銀の狐と幻想の少女たち (雨宮雪色)
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第1話 「フットルース・ステップ ①」

【概要】
・本作品は、2011~2012年にかけて、今は亡きにじファン様で連載していた同タイトルの改訂版です。
・個人ブログ『ことばつなぎ。』及び小説家になろう様とのマルチ投稿となります。
・ブログではすでに80話ほどまで公開済みですので(2016年1月時点)、手っ取り早く先を読みたい方はブログをご利用ください。URL含め、詳細はユーザページにまとめてあります。

・冒頭は三年ほど前の文章なので、今とはだいぶ文体が異なっている点だけご了承ください。


 

 

 

 

 

 夜を歩くようだった。

 

 森はあたかも空を嫌うかのようにうずたかく伸び、いっぱいに広げた両腕で空を奪っていた。今が晴れているのか曇っているのかもわからないままひっそりと木々に分け入る様は、まさしく夜闇を進むのと似ている。ただくしゃりと枯葉を踏みつける音だけがどうにも耳障りで、男は浅く目を細めた。

 

 風変わりな男だった。二十代中頃かそれ以降か、黒髪黒目の標準的な日本人の相貌に、しかしその身を包むのは洋服でなく、狩衣(かりぎぬ)にも似た白の和装。その実、狩衣とは元々狩りの際に好んで着られた運動着であるのだが――今のご時世、それを着て外を歩けば奇異と不審の目を引く。他人のいない深い森の中とはいえ、すれ違う木々すらも、男の突飛な様相に眉をひそめているようだった。

 男の足取りは静かで、しかし迷いない。周囲を見回すこともせず一直線に進んでいく様子は、歩き慣れている以上に、行くべき場所を初めから知っているという印象を与える。

 

 男がそうして目指した場所は、奥地、寂朽ちた一つの神社であった。塗装は剥げ、屋根は崩れ、柱は朽ち、境内は枯葉と雑草で足の踏み場もない、一目で廃れたのだと見て取れる神社。それを正面から見据えて、男は小さく苦笑した。

 

 男はすぐにまた歩き出す。枯葉と雑草を踏み鳴らし、境内をぐるり、社の裏に回った。

 するとそこに、背の高い石造りの鳥居があった。参道の入口に設けられるはずの鳥居が、なぜかこの廃れた神社では、本殿の裏に隠れるようにして建てられている。鳥居を越えた先に広がるのは薄闇の森だけで、参道はもちろん、獣道すらありはしない。

 されど男はその異様な鳥居を前にしても表情を変えることなく、『笠木』と呼ばれる鳥居のてっぺんを眺めて、やがて静かに笑みの息をつく。

 

 同時、男の黒髪が風に揺れた。けれども、森は依然ざわめくことなく静謐を保っている。男の周囲にだけ風が巡っているのだ。

 男の体に変化が起きる。黒かった髪はまるで絵の具を洗い落とすようにして銀色へ変わり、赤みのある健康的な肌は、少しだけ白く。そして頭の上からぴょこりと生えたのは獣の耳であり、尾骨あたりから不意に伸びたのは、彼の背丈と同じくらいの大きさになる、豊かな銀の毛で覆われた――尻尾。

 人から人外へと“戻った”彼は、そうして笑う。唇端引き上げ、子どものように。

 

「では行こうか。久方振りの――」

 

 ――幻想郷へ。

 

 森が鳴いた。或いは彼を歓迎するように、さわさわ、さわさわと。

 やがて鳥居をくぐった男の体は、森に溶けるようにしてどこかへと消えゆく。

 

 残るのはただ、寂朽ちた小さな神社と、森の声だけ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 両腕に提げた四つの饅頭の桐箱。これが何日で空になるのかを考えると、魂魄妖夢は憂鬱になった。「食欲の春よ! 食欲の春にはお饅頭をお腹いっぱい食べるのが習わしなの!」――朝っぱらからそんなことを宣う主人の頭は、間違いなく春なのだろう。

 

 春の朝だ。陽春の朗らかな朝日が注ぎ、巡る涼やかな風に乗せられ、甘い花たちの気配が香っている。そんなありふれた春の景色は、しかしこちらの荒んだ心を慰めようとするように穏やかで心地がよかった。この天気の下を歩けるのなら、朝一番で主人にお遣いを命じられたのも、まあ、悪くはなかったかもしれない。

 とはいえそれで妖夢の機嫌がすっかり回復することもなく、人里での買い出しを終えた帰り道、進める足取りはどんより重い。

 

「これでしばらくは……もたないだろうなあ。五日……いや、三日かしら。早ければ明後日にもまた買い出しを頼まれる可能性が……」

 

 風が甘く香っても、口からこぼれるのは憂色濃いため息ばかり。頭を悩ます種は、ただいま全身全霊で春を謳歌している自由奔放なご主人サマ。

 

 妖夢の主人である西行寺幽々子は、この幻想郷に広く名を知らしめる健啖家であり、なかんずく饅頭に注ぐ愛たるや、まさに山より高く海より深く。朝に眠気覚ましだと言っていくつか食べ、朝食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、昼食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、三時のおやつにいくつか食べ、夕食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、夜になると一日の締め括りとしてまたいくつか食べる。とにかく、見てるこっちが胃もたれするくらいに食べるのだ。

 それでも彼女が太りもせず病気にもならないのは、体質故か、それとも亡霊だからなのか。ともかくそんな余計な能力を神が与えてしまったばかりに、妖夢のストレスは四六時中治まることを知らないでいる。

 

「さすがにどうにかしないとダメかなあ……。でもそうしたところで今度はお煎餅とかに流れていって、どの道買い出ししなきゃなんないのは変わらないんだろうなあ……」

 

 どうにかできるものなら祖父が既にしていただろう。幽々子の大食い癖が今なお健在なのは、祖父の腕を以てしてもやめさせることができなかったからだ。

 ならば、未だ庭師としても幽々子の目付役としても半人前の妖夢にどうして止めることができようか。結局、今の妖夢にできることといえば、幽々子のいないところで小言を漏らす程度でしかないのだ。

 

「幽々子様のばかー……」

 

 白玉楼のエンゲル係数は、どうやら今月も七割を超過しそうであった。

 

「――もし、そこの半人半霊の女の子。そろそろ止まってくれないとぶつかるのだが」

 

 その時、妖夢は聞き慣れない声を聞く。男の声。波の穏やかな聞き心地のいいバリトンの声音だ。

 ハッとして俯けていた視線を上げると、正面、手を伸ばせば届くほどの至近距離に、男が立っていた。――幽々子のことばかりを考えていて、完全に気がつかなかった。

 

「ッ、す、すみません」

 

 咄嗟に二歩後ろに下がれば、視界に男の全身が映る。同時、妖夢の脳に鮮烈に飛び込んできたのは――銀。

 銀髪の男だ。上白沢慧音のように青みがかっているのではなく、森近霖之助のように灰色がかっているのでもない、光沢すら感じさせるくすみのない鮮やかな銀色。自分のよりずっと綺麗かも、と妖夢は思わず惚けた。

 そしてそれに数秒魅入ってから、ふと男の頭から獣の耳が生えていることに気づく。続けざまに、背後で同じ銀色の尻尾が揺れていることにも目が行った。

 脳が彼が妖狐であることを告げ、反射的に身構えるも、すぐに男の表情に害意がないことに気づいて体から力を抜いた。

 

「随分と考え事をしてたみたいだね。何度か呼び掛けたんだけど、さっきの距離になるまで全然気づいてくれなかった」

「も、申し訳ないです」

 

 頬が熱を持っていくのを感じる。こんなんだから半人前って言われるんだと、妖夢は猛省した。

 ともあれ、知らない相手だ。妖夢は頬の熱が色になっていないことを祈りつつ顔を上げ、改めて男の相貌を見る。

 若い男だ。妖怪故に年齢は知れないが、人間でいえば二十代中頃か。背は、こちらが少し低いこともあってか、この距離からでもやや見上げる程度には高く見える。温厚の色濃く細まった瞳は暖かく、細面なのも相まってか、外見以上に大人びた印象を受ける。

 

「ええと……なにか、御用ですか?」

 

 まさか軟派などではなかろうが、念のため距離を保ったまま問い掛ける。男は柔和な笑みを崩さず、なに、と浅く右腕を持ち上げた。

 

「少し、尋ねたいことがあってね」

「なんでしょう?」

「ここ最近で、この幻想郷で変わったところはないだろうか」

「……変わったところ?」

 

 男の問いが理解できず、思わずオウム返しで訊き返してしまう。失礼だろうかとは思うけれど、それにしても妙な言葉ではあった。

 

「変わったところ、といいますと?」

「ん、そうさな……最近になってこのあたりにできた新しい建物とか土地とか、そういうものはないかな?」

「はあ……」

 

 問いの意味は掴めたが、そう尋ねる男の意図は依然知れないまま。

 どうしてそんなことを訊くのだろうか。最近になって新しくできた建物や土地といえば、守矢神社や永遠亭などが挙げられるけれども、そこは同じ幻想郷に住む者だ。知らないということはないはずではないか。

 そう頭をひねりながらも、とりあえずだんまりしていては失礼なので、先に答えを返しておく。

 

「去年の秋頃、妖怪の山の頂付近に、外の世界から神社がやって来ました。……こういうので大丈夫ですか?」

「ふむ、大丈夫だよ。他には?」

「そうですね、あとは……」

 

 迷いの竹林の永遠亭。あとは、最近かどうかはあくまで妖夢の主観になるが、霧の湖の紅魔館も挙げておいた。

 

「なるほど。外の世界から来た神社に、永遠亭に、紅魔館ね」

「ここ最近ではこんなところだと思います。……お役に立てましたか?」

「もちろん。助かったよ、ありがとう」

 

 満足げに頷いた男は、軽く右腕を挙げて会釈。そして驚くほどあっさりと踵を回し、妖怪の山の方向へと歩いて行ってしまった。

 

「あっ、」

 

 妖夢は反射的に半歩足を前に出したけれど、思い直せば特別呼び止めるような理由もなかったので、すぐに息をついて足を戻す。

 男はまっすぐ妖怪の山を見据え、振り返る素振りはない。こちらの存在など既に忘れているのだろう、動かす脚のリズムに合わせて、右へ左へと尻尾が陽気に揺れている。

 なんだかよくわからない妖怪だ。銀の狐なんて珍しい存在なのになんの噂もなくて、なぜ幻想郷の新しい建物を知ろうとしたのかも謎のまま。

 話をした感じ悪い妖怪ではないようだから、引き留めようとは思わないものの、

 

「……変なの」

 

 思わずそう呟いてしまう程度には、変な妖怪だった。

 けれど妖夢も、すぐに男のことを意識から外した。今妖夢が最優先すべきことは幽々子のお遣いを終わらせること。あまり帰りが遅くなると機嫌を損ねられるだろうし、そうなると色々と面倒なので、すぐに白玉楼へと向けて飛揚した。

 

 この狐が何者なのか知るのは、それより少しばかり、あとの話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 頂を見上げれば首が痛くなるほどに、高く高く伸びる石段。それを長い時間を掛けて登り切った先で、昂然と飛び込んでくる日本庭園がある。四方の形で並ぶ数多の桜を取り込んだ石庭は、まさに荘厳華麗の体現であり、冥界の中核である白玉楼を象徴する傑作であった。

 

 その石庭に四囲を彩られた日本屋敷、白玉楼。流水の如く見事な枯山水を望む大広間で響くのは、しかしバリボリという、庭の景観を全て台無しにする品の欠片もない咀嚼(そしゃく)の音。

 西行寺幽々子が、煎餅をむさぼり食っていた。

 

「おほいはへーほうふ。いっはいほほへほりみひしへるのはひは」

 

 煎餅一枚を割ることもせず丸々口に放り込み、頬をいっぱいに膨らませながら、細かく砕く。欠片を舌の上で転がすと、ほのかに醤油の甘さが香った。

 美味しい、と頬が緩む。幽々子は煎餅よりも饅頭の方が好きだが、もちろん煎餅だって大好物だ。また一枚を掴んで口に放り込む、その動きは速く、見る見る内に手元の桐箱から煎餅がなくなっていく。開けた当初は四十枚ほどあったが、今では既に半分まで減ってしまっていた。

 とはいえ、幽々子はそのことを微塵も気に留めない。『食べたい時に食べたい物を食べたいだけ食べる』を処世訓とする幽々子にとって、どの食べ物がどれだけ残っているかなど些細な問題なのだ。

 

「相変わらず、あなたは食べてばかりねえ……」

 

 バリバリ煎餅を砕く音に混じって、正面からため息が飛んできた。幽々子は煎餅を飲み込みかすかに渇いた喉をお茶で潤すと、「あらあら」と笑みをたたえて正面を見据えた。

 宝石のような光沢すら見て取れる、美しい金髪の少女がいる。その細やかな輝きも、彩られる整った相貌も、奥で悄然と細まった瞳も、全て幽々子がよく見知ったもの。

 

「だって私は食べるのが大好きなんだもの。今更よ、紫?」

 

 名は、八雲紫という。幽々子の唯一無二の親友であり、また幽々子がこの冥界を管轄しているように、彼女は幻想郷という世界を庇護している管理者でもある。

 そんな紫は今、せっかくの端正な顔立ちを明らかな私情で歪めていた。忌々しいと、そんな気持ちを包み隠さず表現した半目でこちらを睨み、

 

「なんで幽々子はそんな食べてばっかりなのに全然太らないの? 不公平過ぎるわ……」

 

 彼女がこんな表情をする原因を、幽々子は既に察している。つまりは紫、なにがとは言わないが、“増えた”のだ。少し前に外の世界に出掛けた際、誘惑に負けてケーキをいくつか頬張ったのだという。

 やはり女たるもの、“増え”てしまうと精神的に大きなダメージを負うものだ。妖夢もそれが嫌で嫌で、仕方ないから自分の食生活にはかなり気を遣っていると言っていた。

 けれど幽々子はそんな彼女らをあざ笑うように、どれだけ食べても一向に太らない体質の持ち主だった。だから、鼻にかけるように大きく笑んでこう返す。

 

「羨ましい?」

 

 すると案の定、紫はなお一層とその口元を歪めて舌打ちした。

 

「ええそうよ、羨ましいわよ」

「紫も食べる?」

「人の話聞いてた? 食べないわよ」

「美味しいわよー?」

「結構ですー」

 

 ツンとそっぽを向く紫に、幽々子は可愛らしいものだと笑みを深めた。じゃあちょっとだけいじめてやろうかと、これ見よがしに煎餅を噛み砕きながら、独り言を言うように、

 

「一瞬の油断が命取り。難儀よねえ……」

「うぐぅっ……ふ、普段は大丈夫なのよ?」

「これはきっとあれねー。外の世界から買ってきたケーキを親友にお裾分けすることもせず独り占めしたものだから、ケーキの神様が罰をお与えになったのよ」

「うう、ケーキの神様のバカ~……」

 

 紫が心底悔しそうに目元を歪めた。幽々子は芝居がけて大仰に両腕を広げ、声高につなげる。

 

「今からでも遅くないわ、私にそのケーキを持ってきなさいな! そうすれば私がケーキの神様にお話をして、あなたにかけられた呪いを解いてもらうようにお願いしてあげる!」

「……騙されない、騙されないわよ。つまりはあなたがただケーキを食べたいってだけでしょ」

 

 紫は半目でこちらを睨み、それから吐息。

 

「それに、もうちょっとで元に戻るもの。努力の勝利よ」

「ああ、ケーキの神様、ケーキの神様! ここにいる薄情者に更なる罰をお与えください!」

「ちょっと幽々子ー!?」

「具体的には、もっと太」

「やめてえええええ!? それ冗談にならないから、ストップ、ストップ!」

「知らないわよー! 意地悪な紫なんていっそぶくぶくに太」

「やああああああああ!?」

 

 紫が顔を真っ青にしてこちらに飛び掛かってきた。そのままビシビシと頭を叩かれたので、すぐに幽々子も反撃に出る。

 

「ケーキを独り占めする紫が悪いのよー!」

「仕方ないじゃない、とっても美味しそうだったんだものー!」

「ふーんだ!」

 

 負けじと平手を振るう勢いに任せて、

 

「これからもそうやって誘惑に負けて、太って、いつか“あの人”に呆れられちゃいなさい!」

 

 と、言った瞬間だ。

 

「――……」

 

 唐突に、紫の動きが止まった。

 

「……紫?」

 

 幽々子は紫を見た。今までの食いかかる勢いは露と消え、こちらに掴みかかった体勢のまま、それでもどこか心あらずと茫と視線を迷わせている。

 幽々子は内心で吐息した。『あの人』。たったそれだけの言葉でこんな反応をされるとは思っていなかったから。

 ちょっとした冗談のつもりだったけれど、失敗だっただろうか。そしてどう取り繕うかと考えていると、先に紫が、ポツリと言った。

 

「ねえ、幽々子」

 

 もはやふざけるのはおしまいだ。幽々子は掴みかかられていた紫の手をそっと解いてやり、その声に真摯に耳を傾ける。

 

「なあに?」

 

 促しに、紫は一つの言葉で応じた。

 

 

「――昨日ね。あいつの夢を見たの」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「そう。あの人の夢を、ね」

「うん」

 

 告げる紫の声色には、ややの思慕の感情がにじんでいた。幽々子は口元にそっと笑みを忍ばせる。

 

 八雲紫には想い人がいる――なんて話は、少しばかり唐突だろうか。けれどそれは、幽々子のように紫と親しい者ならば誰しもが知っていることだ。

 

 綺麗な銀の毛を持つ狐であった。幽々子の知りうる限りで最も澄んだ銀である彼は、

 

「あの人が外の世界に出て行って……もう500年くらいになるのかしら」

 

 久しく昔、幻想郷から外の世界に出て行って、それっきり戻ってきていない。自由奔放で好奇心旺盛な妖怪なのだ。この幻想郷より外の世界の方が面白いからと、それだけ言い残して、もう500年の年月を数えている。

 

「なるほどね、じゃああなたがそんなにセンチメンタルになってる理由も納得したわ。つまり――会いたくて会いたくて仕方ないってことね?」

 

 問い掛けに、紫はちょっとだけ気恥ずかしそうに頷いた。そんな姿が、たとえ千年以上を生きた大妖怪であっても少女のように可愛らしいのだと、幽々子は己の笑みを深めた。

 

「きっと大層、外の世界での生活が楽しいんでしょうね。500年もあなたのことをすっぽかしてるんだもの」

「……」

 

 半瞬の沈黙。

 

「……ねえ、幽々子」

 

 紫の表情に陰りが差し、そうして幽々子に掛けたのは不安げな問い。

 

「ここって、そんなに面白くないのかな。……つまらないのかな」

 

 今にも消えてしまいそうに儚いその声音を、しかし幽々子ははっきりと聞き、そして答えた。

 

「少なくとも、私はそう思ったことはないわよ? でもあの人は、もしかしたら違っていたのかもね。あの人はあなたみたいに人間のことが大好きで――でもあなたとは違って、妖怪と人間を共存させるのではなく、もっと単純に、人間たちと同じ時間の中を肩を並べて歩いていこうとした」

 

 一息置いて、

 

「幻想郷の時間は、外の世界に比べればきっと止まっているようなものでしょうし。なにかが足りないって、感じていたのかもしれないわよね」

「……」

 

 単純な単位としてではなく、生活水準の発展という意味合いで、幻想郷の時間は成立当時からほとんど変わっていない。仕方のないことではあるのだ。過度に文明を発達させれば外と同じように妖怪の住みにくい世界になりかねないから、そんな外から隔離し時間を止めた幻想郷のシステムは、妖怪と人間を共存させる上で必要な予防線だ。

 このシステムをつくり上げた紫は間違ってなどいない。だからこそ、

 

「だとしたらきっと、あの人が外の世界に出て行ったことは必然だったんじゃないかしら。ほらほらあれよ、いわゆる『価値観の相違』ってやつね」

 

 例えば外の世界には、未だに幻想入りを拒み、人間たちとともに生きている妖怪たちが少なからずいる。生き物の価値観は千差万別。妖怪の中にだって、妖怪の楽園とされる幻想郷よりも、あえて外の世界を選ぶような変わり者はいるのだ。

 そして彼は、後者だった。ただ、それだけの話。

 

「……」

 

 ままならないものね、と幽々子は思う。紫は幻想郷を管理する立場だから、一緒にいたくても彼のあとを追うことはできない。そして彼は、きっと紫の想いにも気づいているのだろうけど、花より団子と自分の好奇心に従って生きている自分勝手な妖怪。こうも噛み合わないのは、傍から見ていて実にもどかしい。

 

「戻って、こないかなあ……」

 

 切々と揺れる紫の呟きに、幽々子はそっと眉を下げた。

 或いは慈母のように、微笑んでやる。

 

「あの人は自分勝手だけど、決して薄情じゃない。……むしろ、妖怪には珍しいくらいの人情家だもの」

 

 一息、

 

「きっとその内、なんの前触れもなく戻ってきてくれるわよ」

 

 言い切ると同時、ただいま戻りましたー、と大広間の襖が開く。親友として紫を思う幽々子は、しかしここに来て己の食欲を優先させた。あどけなく目を輝かせ、満面の笑顔で、広間に入ってきた彼女を迎える。

 

「おかえりなさ~い、妖夢! そして待ってたわよ、お饅頭~!」

 

 幽々子の視線の先、魂魄妖夢は疲れのにじんだため息を一つこぼして、両手の荷物――袋いっぱいに入った饅頭の木箱――をドサリと下ろした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ポヤポヤ笑顔の幽々子に迎えられて妖夢が大広間に入ると、彼女とちょうど差し向かう形で、お遣いに出る前には見られなかった人影があった。

 

「あ、紫さん。いらしてたんですね」

「……ええ、そうね。お邪魔してるわ、妖夢」

 

 紫はこちらを一瞥だけして、妙に元気のない声音でそう返してきた。少しばかり様子がおかしいような気がして、妖夢は幽々子に視線で問う。どうかしたのですか、と。

 対して幽々子は眉を下げた笑みを浮かべ、唇だけを動かして、大したことじゃないわ、とだけ言った。

 少し気に掛かったが、紫は妖夢よりもずっと上の立場だし、なにより主人である幽々子にそう言われれば踏み込もうとは思わない。新しくお茶を用意してあげようと思いながら視線を動かすと、テーブルの上で、ごっそりと中身の減った煎餅の桐箱が目に入った。

 

「……幽々子様、お饅頭もお煎餅も決して安くはないんですから、せめてほんの少しだけでも食べる量を減らして――ちょっと、聞いてますか?」

「うん、聞いてる聞いてる」

 

 幽々子はそう何度も頷きながら、こちらの買ってきた饅頭の箱を引っ掴んで包装を解きにかかっていた。

 

「ちょ、ちょっと、言ってる傍から開けようとしないでくださいよ! 聞いてないじゃないですか!」

「違うわよ妖夢、――聞いた上で開けようとしてるの」

「……、」

 

 どう返すべきかと妖夢が一瞬迷ったその隙に、幽々子は手慣れた手つきで包装を解き、中から饅頭を三つつまみ出す。そして瞬く間に、その中の一つが彼女の口の中に消えてしまった。

 

「あ~ん、美味しいわあ~♪」

「…………」

 

 もはや止めるには手遅れ、饅頭一つ守れない己の無力がなんとやるせないことか。妖夢はせめて他の饅頭だけはと桐箱を素早く幽々子から遠ざけ、一方で、自分もその中から一つを手に取った。

 

「あら、妖夢も食べるの?」

「私だって、お饅頭は好きですから。いつも幽々子様に取られてますけど」

「ふうん……」

 

 それに今は、精神的な疲れもあるのか、無性に甘い物を食べたい気分なのだ。体重の方がやや気になるけれど、お遣いに行って充分運動したし大丈夫だろうと恣意的に解釈。頬張った途端に口全体に広がるであろう餡の甘みを思い描きながら、妖夢は笑みとともにそれを口に――

 

「紫も食べる? 美味しいわよ」

「……ねえ幽々子、あなた今、私に喧嘩売ってる?」

 

 運ぼうとした瞬間、幽々子のその一言で周囲の温度が俄に冷たくなった。紫がほのかに黒いオーラをまとい始めているように見えるのは、恐らく錯覚ではないだろう。妖夢の全身から冷や汗が吹き出した。――そういえば彼女、今、ダイエット中だとか言っていたような。

 なにしてるんですか幽々子様!? と妖夢は幽々子を見やるものの、彼女はまったく気にも留めていない様子で肩を竦めており、

 

「ひどいわ紫ったら。私はただ、大切なお友達のために善意でお裾分けをしてあげようと思っただけなのに。――どこかの薄情な誰かさんとは違って」

「なんだ、そうだったの。――よし表に出なさい幽々子」

「お、おおお落ち着いてください紫さんー!?」

 

 ゆらり、幽鬼のように立ち上がった紫を、妖夢は慌てて両腕で引き止めた。喧嘩をするほど仲がいいなんて言葉があるけれど、この二人が喧嘩したら間違いなく白玉楼は半壊するし、どうせ修理はこちらの仕事になるのだ。迷惑以外のなにものでもないのでなんとしても思い留まって頂きたい。

 

「放しなさい妖夢、太る苦しみを知らないやつには制裁が必要なのっ」

「わ、私はわかりますよ! 嫌ですよね苦しいですよね、ほ、ほら私なんてもう体重計恐怖症で!」

「あら、あなたはいい子ねえ。私はとても嬉」

「太る苦しみ? なにそれ食べられるの?」

「さあ幽々子早く表に出なさあああい! ここで袂を分かってあげるわあああああ!」

「うわあああああ!?」

 

 殺伐と荒れ狂う大広間の空気、抑え切れず溢れる紫の妖力。白玉楼を泣きながら修理する己の未来が妖夢の頭をよぎった中、しかし元凶たる幽々子はポヤポヤ笑いながら「ほ~らほら」と饅頭を頬張るのみ。完全に遊んでいる。もうやだこの主人、と妖夢は泣きたくなった。

 しかし、たとえ涙を流してでも、白玉楼が破壊される未来だけは回避したい。ここには祖父から受け継いだ大切な日本庭園があるのだ、このまま全てを投げ捨てることなどどうしてできよう。意を決し、最後の説得を試みる。

 

「ゆ、紫さん紫さん、お願いですから落ち着いて」

「どきなさいスキマ送りにするわよ」

「ひー!?」

 

 けれど紫の感情は既に抑えが利かないところまで昂ぶっており、説得の余地などありはしなかった。ギロリと睨みを利かされ、妖夢は恐れをなしてその場でしゃがみガード。

 

「さあ幽々子ぉ……覚悟はいいかしらぁ……?」

「仕方ないわねー。じゃあ私も、ちょっとケーキの恨みを晴らさせてもらうとしましょうか」

(ぎゃあああああ!?)

 

 遂には幽々子が紫に応じて腰を上げてしまったので、妖夢はいよいよ血の気を失った。頭を体を右往左往、ななななんとかしないとなんとかしないとと焦りに焦り、その状態ではとてもじゃないけれど正常な判断などできるはずもなく、

 

「あ、あー! そ、そういえばお遣いの帰りに変な妖怪に会ったんですよねー!」

 

 気がついたら、そんなことを叫びながら二人の間に割って入っていた。「変な妖怪? 焼き鳥の妖怪とかかしら?」「幽々子様は黙っててくださいっ!」余計なことを言う主をいい加減に黙らせ、紫の気を逸らせるために身振り手振りであれこれ、必死に必死にまくし立てる。

 

「すごい特徴的な方だったんですけど私は全然知らない方だったのでもしかしたら紫さんなら知ってるかもしれませんねだからもしご存知だったら教えてほしいなあとか思いましてだからお願いです喧嘩はやめてくださいお屋敷を壊さないでくださいいいいいい!」

 

 もはや妖夢に、己の外聞を気に掛ける余裕などありはしない。大事な庭を守りたくて、というか幽々子の世話だけでいっぱいいっぱいなんだからこれ以上余計な仕事を増やさないでくださいよと、ただその気持ちだけを以て泣きながら紫にしがみついていた。

 紫はしばらく不快げに顔をしかめていたが、やがてこちらの気持ちを汲んだのか、それとも単純に興醒めしたのか、ため息一つで溢れていた妖力を鎮めた。

 

「わかった、わかったわよもう」

「うわあああありがとうございますううううう!」

「はいはい……。で、誰なのその変な妖怪って?」

「あ、はい。綺麗な銀色の妖狐で」

 

 紫の妖力が再び溢れ出した。

 

「ひいいいいいごめんなさいどうでもいいですよねこんな話すみませんごめんなさい申し訳ありま」

「――妖夢、その妖怪はどこに行ったの?」

「……へ?」

 

 しゃがみガードをする妖夢の頭上、降ってきた声色に怒りの色はない。溢れる妖力とは対照的にひどく落ち着いた、語りかけるような声だった。

 恐る恐ると顔を上げれば、紫が張り詰めた表情でじっとこちらの答えを待っている。妖夢は言葉につかえた。彼女がどうしてこんな顔をするのかわからなかった。

 

「お願い、教えてちょうだい」

 

 二度目の問い掛け。妖夢はハッと背筋を伸ばして答えた。

 

「よ、妖怪の山の方に歩いて行きました……けど」

「そう。……ありがとう」

 

 そう短い返事をした時、紫は既にこちらを見ていなかった。白玉楼の外、妖怪の山の方向を一途に見据えて、驚くほどあっさりとスキマの中に消えていってしまった。

 

「……、」

 

 唐突に訪れた静寂に、妖夢はただ、一体なにが起きたのかと目を丸くするばかり。

 答えを送ったのは、背後で静かに笑みの息をついた幽々子だ。

 

「ふふ。居ても立っても居られないっていうのは、きっとああいう状態のことをいうのね」

「……幽々子様」

「でかしたわね~、妖夢。あなたが戻ってくる直前まで、ちょうどあの人の話をしてたのよ。やっぱり噂をすれば影が差すのね」

「は、はあ」

 

 どうやらあの狐、本当に紫や幽々子の知り合いらしい。しかも紫があそこまで張り詰めた表情をしたのだ、恐らくただの顔見知り程度ではない。

 

「何者なんですか? その男の方は」

 

 問うと、幽々子は不思議がるように「んー?」と口元に人差し指を添え、

 

「話してなかったかしら? 紫の想い人のこと」

「おっ……想い人、ですか」

 

 予想外の言葉に、妖夢は思わず身を固くした。半人半霊故に見た目以上に長生きしているとはいえ、魂魄妖夢、恋愛話にはなにかと初心なお年頃。

 その反応に幽々子は微笑み、

 

「そういえば、そういう人がいるってことしか言ってなかったかしらね」

「え、ええ……恐らく」

 

 答えつつ肩から力を抜き、妖夢は己の記憶を遡った。確かに、そんな話を相当昔に聞かされたような気がする。かなりおぼろげな記憶だが、何百年か前に外の世界に出て行ったきりなんの便りもなくて、軽い行方不明状態だとか言っていたか。

 

「まさか、彼が?」

「確定とは言えないけど、まあほとんど間違いないでしょうね。銀色の狐なんてあの人以外に知らないし」

 

 幽々子は頬に手を添え、吐息。

 

「なんの前触れもなく戻ってくるとは思ってたけど、本当にそうなるなんてね。あの人らしいわ」

 

 つなぐその声色はどことなく楽しげで、次第にたたえた微笑も深まっていく。紫の想い人だという彼が戻ってきたことを、喜ばしく思っているのだろう。その反応を、妖夢は意外だと思った。

 少なくとも幽々子は、その狐のことをある程度以上慕っているようだ。そうでなかったら、こんな風に嬉しそうな顔はしないだろう。

 

(ふうん……)

 

 初めて話を聞かされた時は特に興味が湧かず、名前すら尋ねずに聞き流していたけれど。主人とその親友がここまで慕うような男……改めて、どのような人物であるか気に掛かった。

 だから妖夢は、幽々子にこう問う。

 

「幽々子様。その人のことについて、教えてもらえませんか?」

「あら、あの人に興味が湧いた? 紫に怒られちゃうわよ?」

 

 意味深な横目を向けてきた幽々子に、そんなんじゃないですよと苦笑を返す。

 

「ただのお知り合いじゃあ、ないんですよね?」

「んー、どうかしら。私なんかは案外普通の知り合い同士のような気がするけど、でも紫にとっては違うわね。なんでも、あの人がいたから幻想郷を創ろうと思ったんだとか」

「……それって、もしかしなくてもすごい方じゃないですか?」

「思想的な話よ。あの人も、紫と同じで人間が大好きだから……」

 

 まあ、これよりも先に話すことがあるわね――そう浅く首を降って、幽々子はその場に腰を下ろした。

 お茶を一口すすり、吐息。

 

「……じゃあまずは、あの人の名前からかしら?」

「はい。お願いします」

 

 頷き、妖夢も幽々子の向かい側に座る。そして互いに差し向かう形の中、幽々子はまず懐かしむように目を細め、

 

「思い出してみて、妖夢。あの人の毛並み、銀色は、まるで月を見てるみたいに綺麗だったでしょう?」

 

 思い出に浸り、微笑んだ。

 

「だから、あの人の名前は――」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無数の瞳が、彼女を見ていた。

 瞳以外に、体はない。延々赤黒い空間に無数の瞳だけを植えつけた、ただそれだけの『スキマ』と呼ばれる空間で――瞳たちが瞬きもせず滔々(とうとう)と追う先、八雲紫は飛んでいる。

 

「っ……!」

 

 その心には、もはや“彼”以外の何者もありはしない。彼以外の他者を全て弾き出し、ただ彼の隣に在るためだけに、がむしゃらにすらなって飛んでいく。

 

 いつ戻ってくるんだろうと、ずっとずっと心配だった。幻想郷を捨ててしまったんじゃないかと不安に思ったことがあった。もしかして死んでしまったんじゃないかと、怖くなったこともあった。

 

 けれど彼は、あれから500年も経ってしまったけれど、またここに戻ってきてくれた。

 だから、だから八雲紫は飛ぶ。このスキマの中を飛ぶことさえ煩わしいと、スキマを抜けるまでの数秒がどうしてここまで長いのだと、体を震わせて。

 

「待ってて……!」

 

 抑え切れない感情は、やがて一つの名を呼ぶ叫びを生んだ。

 それは、彼の名。

 奇しくもその叫びは、場所は違えど、西行寺幽々子が従者に彼の名を伝えたのと同時であった。

 

 片や、一時も早い再会を求めて、切々と。

 片や、遠い思い出に浸るように、蕩々と。

 紡ぐ音は、等しく三つ。

 

 ――月見(つくみ)、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第2話 「フットルース・ステップ ②」

 

 

 

 

 

 すっかり背を高くした太陽が、昼の訪れを告げていた。

 

 繁る木々は、南中の太陽と競うかのように精一杯背伸びをして、足元に涼しい木陰を落としている。そしてその間を縫うように蛇行し、妖怪の山の山道は伸びていた。

 広い山道だ。山を登る標として最も多くの者が行き交うこの場所は、急な段差には階段が据えられ、崖際では転落防止のロープが張られるなど、整備の手が入り込んでいる。妖怪はもちろん、体力があれば人間だって難なく進んでいける作りだった。

 

 その山道の麓に近い登り始め、木々の深みもまだ青い地点で、道の外れで伸びる大木の枝に腰掛け、ぶらぶらと両足を遊ばせている人影がある。

 暗い赤色のドレスに、胸元まで届く大きなリボンのヘッドドレス。白塗りの肌とエメラルドグリーンの髪はどことなく浮世離れしていて、等身大の人形が動いていると、そんな印象を見る者に与える少女。

 彼女――鍵山雛は、陽気に微睡んだ瞳で、ぼんやりと山道を見下ろしていた。

 

「ん……今日は、特に変な人もいないわね」

 

 妖怪の山は幻想郷で最も多くの妖怪が住まう場所であり、故に、指折りの危険区域でもある。とりわけ仲間意識が強い天狗たちが主導しているため、外部からの侵入者には一倍敏感だからだ。

 そのことはある程度以上に周知であれ、知っていながらも道に迷って入り込んできてしまう人間や妖怪は多い。そんな者たちが不用意な行動で天狗たちを怒らせたりしないように、またそのせいで捕らえられたりしてしまわないように忠告を行い、必要ならお引き取り願うよう(物理的な意味も含めて)交渉するのが、雛のささやかな日課だった。

 

「退屈……」

 

 けれども陽気が満ち満ちる春の昼、見下ろす先を通り過ぎる人影はない。たださわさわとそよ風が森を撫でる音だけが鳴っていて、至って平和な昼模様。歓迎すべき退屈だと、雛は微笑んだ。

 

「……そろそろ、お昼ご飯にしようかしら」

 

 呟き、雛は枝から宙へ身を躍らせた。陽光が高い位置から注ぐ。エメラルドグリーンの髪は光沢を増し、ドレスは一層その色を深め――もう一つ、雛の周囲をゆったりとした動きで回る、淀んだ霧状の物体が(あらわ)になった。雛が人間たちから集めた厄の塊だ。

 雛の表情がかすかに曇る。

 

「たまには、誰かと一緒にご飯を食べたりしてみたいなあ……」

 

 雛は、厄神だ。厄を集め人々を不幸から遠ざけるため、ありがたい神様だと名前だけは慕われているものの、一方で集めた厄により周囲の者たちを不幸にしてしまうせいで、存在自体は敬遠されている。

 そんな雛には、親しく食事するような友人はいない。顔見知り程度の知人なら何人もいるが、それだけだ。

 雛は厄神として生まれてから随分と長くになるから、今となっては慣れたものだけれど、それでもなんの寂しさも感じないほど鈍感な心を持っているわけでもなかった。やっぱり、誰かと一緒に笑いながら食事をする光景には、憧れてしまう。

 それは、厄神として過ぎた願望だろうか。

 

「……って、いけないいけない。なにしんみりになってるのよ」

 

 雛は厄神で、厄神は厄を集める。そうすることで、間違いなく人々が不幸から離れ、穏やかな生活を送ることができるのだ。

 ――だったらちょっとくらい寂しくたって、どうってことない。

 雛はぶんぶんと頭を振って、感じていた寂しさを振り払った。そうして、昼食を食べたらまたみんなのために厄を集めるんだと強く思い、早く帰ろうと、家に向けてまっすぐ飛んでいこうとした。

 

「――おや。これはまた、随分といい道じゃないか」

 

 直後のことだ。そんな独り言が聞こえてきて、雛はハッと眼下を見下ろした。見慣れない男が一人、いつの間にか山道をのんべんだらりと進んでいる。

 白の狩衣(かりぎぬ)に身を包んだ、銀の毛を持つ妖狐であった。その毛並みは一度見れば記憶の片隅に刻まれるであろうほどに印象的で、事実雛の記憶にもそう刻まれた。けれどそれは同時に、雛が彼を初めて見るということであり、ならば山の外から来た部外者である可能性が高い。

 雛は飛ぶ行き先を家の方向から眼下へと変え、ドレスの裾を翻し颯爽と、彼の行く手を遮った。

 

「ちょっと待ってくれるかしら?」

「ん?」

 

 こちらの制止の呼び掛けに、彼は少しだけ驚いたように目を開いて歩みを止めた。

 互いの距離は五メートルほど、差し向かって話をするには少し遠いかもしれない。けれど雛にとっては、むしろ近すぎるくらいだった。これ以上近づくと周囲を回る厄がすぐにでも彼を不幸にしてしまうから、普通に話ができる距離と、厄がなるべく影響を及ぼさない距離、その二つの折衷点だ。

 雛は、彼に不用意に近づいてくる様子がないことを確認し、問う。

 

「この山に、一体なんの用かしら?」

「用と言われても……ただ山登りをしようと思っただけだが」

「山登り?」

 

 男の返答が一瞬理解できず、雛は眉をひそめた。山登り。そんな月並みな理由でこの危険地帯に分け入ろうなどという酔狂な者には、久方振りに出会う。

 

「……あなた、ここがどこだかわかってる?」

「妖怪の山だろう?」

 

 それがどうかしたのか? とでも言うかのような即答に、思わず閉口した。雛には、この狐がなにを考えているのかわからなかった。山登りできるような山は他にいくつもあるはずなのに、なんでよりによって、天狗たちの縄張りであるこの山に入り込もうとするのか。天狗たちは縄張り意識が強くて、無断で立ち入って怒らせればとてつもなく面倒なことになる。幻想郷に住んでいる妖怪ならば、知らない者などいないはずなのに。

 妖狐の尻尾の本数は一、佇まいものんびりとしていて締まりがないし、とても強そうには見えない。山登りをしたところで、天狗たちにボロボロにされて追い返されるのが落ちだとしか思えなかった。

 

「……あなたは、自分がなにをしようとしてるのかわかってるの?」

「うん……? なにか変なことでも言っているか?」

 

 しかも自覚はなしだ。いよいよもって呆れてくる。気がついたら大きなため息がこぼれ落ちていた。

 

「一応忠告するけど、やめておいた方がいいわよ? この山は、幻想郷でも指折りに危険な場所なんだから」

「まあ、確かにそうかもしれないね」

「……そこまでわかってるなら、どうして登ろうとするのよ?」

「なに、山の頂上に外の世界から神社がやって来たという話だ。ちょっと見に行ってみようと思ってね」

 

 雛の脳裏に、博麗霊夢と霧雨魔理沙の姿が浮かんだ。去年の秋に彼女らもそんな理由から山に分け入って、親切心で引き留めようとしたこちらを弾幕で蹴散らしてくれたものだ。今思い出してもひどい話だと思うけれど、同時に二人の実力が、山に入っても大丈夫なほど確かだったのも事実。

 では、この狐はどうなのだろうか。あの二人と同じように、確かな実力を以て進もうとしているのか? ……それを知るには、実際に闘ってみるしかない。

 仕方ないわね、と雛は再度吐息した。まあ、ちょうどしんみりしていたところだったし、気分転換で弾幕ごっこに興じるのも悪くはないだろう。

 

「それじゃあ、この山に入っても大丈夫な実力があるのかどうか、私が弾幕ごっこで見てあげるわ。スペルカードは……三枚くらいでいいでしょ」

 

 雛はスペルカードを抜いて、改めて男と対峙した。「ほら、早くしなさいな」促す。けれど男は、まるでこちらの言葉をちっとも理解できていないかのように、不思議そうに首を傾げて押し黙っていた。

 雛もまた眉をひそめた。まさかスペルカードルールを知らないわけではあるまい。もしかして、スペルカードを持っていないのだろうか。

 

「どうしたの? まさか、スペルカードを持っていないとか?」

「ん? ああ、いやね……」

 

 歯切れの悪い返答。男は腕を組んで、更に数秒沈黙した。

 胡乱げな静寂が満ちる中、やがて窺うような声音で問いが来る。

 

「弾幕ごっことかスペルカードとか、一体なんのことだ?」

「……はあ?」

 

 その、まさか。よもやとは思ったが、どうやらこの男、スペルカードはおろか弾幕ごっこすら知らないらしい。ありえない。雛が思わず漏らした声は、素っ頓狂なまでに上擦ってしまっていた。

 弾幕ごっこ。スペルカードルール。今や幻想郷で一世を風靡している、最もポピュラーな決闘方式ではないか。そのへんの名もない妖精ですら理解して楽しんでいるようなシステムを、この狐は知らない? どこの田舎者よ、と雛はあんぐり口を開けたまま絶句した。

 男はすまなそうに苦笑する。

 

「いや、悪いけど……本当に知らないんだ」

「……呆れた。弾幕ごっこを知らないなんて、あなたどこの田舎者よ」

「ッハハハ! いや、申し訳ない」

 

 そして今度は、なにが面白いのか大笑いまで。全然笑い事じゃないんだけど、と雛は冷たい半目で男を睨んだ。

 豪放な性格なのだろう、男はなおも悪びれる様子なくくつくつと喉を鳴らし、同時にその目に好奇心めいた、若く光る眼光を宿した。

 

「で、なんなんだ、その弾幕ごっことかいうのは。よければ教えてくれないかな?」

「……神社に行きたいんじゃなかったの?」

「それはそうなんだが、今はこっちの方が面白そうだ」

「……」

 

 変な妖怪、と雛は割かし本気で思う。銀の毛を持つ特徴的な出で立ちで、妖怪の山に大した理由もなく入り込もうとするような呑気者で、スペルカードルールも知らないような世間知らずで、成年の相貌に反し、少年のようにあっさりと興味の対象を変える。こうして話せば話すほど、毒気を抜かれて脱力していくばかりだ。なんかもう、このままここを素通りさせてしまっても、案外問題ないんじゃないだろうか。

 

「そのへんに座りながら教えてもらえるとありがたいよ」

「……」

 

 確かに、スペルカードルールも知らないような相手と弾幕ごっこなんてできるはずもない。完全な肩透かしに、どうしたものかなあ、と雛は肩を落とした。

 別にスペルカードルールについて教えてやることは問題ないし、暇潰しにもなるだろう。けれど雛は、了承の言葉を返すのを躊躇っていた。

 彼のことを疑っているわけではない。彼が悪い妖怪でないことは、今までの締まりのない会話から既に察した。その上で、話をしたいと言ってもらえることもそれなりに嬉しかった。雛にとっては、誰かと二人で話をするということすらも稀少なことなのだから。

 そしてだからこそ、躊躇う。

 ――私は、厄神だから。

 周囲を回るこの厄のせいで不幸な目に遭わせてしまうのは、忍びない。

 

「まあ……弾幕ごっこのことなら、私以外に教えてもらうといいわ。誰でも知ってるようなことだし。ここも好きに通ってくれて構わないから。ただ、天狗には気をつけてね」

「うん……? ひょっとして、都合が悪かったか?」

 

 むしろ雛は、どうして彼がこちらから話を聞こうとしているのかがわからなかった。好き好んで厄神と雑談しようとするやつなんているはずがないのに、もしかして彼はこちらが厄神だと気づいていないのだろうか。

 

「……あなた、私がなんの神だかわかってる?」

「厄神だろう? お前の周りを、クルクルと、厄が回ってる」

 

 ――そこまでわかってるなら、どうして?

 

「もしかして、不幸な目に遭いたいの? こっそりマゾ気質?」

「……いや、そんなこと訊かれても困ってしまうんだけどね」

「冗談よ」

 

 しかし、不幸な目に遭いたいわけではないのだとしたら、いよいよこちらと話をしようとする理由がわからなくなる。雛と彼の間にはある程度距離があるが、この間隔でも、長く共にいれば厄が悪影響を及ぼしかねないのだ。弾幕ごっこがなにかなんてそのへんの妖精に訊いても教えてもらえることだし、さっさと先に行くか引き返すかなりすればいいのに。

 

「なのになんであなたは、私と話をしようとするのよ。……私と一緒にいると、不幸になるのに」

 

 呟いた言葉には、彼を責めるような色が浮かんでしまっていた。それを自覚して、雛はハッと視線を俯かせる。……たとえ出会ったばかりの相手でも、話をしたいと言ってもらえたことは素直に嬉しかったはずなのに。

 気まずい沈黙が落ちた。彼が困ったように息を吐いた音が聞こえる。

 

「誰かと一緒に話をするのは、嫌いか?」

 

 そんなことはない。むしろ一度くらいは、誰かと友達みたいに気を置かずに話をしてみたいと思う。

 ただ、

 

「それで誰かを不幸にするわけにも、いかないでしょ……」

 

 自分の幸せのために他人を不幸にするだなんて、雛にはとても耐えられないことだった。だから厄神として周囲から敬遠されることを受け入れて、できる限り他人に関わらないで生きてきたのだ。

 こうして彼と向かい合うのにも、限界が近づいてきていた。周囲を回っていた厄は次第に雛のもとを離れ、彼の方へと流れ始めてきている。これ以上の長話はもはや危険だ。

 

「……行きなさいな。これ以上長居すると、不幸になっちゃうから」

「……そうか」

 

 落胆したような声色。雛の心の奥が鈍く傷んだ。ああ、この人は本当に私と話をしようとしてたんだな、とわかったから。

 おかしなやつだ、と思う。……でもそこには、決して不快感はない。

 

「……」

 

 きっと彼は、お人好しな妖怪なんだろう。初めは疑ってかかったけれど、結果的に言えば、こうして彼と短い間でも話ができたのは、悪くない体験だったかもしれない。

 だから雛は、彼に移り始めようとする厄たちに待ってと祈りながら、言葉を紡いだ。

 顔を上げ、正面から彼を見据える。

 

「名前、言ってなかったわね。私は鍵山雛。知っての通り、厄神よ」

 

 願わくは、会えば少し話をするくらいの関係にはなれるだろうかと、そう思いながら。

 目の前で、彼が小さく笑った。確かにそうだな、と呟きながら頭をかいて、

 

「自己紹介がまだだったね。私は――」

 

 ――雛が瞠目したのは、直後。

 

 突然、彼の背後の空間が裂けた。赤黒く塗り潰された空隙(くうげき)、その奥に浮かぶ数多の眼球が、ギョロリと一斉に彼の背中を()めつける。

 雛は、この現象の名前を知っている。『妖怪の賢者』と畏怖されるある妖怪が使う、『スキマ』と呼ばれる異次元空間。

 スキマの奥から、彼女がやって来る。

 その顔貌に、獲物を捉えた狩人を思わせる、怖気立つ笑顔を貼り付けて。

 

「見つけた――!」

 

 幻想郷最強格の大妖怪――八雲紫。

 

「ッ、逃」

 

 逃げて。そう叫ぶ時間すら、雛には許されなかった。

 息を呑んだその瞬間には、彼は既にスキマに呑み込まれて、跡形もなく消えてしまっていたのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ほのかに苔の匂いがした。

 

 背中に走る鈍い痛みに呻きながら目を開けると、深山幽谷が世界を彩った。大の字で倒れて、空を見上げている体勢だ。見上げる視界の四囲を春紅葉の葉が鮮やかな朱で彩り、耳には小川のせせらぎが届く。苔の匂いが混じった空気はとても澄んでいて、呼吸するたびに体中を洗われるような気がした。

 

 彼はゆっくりと頭をもたげ、重みを感じる己の腹部を見やる。見覚えのある帽子の少女が、横から覆い被さってこちらの腹に顔を埋めていた。

 

「……」

 

 彼はため息をつき、少女がいることも構わず強引に上半身を起こす。あん、と腹にあった少女の頭がクルリと半回転、膝の上まで転がって――一体何年振りになるのか、彼女の満面の笑顔が、見えた。

 パッチリと開いた紫紺の瞳が、掛かる金髪に一瞬も負けることなく嬉々とした光を放っている。これほど眩しい笑顔を見せる子も他にいまいと、彼は静かに目を細めた。

 

「久し振りだね、紫」

 

 少女――八雲紫の笑顔が、一層輝きを増す。ハア、と大きく深く息を吐いて、それから紡がれた言葉は、

 

 

「うふふふ久し振りの再会と同時に膝枕! これは長い間離れていたことが逆にお互いの気持ちを強くしたっていう典型的な遠距離恋愛の結っあああああ冗談ですだからいきなり立ち上がらないでー!? ちょ、待」

 

 

 彼は無視して立ち上がった。

 ゴツン、と紫の頭が地面に落ちる。

 

「いったあああ~い……」

「……まったく相変わらずだなお前は。懐かしいったらありゃしない」

 

 冷ややかな半目で見下ろすも、紫はまったくめげることなくすぐに立ち上がって、また屈託ない笑顔でほころんだ。

 

「当たり前でしょ? ずっと、ずっと待ってたんだから!」

 

 一息、

 

「――おかえりなさい、月見!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 スキマでさらった銀の妖狐は、名を月見(つくみ)という。少なくとも紫にとっては、幽々子や萃香、藍と同様、何者にも代えることができない大切な存在だ。

 

「藍、らーん! お茶を用意しなさい、三人分よ!」

「わかりました! 待っていてくださいね月見様、すぐに持ってきますからっ!」

「ああ、こぼさないように気をつけてね」

 

 春紅葉彩る深山の一角に建てられた日本屋敷。幻想郷とは少しズレた境界に存在するそこは、今や500年振りとなる月見の帰還に大いに湧いていた。住んでいるのは紫と藍の二人だけだが、両者がバタバタと足を踏み鳴らす音で、まるで何人もの住人が行き交っているかのように騒がしい。

 

「ああ、待ってて月見! そういえば私の部屋が散らかってるままだから、みんなスキマに突っ込んでくるわ!」

「別に見に行ったりはしないよ。だからその、とりあえずスキマに突っ込めばいいかみたいな考え方はやめなさい」

 

 月見を屋敷の中に案内しながら、ちょっとテンション上がっちゃってるな、と紫は思う。けれど仕方ない。紫にとって、月見の幻想郷への帰還はそれほどにまで喜ばしいことなのだ。

 ……ちょうど、今朝に彼と出会った頃の夢を見たばかり。彼に会えたという一点において、正夢ってあるんだなと淡く感嘆した。

 

 紫が月見と出会ったのは、今からもう千年以上前のことだ。今でも鮮明に覚えている。妖怪と人間が共生できる世界を夢想して、毎日人間たちの生活を覗き見していた時に見つけた、人間たちと一緒に生きる彼の姿。

 あの姿を見て、妖怪でも人間と一緒に生活できるんだと思って、だからこの幻想郷を創ろうと本気で決心したのだ。云わば月見は、幻想郷の間接的な生みの親だと言っていい。

 

「じゃあ、はいどうぞ! ゆっくり寛いでいって!」

 

 居間の襖を開け放ち、声高に月見を迎え入れる。はいはいとのんびり歩調で応じる彼が焦れったくて、背中をぐいぐい押して急かした。

 

「ほら、早く早くっ」

「おいおい、別に逃げやしないって」

「い、い、か、らっ。早く座ってお話しましょ!」

「はいはい、まったく……」

 

 月見は苦笑しながらも、少しだけ歩調を速めてくれた。一緒に畳を踏む感覚。それすらも、今の紫にはこの上なく喜ばしい。

 紫は彼をテーブルの前に座らせ、すぐに自分もその向かい側に回った。膝立ちのままテーブルを叩いて、

 

「改めて、おかえりなさい月見!」

「はいはい、ただいまただいま」

 

 返ってきたのは、呆れているようなぞんざいな返答。けれど、紫の頬には自然と笑顔が浮かんでいた。だって、こうして話ができるんだから。

 

「500年も、一体なにしてたのよ?」

「いや、普通に外の世界を歩いてただけだよ」

「連絡くらいしてくれてもよかったのに。心配してたのよ?」

「それはあれだ……ほら、『また今度でいいか』と思ってる内に、気がついたらっていう」

「バカ」

「いやいや、すまなかったな」

 

 耳に優しいバリトンの声音。斜に構えない恬然とした佇まい。鷹揚とした所作も、それに合わせてかすかに揺れる銀髪も、隅々に至るまで全てが心地よい。

 500年振りに再会できた今だからこそ改めて思い知るが、どうやら自分は、彼に相当参ってしまっているようだ。具体的にいつからだったのかは覚えていない。人間との共生を望む思想に共感して何度か接触している内に、気がついたら惹かれ始めていて……そして500年ほど会えない日々が続いて、その気持ちは更に強まっていたらしい。そう、典型的な遠距離恋愛の結果だ。

 願わくは月見もそうならいいなと思うが、

 

「やはり外の世界は面白いね。はたと気がついた時には、既に数百年も経ってしまっていたよ」

 

 白い歯を見せてそう無邪気に報告してくるあたり、残念ながら変わりないようだ。恋愛事にはあまり関心がなくて、とかく自分が興味を持ったものの方に転がっていく、好奇心旺盛、花より団子な性格。唯一救いなのは、どこかの古道具屋の店主とは違って、鈍感ではないことだろうか。……あの幼い白黒魔法使いには、割と本気で同情する。

 

「月見様、お待たせしましたっ」

 

 と、お盆の上に湯呑みを乗せた藍が、早歩きで居間に戻ってきた。紫は彼女の九尾がパタパタと落ち着きなく揺れているのに気づいて、藍も嬉しいんだな、と笑みをこぼす。

 しかし、

 

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

「……あれ?」

 

 藍が持ってきた湯呑みはどういうわけか二つだけ。そして彼女は、一つを月見に差し出し、残る一つを自分の手前に置いた。……三人分準備しろと言っていたはずだが、さて、紫の分の湯呑みはどこにあるのだろう。

 

「……ねえ藍、私の分は?」

「え?」

 

 それを問うと、藍はなぜそんなことを訊くのかという風にきょとんを目を丸くしていたが、自分の手元、月見の手元、紫の手元とを順々に見回して、数秒、弾かれたように腰を上げた。

 

「――あっ! も、申し訳ありません、忘れてました!」

「……ねえ、主人である私を忘れるってどういうこと? ちょっと説明してくれない?」

「も、ももも申し訳ありませんすぐに持ってきますね失礼しますっ!」

 

 深々頭を下げ、バタバタ騒がしく足を踏み鳴らしながら居間を飛び出していく。お茶を持ってくるという口実のもと、こちらから逃げ出すかのようでもあった。

 まったく、と紫は嘆息。藍は普段は優秀な式神だが、たまにああやって抜ける一面を見せることがあるから困り者だ。月見が帰ってきて浮き足立つのはわかるが、まさかそれで主人の存在を見落とそうとは、紫も出鼻を挫かれたような気分になってしまう。

 

「もー、藍ったら……」

「ッハハハ。藍も変わりないようだな」

 

 藍が出て行った方を見遣りながら、月見が呑気に喉を鳴らした。その笑顔は、紫の記憶にあるものとなに一つ変わってはいない。変わっていないのは彼も同じだ。

 朗笑に耳を撫でられ、紫の心が静かに落ち着きを取り戻す。吐息を置いてから、問うた。

 

「それで月見、あなたこれからどうするつもり?」

「うん?」

「うん? じゃないわよ。まさかまたすぐ外に行っちゃうなんて言わないわよねそんなのダメよずっとここにいなさいはいホールドッホールドッ。もう逃げられませんー」

 

 紫は目の前と月見の背後をスキマでつなぎ、両腕を突っ込んで彼の首を後ろからホールド。

 

「ぐおおっ。こらこら、子どもみたいなことはよせっ」

「子どもで結構ですー。とにかく逃がさないからね!」

「まったく……」

 

 月見が大きなため息をこぼすも、それはこちらの行動を嫌がっているのではなく、感じる昔懐かしさに心浸すような爽やかなもの。口元には淡く笑みの影が覗いている。紫はそれが嬉しくて、腕により一層の力と想いを込めた。

 

「いててっ、おい紫、強い強いっ。すぐ出て行ったりはしないから放してくれっ」

「本当ねっ? 嘘だったらほら、こうやって月見の耳をもふも――あいたっ」

「調子に乗るな」

「……ふふ」

 

 本当に懐かしくて、心地よい。だから紫は、訊くことができなかった。

 すぐには出て行ったりしない。――じゃあ、いつまでここにいるの? と。

 

 少し前に幽々子がそう言ったように、月見は幻想郷よりも、外の世界で生きることを好む妖怪だ。それは紫も、悔しいけれど理解している。

 だから、今彼が幻想郷に戻ってきたのはほんの気まぐれみたいなもので、またいつか外の世界に出て行こうとするのだろう。それくらいのことは簡単に予想できた。

 では、それはいつなのか? ――紫は、月見に問うことができない。答えを聞くのが怖いから。それに、問うたら彼が出て行くのを認めてしまうようで、嫌だったから。

 

 故に紫は思う。また幻想郷に住もうと思うくらいに、この世界の楽しいところを感じてもらえばいいんだと。500年前と比べて、幻想郷にはたくさんの妖怪が集まり、たくさんの文化ができた。昔よりもずっとずっと、楽しい場所になった。それを見せつけてやればいいんだ。

 

「ねえ月見。あなた、あの時妖怪の山に登ろうとしてたみたいだけど、どこに行こうとしてたの? 天狗たちのところ?」

「ああ、あそこに外の世界から神社がやって来たっていうから……私が昔ここで生活してた時にはなかったものだからね。とりあえず見に行ってみようかと」

「いいわよ! 他にもあなたがいない間に変わったところはたっくさんあるんだから、存分に見て回って! そうね、その神社以外だったら例えば――」

 

 そして願わくは、彼がいつまでも隣にいてくれるようにと。

 紫はそれからずっと、日が西に大きく傾き始めるまで、月見があまりの勢いに面食らうことも構わずに。

 そして藍が戻ってきてからは、彼女と一緒に更に勢いを上げて。

 幻想郷の面白そうな場所を、一生懸命に話し続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第3話 「八雲紫は夢を見た」

 

 

 

 

 

 八雲紫は、人間が大好きだった。

 

 その考えが当時の妖怪たちの中で異端であることは充分理解していたし、そんなことを考えてしまう自分がおかしな存在だという自覚もあった。だがそれでも、好きだったのだから仕方がない。

 

 紫は一人一種族の妖怪で、例えば鬼や天狗のように、生まれた時から属するコミュニティがない。だから、そういった『仲間』『家族』という存在には昔から憧憬を抱いていたのだ。

 故に、そんな紫が『人間』というコミュニティに関心を持つのは当然だったと言えよう。時に争い時に団結し、大した能力も持たないのに力を合わせて苦境を乗り越えひたむきに生きていくその健気な姿は、紫の目にいたく鮮烈に映った。言わば、至高の芸術品に心を奪われる様に似ていたのかもしれない。

 間違いなく紫は、人間という存在が愛おしかったのだ。

 

 八雲紫という妖怪がこの世に生を受けて、百年ほどが経った頃の話だ。生まれ持った才能と境界を操るという強大な能力のお陰で、血肉を得ようと襲い来る妖怪たちを何度も打ち破り、幼いながらもその名を広くに知らしめつつあった頃。

 

 当時の紫には、一つの漠然とした夢のようなものがあった。明確に成し遂げたい、実現させたいと強く願うようなものではなく、ただなんとなく、こうだったらいいなと夢想する程度の夢。

 妖怪と人間が共生できるような世界があればいいのに、という想いだ。酔狂でもなんでもなく、確かな紫の理想だった。自分の仲間である妖怪たちと、自分の大好きな人間たち。この二つが仲よく生活をともにできる世界があれば、一体どれほど素晴らしいことだろうか。

 

 一方でこの考えが、他の妖怪や人間に話せば噴飯されるような妄言であることも理解していた。妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を恐れる。その絶対的な上下関係に“共生”という二文字を挟み込む余地など存在しないこと、百年も生きれば嫌でも理解させられる。

 唯一の親友である伊吹萃香にこのことを話した時は、腹を抱えて転げ回るほどに大笑いされ、ついでに「紫がそんなにバカなやつだとは思わなかったなあ!」とあんまりな言葉まで返されてしまった。それだけ、この考えは一の妖怪として異端なものだったのだ。

 

 転機が来たのは、それから更に数十年ほどが経った頃だったろうか。己のその夢があまりにも遠いことを理解しつつも、それでも捨て切ることができなくて、スキマの中から人間たちの生活を覗き見する毎日を送っていた……そんなある日のことだった。

 スキマの中を移動し、自身の姿を誰にも見られることなくして訪れた小さな人里で、紫は人間たちの中に交じる一匹の妖怪を見つけた。

 

(あら……)

 

 思わず眉を上げる。人里の田んぼ道を、当てもなさそうにのんびりと歩いている一人の男。妖術でも使っているのだろうか、出で立ちこそは完全に人間のものだが、境界を操る紫の眼は誤魔化せない。間違いなく、彼は妖怪であった。

 なんで妖怪がこんなところに? 一瞬疑問に思うが、すぐに考えるまでもなく明らかなことだったと気づく。

 まさか紫のように人間の生活を覗き見しているわけでもなかろうし、彼がここにいる理由はただ一つ――人間を喰らうためだ。それ以外にありえない。

 

(……)

 

 どうしようか、と紫は悩む。妖怪という分類上では彼は仲間になるが、それでも目の前で人間たちがむざむざ喰われるのを見過ごすわけにも行かない。この男が人間に襲いかかろうとしたその時は、スキマ送りにしてどこか遠くに転送してしまおうか。

 そこまで考えたところで、ふと気づく。

 

(……我ながら、妙なことを考えてるなあ)

 

 俯き、自嘲した。妖怪が人間を助けるために同じ妖怪と敵対するなど、まったくもって正気を疑う話だ。自分が妖怪としてどれだけおかしな存在なのかを改めて自覚させられる。

 けれど、それこそが自分だ。八雲紫という妖怪なのだ。おかしいと笑いつつも、改めようなんては思わない。

 

 視線を戻せば、男が歩く先、向かい側から三人組の子どもたちが歩いて来るのが見えた。男が人間を喰らうためにここにいるなら、間違いなく襲いかかるだろう。いつでもスキマを開いて転送できるよう、紫は静かに準備を整える。

 

「あっ!」

 

 子どもたちが男に気づいて声を上げ、それを聞いて、男もまた子どもたちの姿に気づいた。

 紫の脳裏に、男が子どもたちに牙を剥いて襲いかかる姿が浮かぶ。させてはいけないと、紫は能力を発動して男の周囲にスキマを――

 

「あー、旅人様! また一緒に遊んでー!」

「「遊んでー!」」

 

 ――開こうとした意志が、響いた子どもたちの声に掻き消された。

 え? と紫は動きを止めた。思い浮かべていた、子どもたちが男に襲われる光景ではない。むしろそれとはまったく逆――子どもたちが嬉しそうにはしゃいで男に駆け寄っていく光景が、目の前に広がっている。

 

「なんだなんだお前たち、昨日いっぱい遊んでやったろう?」

「あんなのじゃ全然足りないよ! もっとたくさん遊んでよ!」

 

 男も一向に牙を剥く様子なく、それどころかあやすように優しい笑顔を浮かべて子どもたちを迎えていた。一体どういうことだと、紫は瞬きも忘れてその光景に釘付けになってしまう。もしかして、彼は妖怪じゃなくて人間なの? そんな疑問が起こるも、彼から感じる気配はどれほど入念に調べても妖怪のもの。彼が妖怪であることは、間違いなどないはずなのだ。

 なのに、なぜこの男は、

 

「私、旅人様の旅のお話が聞きたい!」

「あー僕も僕も! 聞かせて聞かせて!」

「ッハハハ、わかったよ。わかったからそんなにはしゃがないでくれ」

 

 なぜこの男は、人間の子どもたちとこんなに仲よくしているのだろう?

 人間を喰らうために人里に入り込んだのでは、なかったのだろうか?

 

 紫が呆然とする先、彼は一度膝を折り、男の子一人を豪快に肩車して立ち上がる。男の子は楽しそうにはしゃぎ、周囲の子どもたちは羨ましそうに男の裾を引っ張っていた。

 

(え、えっと……どういうこと?)

 

 予想外の事態に、紫は目を白黒させることしかできないでいた。けれどそれは、ほどなくしてむくむくと湧き上がる好奇心に取って代わる。

 弾かれるように思った。これは理想形だ、と。紫が夢想する、妖怪と人間が共生する世界。それを再現した可能性が、目の前にある。

 体は、無意識の内に動き出していた。スキマの中を漂い、男の背中を追った。

 人間と共生する彼の生活を覗けば、或いは、夢を実現するための手掛かりが得られるかもしれなかったから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 しかし紫の予想に反し、男はその日の内に里を去ってしまった。里の大人たちからは惜しまれ、子どもたちからは泣きつかれ、それでも意固地に「行きたいところがあるから」と押し通して、驚くほどにあっさりと。

 

 故に、紫が彼の背を追い続けたのは必然だった。話を聞いてみたいと思った。一体どんな妖怪なのか。どうして人間と一緒に生活してるのか。彼にとって人間とはどのような存在なのか。

 そして――妖怪と人間が共生する世界を夢想する私を、どう思うのか。

 なんとなく、本当になんとなくではあるが――彼なら私の夢を一笑に付したりせず、真剣に向かい合ってくれるような。そんな予感がしたから。

 

 湧き上がる探究心はもはや抑えが効かない。いっそのことスキマ送りにして、二人だけの空間でゆっくり話をしたいと思うほど。だけど必死に我慢した。彼が人目のないような場所まで進んだら、すぐにでも声を掛けるつもりだった。

 だから、

 

「――それで、さっきから後ろで覗き見してるお前は一体誰なんだろうか」

 

 彼が独り言を言うようにそうこぼした時、紫の心臓は胸を突き上げるように飛び上がった。気づかれてた!? と全身が萎縮し、安全なスキマの中にいるにも関わらず、反射的に彼から距離を取ろうとする。

 男がゆらりと振り返る。そうしてこちらを正面に捉えた彼は、ほのかに片笑みを浮かべ、

 

「姿は見えないけど、多分いるんだよな? ここに、こう、妙な気配がある」

 

 男が大きく左から右になぞったのは、目に見えないはずのスキマの境界。なんてことだ、と紫は戦慄した。

 

 スキマは外界から独立した異次元空間で、故に、その内部に隠れる紫の気配は完全に外から遮断される。ただし完璧な隠密というわけではなく、時には今のように、スキマそのものの気配を察知されて気づかれることがある。

 しかしそんな芸当ができるのは、例えば萃香のように紫と長く付き合いがあるためにスキマの気配を感じ慣れている者か、或いは並の妖怪たちを遥かに超越した感知能力を持つ、大妖怪と呼ばれる者たちだけ。

 そして紫と彼はまだ出会ったばかりなのだから、答えは一つ。妖術で人間に化けているためわからなかったが、彼はその実――

 

(ッ……)

 

 迂闊だった、と紫は眉を歪めた。気持ちが先走って、彼が強大な妖怪である可能性を完全に考えていなかった。

 紫の能力――『境界を操る程度の能力』――は、空前絶後、真理すらも容易く捻じ曲げる神の如き能力であるが、あくまで紫自身はまだ齢百年あまりの普通の妖怪でしかない。もしなんらかの間違いを犯して彼の怒りを買い、襲われるような事態になってしまったら。

 俄に恐怖心が起こる。けど、それでも、彼と話をしてみたいという思いは微塵もかき消されなかった。人間と共生している妖怪。この邂逅をふいにするなんてあまりに惜しいと思ったのだ。もはやままよと、一度深呼吸して気持ちを整理し、紫はスキマを開いて彼の前に顔を出す。

 

「おや」

 

 彼は意外そうに目を丸くしたが、それだけ。こちらの登場は予想通りだとでもいうのか、とりたてて驚く素振りは見て取れなかった。

 

「盗み見するような真似をして、申し訳ありません」

「いや、それは別に構わないけど……さてどちら様かな。見たところ、初対面だと思うけど」

「私は、八雲紫と申します」

 

 男がまた、今度は確かな驚きを覚えた様子で目を見開いた。

 

「ほう、八雲紫……噂には聞いているよ。境界とかいうものを操る、若くもしたたかな妖怪だと」

「いえ……私なんて、まだ若輩者です」

 

 謙遜ではなく、本気でそう思う。齢だってまだ百年ちょっとだし、なにより『妖怪と人間が共生できる世界を創りたい』という願望を、夢想することしかできないでいるのだから。夢を夢と思い描くままで終わらせているようでは、いつまで経っても未熟者だ。

 ……できるのだろうか。親友を以てして“噴飯物”と称されるようなこの夢を、叶えることが。

 

「……大丈夫か? なんだか具合が悪そうだが」

「え? あ、いえ、なんでも。大丈夫です」

 

 慌ててかぶりを振り、気持ちを立て直した。紫が彼を追い掛けたのは、彼と話をするためだ。……だから今しばらくの間だけは、それ以外のことは全て忘れよう。

 

「突然こうしてお声を掛けること、大変失礼とは思いますが――」

 

 心の中に頷き一つ、紫は真摯な声音で問いを一つ。

 

「――少し、一緒にお話してくれませんか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 男は、名を月見といった。狐の妖怪で、人間に化けながらあちこちをそぞろ歩いて回り、人間たちに溶け込んで生きているようだった。

 そうして簡単な自己紹介を終えた紫と月見は、蒼天の下に伸びるのんびり屋な小道を隣同士、言葉を交わしながら歩いてゆく。

 

「月見さんは、どうして人間として旅をしてるんですか?」

「興味本位、かな。人間たちがどういう生き方をしているのか、知るにはやはり人間として紛れ込むのが一番だろう?」

 

 並ぶ彼の体は、とてもとても大きかった。紫がまだ背が低いというのもあるのかもしれないが、それでもこの時代の男性としては長身だ。きっと傍から見れば、男の隣を、小さな子どもが置いていかれまいと頑張ってひっついているようにしか見えないだろう。

 それを悟ってか、月見は大分歩幅を緩めてくれているようだったけれど、それでも紫には少し速いと感じられた。これからはスキマを使って楽なんかせずに、しっかり自分の足で歩くようにした方がいいのかもしれない。

 

「どうして、人間に興味を?」

「ん……まあ、それも興味本位だね。これといって特別な理由があるわけではないよ」

 

 彼は人間と一緒に生活していたことから予想できるように、拍子抜けするほどに温厚な妖怪だった。道中の暇潰しにと、こちらの話に嫌な顔一つせず付き合ってくれている。

 もしかしたら強大な妖怪かもしれない。当初心にあったその不安は綺麗さっぱりなくなり、紫は興味津々と彼に次々質問を投げ掛けていた。

 

「月見さんの目には、人間たちはどんな風に映ってますか?」

「面白い質問だね。……そうだね、ひとえに言えば隣人、過ぎた言葉を使えば友人かな? 妖怪としては、おかしいことかもしれないけど……」

「いいえ、全然! 素敵なことだと思います!」

 

 生まれて初めて、自分と感性の近い妖怪と出会えた。故に、紫の気分が高じてしまうのは仕方のないことだった。上げた高い否定の声に、彼は面食らったように苦笑。

 

「そうか? そう言ってくれたのはお前が初めてだね」

「私も、自分と同じようなことを考えている妖怪には初めて会いました!」

「スキマから人間たちの生活を覗いていた、ね。あの八雲紫が人間に興味を持っていたとは、いやはや意外なことだ」

「友人には、事あるたびに笑われます……」

 

 人柄もあるのだろうが、もはや紫は、月見に襲われる可能性をすっかり忘れてしまっている。肩が触れ合うような距離も構わず、隣合って歩いている。自分と意見の合う妖怪がいてくれたこと――それが、ただひたすらに嬉しくて。

 

「月見さんは、人間が好きなんですか?」

「そうだね……そうなのかもしれないね。好きだから、一緒に在りたいと思うのだろうさ」

 

 ああ、なんて素晴らしいんだろう。紫は感嘆した。そして思う。この人なら、私の夢を聞いても笑ってくれないんじゃないか、と。共感してくれるんじゃないか、と。

 

「……あの、月見さん」

「うん?」

「私……私には、こうだったらいいなあっていう夢があるんです。傍から聞いたら、笑っちゃうような夢ですけど」

 

 月見がこちらを見下ろし、歩幅を緩めた。突然の真剣な切り出しに、虚を突かれたような顔をしていた。

 でも紫は、つなぐ。

 

「妖怪と人間が共生できるような世界を創りたいんです。……ただそうしたいと思うだけで、具体的にどうすればいいのかもわかってないんですけど」

 

 普段ならこのあたりで笑い声が返ってきて、話を続けられなくなる。けれども彼は、表情を動かすことなく静かにこちらの言葉を聞いていた。

 彼がなにを考えているのかはわからない。だが『笑わずに聞いてくれている』という事実が、紫に更なる言葉を紡がせた。

 

「妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を恐れる。それはわかってます。共生なんて無理なのかもしれない。……でも、それでも焦がれるんです。人間たちと仲よく生活するあなたの姿を見て、ますます焦がれるようになりました」

「……」

 

 月見は口元に手を当てて思案顔。なにを考えているんだろうか。否定はされたくない、と思う。恐らくこの世界に二人といないであろう、自分の思想に最も近い存在。そんな彼にまで否定されてしまったら、紫はきっと、この夢が叶わぬものなのだと諦めてしまうから。

 束の間の沈黙のあと、彼はやがてこう言った。微笑み、

 

「面白いことを考える子だね、お前は」

「……」

 

 笑われた。

 けれどそれは今までの妖怪たちのように、おかしなことだ、下らない、無理だと嗤笑するものではない。純粋に、紫の夢に関心を持った――そんな、優しい笑顔。

 

「そうだね……喰って喰われるばかりの関係というのも嫌だなと、私も感じてはいるからね。そういう世界があっても、面白いかもしれない」

「ほ、本当ですかっ!?」

「うおっと」

 

 肯定。生まれてから初めて耳に響く、夢に共感してくれる言葉。湧き上がった喜びはすぐに心を支配し、紫は咄嗟に、月見の前に立ち塞がってその襟元を取っていた。

 ちょうど、彼の腹あたりから見上げる視界。こちらの突然の行動にすっかり目を丸くした彼の顔が見える。

 

「ほん、本当ですか!? おかしくないですか!? 下らなくないですか!? 笑いませんか!?」

「あ、ああ。私は、そういう考えもありだと思うよ?」

「そ、そうですか……」

 

 どうしよう。嬉しい。並々ならぬほどに嬉しい。肯定してもらえた。理解してもらえた。共感してもらえた。今日は、今までの人生の中で一番幸せな日かもしれない。なんか口元がニヤニヤしてきた。

 

「……そんなに喜ぶようなことか?」

「当たり前ですっ! 生まれて初めてなんですよ、この夢に共感してもらえたのは! みんなみんな下らないって笑うばかりで、話すらまともに聞いてくれなくて……」

「ッハハハ、そうか」

 

 ほらほら、歩くのに邪魔だよ。彼はそう言ってこちらの肩を掴み、横へ。そしてまたのんびりと歩き出してしまったので、紫は慌ててその背中を追い掛けた。

 

「あ、あのっ!」

「うん?」

「そ、そのっ!」

「……どうした?」

「え、ええと、……こ、このっ」

「……大丈夫か?」

 

 不審なモノを見る目で見られた。いけない。夢に共感してもらえた喜びからか気分が高じて、舌が上手く回ってくれないようだ。紫は一旦足を止め、落ち着け落ち着け、と二回深呼吸。

 そして思う。やっぱりこの夢を叶えたい、と。こういう言い方をすると彼を利用したみたいで嫌だけれど、共感してもらえて、背中を押してもらえたような気がしたから。少なくとも一人の理解者を得たことで、紫の心は安らいでいたのだ。

 この気持ちを上手く言葉にできるかはわからないけれど。足を止めてこちらを見つめる彼に、紫は或いは自分自身に語り掛けるようにして声を搾った。

 

「月見さん。もしよかったら、私と友達になってくれませんか?」

「友達?」

「初めてなんです、私の夢に共感してくれた人は。だから、もっと色々、お話を聞かせてほしいんです」

「ふむ……」

 

 ……思えば紫は、この時から既に、彼に心を許し始めていたのかもしれない。

 

「……そうだね。どうやらお前とは、気が合いそうだ」

「っ、じゃあ」

「ああ。よろしく頼むよ、紫」

「は、はいっ!」

 

 この日この時彼に出会えたことを、紫は初めて、神とやらに深く深く感謝した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 それから紫は、月見と一緒に少しだけ旅をした。

 

 

「うわ、うわあっ、綺麗な尻尾……触っていいですか?」

「ん、好きにしていいよ」

「ありがとうございます。うわあああもっふもふ……」

 

 月見の銀の尻尾をもふもふしながら、旅をした。

 

 

「さて、もうすぐ人里だ。人間には化けられるか?」

「問題ないです。私の中にある『妖怪としての境界』を弄れば、限りなく人間に近い存在になれます。月見さんの変化の術とは訳が違いますよ」

「……つくづく、規格外の能力だなあ」

 

 彼と一緒に人間たちの生活に紛れ込みながら、旅をした。

 

 

「待て、この妖怪め! 人に化けて私の里に入り込むとは、成敗してくれる!」

「……うーむ、やっぱり神相手だと見破られるかあ。ただ見た目を変えるだけじゃダメだな」

「なんでそんなに冷静なんですか!? ほら早く逃げますよ、スキマ開きますからっ!」

 

 人里の守り神に妖怪であることがバレて、しつこく追い回されたこともあった。

 

 

「あの、あのね! 私、これからあなたに敬語使うのはやめようと思うわ! 友達なんだし!」

「うん? 別に構わないけど」

「じゃあ改めて、よろしくね、月見!」

 

 敬語を使わないくらいに打ち解けるまで、そう長い時間は掛からなかった。

 

 

「ねえ、月見。私、妖怪と人間が共生できる世界を創りたいっていう夢、本気で追い掛けてみようと思うの。ここしばらくあなたと一緒に旅して、やっぱり人間たちが好きだって改めて思ったから」

「……そうか」

 

 夢を叶えると決心するまでも、そう長くはなかった。

 

 

「……じゃあ、ここでお別れね」

「ああ。まあ、気負いすぎずにのんびりやれよ。上手く行かなかった時は、愚痴を聞くくらいのことはしてやるさ」

「うん。ありがと」

 

 月見と旅するのをやめ、妖怪と人間が共生する理想郷を創るために、本格的に動き出すことになって。

 

 

「お久し振りですわね、月見さん。八雲紫ですわ」

「なんだその話し方。――頭でも打ったか?」

「ひどぉい! 私だってもうすぐ大妖怪の仲間入りなんだから、それっぽい話し方をしようって思ったのよ!」

「胡散臭いだけだからやめておけ」

「ぶー……」

 

 それからも時折思い出しては、彼に会いに行って。

 

 

「月見……今夜、暇? よかったら話を聞いてほしいんだけど……」

「ん……どうした、そんなにしょぼくれて。なにか上手く行かないことでもあったか?」

「うん。実はね……」

 

 『幻想郷』を創るための計画が上手く進まなかった時は、

 

 

「うっあああああなんなのよあいつ! 人が下手に出てれば調子に乗ってくれちゃってえええええ! そんなこと私だってわかってますよ――――っだ!」

「おいおい、あんまり呑み過ぎるなよ?」

「だって、だってひどいのよ!? 聞いてよ月見、あいつね――」

 

 自棄酒を呑みながら愚痴ったこともあったし、

 

 

「どうして、上手く行かないのかなあ……。ねえ月見、私じゃダメなのかな……? 無理、なのかな……?」

「さて……。少なくとも、お前が叶えようとしている夢は今まで誰一人としてやってこなかった前人未到のことだ。トントン拍子で進む方がおかしな話だろうさ」

「ぅ……」

「けど、お前はよく頑張ってるよ。本当に健気で、一途で、大したものだ。……そこは、私が代わりに胸を張ろう」

「ちょっ……ば、ばかっ、いきなり、そんなこと言われたら……ふえっ、」

「ああ、はいはい。よしよし……」

 

 たまには耐え切れなくなって、彼の胸で泣いて慰めてもらったこともあった気がする。

 

 

「月見、月見聞いて! ようやく『幻想郷』が形になってきたの!」

「そっか。……おめでとう」

「うん、……うん! ありがとう!」

 

 『幻想郷』の完成は、彼の存在なくしてはできなかったと思う。

 

 

「おや、私はなにもしていないぞ?」

「バカ。辛い時に隣で支えてくれる人の存在がどれほどありがたいか、月見は知らないんでしょ」

 

 あなたがいたから、頑張れた。

 

 

「――ねえ、月見」

「うん?」

「今、ふっと思ったんだけど――」

 

 だから、きっと。

 

 

「――もしかして私、あなたのこと好きなんじゃない?」

「……いや、そんなこと訊かれても困るよ?」

 

 気がついたらそんな風になってたのは、きっと、それほど不思議なことでもないんだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 駆け抜けた思い出に、紫はそっと頬を緩めた。

 ――そう。ちょうどこんな感じの夢を、昨夜にも見たばかりだった。

 月明かりだけで青白く染まった寝室での、いくばくかの追想。

 

「ふふ……」

 

 律儀に正座なんかして見下ろす先には、夢の中心にいた月見の寝顔がある。

 月見はなにやら妖怪の山に行きたい様子だったが、せっかく久し振りに帰ってきたんだからと、今日は無理やり自分の屋敷に一泊させた。そして夜も更け、明日のために早々に寝入ってしまった月見に対し……言ってしまえば夜這いをしているのが、今の状況だ。

 とはいえ、別に不埒な目的があるわけではない。

 

「この寝顔を見るのも、久し振り……」

 

 もう少しだけ彼の姿を見ていたいと、そう思っただけだ。差し込む月明かりが彼の輪郭を青白くなぞっている。覗き込むと、不意に胸が浅く締めつけられるような感じがした。

 自分の夢に共感し、支えてくれた人。自分勝手で気ままなところもあるけど、妖怪らしくない――昔から人間たちとともに生きてきたからか、ある種人間らしい――優しさと暖かさを持った人。

 大切な人だ、と紫は強く想う。

 ――また、幻想郷が賑やかになるな。

 例えば博麗霊夢がそうであるように、彼もまた、己の周囲に自然と人を集める体質を持っている。明日から彼が幻想郷を歩いて回れば、自ずと色んな妖怪や人間たちが彼のもとに集うだろう。

 幻想郷が賑やかになる。それは素直に喜ぶべきことだが、一方で、

 

「きっと、ライバルも増えるんだろうなあ……」

 

 もちろん、紫の、である。なんのライバルであるかは言わずもがな。

 まあ、“そっち”の方面には関心の薄い彼のことだから、心配する必要もないのだろうけど――。

 

「よし。ここは勢いのいいスタートダッシュを決めて、アドバンテージを取っておかないとね」

 

 そう小さく頷いて、紫は彼を起こさないように静かに布団をまくる。久し振りに再会したんだし、今夜くらいはいいでしょ。そう恣意的に納得し、紫は一息で彼の布団の中に潜り込み――

 

「――紫様、なにしてるんですか?」

 

 般若がいた。

 部屋の入口、月明かりを受けて白くざわざわと揺らめいているのは、金毛九尾。

 

「……ら、ららら藍? ええと、その、……こんばんは」

 

 月明かりを照らし返すほどの綺麗な笑顔で、藍は応じた。

 

「ええ、こんばんは。――なにしてるんですか?」

「い、一体どうしたのかしら? 眠れないの?」

「いいえ、別にそんなことは。――なにしてるんですか?」

「こ、今夜は月明かりが綺麗よねー。つ、月見酒でもしようかしら?」

「ああ、それもいいかもしれませんね。――なにしてるんですか?」

「じ、実は私、眠れなくってー」

「なるほど、そうだったんですか。――なにしてるんですか?」

「いや、その、ただちょっと月見の寝顔を見てみようかなって」

「なるほどなるほど。――なにしてるんですか?」

「……そ、そしたら、今夜くらいは一緒に寝ちゃってもいいんじゃないかなって思ったから」

「連れていけ、藍」

「月見起きてたの!? あっ、藍もそんないい笑顔で頷かないで、あーちょっとくらいいいじゃないの久し振りなんだから――――っ!!」

 

 スタートダッシュ失敗、フライング。紫は従者にむんずと襟首を掴まれ、そのままずるずる退場処分と相成ったのだった。

 

 

 

 

 

「す、少しくらいいいと思うのよ! ほら、藍も一緒にどう!? 今からでも遅くないわ!」

「月見様にご迷惑をお掛けしちゃダメです。ただでさえ私たちが長話に付き合わせてしまったせいでお疲れになってるんですから、ちゃんと休ませてあげましょう」

「お堅いこと言っちゃってー! ダメよ、時にはあばんちゅーるな行動もしていかないと恋という戦争には勝」

「というのは建前で本音を言うとまだ仕事がたくさん残ってるからきびきび働け」

「藍のいじわる――――!!」

 

 そうして夜は、騒ぎ合う彼女たちの天上で更けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第4話 「厄神様の小さな幸せ。 ①」

 

 

 

 

 

 こぼしたため息が、周りで繁る枝葉を抜けて地面まで落ちていく。

 後味悪いなあ――そう、鍵山雛は呟いた。

 

 昨日。この場所で出会った銀の妖狐が、妖怪の賢者――八雲紫にさらわれた。雛が厄神であることも構わず気ままに言葉を掛けてくれた、お人好しな妖怪。ほんの少しだけ心を許しかけた相手だった。

 でもそんな彼は、今、雛の目の前にはいない。――もう、その姿を二度見られることもないだろう。

 

 名も知らぬ銀の妖狐。彼が八雲紫にさらわれたからといって、死んでしまったとは限らない。けれどあの時の八雲紫は、まるで数百年来の獲物を見つけたかのように、ぎらぎらとした目をしていた。“妖怪”の顔だった。……彼が一体なにをしたのかは知らないが、今も無事でいるなんてことはないだろう。

 

「はあ……」

 

 昨日と同じ、山道を見下ろす大木の上。しかし、ぶらぶらと両脚を遊ばせるような心の余裕は、今はない。

 どうしてあのタイミングだったのだろうか。雛が名乗って、彼が名乗り返すその瞬間だった。「私は――」……そこから先を、聞けなかった。

 互いに名を名乗って、できればまた話をしたいねと、そう言って別れてからでもよかったはずなのに。あんな終わり方をされたら、吹っ切れないではないか。

 また会いたいと、どうしても、思ってしまうではないか。

 

「……」

 

 わかっている。これは既に、ただの厄神でしかない雛にどうこうできる範疇を超えている。彼が無事であるか否か、生きているか否か、決めるのはただ八雲紫の気まぐれだけ。これ以上雛が彼の身を案じても、なにかが変わるわけじゃない。意味なんてないのだ。

 わかっている。――けど、それでも。

 

「――雛さん、どうしたんですか?」

 

 掛けられた声に、雛はゆっくりと頭を持ち上げた。雛が座る大木からやや離れたところで、黒い羽を羽ばたかせて滞空している銀色のワンコ――ではなく、白狼天狗が一匹。犬走椛。厄神である雛に進んで声を掛けてくれる、数少ない心優しい知人だ。

 

「あら、椛……」

「おはようございます、雛さん」

 

 椛は礼儀正しく四十五度のお辞儀をするも、同時にこちらの厄の影響を受けないようにしっかりと距離を取っていた。賢いワンコ――じゃなくて白狼天狗ね、と雛は苦笑する。

 

「おはよう。今日も哨戒任務?」

「はい、そんなとこです。……そういう雛さんは」

 

 椛はかすかに声をひそめ、窺う声音で、

 

「なんだか、具合悪そうに見えますけど……」

「あなた、よく見てるわねえ」

 

 雛は苦笑を深めた。厄神相手に体調を気遣うような者は、この幻想郷でもすこぶる珍しい部類だ。それだけ彼女が心優しいのだいうことがよく伝わってくる。

 

「ダメですよ、具合が悪いならちゃんと休んでないと……」

「ああいや、体の具合が悪いわけじゃないのよ。ただ、精神的にね」

「? なにか、嫌なことでもあったんですか?」

「……まあ、そんなところ」

 

 椛の銀の毛並みを見て、あの妖狐の姿を一層強く思い出してしまった。針で刺すように胸が痛む。……これも全部、あのスキマ妖怪が悪いんだ。

 すると、それが表情に出てしまっていたのか、椛がますます心配そうに眉根を寄せた。

 

「雛さん、大丈夫ですか?」

「……そうね、ちょっと時間掛かりそうかしらね?」

「……大丈夫ですか? 私でよければ、話くらい聞きますよ?」

「大丈夫よ。そんなことをしたらあなたが不幸になってしまうしね。そんなの嫌でしょう?」

「それは……」

 

 椛は言い淀み、それっきりきゅっと口を真横に引き結んだ。図星を突かれて、返す言葉を見つけられないのだろう。

 雛は、特になにも言わなかった。こうやって距離を置かれてしまうのは少し辛いけれど、誰だって不幸になるのは嫌。そんなのは当たり前のことだ。当然の反応、仕方のないことなんだと、自分に言い聞かせる。

 それから、ちょっとだけ無理に頬に力を入れて、微笑んだ。

 

「気にしないで、そのうち元気になるから」

「……はい」

 

 椛は沈痛な面持ちで、しかし頷き、素直に引き下がった。本当に賢いワンコ――いや、白狼天狗だ。天狗の中でも彼女は射命丸文と並んで人気者らしいが、その理由もわかるような気がする。

 無理に力の入っていた頬がそっと緩まる。それと同時、椛が不意に耳をピクリとさせ、山道の方に鋭い視線を向けた。

 

「どうしたの?」

「侵入者の匂いです」

 

 至極真面目な顔をしながら、一方で、耳をピクピク、鼻をふんふんとしきりに動かす椛。やっぱりワンコでいいんじゃないかな、と雛は思った。

 ともあれ、侵入者。気がついたら脳裏にまた彼の姿が霞んでいて、いよいよもって呆れてしまった。

 目を閉じ、思う。もう忘れよう、彼のことは。運のない出会いだったのだ。もうどうしようもなくなってしまったことなのに、これ以上気を揉んでも、本当に仕方ないではないか。

 

「そこの狐、止まりなさーい!」

 

 椛が高く声を上げ、羽を鋭く打ち鳴らして眼下へ降りていく。狐か。昨日といい今日といい、山で誰かが油揚げでも作っているのではないだろうか。そんな冗談めいたことを考えながら雛は目を開けて、椛が降りていった方を見下ろし、

 

「――は?」

 

 転瞬、言葉を失った。

 瞳に飛び込むのは銀。椛に厳しく誰何(すいか)されながらも、怯む様子なくゆぅらゆら、気ままに揺れる銀の尻尾。そのくすみのない色を誰が僻目(ひがめ)するものか。

 気づいた時には、飛び出していた。

 

「ちょっと、――ちょっと!」

「えっ? ど、どうしました雛さん?」

 

 驚く椛の姿はもはや意識に映らない。彼女の横を駆け抜け、自分が厄神であることも忘れて、“彼”の目の前に降り立っていた。

 

「ああ、ここを通ればもしかしてと思ったけど――昨日振りだね」

 

 優しいバリトンの声音が耳をくすぐる。ああもう、一目見た時からおかしなやつだと思ってたけど、本当にとびっきりにおかしいやつだ。そう雛は噛み締めるように思う。

 だって、八雲紫にさらわれて、まさか無傷で戻ってくるなんて――

 

「おはよう。名前は確か――鍵山雛、だったね?」

「……ええ、そうよ。――このバカッ」

 

 浅く右手を挙げて挨拶してくる銀の狐に、雛は白い歯を思いっきり見せて、笑い返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 すまなかったね、と彼は笑った。

 

「いや、まさかあのタイミングであんなことになるとは。私も驚いたよ」

「まったくよ。……というか、なんで生きてるの?」

「勝手に殺さないでくれないか?」

「それはそうだけど」

 

 雛は彼の姿を足元から頭上までくまなく凝視するも、不審な点はなに一つとして見られなかった。完全に昨日のままと同じ姿だ。怪我はもちろん、襲われたと思しき痕跡もなにもありはしない。

 その理由を問えば、彼は「ああ……」と前置きしてからこう答えた。

 

「私と紫は、友人同士でね」

「……は?」

 

 なんか今、実にありえない言葉が聞こえたような。

 

「ごめん、もう一度言ってくれる?」

「ん? だから、私と紫は友人同士なんだよ。昨日スキマでさらわれたあと、あいつの屋敷で一泊してきたんだ」

「……」

 

 雛は絶句していた。『開いた口が塞がらない』とは、まさにこのことをいうのだろう。

 

「友人、ですって?」

「ああ、そうだよ?」

「じゃあ、襲われたとか、そんなんじゃなかったの?」

「もちろん」

 

 答える彼はあくまで自然体で、嘘をついているようにはとても見えなかった。

 雛はなおも開きっぱなしの口でなにかを言おうとしたけれど、結局ただ呼吸をするばかりで、言葉は出てこなかった。むしろ、なにも言う必要はないのだと気づいたのだ。彼の言葉が嘘でも真でも、こうして無事に戻ってきてくれたのなら、それでいいじゃないか。

 

「……とにかくよかったわ。無事で」

「そうだね。心配を掛けたようで、悪かった」

 

 くつくつ笑う彼の言葉を、否定はしない。今までの自分自身を思い返してみれば、彼のことを心配していたのは立派な事実だ。でなければ、雛が今こうして安心している理由は説明できないだろうから。

 

「あ、あの、雛さん。お知り合いですか?」

 

 呆気にとられた様子で、それでも最低限の警戒心だけは失うことなく、椛が背後から問うてきた。振り返りながら、雛はかすかに答えに悩む。昨日ほんの数分だけ話をしただけの相手は、一体どんな言葉で表現できるのだろうか。

 先に返事をしたのは、彼の方。

 

「お前は、白狼天狗だね?」

「……そうですけど、それがなにか?」

 

 あなたには訊いてないんですけど、と椛の双眸が不快げに細まる。しかし彼は「まあまあ」と両の掌を返しながら、こう続けた。

 

「私はこの子とは会ったばかりだから、知り合いとまではいえないかもしれないけど。でも、怪しいものじゃないという証明なら確かにあるぞ」

「……それは、なんですか?」

「操に訊いてみるといい」

 

 告げられたその名に、椛が大きく息を詰めた。

 操。確かその名は、椛たち天狗を統べる長――『天魔』の名だったはずだと、雛は記憶している。ということは彼は、八雲紫のみならず、その天魔とも友人だというのだろうか。

 

「まさか、天魔様のお知り合いだとでも?」

「それを確かめてみるといい、と言っているんだよ」

「もしそれが虚言だったなら、厳罰では済みませんよ?」

「だったら操をぶん殴ってやってくれ。この鳥頭め、旧友のことを忘れるとはどういう了見だ、とね」

「……」

 

 威嚇するように、椛の体から妖力があふれた。長である天魔を『鳥頭』と貶されたからだろう。哨戒の任務を回される、有り体をいえば『下っ端』である彼女でも、幻想郷に名高い天狗の一族だけあって、そのへんの無名の妖怪とは明らかに妖力の質が違う。直接向けられているわけでもないのに、雛の肌がさっと粟立った。

 けれども彼は、その妖力を目の前にしても、決して呑気な笑みを崩さなかった。

 

「それだけ、軽口を言い合えるような仲ということだよ」

「……わかりました、すぐに確認してきましょう。雛さん」

「え? あ、はい」

 

 唐突に名を呼ばれて、思わず声が裏返りそうになる。

 

「天魔様に確認を取ってきます。その間、すみませんけど、この男が逃げないように計らってくれませんか?」

「え、ええ、構わないけど」

 

 椛の妖力にすっかり気圧されていたせいだろうか、よく考えもしない内にこくこくと頷いてしまった。

 椛は一度頭を下げ、

 

「ありがとうございます。――それでは」

 

 最後に釘を刺すように鋭く男を見やってから、翼を打ち鳴らし、山頂の空へと飛び去っていった。

 雛はしばらく、どうしたらいいのかよくわからなくなって茫然とその方向を見つめていたけれど、「仕事真面目だねえ」という彼の呟き声が聞こえて我に返る。

 

「あなた、大丈夫なの? あんな喧嘩を売るような言い方して……」

「大丈夫だろうさ。私があいつ――天魔の友人なのは事実だからね」

 

 まあ、あいつが鳥頭で私のことを忘れてる可能性は否定できないけど――そう言って肩を竦めた彼は、さて、と改めてこちらに向き直ってきた。

 

「それじゃあ、あの子が確認を取ってくるまで適当に話でもして待ってようか。逃げるなと、目で釘を刺されてしまったしね」

「……」

 

 ああ、そういえばそんなことになったのよねえ、とぼんやり思ったところで、雛は状況が少しばかり面倒になってしまっていることに気づいた。彼と話をする。それはまさに昨日、雛が彼を不幸にしたくないという思いから躊躇い、よしとしなかったことではないか。

 誘発されるように、今の自分と彼の距離が近すぎることにも気づいた。無事だった彼の姿を見て慌てたからとはいえ、この距離では厄が簡単に伝播してしまうだろう。「そうね……」と呟き、考えるふりをしながら、雛は彼から静かに距離を取った。

 

「……まあ、話をすることは構わないわ」

 

 椛に頼まれた手前だ。昨日のように「行きなさいな」と促すことなどできない。

 けれど、

 

「なら、厄が移らないように距離を取らないとね……」

「……」

 

 一歩、また一歩と彼から離れて、取った距離は五メートル以上。普通に話をするには、少しばかり遠すぎる間合い。よそよそしいけれど、厄神と安全に会話をするには必要なことなのだ。

 振り返ると、困ったように眉を下げて沈黙している彼がいる。ごめんなさい、と雛は胸中で呟いた。

 

「……つまり」

 

 ぽつり、と彼が口を切る。呟くような声量なのに、不思議とよく通る声だった。

 

「あまり近くで話をすると、自分の集めている厄が私に移って、不幸にさせてしまうから……お前はそれが嫌なんだな?」

「……昨日だって、そう言ったでしょ? 仕方のないことなのよ、これは」

「ふむ……」

 

 彼は腕を組み、何事か真剣に思案しているようだった。こちらと近くで話ができるような方法を考えてくれているのか。気持ちは嬉しかったけれど、それは無理よ、と雛は内心苦笑する。

 生物と厄は切っても切れない関係。自分より厄を多く抱えたものに近づけば、厄をもらって不幸になる。謂わば熱が温かいところから冷たいところに移るのと同じ、避けようのない大自然の理。それを覆せるのは、例えば八雲紫のように、理そのものをひっくり返しかねない馬鹿げた能力を持っている者だけ……力づくでどうこうできるような問題ではないのだ。

 

「気持ちだけ受け取っておくわ。ありがとう。……でも、あなたが私に近づけば、厄をもらって、不幸になる。それは必然なの。だから――」

「ふむ。でもまあ」

 

 けれど、こちらの言葉を断ち切って彼は続けた。腕を浅く開き、一方で瞳は閉じて、諭すように柔らかな声音で微笑んだ。

 

「――“その当ては、外れると思うけどね”」

 

 その声を聞いた瞬間、雛の体を言いようのない違和感が襲った。明確になにとは言えないが、決して不快感があるわけではなく、まるでスイッチを押したかのようになにかが切り変わった――そんな違和感。

 なんだったんだろう――そう疑問に思う雛の先で、彼はなおも言葉をつないでいく。

 

「じゃあ、ここは一つ実験してみようじゃないか。本当に私が、お前の厄をもらって不幸になってしまうのか」

 

 そうして、一歩。

 こちらに向かって大きく、踏み出してきた。

 

「――ッ」

 

 雛は思わずあとずさる。けれどその距離を、彼は更に一歩、前に踏み出すことで詰めた。ダメ、と雛は彼から離れようとするが、上手く体が動かない。こちらを厄神だと知ってなお近づいてくる人物に、初めて出会ったものだから、咄嗟に足が竦んでしまっているのだ。

 

「ダ、ダメよッ! 正気なの!?」

「正気さ。……ああ、結構自信アリだよ?」

 

 せめて口だけででも彼を遠ざけようとするけれど、彼は決して止まらない。言葉の通り、表情にたたえているのは、こちらに近づくことをなにも恐れていない大胆な笑みだけ。まるで子どもみたいだった。

 五メートル以上あった距離を、既に半分詰められている。

 

「ま、待って……! ダメ……ッ!」

「大丈夫、大丈夫。お前がしているのは全て余計な当てずっぽうさ」

 

 ザッ、ザッ。彼が山道を踏み鳴らす、その音が鳴るたびに、雛と彼の間は近づく。

 

「や、やっ……!」

 

 怖くなって、雛はきつく目を瞑った。

 それでも、彼がやって来る音は決してやまなかった。

 

 ……その音が聞こえなくなったのは、一体いつからだったのか。

 

 気がついた時には、なにも見えない闇色の中、しんとした静寂だけが耳に痛くて。

 それに耐えられなくなって目を開ければ、ふりふりと、眼前で銀色が揺れているのが見えて。

 

「――!」

 

 それが彼が差し出した尻尾であることに気づいて、慌てて飛び退こうとしたけれど。

 

「ほら。やっぱり、余計な当てずっぽうだった」

 

 バリトンの声音に耳をくすぐられて、ハッと息を呑んだ。

 雛の周囲を、クルクルと、厄が回っている。そう――すぐ目の前にいる彼に、まるで気づいていないかのように、ちっとも移っていくことなく。

 くぅるくる、そのままで、回り続けている。

 

「……ふ、え?」

 

 思わず、そんな声が漏れた。だって、自分に近づいた者に厄が移っていってしまうのは当たり前のことで、今までもずっとそうだったのに……なのに、なんで突然?

 ぽかんと彼の顔を見返した。どうしてこんな現象が起こっているのかはわからない。でも、少なくとも、厄が彼に移らずに回り続けているということは――。

 雛のその考えに応じるように、彼が笑みを深めた。

 

「言ったろう? その当ては外れると思う、ってね」

「あ、え」

「それじゃあ一件落着したところで、改めて自己紹介だ」

 

 からからと、やっぱり呑気に喉を鳴らして、昨日雛が聞けないままだったその名前を教えてくれた。

 

「私は、月見。“月”を“見”ると書いて、つくみだ。しがない一匹の狐だよ」

 

 気ままに揺れる彼の尻尾。そのくすみのない銀色が、あんまりにも綺麗だったから。

 ああ、確かに月の色を映したみたいだなと、雛は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 妖怪の山を頂に向けて大きく大きく登ると、山紫水明を切り拓いて構えを置く大屋敷がある。空高くからでなければ全貌を見ることすら敵わぬそれは、幻想郷で最大勢力を占める妖怪・天狗の総本山。そして、その長たる『天魔』が羽を休める屋敷でもある。

 

 白狼天狗である犬走椛は、先刻出会った銀の妖狐について報告するため、本山の内部、天魔の執務室を訪れていた。

 あの妖狐は、恐れ多くも自らを天魔の友だと名乗った。なんとしても真偽を確かめなければならないことだ。真であれば改めて歓迎しなければならないだろうし、偽であれば――天魔の友を騙った罪人として、誅さなければならない。

 

 嫌疑の気持ちは大きい。天魔が自ら“友”と呼ぶような相手は、鬼子母神と妖怪の賢者のたった二名だけで、その中に狐がいるなどという話は聞いたこともないからだ。やはり、こちらの目を逸らすための虚言であった可能性が否定できない。椛は雛が上手く足止めしてくれていることを祈りながら、手早く執務室のドアをノックした。

 

「天魔様、犬走です。少し確認して頂きたいことがあるのですが、よろしいですか?」

 

 返答は、綺麗に一拍の間を挟んでから返ってきた。

 

「むおー……? よいぞ、入れー」

 

 だらしなく気の抜けた女性の声。それに対し椛は、あいかわらずだと嘆息を漏らしながらノブに手を掛け、さりとて長の部屋に入るのに変わりはないのだから、礼を欠くことのないようにすぐに表情を引き締めた。

 

「失礼します」

 

 言葉を置いて、一息、部屋に()る。

 まず正面、執務机の上にうず高く築かれた書類の山が見えた。どこぞの死神に負けず劣らずのサボり癖を持つ天魔が、一週間もの間仕事から逃げ続けて築き上げた力作だ。椛が何時間か前に確認した時と比べていくらか低くなっているから、どうやらそれなりに仕事はしていたらしい。感心だ、と椛は頷きを一つ。

 次いで、その山々の隙間から、奥で黒い物体がもぞもぞと動いたのが見えた。机に突っ伏していた上体を、長い黒髪を引きずりながら起こしたのは、紛れもなく天魔その人。ギシギシと椅子を不安定に軋ませ、やがてやおら口を開いた。

 

「なにか、用かあ~……?」

 

 黒髪の向こう側で、寝ぼけ眼がまばたきをしている。どうやら居眠りをしていたらしいが、仕事はそこそこしていたみたいだし、なにより今はあの妖狐について早急に確認を取らなければならないので、椛はすぐに本題を告げた。

 

「はい。先ほど警備中に、麓付近で天魔様の友人を名乗る方と出会いまして」

「友人……? 誰じゃ、千代(ちよ)かー?」

「いえ、ええと――」

 

 答えようとして、そういえば名前を聞いていなかったことに気づく。仕方ないので、あの特徴的な銀の毛並みを告げることにした。彼が本当に天魔の友人ならば、それで問題なく伝わるだろう。

 

「綺麗な銀の毛並みを持った、狐の――」

 

 瞬間。

 ざわ、と、部屋の中を唐突に風が巡った。窓を、ドアを、そのすべてを閉め切った空間でどうして風が流れるのか。答えは、ただ一つ。

 

「て、天魔様――?」

 

 天魔が風を操っているのだ。でも、なんでいきなりそんなこと。当惑する椛が問う間にも、風はますます勢いを増し、書類の山を容易く(くう)に吹き上げていく。

 

「ふ、ふ、ふふふふふ……そうか。銀の、狐か」

 

 不気味に響く天魔の声は、抑えられない喜びの色で染め上げられていた。ああ、こんな天魔様を見るのは久し振りだ。きっとあの狐は、本当に天魔様の御友人だったんだろう――そう椛が思った直後。

 

「悪い、椛。――少し出掛けてくる」

「え――きゃあああああ!?」

 

 突風。爆発でも起きたのかと思うほどの豪風であった。書類が四方八方に弾け飛び、部屋全体が激しく振動し、体を打たれた椛は立っていることもできず後ろに薙ぎ倒されてしまう。

 そうしてしばらく、風が落ち着きを取り戻し、椛が恐る恐る目を開けた時――見えたのは執務室の天井、無造作に開け放たれた大きな天窓。

 

「あ……」

 

 呟き、ゆるゆると起き上がる。

 目の前に、惨状が広がっていた。

 執務机の上に築かれていた書類の山。天魔がいくらか減らしたとはいえ、それでも残り何百枚はあったはずの紙片たちが、みんな散り散りに飛び散って、床の上、執務机の上、そして本棚の隙間と、至るところを真っ白に塗り潰している。

 そして、なにより。

 この部屋にあるべき天魔の姿が、どこにもない。さっきまで確かにいたはずなのに、忽然と消えてしまっている。

 椛は、開け放たれた天窓に目をやった。あの窓は突風が吹いた程度で開いてしまうようなヤワな作りではないし、もちろん、椛が開けたわけでもない。

 では、天窓を開けたのは一体誰か。答えはたった一つ。それを悟って、椛はへなへなとその場に座り込んでしまった。

 

「て、天魔様あああ~……」

 

 ちょうど目の前を舞って落ちた書類が、自分を嘲笑っているかのようで。

 椛は割と本気で、その書類をズタズタに引き裂いてやりたい衝動に駆られたのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 誰かと他愛もない話をすることが、こんなにも緊張するとは思わなかった。

 椛が天魔に確認を取って戻ってくるまでの一時、山道の脇に転がっていた古木の幹に腰を下ろし、雛は銀の妖狐――月見と話を交わしていた。互いの距離は隣同士、手を伸ばせば容易に相手の肩に触れられるほど。相手が男というのもあるのかもしれないけれど、この距離で誰かと話をするのは初めてで、わけもなく恥ずかしくて、心臓の鼓動が外に漏れてしまいそうだった。

 

「……ふうん。それじゃああなたは、つい先日まで外の世界で暮らしてたのね」

「ああ。ここに戻ってくるのは数百年振りだけど、あまり変わりないようで嬉しいやら悲しいやらだね」

 

 幸いなのは、その緊張を表に出すことなく無難に会話を進められていることだろうか。私のポーカーフェイスもなかなかのものねと、雛は自分を褒めてやりたい気持ちになった。

 月見の話は、正直あまり頭に入っていない。最低限の相槌は打てているものの、そうした途端に頭から抜け落ちていってしまっている。なにか色々と話をしたような気がするものの、彼の名が月見であること、つい先日まで外の世界で暮らしていたこと以外はよく覚えていなかった。

 

「……なるほど。あなたがこの山の神社に行こうとしてたのも、そのあたりが理由なのね」

「そうだね。私が昔ここで生活してた時にはなかったものだから、一目見ておこうと思って」

「ふうん……」

 

 思う。椛はまだ戻ってこないのかしら、と。雛の体感時間では、椛が飛び立ってから既に三十分以上が経っている気がした。

 こうして会話すること自体は別に不快ではないのだが、このままだと色々とボロが出てしまいそうで不安だった。緊張しててろくに話も聞いてませんでした、なんてことがバレたら、決して恥ずかしいだけでは済まされない。

 

「……まあ、私の自己紹介はいい加減このくらいでいいかな。ほとんど見ず知らずの男の自己紹介ばかり聞いてても、つまらないだろう?」

「えっ……あ、いえ、別にそんなこと……」

 

 雛は焦った。彼が自己紹介をやめたら話題がなくなる。話題がなくなるということは、緊張しているのがそれだけバレやすくなるということだ。

 

「……」

 

 彼が、無言でじっとこちらを見つめてきた。なにか話したいことがあったらどうぞと、そう言っているかのよう。けれど雛には、改めてなにを話せばいいのかなんてわからなかった。

 自己紹介されたんだから、こっちも自己紹介で返すべき? でも、それなら既に昨日の時点でしてしまったし、今更繰り返してもよそよそしい気がする。じゃあ彼が自己紹介したことについて掘り下げてみる? かといって肝心のその内容をほとんど覚えていないし、あんまり掘り下げすぎても馴々しいと思われるんじゃないかとか――

 

「ふふ」

 

 ふと、微笑の声。

 

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。気楽に行こうじゃないか」

「うっ……」

 

 いけない、気づかれた。頬がじんわりと熱を持っていくのを感じる。ただ隣同士に座って会話するだけでここまで緊張するなんて、まるで私が口下手みたいじゃないか。

 ……なんて思ったけれど、実際そうなのかもなあ、と雛は内心でため息をこぼした。なぜか厄の影響を受けない彼は、もはや雛にとってただの他人と割り切ることはできない。だからこそ、今までの距離を取った人付き合いの中では気づくことができなかった自分の本当の姿が見えて、恥ずかしくなってくるのだ。

 どうやら雛は、相手と距離があるうちは冷静だが、ひとたび近づかれると途端に緊張して上手く喋れなくなってしまうタイプらしかった。なんだか自分で自分が情けない。

 

「え、ええと……」

 

 ともあれ、だからといってこのままというのもよろしくない。雛はすっかり熱くなってしまった己の頬を心底恨みがましく思いながら必死に話題を探して、そういえばと、ふとあることに気づいた。

 

「そういえば、あなたはどうして厄の影響を受けないの? いえ――」

 

 正確に言えば、“受けない”のではない。

 

「“受けなくなった”、のよね。昨日の時点では、私の厄は確かにあなたに移ろうとしてたもの……」

 

 雛が集めた厄はあいかわらず周囲にふわふわ停滞し、一向に月見へと移っていく様子はない。昨日までならありえなかったはずのことだ。だからこそ、どうしてなのかと眉根を寄せる。

 或いは、あの時に感じたスイッチが切り替わるような違和感と関係があるのだろうか。

 

「あなたの能力?」

「答えを言えば、そうだ」

 

 頷いた月見は、けど、と続けて苦笑。

 

「どんな能力かは、悪いけど秘密にさせてくれ」

「……どうして?」

「色々面倒な能力でね」

 

 それっきり、彼はこの話題は終わりだとばかりに話すのをやめてしまった。色々面倒な能力。気にはなったが、追求しようとは思わない。

 大切なのは――その能力のおかげで、こうして隣同士で話をしても、彼を不幸にさせることがなくなったのだという事実。自分が厄神である以上は避けられないと思っていた運命を、覆してくれたのだという結果だけ。彼が厄の影響を受けなくなったのは能力を使ったからなんだと、それさえわかれば充分だった。

 だから、雛はそっと微笑む。

 

「……訊かないわ。私としては、こうして話をできるだけで充分だもの」

「そうか。……助かるよ」

「礼を言うのはこっちの方よ。……ありがとう」

 

 雛が厄神であることを気にせずに、近づいてきてくれるような相手。自分自身が厄神であることも忘れて、下らない話ができるような相手。どれほど焦がれただろうか。どれほど夢見ただろうか。

 

「どういたしまして」

 

 ああ、卑怯だなあと、雛は思う。

 あくまで雛の境遇が特殊だったせいもあるのだろうけれど、そんな風に嬉しそうに笑いかけられたら――安心してしまうではないか。

 心を、許してしまいそうになるではないか。

 

「あなたは、変わり者なのね……」

「ッハハハ、よく言われるよ」

「そう……」

 

 同時、頓に体がこそばゆくなってきた。彼の人間性は、雛が今まで出会ってきた者たちが、誰一人として持っていなかった稀有なものだ。ひっそり隣に佇んで、柔らかい光で優しく他者を包み込む――それこそまるで、月のような。それがなんとなく落ち着かなくて、そわそわしてしまう。

 ……或いは、だからだろうか。

 

「ね、ねえ」

「うん?」

「も、もしよかったらだけど……たまにこうして、私の話し相手になってくれないかしら」

 

 まだ親しくもない男性相手になにを言っているのと冷静な部分で思いつつも、言葉は止まらなかった。

 

「あなたと話ができると、嬉しいから……」

 

 さわさわ、風が山肌を撫でる。

 そして、言い切ってから、数秒。

 ――雛の顔が火を吹いた。

 

(な、なに言ってるの私――――!?)

 

 なんだか、よくわからない内に、よくわからないことを口走ってしまったような気がする。今の、聞かれただろうか。いや、この距離だ。聞かれたに決まってる。

 だから思わず、やっぱり今のナシ、と全身で叫ぼうとした……その瞬間。

 

「なんだって? すまない、よく聞こえなかった」

「ひゃう!?」

 

 彼がいきなり顔を近づけてきたものだから、びっくりして、

 

「あっ、」

 

 咄嗟に両手で(くう)を掻くが、遅い。

 そのまま、背中から地面にひっくり返ってしまった。

 

「い、いたあっ……」

 

 後頭部を押さえて悶える。さっきからなにやってるのよ私、と泣きたくなって、それから自分がどんな醜態を晒してしまったのかに気づいて、慌てて空を見上げた。

 空の下、視界のはしっこに、目を丸くしてこちらを見下ろしている月見の顔があって。

 思わず雛も、地面に寝転がった体勢のままで、ポカンと彼を見返して――

 

「――ッハハハハハハハハ!」

 

 いきなり彼が、大笑いした。

 

「なっ――ちょ、笑わないでよ! 笑うなあっ!」

「す、すまない。しかし、これは、なあ? ッハハハ……!」

「こ、このっ……!」

 

 た、確かに傍から見れば滑稽だったかもしれないけど、そんな大笑いしなくてもいいじゃない――そう思い、一発ぶっ叩いてやりたくて、雛は体を起こそうとした。

 でもそれと同時に、彼が急に右手をこちらに伸ばしてきたので、ハッと動きを止めた。なによ、この手――初めは、そう思ったけれど。

 

「ほら、大丈夫か?」

「――ぅえ、」

 

 掛けられた言葉に、思わず変な声がこぼれた。目の前にある大きな掌を呆然と見返しながら、どうすればいいんだろう、と疑問に思ってしまう。ああ、答えなんてなんとなくわかっているのに、呆気にとられるばかりで頭が上手く回ってくれなかった。

 

「えっ……と?」

 

 ゆるゆると、月見を見る。彼は白い歯を見せて、苦笑した。

 

「ほら。いつまでもそうしてると服が汚れるぞ」

「そ、そうだけど……」

 

 もう一度、彼の掌を見る。変わらず雛の目の前で、静かに佇んで、待ち続けていた。

 他でもない――雛の右手を。

 

「――」

 

 言葉が出てこない。だって、こんな風に手を伸ばしてもらったのなんて、初めてだったから。本当に私が、厄神の私がこの手を取ってもいいのか――とか、考えてしまって。

 

「ほら……いつまでぼうっとしてるんだ、よっと」

「わあっ!?」

 

 そのうち、痺れを切らした月見に強引に右腕を取られた。力強く体を引かれて、視界がグルンと縦に大きく動いて、気がついたら立ち上がっていた。随分と乱暴な起こし方だったけれど、背中に彼の尻尾がさりげなく回されていたので、痛みはない。

 

「まったく……どこか怪我したのか?」

「えっ、やっ、別にそういうわけじゃ……」

 

 尻尾がポンポンとこちらの背を叩いて、ついた落ち葉なんかを払ってくれている。

 

「まだ緊張してるのか?」

「緊張っていうか、その……」

 

 緊張しているというか、今の状況についていけなくて戸惑っているというか。

 

「ふむ……では色々ひっくるめて訊くけど、大丈夫か?」

「……」

 

 問いに、どうなんだろうな、と雛は考えた。初体験の連続で体は熱っぽいし、心臓は大慌てしてるし、なんか頭を空にしてその辺を全速力で飛び回りたい気分だし、決して大丈夫とはいえないような気がする。

 でも――と、胸に手を当て、思う。これはきっと、悪い感情じゃないんだと。新しい環境に対応して自分が変わろうとしている、喜ばしい感情なんだと。

 そう思うと、不思議と熱かった頭も落ち着いた。

 笑みの吐息をつき、言う。

 

「……本当にあなた、変わり者よ」

「おや、そうか?」

「ええ、そうよ」

 

 彼の勝手気ままな姿を見ていると、さっきまで色々と大慌てしていた自分がバカみたいに見えてくるのだから不思議だ。すべてのことが新鮮に感じられて、楽しくて、厄神であることに思い悩んでいた少し前までの自分が嘘のよう。

 だから雛は、もう一言だけつなげた。

 

「……ほんとに、ありがと」

 

 自分でも聞き取れないくらいにそっと呟いたそれは、果たして彼に届いたのだろうか。彼は一瞬不思議そうに小首を傾げて、すぐに一笑。

 

「そういえば、結局スペルカードについて教えてもらってなかったね。あの白狼天狗の子もまだ戻ってこないし、もしよければ今教えてくれないか?」

「ええ、そうね……私は大丈夫よ」

 

 心もすっかり落ち着いていた。今ならきっと、心ゆくまま彼と話をすることができるだろう。

 話題は、スペルカード。まずはスペルカードルールについて教えた方がいいだろうと思い、口を開いたけれど、

 

「ん……ちょっと待った」

「え?」

 

 不意に月見が片手でこちらを制し、空を見上げた。その時になってようやく、雛は森が少しばかり騒がしくなっていることに気づく。木々たちがざわざわと震えて、落ち着きがないのだ。

 月見が静かに眦を険しくした。それを見て、雛の心も緊張を覚える。どうしたんだろう。横から月見の顔色を覗き込むけれど、彼は空を見上げたまま微動だにしないでいる。

 

「……少し下がってなさい」

 

 そのうち、月見がこちらを庇うように大きく三歩前に出た。なにかよくないことが起こるような気がして、雛の心がざわめく。あの時彼が目の前から消えてしまった光景が甦って、息が詰まる。

 

「つ、月見……」

「なに、心配ないよ。そこでのんびり見てるといい」

 

 耐え切れなくなって名を呼ぶけれど、彼は空から視線を外すことなく、微笑む声で応じるだけ。

 森のざわめきは次第に大きくなる。雛は、何者かがこちらに向けて猛スピードで迫ってきている気配を感じた。椛が戻ってきたのだろうか。いや、それにしては様子がおかしい。この速度、幻想郷最速を謳うあのブン屋にも負けず劣らずの勢いではないか。

 というか、そうこう考えているうちに――

 

「――って、ちょっと待って!?」

 

 雛は焦った。何者かは知らないが、あれだけの猛スピードを出しておきながら一向に止まろうとする気配がない。あのままここに突っ込んでくるつもりなのだ。もし激突でもしたら、決してただでは済むまい。

 

「月見、逃げなきゃ!」

「大丈夫だよ。私に任せておきなさい」

 

 けれど、慌てる雛を再度月見の柔らかな声が制す。彼はその場で空に向けてゆっくり両腕を開いて、身構えた。……まさか、受け止めるとでもいうのだろうか。流れ星みたいに落ちてくる何者かを、体一つで。

 

「つ~~く~~みいいぃ~~……」

 

 声が降ってくる。そこから先は一瞬だった。折り畳まれた黒の大翼が見えたから、どうやら天狗らしいと――雛が認識した頃には、既に月見と“彼女”は激突間際で。

 

「月見――――!! 久し振りじゃぎゃああああああああ!?」

 

 刹那。

 月見は目にも留まらぬ神速で尻尾を振るい、彼女を真横に打ち飛ばしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第5話 「厄神様の小さな幸せ。 ②」

 

 

 

 

 

 森のざわめきは、すっかり収まっていた。本当になんの物音もしなくて、痛いくらいに静かだった。

 

「……、」

 

 雛は、まるでその静謐が縄となって全身を縛りつけているかのように、身動ぎ一つすることができないでいた。目の前には、月見の尻尾に打ち飛ばされ、十メートル以上に渡って地面を抉り、動かなくなった天狗の肢体がある。これを目の当たりにして一体どんな反応をすればよいのかがわからなくて、思考は混乱するばかりであった。

 とりあえず、パッと思いついたことを言ってみる。

 

「え、えっと……ナイスバッティング?」

「ッハハハ、それはどうも」

 

 いやいや、それは違うでしょう――雛は首を横に振った。褒めてどうする。訊かなければならないことは、もっと別にあるはずだ。

 

「……その、色々と前置きすっ飛ばして訊くけど、――いいの?」

「大丈夫だろう、操だし」

「操!? 操って、て、天魔様ぁ!?」

 

 予想外の答えに、雛は思わず仰天した。すぐに、自分がらしくもない大声を上げてしまったことに気づいてハッと口を噤むのだけれど、

 

「うん? 確かにそうだが……それがどうかしたか?」

「いやいやいや! どうしたもこうしたもないわよ!」

 

 事の重大さを理解していないのか。きょとんと小首を傾げた月見に、またしても大声で叫んでしまった。今度はもう、息を呑む気にもなれない。

 だって、月見の言葉を鵜呑みにするならば、あそこで物言わぬ屍になっている天狗は、

 

「天魔様よ!? 天狗たちのトップよ!? それをあんな!」

 

 天魔。幻想郷で一大勢力を占める天狗たちの、紛れもない頂点に君臨する大妖怪。

 そんな相手を容赦なく尻尾で打ち飛ばして、あんな無残な姿にさせてしまうなんて。

 

「ど、どうするの!? 天狗たちに怒られるわよ!?」

 

 天魔を故意に傷つけたとなれば、彼女の腹心の部下たちが決して黙ってはいない。怒られる――などという可愛い話で済めば万々歳で、普通なら間違いなく誅伐されるだろう。天魔を傷つけることは、幻想郷にいるすべての天狗に喧嘩を売るも同じなのだ。

 だというのに、彼はこの期に及んでも、からから呑気に喉を鳴らしたのだった。

 

「大丈夫だよ。言ったろう、私と操は友人同士だと」

「で、でも」

「それに操は頑丈だからね。これくらいでどうこうなったりはしないよ」

「いや、あのね、そういうことじゃなくって」

 

 結局、月見はなにを言っても「大丈夫だよ」の一点張りで、雛の方が根負けしてしまった。私は正論を言ってるはずなのにどうして、と頭を抱えてしまう。

 

「う、ううん……」

 

 と、意識を取り戻したらしい天魔が、呻き声を上げて身動ぎをした。雛は息を呑んで、体ごとでそちらの方を振り返る。

 まだ痛みが残っているのだろう。両腕を支えにしながらゆるゆると体を起こした天魔は、地面に座り込んで周囲を見回し、それからこう言葉を漏らした。

 

「む? ……ここはどこじゃ?」

 

 ――はい?

 雛は目を丸くした。どこって、妖怪の山に決まっているのだけれど。

 天魔はまだ雛たちに気づいていないらしく、腕を組んで、一人でうんうんと唸り続けている。

 

「む、むむむー……? おかしいの、確か儂は執務室で仕事をしとってー、そしたら椛がなんかの報告をしに来てー、……あれ? なんで儂は森の中に?」

 

 もしかして、なにがあったのか覚えていないのだろうか。……充分にありえる話だ。冷静に考え直せば、彼女は十メートル以上にかけてド派手に地面を抉ったのだ。一体どれほどの衝撃が脳に加わったのか、想像するだけでも冷や汗が出てくる。これでは、記憶が混乱していない方がおかしいだろう。

 そんな天魔に、すぐに雛の隣から月見が声を送った。

 

「操ー、大丈夫かー?」

「む? ……おおお、月見じゃないか!」

 

 月見に気づいた彼女は、すっかり土だらけになった顔を満面の喜びで染め上げて、一直線に彼の胸へと飛び込んだ。月見も輪をかけてぶっ飛ばすような真似はせずに、素直に彼女を抱き止める。

 

「そうだ、思い出したぞ! お前さんがこの山に来てると椛が報告してきたから、仕事ほっぽり出して会いに来たんじゃ! 久し振りじゃの! ――でも儂、なんであんなところで眠りこけてたんじゃろ?」

「ああ、それか。――木にぶつかって墜落したんだよ。まったくびっくりしたぞ?」

「むう、そうだったのか……。すまんすまん。猿も木から落ちる、天狗も木にぶつかる、じゃな」

「……」

 

 この狐、ちゃっかり操に嘘を吹き込んでいる。雛は半目で月見を見たが、嘘も方便だよとばかりに躊躇いのない微笑みを返されたので、まあいいかと諦めた。多少の後ろめたさはあるけれど、真実を明かしたら色々面倒になりそうなので、まさに嘘も方便なのだろう。

 

 ともあれ、天魔である。正確な名は、天ツ風操(あまつかぜみさお)だったろうか。濃い闇色の髪が地面をひきずられるほどに長く伸びており、まるでそれ自体が一つの衣のごとく、彼女の体を覆い隠している。月見の銀と好対照をなし、まるで夜の色を映し出しているようだ。

 更に、その髪に負けず劣らず長く大きい黒の翼。他の天狗たちよりも一回り大きく見えるのは、彼女が天魔という特別な存在だからなのか。衣服は髪と翼に隠されてよく見えないけれど、どうやら黒の着物で、引き振袖のようなものを着ているらしい。よほど黒が好きなのだろうか、頭から足まで、とかく黒で塗り潰された天狗であった。

 顔立ちは、『天魔』という肩書きの割には随分と若い。月見と同じくらいだ。月見に向ける笑顔には確かな若さの色があり、一方で鋭い線で形作られた相貌は、若さ以上に『女傑』という表現が似合いそうな気もする。

 そんな彼女――未だ月見の胸元にひっついて離れようとしない操に、月見が困り顔で片笑んだ。

 

「ほら、いつまでくっついてるんだ。人が見てるんだからいい加減に離れろって」

「む? ……おお、本当じゃっ。お前さん、いつの間にそこにっ」

 

 そこでようやく、彼女は雛の存在に気づいたようだった。むむっと芝居がかったように眉根を寄せてこちらを指差すと、

 

「儂に気づかれずにここまで近づくとは。さてはお前さん……できるな?」

「ええと、最初からいましたよ?」

「なんじゃつまらん」

「……」

 

 この天狗、本当に天魔なのだろうか。雛は不安になってきた。

 操は月見にしなだれかかり、猫撫で声で言う。

 

「月見ー、こやつは誰じゃ? 知り合いか?」

「そんなところかな。……名前は鍵山雛。厄神だそうだよ」

「あ? 厄神?」

 

 操の声が、ふとして眉間に線を刻んだ。ビクリ、雛の肩が震える。見れば、操が先ほどまでのふざけた目線を一転、鋭い眼力を宿してこちらを睨みつけている。

 

「あっ……」

 

 ハッとした。そうだ――月見との会話があんまり心地良かったものだからすっかり忘れてしまっていたが、雛は厄神。周囲から疎まれる存在。今までのように自分が厄神であることを気にしなくていい時間は、既に終わってしまっているのだ。雛の周囲を回っていたはずの厄が、操に向けて流れ始めている。

 弾かれたように一歩、あとずさった。

 

「す、すみません。すぐに離れ――」

「ああいや、別にそこまでせんでいいぞー」

 

 けれど、それをまた一転、今度は至って気楽に紡がれた操の言葉が制した。鋭かったはずの眦は既に柔らかく、すまんすまん、と彼女は髪を梳く。

 

「いやあ、厄神と聞いてちょっと警戒したが、そうか。お前さんが、椛の言っとった厄神なんじゃな」

「えっ――」

 

 出てきたその名に、雛は知らず息を詰めた。

 

「椛が、なんて?」

「ん? あー、なんじゃったかなあ。いっつも寂しそうにしてるからなんとかしてやりたいんだー、とかなんとかだったような……」

「っ……」

 

 少し、心が揺れた。昔から優しい子だとは思っていたけれど、まさかそんなにこちらを心配してくれていたなんて。

 ――椛……。

 彼女の温かい心に、雛の琴線が静かに震えて――

 

「――でもぶっちゃけ儂、その時は仕事疲れのせいで舟漕いでたからな! すまん、あんま自信ない!」

「……」

 

 台無しだった。ほんのり温かくなっていた心が、一気に冷めた。……本当に彼女、天魔なのだろうか。

 思わず半目になる雛を知ってか知らでか、ハッハッハ、とひとしきり大笑いした彼女は、それっきりまた月見の体に飛びついてしまう。

 

「いやー、戻ってきて早々に厄神を攻略するなんて、さすが月見じゃね! ……しかし、溜まり溜まった厄がそんな二人の絆を引き裂こうとする! 果たして月見は見事ハッピーエンドに辿り着けるのだろうか!?」

 

 もしかして彼女、月見にぶっ叩かれた影響で脳の配線がおかしくなってしまったのだろうか。操には非常に申し訳ないのだが、こんなのが天狗たちのトップだなんて、色々と信じられない。

 

「ね、ねえ、月見」

 

 こちらの言わんとしていることを、彼は視線だけで察した。悄然と大きなため息を落とし、

 

「……悪いけど、これがこいつの平常運転なんだよ」

「そ、そうなんだ……」

 

 天狗の未来は不安だな、と雛は割と本気で思った。

 その反応に、操はぶーぶーと不満顔。

 

「儂は月見を心配しとるんじゃよお。別にあやつと仲良くするのはお前さんの勝手じゃけど、厄神に近づくと不幸になるというだろ? 大丈夫なのか?」

「ああ、それね。それだったら問題ないよ。この子の持っている厄は、もう私には影響しなくなったから」

「はあ? ……本当か?」

 

 目を丸くした操の疑問は、正直雛自身も感じている。月見にはもう、雛の厄は影響しない――実際に目で見て体で体験した事実とはいえ、未だにいまいち現実味を得られない部分はあった。

 けれど少なくとも、現時点で雛の厄が彼に影響していないのは間違いない。胡乱げにこちらを見遣った操に対し、はっきりと頷く。

 

「はい。それは本当です」

「ふうん……?」

 

 操はしばし小首を傾げたままだったが、難しいことを考えるのは嫌いなのか、すぐにパッと破顔した。

 

「さすが月見じゃねっ。ハッ、これはつまりハッピーエンドのフラグが確定」

「あ、あの、それでですね」

 

 また余計なことを言い出される前に、雛は矢継ぎ早に言葉をつなげた。月見が雛の厄に影響されなくなったのは事実だが、操は別だ。こうして話をする間にも、徐々に彼女の周囲に厄が引き寄せられていく。

 さっさと離れた方がいいのは重々承知しているけれど、そうしようとして引き留められたのがつい先ほどの話。一体彼女は、なにを考えているのだろうか。

 

「私の厄があなたの周りに移り始めてます。ですから離れないと……」

「ん? おお、すっかり忘れとった」

 

 そういえばそうだったの――神妙に頷いた操は月見から離れ、埃を払うように右手を浅く振り、己の周囲を薙いだ。

 

「――ほれ、邪魔じゃよお前ら」

 

 その、言葉とともに。

 瞬間。

 

「!」

 

 操の周囲にわだかまっていた厄が、散り散りになって消滅した。――厄祓いだ。

 

「なっ……」

 

 雛は瞠目した。

 厄祓いは文字通りに己に取り憑いた厄を祓うものだが、同時に一種の神事でもある。例えば博麗の巫女などの神を奉る者が、供物を供えたり祈祷をしたりという必要な手順を踏むことで、初めて実現される“儀式”なのだ。

 なのにこの女性は、手順などをすべて無視してただ右腕を振っただけで、それを。

 絶句しているこちらを見て、操が得意げに口角を曲げた。

 

「ふっふっふー、驚いたろう? 尊敬してくれてもいいんじゃよ?」

「……すごいですね。驚きました」

 

 素直に頷く。頷いてしまう。本当に驚いた。八雲紫や鬼子母神と並んで幻想郷を代表する大妖怪である、『天魔』。その計り知れない実力の一端を見たような気がして、思わず舌を巻いていた。

 

「この儂にできないことはないんじゃよ!」

「じゃあ逃げずにちゃんと仕事してくださいよ、天魔様……」

 

 えっへんと大きく胸を張る操。それと同時に、空から疲れ声が降ってきた。目線を上げれば、椛がなにやら項垂れた様子で降りてくるところであった。

 

「あら、椛……」

「雛さん、お手数をお掛けしました。ありがとうございます」

「え、ええ」

 

 降り立つなり律儀にそう頭を下げる椛だが、普段の元気のよさはまったくといっていいほど見受けられない。尻尾がへにゃりと地面に垂れてしまっていて、見るからに具合が悪いようだ。どうかしたのだろうか。

 操が、心配そうに椛を覗き込んで問い掛けた。

 

「どうした、椛? お腹痛いのか?」

 

 椛の鮮やかな平手が操の頭を打ち、快音を鳴らした。

 

「うええ!? も、椛、あなたなにして」

「雛さんは黙っててくださいっ!」

「は、はいっ!」

 

 口を挟みかけた瞬間に大喝され、雛は反射的にその場で背筋を伸ばしてしまう。

 あれ? と首を傾げた。おかしい。なんで私が怒られるんだろうか。だって操は天魔様で、椛の上司のはずで。上司を思いっきりぶっ叩いたりしたら、当然部下として問題行動になるはずなのに。

 けれど、直後に目の前に広がった光景は、雛の予想を鮮やかに斜め上へと飛び越えていった。

 椛が操を叱りつけている。

 

「天魔様、あなたバカですか!? 派手に突風起こして出ていくのはやめてくださいって何度も言ってますよね!? あれ、飛び散った書類を集めるのは私なんですよ!?」

「い、いたた……いや、それはあれじゃよ、椛。ほら、そっちの方がカッコいいじゃろう?」

 

 再びの快音。

 

「あいたぁー……」

「バカですか、いいえバカですねあなたは! 全然カッコよくなんかないですよっ!」

「そうかのう。『悪い、椛。――少し出掛けてくる』。……決まったと思ったんじゃが」

 

 快音。

 

「待って椛! これ以上は、さすがに儂の頭がおかしくなっちゃうと思う!」

「一周回って正常になりますから安心してください。あら、素敵ですね。そしたら天狗たちがみんな幸せになれます」

「ぎゃー!」

 

 ――あれ? 天狗の社会って、こんなんだったっけ?

 雛はてっきり、自由奔放な鬼たちの社会とは違って上下関係がハッキリしていて、特に天魔の言動には皆が絶対的に付き従っていく――そんな明確な縦社会を想像していたのだが。

 だとしたらなんで目の前で、その天魔が部下である白狼天狗にぶっ叩かれているのだろう。

 

「大体天魔様は! いっつもいっつも! 仕事を真面目にしなくて! なんでですかっ! 天魔様は本当は素晴らしい辣腕を持ってるじゃないですかっ! なんでそれを仕事の時に発揮しないんですかっ!?」

「いた、いた、いたたたたた!? ちょっ、椛、やめ……! さ、さてはこれが噂に聞く『愛のムチ』というやつじゃな!?」

「は? なに言ってるんですか? ――ただの鬱憤晴らしですよ」

「いやあああああ助けて月見いいいいい!!」

 

 絶叫した操が、そそくさと月見の後ろに回り込んだ。膝頭を地につけ、彼の背中にぴったりと縋りつく。

 椛はすぐに追おうとしたが、

 

「まあ、そのくらいでよしてやってくれないか?」

「あっ……」

 

 それを、月見が苦笑交じりで引き留めた。操に必死に背中を叩かれたからだろう。

 椛は彼の存在をすっかり忘れていたのか、慌てた様子で姿勢を正して、深く頭を下げた。

 

「その、先は失礼しました。どうやら本当に、天魔様の御友人のようで」

「いや、いいよ。むしろ私の方がすまなかったね。こいつに確認を取ってみろなんて言ったせいで、なにやら苦労を掛けてしまったようだ」

「い、いえそんな! あなたが謝ることじゃないですよ! 悪いのは天魔様です!」

「あの、椛!? そろそろ許してくれんか!?」

 

 操の悲痛な叫びを、月見と椛はそろって無視した。

 操はしょげた。

 

「ともかくほら、雛がすっかり固まっちゃってるからこのくらいにしておこう。なあ、雛?」

「――えっ?」

 

 不意に名前を呼ばれて、雛はハッと我に返った。月見の言葉通り、本当に固まってしまっていたようだ。思考まで完全停止していたから、自分で気がつけなかった。

 あっと声を上げた椛が、頭を下げる方向を月見からこちらに変えた。

 

「すみません雛さん、お見苦しいところをお見せしてしまって。――天魔様が」

「も、椛! 儂が悪かったからもうやめよう!? な!?」

 

 操の悲鳴はとりあえず無視して、雛は応じる。

 

「そ、そうね……意外ではあったわね。天狗たちは、もっとこう、上下関係には厳しいんだと思ってたから」

「いえいえ。尊敬できる素晴らしい上司には、みんなちゃんとしてますよ」

「それって遠回しに儂が尊敬できないって言ってるのか!?」

「その、大丈夫なの? あんなに殴ったりして……」

「大丈夫ですよ。天魔様ですから」

「うわーん! 椛がいじめるー!」

 

 椛はもはや、操のことは眼中に入れていないらしい。改めて月見に向き直り、微笑むと、

 

「名前をお伺いしてもいいですか? 私は犬走椛、白狼天狗です」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「月見様、ですね……。天魔様の御友人ということですので、山には自由に立ち入られるように計らっておきますね。ただ、指示が他の天狗たちに行き渡るまでは、申し訳ないですが、色々とご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません」

「おや、随分としっかりしてること。大したものだ」

 

 それは雛も同感だと思った。哨戒天狗――誰もが面倒くさがる哨戒任務を押しつけられる、謂わば下っ端。なのに椛は、ただ山の近辺を飛び回るだけではなく、他の天狗たちに指示を与えられる発言力も持っているらしい。

 加えてこの場では天魔に説教したりもしたのだし、もしかすると彼女、下っ端などではなくかなり優秀な天狗なのかもしれない。

 感心した様子の月見に、椛は照れ隠しの笑みを一つ。けれど尻尾だけは、とても正直にパタパタと揺れていた。

 

「一応私、天魔様の目付け役みたいなものも任されてるんで。上の方には結構顔が利くんです」

「今みたいに仕事真面目なところを除けば、いい子じゃよー」

「まあ、仕事不真面目な天魔様から見れば誰だってそうなりますよねえ……」

「ひーん!」

「ほらほら天魔様、屋敷に戻りますよ! まだ仕事はたっくさん残ってるんですからっ!」

 

 椛は月見の背後に回って、そこにひっついている操を引き剥がしにかかった。

 当然ながら、操は月見の腰に両腕を絡みつけて猛抵抗する。

 

「い、いやじゃー! せっかく旧友と再会したんだから、もう少し思い出に浸る時間があってもいいじゃろー!?」

「本音を言うと?」

「仕事なんてしたくな――待って椛、剣を抜くのは反則! 反則っ!」

 

 一体どこから取り出したのだろう、椛がいつの間にか両手で大剣を構えていた。その挙措には露ほどの淀みも躊躇いもなく、ゆらり、幽鬼のように体を揺らして、地に響く重い刃の声音を操へ突きつける。

 

「大人しく仕事をするか、ここで剣の錆になるか、どっちか選べ」

「……あ、あのー、椛さん? 気のせいか、口調が変わっているように思うんじゃが」

「選べ」

「……、」

「早く選べ」

「…………仕事、します」

「よろしいです」

 

 途端、満足そうに微笑んだ椛の両手から大剣がどこかへ消えた。……麓近くにある紅い屋敷に仕えるメイドもびっくりの手際。取り出した時といい、このワンコ、手品師なのだろうか。

 操はさめざめと涙を流し、時々しゃっくりをしたりしながら、月見の裾を掴んで駄々をこねていた。自分の中にある天狗たちへのイメージが、みるみるうちに崩れ去っていくのを感じる。上下関係ってなんだろう。天魔ってなんだろう。……もう椛が天魔でいいんじゃないかな、とすら割と本気で思った。

 月見が苦笑しながら、あやすように操の頭を叩いた。

 

「ほら操、やることはしっかりやらないと駄目だろう?」

「は~い……。月見、今度一緒に酒でも呑もうな?」

「はいはい」

「約束じゃぞっ。月見はこのあとどうするんじゃ?」

 

 そうだね、と月見はこちらを一瞥してから、

 

「とりあえず、もうしばらく雛と話をしてるよ。スペルカードについて教えてもらいたいからね」

「ほう、スペルカード……」

 

 操の瞳が関心で細まる。

 

「確かにスペルカードルールが成立したのは最近じゃから、お前さんは知らんだろうなあ」

「でも、大丈夫なんですか? 雛さんは……」

 

 心配そうに声を上げた椛が、しかしこちらを盗み見てから、言いづらそうに言葉を飲み込んだ。「雛さんは厄神なんですよ?」とでも言おうとしたのだろう。

 だが先に操に教えた通り、その問題は彼の能力によって既に解決済みだ。

 

「大丈夫よ、椛。月見はどうやら、天魔様と同じで規格外な妖怪みたい。……むしろ私としては、あなたに厄が移ってしまいそうで心配だわ」

「それだったら大丈夫じゃよー儂が祓ってやるから!」

 

 月見と酒を呑む約束ができてすっかり心を持ち直したらしく、元気よく片手を挙げた操が、先と同じようにして椛の周囲に溜まりかけていた厄を祓い落とした。

 椛が、驚きで目を丸くする。

 

「て、天魔様、そんなこともできたんですか?」

「ふっふー、まあ『厄祓い』は必要な形式さえ整えれば誰にもできることじゃからの。だったら、『能力』を使えば儂でもできるさ」

「それに、月見さんも……」

「はっはっは、年の功ってやつかな」

 

 年の功。その嘘を聞いて、雛は漠然と思い出した。そういえば彼、自己紹介の時に、500年ほど前に幻想郷で生活していた時期があったと言っていたか。

 さすがに八雲紫の式神、金毛九尾よりも上ということはなかろうが、結構長生きしている狐なのかもしれない。初めて出会った時は、ただ尻尾が綺麗なだけの普通の狐だと思ったのに――やはり人も妖怪も、得てして見かけでは判断できないものである。

 

「そうなんですか……すごいですね、お二人とも」

 

 椛が眉をハの字に曲げた。まるで、厄を退ける力を持つ二人を羨んでいるようだった。

 そうして顔を俯かせた彼女は、唇をすぼませながらポソリと、

 

「私にもそういう力があれば、もっと雛さんと……」

「……、」

 

 不意に、沈黙。風が木々を撫でる音だけが、さわさわ、さわさわ、妙に騒がしく聞こえて、耳の奥がくすぐったかった。いっつも寂しそうにしてるからなんとかしてやりたいんだ。天魔の言った言葉が、無意識のうちに雛の脳裏に反芻される。

 果たして、こちらを見て照れくさそうに笑っている椛の行動が、なにを意味するのか。それがわからないほど鈍感ではないつもりだ。でも、まさかと、そんな思考が繰り返されるばかりで、身動き一つ返すことができなかった。

 

「よーし、いいこと思いついたぞ! いいこと!」

 

 沈黙を破ったのは、操だった。パタパタ両腕を振り回して再度椛に近づきつつあった厄を祓った彼女は、こちらと椛を交互に見遣って、妙に張り切った様子で声を上げた。

 

「月見がスペルカードルールを知るために、ほれ、椛とお前さんが弾幕ごっこを見せてやればいいんじゃよ! そうすればお前さんらの親睦も深まるし、な?」

「え? はあ、私は別に――ああ、いや」

 

 椛は一瞬頷きかけたが、すぐにかぶりを振って半目で操を睨む。

 

「天魔様、私と雛さんがそうやって弾幕ごっこしてるうちに逃げるつもりですね」

「ぎ、ぎっくー。い、いや、そんなことするわけないじゃないかー」

「私の目をまっすぐに見て言ってくれたら信じます」

「ソンナコトナイヨー」

「はいダウトー。ダメですよー逃がしませんからねー」

「く、くそー!?」

 

 椛は笑顔で操の腕を掴んで拘束。その様子を眺めながら、雛は内心で吐息した。もし本当に弾幕ごっこを通して椛と仲良くなれたら、とてもとても嬉しいのだけど――やっぱり、高望みなんだろうか。

 ――仕方ないわよね。椛だって、忙しいんだし……。

 そう無理に自分を納得させようとする。また、自分から遠ざかろうとする。

 

「いや」

 

 けれど今回は、そのままでは終わらなかった。改まった顔持ちで、月見が間に入ってきた。

 

「ここは是非、私からもお願いしたいね。見せてくれないか、弾幕ごっこというやつを」

「そ、そうじゃよね月見!」

 

 思いがけず得られた賛同の言葉に、俄然勢いづくのは操だ。バシバシと椛の腕を叩いて、

 

「ほれ椛、月見もこう言っとるし!」

「天魔様は黙っててください。……ですが月見様、そうしてしまうと天魔様がまた逃げ出してしまう可能性があってですね?」

「ああ、それだったらこうすればいいさ」

 

 椛の懸念に、彼は笑顔で応じた。「こう?」と操と椛が同時に首を傾げた、直後。

 月見の尻尾が、目にも留まらぬ速さでぐるぐると操の体に巻きついた。両腕両脚はもちろん、翼に至るまですべてを押さえ込んでいく。

 

「にょわっ!?」

 

 操は突然の事態に反応できず、バランスを崩して、ビターンとその場に横倒しになった。

 

「あ、あれー、月見? 月見さん?」

 

 水を失った魚のように身をくねらせ呆然と月見を見上げるも、彼は一瞥すらしない。ただ、椛に向けて笑みを深めた。

 

「とまあ、私の尻尾はこんな具合で伸縮自在でね。こういう使い方もできる」

「つ、月見ぃー。これってもしかして」

「これで操が逃げる心配もないだろう」

「裏切り者ー!!」

 

 操がビッタンビッタンその場をのたうち回る。けれども、月見の尻尾の拘束は一瞬たりとも緩まなかった。

 むしろ、

 

「ふぎゃあああすみませんすみません大人しくしてます! だから絞めつけはやめてっ、体中がミシミシいっとるんじゃよー!? あっ、」

 

 すぐに操の方から大人しくなった。果たしてどれほどの力で絞めつけられたのか、すっかり大人しくなった彼女は、息絶え絶えになって痙攣すらしていた。……確かにこれなら逃げられそうにないわね、と雛は苦笑とともに思う。

 それは、椛も同じだったのだろう。

 

「……じゃあ、お任せしていいですか?」

「ああ。任せておけ」

「月見のバカアアアアアあああごめんなさいごめんなさいなにも言ってないです大人しくしてますっ! ふぎゃあああああ……」

 

 次第に痙攣することもなくなり、動かなくなっていく操。天魔が死にかけているというのに、椛は笑っていた。というか、もう操のことはすっかり意識から外しているようだった。

 

「じゃあ、やってみますか? 私としても――」

 

 こちらを見遣り、照れ隠しするように目を伏せて、言う。

 

「それで雛さんがちょっとでも楽しんでくれたらいいなあ、なんて……」

「私からも頼むよ、雛」

 

 二人からの言葉に、雛は迷った。厄のことではない。まだ雛自身の気持ちの整理がついていなくて、返事を返せなかったのだ。

 ――厄神の私でも、誰かと弾幕ごっこをして遊んだりして、いいの?

 それで誰かと仲良くなったりして、いいの?

 

「……いいの?」

 

 椛の眦をまっすぐに見返して、雛は問うた。

 答えは、決して待たずにやって来る。

 確信的な頷きと、笑顔を添えて。

 

「もちろんですよ! 私ずっと、雛さんとこういう友達みたいなことをしてみたいなって思ってたんです!」

 

 屈託のないその顔が、雛の胸を打った。

 

「……いい、の? 本当に?」

「いいんだろうさ」

 

 月見からも、言葉はやって来た。

 

「気にすることはないさ。今は厄を祓える操がいるんだし、椛だって、こう言ってくれてるんだしね。だから――」

 

 一息、

 

「――今この時くらいは、厄だとか厄神だとか全部忘れて、普通の女の子になってみたらどうだ?」

 

 その言葉を聞き、反芻し、飲み込むまでの数秒が、雛にとってこの上なく新鮮な時間だった。

 思う。彼と知り合ってからまだ全然時間が経っていないのに、私の世界はすっかり変わっちゃったな、と。心地良い変化だった。今までの無機質で冷たかった世界が、感情豊かで暖かなものに変わっていっているのを感じた。

 そしてその変化の中心にいるのは、間違いなく彼。

 

「……」

 

 思うことは色々とあった。本当に不思議な妖怪ねとか、ありがとうとか、彼に対して言ってやりたいことはたくさんあった。けれど雛はそれらを一切無視して、シンプルな一つの想いだけを結論づける。

 椛を見据え、スペルカードを抜き放つ音、軽やかに。

 

「――言っておくけど、手加減はしないからね?」

 

 ――私の世界を変えてくれたお礼に、精々美しい弾幕ごっこを見せてやろう。

 応じる椛の声は、すぐに響いた。

 

「ええ! 負けませんよ、雛さん!」

「こっちこそ!」

 

 飛揚する。空へと。

 木々と枝葉を抜けて蒼穹を望むまでの道のりが、太陽に照らされて白く眩しく輝く。

 

 その輝きが、今日はとっても綺麗だなと、雛は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第6話 「守矢神社とっても素敵なところ!(自称) ①」

 

 

 

 

 

 芳春の穏やかな風が髪を撫でると、早苗の心も安らぐようだった。

 上機嫌な朝だ。雲一つない空に掛かった太陽が、笑いながらのどかな陽光を降らせてくる。早苗はその太陽にもらい笑いをしながら、日課である境内の掃除に勤しんでいた。

 

「~♪ ~♪」

 

 掃く竹ぼうきのリズムをメトロノームにして、鼻歌を刻む。お気に入りのアニメの主題歌。メロディーが進むたびにまた一枚、また一枚、木の葉を払った。春先なのにこうも落ち葉が多いのは、きっとあたりをよく天狗が飛び回っているからなのだろう。

 

「~♪ ~、~♪」

 

 早苗が風祝を務める神社、守矢神社がこの幻想郷に移転して半年。それはすなわち、外の世界の常識がほとんど通用しない幻想郷の荒波に揉まれ続けて半年、ということでもある。

 移転初日、博麗霊夢と霧雨魔理沙にいきなり弾幕ごっこで襲い掛かられては泣きかけ。その後の宴会で、馬鹿騒ぎをする幻想郷の住人たちに神社をめちゃくちゃにされては挫けかけ。未成年が当たり前のように酒を呷る(非)常識に付き合わされては、酔い潰れて死にかけ。そんなこんなで苦労が絶えず落ち込むことも多かった早苗だが、この日、心は未だかつてないほど晴々としていた。

 

 朝起きた時から、ずっとこんな心模様だった。朝食を作る時も食べる時も鼻歌が止まらなくて、それを見た諏訪子と神奈子が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのを思い出す。早苗自身も、これには内心不思議だなと感じていた。

 

 予感がある。なにか、素敵なことが起こりそうだという予感だ。鼻歌が終わると同時にすべての落ち葉を払い終え、空を見上げれば、広がる蒼は己の心を映し出すかのよう。これはきっとなにか幸福の前触れなのだと、早苗は確かに感じていた。

 

 その時、早苗はある音を聞く。

 パン、パン、と。空気を打つ二回の高音は、参拝の際に行う二拍手の音。

 

「あっ、参拝客かしら?」

 

 胸が躍った。この守矢神社は、恐らく山の頂上付近という立地条件の悪さからだろう、参拝客がほとんど訪れない。だから博麗の巫女らの力を借りて分社を建てることで信仰を集めているのだが、本社で二拍手の音が響くのは実に四日振りのことであった。

 ああ、やっぱり今日は素敵な一日なのかもしれない。期待に満ちた足取りで、早苗は賽銭箱が置かれている拝殿へと駆けていく。

 そして、拝殿の影から飛び出すようにして、

 

「あの! ご参拝の方で、す、か……」

 

 高々と声を発し、しかし後に続く言葉は、尻すぼみに小さくなって消えていった。

 

「ふえ、」

 

 突拍子もなくそんな声が漏れた。未知の力に体を支配されて動けなくなる。心拍数が跳ね上がり、頭が一気に熱くなって、思考が不明瞭になっていく。

 目の前に立っていたのは、一匹の妖怪だった。ただの妖怪ではない。今まで見たことのないような美しく澄んだ銀髪、もふもふそうな大きな尻尾、そして――

 

 ……ふと、視線が合った。

 

 その瞬間、早苗の脳が瞬く間もなく沸騰した。視線は強大な引力を以て“それ”へと引き寄せられ、もう片時も離すことができない。

 

(けっ、)

 

 熱暴走を起こしぐちゃぐちゃになった思考の中で、けれども早苗は、“それ”の存在だけははっきりと己の網膜に焼きつけていた。

 “それ”とは、

 

 

(けものみみ――――!!)

 

 

 彼の頭の上でピクピク震える、二つの獣耳。

 

 ――守矢の巫女・東風谷早苗。

 獣耳に目がない、お年頃。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 とはいえ、早苗はこの幻想郷で暮らすこと半年だ。獣耳を持つ妖怪なんて、兎とか猫とか白狼天狗とか、既に何度も見てきている。

 しかしそれでも、今回の場合はまったく例外。なぜならば相手が男で、狐で、しかも銀色の毛を持っているからだ。

 ではなぜそれが例外となりうるのか、理由は至極単純。

 

 早苗が持っているお気に入りのマンガで、ちょうどこんな感じの銀の狐が登場するからだ。

 そしてその狐は、早苗がそのマンガで一番好きなキャラクターだからだ。

 

 それだけである。

 まったくもって、それだけである。

 

 東風谷早苗。

 アニメやマンガが大好きな、元高校生。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「あの! ご参拝の方で、す、か……」

 

 月見は、拝殿の影から飛び出してきた少女が、そう元気よく声を上げるなり石像のごとく固まったのを見た。

 この神社の巫女だろうか。青と白を基調にした涼やかな巫女服には腋の部分がなく、まるで博麗の巫女と対極しているかのような出で立ちをしていた。雛と同じエメラルドグリーンの髪の奥で、まん丸く見開かれた大きな瞳が、こちらを捉えたきりまばたきもせずに動かなくなっている。

 少女にはそのまま、一向に動き出す気配がなかった。どうかしたのだろうか――そう不審に思った月見が、声を掛けてみようとした瞬間だった。

 

「うわ、うわ――――――!?」

 

 少女がいきなり奇声を上げた。瞬く間もなく真っ赤に熟れた頬を両手で押さえ、どことなくうっとりとした目で数歩あとずさる。驚いているというよりかは、感激しているとでもいうかのような反応だった。

 

「ど、どうした?」

 

 月見も思わずあとずさりしてしまいたくなる程度には異様な反応。愛想笑いが引きつるのを感じながら問い掛けると、少女はハッとして、邪念を追い払うようにぶるんぶるんと頭を振った。

 

「ご、ごめんなさい! なんでもないんです、なんでも!」

 

 わたわた両手を振り乱して、大きく二度深呼吸。表情を凛と整えて再度月見を見るも、

 

「は、はああぁ……」

 

 途端、せっかく引き締めた目尻が実にあっさりと垂れ下がり、口元はふにゃふにゃに緩み、頬はうっとりと色づき、そのだらしなさといったらまさに夢見心地のごとく。

 月見は今まで数多くの人間たちと知り合ってきたが、初対面でいきなりこんな反応をしてくる者は初めてだった。どう反応したらいいのかわからなくて、そしてついでに微妙に嫌な寒気を背中に感じて、頬が痙攣を開始する。

 

「え、ええと……私の顔に、なにかついているのかな?」

「え? いいえいいえそんなことはー……ただそのー、はい、いいですよねええぇ……」

 

 甘い甘い、濡れた声音。……どうやらこの少女、月見の知らない世界にトリップしてしまっているらしい。

 逃げた方がいいだろうか、と月見は悩んだ。

 

「あのぉ」

「……な、なんだ?」

 

 そう少女に声掛けされた瞬間、月見の背筋がさっと粟立った。

 なんだろう、本当に嫌な予感がする――月見が身構えた、その直後。

 

 

 

「一度だけでいいので、『どうか僕を、あなたの犬にしてください』って言ってくれませんか?」

 

 

 

 逃げよう、と月見は踵を返した。

 

「あっ……うわあああああすみませんすみません今のなし――――!! も、ももももも申し訳ありませんつい現実とマンガがごっちゃになっちゃって、つい、つい!!」

「……」

「ものすごく不潔なモノを見る目っ!? 違うんです違うんです言い訳をさせてむしろ『貴方様の仰ることなら喜んで……』ってうわあああああまた現実とマンガがごっちゃになってる私――――――!? そして待ってください行かないでください違うんですってばあああああ!?」

 

 顔を真っ青にした少女に腕を掴まれ、強引に引き止められる。そのまま目の前に回り込まれたので、月見はふっと横に視線を逸らした。

 

「あ、あのっ、おおおっおお落ち、落ち着きましょう? ここは一度、お互いに落ち着いて話し合いましょう!」

「……」

「す、すみません、目を逸らさないでくれませんか? あ、あの、こっちを見てっ……すみませんもしかして私避けられてますか!?」

「…………」

「一瞬たりとも見てもらえない!? だから違うんです誤解なんです話を聞いてくださいってばー!?」

 

 必死に目の前に回り込もうとする少女。それに対し月見は、体ごとでくるくる回って視線を逸らし続けた。

 くるくる。ぐるぐる。回りに回って段々と目も回り始めた頃。

 

「――ウチの早苗になにしてくれてんだこの狐があああああ!!」

「ぐは!?」

 

 怒号とともに疾風の勢いで飛来した何者かの両足が、容赦なく月見の脇腹をブチ抜いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 目の前からいきなり妖狐の姿が消えたので、早苗は思わず目を見張った。

 一瞬遅れてから横の方をなにかが派手に転がっていく音が聞こえ、視線をその方へ向ければ、ちょうど彼が砂利の上を転がり切って動かなくなったところだった。

 

「ちょ、」

「大丈夫か、早苗!?」

 

 早苗は慌てて駆け寄ろうとするも、飛び込んできた人影に目の前を遮られる。背後に巨大なしめ縄を据え、藍色の髪をなびかせた女性……この守矢神社に祀られる神が一柱、八坂神奈子だ。

 彼女は目を見開き、思わずこちらが仰け反るくらいに強い剣幕で詰め寄ってきた。

 

「怪我はないか!?」

「え? あ、はい、お陰様で――じゃなくて! いきなりなんてことするんですか!?」

 

 勢いに呑まれて思わず頷きかけた早苗だったが、すぐに我に返ると両手で神奈子を押し返し、物言わぬ屍になった彼を指差しながら難詰した。

 神奈子は、不意を突かれたように真顔になって答えた。

 

「なにって、襲われてるみたいだったから……」

「冷静に訊きますけど、目大丈夫ですか?」

 

 いや、先ほどは早苗もとかく彼の誤解を解こうと必死だったから、もしかしたら傍目にはそういう風に見えていたのかもしれないが――ともあれ、今は彼の無事を確かめるのが先だ。このままでは、守矢神社では参拝客にドロップキックをかます、などという不本意な風評が立ちかねない。

 早苗は彼のもとに向けてすぐに駆け出そうとするけれど、神奈子は依然として食い下がった。こちらの腕を掴み、しつこく引き止めようとしてくる。「もう、なんなんですかっ?」返す声に、知らず知らず苛立ちの色がにじんだ。

 

「だって、妖怪だよ? しかも見知らぬ」

「知ってますよ。幻想郷なんだから当たり前じゃないですか!」

「ああやってやられたフリをして、近づいたところを襲う気かも。ピクリとしないところなんか実に怪しい」

「神奈子様が本気で蹴っ飛ばしたから気を失ってるんですよっ!」

 

 よくよく思い返せばこの軍神、ドロップキックをかます際に両足にしっかり神力を込めていた。もし人間だったら、間違いなく永遠亭に送り届けなければならなくなっていたレベルだ。いくら彼が体の頑丈な妖怪であるとはいえ、直撃を受けたのでは気も失おう。

 ああもう、と早苗は強引に神奈子の腕を振り切って、彼のもとへ一直線に駆けた。背後から神奈子の制止の声が飛んでくるが、一切構いなどしない。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 膝を折り、両手で彼の体を揺すると、少し遅れてから反応が返ってきた。

 

「――いったぁ……ああ、なんとか大丈夫だよ」

「ああ、よかった……」

 

 それから彼が体を起こそうとしたので、咄嗟に腕を伸ばして支える。すると柔らかい笑顔で「ありがと」と返され、それがまた、件の狐のキャラとダブった。決して顔立ちが似ているわけではないのだけれど、そのキャラと同じ銀髪の狐というだけで、どうしても頭から離れなくなってしまう。

 そして、改めて強く思う。やっぱり、「どうか僕を、あなたの犬にしてください」って言ってみてほしいなあ、と。

 この笑顔でそんなこと言われたらと考えると、こう、心の奥底から、なんだかムラムラしてきた。おお、けしからんけしからん。

 

「……お前、なんかまた失礼なこと考えてないか?」

「うええぇっ!? い、いえいえもう全っ然そんなことっ!?」

「……そうか」

 

 いけない、なんだかまた不潔なモノを見る半目で見られてしまった。とりあえず一旦落ち着こう。

 ――でも、逆にこういう目で見られるってのも……。

 

「さて、早く帰らないとな……」

「うわーすみませんすみません! 大丈夫ですよ守矢神社とっても素敵なところ!」

 

 ふん! と早苗は心頭滅却、気力と根性ですべての雑念を頭の中から追い払った。

 

「……もしかして、私の勘違いだった?」

 

 同時、背後から神奈子が恐る恐る尋ねてきたので、非難の半目を向けるとともにはっきりと頷いてやる。

 

「だから言ったじゃないですか」

「わ、悪かったよ。ええと、そこの狐も――」

「うん、まったく相変わらずだなあ。神奈子は」

 

 神奈子の言葉を遮って響いた声。それが一体誰のものであるか、早苗はしばらくの間認識できなかった。

 「え?」そう声を漏らし、彼を見やる。聞き心地のよいバリトンの声音は間違いなく彼のもの。けれど早苗は、まだ彼に神奈子の名前を教えてなどいない。

 であれば、彼が神奈子の名を既に知っている理由は、一つだけ。

 

「ア、アンタ――!?」

 

 神奈子の表情が驚愕で塗り潰され、それが早苗の推測を確信に変えた。

 彼が、くつくつと喉を鳴らす。早苗が目を丸くし、神奈子がつなげる言葉を失う先で、少年のような若さを口元に宿して微笑んだ。

 

「――この神社に来るのも、随分と久し振りになるね」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 自らを月見と名乗ったその妖狐は、早苗の予想通り、神奈子――そしてこの神社に祀られるもう一柱の神、洩矢諏訪子と、昔からの知り合いであるようだった。

 所は変わり、母屋の和室。そこでテーブルを囲みながら昔話に花を咲かす彼らに、早苗はただただ驚き感心することしかできない。

 

 神奈子曰く、千年以上も昔から生きている妖怪で、早苗のご先祖様とも面識があるとか。

 諏訪子曰く、尻尾がすごくもふもふしてて気持ちよくて、もう最高だとか。

 

 後者はとりあえず置いておくとして、前者の内容は非常に興味深い。ということはこの妖狐、東風谷一族が先祖代々お世話になってきた古馴染で、早苗にとってもまったくの他人とは言い切れないことになる。

 

「……先祖代々お世話になってます、と言うべきなんでしょうか?」

「いや、そんな大それたものではないよ。この神社も、数十年置きで思い出した時にフラッと訪ねるくらいだったし」

「もふー……」

 

 最後に守矢神社を訪れたのは、早苗の先々代の頃。そんなに守矢と関わりのある妖怪がいるのなら、神奈子様たちも教えてくれればよかったのに――そう思ったが、神奈子たちとしては、いつ会えるかも知れない妖怪のことをわざわざ教えようとは思わなかったらしい。

 ああ、そう言われればそうかもねえ。気づかなかったよ――とは、神奈子の弁解である。

 

「でも、そうやって長生きしている妖怪だから、神奈子様の蹴りを受けても平気だったんですね」

「いや、まあ……平気ではなかったけどね?」

「そ、そうですよね。申し訳ないです……」

「ぐおー……」

 

 そこで、早苗と月見は一度会話を切り、揃って月見の背後を見やった。

 床に伸ばされた彼の尻尾に、諏訪子がひっついて寝息を立てている。彼女は月見のこの尻尾がかなりお気に入りらしく、昔話も早々に切り上げると、我が物顔で抱き枕にして眠ってしまったのだ。

 

「……諏訪子様」

「………………んー?」

 

 こちらの呟きに対し、諏訪子の反応は数秒ほど遅れた。尻尾に抱きついたまま寝惚け眼を擦って、

 

「……なんだぁい、早苗?」

「なにしてるんですか?」

「なにって、抱き枕だよぅ……」

「いや、そうじゃなくてですね」

「すごぉーく、気持ちいいよぉ?」

 

 へにゃあ、とだらしなく笑ったあと、再び月見の尻尾にもぞもぞと顔をうずめて、夢の世界へと戻っていってしまった。

 ダメだこりゃ、と早苗は小さくため息。

 

「すみません月見さん、諏訪子様が……」

「いや、気にしなくていいよ。昔からこうだからね、もう慣れたものだ」

 

 具体的にいつからなのかはわからないけれど、そう苦笑する彼の表情には諦観の色が見て取れた。何度言ってもやめてくれないので、もう諦めたのだろう。諏訪子を信仰する身としてはなんとも申し訳ない話だ。

 とはいえ、決して羨望の念がないわけでもない。諏訪子があそこまで骨抜きにされる月見の尻尾、その触り心地はいかなるものや。是非とも触って確かめてみたい。

 だが、初対面でいきなり“あんなこと”を言ってしまった手前だ。これ以上彼を困らせるようなことをしては、いよいよ愛想を尽かされてしまうだろう。

 ――今は我慢よ、東風谷早苗……!

 せっかく巡り会えた銀色の狐だ。ここはなんとしてでも友好的な関係を結んで、気軽に冗談を言い合えるくらいに仲良くなって、いつか「どうか僕をあなたの犬にしてください」と言ってもらうべきである。

 お気に入りのマンガの、お気に入りのキャラの、お気に入りのセリフ。それを彼の口から言ってもらえたなら、きっと早苗の生涯に悔いはない。

 

「諏訪子は、相変わらずアンタの尻尾が好きなんだねえ……」

 

 早苗がそんなふしだらな目標に向かって燃え上がっている脇で、諏訪子の寝顔を眺めながら、神奈子が苦笑で目を細めた。

 

「まったく、ホントにしょうがないやつだよ。諏訪子もまだまだ子どもだね」

「ああ、そういうお前も興味津々だったもんな、この尻尾」

「!? ……な、なんのことかな」

 

 神奈子の肩が一瞬ビクリと震えたのを、早苗は決して見逃さなかった。

 月見もそれを知ってか、これ見よがしに声の調子を上げて続ける。

 

「ここしばらくは自重してくれるようになってたけど、そう、昔は諏訪子とよく取り合いを」

「わ、わあわあわあ!」

 

 顔を真っ赤にして両手をバタバタさせる神奈子は、明らかに早苗の様子を気にしていた。恐らくは神として、自らを信仰する人間に恥ずかしい姿は見せられないというのだろう。

 けれども早苗は、神奈子が月見の尻尾に興味を持っているとしても一向に構わないし、むしろ賛同すらする。ああ、出会い頭で“あんなこと”を言ってさえいなければ、今頃三人揃って彼の尻尾をもふもふしていただろうに。本当に軽率だったと、早苗は過去の自分を叱責した。

 月見と神奈子のやり取りは続く。

 

「あとはそう、いつだったかお前が尻尾にひっついたまま眠ってしまって――」

「ちょ、ちょっと待って、それは待」

「――あんまりにもきつく抱きしめて寝たものだから、尻尾に跡が残って大変だったんだ」

「うわあああああ!?」

 

 そしてその暴露で、神奈子の羞恥心は限界を迎えた。絶叫とともに月見に跳びかかり、押し倒さんとする勢いで彼の胸倉を掴もうとして、

 

「む~、うるさいぞぉ!」

「ガッ」

 

 安眠を妨げられて怒った諏訪子が、神奈子を弾幕で吹っ飛ばした。畳と平行になって飛行した神奈子の体は、そのまま慣性に従って隣の部屋へ。ガシャーンと派手な破砕音を立てて墜落し、それっきり沈黙した。

 

「……むふー」

 

 邪魔者を見事撃退した諏訪子は、満足げな表情で一つ頷き、再び月見の尻尾に顔をうずめて夢の世界へ。早苗は必死の作り笑いを顔一面に貼りつけ、なにが起こったのかを極力理解しないように務めていた。特に隣の部屋がどんな惨状になってしまったのかなど、想像すらしたくもない。

 神奈子は、いつまで経っても戻ってくる気配がなかった。超至近距離での直撃だったし、気絶したのだろう。

 そこで早苗は、ふと気づいた。神奈子は気絶し、諏訪子も早々に夢の中に帰っていってしまった現状、起きているのは早苗と月見だけ。……事実上、月見と二人っきりのシチュエーションだ。

 なので早苗は、改めて月見の容姿を観察してみた。

 

 繰り返すが、早苗のお気に入りのキャラクターには決して似てはいない。銀の狐という共通点こそあれ、髪はそれよりも少し長めだし、面差しも柔和で整っているのだけれど、宿るのは包容力のある大人びた優しさだ。あのキャラクターのような、異性を誘惑する“甘さ”ではない。

 例えばあのキャラクターの絵を隣に置いて、彼の顔と見比べたら、ほとんどが口を揃えて「似てない」と答えるだろう。早苗だってそうする。

 しかしそれでも、彼に対する関心がなくなるわけではなくて。

 

「月見さんは……その、マンガとかアニメが好きな女の子についてどう思います?」

 

 言うまでもなく早苗自身のことだ。月見は外の世界で人間と一緒に生活していたというから、きっとそういった文化について思うところもあるだろう。

 この手の文化は、外の世界では多くの若者から人気でこそあれ、一部からの風当たりが悪いのもまた事実だった。一体彼は、どちら側の意見を持っているのだろうか。

 もし好意的なら今すぐあのマンガを布教しようと思うし、あまりよく思っていないようなら、色々お話をして魅力を伝えて、理解してもらいたいと思った。そうでなければ、彼に「どうか僕をあなたの犬にしてください」と言ってもらう夢は到底成し遂げられるはずもない。

 問われた月見は、ふむ、と諏訪子の頭を撫でながら思案した。

 

「残念ながらそういう文化には、決して詳しくないのだけれど」

 

 でも、と微笑み、

 

「いいことだと思うよ? 好きな事に夢中になれるのは、素敵なことだ」

「そ、そうですか」

 

 割かし好意的な返答に、早苗はほっと胸を撫で下ろした。これからの自分の頑張り次第で、夢を叶えることも充分に可能だと思った。

 ――よし、頑張ろう!

 ふん! と心の中で意気込み暴走する早苗を、幸か不幸か、止めるような者はこの場にいない。

 じゃあまずは、私が外の世界から持ってきた一般向けのマンガを紹介してみよっかな――そんなことを考えて、早苗が腰を上げようとした折だった。

 

「早苗さーん。早苗さ~ん。いますかー?」

 

 開かれた縁側から不意に強い風が吹き込んできて、さわさわ髪を撫でられる。そして併せて聞こえてきた少女の声で、そういえば、と早苗はあることを思い出した。

 

(文さんが、私に取材したいって言ってたっけ)

 

 幻想郷中を飛び回る鴉天狗の少女、伝統の幻想ブン屋――射命丸文。守矢神社が幻想入りしておよそ半年、今の早苗の心境やこれからの展望について色々と記事にしたいと、先日申し出があったのだ。月見のような妖狐と会えたのが嬉しくて、すっかり忘れてしまっていた。

 

「あっ、お客さんみたいですね……。月見さん、」

 

 少し、お時間をもらってもいいですか? ――その言葉を、早苗は気がついたら飲み込んでいた。

 月見がなにやら、頬をひくひく引きつらせて、目頭を押さえている。

 

「……どうしたんですか?」

 

 問えば彼はすぐに顔を上げたが、その眉間にはほぐし切れなかった皺がたくさん刻まれていた。

 

「いや、今の声……射命丸、だよなあ」

「ええ、そうですけど……」

 

 ああ、と月見が天井を仰ぐ。早苗は思わず目を丸くした。彼がこうやって、この場に文がやって来たことを快く思っていないのが、意外だった。

 だって月見はとても人当たりのよい性格をしていて、誰かを露骨に嫌って避けたりするような妖怪だとは思えなかったから。

 

「文さんが、どうかしたんですか?」

「いやね……」

「――あ、いたいたっ。早苗さーん、取材にやって来ましたよー!」

 

 月見が応えるのを渋っている内に、縁側の方から件の文の声した。早苗が振り返れば、縁側の向こうから笑顔で手を振っている彼女の姿。

 

「おはようございます、文さん」

「おはようございます早苗さん! 今お時間大丈夫ですか――って、え」

 

 文の時間が止まる。視線が向かう先は、早苗の奥、銀の妖狐。

 奇妙な沈黙がやって来る。時間の流れから取り残された文と、顔を押さえて大きなため息を落とす月見。二人の間に板挟みにされ、居心地の悪い早苗はおろおろと視線を彷徨わせるのみ。

 最初に動いたのは月見だった。意を決したように顔を上げ、努めて貼りつけた作り笑いを以て、

 

「や、やあ」

 

 そう挨拶した瞬間、文は叫んでいた。

 

「なんであんたがこんなところにいるのよ――――――!!」

 

 早苗が思わず体を竦めるほどの大絶叫だった。そんなことをしてしまえば、当然、眠っていた諏訪子が癇癪を起こして飛び起きる。

 

「だから~、うるさいんだよぉ!」

 

 同時に放たれる弾幕。早苗は慌てて頭を下げた。その上を諏訪子の怒りをありありと宿した弾幕たちが通過、引き寄せられるように文へと迫る。

 文は、月見がここにいることに対する驚愕で大目玉を剥いていて、反応が完全に遅れた。

 

「――え?」

 

 直撃。

 

「ふにゃあああ!?」

 

 彼女の悲鳴にやや遅れて、ズジャア、と地面を滑る勢いのいい音が聞こえてくる。安全を確認した早苗が頭を上げれば、守矢神社の庭に、すっかり目を回して気を失った鴉天狗の肢体が一つ。

 

「むふ~……」

 

 諏訪子が心底満足した表情でまた夢の世界に戻り、部屋に静寂が満ちてくるけれど、早苗は今までの一連の流れにどう反応すればいいのかがわからなくて、ただ困り果てた目で月見を見つめた。

 その目線に、月見はしばしの間沈黙し、

 

「……はぁ」

 

 やがて肺の空気をすべて吐き出すようにして、大きな大きなため息を響かせたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第7話 「守矢神社とっても素敵なところ!(自称) ②」

 

 

 

 

 

 月見と射命丸文は、かつて月見が幻想郷に住んでいた頃からの旧知であるが、その関係はお世辞にもよいとはいえない。むしろ悪い。互いを憎み合う犬猿の仲ではないにせよ、月見は文から大層嫌われているのであった。

 月見が嫌われることになった理由は、かつて幻想郷で生活していた頃の、とある出来事がきっかけになっているのだけれど――。

 

「……まあ、それは射命丸個人にも関わることだし、私の一存では話せないかな」

「はあ、そうなんですか……?」

 

 どうして嫌われてるんですか? ――その早苗の追究を、月見はやんわりと断る。文個人のプライベートに関わるのは事実だし、月見としても、なるべく思い出したくない出来事なのだ。

 早苗はしばし疑問符を浮かべたままだったが、やがて詮なしと判断したのか、視線の先を“彼女”へと変えた。部屋の隅。早苗が持ってきた枕に頭を埋めて、文が寝かされている。

 

「それで、どうしましょう。文さん……」

「どうするもなにもねえ……」

 

 諏訪子の弾幕によって見事に気絶した彼女は、未だ目を覚ます様子がない。なので、起きるまで待つしかないのが大前提なのだけれど。

 では文が目を覚ました時、月見はどうするべきなのだろうか。正直、また一悶着起こって騒がしくなってしまうのは必至だと思えた。

 ならばいっそのこと、

 

「射命丸が目を覚ます前に、帰ってしまった方がいいかもな」

「そ、そこまでするんですか?」

 

 早苗が目を丸くして驚きの声を上げた。

 月見も、その行動の問題性は充分に理解している。まるで会うのが嫌だから逃げ帰ったように取れるし、文への印象も最悪だろう。

 なれどもそんなことをするまでもなく、月見の文への印象は既に最悪なのである。

 

「しかし、目を覚ましたらまた……ねえ」

「そ、そこまで嫌われてるなんて」

 

 早苗の瞳は、驚愕のあまりに震えているようにすら見えた。

 

「文さん、誰にでも社交的で明るいのに……」

「……」

 

 月見は今なお眠る文を見遣った。

 確かに彼女がこの守矢神社にやって来た時、早苗を呼ぶ声はとても気さくで明るく、社交性であふれていた。しかしながら、月見にとってはそれこそが意外なのだ。

 月見がかつて幻想郷で生活していた頃は、文はそれこそ絵に描いたような天狗――仲間意識が強く、仲間以外には排他的――であった。そんな文が人間と親しく交流している姿など、月見には俄に想像できない。

 月見が外の世界を跋渉していた500年の間に、幻想郷の住人たちもまた変わっているということなのだろう。紫や操は、あいかわらずだったけれど。

 

「う、ううん……」

 

 と、そうこう考えている内に、文が意識を取り戻したらしい。仰向けの状態から寝返りを打って体をこちら側に倒し、そしてやにわに開かれたその瞳と、はたと目線が合う。

 

「……ッ!」

 

 文は、すぐに跳ね起きた。一瞬で視線を周囲に巡らせ状況を把握すると、こちらを鋭く()めつけて刃のごとき警戒を露わにする。腰に伸ばされた手はすぐさま紅葉扇を抜けるよう、既にその柄へと添えられていた。

 幸いここが人の家故に思い留まったようだが、人目がない場所だったらそのまま斬りかかられていたのだろうか。やれやれ、と月見は内心で低く苦笑する。

 

「……あんた、なんでこんなところにいるのよ」

 

 来たのは、嫌悪と敵意が剥き出しにされた問い掛けだ。隣で、早苗が気圧されたように浅く息を詰めたのが聞こえる。

 月見は肩を竦め、それから答えた。

 

「久し振りに戻ってきたんだよ。……それより、怪我はないか?」

 

 文は眉間に深い皺を刻み、ふんと小鼻を鳴らした。

 

「あんたに心配される義理なんてないわよ」

(ちょ、月見さん……私、さすがにこれは予想外なんですけど)

 

 早苗の唖然とした耳打ちに、月見は苦笑することだけを返答とした。文のこの反応、月見にとってはむしろ予想通りだった。

 

「あ、文さん。文さんって、どうしてそんなに月見さんを嫌ってるんですか……?」

 

 早苗が、乾いた笑顔を貼りつけながら文へと問い掛ける。途端、文の仏頂面が、あからさまに人のよさそうな愛想笑いへと変わった。

 

「ごめんなさい早苗さん、それは企業秘密ということで」

「そ、そうですか……」

 

 直後、こちらに鋭く視線を戻すや否や、また敵意全開の不機嫌面に。

 

「あんたも、まさか戻ってきて早々言い触らしてなんかないでしょうね」

「なんで今更そんなことしなきゃならないんだよ。誰にも話してないって……」

 

 瞬きすら許さぬその百面相に、月見は思わず舌を巻いた。同時に、ここまで露骨に嫌われている自分が少しだけ悲しくなってくる。まあ、仕方のないことではあるのだけれども。

 それっきり、全員沈黙。なんとも気まずい静寂の中で、やっぱり帰っておいた方がよかったかなあ、と月見はふっと後悔した。

 

「え、ええっと! あ、文さんは、今日は私に取材をしに来たんですよね!?」

 

 その沈黙に耐えられなかったのだろう。いかにも考えなしといった風で、早苗がそう声高に口を切った。文はその意図を瞬時に汲み取り、あっという間の百面相で満面の笑顔を咲かす。

 

「はい、そうですよ! 今、お時間大丈夫ですか?」

「はい! いいですよね、月見さん?」

 

 早苗なりに、この気まずい雰囲気をどうにかしようと気を遣ったのだろう。是非もないと、月見は二つ返事を返した。

 

「ああ、構わないよ」

「ありがとうございます! それじゃあ文さん、いいですよ!」

「わかりました! ちょっと待っててくださいね~」

 

 文はよしきたとばかりに元気よく文花帖を取り出し――けれども最後にもう一度だけこちらを睨みつけて、地に響く声でこう言った。

 

「邪魔しないでよ」

「……しないよ」

 

 ふん、とまた不愉快そうに鼻を鳴らされる。

 やっぱり嫌われてるんだなあ、と月見は肩を落とすことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――それじゃあ次の質問ですね! ええと、幻想郷にやって来て半年、人々からの信仰はどのくらい集まってますか?」

「そうですねー、正直まだ充分とは言えないですけど……」

 

 文が社交的だという早苗の談は、寸分の違いなく事実であった。テーブルを挟んで差し向かい早苗に取材を行う文は、月見が誰だこいつはと思う程度には明るく、快活だった。

 顔を爛々と輝かせ、口調もそれなりに礼儀正しく、そして口八丁。途切れることなく、しかし相手に喋らせすぎないように適度な間を挟んで質問を投げ掛け、時に的確な相槌を打って、欲しい情報を次々と引き出していく。月見が知る文の姿とは比べるべくもない。まさに別人だった。

 

「へえー、月見とあのブン屋って仲悪いんだ。それは意外だあ」

 

 月見はその取材の声を背にしながら、目を覚ました神奈子、諏訪子とともに縁側で日光浴をしていた。諏訪子はあいかわらず月見の尻尾にひっついていて、神奈子はボロボロになった髪をしきりに手櫛で整えている。

 注ぐ陽光がとても暖かく、月見は、文のつっけんどんな態度で傷ついた心がじんわり癒されていくのを感じていた。傍らで尻尾を抱き締めながら尋ねてきた諏訪子に、そうだねえと締まらない返事を返す。

 

「あの子もとても社交的になったみたいだし、今や私だけが嫌われ者だね」

「一体なにしちゃったわけ? よかったら教えてよ」

「それについては黙秘権を行使するよ」

「ああ、ということは教えられないようなことをしたと」

「いや、下らないことだよ。……下らなすぎて思い出すのも億劫なくらいね」

「だったら」

 

 月見は諏訪子の頭を軽く叩いて、それ以上の言葉を押し止めた。

 

「知りたいんだったら射命丸に直接訊いてくれ。……言い触らすなって、ついさっき釘を刺されたばかりだからね」

「むう……」

 

 不満顔の諏訪子に、隣から神奈子も肩を叩く。

 

「ま、そっとしといてやりなよ。あの鴉天狗も、本気で知られたくないみたいだったしね」

「ふーん……一体なにやらかしたんだかー」

 

 そう唇を尖らせつつも、諏訪子に追究してくる素振りはなかった。尻尾を抱いたまま後ろに寝そべり、もふー、もふー、と右へ左へ転がって遊び始める。

 

「でも、意外ではあるよね」

「なにがだ?」

 

 神奈子が、バツの悪そうな微苦笑を浮かべた。

 

「ほら、あんたって基本的に人付き合い上手い方だろう? 誰とでもすぐ仲良くなれるっていうか。だから、良くも悪くも気さくなあの天狗と反りが合わないってのが意外だなって」

「……ふむ」

 

 確かに昔から、人付き合いについては上手くこなしている自覚がある。いわゆる“仲が悪い”関係にあるのは文と、あとは佐渡に住んでいるあの狸妖怪くらいで、他は概ね以上に良好だ。この神社にやって来る前にも、厄神の少女と白狼天狗に知り合ってきた。

 しかし、記憶を遠く遡れば、やはり反りの合わないまま終わった相手というのもぽつぽついる。

 

「まあ、誰とでも仲良くなれるわけではないということだね」

「まあね。けどあんたのことだ。案外その内、ひょっと仲直りしちゃったりするんだろうね」

「……そうだといいけどね」

 

 呟く言葉には、ため息が混じる。およそ500年の長いインターバルがあったにも関わらず、文は未だあの出来事をしぶとく根に持ち続けているのだ。……仲直りは、もしできるとしても、一筋縄ではいかないだろう。

 

「じゃあ、最後の質問です!」

 

 背後で一層高く張り上げられた声に、月見は振り返った。文が、今までの純粋に取材を楽しむ笑顔を、会心のいたずらを仕掛けようとする子どものようににやついたそれに変えている。なにか嫌な予感を感じたのか、早苗がやや身を後ろに引いていた。

 文はテーブルに両手を乗せて身を乗り出すことでその距離を詰め、問うた。

 

「早苗さん。ぶっちゃけ、今好きな男性とかいます?」

「――はい?」

 

 唐突の問いに、早苗は目を丸くして呆然と動きを停止。沈黙の中でゆっくりと五秒が経過し、しかして早苗の顔が、ボンと煙を上げて真っ赤になった。

 

「い、いやいやいやいや! そんな、好きな人なんて!?」

「あやや、なにやら怪しい反応ですね! もしかしているんですか!?」

「いや、す、好きだなんてそんな! ただちょっといいなあって思ってるだけで、ってなに言わせるんですかあああああ!」

「いるんですねー!? さあ、さっさとゲロって楽になっちゃって下さーい!」

 

 ははあ、と月見は内心唸り声を上げた。あの文が、人の色恋話にまで興味津々になっている。記憶にある姿とはまったく見違えるばかりで、感心するやら呆れるやらだ。

 ぎゃーぎゃー騒ぎ合う二人を姦しいなあと思い眺めていると、隣で神奈子と諏訪子が不思議そうに顔を見合わせていた。

 

「あれ……早苗に好きな男なんていたっけ、諏訪子?」

「んーん、知らない……。いつの間にそんな相手ができたんだろ」

「ん? お前たちも知らないのか?」

「ああ。てか早苗はここしばらく、男と会ってすらいなかったと思うけど」

「もしかして案外、月見だったりしてねー。なーんて」

「……、」

 

 喉をころころ鳴らしながらの諏訪子の軽口を、月見は咄嗟に否定できなかった。拝殿の前で初めて出会った時の、早苗のあの恍惚とした表情が思い出されて、冗談が冗談に聞こえなかったのだ。

 

「で、ですからその、恋愛感情どうこうは関係なくて、ただちょっと、こう……ね?」

「や、全然わかりませんから。――だから正直にぶっちゃけちゃいましょー!」

「も、黙秘権ー! 黙秘権を行使させてくださいー!」

 

 目を輝かせながら詰め寄る文と、彼女を両手で必死に押し返す早苗。それだけならば別段どうということはない。故に問題は、そうする傍らで早苗が、こちらをチラチラ横目で窺ってきていることだ。

 やがて、神奈子と諏訪子もそれに気がつき始める。

 

「……あれ? これってもしかして」

「え? あれ? ……まさか、ほんとに?」

 

 唖然とした様子で、神奈子と諏訪子が同時にこちらを見てきた。月見は黙秘権を行使した。

 やがて文も早苗の目の動きに気づいたのか、詰め寄るのをやめて彼女の目線を追った。そしてその先にいるのが月見だと知ると同時、冗談でしょとでも言うかのように頬を大きく引きつらす。

 ――奇遇だな、射命丸。私も同じ心境だ。

 

「……ま、まさか」

 

 文はギシギシと立て付けの悪い動きで頭を戻して、

 

「早苗さん。……まさか、あいつ、とか?」

「……………………」

 

 文がこちらを指差し精一杯に搾り出した言葉に対し、早苗は俯き、沈黙した。図星を突かれて返す言葉がない、とでも言うかのごとく。

 唐突に、周囲の雑音がすべて消え失せた。張り詰めた空気の中で、「ええと、あの」と、早苗が言い淀む音だけが響く。

 そして遂に、

 

「これにはそのー、深い深い事情があってですねー……」

 

 遂に早苗は、文の言葉を肯定したのだった。

 

「「――うわあああああ!」」

 

 真っ先に反応したのは神奈子と諏訪子。二人は風のような速さで早苗を文からひったくると、先ほどまでの文に負けず劣らずに勢いで、早苗を質問攻めにし始めた。「いや、違うんです! だから深い事情があるんですよ、お二方が期待してるようなのとは違うんです!」揉みくちゃにされながら早苗が必死に叫ぶけれど、二人は耳も貸さない。

 

 ……さて、と月見は考えた。私は一体どうすればいいんだ、と。

 もはやここまで来れば、あの「『どうか僕を、あなたの犬にしてください』って言ってくれませんか?」という発言は、間違いなく本音だったという線が濃い。ならば早苗には少なからず、月見を犬にしたいという願望があるとでもいうのか? ……本当にどうすればいいんだ、と月見は頭を抱えた。

 とりあえず、私は狐だよ、犬じゃないよ、と説明を……いやいや、そういう問題ではない。

一体全体どういうことなんだと、月見は戦慄を隠すことができなかった。

 

「――じゃあ私、取材が終わったんで帰りますから」

 

 不意にそう響いた声で、月見はこの場に文がいることを思い出した。あれだけしつこく食い下がって手に入れた情報だ、さぞかし満足しているのだろう――と思ったのだけれど、文は心底気に食わないといった体で顔をしかめていた。その鋭さたるや、少し前に月見が向けられたあの刃のような睥睨にも劣らない。

 それに気づいたのは月見だけ。早苗は言うまでもなく、神奈子も諏訪子も、そもそも文の声を聞いてすらいなかった。

 文はそうしておもむろに立ち上がると、こちらに向かって一直線に歩いてくる。そしてそのまま横を通り過ぎ、

 

「あ、おい」

 

 月見の制止の声も聞かず、あっという間に空へ飛び去っていってしまった。

 妙だな、と月見は思う。今の文は表情もさることながら、声にだって背筋が寒くなるほどの不機嫌さがにじみ出ていた。どうやら、早苗の回答が心底お気に召さなかったらしい。

 果たしてそれがなにを意味するのか、月見は思案してみるけれど――

 

「わ、わかりました! 全部、全部話します! そーですよ東風谷早苗は月見さんが気になってますー、でもそれにはちゃんとした理由があるんです! だから聞いてくださいってば――――!?」

 

 背後で上がった早苗の悲鳴を聞いて、吐息一つで考えを打ち切った。そう、今月見が最優先すべきことは真実の究明。『どうか僕を、あなたの犬にしてください』って言ってくれませんか? ――この発言の真意を探ることである。

 そしてその真実いかんによっては、お互いの今後について、早苗と真剣に語り合うのも辞さない覚悟だ。

 どうか犬にされるような事態だけは勘弁してほしいものだと、そう思いながら、月見はすっかり重くなってしまった腰をよいしょと持ち上げた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

『――どうか僕を、あなたの犬にしてください』

 

 月見の目の前で、燕尾服姿の青年が少女に向けて跪く。真っ白い平面の世界。黒線で仕切られ、いくつもの小さな空間に分かれている。その上に、黒いインクを使って描き出された光景は――世間一般では、マンガ、という通称で親しまれているもので。

 

 合点が行ったと、月見は浅くため息を漏らした。

 

「……なるほど、そういうことね」

 

 事実関係をまとめると、以下のようになる。

 このマンガには、九尾の銀狐――正確に言えば『九尾の狐の先祖返り』――の青年が登場する。そして彼は主人公である少女に対し非常に盲目的な忠誠を誓っていて、その盲信さを如実に表したセリフが、件の――

 

「『どうか僕を、あなたの犬にしてください』……――アッハハハハハハハハハハ!! アハ、ハハハ、ブワッハハハハハハハハハハ!!」

「か、神奈子さまあ! ちょっと笑い過ぎじゃないですか!?」

「いや、ハハハ、だって、ハハ、こ、これっ、ハ――フヒッ」

「神奈子さまあああああ!」

「ウハハハハハハハハハハ!!」

 

 「どうか僕を、あなたの犬にしてください」。その言葉はなにを隠そう、この青年が作中で主人公に対して宣うセリフだったのだ。

 

 腹を抱き締めて、畳をあちこちへ転げ回る神奈子。その反応ももっともなのだろうと、月見は思った。……当事者である身としては、乾いた笑いしか出てこないのだけれど。

 そんな神奈子をナチュラルに無視し、同じくこのマンガを読んでいた諏訪子が、首を傾げて早苗に問うた。

 

「んーと、つまりこういうこと? 早苗はこのマンガのこの男がお気に入りで、銀色の狐ってところが月見と被ったから、このセリフを言ってほしかったと。……だから月見のことが気になってるってのはそういう意味であって、決して惚れてるわけじゃないと?」

「ええ、まあ……」

「あーなるほどねー。早苗って昔っからアニメやマンガが大好きだったからねえ」

 

 諏訪子は納得したように何度も頷き、でも、と続けて、

 

「こういうマニアックなのを好き好むってのは、ちょっとアレだねえ……」

「諏訪子様、そこはマニアックじゃなくて是非メニアックと」

 

 諏訪子は笑顔で無視した。

 

「でも、別に月見とこのキャラが似てるってわけじゃなくない? 月見はこんなにカッコいい顔じゃないよ」

「いやまあ、それはそうなんですけど……あっ、いやいや月見さんが決してカッコ悪いというわけじゃなくてですね、こう、ベクトルが違うカッコいいなんですよ! このキャラみたいに甘~い感じじゃなくて、なんといいますか、大人びた優しい魅力が……」

 

 そこで早苗は諏訪子にニヤニヤとした笑みで見られていることに気づき、顔を赤くしながら縮こまってしまった。それからなんとも気まずそうな上目遣いでこちらを見てくるけれど、月見は曖昧な苦笑を返すに留めた。

 詰まるところ、早苗が月見に興味を持ったのは、『マンガのキャラ』というフィルター越しでのこと。ならば事態は、月見が忌避していたほど重篤ではない。あくまでこのキャラクターと同じ銀の狐である月見にセリフを再現してほしいというだけで、決して月見を犬にしたいという欲望があるわけではないのだ。

 ――そう、だよな……?

 いまいち、断言し切れないのだけれど。

 

「……あー、笑った笑った。なんか向こう一年分笑った気がするわ」

「……神奈子様」

 

 いつの間にか、神奈子が腹筋崩壊地獄から復活していた。腹をさすりながら体を起こした彼女は、涙目を拭って、仏頂面で頬を膨らませた早苗に「ごめんごめん」と謝る。

 

「早苗がこのキャラに月見を重ねてたってのもそうなんだけどさ、月見がもしこんな感じのやつだったらと思うと、もう堪らなくてねえ」

「……」

 

 月見は何気なしに、手に持っていたそのマンガをペラペラとめくった。

 めくって、めくって、めくって――。

 

「いや、さすがに私はこんなことしないからね?」

 

 具体的になにを見たのかは、割愛。

 この青年、自分の部屋を主人公の写真で埋め尽くしたりしていたような気がしたが、気のせいだろう。

 

「いや、だからこそ面白いんじゃないか。ちょっとほら、ねえねえ、このセリフ言ってみてくれないかい? 絶対面白いからさ」

 

 神奈子はマンガを一冊手に取り、あるページを開いてそれをこちらに見せてくる。

 そこに書かれているセリフは、ああ、紛うことなき。

 

「ほら、この『どうか僕を、あなたの犬にしてください』ってやつ」

 

 月見は神奈子の頭を尻尾でひっぱたいた。

 

「あ痛ー……」

「……」

「うわっなんか不潔なモノを見る目っ。いいじゃないかい減るもんじゃないし、ほら、ちょうど早苗もあんたにコレを言ってほしいみたいだし?」

「うええ!? か、神奈子様、それはその……」

 

 早苗がビクッと大声を上げたけれど、やはりというか、神奈子の言葉を否定したりは決してしない。実に、実に申し訳なさそうな上目遣いで、縮こまりながらこちらを見つめてくるのだ。

 ――ああ、なんだか頭が痛くなってきた。

 

「早苗。私は、狐なんだけどね」

「いやいや、別に月見さんを本当に犬にしたいとかそんなことないですよ!? ……た、たぶん」

「……」

 

 せっかくの弁明も、最後に付け加えられてしまった一言ですべてが台無しである。月見は眉間に刻まれてしまった皺を一生懸命に揉み解す。

 と、いつの間にか背後に回っていた神奈子が、いきなりこちらをホールドしてきた。

 

「っ、おい神奈子」

「ふっふっふ、ダメだよ月見、早苗に言うまで帰らせないからあ~いたたたたた! し、しまった尻尾ホールドできてなかった! いたいいたいっ!」

「よぉし神奈子、尻尾は私に任せて! 必殺、諏訪子ダイビーング! アンドスペシャルホールドー! うおーもふー!」

 

 更に尻尾に諏訪子がひっついて、完全に身動きが取れなくなる。

 

「おい、お前らっ……」

「ちょ、神奈子様、諏訪子様! ダメですよそんなご迷惑……」

「早苗ッ……! あんた、この千載一遇のチャンスをフイにしていいのかい!?」

「ッ!? か、神奈子様……!」

「そうだよ! 私と神奈子が時間を稼いでるうちに早くっ!」

「そーい!」

 

 月見は諏訪子がひっついたままの尻尾を強引に持ち上げて、それで神奈子の頭をひっぱたいた。

 思わぬクリティカルヒットになった。二人の頭同士がぶつかる、ゴチンといういい音が鳴る。

 

「「ッ……! ッ……!」」

 

 頭を押さえて畳をのたうち回る二人を、月見は当然ながら無視。早苗を見て、有無を言わせぬように圧力を込めて、微笑んだ。

 びくーん、と早苗の肩が跳ねる。

 

「早苗。私たちはまだ会ったばかりだしね? そういう露骨な話は、されても困るというか」

「……」

「親しい者同士なら……いや、親しいならいいかという問題でもないけど、ともかくそういうことはあまり人に言わない方がいいんじゃないかな」

「……ひゃい。そうですね……」

「ひゃい」

 

 びくーん。

 

「え、ええ、全然大丈夫です! そ、そうですよね! こういうメニアックなお話はやっぱりもっと仲良くなってからじゃないと!」

「ひゃい」

「と、とととっともかく! 確認しますけど、アレは単純な好奇心であって、決して私にそういうやましい心があるわけではないのでっ! ええ、なんてったって守矢神社の風祝ですもの! とってもピュアでいい子なんですよっ!」

 

 いや、仲良くなったとしてもあんなセリフを言うつもりなどないぞとか、本当にピュアならそもそもこういうマンガは読まないんじゃないだろうかとか、思うことは色々とあったけれど。

 しかし月見は、まあいいか、とため息一つで受け入れた。好奇心でついついという心情は、月見にも比較的共感できるものだったりする。月見も興味本位で首を突っ込んで痛い目を見たり、他人に迷惑を掛けたり、往々にしてそうやって生きてきたものだ。

 ある意味では、似たもの同士ともいえるのだろうか。月見は苦笑し、神奈子たちが読み散らかしたマンガを一カ所に積み重ねながら言った。

 

「ひゃいひゃい。なるべくピュアな関係を希望するよ」

「……え、ええと。ええ、心配には及びません、よ?」

「ひゃい」

「あ、あの。もしかして私、いじめられてますか」

 

 早苗が涙目でぷるぷる震え始めたので、これ以上はやめておこうか、と月見は判断。同時に、そろそろお暇しようかな、などと考えた。

 守矢神社は過去に何度も訪れているので、今更改めて見て回るようなこともないだろう。ならば早めに出発して、より多くの時間を紅魔館などの新天地の開拓に当てたいものだ。

 ……決して、さっさと帰りたいというわけではない。断じて。

 

「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかな。他に回りたいところもあるし」

「あ、そうなんですか? どちらの方まで?」

「紅魔館、とかね」

「あー、レミリアさんのところですか……」

 

 こちらの言葉に、早苗はうーんと難しい表情。腕を組んで考え込む仕草は、

 

「なにか問題でも?」

「いえ……その、レミリアさん――紅魔館の主人である立場の吸血鬼ですね。あの方はちょっと気難しいというか、冗談が通じないところがあるんで、さっき月見さんが私にしたようなことをすると……」

「ひゃい、ってやつかな?」

「……は、はい、そうです」

 

 「はい」にしっかりアクセントをつけて、咳払い。

 

「そういうことをするときっと真に受けて怒っちゃうと思うので、気をつけてくださいね?」

「ひゃ――じゃない、うん、大丈夫だよ。だからほら、涙目になるのはやめてくれないかな」

「~~っ!」

 

 早苗は非常に物言いたげな様子でふるふる震えたのち、こちらから目を逸らして恥ずかしそうに身を縮めた。

 

「月見さん、いじわるです……」

「ハッハッハ、すまないねえ」

「全然すまなそうじゃないですよぉー……」

 

 実際、口先である。きっと好奇心の強いところが影響してるんだろうな、と月見は思った。

 

「月見さん、天然黒(ピュアブラック)なんですか?」

「ピュアブラック? なんだいそれは」

「えっと、このマンガの――ああっ、そんな露骨に嫌そうな顔しないでくださいよー! お、面白いんですよこれ! 月見さんも読んでみますか、お貸ししますよ!?」

「いや、いいから」

 

 両の掌を見せつつ丁重にお断りする。

 早苗はしょぼくれた。

 

「やっぱり、こういう文化が幻想郷に普及するにはまだ時間が掛かるんですね……。でも負けません、いつか必ず月見さんに『どうか僕をあなたの下僕に』って言わせたいなあとか思ってませんよ全然!? 違います違います今のは嘘です冗談ですバグなんです、だから無言で帰ろうとしないでください待ってくださいそんなことされたら心が折れちゃいますからー!」

「ええい放せ早苗っ、私はもう帰るんだっ」

「わ、わかりました、もう止めません。ですからこれだけ覚えて帰りましょう? 『守矢神社とっても素敵なところ』! はい、リピートアフタミー!」

「守矢神社こわい」

「月見さあああああん!?」

 

 早苗の叫び声に耳朶を打たれながら、月見はしみじみ昔を懐かしんだ。かつて月見が知り合った守矢の風祝たちは、みんながお淑やかで上品で礼儀正しい、まさに『大和撫子』を絵に描いたような女性たちばかりだった。なのに今月見の腰にしがみついているこの少女は、一体どこでおかしくなってしまったのだろう。

 マニアック――早苗の言葉を借りれば、メニアックか。ともかく彼女、はっちゃけている。

 

「は、発音がよくなかったんですかね! じゃあもう一度だけ言いますよ! 守矢神社とっても素敵なところ、す・て・き・な・と・こ・ろ! はい、とっても大事なことなので二回言っちゃいました! これで大丈夫ですよね!?」

「こわい」

「ごめんなさいごめんなさい私が悪かったです初対面なのに本当に失礼なことをしてしまいました申し訳ないですごめんなさいだから許してくださいー!?」

 

 ああ、この早苗だけでも、意識を放棄したくなるくらいに手に負えないのに。

 

「いったたたぁ……あーうー、ようやく痛みが治まって――って月見、なに勝手に帰ろうとしてんの!? 神奈子起きてっ、月見が逃げちゃうっ!」

「なんだって!? 待ちなよ、あのセリフ言うまで帰さないって言ったろー!?」

 

 そのうち、復活した諏訪子と神奈子までもが背中に飛びついてきてしまったので、月見はバランスを崩して前のめりに転倒。

 

「月見さんお願いです、話を聞いてくださいいいい!」

「逃さないよー月見ー! そしてさりげなく尻尾もふー!」

「一回だけ! 一回だけでいいからさ、言ってみておくれよー!」

 

 早苗、諏訪子、神奈子。控えめに見ても器量よしな女三人に揃って押し倒されるというシチュエーションで、しかし月見の心にあるのは、「もう嫌だ」という四文字のみ。割と本気で、守矢神社にやって来たことを後悔し始めてきていた。

 

 その後、身動きの取れない月見が結局あのセリフを言う羽目になったのかどうかは――面倒なので、もう、割愛。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 どうにも虫の居所が悪い、と射命丸文は感じていた。胸の奥にわだかまる釈然としない不快感に、眉はずっと曲がりっぱなしになったまま戻ってくれない。

 あれから新聞を作るべく家に戻ったはいいものの、体の中を虫に喰われているかのような感覚に、どうにもスイッチが切り替わってくれなかった。

 

「……」

 

 原因ははっきりしていた。早苗に取材した内容を漏らすことなくメモした文花帖。その中に書かれた、たった一行の短いメモ。

 

・早苗さんは、月見が好き?

 

 その一文が、なぜかはわからないが、どうしようもないほどに不愉快だったのだ。

 

「……」

 

 なぜだろう。『月見』なんて名前をはっきり書いてあるから、あいつの姿を思い出して不快になるのだろうか。ありえない話でもない。意気揚々と取材に出掛けたらどうやら外の世界から戻ってきたらしいあいつと出くわす羽目になって、ただでさえ機嫌が悪い状態だ。この名前が拍車を掛けている可能性は充分にある。

 けれど、新聞が書けなくなってしまうくらいに調子が落ちるなんて、今までに一度もなかったことだ。このメモは、どうやらそれほどまでに文にとって不快なものらしい。

 

「…………む~」

 

 文はしばらくの間、厳しい表情でメモを睨んで呻いた。このメモがなぜここまで不愉快なのか、理由ははっきりとしない。先ほど考えた可能性で合っているのだろうとは思うが、なんとなく、それだけではないような気もする。一方で、それ以外の理由など皆目見当もつかない。

 

「むぅ」

 

 結局、どれだけ頭を茹でさせても答えなんて見つからなかったので、文は最も単純な解決策を取ることにした。

 

「……うん」

 

 小さく頷くとペンを取り、メモの上に大きな打ち消し線を引っ張る。勢いよく二本。それからページを破り取って、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。

 あいもかわらず、理由はわからなかったけれど。

 そうやってメモをなかったことにすると、ほんのちょっとだけ、スカッとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第8話 「レコンサリエーション ①」

 

 

 

 

 

 天上に黒が満ちていく。

 嫌な雲だと、紅美鈴は浅く体を震わせた。

 

 空から青はとうに失われていた。コールタールを混ぜ込んだような、黒く粘ついた雲で塗り潰されている。春風はひどく冷え込み、荒々しく木々を薙ぐ。ざわざわと響く不穏な音に、美鈴の心も感化されていた。

 やがて、大雨になるだろう。

 

「……中国」

 

 凛と響く声に、美鈴は空へもたげていた頭を降ろした。いつの間にか、真横にメイド服姿の女性が立っている。あいかわらず心臓に悪いことだ、と美鈴は内心苦笑した。とはいえ、彼女とももう長い付き合いになるから、驚くことはもはや稀なのだが。

 

「どうかしましたか、咲夜さん?」

 

 紅魔館を実質的に執り仕切るメイド長にして、レミリア・スカーレットが絶対的な信頼を置く懐刀――十六夜咲夜。彼女もまたこの空模様に感じるところがあるようで、空を見上げ、端正な顔立ちを不快げに歪めていた。

 

「中に入りなさいな。すぐに降り出すわよ」

「ですが……」

「土砂降りの中で立たせるほど、私もお嬢様も悪趣味じゃないわ。それに、もうすぐ昼食だし」

 

 確かにそうだ。土砂降りの中を構わず立ってろなんて言われたら、いくら美鈴でもストライキを起こす。それにもうすぐ昼飯時、お腹が空いてきたのも事実だ。

 更にもう一つ、付け加えれば。

 

「……」

 

 頭上。汚れた黒で塗り潰された空が、美鈴の体に重苦しくのしかかってくる。本当に嫌な雲だ。なにか、よくない物事の前触れであるかのような。

 できることなら、この雲の下にはいたくない――そう、美鈴は思った。

 不意に落ちてきた雨粒に、頬を叩かれる。

 

「……降ってきたみたいね。ほら、中国」

「……そうですね。わかりました」

 

 促す咲夜に、やがて美鈴は頷いた。思いがけずもらえた休み時間だ。こういう風に気が滅入りがちな時は、自室でのんびり羽根を伸ばすに限る。

 咲夜が既に館に向けて戻り始めていたので、美鈴は足早にその背を追いかけようとした。

 

「あー、ちょっと待った、そこの二人!」

 

 直後、聞き慣れない男性の声に呼び止められる。低く落ち着いた、聞き心地のいいバリトンの声音。この紅魔館で最も多くの来訪者を迎えてきた美鈴すら、聞き覚えのない。

 

「……」

 

 ……ポツ、ポツ、と雨粒が地面を打っていく。その中を、ひどく慌てた様子でこちらに走ってきているあの男は、果たしてこの空と関係があるのだろうか。

 ため息一つとともに、咲夜が隣を通って前に出ていく。いよいよ土砂降りも秒読み段階に入った中、追い返すのも酷だからと、彼女はあの男を迎え入れるだろう。

 けれど――本当に迎え入れても、いいのだろうか。

 

「…………」

 

 ――どうか、何事も起こらなければいいけど……。

 天上に広がる黒を、美鈴はひどく暗澹(あんたん)と睨みつけた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その男は、自らを月見と名乗った。

 このあたりでは見慣れない、銀の毛を持つ妖狐であった。

 

「いや、すまないね。いきなり押しかけて、雨宿りまでさせてもらって」

「いえ……」

 

 その妖狐、月見を客間へと先導しながら、美鈴は短くそれだけを返した。

 外は既に雨足強まり、篠を突く大雨となっていた。窓はもはや外の景色を映さない。ギリギリのタイミングで雨宿りの場所を見つけ出した彼は、まさしく幸運であったといえよう。……その場所が、紅魔館でなかったならば。

 

 紅魔館の門番である美鈴は、或いはメイドである咲夜は、来客があった際には必ず主人に報告を行う義務を負う。当たり前の話だ。主人に報告なく招き入れた客が万が一問題を起こしたら、一の召使いとして、どれだけ平謝りしても足りることではない。

 だからこそ、この狐は運が悪い。

 美鈴たちの主人であるレミリア・スカーレットは、吸血鬼だ。そして、美鈴がこう評価するのもあまり感心できた話ではないだろうが――『紅魔館の主人』を名乗れるだけの人格が、未だ形成されていない。

 有り体を言えば、幼いのだ。彼女は幼く、わがままで、一方で強い矜持を持つ。

 それは、美鈴たちが彼女に強く忠誠を誓う一つの魅力でもあるのだけれど、この場合は最大の難点となる。吸血鬼は夜行性。昼日中である今はちょうど、睡眠時間の真っ只中だ。

 

 であれば、安眠を妨げられたレミリアが、どうしてこの狐を快く迎え入れなどしようか。

 

 眠りを邪魔された怒りを彼に吐き捨てる――レミリアならばやりかねない。報告へ向かった咲夜が、上手くやってくれればいいのだが……。

 そうこう思案しているうちに、美鈴たちは客間の前まで辿り着いた。

 

「……とりあえずは、こちらの部屋でお待ちください」

 

 扉を開けて促すと、中では既に咲夜が紅茶の準備を整えて待っていた。紅茶を準備しているということは、月見を雨宿りさせる許可が得られたのか。それとも――。

 

「……?」

 

 月見は、咲夜を見てやや不思議そうに首を傾げていた。「お嬢様に報告して参りますので、客間にてお待ちを」――咲夜がそう月見に告げてからほんの二~三分だ。レミリアに報告を終えて紅茶の準備を整えるには、あまりにも短い。

 それは、彼女が持つ能力故に為せる芸当なのだが――この場では話す必要のないことだろう。美鈴は中央の座椅子を示す。来客の応接を行うためにこしらえられた、一対の座椅子。彼の向かい側にレミリアが座るような事態には、ならなければいいのだけれど。

 

「どうぞ、お掛けください」

「……ああ、ありがとう」

 

 月見は結局気にしても仕方がないことだと判断したようで、促されたままその座椅子に腰を下ろした。そして手前のテーブルに、すぐに咲夜が紅茶を整える。

 香るカップを彼に差し出し、告げた。

 

「間もなく、お嬢様がこちらにいらっしゃいます。どうかごゆるりとお待ちを」

「……」

 

 その言葉に眉をひそめるのは、月見ではなく美鈴の方。レミリアがこの場にやって来るという事実を意外に、そして心苦しく思いながら、また一方で冷静に受け止めた。

 月見に一礼しこちらに戻ってきた咲夜が、小さく耳打ちしてくる。

 

「……私も、まさかお嬢様が彼に会おうとするとは意外だったわ。適当に迎えてやれと、それだけ言って眠り続けてくれればよかったのだけど」

「……そうですね」

 

 もしそれだけだったなら、まさしくそれだけで終わったことだったろうに。

 あの寝坊助な吸血鬼が、貴重な眠りの時間を削ってまで、わざわざ彼に会おうとするのだ。レミリアを突き動かしている感情は、まさに美鈴が危ぶんでいた通りのものなのだろう。

 

「まだ確定ではないでしょうけど、恐らく……」

 

 告げる咲夜の表情には、月見に対するかすかな同情の色。その色を見て、きっと私もこんな顔をしてるんだろうかと、美鈴は思った。

 窓外を叩く滂沱(ぼうだ)の雨が、痛いくらいにやかましい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 一方の月見は、自分が置かれたそんな状況を微塵も気にかけることなく。

 あ、この紅茶美味しいな――なんて、考えていた。

 

 紅魔館。外壁が血を被せたかのように赤黒く塗り固められていて、まさに文字通り、建物自体が紅い魔物であるかのような洋館。不気味で、近寄り難くて、悪趣味で、この館をデザインした者はきっと相当な偏屈者だったのだろう。

 

 してこの館の主、レミリア・スカーレットは、月見の来訪を直接出向いて歓迎してくれるようだった。夜行性の吸血鬼だというのに、なんとも寛大なことである。

 もっとも、文字通りの“歓迎”をしてもらえれば、ではあるが。

 意識を集中させれば、感じる。こちらに段々近づいてくる何者かの気配。そして、その者から抑え切れずあふれ出した、棘にまみれた冷たい感情を。

 

「月見様。間もなく、レミリア・スカーレット様がお見えになります」

「ああ、わかってるよ」

 

 さしずめ、せっかく眠っていたところを叩き起こされたので、虫の居所が悪いのだろう。傍らの十六夜咲夜という少女は、そのことに気づいているのだろうか。

 どうしたものかなあ、と月見は考える。レミリアは己の感情を露骨に隠そうとしていない。ならば一度顔を合わせてしまえば、その怒りの矛先が自分に向かないとは到底思えなかった。

 ――はてさて、どうやって宥めたものか。

 やはり、昼間のうちからこの屋敷を訪れたのは失敗だったろうか。雨宿りくらいはさせてもらえると、踏んでいたのだが――。

 

 そして、客間の扉が開く。

 

 小さな少女だった。顔は幼く、背は低く、体つきは華奢。主の名を背負うにしてはあまりに小さく、若い。

 だがそれでも、背中から伸びた一対の黒の羽が、彼女が吸血鬼であることを雄弁に物語る。可愛らしく微笑んだ表情の奥、深紅の双眸が、確かな敵意を以て月見を威嚇していた。

 彼女――レミリア・スカーレットは、流麗な足取りで月見の向かい側の椅子へ。その所作には確かな教養の跡が見て取れる。幼い矮躯にはむしろ不相応だと思えるほどに、垢抜けていた。

 けれど、彼女から主としての品格を感じ取れたのは、そこまで。

 

 次の瞬間、殺意すらも覗く強大な妖力の波動が月見を打ちつけた。

 

「……」

 

 ……さて、やはり紅魔館の主殿は大層ご立腹なようだ。

 本当にどうしたものかと頭を悩ませる月見に、ほどなくしてレミリアから声が掛かる。

 

「――はじめまして、名も知らぬ狐さん」

 

 鈴のように高い声音も、今は確かな殺意で汚れていた。いつの間にかレミリアの隣に移っていた咲夜が心配そうにこちらを見てきたけれど、月見はわずかに笑んで、暗に大丈夫であることを伝えた。

 月見には、レミリアを恐れるような理由がない。打ちつける妖力は、なるほど、吸血鬼の名に違わず確かに強大なものだ。……けれど、それだけ。

 幼い子どもが本気で怒りを露わにしたところで、恐怖を覚える大人は稀だろう。それと同じだ。

 

「はじめまして、紅魔館の主よ」

 

 咲夜に向けた笑みをそのままに、レミリアへ答える。

 

「私は月見。見ての通り、しがない一匹の狐だよ」

「……私はレミリア・スカーレット。この館の当主よ」

「そうか。……まず、眠りを邪魔してすまなかったね。そして、突然にも関わらず、雨宿りをさせてくれてありがとう」

 

 頭を下げると、レミリアは意外そうに片眉を上げた。襲い来る妖力がほんのわずかに弱まる。

 だがそれも一瞬のことだ。すぐに、月見を小馬鹿にするような冷笑が鳴った。

 

「へえ。てっきり私の眠りを妨げるだけの礼儀知らずかと思ったけど、意外と教養はあるみたいね」

 

 ――それをお前が言うか。

 月見からしてみれば、いくら機嫌が悪いとはいえ初対面でいきなり殺気をぶつけてくるレミリアの方が、よっぽど礼儀知らずなのだが……もちろんおくびにも出さず、話を合わせておく。この妖力に真っ向から対抗するような真似は、なるべくしない方がいいだろう。どうにかして上手く宥められれば、それに越したことはない。

 

「でもね、今も言った通り、私は眠りを邪魔されて機嫌が悪いの。ねえ。月見、といったわよね……?」

 

 だが、このレミリアという少女の幼さは、月見の予想の上を行った。

 にやり。口角を吊り上げて不敵に笑った彼女は、一息。

 

 

 当然、そんな私の機嫌を気遣うような素敵な贈り物は、用意しているんでしょう――?

 

 

「――……」

 

 月見だけではない。レミリアの隣で静かに事を見守っていた咲夜でさえ、表情を変えた。

 

「お嬢様……」

 

 (いさ)めるように小さく口を開いた咲夜を、しかしレミリアは無視して続ける。

 

「是非見せてくれないかしら。物次第によっては、まあ、許してあげないこともないわよ?」

 

 ただ悠然と、一方的に、言葉を重ねていく。

 

「どうしたのかしら? まさか、なにも用意してないなんて言わないわよね?」

「……」

 

 対して、月見はなにも答えない。……否、なにも答えられなくなっていた。

 まさか、こんな恐喝紛いのことをされようとは思ってもみなかった。雨宿りに来ただけで金品を要求されるなんて、予想できるはずもなかった。

 

(……うーん、どうしたものか)

 

 月見の心を中に、ある感情が急速な勢いで広がっていく。それは肥大した呆れであって、或いは『失望』という言葉でも表現できたかもしれない。

 月見は、かつて風の便りで伝え聞いた、ある言葉を思い出す。

 

 ――吸血鬼とは、実に誇り高く、実に高貴で、実に美しい種族である。

 

 レミリアの振る舞いは、この言葉にはとてもとても当てはまるまい。たとえ見た目は幼くとも、魂には確かな吸血鬼の血が通っていることを、ほのかに期待していたのだけれど……読みが外れただろうか。

 吐息し、背もたれに体を預ける。

 

「贈り物ねえ。……あ、尻尾もふもふするか? それでよければいくらでも」

「……なるほど。お前は私の眠りを邪魔しただけで飽きたらず、そうやって私を愚弄するのね。いい度胸じゃない」

 

 ――しまった、逆効果だった。

 紫あたりはこうするととても喜ぶから、ついつい同じノリでやってしまった。いかんいかん、と月見は己を叱責。

 けれど、そうしたところで妙案が浮かぶわけでもない。今の月見は手ぶらなのだ。贈り物にできるような品など、到底持ち合わせてはいない。

 

「うーん、じゃあなにもないかなあ……。陰陽術の札なんて、興味ないだろう?」

「ええ、皆無ね。……なるほど、つまりあなたは私の眠りを邪魔しに来ただけなのね」

 

 レミリアがそう冷たく言い切って、――転瞬。

 月見の喉元に、深紅の槍が突きつけられている。

 

「……」

 

 鮮血を圧し固めて作り上げたかのような刃は、しかしよく目を凝らせば、かすかに陽炎のごとく揺らめいている。金属ではない。レミリアの妖力が凝縮されているのだ。瞬き一つの間で妖力をこれほどの密度で凝縮させて槍と成す技量は、吸血鬼の名に違わぬ確かな辣腕(らつわん)であった。

 だが、その腕前に舌を巻くような余裕はない。

 

「……客の喉元に刃物を突きつけるのが、吸血鬼の礼儀なのか?」

「お前は客じゃないわ。……私の眠りを妨げた邪魔者よ」

 

 さて、ここまで来るといよいよ困ったものだ。レミリアが少し腕を前に動かすだけで、この深紅の槍は確かに月見の喉笛を貫くだろう。それを考えると、宥めすかすなどと悠長なことも言ってられなくなってくる。

 吐息。

 

「困ったものだ。私はただ雨宿りを、そしてできれば館を見学させてもらおうと思っただけなんだけど」

「お前に見せびらかすようなものなんて、なにもありはしないわ」

「否、それを判断するのは私だよ。ここに案内されるまでの間に少し廊下を歩いたよ。随分と長く伸びる廊下だった。……外から見た限り、この屋敷にあれほど長い廊下は存在できないはずだ。一体どれほどの空間が、ここには広がっているのだろうね? ……ほら、それだけで見学する価値は充分にある」

「それを許すかどうかを決めるのは私よ」

 

 鋭い声音に切り捨てられ、迸る妖気の刃が月見の喉元に肉薄する。

 

「そして答えを言いましょう。そんなこと許すはずがない。虫の居所が悪いのよ、私は。とてつもなくね。……そのことを、理解していて?」

 

 そして、肌に触れた。切っ先でかすかに、肉を圧される。

 

「……」

 

 その感触を感じながら、月見は――そろそろ限界だろうかと、思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 客観的に判断すれば、非が大きいのはレミリアの方だろう。

 いくら睡眠を遮られて虫の居所が悪いとはいえ、恐喝紛いの物言いをしたり、ましてや相手の喉元に刃物を突きつけるなど、著しく品位を欠いた行為であることは言うまでもない。相手の顰蹙(ひんしゅく)を買うのは必然だし、実際の咲夜でさえ、できることならレミリアを諌めたいと感じていた。

 

 けれど咲夜には、もはやこの状況をどうにかすることなどできない。先刻レミリアに声を掛けたのを無視された時点で、咲夜は彼女らの間に割って入る権利を剥奪されたのだ。

 

 そして、レミリアと差し向かう妖狐――月見にも、あくまで咲夜の主観ではあるけれど、非は存在している。

 レミリアが果たしてどういう妖怪であるのか、それはあの恐喝紛いの言葉を受けた時点で既に知れたはずだった。だから、月見が自らの命を守るためにすべきことは、外聞構わず、ひたすらに謝罪の言葉を重ねることだけだったのだ。

 そうすれば、或いは、万に一つという確率かもしれないけれど、許される可能性があった。咲夜にだって言葉を挟み、擁護する余地が生まれたかもしれなかった。――けれど、正面から会話を続けたばかりに、それも消えた。

 彼は、判断を誤ったのだ。

 

(月見様……)

 

 レミリアが構える深紅の槍――グングニルは、既にその切っ先を彼の喉元に食い込ませつつある。彼女があと少し右手を動かすだけで、この槍のように紅い鮮血がテーブルを汚すだろう。

 なのに。

 それにも関わらず彼は、ただそこに座り続けていた。

 身も心も、一糸とも動かすことなく。欠片ほどの恐怖も、動揺すらもにじませることなく。

 ただじっと――レミリアを、見ていた。

 

「ッ……」

 

 静謐の水底を覗くような瞳。息が詰まる。心の中に入り込んでくる。見透かされているような気持ちになる。……この水面を波立たせてしまったらどうなるのか、怖くなった。

 不意に、舌打ちの音が鳴った。レミリアだ。彼の瞳に、或いは咲夜と同じことを感じたのかもしれない。槍を彼の喉元から離し、霧散させた。

 

「気に入らない……」

 

 低い声で吐き捨てる。それを聞いて、彼がたたえたのは柔らかい微笑だった。その笑みは、一体なにを意図したものなのか。もう一度舌を鳴らして、レミリアは彼から目を逸らした。

 

「なんなのよ、こいつ……」

 

 表情、声音には、困惑の色がある。

 レミリアが来客に対して子どもじみた怒りを露わにするのは、今回が初めてのことではない。この幻想郷に来てから、そして幻想郷に来る前にだって、何度も繰り返されていたことだ。咲夜が彼女に拾われるより以前を含めれば、それこそ数え切れないほどになるだろう。

 けれどそういった時、レミリアにグングニルを突きつけられた相手は、「舐めるな」と反抗するか「命だけは」と命乞いするかの二択。月見のようにただじっと見返してくる相手は、一人としていなかった。

 だからレミリアは、この男をどう扱えばよいのか、わからないでいる。

 

「気に入らない……気に入らないっ……!」

 

 心中に渦巻く困惑を、そうやって何度も吐き捨てようとする。

 

「気に入らないわ! 本当に……!」

「ッハハハ、そうか」

 

 睥睨(へいげい)するレミリアに、しかし月見は笑った。苦笑でもなく冷笑でもなく、大人が子どもを宥めすかそうとするような、受け入れようとするかのような、朗笑。

 レミリアの舌打ちが、また響いた。

 

「……いいわ。そこまでこの屋敷を見て回りたいなら、咲夜を案内につけてあげる。咲夜?」

「……え? あ、はい」

 

 まさか名を呼ばれるとは思ってもいなかった咲夜は、反応に一呼吸遅れた。それから、今彼女が告げた言葉の意味をようやく理解して、耳を疑った。

 仕方のないことではある。なぜならあのレミリアが、誰かに説得されたわけでもなく、自ら折れて相手の言葉を聞き入れたのだ。しかも相手はレミリアの友人でも知り合いでもなく、それどころか、ついさっき“邪魔者”だと切り捨てた赤の他人。

 

「……よろしいのですか?」

 

 よせばいいのに、わざわざ問い返してしまう。

 レミリアは、微笑みで応じた。

 

「ええ、構わないわ」

 

 許さないと言い切った舌の根もまだ乾いていない。まさか、月見のあの眼に恐れをなしたわけでもあるまいし、一体どうして急に――。

 疑念が消えず返事を返せない咲夜に、ほどなくしてレミリアの方から答えが示された。

 

「ちょうど、あいつに見せてやりたい部屋があったもの」

「ほう、そんな部屋があるのか?」

 

 興味深げに声を上げた月見に、レミリアは笑みを崩さず応ずる。

 

「ええ、是非見ていって頂戴な。……咲夜?」

 

 そして彼女は、一息。

 

 

「彼を、地下室に案内してあげて」

 

 

 ――ああ、そういうことか。

 すべて合点が行った。だからレミリアは、こうもあっさりと今までの態度を翻したのか。だからレミリアは、今、こうも婉然と笑っているのか。咲夜はすべてを理解した。

 

「いいわね?」

「……」

 

 レミリアがグングニルを月見の喉元から引いた時、もしかしたら――もしかしたら彼は助かるんじゃないかと、ほんのかすかに期待した。

 けれどそれは、結局はただの幻想。

 むしろ未来は、咲夜が思いつく限りで最悪の方向へと傾いていた。

 

 地下室にいるのは、“彼女”。

 レミリアはこの妖狐を、彼女にあげる(・・・)つもりなのだ。

 

「咲夜?」

 

 頷きたくなかった。咲夜は月見に出会ったばかり。その関係は、赤の他人と表現すれば充分に事足りる。

 だがそれでも、彼とは少なからず話をしてしまって。

 それになによりも、彼は咲夜の淹れた紅茶を、とても美味しそうに飲んでくれていたのだ。

 そんな相手を“彼女”のもとに案内しろなどという命令に、どうして快く頷くことができよう。

 

「咲夜。――返事はどうしたの?」

「ッ……」

 

 苦悩し、唇を噛む咲夜に、思いがけず月見から声が来た。

 

「いいよ。案内してくれないか?」

 

 彼は、たたえた笑みを崩していない。“地下室”がどういう場所なのか知らないのだから、無理もなかった。言ってやりたかった。地下室に向かったら今度こそ死ぬことなるんだぞと、教えてやりたかった。

 だが、傍らでレミリアが無言の圧力を掛けてくるこの場では、それも叶わない。

 唇を噛み切ってしまいそうなほどに苦しみ、やがて咲夜は首肯した。

 

「……わかり、ました」

「決まりね。さあ、行ってくるといいわ。きっと楽しんでもらえるはずよ」

「そうか……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

 

 深まった彼の笑顔に、心が痛むのを感じながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 実際のところ月見は、これから案内される“地下室”がどういう場所であるかを、なんとなくではあるが察していた。

 根拠は二つ。一つは、“地下室”という言葉を出した時のレミリアの表情、そしてそれに対する咲夜の言動だ。咲夜は明らかに難色を示していたようだったし、レミリアに至っては、月見を罠に掛けようとするかのようにあからさまな笑みを浮かべていた。なら、“地下室”がおよそまともな場所ではないことくらいは簡単に想像が利く。

 もう一つは、その予想を裏付ける形ではあるけれど、こうして咲夜に地下室へ案内される中で、その方からよくない気配が漂ってくる点だ。

 近寄りがたい、本能的に足を向けるのを忌避するようななにか。この気配を、月見はどこかで感じたことがあるような気がするが、記憶に薄くて思い出せないままだった。

 

 長い階段を下りて地下に入れば、もはや雨が窓を叩く音は聞こえなくなる。光は届かず、薄い闇色が目の先に伸びている。道の両脇で灯されたランプの明かりが、月見たちの行き先を示す唯一の指標だ。

 

「……やっぱりこの館、外観よりも中が随分と広いね」

 

 月見が当初感じていた疑念は、既に確信に変わっている。ここに辿り着くまでに、また随分と長く廊下を歩かされた。恐らく、紅魔館の周囲を軽く一周できるだけの距離があったはずだ。やはりこの館の内部には、外観からは想像もできないような広大な空間が広がっている。

 あれだけ長い廊下が、どうやって館の中に収まっているのか。解答は、月見を数歩先で先導する咲夜が告げた。

 

「私が能力で空間を弄っているからです。……『時間を操る程度の能力』と言って、お分かりになりますか?」

「あー……時間と空間は互いに関係し合ってる、というやつか?」

「はい。時間を操ることができる私は、同時に、ある程度ながら空間を制御することもできます。……それで、館の内部空間だけを拡張しているのです」

「はあ……」

 

 思わず、月見の口から感心の吐息がこぼれる。

 時空、などという言葉が存在しているくらいだ。往々にして時間と空間は、密接に関係し合う概念として扱われることがあるらしい。……『らしい』というのは、月見自身、そういった分野には決して精通していないからである。精々本の情報を鵜呑みにしている程度でしかなく、時間を操れれば空間も操れるんです、などと言われても当然ピンとは来ない。恐らく紫や藍にでも尋ねれば、懇切丁寧に講義してくれるのだろうけれども……頭が痛くなるだけだからやめておこう、と月見は首を振った。

 

「しかし、あまり広くしすぎると掃除とかが大変にならないか?」

「そうですね。とても一日ではやり切れないので、時間を止めながらやっていますわ。……妖精たちをメイドとして雇ってますけど、ほとんど役に立ちませんので」

 

 なら元の広さに戻したらどうなのだろう、とは思ったが、そこはきっと複雑な事情があるのだろう。あの子どもじみた館主が、「もっと大きな屋敷に住みたいわ!」とでもわがままを言ったのかもしれない。

 

「……咲夜は、あの子のことをどう思ってるのかな」

「もちろん、お慕いしています」

 

 迷いない即答。確信と自信を伴った力強い声音だ。

 それを聞いて、月見は内心笑う。やはり、昼間にここを訪れてしまったのは失敗だったと思えた。

 

「すまなかったねえ。ここが吸血鬼の館だということはわかってたんだから、少し時間を考えればよかった」

「そんな、どうして月見様が謝るのですか。吸血鬼は夜行性ですから、どうしても他の方々と生活時間の差は生まれます。それは、お嬢様もよく理解しているはずなのです。ですから――」

 

 月見の目の前で、咲夜がふと歩みを止めた。表情は窺い知れない。けれど、その肩がわずかに震えていたのを、月見は見逃さなかった。

 

「……申し訳ありませんでした、月見様」

「おや、どうしてお前が謝る?」

 

 問いつつも、月見は既に咲夜の内心を察していた。咲夜は、レミリアの方にも非があることを認めているのだ。だからこうやって、主人の代わりに頭を下げている。

 なるほど、よい従者だ。月見が客間でレミリアと相対した時も、咲夜は彼女を諌めようと口を挟もうとしたし、また、彼女の命令に従うことをよしとしなかった。ただ主人に盲目的に追従するのではなく、他者を思い遣る優しさと公平な倫理観がある。

 そんな咲夜が忠誠を誓うくらいだ。あのレミリアという少女は、本当は大層大層魅力的な主人なのだろう。

 

「お嬢様は、本当は――」

「そうだね。それはわかってるよ」

 

 だから咲夜がそう口を切った時、月見は淀みなく自分の言葉を重ねることができた。

 咲夜が驚いたように目を見開いて振り返る。その瞳を、月見はまっすぐに見返した。

 

「本当はもっといい子だと、言うんだろう?」

「……」

「あの子にとっての昼日中は、私たちにとっての真夜中。そんな時間の来客では、やはり機嫌も悪くなろうさ。……まあ、さすがに槍を突きつけられた時はびっくりしたけど」

 

 肩を竦めて、おどけたようにして。言えば、咲夜は口をきつく引き結んで、なにかをこらえるように押し黙り、俯いた。

 そうして訪れた沈黙は、ほんの数秒だったけれど。

 

「……月見様」

「うん?」

 

 顔を上げた咲夜は、とても張り詰めた表情をしていた。もうこれ以上は我慢ならないと、そう体を震わせて、声を荒らげた。

 

「月見様、どうか逃げてくださいっ……!」

 

 切々とした叫び。耳朶を打たれ、月見は思わず目を細める。

 

「お教えします。お嬢様は、月見様を殺すつもりです。これから向かう地下室は、そういう場所なんです。ですから、ですからっ……」

 

 言葉を区切り、肩で息をし、彼女はつなげる。

 

「どうしてあなたがこんな目に合わなきゃならないんですか。最初は、どうなっても仕方がないことだと思ってました。でもやっぱり納得できない。ただ雨宿りに来ただけじゃないですか。あなたに、死ななきゃならない理由なんてないじゃないですかっ……」

 

 あまり感情を表に出さない大人びた子なのだと思っていたけれど、違った。体を震わせる彼女は、どこにでもいる普通の少女と変わらなく、小さく見えた。

 わずかに戸惑った月見は、その気持ちを落ち着けるように緩く息を吐く。

 

「……意外だね。まさかそこまで心配してもらえるなんて」

「……私の紅茶を美味しそうに飲んで下さった方が、死ぬかもしれないんです。見て見ぬ振りなんて、できるわけないじゃないですか」

 

 月見は思い出す。確かに、咲夜の淹れてくれた紅茶はとても美味しかった。紅茶を嗜まない月見ですら、また飲みたいと思えるほどに。

 その味を反芻すると、不思議と、戸惑っていた心も落ち着いた。

 

「そうだね。咲夜はまだ若いのに、紅茶を淹れるのが本当に上手だ」

 

 軽口を返せば、咲夜は唇を噛んだ。どうしてそんなに落ち着いているんですかと、こちらを責めているようだった。

 月見は微笑む。

 

「逃げるって言ってもね、そんなことしたらお前がレミリアに怒られちゃうだろう?」

「そっ――そんなのどうだっていいじゃないですか! どうして、どうしてご自身の心配をなさらないんですか!?」

 

 咲夜の叫びは、もはや悲鳴に近かった。総身を前に折って、胸を手で押さえて、今にも泣き出してしまいそうだった。

 だからこそ月見は、一層笑みを深めて言う。

 

「咲夜が心配してくれてるみたいだから、それで充分だよ」

「っ……」

「それに……個人的に、このまま帰るわけにもいかない事情があるというか」

 

 月見は咲夜の姿越しに、薄闇に伸びる廊下の奥を見遣った。“地下室”が近いのか、あの嫌な気配を今なら正確に感じ取ることができる。

 やはり月見は、この気配を知っている。禍々しい存在感に粟立つようにして思い出された記憶が、答えを告げていた。

 これは、狂気だ。生物の精神に巣食い、正気を狂わせるモノ。

 ここまで色濃いそれを感じるのは、月見も初めてになる。

 

「この先にいるのは、一体?」

「……」

 

 問いに、咲夜はしばし口を閉ざしたままだった。知らないまま逃げてほしいと、そんな躊躇いが、噛み締めた唇に染み込み色を白くしていく。

 咲夜がなぜここまで逡巡するのか、月見にはよくわからなかった。月見を先に行かせたくないから話を進ませたくないのかもしれないし、単純に口にするのも憚られるような存在が奥にはいるのかもしれない。けれど、月見はそれでも真摯に彼女を見つめ、答えを待ち続けた。

 やがて諦めるように浅く息を吐いた咲夜は、重苦しい動きでその口を開いた。

 

「……お嬢様の妹、です」

「……そうか」

 

 月見は眦を細めた。まさか妹という言葉が出てくるとは、予想してもいなかったから。

 

「……妹様は、生まれ持ったその強大な狂気のせいで、お嬢様に外に出ることを長年禁じられています。あそこに謹慎――いえ、幽閉されているんです」

「……」

 

 咲夜の告白に相槌を打つこともせず、もう一度、くゆる薄闇の奥を見据える。

 もともと、逃げ出すつもりなど毛頭なかった。この狂気の持ち主が誰であれ、言葉が通じれば話をするなりして、適当に煙に巻くつもりだった。狐はなかんずく、ものを誤魔化し相手を偽る手管にだけは長けているから。

 故に、狂気の持ち主がレミリアの妹だというのなら――なおさら、ここで帰るわけにはいかない。

 それを表情から読んだ咲夜が、痛みをこらえるようにきつく眉根を詰めた。

 

「行くん、ですね」

「ああ」

 

 握り締めた両拳が、エプロンの裾に深い皺を刻む。その手は、ほのかに震えているようにも見えた。

 けれど、月見の心は変わらない。

 

「こんなに寂しそうな顔をしてるんだ。見て見ぬ振りをするのも、後味が悪いだろうさ」

 

 感じる狂気は確かに強大で禍々しい。だが同時に、寂しそうでもあったのだ。ポツン、膝を抱えて独りで泣いているような、そんな寂しさ。

 だからだろうか。月見がこうにも、行かなければならないと感じているのは。

 

(……あいかわらずだね、私も)

 

 月見は苦笑で口尻を歪めた。好き好んで人間たちに関わって生きてきたからか、昔から厄介事を見かけるとついつい口を挟んでしまう嫌いがあったが、それは今でも変わっていないようだ。世話好きなのねえ、と紫に呆れられたのが懐かしい。

 

「……寂しそう、ですか」

 

 噛み締めるように、咲夜が呟く。

 

「そうですね。きっと私も、事実だと思います」

 

 でも、と眉を歪め、顔を伏せる。

 

「私にはどうすることもできませんでした。危険だからと、お嬢様から必要以上に関わることを禁じられていますし、実際に危ない目にあったこともありました。幽閉をやめるよう申し上げても、頷かれたことなんて一度もないんです」

 

 声音は、レミリアの妹だという少女に対し力になってやれないことを悔いていた。優しい子なのだろう。レミリアに尽くすのと同じくらいの忠誠を、その妹にまで捧げているのがよく伝わってくる。

 咲夜は瞳に縋るような色を宿して面を上げ、どうか、どうかと胸を押さえる。

 

「月見様、どうか妹様を――」

 

 そこから先の言葉を、しかし飲み込んだ。俯き銀髪に隠された唇は既に力なく、続きを紡ぐことはない。

 月見は内心で、ゆっくりと長いため息を落とした。改めて考えると、随分と話が大事になってしまったものだ。恐らく、月見のこれからの行動次第で、紅魔館そのものの命運が大きく左右される。そう言っても過言でないほどに、レミリアの妹とは複雑な存在なのだと思えた。

 けれども畢竟(ひっきょう)、月見がやることは変わらない。レミリアがそう望んだように、地下室に向かう。それだけだ。

 

「……案内、続けてくれるな?」

 

 咲夜はもう、逡巡することはなかった。

 どうかお願いしますと――それだけ言って、面差しが見えなくなるほどに、深く深く頭を下げた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 咲夜にはもう、どうすることが正解なのかわからない。散々思い乱れた思考は、月見自身の意志もあって、結局「レミリアの命に従う」という当初の義務に帰趨した。

 

 フランドール・スカーレット――この先にいる狂気の持ち主に対し、レミリアが来客を案内させることはさして珍しくもない。例えば素性の知れない外来人や、そのあたりの弱小妖怪。フランドールの“遊び相手”をさせるために、そういう者たちを今までに何度も地下室へと放り込んだ。

 それがすなわちなにを意味するのか、月見が気づいていないということはないだろう。それでも、彼は決して足を止めようとはしなかった。知ってなお、望んでフランドールと相対することを選んだ。咲夜の思いに応えて本気で力になろうとしているお人好しなのか、なにも考えず流れに身を任せているだけの呑気者なのか……どうあれ、咲夜にはもう祈ることしかできない。

 

「……ここです」

 

 正面に鉄扉が見えた。一切の侵入者を拒むように屹立する、無骨で巨大な鉄の塊。フランドールが幽閉される部屋への入口だ。

 ひとたびこれを開ければ、もはや後戻りは利かない。咲夜は背後の月見へと振り返り、問うた。

 

「最終確認です。……本当に、よろしいのですね?」

「ああ。覚悟が上だよ」

 

 月見からの答えには、やはり微塵も迷いがなかった。だから咲夜も、もう心配するのはやめて迷いなく応じた。

 

「わかりました」

 

 月見のもとに歩み寄る。そうして目の前に立つと、彼が自分よりも頭一つ分くらい背が高いことに気づいて、やっぱり男の人なんだな、なんて考えてしまう。

 

「どうか、無事に帰ってきてくださいね。死なれたら後味悪いですから」

 

 月見は肩を竦めて、苦笑した。

 

「頑張るよ」

「ええ、頑張ってください」

 

 こんな風に男の人を応援するのは初めてで、なんだか変な感じだ。

 でも、決して不快なんかじゃない。

 

「じゃあ、全部終わったらまた紅茶をご馳走してもらおうかな。そうすればとっても頑張れそうだ」

 

 妙なところで子どもらしさの覗く彼の言動が、逆に親しみやすかった。

 

「ふふ、いいですね。なら、最高級の一杯をご馳走して差し上げますわ」

「おや、それは楽しみだ。ますます死ねなくなったね」

 

 不安など一切感じさせないその笑顔を見ていると、なんとなく、予感させられる。きっと心配なんて必要ない。この人は私が予想もしないような方法で、この死地を切り抜けるに違いないと。

 

「妹様に、変なことしないでくださいね? 犯罪ですから」

「……いや、しないからね? 私をなんだと思ってるんだい」

「そうですね。お人好しで能天気な狐さん、でしょうか」

 

 もしかしたらこれが最期の会話になるかもしれないのに、軽口を言うような余裕まであった。

 軽口を言ってしまうくらいに、いつしか、心を許してしまっていた。

 

「手厳しいなあ」

「だったら、無事に帰ってきてくださいね。そうすれば、少しくらいは見直してあげます」

 

 参った参ったと両手を挙げる彼がおかしくて、クスリと笑みがこぼれていて。

 

「信じてますから」

「はいはい」

 

 ――ああ、こういうのも案外、悪くない。

 

「……いってらっしゃいませ、月見様」

「ああ。行ってくるよ、咲夜」

 

 願わくは、天にこの祈りが届きますように。

 彼が鉄扉を押し開け奥に消える、最後まで。

 

 どうか、どうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やがて月見は、少女と出会った。

 

「あら、だあれ? 妖怪のお客さんなんて久し振り」

「ん、お前がレミリアの妹だね」

 

 レミリアよりも更に幼く、華奢で、小さくて……しかしその体に大きな狂気を宿した少女と。

 

「お姉様のお友達?」

「まあ……そうなれたらいいなと思ってるところかな」

「?」

 

 この出会いがどう転ぶのかはわからない。

 色々話ができるかもしれない。話なんてできないかもしれない。

 傷つけられるかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。

 殺されてしまうかもしれない。案外なにもされないかもしれない。

 彼女のためになにかしてやれるかもしれないし、なにもしてやれないかもしれない。

 

「――初めまして」

 

 そのすべてを覚悟し、月見は名乗った。

 

「私は月見。……しがない一匹の狐だよ」

「まあ……!」

 

 目を爛々と輝かせてほころんだ彼女が、ずっとこんな風に笑えるような未来になればいいと――そう、思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第9話 「レコンサリエーション ②」

 

 

 

 

 

 七色の宝石が、キラキラ光って左右に揺れた。

 

 不思議な羽だ、と月見は思う。蝙蝠や虫のように膜を伸ばしているのではない。天狗や鳥のように羽毛で覆われているのでもない。ただ剥き出しになった羽の骨格から、同一間隔で七色の宝石がぶら下げられている。ひっそり、くゆるようなランプの灯りを反射して、色とりどりの煌めきを散らしている。

 

「わあ、すごいすごい! 月見の尻尾、すごくもふもふしてるねー!」

 

 頭上に天蓋までこしらえられた、絵本の中でお姫様が眠っているような、大きくて豪奢なベッドの上。縁に腰掛ける月見の尻尾に猫のようにじゃれつき、ベッドの上をくるくる転がって七色の光を振りまく彼女は、自らをフランドール・スカーレットと名乗っていた。

 

 あのそびえる鉄扉を抜けた先、ランプの炎が明るく赤く照らし上げるこの地下室は、フランドールの私室であった。このベッドを始め、たくさんの絵本が収められた本棚や、大小多様なぬいぐるみを積み上げた山々が、自然の光が差し込まない無機質なこの部屋を精一杯愛くるしく飾っていて、また彼女の無垢さを際立たせている。

 フランドールは、無垢な少女であった。レミリアの妹であることが信じられないくらいに幼気(いたいけ)で、いじらしくて、微笑ましくて。本当に狂気に心を蝕まれているのか、なにかタチの悪い冗談なんじゃないかと疑ってしまうくらいだった。

 月見の尻尾を上から押し潰すように抱き締めて、フランドールは両脚をばたつかせる。

 

「もふー、もふー♪」

「こらこら、そんなに強く抱きついたら跡がついちゃうだろう?」

「えー、いいじゃない。すごくもふもふなんだもの」

 

 わがままを言われてもやれやれと苦笑がこぼれるだけで、決して不愉快な気持ちにはならない。接する者の心を穏やかにする幼さ。やはり子どもとはこうあるべきだと、片隅にレミリアの姿を思い浮かべながら、月見はフランドールと頭を優しく叩いた。

 

「フランドールはここに幽閉されていると聞いたけど、本当なのか?」

「ん……」

 

 フランドールが身を起こした。月見の尻尾を、ぎゅうっと一層強く抱き締める。

 

「……そうだね。そうだと思う。お姉様が『外は危険だから』って言ってね、あんまり出してくれないの」

 

 それは建前だろう、と月見は確信に近く思う。さしずめ、他でもないフランドール自身が危険な存在だから不用意に外に出したくない、というのが真実のはずだ。

 わかっている。妥当な判断だ。狂気による被害を最小限に抑えるためには避けようのない。

 けれど。

 

「……寂しくはないのか?」

 

 問えば、また、ぎゅっと尻尾を強く抱き締められる。

 

「……寂しいよ。外の世界、げんそーきょーっていうんでしょ? 私と同じ妖怪がいっぱいいる世界だって聞いたわ。

 ……あのね、何年か前にね、我慢できなくなって、こっそり外に抜け出したことがあったの。そしたらすぐにお姉様たちに連れ戻されて、すごくすごく怒られちゃった。どうして言った通りに大人しくできないの、って。私だって、色んな妖怪さんとお話してみたいのに……」

 

 一瞬、フランドールの面差しに沈んだ影が差す。しかしすぐに慌てた様子で取り繕って、精一杯の笑顔を咲かせた。

 

「あっ、でも今は寂しくないよ! こうして月見とお話してるんだもの!」

「……そっか」

 

 月見ももらい笑いをして、フランドールの頭をぐしぐしと撫でてやる。ん、と彼女がくすぐったそうに息を漏らす音が聞こえた。

 月見はそっと笑みを深め、同時に思考した。確かにこの子は、狂気に精神を蝕まれているのかもしれない。けれどこうして話をしてみればわかる通り、決して正気が崩壊してしまっているわけではないのだ。正気を失い、手の施しようがなくなったために幽閉するのならわかる。――でも、この子はまだ。

 なぜレミリアはこの子を一方的に幽閉し、遠ざけ、向き合おうとしないのか。月見にはどうしても気に掛かった。故に思う。このままでは大きくすれ違ってしまうことになりかねない、と。

 いや――

 

「ねえ、月見。お姉様って、私のこと嫌いなのかな……」

 

 かもしれない、ではない。フランドールとレミリアは、既にすれ違い始めてしまっていた。

 思考を止め、月見はフランドールを見た。取り繕おうとする様子はもはやない。彼女は俯き、唇を震わせて、いじけるようにがむしゃらに月見の尻尾を抱き竦めていた。

 

「フランドール……」

「だって、だってさ。そりゃあ外だって危険な場所なのかもしれないけど、私だって強いんだよ? お姉様にだって負けないもん。昔喧嘩した時に、私が勝つことだってあったもん。……なのに、外は危険だからって“嘘”つかれて、こんな場所に閉じ込められるってことはさ。本当はお姉様は私のことが嫌いで、会いたくないって思われてるんじゃないのかなって……」

 

 言葉をつなげる内に、段々と泣き出しそうな水気を孕んでいく。

 

「咲夜とか美鈴も、私とあんまりお話してくれないの。他人行儀な挨拶するくらいで、なんだか避けられてる気がして。……やっぱり私、嫌われてるのかな……」

「……」

「私、みんなのこと大好きだよ? だから、もし嫌われたらって思うと嫌で、確かめたいけど、でももし本当だったら……すごく怖くて、だから訊けなくて……」

 

 やだよう。こわいよう。月見の尻尾を一途に抱いて、すんすん、と鼻をすする。

 月見は、掛けてやるべき言葉をしばし見つけられなくなっていた。そんなことはないよと言ってやることは簡単だった。けれど、たった今フランドールと知り合ったばかりの月見がそんな言葉を重ねたところで、一体なんの意味があるというのか。中身のない虚ろな気遣いの言葉は、きっとこの子には届くまい。

 

(……やれやれ)

 

 これはどうやら、もう一度レミリアと話をする必要がありそうだ――そう考えながら月見はフランドールの小さな頭に手を置き、言った。

 

「なあ、フランドール。私と、友達になってみないか?」

「え?」

 

 ちょっとだけ潤んだ目で面を上げた彼女に、微笑む。

 

「ここで会ったのもなにかの縁。お前さえよければ、是非」

「っ、本当!? 本当に友達になってくれるの!?」

 

 よほど意外な提案だったのだろうか。フランドールは驚きと期待で目をまんまるにして詰め寄ってきた。抱き締めていた尻尾を脇に放り投げ、月見の服の肩あたりを掴んで、急かすように何度も引っ張った。

 

「嘘じゃ、嘘じゃないよね!?」

「もちろんだとも。嘘でこんなことは言わないよ」

「そ、そっか……。そっかぁ……」

 

 夢見心地で呟きながら、頬をほんのりと赤くして、くすぐったそうに身動ぎをした。月見はなにも言わずにただ笑みを深めて、彼女の頭をぽんぽんと叩いてやった。

 ……こうやって寂しさをちょっとでも紛らわせてやる程度が、今の月見にできる限界だろう。目下はとりあえずこうしておいて、あとはレミリアとしっかり話をしなければならない。でないと、フランドールがあまりにも可哀想だった。

 

「じゃ、じゃあさ、私のことはフランって呼んで!」

「いいよ。フランだね」

「う、うん」

「よろしく、フラン」

「え、えへへ……」

 

 もじもじと照れ隠しをする彼女――フランが、愛おしいと。

 そんな同情が、生まれていたからなのかもしれない。いつしか月見は、完全に失念してしまっていた。

 

「じゃ、じゃあ、一緒に遊ぼうよ! お話ばっかりじゃなくて!」

「そうだね。なにして遊ぼうか」

 

 フランドールは、とてもとても幼気な子だった。

 

「うんと、うんとねえー」

「ふふ、そんなに慌てなくてもいいよ。ゆっくり考えてご覧」

 

 強大な狂気をその身に宿しているなんて嘘だと思うくらいに、いじらしい子だった。

 

「じゃあ、お人形遊びがいいな!」

「ああ、いいよ。じゃあぬいぐるみを取ってこないとね。ちょっと待っててくれ」

「……」

 

 でも、それは錯覚で、ありもしない幻覚で、見当外れの妄想。

 なぜなら、フランは――

 

 

「……私はこれにしようかな。フランはどれに――」

「――私は、“あなた”だよ」

 

 

 ――フランは確かに、その心を狂気で蝕まれているのだから。

 

 

 衝撃。ベッドを離れ、ぬいぐるみの山に近づき、その中の一つを手に取って振り返った直後だった。唐突に視界がブラックアウトする。一瞬で平衡感覚が消失し、外界から得られる情報がなに一つとしてわからなくなって――気がついたら、倒れていた。

 始めはそのことすらわからなかった。床の固さと冷たさが直接肌を伝い、浮かび上がるような感覚を伴って意識が戻って初めて、自分がうつ伏せで倒せていることを知った。それからすぐに背中の激痛を認識し、未だ覚醒し切らない頭の中で、背中を打ったのか、とぼんやり思う。

 

「……カハッ」

 

 やっとのことで体が反応してくれた。呼吸をしなければと肺が伸縮して、めいっぱいの空気を取り込んだ。

 

「……どうしたの、月見? 早く立って、続き、しようよ」

 

 声。それがフランの声だと認識するまで、一呼吸以上の時間を要した。(いとけな)さにあふれた花びらのような声ではない。奥底で渦巻く黒い狂気を抑えられずに興奮した、けれどぞっとするほどに冷たい声。

 腕を杖にして体を起こせば、フランの笑う姿が見えた。

 狂気で歪んだ三日月を描く、その笑顔。

 

「――あのね、前にも同じことを言ってくれた人はたくさんいたよ。でもみんな、みーんな、一緒に遊んでみるとすぐに壊れちゃったの。動かなくなっちゃったの。嘘つきばっかりだったの。ねえ、ねえねえねえ、月見はどう?」

 

 ねえ、ねえ。目をギラギラ光らせて繰り返すフランを見て、月見は豁然(かつぜん)と悟った。どうして自分がこうなっているのか。フランが一体なにをしたのか。そしてなにをしようとしているのか。

 人形遊び――その言葉が意味するところを月見は文字通りに捉えていたけれど、間違いだった。

 フランの望む“人形遊び”。

 それはすなわち――

 

「月見が嘘つきじゃないなら、壊れずに最後まで遊んでくれるよね――!!」

 

 ――月見自身が、人形なのだ。

 

 ……そうか。

 そうかと、月見は大きく息を吐いた。

 諦観だ。もしかしたら、もしかしたらフランは大丈夫なんじゃないかと、一縷の希望を見ていた。そう信じたかった。けれどそれは幻想で、フランの心には確かに狂気が巣食っていて。

 

「……すまないね、フラン。人形遊びなんて初めてだったから、びっくりしてしまったよ」

「あら、そうなの? でもいいんだよ。壊れずに最後まで遊んでくれれば、いいんだから」

「……そうだね」

 

 立ち上がる。大丈夫だ。既に痛みは消えている。四肢も動く。なにも問題はありはしない。

 一度大きく深呼吸し、月見は構えた。できることなら避けたかったが、こうなってしまってはもうどうしようもない。戦わなければ。向かい打たなければ、彼女の狂気のままに、壊されてしまうだけ。

 

 だから――覚悟を決めろ。

 

「言っとくけど、手加減はしないからね!」

「……ッハハハ、それは骨が折れそうだね」

 

 決して壊れるな。最後まで踊り切れ。

 

「さあ、踊りましょう? ……リードしてくださいますか?」

「ああ。……喜んで」

 

 微笑み合うのは、ほんの一瞬。

 火蓋を切るのは、戦いの舞踏。

 

 二つの妖力が、剣戟となって火花を散らす。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 剣戟の音は地下を震わせ、地上にまで反響した。待ち侘びた時の訪れに、レミリアはようやくかと笑みをたたえ、傾けた紅茶で待ちくたびれた喉を潤した。

 私室に戻ったもののつとに眠気が消えていたので、また瞼が重くなるのを待つ片手間、地下室に向かわせたあの狐の気配を探っていた。それから二刻、あまりに遅すぎる開戦だった。

 

 ソーサーに戻したカップが、二つの妖力がぶつかるたび、怯えるように大きく震える。壮絶な戦いだ。片や狂気にまみれた濁流のごとき妖力と、片や清流のごとく澄み、また激流のように力強い妖力。完全に拮抗し、どちらとも譲らない。

 あの狐――月見とかいったか――、てっきり大した力もない口先だけの雑魚だと思っていたが、爪を隠していたということなのだろう。やはり妖狐だけあって食えない性格をしている。

 そのことを憎々しく思う気持ちはあったが、表情に出すことはなかった。レミリアは、この戦いの結末を既に知っているのだから。

 

 『運命を操る程度の能力』。月見の運命を覗き見た。フランに敗北し、死へと収束するその運命を。

 

 だからレミリアは、たたえた笑みを崩さない。

 

「咲夜、紅茶をもう一杯」

「はい」

 

 傍らの従者へカップを掲げれば、すぐに琥珀色が注がれた。芳醇な香りがレミリアの鼻孔を満たす。まるでこの紅茶も、フランの勝利を約束してくれているよう。

 いい気分だ、とレミリアは笑った。

 

「……ところで」

 

 呟き、傍らの従者を横目で見上げる。フランとあの狐が戦い始めた瞬間こそ、思い詰めた表情をしていたけれど。今の咲夜は、いつも通りの静かな面持ちを取り戻していた。

 十六夜咲夜は、決して感情を隠すのが上手い少女ではない。普段の垢抜けた振る舞いの数々からか、紅魔館の外では彼女のことを「人形のように冷静」などと評する者が多いが、実際はとても情緒豊かな少女だ。レミリアのように(ちか)しい者たちの前ではよく笑い、よく怒り、よくいじける。

 そんな咲夜は、しかし、フランと月見の戦いをさほど心配していないようだった。

 

「咲夜は心配じゃないの?」

 

 試しにそう問うてみると、咲夜は少し困った様子で考え、しかしすぐに眉を開いて微笑んだ。

 

「そうですね……心配ではないです。信じてますから」

「そう……」

 

 それはそうよね、とレミリアは頷く。フランが敗れる光景など、レミリアにはてんで想像することができない。弾幕ごっこはいざ知らず、ひとたびルール無用の殺し合いとなれば、彼女のポテンシャルはレミリアすらも超える。加えて有する能力だって強力だ。そんなフランが、たとえ互角の妖力を持つ相手とはいえ、ただの妖狐ごときにどうして負けなどしよう。

 ……。

 レミリアは浅く顔をしかめた。

 

「あの狐がまさかフランとまともに戦えるほど強かったなんてね。本当に気に喰わないわ」

「……」

 

 咲夜からは相槌すらも返ってこなかった。表情を盗み見ても、瞳を閉じて静かに佇んでいるだけだった。

 剣戟が鳴る。

 その音を、伝わる振動を肌で感じながら、レミリアは心中でひとり悦に入る。フランがこれだけの勢いで暴れるのは久し振りだ。あの狐との戦いを心の底から楽しんでくれているのがよく伝わってくる。

 やっぱり、あの狐を地下へ差し向けたのは悪くない判断だった。外来人やその辺の弱小妖怪だけではフランも退屈だろうし、狂気や能力を上手く制御するためのいい練習相手にもなる。今はまだ上手に扱えていないようだけれど、大丈夫。フランは強い子だから。

 

「……」

 

 いつか、とレミリアは思う。こうしていればいつか、フランは狂気と能力を制御できるようになって。誰も傷つけず、また傷つけられることもなく、笑顔で幻想郷を歩けるようになるはずなんだ。

 もし狂気を制御できないままで外を歩いて、暴走して、幻想郷の住人たちから忌避されたり、排斥されたりしてしまったら……フランの居場所は、もう本当にどこにもなくなってしまうのだから。

 だからレミリアは、フランを幽閉する。

 外の世界には、もうレミリアたちの居場所なんてない。笑顔になれない。だから、どうか、この幻想郷でだけは。

 

(そのために、精々役に立ちなさい。狐)

 

 もしあいつのお陰でフランが狂気を制御できるようになったら、まあ、最低限の感謝として弔いくらいはしてやろう。

 そしてフランを思いっきり褒めて、少しずつ幻想郷に馴染ませていこう。

 

 そうして未来だけを見つめるレミリアは、故に、己の足元がどうなっているのかに気づかない。

 進むその道は既に道などではなく、いつ崩れるともわからない薄氷となっていることを。

 今もなお、知らないまま。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無数の白が視界を潰す。

 人一人がようやく滑り込めるかどうかの僅かな隙間。その存在に気づいた時には既に遅い。

 

「――!」

 

 咄嗟に尻尾を盾にしたが、防ぎ切ることはできなかった。直撃。衝撃を殺せず後方に吹き飛ばされる。すぐに体勢を整え足先から触れるように着地するものの、まだ足りない。体が後ろに投げ出されないよう前傾姿勢のまま、そこから更に数メートル、足と床の間で高い音を上げながら滑って、ようやく止まった。

 初手を決めたのはフランの方だった。さて、どう攻めるか――月見がそう考えていた矢先であった。

 

「……ふう」

 

 月見は静かに胸を撫で下ろす。恐ろしく速い弾幕だった。盾にした尻尾が痺れているほど。

 正面から、声が来る。

 

「大丈夫? 危なかったね」

 

 言葉に反して月見を気遣う色はない。むしろ嘲笑うかのような声だった。

 月見は吐息し、ゆっくりと前を見据えた。

 

「……何分、弾幕にはまだ慣れていないものでね」

「あら、そうなの?」

 

 くすくすささやく。

 おかしくてたまらないといった体で、彼女――フランが笑っている。

 鮮紅色の双眸が、強く弓を描いている。

 

「弾幕ごっこはしたことないの?」

「そうだね。……実際にこうやって弾幕を撃たれるのは、初めてかな」

「まあ……」

 

 驚いた口元を掌でそっと隠して、背伸びしたような上品さで。

 されどもひとたびその華奢な(かいな)を振るえば、生まれる攻撃はただ苛烈。

 

「でも大丈夫、月見ならきっとすぐできるようになるよ」

「そうかな?」

「うん、きっとそう。……じゃあ、今は私が代わりにリードしてあげるね。ほら、ついてきて――」

 

 七色の宝石を煌めかせ、フランが飛揚した。雲を衝くように高い天井を、上へ、上へ。

 ――来るか……!

 月見が身構えて、一刻。フランは天高く右腕を掲げ、三日月みたいに大きく笑って。

 

「――ほら!」

 

 腕を振るうと同時、月見の視界を、再度無数の白が埋め尽くした。

 弾幕。

 

「っ……!」

 

 ――あの時、雛と椛の弾幕ごっこで見せてもらった弾幕とは、まるで桁が違った。思わず圧倒されあとずさってしまうほどの物量。それ以外の物が視界に映り込まなくなるほどの密度。咄嗟に距離を取っても一瞬と待たずに詰められてしまうほどの速度。天より降り注ぐその姿はまさに滝の如く。なにからなにまで違いすぎる。

 

 ……雛と椛が弾幕ごっこに熱中する中で、操がこう解説してくれた。

 

『妖力なりなんなりで作った弾幕を、なんらかの紋様を描くように一定の規則を持たせて飛ばすんじゃよ。相手を攻撃すると同時に、“魅せる”意味も込めての。

 弾幕ごっこは、“ごっこ”って言葉の通りに遊びみたいなもんで、妖怪と人間が対等に闘う決闘手段として生み出されたもんじゃ。だから攻撃する時には相手が躱せるようにわざと隙間と作らないといけないし、人間が反応できないような速度でぶっ放すのも禁止。そうやってフェアに攻撃して、相手は弾幕の規則を見抜いて回避して……まあ、そうやって遊びながら闘うんじゃよ』

 

 これが、遊び? まったくもって笑ってしまう。

 確かに、弾幕の軌道に規則はあるのかもしれない。しかしこれは既に、人間が反応できる速度の範疇を超えていた。

 あの鴉め騙したな今度会ったら焼く、と心に決めながら、月見は動いた。弾幕の隙間へと体を滑り込ませる。妖怪に与えられた天性の反射神経。身体能力。それらを以て、弾幕が体を掠めていくほどの瀬戸際で――しかし、躱す。

 白い世界の中、ただ、それだけを考えて。

 

「――ああ、もう躱せるようになったのね! さすが月見!」

「っ……」

 

 気がついた時には視界から白が消えていて、フランが興奮した様子ではしゃぎ声を上げていた。まだ回避しようと動き続けていた月見の体が思わずその場でたたらを踏む。

 息をつく暇はない。

 

「じゃあ、次は違うの! いっくよー!」

 

 次の世界は赤だった。先ほどの白よりも疎らで隙間が大きいものの、その分速い。――もはやこれは、本物の弾幕そのものだ。

 

「く、お……!」

 

 反射神経。身体能力。そして、勘。

 結論を言えば、ただ運がよかっただけなのだろう。

 

「一回で躱しちゃうんだ……すごいね、上手だよ!」

「それはっ、どうも……っ!」

 

 肝を潰す思いでなんとか躱したものの、必然、無駄話をするような余裕などない。フランへ返す声には、惨めったらしいほどの必死さがありありと浮き出てしまっていた。

 ともあれ、一度躱し切ってしまえば、死地は途端に好機へと変わる。

 

「じゃあ、次はねー……」

 

 弾幕の斉射が終わり、フランが次の弾幕を放つまでの予備動作。たった数秒の、沈黙の時間。

 それが、隙だ。

 

「――!」

 

 月見は脚に妖力を込め、一気に前へと駆け抜けた。打ち鳴らされた床が轟音を上げ、月見の意図に気づいたフランが慌てて身構える、それよりも速く。

 

「せっ……!」

 

 吐く息鋭く。相手が少女であることを構いなどしない。一撃で意識を刈り取る勢いで、

 

「――あうっ!?」

 

 蹴り落とした。肉を圧する低音、肺から吐き出されるフランの悲鳴、そして大気が震える衝撃をその場に残して彼女の体が吹き飛ぶ。完全に宙に放られ慣性のまま落下し、微塵もその勢いを殺すことなくぬいぐるみの山へと突っ込んでいった。

 フランが弾幕を放っている間は、とても近づくなんてできやしない。だから月見にとっては、彼女が弾幕を撃ち終えてから次を放つまでの僅かな準備時間――そこだけが攻撃に転じられる唯一の隙だった。

 生半可な力加減などしていない。並大抵の妖怪であれば、しばらくは動けなくなる一撃だったろう。

 だが。

 

「――あははははは! すごい! すごいよ月見!」

 

 崩れたぬいぐるみの山を押し退け、フランは再び飛鷹した。やはり、鬼と互角の身体能力を持つといわれる吸血鬼――一撃蹴り飛ばした程度では、一瞬たりとも止まってはくれない。

 

「一発入れられちゃったのは、久し振りだなあ!」

 

 まったく痛みを感じていないわけではないはずなのに、フランはとてもとても嬉しそうに笑っていた。血のような双眸が、強く不気味な光を放っていた。自分と互角に戦える相手の存在に、狂気が昂ぶっているのだ。

 月見は顔をしかめた。……やはり、なるべく早く勝負を決めなければならない。拍車の掛かった彼女の狂気が、取り返しのつかないところまで加速してしまう前に。

 

「もっと、もっとやってみせてよ!」

 

 振るわれる(かいな)、放たれる白と赤の弾幕。圧倒的な密度と速度を以て襲い掛かるそれに、しかし月見はもう焦らなかった。あいかわらずギリギリではあったけれど、淀みなく躱す。尻尾を振るって弾き飛ばす。そして弾幕の斉射が途切れた瞬間、再度加速し、フランとの距離を一気に詰める。

 弾幕が途切れたら動く。単純で読みやすい攻めだと、月見自身も理解していた。

 故に気づく。肉薄されたフランが、静かに己の笑みを深めたのを。

 

「禁忌――」

 

 月見の背筋を悪寒が駆け抜ける。一層強大に膨れ上がったフランの妖力。弾幕ごっこにおける『必殺技』――スペルカードの宣言だ。

 これについても、月見は操から事前に説明を受けていた。スペルカードにより繰り出される攻撃は通常の弾幕よりも複雑で、強力で。

 そして――必ずしも弾幕とは限らない、ということを。

 

「――『レーヴァテイン』!」

 

 杖――いや、槍なのだろうか。フランが取り出した、悪魔の尻尾を象るように緩い曲線を描いて伸びる黒の武器。それを瞬く間に深紅が包み込み、巨大な炎の刃を成した。

 誘われた。肉薄した月見は、既にあの炎剣の間合いに入ってしまっている。しかも体は走る中で前傾になっているから、今更停止も後退も利きはしない。薙ぎ払うようにして振るわれた炎の軌道は、確実に月見を横一直線に両断する。

 しかし月見とて、こうなるのを予想していなかったわけではない。むしろ、迎撃されて然るべきだと考えていた。故に圧倒的な熱量で迫り来る炎剣を前にしても、焦りなく体は動く。

 跳躍する。縦に体を回して、炎剣を、そしてフランの頭上を飛び越えた。

 

「逃さないよ!」

 

 フランの反応は速かった。横に薙いだ炎剣の勢いをそのままに背後へ回転し、刃の動きを止めることなく、円を描く軌道で頭上を薙ぎ払う。

 その刹那には、既に月見の体は刃の間合いから外れていた。だが蛇のようにうごめくその炎は別だ。顎門を開き、未だ宙を飛ぶ月見を丸呑みにしようと迫ってくる。

 対し月見は、己の尾の先に赤を灯した。小さな火種は、妖狐が得意とする炎の妖術。尻尾を振るって(くう)に放った瞬間、爆発的な勢いを以て燃え上がった。

 

「――狐火!」

 

 激突する。狐火は月見の体を守るように大きく広がり、迫るレーヴァテインの炎を相殺した。

 打ち寄せる熱風に体勢を崩されそうになりながらも、月見は着地。だが、まだ気は緩めない。ぶつかり合った二つの炎はなお消え切らず残火を散らしているが――それを、新たに生まれた横薙ぎの炎が斬り払った。

 斬り払い、フランが突っ込んでくる。

 

「あはははははははははは!!」

 

 喉を走る哄笑、そして構えた炎剣はともに空高く。放たれた高速の振り下ろしを丸腰の月見に止める術はない。横に跳んで躱す他なかった。

 そして振り下ろされた炎剣が床を砕くと同時、天井を焼き払わんほどの火柱が立ち上がる。

 

「!」

 

 爆発が起こったと、そう錯覚させられるほどの威力だった。迸る爆音は、荒れ狂う熱風は、跳んだ月見の体をいとも簡単に持ち上げてしまう。

 

「む……!」

 

 バランスを奪われ、月見の体が床を転がった。咄嗟に体勢を整えて総身を起こすも――その時には既に、白と赤の弾幕に眼前を埋め尽くされている。

 躱せない。

 

「――!」

 

 直撃だ。最後に映った鮮やかな白と赤は途端に反転し、黒となって月見の視界を潰す。そして間髪を容れず背中に衝撃。なにが起こったのかわからないまま轟音とともに崩れ落ちた月見は、やがて己が本の山の中に埋もれていることを知った。……どうやら、吹き飛んで本棚に突っ込んでしまったらしい。

 顔面に乗っかっていた絵本をどかす。……CINDERELLA。こんな絵本も幻想入りしてるんだなと思いながら、月見は本の中から体を起こした。

 未だ高く上がる火柱の傍で、フランがぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃいでいた。

 

「あっははははは! わあい、当たった当たった!」

「ッハハハ、当たっちゃったなあ」

 

 月見は苦笑しながら思う。強いな、と。鬼と肩を並べる妖怪の最強種、吸血鬼。彼女の齢は知れないが、もはや大妖怪と比べても遜色ないほどの強さであった。

 後手に回っては押し切られる。生き残るためには、こちらからも攻めなければ。

 月見は立ち上がりつつ、袖から札の束を抜いた。百以上になるかというそれは、“剣”と銘を刻まれた紙片たち。宙に放ればまるで意思を持っているかのように飛び回り、蝟集し、月見の眼前で一つの物体を作り上げた。

 紙の、剣。

 

「……即席だから、性能は落ちるけど」

 

 丸腰でレーヴァテインを止めることはできない。……この剣で止められるかどうかもわからないが、ないよりはマシだ。

 フランが、くすくす笑って首を傾げた。

 

「なあにそれ。紙工作?」

「まあ、そんなところだ」

 

 けれども、もちろんただの紙工作とは違う。妖力を込めて硬化させ、真剣には及ばないまでも、それに近い切れ味で振るうことができる剣。即席の武器としては充分過ぎる代物だ。

 

「そんなの、燃やしちゃうよ!」

 

 炎剣振り上げ、フランが駆ける。対し、月見は回避を選ばなかった。煌々燃える彼女の炎を、右腕の剣一本で迎え撃つ。

 紙の剣は、焼き切られない。金属同士が衝突する高い衝撃音を響かせ、確かにレーヴァテインを受け止めた。

 

「嘘っ……」

 

 まさか止められるとは思っていなかったのだろう。フランの表情が驚愕で染まり、両腕から微かに力が抜けた。

 月見はその隙を逃さず剣を大きく振るい、レーヴァテインを押し返した。豪炎に包まれたその刃だ、至近距離で受け止めれば当然熱く、鍔迫り合いなどできたものではない。

 

「――熱い!」

「うわっ!」

 

 こういう時に、体重差というものは大きく影響を及ぼす。最初に蹴りを叩き込んだ時もそうだったが、月見よりもずっとずっと小さいフランの体は、月見がやや力を込めるだけで簡単に押し飛ばすことができた。

 フランの体が背後へたたらを踏む間に、月見は横目で剣の刀身を見遣る。刃の一部が焼け焦げ、崩れてしまっていた。……やはり、そう何度も受け止めるのは難しいようだ。

 ならば、刃がダメになってしまうその前に。

 

「っ!」

 

 駆ける。今度は、こちらから攻める番だ。

 体勢を立て直したフランが、慌てた動きでレーヴァテインを持ち上げた。月見の剣を受け止めるつもりなのだろう――だが、甘い。

 それが月見の狙い。月見はフランではなく、始めからレーヴァテインを狙った。ただ力任せに刃を振るって、フランの炎剣を真上に弾き飛ばした。

 

「きゃ!?」

 

 耳を突き刺すような衝撃音。レーヴァテインは一瞬も耐えられずフランの両手からすっぽ抜けて、そのまま天井に突き刺さった。

 

「あっ、」

 

 武器を失ったフランが、呆然としたように動きを止めた。いきなりレーヴァテインが手元から消えたせいで、上手く状況が飲み込めなかったのだろう。ぽかんと見開かれたその双眸に対し、月見は微笑んだ。

 

「……ちょっと痛いけど、我慢してくれ」

 

 銀の尾の先に火種を灯し――振るう。

 狐火。放たれた火種は瞬く間に豪炎へと姿を変え、フランの小さな体を一息で呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――刹那であった。

 

「禁弾・『カタディオプトリック』!!」

 

 鐘のように高く鳴り響く声音が、狐火を鮮やかに薙ぎ払った。

 転瞬、視界を埋め尽くす白の弾幕に、月見の体は反応できない。

 

「――ッ!?」

 

 頭がなにかを考えるよりも先に、直撃していた。弾き飛ばされ、背中から床に落ちる。

 けれども、今日だけで三度も打ち飛ばされてさすがに慣れたのだろうか。脳と視界が揺れる中であっても、体は本能的に動いてくれた。床を転がってまた背を打つまでの僅かな時間で体を回し、両足で強く床を叩いて立ち上がる。

 胸に弾幕が直撃した痛みを感じながら、月見は顔をしかめた。

 

(無茶をする……!)

 

 月見の意表を完全に突き切ったその攻撃は、果たして狙ってやったものなのか、それとも反射的なものなのか。だが炎に焼かれながらスペルカードの宣言をするなど、どだい正気でなせる技ではない。これも、彼女を蝕む狂気故か。

 

「禁忌・『フォーオブアカインド』!」

 

 狂気の衝動は止まらない。残り火の中で更なる宣言が響き、直後、揺れる赤を斬り払って四つの影が飛び出した。

 

「!」

 

 月見は瞠目した。それは弾幕ではなかった。飛び出した四つの影は、四人のフランドール・スカーレット。服の所々が焼け落ち、肌には火傷も負い――それでも月見を捉える八つの瞳が、豪火に劣らぬ狂気の炎を揺らす。

 

「あははははは、痛い痛い!」

「焼かれちゃった、傷モノにされちゃった!」

「月見、強いね! 強い強い!」

「それじゃあ私も、ちょっと本気!」

 

 四者、叫ぶ宣言は等しく。

 

「「「「――禁忌・『レーヴァテイン』!!」」」」

 

 等しくその手に、炎を宿す。

 

(いやいや、冗談だろう……!?)

 

 月見は戦慄した。たった一本受け止めるのも精一杯だった炎剣が、四倍の数量、そして四倍の規模で暴れ回る炎を従えて襲い来る。受け止めるなんてできるはずもない。できる限り遠くに、遠くにと、月見は全力で真横へと跳んだ。

 

 直後。叩き込まれた四つの火柱は、今度こそ本当に爆発を起こした。

 

「く、あっ……!」

 

 躱したはずなのに、まるで直撃したかのような衝撃が月見の体を打つ。黒煙に巻かれ、何度も何度も床を転がって、ようやくその動きが止まった時には――既に頭上で、二つの殺気が鎌首をもたげている。

 

「ッ……!」

 

 どうやらフランは、月見を休ませるつもりなど毛頭ないらしい。咄嗟に体を起こせば、眼前、二人のフランはとうにレーヴァテインを振り下ろしていた。

 上手い攻めだと唇を噛みながら、月見は即座に思考した。ここで左右、或いは後ろに跳んでもまた同じことを繰り返すだけだ。ならば突破口は――前。

 

「――!」

 

 紙の剣をその場に捨て置き、レーヴァテインが月見の体を切り裂くよりも、もっと速く。

 月見は二人のフランの懐に飛び込んで、勢いそのままに彼女らに体当たりを叩き込む。そして宙に投げ出された二つの体を、自らの体重もプラスして、力任せで床に叩きつけた。

 

「「あっ……!」」

 

 二人のフランが苦悶で顔を歪めるも、それも一瞬。瞬く間もなく、ポン、と妙に軽い音を立てて、煙となって(くう)に溶けた。

 やはり、分身。

 

「あははははは! 私が二人やられちゃった!」

 

 だが正面、もう一人のフランがレーヴァテインを構えて突っ込んできている。息をついている暇はない。月見は後ろに退がって紙の剣を拾い直し、振り下ろされた炎剣を受け止めた。

 

「月見ったら本当に強いのね! 嬉しくて嬉しくてたまらないわ!」

「お前こそ……ここまで一生懸命になったのも久し振りだよ!」

「――なら、もっともっと一生懸命になって!」

 

 応えたのは、目の前にいるフランではない。彼女の背後。天井高く飛揚したもう一人のフランが、

 

「禁弾・『スターボウブレイク』!」

 

 スペルカードを宣言し、流星のように降り注ぐ七色の弾幕を落とす。躱すには距離が近すぎる。月見は目の前のフランを押し返しすぐに退がろうとするが、お返しだと言わんばかりに、押し返されたフランのスペルカード宣言がそれを制す。

 

「禁忌・『クランベリートラップ』!」

「!」

 

 月見の周囲を光球が回り、そこから中心の月見に向けて新たな弾幕が放たれる。速度は遅いものの、空から降り注ぐ七色の弾幕と相まって、逃げ場が消えた。

 

「くっ……」

 

 月見は歯噛みした。やはり、戦いが長引けば長引くほど追い込まれるばかりだ。剣も、先ほどレーヴァテインを受け止めたことで損壊が広がり、限界が近い。

 だから月見は、再度前へ進むことを選んだ。無数の弾幕が跳梁するそこを、

 

「――狐火!」

 

 炎で一気に焼き払う。そうやって弾幕を相殺し、更に月見は飛んだ。フランがそうしたように、狐火の残火を斬り払い、前へと。

 

「!?」

 

 炎を抜けると、ちょうど目の前に驚愕で凍るフランの相貌が見えた。構わずにその脇腹を蹴り飛ばす。吹き飛んだ彼女の体が、また煙となって溶けていく。

 これも分身。ならば本物のフランは――上。七色の弾幕を撃った方だ。

 

「フラン……!」

 

 もはやフランの出方を窺いなどしない。これで勝負を決めるべきだと、真上で滞空するフランのもとに一直線に飛揚した。

 その時。

 

「あっ――」

 

 その時、不意にフランが小さく体を揺らした。今までの狂気に歪んだ笑みではない、怖がるような、怯えるような、そんな顔で月見を見ていた。

 

「あ――あはははははははは!!」

 

 ほんの一瞬のことだった。月見がそれに気づいて動きを止めた時には、フランは再び狂気の色濃く口端を歪め、力のままにレーヴァテインを振るっていた。月見は息を呑み、己の刃で彼女の炎剣を受け止める。

 刃に大きなひびが入り、衝撃が腕を伝わって骨を軋ませた。その痛みに顔をしかめ、しかし、月見は叫んでいた。

 

「ッ、フラン!」

「あはははははは! な、なあに?」

「お前……」

 

 狂気に精神を支配され哄笑するフラン――その瞳の奥が、悲しそうに、辛そうに、揺れている。

 

「ど、どうしたの? ほら、もっと、もっと戦おうよ!」

 

 言葉で笑うたびに、表情が震える。

 今にも泣き出しそうに、揺れている。

 もうやめてと、叫んでいる。

 

「――……」

 

 ――まさか。

 まさかと、月見は息を呑んだ。

 

 もしかして、もしかしてフランは。

 ただ狂気に精神を蝕まれて、正気を狂わされているのではなく――

 

「ほら……ほらぁ!!」

「っ……!」

 

 すべてを弾き飛ばそうとするように、フランが強く叫んだ。レーヴァテインの炎が勢いを増す。凄まじい力で押し切られそうになる。月見の剣も熱で焼かれ、もうこれ以上持ちこたえられそうにない。

 是非には及ばなかった。ともかく月見は、今はフランを止めなければならないのだ。

 

 だから――迷いを捨てろ。

 

「せっ……!」

「っ!」

 

 レーヴァテインを押し返し、フランの体を押し飛ばし、その剣に炎を宿した。

 片やフランが、スルトルの剣を振るうように。

 片や月見は、火之夜藝――自ら燃える炎の剣を、掲げる。

 

 迷いを捨てろ。振り下ろせ。

 でなければ、自らが殺されるしかないのだから。

 

「炎を刻め、『火之夜藝剣(ひのやぎのつるぎ)』……!」

 

 フランは、立ち上がった鮮紅色に見入るように動きを止めていた。

 そして月見は、刃を振るう覚悟を決めた。

 

 だから――これで終わるはずだったのに。

 

 

 

 

 

 ――助けて

 

 

 

 

 

「――あ、」

 

 炎が焼ける音を通り抜けて、その声が聞こえたから。

 炎が照らす赤に染め上げられて、見えてしまったから。

 

 フラン。

 狂気で歪んだその仮面の奥から、あふれて。

 

 

 落ちる、涙。

 

 

「――QED・『495年の波紋』!!」

 

 

 月見は、動けなかった。

 気づいてしまった事実の片鱗に、指一本動かせなかった。

 

 光り輝く無数の弾幕に呑まれる、その時まで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 声が聞こえる。

 

「嫌だよ……!」

 

 少女の泣く声が、聞こえる。

 

「こんなこと、したくないよ……!」

 

 恐怖で怯えて、

 

「嫌なのに、こんなことしたくないのに、止まってくれないよぉ……!」

 

 涙で掠れて、

 

「助けてよ……!」

 

 助けを乞うて、揺れる。

 

「助けてよ、月見ぃ……!」

 

 フランの泣く声が、聞こえる。

 

 

 

 

 

「ッ――」

 

 背中から床に叩きつけられ、混濁した意識が戻るまでの、ほんの僅かな時間だ。

 怖くて、悲しくて、助けてほしくて、切々と響くその声を。月見はただ床に倒れたままで、静かに聞いた。

 

 目を開ければ、彼女が見える。

 狂気で濡れた笑顔ではなく。

 涙で濡れた泣き顔だけが、消えゆくレーヴァテインの炎の中で。

 

「――怖いよ! 私の中にいる誰かが囁くの! 全部壊してしまえって! 全部拒絶してしまえって! 殺せって!! 嫌なのに、体が勝手に動くの! 体が勝手に、殺そうとするの!!」

 

 ――ああ、そうだ。

 フランの心は、すべてが狂気に呑まれてしまったわけではなかった。

 狂気で狂わされた心と、それに抵抗する彼女本来の心。

 二つの心が、小さな身体の中に混在していて。

 

「友達ができそうになっても、気がついたら殺しちゃってた! 嫌なのに! 殺したくなんてないのに! 今だってそう! 私は月見とお友達になりたいのに、仲良くしたいのに、そうやって傷つけてる!!」

 

 狂気の心がフランの体を操り、たくさんの命を奪ってきた、その奥で。

 彼女本来の心が、ずっとずっと泣いていたのだ。

 

「私は、バケモノだ……! 私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない……! 美鈴にも、咲夜にも、パチュリーにも! きっと、お姉様にだって!! だから、誰も、助けてなんてくれないんだっ……!!」

 

 この場所に幽閉され、家族から遠ざけられ、そして友達もいなかったから。

 誰にも助けを求められずに、ただずっと。

 

「月見、もう終わらせてよ……! こんなの、もう嫌だよ……っ! こんなに寂しくて、こんなに悲しくて、こんなに怖くて、辛くて、苦しくて痛くて!! こんなの、もうやだよおおおおお!!」

 

 啼泣の声に耳朶を打たれ、月見の体が引き裂かれそうになる。弾幕の痛みだけではない、もっと別の痛みに、心が悲鳴を上げそうになる。

 

「フラン……ッ!」

 

 そう名を呼ぶだけで体が軋んだ。そして、それ以上なにも言えなくなった。

 言葉がない。言うべき言葉が。諦めるな? 狂気に負けるな? 違う、そんなのじゃない。フランが望んでいるのは、そんな無責任で勝手な言葉なんかじゃない。

 いや、そもそも――

 

「助けてよ、お姉様……! 助けてよ、咲夜、美鈴、パチュリー……! 助けてっ……!」

 

 今この場所にいなければならないのは、フランに必要とされているのは、この紅魔館に住む者たちであって。月見はもはや、ただの部外者でしかないのだ。

 血がにじむほどに、強く唇を噛む。

 部外者だからといって、どうして引き下がれる。望まれていないからといって、どうして諦められる。……だが、部外者の自分に一体なにができる?

 たとえ月見がフランにいくら言葉を重ねても、それに意味などなく。

 たとえ月見がこの場を抜け出してレミリアのもとに走ったとしても、きっと彼女は、こちらの声に耳を貸すことすらしないだろう。

 

 一体、私に、なにができる。

 

「う、ああああああああああああああああああああ!!」

 

 考えるのは終わりだと、時間切れだと言うかのように、フランの絶叫が地下室を震わせた。フランは伝う涙をすべて散らして、月見へと己が右手を突き出した。

 

 

 その瞬間、月見の全身を戦慄が襲う。

 

 

(――!?)

「月見っ……!」

 

 

 開かれたその小さな手が、なにもない空間の中で、しかしなにかを握ろうと閉じられていく。

 それに併せて、月見の全身が不快な音を立てて軋んだ。

 

 

(これは……!?)

「お願い、月見っ……!」

 

 

 月見の知らない別次元の力が、体をどんどん圧迫していく。

 まるで、フランの掌が、こちらの体を直接握り潰そうとしているかのような。

 

 

(まさか――!)

「お願いだからっ……!」

 

 

 本能が警鐘を鳴らす。逃げろ、と。このままでは死ぬぞ、と。

 

 けれど――逃げるには既に、遅かった。

 

 

「あ、」

「逃げてえええええええええええええええ!!」

 

 

 

 

 

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして、紅魔館全体を覆い尽くしていた、二つの妖気の闘争が終わった。

 それが意味するところはただ一つ。フランと月見の戦いが終わった――すなわち、月見がフランに敗れ、殺されたということだ。

 

 自室から妖気の収束を確認したレミリアは、傍らに咲夜を引き連れて、地下室へ悠然と歩を進めていた。咲夜を同行させるつもりはなかったのだけれど、本人が強くそれを望んだので、仕方なく付き合わせていた。

 

「そんなに結果が気になるの? 言ったでしょう、フランの勝ちよ。運命がそうなっているんだもの」

「いえ……この目で確かめたいと、思いまして」

 

 答える咲夜には、ややの迷いの色がある。

 

「なにか気になることでもあるのかしら」

「……そう、ですね。少し」

 

 はぐらかすような回答を聞いて、レミリアはふっと思い出した。そういえば彼女、月見を連れて客間を出ていったのち、少しばかり戻りが遅かった。もしかしたらその際に、彼との間でなにかがあったのかもしれない。

 

「……」

 

 少し気に掛かったが、追究はしなかった。どの道、彼が死んだ今となっては関係のないことだ。

 それからはどちらとも口を開くことなく、カツ、カツ、静けさの帰った廊下を鳴らして、やがてそびえる鉄扉の前に至る。

 

「……」

 

 この扉を開けてからのことを、レミリアは少し考えた。最近はフランに構ってやることもあまりできていなかったから、目障りな狐を始末してくれてありがとうと、思いっきり褒めてあげよう。そうすればきっと、大喜びして素敵な笑顔を見せてくれるはずだ。そう思い、無骨な鉄の塊を押し開けようとした。

 ふと、気づく。

 

「……?」

 

 鉄扉の足元。淡い光を放って青白く輝く、なにかがあった。屈んで顔を近づけてみれば、どうやら月見草らしい。小さく、けれど凛として、不思議な美しさを放っている。

 ――どうして、こんなところに?

 ここは室内、しかも太陽の光など一瞬たりとも差し込まない地下だ。なのにこんなに綺麗な月見草が咲くなど、ありえるのだろうか。

 

「……おかしいですね。先ほど来た時は、こんなものなかったはずですが」

 

 傍らで、咲夜がそう眉根を寄せた。先ほどとは、月見をこの地下室に案内した時だろう。ということはこの月見草、フランと月見が戦っていたわずか数分の間で咲いたとでもいうのか。

 ……ありえない。一体これはなんだと、レミリアは月見草に手を伸ばした。

 そして、触れた指先が微かに花びらを揺らした瞬間。

 

「あっ……」

 

 触れられれば壊れる呪いでも掛けられていたのか――月見草が、途端に青白い光の粒となって霧散した。レミリアの指をすり抜け、周囲に満ち、あの小ささからは想像もできないほどに甘く香った。

 くらりと来る。

 

「っ……」

 

 果たして月見草は、ここまで強く香るような――いや、それ以前に、光の粒子となって消えるようなものだっただろうか。鼻に残る甘い香りが、どことなく夢を見ているかのようで気持ち悪い。

 

「お嬢様、今のは……?」

「……」

 

 咲夜が胡乱げに尋ねてくるけれど、恐らくレミリアも今はそんな面持ちをしているはずだ。

 

「……まあ、あとでパチェにでも訊いてみましょう」

 

 自然のものでないことは間違いないだろうが、生憎とそのあたりの知識には明るくない。結局、今はどうでもいいことだろうと判断した。わからないことにいつまでも頭を捻るよりも、少しでも早くフランを褒めてやりたいという気持ちが強かった。

 だからレミリアは鉄扉を押し開け、中に体を滑り込ませた。どうだったかしらフラン、新しい玩具の使い心地は。そう、笑顔で、愛する妹に声を掛けてやろうとした。

 

 

 

 だから、フランの体が、月見の“十一本”の尾で斬り刻まれて飛ばされるのを見た時。

 レミリアの世界は、その鼓動を完全に止めていた。

 

 息遣いの消えた世界、視界に認識できるものは、小さなフランの体だけ。

 鮮血を散らして、床を何度も転がって、やがて動かなくなる、その最期まで。

 

 

 

「――え?」

 

 こぼれた声は、果たして誰のものだったか。それを認識できるほど、頭は動いてくれなかった。理解できない。理解したくない。理解してはいけない。それだけの言葉で埋め尽くされて、なにも、わからない。

 

「……ああ、来たのか。レミリア」

 

 あの低く落ち着いたバリトンは、聞こえなかった。

 ぞっとするほどに感情の失せた、冷たい冷たい、無機物のような、

 

「結果なら、見ての通りだ。私が勝ち――」

 

 声が、聞こえる。

 

 

 

 

 

「――彼女は、死んだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第10話 「たった一つの愛の証明」

 

 

 

 

 

 ――ねえ、お姉様。

 ……なあに、フラン?

 

 ――あのさ。もしフランがいなくなったら、お姉様はどうする?

 ……意味がわからないわよ、フラン。なによ、いなくなったらって。

 

 ――そのまんまの意味よ。もし私がお姉様の前からいなくなったら、お姉様はどうする?

 ……捜すわ。当たり前でしょう?

 

 ――じゃあさ、もし私が誰かに殺されそうになったら、どうする?

 ……なによ、それ。

 

 ――喩え話よ。……ねえ、どうする?

 ……守るわよ。下らないことを訊かないで。

 

 ――もし、殺されちゃったら?

 ……訊かないでと言ったはずよ、フラン。……なに、怖い夢でも見たの?

 ――……。

 ……大丈夫よ、フラン。……させないわ、そんなこと。

 ――お姉様……。

 ……ええ、させるものですか。フランは絶対に、私が守るから。

 

 ――どうして? どうしてお姉様は、フランを守ってくれるの?

 ……どうしてって、そんなの決まってるでしょう?

 

 だって、私は。

 

 この世界でたった一人の、あなたの――

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 雷の如く迸った紅い妖力が、槍を成す。

 

 その動きを、決して意識したわけではない。

 しかしレミリアは、いつしか己が(かいな)にグングニルを発現させていた。

 一瞬遅れてついてきた理性が、どうしてこんなことしているの? と自らに問い掛けてくる。そしてその時になってようやく、レミリアは気づくことができた。

 

 ああ、そっか。私の本能が叫んでるんだ。

 

 

 ――こいつを、殺せって。

 

 

 だから、レミリアはそうした。殺すと、その意志だけを以て、グングニルを投擲した。

 十一の尾を揺らす妖狐。フランを殺した――月見に向けて。

 

「――!」

 

 光爆。紅い光だ。月見を貫いたグングニルが、込められたあまりの妖力に耐え切れず、内側から爆薬の如く炸裂した。轟音と熱風がレミリアの体を打ち、激震が紅魔館を揺るがしていく。あまりの衝撃に、隣で咲夜が悲鳴を上げて膝をついた。

 だが、そんなことなどどうでもいい。

 

「ッ、フラアアアアアン!!」

 

 濁流のように荒れ狂う黒煙を、声で、体で切り裂き、レミリアは駆けた。フラン。血に沈んだあの光景など夢だと、死んだなど嘘だと、ただひたすら自分に言い聞かせて。

 けれど、それこそが夢だったのだ。

 

「フラン、フランッ……!」

 

 体中を斬り刻まれ、鮮血で染まった肢体。光を失い、淀んだ闇色で潰れた瞳。生気が抜け落ち、身が凍るほど真っ白になった頬。レミリアが駆け寄っても、抱き起こしても、決して動いてはくれない。

 そして、なによりも。

 フランの運命が、見えない。

 能力を使っても、見える彼女の運命はただの暗闇。月見の尾で斬り刻まれたその瞬間に途切れ、唐突に、終わってしまっていた。

 それが意味することなんて、一つしかなくて。……ああ、そうだ。これと同じ暗闇を、かつて月見の運命を覗いた時に、見ていたじゃないか――。

 

「あ……!」

 

 死んでいる。

 

「あ、ああ……!」

 

 本当に、死んでしまっている。

 

「あああああっ……!!」

 

 たった一人の妹が、目の前で、無惨に、死んで――

 

 

 

「――再会の挨拶にしては、少し乱暴なんじゃないか?」

 

 

 

 頭蓋を殴り飛ばされる感覚。響いた声に、レミリアの体が瞬く間もなく凍りついた。

 払われた黒煙の、向こう側。

 あいつが、いる。グングニルが直撃したはずのに、それでもなお。

 傷一つ――いや、衣服の一糸すら乱さない、完全な無傷の姿で。

 銀の十一尾を靡かせ、月見が立っている。

 

「――っ!?」

 

 驚愕、とはいう言葉だけでは足りなかった。レミリアが扱う攻撃手段でも最高クラスの殺傷力を持つグングニル。それを考えうる限りの全力で放ったのに、直撃したはずだったのに、どうして傷一つ負っていない? 身を打つ感情はもはや驚愕ではない。恐怖、であった。

 

「どうして……」

 

 こぼれ落ちた言葉を拭う。違う。今レミリアが問うべきなのはそんなことではない。

 だからレミリアは、なぜ、と言葉を替えた。腕の中にある妹の体をきつく抱き、揺れる銀を睥睨(へいげい)し、叫んだ。

 

「なぜ、フランを殺したっ――!!」

「さほどとりたてた理由はないよ」

 

 言葉と呼ぶには、あまりに無機質な即答だった。その言葉がまるで別世界のモノのように異質に聞こえて、レミリアは返す声を失った。

 月見はあくまで淡々と、ただ事実だけを告げるように言う。

 

「生きるか死ぬかの殺し合い、その直線上にある至ってありふれた結末だ。一方が勝ち、一方が負けた。それ以上でもそれ以下でもない」

「……!」

「殺さねば、殺されていた。だから、殺される前に、殺した」

 

 レミリアを冷たく見下ろし、それでも最後にだけは笑みの陰を見せて。

 

「――それだけだ」

「ッ――!!」

 

 転瞬、レミリアは飛び出していた。フランの体を置いて、その分だけ速く、強く。

 また本能が叫んでいる。あいつを殺せと頭蓋を叩いてくる。脳髄が割れるほどに痛くて、焼き切れそうなほどに熱くて、泣き出しそうなほどに苦しくて――それはまさしく、“怒り”という名の感情だった。

 

 やはり意識しないうちに、右手にはグングニルがあった。あの鮮紅色の刃は、今は昂ぶる激情でひどく黒ずんでしまっている。構いはしなかった。この色で、あいつの銀を凄惨に染め上げてやろうと思った。

 

 腕に渾身の妖力を収斂(しゅうれん)させ、そのあまりの密度に筋肉が軋むのも構わず、突き出す。切り裂かれた大気が悲鳴を上げるほどの速度だった。やつの心臓。ただそれだけを見ていた。肉を切り裂き骨を砕く感触ごと、一閃する。

 その手応えは、間違いなく現実のものであったはずだ。飛散した鮮血は、二つに分かたれた彼の肢体は、間違いなく本物であったはずだ。

 

「――甘いぞ、吸血鬼」

 

 ――なのに、どうして、やつの声が背後から聞こえるのだ。

 冷静に考えれば、フランの『フォーオブアカインド』のように分身だったのかもしれない。しかしその思考に至りかけた時には既に遅く、背後から来た全身を震撼させる衝撃に、レミリアの体は瞬く間もなく制御を失った。宙を吹き飛んでいるのだと、それだけが辛うじてわかった。しかしわかったところで為す術もなく、壁に激突して身動きが取れなくなるまで、何度も何度も水切りするように床を転がった。

 そうして己の総身が完全に床に沈んだ時、レミリアはもう指先を動かすことすら敵わない。全身を蝕む激痛のせいもあったけれど、それよりも、なによりも、妹が殺されたというのになにもできない自分が、打ちのめされるほどに情けなくて。

 

「ッ、……ぅ、く……!」

 

 こぼれ落ちたグングニルが空気に溶けていく。紅い霧が広がる横倒しの世界。痛みで霞み涙で潤んだ視界で、しかしあの銀だけが、なにも変わることなく静かに映える。

 空気を撫でるような声音で、月見が言った。

 

「……レミリア。どうか私に、一つだけ訊かせてくれないか?」

「……ッ、」

 

 なにをだ。そう言い返そうとしても、脳の命令が上手く体に伝わってくれない。悶えるように拙く呼吸し、呻くことしかできなかった。

 それを、月見は肯定と取ったのだろう。一歩ずつ歩みを寄せながら腕を組み、険のある細い視線でレミリアを見据えた。

 問いが来る。

 

「――なぜ、お前はそんなに怒っているんだ?」

 

 すぅ、と寒気がした。怖いと、レミリアは思った。どうしてそんなことを訊くのか理解できなかった。そんなの、そんなことなど、答えるまでもなくわかりきっているはずなのに。

 けれど、月見は静かに首を横に振った。

 

「わざわざ問うまでもないことなのは、私だってわかっているさ。たった一人の妹が殺されたんだからね。……けど、けどね。こうなるより少し前に、私はあの子から聞かされたんだよ」

 

 背後に横たわるフランの体へと須臾(しゅゆ)の意識をやって、それから咎めるように、嘆くように眉を歪めて、言った。

 

 

 

 ――私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない。だから、誰も助けてなんてくれないんだ。

 

 

 

「――……」

 

 レミリアは呼吸を失う。あれだけ熱く暴れていた頭が瞬く間に血の気を失い、静まり返る。

 確認するように、月見がつなげる。

 

「……この言葉の意味が、お前にわかるだろうか」

 

 わからなかった。

 本当にフランがそんなことを言ったのかと、信じられなかった。

 

「わからない、といった風だね。やっぱり、だからこそ、長年あの子を幽閉し続けたということか」

 

 嘘だと思った。けれどなにも言えなかった。冷え切った頭はちっとも動いてくれない。ただレミリアの小さな手だけが、その冷たさに凍えてカタカタ震えていた。

 なんで。どうして。呆然と月見を見つめる。彼は諭すように据えた瞳をしていた。嘘偽りない、真実を告げる者の瞳だった。嘘じゃない。でも信じられない。信じたくなかった。だって、彼の言葉がもし真実だったら、レミリアは。

 月見が、その面差しに眉を下げた微笑を落とした。

 

「まあ、少しばかりそのままで、ゆっくり考えてみてくれないか。――私が“この子”の相手をしている間にね」

 

 その時。月見の背後、靡く十一尾の奥で、もう一つの銀が映えた。

 月見のものではない。あの銀は、いつもレミリアの傍で揺れる、彼女の。

 

 

「――月見様ああああああああ!!」

 

 

 十六夜咲夜。レミリアでさえ未だかつて聞いたことのない、強い、強い叫びを以て。

 横一閃、耀(かがよ)うナイフの太刀筋で、斬り払う。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 振り返った月見は、走った銀閃を一歩背後に退いていなす。ナイフを振るった少女――十六夜咲夜。唇を固く引き結び、目元をくしゃくしゃに歪め、体を震わせて、込み上げてくる感情を全身で押し殺して、彼女はそこを薙いでいた。

 

「来てしまったんだね、咲夜」

 

 月見は力なく微笑み、ため息を落とすように小さく息をついた。

 

「……お前には、見せたくなかった」

「ッ……!」

 

 再度、銀閃が光る。

 こちらの胸板を狙っての横薙ぎを、月見は過たず咲夜の腕を掴んで止めた。甘い一閃だったし、それは咲夜もわかっていたろう。だが取られた右腕を解こうとする様子はなかった。また、未だ自由である左腕で抵抗することもなかった。深く俯き、ただしきりにその肩を震わせていた。

 

「やめろ、咲夜……!」

 

 背後から刺すようなレミリアの声が飛ぶ。次第に痛みから回復してきたのだろう、腕を杖にして必死に体を起こそうとしていた。

 

「貴様、咲夜にまで手を出してみろ! その時はッ……!」

「別になにもしやしないよ」

 

 月見は簡潔にそれだけ答えた。だから黙っていろと、言外に伝えた。

 同時、咲夜が動きを起こした。取られた右腕を振り解くのではない。能力を使って逃れるのでもない。自由の左腕で拳を作って、振り上げ、

 

「どうしてですか……!」

 

 月見の胸を、叩く。

 

「どうして、こんなことっ……!」

 

 攻撃するためではない。

 

「どうしてっ……!」

 

 伝えるために。

 

「どうしてなんですかっ……!」

 

 振り上げて、振り下ろして。ただそれだけを繰り返す。

 動きは緩慢だった。拳に力はこもっていなかった。咲夜が体に巣食う震えとともに顔を持ち上げると、蒼の瞳の下で、決壊寸前の水面が揺れていた。

 

「いやですよ、こんなのっ……!」

 

 振り上げ、振り下ろす。水面から雫がこぼれた。

 振り上げ、振り下ろす。こぼれた雫たちが、川を作った。

 

「いやぁ……っ!」

 

 次々こぼれ落つ涙を拭おうともせず、震える声を隠そうともせず。

 

 

 

「――私は、こんな涙を流すためにあなたを信じたんじゃないのに!!」

 

 

 

 咲夜は、泣いた。

 そして振り下ろした最後の拳だけは、月見が一歩後ろにたたらを踏むほどに強くて。言葉は確かに、月見の胸を叩いていた。

 月見の襟にしがみついて、胸に額を押しつけて、咽び、泣きじゃくる、少女。

 

「……」

 

 咲夜が涙を流す理由は、きっとフランが殺されたことだけではない。本当に月見を信じていたのだろう。だからこうして裏切られて、悔しくて、悲しくて、泣いて。

 すまない、と月見は思う。けれど言葉にはしなかった。たとえ咲夜の思いを裏切ってでも――いや、こうして裏切ったからこそ、決してあとに退いたりはしない。最後まで、成し遂げる。

 だから月見は咲夜の頭にそっと手を置き、そこを通して妖術を掛けた。お前は、どうか静かにしていてくれと。

 

「あ……」

 

 咲夜の体からふっと力が抜ける。手が月見の襟から滑り落ちる。慌てて掴み直そうとして、しかしそれすらできず、その場にペタリと座り込んだ。

 一時的に体を弛緩させる妖術。目元を濡らしたまま虚を突かれた面差しでこちらを見上げる咲夜に、月見は眉を下げて微笑んだ。

 

「そのまま静かにしていてくれ。……もう少しで、全部終わるから」

「月見、様っ……!」

 

 咲夜が全身に力を込め、立ち上がろうとした。けれど動かない。立ち上がれない。だから月見は、もう咲夜を見なかった。

 振り返り差し向かうは、一人の吸血鬼の少女。

 

「月見様ああぁ……っ!」

 

 背後で上がる泣き声を聞くこともせず、レミリアに向けて歩みを寄せた。

 彼女の本当の気持ちを、あの子に届けるために。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ……フランは、寂しかったのだろうか。

 

 ――私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない。

 

 ……そうだったのかもしれない。確かにレミリアは彼女を遠ざけていた。紅魔館の者たちに、彼女に近づくことを禁じていた。けれどそれは愛していなかったからではない。愛していたからこそ、フランが誰も傷つけたりしないようにと張った予防線だった。

 すれ違っていたのだろう。レミリアの想いはフランに届いていなかった。彼女がこれ以上誰かを傷つけ、疎まれてしまわないようにと、そればかりに囚われて気づけないでいた。

 わかっている。これはレミリアの責任だ。フランと理解し合うことをせず、ただ一方的に押しつけるばかりだった、レミリアの。

 

 でも、

 でも、

 レミリアは、知らない。

 

 ――だから、誰も助けてなんてくれないんだ。

 

 その孤独を、フランが助けを求めるほどに苦しんでいたなんて――レミリアは、知らない。

 だって、フランはいつも笑っていた。時折顔を見にいった時も必ず笑顔で出迎えてくれて、一生懸命に色んな話を聞かせてくれて、暗い顔なんて一度だって見せたことがなかった。だから、フランも狂気を制御しようと前向きに頑張っているんだと、信じていたのに。

 故に、レミリアは知る。

 レミリアの想いがフランに届いていなかったように。

 フランの想いもまた、レミリアに届いていなかったのだと。

 

「……わかっただろうか。あの言葉の意味が、お前に」

「……」

 

 カツ、カツ――(くつ)で床を静かに鳴らし、月見が近づいてくる。けれど彼の声は、もうほとんどレミリアには聞こえていなかった。

 茫然と、言葉がこぼれる。

 

「……どうして、なにも言ってくれなかったの? 独りが嫌だったなら、助けてほしかったなら、そう言ってくれれば……いくらでも一緒にいてあげたのに……」

「面白いことを言うね」

「っ……!」

 

 弾かれるように顔を上げた。月見が口の端を醜く歪め、侮蔑するように笑っている。

 力を失っていたレミリアの心が、またざわついた。

 

「なにが、面白いんだ……!」

「いやね。反面教師として、これ以上愉快なものはないじゃないか」

 

 くつくつ、月見は喉を鳴らして。

 

「だって、そうだろう?」

 

 右腕を低くレミリアへ掲げて、薄気味の悪い笑顔とともに。

 

 

 

「――だってお前は、フランになにも言わなかったじゃないか」

 

 

 

 どくん――一度だけ、心臓が強くレミリアの胸を叩いて――それっきり、止まった。

 そんな、ありえない感覚を感じた。全身の血が急に温度を失って、体が内側から凍えていく。あまりの寒さに筋肉が固まってしまっていた。なにかを言おうとしても、唇すらまともに動いてくれなかった。

 

「外は危険だからって、そればかり嘘をついて、なにも言ってやらなかったじゃないか。……そんなお前がなにも言えなかったあの子を責めるなんて、面白い話だと思わないか?」

 

 上げていた右腕を浅く振り払い、月見は笑みを消して、強い眼光を光らせた。 

 

「いいか、あの子はなにも言わなかったんじゃない。なにも言えなかったんだ。お前がなにも言ってやらなかったから、なにも言えなかったんだ。もしかして嫌われているんじゃないか、愛されていないんじゃないかと、それが怖くて、もしそうだったら自分が壊れてしまうから、ずっとなにも言えなかったんだよ」

 

 倒れそうになった上体を、レミリアは咄嗟に腕を杖にして支えた。頭が痛い。目の前がグラグラする。どうしようもないくらいに気持ちが悪い。

 月見は言葉を止めない。

 

「なあレミリア、知っているか? フランはね、別に心を狂気に支配されてなんかいなかったよ。自分の中に生まれた狂気の人格と、ずっと戦っていたんだ。呑み込まれないように抵抗していたんだ。何百年も、この薄暗い地下室で、たった独りで、でも諦めないで。……知らなかったろう?」

 

 嘘だと叫びたかった。ふざけるなと吐き捨てたかった。言葉は出ずに、ただ肩で息を切らす動きだけが音になった。

 

「でもね、ほんの少し親身になるだけで、私はそれを知ることができた。ただ少し本気で話をするだけで、お前が知らない真実を知ることができた。時計の長針が一回転する、たったそれだけの時間で、お前が何百年も知らないでいたあの子の本当の気持ちに気づけたんだ」

 

 頭の中はメチャクチャになってしまっていた。今までフランとの間に築いてきたものが、すべて音を立てて崩れていく。今まで見てきたフランがすべて幻だったような気さえした。なにが本当で、なにが嘘で、なにが正しくて、なにが間違いで――そのなにもかもが、崩れ落ちていく思考に呑み込まれてわからなくなっていく。

 けれど――

 けれど、たった一つだけわかることがあった。

 

「泣いていたよ、あの子は。寂しいと。悲しいと。辛いと苦しいと痛いと、……もう嫌だ、とね。だから私が終わらせることにした。あの子もそれを受け入れたよ。そう、――これは、望まれた結末なんだ」

「っ……」

 

 確かにレミリアは、フランの想いに気づいていなかった。フランなら大丈夫だと妄信するばかりで、目を向けようともしていなかった。

 だが、だが今こうしてレミリアの前ですべてを語るこの男は、フランに一体なにをした? フランの本当の想いを知って、その上で一体なにをした?

 跳ねるように体が震えた。焼かれるように肺が熱くなった。爪で床を抉り、月見を睥睨し、レミリアは声を絞り出した。

 

「だから、フランを殺したのかっ……!」

「そう。私があの子を殺さずに真実を伝えようとしても、どうせお前は耳を貸してくれなかったろう。ありもしない戯言を言うなと、一蹴したはずだ。違うか? それじゃあなにも変わらないだろう。あの子が苦しみ続けるだけだろう」

「っ……」

「まあ……そもそも私自身が殺されそうになってしまったから、選択の余地などなかったのだけどね。――だから殺した。私一人がお前たちから憎まれるだけで、あの子は永遠に楽になるんだ。それは、あの子にとって確かな救いだろうさ」

「黙れ……」

 

 月見の言い分は理解した。彼がフランに手を掛けた理由、今となってははっきりした。

 けれど、はっきりとした今だからこそわかる。理由なんて、本当は最初からどうでもいいことだったのだ。

 

「確かに、あの子を殺したのは私だ。だが言わせてくれ。これは、お前があの子とちゃんと向き合っていれば回避できたはずの結末だ」

「黙れ……!」

 

 なぜなら、その理由がどんなに理に適っていて、正しくて、仕方のないものだったとしても。

 

「だから、問わせてくれ。どうして、あの子とちゃんと向き合ってやらなかった」

「黙れっ……!」

 

 たとえ間違っているのが、レミリアの方だとしても。

 

「故に、知れ。――この結末の引鉄になったのは、他でもない。あの子の心から目を逸らし、背中を向け続けた、お前の歪みくねった愛情だ!」

「黙れええええええええええ!!」

 

 ――レミリアは決して、彼を許しなどしないのだから。

 

 喉は、限界まで震えた。そうして放たれた咆吼は、体を縛る(くびき)を激烈に断ち切り、レミリアの総身に力を呼び戻す。

 抉った床の欠片を粉にするほど強く握り締めて、渾身の力を奮って立ち上がった。

 

 

「お前になにが! お前に一体、なにがわかる!? 今までフランが、どれだけ周囲から危険視されてきたか知っているか!? どれだけ疎まれてきたのか、知っているのか!? 咲夜や美鈴がこの紅魔館に来る前はな、フランと親しくしようとする者なんて一人もいなかったよ! みんながフランを避けたんだ! ただ、ただその身に狂気を宿しているというだけで!!」

 

 

 咆吼は、軛のみならず感情の堰をも砕いていた。憤怒、悲哀、後悔、憎悪。それらの感情が体の中で氾濫し、引き裂かれてしまいそうになる。その感情を言葉にするたびに、全身が悲鳴を上げている。

 だがそれでも、叫びは決して途切れない。

 

 

「私だって、フランを外に出してやりたかったさ! 一緒に外を散歩したかったさ! だがな、もし外に出たフランが、その狂気のせいで拒絶されてしまったら!? 嫌われてしまったら、一体どうなる!? 身内から避けられ、外からも拒絶されてしまったフランは、一体どこで生きていけばいい!? フランの居場所がこの世界から消えてしまう! フランがこの世界に、いられなくなってしまうんだよ! 私は、それがどうしようもなく怖かった!!」

 

 

 手を握り締め、

 

 

「――だから、幽閉した! いつしか、フランがその狂気を完全に制御できるようになると信じて! いつしか、二人で外の世界を自由に飛び回れる時を願って! いつしか、フランがこの世界に受け入れられることを祈って! ――そうしたら、外の世界にフランの居場所が作れるんだから!!」

 

 

 腕を振り払い、

 

 

「望まれた結末だと!? ふざけるな!! たとえフランがそれを望んだとしても、私はそんなことなど望んではいなかった!! ああそうさ、確かに私は間違っていた!! 今になってどうしようもなく後悔しているよ! どうして気づいてやれなかったのか! どうしてちゃんと向き合ってやれなかったのか! もっと心の底から、ちゃんと、フランを愛してやればよかったっ……!!」

 

 

 歯を噛み砕き、

 

 

「だがな、フランはもう死んだ! 死んでしまったんだ!! どんなに抱き締めても! どんなに名前を呼んでも! どんなに謝っても! どんなに愛していると叫んでも! なに一つとして返ってこないっ……! 声も、笑顔も、温もりも鼓動もなにもかもが!! 私が愛する妹は、私が謝るべきあの子は、もう、もうどこにもいないんだっ……!!」

 

 

 喉を切り裂き、

 

 

「――だから私は、お前を決して認めない!! 私からあの子を奪ったお前を、絶対に許さない!! たとえ刺し違えてでも、この場で仇を討ってやる!!」

 

 

 体を砕くほどに、

 

 

「それだけが……!」

 

 

 切に、

 

 

「それだけがっ――!」

 

 

 切に。

 

 

 

 

 

「それだけが、今の私にしてやれる、フランへの!!

 

   ――たった一つの愛の証明だ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 全身を粟立たせるこの感情を、月見は畏怖だと感じていた。

 レミリア・スカーレット。放たれた彼女の覇気は風をも生み出し、強く月見の肌を打ち、駆け抜けていく。粟立ったのは体だけではない。心もまた、その小さな吸血鬼の姿に圧倒されて震えていた。

 

 ――吸血鬼は、実に誇り高く、実に高貴で、実に美しい種族である。

 あの言葉通りの存在が、今、目の前にいる。

 

 子どもだと思った。伝え聞く吸血鬼の姿とは違うのだと落胆していた。だが違った。幼い容姿の奥底には間違いなく吸血鬼の誇りが(かよ)っていて、それを今この場で目の当たりにできること、月見は心の底から至高だと感じていた。

 妹を失ってなお誇り高く、

 激情に支配されてなお高貴で、

 体中に傷を負ってなお、美しい。

 もはやこれ以上などありはしない。わざと居丈高な態度を取って、一芝居打った(・・・・・・)甲斐があった。

 レミリアの想いは、間違いなく彼女に伝わったろう。――物陰からレミリアの背中を窺う彼女は、もうこれ以上居ても立ってもいられないと、こちらに一生懸命目配せをしてきていた。

 

(……そうだね。もう、充分だ)

 

 故に月見は、高く高く声を上げる。

 こぼれる笑みを抑えられない、最上の歓喜とともに。

 

「――見事だ、レミリア・スカーレット!!」

 

 指を鳴らす。

 この下らない世界を、さっさと終わらせてしまうために。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 パチン――。

 その音が響いた瞬間、レミリアを強烈な不快感が襲った。まるで、夢の中から無理やり現実に引き戻されたかのような。視界がぐわりと歪み、咄嗟に手を顔にやってしまう。

 

「なにをした……」

 

 レミリアの問いに、月見は答えなかった。ただ勿体ぶるような笑みを、その顔に貼りつけているだけ。

 だが、その笑みの意味するところがなんであったとしても、レミリアがすべきことは変わらない。目の前の妖狐を殺す。それだけだ。

 自己満足なのかもしれない。仇を討ったつもりになって、遅すぎたフランへの罪悪感を紛らわせようとする、浅ましい行為なのかもしれない。でも、彼女を失った今のレミリアには、もうそれだけしかないから。

 不快感は既に消えていた。レミリアは再度妖力を開放し、右手にグングニルを宿す。

 

 そして鋭く呼吸を一つ――前へと踏み出す、刹那。

 

 

 

「お姉様っ――!!」

 

 

 

 後ろからぶつかってきた小さな衝撃が、それを止めた。

 

「…………え?」

 

 漠とした声がこぼれる。

 胸に回ったのは、もう二度と動かないと思っていた、見慣れた小さく華奢な腕。

 頭に響いたのは、もう二度と聞けないと思っていた、聞き慣れた可愛らしい声。

 背に伝わるのは、もう二度と触れないと思っていた、感じ慣れた柔らかな鼓動。

 それは、まさに――

 

「フラ、ン……?」

「うん、うんっ! フランだよ、お姉様っ……!」

 

 強く頷くその動きが、レミリアの体をひどく懐かしく揺らした。

 妖力を制御することができない。携えたグングニルが霧散し、紅い霧となって(くう)に溶けていく。体が震え、喉が渇き、瞳が揺れ、息が乱れ、頭が痛む。

 

「ほん、とうに……?」

「本当だよ、お姉様」

 

 そう絞り出すのがやっとだった。でも、それでも、応えははっきりと返ってきた。レミリアを抱き締める小さな腕に、ぎゅっと力がこもった。

 

 ――ああ、感じる。

 

 この手は、間違いなくフランのもので。

 この鼓動は、間違いなくフランのもので。

 このぬくもりは、間違いなくフランのもので。

 

 そして、振り返れば――そこにいたのは、間違いなくフランで。

 

「――――――!!」

 

 ……その瞬間レミリアは、少なくとも自身の記憶の中では生まれて初めて、声を上げて泣いた。

 フランが生きていた。ただそれだけに、胸を埋め尽くされて。

 ――もう二度と、放さない。

 レミリアは、愛する妹を強く抱き竦めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 殺したくない、もうやめてと、どれだけ必死に祈っても、反して体は勝手に動いた。もはや自分のものではない体は、まるで楽しむかのような余韻すら見せて、月見の『目』を握り潰そうとしていた。

 『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。万象の物質が持つ『目』というモノを自らの手中に移動させ、握り潰すことで、『目』の持ち主を爆殺する力。

 その能力で、フランの体は今まさに、月見を殺そうとしている。

 

「月見っ……!」

 

 ――ダメ! ダメ、ダメ!

 そう心で必死に叫んでも、狂気に乗っ取られた体は決して耳を貸してくれない。ただ月見の『目』を握り潰すためだけに、ただ殺害を楽しむためだけに、どこまでも勝手に動いてしまう。

 だがこの『目』を握り潰したら、月見は死んでしまう。友達になってくれないかと優しく優しく言ってくれた人が、いなくなってしまう。

 

「お願い、月見っ……!」

 

 やめて。

 お願いだから、止まって。

 

「お願いだから……!」

 

 必死に祈った。あんなに優しくしてくれた彼をこの手で殺してしまうなんて、ひどすぎる。そんな結末なんて耐えられっこない。絶対に、絶対に嫌だった。

 だから、必死に祈った。

 ――お願いだからっ……!

 

「逃げてえええええええええええええええ!!」

 

 ……でも、止まらなかった。

 グシャリ――そんな、柔らかいなにかを握り潰す感触が、生々しく手の中に広がって。

 

「――……」

 

 その瞬間、フランはきつく瞑目し、震えた。

 終わった。……終わってしまった。

 瞑った目を開けることはできない。見たくなかった。もし見てしまったら、自分が自分でなくなってしまうような気がして、怖かった。

 

「――ごめんなさい……」

 

 心がひび割れていく音が聞こえる。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 その言葉を音にするたび、殺した、殺してしまったと、心が砕けていく。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 そして唐突に、フランは知った。

 ――やっぱり私は、バケモノなんだ。

 せっかくできた優しい友達を粉々にして殺してしまうような、私は。

 

「ぁ――」

 

 漠とした声。その時フランは、確かに己の内側に感じていた。

 

 硝子が、壊れるように。

 心が、壊れた。

 

 狂気に染まっていなかった唯一の綺麗だったものが、壊れてはいけないそれが、壊れてしまった。

 

「……もう、ムリだよ」

 

 フランは笑う。すべてを諦め、涙し、虚ろに、己を嗤う。

 

「やっぱり、私なんかじゃ勝てっこないんだ……」

 

 誰にも、たった一人の姉にすらも愛されてなくて、

 唯一近づいてきてくれた優しい人をも殺して、

 そうしてまた、独りぼっち。

 

 ――もう、限界だった。

 

「もう……もう、……」

 

 自分が消えていくのを感じた。

 嗤う狂気の声に呑み込まれて、最後の自分が消えていく。

 全部、真っ黒になって、わからなくなっていく。

 

「――……」

 

 全部。全部。

 真っ暗闇に、消えて――

 

 

「――なあなあ、フラン」

 

 

 ふと、肩を叩かれた。

 誰だろう。顔を上げた。でも、なんだか目の前が暗くてよく見えない。とても背が高いけど、こんな人、私の知り合いにいたっけ。

 

「フラン、聞こえてるか?」

 

 それに、声も変だ。低い声。男の人の声。紅魔館にいる人じゃない。

 でも、どこかで聞いたことがあるような気がする。忘れちゃいけない、大切な人の声な気がする……。

 

「フラン? フーラーンー?」

 

 ……でも、どうでもいいかな。

 どうせ、もう、私には関係ないことだし。

 もうすぐ消える私には、あなたが誰だって、関係――

 

 

 

「――必殺、脳天幹竹割りっ!」

「うにゃあ!?」

 

 

 

 火花が散った。銀の火花だった。

 頭に突然痛みが走って、銀の光芒が暗闇に散って――その瞬間、世界がパアッと明るくなった。

 

「!? !?」

 

 世界が一瞬で真っ白になったから、とても驚いたけれど。

 銀色が消えて、世界に色が戻ってきた時には、すべて元通りになっていた。

 

「えっ……あ、」

 

 消えるはずだった意識がはっきり元通りになっていて、見るもの聞くもの、すべてがわかるようになっていた。

 くゆるランプに赤く照らされるここが、ずっと幽閉され続けた地下室であることも。

 誰かに、頭を思いっきりぶっ叩かれたことも。

 そして――それをやったのが、“彼”であることも。

 

「――つく、み?」

 

 ぎんのきつね。たいせつなひと。

 『目』を壊されて死んだはずの彼が、最後に見た時となにも変わらない姿で、すぐ目の前に立っていて。

 はっはっは、なんて、どこか得意げに笑っていて。

 

「――目、覚めたか?」

「あ……」

 

 その時、フランは確かに目覚めた。

 震える手で、彼の裾を掴む。掴めた。幻なんかじゃない。

 震える体で、彼のお腹に飛び込む。抱き留められた。夢なんかじゃない。

 震える腕で、彼を抱き締める。暖かかった。嘘なんかじゃない。

 

「痛い、痛い。こら、フラン。痛いって」

 

 こちらの背中を叩いて訴える彼の掌は、とても大きい。叩かれるたびにぬくもりが伝わってくる。もっと叩いてほしくて、フランぎゅっと両腕に力を込めた。

 

「ちょっ、フラン、待っ……せ、背中が! いだだだだだ!」

 

 バンバン、背中を叩かれる。ちょっとだけ痛かったけれど、でもそれ以上に嬉しくて、やめる気なんて毛頭起こらなかった。

 なんで彼が生きているのか、疑問はとめどなくあふれていた。けれど今だけは、このぬくもりに少しでも長く浸っていたくて。

 

「よかったっ……!」

「い、いや待て、現在進行形でとてもよろしくない――あだだだだだだだだ!?」

 

 頭の上で上がる彼の悲鳴は、ごめんなさいと思いつつ、聞かなかったことにした。

 フランは笑う。あいもかわらず、涙は流れていたけれど。

 

「よかったよぉ……っ!!」

 

 それでも今度は、とっても綺麗に、笑うことができた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 死ぬかと思った、と月見は額の脂汗を拭った。背骨がズキズキと鈍い悲鳴を上げている。フランを引き剥がすのがあと少しでも遅れていたら、無惨に砕けてしまっていたかもしれない。

 やはり幼くとも吸血鬼。その膂力(りょりょく)は、白磁を思わせる細腕からは計り知れないほどに高いようだった。

 

「子どもに抱きつかれて死にかけるなんて、なかなか貴重な体験だったね」

「ご、ごめんなさい……」

 

 あの戦いを終えてしばし、月見はまた、フランのベッドの縁に腰を預けていた。その背を、フランが大分気後れした手つきでさすってくれている。背骨の上を行ったり来たりする小さな手は少しくすぐったくて、なんだかおじいちゃんになったみたいだな、と月見は思った。今や数千年を生きた自らの齢を考えれば、それでもまったく不思議はないのだけれど。

 

「……ねえ、月見」

「ん?」

 

 背中に掛かるフランからの問いに、振り返らずに応じる。

 

「どうして、無事でいられたの?」

 

 ポツポツと、フランが自分の持つ能力について教えてくれる。『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。万象の物質が持つ『目』というモノを破壊することで、相手を粉々に爆砕してしまう能力だと。

 なるほど、あの時に月見が感じた死の予感は、気のせいでもなんでもなかったらしい。思い出すだけでもなんとも肝が冷えてくる話だった。

 

「それはまた、すごい能力だねえ」

「そう……自分でいうのもなんだけど、すごい能力なの。だから、どうして月見が無事でいられたのか」

「そうだね……」

 

 月見は顎に指の腹を添え、少し、考える。

 

 結論を言えば、フランが能力を使ったように、月見もまた能力を使っていた。『当てを外す程度の能力』。相手が月見に対して抱いた予想を覆し、強制的に正反対の現象を引き起こす能力だ。

 例えば先日、月見はこの能力を使って雛の予想を覆していた。「月見が雛に近づけば、厄をもらって不幸になってしまう」――その雛の予想を覆し、「月見が雛に近づいても厄をもらわず、また不幸になることもない」――そんな現象を強制的に顕現した。

 

 今回だって、それと同じ。大方フランは、「このままでは月見が死んでしまう」とでも考えていたのだろう。だからその当てが外れて、「このままでも月見は死なない」という正反対の結果となった。

 畢竟(ひっきょう)、それだけの話なのだ。

 

「……まあ、私も能力を使ったんだよ。どんな能力かは秘密だけど」

「そうなんだ……」

 

 胸を撫で下ろすような吐息が、首筋に掛かる。

 

「私の能力を無効化するなんて、きっと月見のもすごい能力なんだね」

「そうかな」

 

 月見は緩く苦笑した。確かにこの能力は、相手が抱いている予想次第では死すら跳ね返す強力な力を発揮する。……が、その逆もまた然りだ。

 仮にあの時、フランが「どうか死なないで」と考えていたら月見はどうなっていただろうか。――この能力は、平たく言えば、天国か地獄かの大博打をするような能力なのだ。

 

 ともあれ。月見は、この地下室に近づいてくる二つの気配を感じていた。レミリアと咲夜。月見たちの戦いが終わったから、結果を確認しようというのだろう。

 だから月見は、背後のフランに静かにこう問う。

 

「フラン。……レミリアの本心、問い質してみないか?」

「っ……」

 

 小さく息を呑む音とともに、背中をさする彼女の手が止まった。

 月見は続ける。

 

「お前を幽閉した真意。お前のことを本当に愛しているのか。そのすべてを」

「……どうやって?」

「簡単だよ。思わず全部吐き出してしまうような状況を作ってやればいい」

 

 嘘偽りない気持ちを吐き出させるために、『状況』を味方につける。そのための算段が、既に月見の頭の中にはあった。

 

「例えば……目の前で自分の大切な人が傷つけられたら、その人はとても冷静ではいられないだろうさ」

「……」

 

 フランは、月見が考えていることをなんとなく察したようだった。またゆっくりと、その小さな手でこちらの背を撫でながら、

 

「お姉様、心配してくれるかな。悲しんでくれるかな……」

「……それを知るために、やるんだろうさ」

 

 フランを苦しめる根底にあるのは孤独。故に彼女は人一倍“つながり”に飢えていた。それは、数十分という短い時間で簡単に月見に心を開いたことからもわかる。

 フランは、絆が欲しいのだ。決して仮初めなどではない、愛にも似た絆が。

 だとしたら、今が賭けに出る一つの転機なのかもしれない。

 

「お前ももう、ずっと目を逸らし続けて、ここで独りで生き続けていくのは嫌なんじゃないか?」

「……」

「レミリアとは私が話す。だからお前は、覚悟を決めるだけでいい。……前を向く、覚悟を」

 

 いつしか、フランの手は再び止まっていた。姿は見えないけれど、その沈黙から、彼女がどんな面持ちをしているのかは容易に察することができる。

 月見は、あくまで落ち着けた声色のままで続けた。決して強制するのではなく、

 

「お前に任せるよ。だから、聞かせてくれ」

「……」

 

 しばし答えがないまま、地下室に沈黙が満つ。フランに薙ぎ倒されたままになっているぬいぐるみたちが、皆、見守るように彼女を見つめていた。

 月見は胸中で、咲夜が館の空間を拡張していることに感謝した。お陰で、レミリアたちがこの地下室にやって来るまで、考える時間はたっぷりとあった。

 

 一分ほど、だったろうか。不意にフランが、月見の背中に寄り添ってきた。預けられたひどく軽い体重。躊躇いがちな指先が、つうっと背を撫でる。

 

「……もしダメだったら、どうしようね」

 

 少しだけニヒルな息遣いだった。月見は笑って、なんてことはないと答えた。

 

「そしたら、わからず屋のお姉さんをぶん殴って、家出して……そのあとは、私の娘になってみるか?」

「……へ?」

 

 背中越しで、フランがピクンと震えたのがわかった。虚を突かれ、呆然とこぼれた彼女の声。けれどすぐに、吹き出す鈴の笑い声に変わった。

 

「プッ……アハ、アハハハハハ……♪」

「ひどいなあ。笑うところか?」

「だ、だってぇ……アハハッ、ハハハハハ……♪」

 

 月見が振り返った時、フランは目元に小さな雫を浮かべながら笑っていた。おかしそうに、そして同時に、寂しそうに。

 彼女はそうしてひとしきり笑ったあと、雫をさっと拭って、吐息する。

 

「それもまあ、いいかもなあ……」

「……」

 

 呟くその表情には、やはり薄い寂しさの影が差していた。すぐに取り繕うように表情を改めたけれど、代わりに浮かべた笑顔は不器用だった。

 

「うん、そうだね。私も、頑張って前を向くよ」

「……いいのか?」

「……ほんとは、怖いよ。でも大丈夫。だって――」

 

 くしゃり、甘えるように笑って、

 

「月見が、支えてくれるんでしょ? だったら、頑張れるから」

「……そっか」

 

 強い子だと、月見は思った。だから同じようにくしゃりと笑って、フランの頭を優しく叩いた。

 

「よし。じゃあ一つ、頑張るとしようか」

「……はい」

 

 フランの笑顔から、寂しさの影が抜けた。

 話はまとまった。月見はベッドから立ち上がる。フランのあの弾幕――『495年の波動』といったか――によるダメージもすっかり回復していて、体に違和感は残っていない。万が一レミリアと戦うような事態になったとしても問題はないだろう。

 フランは怖がっているようだけれど、月見には、レミリアが彼女を愛しているという確信があった。だからレミリアの目の前でフランを倒せば、レミリアは間違いなく激昂する。あの深紅の槍を、今度は寸止めでもなんでもなく、本気で振り抜かれることだってあるかもしれない。

 大仕事になりそうだと、月見は内心で苦笑した。

 

「さて。レミリアがこの部屋に入ってきたら、お前が私に倒される……と、そういう話だけど」

「うん」

「それなんだが、フランはなにもしなくていい。物陰にでも隠れて、見つからないようにしておきなさい」

「……え?」

 

 どういうこと? と目を丸くしたフランに、月見は勿体ぶるように口端を引き上げた。

 

「言ったろう? お前がすべきことは、覚悟を決めることだけ。実際にお前が私に倒される必要はないよ」

「で、でもそれじゃあ、どうやって……」

 

 フランが困惑したように体をそわそわさせるけれど、しかしながら、それで問題ないのである。フランとしては痛いのは嫌だろうし、月見としても、彼女を傷つけるような真似はできる限りしたくない。

 だから、

 

「よく考えてご覧、フラン? ――私は、“狐”だよ」

「あっ――」

 

 銀の尻尾を見せつけるように大きく揺らすと、フランも月見の考えに気づいたようだった。そっか、と呟いて俯き、それからなにかを考えていたのか、ややの間を空けてから再び顔を上げた。

 

「じゃあさ、月見。……こういうのは、できないかな?」

 

 フランがベッドの上に立って背伸びをしたので、月見は耳を彼女の方に向けた。そして耳打ちされた言葉に、思わず眉をひそめる。

 

「それは……いや、しかし、いいのか?」

「……月見だって危ないだろうから、嫌だったらいいの。でも、もし大丈夫だったら、そうしてほしいなあって」

 

 なぜ? ――問うと、フランはこちらから一歩後ろに下がって、いーっ、と白い歯を見せ、

 

「いっぱいいっぱい寂しい思いをさせてくれた、仕返しっ! お姉様のばーか!」

「……、」

 

 なにか特別な思惑があるのではと勘繰っていたから、そのあまりに可愛らしい理由に、思わず呆けてしまったけれど。

 月見はすぐに、大きく声を上げて笑った。

 

「ッハハハハハ! わかった、やってやろうじゃないか。――レミリアのばーか!」

「うん! お姉様のばーか!」

 

 ばーか、ばーか! と何度も楽しそうに繰り返し、フランが部屋の奥へとトテトテ走っていく。その小さな背を目で追いながら、月見は眉根に静かな険を刻ませた。

 

 ――そうだ、レミリア。お前は大馬鹿者だ。

 あんなに可愛らしくてあんなに幼気な妹と、すれ違ったまま気づかないでいるなんて。

 だからどうか、私がきっかけを作るから、気づいておくれ。今から見せるこの夢を通して、あの子の気持ちに。そして、自分自身の本当の気持ちに。

 

 部屋の奥、物陰に隠れたフランが、パタパタと手を振って合図をしてきた。月見は頬を緩め、一つ頷く。

 瞳を閉じ、妖力を開放。あふれた力が風を生み出し、ゆっくりと肌を撫でていく。さわ、さわ、くすぐったく髪が揺れるのを感じながら、月見は静かに宣言した。

 

「――夢を見せよう」

 

 浅く両腕を広げ、形作るは一つの術式。

 

「招待状に、一輪の花を」

 

 見るものを夢へと(いざな)う――月見草。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 狐が妖術の真骨頂は、相手を化かすことにある。

 認識をずらす。幻を見せる。夢に落とす。ありとあらゆる手段を以て、華麗巧みに相手を騙す――幻術。妖狐とは、化け狸とともに双璧を成す、妖怪随一の幻術の使い手なのだ。

 

 つまり、フランが死んだのはそういうこと。

 

 月見が妖術で、『フランが殺された』という幻をレミリアたちに見せたのだ。すべては、レミリアが胸の奥に秘めていたフランへの想いを自白させるため。レミリアが幻の世界であのように激昂していた時、本物のフランは、物陰からハラハラと事の推移を見守っていたのだという。

 

 その真相を聞かされた時、レミリアは腰を抜かしてしまった。冗談などではなく、本当に立てなくなった。咲夜にお姫様だっこで運ばれる羽目になり、それをフランと月見に笑われたのは、人生でも有数の汚点となりそうだった。

 

 そして所は変わり、紅魔館の医務室にて。

 

「申し訳なかった、レミリア」「ごめんなさい、お姉様」

「……ぅえ?」

 

 その突拍子もない謝罪に、レミリアは咲夜へ右腕を出した体勢のまま固まった。

 顔を向けた正面。フランと月見が二人揃って、綺麗に斜め四十五度で頭を下げている。それがあまりに出し抜けだったので、レミリアの口から思わず変な声がこぼれていた。

 隣では、同じくして目を丸くした咲夜が、それでも律儀にこちらの腕に包帯を巻いていく。彼女の少しひんやりとした指先が肌に触れて、レミリアは正気に返った。

 

「な、なによ、いきなり」

 

 どもりつつ問えば、月見は顔を上げ、

 

「いや……目的あってのこととはいえ、あんなことをしたわけだしね。すまなかった」

「違うのお姉様、月見は悪くないの!」

 

 フランが、月見を庇うようにして一歩前に出た。

 

「言ったでしょ、私がああいう幻を見せるように月見に頼んだんだって! だから悪いのは私! ごめんなさい!」

 

 確かにそのあたりの話は、地下室からここに戻ってくる間に色々聞かされた。最初は普通にフランが勝負に負けるだけの幻を見せるつもりだったけれど、フラン本人が、いっそのこと殺されちゃうような幻にしたらどうかと月見に提案したのだと。そしてその理由が、今まで散々寂しい思いをさせてくれたレミリアに、ちょっとした仕返しをするためであったのだということも。

 それはわかっている。わかっているが、まさか二人揃って律儀に謝罪してくるとは思っていなかったので、呆気にとられてしまった。レミリアはてっきり、幻から覚めたあとも、フランに寂しい思いをさせてしまったことをネチネチ責められると思っていたから。

 

「いや、待てフラン。確かにそう言ったのはお前だけど、それを了承して実行したのは私だ。だったら私も悪いんじゃないかな」

「でもでも、それは私たちのためを思ってでしょ? 月見、私と友達にもなってくれたのに、なのに謝らないとダメだなんておかしいよ」

 

 いやいや。でもでも。そう言い合う二人は互いに譲ろうとせず、それを見た咲夜がそっと笑みの息をついた。

 

「妹様と月見様、随分と仲良くなったみたいですね」

「……そうね」

 

 その時レミリアは、少しだけしかめっ面をしていた。フランに友達ができたことは確かに嬉しかった。けれどそれがちょっと前までは死んでしまえばいいとすら思っていた男なのだから、決して諸手を挙げて喜べはしなかった。

 

 と、そこまで考えたところで、レミリアはふと気づく。

 ――ちょっと前までは、死んでしまえばいいと思っていた。

 ならレミリアは、“今”は、彼のことをどう思っているのだろう。

 

 真っ昼間から眠りの邪魔をされて、おまけにあんな一生のトラウマになりそうな幻まで見せられたのだから、嫌ったり恨んだりするにはあまりに充分だった。

 しかしレミリアは、心の中にあるこの気持ちを、感謝だと感じていた。

 確かに彼は随分と生意気なことをしてくれたけれど、それ故にレミリアは、フランを正しく理解できるようになったのだから。ただ信じて待つのではなく、自ら語りかけ一緒にいることこそが大切なのだと、気づけたから。

 だからレミリアは、既に月見のことを許している。謝られるなんてとんでもない。むしろこれは、レミリアの方こそが謝らなければならないことではないか。

 

 だが一方で、その感情をなかなか認められない気持ちもあった。一度素直に受け入れてしまうと、なんというか、自ら負けを認めるのと同義のような気がして据わりが悪かった。

 だからレミリアは一つ咳払いをして、そっぽを向きながらこう応じる。

 

「べ、別に私は、そこまで気にしてるわけでもないわよ……」

 

 へそ曲がりな唇がどんどんすぼまっていくのを感じつつ、ぽそぽそと、

 

「だから、二人して謝らなくても、まあ……許してあげる」

「……ふふ」

 

 クスリ、小さく吹き出したのは咲夜だった。見れば彼女はすっかり手当ての続きを放棄し、指の腹を口元に当てて、目を弓にしならせていた。

 

「お嬢様、素直じゃないですね」

「んなっ……」

 

 心の奥を言い当てられて、ドキリとする。

 

「わ、私は別にそんなんじゃ」

「月見様。お嬢様はこう見えて、あなたに感謝してるんですよ。ただ、」

「ちょっと咲夜っ!」

 

 余計なことを言う口を慌てて黙らせるけれど、既に手遅れだった。月見たちの方から嫌な視線を感じる。恐る恐る見てみれば、意外そうに目を丸くした月見の隣で、フランが口端を吊り上げた意地の悪い笑顔を浮かべていた。

 

「へえー……そうだったの、お姉様?」

「うぐっ……」

 

 頬がさっと熱くなる。咄嗟に反論しようとするが、熱っぽくなった今の状態でそうしても自爆するだけだと気づき、すんでのところで思い留まる。

 

「へー、へえぇー」

「く、くうっ……」

 

 レミリアは唇を噛んだ。否定したい。でも墓穴を掘るのは目に見えている。ここは否定する以外で、なにか上手い切り返しを考えなければ。

 頭の中で必死にうんうん呻いたレミリアは、結局、

 

「あ、あー! そういえば月見、あれは一体どういうことなのか説明しなさいよ!」

「露骨に逸らしましたね、お嬢様」

「かふっ……」

 

 咲夜の冷静なツッコミが胸に刺さった。焦るあまり、逸らし方が強引すぎたらしい。

 咄嗟にこんな行動しかとれない自分の情けなさを呪いつつ、レミリアはみんなを睨みつけた。もうなにも言うなと、渾身の眼力を込めて。このままこの居心地の悪い雰囲気が続くなら、レミリアはグングニルを振り回すのも辞さない。

 あいかわらずニヤニヤ笑うフランの横で、月見が苦笑一つ、まあまあと彼女の肩を叩いたのが見えた。……気を遣われたらしい。墓穴を掘るのと大して変わらないその屈辱に、レミリアは胸の風穴が広がっていくのを感じた。

 ダメだ。もうなにもする気が起きない。したくない。部屋に戻って寝たい。咲夜が困った薄笑いを浮かべながら月見に目配せしていたような気がしたが、レミリアには断じて見えなかった。見えなかったったら見えなかったのだ。

 

「なんだい、“あれ”って?」

 

 声の調子をわかりやすく上げて、月見がそう問うてきた。まったくもって、こちらに話を合わせて義理を立てようとしているのが見え見えであった。

 レミリアの中でなにかが吹っ切れる。もういい、笑わば笑え。

 

「……尻尾の数よ。あの時、あなたの尻尾は十一本もあったじゃない」

 

 ともかく、幻の世界で見た、あの巨大な十一尾である。月見の尻尾は今は既に一本に戻っているのだが、もしかしてあれも幻だったのだろうか。

 

「ああ、あれかい? あれはね――」

 

 応じる傍ら、月見は目を閉じて静かに妖力を開放した。するとほんの一瞬、彼の一尾が陽炎のように漠と揺らめいて、

 

「――あんなにあるとさすがに邪魔になるからね。普段は、妖術で隠しているんだ」

 

 そして次の瞬間には、十一尾にまで増えている。

 咲夜が大きく息を呑んだ音が聞こえた。レミリアもまた、眦を痛くなるほどにまで見開いて言葉を失っていた。幻なんかじゃない。十一尾の狐。未だかつて聞いたこともないその事実に、絶句以外の反応を返すことができなかった。

 ただ一人、フランだけは、

 

「わあ! これって、幻じゃなかったの?」

「ああ。正真正銘、私の尻尾だよ」

「もふーってしていい?」

「どうぞ」

「わーい!」

 

 目をキラキラ輝かせながら、彼のあふれんばかりの尻尾たちに飛び込んでいったのだが。

 まったく子どもだ、とレミリアは思う。大方、尻尾ばかりに目が行って、十一尾の妖狐というのがどれほど常識外れな存在なのかわからないのだろう。

 

「いいなあ……」

「え? 咲夜、なにか言ったかしら?」

「っ……いえ、なんでも」

 

 どさくさに紛れて咲夜がなにか言っていた気がしたが、気のせいだったらしい。

 

 ともあれ、十一尾である。割と周知のことではあるが、妖狐は年齢や妖力に応じて九つまで尾の数を増やし、それ以上の力を得ると逆に減らしていくと言い伝えられている。

 つまりこの月見という妖狐は、その言い伝えを根底から覆す存在ということになるのだが。

 

「なんで十一なのよ。おかしくない?」

「狐の尻尾が九本までなんてのは、人間たちが勝手に言い伝えてることだろう? 真実は違うということだよ」

「や、それはそうかもしれないけど……」

「とはいえ、私以外に九本より多くなったという狐も知らないねえ。藍も増えないみたいだし、もしかすると私が変なのか」

「……」

 

 もしも――もしも尻尾の本数が、単純にその者の強さを表すのだとしたら。もしかすると月見は、妖獣の頂点に立つ金毛九尾すら凌ぐ大妖怪なのかもしれない。

 それならば、フランと戦って生き延びたことも、レミリアが一撃で叩き伏せられたことも、納得できない話ではなくなってくる。……後者は、非常に気に喰わないけれど。

 

 それにしても、なんとも壮観であった。純粋に数が多いからなのか、それともくすみのない銀故か、金毛九尾とはまた違った美しさと神々しさを感じる。床に広げられたその姿は、さながら銀色の海を臨むかのよう。一本一本がレミリアを包み込むくらいにふさふさで、抱き枕にでもしたらさぞかし気持ちいいのではないか――

 

(――いやいや、それは違うでしょう)

 

 いや、決して気持ちよくないだろうということではなく、あくまで今は関係ないということで――

 

「あっははは、見て見てお姉様! すっごくもふもふだよー!」

 

 見ればフランが、銀色の海から脚だけを出してはしゃいでいた。上半身は完全に尻尾の中に埋もれてしまっている。フランが脚をばたつかせるたびに、海面がもっふもっふと波打った。

 とても、気持ちよさそうである。

 

「……」

 

 その波打つ銀の尻尾に数秒魅入ってから、レミリアは慌てて首を横に振った。込み上げてきた欲望を必死に頭の中から追い払う。レミリアは紅魔館の主人なのだ。主人として、今のフランのようにだらしない醜態を晒すわけにはいかない。

 と、理屈ではわかっているのだけれど。

 

「もふー、もふ~……うーん、気持ちいい~……」

「…………」

 

 尻尾と尻尾の間から顔を出したフランが、今にもとろけてしまいそうになっていたものだから。

 ちょっとくらい触ってみたいなあ、とか、本気で思ってしまって。

 

「……レミリアも来るかい?」

「――ハッ!?」

 

 気がついた時には、月見が苦笑しながら、そしてフランがまたあの意地の悪い笑顔を浮かべながら、揃ってこちらを見つめていた。

 正気に返ったレミリアは、我を忘れて両手を左右に振り回す。

 

「や、やっ、結構よ! ただその、暑苦しそうだなとか思ってただけだし!」

「そうか?」

 

 最悪だ、とレミリアは頭を抱えた。ついさっき胸に風穴が空いたばかりなのに、その傷が癒えないうちからこれだ。もう、頬から湯気が上がりそうだった。

 月見たちからふいと視線を逸らす。するとほどなくして、目の前に月見の尻尾が一本降りてきた。月見の位置からレミリアまでは二、三メートルほど距離があるのに、どうやらこの尻尾は伸縮自在らしい。ふりふり、こちらを誘うように左右に揺れている。

 ――……本当に気持ちよさそう。十一本もあるんだし、一本くらいもらえないかなあ。

 そんなことを考えながら、揺れる尻尾を右へ左へ追っていると、

 

「……お姉様、興味津々じゃん」

「猫じゃらしをもらった子猫みたいだね」

「は、謀ったわねえええええ!?」

 

 月見とフランの、それこそ子猫を見るような生暖かい視線が、どうしようもなく痛かった。

 そして遂に、胸の風穴が広がりすぎて、レミリアの精神が限界を迎えた。

 

「ふ、ふふふ……いいじゃない。そこまでこの私を挑発するんなら、あ、あなたのその尻尾、徹底的にいびり倒してあげるわ……!」

「いや、挑発した覚えはないんだが」

「素直じゃないお姉様が悪いんだよー」

「うるさあああああい! これでも喰らいなさあああああい!!」

 

 とかく色々と失態を晒しすぎて、恥ずかしすぎて、紅魔館の主人としてのプライドがボロボロになってしまって、この時のレミリアは自分でもよくわからない状態になってしまっていたのだ。

 謎の咆吼とともに月見の尻尾へ飛び込んだレミリアは、あっという間に体中を銀の毛に包まれ、

 

(うわっ、これ凄く気持ちいい……!)

 

 もふもふっ、と。そのえも言えぬ絶妙な触り心地に、一瞬で陥落してしまった。いびり倒すという当初の目的を即行で忘れ、酔ったように月見の尻尾を抱き締める。

 

(ああ、まずい。これは本当にまずいわ。あんまり気持ちよすぎて、なんか、眠く……)

 

 ……一応、弁解をしておけば。

 月見がこの紅魔館を訪れたのは昼日中であり、夜行性であるレミリアは睡眠の真っ最中であり、そこを咲夜に起こされたのだ。更にはあの幻の世界でグングニルを全力で振り回し、力の限り叫んで、怪我もして、疲れが溜まっていたので――。

 

 とどの詰まり。

 

 レミリアは、寝た。

 それはもう、この上ないほど、ぐっすりと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――レミリア、レミリアー? って、寝てるし……」

「アハハ、凄く幸せそうな顔してる。よっぽど疲れてたんだねー」

 

 動かなくなったレミリアを不審に思って覗き込んでみれば、尻尾の一本に抱きついたまま眠りこけている。洩矢諏訪子を彷彿とさせるその姿に、月見の頬に緩い微苦笑が浮かんだ。

 

「も、申し訳ありません、月見様……」

「いや、いいさ。そっとしておいてあげよう」

 

 困った様子で視線を彷徨わせる咲夜をやんわりと制する。

 まさに見た目相応、と言わざるを得ないだろうか。すやすやくうくう、頬をふにゃふにゃにして眠る今のレミリアには、もはや吸血鬼としてのプライドなど露もなく、どこからどう見てもただの子どもであった。

 けれどそれは、月見がフランに感じているのと同じ――見る者を暖かい気持ちにさせる、微笑ましい幼さ。

 

「お姉様かーわいー。ていうか、こういう顔して寝るんだねー。うりうり」

 

 フランがレミリアの頬を突っつくけれど、レミリアはぴくりとも動かない。相当深いところまで落ちていってしまったようだ。半開きになったその小さな口から、いつよだれが垂れてくるとも知れない。

 まあ、そのあたりは諏訪子が今までに再三やらかしてくれたので、殊更気にしたりはしないが。

 それよりも気になることが、別にあった。十六夜咲夜。どことなく羨ましそうな色を目の奥に覗かせながら、尻尾の中にいるフランとレミリアをじいっと見つめている。

 意外と咲夜も、こういうのに目がなかったりするのだろうか。そう思った月見は、尻尾の一本を前に掲げながら、

 

「咲夜、お前も触ってみるか?」

「ぇうっ、」

 

 咲夜が変な声を出した。

 

「……咲夜?」

「は、はいっ!」

 

 びくーん、と咲夜の肩が派手に飛び上がる。一歩後退って俯くと、その両頬がじわじわと赤くなっていく。

 そのいかにもな反応に、まずフランが首を傾げて言った。

 

「咲夜って、こういうのが好きなの?」

「え、ええと、ですね」

「……なに、十一本もあるんだ。別に気を遣わなくても大丈夫だぞ?」

「そうだよ咲夜ー、もふもふだよー?」

 

 フランが尻尾を一本抱き締めて右へ左へとふりふり振ると、咲夜は理性と本能の狭間で揺らめく懸命の面持ちで、なにかをこらえるようにふるふる震えていた。

 ほんの数秒だ。それきりは落ち着いたのか、普段通りの表情に戻った咲夜は、その場でコホンと咳払い。澄まし顔で、

 

「月見様。お嬢様は夜行性ですから、しばらくは起きないと思います」

「露骨に逸らしたね、咲夜」

 

 フランのツッコミに、ピクン、咲夜の片眉が跳ねた。けれどギリギリのところで表情は崩さず、何事もなかったかのように続ける。

 

「少なくとも、夜までは起きないかと。ですからこのままというわけにも……」

 

 暗に、触れるなということなのだろう。その必死の澄まし顔からは、ある種、レミリアに睨まれた時以上の圧力がひしひしと感じられた。

 よほど追及されたくないらしい。なので月見も、何事もなかったかのように神妙に応じた。

 

「まあ、付き合うさ。こんなに幸せそうに眠ってるんだから、起こしてしまうのもなんだ」

「ですけど……」

「強いて言うなら、なにか暇を潰せるもの……そうだね、本かなにかがあるといいけど」

 

 咲夜は少し思案し、

 

「それでしたら、この紅魔館には大図書館があります」

「おや、そんなものまであるのか」

「ご希望のものがあればお持ちしますよ」

 

 言われ、月見は尻尾にひっついて眠るレミリアを見遣った。フランに頬を突っつかれても身動き一つしなかったし、少しくらいなら大丈夫だろうか。

 

「いや、是非私も見てみたいし、案内してくれないか?」

「……ですけど、そうするとお嬢様は」

「それなら、……フラン、悪いけど少しよけていてくれないか?」

「ん? どーかしたの?」

 

 フランが疑問顔で尻尾から離れる。それを確認した月見は、レミリアが抱き締めている以外の十の尾をまとめ、彼女を下から静かに抱き上げた。

 言うなれば、尻尾で作り上げた銀の揺り籠。案の定、深く眠ったレミリアが起きてしまうこともなく、これならば彼女に尻尾に抱きつかれた状態でもある程度自由に行動ができる。大図書館に移動するくらいならなんの問題もないだろう。

 その銀の揺り籠を、咲夜は感心したように、そしてやはりちょっとだけ羨ましそうに、見つめていた。

 

「……器用ですね、月見様」

「この尻尾は、私にとって手足と同じだよ。このくらいは簡単さ」

「わあ、いいなあお姉様……。ねえ月見、私も乗っちゃダメ?」

「まさか。……乗ってもいいけど、レミリアを起こさないようにね」

「うん!」

 

 一方のフランは素直なもので、月見の返事を聞くや否や七色の宝石を羽ばたかせ、そっとレミリアの隣に腰を収めた。

 

「大丈夫? 重くない?」

「いいや、乗っているのがわからないくらいだよ」

 

 だから、よかったら咲夜も乗ってみていいんだよ――という言葉は、胸の中に留めつつ。

 

「じゃあ、案内してもらえるかな?」

「わかりました。こちらです」

「しゅっぱつしんこー」

 

 歩き出した咲夜に続く傍ら、月見はもう一度だけ、揺り籠の上のレミリアを見遣った。すると、一体いつからだったのだろうか――彼女が、フランのスカートの裾をきゅっと握り締めているのに気づいた。

 

「……フラン」

「ん? なに?」

 

 もふもふ、尻尾の感触を楽しみながら首を傾げたフランは、果たして気づいているのだろうか。月見は、彼女の裾を握るレミリアの手を指差そうとして――やめた。

 微笑む。

 

「……よかったな、フラン」

「……? なに? なにがー?」

「なんでもないよ」

 

 それっきり前を向いて、咲夜の背中を追い掛けた。

 ふにゃふにゃに緩んだ寝顔を晒すレミリアは、一体、どんなに幸せな夢を見ているのだろうかと――そう、思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――どうして? どうしてお姉様は、フランを守ってくれるの?

 ……どうしてって、そんなの決まってるでしょう?

 

 だって、私は。

 

 この世界でたった一人の、あなたの――お姉さんなんだもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第11話 「レコンサリエーション ③」

 

 

 

 

 

「――月見様は、いじわるですよね」

 

 大図書館へと向かう廊下の途中であった。十六夜咲夜。月見を先導しながら、振り返ることもせず、独りごちるようにそう言った。

 

「お人好しで能天気な狐さん、だと思ってましたけど……見直しました。お人好しで能天気でいじわるな狐さんですね」

「……」

 

 それがあまりに出し抜けだったので、虚を突かれた月見は一瞬足を止めてしまった。けれどすぐにまた歩き出し、咲夜の背に向けてそっと苦笑した。

 

「……それ、見直したって言うのかな」

 

 皮肉を言われていることはわかっていた。しかし果たして、十六夜咲夜という少女は来客相手に皮肉を言うほど我が強い子だったろうか。それだけ彼女の中で月見の評価が下がったのか、それとも、逆か。

 月見の背後、十一尾をまとめて作り上げたゆりかごの上で、フランが「えー」と不満の声を上げた。

 

「咲夜、月見はいじわるなんかじゃないよ」

「ですが妹様、私にとってはそうとも限らないのです」

 

 咲夜は首だけで振り返って、莞爾(かんじ)と笑う。

 

「あんな幻を見せられた身としては、いじわるだと思わない方が難しいですわ」

「だから、あれは私が悪いんだって言ってるのにー」

 

 ぶーぶーとふくれ面になるフランに、クスリと笑みを深め、足を止めた。今度は体ごとで月見に振り返って、尻尾の上のスカーレット姉妹を、眩しそうに目を細めて見つめた。

 

「でも、月見様がいじわるでよかったと思います。そのお陰で今、お嬢様と妹様がそうやって一緒にいられるのでしょうから」

「……」

 

 十一尾の上にある二人分の重みを感じながら、月見は静かに肩を竦めた。

 

「……咲夜。褒められてるのか貶されてるのかわからないよ」

「褒めてるんですよ」

 

 思いがけず即答が返ってきた。いつの間にか、咲夜の瞳が月見を捉えている。「貶されてる」と言われたことを非難するように、強く、まっすぐに。

 

「褒めてるに決まってるじゃないですか。無事に戻ってきてくれて、妹様を助けてくれて、お嬢様と妹様を仲直りさせてくれて、これ以上なんてないです」

 

 笑み、一礼する。

 

「ありがとうございました、いじわるな狐さん」

「えー」

 

 フランがまた唇を尖らせ、ぺしぺし、月見の尻尾を抗議の思いで叩いていた。

 

「咲夜。私、そういうのはもっと素直に言った方がいいと思う」

「いいんです。私はこれで」

 

 気取ったような表情だった。だがそんな顔をされてしまうと、無性に崩してやりたくなるのが狐の性。

 なので、月見はそうした。

 

「尻尾、触りたい時はいつでも言ってくれて構わないからね」

「っ……そ、その話はもういいんですっ」

 

 咲夜は肩を震わせ、頬をじわじわと赤くしながら、ちょっとだけ声を荒らげた。先ほどまでの澄まし顔は既に見る影もなく。もういいと言いつつも、現在進行形でこちらの尻尾をチラチラ盗み見ているのを、月見は決して見逃したりしない。

 くっくと喉を鳴らせば、咲夜は拗ねたように口をへの字にした。

 

「もうっ……行きますよっ」

 

 そっぽを向いて、月見たちを置いてどんどん先に進んでいく。そして突き当たりを曲がってその姿が見えなくなり、しかしすぐに戻ってきた。

 不機嫌そうに眉を曲げ、ぴしゃり、言う。

 

「早くしなさいっ」

「はいはい。今行くよ」

 

 月見は苦笑し、のんべんだらりと咲夜を追い掛けた。今まで彼女が月見に向けていた、客を相手にする際の一歩距離を置いた物腰が、少しずつなくなってきているのを感じた。

 尻尾の上で飛び跳ねたフランが、えーい! とこちらの背中に抱きついてきた。それがあまりに出し抜けだったので、目を丸くしてしまったけれど。

 

「月見、咲夜とも仲良くしてあげてねっ」

 

 そう言うフランの声が、とてもとても嬉しそうだったから。

 月見は笑って、まとめた尻尾の一本を解き、それで彼女の頭を優しく叩いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 紅魔館に客が来ていることは、知らない妖力を持つ者がフランの地下室に入っていくのを探知魔法で知った時から、既に察していた。加えてその者がどうやら相当な粗相をやらかしたらしいことも、一時間ほど前に紅魔館全体を震わせたグングニルの衝撃から把握済みであった。

 そしてその上で、パチュリー・ノーレッジはすべてを無視していた。生来荒事は得意でないし、なにより今打ち込んでいる研究がちょうど煮詰まってきていたところだったので、グングニルの衝撃で崩れた本たちに小悪魔が悲鳴を上げるのも構わず、“動かない大図書館”の二つ名を貫き続けていた。

 

 予想外だったのは、その客とやらが大図書館を訪ねてきたことだったろうか。珍しく、パチュリーの部屋のドアを咲夜が叩いたのだ。お客様に大図書館の本を見せてあげてほしい、と。

 スカーレット姉妹との連戦を終えてとっくに死んだものだと思っていたのに、なんで。パチュリーは驚き呆れて、手に持っていた魔法薬を瓶ごと一本ダメにしてしまった。

 

「なんなのよ、一体」

 

 どうしてスカーレット姉妹と戦って生き長らえているのかもわからないし、どうしてそんな客をわざわざ咲夜が大図書館まで連れてくるのかもわからない。パチュリーは研究を一時中断、頭を抱えて自室を飛び出し、大図書館の入口へと向かった。

 しかして現在。

 

「……なんか色々とツッコみたいことがあるんだけど、いいかしら」

 

 パチュリー・ノーレッジは、三つの予想外な現実に直面し、どうしたらいいかわからずその場で棒立ちになっていた。

 一つ。咲夜が案内してきた客というのが、十一尾の銀狐などというなんだかよくわからない男であったこと。

 二つ。その男が尻尾をまとめて作り上げたゆりかごのようなものの上で、なぜかレミリアが幸せそうな寝息を立てていること。

 そして、三つ。

 

「パチュリー、久し振りー」

「……フラン」

 

 同じくしてそのゆりかごに乗っかったフランから、狂気の気配が限りなく感じられなくなっていること。

 

(……なによ、これ)

 

 思う。色々おかしい、と。十一尾の狐ってなんなのよとか、フランの狂気がここまで薄くなってるなんてどういうことなのとか、ってかレミィはなんでそんなとこで眠りこけてんのよこのバカレミィとか、色んな感情がいっぺんに押し寄せてきて、思わず難しい顔をして黙り込んでしまう。

 

「パチュリー、どうかした?」

「……ん」

 

 ふとフランの声で我に返って、いけない、と首を振った。魔法使いの、なかんずく研究者としての側面が強いからか、気になることがあると所構わず考え込んでしまうのは悪い癖だ。

 常識的に見て、来客に挨拶もせずにするようなことではない。パチュリーは眉間に寄っていた皺を解いて、銀の狐を見遣った。

 

「ごめんなさい。……私はパチュリー・ノーレッジ。魔法使い兼、この図書館の管理人よ」

「はじめまして。私は月見。しがない一匹の狐だよ」

 

 ――しがない、ね。

 嘘つけ、とパチュリーは腹中低く笑う。十一もの尾を持っている狐が、ただの狐なわけがない。あの八雲藍と同格か、或いはそれ以上か。

 しかし、どうやら人当たりは悪くなさそうだ。物腰は柔らかく、温厚の色が濃いように見える。なにより尻尾の上にスカーレット姉妹が乗っていることから、悪い妖怪でないのは明白であった。

 ……だったらなんで、レミリアがグングニルをぶっ放すような事態になったのだろうか。妖力の気配からして、レミリアたちと戦っていた妖怪が彼であるのは、間違いないはずなのだが。

 四つ目の疑問ができたわね、とパチュリーは嘆息。とりあえず一つずつ消化していこうと思い、男の尻尾を一瞥して言った。

 

「十一尾なんて、珍しいわね」

「ん……そうだね」

「普通、狐で十一尾なんてありえないと思うんだけど。どうしてそんな風になったのかしら?」

 

 男――月見は小首を傾げ、曖昧に笑った。

 

「さあ、そのあたりは私にもさっぱり……」

 

 まあそんなものか、とパチュリーは内心吐息した。自分のことなのになんでわからないのよ、とは思わない。自分の体とは、言ってみれば一つのブラックボックスと同じだ。もし自分の体のことがすべてくまなくわかるなら、世の中医者という職業は生まれていない。きっと、八雲藍に「どうして九尾になったのか」と訊いても、似たような答えが返ってくるだろう。

 

「ただ、昔、派手に戦って死にかけたことがあってね」

「……臨死体験をして、新しい力に目覚めたってこと? 夢想的だわ」

 

 腕を組みつつの月見の言葉は、鼻であしらった。もっとも、魔導書の他に外の世界のマンガを読んでいたりする身としては、嫌いな考え方でもなかったのだが。

 パチュリーは次いで、月見の尻尾の上へと目をやった。

 

「……それで? どうしてその十一尾の上で、我らが紅魔館の主様はだらしなく眠りこけてるのかしら」

 

 こんな皮肉を言ったところで、当のレミリア本人が夢路を辿ってしまっているから意味はないのだけれど、それでも。

 館の主人である彼女がみっともない姿を晒せば、紅魔館の世間体に傷がつく。主人の悪評は、組織全体の凋落(ちょうらく)へと直結しかねないのだ。別に四六時中なんて言わないから、せめて来客中くらいは気を引き締めてくれないだろうか。

 これには、さすがの咲夜も弱り切った苦笑を浮かべていた。

 もう、とパチュリーは大きく嘆息。

 

「みっともない当主で申し訳ないわ」

「いやいや。まだ小さいんだし、こういう可愛らしいところがあってもいいと思うよ」

 

 けれど対する月見は、ただ愉快げに相好(そうごう)を崩しただけだった。おおらかで、些細なことは――これが些細かどうかは甚だ疑問だが――気にしない性格なのだろう。

 

「色々、無理をさせてしまったからね。これくらいは」

「グングニルをぶっ放してたわね。あなた、一体なにをしたっていうのよ?」

「この子とフランを仲直りさせるために、ちょっとね」

「……そう」

 

 フランを見遣ると、すぐに、思わず目を細めてしまうくらいに眩しい笑顔を返された。こんなに綺麗な彼女の笑顔を見るのは、もしかしたら初めてなのかもしれなくて、パチュリーは小さく息を呑んだ。この子はこんなに素敵な顔で笑えたのかと、ハッとさせられる。

 

「狂気は、もう大丈夫なの?」

「うーん、どうなんだろう……ちょっとよくわかんない」

 

 自信なさげに苦笑したフランは、「でも!」と力強くつなげ、

 

「今はとっても綺麗な気持ちなの。……だからきっと大丈夫。もう私、狂気なんかには負けないから!」

「……」

 

 パチュリーは、返す言葉を見失っていた。

 どうしてフランは、ここまで変わったのだろう。月見の言葉が頭に反芻される。仲直り。……まさか、たったそれだけで? 姉と仲直りができたから、狂気を()ね退けるほどに心が強くなったとでも言うのか?

 ……非論理的だ。フランの狂気を抑える方法がないかと論理的に研究していた自分を嘲笑うかのような。あんなにフランを苦しめていた悪魔を、たった一つ、心という形のない武器だけで打ち破ってしまうなんて。

 

「……あなた、本当になにをしたっていうの?」

「言ったろう? 本当に、“ちょっと”のことをしただけだよ」

 

 問うても、月見は飄々と肩を竦めただけで、

 

「きっかけを作っただけさ。結果としてフランが狂気に打ち勝ったのは、結局、この子たちが強かったからだ」

 

 彼がフランの頭に手を置くと、彼女は気持ちよさそうに目を細め、むふーと得意顔になった。……この子“たち”と言ったから、恐らくはレミリアや咲夜も入っているのだろうか。

 わからない。フランを蝕む狂気は、もはや感情論でどうにかできるレベルではなかったはずなのに。一体どんなきっかけを作れば、それに打ち勝つほどにまで心を奮い立たせることができるのだろうか。

 でも、――でもやっぱり、嫌いな考え方ではなかった。非論理的で夢想的だけど、心の力だけで逆境を撥ね除けるなんてお伽噺が、本当に起こりうるなんて――素敵じゃないか。

 今まで長年を費やしてきたフランの狂気を抑え込むための研究は、完全に徒労になってしまいそうだったけれど。

 

「……よかったわね、フラン」

 

 本当によかったと、パチュリーの頬がかすかに綻ぶ。いつかフランが狂気を制御できるようになった日には、ちょっとずつでも、外の世界を見せていってやりたい――そう願っていたレミリアの夢も、もはや夢ではなくなっているのかもしれない。

 レミリアとフランが、仲良く星空散歩に飛び立っていく背中。思い描くだけで、焦がれるように胸が熱くなった。

 

「本当によかったわ」

「うん、ありがと。……ねえ、パチュリー」

「なに?」

 

 はにかむフランに、問い返す。彼女はなにか緊張しているのか、あやふやに目線を迷わせていた。

 それから俯いて、上目遣いで、体を縮こませて。

 そして最後に、蚊が鳴くくらいに引っ込み思案な声で、

 

「……これからも、よろしく……ね?」

 

 ――一体なにを言われるやらと思えば。

 どうしてフランが改めてそんなことを言ったのか、パチュリーにはよくわからなかった。だって、パチュリーの答えなんて、問われる前から明らかなのだから。

 

「ええ。よろしくね、フラン」

「っ……うん、うん! よろしくね、パチュリー!」

「……!」

 

 一瞬……ほんの一瞬だけ、この地下の図書館に、太陽の光が差したような気がした。

 この時フランが浮かべた満点の笑顔を、パチュリーはしばらく忘れられそうにない。明るい物を長時間見つめているとその輪郭が網膜に焼きついてしまうように、きっと目を瞑っても鮮明に思い出すことができる。そんな太陽みたいに笑ったら隣のレミィが気化しちゃうじゃないと、本気で思ってしまうくらいだったのだ。

 ずっとこの地下室にこもって研究ばかりしているパチュリーには、ちょっとだけ、眩しすぎて。

 まぶたを下ろして、胸の中に生まれたこのぬくもりを、逃さぬようにと両手で包み込んだ。

 

「……どうしたの、パチュリー?」

「いいえ、なんでもないのよ」

 

 顔を上げて、微笑み返す。それは、今見た太陽の明るさに比べれば、遠く及ばないけれど。

 こんなに綺麗な気持ちで笑ったのは初めてかもしれないな、とパチュリーは思った。

 

「……それで? あなたは、本を読みにここに来たということでいいのかしら」

 

 銀の狐へ、そう問い掛ける。月見。ほんの二時間ほどで紅魔館を劇的に変えてしまった、変な妖怪。一体何者なのか不審に思うところはあったが、特にフランがうんと懐いているみたいだし、本を読むくらいは好きにさせてやろうと思った。実際に話をしても悪い印象は受けなかったから、どこぞの魔法使いのように本を盗んでいったりもしないだろう。

 月見は頷き、尻尾の上で眠りこけるレミリアを一瞥した。

 

「レミリアが起きるまで、ね。何冊か貸してもらって大丈夫かな?」

「ちゃんと返してくれれば、自由に読んでもらって構わないわ」

 

 ちょうどあの白黒魔法使いの姿が脳裏を掠めていたからだろうか、ちゃんと返してくれれば、の部分を無意識のうちに強調してしまう。……ああ、そういえば二、三日前にもまた何冊か持っていかれたっけ。思い出したら頭痛がしてきた。

 

「……なにやら、大層困ってるみたいだね」

 

 どうやら顔に出ていたらしく、月見がその瞳を同情の色で(すが)めていた。パチュリーは、眉間に寄った皺をゆっくりと揉み解しつつ、

 

「私と同じ魔法使いなんだけど、来るたびに魔導書を持って行ってくれるのよ。……もし見かけたら、あなたからも言っておいてくれないかしら。不法侵入に窃盗、外の世界だったら補導では済まされないもの」

「覚えておくよ。どんな相手だ?」

「会えば一発でわかるわ。ああきっとこいつだなって、雰囲気でわかってもらえるはずよ」

 

 レミリアとフランを仲直りさせてくれたあたり、彼が心優しいというか、世話好きな妖怪であることは容易に想像できるから、こう言っておけば、あの魔法使いがやって来た時に抑止力になってくれるのではないか、とパチュリーは期待した。

 なんだか彼の良心を利用するみたいで申し訳なかったが、それだけあの魔法使いには頭を悩まされていて、猫の手も借りたい気分なのだ。小悪魔や妖精メイドは力が弱くて太刀打ちできないし、咲夜は家事で忙しいから余計な手間は掛けさせたくないし、パチュリー自身も体が弱くて率先しては動けない。必然、第三者の手を借りざるを得なくなる。

 そもそもあの門番が真面目に仕事を全うしてくれれば、こんなことでいちいち悩む必要もなくなるのだけれど……。

 

「ごめんなさい。上手くやってくれたら、ちゃんとお礼はするわ」

「や、そこまでしてもらわなくても。困った時はお互い様だよ」

「……娑婆気ないわねえ」

 

 妖怪のくせに謙遜するとは、生意気な狐だ。

 

「本を読ませてもらえるだけで、充分ありがたいからね」

「……そう」

 

 その謙虚さを半分くらいあいつに分けてやってくれないかしら、とパチュリーは割と本気で思った。

 

「……じゃあ、図書館は広いから案内をつけてあげるわね。咲夜、こぁを呼んできてちょうだい。多分そのへんで本の整理をしてると思うから」

「はい、すぐに」

 

 傍に控えていた咲夜がさっと一礼、次の瞬間には忽然と姿を消している。時間を止めての瞬間移動。きっともう、小悪魔を見つけ出して事情を説明しているだろう。

 咲夜が小悪魔を連れて戻ってくるまでの間、パチュリーは間を持たすために月見へ話題を振った。

 

「あなたは、どんな本を読むのかしら」

「ん? ああ、本は乱読派なんだ。学術書でも小説でも、面白そうなものはなんでも読むよ」

「フランは絵本が好きー!」

 

 フランが勢いよく手を挙げて言った。

 

「難しい本は嫌いー。眠くなっちゃうもの」

「フランは本で勉強するのは嫌いか?」

「お勉強嫌いー」

 

 そして月見の尻尾の上でごろんと寝転がり、両足をバタバタさせる。

 

「パチュリーはいっつも難しい本ばっか読んでてねー、私はすぐ眠くなっちゃうの」

「ふふ。確かに難しい本を読んでると、不思議と眠くなってしまうね」

「本当っ?」

 

 月見が頬を緩めて相槌を打つと、フランはパッと飛び起きて彼の背中に飛びついた。えへへ、とだらしなく笑って、

 

「月見も眠くなるの?」

「もちろん。寝つけない日はわざと難しい本を持ってきてね。布団に入りながら読んでると、いつの間にか眠っていたり」

「あっ、それ私もやったことあるよ! 一緒だねー」

 

 月見とお揃いなのが、よっぽど嬉しかったのだろうか。フランは彼の背中に引っついたまま、鼻歌交じりに、右へ左へ体を揺らしてリズムを取っていた。本当によく懐いている。てんで種族の異なる妖怪同士とはいえ、ここまで仲がいいとまるで親子みたいに見えてくるから不思議なものだ。

 

(……親子、か)

 

 或いはフランも、そう感じているのかもしれない。彼女はその狂気のせいで、親の愛をあまり受けることができなかったみたいだから。唯一の家族だったレミリアとも、今までずっとすれ違い続けていて、甘えるなんてとてもできなかったから。

 パチュリーはよくわからないけれど、この月見という男は、フランのためにとても大きなことをしたのだろう。

 だからフランは、そんな彼に、甘えたいのかもしれない。

 パチュリーは、心の中でそっと笑った。そしてレミリアを見て、思う。……ねえ、レミィ。そんなにのんびりしてると、彼にフランを取られちゃうかもしれないわよ?

 

「ねえねえ、月見ー。私、月見に読み聞かせしてほしいなあ」

「というと、童話かな? ……そういう本は置いてあるのか?」

 

 向けられた問いに、パチュリーは「もちろん」と頷いた。

 

「ええと……そこの本棚から入って、確か七十八番目の棚の……上から四十三段目だったかしら? いけないわね、近頃ずっと研究ばかりしてたから忘れてるみたい」

 

 ふとしたように、月見が頭上を見上げた。広がるのは、十メートル以上にもなる背の高い本棚の密林。脚立も階段も用意されておらず、利用者が空を飛べることを前提にした作りは、

 

「まるで押し潰されそうになるね……。一体、どれほどの本たちが収められてるのか」

「それは私にもわからないわ。この図書館には、まだ整理されていない本たちもたくさんあるから」

「ふうん……どうしてこれほどまでの本を?」

「さあ……。ここの昔の住人に、熱心な蒐集家でもいたのかもしれないわね」

 

 咲夜が小悪魔を連れて戻ってきたのは、ちょうどその時だった。

 

「お待たせしました」

「お、お待たせひ、ひ、しましたっ……!」

 

 よほど急いできたのか、小悪魔の息がすっかり上がってしまっている。一方の咲夜は涼しい表情。恐らく、適度に時間を止めて休憩していたのだろう。

 ひーひーと肩で息をする小悪魔に、月見が心配そうに眉を寄せた。

 

「大丈夫か?」

「ひっ、ひっ……す、すみません、お待たせしてしまって……」

「いや……そんなに急いでもらって、こっちこそ申し訳ないというか」

「お、お客様を、お待たせ、するわけにもっ……ひー……」

 

 月見がすっかり面食らった様子でこちらを見てきた。パチュリーはただ小さく肩を竦め返す。まさか咲夜がこんなに急いで小悪魔を連れてくるなんて、パチュリーにだって予想外だったのだ。

 

「……咲夜、これは水かなにかを」

「もう持ってきてますわ」

 

 月見が言った瞬間、咲夜の手の中に水を入れたコップが現れる。

 

「はい」

「あ、ありがとうございます……」

 

 コップを受け取った小悪魔は、それを一気に口へ傾け、ゴクゴク惜しみなく喉を鳴らした。

 咲夜が落胆した様子でため息を落とす。

 

「まったく、鍛え方が足りないわよ」

「さ、咲夜さんはどうせ時間を止めて休んでたんでしょうっ? それなのにあんなに急かすなんてひどいですよお……」

「……咲夜、あなた一体なにをしたのよ」

 

 すぐに連れてこいと頼んだ覚えは、ないのだけれど。いや、ゆっくり連れてきてと言った覚えもまたないのだが、そうだとしても普通、ここまで急いだりなんてするだろうか。

 問えば、俄然と勢いづいたのは小悪魔の方だった。

 

「聞いてくださいよパチュリー様、ひどいんですよ咲夜さんったら! ちょっとでもスピード緩めたらすぐナイフが飛んできて、私、もうここで死ぬかとっ」

 

 涙声の訴えに、ああ、とパチュリーはなんとなく納得。手を緩めるとナイフが飛んでくる。そんな愚痴を、以前にも美鈴から聞かされたことがあったような気がする。

 十六夜咲夜という少女は、自身が『完全で瀟洒な従者』なんてものを目指しているからか、同じ紅魔館の従者たちへは案外スパルタなのだ。

 

「そんなに急がなくてもよかったのに」

「そうはいきませんわ。月見様は本当に、この紅魔館のためによくしてくださいましたから」

「真面目ねえ」

「あの、パチュリー様。言葉よりも先にナイフを投げる人って、真面目っていっていいんでしょうか」

 

 パチュリーは聞かなかったふりをした。

 

「じゃあこぁ、あとはよろしくね。童話の棚まで案内してあげて」

「うう……わかりましたぁ……」

 

 しょぼくれた小悪魔は、「本棚は倒れるし、ナイフは投げられるし、今日は厄日です……」と愚痴をもらしながら、改めて月見と顔を合わせる。

 

「小悪魔です……。この図書館の、司書みたいなものをしてます」

 

 すっかり元気のないその挨拶に、月見は持て余すように苦笑して応じた。

 

「月見だよ。よろしく」

「それじゃあご案内しますね。童話の他に読みたい本があったら、私に訊いてください。この図書館はとっても広いですから、適当に探して見つけられるなんてことはありませんので」

「そうだね、そうさせてもらうよ」

「……じゃ、それで決まりね」

 

 一瞬、このまま月見たちのあとについていっても面白そうだと思ったけれど、「早く行こー!」と月見の背を叩くフランの姿を見て、やめた。

 せっかくフランが狂気を克服して、あんなにも嬉しそうなのだ。月見との時間は、しばし彼女にあげよう。

 今取り組んでいる研究も、ちょうど完成に近づいてきているのだし。

 

「私は魔術の研究に戻るわ。もし魔導書を読みたい時は、私に一言通してくれさえすれば自由にしてくれて構わないから」

 

 パチュリーの切り出しに、咲夜も続く。

 

「私も仕事に戻ります。本以外のことでなにかありましたらお呼びください。時間を止めて、すぐに駆けつけますから」

「ああ、ありがとう」

 

 そこまでしてくれなくても大丈夫なのに――月見の苦笑は言外にそう語っていた。

 けど、きっと、咲夜も嬉しいのだろう。彼はフランを狂気から救い出してくれた、紅魔館にとっては、謂わば恩人みたいな人で。だから、なにかお礼をしてあげたいのではないだろうか。

 パチュリーが踵を返そうとしたその瞬間、ふと、月見の尻尾の上で眠りこけるレミリアの姿が目に入った。すっかり安心しきってだらしがなくて、紅魔館の主人としてのカリスマなんて欠片もなくて。

 それでも今度は、その醜態を嘆くようなことはなかった。口元に浮かぶのは微笑み。楽しそうにレミリアの寝顔を見つめるフランの姿が、すぐ近くに見えた。

 

(よかったわね、レミィ)

 

 苦しかった日々は、もうおしまい。明日からの紅魔館は、仲直りしたこの二人の姉妹で、きっと明るく賑やかに色づくだろう。

 心が軽い。なんとなく、今なら研究が大きく捗りそうな予感があった。

 私も随分とわかりやすいものねと、そう思いながら。

 パチュリーは部屋に戻る傍ら、複雑な魔法理論の計算式を、広々と脳裏に描いていった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――」

 

 聞こえる声は、果たして誰のものだったろうか。

 低いバリトンの声。男のくせに優しくて、ふっと気を緩めたらそのまま心まで染み込んできそうな、そんな。

 

「――」

 

 レミリアの、嫌いな声だった。

 大好きだった父を思い出してしまうから、嫌いな声だった。

 

「――、――」

 

 でも、今は違う。こうして耳をくすぐられても不快感はなくて、むしろ心が安らいでいる。まるで、本当に父の声を聞いているかのよう。

 

「――……」

 

 ねえ、あなたは――

 私を安心させるあなたは、一体誰――?

 

 

 

 

 

 レミリアは、銀の絨毯の上にいた。ふぅわふわ、まるで生きているかのように柔らかいベッドの上で、布団も掛けずに寝転がっていた。

 

「……」

 

 半覚醒の思考は、体を起こすところまでは進まなかった。寝惚け眼のまま絨毯に押しつけていた顔を上げると、白い狩衣の背中が見える。

 その向こう側から、声が聞こえた。

 

「――こうしてお姫様と王子様は、生涯、幸せに暮らしたということです。めでたし、めでたし」

 

 抑揚のある優しい読み聞かせの声。それが夢の中で聞いたあの声と同じだったから、レミリアはまたふっと、父のことを思い出していた。

 ――もしかしたらここはまだ夢の中で、この背中は、本当にお父さんのものなんだろうか。

 ちょっとだけ、本気でそう思ったくらい。だから、声を掛けようと体を起こして――その背中よりも上、銀髪なびく頭にぴょこりと生えた獣耳を見た時、レミリアの思考は一気に冷却された。

 

「……あ、れ?」

 

 頭の中で、今までの記憶が泉の如く勢いで湧き上がってくる。そういえば私はあの時、勢い任せで“あいつ”の尻尾に飛び込んで、そのまま――。

 目の前で銀髪が振り返る。

 間違いない。

 あの狐だった。

 ああ、じゃあ、絨毯かと思っていたこの銀のふわふわは、もしかしなくても。

 

「おはよう、レミリア」

「ぅひあああ!?」

 

 掛けられた声に、レミリアは驚くあまり、そこ――月見の十一尾の上――から転げ落ちた。

 どすん、尻もち。

 

「いっ、たああぁ……!?」

「……おいおい、大丈夫か?」

 

 気遣いの声とともに、目の前に一本の尻尾を差し出された。掴まれということなのか。レミリアはつんとそっぽを向いて、スカートの裾を払いながら立ち上がった。

 ……迂闊だった、まさかあのままころっと眠りこけてしまうなんて。それだけの包容力を持っていた彼の尻尾を心底恨めしく思いながら、レミリアは周囲を見回す。

 いつの間にか場所が大図書館に変わっていて、フランも咲夜もいなくなっていた。一体どれほどの間、彼の尻尾の上で醜態を晒していたのかと思うと、恥ずかしさのあまりまたグングニルをぶっ放したくなってくる。

 

「よく眠れたか?」

「っ……!」

 

 どうやらその心内は完全に見透かされたようで、首でこちらを見ながらいじわるに笑う月見に対し、レミリアは割と本気でグングニルを出すか否か悩むのだった。

 

 彼は、この本棚の密林の中で間隔的にこしらわれている読書用の椅子に、横向きになって腰掛けていた。正面から座ろうとすると、きっと十一もの尻尾が邪魔になるのだろう。眠りに落ちる前、彼が「十一本もあるとさすがに邪魔だ」と言っていたのをふっと思い出す。

 レミリアが転げ落ちたことで、月見はゆりかごのようにまとめていた尻尾をゆっくりと解いた。十一本もあったら絡まってしまいそうなものなのに、さも、腕組みを解くかのごとくあっさりと淀みない動きだった。己の手足と等しく尻尾を操るその技量には、やはり妖狐としての格の高さが窺える。

 十一の尻尾を持つ狐。或いは金毛九尾よりも格上かもしれない大妖怪。妖怪とは思えないくらいに温厚で、お人好しで、世話焼きで。

 

「……」

 

 レミリアは、知らず知らずのうちに渋面を浮かべていた。やっぱりどうにも、彼のことが気に入らなかったのだ。フランがやけに懐いてしまったものだから、余計にそう感じるのかもしれない。

 確かに彼はフランを狂気から助け出してくれたし、そのお陰でレミリアは彼女と理解し合うことができた。

 でも一方で……なんだか妹を取られそうで悔しい、とか。

 そこまで考えたところで、レミリアはふと、正面にある月見の背がくつくつと揺れているのに気づいた。

 笑っているのだ。そうしてひとしきり含み笑いをした彼は、

 

「別にフランを取ったりなんて、しないからね?」

「――っ!?」

 

 ズバリ言い当てられて、レミリアの思考が一瞬で白熱する。声を上げてしまいそうになるのをすんでのところでこらえると、また、彼の背中が小さく揺れた。

 落ち着け、とレミリアは深呼吸する。幸いなことにこの場にフランはいない。もし彼女に今の話を聞かれたらと思うと気が気でないが、月見だけなら、グングニルをぶん投げて黙らせるとかなんとか、対処の仕様はいくらでもある。

 ――と、その時は思ったのだけれど。

 

「――へー、お姉様ってそんな風に考えてたんだー」

「にゃい!?」

 

 こんな素っ頓狂な悲鳴を上げたのは、きっと生まれて初めてだろう。……いや、そんなことよりも、今の声ってもしかして。

 そういえば、と思い出す。レミリアが目を覚ました時、月見は童話かなにかの読み聞かせをしていた。――では、読み聞かせの相手は一体誰だったのか?

 さーっ、と頭から血の気が失せていく。正面、月見の背中の向こう側で、ぴょこりと小さくなにかが動いた。白い生地に赤い大きなリボン。フランがいつも被っているお気に入りの帽子だ。

 その帽子はしばらくの間もぞもぞ動き、やがて、

 

「やっほー、お姉様ー」

「フ、フランッ!?」

 

 月見の右肩あたりから、フランの顔が帽子と一緒に飛び出してきた。

 レミリアは愕然とした。フランがいることはもはや覚悟していたが、よりにもよってそんなところにいたなんて。

 だって、あの位置からフランの顔が出てくるということは、フランは月見の体に正面から抱きついているのであって、つまりレミリアと月見の今までのやり取りは全部筒抜けだったのであっていやいやそんなことよりも月見が読み聞かせをしていたのがフランならもしかしなくてもフランは月見の膝の上にずっと座っていてそれを後ろから月見が抱きかかえる感じで読み聞かせしていたということでああもうなんだかよくわからないけどともかく

 

「あんた私のフランになにしてくれてんのよ――――ッ!!」

「ガッ」

 

 レミリアは月見の後頭部に跳び膝蹴りを叩き込んだ。

 そのまま流れる動きでフランを確保、月見のもとから速やかに退去。

 

「お、お姉様!? いきなりなにしてんの!?」

 

 フランが目を丸くして慌てたが、レミリアはそれどころではなかった。フランをその場に立たせると、上から下まで何度も何度も目をやって、

 

「大丈夫、フラン!? なにか変なことされなかった!? 変に触られたりしなかった!?」

「月見はそんなことしないよっ! フランに読み聞かせしてくれてたのっ!」

 

 フランは憤慨してレミリアを撥ね除けると、一直線に月見のもとに駆け戻って、呻く彼の後頭部を優しくさすった。

 

「大丈夫? 痛くない?」

「あ、ああ……痛いというか、びっくりしたよ」

「ごめんね、お姉様が……」

 

 それからレミリアを一睨み、頬をぷっくりりんごみたいに膨らませて、

 

「お姉様のバカッ」

「ち、違っ……私はてっきり、フランが変なことされてるんじゃないかと思って」

「それがバカだって言ってるのっ」

「そこまで言わなくてもいいでしょ!? 私はフランを心配してるのよ!?」

「だから、月見はそんなことしないって言ってるじゃない!」

「どうしてそこまでそいつのことを信用してるのよっ!」

「どうしてそんなに月見のことを信用してないの!?」

 

 あとは売り言葉に買い言葉。勢いのままに、気がついたら睨み合いになってしまっていた。

 

「……っ」

 

 ぐっと、唇を噛む。フランを怒っているわけではなかった。ただ、悔しかった。

 わかっている。レミリアは、月見に嫉妬しているのだ。今日フランと出会ったばかりの彼が、あんまりにも懐かれてしまっているから、それがズルくて、羨ましくて、悔しい。

 自分が今までフランにしてきたことを考えれば、それはとても浅ましい感情なのかもしれない。

 でも、それでも、大好きな妹だから。

 

「……ほら、二人とも。せっかく仲直りしたばかりなのにどうして喧嘩なんてするかな」

 

 呆れるように声を上げた月見に、あんたのせいだと言ってやりたい。けれどフランの視線が気になって、とても言葉にはできなかった。

 月見は浅く吐息して、フランの頭にその大きな掌を置いた。据わりの悪い雰囲気を切り替えるように、わかりやすく声の調子を明るくして言った。

 

「さてフラン、読み聞かせはおしまいだ。あとは、レミリアと一緒にいてやりなさい」

「え? 月見は?」

「私はもう少し本を読んでるよ。気になる本が他にもたくさんありそうだしね」

「えー、じゃあ私も一緒に」

「フラン」

 

 フランの言葉を遮り、もう一度、繰り返した。

 

「レミリアと、一緒にいてやりなさい」

 

 不思議そうな顔をして、フランがこちらを見つめてくる。レミリアはたまらずに視線を逸らした。違うと、その一言を言えればちょっとは楽になれるのかもしれないけれど、できなかった。フランと一緒にいたい。嘘偽りないその気持ちを否定したくなかった。フランにはずっとずっと嘘をつき続けてきたから、どうか今くらいは素直でありたくて、でも言葉にできるくらいの勇気もなくて、なにも言えないまま。

 

「……わかった。じゃあ私、お姉様と一緒にいるね」

 

 ……それでも心が通じたのは、姉妹だからだと思いたい。

 いい子だ、と月見に頭を撫でられたフランは、くすぐったそうに微笑をこぼして、それからパッとこちらに駆け寄ってきた。

 

「行こ、お姉様っ」

「え……」

 

 右手を取られる。掌と掌を通して、フランの柔らかい体温が伝わってきた。

 

「私、なんだか眠くなってきちゃった。久し振りに、一緒に寝ようよ」

「……、」

 

 レミリアは、思いがけず言葉を失った。あんなに一緒にいたいと思っていたはずなのに、いざとなるとどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

 その背を押したのは、バリトンの声音。

 

「ほら」

 

 言葉は、それだけ。でも、それだけで充分だった。

 多分、すぐには無理だと思う。レミリアはフランに対して、500年近くの間、ずっと間違い続けた。そのわだかまりを乗り越えるのは、きっととても難しいだろう。

 だけど、いつかきっと、フランを素直に愛し、また、愛される姉となるために。

 もう二度と、間違わないために。

 レミリアがフランに返すべき言葉は、とっても簡単。

 

「……そうね。一緒に寝ましょう、フラン」

「うんっ!」

 

 途端、ほころんだフランにぐいと腕を引かれ、思わずバランスを崩してしまった。その予想外の力強さに戸惑いながら、静かに思う。

 

(フランにこうやって手を引かれたのは、いつ以来かしら……)

 

 掌越しに伝わるこのぬくもりが愛おしくて、レミリアはフランの手を強く握り返した。

 

「じゃあ行こ!」

「……ええ、そうね」

 

 そうしてフランに引かれるままに歩き出すと、ふと月見の横を通り過ぎる。視線は合わなかった。彼はもう、なにも言うことはないとまぶたを閉じて、こちらを見ようともしなかった。

 だからレミリアは、小さく唇だけを動かした。今はまだ、それを口にできるほど心を開くつもりにはなれなかったけど。

 

(――ありがと)

 

 この気持ちを、きっといつかは、言葉にできるのだろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そうして彼女たちの足音が聞こえなくなれば、月見のもとに久し振りに一人の時間が訪れる。

 ようやく、肩の力を抜けるような気がした。首が痛くなるほどに高い天井を仰いで、吐息する。

 

「……随分と手の掛かる姉妹だったこと」

 

 レミリアとフラン。それぞれ別々の意味で厄介な二人に振り回されて、さすがに疲れてしまった。他に読みたい本があるのは本当なのだが、このまま読書を続けたら、レミリアみたいに眠りこけてしまいそうだった。

 どうするかな、と考える。レミリアも起きたのだし、これ以上長居はせずに次の目的地を目指してもいいかもしれない。

 次の目的地――人里。もし可能なら、今日はそこで宿を恵んでもらいたいところだけれど。

 しかし気になるのは、この紅魔館を訪ねる際に降り出した大雨だった。あれに降り続けられる限りは、人里を目指すのはもちろん、外を歩くことすらもままならない。ここは地下なので判断の仕様がないが、雨脚はどうなっているのだろうか。

 少し、見てきてみようか――そう思い、月見が椅子から腰を上げかけた時だった。

 

「!」

 

 蹴破られたのかと思うほどの勢いで、図書館の入口が開け放たれる音が響いた。

 ついでに、少女のものと思しき声もついてくる。

 

「よーパチュリー、今日も本を盗みに……じゃなかった、借りに来たぜー!」

 

 張りのある元気な声だった。発言の内容からして、パチュリーが頭を悩ませているという件の不正利用客のようだ。眠気覚ましの意味も込めて、月見はすぐに図書館の入口へと足を向けた。

 しかしながら、ここからでは大分距離がある。果たして間に合うだろうか。

 本棚たちの間を、何度も何度も掻き分けていく。二分ほど歩いたが、それでも入口はまだ見えてこない。咲夜の能力による空間拡張の弊害だ。限られた空間を広く使えるのは便利だが、ここまで広くされてしまうと逆に不便を感じてしまう。

 上手く見つけられればいいのだけれど――そう祈りつつ、通り過ぎた本棚から右へ曲がった直後だった。狙いすましたタイミングで同じように曲がってきた人影に、あわや正面衝突しそうになった。

 

「おっと」

「うおっと」

 

 互いの反応は速かった。ギリギリのタイミングでお互い停止――したはずだったのだが、

 

「ぐふっ」

「あ」

 

 月見の鳩尾に、細いなにかがめり込む圧迫感。痛みに呻いて思わず体をくの字に折れば、鳩尾に叩き込まれたのは、どうやらほうきの柄の先っちょらしかった。

 どうしてそんなものが叩き込まれたのか。答えは、ぶつかりそうになった相手がほうきに跨がった魔女であり、加えてその魔女の飛行位置が、ちょうど月見の胸元あたりだったからだ。

 

「うわ、すまん。まさか人がいるとは思わなくて、止まり損ねちまった」

「へ、平気だよ。……うん、なんとか」

 

 腰を折った体勢のまま、声の聞こえた方へ手を振り返す。

 幸いこうして呻く程度で済んだが、もし当初の勢いのまま衝突していたら、月見は今頃、床の上をバタバタのたうち回っていただろう。危ないところだった、と月見は額に浮かんだ脂汗を拭った。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 魔女がほうきから降り、膝を曲げてこちらを下から覗き込んできた。パチュリーと同年代くらいに見える少女。鍔の広い黒帽子の奥で覗くのは、彩度の高い金髪金眼だ。

「大丈夫だよ」月見は鳩尾をさすりつつ折れた上体を起こし、深呼吸を一つ。まだじんじんと痛みが残っていること以外は良好だった。

 悪びれる様子などおくびも見せず、からからと、少女が笑った。

 

「運がなかったな。私と同じくらいの身長だったら、喉仏に一発ですぐ楽になれたのに」

「……背が高くてよかったよ」

 

 月見が力なくため息を返せば、少女の笑い声はますます高くなったのだった。

 白黒の魔法使い。ほうき以外、身に着けているものはすべて白黒であった。巨大な黒の三角帽子はもちろん、白のブラウス、黒のスカート、白のエプロン……本当に白と黒しかない。ともすればメイド服に見えなくもない、魔法使いとしては奇妙な出で立ちをしていたが、不思議と全体的な釣り合いは取れているようだった。

 肌は赤みのある肌色でとても活発そうな印象を受けるし、実際その通りなのだろう。初対面の月見になんの警戒も見せることなく、気さくに右手を出してきた。

 

「こんなカビ臭い図書館で出会うなんて、きっと相当な奇縁だな。霧雨魔理沙だ。よろしくな」

「……月見だよ。よろしく」

 

 まだ鳩尾に痛みが残っているのを感じつつ、なあなあと握手を交わす。そこで月見は、ふと、魔理沙の服がちっとも濡れていないことに気づいた。もしあの雨の中を飛んでやって来たのだとしたら、たとえ傘を差していたとしてもこうはならないはずだ。

 

「魔理沙。外、雨は降っていたか?」

「ん? 少し前まで相当降ってたけど、通り雨だったみたいだぜ。だからこうして、新しい知識を求めてやってきたわけだ」

「なるほど」

 

 どうやら雨は既にやんだらしい。ならば、今日中に人里に向かう予定は滞らずに済みそうだ。

 

「そういうお前も、本探しか?」

「いや、私はここで雨宿りさせてもらってたんだよ。この図書館へは、厚意で案内してもらってね」

「ふうん、ここの連中が素直によそ者を歓迎するなんて……ああ、だからさっきまで雨が降ってたんだな。納得した」

 

 神妙と頷く魔理沙に、月見は苦笑。素直に歓迎してもらうために、あわや死ぬかという大仕事をする羽目になったのだが――それはわざわざ言う必要もないだろう。

 それよりも、こうして運良く彼女を見つけることができたのだ。パチュリーとの約束は、果たさなければ。

 

「さて、魔理沙。単刀直入に言うけど、借りたものはちゃんと返すべきだぞ」

 

 うわ、と魔理沙が露骨に嫌な顔をした。

 

「パチュリーめ、余計なこと吹き込んだな。……言っとくが私は、盗みを働くような真似は断じてしてないぜ」

「その割に、パチュリーは相当悩んでるみたいだったけど」

「死ぬまで借りてるだけだ。死んだらちゃんと返すぜ」

「……そういうのを、世間一般では盗むって言うんじゃないか?」

「どこの世間一般だ? 私の地元じゃなさそうだな」

 

 月見は閉口した。パチュリーがあそこまで頭を痛めていた理由、今ならなんとなく理解できるような気がした。

 我が強い、というか、反骨のような少女なのかもしれない。これは、口で説明してどうにかなる相手ではなさそうだった。

 さてどうしたものかと月見が思案していると、不意に第三者の声が響いた。

 

「あっ、騒がしいと思ったらやっぱり! また来たんですね、魔理沙さん!」

 

 上だ。月見にこの図書館を案内してくれた、小悪魔という少女。スカートの裾を両手で押さえ、面差し鋭く、一直線にこちらに向けて降りてきているところだった。

 

「おっと、面倒なやつに見つかっちまったな」

 

 言葉とは裏腹に、魔理沙の表情は楽しげだった。特に逃げる素振りを見せることもなく、律儀にその場で小悪魔が降りてくるのを待っていた。

 そうして降り立った小悪魔は、わかりやすい怒り顔を浮かべて魔理沙に詰め寄った。

 

「また本を盗みに来たんですね!? 今日という今日は許しませんよ!」

「それ、前にも聞いたぜ」

 

 恐らく小悪魔は本気で怒っているのだろうが、それでも魔理沙は天邪鬼な言動を欠片も崩さなかった。むしろこの状況を楽しむかのように、へらへらと片笑む。

 

「そんなの関係ないです! 今日こそ観念してもらいますからね!」

「それも前に聞いたって」

 

 鼻であしらい、魔理沙が取り出したのはスペルカード。

 すなわち、弾幕ごっこ開戦の意思表示だった。

 

「……おいおい、こんなところでやるのか?」

 

 この図書の密林の中で弾幕ごっこなぞしたら、せいたかのっぽの本棚たちはドミノ倒しで倒壊し、何千ともなる本たちが四散して地獄絵図と化してしまう。

 その惨劇を想像して思わず口を挟んだが、魔理沙は不思議そうに小首を傾げただけだった。

 

「? いつでもどこでも気軽にできるのが、弾幕ごっこってもんだろ?」

「……」

 

 月見は痛む頭を押さえて嘆息しながら、顎をしゃくって上を示した。

 

「……せめて上でやってくれ。本棚を倒さないようにね」

「そりゃ、言われなくても」

 

 魔理沙は帽子を深く被り直して、ほうきに跨がるなり勢いよく飛鷹。それを、すぐに小悪魔も追い掛けていった。

 本棚たちよりも高くに昇り、そして二人は対峙する。

 

「覚悟してください。今日の私は一味違いますよ!」

「だからそれも前に……ああ、もういいや。さっさとやろうぜ、めんどくさい」

 

 魔理沙のため息を合図に、二人の周囲に弾幕が展開される。

 

「それじゃあ、尋常に――」

「勝負です!」

 

 そして、放たれた。

 無数の弾幕が飛び交い、相殺し合い、炸裂する。二人の姿はすぐに弾幕に埋もれて見えなくなり、それを下から眺める月見は、感嘆とも憂鬱とも取れないため息を、一つこぼした。

 

「……とりあえずこの場は大丈夫そうだし、本を戻しておこうか」

 

 フランに読み聞かせした絵本が出しっぱなしだったのを思い出して、七色の流れ星に彩られた空の下を、のんべんだらりと引き返していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第12話 「レコンサリエーション ④」

 

 

 

 

 

 ふと、最後にお風呂に入ったのはいつだっけ、と思った。

 月見と名乗る妖狐に図書館の使用許可を出し、自室に戻って、ちょうど魔法の研究を終えた時だった。汗が頬を伝って下に落ちたのを感じて、パチュリーはそう疑問に思った。

 

 魔法の研究というのは、これで案外ハードワークな一面がある。机に向かって理論とにらめっこしているうちはまだ楽だが、いざ実践の段階となると、体の強くないパチュリーには意外と酷になるところがあるのだ。

 故に今のように、汗を流して肩で息を整える有様になってしまうのも珍しくない。

 

「……大分、汗、かいちゃったわね」

 

 パチュリーの私室からドアを一枚挟んだ、咲夜に特別に拡張してもらった魔法研究室。ここで一時間と半分ほどの間、ずっと新しい魔法の実践を行なっていた。

 頬を伝う汗を手の甲で拭う。研究していた魔法が炎系統だったからだろうか。すべての窓を開け放ってなお、部屋は軽いサウナのような状態になっていた。

 

 最後にお風呂に入ったのはいつか――そんなことを疑問に思ったのは、きっと、月見という妖狐に出会ったせいもあるのだろう。

 

 風の魔法を使って部屋の空気を入れ換えながら、パチュリーは記憶を掘り起こす。とりあえず、一昨日の夜にちゃんとお風呂に入って睡眠を摂ったのは間違いない。ではそのあと、つまり昨日からはどうだったろうか。

 朝起きると同時にぼんやりとイメージが湧いて、そして取り掛かったのがこの研究だった。食事もロクに摂らず魔導書とにらめっこをして、実践と修正を繰り返した。予想外のところで理論が躓いて、それが悔しくて、ムキになったように夜通しで研究を続けた。明朝、眠気が辛かったので少しだけ仮眠を取って、また研究を再開してしばらくしたら、咲夜がやって来た。

 そこまで思い出したところで気づく。……あ、私、昨日お風呂入ってない。

 

「……うわ」

 

 そんな、掠れた声が漏れた。自分はそんな状態で、月見――異性の目の前に立っていたのか。

 恥ずかしくはなかった。ただ、頭の血の気が落ちるようだった。

 まず警鐘の如く頭を掠めたのは、もう一度月見に会わねばならなくなった場合の未来だった。魔導書を読みたくなった彼がこの部屋を訪ねてくる、なんてことは充分にありえる。なのに昨日からお風呂に入っていなくて、今こうして汗も大分かいた――そんな状態で応対するのは、ちょっとどころかかなりまずい。

 

「と、とりあえず、お風呂に入りましょう」

 

 大丈夫大丈夫、まだ間に合う、とパチュリーは口早に自分に言い聞かせた。

 新しい流行やお洒落には関心がないけれど、パチュリーだって女の子だ。異性の目だってもちろん、気にする。

 早足で研究室を抜け出し、私室のクローゼットをひっくり返すようにして、替えの服と下着を準備する。あんまり走るとすぐ息が苦しくなるのも忘れて、浴室に向けて駆け出した。

 

 そうして、私室を飛び出してすぐ。

 パチュリーは、図書館の空を翔ける七色の流星たちを見た。

 

 思わず数歩たたらを踏んで、立ち止まる。呆然と天井を見上げ、それからこの空模様が意味するところを察して、頭を抱えた。

 弾幕ごっこ。

 図書館の空でそんなことをするやつなんて、一人しかいない。

 

「ま、魔理沙ッ……!」

 

 霧雨魔理沙。

 よりにもよってこのタイミングで、あの盗人はまたやって来たのだ。

 タイミングとしては最悪だった。今、魔理沙と弾幕ごっこをしているのは小悪魔だろうが、彼女では到底魔理沙を止めることはできない。すぐに自分が向かわなければ、またおめおめと魔導書を盗まれる羽目になってしまう。

 恐らく、月見は様子見しているのだろう。彼の働きに期待する手もあったけれど、泥棒退治を来客に任せて自分はのんびりお風呂で寛ぐというのも、パチュリーの良心が由としなかった。

 ああ、でもそうしたら、この肌に染み込むような汗を流さないまま彼の前に立ってしまう可能性が高いわけで。もしそうなったらパチュリーのささやかな乙女心が、ざっくりと深い傷を負ってしまうのであって。

 パチュリーは焦るあまり、その場で右へ左へ行ったり来たりした。

 

「ど、どうしよう、どうしようっ……」

 

 ……後々、思い返してみれば。

 この時点で『咲夜を呼ぶ』という選択肢が思い浮かばなかった自分は、心底馬鹿だとしか言いようがない気がした。

 

「~~っ、ああもう!」

 

 結局、迷いを振り払うようにそう叫び、パチュリーは着替えをすべて私室の中に放り込む。

 そして、憎っくき魔導書泥棒のところに向けて飛んでいく。

 潰すと、恨みたっぷりの低い声で吐き捨てながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 図書館の空を翔ける流れ星というのは、とても不思議な光景だった。しかも普通の流れ星とは違って、青かったり、赤かったり、緑だったりする。みんなが揃って一つの方向に流れるのではなく、互いに交差するように行き交い、時に衝突して、弾けて消える。

 魔理沙と小悪魔の弾幕ごっこ。流れ星の応酬。薄暗い大図書館の空を鮮やかに、そして少しばかり騒がしく彩っている。

 月見はその下で、フランに読み聞かせした絵本たちを一冊一冊棚に戻していた。時折思い出したように頭上を見上げては、絶え間なく変化する星空に、ふっと息をつく。

 

「弾幕ごっこ、ね」

 

 ちょうど、雛と椛が見せてくれた弾幕ごっこを、場所を変えてもう一度見ているような。弾幕は速すぎず多すぎず、適度な速度と密度でやり取りされる。弾幕“ごっこ”という言葉の通り、まさしく遊びと呼ぶにふさわしい気さくさ(・・・・)があった。

 恐らく私たちが異常だったのだろう、と月見は思う。弾幕ごっこは妖怪と人間を対等に闘わせるためのフェアな決闘手段だというけれど、月見がフランとやった弾幕ごっこは、間違いなく一つの『戦い』だった。遊びと呼べるほど気さくではなく、決闘と呼べるほど高貴でなかった。

 魔理沙や小悪魔がもしあの場にいたら、腰を抜かしていたのだろうか。

 

「……で、この本は一体どこにしまえばいいのかな」

 

 などと考えながら、月見はそそり立つ本棚たちへと視線を戻した。本棚自体があまりに大きすぎるため、ただ本をしまうだけでもなかなか一苦労になる。しきりに視線を彷徨わせ、やっと該当する場所を発見した。

 

「あと一冊、と」

 

 最後の一冊をしまう場所を探していると、ふと、「これ全部読んでほしいな!」と絵本の山を持ってきたフランの姿を思い出す。

 お陰様で大分片付けに手間取ってしまったけれど、次でようやくおしまいだ。またしばらくかけてしまう場所を見つけ出し、そこに本を差し込む。

 直後、それが引鉄を引いたかのように、図書館中を爆発音が駆け抜けた。

 すべてのスペルカードを攻略され、弾幕ごっこの勝敗が決した合図。完全な不意打ちに、月見の肩が思わず跳ねる。

 

「……」

 

 見上げれば、魔理沙と相対していたはずの小悪魔の姿が消えていた。人差し指でくいと帽子の鍔を持ち上げ、勝利宣言をするのは魔理沙の方。

 

「その程度で私を倒そうなんざ、百万光年早いぜ……なんてな」

 

 意味するところはすなわち、小悪魔の敗北だ。

 惜しかったなあ、と月見は思う。ここでもし小悪魔が勝てていれば、手っ取り早く魔理沙を追い返す口実となっただろうに。

 魔理沙は眼下をキョロキョロ見回し、月見の姿を見つけ出すと流れ星が落ちるように飛んできた。撃墜した小悪魔は放置らしい。

 

「よう、ええと……そうだ、月見だったな。見てたか、私の華麗な雄姿を?」

 

 同じ目線で振舞われる笑顔には確かな豪胆さがあったが、それにまた笑顔で応えられるほど、月見の心中は上向きではなかった。肩を竦め、努めて無関心に、

 

「残念ながら、弾幕に埋もれてよく見えなかったよ」

「おっと、そいつは残念だ。小悪魔のやつ、今日はいつも以上に気合入ってたからな。私もつい熱くなっちまったぜ」

「お疲れ様。今日はもう家に帰って休むといいよ」

「いやいや。邪魔者は追い払ったんだから、いよいよもって本を盗――借りていくぜ」

「パチュリーを呼んでこようか?」

「そんな余計なことはしなくていい」

 

 どうしたものかな、と月見は考える。とりあえず与太話をして間を持たせながら、

 

「魔理沙、パチュリーも困ってるようだからな?」

「あいつは四六時中魔術の研究で悩み抜いてるから、ちょっと悩みが増えたところで変わらんだろ。それに、豊富な魔導書を独り占めしてるってのもいけない話だと思わないか?」

「別に独り占めはしてないだろう。一言通せば私にも見せてくれると言っていたぞ?」

「それは言わないお約束だぜ」

 

 魔理沙が言葉で煙に巻けるような相手でないことを、月見は始めの会話から既に察していたし、からころと鈴を転がすような彼女の笑顔は、人の言葉に大人しく従う従順さとは無縁だった。

 愉快犯なのだろう、と月見は思う。ただ単に本を盗むのが目的なのではなく、その中でのみ味わえる独特のスリルこそを、魔理沙は楽しんでいる。つまりは、成功と失敗を懸けて誰かと勝負をするということを。

 ならば必然、

 

「なんだったら、お前も一丁やるか?」

 

 話が行く着く場所は、そこ以外にない。

 誘うように口端を吊り上げた魔理沙が、指で挟んでチラつかせるのはスペルカード。そのわかりやすい意思表示に、しかし月見は答えを渋った。弾幕ごっこは、フランとの一件で既にお腹いっぱいなっていたから。

 肝を冷やしながら弾幕の中を掻いくぐるのは、もうしばらくはこりごりである。

 

「私は、少し前に一度弾幕ごっこに付き合わされてね」

「お、だったらルール説明はいらんな。早速やろうぜ」

「……」

 

 墓穴を掘った。

 もはや閉口するしかない月見に、魔理沙はあいもかわらず、豪胆な笑顔を崩さずに言った。

 

「なに、私は体力も魔力も有り余ってるからな。遠慮はいらんぜ」

「……そう。なら、私の相手をしてもらおうかしら」

 

 しかしそれに答えたのは月見ではなく、抑揚を欠いた少女の声。パチュリー・ノーレッジが、いつの間にか魔理沙の後方でぷかぷか滞空していた。

 物静かな少女だからか、それとも魔理沙に気を取られていたからか。声を聞くまでまったく気づかなかった。

 

「うおっと、パチュリー。いきなり後ろを取るのはなしだぜ、失礼な」

「……」

 

 飛び跳ねた魔理沙を、鋭く冷め切った紫紺色の瞳が見下ろす。機嫌が悪いのか、少し色の悪い唇が紡いだ声は、もともとの起伏のなさに輪を掛けて、無感動だった。

 

「じゃあ図書館から無断で魔導書を持って行くのもなしね。失礼だから」

「前言撤回、私の背後を取るなんてさすがだぜ。だから図書館から魔導書を持ってく私もさすがだぜ」

「……まったく」

 

 パチュリーは目頭を押さえ、肺の中の空気をすべて吐き出す長いため息を落とした。緩く首を振り、諦めたように、

 

「減らず口はあいかわらずなのね」

「失敬な。私は人より少しばかり素直なだけな普通の魔法使いだ」

「そう」

 

 そして胸を張る魔理沙を至極どうでもよさそうに切り捨て、ふわり、降り立った。

 

「パチュリー」

「っ……」

 

 わざわざ駆けつけてくれたのだろうかと、月見はパチュリーの名を呼んだ。すると彼女は冷め切っていた表情を一瞬で崩して、言葉に弾かれたように素早く、一歩後ろへあとずさった。

 

「……どうした?」

「い、いえ、なんでも。それより悪かったわね、来るのが遅くなって」

「それは、大丈夫だけど……」

 

 パチュリーはすぐに足を戻したが、依然として視線が泳いでいて、態度がどことなくよそよそしい。まるで避けられているようだ。

 はて、と月見は胸中に疑問。なにか、彼女に距離を置かれるようなことをしてしまっただろうか。

 コホン、とパチュリーは空咳を一つ。

 

「こんなやつの相手なんかして、疲れたでしょう」

「……いや、まあ」

 

 そのまま強引に話を逸らされ、月見はやむなく苦笑を返した。彼女の言葉自体にも、否定できないものがあったから。

 言葉を濁す月見に、魔理沙が不服そうに唇を尖らせた。

 

「おいおい、そこは恥ずかしがらずに否定してくれていいんだぜ?」

「「……」」

 

 今のが本当に恥ずかしがっているように見えたのなら、魔理沙は相当な幸せ者だ。

 月見もパチュリーも徹して沈黙し、アイコンタクトで互いの苦労を慰め合う。本当に大変なんだな。――そうね、本当に大変なの。――口も使わずにそんな会話を成立させられる程度には、今の二人の心境は一致していた。

 一方の魔理沙は、その沈黙をとりわけ不快と思う素振りも見せなかった。「そういえば」とパチュリーに向けて口を切り、

 

「私の相手を、とか言ってたな。なんだ、珍しくやる気なのか?」

「ああ、そういえばそうだったわね……」

 

 瞬間、パチュリーの双眸がまた氷さながらに冷え切った。

 

「ええ、ちょうど魔法の実験が進んで新しいスペルカードができてね」

 

 一度言葉を切り、つなぐ所作で抜き放つはスペルカード。魔力の風を体にまとい、紫紺の瞳は更に、確かな戦意を以て鋭く研ぎ澄まされる。

 

「それと今ね、個人的に虫の居所が悪いのよ」

 

 声にあいかわらず抑揚は見られなかったが、それ故に、月見の背筋が冷えるほどに怒りの感情が際立っていた。

 そうしてパチュリーは一息、

 

「――だから今、巻き藁がほしいのよねえ」

「……おっと、そいつはまたご大層な宣戦布告だな」

 

 魔理沙は、グイッと強く唇端を引き上げた。指で帽子の鍔を持ち上げ、大胆不敵にパチュリーの魔力を迎え撃つ。

 

「どっちが巻き藁になるか、試してみるか?」

「口答えする巻き藁はいらないわ。――黙って墜ちてくれればそれでいい」

「――上等!」

 

 旋風。打ちつける風に月見が一瞬のまばたきをした時には、二人は既に空高く、本の海原を眼下に広げて対峙している。彼女らの間では、無数の弾幕が鎌首をもたげていた。

 そして残された月見もまた天井へ首をもたげながら、ふう、と短い吐息を一つ落とす。

 

「……若い子は元気だねえ」

 

 最近は歳も取ったからか、どうにも不必要な争いは極力避けようと、無意識のうちに考えるようになった。レミリアにグングニルを突きつけられた時もやり返そうとは思わなかったし、昔の血気盛んだった頃の自分が懐かしい。

 上から、控えめなパチュリーの声が降ってくる。

 

「月見、悪いけどまたうるさくなるわ。もう少しの間だけ我慢してもらえるかしら」

「ああ、くれぐれも気をつけてな」

「おーい、私に掛ける言葉はなしか?」

 

 くっついてきた魔理沙の言葉を、月見は有意義に無視して、

 

「じゃあ、私は小悪魔を捜しに行ってるよ。魔理沙に墜とされてしまったようだから」

「おーい」

「ああ……ごめんなさい、迷惑を掛けるわね」

「おぉーい」

「構いやしないよ。その代わり、負けないように頑張ってくれ」

「月見ー」

「ええ、それはもちろん」

「……うーむ、こいつは贔屓(ひいき)のスメルが匂うぜ……」

 

 魔理沙がなにか言っていたような気がしたが、気のせいだろう。月見はそれっきり頭上から視線を外し、小悪魔を捜すために本棚の森へと分け入っていく。

 すぐに数多の流星が、薄暗い図書館の空を彩り始めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 小悪魔を見つけるのに、さほど時間は掛からなかった。ただ、本棚を曲がったらすぐのところに倒れていたものだから、危うく踏んづけるところだった。

 小悪魔は、衣服をすっかりボロボロにして、仰向けで無造作に寝転がっていた。気を失ってはいたが目立った外傷もなく、衣服についても、ボロボロとはいえ目のやり場に困るほどではない。

 月見は意識確認のため、浅く彼女の体を揺すった。

 

「おーい、小悪魔ー」

「う、う~ん……やめてください魔理沙さん、私なんか食べても美味しくないですよおおぉ……」

 

 変な夢を見ているのか、小悪魔が苦しそうに呻き声を上げた。

 なんだか、このまま放っておいても問題なさそうだ。

 

「あっあっ、待って服はっ、やあああ下着まで取らないでえええええ」

「……」

 

 やっぱりダメだな、と気を取り直し、月見は小悪魔の頬をペチペチ叩く。

 

「おーい、起きろー」

「ふあああっダメですっ、食べる時はせめてお尻から優しく」

 

 月見は小悪魔の額に躊躇いのない手刀を落とした。

 ビクン、と小悪魔の体が大きく震えて、その勢いのまま跳ね起きる。

 

「痛い!? ダメですよ魔理沙さんもっと優しく――あれ? 月見さん?」

 

 額を押さえ涙目で首を傾げた小悪魔に、月見は空咳を一つ置いてから、

 

「おはよう、小悪魔」

「あ、はい、おはようございます……? あれ、私、確か魔理沙さんに食べられそうになって……」

「まだ寝てるのか?」

 

 月見が手刀を構えてスタンバイすると、小悪魔は顔を真っ青にして、全身を使って強くかぶりを振った。

 

「だ、だだだっ大丈夫ですっ、もう起きましたっ! ええ、ええ!」

「本当か?」

「はいっ」

 

 髪が振り乱れるくらいに何度もガクガクと頷く。よろしい、と月見が手刀を下ろすと、彼女は胸を撫で下ろしながら目を伏せて、独りごちた。 

 

「そ、そうですよね、夢ですよね。魔理沙さんは人間ですもん、それがあんな風になるわけないじゃないですか……」

「一応訊くけど、どんなけったいな夢を?」

「えっと……私、もう少しで魔理沙さんに勝てそうになったんですけど、そしたら魔理沙さんが『私はあと三回変身を残してる』って言っていきなりスーパー魔理沙さんに……」

「小悪魔……頭打ったか?」

「そ、そんな可哀想な目で見ないでくださいよー! 怖かったんですよ!? 二回目の変身をしてハイパー魔理沙さんになった時には、既に人の姿をしていなかったんですっ!」

「ああ……うん」

 

 やはりろくな夢を見ていなかったようだ。

 小悪魔は顔を青くし、唇をわななかせながら続けた。

 

「三回目まで変身したギガンティック魔理沙さんは、もう語るに恐ろしい姿でした……。彼女は欲望のままに幻想郷を炎の渦に巻き込んで、ブラックホールみたいに途方もない口で私を食べようと」

「さて、早いところ戻ろうか」

「でも私も負けません。食べられてしまったパチュリー様のためにも、受け継いだ七曜の魔法で勇ましくってちょっ、待ってください! 気にならないんですか、この壮絶を極める戦いの結末が!?」

 

 月見は笑顔で手刀を構えた。

 小悪魔は引きつった笑顔で立ち上がった。

 

「そ、そうですよね、こんなところでいつまでお話するのもなんですし!」

「わかればよろしい」

「……うー。私、頑張ったのに」

「それは夢の中での話だろう?」

「ひ、ひどいっ! 現実でも頑張りましたもん、確かに今回は負けちゃいましたけど――」

 

 と、そこでなにかを思い出したのか、小悪魔は顔色を変えて周囲を見回した。

 

「そ、そういえば魔理沙さんは!? 私がやられて、月見さんがここにいるってことは、誰があのコソドロを!」

「ああ、パチュリーだよ。なんでも、新しいスペルカードの試し打ちだとか」

 

 そろそろ終わるんじゃないか? そう言って、月見が図書館の天井を指差した――直後。

 

「!」

 

 視線の先、宙の一角で小規模な爆発が起こる。黒煙が上がって半瞬、その中から黒い尾を引いて落ちてきたのは――霧雨魔理沙。

 パチュリーの弾幕が直撃したらしい。気を失ったのか、頭から真っ逆さまだ。

 隣で、小悪魔が快哉を叫んだ。

 

「わあっ! パチュリー様、さすがです!」

「確かにお見事……だけど」

 

 月見は眉をひそめた。ただの人間があの高度から、しかも頭から落下するのは、少しばかり危険すぎる。世の中には落下の衝撃を和らげる緩衝魔法というものも存在するが、気を失っていてはそれを唱えることもできない。

 だが、その危惧はほどなくして杞憂に終わった。意識を取り戻した魔理沙が空中で体勢を整え直し、滞空したのだ。

 

「っ、まだまだあ!」

 

 爆発の衝撃で手からこぼれ落ちたほうきだけが、重力に引かれ落ちてゆく。魔理沙はそれを顧みなかった。もはやほうきに跨がることもせず、単身で再び宙へと翻す。

 

「いつつ、ちょっと油断したぜ。やるじゃないか、パチュリー」

「あのまま墜ちてくれてたら、もっと嬉しかったのだけど、ね……」

「大丈夫か、息が上がってるぜ?」

「あなたこそ、全身、(すす)けてるわよっ……」

 

 煤けた魔理沙と、息を切らしたパチュリー。闘いは拮抗しているようで、両者ともにかなりの消耗が見て取れた。

 魔理沙が復帰したことで、小悪魔が表情を硬くする。祈るように両手を合わせて、頑にパチュリーの姿を見つめていた。

 ……恐らくは、次で決着が着くだろう。魔理沙とパチュリーもそれを感じていた。新たなスペルカードを抜き、魔力を練度を高めていく。

 そして――落ちた魔理沙のほうきが地を打った、その音が号砲。

 

「――日符!」

「――恋符!」

 

 宣言は同時。パチュリーは赤の魔力を、魔理沙は白の魔力を、互いの眼前に収束させていく。

 先に術を完成させたのは、パチュリーの方であった。

 

「『ロイヤルフレア』……!」

 

 宣言とともに、パチュリーの頭上に赤い球体が作り上げられる。ちょうどパチュリーの頭と同じくらいの小さなものだが、『日符』という名の通り、まるで太陽を凝縮したかのように強い炎をまとった球体だった。迸る熱波が月見の肌まで届く。

 魔理沙の術はまだ完成していない。故に、あとはただあの赤い球体の力を開放するだけで、パチュリーの勝利が決まる。

 

「パチュリー様!」

 

 小悪魔の叫び。応じるように、パチュリーが己が右腕を鋭く振るった。

 決まるか、と――月見が予感した、その刹那。

 

「――ゲホッ!? ゲホ、ッ!」

 

 なんの前触れもなく、いきなり、パチュリーの体が“く”の字に折れ曲がる。咳き込み呻く彼女の頭上で、今まさに爆ぜようとしていた球体が、瞬く間に熱を失った。

 悲鳴を上げたのは小悪魔。

 

「パチュリー様!?」

 

 気負いすぎて咽せた、などという可愛い話ではない。パチュリーの咳は一向に収まらず、それどころか、もはや飛行術の維持すら危うい状態にまで悪化していた。

 一体なにが起きたのか、月見にはわからない。もしかしたらパチュリーはなんらかの持病を患っていて、このタイミングで運悪く発作を起こしてしまったのかもしれない。

 けれども、それを傍らの小悪魔に問うような隙はなかった。

 

「――スキありぃ!!」

 

 響いた声に、さすがの月見も顔色を変えた。魔理沙。この隙を好機と見て、己の魔法を完成させている。

 

「パチュリーさまあっ!」

 

 小悪魔が飛び出すが、遅い。

 

「――『マスタースパーク』!!」

 

 放たれた白の彗星が、大図書館の天を切り裂く。

 パチュリーの体を呑み込み、一直線に。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 曰く、パチュリーは百年以上を生きる魔女でありながら、体があまり強くないらしい。生まれつき喘息を患っていて、ふとした拍子に発作を起こしてしまうこともままあるのだと。

 それでも彼女は、魔理沙の『マスタースパーク』を耐え切った。直撃を受けてさすがに高度を落としたものの、撃墜まではされない。

 しかし、落ちた高度を立て直す余裕まではなかった。

 

「ぅ、くっ……! ゲホッ、ケホッ!」

 

 依然として治まらない発作が、パチュリーの体から自由を奪っている。今彼女が飛行術を維持できているのは、恐らく、魔女としての長年のキャリアが無意識にそうさせているだけ。本人はただ発作の苦しさに呻くばかりで、自分が飛んでいるのか落ちているのかなど、なに一つとして把握できていないだろう。

 故に、先の一撃で素直に墜とされていた方が、パチュリーにとっては幸いだったかもしれない。

 なまじっか無意識に耐えたばかりに、魔理沙がそれを戦闘続行の意思表示だと勘違いし――

 

「こいつで終わりにしてやるぜ!」

 

 追撃を仕掛ける。

 新たに迫る弾幕を、今のパチュリーが躱せるはずもない。

 ――直撃。

 

「パチュリーさまあああああ!」

 

 小悪魔は既に飛び出していたし、それを追う月見にも迷いはなかった。魔理沙がどこまでやるつもりなのかは知れないが、ともかくこれは仲裁しなければならない。

 パチュリーはもう、頭から地へ向けて落下を開始していた。ただ一つ、中途半端に持続された飛行術だけが、彼女の体を落下から守ろうと抵抗を続けている。

 だがそれも気休め程度のものでしかない。故に月見は、

 

「小悪魔、――先に行ってるぞ」

「え? わあっ!?」

 

 加速する。つむじ風を起こして小悪魔の体を一瞬で追い越し、本棚が連ねる長城を空へ抜け、まっすぐにパチュリーのもとへ。羽のように落ちてくる彼女の体を、抱き留めた。

 その瞬間、血の気の失せたパチュリーの細腕が、藁に縋るように月見の襟を掴んだ。驚きはない。きっと、相手が男だとか、そんなことを気にする余裕もないくらいに苦しいのだ。

 それよりも問題は、魔理沙の方。

 

「おっ、なんだ、お前もやるのか? 私は二対一でも構わないぜ!」

 

 パチュリーが発作を起こしているのにも気づかず、月見が割って入った理由を深く顧みもせず、よほど血気盛んなのか、一方的に闘いを続けようとする彼女は、既に自身の周囲に新たな弾幕を展開させていた。

 

「おいちょっと待て、魔理――」

「行くぜ!」

 

 月見の制止の声も聞かず、撃ってくる。

 ああもう、と月見は心中で舌打ちする。迫り来る弾幕に対し反射的に体が動こうとしたが、腕の中でパチュリーが咳き込んでいるのを思い出して足を止めた。

 あまり激しく動けば、それだけ彼女の負担になる。故に月見は銀尾の先に狐火を灯し、その場で弾幕を迎撃する。

 

「――狐火!」

 

 尻尾を振るって狐火を放つと、炎は魔理沙の弾幕をすべて呑み込んで消滅した。残り火の向こう側で、「む、厄介な炎だぜ……」と魔理沙が声を潜めた。

 

「ゲホッ……つく、み?」

 

 腕の中から、苦しげな声で名を呼ばれる。発作が落ち着いてきたのか、パチュリーが湿った瞳でこちらを見上げていた。

 

「あな、た……ゲホッ、ゲホッ!」

「喋るなって。……見てられなかったから、手を出すぞ」

 

 咳は次第に治まってきたようだが、月見の手には、依然として彼女の震えが伝わってくる。なるべく早く、楽な体勢で休ませてやった方がいい。

 しかし、そこに立ち塞がるのはやはり彼女。

 

「――なら、火力で勝負だ!」

 

 狐火が完全に(くう)に消えると、魔理沙が大胆不敵にスペルカードを抜き放ったところだった。眼前に集うのは白の魔力――マスタースパーク。

 月見は顔をしかめた。あれを狐火で相殺するのは、少しばかり厳しい。

 

「魔理沙、人の話を聞け!」

「勝負が終わったらゆっくり聞いてやるぜ!」

「だからな、」

「行くぜ! ――恋符!」

「おい!」

 

 魔理沙がスペルカードの矛先を月見に向けた。収束された魔力がその輝きを煌々と増し、今まさに放たれんと肥大化する。

 このやろ、と口を衝いて出そうになった悪態を呑み込み、月見はパチュリーの体を抱き寄せた。もはや是非もなかった。ともかく、パチュリーには少しの間だけ我慢してもらうしかない。

 

「ああもう、せめて咲夜がいれば……」

 

 彼女ならば、あのやんちゃ娘もきっと鮮やかにあしらってみせるのだろうか。彼女がこの場にいないことを心底歯痒く思いながら、月見はパチュリーの体を一度抱き上げて、

 

「――はい。お任せください、月見様」

「……は?」

 

 退避――しようとした、その刹那。

 すぐ隣から、ちょっとだけ嬉しそうな咲夜の声。

 驚き見ても、その姿はない。

 

「そこまでよ、魔理沙」

 

 既に魔理沙の懐に入り込み、喉元にナイフを突きつけている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――つくづくよく出来た従者だと、舌を巻く。名前を呼ぶどころか、名前を口にしただけで来てくれるとは、思ってもみなかった。もしかしてずっと物陰に隠れて機を見計らっていたのではと疑ってしまうほどの手際のよさ。時間を操る咲夜だけが為せる、その常人離れした芸当。

 表情を凍らせた魔理沙に対し、咲夜は毅然と口を切る。

 

「あいかわらずあなたは、無粋な行動がお好きなのね」

「……いきなり人の首にナイフを押しつけるお前には言われたくないぜ」

 

 口端を歪めながらの魔理沙の毒を、飄々と、

 

「だって、こうでもしないとあなたは止まってくれないでしょう」

 

 受け流し、肩を竦めた。

 

「そもそも、闘えなくなった相手に問答無用で攻撃を加えるあなたが言えたセリフでもないわね」

「……なに?」

 

 眉を寄せた魔理沙が、月見の腕の中に抱かれたパチュリーを見遣る。そこでようやく気がついたのだろう。ハッと息を呑んで、決まり悪そうに帽子の鍔で顔を隠した。

 

「わ、悪い……熱くなりすぎて、完全に気づいてなかった」

「……まったく」

 

 吐息一つ、咲夜は魔理沙の首筋からナイフを引くと、次の瞬間には月見の目の前に立っていた。いきなり目の前に出てこられるのは初めてだったので、月見は思わず声を上げそうになる。なかなか心臓に悪い使い方だった。

 それを知ってか知らでか、咲夜は咳き込むパチュリーを覗き込み、瞳の中に憂色を宿して言った。

 

「……早く薬を飲ませてあげた方がいいですね。小悪魔が予備を携帯しているはずですけど」

「パチュリー様、パチュリー様! 大丈夫ですか!?」

 

 折よく、小悪魔が追いついてきた。顔を青くしてパチュリーに駆け寄った彼女に、咲夜が素早く指示を飛ばす。

 

「小悪魔、薬の用意を」

「は、はいっ。お水は――」

「持ってきてるわ」

 

 言った頃には、咲夜は既になにもない空間から水の入ったコップを取り出していた。

 彼女の手際のよさを心底ありがたく思いながら、月見はパチュリーの背を叩く。

 

「パチュリー、薬だ。飲めそうか?」

「ケホッ……え、ええ」

 

 小さく応じたパチュリーが、月見の胸元に押しつけていた顔を持ち上げた。もともと色素の薄かった肌がわずかな熱すらも失って、驚くくらいに真っ白になってしまっている。

 

「パチュリー様」

「ありがとう……」

 

 小悪魔から薬を受け取り、次いで咲夜からもらった水で嚥下する。そうしてようやく、パチュリーは少しだけ肩の力を抜けたようだった。息をするのも苦しげだった呼吸が、薄紙を剥ぐように治まっていく。

 月見は、顎をしゃくって近くの読書用の椅子を示した。

 

「あとは、楽な体勢を。……魔理沙もいいな?」

「あ、ああ……」

 

 いかに反骨な魔理沙とはいえ、ここまで来てかぶりを振ることはなかった。気後れした声で頷き、そそくさとスペルカードをしまう。

 椅子へ向けて高度を下ろしながら、月見は後ろをついてくる咲夜に向けて言った。

 

「ありがとう、咲夜。助かったよ」

「いえ……そんな。当然のことをしただけですわ」

 

 言ってすぐに前を向き直ったから表情までは見なかったが、彼女の声はとても嬉しそうで。

 本当によくできた従者だと、月見はもう一度胸の中で繰り返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ごめんなさい、迷惑を掛けたわね」

 

 発作を起こして苦しむたびに、この薬の驚異的な効能を実感する。たった一粒の錠剤を嚥下して数分、あれだけひどかった発作が、初めからなかったかのようにすっきり治まっていた。

 月の頭脳――八意永琳による特製品。この幻想郷に腰を据えた今となっては、パチュリーにとってなくてはならない大切な薬だ。

 パチュリーは、八意永琳のことはどちらかといえば苦手なのだけれど、この薬を提供してくれている点は素直に感謝している。これのお陰で、発作を起こした際に小悪魔たちに掛けてしまう迷惑が随分と少なくなったのだから。

 とはいえ、ひとたび発作が起きてしまえば、少なからずも心配を掛けてしまうのはやはり変わらない。

 発作が完全に治まって体が落ち着いた時、パチュリーは、図書館に置かれた読書用の小椅子に腰掛けていた。顔を上げれば、月見、小悪魔、咲夜、魔理沙……四人の気遣いの視線が目に入る。発作に苦しむ自分がどんな風だったのかはわからないが、小悪魔が今にも泣きそうな顔をしているから、相当ひどい有様だったのだろう。

 パチュリーは一度深呼吸をし、スムーズに息ができることを確かめてから、みんなに向けてそっと頬を緩めた。

 

「もう大丈夫よ」

 

 言葉に、まっさきに表情を動かしたのは小悪魔だった。口を一文字に引き結んで、瞳をすっかり涙で潤めて。

 それでも最後に、ようやく笑う。

 

「よかったです、パチュリー様っ……」

「……え? え、ええと」

 

 パチュリーは思わずたじろいだ。発作を起こすたびに小悪魔が心配してくれるのはいつものことだけれど、まさか泣き出すなんて思ってもいなかったから。

 咄嗟にどうしていいのかわからなくなって、小悪魔から一歩離れて立っていた咲夜たちに目で助けを求めると、返ってくる反応は二分した。咲夜と月見が微笑ましげに目を細め、魔理沙が申し訳なさそうに顔を伏せる。

 魔理沙の反応を見て、そういえば、とパチュリーは思い出した。そもそもパチュリーは魔理沙と弾幕ごっこをしていて、発作の隙を突かれて撃墜されてしまったのだ。

 それが嚆矢(こうし)となって、次々とパチュリーの記憶が呼び起こされていく。ああ、そうだ。撃墜された時、落ちていく体を抱き留めてくれたのは月見で。その時パチュリーは、発作に苦しむあまり、彼の体に思いっきり――

 

「ッ……!」

 

 熱湯をぶっかけられたように、全身が白熱したのを感じた。ひょっとしたら、本当に湯気の一つでも出ているかもしれない。それほどにまで恥ずかしかった。

 だって、いくら発作で苦しかったとはいえ、男の人の体に、あんな風に抱きつくなんて。発作に苦しんでいても、本能はちゃっかり記憶していたらしい。女性のものとは明らかに違う、硬くしたたかで、でも温かい、そんな彼の胸元の感触を、掌がじんわりと思い出している。

 でも。

 でも。

 パチュリーの体が沸騰している理由はそこじゃない。だってパチュリーは昨日からお風呂に入っていなくて、少し前に魔法の実験で大分汗をかいたばかりで、だから月見の前にはあまり出たくないなと思っていたのであって、つまり、その、なんというか。

 

 ――なんというか、恥ずかしすぎてこのまま焼け死んでしまいそうなのだけれど。

 

「パ、パチュリー様? 顔が真っ赤ですけど、まだ具合がよくないんですか?」

「ッ……そ、そうね、まだちょっとだけ。でも大丈夫よ、もう苦しくはないから」

 

 それを咄嗟に発作のせいにしてはぐらかしながら、落ち着け落ち着け、とパチュリーは心頭滅却しようとした。けれど頭の中の雑念はちっとも消えなくて、体のほとぼりだって一向に冷めてはくれなかった。

 流行やお洒落には興味がない。恋愛にだって目もくれない。持ちうる興味関心は、すべて魔術と本にのみ注ぐ。そんなパチュリーだが、しかし、それでも女の子なのだ。あんまり綺麗じゃないかもしれない体で男の人に抱きついたり抱きかかえられたりしたとなっては、もう穴があったら入りたいくらい。絞首台があったら、そのまま台を蹴っ飛ばしたいくらいだ。

 すん、と体の匂いを嗅いでみる。魔理沙のマスタースパークを喰らったせいか、若干焦げ臭い。けれど月見は狐だ。きっと嗅覚だって並の妖怪よりずっといい。焦げ臭い以外にも、別の匂いを敏感に感じ取っていたかもしれない。

 不潔だとか、思われなかっただろうか。

 

「そ、その、月見」

「ん? どうした?」

「え、ええっと、ね? その……わ、悪かったわね。色々と、迷惑だったでしょう?」

 

 変な匂いとかしなかった? なんて、面と向かって訊けるはずもない。やっとの思いでそれだけ問えば、彼はすぐに目を細くしながらかぶりを振った。

 

「いいや、気にしないでいいよ。私は気にしていないし……それよりも大事に至らなくてよかった」

「う……あ、ありがとう」

 

 とりあえず礼を言いながら、パチュリーは月見の言葉の真偽をはかる。果たしてパチュリーに義理立てする社交辞令なのか、それとも紛れもない本心なのか。

 ハッハッハ、と気さくに笑う彼の姿は、とても嘘を言っている風には見えないけれど……さすがは狐、本心を隠すのが巧い。

 もし今の言葉が嘘だったらと――不潔な女だ、とか、思われてるかもしれないと――考えたら、パチュリーは心が折れそうになった。

 これもすべては、憎っくき魔導書泥棒・霧雨魔理沙のせいだ。いや、お風呂に入っていなかったのはあくまでパチュリーの責任なのだが、ともかくあんなタイミングでやって来てくれた魔理沙にはいくら恨み言を言っても足りない気がした。

 ロイヤルフレア、ぶっ放していいだろうか。

 そんな気持ちを込めながら魔理沙を睨みつけると、彼女は「うっ……」と小さく呻き声を上げて一歩後ろにたじろいだ。帽子の鍔で顔を隠し、伏し目がちに、

 

「そ、そんなに睨むなよ……悪かったって、反省してる」

「……」

 

 虚を突かれる思いで、パチュリーは魔理沙の顔を見返した。だって、あの天邪鬼な魔理沙がこうも素直に頭を下げるなんて、思ってもみなかったから。

 帽子で隠れた表情までは見えなかったが、唇はすっかり怯えるようにすぼまって、ぽそぽそと小さい言い訳を紡いでいる。

 

「あ、あれだ……今回は珍しく手応えのある弾幕ごっこだったから、つい熱くなって、だな」

「…………」

 

 つい先ほどまで魔理沙に噛みつかんほど怒り心頭だったパチュリーだが、こうして実際に頭を下げられると、あれだけ心の中に溜まっていた恨み言が一瞬で奥に引っ込んでしまった。謝ってもらえて気が晴れたのではなく、ただ純粋に、謝ってもらえたことが予想外すぎて。

 

「え、ええと……」

 

 魔理沙が、顔色を窺う上目遣いで何度もパチュリーを見た。パチュリーは緩く息を吐きながら、どうしようか、と思案を募らせた。

 だって、そんな風に怯えながら頭を下げられたら。

 とてもじゃないけれど、恨み言なんて、言えないじゃないか。

 

「……別に、気にしちゃいないわよ」

 

 数呼吸分の沈黙ののち、自然とパチュリーの口から出たのは、そんな言葉。

 まったく気にしていないというわけではなかったけれど、怒る気持ちは既に失せていた。

 

「発作が起こるのはさして珍しいことでもないもの。私の運がなかっただけ」

「けど……」

 

 ここで引き下がらないということは、魔理沙の誠意は本物なのだろう。珍しいこともあるものだと心底意外に思いながら、パチュリーは言葉を続けた。

 

「そっちはもういいのよ。……それよりも、あなたがここから持ち去っていった魔導書たちは、一体いつになったら返ってくるの?」

「う……」

 

 せっかく魔理沙が弱気になっているので、盗まれた魔導書たちについて言及してみる。いつもだったら「そのうち返すぜ」とにべもなく躱されるのだが、今だったらいけるかもしれない。

 呻いた魔理沙に口答えする間を与えず、畳み掛けるように、

 

「ちょっとでも罪悪感を感じてくれてるなら、言葉じゃなくて行動で示してくれないかしら」

「ぐぬぅっ……」

 

 咲夜と小悪魔も、冷たい半目を魔理沙に向けることで援護してくれた。……月見だけは、口元にかすかな笑みの影を忍ばせながら、事態を静観していたが。

 そうして場の雰囲気に呑まれた魔理沙はすっかり怯み、やがて観念したと言うように、浅く両腕を持ち上げて言った。

 

「わ、わかったよ。今度来た時に、全部返すぜ」

「……」

 

 まさか本当に上手く行くとは思っていなかったので、パチュリーはついつい呆けてしまった。咲夜と小悪魔も、信じられないものを見たよう目をくるりと丸くしている。

 もしかしたら夢かもしれないので、パチュリーは自分のほっぺたを引っ張りながら、

 

「……ほんほに?」

「ほんとだよ。……なんだ、返さなくてもいいのか?」

 

 パチュリーは慌てて頬から指を離した。

 

「いいえ、極力そうして頂戴。ちゃんと返してくれるんだったら、私だって最初から素直に貸してあげるんだから」

「ふん……」

 

 仏頂面でそっぽを向いたのは、果たして単純に不機嫌になったからなのか、それとも。しかし確かに言えるのは、“あの”霧雨魔理沙が本当に本を返してくれるらしいということで。

 思わず、案外素直なところもあるじゃない、なんて思ったけれど、本来ならばちゃんと返してもらえるのが当たり前なんだと気づいて首を横に振った。素行の悪いひねくれ者がたまに見せる素直さいうのは、得てして過剰に美化されがちなのだ。

 感情に流されないよう己を律しながら、パチュリーは努めて冷ややかに、

 

「……ともかく、よろしく頼むわ。あなたが盗んだばっかりに参考文献がなくなって詰まっちゃった研究ってのも、結構あるんだから」

「わ、わかったって。わかったからこの話はもう終わりにしようぜ、落ち着かないし……」

「そう?」

 

 パチュリーとしては仕返しの意味も込めてもう少しなじってやりたかったが、しかしそれでもし魔理沙が機嫌を損ねて、せっかくの約束を反故にされてしまっては水の泡だろう。

 そうね、と頷き、

 

「じゃあ、近いうちに返して頂戴。そしてこれからは、ちゃんと私に許可を取ってから借りること」

「わかった、わかったから」

 

 パチュリーに咲夜、小悪魔、ついでに月見に囲まれて、四面楚歌みたいな状況だからだろうか。魔理沙はこれ以上は居たたまれない様子で帽子を被り直し、口早に言った。

 

「と、とりあえず今日はもう帰ることにするぜ。明日は荷物が多くなりそうだからな、さっさと帰る」

「……そう」

 

 呟きながら、なんだかものすごい事態になったものだ、とパチュリーは感慨深く思った。『魔理沙から本を返してもらう』。夢にまで見た願いが現実になりつつある。

 これはひとえに、あの時に割り込んできてくれた月見のお陰だろうか。もし彼がいなかったらパチュリーはあのまま墜とされていて、また魔導書を盗まれる羽目になっていたはずだ。先のフランの一件といい、どうにもこの紅魔館は、彼に助けられすぎているような気がする。

 しかして当の月見は、いそいそ帰り支度をする魔理沙に相伴するように、「それじゃあ」と口を切った。

 

「私もそろそろ、お暇するとしようか。もう雨はやんだみたいだしね」

「あ……」

 

 その時咲夜が、なんだか捨てられる子犬みたいな顔をしたように見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。パチュリーが目を凝らした時には既にもとの冷静な表情に戻っていたが、それでもどこか口惜しさが去り切らない瞳で、咲夜は月見を見上げていた。

 

「もう少しゆっくりしていっても、よろしいんですよ?」

「今日中に人里に立ち寄りたいんだよ。じきに日暮れだろう?」

「ですけど……」

 

 咲夜はしばしなにか物言いたげに逡巡し、けれど結局なにも言葉にすることなく、悄然と、肩とため息を落とした。

 

「? どうかしたか?」

「いえ、別に……」

 

 口ではそう言うが、明らかに残念そうだ。このまま月見に帰られると、なにか不都合でもあるのだろうか。

 

「いや、なにもないようには見えないんだけど」

「……なんでもないですよーだ」

 

 そっぽを向く咲夜は、傍から見ればまるで拗ねた子どものようで。

 珍しい、とパチュリーは思う。咲夜がああやって地の(・・)感情的な一面を見せるのは、紅魔館の面々の他、ほんの一握りの親しい相手だけに限られる。それを今日初めてここにやって来たばかりの客に見せるなんて、空前絶後、と評してもいいくらいではないだろうか。

 フランがそうであるように、咲夜もまた、月見に対して心を開いているのか。

 その残念がる様子が傍から見てもとてもわかりやすかったので、月見は持て余すように曖昧な微笑みを浮かべていたけれど、

 

「……ん?」

 

 不意に、図書館の天井を見上げて小さな声を漏らした。周囲の視線が自然に彼へと注がれる。銀色の狐耳が、なにかに反応してピクピクと震えているのが見えた。

 

「どうしたの?」

 

 周囲を代表してパチュリーが問うと、彼は「いや……」と口元に指を当て、

 

「なんだか、上の方が騒がしいような……」

「上?」

 

 この図書館の真上は、当然ながら紅魔館だ。そこが騒がしいということは、

 

「なにかあったの?」

「さあ」

 

 月見は、さすがにそこまでは、との表情で肩を竦めた。パチュリーは頭上を見上げる。耳を澄ましてみるが、不審な物音はなに一つとして聞こえなかった。意識を集中させればさせるだけ、改めてこの図書館の広大さを思い知るだけだ。

 

「なにを根拠に?」

「いや……なんとなく騒がしくないか? 大人数が暴れ回ってるような……」

「はあ」

 

 そんな物音などまったく聞こえない。試しに周囲に目配せをしてみても、みんなから疑問符を返された。そのうち魔理沙が、「ただの空耳じゃないか?」と月見に向けて腕を組んだりする。

 けれどパチュリーは、月見の言葉を聞き流したりはせずに思案した。狐は聴力がとても鋭いというし、そうでなくとも紅魔館で――もとい、紅魔館の周辺で――大人数が暴れ回るという状況に、心当たりがあったから。

 まぶたを下ろし、意識を集中。簡単な探索魔法を展開して、地上の様子を大まかに探る。

 そしてすぐに、なるほどと吐息した。

 

「咲夜」

「はい?」

「彼の言ってることは本当だわ。どうやら、また妖精たちが暴れ回ってるみたいね」

 

 ああ、と納得の声を漏らす周囲に交じって、月見だけが「妖精?」と小首を傾げた。

 答えるのは傍らの咲夜。

 

「館の近く……『霧の湖』に棲んでる妖精たちが、たまに襲撃を掛けてくるんですわ」

「ほう」

 

 それを聞いた月見の眉が、わかりやすく興味の色で持ち上がった。

 

「それはまた、どうして」

「好奇心旺盛なのよ」

 

 こちらには、パチュリーが答える。

 

「この紅魔館が、まあ、随分と奇抜なデザインだからね。精神的に幼稚な妖精たちから見れば、ダンジョンかなにかにでも見えるんでしょう。だから時たまに侵入しては、証拠品を持ち帰ろうとするのよ」

 

 一種のゲーム感覚なのだろう。人があまり近づかない場所に忍び込み、証拠の品を持ち帰って、仲間内で自慢する。そんな人間の子どもたちがするようなやんちゃな遊びを、いたずら好きな妖精たちもまた好むのだ。

 無論、忍び込まれる側としては迷惑以外の何者でもないので、大抵は門番の美鈴がきちっと追い払っているのだが。

 今回は少しばかり、相手が多いらしい。探索魔法越しに、物量で圧倒される美鈴の悲鳴が聞こえてくるようだった。

 

「咲夜、助けに行ってあげてくれないかしら。どうやら苦戦してるみたいだし」

「はあ、そうなんですか。……まったく。妖精相手に苦戦するなんて、あとでおしおきね」

 

 小声でしっかりと毒づきつつ、咲夜は月見に向けて楚々と頭を下げた。

 

「申し訳ありません、月見様。先ほどからどうにも騒がしくて……」

「そうかい? 活気があるのはいいことだと思うよ」

「そうだぜ。例えば私みたいにな」

 

 魔理沙の言葉は、全員が総意で無視し、

 

「では、早く行ってあげようか」

「そうですね……」

 

 咲夜は頷きかけ、しかしすぐにハッとした様子で、月見に釘を刺す視線を向けた。

 

「月見様。今回は私だけで大丈夫ですので、どうか後ろでごゆるりとしていてくださいね?」

 

 大丈夫、と、後ろで、のところにしっかりアクセントをつけて。

 要するに、もうお節介は焼くな、ということらしかった。咲夜としても、これ以上月見に助けてもらっては申し訳ないのだろう。その露草色の瞳は、いつにない真剣味で染まっていた。

 月見は一瞬目を丸くしたのち、ふっと苦笑。

 

「わかったよ。頑張って」

「はい、お任せください」

「なあなあ咲夜、私も首突っ込んじゃダメか? なんだか面白そうだ」

 

 微笑んだ咲夜の背中を、魔理沙がちょんちょんと叩く。

 咲夜は冷ややかに一蹴した。

 

「あなたはさっさと帰りなさいよ」

「まあいいじゃないか、見るだけ見るだけ」

 

 どうだか、とパチュリーは思う。本当に見るだけならいいのだが、魔理沙なら、そのうち悪乗りして妖精たちに加勢しかねないような気がする。想像するだけで頭が痛くなるようだ。

 なのでパチュリーは、ため息とともに月見に視線を向けて、

 

「……万が一の時は、悪いけどお願いね」

 

 多くを語らずとも、それだけで彼には通じたようだった。彼は魔理沙を一瞥したあと、同じようにため息を落として、

 

「……そうだね。わかったよ」

「魔理沙、余計なことしたらナイフ刺すわよ」

「大丈夫大丈夫、私は空気が読める女だからな」

 

 結局、素直な一面を見せてくれたのもほんの一瞬だけだったらしい。いつもの調子を取り戻してカラカラ笑うひねくれ者を見て、果たして本当に魔導書を返してもらえるのかと、パチュリーはとても不安になった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――まったく、魔理沙のやつ。普通の魔法使いなんて自称してる割に常識がないんだから困り者だわ」

「あはは……」

 

 そして咲夜が月見と魔理沙を連れて上へ戻れば、入れ替わるようにして、大図書館にはいつもの静寂が帰ってくる。やれやれという思いで背もたれに体を預けると、視界の端で小悪魔が苦笑したのが見えた。

 

「でもよかったじゃないですか。本を返してもらう約束ができましたし」

「まあ、それはそうだけど」

 

 確かに喜ばしくはあるが、そもそも貸した本が返ってくるという当たり前のことを喜んでいる時点でおかしいのだから、なんとも複雑だ。

 パチュリーが素直に喜べずしかめ面をする一方で、小悪魔は頬に微笑をたたえて言った。

 

「私は、素直に安心してます。月見さんのお陰で、パチュリー様が怪我することもなかったですし」

「……」

 

 パチュリーは月見の姿を脳裏に思い出す。妖怪のくせに異様に心優しい――皮肉っぽくいえば、お節介焼きな男。レミリアを始めとして気難しい者が多い紅魔館の住人たちから、快く受け入れられるような。

 

「……ねえ、こぁ」

「はい?」

「こぁは、彼のこと、どう思う?」

 

 それは、何気ない問い掛けのつもりだった。小悪魔も、フランや咲夜と同じく彼のことを信頼するようになっているのかと、気になって。それ以上の深い意図は断じてない。

 小悪魔は「月見さんですか?」と口元に指を当て、答えた。

 

「いい方だと思いますよ? フラン様に読み聞かせしてあげてましたし、パチュリー様を助けてくれましたし、それに……」

 

 それから、恥ずかしそうに身を竦めて、

 

「魔理沙さんに墜とされた私を、わざわざ捜してくれましたし……」

 

 ――ああ、そういえばそんなこともあったっけ。

 確かに月見は、パチュリーが魔理沙と弾幕ごっこをしている傍らで、わざわざ小悪魔を捜しに行ってくれていた。これが普通の幻想郷の住人だったら、身内でもない限りは「そのうち戻ってくるから大丈夫でしょ」なんて言って放っておくところだ。

 やっぱり世話焼きだわ、とパチュリーは内心強く思う。

 

「信頼できる人かしら」

「え? どうでしょう……。でも、フラン様があんなに懐いてましたしね。それに咲夜さんも案外。ですから――」

 

 小悪魔は一息溜めて、微笑んだ。

 

「信頼できると思いますよ」

「……そうね、私も同感だわ」

 

 応じるパチュリーの口元には、知らず知らずのうちに笑みの影が差した。この幻想郷の者たちは、みんなどこかしらひねくれているというか、油断ならない性格の者たちが多いから、月見のように素直でおおらかな心を見ると、なんとなく安心できるのだと思った。

 

「というか、パチュリー様こそどうなんですか?」

「……? なにが?」

「いやいや、月見さんのことですよー」

「?」

 

 さっき、同感だって言ったじゃない――そう返そうとしたけれど、その機先を制して、小悪魔は口端をぐいっと持ち上げて笑った。

 それこそ、小悪魔みたいに。

 

「ほら、こう――背中に手を回されちゃったり、したわけじゃないですか? だから色々思うところもあるんじゃないかなーと」

「ッ……!」

 

 パチュリーは咄嗟に顔を伏せた。――せっかく、せっかく忘れられていたというのに。

 一度思い出したらもうダメだった。また指先から頭にかけて、じわじわ、じわじわと体が熱くなっていく。

 そりゃあ、まあ、一応あんなことをされたのは初めてだったし、ほんのちょっとくらいは、女として意識してしまう部分もあるけど。

 だって仕方ないではないか。異性に抱きかかえられて動揺したりするのは、一種の生理現象みたいなものだ。仕方がない、仕方がないのである。

 小悪魔をたしなめるように、パチュリーは強く咳払いをした。

 

「別になにも。迷惑掛けて申し訳ないってだけよ」

「本当ですかあー?」

「本当よ」

 

 にやにやと笑う小悪魔が言わんとしていることはわかる。けれどそんな、不慮の事故で一回抱きかかえられた程度で惚れるだとか、あってたまるものか。……外の世界のマンガじゃあるまいし。

 

「だから、その嫌な笑い方はやめなさい。……こら、やめなさいったら」

「はーい」

 

 小悪魔はそれ以上食い下がらなかったものの、口元はあいかわらずにやついたままだった。そう言えばこの子は悪魔なんだっけ、とパチュリーは今更ながら思い知る。

 

「まあでも、また来てほしいですね。魔理沙さんはともかく、月見さんみたいにみんなを笑顔にしてくれるお客さんは、大歓迎です」

「……そうね」

 

 月見がまた紅魔館に来てくれたら、きっとフランは大喜びするだろうし、咲夜も目に見えて歓迎するだろう。レミリアはどうだか知らないが、フランの恩人を邪険に扱うような真似はしないはずだ。

 それにパチュリーだって、きっと少なからず歓迎する。彼のお陰で魔理沙から魔導書を取り返すことができた、その感謝を表す意味でもあるだろうし。

 それになにより――彼が周囲の者たちを笑顔にする様は、なんだか見ていてとても気持ちがいいのだ。

 だからできることなら、またこの紅魔館にやって来てフランたちを笑顔にしてやってほしいと、そう思う。

 

「もしまた彼が来た時は、すぐに知らせて頂戴な」

 

 そう言い切ってから、パチュリーは失言だったと口を噤んだ。しかし小悪魔には聞こえてしまったようで、彼女は目を丸くしてこちらを見返している。

 正直に答えるかどうかは悩んだけれど、ここで誤魔化しても変な誤解をされそうなので、パチュリーは包み隠さずに白状した。

 

「……今度はちゃんと、お風呂に入ってから出るようにしたいから」

「あー……」

 

 小悪魔の、なんともいえないものを見るような生温かい視線が心に刺さる。

 ――仕方なかったったら、仕方なかったんだもん。

 やっぱりこれからは、どんなに研究に打ち込んでもお風呂だけは欠かさずに入るようにしようと。

 パチュリーはもう一度、固く己の心にそう誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第13話 「レコンサリエーション ⑤」

 

 

 

 

 

「ふぎゃー!?」

 

 玄関の扉が砕け散って、魔理沙が吹っ飛ばされた。

 どれどれ、どんな具合になってるんだ? ――そう言って、魔理沙が玄関のノブに手を掛けた瞬間だった。修復不能なまでに粉砕されたドアの欠片たちと一緒に、ずしゃー、とフロアの上を滑っていく。

 

「……うわあ」

 

 その光景を目の当たりにした月見は、思わずそんな仰け反った一声を漏らした。確かに図書館での彼女の振る舞いは目に余るものがあったが、それにしてもこの天罰はあんまりではなかろうか。動かなくなった彼女は、どうやら完全に気絶したらしい。

 扉を砕いたのは白い弾幕だった。大きな風穴の空いた玄関から顔だけを出して外を窺えば、門の前で美鈴と妖精たちが弾幕ごっこを繰り広げているのが見える。

 妖精の数はかなり多い。遠目だが、少なくとも二十匹以上はいるらしい。一匹一匹が放つ弾幕は非力でも、これではもはや数の暴力であった。

 美鈴の悲鳴が聞こえる。

 

「あー! 館を傷つけるのはやめてって何度も言ってるのに! 私が咲夜さんに怒られるんですよ!?」

 

 むしろ魔理沙に怒られるのではないだろうか、と月見は思う。

 同時、天井近くのステンドグラスが一枚破砕され、美鈴が「ぎゃああああああれ高いのにー!?」と絶叫を上げた。ついでに、月見と一緒に様子を窺っていた咲夜の表情が、すうっと一気に冷たくなった。

 

「……では月見様、少し行って参ります」

「……ああ」

 

 冷ややかな声で一礼した咲夜が、砕け散ったドアを通って、ゆっくり門の方へと歩いていく。その背中では、静かに燃え上がる激情の炎が、周囲に火の粉を撒き散らしていた。

 ……あの様子なら、美鈴への加勢は咲夜だけで充分だろうか。とりあえず、また流れ弾が飛んできた時に対処できるよう、月見も外に出て待機しておく。

 

「中国」

「あっ、咲夜さん! ナイスタイミングです、ちょっと数が多いので手伝ってください! ――さあ見てなさいよ妖精たち、ここからが私たちの本領はっぎゃあああああ!? さ、咲夜さん、私は美鈴ですよ!? 妖精はあっちです!」

「ええ、わかってるわよそんなこと」

「わかっててやったんですか!? え、咲夜さん、加勢に来てくれたんじゃないんですか!?」

「随分と取り乱してるみたいだから、活を入れてあげたのよ。落ち着いたでしょう?」

「すみません、取り乱すベクトルが変わっただけです」

「続きは妖精たちを追い払ってからね」

「ひーんごめんなさい――――!!」

 

 なんだか咲夜が美鈴の後頭部にナイフを刺したように見えたが、気のせいだろう。涙を流しながら必死に弾幕を放つ美鈴と、曲芸師顔負けの技量で数多のナイフを操る咲夜のコンビネーションは、なんだかんだでぴったりと息が合っていて、劣勢だった戦況を瞬く間に巻き返していく。

 月見は、時折飛んでくる流れ弾を尻尾で弾き返しつつ、ふっと緩く息をついた。これならばきっと、犠牲になった魔理沙も浮かばれることだろう。

 

「……ふ、ふふふ、ふっふっふっふ……」

 

 背後から不気味なせせら笑いが聞こえ、月見は振り返った。いつの間にか復活したらしい魔理沙が、全身をしきりに痙攣させながら、立っていた。帽子の鍔に隠されて表情は見えないが、覗く唇は歪な三日月を描いている。

 

「……魔理沙」

「ふっふっふ、ふふ、くぅっくっくっくっく……」

 

 壊れたねじまき人形みたいに、ケタケタと彼女は笑う。もしかして、先の一撃で頭の配線がズレてしまったのだろうか。

 

「……大丈夫か?」

「くっくっく……ああ、大丈夫だ。大丈夫すぎて、もうどうにかなっちまいそうなくらいだぜ」

 

 どうやら大丈夫ではないらしい。

 

「あの妖精ども、随分と舐めた真似をしてくれたじゃないか……。妖精相手にここまでコケにされたのは初めてだぜ」

「……」

「あんなに熱烈なラブコールをされたんだ。これはもう、全力で応えてやらないと申し訳ないよな……」

 

 怒りの火の粉を振りまいて、魔理沙が月見の脇を通り過ぎていく。月見は特になにも言わないまま、ため息一つでその背中を見送った。

 魔理沙はほうきに跨り空へ身を翻すと、スペルカードを発動。眼前に集約させた白光を、一息でぶっ放した。

 

「マスタースパアアアアアク!!」

「え? ――うぎゃああああああああ!?」

 

 ……美鈴を巻き込んで。

 月見が丸々呑み込まれるほどに極太な白い光線は、立ち塞がる弾幕を一瞬で嚥下し、妖精たち(と美鈴)を薙ぎ払った。

 突然叩き込まれた横槍に、咲夜と残りの妖精たちが眦を開いて動きを止める。黒コゲになった美鈴が地面に倒れる、どしゃ、という音が、居たたまれないほどに物悲しく響いた。

 

「魔理沙……」

 

 珍しく呆然とした様子でその名をこぼした咲夜に、魔理沙は凄絶な笑顔とともに応じた。

 

「咲夜、悪いけど私も手を出すぜ。今日の魔理沙さんは怒りの魔理沙さんだ。止めてくれるな」

「……まあ、手伝ってくれるのなら一向に構わないけど」

「私たちの戦う理由は一緒だ。そうだろ?」

「……どうやらそうみたいね」

 

 なにやら妙な共闘意識を芽生えさせている二人だが、プスプスと黒い煙を上げて隅っこに転がっている美鈴は、無視なのだろうか。

 

「言っておくけど、足手まといだったら容赦なく切り捨てるわよ?」

「そっちこそ。あんまりでしゃばると巻き込まれるぜ」

 

 無視らしい。

 ……紅美鈴、味方に背中から撃たれて戦死。

 

「じゃあ、行くわよ!」

「おうさ!」

 

 咲夜の時間停止による予測不能の弾幕と、魔理沙の火力重視の弾幕は、コンビネーションなど無縁だとばかりに滅茶苦茶であったが、それ以上に苛烈であった。息つく暇もなく襲い掛かる強力な連続攻撃に、妖精たちの戦線は見る見るうちに崩壊していく。……時折流れ弾が美鈴の体に当たったりしているのは、可哀想だから見ないようにしておいた。

 そうして、残る妖精もあと数匹。屋敷の方に流れ弾が飛んでくることもなくなり手持ち無沙汰になっていた月見は、無聊(ぶりょう)を紛らわすために周囲の庭へと視線を投げた。屋敷の中に負けず劣らず広い庭だが、ここの管理も咲夜がやっているのだろうか。

 などと視線を巡らせていると、月見はふと、不審に庭の茂みを揺らす二つの人影を見つけた。いつの間に入り込んだのだろうか、青い髪の妖精と緑の髪の妖精だ。

 

「ふっふっふ、しんにゅーせーこー! さすがあたい!」

「う、うわわ、本当に入り込んじゃったー……。ど、どどどっどうしようどうしよう」

 

 青髪の方は怖いもの知らずの活発な笑顔を浮かべていて、逆に緑髪の方は、怖いものしか知らないかのようにすっかり縮こまっている。そんな対照的な二匹の妖精は、茂みから堂々と顔を出した状態でこちらの様子を窺っていた。……あれで隠れているつもりなのだろうか。

 特に声をひそめる風でもなく、月見のもとまで丸聞こえするほどはっきりとした声で、青髪の妖精がほくそ笑んだ。

 

「門番たちがみんなに気を取られてる隙に、隅っこから侵入。うふふ、これがかみさんおにぼーってやつなのね」

 

 ――かみさん鬼棒?

 ……神算鬼謀、だろうか。ひどい読み間違いだが、妖精だから仕方がないかもしれない。

 

「や、やっぱりやめようよお。もし見つかったら、もう怒られるだけじゃ済まないよう……」

「なに言ってるのよ、ここまで来たんだからもうすぐじゃない! ほら、あとはあれ! 玄関の前のあいつさえ突破すれば成功だもん!」

 

 青髪の妖精が、月見を指差して勢いよく声を上げた。

 

「まだあたいたちには気づいてないから、隙を見て一気に行けば楽勝よ!」

「……」

 

 ツッコんであげるべきだろうか、と月見は悩んだ。囮を使って小利口に紅魔館に侵入してみせても、やっぱり所詮は、妖精なのだった。

 一方、緑髪の妖精はまだ幾分か利口であるらしく、月見の視線にいち早く気づいて、冷や汗を浮かべながら相方の肩を叩いた。

 

「……あの、チルノちゃん。そのことなんだけど、あの人、私たちに気づいてない?」

「え?」

 

 二人が同時にこちらを見てきたので、月見は笑顔でひらひらと手を振って応えてあげた。

 さっと色を失った二人の顔が、ものすごい勢いで茂みの中に引っ込んだ。

 

「ほ、本当だ! ど、どうしてバレたのよ、あたいの作戦は完璧だったはずなのに!」

「ねえチルノちゃん……冷静に訊くけど、こんなことしてるからバレたんじゃないかな」

「え? なんのこと?」

 

 あいかわらずその会話が丸聞こえなのは、さておいて。咲夜と魔理沙は、妖精たちの懸命の抵抗に手を焼いて、この二人にはまったく気づいていないらしかった。なので暇潰しにはちょうどいいだろうと思い、月見は茂みの方へと向かってみる。

 

「どどどっどうしようチルノちゃん、このまま捕まったらきっとひどいことされちゃうよっ。早く逃げなきゃっ!」

「あたいの辞書に後退の二文字はないわっ。大丈夫よなんかあいつ弱っちそうだったし、一気に行けば問題ないって!」

「……」

 

 果たしてこの二人は、月見が既に茂みの目の前に立っていることに、気づいているのだろうか。

 

「よーし、行くわよ大ちゃん!」

「えっ、ちょ――ま、待ってよお!」

 

 そして、青髪の妖精がまず先頭を切って飛び出してくる。だが、当然ながらそこには月見がいるわけで。

 

「あうっ」

「おっと」

 

 お腹あたりに勢いよく顔から突っ込んできた彼女を、月見はしっかりと受け止めた。

 

「……ぅえ?」

 

 もぞもぞ動いて月見を見上げる瞳は、純粋無垢を形にしたように透明感のある浅葱色をしている。くるくる丸く輝いて、ガラス玉のようだ。同じ色をしたショートの髪は、風も吹いていないのにさらさらとなびいていて、たった今生えてきたばかりであるかのように瑞々しい。

 氷の妖精なのだろう。一メートルとほんの少しの小さな体に、氷の羽を六つ背負って、ひんやり涼しい冷気を振りまいていた。

 名は――チルノ、と呼ばれていたようだが。

 

「……」

「……」

 

 チルノは今の状況がよく理解できていないのか、口を半開きにしたままポカンと固まっていた。振りまかれる冷気もあいまって、氷を触ってるみたいだ、と月見は思う。

 

「……チ、チルノちゃん、」

 

 一方の緑髪の妖精は、茂みから体を出した時点でちゃんと月見に気づいて踏み留まっていた。チルノが氷なら、彼女の瞳は新緑を思わせる。若々しい生命力を感じさせる反面、当人は人見知りをするのか小さく身を竦めていて、サイドテールが心細げになびいている。背中から伸びた一対の羽は虫たちのそれと同じ構造であり、差し当たっては、森の妖精とでも言おうか。

 彼女は、目の前の状況を理解できてはいるものの、それに対してどう対応すればいいのかがわからないようで、あせあせと慌てながらチルノを見たり月見を見たりしていた。そのうちチルノがゆるゆると首だけで彼女を振り返り、ぽつり、言う。

 

「……ねえ、大ちゃん」

「な、なに?」

「こいつって、さっき玄関の前に立ってたやつ?」

「え? ……う、うん、そうだと思うけど」

「……」

 

 沈黙。

 やがてチルノたちの呆然と呼吸をする音が、ゆっくりと三つの拍を刻んで、

 

「ふははははー捕まえたぞー」

「ぎゃああああああああ!? 助けて大ちゃ――――ん!?」

「チルノちゃ――――ん!?」

 

 大慌てて逃げようとするチルノを、せっかくなので、月見は捕まえてみることにした。彼女の小さな体に尻尾をグルッと巻きつけ、そのまま空中に持ち上げる。

 それを見た緑髪の妖精――大ちゃんというらしい――が、さっと顔を青くした。

 

「や、やめてくださいっ! チルノちゃんを放してっ!」

「放しなさいよこのへんたーいッ!」

 

 チルノが歯を剥き出しにして尻尾をポカポカ叩いてくるが、妖精なので力は高が知れていた。痛くも痒くもないし、むしろ尻尾がひんやりとして気持ちがいい。

 ともあれ、別に妙なことをするつもりなど毛頭ない。このまま魔理沙たちに見つかると、レーザーで丸焼きにされたりナイフで刺されたりして大変だろうから、今のうちに穏便にお引取り願おうというわけである。そのためには、一番人の話を聞かなそうなチルノを押さえておく必要があった。

 決して、悪戯心を刺激されたとか、そんなのではないのである。決して。

 月見はどうどうと両の掌を見せ、慌てる二人の妖精を静かに宥めた。

 

「はいはいお前たち、ちょっと話を聞きなさい」

「なによっ、あんたと話すことなんてなにもないわっ」

「まあまあ、まずは落ち着いてあれを見てご覧」

 

 そう言って、月見が門の方を指差した瞬間。

 

「マスタースパアアアアアク!!」

 

 そんな魔理沙の怒号とともに閃光が走った。極太の光線が一筋、数匹の妖精たちを呑み込みながら空へと駆け上がっていく。

 呑み込まれた妖精たちの甲高い断末魔が響いて、ぴちゅーん、と弾けて消えた。

 

「「……」」

「このまま進むなら、あの子たちみたいになるのを覚悟しないといけないよ。どこかの誰かさんが、大分怒ってるみたいだったからね」

 

 自然と一体である妖精は死という概念を持たないため、たとえ四肢が砕け散ろうが焼き尽くされようが、いずれ再生・復活する。ただし痛覚は持っているので、死ぬような傷を負えば当然、死ぬように痛いのだ。マスタースパークはどうやら熱光線らしいから、喰らえば全身を焼かれる痛みに悶え苦しむことになるだろう。

 それを想像したのだろうか。チルノと大ちゃんは全身を総毛立たせて物言わぬ石像と化していた。

 怒りの魔理沙は止まらない。

 

「マスタースパーク! マスタースパアアアク! マスタアアアスパアアアアアック!!」

「あっつあああ!? ちょ、魔理沙さん、あなた私に恨みでもあるんですかってぎゃあああああー……」

 

 恐らく手当たり次第にぶっ放しているのだろう、白の光線があちらこちらに乱れ飛ぶ。……さりげなく美鈴の断末魔が聞こえたのは、もうやりきれないので聞こえなかったことにした。

 

「あれを喰らったら、きっと痛いだろうねえ」

「「…………」」

「逃げるなら今のうちだよ」

 

 月見は尻尾を緩めて、チルノを大ちゃんの隣に降ろした。すっかり自失呆然になったチルノは騒ぐどころか口一つ利く様子もなく、ただゆるゆると、大ちゃんと互いの顔を見合わせて、

 

「「………………」」

 

 けれどやっぱり、なにも言わなかった。

 門の方から、声が聞こえる。

 

「ちょっと魔理沙、もう妖精たちは片付いたんだから落ち着きなさいよ」

「ええい放せ咲夜っ、まだ暴れたりないんだっ。隠れてるやつはいないだろうな、怒りの魔理沙さんが成敗してやるから大人しく出てこーいッ!」

 

 びくん、と二人の肩が飛び跳ねた。だらだらとあふれる冷や汗が顔面を濡らす。

 ようやくの思いで震える口を切ったのは、大ちゃんの方だった。

 

「チ、チルノちゃん……もうやめようよ、帰ろうよお」

「……しっ、しししっ、仕方ないわねまったく」

 

 答えるチルノは、上手く呂律が回っていなかった。腰に両手を当てて尊大に胸を張ったりするのだけれど、表情は完全に引きつっていて、今にも泣き出しそうだった。

 

「ま、まあ、あたいは全然へっ、平気なんだけど、大ちゃんがそこまで言うならね。なんたって、パ、パートナーなんだし」

「なんでもいいから早くっ。早くしないと見つかっちゃうよおっ」

「わ、わわわっわかってるわよ」

 

 恐怖で地面に縫いつけられていた両足と石になっていた羽に、懸命の力を込めて飛び上がる。ちょうど月見の目線と同じ高さになった二人は、

 

「え、ええと、お騒がせしましたっ」

「い、命拾いしたわねっ。今度会った時はカチンコチンにしてやるから!」

「はいはい、なんでもいいから早く帰りなさい。気をつけてね」

 

 大ちゃんは丁寧にお辞儀をして、チルノはぷいとそっぽを向いて。それからあせあせと塀を飛び越えて、一直線に霧の湖の方向へと消えていった。

 魔理沙たちが駆け寄ってきたのは、それから数秒あとのこと。魔理沙は本当に怒りが治まっていないらしく、目をぎらぎらさせていた。

 

「おい月見! 今なんか、そこに妖精がいなかったかっ?」

「魔理沙、少しは頭を冷やしたらどうだ。……ただの小鳥だよ」

「そ、そうか? それにしては妙にデカかったような」

「だから頭冷やせって」

「そうよ、魔理沙」

 

 隣の咲夜が、ため息とともにつなぐ。

 

「これ以上暴れないで頂戴。ただでさえ中国が使い物にならなくなっちゃったんだから」

「ああ、あれは不慮の事故だったな。妖精たちもひどいことしやがる」

 

 しれっとうそぶく魔理沙には、反省の色などかけらも見られない。月見は心の中で、不幸な美鈴にそっと合掌を送った。

 そういえば彼女、咲夜からは“中国”の愛称で呼ばれているようだ。大方、本名が中国読みなのが理由だろうか。

 妖精という怒りの吐け口を失った魔理沙は、頭の後ろで両腕を組んで、あーあとつまらなそうに天を振り仰いだ。

 

「仕方ない、不完全燃焼だけど大人しく帰るか……」

「ん、そうだね。日暮れも近いし、私も帰ろう」

 

 日の傾きからして、今の時刻は十六時あたり。お暇するにもちょうどいい時間だろう。

 

「……」

 

 月見のその言葉に、咲夜がほんの一瞬だけ表情を不満げに歪めた。けれどあまりに一瞬だったので、月見は気のせいだろうと思って、追及しなかった。

 

「そういやお前、どこに住んでるんだ? このへんじゃ見たことないからどっか遠くか?」

「いや、先日まで外の世界で生活していてね。こっちではまだ家がないから、とりあえず人里で宿を恵んでもらおうかと」

「はあ? 人里でえ?」

 

 大口を開けた魔理沙は、そのまましばらく呆けたあと、吹き出すように鼻で笑って、

 

「人里で宿を恵んでもらおうとする妖怪なんて、初めて見たぜ。本当に恵んでもらえると思ってるのか?」

 

 問題ない、と月見は頷く。そうでなければ、人里で泊めてもらおうなどと考えるはずもない。

 

「伊達に外の世界で生活してたわけじゃないよ」

「ふうん……だがまあ、そうなると途中まで一緒だな。私は魔法の森に住んでるんだ」

「ほう」

 

 魔法の森。幻想郷の中央部に広がる、この土地最大規模の森林の名だ。紅魔館から人里へ向かおうとすると、ちょうどこの森が途中で立ちはだかることになる。月見と魔理沙が向かう方向は、奇しくも同じというわけだ。

 

「一人で帰るのも暇だし、よかったら付き合ってくれよ」

「…………、……まあいいけど」

「ちょっと待て、なんだ今の長い間は」

「いや、別に」

 

 なんだか面倒くさいことになりそうだなあ、という言葉は胸の中にしまいつつ。まあ、道中の話し相手ができるのはいいことだろうか。

 それで、帰るに当たって気になる問題が一つ。それは、さっきからなにやらしかめっ面をしている咲夜であって。

 さっきは気のせいかと思ったが、どうやら違っていたらしい。その表情はとてもとても不満そうで、思わず声を掛けずにはいられなくなるほどだった。

 

「……咲夜、どうかしたか?」

「……別に、なんでもありませんよーだ」

 

 いや、そうやって頬をぷっくりさせてそっぽを向くあたり、なんでもないわけがないというか。

 ふむ、と月見は思考。図書館にいる時も少し気になっていたが、なにか彼女の機嫌を損ねるような真似をしてしまっただろうか。

 考えてみれば、なにやら大切なことを忘れているような気がするのだが、いかんせん色々なことがあったせいで思い出せない――

 

「そうですよね、わかってましたもん。月見様にとって、私の淹れる紅茶なんて、別にどうでもいいことなんですよね」

「……」

 

 ――あー……。

 思い出した。フランと出会う前に咲夜と交わした、『無事に終わったら最高の紅茶を』という約束。なにせフランに危うく殺されかけたり、レミリアと本気で相対したり、パチュリーと魔理沙の弾幕ごっこを仲裁したりと濃い出来事が連続したせいで、すっかり記憶の底に埋もれてしまっていた。

 ……。

 しかし、まあ。

 約束を忘れられたまま帰られそうになってしまって、それで「よーだ」とか「もん」なんてらしくもない言葉遣いをしてまでわかりやすく拗ねるあたり、可愛いところもあるものだ――とか。

 やはり普段の振る舞いが冷静で垢抜けていても、心は少女ということなのだろう。

 月見は参ったと頭を掻きながら、苦笑した。

 

「悪い悪い。色々あったからすっかり忘れてた」

「……むー」

「ごめんごめん。だからそんなに拗ねないでくれないか?」

「別に、拗ねてませんよーだ」

 

 本当に拗ねていない人間は、そうやってむくれ面を浮かべたりなどしないものである。

 

「そうだね。次来た時の楽しみってのは、ダメかなあ」

「そんなこと言って、どうせ早く人里に行きたいだけでしょう?」

 

 さり気なく言ったつもりだったが、なかなかに鋭い。向けられた咲夜の半目が体に刺さるようだった。

 さてどうしたものかと月見が思案していると、魔理沙が期待を孕んだ目で間に入ってきた。

 

「なんだ、紅茶パーティーでもするのか? だったら私の分も頼むぜ、なんだか小腹が空いちまってな」

「……」

 

 咲夜が露骨に嫌そうな顔をした。しばらく押し黙った彼女はやがて魔理沙から目を逸らし、月見に向けて莞爾(かんじ)と笑う。

 

「月見様、また今度いらっしゃった時で結構ですわ」

「……なあ咲夜。お前、実は私のこと嫌いだろう」

「あなた、この紅魔館の人たちから好意的な目で見られてると思ってるの?」

「あーもうわかったよ、今度からはちゃんとパチュリーに言ってから借りればいいんだろ? ったく……」

 

 今度は魔理沙が頬を膨らませる番だった。ぶーぶーぼやく彼女を見ながら、月見は内心で苦笑をこぼす。咲夜には悪いが、この場合は思いがけず魔理沙に助けられた形になるのだろう。

 

「……じゃあ、次に来た時にってことでいいかな?」

 

 問いに、咲夜は諦めたように力なく微笑んだ。

 

「そうですね。……忘れないでくださいね? 練習してお待ちしてますから」

「ああ、近いうちに必ず」

「必ずですよ。……じゃあ、指切りしてくれますか?」

「指切り?」

 

 予想外の言葉に、月見はオウム返しで問い返した。

 はい、と咲夜は頷く。

 

「これで、忘れたなんて言い訳はなしです」

「むう、随分と信頼されてないものだね」

「前科持ちですからね。しかも、二回もですから」

 

 紅茶の約束と……もう一つは、フランに妙なことはしないという約束か。確かに月見は、そのどちらの約束も見事に破っているといえる。

 故の、前科二回。参った、と月見は両手を挙げた。

 

「ふふ。じゃあ、今度こそ約束です」

「……そうだね」

 

 互いの子指を、そっと合わせる。ちょっとだけおっかなびっくりと絡まってくる咲夜の小指は、ひんやりとしていて、けれどすぐにじわじわ熱っぽくなっていった。

 見れば、咲夜の頬がほのかな桜色で色づいている。恥ずかしいんだったら別にやらなくてもいいのに、と月見は苦笑し、

 

「指切りげんまん。……嘘をついたら、どうなるのかな?」

「そうですね……。じゃあ、針千本飲ます代わりにナイフ千本突き刺すということで」

「……」

 

 どうやら、約束を破ったらその日が月見の命日になるらしい。

 それが、とても冗談を言っている風には聞こえなかったので。

 月見は背筋が薄ら寒くなるのを感じながら、ちゃんと覚えておかないとなと強く心に誓った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして小指を解いた月見と咲夜が門へと踵を返せば、そこでは美鈴が事切れていた。綺麗なビリジアンだったはずの服がすっかり焼け焦げて変色し、プスプスと黒い煙を上げている。

 

「……魔理沙」

 

 図書館で魔理沙に墜とされた小悪魔よりも、ずっとずっとひどい。後ろからくっついてきた魔理沙に半目を向ければ、彼女は明後日の空を眺めて口笛を吹き始めた。

 とやかく言っても仕方がないので、月見は美鈴の肩を叩いて意識確認をする。何度か名前を呼んで繰り返せば、やがて彼女はうんうんと呻いて身じろぎをした。

 

「美鈴、大丈夫か?」

「うぐぐぅー……はい、なんとかぁ……」

 

 腕を杖にしてよろよろと体を起こす。けれど立ち上がれるほどまでは回復していないらしく、ようやく上半身を起こしたところで、はああ、と大きなため息を落とした。

 

「ああ、ひどい目に遭った……」

「怪我はないか?」

「ええ、私も一応妖怪ですし……って、月見さんじゃないですか!? うわ、これはお恥ずかしいところをっ」

「ああ、そのままでいいよ。無理しないで」

 

 慌てて立ち上がろうとした美鈴を、月見は掌を見せて制した。それから彼女の足元に転がっていた帽子を拾い上げ、

 

「はい、これ」

「わあ、申し訳ないです……」

 

 美鈴は受け取った帽子を頭に乗せると、てへへ、と恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「すみません、こんな格好になっちゃって……」

「いや、いいんだよ。それよりも本当に大丈夫なのか?」

 

 服が焼けてしまっているから、もしかして火傷でもしているのではないかと心配したのだが、美鈴は気さくな笑顔で首を横に振った。

 

「大丈夫ですよ。私、頑丈なのが取り柄なんで」

「そう……か?」

 

 軽く美鈴の肌を見てみるも、確かに(すす)でところどころ汚れている以外は健康的な肌色だった。……それに服が焼け焦げてボロボロになってしまっている手前、あまり見るのもどうかと思ったので、月見は美鈴の笑顔を信じることにした。

 頑丈の一言で片付けてよいのかは、疑問だけれど。

 

「まあ、怪我がないならよかったよ」

「いやあ、ご心配ありがとうございます。お優しいですねえ」

「そうか?」

「そうですよ。ほんと、みんなに爪の垢を煎じて飲ませてあげたいくらいで……」

 

 なにかを思い出すように目を細めて、ふう、と美鈴は物思いなため息をつく。遠い懐かしさがにじんだその瞳は、彼女がいかに門番として苦労してきたのかを如実に物語っていた。

 どうやら紅魔館の門番の仕事は、あまり待遇が良いとはいえないらしい。

 

「あ、そういえば」

 

 月見がどう反応したものかと沈黙していると、美鈴はボロボロになった身なりを最低限で整え、しまいに手櫛で髪を梳いてから、深々と頭を下げた。

 

「妹様を、助けてくれたんですよね。咲夜さんから聞きました。私からもお礼を言わせてください」

「ああ……どう致しまして。私としても、あの二人が仲直りできたのは嬉しいよ」

 

 大図書館でフランがレミリアの腕を引いていった光景は、思い出すだけで心がそっと暖かくなる。本当に何気ないそのやり取りをここまで嬉しく思うのは、月見が地下室で、二人の涙を見たからなのだろう。

 思わず、ふふ、なんて笑みをこぼしていると、顔を上げた美鈴がこちらを見つめたまま動かなくなっているのに気づいた。なにか変なことを言ってしまっただろうか。彼女の瞳は、すっかり虚を突かれて丸くなっていた。

 

「どうかしたか?」

「え? ああ、いや……」

 

 問うと、美鈴は半開きになっていた口をゆるゆる動かして、照れ隠しするように小さく頬を掻いた。

 

「今の月見さんの笑顔、良かったなあ……なんて」

「……」

「なんというんですかね……こう、お父さん、みたいな? そんな感じの笑顔だったので、つい魅入っちゃってました」

 

 ――お父さん、ね。

 思いがけない言葉ではあったけれど、それはすとんと月見の胸の中に落ちてきた。月見は、他の妖怪たちよりもずっとずっと長生きしている。もしかすると、幻想郷では一番のお爺ちゃんなのかもしれないくらいに。

 だからだろうか。あの二人の小さな吸血鬼を娘のように感じている部分は、確かにある。実際、フランには「私の娘になってみるか?」なんて言ったりもしたのだし。

 などとしみじみ感じていると、

 

「――で、咲夜は一体なにをしてるのかな」

 

 いつの間にか美鈴の隣に、今まで背後にいたはずの咲夜が一瞬で移動している。彼女はなにやら真剣な面差しで月見の顔を覗き込んだあと、がっかりと肩を落としていた。

 

「面白い顔だったと、聞きましたもので」

「……」

「もう一回やってみてくれませんか?」

「やだよ」

 

 月見は低く苦笑。そもそもどんな顔をしていたのか自分でわかっていないし、人に観察される前でやるのは御免だった。

 よいしょと立ち上がった美鈴が、肩を落とす咲夜を見て、猫のように表情を明るくした。

 

「あっ、もしかして私、貴重なもの見ちゃいました? わあいなんだか優越か――危なあい!?」

 

 咲夜が無言で素早く右腕を振った。そして、咄嗟にしゃがんだ美鈴の帽子が真っ二つになった。

 咲夜の右手に、煌めく銀色のナイフ、一つ。

 

「こ、殺す気ですか!?」

 

 まるで容赦のないナイフの一閃に、美鈴が尻餅をついて震え上がる。咲夜はそんな美鈴を冷ややかな目で見下ろし、実に淡々とした声音で言った。

 

「いえね、そういえばおしおきの続きをしてなかったなあって。今ふっと思い出したの」

「まぁたまたご冗談を、私にはわかりますよ? それってただ単に月見さんの貴重な笑顔を見た私への嫉――ぎゃあああああ!?」

 

 続け様に三度走った鋭いナイフの太刀筋を、美鈴はゴロゴロ地面を転がってなんとかやり過ごす。だが時間を操る咲夜から逃れられる道理などなく、すぐに降り注いだナイフの雨が、美鈴の体の輪郭を見事に縁取った。

 

「……、」

 

 綺麗な大の字で地面に縫いつけられた美鈴は、そこで自分になにが起こったのかを遅蒔きながら理解したようで、ふるふる震えて涙目になっていた。そんな彼女を見下ろすのは、指の間で柄を挟んで、両手で合計八本のナイフを構えた十六夜咲夜。ふわり、莞爾(かんじ)と微笑み、しかし落とす言葉はナイフの如く。

 

「――なにか、言い遺すことは?」

 

 ひとしきり悔しげに震えた美鈴は、大声で叫んだ。

 

「あー咲夜さんここからだと下着が見えますよ色はふぎゃあああああ!?」

「……」

 

 響いた断末魔を遠巻きに聞きながら、月見は明後日の空を眺めてふっとため息をこぼした。どうして幻想郷の住人たちは、揃いも揃って元気いっぱいなのだろうか。

 隣に並んだ魔理沙が、くっくとシニックに肩を震わせて言う。

 

「騒がしいなあ。もっと、私みたいにお淑やかに生きればいいのに」

「……魔理沙、鏡を見たことは?」

「もちろん、身嗜みは毎朝ちゃんとチェックしてるぜ。――それがどうかしたか?」

「いや、なんでも」

 

 魔理沙がお淑やかだったら、世の女性のほとんどがお淑やかになるだろう。例外は紫や操くらいなもので。

 自らお淑やかを名乗るのだったら、せめて、

 ――せめて…………。

 

「……」

 

 特に思いつく知り合いがいなかったので、月見は頭を抱えた。私の周りはこんなのばっかか、と。

 いや、そういえば雛はどうだろう。厄神という境遇もあるのかもしれないが、月見の知り合いの中では間違いなく一番大人しい。

 ……もっとも彼女、椛と一緒に弾幕ごっこを見せてくれた際には、

 

『ほらほらどうしたの椛! 私、まだ結構余裕あるわよっ!』

『ちょっ……ま、まままっ待ってください雛さん、落ちっ落ちつ』

『厄神もやるときゃやるんだから! 天狗にだって、負けないんだからねー!』

『あ、あの、あのあの雛さんどうしてそんなにノリノリきゃうん!? う、うわーん!?』

 

 とこんな具合で、結構ノリノリで椛を涙目にしていたので、実ははっちゃけ少女なのかもしれないが。

 幻想郷の住人は、みんなみんな元気いっぱいなのである。

 

「つ、月見様っ! その、あのっ、聞きましたか!?」

「? なにをだ?」

 

 その時、顔を真っ赤にした咲夜が、ほとんど叫ぶようにしながらそう尋ねてきた。面食らった月見は思わず問い返してしまったが、すぐに、ああ、と思い至る。

 

「下着の色が――うおっと!?」

「……大丈夫よ、咲夜。落ち着いて。落ち着いて月見様の記憶を消せば、大丈夫、大丈夫……」

「いや、色々と大丈夫じゃないから本当に落ち着いてくれ。聞いてない、聞いてないって。だからナイフはアウト――アウトだって!?」

「っ……! っ……!!」

 

 羞恥の針が振り切った咲夜は、完全に歩く凶器――否、走る凶器と化していた。

 聞いていないと何度説明しても、それが咲夜の耳に届くことはなく。

 結局、咲夜が息切れを起こして動けなくなるまで、月見は彼女にしつこく追い回される羽目になったのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 寝惚け眼をぼんやり持ち上げれば、なにやら窓の外が騒がしい。

 なにかあったのかな、とフランはゆっくり体を起こした。

 

 レミリアの部屋だ。実際に入るのは、一体何年振りになるのだろう。記憶の中にあるそれとは、もう同じ場所とは思えないほどに変わってしまっていて、自分とレミリアがどれほど長い間すれ違っていたのかを見せつけられるようだった。

 けれど、それももう終わったこと。

 だから、これからは。そう思い、フランは己の隣に視線を落とした。

 天蓋付きの大きな大きなベッドの上、隣でぐーすか眠りこけているのは、他でもない愛しいお姉さん。半開きになった口の端からちょっとだけ涎が垂れているのを見つけて、フランは思わず苦笑いをした。

 ――てか、月見の尻尾の上であんなに寝たあとなのに、まだ爆睡できるんだ……。

 そんな間抜けな姉の寝顔はさておき、今は外である。何人かが騒いでいる声が聞こえるけれど、月見たちだろうか。

 フランはベッドから飛び降り、庭に面した窓辺へ向かう。西日に当たらないように気をつけながらカーテンを開け、ガラスに寄って下を覗いた。

 すると、門の近く。そこで咲夜が両手でナイフを振り回し、月見を追いかけ回していた。

 

「――え?」

 

 眠気が吹き飛ぶ。まさか咲夜が月見を襲っているのかと、一瞬肝が冷えたけれど、すぐ近くで魔理沙が腹を抱えて大笑いしているのを見つけて、どうやら違うらしいことに気づいた。

 いや、咲夜が月見を襲っているのは間違いないのだろうが、でもどちらかと言えばじゃれ合っているみたいだと、フランは思った。咲夜はナイフを振り回しこそすれ、当てるつもりはさらさらないのだろう。太刀筋はまったくの滅茶苦茶で、月見も苦笑いを浮かべる余裕を見せながらそれから逃げ回っていた。

 

「……咲夜も、月見と仲良くなったんだ」

 

 むくむくと、嬉しくなった。大図書館に移動する前に、彼女が月見のことをいじわるだと言っていたから、もしかしたらと不安に思っていたけれど。やっぱり咲夜も、月見のことを受け入れているのだ。

 咲夜と月見の追いかけっこが終わる。咲夜が息切れして動けなくなったようだった。肩でぜーぜー息をする咲夜を見て、魔理沙がここまで聞こえるくらいの大声で笑い転げ――あ、咲夜がナイフを投げた。ギリギリ躱された。惜しい。

 そういえば、なんで魔理沙があんなところにいるのだろう。まあさしずめ、こちらが眠っている間にまた本を盗みにやって来たのだろうが。

 でも魔理沙は、どうやら本を一冊も持っていない。もしかしたら月見がまたなにかしてくれたのかもな、とフランは思った。

 月見が二人の間に割って入り、それから咲夜と何事か話をしていた。なにを話していたのかはわからない。けれど会話が終わった時、月見は魔理沙と一緒に、紅魔館の門を一歩跨いで外に出て行ってしまった。

 月見が、帰ろうとしているのだと。それに気づいたフランは、

 

「あっ……」

 

 フランは、焦った。せっかく友達になったんだから、お見送りをしなきゃと思う。今から外に出て行って間に合うだろうか。でも日傘がない。自分のは地下室に置きっぱなしだし、レミリアのを借りるにしても、どこに置いてあるのかがわからない。

 どうすればいいのか思いつかなくてわたわたしている間に、月見が咲夜に手を振って、歩き出してしまった。その背が、どんどん紅魔館から遠ざかっていく。

 

「う、うわっ……!」

 

 急がないと、本当に間に合わなくなる。フランは咄嗟に、目の前の窓を大きく開け放った。西日に晒された腕が一瞬、焼けるように鋭く痛むけれど、構いなどしなかった。

 ここから呼び止めれば、まだ気づいてもらえるかもしれない。フランは大急ぎで回れ右をすると、未だベッドで眠りこけている姉を叩き起こした。

 

「お姉様、お姉様起きて! 月見が帰っちゃうっ!」

「……ぅえ~? なに、どうしたの……?」

 

 もぞもぞ寝返りを打った彼女の耳元で、叫ぶ。

 

「月見が帰っちゃうからお見送りするの! ほら起きてっ、早く早くっ!」

「お見送りぃ~……? いいじゃないのそんなの、ほら、もうちょっと寝てましょうよー……」

「いいから起きろっ!」

「あぅ~……」

 

 渋るレミリアを強引にベッドから引きずり落とし、そのままずるずると窓辺まで引きずった。彼女を抱き起こし、やっとの思いで立ち上がらせて、それから外を望めば、月見の背中はもうずっと遠くに離れてしまっていた。急いでいるのだろうか、フランが思っていたよりもずっとずっと早足だった。

 もしかしたらもう、声は届かないかもしれない。でも、それでもフランは、窓辺に食いついて精一杯に彼の名を呼ぶ。

 

「月見――――――!!」

「ちょっとフラン~、うるさいわよぉ……ぐぅ」

 

 立ったまま器用に船を漕いでいる姉は、はっ倒した方がいいのだろうか。フランが割と本気でそう思っていると、視界の端で、月見の背中が動いたのが見えた。

 声が届いたのだ。彼はもう、ここからでは顔もわからないくらいに離れてしまっていたけれど。それでもしばらくしてから、フランに向けて一つの動きを返してくれた。

 手を、振る。

 ここからでもはっきり見えるほど、大きく、大きく。

 

「っ……!」

 

 それが、フランにはとてもとても嬉しかった。こうやって誰かと、またねって手を振って。そんな友だちみたいなやり取りが、幸せだった。

 だからフランも、手を振り返す。

 あんまり嬉しかったものだから、その場でぴょんぴょん飛び跳ねながら、月見にも負けないくらいに大きく。

 

 勢い余った腕がレミリアの頭を直撃して、意図せずとも彼女をはっ倒してしまった――その時まで、ずうっと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……なにやってんだあいつら」

「さてね」

 

 その一部始終を、月見は苦笑しながら、魔理沙は目を丸くしながら見つめていた。

 いきなり殴られて怒ったレミリアが、頭を押さえながらフランに詰め寄る。フランは小さく舌を見せて笑うと、レミリアの腕を取って、こちらに向けてぶんぶんと左右へ振り回す。

 ちょ、ちょっとフラン、なにするのよ! ――なにじゃないよー、お姉様もほら、またねって! ――そんな二人の声が、今にも耳に聞こえてきそうだった。

 月見が二人に向けてもう一度手を振り返すと、はー、と魔理沙が感心したように吐息をこぼした。

 

「あんな楽しそうなフランなんて久し振りに見たぜ。狂気とやらで気が触れてるって聞いてたんだけどな」

「さて……これからは、それも変わっていくと思うよ」

 

 顔を真っ赤にしたレミリアが、強引にフランの腕を振り解く。それからフランに対して何事か叫んで、それを聞いたフランがむっと唇を尖らせて、レミリアの頭を叩いて、すぐにレミリアが反撃して――。

 

「……姉妹喧嘩(きょうだいげんか)なんて、見せつけてくれるねえ」

 

 ペチペチペチペチお互いを叩き合う二人の姿に、月見も、そして魔理沙の頬も、ついつい緩くなってしまう。そうさせられるだけの微笑ましさが、今のフランたちには宿っていた。

 

「……紅魔館、か」

 

 その赤にまみれた全容を望み、月見はふっと目を細めた。

 鮮血を塗り固めて造ったような悪趣味極まりないデザインは、確かに見る者の度肝を抜くだろうが。

 

「でも、見かけによらず、いい場所だったね」

 

 レミリアと取っ組み合いながら、それでもまたこちらに向けて手を振ってくれた、フランの満面の笑顔を見て。

 露の疑いなく、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第13.5話 「魔法の森探検ツアー霧雨魔法店行き」

 

 

 

 

 

 日暮れが近い。西へ大きく傾いた太陽はほどなくして並ぶ山々に足をつけ、この幻想郷に朱を落とすだろう。太陽に代わって空に昇り始めた月が、刻々とその白さを増してきている。

 なるべく早く人里に辿り着きたいものだと、月見は俄に足を速めた。

 

「おおいちょっと待てって、私が一緒にいることを忘れちゃ困るぜ」

 

 直後、慌ててついて来た少女の声に背中を叩かれた。首だけで振り返れば、そこにはほうきを握って駆け足を踏む魔女の姿がある。

 そうして月見の隣に並んだ彼女は、たちどころに眉をハの字にした。

 

「私はお前と違って体が大きくないんだ。そんなに大股で歩かれたら、たちまち置いて行かれるぜ」

「私も急いでるんだよ。無理しないで、ほうきに乗ったらどうだ?」

「たまには健康指向もいいかと思ってな」

 

 徹底的なまでに白と黒で着飾った風体から、しかし覗くのは贅沢すぎるほど潤沢な金髪。反骨が意思を持って歩いているかのような少女、霧雨魔理沙は、家が魔法の森にあるからと、紅魔館からの帰り道を月見とともにしている。

 

「こういう時は女のペースに合わせてやるのが、男の甲斐性ってやつじゃないか?」

 

 口を開けば、あいもかわらず調子のいい言葉ばかりが飛び出してくる。だがそれも、月見にとっては紅魔館での一件で既に慣れたものだったし、また一応は的を射た訴えでもあった。魔理沙の言う通り、相手のペースに合わせないで一人で勝手に進んでしまうのは、少しばかり大人げないだろう。

 けれど今は、時間が時間だった。空を振り仰げば、青の中にほのかな茜色の気配が混じり始めてきている。

 

「しかしね、日の入りまで恐らくあと二時間とない。あんまり遅くなると不審に思われるだろうし、早く行って損はないよ」

「なんだったらウチを使うか? 多少汚いが、一人くらいは泊まれるぜ。親もいないし、遠慮することはない」

「ハッハッハ、冗談を」

「ん? いや、別に冗談じゃないが」

「……」

 

 月見は無言になって魔理沙を見下ろした。すると自分の発言になに一つ違和感を持っていない、きょとんとした疑問顔を返された。

 正気だろうか。月見は一音一音はっきりと、言い含めるように、

 

「魔理沙。私は、男だよ」

「知ってるぜ? 顔見りゃわかる」

「普通、知り合ったばかりの男を自分から家に泊めたりするかな。そこは女として躊躇っておいたらどうだ?」

「いやいや、美少女と一つ屋根で夜を明かせるんだぜ? そこは男として喜んでおけよ」

 

 魔理沙の言葉は、まるで当然のことを言うように躊躇いがない。

 ……本当に、正気だろうか。月見は額に手を遣り、大きめな嘆息を一つ、落として言った。

 

「……それは、少し不用心過ぎるんじゃないかと、私は思うんだけどね」

「おっと、お前、もしかして私になにかするつもりなのか?」

 

 我が意を得たりと、魔理沙が目を輝かせた。月見を斜め下から見上げ、含みのある流し目を作って、意味深に笑う。

 

「さすがは妖狐。そんな見た目でも、獣だな……」

「……」

 

 してやったりという顔から察するに、彼女はこのセリフを言いたかっただけなのだろうか。

 まあ、確かに月見は狐、正真正銘の獣――厳密にいえば妖獣――であるが。

 しかし少なくとも、そういう意味(・・・・・・)でまで獣ではないつもりだった。なので月見は満面の笑顔を浮かべ、生意気なことを考える魔理沙の頭をバシバシと叩いてやった。

 成人を迎えていない彼女の背は、月見の胸元に届くかどうかで。

 

「子どもが粋がるんじゃないよ」

「む……せ、成長期は、まだまだこれからだぜ。将来有望ってやつだ」

 

 もしかして気にしていたのだろうか。そっぽを向かれたためよくわからなかったが、一瞬、口の端を悔しさで曲げたようだ。

 やはり女の子でも、背が高くないというのはコンプレックスになるのだろうか。

 

「……いつか、私だって」

「……」

 

 違った。魔理沙は頭ではなく胸を押さえている。どうやらコンプレックスなのはそっち(・・・)らしい。

 別に、そういう意味で言ったわけではないのだが――まあ、揚げ足を取るのも可哀想なので、見なかったことにしておこう。

 

 魔法の森は、幻想郷の中央部に広がる大森林である。幻想郷自体がさほど広い土地ではないので、“大”を付けるべきかどうかは疑問だが、少なくともこの土地では最大規模のものだ。湿気が異常なまでに高いため生活に向かず、更に毒キノコの胞子がそこら中を舞って瘴気を形成しているため、妖怪の山とはまた異なった意味での危険区域とされている。

 紅魔館から人里へ向かうためには、この森を突っ切るか、大きく迂回しなければならない。瘴気の影響か、魔物のように禍々しく成長した木々の伸ばす枝が、幾千の命を屠った妖刀さながら、くすんだ妖しい光を放って月見を威嚇していた。

 思わず足を止めると、隣に並んだ魔理沙が苦笑した。

 

「さっきこそああ言ったけど、実際、ウチに泊まるのはあんまりオススメしないぜ。なにせ、この森の環境が良くないからな」

「……そうだね」

 

 それは月見も重々承知済みだ。この森の劣悪な環境には、人間はもちろん、妖怪たちですら尻尾を巻くという。毒キノコの瘴気に魔力を高める副作用がなければ、この森に住もうと考える者など一人も現れなかっただろう。

 

「大人しく迂回するか、空を飛んでくことをオススメするぜ。なまじっか足を踏み入れても、痛い目を見るだけだからな」

「ああ、わかった。――じゃあ行こうか」

「っておいおい、普通に入ってくのかよ!?」

 

 歩き出すと同時に大声で呼び止められ、月見は振り返った。魔理沙が、なんだコイツ、とでも言うかのような目でこちらを見ている。

 月見は首を傾げた。

 

「行かないのか? できれば案内してくれると助かるんだけど」

「いや、お前、人の話聞いてたか?」

「この幻想郷中でお前にだけは言われたくない言葉だね」

「そうじゃなくてだな、痛い目見るって言ったろ? ここは毒キノコの瘴気が幻覚を引き起こしたりするんだ」

「ああ、それがどうかしたか?」

「どうかしたかって……」

 

 腑に落ちないと眉根を寄せる魔理沙を見て、月見もようやく思い当たった。どうやら魔理沙は、妖狐という種族をあまり詳しく知らないと見える。

 心配してくれるのは感心だが、それは杞憂というものだった。月見は浅く両腕を広げ、

 

「魔理沙。私たち妖狐が幻術の扱いに長けてるのは、知ってるだろう?」

「まあ、それくらいは……」

 

 魔理沙の肯定を確認してから、勿体ぶるようにわざとらしく抑揚をつけて、「では」と続けた。

 

「たかが毒キノコ程度の幻覚が、幻術を司る一族である私に効くと思うか?」

「――……」

 

 妖狐や化け狸は、幻術に対して高い耐性を持っている。内の大妖怪ともなれば、少なくとも同格の相手以外からの幻術は、一切受け付けないといってもいい。毒キノコなど論外だ。

 故に、月見がこのまま魔法の森に立ち入ったとしても、なんら問題などありはしない。強いて言えば、日没までに人里に辿り着けるかがわからなくなることくらい。

 だがせっかく目の前まで来たのだし、久し振りに魔法の森を探検してみるのも面白いだろう。ここでもまた、込み上げる好奇心が理性に勝ったのだ。

 魔理沙はしばらくの間呆気にとられた顔をしていたが、やがてハッと息で笑って、帽子を深く被り直した。

 覗く唇端が、三日月を描く。

 

「……責任は持たないぜ?」

「よろしく頼むよ」

「上等だ。魔法の森探検ツアー霧雨魔法店行き、一名様ご案内だぜ」

 

 てかお前、早く人里に行きたいんじゃなかったのかよ。――もう少し余裕はあるし、せっかくここまで来たんだからね。――そうやって話をしながら、月見は魔理沙とともに森へと分け入る。

 そんな月見を、木々は魔理沙の友人だと勘違いしたのだろうか。妖刀の如き禍々しさで伸びていた枝葉たちが、心なしか、その鋭さを和らげてくれたような気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――で、これが食べられるキノコで、こっちが食べられないやつだぜ。パッと見た感じは一緒だけど、裏のヒダがまっすぐ伸びてるか曲がってるかで見分けりゃいい」

「ふむ……ではこれは?」

「いやお前、それは触るだけで幻覚見る超毒キノコだから。つんつんすんなバカ」

「特になんともないが」

「……むう、毒キノコ如きの幻覚が~とか言ってたのは嘘じゃなかったんだな。つまらんぜ」

「ハハハ、それは申し訳ない」

 

 魔法の森探検ツアーは、いつの間にか、魔法の森キノコ採集ツアーになっていた。あまりにも多種多様なキノコが生え揃っていたため、ついつい当初の目的を忘れて目移りしてしまったのが発端だった。あちらこちらに自生したキノコたちは、外の世界では滅多に、或いはまずお目にかかれないような希少種ばかりで、月見の関心を引くには充分だった。

 

「おや……これはなんだか、ちょっと他とは違うようなキノコだね」

「おっ、そいつは魔法薬に使える実に珍しいキノコだぜ! でかしたな月見、大手柄だ」

 

 魔理沙は魔法使いであると同時に、キノコ学者でもあるらしい。この幻想郷で知らないキノコはないとのことで、月見が興味を持ったキノコをすべて丁寧に解説してくれた。

 

「お礼に、このキノコを食べてみていいぜ。ほら、生でカブっと」

「いやお前、これ、さっき言ってた食べられないキノコじゃないか」

「チッ」

「……」

「ハハハどうした月見、狐火なんて出して――うわあああ待て待て本当に珍しいキノコなんだってそれ! だから焼こうとするなー!」

「美味しいかなって」

「アホかー!」

 

 そんなこんなで、薄暗く陰湿な森の雰囲気とは正反対に、とても賑やかな探検ツアーなのだった。

 道と呼べるほど生き物の手が入った場所ではない。地面は年を跨いですっかり黒ずんだ落ち葉と、瘴気の影響で変な伸び方をした雑草とで埋め尽くされ、獣道すらありはしない。

 そんな道なき道を、月見は魔理沙とともに進んでいく。あれだけ激しいにわか雨が降ったにも関わらず、水たまりは一つもなかったが、土はぬかるんでいて歩きにくかった。

 

「ったく……お前がここまで子どもっぽいやつだとは思わなかったぜ」

 

 こちらを先導しながら魔理沙がこぼした言葉を、月見は意外だと思わなかった。その上で、わざととぼけた振りをして尋ねた。

 

「そうか?」

「そうだ。後ろついてきてると思ってたらいつの間にかいなくなってて、隅っこでキノコをいじってたお前を私は忘れない」

「興味を引かれると、つい体が動いてしまうタイプでね」

 

 好奇心が強いとは昔からよく言われるし、それは自らも認めるところだった。そして好奇心が刺激された時だけは、子どもらしく、我が強くなってしまうことも。

 

「なんだ、どっかのブン屋みたいな性格してるな。妖怪の山に、射命丸文っていう好奇心旺盛な天狗がいてな。気が合うだろうから会ってみるといいんじゃないか?」

「……そうだね」

 

 思いがけず文の名が出てきたことに、月見はついつい苦笑を浮かべた。今朝方、500年振りに再会した旧知の烏天狗は、あちこち角が取れて非常に気さくな性格になっていた。あれでもその昔は泣く子も黙る大妖怪だったのだから、なんとも面白い変化だと月見は思う。

 故に今でも歯をむき出しにして嫌われている自分が、寂しくもあるのだが。

 

「おっと」

 

 などと考えていると、木の根をひょいと飛び越えていった魔理沙が、着地際にぬかるみで足を滑らせた。月見は焦ることなくすぐに尻尾を伸ばし、傾いた彼女の背中を支えてやった。

 

「お、悪い悪い。まったく、通り雨のせいですっかりぬかるんじまってるな。歩きにくいったらない」

「空を飛んだらどうだ?」

「枝がな、飛ぶには邪魔なんだよ」

 

 月見は頭上を見上げた。曲がりくねって伸びた木々の枝は、確かにいじわるなほどに空の道を邪魔している。

 

「じゃあ、いっそ木の上を飛んだら」

「そしたら、魔法の森探検ツアーが名ばかりになるだろ?」

 

 意外にも彼女、月見にしっかり魔法の森を案内するつもりだったようだ。

 

「じゃあ、足がつかない程度にちょっとだけ飛ぶか、大人しく歩くかだね」

「私は、ついでにキノコも集められるし歩きで構わないんだが、お前は大丈夫なのか?」

「そうだねえ」

 

 見上げる空は立ち込めた霧と枝葉に完全に遮られ、何色なのかすら掴めない有様だった。だが木漏れ日はまだ白かったので、きっと大丈夫だろう、と月見は思った。

 

「まあ、大丈夫じゃないかな。せっかくのツアーだしね、最後まで楽しませてもらうよ」

「そうか。んじゃまーのんびり行こうぜ。なんか面白そうなキノコがあったら教えてくれ」

「はいはい」

 

 歩き出した魔理沙の背に続き、更に森の中に分け行っていく。途中、何度かキノコを見つけて足を止めたが、それでも開けた場所に出るまで時間は掛からなかった。

 洋館だ。一階建ての母屋に、八角柱を象った二階建ての離れ屋が隣接している。外壁は白く、屋根は青。紅魔館とは違って、見る者の目に優しい涼やかなデザインであった。

 

「あそこか?」

 

 もしあれが『霧雨魔法店』なら、なかなかどうして、本人の性格に見合わず上品な家だ。

 だが、魔理沙からの返答は否。

 

「いや、あそこは私の友達の家だ。霧雨魔法店はもうちょっと奥だぜ」

「友達ね。魔法使いの?」

「ああ。アリスっていう人形師の――」

 

 そこで、ふとしたように魔理沙が動きを止めた。

 

「……魔理沙?」

 

 同じく足を止めた月見は、怪訝の目で隣の魔理沙を見下ろす。彼女はしばしその家とこちらを見比べてから、やがて口で、猫のように三日月を作って笑った。

 いたずらを思いついた子どもの顔だった。それを、魔理沙は否定しなかった。

 

「……魔理沙」

「なあに、せっかくだから紹介しておいた方がいいかと思ってな。ちょっと待っててくれ」

 

 見え透いた建前を並べると、魔理沙は含み笑いをしながら小走りで洋館へ。靴の泥も払わず玄関前に上がり込み、ガンガンと容赦なくドアを叩いた。

 

「アリスー! アーリースー!」

 

 けれどもその騒々しい呼び掛けに対して、家主――アリスからの反応はなかった。魔理沙がもう一度声を上げてみるが、結果は変わらず。

 

「……なんだ、留守か。くそー、タイミング悪いぜ」

 

 ちぇ、と舌打ちしながら玄関を離れた魔理沙の顔には、いたずらが不発に終わったことへの不満がありありと表れている。アリスというのが誰かは知らないが、留守にしていてくれてありがとう、と月見は思った。

 魔理沙がこちらに戻ってきた頃合いを見計らって、尋ねる。

 

「どんな子なんだ?」

「それは言っちまったら面白くないんだな」

 

 そう言って魔理沙は、帽子の後ろで手を組んで、また意味深に笑った。

 

「次の楽しみに取っとくといいぜ、面白いもんが見れるからな」

「……面白いこと、ねえ」

 

 ということは魔理沙は、月見にいたずらしようとしたのではなく、そのアリスとやらにいたずらをしようとして、今し方ドアを叩いてきたらしい。

 

「私がアリスに会うと、どうなるんだ?」

「そいつも秘密だ。とりあえず、抱腹絶倒の如くだとは言っておく」

「?」

 

 顔を合わせると、月見や魔理沙が思わず笑ってしまうような少女。……一体何者だろうか。

 

「なんだ、その……センスが壊滅的だとか?」

 

 服のセンス、或いは髪型が、お世辞にも素敵とはいえないとか。

 

「いやいや、見た目は普通に可愛い女の子なんだが……性格がな、実に面白い」

「面白い性格?」

 

 芸人志向とかだろうか。外の世界には、人形を使って漫才をする芸人というのが何人かいたが。

 

「まあとにかく楽しみにしとけって。そう広くもない幻想郷だ、そのうち会えるだろうからな」

「……まあ、ほどほど程度で楽しみにしておくよ」

「おう。それじゃあ行くか。霧雨魔法店はもうすぐだぜ」

 

 結局魔理沙は明確な答えを寄越さないまま、陽気に口笛を吹きながら歩き出してしまった。そういう引きをされると余計気になってしまうのだが、果たしてアリスとはどんな少女なのだろうか。

 ……もしかすると、魔理沙の友達だというから、彼女に負けず劣らずのひねくれ者なのかもしれない。

 

「……」

 

 魔理沙が二人。そんな頭が痛くなる光景を思い浮かべてしまって、月見は目頭を押さえながら、ゆっくりと魔理沙の背を追いかけていった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 霧雨魔法店は、“店”を名乗るにはあまりに物寂しく、閑散としていた。魔法の森にある時点で予想できていたことだが、もちろん店前に客の姿などありはしない。

 こちらもまた、アリスの家と同じく洋館であった。茶色を基調にした木造の素朴な構えで、実に自然に森の中へと調和している。一方で外壁にはあちこちツタが走っており、近寄りがたいおどろおどろしさも感じられた。まさに、“魔女の家”という言葉がよく似合う。

 

「しっかし……」

 

 開けた森を覆う空は、ほのかな茜色をしている。夕暮れを告げるカラスの鳴き声を遠くに聞きながら、月見は眉をひそめて、己の足元に視線を落とした。

 なんの装飾もされていない簡素な板っきれの看板が、根本から折れて無残に転がっている。そこには、殴り書きに近い金釘文字でこう書かれていた。

 

「『霧雨魔法店 なんかします』。……魔理沙、商売ナメてないか?」

 

 商売に対する意気込みが、まったくといっていいほど感じられない。

 

「そいつはまあ、私の副業みたいなもんだからな。霧雨魔法店。ちょっとした道具の修理から妖怪退治まで、幅広く請け負うなんでも屋だ」

 

 魔理沙は特に気にした様子もなく一笑いして、ツタに所々を侵略されつつある玄関を、軋む音とともに一息で引き開けた。

 途端、月見の視界に飛び込んでくるのは――

 

「――……」

 

 月見はゆるく首を振り、眉間をゆっくりと揉み解して、けれど目の前の光景はちっとも変わっていなかったので、ため息をつくように低い声になって言った。

 

「……“片付けのできない女”、か」

「できないんじゃない。しないんだぜ」

 

 幸いなのは、それがゴミ山ではなかったことか。魔導書。魔法瓶。植物に始まる魔法薬の材料。その他諸々のマジックアイテム。それらが、しかしまるでゴミを扱うように、そこかしこにぶち撒けられていた。

 正直に言って、汚い。玄関から入っていきなり、足の踏み場が消滅している。

 

「まあ待ってろ。今、道を作るから」

 

 魔理沙は玄関に散らばっていた魔導書を次々と蹴飛ばして、中への道のりを確保していく。……ところでその魔導書は、パチュリーから借りているやつではないのだろうか。蹴飛ばしていいのか。

 魔理沙は鼻歌すら交えながら、陽気に答えた。

 

「小綺麗な部屋ってのは落ち着かないよな。ちょっと散らばってるくらいの方が、逆に人間味があって落ち着くんだぜ」

「ちょっと?」

「ちょっとだ。蒐集してきたアイテムを全部二階に突っ込んだからな、いつもよりは綺麗な方だ」

「……なあ、帰っていいか?」

「休憩くらいさせてやるぜ?」

 

 リビングまでの道を確保した魔理沙は、次に手に入れたキノコの置き場を探して、あろうことか、マジックアイテムであふれ返っていたテーブルの上をほうきで薙ぎ払った。なんの迷いも躊躇いもない、過去に何度も同じことを繰り返してきた手つきだった。薙ぎ払われたアイテムがすべて、雪崩を起こしたかのように次々床に落下していく。割れ物が交じっていたのか、パン、となにかが砕ける音が聞こえた。

 思わず眉間を押さえて呻いた月見とは対照的に、魔理沙の表情は涼しげだった。

 

「ん? あー、魔法瓶が交じってたか。まあ大丈夫だろ、確か中身は入れてなかったし」

「……」

「で、どうするー? とりあえず道は確保したから、入ってきても大丈夫だぜ」

 

 どうすると言われても、この惨状を目の前にして一体どうしろと言うのか。

 月見はしばし、なにも見なかったことにしてさっさと人里向かうべきだろうかと本気で悩んだ。だが結局、恐る恐ると足を踏み入れてみることにした。世界中のあらゆる秘境を巡り歩いてきた月見が、今しばらく振りに、足を動かすことに恐怖を感じている。無論、半ゴミ屋敷状態の家にお邪魔するなど、生まれて初めての経験だった。

 キノコをテーブルの上に積み重ねながら、魔理沙がニッと人懐こく笑った。

 

「いらっしゃい、ようこそ霧雨魔法店へ。なんだったら依頼を受けてやってもいいぜ?」

「そうだな、じゃあこの家を掃除してくれ」

「おう、じゃあ一緒に掃除するか」

「……休ませてくれるんじゃなかったのか?」

「女の子一人に働かせるのは、いけないと思うぜ」

 

 客を働かせるのは、いいのだろうか。

 半目を向けてやると、一応はプライドのようなものがあるのか、魔理沙は口を尖らせて反論した。

 

「言っておくけど、私だって女だし、最低限の衛生には気を遣ってるぜ? この家は見た目以上にちゃんと清潔だ。この部屋だって、散らかってはいるけどゴミ自体は一つもないだろう?」

 

 月見は部屋を見渡した。ゴミのように散らばるマジックアイテムは多々あるが、確かに、ゴミそのものは一つも落ちていない。

 だが、それとこれとは話が別である。ゴミがなければいくら散らかっていてもいい、というわけではないだろう。

 月見は、魔理沙に蹴飛ばされた魔導書に追い打ちをかけてしまわないよう気をつけながら、

 

「いや、これはさすがに散らかりすぎだよ。これじゃあ普段の生活にも不便じゃないか」

「とは言ってもな、置き場がないってのもあるんだぜ? さっき魔法店が副業だって言ったが、本業は蒐集家でな」

「だったらなおさら、整理しないと。これじゃあせっかくのアイテムが埋もれて、なにがなんだかわかりゃしない」

「それもそうなんだけどなー。別に人に見せるために集めてるわけでもないし、誰かに迷惑掛けてるわけでもないし、このままでもいいかなって」

「現在進行形で私に迷惑掛けてるが」

「女の子の部屋に入るのには、それなりの代償が伴うんだぜ」

 

 受け答えする魔理沙は終始笑顔のままで、現状を省みるつもりは毛頭ないようだった。これからもこうやって、蒐集したアイテムで自らの家を埋め尽くしていくのだろう。

 

「……」

 

 あまり大きく口を出せることでもないのは、わかっている。これは魔理沙自身の生活だ。彼女の性格を考えればとやかく言っても仕方がないし、彼女自身もそれを快くは思わないだろう。

 けれども。

 けれども、これはさすがに、ひどすぎである。

 

「……なあ、魔理沙」

「ん、なんだ?」

 

 魔理沙にほうきで薙ぎ払われ、床の上に小高い丘を築いたアイテムたちは、まるでゴミを積み上げた投棄場のようで。

 

「夕暮れまで、まだちょっとは時間がある。さすがに全部は無理だろうけど――」

 

 それらを遠い気持ちで眺めながら、月見は言った。

 この家で息休めすることを、諦めつつ。

 

「――このリビングだけでも、掃除するぞ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 本当に不思議な妖怪だと、魔理沙は思う。紅魔館に好き好んで近づくようなやつは自分を除いてみんなどこか変なやつばかりだと魔理沙は思っているが、彼もその例に漏れず、なんだか変な妖怪だった。

 銀の狐。名を、月見。

 バタバタ走り回ってリビングの整理整頓に勤しむ彼の姿を、魔理沙は心底面白い気持ちで目で追い掛けていた。

 

「とりあえず、アイテムは全部隣の部屋にまとめてしまうぞ?」

「ああ、構わんぜ。もともと物置みたいな部屋だしな」

 

 答えながら、魔理沙は心の中でくつくつと笑う。本当におかしな妖怪だ。妖怪が人間の家を、他でもない自らの意志で掃除するだなんて。これがどうして、笑わずにいられるだろうか。

 まるで人間みたいだ、と思う。実際魔理沙は、彼のことを妖怪だと思って接していなかった。気心の知れた人間の友人。今日出会ってからのたった数時間で、そういう目で彼を見るようになっている。

 本当に不思議なことだ。床に散らばったアイテムを拾い隣の部屋に運ぶまでの片手間で、魔理沙は気がつけば、月見のことばかりを考えていた。

 

 この幻想郷には、彼以外にも人間らしい妖怪というのはいる。人里に最も近い天狗、射命丸文はまさにその典型だろう。

 もっともそういう妖怪に限って、人当たりのいい笑顔の裏で果たしてなにを考えているのか、食えない一面があって逆に馴染みにくかったりする。……妖怪に限らず、幻想郷の連中というのはみんなそういう者たちばかりだ。

 だが、月見は違う。妖怪にしては珍しく温厚だというのもあるが、それよりも裏表がなくて自分を包み隠そうとしないから、一緒にいると、こっちまで素直になってしまいそうになる。変に自分を着飾る必要はないんだと、思わされる。

 きっと、十六夜咲夜はそうだった。異性の目を気にして恥ずかしがったり拗ねたりする咲夜なんて、他では絶対に見られまい。それがあんまりにも面白かったから、あの時は腹を抱えて転げ回ってしまった。

 そう、それは一言で言えば――人を素直にする妖怪。

 面白いもんだなあと、魔理沙はもう一度、強く思った。

 

「うおお!?」

 

 そんなことを考えながら拾ったアイテムを隣の部屋に突っ込んでいると、唐突に背後から月見の悲鳴が聞こえた。次いで、なにかが盛大に崩れる物音までついてくる。

 びっくりして振り返ると、魔導書の山が崩れて、月見が本の下敷きになっていた。……ああ、あそこは読み終わった魔導書を積み重ねて、魔導書タワーを作ろうとしていたスペースだ。

 

「……ぷっ」

 

 本たちの下でもぞもぞと動いている銀の尻尾が、なんだかあんまりにも滑稽だったから。魔理沙は本日二度目、腹を抱えて大笑いをした。

 香霖にいい土産話ができたなと、そう思いながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 空は既に茜色を通り越して、ほのかな闇色に包まれつつあった。刻一刻と深まる夜の色に急かされるようにしながら、月見は霧雨魔法店を飛び出した。

 

「それじゃあ魔理沙、あんまり散らかさないように」

「おー、ありがとうな。お陰でまたちょっと散らかせそうだぜ」

「……」

「冗談だって。せっかく片づけてもらったんだから、まあ、少しくらいは気をつけるぜ」

 

 霧雨魔法店のリビングは、すっきり綺麗とまではいかないが、客を招き入れても不快には思われない程度に片付けることができた。きっと一週間もすれば、家主によってもとの惨状に逆戻りさせられるのだろうが、月見はもうなにも言わないことにした。言えるほど、時間に余裕があるわけでもなかったから。

 玄関まで見送りに出てくれた魔理沙が、森の南南西を指差して言う。

 

「人里はあっち。森を抜けてすぐのところに、『香霖堂』っていう廃屋みたいな古道具屋があってな。そこの道沿いに下ってけばそのうち着けるぜ」

「香霖堂ね。覚えておくよ」

「おう。もし宿がもらえなかったら、そんときは戻ってきたらいいさ。美少女魔理沙ちゃんと一つ屋根の下、一晩くらいは泊めてやるぜ」

「はいはい」

 

 与太話もそこそこに、月見は速やかに南南西へと足を向けた。空よりも深い闇色に包まれた森は、獣が大口を開けて待ち構えているかのような不気味さがあったが、無論、その程度で立ち止まる月見ではない。

 

「ま、縁があったらまたどっかで会おうぜ。そん時は、もう少しゆっくり話ができるといいな」

 

 背中にそんな言葉を掛けられて、月見は歩幅を緩めた。振り返り、後ろ向きに歩き続けながら、

 

「次に会う時までには、もう少し付き合いやすい性格になっててくれよ」

「失敬な。こんなに素直で付き合いやすい美少女もそうそういないぜ?」

「はいはい」

 

 魔理沙がもっと丸くなってくれればそれに越したことはないが、きっと彼女とはこういう付き合いになるんだろうなと、月見はなんとなく予感していた。前に向き直る動きに合わせて、軽く手を振って、

 

「それじゃあ」

「おー、またなー」

 

 霧雨魔法店を離れ森の中に一歩足を踏み入れれば、月見の心はもう人里へと向けられた。背後を振り返ることはない。魔理沙だってさっさと月見から視線を外して、家の中に引っ込んでいることだろう。

 薄暗い森の中、木の根やぬかるみに足を取られないよう気をつけながら、独りごつ。

 

「さて……人里か」

 

 500年。人の住む世界が一変するには、あまりに充分すぎる時間だ。

 500年前は、幻想郷が成立してから間もないこともあってか、少し殺伐とした雰囲気が、ないわけでもなかったが。

 

「どういう風に変わってるか、楽しみだね」

 

 魔界のように凶々しい森の中で、その声はあまりに、あっけらかんとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第14話 「月の小径 ①」

 

 

 

 

 

 脚が棒のようだとまでは言わないが、さすがに休みたいなと月見は思う。思い返せば、今日は異常なくらいによく動いた日だった。人間が安全に生活できる唯一の理想郷である人里は、間もなく夜の帳に包まれようとしていた。

 さすがにもうなにも起こらないだろう、と思っていた。主だった活動をやめて家に戻る人間たちと一緒に、宿を借りて、ゆっくり明日に備えようと。

 そう思って訪れた人里の中心で、けれど、月見は。

 

「――頼む! お願いだから力を貸してくれ、この通りだ!」

 

 周囲を人だかりに囲まれ、投げ掛けられるのは助けを求める悲痛な叫び。

 今日という日は、まだ終わらない。

 夜が落ちつつある幻想郷で、もう少しの間だけ、月見は動く。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 霧雨魔法店を去り、魔法の森を抜けると、月見は広がった平野の先に集落を望んだ。日は間もなく、山々の中にその体を完全に沈めようとしている。霧雨魔法店では思わぬ寄り道をしてしまったが、これならなんとか間に合いそうだった。

 向かって左には魔理沙から教えられた『香霖堂』なる古道具屋があったが、これ以上寄り道をする余裕はさすがになかった。こんな辺鄙な場所に立つ古道具屋がどんな店なのかは、また次の機会に確かめるとして、月見は速やかに人里に向けて歩き出した。

 そうしながら、ゆっくりと首を回す。……関節が、パキパキと小気味のいい音を鳴らした。

 

「……大分、疲れたなあ」

 

 ため息を吐き出すように、そう言う。今日だけで、妖怪の山を登り下りし、紅魔館で派手な戦闘をし、霧雨魔法店を忙しなく掃除し、魔法の森を踏破したのだ。疲労に強い妖怪の体とはいえ、さすがに抗議の声を上げ始めていた。

 

「……早いとこ行って、休ませてもらおう」

 

 だんだん重くなってきた両脚を励ましつつ、月見は懐から一枚の札を取り出した。陰陽術などで好んで用いられる、術式を刻み込んで発動の鍵としたものだった。

 刻まれた文字は、

 

「――『人化の法』」

 

 直後、月見の体に変化が生まれた。札が数多の光の粒子となって(くう)に溶け出し、体を包み込む。わずかにものが焼けるような異音を伴って、光の奥で、月見の体が作り変えられていく。

 『人化の法』は、有り体をいえば変化の術だが、ただ単に外見を変化させるだけの子ども騙しとは違う。体の構造を根本的に作り変え、完全な人間になる(・・・・・・・・)――月見が長年の歳月をかけて大成させた秘術である。

 身を包む光が輝きを失えば、月見の体は劇的な変化を得ていた。銀の尻尾と獣耳は綺麗に消え失せ、側頭部には、代わりに人間の耳が生えている。髪は艶のある黒で染まり、肌もまた、赤みのある濃い肌色へと色を深めている。

 そして、これは外見だけではわからないことだが――妖力は、霊力に形を変えて。

 月見はまさしく、人となっていた。

 

「……よし、と」

 

 術が成功したことを確かめ、月見は小さく頷きを落とした。これならどれほど疑われたとしても妖怪だとバレる心配はないし、外来人を装えば、一晩くらいの宿も保障してもらえるだろう。

 

「寝るならやっぱり、布団で寝たいよねえ」

 

 狐であるはずの月見がそう思うのは、長い年月の中で、人の生活に馴染みすぎたからなのか。

 月見は薄く苦笑し、人里へと向かう足を少しだけ速めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人を喰らう妖怪が跋扈(ばっこ)する世界にも関わらず、人里の周囲に防柵の類が少ないのは、すなわち必要がないからだ。人間たちに無条件の安全が認められた唯一の土地であるここは、人と妖怪の共生のために、八雲紫が自ら率先して保護を行なっている土地だった。害意を以て近づく妖怪は退け、好意を以て近づく妖怪は受け入れる――そんな手の込んだ結界を周囲に張り巡られているのだと、当人から聞かされたことがある。故に妖怪の侵入を妨げるほど堅牢な柵は必要なく、ただ里の子どもが容易に越えられない程度のものさえあれば事足りる。

 

 町並みは、過ぎ去りしかつての宿場町を思わせた。焼杉独特の黒い赤褐色が、道の両側で家屋を築き、見通す先まで連なっては大路を成している。人の手を入れて自然から切り離しつつも、また一方で、自然とともに息を刻む――そんな幽玄の中にある町並みは、のどかで、うららかで、そして少しだけの寂しさを醸す。きっと、こういう焼杉の町並みを、もう外の世界ではあまり見かけなくなってしまったのもあるのだろう。

 けれど今は、それ以上に寂しさを引き立てる光景が、月見の目の前にあった。

 

「……人がいない?」

 

 日没もすっかり近づいた頃合いとはいえ、多くの店が並ぶこの大路で、人っ子一人ともすれ違わない。町は、もぬけの殻のようにがらんどうとしていた。

 

「ふむ」

 

 並ぶ店々は、多くがまだその看板を下ろしていないし、茶屋からは団子の甘い香りすら漂ってくる。それなのにどの店にも、客はもちろんのこと、店番の姿すら見られない。

 妖怪に襲われた、という線はないだろう。紫の結界があるし、そうでなくとも綺麗すぎる。

 店の具合を見てみるに、本当につい先ほどまで人がいたのは間違いなさそうだから、

 

「……なにか、催し物かな?」

 

 里人がみんな出払ってしまうほどのなにかが、里のどこかで起こっている。祭りか、それともトラブルかはわからないが、店をほっぽりだして出て行ってしまうのだから相当だ。

 もしかすると、布団で休めるのはまだ先の話なのかも知れない。そう感じながら、月見は里の中心へと足を進めた。

 

 中心部に近づくに連れて、ぽつぽつと人とすれ違うようになった。しかしどの里人も皆、一様に不安で押し潰されそうになった表情を浮かべていて、よそ者である月見を気に掛ける余裕はないようだった。目が合っても、挨拶すらろくに返してもらえない。

 

「……」

 

 月見は、足を向ける人里の中央広場に、大きな黒山が築かれているのを見た。ほどなくして、ざわざわと騒ぎ合う喧騒も耳につくようになる。

 けれどそれは、祭りなどとはほとほと無縁な――言い争いの声。

 

『……だから、その子は私が必ず助ける! みんなはここで待っていてくれ!』

『しかし、慧音先生! もう暗くなってきちまってるし、たった一人で捜すなんて無茶だ! 俺らも手伝った方が……!』

『危険すぎる! 妖怪たちはもう活動を始めているんだ! お前たちまで妖怪に襲われたらどうするんだ!?」

『けどっ……!』

 

 その言い争いが意味するところを察して、なるほどなあ、と月見は眉間に皺を寄せた。さしずめ、子どもが一人、外の森に迷い込んでしまって、どうやって助け出すかで意見が割れている……といったところだろう。

 この人里は紫によって守護されているが、一歩でも外に出てしまえば話は別だ。妖怪に見つかった子どもがどうなってしまうかなど、わざわざ声に出して言う必要もない。

 

「……ちょいと、失礼」

 

 人々の背を縫って、月見は黒山の奥へと分け入っていく。意見は激しく割れていて、交わされる言葉は怒号のようでも悲鳴のようでもあった。

 

『とにかく行かせてくれ! 早くしないと、間に合わなくなる!』

『俺もついていくぜ、慧音先生! 大人は命張って子どもを守るモンだろう!?』

『そうだ!』

『頼む、慧音先生!』

『っ……! けどっ……!』

 

 声からして、言い争っているのは、慧音と呼ばれた女性と、里の男たち。一人で子どもを捜しに行こうとする彼女に、居ても立ってもいられない男たちが同行を求めている。

 人垣を掻き分けながら、月見はそっと笑みをこぼした。たった一人の子どもを助けるために、命の危険すら度外視して、ここまで強く一丸になれる。やはり、人間という種族は温かい。

 そして、それ故に――止めねばならぬ。

 

「よしおめえら、準備をしろ! なんとしても見つけ出すぞ!!」

「「「おおおっ!!」」」

「ま、待ってくれ! 待ってっ……!」

 

 男たちの雄叫びに、慧音とやらの悲鳴に近い声が混じっている。恐らく彼女は、ただの人間が妖怪たちの住処に足を踏み入れることの意味を、理解しているのであろう。

 それは、命を捨てに行くようなものだから。だから止めたくて、でも、止まってなんてくれなくて。

 故に月見は、代わりに叫んでいた。

 

「――ちょっと、待ったあ!」

 

 行く手を遮る里人の背中を、心の中で謝罪しつつ、強引に脇へと押し退ける。

 そうして、月見が人垣を抜けた先で。

 月見は、蒼い銀髪を夜闇に溶かす、少女の姿を見た。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 夜に里の外へ出ることの危険性は、人里の守護者として、常々、たとえ口うるさくなってでも説いてきたつもりだった。危険だから夜に里の外へ出てはいけない、もしどうしても出なければならない用事がある時は、私に許可を得てからにしてくれと――口癖のように。

 里の外に飛び出してしまった子を、一緒に捜させてくれという男たちの申し出は、確かにありがたいものだった。かつての教え子だった子たちが、こうも逞しく真っ直ぐな大人になってくれた。……寺子屋の教師を務める者として、素直に嬉しかった。

 けれど慧音は、それ以上に、悲しかったのだ。

 だって。違うじゃないか。里の外には人を喰らう恐ろしい妖怪がいるんだって、何度も言ってきたじゃないか。だから、なにかあった時は私に任せてくれと、そう教えてきたじゃないか。

 妖怪は。この幻想郷にいる妖怪は、お前たちがどうにかできるような相手じゃないんだって。

 教えてきた、はずなのに。

 

「ま、待ってくれ! 待ってっ……!」

 

 雄叫びを上げ、武器を取ろうと動き出す男たちに、必死に手を伸ばす。武器なんて、持っていようがなかろうが関係ない。霊力すら持たない、己の腕力以外に頼るものを持たないただの人が、妖怪と戦うなんて、無謀ですらあった。

 慧音が守ってやればいい? ああ、確かにそうかもしれない。でも、今慧音が守るべきなのは、森に迷い込んでしまった子どものはずだ。そして彼女を守るためには、もはや余計な荷物(・・)を抱えている余裕なんてなかった。

 だから、どうかなにもせずに、待っていてほしいのに。でも、それを言葉にするだけの勇気が、慧音にはない。誰かを守りたいという、彼らの温かい気持ちを切り捨ててまで、現実を突きつける勇気が。

 

「っ……!」

 

 だから慧音は、震えることしかできなかった。私の気持ちなんて届かないのかと、嘆くしかなかった。

 ――聞き慣れぬその声が、喧騒を切り裂くまでは。

 

「――ちょっと、待ったあ!」

 

 周囲に築かれていた人垣を強引に押し退け、知らない男が飛び出してきた。里の人間ではなかった。里の人間なら、慧音は顔も名前もすべて覚えている。

 歳は恐らく三十にも満たないであろう、まだ若い男だ。肩に届くかどうかの、男としては少し長めな黒髪を垂らして――けれどそれ以上の顔立ちを、慧音は意識できなかった。彼の出で立ちに、自然と目を奪われていたから。

 白の狩衣。外の世界から切り離され、時代の進みが止まった幻想郷ですら、時代錯誤と取れる古めかしい出で立ち。まるで、かつて妖怪退治を生業にしていた人間たち――陰陽師のような。

 目が合う。そうして初めて気がつくけれど、彼は随分と背が高かった。……まあ、慧音が小さいというのもあるといえばある。女性らしい起伏に恵まれた一方で、どういうわけか慧音の体は、身長だけが腹立たしいくらいに成長しなかった。一時期は『子ども先生』なんてあだ名がついて、言論弾圧するのに苦労したほどだ。

 目の前の男が意外そうに眉を上げたのは、きっと予想外に小さい慧音の姿に驚いたからだろう。先生なんて呼ばれてる割に、随分小さいな――そんな感情がありありとにじんだ男の顔を見て、慧音は、彼のつま先を踏み抜いてやろうかと本気で悩んだ。

 その視線から逃れるように、彼が里の男たちに目を遣った。表情をすっと真面目なものにし、よく通るバリトンの声で、

 

「お前たち。森に入るという話、一寸待った」

「……なんだよ、あんたは」

 

 突如間に入ってきた不審な彼に、男たちは胡乱げな視線で答える。間もなく日が完全に沈もうとしているからか、無駄話に付き合う暇はないという焦りの色も見て取れた。

 その焦りに気づく素振りを見せつつも、彼は「まあまあ」と両の掌を見せた。

 

「単刀直入に言わせてもらうけど、森に入るのはやめておけ」

 

 男たちが顔をしかめた。その中の一人が、地面を蹴るようにして彼の前に出て、叫んだ。

 

「聞いてなかったのか? 子どもが一人、里の外に出ちまって戻ってきてないんだよ!」

「聞いた上で言っているよ」

「あんたも、危険だからって言うのか!?」

「加えて、この子の迷惑にもなる」

 

 この子、と言って彼が示したのは、他でもない慧音。子ども呼ばわりされたのが一瞬癪に障ったが、言葉にはできなかった。

 男たちが、それよりも先に声を荒らげていたから。

 

「迷惑って、どういう意味だよ!」

 

 今にも殴りかかりそうなほどに目を剥く男たちに、しかし彼は静かな表情を微塵も崩さなかった。

 

「冷静に、考えてみてくれ」

 

 問う。落ち着いた声音で、諭すように。けれど奥底に、口答えを許さぬ強さをたたえて。

 

「彼女は、森に迷い込んだ子どもを助けなければならない。なのに、妖怪と戦う術を知らないお前たちがついていったら――」

 

 一息、

 

「――彼女が守らなければならない相手が、闇雲に増えてしまうと。そうは、思わないか?」

「――っ」

 

 息を呑み、言葉を失った男たちに、つなぐ。畳みかけるように。

 

「お前たちは、妖怪と戦える力を持ってるのか? ……武器さえあればなんとかなる、なんて答えはなしだよ。そのへんの獣なんかとはわけが違う。妖怪が、その鋭い牙でお前たちの喉笛を噛み切ろうとした時、お前たちは動けるか? 立ち竦まずに、自分の命を守れるか? もしお前たちが妖怪に襲われてしまったら、もう子どもを捜す余裕なんてなくなってしまう。――それじゃあ本末転倒じゃないか」

 

 もう、男たちが声を荒らげることはなかった。彼の言葉が確かに的を射るものであると、反論したくとも、認めざるを得なかった。

 

「……妖怪の賢者が率先して里を守っている、ある種の弊害だね。妖怪が恐ろしい存在だと知りつつも、一体どれほどにまで恐ろしいのかを知らない。……知っているのは、この子だけというわけだ」

「っ……」

 

 彼が、首だけでこちらを振り返る。その深い黒の瞳を見た時、慧音は咄嗟に叫んでいた。

 

「あなたは……あなたは、知っているのか!? 妖怪の恐ろしさを……妖怪と戦う術を!」

 

 彼の言う通り、たとえ里の男たちを連れて森に入っても、慧音にとっては足手まといにしかならないだろう。しかし一方で、たった一人で子どもを捜し出すには、絶望的なまでに人出が足りないのも事実だった。なにせ子どもは、人里の周囲に散在する森の、一体どこに迷い込んでしまったのかすらわからないのだ。

 彼の言葉は決して闇雲ではなく、確かな経験に裏づけられたものだと、慧音には感じられた。彼の陰陽師を思わせる出で立ちは、伊達でも酔狂でもないのだと。

 だから、もし彼が、力を持った人間であるのなら。

 

「――頼む! お願いだから力を貸してくれ、この通りだ!」

 

 それ以外のことを考えられるほどの余裕は、時間的にも精神的にもありはしなかった。もう夜は訪れているのだ。今すぐにでも動かなければ、最悪の事態になってしまう。

 彼が、里の男たちのように心優しい人間であることだけを祈って。

 慧音はただ、頭を下げる。

 

「里の子は、どこの森に入っていってしまったのかもわからない……! だから、どうか! どうか、力を貸してっ……!」

 

 どよめきが周囲の里人たちに広がる。しかしそれもほんの一瞬で、あとはじっと、彼の答えを待つように静まり返った。

 そして答えは――彼の小さな宣言によって、示された。

 

「――飛べ」

「……え?」

 

 その言葉の意味を理解できなくて慧音が顔を上げた瞬間、視界を白の欠片で埋め尽くされた。驚いて一歩あとずさってから、それが無数の紙片であることを知った。

 一枚一枚が二十センチほどの、人の形を模して作られた紙片が、彼の周囲で桜吹雪のように乱れ飛んでいる。それが一体なんであるかを、慧音は迷いの竹林に住む陰陽師の友人から聞かされたことがあった。

 人形(ひとがた)陰陽師が使う(・・・・・・)、もっとも簡素でもっとも初歩的な――式神の名。

 

「……子どもだし、さほど遠くにも行っていないだろう」

 

 呟きに、すべての人形が一瞬で動きを止め、彼からの指示を仰ぐように待機状態に入った。まさか心を持っているのではと疑ってしまうほどに、彼の手によって完璧に統制されていた。

 そして、

 

「捜せ。――二分以内だ」

 

 散る。北へ、南へ、東へ、西へ。三里四方を飛燕の如く、人形たちの羽音が切り裂いていく。その勢いは大気すら乱し、巻き起こった旋風に慧音が一瞬目を瞑ったあとには――水を打った静寂だけが残された。

 誰しもが、言葉を失っていた。里人たちは、なにが起こったのかを理解できなくて。そして慧音は、彼が本当に力を貸してくれたことを、未だ理解しきれなくて。

 

「まあ、なんだ。男として……というか、人として助けてやらないとね」

 

 呟きながら、彼は慧音の足元からなにかを拾い上げた。……慧音の帽子だ。さっき頭を下げた時に落ちてしまったのだろう、まったく気がついていなかった。

 彼はそれを慧音の頭の上に乗せ、茶化すように、白い歯を見せて微笑んだ。

 

「あんなに泣きそうな顔で、助けてって言われたんだし……ね?」

 

 言われて初めて、慧音は、自分が今までどんな顔をしていたのかを理解して。

 込み上げてきた恥ずかしさの前に、帽子をぎゅっと両手で押さえつけて、俯くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 上白沢慧音。人里の守護者を任され、人々から『先生』と慕われている割に、若い少女であった。背丈だけなら、ちょうど魔理沙と同じくらいだ。もっとも半人半妖らしいから、年齢は百を超えていようが。

 人里の中央で、月見は静かに佇み、放った式神――人形(ひとがた)を操る。視覚や聴覚などの基本的な知覚の共有に加え、術の遠隔発動の媒体にもできる、簡素ながらも汎用性の高い式神だ。迷子の捜索にはこれ以上ない。

 傍らには、慧音の姿があった。握り込めた指が掌に食い込み、そこから血の気を奪っているのが見えた。

 本当は、今すぐにでも走り出したいくらいだろう。だが子どもの居場所がわからない以上、闇雲に捜し回っても実りは少ない。もし勘に従って向かった先が正反対の方向だったら、目も当てられなくなってしまう。

 

「あなたは……里の人間ではないよな」

 

 白くなったその手を誤魔化すように、話を振られた。

 

「そうだね。……道に迷ってしまってね。当てなく歩いているうちに、ここに」

「陰陽師なのか?」

「そんなところだ」

 

 懐かしいやり取りだな、と月見は思う。妖怪の身を偽り、陰陽師として人間の世界に紛れ込んでいた一時期を思い出す。

 今ではもう、千年以上も昔の話だが。

 

「……まだ、見つからないか?」

「もう一分」

 

 縋るような問い掛けに対し短くそれだけ答え、月見は式神の操作に意識を集中させた。式神を放ってから一分が経つが、未だ子どもは見つからない。ただ、闇に紛れ活動を始めた妖怪たちの姿が見えるばかりであった。

 

「……」

 

 月見はその面持ちに険を刻み、人形を加速させる。目を閉じ、意識を静め、すべての知覚を鋭敏に研ぎ澄ませる。

 そして、一分と四十秒。

 捉えた。

 

「――いた」

 

 南東だ。小さな木の幹に体を預け、泣いている女の子が一人。

 生きている。

 

「ほ、本当か!?」

「ああ。南東の森にいる。怪我もなく、元気に泣いてるよ」

 

 慧音を始めとし、周囲の人だかりへざわめきが広がった。中には胸を撫で下ろし、安堵の笑顔をこぼす女性たちもいる。

 それを見た月見も、思わず肩から力を抜きかけて――しかし、直後に別の人形から入ってきた情報に、舌打ちした。

 女の子の近くになにかがいる。少女とは比べものにならないほど無骨で大きな、人間離れした巨躯は、

 

「まずいな……すぐ近くに妖怪が、」

「――ッ!?」

「あっ……慧音!」

 

 傍らで空気が動いたのを感じ、月見が見た時、既にそこに慧音の姿はなかった。南東に向けて、風すら置き去りにして駆け出している。まるで猪のようだったが、それで正解だと月見は思った。

 もはや一刻の猶予もない。その熊に似た妖怪は、既に少女の泣き声を聞きつけてしまっていた。

 慧音が少女のもとに辿り着くのが先か、それとも妖怪が鋭い爪を振るうのが先か。

 月見は周囲の里人たちへ、釘を刺す声音で言った。

 

「……おまえたちは、ここにいてくれ」

 

 是非を問うような暇はありはしない。ついてこられたところで、守ってやるような余裕もない。

 月見の言葉に、里人たちは皆一様に俯いた。女たちは祈るように。男たちは、なにもできない自分たちを呪うように。

 

「……」

 

 それを確認し、月見は慧音のあとを追った。追い縋る声も、足音もありはしない。ただ、すべての里人の祈る想いだけが、月見の背に注がれていた。

 故に月見は駆ける。体に霊力を巡らせ、地を蹴る力、勇ましく。

 必ず助けるからと、誓う言葉だけを、その場に残して。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀の風が、夜の落ちた森を鮮やかに切り裂く。間に合ってくれと――ただそれだけを祈って、慧音はがむしゃらなまでにひた走った。若い枝で肌を傷つける、その痛みすら、力に変えて。

 南東の森。どこを捜せばいいのか皆目見当もつかなかった状況で、あの陰陽師の男がたった二分で弾き出してくれた場所は、しかし闇が落ちた森の中で一人の子どもを見つけ出すには、あまりに頼りないものだった。

 大声で少女の名を呼べば、もしかしたら反応が返ってくるのかもしれない。しかし一方で、不用意に物音を立てれば、それだけ多くの妖怪を寄せ集めてしまう危険性もある。

 

(一体、どこにッ……!)

 

 畢竟、叫び出したい衝動を抑えて、ただ走るしかない。この先に少女の姿があることを、祈るしかない。

 

「ッ……」

 

 あの陰陽師の男を置いてきてしまったことが悔やまれた。少女の近くに妖怪がいると、その言葉を聞かされた途端に全身から血の気が失せて、具体的な場所も聞かないままに飛び出してしまった。

 だが、決して引き返すわけにはいかない。今はもう、少女が妖怪に見つけられてしまっている可能性すら、あるのだから。

 見つけるしかない。なんとしても。

 

『――慧音!』

「……!」

 

 突如として響いた声に、慧音は思わず足を止めそうになった。その声は、背後から追い縋るのではなく、真横から耳朶を叩いてきた。

 あの陰陽師の声だが、そこに彼の姿はない。あるのはただ――慧音と並行して空を駆ける、一枚の紙片。

 人形(ひとがた)を通して、彼の声が届く。

 

『慧音、あの子はすぐ近くにいる。こいつ(・・・)に先導させるから、行ってくれ』

「! た、助かる!」

『私も全力でそっちに向かってるけど、何分人間だからね、まだ時間が掛かる。……すまないが、援護はあまり期待しないでくれ』

 

 謝ることなんてなにもない。充分だ。充分すぎるくらいだった。広い森の中からたった二分で少女を見つけ出して、更に先導まで買って出てくれて、もはやこれ以上などなかった。

 

「あ、ありがとう……!」

『礼にはまだ早いぞ。……さあ』

 

 人形が速度を上げ、慧音の先を飛燕のように切り裂いていく。獣道を外れ、少女のもとまで最短距離を駆け抜ける道筋に、服が汚れることなど、躊躇いはしなかった。

 追う。草木を掻き分け、枝葉を叩き折り、ただ前だけを見つめて。

 そして、十秒と経たないうちに視界は開けた。転がるようにして逃げ回る小さな体と、それを執拗に追い掛ける、熊すら凌ぐ巨大な体を見た瞬間。

 慧音の霊力が、火のように弾けた。

 

「――その子に、触るなあああああ!!」

 

 弾幕なんて必要ない。ただ一撃で――射抜く。

 霊弾が走る。ありったけの霊力を凝縮させ、銃弾のように押し固められた弾が、疾風となって射抜くのは妖怪の喉笛。

 

『――!!』

 

 潰された喉笛は、もはや断末魔を上げることすら敵わない。ただ一度、足掻くように爪を振って――しかして巨体は、あっさりと地に崩れ落ちた。

 

『……お見事――っておい、待』

「大丈夫か!?」

「あっ、――けーねせんせえっ!!」

 

 傍らで人形がなにか声を発した時、慧音は既に飛び出していた。慧音に気づいてよたよたと歩み寄ってきた少女の体を、両腕で思いっきり包み込んだ。すぐに胸の中で上がった嗚咽すらも抱き竦めて、ただぎゅっと。

 ――よかった……!

 助けられた。守ることができた。堰を切ったあふれた安堵の気持ちが全身を呑み込んで、涙すら込み上がるようだった。もはや立っていることもできなくて、少女とともにゆるゆると座り込んでしまう。すぐ耳元でなにか彼の声が聞こえるが、とてもそこまで気が回ってくれない。ただ、腕の中にいる少女のぬくもりを、少しでも長く感じていたかった。

 だから――己のすぐ背後に、暗天を突き上げるかのような巨影が佇んでいると、気づいたのは。

 

『――慧音ッ! 死ぬ気か!!』

 

 彼の大喝に脳をぶっ叩かれて、意識が覚醒した直後であった。

 風の裂ける音が聞こえる。自分の体と同じかそれ以上のなにかが高速で迫ってくる、血も凍るような異音が――すぐ真上から、落ちてきている。

 

「――ッ!?」

 

 背筋から上ってきた悪寒が全身を襲って、一瞬で体が冷たくなって、そのまま凍りついてしまった。どうしなければならないのか、頭ではわかっているはずなのに、その思考が行動に結びつかなかった。

 あ、これはダメだな――なんて、そんな妙に俯瞰した自分の声が、意識の片隅で聞こえた気がした。少女を助けることができたと勝手に思い込んで、妖怪が一体だけだと勝手に決めつけて、完全に気を緩めてしまったから。まさか二体目がいるなんて、夢にも思っていなかったから。

 真上から落ちてくるのは、きっと妖怪の腕だろう。空気の悲鳴を聞くだけでわかる。慧音の体と同じくらいに巨大な腕だ。切り裂かれるのか、殴り飛ばされるのか、押し潰されるのか。どちらにせよ、一瞬でなにもわからなくなるだろう。

 でもせめて、腕の中の少女だけは守ろう。そうすれば、あとから駆けつけてくれたあの陰陽師が、きっとこの子を助けてくれるはずだから。

 そう信じて慧音は、少女の体を、もっと、もっときつく抱き締めた。

 

 ――しかして慧音の背に襲い掛かるのは、身を裂かれる激痛でも、身を潰される衝撃でもなく。

 突如として逆巻いた、熱風。

 

「ッ、熱……!?」

 

 痛みすら感じるその熱気に、慧音は思わず振り返った。振り返ることができた。慧音を襲うはずだった妖怪の腕が、緋色の炎に巻かれて、苦悶の声とともにあらぬ方向へと振り回されていた。

 ――え?

 なんで、炎が――そう慧音が呆然と思った、直後。

 

『そのまま動くなよ』

 

 耳元で、声が聞こえた。

 耳に心地よいバリトンの声音は、あの陰陽師の、声だった。

 

『じゃないと、火傷するぞ』

「ふえっ、」

 

 わけがわからなくてそんな間抜けな声をこぼした慧音は、己の視界を横切って、一枚の紙片が前へ躍り出たのを見た。更に、続け様に四方八方から現れた人形たちが、妖怪の周囲を取り囲んだ。

 妖怪ががむしゃらに両腕を振り回す、その動きすら、鮮やかに交わして。

 響く宣言は、静かに、歌を詠むかの如く。

 

『――狐火・蓮火(れんか)

 

 空に、花が咲く。

 

 紅い紅い、蓮の花だった。

 暗い闇色で包まれていた森が、一瞬で鮮烈な紅に染め上げられる。自らが置かれていた状況もとうに忘れて、慧音はただ酔いしれるように、その唐紅の蓮に心を奪われた。

 体の芯まで焦がすほどに気高い熱気が、慧音の肌を打ちつける。

 その蓮華が燃え盛る豪炎なのだと気づいたのは、花弁に呑み込まれた妖怪の断末魔が、森を震撼させてからだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 結局のところ、慧音はまた、あの陰陽師の男に救われていたらしい。蓮の花が陽炎のような残火を残して夜空に消えた時、慧音の耳に届いたのは、安堵と呆れを半々に織り交ぜた彼の声だった。

 

「……なんとか、間に合ったみたいだね」

 

 声のした方を見遣れば、木々に遮られた薄闇の奥から、彼が息を切らせて駆け寄ってきた。よほど全力疾走したのだろう、額にはかすかに汗をにじませていた。

 

「大丈夫か?」

「え……あ、」

 

 問われ、慧音はようやく自分を取り戻した。あの紅い蓮華をまるで夢のように思いながら、ゆっくりと体の緊張を解いて周囲を見回した。やれやれといった様子で慧音を見下ろす彼がおり、腕の中で「せんせえ、痛いよう」と可愛らしく声を上げる少女がおり――そして、全身を焼き尽くされて息絶えた、妖怪の骸がある。

 なにが起こったのかは、しっかりの慧音の網膜に焼きついていた。けれど、あの燃える蓮の花があまりに幻想的だったものだから、本当に現実だったのか、いまひとつ確信が持てなかった。

 

「あれは……あなたが?」

 

 ぼんやりと問えば、彼の大きめなため息が落ちてきた。

 

「まったく肝が冷えたぞ……。まさか本当に死ぬつもりだったのか?」

「す、すまない……助かったよ」

 

 死ぬつもり。そう言われてようやく、今までの出来事を現実として理解できた気がした。

 あの時慧音は、確かに殺されるところだった。この体は半人半妖だから、さすがに死にはしなかったかもしれないが――どの道、到底無事では済まなかったろう。

 それを救ってくれたのが、彼。

 

「どうやって……」

「それよりも、早いところ戻るぞ。結構派手に暴れたからね、長居は危険だ」

「そ、そうだな」

 

 あの蓮の炎はきっと遠くからでもはっきりと見えるほどに凄絶だったし、慧音だって、妖怪を一体仕留める際につい大声を上げてしまっていた。それに気づいた他の妖怪たちが、ほどなくしてここに集まってくるだろう。

 慧音は頭を振って気持ちを入れ替えると、腕の中の少女に向けて尋ねた。

 

「歩けるか?」

「うん、だいじょうぶ」

 

 今になって気づくが、少女はほとんど怪我をしていなかった。あれだけ大きな妖怪に襲われたのに、よく腰も抜かさずに逃げ回れたものだ。

 少女の体をゆっくりと腕から離す。そして、自らも立ち上がろうと両脚に力を込めて――

 

「――あ、あれ」

 

 おかしい、と慧音は思った。立てない。……というかそもそも、脚が動かない。

 

「……」

 

 頭からさあっと血の気が落ちた。もしかしてこれは、もしかしなくても。

 

「どうした慧音、早くしないと」

「あ、ああ。わかってるよ、わかってっ……」

 

 まさかこのタイミングで、そんなことがあってたまるか。そう自分に言い聞かせて、慧音は渾身の力を振り絞るのだが、

 

「……う、ううっ」

 

 立てない。地面に伸びた両脚は慧音の命令を一切拒否し、完全にボイコットを決め込んでしまっていた。

 強い興奮や緊張によるストレス状態が続いたのちにほっと平常心に戻ると、体が弛緩して、こんな風に立てなくなってしまうことがある。

 人、それを――腰が抜けた、という。

 

「せんせえ、どうしたの? どこか痛むの?」

「あ、いや、その……こ、これは、だな」

 

 妖怪に襲われとても怖い思いをした、この少女ですら、けろりと立ち上がってみせたのに。

 まさか、自分が、腰を抜かすなんて。

 

「慧音、もしかしてお前……」

「う、うううっ」

 

 いつまで経っても動けない慧音に、陰陽師の男がははあと含み笑いをしたのがわかった。慧音は両脚をぺしぺし叩いて叱咤したが、現実は無情だった。

 いや、別に、腰を抜かしてしまったこと自体は、百歩ほど譲ってまだいいのだ。なにせ一時は死ぬかどうかの瀬戸際に瀕したのだから、安堵のあまり立ち上がれなくなってしまったとしても、それはうべなるところである。

 だがこのタイミングで腰を抜かしてしまった場合、慧音が里まで戻るためにはどうすればいいのか。それを考えると、もうとても平常心ではいられないほどに、恥ずかしかったのだ。

 

 妖怪が多い森の中で長居するわけにはいきません。今すぐ誰かに運んでもらいましょう。

 ……じゃあ、慧音を運ぶのは、一体誰?

 

「う、うううぅぅ~~っ……!?」

 

 地面に爪を立てて屈辱を堪え忍ぶ。よりにもよってこのタイミングで、この状況で動かなくなってしまった己の両脚は、いくら恨もうとも恨みきれるものではなかった。

 

「……けーねせんせえ?」

 

 きょとんと首を傾げる少女の横で、くつくつと、男が笑い声を押し殺していたので。

 慧音は手近なところにあった木の枝をひっ掴み、男に向かってぶん投げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第15話 「月の小径 ②」

 

 

 

 

 

「い、いいか、絶対に変なことはするなよっ……絶対だぞ!?」

「しないよ。だから静かにしててくれ」

 

 規則的なリズムが、慧音の体を優しく揺さぶる。いつもよりずっと高くなった目線の先には、闇夜に黒髪を流す男の後ろ姿が見える。慧音がしがみつく彼の肩は広く、腿の裏を支えてくれるその手もまた、大きい。

 腰を抜かして歩けなくなった慧音が一刻も早く里へ帰るためには、彼に運んでもらう以外に手がなかった。長く森に留まればそれだけ妖怪に襲われる危険が増すのだから、やむを得ないことだ。

 そう、これはやむを得ないこと。仕方のないこと。だから変に緊張してあれこれ意識する必要はないのだと――そう自分に言い聞かせて冷静になろうとするのは、もう何分も前に諦めた。結局どれだけ心頭滅却しようが、男におぶられているこの状況で落ち着けなどと、慧音には到底無理な話だった。

 

 上白沢慧音は、異性に対してはひどく奥手な性格である。苦手意識こそないものの、ちょっとでも相手を男として意識してしまうだけで、あっと言う間に頭の中が真っ赤になってしまう。

 それは例えば、必要以上に体を触られた時や、お見合いの話を持ち掛けられた時などであり、故に人里で慧音の目が行き届くところでは、度を超えた異性交遊が全面的に御法度だった。

 出会ったばかりの異性に、仕方がないこととはいえおぶられているとなれば、慧音はもう、とてもまともな状態だとは言えなくなってしまっていた。血は熱湯となって体中を駆け巡り、熱くなった体は今にも煙を上げるよう。あまりの熱さに、心臓が一生懸命に胸を叩いて助けを求めている。

 だから慧音は、彼におぶられたあとも体だけは起こしたままだった。彼の背に遠慮なくもたれかかるなんてできるはずもない。やったら最後、荒ぶる心臓の鼓動が体越しであっという間にバレてしまって、更なる笑い者にされてしまう。無様に腰を抜かしておいて、これ以上の醜態を晒すのは御免だった。

 しかし一方で、この状況が慧音にとって苦痛でしかないかと問われれば、あながちそうでもなかった。身長の差故だろうか、彼の足音のリズムは、慧音のものよりもずっとゆったりとしていて穏やかだ。そのリズムに優しく体を揺られながら、一つ、しみじみと感じ入ることがある。

 

(こうやって誰かに守られるのって、何年振りだろう……)

 

 寺子屋の教師や、人里の守護者なんてやっているからだろうか。慧音の記憶は、いつも人々の前に立って、誰かを守ってきた記憶ばかり。だからこうして人の背中で守られるというのが、奇妙なくらいに新鮮だった。

 彼は森を進む中で、周囲に人形(ひとがた)の防衛網を張り巡らせていた。妖怪が近づくと、人形を媒体にして炎の術を発動させ、撃退する仕組みなのだという。少し前に慧音を助けてくれた時も、こうして炎の術を発動させたらしい。身近に陰陽師の友人を持つ慧音だが、人形にこのような使い道があるとは知らなかった。

 

「あ、こんなところに人間だー♪ ねえねえ、あなたたちは食べてもいい人」

「はい、狐火」

「みぎゃー!? あ、あっついよー!?」

 

 そうやって進む帰り道は、行きとは打って変わってのんびりとしていて、ここが人里の外だということを忘れてしまうくらいだった。彼の裾を握りしめて一緒に歩く里の少女は、初めの内こそ不安そうだったけれど、今では炎が上がるたびに「おおー」と手を叩く余裕まで見せている。それだけ、彼の存在というのが頼もしかったのだ。

 

「ちょっと、いきなりなにすんの!? そんなことやってると食べ」

「はいはい、狐火狐火」

「う、うわーん!?」

 

 それは慧音も同じだ。己の脚がろくに動かないという状況にも関わらず、感じるのはただ、彼がいれば大丈夫だという安心ばかり。なにやら聞き覚えのある少女の悲鳴が聞こえたことなんて、ちっとも気にならなかった。

 

(……背中、大きいなあ)

 

 自分の体がすっぽりと収まってしまいそう。男の人の背中とは、みんなこうにも大きなものなのだろうか。こんなにも、人を安心させる、ものなのだろうか。

 彼の肩から伝わる体温を、温かいと思いながら。慧音は彼の耳に少しだけ顔を近づけて、ぽそりと言った。

 

「お礼を、しないとな」

「ん? や、別に構いやしないよ。見返り目当てでやったわけじゃないんだしね」

「そういうわけにもいかないだろう」

 

 彼は少女の恩人であり、慧音の恩人であり、里の恩人だ。もしも彼がいなかったら、少女も、慧音も、無事では済まなかったかもしれない。

 

「お礼を、させてくれ。私にできることならなんでも……」

 

 そこまで言いかけて、慌てて首を横に振った。

 

「いや、その、なんでもっていうのは、あくまで常識の範囲内でだな」

「ッハハハ、言われなくてもわかってるよ」

 

 優しくこぼれた笑みに、彼の背中が心地よく揺れた。彼はしばらく黙って考え、やがてゆっくりと答えた。

 

「そうだね……。それじゃあ今晩、人里で宿を恵んでもらえるように計らってくれないかな。まだこっちには来たばかりでね、家がないんだ」

「……?」

 

 慧音は首を傾げた。気のせいだろうか。今の彼の言葉に、なにか小さな違和感を覚えたような気がする。

 

「……ダメかな?」

「あっ……いや、それくらいならお安いご用だ」

 

 なんだろうかと考えていると、それを否定と誤解した彼が困ったように笑ったので、慧音は咄嗟に我に返って言った。

 

「私の家に泊まっていくといい」

「……慧音の家に?」

 

 彼が、意外そうに眉を上げた気配がした。それから小声で、

 

「……どうにもここの女の子たちは、少し不用心すぎないかな」

「……なんの話だ?」

「いや、こっちの話さ。ともあれいいのか? 私みたいに、どこの馬の骨かもわからないような男を泊めて」

「お前が悪い人間じゃないってことは、わかってるからな」

 

 な? と横の少女を見下ろすと、彼女は「ん!」と笑顔になって、彼の着物の裾を引っ張った。

 

「おじさん、いいひと」

「ちょ」

 

 思わぬ爆弾発言に、慧音は心の中で大慌てした。実際の年齢はわからないが、彼の見た目はどんなに高く見積もっても三十に届かない。なのにそんな、なんの躊躇いもなく笑顔で、“おじさん”だなんて。

 ……しかし当の“おじさん”本人は、特に気分を害した様子もなく、呑気にからからと笑っていた。

 

「ッハハハ。そう言われちゃったら、いい人にならないとダメだねえ」

 

 心が広いんだなあ、と慧音は思う。もしも自分が里の子どもから“おばさん”なんて呼ばれたら、とりあえずお礼に頭突きをかますだろう。

 やはりどんなに厳しい目で見ても、とても悪い人間とは思えなかった。けれど一方で、彼が言うように素性が知れないのも事実だ。外来人なのに、狩衣みたいな大時代な服を着て、更に立派な陰陽術まで使えて。外の世界ではもう、妖怪を見る機会すらほとんどなくなってしまったはずなのに。

 そう、素性が知れないといえば。

 

「名前を聞いていなかったな。……もう知っているようだけど、私は上白沢慧音。人里の、まあ、代表みたいなものをしてる」

「ああ、そういえばそうだね。私は――」

 

 そこで彼は不意に言葉を切った。少しの間、言葉を迷う素振りを見せてから、

 

「――月見。ただのしがない陰陽師だよ」

「月見?」

「そう。月を見る、と書いてね」

 

 月を見る、で、月見。少しおかしな名前だ、と慧音は思った。外来人のものにしては似つかわしくない、どこか不思議な響きがある。まるで妖怪の名前みたいに。

 

「……どうかしたか?」

「いや……」

 

 だがそんな風に尋ねられて、変な名前だな、なんて正直に言えるはずもない。結局慧音は、最近の陰陽師はそうなのかな、と恣意的に解釈することにした。

 

「なんでもないよ」

「そうか? ……ともあれ、ようやく抜けたみたいだね」

 

 森が途切れ、視界が開けた。ほのかに青い月明かりが照らす下、望む人里で提灯の炎が揺らめいている。どうやら里総出で、慧音たちの帰りを待ってくれているらしい。

 幻想郷は月がとても眩しく輝くから、野外で照明などほとんど必要ないのだけど……必要のない物を持ち出してきてしまうくらいに、居ても立ってもいられなかったのだろうか。

 

「随分と、心配をかけちゃったかな」

「だろうね。里に戻ったら、うんと安心させてやるといいさ」

「そうだな。里に戻ったら――」

 

 そこで慧音は、ふと気づいた。里に戻る。――月見におぶられたまま、里に、戻る。

 提灯の火を見て緩んでいた心が、一気に粟立った。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「ん、どうした?」

「も、もう歩けるから。歩けるから、降ろしてくれっ」

 

 今は見ている人が隣の少女一人だけだからまだいいが、このまま里人全員の前に晒されたら、恥ずかしすぎて死んでしまう。

 なので慧音は、月見の背の上でじたばたと暴れた。

 

「ほらっ。もう大丈夫だから、放してくれっ」

「うおおっと、暴れるなって。ちゃんと降ろしてやるから……」

 

 月見がその場にしゃがみこんだので、すぐに飛び降りた。もう大丈夫だというのは完全に出任せだったが、幸いにも慧音の両足はしっかりと大地を踏み締めてくれる。

 はあ、と思わず安堵のため息をついていると、それを眺めていた少女が月見の袖をくいくいと引っ張った。

 

「……けーねせんせえ、なんだかさっきから変」

「ふふ。世間体というのも大事なものだからね」

「せけんてー? よくわかんない……」

「要するに、私におぶられたままは嫌ってことさ」

「う、うるさいなっ。お前におぶられたままじゃ、怪我でもしたんじゃないかって心配されるだろうがっ」

「まあ、そういうことにしておこうか」

 

 くつくつと喉を鳴らす月見の微笑みは、まるですべてを見通しているかのようで。それがあまりに憎たらしかったので、慧音はまた木の枝を投げつけてやろうかと本気で悩んだ。

 すると一体なにを思ったのか、少女が期待に輝く瞳で月見を見上げて言った。

 

「じゃあ、わたしがおんぶ」

「ん?」

「おんぶ」

「おっと」

 

 そのまま、しゃがんだままだった月見の背中によじ登ってしまう。

 

「お、おいっ」

 

 慧音は慌てて少女をたしなめようとしたが、彼の首に両腕を回し、「んー♪」と満足げな表情をしているのを見て、ふっと思い留まった。

 そういえば、彼女の父親が病で亡くなったのは、二年ほど前だったろうか。もしかしたらこの子は、自分を助けてくれた彼の姿に、父の面影を見ているのかもしれない。

 どうしようかと困り顔をしていた月見に向けて、苦笑する。

 

「……悪いけど、付き合ってあげてくれないか?」

 

 果たして月見がどこまで見通していたのかは、慧音にはわからない。けれど彼は、慧音が詳しい説明をするまでもなく、立ち上がっていた。

 父親のように、笑って。

 

「どれ、落ちないように気をつけるんだよ」

「わおー♪」

 

 どうせ里に戻ったら、母親にこっぴどく叱られるのだ。その前に、こんな小さな幸せが一つくらいあっても、いいのではないだろうか。

 

「よし、せっかくだし走ろうか。――よーいドン!」

「きゃー♪」

「あ、ちょ――こら、待てえっ!」

 

 里に向けて駆け出した彼の背を、慧音は慌てて追いかける。転んだらどうするんだと怒鳴り声を上げるのだが、その口には自然と、柔らかい笑顔が浮かんでいた。

 或いは自身もまた、一の母親であるかのような笑顔が。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 歓声が慧音たちを里へと迎え入れる。少女を連れて無事戻ってきた慧音と月見に、里は軽いお祭り状態へと陥った。

 無事でよかったと、涙を忍ばせながら少女の頭を撫でる者。ありがとうございますと、慧音に向かって何度も頭を下げる者。本当によくやってくれたと、月見を賞賛する者。三様に分かれた歓声は、やがて「酒を持ってこい!」という誰かの鶴の一声で、本当に祭りへ向けて盛り上がり始める。

 それをやんわりと制したのは、月見の気の抜けたような苦笑いだった。

 

「悪いんだけど、今日は休ませてくれないかな。ここに来る前も歩き詰めだったから、もう疲れてしまってね。とても酒なんて呑めそうにない」

 

 吐息を交えながらそう言う彼はいかにも疲労困憊といった体で、声にもまったく力がなかった。少女を救うという大仕事を成し遂げたあとで、更に帰り道のほとんどを慧音をおぶりながら歩いたのだ。体への負担も大層大きかったろう。酒の代わりに、喉を潤す水を一杯、もらっていた。

 母親と無事再会した少女は、もちろんその場で大目玉を食らいそうになった。けれども沸き立つ周囲に「無事だったんだからいいじゃねえか」などと丸め込まれ、結局うやむやになったようで、今は母親が、月見に向けてしきりに頭を下げ続けていた。

 それを遠巻きで微笑ましく眺めながら、

 

「いやあ……助かったな、慧音先生。誰かはわからねえけど、本当に感謝ってもんだ」

「……そうだな」

 

 傍らで噛み締めるように頷いた男に、慧音もまたそうした。もし月見がいなかったら、慧音は少女を助けられなかったかもしれない――いや、助けることなんてできなかった。それどころか里の男たちまで巻き込んでしまって、もっと悪い事態になっていた可能性もあっただろう。

 

「あのあんちゃん、何者なんで?」

「外来人みたいだけど、詳しくはわからない。……だから今晩は私のところに泊めて、話を聞いてみるよ」

「慧音先生のとこにですか?」

 

 男が意外そうに眉を上げた。月見の方をつと見遣って、それからすっかり戸惑った様子で声をひそめた。

 

「いいんですかい? 独り暮らしなのに男なんて」

「いいんだ。話を聞くなら私がやった方がいいだろうし――」

 

 独り暮らしで余所の男を招き入れる危険性なら、慧音も充分に理解している。けれど同時に、彼がそれで妙な真似をするような不届き者ではないことだって、また。

 

「それは、お前だってわかってるだろう?」

 

 月見の方に目をやる。彼は何事か言って袖を引っ張ってくる少女の頭を、ぽふぽふと優しく叩いてやっていた。二人の浮かべる笑顔が、周囲を取り囲む里人たちに次々と伝染していく。

 それを見て、男が観念したように両手を挙げた。

 

「……まあ、ああいう風に笑えるやつが、悪人なわきゃねえですわな」

 

 そういうことだ、と慧音は頷いた。

 

「だから大丈夫だよ」

「わかりやした、信じますよ。……それに」

 

 言葉を切り、男は不意に含み笑いをした。わざとこちらから目を逸らし、昔を懐かしむような抑揚をつけて、

 

「先生は異性にゃめっきり奥手だからなあ。なんか妙なことしたって、返ってくるのは頭突きだけさあ」

 

 もちろん慧音は、笑顔で頭突きを返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 結局、慧音が月見を家に招く頃には、すっかり夜も深まってしまっていた。どうぞ楽にしてくれと慧音が言うなり、彼は座敷の上に崩れるように座り込む。あー、なんて間抜けな声を上げるあたり、やはり相当疲れていたらしい。

 

「すまないな、こんなに遅くなってしまって……」

「いやいや、こうして休ませてもらえるんだから感謝だよ。……ああ、脚が棒のようだ」

 

 お茶を出してやった方がいいだろうか、と慧音は悩む。それとも、先に寝る準備を整えてやった方がいいのだろうか。……できることなら、もう少し話をしてみたいのだけれど。

 というか、そもそも彼、夕食は済ませたのだろうか。外来人だし、ここで食事にありつけたとは到底思えない。

 

「これからどうする? もう休むならお風呂を沸かすけど、お前、夕ご飯は食べたのか? 私の料理でよければ、なにか作るけど」

 

 問うと、月見は何事か思い出したように、ああ、と頭を掻いた。

 

「……そういえば今日は、夕飯どころか昼もなにも食べてなかったっけ」

「そ、そうなのかっ?」

 

 まさか朝以外になにも食べていないとは思ってもいなかったので、思わず声が大きくなってしまう。それではお腹が空いていないわけなどないし、第一、健康にだって非常によくない。寺子屋の教師なんてやっているからだろうか、実に聞き逃せない発言だった。

 慧音は月見の目の前に腰を下ろして、体を前のめりにして言う。

 

「私でよければなにか作るぞっ。なにが食べたいっ?」

 

 いきなり詰め寄ったからか、月見は少し目を丸くして頭を引いたけれど、すぐに苦笑して、

 

「……今日はもういいよ。それ以上に疲れたから、もうこのまま寝」

「それはダメだっ!」

 

 言い切られる前に、慧音は叫んでいた。月見の肩をガシッとホールドし、困惑した様子の彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。

 

「食事は一日三食! 子どもだって知ってることだ。どうしても食べられない理由があるならまだしも、そんなの不健康的すぎる!」

「ちょ、慧」

「とにかく、夕飯の余りもあるし、なにか簡単なのを作ってやるから! 私が見てるところでふしだらな生活はさせないからなっ!」

「わかった、わかったから慧音」

 

 月見の右手が肩に触れる。こちらを押し返すほどの力はなく、けれどなにかを諭そうとするように、その指先が浅く肌を撫でた。

 

「……どうした?」

 

 問えば、彼は真顔で、

 

「顔。近いよ」

「……………………あ」

 

 そう言われて初めて、慧音は気づいた。こちらが月見の肩を掴んで詰め寄っている体勢は、言われてみれば確かに、彼の顔が、本当にすぐ目の前にあって――

 

「ッ――!?」

 

 いっそ跳ね上がるくらいの勢いだった。それくらいの勢いで慧音は彼のもとから離れて、数秒間呆然としたあと、ぺたりとその場に座り込んでしまった。

 

「――……」

 

 驚くあまり、脳が思考を放棄したのだろうか。随分と長い間、ボーッと月見を見つめていた気がする。

 正気に返ったのは、月見が「慧音?」と不思議そうに首を傾げてからだった。

 

「あっ――いや、今のは、その……」

 

 決して深い意図があったわけではない。慧音は普段から、寝坊して朝食を食べ損なった生徒を親の代わりに叱りつけているから、ついその延長線上で月見も叱ってしまっただけだ。完全に無意識な、言ってしまえば職業病のようなものだった。

 とは、いえ。

 子どもではない男相手に、なんてことを。

 頬がじわじわ熱くなっていくのを感じながら、慧音はなんだかわけがわからなくなって、顔の前でぶんぶんと両手を振った。

 

「ほ、ほら、私は寺子屋の教師で、生徒たちの健康管理も、仕事の一つだから! だからつい……」

「ああ……」

 

 頷いた月見は、それから少し傷ついた(てい)で、

 

「つまり私は、慧音からして見れば、寺子屋の子どもたちと同レベルの存在なんだね」

「そ、そんなことは……」

 

 ない、と断言できないのが辛い。

 とにかく話を逸らさないとと思い、慧音はすっくと立ち上がった。

 

「と、とりあえず食事の用意をするよ! 少し待っててくれ!」

「……そうだね。じゃあご馳走になるよ」

 

 彼の同意を確認したところで、慧音はすぐに回れ右をして、台所に向かって小走りで駆け出す。ともかく彼のいない場所で深呼吸をして、元気に暴れている心臓を落ち着けたかった。

 部屋を飛び出し、廊下を駆け抜け、台所に飛び込む。叩きつけるような勢いで戸を閉めると、そこに背中を預け、そのままずるずると床にへたり込んだ。

 頭を抱えて、はあああ~~、なんて長いため息を吐き出して。

 

「……なんだかなあ」

 

 お礼をしたいから、と慧音が自ら望んだこととはいえ。実際に月見を招いて、一つ屋根の下で二人っきりというこの状況は、思っていたよりもずっと心臓に悪かった。

 例えば里の男を家に呼んだところで、緊張なんてしないのに。外来人の男というだけで、こんなにも変わるのか。

 

「うー……」

 

 月見を家に招いたのは、失敗だったろうか。……だが今更になって、よその家に泊まってくれなんて言えるはずもない。少なくとも今日は、このまま夜を明かすしか。

 幸い月見は善人だ。向こうは、慧音の家で世話になることについて、感謝以外の感情は持っていないようだった。だから慧音も普段通りにしていれば、変な間違いなんて起こるはずもなく、何事もなく明日を迎えられるだろう。

 そう、精々、将来的にそういう(・・・・)相手ができた時のための予行練習をする程度の気持ちで、気楽に――

 ――慧音はすぐ傍の壁に頭突きをした。

 

「な、なななっなにをバカなことをっ」

『慧音?』

「うひゃあああああ!?」

 

 瞬間、戸を隔てた向こう側から不意に月見の声が聞こえたので、慧音はその場でひっくり返った。尻餅をついたお尻がじんじんと痛むが、そんなことはどうでもいい。慌てて立ち上がって、戸の向こうにいる彼へと叫んだ。

 

「なっ、おま、どうしてここに!?」

『いや、手伝った方がいいかなーと思ったんだが……ごめん、驚かせたか?』

「心臓が止まるかと思ったぞっ」

『わ、悪い……』

 

 一応は気を遣ってくれているのか、月見がいきなり台所の戸を開けてくるようなことはなかった。戸を両手でしっかりと押さえつつ、慧音はほっと胸を撫で下ろす。今はきっと、顔も真っ赤になってしまっているだろうから、入ってこられるとちょっと困る。

 

「りょ、料理は私だけで大丈夫だからっ。えっと、そう、おにぎりでも握ろうと思って! すぐできるし、すぐに食べられるし、冷めてても美味しいしな! だからのんびり待っててくれ!」

『やあ、悪いねえ。私みたいな余所者のために世話を掛ける』

「そんなこと……」

 

 勢いのままに否定しようとして、慧音ははたと唇を止めた。余所者、という彼の言葉を頭の中で反芻させて、それから静かに、

 

「……そんなことないさ。お前は里の子を、そして私を助けてくれた。だからもう、余所者なんかじゃない」

 

 不思議なことに、あれだけうるさくなっていた心臓が落ち着きを取り戻していた。なにか特別なことを考えたわけではない。自然に、当たり前のことを言うように、言葉が流れる。

 

「すぐに作って、持っていくよ。そして話を聞かせてくれ。これからのこととか……色々、困ってることもあるだろう?」

『……そうだね』

 

 戸の向こうで、どうやら月見は頷いたようだった。

 

『それじゃあ、大人しく待ってるとするよ』

「ああ」

 

 月見が居間へと戻る時、足音はほとんど聞こえなかった。床を撫でるような空気の動きが、次第に遠ざかっていくのを感じる。

 その気配が完全に消えてから、慧音は小さな吐息を落とした。心臓はすっかりもとの鼓動を取り戻し、体温も平常通り。あれだけ慌てていたのはなんだったのだろうか。

 なんとなくではあるが、慧音は理解していた。外来人の男と二人きりという状況に、さんざ振り回されてしまったけれど。

 結局、慧音は、彼の力になってやりたいのだ。慧音が助けを求めた時に彼がそうしてくれたように、慧音もまた、彼に手を差し伸べてやりたいのだ。

 彼の善意に慧音も善意で応えたいのだと、それだけのこと。だから慧音は彼を家に招いたし、こうして食事を作ってやろうとしている。

 なにも特別なことなんてありはしない。もしも慧音と月見の立場が逆だったとしても、月見は同じように慧音を家に招いたし、食事を作ってくれただろう。

 

「――よし」

 

 霧が払われた心地だった。慧音は羽釜を開け、中にまだご飯が残っているのを確認すると、手を軽く水で湿らせた。

 まだほのかに熱が残っているご飯に、そっと手を伸ばす。伝わる熱が、慧音の心を解きほぐすようで、頬には淡い、笑顔がこぼれた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ごちそうさま」

 

 慧音が丹誠込めて握った三つのおにぎりを、彼はものの数分で完食した。朝以降なにも食べていなかっただけあって、実に勢いのいい食べっぷりに、やっぱり男の人なんだなあ、なんて慧音は内心微笑ましく思う。

 

「ありがとう。美味しかったよ」

「うん、お粗末様。……はい、お茶」

 

 悪いね、と湯呑みを受け取った月見は、けれどすぐには口をつけずに、一呼吸を置いて、

 

「それで、話だけど」

「ああ……そうだな」

 

 慧音は口元に指を当て、どこから話したものだろうかと考えた。やはりまずは、この幻想郷という世界について教えてやるべきだろうか。ここはお前が住んでいた世界とは違う場所なんだ、なんて言ったらどれほど驚いてくれるだろう。もしかしたら、意外と間抜けな顔が見られるかもしれない。

 と、ちょっとだけ期待したのだけれど。

 

「ここが幻想郷という世界だってことについては、説明は要らないからね」

「……はえ?」

 

 間抜けな顔になったのは、慧音の方だった。

 

「え?」

「いや、だから、ここが幻想郷だというのは知ってるから」

「ええと……誰かから聞いたのか?」

「まあ、そんなところだ」

 

 月見の頷きを受けて、慧音は改めて、目の前の男について考え直してみる。ここが幻想郷だと知っている外来人なんて、無論のこと初めてだった。

 ふと、思い出す。森から里へと戻る帰り道で、月見におぶられながら聞いた、あの言葉を。

 ――今晩、人里で宿を恵んでもらえるように計らってくれないかな。まだこっち(・・・)には来たばかりでね、家がないんだ。

 彼は、ここがどこなのかということを慧音に尋ねなかった。ここが幻想郷であると既に知っていたから、尋ねる必要がなかったのだ。

 月見は、続ける。

 

「加えて言えば、私はここが幻想郷という土地であることを、ここに来るより以前から知っていた。ここに来たのは、まあ、観光目的みたいなものかな。朝昼とかけて里の近くをぶらぶらしてて、だから今こんなにも疲れてるわけだけど」

「……」

 

 あくび交じりで話す月見に、慧音はただただ呆気に取られるばかりであった。単に大時代な風体をしているだけの外来人ではない。陰陽術を使いこなし、そして幻想郷という世界を知る彼は、本当に外来人なのかと疑ってしまうほどだった。

 だが――ありえない話でもないのだろう、と思う。

 慧音はもう、今の外の世界がどうなっているのかは、わからないけれど。ほとんどの妖怪が幻想入りし姿を消したという向こう側でも、陰陽師の血筋は途絶えていなかったのだろう。

 例えば昨年、二柱の神を奉る風祝の少女が幻想入りしたように。

 彼もまたそうやって、こちら側の世界にやってきたのかもしれない。

 

「なるほど、なんとなくわかったよ。……じゃあ、お前はこれからどうするんだ? もし家が必要だったら、私が便宜を図るけど」

「そうだね……」

 

 月見は少し考えてから、ゆっくりと首を横に振った。

 

「とりあえずはいいよ。明日は永遠亭ってところに行ってみたいし」

「永遠亭か。……でもあそこへ行くためには、迷いの竹林を越えないといけないよ。それは知っているか?」

「ああ。多分迷うとは思うけど、適当に歩いていればなんとかなるだろうさ」

「そうか、なら大丈――って待て待て待て、まさかお前、一人で行くつもりなのか!?」

 

 慧音は愕然とした。なにかの聞き間違いじゃないかと思った。けれど「そうだけど?」と不思議そうに問い返されたので、輪をかけて愕然とした。

 永遠亭――迷いの竹林を奥に建つ、月世界の住人たちが住まう屋敷の名だ。八意永琳という優秀な薬師が診療所を開いていて、里の人間たちもたびたびお世話になっている。

 なれども、そこへ辿り着くのは決して容易ではない。迷いの竹林は、その名の通り非常に迷いやすく、また血の気の多い妖怪も生息している危険地帯だ。里の人間が永遠亭を目指す際には、竹林の地理に詳しい慧音の友人が必ず同行し、護衛を行っている。そうでもしないと、普通の人間はとても生きて帰ってこられない。

 もちろん、月見が優れた陰陽師であることは既に承知している。しかしだからと言って、「気をつけて行くんだよ」と大人しく見送ることなどどうしてできよう。

 故に慧音は、テーブルを強く叩いてかぶりを振った。

 

「ダメだ、危険すぎるっ! 迷いの竹林はとても迷いやすくて、妖怪も多く歩き回ってる。そんな場所に一人で行くなんて!」

「大丈夫だよ。今日は妖怪の山や、魔法の森にも行ってきたしね」

「う、うええ!?」

 

 冗談だろうと思った。妖怪の山に魔法の森。いずれも迷いの竹林に並ぶ危険地帯ではないか。

 そんな場所に自分から足を踏み入れて、特に目立った怪我をすることもなく帰ってくるなんて、どこぞの紅白巫女じゃあるまいし。

 

「だから大丈夫だって」

「う……い、いやいや!」

 

 月見があまりに呑気に言うので、慧音は危うく頷いてしまいそうになった。ぶんぶんと頭を振って気持ちを立て直し、再び声を荒らげる。

 

「もし迷って出られなくなったらどうするんだ!? 疲れたところを妖怪に襲われたらどうする!」

「なんとかなるんじゃないかな」

「なるわけあるかあっ! ダメだぞ、絶対に行かせないからな!」

「むう……」

 

 月見が口をヘの字にした。だが慧音だって引き下がらない。そうやって子どもみたいに拗ねるというならば、寺子屋の教師として、なおさらだった。

 

「どうしてもと言うなら、私の友人に竹林の地理に詳しいやつがいるから、そいつに案内してもらうこと! 一人で行くなんて言語道断だっ!」

「私は一人でのんびり歩くのが好きなんだが……」

 

 慧音は月見を睨みつけた。

 月見はやれやれと肩を竦めた。

 

「わかったよ」

「絶対だぞ!? 明日、私の友人のところまできっちり案内してやるからな! こっそり一人で行こうなんて考えないように!」

「はいはい」

「はいは一回! 今時、子どもでもできることだぞっ!」

「……慧音。ひょっとしなくても、教師の血が騒いでる?」

「話を逸らすな! わかったのか、わかってないのか!?」

「ああもう、わかったよ。……はい。これでいいか?」

「……どことなく投げやりなのが気になるが、まあいい」

 

 慧音は半目になりながら、月見への評価を改めた。無論、下方向へだ。大人らしく分別ある性格なのだと思っていたが、とんだわがまま小僧ではないか。

 これは、好き勝手させないようにしっかりと手綱をつけておく必要がある。

 

「まったくっ……おかしなやつだな、お前は」

「ッハハハ、それは昔からよく言われるよ」

 

 月見がちっとも悪びれる様子なく笑ったので、慧音はそれ以上説教を続ける気力をなくしてしまった。肩をがっくり落として、はあ、なんて大きくため息をついて。

 

「……お風呂の準備は終わってるよ。さっさと入って、明日に備えて寝るといい」

「おや、先に入っていいのか?」

「当たり前だろう。お前は客人なんだから」

 

 まさか、「男のあとに入るなんてイヤ!」なんて思春期めいたわがままを言うような子どもだと思われているのか。白い目で睨みつけてやると、月見は受け流すように軽く片笑んで、

 

「じゃあ、お先に使わせてもらうよ」

「風呂場は、この部屋を出て廊下を右、突き当たりを左に行って一番奥だ」

「ああ、わかった」

 

 腰を上げ、しかし途中でなにかを思い出したのか、月見は中腰のままでふと動きを止めた。

 

「どうした?」

「いや……」

 

 慧音が問えば、彼は腕を組み、しばし考える素振りを見せてから、

 

「ここは様式美として、言っておくべきかと思って」

「な、なにをだ?」

 

 妙に改まった雰囲気を感じて、慧音は思わず身構えた。なにか大切なことを言われる気がして、背筋を伸ばし、じっと彼からの言葉を待った。

 そして、頷いた彼が、至極真っ当な顔で紡いだ言葉は。

 

「――覗かないでくれよ?」

「さ っ さ と 行 け え !!」

 

 言葉の意味を理解するよりも先に、脊髄反射で体が反応する。慧音は弾幕を放って、悪戯小僧を部屋から追い出した。

 弾幕は、すべて小器用に躱された。はっはっは、と呑気な笑い声が、次第に遠ざかっていくのを聞きながら。

 

「……これは、私がちゃんと教育してやらないと」

 

 一人残った座敷の上で、慧音はふつふつと、教師の魂を燃え上がらせたのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 この日一日の汗をさっぱり洗い流した月見は、寝室として貸してもらった小部屋で、ゆっくりと体を伸ばしていた。就寝前に行う軽めのストレッチは、一日中歩き詰めだったからか、心なしかいつもより体に染みる気がする。

 明日、筋肉痛になったりはしないだろうか。久々の人間の体だから、少しばかり不安だった。

 

「……ふう」

 

 引かれた布団の上で横になる。深呼吸をすると、体の底でわだかまっていた疲労が、じんわりと表面まで浮かび上がってきた。指の先まで力が抜けて、段々と頭がぼーっとしてくる。

 これはもう、抵抗をやめればその途端に眠りに落ちそうだ。まだ慧音におやすみを言っていないのだが、彼女は月見と入れ替わりで風呂に入っているし、女性らしく長風呂になるだろう。

 だったら、先に寝てしまっても、いいだろうか。

 などと考えているうちに、ゆっくりと夢の世界に手を引かれていく。

 抗うことは、できそうもなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幸い入浴を覗かれるようなこともなく、慧音はごくごく普通に風呂から上がった。

 覗くなよ、なんて言われてからかわれたからだろうか。湯に浸かっている間、変にその言葉を意識してしまって、とてもゆっくりなんてできなかった。入浴の時間は、普段の半分にも満たない。

 

「もう……」

 

 袖に腕を通しながら、慧音は力なく独りごちる。……体がいつも以上に火照っている気がするのは、ただ単に風呂上がりだからなのだろう。

 

「なんだかなあ」

 

 どうにも、調子が狂う。慧音は百年以上を生きた人生の先輩として、また教師として、常日頃からそれ相応の言動を心掛けているけれど、彼の前だと心の鎧を剥がされてしまいそうになる。

 本当に、妙な男だ。

 

「……もう、寝ちゃったかな?」

 

 脱衣所を出た慧音は、何気なしに廊下を進んで、月見に貸した部屋の前までやってきた。戸を控えめに叩いて、問う。

 

「月見、起きてるか?」

 

 返事は返ってこなかった。物音一つもなく静まり返っているから、もう寝てしまったのだろう。相当疲れていたようだったし、無理もない。

 じゃあ私も早めに寝ようかな、と思った。明日はいつもよりも早起きして、二人分の朝食を作らなければならないから、寝坊するわけにはいかないだろう。

 

「……よし、寝よう」

 

 呟いて、慧音は目の前の襖にそうっと片手を掛けた。極力音を立てないように、覗き見ができる程度の隙間を、開ける。

 

「……」

 

 案の定、月見は眠っていた。中央に敷いた布団の上で、その胸が規則的に、ゆっくりと上下しているのが見える。

 慧音は、更に体を通せるくらいにまで隙間を広げて、息を殺しながら中に入り込んだ。真夜中とはいえ、差し込む月明かりが淡く部屋全体を照らしているため、足運びに迷うことはなかった。抜き足差し足で枕元まで忍び寄って、彼の寝顔を見下ろしてみる。

 すると、

 

「へえ……」

 

 ついつい、そんな声がこぼれてしまった。彼を起こしてしまうから物音を立ててはいけないとわかっているのだが、それでも、言わずにはおれなかった。

 

「こんな顔して寝るんだあ」

 

 なかなかどうして、幼さが残る寝顔ではないか。

 それこそ、生徒の寝顔を眺めているかのようで。

 

「へえー……」

 

 きっと今の自分の顔を鏡で見たら、だらしないことになってるんだろうなあと思う。普通の外来人とは明らかに違う、言ってしまえば異色の存在だった彼が、突然身近に感じられるようになっていた。

 ここで、えいえいなんて頬をつついたりするのは、さすがに大人げないだろうか。

 と、

 

「ううん……」

「!」

 

 不意に月見が寝返りを打ったので、慧音は口から心臓が飛び出そうになった。頭から血の気が引いて、それから唐突に、私はなにをやってるんだ!? と我に返る。

 おかしい。自分も寝ようと思って部屋へと戻ったはずだったのに、どうしてこんなことを。――まるで夢遊病でも患ったかのように、完全な無意識だった。

 

(こ、これじゃあまるで、夜這いしてるみたいじゃないかっ!)

 

 体は一瞬で沸騰した。慧音は畳が摩擦熱で煙を上げるくらいの擦り足を利かせ、一目散に部屋から退散した。襖を閉めるような余裕なんて、ありはしなかった。

 

 結局この無意識の行動が尾を引いて、頭が完全に覚醒してしまった慧音は、しばし布団の中で眠れない夜を過ごすこととなり。

 よって翌朝は、ものの見事に寝坊することとなったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第16話 「導きの白 ①」

 

 

 

 

 

 幻想郷の地下には、地底と呼ばれる広大な空間が広がっている。過去、地獄のスリム化政策によって切り離された土地であるそこは、地上から移り住んだ妖怪たちのために開放されたのち、鬼を中心として大きな都が築かれるに至った。太陽も雲もない暗い空を行く操の眼下には、淡い提灯の光がそこかしこに広がっており、これこそが地底世界の星空なのだろうと、そう思わされる幻想的な光景を作り出している。

 だが、

 

「……あいっかわらず、陰気な場所じゃのー。息がしづらくて敵わん」

 

 顔をしかめて、操は咳をするように独りごちた。

 かつて地獄の一部だったこともあり、この地底では、今なお成仏できずに彷徨う怨霊たちが野放しとなっている。それらが持つ負のエネルギーに影響されているのだろう、地底の空気は、地上と比べて随分と息苦しい。無論それは、風とともに生きる天狗だからこそ感じ取れる些細なものなのだけれど、それでも地上の星空を台無しにするには充分だった。

 けほけほと何度か咳き込んで、操は地底の空をまっすぐに切り裂いていく。もう何度も引き返そうかと思い悩んだが、せっかくここまでやってきたのだから、もう少しだけ頑張ろうと思った。

 

「千代のやつも、面倒なところに住みおってからに。まあ、立場上仕方ないんじゃろーが」

 

 操が自ら親友と認める数少ない妖怪、藤千代という名の少女に会うのが、操が此度地底をゆく理由だ。そうでなければ、こんな息苦しい場所にどうして近づきなどしようか。

 翼を強く鳴らし、操は体の向きを下方向に変化させる。併せて翼を畳み、風の流れと重力に体を任せれば、

 

「……!」

 

 滑空した。空気の層を切り裂き、操は一気に地面へと迫る。そして、再び翼を鳴らして勢いを殺し、旋風とともに着地した。

 操が降り立った先は、小さく寂れた日本家屋の前だった。風が吹けばそのまま飛んでいってしまいそうな、張り子のようになおざりな小屋だ。

 こここそが操の目的地であり、藤千代という少女が腰を据える家。その廃墟同然の佇まいを見て、普段から天狗たちの大屋敷で生活している操は、とても微妙な気持ちになった。

 

「あいかわらずボロっちいのう……」

 

 どうして藤千代は、わざわざ好き好んでこんな家を寝床にしているのだろう。地底を代表して治める立場なのだから、もう少し贅沢をしても文句は言われないだろうに。元々粗野な育ちである鬼たちにとっては、やはりこういう雰囲気の方が落ち着くのだろうか。

 操は微妙な気持ちを頭を振ることで追い払い、目の前の古びた戸を叩いた。大した力も込めていないのに、戸全体がギシギシと悲鳴を上げた。

 返事はない。留守にしているのか、それともまだ寝ているのか。操は一息で戸を開け放ち、なんの遠慮もなくずかずかと中へ上がり込んだ。鍵はかかっていなかった――否、そもそも取りつけられてすらいなかった。

 家の中も、外に負けず劣らずひどい有様であった。地底には太陽の光が届かないというのもあるが、それにしても薄暗くて、空気が沈んでいる。玄関から一歩足を上げれば、たちまち床が悲鳴を上げてたわみ、抜け落ちてしまいそうになった。もう少し体重のある男――例えば月見がやってきたら、それこそ一瞬で踏み抜いてしまうだろう。

 操は慎重に足を進めながら、

 

「おーい、千代ー」

 

 藤千代の愛称を呼ぶが、やはり返事はない。操が床を軋ませる音だけが反響している。

 間もなく、操は居間へと至った。ただの空き部屋かと誤解してしまうほどにがらんどうとした、生活感のない部屋だ。茶色く汚れバサバサになった六畳間の隅っこで、緩やかな山を描いた布団が一組、鎮座している。

 その山が、僅かではあるが規則的なリズムで上下していたので。

 

「……」

 

 操はなにも言わず、ゆっくりとそこへ近づいて、一息で布団をひっぺがした。

 布団の下では案の定、少女――藤千代が、猫のように体を丸めて寝息を立てているのだが、

 

「また妙な格好で寝おってからに……」

 

 彼女は、衣服を着ていなかった。身にまとっているのは、薄い桃色の下着だけ、である。

 少女の枕元には、黒地に藤の花を織り込んだ着物と、同じように藤の花を模した髪飾りが置かれており、これが彼女の普段着となる。

 

「……せめて、寝間着くらい用意したらどうなのかのお」

 

 所謂、寝る時に服を着ないタイプである彼女は、背丈こそ小さいものの、一方で女性らしい発育にも恵まれている。そんな彼女が下着姿で、なおかつ戸締りすらせずに一人で眠っているという状況は、見る者が見れば卑しい感情の一つや二つは簡単に抱くだろう。

 

「……」

 

 まあ……そうして悪い感情を起こしたとしても、実際に行動に移せる命知らずはいまい。この少女に悪意を以て襲いかかること――それはすなわち、自らの命を投げ捨てる愚行と同じだ。

 なぜなら彼女は、妖怪の中でもとりわけ強い力を持つ鬼であり、更にその鬼たちの中でも、輪をかけて特別な存在なのだから。

 

「起きろ、千代ー。いいや――」

 

 故に操は、少女の名を呼ぶ。

 名前ではなく、彼女に与えられた、二つ名を。

 

「――鬼子母神」

 

 

 

 ○

 

 

 鬼子母神、名を藤千代(ふじちよ)。その字面が示す通り、鬼たちの祖――すなわち最古の鬼――であり、操が天狗を統べるように、幻想郷中の鬼を統括している女傑だ。

 もっともその出で立ちは、とても『女傑』という言葉には似つかわしくないのだが。

 

「もー、操ちゃんったら。鬼子母神って呼ぶのはやめてくださいって何度も言ってるじゃないですかぁ」

 

 背は、操の胸元あたりまでしかない。鬼の四天王には伊吹萃香という少女がいるが、彼女と比べてもそう大した差異はない。まだ起きたばかりにもかかわらず、嫉妬するほど瑞々しい黒髪がわずかにもよれることなくまっすぐ背を覆い隠している。薄暗い屋内ではわからないが、この柳髪が光の下では淡く紫がかっても見えることを操は知っている。更に肌は汚いものに一度も触れたことがないかのように潔白で、果実を思わせる薄紅の唇も、水の雫めいた澄んだ光を宿す瞳も、すべてがまるで、生まれ落ちたその時から一瞬たりとも老いていない。

 

「操ちゃんみたいなお友達からは、やっぱり『千代』って呼んでほしいですー」

 

 癖なのか、やや間延びした尾を引くその声音も、繊細なガラス細工を叩いて鳴らしたかのように澄んでいる。……何千年も生きておいてこれなのだから、同じ女性としてはまったくもって羨ましい。

 藤千代はもそもそと藤の着物を着込みながら、頬をぷっくりとりんごみたいにした。

 

「鬼子母神なんてのは他のみんなが勝手にそう呼んでるだけで、私自身はただのしがない鬼なんですよー?」

「……しがない、ね」

 

 月見が好んで使う言い回しを、彼女もまた好む。だが月見はさておき、藤千代がその言葉を使ってはダメだろうと操は思うのだ。

 

「お主がなんの変哲もないただの鬼だったら、他の鬼たちは一体どうなってしまうのか……」

「むう、それって私が普通じゃないって言ってます?」

「それ以外に何があると」

「ひどいですよー」

 

 確かに藤千代は、もともとはごく普通の一匹の鬼だったろう。史実で言い伝えられるあの鬼子母神とは、まったくの別人だ。藤千代は鬼たちをまとめる母のような存在だし、字面が似合うじゃないかと――鬼子母神の二つ名は、単純にその程度の意味合いだけで彼女に与えられた、謂わばただのニックネーム。操の“天魔”とはまったく重みが違う。

 だがそれを言ってしまえば、操だってもとは普通の天狗だった。

 

「操ちゃん、ちゃんと私の姿を見てくださいよー。どこからどう見ても、普通の鬼じゃないですかぁ」

「まあ、見た目はの……」

 

 たとい、“天魔”とはまったく重みの違うものであっても。二つ名を与えられるということは、それだけ藤千代が特別な存在である証明だ。

 なにせ彼女は、単純に腕力という一点だけを見れば。

 幻想郷の――否、古今東西のあらゆる存在を凌ぐ、最強の大妖怪なのだから。

 

「普通の鬼は、鬼の群れ三百を一人で、しかも素手でのしたりはせんよなあ」

 

 数十年ほど前だったろうか。藤千代が同族三百相手に勝ち抜き組手をやって、完全勝利を収めたのは。

 そんなの操はもちろん、八雲紫ですら、途中で間違いなく悲鳴を上げるだろうに。

 

「あー、あれはいい息抜きになりましたよねえ」

「……息抜き、か」

 

 それを、息抜きと言って笑って思い出せるのだから、彼女はどだいまともではない。

 

「でも、あの時もそうでしたけど、最近は鬼のみんなも弛んできちゃってますよねえ……」

 

 異様に長く伸ばされた一房の前髪を、左耳の上まで回して藤の髪飾りで結い留めながら、藤千代が面差しを曇らせた。

 

「昔は、もっと骨のある方がたくさんいたのに」

「……月見とか、か?」

 

 操が彼の名を口にしたのは、完全な無意識だった。

 実際にその瞬間を目撃したわけではない。しかし藤千代曰く、月見は、彼女を一対一の真剣勝負で負かした世界でただ一人の妖怪であるらしい。

 

(……)

 

 実のところ、操は月見の実力をよく知らない。彼は争い事を好まない性格だし、また妖狐故に思慮深く、いたずらに手の内を明かすような真似はしないからだ。

 月見は藤千代と同じく、幾千年もの時を渡り歩いた古の妖怪だ。藤千代が鬼の祖というならば、月見は妖狐の祖。銀毛十一尾は、月見が妖狐の頂点にいることを如実に証明している。

 だが、だからといって、鬼子母神をも上回るなどとは。

 いくらなんでも、眉唾が過ぎるのではないだろうか。

 ――と、

 

「えへへへへへ……」

 

 ふと聞こえただらしのない笑い声に、操の意識が思案の海から引き上げられる。真っ赤に熟れた頬を両手で押さえ、体をくねらせて身悶えしている藤千代の姿を見て、操は遅蒔きながら自分が地雷を踏んでしまったことを悟った。

 

「あ、いや、なんでもない。忘れて――」

 

 慌てて己の言葉をなかったことにしようとするも、時既に遅し。藤千代の表情筋が一気に弛緩して、脂下がって、ふにゃふにゃにとろけきっただらしない笑顔がさらけ出されて。

 ――ああ、これはもう完全に、地雷を踏んだ。

 いや、この場合は、踏み抜いた地雷が周囲に誘爆して、あたり一面が焦土と化すくらいの規模だろうか。

 ポフン、と隣に畳んだ布団の上に倒れ込んだ藤千代は、そして、

 

 

 

「そうなんですよ私が負けたのは今も昔も月見くんただ一人でもう随分昔の話で今では諏訪大戦って呼ばれてる頃の話なんですよあの時私は諏訪子さんと一緒に戦ってたんですけど神奈子さんのところに月見くんがいて私がもう少しで神奈子さんを倒すというところで月見くんが颯爽と現れてああもうあの時の月見くんは本当にカッコよかったんですよね神奈子さんが羨ましいです私もあんな風に月見くんに助けられてみたいですそれで月見くんと戦うことになって最初は私が圧倒してたんですけど途中から見事に逆転されてよくわからないうちに負けちゃったんですよね本当にすごかったんですよ未だにどうして負けたのかよくわからないんですけどきっとあれが月見くんの本気だったんですねふふふふふあの時月見くんから受けた一撃の痛みも重さも熱さも激しさも全部はっきりと覚えてますよ本当にすごいですカッコいいです素晴らしいですそして思い出したらなんだか体が熱くなってきましたけど我慢しますそういえば月見くんが外の世界に行ってから大分経ちますけど今はなにをやってるんでしょうねやっぱり昔みたいに気ままに旅して回ってるんでしょうかあいかわらず自由ですよね全然顔を見せてくれないのが寂しいですけどでもそういう他人に囚われないところがまた素敵でああもう月見くん月見くん月見くんえへへへへへへへへ……」

 

 

 

 ……………………あー。

 と、操は意識を放棄したくなった。

 そうだ。藤千代に対して無闇に月見との昔話を振るとこうなってしまうと、わかっていたはずなのに。迂闊だったと、操は己の失態を心の底から後悔した。

 見た通り、藤千代は月見に惚れている。自分を打ち破った世界でただ一人の男である彼に、陶酔している。ふと名前を出されただけで、夢の世界へと勝手にトリップしてしまうほどに。

 操が天井を仰いでいた視線をゆるゆると戻すと、藤千代はきゃーきゃー黄色い声を上げながら、布団の上を右へ左へ転げ回っていた。

 

「……ち、千代ー」

「えへへへへへ、月見くーん月見くーん。ああ、思い出したらなんだか急に会いたくなってきちゃいましたねー。今から捜しに行きましょうか、そして駆け落ちしましょうかー」

「千代ー。聞いてー」

「ああ、でもそうしようとするとさとりさんや紫さんがうるさそうですねえ。さとりさんは話せばわかってくれそうですけど、紫さんは無理でしょうね。一戦交える覚悟で行かないと」

「あのー、千代さーん?」

「うふふふふふ、月見くんのためなら幻想郷なんて見向きもしないで捨ててやりますよ。外の世界へ駆け落ち、とっても素敵じゃないですかなんて甘美な響きなんでしょう皆さんに会えなくなるのはちょっと寂しいですけどでも案外どうでもいいんですよねー私には月見くんがいれば他に誰もいらないのでああでも操ちゃんがいないのはとっても寂しいですね、ねえねえ操ちゃんも一緒に駆け落ちしましょうよーきっと楽しいですよーああっでも外の世界だと一夫多妻はダメなんでしたっけじゃあ仕方ないですね駆け落ちは無理そうなので外の世界へは新婚旅行で行くということで」

「おい聞けやコラ」

「えへへへへへ、やーんやーん」

「……」

 

 帰っていいかな、と操は思った。月見に好意を寄せている少女は、藤千代の他にも何人かいるが、その中でも彼女は次元が違う。ここまで行ってしまうと、もはや恋ではなくただの病気だ。鬼子母神は、心に致命的な病を抱えている。これを月見病と名付けよう。

 ……。

 などと現実逃避をしても始まらないので、操は深くため息をつきながら、

 

「あのな、千代。月見が帰」

「――本当ですか、操ちゃん?」

 

 神速であった。気がついた時には既に、笑顔の藤千代に胸ぐらを掴まれている。まばたきをした間の一瞬の出来事だった。――速すぎる。これではまるで、どこぞの時間を操るメイドみたいではないか。

 呼吸を忘れる操の先で、藤千代は藤色の瞳を爛々と輝かせていた。

 

「本当ですか? 本当ですね? 嘘だったらぶっ飛ばしますよー? こんにゃろぉ、って」

「待て千代、言ってる傍から投げようとするな! 本当じゃ、本当じゃから放してお願い!?」

 

 襟を掴まれ背負投げの体勢に入られたので、操は猛抵抗した。たかが背負投げとはいえ、それが鬼子母神の背負投げとなれば、畳を粉砕して床下まで突っ込み地面に操型の穴が空くだろう。つまり死ぬ。

 藤千代は操の胸倉を掴んだまま、笑顔で、

 

「本当ですかー?」

「本当じゃよおっ! じゃなきゃ、わざわざこんな空気の悪いところまで来たりせんって!」

「あ、それもそうですねえ」

 

 必死の説得が功を奏した。藤千代がこちらの襟から手を離すと、全身から圧迫感が抜けて呼吸ができるようになる。ああ、生きているってなんて素晴らしいのだろうか。

 けれど、操がそうやって一息つけたのも束の間で。

 

「こうしてはいられませんっ。行きましょう、操ちゃんっ」

「うおおっ?」

 

 すぐに、興奮で浮き足だった藤千代に腕を取られた。鬼お家芸の怪力で引っ張られ、危うく前につんのめりそうになる。

 藤千代は部屋を飛び出し、廊下を散々傷めつけて玄関へと向かった。どこへ行くつもりなのか、などとは問うまでもない。彼女の頭の中は、既に月見のことで飽和状態だろう。

 操は慌てて藤千代に足並みを揃え、尋ねた。

 

「行くって、月見がどこにいるかわかるのか?」

「手伝ってくださいね?」

 

 首だけで操へ振り返り、藤千代が返す言葉は至って簡潔。浮かべた柔らかい微笑みとは裏腹に、地を踏む両足の動きは速く、一刻も早く月見に会いたいという興奮がありありとにじみ出ていた。

 操は内心で苦笑いをする。月見が帰ってきたと知るなり仕事をすべて放って飛び出していった、あの時の自分の姿が重なるようだ。

 

「待っててくださいねー月見くーん! 今、会いに行きますよー!」

 

 月見が今、幻想郷のどこをほっつき歩いているのかはわからない。けれど藤千代は、『月見くんセンサー』なるものを持っているらしいから、適当に歩いているうちに見つかるだろう。

 

「月見くんのことですから、人里の近くにいそうですよね。まずはそのあたりから当たってみましょうか」

「そうじゃな」

 

 頷き、藤千代とともに外へ出る。『藤千代に月見が帰ってきたことを教える』という用事を終えた操は、しかし本山には戻らずに、そのまま月見捜しを始めることにした。

 よってそれから間もなくした頃、天狗たちの本山にて。

 

「て、天、魔、様ぁっ……! また、また逃げましたねえええええ!?」

 

 窓を砕くほどの恨みに満ちた絶叫を、一人の白狼天狗が、上げることになるのだが。

 それを操が知ることなど、もちろん、ありはしなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 明朝、月見は少しだけ寝坊した。

 日は完全に昇りきっている。雲一つない快晴で、差し込む朝日が目に痛いくらいだ。町は既に目を覚ましているようで、里人たちの活気づいた声が、小鳥のさえずりの代わりに聞こえてくる。窓を開けると、気持ちのいい朝の爽気が流れ込んできた。覚めきらず残っていた微睡みがゆっくりと引いていく。

 いい朝だ。長く寝ただけあって疲れはよく取れているし、筋肉痛もない。これならば今日も、のんびりと幻想郷を見て回れることだろう。

 

「慧音には、気を遣わせちゃったかな」

 

 昨夜、月見の目の前で「ふしだらな生活はさせない」と啖呵を切ったくらいだ。職業病なのか規則正しい生活にうるさい彼女は、きっととっくに目を覚ましているだろう。それなのに月見がこの時間まで寝ていられたのは、疲れているだろうからと、気遣ってもらえたからなのかもしれない。

 ……と、その時は思ったのだけれど。

 月見が居間まで行ってみると、ところがそこに慧音の姿はなかった。

 

「おや」

 

 朝食を作ってくれているのだろうか、と思って台所を覗いてみるが、いない。ならば用事で外に出ているのか、とも思ったが、玄関では慧音の靴が戸に先を向けて置かれていて、彼女が家にいることを立派に証明している。昨夜、月見のあとに風呂に入ったのだから、朝湯を浴びているということもないだろう。

 となると、もしかしてまだ起きていないのか。

 月見は慧音の寝室へ向かった。勝手に入るなと釘を刺されはしたが、一応、昨夜のうちに場所だけは教えられていた。

 

「慧音、いるか?」

 

 襖越しに声を掛けてみるが、返事はない。いないのか、それとも本当に寝ているのか。

 

「慧音ー」

 

 襖を叩いてみても結果は同じだった。なので月見は、失礼だとは承知の上で、そっと襖を開けて中を確認してみた。

 すると。

 

「……おや」

 

 部屋の中央で、ゆっくりと上下に動いている布団が一つ。どうやら今日の慧音は、月見と同じでお寝坊さんだったらしい。

 ここが自分の家ならば、このまま寝かせておいて朝食を作ってやるところだ。けれどここは慧音の家だから、料理はもちろんなにをするにも、ひとまず彼女には起きてもらわないといけない。

 わざわざ足音を殺すような真似はしなかったが、よほどぐっすり眠っているようで、慧音は一向に目を覚まさなかった。枕元まで進んで見下ろしてみれば、彼女のあどけない寝顔が露わになる。

 

「へえ……」

 

 教師、或いは人里の守護者としての線を強さを秘めた普段の顔とは違って、ふんにゃりとだらしなく緩みきった、少女の寝顔だ。いつ涎を垂らしても不思議でないそれは、昨日紅魔館で見たレミリアの寝顔を彷彿とさせる。

 

「こんな顔して寝るのかあ」

 

 きっと素敵な夢を見ているのだろう。笑っているようにも見えるその口元を見て、月見も自然ともらい笑いをしてしまった。ここが慧音の家であるばっかりに彼女を起こさなければならないのが、少し口惜しいと思えるくらいだった。

 月見はその場で膝を折り、慧音の肩を優しく揺する。

 

「おーい、慧音ー」

「ん、ぅー……」

 

 わずかに反応が返ってきたが、まだ起きない。なので月見はもう一度、

 

「慧音ー」

「ん、んぅー……?」

 

 慧音がゆっくりとまぶたを持ち上げた。寝惚け眼をこすりながら月見を見上げた彼女は、なにやら不思議そうに首を傾げて、それから数秒ぼけーっと固まって、

 

「……ぐぅ」

「はいはい起きろ慧音ー。朝だぞー」

「うぅー……」

 

 月見は慧音の額をペシペシして叩き起こした。慧音は抵抗の声を上げながらも、促されるままにのそりと起き上がり、けれどまだ半分寝ているのか、隙あらば布団に戻ろうとする体をうつらうつらと支えていた。

 これはまた、なかなかに立派なお寝坊さんだ。……なんとなく、授業に遅刻して生徒に叱られる慧音の図が思い浮かんだが、それはさておき。

 

「おはよう、慧音」

「ぅん……」

 

 慧音は、あいかわらず船を漕ぎながら答えた。

 

「随分眠そうだな。もしかして眠れなかったのか?」

「ぅん…………」

「……ちゃんと起きてるか?」

「ぅん、………………うん?」

 

 その時、慧音の顔が急に真面目になった。船を漕ぎすぎて川に落ちたのだろうか。ぱっちりと両目を見開いたまま、まんじりともしない。

 それがあんまりにもただならぬ様子だったので、月見もついどうしたと尋ねることができず、しばし無言でお互いを見つめ合ってしまって。

 数秒後、先に我へと返ったのは、慧音の方だった。

 ポカンと開いていた口がじわじわと大きくなっていき、水が湧くように顔全体に驚愕が染み渡り、瞳が収縮し、体がわなわな震え出して、首から段々と赤い色がせり上がっていって――

 そして、その赤が頭のてっぺんまで届いた、直後。

 

「――きゃああああああああああああ!?」

 

 ゼロ距離で放たれた無数の弾幕が、月見の体を――そして意識すらをも、一瞬で呑み込んでいった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

『人化の術』で人間になった弊害だろう、慧音の弾幕はとてもとても痛かった。一時間ほど気絶し、意識を取り戻して更に一時間以上が経ってなお、体には打撲の痛みが残っていて、節々に包帯を巻く羽目になってしまった。

 

「ほ、本当にすまない……。わざわざ起こしに来てくれたのに、こんな」

「いや、まあ、仕方ないだろうさ」

 

 隣で申し訳なさそうに身を縮めた慧音に対し、月見は力のない苦笑を返した。怒りはない。起こしてあげたお礼がゼロ距離弾幕というのもあんまりな話だけれど、慧音としては勝手に私室に入られた挙げ句、寝顔を見られたのだ。反射的に弾幕をぶっ放してしまうのも、うべなるところである。

 

「こっちこそ悪かったね、驚かせて」

「い、いや、私の方こそ。それにこれは、お互い様というか……」

「お互い様?」

「な、なんでもないっ!」

 

 勢いよくかぶりを振った慧音は、ぷいとそっぽを向いて赤くなった頬を隠そうとする。お互い様――というのがなんのことかはわからないが、どうせろくな意味ではないだろうから、追及せずとも問題はなかろう。

 

 慧音の家を出発し、迷いの竹林へと向かう道中である。まずは竹林の地理に詳しいという慧音の友人を訪ねるため、慧音の案内のもと、人里を南に向けて歩いていた。

 進む人里の道は、実に活気豊かであった。何気ない世間話の声、威勢のいい客引きの声、そしてなにより朗らかな笑い声が絶えない。昨日初めて里を訪れた時に感じた侘びしさは既になく、そこにはただ、温かい人間の気配があふれていた。

 昨晩の一件は、どうやら既に人里中に広まっているらしい。すれ違う里人からは口々にお礼の言葉を贈られ、露店の前を通っては、安くするからどうだいと何度も呼び止められた。中には、昨夜はお楽しみだったかいなんて茶化してくる里人もいて、

 

「お前たち、もういい大人なんだから少しは節度ってものを弁えたらどうなんだっ!?」

「おおっと慧音先生、そうやって取り乱すってことはまさか」

「天誅ッ!!」

「ぎゃー!?」

 

 慧音が直々に、頭突きをまき散らして弾圧したりしていた。

 その光景を眺めながら、月見は笑みとともに思う。この人里は、500年前とは見違えるくらいにいい場所になった。妖怪が跋扈(ばっこ)する世界にも関わらず、人間たちがこんなにも伸び伸びと生活している。

 それに、半人半妖の慧音が受け入れられているのもある。かつて紫が夢見た人と妖怪がともに生きる世界は、月見がいない500年の間で、ますます理想に近づいたようだった。

 

「ちなみに先生、あのあんちゃんとどこに行くんで? デートですか?」

「成敗――――ッ!!」

「いったー!?」

 

 ところで上白沢慧音、得意技は頭突きらしい。ごっちん、と寒気がするくらいに派手な音を鳴らすそれを見て、もしかするとゼロ距離弾幕よりひどいかもしれないなと、月見は苦笑いをした。

 

 

 

 

 

 里を出てから迷いの竹林までは、まだ昼間ということもあって、妖怪に襲われることもなくすんなりと行った。今は竹林の手前にて、慧音の友人が住んでいるらしい茅葺屋根の家を前にしている。

 

「お前と同じ陰陽師の子だよ。見た目よりずっと腕が立つから、妖怪に襲われても平気だろう」

「ほう」

 

 陰陽術は、現代文明の発達においては既に滅びゆく技術となりつつある。幻想郷が創られ、人間たちの世界から妖怪が姿を消してからは、必要のない技として受け継がれることもなくなり、今や風水や占星などの一部の形骸を残すのみ。妖怪と戦えるほどの陰陽師というのは、幻想郷はもちろん世界中を探したとしても、両手の指に勝るかどうかだろう。

 そんな幻想郷の陰陽師は、なんとまだ若い娘だという。さて、一体どんな子なのだろうか。

 慧音は少女の家の戸を叩き、声を上げた。

 

「妹紅ー。妹紅、いるかー?」

(――妹紅?)

 

 月見は眉をひそめた。聞き覚えのある――というか、完全に知り合いの名前だ。

 それから、ああなるほど、と納得する。確かに彼女は、若い娘でありながら腕が立つ陰陽師でもある。月見の旧知であり、以前幻想郷で生活していた時にも交流があった少女は、今なお陰陽術を人のために役立てているようだった。

 古馴染に会えることを心待ちにしたが、反して慧音の呼び掛けに対する返事は返ってこない。どうやら、折悪しく留守にしているらしい。

 

「妹紅ー? ……なんだ、いないのか」

 

 彼女の不在は予想していなかったのか、慧音は肩を透かされた様子だった。

 

「すまない、月見。大抵ここでのんびりしてるはずなんだけど」

「や、謝らなくても。そんなこともあるだろうさ」

 

 古馴染の顔を見られなかったのは少し残念だが、とりわけそれ以上の不都合があるわけではない。もともと月見は、一人で永遠亭を目指すつもりだったのだから。

 

「仕方ないだろうね。でも大丈夫だよ、私一人でも」

「ああ、そうだな――って、だからなんでお前は一人で行こうとするんだよっ! 危険だって何度も言ってるのに、わからないのか!?」

 

 けれど慧音は、よっぽど月見を一人で行かせたくないらしかった。声を荒らげ、胸倉に掴みかからんとする勢いだった。

 

「自分なら大丈夫だと思ってるのか!? 慢心だぞそれは、迷いの竹林を甘く見ちゃダメだ!」

「別に甘く見てるわけじゃないけど……じゃあどうするんだ?」

「また出直せばいいじゃないか。急ぎの用でもないんだろ?」

「それは……そうだけどね」

 

 月見は腕を組んで悩んだ。慧音の言い分はとてもよくわかるのだが、本当に一人でも大丈夫なのだから、わざわざ出直す必要がない。……さて、どうやって説得したものだろうか。

 うーむと唸って考えていると、慧音が不意に声を曇らせた。

 

「私はお前を心配してるんだぞ……? 一人で行って、それでもしなにかあったら、嫌じゃないかっ……」

 

 少しだけ湿った声だった。優しいんだな、と月見は思う。昨夜知り合ったばかりの男のために、ここまで心配してくれるのだ。人里の守護者を任されているのは、決して半人半妖としての実力を買われただけではない。その人間性もまた、彼女が里人たちから厚く信頼される一つの理由なのだろう。

 

「優しいんだな、慧音は」

「なっ……べ、別にこれくらい普通だろう。そうやって言いくるめようとしても、無駄だからなっ」

「本心だよ」

 

 素直な褒め言葉に弱い慧音を見て、月見は苦笑し、

 

「じゃあ、慧音も私と一緒に行くか?」

「……どうして、“じゃあ”でそんな話につながるんだ?」

 

 彼女の半目を受け流しつつ、続ける。

 

「私は一人ででもいいから、今、永遠亭に行きたい。そして慧音は、私を一人では行かせたくない。……だったら一緒に行くっていうのが、一つの折衷案だと思うけど」

「む、確かに……いやでも、私は竹林の地理には自信ないんだが……」

「慧音の好きにしてくれて構わないよ。……じゃあ私は先に行ってるから」

「ちょっ、おい待て! 本気で行くつもりなのかっ!?」

 

 無論、本気である。今は隠しているが、月見の正体は妖狐――それも長い年月を生きた大妖怪なのだ。竹林で道に迷うことはあれ、それで死ぬことなどありえない。

 故に月見は止まらない。結局、あーもう! と頭を掻きむしるような叫びが聞こえたあと、乱暴な足音が一つ、背中にくっついてきた。

 

「月見。お前は、子どもだ」

 

 突き刺すように鋭い慧音の声に、けれど月見は言葉を返さず、ただからからと笑っただけだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 迷いの竹林の恐ろしさは、文字通り、その地形構造故の迷いやすさにある。どこまで分け入っても竹以外の目印がない単調な視界に加え、気づかないほどに緩やかに傾斜した地面が、潜在的に人の方向感覚を狂わせるのだという。

 またこの日は、運が悪いことに霧が深かった。まるで雲の中にいるかのように、隣を歩く慧音の姿すら霞むほどだった。これではいくら旅に慣れた月見といえど、白旗を振る以外にない。

 詰まるところ。

 月見と慧音はものの十数分で迷い、その場で立ち往生することとなった。

 

「もう……だから言ったじゃないか、迷うって」

「うむ。さすがは迷いの竹林だね」

 

 がっくりとため息をつく慧音に対し、月見の口振りは軽い。何千年も前から世界中を歩いて回ってきた月見にとっては、道に迷うというのもまた、一つの旅の楽しみだった。

 

「まあ、いざとなったら空を飛べばいいだろうさ。永遠亭を見つけるのは……霧が深いから難しいだろうけど、人里までは帰れるだろう」

「そうだね……――って、え? お前、空飛べるのか?」

「一応ね」

 

 へー、と小さく呟いた慧音は、それからふと疑問顔で、

 

「あれ、じゃあなんで私たちは、わざわざ歩いて永遠亭に……? 私はてっきり、お前は空を飛べなくて、だから歩いていくしかないものだと……」

「旅というのは、自らの足で歩いてこそだよ」

「でも、飛んでいけばここまで迷うこともなかったよな?」

「道に迷うのもまた、旅の醍醐味なのさ」

「……」

 

 しらーっと半目になった慧音を、月見は無視した。……500年間外ばかりを歩いていた影響か、空を飛ぶという選択肢を今まで完全に忘れていたのは、秘密である。

 ああもう、と慧音がため息をつき、

 

「……で、どうするんだ? 諦めて里に帰るか?」

「まだ歩き始めたばかりだろうに。まだまだ諦めないよ、私は」

「なにか打開策はあるのか?」

「いや、なにも」

 

 慧音の半目が氷点下になった。

 月見は浅く肩を竦めて、

 

「慧音、もっと余裕を持った生き方をしようじゃないか」

「お前は余裕を持ちすぎだろう……」

「そうかな? ……ともあれ、そろそろ再出発しようか。慧音はどうする? 付き合いきれないと思ったら、無理はしなくていいんだよ」

「……ついていくよ」

 

 慧音は依然として疲れ果てた様子で、けれどはっきりと首を横に振った。

 

「お前はダメだ。最後まで付き合って、そして里に戻ったら説教してやるからな。覚悟しておけ」

「ッハハハ、そうか」

「まったくもう……あのな月見、お前はもう少し」

 

 さっそく前言を翻し、今この場で説教を始めようとした慧音の言葉を遮って。

 迷いの竹林をかすかに揺るがす、爆発音が響いた。

 まず空気が震え、一瞬遅れて地面が揺れる。

 

「……今のは?」

 

 二度目。今度は先ほどよりも強い。

 心当たりがあるのか、ああ、と慧音が小さく声をもらした。

 

「なるほど……だから家にいなかったんだな、妹紅は」

「……というと?」

「いや、その……」

 

 慧音は、少し答えに困る素振りを見せてから、

 

「なんというか……たまにこの竹林で暴れてるんだ、あいつは」

「……なんだってそんな」

 

 ということは、先ほどから聞こえるこの爆発音は、妹紅の仕業なのだろうか。相当派手に暴れ回っているらしく、一向に治まる気配がない。

 慧音が答えを躊躇ったあたりからして、決して妖怪退治をしているわけではないようだが。

 

「ふむ……じゃあとりあえず、行ってみようか」

「行くって……妹紅のところに?」

「この状況だ。もし会えたら、道案内を頼みたいしね」

 

 それに、妹紅が暴れている理由も気にかかる。彼女は意味もなく力を振り回す乱暴者ではなかったはずだが、500年の歳月で変わってしまったのだろうか。

 慧音とともに竹林を進む。断続的に響く爆発音のお陰で、向かう方向には迷わなかった。

 けれど、震源に大分近づいてあと少しというところで、竹林にもとの静けさが戻ってきた。霊力の気配がしたので空を見てみれば、薄くなった霧の彼方で、紅い炎の鳥が一羽、遠い空に飛び去っていくのが見える。

 あの炎は、妹紅の。

 

「……ちょうど、終わっちゃったか」

 

 月見は緩く吐息し、眼前に広がる竹林の惨状へと目をやった。

 焼け野原である。広がっているはずの竹林は消滅し、地面は焼け焦げ、所々から黒い煙を上げている。まるでちょっとした火事のあとだ。霧が薄くなったのが幸か不幸か、その生々しさが隅々まで見て取れる。

 

「……妹紅は一体、ここでなにをしていたんだ?」

 

 妖怪退治だとしても、よほどの相手でなければこうはなるまい。

 慧音はあからさまに胸を衝かれた様子で、なにもない宙へと目を泳がせた。

 

「ええと、それは……弾幕ごっこだよ、弾幕ごっこ」

「……」

 

 月見はもう一度、周囲の惨状をぐるりと見回す。……たかが弾幕ごっこでここまで竹林が焼き払われるなど、ありえるのだろうか。

 と、

 

「……ん?」

 

 焼け野原の片隅に、誰かが倒れている。ちょうど慧音も気がついたらしい。

 

「あれは……」

 

 薄く霧がかかる中を、目を凝らしてよく見てみれば。

 そこに倒れていたのは、衣服どころか下着すら身に着けていない、まさに一糸まとわぬ、素っ裸の、

 

「うわああああああああああ!? 見るなバカアアアアアアアア!!」

「ぐっ」

 

 それを情報として認識するよりも先に、慧音のジャンピング頭突きが月見の額を打ち抜いていた。目の前で火花が飛び散り、あっという間に視界が真っ暗になって、一時は己の意識すらも闇に沈んだ。脳の奥から焼きつくような熱さと痛みが込み上がってきて、それとともに意識が戻ると、どうやら自分は額を押さえて地面にうずくまっているらしい。

 

「……慧音、」

 

 頭蓋が割れたのではないかと思うほどに痛い。文句の一つも言ってやろうかと思い顔を上げようとしたが、間髪を容れずに、上から全力で押し戻された。

 グギ、と首が嫌な音を立てた。

 

「だ、だだだだだっだめだッ! 絶対に顔を上げるな絶対に動くな絶対に見るな! いいか、顔を上げたら、もう一発叩き込むからなッ!?」

「ッ~~……!?」

 

 慧音が泡を食ったように大騒ぎして言うが、月見に返事をするような余裕はない。頭蓋とうなじに襲いかかる二つの激痛を耐え忍ぶので、精一杯だった。

 しかし慧音は、その月見の沈黙を否定と受け取ったようで、

 

「ダ、ダメだあッ! お、お前も男なんだし、こっ、こここっこういうのに興味を持つのはわかるがっ、とにかく絶対見ちゃだめええええええええっ!!」

「いだだだだだっ!?」

 

 全体重をかけて全力でこちらの頭を押し潰す慧音に、月見はもう、比喩でもなんでもなく、本当に地面とキスをしそうだった。

 

「け、慧音、わかっ……わかったから放しっ、」

「ぜ、絶対に動くなよ!? 絶対だからなッ!?」

 

 やっとの思いでそれだけ言うと、頭にかかっていた力がふっと軽くなる。途端、月見は声にならない、噛み締めるような悲鳴をひとしきり上げて、そのまま地面にうつ伏せで倒れ込んだ。

 頭が割れたように痛くて、首が千切れたように痛い。悶え苦しみたくなるくらいの激痛なのに、体はほとんど動いてくれなかった。脳がやられてしまったのか、それとも神経系がダメになったのか。或いは、両方か。

 ふと、額から汗が滴るような感覚を覚え、月見はかろうじて動いた指先でそれを拭った。掠れた視界の中で確認してみれば、どうやら汗ではなく、血らしい。

 慧音の頭突きで額を切ったのだと、それを理解すると同時に、唐突になにもかもがどうでもよくなってしまった。私はなにをしにここに来たんだっけ、と思う。……ああそうそう、永遠亭だ。でも、なんだか永遠亭へは辿り着けなくてもいいような気がする。それどころか、このままここで眠ってしまってもいいような気さえした。

 それ以上はもう、考えるのも億劫だったので。

 なので月見は、最後に心の中で一言。

 

 ――ああ、やっぱり人間の体って、不便だなあ。

 

 そしてそれっきり、一切の思考を止めて、意識を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第17話 「導きの白 ②」

 

 

 

 

 

 目の前でいきなり火事が起きた。それくらいに慌てた。焼け野原と化した竹林の隅っこで、少女が素っ裸でぶっ倒れていたのだ。そりゃあ慌てる。

 幸い、月見には脊髄反射で頭突きを叩き込んだため、彼が少女の裸を見たということはないだろうが――迂闊だったと、慧音は己の浅慮を後悔した。

 よくよく考えてみれば、この展開は予想できたはずだ。妹紅と少女が戦っていることは初めからわかっていた。であれば、二人の戦いが“衣服が残らないくらいにまで相手を叩き潰す”ものであることにだって、すぐに気づけたはずなのに。戦いの敗者が素っ裸で気絶しているであろうと予測して、事前に月見を引き止めることだってできたはずなのに。なのに月見のマイペースっぷりに呆れ果てて、すっかり気が回っていなかった。

 まったくもって、迂闊だった。

 

「ええと。と、とりあえず、どうしたものか」

 

 慧音がおろおろしながら見下ろす先には、少女の体が横たわっている。気を失っているのか、一糸まとわぬ有様でなお、身動ぎ一つする様子がない。

 それがつまりどういうことなのかは言わずもがな。よりにもよって仰向けで倒れているというのがなお悪い。月見に頭突きをかましておいて、本当に正解だった。

 

 病的なまでに白い肌である。雪化粧のように柔らかで、きめ細かで、ただただ白く、一点の汚れも、くすみも、穢れもありはしない。握ればたちまち砕けてしまいそうな、そんな首元から薄っすら伸びた白の線は、浮き出た鎖骨で弓を描いて、弧をなぞるようにして乳房を通り、腰でくびれ、流水よりなめらかに双脚へとつながっていく。あまりに敬虔で、闇雲に触れたら穢してしまいそうで、人に許された限界を超えて、まるで幻のよう。

 少女が生まれたままの姿で眠るその光景を比喩する言葉を、慧音は持たなかった。絵画のような――? 否、これはいかな美辞麗句すらも絶する深い幽玄だと、慧音は思った。

 蓬莱山輝夜。

 かつての月の姫君であり、日の本でも『かぐや姫』として広く名を知らしめている彼女が、眠る。

 

「とにかく、なにか隠すものを……」

 

 触れれば穢れてしまう美しさでも、さすがにこのまま放っておくわけにはいかなかった。なにせこの場には、男である月見がいるのだから。彼に輝夜の裸を見せるくらいなら、幽玄を穢した罪人にでもなった方が遥かにマシだ。

 念のため背後を振り返り、月見が輝夜の体を盗み見るような真似をしていないか確認する。彼は地面にうつ伏せで倒れていて、視線は明後日の方角を向いていた。なぜ倒れているのかはわからないが、とりあえずこちらの言いつけは守っているようなので、よし、今のうちにさっさとやってしまおう。

 だが悪いことに、持ち合わせがなかった。タオルの類があれば理想だが望むべくもない。今の慧音はまったく手ぶらの状態で、それはあそこで寝っ転がっている月見も同じだ。となると自分が着ている服くらいしか使えそうな物がないのだが、そうすると今度は慧音が下着姿になってしまうし、月見の服を剥ぎ取って使うというのも、なんとなくアレだと思えた。

 すなわち、

 

「ど、どうしたもんか……」

 

 と頭を抱えてしまう程度には、困り果てた状況なのであって。

 

「――あれ、慧音さん?」

 

 助け舟は、思わぬところからやってきた。

 輝夜を挟んで、慧音の向かい側に広がる竹林の奥からだった。ヨレヨレの皺がついた、手芸品みたいな兎耳をトレードマークにして、鈴仙・優曇華院・イナバが、綺麗に畳まれた病衣を片手に現れたところであった。戦いに負けた輝夜を回収しに来たのだろう。まさに天恵のタイミングだった。

 鈴仙は、裸の輝夜を見下ろす慧音を特別訝しむでもなく、兎耳を一度ひくりとさせて、

 

「珍しいですねー、あなたがこんなところにいるなんて」

「あ、ああ」

 

 助かった、と吐き出したため息が慧音の胸を撫でた。

 

「助かったよ。どうしようかと困ってたところだったんだ」

「それもまた珍しいですねー」

 

 鈴仙は意外そうに目を丸くし、

 

「姫様は不老不死なんですから、放っておいても全然問題ないのに」

「それはまあ……ね」

 

 慧音は曖昧に笑って、足元の輝夜をもう一度見下ろした。

 横たわる輝夜の体には、服が残らないほど凄絶な攻撃を受けたにも関わらず一切の傷がない。攻撃を受けた時点ではそれこそ正視に耐え難い状態になったのだろうが、すべて回復したのだ。

 老いという概念を克服し、定められた天寿からも解放され、たとえ心臓を貫かれようが首を落とされようが瞬く間に再生し、決して潰えることのない永遠の命を、人は不老不死と呼ぶ。幻想郷には三つの永遠の命が存在し、蓬来山輝夜はその中の一つだ。

 鈴仙が、持ってきた病衣を宙へ大きく広げながら、問うてくる。

 

「永遠亭になにか御用だったんですか?」

「ちょっとね」

 

 慧音は膝を折って、輝夜の体をゆっくりと抱き起こす。

 ありがとうございます、と鈴仙は小さく笑んだ。

 

「どこか悪くしたんですか?」

「いや……観光目的で永遠亭に行ってみたいっていう変わり者がいてね」

「へえ?」

 

 輝夜の白い腕に病衣を通しつつ、そこでようやく鈴仙は、慧音の背後で寝っ転がっている月見に気がついたようだった。

 つい作業の手を止めて、コメントに躊躇う素振りを見せて、

 

「……えっと、あの方ですか?」

「そうだよ」

「なんで倒れて……もしかして、姫様たちの戦いに巻き込まれて怪我でも?」

「いや、その……」

 

 正直に答えるべきか否か慧音は悩んだが、無理に誤魔化そうとして彼が疑われてしまったら元も子もない。一応、彼は偶然この場に居合わせただけで、まったく悪気はなくて、輝夜の裸も当然見てはいないのだということを、はっきりと伝えなければ。

 

「その、な。輝夜の体を見てしまいそうになったから、咄嗟に私が頭突きを」

「うわあ……」

 

 鈴仙が浮かべた作り笑いは、腰が引けていた。

 

「それはまたご愁傷様で……」

「あ、あいつも悪気があったわけじゃないからっ。ただこれは、事故みたいなものであって……」

「わかってますよ。慧音さんがいたなら大丈夫でしょう」

 

 そうして改めて手を動かしつつ、けれど気になるところがあったのか、彼女はふとした体で問うてきた。

 

「あの人、さっきからぴくりともしませんけど、大丈夫なんですか?」

「え? それはもちろん――」

 

 なにを当たり前のことを、と頷きかけて――しかし慧音は動きを止めた。ようやく疑問に思った。そういえばあいつは、どうして倒れているのだろうか。

 こちらの言いつけを守って、輝夜の体を見ないようにしてくれているのだと思っていた。けれどよくよく考えてみるとそれはおかしい。後ろを向くなりこの場を離れるなりすればいいだけの話なのに、どうして服を土で汚すような真似をしてまで、わざわざ地面に寝っ転がっているのだろう。

 焼け野原に転がった月見の体は身じろぎ一つしない。その様が、ここで気を失っている輝夜と、とてもよく似ていたので。

 やがて水面へ顔を出すように、慧音は思い出した。素っ裸で気を失う輝夜を前に動揺するあまり、自分は月見へなにをしただろうか。

 全力で頭突きをした。

 全力で、彼の頭を地面に押しつけた。

 ――半人半妖故に人間よりもずっと強いその腕力を、縦横無尽に発揮して。

 

「……だっ」

 

 慧音はゆるゆると鈴仙に視線を戻して、冷や汗を流しながら、今の自分にできる精一杯の笑顔を浮かべた。

 

「大丈夫だ、ぞ……?」

「……いや、確認しましょうよ」

「そ、そそそっそうだな。行ってくるっ」

 

 鈴仙の半目に胸を貫かれ、慧音はそそくさと月見のもとに駆け寄った。まさかそんな、きっと居心地が悪いから寝たふりをしてるだけだろう、だから気絶してるなんてないない。そうポジティブに自分へと言い聞かせつつ、月見の顔を覗き込んで、

 

「ぅえっ、」

 

 変な声が出た。

 月見が額から、血が。

 

「ちょっ――」

 

 断っておけば、決して殺人現場のようにおどろおどろしい有様ではない。血を流しているといっても、額をほんの少し切って細い赤線が一筋走っている程度だ。

 だけれどもその原因は間違いなく慧音の頭突きであり、つまり言い逃れのしようもなく、慧音のせいであり。

 

「……ぁ、」

 

 月見がゆっくりと目を開けた。顔を横倒しにしたまま、苦虫を咀嚼しているように不機嫌な眼差しで、じっと慧音を見上げてきた。

 

「……慧音ぇ」

「は、はいっ」

 

 気だるげに間延びした声はだらしがなかったが、どういうわけか地獄から鳴り響く怨嗟のように恐ろしくて、慧音は叱られる子どもみたいになって背筋を伸ばしてしまう。

 月見の言葉は滔々(とうとう)と続く。

 

「いや、わかってるさ。なんかよく覚えてないんだけど、とりあえずなにかよくないものを見てしまった気はするし、お前が見ちゃダメだって騒いだのも無理はなかったかなと思うよ。それで咄嗟に頭突きをしてしまったというのも、まあ、仕方ないことなのかなって。……だけど、ものには限度というものがあるとも、私は同時に思うわけだよ」

「……、」

「……慧音」

「は、はいっ」

 

 息ができなくて、声が裏返ってしまいそうになる。

 月見は一度、地面に転がっていた指先を動かして額を拭った。血は固まっていなかったから、当然、指先は赤く汚れるのであって。

 それを確認した月見は、憮然と、深いため息を、一つだけ置いて。

 慧音を見上げ、一音一音確認するように、丁寧に言った。

 

「……なにか、言うことは?」

「…………ご、ごめんなさい……」

 

 生きた空もないとはこのことか。

 月見の半目に全身を射抜かれているようで、慧音はもう、その場でしおしおと縮こまることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 薬師の卵だけあって、鈴仙は常日頃から最低限の医療道具を持ち運ぶようにしているらしい。月見が額から出血していると知るや否や、輝夜の着替えをそっちのけにして応急処置を引き受けてくれた。

 本当は慧音がやってやるのが筋なのだろうが、本職に出てこられては出番もない。それに今は、月見に怪我をさせてしまったことがとにかく申し訳なくて、彼と顔を合わせることすら満足にできない状態だった。できることといえば精々、傍で大人しく二人の様子を見守ることくらい。

 

「一応、永遠亭で検査した方がいいですかねえ」

 

 月見の額の傷を消毒しつつ、鈴仙は眉を寄せて言った。

 

「ちょっととはいえ頭を切ってるわけですし、念のために」

「う、ううっ」

 

 心を抉られるような心地がして、慧音は思わず呻いた。幻想郷一の薬師に師事する鈴仙が言うのだ、でたらめということはあるまい。月見にそれだけの怪我をさせてしまったのだという罪悪感がずんずんとのしかかってきて、小さな慧音の体は潰れてしまいそうだった。

 一方で、当の月見は実にあっけらかんとしていた。慧音がごめんなさいをした時点でこの件についてはすっぱり割り切ったらしく、検査、という言葉を受けて意外そうに腕を組んでいた。

 

「ふむ、そこまでしてもらわなくても大丈夫だと思うけど」

「ダメですよ」

 

 鈴仙は、考える間も見せずに毅然と頭を振った。

 

「頭の怪我は油断できません。……ええと、月見さん、でしたよね。慧音さんに頭突きされたあと、気を失ったりしました?」

「いや、一応はずっと起きてたよ。なにも考える気が起きなくて、半分は寝てたようなものだけど」

「うーん、気を失ってないのならそれほど心配はないかもしれませんけど……でもやっぱり、検査しておいた方がいいと思いますよ。特に月見さんは人間ですからね」

「そうだねえ……」

 

 月見は口元に指を当てて考え、それからふとしたように、

 

「そういえば、永遠亭は診療所でもやっているのか?」

「あ、はい。そうですね、説明が遅れてました。永遠亭は、私の師匠が開いてる、どんな薬でも処方できる診療所なんですよ」

 

 どんな薬でも、というところを強調して、うっすらと胸を張る鈴仙は誇らしげだった。彼女が、己の師である八意永琳を強く尊敬している証だ。

 

「ほう、それはすごい。随分と優秀なお医者さんなんだろうね」

「そうなんですよ。月見さんは外来人らしいですから信じられないでしょうけど、師匠も私も、月からこっちの世界にやってきたんですよ。そして師匠は、向こうの世界では“月の頭脳”なんて呼ばれてた天才なんです!」

「……ふうん」

 

 地球外の生命体を目の前にした割には、月見の反応は静かだった。感動や驚きよりも先に、なにか喉に引っかかるものがあったのか。鹿爪らしい顔をして、真っ白い病衣に包まれた輝夜を見下ろしていた。

 

「……この子は」

 

 口数の少ない問いに、鈴仙は手当を続けながら、

 

「月の世界のお姫様に当たる方です。元、ですけどね。こっちの世界なんかじゃ、一時期は『かぐや姫』なんて呼ばれてたみたいですよ」

「……、……なるほど、ね」

 

 深い、吐息だった。感動でも驚きでもない、もっと別のなにかを、月見はその吐息に乗せて吐き出していた。

 それはまるで、遠い昔からの心のしこりが、ようやく溶けて消えていくような。

 

「どうかしました?」

「……いや、まさかかぐや姫が実在していたなんてと思ってね」

 

 奥歯にものを挟んだような口振りだったが、手当の片手間だったからか、鈴仙がそれに気づく様子はなかった。

 

「あーなるほど。でも幻想郷には他にも、日本の歴史で伝えられてる有名な妖怪とか結構いますよ? 萃香さん――鬼の四天王とか有名どころじゃないですか?」

「そうだね。……それは楽しみだ」

「……?」

 

 岡目八目というやつなのだろうか。慧音の目に映る月見の様子が、少し、おかしい。

 その違和感はあまりに小さすぎて、どこがどのようにおかしいのかまでは、わからなかったけれど。

 

「……あ、もう血は止まってるみたいですね。ご要望があれば絆創膏をおつけしますけど、どうします?」

「遠慮しておくよ、みっともないしね」

「似合うと思いますけど……。じゃあどうします? 検査を希望されるなら、永遠亭までご案内しますよ」

 

 月見は、一呼吸、まるで噛み締めるような間を置いてから答えた。

 

「そうだね。お願いするよ」

「わかりました。……慧音さんはどうしますか?」

「……私もついていくよ」

 

 静かに答え、それから慧音は身を竦めた。

 

「その……色々と責任を感じる部分もあるし」

 

 今慧音がするべきことは、できる限りで月見に怪我をさせてしまった償いをすることだ。しっかり永遠亭までついていって、検査結果を見届けて、治療費を立て替え、一緒に人里まで帰る。そうでもしない限りは、この罪悪感が消えてくれる日は当分訪れないだろう。

 

「わかりました。はぐれないように気をつけてくださいね」

「ああ。……輝夜はどうする?」

 

 よほどこっぴどくやられたようで、輝夜に目覚める兆しはまだ見えない。

 

「私が運ぼうか?」

「いえいえ、慧音さんのお手間は取らせませんよ」

 

 鈴仙はどことなく得意そうな顔をして、慧音の提案を断った。親指と人差し指で輪っかを作り、それを口まで持っていく。

 指笛を吹くつもりらしい。ひょっとして、指笛で仲間を呼び寄せるなんて芸当ができるのだろうか。

 そうして鈴仙は大きく息を吸い込み、一息で、

 

 すひー。

 

「……」

「……」

「……、」

 

 静かになった竹林の中で、鈴仙はもう一度息を吸って、

 

 ぴすぅーっ。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 見てはいけないものを見てしまった、と慧音は思った。いたたまれない。なんかもう、鳥肌が立つくらいにいたたまれなかった。

 鈴仙は、顔を真っ赤にしてふるふる震えて、なんだか死にそうになっていた。得意顔で指笛を吹こうとしたら音が鳴らなかったという赤っ恥に押し潰されて、息も絶え絶えになっていた。

 こういう時には、一体どんな言葉を掛けて慰めてあげられるのだろう。もう百年以上の長い時を生きた慧音だが、未だ、その答えを知らない。

 結局できたことといえば、縋るような気持ちで月見にアイコンタクトを送るくらいで。

 きっと月見だってどう言葉を掛けるべきか迷っていただろうに、それでも彼は慧音の視線に応えてくれた。鈴仙の肩に優しく手を置いて、優しく微笑んで、そして優しい声音で、

 

「大丈夫だよ、鈴仙。――私たちはなにも見なかったから」

「うわああああああああん!!」

 

 優しく優しく、鈴仙にトドメを刺した。

 心を砕かれ膝から崩れ落ちた鈴仙は、えぐえぐと咽び泣きながら、どんよりオーラをまとって地面の土をいじくっていた。

 

「ふふふふふ、そうですよ見栄張りましたよ。指笛で仲間を呼べたら、なんだかカッコいいなあって、前々から思ってたんですよ。これでも一応、昨日の練習では上手く行ったんですよ? ああごめんなさいなんでもないですこんなのただの言い訳ですよねだって本番で失敗してるんですもん。聞きましたよねみなさん、ぴすぅーですよぴすぅー。あはははははごめんなさいごめんなさい師匠私はやっぱりダメな子でしたー……」

「つ、月見いっ!」

「ははは、悪い悪い」

 

 月見が悪びれる様子もなく呑気に笑っているので、慧音は頭が痛くなってしまった。よりにもよってこのタイミングで、彼の子どもらしい部分が出てくるなんて。

 とにかくなにかフォローをしないとと思って、鈴仙の肩を揺すって必死に声を掛ける。

 

「鈴仙、しっかりしてくれっ!」

「あら慧音さん、私は大丈夫ですよ。ええ、しっかりしてます。しっかりと、自分のダメっぷりを認識してますとも」

「鈴せーん!?」

 

 マズい、なんだか鈴仙の目が虚ろだ。このままでは近いうちに迷いの竹林で首吊りが起こってしまうかもしれない。

 焦りに焦った慧音は、もう口に任せて、引きつった笑顔で叫んでいた。

 

「だ、大丈夫だって! ほ、ほら……ああいうお前も、茶目っ気があって可愛かったし!」

「そんなんで可愛いって言われても嬉しくないですよーだうわあああああん!!」

「あっ、」

 

 追い打ちだった。鈴仙はあふれる涙を流れ星みたいに振りまきながら、霧と竹林の向こう側へと走り去っていってしまった。

 慧音が咄嗟に伸ばした右手はなにも掴むことなく、空しい。

 

「……」

「……慧音、人のことは言えないんじゃないか?」

 

 月見にニヤリとした目で見られたので、慧音はしょげた。どうにも最近の自分は、焦るあまりに変なことばかりをしてやないか。ゼロ距離弾幕をぶっ放したりとか、人の頭を地面に押しつけたりとか。

 

「……さて」

 

 自分で自分の教師としての適性を疑う慧音を傍目に、月見は腕を組んで、手持ち無沙汰に鈴仙が駆け抜けていった方角を見つめた。

 

「どうしたものかね。あの子、どこかに行ってしまったけど」

「……」

 

 追いかけたところで無駄だろう。土地勘がない慧音たちでは到底見つけられないだろうし、そうであっても『脱兎』なんて言葉がある通り、鈴仙は非常に足が速い。

 つまりは、せっかく巡り会えた永遠亭への道案内を失ったのであって。

 

「……か、輝夜が目を覚ますまで待つしかないんじゃないかな」

「ふむ……」

 

 小さく息をついて、月見が眠れる輝夜の相貌を見つめた。生まれて初めて出会うかぐや姫を、物珍しく思うような目ではなかった。穏やかに細められ安らいだ瞳が見せるのは、過去を偲ぶ色で。

 だから、慧音は、

 

「……なあ、月見」

「うん?」

 

 問う、

 

「お前と輝夜って、もしかして――」

「――ぅぁぁぁぁぁあああああん!!」

「知り合――って、え?」

 

 そのさなか、しかし突如として近づいてくる少女の叫び声を聞いて、目を丸くした。

 つい先ほど、鈴仙が涙を振りまきながら走り去っていった方角からだった。竹林を揺らし、立ちこめる霧を肩で切り裂いて、飛び出してきたのは――

 

「……れ、鈴仙!?」

 

 まさしく鈴仙であった。迷いの竹林の地形がもたらした奇跡なのか、どうやら彼女は、無我夢中で走っているうちに走る向きをぐるりと半回転させたらしい。

 だが、鈴仙はそのことに気づいていないようだった。たださめざめ涙を流しながら霧を薙ぐばかりで、このままではまたどこか竹林の向こう側へと消えていくだろう。

 慧音は咄嗟に声を上げた。

 

「れ、鈴仙! 鈴仙、止まれ!」

 

 だが鈴仙は止まらなかった。それが『脱兎』の文字通り風さながらの勢いだったものだから、手を伸ばして引き止めることもできなくて。

 結局鈴仙は、慧音たちを横切ってはまた白い世界の向こうへと――

 

「……!」

 

 消える、その前に動く、影があった。月見だ。鈴仙が足を向ける先に立ち塞がり、浅く両腕を広げて身構える。

 その行動の意図を、慧音が悟るよりも早く。

 月見と鈴仙が、激突した。重くくぐもった音が鳴り、慧音は、二人の体が数瞬の間宙に浮いたのを見る。そして肉を強く打つ落下音が響いて、ようやく慧音は正気へ返った。

 

「ッ……お、おい!」

 

 肝が潰れた思いだった。鈴仙は月の世界の兎、すなわち妖怪だ。風のように走る妖怪と正面からぶつかって、体のやわな人間が無事で済むはずがない。今になって凍え始めた体を懸命に動かして、慧音は二人のもとへと駆け寄った。

 一瞬は最悪の悪寒すら脳裏を掠めたものの、月見は生きていた。怪我をしたどころかなんの痛みも感じていない様子であっさりと体を起こして、抱き止めた鈴仙を緩いため息とともに見下ろしていた。

 

「つ、月見……? 平気なのか?」

「ああ、大丈夫だよ」

 

 慧音が恐る恐る問えば、すぐに確かな肯定が返ってくる。

 

「陰陽術は便利なものでね。衝撃を和らげる符を使ったから、この通りなんともないよ」

「そ、そうか……」

 

 強ばっていた肩から力が抜けていくのを感じる。二度も月見を痛めつけてしまった慧音としては、とにかくもう彼には怪我をしてほしくなかった。

 月見は苦笑し、鈴仙の背中を静かに叩いた。

 

「せっかく見つけた永遠亭への足掛かりだからね」

 

 そうしてようやく、鈴仙がうぅーんと呻き声を漏らしながら身動ぎをした。こちらは彼と違って衝撃を和らげることができず、少しの間気を失っていたらしい。

 鈴仙がゆっくりと顔を持ち上げれば、すぐ近くに月見の顔がある。抱き止められているのだから当たり前だ。

 

「……」

 

 鈴仙は未だ状況を整理しきれないようで、呆然としながら自分の体を見回した。

 月見の腕が自分の背中に回っている。自分の腕が彼の胸元を掴んでいる。そして最後に、自分の体が彼の膝の上にすっぽり乗っかっていることを理解して、ようやく、

 

「――う、うわわわわわあああっ!?」

 

 いきなり熱湯の中に叩き込まれたように大暴れして、月見の両腕を振り切って、ごろごろと地面へと転がり落ちた。それだけに留まらず、更に這う這うの体で素早く月見から離れ、陸に上げられた魚みたいになりながら、

 

「ご、ごごごっごめんなさい! わわわ私ったら、なんとはしっはしたっ、はしはし」

「いや、いいから落ち着きなさい。ほら、そんな短いスカート履いてるんだから、あんまり暴れないで」

「ひゃあああああ!?」

 

 もはや見ていて可哀想になってくるくらいの慌てようだった。素っ頓狂な悲鳴を上げた鈴仙は、スカートの裾をはっしと押さえてその場で正座し、顔から蒸気を上げながらしおしおと縮こまって、動かなくなった。

 

「……ええと……大丈夫か?」

 

 腫れ物を扱う気持ちになって、慧音はへっぴり腰になりながらそう小さく問うた。対して鈴仙はなにも答えず、ただこくっと、かすかに頭を縦に動かしただけ。どうやら恥ずかしさのあまり口が利けなくなってしまったらしい。

 

「すまないね、無理に止めたりして」

 

 月見が立ち上がり、服についた土を払い落としながら鈴仙へ尋ねた。

 

「怪我はないか?」

 

 こくっ。

 

「永遠亭まで案内してほしいんだけど、大丈夫かな」

 

 こくっ。

 

「……立てるか?」

 

 ……こくっ。

 頷いた鈴仙は、しっかりとスカートの裾を押さえながら、ちょっとだけ内股になって立ち上がって、

 

「……し、し」

 

 なにかを言おうとするのだが、舌がもつれて上手く行かない。彼女は何度も舌を噛みながら、深呼吸をしたり、ますます縮こまったりして、ようやく声が出たのはおよそ秒針が一回転してからだった。

 

「……し、しつれぇ、しました…………」

「あ、ああ……ごめん」

 

 まさかここまで動揺されるとは思っていなかったようで、月見はすっかり面食らった様子で頬を掻いていた。……まあ、鈴仙の反応も無理はないだろう。赤の異性にいきなり抱き留められたのだから、女として動揺しないわけがない。やむを得なかったとはいえ、頬に紅葉が咲かなかった月見は幸いだった。

 

「大丈夫か、鈴仙?」

 

 慧音は俯く鈴仙を覗き込んだ。返事がないのでもう一度、

 

「鈴仙?」

「……い、いぇ、だいじょうぶ、ですよ」

 

 返ってきたのは、蚊の鳴くような声だった。鈴仙は顔を耳まで真っ赤にして、もじもじしながら、

 

「わたし、その、男の人を触診するのとか、ほんとダメで。簡単な応急処置だったり、子どもとかご老人なら、大丈夫なんですけど、その、大人の方の、胸とか、触っちゃうと、すごく硬くて、私たちと違うんだなとか、まじまじ思っちゃって、ほんと、なんかドキドキしちゃって、ダメなんですよぅ……」

「……」

 

 それは、一人前の薬師を志す者としては致命的ではなかろうか。慧音が言えた台詞でもないが、ちょっと初心すぎるのでは。

 そういえば、と慧音は思い出す。永遠亭が人里で健康診断を行う時、診察はほとんど永琳一人で行って、鈴仙はその手伝いばかりだった。薬師見習い故に手伝いしかさせてもらえなかった、のではなく、初心すぎるが故に手伝いしかできなかった、というのが真実らしい。

 ……永琳が不老不死であることも相まって、鈴仙は一生、卵のままなのかもしれない。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいね。もう少しで落ち着きますから」

「そ、そうか」

 

 鈴仙が、細い息遣いで、ひー、ひー、ふー、と間違った深呼吸を始める。どうやらまだ相当混乱しているようなので、慧音は振り返り、少しそっとしてやってくれと月見に向けて目配せをした。

 薄く苦笑いをした月見は、所在なげに周囲を見回して、やがて今なお眠ったままの輝夜を目に留めた。

 

「……この子は、結局どうやって永遠亭まで連れて帰るんだい?」

 

 びくん、と鈴仙の肩が律儀に飛び跳ねる。けれど月見は、そっとしてやってくれという慧音の言いつけを守って、そのまま続けた。

 

「なんだったら、私が運んでも大丈夫だけど」

「……大丈夫なのか?」

 

 慧音は眉をひそめた。人の体は、見た目よりもずっと重い。輝夜はまだ幼さが残る少女だが、それでも気を失い完全に脱力した体を気軽に持ち上げるのは難しいはずだ。加えてほんの少し右から左に動かす程度ではなく、永遠亭までの長い道のりを運ぶのだから、もう立派な重労働となるだろう。

 だが思い出してみれば、昨夜の晩、腰を抜かして動けなくなった慧音を人里まで運んでくれたのは、他でもない月見だった。彼は決して逞しい体つきではないけれど、意外と結構な力持ちなのだ。

 だから、まあ大丈夫かなあ、と慧音は思ったが。次第に、すー、はー、という正しい深呼吸法へと戻ってきた鈴仙が、赤みの残る頬を持ち上げて月見を見上げた。

 

「でもその、悪いですよ。お客さんというか患者さんというか、そんな人にやってもらっちゃうなんて……」

「でも、男の私がなにもしないっていうのもね。大分困らせちゃったみたいだし、顔を立たせてくれないかな」

「いえそんな、あんなの、わ、私が初心というか、ともかく月見さんは全然悪くないので……」

「まあいいんじゃないか? 鈴仙」

 

 鼬ごっこになりそうな気配を感じて、慧音は苦笑とともに二人の間へ割って入る。

 

「せっかくの男手だし、有効活用しようじゃないか」

「そうそう、そうしてくれ」

 

 これがもし下心アリの申し出だったら、もちろんゼロ距離弾幕でぶっ飛ばすけれど。彼の人柄を考えれば、それもありえないだろう。

 鈴仙は少しの間迷う素振りを見せてから、苦笑した。

 

「……じゃあ、折角なのでご好意に甘えますね。永遠亭まではそんなに遠くないので、お願いします」

「了解」

 

 頷き、月見は一度その場で肩を回すと、輝夜の上半身を起こして左手を背中に、右手を腿のあたりに差し込む。それからちょっとした荷物を運ぶようにひょいと抱き起こす、その抱き方は、お姫様抱っこというやつだったので。

 慧音はふいを衝かれて、どきん、とした。

 

「そうやって運ぶのか?」

「おぶって運ぶのは危ないだろう。後ろにひっくり返ったら大変だ」

「それは、まあ……」

 

 そうなのだけれど、なんというか。その。

 慧音のその悶々とした気持ちを、代弁したのは鈴仙だった。からりと笑って、

 

「なんだか様になってますねえ、月見さん」

 

 そう。様になっているというのも妙な表現だが、輝夜を抱いた月見の姿が、まるで劇の一場面を覗くように、すっと慧音の瞳へと入ってくるのだ。

 輝夜の体を両手でしっかりと支えたまま、月見は笑った。

 

「茶化してもなにも出ないよ」

「いやいや、本心ですよ。……ともあれ行きましょうか。ご案内しますよ」

 

 鈴仙が霧の奥へと歩き出し、月見もすぐにそれに続いていく。ただ慧音だけが、まるで夢でも見ている心地で、月見の背中をぼんやりと見つめていた。

 或いはだからこそ、聞き取れたのかもしれない。

 耳をそばだてなければ到底気がつけないような、彼の呟きを。

 

 ……あいかわらず、軽いやつだねえ。

 

 だから慧音は、確信した。もう間違いない。月見自身がそう言ったのだから、そうなのだろう。

 月見と輝夜は、知り合い同士なのだと。

 そう確信した慧音は、それが一体どういう意味なのかをぼんやりと考えながら、月見の背中を追いかけた。

 霧が晴れてきている。月見を迎え入れるように。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 心地良い記憶ほど、夢のように感じる。億にすら及ぶ久遠の歳月を生きた八意永琳が、千年ちょっと前の出来事をこうも懐かしいと感じるのは、それだけその記憶が心地良いものだからなのだろう。

 輝夜がまだ『かぐや姫』と呼ばれていた時代に、彼女とともに在る陰陽師の男がいた。彼は、輝夜が地上の世界で得た大切な友人であり。

 そしてかけがえのない、想い人でもあった。

 永琳が彼と出会ったのはほんの数分だった。けれどその数分で、輝夜が本当に彼を想っているのだと思い知らされて、それが少し意外で、そしてとても嬉しかったのを覚えている。

 もちろん、彼は人間だったから、既に生きてはいない。

 それは、彼が永琳たちとともに月の追手から逃げ、生き延びていたとしても、変わらない定めだったろう。輝夜は不老不死であり、彼は人間だった。輝夜がどれだけ彼を想おうとも、どれだけ生きてほしいと願おうとも、先立たれる運命は避けられなかった。

 けれど同じ死であっても、彼が選んだのは天寿を全うすることではなく、輝夜を助けるために己を捨てることだったから。

 彼には本当に感謝している。彼が助けてくれなければ、永琳たちは無理やり月へと連れ戻され、この世界で生きていくことはできなかった。それは、本当に、感謝しているのだ。

 でも、私たちと一緒に逃げ延びる道を選んでくれても、よかったのに。少なくとも、輝夜はそれを望んでいたはずなのに。

 感謝の心の中で生まれる、針が刺すような痛みは、ともすれば恨みという言葉でも表現できるだろう。感謝していたし、同時に恨んでもいた。それらの感情は千年以上が経った今でも色褪せないのだから、私も感傷的になったものだと永琳は思う。

 カルテが床の上に散らばった音で、我へと返った。

 

「……」

 

 いつの間にか、随分と考え込んでしまっていたらしい。永琳は緩くため息をついて、散らばったカルテを掻き集める。

 思考が次第にこちら側へと戻ってくると、ふと思い出すことがあった。

 

「そういえば……ウドンゲ、まだ帰ってきてないわね」

 

 妹紅との戦いに敗れた輝夜を回収に向かわせたのは、もう随分と前の話だ。鈴仙は決して有能な助手とはいえないが、仕事真面目ではあるから、戻りが遅れるとなれば相応の理由があるだろう。だが心配はしなかった。月の兵士として高い戦闘能力を持つ鈴仙にとって、襲われると危険な相手というのは、意外にもそれほど多くない。薬師としてはまだまだだが、輝夜の護衛としては、ある程度のラインで信頼を置ける助手だった。

 だから永琳は、そのうち帰ってくるだろうと深く考えず、掻き集めたカルテで机を叩いて、仕事の続きをしようとした。彼のことも。今となってはもうどうしようもないことだから、深く執心するのはよそうと。

 

『ただいま戻りましたー、師匠ー』

 

 玄関の方から、朗らかな鈴仙の声が聞こえた。そして声は、それだけではなかった。

 

『どうもありがとうございました、わざわざ運んで頂いて。……それじゃあ、姫様を寝かせてきますので、あとは任せてください」

『ああ、よろしく』

 

 物静かなバリトンは男の声音。鈴仙の帰りが遅れた理由は、途中で彼と出会ったからなのだろう。

 男が何者かはわからないが、話の内容からして輝夜を運んでもらったのは明らかだった。であれば礼を言わなければならないから、永琳は整理したカルテをひとまず机の上に置き、玄関へと向かう。

 途中、輝夜を背負った鈴仙と鉢合わせた。

 

「あ、師匠。ただいま戻りました」

「ええ、おかえり。……一体誰を連れてきたの?」

「慧音さんと……あとは外来人の男の方です。少し怪我してるみたいだったので、治療をと思って」

 

 そう、と永琳は短く頷いた。今はカルテの整理くらいしかやることがなくて暇だったから、お礼も兼ねて暇潰しに治療してあげるのは悪くない。一人で作業しているとまたあの思考の海に囚われかねないから、人相手に仕事をしたい気分だった。

 

「じゃあ私が行くわ。ウドンゲは輝夜をよろしくね」

「はい、わかりました。お願いしますね」

 

 鈴仙と別れ、撫でるように廊下を進んでいく。玄関では、鈴仙の言葉通り、上白沢慧音と外来人の男が待っていた。物珍しそうに永遠亭の内装を見回す男を、隣の慧音が行儀が悪いと言ってたしなめている。

 

「お待たせしました」

 

 永琳の出迎えに、まず反応したのは慧音だった。こんにちは、と間をつなぐように笑顔を見せて、その片手間で男の裾を鋭く引っ張る。二人の身長は随分と差があったが、まるで他人の家に挨拶に来た母親と息子のようだった。

 そこになってようやく、男は永琳の姿に気づいたらしい。何気なくこちらを向いた彼と、目が合った、

 瞬間、

 

「……!」

 

 強く頭を叩かれた心地だった。あまりの衝撃に周囲の雑音がすべてシャットアウトされて、視界に慧音の姿が映らなくなり、男の相貌だけが浮き出るように鮮明になる。胸が急に苦しくなって、息の仕方がなんだかよくわからなくなって、喘いでしまいそうになる。

 千年以上昔のほんの数分だけの邂逅だったけれど、それでもはっきりと思い出せる。

 我の強い輝夜が心を許し、恋すら抱いた、あの。

 あの男が、目の前に。

 

「――……」

 

 バカな、と思い、それからすぐに確かにバカことだと気づいて、永琳はつい笑ってしまった。そうだ、ありえるはずがない。千年以上も昔の人間が、あの時となにも変わらない姿で、また永琳たちの前に出てくるなんて。

 他人の空似だ。そう思ったら、さほど、目の前の男があの人に似ているわけでもないような気がして、呼吸が楽になった。視野狭窄を起こしたように狭まっていた視界が徐々に広くなって、慧音の姿がわかるようになる。周囲の雑音も、もういつも通り。

 

「……永琳? どうした?」

 

 疑問顔の慧音に、軽く頭を振って返した。

 

「なんでもないわ」

 

 それから、男を見て、

 

「ようこそ永遠亭へ。私は八意永琳、ここで薬師をしているわ」

 

 男は、すぐには返事を寄越さなかった。永琳を見つめたまま、記憶を遡るように目を細めて、押し黙っていた。

 その沈黙が妙に長かったから、隣の慧音が、挨拶くらいしろと肘鉄を打ち込もうとして。

 

「――ああ、そうだ思い出した。確かに。確かに永琳は、お前だったね」

 

 生まれて間もない頃から神童と呼ばれ、月の頭脳と崇められるほどの才に恵まれた永琳だけれど。だけど未だかつて、これほどまでにわけがわからなくなることなんてなかった。

 心臓が早鐘を打ち始める。指先がかじかむ。息が詰まる。唇が干上がっていく。わけがわからなくなると、そうか人はこんな風になるんだと、どこか俯瞰した自分の囁きが頭の片隅で聞こえた。そんな言葉を思う余裕なんて、どこにもなかったはずなのに。

 

「久し振りだから思い出すのに時間掛かったけど、なんだ、もしかするとあの時からまったく変わってないみたいだね。ひょっとしてお前も不老不死だったのか?」

 

 この男の言う『あの時』が、一体いつの話なのか、とか。

 一体誰の姿を思い描いて、『お前も』なんて言っているのか、とか。

 あくまで機械的に、彼の声を言葉として認識することはできる。けれどそこまでだった。彼の言葉がどういう意味なのかを考えようとすると、思考は濁流さながらに混乱して、ちっとも形を成してくれなかった。

 

「……ちょっと、待って」

 

 ようやくの思いでそれだけ搾り出して、顔を押さえ、俯き、深呼吸をして、乱れる思考に手綱をつけて、八意永琳は考えた。バカなことだと思った。他人の空似だと思った。だが、違うのか。

 悪戯。違う。当時の記憶を知っているのは永琳と輝夜だけで、鈴仙にすら詳しいところは教えていない。あの人の姿を偽るなんて、他人にできる悪戯じゃない。

 夢。違う。夢を見ているならば、永琳ははっきりとそれを認識できる。自分が今いる世界は間違いなく現実だ。

 目の前の彼を否定しようとも、否定しきれるだけの理由が見つけられない。

 なら、

 なら、

 この人は、まさか夢でもなんでもなくて。

 本当に。

 

「……いまいち覚えてもらえてないかな。まあ、お前と話をしたのはほんの数分だったし、無理もないけど」

 

 もしかしたら輝夜からも忘れられてるのかねえ。そうだとしたらちょっとショックだね。

 彼は、笑う。

 からから、笑う。

 永琳は咄嗟になにかを言おうとした。けれどそれが声になる前に思い留って、ぐっと呑み込んだ。いけない、と思う。感情に任せて喋ってしまっては、そのうち堰が切れて、自分で自分がわからなくなってしまいそうだった。

 ゆっくりと、深く呼吸をして、感情を理性で抑えつけて。

 

「あなたが“彼”だという証拠が、どこにあるの?」

 

 静かな問いに、彼は笑みを崩さない。

 

「お前と出会った時の話をしてやろうか。私は、今でもよく覚えているよ?」

 

 流水のように綺麗に流れる言葉は、とても嘘とは思えなかった。けれど、嘘でないとも、思えなかった。

 

「なんで……百歩譲ってあなたが“彼”だとしても、千年以上も経って今更、どうやって」

 

 蓬莱の薬ではない。当時永琳が月から持ち込んだ二つの薬のうち、一つは永琳が、そしてもう一つは妹紅が飲んだ。彼は不老不死ではない。それは間違いないはずだ。

 けれど、不老不死でないなら、

 

「若返りの禁術にでも手を出した?」

 

 千年近く前に、そうやって妖怪を助けて回る尼僧の噂を耳に挟んだことがある。

 

「いやいや、まさか」

 

 けれど彼は、首を振って。

 

「なにも変な真似はしていないよ」

「じゃあ、どうやって」

「今更打ち明けたところで、信じてもらえるかはわからないけど――」

 

 その体を、ふいに光の粒子が包んだ。

 なにかの妖しい術かと思って咄嗟に身構えたが、その粒子はただ彼の体を包み込んだだけで。

 

「――解術・『人化の法』」

 

 小さな宣言の声とともに、光の衣が砕け散り、消える。

 そして現れた、彼の姿は。

 

「――!!」

 

 音がするほど強く、永琳は息を呑んだ。日本人独特の深い黒髪をした外来人は、もうそこにはいなかった。

 代わりに佇んでいるのは、あの黒を反転したかのように、くすみのない綺麗な銀色をした――

 

「――というわけで、私の正体は妖怪だったんだよ」

 

 妖怪。――妖狐。頭から伸びた一対の獣耳も、背後で揺れる大きな尻尾も、淡く感じられる妖気の気配も、もはや人のものではない。

 

「――……」

 

 頭の中が完璧に真っ白になった。生まれて初めてだった。生まれて初めて永琳は、なにも考えられず、指先一つも動かせず、なんの声も出せず、もうバカになってしまったかのように、ただただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 笹の葉擦れの音が、聞こえた気がした。

 

「……………………なっ、」

 

 そしていち早く我に返ったのは、どうやら彼女の方だったらしい。

 もはやまばたきもできなくなった、永琳の視界の中で。

 

「なんだそりゃああああああああああ!?」

 

 絶叫とともに繰り出された慧音のロケット頭突きが、彼のこめかみを打ち抜くのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ① 「彼の記憶」

 

 

 

 

 

 かつて、人間として世を生きたことがある。

 自分が妖怪であることを忘れて、紛れもない一人の人間として、時を刻んだことがある。

 

 他の狐のように、姿形を偽って人々の中に紛れ込み、いたずらをして生きるのではなく。

『人化の法』を作り出し、本当に人間となって、そして人間として生きた数年間。

 

 千余年前――今では奈良時代と呼称され、そして日の本最古の物語として後世に伝えられるようになる、当時の記憶。

 

 少しだけ大切な、遠い思い出。

 

 

 

 ――竹取物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――あの頃は偽名まで使ってね。本当に人間になりきってたんだ」

 

 永遠亭の診察室で、月見は誰に語るでもなくそう言った。言葉を切って呼吸をすると、記憶そのものが息づいているように、当時の記憶が甦る。

 鼻に透き通るような薬の匂い。そして少しだけの、竹の香りがする。

 

「門倉銀山。いや、懐かしいね。でもまるで昨日のことみたいに、当時の記憶は鮮明だ」

 

 ひんやりとした指先が、そっと月見のこめかみをなぞる。慧音からもらった本日二度目の頭突きで切ったその場所に、永琳が傷薬を塗ってくれていた。

 

「陰陽師として生活してたんだけど、ちょうど輝夜が京を騒がせてる頃でね」

 

 患者用の診察椅子に腰掛けて語る月見に、隣で慧音と鈴仙が耳を傾ける。

 

「仕事の一環で出会ったんだよ。それからすっかり打ち解けて、というか輝夜の方から一方的に突っかかってくるようになって」

 

 本当に懐かしいねと月見が笑うと、こめかみから永琳の指が離れていった。

 

「――はい、おしまい。簡単に薬を塗っただけだけど、妖怪の体だったらすぐに治るでしょう」

「すまないね」

「いいのよ、薬師だもの」

 

 よそ行きの笑顔でそう言い、永琳が鈴仙に塗り薬を手渡す。鈴仙はそれを片付けるため、近くの薬棚へ小走りで駆けていく。

 月見は鈴仙の背中を目で追いながら、語りを続けた。

 

「というわけで思い出してもらえたかな、永琳」

「思い出すもなにも、初めから忘れてなんていないわよ。……ただ、信じられなかっただけ」

 

 表情こそ穏やかだったが、永琳の吐息にはなおも深い驚きの色があった。

 

「まんまと化かされたわ」

「ッハハハ、悪い悪い。……慧音も悪かったね。騙したつもりは――いや、結果的には騙したことになるんだろうな」

「そ、そうだぞっ。どうして黙ってたんだ、本当にびっくりしたじゃないかっ」

 

 具体的には、絶叫しながらロケット頭突きを繰り出すくらい、だ。もともと騙すつもりはなかったとはいえ、やはり狐だからか、慧音にあそこまで驚いてもらえたのは爽快だった。お返しに飛んでくる頭突きは痛いが、それを鑑みても、慧音はなかなかに騙し甲斐のある少女のようだ。

 慧音が顔を赤くして喚いた。

 

「狐かっ、狐だからなのかっ。さてはお前は悪い狐なのかっ」

「いやいや、一応はちゃんと訳ありだよ」

 

 手当たり次第に人を化かして楽しむような子ども時代は、とうの昔に通り過ぎた。

 

「見知らぬ妖怪が宿を恵んでほしいなんて言ってきたら、お前は私を家に泊めてくれたかい?」

「……それは」

 

 答えにつかえて苦い顔をした慧音に、月見はただ、そうだろうねと一つ頷く。

 元来、妖怪と人間は相容れない存在だ。妖怪が人を喰らい、人は妖怪に喰われる。かつて存在したその絶対的なヒエラルキーは、この幻想郷でだって完全に消えてなくなったわけではないはずだ。見知らぬ妖怪にいきなり宿を恵んでくれと言われたら、警戒し遠ざかるのが人として自然な反応であり、特に慧音は人里を守護する立場だから、人間たちを守るためにも不審な妖怪へは相応の対処をしなければならない。

 それを理解していたからこそ、月見は人を偽った。

 

「悪かったね、今まで騙してて」

「う……い、いや、悪気があったわけじゃないなら、別に……」

 

 慧音は気まずそうに視線を泳がせてから、椅子の上で縮こまって、頷くように小さく頭を下げた。

 

「……そ、それよりも、私の方こそごめん……。二回も、頭突きして」

「ああ、それはもういいよ。妖怪に戻ったしね、すぐ治るさ」

 

 慧音もド派手に驚いて月見を楽しませてくれたので、おあいこ、といったところだろう。終わったことでいつまでもグチグチ小言を言うほど、月見は心の狭い妖怪ではない。それこそ、悪気があったわけじゃないなら別に、というやつだった。

 だが生真面目な慧音は引き下がらなかった。今度は帽子が落ちそうになるくらいに深く頭を下げて、

 

「ほ、本当にごめんっ。お詫びに、治療費は私が全部立て替えるからっ。大丈夫、これでも意外と貯えがあって」

「あ、別にお金はいいわよ?」

「え……」

 

 そして颯爽と財布を取り出そうとした出鼻を、永琳の一言であっさりと挫かれた。

 なぜか裏切られたような目をしている慧音に、永琳はやんわりと微笑んで言う。

 

「ただちょこっと傷薬を塗っただけだもの。大したことじゃないわ」

「け、けどっ」

「それに、彼は輝夜の大切な人だもの。このくらいのことでお金を取ってたら、輝夜にケチって馬鹿にされるわ」

 

 それから、輝夜に馬鹿にされるのは屈辱だものね、とさりげなく失礼なことを言い足して。

 

「それじゃあ、手当ても済んだし戻りましょうか。……まさか、もう帰っちゃうなんて言わないでしょう?」

「……」

 

 永琳は微笑みを崩さなかったが、月見へと向けられた瞳には、強く願い乞う色があった。会ってあげて。そう祈るようでもあった。

 気づかないふりをするには、その瞳は些か、まっすぐすぎたから。

 

「……言わないよ」

 

 だから月見も、微笑んで。

 

「邪魔にならないなら、輝夜が目を覚ますまでいさせてくれ」

「ええ、もちろん。……聞かせてちょうだい。あなたと輝夜が出会った時のこと」

「……輝夜から聞かされなかったのか?」

 

 永琳は答えず、誤魔化すように不器用な笑顔を見せた。それだけで、月見は彼女が言わんとしているところを察した。

 きっとあの時の記憶は、輝夜にとって幸せなものばかりではないから。だから輝夜は自ら語ることをしなかったし、永琳も訊けなかったのだろう。

 永琳の声音は静かだった。

 

「座敷に行きましょう。……ウドンゲ、お茶の用意をしてくれる?」

「……わかりました」

 

 どこか改まった様子で頷いた鈴仙を確認してから、永琳は席を立って。

 

「それじゃ、案内するわ。ついてきて」

「ああ」

 

 薬の匂いがする診察室を出て、竹の香りがする廊下へと。永琳の背を追いながら進む、その静かな足音が、過去への門を叩くようだった。

 一歩、一歩と歩むたび、千余年越しの記憶は鮮明に息づく。

 

「……」

 

 果たして輝夜も、覚えているのだろうか。

 あの日のことを。

 

 月が夜空に白い孔を空けた、あの夜のことを。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人とともに生きてみたいと思い始めたのは、一体いつからだったのだろうか。今となっては思い出せないほど昔のことだが、とかくそれが、月見が世界中を渡り歩くようになった原点だった。

 例えば最近知り合った八雲紫という妖怪は、一人一種族の妖怪故に、人間たちの強い絆の繋がりに惹かれたのだと言っていたが、果たして月見はどうだったのだろうか。そうだった気がするし、そうでなかった気もする。人に惹かれるのが当たり前になってしまってからは、すっかり意識しなかったことだったから、忘れてしまった。

 けれどどうあれ、人とともに生きたいという願いは変わらない。

 だから理由なんてどうだっていいことだろうと、月見は思っていた。

 

『人化の法』が大成したのは、その欲望にそろそろ抑えが利かなくなってきた頃だった。数十年間、気が遠くなるほどの試行錯誤を重ねた。八雲紫のように、自分の中の妖怪と人間の境界をいじくれば、人として生きることもできるはずだと思って。

 妖狐を始めとするいくらかの妖怪は、『変化の術』を使うことで人間に化けることができる。しかしそれはあくまで姿形を変えるだけであり、妖怪であることに変わりはないから、陰陽師などの勘のいい人間にはすぐ見破られてしまう。故に絶対に妖怪だとは気取られない、完全な人を偽ることのできる術が必要だった。

 完成した『人化の法』を用いて、“門倉銀山”というそれらしい偽名まで作って、しがない流れの陰陽師として。

 そうして人間たちの都で生活を始めて数年、見事人々の中へと溶け込むことに成功し、日々、新鮮な毎日を過ごしていたある日の折に。

 月見――否、銀山のもとに舞い込んできたある一枚の手紙が、この物語の発端であった。

 

讃岐造(さぬきのみやつこ)……?」

 

 記された送り主の名に、銀山は浅く眉をひそめた。明朝、まだ下町が目覚めきらないほど早くの頃に、貴族の遣いと思われる者が銀山の家の戸を叩いた。渡された手紙は一通。送り主を表す三つの文字には、心当たりがある。

 讃岐造――『竹取の翁』として広く都中に知られる老人の名だ。天下に名高い“かぐや姫”の育ての親であり、嘘か真か、最近はかの帝との交流もあるとかないとかと噂される、究極の成り上がり人。無論、下町でひっそりと暮らす銀山では顔を拝むことすらできない、まさに雲の上の人間だ。

 

「はて」

 

 銀山は小首を傾げる。可能性としては依頼の手紙と考えるのが妥当だが、そんなことがありえるだろうか。この都に紛れ込んで早数年、こつこつと仕事を全うし、ある程度名の知れる陰陽師となった自覚はある。だが、それが貴族たちの目に留まるほどではなかったはずだ。都には今なお、銀山よりも優れた陰陽師というのは何人もいる。

 

「……はて?」

 

 宛名、差出人、ともに間違いはない。あの竹取の翁ともあろう方が、一体何用でこんな手紙をしたためたのか。

 

「うぐおぁー……」

 

 ござに腰を戻した銀山が手紙の封を切ろうとすると、背後で品のない呻き声が上がった。振り返って見れば、山なりを描いたござの下から、冬眠明けの虫よろしくずるずると這い出してくる男がいる。髪はボサボサで寝癖だらけで、衣服はほとんど裸同然に着崩れていて、なんだかその辺の道端に打ち捨てられていても違和感がなさそうな、視界に入れれば悪い意味でため息をついてしまいそうな、そんな男だった。

 そして銀山は深くため息を落とし、半目になって彼の名を呼んだ。

 

「……秀友」

「おー、おはようさん……。あー、すっかり朝になっちまったなあ」

 

 神古秀友(かみこひでとも)。銀山と同時期に都に流れ着いた陰陽師で、それがきっかけで意気統合し、友人となった男の名だ。

 友のために一応の弁解をしておけば、普段の秀友はもちろんちゃんとした格好をしている。それがここまで目も当てられない有様になっているのは、今が夜通しの酒呑みを終えたあとだからだ。

 

「酔いは覚めたか?」

「おー、まあまあってとこかあ。まだちっと頭が重いけどな」

「大して酒に強いわけでもないのに、浴びるように呑んだりするからだぞ」

「いや、そりゃあお前よ。玉砕覚悟で雪さんに告白して、頬をほんのり赤くしてさ、はい、なんて言われた日にゃあさ! 浴びないわけにはいかんだろうってもんだ!」

 

 にへら、とだらしなく秀友は笑う。それから興奮したように顔を色づかせて、くううううう、と地から込み上がる喜びの呻き声をひとしきり上げると、

 爆発。

 

「うおお、思い出したらなんだかムラムラしてきたあ! 夢じゃねえよな!? なあ夢じゃなかったんだよなアレ!? うひゃー!」

「……」

 

 彼の恋路が実りをつけたのは、友人として素直に嬉しいし祝福してもいる。しかしながら晴れて秀友と恋仲になった雪という少女は、ござにくるまって床の上を転げ回るこの(ミノムシ)の、一体どこに異性として心を惹かれたのだろうか。彼女の嗜好を疑うわけではないが、物好きだ、とは思う。

 ともあれ。秀友(ミノムシ)の姿を意識から消去しつつ、銀山は気を取り直して手紙の封を切る。

 

「お、手紙か。誰からだー?」

「竹取の翁殿」

「……は?」

 

 目を点にして固まったミノムシを無視し、銀山は手紙の内容を読み進めた。翁の字は、平民の出であるのが信じれないほど見事な達筆で、また仰々しいくらいに堂に入った季節の挨拶からは深い教養が感じられた。徹底的なまでに礼儀正しく書かれているため、育ちが決してよくない銀山にとってはくどいくらいだったが、

 

「かぐや姫が妖怪に狙われているようなので力を貸してほしい、ね……」

 

 簡潔にまとめれば、やはりこれは依頼の手紙だった。――昨夜遅く、屋敷の警護の者が庭に怪しい人影を発見した。捕らえようとしたが、驚異的な素早さで瞬く間に逃げられてしまった。その速さが人間とは思えないほど常軌を逸していたため、外から妖怪が入り込んだ可能性があると危惧し、都で有能と名高い二人の陰陽師に調査を依頼したい。

 二人の陰陽師。紙上には、翁が同様に手紙を送ったというもう一人の陰陽師の名が添えられている。

 その名に目を通し、うわ、と銀山は渋く眉根を歪めた。大部齋爾、と書かれていた。

 大部齋爾(おおべのさいじ)は、人でありながら『風神』の二つ名を戴く、都切っての大陰陽師だ。その実力は都でも頭一つ飛び抜けているが、老いてなお盛んな女好きで、若い男への当たりが悪いのが玉に瑕――つまり、銀山の仕事仲間としては最悪の相手、ということになる。

 同じくして翁の手紙に目を通しているであろう齋爾は、果たして今頃どんな顔をしているだろうか。あのかぐや姫との縁を築くきっかけになるかもしれない天恵のような依頼で、されど『都で有能と名高い陰陽師』として自分とともに呼び出されるのは、最も嫌いな若い男――つまりは、自分が若者と同じ括りで扱われている、ということで。

 ……青筋を浮かべながら、手紙を破り捨てているかもしれない。

 だが齋爾は受けるだろう。依頼の結果次第ではかぐや姫と急接近することもできるだろうから、受けないはずがない。それどころか、銀山へと一方的な対抗心すら燃やすだろう。

 のっけから気が重くなる話だと銀山が思っていると、ミノムシから人間へと戻った秀友が顎に手をやって、思案顔を浮かべた。

 

「それってもしかして、あれか? 翁さんの屋敷に妖怪みたいなのが入り込んだっつー……」

「……そうだけど、知ってるのか?」

 

 手紙を手渡すと、彼は紙面を流し読みしながら一つ頷いて、

 

「ああ。夢で見た」

「ああ……」

 

 なるほどね、と銀山は思う。秀友は、今時の人間には珍しく先天的な能力持ちだ。『人の世界を夢見る程度の能力』――自分が寝ている間に他人の意識に同調し、その人が見聞きしている世界を夢の中で共有する。

 秀友は酒に酔って寝ている間に、翁の屋敷を警固する使用人の一人に同調していたようだった。

 

「それはまた、都合がいいね。……で? どうだった?」

 

 銀山の促しに、秀友は眉間の皺をうっすらと濃くした。手紙から顔を上げて、声音は(とみ)に暗く、

 

「……入り込んだのは、どうにも人型の妖怪っぽい」

「……そうか」

 

 銀山は静かに、それだけ答えた。

 人型の妖怪は、獣型のそれよりも得てして高い知能と実力を併せ持つ。人型の妖怪には必ず二人以上の複数人で挑めというのが、どんな陰陽師の間でも根強く語り継がれる鉄則だった。

 無論、人型の妖怪すべてが強大な存在というわけではない。だが一般に危険な存在として恐れられている妖怪が、みな人型を取る者たちであるのは、厳然たる事実だった。

 

「や、でも、さすがに八雲紫とか、風見幽香とか伊吹萃香とか、そういうのじゃねえぞ?」

 

 そう、例を挙げればまさに彼女らの名前が出てくるのだが――銀山は浅く首を振った。極端な例だ。彼女らはいずれも人型妖怪の頂点に君臨するような大妖怪で、その実力は常識を逸脱している。たった一人で百人以上の陰陽師と渡り合うことも、この都を恐怖の坩堝に叩き落とすことも可能だろう。

 だが大妖怪として恐れられるような者たちは、程度の差はあれ、人間へは比較的友好的だ。少なくとも率先して人間を襲い、喰らい尽くすような真似はしない。そんなことをしなくても、彼女たちはもう充分に強いから。

 

「見つかっただけであっさり逃げたってことは、人型でもあんま強くないやつってことなんじゃねえか? ……まあ、人型って時点で弱いってことはねえだろうけど」

 

 呟いてから失言だと思ったのか、秀友は大きく笑って取り繕った。

 

「でも、こいつはお前さんが更に有名になる絶好の機会だぜ。上手く行けば、お偉いさんのお付きに抜擢なんてのもありえるんじゃねえか?」

「迷惑な話だ」

「そうか? 儲かるぜ」

「お金には困っていないよ。それに……」

 

 銀山は一息置いて、

 

「私は今の生活が気に入ってるからね。わざわざお付きになりたいなんて思わないよ」

「ッハハハ、それは俺も同感だ。こういう質素でのんびりとした生活ってのもいいもんだよな。雪さんいるし」

 

 秀友の最後の言葉を無視しつつ、

 

「だが、どうやら翁殿は相当不安になってるらしい。報酬は弾むからすぐに来てほしい……って、書いてあったよな?」

「ん? ああ」

 

 頷いた秀友は再度手紙に目を落とし、それからなにかに気づいて「うわ」としかめっ面をした。

 

「お前と一緒に齋爾サンまで呼ばれてんのかー」

 

 そしてすぐに笑う。

 

「はっはっはよかったなギン、退屈しそうにねえじゃねえか。やっぱあれだなー、世の中美味いばっかりの話はねえってこったな」

「……そうだねえ」

 

 なあなあと頷く。無論銀山とてかぐや姫に興味がないわけではないが、所詮は好奇心の対象としてであり、もし見られるなら見てみたいよね、程度の話でしかない。そのためだけに齋爾から嫌な目で見られるのは、少しばかりつり合わない気がする。

 

「なんだ、ひょっとして会いたくねえのか? かぐや姫」

「いや、会えるなら会ってみたいとは思うけどねえ。……そういうお前は? なんだったら代わってやってもいいぞ」

「冗談はよしてくれよ。オレは翁サンの依頼に応えられるほどの陰陽師じゃあ、まだねえって」

 

 苦笑した秀友は、「それに」と照れくさそうに鼻の頭を掻いて、

 

「天下のかぐや姫がどんなべっぴんさんかは知らねえけど、雪さんには勝てないだろ」

「おや……惚気だねえ」

 

 昨日の夜にだって散々聞かされた惚気話だけれど、やはり秀友は雪のことが本当に好きで、彼女以外の女性の姿が見えていない。かぐや姫でさえも眼中の外だ。

 その一途すぎる心は、見ていて呆れてしまうくらいだったが、一方で友として誇らしくもあった。

 息を吐くように笑い、立ち上がる。

 

「……どれ、急ぎの用とのことだし、なんにせよこちらから出向かないことには始まらないね。というわけでお前はさっさと帰れ。さすがに歩けるだろう?」

「おう」

 

 秀友は自信たっぷりに立ち上がったが、その足元は少しふらついてた。

 

「……本当に歩けるのか?」

「大丈夫、大丈夫。頭の方は結構スッキリしてるしな」

 

 返された手紙を受け取る。銀山はそこに綴られる文字をもう一度流し読みしながら、