと試みる。

そんなヒカルにアキラの無言の視線が突き刺さり、背中を嫌な汗が伝う。

もしもこの先、アキラに佐為のことを話すときが来たなら、きっとこの日のことをつっこまれネチネチしつこく言われるんだろうな、と憂鬱になりながら。

 

「塔矢先生勝つといいなー」

 

ヒカルが己の打ち筋から、行洋の7冠に話題を逸らそうとすると、アキラの声は抑揚なくヒカルをばっさり切り捨てた。

 

 

「進藤、君はえらくお父さんの肩を持つんだな。君がそこまでお父さんの応援していたとは知らなかった」

 

感嘆すべき観察力と洞察力だろう。

そうきたか、と佐為も思わず目を見張った。

いくら行洋がアキラの父とはいえ、ヒカルとは世間的に全く繋がりがない二人だ。

ファンだと言うのも、今更白々し過ぎる。

だが、アキラのこの鋭さと勘の良さがあってこそ、ヒカルの中の佐為に気付けたのだろう。

 

(ひうっ!もうなんだよ!誤魔化そうすればするほど、つっこんで来やがって!)

 

言えば言うほどアキラの視線がキツくなるばかりで、ヒカルは逃げ腰になった。

 

「進藤、saiのほかにもまだ他に隠していることがあるのか?」

 

「saiなんて知らねえし、他も何も隠してねえよ!!」

 

「言え!」

 

「ねぇもんは言えねぇだろうが!」

 

いきなり立ち上がったアキラが、碁盤を挟みヒカルに詰め寄り、ヒカルも半ば逆ギレ状態で応戦する。

さすがにお互い商売道具の手を上げることはなかったが、それまで静かだった碁会所の一角で始まった喧騒に、少し離れて様子を伺っていた客と、カウンターの市河はまたかと早くも見慣れた光景に、大きな溜息をついた。

 



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番外4 行洋

十段戦が一段落し、行洋はイベントが目白押しとなるGW前に、久しぶりにヒカルと佐為に会う時間を作ることができた。

数ヶ月前に会ったときは、ヒカルの新初段でsaiではないかと疑っている芹澤をどう誤魔化すかということが問題となり、ゆっくり行洋と佐為が対局する余裕は無かったから、本当に半年振りではないだろうか。

こうして純粋に3人で碁を楽しむ時間が取れたのは。

 

石を打つ人物はヒカルなのに、ヒカル自身が打っているときと佐為の代打ちをしているときとでは、打たれる碁から受ける印象はガラリと変わる。

ヒカルが打てばプロ初段相応のプレッシャーを。

そして佐為が打てば、名人のタイトルを持つ行洋であっても、喉元に刀の切っ先を向けられているかのような緊迫し圧倒的なプレッシャーを感じ、部屋を満たす空気さえピリピリと肌を刺す。

どちらも石を打っているのは同一人物なのに、向けられるプレッシャーの違いを感じ取るたび、ヒカルと佐為が全くの別人であるのだと行洋は実感した。

 

ただ、ヒカルと佐為は知らないが、行洋の中に一つ懸念はあった。

ヒカルの新初段の対局中、行洋がsaiとしてネット碁を打つことで、芹澤の疑惑をそらすことはできたが、緒方の疑いはヒカルからそらすどころか、saiを隠そうとした行洋自身の存在にも気付かれてしまった。

警戒していたのはsaiを執着するアキラや緒方周辺だったから、まさかネット碁など興味を持つまいと思い込んでいた森下が、行洋がsaiとして打った棋譜に気付くとは、本当に予想外と言うしかない。

 

どんな嘘を重ねたところで、いまさら緒方を誤魔化すことは不可能だろう。

そう思ったからこそ、行洋も下手な小細工はせず緒方の追及を素直に認めた。

確信している緒方に、これ以上の隠し事をしても疑いを深めるだけだ。

だが、最後の部分だけは行洋の口から語ることは憚られ、『sai』を求める緒方の気持ちがどんなに分かっても、行洋の口から『藤原佐為』を語ることはできなかった。

 

まだ義務教育も終わっていない子供のヒカルを遅くまで引きとめ碁を打つわけにはいかず、日が沈む前の夕方にはお開きとなった。

名残惜しい気持ちはヒカル、行洋、そして佐為にもあったが、こればかりは如何ともしがたい。

 

陽が沈みかけた日差しを受けながら、母屋へと続く小道を歩くヒカルの後ろを歩きながら、行洋は緒方とのやりとりを思い出す。

『sai』はヒカルであると確信している緒方を行洋は否定しなかったが、だからと肯定もしなかった。

それが現状における緒方への最大限の譲歩だった。

 

幼さを残したヒカルの後姿に、『藤原佐為』の存在を話し打ち明けることが出来るのは、佐為の姿を見て、その声を聞くことが出来る当事者、ヒカルだけなのだと改めて思える。

『藤原佐為』を背負っているのはヒカルであり、存在を知っているだけの者が他者に軽々しく『藤原佐為』について話すべきではない。

佐為は表に現われるべきではない。

いや、決して表に現われてはいけないのだと行洋は思う。

 

ヒカルがヒカルとして碁を打つために、そして佐為が佐為として碁を打つために、『sai』はインターネットの闇の中の存在でなくてはならない。

それでも、もしこの先、saiの正体を行洋以外の誰かに話すときが来るとするなら、誰かに脅されたり、無理やり言わせられるのではなく、自らの意思で語ることを願うばかりだ。

ヒカルが自ら行洋に打ち明けたときのように、

 

母屋へと続く小道を歩きながら、行洋とヒカルは他愛ない会話を弾ませる。

 

「佐為がまだ生きてた頃の平安時代って、囲碁が貴族の嗜み?らしくて、佐為もそれで自然に覚えたらしいんだけど、俺は囲碁って佐為が打ちたいって言うから嫌々始めたんです」

 

「嫌々?」

 

「そう。囲碁なんて年寄りがするもんだと思ってたし、回りの友達だって囲碁打つやつなんていなかったし」

 

「……最近では碁を打つ子どもは少なくなってきているからね」

 

囲碁はシンプルな分、ルールが難しく、子どもが覚えるには多少とっつき難い部分がある。

最近ではアニメや漫画、携帯ゲームをはじめとする多種多様の娯楽が流行り、子どもの囲碁離れに拍車をかけていると言っていいだろう。

それも時代の流れの一つかもしれないが、やはり寂しいと思う。

ヒカルの言う『碁は年寄りのするもの』という言葉は、まさにそれを如実に語っていて、行洋は苦笑いするしかなかった。

そんな行洋の内心に全く気付かない様子で、ヒカルは自身の碁の馴れ初め話を続ける。

 

「なのに碁が打てないって分かったら、佐為のやつ、ぴーぴー泣いてへこむし、しかもその碁が打てない悲しい気持ち?ってやつが俺の中にも入ってきて気分悪くなって吐き気までするんですよ!勝手に俺にとり憑いたくせにさ」

 

そのときの気持ち悪さを思い出したかのように、ヒカルは頬を膨らませ恐らく佐為がいるのであろう方向を睨みながら、横暴だの理不尽だのと全身で不平を訴える。

 

「だから、しょうがないから少しだけ打たせようかなって気になって、でも佐為に打たせているうちに俺も打ちたくなって、それからどんどん碁にのめりこんで。塔矢先生は何で碁をはじめたんですか?」

 

手ごろに相槌を打っていれば、不意に問われ、行洋は目線をあげる。

すると、前を歩いていたヒカルが、両手を頭の後ろで組みながら顔だけ振り返り、行洋を見ていた。

 

「私?」

 

「先生も塔矢みたいに親とか周りに碁を打つ人がいたんですか?」

 

「いや、私は碁を打つ者は周りにはいなかったんだが、中学に上がって、アキラが今通っている海王中学ではすでに囲碁部があってね、入学して初めて碁を打っている光景を見た」

 

「中学で始めたんですか?」

 

行洋の答えにヒカルの目がまん丸に見開かれた。

 

 

「そうだよ。意外かな?」

 

「塔矢先生なら物心つく前から碁打ってそう」

 

言われて、行洋はクス、と小さく笑む。

物心つく前から行洋にとって碁は身近なものである印象があるらしく、ヒカル以外にも同様のことを言われたことが何度かあった。

 

「碁のルールは全く知らなかったが、白と黒の色の対比だけが美しい印象を受けただけだったのに、いつの間にかこうして碁に浸ってしまった」

 

「あ!分かる!!俺も最初全然分からなかったけど、白と黒の石模様が出来上がっていく様子だけは面白かった!」

 

行洋の言葉にヒカルがパッとパッと明るくさせ賛同してくる。

考えるに、碁のルールが分からないからこそ石模様の美しさだけが際立ち惹かれたのではないかと、行洋は懐かしく初めて囲碁を打っている光景を思い返す。

今となっては行洋が始めてみた棋譜がどんなものだったか思い出せないが、囲碁を知ったばかりのヒカルが惹かれた棋譜なら、行洋が見た石模様よりもっと美しかったことだろう。

佐為が打つ碁はいつもどんなときも美しい。

そんな碁にヒカルは常に接している。

羨ましいと正直思うが、こればかりは行洋にもどうしようもなかった。

佐為の姿がヒカルだけで、行洋を含めて誰にも見えないのだから。

 

「誰もがはじめ石模様の美しさに惹かれて碁を覚えるのかもしれないな」

 

平安時代、まだ佐為が生きていた頃、行洋やヒカルと同じように佐為もまた石模様の美しさに惹かれたのだろうかと行洋は思う。

どんなに文明が発達しようとも、千年前も今も変わらず、碁の美しさと面白さは何も変わらずに。

心の中で、行洋が考えていると、不意に突風が吹き、

 

「わっ!」

 

「ッ―!」

 

一陣の春風が吹き上げ、行洋は風から顔を背け、咄嗟に手で瞳を覆い瞼を閉じた。

着ている着物の羽織が風になびく。

それから風が通り過ぎて、行洋はゆっくり瞼を開いた。

 

顔を戻し閉じていた開いた視界に、ヒカルの姿が夕日に逆光となって眩く映る。

思わず目を細める。

けれど、

 

その後ろ

ヒカルの後ろに立つ影

 

行洋の目は魅入った。

 

高さのある柄帽子。

白い直衣。

長い真っ直ぐな黒髪が過ぎ去った残風に舞う。

突風を避けるようにして顔を隠してしまっていた直衣の袖が、ゆるりと下ろされる。

 

 

「佐為… …」

 

白い細面の輪郭。

切れ長の瞳。

憂いを含んだように細められ、伏せられた瞳。

すっと通った鼻梁。

薄い唇。

 

伏せられた瞳が、緩慢に開かれ、行洋に振り返る。

 

「先生?」

 

「え?あっ」

 

ヒカルに呼ばれ、行洋は一瞬気をそらし、すぐに視線を戻した先に、それは初めから無かったように消え失せていた。

そこにはヒカルしかいない。

直衣姿の美丈夫の姿など、どこにも見つけることはできない。

 

 

ほんの一瞬の出来事だった。

碁の神が気まぐれで一瞬だけ見せてくれた悪戯のように。

 

佐為が、そこにいた。

 

以前、ヒカルが行洋に語り聞かせた佐為の容姿そのものの姿。

幽霊だという佐為の存在を疑ってはいない。

けれど、ヒカルだけにしか見えない『藤原佐為』を、一度でいいからこの目で見てみたいと思ったことがないと言えば嘘になるだろう。

 

(あれが佐為……)

 

子供のように我が侭で、碁を誰よりも愛していて、鬼のように強い。

人に在らざる美しさをもった本因坊秀策。

 

「塔矢先生?大丈夫ですか?目にゴミが入ったりとか?」

 

声をかけても何かに気をとられている様子の行洋に、ヒカルが少し心配そうに首を傾げた。

その仕草に、一瞬の幻に心を占められていた行洋の意識が現実に向けられる。

 

「いや……、もう大丈夫だよ。すごい風だったね」

 

何事も無いと言いながら、風で乱れてしまった羽織の裾を正す。

一瞬、行洋は先ほど見た光景をヒカルに言おうかどうか逡巡し、けれど開きかけた口を閉ざし、小さな笑みを湛えるだけに思い止まった。

ほんの瞬きの狭間の出来事。

碁の神が見せてくれた悪戯ならば、そっと心内に仕舞っておこう。

 

「先生、来月から本因坊をかけて桑原先生と戦うんでしょ?」

 

「本因坊か」

 

現在の囲碁タイトルの中で最も古いタイトル『本因坊』

先月の本因坊挑戦者を決めるリーグ戦で行洋は勝ち抜き、ヒカルの言うように現タイトルホルダーの桑原と戦うことになっている。

ヒカルとこうして知り合うまでは、タイトルの一つでしかなかったものが、今では行洋の持つ複数のタイトルよりもっと深い意味を持つようになった。

本因坊は『本因坊秀策』だった佐為に繋がるタイトルだ。

 

 

「桑原先生は一筋縄ではいかない方だ。そう簡単にはタイトルをお譲り下さらないだろう。しかし、佐為のタイトルならば、私も是非頑張らねばならないかな」

 

「ホントに!?絶対『本因坊』取ってねっ先生!約束だよ!?」

 

「そうだね、約束だ」

 

行洋は瞼を下ろし、瞳を閉ざす。

そこに想うのは先ほど碁の神が見せてくれた悪戯だった。

 




+++

なんとなく思い出しました……。
本編の52話のあとに入れるか入れまいか迷って、たぶんこれ入れたら
塔矢先生が後で死んでしまうのが勘の良い方にはバレてしまいそうだから没にしたやつですね(汗)


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IF GOD - 佐為があのままネット碁を続けていたら- ネタ集

※注意事項
このSSはあくまでIFGOD本編小説の『ネタ』としてメモしていたものを集めただけなので、文章の肉付け等していません。
会話だけのネタSSもあります。
コミケ78で無料配布したコピー本と収録内容は同じです。
誰と誰が会話しているのかは最初に記入してあるので、そちらを参考にしてください。


【門脇・ヒカル・アキラ】

 

「進藤くん、君がsaiじゃないのか?」

門脇の言葉にヒカルの身体がビクリと震える。

ヒカルが最も恐れていた言葉だった。

「……何を突然言い出すんですか?俺がsaiって何のこと?」

「君がまだ院生だったとき、俺と通りすがりに打った一局。あれが君がsaiであるという証拠だ。偶然通りすがりに会って、俺は君を捕まえ一局打った。院生だという君がまさかあれほど強いとは俺は全く考えていなかった。だが、進藤君、君も俺の実力がどれくらいか知らなかったから、まさか自分がsaiとは分かるまいと油断して本当の実力で俺と打ったんだ。今から君の隣りにいる塔矢くんに俺と君が打った一局を並べてみせてもいい。それとも、塔矢くんは君がsaiであると知っているのかな」

「進藤、どういうことだ?」

ことの成り行きを見守っていたアキラが、門脇から話を振られたことで、静観に耐え切れずヒカルに問う。

 

 

 

 

【行洋・ヒカル・佐為】

 

 

「時間です」

係員が対局開始の時間を微かに震えた声で告げる。

この対局結果次第で、過去、誰も成し遂げていない前人未到の七大タイトル全てを保持する棋士が生まれるかもしれないのだ。

囲碁の歴史に刻まれる一局となるのは間違いない。

他にも行われるタイトル戦と比べても、常にない緊迫した空気が幽玄の間に満ちていて、対局を見守る側でさえ、例えようのない息苦しさを覚える。

ニギリは行洋が黒、桑原が白になった。

しかし、互いに頭を下げ、礼をしても行洋が第一手を打たないまま時間が過ぎる。

行洋の第一手目を写真に撮るべく、カメラを構えていたスタッフも、どうしたのか、いつ打つのかと、カメラを構えるタイミングが分からず困惑気味にじっと待つしかない。

対局時計の針は進んでいる。

持ち時間をどう使おうが行洋の勝手だが、対局相手側が予め決まっている対局では黒白どちらを持とうとも、一手目を考えてくるものだ。盤外戦が得意な桑原ならいざ知らず、行洋がそんな小細工をしてくるとは考えにくい。

じっと碁盤を見つめ、膝に両手を起いたまま、行洋はピクリともしなかった。

不意に行洋が立ち上がり、幽玄の間を無言で出て行く。

係員が、「あっ」と声をかけようとしたが、隣で棋譜を付けていた1人が声をあげた者の腕を掴み、首を横に振る。

持ち時間をどう使おうとも行洋の勝手なのだ。

そして対局しているのは行洋。

周りが口を挟むべきではない。

 

ザワリ、と。

一角からざわめきが起こり、それはすぐにヒカルを取り囲んでいた者たちも気付き、何事かと振り返った。

そしてそこに立っているはずがない人物に誰もが自身の目を疑った。

対局開始時間はとっくに過ぎている。

幽玄の間で桑原と対局していなければならない。

複数のタイトルホルダーで雲の上の存在である行洋に話しかけることが出来る人物は、この場ではヒカル以外には息子のアキラだけだった。

「お父さん何故ここに……対局は……?」

アキラを一瞥し、行洋はヒカルを見やる。

間違いなくsaiについて周囲から言及され、ヒカルは1人窮地に立たされている。

それなのに己はヒカルを放って、いくら大事な対局とはいえ、碁を打っていていいのか。

なにより自分は碁を打つことに集中できるのか。

「私は……」

言いかけて、行洋は口を閉ざした。

口を閉ざした迷いは、行洋がこれまで碁の棋士として積み上げてきた実績、成績などの現在の『棋士:塔矢行洋』を創り上げた全てだ。

その全てを失うかもしれないという恐れが迷いとなって、行洋から言葉を奪おうとしている。

それでも、これまで培ってきた全てを失うかもしれないとしても、本当に失ってはいけないものが目の前にある。

「後悔はしていない。私は、今も、そしてこれからも君達の友人でありたいと思う。私も一緒だ。それだけは覚えておいてほしい」

言い終えて、行洋は深く息を吐き、瞳を閉ざした。

全てを失ったとしても、後悔だけはしたくない。

突然現われた行洋が、静かに語りだす言葉。

その言葉が誰に向けられたものか。

行洋が誰と名前を出さなくても、この場にいた全員が理解した。

行洋はsaiについて何か知っているのだ。

そして自分はsaiを隠すヒカルの味方であると多数の目がある前で宣言した。

新人棋士でしかないヒカルと違い、行洋は現6冠、そして今日の対局結果如何によっては7冠のタイトルホルダーになるかもしれない囲碁界の重鎮であることは誰でも知っている。

その行洋がヒカルの後ろにいる。

静寂が包む場で最初に言葉を発したのは、声なき声だった。

『……勝って……勝ってください!』

佐為の叫びにヒカルが隣を振り返る。

『絶対負けないで!今日の対局、必ず勝ってください!本因坊(あれ)は私のものだ!』

手に持った扇を握り締め、ヒカルにしか聞こえない声を振り絞り、佐為が行洋に叫ぶ。

それが人目を憚らずヒカルと佐為の味方であると行洋が公言したことへの、佐為が出来る精一杯の感謝であり、激励だった。

けれど、どんなに佐為が声を枯らすまで叫んだとしても、その声は行洋へは届かない。

佐為の声はヒカルにしか聞こえない。

「……勝って」

佐為から行洋へ振り返ったヒカルが、佐為の言葉と共にヒカル自身の気持ちも2人分込めて行洋へ叫ぶ。

「勝って!今日の対局、先生絶対勝って!あれはっ……佐為のものだ!」

ヒカルが佐為の名前を叫ぶ。

しかし、その直前、ヒカルは佐為がいるであろう隣を見やったことを行洋は気付いている。

このヒカルの言葉は佐為の言葉だ。

それを行洋と同じく、人目のある場所で代弁し叫んだ。

行洋の気持ちにヒカルと佐為が応えた。

「分かった。必ず勝とう」

それだけ言うと、行洋は踵を返す。

 

 

 

 

【緒方・ヒカル・アキラ・社】

 

 

ピンポーンと。

塔矢邸の玄関の呼び鈴が鳴り、

「あ、やっと来た」とヒカルが碁盤から顔をあげる。

「社、玄関でてくれないか。進藤、食べたゴミとか片付けてくれ。僕は湯のみ洗ってお湯沸かしてくる」

と、アキラに言われ、社は玄関に向かったが、普通は家人が玄関に出るものではと思いつつ、客が来ることを予め知っていたような2人の素振りだった。

知人だと分かっているから、アキラも社に玄関に出るよう頼んだのかもしれない。

しかし、昨日から三日間、北斗杯の合宿をするというのに、誰か客が来るような用事をわざわざ作らなくてもいいのではないだろうか。

せっかく集中して碁を打とうというのに、気が緩んではしないだろうか。

それとも、誰か囲碁関係者とか……とまで考えて、ガラス戸越しに人影が透ける玄関のカギを開けた。

「誰だ?」

「オッサンこそ誰や?」

玄関を開けたそこに、白スーツに緩めたネクタイと、どこからどう見てもヤのつく自由業の人物に、社は関西人根性を出して、負けじとガン垂れた。

売られた喧嘩は買わねば男ではない。

「ああ?俺は今機嫌が悪いんだ。口の聞き方には気を付けろ。だいたいアキラくんはどうした?」

社の睨みにも全く動じることなく、緒方が不機嫌に言い捨てる。

しかし、それに答えたのは社ではなく、廊下をドタドタ忙しく足音を立て走ってきたヒカルだった。

「もう!遅いよ緒方先生!」

「何が遅いだ。俺の都合そっちのけでいきなり呼びだしやがって。だいたい、この礼儀知らずなコイツは誰だ?何でここにいる?」

「そいつは社。関西棋院のヤツでさ、今度の北斗杯で一所に出場するんだ。それで昨日から泊り込みで合宿」

「や、社清春です。さっきは緒方先生と知らんと、すんまへんでした……」

「コイツが北斗杯にねえ…」

頭の先から足先まで舐めるように品定めする視線で緒方が言う。

「それはいいが、何で俺がいきなり出場するわけでもない北斗杯の合宿に呼びされなきゃならん?北斗杯の団長は倉田だろうが。倉田はどうした?」

ガキの面倒見は御免だとばかりに緒方が問えば、

「倉田さんには今回の合宿は伝えてません」

「何故?」

「今回の合宿の目的が、社を鍛えるためだからだよ」

「ええ!?俺かい?そんなん一回も聞いてへんで!?」

「今言っただろう?」

「今回の北斗杯、絶対に韓国に負けたくない。とくに高永夏には」

「韓国がどうかしたのか?」

「本因坊秀策を、佐為を馬鹿にした!佐為があんなヤツに負けるわけないのに!」

「高永夏に負けたくないのは絶対だけど、高永夏の韓国にも負けたくない。そのためには、社がまだまだ不安だ。だから」

「俺にコイツを強くしろってか?」

「違うよ。これから2日間、佐為が社に付きっきりで指導して徹底的に叩きあげる。そうなると塔矢が1人になるだろ?だから、佐為が社を指導している間、塔矢と打って欲しいんだよ」

「佐為がマンツーマンで指導だと?!」

ヒカルの言葉に、緒方の顔が悪鬼と化し、言ったヒカルではなく、話が全く見えていない社を睨みつける。

「えっ!ええっ!?俺の合宿とかサイ?が付きっきりでワイを指導とか全然話が見えへんのやけど!それより何で俺そんな睨まれるんでっか!?」

「これは佐為たっての希望だから、緒方先生が何言ってもダメだからね!」

「佐為の指導で社が強くなるのはいいんですが、たった三日間の合宿で強くなるには不自然だし変な疑いを誰かが持つかもしれません。そこで表向き、緒方さんとも対局し指導したことにしておけば、不自然さは多少薄くなる」

「緒方先生、協力してくれたら、佐為と一日中打てる券二枚あげる」

ヒカルの交換条件に、緒方がピタリと静止する。

そしてじっくり十秒葛藤した後、緒方が振り返ったのは社の方だった。

「社……」

「は、はいっ!」

「お前、佐為をこれから二日間も独占しておいて、北斗杯で無様に負けてみろ……。日本には帰って来れんと思え」

 

 

 

【行洋・ヒカル】

 

ヒカルの双眸が俯き細められ、長い睫毛が不安げに震えた。

歴史に名を残す大棋士を背負うのに、まだ子供のヒカルには荷が勝ち過ぎていると行洋は内心改めて思う。

何故、佐為が宿ったのはヒカルなのか。

何をどう考えたところで、誰にも答えは見つからず、神が答えてくれるわけでも

ない。

だが、考えずにはいられなかった。

「私が守ってみせる」

「……先生?」

「君も、佐為も、私が必ず守ってみせる。誰にも君たちを傷つけさせはしない」

揺るぎなく断言する行洋に、ヒカルと佐為、2人の瞳が見開かれる。

「でも……」

何かを言おうとして言い淀む。

ヒカルの脳裏に浮かんだのは春の授賞式で、たくさんの関係者に囲まれた行洋であり、テレビや新聞に映る行洋の姿だった。

囲碁界を支える大棋士が、プロ自分などに関わり続けて、その名誉や経歴、名前に傷をつけはしないか?

行洋と違い、プロになりたての自分なら失うものは殆どない。

いまならまだ間に合う。

お互い何もなかったことにして、密会する前の関係に戻れば行洋にこれ以上迷惑をかけることはない。

そんなヒカルの心情を見透かしたように、

「君は君でいていいのだよ。そして佐為も佐為であればいい」

決して答えを急かさず強引に意見を押し付けるのではなく、静かに、落ち着きを崩さず、行洋は優しく語りかける。

「………うん」

 

 

 

【芹澤・乃木】

 

「それはどなたの棋譜ですかな?見た覚えがないのですが、韓国か中国、海外の棋士の棋譜とか?」

1人、集中して棋譜並べをしていたところに声をかけられ、芹澤はどう答えるべきか一瞬逡巡したが、

「……saiです」

本当に誰かに声をかけられず、集中して1人で棋譜並べをしたいのであれば、自宅ですればいい。それをわざわざ棋院でしているのだから、誰かが芹澤に気付いて声をかけたとしても責められる云われはどこにもない。

「saiですか?芹澤先生もsaiに興味を持たれていらっしゃったとは知りませんでした」

「つい最近ですよ」

「アマという噂ですが、これだけ打ててアマというのも信じられませんな。百歩譲ってアマとしても、以前はプロとして活躍していた棋士というならば納得も出来るのですが、それらしい人物もいない」

「saiはアマ……」

そう、saiはアマだったのだ。

去年のプロ試験に合格するまでは。

 

 




結局使わなかったネタ集です。
没にするってわかってて面白半分書いてたネタもありました。


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