銀の狐と幻想の少女たち (雨宮雪色)
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第1話 「フットルース・ステップ ①」

【概要】
・本作品は、2011~2012年にかけて、今は亡きにじファン様で連載していた同タイトルの改訂版です。
・個人ブログ『ことばつなぎ。』及び小説家になろう様とのマルチ投稿となります。
・ブログではすでに80話ほどまで公開済みですので(2016年1月時点)、手っ取り早く先を読みたい方はブログをご利用ください。URL含め、詳細はユーザページにまとめてあります。

・冒頭は三年ほど前の文章なので、今とはだいぶ文体が異なっている点だけご了承ください。


 

 

 

 

 

 夜を歩くようだった。

 

 森はあたかも空を嫌うかのようにうずたかく伸び、いっぱいに広げた両腕で空を奪っていた。今が晴れているのか曇っているのかもわからないままひっそりと木々に分け入る様は、まさしく夜闇を進むのと似ている。ただくしゃりと枯葉を踏みつける音だけがどうにも耳障りで、男は浅く目を細めた。

 

 風変わりな男だった。二十代中頃かそれ以降か、黒髪黒目の標準的な日本人の相貌に、しかしその身を包むのは洋服でなく、狩衣(かりぎぬ)にも似た白の和装。その実、狩衣とは元々狩りの際に好んで着られた運動着であるのだが――今のご時世、それを着て外を歩けば奇異と不審の目を引く。他人のいない深い森の中とはいえ、すれ違う木々すらも、男の突飛な様相に眉をひそめているようだった。

 男の足取りは静かで、しかし迷いない。周囲を見回すこともせず一直線に進んでいく様子は、歩き慣れている以上に、行くべき場所を初めから知っているという印象を与える。

 

 男がそうして目指した場所は、奥地、寂朽ちた一つの神社であった。塗装は剥げ、屋根は崩れ、柱は朽ち、境内は枯葉と雑草で足の踏み場もない、一目で廃れたのだと見て取れる神社。それを正面から見据えて、男は小さく苦笑した。

 

 男はすぐにまた歩き出す。枯葉と雑草を踏み鳴らし、境内をぐるり、社の裏に回った。

 するとそこに、背の高い石造りの鳥居があった。参道の入口に設けられるはずの鳥居が、なぜかこの廃れた神社では、本殿の裏に隠れるようにして建てられている。鳥居を越えた先に広がるのは薄闇の森だけで、参道はもちろん、獣道すらありはしない。

 されど男はその異様な鳥居を前にしても表情を変えることなく、『笠木』と呼ばれる鳥居のてっぺんを眺めて、やがて静かに笑みの息をつく。

 

 同時、男の黒髪が風に揺れた。けれども、森は依然ざわめくことなく静謐を保っている。男の周囲にだけ風が巡っているのだ。

 男の体に変化が起きる。黒かった髪はまるで絵の具を洗い落とすようにして銀色へ変わり、赤みのある健康的な肌は、少しだけ白く。そして頭の上からぴょこりと生えたのは獣の耳であり、尾骨あたりから不意に伸びたのは、彼の背丈と同じくらいの大きさになる、豊かな銀の毛で覆われた――尻尾。

 人から人外へと“戻った”彼は、そうして笑う。唇端引き上げ、子どものように。

 

「では行こうか。久方振りの――」

 

 ――幻想郷へ。

 

 森が鳴いた。或いは彼を歓迎するように、さわさわ、さわさわと。

 やがて鳥居をくぐった男の体は、森に溶けるようにしてどこかへと消えゆく。

 

 残るのはただ、寂朽ちた小さな神社と、森の声だけ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 両腕に提げた四つの饅頭の桐箱。これが何日で空になるのかを考えると、魂魄妖夢は憂鬱になった。「食欲の春よ! 食欲の春にはお饅頭をお腹いっぱい食べるのが習わしなの!」――朝っぱらからそんなことを宣う主人の頭は、間違いなく春なのだろう。

 

 春の朝だ。陽春の朗らかな朝日が注ぎ、巡る涼やかな風に乗せられ、甘い花たちの気配が香っている。そんなありふれた春の景色は、しかしこちらの荒んだ心を慰めようとするように穏やかで心地がよかった。この天気の下を歩けるのなら、朝一番で主人にお遣いを命じられたのも、まあ、悪くはなかったかもしれない。

 とはいえそれで妖夢の機嫌がすっかり回復することもなく、人里での買い出しを終えた帰り道、進める足取りはどんより重い。

 

「これでしばらくは……もたないだろうなあ。五日……いや、三日かしら。早ければ明後日にもまた買い出しを頼まれる可能性が……」

 

 風が甘く香っても、口からこぼれるのは憂色濃いため息ばかり。頭を悩ます種は、ただいま全身全霊で春を謳歌している自由奔放なご主人サマ。

 

 妖夢の主人である西行寺幽々子は、この幻想郷に広く名を知らしめる健啖家であり、なかんずく饅頭に注ぐ愛たるや、まさに山より高く海より深く。朝に眠気覚ましだと言っていくつか食べ、朝食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、昼食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、三時のおやつにいくつか食べ、夕食のあとにデザートだと言っていくつか食べ、夜になると一日の締め括りとしてまたいくつか食べる。とにかく、見てるこっちが胃もたれするくらいに食べるのだ。

 それでも彼女が太りもせず病気にもならないのは、体質故か、それとも亡霊だからなのか。ともかくそんな余計な能力を神が与えてしまったばかりに、妖夢のストレスは四六時中治まることを知らないでいる。

 

「さすがにどうにかしないとダメかなあ……。でもそうしたところで今度はお煎餅とかに流れていって、どの道買い出ししなきゃなんないのは変わらないんだろうなあ……」

 

 どうにかできるものなら祖父が既にしていただろう。幽々子の大食い癖が今なお健在なのは、祖父の腕を以てしてもやめさせることができなかったからだ。

 ならば、未だ庭師としても幽々子の目付役としても半人前の妖夢にどうして止めることができようか。結局、今の妖夢にできることといえば、幽々子のいないところで小言を漏らす程度でしかないのだ。

 

「幽々子様のばかー……」

 

 白玉楼のエンゲル係数は、どうやら今月も七割を超過しそうであった。

 

「――もし、そこの半人半霊の女の子。そろそろ止まってくれないとぶつかるのだが」

 

 その時、妖夢は聞き慣れない声を聞く。男の声。波の穏やかな聞き心地のいいバリトンの声音だ。

 ハッとして俯けていた視線を上げると、正面、手を伸ばせば届くほどの至近距離に、男が立っていた。――幽々子のことばかりを考えていて、完全に気がつかなかった。

 

「ッ、す、すみません」

 

 咄嗟に二歩後ろに下がれば、視界に男の全身が映る。同時、妖夢の脳に鮮烈に飛び込んできたのは――銀。

 銀髪の男だ。上白沢慧音のように青みがかっているのではなく、森近霖之助のように灰色がかっているのでもない、光沢すら感じさせるくすみのない鮮やかな銀色。自分のよりずっと綺麗かも、と妖夢は思わず惚けた。

 そしてそれに数秒魅入ってから、ふと男の頭から獣の耳が生えていることに気づく。続けざまに、背後で同じ銀色の尻尾が揺れていることにも目が行った。

 脳が彼が妖狐であることを告げ、反射的に身構えるも、すぐに男の表情に害意がないことに気づいて体から力を抜いた。

 

「随分と考え事をしてたみたいだね。何度か呼び掛けたんだけど、さっきの距離になるまで全然気づいてくれなかった」

「も、申し訳ないです」

 

 頬が熱を持っていくのを感じる。こんなんだから半人前って言われるんだと、妖夢は猛省した。

 ともあれ、知らない相手だ。妖夢は頬の熱が色になっていないことを祈りつつ顔を上げ、改めて男の相貌を見る。

 若い男だ。妖怪故に年齢は知れないが、人間でいえば二十代中頃か。背は、こちらが少し低いこともあってか、この距離からでもやや見上げる程度には高く見える。温厚の色濃く細まった瞳は暖かく、細面なのも相まってか、外見以上に大人びた印象を受ける。

 

「ええと……なにか、御用ですか?」

 

 まさか軟派などではなかろうが、念のため距離を保ったまま問い掛ける。男は柔和な笑みを崩さず、なに、と浅く右腕を持ち上げた。

 

「少し、尋ねたいことがあってね」

「なんでしょう?」

「ここ最近で、この幻想郷で変わったところはないだろうか」

「……変わったところ?」

 

 男の問いが理解できず、思わずオウム返しで訊き返してしまう。失礼だろうかとは思うけれど、それにしても妙な言葉ではあった。

 

「変わったところ、といいますと?」

「ん、そうさな……最近になってこのあたりにできた新しい建物とか土地とか、そういうものはないかな?」

「はあ……」

 

 問いの意味は掴めたが、そう尋ねる男の意図は依然知れないまま。

 どうしてそんなことを訊くのだろうか。最近になって新しくできた建物や土地といえば、守矢神社や永遠亭などが挙げられるけれども、そこは同じ幻想郷に住む者だ。知らないということはないはずではないか。

 そう頭をひねりながらも、とりあえずだんまりしていては失礼なので、先に答えを返しておく。

 

「去年の秋頃、妖怪の山の頂付近に、外の世界から神社がやって来ました。……こういうので大丈夫ですか?」

「ふむ、大丈夫だよ。他には?」

「そうですね、あとは……」

 

 迷いの竹林の永遠亭。あとは、最近かどうかはあくまで妖夢の主観になるが、霧の湖の紅魔館も挙げておいた。

 

「なるほど。外の世界から来た神社に、永遠亭に、紅魔館ね」

「ここ最近ではこんなところだと思います。……お役に立てましたか?」

「もちろん。助かったよ、ありがとう」

 

 満足げに頷いた男は、軽く右腕を挙げて会釈。そして驚くほどあっさりと踵を回し、妖怪の山の方向へと歩いて行ってしまった。

 

「あっ、」

 

 妖夢は反射的に半歩足を前に出したけれど、思い直せば特別呼び止めるような理由もなかったので、すぐに息をついて足を戻す。

 男はまっすぐ妖怪の山を見据え、振り返る素振りはない。こちらの存在など既に忘れているのだろう、動かす脚のリズムに合わせて、右へ左へと尻尾が陽気に揺れている。

 なんだかよくわからない妖怪だ。銀の狐なんて珍しい存在なのになんの噂もなくて、なぜ幻想郷の新しい建物を知ろうとしたのかも謎のまま。

 話をした感じ悪い妖怪ではないようだから、引き留めようとは思わないものの、

 

「……変なの」

 

 思わずそう呟いてしまう程度には、変な妖怪だった。

 けれど妖夢も、すぐに男のことを意識から外した。今妖夢が最優先すべきことは幽々子のお遣いを終わらせること。あまり帰りが遅くなると機嫌を損ねられるだろうし、そうなると色々と面倒なので、すぐに白玉楼へと向けて飛揚した。

 

 この狐が何者なのか知るのは、それより少しばかり、あとの話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 頂を見上げれば首が痛くなるほどに、高く高く伸びる石段。それを長い時間を掛けて登り切った先で、昂然と飛び込んでくる日本庭園がある。四方の形で並ぶ数多の桜を取り込んだ石庭は、まさに荘厳華麗の体現であり、冥界の中核である白玉楼を象徴する傑作であった。

 

 その石庭に四囲を彩られた日本屋敷、白玉楼。流水の如く見事な枯山水を望む大広間で響くのは、しかしバリボリという、庭の景観を全て台無しにする品の欠片もない咀嚼(そしゃく)の音。

 西行寺幽々子が、煎餅をむさぼり食っていた。

 

「おほいはへーほうふ。いっはいほほへほりみひしへるのはひは」

 

 煎餅一枚を割ることもせず丸々口に放り込み、頬をいっぱいに膨らませながら、細かく砕く。欠片を舌の上で転がすと、ほのかに醤油の甘さが香った。

 美味しい、と頬が緩む。幽々子は煎餅よりも饅頭の方が好きだが、もちろん煎餅だって大好物だ。また一枚を掴んで口に放り込む、その動きは速く、見る見る内に手元の桐箱から煎餅がなくなっていく。開けた当初は四十枚ほどあったが、今では既に半分まで減ってしまっていた。

 とはいえ、幽々子はそのことを微塵も気に留めない。『食べたい時に食べたい物を食べたいだけ食べる』を処世訓とする幽々子にとって、どの食べ物がどれだけ残っているかなど些細な問題なのだ。

 

「相変わらず、あなたは食べてばかりねえ……」

 

 バリバリ煎餅を砕く音に混じって、正面からため息が飛んできた。幽々子は煎餅を飲み込みかすかに渇いた喉をお茶で潤すと、「あらあら」と笑みをたたえて正面を見据えた。

 宝石のような光沢すら見て取れる、美しい金髪の少女がいる。その細やかな輝きも、彩られる整った相貌も、奥で悄然と細まった瞳も、全て幽々子がよく見知ったもの。

 

「だって私は食べるのが大好きなんだもの。今更よ、紫?」

 

 名は、八雲紫という。幽々子の唯一無二の親友であり、また幽々子がこの冥界を管轄しているように、彼女は幻想郷という世界を庇護している管理者でもある。

 そんな紫は今、せっかくの端正な顔立ちを明らかな私情で歪めていた。忌々しいと、そんな気持ちを包み隠さず表現した半目でこちらを睨み、

 

「なんで幽々子はそんな食べてばっかりなのに全然太らないの? 不公平過ぎるわ……」

 

 彼女がこんな表情をする原因を、幽々子は既に察している。つまりは紫、なにがとは言わないが、“増えた”のだ。少し前に外の世界に出掛けた際、誘惑に負けてケーキをいくつか頬張ったのだという。

 やはり女たるもの、“増え”てしまうと精神的に大きなダメージを負うものだ。妖夢もそれが嫌で嫌で、仕方ないから自分の食生活にはかなり気を遣っていると言っていた。

 けれど幽々子はそんな彼女らをあざ笑うように、どれだけ食べても一向に太らない体質の持ち主だった。だから、鼻にかけるように大きく笑んでこう返す。

 

「羨ましい?」

 

 すると案の定、紫はなお一層とその口元を歪めて舌打ちした。

 

「ええそうよ、羨ましいわよ」

「紫も食べる?」

「人の話聞いてた? 食べないわよ」

「美味しいわよー?」

「結構ですー」

 

 ツンとそっぽを向く紫に、幽々子は可愛らしいものだと笑みを深めた。じゃあちょっとだけいじめてやろうかと、これ見よがしに煎餅を噛み砕きながら、独り言を言うように、

 

「一瞬の油断が命取り。難儀よねえ……」

「うぐぅっ……ふ、普段は大丈夫なのよ?」

「これはきっとあれねー。外の世界から買ってきたケーキを親友にお裾分けすることもせず独り占めしたものだから、ケーキの神様が罰をお与えになったのよ」

「うう、ケーキの神様のバカ~……」

 

 紫が心底悔しそうに目元を歪めた。幽々子は芝居がけて大仰に両腕を広げ、声高につなげる。

 

「今からでも遅くないわ、私にそのケーキを持ってきなさいな! そうすれば私がケーキの神様にお話をして、あなたにかけられた呪いを解いてもらうようにお願いしてあげる!」

「……騙されない、騙されないわよ。つまりはあなたがただケーキを食べたいってだけでしょ」

 

 紫は半目でこちらを睨み、それから吐息。

 

「それに、もうちょっとで元に戻るもの。努力の勝利よ」

「ああ、ケーキの神様、ケーキの神様! ここにいる薄情者に更なる罰をお与えください!」

「ちょっと幽々子ー!?」

「具体的には、もっと太」

「やめてえええええ!? それ冗談にならないから、ストップ、ストップ!」

「知らないわよー! 意地悪な紫なんていっそぶくぶくに太」

「やああああああああ!?」

 

 紫が顔を真っ青にしてこちらに飛び掛かってきた。そのままビシビシと頭を叩かれたので、すぐに幽々子も反撃に出る。

 

「ケーキを独り占めする紫が悪いのよー!」

「仕方ないじゃない、とっても美味しそうだったんだものー!」

「ふーんだ!」

 

 負けじと平手を振るう勢いに任せて、

 

「これからもそうやって誘惑に負けて、太って、いつか“あの人”に呆れられちゃいなさい!」

 

 と、言った瞬間だ。

 

「――……」

 

 唐突に、紫の動きが止まった。

 

「……紫?」

 

 幽々子は紫を見た。今までの食いかかる勢いは露と消え、こちらに掴みかかった体勢のまま、それでもどこか心あらずと茫と視線を迷わせている。

 幽々子は内心で吐息した。『あの人』。たったそれだけの言葉でこんな反応をされるとは思っていなかったから。

 ちょっとした冗談のつもりだったけれど、失敗だっただろうか。そしてどう取り繕うかと考えていると、先に紫が、ポツリと言った。

 

「ねえ、幽々子」

 

 もはやふざけるのはおしまいだ。幽々子は掴みかかられていた紫の手をそっと解いてやり、その声に真摯に耳を傾ける。

 

「なあに?」

 

 促しに、紫は一つの言葉で応じた。

 

 

「――昨日ね。あいつの夢を見たの」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「そう。あの人の夢を、ね」

「うん」

 

 告げる紫の声色には、ややの思慕の感情がにじんでいた。幽々子は口元にそっと笑みを忍ばせる。

 

 八雲紫には想い人がいる――なんて話は、少しばかり唐突だろうか。けれどそれは、幽々子のように紫と親しい者ならば誰しもが知っていることだ。

 

 綺麗な銀の毛を持つ狐であった。幽々子の知りうる限りで最も澄んだ銀である彼は、

 

「あの人が外の世界に出て行って……もう500年くらいになるのかしら」

 

 久しく昔、幻想郷から外の世界に出て行って、それっきり戻ってきていない。自由奔放で好奇心旺盛な妖怪なのだ。この幻想郷より外の世界の方が面白いからと、それだけ言い残して、もう500年の年月を数えている。

 

「なるほどね、じゃああなたがそんなにセンチメンタルになってる理由も納得したわ。つまり――会いたくて会いたくて仕方ないってことね?」

 

 問い掛けに、紫はちょっとだけ気恥ずかしそうに頷いた。そんな姿が、たとえ千年以上を生きた大妖怪であっても少女のように可愛らしいのだと、幽々子は己の笑みを深めた。

 

「きっと大層、外の世界での生活が楽しいんでしょうね。500年もあなたのことをすっぽかしてるんだもの」

「……」

 

 半瞬の沈黙。

 

「……ねえ、幽々子」

 

 紫の表情に陰りが差し、そうして幽々子に掛けたのは不安げな問い。

 

「ここって、そんなに面白くないのかな。……つまらないのかな」

 

 今にも消えてしまいそうに儚いその声音を、しかし幽々子ははっきりと聞き、そして答えた。

 

「少なくとも、私はそう思ったことはないわよ? でもあの人は、もしかしたら違っていたのかもね。あの人はあなたみたいに人間のことが大好きで――でもあなたとは違って、妖怪と人間を共存させるのではなく、もっと単純に、人間たちと同じ時間の中を肩を並べて歩いていこうとした」

 

 一息置いて、

 

「幻想郷の時間は、外の世界に比べればきっと止まっているようなものでしょうし。なにかが足りないって、感じていたのかもしれないわよね」

「……」

 

 単純な単位としてではなく、生活水準の発展という意味合いで、幻想郷の時間は成立当時からほとんど変わっていない。仕方のないことではあるのだ。過度に文明を発達させれば外と同じように妖怪の住みにくい世界になりかねないから、そんな外から隔離し時間を止めた幻想郷のシステムは、妖怪と人間を共存させる上で必要な予防線だ。

 このシステムをつくり上げた紫は間違ってなどいない。だからこそ、

 

「だとしたらきっと、あの人が外の世界に出て行ったことは必然だったんじゃないかしら。ほらほらあれよ、いわゆる『価値観の相違』ってやつね」

 

 例えば外の世界には、未だに幻想入りを拒み、人間たちとともに生きている妖怪たちが少なからずいる。生き物の価値観は千差万別。妖怪の中にだって、妖怪の楽園とされる幻想郷よりも、あえて外の世界を選ぶような変わり者はいるのだ。

 そして彼は、後者だった。ただ、それだけの話。

 

「……」

 

 ままならないものね、と幽々子は思う。紫は幻想郷を管理する立場だから、一緒にいたくても彼のあとを追うことはできない。そして彼は、きっと紫の想いにも気づいているのだろうけど、花より団子と自分の好奇心に従って生きている自分勝手な妖怪。こうも噛み合わないのは、傍から見ていて実にもどかしい。

 

「戻って、こないかなあ……」

 

 切々と揺れる紫の呟きに、幽々子はそっと眉を下げた。

 或いは慈母のように、微笑んでやる。

 

「あの人は自分勝手だけど、決して薄情じゃない。……むしろ、妖怪には珍しいくらいの人情家だもの」

 

 一息、

 

「きっとその内、なんの前触れもなく戻ってきてくれるわよ」

 

 言い切ると同時、ただいま戻りましたー、と大広間の襖が開く。親友として紫を思う幽々子は、しかしここに来て己の食欲を優先させた。あどけなく目を輝かせ、満面の笑顔で、広間に入ってきた彼女を迎える。

 

「おかえりなさ~い、妖夢! そして待ってたわよ、お饅頭~!」

 

 幽々子の視線の先、魂魄妖夢は疲れのにじんだため息を一つこぼして、両手の荷物――袋いっぱいに入った饅頭の木箱――をドサリと下ろした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ポヤポヤ笑顔の幽々子に迎えられて妖夢が大広間に入ると、彼女とちょうど差し向かう形で、お遣いに出る前には見られなかった人影があった。

 

「あ、紫様。いらしてたんですね」

「……ええ、そうね。お邪魔してるわ、妖夢」

 

 紫はこちらを一瞥だけして、妙に元気のない声音でそう返してきた。少しばかり様子がおかしいような気がして、妖夢は幽々子に視線で問う。どうかしたのですか、と。

 対して幽々子は眉を下げた笑みを浮かべ、唇だけを動かして、大したことじゃないわ、とだけ言った。

 少し気に掛かったが、紫は妖夢よりもずっと上の立場だし、なにより主人である幽々子にそう言われれば踏み込もうとは思わない。新しくお茶を用意してあげようと思いながら視線を動かすと、テーブルの上で、ごっそりと中身の減った煎餅の桐箱が目に入った。

 

「……幽々子様、お饅頭もお煎餅も決して安くはないんですから、せめてほんの少しだけでも食べる量を減らして――ちょっと、聞いてますか?」

「うん、聞いてる聞いてる」

 

 幽々子はそう何度も頷きながら、こちらの買ってきた饅頭の箱を引っ掴んで包装を解きにかかっていた。

 

「ちょ、ちょっと、言ってる傍から開けようとしないでくださいよ! 聞いてないじゃないですか!」

「違うわよ妖夢、――聞いた上で開けようとしてるの」

「……、」

 

 どう返すべきかと妖夢が一瞬迷ったその隙に、幽々子は手慣れた手つきで包装を解き、中から饅頭を三つつまみ出す。そして瞬く間に、その中の一つが彼女の口の中に消えてしまった。

 

「あ~ん、美味しいわあ~♪」

「…………」

 

 もはや止めるには手遅れ、饅頭一つ守れない己の無力がなんとやるせないことか。妖夢はせめて他の饅頭だけはと桐箱を素早く幽々子から遠ざけ、一方で、自分もその中から一つを手に取った。

 

「あら、妖夢も食べるの?」

「私だって、お饅頭は好きですから。いつも幽々子様に取られてますけど」

「ふうん……」

 

 それに今は、精神的な疲れもあるのか、無性に甘い物を食べたい気分なのだ。体重の方がやや気になるけれど、お遣いに行って充分運動したし大丈夫だろうと恣意的に解釈。頬張った途端に口全体に広がるであろう餡の甘みを思い描きながら、妖夢は笑みとともにそれを口に――

 

「紫も食べる? 美味しいわよ」

「……ねえ幽々子、あなた今、私に喧嘩売ってる?」

 

 運ぼうとした瞬間、幽々子のその一言で周囲の温度が俄に冷たくなった。紫がほのかに黒いオーラをまとい始めているように見えるのは、恐らく錯覚ではないだろう。妖夢の全身から冷や汗が吹き出した。――そういえば彼女、今、ダイエット中だとか言っていたような。

 なにしてるんですか幽々子様!? と妖夢は幽々子を見やるものの、彼女はまったく気にも留めていない様子で肩を竦めており、

 

「ひどいわ紫ったら。私はただ、大切なお友達のために善意でお裾分けをしてあげようと思っただけなのに。――どこかの薄情な誰かさんとは違って」

「なんだ、そうだったの。――よし表に出なさい幽々子」

「お、おおお落ち着いてください紫様ー!?」

 

 ゆらり、幽鬼のように立ち上がった紫を、妖夢は慌てて両腕で引き止めた。喧嘩をするほど仲がいいなんて言葉があるけれど、この二人が喧嘩したら間違いなく白玉楼は半壊するし、どうせ修理はこちらの仕事になるのだ。迷惑以外のなにものでもないのでなんとしても思い留まって頂きたい。

 

「放しなさい妖夢、太る苦しみを知らないやつには制裁が必要なのっ」

「わ、私はわかりますよ! 嫌ですよね苦しいですよね、ほ、ほら私なんてもう体重計恐怖症で!」

「あら、あなたはいい子ねえ。私はとても嬉」

「太る苦しみ? なにそれ食べられるの?」

「さあ幽々子早く表に出なさあああい! ここで袂を分かってあげるわあああああ!」

「うわあああああ!?」

 

 殺伐と荒れ狂う大広間の空気、抑え切れず溢れる紫の妖力。白玉楼を泣きながら修理する己の未来が妖夢の頭をよぎった中、しかし元凶たる幽々子はポヤポヤ笑いながら「ほ~らほら」と饅頭を頬張るのみ。完全に遊んでいる。もうやだこの主人、と妖夢は泣きたくなった。

 しかし、たとえ涙を流してでも、白玉楼が破壊される未来だけは回避したい。ここには祖父から受け継いだ大切な日本庭園があるのだ、このまま全てを投げ捨てることなどどうしてできよう。意を決し、最後の説得を試みる。

 

「ゆ、紫様紫様、お願いですから落ち着いて」

「どきなさいスキマ送りにするわよ」

「ひー!?」

 

 けれど紫の感情は既に抑えが利かないところまで昂ぶっており、説得の余地などありはしなかった。ギロリと睨みを利かされ、妖夢は恐れをなしてその場でしゃがみガード。

 

「さあ幽々子ぉ……覚悟はいいかしらぁ……?」

「仕方ないわねー。じゃあ私も、ちょっとケーキの恨みを晴らさせてもらうとしましょうか」

(ぎゃあああああ!?)

 

 遂には幽々子が紫に応じて腰を上げてしまったので、妖夢はいよいよ血の気を失った。頭を体を右往左往、ななななんとかしないとなんとかしないとと焦りに焦り、その状態ではとてもじゃないけれど正常な判断などできるはずもなく、

 

「あ、あー! そ、そういえばお遣いの帰りに変な妖怪に会ったんですよねー!」

 

 気がついたら、そんなことを叫びながら二人の間に割って入っていた。「変な妖怪? 焼き鳥の妖怪とかかしら?」「幽々子様は黙っててくださいっ!」余計なことを言う主をいい加減に黙らせ、紫の気を逸らせるために身振り手振りであれこれ、必死に必死にまくし立てる。

 

「すごい特徴的な方だったんですけど私は全然知らない方だったのでもしかしたら紫様なら知ってるかもしれませんねだからもしご存知だったら教えてほしいなあとか思いましてだからお願いです喧嘩はやめてくださいお屋敷を壊さないでくださいいいいいい!」

 

 もはや妖夢に、己の外聞を気に掛ける余裕などありはしない。大事な庭を守りたくて、というか幽々子の世話だけでいっぱいいっぱいなんだからこれ以上余計な仕事を増やさないでくださいよと、ただその気持ちだけを以て泣きながら紫にしがみついていた。

 紫はしばらく不快げに顔をしかめていたが、やがてこちらの気持ちを汲んだのか、それとも単純に興醒めしたのか、ため息一つで溢れていた妖力を鎮めた。

 

「わかった、わかったわよもう」

「うわあああありがとうございますううううう!」

「はいはい……。で、誰なのその変な妖怪って?」

「あ、はい。綺麗な銀色の妖狐で」

 

 紫の妖力が再び溢れ出した。

 

「ひいいいいいごめんなさいどうでもいいですよねこんな話すみませんごめんなさい申し訳ありま」

「――妖夢、その妖怪はどこに行ったの?」

「……へ?」

 

 しゃがみガードをする妖夢の頭上、降ってきた声色に怒りの色はない。溢れる妖力とは対照的にひどく落ち着いた、語りかけるような声だった。

 恐る恐ると顔を上げれば、紫が張り詰めた表情でじっとこちらの答えを待っている。妖夢は言葉につかえた。彼女がどうしてこんな顔をするのかわからなかった。

 

「お願い、教えてちょうだい」

 

 二度目の問い掛け。妖夢はハッと背筋を伸ばして答えた。

 

「よ、妖怪の山の方に歩いて行きました……けど」

「そう。……ありがとう」

 

 そう短い返事をした時、紫は既にこちらを見ていなかった。白玉楼の外、妖怪の山の方向を一途に見据えて、驚くほどあっさりとスキマの中に消えていってしまった。

 

「……、」

 

 唐突に訪れた静寂に、妖夢はただ、一体なにが起きたのかと目を丸くするばかり。

 答えを送ったのは、背後で静かに笑みの息をついた幽々子だ。

 

「ふふ。居ても立っても居られないっていうのは、きっとああいう状態のことをいうのね」

「……幽々子様」

「でかしたわね~、妖夢。あなたが戻ってくる直前まで、ちょうどあの人の話をしてたのよ。やっぱり噂をすれば影が差すのね」

「は、はあ」

 

 どうやらあの狐、本当に紫や幽々子の知り合いらしい。しかも紫があそこまで張り詰めた表情をしたのだ、恐らくただの顔見知り程度ではない。

 

「何者なんですか? その男の方は」

 

 問うと、幽々子は不思議がるように「んー?」と口元に人差し指を添え、

 

「話してなかったかしら? 紫の想い人のこと」

「おっ……想い人、ですか」

 

 予想外の言葉に、妖夢は思わず身を固くした。半人半霊故に見た目以上に長生きしているとはいえ、魂魄妖夢、恋愛話にはなにかと初心なお年頃。

 その反応に幽々子は微笑み、

 

「そういえば、そういう人がいるってことしか言ってなかったかしらね」

「え、ええ……恐らく」

 

 答えつつ肩から力を抜き、妖夢は己の記憶を遡った。確かに、そんな話を相当昔に聞かされたような気がする。かなりおぼろげな記憶だが、何百年か前に外の世界に出て行ったきりなんの便りもなくて、軽い行方不明状態だとか言っていたか。

 

「まさか、彼が?」

「確定とは言えないけど、まあほとんど間違いないでしょうね。銀色の狐なんてあの人以外に知らないし」

 

 幽々子は頬に手を添え、吐息。

 

「なんの前触れもなく戻ってくるとは思ってたけど、本当にそうなるなんてね。あの人らしいわ」

 

 つなぐその声色はどことなく楽しげで、次第にたたえた微笑も深まっていく。紫の想い人だという彼が戻ってきたことを、喜ばしく思っているのだろう。その反応を、妖夢は意外だと思った。

 少なくとも幽々子は、その狐のことをある程度以上慕っているようだ。そうでなかったら、こんな風に嬉しそうな顔はしないだろう。

 

(ふうん……)

 

 初めて話を聞かされた時は特に興味が湧かず、名前すら尋ねずに聞き流していたけれど。主人とその親友がここまで慕うような男……改めて、どのような人物であるか気に掛かった。

 だから妖夢は、幽々子にこう問う。

 

「幽々子様。その人のことについて、教えてもらえませんか?」

「あら、あの人に興味が湧いた? 紫に怒られちゃうわよ?」

 

 意味深な横目を向けてきた幽々子に、そんなんじゃないですよと苦笑を返す。

 

「ただのお知り合いじゃあ、ないんですよね?」

「んー、どうかしら。私なんかは案外普通の知り合い同士のような気がするけど、でも紫にとっては違うわね。なんでも、あの人がいたから幻想郷を創ろうと思ったんだとか」

「……それって、もしかしなくてもすごい方じゃないですか?」

「思想的な話よ。あの人も、紫と同じで人間が大好きだから……」

 

 まあ、これよりも先に話すことがあるわね――そう浅く首を降って、幽々子はその場に腰を下ろした。

 お茶を一口すすり、吐息。

 

「……じゃあまずは、あの人の名前からかしら?」

「はい。お願いします」

 

 頷き、妖夢も幽々子の向かい側に座る。そして互いに差し向かう形の中、幽々子はまず懐かしむように目を細め、

 

「思い出してみて、妖夢。あの人の毛並み、銀色は、まるで月を見てるみたいに綺麗だったでしょう?」

 

 思い出に浸り、微笑んだ。

 

「だから、あの人の名前は――」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無数の瞳が、彼女を見ていた。

 瞳以外に、体はない。延々赤黒い空間に無数の瞳だけを植えつけた、ただそれだけの『スキマ』と呼ばれる空間で――瞳たちが瞬きもせず滔々(とうとう)と追う先、八雲紫は飛んでいる。

 

「っ……!」

 

 その心には、もはや“彼”以外の何者もありはしない。彼以外の他者を全て弾き出し、ただ彼の隣に在るためだけに、がむしゃらにすらなって飛んでいく。

 

 いつ戻ってくるんだろうと、ずっとずっと心配だった。幻想郷を捨ててしまったんじゃないかと不安に思ったことがあった。もしかして死んでしまったんじゃないかと、怖くなったこともあった。

 

 けれど彼は、あれから500年も経ってしまったけれど、またここに戻ってきてくれた。

 だから、だから八雲紫は飛ぶ。このスキマの中を飛ぶことさえ煩わしいと、スキマを抜けるまでの数秒がどうしてここまで長いのだと、体を震わせて。

 

「待ってて……!」

 

 抑え切れない感情は、やがて一つの名を呼ぶ叫びを生んだ。

 それは、彼の名。

 奇しくもその叫びは、場所は違えど、西行寺幽々子が従者に彼の名を伝えたのと同時であった。

 

 片や、一時も早い再会を求めて、切々と。

 片や、遠い思い出に浸るように、蕩々と。

 紡ぐ音は、等しく三つ。

 

 ――月見(つくみ)、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第2話 「フットルース・ステップ ②」

 

 

 

 

 

 すっかり背を高くした太陽が、昼の訪れを告げていた。

 

 繁る木々は、南中の太陽と競うかのように精一杯背伸びをして、足元に涼しい木陰を落としている。そしてその間を縫うように蛇行し、妖怪の山の山道は伸びていた。

 広い山道だ。山を登る標として最も多くの者が行き交うこの場所は、急な段差には階段が据えられ、崖際では転落防止のロープが張られるなど、整備の手が入り込んでいる。妖怪はもちろん、体力があれば人間だって難なく進んでいける作りだった。

 

 その山道の麓に近い登り始め、木々の深みもまだ青い地点で、道の外れで伸びる大木の枝に腰掛け、ぶらぶらと両足を遊ばせている人影がある。

 暗い赤色のドレスに、胸元まで届く大きなリボンのヘッドドレス。白塗りの肌とエメラルドグリーンの髪はどことなく浮世離れしていて、等身大の人形が動いていると、そんな印象を見る者に与える少女。

 彼女――鍵山雛は、陽気に微睡んだ瞳で、ぼんやりと山道を見下ろしていた。

 

「ん……今日は、特に変な人もいないわね」

 

 妖怪の山は幻想郷で最も多くの妖怪が住まう場所であり、故に、指折りの危険区域でもある。とりわけ仲間意識が強い天狗たちが主導しているため、外部からの侵入者には一倍敏感だからだ。

 そのことはある程度以上に周知であれ、知っていながらも道に迷って入り込んできてしまう人間や妖怪は多い。そんな者たちが不用意な行動で天狗たちを怒らせたりしないように、またそのせいで捕らえられたりしてしまわないように忠告を行い、必要ならお引き取り願うよう(物理的な意味も含めて)交渉するのが、雛のささやかな日課だった。

 

「退屈……」

 

 けれども陽気が満ち満ちる春の昼、見下ろす先を通り過ぎる人影はない。たださわさわとそよ風が森を撫でる音だけが鳴っていて、至って平和な昼模様。歓迎すべき退屈だと、雛は微笑んだ。

 

「……そろそろ、お昼ご飯にしようかしら」

 

 呟き、雛は枝から宙へ身を躍らせた。陽光が高い位置から注ぐ。エメラルドグリーンの髪は光沢を増し、ドレスは一層その色を深め――もう一つ、雛の周囲をゆったりとした動きで回る、淀んだ霧状の物体が(あらわ)になった。雛が人間たちから集めた厄の塊だ。

 雛の表情がかすかに曇る。

 

「たまには、誰かと一緒にご飯を食べたりしてみたいなあ……」

 

 雛は、厄神だ。厄を集め人々を不幸から遠ざけるため、ありがたい神様だと名前だけは慕われているものの、一方で集めた厄により周囲の者たちを不幸にしてしまうせいで、存在自体は敬遠されている。

 そんな雛には、親しく食事するような友人はいない。顔見知り程度の知人なら何人もいるが、それだけだ。

 雛は厄神として生まれてから随分と長くになるから、今となっては慣れたものだけれど、それでもなんの寂しさも感じないほど鈍感な心を持っているわけでもなかった。やっぱり、誰かと一緒に笑いながら食事をする光景には、憧れてしまう。

 それは、厄神として過ぎた願望だろうか。

 

「……って、いけないいけない。なにしんみりになってるのよ」

 

 雛は厄神で、厄神は厄を集める。そうすることで、間違いなく人々が不幸から離れ、穏やかな生活を送ることができるのだ。

 ――だったらちょっとくらい寂しくたって、どうってことない。

 雛はぶんぶんと頭を振って、感じていた寂しさを振り払った。そうして、昼食を食べたらまたみんなのために厄を集めるんだと強く思い、早く帰ろうと、家に向けてまっすぐ飛んでいこうとした。

 

「――おや。これはまた、随分といい道じゃないか」

 

 直後のことだ。そんな独り言が聞こえてきて、雛はハッと眼下を見下ろした。見慣れない男が一人、いつの間にか山道をのんべんだらりと進んでいる。

 白の狩衣(かりぎぬ)に身を包んだ、銀の毛を持つ妖狐であった。その毛並みは一度見れば記憶の片隅に刻まれるであろうほどに印象的で、事実雛の記憶にもそう刻まれた。けれどそれは同時に、雛が彼を初めて見るということであり、ならば山の外から来た部外者である可能性が高い。

 雛は飛ぶ行き先を家の方向から眼下へと変え、ドレスの裾を翻し颯爽と、彼の行く手を遮った。

 

「ちょっと待ってくれるかしら?」

「ん?」

 

 こちらの制止の呼び掛けに、彼は少しだけ驚いたように目を開いて歩みを止めた。

 互いの距離は五メートルほど、差し向かって話をするには少し遠いかもしれない。けれど雛にとっては、むしろ近すぎるくらいだった。これ以上近づくと周囲を回る厄がすぐにでも彼を不幸にしてしまうから、普通に話ができる距離と、厄がなるべく影響を及ぼさない距離、その二つの折衷点だ。

 雛は、彼に不用意に近づいてくる様子がないことを確認し、問う。

 

「この山に、一体なんの用かしら?」

「用と言われても……ただ山登りをしようと思っただけだが」

「山登り?」

 

 男の返答が一瞬理解できず、雛は眉をひそめた。山登り。そんな月並みな理由でこの危険地帯に分け入ろうなどという酔狂な者には、久方振りに出会う。

 

「……あなた、ここがどこだかわかってる?」

「妖怪の山だろう?」

 

 それがどうかしたのか? とでも言うかのような即答に、思わず閉口した。雛には、この狐がなにを考えているのかわからなかった。山登りできるような山は他にいくつもあるはずなのに、なんでよりによって、天狗たちの縄張りであるこの山に入り込もうとするのか。天狗たちは縄張り意識が強くて、無断で立ち入って怒らせればとてつもなく面倒なことになる。幻想郷に住んでいる妖怪ならば、知らない者などいないはずなのに。

 妖狐の尻尾の本数は一、佇まいものんびりとしていて締まりがないし、とても強そうには見えない。山登りをしたところで、天狗たちにボロボロにされて追い返されるのが落ちだとしか思えなかった。

 

「……あなたは、自分がなにをしようとしてるのかわかってるの?」

「うん……? なにか変なことでも言っているか?」

 

 しかも自覚はなしだ。いよいよもって呆れてくる。気がついたら大きなため息がこぼれ落ちていた。

 

「一応忠告するけど、やめておいた方がいいわよ? この山は、幻想郷でも指折りに危険な場所なんだから」

「まあ、確かにそうかもしれないね」

「……そこまでわかってるなら、どうして登ろうとするのよ?」

「なに、山の頂上に外の世界から神社がやって来たという話だ。ちょっと見に行ってみようと思ってね」

 

 雛の脳裏に、博麗霊夢と霧雨魔理沙の姿が浮かんだ。去年の秋に彼女らもそんな理由から山に分け入って、親切心で引き留めようとしたこちらを弾幕で蹴散らしてくれたものだ。今思い出してもひどい話だと思うけれど、同時に二人の実力が、山に入っても大丈夫なほど確かだったのも事実。

 では、この狐はどうなのだろうか。あの二人と同じように、確かな実力を以て進もうとしているのか? ……それを知るには、実際に闘ってみるしかない。

 仕方ないわね、と雛は再度吐息した。まあ、ちょうどしんみりしていたところだったし、気分転換で弾幕ごっこに興じるのも悪くはないだろう。

 

「それじゃあ、この山に入っても大丈夫な実力があるのかどうか、私が弾幕ごっこで見てあげるわ。スペルカードは……三枚くらいでいいでしょ」

 

 雛はスペルカードを抜いて、改めて男と対峙した。「ほら、早くしなさいな」促す。けれど男は、まるでこちらの言葉をちっとも理解できていないかのように、不思議そうに首を傾げて押し黙っていた。

 雛もまた眉をひそめた。まさかスペルカードルールを知らないわけではあるまい。もしかして、スペルカードを持っていないのだろうか。

 

「どうしたの? まさか、スペルカードを持っていないとか?」

「ん? ああ、いやね……」

 

 歯切れの悪い返答。男は腕を組んで、更に数秒沈黙した。

 胡乱げな静寂が満ちる中、やがて窺うような声音で問いが来る。

 

「弾幕ごっことかスペルカードとか、一体なんのことだ?」

「……はあ?」

 

 その、まさか。よもやとは思ったが、どうやらこの男、スペルカードはおろか弾幕ごっこすら知らないらしい。ありえない。雛が思わず漏らした声は、素っ頓狂なまでに上擦ってしまっていた。

 弾幕ごっこ。スペルカードルール。今や幻想郷で一世を風靡している、最もポピュラーな決闘方式ではないか。そのへんの名もない妖精ですら理解して楽しんでいるようなシステムを、この狐は知らない? どこの田舎者よ、と雛はあんぐり口を開けたまま絶句した。

 男はすまなそうに苦笑する。

 

「いや、悪いけど……本当に知らないんだ」

「……呆れた。弾幕ごっこを知らないなんて、あなたどこの田舎者よ」

「ッハハハ! いや、申し訳ない」

 

 そして今度は、なにが面白いのか大笑いまで。全然笑い事じゃないんだけど、と雛は冷たい半目で男を睨んだ。

 豪放な性格なのだろう、男はなおも悪びれる様子なくくつくつと喉を鳴らし、同時にその目に好奇心めいた、若く光る眼光を宿した。

 

「で、なんなんだ、その弾幕ごっことかいうのは。よければ教えてくれないかな?」

「……神社に行きたいんじゃなかったの?」

「それはそうなんだが、今はこっちの方が面白そうだ」

「……」

 

 変な妖怪、と雛は割かし本気で思う。銀の毛を持つ特徴的な出で立ちで、妖怪の山に大した理由もなく入り込もうとするような呑気者で、スペルカードルールも知らないような世間知らずで、成年の相貌に反し、少年のようにあっさりと興味の対象を変える。こうして話せば話すほど、毒気を抜かれて脱力していくばかりだ。なんかもう、このままここを素通りさせてしまっても、案外問題ないんじゃないだろうか。

 

「そのへんに座りながら教えてもらえるとありがたいよ」

「……」

 

 確かに、スペルカードルールも知らないような相手と弾幕ごっこなんてできるはずもない。完全な肩透かしに、どうしたものかなあ、と雛は肩を落とした。

 別にスペルカードルールについて教えてやることは問題ないし、暇潰しにもなるだろう。けれど雛は、了承の言葉を返すのを躊躇っていた。

 彼のことを疑っているわけではない。彼が悪い妖怪でないことは、今までの締まりのない会話から既に察した。その上で、話をしたいと言ってもらえることもそれなりに嬉しかった。雛にとっては、誰かと二人で話をするということすらも稀少なことなのだから。

 そしてだからこそ、躊躇う。

 ――私は、厄神だから。

 周囲を回るこの厄のせいで不幸な目に遭わせてしまうのは、忍びない。

 

「まあ……弾幕ごっこのことなら、私以外に教えてもらうといいわ。誰でも知ってるようなことだし。ここも好きに通ってくれて構わないから。ただ、天狗には気をつけてね」

「うん……? ひょっとして、都合が悪かったか?」

 

 むしろ雛は、どうして彼がこちらから話を聞こうとしているのかがわからなかった。好き好んで厄神と雑談しようとするやつなんているはずがないのに、もしかして彼はこちらが厄神だと気づいていないのだろうか。

 

「……あなた、私がなんの神だかわかってる?」

「厄神だろう? お前の周りを、クルクルと、厄が回ってる」

 

 ――そこまでわかってるなら、どうして?

 

「もしかして、不幸な目に遭いたいの? こっそりマゾ気質?」

「……いや、そんなこと訊かれても困ってしまうんだけどね」

「冗談よ」

 

 しかし、不幸な目に遭いたいわけではないのだとしたら、いよいよこちらと話をしようとする理由がわからなくなる。雛と彼の間にはある程度距離があるが、この間隔でも、長く共にいれば厄が悪影響を及ぼしかねないのだ。弾幕ごっこがなにかなんてそのへんの妖精に訊いても教えてもらえることだし、さっさと先に行くか引き返すかなりすればいいのに。

 

「なのになんであなたは、私と話をしようとするのよ。……私と一緒にいると、不幸になるのに」

 

 呟いた言葉には、彼を責めるような色が浮かんでしまっていた。それを自覚して、雛はハッと視線を俯かせる。……たとえ出会ったばかりの相手でも、話をしたいと言ってもらえたことは素直に嬉しかったはずなのに。

 気まずい沈黙が落ちた。彼が困ったように息を吐いた音が聞こえる。

 

「誰かと一緒に話をするのは、嫌いか?」

 

 そんなことはない。むしろ一度くらいは、誰かと友達みたいに気を置かずに話をしてみたいと思う。

 ただ、

 

「それで誰かを不幸にするわけにも、いかないでしょ……」

 

 自分の幸せのために他人を不幸にするだなんて、雛にはとても耐えられないことだった。だから厄神として周囲から敬遠されることを受け入れて、できる限り他人に関わらないで生きてきたのだ。

 こうして彼と向かい合うのにも、限界が近づいてきていた。周囲を回っていた厄は次第に雛のもとを離れ、彼の方へと流れ始めてきている。これ以上の長話はもはや危険だ。

 

「……行きなさいな。これ以上長居すると、不幸になっちゃうから」

「……そうか」

 

 落胆したような声色。雛の心の奥が鈍く傷んだ。ああ、この人は本当に私と話をしようとしてたんだな、とわかったから。

 おかしなやつだ、と思う。……でもそこには、決して不快感はない。

 

「……」

 

 きっと彼は、お人好しな妖怪なんだろう。初めは疑ってかかったけれど、結果的に言えば、こうして彼と短い間でも話ができたのは、悪くない体験だったかもしれない。

 だから雛は、彼に移り始めようとする厄たちに待ってと祈りながら、言葉を紡いだ。

 顔を上げ、正面から彼を見据える。

 

「名前、言ってなかったわね。私は鍵山雛。知っての通り、厄神よ」

 

 願わくは、会えば少し話をするくらいの関係にはなれるだろうかと、そう思いながら。

 目の前で、彼が小さく笑った。確かにそうだな、と呟きながら頭をかいて、

 

「自己紹介がまだだったね。私は――」

 

 ――雛が瞠目したのは、直後。

 

 突然、彼の背後の空間が裂けた。赤黒く塗り潰された空隙(くうげき)、その奥に浮かぶ数多の眼球が、ギョロリと一斉に彼の背中を()めつける。

 雛は、この現象の名前を知っている。『妖怪の賢者』と畏怖されるある妖怪が使う、『スキマ』と呼ばれる異次元空間。

 スキマの奥から、彼女がやって来る。

 その顔貌に、獲物を捉えた狩人を思わせる、怖気立つ笑顔を貼り付けて。

 

「見つけた――!」

 

 幻想郷最強格の大妖怪――八雲紫。

 

「ッ、逃」

 

 逃げて。そう叫ぶ時間すら、雛には許されなかった。

 息を呑んだその瞬間には、彼は既にスキマに呑み込まれて、跡形もなく消えてしまっていたのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ほのかに苔の匂いがした。

 

 背中に走る鈍い痛みに呻きながら目を開けると、深山幽谷が世界を彩った。大の字で倒れて、空を見上げている体勢だ。見上げる視界の四囲を春紅葉の葉が鮮やかな朱で彩り、耳には小川のせせらぎが届く。苔の匂いが混じった空気はとても澄んでいて、呼吸するたびに体中を洗われるような気がした。

 

 彼はゆっくりと頭をもたげ、重みを感じる己の腹部を見やる。見覚えのある帽子の少女が、横から覆い被さってこちらの腹に顔を埋めていた。

 

「……」

 

 彼はため息をつき、少女がいることも構わず強引に上半身を起こす。あん、と腹にあった少女の頭がクルリと半回転、膝の上まで転がって――一体何年振りになるのか、彼女の満面の笑顔が、見えた。

 パッチリと開いた紫紺の瞳が、掛かる金髪に一瞬も負けることなく嬉々とした光を放っている。これほど眩しい笑顔を見せる子も他にいまいと、彼は静かに目を細めた。

 

「久し振りだね、紫」

 

 少女――八雲紫の笑顔が、一層輝きを増す。ハア、と大きく深く息を吐いて、それから紡がれた言葉は、

 

 

「うふふふ久し振りの再会と同時に膝枕! これは長い間離れていたことが逆にお互いの気持ちを強くしたっていう典型的な遠距離恋愛の結っあああああ冗談ですだからいきなり立ち上がらないでー!? ちょ、待」

 

 

 彼は無視して立ち上がった。

 ゴツン、と紫の頭が地面に落ちる。

 

「いったあああ~い……」

「……まったく相変わらずだなお前は。懐かしいったらありゃしない」

 

 冷ややかな半目で見下ろすも、紫はまったくめげることなくすぐに立ち上がって、また屈託ない笑顔でほころんだ。

 

「当たり前でしょ? ずっと、ずっと待ってたんだから!」

 

 一息、

 

「――おかえりなさい、月見!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 スキマでさらった銀の妖狐は、名を月見(つくみ)という。少なくとも紫にとっては、幽々子や萃香、藍と同様、何者にも代えることができない大切な存在だ。

 

「藍、らーん! お茶を用意しなさい、三人分よ!」

「わかりました! 待っていてくださいね月見様、すぐに持ってきますからっ!」

「ああ、こぼさないように気をつけてね」

 

 春紅葉彩る深山の一角に建てられた日本屋敷。幻想郷とは少しズレた境界に存在するそこは、今や500年振りとなる月見の帰還に大いに湧いていた。住んでいるのは紫と藍の二人だけだが、両者がバタバタと足を踏み鳴らす音で、まるで何人もの住人が行き交っているかのように騒がしい。

 

「ああ、待ってて月見! そういえば私の部屋が散らかってるままだから、みんなスキマに突っ込んでくるわ!」

「別に見に行ったりはしないよ。だからその、とりあえずスキマに突っ込めばいいかみたいな考え方はやめなさい」

 

 月見を屋敷の中に案内しながら、ちょっとテンション上がっちゃってるな、と紫は思う。けれど仕方ない。紫にとって、月見の幻想郷への帰還はそれほどにまで喜ばしいことなのだ。

 ……ちょうど、今朝に彼と出会った頃の夢を見たばかり。彼に会えたという一点において、正夢ってあるんだなと淡く感嘆した。

 

 紫が月見と出会ったのは、今からもう千年以上前のことだ。今でも鮮明に覚えている。妖怪と人間が共生できる世界を夢想して、毎日人間たちの生活を覗き見していた時に見つけた、人間たちと一緒に生きる彼の姿。

 あの姿を見て、妖怪でも人間と一緒に生活できるんだと思って、だからこの幻想郷を創ろうと本気で決心したのだ。云わば月見は、幻想郷の間接的な生みの親だと言っていい。

 

「じゃあ、はいどうぞ! ゆっくり寛いでいって!」

 

 居間の襖を開け放ち、声高に月見を迎え入れる。はいはいとのんびり歩調で応じる彼が焦れったくて、背中をぐいぐい押して急かした。

 

「ほら、早く早くっ」

「おいおい、別に逃げやしないって」

「い、い、か、らっ。早く座ってお話しましょ!」

「はいはい、まったく……」

 

 月見は苦笑しながらも、少しだけ歩調を速めてくれた。一緒に畳を踏む感覚。それすらも、今の紫にはこの上なく喜ばしい。

 紫は彼をテーブルの前に座らせ、すぐに自分もその向かい側に回った。膝立ちのままテーブルを叩いて、

 

「改めて、おかえりなさい月見!」

「はいはい、ただいまただいま」

 

 返ってきたのは、呆れているようなぞんざいな返答。けれど、紫の頬には自然と笑顔が浮かんでいた。だって、こうして話ができるんだから。

 

「500年も、一体なにしてたのよ?」

「いや、普通に外の世界を歩いてただけだよ」

「連絡くらいしてくれてもよかったのに。心配してたのよ?」

「それはあれだ……ほら、『また今度でいいか』と思ってる内に、気がついたらっていう」

「バカ」

「いやいや、すまなかったな」

 

 耳に優しいバリトンの声音。斜に構えない恬然とした佇まい。鷹揚とした所作も、それに合わせてかすかに揺れる銀髪も、隅々に至るまで全てが心地よい。

 500年振りに再会できた今だからこそ改めて思い知るが、どうやら自分は、彼に相当参ってしまっているようだ。具体的にいつからだったのかは覚えていない。人間との共生を望む思想に共感して何度か接触している内に、気がついたら惹かれ始めていて……そして500年ほど会えない日々が続いて、その気持ちは更に強まっていたらしい。そう、典型的な遠距離恋愛の結果だ。

 願わくは月見もそうならいいなと思うが、

 

「やはり外の世界は面白いね。はたと気がついた時には、既に数百年も経ってしまっていたよ」

 

 白い歯を見せてそう無邪気に報告してくるあたり、残念ながら変わりないようだ。恋愛事にはあまり関心がなくて、とかく自分が興味を持ったものの方に転がっていく、好奇心旺盛、花より団子な性格。唯一救いなのは、どこかの古道具屋の店主とは違って、鈍感ではないことだろうか。……あの幼い白黒魔法使いには、割と本気で同情する。

 

「月見様、お待たせしましたっ」

 

 と、お盆の上に湯呑みを乗せた藍が、早歩きで居間に戻ってきた。紫は彼女の九尾がパタパタと落ち着きなく揺れているのに気づいて、藍も嬉しいんだな、と笑みをこぼす。

 しかし、

 

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

「……あれ?」

 

 藍が持ってきた湯呑みはどういうわけか二つだけ。そして彼女は、一つを月見に差し出し、残る一つを自分の手前に置いた。……三人分準備しろと言っていたはずだが、さて、紫の分の湯呑みはどこにあるのだろう。

 

「……ねえ藍、私の分は?」

「え?」

 

 それを問うと、藍はなぜそんなことを訊くのかという風にきょとんを目を丸くしていたが、自分の手元、月見の手元、紫の手元とを順々に見回して、数秒、弾かれたように腰を上げた。

 

「――あっ! も、申し訳ありません、忘れてました!」

「……ねえ、主人である私を忘れるってどういうこと? ちょっと説明してくれない?」

「も、ももも申し訳ありませんすぐに持ってきますね失礼しますっ!」

 

 深々頭を下げ、バタバタ騒がしく足を踏み鳴らしながら居間を飛び出していく。お茶を持ってくるという口実のもと、こちらから逃げ出すかのようでもあった。

 まったく、と紫は嘆息。藍は普段は優秀な式神だが、たまにああやって抜ける一面を見せることがあるから困り者だ。月見が帰ってきて浮き足立つのはわかるが、まさかそれで主人の存在を見落とそうとは、紫も出鼻を挫かれたような気分になってしまう。

 

「もー、藍ったら……」

「ッハハハ。藍も変わりないようだな」

 

 藍が出て行った方を見遣りながら、月見が呑気に喉を鳴らした。その笑顔は、紫の記憶にあるものとなに一つ変わってはいない。変わっていないのは彼も同じだ。

 朗笑に耳を撫でられ、紫の心が静かに落ち着きを取り戻す。吐息を置いてから、問うた。

 

「それで月見、あなたこれからどうするつもり?」

「うん?」

「うん? じゃないわよ。まさかまたすぐ外に行っちゃうなんて言わないわよねそんなのダメよずっとここにいなさいはいホールドッホールドッ。もう逃げられませんー」

 

 紫は目の前と月見の背後をスキマでつなぎ、両腕を突っ込んで彼の首を後ろからホールド。

 

「ぐおおっ。こらこら、子どもみたいなことはよせっ」

「子どもで結構ですー。とにかく逃がさないからね!」

「まったく……」

 

 月見が大きなため息をこぼすも、それはこちらの行動を嫌がっているのではなく、感じる昔懐かしさに心浸すような爽やかなもの。口元には淡く笑みの影が覗いている。紫はそれが嬉しくて、腕により一層の力と想いを込めた。

 

「いててっ、おい紫、強い強いっ。すぐ出て行ったりはしないから放してくれっ」

「本当ねっ? 嘘だったらほら、こうやって月見の耳をもふも――あいたっ」

「調子に乗るな」

「……ふふ」

 

 本当に懐かしくて、心地よい。だから紫は、訊くことができなかった。

 すぐには出て行ったりしない。――じゃあ、いつまでここにいるの? と。

 

 少し前に幽々子がそう言ったように、月見は幻想郷よりも、外の世界で生きることを好む妖怪だ。それは紫も、悔しいけれど理解している。

 だから、今彼が幻想郷に戻ってきたのはほんの気まぐれみたいなもので、またいつか外の世界に出て行こうとするのだろう。それくらいのことは簡単に予想できた。

 では、それはいつなのか? ――紫は、月見に問うことができない。答えを聞くのが怖いから。それに、問うたら彼が出て行くのを認めてしまうようで、嫌だったから。

 

 故に紫は思う。また幻想郷に住もうと思うくらいに、この世界の楽しいところを感じてもらえばいいんだと。500年前と比べて、幻想郷にはたくさんの妖怪が集まり、たくさんの文化ができた。昔よりもずっとずっと、楽しい場所になった。それを見せつけてやればいいんだ。

 

「ねえ月見。あなた、あの時妖怪の山に登ろうとしてたみたいだけど、どこに行こうとしてたの? 天狗たちのところ?」

「ああ、あそこに外の世界から神社がやって来たっていうから……私が昔ここで生活してた時にはなかったものだからね。とりあえず見に行ってみようかと」

「いいわよ! 他にもあなたがいない間に変わったところはたっくさんあるんだから、存分に見て回って! そうね、その神社以外だったら例えば――」

 

 そして願わくは、彼がいつまでも隣にいてくれるようにと。

 紫はそれからずっと、日が西に大きく傾き始めるまで、月見があまりの勢いに面食らうことも構わずに。

 そして藍が戻ってきてからは、彼女と一緒に更に勢いを上げて。

 幻想郷の面白そうな場所を、一生懸命に話し続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第3話 「八雲紫は夢を見た」

 

 

 

 

 

 八雲紫は、人間が大好きだった。

 

 その考えが当時の妖怪たちの中で異端であることは充分理解していたし、そんなことを考えてしまう自分がおかしな存在だという自覚もあった。だがそれでも、好きだったのだから仕方がない。

 

 紫は一人一種族の妖怪で、例えば鬼や天狗のように、生まれた時から属するコミュニティがない。だから、そういった『仲間』『家族』という存在には昔から憧憬を抱いていたのだ。

 故に、そんな紫が『人間』というコミュニティに関心を持つのは当然だったと言えよう。時に争い時に団結し、大した能力も持たないのに力を合わせて苦境を乗り越えひたむきに生きていくその健気な姿は、紫の目にいたく鮮烈に映った。言わば、至高の芸術品に心を奪われる様に似ていたのかもしれない。

 間違いなく紫は、人間という存在が愛おしかったのだ。

 

 八雲紫という妖怪がこの世に生を受けて、百年ほどが経った頃の話だ。生まれ持った才能と境界を操るという強大な能力のお陰で、血肉を得ようと襲い来る妖怪たちを何度も打ち破り、幼いながらもその名を広くに知らしめつつあった頃。

 

 当時の紫には、一つの漠然とした夢のようなものがあった。明確に成し遂げたい、実現させたいと強く願うようなものではなく、ただなんとなく、こうだったらいいなと夢想する程度の夢。

 妖怪と人間が共生できるような世界があればいいのに、という想いだ。酔狂でもなんでもなく、確かな紫の理想だった。自分の仲間である妖怪たちと、自分の大好きな人間たち。この二つが仲よく生活をともにできる世界があれば、一体どれほど素晴らしいことだろうか。

 

 一方でこの考えが、他の妖怪や人間に話せば噴飯されるような妄言であることも理解していた。妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を恐れる。その絶対的な上下関係に“共生”という二文字を挟み込む余地など存在しないこと、百年も生きれば嫌でも理解させられる。

 唯一の親友である伊吹萃香にこのことを話した時は、腹を抱えて転げ回るほどに大笑いされ、ついでに「紫がそんなにバカなやつだとは思わなかったなあ!」とあんまりな言葉まで返されてしまった。それだけ、この考えは一の妖怪として異端なものだったのだ。

 

 転機が来たのは、それから更に数十年ほどが経った頃だったろうか。己のその夢があまりにも遠いことを理解しつつも、それでも捨て切ることができなくて、スキマの中から人間たちの生活を覗き見する毎日を送っていた……そんなある日のことだった。

 スキマの中を移動し、自身の姿を誰にも見られることなくして訪れた小さな人里で、紫は人間たちの中に交じる一匹の妖怪を見つけた。

 

(あら……)

 

 思わず眉を上げる。人里の田んぼ道を、当てもなさそうにのんびりと歩いている一人の男。妖術でも使っているのだろうか、出で立ちこそは完全に人間のものだが、境界を操る紫の眼は誤魔化せない。間違いなく、彼は妖怪であった。

 なんで妖怪がこんなところに? 一瞬疑問に思うが、すぐに考えるまでもなく明らかなことだったと気づく。

 まさか紫のように人間の生活を覗き見しているわけでもなかろうし、彼がここにいる理由はただ一つ――人間を喰らうためだ。それ以外にありえない。

 

(……)

 

 どうしようか、と紫は悩む。妖怪という分類上では彼は仲間になるが、それでも目の前で人間たちがむざむざ喰われるのを見過ごすわけにも行かない。この男が人間に襲いかかろうとしたその時は、スキマ送りにしてどこか遠くに転送してしまおうか。

 そこまで考えたところで、ふと気づく。

 

(……我ながら、妙なことを考えてるなあ)

 

 俯き、自嘲した。妖怪が人間を助けるために同じ妖怪と敵対するなど、まったくもって正気を疑う話だ。自分が妖怪としてどれだけおかしな存在なのかを改めて自覚させられる。

 けれど、それこそが自分だ。八雲紫という妖怪なのだ。おかしいと笑いつつも、改めようなんては思わない。

 

 視線を戻せば、男が歩く先、向かい側から三人組の子どもたちが歩いて来るのが見えた。男が人間を喰らうためにここにいるなら、間違いなく襲いかかるだろう。いつでもスキマを開いて転送できるよう、紫は静かに準備を整える。

 

「あっ!」

 

 子どもたちが男に気づいて声を上げ、それを聞いて、男もまた子どもたちの姿に気づいた。

 紫の脳裏に、男が子どもたちに牙を剥いて襲いかかる姿が浮かぶ。させてはいけないと、紫は能力を発動して男の周囲にスキマを――

 

「あー、旅人様! また一緒に遊んでー!」

「「遊んでー!」」

 

 ――開こうとした意志が、響いた子どもたちの声に掻き消された。

 え? と紫は動きを止めた。思い浮かべていた、子どもたちが男に襲われる光景ではない。むしろそれとはまったく逆――子どもたちが嬉しそうにはしゃいで男に駆け寄っていく光景が、目の前に広がっている。

 

「なんだなんだお前たち、昨日いっぱい遊んでやったろう?」

「あんなのじゃ全然足りないよ! もっとたくさん遊んでよ!」

 

 男も一向に牙を剥く様子なく、それどころかあやすように優しい笑顔を浮かべて子どもたちを迎えていた。一体どういうことだと、紫は瞬きも忘れてその光景に釘付けになってしまう。もしかして、彼は妖怪じゃなくて人間なの? そんな疑問が起こるも、彼から感じる気配はどれほど入念に調べても妖怪のもの。彼が妖怪であることは、間違いなどないはずなのだ。

 なのに、なぜこの男は、

 

「私、旅人様の旅のお話が聞きたい!」

「あー僕も僕も! 聞かせて聞かせて!」

「ッハハハ、わかったよ。わかったからそんなにはしゃがないでくれ」

 

 なぜこの男は、人間の子どもたちとこんなに仲よくしているのだろう?

 人間を喰らうために人里に入り込んだのでは、なかったのだろうか?

 

 紫が呆然とする先、彼は一度膝を折り、男の子一人を豪快に肩車して立ち上がる。男の子は楽しそうにはしゃぎ、周囲の子どもたちは羨ましそうに男の裾を引っ張っていた。

 

(え、えっと……どういうこと?)

 

 予想外の事態に、紫は目を白黒させることしかできないでいた。けれどそれは、ほどなくしてむくむくと湧き上がる好奇心に取って代わる。

 弾かれるように思った。これは理想形だ、と。紫が夢想する、妖怪と人間が共生する世界。それを再現した可能性が、目の前にある。

 体は、無意識の内に動き出していた。スキマの中を漂い、男の背中を追った。

 人間と共生する彼の生活を覗けば、或いは、夢を実現するための手掛かりが得られるかもしれなかったから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 しかし紫の予想に反し、男はその日の内に里を去ってしまった。里の大人たちからは惜しまれ、子どもたちからは泣きつかれ、それでも意固地に「行きたいところがあるから」と押し通して、驚くほどにあっさりと。

 

 故に、紫が彼の背を追い続けたのは必然だった。話を聞いてみたいと思った。一体どんな妖怪なのか。どうして人間と一緒に生活してるのか。彼にとって人間とはどのような存在なのか。

 そして――妖怪と人間が共生する世界を夢想する私を、どう思うのか。

 なんとなく、本当になんとなくではあるが――彼なら私の夢を一笑に付したりせず、真剣に向かい合ってくれるような。そんな予感がしたから。

 

 湧き上がる探究心はもはや抑えが効かない。いっそのことスキマ送りにして、二人だけの空間でゆっくり話をしたいと思うほど。だけど必死に我慢した。彼が人目のないような場所まで進んだら、すぐにでも声を掛けるつもりだった。

 だから、

 

「――それで、さっきから後ろで覗き見してるお前は一体誰なんだろうか」

 

 彼が独り言を言うようにそうこぼした時、紫の心臓は胸を突き上げるように飛び上がった。気づかれてた!? と全身が萎縮し、安全なスキマの中にいるにも関わらず、反射的に彼から距離を取ろうとする。

 男がゆらりと振り返る。そうしてこちらを正面に捉えた彼は、ほのかに片笑みを浮かべ、

 

「姿は見えないけど、多分いるんだよな? ここに、こう、妙な気配がある」

 

 男が大きく左から右になぞったのは、目に見えないはずのスキマの境界。なんてことだ、と紫は戦慄した。

 

 スキマは外界から独立した異次元空間で、故に、その内部に隠れる紫の気配は完全に外から遮断される。ただし完璧な隠密というわけではなく、時には今のように、スキマそのものの気配を察知されて気づかれることがある。

 しかしそんな芸当ができるのは、例えば萃香のように紫と長く付き合いがあるためにスキマの気配を感じ慣れている者か、或いは並の妖怪たちを遥かに超越した感知能力を持つ、大妖怪と呼ばれる者たちだけ。

 そして紫と彼はまだ出会ったばかりなのだから、答えは一つ。妖術で人間に化けているためわからなかったが、彼はその実――

 

(ッ……)

 

 迂闊だった、と紫は眉を歪めた。気持ちが先走って、彼が強大な妖怪である可能性を完全に考えていなかった。

 紫の能力――『境界を操る程度の能力』――は、空前絶後、真理すらも容易く捻じ曲げる神の如き能力であるが、あくまで紫自身はまだ齢百年あまりの普通の妖怪でしかない。もしなんらかの間違いを犯して彼の怒りを買い、襲われるような事態になってしまったら。

 俄に恐怖心が起こる。けど、それでも、彼と話をしてみたいという思いは微塵もかき消されなかった。人間と共生している妖怪。この邂逅をふいにするなんてあまりに惜しいと思ったのだ。もはやままよと、一度深呼吸して気持ちを整理し、紫はスキマを開いて彼の前に顔を出す。

 

「おや」

 

 彼は意外そうに目を丸くしたが、それだけ。こちらの登場は予想通りだとでもいうのか、とりたてて驚く素振りは見て取れなかった。

 

「盗み見するような真似をして、申し訳ありません」

「いや、それは別に構わないけど……さてどちら様かな。見たところ、初対面だと思うけど」

「私は、八雲紫と申します」

 

 男がまた、今度は確かな驚きを覚えた様子で目を見開いた。

 

「ほう、八雲紫……噂には聞いているよ。境界とかいうものを操る、若くもしたたかな妖怪だと」

「いえ……私なんて、まだ若輩者です」

 

 謙遜ではなく、本気でそう思う。齢だってまだ百年ちょっとだし、なにより『妖怪と人間が共生できる世界を創りたい』という願望を、夢想することしかできないでいるのだから。夢を夢と思い描くままで終わらせているようでは、いつまで経っても未熟者だ。

 ……できるのだろうか。親友を以てして“噴飯物”と称されるようなこの夢を、叶えることが。

 

「……大丈夫か? なんだか具合が悪そうだが」

「え? あ、いえ、なんでも。大丈夫です」

 

 慌ててかぶりを振り、気持ちを立て直した。紫が彼を追い掛けたのは、彼と話をするためだ。……だから今しばらくの間だけは、それ以外のことは全て忘れよう。

 

「突然こうしてお声を掛けること、大変失礼とは思いますが――」

 

 心の中に頷き一つ、紫は真摯な声音で問いを一つ。

 

「――少し、一緒にお話してくれませんか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 男は、名を月見といった。狐の妖怪で、人間に化けながらあちこちをそぞろ歩いて回り、人間たちに溶け込んで生きているようだった。

 そうして簡単な自己紹介を終えた紫と月見は、蒼天の下に伸びるのんびり屋な小道を隣同士、言葉を交わしながら歩いてゆく。

 

「月見さんは、どうして人間として旅をしてるんですか?」

「興味本位、かな。人間たちがどういう生き方をしているのか、知るにはやはり人間として紛れ込むのが一番だろう?」

 

 並ぶ彼の体は、とてもとても大きかった。紫がまだ背が低いというのもあるのかもしれないが、それでもこの時代の男性としては長身だ。きっと傍から見れば、男の隣を、小さな子どもが置いていかれまいと頑張ってひっついているようにしか見えないだろう。

 それを悟ってか、月見は大分歩幅を緩めてくれているようだったけれど、それでも紫には少し速いと感じられた。これからはスキマを使って楽なんかせずに、しっかり自分の足で歩くようにした方がいいのかもしれない。

 

「どうして、人間に興味を?」

「ん……まあ、それも興味本位だね。これといって特別な理由があるわけではないよ」

 

 彼は人間と一緒に生活していたことから予想できるように、拍子抜けするほどに温厚な妖怪だった。道中の暇潰しにと、こちらの話に嫌な顔一つせず付き合ってくれている。

 もしかしたら強大な妖怪かもしれない。当初心にあったその不安は綺麗さっぱりなくなり、紫は興味津々と彼に次々質問を投げ掛けていた。

 

「月見さんの目には、人間たちはどんな風に映ってますか?」

「面白い質問だね。……そうだね、ひとえに言えば隣人、過ぎた言葉を使えば友人かな? 妖怪としては、おかしいことかもしれないけど……」

「いいえ、全然! 素敵なことだと思います!」

 

 生まれて初めて、自分と感性の近い妖怪と出会えた。故に、紫の気分が高じてしまうのは仕方のないことだった。上げた高い否定の声に、彼は面食らったように苦笑。

 

「そうか? そう言ってくれたのはお前が初めてだね」

「私も、自分と同じようなことを考えている妖怪には初めて会いました!」

「スキマから人間たちの生活を覗いていた、ね。あの八雲紫が人間に興味を持っていたとは、いやはや意外なことだ」

「友人には、事あるたびに笑われます……」

 

 人柄もあるのだろうが、もはや紫は、月見に襲われる可能性をすっかり忘れてしまっている。肩が触れ合うような距離も構わず、隣合って歩いている。自分と意見の合う妖怪がいてくれたこと――それが、ただひたすらに嬉しくて。

 

「月見さんは、人間が好きなんですか?」

「そうだね……そうなのかもしれないね。好きだから、一緒に在りたいと思うのだろうさ」

 

 ああ、なんて素晴らしいんだろう。紫は感嘆した。そして思う。この人なら、私の夢を聞いても笑ってくれないんじゃないか、と。共感してくれるんじゃないか、と。

 

「……あの、月見さん」

「うん?」

「私……私には、こうだったらいいなあっていう夢があるんです。傍から聞いたら、笑っちゃうような夢ですけど」

 

 月見がこちらを見下ろし、歩幅を緩めた。突然の真剣な切り出しに、虚を突かれたような顔をしていた。

 でも紫は、つなぐ。

 

「妖怪と人間が共生できるような世界を創りたいんです。……ただそうしたいと思うだけで、具体的にどうすればいいのかもわかってないんですけど」

 

 普段ならこのあたりで笑い声が返ってきて、話を続けられなくなる。けれども彼は、表情を動かすことなく静かにこちらの言葉を聞いていた。

 彼がなにを考えているのかはわからない。だが『笑わずに聞いてくれている』という事実が、紫に更なる言葉を紡がせた。

 

「妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を恐れる。それはわかってます。共生なんて無理なのかもしれない。……でも、それでも焦がれるんです。人間たちと仲よく生活するあなたの姿を見て、ますます焦がれるようになりました」

「……」

 

 月見は口元に手を当てて思案顔。なにを考えているんだろうか。否定はされたくない、と思う。恐らくこの世界に二人といないであろう、自分の思想に最も近い存在。そんな彼にまで否定されてしまったら、紫はきっと、この夢が叶わぬものなのだと諦めてしまうから。

 束の間の沈黙のあと、彼はやがてこう言った。微笑み、

 

「面白いことを考える子だね、お前は」

「……」

 

 笑われた。

 けれどそれは今までの妖怪たちのように、おかしなことだ、下らない、無理だと嗤笑するものではない。純粋に、紫の夢に関心を持った――そんな、優しい笑顔。

 

「そうだね……喰って喰われるばかりの関係というのも嫌だなと、私も感じてはいるからね。そういう世界があっても、面白いかもしれない」

「ほ、本当ですかっ!?」

「うおっと」

 

 肯定。生まれてから初めて耳に響く、夢に共感してくれる言葉。湧き上がった喜びはすぐに心を支配し、紫は咄嗟に、月見の前に立ち塞がってその襟元を取っていた。

 ちょうど、彼の腹あたりから見上げる視界。こちらの突然の行動にすっかり目を丸くした彼の顔が見える。

 

「ほん、本当ですか!? おかしくないですか!? 下らなくないですか!? 笑いませんか!?」

「あ、ああ。私は、そういう考えもありだと思うよ?」

「そ、そうですか……」

 

 どうしよう。嬉しい。並々ならぬほどに嬉しい。肯定してもらえた。理解してもらえた。共感してもらえた。今日は、今までの人生の中で一番幸せな日かもしれない。なんか口元がニヤニヤしてきた。

 

「……そんなに喜ぶようなことか?」

「当たり前ですっ! 生まれて初めてなんですよ、この夢に共感してもらえたのは! みんなみんな下らないって笑うばかりで、話すらまともに聞いてくれなくて……」

「ッハハハ、そうか」

 

 ほらほら、歩くのに邪魔だよ。彼はそう言ってこちらの肩を掴み、横へ。そしてまたのんびりと歩き出してしまったので、紫は慌ててその背中を追い掛けた。

 

「あ、あのっ!」

「うん?」

「そ、そのっ!」

「……どうした?」

「え、ええと、……こ、このっ」

「……大丈夫か?」

 

 不審なモノを見る目で見られた。いけない。夢に共感してもらえた喜びからか気分が高じて、舌が上手く回ってくれないようだ。紫は一旦足を止め、落ち着け落ち着け、と二回深呼吸。

 そして思う。やっぱりこの夢を叶えたい、と。こういう言い方をすると彼を利用したみたいで嫌だけれど、共感してもらえて、背中を押してもらえたような気がしたから。少なくとも一人の理解者を得たことで、紫の心は安らいでいたのだ。

 この気持ちを上手く言葉にできるかはわからないけれど。足を止めてこちらを見つめる彼に、紫は或いは自分自身に語り掛けるようにして声を搾った。

 

「月見さん。もしよかったら、私と友達になってくれませんか?」

「友達?」

「初めてなんです、私の夢に共感してくれた人は。だから、もっと色々、お話を聞かせてほしいんです」

「ふむ……」

 

 ……思えば紫は、この時から既に、彼に心を許し始めていたのかもしれない。

 

「……そうだね。どうやらお前とは、気が合いそうだ」

「っ、じゃあ」

「ああ。よろしく頼むよ、紫」

「は、はいっ!」

 

 この日この時彼に出会えたことを、紫は初めて、神とやらに深く深く感謝した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 それから紫は、月見と一緒に少しだけ旅をした。

 

 

「うわ、うわあっ、綺麗な尻尾……触っていいですか?」

「ん、好きにしていいよ」

「ありがとうございます。うわあああもっふもふ……」

 

 月見の銀の尻尾をもふもふしながら、旅をした。

 

 

「さて、もうすぐ人里だ。人間には化けられるか?」

「問題ないです。私の中にある『妖怪としての境界』を弄れば、限りなく人間に近い存在になれます。月見さんの変化の術とは訳が違いますよ」

「……つくづく、規格外の能力だなあ」

 

 彼と一緒に人間たちの生活に紛れ込みながら、旅をした。

 

 

「待て、この妖怪め! 人に化けて私の里に入り込むとは、成敗してくれる!」

「……うーむ、やっぱり神相手だと見破られるかあ。ただ見た目を変えるだけじゃダメだな」

「なんでそんなに冷静なんですか!? ほら早く逃げますよ、スキマ開きますからっ!」

 

 人里の守り神に妖怪であることがバレて、しつこく追い回されたこともあった。

 

 

「あの、あのね! 私、これからあなたに敬語使うのはやめようと思うわ! 友達なんだし!」

「うん? 別に構わないけど」

「じゃあ改めて、よろしくね、月見!」

 

 敬語を使わないくらいに打ち解けるまで、そう長い時間は掛からなかった。

 

 

「ねえ、月見。私、妖怪と人間が共生できる世界を創りたいっていう夢、本気で追い掛けてみようと思うの。ここしばらくあなたと一緒に旅して、やっぱり人間たちが好きだって改めて思ったから」

「……そうか」

 

 夢を叶えると決心するまでも、そう長くはなかった。

 

 

「……じゃあ、ここでお別れね」

「ああ。まあ、気負いすぎずにのんびりやれよ。上手く行かなかった時は、愚痴を聞くくらいのことはしてやるさ」

「うん。ありがと」

 

 月見と旅するのをやめ、妖怪と人間が共生する理想郷を創るために、本格的に動き出すことになって。

 

 

「お久し振りですわね、月見さん。八雲紫ですわ」

「なんだその話し方。――頭でも打ったか?」

「ひどぉい! 私だってもうすぐ大妖怪の仲間入りなんだから、それっぽい話し方をしようって思ったのよ!」

「胡散臭いだけだからやめておけ」

「ぶー……」

 

 それからも時折思い出しては、彼に会いに行って。

 

 

「月見……今夜、暇? よかったら話を聞いてほしいんだけど……」

「ん……どうした、そんなにしょぼくれて。なにか上手く行かないことでもあったか?」

「うん。実はね……」

 

 『幻想郷』を創るための計画が上手く進まなかった時は、

 

 

「うっあああああなんなのよあいつ! 人が下手に出てれば調子に乗ってくれちゃってえええええ! そんなこと私だってわかってますよ――――っだ!」

「おいおい、あんまり呑み過ぎるなよ?」

「だって、だってひどいのよ!? 聞いてよ月見、あいつね――」

 

 自棄酒を呑みながら愚痴ったこともあったし、

 

 

「どうして、上手く行かないのかなあ……。ねえ月見、私じゃダメなのかな……? 無理、なのかな……?」

「さて……。少なくとも、お前が叶えようとしている夢は今まで誰一人としてやってこなかった前人未到のことだ。トントン拍子で進む方がおかしな話だろうさ」

「ぅ……」

「けど、お前はよく頑張ってるよ。本当に健気で、一途で、大したものだ。……そこは、私が代わりに胸を張ろう」

「ちょっ……ば、ばかっ、いきなり、そんなこと言われたら……ふえっ、」

「ああ、はいはい。よしよし……」

 

 たまには耐え切れなくなって、彼の胸で泣いて慰めてもらったこともあった気がする。

 

 

「月見、月見聞いて! ようやく『幻想郷』が形になってきたの!」

「そっか。……おめでとう」

「うん、……うん! ありがとう!」

 

 『幻想郷』の完成は、彼の存在なくしてはできなかったと思う。

 

 

「おや、私はなにもしていないぞ?」

「バカ。辛い時に隣で支えてくれる人の存在がどれほどありがたいか、月見は知らないんでしょ」

 

 あなたがいたから、頑張れた。

 

 

「――ねえ、月見」

「うん?」

「今、ふっと思ったんだけど――」

 

 だから、きっと。

 

 

「――もしかして私、あなたのこと好きなんじゃない?」

「……いや、そんなこと訊かれても困るよ?」

 

 気がついたらそんな風になってたのは、きっと、それほど不思議なことでもないんだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 駆け抜けた思い出に、紫はそっと頬を緩めた。

 ――そう。ちょうどこんな感じの夢を、昨夜にも見たばかりだった。

 月明かりだけで青白く染まった寝室での、いくばくかの追想。

 

「ふふ……」

 

 律儀に正座なんかして見下ろす先には、夢の中心にいた月見の寝顔がある。

 月見はなにやら妖怪の山に行きたい様子だったが、せっかく久し振りに帰ってきたんだからと、今日は無理やり自分の屋敷に一泊させた。そして夜も更け、明日のために早々に寝入ってしまった月見に対し……言ってしまえば夜這いをしているのが、今の状況だ。

 とはいえ、別に不埒な目的があるわけではない。

 

「この寝顔を見るのも、久し振り……」

 

 もう少しだけ彼の姿を見ていたいと、そう思っただけだ。差し込む月明かりが彼の輪郭を青白くなぞっている。覗き込むと、不意に胸が浅く締めつけられるような感じがした。

 自分の夢に共感し、支えてくれた人。自分勝手で気ままなところもあるけど、妖怪らしくない――昔から人間たちとともに生きてきたからか、ある種人間らしい――優しさと暖かさを持った人。

 大切な人だ、と紫は強く想う。

 ――また、幻想郷が賑やかになるな。

 例えば博麗霊夢がそうであるように、彼もまた、己の周囲に自然と人を集める体質を持っている。明日から彼が幻想郷を歩いて回れば、自ずと色んな妖怪や人間たちが彼のもとに集うだろう。

 幻想郷が賑やかになる。それは素直に喜ぶべきことだが、一方で、

 

「きっと、ライバルも増えるんだろうなあ……」

 

 もちろん、紫の、である。なんのライバルであるかは言わずもがな。

 まあ、“そっち”の方面には関心の薄い彼のことだから、心配する必要もないのだろうけど――。

 

「よし。ここは勢いのいいスタートダッシュを決めて、アドバンテージを取っておかないとね」

 

 そう小さく頷いて、紫は彼を起こさないように静かに布団をまくる。久し振りに再会したんだし、今夜くらいはいいでしょ。そう恣意的に納得し、紫は一息で彼の布団の中に潜り込み――

 

「――紫様、なにしてるんですか?」

 

 般若がいた。

 部屋の入口、月明かりを受けて白くざわざわと揺らめいているのは、金毛九尾。

 

「……ら、ららら藍? ええと、その、……こんばんは」

 

 月明かりを照らし返すほどの綺麗な笑顔で、藍は応じた。

 

「ええ、こんばんは。――なにしてるんですか?」

「い、一体どうしたのかしら? 眠れないの?」

「いいえ、別にそんなことは。――なにしてるんですか?」

「こ、今夜は月明かりが綺麗よねー。つ、月見酒でもしようかしら?」

「ああ、それもいいかもしれませんね。――なにしてるんですか?」

「じ、実は私、眠れなくってー」

「なるほど、そうだったんですか。――なにしてるんですか?」

「いや、その、ただちょっと月見の寝顔を見てみようかなって」

「なるほどなるほど。――なにしてるんですか?」

「……そ、そしたら、今夜くらいは一緒に寝ちゃってもいいんじゃないかなって思ったから」

「連れていけ、藍」

「月見起きてたの!? あっ、藍もそんないい笑顔で頷かないで、あーちょっとくらいいいじゃないの久し振りなんだから――――っ!!」

 

 スタートダッシュ失敗、フライング。紫は従者にむんずと襟首を掴まれ、そのままずるずる退場処分と相成ったのだった。

 

 

 

 

 

「す、少しくらいいいと思うのよ! ほら、藍も一緒にどう!? 今からでも遅くないわ!」

「月見様にご迷惑をお掛けしちゃダメです。ただでさえ私たちが長話に付き合わせてしまったせいでお疲れになってるんですから、ちゃんと休ませてあげましょう」

「お堅いこと言っちゃってー! ダメよ、時にはあばんちゅーるな行動もしていかないと恋という戦争には勝」

「というのは建前で本音を言うとまだ仕事がたくさん残ってるからきびきび働け」

「藍のいじわる――――!!」

 

 そうして夜は、騒ぎ合う彼女たちの天上で更けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第4話 「厄神様の小さな幸せ。 ①」

 

 

 

 

 

 こぼしたため息が、周りで繁る枝葉を抜けて地面まで落ちていく。

 後味悪いなあ――そう、鍵山雛は呟いた。

 

 昨日。この場所で出会った銀の妖狐が、妖怪の賢者――八雲紫にさらわれた。雛が厄神であることも構わず気ままに言葉を掛けてくれた、お人好しな妖怪。ほんの少しだけ心を許しかけた相手だった。

 でもそんな彼は、今、雛の目の前にはいない。――もう、その姿を二度見られることもないだろう。

 

 名も知らぬ銀の妖狐。彼が八雲紫にさらわれたからといって、死んでしまったとは限らない。けれどあの時の八雲紫は、まるで数百年来の獲物を見つけたかのように、ぎらぎらとした目をしていた。“妖怪”の顔だった。……彼が一体なにをしたのかは知らないが、今も無事でいるなんてことはないだろう。

 

「はあ……」

 

 昨日と同じ、山道を見下ろす大木の上。しかし、ぶらぶらと両脚を遊ばせるような心の余裕は、今はない。

 どうしてあのタイミングだったのだろうか。雛が名乗って、彼が名乗り返すその瞬間だった。「私は――」……そこから先を、聞けなかった。

 互いに名を名乗って、できればまた話をしたいねと、そう言って別れてからでもよかったはずなのに。あんな終わり方をされたら、吹っ切れないではないか。

 また会いたいと、どうしても、思ってしまうではないか。

 

「……」

 

 わかっている。これは既に、ただの厄神でしかない雛にどうこうできる範疇を超えている。彼が無事であるか否か、生きているか否か、決めるのはただ八雲紫の気まぐれだけ。これ以上雛が彼の身を案じても、なにかが変わるわけじゃない。意味なんてないのだ。

 わかっている。――けど、それでも。

 

「――雛さん、どうしたんですか?」

 

 掛けられた声に、雛はゆっくりと頭を持ち上げた。雛が座る大木からやや離れたところで、黒い羽を羽ばたかせて滞空している銀色のワンコ――ではなく、白狼天狗が一匹。犬走椛。厄神である雛に進んで声を掛けてくれる、数少ない心優しい知人だ。

 

「あら、椛……」

「おはようございます、雛さん」

 

 椛は礼儀正しく四十五度のお辞儀をするも、同時にこちらの厄の影響を受けないようにしっかりと距離を取っていた。賢いワンコ――じゃなくて白狼天狗ね、と雛は苦笑する。

 

「おはよう。今日も哨戒任務?」

「はい、そんなとこです。……そういう雛さんは」

 

 椛はかすかに声をひそめ、窺う声音で、

 

「なんだか、具合悪そうに見えますけど……」

「あなた、よく見てるわねえ」

 

 雛は苦笑を深めた。厄神相手に体調を気遣うような者は、この幻想郷でもすこぶる珍しい部類だ。それだけ彼女が心優しいのだいうことがよく伝わってくる。

 

「ダメですよ、具合が悪いならちゃんと休んでないと……」

「ああいや、体の具合が悪いわけじゃないのよ。ただ、精神的にね」

「? なにか、嫌なことでもあったんですか?」

「……まあ、そんなところ」

 

 椛の銀の毛並みを見て、あの妖狐の姿を一層強く思い出してしまった。針で刺すように胸が痛む。……これも全部、あのスキマ妖怪が悪いんだ。

 すると、それが表情に出てしまっていたのか、椛がますます心配そうに眉根を寄せた。

 

「雛さん、大丈夫ですか?」

「……そうね、ちょっと時間掛かりそうかしらね?」

「……大丈夫ですか? 私でよければ、話くらい聞きますよ?」

「大丈夫よ。そんなことをしたらあなたが不幸になってしまうしね。そんなの嫌でしょう?」

「それは……」

 

 椛は言い淀み、それっきりきゅっと口を真横に引き結んだ。図星を突かれて、返す言葉を見つけられないのだろう。

 雛は、特になにも言わなかった。こうやって距離を置かれてしまうのは少し辛いけれど、誰だって不幸になるのは嫌。そんなのは当たり前のことだ。当然の反応、仕方のないことなんだと、自分に言い聞かせる。

 それから、ちょっとだけ無理に頬に力を入れて、微笑んだ。

 

「気にしないで、そのうち元気になるから」

「……はい」

 

 椛は沈痛な面持ちで、しかし頷き、素直に引き下がった。本当に賢いワンコ――いや、白狼天狗だ。天狗の中でも彼女は射命丸文と並んで人気者らしいが、その理由もわかるような気がする。

 無理に力の入っていた頬がそっと緩まる。それと同時、椛が不意に耳をピクリとさせ、山道の方に鋭い視線を向けた。

 

「どうしたの?」

「侵入者の匂いです」

 

 至極真面目な顔をしながら、一方で、耳をピクピク、鼻をふんふんとしきりに動かす椛。やっぱりワンコでいいんじゃないかな、と雛は思った。

 ともあれ、侵入者。気がついたら脳裏にまた彼の姿が霞んでいて、いよいよもって呆れてしまった。

 目を閉じ、思う。もう忘れよう、彼のことは。運のない出会いだったのだ。もうどうしようもなくなってしまったことなのに、これ以上気を揉んでも、本当に仕方ないではないか。

 

「そこの狐、止まりなさーい!」

 

 椛が高く声を上げ、羽を鋭く打ち鳴らして眼下へ降りていく。狐か。昨日といい今日といい、山で誰かが油揚げでも作っているのではないだろうか。そんな冗談めいたことを考えながら雛は目を開けて、椛が降りていった方を見下ろし、

 

「――は?」

 

 転瞬、言葉を失った。

 瞳に飛び込むのは銀。椛に厳しく誰何(すいか)されながらも、怯む様子なくゆぅらゆら、気ままに揺れる銀の尻尾。そのくすみのない色を誰が僻目(ひがめ)するものか。

 気づいた時には、飛び出していた。

 

「ちょっと、――ちょっと!」

「えっ? ど、どうしました雛さん?」

 

 驚く椛の姿はもはや意識に映らない。彼女の横を駆け抜け、自分が厄神であることも忘れて、“彼”の目の前に降り立っていた。

 

「ああ、ここを通ればもしかしてと思ったけど――昨日振りだね」

 

 優しいバリトンの声音が耳をくすぐる。ああもう、一目見た時からおかしなやつだと思ってたけど、本当にとびっきりにおかしいやつだ。そう雛は噛み締めるように思う。

 だって、八雲紫にさらわれて、まさか無傷で戻ってくるなんて――

 

「おはよう。名前は確か――鍵山雛、だったね?」

「……ええ、そうよ。――このバカッ」

 

 浅く右手を挙げて挨拶してくる銀の狐に、雛は白い歯を思いっきり見せて、笑い返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 すまなかったね、と彼は笑った。

 

「いや、まさかあのタイミングであんなことになるとは。私も驚いたよ」

「まったくよ。……というか、なんで生きてるの?」

「勝手に殺さないでくれないか?」

「それはそうだけど」

 

 雛は彼の姿を足元から頭上までくまなく凝視するも、不審な点はなに一つとして見られなかった。完全に昨日のままと同じ姿だ。怪我はもちろん、襲われたと思しき痕跡もなにもありはしない。

 その理由を問えば、彼は「ああ……」と前置きしてからこう答えた。

 

「私と紫は、友人同士でね」

「……は?」

 

 なんか今、実にありえない言葉が聞こえたような。

 

「ごめん、もう一度言ってくれる?」

「ん? だから、私と紫は友人同士なんだよ。昨日スキマでさらわれたあと、あいつの屋敷で一泊してきたんだ」

「……」

 

 雛は絶句していた。『開いた口が塞がらない』とは、まさにこのことをいうのだろう。

 

「友人、ですって?」

「ああ、そうだよ?」

「じゃあ、襲われたとか、そんなんじゃなかったの?」

「もちろん」

 

 答える彼はあくまで自然体で、嘘をついているようにはとても見えなかった。

 雛はなおも開きっぱなしの口でなにかを言おうとしたけれど、結局ただ呼吸をするばかりで、言葉は出てこなかった。むしろ、なにも言う必要はないのだと気づいたのだ。彼の言葉が嘘でも真でも、こうして無事に戻ってきてくれたのなら、それでいいじゃないか。

 

「……とにかくよかったわ。無事で」

「そうだね。心配を掛けたようで、悪かった」

 

 くつくつ笑う彼の言葉を、否定はしない。今までの自分自身を思い返してみれば、彼のことを心配していたのは立派な事実だ。でなければ、雛が今こうして安心している理由は説明できないだろうから。

 

「あ、あの、雛さん。お知り合いですか?」

 

 呆気にとられた様子で、それでも最低限の警戒心だけは失うことなく、椛が背後から問うてきた。振り返りながら、雛はかすかに答えに悩む。昨日ほんの数分だけ話をしただけの相手は、一体どんな言葉で表現できるのだろうか。

 先に返事をしたのは、彼の方。

 

「お前は、白狼天狗だね?」

「……そうですけど、それがなにか?」

 

 あなたには訊いてないんですけど、と椛の双眸が不快げに細まる。しかし彼は「まあまあ」と両の掌を返しながら、こう続けた。

 

「私はこの子とは会ったばかりだから、知り合いとまではいえないかもしれないけど。でも、怪しいものじゃないという証明なら確かにあるぞ」

「……それは、なんですか?」

「操に訊いてみるといい」

 

 告げられたその名に、椛が大きく息を詰めた。

 操。確かその名は、椛たち天狗を統べる長――『天魔』の名だったはずだと、雛は記憶している。ということは彼は、八雲紫のみならず、その天魔とも友人だというのだろうか。

 

「まさか、天魔様のお知り合いだとでも?」

「それを確かめてみるといい、と言っているんだよ」

「もしそれが虚言だったなら、厳罰では済みませんよ?」

「だったら操をぶん殴ってやってくれ。この鳥頭め、旧友のことを忘れるとはどういう了見だ、とね」

「……」

 

 威嚇するように、椛の体から妖力があふれた。長である天魔を『鳥頭』と貶されたからだろう。哨戒の任務を回される、有り体をいえば『下っ端』である彼女でも、幻想郷に名高い天狗の一族だけあって、そのへんの無名の妖怪とは明らかに妖力の質が違う。直接向けられているわけでもないのに、雛の肌がさっと粟立った。

 けれども彼は、その妖力を目の前にしても、決して呑気な笑みを崩さなかった。

 

「それだけ、軽口を言い合えるような仲ということだよ」

「……わかりました、すぐに確認してきましょう。雛さん」

「え? あ、はい」

 

 唐突に名を呼ばれて、思わず声が裏返りそうになる。

 

「天魔様に確認を取ってきます。その間、すみませんけど、この男が逃げないように計らってくれませんか?」

「え、ええ、構わないけど」

 

 椛の妖力にすっかり気圧されていたせいだろうか、よく考えもしない内にこくこくと頷いてしまった。

 椛は一度頭を下げ、

 

「ありがとうございます。――それでは」

 

 最後に釘を刺すように鋭く男を見やってから、翼を打ち鳴らし、山頂の空へと飛び去っていった。

 雛はしばらく、どうしたらいいのかよくわからなくなって茫然とその方向を見つめていたけれど、「仕事真面目だねえ」という彼の呟き声が聞こえて我に返る。

 

「あなた、大丈夫なの? あんな喧嘩を売るような言い方して……」

「大丈夫だろうさ。私があいつ――天魔の友人なのは事実だからね」

 

 まあ、あいつが鳥頭で私のことを忘れてる可能性は否定できないけど――そう言って肩を竦めた彼は、さて、と改めてこちらに向き直ってきた。

 

「それじゃあ、あの子が確認を取ってくるまで適当に話でもして待ってようか。逃げるなと、目で釘を刺されてしまったしね」

「……」

 

 ああ、そういえばそんなことになったのよねえ、とぼんやり思ったところで、雛は状況が少しばかり面倒になってしまっていることに気づいた。彼と話をする。それはまさに昨日、雛が彼を不幸にしたくないという思いから躊躇い、よしとしなかったことではないか。

 誘発されるように、今の自分と彼の距離が近すぎることにも気づいた。無事だった彼の姿を見て慌てたからとはいえ、この距離では厄が簡単に伝播してしまうだろう。「そうね……」と呟き、考えるふりをしながら、雛は彼から静かに距離を取った。

 

「……まあ、話をすることは構わないわ」

 

 椛に頼まれた手前だ。昨日のように「行きなさいな」と促すことなどできない。

 けれど、

 

「なら、厄が移らないように距離を取らないとね……」

「……」

 

 一歩、また一歩と彼から離れて、取った距離は五メートル以上。普通に話をするには、少しばかり遠すぎる間合い。よそよそしいけれど、厄神と安全に会話をするには必要なことなのだ。

 振り返ると、困ったように眉を下げて沈黙している彼がいる。ごめんなさい、と雛は胸中で呟いた。

 

「……つまり」

 

 ぽつり、と彼が口を切る。呟くような声量なのに、不思議とよく通る声だった。

 

「あまり近くで話をすると、自分の集めている厄が私に移って、不幸にさせてしまうから……お前はそれが嫌なんだな?」

「……昨日だって、そう言ったでしょ? 仕方のないことなのよ、これは」

「ふむ……」

 

 彼は腕を組み、何事か真剣に思案しているようだった。こちらと近くで話ができるような方法を考えてくれているのか。気持ちは嬉しかったけれど、それは無理よ、と雛は内心苦笑する。

 生物と厄は切っても切れない関係。自分より厄を多く抱えたものに近づけば、厄をもらって不幸になる。謂わば熱が温かいところから冷たいところに移るのと同じ、避けようのない大自然の理。それを覆せるのは、例えば八雲紫のように、理そのものをひっくり返しかねない馬鹿げた能力を持っている者だけ……力づくでどうこうできるような問題ではないのだ。

 

「気持ちだけ受け取っておくわ。ありがとう。……でも、あなたが私に近づけば、厄をもらって、不幸になる。それは必然なの。だから――」

「ふむ。でもまあ」

 

 けれど、こちらの言葉を断ち切って彼は続けた。腕を浅く開き、一方で瞳は閉じて、諭すように柔らかな声音で微笑んだ。

 

「――“その当ては、外れると思うけどね”」

 

 その声を聞いた瞬間、雛の体を言いようのない違和感が襲った。明確になにとは言えないが、決して不快感があるわけではなく、まるでスイッチを押したかのようになにかが切り変わった――そんな違和感。

 なんだったんだろう――そう疑問に思う雛の先で、彼はなおも言葉をつないでいく。

 

「じゃあ、ここは一つ実験してみようじゃないか。本当に私が、お前の厄をもらって不幸になってしまうのか」

 

 そうして、一歩。

 こちらに向かって大きく、踏み出してきた。

 

「――ッ」

 

 雛は思わずあとずさる。けれどその距離を、彼は更に一歩、前に踏み出すことで詰めた。ダメ、と雛は彼から離れようとするが、上手く体が動かない。こちらを厄神だと知ってなお近づいてくる人物に、初めて出会ったものだから、咄嗟に足が竦んでしまっているのだ。

 

「ダ、ダメよッ! 正気なの!?」

「正気さ。……ああ、結構自信アリだよ?」

 

 せめて口だけででも彼を遠ざけようとするけれど、彼は決して止まらない。言葉の通り、表情にたたえているのは、こちらに近づくことをなにも恐れていない大胆な笑みだけ。まるで子どもみたいだった。

 五メートル以上あった距離を、既に半分詰められている。

 

「ま、待って……! ダメ……ッ!」

「大丈夫、大丈夫。お前がしているのは全て余計な当てずっぽうさ」

 

 ザッ、ザッ。彼が山道を踏み鳴らす、その音が鳴るたびに、雛と彼の間は近づく。

 

「や、やっ……!」

 

 怖くなって、雛はきつく目を瞑った。

 それでも、彼がやって来る音は決してやまなかった。

 

 ……その音が聞こえなくなったのは、一体いつからだったのか。

 

 気がついた時には、なにも見えない闇色の中、しんとした静寂だけが耳に痛くて。

 それに耐えられなくなって目を開ければ、ふりふりと、眼前で銀色が揺れているのが見えて。

 

「――!」

 

 それが彼が差し出した尻尾であることに気づいて、慌てて飛び退こうとしたけれど。

 

「ほら。やっぱり、余計な当てずっぽうだった」

 

 バリトンの声音に耳をくすぐられて、ハッと息を呑んだ。

 雛の周囲を、クルクルと、厄が回っている。そう――すぐ目の前にいる彼に、まるで気づいていないかのように、ちっとも移っていくことなく。

 くぅるくる、そのままで、回り続けている。

 

「……ふ、え?」

 

 思わず、そんな声が漏れた。だって、自分に近づいた者に厄が移っていってしまうのは当たり前のことで、今までもずっとそうだったのに……なのに、なんで突然?

 ぽかんと彼の顔を見返した。どうしてこんな現象が起こっているのかはわからない。でも、少なくとも、厄が彼に移らずに回り続けているということは――。

 雛のその考えに応じるように、彼が笑みを深めた。

 

「言ったろう? その当ては外れると思う、ってね」

「あ、え」

「それじゃあ一件落着したところで、改めて自己紹介だ」

 

 からからと、やっぱり呑気に喉を鳴らして、昨日雛が聞けないままだったその名前を教えてくれた。

 

「私は、月見。“月”を“見”ると書いて、つくみだ。しがない一匹の狐だよ」

 

 気ままに揺れる彼の尻尾。そのくすみのない銀色が、あんまりにも綺麗だったから。

 ああ、確かに月の色を映したみたいだなと、雛は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 妖怪の山を頂に向けて大きく大きく登ると、山紫水明を切り拓いて構えを置く大屋敷がある。空高くからでなければ全貌を見ることすら敵わぬそれは、幻想郷で最大勢力を占める妖怪・天狗の総本山。そして、その長たる『天魔』が羽を休める屋敷でもある。

 

 白狼天狗である犬走椛は、先刻出会った銀の妖狐について報告するため、本山の内部、天魔の執務室を訪れていた。

 あの妖狐は、恐れ多くも自らを天魔の友だと名乗った。なんとしても真偽を確かめなければならないことだ。真であれば改めて歓迎しなければならないだろうし、偽であれば――天魔の友を騙った罪人として、誅さなければならない。

 

 嫌疑の気持ちは大きい。天魔が自ら“友”と呼ぶような相手は、鬼子母神と妖怪の賢者のたった二名だけで、その中に狐がいるなどという話は聞いたこともないからだ。やはり、こちらの目を逸らすための虚言であった可能性が否定できない。椛は雛が上手く足止めしてくれていることを祈りながら、手早く執務室のドアをノックした。

 

「天魔様、犬走です。少し確認して頂きたいことがあるのですが、よろしいですか?」

 

 返答は、綺麗に一拍の間を挟んでから返ってきた。

 

「むおー……? よいぞ、入れー」

 

 だらしなく気の抜けた女性の声。それに対し椛は、あいかわらずだと嘆息を漏らしながらノブに手を掛け、さりとて長の部屋に入るのに変わりはないのだから、礼を欠くことのないようにすぐに表情を引き締めた。

 

「失礼します」

 

 言葉を置いて、一息、部屋に()る。

 まず正面、執務机の上にうず高く築かれた書類の山が見えた。どこぞの死神に負けず劣らずのサボり癖を持つ天魔が、一週間もの間仕事から逃げ続けて築き上げた力作だ。椛が何時間か前に確認した時と比べていくらか低くなっているから、どうやらそれなりに仕事はしていたらしい。感心だ、と椛は頷きを一つ。

 次いで、その山々の隙間から、奥で黒い物体がもぞもぞと動いたのが見えた。机に突っ伏していた上体を、長い黒髪を引きずりながら起こしたのは、紛れもなく天魔その人。ギシギシと椅子を不安定に軋ませ、やがてやおら口を開いた。

 

「なにか、用かあ~……?」

 

 黒髪の向こう側で、寝ぼけ眼がまばたきをしている。どうやら居眠りをしていたらしいが、仕事はそこそこしていたみたいだし、なにより今はあの妖狐について早急に確認を取らなければならないので、椛はすぐに本題を告げた。

 

「はい。先ほど警備中に、麓付近で天魔様の友人を名乗る方と出会いまして」

「友人……? 誰じゃ、千代(ちよ)かー?」

「いえ、ええと――」

 

 答えようとして、そういえば名前を聞いていなかったことに気づく。仕方ないので、あの特徴的な銀の毛並みを告げることにした。彼が本当に天魔の友人ならば、それで問題なく伝わるだろう。

 

「綺麗な銀の毛並みを持った、狐の――」

 

 瞬間。

 ざわ、と、部屋の中を唐突に風が巡った。窓を、ドアを、そのすべてを閉め切った空間でどうして風が流れるのか。答えは、ただ一つ。

 

「て、天魔様――?」

 

 天魔が風を操っているのだ。でも、なんでいきなりそんなこと。当惑する椛が問う間にも、風はますます勢いを増し、書類の山を容易く(くう)に吹き上げていく。

 

「ふ、ふ、ふふふふふ……そうか。銀の、狐か」

 

 不気味に響く天魔の声は、抑えられない喜びの色で染め上げられていた。ああ、こんな天魔様を見るのは久し振りだ。きっとあの狐は、本当に天魔様の御友人だったんだろう――そう椛が思った直後。

 

「悪い、椛。――少し出掛けてくる」

「え――きゃあああああ!?」

 

 突風。爆発でも起きたのかと思うほどの豪風であった。書類が四方八方に弾け飛び、部屋全体が激しく振動し、体を打たれた椛は立っていることもできず後ろに薙ぎ倒されてしまう。

 そうしてしばらく、風が落ち着きを取り戻し、椛が恐る恐る目を開けた時――見えたのは執務室の天井、無造作に開け放たれた大きな天窓。

 

「あ……」

 

 呟き、ゆるゆると起き上がる。

 目の前に、惨状が広がっていた。

 執務机の上に築かれていた書類の山。天魔がいくらか減らしたとはいえ、それでも残り何百枚はあったはずの紙片たちが、みんな散り散りに飛び散って、床の上、執務机の上、そして本棚の隙間と、至るところを真っ白に塗り潰している。

 そして、なにより。

 この部屋にあるべき天魔の姿が、どこにもない。さっきまで確かにいたはずなのに、忽然と消えてしまっている。

 椛は、開け放たれた天窓に目をやった。あの窓は突風が吹いた程度で開いてしまうようなヤワな作りではないし、もちろん、椛が開けたわけでもない。

 では、天窓を開けたのは一体誰か。答えはたった一つ。それを悟って、椛はへなへなとその場に座り込んでしまった。

 

「て、天魔様あああ~……」

 

 ちょうど目の前を舞って落ちた書類が、自分を嘲笑っているかのようで。

 椛は割と本気で、その書類をズタズタに引き裂いてやりたい衝動に駆られたのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 誰かと他愛もない話をすることが、こんなにも緊張するとは思わなかった。

 椛が天魔に確認を取って戻ってくるまでの一時、山道の脇に転がっていた古木の幹に腰を下ろし、雛は銀の妖狐――月見と話を交わしていた。互いの距離は隣同士、手を伸ばせば容易に相手の肩に触れられるほど。相手が男というのもあるのかもしれないけれど、この距離で誰かと話をするのは初めてで、わけもなく恥ずかしくて、心臓の鼓動が外に漏れてしまいそうだった。

 

「……ふうん。それじゃああなたは、つい先日まで外の世界で暮らしてたのね」

「ああ。ここに戻ってくるのは数百年振りだけど、あまり変わりないようで嬉しいやら悲しいやらだね」

 

 幸いなのは、その緊張を表に出すことなく無難に会話を進められていることだろうか。私のポーカーフェイスもなかなかのものねと、雛は自分を褒めてやりたい気持ちになった。

 月見の話は、正直あまり頭に入っていない。最低限の相槌は打てているものの、そうした途端に頭から抜け落ちていってしまっている。なにか色々と話をしたような気がするものの、彼の名が月見であること、つい先日まで外の世界で暮らしていたこと以外はよく覚えていなかった。

 

「……なるほど。あなたがこの山の神社に行こうとしてたのも、そのあたりが理由なのね」

「そうだね。私が昔ここで生活してた時にはなかったものだから、一目見ておこうと思って」

「ふうん……」

 

 思う。椛はまだ戻ってこないのかしら、と。雛の体感時間では、椛が飛び立ってから既に三十分以上が経っている気がした。

 こうして会話すること自体は別に不快ではないのだが、このままだと色々とボロが出てしまいそうで不安だった。緊張しててろくに話も聞いてませんでした、なんてことがバレたら、決して恥ずかしいだけでは済まされない。

 

「……まあ、私の自己紹介はいい加減このくらいでいいかな。ほとんど見ず知らずの男の自己紹介ばかり聞いてても、つまらないだろう?」

「えっ……あ、いえ、別にそんなこと……」

 

 雛は焦った。彼が自己紹介をやめたら話題がなくなる。話題がなくなるということは、緊張しているのがそれだけバレやすくなるということだ。

 

「……」

 

 彼が、無言でじっとこちらを見つめてきた。なにか話したいことがあったらどうぞと、そう言っているかのよう。けれど雛には、改めてなにを話せばいいのかなんてわからなかった。

 自己紹介されたんだから、こっちも自己紹介で返すべき? でも、それなら既に昨日の時点でしてしまったし、今更繰り返してもよそよそしい気がする。じゃあ彼が自己紹介したことについて掘り下げてみる? かといって肝心のその内容をほとんど覚えていないし、あんまり掘り下げすぎても馴々しいと思われるんじゃないかとか――

 

「ふふ」

 

 ふと、微笑の声。

 

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。気楽に行こうじゃないか」

「うっ……」

 

 いけない、気づかれた。頬がじんわりと熱を持っていくのを感じる。ただ隣同士に座って会話するだけでここまで緊張するなんて、まるで私が口下手みたいじゃないか。

 ……なんて思ったけれど、実際そうなのかもなあ、と雛は内心でため息をこぼした。なぜか厄の影響を受けない彼は、もはや雛にとってただの他人と割り切ることはできない。だからこそ、今までの距離を取った人付き合いの中では気づくことができなかった自分の本当の姿が見えて、恥ずかしくなってくるのだ。

 どうやら雛は、相手と距離があるうちは冷静だが、ひとたび近づかれると途端に緊張して上手く喋れなくなってしまうタイプらしかった。なんだか自分で自分が情けない。

 

「え、ええと……」

 

 ともあれ、だからといってこのままというのもよろしくない。雛はすっかり熱くなってしまった己の頬を心底恨みがましく思いながら必死に話題を探して、そういえばと、ふとあることに気づいた。

 

「そういえば、あなたはどうして厄の影響を受けないの? いえ――」

 

 正確に言えば、“受けない”のではない。

 

「“受けなくなった”、のよね。昨日の時点では、私の厄は確かにあなたに移ろうとしてたもの……」

 

 雛が集めた厄はあいかわらず周囲にふわふわ停滞し、一向に月見へと移っていく様子はない。昨日までならありえなかったはずのことだ。だからこそ、どうしてなのかと眉根を寄せる。

 或いは、あの時に感じたスイッチが切り替わるような違和感と関係があるのだろうか。

 

「あなたの能力?」

「答えを言えば、そうだ」

 

 頷いた月見は、けど、と続けて苦笑。

 

「どんな能力かは、悪いけど秘密にさせてくれ」

「……どうして?」

「色々面倒な能力でね」

 

 それっきり、彼はこの話題は終わりだとばかりに話すのをやめてしまった。色々面倒な能力。気にはなったが、追求しようとは思わない。

 大切なのは――その能力のおかげで、こうして隣同士で話をしても、彼を不幸にさせることがなくなったのだという事実。自分が厄神である以上は避けられないと思っていた運命を、覆してくれたのだという結果だけ。彼が厄の影響を受けなくなったのは能力を使ったからなんだと、それさえわかれば充分だった。

 だから、雛はそっと微笑む。

 

「……訊かないわ。私としては、こうして話をできるだけで充分だもの」

「そうか。……助かるよ」

「礼を言うのはこっちの方よ。……ありがとう」

 

 雛が厄神であることを気にせずに、近づいてきてくれるような相手。自分自身が厄神であることも忘れて、下らない話ができるような相手。どれほど焦がれただろうか。どれほど夢見ただろうか。

 

「どういたしまして」

 

 ああ、卑怯だなあと、雛は思う。

 あくまで雛の境遇が特殊だったせいもあるのだろうけれど、そんな風に嬉しそうに笑いかけられたら――安心してしまうではないか。

 心を、許してしまいそうになるではないか。

 

「あなたは、変わり者なのね……」

「ッハハハ、よく言われるよ」

「そう……」

 

 同時、頓に体がこそばゆくなってきた。彼の人間性は、雛が今まで出会ってきた者たちが、誰一人として持っていなかった稀有なものだ。ひっそり隣に佇んで、柔らかい光で優しく他者を包み込む――それこそまるで、月のような。それがなんとなく落ち着かなくて、そわそわしてしまう。

 ……或いは、だからだろうか。

 

「ね、ねえ」

「うん?」

「も、もしよかったらだけど……たまにこうして、私の話し相手になってくれないかしら」

 

 まだ親しくもない男性相手になにを言っているのと冷静な部分で思いつつも、言葉は止まらなかった。

 

「あなたと話ができると、嬉しいから……」

 

 さわさわ、風が山肌を撫でる。

 そして、言い切ってから、数秒。

 ――雛の顔が火を吹いた。

 

(な、なに言ってるの私――――!?)

 

 なんだか、よくわからない内に、よくわからないことを口走ってしまったような気がする。今の、聞かれただろうか。いや、この距離だ。聞かれたに決まってる。

 だから思わず、やっぱり今のナシ、と全身で叫ぼうとした……その瞬間。

 

「なんだって? すまない、よく聞こえなかった」

「ひゃう!?」

 

 彼がいきなり顔を近づけてきたものだから、びっくりして、

 

「あっ、」

 

 咄嗟に両手で(くう)を掻くが、遅い。

 そのまま、背中から地面にひっくり返ってしまった。

 

「い、いたあっ……」

 

 後頭部を押さえて悶える。さっきからなにやってるのよ私、と泣きたくなって、それから自分がどんな醜態を晒してしまったのかに気づいて、慌てて空を見上げた。

 空の下、視界のはしっこに、目を丸くしてこちらを見下ろしている月見の顔があって。

 思わず雛も、地面に寝転がった体勢のままで、ポカンと彼を見返して――

 

「――ッハハハハハハハハ!」

 

 いきなり彼が、大笑いした。

 

「なっ――ちょ、笑わないでよ! 笑うなあっ!」

「す、すまない。しかし、これは、なあ? ッハハハ……!」

「こ、このっ……!」

 

 た、確かに傍から見れば滑稽だったかもしれないけど、そんな大笑いしなくてもいいじゃない――そう思い、一発ぶっ叩いてやりたくて、雛は体を起こそうとした。

 でもそれと同時に、彼が急に右手をこちらに伸ばしてきたので、ハッと動きを止めた。なによ、この手――初めは、そう思ったけれど。

 

「ほら、大丈夫か?」

「――ぅえ、」

 

 掛けられた言葉に、思わず変な声がこぼれた。目の前にある大きな掌を呆然と見返しながら、どうすればいいんだろう、と疑問に思ってしまう。ああ、答えなんてなんとなくわかっているのに、呆気にとられるばかりで頭が上手く回ってくれなかった。

 

「えっ……と?」

 

 ゆるゆると、月見を見る。彼は白い歯を見せて、苦笑した。

 

「ほら。いつまでもそうしてると服が汚れるぞ」

「そ、そうだけど……」

 

 もう一度、彼の掌を見る。変わらず雛の目の前で、静かに佇んで、待ち続けていた。

 他でもない――雛の右手を。

 

「――」

 

 言葉が出てこない。だって、こんな風に手を伸ばしてもらったのなんて、初めてだったから。本当に私が、厄神の私がこの手を取ってもいいのか――とか、考えてしまって。

 

「ほら……いつまでぼうっとしてるんだ、よっと」

「わあっ!?」

 

 そのうち、痺れを切らした月見に強引に右腕を取られた。力強く体を引かれて、視界がグルンと縦に大きく動いて、気がついたら立ち上がっていた。随分と乱暴な起こし方だったけれど、背中に彼の尻尾がさりげなく回されていたので、痛みはない。

 

「まったく……どこか怪我したのか?」

「えっ、やっ、別にそういうわけじゃ……」

 

 尻尾がポンポンとこちらの背を叩いて、ついた落ち葉なんかを払ってくれている。

 

「まだ緊張してるのか?」

「緊張っていうか、その……」

 

 緊張しているというか、今の状況についていけなくて戸惑っているというか。

 

「ふむ……では色々ひっくるめて訊くけど、大丈夫か?」

「……」

 

 問いに、どうなんだろうな、と雛は考えた。初体験の連続で体は熱っぽいし、心臓は大慌てしてるし、なんか頭を空にしてその辺を全速力で飛び回りたい気分だし、決して大丈夫とはいえないような気がする。

 でも――と、胸に手を当て、思う。これはきっと、悪い感情じゃないんだと。新しい環境に対応して自分が変わろうとしている、喜ばしい感情なんだと。

 そう思うと、不思議と熱かった頭も落ち着いた。

 笑みの吐息をつき、言う。

 

「……本当にあなた、変わり者よ」

「おや、そうか?」

「ええ、そうよ」

 

 彼の勝手気ままな姿を見ていると、さっきまで色々と大慌てしていた自分がバカみたいに見えてくるのだから不思議だ。すべてのことが新鮮に感じられて、楽しくて、厄神であることに思い悩んでいた少し前までの自分が嘘のよう。

 だから雛は、もう一言だけつなげた。

 

「……ほんとに、ありがと」

 

 自分でも聞き取れないくらいにそっと呟いたそれは、果たして彼に届いたのだろうか。彼は一瞬不思議そうに小首を傾げて、すぐに一笑。

 

「そういえば、結局スペルカードについて教えてもらってなかったね。あの白狼天狗の子もまだ戻ってこないし、もしよければ今教えてくれないか?」

「ええ、そうね……私は大丈夫よ」

 

 心もすっかり落ち着いていた。今ならきっと、心ゆくまま彼と話をすることができるだろう。

 話題は、スペルカード。まずはスペルカードルールについて教えた方がいいだろうと思い、口を開いたけれど、

 

「ん……ちょっと待った」

「え?」

 

 不意に月見が片手でこちらを制し、空を見上げた。その時になってようやく、雛は森が少しばかり騒がしくなっていることに気づく。木々たちがざわざわと震えて、落ち着きがないのだ。

 月見が静かに眦を険しくした。それを見て、雛の心も緊張を覚える。どうしたんだろう。横から月見の顔色を覗き込むけれど、彼は空を見上げたまま微動だにしないでいる。

 

「……少し下がってなさい」

 

 そのうち、月見がこちらを庇うように大きく三歩前に出た。なにかよくないことが起こるような気がして、雛の心がざわめく。あの時彼が目の前から消えてしまった光景が甦って、息が詰まる。

 

「つ、月見……」

「なに、心配ないよ。そこでのんびり見てるといい」

 

 耐え切れなくなって名を呼ぶけれど、彼は空から視線を外すことなく、微笑む声で応じるだけ。

 森のざわめきは次第に大きくなる。雛は、何者かがこちらに向けて猛スピードで迫ってきている気配を感じた。椛が戻ってきたのだろうか。いや、それにしては様子がおかしい。この速度、幻想郷最速を謳うあのブン屋にも負けず劣らずの勢いではないか。

 というか、そうこう考えているうちに――

 

「――って、ちょっと待って!?」

 

 雛は焦った。何者かは知らないが、あれだけの猛スピードを出しておきながら一向に止まろうとする気配がない。あのままここに突っ込んでくるつもりなのだ。もし激突でもしたら、決してただでは済むまい。

 

「月見、逃げなきゃ!」

「大丈夫だよ。私に任せておきなさい」

 

 けれど、慌てる雛を再度月見の柔らかな声が制す。彼はその場で空に向けてゆっくり両腕を開いて、身構えた。……まさか、受け止めるとでもいうのだろうか。流れ星みたいに落ちてくる何者かを、体一つで。

 

「つ~~く~~みいいぃ~~……」

 

 声が降ってくる。そこから先は一瞬だった。折り畳まれた黒の大翼が見えたから、どうやら天狗らしいと――雛が認識した頃には、既に月見と“彼女”は激突間際で。

 

「月見――――!! 久し振りじゃぎゃああああああああ!?」

 

 刹那。

 月見は目にも留まらぬ神速で尻尾を振るい、彼女を真横に打ち飛ばしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第5話 「厄神様の小さな幸せ。 ②」

 

 

 

 

 

 森のざわめきは、すっかり収まっていた。本当になんの物音もしなくて、痛いくらいに静かだった。

 

「……、」

 

 雛は、まるでその静謐が縄となって全身を縛りつけているかのように、身動ぎ一つすることができないでいた。目の前には、月見の尻尾に打ち飛ばされ、十メートル以上に渡って地面を抉り、動かなくなった天狗の肢体がある。これを目の当たりにして一体どんな反応をすればよいのかがわからなくて、思考は混乱するばかりであった。

 とりあえず、パッと思いついたことを言ってみる。

 

「え、えっと……ナイスバッティング?」

「ッハハハ、それはどうも」

 

 いやいや、それは違うでしょう――雛は首を横に振った。褒めてどうする。訊かなければならないことは、もっと別にあるはずだ。

 

「……その、色々と前置きすっ飛ばして訊くけど、――いいの?」

「大丈夫だろう、操だし」

「操!? 操って、て、天魔様ぁ!?」

 

 予想外の答えに、雛は思わず仰天した。すぐに、自分がらしくもない大声を上げてしまったことに気づいてハッと口を噤むのだけれど、

 

「うん? 確かにそうだが……それがどうかしたか?」

「いやいやいや! どうしたもこうしたもないわよ!」

 

 事の重大さを理解していないのか。きょとんと小首を傾げた月見に、またしても大声で叫んでしまった。今度はもう、息を呑む気にもなれない。

 だって、月見の言葉を鵜呑みにするならば、あそこで物言わぬ屍になっている天狗は、

 

「天魔様よ!? 天狗たちのトップよ!? それをあんな!」

 

 天魔。幻想郷で一大勢力を占める天狗たちの、紛れもない頂点に君臨する大妖怪。

 そんな相手を容赦なく尻尾で打ち飛ばして、あんな無残な姿にさせてしまうなんて。

 

「ど、どうするの!? 天狗たちに怒られるわよ!?」

 

 天魔を故意に傷つけたとなれば、彼女の腹心の部下たちが決して黙ってはいない。怒られる――などという可愛い話で済めば万々歳で、普通なら間違いなく誅伐されるだろう。天魔を傷つけることは、幻想郷にいるすべての天狗に喧嘩を売るも同じなのだ。

 だというのに、彼はこの期に及んでも、からから呑気に喉を鳴らしたのだった。

 

「大丈夫だよ。言ったろう、私と操は友人同士だと」

「で、でも」

「それに操は頑丈だからね。これくらいでどうこうなったりはしないよ」

「いや、あのね、そういうことじゃなくって」

 

 結局、月見はなにを言っても「大丈夫だよ」の一点張りで、雛の方が根負けしてしまった。私は正論を言ってるはずなのにどうして、と頭を抱えてしまう。

 

「う、ううん……」

 

 と、意識を取り戻したらしい天魔が、呻き声を上げて身動ぎをした。雛は息を呑んで、体ごとでそちらの方を振り返る。

 まだ痛みが残っているのだろう。両腕を支えにしながらゆるゆると体を起こした天魔は、地面に座り込んで周囲を見回し、それからこう言葉を漏らした。

 

「む? ……ここはどこじゃ?」

 

 ――はい?

 雛は目を丸くした。どこって、妖怪の山に決まっているのだけれど。

 天魔はまだ雛たちに気づいていないらしく、腕を組んで、一人でうんうんと唸り続けている。

 

「む、むむむー……? おかしいの、確か儂は執務室で仕事をしとってー、そしたら椛がなんかの報告をしに来てー、……あれ? なんで儂は森の中に?」

 

 もしかして、なにがあったのか覚えていないのだろうか。……充分にありえる話だ。冷静に考え直せば、彼女は十メートル以上にかけてド派手に地面を抉ったのだ。一体どれほどの衝撃が脳に加わったのか、想像するだけでも冷や汗が出てくる。これでは、記憶が混乱していない方がおかしいだろう。

 そんな天魔に、すぐに雛の隣から月見が声を送った。

 

「操ー、大丈夫かー?」

「む? ……おおお、月見じゃないか!」

 

 月見に気づいた彼女は、すっかり土だらけになった顔を満面の喜びで染め上げて、一直線に彼の胸へと飛び込んだ。月見も輪をかけてぶっ飛ばすような真似はせずに、素直に彼女を抱き止める。

 

「そうだ、思い出したぞ! お前さんがこの山に来てると椛が報告してきたから、仕事ほっぽり出して会いに来たんじゃ! 久し振りじゃの! ――でも儂、なんであんなところで眠りこけてたんじゃろ?」

「ああ、それか。――木にぶつかって墜落したんだよ。まったくびっくりしたぞ?」

「むう、そうだったのか……。すまんすまん。猿も木から落ちる、天狗も木にぶつかる、じゃな」

「……」

 

 この狐、ちゃっかり操に嘘を吹き込んでいる。雛は半目で月見を見たが、嘘も方便だよとばかりに躊躇いのない微笑みを返されたので、まあいいかと諦めた。多少の後ろめたさはあるけれど、真実を明かしたら色々面倒になりそうなので、まさに嘘も方便なのだろう。

 

 ともあれ、天魔である。正確な名は、天ツ風操(あまつかぜみさお)だったろうか。濃い闇色の髪が地面をひきずられるほどに長く伸びており、まるでそれ自体が一つの衣のごとく、彼女の体を覆い隠している。月見の銀と好対照をなし、まるで夜の色を映し出しているようだ。

 更に、その髪に負けず劣らず長く大きい黒の翼。他の天狗たちよりも一回り大きく見えるのは、彼女が天魔という特別な存在だからなのか。衣服は髪と翼に隠されてよく見えないけれど、どうやら黒の着物で、引き振袖のようなものを着ているらしい。よほど黒が好きなのだろうか、頭から足まで、とかく黒で塗り潰された天狗であった。

 顔立ちは、『天魔』という肩書きの割には随分と若い。月見と同じくらいだ。月見に向ける笑顔には確かな若さの色があり、一方で鋭い線で形作られた相貌は、若さ以上に『女傑』という表現が似合いそうな気もする。

 そんな彼女――未だ月見の胸元にひっついて離れようとしない操に、月見が困り顔で片笑んだ。

 

「ほら、いつまでくっついてるんだ。人が見てるんだからいい加減に離れろって」

「む? ……おお、本当じゃっ。お前さん、いつの間にそこにっ」

 

 そこでようやく、彼女は雛の存在に気づいたようだった。むむっと芝居がかったように眉根を寄せてこちらを指差すと、

 

「儂に気づかれずにここまで近づくとは。さてはお前さん……できるな?」

「ええと、最初からいましたよ?」

「なんじゃつまらん」

「……」

 

 この天狗、本当に天魔なのだろうか。雛は不安になってきた。

 操は月見にしなだれかかり、猫撫で声で言う。

 

「月見ー、こやつは誰じゃ? 知り合いか?」

「そんなところかな。……名前は鍵山雛。厄神だそうだよ」

「あ? 厄神?」

 

 操の声が、ふとして眉間に線を刻んだ。ビクリ、雛の肩が震える。見れば、操が先ほどまでのふざけた目線を一転、鋭い眼力を宿してこちらを睨みつけている。

 

「あっ……」

 

 ハッとした。そうだ――月見との会話があんまり心地良かったものだからすっかり忘れてしまっていたが、雛は厄神。周囲から疎まれる存在。今までのように自分が厄神であることを気にしなくていい時間は、既に終わってしまっているのだ。雛の周囲を回っていたはずの厄が、操に向けて流れ始めている。

 弾かれたように一歩、あとずさった。

 

「す、すみません。すぐに離れ――」

「ああいや、別にそこまでせんでいいぞー」

 

 けれど、それをまた一転、今度は至って気楽に紡がれた操の言葉が制した。鋭かったはずの眦は既に柔らかく、すまんすまん、と彼女は髪を梳く。

 

「いやあ、厄神と聞いてちょっと警戒したが、そうか。お前さんが、椛の言っとった厄神なんじゃな」

「えっ――」

 

 出てきたその名に、雛は知らず息を詰めた。

 

「椛が、なんて?」

「ん? あー、なんじゃったかなあ。いっつも寂しそうにしてるからなんとかしてやりたいんだー、とかなんとかだったような……」

「っ……」

 

 少し、心が揺れた。昔から優しい子だとは思っていたけれど、まさかそんなにこちらを心配してくれていたなんて。

 ――椛……。

 彼女の温かい心に、雛の琴線が静かに震えて――

 

「――でもぶっちゃけ儂、その時は仕事疲れのせいで舟漕いでたからな! すまん、あんま自信ない!」

「……」

 

 台無しだった。ほんのり温かくなっていた心が、一気に冷めた。……本当に彼女、天魔なのだろうか。

 思わず半目になる雛を知ってか知らでか、ハッハッハ、とひとしきり大笑いした彼女は、それっきりまた月見の体に飛びついてしまう。

 

「いやー、戻ってきて早々に厄神を攻略するなんて、さすが月見じゃね! ……しかし、溜まり溜まった厄がそんな二人の絆を引き裂こうとする! 果たして月見は見事ハッピーエンドに辿り着けるのだろうか!?」

 

 もしかして彼女、月見にぶっ叩かれた影響で脳の配線がおかしくなってしまったのだろうか。操には非常に申し訳ないのだが、こんなのが天狗たちのトップだなんて、色々と信じられない。

 

「ね、ねえ、月見」

 

 こちらの言わんとしていることを、彼は視線だけで察した。悄然と大きなため息を落とし、

 

「……悪いけど、これがこいつの平常運転なんだよ」

「そ、そうなんだ……」

 

 天狗の未来は不安だな、と雛は割と本気で思った。

 その反応に、操はぶーぶーと不満顔。

 

「儂は月見を心配しとるんじゃよお。別にあやつと仲良くするのはお前さんの勝手じゃけど、厄神に近づくと不幸になるというだろ? 大丈夫なのか?」

「ああ、それね。それだったら問題ないよ。この子の持っている厄は、もう私には影響しなくなったから」

「はあ? ……本当か?」

 

 目を丸くした操の疑問は、正直雛自身も感じている。月見にはもう、雛の厄は影響しない――実際に目で見て体で体験した事実とはいえ、未だにいまいち現実味を得られない部分はあった。

 けれど少なくとも、現時点で雛の厄が彼に影響していないのは間違いない。胡乱げにこちらを見遣った操に対し、はっきりと頷く。

 

「はい。それは本当です」

「ふうん……?」

 

 操はしばし小首を傾げたままだったが、難しいことを考えるのは嫌いなのか、すぐにパッと破顔した。

 

「さすが月見じゃねっ。ハッ、これはつまりハッピーエンドのフラグが確定」

「あ、あの、それでですね」

 

 また余計なことを言い出される前に、雛は矢継ぎ早に言葉をつなげた。月見が雛の厄に影響されなくなったのは事実だが、操は別だ。こうして話をする間にも、徐々に彼女の周囲に厄が引き寄せられていく。

 さっさと離れた方がいいのは重々承知しているけれど、そうしようとして引き留められたのがつい先ほどの話。一体彼女は、なにを考えているのだろうか。

 

「私の厄があなたの周りに移り始めてます。ですから離れないと……」

「ん? おお、すっかり忘れとった」

 

 そういえばそうだったの――神妙に頷いた操は月見から離れ、埃を払うように右手を浅く振り、己の周囲を薙いだ。

 

「――ほれ、邪魔じゃよお前ら」

 

 その、言葉とともに。

 瞬間。

 

「!」

 

 操の周囲にわだかまっていた厄が、散り散りになって消滅した。――厄祓いだ。

 

「なっ……」

 

 雛は瞠目した。

 厄祓いは文字通りに己に取り憑いた厄を祓うものだが、同時に一種の神事でもある。例えば博麗の巫女などの神を奉る者が、供物を供えたり祈祷をしたりという必要な手順を踏むことで、初めて実現される“儀式”なのだ。

 なのにこの女性は、手順などをすべて無視してただ右腕を振っただけで、それを。

 絶句しているこちらを見て、操が得意げに口角を曲げた。

 

「ふっふっふー、驚いたろう? 尊敬してくれてもいいんじゃよ?」

「……すごいですね。驚きました」

 

 素直に頷く。頷いてしまう。本当に驚いた。八雲紫や鬼子母神と並んで幻想郷を代表する大妖怪である、『天魔』。その計り知れない実力の一端を見たような気がして、思わず舌を巻いていた。

 

「この儂にできないことはないんじゃよ!」

「じゃあ逃げずにちゃんと仕事してくださいよ、天魔様……」

 

 えっへんと大きく胸を張る操。それと同時に、空から疲れ声が降ってきた。目線を上げれば、椛がなにやら項垂れた様子で降りてくるところであった。

 

「あら、椛……」

「雛さん、お手数をお掛けしました。ありがとうございます」

「え、ええ」

 

 降り立つなり律儀にそう頭を下げる椛だが、普段の元気のよさはまったくといっていいほど見受けられない。尻尾がへにゃりと地面に垂れてしまっていて、見るからに具合が悪いようだ。どうかしたのだろうか。

 操が、心配そうに椛を覗き込んで問い掛けた。

 

「どうした、椛? お腹痛いのか?」

 

 椛の鮮やかな平手が操の頭を打ち、快音を鳴らした。

 

「うええ!? も、椛、あなたなにして」

「雛さんは黙っててくださいっ!」

「は、はいっ!」

 

 口を挟みかけた瞬間に大喝され、雛は反射的にその場で背筋を伸ばしてしまう。

 あれ? と首を傾げた。おかしい。なんで私が怒られるんだろうか。だって操は天魔様で、椛の上司のはずで。上司を思いっきりぶっ叩いたりしたら、当然部下として問題行動になるはずなのに。

 けれど、直後に目の前に広がった光景は、雛の予想を鮮やかに斜め上へと飛び越えていった。

 椛が操を叱りつけている。

 

「天魔様、あなたバカですか!? 派手に突風起こして出ていくのはやめてくださいって何度も言ってますよね!? あれ、飛び散った書類を集めるのは私なんですよ!?」

「い、いたた……いや、それはあれじゃよ、椛。ほら、そっちの方がカッコいいじゃろう?」

 

 再びの快音。

 

「あいたぁー……」

「バカですか、いいえバカですねあなたは! 全然カッコよくなんかないですよっ!」

「そうかのう。『悪い、椛。――少し出掛けてくる』。……決まったと思ったんじゃが」

 

 快音。

 

「待って椛! これ以上は、さすがに儂の頭がおかしくなっちゃうと思う!」

「一周回って正常になりますから安心してください。あら、素敵ですね。そしたら天狗たちがみんな幸せになれます」

「ぎゃー!」

 

 ――あれ? 天狗の社会って、こんなんだったっけ?

 雛はてっきり、自由奔放な鬼たちの社会とは違って上下関係がハッキリしていて、特に天魔の言動には皆が絶対的に付き従っていく――そんな明確な縦社会を想像していたのだが。

 だとしたらなんで目の前で、その天魔が部下である白狼天狗にぶっ叩かれているのだろう。

 

「大体天魔様は! いっつもいっつも! 仕事を真面目にしなくて! なんでですかっ! 天魔様は本当は素晴らしい辣腕を持ってるじゃないですかっ! なんでそれを仕事の時に発揮しないんですかっ!?」

「いた、いた、いたたたたた!? ちょっ、椛、やめ……! さ、さてはこれが噂に聞く『愛のムチ』というやつじゃな!?」

「は? なに言ってるんですか? ――ただの鬱憤晴らしですよ」

「いやあああああ助けて月見いいいいい!!」

 

 絶叫した操が、そそくさと月見の後ろに回り込んだ。膝頭を地につけ、彼の背中にぴったりと縋りつく。

 椛はすぐに追おうとしたが、

 

「まあ、そのくらいでよしてやってくれないか?」

「あっ……」

 

 それを、月見が苦笑交じりで引き留めた。操に必死に背中を叩かれたからだろう。

 椛は彼の存在をすっかり忘れていたのか、慌てた様子で姿勢を正して、深く頭を下げた。

 

「その、先は失礼しました。どうやら本当に、天魔様の御友人のようで」

「いや、いいよ。むしろ私の方がすまなかったね。こいつに確認を取ってみろなんて言ったせいで、なにやら苦労を掛けてしまったようだ」

「い、いえそんな! あなたが謝ることじゃないですよ! 悪いのは天魔様です!」

「あの、椛!? そろそろ許してくれんか!?」

 

 操の悲痛な叫びを、月見と椛はそろって無視した。

 操はしょげた。

 

「ともかくほら、雛がすっかり固まっちゃってるからこのくらいにしておこう。なあ、雛?」

「――えっ?」

 

 不意に名前を呼ばれて、雛はハッと我に返った。月見の言葉通り、本当に固まってしまっていたようだ。思考まで完全停止していたから、自分で気がつけなかった。

 あっと声を上げた椛が、頭を下げる方向を月見からこちらに変えた。

 

「すみません雛さん、お見苦しいところをお見せしてしまって。――天魔様が」

「も、椛! 儂が悪かったからもうやめよう!? な!?」

 

 操の悲鳴はとりあえず無視して、雛は応じる。

 

「そ、そうね……意外ではあったわね。天狗たちは、もっとこう、上下関係には厳しいんだと思ってたから」

「いえいえ。尊敬できる素晴らしい上司には、みんなちゃんとしてますよ」

「それって遠回しに儂が尊敬できないって言ってるのか!?」

「その、大丈夫なの? あんなに殴ったりして……」

「大丈夫ですよ。天魔様ですから」

「うわーん! 椛がいじめるー!」

 

 椛はもはや、操のことは眼中に入れていないらしい。改めて月見に向き直り、微笑むと、

 

「名前をお伺いしてもいいですか? 私は犬走椛、白狼天狗です」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「月見様、ですね……。天魔様の御友人ということですので、山には自由に立ち入られるように計らっておきますね。ただ、指示が他の天狗たちに行き渡るまでは、申し訳ないですが、色々とご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません」

「おや、随分としっかりしてること。大したものだ」

 

 それは雛も同感だと思った。哨戒天狗――誰もが面倒くさがる哨戒任務を押しつけられる、謂わば下っ端。なのに椛は、ただ山の近辺を飛び回るだけではなく、他の天狗たちに指示を与えられる発言力も持っているらしい。

 加えてこの場では天魔に説教したりもしたのだし、もしかすると彼女、下っ端などではなくかなり優秀な天狗なのかもしれない。

 感心した様子の月見に、椛は照れ隠しの笑みを一つ。けれど尻尾だけは、とても正直にパタパタと揺れていた。

 

「一応私、天魔様の目付け役みたいなものも任されてるんで。上の方には結構顔が利くんです」

「今みたいに仕事真面目なところを除けば、いい子じゃよー」

「まあ、仕事不真面目な天魔様から見れば誰だってそうなりますよねえ……」

「ひーん!」

「ほらほら天魔様、屋敷に戻りますよ! まだ仕事はたっくさん残ってるんですからっ!」

 

 椛は月見の背後に回って、そこにひっついている操を引き剥がしにかかった。

 当然ながら、操は月見の腰に両腕を絡みつけて猛抵抗する。

 

「い、いやじゃー! せっかく旧友と再会したんだから、もう少し思い出に浸る時間があってもいいじゃろー!?」

「本音を言うと?」

「仕事なんてしたくな――待って椛、剣を抜くのは反則! 反則っ!」

 

 一体どこから取り出したのだろう、椛がいつの間にか両手で大剣を構えていた。その挙措には露ほどの淀みも躊躇いもなく、ゆらり、幽鬼のように体を揺らして、地に響く重い刃の声音を操へ突きつける。

 

「大人しく仕事をするか、ここで剣の錆になるか、どっちか選べ」

「……あ、あのー、椛さん? 気のせいか、口調が変わっているように思うんじゃが」

「選べ」

「……、」

「早く選べ」

「…………仕事、します」

「よろしいです」

 

 途端、満足そうに微笑んだ椛の両手から大剣がどこかへ消えた。……麓近くにある紅い屋敷に仕えるメイドもびっくりの手際。取り出した時といい、このワンコ、手品師なのだろうか。

 操はさめざめと涙を流し、時々しゃっくりをしたりしながら、月見の裾を掴んで駄々をこねていた。自分の中にある天狗たちへのイメージが、みるみるうちに崩れ去っていくのを感じる。上下関係ってなんだろう。天魔ってなんだろう。……もう椛が天魔でいいんじゃないかな、とすら割と本気で思った。

 月見が苦笑しながら、あやすように操の頭を叩いた。

 

「ほら操、やることはしっかりやらないと駄目だろう?」

「は~い……。月見、今度一緒に酒でも呑もうな?」

「はいはい」

「約束じゃぞっ。月見はこのあとどうするんじゃ?」

 

 そうだね、と月見はこちらを一瞥してから、

 

「とりあえず、もうしばらく雛と話をしてるよ。スペルカードについて教えてもらいたいからね」

「ほう、スペルカード……」

 

 操の瞳が関心で細まる。

 

「確かにスペルカードルールが成立したのは最近じゃから、お前さんは知らんだろうなあ」

「でも、大丈夫なんですか? 雛さんは……」

 

 心配そうに声を上げた椛が、しかしこちらを盗み見てから、言いづらそうに言葉を飲み込んだ。「雛さんは厄神なんですよ?」とでも言おうとしたのだろう。

 だが先に操に教えた通り、その問題は彼の能力によって既に解決済みだ。

 

「大丈夫よ、椛。月見はどうやら、天魔様と同じで規格外な妖怪みたい。……むしろ私としては、あなたに厄が移ってしまいそうで心配だわ」

「それだったら大丈夫じゃよー儂が祓ってやるから!」

 

 月見と酒を呑む約束ができてすっかり心を持ち直したらしく、元気よく片手を挙げた操が、先と同じようにして椛の周囲に溜まりかけていた厄を祓い落とした。

 椛が、驚きで目を丸くする。

 

「て、天魔様、そんなこともできたんですか?」

「ふっふー、まあ『厄祓い』は必要な形式さえ整えれば誰にもできることじゃからの。だったら、『能力』を使えば儂でもできるさ」

「それに、月見さんも……」

「はっはっは、年の功ってやつかな」

 

 年の功。その嘘を聞いて、雛は漠然と思い出した。そういえば彼、自己紹介の時に、500年ほど前に幻想郷で生活していた時期があったと言っていたか。

 さすがに八雲紫の式神、金毛九尾よりも上ということはなかろうが、結構長生きしている狐なのかもしれない。初めて出会った時は、ただ尻尾が綺麗なだけの普通の狐だと思ったのに――やはり人も妖怪も、得てして見かけでは判断できないものである。

 

「そうなんですか……すごいですね、お二人とも」

 

 椛が眉をハの字に曲げた。まるで、厄を退ける力を持つ二人を羨んでいるようだった。

 そうして顔を俯かせた彼女は、唇をすぼませながらポソリと、

 

「私にもそういう力があれば、もっと雛さんと……」

「……、」

 

 不意に、沈黙。風が木々を撫でる音だけが、さわさわ、さわさわ、妙に騒がしく聞こえて、耳の奥がくすぐったかった。いっつも寂しそうにしてるからなんとかしてやりたいんだ。天魔の言った言葉が、無意識のうちに雛の脳裏に反芻される。

 果たして、こちらを見て照れくさそうに笑っている椛の行動が、なにを意味するのか。それがわからないほど鈍感ではないつもりだ。でも、まさかと、そんな思考が繰り返されるばかりで、身動き一つ返すことができなかった。

 

「よーし、いいこと思いついたぞ! いいこと!」

 

 沈黙を破ったのは、操だった。パタパタ両腕を振り回して再度椛に近づきつつあった厄を祓った彼女は、こちらと椛を交互に見遣って、妙に張り切った様子で声を上げた。

 

「月見がスペルカードルールを知るために、ほれ、椛とお前さんが弾幕ごっこを見せてやればいいんじゃよ! そうすればお前さんらの親睦も深まるし、な?」

「え? はあ、私は別に――ああ、いや」

 

 椛は一瞬頷きかけたが、すぐにかぶりを振って半目で操を睨む。

 

「天魔様、私と雛さんがそうやって弾幕ごっこしてるうちに逃げるつもりですね」

「ぎ、ぎっくー。い、いや、そんなことするわけないじゃないかー」

「私の目をまっすぐに見て言ってくれたら信じます」

「ソンナコトナイヨー」

「はいダウトー。ダメですよー逃がしませんからねー」

「く、くそー!?」

 

 椛は笑顔で操の腕を掴んで拘束。その様子を眺めながら、雛は内心で吐息した。もし本当に弾幕ごっこを通して椛と仲良くなれたら、とてもとても嬉しいのだけど――やっぱり、高望みなんだろうか。

 ――仕方ないわよね。椛だって、忙しいんだし……。

 そう無理に自分を納得させようとする。また、自分から遠ざかろうとする。

 

「いや」

 

 けれど今回は、そのままでは終わらなかった。改まった顔持ちで、月見が間に入ってきた。

 

「ここは是非、私からもお願いしたいね。見せてくれないか、弾幕ごっこというやつを」

「そ、そうじゃよね月見!」

 

 思いがけず得られた賛同の言葉に、俄然勢いづくのは操だ。バシバシと椛の腕を叩いて、

 

「ほれ椛、月見もこう言っとるし!」

「天魔様は黙っててください。……ですが月見様、そうしてしまうと天魔様がまた逃げ出してしまう可能性があってですね?」

「ああ、それだったらこうすればいいさ」

 

 椛の懸念に、彼は笑顔で応じた。「こう?」と操と椛が同時に首を傾げた、直後。

 月見の尻尾が、目にも留まらぬ速さでぐるぐると操の体に巻きついた。両腕両脚はもちろん、翼に至るまですべてを押さえ込んでいく。

 

「にょわっ!?」

 

 操は突然の事態に反応できず、バランスを崩して、ビターンとその場に横倒しになった。

 

「あ、あれー、月見? 月見さん?」

 

 水を失った魚のように身をくねらせ呆然と月見を見上げるも、彼は一瞥すらしない。ただ、椛に向けて笑みを深めた。

 

「とまあ、私の尻尾はこんな具合で伸縮自在でね。こういう使い方もできる」

「つ、月見ぃー。これってもしかして」

「これで操が逃げる心配もないだろう」

「裏切り者ー!!」

 

 操がビッタンビッタンその場をのたうち回る。けれども、月見の尻尾の拘束は一瞬たりとも緩まなかった。

 むしろ、

 

「ふぎゃあああすみませんすみません大人しくしてます! だから絞めつけはやめてっ、体中がミシミシいっとるんじゃよー!? あっ、」

 

 すぐに操の方から大人しくなった。果たしてどれほどの力で絞めつけられたのか、すっかり大人しくなった彼女は、息絶え絶えになって痙攣すらしていた。……確かにこれなら逃げられそうにないわね、と雛は苦笑とともに思う。

 それは、椛も同じだったのだろう。

 

「……じゃあ、お任せしていいですか?」

「ああ。任せておけ」

「月見のバカアアアアアあああごめんなさいごめんなさいなにも言ってないです大人しくしてますっ! ふぎゃあああああ……」

 

 次第に痙攣することもなくなり、動かなくなっていく操。天魔が死にかけているというのに、椛は笑っていた。というか、もう操のことはすっかり意識から外しているようだった。

 

「じゃあ、やってみますか? 私としても――」

 

 こちらを見遣り、照れ隠しするように目を伏せて、言う。

 

「それで雛さんがちょっとでも楽しんでくれたらいいなあ、なんて……」

「私からも頼むよ、雛」

 

 二人からの言葉に、雛は迷った。厄のことではない。まだ雛自身の気持ちの整理がついていなくて、返事を返せなかったのだ。

 ――厄神の私でも、誰かと弾幕ごっこをして遊んだりして、いいの?

 それで誰かと仲良くなったりして、いいの?

 

「……いいの?」

 

 椛の眦をまっすぐに見返して、雛は問うた。

 答えは、決して待たずにやって来る。

 確信的な頷きと、笑顔を添えて。

 

「もちろんですよ! 私ずっと、雛さんとこういう友達みたいなことをしてみたいなって思ってたんです!」

 

 屈託のないその顔が、雛の胸を打った。

 

「……いい、の? 本当に?」

「いいんだろうさ」

 

 月見からも、言葉はやって来た。

 

「気にすることはないさ。今は厄を祓える操がいるんだし、椛だって、こう言ってくれてるんだしね。だから――」

 

 一息、

 

「――今この時くらいは、厄だとか厄神だとか全部忘れて、普通の女の子になってみたらどうだ?」

 

 その言葉を聞き、反芻し、飲み込むまでの数秒が、雛にとってこの上なく新鮮な時間だった。

 思う。彼と知り合ってからまだ全然時間が経っていないのに、私の世界はすっかり変わっちゃったな、と。心地良い変化だった。今までの無機質で冷たかった世界が、感情豊かで暖かなものに変わっていっているのを感じた。

 そしてその変化の中心にいるのは、間違いなく彼。

 

「……」

 

 思うことは色々とあった。本当に不思議な妖怪ねとか、ありがとうとか、彼に対して言ってやりたいことはたくさんあった。けれど雛はそれらを一切無視して、シンプルな一つの想いだけを結論づける。

 椛を見据え、スペルカードを抜き放つ音、軽やかに。

 

「――言っておくけど、手加減はしないからね?」

 

 ――私の世界を変えてくれたお礼に、精々美しい弾幕ごっこを見せてやろう。

 応じる椛の声は、すぐに響いた。

 

「ええ! 負けませんよ、雛さん!」

「こっちこそ!」

 

 飛揚する。空へと。

 木々と枝葉を抜けて蒼穹を望むまでの道のりが、太陽に照らされて白く眩しく輝く。

 

 その輝きが、今日はとっても綺麗だなと、雛は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第6話 「守矢神社とっても素敵なところ!(自称) ①」

 

 

 

 

 

 芳春の穏やかな風が髪を撫でると、早苗の心も安らぐようだった。

 上機嫌な朝だ。雲一つない空に掛かった太陽が、笑いながらのどかな陽光を降らせてくる。早苗はその太陽にもらい笑いをしながら、日課である境内の掃除に勤しんでいた。

 

「~♪ ~♪」

 

 掃く竹ぼうきのリズムをメトロノームにして、鼻歌を刻む。お気に入りのアニメの主題歌。メロディーが進むたびにまた一枚、また一枚、木の葉を払った。春先なのにこうも落ち葉が多いのは、きっとあたりをよく天狗が飛び回っているからなのだろう。

 

「~♪ ~、~♪」

 

 早苗が風祝を務める神社、守矢神社がこの幻想郷に移転して半年。それはすなわち、外の世界の常識がほとんど通用しない幻想郷の荒波に揉まれ続けて半年、ということでもある。

 移転初日、博麗霊夢と霧雨魔理沙にいきなり弾幕ごっこで襲い掛かられては泣きかけ。その後の宴会で、馬鹿騒ぎをする幻想郷の住人たちに神社をめちゃくちゃにされては挫けかけ。未成年が当たり前のように酒を呷る(非)常識に付き合わされては、酔い潰れて死にかけ。そんなこんなで苦労が絶えず落ち込むことも多かった早苗だが、この日、心は未だかつてないほど晴々としていた。

 

 朝起きた時から、ずっとこんな心模様だった。朝食を作る時も食べる時も鼻歌が止まらなくて、それを見た諏訪子と神奈子が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのを思い出す。早苗自身も、これには内心不思議だなと感じていた。

 

 予感がある。なにか、素敵なことが起こりそうだという予感だ。鼻歌が終わると同時にすべての落ち葉を払い終え、空を見上げれば、広がる蒼は己の心を映し出すかのよう。これはきっとなにか幸福の前触れなのだと、早苗は確かに感じていた。

 

 その時、早苗はある音を聞く。

 パン、パン、と。空気を打つ二回の高音は、参拝の際に行う二拍手の音。

 

「あっ、参拝客かしら?」

 

 胸が躍った。この守矢神社は、恐らく山の頂上付近という立地条件の悪さからだろう、参拝客がほとんど訪れない。だから博麗の巫女らの力を借りて分社を建てることで信仰を集めているのだが、本社で二拍手の音が響くのは実に四日振りのことであった。

 ああ、やっぱり今日は素敵な一日なのかもしれない。期待に満ちた足取りで、早苗は賽銭箱が置かれている拝殿へと駆けていく。

 そして、拝殿の影から飛び出すようにして、

 

「あの! ご参拝の方で、す、か……」

 

 高々と声を発し、しかし後に続く言葉は、尻すぼみに小さくなって消えていった。

 

「ふえ、」

 

 突拍子もなくそんな声が漏れた。未知の力に体を支配されて動けなくなる。心拍数が跳ね上がり、頭が一気に熱くなって、思考が不明瞭になっていく。

 目の前に立っていたのは、一匹の妖怪だった。ただの妖怪ではない。今まで見たことのないような美しく澄んだ銀髪、もふもふそうな大きな尻尾、そして――

 

 ……ふと、視線が合った。

 

 その瞬間、早苗の脳が瞬く間もなく沸騰した。視線は強大な引力を以て“それ”へと引き寄せられ、もう片時も離すことができない。

 

(けっ、)

 

 熱暴走を起こしぐちゃぐちゃになった思考の中で、けれども早苗は、“それ”の存在だけははっきりと己の網膜に焼きつけていた。

 “それ”とは、

 

 

(けものみみ――――!!)

 

 

 彼の頭の上でピクピク震える、二つの獣耳。

 

 ――守矢の巫女・東風谷早苗。

 獣耳に目がない、お年頃。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 とはいえ、早苗はこの幻想郷で暮らすこと半年だ。獣耳を持つ妖怪なんて、兎とか猫とか白狼天狗とか、既に何度も見てきている。

 しかしそれでも、今回の場合はまったく例外。なぜならば相手が男で、狐で、しかも銀色の毛を持っているからだ。

 ではなぜそれが例外となりうるのか、理由は至極単純。

 

 早苗が持っているお気に入りのマンガで、ちょうどこんな感じの銀の狐が登場するからだ。

 そしてその狐は、早苗がそのマンガで一番好きなキャラクターだからだ。

 

 それだけである。

 まったくもって、それだけである。

 

 東風谷早苗。

 アニメやマンガが大好きな、元高校生。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「あの! ご参拝の方で、す、か……」

 

 月見は、拝殿の影から飛び出してきた少女が、そう元気よく声を上げるなり石像のごとく固まったのを見た。

 この神社の巫女だろうか。青と白を基調にした涼やかな巫女服には腋の部分がなく、まるで博麗の巫女と対極しているかのような出で立ちをしていた。雛と同じエメラルドグリーンの髪の奥で、まん丸く見開かれた大きな瞳が、こちらを捉えたきりまばたきもせずに動かなくなっている。

 少女にはそのまま、一向に動き出す気配がなかった。どうかしたのだろうか――そう不審に思った月見が、声を掛けてみようとした瞬間だった。

 

「うわ、うわ――――――!?」

 

 少女がいきなり奇声を上げた。瞬く間もなく真っ赤に熟れた頬を両手で押さえ、どことなくうっとりとした目で数歩あとずさる。驚いているというよりかは、感激しているとでもいうかのような反応だった。

 

「ど、どうした?」

 

 月見も思わずあとずさりしてしまいたくなる程度には異様な反応。愛想笑いが引きつるのを感じながら問い掛けると、少女はハッとして、邪念を追い払うようにぶるんぶるんと頭を振った。

 

「ご、ごめんなさい! なんでもないんです、なんでも!」

 

 わたわた両手を振り乱して、大きく二度深呼吸。表情を凛と整えて再度月見を見るも、

 

「は、はああぁ……」

 

 途端、せっかく引き締めた目尻が実にあっさりと垂れ下がり、口元はふにゃふにゃに緩み、頬はうっとりと色づき、そのだらしなさといったらまさに夢見心地のごとく。

 月見は今まで数多くの人間たちと知り合ってきたが、初対面でいきなりこんな反応をしてくる者は初めてだった。どう反応したらいいのかわからなくて、そしてついでに微妙に嫌な寒気を背中に感じて、頬が痙攣を開始する。

 

「え、ええと……私の顔に、なにかついているのかな?」

「え? いいえいいえそんなことはー……ただそのー、はい、いいですよねええぇ……」

 

 甘い甘い、濡れた声音。……どうやらこの少女、月見の知らない世界にトリップしてしまっているらしい。

 逃げた方がいいだろうか、と月見は悩んだ。

 

「あのぉ」

「……な、なんだ?」

 

 そう少女に声掛けされた瞬間、月見の背筋がさっと粟立った。

 なんだろう、本当に嫌な予感がする――月見が身構えた、その直後。

 

 

 

「一度だけでいいので、『どうか僕を、あなたの犬にしてください』って言ってくれませんか?」

 

 

 

 逃げよう、と月見は踵を返した。

 

「あっ……うわあああああすみませんすみません今のなし――――!! も、ももももも申し訳ありませんつい現実とマンガがごっちゃになっちゃって、つい、つい!!」

「……」

「ものすごく不潔なモノを見る目っ!? 違うんです違うんです言い訳をさせてむしろ『貴方様の仰ることなら喜んで……』ってうわあああああまた現実とマンガがごっちゃになってる私――――――!? そして待ってください行かないでください違うんですってばあああああ!?」

 

 顔を真っ青にした少女に腕を掴まれ、強引に引き止められる。そのまま目の前に回り込まれたので、月見はふっと横に視線を逸らした。

 

「あ、あのっ、おおおっおお落ち、落ち着きましょう? ここは一度、お互いに落ち着いて話し合いましょう!」

「……」

「す、すみません、目を逸らさないでくれませんか? あ、あの、こっちを見てっ……すみませんもしかして私避けられてますか!?」

「…………」

「一瞬たりとも見てもらえない!? だから違うんです誤解なんです話を聞いてくださいってばー!?」

 

 必死に目の前に回り込もうとする少女。それに対し月見は、体ごとでくるくる回って視線を逸らし続けた。

 くるくる。ぐるぐる。回りに回って段々と目も回り始めた頃。

 

「――ウチの早苗になにしてくれてんだこの狐があああああ!!」

「ぐは!?」

 

 怒号とともに疾風の勢いで飛来した何者かの両足が、容赦なく月見の脇腹をブチ抜いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 目の前からいきなり妖狐の姿が消えたので、早苗は思わず目を見張った。

 一瞬遅れてから横の方をなにかが派手に転がっていく音が聞こえ、視線をその方へ向ければ、ちょうど彼が砂利の上を転がり切って動かなくなったところだった。

 

「ちょ、」

「大丈夫か、早苗!?」

 

 早苗は慌てて駆け寄ろうとするも、飛び込んできた人影に目の前を遮られる。背後に巨大なしめ縄を据え、藍色の髪をなびかせた女性……この守矢神社に祀られる神が一柱、八坂神奈子だ。

 彼女は目を見開き、思わずこちらが仰け反るくらいに強い剣幕で詰め寄ってきた。

 

「怪我はないか!?」

「え? あ、はい、お陰様で――じゃなくて! いきなりなんてことするんですか!?」

 

 勢いに呑まれて思わず頷きかけた早苗だったが、すぐに我に返ると両手で神奈子を押し返し、物言わぬ屍になった彼を指差しながら難詰した。

 神奈子は、不意を突かれたように真顔になって答えた。

 

「なにって、襲われてるみたいだったから……」

「冷静に訊きますけど、目大丈夫ですか?」

 

 いや、先ほどは早苗もとかく彼の誤解を解こうと必死だったから、もしかしたら傍目にはそういう風に見えていたのかもしれないが――ともあれ、今は彼の無事を確かめるのが先だ。このままでは、守矢神社では参拝客にドロップキックをかます、などという不本意な風評が立ちかねない。

 早苗は彼のもとに向けてすぐに駆け出そうとするけれど、神奈子は依然として食い下がった。こちらの腕を掴み、しつこく引き止めようとしてくる。「もう、なんなんですかっ?」返す声に、知らず知らず苛立ちの色がにじんだ。

 

「だって、妖怪だよ? しかも見知らぬ」

「知ってますよ。幻想郷なんだから当たり前じゃないですか!」

「ああやってやられたフリをして、近づいたところを襲う気かも。ピクリとしないところなんか実に怪しい」

「神奈子様が本気で蹴っ飛ばしたから気を失ってるんですよっ!」

 

 よくよく思い返せばこの軍神、ドロップキックをかます際に両足にしっかり神力を込めていた。もし人間だったら、間違いなく永遠亭に送り届けなければならなくなっていたレベルだ。いくら彼が体の頑丈な妖怪であるとはいえ、直撃を受けたのでは気も失おう。

 ああもう、と早苗は強引に神奈子の腕を振り切って、彼のもとへ一直線に駆けた。背後から神奈子の制止の声が飛んでくるが、一切構いなどしない。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 膝を折り、両手で彼の体を揺すると、少し遅れてから反応が返ってきた。

 

「――いったぁ……ああ、なんとか大丈夫だよ」

「ああ、よかった……」

 

 それから彼が体を起こそうとしたので、咄嗟に腕を伸ばして支える。すると柔らかい笑顔で「ありがと」と返され、それがまた、件の狐のキャラとダブった。決して顔立ちが似ているわけではないのだけれど、そのキャラと同じ銀髪の狐というだけで、どうしても頭から離れなくなってしまう。

 そして、改めて強く思う。やっぱり、「どうか僕を、あなたの犬にしてください」って言ってみてほしいなあ、と。

 この笑顔でそんなこと言われたらと考えると、こう、心の奥底から、なんだかムラムラしてきた。おお、けしからんけしからん。

 

「……お前、なんかまた失礼なこと考えてないか?」

「うええぇっ!? い、いえいえもう全っ然そんなことっ!?」

「……そうか」

 

 いけない、なんだかまた不潔なモノを見る半目で見られてしまった。とりあえず一旦落ち着こう。

 ――でも、逆にこういう目で見られるってのも……。

 

「さて、早く帰らないとな……」

「うわーすみませんすみません! 大丈夫ですよ守矢神社とっても素敵なところ!」

 

 ふん! と早苗は心頭滅却、気力と根性ですべての雑念を頭の中から追い払った。

 

「……もしかして、私の勘違いだった?」

 

 同時、背後から神奈子が恐る恐る尋ねてきたので、非難の半目を向けるとともにはっきりと頷いてやる。

 

「だから言ったじゃないですか」

「わ、悪かったよ。ええと、そこの狐も――」

「うん、まったく相変わらずだなあ。神奈子は」

 

 神奈子の言葉を遮って響いた声。それが一体誰のものであるか、早苗はしばらくの間認識できなかった。

 「え?」そう声を漏らし、彼を見やる。聞き心地のよいバリトンの声音は間違いなく彼のもの。けれど早苗は、まだ彼に神奈子の名前を教えてなどいない。

 であれば、彼が神奈子の名を既に知っている理由は、一つだけ。

 

「ア、アンタ――!?」

 

 神奈子の表情が驚愕で塗り潰され、それが早苗の推測を確信に変えた。

 彼が、くつくつと喉を鳴らす。早苗が目を丸くし、神奈子がつなげる言葉を失う先で、少年のような若さを口元に宿して微笑んだ。

 

「――この神社に来るのも、随分と久し振りになるね」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 自らを月見と名乗ったその妖狐は、早苗の予想通り、神奈子――そしてこの神社に祀られるもう一柱の神、洩矢諏訪子と、昔からの知り合いであるようだった。

 所は変わり、母屋の和室。そこでテーブルを囲みながら昔話に花を咲かす彼らに、早苗はただただ驚き感心することしかできない。

 

 神奈子曰く、千年以上も昔から生きている妖怪で、早苗のご先祖様とも面識があるとか。

 諏訪子曰く、尻尾がすごくもふもふしてて気持ちよくて、もう最高だとか。

 

 後者はとりあえず置いておくとして、前者の内容は非常に興味深い。ということはこの妖狐、東風谷一族が先祖代々お世話になってきた古馴染で、早苗にとってもまったくの他人とは言い切れないことになる。

 

「……先祖代々お世話になってます、と言うべきなんでしょうか?」

「いや、そんな大それたものではないよ。この神社も、数十年置きで思い出した時にフラッと訪ねるくらいだったし」

「もふー……」

 

 最後に守矢神社を訪れたのは、早苗の先々代の頃。そんなに守矢と関わりのある妖怪がいるのなら、神奈子様たちも教えてくれればよかったのに――そう思ったが、神奈子たちとしては、いつ会えるかも知れない妖怪のことをわざわざ教えようとは思わなかったらしい。

 ああ、そう言われればそうかもねえ。気づかなかったよ――とは、神奈子の弁解である。

 

「でも、そうやって長生きしている妖怪だから、神奈子様の蹴りを受けても平気だったんですね」

「いや、まあ……平気ではなかったけどね?」

「そ、そうですよね。申し訳ないです……」

「ぐおー……」

 

 そこで、早苗と月見は一度会話を切り、揃って月見の背後を見やった。

 床に伸ばされた彼の尻尾に、諏訪子がひっついて寝息を立てている。彼女は月見のこの尻尾がかなりお気に入りらしく、昔話も早々に切り上げると、我が物顔で抱き枕にして眠ってしまったのだ。

 

「……諏訪子様」

「………………んー?」

 

 こちらの呟きに対し、諏訪子の反応は数秒ほど遅れた。尻尾に抱きついたまま寝惚け眼を擦って、

 

「……なんだぁい、早苗?」

「なにしてるんですか?」

「なにって、抱き枕だよぅ……」

「いや、そうじゃなくてですね」

「すごぉーく、気持ちいいよぉ?」

 

 へにゃあ、とだらしなく笑ったあと、再び月見の尻尾にもぞもぞと顔をうずめて、夢の世界へと戻っていってしまった。

 ダメだこりゃ、と早苗は小さくため息。

 

「すみません月見さん、諏訪子様が……」

「いや、気にしなくていいよ。昔からこうだからね、もう慣れたものだ」

 

 具体的にいつからなのかはわからないけれど、そう苦笑する彼の表情には諦観の色が見て取れた。何度言ってもやめてくれないので、もう諦めたのだろう。諏訪子を信仰する身としてはなんとも申し訳ない話だ。

 とはいえ、決して羨望の念がないわけでもない。諏訪子があそこまで骨抜きにされる月見の尻尾、その触り心地はいかなるものや。是非とも触って確かめてみたい。

 だが、初対面でいきなり“あんなこと”を言ってしまった手前だ。これ以上彼を困らせるようなことをしては、いよいよ愛想を尽かされてしまうだろう。

 ――今は我慢よ、東風谷早苗……!

 せっかく巡り会えた銀色の狐だ。ここはなんとしてでも友好的な関係を結んで、気軽に冗談を言い合えるくらいに仲良くなって、いつか「どうか僕をあなたの犬にしてください」と言ってもらうべきである。

 お気に入りのマンガの、お気に入りのキャラの、お気に入りのセリフ。それを彼の口から言ってもらえたなら、きっと早苗の生涯に悔いはない。

 

「諏訪子は、相変わらずアンタの尻尾が好きなんだねえ……」

 

 早苗がそんなふしだらな目標に向かって燃え上がっている脇で、諏訪子の寝顔を眺めながら、神奈子が苦笑で目を細めた。

 

「まったく、ホントにしょうがないやつだよ。諏訪子もまだまだ子どもだね」

「ああ、そういうお前も興味津々だったもんな、この尻尾」

「!? ……な、なんのことかな」

 

 神奈子の肩が一瞬ビクリと震えたのを、早苗は決して見逃さなかった。

 月見もそれを知ってか、これ見よがしに声の調子を上げて続ける。

 

「ここしばらくは自重してくれるようになってたけど、そう、昔は諏訪子とよく取り合いを」

「わ、わあわあわあ!」

 

 顔を真っ赤にして両手をバタバタさせる神奈子は、明らかに早苗の様子を気にしていた。恐らくは神として、自らを信仰する人間に恥ずかしい姿は見せられないというのだろう。

 けれども早苗は、神奈子が月見の尻尾に興味を持っているとしても一向に構わないし、むしろ賛同すらする。ああ、出会い頭で“あんなこと”を言ってさえいなければ、今頃三人揃って彼の尻尾をもふもふしていただろうに。本当に軽率だったと、早苗は過去の自分を叱責した。

 月見と神奈子のやり取りは続く。

 

「あとはそう、いつだったかお前が尻尾にひっついたまま眠ってしまって――」

「ちょ、ちょっと待って、それは待」

「――あんまりにもきつく抱きしめて寝たものだから、尻尾に跡が残って大変だったんだ」

「うわあああああ!?」

 

 そしてその暴露で、神奈子の羞恥心は限界を迎えた。絶叫とともに月見に跳びかかり、押し倒さんとする勢いで彼の胸倉を掴もうとして、

 

「む~、うるさいぞぉ!」

「ガッ」

 

 安眠を妨げられて怒った諏訪子が、神奈子を弾幕で吹っ飛ばした。畳と平行になって飛行した神奈子の体は、そのまま慣性に従って隣の部屋へ。ガシャーンと派手な破砕音を立てて墜落し、それっきり沈黙した。

 

「……むふー」

 

 邪魔者を見事撃退した諏訪子は、満足げな表情で一つ頷き、再び月見の尻尾に顔をうずめて夢の世界へ。早苗は必死の作り笑いを顔一面に貼りつけ、なにが起こったのかを極力理解しないように務めていた。特に隣の部屋がどんな惨状になってしまったのかなど、想像すらしたくもない。

 神奈子は、いつまで経っても戻ってくる気配がなかった。超至近距離での直撃だったし、気絶したのだろう。

 そこで早苗は、ふと気づいた。神奈子は気絶し、諏訪子も早々に夢の中に帰っていってしまった現状、起きているのは早苗と月見だけ。……事実上、月見と二人っきりのシチュエーションだ。

 なので早苗は、改めて月見の容姿を観察してみた。

 

 繰り返すが、早苗のお気に入りのキャラクターには決して似てはいない。銀の狐という共通点こそあれ、髪はそれよりも少し長めだし、面差しも柔和で整っているのだけれど、宿るのは包容力のある大人びた優しさだ。あのキャラクターのような、異性を誘惑する“甘さ”ではない。

 例えばあのキャラクターの絵を隣に置いて、彼の顔と見比べたら、ほとんどが口を揃えて「似てない」と答えるだろう。早苗だってそうする。

 しかしそれでも、彼に対する関心がなくなるわけではなくて。

 

「月見さんは……その、マンガとかアニメが好きな女の子についてどう思います?」

 

 言うまでもなく早苗自身のことだ。月見は外の世界で人間と一緒に生活していたというから、きっとそういった文化について思うところもあるだろう。

 この手の文化は、外の世界では多くの若者から人気でこそあれ、一部からの風当たりが悪いのもまた事実だった。一体彼は、どちら側の意見を持っているのだろうか。

 もし好意的なら今すぐあのマンガを布教しようと思うし、あまりよく思っていないようなら、色々お話をして魅力を伝えて、理解してもらいたいと思った。そうでなければ、彼に「どうか僕をあなたの犬にしてください」と言ってもらう夢は到底成し遂げられるはずもない。

 問われた月見は、ふむ、と諏訪子の頭を撫でながら思案した。

 

「残念ながらそういう文化には、決して詳しくないのだけれど」

 

 でも、と微笑み、

 

「いいことだと思うよ? 好きな事に夢中になれるのは、素敵なことだ」

「そ、そうですか」

 

 割かし好意的な返答に、早苗はほっと胸を撫で下ろした。これからの自分の頑張り次第で、夢を叶えることも充分に可能だと思った。

 ――よし、頑張ろう!

 ふん! と心の中で意気込み暴走する早苗を、幸か不幸か、止めるような者はこの場にいない。

 じゃあまずは、私が外の世界から持ってきた一般向けのマンガを紹介してみよっかな――そんなことを考えて、早苗が腰を上げようとした折だった。

 

「早苗さーん。早苗さ~ん。いますかー?」

 

 開かれた縁側から不意に強い風が吹き込んできて、さわさわ髪を撫でられる。そして併せて聞こえてきた少女の声で、そういえば、と早苗はあることを思い出した。

 

(文さんが、私に取材したいって言ってたっけ)

 

 幻想郷中を飛び回る鴉天狗の少女、伝統の幻想ブン屋――射命丸文。守矢神社が幻想入りしておよそ半年、今の早苗の心境やこれからの展望について色々と記事にしたいと、先日申し出があったのだ。月見のような妖狐と会えたのが嬉しくて、すっかり忘れてしまっていた。

 

「あっ、お客さんみたいですね……。月見さん、」

 

 少し、お時間をもらってもいいですか? ――その言葉を、早苗は気がついたら飲み込んでいた。

 月見がなにやら、頬をひくひく引きつらせて、目頭を押さえている。

 

「……どうしたんですか?」

 

 問えば彼はすぐに顔を上げたが、その眉間にはほぐし切れなかった皺がたくさん刻まれていた。

 

「いや、今の声……射命丸、だよなあ」

「ええ、そうですけど……」

 

 ああ、と月見が天井を仰ぐ。早苗は思わず目を丸くした。彼がこうやって、この場に文がやって来たことを快く思っていないのが、意外だった。

 だって月見はとても人当たりのよい性格をしていて、誰かを露骨に嫌って避けたりするような妖怪だとは思えなかったから。

 

「文さんが、どうかしたんですか?」

「いやね……」

「――あ、いたいたっ。早苗さーん、取材にやって来ましたよー!」

 

 月見が応えるのを渋っている内に、縁側の方から件の文の声した。早苗が振り返れば、縁側の向こうから笑顔で手を振っている彼女の姿。

 

「おはようございます、文さん」

「おはようございます早苗さん! 今お時間大丈夫ですか――って、え」

 

 文の時間が止まる。視線が向かう先は、早苗の奥、銀の妖狐。

 奇妙な沈黙がやって来る。時間の流れから取り残された文と、顔を押さえて大きなため息を落とす月見。二人の間に板挟みにされ、居心地の悪い早苗はおろおろと視線を彷徨わせるのみ。

 最初に動いたのは月見だった。意を決したように顔を上げ、努めて貼りつけた作り笑いを以て、

 

「や、やあ」

 

 そう挨拶した瞬間、文は叫んでいた。

 

「なんであんたがこんなところにいるのよ――――――!!」

 

 早苗が思わず体を竦めるほどの大絶叫だった。そんなことをしてしまえば、当然、眠っていた諏訪子が癇癪を起こして飛び起きる。

 

「だから~、うるさいんだよぉ!」

 

 同時に放たれる弾幕。早苗は慌てて頭を下げた。その上を諏訪子の怒りをありありと宿した弾幕たちが通過、引き寄せられるように文へと迫る。

 文は、月見がここにいることに対する驚愕で大目玉を剥いていて、反応が完全に遅れた。

 

「――え?」

 

 直撃。

 

「ふにゃあああ!?」

 

 彼女の悲鳴にやや遅れて、ズジャア、と地面を滑る勢いのいい音が聞こえてくる。安全を確認した早苗が頭を上げれば、守矢神社の庭に、すっかり目を回して気を失った鴉天狗の肢体が一つ。

 

「むふ~……」

 

 諏訪子が心底満足した表情でまた夢の世界に戻り、部屋に静寂が満ちてくるけれど、早苗は今までの一連の流れにどう反応すればいいのかがわからなくて、ただ困り果てた目で月見を見つめた。

 その目線に、月見はしばしの間沈黙し、

 

「……はぁ」

 

 やがて肺の空気をすべて吐き出すようにして、大きな大きなため息を響かせたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第7話 「守矢神社とっても素敵なところ!(自称) ②」

 

 

 

 

 

 月見と射命丸文は、かつて月見が幻想郷に住んでいた頃からの旧知であるが、その関係はお世辞にもよいとはいえない。むしろ悪い。互いを憎み合う犬猿の仲ではないにせよ、月見は文から大層嫌われているのであった。

 月見が嫌われることになった理由は、かつて幻想郷で生活していた頃の、とある出来事がきっかけになっているのだけれど――。

 

「……まあ、それは射命丸個人にも関わることだし、私の一存では話せないかな」

「はあ、そうなんですか……?」

 

 どうして嫌われてるんですか? ――その早苗の追究を、月見はやんわりと断る。文個人のプライベートに関わるのは事実だし、月見としても、なるべく思い出したくない出来事なのだ。

 早苗はしばし疑問符を浮かべたままだったが、やがて詮なしと判断したのか、視線の先を“彼女”へと変えた。部屋の隅。早苗が持ってきた枕に頭を埋めて、文が寝かされている。

 

「それで、どうしましょう。文さん……」

「どうするもなにもねえ……」

 

 諏訪子の弾幕によって見事に気絶した彼女は、未だ目を覚ます様子がない。なので、起きるまで待つしかないのが大前提なのだけれど。

 では文が目を覚ました時、月見はどうするべきなのだろうか。正直、また一悶着起こって騒がしくなってしまうのは必至だと思えた。

 ならばいっそのこと、

 

「射命丸が目を覚ます前に、帰ってしまった方がいいかもな」

「そ、そこまでするんですか?」

 

 早苗が目を丸くして驚きの声を上げた。

 月見も、その行動の問題性は充分に理解している。まるで会うのが嫌だから逃げ帰ったように取れるし、文への印象も最悪だろう。

 なれどもそんなことをするまでもなく、月見の文への印象は既に最悪なのである。

 

「しかし、目を覚ましたらまた……ねえ」

「そ、そこまで嫌われてるなんて」

 

 早苗の瞳は、驚愕のあまりに震えているようにすら見えた。

 

「文さん、誰にでも社交的で明るいのに……」

「……」

 

 月見は今なお眠る文を見遣った。

 確かに彼女がこの守矢神社にやって来た時、早苗を呼ぶ声はとても気さくで明るく、社交性であふれていた。しかしながら、月見にとってはそれこそが意外なのだ。

 月見がかつて幻想郷で生活していた頃は、文はそれこそ絵に描いたような天狗――仲間意識が強く、仲間以外には排他的――であった。そんな文が人間と親しく交流している姿など、月見には俄に想像できない。

 月見が外の世界を跋渉していた500年の間に、幻想郷の住人たちもまた変わっているということなのだろう。紫や操は、あいかわらずだったけれど。

 

「う、ううん……」

 

 と、そうこう考えている内に、文が意識を取り戻したらしい。仰向けの状態から寝返りを打って体をこちら側に倒し、そしてやにわに開かれたその瞳と、はたと目線が合う。

 

「……ッ!」

 

 文は、すぐに跳ね起きた。一瞬で視線を周囲に巡らせ状況を把握すると、こちらを鋭く()めつけて刃のごとき警戒を露わにする。腰に伸ばされた手はすぐさま紅葉扇を抜けるよう、既にその柄へと添えられていた。

 幸いここが人の家故に思い留まったようだが、人目がない場所だったらそのまま斬りかかられていたのだろうか。やれやれ、と月見は内心で低く苦笑する。

 

「……あんた、なんでこんなところにいるのよ」

 

 来たのは、嫌悪と敵意が剥き出しにされた問い掛けだ。隣で、早苗が気圧されたように浅く息を詰めたのが聞こえる。

 月見は肩を竦め、それから答えた。

 

「久し振りに戻ってきたんだよ。……それより、怪我はないか?」

 

 文は眉間に深い皺を刻み、ふんと小鼻を鳴らした。

 

「あんたに心配される義理なんてないわよ」

(ちょ、月見さん……私、さすがにこれは予想外なんですけど)

 

 早苗の唖然とした耳打ちに、月見は苦笑することだけを返答とした。文のこの反応、月見にとってはむしろ予想通りだった。

 

「あ、文さん。文さんって、どうしてそんなに月見さんを嫌ってるんですか……?」

 

 早苗が、乾いた笑顔を貼りつけながら文へと問い掛ける。途端、文の仏頂面が、あからさまに人のよさそうな愛想笑いへと変わった。

 

「ごめんなさい早苗さん、それは企業秘密ということで」

「そ、そうですか……」

 

 直後、こちらに鋭く視線を戻すや否や、また敵意全開の不機嫌面に。

 

「あんたも、まさか戻ってきて早々言い触らしてなんかないでしょうね」

「なんで今更そんなことしなきゃならないんだよ。誰にも話してないって……」

 

 瞬きすら許さぬその百面相に、月見は思わず舌を巻いた。同時に、ここまで露骨に嫌われている自分が少しだけ悲しくなってくる。まあ、仕方のないことではあるのだけれども。

 それっきり、全員沈黙。なんとも気まずい静寂の中で、やっぱり帰っておいた方がよかったかなあ、と月見はふっと後悔した。

 

「え、ええっと! あ、文さんは、今日は私に取材をしに来たんですよね!?」

 

 その沈黙に耐えられなかったのだろう。いかにも考えなしといった風で、早苗がそう声高に口を切った。文はその意図を瞬時に汲み取り、あっという間の百面相で満面の笑顔を咲かす。

 

「はい、そうですよ! 今、お時間大丈夫ですか?」

「はい! いいですよね、月見さん?」

 

 早苗なりに、この気まずい雰囲気をどうにかしようと気を遣ったのだろう。是非もないと、月見は二つ返事を返した。

 

「ああ、構わないよ」

「ありがとうございます! それじゃあ文さん、いいですよ!」

「わかりました! ちょっと待っててくださいね~」

 

 文はよしきたとばかりに元気よく文花帖を取り出し――けれども最後にもう一度だけこちらを睨みつけて、地に響く声でこう言った。

 

「邪魔しないでよ」

「……しないよ」

 

 ふん、とまた不愉快そうに鼻を鳴らされる。

 やっぱり嫌われてるんだなあ、と月見は肩を落とすことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――それじゃあ次の質問ですね! ええと、幻想郷にやって来て半年、人々からの信仰はどのくらい集まってますか?」

「そうですねー、正直まだ充分とは言えないですけど……」

 

 文が社交的だという早苗の談は、寸分の違いなく事実であった。テーブルを挟んで差し向かい早苗に取材を行う文は、月見が誰だこいつはと思う程度には明るく、快活だった。

 顔を爛々と輝かせ、口調もそれなりに礼儀正しく、そして口八丁。途切れることなく、しかし相手に喋らせすぎないように適度な間を挟んで質問を投げ掛け、時に的確な相槌を打って、欲しい情報を次々と引き出していく。月見が知る文の姿とは比べるべくもない。まさに別人だった。

 

「へえー、月見とあのブン屋って仲悪いんだ。それは意外だあ」

 

 月見はその取材の声を背にしながら、目を覚ました神奈子、諏訪子とともに縁側で日光浴をしていた。諏訪子はあいかわらず月見の尻尾にひっついていて、神奈子はボロボロになった髪をしきりに手櫛で整えている。

 注ぐ陽光がとても暖かく、月見は、文のつっけんどんな態度で傷ついた心がじんわり癒されていくのを感じていた。傍らで尻尾を抱き締めながら尋ねてきた諏訪子に、そうだねえと締まらない返事を返す。

 

「あの子もとても社交的になったみたいだし、今や私だけが嫌われ者だね」

「一体なにしちゃったわけ? よかったら教えてよ」

「それについては黙秘権を行使するよ」

「ああ、ということは教えられないようなことをしたと」

「いや、下らないことだよ。……下らなすぎて思い出すのも億劫なくらいね」

「だったら」

 

 月見は諏訪子の頭を軽く叩いて、それ以上の言葉を押し止めた。

 

「知りたいんだったら射命丸に直接訊いてくれ。……言い触らすなって、ついさっき釘を刺されたばかりだからね」

「むう……」

 

 不満顔の諏訪子に、隣から神奈子も肩を叩く。

 

「ま、そっとしといてやりなよ。あの鴉天狗も、本気で知られたくないみたいだったしね」

「ふーん……一体なにやらかしたんだかー」

 

 そう唇を尖らせつつも、諏訪子に追究してくる素振りはなかった。尻尾を抱いたまま後ろに寝そべり、もふー、もふー、と右へ左へ転がって遊び始める。

 

「でも、意外ではあるよね」

「なにがだ?」

 

 神奈子が、バツの悪そうな微苦笑を浮かべた。

 

「ほら、あんたって基本的に人付き合い上手い方だろう? 誰とでもすぐ仲良くなれるっていうか。だから、良くも悪くも気さくなあの天狗と反りが合わないってのが意外だなって」

「……ふむ」

 

 確かに昔から、人付き合いについては上手くこなしている自覚がある。いわゆる“仲が悪い”関係にあるのは文と、あとは佐渡に住んでいるあの狸妖怪くらいで、他は概ね以上に良好だ。この神社にやって来る前にも、厄神の少女と白狼天狗に知り合ってきた。

 しかし、記憶を遠く遡れば、やはり反りの合わないまま終わった相手というのもぽつぽついる。

 

「まあ、誰とでも仲良くなれるわけではないということだね」

「まあね。けどあんたのことだ。案外その内、ひょっと仲直りしちゃったりするんだろうね」

「……そうだといいけどね」

 

 呟く言葉には、ため息が混じる。およそ500年の長いインターバルがあったにも関わらず、文は未だあの出来事をしぶとく根に持ち続けているのだ。……仲直りは、もしできるとしても、一筋縄ではいかないだろう。

 

「じゃあ、最後の質問です!」

 

 背後で一層高く張り上げられた声に、月見は振り返った。文が、今までの純粋に取材を楽しむ笑顔を、会心のいたずらを仕掛けようとする子どものようににやついたそれに変えている。なにか嫌な予感を感じたのか、早苗がやや身を後ろに引いていた。

 文はテーブルに両手を乗せて身を乗り出すことでその距離を詰め、問うた。

 

「早苗さん。ぶっちゃけ、今好きな男性とかいます?」

「――はい?」

 

 唐突の問いに、早苗は目を丸くして呆然と動きを停止。沈黙の中でゆっくりと五秒が経過し、しかして早苗の顔が、ボンと煙を上げて真っ赤になった。

 

「い、いやいやいやいや! そんな、好きな人なんて!?」

「あやや、なにやら怪しい反応ですね! もしかしているんですか!?」

「いや、す、好きだなんてそんな! ただちょっといいなあって思ってるだけで、ってなに言わせるんですかあああああ!」

「いるんですねー!? さあ、さっさとゲロって楽になっちゃって下さーい!」

 

 ははあ、と月見は内心唸り声を上げた。あの文が、人の色恋話にまで興味津々になっている。記憶にある姿とはまったく見違えるばかりで、感心するやら呆れるやらだ。

 ぎゃーぎゃー騒ぎ合う二人を姦しいなあと思い眺めていると、隣で神奈子と諏訪子が不思議そうに顔を見合わせていた。

 

「あれ……早苗に好きな男なんていたっけ、諏訪子?」

「んーん、知らない……。いつの間にそんな相手ができたんだろ」

「ん? お前たちも知らないのか?」

「ああ。てか早苗はここしばらく、男と会ってすらいなかったと思うけど」

「もしかして案外、月見だったりしてねー。なーんて」

「……、」

 

 喉をころころ鳴らしながらの諏訪子の軽口を、月見は咄嗟に否定できなかった。拝殿の前で初めて出会った時の、早苗のあの恍惚とした表情が思い出されて、冗談が冗談に聞こえなかったのだ。

 

「で、ですからその、恋愛感情どうこうは関係なくて、ただちょっと、こう……ね?」

「や、全然わかりませんから。――だから正直にぶっちゃけちゃいましょー!」

「も、黙秘権ー! 黙秘権を行使させてくださいー!」

 

 目を輝かせながら詰め寄る文と、彼女を両手で必死に押し返す早苗。それだけならば別段どうということはない。故に問題は、そうする傍らで早苗が、こちらをチラチラ横目で窺ってきていることだ。

 やがて、神奈子と諏訪子もそれに気がつき始める。

 

「……あれ? これってもしかして」

「え? あれ? ……まさか、ほんとに?」

 

 唖然とした様子で、神奈子と諏訪子が同時にこちらを見てきた。月見は黙秘権を行使した。

 やがて文も早苗の目の動きに気づいたのか、詰め寄るのをやめて彼女の目線を追った。そしてその先にいるのが月見だと知ると同時、冗談でしょとでも言うかのように頬を大きく引きつらす。

 ――奇遇だな、射命丸。私も同じ心境だ。

 

「……ま、まさか」

 

 文はギシギシと立て付けの悪い動きで頭を戻して、

 

「早苗さん。……まさか、あいつ、とか?」

「……………………」

 

 文がこちらを指差し精一杯に搾り出した言葉に対し、早苗は俯き、沈黙した。図星を突かれて返す言葉がない、とでも言うかのごとく。

 唐突に、周囲の雑音がすべて消え失せた。張り詰めた空気の中で、「ええと、あの」と、早苗が言い淀む音だけが響く。

 そして遂に、

 

「これにはそのー、深い深い事情があってですねー……」

 

 遂に早苗は、文の言葉を肯定したのだった。

 

「「――うわあああああ!」」

 

 真っ先に反応したのは神奈子と諏訪子。二人は風のような速さで早苗を文からひったくると、先ほどまでの文に負けず劣らずに勢いで、早苗を質問攻めにし始めた。「いや、違うんです! だから深い事情があるんですよ、お二方が期待してるようなのとは違うんです!」揉みくちゃにされながら早苗が必死に叫ぶけれど、二人は耳も貸さない。

 

 ……さて、と月見は考えた。私は一体どうすればいいんだ、と。

 もはやここまで来れば、あの「『どうか僕を、あなたの犬にしてください』って言ってくれませんか?」という発言は、間違いなく本音だったという線が濃い。ならば早苗には少なからず、月見を犬にしたいという願望があるとでもいうのか? ……本当にどうすればいいんだ、と月見は頭を抱えた。

 とりあえず、私は狐だよ、犬じゃないよ、と説明を……いやいや、そういう問題ではない。

一体全体どういうことなんだと、月見は戦慄を隠すことができなかった。

 

「――じゃあ私、取材が終わったんで帰りますから」

 

 不意にそう響いた声で、月見はこの場に文がいることを思い出した。あれだけしつこく食い下がって手に入れた情報だ、さぞかし満足しているのだろう――と思ったのだけれど、文は心底気に食わないといった体で顔をしかめていた。その鋭さたるや、少し前に月見が向けられたあの刃のような睥睨にも劣らない。

 それに気づいたのは月見だけ。早苗は言うまでもなく、神奈子も諏訪子も、そもそも文の声を聞いてすらいなかった。

 文はそうしておもむろに立ち上がると、こちらに向かって一直線に歩いてくる。そしてそのまま横を通り過ぎ、

 

「あ、おい」

 

 月見の制止の声も聞かず、あっという間に空へ飛び去っていってしまった。

 妙だな、と月見は思う。今の文は表情もさることながら、声にだって背筋が寒くなるほどの不機嫌さがにじみ出ていた。どうやら、早苗の回答が心底お気に召さなかったらしい。

 果たしてそれがなにを意味するのか、月見は思案してみるけれど――

 

「わ、わかりました! 全部、全部話します! そーですよ東風谷早苗は月見さんが気になってますー、でもそれにはちゃんとした理由があるんです! だから聞いてくださいってば――――!?」

 

 背後で上がった早苗の悲鳴を聞いて、吐息一つで考えを打ち切った。そう、今月見が最優先すべきことは真実の究明。『どうか僕を、あなたの犬にしてください』って言ってくれませんか? ――この発言の真意を探ることである。

 そしてその真実いかんによっては、お互いの今後について、早苗と真剣に語り合うのも辞さない覚悟だ。

 どうか犬にされるような事態だけは勘弁してほしいものだと、そう思いながら、月見はすっかり重くなってしまった腰をよいしょと持ち上げた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

『――どうか僕を、あなたの犬にしてください』

 

 月見の目の前で、燕尾服姿の青年が少女に向けて跪く。真っ白い平面の世界。黒線で仕切られ、いくつもの小さな空間に分かれている。その上に、黒いインクを使って描き出された光景は――世間一般では、マンガ、という通称で親しまれているもので。

 

 合点が行ったと、月見は浅くため息を漏らした。

 

「……なるほど、そういうことね」

 

 事実関係をまとめると、以下のようになる。

 このマンガには、九尾の銀狐――正確に言えば『九尾の狐の先祖返り』――の青年が登場する。そして彼は主人公である少女に対し非常に盲目的な忠誠を誓っていて、その盲信さを如実に表したセリフが、件の――

 

「『どうか僕を、あなたの犬にしてください』……――アッハハハハハハハハハハ!! アハ、ハハハ、ブワッハハハハハハハハハハ!!」

「か、神奈子さまあ! ちょっと笑い過ぎじゃないですか!?」

「いや、ハハハ、だって、ハハ、こ、これっ、ハ――フヒッ」

「神奈子さまあああああ!」

「ウハハハハハハハハハハ!!」

 

 「どうか僕を、あなたの犬にしてください」。その言葉はなにを隠そう、この青年が作中で主人公に対して宣うセリフだったのだ。

 

 腹を抱き締めて、畳をあちこちへ転げ回る神奈子。その反応ももっともなのだろうと、月見は思った。……当事者である身としては、乾いた笑いしか出てこないのだけれど。

 そんな神奈子をナチュラルに無視し、同じくこのマンガを読んでいた諏訪子が、首を傾げて早苗に問うた。

 

「んーと、つまりこういうこと? 早苗はこのマンガのこの男がお気に入りで、銀色の狐ってところが月見と被ったから、このセリフを言ってほしかったと。……だから月見のことが気になってるってのはそういう意味であって、決して惚れてるわけじゃないと?」

「ええ、まあ……」

「あーなるほどねー。早苗って昔っからアニメやマンガが大好きだったからねえ」

 

 諏訪子は納得したように何度も頷き、でも、と続けて、

 

「こういうマニアックなのを好き好むってのは、ちょっとアレだねえ……」

「諏訪子様、そこはマニアックじゃなくて是非メニアックと」

 

 諏訪子は笑顔で無視した。

 

「でも、別に月見とこのキャラが似てるってわけじゃなくない? 月見はこんなにカッコいい顔じゃないよ」

「いやまあ、それはそうなんですけど……あっ、いやいや月見さんが決してカッコ悪いというわけじゃなくてですね、こう、ベクトルが違うカッコいいなんですよ! このキャラみたいに甘~い感じじゃなくて、なんといいますか、大人びた優しい魅力が……」

 

 そこで早苗は諏訪子にニヤニヤとした笑みで見られていることに気づき、顔を赤くしながら縮こまってしまった。それからなんとも気まずそうな上目遣いでこちらを見てくるけれど、月見は曖昧な苦笑を返すに留めた。

 詰まるところ、早苗が月見に興味を持ったのは、『マンガのキャラ』というフィルター越しでのこと。ならば事態は、月見が忌避していたほど重篤ではない。あくまでこのキャラクターと同じ銀の狐である月見にセリフを再現してほしいというだけで、決して月見を犬にしたいという欲望があるわけではないのだ。

 ――そう、だよな……?

 いまいち、断言し切れないのだけれど。

 

「……あー、笑った笑った。なんか向こう一年分笑った気がするわ」

「……神奈子様」

 

 いつの間にか、神奈子が腹筋崩壊地獄から復活していた。腹をさすりながら体を起こした彼女は、涙目を拭って、仏頂面で頬を膨らませた早苗に「ごめんごめん」と謝る。

 

「早苗がこのキャラに月見を重ねてたってのもそうなんだけどさ、月見がもしこんな感じのやつだったらと思うと、もう堪らなくてねえ」

「……」

 

 月見は何気なしに、手に持っていたそのマンガをペラペラとめくった。

 めくって、めくって、めくって――。

 

「いや、さすがに私はこんなことしないからね?」

 

 具体的になにを見たのかは、割愛。

 この青年、自分の部屋を主人公の写真で埋め尽くしたりしていたような気がしたが、気のせいだろう。

 

「いや、だからこそ面白いんじゃないか。ちょっとほら、ねえねえ、このセリフ言ってみてくれないかい? 絶対面白いからさ」

 

 神奈子はマンガを一冊手に取り、あるページを開いてそれをこちらに見せてくる。

 そこに書かれているセリフは、ああ、紛うことなき。

 

「ほら、この『どうか僕を、あなたの犬にしてください』ってやつ」

 

 月見は神奈子の頭を尻尾でひっぱたいた。

 

「あ痛ー……」

「……」

「うわっなんか不潔なモノを見る目っ。いいじゃないかい減るもんじゃないし、ほら、ちょうど早苗もあんたにコレを言ってほしいみたいだし?」

「うええ!? か、神奈子様、それはその……」

 

 早苗がビクッと大声を上げたけれど、やはりというか、神奈子の言葉を否定したりは決してしない。実に、実に申し訳なさそうな上目遣いで、縮こまりながらこちらを見つめてくるのだ。

 ――ああ、なんだか頭が痛くなってきた。

 

「早苗。私は、狐なんだけどね」

「いやいや、別に月見さんを本当に犬にしたいとかそんなことないですよ!? ……た、たぶん」

「……」

 

 せっかくの弁明も、最後に付け加えられてしまった一言ですべてが台無しである。月見は眉間に刻まれてしまった皺を一生懸命に揉み解す。

 と、いつの間にか背後に回っていた神奈子が、いきなりこちらをホールドしてきた。

 

「っ、おい神奈子」

「ふっふっふ、ダメだよ月見、早苗に言うまで帰らせないからあ~いたたたたた! し、しまった尻尾ホールドできてなかった! いたいいたいっ!」

「よぉし神奈子、尻尾は私に任せて! 必殺、諏訪子ダイビーング! アンドスペシャルホールドー! うおーもふー!」

 

 更に尻尾に諏訪子がひっついて、完全に身動きが取れなくなる。

 

「おい、お前らっ……」

「ちょ、神奈子様、諏訪子様! ダメですよそんなご迷惑……」

「早苗ッ……! あんた、この千載一遇のチャンスをフイにしていいのかい!?」

「ッ!? か、神奈子様……!」

「そうだよ! 私と神奈子が時間を稼いでるうちに早くっ!」

「そーい!」

 

 月見は諏訪子がひっついたままの尻尾を強引に持ち上げて、それで神奈子の頭をひっぱたいた。

 思わぬクリティカルヒットになった。二人の頭同士がぶつかる、ゴチンといういい音が鳴る。

 

「「ッ……! ッ……!」」

 

 頭を押さえて畳をのたうち回る二人を、月見は当然ながら無視。早苗を見て、有無を言わせぬように圧力を込めて、微笑んだ。

 びくーん、と早苗の肩が跳ねる。

 

「早苗。私たちはまだ会ったばかりだしね? そういう露骨な話は、されても困るというか」

「……」

「親しい者同士なら……いや、親しいならいいかという問題でもないけど、ともかくそういうことはあまり人に言わない方がいいんじゃないかな」

「……ひゃい。そうですね……」

「ひゃい」

 

 びくーん。

 

「え、ええ、全然大丈夫です! そ、そうですよね! こういうメニアックなお話はやっぱりもっと仲良くなってからじゃないと!」

「ひゃい」

「と、とととっともかく! 確認しますけど、アレは単純な好奇心であって、決して私にそういうやましい心があるわけではないのでっ! ええ、なんてったって守矢神社の風祝ですもの! とってもピュアでいい子なんですよっ!」

 

 いや、仲良くなったとしてもあんなセリフを言うつもりなどないぞとか、本当にピュアならそもそもこういうマンガは読まないんじゃないだろうかとか、思うことは色々とあったけれど。

 しかし月見は、まあいいか、とため息一つで受け入れた。好奇心でついついという心情は、月見にも比較的共感できるものだったりする。月見も興味本位で首を突っ込んで痛い目を見たり、他人に迷惑を掛けたり、往々にしてそうやって生きてきたものだ。

 ある意味では、似たもの同士ともいえるのだろうか。月見は苦笑し、神奈子たちが読み散らかしたマンガを一カ所に積み重ねながら言った。

 

「ひゃいひゃい。なるべくピュアな関係を希望するよ」

「……え、ええと。ええ、心配には及びません、よ?」

「ひゃい」

「あ、あの。もしかして私、いじめられてますか」

 

 早苗が涙目でぷるぷる震え始めたので、これ以上はやめておこうか、と月見は判断。同時に、そろそろお暇しようかな、などと考えた。

 守矢神社は過去に何度も訪れているので、今更改めて見て回るようなこともないだろう。ならば早めに出発して、より多くの時間を紅魔館などの新天地の開拓に当てたいものだ。

 ……決して、さっさと帰りたいというわけではない。断じて。

 

「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかな。他に回りたいところもあるし」

「あ、そうなんですか? どちらの方まで?」

「紅魔館、とかね」

「あー、レミリアさんのところですか……」

 

 こちらの言葉に、早苗はうーんと難しい表情。腕を組んで考え込む仕草は、

 

「なにか問題でも?」

「いえ……その、レミリアさん――紅魔館の主人である立場の吸血鬼ですね。あの方はちょっと気難しいというか、冗談が通じないところがあるんで、さっき月見さんが私にしたようなことをすると……」

「ひゃい、ってやつかな?」

「……は、はい、そうです」

 

 「はい」にしっかりアクセントをつけて、咳払い。

 

「そういうことをするときっと真に受けて怒っちゃうと思うので、気をつけてくださいね?」

「ひゃ――じゃない、うん、大丈夫だよ。だからほら、涙目になるのはやめてくれないかな」

「~~っ!」

 

 早苗は非常に物言いたげな様子でふるふる震えたのち、こちらから目を逸らして恥ずかしそうに身を縮めた。

 

「月見さん、いじわるです……」

「ハッハッハ、すまないねえ」

「全然すまなそうじゃないですよぉー……」

 

 実際、口先である。きっと好奇心の強いところが影響してるんだろうな、と月見は思った。

 

「月見さん、天然黒(ピュアブラック)なんですか?」

「ピュアブラック? なんだいそれは」

「えっと、このマンガの――ああっ、そんな露骨に嫌そうな顔しないでくださいよー! お、面白いんですよこれ! 月見さんも読んでみますか、お貸ししますよ!?」

「いや、いいから」

 

 両の掌を見せつつ丁重にお断りする。

 早苗はしょぼくれた。

 

「やっぱり、こういう文化が幻想郷に普及するにはまだ時間が掛かるんですね……。でも負けません、いつか必ず月見さんに『どうか僕をあなたの下僕に』って言わせたいなあとか思ってませんよ全然!? 違います違います今のは嘘です冗談ですバグなんです、だから無言で帰ろうとしないでください待ってくださいそんなことされたら心が折れちゃいますからー!」

「ええい放せ早苗っ、私はもう帰るんだっ」

「わ、わかりました、もう止めません。ですからこれだけ覚えて帰りましょう? 『守矢神社とっても素敵なところ』! はい、リピートアフタミー!」

「守矢神社こわい」

「月見さあああああん!?」

 

 早苗の叫び声に耳朶を打たれながら、月見はしみじみ昔を懐かしんだ。かつて月見が知り合った守矢の風祝たちは、みんながお淑やかで上品で礼儀正しい、まさに『大和撫子』を絵に描いたような女性たちばかりだった。なのに今月見の腰にしがみついているこの少女は、一体どこでおかしくなってしまったのだろう。

 マニアック――早苗の言葉を借りれば、メニアックか。ともかく彼女、はっちゃけている。

 

「は、発音がよくなかったんですかね! じゃあもう一度だけ言いますよ! 守矢神社とっても素敵なところ、す・て・き・な・と・こ・ろ! はい、とっても大事なことなので二回言っちゃいました! これで大丈夫ですよね!?」

「こわい」

「ごめんなさいごめんなさい私が悪かったです初対面なのに本当に失礼なことをしてしまいました申し訳ないですごめんなさいだから許してくださいー!?」

 

 ああ、この早苗だけでも、意識を放棄したくなるくらいに手に負えないのに。

 

「いったたたぁ……あーうー、ようやく痛みが治まって――って月見、なに勝手に帰ろうとしてんの!? 神奈子起きてっ、月見が逃げちゃうっ!」

「なんだって!? 待ちなよ、あのセリフ言うまで帰さないって言ったろー!?」

 

 そのうち、復活した諏訪子と神奈子までもが背中に飛びついてきてしまったので、月見はバランスを崩して前のめりに転倒。

 

「月見さんお願いです、話を聞いてくださいいいい!」

「逃さないよー月見ー! そしてさりげなく尻尾もふー!」

「一回だけ! 一回だけでいいからさ、言ってみておくれよー!」

 

 早苗、諏訪子、神奈子。控えめに見ても器量よしな女三人に揃って押し倒されるというシチュエーションで、しかし月見の心にあるのは、「もう嫌だ」という四文字のみ。割と本気で、守矢神社にやって来たことを後悔し始めてきていた。

 

 その後、身動きの取れない月見が結局あのセリフを言う羽目になったのかどうかは――面倒なので、もう、割愛。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 どうにも虫の居所が悪い、と射命丸文は感じていた。胸の奥にわだかまる釈然としない不快感に、眉はずっと曲がりっぱなしになったまま戻ってくれない。

 あれから新聞を作るべく家に戻ったはいいものの、体の中を虫に喰われているかのような感覚に、どうにもスイッチが切り替わってくれなかった。

 

「……」

 

 原因ははっきりしていた。早苗に取材した内容を漏らすことなくメモした文花帖。その中に書かれた、たった一行の短いメモ。

 

・早苗さんは、月見が好き?

 

 その一文が、なぜかはわからないが、どうしようもないほどに不愉快だったのだ。

 

「……」

 

 なぜだろう。『月見』なんて名前をはっきり書いてあるから、あいつの姿を思い出して不快になるのだろうか。ありえない話でもない。意気揚々と取材に出掛けたらどうやら外の世界から戻ってきたらしいあいつと出くわす羽目になって、ただでさえ機嫌が悪い状態だ。この名前が拍車を掛けている可能性は充分にある。

 けれど、新聞が書けなくなってしまうくらいに調子が落ちるなんて、今までに一度もなかったことだ。このメモは、どうやらそれほどまでに文にとって不快なものらしい。

 

「…………む~」

 

 文はしばらくの間、厳しい表情でメモを睨んで呻いた。このメモがなぜここまで不愉快なのか、理由ははっきりとしない。先ほど考えた可能性で合っているのだろうとは思うが、なんとなく、それだけではないような気もする。一方で、それ以外の理由など皆目見当もつかない。

 

「むぅ」

 

 結局、どれだけ頭を茹でさせても答えなんて見つからなかったので、文は最も単純な解決策を取ることにした。

 

「……うん」

 

 小さく頷くとペンを取り、メモの上に大きな打ち消し線を引っ張る。勢いよく二本。それからページを破り取って、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。

 あいもかわらず、理由はわからなかったけれど。

 そうやってメモをなかったことにすると、ほんのちょっとだけ、スカッとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第8話 「レコンサリエーション ①」

 

 

 

 

 

 天上に黒が満ちていく。

 嫌な雲だと、紅美鈴は浅く体を震わせた。

 

 空から青はとうに失われていた。コールタールを混ぜ込んだような、黒く粘ついた雲で塗り潰されている。春風はひどく冷え込み、荒々しく木々を薙ぐ。ざわざわと響く不穏な音に、美鈴の心も感化されていた。

 やがて、大雨になるだろう。

 

「……中国」

 

 凛と響く声に、美鈴は空へもたげていた頭を降ろした。いつの間にか、真横にメイド服姿の女性が立っている。あいかわらず心臓に悪いことだ、と美鈴は内心苦笑した。とはいえ、彼女とももう長い付き合いになるから、驚くことはもはや稀なのだが。

 

「どうかしましたか、咲夜さん?」

 

 紅魔館を実質的に執り仕切るメイド長にして、レミリア・スカーレットが絶対的な信頼を置く懐刀――十六夜咲夜。彼女もまたこの空模様に感じるところがあるようで、空を見上げ、端正な顔立ちを不快げに歪めていた。

 

「中に入りなさいな。すぐに降り出すわよ」

「ですが……」

「土砂降りの中で立たせるほど、私もお嬢様も悪趣味じゃないわ。それに、もうすぐ昼食だし」

 

 確かにそうだ。土砂降りの中を構わず立ってろなんて言われたら、いくら美鈴でもストライキを起こす。それにもうすぐ昼飯時、お腹が空いてきたのも事実だ。

 更にもう一つ、付け加えれば。

 

「……」

 

 頭上。汚れた黒で塗り潰された空が、美鈴の体に重苦しくのしかかってくる。本当に嫌な雲だ。なにか、よくない物事の前触れであるかのような。

 できることなら、この雲の下にはいたくない――そう、美鈴は思った。

 不意に落ちてきた雨粒に、頬を叩かれる。

 

「……降ってきたみたいね。ほら、中国」

「……そうですね。わかりました」

 

 促す咲夜に、やがて美鈴は頷いた。思いがけずもらえた休み時間だ。こういう風に気が滅入りがちな時は、自室でのんびり羽根を伸ばすに限る。

 咲夜が既に館に向けて戻り始めていたので、美鈴は足早にその背を追いかけようとした。

 

「あー、ちょっと待った、そこの二人!」

 

 直後、聞き慣れない男性の声に呼び止められる。低く落ち着いた、聞き心地のいいバリトンの声音。この紅魔館で最も多くの来訪者を迎えてきた美鈴すら、聞き覚えのない。

 

「……」

 

 ……ポツ、ポツ、と雨粒が地面を打っていく。その中を、ひどく慌てた様子でこちらに走ってきているあの男は、果たしてこの空と関係があるのだろうか。

 ため息一つとともに、咲夜が隣を通って前に出ていく。いよいよ土砂降りも秒読み段階に入った中、追い返すのも酷だからと、彼女はあの男を迎え入れるだろう。

 けれど――本当に迎え入れても、いいのだろうか。

 

「…………」

 

 ――どうか、何事も起こらなければいいけど……。

 天上に広がる黒を、美鈴はひどく暗澹(あんたん)と睨みつけた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その男は、自らを月見と名乗った。

 このあたりでは見慣れない、銀の毛を持つ妖狐であった。

 

「いや、すまないね。いきなり押しかけて、雨宿りまでさせてもらって」

「いえ……」

 

 その妖狐、月見を客間へと先導しながら、美鈴は短くそれだけを返した。

 外は既に雨足強まり、篠を突く大雨となっていた。窓はもはや外の景色を映さない。ギリギリのタイミングで雨宿りの場所を見つけ出した彼は、まさしく幸運であったといえよう。……その場所が、紅魔館でなかったならば。

 

 紅魔館の門番である美鈴は、或いはメイドである咲夜は、来客があった際には必ず主人に報告を行う義務を負う。当たり前の話だ。主人に報告なく招き入れた客が万が一問題を起こしたら、一の召使いとして、どれだけ平謝りしても足りることではない。

 だからこそ、この狐は運が悪い。

 美鈴たちの主人であるレミリア・スカーレットは、吸血鬼だ。そして、美鈴がこう評価するのもあまり感心できた話ではないだろうが――『紅魔館の主人』を名乗れるだけの人格が、未だ形成されていない。

 有り体を言えば、幼いのだ。彼女は幼く、わがままで、一方で強い矜持を持つ。

 それは、美鈴たちが彼女に強く忠誠を誓う一つの魅力でもあるのだけれど、この場合は最大の難点となる。吸血鬼は夜行性。昼日中である今はちょうど、睡眠時間の真っ只中だ。

 

 であれば、安眠を妨げられたレミリアが、どうしてこの狐を快く迎え入れなどしようか。

 

 眠りを邪魔された怒りを彼に吐き捨てる――レミリアならばやりかねない。報告へ向かった咲夜が、上手くやってくれればいいのだが……。

 そうこう思案しているうちに、美鈴たちは客間の前まで辿り着いた。

 

「……とりあえずは、こちらの部屋でお待ちください」

 

 扉を開けて促すと、中では既に咲夜が紅茶の準備を整えて待っていた。紅茶を準備しているということは、月見を雨宿りさせる許可が得られたのか。それとも――。

 

「……?」

 

 月見は、咲夜を見てやや不思議そうに首を傾げていた。「お嬢様に報告して参りますので、客間にてお待ちを」――咲夜がそう月見に告げてからほんの二~三分だ。レミリアに報告を終えて紅茶の準備を整えるには、あまりにも短い。

 それは、彼女が持つ能力故に為せる芸当なのだが――この場では話す必要のないことだろう。美鈴は中央の座椅子を示す。来客の応接を行うためにこしらえられた、一対の座椅子。彼の向かい側にレミリアが座るような事態には、ならなければいいのだけれど。

 

「どうぞ、お掛けください」

「……ああ、ありがとう」

 

 月見は結局気にしても仕方がないことだと判断したようで、促されたままその座椅子に腰を下ろした。そして手前のテーブルに、すぐに咲夜が紅茶を整える。

 香るカップを彼に差し出し、告げた。

 

「間もなく、お嬢様がこちらにいらっしゃいます。どうかごゆるりとお待ちを」

「……」

 

 その言葉に眉をひそめるのは、月見ではなく美鈴の方。レミリアがこの場にやって来るという事実を意外に、そして心苦しく思いながら、また一方で冷静に受け止めた。

 月見に一礼しこちらに戻ってきた咲夜が、小さく耳打ちしてくる。

 

「……私も、まさかお嬢様が彼に会おうとするとは意外だったわ。適当に迎えてやれと、それだけ言って眠り続けてくれればよかったのだけど」

「……そうですね」

 

 もしそれだけだったなら、まさしくそれだけで終わったことだったろうに。

 あの寝坊助な吸血鬼が、貴重な眠りの時間を削ってまで、わざわざ彼に会おうとするのだ。レミリアを突き動かしている感情は、まさに美鈴が危ぶんでいた通りのものなのだろう。

 

「まだ確定ではないでしょうけど、恐らく……」

 

 告げる咲夜の表情には、月見に対するかすかな同情の色。その色を見て、きっと私もこんな顔をしてるんだろうかと、美鈴は思った。

 窓外を叩く滂沱(ぼうだ)の雨が、痛いくらいにやかましい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 一方の月見は、自分が置かれたそんな状況を微塵も気にかけることなく。

 あ、この紅茶美味しいな――なんて、考えていた。

 

 紅魔館。外壁が血を被せたかのように赤黒く塗り固められていて、まさに文字通り、建物自体が紅い魔物であるかのような洋館。不気味で、近寄り難くて、悪趣味で、この館をデザインした者はきっと相当な偏屈者だったのだろう。

 

 してこの館の主、レミリア・スカーレットは、月見の来訪を直接出向いて歓迎してくれるようだった。夜行性の吸血鬼だというのに、なんとも寛大なことである。

 もっとも、文字通りの“歓迎”をしてもらえれば、ではあるが。

 意識を集中させれば、感じる。こちらに段々近づいてくる何者かの気配。そして、その者から抑え切れずあふれ出した、棘にまみれた冷たい感情を。

 

「月見様。間もなく、レミリア・スカーレット様がお見えになります」

「ああ、わかってるよ」

 

 さしずめ、せっかく眠っていたところを叩き起こされたので、虫の居所が悪いのだろう。傍らの十六夜咲夜という少女は、そのことに気づいているのだろうか。

 どうしたものかなあ、と月見は考える。レミリアは己の感情を露骨に隠そうとしていない。ならば一度顔を合わせてしまえば、その怒りの矛先が自分に向かないとは到底思えなかった。

 ――はてさて、どうやって宥めたものか。

 やはり、昼間のうちからこの屋敷を訪れたのは失敗だったろうか。雨宿りくらいはさせてもらえると、踏んでいたのだが――。

 

 そして、客間の扉が開く。

 

 小さな少女だった。顔は幼く、背は低く、体つきは華奢。主の名を背負うにしてはあまりに小さく、若い。

 だがそれでも、背中から伸びた一対の黒の羽が、彼女が吸血鬼であることを雄弁に物語る。可愛らしく微笑んだ表情の奥、深紅の双眸が、確かな敵意を以て月見を威嚇していた。

 彼女――レミリア・スカーレットは、流麗な足取りで月見の向かい側の椅子へ。その所作には確かな教養の跡が見て取れる。幼い矮躯にはむしろ不相応だと思えるほどに、垢抜けていた。

 けれど、彼女から主としての品格を感じ取れたのは、そこまで。

 

 次の瞬間、殺意すらも覗く強大な妖力の波動が月見を打ちつけた。

 

「……」

 

 ……さて、やはり紅魔館の主殿は大層ご立腹なようだ。

 本当にどうしたものかと頭を悩ませる月見に、ほどなくしてレミリアから声が掛かる。

 

「――はじめまして、名も知らぬ狐さん」

 

 鈴のように高い声音も、今は確かな殺意で汚れていた。いつの間にかレミリアの隣に移っていた咲夜が心配そうにこちらを見てきたけれど、月見はわずかに笑んで、暗に大丈夫であることを伝えた。

 月見には、レミリアを恐れるような理由がない。打ちつける妖力は、なるほど、吸血鬼の名に違わず確かに強大なものだ。……けれど、それだけ。

 幼い子どもが本気で怒りを露わにしたところで、恐怖を覚える大人は稀だろう。それと同じだ。

 

「はじめまして、紅魔館の主よ」

 

 咲夜に向けた笑みをそのままに、レミリアへ答える。

 

「私は月見。見ての通り、しがない一匹の狐だよ」

「……私はレミリア・スカーレット。この館の当主よ」

「そうか。……まず、眠りを邪魔してすまなかったね。そして、突然にも関わらず、雨宿りをさせてくれてありがとう」

 

 頭を下げると、レミリアは意外そうに片眉を上げた。襲い来る妖力がほんのわずかに弱まる。

 だがそれも一瞬のことだ。すぐに、月見を小馬鹿にするような冷笑が鳴った。

 

「へえ。てっきり私の眠りを妨げるだけの礼儀知らずかと思ったけど、意外と教養はあるみたいね」

 

 ――それをお前が言うか。

 月見からしてみれば、いくら機嫌が悪いとはいえ初対面でいきなり殺気をぶつけてくるレミリアの方が、よっぽど礼儀知らずなのだが……もちろんおくびにも出さず、話を合わせておく。この妖力に真っ向から対抗するような真似は、なるべくしない方がいいだろう。どうにかして上手く宥められれば、それに越したことはない。

 

「でもね、今も言った通り、私は眠りを邪魔されて機嫌が悪いの。ねえ。月見、といったわよね……?」

 

 だが、このレミリアという少女の幼さは、月見の予想の上を行った。

 にやり。口角を吊り上げて不敵に笑った彼女は、一息。

 

 

 当然、そんな私の機嫌を気遣うような素敵な贈り物は、用意しているんでしょう――?

 

 

「――……」

 

 月見だけではない。レミリアの隣で静かに事を見守っていた咲夜でさえ、表情を変えた。

 

「お嬢様……」

 

 (いさ)めるように小さく口を開いた咲夜を、しかしレミリアは無視して続ける。

 

「是非見せてくれないかしら。物次第によっては、まあ、許してあげないこともないわよ?」

 

 ただ悠然と、一方的に、言葉を重ねていく。

 

「どうしたのかしら? まさか、なにも用意してないなんて言わないわよね?」

「……」

 

 対して、月見はなにも答えない。……否、なにも答えられなくなっていた。

 まさか、こんな恐喝紛いのことをされようとは思ってもみなかった。雨宿りに来ただけで金品を要求されるなんて、予想できるはずもなかった。

 

(……うーん、どうしたものか)

 

 月見の心を中に、ある感情が急速な勢いで広がっていく。それは肥大した呆れであって、或いは『失望』という言葉でも表現できたかもしれない。

 月見は、かつて風の便りで伝え聞いた、ある言葉を思い出す。

 

 ――吸血鬼とは、実に誇り高く、実に高貴で、実に美しい種族である。

 

 レミリアの振る舞いは、この言葉にはとてもとても当てはまるまい。たとえ見た目は幼くとも、魂には確かな吸血鬼の血が通っていることを、ほのかに期待していたのだけれど……読みが外れただろうか。

 吐息し、背もたれに体を預ける。

 

「贈り物ねえ。……あ、尻尾もふもふするか? それでよければいくらでも」

「……なるほど。お前は私の眠りを邪魔しただけで飽きたらず、そうやって私を愚弄するのね。いい度胸じゃない」

 

 ――しまった、逆効果だった。

 紫あたりはこうするととても喜ぶから、ついつい同じノリでやってしまった。いかんいかん、と月見は己を叱責。

 けれど、そうしたところで妙案が浮かぶわけでもない。今の月見は手ぶらなのだ。贈り物にできるような品など、到底持ち合わせてはいない。

 

「うーん、じゃあなにもないかなあ……。陰陽術の札なんて、興味ないだろう?」

「ええ、皆無ね。……なるほど、つまりあなたは私の眠りを邪魔しに来ただけなのね」

 

 レミリアがそう冷たく言い切って、――転瞬。

 月見の喉元に、深紅の槍が突きつけられている。

 

「……」

 

 鮮血を圧し固めて作り上げたかのような刃は、しかしよく目を凝らせば、かすかに陽炎のごとく揺らめいている。金属ではない。レミリアの妖力が凝縮されているのだ。瞬き一つの間で妖力をこれほどの密度で凝縮させて槍と成す技量は、吸血鬼の名に違わぬ確かな辣腕(らつわん)であった。

 だが、その腕前に舌を巻くような余裕はない。

 

「……客の喉元に刃物を突きつけるのが、吸血鬼の礼儀なのか?」

「お前は客じゃないわ。……私の眠りを妨げた邪魔者よ」

 

 さて、ここまで来るといよいよ困ったものだ。レミリアが少し腕を前に動かすだけで、この深紅の槍は確かに月見の喉笛を貫くだろう。それを考えると、宥めすかすなどと悠長なことも言ってられなくなってくる。

 吐息。

 

「困ったものだ。私はただ雨宿りを、そしてできれば館を見学させてもらおうと思っただけなんだけど」

「お前に見せびらかすようなものなんて、なにもありはしないわ」

「否、それを判断するのは私だよ。ここに案内されるまでの間に少し廊下を歩いたよ。随分と長く伸びる廊下だった。……外から見た限り、この屋敷にあれほど長い廊下は存在できないはずだ。一体どれほどの空間が、ここには広がっているのだろうね? ……ほら、それだけで見学する価値は充分にある」

「それを許すかどうかを決めるのは私よ」

 

 鋭い声音に切り捨てられ、迸る妖気の刃が月見の喉元に肉薄する。

 

「そして答えを言いましょう。そんなこと許すはずがない。虫の居所が悪いのよ、私は。とてつもなくね。……そのことを、理解していて?」

 

 そして、肌に触れた。切っ先でかすかに、肉を圧される。

 

「……」

 

 その感触を感じながら、月見は――そろそろ限界だろうかと、思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 客観的に判断すれば、非が大きいのはレミリアの方だろう。

 いくら睡眠を遮られて虫の居所が悪いとはいえ、恐喝紛いの物言いをしたり、ましてや相手の喉元に刃物を突きつけるなど、著しく品位を欠いた行為であることは言うまでもない。相手の顰蹙(ひんしゅく)を買うのは必然だし、実際の咲夜でさえ、できることならレミリアを諌めたいと感じていた。

 

 けれど咲夜には、もはやこの状況をどうにかすることなどできない。先刻レミリアに声を掛けたのを無視された時点で、咲夜は彼女らの間に割って入る権利を剥奪されたのだ。

 

 そして、レミリアと差し向かう妖狐――月見にも、あくまで咲夜の主観ではあるけれど、非は存在している。

 レミリアが果たしてどういう妖怪であるのか、それはあの恐喝紛いの言葉を受けた時点で既に知れたはずだった。だから、月見が自らの命を守るためにすべきことは、外聞構わず、ひたすらに謝罪の言葉を重ねることだけだったのだ。

 そうすれば、或いは、万に一つという確率かもしれないけれど、許される可能性があった。咲夜にだって言葉を挟み、擁護する余地が生まれたかもしれなかった。――けれど、正面から会話を続けたばかりに、それも消えた。

 彼は、判断を誤ったのだ。

 

(月見様……)

 

 レミリアが構える深紅の槍――グングニルは、既にその切っ先を彼の喉元に食い込ませつつある。彼女があと少し右手を動かすだけで、この槍のように紅い鮮血がテーブルを汚すだろう。

 なのに。

 それにも関わらず彼は、ただそこに座り続けていた。

 身も心も、一糸とも動かすことなく。欠片ほどの恐怖も、動揺すらもにじませることなく。

 ただじっと――レミリアを、見ていた。

 

「ッ……」

 

 静謐の水底を覗くような瞳。息が詰まる。心の中に入り込んでくる。見透かされているような気持ちになる。……この水面を波立たせてしまったらどうなるのか、怖くなった。

 不意に、舌打ちの音が鳴った。レミリアだ。彼の瞳に、或いは咲夜と同じことを感じたのかもしれない。槍を彼の喉元から離し、霧散させた。

 

「気に入らない……」

 

 低い声で吐き捨てる。それを聞いて、彼がたたえたのは柔らかい微笑だった。その笑みは、一体なにを意図したものなのか。もう一度舌を鳴らして、レミリアは彼から目を逸らした。

 

「なんなのよ、こいつ……」

 

 表情、声音には、困惑の色がある。

 レミリアが来客に対して子どもじみた怒りを露わにするのは、今回が初めてのことではない。この幻想郷に来てから、そして幻想郷に来る前にだって、何度も繰り返されていたことだ。咲夜が彼女に拾われるより以前を含めれば、それこそ数え切れないほどになるだろう。

 けれどそういった時、レミリアにグングニルを突きつけられた相手は、「舐めるな」と反抗するか「命だけは」と命乞いするかの二択。月見のようにただじっと見返してくる相手は、一人としていなかった。

 だからレミリアは、この男をどう扱えばよいのか、わからないでいる。

 

「気に入らない……気に入らないっ……!」

 

 心中に渦巻く困惑を、そうやって何度も吐き捨てようとする。

 

「気に入らないわ! 本当に……!」

「ッハハハ、そうか」

 

 睥睨(へいげい)するレミリアに、しかし月見は笑った。苦笑でもなく冷笑でもなく、大人が子どもを宥めすかそうとするような、受け入れようとするかのような、朗笑。

 レミリアの舌打ちが、また響いた。

 

「……いいわ。そこまでこの屋敷を見て回りたいなら、咲夜を案内につけてあげる。咲夜?」

「……え? あ、はい」

 

 まさか名を呼ばれるとは思ってもいなかった咲夜は、反応に一呼吸遅れた。それから、今彼女が告げた言葉の意味をようやく理解して、耳を疑った。

 仕方のないことではある。なぜならあのレミリアが、誰かに説得されたわけでもなく、自ら折れて相手の言葉を聞き入れたのだ。しかも相手はレミリアの友人でも知り合いでもなく、それどころか、ついさっき“邪魔者”だと切り捨てた赤の他人。

 

「……よろしいのですか?」

 

 よせばいいのに、わざわざ問い返してしまう。

 レミリアは、微笑みで応じた。

 

「ええ、構わないわ」

 

 許さないと言い切った舌の根もまだ乾いていない。まさか、月見のあの眼に恐れをなしたわけでもあるまいし、一体どうして急に――。

 疑念が消えず返事を返せない咲夜に、ほどなくしてレミリアの方から答えが示された。

 

「ちょうど、あいつに見せてやりたい部屋があったもの」

「ほう、そんな部屋があるのか?」

 

 興味深げに声を上げた月見に、レミリアは笑みを崩さず応ずる。

 

「ええ、是非見ていって頂戴な。……咲夜?」

 

 そして彼女は、一息。

 

 

「彼を、地下室に案内してあげて」

 

 

 ――ああ、そういうことか。

 すべて合点が行った。だからレミリアは、こうもあっさりと今までの態度を翻したのか。だからレミリアは、今、こうも婉然と笑っているのか。咲夜はすべてを理解した。

 

「いいわね?」

「……」

 

 レミリアがグングニルを月見の喉元から引いた時、もしかしたら――もしかしたら彼は助かるんじゃないかと、ほんのかすかに期待した。

 けれどそれは、結局はただの幻想。

 むしろ未来は、咲夜が思いつく限りで最悪の方向へと傾いていた。

 

 地下室にいるのは、“彼女”。

 レミリアはこの妖狐を、彼女にあげる(・・・)つもりなのだ。

 

「咲夜?」

 

 頷きたくなかった。咲夜は月見に出会ったばかり。その関係は、赤の他人と表現すれば充分に事足りる。

 だがそれでも、彼とは少なからず話をしてしまって。

 それになによりも、彼は咲夜の淹れた紅茶を、とても美味しそうに飲んでくれていたのだ。

 そんな相手を“彼女”のもとに案内しろなどという命令に、どうして快く頷くことができよう。

 

「咲夜。――返事はどうしたの?」

「ッ……」

 

 苦悩し、唇を噛む咲夜に、思いがけず月見から声が来た。

 

「いいよ。案内してくれないか?」

 

 彼は、たたえた笑みを崩していない。“地下室”がどういう場所なのか知らないのだから、無理もなかった。言ってやりたかった。地下室に向かったら今度こそ死ぬことなるんだぞと、教えてやりたかった。

 だが、傍らでレミリアが無言の圧力を掛けてくるこの場では、それも叶わない。

 唇を噛み切ってしまいそうなほどに苦しみ、やがて咲夜は首肯した。

 

「……わかり、ました」

「決まりね。さあ、行ってくるといいわ。きっと楽しんでもらえるはずよ」

「そうか……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

 

 深まった彼の笑顔に、心が痛むのを感じながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 実際のところ月見は、これから案内される“地下室”がどういう場所であるかを、なんとなくではあるが察していた。

 根拠は二つ。一つは、“地下室”という言葉を出した時のレミリアの表情、そしてそれに対する咲夜の言動だ。咲夜は明らかに難色を示していたようだったし、レミリアに至っては、月見を罠に掛けようとするかのようにあからさまな笑みを浮かべていた。なら、“地下室”がおよそまともな場所ではないことくらいは簡単に想像が利く。

 もう一つは、その予想を裏付ける形ではあるけれど、こうして咲夜に地下室へ案内される中で、その方からよくない気配が漂ってくる点だ。

 近寄りがたい、本能的に足を向けるのを忌避するようななにか。この気配を、月見はどこかで感じたことがあるような気がするが、記憶に薄くて思い出せないままだった。

 

 長い階段を下りて地下に入れば、もはや雨が窓を叩く音は聞こえなくなる。光は届かず、薄い闇色が目の先に伸びている。道の両脇で灯されたランプの明かりが、月見たちの行き先を示す唯一の指標だ。

 

「……やっぱりこの館、外観よりも中が随分と広いね」

 

 月見が当初感じていた疑念は、既に確信に変わっている。ここに辿り着くまでに、また随分と長く廊下を歩かされた。恐らく、紅魔館の周囲を軽く一周できるだけの距離があったはずだ。やはりこの館の内部には、外観からは想像もできないような広大な空間が広がっている。

 あれだけ長い廊下が、どうやって館の中に収まっているのか。解答は、月見を数歩先で先導する咲夜が告げた。

 

「私が能力で空間を弄っているからです。……『時間を操る程度の能力』と言って、お分かりになりますか?」

「あー……時間と空間は互いに関係し合ってる、というやつか?」

「はい。時間を操ることができる私は、同時に、ある程度ながら空間を制御することもできます。……それで、館の内部空間だけを拡張しているのです」

「はあ……」

 

 思わず、月見の口から感心の吐息がこぼれる。

 時空、などという言葉が存在しているくらいだ。往々にして時間と空間は、密接に関係し合う概念として扱われることがあるらしい。……『らしい』というのは、月見自身、そういった分野には決して精通していないからである。精々本の情報を鵜呑みにしている程度でしかなく、時間を操れれば空間も操れるんです、などと言われても当然ピンとは来ない。恐らく紫や藍にでも尋ねれば、懇切丁寧に講義してくれるのだろうけれども……頭が痛くなるだけだからやめておこう、と月見は首を振った。

 

「しかし、あまり広くしすぎると掃除とかが大変にならないか?」

「そうですね。とても一日ではやり切れないので、時間を止めながらやっていますわ。……妖精たちをメイドとして雇ってますけど、ほとんど役に立ちませんので」

 

 なら元の広さに戻したらどうなのだろう、とは思ったが、そこはきっと複雑な事情があるのだろう。あの子どもじみた館主が、「もっと大きな屋敷に住みたいわ!」とでもわがままを言ったのかもしれない。

 

「……咲夜は、あの子のことをどう思ってるのかな」

「もちろん、お慕いしています」

 

 迷いない即答。確信と自信を伴った力強い声音だ。

 それを聞いて、月見は内心笑う。やはり、昼間にここを訪れてしまったのは失敗だったと思えた。

 

「すまなかったねえ。ここが吸血鬼の館だということはわかってたんだから、少し時間を考えればよかった」

「そんな、どうして月見様が謝るのですか。吸血鬼は夜行性ですから、どうしても他の方々と生活時間の差は生まれます。それは、お嬢様もよく理解しているはずなのです。ですから――」

 

 月見の目の前で、咲夜がふと歩みを止めた。表情は窺い知れない。けれど、その肩がわずかに震えていたのを、月見は見逃さなかった。

 

「……申し訳ありませんでした、月見様」

「おや、どうしてお前が謝る?」

 

 問いつつも、月見は既に咲夜の内心を察していた。咲夜は、レミリアの方にも非があることを認めているのだ。だからこうやって、主人の代わりに頭を下げている。

 なるほど、よい従者だ。月見が客間でレミリアと相対した時も、咲夜は彼女を諌めようと口を挟もうとしたし、また、彼女の命令に従うことをよしとしなかった。ただ主人に盲目的に追従するのではなく、他者を思い遣る優しさと公平な倫理観がある。

 そんな咲夜が忠誠を誓うくらいだ。あのレミリアという少女は、本当は大層大層魅力的な主人なのだろう。

 

「お嬢様は、本当は――」

「そうだね。それはわかってるよ」

 

 だから咲夜がそう口を切った時、月見は淀みなく自分の言葉を重ねることができた。

 咲夜が驚いたように目を見開いて振り返る。その瞳を、月見はまっすぐに見返した。

 

「本当はもっといい子だと、言うんだろう?」

「……」

「あの子にとっての昼日中は、私たちにとっての真夜中。そんな時間の来客では、やはり機嫌も悪くなろうさ。……まあ、さすがに槍を突きつけられた時はびっくりしたけど」

 

 肩を竦めて、おどけたようにして。言えば、咲夜は口をきつく引き結んで、なにかをこらえるように押し黙り、俯いた。

 そうして訪れた沈黙は、ほんの数秒だったけれど。

 

「……月見様」

「うん?」

 

 顔を上げた咲夜は、とても張り詰めた表情をしていた。もうこれ以上は我慢ならないと、そう体を震わせて、声を荒らげた。

 

「月見様、どうか逃げてくださいっ……!」

 

 切々とした叫び。耳朶を打たれ、月見は思わず目を細める。

 

「お教えします。お嬢様は、月見様を殺すつもりです。これから向かう地下室は、そういう場所なんです。ですから、ですからっ……」

 

 言葉を区切り、肩で息をし、彼女はつなげる。

 

「どうしてあなたがこんな目に合わなきゃならないんですか。最初は、どうなっても仕方がないことだと思ってました。でもやっぱり納得できない。ただ雨宿りに来ただけじゃないですか。あなたに、死ななきゃならない理由なんてないじゃないですかっ……」

 

 あまり感情を表に出さない大人びた子なのだと思っていたけれど、違った。体を震わせる彼女は、どこにでもいる普通の少女と変わらなく、小さく見えた。

 わずかに戸惑った月見は、その気持ちを落ち着けるように緩く息を吐く。

 

「……意外だね。まさかそこまで心配してもらえるなんて」

「……私の紅茶を美味しそうに飲んで下さった方が、死ぬかもしれないんです。見て見ぬ振りなんて、できるわけないじゃないですか」

 

 月見は思い出す。確かに、咲夜の淹れてくれた紅茶はとても美味しかった。紅茶を嗜まない月見ですら、また飲みたいと思えるほどに。

 その味を反芻すると、不思議と、戸惑っていた心も落ち着いた。

 

「そうだね。咲夜はまだ若いのに、紅茶を淹れるのが本当に上手だ」

 

 軽口を返せば、咲夜は唇を噛んだ。どうしてそんなに落ち着いているんですかと、こちらを責めているようだった。

 月見は微笑む。

 

「逃げるって言ってもね、そんなことしたらお前がレミリアに怒られちゃうだろう?」

「そっ――そんなのどうだっていいじゃないですか! どうして、どうしてご自身の心配をなさらないんですか!?」

 

 咲夜の叫びは、もはや悲鳴に近かった。総身を前に折って、胸を手で押さえて、今にも泣き出してしまいそうだった。

 だからこそ月見は、一層笑みを深めて言う。

 

「咲夜が心配してくれてるみたいだから、それで充分だよ」

「っ……」

「それに……個人的に、このまま帰るわけにもいかない事情があるというか」

 

 月見は咲夜の姿越しに、薄闇に伸びる廊下の奥を見遣った。“地下室”が近いのか、あの嫌な気配を今なら正確に感じ取ることができる。

 やはり月見は、この気配を知っている。禍々しい存在感に粟立つようにして思い出された記憶が、答えを告げていた。

 これは、狂気だ。生物の精神に巣食い、正気を狂わせるモノ。

 ここまで色濃いそれを感じるのは、月見も初めてになる。

 

「この先にいるのは、一体?」

「……」

 

 問いに、咲夜はしばし口を閉ざしたままだった。知らないまま逃げてほしいと、そんな躊躇いが、噛み締めた唇に染み込み色を白くしていく。

 咲夜がなぜここまで逡巡するのか、月見にはよくわからなかった。月見を先に行かせたくないから話を進ませたくないのかもしれないし、単純に口にするのも憚られるような存在が奥にはいるのかもしれない。けれど、月見はそれでも真摯に彼女を見つめ、答えを待ち続けた。

 やがて諦めるように浅く息を吐いた咲夜は、重苦しい動きでその口を開いた。

 

「……お嬢様の妹、です」

「……そうか」

 

 月見は眦を細めた。まさか妹という言葉が出てくるとは、予想してもいなかったから。

 

「……妹様は、生まれ持ったその強大な狂気のせいで、お嬢様に外に出ることを長年禁じられています。あそこに謹慎――いえ、幽閉されているんです」

「……」

 

 咲夜の告白に相槌を打つこともせず、もう一度、くゆる薄闇の奥を見据える。

 もともと、逃げ出すつもりなど毛頭なかった。この狂気の持ち主が誰であれ、言葉が通じれば話をするなりして、適当に煙に巻くつもりだった。狐はなかんずく、ものを誤魔化し相手を偽る手管にだけは長けているから。

 故に、狂気の持ち主がレミリアの妹だというのなら――なおさら、ここで帰るわけにはいかない。

 それを表情から読んだ咲夜が、痛みをこらえるようにきつく眉根を詰めた。

 

「行くん、ですね」

「ああ」

 

 握り締めた両拳が、エプロンの裾に深い皺を刻む。その手は、ほのかに震えているようにも見えた。

 けれど、月見の心は変わらない。

 

「こんなに寂しそうな顔をしてるんだ。見て見ぬ振りをするのも、後味が悪いだろうさ」

 

 感じる狂気は確かに強大で禍々しい。だが同時に、寂しそうでもあったのだ。ポツン、膝を抱えて独りで泣いているような、そんな寂しさ。

 だからだろうか。月見がこうにも、行かなければならないと感じているのは。

 

(……あいかわらずだね、私も)

 

 月見は苦笑で口尻を歪めた。好き好んで人間たちに関わって生きてきたからか、昔から厄介事を見かけるとついつい口を挟んでしまう嫌いがあったが、それは今でも変わっていないようだ。世話好きなのねえ、と紫に呆れられたのが懐かしい。

 

「……寂しそう、ですか」

 

 噛み締めるように、咲夜が呟く。

 

「そうですね。きっと私も、事実だと思います」

 

 でも、と眉を歪め、顔を伏せる。

 

「私にはどうすることもできませんでした。危険だからと、お嬢様から必要以上に関わることを禁じられていますし、実際に危ない目にあったこともありました。幽閉をやめるよう申し上げても、頷かれたことなんて一度もないんです」

 

 声音は、レミリアの妹だという少女に対し力になってやれないことを悔いていた。優しい子なのだろう。レミリアに尽くすのと同じくらいの忠誠を、その妹にまで捧げているのがよく伝わってくる。

 咲夜は瞳に縋るような色を宿して面を上げ、どうか、どうかと胸を押さえる。

 

「月見様、どうか妹様を――」

 

 そこから先の言葉を、しかし飲み込んだ。俯き銀髪に隠された唇は既に力なく、続きを紡ぐことはない。

 月見は内心で、ゆっくりと長いため息を落とした。改めて考えると、随分と話が大事になってしまったものだ。恐らく、月見のこれからの行動次第で、紅魔館そのものの命運が大きく左右される。そう言っても過言でないほどに、レミリアの妹とは複雑な存在なのだと思えた。

 けれども畢竟(ひっきょう)、月見がやることは変わらない。レミリアがそう望んだように、地下室に向かう。それだけだ。

 

「……案内、続けてくれるな?」

 

 咲夜はもう、逡巡することはなかった。

 どうかお願いしますと――それだけ言って、面差しが見えなくなるほどに、深く深く頭を下げた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 咲夜にはもう、どうすることが正解なのかわからない。散々思い乱れた思考は、月見自身の意志もあって、結局「レミリアの命に従う」という当初の義務に帰趨した。

 

 フランドール・スカーレット――この先にいる狂気の持ち主に対し、レミリアが来客を案内させることはさして珍しくもない。例えば素性の知れない外来人や、そのあたりの弱小妖怪。フランドールの“遊び相手”をさせるために、そういう者たちを今までに何度も地下室へと放り込んだ。

 それがすなわちなにを意味するのか、月見が気づいていないということはないだろう。それでも、彼は決して足を止めようとはしなかった。知ってなお、望んでフランドールと相対することを選んだ。咲夜の思いに応えて本気で力になろうとしているお人好しなのか、なにも考えず流れに身を任せているだけの呑気者なのか……どうあれ、咲夜にはもう祈ることしかできない。

 

「……ここです」

 

 正面に鉄扉が見えた。一切の侵入者を拒むように屹立する、無骨で巨大な鉄の塊。フランドールが幽閉される部屋への入口だ。

 ひとたびこれを開ければ、もはや後戻りは利かない。咲夜は背後の月見へと振り返り、問うた。

 

「最終確認です。……本当に、よろしいのですね?」

「ああ。覚悟が上だよ」

 

 月見からの答えには、やはり微塵も迷いがなかった。だから咲夜も、もう心配するのはやめて迷いなく応じた。

 

「わかりました」

 

 月見のもとに歩み寄る。そうして目の前に立つと、彼が自分よりも頭一つ分くらい背が高いことに気づいて、やっぱり男の人なんだな、なんて考えてしまう。

 

「どうか、無事に帰ってきてくださいね。死なれたら後味悪いですから」

 

 月見は肩を竦めて、苦笑した。

 

「頑張るよ」

「ええ、頑張ってください」

 

 こんな風に男の人を応援するのは初めてで、なんだか変な感じだ。

 でも、決して不快なんかじゃない。

 

「じゃあ、全部終わったらまた紅茶をご馳走してもらおうかな。そうすればとっても頑張れそうだ」

 

 妙なところで子どもらしさの覗く彼の言動が、逆に親しみやすかった。

 

「ふふ、いいですね。なら、最高級の一杯をご馳走して差し上げますわ」

「おや、それは楽しみだ。ますます死ねなくなったね」

 

 不安など一切感じさせないその笑顔を見ていると、なんとなく、予感させられる。きっと心配なんて必要ない。この人は私が予想もしないような方法で、この死地を切り抜けるに違いないと。

 

「妹様に、変なことしないでくださいね? 犯罪ですから」

「……いや、しないからね? 私をなんだと思ってるんだい」

「そうですね。お人好しで能天気な狐さん、でしょうか」

 

 もしかしたらこれが最期の会話になるかもしれないのに、軽口を言うような余裕まであった。

 軽口を言ってしまうくらいに、いつしか、心を許してしまっていた。

 

「手厳しいなあ」

「だったら、無事に帰ってきてくださいね。そうすれば、少しくらいは見直してあげます」

 

 参った参ったと両手を挙げる彼がおかしくて、クスリと笑みがこぼれていて。

 

「信じてますから」

「はいはい」

 

 ――ああ、こういうのも案外、悪くない。

 

「……いってらっしゃいませ、月見様」

「ああ。行ってくるよ、咲夜」

 

 願わくは、天にこの祈りが届きますように。

 彼が鉄扉を押し開け奥に消える、最後まで。

 

 どうか、どうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やがて月見は、少女と出会った。

 

「あら、だあれ? 妖怪のお客さんなんて久し振り」

「ん、お前がレミリアの妹だね」

 

 レミリアよりも更に幼く、華奢で、小さくて……しかしその体に大きな狂気を宿した少女と。

 

「お姉様のお友達?」

「まあ……そうなれたらいいなと思ってるところかな」

「?」

 

 この出会いがどう転ぶのかはわからない。

 色々話ができるかもしれない。話なんてできないかもしれない。

 傷つけられるかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。

 殺されてしまうかもしれない。案外なにもされないかもしれない。

 彼女のためになにかしてやれるかもしれないし、なにもしてやれないかもしれない。

 

「――初めまして」

 

 そのすべてを覚悟し、月見は名乗った。

 

「私は月見。……しがない一匹の狐だよ」

「まあ……!」

 

 目を爛々と輝かせてほころんだ彼女が、ずっとこんな風に笑えるような未来になればいいと――そう、思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第9話 「レコンサリエーション ②」

 

 

 

 

 

 七色の宝石が、キラキラ光って左右に揺れた。

 

 不思議な羽だ、と月見は思う。蝙蝠や虫のように膜を伸ばしているのではない。天狗や鳥のように羽毛で覆われているのでもない。ただ剥き出しになった羽の骨格から、同一間隔で七色の宝石がぶら下げられている。ひっそり、くゆるようなランプの灯りを反射して、色とりどりの煌めきを散らしている。

 

「わあ、すごいすごい! 月見の尻尾、すごくもふもふしてるねー!」

 

 頭上に天蓋までこしらえられた、絵本の中でお姫様が眠っているような、大きくて豪奢なベッドの上。縁に腰掛ける月見の尻尾に猫のようにじゃれつき、ベッドの上をくるくる転がって七色の光を振りまく彼女は、自らをフランドール・スカーレットと名乗っていた。

 

 あのそびえる鉄扉を抜けた先、ランプの炎が明るく赤く照らし上げるこの地下室は、フランドールの私室であった。このベッドを始め、たくさんの絵本が収められた本棚や、大小多様なぬいぐるみを積み上げた山々が、自然の光が差し込まない無機質なこの部屋を精一杯愛くるしく飾っていて、また彼女の無垢さを際立たせている。

 フランドールは、無垢な少女であった。レミリアの妹であることが信じられないくらいに幼気(いたいけ)で、いじらしくて、微笑ましくて。本当に狂気に心を蝕まれているのか、なにかタチの悪い冗談なんじゃないかと疑ってしまうくらいだった。

 月見の尻尾を上から押し潰すように抱き締めて、フランドールは両脚をばたつかせる。

 

「もふー、もふー♪」

「こらこら、そんなに強く抱きついたら跡がついちゃうだろう?」

「えー、いいじゃない。すごくもふもふなんだもの」

 

 わがままを言われてもやれやれと苦笑がこぼれるだけで、決して不愉快な気持ちにはならない。接する者の心を穏やかにする幼さ。やはり子どもとはこうあるべきだと、片隅にレミリアの姿を思い浮かべながら、月見はフランドールと頭を優しく叩いた。

 

「フランドールはここに幽閉されていると聞いたけど、本当なのか?」

「ん……」

 

 フランドールが身を起こした。月見の尻尾を、ぎゅうっと一層強く抱き締める。

 

「……そうだね。そうだと思う。お姉様が『外は危険だから』って言ってね、あんまり出してくれないの」

 

 それは建前だろう、と月見は確信に近く思う。さしずめ、他でもないフランドール自身が危険な存在だから不用意に外に出したくない、というのが真実のはずだ。

 わかっている。妥当な判断だ。狂気による被害を最小限に抑えるためには避けようのない。

 けれど。

 

「……寂しくはないのか?」

 

 問えば、また、ぎゅっと尻尾を強く抱き締められる。

 

「……寂しいよ。外の世界、げんそーきょーっていうんでしょ? 私と同じ妖怪がいっぱいいる世界だって聞いたわ。

 ……あのね、何年か前にね、我慢できなくなって、こっそり外に抜け出したことがあったの。そしたらすぐにお姉様たちに連れ戻されて、すごくすごく怒られちゃった。どうして言った通りに大人しくできないの、って。私だって、色んな妖怪さんとお話してみたいのに……」

 

 一瞬、フランドールの面差しに沈んだ影が差す。しかしすぐに慌てた様子で取り繕って、精一杯の笑顔を咲かせた。

 

「あっ、でも今は寂しくないよ! こうして月見とお話してるんだもの!」

「……そっか」

 

 月見ももらい笑いをして、フランドールの頭をぐしぐしと撫でてやる。ん、と彼女がくすぐったそうに息を漏らす音が聞こえた。

 月見はそっと笑みを深め、同時に思考した。確かにこの子は、狂気に精神を蝕まれているのかもしれない。けれどこうして話をしてみればわかる通り、決して正気が崩壊してしまっているわけではないのだ。正気を失い、手の施しようがなくなったために幽閉するのならわかる。――でも、この子はまだ。

 なぜレミリアはこの子を一方的に幽閉し、遠ざけ、向き合おうとしないのか。月見にはどうしても気に掛かった。故に思う。このままでは大きくすれ違ってしまうことになりかねない、と。

 いや――

 

「ねえ、月見。お姉様って、私のこと嫌いなのかな……」

 

 かもしれない、ではない。フランドールとレミリアは、既にすれ違い始めてしまっていた。

 思考を止め、月見はフランドールを見た。取り繕おうとする様子はもはやない。彼女は俯き、唇を震わせて、いじけるようにがむしゃらに月見の尻尾を抱き竦めていた。

 

「フランドール……」

「だって、だってさ。そりゃあ外だって危険な場所なのかもしれないけど、私だって強いんだよ? お姉様にだって負けないもん。昔喧嘩した時に、私が勝つことだってあったもん。……なのに、外は危険だからって“嘘”つかれて、こんな場所に閉じ込められるってことはさ。本当はお姉様は私のことが嫌いで、会いたくないって思われてるんじゃないのかなって……」

 

 言葉をつなげる内に、段々と泣き出しそうな水気を孕んでいく。

 

「咲夜とか美鈴も、私とあんまりお話してくれないの。他人行儀な挨拶するくらいで、なんだか避けられてる気がして。……やっぱり私、嫌われてるのかな……」

「……」

「私、みんなのこと大好きだよ? だから、もし嫌われたらって思うと嫌で、確かめたいけど、でももし本当だったら……すごく怖くて、だから訊けなくて……」

 

 やだよう。こわいよう。月見の尻尾を一途に抱いて、すんすん、と鼻をすする。

 月見は、掛けてやるべき言葉をしばし見つけられなくなっていた。そんなことはないよと言ってやることは簡単だった。けれど、たった今フランドールと知り合ったばかりの月見がそんな言葉を重ねたところで、一体なんの意味があるというのか。中身のない虚ろな気遣いの言葉は、きっとこの子には届くまい。

 

(……やれやれ)

 

 これはどうやら、もう一度レミリアと話をする必要がありそうだ――そう考えながら月見はフランドールの小さな頭に手を置き、言った。

 

「なあ、フランドール。私と、友達になってみないか?」

「え?」

 

 ちょっとだけ潤んだ目で面を上げた彼女に、微笑む。

 

「ここで会ったのもなにかの縁。お前さえよければ、是非」

「っ、本当!? 本当に友達になってくれるの!?」

 

 よほど意外な提案だったのだろうか。フランドールは驚きと期待で目をまんまるにして詰め寄ってきた。抱き締めていた尻尾を脇に放り投げ、月見の服の肩あたりを掴んで、急かすように何度も引っ張った。

 

「嘘じゃ、嘘じゃないよね!?」

「もちろんだとも。嘘でこんなことは言わないよ」

「そ、そっか……。そっかぁ……」

 

 夢見心地で呟きながら、頬をほんのりと赤くして、くすぐったそうに身動ぎをした。月見はなにも言わずにただ笑みを深めて、彼女の頭をぽんぽんと叩いてやった。

 ……こうやって寂しさをちょっとでも紛らわせてやる程度が、今の月見にできる限界だろう。目下はとりあえずこうしておいて、あとはレミリアとしっかり話をしなければならない。でないと、フランドールがあまりにも可哀想だった。

 

「じゃ、じゃあさ、私のことはフランって呼んで!」

「いいよ。フランだね」

「う、うん」

「よろしく、フラン」

「え、えへへ……」

 

 もじもじと照れ隠しをする彼女――フランが、愛おしいと。

 そんな同情が、生まれていたからなのかもしれない。いつしか月見は、完全に失念してしまっていた。

 

「じゃ、じゃあ、一緒に遊ぼうよ! お話ばっかりじゃなくて!」

「そうだね。なにして遊ぼうか」

 

 フランドールは、とてもとても幼気な子だった。

 

「うんと、うんとねえー」

「ふふ、そんなに慌てなくてもいいよ。ゆっくり考えてご覧」

 

 強大な狂気をその身に宿しているなんて嘘だと思うくらいに、いじらしい子だった。

 

「じゃあ、お人形遊びがいいな!」

「ああ、いいよ。じゃあぬいぐるみを取ってこないとね。ちょっと待っててくれ」

「……」

 

 でも、それは錯覚で、ありもしない幻覚で、見当外れの妄想。

 なぜなら、フランは――

 

 

「……私はこれにしようかな。フランはどれに――」

「――私は、“あなた”だよ」

 

 

 ――フランは確かに、その心を狂気で蝕まれているのだから。

 

 

 衝撃。ベッドを離れ、ぬいぐるみの山に近づき、その中の一つを手に取って振り返った直後だった。唐突に視界がブラックアウトする。一瞬で平衡感覚が消失し、外界から得られる情報がなに一つとしてわからなくなって――気がついたら、倒れていた。

 始めはそのことすらわからなかった。床の固さと冷たさが直接肌を伝い、浮かび上がるような感覚を伴って意識が戻って初めて、自分がうつ伏せで倒せていることを知った。それからすぐに背中の激痛を認識し、未だ覚醒し切らない頭の中で、背中を打ったのか、とぼんやり思う。

 

「……カハッ」

 

 やっとのことで体が反応してくれた。呼吸をしなければと肺が伸縮して、めいっぱいの空気を取り込んだ。

 

「……どうしたの、月見? 早く立って、続き、しようよ」

 

 声。それがフランの声だと認識するまで、一呼吸以上の時間を要した。(いとけな)さにあふれた花びらのような声ではない。奥底で渦巻く黒い狂気を抑えられずに興奮した、けれどぞっとするほどに冷たい声。

 腕を杖にして体を起こせば、フランの笑う姿が見えた。

 狂気で歪んだ三日月を描く、その笑顔。

 

「――あのね、前にも同じことを言ってくれた人はたくさんいたよ。でもみんな、みーんな、一緒に遊んでみるとすぐに壊れちゃったの。動かなくなっちゃったの。嘘つきばっかりだったの。ねえ、ねえねえねえ、月見はどう?」

 

 ねえ、ねえ。目をギラギラ光らせて繰り返すフランを見て、月見は豁然(かつぜん)と悟った。どうして自分がこうなっているのか。フランが一体なにをしたのか。そしてなにをしようとしているのか。

 人形遊び――その言葉が意味するところを月見は文字通りに捉えていたけれど、間違いだった。

 フランの望む“人形遊び”。

 それはすなわち――

 

「月見が嘘つきじゃないなら、壊れずに最後まで遊んでくれるよね――!!」

 

 ――月見自身が、人形なのだ。

 

 ……そうか。

 そうかと、月見は大きく息を吐いた。

 諦観だ。もしかしたら、もしかしたらフランは大丈夫なんじゃないかと、一縷の希望を見ていた。そう信じたかった。けれどそれは幻想で、フランの心には確かに狂気が巣食っていて。

 

「……すまないね、フラン。人形遊びなんて初めてだったから、びっくりしてしまったよ」

「あら、そうなの? でもいいんだよ。壊れずに最後まで遊んでくれれば、いいんだから」

「……そうだね」

 

 立ち上がる。大丈夫だ。既に痛みは消えている。四肢も動く。なにも問題はありはしない。

 一度大きく深呼吸し、月見は構えた。できることなら避けたかったが、こうなってしまってはもうどうしようもない。戦わなければ。向かい打たなければ、彼女の狂気のままに、壊されてしまうだけ。

 

 だから――覚悟を決めろ。

 

「言っとくけど、手加減はしないからね!」

「……ッハハハ、それは骨が折れそうだね」

 

 決して壊れるな。最後まで踊り切れ。

 

「さあ、踊りましょう? ……リードしてくださいますか?」

「ああ。……喜んで」

 

 微笑み合うのは、ほんの一瞬。

 火蓋を切るのは、戦いの舞踏。

 

 二つの妖力が、剣戟となって火花を散らす。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 剣戟の音は地下を震わせ、地上にまで反響した。待ち侘びた時の訪れに、レミリアはようやくかと笑みをたたえ、傾けた紅茶で待ちくたびれた喉を潤した。

 私室に戻ったもののつとに眠気が消えていたので、また瞼が重くなるのを待つ片手間、地下室に向かわせたあの狐の気配を探っていた。それから二刻、あまりに遅すぎる開戦だった。

 

 ソーサーに戻したカップが、二つの妖力がぶつかるたび、怯えるように大きく震える。壮絶な戦いだ。片や狂気にまみれた濁流のごとき妖力と、片や清流のごとく澄み、また激流のように力強い妖力。完全に拮抗し、どちらとも譲らない。

 あの狐――月見とかいったか――、てっきり大した力もない口先だけの雑魚だと思っていたが、爪を隠していたということなのだろう。やはり妖狐だけあって食えない性格をしている。

 そのことを憎々しく思う気持ちはあったが、表情に出すことはなかった。レミリアは、この戦いの結末を既に知っているのだから。

 

 『運命を操る程度の能力』。月見の運命を覗き見た。フランに敗北し、死へと収束するその運命を。

 

 だからレミリアは、たたえた笑みを崩さない。

 

「咲夜、紅茶をもう一杯」

「はい」

 

 傍らの従者へカップを掲げれば、すぐに琥珀色が注がれた。芳醇な香りがレミリアの鼻孔を満たす。まるでこの紅茶も、フランの勝利を約束してくれているよう。

 いい気分だ、とレミリアは笑った。

 

「……ところで」

 

 呟き、傍らの従者を横目で見上げる。フランとあの狐が戦い始めた瞬間こそ、思い詰めた表情をしていたけれど。今の咲夜は、いつも通りの静かな面持ちを取り戻していた。

 十六夜咲夜は、決して感情を隠すのが上手い少女ではない。普段の垢抜けた振る舞いの数々からか、紅魔館の外では彼女のことを「人形のように冷静」などと評する者が多いが、実際はとても情緒豊かな少女だ。レミリアのように(ちか)しい者たちの前ではよく笑い、よく怒り、よくいじける。

 そんな咲夜は、しかし、フランと月見の戦いをさほど心配していないようだった。

 

「咲夜は心配じゃないの?」

 

 試しにそう問うてみると、咲夜は少し困った様子で考え、しかしすぐに眉を開いて微笑んだ。

 

「そうですね……心配ではないです。信じてますから」

「そう……」

 

 それはそうよね、とレミリアは頷く。フランが敗れる光景など、レミリアにはてんで想像することができない。弾幕ごっこはいざ知らず、ひとたびルール無用の殺し合いとなれば、彼女のポテンシャルはレミリアすらも超える。加えて有する能力だって強力だ。そんなフランが、たとえ互角の妖力を持つ相手とはいえ、ただの妖狐ごときにどうして負けなどしよう。

 ……。

 レミリアは浅く顔をしかめた。

 

「あの狐がまさかフランとまともに戦えるほど強かったなんてね。本当に気に喰わないわ」

「……」

 

 咲夜からは相槌すらも返ってこなかった。表情を盗み見ても、瞳を閉じて静かに佇んでいるだけだった。

 剣戟が鳴る。

 その音を、伝わる振動を肌で感じながら、レミリアは心中でひとり悦に入る。フランがこれだけの勢いで暴れるのは久し振りだ。あの狐との戦いを心の底から楽しんでくれているのがよく伝わってくる。

 やっぱり、あの狐を地下へ差し向けたのは悪くない判断だった。外来人やその辺の弱小妖怪だけではフランも退屈だろうし、狂気や能力を上手く制御するためのいい練習相手にもなる。今はまだ上手に扱えていないようだけれど、大丈夫。フランは強い子だから。

 

「……」

 

 いつか、とレミリアは思う。こうしていればいつか、フランは狂気と能力を制御できるようになって。誰も傷つけず、また傷つけられることもなく、笑顔で幻想郷を歩けるようになるはずなんだ。

 もし狂気を制御できないままで外を歩いて、暴走して、幻想郷の住人たちから忌避されたり、排斥されたりしてしまったら……フランの居場所は、もう本当にどこにもなくなってしまうのだから。

 だからレミリアは、フランを幽閉する。

 外の世界には、もうレミリアたちの居場所なんてない。笑顔になれない。だから、どうか、この幻想郷でだけは。

 

(そのために、精々役に立ちなさい。狐)

 

 もしあいつのお陰でフランが狂気を制御できるようになったら、まあ、最低限の感謝として弔いくらいはしてやろう。

 そしてフランを思いっきり褒めて、少しずつ幻想郷に馴染ませていこう。

 

 そうして未来だけを見つめるレミリアは、故に、己の足元がどうなっているのかに気づかない。

 進むその道は既に道などではなく、いつ崩れるともわからない薄氷となっていることを。

 今もなお、知らないまま。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無数の白が視界を潰す。

 人一人がようやく滑り込めるかどうかの僅かな隙間。その存在に気づいた時には既に遅い。

 

「――!」

 

 咄嗟に尻尾を盾にしたが、防ぎ切ることはできなかった。直撃。衝撃を殺せず後方に吹き飛ばされる。すぐに体勢を整え足先から触れるように着地するものの、まだ足りない。体が後ろに投げ出されないよう前傾姿勢のまま、そこから更に数メートル、足と床の間で高い音を上げながら滑って、ようやく止まった。

 初手を決めたのはフランの方だった。さて、どう攻めるか――月見がそう考えていた矢先であった。

 

「……ふう」

 

 月見は静かに胸を撫で下ろす。恐ろしく速い弾幕だった。盾にした尻尾が痺れているほど。

 正面から、声が来る。

 

「大丈夫? 危なかったね」

 

 言葉に反して月見を気遣う色はない。むしろ嘲笑うかのような声だった。

 月見は吐息し、ゆっくりと前を見据えた。

 

「……何分、弾幕にはまだ慣れていないものでね」

「あら、そうなの?」

 

 くすくすささやく。

 おかしくてたまらないといった体で、彼女――フランが笑っている。

 鮮紅色の双眸が、強く弓を描いている。

 

「弾幕ごっこはしたことないの?」

「そうだね。……実際にこうやって弾幕を撃たれるのは、初めてかな」

「まあ……」

 

 驚いた口元を掌でそっと隠して、背伸びしたような上品さで。

 されどもひとたびその華奢な(かいな)を振るえば、生まれる攻撃はただ苛烈。

 

「でも大丈夫、月見ならきっとすぐできるようになるよ」

「そうかな?」

「うん、きっとそう。……じゃあ、今は私が代わりにリードしてあげるね。ほら、ついてきて――」

 

 七色の宝石を煌めかせ、フランが飛揚した。雲を衝くように高い天井を、上へ、上へ。

 ――来るか……!

 月見が身構えて、一刻。フランは天高く右腕を掲げ、三日月みたいに大きく笑って。

 

「――ほら!」

 

 腕を振るうと同時、月見の視界を、再度無数の白が埋め尽くした。

 弾幕。

 

「っ……!」

 

 ――あの時、雛と椛の弾幕ごっこで見せてもらった弾幕とは、まるで桁が違った。思わず圧倒されあとずさってしまうほどの物量。それ以外の物が視界に映り込まなくなるほどの密度。咄嗟に距離を取っても一瞬と待たずに詰められてしまうほどの速度。天より降り注ぐその姿はまさに滝の如く。なにからなにまで違いすぎる。

 

 ……雛と椛が弾幕ごっこに熱中する中で、操がこう解説してくれた。

 

『妖力なりなんなりで作った弾幕を、なんらかの紋様を描くように一定の規則を持たせて飛ばすんじゃよ。相手を攻撃すると同時に、“魅せる”意味も込めての。

 弾幕ごっこは、“ごっこ”って言葉の通りに遊びみたいなもんで、妖怪と人間が対等に闘う決闘手段として生み出されたもんじゃ。だから攻撃する時には相手が躱せるようにわざと隙間と作らないといけないし、人間が反応できないような速度でぶっ放すのも禁止。そうやってフェアに攻撃して、相手は弾幕の規則を見抜いて回避して……まあ、そうやって遊びながら闘うんじゃよ』

 

 これが、遊び? まったくもって笑ってしまう。

 確かに、弾幕の軌道に規則はあるのかもしれない。しかしこれは既に、人間が反応できる速度の範疇を超えていた。

 あの鴉め騙したな今度会ったら焼く、と心に決めながら、月見は動いた。弾幕の隙間へと体を滑り込ませる。妖怪に与えられた天性の反射神経。身体能力。それらを以て、弾幕が体を掠めていくほどの瀬戸際で――しかし、躱す。

 白い世界の中、ただ、それだけを考えて。

 

「――ああ、もう躱せるようになったのね! さすが月見!」

「っ……」

 

 気がついた時には視界から白が消えていて、フランが興奮した様子ではしゃぎ声を上げていた。まだ回避しようと動き続けていた月見の体が思わずその場でたたらを踏む。

 息をつく暇はない。

 

「じゃあ、次は違うの! いっくよー!」

 

 次の世界は赤だった。先ほどの白よりも疎らで隙間が大きいものの、その分速い。――もはやこれは、本物の弾幕そのものだ。

 

「く、お……!」

 

 反射神経。身体能力。そして、勘。

 結論を言えば、ただ運がよかっただけなのだろう。

 

「一回で躱しちゃうんだ……すごいね、上手だよ!」

「それはっ、どうも……っ!」

 

 肝を潰す思いでなんとか躱したものの、必然、無駄話をするような余裕などない。フランへ返す声には、惨めったらしいほどの必死さがありありと浮き出てしまっていた。

 ともあれ、一度躱し切ってしまえば、死地は途端に好機へと変わる。

 

「じゃあ、次はねー……」

 

 弾幕の斉射が終わり、フランが次の弾幕を放つまでの予備動作。たった数秒の、沈黙の時間。

 それが、隙だ。

 

「――!」

 

 月見は脚に妖力を込め、一気に前へと駆け抜けた。打ち鳴らされた床が轟音を上げ、月見の意図に気づいたフランが慌てて身構える、それよりも速く。

 

「せっ……!」

 

 吐く息鋭く。相手が少女であることを構いなどしない。一撃で意識を刈り取る勢いで、

 

「――あうっ!?」

 

 蹴り落とした。肉を圧する低音、肺から吐き出されるフランの悲鳴、そして大気が震える衝撃をその場に残して彼女の体が吹き飛ぶ。完全に宙に放られ慣性のまま落下し、微塵もその勢いを殺すことなくぬいぐるみの山へと突っ込んでいった。

 フランが弾幕を放っている間は、とても近づくなんてできやしない。だから月見にとっては、彼女が弾幕を撃ち終えてから次を放つまでの僅かな準備時間――そこだけが攻撃に転じられる唯一の隙だった。

 生半可な力加減などしていない。並大抵の妖怪であれば、しばらくは動けなくなる一撃だったろう。

 だが。

 

「――あははははは! すごい! すごいよ月見!」

 

 崩れたぬいぐるみの山を押し退け、フランは再び飛翔した。やはり、鬼と互角の身体能力を持つといわれる吸血鬼――一撃蹴り飛ばした程度では、一瞬たりとも止まってはくれない。

 

「一発入れられちゃったのは、久し振りだなあ!」

 

 まったく痛みを感じていないわけではないはずなのに、フランはとてもとても嬉しそうに笑っていた。血のような双眸が、強く不気味な光を放っていた。自分と互角に戦える相手の存在に、狂気が昂ぶっているのだ。

 月見は顔をしかめた。……やはり、なるべく早く勝負を決めなければならない。拍車の掛かった彼女の狂気が、取り返しのつかないところまで加速してしまう前に。

 

「もっと、もっとやってみせてよ!」

 

 振るわれる(かいな)、放たれる白と赤の弾幕。圧倒的な密度と速度を以て襲い掛かるそれに、しかし月見はもう焦らなかった。あいかわらずギリギリではあったけれど、淀みなく躱す。尻尾を振るって弾き飛ばす。そして弾幕の斉射が途切れた瞬間、再度加速し、フランとの距離を一気に詰める。

 弾幕が途切れたら動く。単純で読みやすい攻めだと、月見自身も理解していた。

 故に気づく。肉薄されたフランが、静かに己の笑みを深めたのを。

 

「禁忌――」

 

 月見の背筋を悪寒が駆け抜ける。一層強大に膨れ上がったフランの妖力。弾幕ごっこにおける『必殺技』――スペルカードの宣言だ。

 これについても、月見は操から事前に説明を受けていた。スペルカードにより繰り出される攻撃は通常の弾幕よりも複雑で、強力で。

 そして――必ずしも弾幕とは限らない、ということを。

 

「――『レーヴァテイン』!」

 

 杖――いや、槍なのだろうか。フランが取り出した、悪魔の尻尾を象るように緩い曲線を描いて伸びる黒の武器。それを瞬く間に深紅が包み込み、巨大な炎の刃を成した。

 誘われた。肉薄した月見は、既にあの炎剣の間合いに入ってしまっている。しかも体は走る中で前傾になっているから、今更停止も後退も利きはしない。薙ぎ払うようにして振るわれた炎の軌道は、確実に月見を横一直線に両断する。

 しかし月見とて、こうなるのを予想していなかったわけではない。むしろ、迎撃されて然るべきだと考えていた。故に圧倒的な熱量で迫り来る炎剣を前にしても、焦りなく体は動く。

 跳躍する。縦に体を回して、炎剣を、そしてフランの頭上を飛び越えた。

 

「逃さないよ!」

 

 フランの反応は速かった。横に薙いだ炎剣の勢いをそのままに背後へ回転し、刃の動きを止めることなく、円を描く軌道で頭上を薙ぎ払う。

 その刹那には、既に月見の体は刃の間合いから外れていた。だが蛇のようにうごめくその炎は別だ。顎門を開き、未だ宙を飛ぶ月見を丸呑みにしようと迫ってくる。

 対し月見は、己の尾の先に赤を灯した。小さな火種は、妖狐が得意とする炎の妖術。尻尾を振るって(くう)に放った瞬間、爆発的な勢いを以て燃え上がった。

 

「――狐火!」

 

 激突する。狐火は月見の体を守るように大きく広がり、迫るレーヴァテインの炎を相殺した。

 打ち寄せる熱風に体勢を崩されそうになりながらも、月見は着地。だが、まだ気は緩めない。ぶつかり合った二つの炎はなお消え切らず残火を散らしているが――それを、新たに生まれた横薙ぎの炎が斬り払った。

 斬り払い、フランが突っ込んでくる。

 

「あはははははははははは!!」

 

 喉を走る哄笑、そして構えた炎剣はともに空高く。放たれた高速の振り下ろしを丸腰の月見に止める術はない。横に跳んで躱す他なかった。

 そして振り下ろされた炎剣が床を砕くと同時、天井を焼き払わんほどの火柱が立ち上がる。

 

「!」

 

 爆発が起こったと、そう錯覚させられるほどの威力だった。迸る爆音は、荒れ狂う熱風は、跳んだ月見の体をいとも簡単に持ち上げてしまう。

 

「む……!」

 

 バランスを奪われ、月見の体が床を転がった。咄嗟に体勢を整えて総身を起こすも――その時には既に、白と赤の弾幕に眼前を埋め尽くされている。

 躱せない。

 

「――!」

 

 直撃だ。最後に映った鮮やかな白と赤は途端に反転し、黒となって月見の視界を潰す。そして間髪を容れず背中に衝撃。なにが起こったのかわからないまま轟音とともに崩れ落ちた月見は、やがて己が本の山の中に埋もれていることを知った。……どうやら、吹き飛んで本棚に突っ込んでしまったらしい。

 顔面に乗っかっていた絵本をどかす。……CINDERELLA。こんな絵本も幻想入りしてるんだなと思いながら、月見は本の中から体を起こした。

 未だ高く上がる火柱の傍で、フランがぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃいでいた。

 

「あっははははは! わあい、当たった当たった!」

「ッハハハ、当たっちゃったなあ」

 

 月見は苦笑しながら思う。強いな、と。鬼を肩を並べる妖怪の最強種、吸血鬼。彼女の齢は知れないが、もはや大妖怪と比べても遜色ないほどの強さであった。

 後手に回っては押し切られる。生き残るためには、こちらからも攻めなければ。

 月見は立ち上がりつつ、袖から札の束を抜いた。百以上になるかというそれは、“剣”と銘を刻まれた紙片たち。宙に放ればまるで意思を持っているかのように飛び回り、蝟集し、月見の眼前で一つの物体を作り上げた。

 紙の、剣。

 

「……即席だから、性能は落ちるけど」

 

 丸腰でレーヴァテインを止めることはできない。……この剣で止められるかどうかもわからないが、ないよりはマシだ。

 フランが、くすくす笑って首を傾げた。

 

「なあにそれ。紙工作?」

「まあ、そんなところだ」

 

 けれども、もちろんただの紙工作とは違う。妖力を込めて硬化させ、真剣には及ばないまでも、それに近い切れ味で振るうことができる剣。即席の武器としては充分過ぎる代物だ。

 

「そんなの、燃やしちゃうよ!」

 

 炎剣振り上げ、フランが駆ける。対し、月見は回避を選ばなかった。煌々燃える彼女の炎を、右腕の剣一本で迎え撃つ。

 紙の剣は、焼き切られない。金属同士が衝突する高い衝撃音を響かせ、確かにレーヴァテインを受け止めた。

 

「嘘っ……」

 

 まさか止められるとは思っていなかったのだろう。フランの表情が驚愕で染まり、両腕から微かに力が抜けた。

 月見はその隙を逃さず剣を大きく振るい、レーヴァテインを押し返した。豪炎に包まれたその刃だ、至近距離で受け止めれば当然熱く、鍔迫り合いなどできたものではない。

 

「――熱い!」

「うわっ!」

 

 こういう時に、体重差というものは大きく影響を及ぼす。最初に蹴りを叩き込んだ時もそうだったが、月見よりもずっとずっと小さいフランの体は、月見がやや力を込めるだけで簡単に押し飛ばすことができた。

 フランの体が背後へたたらを踏む間に、月見は横目で剣の刀身を見遣る。刃の一部が焼け焦げ、崩れてしまっていた。……やはり、そう何度も受け止めるのは難しいようだ。

 ならば、刃がダメになってしまうその前に。

 

「っ!」

 

 駆ける。今度は、こちらから攻める番だ。

 体勢を立て直したフランが、慌てた動きでレーヴァテインを持ち上げた。月見の剣を受け止めるつもりなのだろう――だが、甘い。

 それが月見の狙い。月見はフランではなく、始めからレーヴァテインを狙った。ただ力任せに刃を振るって、フランの炎剣を真上に弾き飛ばした。

 

「きゃ!?」

 

 耳を突き刺すような衝撃音。レーヴァテインは一瞬も耐えられずフランの両手からすっぽ抜けて、そのまま天井に突き刺さった。

 

「あっ、」

 

 武器を失ったフランが、呆然としたように動きを止めた。いきなりレーヴァテインが手元から消えたせいで、上手く状況が飲み込めなかったのだろう。ぽかんと見開かれたその双眸に対し、月見は微笑んだ。

 

「……ちょっと痛いけど、我慢してくれ」

 

 銀の尾の先に火種を灯し――振るう。

 狐火。放たれた火種は瞬く間に豪炎へと姿を変え、フランの小さな体を一息で呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――刹那であった。

 

「禁弾・『カタディオプトリック』!!」

 

 鐘のように高く鳴り響く声音が、狐火を鮮やかに薙ぎ払った。

 転瞬、視界を埋め尽くす白の弾幕に、月見の体は反応できない。

 

「――ッ!?」

 

 頭がなにかを考えるよりも先に、直撃していた。弾き飛ばされ、背中から床に落ちる。

 けれども、今日だけで三度も打ち飛ばされてさすがに慣れたのだろうか。脳と視界が揺れる中であっても、体は本能的に動いてくれた。床を転がってまた背を打つまでの僅かな時間で体を回し、両足で強く床を叩いて立ち上がる。

 胸に弾幕が直撃した痛みを感じながら、月見は顔をしかめた。

 

(無茶をする……!)

 

 月見の意表を完全に突き切ったその攻撃は、果たして狙ってやったものなのか、それとも反射的なものなのか。だが炎に焼かれながらスペルカードの宣言をするなど、どだい正気でなせる技ではない。これも、彼女を蝕む狂気故か。

 

「禁忌・『フォーオブアカインド』!」

 

 狂気の衝動は止まらない。残り火の中で更なる宣言が響き、直後、揺れる赤を斬り払って四つの影が飛び出した。

 

「!」

 

 月見は瞠目した。それは弾幕ではなかった。飛び出した四つの影は、四人のフランドール・スカーレット。服の所々が焼け落ち、肌には火傷も負い――それでも月見を捉える八つの瞳が、豪火に劣らぬ狂気の炎を揺らす。

 

「あははははは、痛い痛い!」

「焼かれちゃった、傷モノにされちゃった!」

「月見、強いね! 強い強い!」

「それじゃあ私も、ちょっと本気!」

 

 四者、叫ぶ宣言は等しく。

 

「「「「――禁忌・『レーヴァテイン』!!」」」」

 

 等しくその手に、炎を宿す。

 

(いやいや、冗談だろう……!?)

 

 月見は戦慄した。たった一本受け止めるのも精一杯だった炎剣が、四倍の数量、そして四倍の規模で暴れ回る炎を従えて襲い来る。受け止めるなんてできるはずもない。できる限り遠くに、遠くにと、月見は全力で真横へと跳んだ。

 

 直後。叩き込まれた四つの火柱は、今度こそ本当に爆発を起こした。

 

「く、あっ……!」

 

 躱したはずなのに、まるで直撃したかのような衝撃が月見の体を打つ。黒煙に巻かれ、何度も何度も床を転がって、ようやくその動きが止まった時には――既に頭上で、二つの殺気が鎌首をもたげている。

 

「ッ……!」

 

 どうやらフランは、月見を休ませるつもりなど毛頭ないらしい。咄嗟に体を起こせば、眼前、二人のフランはとうにレーヴァテインを振り下ろしていた。

 上手い攻めだと唇を噛みながら、月見は即座に思考した。ここで左右、或いは後ろに跳んでもまた同じことを繰り返すだけだ。ならば突破口は――前。

 

「――!」

 

 紙の剣をその場に捨て置き、レーヴァテインが月見の体を切り裂くよりも、もっと速く。

 月見は二人のフランの懐に飛び込んで、勢いそのままに彼女らに体当たりを叩き込む。そして宙に投げ出された二つの体を、自らの体重もプラスして、力任せで床に叩きつけた。

 

「「あっ……!」」

 

 二人のフランが苦悶で顔を歪めるも、それも一瞬。瞬く間もなく、ポン、と妙に軽い音を立てて、煙となって(くう)に溶けた。

 やはり、分身。

 

「あははははは! 私が二人やられちゃった!」

 

 だが正面、もう一人のフランがレーヴァテインを構えて突っ込んできている。息をついている暇はない。月見は後ろに退がって紙の剣を拾い直し、振り下ろされた炎剣を受け止めた。

 

「月見ったら本当に強いのね! 嬉しくて嬉しくてたまらないわ!」

「お前こそ……ここまで一生懸命になったのも久し振りだよ!」

「――なら、もっともっと一生懸命になって!」

 

 応えたのは、目の前にいるフランではない。彼女の背後。天井高く飛揚したもう一人のフランが、

 

「禁弾・『スターボウブレイク』!」

 

 スペルカードを宣言し、流星のように降り注ぐ七色の弾幕を落とす。躱すには距離が近すぎる。月見は目の前のフランを押し返しすぐに退がろうとするが、お返しだと言わんばかりに、押し返されたフランのスペルカード宣言がそれを制す。

 

「禁忌・『クランベリートラップ』!」

「!」

 

 月見の周囲を光球が回り、そこから中心の月見に向けて新たな弾幕が放たれる。速度は遅いものの、空から降り注ぐ七色の弾幕と相まって、逃げ場が消えた。

 

「くっ……」

 

 月見は歯噛みした。やはり、戦いが長引けば長引くほど追い込まれるばかりだ。剣も、先ほどレーヴァテインを受け止めたことで損壊が広がり、限界が近い。

 だから月見は、再度前へ進むことを選んだ。無数の弾幕が跳梁するそこを、

 

「――狐火!」

 

 炎で一気に焼き払う。そうやって弾幕を相殺し、更に月見は飛んだ。フランがそうしたように、狐火の残火を斬り払い、前へと。

 

「!?」

 

 炎を抜けると、ちょうど目の前に驚愕で凍るフランの相貌が見えた。構わずにその脇腹を蹴り飛ばす。吹き飛んだ彼女の体が、また煙となって溶けていく。

 これも分身。ならば本物のフランは――上。七色の弾幕を撃った方だ。

 

「フラン……!」

 

 もはやフランの出方を窺いなどしない。これで勝負を決めるべきだと、真上で滞空するフランのもとに一直線に飛揚した。

 その時。

 

「あっ――」

 

 その時、不意にフランが小さく体を揺らした。今までの狂気に歪んだ笑みではない、怖がるような、怯えるような、そんな顔で月見を見ていた。

 

「あ――あはははははははは!!」

 

 ほんの一瞬のことだった。月見がそれに気づいて動きを止めた時には、フランは再び狂気の色濃く口端を歪め、力のままにレーヴァテインを振るっていた。月見は息を呑み、己の刃で彼女の炎剣を受け止める。

 刃に大きなひびが入り、衝撃が腕を伝わって骨を軋ませた。その痛みに顔をしかめ、しかし、月見は叫んでいた。

 

「ッ、フラン!」

「あはははははは! な、なあに?」

「お前……」

 

 狂気に精神を支配され哄笑するフラン――その瞳の奥が、悲しそうに、辛そうに、揺れている。

 

「ど、どうしたの? ほら、もっと、もっと戦おうよ!」

 

 言葉で笑うたびに、表情が震える。

 今にも泣き出しそうに、揺れている。

 もうやめてと、叫んでいる。

 

「――……」

 

 ――まさか。

 まさかと、月見は息を呑んだ。

 

 もしかして、もしかしてフランは。

 ただ狂気に精神を蝕まれて、正気を狂わされているのではなく――

 

「ほら……ほらぁ!!」

「っ……!」

 

 すべてを弾き飛ばそうとするように、フランが強く叫んだ。レーヴァテインの炎が勢いを増す。凄まじい力で押し切られそうになる。月見の剣も熱で焼かれ、もうこれ以上持ちこたえられそうにない。

 是非には及ばなかった。ともかく月見は、今はフランを止めなければならないのだ。

 

 だから――迷いを捨てろ。

 

「せっ……!」

「っ!」

 

 レーヴァテインを押し返し、フランの体を押し飛ばし、その剣に炎を宿した。

 片やフランが、スルトルの剣を振るうように。

 片や月見は、火之夜藝――自ら燃える炎の剣を、掲げる。

 

 迷いを捨てろ。振り下ろせ。

 でなければ、自らが殺されるしかないのだから。

 

「炎を刻め、『火之夜藝剣(ひのやぎのつるぎ)』……!」

 

 フランは、立ち上がった鮮紅色に見入るように動きを止めていた。

 そして月見は、刃を振るう覚悟を決めた。

 

 だから――これで終わるはずだったのに。

 

 

 

 

 

 ――助けて

 

 

 

 

 

「――あ、」

 

 炎が焼ける音を通り抜けて、その声が聞こえたから。

 炎が照らす赤に染め上げられて、見えてしまったから。

 

 フラン。

 狂気で歪んだその仮面の奥から、あふれて。

 

 

 落ちる、涙。

 

 

「――QED・『495年の波紋』!!」

 

 

 月見は、動けなかった。

 気づいてしまった事実の片鱗に、指一本動かせなかった。

 

 光り輝く無数の弾幕に呑まれる、その時まで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 声が聞こえる。

 

「嫌だよ……!」

 

 少女の泣く声が、聞こえる。

 

「こんなこと、したくないよ……!」

 

 恐怖で怯えて、

 

「嫌なのに、こんなことしたくないのに、止まってくれないよぉ……!」

 

 涙で掠れて、

 

「助けてよ……!」

 

 助けを乞うて、揺れる。

 

「助けてよ、月見ぃ……!」

 

 フランの泣く声が、聞こえる。

 

 

 

 

 

「ッ――」

 

 背中から床に叩きつけられ、混濁した意識が戻るまでの、ほんの僅かな時間だ。

 怖くて、悲しくて、助けてほしくて、切々と響くその声を。月見はただ床に倒れたままで、静かに聞いた。

 

 目を開ければ、彼女が見える。

 狂気で濡れた笑顔ではなく。

 涙で濡れた泣き顔だけが、消えゆくレーヴァテインの炎の中で。

 

「――怖いよ! 私の中にいる誰かが囁くの! 全部壊してしまえって! 全部拒絶してしまえって! 殺せって!! 嫌なのに、体が勝手に動くの! 体が勝手に、殺そうとするの!!」

 

 ――ああ、そうだ。

 フランの心は、すべてが狂気に呑まれてしまったわけではなかった。

 狂気で狂わされた心と、それに抵抗する彼女本来の心。

 二つの心が、小さな身体の中に混在していて。

 

「友達ができそうになっても、気がついたら殺しちゃってた! 嫌なのに! 殺したくなんてないのに! 今だってそう! 私は月見とお友達になりたいのに、仲良くしたいのに、そうやって傷つけてる!!」

 

 狂気の心がフランの体を操り、たくさんの命を奪ってきた、その奥で。

 彼女本来の心が、ずっとずっと泣いていたのだ。

 

「私は、バケモノだ……! 私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない……! 美鈴にも、咲夜にも、パチュリーにも! きっと、お姉様にだって!! だから、誰も、助けてなんてくれないんだっ……!!」

 

 この場所に幽閉され、家族から遠ざけられ、そして友達もいなかったから。

 誰にも助けを求められずに、ただずっと。

 

「月見、もう終わらせてよ……! こんなの、もう嫌だよ……っ! こんなに寂しくて、こんなに悲しくて、こんなに怖くて、辛くて、苦しくて痛くて!! こんなの、もうやだよおおおおお!!」

 

 啼泣の声に耳朶を打たれ、月見の体が引き裂かれそうになる。弾幕の痛みだけではない、もっと別の痛みに、心が悲鳴を上げそうになる。

 

「フラン……ッ!」

 

 そう名を呼ぶだけで体が軋んだ。そして、それ以上なにも言えなくなった。

 言葉がない。言うべき言葉が。諦めるな? 狂気に負けるな? 違う、そんなのじゃない。フランが望んでいるのは、そんな無責任で勝手な言葉なんかじゃない。

 いや、そもそも――

 

「助けてよ、お姉様……! 助けてよ、咲夜、美鈴、パチュリー……! 助けてっ……!」

 

 今この場所にいなければならないのは、フランに必要とされているのは、この紅魔館に住む者たちであって。月見はもはや、ただの部外者でしかないのだ。

 血がにじむほどに、強く唇を噛む。

 部外者だからといって、どうして引き下がれる。望まれていないからといって、どうして諦められる。……だが、部外者の自分に一体なにができる?

 たとえ月見がフランにいくら言葉を重ねても、それに意味などなく。

 たとえ月見がこの場を抜け出してレミリアのもとに走ったとしても、きっと彼女は、こちらの声に耳を貸すことすらしないだろう。

 

 一体、私に、なにができる。

 

「う、ああああああああああああああああああああ!!」

 

 考えるのは終わりだと、時間切れだと言うかのように、フランの絶叫が地下室を震わせた。フランは伝う涙をすべて散らして、月見へと己が右手を突き出した。

 

 

 その瞬間、月見の全身を戦慄が襲う。

 

 

(――!?)

「月見っ……!」

 

 

 開かれたその小さな手が、なにもない空間の中で、しかしなにかを握ろうと閉じられていく。

 それに併せて、月見の全身が不快な音を立てて軋んだ。

 

 

(これは……!?)

「お願い、月見っ……!」

 

 

 月見の知らない別次元の力が、体をどんどん圧迫していく。

 まるで、フランの掌が、こちらの体を直接握り潰そうとしているかのような。

 

 

(まさか――!)

「お願いだからっ……!」

 

 

 本能が警鐘を鳴らす。逃げろ、と。このままでは死ぬぞ、と。

 

 けれど――逃げるには既に、遅かった。

 

 

「あ、」

「逃げてえええええええええええええええ!!」

 

 

 

 

 

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして、紅魔館全体を覆い尽くしていた、二つの妖気の闘争が終わった。

 それが意味するところはただ一つ。フランと月見の戦いが終わった――すなわち、月見がフランに敗れ、殺されたということだ。

 

 自室から妖気の収束を確認したレミリアは、傍らに咲夜を引き連れて、地下室へ悠然と歩を進めていた。咲夜を同行させるつもりはなかったのだけれど、本人が強くそれを望んだので、仕方なく付き合わせていた。

 

「そんなに結果が気になるの? 言ったでしょう、フランの勝ちよ。運命がそうなっているんだもの」

「いえ……この目で確かめたいと、思いまして」

 

 答える咲夜には、ややの迷いの色がある。

 

「なにか気になることでもあるのかしら」

「……そう、ですね。少し」

 

 はぐらかすような回答を聞いて、レミリアはふっと思い出した。そういえば彼女、月見を連れて客間を出ていったのち、少しばかり戻りが遅かった。もしかしたらその際に、彼との間でなにかがあったのかもしれない。

 

「……」

 

 少し気に掛かったが、追究はしなかった。どの道、彼が死んだ今となっては関係のないことだ。

 それからはどちらとも口を開くことなく、カツ、カツ、静けさの帰った廊下を鳴らして、やがてそびえる鉄扉の前に至る。

 

「……」

 

 この扉を開けてからのことを、レミリアは少し考えた。最近はフランに構ってやることもあまりできていなかったから、目障りな狐を始末してくれてありがとうと、思いっきり褒めてあげよう。そうすればきっと、大喜びして素敵な笑顔を見せてくれるはずだ。そう思い、無骨な鉄の塊を押し開けようとした。

 ふと、気づく。

 

「……?」

 

 鉄扉の足元。淡い光を放って青白く輝く、なにかがあった。屈んで顔を近づけてみれば、どうやら月見草らしい。小さく、けれど凛として、不思議な美しさを放っている。

 ――どうして、こんなところに?

 ここは室内、しかも太陽の光など一瞬たりとも差し込まない地下だ。なのにこんなに綺麗な月見草が咲くなど、ありえるのだろうか。

 

「……おかしいですね。先ほど来た時は、こんなものなかったはずですが」

 

 傍らで、咲夜がそう眉根を寄せた。先ほどとは、月見をこの地下室に案内した時だろう。ということはこの月見草、フランと月見が戦っていたわずか数分の間で咲いたとでもいうのか。

 ……ありえない。一体これはなんだと、レミリアは月見草に手を伸ばした。

 そして、触れた指先が微かに花びらを揺らした瞬間。

 

「あっ……」

 

 触れられれば壊れる呪いでも掛けられていたのか――月見草が、途端に青白い光の粒となって霧散した。レミリアの指をすり抜け、周囲に満ち、あの小ささからは想像もできないほどに甘く香った。

 くらりと来る。

 

「っ……」

 

 果たして月見草は、ここまで強く香るような――いや、それ以前に、光の粒子となって消えるようなものだっただろうか。鼻に残る甘い香りが、どことなく夢を見ているかのようで気持ち悪い。

 

「お嬢様、今のは……?」

「……」

 

 咲夜が胡乱げに尋ねてくるけれど、恐らくレミリアも今はそんな面持ちをしているはずだ。

 

「……まあ、あとでパチェにでも訊いてみましょう」

 

 自然のものでないことは間違いないだろうが、生憎とそのあたりの知識には明るくない。結局、今はどうでもいいことだろうと判断した。わからないことにいつまでも頭を捻るよりも、少しでも早くフランを褒めてやりたいという気持ちが強かった。

 だからレミリアは鉄扉を押し開け、中に体を滑り込ませた。どうだったかしらフラン、新しい玩具の使い心地は。そう、笑顔で、愛する妹に声を掛けてやろうとした。

 

 

 

 だから、フランの体が、月見の“十一本”の尾で斬り刻まれて飛ばされるのを見た時。

 レミリアの世界は、その鼓動を完全に止めていた。

 

 息遣いの消えた世界、視界に認識できるものは、小さなフランの体だけ。

 鮮血を散らして、床を何度も転がって、やがて動かなくなる、その最期まで。

 

 

 

「――え?」

 

 こぼれた声は、果たして誰のものだったか。それを認識できるほど、頭は動いてくれなかった。理解できない。理解したくない。理解してはいけない。それだけの言葉で埋め尽くされて、なにも、わからない。

 

「……ああ、来たのか。レミリア」

 

 あの低く落ち着いたバリトンは、聞こえなかった。

 ぞっとするほどに感情の失せた、冷たい冷たい、無機物のような、

 

「結果なら、見ての通りだ。私が勝ち――」

 

 声が、聞こえる。

 

 

 

 

 

「――彼女は、死んだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第10話 「たった一つの愛の証明」

 

 

 

 

 

 ――ねえ、お姉様。

 ……なあに、フラン?

 

 ――あのさ。もしフランがいなくなったら、お姉様はどうする?

 ……意味がわからないわよ、フラン。なによ、いなくなったらって。

 

 ――そのまんまの意味よ。もし私がお姉様の前からいなくなったら、お姉様はどうする?

 ……捜すわ。当たり前でしょう?

 

 ――じゃあさ、もし私が誰かに殺されそうになったら、どうする?

 ……なによ、それ。

 

 ――喩え話よ。……ねえ、どうする?

 ……守るわよ。下らないことを訊かないで。

 

 ――もし、殺されちゃったら?

 ……訊かないでと言ったはずよ、フラン。……なに、怖い夢でも見たの?

 ――……。

 ……大丈夫よ、フラン。……させないわ、そんなこと。

 ――お姉様……。

 ……ええ、させるものですか。フランは絶対に、私が守るから。

 

 ――どうして? どうしてお姉様は、フランを守ってくれるの?

 ……どうしてって、そんなの決まってるでしょう?

 

 だって、私は。

 

 この世界でたった一人の、あなたの――

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 雷の如く迸った紅い妖力が、槍を成す。

 

 その動きを、決して意識したわけではない。

 しかしレミリアは、いつしか己が(かいな)にグングニルを発現させていた。

 一瞬遅れてついてきた理性が、どうしてこんなことしているの? と自らに問い掛けてくる。そしてその時になってようやく、レミリアは気づくことができた。

 

 ああ、そっか。私の本能が叫んでるんだ。

 

 

 ――こいつを、殺せって。

 

 

 だから、レミリアはそうした。殺すと、その意志だけを以て、グングニルを投擲した。

 十一の尾を揺らす妖狐。フランを殺した――月見に向けて。

 

「――!」

 

 光爆。紅い光だ。月見を貫いたグングニルが、込められたあまりの妖力に耐え切れず、内側から爆薬の如く炸裂した。轟音と熱風がレミリアの体を打ち、激震が紅魔館を揺るがしていく。あまりの衝撃に、隣で咲夜が悲鳴を上げて膝をついた。

 だが、そんなことなどどうでもいい。

 

「ッ、フラアアアアアン!!」

 

 濁流のように荒れ狂う黒煙を、声で、体で切り裂き、レミリアは駆けた。フラン。血に沈んだあの光景など夢だと、死んだなど嘘だと、ただひたすら自分に言い聞かせて。

 けれど、それこそが夢だったのだ。

 

「フラン、フランッ……!」

 

 体中を斬り刻まれ、鮮血で染まった肢体。光を失い、淀んだ闇色で潰れた瞳。生気が抜け落ち、身が凍るほど真っ白になった頬。レミリアが駆け寄っても、抱き起こしても、決して動いてはくれない。

 そして、なによりも。

 フランの運命が、見えない。

 能力を使っても、見える彼女の運命はただの暗闇。月見の尾で斬り刻まれたその瞬間に途切れ、唐突に、終わってしまっていた。

 それが意味することなんて、一つしかなくて。……ああ、そうだ。これと同じ暗闇を、かつて月見の運命を覗いた時に、見ていたじゃないか――。

 

「あ……!」

 

 死んでいる。

 

「あ、ああ……!」

 

 本当に、死んでしまっている。

 

「あああああっ……!!」

 

 たった一人の妹が、目の前で、無惨に、死んで――

 

 

 

「――再会の挨拶にしては、少し乱暴なんじゃないか?」

 

 

 

 頭蓋を殴り飛ばされる感覚。響いた声に、レミリアの体が瞬く間もなく凍りついた。

 払われた黒煙の、向こう側。

 あいつが、いる。グングニルが直撃したはずのに、それでもなお。

 傷一つ――いや、衣服の一糸すら乱さない、完全な無傷の姿で。

 銀の十一尾を靡かせ、月見が立っている。

 

「――っ!?」

 

 驚愕、とはいう言葉だけでは足りなかった。レミリアが扱う攻撃手段でも最高クラスの殺傷力を持つグングニル。それを考えうる限りの全力で放ったのに、直撃したはずだったのに、どうして傷一つ負っていない? 身を打つ感情はもはや驚愕ではない。恐怖、であった。

 

「どうして……」

 

 こぼれ落ちた言葉を拭う。違う。今レミリアが問うべきなのはそんなことではない。

 だからレミリアは、なぜ、と言葉を替えた。腕の中にある妹の体をきつく抱き、揺れる銀を睥睨(へいげい)し、叫んだ。

 

「なぜ、フランを殺したっ――!!」

「さほどとりたてた理由はないよ」

 

 言葉と呼ぶには、あまりに無機質な即答だった。その言葉がまるで別世界のモノのように異質に聞こえて、レミリアは返す声を失った。

 月見はあくまで淡々と、ただ事実だけを告げるように言う。

 

「生きるか死ぬかの殺し合い、その直線上にある至ってありふれた結末だ。一方が勝ち、一方が負けた。それ以上でもそれ以下でもない」

「……!」

「殺さねば、殺されていた。だから、殺される前に、殺した」

 

 レミリアを冷たく見下ろし、それでも最後にだけは笑みの陰を見せて。

 

「――それだけだ」

「ッ――!!」

 

 転瞬、レミリアは飛び出していた。フランの体を置いて、その分だけ速く、強く。

 また本能が叫んでいる。あいつを殺せと頭蓋を叩いてくる。脳髄が割れるほどに痛くて、焼き切れそうなほどに熱くて、泣き出しそうなほどに苦しくて――それはまさしく、“怒り”という名の感情だった。

 

 やはり意識しないうちに、右手にはグングニルがあった。あの鮮紅色の刃は、今は昂ぶる激情でひどく黒ずんでしまっている。構いはしなかった。この色で、あいつの銀を凄惨に染め上げてやろうと思った。

 

 腕に渾身の妖力を収斂(しゅうれん)させ、そのあまりの密度に筋肉が軋むのも構わず、突き出す。切り裂かれた大気が悲鳴を上げるほどの速度だった。やつの心臓。ただそれだけを見ていた。肉を切り裂き骨を砕く感触ごと、一閃する。

 その手応えは、間違いなく現実のものであったはずだ。飛散した鮮血は、二つに分かたれた彼の肢体は、間違いなく本物であったはずだ。

 

「――甘いぞ、吸血鬼」

 

 ――なのに、どうして、やつの声が背後から聞こえるのだ。

 冷静に考えれば、フランの『フォーオブアカインド』のように分身だったのかもしれない。しかしその思考に至りかけた時には既に遅く、背後から来た全身を震撼させる衝撃に、レミリアの体は瞬く間もなく制御を失った。宙を吹き飛んでいるのだと、それだけが辛うじてわかった。しかしわかったところで為す術もなく、壁に激突して身動きが取れなくなるまで、何度も何度も水切りするように床を転がった。

 そうして己の総身が完全に床に沈んだ時、レミリアはもう指先を動かすことすら敵わない。全身を蝕む激痛のせいもあったけれど、それよりも、なによりも、妹が殺されたというのになにもできない自分が、打ちのめされるほどに情けなくて。

 

「ッ、……ぅ、く……!」

 

 こぼれ落ちたグングニルが空気に溶けていく。紅い霧が広がる横倒しの世界。痛みで霞み涙で潤んだ視界で、しかしあの銀だけが、なにも変わることなく静かに映える。

 空気を撫でるような声音で、月見が言った。

 

「……レミリア。どうか私に、一つだけ訊かせてくれないか?」

「……ッ、」

 

 なにをだ。そう言い返そうとしても、脳の命令が上手く体に伝わってくれない。悶えるように拙く呼吸し、呻くことしかできなかった。

 それを、月見は肯定と取ったのだろう。一歩ずつ歩みを寄せながら腕を組み、険のある細い視線でレミリアを見据えた。

 問いが来る。

 

「――なぜ、お前はそんなに怒っているんだ?」

 

 すぅ、と寒気がした。怖いと、レミリアは思った。どうしてそんなことを訊くのか理解できなかった。そんなの、そんなことなど、答えるまでもなくわかりきっているはずなのに。

 けれど、月見は静かに首を横に振った。

 

「わざわざ問うまでもないことなのは、私だってわかっているさ。たった一人の妹が殺されたんだからね。……けど、けどね。こうなるより少し前に、私はあの子から聞かされたんだよ」

 

 背後に横たわるフランの体へと須臾(しゅゆ)の意識をやって、それから咎めるように、嘆くように眉を歪めて、言った。

 

 

 

 ――私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない。だから、誰も助けてなんてくれないんだ。

 

 

 

「――……」

 

 レミリアは呼吸を失う。あれだけ熱く暴れていた頭が瞬く間に血の気を失い、静まり返る。

 確認するように、月見がつなげる。

 

「……この言葉の意味が、お前にわかるだろうか」

 

 わからなかった。

 本当にフランがそんなことを言ったのかと、信じられなかった。

 

「わからない、といった風だね。やっぱり、だからこそ、長年あの子を幽閉し続けたということか」

 

 嘘だと思った。けれどなにも言えなかった。冷え切った頭はちっとも動いてくれない。ただレミリアの小さな手だけが、その冷たさに凍えてカタカタ震えていた。

 なんで。どうして。呆然と月見を見つめる。彼は諭すように据えた瞳をしていた。嘘偽りない、真実を告げる者の瞳だった。嘘じゃない。でも信じられない。信じたくなかった。だって、彼の言葉がもし真実だったら、レミリアは。

 月見が、その面差しに眉を下げた微笑を落とした。

 

「まあ、少しばかりそのままで、ゆっくり考えてみてくれないか。――私が“この子”の相手をしている間にね」

 

 その時。月見の背後、靡く十一尾の奥で、もう一つの銀が映えた。

 月見のものではない。あの銀は、いつもレミリアの傍で揺れる、彼女の。

 

 

「――月見様ああああああああ!!」

 

 

 十六夜咲夜。レミリアでさえ未だかつて聞いたことのない、強い、強い叫びを以て。

 横一閃、耀(かがよ)うナイフの太刀筋で、斬り払う。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 振り返った月見は、走った銀閃を一歩背後に退いていなす。ナイフを振るった少女――十六夜咲夜。唇を固く引き結び、目元をくしゃくしゃに歪め、体を震わせて、込み上げてくる感情を全身で押し殺して、彼女はそこを薙いでいた。

 

「来てしまったんだね、咲夜」

 

 月見は力なく微笑み、ため息を落とすように小さく息をついた。

 

「……お前には、見せたくなかった」

「ッ……!」

 

 再度、銀閃が光る。

 こちらの胸板を狙っての横薙ぎを、月見は過たず咲夜の腕を掴んで止めた。甘い一閃だったし、それは咲夜もわかっていたろう。だが取られた右腕を解こうとする様子はなかった。また、未だ自由である左腕で抵抗することもなかった。深く俯き、ただしきりにその肩を震わせていた。

 

「やめろ、咲夜……!」

 

 背後から刺すようなレミリアの声が飛ぶ。次第に痛みから回復してきたのだろう、腕を杖にして必死に体を起こそうとしていた。

 

「貴様、咲夜にまで手を出してみろ! その時はッ……!」

「別になにもしやしないよ」

 

 月見は簡潔にそれだけ答えた。だから黙っていろと、言外に伝えた。

 同時、咲夜が動きを起こした。取られた右腕を振り解くのではない。能力を使って逃れるのでもない。自由の左腕で拳を作って、振り上げ、

 

「どうしてですか……!」

 

 月見の胸を、叩く。

 

「どうして、こんなことっ……!」

 

 攻撃するためではない。

 

「どうしてっ……!」

 

 伝えるために。

 

「どうしてなんですかっ……!」

 

 振り上げて、振り下ろして。ただそれだけを繰り返す。

 動きは緩慢だった。拳に力はこもっていなかった。咲夜が体に巣食う震えとともに顔を持ち上げると、蒼の瞳の下で、決壊寸前の水面が揺れていた。

 

「いやですよ、こんなのっ……!」

 

 振り上げ、振り下ろす。水面から雫がこぼれた。

 振り上げ、振り下ろす。こぼれた雫たちが、川を作った。

 

「いやぁ……っ!」

 

 次々こぼれ落つ涙を拭おうともせず、震える声を隠そうともせず。

 

 

 

「――私は、こんな涙を流すためにあなたを信じたんじゃないのに!!」

 

 

 

 咲夜は、泣いた。

 そして振り下ろした最後の拳だけは、月見が一歩後ろにたたらを踏むほどに強くて。言葉は確かに、月見の胸を叩いていた。

 月見の襟にしがみついて、胸に額を押しつけて、咽び、泣きじゃくる、少女。

 

「……」

 

 咲夜が涙を流す理由は、きっとフランが殺されたことだけではない。本当に月見を信じていたのだろう。だからこうして裏切られて、悔しくて、悲しくて、泣いて。

 すまない、と月見は思う。けれど言葉にはしなかった。たとえ咲夜の思いを裏切ってでも――いや、こうして裏切ったからこそ、決してあとに退いたりはしない。最後まで、成し遂げる。

 だから月見は咲夜の頭にそっと手を置き、そこを通して妖術を掛けた。お前は、どうか静かにしていてくれと。

 

「あ……」

 

 咲夜の体からふっと力が抜ける。手が月見の襟から滑り落ちる。慌てて掴み直そうとして、しかしそれすらできず、その場にペタリと座り込んだ。

 一時的に体を弛緩させる妖術。目元を濡らしたまま虚を突かれた面差しでこちらを見上げる咲夜に、月見は眉を下げて微笑んだ。

 

「そのまま静かにしていてくれ。……もう少しで、全部終わるから」

「月見、様っ……!」

 

 咲夜が全身に力を込め、立ち上がろうとした。けれど動かない。立ち上がれない。だから月見は、もう咲夜を見なかった。

 振り返り差し向かうは、一人の吸血鬼の少女。

 

「月見様ああぁ……っ!」

 

 背後で上がる泣き声を聞くこともせず、レミリアに向けて歩みを寄せた。

 彼女の本当の気持ちを、あの子に届けるために。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ……フランは、寂しかったのだろうか。

 

 ――私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない。

 

 ……そうだったのかもしれない。確かにレミリアは彼女を遠ざけていた。紅魔館の者たちに、彼女に近づくことを禁じていた。けれどそれは愛していなかったからではない。愛していたからこそ、フランが誰も傷つけたりしないようにと張った予防線だった。

 すれ違っていたのだろう。レミリアの想いはフランに届いていなかった。彼女がこれ以上誰かを傷つけ、疎まれてしまわないようにと、そればかりに囚われて気づけないでいた。

 わかっている。これはレミリアの責任だ。フランと理解し合うことをせず、ただ一方的に押しつけるばかりだった、レミリアの。

 

 でも、

 でも、

 レミリアは、知らない。

 

 ――だから、誰も助けてなんてくれないんだ。

 

 その孤独を、フランが助けを求めるほどに苦しんでいたなんて――レミリアは、知らない。

 だって、フランはいつも笑っていた。時折顔を見にいった時も必ず笑顔で出迎えてくれて、一生懸命に色んな話を聞かせてくれて、暗い顔なんて一度だって見せたことがなかった。だから、フランも狂気を制御しようと前向きに頑張っているんだと、信じていたのに。

 故に、レミリアは知る。

 レミリアの想いがフランに届いていなかったように。

 フランの想いもまた、レミリアに届いていなかったのだと。

 

「……わかっただろうか。あの言葉の意味が、お前に」

「……」

 

 カツ、カツ――(くつ)で床を静かに鳴らし、月見が近づいてくる。けれど彼の声は、もうほとんどレミリアには聞こえていなかった。

 茫然と、言葉がこぼれる。

 

「……どうして、なにも言ってくれなかったの? 独りが嫌だったなら、助けてほしかったなら、そう言ってくれれば……いくらでも一緒にいてあげたのに……」

「面白いことを言うね」

「っ……!」

 

 弾かれるように顔を上げた。月見が口の端を醜く歪め、侮蔑するように笑っている。

 力を失っていたレミリアの心が、またざわついた。

 

「なにが、面白いんだ……!」

「いやね。反面教師として、これ以上愉快なものはないじゃないか」

 

 くつくつ、月見は喉を鳴らして。

 

「だって、そうだろう?」

 

 右腕を低くレミリアへ掲げて、薄気味の悪い笑顔とともに。

 

 

 

「――だってお前は、フランになにも言わなかったじゃないか」

 

 

 

 どくん――一度だけ、心臓が強くレミリアの胸を叩いて――それっきり、止まった。

 そんな、ありえない感覚を感じた。全身の血が急に温度を失って、体が内側から凍えていく。あまりの寒さに筋肉が固まってしまっていた。なにかを言おうとしても、唇すらまともに動いてくれなかった。

 

「外は危険だからって、そればかり嘘をついて、なにも言ってやらなかったじゃないか。……そんなお前がなにも言えなかったあの子を責めるなんて、面白い話だと思わないか?」

 

 上げていた右腕を浅く振り払い、月見は笑みを消して、強い眼光を光らせた。 

 

「いいか、あの子はなにも言わなかったんじゃない。なにも言えなかったんだ。お前がなにも言ってやらなかったから、なにも言えなかったんだ。もしかして嫌われているんじゃないか、愛されていないんじゃないかと、それが怖くて、もしそうだったら自分が壊れてしまうから、ずっとなにも言えなかったんだよ」

 

 倒れそうになった上体を、レミリアは咄嗟に腕を杖にして支えた。頭が痛い。目の前がグラグラする。どうしようもないくらいに気持ちが悪い。

 月見は言葉を止めない。

 

「なあレミリア、知っているか? フランはね、別に心を狂気に支配されてなんかいなかったよ。自分の中に生まれた狂気の人格と、ずっと戦っていたんだ。呑み込まれないように抵抗していたんだ。何百年も、この薄暗い地下室で、たった独りで、でも諦めないで。……知らなかったろう?」

 

 嘘だと叫びたかった。ふざけるなと吐き捨てたかった。言葉は出ずに、ただ肩で息を切らす動きだけが音になった。

 

「でもね、ほんの少し親身になるだけで、私はそれを知ることができた。ただ少し本気で話をするだけで、お前が知らない真実を知ることができた。時計の長針が一回転する、たったそれだけの時間で、お前が何百年も知らないでいたあの子の本当の気持ちに気づけたんだ」

 

 頭の中はメチャクチャになってしまっていた。今までフランとの間に築いてきたものが、すべて音を立てて崩れていく。今まで見てきたフランがすべて幻だったような気さえした。なにが本当で、なにが嘘で、なにが正しくて、なにが間違いで――そのなにもかもが、崩れ落ちていく思考に呑み込まれてわからなくなっていく。

 けれど――

 けれど、たった一つだけわかることがあった。

 

「泣いていたよ、あの子は。寂しいと。悲しいと。辛いと苦しいと痛いと、……もう嫌だ、とね。だから私が終わらせることにした。あの子もそれを受け入れたよ。そう、――これは、望まれた結末なんだ」

「っ……」

 

 確かにレミリアは、フランの想いに気づいていなかった。フランなら大丈夫だと妄信するばかりで、目を向けようともしていなかった。

 だが、だが今こうしてレミリアの前ですべてを語るこの男は、フランに一体なにをした? フランの本当の想いを知って、その上で一体なにをした?

 跳ねるように体が震えた。焼かれるように肺が熱くなった。爪で床を抉り、月見を睥睨し、レミリアは声を絞り出した。

 

「だから、フランを殺したのかっ……!」

「そう。私があの子を殺さずに真実を伝えようとしても、どうせお前は耳を貸してくれなかったろう。ありもしない戯言を言うなと、一蹴したはずだ。違うか? それじゃあなにも変わらないだろう。あの子が苦しみ続けるだけだろう」

「っ……」

「まあ……そもそも私自身が殺されそうになってしまったから、選択の余地などなかったのだけどね。――だから殺した。私一人がお前たちから憎まれるだけで、あの子は永遠に楽になるんだ。それは、あの子にとって確かな救いだろうさ」

「黙れ……」

 

 月見の言い分は理解した。彼がフランに手を掛けた理由、今となってははっきりした。

 けれど、はっきりとした今だからこそわかる。理由なんて、本当は最初からどうでもいいことだったのだ。

 

「確かに、あの子を殺したのは私だ。だが言わせてくれ。これは、お前があの子とちゃんと向き合っていれば回避できたはずの結末だ」

「黙れ……!」

 

 なぜなら、その理由がどんなに理に適っていて、正しくて、仕方のないものだったとしても。

 

「だから、問わせてくれ。どうして、あの子とちゃんと向き合ってやらなかった」

「黙れっ……!」

 

 たとえ間違っているのが、レミリアの方だとしても。

 

「故に、知れ。――この結末の引鉄になったのは、他でもない。あの子の心から目を逸らし、背中を向け続けた、お前の歪みくねった愛情だ!」

「黙れええええええええええ!!」

 

 ――レミリアは決して、彼を許しなどしないのだから。

 

 喉は、限界まで震えた。そうして放たれた咆吼は、体を縛る(くびき)を激烈に断ち切り、レミリアの総身に力を呼び戻す。

 抉った床の欠片を粉にするほど強く握り締めて、渾身の力を奮って立ち上がった。

 

 

「お前になにが! お前に一体、なにがわかる!? 今までフランが、どれだけ周囲から危険視されてきたか知っているか!? どれだけ疎まれてきたのか、知っているのか!? 咲夜や美鈴がこの紅魔館に来る前はな、フランと親しくしようとする者なんて一人もいなかったよ! みんながフランを避けたんだ! ただ、ただその身に狂気を宿しているというだけで!!」

 

 

 咆吼は、軛のみならず感情の堰をも砕いていた。憤怒、悲哀、後悔、憎悪。それらの感情が体の中で氾濫し、引き裂かれてしまいそうになる。その感情を言葉にするたびに、全身が悲鳴を上げている。

 だがそれでも、叫びは決して途切れない。

 

 

「私だって、フランを外に出してやりたかったさ! 一緒に外を散歩したかったさ! だがな、もし外に出たフランが、その狂気のせいで拒絶されてしまったら!? 嫌われてしまったら、一体どうなる!? 身内から避けられ、外からも拒絶されてしまったフランは、一体どこで生きていけばいい!? フランの居場所がこの世界から消えてしまう! フランがこの世界に、いられなくなってしまうんだよ! 私は、それがどうしようもなく怖かった!!」

 

 

 手を握り締め、

 

 

「――だから、幽閉した! いつしか、フランがその狂気を完全に制御できるようになると信じて! いつしか、二人で外の世界を自由に飛び回れる時を願って! いつしか、フランがこの世界に受け入れられることを祈って! ――そうしたら、外の世界にフランの居場所が作れるんだから!!」

 

 

 腕を振り払い、

 

 

「望まれた結末だと!? ふざけるな!! たとえフランがそれを望んだとしても、私はそんなことなど望んではいなかった!! ああそうさ、確かに私は間違っていた!! 今になってどうしようもなく後悔しているよ! どうして気づいてやれなかったのか! どうしてちゃんと向き合ってやれなかったのか! もっと心の底から、ちゃんと、フランを愛してやればよかったっ……!!」

 

 

 歯を噛み砕き、

 

 

「だがな、フランはもう死んだ! 死んでしまったんだ!! どんなに抱き締めても! どんなに名前を呼んでも! どんなに謝っても! どんなに愛していると叫んでも! なに一つとして返ってこないっ……! 声も、笑顔も、温もりも鼓動もなにもかもが!! 私が愛する妹は、私が謝るべきあの子は、もう、もうどこにもいないんだっ……!!」

 

 

 喉を切り裂き、

 

 

「――だから私は、お前を決して認めない!! 私からあの子を奪ったお前を、絶対に許さない!! たとえ刺し違えてでも、この場で仇を討ってやる!!」

 

 

 体を砕くほどに、

 

 

「それだけが……!」

 

 

 切に、

 

 

「それだけがっ――!」

 

 

 切に。

 

 

 

 

 

「それだけが、今の私にしてやれる、フランへの!!

 

   ――たった一つの愛の証明だ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 全身を粟立たせるこの感情を、月見は畏怖だと感じていた。

 レミリア・スカーレット。放たれた彼女の覇気は風をも生み出し、強く月見の肌を打ち、駆け抜けていく。粟立ったのは体だけではない。心もまた、その小さな吸血鬼の姿に圧倒されて震えていた。

 

 ――吸血鬼は、実に誇り高く、実に高貴で、実に美しい種族である。

 あの言葉通りの存在が、今、目の前にいる。

 

 子どもだと思った。伝え聞く吸血鬼の姿とは違うのだと落胆していた。だが違った。幼い容姿の奥底には間違いなく吸血鬼の誇りが(かよ)っていて、それを今この場で目の当たりにできること、月見は心の底から至高だと感じていた。

 妹を失ってなお誇り高く、

 激情に支配されてなお高貴で、

 体中に傷を負ってなお、美しい。

 もはやこれ以上などありはしない。わざと居丈高な態度を取って、一芝居打った(・・・・・・)甲斐があった。

 レミリアの想いは、間違いなく彼女に伝わったろう。――物陰からレミリアの背中を窺う彼女は、もうこれ以上居ても立ってもいられないと、こちらに一生懸命目配せをしてきていた。

 

(……そうだね。もう、充分だ)

 

 故に月見は、高く高く声を上げる。

 こぼれる笑みを抑えられない、最上の歓喜とともに。

 

「――見事だ、レミリア・スカーレット!!」

 

 指を鳴らす。

 この下らない世界を、さっさと終わらせてしまうために。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 パチン――。

 その音が響いた瞬間、レミリアを強烈な不快感が襲った。まるで、夢の中から無理やり現実に引き戻されたかのような。視界がぐわりと歪み、咄嗟に手を顔にやってしまう。

 

「なにをした……」

 

 レミリアの問いに、月見は答えなかった。ただ勿体ぶるような笑みを、その顔に貼りつけているだけ。

 だが、その笑みの意味するところがなんであったとしても、レミリアがすべきことは変わらない。目の前の妖狐を殺す。それだけだ。

 自己満足なのかもしれない。仇を討ったつもりになって、遅すぎたフランへの罪悪感を紛らわせようとする、浅ましい行為なのかもしれない。でも、彼女を失った今のレミリアには、もうそれだけしかないから。

 不快感は既に消えていた。レミリアは再度妖力を開放し、右手にグングニルを宿す。

 

 そして鋭く呼吸を一つ――前へと踏み出す、刹那。

 

 

 

「お姉様っ――!!」

 

 

 

 後ろからぶつかってきた小さな衝撃が、それを止めた。

 

「…………え?」

 

 漠とした声がこぼれる。

 胸に回ったのは、もう二度と動かないと思っていた、見慣れた小さく華奢な腕。

 頭に響いたのは、もう二度と聞けないと思っていた、聞き慣れた可愛らしい声。

 背に伝わるのは、もう二度と触れないと思っていた、感じ慣れた柔らかな鼓動。

 それは、まさに――

 

「フラ、ン……?」

「うん、うんっ! フランだよ、お姉様っ……!」

 

 強く頷くその動きが、レミリアの体をひどく懐かしく揺らした。

 妖力を制御することができない。携えたグングニルが霧散し、紅い霧となって(くう)に溶けていく。体が震え、喉が渇き、瞳が揺れ、息が乱れ、頭が痛む。

 

「ほん、とうに……?」

「本当だよ、お姉様」

 

 そう絞り出すのがやっとだった。でも、それでも、応えははっきりと返ってきた。レミリアを抱き締める小さな腕に、ぎゅっと力がこもった。

 

 ――ああ、感じる。

 

 この手は、間違いなくフランのもので。

 この鼓動は、間違いなくフランのもので。

 このぬくもりは、間違いなくフランのもので。

 

 そして、振り返れば――そこにいたのは、間違いなくフランで。

 

「――――――!!」

 

 ……その瞬間レミリアは、少なくとも自身の記憶の中では生まれて初めて、声を上げて泣いた。

 フランが生きていた。ただそれだけに、胸を埋め尽くされて。

 ――もう二度と、放さない。

 レミリアは、愛する妹を強く抱き竦めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 殺したくない、もうやめてと、どれだけ必死に祈っても、反して体は勝手に動いた。もはや自分のものではない体は、まるで楽しむかのような余韻すら見せて、月見の『目』を握り潰そうとしていた。

 『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。万象の物質が持つ『目』というモノを自らの手中に移動させ、握り潰すことで、『目』の持ち主を爆殺する力。

 その能力で、フランの体は今まさに、月見を殺そうとしている。

 

「月見っ……!」

 

 ――ダメ! ダメ、ダメ!

 そう心で必死に叫んでも、狂気に乗っ取られた体は決して耳を貸してくれない。ただ月見の『目』を握り潰すためだけに、ただ殺害を楽しむためだけに、どこまでも勝手に動いてしまう。

 だがこの『目』を握り潰したら、月見は死んでしまう。友達になってくれないかと優しく優しく言ってくれた人が、いなくなってしまう。

 

「お願い、月見っ……!」

 

 やめて。

 お願いだから、止まって。

 

「お願いだから……!」

 

 必死に祈った。あんなに優しくしてくれた彼をこの手で殺してしまうなんて、ひどすぎる。そんな結末なんて耐えられっこない。絶対に、絶対に嫌だった。

 だから、必死に祈った。

 ――お願いだからっ……!

 

「逃げてえええええええええええええええ!!」

 

 ……でも、止まらなかった。

 グシャリ――そんな、柔らかいなにかを握り潰す感触が、生々しく手の中に広がって。

 

「――……」

 

 その瞬間、フランはきつく瞑目し、震えた。

 終わった。……終わってしまった。

 瞑った目を開けることはできない。見たくなかった。もし見てしまったら、自分が自分でなくなってしまうような気がして、怖かった。

 

「――ごめんなさい……」

 

 心がひび割れていく音が聞こえる。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 その言葉を音にするたび、殺した、殺してしまったと、心が砕けていく。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 そして唐突に、フランは知った。

 ――やっぱり私は、バケモノなんだ。

 せっかくできた優しい友達を粉々にして殺してしまうような、私は。

 

「ぁ――」

 

 漠とした声。その時フランは、確かに己の内側に感じていた。

 

 硝子が、壊れるように。

 心が、壊れた。

 

 狂気に染まっていなかった唯一の綺麗だったものが、壊れてはいけないそれが、壊れてしまった。

 

「……もう、ムリだよ」

 

 フランは笑う。すべてを諦め、涙し、虚ろに、己を嗤う。

 

「やっぱり、私なんかじゃ勝てっこないんだ……」

 

 誰にも、たった一人の姉にすらも愛されてなくて、

 唯一近づいてきてくれた優しい人をも殺して、

 そうしてまた、独りぼっち。

 

 ――もう、限界だった。

 

「もう……もう、……」

 

 自分が消えていくのを感じた。

 嗤う狂気の声に呑み込まれて、最後の自分が消えていく。

 全部、真っ黒になって、わからなくなっていく。

 

「――……」

 

 全部。全部。

 真っ暗闇に、消えて――

 

 

「――なあなあ、フラン」

 

 

 ふと、肩を叩かれた。

 誰だろう。顔を上げた。でも、なんだか目の前が暗くてよく見えない。とても背が高いけど、こんな人、私の知り合いにいたっけ。

 

「フラン、聞こえてるか?」

 

 それに、声も変だ。低い声。男の人の声。紅魔館にいる人じゃない。

 でも、どこかで聞いたことがあるような気がする。忘れちゃいけない、大切な人の声な気がする……。

 

「フラン? フーラーンー?」

 

 ……でも、どうでもいいかな。

 どうせ、もう、私には関係ないことだし。

 もうすぐ消える私には、あなたが誰だって、関係――

 

 

 

「――必殺、脳天幹竹割りっ!」

「うにゃあ!?」

 

 

 

 火花が散った。銀の火花だった。

 頭に突然痛みが走って、銀の光芒が暗闇に散って――その瞬間、世界がパアッと明るくなった。

 

「!? !?」

 

 世界が一瞬で真っ白になったから、とても驚いたけれど。

 銀色が消えて、世界に色が戻ってきた時には、すべて元通りになっていた。

 

「えっ……あ、」

 

 消えるはずだった意識がはっきり元通りになっていて、見るもの聞くもの、すべてがわかるようになっていた。

 くゆるランプに赤く照らされるここが、ずっと幽閉され続けた地下室であることも。

 誰かに、頭を思いっきりぶっ叩かれたことも。

 そして――それをやったのが、“彼”であることも。

 

「――つく、み?」

 

 ぎんのきつね。たいせつなひと。

 『目』を壊されて死んだはずの彼が、最後に見た時となにも変わらない姿で、すぐ目の前に立っていて。

 はっはっは、なんて、どこか得意げに笑っていて。

 

「――目、覚めたか?」

「あ……」

 

 その時、フランは確かに目覚めた。

 震える手で、彼の裾を掴む。掴めた。幻なんかじゃない。

 震える体で、彼のお腹に飛び込む。抱き留められた。夢なんかじゃない。

 震える腕で、彼を抱き締める。暖かかった。嘘なんかじゃない。

 

「痛い、痛い。こら、フラン。痛いって」

 

 こちらの背中を叩いて訴える彼の掌は、とても大きい。叩かれるたびにぬくもりが伝わってくる。もっと叩いてほしくて、フランぎゅっと両腕に力を込めた。

 

「ちょっ、フラン、待っ……せ、背中が! いだだだだだ!」

 

 バンバン、背中を叩かれる。ちょっとだけ痛かったけれど、でもそれ以上に嬉しくて、やめる気なんて毛頭起こらなかった。

 なんで彼が生きているのか、疑問はとめどなくあふれていた。けれど今だけは、このぬくもりに少しでも長く浸っていたくて。

 

「よかったっ……!」

「い、いや待て、現在進行形でとてもよろしくない――あだだだだだだだだ!?」

 

 頭の上で上がる彼の悲鳴は、ごめんなさいと思いつつ、聞かなかったことにした。

 フランは笑う。あいもかわらず、涙は流れていたけれど。

 

「よかったよぉ……っ!!」

 

 それでも今度は、とっても綺麗に、笑うことができた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 死ぬかと思った、と月見は額の脂汗を拭った。背骨がズキズキと鈍い悲鳴を上げている。フランを引き剥がすのがあと少しでも遅れていたら、無惨に砕けてしまっていたかもしれない。

 やはり幼くとも吸血鬼。その膂力(りょりょく)は、白磁を思わせる細腕からは計り知れないほどに高いようだった。

 

「子どもに抱きつかれて死にかけるなんて、なかなか貴重な体験だったね」

「ご、ごめんなさい……」

 

 あの戦いを終えてしばし、月見はまた、フランのベッドの縁に腰を預けていた。その背を、フランが大分気後れした手つきでさすってくれている。背骨の上を行ったり来たりする小さな手は少しくすぐったくて、なんだかおじいちゃんになったみたいだな、と月見は思った。今や数千年を生きた自らの齢を考えれば、それでもまったく不思議はないのだけれど。

 

「……ねえ、月見」

「ん?」

 

 背中に掛かるフランからの問いに、振り返らずに応じる。

 

「どうして、無事でいられたの?」

 

 ポツポツと、フランが自分の持つ能力について教えてくれる。『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。万象の物質が持つ『目』というモノを破壊することで、相手を粉々に爆砕してしまう能力だと。

 なるほど、あの時に月見が感じた死の予感は、気のせいでもなんでもなかったらしい。思い出すだけでもなんとも肝が冷えてくる話だった。

 

「それはまた、すごい能力だねえ」

「そう……自分でいうのもなんだけど、すごい能力なの。だから、どうして月見が無事でいられたのか」

「そうだね……」

 

 月見は顎に指の腹を添え、少し、考える。

 

 結論を言えば、フランが能力を使ったように、月見もまた能力を使っていた。『当てを外す程度の能力』。相手が月見に対して抱いた予想を覆し、強制的に正反対の現象を引き起こす能力だ。

 例えば先日、月見はこの能力を使って雛の予想を覆していた。「月見が雛に近づけば、厄をもらって不幸になってしまう」――その雛の予想を覆し、「月見が雛に近づいても厄をもらわず、また不幸になることもない」――そんな現象を強制的に顕現した。

 

 今回だって、それと同じ。大方フランは、「このままでは月見が死んでしまう」とでも考えていたのだろう。だからその当てが外れて、「このままでも月見は死なない」という正反対の結果となった。

 畢竟(ひっきょう)、それだけの話なのだ。

 

「……まあ、私も能力を使ったんだよ。どんな能力かは秘密だけど」

「そうなんだ……」

 

 胸を撫で下ろすような吐息が、首筋に掛かる。

 

「私の能力を無効化するなんて、きっと月見のもすごい能力なんだね」

「そうかな」

 

 月見は緩く苦笑した。確かにこの能力は、相手が抱いている予想次第では死すら跳ね返す強力な力を発揮する。……が、その逆もまた然りだ。

 仮にあの時、フランが「どうか死なないで」と考えていたら月見はどうなっていただろうか。――この能力は、平たく言えば、天国か地獄かの大博打をするような能力なのだ。

 

 ともあれ。月見は、この地下室に近づいてくる二つの気配を感じていた。レミリアと咲夜。月見たちの戦いが終わったから、結果を確認しようというのだろう。

 だから月見は、背後のフランに静かにこう問う。

 

「フラン。……レミリアの本心、問い質してみないか?」

「っ……」

 

 小さく息を呑む音とともに、背中をさする彼女の手が止まった。

 月見は続ける。

 

「お前を幽閉した真意。お前のことを本当に愛しているのか。そのすべてを」

「……どうやって?」

「簡単だよ。思わず全部吐き出してしまうような状況を作ってやればいい」

 

 嘘偽りない気持ちを吐き出させるために、『状況』を味方につける。そのための算段が、既に月見の頭の中にはあった。

 

「例えば……目の前で自分の大切な人が傷つけられたら、その人はとても冷静ではいられないだろうさ」

「……」

 

 フランは、月見が考えていることをなんとなく察したようだった。またゆっくりと、その小さな手でこちらの背を撫でながら、

 

「お姉様、心配してくれるかな。悲しんでくれるかな……」

「……それを知るために、やるんだろうさ」

 

 フランを苦しめる根底にあるのは孤独。故に彼女は人一倍“つながり”に飢えていた。それは、数十分という短い時間で簡単に月見に心を開いたことからもわかる。

 フランは、絆が欲しいのだ。決して仮初めなどではない、愛にも似た絆が。

 だとしたら、今が賭けに出る一つの転機なのかもしれない。

 

「お前ももう、ずっと目を逸らし続けて、ここで独りで生き続けていくのは嫌なんじゃないか?」

「……」

「レミリアとは私が話す。だからお前は、覚悟を決めるだけでいい。……前を向く、覚悟を」

 

 いつしか、フランの手は再び止まっていた。姿は見えないけれど、その沈黙から、彼女がどんな面持ちをしているのかは容易に察することができる。

 月見は、あくまで落ち着けた声色のままで続けた。決して強制するのではなく、

 

「お前に任せるよ。だから、聞かせてくれ」

「……」

 

 しばし答えがないまま、地下室に沈黙が満つ。フランに薙ぎ倒されたままになっているぬいぐるみたちが、皆、見守るように彼女を見つめていた。

 月見は胸中で、咲夜が館の空間を拡張していることに感謝した。お陰で、レミリアたちがこの地下室にやって来るまで、考える時間はたっぷりとあった。

 

 一分ほど、だったろうか。不意にフランが、月見の背中に寄り添ってきた。預けられたひどく軽い体重。躊躇いがちな指先が、つうっと背を撫でる。

 

「……もしダメだったら、どうしようね」

 

 少しだけニヒルな息遣いだった。月見は笑って、なんてことはないと答えた。

 

「そしたら、わからず屋のお姉さんをぶん殴って、家出して……そのあとは、私の娘になってみるか?」

「……へ?」

 

 背中越しで、フランがピクンと震えたのがわかった。虚を突かれ、呆然とこぼれた彼女の声。けれどすぐに、吹き出す鈴の笑い声に変わった。

 

「プッ……アハ、アハハハハハ……♪」

「ひどいなあ。笑うところか?」

「だ、だってぇ……アハハッ、ハハハハハ……♪」

 

 月見が振り返った時、フランは目元に小さな雫を浮かべながら笑っていた。おかしそうに、そして同時に、寂しそうに。

 彼女はそうしてひとしきり笑ったあと、雫をさっと拭って、吐息する。

 

「それもまあ、いいかもなあ……」

「……」

 

 呟くその表情には、やはり薄い寂しさの影が差していた。すぐに取り繕うように表情を改めたけれど、代わりに浮かべた笑顔は不器用だった。

 

「うん、そうだね。私も、頑張って前を向くよ」

「……いいのか?」

「……ほんとは、怖いよ。でも大丈夫。だって――」

 

 くしゃり、甘えるように笑って、

 

「月見が、支えてくれるんでしょ? だったら、頑張れるから」

「……そっか」

 

 強い子だと、月見は思った。だから同じようにくしゃりと笑って、フランの頭を優しく叩いた。

 

「よし。じゃあ一つ、頑張るとしようか」

「……はい」

 

 フランの笑顔から、寂しさの影が抜けた。

 話はまとまった。月見はベッドから立ち上がる。フランのあの弾幕――『495年の波動』といったか――によるダメージもすっかり回復していて、体に違和感は残っていない。万が一レミリアと戦うような事態になったとしても問題はないだろう。

 フランは怖がっているようだけれど、月見には、レミリアが彼女を愛しているという確信があった。だからレミリアの目の前でフランを倒せば、レミリアは間違いなく激昂する。あの深紅の槍を、今度は寸止めでもなんでもなく、本気で振り抜かれることだってあるかもしれない。

 大仕事になりそうだと、月見は内心で苦笑した。

 

「さて。レミリアがこの部屋に入ってきたら、お前が私に倒される……と、そういう話だけど」

「うん」

「それなんだが、フランはなにもしなくていい。物陰にでも隠れて、見つからないようにしておきなさい」

「……え?」

 

 どういうこと? と目を丸くしたフランに、月見は勿体ぶるように口端を引き上げた。

 

「言ったろう? お前がすべきことは、覚悟を決めることだけ。実際にお前が私に倒される必要はないよ」

「で、でもそれじゃあ、どうやって……」

 

 フランが困惑したように体をそわそわさせるけれど、しかしながら、それで問題ないのである。フランとしては痛いのは嫌だろうし、月見としても、彼女を傷つけるような真似はできる限りしたくない。

 だから、

 

「よく考えてご覧、フラン? ――私は、“狐”だよ」

「あっ――」

 

 銀の尻尾を見せつけるように大きく揺らすと、フランも月見の考えに気づいたようだった。そっか、と呟いて俯き、それからなにかを考えていたのか、ややの間を空けてから再び顔を上げた。

 

「じゃあさ、月見。……こういうのは、できないかな?」

 

 フランがベッドの上に立って背伸びをしたので、月見は耳を彼女の方に向けた。そして耳打ちされた言葉に、思わず眉をひそめる。

 

「それは……いや、しかし、いいのか?」

「……月見だって危ないだろうから、嫌だったらいいの。でも、もし大丈夫だったら、そうしてほしいなあって」

 

 なぜ? ――問うと、フランはこちらから一歩後ろに下がって、いーっ、と白い歯を見せ、

 

「いっぱいいっぱい寂しい思いをさせてくれた、仕返しっ! お姉様のばーか!」

「……、」

 

 なにか特別な思惑があるのではと勘繰っていたから、そのあまりに可愛らしい理由に、思わず呆けてしまったけれど。

 月見はすぐに、大きく声を上げて笑った。

 

「ッハハハハハ! わかった、やってやろうじゃないか。――レミリアのばーか!」

「うん! お姉様のばーか!」

 

 ばーか、ばーか! と何度も楽しそうに繰り返し、フランが部屋の奥へとトテトテ走っていく。その小さな背を目で追いながら、月見は眉根に静かな険を刻ませた。

 

 ――そうだ、レミリア。お前は大馬鹿者だ。

 あんなに可愛らしくてあんなに幼気な妹と、すれ違ったまま気づかないでいるなんて。

 だからどうか、私がきっかけを作るから、気づいておくれ。今から見せるこの夢を通して、あの子の気持ちに。そして、自分自身の本当の気持ちに。

 

 部屋の奥、物陰に隠れたフランが、パタパタと手を振って合図をしてきた。月見は頬を緩め、一つ頷く。

 瞳を閉じ、妖力を開放。あふれた力が風を生み出し、ゆっくりと肌を撫でていく。さわ、さわ、くすぐったく髪が揺れるのを感じながら、月見は静かに宣言した。

 

「――夢を見せよう」

 

 浅く両腕を広げ、形作るは一つの術式。

 

「招待状に、一輪の花を」

 

 見るものを夢へと(いざな)う――月見草。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 狐が妖術の真骨頂は、相手を化かすことにある。

 認識をずらす。幻を見せる。夢に落とす。ありとあらゆる手段を以て、華麗巧みに相手を騙す――幻術。妖狐とは、化け狸とともに双璧を成す、妖怪随一の幻術の使い手なのだ。

 

 つまり、フランが死んだのはそういうこと。

 

 月見が妖術で、『フランが殺された』という幻をレミリアたちに見せたのだ。すべては、レミリアが胸の奥に秘めていたフランへの想いを自白させるため。レミリアが幻の世界であのように激昂していた時、本物のフランは、物陰からハラハラと事の推移を見守っていたのだという。

 

 その真相を聞かされた時、レミリアは腰を抜かしてしまった。冗談などではなく、本当に立てなくなった。咲夜にお姫様だっこで運ばれる羽目になり、それをフランと月見に笑われたのは、人生でも有数の汚点となりそうだった。

 

 そして所は変わり、紅魔館の医務室にて。

 

「申し訳なかった、レミリア」「ごめんなさい、お姉様」

「……ぅえ?」

 

 その突拍子もない謝罪に、レミリアは咲夜へ右腕を出した体勢のまま固まった。

 顔を向けた正面。フランと月見が二人揃って、綺麗に斜め四十五度で頭を下げている。それがあまりに出し抜けだったので、レミリアの口から思わず変な声がこぼれていた。

 隣では、同じくして目を丸くした咲夜が、それでも律儀にこちらの腕に包帯を巻いていく。彼女の少しひんやりとした指先が肌に触れて、レミリアは正気に返った。

 

「な、なによ、いきなり」

 

 どもりつつ問えば、月見は顔を上げ、

 

「いや……目的あってのこととはいえ、あんなことをしたわけだしね。すまなかった」

「違うのお姉様、月見は悪くないの!」

 

 フランが、月見を庇うようにして一歩前に出た。

 

「言ったでしょ、私がああいう幻を見せるように月見に頼んだんだって! だから悪いのは私! ごめんなさい!」

 

 確かにそのあたりの話は、地下室からここに戻ってくる間に色々聞かされた。最初は普通にフランが勝負に負けるだけの幻を見せるつもりだったけれど、フラン本人が、いっそのこと殺されちゃうような幻にしたらどうかと月見に提案したのだと。そしてその理由が、今まで散々寂しい思いをさせてくれたレミリアに、ちょっとした仕返しをするためであったのだということも。

 それはわかっている。わかっているが、まさか二人揃って律儀に謝罪してくるとは思っていなかったので、呆気にとられてしまった。レミリアはてっきり、幻から覚めたあとも、フランに寂しい思いをさせてしまったことをネチネチ責められると思っていたから。

 

「いや、待てフラン。確かにそう言ったのはお前だけど、それを了承して実行したのは私だ。だったら私も悪いんじゃないかな」

「でもでも、それは私たちのためを思ってでしょ? 月見、私と友達にもなってくれたのに、なのに謝らないとダメだなんておかしいよ」

 

 いやいや。でもでも。そう言い合う二人は互いに譲ろうとせず、それを見た咲夜がそっと笑みの息をついた。

 

「妹様と月見様、随分と仲良くなったみたいですね」

「……そうね」

 

 その時レミリアは、少しだけしかめっ面をしていた。フランに友達ができたことは確かに嬉しかった。けれどそれがちょっと前までは死んでしまえばいいとすら思っていた男なのだから、決して諸手を挙げて喜べはしなかった。

 

 と、そこまで考えたところで、レミリアはふと気づく。

 ――ちょっと前までは、死んでしまえばいいと思っていた。

 ならレミリアは、“今”は、彼のことをどう思っているのだろう。

 

 真っ昼間から眠りの邪魔をされて、おまけにあんな一生のトラウマになりそうな幻まで見せられたのだから、嫌ったり恨んだりするにはあまりに充分だった。

 しかしレミリアは、心の中にあるこの気持ちを、感謝だと感じていた。

 確かに彼は随分と生意気なことをしてくれたけれど、それ故にレミリアは、フランを正しく理解できるようになったのだから。ただ信じて待つのではなく、自ら語りかけ一緒にいることこそが大切なのだと、気づけたから。

 だからレミリアは、既に月見のことを許している。謝られるなんてとんでもない。むしろこれは、レミリアの方こそが謝らなければならないことではないか。

 

 だが一方で、その感情をなかなか認められない気持ちもあった。一度素直に受け入れてしまうと、なんというか、自ら負けを認めるのと同義のような気がして据わりが悪かった。

 だからレミリアは一つ咳払いをして、そっぽを向きながらこう応じる。

 

「べ、別に私は、そこまで気にしてるわけでもないわよ……」

 

 へそ曲がりな唇がどんどんすぼまっていくのを感じつつ、ぽそぽそと、

 

「だから、二人して謝らなくても、まあ……許してあげる」

「……ふふ」

 

 クスリ、小さく吹き出したのは咲夜だった。見れば彼女はすっかり手当ての続きを放棄し、指の腹を口元に当てて、目を弓にしならせていた。

 

「お嬢様、素直じゃないですね」

「んなっ……」

 

 心の奥を言い当てられて、ドキリとする。

 

「わ、私は別にそんなんじゃ」

「月見様。お嬢様はこう見えて、あなたに感謝してるんですよ。ただ、」

「ちょっと咲夜っ!」

 

 余計なことを言う口を慌てて黙らせるけれど、既に手遅れだった。月見たちの方から嫌な視線を感じる。恐る恐る見てみれば、意外そうに目を丸くした月見の隣で、フランが口端を吊り上げた意地の悪い笑顔を浮かべていた。

 

「へえー……そうだったの、お姉様?」

「うぐっ……」

 

 頬がさっと熱くなる。咄嗟に反論しようとするが、熱っぽくなった今の状態でそうしても自爆するだけだと気づき、すんでのところで思い留まる。

 

「へー、へえぇー」

「く、くうっ……」

 

 レミリアは唇を噛んだ。否定したい。でも墓穴を掘るのは目に見えている。ここは否定する以外で、なにか上手い切り返しを考えなければ。

 頭の中で必死にうんうん呻いたレミリアは、結局、

 

「あ、あー! そういえば月見、あれは一体どういうことなのか説明しなさいよ!」

「露骨に逸らしましたね、お嬢様」

「かふっ……」

 

 咲夜の冷静なツッコミが胸に刺さった。焦るあまり、逸らし方が強引すぎたらしい。

 咄嗟にこんな行動しかとれない自分の情けなさを呪いつつ、レミリアはみんなを睨みつけた。もうなにも言うなと、渾身の眼力を込めて。このままこの居心地の悪い雰囲気が続くなら、レミリアはグングニルを振り回すのも辞さない。

 あいかわらずニヤニヤ笑うフランの横で、月見が苦笑一つ、まあまあと彼女の肩を叩いたのが見えた。……気を遣われたらしい。墓穴を掘るのと大して変わらないその屈辱に、レミリアは胸の風穴が広がっていくのを感じた。

 ダメだ。もうなにもする気が起きない。したくない。部屋に戻って寝たい。咲夜が困った薄笑いを浮かべながら月見に目配せしていたような気がしたが、レミリアには断じて見えなかった。見えなかったったら見えなかったのだ。

 

「なんだい、“あれ”って?」

 

 声の調子をわかりやすく上げて、月見がそう問うてきた。まったくもって、こちらに話を合わせて義理を立てようとしているのが見え見えであった。

 レミリアの中でなにかが吹っ切れる。もういい、笑わば笑え。

 

「……尻尾の数よ。あの時、あなたの尻尾は十一本もあったじゃない」

 

 ともかく、幻の世界で見た、あの巨大な十一尾である。月見の尻尾は今は既に一本に戻っているのだが、もしかしてあれも幻だったのだろうか。

 

「ああ、あれかい? あれはね――」

 

 応じる傍ら、月見は目を閉じて静かに妖力を開放した。するとほんの一瞬、彼の一尾が陽炎のように漠と揺らめいて、

 

「――あんなにあるとさすがに邪魔になるからね。普段は、妖術で隠しているんだ」

 

 そして次の瞬間には、十一尾にまで増えている。

 咲夜が大きく息を呑んだ音が聞こえた。レミリアもまた、眦を痛くなるほどにまで見開いて言葉を失っていた。幻なんかじゃない。十一尾の狐。未だかつて聞いたこともないその事実に、絶句以外の反応を返すことができなかった。

 ただ一人、フランだけは、

 

「わあ! これって、幻じゃなかったの?」

「ああ。正真正銘、私の尻尾だよ」

「もふーってしていい?」

「どうぞ」

「わーい!」

 

 目をキラキラ輝かせながら、彼のあふれんばかりの尻尾たちに飛び込んでいったのだが。

 まったく子どもだ、とレミリアは思う。大方、尻尾ばかりに目が行って、十一尾の妖狐というのがどれほど常識外れな存在なのかわからないのだろう。

 

「いいなあ……」

「え? 咲夜、なにか言ったかしら?」

「っ……いえ、なんでも」

 

 どさくさに紛れて咲夜がなにか言っていた気がしたが、気のせいだったらしい。

 

 ともあれ、十一尾である。割と周知のことではあるが、妖狐は年齢や妖力に応じて九つまで尾の数を増やし、それ以上の力を得ると逆に減らしていくと言い伝えられている。

 つまりこの月見という妖狐は、その言い伝えを根底から覆す存在ということになるのだが。

 

「なんで十一なのよ。おかしくない?」

「狐の尻尾が九本までなんてのは、人間たちが勝手に言い伝えてることだろう? 真実は違うということだよ」

「や、それはそうかもしれないけど……」

「とはいえ、私以外に九本より多くなったという狐も知らないねえ。藍も増えないみたいだし、もしかすると私が変なのか」

「……」

 

 もしも――もしも尻尾の本数が、単純にその者の強さを表すのだとしたら。もしかすると月見は、妖獣の頂点に立つ金毛九尾すら凌ぐ大妖怪なのかもしれない。

 それならば、フランと戦って生き延びたことも、レミリアが一撃で叩き伏せられたことも、納得できない話ではなくなってくる。……後者は、非常に気に喰わないけれど。

 

 それにしても、なんとも壮観であった。純粋に数が多いからなのか、それともくすみのない銀故か、金毛九尾とはまた違った美しさと神々しさを感じる。床に広げられたその姿は、さながら銀色の海を臨むかのよう。一本一本がレミリアを包み込むくらいにふさふさで、抱き枕にでもしたらさぞかし気持ちいいのではないか――

 

(――いやいや、それは違うでしょう)

 

 いや、決して気持ちよくないだろうということではなく、あくまで今は関係ないということで――

 

「あっははは、見て見てお姉様! すっごくもふもふだよー!」

 

 見ればフランが、銀色の海から脚だけを出してはしゃいでいた。上半身は完全に尻尾の中に埋もれてしまっている。フランが脚をばたつかせるたびに、海面がもっふもっふと波打った。

 とても、気持ちよさそうである。

 

「……」

 

 その波打つ銀の尻尾に数秒魅入ってから、レミリアは慌てて首を横に振った。込み上げてきた欲望を必死に頭の中から追い払う。レミリアは紅魔館の主人なのだ。主人として、今のフランのようにだらしない醜態を晒すわけにはいかない。

 と、理屈ではわかっているのだけれど。

 

「もふー、もふ~……うーん、気持ちいい~……」

「…………」

 

 尻尾と尻尾の間から顔を出したフランが、今にもとろけてしまいそうになっていたものだから。

 ちょっとくらい触ってみたいなあ、とか、本気で思ってしまって。

 

「……レミリアも来るかい?」

「――ハッ!?」

 

 気がついた時には、月見が苦笑しながら、そしてフランがまたあの意地の悪い笑顔を浮かべながら、揃ってこちらを見つめていた。

 正気に返ったレミリアは、我を忘れて両手を左右に振り回す。

 

「や、やっ、結構よ! ただその、暑苦しそうだなとか思ってただけだし!」

「そうか?」

 

 最悪だ、とレミリアは頭を抱えた。ついさっき胸に風穴が空いたばかりなのに、その傷が癒えないうちからこれだ。もう、頬から湯気が上がりそうだった。

 月見たちからふいと視線を逸らす。するとほどなくして、目の前に月見の尻尾が一本降りてきた。月見の位置からレミリアまでは二、三メートルほど距離があるのに、どうやらこの尻尾は伸縮自在らしい。ふりふり、こちらを誘うように左右に揺れている。

 ――……本当に気持ちよさそう。十一本もあるんだし、一本くらいもらえないかなあ。

 そんなことを考えながら、揺れる尻尾を右へ左へ追っていると、

 

「……お姉様、興味津々じゃん」

「猫じゃらしをもらった子猫みたいだね」

「は、謀ったわねえええええ!?」

 

 月見とフランの、それこそ子猫を見るような生暖かい視線が、どうしようもなく痛かった。

 そして遂に、胸の風穴が広がりすぎて、レミリアの精神が限界を迎えた。

 

「ふ、ふふふ……いいじゃない。そこまでこの私を挑発するんなら、あ、あなたのその尻尾、徹底的にいびり倒してあげるわ……!」

「いや、挑発した覚えはないんだが」

「素直じゃないお姉様が悪いんだよー」

「うるさあああああい! これでも喰らいなさあああああい!!」

 

 とかく色々と失態を晒しすぎて、恥ずかしすぎて、紅魔館の主人としてのプライドがボロボロになってしまって、この時のレミリアは自分でもよくわからない状態になってしまっていたのだ。

 謎の咆吼とともに月見の尻尾へ飛び込んだレミリアは、あっという間に体中を銀の毛に包まれ、

 

(うわっ、これ凄く気持ちいい……!)

 

 もふもふっ、と。そのえも言えぬ絶妙な触り心地に、一瞬で陥落してしまった。いびり倒すという当初の目的を即行で忘れ、酔ったように月見の尻尾を抱き締める。

 

(ああ、まずい。これは本当にまずいわ。あんまり気持ちよすぎて、なんか、眠く……)

 

 ……一応、弁解をしておけば。

 月見がこの紅魔館を訪れたのは昼日中であり、夜行性であるレミリアは睡眠の真っ最中であり、そこを咲夜に起こされたのだ。更にはあの幻の世界でグングニルを全力で振り回し、力の限り叫んで、怪我もして、疲れが溜まっていたので――。

 

 とどの詰まり。

 

 レミリアは、寝た。

 それはもう、この上ないほど、ぐっすりと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――レミリア、レミリアー? って、寝てるし……」

「アハハ、凄く幸せそうな顔してる。よっぽど疲れてたんだねー」

 

 動かなくなったレミリアを不審に思って覗き込んでみれば、尻尾の一本に抱きついたまま眠りこけている。洩矢諏訪子を彷彿とさせるその姿に、月見の頬に緩い微苦笑が浮かんだ。

 

「も、申し訳ありません、月見様……」

「いや、いいさ。そっとしておいてあげよう」

 

 困った様子で視線を彷徨わせる咲夜をやんわりと制する。

 まさに見た目相応、と言わざるを得ないだろうか。すやすやくうくう、頬をふにゃふにゃにして眠る今のレミリアには、もはや吸血鬼としてのプライドなど露もなく、どこからどう見てもただの子どもであった。

 けれどそれは、月見がフランに感じているのと同じ――見る者を暖かい気持ちにさせる、微笑ましい幼さ。

 

「お姉様かーわいー。ていうか、こういう顔して寝るんだねー。うりうり」

 

 フランがレミリアの頬を突っつくけれど、レミリアはぴくりとも動かない。相当深いところまで落ちていってしまったようだ。半開きになったその小さな口から、いつよだれが垂れてくるとも知れない。

 まあ、そのあたりは諏訪子が今までに再三やらかしてくれたので、殊更気にしたりはしないが。

 それよりも気になることが、別にあった。十六夜咲夜。どことなく羨ましそうな色を目の奥に覗かせながら、尻尾の中にいるフランとレミリアをじいっと見つめている。

 意外と咲夜も、こういうのに目がなかったりするのだろうか。そう思った月見は、尻尾の一本を前に掲げながら、

 

「咲夜、お前も触ってみるか?」

「ぇうっ、」

 

 咲夜が変な声を出した。

 

「……咲夜?」

「は、はいっ!」

 

 びくーん、と咲夜の肩が派手に飛び上がる。一歩後退って俯くと、その両頬がじわじわと赤くなっていく。

 そのいかにもな反応に、まずフランが首を傾げて言った。

 

「咲夜って、こういうのが好きなの?」

「え、ええと、ですね」

「……なに、十一本もあるんだ。別に気を遣わなくても大丈夫だぞ?」

「そうだよ咲夜ー、もふもふだよー?」

 

 フランが尻尾を一本抱き締めて右へ左へとふりふり振ると、咲夜は理性と本能の狭間で揺らめく懸命の面持ちで、なにかをこらえるようにふるふる震えていた。

 ほんの数秒だ。それきりは落ち着いたのか、普段通りの表情に戻った咲夜は、その場でコホンと咳払い。澄まし顔で、

 

「月見様。お嬢様は夜行性ですから、しばらくは起きないと思います」

「露骨に逸らしたね、咲夜」

 

 フランのツッコミに、ピクン、咲夜の片眉が跳ねた。けれどギリギリのところで表情は崩さず、何事もなかったかのように続ける。

 

「少なくとも、夜までは起きないかと。ですからこのままというわけにも……」

 

 暗に、触れるなということなのだろう。その必死の澄まし顔からは、ある種、レミリアに睨まれた時以上の圧力がひしひしと感じられた。

 よほど追及されたくないらしい。なので月見も、何事もなかったかのように神妙に応じた。

 

「まあ、付き合うさ。こんなに幸せそうに眠ってるんだから、起こしてしまうのもなんだ」

「ですけど……」

「強いて言うなら、なにか暇を潰せるもの……そうだね、本かなにかがあるといいけど」

 

 咲夜は少し思案し、

 

「それでしたら、この紅魔館には大図書館があります」

「おや、そんなものまであるのか」

「ご希望のものがあればお持ちしますよ」

 

 言われ、月見は尻尾にひっついて眠るレミリアを見遣った。フランに頬を突っつかれても身動き一つしなかったし、少しくらいなら大丈夫だろうか。

 

「いや、是非私も見てみたいし、案内してくれないか?」

「……ですけど、そうするとお嬢様は」

「それなら、……フラン、悪いけど少しよけていてくれないか?」

「ん? どーかしたの?」

 

 フランが疑問顔で尻尾から離れる。それを確認した月見は、レミリアが抱き締めている以外の十の尾をまとめ、彼女を下から静かに抱き上げた。

 言うなれば、尻尾で作り上げた銀の揺り籠。案の定、深く眠ったレミリアが起きてしまうこともなく、これならば彼女に尻尾に抱きつかれた状態でもある程度自由に行動ができる。大図書館に移動するくらいならなんの問題もないだろう。

 その銀の揺り籠を、咲夜は感心したように、そしてやはりちょっとだけ羨ましそうに、見つめていた。

 

「……器用ですね、月見様」

「この尻尾は、私にとって手足と同じだよ。このくらいは簡単さ」

「わあ、いいなあお姉様……。ねえ月見、私も乗っちゃダメ?」

「まさか。……乗ってもいいけど、レミリアを起こさないようにね」

「うん!」

 

 一方のフランは素直なもので、月見の返事を聞くや否や七色の宝石を羽ばたかせ、そっとレミリアの隣に腰を収めた。

 

「大丈夫? 重くない?」

「いいや、乗っているのがわからないくらいだよ」

 

 だから、よかったら咲夜も乗ってみていいんだよ――という言葉は、胸の中に留めつつ。

 

「じゃあ、案内してもらえるかな?」

「わかりました。こちらです」

「しゅっぱつしんこー」

 

 歩き出した咲夜に続く傍ら、月見はもう一度だけ、揺り籠の上のレミリアを見遣った。すると、一体いつからだったのだろうか――彼女が、フランのスカートの裾をきゅっと握り締めているのに気づいた。

 

「……フラン」

「ん? なに?」

 

 もふもふ、尻尾の感触を楽しみながら首を傾げたフランは、果たして気づいているのだろうか。月見は、彼女の裾を握るレミリアの手を指差そうとして――やめた。

 微笑む。

 

「……よかったな、フラン」

「……? なに? なにがー?」

「なんでもないよ」

 

 それっきり前を向いて、咲夜の背中を追い掛けた。

 ふにゃふにゃに緩んだ寝顔を晒すレミリアは、一体、どんなに幸せな夢を見ているのだろうかと――そう、思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――どうして? どうしてお姉様は、フランを守ってくれるの?

 ……どうしてって、そんなの決まってるでしょう?

 

 だって、私は。

 

 この世界でたった一人の、あなたの――お姉さんなんだもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第11話 「レコンサリエーション ③」

 

 

 

 

 

「――月見様は、いじわるですよね」

 

 大図書館へと向かう廊下の途中であった。十六夜咲夜。月見を先導しながら、振り返ることもせず、独りごちるようにそう言った。

 

「お人好しで能天気な狐さん、だと思ってましたけど……見直しました。お人好しで能天気でいじわるな狐さんですね」

「……」

 

 それがあまりに出し抜けだったので、虚を突かれた月見は一瞬足を止めてしまった。けれどすぐにまた歩き出し、咲夜の背に向けてそっと苦笑した。

 

「……それ、見直したって言うのかな」

 

 皮肉を言われていることはわかっていた。しかし果たして、十六夜咲夜という少女は来客相手に皮肉を言うほど我が強い子だったろうか。それだけ彼女の中で月見の評価が下がったのか、それとも、逆か。

 月見の背後、十一尾をまとめて作り上げたゆりかごの上で、フランが「えー」と不満の声を上げた。

 

「咲夜、月見はいじわるなんかじゃないよ」

「ですが妹様、私にとってはそうとも限らないのです」

 

 咲夜は首だけで振り返って、莞爾(かんじ)と笑う。

 

「あんな幻を見せられた身としては、いじわるだと思わない方が難しいですわ」

「だから、あれは私が悪いんだって言ってるのにー」

 

 ぶーぶーとふくれ面になるフランに、クスリと笑みを深め、足を止めた。今度は体ごとで月見に振り返って、尻尾の上のスカーレット姉妹を、眩しそうに目を細めて見つめた。

 

「でも、月見様がいじわるでよかったと思います。そのお陰で今、お嬢様と妹様がそうやって一緒にいられるのでしょうから」

「……」

 

 十一尾の上にある二人分の重みを感じながら、月見は静かに肩を竦めた。

 

「……咲夜。褒められてるのか貶されてるのかわからないよ」

「褒めてるんですよ」

 

 思いがけず即答が返ってきた。いつの間にか、咲夜の瞳が月見を捉えている。「貶されてる」と言われたことを非難するように、強く、まっすぐに。

 

「褒めてるに決まってるじゃないですか。無事に戻ってきてくれて、妹様を助けてくれて、お嬢様と妹様を仲直りさせてくれて、これ以上なんてないです」

 

 笑み、一礼する。

 

「ありがとうございました、いじわるな狐さん」

「えー」

 

 フランがまた唇を尖らせ、ぺしぺし、月見の尻尾を抗議の思いで叩いていた。

 

「咲夜。私、そういうのはもっと素直に言った方がいいと思う」

「いいんです。私はこれで」

 

 気取ったような表情だった。だがそんな顔をされてしまうと、無性に崩してやりたくなるのが狐の性。

 なので、月見はそうした。

 

「尻尾、触りたい時はいつでも言ってくれて構わないからね」

「っ……そ、その話はもういいんですっ」

 

 咲夜は肩を震わせ、頬をじわじわと赤くしながら、ちょっとだけ声を荒らげた。先ほどまでの澄まし顔は既に見る影もなく。もういいと言いつつも、現在進行形でこちらの尻尾をチラチラ盗み見ているのを、月見は決して見逃したりしない。

 くっくと喉を鳴らせば、咲夜は拗ねたように口をへの字にした。

 

「もうっ……行きますよっ」

 

 そっぽを向いて、月見たちを置いてどんどん先に進んでいく。そして突き当たりを曲がってその姿が見えなくなり、しかしすぐに戻ってきた。

 不機嫌そうに眉を曲げ、ぴしゃり、言う。

 

「早くしなさいっ」

「はいはい。今行くよ」

 

 月見は苦笑し、のんべんだらりと咲夜を追い掛けた。今まで彼女が月見に向けていた、客を相手にする際の一歩距離を置いた物腰が、少しずつなくなってきているのを感じた。

 尻尾の上で飛び跳ねたフランが、えーい! とこちらの背中に抱きついてきた。それがあまりに出し抜けだったので、目を丸くしてしまったけれど。

 

「月見、咲夜とも仲良くしてあげてねっ」

 

 そう言うフランの声が、とてもとても嬉しそうだったから。

 月見は笑って、まとめた尻尾の一本を解き、それで彼女の頭を優しく叩いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 紅魔館に客が来ていることは、知らない妖力を持つ者がフランの地下室に入っていくのを探知魔法で知った時から、既に察していた。加えてその者がどうやら相当な粗相をやらかしたらしいことも、一時間ほど前に紅魔館全体を震わせたグングニルの衝撃から把握済みであった。

 そしてその上で、パチュリー・ノーレッジはすべてを無視していた。生来荒事は得意でないし、なにより今打ち込んでいる研究がちょうど煮詰まってきていたところだったので、グングニルの衝撃で崩れた本たちに小悪魔が悲鳴を上げるのも構わず、“動かない大図書館”の二つ名を貫き続けていた。

 

 予想外だったのは、その客とやらが大図書館を訪ねてきたことだったろうか。珍しく、パチュリーの部屋のドアを咲夜が叩いたのだ。お客様に大図書館の本を見せてあげてほしい、と。

 スカーレット姉妹との連戦を終えてとっくに死んだものだと思っていたのに、なんで。パチュリーは驚き呆れて、手に持っていた魔法薬を瓶ごと一本ダメにしてしまった。

 

「なんなのよ、一体」

 

 どうしてスカーレット姉妹と戦って生き長らえているのかもわからないし、どうしてそんな客をわざわざ咲夜が大図書館まで連れてくるのかもわからない。パチュリーは研究を一時中断、頭を抱えて自室を飛び出し、大図書館の入口へと向かった。

 しかして現在。

 

「……なんか色々とツッコみたいことがあるんだけど、いいかしら」

 

 パチュリー・ノーレッジは、三つの予想外な現実に直面し、どうしたらいいかわからずその場で棒立ちになっていた。

 一つ。咲夜が案内してきた客というのが、十一尾の銀狐などというなんだかよくわからない男であったこと。

 二つ。その男が尻尾をまとめて作り上げたゆりかごのようなものの上で、なぜかレミリアが幸せそうな寝息を立てていること。

 そして、三つ。

 

「パチュリー、久し振りー」

「……フラン」

 

 同じくしてそのゆりかごに乗っかったフランから、狂気の気配が限りなく感じられなくなっていること。

 

(……なによ、これ)

 

 思う。色々おかしい、と。十一尾の狐ってなんなのよとか、フランの狂気がここまで薄くなってるなんてどういうことなのとか、ってかレミィはなんでそんなとこで眠りこけてんのよこのバカレミィとか、色んな感情がいっぺんに押し寄せてきて、思わず難しい顔をして黙り込んでしまう。

 

「パチュリー、どうかした?」

「……ん」

 

 ふとフランの声で我に返って、いけない、と首を振った。魔法使いの、なかんずく研究者としての側面が強いからか、気になることがあると所構わず考え込んでしまうのは悪い癖だ。

 常識的に見て、来客に挨拶もせずにするようなことではない。パチュリーは眉間に寄っていた皺を解いて、銀の狐を見遣った。

 

「ごめんなさい。……私はパチュリー・ノーレッジ。魔法使い兼、この図書館の管理人よ」

「はじめまして。私は月見。しがない一匹の狐だよ」

 

 ――しがない、ね。

 嘘つけ、とパチュリーは腹中低く笑う。十一もの尾を持っている狐が、ただの狐なわけがない。あの八雲藍と同格か、或いはそれ以上か。

 しかし、どうやら人当たりは悪くなさそうだ。物腰は柔らかく、温厚の色が濃いように見える。なにより尻尾の上にスカーレット姉妹が乗っていることから、悪い妖怪でないのは明白であった。

 ……だったらなんで、レミリアがグングニルをぶっ放すような事態になったのだろうか。妖力の気配からして、レミリアたちと戦っていた妖怪が彼であるのは、間違いないはずなのだが。

 四つ目の疑問ができたわね、とパチュリーは嘆息。とりあえず一つずつ消化していこうと思い、男の尻尾を一瞥して言った。

 

「十一尾なんて、珍しいわね」

「ん……そうだね」

「普通、狐で十一尾なんてありえないと思うんだけど。どうしてそんな風になったのかしら?」

 

 男――月見は小首を傾げ、曖昧に笑った。

 

「さあ、そのあたりは私にもさっぱり……」

 

 まあそんなものか、とパチュリーは内心吐息した。自分のことなのになんでわからないのよ、とは思わない。自分の体とは、言ってみれば一つのブラックボックスと同じだ。もし自分の体のことがすべてくまなくわかるなら、世の中医者という職業は生まれていない。きっと、八雲藍に「どうして九尾になったのか」と訊いても、似たような答えが返ってくるだろう。

 

「ただ、昔、派手に戦って死にかけたことがあってね」

「……臨死体験をして、新しい力に目覚めたってこと? 夢想的だわ」

 

 腕を組みつつの月見の言葉は、鼻であしらった。もっとも、魔導書の他に外の世界のマンガを読んでいたりする身としては、嫌いな考え方でもなかったのだが。

 パチュリーは次いで、月見の尻尾の上へと目をやった。

 

「……それで? どうしてその十一尾の上で、我らが紅魔館の主様はだらしなく眠りこけてるのかしら」

 

 こんな皮肉を言ったところで、当のレミリア本人が夢路を辿ってしまっているから意味はないのだけれど、それでも。

 館の主人である彼女がみっともない姿を晒せば、紅魔館の世間体に傷がつく。主人の悪評は、組織全体の凋落(ちょうらく)へと直結しかねないのだ。別に四六時中なんて言わないから、せめて来客中くらいは気を引き締めてくれないだろうか。

 これには、さすがの咲夜も弱り切った苦笑を浮かべていた。

 もう、とパチュリーは大きく嘆息。

 

「みっともない当主で申し訳ないわ」

「いやいや。まだ小さいんだし、こういう可愛らしいところがあってもいいと思うよ」

 

 けれど対する月見は、ただ愉快げに相好(そうごう)を崩しただけだった。おおらかで、些細なことは――これが些細かどうかは甚だ疑問だが――気にしない性格なのだろう。

 

「色々、無理をさせてしまったからね。これくらいは」

「グングニルをぶっ放してたわね。あなた、一体なにをしたっていうのよ?」

「この子とフランを仲直りさせるために、ちょっとね」

「……そう」

 

 フランを見遣ると、すぐに、思わず目を細めてしまうくらいに眩しい笑顔を返された。こんなに綺麗な彼女の笑顔を見るのは、もしかしたら初めてなのかもしれなくて、パチュリーは小さく息を呑んだ。この子はこんなに素敵な顔で笑えたのかと、ハッとさせられる。

 

「狂気は、もう大丈夫なの?」

「うーん、どうなんだろう……ちょっとよくわかんない」

 

 自信なさげに苦笑したフランは、「でも!」と力強くつなげ、

 

「今はとっても綺麗な気持ちなの。……だからきっと大丈夫。もう私、狂気なんかには負けないから!」

「……」

 

 パチュリーは、返す言葉を見失っていた。

 どうしてフランは、ここまで変わったのだろう。月見の言葉が頭に反芻される。仲直り。……まさか、たったそれだけで? 姉と仲直りができたから、狂気を()ね退けるほどに心が強くなったとでも言うのか?

 ……非論理的だ。フランの狂気を抑える方法がないかと論理的に研究していた自分を嘲笑うかのような。あんなにフランを苦しめていた悪魔を、たった一つ、心という形のない武器だけで打ち破ってしまうなんて。

 

「……あなた、本当になにをしたっていうの?」

「言ったろう? 本当に、“ちょっと”のことをしただけだよ」

 

 問うても、月見は飄々と肩を竦めただけで、

 

「きっかけを作っただけさ。結果としてフランが狂気に打ち勝ったのは、結局、この子たちが強かったからだ」

 

 彼がフランの頭に手を置くと、彼女は気持ちよさそうに目を細め、むふーと得意顔になった。……この子“たち”と言ったから、恐らくはレミリアや咲夜も入っているのだろうか。

 わからない。フランを蝕む狂気は、もはや感情論でどうにかできるレベルではなかったはずなのに。一体どんなきっかけを作れば、それに打ち勝つほどにまで心を奮い立たせることができるのだろうか。

 でも、――でもやっぱり、嫌いな考え方ではなかった。非論理的で夢想的だけど、心の力だけで逆境を撥ね除けるなんてお伽噺が、本当に起こりうるなんて――素敵じゃないか。

 今まで長年を費やしてきたフランの狂気を抑え込むための研究は、完全に徒労になってしまいそうだったけれど。

 

「……よかったわね、フラン」

 

 本当によかったと、パチュリーの頬がかすかに綻ぶ。いつかフランが狂気を制御できるようになった日には、ちょっとずつでも、外の世界を見せていってやりたい――そう願っていたレミリアの夢も、もはや夢ではなくなっているのかもしれない。

 レミリアとフランが、仲良く星空散歩に飛び立っていく背中。思い描くだけで、焦がれるように胸が熱くなった。

 

「本当によかったわ」

「うん、ありがと。……ねえ、パチュリー」

「なに?」

 

 はにかむフランに、問い返す。彼女はなにか緊張しているのか、あやふやに目線を迷わせていた。

 それから俯いて、上目遣いで、体を縮こませて。

 そして最後に、蚊が鳴くくらいに引っ込み思案な声で、

 

「……これからも、よろしく……ね?」

 

 ――一体なにを言われるやらと思えば。

 どうしてフランが改めてそんなことを言ったのか、パチュリーにはよくわからなかった。だって、パチュリーの答えなんて、問われる前から明らかなのだから。

 

「ええ。よろしくね、フラン」

「っ……うん、うん! よろしくね、パチュリー!」

「……!」

 

 一瞬……ほんの一瞬だけ、この地下の図書館に、太陽の光が差したような気がした。

 この時フランが浮かべた満点の笑顔を、パチュリーはしばらく忘れられそうにない。明るい物を長時間見つめているとその輪郭が網膜に焼きついてしまうように、きっと目を瞑っても鮮明に思い出すことができる。そんな太陽みたいに笑ったら隣のレミィが気化しちゃうじゃないと、本気で思ってしまうくらいだったのだ。

 ずっとこの地下室にこもって研究ばかりしているパチュリーには、ちょっとだけ、眩しすぎて。

 まぶたを下ろして、胸の中に生まれたこのぬくもりを、逃さぬようにと両手で包み込んだ。

 

「……どうしたの、パチュリー?」

「いいえ、なんでもないのよ」

 

 顔を上げて、微笑み返す。それは、今見た太陽の明るさに比べれば、遠く及ばないけれど。

 こんなに綺麗な気持ちで笑ったのは初めてかもしれないな、とパチュリーは思った。

 

「……それで? あなたは、本を読みにここに来たということでいいのかしら」

 

 銀の狐へ、そう問い掛ける。月見。ほんの二時間ほどで紅魔館を劇的に変えてしまった、変な妖怪。一体何者なのか不審に思うところはあったが、特にフランがうんと懐いているみたいだし、本を読むくらいは好きにさせてやろうと思った。実際に話をしても悪い印象は受けなかったから、どこぞの魔法使いのように本を盗んでいったりもしないだろう。

 月見は頷き、尻尾の上で眠りこけるレミリアを一瞥した。

 

「レミリアが起きるまで、ね。何冊か貸してもらって大丈夫かな?」

「ちゃんと返してくれれば、自由に読んでもらって構わないわ」

 

 ちょうどあの白黒魔法使いの姿が脳裏を掠めていたからだろうか、ちゃんと返してくれれば、の部分を無意識のうちに強調してしまう。……ああ、そういえば二、三日前にもまた何冊か持っていかれたっけ。思い出したら頭痛がしてきた。

 

「……なにやら、大層困ってるみたいだね」

 

 どうやら顔に出ていたらしく、月見がその瞳を同情の色で(すが)めていた。パチュリーは、眉間に寄った皺をゆっくりと揉み解しつつ、

 

「私と同じ魔法使いなんだけど、来るたびに魔導書を持って行ってくれるのよ。……もし見かけたら、あなたからも言っておいてくれないかしら。不法侵入に窃盗、外の世界だったら補導では済まされないもの」

「覚えておくよ。どんな相手だ?」

「会えば一発でわかるわ。ああきっとこいつだなって、雰囲気でわかってもらえるはずよ」

 

 レミリアとフランを仲直りさせてくれたあたり、彼が心優しいというか、世話好きな妖怪であることは容易に想像できるから、こう言っておけば、あの魔法使いがやって来た時に抑止力になってくれるのではないか、とパチュリーは期待した。

 なんだか彼の良心を利用するみたいで申し訳なかったが、それだけあの魔法使いには頭を悩まされていて、猫の手も借りたい気分なのだ。小悪魔や妖精メイドは力が弱くて太刀打ちできないし、咲夜は家事で忙しいから余計な手間は掛けさせたくないし、パチュリー自身も体が弱くて率先しては動けない。必然、第三者の手を借りざるを得なくなる。

 そもそもあの門番が真面目に仕事を全うしてくれれば、こんなことでいちいち悩む必要もなくなるのだけれど……。

 

「ごめんなさい。上手くやってくれたら、ちゃんとお礼はするわ」

「や、そこまでしてもらわなくても。困った時はお互い様だよ」

「……娑婆気ないわねえ」

 

 妖怪のくせに謙遜するとは、生意気な狐だ。

 

「本を読ませてもらえるだけで、充分ありがたいからね」

「……そう」

 

 その謙虚さを半分くらいあいつに分けてやってくれないかしら、とパチュリーは割と本気で思った。

 

「……じゃあ、図書館は広いから案内をつけてあげるわね。咲夜、こぁを呼んできてちょうだい。多分そのへんで本の整理をしてると思うから」

「はい、すぐに」

 

 傍に控えていた咲夜がさっと一礼、次の瞬間には忽然と姿を消している。時間を止めての瞬間移動。きっともう、小悪魔を見つけ出して事情を説明しているだろう。

 咲夜が小悪魔を連れて戻ってくるまでの間、パチュリーは間を持たすために月見へ話題を振った。

 

「あなたは、どんな本を読むのかしら」

「ん? ああ、本は乱読派なんだ。学術書でも小説でも、面白そうなものはなんでも読むよ」

「フランは絵本が好きー!」

 

 フランが勢いよく手を挙げて言った。

 

「難しい本は嫌いー。眠くなっちゃうもの」

「フランは本で勉強するのは嫌いか?」

「お勉強嫌いー」

 

 そして月見の尻尾の上でごろんと寝転がり、両足をバタバタさせる。

 

「パチュリーはいっつも難しい本ばっか読んでてねー、私はすぐ眠くなっちゃうの」

「ふふ。確かに難しい本を読んでると、不思議と眠くなってしまうね」

「本当っ?」

 

 月見が頬を緩めて相槌を打つと、フランはパッと飛び起きて彼の背中に飛びついた。えへへ、とだらしなく笑って、

 

「月見も眠くなるの?」

「もちろん。寝つけない日はわざと難しい本を持ってきてね。布団に入りながら読んでると、いつの間にか眠っていたり」

「あっ、それ私もやったことあるよ! 一緒だねー」

 

 月見とお揃いなのが、よっぽど嬉しかったのだろうか。フランは彼の背中に引っついたまま、鼻歌交じりに、右へ左へ体を揺らしてリズムを取っていた。本当によく懐いている。てんで種族の異なる妖怪同士とはいえ、ここまで仲がいいとまるで親子みたいに見えてくるから不思議なものだ。

 

(……親子、か)

 

 或いはフランも、そう感じているのかもしれない。彼女はその狂気のせいで、親の愛をあまり受けることができなかったみたいだから。唯一の家族だったレミリアとも、今までずっとすれ違い続けていて、甘えるなんてとてもできなかったから。

 パチュリーはよくわからないけれど、この月見という男は、フランのためにとても大きなことをしたのだろう。

 だからフランは、そんな彼に、甘えたいのかもしれない。

 パチュリーは、心の中でそっと笑った。そしてレミリアを見て、思う。……ねえ、レミィ。そんなにのんびりしてると、彼にフランを取られちゃうかもしれないわよ?

 

「ねえねえ、月見ー。私、月見に読み聞かせしてほしいなあ」

「というと、童話かな? ……そういう本は置いてあるのか?」

 

 向けられた問いに、パチュリーは「もちろん」と頷いた。

 

「ええと……そこの本棚から入って、確か七十八番目の棚の……上から四十三段目だったかしら? いけないわね、近頃ずっと研究ばかりしてたから忘れてるみたい」

 

 ふとしたように、月見が頭上を見上げた。広がるのは、十メートル以上にもなる背の高い本棚の密林。脚立も階段も用意されておらず、利用者が空を飛べることを前提にした作りは、

 

「まるで押し潰されそうになるね……。一体、どれほどの本たちが収められてるのか」

「それは私にもわからないわ。この図書館には、まだ整理されていない本たちもたくさんあるから」

「ふうん……どうしてこれほどまでの本を?」

「さあ……。ここの昔の住人に、熱心な蒐集家でもいたのかもしれないわね」

 

 咲夜が小悪魔を連れて戻ってきたのは、ちょうどその時だった。

 

「お待たせしました」

「お、お待たせひ、ひ、しましたっ……!」

 

 よほど急いできたのか、小悪魔の息がすっかり上がってしまっている。一方の咲夜は涼しい表情。恐らく、適度に時間を止めて休憩していたのだろう。

 ひーひーと肩で息をする小悪魔に、月見が心配そうに眉を寄せた。

 

「大丈夫か?」

「ひっ、ひっ……す、すみません、お待たせしてしまって……」

「いや……そんなに急いでもらって、こっちこそ申し訳ないというか」

「お、お客様を、お待たせ、するわけにもっ……ひー……」

 

 月見がすっかり面食らった様子でこちらを見てきた。パチュリーはただ小さく肩を竦め返す。まさか咲夜がこんなに急いで小悪魔を連れてくるなんて、パチュリーにだって予想外だったのだ。

 

「……咲夜、これは水かなにかを」

「もう持ってきてますわ」

 

 月見が言った瞬間、咲夜の手の中に水を入れたコップが現れる。

 

「はい」

「あ、ありがとうございます……」

 

 コップを受け取った小悪魔は、それを一気に口へ傾け、ゴクゴク惜しみなく喉を鳴らした。

 咲夜が落胆した様子でため息を落とす。

 

「まったく、鍛え方が足りないわよ」

「さ、咲夜さんはどうせ時間を止めて休んでたんでしょうっ? それなのにあんなに急かすなんてひどいですよお……」

「……咲夜、あなた一体なにをしたのよ」

 

 すぐに連れてこいと頼んだ覚えは、ないのだけれど。いや、ゆっくり連れてきてと言った覚えもまたないのだが、そうだとしても普通、ここまで急いだりなんてするだろうか。

 問えば、俄然と勢いづいたのは小悪魔の方だった。

 

「聞いてくださいよパチュリー様、ひどいんですよ咲夜さんったら! ちょっとでもスピード緩めたらすぐナイフが飛んできて、私、もうここで死ぬかとっ」

 

 涙声の訴えに、ああ、とパチュリーはなんとなく納得。手を緩めるとナイフが飛んでくる。そんな愚痴を、以前にも美鈴から聞かされたことがあったような気がする。

 十六夜咲夜という少女は、自身が『完全で瀟洒な従者』なんてものを目指しているからか、同じ紅魔館の従者たちへは案外スパルタなのだ。

 

「そんなに急がなくてもよかったのに」

「そうはいきませんわ。月見様は本当に、この紅魔館のためによくしてくださいましたから」

「真面目ねえ」

「あの、パチュリー様。言葉よりも先にナイフを投げる人って、真面目っていっていいんでしょうか」

 

 パチュリーは聞かなかったふりをした。

 

「じゃあこぁ、あとはよろしくね。童話の棚まで案内してあげて」

「うう……わかりましたぁ……」

 

 しょぼくれた小悪魔は、「本棚は倒れるし、ナイフは投げられるし、今日は厄日です……」と愚痴をもらしながら、改めて月見と顔を合わせる。

 

「小悪魔です……。この図書館の、司書みたいなものをしてます」

 

 すっかり元気のないその挨拶に、月見は持て余すように苦笑して応じた。

 

「月見だよ。よろしく」

「それじゃあご案内しますね。童話の他に読みたい本があったら、私に訊いてください。この図書館はとっても広いですから、適当に探して見つけられるなんてことはありませんので」

「そうだね、そうさせてもらうよ」

「……じゃ、それで決まりね」

 

 一瞬、このまま月見たちのあとについていっても面白そうだと思ったけれど、「早く行こー!」と月見の背を叩くフランの姿を見て、やめた。

 せっかくフランが狂気を克服して、あんなにも嬉しそうなのだ。月見との時間は、しばし彼女にあげよう。

 今取り組んでいる研究も、ちょうど完成に近づいてきているのだし。

 

「私は魔術の研究に戻るわ。もし魔導書を読みたい時は、私に一言通してくれさえすれば自由にしてくれて構わないから」

 

 パチュリーの切り出しに、咲夜も続く。

 

「私も仕事に戻ります。本以外のことでなにかありましたらお呼びください。時間を止めて、すぐに駆けつけますから」

「ああ、ありがとう」

 

 そこまでしてくれなくても大丈夫なのに――月見の苦笑は言外にそう語っていた。

 けど、きっと、咲夜も嬉しいのだろう。彼はフランを狂気から救い出してくれた、紅魔館にとっては、謂わば恩人みたいな人で。だから、なにかお礼をしてあげたいのではないだろうか。

 パチュリーが踵を返そうとしたその瞬間、ふと、月見の尻尾の上で眠りこけるレミリアの姿が目に入った。すっかり安心しきってだらしがなくて、紅魔館の主人としてのカリスマなんて欠片もなくて。

 それでも今度は、その醜態を嘆くようなことはなかった。口元に浮かぶのは微笑み。楽しそうにレミリアの寝顔を見つめるフランの姿が、すぐ近くに見えた。

 

(よかったわね、レミィ)

 

 苦しかった日々は、もうおしまい。明日からの紅魔館は、仲直りしたこの二人の姉妹で、きっと明るく賑やかに色づくだろう。

 心が軽い。なんとなく、今なら研究が大きく捗りそうな予感があった。

 私も随分とわかりやすいものねと、そう思いながら。

 パチュリーは部屋に戻る傍ら、複雑な魔法理論の計算式を、広々と脳裏に描いていった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――」

 

 聞こえる声は、果たして誰のものだったろうか。

 低いバリトンの声。男のくせに優しくて、ふっと気を緩めたらそのまま心まで染み込んできそうな、そんな。

 

「――」

 

 レミリアの、嫌いな声だった。

 大好きだった父を思い出してしまうから、嫌いな声だった。

 

「――、――」

 

 でも、今は違う。こうして耳をくすぐられても不快感はなくて、むしろ心が安らいでいる。まるで、本当に父の声を聞いているかのよう。

 

「――……」

 

 ねえ、あなたは――

 私を安心させるあなたは、一体誰――?

 

 

 

 

 

 レミリアは、銀の絨毯の上にいた。ふぅわふわ、まるで生きているかのように柔らかいベッドの上で、布団も掛けずに寝転がっていた。

 

「……」

 

 半覚醒の思考は、体を起こすところまでは進まなかった。寝惚け眼のまま絨毯に押しつけていた顔を上げると、白い狩衣の背中が見える。

 その向こう側から、声が聞こえた。

 

「――こうしてお姫様と王子様は、生涯、幸せに暮らしたということです。めでたし、めでたし」

 

 抑揚のある優しい読み聞かせの声。それが夢の中で聞いたあの声と同じだったから、レミリアはまたふっと、父のことを思い出していた。

 ――もしかしたらここはまだ夢の中で、この背中は、本当にお父さんのものなんだろうか。

 ちょっとだけ、本気でそう思ったくらい。だから、声を掛けようと体を起こして――その背中よりも上、銀髪なびく頭にぴょこりと生えた獣耳を見た時、レミリアの思考は一気に冷却された。

 

「……あ、れ?」

 

 頭の中で、今までの記憶が泉の如く勢いで湧き上がってくる。そういえば私はあの時、勢い任せで“あいつ”の尻尾に飛び込んで、そのまま――。

 目の前で銀髪が振り返る。

 間違いない。

 あの狐だった。

 ああ、じゃあ、絨毯かと思っていたこの銀のふわふわは、もしかしなくても。

 

「おはよう、レミリア」

「ぅひあああ!?」

 

 掛けられた声に、レミリアは驚くあまり、そこ――月見の十一尾の上――から転げ落ちた。

 どすん、尻もち。

 

「いっ、たああぁ……!?」

「……おいおい、大丈夫か?」

 

 気遣いの声とともに、目の前に一本の尻尾を差し出された。掴まれということなのか。レミリアはつんとそっぽを向いて、スカートの裾を払いながら立ち上がった。

 ……迂闊だった、まさかあのままころっと眠りこけてしまうなんて。それだけの包容力を持っていた彼の尻尾を心底恨めしく思いながら、レミリアは周囲を見回す。

 いつの間にか場所が大図書館に変わっていて、フランも咲夜もいなくなっていた。一体どれほどの間、彼の尻尾の上で醜態を晒していたのかと思うと、恥ずかしさのあまりまたグングニルをぶっ放したくなってくる。

 

「よく眠れたか?」

「っ……!」

 

 どうやらその心内は完全に見透かされたようで、首でこちらを見ながらいじわるに笑う月見に対し、レミリアは割と本気でグングニルを出すか否か悩むのだった。

 

 彼は、この本棚の密林の中で間隔的にこしらわれている読書用の椅子に、横向きになって腰掛けていた。正面から座ろうとすると、きっと十一もの尻尾が邪魔になるのだろう。眠りに落ちる前、彼が「十一本もあるとさすがに邪魔だ」と言っていたのをふっと思い出す。

 レミリアが転げ落ちたことで、月見はゆりかごのようにまとめていた尻尾をゆっくりと解いた。十一本もあったら絡まってしまいそうなものなのに、さも、腕組みを解くかのごとくあっさりと淀みない動きだった。己の手足と等しく尻尾を操るその技量には、やはり妖狐としての格の高さが窺える。

 十一の尻尾を持つ狐。或いは金毛九尾よりも格上かもしれない大妖怪。妖怪とは思えないくらいに温厚で、お人好しで、世話焼きで。

 

「……」

 

 レミリアは、知らず知らずのうちに渋面を浮かべていた。やっぱりどうにも、彼のことが気に入らなかったのだ。フランがやけに懐いてしまったものだから、余計にそう感じるのかもしれない。

 確かに彼はフランを狂気から助け出してくれたし、そのお陰でレミリアは彼女と理解し合うことができた。

 でも一方で……なんだか妹を取られそうで悔しい、とか。

 そこまで考えたところで、レミリアはふと、正面にある月見の背がくつくつと揺れているのに気づいた。

 笑っているのだ。そうしてひとしきり含み笑いをした彼は、

 

「別にフランを取ったりなんて、しないからね?」

「――っ!?」

 

 ズバリ言い当てられて、レミリアの思考が一瞬で白熱する。声を上げてしまいそうになるのをすんでのところでこらえると、また、彼の背中が小さく揺れた。

 落ち着け、とレミリアは深呼吸する。幸いなことにこの場にフランはいない。もし彼女に今の話を聞かれたらと思うと気が気でないが、月見だけなら、グングニルをぶん投げて黙らせるとかなんとか、対処の仕様はいくらでもある。

 ――と、その時は思ったのだけれど。

 

「――へー、お姉様ってそんな風に考えてたんだー」

「にゃい!?」

 

 こんな素っ頓狂な悲鳴を上げたのは、きっと生まれて初めてだろう。……いや、そんなことよりも、今の声ってもしかして。

 そういえば、と思い出す。レミリアが目を覚ました時、月見は童話かなにかの読み聞かせをしていた。――では、読み聞かせの相手は一体誰だったのか?

 さーっ、と頭から血の気が失せていく。正面、月見の背中の向こう側で、ぴょこりと小さくなにかが動いた。白い生地に赤い大きなリボン。フランがいつも被っているお気に入りの帽子だ。

 その帽子はしばらくの間もぞもぞ動き、やがて、

 

「やっほー、お姉様ー」

「フ、フランッ!?」

 

 月見の右肩あたりから、フランの顔が帽子と一緒に飛び出してきた。

 レミリアは愕然とした。フランがいることはもはや覚悟していたが、よりにもよってそんなところにいたなんて。

 だって、あの位置からフランの顔が出てくるということは、フランは月見の体に正面から抱きついているのであって、つまりレミリアと月見の今までのやり取りは全部筒抜けだったのであっていやいやそんなことよりも月見が読み聞かせをしていたのがフランならもしかしなくてもフランは月見の膝の上にずっと座っていてそれを後ろから月見が抱きかかえる感じで読み聞かせしていたということでああもうなんだかよくわからないけどともかく

 

「あんた私のフランになにしてくれてんのよ――――ッ!!」

「ガッ」

 

 レミリアは月見の後頭部に跳び膝蹴りを叩き込んだ。

 そのまま流れる動きでフランを確保、月見のもとから速やかに退去。

 

「お、お姉様!? いきなりなにしてんの!?」

 

 フランが目を丸くして慌てたが、レミリアはそれどころではなかった。フランをその場に立たせると、上から下まで何度も何度も目をやって、

 

「大丈夫、フラン!? なにか変なことされなかった!? 変に触られたりしなかった!?」

「月見はそんなことしないよっ! フランに読み聞かせしてくれてたのっ!」

 

 フランは憤慨してレミリアを撥ね除けると、一直線に月見のもとに駆け戻って、呻く彼の後頭部を優しくさすった。

 

「大丈夫? 痛くない?」

「あ、ああ……痛いというか、びっくりしたよ」

「ごめんね、お姉様が……」

 

 それからレミリアを一睨み、頬をぷっくりりんごみたいに膨らませて、

 

「お姉様のバカッ」

「ち、違っ……私はてっきり、フランが変なことされてるんじゃないかと思って」

「それがバカだって言ってるのっ」

「そこまで言わなくてもいいでしょ!? 私はフランを心配してるのよ!?」

「だから、月見はそんなことしないって言ってるじゃない!」

「どうしてそこまでそいつのことを信用してるのよっ!」

「どうしてそんなに月見のことを信用してないの!?」

 

 あとは売り言葉に買い言葉。勢いのままに、気がついたら睨み合いになってしまっていた。

 

「……っ」

 

 ぐっと、唇を噛む。フランを怒っているわけではなかった。ただ、悔しかった。

 わかっている。レミリアは、月見に嫉妬しているのだ。今日フランと出会ったばかりの彼が、あんまりにも懐かれてしまっているから、それがズルくて、羨ましくて、悔しい。

 自分が今までフランにしてきたことを考えれば、それはとても浅ましい感情なのかもしれない。

 でも、それでも、大好きな妹だから。

 

「……ほら、二人とも。せっかく仲直りしたばかりなのにどうして喧嘩なんてするかな」

 

 呆れるように声を上げた月見に、あんたのせいだと言ってやりたい。けれどフランの視線が気になって、とても言葉にはできなかった。

 月見は浅く吐息して、フランの頭にその大きな掌を置いた。据わりの悪い雰囲気を切り替えるように、わかりやすく声の調子を明るくして言った。

 

「さてフラン、読み聞かせはおしまいだ。あとは、レミリアと一緒にいてやりなさい」

「え? 月見は?」

「私はもう少し本を読んでるよ。気になる本が他にもたくさんありそうだしね」

「えー、じゃあ私も一緒に」

「フラン」

 

 フランの言葉を遮り、もう一度、繰り返した。

 

「レミリアと、一緒にいてやりなさい」

 

 不思議そうな顔をして、フランがこちらを見つめてくる。レミリアはたまらずに視線を逸らした。違うと、その一言を言えればちょっとは楽になれるのかもしれないけれど、できなかった。フランと一緒にいたい。嘘偽りないその気持ちを否定したくなかった。フランにはずっとずっと嘘をつき続けてきたから、どうか今くらいは素直でありたくて、でも言葉にできるくらいの勇気もなくて、なにも言えないまま。

 

「……わかった。じゃあ私、お姉様と一緒にいるね」

 

 ……それでも心が通じたのは、姉妹だからだと思いたい。

 いい子だ、と月見に頭を撫でられたフランは、くすぐったそうに微笑をこぼして、それからパッとこちらに駆け寄ってきた。

 

「行こ、お姉様っ」

「え……」

 

 右手を取られる。掌と掌を通して、フランの柔らかい体温が伝わってきた。

 

「私、なんだか眠くなってきちゃった。久し振りに、一緒に寝ようよ」

「……、」

 

 レミリアは、思いがけず言葉を失った。あんなに一緒にいたいと思っていたはずなのに、いざとなるとどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

 その背を押したのは、バリトンの声音。

 

「ほら」

 

 言葉は、それだけ。でも、それだけで充分だった。

 多分、すぐには無理だと思う。レミリアはフランに対して、500年近くの間、ずっと間違い続けた。そのわだかまりを乗り越えるのは、きっととても難しいだろう。

 だけど、いつかきっと、フランを素直に愛し、また、愛される姉となるために。

 もう二度と、間違わないために。

 レミリアがフランに返すべき言葉は、とっても簡単。

 

「……そうね。一緒に寝ましょう、フラン」

「うんっ!」

 

 途端、ほころんだフランにぐいと腕を引かれ、思わずバランスを崩してしまった。その予想外の力強さに戸惑いながら、静かに思う。

 

(フランにこうやって手を引かれたのは、いつ以来かしら……)

 

 掌越しに伝わるこのぬくもりが愛おしくて、レミリアはフランの手を強く握り返した。

 

「じゃあ行こ!」

「……ええ、そうね」

 

 そうしてフランに引かれるままに歩き出すと、ふと月見の横を通り過ぎる。視線は合わなかった。彼はもう、なにも言うことはないとまぶたを閉じて、こちらを見ようともしなかった。

 だからレミリアは、小さく唇だけを動かした。今はまだ、それを口にできるほど心を開くつもりにはなれなかったけど。

 

(――ありがと)

 

 この気持ちを、きっといつかは、言葉にできるのだろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そうして彼女たちの足音が聞こえなくなれば、月見のもとに久し振りに一人の時間が訪れる。

 ようやく、肩の力を抜けるような気がした。首が痛くなるほどに高い天井を仰いで、吐息する。

 

「……随分と手の掛かる姉妹だったこと」

 

 レミリアとフラン。それぞれ別々の意味で厄介な二人に振り回されて、さすがに疲れてしまった。他に読みたい本があるのは本当なのだが、このまま読書を続けたら、レミリアみたいに眠りこけてしまいそうだった。

 どうするかな、と考える。レミリアも起きたのだし、これ以上長居はせずに次の目的地を目指してもいいかもしれない。

 次の目的地――人里。もし可能なら、今日はそこで宿を恵んでもらいたいところだけれど。

 しかし気になるのは、この紅魔館を訪ねる際に降り出した大雨だった。あれに降り続けられる限りは、人里を目指すのはもちろん、外を歩くことすらもままならない。ここは地下なので判断の仕様がないが、雨脚はどうなっているのだろうか。

 少し、見てきてみようか――そう思い、月見が椅子から腰を上げかけた時だった。

 

「!」

 

 蹴破られたのかと思うほどの勢いで、図書館の入口が開け放たれる音が響いた。

 ついでに、少女のものと思しき声もついてくる。

 

「よーパチュリー、今日も本を盗みに……じゃなかった、借りに来たぜー!」

 

 張りのある元気な声だった。発言の内容からして、パチュリーが頭を悩ませているという件の不正利用客のようだ。眠気覚ましの意味も込めて、月見はすぐに図書館の入口へと足を向けた。

 しかしながら、ここからでは大分距離がある。果たして間に合うだろうか。

 本棚たちの間を、何度も何度も掻き分けていく。二分ほど歩いたが、それでも入口はまだ見えてこない。咲夜の能力による空間拡張の弊害だ。限られた空間を広く使えるのは便利だが、ここまで広くされてしまうと逆に不便を感じてしまう。

 上手く見つけられればいいのだけれど――そう祈りつつ、通り過ぎた本棚から右へ曲がった直後だった。狙いすましたタイミングで同じように曲がってきた人影に、あわや正面衝突しそうになった。

 

「おっと」

「うおっと」

 

 互いの反応は速かった。ギリギリのタイミングでお互い停止――したはずだったのだが、

 

「ぐふっ」

「あ」

 

 月見の鳩尾に、細いなにかがめり込む圧迫感。痛みに呻いて思わず体をくの字に折れば、鳩尾に叩き込まれたのは、どうやらほうきの柄の先っちょらしかった。

 どうしてそんなものが叩き込まれたのか。答えは、ぶつかりそうになった相手がほうきに跨がった魔女であり、加えてその魔女の飛行位置が、ちょうど月見の胸元あたりだったからだ。

 

「うわ、すまん。まさか人がいるとは思わなくて、止まり損ねちまった」

「へ、平気だよ。……うん、なんとか」

 

 腰を折った体勢のまま、声の聞こえた方へ手を振り返す。

 幸いこうして呻く程度で済んだが、もし当初の勢いのまま衝突していたら、月見は今頃、床の上をバタバタのたうち回っていただろう。危ないところだった、と月見は額に浮かんだ脂汗を拭った。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 魔女がほうきから降り、膝を曲げてこちらを下から覗き込んできた。パチュリーと同年代くらいに見える少女。鍔の広い黒帽子の奥で覗くのは、彩度の高い金髪金眼だ。

「大丈夫だよ」月見は鳩尾をさすりつつ折れた上体を起こし、深呼吸を一つ。まだじんじんと痛みが残っていること以外は良好だった。

 悪びれる様子などおくびも見せず、からからと、少女が笑った。

 

「運がなかったな。私と同じくらいの身長だったら、喉仏に一発ですぐ楽になれたのに」

「……背が高くてよかったよ」

 

 月見が力なくため息を返せば、少女の笑い声はますます高くなったのだった。

 白黒の魔法使い。ほうき以外、身に着けているものはすべて白黒であった。巨大な黒の三角帽子はもちろん、白のブラウス、黒のスカート、白のエプロン……本当に白と黒しかない。ともすればメイド服に見えなくもない、魔法使いとしては奇妙な出で立ちをしていたが、不思議と全体的な釣り合いは取れているようだった。

 肌は赤みのある肌色でとても活発そうな印象を受けるし、実際その通りなのだろう。初対面の月見になんの警戒も見せることなく、気さくに右手を出してきた。

 

「こんなカビ臭い図書館で出会うなんて、きっと相当な奇縁だな。霧雨魔理沙だ。よろしくな」

「……月見だよ。よろしく」

 

 まだ鳩尾に痛みが残っているのを感じつつ、なあなあと握手を交わす。そこで月見は、ふと、魔理沙の服がちっとも濡れていないことに気づいた。もしあの雨の中を飛んでやって来たのだとしたら、たとえ傘を差していたとしてもこうはならないはずだ。

 

「魔理沙。外、雨は降っていたか?」

「ん? 少し前まで相当降ってたけど、通り雨だったみたいだぜ。だからこうして、新しい知識を求めてやってきたわけだ」

「なるほど」

 

 どうやら雨は既にやんだらしい。ならば、今日中に人里に向かう予定は滞らずに済みそうだ。

 

「そういうお前も、本探しか?」

「いや、私はここで雨宿りさせてもらってたんだよ。この図書館へは、厚意で案内してもらってね」

「ふうん、ここの連中が素直によそ者を歓迎するなんて……ああ、だからさっきまで雨が降ってたんだな。納得した」

 

 神妙と頷く魔理沙に、月見は苦笑。素直に歓迎してもらうために、あわや死ぬかという大仕事をする羽目になったのだが――それはわざわざ言う必要もないだろう。

 それよりも、こうして運良く彼女を見つけることができたのだ。パチュリーとの約束は、果たさなければ。

 

「さて、魔理沙。単刀直入に言うけど、借りたものはちゃんと返すべきだぞ」

 

 うわ、と魔理沙が露骨に嫌な顔をした。

 

「パチュリーめ、余計なこと吹き込んだな。……言っとくが私は、盗みを働くような真似は断じてしてないぜ」

「その割に、パチュリーは相当悩んでるみたいだったけど」

「死ぬまで借りてるだけだ。死んだらちゃんと返すぜ」

「……そういうのを、世間一般では盗むって言うんじゃないか?」

「どこの世間一般だ? 私の地元じゃなさそうだな」

 

 月見は閉口した。パチュリーがあそこまで頭を痛めていた理由、今ならなんとなく理解できるような気がした。

 我が強い、というか、反骨のような少女なのかもしれない。これは、口で説明してどうにかなる相手ではなさそうだった。

 さてどうしたものかと月見が思案していると、不意に第三者の声が響いた。

 

「あっ、騒がしいと思ったらやっぱり! また来たんですね、魔理沙さん!」

 

 上だ。月見にこの図書館を案内してくれた、小悪魔という少女。スカートの裾を両手で押さえ、面差し鋭く、一直線にこちらに向けて降りてきているところだった。

 

「おっと、面倒なやつに見つかっちまったな」

 

 言葉とは裏腹に、魔理沙の表情は楽しげだった。特に逃げる素振りを見せることもなく、律儀にその場で小悪魔が降りてくるのを待っていた。

 そうして降り立った小悪魔は、わかりやすい怒り顔を浮かべて魔理沙に詰め寄った。

 

「また本を盗みに来たんですね!? 今日という今日は許しませんよ!」

「それ、前にも聞いたぜ」

 

 恐らく小悪魔は本気で怒っているのだろうが、それでも魔理沙は天邪鬼な言動を欠片も崩さなかった。むしろこの状況を楽しむかのように、へらへらと片笑む。

 

「そんなの関係ないです! 今日こそ観念してもらいますからね!」

「それも前に聞いたって」

 

 鼻であしらい、魔理沙が取り出したのはスペルカード。

 すなわち、弾幕ごっこ開戦の意思表示だった。

 

「……おいおい、こんなところでやるのか?」

 

 この図書の密林の中で弾幕ごっこなぞしたら、せいたかのっぽの本棚たちはドミノ倒しで倒壊し、何千ともなる本たちが四散して地獄絵図と化してしまう。

 その惨劇を想像して思わず口を挟んだが、魔理沙は不思議そうに小首を傾げただけだった。

 

「? いつでもどこでも気軽にできるのが、弾幕ごっこってもんだろ?」

「……」

 

 月見は痛む頭を押さえて嘆息しながら、顎をしゃくって上を示した。

 

「……せめて上でやってくれ。本棚を倒さないようにね」

「そりゃ、言われなくても」

 

 魔理沙は帽子を深く被り直して、ほうきに跨がるなり勢いよく飛翔。それを、すぐに小悪魔も追い掛けていった。

 本棚たちよりも高くに昇り、そして二人は対峙する。

 

「覚悟してください。今日の私は一味違いますよ!」

「だからそれも前に……ああ、もういいや。さっさとやろうぜ、めんどくさい」

 

 魔理沙のため息を合図に、二人の周囲に弾幕が展開される。

 

「それじゃあ、尋常に――」

「勝負です!」

 

 そして、放たれた。

 無数の弾幕が飛び交い、相殺し合い、炸裂する。二人の姿はすぐに弾幕に埋もれて見えなくなり、それを下から眺める月見は、感嘆とも憂鬱とも取れないため息を、一つこぼした。

 

「……とりあえずこの場は大丈夫そうだし、本を戻しておこうか」

 

 フランに読み聞かせした絵本が出しっぱなしだったのを思い出して、七色の流れ星に彩られた空の下を、のんべんだらりと引き返していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第12話 「レコンサリエーション ④」

 

 

 

 

 

 ふと、最後にお風呂に入ったのはいつだっけ、と思った。

 月見と名乗る妖狐に図書館の使用許可を出し、自室に戻って、ちょうど魔法の研究を終えた時だった。汗が頬を伝って下に落ちたのを感じて、パチュリーはそう疑問に思った。

 

 魔法の研究というのは、これで案外ハードワークな一面がある。机に向かって理論とにらめっこしているうちはまだ楽だが、いざ実践の段階となると、体の強くないパチュリーには意外と酷になるところがあるのだ。

 故に今のように、汗を流して肩で息を整える有様になってしまうのも珍しくない。

 

「……大分、汗、かいちゃったわね」

 

 パチュリーの私室からドアを一枚挟んだ、咲夜に特別に拡張してもらった魔法研究室。ここで一時間と半分ほどの間、ずっと新しい魔法の実践を行なっていた。

 頬を伝う汗を手の甲で拭う。研究していた魔法が炎系統だったからだろうか。すべての窓を開け放ってなお、部屋は軽いサウナのような状態になっていた。

 

 最後にお風呂に入ったのはいつか――そんなことを疑問に思ったのは、きっと、月見という妖狐に出会ったせいもあるのだろう。

 

 風の魔法を使って部屋の空気を入れ換えながら、パチュリーは記憶を掘り起こす。とりあえず、一昨日の夜にちゃんとお風呂に入って睡眠を摂ったのは間違いない。ではそのあと、つまり昨日からはどうだったろうか。

 朝起きると同時にぼんやりとイメージが湧いて、そして取り掛かったのがこの研究だった。食事もロクに摂らず魔導書とにらめっこをして、実践と修正を繰り返した。予想外のところで理論が躓いて、それが悔しくて、ムキになったように夜通しで研究を続けた。明朝、眠気が辛かったので少しだけ仮眠を取って、また研究を再開してしばらくしたら、咲夜がやって来た。

 そこまで思い出したところで気づく。……あ、私、昨日お風呂入ってない。

 

「……うわ」

 

 そんな、掠れた声が漏れた。自分はそんな状態で、月見――異性の目の前に立っていたのか。

 恥ずかしくはなかった。ただ、頭の血の気が落ちるようだった。

 まず警鐘の如く頭を掠めたのは、もう一度月見に会わねばならなくなった場合の未来だった。魔導書を読みたくなった彼がこの部屋を訪ねてくる、なんてことは充分にありえる。なのに昨日からお風呂に入っていなくて、今こうして汗も大分かいた――そんな状態で応対するのは、ちょっとどころかかなりまずい。

 

「と、とりあえず、お風呂に入りましょう」

 

 大丈夫大丈夫、まだ間に合う、とパチュリーは口早に自分に言い聞かせた。

 新しい流行やお洒落には関心がないけれど、パチュリーだって女の子だ。異性の目だってもちろん、気にする。

 早足で研究室を抜け出し、私室のクローゼットをひっくり返すようにして、替えの服と下着を準備する。あんまり走るとすぐ息が苦しくなるのも忘れて、浴室に向けて駆け出した。

 

 そうして、私室を飛び出してすぐ。

 パチュリーは、図書館の空を翔ける七色の流星たちを見た。

 

 思わず数歩たたらを踏んで、立ち止まる。呆然と天井を見上げ、それからこの空模様が意味するところを察して、頭を抱えた。

 弾幕ごっこ。

 図書館の空でそんなことをするやつなんて、一人しかいない。

 

「ま、魔理沙ッ……!」

 

 霧雨魔理沙。

 よりにもよってこのタイミングで、あの盗人はまたやって来たのだ。

 タイミングとしては最悪だった。今、魔理沙と弾幕ごっこをしているのは小悪魔だろうが、彼女では到底魔理沙を止めることはできない。すぐに自分が向かわなければ、またおめおめと魔導書を盗まれる羽目になってしまう。

 恐らく、月見は様子見しているのだろう。彼の働きに期待する手もあったけれど、泥棒退治を来客に任せて自分はのんびりお風呂で寛ぐというのも、パチュリーの良心がよしとしなかった。

 ああ、でもそうしたら、この肌に染み込むような汗を流さないまま彼の前に立ってしまう可能性が高いわけで。もしそうなったらパチュリーのささやかな乙女心が、ざっくりと深い傷を負ってしまうのであって。

 パチュリーは焦るあまり、その場で右へ左へ行ったり来たりした。

 

「ど、どうしよう、どうしようっ……」

 

 ……後々、思い返してみれば。

 この時点で『咲夜を呼ぶ』という選択肢が思い浮かばなかった自分は、心底馬鹿だとしか言いようがない気がした。

 

「~~っ、ああもう!」

 

 結局、迷いを振り払うようにそう叫び、パチュリーは着替えをすべて私室の中に放り込む。

 そして、憎っくき魔導書泥棒のところに向けて飛んでいく。

 潰すと、恨みたっぷりの低い声で吐き捨てながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 図書館の空を翔ける流れ星というのは、とても不思議な光景だった。しかも普通の流れ星とは違って、青かったり、赤かったり、緑だったりする。みんなが揃って一つの方向に流れるのではなく、互いに交差するように行き交い、時に衝突して、弾けて消える。

 魔理沙と小悪魔の弾幕ごっこ。流れ星の応酬。薄暗い大図書館の空を鮮やかに、そして少しばかり騒がしく彩っている。

 月見はその下で、フランに読み聞かせした絵本たちを一冊一冊棚に戻していた。時折思い出したように頭上を見上げては、絶え間なく変化する星空に、ふっと息をつく。

 

「弾幕ごっこ、ね」

 

 ちょうど、雛と椛が見せてくれた弾幕ごっこを、場所を変えてもう一度見ているような。弾幕は速すぎず多すぎず、適度な速度と密度でやり取りされる。弾幕“ごっこ”という言葉の通り、まさしく遊びと呼ぶにふさわしい気さくさ(・・・・)があった。

 恐らく私たちが異常だったのだろう、と月見は思う。弾幕ごっこは妖怪と人間を対等に闘わせるためのフェアな決闘手段だというけれど、月見がフランとやった弾幕ごっこは、間違いなく一つの『戦い』だった。遊びと呼べるほど気さくではなく、決闘と呼べるほど高貴でなかった。

 魔理沙や小悪魔がもしあの場にいたら、腰を抜かしていたのだろうか。

 

「……で、この本は一体どこにしまえばいいのかな」

 

 などと考えながら、月見はそそり立つ本棚たちへと視線を戻した。本棚自体があまりに大きすぎるため、ただ本をしまうだけでもなかなか一苦労になる。しきりに視線を彷徨わせ、やっと該当する場所を発見した。

 

「あと一冊、と」

 

 最後の一冊をしまう場所を探していると、ふと、「これ全部読んでほしいな!」と絵本の山を持ってきたフランの姿を思い出す。

 お陰様で大分片付けに手間取ってしまったけれど、次でようやくおしまいだ。またしばらくかけてしまう場所を見つけ出し、そこに本を差し込む。

 直後、それが引鉄を引いたかのように、図書館中を爆発音が駆け抜けた。

 すべてのスペルカードを攻略され、弾幕ごっこの勝敗が決した合図。完全な不意打ちに、月見の肩が思わず跳ねる。

 

「……」

 

 見上げれば、魔理沙と相対していたはずの小悪魔の姿が消えていた。人差し指でくいと帽子の鍔を持ち上げ、勝利宣言をするのは魔理沙の方。

 

「その程度で私を倒そうなんざ、百万光年早いぜ……なんてな」

 

 意味するところはすなわち、小悪魔の敗北だ。

 惜しかったなあ、と月見は思う。ここでもし小悪魔が勝てていれば、手っ取り早く魔理沙を追い返す口実となっただろうに。

 魔理沙は眼下をキョロキョロ見回し、月見の姿を見つけ出すと流れ星が落ちるように飛んできた。撃墜した小悪魔は放置らしい。

 

「よう、ええと……そうだ、月見だったな。見てたか、私の華麗な雄姿を?」

 

 同じ目線で振舞われる笑顔には確かな豪胆さがあったが、それにまた笑顔で応えられるほど、月見の心中は上向きではなかった。肩を竦め、努めて無関心に、

 

「残念ながら、弾幕に埋もれてよく見えなかったよ」

「おっと、そいつは残念だ。小悪魔のやつ、今日はいつも以上に気合入ってたからな。私もつい熱くなっちまったぜ」

「お疲れ様。今日はもう家に帰って休むといいよ」

「いやいや。邪魔者は追い払ったんだから、いよいよもって本を盗――借りていくぜ」

「パチュリーを呼んでこようか?」

「そんな余計なことはしなくていい」

 

 どうしたものかな、と月見は考える。とりあえず与太話をして間を持たせながら、

 

「魔理沙、パチュリーも困ってるようだからな?」

「あいつは四六時中魔術の研究で悩み抜いてるから、ちょっと悩みが増えたところで変わらんだろ。それに、豊富な魔導書を独り占めしてるってのもいけない話だと思わないか?」

「別に独り占めはしてないだろう。一言通せば私にも見せてくれると言っていたぞ?」

「それは言わないお約束だぜ」

 

 魔理沙が言葉で煙に巻けるような相手でないことを、月見は始めの会話から既に察していたし、からころと鈴を転がすような彼女の笑顔は、人の言葉に大人しく従う従順さとは無縁だった。

 愉快犯なのだろう、と月見は思う。ただ単に本を盗むのが目的なのではなく、その中でのみ味わえる独特のスリルこそを、魔理沙は楽しんでいる。つまりは、成功と失敗を懸けて誰かと勝負をするということを。

 ならば必然、

 

「なんだったら、お前も一丁やるか?」

 

 話が行く着く場所は、そこ以外にない。

 誘うように口端を吊り上げた魔理沙が、指で挟んでチラつかせるのはスペルカード。そのわかりやすい意思表示に、しかし月見は答えを渋った。弾幕ごっこは、フランとの一件で既にお腹いっぱいなっていたから。

 肝を冷やしながら弾幕の中を掻いくぐるのは、もうしばらくはこりごりである。

 

「私は、少し前に一度弾幕ごっこに付き合わされてね」

「お、だったらルール説明はいらんな。早速やろうぜ」

「……」

 

 墓穴を掘った。

 もはや閉口するしかない月見に、魔理沙はあいもかわらず、豪胆な笑顔を崩さずに言った。

 

「なに、私は体力も魔力も有り余ってるからな。遠慮はいらんぜ」

「……そう。なら、私の相手をしてもらおうかしら」

 

 しかしそれに答えたのは月見ではなく、抑揚を欠いた少女の声。パチュリー・ノーレッジが、いつの間にか魔理沙の後方でぷかぷか滞空していた。

 物静かな少女だからか、それとも魔理沙に気を取られていたからか。声を聞くまでまったく気づかなかった。

 

「うおっと、パチュリー。いきなり後ろを取るのはなしだぜ、失礼な」

「……」

 

 飛び跳ねた魔理沙を、鋭く冷め切った紫紺色の瞳が見下ろす。機嫌が悪いのか、少し色の悪い唇が紡いだ声は、もともとの起伏のなさに輪を掛けて、無感動だった。

 

「じゃあ図書館から無断で魔導書を持って行くのもなしね。失礼だから」

「前言撤回、私の背後を取るなんてさすがだぜ。だから図書館から魔導書を持ってく私もさすがだぜ」

「……まったく」

 

 パチュリーは目頭を押さえ、肺の中の空気をすべて吐き出す長いため息を落とした。緩く首を振り、諦めたように、

 

「減らず口はあいかわらずなのね」

「失敬な。私は人より少しばかり素直なだけな普通の魔法使いだ」

「そう」

 

 そして胸を張る魔理沙を至極どうでもよさそうに切り捨て、ふわり、降り立った。

 

「パチュリー」

「っ……」

 

 わざわざ駆けつけてくれたのだろうかと、月見はパチュリーの名を呼んだ。すると彼女は冷め切っていた表情を一瞬で崩して、言葉に弾かれたように素早く、一歩後ろへあとずさった。

 

「……どうした?」

「い、いえ、なんでも。それより悪かったわね、来るのが遅くなって」

「それは、大丈夫だけど……」

 

 パチュリーはすぐに足を戻したが、依然として視線が泳いでいて、態度がどことなくよそよそしい。まるで避けられているようだ。

 はて、と月見は胸中に疑問。なにか、彼女に距離を置かれるようなことをしてしまっただろうか。

 コホン、とパチュリーは空咳を一つ。

 

「こんなやつの相手なんかして、疲れたでしょう」

「……いや、まあ」

 

 そのまま強引に話を逸らされ、月見はやむなく苦笑を返した。彼女の言葉自体にも、否定できないものがあったから。

 言葉を濁す月見に、魔理沙が不服そうに唇を尖らせた。

 

「おいおい、そこは恥ずかしがらずに否定してくれていいんだぜ?」

「「……」」

 

 今のが本当に恥ずかしがっているように見えたのなら、魔理沙は相当な幸せ者だ。

 月見もパチュリーも徹して沈黙し、アイコンタクトで互いの苦労を慰め合う。本当に大変なんだな。――そうね、本当に大変なの。――口も使わずにそんな会話を成立させられる程度には、今の二人の心境は一致していた。

 一方の魔理沙は、その沈黙をとりわけ不快と思う素振りも見せなかった。「そういえば」とパチュリーに向けて口を切り、

 

「私の相手を、とか言ってたな。なんだ、珍しくやる気なのか?」

「ああ、そういえばそうだったわね……」

 

 瞬間、パチュリーの双眸がまた氷さながらに冷え切った。

 

「ええ、ちょうど魔法の実験が進んで新しいスペルカードができてね」

 

 一度言葉を切り、つなぐ所作で抜き放つはスペルカード。魔力の風を体にまとい、紫紺の瞳は更に、確かな戦意を以て鋭く研ぎ澄まされる。

 

「それと今ね、個人的に虫の居所が悪いのよ」

 

 声にあいかわらず抑揚は見られなかったが、それ故に、月見の背筋が冷えるほどに怒りの感情が際立っていた。

 そうしてパチュリーは一息、

 

「――だから今、巻き藁がほしいのよねえ」

「……おっと、そいつはまたご大層な宣戦布告だな」

 

 魔理沙は、グイッと強く唇端を引き上げた。指で帽子の鍔を持ち上げ、大胆不敵にパチュリーの魔力を迎え撃つ。

 

「どっちが巻き藁になるか、試してみるか?」

「口答えする巻き藁はいらないわ。――黙って墜ちてくれればそれでいい」

「――上等!」

 

 旋風。打ちつける風に月見が一瞬のまばたきをした時には、二人は既に空高く、本の海原を眼下に広げて対峙している。彼女らの間では、無数の弾幕が鎌首をもたげていた。

 そして残された月見もまた天井へ首をもたげながら、ふう、と短い吐息を一つ落とす。

 

「……若い子は元気だねえ」

 

 最近は歳も取ったからか、どうにも不必要な争いは極力避けようと、無意識のうちに考えるようになった。レミリアにグングニルを突きつけられた時もやり返そうとは思わなかったし、昔の血気盛んだった頃の自分が懐かしい。

 上から、控えめなパチュリーの声が降ってくる。

 

「月見、悪いけどまたうるさくなるわ。もう少しの間だけ我慢してもらえるかしら」

「ああ、くれぐれも気をつけてな」

「おーい、私に掛ける言葉はなしか?」

 

 くっついてきた魔理沙の言葉を、月見は有意義に無視して、

 

「じゃあ、私は小悪魔を捜しに行ってるよ。魔理沙に墜とされてしまったようだから」

「おーい」

「ああ……ごめんなさい、迷惑を掛けるわね」

「おぉーい」

「構いやしないよ。その代わり、負けないように頑張ってくれ」

「月見ー」

「ええ、それはもちろん」

「……うーむ、こいつは贔屓(ひいき)のスメルが匂うぜ……」

 

 魔理沙がなにか言っていたような気がしたが、気のせいだろう。月見はそれっきり頭上から視線を外し、小悪魔を捜すために本棚の森へと分け入っていく。

 すぐに数多の流星が、薄暗い図書館の空を彩り始めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 小悪魔を見つけるのに、さほど時間は掛からなかった。ただ、本棚を曲がったらすぐのところに倒れていたものだから、危うく踏んづけるところだった。

 小悪魔は、衣服をすっかりボロボロにして、仰向けで無造作に寝転がっていた。気を失ってはいたが目立った外傷もなく、衣服についても、ボロボロとはいえ目のやり場に困るほどではない。

 月見は意識確認のため、浅く彼女の体を揺すった。

 

「おーい、小悪魔ー」

「う、う~ん……やめてください魔理沙さん、私なんか食べても美味しくないですよおおぉ……」

 

 変な夢を見ているのか、小悪魔が苦しそうに呻き声を上げた。

 なんだか、このまま放っておいても問題なさそうだ。

 

「あっあっ、待って服はっ、やあああ下着まで取らないでえええええ」

「……」

 

 やっぱりダメだな、と気を取り直し、月見は小悪魔の頬をペチペチ叩く。

 

「おーい、起きろー」

「ふあああっダメですっ、食べる時はせめてお尻から優しく」

 

 月見は小悪魔の額に躊躇いのない手刀を落とした。

 ビクン、と小悪魔の体が大きく震えて、その勢いのまま跳ね起きる。

 

「痛い!? ダメですよ魔理沙さんもっと優しく――あれ? 月見さん?」

 

 額を押さえ涙目で首を傾げた小悪魔に、月見は空咳を一つ置いてから、

 

「おはよう、小悪魔」

「あ、はい、おはようございます……? あれ、私、確か魔理沙さんに食べられそうになって……」

「まだ寝てるのか?」

 

 月見が手刀を構えてスタンバイすると、小悪魔は顔を真っ青にして、全身を使って強くかぶりを振った。

 

「だ、だだだっ大丈夫ですっ、もう起きましたっ! ええ、ええ!」

「本当か?」

「はいっ」

 

 髪が振り乱れるくらいに何度もガクガクと頷く。よろしい、と月見が手刀を下ろすと、彼女は胸を撫で下ろしながら目を伏せて、独りごちた。 

 

「そ、そうですよね、夢ですよね。魔理沙さんは人間ですもん、それがあんな風になるわけないじゃないですか……」

「一応訊くけど、どんなけったいな夢を?」

「えっと……私、もう少しで魔理沙さんに勝てそうになったんですけど、そしたら魔理沙さんが『私はあと三回変身を残してる』って言っていきなりスーパー魔理沙さんに……」

「小悪魔……頭打ったか?」

「そ、そんな可哀想な目で見ないでくださいよー! 怖かったんですよ!? 二回目の変身をしてハイパー魔理沙さんになった時には、既に人の姿をしていなかったんですっ!」

「ああ……うん」

 

 やはりろくな夢を見ていなかったようだ。

 小悪魔は顔を青くし、唇をわななかせながら続けた。

 

「三回目まで変身したギガンティック魔理沙さんは、もう語るに恐ろしい姿でした……。彼女は欲望のままに幻想郷を炎の渦に巻き込んで、ブラックホールみたいに途方もない口で私を食べようと」

「さて、早いところ戻ろうか」

「でも私も負けません。食べられてしまったパチュリー様のためにも、受け継いだ七曜の魔法で勇ましくってちょっ、待ってください! 気にならないんですか、この壮絶を極める戦いの結末が!?」

 

 月見は笑顔で手刀を構えた。

 小悪魔は引きつった笑顔で立ち上がった。

 

「そ、そうですよね、こんなところでいつまでお話するのもなんですし!」

「わかればよろしい」

「……うー。私、頑張ったのに」

「それは夢の中での話だろう?」

「ひ、ひどいっ! 現実でも頑張りましたもん、確かに今回は負けちゃいましたけど――」

 

 と、そこでなにかを思い出したのか、小悪魔は顔色を変えて周囲を見回した。

 

「そ、そういえば魔理沙さんは!? 私がやられて、月見さんがここにいるってことは、誰があのコソドロを!」

「ああ、パチュリーだよ。なんでも、新しいスペルカードの試し打ちだとか」

 

 そろそろ終わるんじゃないか? そう言って、月見が図書館の天井を指差した――直後。

 

「!」

 

 視線の先、宙の一角で小規模な爆発が起こる。黒煙が上がって半瞬、その中から黒い尾を引いて落ちてきたのは――霧雨魔理沙。

 パチュリーの弾幕が直撃したらしい。気を失ったのか、頭から真っ逆さまだ。

 隣で、小悪魔が快哉を叫んだ。

 

「わあっ! パチュリー様、さすがです!」

「確かにお見事……だけど」

 

 月見は眉をひそめた。ただの人間があの高度から、しかも頭から落下するのは、少しばかり危険すぎる。世の中には落下の衝撃を和らげる緩衝魔法というものも存在するが、気を失っていてはそれを唱えることもできない。

 だが、その危惧はほどなくして杞憂に終わった。意識を取り戻した魔理沙が空中で体勢を整え直し、滞空したのだ。

 

「っ、まだまだあ!」

 

 爆発の衝撃で手からこぼれ落ちたほうきだけが、重力に引かれ落ちてゆく。魔理沙はそれを顧みなかった。もはやほうきに跨がることもせず、単身で再び宙へと翻す。

 

「いつつ、ちょっと油断したぜ。やるじゃないか、パチュリー」

「あのまま墜ちてくれてたら、もっと嬉しかったのだけど、ね……」

「大丈夫か、息が上がってるぜ?」

「あなたこそ、全身、(すす)けてるわよっ……」

 

 煤けた魔理沙と、息を切らしたパチュリー。闘いは拮抗しているようで、両者ともにかなりの消耗が見て取れた。

 魔理沙が復帰したことで、小悪魔が表情を硬くする。祈るように両手を合わせて、頑にパチュリーの姿を見つめていた。

 ……恐らくは、次で決着が着くだろう。魔理沙とパチュリーもそれを感じていた。新たなスペルカードを抜き、魔力を練度を高めていく。

 そして――落ちた魔理沙のほうきが地を打った、その音が号砲。

 

「――日符!」

「――恋符!」

 

 宣言は同時。パチュリーは赤の魔力を、魔理沙は白の魔力を、互いの眼前に収束させていく。

 先に術を完成させたのは、パチュリーの方であった。

 

「『ロイヤルフレア』……!」

 

 宣言とともに、パチュリーの頭上に赤い球体が作り上げられる。ちょうどパチュリーの頭と同じくらいの小さなものだが、『日符』という名の通り、まるで太陽を凝縮したかのように強い炎をまとった球体だった。迸る熱波が月見の肌まで届く。

 魔理沙の術はまだ完成していない。故に、あとはただあの赤い球体の力を開放するだけで、パチュリーの勝利が決まる。

 

「パチュリー様!」

 

 小悪魔の叫び。応じるように、パチュリーが己が右腕を鋭く振るった。

 決まるか、と――月見が予感した、その刹那。

 

「――ゲホッ!? ゲホ、ッ!」

 

 なんの前触れもなく、いきなり、パチュリーの体が“く”の字に折れ曲がる。咳き込み呻く彼女の頭上で、今まさに爆ぜようとしていた球体が、瞬く間に熱を失った。

 悲鳴を上げたのは小悪魔。

 

「パチュリー様!?」

 

 気負いすぎて咽せた、などという可愛い話ではない。パチュリーの咳は一向に収まらず、それどころか、もはや飛行術の維持すら危うい状態にまで悪化していた。

 一体なにが起きたのか、月見にはわからない。もしかしたらパチュリーはなんらかの持病を患っていて、このタイミングで運悪く発作を起こしてしまったのかもしれない。

 けれども、それを傍らの小悪魔に問うような隙はなかった。

 

「――スキありぃ!!」

 

 響いた声に、さすがの月見も顔色を変えた。魔理沙。この隙を好機と見て、己の魔法を完成させている。

 

「パチュリーさまあっ!」

 

 小悪魔が飛び出すが、遅い。

 

「――『マスタースパーク』!!」

 

 放たれた白の彗星が、大図書館の天を切り裂く。

 パチュリーの体を呑み込み、一直線に。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 曰く、パチュリーは百年以上を生きる魔女でありながら、体があまり強くないらしい。生まれつき喘息を患っていて、ふとした拍子に発作を起こしてしまうこともままあるのだと。

 それでも彼女は、魔理沙の『マスタースパーク』を耐え切った。直撃を受けてさすがに高度を落としたものの、撃墜まではされない。

 しかし、落ちた高度を立て直す余裕まではなかった。

 

「ぅ、くっ……! ゲホッ、ケホッ!」

 

 依然として治まらない発作が、パチュリーの体から自由を奪っている。今彼女が飛行術を維持できているのは、恐らく、魔女としての長年のキャリアが無意識にそうさせているだけ。本人はただ発作の苦しさに呻くばかりで、自分が飛んでいるのか落ちているのかなど、なに一つとして把握できていないだろう。

 故に、先の一撃で素直に墜とされていた方が、パチュリーにとっては幸いだったかもしれない。

 なまじっか無意識に耐えたばかりに、魔理沙がそれを戦闘続行の意思表示だと勘違いし――

 

「こいつで終わりにしてやるぜ!」

 

 追撃を仕掛ける。

 新たに迫る弾幕を、今のパチュリーが躱せるはずもない。

 ――直撃。

 

「パチュリーさまあああああ!」

 

 小悪魔は既に飛び出していたし、それを追う月見にも迷いはなかった。魔理沙がどこまでやるつもりなのかは知れないが、ともかくこれは仲裁しなければならない。

 パチュリーはもう、頭から地へ向けて落下を開始していた。ただ一つ、中途半端に持続された飛行術だけが、彼女の体を落下から守ろうと抵抗を続けている。

 だがそれも気休め程度のものでしかない。故に月見は、

 

「小悪魔、――先に行ってるぞ」

「え? わあっ!?」

 

 加速する。つむじ風を起こして小悪魔の体を一瞬で追い越し、本棚が連ねる長城を空へ抜け、まっすぐにパチュリーのもとへ。羽のように落ちてくる彼女の体を、抱き留めた。

 その瞬間、血の気の失せたパチュリーの細腕が、藁に縋るように月見の襟を掴んだ。驚きはない。きっと、相手が男だとか、そんなことを気にする余裕もないくらいに苦しいのだ。

 それよりも問題は、魔理沙の方。

 

「おっ、なんだ、お前もやるのか? 私は二対一でも構わないぜ!」

 

 パチュリーが発作を起こしているのにも気づかず、月見が割って入った理由を深く顧みもせず、よほど血気盛んなのか、一方的に闘いを続けようとする彼女は、既に自身の周囲に新たな弾幕を展開させていた。

 

「おいちょっと待て、魔理――」

「行くぜ!」

 

 月見の制止の声も聞かず、撃ってくる。

 ああもう、と月見は心中で舌打ちする。迫り来る弾幕に対し反射的に体が動こうとしたが、腕の中でパチュリーが咳き込んでいるのを思い出して足を止めた。

 あまり激しく動けば、それだけ彼女の負担になる。故に月見は銀尾の先に狐火を灯し、その場で弾幕を迎撃する。

 

「――狐火!」

 

 尻尾を振るって狐火を放つと、炎は魔理沙の弾幕をすべて呑み込んで消滅した。残り火の向こう側で、「む、厄介な炎だぜ……」と魔理沙が声を潜めた。

 

「ゲホッ……つく、み?」

 

 腕の中から、苦しげな声で名を呼ばれる。発作が落ち着いてきたのか、パチュリーが湿った瞳でこちらを見上げていた。

 

「あな、た……ゲホッ、ゲホッ!」

「喋るなって。……見てられなかったから、手を出すぞ」

 

 咳は次第に治まってきたようだが、月見の手には、依然として彼女の震えが伝わってくる。なるべく早く、楽な体勢で休ませてやった方がいい。

 しかし、そこに立ち塞がるのはやはり彼女。

 

「――なら、火力で勝負だ!」

 

 狐火が完全に(くう)に消えると、魔理沙が大胆不敵にスペルカードを抜き放ったところだった。眼前に集うのは白の魔力――マスタースパーク。

 月見は顔をしかめた。あれを狐火で相殺するのは、少しばかり厳しい。

 

「魔理沙、人の話を聞け!」

「勝負が終わったらゆっくり聞いてやるぜ!」

「だからな、」

「行くぜ! ――恋符!」

「おい!」

 

 魔理沙がスペルカードの矛先を月見に向けた。収束された魔力がその輝きを煌々と増し、今まさに放たれんと肥大化する。

 このやろ、と口を衝いて出そうになった悪態を呑み込み、月見はパチュリーの体を抱き寄せた。もはや是非もなかった。ともかく、パチュリーには少しの間だけ我慢してもらうしかない。

 

「ああもう、せめて咲夜がいれば……」

 

 彼女ならば、あのやんちゃ娘もきっと鮮やかにあしらってみせるのだろうか。彼女がこの場にいないことを心底歯痒く思いながら、月見はパチュリーの体を一度抱き上げて、

 

「――はい。お任せください、月見様」

「……は?」

 

 退避――しようとした、その刹那。

 すぐ隣から、ちょっとだけ嬉しそうな咲夜の声。

 驚き見ても、その姿はない。

 

「そこまでよ、魔理沙」

 

 既に魔理沙の懐に入り込み、喉元にナイフを突きつけている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――つくづくよく出来た従者だと、舌を巻く。名前を呼ぶどころか、名前を口にしただけで来てくれるとは、思ってもみなかった。もしかしてずっと物陰に隠れて機を見計らっていたのではと疑ってしまうほどの手際のよさ。時間を操る咲夜だけが為せる、その常人離れした芸当。

 表情を凍らせた魔理沙に対し、咲夜は毅然と口を切る。

 

「あいかわらずあなたは、無粋な行動がお好きなのね」

「……いきなり人の首にナイフを押しつけるお前には言われたくないぜ」

 

 口端を歪めながらの魔理沙の毒を、飄々と、

 

「だって、こうでもしないとあなたは止まってくれないでしょう」

 

 受け流し、肩を竦めた。

 

「そもそも、闘えなくなった相手に問答無用で攻撃を加えるあなたが言えたセリフでもないわね」

「……なに?」

 

 眉を寄せた魔理沙が、月見の腕の中に抱かれたパチュリーを見遣る。そこでようやく気がついたのだろう。ハッと息を呑んで、決まり悪そうに帽子の鍔で顔を隠した。

 

「わ、悪い……熱くなりすぎて、完全に気づいてなかった」

「……まったく」

 

 吐息一つ、咲夜は魔理沙の首筋からナイフを引くと、次の瞬間には月見の目の前に立っていた。いきなり目の前に出てこられるのは初めてだったので、月見は思わず声を上げそうになる。なかなか心臓に悪い使い方だった。

 それを知ってか知らでか、咲夜は咳き込むパチュリーを覗き込み、瞳の中に憂色を宿して言った。

 

「……早く薬を飲ませてあげた方がいいですね。小悪魔が予備を携帯しているはずですけど」

「パチュリー様、パチュリー様! 大丈夫ですか!?」

 

 折よく、小悪魔が追いついてきた。顔を青くしてパチュリーに駆け寄った彼女に、咲夜が素早く指示を飛ばす。

 

「小悪魔、薬の用意を」

「は、はいっ。お水は――」

「持ってきてるわ」

 

 言った頃には、咲夜は既になにもない空間から水の入ったコップを取り出していた。

 彼女の手際のよさを心底ありがたく思いながら、月見はパチュリーの背を叩く。

 

「パチュリー、薬だ。飲めそうか?」

「ケホッ……え、ええ」

 

 小さく応じたパチュリーが、月見の胸元に押しつけていた顔を持ち上げた。もともと色素の薄かった肌がわずかな熱すらも失って、驚くくらいに真っ白になってしまっている。

 

「パチュリー様」

「ありがとう……」

 

 小悪魔から薬を受け取り、次いで咲夜からもらった水で嚥下する。そうしてようやく、パチュリーは少しだけ肩の力を抜けたようだった。息をするのも苦しげだった呼吸が、薄紙を剥ぐように治まっていく。

 月見は、顎をしゃくって近くの読書用の椅子を示した。

 

「あとは、楽な体勢を。……魔理沙もいいな?」

「あ、ああ……」

 

 いかに反骨な魔理沙とはいえ、ここまで来てかぶりを振ることはなかった。気後れした声で頷き、そそくさとスペルカードをしまう。

 椅子へ向けて高度を下ろしながら、月見は後ろをついてくる咲夜に向けて言った。

 

「ありがとう、咲夜。助かったよ」

「いえ……そんな。当然のことをしただけですわ」

 

 言ってすぐに前を向き直ったから表情までは見なかったが、彼女の声はとても嬉しそうで。

 本当によくできた従者だと、月見はもう一度胸の中で繰り返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ごめんなさい、迷惑を掛けたわね」

 

 発作を起こして苦しむたびに、この薬の驚異的な効能を実感する。たった一粒の錠剤を嚥下して数分、あれだけひどかった発作が、初めからなかったかのようにすっきり治まっていた。

 月の頭脳――八意永琳による特製品。この幻想郷に腰を据えた今となっては、パチュリーにとってなくてはならない大切な薬だ。

 パチュリーは、八意永琳のことはどちらかといえば苦手なのだけれど、この薬を提供してくれている点は素直に感謝している。これのお陰で、発作を起こした際に小悪魔たちに掛けてしまう迷惑が随分と少なくなったのだから。

 とはいえ、ひとたび発作が起きてしまえば、少なからずも心配を掛けてしまうのはやはり変わらない。

 発作が完全に治まって体が落ち着いた時、パチュリーは、図書館に置かれた読書用の小椅子に腰掛けていた。顔を上げれば、月見、小悪魔、咲夜、魔理沙……四人の気遣いの視線が目に入る。発作に苦しむ自分がどんな風だったのかはわからないが、小悪魔が今にも泣きそうな顔をしているから、相当ひどい有様だったのだろう。

 パチュリーは一度深呼吸をし、スムーズに息ができることを確かめてから、みんなに向けてそっと頬を緩めた。

 

「もう大丈夫よ」

 

 言葉に、まっさきに表情を動かしたのは小悪魔だった。口を一文字に引き結んで、瞳をすっかり涙で潤めて。

 それでも最後に、ようやく笑う。

 

「よかったです、パチュリー様っ……」

「……え? え、ええと」

 

 パチュリーは思わずたじろいだ。発作を起こすたびに小悪魔が心配してくれるのはいつものことだけれど、まさか泣き出すなんて思ってもいなかったから。

 咄嗟にどうしていいのかわからなくなって、小悪魔から一歩離れて立っていた咲夜たちに目で助けを求めると、返ってくる反応は二分した。咲夜と月見が微笑ましげに目を細め、魔理沙が申し訳なさそうに顔を伏せる。

 魔理沙の反応を見て、そういえば、とパチュリーは思い出した。そもそもパチュリーは魔理沙と弾幕ごっこをしていて、発作の隙を突かれて撃墜されてしまったのだ。

 それが嚆矢(こうし)となって、次々とパチュリーの記憶が呼び起こされていく。ああ、そうだ。撃墜された時、落ちていく体を抱き留めてくれたのは月見で。その時パチュリーは、発作に苦しむあまり、彼の体に思いっきり――

 

「ッ……!」

 

 熱湯をぶっかけられたように、全身が白熱したのを感じた。ひょっとしたら、本当に湯気の一つでも出ているかもしれない。それほどにまで恥ずかしかった。

 だって、いくら発作で苦しかったとはいえ、男の人の体に、あんな風に抱きつくなんて。発作に苦しんでいても、本能はちゃっかり記憶していたらしい。女性のものとは明らかに違う、硬くしたたかで、でも温かい、そんな彼の胸元の感触を、掌がじんわりと思い出している。

 でも。

 でも。

 パチュリーの体が沸騰している理由はそこじゃない。だってパチュリーは昨日からお風呂に入っていなくて、少し前に魔法の実験で大分汗をかいたばかりで、だから月見の前にはあまり出たくないなと思っていたのであって、つまり、その、なんというか。

 

 ――なんというか、恥ずかしすぎてこのまま焼け死んでしまいそうなのだけれど。

 

「パ、パチュリー様? 顔が真っ赤ですけど、まだ具合がよくないんですか?」

「ッ……そ、そうね、まだちょっとだけ。でも大丈夫よ、もう苦しくはないから」

 

 それを咄嗟に発作のせいにしてはぐらかしながら、落ち着け落ち着け、とパチュリーは心頭滅却しようとした。けれど頭の中の雑念はちっとも消えなくて、体のほとぼりだって一向に冷めてはくれなかった。

 流行やお洒落には興味がない。恋愛にだって目もくれない。持ちうる興味関心は、すべて魔術と本にのみ注ぐ。そんなパチュリーだが、しかし、それでも女の子なのだ。あんまり綺麗じゃないかもしれない体で男の人に抱きついたり抱きかかえられたりしたとなっては、もう穴があったら入りたいくらい。絞首台があったら、そのまま台を蹴っ飛ばしたいくらいだ。

 すん、と体の匂いを嗅いでみる。魔理沙のマスタースパークを喰らったせいか、若干焦げ臭い。けれど月見は狐だ。きっと嗅覚だって並の妖怪よりずっといい。焦げ臭い以外にも、別の匂いを敏感に感じ取っていたかもしれない。

 不潔だとか、思われなかっただろうか。

 

「そ、その、月見」

「ん? どうした?」

「え、ええっと、ね? その……わ、悪かったわね。色々と、迷惑だったでしょう?」

 

 変な匂いとかしなかった? なんて、面と向かって訊けるはずもない。やっとの思いでそれだけ問えば、彼はすぐに目を細くしながらかぶりを振った。

 

「いいや、気にしないでいいよ。私は気にしていないし……それよりも大事に至らなくてよかった」

「う……あ、ありがとう」

 

 とりあえず礼を言いながら、パチュリーは月見の言葉の真偽をはかる。果たしてパチュリーに義理立てする社交辞令なのか、それとも紛れもない本心なのか。

 ハッハッハ、と気さくに笑う彼の姿は、とても嘘を言っている風には見えないけれど……さすがは狐、本心を隠すのが巧い。

 もし今の言葉が嘘だったらと――不潔な女だ、とか、思われてるかもしれないと――考えたら、パチュリーは心が折れそうになった。

 これもすべては、憎っくき魔導書泥棒・霧雨魔理沙のせいだ。いや、お風呂に入っていなかったのはあくまでパチュリーの責任なのだが、ともかくあんなタイミングでやって来てくれた魔理沙にはいくら恨み言を言っても足りない気がした。

 ロイヤルフレア、ぶっ放していいだろうか。

 そんな気持ちを込めながら魔理沙を睨みつけると、彼女は「うっ……」と小さく呻き声を上げて一歩後ろにたじろいだ。帽子の鍔で顔を隠し、伏し目がちに、

 

「そ、そんなに睨むなよ……悪かったって、反省してる」

「……」

 

 虚を突かれる思いで、パチュリーは魔理沙の顔を見返した。だって、あの天邪鬼な魔理沙がこうも素直に頭を下げるなんて、思ってもみなかったから。

 帽子で隠れた表情までは見えなかったが、唇はすっかり怯えるようにすぼまって、ぽそぽそと小さい言い訳を紡いでいる。

 

「あ、あれだ……今回は珍しく手応えのある弾幕ごっこだったから、つい熱くなって、だな」

「…………」

 

 つい先ほどまで魔理沙に噛みつかんほど怒り心頭だったパチュリーだが、こうして実際に頭を下げられると、あれだけ心の中に溜まっていた恨み言が一瞬で奥に引っ込んでしまった。謝ってもらえて気が晴れたのではなく、ただ純粋に、謝ってもらえたことが予想外すぎて。

 

「え、ええと……」

 

 魔理沙が、顔色を窺う上目遣いで何度もパチュリーを見た。パチュリーは緩く息を吐きながら、どうしようか、と思案を募らせた。

 だって、そんな風に怯えながら頭を下げられたら。

 とてもじゃないけれど、恨み言なんて、言えないじゃないか。

 

「……別に、気にしちゃいないわよ」

 

 数呼吸分の沈黙ののち、自然とパチュリーの口から出たのは、そんな言葉。

 まったく気にしていないというわけではなかったけれど、怒る気持ちは既に失せていた。

 

「発作が起こるのはさして珍しいことでもないもの。私の運がなかっただけ」

「けど……」

 

 ここで引き下がらないということは、魔理沙の誠意は本物なのだろう。珍しいこともあるものだと心底意外に思いながら、パチュリーは言葉を続けた。

 

「そっちはもういいのよ。……それよりも、あなたがここから持ち去っていった魔導書たちは、一体いつになったら返ってくるの?」

「う……」

 

 せっかく魔理沙が弱気になっているので、盗まれた魔導書たちについて言及してみる。いつもだったら「そのうち返すぜ」とにべもなく躱されるのだが、今だったらいけるかもしれない。

 呻いた魔理沙に口答えする間を与えず、畳み掛けるように、

 

「ちょっとでも罪悪感を感じてくれてるなら、言葉じゃなくて行動で示してくれないかしら」

「ぐぬぅっ……」

 

 咲夜と小悪魔も、冷たい半目を魔理沙に向けることで援護してくれた。……月見だけは、口元にかすかな笑みの影を忍ばせながら、事態を静観していたが。

 そうして場の雰囲気に呑まれた魔理沙はすっかり怯み、やがて観念したと言うように、浅く両腕を持ち上げて言った。

 

「わ、わかったよ。今度来た時に、全部返すぜ」

「……」

 

 まさか本当に上手く行くとは思っていなかったので、パチュリーはついつい呆けてしまった。咲夜と小悪魔も、信じられないものを見たよう目をくるりと丸くしている。

 もしかしたら夢かもしれないので、パチュリーは自分のほっぺたを引っ張りながら、

 

「……ほんほに?」

「ほんとだよ。……なんだ、返さなくてもいいのか?」

 

 パチュリーは慌てて頬から指を離した。

 

「いいえ、極力そうして頂戴。ちゃんと返してくれるんだったら、私だって最初から素直に貸してあげるんだから」

「ふん……」

 

 仏頂面でそっぽを向いたのは、果たして単純に不機嫌になったからなのか、それとも。しかし確かに言えるのは、“あの”霧雨魔理沙が本当に本を返してくれるらしいということで。

 思わず、案外素直なところもあるじゃない、なんて思ったけれど、本来ならばちゃんと返してもらえるのが当たり前なんだと気づいて首を横に振った。素行の悪いひねくれ者がたまに見せる素直さいうのは、得てして過剰に美化されがちなのだ。

 感情に流されないよう己を律しながら、パチュリーは努めて冷ややかに、

 

「……ともかく、よろしく頼むわ。あなたが盗んだばっかりに参考文献がなくなって詰まっちゃった研究ってのも、結構あるんだから」

「わ、わかったって。わかったからこの話はもう終わりにしようぜ、落ち着かないし……」

「そう?」

 

 パチュリーとしては仕返しの意味も込めてもう少しなじってやりたかったが、しかしそれでもし魔理沙が機嫌を損ねて、せっかくの約束を反故にされてしまっては水の泡だろう。

 そうね、と頷き、

 

「じゃあ、近いうちに返して頂戴。そしてこれからは、ちゃんと私に許可を取ってから借りること」

「わかった、わかったから」

 

 パチュリーに咲夜、小悪魔、ついでに月見に囲まれて、四面楚歌みたいな状況だからだろうか。魔理沙はこれ以上は居たたまれない様子で帽子を被り直し、口早に言った。

 

「と、とりあえず今日はもう帰ることにするぜ。明日は荷物が多くなりそうだからな、さっさと帰る」

「……そう」

 

 呟きながら、なんだかものすごい事態になったものだ、とパチュリーは感慨深く思った。『魔理沙から本を返してもらう』。夢にまで見た願いが現実になりつつある。

 これはひとえに、あの時に割り込んできてくれた月見のお陰だろうか。もし彼がいなかったらパチュリーはあのまま墜とされていて、また魔導書を盗まれる羽目になっていたはずだ。先のフランの一件といい、どうにもこの紅魔館は、彼に助けられすぎているような気がする。

 しかして当の月見は、いそいそ帰り支度をする魔理沙に相伴するように、「それじゃあ」と口を切った。

 

「私もそろそろ、お暇するとしようか。もう雨はやんだみたいだしね」

「あ……」

 

 その時咲夜が、なんだか捨てられる子犬みたいな顔をしたように見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。パチュリーが目を凝らした時には既にもとの冷静な表情に戻っていたが、それでもどこか口惜しさが去り切らない瞳で、咲夜は月見を見上げていた。

 

「もう少しゆっくりしていっても、よろしいんですよ?」

「今日中に人里に立ち寄りたいんだよ。じきに日暮れだろう?」

「ですけど……」

 

 咲夜はしばしなにか物言いたげに逡巡し、けれど結局なにも言葉にすることなく、悄然と、肩とため息を落とした。

 

「? どうかしたか?」

「いえ、別に……」

 

 口ではそう言うが、明らかに残念そうだ。このまま月見に帰られると、なにか不都合でもあるのだろうか。

 

「いや、なにもないようには見えないんだけど」

「……なんでもないですよーだ」

 

 そっぽを向く咲夜は、傍から見ればまるで拗ねた子どものようで。

 珍しい、とパチュリーは思う。咲夜がああやって地の(・・)感情的な一面を見せるのは、紅魔館の面々の他、ほんの一握りの親しい相手だけに限られる。それを今日初めてここにやって来たばかりの客に見せるなんて、空前絶後、と評してもいいくらいではないだろうか。

 フランがそうであるように、咲夜もまた、月見に対して心を開いているのか。

 その残念がる様子が傍から見てもとてもわかりやすかったので、月見は持て余すように曖昧な微笑みを浮かべていたけれど、

 

「……ん?」

 

 不意に、図書館の天井を見上げて小さな声を漏らした。周囲の視線が自然に彼へと注がれる。銀色の狐耳が、なにかに反応してピクピクと震えているのが見えた。

 

「どうしたの?」

 

 周囲を代表してパチュリーが問うと、彼は「いや……」と口元に指を当て、

 

「なんだか、上の方が騒がしいような……」

「上?」

 

 この図書館の真上は、当然ながら紅魔館だ。そこが騒がしいということは、

 

「なにかあったの?」

「さあ」

 

 月見は、さすがにそこまでは、との表情で肩を竦めた。パチュリーは頭上を見上げる。耳を澄ましてみるが、不審な物音はなに一つとして聞こえなかった。意識を集中させればさせるだけ、改めてこの図書館の広大さを思い知るだけだ。

 

「なにを根拠に?」

「いや……なんとなく騒がしくないか? 大人数が暴れ回ってるような……」

「はあ」

 

 そんな物音などまったく聞こえない。試しに周囲に目配せをしてみても、みんなから疑問符を返された。そのうち魔理沙が、「ただの空耳じゃないか?」と月見に向けて腕を組んだりする。

 けれどパチュリーは、月見の言葉を聞き流したりはせずに思案した。狐は聴力がとても鋭いというし、そうでなくとも紅魔館で――もとい、紅魔館の周辺で――大人数が暴れ回るという状況に、心当たりがあったから。

 まぶたを下ろし、意識を集中。簡単な探索魔法を展開して、地上の様子を大まかに探る。

 そしてすぐに、なるほどと吐息した。

 

「咲夜」

「はい?」

「彼の言ってることは本当だわ。どうやら、また妖精たちが暴れ回ってるみたいね」

 

 ああ、と納得の声を漏らす周囲に交じって、月見だけが「妖精?」と小首を傾げた。

 答えるのは傍らの咲夜。

 

「館の近く……『霧の湖』に棲んでる妖精たちが、たまに襲撃を掛けてくるんですわ」

「ほう」

 

 それを聞いた月見の眉が、わかりやすく興味の色で持ち上がった。

 

「それはまた、どうして」

「好奇心旺盛なのよ」

 

 こちらには、パチュリーが答える。

 

「この紅魔館が、まあ、随分と奇抜なデザインだからね。精神的に幼稚な妖精たちから見れば、ダンジョンかなにかにでも見えるんでしょう。だから時たまに侵入しては、証拠品を持ち帰ろうとするのよ」

 

 一種のゲーム感覚なのだろう。人があまり近づかない場所に忍び込み、証拠の品を持ち帰って、仲間内で自慢する。そんな人間の子どもたちがするようなやんちゃな遊びを、いたずら好きな妖精たちもまた好むのだ。

 無論、忍び込まれる側としては迷惑以外の何者でもないので、大抵は門番の美鈴がきちっと追い払っているのだが。

 今回は少しばかり、相手が多いらしい。探索魔法越しに、物量で圧倒される美鈴の悲鳴が聞こえてくるようだった。

 

「咲夜、助けに行ってあげてくれないかしら。どうやら苦戦してるみたいだし」

「はあ、そうなんですか。……まったく。妖精相手に苦戦するなんて、あとでおしおきね」

 

 小声でしっかりと毒づきつつ、咲夜は月見に向けて楚々と頭を下げた。

 

「申し訳ありません、月見様。先ほどからどうにも騒がしくて……」

「そうかい? 活気があるのはいいことだと思うよ」

「そうだぜ。例えば私みたいにな」

 

 魔理沙の言葉は、全員が総意で無視し、

 

「では、早く行ってあげようか」

「そうですね……」

 

 咲夜は頷きかけ、しかしすぐにハッとした様子で、月見に釘を刺す視線を向けた。

 

「月見様。今回は私だけで大丈夫ですので、どうか後ろでごゆるりとしていてくださいね?」

 

 大丈夫、と、後ろで、のところにしっかりアクセントをつけて。

 要するに、もうお節介は焼くな、ということらしかった。咲夜としても、これ以上月見に助けてもらっては申し訳ないのだろう。その露草色の瞳は、いつにない真剣味で染まっていた。

 月見は一瞬目を丸くしたのち、ふっと苦笑。

 

「わかったよ。頑張って」

「はい、お任せください」

「なあなあ咲夜、私も首突っ込んじゃダメか? なんだか面白そうだ」

 

 微笑んだ咲夜の背中を、魔理沙がちょんちょんと叩く。

 咲夜は冷ややかに一蹴した。

 

「あなたはさっさと帰りなさいよ」

「まあいいじゃないか、見るだけ見るだけ」

 

 どうだか、とパチュリーは思う。本当に見るだけならいいのだが、魔理沙なら、そのうち悪乗りして妖精たちに加勢しかねないような気がする。想像するだけで頭が痛くなるようだ。

 なのでパチュリーは、ため息とともに月見に視線を向けて、

 

「……万が一の時は、悪いけどお願いね」

 

 多くを語らずとも、それだけで彼には通じたようだった。彼は魔理沙を一瞥したあと、同じようにため息を落として、

 

「……そうだね。わかったよ」

「魔理沙、余計なことしたらナイフ刺すわよ」

「大丈夫大丈夫、私は空気が読める女だからな」

 

 結局、素直な一面を見せてくれたのもほんの一瞬だけだったらしい。いつもの調子を取り戻してカラカラ笑うひねくれ者を見て、果たして本当に魔導書を返してもらえるのかと、パチュリーはとても不安になった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――まったく、魔理沙のやつ。普通の魔法使いなんて自称してる割に常識がないんだから困り者だわ」

「あはは……」

 

 そして咲夜が月見と魔理沙を連れて上へ戻れば、入れ替わるようにして、大図書館にはいつもの静寂が帰ってくる。やれやれという思いで背もたれに体を預けると、視界の端で小悪魔が苦笑したのが見えた。

 

「でもよかったじゃないですか。本を返してもらう約束ができましたし」

「まあ、それはそうだけど」

 

 確かに喜ばしくはあるが、そもそも貸した本が返ってくるという当たり前のことを喜んでいる時点でおかしいのだから、なんとも複雑だ。

 パチュリーが素直に喜べずしかめ面をする一方で、小悪魔は頬に微笑をたたえて言った。

 

「私は、素直に安心してます。月見さんのお陰で、パチュリー様が怪我することもなかったですし」

「……」

 

 パチュリーは月見の姿を脳裏に思い出す。妖怪のくせに異様に心優しい――皮肉っぽくいえば、お節介焼きな男。レミリアを始めとして気難しい者が多い紅魔館の住人たちから、快く受け入れられるような。

 

「……ねえ、こぁ」

「はい?」

「こぁは、彼のこと、どう思う?」

 

 それは、何気ない問い掛けのつもりだった。小悪魔も、フランや咲夜と同じく彼のことを信頼するようになっているのかと、気になって。それ以上の深い意図は断じてない。

 小悪魔は「月見さんですか?」と口元に指を当て、答えた。

 

「いい方だと思いますよ? フラン様に読み聞かせしてあげてましたし、パチュリー様を助けてくれましたし、それに……」

 

 それから、恥ずかしそうに身を竦めて、

 

「魔理沙さんに墜とされた私を、わざわざ捜してくれましたし……」

 

 ――ああ、そういえばそんなこともあったっけ。

 確かに月見は、パチュリーが魔理沙と弾幕ごっこをしている傍らで、わざわざ小悪魔を捜しに行ってくれていた。これが普通の幻想郷の住人だったら、身内でもない限りは「そのうち戻ってくるから大丈夫でしょ」なんて言って放っておくところだ。

 やっぱり世話焼きだわ、とパチュリーは内心強く思う。

 

「信頼できる人かしら」

「え? どうでしょう……。でも、フラン様があんなに懐いてましたしね。それに咲夜さんも案外。ですから――」

 

 小悪魔は一息溜めて、微笑んだ。

 

「信頼できると思いますよ」

「……そうね、私も同感だわ」

 

 応じるパチュリーの口元には、知らず知らずのうちに笑みの影が差した。この幻想郷の者たちは、みんなどこかしらひねくれているというか、油断ならない性格の者たちが多いから、月見のように素直でおおらかな心を見ると、なんとなく安心できるのだと思った。

 

「というか、パチュリー様こそどうなんですか?」

「……? なにが?」

「いやいや、月見さんのことですよー」

「?」

 

 さっき、同感だって言ったじゃない――そう返そうとしたけれど、その機先を制して、小悪魔は口端をぐいっと持ち上げて笑った。

 それこそ、小悪魔みたいに。

 

「ほら、こう――背中に手を回されちゃったり、したわけじゃないですか? だから色々思うところもあるんじゃないかなーと」

「ッ……!」

 

 パチュリーは咄嗟に顔を伏せた。――せっかく、せっかく忘れられていたというのに。

 一度思い出したらもうダメだった。また指先から頭にかけて、じわじわ、じわじわと体が熱くなっていく。

 そりゃあ、まあ、一応あんなことをされたのは初めてだったし、ほんのちょっとくらいは、女として意識してしまう部分もあるけど。

 だって仕方ないではないか。異性に抱きかかえられて動揺したりするのは、一種の生理現象みたいなものだ。仕方がない、仕方がないのである。

 小悪魔をたしなめるように、パチュリーは強く咳払いをした。

 

「別になにも。迷惑掛けて申し訳ないってだけよ」

「本当ですかあー?」

「本当よ」

 

 にやにやと笑う小悪魔が言わんとしていることはわかる。けれどそんな、不慮の事故で一回抱きかかえられた程度で惚れるだとか、あってたまるものか。……外の世界のマンガじゃあるまいし。

 

「だから、その嫌な笑い方はやめなさい。……こら、やめなさいったら」

「はーい」

 

 小悪魔はそれ以上食い下がらなかったものの、口元はあいかわらずにやついたままだった。そう言えばこの子は悪魔なんだっけ、とパチュリーは今更ながら思い知る。

 

「まあでも、また来てほしいですね。魔理沙さんはともかく、月見さんみたいにみんなを笑顔にしてくれるお客さんは、大歓迎です」

「……そうね」

 

 月見がまた紅魔館に来てくれたら、きっとフランは大喜びするだろうし、咲夜も目に見えて歓迎するだろう。レミリアはどうだか知らないが、フランの恩人を邪険に扱うような真似はしないはずだ。

 それにパチュリーだって、きっと少なからず歓迎する。彼のお陰で魔理沙から魔導書を取り返すことができた、その感謝を表す意味でもあるだろうし。

 それになにより――彼が周囲の者たちを笑顔にする様は、なんだか見ていてとても気持ちがいいのだ。

 だからできることなら、またこの紅魔館にやって来てフランたちを笑顔にしてやってほしいと、そう思う。

 

「もしまた彼が来た時は、すぐに知らせて頂戴な」

 

 そう言い切ってから、パチュリーは失言だったと口を噤んだ。しかし小悪魔には聞こえてしまったようで、彼女は目を丸くしてこちらを見返している。

 正直に答えるかどうかは悩んだけれど、ここで誤魔化しても変な誤解をされそうなので、パチュリーは包み隠さずに白状した。

 

「……今度はちゃんと、お風呂に入ってから出るようにしたいから」

「あー……」

 

 小悪魔の、なんともいえないものを見るような生温かい視線が心に刺さる。

 ――仕方なかったったら、仕方なかったんだもん。

 やっぱりこれからは、どんなに研究に打ち込んでもお風呂だけは欠かさずに入るようにしようと。

 パチュリーはもう一度、固く己の心にそう誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第13話 「レコンサリエーション ⑤」

 

 

 

 

 

「ふぎゃー!?」

 

 玄関の扉が砕け散って、魔理沙が吹っ飛ばされた。

 どれどれ、どんな具合になってるんだ? ――そう言って、魔理沙が玄関のノブに手を掛けた瞬間だった。修復不能なまでに粉砕されたドアの欠片たちと一緒に、ずしゃー、とフロアの上を滑っていく。

 

「……うわあ」

 

 その光景を目の当たりにした月見は、思わずそんな仰け反った一声を漏らした。確かに図書館での彼女の振る舞いは目に余るものがあったが、それにしてもこの天罰はあんまりではなかろうか。動かなくなった彼女は、どうやら完全に気絶したらしい。

 扉を砕いたのは白い弾幕だった。大きな風穴の空いた玄関から顔だけを出して外を窺えば、門の前で美鈴と妖精たちが弾幕ごっこを繰り広げているのが見える。

 妖精の数はかなり多い。遠目だが、少なくとも二十匹以上はいるらしい。一匹一匹が放つ弾幕は非力でも、これではもはや数の暴力であった。

 美鈴の悲鳴が聞こえる。

 

「あー! 館を傷つけるのはやめてって何度も言ってるのに! 私が咲夜さんに怒られるんですよ!?」

 

 むしろ魔理沙に怒られるのではないだろうか、と月見は思う。

 同時、天井近くのステンドグラスが一枚破砕され、美鈴が「ぎゃああああああれ高いのにー!?」と絶叫を上げた。ついでに、月見と一緒に様子を窺っていた咲夜の表情が、すうっと一気に冷たくなった。

 

「……では月見様、少し行って参ります」

「……ああ」

 

 冷ややかな声で一礼した咲夜が、砕け散ったドアを通って、ゆっくり門の方へと歩いていく。その背中では、静かに燃え上がる激情の炎が、周囲に火の粉を撒き散らしていた。

 ……あの様子なら、美鈴への加勢は咲夜だけで充分だろうか。とりあえず、また流れ弾が飛んできた時に対処できるよう、月見も外に出て待機しておく。

 

「中国」

「あっ、咲夜さん! ナイスタイミングです、ちょっと数が多いので手伝ってください! ――さあ見てなさいよ妖精たち、ここからが私たちの本領はっぎゃあああああ!? さ、咲夜さん、私は美鈴ですよ!? 妖精はあっちです!」

「ええ、わかってるわよそんなこと」

「わかっててやったんですか!? え、咲夜さん、加勢に来てくれたんじゃないんですか!?」

「随分と取り乱してるみたいだから、活を入れてあげたのよ。落ち着いたでしょう?」

「すみません、取り乱すベクトルが変わっただけです」

「続きは妖精たちを追い払ってからね」

「ひーんごめんなさい――――!!」

 

 なんだか咲夜が美鈴の後頭部にナイフを刺したように見えたが、気のせいだろう。涙を流しながら必死に弾幕を放つ美鈴と、曲芸師顔負けの技量で数多のナイフを操る咲夜のコンビネーションは、なんだかんだでぴったりと息が合っていて、劣勢だった戦況を瞬く間に巻き返していく。

 月見は、時折飛んでくる流れ弾を尻尾で弾き返しつつ、ふっと緩く息をついた。これならばきっと、犠牲になった魔理沙も浮かばれることだろう。

 

「……ふ、ふふふ、ふっふっふっふ……」

 

 背後から不気味なせせら笑いが聞こえ、月見は振り返った。いつの間にか復活したらしい魔理沙が、全身をしきりに痙攣させながら、立っていた。帽子の鍔に隠されて表情は見えないが、覗く唇は歪な三日月を描いている。

 

「……魔理沙」

「ふっふっふ、ふふ、くぅっくっくっくっく……」

 

 壊れたねじまき人形みたいに、ケタケタと彼女は笑う。もしかして、先の一撃で頭の配線がズレてしまったのだろうか。

 

「……大丈夫か?」

「くっくっく……ああ、大丈夫だ。大丈夫すぎて、もうどうにかなっちまいそうなくらいだぜ」

 

 どうやら大丈夫ではないらしい。

 

「あの妖精ども、随分と舐めた真似をしてくれたじゃないか……。妖精相手にここまでコケにされたのは初めてだぜ」

「……」

「あんなに熱烈なラブコールをされたんだ。これはもう、全力で応えてやらないと申し訳ないよな……」

 

 怒りの火の粉を振りまいて、魔理沙が月見の脇を通り過ぎていく。月見は特になにも言わないまま、ため息一つでその背中を見送った。

 魔理沙はほうきに跨り空へ身を翻すと、スペルカードを発動。眼前に集約させた白光を、一息でぶっ放した。

 

「マスタースパアアアアアク!!」

「え? ――うぎゃああああああああ!?」

 

 ……美鈴を巻き込んで。

 月見が丸々呑み込まれるほどに極太な白い光線は、立ち塞がる弾幕を一瞬で嚥下し、妖精たち(と美鈴)を薙ぎ払った。

 突然叩き込まれた横槍に、咲夜と残りの妖精たちが眦を開いて動きを止める。黒コゲになった美鈴が地面に倒れる、どしゃ、という音が、居たたまれないほどに物悲しく響いた。

 

「魔理沙……」

 

 珍しく呆然とした様子でその名をこぼした咲夜に、魔理沙は凄絶な笑顔とともに応じた。

 

「咲夜、悪いけど私も手を出すぜ。今日の魔理沙さんは怒りの魔理沙さんだ。止めてくれるな」

「……まあ、手伝ってくれるのなら一向に構わないけど」

「私たちの戦う理由は一緒だ。そうだろ?」

「……どうやらそうみたいね」

 

 なにやら妙な共闘意識を芽生えさせている二人だが、プスプスと黒い煙を上げて隅っこに転がっている美鈴は、無視なのだろうか。

 

「言っておくけど、足手まといだったら容赦なく切り捨てるわよ?」

「そっちこそ。あんまりでしゃばると巻き込まれるぜ」

 

 無視らしい。

 ……紅美鈴、味方に背中から撃たれて戦死。

 

「じゃあ、行くわよ!」

「おうさ!」

 

 咲夜の時間停止による予測不能の弾幕と、魔理沙の火力重視の弾幕は、コンビネーションなど無縁だとばかりに滅茶苦茶であったが、それ以上に苛烈であった。息つく暇もなく襲い掛かる強力な連続攻撃に、妖精たちの戦線は見る見るうちに崩壊していく。……時折流れ弾が美鈴の体に当たったりしているのは、可哀想だから見ないようにしておいた。

 そうして、残る妖精もあと数匹。屋敷の方に流れ弾が飛んでくることもなくなり手持ち無沙汰になっていた月見は、無聊(ぶりょう)を紛らわすために周囲の庭へと視線を投げた。屋敷の中に負けず劣らず広い庭だが、ここの管理も咲夜がやっているのだろうか。

 などと視線を巡らせていると、月見はふと、不審に庭の茂みを揺らす二つの人影を見つけた。いつの間に入り込んだのだろうか、青い髪の妖精と緑の髪の妖精だ。

 

「ふっふっふ、しんにゅーせーこー! さすがあたい!」

「う、うわわ、本当に入り込んじゃったー……。ど、どどどっどうしようどうしよう」

 

 青髪の方は怖いもの知らずの活発な笑顔を浮かべていて、逆に緑髪の方は、怖いものしか知らないかのようにすっかり縮こまっている。そんな対照的な二匹の妖精は、茂みから堂々と顔を出した状態でこちらの様子を窺っていた。……あれで隠れているつもりなのだろうか。

 特に声をひそめる風でもなく、月見のもとまで丸聞こえするほどはっきりとした声で、青髪の妖精がほくそ笑んだ。

 

「門番たちがみんなに気を取られてる隙に、隅っこから侵入。うふふ、これがかみさんおにぼーってやつなのね」

 

 ――かみさん鬼棒?

 ……神算鬼謀、だろうか。ひどい読み間違いだが、妖精だから仕方がないかもしれない。

 

「や、やっぱりやめようよお。もし見つかったら、もう怒られるだけじゃ済まないよう……」

「なに言ってるのよ、ここまで来たんだからもうすぐじゃない! ほら、あとはあれ! 玄関の前のあいつさえ突破すれば成功だもん!」

 

 青髪の妖精が、月見を指差して勢いよく声を上げた。

 

「まだあたいたちには気づいてないから、隙を見て一気に行けば楽勝よ!」

「……」

 

 ツッコんであげるべきだろうか、と月見は悩んだ。囮を使って小利口に紅魔館に侵入してみせても、やっぱり所詮は、妖精なのだった。

 一方、緑髪の妖精はまだ幾分か利口であるらしく、月見の視線にいち早く気づいて、冷や汗を浮かべながら相方の肩を叩いた。

 

「……あの、チルノちゃん。そのことなんだけど、あの人、私たちに気づいてない?」

「え?」

 

 二人が同時にこちらを見てきたので、月見は笑顔でひらひらと手を振って応えてあげた。

 さっと色を失った二人の顔が、ものすごい勢いで茂みの中に引っ込んだ。

 

「ほ、本当だ! ど、どうしてバレたのよ、あたいの作戦は完璧だったはずなのに!」

「ねえチルノちゃん……冷静に訊くけど、こんなことしてるからバレたんじゃないかな」

「え? なんのこと?」

 

 あいかわらずその会話が丸聞こえなのは、さておいて。咲夜と魔理沙は、妖精たちの懸命の抵抗に手を焼いて、この二人にはまったく気づいていないらしかった。なので暇潰しにはちょうどいいだろうと思い、月見は茂みの方へと向かってみる。

 

「どどどっどうしようチルノちゃん、このまま捕まったらきっとひどいことされちゃうよっ。早く逃げなきゃっ!」

「あたいの辞書に後退の二文字はないわっ。大丈夫よなんかあいつ弱っちそうだったし、一気に行けば問題ないって!」

「……」

 

 果たしてこの二人は、月見が既に茂みの目の前に立っていることに、気づいているのだろうか。

 

「よーし、行くわよ大ちゃん!」

「えっ、ちょ――ま、待ってよお!」

 

 そして、青髪の妖精がまず先頭を切って飛び出してくる。だが、当然ながらそこには月見がいるわけで。

 

「あうっ」

「おっと」

 

 お腹あたりに勢いよく顔から突っ込んできた彼女を、月見はしっかりと受け止めた。

 

「……ぅえ?」

 

 もぞもぞ動いて月見を見上げる瞳は、純粋無垢を形にしたように透明感のある浅葱色をしている。くるくる丸く輝いて、ガラス玉のようだ。同じ色をしたショートの髪は、風も吹いていないのにさらさらとなびいていて、たった今生えてきたばかりであるかのように瑞々しい。

 氷の妖精なのだろう。一メートルとほんの少しの小さな体に、氷の羽を六つ背負って、ひんやり涼しい冷気を振りまいていた。

 名は――チルノ、と呼ばれていたようだが。

 

「……」

「……」

 

 チルノは今の状況がよく理解できていないのか、口を半開きにしたままポカンと固まっていた。振りまかれる冷気もあいまって、氷を触ってるみたいだ、と月見は思う。

 

「……チ、チルノちゃん、」

 

 一方の緑髪の妖精は、茂みから体を出した時点でちゃんと月見に気づいて踏み留まっていた。チルノが氷なら、彼女の瞳は新緑を思わせる。若々しい生命力を感じさせる反面、当人は人見知りをするのか小さく身を竦めていて、サイドテールが心細げになびいている。背中から伸びた一対の羽は虫たちのそれと同じ構造であり、差し当たっては、森の妖精とでも言おうか。

 彼女は、目の前の状況を理解できてはいるものの、それに対してどう対応すればいいのかがわからないようで、あせあせと慌てながらチルノを見たり月見を見たりしていた。そのうちチルノがゆるゆると首だけで彼女を振り返り、ぽつり、言う。

 

「……ねえ、大ちゃん」

「な、なに?」

「こいつって、さっき玄関の前に立ってたやつ?」

「え? ……う、うん、そうだと思うけど」

「……」

 

 沈黙。

 やがてチルノたちの呆然と呼吸をする音が、ゆっくりと三つの拍を刻んで、

 

「ふははははー捕まえたぞー」

「ぎゃああああああああ!? 助けて大ちゃ――――ん!?」

「チルノちゃ――――ん!?」

 

 大慌てて逃げようとするチルノを、せっかくなので、月見は捕まえてみることにした。彼女の小さな体に尻尾をグルッと巻きつけ、そのまま空中に持ち上げる。

 それを見た緑髪の妖精――大ちゃんというらしい――が、さっと顔を青くした。

 

「や、やめてくださいっ! チルノちゃんを放してっ!」

「放しなさいよこのへんたーいッ!」

 

 チルノが歯を剥き出しにして尻尾をポカポカ叩いてくるが、妖精なので力は高が知れていた。痛くも痒くもないし、むしろ尻尾がひんやりとして気持ちがいい。

 ともあれ、別に妙なことをするつもりなど毛頭ない。このまま魔理沙たちに見つかると、レーザーで丸焼きにされたりナイフで刺されたりして大変だろうから、今のうちに穏便にお引取り願おうというわけである。そのためには、一番人の話を聞かなそうなチルノを押さえておく必要があった。

 決して、悪戯心を刺激されたとか、そんなのではないのである。決して。

 月見はどうどうと両の掌を見せ、慌てる二人の妖精を静かに宥めた。

 

「はいはいお前たち、ちょっと話を聞きなさい」

「なによっ、あんたと話すことなんてなにもないわっ」

「まあまあ、まずは落ち着いてあれを見てご覧」

 

 そう言って、月見が門の方を指差した瞬間。

 

「マスタースパアアアアアク!!」

 

 そんな魔理沙の怒号とともに閃光が走った。極太の光線が一筋、数匹の妖精たちを呑み込みながら空へと駆け上がっていく。

 呑み込まれた妖精たちの甲高い断末魔が響いて、ぴちゅーん、と弾けて消えた。

 

「「……」」

「このまま進むなら、あの子たちみたいになるのを覚悟しないといけないよ。どこかの誰かさんが、大分怒ってるみたいだったからね」

 

 自然と一体である妖精は死という概念を持たないため、たとえ四肢が砕け散ろうが焼き尽くされようが、いずれ再生・復活する。ただし痛覚は持っているので、死ぬような傷を負えば当然、死ぬように痛いのだ。マスタースパークはどうやら熱光線らしいから、喰らえば全身を焼かれる痛みに悶え苦しむことになるだろう。

 それを想像したのだろうか。チルノと大ちゃんは全身を総毛立たせて物言わぬ石像と化していた。

 怒りの魔理沙は止まらない。

 

「マスタースパーク! マスタースパアアアク! マスタアアアスパアアアアアック!!」

「あっつあああ!? ちょ、魔理沙さん、あなた私に恨みでもあるんですかってぎゃあああああー……」

 

 恐らく手当たり次第にぶっ放しているのだろう、白の光線があちらこちらに乱れ飛ぶ。……さりげなく美鈴の断末魔が聞こえたのは、もうやりきれないので聞こえなかったことにした。

 

「あれを喰らったら、きっと痛いだろうねえ」

「「…………」」

「逃げるなら今のうちだよ」

 

 月見は尻尾を緩めて、チルノを大ちゃんの隣に降ろした。すっかり自失呆然になったチルノは騒ぐどころか口一つ利く様子もなく、ただゆるゆると、大ちゃんと互いの顔を見合わせて、

 

「「………………」」

 

 けれどやっぱり、なにも言わなかった。

 門の方から、声が聞こえる。

 

「ちょっと魔理沙、もう妖精たちは片付いたんだから落ち着きなさいよ」

「ええい放せ咲夜っ、まだ暴れたりないんだっ。隠れてるやつはいないだろうな、怒りの魔理沙さんが成敗してやるから大人しく出てこーいッ!」

 

 びくん、と二人の肩が飛び跳ねた。だらだらとあふれる冷や汗が顔面を濡らす。

 ようやくの思いで震える口を切ったのは、大ちゃんの方だった。

 

「チ、チルノちゃん……もうやめようよ、帰ろうよお」

「……しっ、しししっ、仕方ないわねまったく」

 

 答えるチルノは、上手く呂律が回っていなかった。腰に両手を当てて尊大に胸を張ったりするのだけれど、表情は完全に引きつっていて、今にも泣き出しそうだった。

 

「ま、まあ、あたいは全然へっ、平気なんだけど、大ちゃんがそこまで言うならね。なんたって、パ、パートナーなんだし」

「なんでもいいから早くっ。早くしないと見つかっちゃうよおっ」

「わ、わわわっわかってるわよ」

 

 恐怖で地面に縫いつけられていた両足と石になっていた羽に、懸命の力を込めて飛び上がる。ちょうど月見の目線と同じ高さになった二人は、

 

「え、ええと、お騒がせしましたっ」

「い、命拾いしたわねっ。今度会った時はカチンコチンにしてやるから!」

「はいはい、なんでもいいから早く帰りなさい。気をつけてね」

 

 大ちゃんは丁寧にお辞儀をして、チルノはぷいとそっぽを向いて。それからあせあせと塀を飛び越えて、一直線に霧の湖の方向へと消えていった。

 魔理沙たちが駆け寄ってきたのは、それから数秒あとのこと。魔理沙は本当に怒りが治まっていないらしく、目をぎらぎらさせていた。

 

「おい月見! 今なんか、そこに妖精がいなかったかっ?」

「魔理沙、少しは頭を冷やしたらどうだ。……ただの小鳥だよ」

「そ、そうか? それにしては妙にデカかったような」

「だから頭冷やせって」

「そうよ、魔理沙」

 

 隣の咲夜が、ため息とともにつなぐ。

 

「これ以上暴れないで頂戴。ただでさえ中国が使い物にならなくなっちゃったんだから」

「ああ、あれは不慮の事故だったな。妖精たちもひどいことしやがる」

 

 しれっとうそぶく魔理沙には、反省の色などかけらも見られない。月見は心の中で、不幸な美鈴にそっと合掌を送った。

 そういえば彼女、咲夜からは“中国”の愛称で呼ばれているようだ。大方、本名が中国読みなのが理由だろうか。

 妖精という怒りの吐け口を失った魔理沙は、頭の後ろで両腕を組んで、あーあとつまらなそうに天を振り仰いだ。

 

「仕方ない、不完全燃焼だけど大人しく帰るか……」

「ん、そうだね。日暮れも近いし、私も帰ろう」

 

 日の傾きからして、今の時刻は十六時あたり。お暇するにもちょうどいい時間だろう。

 

「……」

 

 月見のその言葉に、咲夜がほんの一瞬だけ表情を不満げに歪めた。けれどあまりに一瞬だったので、月見は気のせいだろうと思って、追及しなかった。

 

「そういやお前、どこに住んでるんだ? このへんじゃ見たことないからどっか遠くか?」

「いや、先日まで外の世界で生活していてね。こっちではまだ家がないから、とりあえず人里で宿を恵んでもらおうかと」

「はあ? 人里でえ?」

 

 大口を開けた魔理沙は、そのまましばらく呆けたあと、吹き出すように鼻で笑って、

 

「人里で宿を恵んでもらおうとする妖怪なんて、初めて見たぜ。本当に恵んでもらえると思ってるのか?」

 

 問題ない、と月見は頷く。そうでなければ、人里で泊めてもらおうなどと考えるはずもない。

 

「伊達に外の世界で生活してたわけじゃないよ」

「ふうん……だがまあ、そうなると途中まで一緒だな。私は魔法の森に住んでるんだ」

「ほう」

 

 魔法の森。幻想郷の中央部に広がる、この土地最大規模の森林の名だ。紅魔館から人里へ向かおうとすると、ちょうどこの森が途中で立ちはだかることになる。月見と魔理沙が向かう方向は、奇しくも同じというわけだ。

 

「一人で帰るのも暇だし、よかったら付き合ってくれよ」

「…………、……まあいいけど」

「ちょっと待て、なんだ今の長い間は」

「いや、別に」

 

 なんだか面倒くさいことになりそうだなあ、という言葉は胸の中にしまいつつ。まあ、道中の話し相手ができるのはいいことだろうか。

 それで、帰るに当たって気になる問題が一つ。それは、さっきからなにやらしかめっ面をしている咲夜であって。

 さっきは気のせいかと思ったが、どうやら違っていたらしい。その表情はとてもとても不満そうで、思わず声を掛けずにはいられなくなるほどだった。

 

「……咲夜、どうかしたか?」

「……別に、なんでもありませんよーだ」

 

 いや、そうやって頬をぷっくりさせてそっぽを向くあたり、なんでもないわけがないというか。

 ふむ、と月見は思考。図書館にいる時も少し気になっていたが、なにか彼女の機嫌を損ねるような真似をしてしまっただろうか。

 考えてみれば、なにやら大切なことを忘れているような気がするのだが、いかんせん色々なことがあったせいで思い出せない――

 

「そうですよね、わかってましたもん。月見様にとって、私の淹れる紅茶なんて、別にどうでもいいことなんですよね」

「……」

 

 ――あー……。

 思い出した。フランと出会う前に咲夜と交わした、『無事に終わったら最高の紅茶を』という約束。なにせフランに危うく殺されかけたり、レミリアと本気で相対したり、パチュリーと魔理沙の弾幕ごっこを仲裁したりと濃い出来事が連続したせいで、すっかり記憶の底に埋もれてしまっていた。

 ……。

 しかし、まあ。

 約束を忘れられたまま帰られそうになってしまって、それで「よーだ」とか「もん」なんてらしくもない言葉遣いをしてまでわかりやすく拗ねるあたり、可愛いところもあるものだ――とか。

 やはり普段の振る舞いが冷静で垢抜けていても、心は少女ということなのだろう。

 月見は参ったと頭を掻きながら、苦笑した。

 

「悪い悪い。色々あったからすっかり忘れてた」

「……むー」

「ごめんごめん。だからそんなに拗ねないでくれないか?」

「別に、拗ねてませんよーだ」

 

 本当に拗ねていない人間は、そうやってむくれ面を浮かべたりなどしないものである。

 

「そうだね。次来た時の楽しみってのは、ダメかなあ」

「そんなこと言って、どうせ早く人里に行きたいだけでしょう?」

 

 さり気なく言ったつもりだったが、なかなかに鋭い。向けられた咲夜の半目が体に刺さるようだった。

 さてどうしたものかと月見が思案していると、魔理沙が期待を孕んだ目で間に入ってきた。

 

「なんだ、紅茶パーティーでもするのか? だったら私の分も頼むぜ、なんだか小腹が空いちまってな」

「……」

 

 咲夜が露骨に嫌そうな顔をした。しばらく押し黙った彼女はやがて魔理沙から目を逸らし、月見に向けて莞爾(かんじ)と笑う。

 

「月見様、また今度いらっしゃった時で結構ですわ」

「……なあ咲夜。お前、実は私のこと嫌いだろう」

「あなた、この紅魔館の人たちから好意的な目で見られてると思ってるの?」

「あーもうわかったよ、今度からはちゃんとパチュリーに言ってから借りればいいんだろ? ったく……」

 

 今度は魔理沙が頬を膨らませる番だった。ぶーぶーぼやく彼女を見ながら、月見は内心で苦笑をこぼす。咲夜には悪いが、この場合は思いがけず魔理沙に助けられた形になるのだろう。

 

「……じゃあ、次に来た時にってことでいいかな?」

 

 問いに、咲夜は諦めたように力なく微笑んだ。

 

「そうですね。……忘れないでくださいね? 練習してお待ちしてますから」

「ああ、近いうちに必ず」

「必ずですよ。……じゃあ、指切りしてくれますか?」

「指切り?」

 

 予想外の言葉に、月見はオウム返しで問い返した。

 はい、と咲夜は頷く。

 

「これで、忘れたなんて言い訳はなしです」

「むう、随分と信頼されてないものだね」

「前科持ちですからね。しかも、二回もですから」

 

 紅茶の約束と……もう一つは、フランに妙なことはしないという約束か。確かに月見は、そのどちらの約束も見事に破っているといえる。

 故の、前科二回。参った、と月見は両手を挙げた。

 

「ふふ。じゃあ、今度こそ約束です」

「……そうだね」

 

 互いの子指を、そっと合わせる。ちょっとだけおっかなびっくりと絡まってくる咲夜の小指は、ひんやりとしていて、けれどすぐにじわじわ熱っぽくなっていった。

 見れば、咲夜の頬がほのかな桜色で色づいている。恥ずかしいんだったら別にやらなくてもいいのに、と月見は苦笑し、

 

「指切りげんまん。……嘘をついたら、どうなるのかな?」

「そうですね……。じゃあ、針千本飲ます代わりにナイフ千本突き刺すということで」

「……」

 

 どうやら、約束を破ったらその日が月見の命日になるらしい。

 それが、とても冗談を言っている風には聞こえなかったので。

 月見は背筋が薄ら寒くなるのを感じながら、ちゃんと覚えておかないとなと強く心に誓った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして小指を解いた月見と咲夜が門へと踵を返せば、そこでは美鈴が事切れていた。綺麗なビリジアンだったはずの服がすっかり焼け焦げて変色し、プスプスと黒い煙を上げている。

 

「……魔理沙」

 

 図書館で魔理沙に墜とされた小悪魔よりも、ずっとずっとひどい。後ろからくっついてきた魔理沙に半目を向ければ、彼女は明後日の空を眺めて口笛を吹き始めた。

 とやかく言っても仕方がないので、月見は美鈴の肩を叩いて意識確認をする。何度か名前を呼んで繰り返せば、やがて彼女はうんうんと呻いて身じろぎをした。

 

「美鈴、大丈夫か?」

「うぐぐぅー……はい、なんとかぁ……」

 

 腕を杖にしてよろよろと体を起こす。けれど立ち上がれるほどまでは回復していないらしく、ようやく上半身を起こしたところで、はああ、と大きなため息を落とした。

 

「ああ、ひどい目に遭った……」

「怪我はないか?」

「ええ、私も一応妖怪ですし……って、月見さんじゃないですか!? うわ、これはお恥ずかしいところをっ」

「ああ、そのままでいいよ。無理しないで」

 

 慌てて立ち上がろうとした美鈴を、月見は掌を見せて制した。それから彼女の足元に転がっていた帽子を拾い上げ、

 

「はい、これ」

「わあ、申し訳ないです……」

 

 美鈴は受け取った帽子を頭に乗せると、てへへ、と恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「すみません、こんな格好になっちゃって……」

「いや、いいんだよ。それよりも本当に大丈夫なのか?」

 

 服が焼けてしまっているから、もしかして火傷でもしているのではないかと心配したのだが、美鈴は気さくな笑顔で首を横に振った。

 

「大丈夫ですよ。私、頑丈なのが取り柄なんで」

「そう……か?」

 

 軽く美鈴の肌を見てみるも、確かに(すす)でところどころ汚れている以外は健康的な肌色だった。……それに服が焼け焦げてボロボロになってしまっている手前、あまり見るのもどうかと思ったので、月見は美鈴の笑顔を信じることにした。

 頑丈の一言で片付けてよいのかは、疑問だけれど。

 

「まあ、怪我がないならよかったよ」

「いやあ、ご心配ありがとうございます。お優しいですねえ」

「そうか?」

「そうですよ。ほんと、みんなに爪の垢を煎じて飲ませてあげたいくらいで……」

 

 なにかを思い出すように目を細めて、ふう、と美鈴は物思いなため息をつく。遠い懐かしさがにじんだその瞳は、彼女がいかに門番として苦労してきたのかを如実に物語っていた。

 どうやら紅魔館の門番の仕事は、あまり待遇が良いとはいえないらしい。

 

「あ、そういえば」

 

 月見がどう反応したものかと沈黙していると、美鈴はボロボロになった身なりを最低限で整え、しまいに手櫛で髪を梳いてから、深々と頭を下げた。

 

「妹様を、助けてくれたんですよね。咲夜さんから聞きました。私からもお礼を言わせてください」

「ああ……どう致しまして。私としても、あの二人が仲直りできたのは嬉しいよ」

 

 大図書館でフランがレミリアの腕を引いていった光景は、思い出すだけで心がそっと暖かくなる。本当に何気ないそのやり取りをここまで嬉しく思うのは、月見が地下室で、二人の涙を見たからなのだろう。

 思わず、ふふ、なんて笑みをこぼしていると、顔を上げた美鈴がこちらを見つめたまま動かなくなっているのに気づいた。なにか変なことを言ってしまっただろうか。彼女の瞳は、すっかり虚を突かれて丸くなっていた。

 

「どうかしたか?」

「え? ああ、いや……」

 

 問うと、美鈴は半開きになっていた口をゆるゆる動かして、照れ隠しするように小さく頬を掻いた。

 

「今の月見さんの笑顔、良かったなあ……なんて」

「……」

「なんというんですかね……こう、お父さん、みたいな? そんな感じの笑顔だったので、つい魅入っちゃってました」

 

 ――お父さん、ね。

 思いがけない言葉ではあったけれど、それはすとんと月見の胸の中に落ちてきた。月見は、他の妖怪たちよりもずっとずっと長生きしている。もしかすると、幻想郷では一番のお爺ちゃんなのかもしれないくらいに。

 だからだろうか。あの二人の小さな吸血鬼を娘のように感じている部分は、確かにある。実際、フランには「私の娘になってみるか?」なんて言ったりもしたのだし。

 などとしみじみ感じていると、

 

「――で、咲夜は一体なにをしてるのかな」

 

 いつの間にか美鈴の隣に、今まで背後にいたはずの咲夜が一瞬で移動している。彼女はなにやら真剣な面差しで月見の顔を覗き込んだあと、がっかりと肩を落としていた。

 

「面白い顔だったと、聞きましたもので」

「……」

「もう一回やってみてくれませんか?」

「やだよ」

 

 月見は低く苦笑。そもそもどんな顔をしていたのか自分でわかっていないし、人に観察される前でやるのは御免だった。

 よいしょと立ち上がった美鈴が、肩を落とす咲夜を見て、猫のように表情を明るくした。

 

「あっ、もしかして私、貴重なもの見ちゃいました? わあいなんだか優越か――危なあい!?」

 

 咲夜が無言で素早く右腕を振った。そして、咄嗟にしゃがんだ美鈴の帽子が真っ二つになった。

 咲夜の右手に、煌めく銀色のナイフ、一つ。

 

「こ、殺す気ですか!?」

 

 まるで容赦のないナイフの一閃に、美鈴が尻餅をついて震え上がる。咲夜はそんな美鈴を冷ややかな目で見下ろし、実に淡々とした声音で言った。

 

「いえね、そういえばおしおきの続きをしてなかったなあって。今ふっと思い出したの」

「まぁたまたご冗談を、私にはわかりますよ? それってただ単に月見さんの貴重な笑顔を見た私への嫉――ぎゃあああああ!?」

 

 続け様に三度走った鋭いナイフの太刀筋を、美鈴はゴロゴロ地面を転がってなんとかやり過ごす。だが時間を操る咲夜から逃れられる道理などなく、すぐに降り注いだナイフの雨が、美鈴の体の輪郭を見事に縁取った。

 

「……、」

 

 綺麗な大の字で地面に縫いつけられた美鈴は、そこで自分になにが起こったのかを遅蒔きながら理解したようで、ふるふる震えて涙目になっていた。そんな彼女を見下ろすのは、指の間で柄を挟んで、両手で合計八本のナイフを構えた十六夜咲夜。ふわり、莞爾(かんじ)と微笑み、しかし落とす言葉はナイフの如く。

 

「――なにか、言い遺すことは?」

 

 ひとしきり悔しげに震えた美鈴は、大声で叫んだ。

 

「あー咲夜さんここからだと下着が見えますよ色はふぎゃあああああ!?」

「……」

 

 響いた断末魔を遠巻きに聞きながら、月見は明後日の空を眺めてふっとため息をこぼした。どうして幻想郷の住人たちは、揃いも揃って元気いっぱいなのだろうか。

 隣に並んだ魔理沙が、くっくとシニックに肩を震わせて言う。

 

「騒がしいなあ。もっと、私みたいにお淑やかに生きればいいのに」

「……魔理沙、鏡を見たことは?」

「もちろん、身嗜みは毎朝ちゃんとチェックしてるぜ。――それがどうかしたか?」

「いや、なんでも」

 

 魔理沙がお淑やかだったら、世の女性のほとんどがお淑やかになるだろう。例外は紫や操くらいなもので。

 自らお淑やかを名乗るのだったら、せめて、

 ――せめて…………。

 

「……」

 

 特に思いつく知り合いがいなかったので、月見は頭を抱えた。私の周りはこんなのばっかか、と。

 いや、そういえば雛はどうだろう。厄神という境遇もあるのかもしれないが、月見の知り合いの中では間違いなく一番大人しい。

 ……もっとも彼女、椛と一緒に弾幕ごっこを見せてくれた際には、

 

『ほらほらどうしたの椛! 私、まだ結構余裕あるわよっ!』

『ちょっ……ま、まままっ待ってください雛さん、落ちっ落ちつ』

『厄神もやるときゃやるんだから! 天狗にだって、負けないんだからねー!』

『あ、あの、あのあの雛さんどうしてそんなにノリノリきゃうん!? う、うわーん!?』

 

 とこんな具合で、結構ノリノリで椛を涙目にしていたので、実ははっちゃけ少女なのかもしれないが。

 幻想郷の住人は、みんなみんな元気いっぱいなのである。

 

「つ、月見様っ! その、あのっ、聞きましたか!?」

「? なにをだ?」

 

 その時、顔を真っ赤にした咲夜が、ほとんど叫ぶようにしながらそう尋ねてきた。面食らった月見は思わず問い返してしまったが、すぐに、ああ、と思い至る。

 

「下着の色が――うおっと!?」

「……大丈夫よ、咲夜。落ち着いて。落ち着いて月見様の記憶を消せば、大丈夫、大丈夫……」

「いや、色々と大丈夫じゃないから本当に落ち着いてくれ。聞いてない、聞いてないって。だからナイフはアウト――アウトだって!?」

「っ……! っ……!!」

 

 羞恥の針が振り切った咲夜は、完全に歩く凶器――否、走る凶器と化していた。

 聞いていないと何度説明しても、それが咲夜の耳に届くことはなく。

 結局、咲夜が息切れを起こして動けなくなるまで、月見は彼女にしつこく追い回される羽目になったのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 寝惚け眼をぼんやり持ち上げれば、なにやら窓の外が騒がしい。

 なにかあったのかな、とフランはゆっくり体を起こした。

 

 レミリアの部屋だ。実際に入るのは、一体何年振りになるのだろう。記憶の中にあるそれとは、もう同じ場所とは思えないほどに変わってしまっていて、自分とレミリアがどれほど長い間すれ違っていたのかを見せつけられるようだった。

 けれど、それももう終わったこと。

 だから、これからは。そう思い、フランは己の隣に視線を落とした。

 天蓋付きの大きな大きなベッドの上、隣でぐーすか眠りこけているのは、他でもない愛しいお姉さん。半開きになった口の端からちょっとだけ涎が垂れているのを見つけて、フランは思わず苦笑いをした。

 ――てか、月見の尻尾の上であんなに寝たあとなのに、まだ爆睡できるんだ……。

 そんな間抜けな姉の寝顔はさておき、今は外である。何人かが騒いでいる声が聞こえるけれど、月見たちだろうか。

 フランはベッドから飛び降り、庭に面した窓辺へ向かう。西日に当たらないように気をつけながらカーテンを開け、ガラスに寄って下を覗いた。

 すると、門の近く。そこで咲夜が両手でナイフを振り回し、月見を追いかけ回していた。

 

「――え?」

 

 眠気が吹き飛ぶ。まさか咲夜が月見を襲っているのかと、一瞬肝が冷えたけれど、すぐ近くで魔理沙が腹を抱えて大笑いしているのを見つけて、どうやら違うらしいことに気づいた。

 いや、咲夜が月見を襲っているのは間違いないのだろうが、でもどちらかと言えばじゃれ合っているみたいだと、フランは思った。咲夜はナイフを振り回しこそすれ、当てるつもりはさらさらないのだろう。太刀筋はまったくの滅茶苦茶で、月見も苦笑いを浮かべる余裕を見せながらそれから逃げ回っていた。

 

「……咲夜も、月見と仲良くなったんだ」

 

 むくむくと、嬉しくなった。大図書館に移動する前に、彼女が月見のことをいじわるだと言っていたから、もしかしたらと不安に思っていたけれど。やっぱり咲夜も、月見のことを受け入れているのだ。

 咲夜と月見の追いかけっこが終わる。咲夜が息切れして動けなくなったようだった。肩でぜーぜー息をする咲夜を見て、魔理沙がここまで聞こえるくらいの大声で笑い転げ――あ、咲夜がナイフを投げた。ギリギリ躱された。惜しい。

 そういえば、なんで魔理沙があんなところにいるのだろう。まあさしずめ、こちらが眠っている間にまた本を盗みにやって来たのだろうが。

 でも魔理沙は、どうやら本を一冊も持っていない。もしかしたら月見がまたなにかしてくれたのかもな、とフランは思った。

 月見が二人の間に割って入り、それから咲夜と何事か話をしていた。なにを話していたのかはわからない。けれど会話が終わった時、月見は魔理沙と一緒に、紅魔館の門を一歩跨いで外に出て行ってしまった。

 月見が、帰ろうとしているのだと。それに気づいたフランは、

 

「あっ……」

 

 フランは、焦った。せっかく友達になったんだから、お見送りをしなきゃと思う。今から外に出て行って間に合うだろうか。でも日傘がない。自分のは地下室に置きっぱなしだし、レミリアのを借りるにしても、どこに置いてあるのかがわからない。

 どうすればいいのか思いつかなくてわたわたしている間に、月見が咲夜に手を振って、歩き出してしまった。その背が、どんどん紅魔館から遠ざかっていく。

 

「う、うわっ……!」

 

 急がないと、本当に間に合わなくなる。フランは咄嗟に、目の前の窓を大きく開け放った。西日に晒された腕が一瞬、焼けるように鋭く痛むけれど、構いなどしなかった。

 ここから呼び止めれば、まだ気づいてもらえるかもしれない。フランは大急ぎで回れ右をすると、未だベッドで眠りこけている姉を叩き起こした。

 

「お姉様、お姉様起きて! 月見が帰っちゃうっ!」

「……ぅえ~? なに、どうしたの……?」

 

 もぞもぞ寝返りを打った彼女の耳元で、叫ぶ。

 

「月見が帰っちゃうからお見送りするの! ほら起きてっ、早く早くっ!」

「お見送りぃ~……? いいじゃないのそんなの、ほら、もうちょっと寝てましょうよー……」

「いいから起きろっ!」

「あぅ~……」

 

 渋るレミリアを強引にベッドから引きずり落とし、そのままずるずると窓辺まで引きずった。彼女を抱き起こし、やっとの思いで立ち上がらせて、それから外を望めば、月見の背中はもうずっと遠くに離れてしまっていた。急いでいるのだろうか、フランが思っていたよりもずっとずっと早足だった。

 もしかしたらもう、声は届かないかもしれない。でも、それでもフランは、窓辺に食いついて精一杯に彼の名を呼ぶ。

 

「月見――――――!!」

「ちょっとフラン~、うるさいわよぉ……ぐぅ」

 

 立ったまま器用に船を漕いでいる姉は、はっ倒した方がいいのだろうか。フランが割と本気でそう思っていると、視界の端で、月見の背中が動いたのが見えた。

 声が届いたのだ。彼はもう、ここからでは顔もわからないくらいに離れてしまっていたけれど。それでもしばらくしてから、フランに向けて一つの動きを返してくれた。

 手を、振る。

 ここからでもはっきり見えるほど、大きく、大きく。

 

「っ……!」

 

 それが、フランにはとてもとても嬉しかった。こうやって誰かと、またねって手を振って。そんな友だちみたいなやり取りが、幸せだった。

 だからフランも、手を振り返す。

 あんまり嬉しかったものだから、その場でぴょんぴょん飛び跳ねながら、月見にも負けないくらいに大きく。

 

 勢い余った腕がレミリアの頭を直撃して、意図せずとも彼女をはっ倒してしまった――その時まで、ずうっと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……なにやってんだあいつら」

「さてね」

 

 その一部始終を、月見は苦笑しながら、魔理沙は目を丸くしながら見つめていた。

 いきなり殴られて怒ったレミリアが、頭を押さえながらフランに詰め寄る。フランは小さく舌を見せて笑うと、レミリアの腕を取って、こちらに向けてぶんぶんと左右へ振り回す。

 ちょ、ちょっとフラン、なにするのよ! ――なにじゃないよー、お姉様もほら、またねって! ――そんな二人の声が、今にも耳に聞こえてきそうだった。

 月見が二人に向けてもう一度手を振り返すと、はー、と魔理沙が感心したように吐息をこぼした。

 

「あんな楽しそうなフランなんて久し振りに見たぜ。狂気とやらで気が触れてるって聞いてたんだけどな」

「さて……これからは、それも変わっていくと思うよ」

 

 顔を真っ赤にしたレミリアが、強引にフランの腕を振り解く。それからフランに対して何事か叫んで、それを聞いたフランがむっと唇を尖らせて、レミリアの頭を叩いて、すぐにレミリアが反撃して――。

 

「……姉妹喧嘩(きょうだいげんか)なんて、見せつけてくれるねえ」

 

 ペチペチペチペチお互いを叩き合う二人の姿に、月見も、そして魔理沙の頬も、ついつい緩くなってしまう。そうさせられるだけの微笑ましさが、今のフランたちには宿っていた。

 

「……紅魔館、か」

 

 その赤にまみれた全容を望み、月見はふっと目を細めた。

 鮮血を塗り固めて造ったような悪趣味極まりないデザインは、確かに見る者の度肝を抜くだろうが。

 

「でも、見かけによらず、いい場所だったね」

 

 レミリアと取っ組み合いながら、それでもまたこちらに向けて手を振ってくれた、フランの満面の笑顔を見て。

 露の疑いなく、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第13.5話 「魔法の森探検ツアー霧雨魔法店行き」

 

 

 

 

 

 日暮れが近い。西へ大きく傾いた太陽はほどなくして並ぶ山々に足をつけ、この幻想郷に朱を落とすだろう。太陽に代わって空に昇り始めた月が、刻々とその白さを増してきている。

 なるべく早く人里に辿り着きたいものだと、月見は俄に足を速めた。

 

「おおいちょっと待てって、私が一緒にいることを忘れちゃ困るぜ」

 

 直後、慌ててついて来た少女の声に背中を叩かれた。首だけで振り返れば、そこにはほうきを握って駆け足を踏む魔女の姿がある。

 そうして月見の隣に並んだ彼女は、たちどころに眉をハの字にした。

 

「私はお前と違って体が大きくないんだ。そんなに大股で歩かれたら、たちまち置いて行かれるぜ」

「私も急いでるんだよ。無理しないで、ほうきに乗ったらどうだ?」

「たまには健康指向もいいかと思ってな」

 

 徹底的なまでに白と黒で着飾った風体から、しかし覗くのは贅沢すぎるほど潤沢な金髪。反骨が意思を持って歩いているかのような少女、霧雨魔理沙は、家が魔法の森にあるからと、紅魔館からの帰り道を月見とともにしている。

 

「こういう時は女のペースに合わせてやるのが、男の甲斐性ってやつじゃないか?」

 

 口を開けば、あいもかわらず調子のいい言葉ばかりが飛び出してくる。だがそれも、月見にとっては紅魔館での一件で既に慣れたものだったし、また一応は的を射た訴えでもあった。魔理沙の言う通り、相手のペースに合わせないで一人で勝手に進んでしまうのは、少しばかり大人げないだろう。

 けれど今は、時間が時間だった。空を振り仰げば、青の中にほのかな茜色の気配が混じり始めてきている。

 

「しかしね、日の入りまで恐らくあと二時間とない。あんまり遅くなると不審に思われるだろうし、早く行って損はないよ」

「なんだったらウチを使うか? 多少汚いが、一人くらいは泊まれるぜ。親もいないし、遠慮することはない」

「ハッハッハ、冗談を」

「ん? いや、別に冗談じゃないが」

「……」

 

 月見は無言になって魔理沙を見下ろした。すると自分の発言になに一つ違和感を持っていない、きょとんとした疑問顔を返された。

 正気だろうか。月見は一音一音はっきりと、言い含めるように、

 

「魔理沙。私は、男だよ」

「知ってるぜ? 顔見りゃわかる」

「普通、知り合ったばかりの男を自分から家に泊めたりするかな。そこは女として躊躇っておいたらどうだ?」

「いやいや、美少女と一つ屋根で夜を明かせるんだぜ? そこは男として喜んでおけよ」

 

 魔理沙の言葉は、まるで当然のことを言うように躊躇いがない。

 ……本当に、正気だろうか。月見は額に手を遣り、大きめな嘆息を一つ、落として言った。

 

「……それは、少し不用心過ぎるんじゃないかと、私は思うんだけどね」

「おっと、お前、もしかして私になにかするつもりなのか?」

 

 我が意を得たりと、魔理沙が目を輝かせた。月見を斜め下から見上げ、含みのある流し目を作って、意味深に笑う。

 

「さすがは妖狐。そんな見た目でも、獣だな……」

「……」

 

 してやったりという顔から察するに、彼女はこのセリフを言いたかっただけなのだろうか。

 まあ、確かに月見は狐、正真正銘の獣――厳密にいえば妖獣――であるが。

 しかし少なくとも、そういう意味(・・・・・・)でまで獣ではないつもりだった。なので月見は満面の笑顔を浮かべ、生意気なことを考える魔理沙の頭をバシバシと叩いてやった。

 成人を迎えていない彼女の背は、月見の胸元に届くかどうかで。

 

「子どもが粋がるんじゃないよ」

「む……せ、成長期は、まだまだこれからだぜ。将来有望ってやつだ」

 

 もしかして気にしていたのだろうか。そっぽを向かれたためよくわからなかったが、一瞬、口の端を悔しさで曲げたようだ。

 やはり女の子でも、背が高くないというのはコンプレックスになるのだろうか。

 

「……いつか、私だって」

「……」

 

 違った。魔理沙は頭ではなく胸を押さえている。どうやらコンプレックスなのはそっち(・・・)らしい。

 別に、そういう意味で言ったわけではないのだが――まあ、揚げ足を取るのも可哀想なので、見なかったことにしておこう。

 

 魔法の森は、幻想郷の中央部に広がる大森林である。幻想郷自体がさほど広い土地ではないので、“大”を付けるべきかどうかは疑問だが、少なくともこの土地では最大規模のものだ。湿気が異常なまでに高いため生活に向かず、更に毒キノコの胞子がそこら中を舞って瘴気を形成しているため、妖怪の山とはまた異なった意味での危険区域とされている。

 紅魔館から人里へ向かうためには、この森を突っ切るか、大きく迂回しなければならない。瘴気の影響か、魔物のように禍々しく成長した木々の伸ばす枝が、幾千の命を屠った妖刀さながら、くすんだ妖しい光を放って月見を威嚇していた。

 思わず足を止めると、隣に並んだ魔理沙が苦笑した。

 

「さっきこそああ言ったけど、実際、ウチに泊まるのはあんまりオススメしないぜ。なにせ、この森の環境が良くないからな」

「……そうだね」

 

 それは月見も重々承知済みだ。この森の劣悪な環境には、人間はもちろん、妖怪たちですら尻尾を巻くという。毒キノコの瘴気に魔力を高める副作用がなければ、この森に住もうと考える者など一人も現れなかっただろう。

 

「大人しく迂回するか、空を飛んでくことをオススメするぜ。なまじっか足を踏み入れても、痛い目を見るだけだからな」

「ああ、わかった。――じゃあ行こうか」

「っておいおい、普通に入ってくのかよ!?」

 

 歩き出すと同時に大声で呼び止められ、月見は振り返った。魔理沙が、なんだコイツ、とでも言うかのような目でこちらを見ている。

 月見は首を傾げた。

 

「行かないのか? できれば案内してくれると助かるんだけど」

「いや、お前、人の話聞いてたか?」

「この幻想郷中でお前にだけは言われたくない言葉だね」

「そうじゃなくてだな、痛い目見るって言ったろ? ここは毒キノコの瘴気が幻覚を引き起こしたりするんだ」

「ああ、それがどうかしたか?」

「どうかしたかって……」

 

 腑に落ちないと眉根を寄せる魔理沙を見て、月見もようやく思い当たった。どうやら魔理沙は、妖狐という種族をあまり詳しく知らないと見える。

 心配してくれるのは感心だが、それは杞憂というものだった。月見は浅く両腕を広げ、

 

「魔理沙。私たち妖狐が幻術の扱いに長けてるのは、知ってるだろう?」

「まあ、それくらいは……」

 

 魔理沙の肯定を確認してから、勿体ぶるようにわざとらしく抑揚をつけて、「では」と続けた。

 

「たかが毒キノコ程度の幻覚が、幻術を司る一族である私に効くと思うか?」

「――……」

 

 妖狐や化け狸は、幻術に対して高い耐性を持っている。内の大妖怪ともなれば、少なくとも同格の相手以外からの幻術は、一切受け付けないといってもいい。毒キノコなど論外だ。

 故に、月見がこのまま魔法の森に立ち入ったとしても、なんら問題などありはしない。強いて言えば、日没までに人里に辿り着けるかがわからなくなることくらい。

 だがせっかく目の前まで来たのだし、久し振りに魔法の森を探検してみるのも面白いだろう。ここでもまた、込み上げる好奇心が理性に勝ったのだ。

 魔理沙はしばらくの間呆気にとられた顔をしていたが、やがてハッと息で笑って、帽子を深く被り直した。

 覗く唇端が、三日月を描く。

 

「……責任は持たないぜ?」

「よろしく頼むよ」

「上等だ。魔法の森探検ツアー霧雨魔法店行き、一名様ご案内だぜ」

 

 てかお前、早く人里に行きたいんじゃなかったのかよ。――もう少し余裕はあるし、せっかくここまで来たんだからね。――そうやって話をしながら、月見は魔理沙とともに森へと分け入る。

 そんな月見を、木々は魔理沙の友人だと勘違いしたのだろうか。妖刀の如き禍々しさで伸びていた枝葉たちが、心なしか、その鋭さを和らげてくれたような気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――で、これが食べられるキノコで、こっちが食べられないやつだぜ。パッと見た感じは一緒だけど、裏のヒダがまっすぐ伸びてるか曲がってるかで見分けりゃいい」

「ふむ……ではこれは?」

「いやお前、それは触るだけで幻覚見る超毒キノコだから。つんつんすんなバカ」

「特になんともないが」

「……むう、毒キノコ如きの幻覚が~とか言ってたのは嘘じゃなかったんだな。つまらんぜ」

「ハハハ、それは申し訳ない」

 

 魔法の森探検ツアーは、いつの間にか、魔法の森キノコ採集ツアーになっていた。あまりにも多種多様なキノコが生え揃っていたため、ついつい当初の目的を忘れて目移りしてしまったのが発端だった。あちらこちらに自生したキノコたちは、外の世界では滅多に、或いはまずお目にかかれないような希少種ばかりで、月見の関心を引くには充分だった。

 

「おや……これはなんだか、ちょっと他とは違うようなキノコだね」

「おっ、そいつは魔法薬に使える実に珍しいキノコだぜ! でかしたな月見、大手柄だ」

 

 魔理沙は魔法使いであると同時に、キノコ学者でもあるらしい。この幻想郷で知らないキノコはないとのことで、月見が興味を持ったキノコをすべて丁寧に解説してくれた。

 

「お礼に、このキノコを食べてみていいぜ。ほら、生でカブっと」

「いやお前、これ、さっき言ってた食べられないキノコじゃないか」

「チッ」

「……」

「ハハハどうした月見、狐火なんて出して――うわあああ待て待て本当に珍しいキノコなんだってそれ! だから焼こうとするなー!」

「美味しいかなって」

「アホかー!」

 

 そんなこんなで、薄暗く陰湿な森の雰囲気とは正反対に、とても賑やかな探検ツアーなのだった。

 道と呼べるほど生き物の手が入った場所ではない。地面は年を跨いですっかり黒ずんだ落ち葉と、瘴気の影響で変な伸び方をした雑草とで埋め尽くされ、獣道すらありはしない。

 そんな道なき道を、月見は魔理沙とともに進んでいく。あれだけ激しいにわか雨が降ったにも関わらず、水たまりは一つもなかったが、土はぬかるんでいて歩きにくかった。

 

「ったく……お前がここまで子どもっぽいやつだとは思わなかったぜ」

 

 こちらを先導しながら魔理沙がこぼした言葉を、月見は意外だと思わなかった。その上で、わざととぼけた振りをして尋ねた。

 

「そうか?」

「そうだ。後ろついてきてると思ってたらいつの間にかいなくなってて、隅っこでキノコをいじってたお前を私は忘れない」

「興味を引かれると、つい体が動いてしまうタイプでね」

 

 好奇心が強いとは昔からよく言われるし、それは自らも認めるところだった。そして好奇心が刺激された時だけは、子どもらしく、我が強くなってしまうことも。

 

「なんだ、どっかのブン屋みたいな性格してるな。妖怪の山に、射命丸文っていう好奇心旺盛な天狗がいてな。気が合うだろうから会ってみるといいんじゃないか?」

「……そうだね」

 

 思いがけず文の名が出てきたことに、月見はついつい苦笑を浮かべた。今朝方、500年振りに再会した旧知の烏天狗は、あちこち角が取れて非常に気さくな性格になっていた。あれでもその昔は泣く子も黙る大妖怪だったのだから、なんとも面白い変化だと月見は思う。

 故に今でも歯をむき出しにして嫌われている自分が、寂しくもあるのだが。

 

「おっと」

 

 などと考えていると、木の根をひょいと飛び越えていった魔理沙が、着地際にぬかるみで足を滑らせた。月見は焦ることなくすぐに尻尾を伸ばし、傾いた彼女の背中を支えてやった。

 

「お、悪い悪い。まったく、通り雨のせいですっかりぬかるんじまってるな。歩きにくいったらない」

「空を飛んだらどうだ?」

「枝がな、飛ぶには邪魔なんだよ」

 

 月見は頭上を見上げた。曲がりくねって伸びた木々の枝は、確かにいじわるなほどに空の道を邪魔している。

 

「じゃあ、いっそ木の上を飛んだら」

「そしたら、魔法の森探検ツアーが名ばかりになるだろ?」

 

 意外にも彼女、月見にしっかり魔法の森を案内するつもりだったようだ。

 

「じゃあ、足がつかない程度にちょっとだけ飛ぶか、大人しく歩くかだね」

「私は、ついでにキノコも集められるし歩きで構わないんだが、お前は大丈夫なのか?」

「そうだねえ」

 

 見上げる空は立ち込めた霧と枝葉に完全に遮られ、何色なのかすら掴めない有様だった。だが木漏れ日はまだ白かったので、きっと大丈夫だろう、と月見は思った。

 

「まあ、大丈夫じゃないかな。せっかくのツアーだしね、最後まで楽しませてもらうよ」

「そうか。んじゃまーのんびり行こうぜ。なんか面白そうなキノコがあったら教えてくれ」

「はいはい」

 

 歩き出した魔理沙の背に続き、更に森の中に分け行っていく。途中、何度かキノコを見つけて足を止めたが、それでも開けた場所に出るまで時間は掛からなかった。

 洋館だ。一階建ての母屋に、八角柱を象った二階建ての離れ屋が隣接している。外壁は白く、屋根は青。紅魔館とは違って、見る者の目に優しい涼やかなデザインであった。

 

「あそこか?」

 

 もしあれが『霧雨魔法店』なら、なかなかどうして、本人の性格に見合わず上品な家だ。

 だが、魔理沙からの返答は否。

 

「いや、あそこは私の友達の家だ。霧雨魔法店はもうちょっと奥だぜ」

「友達ね。魔法使いの?」

「ああ。アリスっていう人形師の――」

 

 そこで、ふとしたように魔理沙が動きを止めた。

 

「……魔理沙?」

 

 同じく足を止めた月見は、怪訝の目で隣の魔理沙を見下ろす。彼女はしばしその家とこちらを見比べてから、やがて口で、猫のように三日月を作って笑った。

 いたずらを思いついた子どもの顔だった。それを、魔理沙は否定しなかった。

 

「……魔理沙」

「なあに、せっかくだから紹介しておいた方がいいかと思ってな。ちょっと待っててくれ」

 

 見え透いた建前を並べると、魔理沙は含み笑いをしながら小走りで洋館へ。靴の泥も払わず玄関前に上がり込み、ガンガンと容赦なくドアを叩いた。

 

「アリスー! アーリースー!」

 

 けれどもその騒々しい呼び掛けに対して、家主――アリスからの反応はなかった。魔理沙がもう一度声を上げてみるが、結果は変わらず。

 

「……なんだ、留守か。くそー、タイミング悪いぜ」

 

 ちぇ、と舌打ちしながら玄関を離れた魔理沙の顔には、いたずらが不発に終わったことへの不満がありありと表れている。アリスというのが誰かは知らないが、留守にしていてくれてありがとう、と月見は思った。

 魔理沙がこちらに戻ってきた頃合いを見計らって、尋ねる。

 

「どんな子なんだ?」

「それは言っちまったら面白くないんだな」

 

 そう言って魔理沙は、帽子の後ろで手を組んで、また意味深に笑った。

 

「次の楽しみに取っとくといいぜ、面白いもんが見れるからな」

「……面白いこと、ねえ」

 

 ということは魔理沙は、月見にいたずらしようとしたのではなく、そのアリスとやらにいたずらをしようとして、今し方ドアを叩いてきたらしい。

 

「私がアリスに会うと、どうなるんだ?」

「そいつも秘密だ。とりあえず、抱腹絶倒の如くだとは言っておく」

「?」

 

 顔を合わせると、月見や魔理沙が思わず笑ってしまうような少女。……一体何者だろうか。

 

「なんだ、その……センスが壊滅的だとか?」

 

 服のセンス、或いは髪型が、お世辞にも素敵とはいえないとか。

 

「いやいや、見た目は普通に可愛い女の子なんだが……性格がな、実に面白い」

「面白い性格?」

 

 芸人志向とかだろうか。外の世界には、人形を使って漫才をする芸人というのが何人かいたが。

 

「まあとにかく楽しみにしとけって。そう広くもない幻想郷だ、そのうち会えるだろうからな」

「……まあ、ほどほど程度で楽しみにしておくよ」

「おう。それじゃあ行くか。霧雨魔法店はもうすぐだぜ」

 

 結局魔理沙は明確な答えを寄越さないまま、陽気に口笛を吹きながら歩き出してしまった。そういう引きをされると余計気になってしまうのだが、果たしてアリスとはどんな少女なのだろうか。

 ……もしかすると、魔理沙の友達だというから、彼女に負けず劣らずのひねくれ者なのかもしれない。

 

「……」

 

 魔理沙が二人。そんな頭が痛くなる光景を思い浮かべてしまって、月見は目頭を押さえながら、ゆっくりと魔理沙の背を追いかけていった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 霧雨魔法店は、“店”を名乗るにはあまりに物寂しく、閑散としていた。魔法の森にある時点で予想できていたことだが、もちろん店前に客の姿などありはしない。

 こちらもまた、アリスの家と同じく洋館であった。茶色を基調にした木造の素朴な構えで、実に自然に森の中へと調和している。一方で外壁にはあちこちツタが走っており、近寄りがたいおどろおどろしさも感じられた。まさに、“魔女の家”という言葉がよく似合う。

 

「しっかし……」

 

 開けた森を覆う空は、ほのかな茜色をしている。夕暮れを告げるカラスの鳴き声を遠くに聞きながら、月見は眉をひそめて、己の足元に視線を落とした。

 なんの装飾もされていない簡素な板っきれの看板が、根本から折れて無残に転がっている。そこには、殴り書きに近い金釘文字でこう書かれていた。

 

「『霧雨魔法店 なんかします』。……魔理沙、商売ナメてないか?」

 

 商売に対する意気込みが、まったくといっていいほど感じられない。

 

「そいつはまあ、私の副業みたいなもんだからな。霧雨魔法店。ちょっとした道具の修理から妖怪退治まで、幅広く請け負うなんでも屋だ」

 

 魔理沙は特に気にした様子もなく一笑いして、ツタに所々を侵略されつつある玄関を、軋む音とともに一息で引き開けた。

 途端、月見の視界に飛び込んでくるのは――

 

「――……」

 

 月見はゆるく首を振り、眉間をゆっくりと揉み解して、けれど目の前の光景はちっとも変わっていなかったので、ため息をつくように低い声になって言った。

 

「……“片付けのできない女”、か」

「できないんじゃない。しないんだぜ」

 

 幸いなのは、それがゴミ山ではなかったことか。魔導書。魔法瓶。植物に始まる魔法薬の材料。その他諸々のマジックアイテム。それらが、しかしまるでゴミを扱うように、そこかしこにぶち撒けられていた。

 正直に言って、汚い。玄関から入っていきなり、足の踏み場が消滅している。

 

「まあ待ってろ。今、道を作るから」

 

 魔理沙は玄関に散らばっていた魔導書を次々と蹴飛ばして、中への道のりを確保していく。……ところでその魔導書は、パチュリーから借りているやつではないのだろうか。蹴飛ばしていいのか。

 魔理沙は鼻歌すら交えながら、陽気に答えた。

 

「小綺麗な部屋ってのは落ち着かないよな。ちょっと散らばってるくらいの方が、逆に人間味があって落ち着くんだぜ」

「ちょっと?」

「ちょっとだ。蒐集してきたアイテムを全部二階に突っ込んだからな、いつもよりは綺麗な方だ」

「……なあ、帰っていいか?」

「休憩くらいさせてやるぜ?」

 

 リビングまでの道を確保した魔理沙は、次に手に入れたキノコの置き場を探して、あろうことか、マジックアイテムであふれ返っていたテーブルの上をほうきで薙ぎ払った。なんの迷いも躊躇いもない、過去に何度も同じことを繰り返してきた手つきだった。薙ぎ払われたアイテムがすべて、雪崩を起こしたかのように次々床に落下していく。割れ物が交じっていたのか、パン、となにかが砕ける音が聞こえた。

 思わず眉間を押さえて呻いた月見とは対照的に、魔理沙の表情は涼しげだった。

 

「ん? あー、魔法瓶が交じってたか。まあ大丈夫だろ、確か中身は入れてなかったし」

「……」

「で、どうするー? とりあえず道は確保したから、入ってきても大丈夫だぜ」

 

 どうすると言われても、この惨状を目の前にして一体どうしろと言うのか。

 月見はしばし、なにも見なかったことにしてさっさと人里向かうべきだろうかと本気で悩んだ。だが結局、恐る恐ると足を踏み入れてみることにした。世界中のあらゆる秘境を巡り歩いてきた月見が、今しばらく振りに、足を動かすことに恐怖を感じている。無論、半ゴミ屋敷状態の家にお邪魔するなど、生まれて初めての経験だった。

 キノコをテーブルの上に積み重ねながら、魔理沙がニッと人懐こく笑った。

 

「いらっしゃい、ようこそ霧雨魔法店へ。なんだったら依頼を受けてやってもいいぜ?」

「そうだな、じゃあこの家を掃除してくれ」

「おう、じゃあ一緒に掃除するか」

「……休ませてくれるんじゃなかったのか?」

「女の子一人に働かせるのは、いけないと思うぜ」

 

 客を働かせるのは、いいのだろうか。

 半目を向けてやると、一応はプライドのようなものがあるのか、魔理沙は口を尖らせて反論した。

 

「言っておくけど、私だって女だし、最低限の衛生には気を遣ってるぜ? この家は見た目以上にちゃんと清潔だ。この部屋だって、散らかってはいるけどゴミ自体は一つもないだろう?」

 

 月見は部屋を見渡した。ゴミのように散らばるマジックアイテムは多々あるが、確かに、ゴミそのものは一つも落ちていない。

 だが、それとこれとは話が別である。ゴミがなければいくら散らかっていてもいい、というわけではないだろう。

 月見は、魔理沙に蹴飛ばされた魔導書に追い打ちをかけてしまわないよう気をつけながら、

 

「いや、これはさすがに散らかりすぎだよ。これじゃあ普段の生活にも不便じゃないか」

「とは言ってもな、置き場がないってのもあるんだぜ? さっき魔法店が副業だって言ったが、本業は蒐集家でな」

「だったらなおさら、整理しないと。これじゃあせっかくのアイテムが埋もれて、なにがなんだかわかりゃしない」

「それもそうなんだけどなー。別に人に見せるために集めてるわけでもないし、誰かに迷惑掛けてるわけでもないし、このままでもいいかなって」

「現在進行形で私に迷惑掛けてるが」

「女の子の部屋に入るのには、それなりの代償が伴うんだぜ」

 

 受け答えする魔理沙は終始笑顔のままで、現状を省みるつもりは毛頭ないようだった。これからもこうやって、蒐集したアイテムで自らの家を埋め尽くしていくのだろう。

 

「……」

 

 あまり大きく口を出せることでもないのは、わかっている。これは魔理沙自身の生活だ。彼女の性格を考えればとやかく言っても仕方がないし、彼女自身もそれを快くは思わないだろう。

 けれども。

 けれども、これはさすがに、ひどすぎである。

 

「……なあ、魔理沙」

「ん、なんだ?」

 

 魔理沙にほうきで薙ぎ払われ、床の上に小高い丘を築いたアイテムたちは、まるでゴミを積み上げた投棄場のようで。

 

「夕暮れまで、まだちょっとは時間がある。さすがに全部は無理だろうけど――」

 

 それらを遠い気持ちで眺めながら、月見は言った。

 この家で息休めすることを、諦めつつ。

 

「――このリビングだけでも、掃除するぞ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 本当に不思議な妖怪だと、魔理沙は思う。紅魔館に好き好んで近づくようなやつは自分を除いてみんなどこか変なやつばかりだと魔理沙は思っているが、彼もその例に漏れず、なんだか変な妖怪だった。

 銀の狐。名を、月見。

 バタバタ走り回ってリビングの整理整頓に勤しむ彼の姿を、魔理沙は心底面白い気持ちで目で追い掛けていた。

 

「とりあえず、アイテムは全部隣の部屋にまとめてしまうぞ?」

「ああ、構わんぜ。もともと物置みたいな部屋だしな」

 

 答えながら、魔理沙は心の中でくつくつと笑う。本当におかしな妖怪だ。妖怪が人間の家を、他でもない自らの意志で掃除するだなんて。これがどうして、笑わずにいられるだろうか。

 まるで人間みたいだ、と思う。実際魔理沙は、彼のことを妖怪だと思って接していなかった。気心の知れた人間の友人。今日出会ってからのたった数時間で、そういう目で彼を見るようになっている。

 本当に不思議なことだ。床に散らばったアイテムを拾い隣の部屋に運ぶまでの片手間で、魔理沙は気がつけば、月見のことばかりを考えていた。

 

 この幻想郷には、彼以外にも人間らしい妖怪というのはいる。人里に最も近い天狗、射命丸文はまさにその典型だろう。

 もっともそういう妖怪に限って、人当たりのいい笑顔の裏で果たしてなにを考えているのか、食えない一面があって逆に馴染みにくかったりする。……妖怪に限らず、幻想郷の連中というのはみんなそういう者たちばかりだ。

 だが、月見は違う。妖怪にしては珍しく温厚だというのもあるが、それよりも裏表がなくて自分を包み隠そうとしないから、一緒にいると、こっちまで素直になってしまいそうになる。変に自分を着飾る必要はないんだと、思わされる。

 きっと、十六夜咲夜はそうだった。異性の目を気にして恥ずかしがったり拗ねたりする咲夜なんて、他では絶対に見られまい。それがあんまりにも面白かったから、あの時は腹を抱えて転げ回ってしまった。

 そう、それは一言で言えば――人を素直にする妖怪。

 面白いもんだなあと、魔理沙はもう一度、強く思った。

 

「うおお!?」

 

 そんなことを考えながら拾ったアイテムを隣の部屋に突っ込んでいると、唐突に背後から月見の悲鳴が聞こえた。次いで、なにかが盛大に崩れる物音までついてくる。

 びっくりして振り返ると、魔導書の山が崩れて、月見が本の下敷きになっていた。……ああ、あそこは読み終わった魔導書を積み重ねて、魔導書タワーを作ろうとしていたスペースだ。

 

「……ぷっ」

 

 本たちの下でもぞもぞと動いている銀の尻尾が、なんだかあんまりにも滑稽だったから。魔理沙は本日二度目、腹を抱えて大笑いをした。

 香霖にいい土産話ができたなと、そう思いながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 空は既に茜色を通り越して、ほのかな闇色に包まれつつあった。刻一刻と深まる夜の色に急かされるようにしながら、月見は霧雨魔法店を飛び出した。

 

「それじゃあ魔理沙、あんまり散らかさないように」

「おー、ありがとうな。お陰でまたちょっと散らかせそうだぜ」

「……」

「冗談だって。せっかく片づけてもらったんだから、まあ、少しくらいは気をつけるぜ」

 

 霧雨魔法店のリビングは、すっきり綺麗とまではいかないが、客を招き入れても不快には思われない程度に片付けることができた。きっと一週間もすれば、家主によってもとの惨状に逆戻りさせられるのだろうが、月見はもうなにも言わないことにした。言えるほど、時間に余裕があるわけでもなかったから。

 玄関まで見送りに出てくれた魔理沙が、森の南南西を指差して言う。

 

「人里はあっち。森を抜けてすぐのところに、『香霖堂』っていう廃屋みたいな古道具屋があってな。そこの道沿いに下ってけばそのうち着けるぜ」

「香霖堂ね。覚えておくよ」

「おう。もし宿がもらえなかったら、そんときは戻ってきたらいいさ。美少女魔理沙ちゃんと一つ屋根の下、一晩くらいは泊めてやるぜ」

「はいはい」

 

 与太話もそこそこに、月見は速やかに南南西へと足を向けた。空よりも深い闇色に包まれた森は、獣が大口を開けて待ち構えているかのような不気味さがあったが、無論、その程度で立ち止まる月見ではない。

 

「ま、縁があったらまたどっかで会おうぜ。そん時は、もう少しゆっくり話ができるといいな」

 

 背中にそんな言葉を掛けられて、月見は歩幅を緩めた。振り返り、後ろ向きに歩き続けながら、

 

「次に会う時までには、もう少し付き合いやすい性格になっててくれよ」

「失敬な。こんなに素直で付き合いやすい美少女もそうそういないぜ?」

「はいはい」

 

 魔理沙がもっと丸くなってくれればそれに越したことはないが、きっと彼女とはこういう付き合いになるんだろうなと、月見はなんとなく予感していた。前に向き直る動きに合わせて、軽く手を振って、

 

「それじゃあ」

「おー、またなー」

 

 霧雨魔法店を離れ森の中に一歩足を踏み入れれば、月見の心はもう人里へと向けられた。背後を振り返ることはない。魔理沙だってさっさと月見から視線を外して、家の中に引っ込んでいることだろう。

 薄暗い森の中、木の根やぬかるみに足を取られないよう気をつけながら、独りごつ。

 

「さて……人里か」

 

 500年。人の住む世界が一変するには、あまりに充分すぎる時間だ。

 500年前は、幻想郷が成立してから間もないこともあってか、少し殺伐とした雰囲気が、ないわけでもなかったが。

 

「どういう風に変わってるか、楽しみだね」

 

 魔界のように凶々しい森の中で、その声はあまりに、あっけらかんとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第14話 「月の小径 ①」

 

 

 

 

 

 脚が棒のようだとまでは言わないが、さすがに休みたいなと月見は思う。思い返せば、今日は異常なくらいによく動いた日だった。人間が安全に生活できる唯一の理想郷である人里は、間もなく夜の帳に包まれようとしていた。

 さすがにもうなにも起こらないだろう、と思っていた。主だった活動をやめて家に戻る人間たちと一緒に、宿を借りて、ゆっくり明日に備えようと。

 そう思って訪れた人里の中心で、けれど、月見は。

 

「――頼む! お願いだから力を貸してくれ、この通りだ!」

 

 周囲を人だかりに囲まれ、投げ掛けられるのは助けを求める悲痛な叫び。

 今日という日は、まだ終わらない。

 夜が落ちつつある幻想郷で、もう少しの間だけ、月見は動く。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 霧雨魔法店を去り、魔法の森を抜けると、月見は広がった平野の先に集落を望んだ。日は間もなく、山々の中にその体を完全に沈めようとしている。霧雨魔法店では思わぬ寄り道をしてしまったが、これならなんとか間に合いそうだった。

 向かって左には魔理沙から教えられた『香霖堂』なる古道具屋があったが、これ以上寄り道をする余裕はさすがになかった。こんな辺鄙な場所に立つ古道具屋がどんな店なのかは、また次の機会に確かめるとして、月見は速やかに人里に向けて歩き出した。

 そうしながら、ゆっくりと首を回す。……関節が、パキパキと小気味のいい音を鳴らした。

 

「……大分、疲れたなあ」

 

 ため息を吐き出すように、そう言う。今日だけで、妖怪の山を登り下りし、紅魔館で派手な戦闘をし、霧雨魔法店を忙しなく掃除し、魔法の森を踏破したのだ。疲労に強い妖怪の体とはいえ、さすがに抗議の声を上げ始めていた。

 

「……早いとこ行って、休ませてもらおう」

 

 だんだん重くなってきた両脚を励ましつつ、月見は懐から一枚の札を取り出した。陰陽術などで好んで用いられる、術式を刻み込んで発動の鍵としたものだった。

 刻まれた文字は、

 

「――『人化の法』」

 

 直後、月見の体に変化が生まれた。札が数多の光の粒子となって(くう)に溶け出し、体を包み込む。わずかにものが焼けるような異音を伴って、光の奥で、月見の体が作り変えられていく。

 『人化の法』は、有り体をいえば変化の術だが、ただ単に外見を変化させるだけの子ども騙しとは違う。体の構造を根本的に作り変え、完全な人間になる(・・・・・・・・)――月見が長年の歳月をかけて大成させた秘術である。

 身を包む光が輝きを失えば、月見の体は劇的な変化を得ていた。銀の尻尾と獣耳は綺麗に消え失せ、側頭部には、代わりに人間の耳が生えている。髪は艶のある黒で染まり、肌もまた、赤みのある濃い肌色へと色を深めている。

 そして、これは外見だけではわからないことだが――妖力は、霊力に形を変えて。

 月見はまさしく、人となっていた。

 

「……よし、と」

 

 術が成功したことを確かめ、月見は小さく頷きを落とした。これならどれほど疑われたとしても妖怪だとバレる心配はないし、外来人を装えば、一晩くらいの宿も保障してもらえるだろう。

 

「寝るならやっぱり、布団で寝たいよねえ」

 

 狐であるはずの月見がそう思うのは、長い年月の中で、人の生活に馴染みすぎたからなのか。

 月見は薄く苦笑し、人里へと向かう足を少しだけ速めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人を喰らう妖怪が跋扈(ばっこ)する世界にも関わらず、人里の周囲に防柵の類が少ないのは、すなわち必要がないからだ。人間たちに無条件の安全が認められた唯一の土地であるここは、人と妖怪の共生のために、八雲紫が自ら率先して保護を行なっている土地だった。害意を以て近づく妖怪は退け、好意を以て近づく妖怪は受け入れる――そんな手の込んだ結界を周囲に張り巡られているのだと、当人から聞かされたことがある。故に妖怪の侵入を妨げるほど堅牢な柵は必要なく、ただ里の子どもが容易に越えられない程度のものさえあれば事足りる。

 

 町並みは、過ぎ去りしかつての宿場町を思わせた。焼杉独特の黒い赤褐色が、道の両側で家屋を築き、見通す先まで連なっては大路を成している。人の手を入れて自然から切り離しつつも、また一方で、自然とともに息を刻む――そんな幽玄の中にある町並みは、のどかで、うららかで、そして少しだけの寂しさを醸す。きっと、こういう焼杉の町並みを、もう外の世界ではあまり見かけなくなってしまったのもあるのだろう。

 けれど今は、それ以上に寂しさを引き立てる光景が、月見の目の前にあった。

 

「……人がいない?」

 

 日没もすっかり近づいた頃合いとはいえ、多くの店が並ぶこの大路で、人っ子一人ともすれ違わない。町は、もぬけの殻のようにがらんどうとしていた。

 

「ふむ」

 

 並ぶ店々は、多くがまだその看板を下ろしていないし、茶屋からは団子の甘い香りすら漂ってくる。それなのにどの店にも、客はもちろんのこと、店番の姿すら見られない。

 妖怪に襲われた、という線はないだろう。紫の結界があるし、そうでなくとも綺麗すぎる。

 店の具合を見てみるに、本当につい先ほどまで人がいたのは間違いなさそうだから、

 

「……なにか、催し物かな?」

 

 里人がみんな出払ってしまうほどのなにかが、里のどこかで起こっている。祭りか、それともトラブルかはわからないが、店をほっぽりだして出て行ってしまうのだから相当だ。

 もしかすると、布団で休めるのはまだ先の話なのかも知れない。そう感じながら、月見は里の中心へと足を進めた。

 

 中心部に近づくに連れて、ぽつぽつと人とすれ違うようになった。しかしどの里人も皆、一様に不安で押し潰されそうになった表情を浮かべていて、よそ者である月見を気に掛ける余裕はないようだった。目が合っても、挨拶すらろくに返してもらえない。

 

「……」

 

 月見は、足を向ける人里の中央広場に、大きな黒山が築かれているのを見た。ほどなくして、ざわざわと騒ぎ合う喧騒も耳につくようになる。

 けれどそれは、祭りなどとはほとほと無縁な――言い争いの声。

 

『……だから、その子は私が必ず助ける! みんなはここで待っていてくれ!』

『しかし、慧音先生! もう暗くなってきちまってるし、たった一人で捜すなんて無茶だ! 俺らも手伝った方が……!』

『危険すぎる! 妖怪たちはもう活動を始めているんだ! お前たちまで妖怪に襲われたらどうするんだ!?」

『けどっ……!』

 

 その言い争いが意味するところを察して、なるほどなあ、と月見は眉間に皺を寄せた。さしずめ、子どもが一人、外の森に迷い込んでしまって、どうやって助け出すかで意見が割れている……といったところだろう。

 この人里は紫によって守護されているが、一歩でも外に出てしまえば話は別だ。妖怪に見つかった子どもがどうなってしまうかなど、わざわざ声に出して言う必要もない。

 

「……ちょいと、失礼」

 

 人々の背を縫って、月見は黒山の奥へと分け入っていく。意見は激しく割れていて、交わされる言葉は怒号のようでも悲鳴のようでもあった。

 

『とにかく行かせてくれ! 早くしないと、間に合わなくなる!』

『俺もついていくぜ、慧音先生! 大人は命張って子どもを守るモンだろう!?』

『そうだ!』

『頼む、慧音先生!』

『っ……! けどっ……!』

 

 声からして、言い争っているのは、慧音と呼ばれた女性と、里の男たち。一人で子どもを捜しに行こうとする彼女に、居ても立ってもいられない男たちが同行を求めている。

 人垣を掻き分けながら、月見はそっと笑みをこぼした。たった一人の子どもを助けるために、命の危険すら度外視して、ここまで強く一丸になれる。やはり、人間という種族は温かい。

 そして、それ故に――止めねばならぬ。

 

「よしおめえら、準備をしろ! なんとしても見つけ出すぞ!!」

「「「おおおっ!!」」」

「ま、待ってくれ! 待ってっ……!」

 

 男たちの雄叫びに、慧音とやらの悲鳴に近い声が混じっている。恐らく彼女は、ただの人間が妖怪たちの住処に足を踏み入れることの意味を、理解しているのであろう。

 それは、命を捨てに行くようなものだから。だから止めたくて、でも、止まってなんてくれなくて。

 故に月見は、代わりに叫んでいた。

 

「――ちょっと、待ったあ!」

 

 行く手を遮る里人の背中を、心の中で謝罪しつつ、強引に脇へと押し退ける。

 そうして、月見が人垣を抜けた先で。

 月見は、蒼い銀髪を夜闇に溶かす、少女の姿を見た。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 夜に里の外へ出ることの危険性は、人里の守護者として、常々、たとえ口うるさくなってでも説いてきたつもりだった。危険だから夜に里の外へ出てはいけない、もしどうしても出なければならない用事がある時は、私に許可を得てからにしてくれと――口癖のように。

 里の外に飛び出してしまった子を、一緒に捜させてくれという男たちの申し出は、確かにありがたいものだった。かつての教え子だった子たちが、こうも逞しく真っ直ぐな大人になってくれた。……寺子屋の教師を務める者として、素直に嬉しかった。

 けれど慧音は、それ以上に、悲しかったのだ。

 だって。違うじゃないか。里の外には人を喰らう恐ろしい妖怪がいるんだって、何度も言ってきたじゃないか。だから、なにかあった時は私に任せてくれと、そう教えてきたじゃないか。

 妖怪は。この幻想郷にいる妖怪は、お前たちがどうにかできるような相手じゃないんだって。

 教えてきた、はずなのに。

 

「ま、待ってくれ! 待ってっ……!」

 

 雄叫びを上げ、武器を取ろうと動き出す男たちに、必死に手を伸ばす。武器なんて、持っていようがなかろうが関係ない。霊力すら持たない、己の腕力以外に頼るものを持たないただの人が、妖怪と戦うなんて、無謀ですらあった。

 慧音が守ってやればいい? ああ、確かにそうかもしれない。でも、今慧音が守るべきなのは、森に迷い込んでしまった子どものはずだ。そして彼女を守るためには、もはや余計な荷物(・・)を抱えている余裕なんてなかった。

 だから、どうかなにもせずに、待っていてほしいのに。でも、それを言葉にするだけの勇気が、慧音にはない。誰かを守りたいという、彼らの温かい気持ちを切り捨ててまで、現実を突きつける勇気が。

 

「っ……!」

 

 だから慧音は、震えることしかできなかった。私の気持ちなんて届かないのかと、嘆くしかなかった。

 ――聞き慣れぬその声が、喧騒を切り裂くまでは。

 

「――ちょっと、待ったあ!」

 

 周囲に築かれていた人垣を強引に押し退け、知らない男が飛び出してきた。里の人間ではなかった。里の人間なら、慧音は顔も名前もすべて覚えている。

 歳は恐らく三十にも満たないであろう、まだ若い男だ。肩に届くかどうかの、男としては少し長めな黒髪を垂らして――けれどそれ以上の顔立ちを、慧音は意識できなかった。彼の出で立ちに、自然と目を奪われていたから。

 白の狩衣。外の世界から切り離され、時代の進みが止まった幻想郷ですら、時代錯誤と取れる古めかしい出で立ち。まるで、かつて妖怪退治を生業にしていた人間たち――陰陽師のような。

 目が合う。そうして初めて気がつくけれど、彼は随分と背が高かった。……まあ、慧音が小さいというのもあるといえばある。女性らしい起伏に恵まれた一方で、どういうわけか慧音の体は、身長だけが腹立たしいくらいに成長しなかった。一時期は『子ども先生』なんてあだ名がついて、言論弾圧するのに苦労したほどだ。

 目の前の男が意外そうに眉を上げたのは、きっと予想外に小さい慧音の姿に驚いたからだろう。先生なんて呼ばれてる割に、随分小さいな――そんな感情がありありとにじんだ男の顔を見て、慧音は、彼のつま先を踏み抜いてやろうかと本気で悩んだ。

 その視線から逃れるように、彼が里の男たちに目を遣った。表情をすっと真面目なものにし、よく通るバリトンの声で、

 

「お前たち。森に入るという話、一寸待った」

「……なんだよ、あんたは」

 

 突如間に入ってきた不審な彼に、男たちは胡乱げな視線で答える。間もなく日が完全に沈もうとしているからか、無駄話に付き合う暇はないという焦りの色も見て取れた。

 その焦りに気づく素振りを見せつつも、彼は「まあまあ」と両の掌を見せた。

 

「単刀直入に言わせてもらうけど、森に入るのはやめておけ」

 

 男たちが顔をしかめた。その中の一人が、地面を蹴るようにして彼の前に出て、叫んだ。

 

「聞いてなかったのか? 子どもが一人、里の外に出ちまって戻ってきてないんだよ!」

「聞いた上で言っているよ」

「あんたも、危険だからって言うのか!?」

「加えて、この子の迷惑にもなる」

 

 この子、と言って彼が示したのは、他でもない慧音。子ども呼ばわりされたのが一瞬癪に障ったが、言葉にはできなかった。

 男たちが、それよりも先に声を荒らげていたから。

 

「迷惑って、どういう意味だよ!」

 

 今にも殴りかかりそうなほどに目を剥く男たちに、しかし彼は静かな表情を微塵も崩さなかった。

 

「冷静に、考えてみてくれ」

 

 問う。落ち着いた声音で、諭すように。けれど奥底に、口答えを許さぬ強さをたたえて。

 

「彼女は、森に迷い込んだ子どもを助けなければならない。なのに、妖怪と戦う術を知らないお前たちがついていったら――」

 

 一息、

 

「――彼女が守らなければならない相手が、闇雲に増えてしまうと。そうは、思わないか?」

「――っ」

 

 息を呑み、言葉を失った男たちに、つなぐ。畳みかけるように。

 

「お前たちは、妖怪と戦える力を持ってるのか? ……武器さえあればなんとかなる、なんて答えはなしだよ。そのへんの獣なんかとはわけが違う。妖怪が、その鋭い牙でお前たちの喉笛を噛み切ろうとした時、お前たちは動けるか? 立ち竦まずに、自分の命を守れるか? もしお前たちが妖怪に襲われてしまったら、もう子どもを捜す余裕なんてなくなってしまう。――それじゃあ本末転倒じゃないか」

 

 もう、男たちが声を荒らげることはなかった。彼の言葉が確かに的を射るものであると、反論したくとも、認めざるを得なかった。

 

「……妖怪の賢者が率先して里を守っている、ある種の弊害だね。妖怪が恐ろしい存在だと知りつつも、一体どれほどにまで恐ろしいのかを知らない。……知っているのは、この子だけというわけだ」

「っ……」

 

 彼が、首だけでこちらを振り返る。その深い黒の瞳を見た時、慧音は咄嗟に叫んでいた。

 

「あなたは……あなたは、知っているのか!? 妖怪の恐ろしさを……妖怪と戦う術を!」

 

 彼の言う通り、たとえ里の男たちを連れて森に入っても、慧音にとっては足手まといにしかならないだろう。しかし一方で、たった一人で子どもを捜し出すには、絶望的なまでに人出が足りないのも事実だった。なにせ子どもは、人里の周囲に散在する森の、一体どこに迷い込んでしまったのかすらわからないのだ。

 彼の言葉は決して闇雲ではなく、確かな経験に裏づけられたものだと、慧音には感じられた。彼の陰陽師を思わせる出で立ちは、伊達でも酔狂でもないのだと。

 だから、もし彼が、力を持った人間であるのなら。

 

「――頼む! お願いだから力を貸してくれ、この通りだ!」

 

 それ以外のことを考えられるほどの余裕は、時間的にも精神的にもありはしなかった。もう夜は訪れているのだ。今すぐにでも動かなければ、最悪の事態になってしまう。

 彼が、里の男たちのように心優しい人間であることだけを祈って。

 慧音はただ、頭を下げる。

 

「里の子は、どこの森に入っていってしまったのかもわからない……! だから、どうか! どうか、力を貸してっ……!」

 

 どよめきが周囲の里人たちに広がる。しかしそれもほんの一瞬で、あとはじっと、彼の答えを待つように静まり返った。

 そして答えは――彼の小さな宣言によって、示された。

 

「――飛べ」

「……え?」

 

 その言葉の意味を理解できなくて慧音が顔を上げた瞬間、視界を白の欠片で埋め尽くされた。驚いて一歩あとずさってから、それが無数の紙片であることを知った。

 一枚一枚が二十センチほどの、人の形を模して作られた紙片が、彼の周囲で桜吹雪のように乱れ飛んでいる。それが一体なんであるかを、慧音は迷いの竹林に住む陰陽師の友人から聞かされたことがあった。

 人形(ひとがた)陰陽師が使う(・・・・・・)、もっとも簡素でもっとも初歩的な――式神の名。

 

「……子どもだし、さほど遠くにも行っていないだろう」

 

 呟きに、すべての人形が一瞬で動きを止め、彼からの指示を仰ぐように待機状態に入った。まさか心を持っているのではと疑ってしまうほどに、彼の手によって完璧に統制されていた。

 そして、

 

「捜せ。――二分以内だ」

 

 散る。北へ、南へ、東へ、西へ。三里四方を飛燕の如く、人形たちの羽音が切り裂いていく。その勢いは大気すら乱し、巻き起こった旋風に慧音が一瞬目を瞑ったあとには――水を打った静寂だけが残された。

 誰しもが、言葉を失っていた。里人たちは、なにが起こったのかを理解できなくて。そして慧音は、彼が本当に力を貸してくれたことを、未だ理解しきれなくて。

 

「まあ、なんだ。男として……というか、人として助けてやらないとね」

 

 呟きながら、彼は慧音の足元からなにかを拾い上げた。……慧音の帽子だ。さっき頭を下げた時に落ちてしまったのだろう、まったく気がついていなかった。

 彼はそれを慧音の頭の上に乗せ、茶化すように、白い歯を見せて微笑んだ。

 

「あんなに泣きそうな顔で、助けてって言われたんだし……ね?」

 

 言われて初めて、慧音は、自分が今までどんな顔をしていたのかを理解して。

 込み上げてきた恥ずかしさの前に、帽子をぎゅっと両手で押さえつけて、俯くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 上白沢慧音。人里の守護者を任され、人々から『先生』と慕われている割に、若い少女であった。背丈だけなら、ちょうど魔理沙と同じくらいだ。もっとも半人半妖らしいから、年齢は百を超えていようが。

 人里の中央で、月見は静かに佇み、放った式神――人形(ひとがた)を操る。視覚や聴覚などの基本的な知覚の共有に加え、術の遠隔発動の媒体にもできる、簡素ながらも汎用性の高い式神だ。迷子の捜索にはこれ以上ない。

 傍らには、慧音の姿があった。握り込めた指が掌に食い込み、そこから血の気を奪っているのが見えた。

 本当は、今すぐにでも走り出したいくらいだろう。だが子どもの居場所がわからない以上、闇雲に捜し回っても実りは少ない。もし勘に従って向かった先が正反対の方向だったら、目も当てられなくなってしまう。

 

「あなたは……里の人間ではないよな」

 

 白くなったその手を誤魔化すように、話を振られた。

 

「そうだね。……道に迷ってしまってね。当てなく歩いているうちに、ここに」

「陰陽師なのか?」

「そんなところだ」

 

 懐かしいやり取りだな、と月見は思う。妖怪の身を偽り、陰陽師として人間の世界に紛れ込んでいた一時期を思い出す。

 今ではもう、千年以上も昔の話だが。

 

「……まだ、見つからないか?」

「もう一分」

 

 縋るような問い掛けに対し短くそれだけ答え、月見は式神の操作に意識を集中させた。式神を放ってから一分が経つが、未だ子どもは見つからない。ただ、闇に紛れ活動を始めた妖怪たちの姿が見えるばかりであった。

 

「……」

 

 月見はその面持ちに険を刻み、人形を加速させる。目を閉じ、意識を静め、すべての知覚を鋭敏に研ぎ澄ませる。

 そして、一分と四十秒。

 捉えた。

 

「――いた」

 

 南東だ。小さな木の幹に体を預け、泣いている女の子が一人。

 生きている。

 

「ほ、本当か!?」

「ああ。南東の森にいる。怪我もなく、元気に泣いてるよ」

 

 慧音を始めとし、周囲の人だかりへざわめきが広がった。中には胸を撫で下ろし、安堵の笑顔をこぼす女性たちもいる。

 それを見た月見も、思わず肩から力を抜きかけて――しかし、直後に別の人形から入ってきた情報に、舌打ちした。

 女の子の近くになにかがいる。少女とは比べものにならないほど無骨で大きな、人間離れした巨躯は、

 

「まずいな……すぐ近くに妖怪が、」

「――ッ!?」

「あっ……慧音!」

 

 傍らで空気が動いたのを感じ、月見が見た時、既にそこに慧音の姿はなかった。南東に向けて、風すら置き去りにして駆け出している。まるで猪のようだったが、それで正解だと月見は思った。

 もはや一刻の猶予もない。その熊に似た妖怪は、既に少女の泣き声を聞きつけてしまっていた。

 慧音が少女のもとに辿り着くのが先か、それとも妖怪が鋭い爪を振るうのが先か。

 月見は周囲の里人たちへ、釘を刺す声音で言った。

 

「……おまえたちは、ここにいてくれ」

 

 是非を問うような暇はありはしない。ついてこられたところで、守ってやるような余裕もない。

 月見の言葉に、里人たちは皆一様に俯いた。女たちは祈るように。男たちは、なにもできない自分たちを呪うように。

 

「……」

 

 それを確認し、月見は慧音のあとを追った。追い縋る声も、足音もありはしない。ただ、すべての里人の祈る想いだけが、月見の背に注がれていた。

 故に月見は駆ける。体に霊力を巡らせ、地を蹴る力、勇ましく。

 必ず助けるからと、誓う言葉だけを、その場に残して。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀の風が、夜の落ちた森を鮮やかに切り裂く。間に合ってくれと――ただそれだけを祈って、慧音はがむしゃらなまでにひた走った。若い枝で肌を傷つける、その痛みすら、力に変えて。

 南東の森。どこを捜せばいいのか皆目見当もつかなかった状況で、あの陰陽師の男がたった二分で弾き出してくれた場所は、しかし闇が落ちた森の中で一人の子どもを見つけ出すには、あまりに頼りないものだった。

 大声で少女の名を呼べば、もしかしたら反応が返ってくるのかもしれない。しかし一方で、不用意に物音を立てれば、それだけ多くの妖怪を寄せ集めてしまう危険性もある。

 

(一体、どこにッ……!)

 

 畢竟、叫び出したい衝動を抑えて、ただ走るしかない。この先に少女の姿があることを、祈るしかない。

 

「ッ……」

 

 あの陰陽師の男を置いてきてしまったことが悔やまれた。少女の近くに妖怪がいると、その言葉を聞かされた途端に全身から血の気が失せて、具体的な場所も聞かないままに飛び出してしまった。

 だが、決して引き返すわけにはいかない。今はもう、少女が妖怪に見つけられてしまっている可能性すら、あるのだから。

 見つけるしかない。なんとしても。

 

『――慧音!』

「……!」

 

 突如として響いた声に、慧音は思わず足を止めそうになった。その声は、背後から追い縋るのではなく、真横から耳朶を叩いてきた。

 あの陰陽師の声だが、そこに彼の姿はない。あるのはただ――慧音と並行して空を駆ける、一枚の紙片。

 人形(ひとがた)を通して、彼の声が届く。

 

『慧音、あの子はすぐ近くにいる。こいつ(・・・)に先導させるから、行ってくれ』

「! た、助かる!」

『私も全力でそっちに向かってるけど、何分人間だからね、まだ時間が掛かる。……すまないが、援護はあまり期待しないでくれ』

 

 謝ることなんてなにもない。充分だ。充分すぎるくらいだった。広い森の中からたった二分で少女を見つけ出して、更に先導まで買って出てくれて、もはやこれ以上などなかった。

 

「あ、ありがとう……!」

『礼にはまだ早いぞ。……さあ』

 

 人形が速度を上げ、慧音の先を飛燕のように切り裂いていく。獣道を外れ、少女のもとまで最短距離を駆け抜ける道筋に、服が汚れることなど、躊躇いはしなかった。

 追う。草木を掻き分け、枝葉を叩き折り、ただ前だけを見つめて。

 そして、十秒と経たないうちに視界は開けた。転がるようにして逃げ回る小さな体と、それを執拗に追い掛ける、熊すら凌ぐ巨大な体を見た瞬間。

 慧音の霊力が、火のように弾けた。

 

「――その子に、触るなあああああ!!」

 

 弾幕なんて必要ない。ただ一撃で――射抜く。

 霊弾が走る。ありったけの霊力を凝縮させ、銃弾のように押し固められた弾が、疾風となって射抜くのは妖怪の喉笛。

 

『――!!』

 

 潰された喉笛は、もはや断末魔を上げることすら敵わない。ただ一度、足掻くように爪を振って――しかして巨体は、あっさりと地に崩れ落ちた。

 

『……お見事――っておい、待』

「大丈夫か!?」

「あっ、――けーねせんせえっ!!」

 

 傍らで人形がなにか声を発した時、慧音は既に飛び出していた。慧音に気づいてよたよたと歩み寄ってきた少女の体を、両腕で思いっきり包み込んだ。すぐに胸の中で上がった嗚咽すらも抱き竦めて、ただぎゅっと。

 ――よかった……!

 助けられた。守ることができた。堰を切ったあふれた安堵の気持ちが全身を呑み込んで、涙すら込み上がるようだった。もはや立っていることもできなくて、少女とともにゆるゆると座り込んでしまう。すぐ耳元でなにか彼の声が聞こえるが、とてもそこまで気が回ってくれない。ただ、腕の中にいる少女のぬくもりを、少しでも長く感じていたかった。

 だから――己のすぐ背後に、暗天を突き上げるかのような巨影が佇んでいると、気づいたのは。

 

『――慧音ッ! 死ぬ気か!!』

 

 彼の大喝に脳をぶっ叩かれて、意識が覚醒した直後であった。

 風の裂ける音が聞こえる。自分の体と同じかそれ以上のなにかが高速で迫ってくる、血も凍るような異音が――すぐ真上から、落ちてきている。

 

「――ッ!?」

 

 背筋から上ってきた悪寒が全身を襲って、一瞬で体が冷たくなって、そのまま凍りついてしまった。どうしなければならないのか、頭ではわかっているはずなのに、その思考が行動に結びつかなかった。

 あ、これはダメだな――なんて、そんな妙に俯瞰した自分の声が、意識の片隅で聞こえた気がした。少女を助けることができたと勝手に思い込んで、妖怪が一体だけだと勝手に決めつけて、完全に気を緩めてしまったから。まさか二体目がいるなんて、夢にも思っていなかったから。

 真上から落ちてくるのは、きっと妖怪の腕だろう。空気の悲鳴を聞くだけでわかる。慧音の体と同じくらいに巨大な腕だ。切り裂かれるのか、殴り飛ばされるのか、押し潰されるのか。どちらにせよ、一瞬でなにもわからなくなるだろう。

 でもせめて、腕の中の少女だけは守ろう。そうすれば、あとから駆けつけてくれたあの陰陽師が、きっとこの子を助けてくれるはずだから。

 そう信じて慧音は、少女の体を、もっと、もっときつく抱き締めた。

 

 ――しかして慧音の背に襲い掛かるのは、身を裂かれる激痛でも、身を潰される衝撃でもなく。

 突如として逆巻いた、熱風。

 

「ッ、熱……!?」

 

 痛みすら感じるその熱気に、慧音は思わず振り返った。振り返ることができた。慧音を襲うはずだった妖怪の腕が、緋色の炎に巻かれて、苦悶の声とともにあらぬ方向へと振り回されていた。

 ――え?

 なんで、炎が――そう慧音が呆然と思った、直後。

 

『そのまま動くなよ』

 

 耳元で、声が聞こえた。

 耳に心地よいバリトンの声音は、あの陰陽師の、声だった。

 

『じゃないと、火傷するぞ』

「ふえっ、」

 

 わけがわからなくてそんな間抜けな声をこぼした慧音は、己の視界を横切って、一枚の紙片が前へ躍り出たのを見た。更に、続け様に四方八方から現れた人形たちが、妖怪の周囲を取り囲んだ。

 妖怪ががむしゃらに両腕を振り回す、その動きすら、鮮やかに交わして。

 響く宣言は、静かに、歌を詠むかの如く。

 

『――狐火・蓮火(れんか)

 

 空に、花が咲く。

 

 紅い紅い、蓮の花だった。

 暗い闇色で包まれていた森が、一瞬で鮮烈な紅に染め上げられる。自らが置かれていた状況もとうに忘れて、慧音はただ酔いしれるように、その唐紅の蓮に心を奪われた。

 体の芯まで焦がすほどに気高い熱気が、慧音の肌を打ちつける。

 その蓮華が燃え盛る豪炎なのだと気づいたのは、花弁に呑み込まれた妖怪の断末魔が、森を震撼させてからだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 結局のところ、慧音はまた、あの陰陽師の男に救われていたらしい。蓮の花が陽炎のような残火を残して夜空に消えた時、慧音の耳に届いたのは、安堵と呆れを半々に織り交ぜた彼の声だった。

 

「……なんとか、間に合ったみたいだね」

 

 声のした方を見遣れば、木々に遮られた薄闇の奥から、彼が息を切らせて駆け寄ってきた。よほど全力疾走したのだろう、額にはかすかに汗をにじませていた。

 

「大丈夫か?」

「え……あ、」

 

 問われ、慧音はようやく自分を取り戻した。あの紅い蓮華をまるで夢のように思いながら、ゆっくりと体の緊張を解いて周囲を見回した。やれやれといった様子で慧音を見下ろす彼がおり、腕の中で「せんせえ、痛いよう」と可愛らしく声を上げる少女がおり――そして、全身を焼き尽くされて息絶えた、妖怪の骸がある。

 なにが起こったのかは、しっかりの慧音の網膜に焼きついていた。けれど、あの燃える蓮の花があまりに幻想的だったものだから、本当に現実だったのか、いまひとつ確信が持てなかった。

 

「あれは……あなたが?」

 

 ぼんやりと問えば、彼の大きめなため息が落ちてきた。

 

「まったく肝が冷えたぞ……。まさか本当に死ぬつもりだったのか?」

「す、すまない……助かったよ」

 

 死ぬつもり。そう言われてようやく、今までの出来事を現実として理解できた気がした。

 あの時慧音は、確かに殺されるところだった。この体は半人半妖だから、さすがに死にはしなかったかもしれないが――どの道、到底無事では済まなかったろう。

 それを救ってくれたのが、彼。

 

「どうやって……」

「それよりも、早いところ戻るぞ。結構派手に暴れたからね、長居は危険だ」

「そ、そうだな」

 

 あの蓮の炎はきっと遠くからでもはっきりと見えるほどに凄絶だったし、慧音だって、妖怪を一体仕留める際につい大声を上げてしまっていた。それに気づいた他の妖怪たちが、ほどなくしてここに集まってくるだろう。

 慧音は頭を振って気持ちを入れ替えると、腕の中の少女に向けて尋ねた。

 

「歩けるか?」

「うん、だいじょうぶ」

 

 今になって気づくが、少女はほとんど怪我をしていなかった。あれだけ大きな妖怪に襲われたのに、よく腰も抜かさずに逃げ回れたものだ。

 少女の体をゆっくりと腕から離す。そして、自らも立ち上がろうと両脚に力を込めて――

 

「――あ、あれ」

 

 おかしい、と慧音は思った。立てない。……というかそもそも、脚が動かない。

 

「……」

 

 頭からさあっと血の気が落ちた。もしかしてこれは、もしかしなくても。

 

「どうした慧音、早くしないと」

「あ、ああ。わかってるよ、わかってっ……」

 

 まさかこのタイミングで、そんなことがあってたまるか。そう自分に言い聞かせて、慧音は渾身の力を振り絞るのだが、

 

「……う、ううっ」

 

 立てない。地面に伸びた両脚は慧音の命令を一切拒否し、完全にボイコットを決め込んでしまっていた。

 強い興奮や緊張によるストレス状態が続いたのちにほっと平常心に戻ると、体が弛緩して、こんな風に立てなくなってしまうことがある。

 人、それを――腰が抜けた、という。

 

「せんせえ、どうしたの? どこか痛むの?」

「あ、いや、その……こ、これは、だな」

 

 妖怪に襲われとても怖い思いをした、この少女ですら、けろりと立ち上がってみせたのに。

 まさか、自分が、腰を抜かすなんて。

 

「慧音、もしかしてお前……」

「う、うううっ」

 

 いつまで経っても動けない慧音に、陰陽師の男がははあと含み笑いをしたのがわかった。慧音は両脚をぺしぺし叩いて叱咤したが、現実は無情だった。

 いや、別に、腰を抜かしてしまったこと自体は、百歩ほど譲ってまだいいのだ。なにせ一時は死ぬかどうかの瀬戸際に瀕したのだから、安堵のあまり立ち上がれなくなってしまったとしても、それはうべなるところである。

 だがこのタイミングで腰を抜かしてしまった場合、慧音が里まで戻るためにはどうすればいいのか。それを考えると、もうとても平常心ではいられないほどに、恥ずかしかったのだ。

 

 妖怪が多い森の中で長居するわけにはいきません。今すぐ誰かに運んでもらいましょう。

 ……じゃあ、慧音を運ぶのは、一体誰?

 

「う、うううぅぅ~~っ……!?」

 

 地面に爪を立てて屈辱を堪え忍ぶ。よりにもよってこのタイミングで、この状況で動かなくなってしまった己の両脚は、いくら恨もうとも恨みきれるものではなかった。

 

「……けーねせんせえ?」

 

 きょとんと首を傾げる少女の横で、くつくつと、男が笑い声を押し殺していたので。

 慧音は手近なところにあった木の枝をひっ掴み、男に向かってぶん投げたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第15話 「月の小径 ②」

 

 

 

 

 

「い、いいか、絶対に変なことはするなよっ……絶対だぞ!?」

「しないよ。だから静かにしててくれ」

 

 規則的なリズムが、慧音の体を優しく揺さぶる。いつもよりずっと高くなった目線の先には、闇夜に黒髪を流す男の後ろ姿が見える。慧音がしがみつく彼の肩は広く、腿の裏を支えてくれるその手もまた、大きい。

 腰を抜かして歩けなくなった慧音が一刻も早く里へ帰るためには、彼に運んでもらう以外に手がなかった。長く森に留まればそれだけ妖怪に襲われる危険が増すのだから、やむを得ないことだ。

 そう、これはやむを得ないこと。仕方のないこと。だから変に緊張してあれこれ意識する必要はないのだと――そう自分に言い聞かせて冷静になろうとするのは、もう何分も前に諦めた。結局どれだけ心頭滅却しようが、男におぶられているこの状況で落ち着けなどと、慧音には到底無理な話だった。

 

 上白沢慧音は、異性に対してはひどく奥手な性格である。苦手意識こそないものの、ちょっとでも相手を男として意識してしまうだけで、あっと言う間に頭の中が真っ赤になってしまう。

 それは例えば、必要以上に体を触られた時や、お見合いの話を持ち掛けられた時などであり、故に人里で慧音の目が行き届くところでは、度を超えた異性交遊が全面的に御法度だった。

 出会ったばかりの異性に、仕方がないこととはいえおぶられているとなれば、慧音はもう、とてもまともな状態だとは言えなくなってしまっていた。血は熱湯となって体中を駆け巡り、熱くなった体は今にも煙を上げるよう。あまりの熱さに、心臓が一生懸命に胸を叩いて助けを求めている。

 だから慧音は、彼におぶられたあとも体だけは起こしたままだった。彼の背に遠慮なくもたれかかるなんてできるはずもない。やったら最後、荒ぶる心臓の鼓動が体越しであっという間にバレてしまって、更なる笑い者にされてしまう。無様に腰を抜かしておいて、これ以上の醜態を晒すのは御免だった。

 しかし一方で、この状況が慧音にとって苦痛でしかないかと問われれば、あながちそうでもなかった。身長の差故だろうか、彼の足音のリズムは、慧音のものよりもずっとゆったりとしていて穏やかだ。そのリズムに優しく体を揺られながら、一つ、しみじみと感じ入ることがある。

 

(こうやって誰かに守られるのって、何年振りだろう……)

 

 寺子屋の教師や、人里の守護者なんてやっているからだろうか。慧音の記憶は、いつも人々の前に立って、誰かを守ってきた記憶ばかり。だからこうして人の背中で守られるというのが、奇妙なくらいに新鮮だった。

 彼は森を進む中で、周囲に人形(ひとがた)の防衛網を張り巡らせていた。妖怪が近づくと、人形を媒体にして炎の術を発動させ、撃退する仕組みなのだという。少し前に慧音を助けてくれた時も、こうして炎の術を発動させたらしい。身近に陰陽師の友人を持つ慧音だが、人形にこのような使い道があるとは知らなかった。

 

「あ、こんなところに人間だー♪ ねえねえ、あなたたちは食べてもいい人」

「はい、狐火」

「みぎゃー!? あ、あっついよー!?」

 

 そうやって進む帰り道は、行きとは打って変わってのんびりとしていて、ここが人里の外だということを忘れてしまうくらいだった。彼の裾を握りしめて一緒に歩く里の少女は、初めの内こそ不安そうだったけれど、今では炎が上がるたびに「おおー」と手を叩く余裕まで見せている。それだけ、彼の存在というのが頼もしかったのだ。

 

「ちょっと、いきなりなにすんの!? そんなことやってると食べ」

「はいはい、狐火狐火」

「う、うわーん!?」

 

 それは慧音も同じだ。己の脚がろくに動かないという状況にも関わらず、感じるのはただ、彼がいれば大丈夫だという安心ばかり。なにやら聞き覚えのある少女の悲鳴が聞こえたことなんて、ちっとも気にならなかった。

 

(……背中、大きいなあ)

 

 自分の体がすっぽりと収まってしまいそう。男の人の背中とは、みんなこうにも大きなものなのだろうか。こんなにも、人を安心させる、ものなのだろうか。

 彼の肩から伝わる体温を、温かいと思いながら。慧音は彼の耳に少しだけ顔を近づけて、ぽそりと言った。

 

「お礼を、しないとな」

「ん? や、別に構いやしないよ。見返り目当てでやったわけじゃないんだしね」

「そういうわけにもいかないだろう」

 

 彼は少女の恩人であり、慧音の恩人であり、里の恩人だ。もしも彼がいなかったら、少女も、慧音も、無事では済まなかったかもしれない。

 

「お礼を、させてくれ。私にできることならなんでも……」

 

 そこまで言いかけて、慌てて首を横に振った。

 

「いや、その、なんでもっていうのは、あくまで常識の範囲内でだな」

「ッハハハ、言われなくてもわかってるよ」

 

 優しくこぼれた笑みに、彼の背中が心地よく揺れた。彼はしばらく黙って考え、やがてゆっくりと答えた。

 

「そうだね……。それじゃあ今晩、人里で宿を恵んでもらえるように計らってくれないかな。まだこっちには来たばかりでね、家がないんだ」

「……?」

 

 慧音は首を傾げた。気のせいだろうか。今の彼の言葉に、なにか小さな違和感を覚えたような気がする。

 

「……ダメかな?」

「あっ……いや、それくらいならお安いご用だ」

 

 なんだろうかと考えていると、それを否定と誤解した彼が困ったように笑ったので、慧音は咄嗟に我に返って言った。

 

「私の家に泊まっていくといい」

「……慧音の家に?」

 

 彼が、意外そうに眉を上げた気配がした。それから小声で、

 

「……どうにもここの女の子たちは、少し不用心すぎないかな」

「……なんの話だ?」

「いや、こっちの話さ。ともあれいいのか? 私みたいに、どこの馬の骨かもわからないような男を泊めて」

「お前が悪い人間じゃないってことは、わかってるからな」

 

 な? と横の少女を見下ろすと、彼女は「ん!」と笑顔になって、彼の着物の裾を引っ張った。

 

「おじさん、いいひと」

「ちょ」

 

 思わぬ爆弾発言に、慧音は心の中で大慌てした。実際の年齢はわからないが、彼の見た目はどんなに高く見積もっても三十に届かない。なのにそんな、なんの躊躇いもなく笑顔で、“おじさん”だなんて。

 ……しかし当の“おじさん”本人は、特に気分を害した様子もなく、呑気にからからと笑っていた。

 

「ッハハハ。そう言われちゃったら、いい人にならないとダメだねえ」

 

 心が広いんだなあ、と慧音は思う。もしも自分が里の子どもから“おばさん”なんて呼ばれたら、とりあえずお礼に頭突きをかますだろう。

 やはりどんなに厳しい目で見ても、とても悪い人間とは思えなかった。けれど一方で、彼が言うように素性が知れないのも事実だ。外来人なのに、狩衣みたいな大時代な服を着て、更に立派な陰陽術まで使えて。外の世界ではもう、妖怪を見る機会すらほとんどなくなってしまったはずなのに。

 そう、素性が知れないといえば。

 

「名前を聞いていなかったな。……もう知っているようだけど、私は上白沢慧音。人里の、まあ、代表みたいなものをしてる」

「ああ、そういえばそうだね。私は――」

 

 そこで彼は不意に言葉を切った。少しの間、言葉を迷う素振りを見せてから、

 

「――月見。ただのしがない陰陽師だよ」

「月見?」

「そう。月を見る、と書いてね」

 

 月を見る、で、月見。少しおかしな名前だ、と慧音は思った。外来人のものにしては似つかわしくない、どこか不思議な響きがある。まるで妖怪の名前みたいに。

 

「……どうかしたか?」

「いや……」

 

 だがそんな風に尋ねられて、変な名前だな、なんて正直に言えるはずもない。結局慧音は、最近の陰陽師はそうなのかな、と恣意的に解釈することにした。

 

「なんでもないよ」

「そうか? ……ともあれ、ようやく抜けたみたいだね」

 

 森が途切れ、視界が開けた。ほのかに青い月明かりが照らす下、望む人里で提灯の炎が揺らめいている。どうやら里総出で、慧音たちの帰りを待ってくれているらしい。

 幻想郷は月がとても眩しく輝くから、野外で照明などほとんど必要ないのだけど……必要のない物を持ち出してきてしまうくらいに、居ても立ってもいられなかったのだろうか。

 

「随分と、心配をかけちゃったかな」

「だろうね。里に戻ったら、うんと安心させてやるといいさ」

「そうだな。里に戻ったら――」

 

 そこで慧音は、ふと気づいた。里に戻る。――月見におぶられたまま、里に、戻る。

 提灯の火を見て緩んでいた心が、一気に粟立った。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「ん、どうした?」

「も、もう歩けるから。歩けるから、降ろしてくれっ」

 

 今は見ている人が隣の少女一人だけだからまだいいが、このまま里人全員の前に晒されたら、恥ずかしすぎて死んでしまう。

 なので慧音は、月見の背の上でじたばたと暴れた。

 

「ほらっ。もう大丈夫だから、放してくれっ」

「うおおっと、暴れるなって。ちゃんと降ろしてやるから……」

 

 月見がその場にしゃがみこんだので、すぐに飛び降りた。もう大丈夫だというのは完全に出任せだったが、幸いにも慧音の両足はしっかりと大地を踏み締めてくれる。

 はあ、と思わず安堵のため息をついていると、それを眺めていた少女が月見の袖をくいくいと引っ張った。

 

「……けーねせんせえ、なんだかさっきから変」

「ふふ。世間体というのも大事なものだからね」

「せけんてー? よくわかんない……」

「要するに、私におぶられたままは嫌ってことさ」

「う、うるさいなっ。お前におぶられたままじゃ、怪我でもしたんじゃないかって心配されるだろうがっ」

「まあ、そういうことにしておこうか」

 

 くつくつと喉を鳴らす月見の微笑みは、まるですべてを見通しているかのようで。それがあまりに憎たらしかったので、慧音はまた木の枝を投げつけてやろうかと本気で悩んだ。

 すると一体なにを思ったのか、少女が期待に輝く瞳で月見を見上げて言った。

 

「じゃあ、わたしがおんぶ」

「ん?」

「おんぶ」

「おっと」

 

 そのまま、しゃがんだままだった月見の背中によじ登ってしまう。

 

「お、おいっ」

 

 慧音は慌てて少女をたしなめようとしたが、彼の首に両腕を回し、「んー♪」と満足げな表情をしているのを見て、ふっと思い留まった。

 そういえば、彼女の父親が病で亡くなったのは、二年ほど前だったろうか。もしかしたらこの子は、自分を助けてくれた彼の姿に、父の面影を見ているのかもしれない。

 どうしようかと困り顔をしていた月見に向けて、苦笑する。

 

「……悪いけど、付き合ってあげてくれないか?」

 

 果たして月見がどこまで見通していたのかは、慧音にはわからない。けれど彼は、慧音が詳しい説明をするまでもなく、立ち上がっていた。

 父親のように、笑って。

 

「どれ、落ちないように気をつけるんだよ」

「わおー♪」

 

 どうせ里に戻ったら、母親にこっぴどく叱られるのだ。その前に、こんな小さな幸せが一つくらいあっても、いいのではないだろうか。

 

「よし、せっかくだし走ろうか。――よーいドン!」

「きゃー♪」

「あ、ちょ――こら、待てえっ!」

 

 里に向けて駆け出した彼の背を、慧音は慌てて追いかける。転んだらどうするんだと怒鳴り声を上げるのだが、その口には自然と、柔らかい笑顔が浮かんでいた。

 或いは自身もまた、一の母親であるかのような笑顔が。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 歓声が慧音たちを里へと迎え入れる。少女を連れて無事戻ってきた慧音と月見に、里は軽いお祭り状態へと陥った。

 無事でよかったと、涙を忍ばせながら少女の頭を撫でる者。ありがとうございますと、慧音に向かって何度も頭を下げる者。本当によくやってくれたと、月見を賞賛する者。三様に分かれた歓声は、やがて「酒を持ってこい!」という誰かの鶴の一声で、本当に祭りへ向けて盛り上がり始める。

 それをやんわりと制したのは、月見の気の抜けたような苦笑いだった。

 

「悪いんだけど、今日は休ませてくれないかな。ここに来る前も歩き詰めだったから、もう疲れてしまってね。とても酒なんて呑めそうにない」

 

 吐息を交えながらそう言う彼はいかにも疲労困憊といった体で、声にもまったく力がなかった。少女を救うという大仕事を成し遂げたあとで、更に帰り道のほとんどを慧音をおぶりながら歩いたのだ。体への負担も大層大きかったろう。酒の代わりに、喉を潤す水を一杯、もらっていた。

 母親と無事再会した少女は、もちろんその場で大目玉を食らいそうになった。けれども沸き立つ周囲に「無事だったんだからいいじゃねえか」などと丸め込まれ、結局うやむやになったようで、今は母親が、月見に向けてしきりに頭を下げ続けていた。

 それを遠巻きで微笑ましく眺めながら、

 

「いやあ……助かったな、慧音先生。誰かはわからねえけど、本当に感謝ってもんだ」

「……そうだな」

 

 傍らで噛み締めるように頷いた男に、慧音もまたそうした。もし月見がいなかったら、慧音は少女を助けられなかったかもしれない――いや、助けることなんてできなかった。それどころか里の男たちまで巻き込んでしまって、もっと悪い事態になっていた可能性もあっただろう。

 

「あのあんちゃん、何者なんで?」

「外来人みたいだけど、詳しくはわからない。……だから今晩は私のところに泊めて、話を聞いてみるよ」

「慧音先生のとこにですか?」

 

 男が意外そうに眉を上げた。月見の方をつと見遣って、それからすっかり戸惑った様子で声をひそめた。

 

「いいんですかい? 独り暮らしなのに男なんて」

「いいんだ。話を聞くなら私がやった方がいいだろうし――」

 

 独り暮らしで余所の男を招き入れる危険性なら、慧音も充分に理解している。けれど同時に、彼がそれで妙な真似をするような不届き者ではないことだって、また。

 

「それは、お前だってわかってるだろう?」

 

 月見の方に目をやる。彼は何事か言って袖を引っ張ってくる少女の頭を、ぽふぽふと優しく叩いてやっていた。二人の浮かべる笑顔が、周囲を取り囲む里人たちに次々と伝染していく。

 それを見て、男が観念したように両手を挙げた。

 

「……まあ、ああいう風に笑えるやつが、悪人なわきゃねえですわな」

 

 そういうことだ、と慧音は頷いた。

 

「だから大丈夫だよ」

「わかりやした、信じますよ。……それに」

 

 言葉を切り、男は不意に含み笑いをした。わざとこちらから目を逸らし、昔を懐かしむような抑揚をつけて、

 

「先生は異性にゃめっきり奥手だからなあ。なんか妙なことしたって、返ってくるのは頭突きだけさあ」

 

 もちろん慧音は、笑顔で頭突きを返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 結局、慧音が月見を家に招く頃には、すっかり夜も深まってしまっていた。どうぞ楽にしてくれと慧音が言うなり、彼は座敷の上に崩れるように座り込む。あー、なんて間抜けな声を上げるあたり、やはり相当疲れていたらしい。

 

「すまないな、こんなに遅くなってしまって……」

「いやいや、こうして休ませてもらえるんだから感謝だよ。……ああ、脚が棒のようだ」

 

 お茶を出してやった方がいいだろうか、と慧音は悩む。それとも、先に寝る準備を整えてやった方がいいのだろうか。……できることなら、もう少し話をしてみたいのだけれど。

 というか、そもそも彼、夕食は済ませたのだろうか。外来人だし、ここで食事にありつけたとは到底思えない。

 

「これからどうする? もう休むならお風呂を沸かすけど、お前、夕ご飯は食べたのか? 私の料理でよければ、なにか作るけど」

 

 問うと、月見は何事か思い出したように、ああ、と頭を掻いた。

 

「……そういえば今日は、夕飯どころか昼もなにも食べてなかったっけ」

「そ、そうなのかっ?」

 

 まさか朝以外になにも食べていないとは思ってもいなかったので、思わず声が大きくなってしまう。それではお腹が空いていないわけなどないし、第一、健康にだって非常によくない。寺子屋の教師なんてやっているからだろうか、実に聞き逃せない発言だった。

 慧音は月見の目の前に腰を下ろして、体を前のめりにして言う。

 

「私でよければなにか作るぞっ。なにが食べたいっ?」

 

 いきなり詰め寄ったからか、月見は少し目を丸くして頭を引いたけれど、すぐに苦笑して、

 

「……今日はもういいよ。それ以上に疲れたから、もうこのまま寝」

「それはダメだっ!」

 

 言い切られる前に、慧音は叫んでいた。月見の肩をガシッとホールドし、困惑した様子の彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。

 

「食事は一日三食! 子どもだって知ってることだ。どうしても食べられない理由があるならまだしも、そんなの不健康的すぎる!」

「ちょ、慧」

「とにかく、夕飯の余りもあるし、なにか簡単なのを作ってやるから! 私が見てるところでふしだらな生活はさせないからなっ!」

「わかった、わかったから慧音」

 

 月見の右手が肩に触れる。こちらを押し返すほどの力はなく、けれどなにかを諭そうとするように、その指先が浅く肌を撫でた。

 

「……どうした?」

 

 問えば、彼は真顔で、

 

「顔。近いよ」

「……………………あ」

 

 そう言われて初めて、慧音は気づいた。こちらが月見の肩を掴んで詰め寄っている体勢は、言われてみれば確かに、彼の顔が、本当にすぐ目の前にあって――

 

「ッ――!?」

 

 いっそ跳ね上がるくらいの勢いだった。それくらいの勢いで慧音は彼のもとから離れて、数秒間呆然としたあと、ぺたりとその場に座り込んでしまった。

 

「――……」

 

 驚くあまり、脳が思考を放棄したのだろうか。随分と長い間、ボーッと月見を見つめていた気がする。

 正気に返ったのは、月見が「慧音?」と不思議そうに首を傾げてからだった。

 

「あっ――いや、今のは、その……」

 

 決して深い意図があったわけではない。慧音は普段から、寝坊して朝食を食べ損なった生徒を親の代わりに叱りつけているから、ついその延長線上で月見も叱ってしまっただけだ。完全に無意識な、言ってしまえば職業病のようなものだった。

 とは、いえ。

 子どもではない男相手に、なんてことを。

 頬がじわじわ熱くなっていくのを感じながら、慧音はなんだかわけがわからなくなって、顔の前でぶんぶんと両手を振った。

 

「ほ、ほら、私は寺子屋の教師で、生徒たちの健康管理も、仕事の一つだから! だからつい……」

「ああ……」

 

 頷いた月見は、それから少し傷ついた(てい)で、

 

「つまり私は、慧音からして見れば、寺子屋の子どもたちと同レベルの存在なんだね」

「そ、そんなことは……」

 

 ない、と断言できないのが辛い。

 とにかく話を逸らさないとと思い、慧音はすっくと立ち上がった。

 

「と、とりあえず食事の用意をするよ! 少し待っててくれ!」

「……そうだね。じゃあご馳走になるよ」

 

 彼の同意を確認したところで、慧音はすぐに回れ右をして、台所に向かって小走りで駆け出す。ともかく彼のいない場所で深呼吸をして、元気に暴れている心臓を落ち着けたかった。

 部屋を飛び出し、廊下を駆け抜け、台所に飛び込む。叩きつけるような勢いで戸を閉めると、そこに背中を預け、そのままずるずると床にへたり込んだ。

 頭を抱えて、はあああ~~、なんて長いため息を吐き出して。

 

「……なんだかなあ」

 

 お礼をしたいから、と慧音が自ら望んだこととはいえ。実際に月見を招いて、一つ屋根の下で二人っきりというこの状況は、思っていたよりもずっと心臓に悪かった。

 例えば里の男を家に呼んだところで、緊張なんてしないのに。外来人の男というだけで、こんなにも変わるのか。

 

「うー……」

 

 月見を家に招いたのは、失敗だったろうか。……だが今更になって、よその家に泊まってくれなんて言えるはずもない。少なくとも今日は、このまま夜を明かすしか。

 幸い月見は善人だ。向こうは、慧音の家で世話になることについて、感謝以外の感情は持っていないようだった。だから慧音も普段通りにしていれば、変な間違いなんて起こるはずもなく、何事もなく明日を迎えられるだろう。

 そう、精々、将来的にそういう(・・・・)相手ができた時のための予行練習をする程度の気持ちで、気楽に――

 ――慧音はすぐ傍の壁に頭突きをした。

 

「な、なななっなにをバカなことをっ」

『慧音?』

「うひゃあああああ!?」

 

 瞬間、戸を隔てた向こう側から不意に月見の声が聞こえたので、慧音はその場でひっくり返った。尻餅をついたお尻がじんじんと痛むが、そんなことはどうでもいい。慌てて立ち上がって、戸の向こうにいる彼へと叫んだ。

 

「なっ、おま、どうしてここに!?」

『いや、手伝った方がいいかなーと思ったんだが……ごめん、驚かせたか?』

「心臓が止まるかと思ったぞっ」

『わ、悪い……』

 

 一応は気を遣ってくれているのか、月見がいきなり台所の戸を開けてくるようなことはなかった。戸を両手でしっかりと押さえつつ、慧音はほっと胸を撫で下ろす。今はきっと、顔も真っ赤になってしまっているだろうから、入ってこられるとちょっと困る。

 

「りょ、料理は私だけで大丈夫だからっ。えっと、そう、おにぎりでも握ろうと思って! すぐできるし、すぐに食べられるし、冷めてても美味しいしな! だからのんびり待っててくれ!」

『やあ、悪いねえ。私みたいな余所者のために世話を掛ける』

「そんなこと……」

 

 勢いのままに否定しようとして、慧音ははたと唇を止めた。余所者、という彼の言葉を頭の中で反芻させて、それから静かに、

 

「……そんなことないさ。お前は里の子を、そして私を助けてくれた。だからもう、余所者なんかじゃない」

 

 不思議なことに、あれだけうるさくなっていた心臓が落ち着きを取り戻していた。なにか特別なことを考えたわけではない。自然に、当たり前のことを言うように、言葉が流れる。

 

「すぐに作って、持っていくよ。そして話を聞かせてくれ。これからのこととか……色々、困ってることもあるだろう?」

『……そうだね』

 

 戸の向こうで、どうやら月見は頷いたようだった。

 

『それじゃあ、大人しく待ってるとするよ』

「ああ」

 

 月見が居間へと戻る時、足音はほとんど聞こえなかった。床を撫でるような空気の動きが、次第に遠ざかっていくのを感じる。

 その気配が完全に消えてから、慧音は小さな吐息を落とした。心臓はすっかりもとの鼓動を取り戻し、体温も平常通り。あれだけ慌てていたのはなんだったのだろうか。

 なんとなくではあるが、慧音は理解していた。外来人の男と二人きりという状況に、さんざ振り回されてしまったけれど。

 結局、慧音は、彼の力になってやりたいのだ。慧音が助けを求めた時に彼がそうしてくれたように、慧音もまた、彼に手を差し伸べてやりたいのだ。

 彼の善意に慧音も善意で応えたいのだと、それだけのこと。だから慧音は彼を家に招いたし、こうして食事を作ってやろうとしている。

 なにも特別なことなんてありはしない。もしも慧音と月見の立場が逆だったとしても、月見は同じように慧音を家に招いたし、食事を作ってくれただろう。

 

「――よし」

 

 霧が払われた心地だった。慧音は羽釜を開け、中にまだご飯が残っているのを確認すると、手を軽く水で湿らせた。

 まだほのかに熱が残っているご飯に、そっと手を伸ばす。伝わる熱が、慧音の心を解きほぐすようで、頬には淡い、笑顔がこぼれた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ごちそうさま」

 

 慧音が丹誠込めて握った三つのおにぎりを、彼はものの数分で完食した。朝以降なにも食べていなかっただけあって、実に勢いのいい食べっぷりに、やっぱり男の人なんだなあ、なんて慧音は内心微笑ましく思う。

 

「ありがとう。美味しかったよ」

「うん、お粗末様。……はい、お茶」

 

 悪いね、と湯呑みを受け取った月見は、けれどすぐには口をつけずに、一呼吸を置いて、

 

「それで、話だけど」

「ああ……そうだな」

 

 慧音は口元に指を当て、どこから話したものだろうかと考えた。やはりまずは、この幻想郷という世界について教えてやるべきだろうか。ここはお前が住んでいた世界とは違う場所なんだ、なんて言ったらどれほど驚いてくれるだろう。もしかしたら、意外と間抜けな顔が見られるかもしれない。

 と、ちょっとだけ期待したのだけれど。

 

「ここが幻想郷という世界だってことについては、説明は要らないからね」

「……はえ?」

 

 間抜けな顔になったのは、慧音の方だった。

 

「え?」

「いや、だから、ここが幻想郷だというのは知ってるから」

「ええと……誰かから聞いたのか?」

「まあ、そんなところだ」

 

 月見の頷きを受けて、慧音は改めて、目の前の男について考え直してみる。ここが幻想郷だと知っている外来人なんて、無論のこと初めてだった。

 ふと、思い出す。森から里へと戻る帰り道で、月見におぶられながら聞いた、あの言葉を。

 ――今晩、人里で宿を恵んでもらえるように計らってくれないかな。まだこっち(・・・)には来たばかりでね、家がないんだ。

 彼は、ここがどこなのかということを慧音に尋ねなかった。ここが幻想郷であると既に知っていたから、尋ねる必要がなかったのだ。

 月見は、続ける。

 

「加えて言えば、私はここが幻想郷という土地であることを、ここに来るより以前から知っていた。ここに来たのは、まあ、観光目的みたいなものかな。朝昼とかけて里の近くをぶらぶらしてて、だから今こんなにも疲れてるわけだけど」

「……」

 

 あくび交じりで話す月見に、慧音はただただ呆気に取られるばかりであった。単に大時代な風体をしているだけの外来人ではない。陰陽術を使いこなし、そして幻想郷という世界を知る彼は、本当に外来人なのかと疑ってしまうほどだった。

 だが――ありえない話でもないのだろう、と思う。

 慧音はもう、今の外の世界がどうなっているのかは、わからないけれど。ほとんどの妖怪が幻想入りし姿を消したという向こう側でも、陰陽師の血筋は途絶えていなかったのだろう。

 例えば昨年、二柱の神を奉る風祝の少女が幻想入りしたように。

 彼もまたそうやって、こちら側の世界にやってきたのかもしれない。

 

「なるほど、なんとなくわかったよ。……じゃあ、お前はこれからどうするんだ? もし家が必要だったら、私が便宜を図るけど」

「そうだね……」

 

 月見は少し考えてから、ゆっくりと首を横に振った。

 

「とりあえずはいいよ。明日は永遠亭ってところに行ってみたいし」

「永遠亭か。……でもあそこへ行くためには、迷いの竹林を越えないといけないよ。それは知っているか?」

「ああ。多分迷うとは思うけど、適当に歩いていればなんとかなるだろうさ」

「そうか、なら大丈――って待て待て待て、まさかお前、一人で行くつもりなのか!?」

 

 慧音は愕然とした。なにかの聞き間違いじゃないかと思った。けれど「そうだけど?」と不思議そうに問い返されたので、輪をかけて愕然とした。

 永遠亭――迷いの竹林を奥に建つ、月世界の住人たちが住まう屋敷の名だ。八意永琳という優秀な薬師が診療所を開いていて、里の人間たちもたびたびお世話になっている。

 なれども、そこへ辿り着くのは決して容易ではない。迷いの竹林は、その名の通り非常に迷いやすく、また血の気の多い妖怪も生息している危険地帯だ。里の人間が永遠亭を目指す際には、竹林の地理に詳しい慧音の友人が必ず同行し、護衛を行っている。そうでもしないと、普通の人間はとても生きて帰ってこられない。

 もちろん、月見が優れた陰陽師であることは既に承知している。しかしだからと言って、「気をつけて行くんだよ」と大人しく見送ることなどどうしてできよう。

 故に慧音は、テーブルを強く叩いてかぶりを振った。

 

「ダメだ、危険すぎるっ! 迷いの竹林はとても迷いやすくて、妖怪も多く歩き回ってる。そんな場所に一人で行くなんて!」

「大丈夫だよ。今日は妖怪の山や、魔法の森にも行ってきたしね」

「う、うええ!?」

 

 冗談だろうと思った。妖怪の山に魔法の森。いずれも迷いの竹林に並ぶ危険地帯ではないか。

 そんな場所に自分から足を踏み入れて、特に目立った怪我をすることもなく帰ってくるなんて、どこぞの紅白巫女じゃあるまいし。

 

「だから大丈夫だって」

「う……い、いやいや!」

 

 月見があまりに呑気に言うので、慧音は危うく頷いてしまいそうになった。ぶんぶんと頭を振って気持ちを立て直し、再び声を荒らげる。

 

「もし迷って出られなくなったらどうするんだ!? 疲れたところを妖怪に襲われたらどうする!」

「なんとかなるんじゃないかな」

「なるわけあるかあっ! ダメだぞ、絶対に行かせないからな!」

「むう……」

 

 月見が口をヘの字にした。だが慧音だって引き下がらない。そうやって子どもみたいに拗ねるというならば、寺子屋の教師として、なおさらだった。

 

「どうしてもと言うなら、私の友人に竹林の地理に詳しいやつがいるから、そいつに案内してもらうこと! 一人で行くなんて言語道断だっ!」

「私は一人でのんびり歩くのが好きなんだが……」

 

 慧音は月見を睨みつけた。

 月見はやれやれと肩を竦めた。

 

「わかったよ」

「絶対だぞ!? 明日、私の友人のところまできっちり案内してやるからな! こっそり一人で行こうなんて考えないように!」

「はいはい」

「はいは一回! 今時、子どもでもできることだぞっ!」

「……慧音。ひょっとしなくても、教師の血が騒いでる?」

「話を逸らすな! わかったのか、わかってないのか!?」

「ああもう、わかったよ。……はい。これでいいか?」

「……どことなく投げやりなのが気になるが、まあいい」

 

 慧音は半目になりながら、月見への評価を改めた。無論、下方向へだ。大人らしく分別ある性格なのだと思っていたが、とんだわがまま小僧ではないか。

 これは、好き勝手させないようにしっかりと手綱をつけておく必要がある。

 

「まったくっ……おかしなやつだな、お前は」

「ッハハハ、それは昔からよく言われるよ」

 

 月見がちっとも悪びれる様子なく笑ったので、慧音はそれ以上説教を続ける気力をなくしてしまった。肩をがっくり落として、はあ、なんて大きくため息をついて。

 

「……お風呂の準備は終わってるよ。さっさと入って、明日に備えて寝るといい」

「おや、先に入っていいのか?」

「当たり前だろう。お前は客人なんだから」

 

 まさか、「男のあとに入るなんてイヤ!」なんて思春期めいたわがままを言うような子どもだと思われているのか。白い目で睨みつけてやると、月見は受け流すように軽く片笑んで、

 

「じゃあ、お先に使わせてもらうよ」

「風呂場は、この部屋を出て廊下を右、突き当たりを左に行って一番奥だ」

「ああ、わかった」

 

 腰を上げ、しかし途中でなにかを思い出したのか、月見は中腰のままでふと動きを止めた。

 

「どうした?」

「いや……」

 

 慧音が問えば、彼は腕を組み、しばし考える素振りを見せてから、

 

「ここは様式美として、言っておくべきかと思って」

「な、なにをだ?」

 

 妙に改まった雰囲気を感じて、慧音は思わず身構えた。なにか大切なことを言われる気がして、背筋を伸ばし、じっと彼からの言葉を待った。

 そして、頷いた彼が、至極真っ当な顔で紡いだ言葉は。

 

「――覗かないでくれよ?」

「さ っ さ と 行 け え !!」

 

 言葉の意味を理解するよりも先に、脊髄反射で体が反応する。慧音は弾幕を放って、悪戯小僧を部屋から追い出した。

 弾幕は、すべて小器用に躱された。はっはっは、と呑気な笑い声が、次第に遠ざかっていくのを聞きながら。

 

「……これは、私がちゃんと教育してやらないと」

 

 一人残った座敷の上で、慧音はふつふつと、教師の魂を燃え上がらせたのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 この日一日の汗をさっぱり洗い流した月見は、寝室として貸してもらった小部屋で、ゆっくりと体を伸ばしていた。就寝前に行う軽めのストレッチは、一日中歩き詰めだったからか、心なしかいつもより体に染みる気がする。

 明日、筋肉痛になったりはしないだろうか。久々の人間の体だから、少しばかり不安だった。

 

「……ふう」

 

 引かれた布団の上で横になる。深呼吸をすると、体の底でわだかまっていた疲労が、じんわりと表面まで浮かび上がってきた。指の先まで力が抜けて、段々と頭がぼーっとしてくる。

 これはもう、抵抗をやめればその途端に眠りに落ちそうだ。まだ慧音におやすみを言っていないのだが、彼女は月見と入れ替わりで風呂に入っているし、女性らしく長風呂になるだろう。

 だったら、先に寝てしまっても、いいだろうか。

 などと考えているうちに、ゆっくりと夢の世界に手を引かれていく。

 抗うことは、できそうもなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幸い入浴を覗かれるようなこともなく、慧音はごくごく普通に風呂から上がった。

 覗くなよ、なんて言われてからかわれたからだろうか。湯に浸かっている間、変にその言葉を意識してしまって、とてもゆっくりなんてできなかった。入浴の時間は、普段の半分にも満たない。

 

「もう……」

 

 袖に腕を通しながら、慧音は力なく独りごちる。……体がいつも以上に火照っている気がするのは、ただ単に風呂上がりだからなのだろう。

 

「なんだかなあ」

 

 どうにも、調子が狂う。慧音は百年以上を生きた人生の先輩として、また教師として、常日頃からそれ相応の言動を心掛けているけれど、彼の前だと心の鎧を剥がされてしまいそうになる。

 本当に、妙な男だ。

 

「……もう、寝ちゃったかな?」

 

 脱衣所を出た慧音は、何気なしに廊下を進んで、月見に貸した部屋の前までやってきた。戸を控えめに叩いて、問う。

 

「月見、起きてるか?」

 

 返事は返ってこなかった。物音一つもなく静まり返っているから、もう寝てしまったのだろう。相当疲れていたようだったし、無理もない。

 じゃあ私も早めに寝ようかな、と思った。明日はいつもよりも早起きして、二人分の朝食を作らなければならないから、寝坊するわけにはいかないだろう。

 

「……よし、寝よう」

 

 呟いて、慧音は目の前の襖にそうっと片手を掛けた。極力音を立てないように、覗き見ができる程度の隙間を、開ける。

 

「……」

 

 案の定、月見は眠っていた。中央に敷いた布団の上で、その胸が規則的に、ゆっくりと上下しているのが見える。

 慧音は、更に体を通せるくらいにまで隙間を広げて、息を殺しながら中に入り込んだ。真夜中とはいえ、差し込む月明かりが淡く部屋全体を照らしているため、足運びに迷うことはなかった。抜き足差し足で枕元まで忍び寄って、彼の寝顔を見下ろしてみる。

 すると、

 

「へえ……」

 

 ついつい、そんな声がこぼれてしまった。彼を起こしてしまうから物音を立ててはいけないとわかっているのだが、それでも、言わずにはおれなかった。

 

「こんな顔して寝るんだあ」

 

 なかなかどうして、幼さが残る寝顔ではないか。

 それこそ、生徒の寝顔を眺めているかのようで。

 

「へえー……」

 

 きっと今の自分の顔を鏡で見たら、だらしないことになってるんだろうなあと思う。普通の外来人とは明らかに違う、言ってしまえば異色の存在だった彼が、突然身近に感じられるようになっていた。

 ここで、えいえいなんて頬をつついたりするのは、さすがに大人げないだろうか。

 と、

 

「ううん……」

「!」

 

 不意に月見が寝返りを打ったので、慧音は口から心臓が飛び出そうになった。頭から血の気が引いて、それから唐突に、私はなにをやってるんだ!? と我に返る。

 おかしい。自分も寝ようと思って部屋へと戻ったはずだったのに、どうしてこんなことを。――まるで夢遊病でも患ったかのように、完全な無意識だった。

 

(こ、これじゃあまるで、夜這いしてるみたいじゃないかっ!)

 

 体は一瞬で沸騰した。慧音は畳が摩擦熱で煙を上げるくらいの擦り足を利かせ、一目散に部屋から退散した。襖を閉めるような余裕なんて、ありはしなかった。

 

 結局この無意識の行動が尾を引いて、頭が完全に覚醒してしまった慧音は、しばし布団の中で眠れない夜を過ごすこととなり。

 よって翌朝は、ものの見事に寝坊することとなったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第16話 「導きの白 ①」

 

 

 

 

 

 幻想郷の地下には、地底と呼ばれる広大な空間が広がっている。過去、地獄のスリム化政策によって切り離された土地であるそこは、地上から移り住んだ妖怪たちのために開放されたのち、鬼を中心として大きな都が築かれるに至った。太陽も雲もない暗い空を行く操の眼下には、淡い提灯の光がそこかしこに広がっており、これこそが地底世界の星空なのだろうと、そう思わされる幻想的な光景を作り出している。

 だが、

 

「……あいっかわらず、陰気な場所じゃのー。息がしづらくて敵わん」

 

 顔をしかめて、操は咳をするように独りごちた。

 かつて地獄の一部だったこともあり、この地底では、今なお成仏できずに彷徨う怨霊たちが野放しとなっている。それらが持つ負のエネルギーに影響されているのだろう、地底の空気は、地上と比べて随分と息苦しい。無論それは、風とともに生きる天狗だからこそ感じ取れる些細なものなのだけれど、それでも地上の星空を台無しにするには充分だった。

 けほけほと何度か咳き込んで、操は地底の空をまっすぐに切り裂いていく。もう何度も引き返そうかと思い悩んだが、せっかくここまでやってきたのだから、もう少しだけ頑張ろうと思った。

 

「千代のやつも、面倒なところに住みおってからに。まあ、立場上仕方ないんじゃろーが」

 

 操が自ら親友と認める数少ない妖怪、藤千代という名の少女に会うのが、操が此度地底をゆく理由だ。そうでなければ、こんな息苦しい場所にどうして近づきなどしようか。

 翼を強く鳴らし、操は体の向きを下方向に変化させる。併せて翼を畳み、風の流れと重力に体を任せれば、

 

「……!」

 

 滑空した。空気の層を切り裂き、操は一気に地面へと迫る。そして、再び翼を鳴らして勢いを殺し、旋風とともに着地した。

 操が降り立った先は、小さく寂れた日本家屋の前だった。風が吹けばそのまま飛んでいってしまいそうな、張り子のようになおざりな小屋だ。

 こここそが操の目的地であり、藤千代という少女が腰を据える家。その廃墟同然の佇まいを見て、普段から天狗たちの大屋敷で生活している操は、とても微妙な気持ちになった。

 

「あいかわらずボロっちいのう……」

 

 どうして藤千代は、わざわざ好き好んでこんな家を寝床にしているのだろう。地底を代表して治める立場なのだから、もう少し贅沢をしても文句は言われないだろうに。元々粗野な育ちである鬼たちにとっては、やはりこういう雰囲気の方が落ち着くのだろうか。

 操は微妙な気持ちを頭を振ることで追い払い、目の前の古びた戸を叩いた。大した力も込めていないのに、戸全体がギシギシと悲鳴を上げた。

 返事はない。留守にしているのか、それともまだ寝ているのか。操は一息で戸を開け放ち、なんの遠慮もなくずかずかと中へ上がり込んだ。鍵はかかっていなかった――否、そもそも取りつけられてすらいなかった。

 家の中も、外に負けず劣らずひどい有様であった。地底には太陽の光が届かないというのもあるが、それにしても薄暗くて、空気が沈んでいる。玄関から一歩足を上げれば、たちまち床が悲鳴を上げてたわみ、抜け落ちてしまいそうになった。もう少し体重のある男――例えば月見がやってきたら、それこそ一瞬で踏み抜いてしまうだろう。

 操は慎重に足を進めながら、

 

「おーい、千代ー」

 

 藤千代の愛称を呼ぶが、やはり返事はない。操が床を軋ませる音だけが反響している。

 間もなく、操は居間へと至った。ただの空き部屋かと誤解してしまうほどにがらんどうとした、生活感のない部屋だ。茶色く汚れバサバサになった六畳間の隅っこで、緩やかな山を描いた布団が一組、鎮座している。

 その山が、僅かではあるが規則的なリズムで上下していたので。

 

「……」

 

 操はなにも言わず、ゆっくりとそこへ近づいて、一息で布団をひっぺがした。

 布団の下では案の定、少女――藤千代が、猫のように体を丸めて寝息を立てているのだが、

 

「また妙な格好で寝おってからに……」

 

 彼女は、衣服を着ていなかった。身にまとっているのは、薄い桃色の下着だけ、である。

 少女の枕元には、黒地に藤の花を織り込んだ着物と、同じように藤の花を模した髪飾りが置かれており、これが彼女の普段着となる。

 

「……せめて、寝間着くらい用意したらどうなのかのお」

 

 所謂、寝る時に服を着ないタイプである彼女は、背丈こそ小さいものの、一方で女性らしい発育にも恵まれている。そんな彼女が下着姿で、なおかつ戸締りすらせずに一人で眠っているという状況は、見る者が見れば卑しい感情の一つや二つは簡単に抱くだろう。

 

「……」

 

 まあ……そうして悪い感情を起こしたとしても、実際に行動に移せる命知らずはいまい。この少女に悪意を以て襲いかかること――それはすなわち、自らの命を投げ捨てる愚行と同じだ。

 なぜなら彼女は、妖怪の中でもとりわけ強い力を持つ鬼であり、更にその鬼たちの中でも、輪をかけて特別な存在なのだから。

 

「起きろ、千代ー。いいや――」

 

 故に操は、少女の名を呼ぶ。

 名前ではなく、彼女に与えられた、二つ名を。

 

「――鬼子母神」

 

 

 

 ○

 

 

 鬼子母神、名を藤千代(ふじちよ)。その字面が示す通り、鬼たちの祖――すなわち最古の鬼――であり、操が天狗を統べるように、幻想郷中の鬼を統括している女傑だ。

 もっともその出で立ちは、とても『女傑』という言葉には似つかわしくないのだが。

 

「もー、操ちゃんったら。鬼子母神って呼ぶのはやめてくださいって何度も言ってるじゃないですかぁ」

 

 背は、操の胸元あたりまでしかない。鬼の四天王には伊吹萃香という少女がいるが、彼女と比べてもそう大した差異はない。まだ起きたばかりにもかかわらず、嫉妬するほど瑞々しい黒髪がわずかにもよれることなくまっすぐ背を覆い隠している。薄暗い屋内ではわからないが、この柳髪が光の下では淡く紫がかっても見えることを操は知っている。更に肌は汚いものに一度も触れたことがないかのように潔白で、果実を思わせる薄紅の唇も、水の雫めいた澄んだ光を宿す瞳も、すべてがまるで、生まれ落ちたその時から一瞬たりとも老いていない。

 

「操ちゃんみたいなお友達からは、やっぱり『千代』って呼んでほしいですー」

 

 癖なのか、やや間延びした尾を引くその声音も、繊細なガラス細工を叩いて鳴らしたかのように澄んでいる。……何千年も生きておいてこれなのだから、同じ女性としてはまったくもって羨ましい。

 藤千代はもそもそと藤の着物を着込みながら、頬をぷっくりとりんごみたいにした。

 

「鬼子母神なんてのは他のみんなが勝手にそう呼んでるだけで、私自身はただのしがない鬼なんですよー?」

「……しがない、ね」

 

 月見が好んで使う言い回しを、彼女もまた好む。だが月見はさておき、藤千代がその言葉を使ってはダメだろうと操は思うのだ。

 

「お主がなんの変哲もないただの鬼だったら、他の鬼たちは一体どうなってしまうのか……」

「むう、それって私が普通じゃないって言ってます?」

「それ以外に何があると」

「ひどいですよー」

 

 確かに藤千代は、もともとはごく普通の一匹の鬼だったろう。史実で言い伝えられるあの鬼子母神とは、まったくの別人だ。藤千代は鬼たちをまとめる母のような存在だし、字面が似合うじゃないかと――鬼子母神の二つ名は、単純にその程度の意味合いだけで彼女に与えられた、謂わばただのニックネーム。操の“天魔”とはまったく重みが違う。

 だがそれを言ってしまえば、操だってもとは普通の天狗だった。

 

「操ちゃん、ちゃんと私の姿を見てくださいよー。どこからどう見ても、普通の鬼じゃないですかぁ」

「まあ、見た目はの……」

 

 たとい、“天魔”とはまったく重みの違うものであっても。二つ名を与えられるということは、それだけ藤千代が特別な存在である証明だ。

 なにせ彼女は、単純に腕力という一点だけを見れば。

 幻想郷の――否、古今東西のあらゆる存在を凌ぐ、最強の大妖怪なのだから。

 

「普通の鬼は、鬼の群れ三百を一人で、しかも素手でのしたりはせんよなあ」

 

 数十年ほど前だったろうか。藤千代が同族三百相手に勝ち抜き組手をやって、完全勝利を収めたのは。

 そんなの操はもちろん、八雲紫ですら、途中で間違いなく悲鳴を上げるだろうに。

 

「あー、あれはいい息抜きになりましたよねえ」

「……息抜き、か」

 

 それを、息抜きと言って笑って思い出せるのだから、彼女はどだいまともではない。

 

「でも、あの時もそうでしたけど、最近は鬼のみんなも弛んできちゃってますよねえ……」

 

 異様に長く伸ばされた一房の前髪を、左耳の上まで回して藤の髪飾りで結い留めながら、藤千代が面差しを曇らせた。

 

「昔は、もっと骨のある方がたくさんいたのに」

「……月見とか、か?」

 

 操が彼の名を口にしたのは、完全な無意識だった。

 実際にその瞬間を目撃したわけではない。しかし藤千代曰く、月見は、彼女を一対一の真剣勝負で負かした世界でただ一人の妖怪であるらしい。

 

(……)

 

 実のところ、操は月見の実力をよく知らない。彼は争い事を好まない性格だし、また妖狐故に思慮深く、いたずらに手の内を明かすような真似はしないからだ。

 月見は藤千代と同じく、幾千年もの時を渡り歩いた古の妖怪だ。藤千代が鬼の祖というならば、月見は妖狐の祖。銀毛十一尾は、月見が妖狐の頂点にいることを如実に証明している。

 だが、だからといって、鬼子母神をも上回るなどとは。

 いくらなんでも、眉唾が過ぎるのではないだろうか。

 ――と、

 

「えへへへへへ……」

 

 ふと聞こえただらしのない笑い声に、操の意識が思案の海から引き上げられる。真っ赤に熟れた頬を両手で押さえ、体をくねらせて身悶えしている藤千代の姿を見て、操は遅蒔きながら自分が地雷を踏んでしまったことを悟った。

 

「あ、いや、なんでもない。忘れて――」

 

 慌てて己の言葉をなかったことにしようとするも、時既に遅し。藤千代の表情筋が一気に弛緩して、脂下がって、ふにゃふにゃにとろけきっただらしない笑顔がさらけ出されて。

 ――ああ、これはもう完全に、地雷を踏んだ。

 いや、この場合は、踏み抜いた地雷が周囲に誘爆して、あたり一面が焦土と化すくらいの規模だろうか。

 ポフン、と隣に畳んだ布団の上に倒れ込んだ藤千代は、そして、

 

 

 

「そうなんですよ私が負けたのは今も昔も月見くんただ一人でもう随分昔の話で今では諏訪大戦って呼ばれてる頃の話なんですよあの時私は諏訪子さんと一緒に戦ってたんですけど神奈子さんのところに月見くんがいて私がもう少しで神奈子さんを倒すというところで月見くんが颯爽と現れてああもうあの時の月見くんは本当にカッコよかったんですよね神奈子さんが羨ましいです私もあんな風に月見くんに助けられてみたいですそれで月見くんと戦うことになって最初は私が圧倒してたんですけど途中から見事に逆転されてよくわからないうちに負けちゃったんですよね本当にすごかったんですよ未だにどうして負けたのかよくわからないんですけどきっとあれが月見くんの本気だったんですねふふふふふあの時月見くんから受けた一撃の痛みも重さも熱さも激しさも全部はっきりと覚えてますよ本当にすごいですカッコいいです素晴らしいですそして思い出したらなんだか体が熱くなってきましたけど我慢しますそういえば月見くんが外の世界に行ってから大分経ちますけど今はなにをやってるんでしょうねやっぱり昔みたいに気ままに旅して回ってるんでしょうかあいかわらず自由ですよね全然顔を見せてくれないのが寂しいですけどでもそういう他人に囚われないところがまた素敵でああもう月見くん月見くん月見くんえへへへへへへへへ……」

 

 

 

 ……………………あー。

 と、操は意識を放棄したくなった。

 そうだ。藤千代に対して無闇に月見との昔話を振るとこうなってしまうと、わかっていたはずなのに。迂闊だったと、操は己の失態を心の底から後悔した。

 見た通り、藤千代は月見に惚れている。自分を打ち破った世界でただ一人の男である彼に、陶酔している。ふと名前を出されただけで、夢の世界へと勝手にトリップしてしまうほどに。

 操が天井を仰いでいた視線をゆるゆると戻すと、藤千代はきゃーきゃー黄色い声を上げながら、布団の上を右へ左へ転げ回っていた。

 

「……ち、千代ー」

「えへへへへへ、月見くーん月見くーん。ああ、思い出したらなんだか急に会いたくなってきちゃいましたねー。今から捜しに行きましょうか、そして駆け落ちしましょうかー」

「千代ー。聞いてー」

「ああ、でもそうしようとするとさとりさんや紫さんがうるさそうですねえ。さとりさんは話せばわかってくれそうですけど、紫さんは無理でしょうね。一戦交える覚悟で行かないと」

「あのー、千代さーん?」

「うふふふふふ、月見くんのためなら幻想郷なんて見向きもしないで捨ててやりますよ。外の世界へ駆け落ち、とっても素敵じゃないですかなんて甘美な響きなんでしょう皆さんに会えなくなるのはちょっと寂しいですけどでも案外どうでもいいんですよねー私には月見くんがいれば他に誰もいらないのでああでも操ちゃんがいないのはとっても寂しいですね、ねえねえ操ちゃんも一緒に駆け落ちしましょうよーきっと楽しいですよーああっでも外の世界だと一夫多妻はダメなんでしたっけじゃあ仕方ないですね駆け落ちは無理そうなので外の世界へは新婚旅行で行くということで」

「おい聞けやコラ」

「えへへへへへ、やーんやーん」

「……」

 

 帰っていいかな、と操は思った。月見に好意を寄せている少女は、藤千代の他にも何人かいるが、その中でも彼女は次元が違う。ここまで行ってしまうと、もはや恋ではなくただの病気だ。鬼子母神は、心に致命的な病を抱えている。これを月見病と名付けよう。

 ……。

 などと現実逃避をしても始まらないので、操は深くため息をつきながら、

 

「あのな、千代。月見が帰」

「――本当ですか、操ちゃん?」

 

 神速であった。気がついた時には既に、笑顔の藤千代に胸ぐらを掴まれている。まばたきをした間の一瞬の出来事だった。――速すぎる。これではまるで、どこぞの時間を操るメイドみたいではないか。

 呼吸を忘れる操の先で、藤千代は藤色の瞳を爛々と輝かせていた。

 

「本当ですか? 本当ですね? 嘘だったらぶっ飛ばしますよー? こんにゃろぉ、って」

「待て千代、言ってる傍から投げようとするな! 本当じゃ、本当じゃから放してお願い!?」

 

 襟を掴まれ背負投げの体勢に入られたので、操は猛抵抗した。たかが背負投げとはいえ、それが鬼子母神の背負投げとなれば、畳を粉砕して床下まで突っ込み地面に操型の穴が空くだろう。つまり死ぬ。

 藤千代は操の胸倉を掴んだまま、笑顔で、

 

「本当ですかー?」

「本当じゃよおっ! じゃなきゃ、わざわざこんな空気の悪いところまで来たりせんって!」

「あ、それもそうですねえ」

 

 必死の説得が功を奏した。藤千代がこちらの襟から手を離すと、全身から圧迫感が抜けて呼吸ができるようになる。ああ、生きているってなんて素晴らしいのだろうか。

 けれど、操がそうやって一息つけたのも束の間で。

 

「こうしてはいられませんっ。行きましょう、操ちゃんっ」

「うおおっ?」

 

 すぐに、興奮で浮き足だった藤千代に腕を取られた。鬼お家芸の怪力で引っ張られ、危うく前につんのめりそうになる。

 藤千代は部屋を飛び出し、廊下を散々傷めつけて玄関へと向かった。どこへ行くつもりなのか、などとは問うまでもない。彼女の頭の中は、既に月見のことで飽和状態だろう。

 操は慌てて藤千代に足並みを揃え、尋ねた。

 

「行くって、月見がどこにいるかわかるのか?」

「手伝ってくださいね?」

 

 首だけで操へ振り返り、藤千代が返す言葉は至って簡潔。浮かべた柔らかい微笑みとは裏腹に、地を踏む両足の動きは速く、一刻も早く月見に会いたいという興奮がありありとにじみ出ていた。

 操は内心で苦笑いをする。月見が帰ってきたと知るなり仕事をすべて放って飛び出していった、あの時の自分の姿が重なるようだ。

 

「待っててくださいねー月見くーん! 今、会いに行きますよー!」

 

 月見が今、幻想郷のどこをほっつき歩いているのかはわからない。けれど藤千代は、『月見くんセンサー』なるものを持っているらしいから、適当に歩いているうちに見つかるだろう。

 

「月見くんのことですから、人里の近くにいそうですよね。まずはそのあたりから当たってみましょうか」

「そうじゃな」

 

 頷き、藤千代とともに外へ出る。『藤千代に月見が帰ってきたことを教える』という用事を終えた操は、しかし本山には戻らずに、そのまま月見捜しを始めることにした。

 よってそれから間もなくした頃、天狗たちの本山にて。

 

「て、天、魔、様ぁっ……! また、また逃げましたねえええええ!?」

 

 窓を砕くほどの恨みに満ちた絶叫を、一人の白狼天狗が、上げることになるのだが。

 それを操が知ることなど、もちろん、ありはしなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 明朝、月見は少しだけ寝坊した。

 日は完全に昇りきっている。雲一つない快晴で、差し込む朝日が目に痛いくらいだ。町は既に目を覚ましているようで、里人たちの活気づいた声が、小鳥のさえずりの代わりに聞こえてくる。窓を開けると、気持ちのいい朝の爽気が流れ込んできた。覚めきらず残っていた微睡みがゆっくりと引いていく。

 いい朝だ。長く寝ただけあって疲れはよく取れているし、筋肉痛もない。これならば今日も、のんびりと幻想郷を見て回れることだろう。

 

「慧音には、気を遣わせちゃったかな」

 

 昨夜、月見の目の前で「ふしだらな生活はさせない」と啖呵を切ったくらいだ。職業病なのか規則正しい生活にうるさい彼女は、きっととっくに目を覚ましているだろう。それなのに月見がこの時間まで寝ていられたのは、疲れているだろうからと、気遣ってもらえたからなのかもしれない。

 ……と、その時は思ったのだけれど。

 月見が居間まで行ってみると、ところがそこに慧音の姿はなかった。

 

「おや」

 

 朝食を作ってくれているのだろうか、と思って台所を覗いてみるが、いない。ならば用事で外に出ているのか、とも思ったが、玄関では慧音の靴が戸に先を向けて置かれていて、彼女が家にいることを立派に証明している。昨夜、月見のあとに風呂に入ったのだから、朝湯を浴びているということもないだろう。

 となると、もしかしてまだ起きていないのか。

 月見は慧音の寝室へ向かった。勝手に入るなと釘を刺されはしたが、一応、昨夜のうちに場所だけは教えられていた。

 

「慧音、いるか?」

 

 襖越しに声を掛けてみるが、返事はない。いないのか、それとも本当に寝ているのか。

 

「慧音ー」

 

 襖を叩いてみても結果は同じだった。なので月見は、失礼だとは承知の上で、そっと襖を開けて中を確認してみた。

 すると。

 

「……おや」

 

 部屋の中央で、ゆっくりと上下に動いている布団が一つ。どうやら今日の慧音は、月見と同じでお寝坊さんだったらしい。

 ここが自分の家ならば、このまま寝かせておいて朝食を作ってやるところだ。けれどここは慧音の家だから、料理はもちろんなにをするにも、ひとまず彼女には起きてもらわないといけない。

 わざわざ足音を殺すような真似はしなかったが、よほどぐっすり眠っているようで、慧音は一向に目を覚まさなかった。枕元まで進んで見下ろしてみれば、彼女のあどけない寝顔が露わになる。

 

「へえ……」

 

 教師、或いは人里の守護者としての線を強さを秘めた普段の顔とは違って、ふんにゃりとだらしなく緩みきった、少女の寝顔だ。いつ涎を垂らしても不思議でないそれは、昨日紅魔館で見たレミリアの寝顔を彷彿とさせる。

 

「こんな顔して寝るのかあ」

 

 きっと素敵な夢を見ているのだろう。笑っているようにも見えるその口元を見て、月見も自然ともらい笑いをしてしまった。ここが慧音の家であるばっかりに彼女を起こさなければならないのが、少し口惜しいと思えるくらいだった。

 月見はその場で膝を折り、慧音の肩を優しく揺する。

 

「おーい、慧音ー」

「ん、ぅー……」

 

 わずかに反応が返ってきたが、まだ起きない。なので月見はもう一度、

 

「慧音ー」

「ん、んぅー……?」

 

 慧音がゆっくりとまぶたを持ち上げた。寝惚け眼をこすりながら月見を見上げた彼女は、なにやら不思議そうに首を傾げて、それから数秒ぼけーっと固まって、

 

「……ぐぅ」

「はいはい起きろ慧音ー。朝だぞー」

「うぅー……」

 

 月見は慧音の額をペシペシして叩き起こした。慧音は抵抗の声を上げながらも、促されるままにのそりと起き上がり、けれどまだ半分寝ているのか、隙あらば布団に戻ろうとする体をうつらうつらと支えていた。

 これはまた、なかなかに立派なお寝坊さんだ。……なんとなく、授業に遅刻して生徒に叱られる慧音の図が思い浮かんだが、それはさておき。

 

「おはよう、慧音」

「ぅん……」

 

 慧音は、あいかわらず船を漕ぎながら答えた。

 

「随分眠そうだな。もしかして眠れなかったのか?」

「ぅん…………」

「……ちゃんと起きてるか?」

「ぅん、………………うん?」

 

 その時、慧音の顔が急に真面目になった。船を漕ぎすぎて川に落ちたのだろうか。ぱっちりと両目を見開いたまま、まんじりともしない。

 それがあんまりにもただならぬ様子だったので、月見もついどうしたと尋ねることができず、しばし無言でお互いを見つめ合ってしまって。

 数秒後、先に我へと返ったのは、慧音の方だった。

 ポカンと開いていた口がじわじわと大きくなっていき、水が湧くように顔全体に驚愕が染み渡り、瞳が収縮し、体がわなわな震え出して、首から段々と赤い色がせり上がっていって――

 そして、その赤が頭のてっぺんまで届いた、直後。

 

「――きゃああああああああああああ!?」

 

 ゼロ距離で放たれた無数の弾幕が、月見の体を――そして意識すらをも、一瞬で呑み込んでいった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

『人化の術』で人間になった弊害だろう、慧音の弾幕はとてもとても痛かった。一時間ほど気絶し、意識を取り戻して更に一時間以上が経ってなお、体には打撲の痛みが残っていて、節々に包帯を巻く羽目になってしまった。

 

「ほ、本当にすまない……。わざわざ起こしに来てくれたのに、こんな」

「いや、まあ、仕方ないだろうさ」

 

 隣で申し訳なさそうに身を縮めた慧音に対し、月見は力のない苦笑を返した。怒りはない。起こしてあげたお礼がゼロ距離弾幕というのもあんまりな話だけれど、慧音としては勝手に私室に入られた挙げ句、寝顔を見られたのだ。反射的に弾幕をぶっ放してしまうのも、うべなるところである。

 

「こっちこそ悪かったね、驚かせて」

「い、いや、私の方こそ。それにこれは、お互い様というか……」

「お互い様?」

「な、なんでもないっ!」

 

 勢いよくかぶりを振った慧音は、ぷいとそっぽを向いて赤くなった頬を隠そうとする。お互い様――というのがなんのことかはわからないが、どうせろくな意味ではないだろうから、追及せずとも問題はなかろう。

 

 慧音の家を出発し、迷いの竹林へと向かう道中である。まずは竹林の地理に詳しいという慧音の友人を訪ねるため、慧音の案内のもと、人里を南に向けて歩いていた。

 進む人里の道は、実に活気豊かであった。何気ない世間話の声、威勢のいい客引きの声、そしてなにより朗らかな笑い声が絶えない。昨日初めて里を訪れた時に感じた侘びしさは既になく、そこにはただ、温かい人間の気配があふれていた。

 昨晩の一件は、どうやら既に人里中に広まっているらしい。すれ違う里人からは口々にお礼の言葉を贈られ、露店の前を通っては、安くするからどうだいと何度も呼び止められた。中には、昨夜はお楽しみだったかいなんて茶化してくる里人もいて、

 

「お前たち、もういい大人なんだから少しは節度ってものを弁えたらどうなんだっ!?」

「おおっと慧音先生、そうやって取り乱すってことはまさか」

「天誅ッ!!」

「ぎゃー!?」

 

 慧音が直々に、頭突きをまき散らして弾圧したりしていた。

 その光景を眺めながら、月見は笑みとともに思う。この人里は、500年前とは見違えるくらいにいい場所になった。妖怪が跋扈(ばっこ)する世界にも関わらず、人間たちがこんなにも伸び伸びと生活している。

 それに、半人半妖の慧音が受け入れられているのもある。かつて紫が夢見た人と妖怪がともに生きる世界は、月見がいない500年の間で、ますます理想に近づいたようだった。

 

「ちなみに先生、あのあんちゃんとどこに行くんで? デートですか?」

「成敗――――ッ!!」

「いったー!?」

 

 ところで上白沢慧音、得意技は頭突きらしい。ごっちん、と寒気がするくらいに派手な音を鳴らすそれを見て、もしかするとゼロ距離弾幕よりひどいかもしれないなと、月見は苦笑いをした。

 

 

 

 

 

 里を出てから迷いの竹林までは、まだ昼間ということもあって、妖怪に襲われることもなくすんなりと行った。今は竹林の手前にて、慧音の友人が住んでいるらしい茅葺屋根の家を前にしている。

 

「お前と同じ陰陽師の子だよ。見た目よりずっと腕が立つから、妖怪に襲われても平気だろう」

「ほう」

 

 陰陽術は、現代文明の発達においては既に滅びゆく技術となりつつある。幻想郷が創られ、人間たちの世界から妖怪が姿を消してからは、必要のない技として受け継がれることもなくなり、今や風水や占星などの一部の形骸を残すのみ。妖怪と戦えるほどの陰陽師というのは、幻想郷はもちろん世界中を探したとしても、両手の指に勝るかどうかだろう。

 そんな幻想郷の陰陽師は、なんとまだ若い娘だという。さて、一体どんな子なのだろうか。

 慧音は少女の家の戸を叩き、声を上げた。

 

「妹紅ー。妹紅、いるかー?」

(――妹紅?)

 

 月見は眉をひそめた。聞き覚えのある――というか、完全に知り合いの名前だ。

 それから、ああなるほど、と納得する。確かに彼女は、若い娘でありながら腕が立つ陰陽師でもある。月見の旧知であり、以前幻想郷で生活していた時にも交流があった少女は、今なお陰陽術を人のために役立てているようだった。

 古馴染に会えることを心待ちにしたが、反して慧音の呼び掛けに対する返事は返ってこない。どうやら、折悪しく留守にしているらしい。

 

「妹紅ー? ……なんだ、いないのか」

 

 彼女の不在は予想していなかったのか、慧音は肩を透かされた様子だった。

 

「すまない、月見。大抵ここでのんびりしてるはずなんだけど」

「や、謝らなくても。そんなこともあるだろうさ」

 

 古馴染の顔を見られなかったのは少し残念だが、とりわけそれ以上の不都合があるわけではない。もともと月見は、一人で永遠亭を目指すつもりだったのだから。

 

「仕方ないだろうね。でも大丈夫だよ、私一人でも」

「ああ、そうだな――って、だからなんでお前は一人で行こうとするんだよっ! 危険だって何度も言ってるのに、わからないのか!?」

 

 けれど慧音は、よっぽど月見を一人で行かせたくないらしかった。声を荒らげ、胸倉に掴みかからんとする勢いだった。

 

「自分なら大丈夫だと思ってるのか!? 慢心だぞそれは、迷いの竹林を甘く見ちゃダメだ!」

「別に甘く見てるわけじゃないけど……じゃあどうするんだ?」

「また出直せばいいじゃないか。急ぎの用でもないんだろ?」

「それは……そうだけどね」

 

 月見は腕を組んで悩んだ。慧音の言い分はとてもよくわかるのだが、本当に一人でも大丈夫なのだから、わざわざ出直す必要がない。……さて、どうやって説得したものだろうか。

 うーむと唸って考えていると、慧音が不意に声を曇らせた。

 

「私はお前を心配してるんだぞ……? 一人で行って、それでもしなにかあったら、嫌じゃないかっ……」

 

 少しだけ湿った声だった。優しいんだな、と月見は思う。昨夜知り合ったばかりの男のために、ここまで心配してくれるのだ。人里の守護者を任されているのは、決して半人半妖としての実力を買われただけではない。その人間性もまた、彼女が里人たちから厚く信頼される一つの理由なのだろう。

 

「優しいんだな、慧音は」

「なっ……べ、別にこれくらい普通だろう。そうやって言いくるめようとしても、無駄だからなっ」

「本心だよ」

 

 素直な褒め言葉に弱い慧音を見て、月見は苦笑し、

 

「じゃあ、慧音も私と一緒に行くか?」

「……どうして、“じゃあ”でそんな話につながるんだ?」

 

 彼女の半目を受け流しつつ、続ける。

 

「私は一人ででもいいから、今、永遠亭に行きたい。そして慧音は、私を一人では行かせたくない。……だったら一緒に行くっていうのが、一つの折衷案だと思うけど」

「む、確かに……いやでも、私は竹林の地理には自信ないんだが……」

「慧音の好きにしてくれて構わないよ。……じゃあ私は先に行ってるから」

「ちょっ、おい待て! 本気で行くつもりなのかっ!?」

 

 無論、本気である。今は隠しているが、月見の正体は妖狐――それも長い年月を生きた大妖怪なのだ。竹林で道に迷うことはあれ、それで死ぬことなどありえない。

 故に月見は止まらない。結局、あーもう! と頭を掻きむしるような叫びが聞こえたあと、乱暴な足音が一つ、背中にくっついてきた。

 

「月見。お前は、子どもだ」

 

 突き刺すように鋭い慧音の声に、けれど月見は言葉を返さず、ただからからと笑っただけだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 迷いの竹林の恐ろしさは、文字通り、その地形構造故の迷いやすさにある。どこまで分け入っても竹以外の目印がない単調な視界に加え、気づかないほどに緩やかに傾斜した地面が、潜在的に人の方向感覚を狂わせるのだという。

 またこの日は、運が悪いことに霧が深かった。まるで雲の中にいるかのように、隣を歩く慧音の姿すら霞むほどだった。これではいくら旅に慣れた月見といえど、白旗を振る以外にない。

 詰まるところ。

 月見と慧音はものの十数分で迷い、その場で立ち往生することとなった。

 

「もう……だから言ったじゃないか、迷うって」

「うむ。さすがは迷いの竹林だね」

 

 がっくりとため息をつく慧音に対し、月見の口振りは軽い。何千年も前から世界中を歩いて回ってきた月見にとっては、道に迷うというのもまた、一つの旅の楽しみだった。

 

「まあ、いざとなったら空を飛べばいいだろうさ。永遠亭を見つけるのは……霧が深いから難しいだろうけど、人里までは帰れるだろう」

「そうだね……――って、え? お前、空飛べるのか?」

「一応ね」

 

 へー、と小さく呟いた慧音は、それからふと疑問顔で、

 

「あれ、じゃあなんで私たちは、わざわざ歩いて永遠亭に……? 私はてっきり、お前は空を飛べなくて、だから歩いていくしかないものだと……」

「旅というのは、自らの足で歩いてこそだよ」

「でも、飛んでいけばここまで迷うこともなかったよな?」

「道に迷うのもまた、旅の醍醐味なのさ」

「……」

 

 しらーっと半目になった慧音を、月見は無視した。……500年間外ばかりを歩いていた影響か、空を飛ぶという選択肢を今まで完全に忘れていたのは、秘密である。

 ああもう、と慧音がため息をつき、

 

「……で、どうするんだ? 諦めて里に帰るか?」

「まだ歩き始めたばかりだろうに。まだまだ諦めないよ、私は」

「なにか打開策はあるのか?」

「いや、なにも」

 

 慧音の半目が氷点下になった。

 月見は浅く肩を竦めて、

 

「慧音、もっと余裕を持った生き方をしようじゃないか」

「お前は余裕を持ちすぎだろう……」

「そうかな? ……ともあれ、そろそろ再出発しようか。慧音はどうする? 付き合いきれないと思ったら、無理はしなくていいんだよ」

「……ついていくよ」

 

 慧音は依然として疲れ果てた様子で、けれどはっきりと首を横に振った。

 

「お前はダメだ。最後まで付き合って、そして里に戻ったら説教してやるからな。覚悟しておけ」

「ッハハハ、そうか」

「まったくもう……あのな月見、お前はもう少し」

 

 さっそく前言を翻し、今この場で説教を始めようとした慧音の言葉を遮って。

 迷いの竹林をかすかに揺るがす、爆発音が響いた。

 まず空気が震え、一瞬遅れて地面が揺れる。

 

「……今のは?」

 

 二度目。今度は先ほどよりも強い。

 心当たりがあるのか、ああ、と慧音が小さく声をもらした。

 

「なるほど……だから家にいなかったんだな、妹紅は」

「……というと?」

「いや、その……」

 

 慧音は、少し答えに困る素振りを見せてから、

 

「なんというか……たまにこの竹林で暴れてるんだ、あいつは」

「……なんだってそんな」

 

 ということは、先ほどから聞こえるこの爆発音は、妹紅の仕業なのだろうか。相当派手に暴れ回っているらしく、一向に治まる気配がない。

 慧音が答えを躊躇ったあたりからして、決して妖怪退治をしているわけではないようだが。

 

「ふむ……じゃあとりあえず、行ってみようか」

「行くって……妹紅のところに?」

「この状況だ。もし会えたら、道案内を頼みたいしね」

 

 それに、妹紅が暴れている理由も気にかかる。彼女は意味もなく力を振り回す乱暴者ではなかったはずだが、500年の歳月で変わってしまったのだろうか。

 慧音とともに竹林を進む。断続的に響く爆発音のお陰で、向かう方向には迷わなかった。

 けれど、震源に大分近づいてあと少しというところで、竹林にもとの静けさが戻ってきた。霊力の気配がしたので空を見てみれば、薄くなった霧の彼方で、紅い炎の鳥が一羽、遠い空に飛び去っていくのが見える。

 あの炎は、妹紅の。

 

「……ちょうど、終わっちゃったか」

 

 月見は緩く吐息し、眼前に広がる竹林の惨状へと目をやった。

 焼け野原である。広がっているはずの竹林は消滅し、地面は焼け焦げ、所々から黒い煙を上げている。まるでちょっとした火事のあとだ。霧が薄くなったのが幸か不幸か、その生々しさが隅々まで見て取れる。

 

「……妹紅は一体、ここでなにをしていたんだ?」

 

 妖怪退治だとしても、よほどの相手でなければこうはなるまい。

 慧音はあからさまに胸を衝かれた様子で、なにもない宙へと目を泳がせた。

 

「ええと、それは……弾幕ごっこだよ、弾幕ごっこ」

「……」

 

 月見はもう一度、周囲の惨状をぐるりと見回す。……たかが弾幕ごっこでここまで竹林が焼き払われるなど、ありえるのだろうか。

 と、

 

「……ん?」

 

 焼け野原の片隅に、誰かが倒れている。ちょうど慧音も気がついたらしい。

 

「あれは……」

 

 薄く霧がかかる中を、目を凝らしてよく見てみれば。

 そこに倒れていたのは、衣服どころか下着すら身に着けていない、まさに一糸まとわぬ、素っ裸の、

 

「うわああああああああああ!? 見るなバカアアアアアアアア!!」

「ぐっ」

 

 それを情報として認識するよりも先に、慧音のジャンピング頭突きが月見の額を打ち抜いていた。目の前で火花が飛び散り、あっという間に視界が真っ暗になって、一時は己の意識すらも闇に沈んだ。脳の奥から焼きつくような熱さと痛みが込み上がってきて、それとともに意識が戻ると、どうやら自分は額を押さえて地面にうずくまっているらしい。

 

「……慧音、」

 

 頭蓋が割れたのではないかと思うほどに痛い。文句の一つも言ってやろうかと思い顔を上げようとしたが、間髪を容れずに、上から全力で押し戻された。

 グギ、と首が嫌な音を立てた。

 

「だ、だだだだだっだめだッ! 絶対に顔を上げるな絶対に動くな絶対に見るな! いいか、顔を上げたら、もう一発叩き込むからなッ!?」

「ッ~~……!?」

 

 慧音が泡を食ったように大騒ぎして言うが、月見に返事をするような余裕はない。頭蓋とうなじに襲いかかる二つの激痛を耐え忍ぶので、精一杯だった。

 しかし慧音は、その月見の沈黙を否定と受け取ったようで、

 

「ダ、ダメだあッ! お、お前も男なんだし、こっ、こここっこういうのに興味を持つのはわかるがっ、とにかく絶対見ちゃだめええええええええっ!!」

「いだだだだだっ!?」

 

 全体重をかけて全力でこちらの頭を押し潰す慧音に、月見はもう、比喩でもなんでもなく、本当に地面とキスをしそうだった。

 

「け、慧音、わかっ……わかったから放しっ、」

「ぜ、絶対に動くなよ!? 絶対だからなッ!?」

 

 やっとの思いでそれだけ言うと、頭にかかっていた力がふっと軽くなる。途端、月見は声にならない、噛み締めるような悲鳴をひとしきり上げて、そのまま地面にうつ伏せで倒れ込んだ。

 頭が割れたように痛くて、首が千切れたように痛い。悶え苦しみたくなるくらいの激痛なのに、体はほとんど動いてくれなかった。脳がやられてしまったのか、それとも神経系がダメになったのか。或いは、両方か。

 ふと、額から汗が滴るような感覚を覚え、月見はかろうじて動いた指先でそれを拭った。掠れた視界の中で確認してみれば、どうやら汗ではなく、血らしい。

 慧音の頭突きで額を切ったのだと、それを理解すると同時に、唐突になにもかもがどうでもよくなってしまった。私はなにをしにここに来たんだっけ、と思う。……ああそうそう、永遠亭だ。でも、なんだか永遠亭へは辿り着けなくてもいいような気がする。それどころか、このままここで眠ってしまってもいいような気さえした。

 それ以上はもう、考えるのも億劫だったので。

 なので月見は、最後に心の中で一言。

 

 ――ああ、やっぱり人間の体って、不便だなあ。

 

 そしてそれっきり、一切の思考を止めて、意識を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第17話 「導きの白 ②」

 

 

 

 

 

 目の前でいきなり火事が起きた。それくらいに慌てた。焼け野原と化した竹林の隅っこで、少女が素っ裸でぶっ倒れていたのだ。そりゃあ慌てる。

 幸い、月見には脊髄反射で頭突きを叩き込んだため、彼が少女の裸を見たということはないだろうが――迂闊だったと、慧音は己の浅慮を後悔した。

 よくよく考えてみれば、この展開は予想できたはずだ。妹紅と少女が戦っていることは初めからわかっていた。であれば、二人の戦いが“衣服が残らないくらいにまで相手を叩き潰す”ものであることにだって、すぐに気づけたはずなのに。戦いの敗者が素っ裸で気絶しているであろうと予測して、事前に月見を引き止めることだってできたはずなのに。なのに月見のマイペースっぷりに呆れ果てて、すっかり気が回っていなかった。

 まったくもって、迂闊だった。

 

「ええと。と、とりあえず、どうしたものか」

 

 慧音がおろおろしながら見下ろす先には、少女の体が横たわっている。気を失っているのか、一糸まとわぬ有様でなお、身動ぎ一つする様子がない。

 それがつまりどういうことなのかは言わずもがな。よりにもよって仰向けで倒れているというのがなお悪い。月見に頭突きをかましておいて、本当に正解だった。

 

 病的なまでに白い肌である。雪化粧のように柔らかで、きめ細かで、ただただ白く、一点の汚れも、くすみも、穢れもありはしない。握ればたちまち砕けてしまいそうな、そんな首元から薄っすら伸びた白の線は、浮き出た鎖骨で弓を描いて、弧をなぞるようにして乳房を通り、腰でくびれ、流水よりなめらかに双脚へとつながっていく。あまりに敬虔で、闇雲に触れたら穢してしまいそうで、人に許された限界を超えて、まるで幻のよう。

 少女が生まれたままの姿で眠るその光景を比喩する言葉を、慧音は持たなかった。絵画のような――? 否、これはいかな美辞麗句すらも絶する深い幽玄だと、慧音は思った。

 蓬莱山輝夜。

 かつての月の姫君であり、日の本でも『かぐや姫』として広く名を知らしめている彼女が、眠る。

 

「とにかく、なにか隠すものを……」

 

 触れれば穢れてしまう美しさでも、さすがにこのまま放っておくわけにはいかなかった。なにせこの場には、男である月見がいるのだから。彼に輝夜の裸を見せるくらいなら、幽玄を穢した罪人にでもなった方が遥かにマシだ。

 念のため背後を振り返り、月見が輝夜の体を盗み見るような真似をしていないか確認する。彼は地面にうつ伏せで倒れていて、視線は明後日の方角を向いていた。なぜ倒れているのかはわからないが、とりあえずこちらの言いつけは守っているようなので、よし、今のうちにさっさとやってしまおう。

 だが悪いことに、持ち合わせがなかった。タオルの類があれば理想だが望むべくもない。今の慧音はまったく手ぶらの状態で、それはあそこで寝っ転がっている月見も同じだ。となると自分が着ている服くらいしか使えそうな物がないのだが、そうすると今度は慧音が下着姿になってしまうし、月見の服を剥ぎ取って使うというのも、なんとなくアレだと思えた。

 すなわち、

 

「ど、どうしたもんか……」

 

 と頭を抱えてしまう程度には、困り果てた状況なのであって。

 

「――あれ、慧音さん?」

 

 助け舟は、思わぬところからやってきた。

 輝夜を挟んで、慧音の向かい側に広がる竹林の奥からだった。ヨレヨレの皺がついた、手芸品みたいな兎耳をトレードマークにして、鈴仙・優曇華院・イナバが、綺麗に畳まれた病衣を片手に現れたところであった。戦いに負けた輝夜を回収しに来たのだろう。まさに天恵のタイミングだった。

 鈴仙は、裸の輝夜を見下ろす慧音を特別訝しむでもなく、兎耳を一度ひくりとさせて、

 

「珍しいですねー、あなたがこんなところにいるなんて」

「あ、ああ」

 

 助かった、と吐き出したため息が慧音の胸を撫でた。

 

「助かったよ。どうしようかと困ってたところだったんだ」

「それもまた珍しいですねー」

 

 鈴仙は意外そうに目を丸くし、

 

「姫様は不老不死なんですから、放っておいても全然問題ないのに」

「それはまあ……ね」

 

 慧音は曖昧に笑って、足元の輝夜をもう一度見下ろした。

 横たわる輝夜の体には、服が残らないほど凄絶な攻撃を受けたにも関わらず一切の傷がない。攻撃を受けた時点ではそれこそ正視に耐え難い状態になったのだろうが、すべて回復したのだ。

 老いという概念を克服し、定められた天寿からも解放され、たとえ心臓を貫かれようが首を落とされようが瞬く間に再生し、決して潰えることのない永遠の命を、人は不老不死と呼ぶ。幻想郷には三つの永遠の命が存在し、蓬来山輝夜はその中の一つだ。

 鈴仙が、持ってきた病衣を宙へ大きく広げながら、問うてくる。

 

「永遠亭になにか御用だったんですか?」

「ちょっとね」

 

 慧音は膝を折って、輝夜の体をゆっくりと抱き起こす。

 ありがとうございます、と鈴仙は小さく笑んだ。

 

「どこか悪くしたんですか?」

「いや……観光目的で永遠亭に行ってみたいっていう変わり者がいてね」

「へえ?」

 

 輝夜の白い腕に病衣を通しつつ、そこでようやく鈴仙は、慧音の背後で寝っ転がっている月見に気がついたようだった。

 つい作業の手を止めて、コメントに躊躇う素振りを見せて、

 

「……えっと、あの方ですか?」

「そうだよ」

「なんで倒れて……もしかして、姫様たちの戦いに巻き込まれて怪我でも?」

「いや、その……」

 

 正直に答えるべきか否か慧音は悩んだが、無理に誤魔化そうとして彼が疑われてしまったら元も子もない。一応、彼は偶然この場に居合わせただけで、まったく悪気はなくて、輝夜の裸も当然見てはいないのだということを、はっきりと伝えなければ。

 

「その、な。輝夜の体を見てしまいそうになったから、咄嗟に私が頭突きを」

「うわあ……」

 

 鈴仙が浮かべた作り笑いは、腰が引けていた。

 

「それはまたご愁傷様で……」

「あ、あいつも悪気があったわけじゃないからっ。ただこれは、事故みたいなものであって……」

「わかってますよ。慧音さんがいたなら大丈夫でしょう」

 

 そうして改めて手を動かしつつ、けれど気になるところがあったのか、彼女はふとした体で問うてきた。

 

「あの人、さっきからぴくりともしませんけど、大丈夫なんですか?」

「え? それはもちろん――」

 

 なにを当たり前のことを、と頷きかけて――しかし慧音は動きを止めた。ようやく疑問に思った。そういえばあいつは、どうして倒れているのだろうか。

 こちらの言いつけを守って、輝夜の体を見ないようにしてくれているのだと思っていた。けれどよくよく考えてみるとそれはおかしい。後ろを向くなりこの場を離れるなりすればいいだけの話なのに、どうして服を土で汚すような真似をしてまで、わざわざ地面に寝っ転がっているのだろう。

 焼け野原に転がった月見の体は身じろぎ一つしない。その様が、ここで気を失っている輝夜と、とてもよく似ていたので。

 やがて水面へ顔を出すように、慧音は思い出した。素っ裸で気を失う輝夜を前に動揺するあまり、自分は月見へなにをしただろうか。

 全力で頭突きをした。

 全力で、彼の頭を地面に押しつけた。

 ――半人半妖故に人間よりもずっと強いその腕力を、縦横無尽に発揮して。

 

「……だっ」

 

 慧音はゆるゆると鈴仙に視線を戻して、冷や汗を流しながら、今の自分にできる精一杯の笑顔を浮かべた。

 

「大丈夫だ、ぞ……?」

「……いや、確認しましょうよ」

「そ、そそそっそうだな。行ってくるっ」

 

 鈴仙の半目に胸を貫かれ、慧音はそそくさと月見のもとに駆け寄った。まさかそんな、きっと居心地が悪いから寝たふりをしてるだけだろう、だから気絶してるなんてないない。そうポジティブに自分へと言い聞かせつつ、月見の顔を覗き込んで、

 

「ぅえっ、」

 

 変な声が出た。

 月見が額から、血が。

 

「ちょっ――」

 

 断っておけば、決して殺人現場のようにおどろおどろしい有様ではない。血を流しているといっても、額をほんの少し切って細い赤線が一筋走っている程度だ。

 だけれどもその原因は間違いなく慧音の頭突きであり、つまり言い逃れのしようもなく、慧音のせいであり。

 

「……ぁ、」

 

 月見がゆっくりと目を開けた。顔を横倒しにしたまま、苦虫を咀嚼しているように不機嫌な眼差しで、じっと慧音を見上げてきた。

 

「……慧音ぇ」

「は、はいっ」

 

 気だるげに間延びした声はだらしがなかったが、どういうわけか地獄から鳴り響く怨嗟のように恐ろしくて、慧音は叱られる子どもみたいになって背筋を伸ばしてしまう。

 月見の言葉は滔々(とうとう)と続く。

 

「いや、わかってるさ。なんかよく覚えてないんだけど、とりあえずなにかよくないものを見てしまった気はするし、お前が見ちゃダメだって騒いだのも無理はなかったかなと思うよ。それで咄嗟に頭突きをしてしまったというのも、まあ、仕方ないことなのかなって。……だけど、ものには限度というものがあるとも、私は同時に思うわけだよ」

「……、」

「……慧音」

「は、はいっ」

 

 息ができなくて、声が裏返ってしまいそうになる。

 月見は一度、地面に転がっていた指先を動かして額を拭った。血は固まっていなかったから、当然、指先は赤く汚れるのであって。

 それを確認した月見は、憮然と、深いため息を、一つだけ置いて。

 慧音を見上げ、一音一音確認するように、丁寧に言った。

 

「……なにか、言うことは?」

「…………ご、ごめんなさい……」

 

 生きた空もないとはこのことか。

 月見の半目に全身を射抜かれているようで、慧音はもう、その場でしおしおと縮こまることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 薬師の卵だけあって、鈴仙は常日頃から最低限の医療道具を持ち運ぶようにしているらしい。月見が額から出血していると知るや否や、輝夜の着替えをそっちのけにして応急処置を引き受けてくれた。

 本当は慧音がやってやるのが筋なのだろうが、本職に出てこられては出番もない。それに今は、月見に怪我をさせてしまったことがとにかく申し訳なくて、彼と顔を合わせることすら満足にできない状態だった。できることといえば精々、傍で大人しく二人の様子を見守ることくらい。

 

「一応、永遠亭で検査した方がいいですかねえ」

 

 月見の額の傷を消毒しつつ、鈴仙は眉を寄せて言った。

 

「ちょっととはいえ頭を切ってるわけですし、念のために」

「う、ううっ」

 

 心を抉られるような心地がして、慧音は思わず呻いた。幻想郷一の薬師に師事する鈴仙が言うのだ、でたらめということはあるまい。月見にそれだけの怪我をさせてしまったのだという罪悪感がずんずんとのしかかってきて、小さな慧音の体は潰れてしまいそうだった。

 一方で、当の月見は実にあっけらかんとしていた。慧音がごめんなさいをした時点でこの件についてはすっぱり割り切ったらしく、検査、という言葉を受けて意外そうに腕を組んでいた。

 

「ふむ、そこまでしてもらわなくても大丈夫だと思うけど」

「ダメですよ」

 

 鈴仙は、考える間も見せずに毅然と頭を振った。

 

「頭の怪我は油断できません。……ええと、月見さん、でしたよね。慧音さんに頭突きされたあと、気を失ったりしました?」

「いや、一応はずっと起きてたよ。なにも考える気が起きなくて、半分は寝てたようなものだけど」

「うーん、気を失ってないのならそれほど心配はないかもしれませんけど……でもやっぱり、検査しておいた方がいいと思いますよ。特に月見さんは人間ですからね」

「そうだねえ……」

 

 月見は口元に指を当てて考え、それからふとしたように、

 

「そういえば、永遠亭は診療所でもやっているのか?」

「あ、はい。そうですね、説明が遅れてました。永遠亭は、私の師匠が開いてる、どんな薬でも処方できる診療所なんですよ」

 

 どんな薬でも、というところを強調して、うっすらと胸を張る鈴仙は誇らしげだった。彼女が、己の師である八意永琳を強く尊敬している証だ。

 

「ほう、それはすごい。随分と優秀なお医者さんなんだろうね」

「そうなんですよ。月見さんは外来人らしいですから信じられないでしょうけど、師匠も私も、月からこっちの世界にやってきたんですよ。そして師匠は、向こうの世界では“月の頭脳”なんて呼ばれてた天才なんです!」

「……ふうん」

 

 地球外の生命体を目の前にした割には、月見の反応は静かだった。感動や驚きよりも先に、なにか喉に引っかかるものがあったのか。鹿爪らしい顔をして、真っ白い病衣に包まれた輝夜を見下ろしていた。

 

「……この子は」

 

 口数の少ない問いに、鈴仙は手当を続けながら、

 

「月の世界のお姫様に当たる方です。元、ですけどね。こっちの世界なんかじゃ、一時期は『かぐや姫』なんて呼ばれてたみたいですよ」

「……、……なるほど、ね」

 

 深い、吐息だった。感動でも驚きでもない、もっと別のなにかを、月見はその吐息に乗せて吐き出していた。

 それはまるで、遠い昔からの心のしこりが、ようやく溶けて消えていくような。

 

「どうかしました?」

「……いや、まさかかぐや姫が実在していたなんてと思ってね」

 

 奥歯にものを挟んだような口振りだったが、手当の片手間だったからか、鈴仙がそれに気づく様子はなかった。

 

「あーなるほど。でも幻想郷には他にも、日本の歴史で伝えられてる有名な妖怪とか結構いますよ? 萃香さん――鬼の四天王とか有名どころじゃないですか?」

「そうだね。……それは楽しみだ」

「……?」

 

 岡目八目というやつなのだろうか。慧音の目に映る月見の様子が、少し、おかしい。

 その違和感はあまりに小さすぎて、どこがどのようにおかしいのかまでは、わからなかったけれど。

 

「……あ、もう血は止まってるみたいですね。ご要望があれば絆創膏をおつけしますけど、どうします?」

「遠慮しておくよ、みっともないしね」

「似合うと思いますけど……。じゃあどうします? 検査を希望されるなら、永遠亭までご案内しますよ」

 

 月見は、一呼吸、まるで噛み締めるような間を置いてから答えた。

 

「そうだね。お願いするよ」

「わかりました。……慧音さんはどうしますか?」

「……私もついていくよ」

 

 静かに答え、それから慧音は身を竦めた。

 

「その……色々と責任を感じる部分もあるし」

 

 今慧音がするべきことは、できる限りで月見に怪我をさせてしまった償いをすることだ。しっかり永遠亭までついていって、検査結果を見届けて、治療費を立て替え、一緒に人里まで帰る。そうでもしない限りは、この罪悪感が消えてくれる日は当分訪れないだろう。

 

「わかりました。はぐれないように気をつけてくださいね」

「ああ。……輝夜はどうする?」

 

 よほどこっぴどくやられたようで、輝夜に目覚める兆しはまだ見えない。

 

「私が運ぼうか?」

「いえいえ、慧音さんのお手間は取らせませんよ」

 

 鈴仙はどことなく得意そうな顔をして、慧音の提案を断った。親指と人差し指で輪っかを作り、それを口まで持っていく。

 指笛を吹くつもりらしい。ひょっとして、指笛で仲間を呼び寄せるなんて芸当ができるのだろうか。

 そうして鈴仙は大きく息を吸い込み、一息で、

 

 すひー。

 

「……」

「……」

「……、」

 

 静かになった竹林の中で、鈴仙はもう一度息を吸って、

 

 ぴすぅーっ。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 見てはいけないものを見てしまった、と慧音は思った。いたたまれない。なんかもう、鳥肌が立つくらいにいたたまれなかった。

 鈴仙は、顔を真っ赤にしてふるふる震えて、なんだか死にそうになっていた。得意顔で指笛を吹こうとしたら音が鳴らなかったという赤っ恥に押し潰されて、息も絶え絶えになっていた。

 こういう時には、一体どんな言葉を掛けて慰めてあげられるのだろう。もう百年以上の長い時を生きた慧音だが、未だ、その答えを知らない。

 結局できたことといえば、縋るような気持ちで月見にアイコンタクトを送るくらいで。

 きっと月見だってどう言葉を掛けるべきか迷っていただろうに、それでも彼は慧音の視線に応えてくれた。鈴仙の肩に優しく手を置いて、優しく微笑んで、そして優しい声音で、

 

「大丈夫だよ、鈴仙。――私たちはなにも見なかったから」

「うわああああああああん!!」

 

 優しく優しく、鈴仙にトドメを刺した。

 心を砕かれ膝から崩れ落ちた鈴仙は、えぐえぐと咽び泣きながら、どんよりオーラをまとって地面の土をいじくっていた。

 

「ふふふふふ、そうですよ見栄張りましたよ。指笛で仲間を呼べたら、なんだかカッコいいなあって、前々から思ってたんですよ。これでも一応、昨日の練習では上手く行ったんですよ? ああごめんなさいなんでもないですこんなのただの言い訳ですよねだって本番で失敗してるんですもん。聞きましたよねみなさん、ぴすぅーですよぴすぅー。あはははははごめんなさいごめんなさい師匠私はやっぱりダメな子でしたー……」

「つ、月見いっ!」

「ははは、悪い悪い」

 

 月見が悪びれる様子もなく呑気に笑っているので、慧音は頭が痛くなってしまった。よりにもよってこのタイミングで、彼の子どもらしい部分が出てくるなんて。

 とにかくなにかフォローをしないとと思って、鈴仙の肩を揺すって必死に声を掛ける。

 

「鈴仙、しっかりしてくれっ!」

「あら慧音さん、私は大丈夫ですよ。ええ、しっかりしてます。しっかりと、自分のダメっぷりを認識してますとも」

「鈴せーん!?」

 

 マズい、なんだか鈴仙の目が虚ろだ。このままでは近いうちに迷いの竹林で首吊りが起こってしまうかもしれない。

 焦りに焦った慧音は、もう口に任せて、引きつった笑顔で叫んでいた。

 

「だ、大丈夫だって! ほ、ほら……ああいうお前も、茶目っ気があって可愛かったし!」

「そんなんで可愛いって言われても嬉しくないですよーだうわあああああん!!」

「あっ、」

 

 追い打ちだった。鈴仙はあふれる涙を流れ星みたいに振りまきながら、霧と竹林の向こう側へと走り去っていってしまった。

 慧音が咄嗟に伸ばした右手はなにも掴むことなく、空しい。

 

「……」

「……慧音、人のことは言えないんじゃないか?」

 

 月見にニヤリとした目で見られたので、慧音はしょげた。どうにも最近の自分は、焦るあまりに変なことばかりをしてやないか。ゼロ距離弾幕をぶっ放したりとか、人の頭を地面に押しつけたりとか。

 

「……さて」

 

 自分で自分の教師としての適性を疑う慧音を傍目に、月見は腕を組んで、手持ち無沙汰に鈴仙が駆け抜けていった方角を見つめた。

 

「どうしたものかね。あの子、どこかに行ってしまったけど」

「……」

 

 追いかけたところで無駄だろう。土地勘がない慧音たちでは到底見つけられないだろうし、そうであっても『脱兎』なんて言葉がある通り、鈴仙は非常に足が速い。

 つまりは、せっかく巡り会えた永遠亭への道案内を失ったのであって。

 

「……か、輝夜が目を覚ますまで待つしかないんじゃないかな」

「ふむ……」

 

 小さく息をついて、月見が眠れる輝夜の相貌を見つめた。生まれて初めて出会うかぐや姫を、物珍しく思うような目ではなかった。穏やかに細められ安らいだ瞳が見せるのは、過去を偲ぶ色で。

 だから、慧音は、

 

「……なあ、月見」

「うん?」

 

 問う、

 

「お前と輝夜って、もしかして――」

「――ぅぁぁぁぁぁあああああん!!」

「知り合――って、え?」

 

 そのさなか、しかし突如として近づいてくる少女の叫び声を聞いて、目を丸くした。

 つい先ほど、鈴仙が涙を振りまきながら走り去っていった方角からだった。竹林を揺らし、立ちこめる霧を肩で切り裂いて、飛び出してきたのは――

 

「……れ、鈴仙!?」

 

 まさしく鈴仙であった。迷いの竹林の地形がもたらした奇跡なのか、どうやら彼女は、無我夢中で走っているうちに走る向きをぐるりと半回転させたらしい。

 だが、鈴仙はそのことに気づいていないようだった。たださめざめ涙を流しながら霧を薙ぐばかりで、このままではまたどこか竹林の向こう側へと消えていくだろう。

 慧音は咄嗟に声を上げた。

 

「れ、鈴仙! 鈴仙、止まれ!」

 

 だが鈴仙は止まらなかった。それが『脱兎』の文字通り風さながらの勢いだったものだから、手を伸ばして引き止めることもできなくて。

 結局鈴仙は、慧音たちを横切ってはまた白い世界の向こうへと――

 

「……!」

 

 消える、その前に動く、影があった。月見だ。鈴仙が足を向ける先に立ち塞がり、浅く両腕を広げて身構える。

 その行動の意図を、慧音が悟るよりも早く。

 月見と鈴仙が、激突した。重くくぐもった音が鳴り、慧音は、二人の体が数瞬の間宙に浮いたのを見る。そして肉を強く打つ落下音が響いて、ようやく慧音は正気へ返った。

 

「ッ……お、おい!」

 

 肝が潰れた思いだった。鈴仙は月の世界の兎、すなわち妖怪だ。風のように走る妖怪と正面からぶつかって、体のやわな人間が無事で済むはずがない。今になって凍え始めた体を懸命に動かして、慧音は二人のもとへと駆け寄った。

 一瞬は最悪の悪寒すら脳裏を掠めたものの、月見は生きていた。怪我をしたどころかなんの痛みも感じていない様子であっさりと体を起こして、抱き止めた鈴仙を緩いため息とともに見下ろしていた。

 

「つ、月見……? 平気なのか?」

「ああ、大丈夫だよ」

 

 慧音が恐る恐る問えば、すぐに確かな肯定が返ってくる。

 

「陰陽術は便利なものでね。衝撃を和らげる符を使ったから、この通りなんともないよ」

「そ、そうか……」

 

 強ばっていた肩から力が抜けていくのを感じる。二度も月見を痛めつけてしまった慧音としては、とにかくもう彼には怪我をしてほしくなかった。

 月見は苦笑し、鈴仙の背中を静かに叩いた。

 

「せっかく見つけた永遠亭への足掛かりだからね」

 

 そうしてようやく、鈴仙がうぅーんと呻き声を漏らしながら身動ぎをした。こちらは彼と違って衝撃を和らげることができず、少しの間気を失っていたらしい。

 鈴仙がゆっくりと顔を持ち上げれば、すぐ近くに月見の顔がある。抱き止められているのだから当たり前だ。

 

「……」

 

 鈴仙は未だ状況を整理しきれないようで、呆然としながら自分の体を見回した。

 月見の腕が自分の背中に回っている。自分の腕が彼の胸元を掴んでいる。そして最後に、自分の体が彼の膝の上にすっぽり乗っかっていることを理解して、ようやく、

 

「――う、うわわわわわあああっ!?」

 

 いきなり熱湯の中に叩き込まれたように大暴れして、月見の両腕を振り切って、ごろごろと地面へと転がり落ちた。それだけに留まらず、更に這う這うの体で素早く月見から離れ、陸に上げられた魚みたいになりながら、

 

「ご、ごごごっごめんなさい! わわわ私ったら、なんとはしっはしたっ、はしはし」

「いや、いいから落ち着きなさい。ほら、そんな短いスカート履いてるんだから、あんまり暴れないで」

「ひゃあああああ!?」

 

 もはや見ていて可哀想になってくるくらいの慌てようだった。素っ頓狂な悲鳴を上げた鈴仙は、スカートの裾をはっしと押さえてその場で正座し、顔から蒸気を上げながらしおしおと縮こまって、動かなくなった。

 

「……ええと……大丈夫か?」

 

 腫れ物を扱う気持ちになって、慧音はへっぴり腰になりながらそう小さく問うた。対して鈴仙はなにも答えず、ただこくっと、かすかに頭を縦に動かしただけ。どうやら恥ずかしさのあまり口が利けなくなってしまったらしい。

 

「すまないね、無理に止めたりして」

 

 月見が立ち上がり、服についた土を払い落としながら鈴仙へ尋ねた。

 

「怪我はないか?」

 

 こくっ。

 

「永遠亭まで案内してほしいんだけど、大丈夫かな」

 

 こくっ。

 

「……立てるか?」

 

 ……こくっ。

 頷いた鈴仙は、しっかりとスカートの裾を押さえながら、ちょっとだけ内股になって立ち上がって、

 

「……し、し」

 

 なにかを言おうとするのだが、舌がもつれて上手く行かない。彼女は何度も舌を噛みながら、深呼吸をしたり、ますます縮こまったりして、ようやく声が出たのはおよそ秒針が一回転してからだった。

 

「……し、しつれぇ、しました…………」

「あ、ああ……ごめん」

 

 まさかここまで動揺されるとは思っていなかったようで、月見はすっかり面食らった様子で頬を掻いていた。……まあ、鈴仙の反応も無理はないだろう。赤の異性にいきなり抱き留められたのだから、女として動揺しないわけがない。やむを得なかったとはいえ、頬に紅葉が咲かなかった月見は幸いだった。

 

「大丈夫か、鈴仙?」

 

 慧音は俯く鈴仙を覗き込んだ。返事がないのでもう一度、

 

「鈴仙?」

「……い、いぇ、だいじょうぶ、ですよ」

 

 返ってきたのは、蚊の鳴くような声だった。鈴仙は顔を耳まで真っ赤にして、もじもじしながら、

 

「わたし、その、男の人を触診するのとか、ほんとダメで。簡単な応急処置だったり、子どもとかご老人なら、大丈夫なんですけど、その、大人の方の、胸とか、触っちゃうと、すごく硬くて、私たちと違うんだなとか、まじまじ思っちゃって、ほんと、なんかドキドキしちゃって、ダメなんですよぅ……」

「……」

 

 それは、一人前の薬師を志す者としては致命的ではなかろうか。慧音が言えた台詞でもないが、ちょっと初心すぎるのでは。

 そういえば、と慧音は思い出す。永遠亭が人里で健康診断を行う時、診察はほとんど永琳一人で行って、鈴仙はその手伝いばかりだった。薬師見習い故に手伝いしかさせてもらえなかった、のではなく、初心すぎるが故に手伝いしかできなかった、というのが真実らしい。

 ……永琳が不老不死であることも相まって、鈴仙は一生、卵のままなのかもしれない。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいね。もう少しで落ち着きますから」

「そ、そうか」

 

 鈴仙が、細い息遣いで、ひー、ひー、ふー、と間違った深呼吸を始める。どうやらまだ相当混乱しているようなので、慧音は振り返り、少しそっとしてやってくれと月見に向けて目配せをした。

 薄く苦笑いをした月見は、所在なげに周囲を見回して、やがて今なお眠ったままの輝夜を目に留めた。

 

「……この子は、結局どうやって永遠亭まで連れて帰るんだい?」

 

 びくん、と鈴仙の肩が律儀に飛び跳ねる。けれど月見は、そっとしてやってくれという慧音の言いつけを守って、そのまま続けた。

 

「なんだったら、私が運んでも大丈夫だけど」

「……大丈夫なのか?」

 

 慧音は眉をひそめた。人の体は、見た目よりもずっと重い。輝夜はまだ幼さが残る少女だが、それでも気を失い完全に脱力した体を気軽に持ち上げるのは難しいはずだ。加えてほんの少し右から左に動かす程度ではなく、永遠亭までの長い道のりを運ぶのだから、もう立派な重労働となるだろう。

 だが思い出してみれば、昨夜の晩、腰を抜かして動けなくなった慧音を人里まで運んでくれたのは、他でもない月見だった。彼は決して逞しい体つきではないけれど、意外と結構な力持ちなのだ。

 だから、まあ大丈夫かなあ、と慧音は思ったが。次第に、すー、はー、という正しい深呼吸法へと戻ってきた鈴仙が、赤みの残る頬を持ち上げて月見を見上げた。

 

「でもその、悪いですよ。お客さんというか患者さんというか、そんな人にやってもらっちゃうなんて……」

「でも、男の私がなにもしないっていうのもね。大分困らせちゃったみたいだし、顔を立たせてくれないかな」

「いえそんな、あんなの、わ、私が初心というか、ともかく月見さんは全然悪くないので……」

「まあいいんじゃないか? 鈴仙」

 

 鼬ごっこになりそうな気配を感じて、慧音は苦笑とともに二人の間へ割って入る。

 

「せっかくの男手だし、有効活用しようじゃないか」

「そうそう、そうしてくれ」

 

 これがもし下心アリの申し出だったら、もちろんゼロ距離弾幕でぶっ飛ばすけれど。彼の人柄を考えれば、それもありえないだろう。

 鈴仙は少しの間迷う素振りを見せてから、苦笑した。

 

「……じゃあ、折角なのでご好意に甘えますね。永遠亭まではそんなに遠くないので、お願いします」

「了解」

 

 頷き、月見は一度その場で肩を回すと、輝夜の上半身を起こして左手を背中に、右手を腿のあたりに差し込む。それからちょっとした荷物を運ぶようにひょいと抱き起こす、その抱き方は、お姫様抱っこというやつだったので。

 慧音はふいを衝かれて、どきん、とした。

 

「そうやって運ぶのか?」

「おぶって運ぶのは危ないだろう。後ろにひっくり返ったら大変だ」

「それは、まあ……」

 

 そうなのだけれど、なんというか。その。

 慧音のその悶々とした気持ちを、代弁したのは鈴仙だった。からりと笑って、

 

「なんだか様になってますねえ、月見さん」

 

 そう。様になっているというのも妙な表現だが、輝夜を抱いた月見の姿が、まるで劇の一場面を覗くように、すっと慧音の瞳へと入ってくるのだ。

 輝夜の体を両手でしっかりと支えたまま、月見は笑った。

 

「茶化してもなにも出ないよ」

「いやいや、本心ですよ。……ともあれ行きましょうか。ご案内しますよ」

 

 鈴仙が霧の奥へと歩き出し、月見もすぐにそれに続いていく。ただ慧音だけが、まるで夢でも見ている心地で、月見の背中をぼんやりと見つめていた。

 或いはだからこそ、聞き取れたのかもしれない。

 耳をそばだてなければ到底気がつけないような、彼の呟きを。

 

 ……あいかわらず、軽いやつだねえ。

 

 だから慧音は、確信した。もう間違いない。月見自身がそう言ったのだから、そうなのだろう。

 月見と輝夜は、知り合い同士なのだと。

 そう確信した慧音は、それが一体どういう意味なのかをぼんやりと考えながら、月見の背中を追いかけた。

 霧が晴れてきている。月見を迎え入れるように。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 心地良い記憶ほど、夢のように感じる。億にすら及ぶ久遠の歳月を生きた八意永琳が、千年ちょっと前の出来事をこうも懐かしいと感じるのは、それだけその記憶が心地良いものだからなのだろう。

 輝夜がまだ『かぐや姫』と呼ばれていた時代に、彼女とともに在る陰陽師の男がいた。彼は、輝夜が地上の世界で得た大切な友人であり。

 そしてかけがえのない、想い人でもあった。

 永琳が彼と出会ったのはほんの数分だった。けれどその数分で、輝夜が本当に彼を想っているのだと思い知らされて、それが少し意外で、そしてとても嬉しかったのを覚えている。

 もちろん、彼は人間だったから、既に生きてはいない。

 それは、彼が永琳たちとともに月の追手から逃げ、生き延びていたとしても、変わらない定めだったろう。輝夜は不老不死であり、彼は人間だった。輝夜がどれだけ彼を想おうとも、どれだけ生きてほしいと願おうとも、先立たれる運命は避けられなかった。

 けれど同じ死であっても、彼が選んだのは天寿を全うすることではなく、輝夜を助けるために己を捨てることだったから。

 彼には本当に感謝している。彼が助けてくれなければ、永琳たちは無理やり月へと連れ戻され、この世界で生きていくことはできなかった。それは、本当に、感謝しているのだ。

 でも、私たちと一緒に逃げ延びる道を選んでくれても、よかったのに。少なくとも、輝夜はそれを望んでいたはずなのに。

 感謝の心の中で生まれる、針が刺すような痛みは、ともすれば恨みという言葉でも表現できるだろう。感謝していたし、同時に恨んでもいた。それらの感情は千年以上が経った今でも色褪せないのだから、私も感傷的になったものだと永琳は思う。

 カルテが床の上に散らばった音で、我へと返った。

 

「……」

 

 いつの間にか、随分と考え込んでしまっていたらしい。永琳は緩くため息をついて、散らばったカルテを掻き集める。

 思考が次第にこちら側へと戻ってくると、ふと思い出すことがあった。

 

「そういえば……ウドンゲ、まだ帰ってきてないわね」

 

 妹紅との戦いに敗れた輝夜を回収に向かわせたのは、もう随分と前の話だ。鈴仙は決して有能な助手とはいえないが、仕事真面目ではあるから、戻りが遅れるとなれば相応の理由があるだろう。だが心配はしなかった。月の兵士として高い戦闘能力を持つ鈴仙にとって、襲われると危険な相手というのは、意外にもそれほど多くない。薬師としてはまだまだだが、輝夜の護衛としては、ある程度のラインで信頼を置ける助手だった。

 だから永琳は、そのうち帰ってくるだろうと深く考えず、掻き集めたカルテで机を叩いて、仕事の続きをしようとした。彼のことも。今となってはもうどうしようもないことだから、深く執心するのはよそうと。

 

『ただいま戻りましたー、師匠ー』

 

 玄関の方から、朗らかな鈴仙の声が聞こえた。そして声は、それだけではなかった。

 

『どうもありがとうございました、わざわざ運んで頂いて。……それじゃあ、姫様を寝かせてきますので、あとは任せてください」

『ああ、よろしく』

 

 物静かなバリトンは男の声音。鈴仙の帰りが遅れた理由は、途中で彼と出会ったからなのだろう。

 男が何者かはわからないが、話の内容からして輝夜を運んでもらったのは明らかだった。であれば礼を言わなければならないから、永琳は整理したカルテをひとまず机の上に置き、玄関へと向かう。

 途中、輝夜を背負った鈴仙と鉢合わせた。

 

「あ、師匠。ただいま戻りました」

「ええ、おかえり。……一体誰を連れてきたの?」

「慧音さんと……あとは外来人の男の方です。少し怪我してるみたいだったので、治療をと思って」

 

 そう、と永琳は短く頷いた。今はカルテの整理くらいしかやることがなくて暇だったから、お礼も兼ねて暇潰しに治療してあげるのは悪くない。一人で作業しているとまたあの思考の海に囚われかねないから、人相手に仕事をしたい気分だった。

 

「じゃあ私が行くわ。ウドンゲは輝夜をよろしくね」

「はい、わかりました。お願いしますね」

 

 鈴仙と別れ、撫でるように廊下を進んでいく。玄関では、鈴仙の言葉通り、上白沢慧音と外来人の男が待っていた。物珍しそうに永遠亭の内装を見回す男を、隣の慧音が行儀が悪いと言ってたしなめている。

 

「お待たせしました」

 

 永琳の出迎えに、まず反応したのは慧音だった。こんにちは、と間をつなぐように笑顔を見せて、その片手間で男の裾を鋭く引っ張る。二人の身長は随分と差があったが、まるで他人の家に挨拶に来た母親と息子のようだった。

 そこになってようやく、男は永琳の姿に気づいたらしい。何気なくこちらを向いた彼と、目が合った、

 瞬間、

 

「……!」

 

 強く頭を叩かれた心地だった。あまりの衝撃に周囲の雑音がすべてシャットアウトされて、視界に慧音の姿が映らなくなり、男の相貌だけが浮き出るように鮮明になる。胸が急に苦しくなって、息の仕方がなんだかよくわからなくなって、喘いでしまいそうになる。

 千年以上昔のほんの数分だけの邂逅だったけれど、それでもはっきりと思い出せる。

 我の強い輝夜が心を許し、恋すら抱いた、あの。

 あの男が、目の前に。

 

「――……」

 

 バカな、と思い、それからすぐに確かにバカことだと気づいて、永琳はつい笑ってしまった。そうだ、ありえるはずがない。千年以上も昔の人間が、あの時となにも変わらない姿で、また永琳たちの前に出てくるなんて。

 他人の空似だ。そう思ったら、さほど、目の前の男があの人に似ているわけでもないような気がして、呼吸が楽になった。視野狭窄を起こしたように狭まっていた視界が徐々に広くなって、慧音の姿がわかるようになる。周囲の雑音も、もういつも通り。

 

「……永琳? どうした?」

 

 疑問顔の慧音に、軽く頭を振って返した。

 

「なんでもないわ」

 

 それから、男を見て、

 

「ようこそ永遠亭へ。私は八意永琳、ここで薬師をしているわ」

 

 男は、すぐには返事を寄越さなかった。永琳を見つめたまま、記憶を遡るように目を細めて、押し黙っていた。

 その沈黙が妙に長かったから、隣の慧音が、挨拶くらいしろと肘鉄を打ち込もうとして。

 

「――ああ、そうだ思い出した。確かに。確かに永琳は、お前だったね」

 

 生まれて間もない頃から神童と呼ばれ、月の頭脳と崇められるほどの才に恵まれた永琳だけれど。だけど未だかつて、これほどまでにわけがわからなくなることなんてなかった。

 心臓が早鐘を打ち始める。指先がかじかむ。息が詰まる。唇が干上がっていく。わけがわからなくなると、そうか人はこんな風になるんだと、どこか俯瞰した自分の囁きが頭の片隅で聞こえた。そんな言葉を思う余裕なんて、どこにもなかったはずなのに。

 

「久し振りだから思い出すのに時間掛かったけど、なんだ、もしかするとあの時からまったく変わってないみたいだね。ひょっとしてお前も不老不死だったのか?」

 

 この男の言う『あの時』が、一体いつの話なのか、とか。

 一体誰の姿を思い描いて、『お前も』なんて言っているのか、とか。

 あくまで機械的に、彼の声を言葉として認識することはできる。けれどそこまでだった。彼の言葉がどういう意味なのかを考えようとすると、思考は濁流さながらに混乱して、ちっとも形を成してくれなかった。

 

「……ちょっと、待って」

 

 ようやくの思いでそれだけ搾り出して、顔を押さえ、俯き、深呼吸をして、乱れる思考に手綱をつけて、八意永琳は考えた。バカなことだと思った。他人の空似だと思った。だが、違うのか。

 悪戯。違う。当時の記憶を知っているのは永琳と輝夜だけで、鈴仙にすら詳しいところは教えていない。あの人の姿を偽るなんて、他人にできる悪戯じゃない。

 夢。違う。夢を見ているならば、永琳ははっきりとそれを認識できる。自分が今いる世界は間違いなく現実だ。

 目の前の彼を否定しようとも、否定しきれるだけの理由が見つけられない。

 なら、

 なら、

 この人は、まさか夢でもなんでもなくて。

 本当に。

 

「……いまいち覚えてもらえてないかな。まあ、お前と話をしたのはほんの数分だったし、無理もないけど」

 

 もしかしたら輝夜からも忘れられてるのかねえ。そうだとしたらちょっとショックだね。

 彼は、笑う。

 からから、笑う。

 永琳は咄嗟になにかを言おうとした。けれどそれが声になる前に思い留って、ぐっと呑み込んだ。いけない、と思う。感情に任せて喋ってしまっては、そのうち堰が切れて、自分で自分がわからなくなってしまいそうだった。

 ゆっくりと、深く呼吸をして、感情を理性で抑えつけて。

 

「あなたが“彼”だという証拠が、どこにあるの?」

 

 静かな問いに、彼は笑みを崩さない。

 

「お前と出会った時の話をしてやろうか。私は、今でもよく覚えているよ?」

 

 流水のように綺麗に流れる言葉は、とても嘘とは思えなかった。けれど、嘘でないとも、思えなかった。

 

「なんで……百歩譲ってあなたが“彼”だとしても、千年以上も経って今更、どうやって」

 

 蓬莱の薬ではない。当時永琳が月から持ち込んだ二つの薬のうち、一つは永琳が、そしてもう一つは妹紅が飲んだ。彼は不老不死ではない。それは間違いないはずだ。

 けれど、不老不死でないなら、

 

「若返りの禁術にでも手を出した?」

 

 千年近く前に、そうやって妖怪を助けて回る尼僧の噂を耳に挟んだことがある。

 

「いやいや、まさか」

 

 けれど彼は、首を振って。

 

「なにも変な真似はしていないよ」

「じゃあ、どうやって」

「今更打ち明けたところで、信じてもらえるかはわからないけど――」

 

 その体を、ふいに光の粒子が包んだ。

 なにかの妖しい術かと思って咄嗟に身構えたが、その粒子はただ彼の体を包み込んだだけで。

 

「――解術・『人化の法』」

 

 小さな宣言の声とともに、光の衣が砕け散り、消える。

 そして現れた、彼の姿は。

 

「――!!」

 

 音がするほど強く、永琳は息を呑んだ。日本人独特の深い黒髪をした外来人は、もうそこにはいなかった。

 代わりに佇んでいるのは、あの黒を反転したかのように、くすみのない綺麗な銀色をした――

 

「――というわけで、私の正体は妖怪だったんだよ」

 

 妖怪。――妖狐。頭から伸びた一対の獣耳も、背後で揺れる大きな尻尾も、淡く感じられる妖気の気配も、もはや人のものではない。

 

「――……」

 

 頭の中が完璧に真っ白になった。生まれて初めてだった。生まれて初めて永琳は、なにも考えられず、指先一つも動かせず、なんの声も出せず、もうバカになってしまったかのように、ただただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 笹の葉擦れの音が、聞こえた気がした。

 

「……………………なっ、」

 

 そしていち早く我に返ったのは、どうやら彼女の方だったらしい。

 もはやまばたきもできなくなった、永琳の視界の中で。

 

「なんだそりゃああああああああああ!?」

 

 絶叫とともに繰り出された慧音のロケット頭突きが、彼のこめかみを打ち抜くのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ① 「彼の記憶」

 

 

 

 

 

 かつて、人間として世を生きたことがある。

 自分が妖怪であることを忘れて、紛れもない一人の人間として、時を刻んだことがある。

 

 他の狐のように、姿形を偽って人々の中に紛れ込み、いたずらをして生きるのではなく。

『人化の法』を作り出し、本当に人間となって、そして人間として生きた数年間。

 

 千余年前――今では奈良時代と呼称され、そして日の本最古の物語として後世に伝えられるようになる、当時の記憶。

 

 少しだけ大切な、遠い思い出。

 

 

 

 ――竹取物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――あの頃は偽名まで使ってね。本当に人間になりきってたんだ」

 

 永遠亭の診察室で、月見は誰に語るでもなくそう言った。言葉を切って呼吸をすると、記憶そのものが息づいているように、当時の記憶が甦る。

 鼻に透き通るような薬の匂い。そして少しだけの、竹の香りがする。

 

「門倉銀山。いや、懐かしいね。でもまるで昨日のことみたいに、当時の記憶は鮮明だ」

 

 ひんやりとした指先が、そっと月見のこめかみをなぞる。慧音からもらった本日二度目の頭突きで切ったその場所に、永琳が傷薬を塗ってくれていた。

 

「陰陽師として生活してたんだけど、ちょうど輝夜が京を騒がせてる頃でね」

 

 患者用の診察椅子に腰掛けて語る月見に、隣で慧音と鈴仙が耳を傾ける。

 

「仕事の一環で出会ったんだよ。それからすっかり打ち解けて、というか輝夜の方から一方的に突っかかってくるようになって」

 

 本当に懐かしいねと月見が笑うと、こめかみから永琳の指が離れていった。

 

「――はい、おしまい。簡単に薬を塗っただけだけど、妖怪の体だったらすぐに治るでしょう」

「すまないね」

「いいのよ、薬師だもの」

 

 よそ行きの笑顔でそう言い、永琳が鈴仙に塗り薬を手渡す。鈴仙はそれを片付けるため、近くの薬棚へ小走りで駆けていく。

 月見は鈴仙の背中を目で追いながら、語りを続けた。

 

「というわけで思い出してもらえたかな、永琳」

「思い出すもなにも、初めから忘れてなんていないわよ。……ただ、信じられなかっただけ」

 

 表情こそ穏やかだったが、永琳の吐息にはなおも深い驚きの色があった。

 

「まんまと化かされたわ」

「ッハハハ、悪い悪い。……慧音も悪かったね。騙したつもりは――いや、結果的には騙したことになるんだろうな」

「そ、そうだぞっ。どうして黙ってたんだ、本当にびっくりしたじゃないかっ」

 

 具体的には、絶叫しながらロケット頭突きを繰り出すくらい、だ。もともと騙すつもりはなかったとはいえ、やはり狐だからか、慧音にあそこまで驚いてもらえたのは爽快だった。お返しに飛んでくる頭突きは痛いが、それを鑑みても、慧音はなかなかに騙し甲斐のある少女のようだ。

 慧音が顔を赤くして喚いた。

 

「狐かっ、狐だからなのかっ。さてはお前は悪い狐なのかっ」

「いやいや、一応はちゃんと訳ありだよ」

 

 手当たり次第に人を化かして楽しむような子ども時代は、とうの昔に通り過ぎた。

 

「見知らぬ妖怪が宿を恵んでほしいなんて言ってきたら、お前は私を家に泊めてくれたかい?」

「……それは」

 

 答えにつかえて苦い顔をした慧音に、月見はただ、そうだろうねと一つ頷く。

 元来、妖怪と人間は相容れない存在だ。妖怪が人を喰らい、人は妖怪に喰われる。かつて存在したその絶対的なヒエラルキーは、この幻想郷でだって完全に消えてなくなったわけではないはずだ。見知らぬ妖怪にいきなり宿を恵んでくれと言われたら、警戒し遠ざかるのが人として自然な反応であり、特に慧音は人里を守護する立場だから、人間たちを守るためにも不審な妖怪へは相応の対処をしなければならない。

 それを理解していたからこそ、月見は人を偽った。

 

「悪かったね、今まで騙してて」

「う……い、いや、悪気があったわけじゃないなら、別に……」

 

 慧音は気まずそうに視線を泳がせてから、椅子の上で縮こまって、頷くように小さく頭を下げた。

 

「……そ、それよりも、私の方こそごめん……。二回も、頭突きして」

「ああ、それはもういいよ。妖怪に戻ったしね、すぐ治るさ」

 

 慧音もド派手に驚いて月見を楽しませてくれたので、おあいこ、といったところだろう。終わったことでいつまでもグチグチ小言を言うほど、月見は心の狭い妖怪ではない。それこそ、悪気があったわけじゃないなら別に、というやつだった。

 だが生真面目な慧音は引き下がらなかった。今度は帽子が落ちそうになるくらいに深く頭を下げて、

 

「ほ、本当にごめんっ。お詫びに、治療費は私が全部立て替えるからっ。大丈夫、これでも意外と貯えがあって」

「あ、別にお金はいいわよ?」

「え……」

 

 そして颯爽と財布を取り出そうとした出鼻を、永琳の一言であっさりと挫かれた。

 なぜか裏切られたような目をしている慧音に、永琳はやんわりと微笑んで言う。

 

「ただちょこっと傷薬を塗っただけだもの。大したことじゃないわ」

「け、けどっ」

「それに、彼は輝夜の大切な人だもの。このくらいのことでお金を取ってたら、輝夜にケチって馬鹿にされるわ」

 

 それから、輝夜に馬鹿にされるのは屈辱だものね、とさりげなく失礼なことを言い足して。

 

「それじゃあ、手当ても済んだし戻りましょうか。……まさか、もう帰っちゃうなんて言わないでしょう?」

「……」

 

 永琳は微笑みを崩さなかったが、月見へと向けられた瞳には、強く願い乞う色があった。会ってあげて。そう祈るようでもあった。

 気づかないふりをするには、その瞳は些か、まっすぐすぎたから。

 

「……言わないよ」

 

 だから月見も、微笑んで。

 

「邪魔にならないなら、輝夜が目を覚ますまでいさせてくれ」

「ええ、もちろん。……聞かせてちょうだい。あなたと輝夜が出会った時のこと」

「……輝夜から聞かされなかったのか?」

 

 永琳は答えず、誤魔化すように不器用な笑顔を見せた。それだけで、月見は彼女が言わんとしているところを察した。

 きっとあの時の記憶は、輝夜にとって幸せなものばかりではないから。だから輝夜は自ら語ることをしなかったし、永琳も訊けなかったのだろう。

 永琳の声音は静かだった。

 

「座敷に行きましょう。……ウドンゲ、お茶の用意をしてくれる?」

「……わかりました」

 

 どこか改まった様子で頷いた鈴仙を確認してから、永琳は席を立って。

 

「それじゃ、案内するわ。ついてきて」

「ああ」

 

 薬の匂いがする診察室を出て、竹の香りがする廊下へと。永琳の背を追いながら進む、その静かな足音が、過去への門を叩くようだった。

 一歩、一歩と歩むたび、千余年越しの記憶は鮮明に息づく。

 

「……」

 

 果たして輝夜も、覚えているのだろうか。

 あの日のことを。

 

 月が夜空に白い孔を空けた、あの夜のことを。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人とともに生きてみたいと思い始めたのは、一体いつからだったのだろうか。今となっては思い出せないほど昔のことだが、とかくそれが、月見が世界中を渡り歩くようになった原点だった。

 例えば最近知り合った八雲紫という妖怪は、一人一種族の妖怪故に、人間たちの強い絆の繋がりに惹かれたのだと言っていたが、果たして月見はどうだったのだろうか。そうだった気がするし、そうでなかった気もする。人に惹かれるのが当たり前になってしまってからは、すっかり意識しなかったことだったから、忘れてしまった。

 けれどどうあれ、人とともに生きたいという願いは変わらない。

 だから理由なんてどうだっていいことだろうと、月見は思っていた。

 

『人化の法』が大成したのは、その欲望にそろそろ抑えが利かなくなってきた頃だった。数十年間、気が遠くなるほどの試行錯誤を重ねた。八雲紫のように、自分の中の妖怪と人間の境界をいじくれば、人として生きることもできるはずだと思って。

 妖狐を始めとするいくらかの妖怪は、『変化の術』を使うことで人間に化けることができる。しかしそれはあくまで姿形を変えるだけであり、妖怪であることに変わりはないから、陰陽師などの勘のいい人間にはすぐ見破られてしまう。故に絶対に妖怪だとは気取られない、完全な人を偽ることのできる術が必要だった。

 完成した『人化の法』を用いて、“門倉銀山”というそれらしい偽名まで作って、しがない流れの陰陽師として。

 そうして人間たちの都で生活を始めて数年、見事人々の中へと溶け込むことに成功し、日々、新鮮な毎日を過ごしていたある日の折に。

 月見――否、銀山のもとに舞い込んできたある一枚の手紙が、この物語の発端であった。

 

讃岐造(さぬきのみやつこ)……?」

 

 記された送り主の名に、銀山は浅く眉をひそめた。明朝、まだ下町が目覚めきらないほど早くの頃に、貴族の遣いと思われる者が銀山の家の戸を叩いた。渡された手紙は一通。送り主を表す三つの文字には、心当たりがある。

 讃岐造――『竹取の翁』として広く都中に知られる老人の名だ。天下に名高い“かぐや姫”の育ての親であり、嘘か真か、最近はかの帝との交流もあるとかないとかと噂される、究極の成り上がり人。無論、下町でひっそりと暮らす銀山では顔を拝むことすらできない、まさに雲の上の人間だ。

 

「はて」

 

 銀山は小首を傾げる。可能性としては依頼の手紙と考えるのが妥当だが、そんなことがありえるだろうか。この都に紛れ込んで早数年、こつこつと仕事を全うし、ある程度名の知れる陰陽師となった自覚はある。だが、それが貴族たちの目に留まるほどではなかったはずだ。都には今なお、銀山よりも優れた陰陽師というのは何人もいる。

 

「……はて?」

 

 宛名、差出人、ともに間違いはない。あの竹取の翁ともあろう方が、一体何用でこんな手紙をしたためたのか。

 

「うぐおぁー……」

 

 ござに腰を戻した銀山が手紙の封を切ろうとすると、背後で品のない呻き声が上がった。振り返って見れば、山なりを描いたござの下から、冬眠明けの虫よろしくずるずると這い出してくる男がいる。髪はボサボサで寝癖だらけで、衣服はほとんど裸同然に着崩れていて、なんだかその辺の道端に打ち捨てられていても違和感がなさそうな、視界に入れれば悪い意味でため息をついてしまいそうな、そんな男だった。

 そして銀山は深くため息を落とし、半目になって彼の名を呼んだ。

 

「……秀友」

「おー、おはようさん……。あー、すっかり朝になっちまったなあ」

 

 神古秀友(かみこひでとも)。銀山と同時期に都に流れ着いた陰陽師で、それがきっかけで意気統合し、友人となった男の名だ。

 友のために一応の弁解をしておけば、普段の秀友はもちろんちゃんとした格好をしている。それがここまで目も当てられない有様になっているのは、今が夜通しの酒呑みを終えたあとだからだ。

 

「酔いは覚めたか?」

「おー、まあまあってとこかあ。まだちっと頭が重いけどな」

「大して酒に強いわけでもないのに、浴びるように呑んだりするからだぞ」

「いや、そりゃあお前よ。玉砕覚悟で雪さんに告白して、頬をほんのり赤くしてさ、はい、なんて言われた日にゃあさ! 浴びないわけにはいかんだろうってもんだ!」

 

 にへら、とだらしなく秀友は笑う。それから興奮したように顔を色づかせて、くううううう、と地から込み上がる喜びの呻き声をひとしきり上げると、

 爆発。

 

「うおお、思い出したらなんだかムラムラしてきたあ! 夢じゃねえよな!? なあ夢じゃなかったんだよなアレ!? うひゃー!」

「……」

 

 彼の恋路が実りをつけたのは、友人として素直に嬉しいし祝福してもいる。しかしながら晴れて秀友と恋仲になった雪という少女は、ござにくるまって床の上を転げ回るこの(ミノムシ)の、一体どこに異性として心を惹かれたのだろうか。彼女の嗜好を疑うわけではないが、物好きだ、とは思う。

 ともあれ。秀友(ミノムシ)の姿を意識から消去しつつ、銀山は気を取り直して手紙の封を切る。

 

「お、手紙か。誰からだー?」

「竹取の翁殿」

「……は?」

 

 目を点にして固まったミノムシを無視し、銀山は手紙の内容を読み進めた。翁の字は、平民の出であるのが信じれないほど見事な達筆で、また仰々しいくらいに堂に入った季節の挨拶からは深い教養が感じられた。徹底的なまでに礼儀正しく書かれているため、育ちが決してよくない銀山にとってはくどいくらいだったが、

 

「かぐや姫が妖怪に狙われているようなので力を貸してほしい、ね……」

 

 簡潔にまとめれば、やはりこれは依頼の手紙だった。――昨夜遅く、屋敷の警護の者が庭に怪しい人影を発見した。捕らえようとしたが、驚異的な素早さで瞬く間に逃げられてしまった。その速さが人間とは思えないほど常軌を逸していたため、外から妖怪が入り込んだ可能性があると危惧し、都で有能と名高い二人の陰陽師に調査を依頼したい。

 二人の陰陽師。紙上には、翁が同様に手紙を送ったというもう一人の陰陽師の名が添えられている。

 その名に目を通し、うわ、と銀山は渋く眉根を歪めた。大部齋爾、と書かれていた。

 大部齋爾(おおべのさいじ)は、人でありながら『風神』の二つ名を戴く、都切っての大陰陽師だ。その実力は都でも頭一つ飛び抜けているが、老いてなお盛んな女好きで、若い男への当たりが悪いのが玉に瑕――つまり、銀山の仕事仲間としては最悪の相手、ということになる。

 同じくして翁の手紙に目を通しているであろう齋爾は、果たして今頃どんな顔をしているだろうか。あのかぐや姫との縁を築くきっかけになるかもしれない天恵のような依頼で、されど『都で有能と名高い陰陽師』として自分とともに呼び出されるのは、最も嫌いな若い男――つまりは、自分が若者と同じ括りで扱われている、ということで。

 ……青筋を浮かべながら、手紙を破り捨てているかもしれない。

 だが齋爾は受けるだろう。依頼の結果次第ではかぐや姫と急接近することもできるだろうから、受けないはずがない。それどころか、銀山へと一方的な対抗心すら燃やすだろう。

 のっけから気が重くなる話だと銀山が思っていると、ミノムシから人間へと戻った秀友が顎に手をやって、思案顔を浮かべた。

 

「それってもしかして、あれか? 翁さんの屋敷に妖怪みたいなのが入り込んだっつー……」

「……そうだけど、知ってるのか?」

 

 手紙を手渡すと、彼は紙面を流し読みしながら一つ頷いて、

 

「ああ。夢で見た」

「ああ……」

 

 なるほどね、と銀山は思う。秀友は、今時の人間には珍しく先天的な能力持ちだ。『人の世界を夢見る程度の能力』――自分が寝ている間に他人の意識に同調し、その人が見聞きしている世界を夢の中で共有する。

 秀友は酒に酔って寝ている間に、翁の屋敷を警固する使用人の一人に同調していたようだった。

 

「それはまた、都合がいいね。……で? どうだった?」

 

 銀山の促しに、秀友は眉間の皺をうっすらと濃くした。手紙から顔を上げて、声音は(とみ)に暗く、

 

「……入り込んだのは、どうにも人型の妖怪っぽい」

「……そうか」

 

 銀山は静かに、それだけ答えた。

 人型の妖怪は、獣型のそれよりも得てして高い知能と実力を併せ持つ。人型の妖怪には必ず二人以上の複数人で挑めというのが、どんな陰陽師の間でも根強く語り継がれる鉄則だった。

 無論、人型の妖怪すべてが強大な存在というわけではない。だが一般に危険な存在として恐れられている妖怪が、みな人型を取る者たちであるのは、厳然たる事実だった。

 

「や、でも、さすがに八雲紫とか、風見幽香とか伊吹萃香とか、そういうのじゃねえぞ?」

 

 そう、例を挙げればまさに彼女らの名前が出てくるのだが――銀山は浅く首を振った。極端な例だ。彼女らはいずれも人型妖怪の頂点に君臨するような大妖怪で、その実力は常識を逸脱している。たった一人で百人以上の陰陽師と渡り合うことも、この都を恐怖の坩堝に叩き落とすことも可能だろう。

 だが大妖怪として恐れられるような者たちは、程度の差はあれ、人間へは比較的友好的だ。少なくとも率先して人間を襲い、喰らい尽くすような真似はしない。そんなことをしなくても、彼女たちはもう充分に強いから。

 

「見つかっただけであっさり逃げたってことは、人型でもあんま強くないやつってことなんじゃねえか? ……まあ、人型って時点で弱いってことはねえだろうけど」

 

 呟いてから失言だと思ったのか、秀友は大きく笑って取り繕った。

 

「でも、こいつはお前さんが更に有名になる絶好の機会だぜ。上手く行けば、お偉いさんのお付きに抜擢なんてのもありえるんじゃねえか?」

「迷惑な話だ」

「そうか? 儲かるぜ」

「お金には困っていないよ。それに……」

 

 銀山は一息置いて、

 

「私は今の生活が気に入ってるからね。わざわざお付きになりたいなんて思わないよ」

「ッハハハ、それは俺も同感だ。こういう質素でのんびりとした生活ってのもいいもんだよな。雪さんいるし」

 

 秀友の最後の言葉を無視しつつ、

 

「だが、どうやら翁殿は相当不安になってるらしい。報酬は弾むからすぐに来てほしい……って、書いてあったよな?」

「ん? ああ」

 

 頷いた秀友は再度手紙に目を落とし、それからなにかに気づいて「うわ」としかめっ面をした。

 

「お前と一緒に齋爾サンまで呼ばれてんのかー」

 

 そしてすぐに笑う。

 

「はっはっはよかったなギン、退屈しそうにねえじゃねえか。やっぱあれだなー、世の中美味いばっかりの話はねえってこったな」

「……そうだねえ」

 

 なあなあと頷く。無論銀山とてかぐや姫に興味がないわけではないが、所詮は好奇心の対象としてであり、もし見られるなら見てみたいよね、程度の話でしかない。そのためだけに齋爾から嫌な目で見られるのは、少しばかりつり合わない気がする。

 

「なんだ、ひょっとして会いたくねえのか? かぐや姫」

「いや、会えるなら会ってみたいとは思うけどねえ。……そういうお前は? なんだったら代わってやってもいいぞ」

「冗談はよしてくれよ。オレは翁サンの依頼に応えられるほどの陰陽師じゃあ、まだねえって」

 

 苦笑した秀友は、「それに」と照れくさそうに鼻の頭を掻いて、

 

「天下のかぐや姫がどんなべっぴんさんかは知らねえけど、雪さんには勝てないだろ」

「おや……惚気だねえ」

 

 昨日の夜にだって散々聞かされた惚気話だけれど、やはり秀友は雪のことが本当に好きで、彼女以外の女性の姿が見えていない。かぐや姫でさえも眼中の外だ。

 その一途すぎる心は、見ていて呆れてしまうくらいだったが、一方で友として誇らしくもあった。

 息を吐くように笑い、立ち上がる。

 

「……どれ、急ぎの用とのことだし、なんにせよこちらから出向かないことには始まらないね。というわけでお前はさっさと帰れ。さすがに歩けるだろう?」

「おう」

 

 秀友は自信たっぷりに立ち上がったが、その足元は少しふらついてた。

 

「……本当に歩けるのか?」

「大丈夫、大丈夫。頭の方は結構スッキリしてるしな」

 

 返された手紙を受け取る。銀山はそこに綴られる文字をもう一度流し読みしながら、何気なしに、

 

「……なあ。私は、どうして呼ばれたと思う?」

「うん?」

 

 首を傾げた秀友に、続ける。

 

「都で有能と名高い二人の陰陽師。御老体はまだわかる」

 

 風神――“神”の二つ名を戴く、都随一の大陰陽師だ。特に風の陰陽術に限れば、都はもちろん、この世界中ですら、恐らく齋爾の右に出られる陰陽師はいない。そんな彼が翁から指名を受けるのは当然だろう。

 だが銀山は違う。陰陽術自体は『月見』の頃からちょくちょく手を出してはいたが、所詮暇潰し程度のもの。本格的に学び始めたのはここでの生活を始めてからのことで、故に銀山の陰陽師としての実力は、低いわけではないが、かといって特別扱いするほど高いわけでもなかった。

 なのに、

 

「どうして呼ばれるんだろうね。御老体と同じ扱いで」

「そいつぁ……」

 

 問われてようやく秀友も違和感を覚えたようで、静かに顎を撫でて考えた。探るように、

 

「……お前の実力が認められたってことじゃねえのか?」

「そうだろうか」

「いや、実際、お前はいい陰陽師だと思うぜ? 実力もあるし、なにより周りからの評判がいいじゃねえか」

 

 否定はしない。流れの陰陽師として、そこそこ要領の良い活動ができている自覚はある。だが単に評判のいい陰陽師となれば、それこそこの都にはごまんといるから、わざわざ銀山を名指しする理由にはならない。

 小難しいことを考えるのが苦手な秀友は、すぐに大笑して思考を放棄した。

 

「まあとりあえず顔は見せとけって。理由なんざ直接訊けばいいだろうし、なによりあの竹取の翁の依頼を門前払いしたってなったら、悪い意味で評判になるぜ?」

「……それもそうだな」

 

 たとえ翁に指名された理由がなんであれ、それが貴族直々の依頼となれば、しがない陰陽師の銀山に断る権利などありはしない。

 わかっている。けど、それでも。

 

「……」

 

 考えすぎなのかもしれないが、どうしてもこの依頼には、手紙には書かれないままとなっている裏があるような気がして。

 はてさてどうなることやらと、銀山の締まらないため息が、静かに宙を薙いだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 聞くところによれば竹取の翁は、かぐや姫を養い始めてからというもの、取った竹の中に黄金を見つけるようになったという。かぐや姫との関連性は、無論のこと不明だけれども、一度竹やぶに出向くだけで今までの何百倍という儲けを得られるようになったのは事実だった。

 その影響で一時期は竹取の職が一世を風靡したりもしたのだが、結局、翁以外に黄金を探し当てた者はおらず、季節が移り変わるにつれ、ただ翁だけが見違えるほどの財力をこしらえていった。

 そんな翁の館はやはり、他の貴族と比べても引けを取らない絢爛豪奢を体現しているようだった。屋敷を囲む純白の築地塀(ついじべい)は見上げるほどに高く、中の様子はまったくといっていいほどわからない。だが門辺に仁王立ちする二人の屈強な門番と一町分(※約百十メートル)の敷地から、中にとんでもない豪邸が隠されているであろうことは確実だ。

 銀山が門の前で足を止めると、すぐに門番たちから不審の眼差しを向けられた。近頃はかぐや姫の顔を一目でも見ようと、夜な夜な屋敷の周囲をうろつく不審者が絶えないという。

 銀山は翁からの手紙を素早く差し出し、名乗った。

 

「讃岐造殿から依頼を受けた陰陽師の者です」

 

 門番たちの表情が安堵の色で緩む。

 

「門倉銀山様ですね。お早い御入来、感謝致します」

 

 屈強ながたいの割に粗暴さはなく、さっと一礼する所作は垢抜けていた。そのことを意外に思いながら、銀山は会釈を返して問うた。

 

「昨夜、この屋敷に物の怪が入り込んだようで」

「はい。……造様は、もしや姫様を狙ったのではないかと大層案じておいでです」

「幸い、姫様の身に大事はありませんでしたが……逃げられてしまった手前、二度目がないとも限りません」

 

 答える門番たちの憂いは色濃く、建前でも義理でもなく、本心から翁たちの身を案じている様子が見て取れた。ただ金の間に成り立つだけの関係ならばこうはならないだろう。部下から厚く信頼されるだけの器量を、翁が確かに持ち合わせていることの証明だ。

 

「ですから門倉様、どうか……」

「ええ、わかっていますよ」

 

 門番の言葉に被せるようにして、銀山は静かに破顔した。今の今まで乗り気ではなかったが、気が変わった。門番たちのひたむきな言葉に胸を打たれ――というわけではないが、このまま断るには少し、惜しい依頼だと思った。

『お客様は神様』なんて言葉があるのを笠に着て、陰陽師を見下そうとする依頼主たちというのは、決して少なくないけれど。だがこの屋敷には、銀山が誠意を以て仕事をするに値するだけの人たちがいる。そんな気がした。

 だから銀山も、建前でも義理でもなく、心からの言葉を紡ぐ。

 

「最善を尽くします。ですから、どうか肩の力を抜いてください」

 

 門番たちの張り詰めていた面持ちが和らぐ。憂いの色は完全には消えなかったが、それでも口元にかすかな笑みを見せて、

 

「……ありがとうございます。今、案内の者を呼んで参ります。少々お待ちを」

 

 深く一礼し、門番の片割が門の奥へと下がる。一瞬開いた門から垣間見えた屋敷の庭は、果たして広大かつ豪華なものであったが、一方でなにかに怯えて色を失っているようでもあった。屋敷に住まう者たちの感情は、屋敷の雰囲気そのものにまで伝播する。突如現れた物の怪を憂い、恐れているのは、決して門番たちだけではない。

 残った方の門番が、躊躇いがちに口を開いた。

 

「門倉様……。物の怪の狙いは、やはり姫様だったのでしょうか」

「……どうでしょうね」

 

 現場に着いたばかりの今の状況では、まだなんとも言えない。そもそも、今回の犯人が本当に妖怪だったのかさえ、まだ確認できていないのだ。

 

「人間離れした動きだったとは聞いていますが、だからといって妖怪とは断言できませんしね」

 

 身体能力を底上げする陰陽術なり魔術なりを学べば、人間だってそれらしい動きはできる。門番の言う通り、妖怪がかぐや姫を狙った可能性だってあるし、多少陰陽術をかじった程度の人間が、かぐや姫見たさについ――という可能性だって、また否定はできない。

 だがこの都が陰陽術の総本山であることを考えれば、犯人が妖怪の線は低いだろうと銀山は思う。ひとたび妖怪が忍び込んだとわかれば、都は手柄を上げようと躍起になる陰陽師たちでごった返し、妖怪は地の果てまでしつこく追い回されることになる。そんな危険地帯にわざわざ飛び込もうとする物好きなどそうそういないはずだ。

 ……と、正体が人間ではない銀山が言ったところで、説得力は低いかもしれないが。

 なんにせよ、今はまだ判断のしようがない。

 

「ともかく、まずは調査ですね」

「……そうですね。よろしくお願い致します」

 

 門番もそれを理解したのだろう。素直に頭を下げて、それっきり沈痛な面持ちで口を閉ざした。

 神経を撫でるような、木々同士がこすれて軋る音とともに門が開いたのは、それからすぐだった。門番の片割が、背後に女中を一人、引き連れて戻ってきた。

 

「どうぞ中へ。この者が、造様のもとまでご案内致しますので」

 

 門番から紹介され、遠慮がちに一礼した女中の面持ちには、やはり強い不安の色がある。もともと臆病な性格なのか、妖怪が入り込んできたという事実に目に見えて怯えて、挨拶すら上手く返せないようだった。

 門番が眉をひそめる。

 

「おい……客人の前なのだから、もう少し」

「大丈夫です。行きましょう」

 

 門番の言葉にそう被せて、銀山は一歩を踏み出した。地を踏む音に、女中はふいを衝かれて肩を震わせ、それから慌てて門の垣根を向こう側へと跨いだ。

 焦点の合わない足取りで先導を始める彼女の背に続こうとすると、門番にふと小声で耳打ちされる。

 

「申し訳ございません。屋敷の中には、物の怪の存在に怯えている者も多くいます。なにか粗相があるやもしれませんが……」

「本当に大丈夫ですよ。……そこまで狭量な人間に見えますか?」

 

 この屋敷には、かぐや姫への拝顔を求めて訪れる貴族も多いと聞く。故に、来客には相応の礼儀を以て応じろと、よほど徹底して教えられているのだろう。

 だが、礼儀も秩序もない弱肉強食の世界で育った銀山にしてみれば、行きすぎた礼儀は堅苦しいだけだ。笑みを返せばつられるように門番たちも微苦笑を浮かべたから、それくらいに肩の力を抜く程度が、ちょうどいいのだと思った。

 門番たちの会釈に見送られ、ゆっくりと門の垣根を跨ぐ。

 

「で、では……こちらに」

 

 腫れ物を触るような女中の声に引かれ、静まり返った庭の小径を進んでいく。この頃の貴族は広大な敷地の中に小さな家屋をいくつも持っていて、用途別で使い分けたり、使用人に貸し与えたりしている。隅々まで手が行き届いた庭園と、整然と並ぶ家屋の群れは、学の浅い者が見ればここそのものを一つの町だと誤解するだろう。

 屋敷の隅々で警固の者が巡回している以外は、特に不審なところは見られない。感覚を研ぎ澄ませて周囲を探ってみても、不自然に妖気の足跡が残されていることもない。もちろん、陰陽術の総本山であるこの都に、自分の足跡も払えないほど未熟な妖怪が入り込む線は限りなく低いが、

 

「……」

 

 そこで、ふと。

 まだ正式に依頼を受けたわけでもないのに、既にやる気になって調査を始めている自分の姿に、気づいて。

 

(……ふふ)

 

 心の中で、小さく笑う。齋爾と一緒の仕事を面倒くさがる気持ちとか、どうして自分が呼ばれたのかと疑う気持ちとか、そういったものが全部、いつの間にか明後日の空へと消し飛んでいる。今銀山の心にあるのは、なんとかしたいな、という気持ち。かぐや姫目的ではない。報酬ほしさでも、売名目当てでもない。反りの合わない仕事仲間がいたって構わない。翁に名指しされた理由も、今はとりあえず気にしない。

 見返りもなにも関係なしに、妖怪の存在に怯えるこの人々を、なんとかしてやれないかなと思うから。

 

 月見さんは、人間が好きなんですか? ――かつて一緒に旅をしていた境界を操る少女に、そう尋ねられたことがある。その時は、そうかもしれないね、と曖昧に答えていたけれど。

 今同じことを訊かれれば、きっと笑顔で、そうだねと頷くのだろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――なぜ貴様が呼ばれるのだろうな、(わっぱ)

「それは翁殿に聞いてくれますか、御老体?」

 

 苦虫を噛み潰したような問い掛けを、銀山はその場で微苦笑を浮かべて受け流した。

 銀山が女中に導かれるまま応接間を通った時、そこには既に先客がいた。大部齋爾。竹取の翁からの依頼とわかって、すっ飛んできたのだろう。落ち着きを払って大木の如く座す様は、どうやら到着してからそれなりの時間が経っているようだった。

 目元には切り傷のような皺が深く、頭の上に落ちる霜も濃い。そろそろ体が思うように動かなくなってくる頃だろうに、瞳の鋭さだけは狼の牙を彷彿とさせる。

 銀山の返答に、齋爾は狼の牙をしまい、顎を下げた。

 

「お早い到着ですね」

「貴様が遅すぎるのだ。あまり造殿をお待たせさせるな」

 

 齋爾の声は低く、これもまた、狼の唸り声を聞いているようだ。若い男と相対する時、齋爾は大抵こう構える。

 女中が齋爾の隣に座って待つように言ったので、銀山は素直に従った。

 広い部屋だった。ここだけで既に、下町にある銀山の家よりも広い。所々に衝立や屏風が飾り立てられているが、逆にそれ以外の物は置かれておらずがらんどうとしている。正面では部屋を仕切る几帳がすべて降ろされていて、奥には更に部屋が広がっているようだった。

 ここまで来ると、銀山にとっては贅沢を通り越して理解不能だ。客を応接するために、どうしてここまで広大な部屋が必要なのだろうか。貴族の体面というのはよくわからない。

 銀山は部屋を見回すのをやめ、隣の齋爾に目を向けた。あいかわらず黙して座すばかりの彼に、問う。

 

「御老体は、この状況をどう見ますか?」

 

 一応は同業者だけあって、それだけで意図は通じた。

 通じたが、

 

「さあな」

 

 齋爾の答えは簡素だった。ため息をつくように言って、

 

「ただ、妖怪の仕業だろう、とは思っている」

「根拠は?」

「ない。そう思っていた方が対処はしやすいというだけの話だ」

 

 確かに、妖怪の仕業ではないと高を括るのは油断だ。しかし、翁の姿がまだ見えないとはいえ、はっきりと言い過ぎでは。

 齋爾は続ける。

 

「それに、妖怪の仕業だとわかったところで、我らができることなどたかが知れている」

「……」

 

 あいかわらず身も蓋もない言い方だが、決して間違った意見ではないので、銀山に言い返せる言葉はない。仮に今回の犯人が妖怪だったとして、銀山たちにできるのは屋敷の者たちを警護し、然るべき時が来たら妖怪を討伐すること。そしてそれは、調査の結果犯人がわからなかったとしても変わらない。だったら初めから妖怪の仕業と決めつけて行動したところで、大した差はない。犯人が人間だったとしても、ただのいたずらでよかったねと話が落ち着くだけだ。

 穿った意見だ。穿った意見だが、しかし。

 

「ということは、御老体は……」

 

 初めから妖怪の仕業と決めつければ、屋敷の調査をする必要はなくなる。

 銀山が案じたところを、齋爾は不敵に笑って肯定した。

 

「ああ。姫様の警護は任せてもらう。……貴様は独りで屋敷の調査でもしていればよかろう」

「……」

 

 ですよねえ。

 

「儂の邪魔はするなよ」

 

 ……ですよねえ。

 

「ところで御老体、それは」

 

 齋爾の小脇には、なにか風呂敷で包まれた荷物が置かれていたが、

 

「なに、……ちょっとした心付けだ」

 

 そう言う齋爾の笑顔は、この時だけはほんの少しだけ、若々しい光を放つ。今となっては老いた狼とはいえ、それでも彼の女好きは健在らしい。彼にとって一番の関心事はやはりかぐや姫であり、依頼はあくまで二の次なのだ。これさえなければ陰陽師の鑑なのにと銀山は呆れて、以降はなにも言う気になれず、口を噤んだ。

 間もなくして、部屋に複数の女中たちが入ってきた。すり足が床を撫でる音に合わせて、俄に引き締まった空気が流れ込んでくる。

 銀山たちの前で一度膝をついた女中たちが、厳かに告げた。

 

「――讃岐造様がお見えになられます」

 

 正面、部屋を隔てる几帳の奥だった。向こうの部屋からこちらの部屋に向けてかすかに風が流れてきて、几帳が音も立てずにたゆたう。決して背の高くない、服装からして男であり、そして女中の言葉からすれば讃岐造であろう男の影が、几帳の奥をゆっくりと動いて、御座の上に腰を下ろしたのがわかった。

 銀山は衣紋を繕い、几帳が取り払われるのを待つ。

 

「――ようこそ、お出でくださいました」

 

 几帳が女中たちによって払われると、あらわになった御座の上では、白の胡服を身にまとった老人が深く頭を下げていた。予想通り、好々爺なのだろうな、と銀山は思う。自分よりも遥かに身分が下の者に対して自ら率先して頭を下げられるのだから、使用人たちから慕われているのも納得が行くところだった。

 などと考えながら、銀山はすぐに頭を下げて返す。齋爾も、老人らしいゆったりとした動きでそれに続いた。

 顔を上げた翁の微笑は柔らかかった。己の地位を笠に着ず、銀山たちと対等な目線で話をしようとする意思が感じられる。元々が平民の出だから、悪い意味での貴族らしさとは無縁な男なのかもしれない。

 

「……まずは、私めの急なご依頼に、こうもお早くお応え頂けたこと、深く感謝致します」

 

 緩やかに、歩くような声だった。

 

「事の次第は、文の中に記した通りでございます。昨夜、屋敷の警固の者が、庭に物の怪と思われる影を目撃致しました。その狙いが輝夜にあることを危惧し、今回、ご依頼を申し上げた次第です」

 

 一つ、歩き疲れた老人が茶を飲むような間があって、

 

「お二方には、物の怪が何故この屋敷に入り込んだのか調べて頂くとともに、輝夜の警護と、物の怪の討伐をお願いしたく」

「お任せください、翁殿」

 

 “輝夜の警護”という言葉に、齋爾の瞳の奥が露骨に光った。言う。己が胸に拳をやり、

 

「姫様の護衛は、どうかこの大部齋爾に。都が誇る我が陰陽術、ひとたび、姫様のために捧げましょう」

 

 詩を詠むように淀みなく、物語を読むように機微に富んだ声で。これがかぐや姫に会いたいという欲望から出た言葉でなければ、それはそれは素晴らしいことなのだろうに。

 それを知ってか知らでか、翁はこれといって特別な反応を見せることなく、静かに一つ頷いただけだった。次いで銀山に目を向けて、

 

「そちらの……門倉殿は、いかがでしょう?」

「……そうですね」

 

 齋爾のように気が利いた口上は、とても言えないけれど。その代わり、かつて門番たちにそうしたように、紡ぐ言葉は心から。

 

「もちろん、お引き受け致します」

 

 決して己を飾らず、素直に、

 

「この屋敷には、妖怪の存在に怯えている方々も多くお見受けできましたから。なるべく早くに討伐して、安心させてあげられればと思います」

「……」

 

 翁の表情がかすかに動いた。もしかすると気のせいだったのかもしれない。けれど彼の浮かべる微笑みに、確かな個の感情が宿った気がした。

 微笑は語る。

 我が意を得たり、と。

 

「……」

 

 ただ単に、銀山が依頼を受けたことを喜ぶのではない。その先にある、もっと別のなにかに、翁は微笑んでいた。

 それが一体なんであるのか、銀山にはわからない。だがやはりこの依頼、齋爾と並んで銀山が呼ばれたのには、なんらかの訳があると見て間違いないだろう。

 それを問いただすような間はなかった。翁は傍で控えていた女中たちを含めた全員を見渡して、通る声で言った。

 

「それでは、よろしくお願い致します。案内の者をお付けしますので、屋敷は自由に調べて頂いて構いません。輝夜につきましても、警護が必要ならば、ご案内致します」

「翁殿、物の怪はいつまた現れるかわかりませぬ。姫の警護は早急に行いましょうぞ」

 

 身を乗り出した齋爾の提案に、翁は一考の間を見せてから頷く。

 

「……わかりました、ご案内しましょう。門倉殿は、どうされますか?」

「……そうですね」

 

 初めから妖怪の仕業と想定して行動する、という齋爾の方針には全面的に肯定する。その上で銀山は、

 

「一度、この屋敷を調べて回ろうと思います。姫の警護は、御老――齋爾殿にお任せするとして」

 

 たとえ女好きでも、否、女好きだからこそ、齋爾に任せておけばかぐや姫の身は安全だろう。

 だから、銀山は。

 

「他にも守らねばならぬ者たちは、多くいますから」

 

 屋敷に忍び込んだのが人間だろうが妖怪だろうが、その狙いがかぐや姫だと決まったわけではない。十中八九は間違いなくとも、絶対にそうだとは言い切れない。使用人たちに危険が及ぶ可能性だって、否定はできない。

 地道に調べて回れば、なにかわかることもあるだろう。そして、こちらが依頼に尽くす姿を見せれば、使用人たちの不安も、多少は和らぐかもしれないから。

 齋爾は、かぐや姫のために。銀山は、かぐや姫以外の者たちのために。

 それぞれ、動く。

 

「……そうですか」

 

 翁からの返事は簡素だった。喜ぶのでもなく、非難するのでもなく、ただ己の胸の中で反芻させるように、

 

「では、案内の者をお付けしましょう」

 

 傍らの女中に耳打ちする。女中はすぐに一礼し、床を傷めない足運びで、素早く部屋をあとにする。

 すぐに、居ても立ってもいられなくなった齋爾が声を上げた。

 

「翁殿。今こうしている間にも、姫様の身に何事か起こるやもしれませぬ。すぐに参りましょう」

「……」

 

 それを、翁は困ったように笑って、

 

「……わかりました。門倉様、申し訳ありませんが、また後ほど」

「わかりました」

 

 間もなく案内の者が参りますので、このままお待ちください。それだけを言い残し、齋爾を引き連れて部屋を出ていく。二つの背を見送った銀山は、肩の力を抜くようにため息をついて、周囲の女中たちに聞こえないように小さく呟く。

 

「さて……何事か起こりそうな気がするね」

 

 広い庭のどこかで、蝉が鳴いている。一度途切れて、また鳴き始める。

 空の向こう側まで透き通るような青空は、なにかが起こりそうな、夏の空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ② 「彼女の夢」

 

 

 

 

 

 残酷なくらいに、懐かしい夢だった。忘れたくて、忘れたくなくて、千余年に及ぶ歳月の風に吹かれ、風化し、霞みかけていた。

 この地上に降りてきた自分が、まだ『なよ竹のかぐや姫』と呼ばれていたあの頃の記憶。

 

『輝夜。今しがた、陰陽師の方々に依頼の書状を送りました』

 

 当時輝夜の世話をしてくれていた翁の、この一言がすべての始まりだったように思う。

 必要以上に関わるつもりはなかった。心を許すつもりもなかった。都合よく自分の身を守らせて、依頼が終わればすっぱり別れるつもりだった。

 けれど今になって思えば、完全にしてやられたということなのだろう。彼と一緒にいた時間は長くなかった。決して長くはない時間で、それでも輝夜は、彼を忘れることができなくなった。あれから千年以上が経った今でさえ、こうして焦がれるように夢を見るのだから。

 

(ねえ……どうしてこうなったのかな)

 

 目元に込み上がってくる感情は、涙の形をしている。

 

(どうして、あんな別れ方をしなきゃいけなかったの?)

 

 彼のぬくもりを思い出すと、暖かくて、懐かしくて、愛おしくて、泣いてしまう。

 

(ひどいよ)

 

 千年以上も昔のことだ。今更なにを言ったところで後悔にしかならないことはわかっている。

 でも、それでも、どうして考えずにいられるか。どうして想わずにいられるか。

 だって、輝夜は、

 

(もっと、一緒にいたかったのに)

 

 あいつのことが、

 

(……好き、だったのに)

 

 心を許すつもりなんてなかったのに、気がついたら惹かれていて。

 もっと一緒にいたかったのに、いられなくて。

 巻き込みたくなかったのに、巻き込んでしまって。

 そして、死んでほしくなかったのに――

 

(ばか)

 

 涙が頬を伝う冷たさを感じながら、輝夜は静かに、体を包む浮遊感に身を任せた。これが夢だとはわかっていたし、わかっている以上は目覚めることだってできた。けれど一度妹紅に殺されたせいなのか、体中がだるくてとてもその気にはなれなかった。

 それに、海原のように広がる思慕の情は、もうとてもじゃないけれど抑えが利かなくて。

 

(ばか……)

 

 夢でもいいからもう一度会いたい。もう一度、あの人のぬくもりを感じたい。

 もう一度、あの人に。

「輝夜」って、名前を呼んで、笑いかけてほしい。

 

(――ギンの、ばか)

 

 苦しくなる胸を押さえて、蓬来山輝夜は、未だ眠る。

 

 ここで目を覚ませば、すぐ目の前に彼がいることを。

 今はまだ、知らないままで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人と話すのが嫌いだった。屋敷の人間以外の顔を見るのが嫌いだった。故に輝夜は、都一の美貌を持ちながらもほとんどの者がその素顔を知らない、噂だけで語られる虚像の少女だった。

 仕方のないことだとは理解していたし、文句を言うつもりもなかった。屋敷に妖怪が忍び込んできたのだ。陰陽師に手紙を送り助けを求めた翁の判断は、間違いなく正しい。

 しかしそれでも、警護してもらうためとはいえ見知らぬ他人と顔を合わせることに、輝夜の心は深く倦んでいた。

 今輝夜が顔を合わせている陰陽師は、名を大部齋爾(おおべのさいじ)といった。傍目でもわかるほどの霜を頭に置いた老陰陽師がどんな男なのか、事前に屋敷の者たちに話を聞いて、教えてもらっていた。

 曰く――都屈指の大陰陽師であり、老いてなお盛んな女好き。

 大嫌いだと思った。そして実際に顔を合わせて、話をして、やっぱり大嫌いだと思った。目元がだらしなく弛んで、鼻の下が下品に伸びて、(おもね)るような声音で、やれ貴女は大層美しいとか、実に噂以上だとか、聞き飽きた巧言令色ばかりを並べ立てる。

 嫌いだ。確かに、並の女よりも見た目が優れている自信はある。けれど都一の美貌だとか、天下に名を轟かす美女だとか、そんなのは所詮、男たちの劣情が勝手に作り上げた噂話でしかない。にも関わらず――いや、だからこそ、屋敷の外の連中は皆がその噂ばかりに目を奪われて、本当の輝夜自身には一瞥たりともしてくれない。

 それは、とても、嫌なことなのだと――かつてこの屋敷を訪れ求婚してきた五人の貴族たちから、輝夜は身を以て学んでいる。

 断っておけば、なにも男の人から興味を持たれること自体が嫌いなわけではない。輝夜だって女だから、男から愛されたい、とは常々思っている。むしろ、その欲望は強い方だとも思う。

 だが輝夜に近づこうとする男たちは、どいつもこいつも、誠実に見せかけた瞳の奥で卑しい感情を渦巻かせていた。かつて故郷の地で読んだ一冊の本――地位も名誉も財産も捨て、姫を姫としてではなく、一人の女としてひたむきに愛した男の異世界譚――あんなものは所詮、本の中だけの夢物語だった。

 だから輝夜は、屋敷の外の人間が嫌いだ。輝夜を輝夜としてではなく、“かぐや姫”としてしか見てくれない人間たちが嫌いだ。

 今、屋敷には齋爾以外にもう一人の陰陽師が来ているらしいが、きっとそいつも彼と同じような人間なのだろう。齋爾との話が終われば、次はそいつと顔を合わせなければならない。そう思うと、輝夜の心は底なし沼にでも落ちたような心地になった。

 

「……姫様? どうされましたか?」

「……いえ、なんでもありませんわ。どうぞ、お話を続けてください」

 

 とはいえ輝夜とて、一応は姫の生まれで相応の礼儀を仕込まれた身だ。たとえ心が憂鬱でも顔には出さず、浮かべる愛想笑いには一糸の乱れも見せない。齋爾はその笑顔にあっさりと騙され、また熱心に巧言令色を並べる作業へと戻っていった。

 輝夜は心の中で諦観のため息を落とした。そうやって輝夜のことを上辺でしか見ていないから、愛想笑いの一つすら見破れない。

 

(人と話をするのって、こんなにつまらないことだったかなあ……)

 

 やはり、外の人間と交流したってなにも楽しいことなんてない。これだったら、部屋に閉じこもって自分の好きなことをしていた方が、何百倍も何千倍もマシだ。

 

(あーもう、なんでこんなことになってんのかしら)

 

 決まっている。昨夜遅くに、屋敷に物の怪と思われる影が忍び込んだから。

 

(なんだって、妖怪まで私なんか)

 

 己の容姿が人間のみならず妖怪まで魅了するものだった、としても嬉しくもなんともない。むしろ迷惑だ。輝夜は一人で平穏に暮らしていたいのに、噂ばかりが一人歩きして遂に妖怪までおびき寄せてしまったとか、冗談じゃない。わざわざ遠路遥々やってきてくれた妖怪へは、断固として制裁を下す必要がある。

 もっとも輝夜は、腕っ節に自信があるわけでもないので。

 よって輝夜がすべきことはただ一つ。齋爾たちを適当に調子づかせて、さっさと妖怪を倒してもらって、そしてさっさと帰ってもらう――それが、輝夜が平穏を取り戻すための最善手だ。

 輝夜は着物の袖で顔を隠し、よよよ、とわかりやすく声を震わせた。

 

「齋爾様……わたくし、怖いです。一刻も早く物の怪を退けて、わたくしたちをお助けください……」

 

 女好きで名高い齋爾は、やはり、あっさり騙された。己の胸を拳で叩いて、

 

「お任せくだされ、姫様。姫様の身は、私が、必ずやお守り致します故」

 

 その自信は、都を代表する陰陽師であることへの誇りか、それともただの慢心なのか。……まあ、相当な実力者であるのは事実なようだから、役立たずということはないだろう。

 

「よろしくお願いしますね」

「ええ、必ずや。……や、しかし姫は本当にお美しく――」

 

 あーはいはいもういいわよそれは。

 輝夜は耳に意識で栓をして、部屋の縁側を通して遠くの空を眺めた。今日は本当にいい天気だ。真っ青な空で誰にも邪魔されず自分勝手に輝いている太陽が、憎いくらいに羨ましい。

 齋爾への受け答えを傍らの翁に任せて、輝夜は恋しきひきこもり生活へと思いを馳せる。早く戻りたいなあ。そう、ちょうどあそこをぶらついている男みたいに、屋敷の庭をのんびりと散歩して――

 

(――あら)

 

 ふと、気づいた。あれは屋敷の男ではない。ひょっとすると、翁が呼び寄せたというもう一人の陰陽師だろうか。

 

(へー、結構若いんだ)

 

 見た目は二十歳そこら、陰陽師としてはまだ若手だ。案内を務める下男の男と、打ち解けた様子で庭園を見て回っている。

 まさか本当に散歩をしているなんてことはないだろう。今回の件について、屋敷中を調べて回っている途中なのかもしれない。

 

(ふーん、こっちはなかなか真面目みたいね)

 

 物の怪に狙われるといけませんので、使用人の者たちは、最低限のみを残して避難させてください――今回の件について、齋爾がしてくれたことといえばその助言くらいだ。あとはずっと、輝夜の前であーだこーだと熱心に口を動かしているだけ。それに比べれば、あの陰陽師の青年はなんと真面目なことか。

 確か名前は、門倉銀山だったろうか。近頃頭角を現し始めた若手陰陽師らしいが、あくまで齋爾と比べれば、決して名の知れた実力者ではない。

 疑問。

 

(おじい様は、どうしてそんなやつなんか呼んだのかしら)

 

 輝夜からしてみれば、齋爾と同じくらいの実力者を呼んで、さっさと妖怪を退治してもらいたかったのだけれど。それともただ単に名が広まっていないだけで、腕前は折り紙つきだったりするのだろうか。

 いい暇潰しになるだろうと思い、輝夜はその陰陽師を観察してみることにする。

 遠目なのでいまいちよくわからないが、目鼻立ちは悪くなさそうだった。落ち着きのある足取りと、ゆったり構えた物腰で下男と話をする様子は、外見よりもずっと大人びて見える。一方で、時折こぼす笑顔には確かな若さの輝きがあった。

 

(ふうん)

 

 なかなか、好青年のようではないか。――まあ七十点ってとこかしら。ああいうやつが言い寄ってくるんならまだマシなんだけどなあ。こんなじいさんなんかじゃなくて。

 そうやってぼんやり彼の姿を眺めていると、ふと、目があった。

 輝夜の反応は速かった。ふっと微笑む。決して意識したわけではなく、姫としての長い生活の中で身に染みついた、世渡りの癖みたいなものだった。

 そして微笑んでから、失敗だった、と思った。こうやっていきなり微笑んでしまっては、あの陰陽師はすぐに鼻の下を伸ばして、齋爾と似たり寄ったりの有様になってしまう。……なんだかひどい自惚れを言っているようだが、事実、今までの男たちはみんなそうだったのだから仕方がない。あの青年だって外の人間なのだから、どうせ例外ではないだろう。だったら初めから目を合わさずに、彼の姿を遠くから眺めていた方が、まだ暇潰しになっていた。

 

 ――だから彼が、こちらに負けないくらいに、ふわりと柔らかい微笑みを返してきた時。

 輝夜は突然顔に火がついたように恥ずかしくなって、すごい勢いでそっぽを向いてしまった。

 

(……って、なんで私の方が慌ててるのよ!?)

 

 これではまるで、彼の笑顔に照れて逃げ出したみたいじゃないか。

 違う違う。今のはその、意表を衝かれてびっくりしただけなのだ。まさか真正面から微笑み返されるなんて、そんな人間が屋敷の外にいるなんて、夢にも思っていなかったのだから。……まあ、ちょっとくらいはいい笑顔だったのも、認めるけれど。

 ともかく。

 

「どうかされましたか、姫様?」

「いいえ、なんでもないのです……ふふ」

 

 疑問顔になっている齋爾を適当にあしらって、心の中で何度か深呼吸して気持ちを落ち着けて、輝夜は横目で庭へと視線を戻した。

 だが、あの男は既に輝夜のことを見ていない。

 庭の松の枝でチュンチュン鳴く小鳥たちを、微笑ましげに見つめている。

 

(ちょ、)

 

 危うく声が出てしまうところだった。

 かぐや姫、小鳥に負ける。

 

(なんで小鳥ー!? ちょっ、かぐや姫が目の前にいんのよ!? こっち、こっち!)

 

 もちろん目の前には齋爾がいるので、声には出さず、体も表情も動かさず、しかし心の中では全力で叫ぶ。全力で、ちょっとあんたこっち見なさいよオーラをぶっ放す。

 そのオーラに怯んだのか、小鳥たちが慌てた様子で飛び去っていった。それを空の彼方までひとしきり見送って、ようやく彼が輝夜へ目線を戻す。

 

(そ、そうそう。ほら、せっかくかぐや姫の顔が見れたんだから、もっと他に反応あるでしょ?)

 

 断っておけば、齋爾のように鼻の下を伸ばしてほしいわけではない。ただ、天下に名高いかぐや姫と対面したのだから、驚くとか感心するとか、そういう反応をするのが筋というものじゃないか。もしかして、輝夜がかぐや姫だと気づいていないのだろうか。

 彼が傍らの下男に何事か問い掛けたので、輝夜は目を凝らして読唇した。

 ――もしかして、あれがかぐや姫ですか? ――ええ、そうです。――なるほど、あれが……。

 

(そ、そうなのよっ。ほら、私がかぐや姫だってわかったでしょ? だからそこは驚くところよ!)

 

 輝夜が必死に驚け驚けオーラを放つと、彼は次に、こちらに向けて簡単な会釈を送ってきた。唇はどうやら、おはようございます、と動いたらしい。

 虚を衝かれた。

 

(え? あ、どうもおはようございます――って違うでしょ!?)

 

 すぐ我に返って、

 

(挨拶なんかしてる場合ー!? あんたほんとにわかってんの!? かぐや姫がっ、目の前にっ、いるんだってばーっ!!)

 

 立場上、齋爾の話を聞いているふりをしなくてはいけないのが、この上なく歯痒かった。そうでなければ、畳をびしびし叩いて、縁側に飛び出して、全力で怒鳴り散らすところだ。

 彼はまた、下男と何事かやり取りをしていた。輝夜はもう一度読唇した。

 ――……少し、見ていかれますか? ――そうですね。まあ、それもいいかもしれませんけど……。

 

(そ、そうそう。かぐや姫の前なんだから、もっと見ていたいって思うのが普通で――)

 

 ――ですがまだ私のやることが終わってませんし、あとでいいですよ。今は御老体と話をされてるみたいですしね。

 

(そうそう、だからまたあとで、…………え?)

 

 ちょっと待て。もしかして舌を読み違えただろうか。なんだか、自分の予想と百八十度の逆の発言が飛んできたような気がするのだが。

 輝夜が呆然と彼の姿を見つめていると、彼はこちらに会釈をしてまた歩き出した。下男に連れられ、庭のいずこかへ。男の姿が、どんどん縁側の端っこへ移動していく。どんどん輝夜から離れていく。

 

(え? ……ちょっと待ってよ、行っちゃうの? 一目見てそれで終わり? 驚かないの? 感心しないの? もういいの? あ、ちょっと、ねえあの、おーい――)

 

 そんな輝夜の心の声は、当然届くことなく。

 やがて彼はひっそりと、輝夜の視界から消えていった。

 

「――……」

 

 恐らくこれが、自分の今までの人生の中で最も呆然とした瞬間だったと思う。だって、初めてだったのだ。男に、こんなにあっさりと、目の前から立ち去られたのは。

 言葉こそ当たり障りがなかったが、つまり彼の言葉はこういう意味だったはずだ。

 ――かぐや姫にはそれほど興味がないから、後回しでいいよ。

 悔しくはなかった。

 ただ、鮮烈だった。

 

(なんで……? あいつは、私目当てでおじい様の依頼を受けたんじゃ、ないの?)

 

 例えば目の前の男――大部齋爾は、間違いなく輝夜目当てで依頼を受けた。直接聞いたわけではないが、目の色や態度を見ていればそれくらいは簡単にわかる。

 だがあの陰陽師が依頼を受けた理由は、齋爾とは違う。輝夜よりも自分の仕事を迷いなく優先させたということは、つまりそれだけ強い気持ちで、翁の依頼に応えようとしているのだ。

 果たしてそれは、実績を残して名声を得ようとするものなのか。

 それとも純粋に、善意や使命感を以て、輝夜たちを妖怪から守ろうとしてくれるものなのか。

 

(……門倉、銀山)

 

 心の中で呆然と、彼の名を反芻させる。彼が去っていった方をただ眺めて、その姿を脳裏で再生させる。

 もしかして――もしかすると、彼は。

 輝夜が今まで出会ってきた男たちとは、違うんじゃないか。

 

(銀山)

 

 心臓が一度、強く胸を叩いた。

 懐かしい感情だった。懐かしいくらい久し振りに、思った。

 

 ――話が、したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 齋爾を下がらせるのは、思っていた以上に手間だった。

 なにせ彼は、警護が必要だからと言い張って部屋から出て行こうとしない。輝夜の知らないところで、既に二人の陰陽師の役割分担が決まっていたらしいことが災いした。

 銀山が屋敷の周囲の調査で、齋爾が輝夜の警護。だから、輝夜が「屋敷の調査をして物の怪の狙いを明らかにしてほしい」と――つまりさっさと出てけよと――言ったところで、齋爾は首を縦に振らなかった。屋敷の方はあの小僧に任せておけばいいのですと言って譲らなかった。

 

「齋爾様は、あの方――銀山様を、よほど信頼しておられるのですね」

 

 何気なしにそう問うてみると、能面のようににこやかだった齋爾の表情が初めて崩れた。浅く眉根を詰め、咎めるように、

 

「姫様、気味の悪いことを仰らないでください」

「……はあ」

 

 違うのだろうか。銀山のことを信頼しているからこそ、彼に屋敷の調査を任せたのでは。

 齋爾は首を横に振る。

 

「私は、あの(わっぱ)を信頼してなどいません。欠片ほども」

「……なら」

 

 ならどうして齋爾は、銀山に屋敷の調査を任せたのか。

 まさか、輝夜に会いたいがためだけに、面倒な仕事をすべて押しつけたとでもいうのか。もしそうだとしたら、いよいよ「出てけ」の一言くらい、吐き捨ててやりたくなってくる。

 輝夜は無言で齋爾の答えを待つ。齋爾は少しの間、言葉を考える間を見せてから、無感動な声で言った。

 

「信頼などではなく、ただ事実として――この程度のことが任せられないほど、やつも童ではない故」

「……」

 

 少し、意表を突かれた心地だった。輝夜は齋爾の言葉を吟味し、わざと無感動を装った言葉の奥に隠れた感情を推測して、それからつい、笑ってしまった。

 不可解そうに顔をしかめた齋爾に、軽く詫びる。

 

「申し訳ありません、齋爾様。……でもわたくしは、それこそが信頼するということなのだと、思います」

「……」

 

 齋爾は今にも舌打ちの一つでも吐き出しそうなくらいだったけれど、反して輝夜の心は愉快だった。ちょっとは面白いところもあるじゃないと、そう思ったのだ。大嫌いだけど。

 とはいえこれ以上一緒の部屋にいるつもりなんてさらさらなかったので、輝夜はまず適当(・・)な理由をつけて、部屋をあとにした。もちろん、齋爾にはついてくるなと三回ほど釘を刺した上で。

 そして、満面の笑顔で逃げ出した。

 

「あー! やっぱり私は、一人でやりたいことやってる方が性に合うわー! 誰かと堅苦しいお話なんて真っ平御免!」

 

 蒼い宝石みたいな空に向かって叫ぶと、疲れも吹き飛んでいくようだった。裾の長い着物を着ているにも関わらず、どこへ向かうでもなく庭を横切る両脚が、無意識のうちにスキップを刻む。

 

「あれ? 姫様、今は陰陽師の方と面会なさっていたのでは?」

 

 すれ違った女中が輝夜を見て目を丸くした。輝夜はヒラヒラと片手を振って、その話題はもう御免だとばかりに早口で答えた。

 

「あーいいのよあんなのおじい様に任せておけば」

 

 翁を含め、この屋敷で働いている者たちは、輝夜が素の自分を見せることができる数少ない相手だ。だからこの屋敷の者たちは、普段の輝夜がどれだけ猫被りで、本当の輝夜がどれだけずぼらであるかを知っている。

 事情を察した女中は眉を下げて、苦笑した。

 

「姫様、あまり造様を困らせてはいけませんよ」

「いいじゃない。おじい様も私がああいうの嫌いだってことくらい知ってるだろうし、適当に合わせてくれるわよ」

「ですが……」

 

 不安げに周囲を見回すと、女中は声を曇らせ、

 

「……今は、物の怪がいつまた忍び込んでくるか知れません。あまりお一人で動かれては危ないですよ」

「……そうねえ」

 

 その言い分はもっともだ。今はどうしようもなく一人で好き勝手に散歩したい気分なのだが、妖怪に襲われてから後悔したって遅い。本当に面倒なことだった。

 

「でも、大人しくしてたらあのじいさ――齋爾サンにまとわりつかれるからヤなのよねえ。あいつ、私狙いって欲が丸見えだし」

「なら、もう一人の陰陽師の方に会われてみてはいかがです?」

 

 あ、と輝夜は小さく声をもらした。そうだ。齋爾から解放された喜びですっかり忘れていたが、輝夜が部屋を抜け出した理由は、あいつを捜し出して話をするためでもあったのだ。

 女中は庭の西側を指差した。

 

「今しがた、あちらの方を歩いているのを見かけました。姫様、あの方――ええと、そう、門倉様にはもう?」

「や、まだだけど――」

 

 正確に言えば、既に顔を合わせてはいる。ただあれは、きっと、『会った』のうちには入らないのだろう。

 女中が微笑んだ。

 

「なら是非。あの御方はどうやら、今まで姫様がお会いになってきた貴族の方たちとは、少し違うみたいですよ」

「違うって……」

「私も女ですから。女を狙う男の目というのは、一目見ればわかります」

 

 それは輝夜にもわかる。なんというのだろう……まとわりつくというか、舐められるような。そんな、気味の悪い目だ。

 

「でもあの方の目は、とてもまっすぐなものだったように思います。姫様や、或いは報酬や、名声……そういったものに関係なく、真摯な気持ちで、私たちを助けようとしてくれているのではないかと」

「……」

 

 ……そうなのだろうか。

 けれど輝夜には、屋敷の外にそんな男がいるなんて想像もできなかった。みんな、こちらの体を狙う不埒者ばかりなんだと思っていた。決めつけかもしれないが、それなりの経験に基づいてもいた。

 この屋敷の手伝いたちは、翁が自ら厳選した、輝夜に対し下心を持たない清らかな者たちばかりだ。翁は人の本質を見通す聡い目を持っているが、それでも集めるのに何ヶ月とかかった。

 輝夜の美貌は、それだけ多くの男を魅了するのだ。

 

「ほんとかしら」

「どうでしょう……でも私は、姫様よりも少しばかり長く、女をやっていますから」

 

 輝夜は曖昧に笑った。失笑だったのかもしれない。実際は輝夜の方が、少しばかりどころか、比べるのも馬鹿らしくなるくらいに長く女をやっているのだから。

 それは胸の奥にしまったままで、輝夜は屋敷の西側を見た。あの陰陽師の姿は、ここからでは見えないけれど。

 

「そうね……じゃあ、ちょっと会ってみようかしら」

 

 話がしたい、という感情が、輝夜の心を再び熱くする。あんた何者? なんでおじい様の依頼を受けたの? てかあのかぐや姫が目の前にいるんだからなんか言いなさいよこら。そんな感じの言葉が次々浮かんでは消えていく。

 その輝夜の背を、女中が優しく押してくれた。

 

「それがいいと思いますよ」

「そう。……よし、わかったわ」

 

 拳を握り、

 

「会ってやろうじゃない! その門倉銀山ってやつに!」

「呼びましたか?」

「ぎゃああああああああ!?」

 

 そしていきなり背後から男の声が飛んできたので、輝夜は心臓を吐き出しそうになりながら前へとつんのめった。

 慌てて立ち上がり、振り返る。すると思っていたよりも近くに男の姿があったので、またびっくりして、今度は尻もちをついてしまった。

 いた。あの時、屋敷の中から見た陰陽師が。

 門倉銀山が、すぐ目の前に。

 

「なっ、あ――」

 

 驚いた。本気で驚いた。頭の中が真っ白になった。すっからかんだ。なにをすればいいのかわからない。なにも頭に浮かんでこない。あれだけ話をしたいと思っていたはずなのに、準備していた言葉が全部悲鳴と一緒に外に飛び出して虚空に消えた。

 数秒の、静寂があって。

 それからようやく頭が再起動を始めて、輝夜は自分の状況に気づくことができた。いけないと思って、とにかくなにかしないとと思って、頭をフル回転させて、でもなにも妙案が浮かんでこなくて、こうなったらもう反応を返せるならなんでもいいやと自棄になって、一切の思考を諦め、体が動くままに行動した。

 その結果、

 

「――いきなりおどかすなバカアアアアアアアアッ!!」

「ぐっ」

 

 動いたのは拳。堰を切って出てきた言葉は、品とは無縁の大絶叫。

 輝夜渾身の正拳突きが、銀山の鳩尾を的確に打ち抜いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 笑われた。

 大笑いされた。

 

「――アッハハハハハハハハ!! そうかそうか、あのかぐや姫がこんなにぐっ」

 

 それが体が焼けるくらいに恥ずかしかったので、輝夜はもう一撃銀山に正拳突きを叩き込んだ。地面に倒れて物言わぬ屍となった男を、輝夜は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

 

「あ、あんたねえ! この私を笑うなんていい度胸じゃないの、張っ倒すわよ!?」

「ひ、姫様落ち着いてっ。もう張っ倒してますっ」

「ええい放しなさいっ。もう一発、もう一発殴らないと気が済まないわっ」

 

 女中に後ろから羽交い締めにされながら、輝夜はその場で地団駄を踏んだ。どうしてだろう、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。別に、猫を被っているのがバレる程度なら恥ずかしくもなんともないはずなのに。実際、この屋敷の使用人たちへは、そうやって自分の本当の姿を打ち明けてきたのに。

 それがなぜか、今はすごく、恥ずかしい。

 向こうにいるはずの銀山がどうしていきなり背後から出てきたのかといえば、輝夜が女中と話している間に、庭をぐるりと回ったきたかららしかった。案内役の下男が、動かなくなった銀山を「門倉様ー!?」と必死に揺さぶっている。

 

「いっつつ……ここまでいい一撃をもらったのは久し振りな気がするなあ」

 

 掠れ声で呻き、銀山が腹をさすりながら体を起こした。三回くらい咳き込んで、それでもまったく痛がってなさそうな顔をして、

 

「そんじょそこらのゴロツキよりもよっぽどいい腕っ節してる」

 

 もう一回殴るべきだろうか。だが女中がしぶとくこちらを羽交い締めにしているので、しぶしぶ諦めることにする。

 この距離で銀山と顔を合わせるのは初めてだった。改めて見てみるが、やはり目鼻立ちは悪くない。女性を魅了する甘いつくりではないが、代わりに人を安心させるような優しい整い方をしている。目を合わせているだけで、あれだけ暴れ回っていた輝夜の心が毒気を抜かれるようだった。

 下男に支えられて立ち上がった銀山は、よそ行きの笑顔で会釈をした。

 

「おはようございます、姫」

「え? あ、うん、おはよう――って」

 

 またそれか。

 

「どうしてこんなところに? 齋爾殿と話をされていたのでは?」

「や……抜け出してきたのよ、退屈だから。――って、だから、」

 

 だからあんた、もっと他に言うべきことが、

 

「それはそれは……。しかし今は状況が状況ですからね、あまりお一人では動かない方がいいと思いますよ」

「う、うん、そうよね。だからさ、」

 

 あのかぐや姫が目の前にいるのに、

 

「でしたら、なるべく早く齋爾殿のところに戻ってあげてください。あれでも腕だけは確かですから」

「あの、ちょっと」

 

 なんでそんな、そのへんの女中を相手にするのと同じような態度で、

 

「では、私は行きます。まだ屋敷の調査が終わってませんので」

「――」

 

 ――ぷつん、と来た。

 なにかが切れた。それがいわゆる堪忍袋と呼ばれるものだったのかはわからないし、この際どうでもいいと思った。心の中がざわざわと波立って、顔には無意識の笑顔が浮かぶ。銀山を先導しようとしていた下男が、頬を引きつらせてあとずさりする。輝夜を羽交い絞めにしていた女中が、ひっ、と短い悲鳴を上げて離れていく。自由になった輝夜は、踵を返そうとしていた銀山の手首を引っ掴み、強引にこちらを振り向かせた。

 

「おっと。……どうしました?」

 

 かぐや姫の方から触ってもらえたというのに、銀山はやはり顔色一つ変えない。それが、輝夜の神経を余計に逆撫でした。

 語気は強く。

 

「私もついてくわ」

「は? いや、しかし」

「あいつのとこには戻りたくないのよ。だからいいでしょ?」

 

 掌に霊力を乗せ、彼の服をしわくちゃにするくらいの握力で。

 美しすぎて怖気を振るう、素敵な素敵な笑顔をたたえて。

 

「あんたと一緒ならとりあえず身の安全も確保できるし。屋敷調べながらでいいから話し相手になってよ。暇なの」

「ですが――」

 

 ギリギリ。

 

「いいわよね?」

「いや、その」

 

 ギリギリギリギリ。

 

「……ね?」

「……」

「ね?」

「…………」

 

 ギリギリギリギリギリギリギリギリ。

 このまま負けられるかと思った。銀山の頭の中では、輝夜も屋敷の女中も、みんなが同じ『女』という括りで完結してしまっている。認めるわけにはいかない。輝夜は確かに女だが、そんじょそこらの女たちとは一味違う、特別な女なのだ。それを思い知らせてやらねばと思った。

 かぐや姫として持て囃されるのは嫌いだが。

 他の女たちと同じように扱われるのも、それはそれで、気に入らない。

 そんな微妙なお年頃の、輝夜なのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 屋敷の庭は、多くの使用人たちが外に避難したため、普段以上の静けさに包まれていた。警固の男たちすらいなくなった庭で、ただ蝉だけが、いつもと変わらず元気に鳴き続けている。

 輝夜はまず、私が案内するからいいとか適当にそんなことを言って、下男と女中を下がらせた。不用心かもしれないが――否、不用心だからこそ、銀山がどんな男なのかを見極めるチャンスだと思った。例えば人の目があるところでは真面目を装っているが、輝夜と二人きりになった途端に――なんて話は、ありえないとも言い切れない。

 けれども銀山は結局、輝夜が呆れてしまうくらいの仕事真面目だった。居心地が悪くならない程度にぽつぽつと話は振られるが、それだけ。不審なところはないかと熱心に周囲へ目を配るばかりで、輝夜の方などほとんど見向きもしてくれない。あのかぐや姫と二人きり、となればどんな男だって調子づくはずなのに。いよいよもって、私ってばなんの興味も持たれてないんだなあ、と実感してしまう。

 これが陰陽師として正しい姿なのだと、わかってはいる。陰陽師にとって人からの依頼はとても大切なものだから、それをそっちのけにして女に現を抜かすのは阿呆がすることだ。つまり齋爾は阿呆だ。

 ともかく。

 そうとわかってはいても納得はできなかったし、悔しかった。だが同じくらいに鮮烈でもあった。

 

「……あんたは、どうしておじい様の依頼を受けたの?」

 

 仕事の邪魔だと思われるかもしれないから、立ち入った話をするのは躊躇われたけれど。

 

「あのおじいさんみたいに、私目当て……ではないのよね」

 

 それでも訊きたい。銀山が、今こうしてこの屋敷にいる理由を。

 だが銀山は、庭に目を光らせるばかりで答えてくれなかった。よほど集中しているのか、それとも。

 

「……」

 

 無視されるというのは、初めての経験だった。この世界では――そして向こうの世界にいた頃だって、輝夜の回りにはいつも誰かがいて、話を無視されるなんてことはなかった。

 だからだろうか……少しだけ胸が痛いのは。

 

「……」

 

 でも、不思議だ。例えば齋爾のような男に無視されても、きっと輝夜はなんとも思わない。いいわよそっちが無視するなら私も無視するから、とそれだけ思ってすぐに気にしなくなるだろう。

 けれど、なんだか、銀山に無視されるのは、すごく気に入らない。

 

「ねえ……」

 

 無視、しないでよ。

 声はまた届かなかった。銀山は庭の隅に広がる池の方へ歩いていく。離れていく彼の背中に、また胸が痛む。

 

「ねえ……!」

 

 嫌だ。

 なんだかよくわからないけれど、これは、嫌だ。すごく嫌だ。

 だから輝夜は、彼の背を追った。

 

「ちょっと……!」

 

 もう、無我夢中で、

 彼の腕を掴んで、力いっぱい、

 

「無視……しないでったらっ!」

 

 振り返らせる。腕の力だけではなく、全身を使って、勢いあまって銀山と一緒にたたらを踏んでしまうくらいに。

 なんとか踏みとどまって、輝夜は銀山の顔を見上げた。深い黒真珠の瞳が、少し驚いた様子でこちらを見下ろしている。……ふと、その瞳が随分と近い距離にあることに気づいた。

 ただ、腕を掴んだだけのつもりだったけれど。

 輝夜はどうやら、銀山の腕に、抱きついてしまったらしい。

 

「あ……」

 

 頭の中がからっぽになる。どこか遠くで、この状況はまずいと誰かが囁いてる気がしたが、その声が輝夜の意識を呼び覚ますことはなかった。

 今この場に輝夜と銀山以外の人の目がなかったのは、恐らく神の図らいだろう。

 

「ええと……なにか?」

「ッ……!」

 

 少し困惑した声でそう問われて、輝夜ははっと我に返った。

 反射的に飛び出すボディーブロー、一発。

 

「ぐふっ……」

「あっ」

 

 いや、正確には、銀山のくぐもった声を聞いた今この瞬間になってようやく、我に返ったのだろう。しまった、またやっちゃった。

 呻く銀山の背中を優しくさすってやる。

 

「ご、ごめん。大丈夫?」

「え、ええ……」

 

 銀山は、今度は少し痛そうな顔をしながら、

 

「なんでしょう。私、姫に殴られるようなことをしてますか」

「……ええと」

 

 輝夜は目を逸らした。さすがに殴ったのは、やりすぎだったかもしれないけれど。

 だが輝夜だって、一回目は思いっきりおどかされたし、二回目は思いっきり笑われたし、今回は思いっきり無視されたのだ。殴るのはさておき、文句を言う権利くらいはある。

 

「だから、無視しないでよって言ってるの」

「おや……申し訳ない、こっちに夢中で気づいてませんでした」

「……随分と熱心にやってたわね。なにか気になることでもあるの?」

 

 問えば、銀山は苦笑し、

 

「いや……ないからこそ真剣に、といったところですね」

 

 つまり、手掛かりが一つも見つからないから頑張って探している段階らしい。

 

「ふうん、そう簡単には行かないのね」

「恐らく、自分の足跡をしっかり払ってあるんでしょう。ただの馬鹿が興味本位で入り込んだわけではないみたいですね」

 

 そう言い銀山が向かったのは庭に広がる池だ。この屋敷は都の水源となる川に近い場所にあるので、そこから直接水を引いている。

 

「……ここがどうかしたの?」

「いえ、まだよく見ていなかったので」

 

 銀山は小石で作られた池のへりに立ち、膝を折って水底を見つめた。なんとなく輝夜もその隣に立って、同じように水の中を覗き込んでみる。透き通った水と、その中をのんびり泳ぐ鯉と、水底を埋め尽くす抹茶色の藻類。もちろん、輝夜にはなんの変哲もない池にしか見えない。

 

「どう?」

 

 ふむ、と銀山は息をつき、

 

「やっぱり鯉がいますね。綺麗です」

「……ねえ、突き落としていい?」

 

 輝夜が銀山の肩に手を掛けながら微笑むと、彼はすぐに「冗談ですよ」と軽く笑って、

 

「……」

 

 だがその瞳には、笑みとはまた異なる別の感情が宿っているようだった。口元には笑みの影を残しながら、それでいて瞳は睨むように、まっすぐ水底を見据えている。

 

「……なにかわかったの?」

「そうですね……」

 

 銀山は輝夜の問いに答えないまま、突然立ち上がって踵を返した。

 また無視か。だが輝夜もめげずに彼の背を追う。

 

「ちょっと」

「姫。姫の知人に、最近になって水難で亡くなった方はいますか」

「え……すい?」

 

 すいなん。いきなりの問い掛けだったので、その単語が上手く頭の中で変換されない。

 それを機敏に察した銀山は、すぐに言葉を言い換えた。

 

「水の事故です。川で溺れた、或いは船を出して嵐にあった……とか」

「え、ええと……」

 

 銀山の言葉は静かだったが、言い逃れを許さない強さがひそんでいるような気がした。急かされるように輝夜は考える。だが、内陸にあるこの都ではそんな話を聞く方が稀だ。あまつさえ屋敷に引きこもっている輝夜に、心当たりなどあるはずが――

 

「……あ」

 

 ――ないと、その時は思っていた。

 けれど直後、脳裏である人物の名が閃く。数ヶ月前、輝夜のもとに婚姻を求めてやってきた五人の貴族たち――その中の、一人の名が。

 しかし輝夜は、その名を口にはできなかった。銀山が突然足を止めた。つられて輝夜も立ち止まる。彼は眉間に薄っすらと険を刻んで、じっと己の足元を睨みつけている。

 初めはなんだかわからなかった。けれどすぐに、輝夜も“それ”を感じた。

 地面の奥――深い深い地下から、

 なにかが、

 

「姫!」

「え、――きゃあ!?」

 

 銀山に強く腕を引かれ、突然抱きかかえられた。視界が回転する。雲一つない青空が視界いっぱいに広がる。背筋が寒くなるような浮遊感が体を包んでいる。空を飛んでいるのか、見慣れた庭の地面が、いつもより随分と遠くに見えて、

 

 直後、その庭が一瞬で水の中に沈んだ。

 

「――!?」

 

 一瞬で、だ。空の青をすべて水に変えて瀑布にしたような。そう錯覚するほど圧倒的な水量に、広大な庭園が一瞬で水の中に消えた。

 

「……え?」

 

 いつしか体を包む浮遊感は消えていた。近くに建てられていた小舎の屋根の上にいる。だが輝夜の意識はそこまで回らない。動かなくなった両手で銀山の襟を掴んだまま、呆然と、

 

「――え?」

 

 理解が追いつかない。なにが起きた。これはなんだ。自分が見ている世界は本当に現実か。見れば、築地塀(ついじべい)の半分以上が水中に消えている。ということは、輝夜がこの水の中に入れば、ひょっとして足が底につかないかもしれない。それだけの水が一瞬で満ちた。

 傍らから声が来た。

 

「……やられましたね」

 

 低く重い、ため息の音。

 

「まさかこんな昼日中からやってくるなんて……随分と威勢がいい」

「ねえ……なによこれ、」

 

 輝夜は虚ろな声で問うた。

 

「なんでこんな……なにが……」

 

 ようやく――ようやく目の前の光景に理解が追いついて、しかしだからこそ現実として認めることができなかった。箱入り娘として育てられた輝夜が咀嚼するには、この光景は常軌を逸しすぎていた。とても恐ろしいことが起こったのだと漠然と感じても、震えることすらできない。

 銀山の答えは粛々としていた。

 

「私が先ほど姫にあのようなことを問うたのは、池に妙な気配が混じっていたのに気づいたからです。本当にかすかでしたが、私たちの間では残留思念と呼ばれるものでした」

「残留、思念」

「人の強い思いが念となって特定の場所に留まること。……特に水などの液体は、比較的残留思念を遺しやすいですから、向こうも完全には払いきれなかったみたいですね」

 

 それはつまり、昨夜この屋敷に入り込んだ物の怪の思いが、遺っていたということ。

 なら、

 

「思い、って」

「……」

 

 銀山はすぐには答えなかった。瞳の色を闇のように濃くして、深く水面の奥を見据えた。そこに紛れてひそむ何者かを、見極めるように。

 

「……本当にかすかでしたから、読み取れた言葉は断片的です」

 

 札を抜く。

 紡ぐ言葉は鋭く、

 

「龍と」

 

 強く、

 

「嵐と」

 

 静かに。

 

 

「――姫」

 

 

 音は、なかった。音もなく輝夜たちの見下ろす水面が波立ち、奥から一つの人影が浮き上がってきた。

 頭――肩――腰――脚――。そうしてその者は、足場などないはずの水面の上に、現れた。

 

「――ッ!」

 

 輝夜は息を呑んだ。そしてそのまま、すべての動きを忘れて凍りついた。

 脳裏に、銀山から告げられた言葉が響く。

 

 龍。

 

 知っている。

 

 嵐。

 

 輝夜は、知っている。

 

 姫。

 

 この男の名を、知っている。

 

「――あな、たは」

 

 今より数ヶ月前、輝夜との婚姻を求めて、この屋敷に五人の貴族たちが訪れた。熱心に愛を叫ぶその者たちに、輝夜はそれぞれある宝物を持ってくるように提示した。それを手に入れることができない限り、婚姻は受けないと。

 遠回しに、結婚はしないと、そう伝えたつもりだった。貴族たちは所詮、輝夜の体、或いは財産、或いは地位にしか目を光らせていない、偽りの愛を叫ぶ者たちばかりだったから、果たしようのない難題を押しつければ、すぐに諦めて引いてくれると思っていた。

 けれど貴族たちは引かなかった。達成できるはずもない難題を成し遂げるために、自分たちにできる限りの手を尽くしたのだ。

 

 ――そしてその中で、不幸にも、一人だけ不帰の客となった男がいる。

 

『龍の頸の玉』の難題を受け、

 船を出した先で嵐に襲われ、

 二度と輝夜と会うことなく、海の藻屑と消えた男がいる。

 

『……お久し振りです、姫』

 

 その男が、

 

『姫のため、黄泉の世界から舞い戻って参りましたぞ』

 

 死んだはずの男が、

 

 

『――お元気でしたか?』

 

 

 輝夜の目の前で、笑っていた。

 輝夜の体にまとわりつく、隅々まで舐め回すような目で、笑っていた。

 

 蝉の鳴き声がやんでいる。

 ただ、ひたりと。

 濁った水が滴る、音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ③ 「セレストブルー」

 

 

 

 

 

 大伴御行が鬼籍に入った。

 

 こちらの世界で知人を亡くしたのは、輝夜にとって彼が初めてだった。『龍の頸の玉』を求めて船を出した大伴御行(おおとものみゆき)が、嵐に呑まれ、海の藻屑と消えた。

 その報告を翁から聞かされた時、輝夜の心を支配したのは罪悪感ではなく、また憐憫でもなく、純粋な、身も凍るほどの恐怖だった。生まれて初めて、心の底から、恐ろしいと思ったのだ。

 御行の死ではなく。

 御行という人間、そのものを。

 なぜ御行がそこまで『龍の頸の玉』に執着したのか、輝夜にはどうしても理解できなかった。果たせるはずのない無理難題であることはわかっていたはずだ。御行に与えた難題――『龍の頸の玉』は、麒麟や朱雀と同格の神獣である龍を探し出し、頸にある玉を奪えというもの。龍なんて存在すら曖昧な幻の生き物だし、たとい世界のどこかで出会うことができたとしても、神獣故に、たかが人間如きに触れられる相手ではない。人間の力ではどうすることもできない、諦める以外に選択肢が存在しないその難題を、輝夜は拒絶の意味を込めて御行に押しつけた。

 それがわからないほど御行は馬鹿でなかったはずだ。だから彼は潔く輝夜を諦め、平穏無事にもとの暮らしへと戻るべきだった。

 なのに御行は愚かにも自ら船を出し、そして他愛もないくらいにあっさりと、死んだ。

 だから怖かった。御行の心が理解できなくて怖かった。己の理解が及ばないものを、未知のものを恐れる、恐怖心だった。

 御行が輝夜に向ける愛は、決して綺麗なものではなかった。それどころか、輝夜が今までに見てきたどんな愛よりも、ドス黒く汚れた愛だったと思う。

 こうも恐ろしい愛され方がこの世にあることを。そしてその感情を向けられる先が自分であることを。信じられなくて、信じたくなくて、心の芯まで凍るようだった。

 眠れない夜から数ヶ月が過ぎて、ようやく、忘れかけていたのに。

 

『お久し振りです、姫』

 

 いる。

 

『お元気でしたか?』

 

 目の前に、あいつがいる。

 

『帰ってきましたぞ。奈落の底から』

 

 あの時と同じ姿で。

 あの時と同じ瞳で。

 あの時と同じ顔で。

 輝夜の体を舐めるように、笑っている。

 

『他でもなく――』

 

 聞いてはいけないと思った。けれど恐怖で凍りついた体は、まばたきをすることも、指一本を動かすことも、敵わなかった。

 人を愛する目ではない。獲物を見つけた猛禽類のような。或いは垂涎の宝物を目の前にした好事家のような。どだい人に向けるものではない目を鬼火のように光らせて、彼は言う。

 

『――姫。あなたを、手に入れるために』

「――――――――!!」

 

 叫んだ。死してなお尽きぬ男の異常すぎる愛執に、恐怖の針が振り切れた。

 どうか夢であればいいと、そう願ったけれど。

 震える喉は裂けるほどに苦しくて、痛かった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ふいを衝かれたとはいえ、齋爾の行動は速かった。地下から迫ってくる凶々しい気配を察知するなり、翁のもとに駆け寄って小さな結界を展開し、直後津波の如き勢いで部屋に押し寄せてきた水をすべて弾き飛ばした。

 そして動揺した翁の声を宥めることもせず、即座に風の流れへと心を澄ませる。『風神』の二つ名を戴く齋爾にとって、風の流れから周囲の状況を読み解く程度は呼吸に等しく造作もない。

 風の流れは閉鎖的だ。屋敷を囲むようにして、巨大な結界が展開されている。無論齋爾のものではないし、銀山のものとも違う。夏空に溶け込む天色の天蓋は、人間が持たない異種の力――妖力によって制御されていた。

 この屋敷に再び現れた、物の怪の。

 

(チッ……)

 

 かぐや姫が席を外したあと、そのまま逃げ出したことにはとうに気づいていた。その上で齋爾が彼女を追わなかったのは、翁の無駄話に付き合わされて身動きが取れなかったせいだ。なにかと当たり障りのない話題でこちらを引き留めようとする翁に、彼が依頼主である手前もあり、なあなあとしたまま腰を上げることができなかった。翁が、平民の出とは思えないほどに話術に長けていたせいもあったのかもしれない。

 そこを突かれた。こんな真昼間から都の中心で暴れ回る妖怪がいることを、さすがの齋爾も予想してはいなかった。

 

「齋爾様、これはっ……!」

「ただの水です。翁殿は、どうか動かぬよう」

 

 突然の事態に浮き足立つ翁へとそれだけ言って、齋爾は更に風を読み解く。かぐや姫を捜す。依頼主に対しては申し訳ないかもしれないが、居場所次第では翁を置いてでも動き出さなければならない。物の怪の狙いは間違いなく、かぐや姫なのだから。

 屋敷の東側に、不自然に乱れる風の流れを見つけた。それは屋敷を覆う妖力の中心であり、同時に、

 

「――童!」

『っ……御老体』

 

 風の陰陽術が一、『遠鳴り』――風の流れを操って、声を、通常では決して届き得ない離れた“彼”のもとまで届かせる。

 齋爾とともに依頼を受けた陰陽師、門倉銀山。妖力の中心であるその場所に、彼と、そしてかぐや姫もまた、いた。

 

「童、貴様まさか――」

 

 答えは早い。

 

『ええ。……いますよ、黒幕が目の前に』

 

 齋爾は反射的に走り出そうとした。だが結界の外で、押し寄せた水はこちらの胸元ほどの高さまで満ちていて、齋爾の判断を迷わせた。

 

『待ってください、御老体』

 

 銀山から制止の声が掛かる。とりわけ語気が強いわけではないが、鐘のように頭に響く声だった。

 

「なんだ」

『御老体。申し訳ないですが、屋敷の者たちを外に避難させてあげてはくれませんか』

 

 齋爾は唇を歪め、銀山がいるであろう屋敷の東を睨みつけた。それは本来であれば、銀山の方が全うするはずだった役目のはずだ。

 そして、銀山が今身を置いている状況こそが、齋爾の。

『遠鳴り』の術越しに、銀山の苦笑した息遣いが聞こえる。

 

『御老体の望むところでないのはわかります。ですがあなたならわかっているでしょう。ここが既に、相手の掌の上だということを』

「……」

 

 無論、わかっている。屋敷のほぼ半分を沈めるだけの水を、瞬時に生み出した妖怪だ。間違いなく、水を操る能力を持っていると見ていい。

 であれば、水で覆われたこの屋敷は、既に妖怪の手中に落ちたも同然だった。

 

『ですので、向こうの注意がこちらに向いている今のうちに、皆を逃がしてやってほしいんです。……後々、屋敷の者を人質に取られた、なんてなると面倒ですから』

 

 ここは妖怪の掌の上であり、もはやなにが起きても不思議ではない。たとえその妖怪が、矛の先を屋敷の者たちに向けたとしても、なにも。

 

『風を操る御老体なら、あっという間でしょう』

「……」

 

 銀山の言葉の意図は、理解できている。風の陰陽術はなにかと細かく応用が利くから、屋敷の者たちを外に避難させるのであれば、齋爾なら銀山よりもずっと短い時間で終わらせられる。

 だが、納得はできない。かぐや姫を守るのは齋爾の役目だったはずだ。それをただの偶然で銀山に奪われてしまうのが、この上ないほど気に食わなかった。

 けれど同時に、気づいてもいた。初め屋敷の風を読んだ際に、齋爾は聞いていた。

 突如押し寄せた水に狼狽える、屋敷の者たちの声。結界のせいで外に逃げることもできず、口を衝いて出た助けを求める声。不安と恐怖に負けて齋爾と銀山の名を呼ぶ、その声を。

 

「…………」

 

 妖怪の襲撃に備え、最低限以外の使用人は避難させるよう翁に進言した。その最低限の者たちが、或いは避難し遅れた者たちが、助けを求めて齋爾たちの名を呼んでいる。

 確かに齋爾は、自他ともに認める女好きだ。かぐや姫狙いでこの依頼を受けたことも、決して否定はしない。

 だがそれでも、大部齋爾は陰陽師である。邪悪な妖怪を退け、人を救う者の名である。

 人を救うために陰陽師になったのかどうかは、今となっては忘れてしまったけれど。

 けれど人を救うことが嫌いなら、齋爾はそもそも、陰陽師などにはなっていないのだ。

 

「……っ!」

 

 迷いを払うように強く、舌打ちし、そして同じくらいに強く、齋爾は叫ぶ。『遠鳴り』の術など使わずとも、銀山のもとまで声が届くように。

 

「童! そう言ったからには、守れるのだろうな!?」

『……そっちこそ』

 

 皮肉めいた声で、銀山は笑った。

 

『あんまりのんびりしてると、姫への見せ場、奪っちゃいますからね?』

「……上等だ!」

 

 この時齋爾は、笑ったと思う。都に流れ着いて高々数年の青二才が大層な口を利くから、それが生意気で、おかしかった。

 風を読み解き、妖怪の気配へと意識を澄ませる。そんなことをせずともこの大量の水を見れば察しがつくのだが、やはりなかなか強力な妖怪のようだった。齋爾の腕を以てしても、楽に勝てるかどうかはわからない。

 ならば或いは、銀山がやられそうになった瞬間に颯爽と助けに入るという形も、悪くはないかもしれない。それに、屋敷の者たちの命を積極的に救ったとなれば、かぐや姫からの評価も上がるだろうし。

 そんな露骨な打算の末に、都随一の陰陽師は動き出す。

 

「齋爾様、かぐやは……」

「今は、あの若造がなんとかやっているようですな。……姫のことは一度あやつに任せ、我々は屋敷の者たちの避難に当たりましょう」

 

 不安げに結界の外を見つめる翁へ、速やかに答えを返して。

 

「申し訳ないですが、御老体に少しばかり鞭を打って頂きますぞ。事態は一刻を争いますからな」

 

 風が流れる。一呼吸分のそよ風は、されど瞬く間に力強い旋風となる。

 そして一人の人間が、風神へと姿を変える。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 輝夜が御行の存在を恐怖するようになったのは、なにもその死を聞かされてからのことではなかった。屋敷に遥々求婚に訪れたかの姿を初めて目の当たりにした時から、漠然とではあるが、肌が粟立つ感覚を覚えていた。

 御行の愛は黒い色をしていた。御行が輝夜に向ける目は他の貴族たちのどれとも異なっていて、輝夜の美貌に皆が見惚れる中、ただ御行だけは、不気味に細めた双眸の奥で、まとわりつくような粘性のある光を抱えていた。

 あれは決して異性への関心ではなく、ある種の征服欲、支配欲に満たされた目だった。

 必ずお前を手に入れてやる。

 垂涎の宝物を求める蒐集家の。

 人ではなく、物に対して向けられる目だった。

 だから輝夜は自分でも気づかない本能の領域で御行を恐怖し、五つの難題の中で最難ともいえる『龍の頸の玉』を彼へと課した。

 そして御行は必然、難題の解決に失敗し、輝夜との婚姻を諦め――それで終わるはずだったのに。

 天色の空を取り込み澄んだ御行の瞳は、一方で身の内で燃えたぎる征服欲を如実にする。その奥で唯一色の変わらない闇色の瞳孔が、輝夜の体をぎょろりと貫いた。

 

『どうされたのですか……姫?』

「――ッ!」

 

 喉に刃物を突きつけられたようだった。全身が総毛立つ。頭が真っ白になって、体中から血の気が失せる。咄嗟に目を逸らすことも、息をすることすらも忘れて、竦み、凍りつく。

 恐怖に潰された今だからこそわかる。トラウマだったのだ、御行の存在は。人から愛されるということは必ずしも綺麗なものではないのだと、輝夜の心に楔を打ち込んだ。だから、死してなおこの世界に舞い戻り、輝夜を手に入れようとする御行の執念に、震える体を抑えることができなかった。

 正直、自分一人だったら半狂乱にでもなっていたかもしれない。それでも輝夜が膝を折らず立ち続けられたのは、銀山が、こちらの肩を強く支えてくれていたから。

 きっと銀山の手には、足場の悪い屋根の上で輝夜を支える、それ以上の意味はなかった。その証拠に銀山からは、慰めるような言葉など一つも飛んではこない。

 だが、指先から伝わる彼の体温が、人のぬくもりが、輝夜の心を支えてくれたのは事実だった。

 

「姫」

 

 バリトンの声音で、銀山が小さく、それだけ言った。

 輝夜の体を凍てつかせていた氷が溶け、力が戻る。

 

「ッ……」

 

 そうだ、怖がっている場合ではない。たとえ恐怖を抑えられなくても、心で負けてはいけない。

 

「立てますか?」

 

 頷く。心を強く持ち、縋っていた銀山の襟から手を離し、一人で立てば、銀山がこちらを守るように一歩前に出た。

 

「後ろに」

「う、うん」

 

 銀山の言葉は短かったが、迷いのない声音は輝夜の恐怖を和らげた。輝夜は言われるがまま彼の背に隠れ、向かいの御行を強い意志で睨みつけた。

 最後に見た姿となにも変わっていない。頭に烏帽子、体に胡服、片手に笏を持ち、柳幽霊のような黒髪に、生気の薄い白肌と、底の見えない征服欲で満たされた瞳。恐ろしいくらいになにも、変わってはいない。

 ふいに、御行が強い不快の色で瞳を眇めた。

 

『姫……そんなところで、なにをしておられるのですか』

「なっ……なん、ですか」

 

 問いの意味がわからない。震える声でそれだけ返せば、遮るように、銀山が強く右の袖を振った。一枚の札を構え、薄い霊力を放って牽制する先は、御行。

 御行が嘲るように低く笑った。

 

『これはこれは……陰陽師がただの人間に札を向けるのか』

「冗談」

 

 対して銀山は、おどけた調子で小さく笑う。

 

「お前が人間なんだったら、世の中の物の怪はみんな人間だ」

 

 衝撃は、なかったと思う。死んだはずの人間がこうして舞い戻ってくることの意味を、なんとなくではあるが、輝夜も覚悟はしていた。

 一度死んで、甦るなど、ただの人間にできる芸当ではない。

 だから、今の御行は。

 

「……」

 

 御行は言った。帰ってきたと。あなたを手に入れるために、帰ってきたと。輝夜が欲しくて、欲しくて欲しくて、たまらなかったから。だから御行は、人を捨てまでしてまた輝夜の前に戻ってきた。

 確信的な予感があった。一度御行の手中に落ちてしまえば、少なくとももう二度と、輝夜はこの屋敷に帰ってくることはできない。御行は、輝夜を人として愛さない。己の心を慰める道具としてのみ、愛すだろう。

 もしもその感情を、正しく愛という名で呼ぶのなら。

 きっとこの体は、瞬く間もなく芯まで凍るだろう。

 

「っ……」

 

 体に震えが戻ってくる。だから輝夜は、寄り添うようにそっと、銀山の服の背を掴んだ。

 ――悪寒、

 

「……!」

 

 全身が痺れるような悪寒だった。輝夜は音がするほど大きく息を呑んで、そのまま呼吸が上手くできなくなった。御行が、輝夜と銀山を睨みつけ、瞳を激しい憎悪の炎で燃やしていた。

 ああ、人の瞳は、あれほど激しい炎で燃えるものなのか。

 いや――御行は既に、人ではない。赤と黒が混じり合ってたぎる炎は、まるで無数の怨恨を燃やし尽くす地獄の業火のようで。

 

『なにをしているのですか、姫』

 

 初めの問い掛けは、瞳の業火が嘘であるかのように優しく、輝夜へ。

 そして次は、燃える憎悪をそのままに、銀山へと。

 

『――なにをしている、貴様』

 

 その問いを直接向けられたわけでもないのに、輝夜の肌がさあっと粟立つ。

 

『貴様、姫のなんだ』

 

 屋敷に満ちた水を隅々まで凍らすほどの冷たい問い掛けに、けれど銀山は答えなかった。輝夜のように言葉を失っているのではなく、御行から向けられる憎悪を楽しむように、薄く笑んだ表情のまま、答えなかった。

 

『――答えろ!!』

 

 御行の大喝は大気を震わせ、満ちた水面をも波立たせる。

 それすらも、受け流して。

 

「――嫉妬というのは、恐ろしいね」

 

 波立った水面を鎮めるように穏やかな声で、銀山は緩く首を振った。

 

「情愛は、時に容易く人の心を狂わせる。……或いは憎しみよりも。過去の依頼でも、この手の情が原因で起こった事件というのは、多かったね」

 

 さすがに妖怪化してるのは初めてだけど、と小さく付け加えて、銀山は振り返ると輝夜の手に一枚の札を握らせた。

 

「これを肌身離さず持って、下がっていてください。結界の札です」

「で、でも――」

 

 輝夜は口を衝いて銀山を引き留めようとしたが、言葉はそれ以上続かなかった。でも――なんだというのだろう。なにかを言わなければならない気がするのに、どれだけ考えても続く言葉は出てこなかった。なぜ銀山を引き留めようとしたのかすら、わからなかった。

 言葉に窮する輝夜を置いて、御行が小鼻を鳴らして笑った。

 

『この私を退治するというのか。笑わせる』

 

 だがまあ、と唇を歪め、

 

『その方が都合がいいな。――貴様は、邪魔者だ。二つの意味でな』

 

 だから御行は、輝夜に微笑みかける。劣情を押し殺し、輝夜の心に爪を突き立てるように、

 

『姫、少々お待ちください。今から、そこの邪魔者を始末致しますので』

「――!」

 

 輝夜がなにかを言うよりも先に、銀山は動いていた。縋りついていた腕を振り払われ、行き場をなくした輝夜の両手が宙を彷徨う。

 前へと歩み出た銀山の背に、焦燥だけが輝夜の心を駆り立てた。なにかをしなければならないはずなのに、なにかを言わなければならないはずなのに、けれどどんなに考えても体は動かなかったし、唇もまた、言葉を紡ぐことはなかった。

 

『御覧ください、姫。黄泉の世界で得た我が素晴らしき力、お見せ致しましょう。姫もきっとお気に召してくださる。今はまだ成し遂げておりませぬが、この力があれば龍の頸の玉を得ることも容易いでしょう』

「へえ」

 

 御行の口上を、銀山の無感動な声が遮った。

 

「それは面白そうだね。見せてくれないか?」

『……』

 

 御行は目を眇め、

 

『……貴様を殺す力の姿だ。精々、胸に刻め』

 

 大地がかすかに哭いた。屋敷を覆う水が震えた。御行の体が水の中に戻っていく。蝋が溶けるようにどろりと崩れ、音もなく水底へと沈み込んでいく。

 人間の形をしていたものが溶けて消える――そんな恐ろしい光景を目の当たりにしたにも関わらず、輝夜の心は波立たなかった。ただ、御行は本当に人でなくなってしまったのだと、今更ながら腑に落ちるように理解できた気がした。

 そして水面を切り裂き現れるのは、もはや人ではない。水を巻き上げ、飛沫を振りまき、屋根の上の輝夜たちですら見上げるほどに高く鎌首をもたげたのは、巨大な水の蛇。

 澄んだ水の体が蒼天を取り込み、天色に染まって輝く姿は。

 醜悪なまでに、美しかった。

 

「……人の姿も捨てたか」

 

 とりわけなにかを感じた風でもなく、銀山の言葉は淡々としていた。雨となって落ちる水の雫を身で受けながら、静かに蛇へと目を眇める。

 蛇の額となる場所に、御行の顔が埋め込まれていた。顔形は変わっていないが、やはり天色の水で透き通っている。ぎょろりと、まさしく蛇さながらに瞳を動かして、御行は銀山を見下ろした。

 

『私は、黄泉にて人を超越する高みに手を掛けた。……人の体は脆すぎる。故に、より強い体へ進化しただけのこと』

「ああ……人の体が脆いというのは同感だ」

 

 まるで心当たりがあるというように低く笑って、銀山は新たに札を抜き放つ。

 

「ぎ、銀山……」

 

 輝夜は銀山の名を呼んだ。名を呼ぶことしかできなかった。それで一体なにになるのかはてんでわからなかったが、それでも呼ばずにはおれなかった。

 銀山は振り返らなかった。一瞬の間だけ意識を確かに輝夜へと向けて、決して大きくはない、けれどよく通る強い声で言った。

 

「では、少しばかり行ってきます」

「あ、」

 

 開戦の鐘が鳴る。水蛇の背後から、轟音とともに大量の水が巻き上げられていく。天に昇った水柱は、まるで鯉が龍へと姿を変えるように巨大な刃の群れとなり、透き通る矛先を静かに銀山へと向けた。

 静寂は一瞬。響くは魔の声。

 

『――では、死に給え』

 

 刃の葬列が、雨となって銀山を打つ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 愛は、時に憎しみよりも恐ろしく、重い。それが、銀山がこの都で生活を始めての数年で学んだ最たるものだろう。

 例えば過去の依頼でこの世に悔いを残して成仏できなかった霊がいたとすれば、正確にどちらが多かったかは定かでないが、およそ半数は憎しみ故の不浄霊であり、また半数は愛故の不浄霊だった。愛には、或いは憎しみよりも容易く人の心を狂わせる力がある。行きすぎた情愛は、人を獣のようにしてしまう。

 降り注ぐ水の刃に対し、銀山は焦りなく動いた。札を媒体に周囲に防御の結界を展開し、攻撃を無効化する。

 陰陽師の戦法は基本的に受け身だ。人間と妖怪とでは身体能力に大きな隔たりがあるから、初めから後手に回ることを前提にした戦い方をする。いかに相手の攻撃を凌ぎ反撃するか。いかに少ない手数で短時間で勝利するか。

 その解答の一つが、――火力。

 一撃必殺で、相手を倒すということ。

 

「――狐火!」

 

 水の刃をすべて弾き返し、生み出すのは紅蓮の炎。篝火のように小さな火種は、されど銀山が結界を解くと同時に、爆発的な勢いを以て燃え上がる。銀山が腕を振り、放てば、それは既に篝火ではない。

 巨大な水蛇の体すらも呑み込む、龍の如き烈火となる。

 

『!』

 

 御行が瞳を驚愕で凍らせた時には、既に遅い。その喉笛に烈火が牙を突き立て、瞬く間もなく全身へと燃え広がる。過去幾つもの命を灰燼へと変えてきた、銀山が得意とする強力無比の一撃だった。

 だが、

 

「……」

 

 銀山は霊力を緩めない。直撃させれば大抵の妖怪を葬る必殺の豪火とはいえ、御行はこの程度であっさり終わるほどの雑魚でもない。それどころか彼は、銀山にとって最も分の悪い相手だともいえた。

 その理由が、『五行相剋』――水剋火。

 

 炎は、水によって消し止められる。

 

 水柱が立ち上がる。空気を震わせ天に昇った水は、今度は刃と変わるのではなく、形をそのままに御行の体を包み込んでいく。

 それだけで、必殺の炎は呆気なく打ち破られた。炎が消え、水が残るのは自然の理。赤を払い、再び空の色で透き通った無数の鱗が、水蛇の健在を告げていた。

 

『――舐められたものではないか』

 

 低い声音には嘲りの色がある。

 

『水そのものであるこの私を、まさか燃やせるとでも思ったか? 水は炎よりも強いと、学のない平民ですら知っておろうに、陰陽師とやらは存外間抜けなのだな』

「……一番得意なんだよ。炎はね」

 

 銀山は肩を竦めて、緩い吐息を落とした。

 

「とはいえ、こうも簡単に破られちゃあ形無しだけど」

 

 狐火を破られるであろうことは予想していたが、それで傷の一つすら与えられないのは予想外でもあった。炎の術を得意とする銀山にとって、ここまで相性が悪い相手というのも稀だろう。

 だが、

 

(なるほどね、そういうことか)

 

 今の御行の発言は迂闊だ。お陰様で、やつを倒すにはどうすればよいか、銀山の脳裏で解答が組み上げられていく。

 

(けど、それには御老体の力がほしいな)

 

 今、齋爾は逃げ遅れた屋敷の者たちを助けるために動いている。こちらに駆けつけるまでは、まだ時間が掛かるだろう。

 御行は幸い、輝夜以外の屋敷の者たちへは興味の欠片も持っていないようだった。齋爾が動いていることには気づいているだろうが、それでなにか動きを起こすわけでもない。

 御行の殺意は、銀山だけに向けられている。故に今は、時間を稼がなければならない。

 

『次は私の番だ、小僧』

「……!」

 

 御行の左右から、二つの巨大な水柱が上がる。巻き上げられた水は、再び刃へとその姿を変えていくが、

 

『今度は、加減などせぬぞ』

 

 だが、初撃と比べて尋常でないほどに数が多い。百を優に超え、或いは千にすら届くかもしれない刃の葬列が、銀山の天上を埋め尽くしていく。

 

「ちっ……!」

 

 天を見上げるだけで、悪寒が背筋を駆け抜けるようだ。銀山は舌打ちし、より上位の結界の札を抜き放った。

 結界を張るのと、刃の葬列が殺到するのとは同時だった。間一髪で展開された防壁に無数の刃が激突し、とても水から作られたとは思えないほど激しい衝撃を残して弾け飛んでいく。

 銀山は結界を破られないように霊力を強く保ちながら、素早く背後を一瞥した。屋根の端まで下がった輝夜は、この刃の殺到に巻き込まれてはいない。泣き出しそうな顔をしながら、何事か銀山に向けて必死に叫んでいる。絶え間なく結界を打つ水刃たちに掻き消され声は聞こえないが、どうやらこちらの名を呼んでいるらしい。

 そのことを意外に思いながら、銀山は再び前を見据えた。輝夜が巻き込まれていないのなら問題はない。やはり御行に輝夜を巻き込む意思はないようだから、であれば時間を稼ぐ方法はいくらでも――

 ――ふと、木々の砕ける音が、聞こえて。

 視界が傾いだ。咄嗟に足元へ目を遣った銀山は、続け様に顔を歪め、舌打ちした。――やられた。完全に失念していた。

 ここは地面の上ではない。降り注ぐ無数の刃に穿たれた屋根は、今まさに、崩落しようとしていた。

 

「……!」

 

 崩落に巻き込まれれば、落ちゆく先は周囲に満ち満ちた水の中。水を操る力を持つ御行の前では、完全に命取りだ。

 木々が無数の欠片となって砕け散り、支えを失った足元が落下を始める。是非を論じている暇はなかった。一か八か、銀山は背後に跳躍し、結界の外へと飛び出した。

 ……降り注ぐ水刃が直撃しなかったのは、偏に運が良かっただけだろう。だがいくつもの刃が体を掠め、痛みと血が傷口から吹き出した。何ヶ所に傷を負ったかなど数えられるはずもない。刃の雨を抜ける頃には完全に体勢を失っていて、銀山は屋根の上を転がった。

 

「銀山ッ!!」

 

 輝夜の悲鳴に意識を叩かれる。斜面を転げ落ちそうになるのを耐え、体中に走る鋭痛を押し殺し、立ち上がろうとする。

 だが、できなかった。

 水面から伸びた水の腕に、足を捕られている。

 

「くっ……!」

 

 気づいた時には手遅れだった。視界が回転しなにもわからなくなる。しかしすぐに背中に強い衝撃が走って、直後、全身が水中に沈んだのがわかった。

 投げ落とされた。

 

(……!)

 

 行動は反射だった。規模も強度も度外視してとかく己の周囲に結界を張り、周りの水を御行の制御から切り離す。結界に守られ、御行の妖力が行き届かなくなった水たちは、ただそこを漂うだけの液体へと戻っていった。

 

『チッ……そのまま水の中に引きずり込んでなぶり殺してやろうかと思ったが、随分と悪知恵が働くものだな』

 

 水上へと顔を出せば、見上げる先で水の蛇が苛立たしげに鎌首をもたげている。銀山はなにも言わず、ただ小さく肩を竦めた。

 状況は、決してよくはない。水の中とはすなわち、御行の掌の中と同じだ。今は苦し紛れに張った結界で事なきを得ているが、所詮、今だけはという話でしかない。

 御行が、く、と含むように喉を鳴らした。

 

『姑息な手だな』

 

 銀山はなにも言い返さない。自分が一番よくわかっていることだから。

 

『――ではそろそろ終わりにしようか! 姫も退屈なさっているしな!』

 

 御行の左右から再び水が巻き上がる。天色の空が、再び無数の刃で覆い尽くされていく。

 

『胸まで水に沈んだその状態では、もはや逃げられまい!』

 

 回避は不可能、結界を破られれば最期。わかっている。傍から見れば、これは既に絶体絶命の一歩手前だ。

 だが銀山の心に焦りはなかった。思考を回転させる。焦る程度で現状を打開できるのであればいくらでもそうしよう。人と妖。身体能力で大きく負ける相手に、心でまで負けてしまったら、勝ち目はない。

 

『――終わりだ、小僧』

 

 宣告の刃が落ちる。全天を覆う刃が降り注ぐ様は、もはや雨と呼べる次元ではない。轟音とともに雪崩落ちる刃の瀑布に、世界のすべてが押し潰されていく中で。

 銀山は静かに、水で濡れた一枚の札を、手に取った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「銀ざああああああああん!!」

 

 叫んだ喉が切り裂かれるほどに痛い。水の腕に投げ飛ばされ、二十間(※約三十六メートル)以上も(くう)を切って水中に消えた銀山へと、那由多の刃が降り注ぐ光景は、とても坐視できるようなものではなかった。

 降り注ぐ水の刃は滝のようで、もはや銀山の姿を見ることすら敵わない。

 生きているのか、死んでしまったのかすら、わからない。

 ただ刃だけが、屋敷に満ちる水から延々と作り出され、降り注いでいく。

 

「ッ――……!」

 

 殺されると思った。このままでは殺される。死んでしまう。

 銀山が。

 

「あ、あああ……!」

 

 全身が白熱して、熱に浮かされて息ができなくて、わけがわからなくなってしまいそうだった。頭が割れるように痛い。このままではダメだと悲鳴を上げている。早くなんとかしなければならないと絶叫している。

 だがこの場に齋爾はいない。そして輝夜にはなんの力もない。今だって、目の前の現実に恐怖し震えるだけで、銀山へと手を伸ばすことすらできない。

 普通の人よりただ無駄に長生きしているだけで、無駄に顔が整っているだけで、それ以外の取り柄なんてなに一つもない。そんな輝夜に、できることなんて、なにも――

 

 ――本当に私は、なにもできないのか?

 

「――……」

 

 場違いな思考だったろう。妖怪退治のプロですら押し負かすような相手に、ろくな力も持たない女一人が立ち向かってなんになるのか。

 でも、それでも、強く心臓を叩かれるような、気がした。

 御行の意識は、完全に銀山へと逸れている。残虐めいた笑顔を貼りつけては、刃の降り注ぐ様をまんじりと見つめている。

 だから輝夜は、もはや行動を迷わなかった。着物を脱ぎ捨てる。下着姿になることを、今更躊躇ったりはしない。半壊した屋根から飛び降り、水の中へ身を躍らせる。水は輝夜が思っていたよりもずっとずっと深かった。溺れてしまいそうになって、泳ぎと呼べるほど垢抜けた真似はできなくて、結界の札だってどこかへ手放してしまった。

 けどそれでも、必死に水を掻き分けて、手を伸ばす。

 “それ”がここにあることを、偶然だなんて思わなかった。きっと輝夜のために、きっと輝夜と同じように水を掻き分けて、ここまでやってきてくれたのだと思った。

 一対の、弓矢。

 それを手に取って、輝夜は懸命に周囲を見回した。記憶だけを頼りに水を進み、やっとの思いで足場を見つける。足に当たる硬くて荒い感触は、庭の一角にあった景石だった。その上に立てば水位が腰のあたりまで下がって、ようやく弓を構えられるようになった。

 御行との差は思っていたよりも開いている。正確な距離はわからないが、三十間ほどはあるだろう。

 けれど空の色を取り込んだ大きすぎる蛇の姿は、なによりもはっきりと輝夜の目に映る。

 これなら大丈夫だと、強く自分に言い聞かせた。

 

「見てなさいよ……」

 

 教えてもらったのはたった一度だ。かつての教育係の弓を操る姿に惹かれ、好奇心から手に取って、そしてさほどもしないうちに飽きてやめた。巻き藁以外の的を射たことなんて、一度もない。

 けど、それでも。

 

「ッ……!」

 

 矢を当て、弦を引く。恐らく、近衛の男が使うような剛弓だったのだろう。弦の張りは恐ろしいほど強くて、指が千切れ飛んでしまいそうだった。

 だが輝夜は、決して力を緩めない。

 それでも、やるんだ。

 

「私だって……!」

 

 腕に力を。矢に霊力を。手が傷つこうが、指が千切れようが、輝夜は構わない。

 矢を番い、引いて。

 狙いをまっすぐに、御行へと。

 彼を敵だとは思いたくなかった。彼のことは大嫌いだったけれど、死んでほしいと思ったことは一度もなかった。こうして弓を向けることにだって、決して心が痛まないわけではない。それは、どんな形であれ、顔を合わせ知り合ってしまった弱みだったのかもしれない。

 だが、彼がこうして、銀山を殺そうとするのなら。

 

「私だって……ッ!」

 

 銀山を失いたくない。理由はわからないが、それが輝夜の素直な気持ちだったから。

 だから輝夜は、弓を引く。

 

「――私だって、守りたい人の一人くらい、守るのよ!!」

 

 想いを込めた輝夜の霊力は、か細い矢に淡い光の紋様を描いた。そうして放たれた矢は、水の刃が降り注ぐ空を切り裂き、一筋の彗星となる。

 弓を握ったのはもう何百年振りにもなるのに。動く相手を射るのは初めてだったのに。それでもその彗星は、できすぎなくらいにまでまっすぐに、水蛇の右目を貫いていった。

 

『ぐ、ぬ……!?』

 

 蛇の巨影が傾ぐ。瞳を形作っていた水が弾け飛び、ふいを衝かれた御行の妖力が大きく乱れた。無限に空へと昇り水刃を生み出し続けていた、二つの水柱が消えていく。

 その直後――呼応するように、銀山へと降り注いでいた水刃が、大気の爆発する轟音とともにすべて消し飛んだ。

 

『……!』

 

 御行が目を剥いた先で、バリトンの声が鳴る。力強い霊力の奔流が生まれる。

 

「――たった一枚しかない札だ」

 

 危機を脱し、瞳に反撃の光を宿した銀山が、

 

「友人が使っていた技を再現した札。友人の言葉を借りれば――ぶっ飛ばします、といったところだ」

 

 宣言、

 

「――『吼拳』!!」

 

 なにが起こったのかは、輝夜にはわからなかった。銀山が『吼拳(こうけん)』と呼んだ術が果たしてどのようなものだったのか、わかったことといえば、獣の咆吼が輝夜の鼓膜を打ち、屋敷中の水を激しく波立たせたことであり。

 そして直後に、水蛇の頭が粉々になって消し飛ばされたこと、だけだった。

 

「……あ」

 

 あまりに一瞬の出来事だったから、脳が追いつくまでに時間がかかったが。

 

「……や、やった……?」

 

 頭が、吹き飛んだのだ。脳が潰れれば、人間だって、妖怪だって一巻の終わりだ。

 だから、銀山が勝ったのだと、そう思って、彼の名を呼ぼうとした、輝夜の耳に。

 

「――馬鹿野郎ッ!!」

 

 声は鋭く、強く。銀山が輝夜を見て、顔を強ばらせて、歯を剥いて、叫んでいる。それが輝夜が身を縮めてしまうくらいに鬼気迫っていたから、きっと彼は、怒っていたのだと思う。

 どうして怒られるのかがわからなくて、一瞬は、頑張ってあなたを助けようとしたのにどうしてそんなことを言うのと、悲しくも思ったけれど。

 輝夜は、忘れていたのだ。二人の戦いに固唾を呑むあまり、忘れていたのだ。

 御行は確かに、銀山を殺そうとしていた。だがそれは、所詮は本当の目的を果たすための一つの通過点でしかなく。

 御行の本当の狙いは、あくまで自分なのだと、いうことを。

 忘れていた。

 

『――――!!』

 

 咆吼。周囲の水が逆巻き、頭を失った蛇へと殺到し、その体を再生させていく。

 

「……!」

 

 完全な姿を取り戻した水蛇が、くねらせた体をバネのようにし、水を切り裂いて身を翻す。

 高笑いのような雄叫びを上げて。

 巨大な顎門を限界まで開いて。

 迫る先は――

 

「――あ、」

 

 小さく声を漏らす、それ以外のことなんてなにもできなかった。助けを求めることも、逃げ出すことも、戦うことも、できなかった。

 

 なにもできないままで、蓬莱山輝夜は、押し寄せる瀑布の中に消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ④ 「極光の昇り龍」

 

 

 

 

 

 ねえ、地上の世界ってどんなとこ?

 

 ……なによ「知らない」って。あなた一応、昔は地上の世界にいたんでしょ? ……いや、うん、本当に昔だってことは、わかってるけど。まあいいじゃない、ふっと気になったの。ほら、教えなさいよ。

 

 今の地上の世界って、どうなってるのかしら。月人たちはみんなみんな地上の連中は穢らわしいやつらばかりだって言ってるけど、本当なのかしらね。あなたもそう思ってる?

 

 ……そうよ。ぶっちゃけ言えば、行ってみたいって、思ってる。……バ、バカで悪かったですねー。だって退屈なのよここの生活、別の世界に行ってみたいって思ったって仕方ないことじゃない。

 なんの不自由もない生活ってのも考えものよね、頭の中空っぽにしたって生きていけるんだもの。それだったら、地上はここほど文明が発達してなくて不自由が多いっていうし、そっち方がまだ魅力的だわ。――ちょっと待ってなによ「月の世界もおしまいかしら」ってどういう意味だコラ。ま、まあ、面倒くさがりだってのは否定しないけど! でも私はそれ以上に好奇心旺盛なのよ、常に新しい刺激を求める自由人なの!

 

 ……。

 ……ごめん、嘘。あはは、やっぱ敵わないなあ。

 

 うん。別に、地上の世界に興味を持ってるわけじゃないの。別に、地上の世界に行きたいって、本気で思ってるわけじゃないの。や、違うな……ええと、地上の世界に行きたいってのは本気で思ってるんだけね。うーん……。

 ぐっ……う、うるさいわね! 悪かったですねー言葉が不自由で! ああもういいわよ、私は地上の世界に行きたいんですー! 地上の世界で生活してみたいんですー! どーせ私はバカですよーっだ!

 

 ったく……はいはい、じゃあ最初の質問に戻るわよ。ほら、地上の世界ってどんなとこなの? 『月の頭脳』のあなただったらちょっとくらいは知ってるでしょ?

 ねえ。

 

 ――地上の世界って、楽しいのかしら?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 知らない世界だった。

 ――ここはどこだろう。薄暗くて、彼方までが灰色で透き通った世界だった。

 ここはどこなのか、自分は一体どうなってしまったのか、思い出そうとする。けれど記憶は曖昧で、前後不覚になってしまっていて、上手く行かなかった。

 体を包む感覚は、水面を漂うものに似ている。息を吐き出すと、こぽ、と小さな音を立てて空気の泡が空に昇っていく。

 水の中。

 でも不思議と息苦しくはない。呼吸が、できた。

 ――ここは、どこだろう。

 声が、返ってきた。

 

(私の中ですよ)

 

 頭の中に直接響く、男の優しい声だった。

 ――あなたはだれ?

 

(それは、些細な問題かと)

 

 ささい。

 ささいって、なんだろうか。

 ……じゃあ、わたしは、だれ?

 

(それも、些細なことです)

 

 わたしは、どうなるの?

 

(どうにも。あなたはただ、そのままごゆるりとなさっていればよいのです)

 

 ごゆるり。……ゆっくり、ってことかな。

 このまま、ゆっくりしていればいい。

 そうなのかな。

 ……そうなのかもしれない。なんだかいまは、とても気分がらくだ。

 このままなにも考えずに、ねむってしまいたい。

 

(ええ、それでいいのですよ)

 

 いいのかな。

 なにか、たいせつなことをわすれてる気がするけど。

 

 ……まあ、いいか。

 

 このまま、ずっと。

 このまま、なにも――

 

 声、

 

 

 

「――輝夜ッ!!」

 

 

 

 声が聞こえた。頭の中に響くのではない。水の中にも関わらず、耳を通り、耳朶を叩いてくる、旋風のような声を聞いた。輝夜の脳裏に立ち込めていた靄がすべて吹き飛ばされていく。夢から覚めるようにすべてを思い出す。自分のこと、今までにあったこと、どうしてこうなっているのかということを、すべて。

 輝夜は、すべてを思い出した。

 

(――銀山!?)

 

 声は、上から聞こえた。淡く光が差す空の彼方から、銀山が輝夜に向けて手を伸ばしていた。

 

(そうだ、私は……!)

 

 水の蛇――大伴御行に呑み込まれて、意識を失った。だがここは水蛇の腹の中ではない。大気の代わりに水がすべてを包み込む世界で、上下はあるが天地が存在していない。上にも下にも灰色の水だけが無限に広がっていて、まるで自分以外の生命がまったく存在していないような、自分がこの世界でたった独りぼっちであるかのような、錯覚を起こしそうになる。

 ここが一体どこなのかなんて、わかるはずもなかったけれど。

 けれど一つだけ、確かに理解できることがあった。銀山の声に耳朶を叩かれる直前、輝夜は少しだけおかしくなっていた。すべての思考を放棄して、眠ってしまおうとしていた。

 頭の中で、御行の声が響いていたのを覚えている。夢の中へ誘うように、甘い言葉を掛けられたのを、覚えている。

 姿は見えないが、この世界のどこかに御行がいる。御行が、輝夜のすべてをおかしくしてしまおうとしている。

 ここはただの水の中などではない。輝夜を現実とは違う世界に引きずり込んでしまおうとする、恐ろしい魔物の顎門だった。

 

(銀山……!)

 

 これ以上ここにいてはいけないと寒気を感じて、輝夜は銀山へと必死に手を伸ばした。けれど動いたのは右腕だけで、彼のもとへと水を掻き分けることすらできなかった。

 体が動かない。金縛りを受けたような。別の誰かに体を乗っ取られているかのような。

 

『――邪魔をするな、小僧!!』

 

 脳裏に、怒りを孕んだ御行の声が響く。姿はどこにも見えないままだ。……或いは、無限に水があまねくこの灰色の世界では、周囲に満ちる水そのものが、御行なのかもしれない。

 脳裏に直接響いたはずの彼の声は、けれど輝夜の周囲の水を震わせた。そして一度震えた水は、まるでその言葉に支配されたかのように不自然に乱れ、激しい水流となって銀山を襲った。

 灰色の中に、赤が生まれる。黒を混ぜ込んだ決して綺麗ではない色で銀山の姿を覆い隠し、水流にさらわれあっという間に消えていく。

 血だった。

 

(――ッ!?)

 

 水の流れが更に乱れる。そのたびに赤は次々と銀山の体から生まれ、水の中へと連れ去られていく。

 銀山が輝夜へと手を伸ばせば、また一つ。

 水を掻き分け輝夜に近づけば、また二つ。

 

(銀山……!? 銀山ッ!!)

 

 御行だ。水を操って、水流で銀山の体を切り裂いている。水を操る異能を得た御行にとっては、この場所では、この世界そのものが、己の意のままに動く武器となるのだ。

 

(やめてっ……! やめて!!)

 

 それが御行に向けた言葉だったのか、それとも銀山に向けたものだったのか、輝夜は自分でもわからなかった。ただ、これ以上はダメだと思った。水に溶け出した赤の量はもはや(おびただ)しいくらいで、見るだけで心臓が凍るようだった。

 これ以上は、銀山が殺されてしまう。

 

(ダメ、ダメだよ……!)

 

 ここが水の中でなければ、もしかすると輝夜は泣いていたのかもしれない。銀山は止まらなかった。どんなに傷ついても、どんなに血を流しても、輝夜に向けて伸ばされたその右手は、決して折れなかった。

 

(どうして……!?)

 

 どうして、だろうか。どうして、こんなことになっているのだろうか。どうして御行は、こうまでして銀山を殺そうとするのだろうか。どうして銀山は、こんなに傷つけられてまで、輝夜に手を伸ばしてくれるのだろうか。

 わからないことだらけだった。目を瞑ってすべてをなかったことにできればどんなに楽だろうかと思った。けれど輝夜は、目の前の光景から目を離すことができなかった。

 ――どうして、

 

(どうしてそんな顔を、しているの)

 

 銀山の顔は、静かだった。肌を裂かれる痛みに呻くのでもなく、失われていく血に背筋を震わせるのでもなく、縮まらない輝夜との距離に苛立つのでもなく、静謐の瞳で、まっすぐに輝夜を見つめていた。

 本当に、どうして、なのだろう。今にも殺されてしまいそうなのに、どうして銀山は、あんな顔でいられるのだろう。

 理解できなくて、わからないことだらけで、泣いてしまいそうで。けれど一つだけ、強く胸を焼く思いがあった。

 

(行かなきゃ)

 

 呼ばれている気がした。動かなきゃいけないと思った。動いて、銀山の手を取らないといけない。彼の右手が、輝夜を助けるために伸ばされているものなのだと。それだけは、間違いのないことなのだと、思ったから。

 

(動いて)

 

 水を漂うままの己の体へ、強く、強く呼びかける。これは他でもない輝夜の体なのだから、自分が命ぜば動くはずなのだと。

 動け。輝夜が動かなければ銀山が死ぬ。自分が結界の札を手放してしまったせいでこの世界に取り込まれて、その上助けに来てくれた銀山を殺すつもりか。このまま見殺しにするつもりなのか。

 ふざけるなと思った。

 

(動きなさい)

 

 左の指先が、震えた。

 

(思い出しなさい)

 

 左腕に、力が戻る。

 

(お前は、私の体)

 

 両脚が、熱を取り戻す。

 

(私の言う通りに、動きなさい)

 

 応じるように、心臓に強く胸を叩かれた。

 ――動ける。

 

(行って)

 

 水を掻いて、天を見上げて。

 輝夜は、叫ぶ。

 

「――銀山ッ!!」

 

 体は動いた。腕は天へと伸びた。

 

『姫ッ……!?』

 

 銀山を切り裂く水の流れが止まる。輝夜を巻き込んではいけないと焦った御行が、一瞬、水流の制御を失ったのかもしれない。

 好都合だった。水を蹴る。泳ぎ方なんてよくわからないはずなのに、輝夜の体は魚のように水を切って進んだ。地の上を走るのと同じ感覚。手を伸ばして掴み取った。

 切り裂かれ、傷だらけになって――それでも温かい、銀山の手を。

 

「――上出来だ」

 

 傷だらけなのは右腕だけではない。左腕はもちろん、着物を取れば全身がそうなってしまっているのだろう。

 だがそれでも、銀山は笑って輝夜を引き寄せてくれる。こんなに傷ついたのが、こんなに血を流したのが嘘のように、命にあふれた強い笑顔を見えてくれる。

 それを見た輝夜は、なんだか無性に泣いてしまいたくなった。心臓がぎゅうっと苦しくなって、息が詰まって、鼻の奥がつんと痛くなって、けれど決して辛くはない、温かい痛みだと、思った。

 

「行くぞ」

「……うん」

 

 頷き、銀山の手を愛しく胸に抱き締める。

 銀山がなにか小さく言葉を紡ぐ。抱き締めた彼の手から炎が起こって、ゆっくりと輝夜の体に燃え広がっていく。熱くはない。痛みも感じない。だから恐怖も驚きもなかった。ただ、暖かいと、そう思った。

 目もくらむくらいに綺麗な銀色の炎が、輝夜と銀山の体を包み込んで、そして、この灰色の世界すらをも。

 一色の、銀に染める。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀は、そして青に変わった。

 天色の天蓋の下、あの時御行に呑み込まれたその場所で、輝夜は銀山とともに水の底から這い上がった。

 

「――ッ、は!」

 

 肺の目一杯まで空気を取り込むとかすかに胸が痛んで、自分の体が元に戻ったのだと実感できた。頭の靄は既に晴れているし、体は指の先まで自分の思い通りに動く。そんな当たり前のことをこの上なく尊いと感じながら、輝夜は周囲を見回した。

 夏の青空と、水が満ちた屋敷の光景は変わっていない。ただ、少しだけ水位が下がっているようだった。初め飛び込んだ時は辛うじて足がつくかどうかという深さだったが、今は両脚を水底につけてなお、不自由なく呼吸ができるだけの余裕がある。

 隣に銀山がいる。水蛇は、少なくとも目に見える範囲にはいない。輝夜と銀山の前髪から水が滴り、水面を叩く音だけが、断続的に繰り返されている。

 

「……」

 

 ……あの世界は、一体なんだったのだろうか。輝夜には想像することしかできないが、もしかすると御行が創り出したまやかしの世界だったのかもしれない。あのまま銀山が助けに来てくれなかったら、自分はどうなってしまったのだろうか。それを思うと、水とは違う冷たさで全身が凍らされていくようだった。

 

「……ありがとう、銀山」

 

 傍らの恩人へと、小さく微笑む。だが返事が返ってこない。聞こえていなかったのか、銀山は体を微動だにさせることもなく佇んだままだった。

 

「……!」

 

 彼の顔を覗き込んで、輝夜は息を呑んだ。彼の肌が、まるで死人になってしまったように白くなっている。命の気配が感じられない、体温を失った不吉な青白さだった。

 ……そうだ。そうに決まっている。銀山はあの時、なに一つとして苦しい顔をしなかったけれど、水の中で彼の体はこれ以上ないほどに切り裂かれ、血を失った。

 人間の彼が無事でいられる傷では、とっくにない。

 ふと気づけば、彼の体は既に力を失っていた。

 

「ッ、銀山!」

 

 咄嗟に銀山へと手を伸ばす。水の中というせいもあるのだろうが、その体は恐ろしいほどに軽かった。命が抜け落ちてしまったように冷たくて、ほとんどなんの重さも感じられなくて、そのまま消えていってしまいそうだった。

 

「ちょ、ちょっと、しっかりしてよ!」

「……」

 

 支えた銀山の体を抱き寄せると、彼は無抵抗でこちらの胸へと落ちてくる。呼びかけても声は返ってこない。言葉を返す力さえも残っていないのか、気を失ったのか、ただ、針で開けた穴から空気がもれるようなひゅうひゅうとか細い呼吸だけが、冬の木枯らしよりも冷たく輝夜の心を冷やした。

 

「銀、……ッ!」

 

 銀山の体を抱き直した自分の手が、血で汚れている。それはすぐに周囲の水にさらわれ、溶けてなくなってしまうけれど。

 

「だめ……しっかり、しっかりして!」

 

 濡れた手で銀山の顔を汚す赤を拭うが、彼は本当になんの反応も返してくれなかった。言葉はもちろん、目を開けることも、重く閉じたまぶたをほんの一瞬動かすことすらも、してくれない。

 早くなんとかしないとと思った。輝夜は早鐘を打つ心臓を懸命に押さえつけて、まずこの水の中から出ようとした。水から出て銀山の止血をするために、とにかく足場を求めて、闇雲に水を掻き分ける。

 

『……なぜなのですか、姫』

 

 響いた声に、輝夜は動きを止めた。正面の水が静かに渦を巻き、水底から男の姿が浮き上がってくる。

 大伴御行――彼が水面に立って見下ろす瞳には、輝夜ではなく銀山が映っている。侮蔑と嫉妬と激情をごちゃまぜにした、憎悪の炎を宿す瞳で、動かない銀山から片時も目を離さない。人の姿に戻ってなお、その眼光は蛇を思わせた。

 輝夜は御行のその視線から守るように、銀山を己の中に強く抱き寄せた。特別意識をしたわけではなかったが、こいつが銀山をここまで傷つけたのだと思うと、知らず知らずのうちに輝夜の瞳も力を増した。

 その輝夜の瞳に、御行は嘆く。歯噛みし、眉を捻じ曲げ、全身を震わせて、

 

『なぜなのですか、姫ッ! なぜその者を庇われるッ!!』

 

 激情の声は、輝夜の肌を殴りつけるように強かった。思わず目を瞑り、息を殺してしまう。

 だが、心の奥から染み出してくる恐怖心を、輝夜は強い意志で押さえ込んだ。負けてたまるかと思った。呑まれてたまるかと思った。私が今ここにいるのは、銀山が助けてくれたから。銀山がいなければ、私はあの水の世界から帰ってくることはできなかった。

 だから、こんなに傷ついてまで私を助けてくれた、銀山を。

 今度こそ私が、守ってみせると。

 

「……なんでですって?」

 

 かつて弓を引き水蛇を射抜いたあの時のように、輝夜は再び己の弓に矢を番う。

 声という名の弓に、言葉という名の矢を番う。

 

「――守るに決まってんでしょ!?」

 

 叫ぶ、

 

「こいつは私を助けてくれた! こんなに傷ついて、もう喋れもしないくらいに傷ついて、それでも私を守ってくれた! だったら私も守るのが筋ってもんでしょうが!! 命張って私を守ってくれたんだから、私だって命張るわよ! そんなこともわからないの!? まあ、私の難題をクソ真面目に受けたあんただったら無理もないけどね!」

 

 私は、こんなやつには絶対に負けない。こんなやつのものになんて、絶対になってやらない。

 銀山が命懸けで守ってくれたのだから、御行を恐れて震えるだけの、弱い私はもう終わりだ。

 

「なんのことだって顔してるわね。あんたがわざわざここまで婚約話持ってきた時、なんで私があんな無理難題押しつけたと思ってんの? ……ああ、あんたの愛が本物かどうか確かめるためとかあの時は言ったかもね。もしかして本気にしちゃった? 残念、――遠回しに断るためだったに決まってんでしょうがッ!! 直接言ったら傷つくだろうと思って言えなかった、そんなごくごく普通の乙女心よ! 私はあの時にあんたを振ったのよ、ちょっと考えればわかることでしょうが! なに、ひょっとしてほんとにわかってなかったの? だったらいい機会だからはっきり言ってやるわ! 私は、あんたを、振ったのよ!!」

 

 言葉を武器にして、輝夜は己の心を奮い立たせる。決して賢い選択ではなかったろう。輝夜と御行とでは力の差が歴然だし、銀山だって気を失ってしまっているから、たとえ言葉であっても武器を構えるべきではなかったかもしれない。

 でも、それでも。

 ここまでしつこくつきまとわれて、屋敷中を水の中に沈められて、銀山をこんなに傷つけられて。

 ――ここまでされて、黙ってなんていられるか。

 

「あんたが私になにをしてくれたっての!? あんたの愛に応えたいって思わせてくれるようななにかを、あんたは私にしてくれた!? 気持ち悪い目で私を見て、聞き飽きた愛の言葉ばっか並べて、私の気持ちも知らずに勝手に勘違いして勝手に無茶やって勝手に死んで、その上せっかく甦っても、やったことっていったら私を襲うくらいじゃない! 言葉でダメなら力づくでとか言うつもり? 気色悪いッ! 私を手に入れるために黄泉から戻ってきた? ふざけんなッ! 誰があんたのものになんてなってやるもんですか! 私は私のもの、私が男を選ぶ権利だって私のもの! そして私は、絶対に、あんたなんか選ばないッ!!」

 

 笑顔すら浮かべて、誇るように。

 銀山を支える己の腕に、強い強い想いを込めて。

 

「あんたは相当な朴念仁みたいだから、教えてあげるわ! なにかを傷つけたり、奪ったりするために力を使う乱暴者なんて真っ平御免! あんたなんかよりもね、なにかを守ったり、助けたりするために力を使う! そんなこいつの方が、何倍も何百倍もいい男なのよ!!」

 

 この声は弓。この言葉は矢。すべての女に与えられた、それは確かな己の武器。

 意志を宿し、敵を貫け。

 

「ええ、そうよ。私は! 蓬莱山輝夜は!!

 ――あんたなんか、大ッ嫌い!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やってしまったとも思ったし、やってやったとも思った。己の言葉が水を、空気を震わせ、そして消えていくまでの数秒間、輝夜の脳裏では勢いに任せてなんて啖呵を切ったんだと青くなる自分と、女なんだからこれくらい言う権利はあると胸を張っている自分が、互いに譲らず激しい舌戦を交わしていた。

 最終的に勝ったのは、後者の自分だった。……ああ、そうだ。私は、他でもない私だけのもので。だから誰を嫌おうが、誰を守ろうが、それは全部私だけの意思であり、私だけの権利であり、他人に踏み躙られる筋合いなんてない。

 御行は目を剥き、言葉を失っていた。御行が知っているのは『かぐや姫』としての輝夜だけだったから、『蓬莱山輝夜』の言葉に呆気にとられるのも無理はなかった。

 呆然とし身動き一つしない御行がなんだかひどく滑稽だったから、どんなもんだと、輝夜は笑ってしまいたくなったが。

 

「……く、ふ」

 

 最初の反応は、輝夜の腕の中で起こった。銀山の体が小さく震え、薄っすらとではあるが、彼がまぶたを持ち上げた。

 傷に呻くのではなく、静かに喉を震わせ、笑っている。

 

「は、は、は」

 

 輝夜の腕の中からゆっくりと体を起こす。だがその力はとてもかすかで、こちらが気を緩めたら途端に消えていってしまいそうで、輝夜は彼の体から手を離すことはできなかった。

 彼が水の中に沈んでしまわないよう、その肩を支えながら。

 

「銀山……」

 

 名を呼べば、銀山は輝夜の掌に己の掌を重ねた。冷たい手ではあったが、そこには確かな命の気配があった。

 銀山は愉快げに口端を曲げて、水上の御行を見上げて言った。

 

「そら……振られたぞ、色男」

『――!』

「お前と一緒は、嫌だってさ。……大人しく諦めた方が、潔いんじゃないか」

『ッ、黙れ!!』

 

 御行の大喝に水面が激しく波立つ。銀山に言われてようやく、御行は己の状況を飲み込んだのだった。だがそれは到底、はいそうですかと二つ返事で認められるようなものではない。眉を激しく逆立て、御行は銀山へと激墳を吐き捨てる。

 

『私に負けた男が、なにを言うッ!!』

 

 対し、銀山の表情は涼しげだった。くく、と喉だけで笑って、

 

「まあ、確かにそれはそうかもしれないけど……関係ないだろう、今は。ただの事実確認だよ。お前は輝夜に振られたんだ」

『黙れッ……!!』

 

 それは、紛れもない事実だ。他でもない輝夜が、そう断言したのだから。

 しかし御行は引き下がらない。決して頷きはしない。言い返す言葉がなくとも、己を黄泉より甦らせた執念だけを以て、諦めはしない。

 

『――貴様の』

 

 そして、鬱積した怒りが御行へともたらすものは、

 

『貴様のせいだ』

 

 すなわち、妖力の開放であり、

 

『貴様がいなければ、今頃、私は』

 

 もしもこうでさえなければと夢想し、すべての原因を他人へと押しつけることによる、己への救済。

 

『なぜだ……なぜどいつもこいつも(・・・・・・・・)、私の邪魔をする……!』

 

 そして、原因を押しつけた他人を始末すればなにかが変わるはずだと、盲信する。

 

『貴様さえッ――!!』

 

 御行の足元から立ち上がった水が形作る物は、一振りの剣だった。それを握り、大きく振り上げた御行は、躊躇いなどしない。

 銀山目掛け、振り下ろす。

 

「ッ――!」

 

 輝夜は、咄嗟に銀山を庇おうとした。だがわずかに御行の剣の方が速い。輝夜が前に出るよりも先に、透き通る水の刃が、銀山の額を――

 

「――ところで」

 

 断ち切る、瞬間、風が吹いて。

 

「此度のかぐや姫の護衛は周到でね」

 

 断ち切られたのは、御行の右腕だった。振り下ろしたその剣ごと、根本から吹き飛び、明後日の水面に沈んで消えた。

 

『――!?』

 

 風が吹いている。

 風とともに、唄うように、銀山が言う。

 

「今回は私以上に、或いはお前以上に、かぐや姫に執念を燃やしている人がいるんだよ」

 

 強く風が吹き抜ける音とともに、見えないなにかが御行の体を両断する。

 

『なっ――』

「……え?」

 

 腰から二つに分かたれた御行が、驚愕の表情のまま崩れ落ち、水の底へと消えていく。ただの水に戻った彼の体が水面を叩き波紋を広げる、その光景を、輝夜はひどく呆然としながら見つめることしかできなかった。

 理解を追いつかせるには、あまりに一瞬の出来事で。

 特に驚いた風でもない、銀山の困ったような声が、耳に届く。

 

「そうでしょう? ……随分と、狙ったような登場じゃないですか」

 

 空を見上げて呼ぶ、その名は、

 

「――御老体」

「……!」

 

 讃岐造より依頼を受けたもう一人の陰陽師であり、この都を代表する実力者――『風神』。

 大部齋爾が、そこにいる。

 

「齋爾……様」

 

 空を、飛んでいた。ひどく現実離れしたものを見ているような気がした。こちらの世界で空を飛べる人間を見るのは、輝夜にとって初めてのことだった。

 

「……ふん」

 

 輝夜に美辞麗句を並べ立てていた時とはまったく違う、厳つく、鹿爪らしい面持ちで、齋爾は小さく鼻を鳴らした。銀山を見下ろし、この上なく不機嫌そうに、

 

「一応、役目だけは果たしていたようだな。……そのザマでは、とても褒められたものではないが」

「そんなこと言わないでくださいよ」

 

 銀山は、力のない苦笑で応じた。

 

「色々あったんです。……まあ姫に怪我はありませんので、それでよしということで」

「言い訳はするな。それが己の実力だと認め、精進するんだな」

 

 言葉こそ無愛想だが、齋爾の声にはわずかに銀山を叱咤する色があった……気がする。だから輝夜は、ああやっぱり、と思った。やっぱり齋爾は、表面でこそ銀山をひどく嫌っているけれど、内心ではそこまで、大嫌いというわけでも、ないのではないか。

 だからこうして、銀山の命の危機に駆けつけた。本人は銀山ではなく輝夜を助けたのだと言い張るだろうが、そんなの結果的には同じことだ。

 本当に素直じゃないなあと、輝夜は思わず笑ってしまいそうになったけれど。

 

「……御行は」

 

 すぐに、まだ気を抜くには早すぎることを思い出す。輝夜は、御行の体が真っ二つになった瞬間を見た。崩れ落ち、ただの水へと帰り、水底に沈んでいく光景を見た。

 だが、あれで終わったとは到底思えない。体を両断された程度で、あいつが終わってしまうはずがない。

 

 なぜなら御行は、銀山に頭を吹き飛ばされても、何事もなかったかのように復活してみせたのだから。

 

 動いたのは銀山だった。濡れた札で、輝夜と己の周囲に結界を展開する。低い地響きの音とともに、輝夜の目の前で大量の水が巻き上がる。巻き上がった水が、空を昇る中で水蛇の輪郭を形作っていく。人のものとも蛇のものとも判別がつかない不吉な咆吼を上げて、ひと一人を容易く噛み砕ける顎門を限界まで震わせる。

 だが、その狙いは輝夜でも銀山でもない。空を駆け上がり迫る先は、

 

「ッ……齋爾様!」

 

 輝夜が思わず息を呑むけれど、齋爾は鹿爪らしい面持ちのまま眉一つ動かさなかった。どこまでもつまらなそうに、一つ小鼻を鳴らして。

 

「――寄るな」

 

 右腕を振り払えば、大気を打つ轟音とともに、水蛇の巨体が真横に吹き飛ばされた。

 一瞬は、齋爾がその拳一つで水蛇を殴り飛ばしたのかと思った。だが違う。

 

「風だよ」

 

 答えを告げたのは、傍らの銀山だった。薄い笑みを見せて、ため息をつくように、

 

「『風神』、だからね」

 

 齋爾の二つ名――『風神』。人間でありながら“神”の一文字を許された大陰陽師は、風を己の意のままに掌握する。

 御行が、この周囲に満ちる水をすべて武器に変えるというならば。

 齋爾は、世界にあまねく大気のすべてを、己の力へと昇華させる。

 

『……!』

 

 思いがけない迎撃に怯んだ水蛇が、しゅう、しゅうと低い声をもらしながら齋爾を睥睨する。その額には、やはり御行の相貌が埋め込まれていた。

 

『大部、齋爾……ッ!』

「しばらく振りになりますな、大伴殿」

 

 御行の相貌が、今にも歯を噛み砕き、唾を吐き捨てんとするほどの深い憎悪で歪む。だが齋爾は特に意に介した風でもなく、ろくに御行を見ることすらしなかった。

 水蛇が吼える。

 

『やはり来ていたのだな……! わざと屋敷の警固に姿を見せ、陰陽師を呼び寄せれば、必ず貴様が来ると思っておったわ!』

 

 輝夜の隣で、おや、と銀山が意外そうに眉を上げた。

 

「これは、なんだか訳ありみたいだねえ」

「そう……みたいね」

 

 御行も、生前はこの都で生活をしていた貴族の一人だ。齋爾となんらかの接点を持っていたとしても、特別不思議なことではない。

 だが、深い憎悪を刻んだ御行の表情から察するに、決して友好的な関係ではなかったようだ。

 

「いかがでしたかな、龍を討つ旅のご感想は。私が忠告した通り、散々なものであったことでしょう」

 

 齋爾の声にはなんの感情も浮かんでいなかったが、言葉はなによりも御行の心を逆撫でしたようだった。蛇の顎門を再び限界まで開き、齋爾へと襲いかかる。

 齋爾は鳥さながら巧みに身を翻して躱す。併せて右腕を振って、生み出した風の刃で水蛇の体を切り裂いた。

 

「……なるほどねえ」

「え……なにかわかったの?」

 

 銀山は素早くおおよその事情を察したらしい。輝夜が問えば、彼は「ありふれた話だよ」と前置きしてから、

 

「わがままな顧客っていうのは、どこにでもいるものでね。……恐らく御行は、お前の難題を受けて龍の討滅に向かう際に、御老体に話を持っていったんだろうさ」

「……龍を倒すのを、手伝えって?」

 

 頷く。

 

「そして当然ながら、御老体はその依頼を却下した。龍は神獣だ。存在自体が眉唾だし、人間に倒せるような相手でもない。その上で、無謀だからやめておけ、とでも忠告したんだろうね」

「……それは」

 

 話の意味はわかる。だがそれが、齋爾が御行の恨みを買う理由とどうつながるというのか。

 まさか、

 

「依頼を受けなかったからって、それだけで?」

「いや」

 

 銀山は首を横に振った。そしてそこから先の言葉を引き継いだのは、御行自身の叫びだった。

 

『貴様が! 貴様が余計な一言を言わなければ、私が部下を失うことも、嵐に敗れることもなかった!』

 

 風をまとった齋爾は、また自身も風であるかのように、その叫びを飄々と受け流す。

 

「さて、そこまでは与り知らぬことですな。私は陰陽師として当然の忠告をした。そしてそれを聞いた貴殿の部下が、命の惜しさ故に身を眩ませたとしても、それは英断でありましょう」

 

 そこでようやく、輝夜にも彼らの事情を理解することができた。

 かつて御行が船を出した時、彼の周囲には、船の操縦すら満足にできないほどの寡兵しかいなかったという。それは、御行の行動を無謀と察した多くの部下が、齋爾の忠告を呼び水にして逃げ出したからだった。

 

「それでもあいつは船を出した。けど突如襲いかかってきた嵐を前に、少ない部下たちも一瞬で瓦解したんだろうね。結局船の操縦もままならず、そのまま海の藻屑と消えた。つまりあいつが命を失ったのは、御老体のせい、と言い換えられなくもない」

「……でも、それって」

 

 呻くように、輝夜は空を見上げた。水蛇の突進を躱して齋爾が右腕を振るえば、風の打撃が御行を打ち飛ばし、風の刃が体を切り裂いていく。

 ……嵐に見舞われた御行は、不運だった。船の操縦ができるだけの部下たちがいれば。或いはそもそも、船を出さなければ、彼は死ぬこともなかったろう。

 だが、それは、

 

「仕方ないことじゃない」

 

 齋爾の忠告は適切だった。それを聞いて身を眩ませた多くの部下も、自己を守るために当然のことをしただけだった。

 間違っていたのは、それでも構わずに船を出した、御行自身の蛮行で。輝夜を手に入れるためならば龍すらも超えられると、なんの根拠もなく妄信した、御行の執着で。

 それは、まるでただの自業自得では、ないのだろうか。

 

「そんなのであいつ……齋爾様を恨むなんて」

「恨むさ」

 

 だが銀山は冷徹に言い切った。目を眇めて空を見上げ、同情するのでも非難するのでもなく、静かに御行の姿を見つめて言った。

 

「もしもあの時に、ああでさえなければ。或いは、もしもああなってさえいれば。……『もしも』という言葉は、人の心を簡単に惑わせる。お門違いな恨みの一つを生み出すくらい、どうってことない」

「……」

 

 輝夜は言葉を返せなかった。そうなのかもしれないと思った。

『もしも』という言葉が、時に抗いがたい強い力を持つことは、輝夜だって身を以て経験していた。もしも今の立場を捨てれば、もしも外の世界に飛び出せばと、そう思って、輝夜はこの世界へと落ちてきたのだから。

 もしかすると御行は、今でもなお。

『もしも』という言葉に支配された己の心を、止められないでいるのかもしれない。

 

『ああああああああああ!!』

 

 咆吼が打ちつける。体を切り裂く風の刃を無視し、御行は強引に無数の水刃を放つ。だがそれらはすべて、齋爾の体を貫くよりも先になにかに弾かれ、ただの水滴となって消滅した。

 齋爾の周囲で無数の風の刃が逆巻き、彼を守る防壁を作り上げている。触れたものを容赦なく切り刻み微塵へと変える、攻守一体の結界だった。

 御行の攻撃は決して齋爾に届かず、そして齋爾が右腕を振るたびに、御行の体を風の刃が抉る。

 それは、戦いと呼ぶにはあまりに一方的な光景だった。

 

「強い……」

「いや、まったく」

 

 呆然とこぼれた輝夜の言葉に、銀山が低く笑う。

 

「あれは正直、半分くらいは人間やめてるね。風をあそこまで巧みに操るやつなんて、天狗の中にだってなかなかいやしない」

 

 風神の二つ名は伊達ではない。相性の問題もあるとはいえ、銀山があれほど手を焼いた相手を一方的に追い詰める齋爾は、間違いなく、都の頂点に君臨する大陰陽師であった。

 だが、二人の戦いを見つめる中で、輝夜は気づいた。御行の攻勢が止まらない。どれだけ体を風の刃で裂かれても、瞳を憎悪の炎だけで燃やして怯む気配がない。回避も防御すらも捨てて、齋爾を喰らおうと、切り刻もうと、吼え続けている。

 その姿はまるで、

 

「……効いて、ない?」

「そうだね」

 

 傍らから飛んできた銀山の肯定に、驚きは、しなかったと思う。銀山に頭を吹き飛ばされ、齋爾に体を両断され、それでも動き続ける御行の姿に、さすがの輝夜といえど気づきかけていた。

 御行は、

 

「……不死」

「かどうかは断言できないけど、限りなくそれに近い状態なのは間違いない」

 

 齋爾の風刃で抉られた傷が、再生していっている。

 

「自分が水そのものだと、あいつは言った。水に刃を突き立てても波紋が広がるだけで、すぐに元に戻ってしまうのと同じことだね」

 

 切られる。再生する。裂かれる。再生する。抉られる。再生する。

 

「水は再生の象徴だ。……少なくともこの場に水がある限り、あいつは普通の方法じゃ倒せないだろうさ」

「……じゃあ、どうすれば」

 

 この場に水がなければいいのか。……だが、屋敷の半分を沈めるこの大量の水をどうにかするなんて、そう簡単にできることではない。輝夜はもちろん、齋爾は御行と戦っているし、銀山だって怪我がひどくて――

 

「――って、そうよ! 今のうちに、止血しないと……!」

 

 銀山の言葉がすっかり普段通りの調子に戻っていたから、忘れてしまっていた。ほんの少し前まで、銀山は傷を負いすぎて目を開けることすらできない状態だったのだ。齋爾が御行と戦ってくれている今なら、医者は無理でも、どこかで止血だけでもしなければならない。

 けれど銀山は、首を振って。

 

「なに、私だってただ御老体が戦ってるのを見てただけじゃないよ」

 

 輝夜から離れて、確かめるように右腕を持ち上げて拳を握る動きに、幾分か力が戻っていたので。

 

「……怪我、平気なの?」

「平気ではないけど……怪我の治りをほんの少しだけ早めたり、切れた血管の一部をつなぎ直して出血を止めたり、痛みを誤魔化したり、その程度であれば陰陽術でもできる。気休めだけどね」

「き、気休めって……!」

 

 そんなの、全然いいわけがない。銀山の怪我は、気休め程度で気を抜いていいようなものではなかったはずだ。一旦ここを離れて、しっかりと手当をしなければならないはずなのだ。

 だが、それを否定するように、銀山がゆっくりと霊力を開放していく。

 

「……そろそろ、いいか」

 

 その流れを感じて、齋爾が無感情な瞳を銀山へと向けた。銀山は頷く。口元が緩く弧を描いている。大胆不敵に歪む、笑みという名の弧を。

 逆襲の意志を宿した、強い眼光とともに。

 

「ええ、――いつでも」

 

 その瞳を見て、ああそうか、と輝夜は悟った。銀山は戦いを諦めていなかった。これだけの傷を負ってなお、あとを齋爾に任せて退がるのではなく、ともに御行を討ち果たそうと時を窺っていた。

 きっと、傷は激しく痛むだろう。きっと、立つことすらまともにできる状態ではないだろう。

 それでも、彼は。

 

「正直、目を開けてるのも辛くてね」

 

 彼は、笑って。

 

「だからいい加減に――終わりにしようじゃないか」

 

 水蛇へと掲げた右の指先に、赤い炎を灯す。

 それもきっと、誰かを守るためなのだろうと。

 そう、輝夜は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 爆発するように一瞬で膨れ上がった緋色の炎は、一時、輝夜からすべての視界を奪う。打ち寄せた熱風に目を瞑った、そのわずかな時間で、周囲の状況は一変した。

 体を包んでいた冷たい浮遊感が突如として消えてなくなる。危うく膝から崩れ落ちそうになって、咄嗟に両脚に力を込めて踏み留まれば、あれだけ周囲に満ちていたはずの水が一滴残さずなくなっていることに気づいた。

 代わりに身を包むのは、目も眩むほどに力強い熱気。銀山を中心として周囲に立ち上がった炎の壁が、水をすべて押し退け、内側に大地を呼び戻していた。

 

「――都がこの地に築かれた理由は」

 

 静かに、しかし出し抜けに、銀山はかく語る。

 

「無論、様々なものがあるわけだが、その中の一つに『龍脈』の存在がある」

「……龍脈?」

 

 思わずオウム返しすると、銀山から半目を向けられた。

 

「お前、まさか知らないなんてことは……」

「え、あ、いやいや」

 

 輝夜は慌てて首を横に振った。それから内心でうんうんと唸って懸命に記憶をほじくり返す。確か、この土地にやってきて間もなく、輝夜が『かぐや姫』として名を馳せ始めた頃に、最低限の教養として概要だけは教わった気がする。なんだっけ。

 

「……こういう使い方をするのは、人の体には毒なんだけどね」

 

 と、銀山の低く潜むような声に応じて、輝夜はこの場所に一つの変化が起きたのに気づいた。地面が、目を凝らさねばわからないほどかすかにだが、薄っすらと青く光っている。それに暖かい。体を炎の熱気が包む中で、それでもなおはっきりとわかるほどに。

 だから、輝夜は思い出すことができた。龍脈とは、風水に置いて重要な意味も持つ、大地の力が流れる道筋のこと。この都は周囲を龍脈が巡っていて、風水的に縁起の良い場所なのだと、翁から説き聞かされたことがあった。

 この光こそが、この熱こそが、龍脈なのだ。銀山が炎で周囲の水を押し退けたのは、龍脈を利用するため。地を強く踏み締めた彼の足裏に、大地の力が落ちるように流れ込んでいく。

 

『チッ……!』

 

 舌打ちとともに御行が動いた。銀山の周囲に大地が戻ったとはいえ、屋敷にはなおも大量の水が満ち満ちている。そこから瞬く間に水刃を作り上げ、銀山に向けて放つ、

 

「――まあ、そう焦るな。今少し、儂と遊んでみてはどうだ?」

 

 その動きよりも速く、齋爾が二人の間に身を割り込ませた。風の結界で水刃を一つ残らず細切りにすると、続け様に右腕を振って、水蛇の首に風の刃を打ち込む。

 

『ぐっ――齋、爾ィ……ッ!』

「貴様の不死の絡繰りは単純だ」

 

 子どもの問答に答えるように、齋爾の声音には退屈の色があった。

 

「体が水でできているが故に、周囲から水を取り込めばいくらでも再生できる――と、そういうことだろう。だからこそ、こうして屋敷を水の中に沈めたのだろうが……」

 

 戯れるように再び右腕を振って、水蛇の首に刻まれた傷口へと、更なる風の刃を打ち込む。

 

『カッ――!』

「下らんな。水がある限り何度でも再生するというならば、逆を言えば、水がなければただの蛇というわけだ」

 

 御行が傷を再生させるよりも速く、まさしく風さながらに。

 刻み、刻み、刻み、刻み――斬り落とす。

 そして札を抜き、紡ぐ言葉は滔々(とうとう)と。

 

 

「――束の間の空中旅行を、楽しみ給え」

 

 

 轟。

 烈風が、斬り落とされた水蛇の首を空へと高く打ち上げた。頭から切り離された水蛇の体が、ただの水へと還って崩れ落ちていく。

 

『ぐっ……だが、それがどうした!』

 

 しかし、水蛇の首だけとなろうとも、その額に埋め込まれた御行の顔に焦りはない。空中で体勢を立て直し、滞空し、蛇の瞳で眼下を睥睨する。

 

『水から切り離したところで、私の水を操る力に変わりは――』

 

 牽制するように放たれるその強い声が、ふと、しぼんだ。御行は目を見開き、呼吸を忘れ、茫然と空で身動きを止めていた。……きっと、魅入っていたのだろう。輝夜と同じで。

 風がたゆたい、星屑のような火の粉が流れ、煌めく。限界まで赤く染め抜かれた深い唐紅の炎は、しかし龍脈の力を取り込んだ影響なのか、時に青へと移ろい、そしてまた赤へと戻っていく。

 極光、だった。見る者の心を奪い、焦がす、気高い極光の炎だった。

 ――嗚呼、炎とは、こんなにも美しく燃えるものなのか。こんなにも、人の心を奪うものなのか。

 

「――安心しろ」

 

 響く銀山の言葉は静かに。

 

 

「雫も残さず、一瞬だ」

 

 

 されど刹那に燃え上がる極光の炎は、熱風だけで周囲を焼くほど凄絶に。

 轟、と響く二度目の音は、炎が雄叫びを上げた音。赤く、青く、無限に変わりゆく豪火をまとう銀山の姿が、あまりに幻想的すぎたから。

 銀山、熱くないのかなあ――なんて、そんな場違いなことを、輝夜は考えてしまって。

 

「そういうわけだ輝夜、火傷するから離れてろよ」

「え……あ」

 

 銀山に名を呼ばれてようやく我へと返ったが、輝夜はその場から動けなかった。いや、動こうと思えば動けたのだろうが――少なくとも輝夜はそうしなかった。ちょっとくらい、火傷をしたって構わないから。

 だからこの炎の征く先を、この場で、この目で、見届けたい。

 

「援護、頼みますよ」

「ふん……しくじるなよ」

「まさか」

 

 齋爾とそれだけ短く言葉を交わして、銀山は瞬く間に放つ。

 地上で煌めく極光を、天へと。

 

 

「――『龍火』!!」

 

 

 齋爾の生み出す旋風が、炎を乗せて、天へと昇る(きざはし)をつくる。炎は風を取り込み、更に爆発的な勢いを以て咆吼を上げる。

 螺旋を描き、顎門を開き、天へ。

 極光が、昇り龍へと姿を変えてゆく。

 

『う――おおおおおおおおおお!!』

 

 御行が叫び、眼下から水を呼び寄せる。

 だが、龍の牙の方が早かった。

 

「――滑稽な話だな」

 

 ふと、齋爾が言った。

 

「貴様はひとたび、龍が起こした嵐に敗れてこの世を去った。……そして此度は、龍直々に喰われて消えてゆくというわけだ」

『きッ――さまああああああああああ!!』

「やかましい」

 

 一蹴し、

 

「貴様の炎のような憎悪……精々、地獄の業火の火種として役立て給え」

「カッコつけますねえ、御老体」

「やかましいわ」

 

 昇り龍が、水蛇を喰らった。

 断末魔は響かない。それすらも、焼き尽くして。

 

 天色の空が、赤と青の極光で染まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 操る者を失ったことで、天へと巻き上げられていた水柱が砕け散り、無数の雨粒となって地に降り注ぐ。それに頬を叩かれながら、ようやく輝夜は、緊張の糸をふっと解くことができた。

 

「……終わったの?」

 

 水で体を再生させる間もなく、完全に焼き尽くされた。充満していた御行の妖気が消え、屋敷を取り囲んでいた結界が薄らいでいくのを感じる。

 

「ああ。お疲れ」

 

 銀山が周囲の炎の結界を解いた。すると押しやられていた水が一気に内側へ雪崩れ込んできて、あっという間に輝夜の足元を掬った。

 

「きゃあ!?」

 

 溺れかけた。慌てて水を掻くと指先に触れるものがあったので、藁を見つけた思いで縋りついてみれば、それは銀山が差し出していた右腕で。

 

「や、悪いね」

「お、溺れるかと思ったわよばかぁ!!」

「はは、悪い悪い……」

 

 銀山は悪びれる様子もなく笑ったが、声に力はなかった。痙攣するように喉を震わせ、まぶたを半分、下ろすと、

 

「……もう、……結界を維持する余裕もなくて、ね」

「あ――」

 

 御行があるべき場所に還ったことで、満ちていた水が吸い込まれるように地下へと戻っていく。水による浮力を失えば、銀山はもう立つことすらできなかった。

 

「ちょ、ちょっと……!」

 

 ぐったりと、輝夜の方へと倒れ込んでくるその体を、

 

「おい童」

「ぐえ」

 

 この上ない不機嫌面で、齋爾がいきなり後ろから襟首を掴んで引っ張った。蛙みたいな声を上げた銀山は、引っ張られたままの勢いで水が完全に引いた地面へと大の字で倒れ込み、やはり蛙が潰れたみたいな、変な呻き声を上げていた。

 

「……御老体、もう少し、優しくしてくれません、かねえ。怪我人、なんですけど……」

「黙れ」

「ちょ、齋爾様、そこまでしなくても……」

「なりませんぞ姫様、こやつは気絶を装って姫様を押し倒そうと――ぅおおお!?」

 

 輝夜を見た齋爾が、いきなり目を限界まで刮目して石になった。まったく予想外の奇跡を目の当たりにしたような、この一瞬をすべて網膜に焼きつけようとするような鬼気迫った表情に、輝夜はふと、自分の体に目線を下ろして。

 

「……ああ」

 

 そういえば、そうだった。

 銀山を助けようと思って、水の中に飛び込んだ時に――輝夜は着物を、脱ぎ捨てたのだった。

 なるほど。

 道理で齋爾の目線が、輝夜の胸と下半身を超高速で行ったり来たりしているわけだ。

 しかも輝夜はちょっと前まで水の中にいて、つまり今は全身びしょ濡れの状態なのだから、今の自分の姿が客観的にどう見えるのかは、とてもよくわかった。

 

「……齋爾様」

「――――ハッ」

 

 輝夜は笑顔で齋爾の名を呼んだ。齋爾ははっと我に返って、さり気なく赤くなっていた顔を一瞬で真っ白にした。

 齋爾に限った話ではなく、きっと銀山だって輝夜の下着姿は見ていただろう。あれだけのことがあったのだから、ただ言い出すきっかけを掴めなかっただけで、内心では気にしていたはずだ。

 しかし輝夜は、この姿を銀山に見られることになると覚悟した上で、あの時着物を脱ぎ捨てたのだ。危ないところを助けてもらった手前もあるし、銀山については、許す。

 だが齋爾、てめえは駄目だ。

 輝夜は己の笑みを凄絶なまでに深めて、凄絶なまでに優しい声で、問うた。

 

「齋爾様、――なにか、言い遺すことはありますか?」

「……いや、その、ですな」

 

 齋爾はしとろもどろになりながら、しかし途中でいきなり大真面目な顔になって、輝夜の頭から足先までを至って大真面目な瞳で観察した。

 そして最後に、うむ、と重々しく頷いて。

 

「――大変眼福でありまし」

「くたばれえええええええええええええええ!!」

 

 言い終わらないうちに、輝夜必殺の正拳突きが齋爾の鳩尾を貫く。

 

 ――水が引き、結界が解けた屋敷の中に、使用人たちが雪崩れ込んできた気配がする。一生懸命に輝夜たちの名を呼びながら段々とここまで近づいてくる、慌ただしい足音に混じって。

 齋爾が、濡れた地面に倒れる音と。

 銀山がかすかに笑った息遣いが、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ⑤ 「心の調律」

 

 

 

 

 

 駆け出した。

 背後から女中の呼び止めてくる声が聞こえるが、輝夜はそれを言葉として認識しない。長い着物の裾を何度も踏みそうになって、何度も転びそうになって、けれど一瞬も速度を緩めずに、水気が抜けてすっかり元通りなった庭を駆け抜けていく。

 向かった先は、庭の一角にある、住み込みで働いてくれている使用人のための小舎。ノックなんてしなかった。そんなの、白熱した頭の中からは完全に抜け落ちていた。

 真横に投げ飛ばすような勢いで引き戸を開けて、中に飛び込んで。

 

「うおお、びっくりした。……入ってくる前に確認くらいしてくれないかい、心臓に悪い」

 

 輝夜は答えない。乱れた呼吸を肩で息をして整える傍らで、目の前の彼が目を開けて、喋って、呼吸をしていることを。生きていることを、じっと見つめて。

 それからようやく、輝夜は笑えたと思う。

 

「……おはよう、銀山」

 

 乱れた息はまだ整いきっていなくて、声は掠れてしまったけれど。

 彼もまた笑顔で、応えてくれた。

 

「ああ、おはよう」

 

 大伴御行による襲撃事件が終わってから、三日目の。

 輝夜を守り重傷を負った銀山が、ようやく目を覚ました、朝だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 青一色だけを塗りたくった夏の空は、屋敷中に残っていた水気をあっという間に吹き飛ばした。三日目にもなれば、戦いの爪痕が深く残る一部の建物以外はみんな元通りになっていて、屋敷の者たちもほとんどが平穏を取り戻しつつあった。

 

 あの戦いが終わった直後は、それはそれは大変な大騒ぎになった。今回の妖怪襲撃にかこつけて、己の腕を売り込もうとする陰陽師であったり。屋敷の警固に力添えするという建前のもと、輝夜との接点を作るために私兵を上げようとする貴族であったり。混乱に乗じて輝夜を一目見ようと、こそこそと暗躍する平民であったり。とにかく様々な人間たちが一気に押し寄せてきて、一時は屋敷の修復にすら手をつけられない有様となっていた。

 齋爾の鶴の一声がなければ、相当に手を焼くこととなっていただろう。一応は都の頂点に位置する大陰陽師だけあって、齋爾は相手の身分に関わらない強い影響力を持っていた。恐らくは、純粋に輝夜の近くに余計な男どもを近づけたくなかっただけなのだろうが、ともかく齋爾の介入に助けられ、騒乱は驚くほどあっさりと収束した。ふーんこういう時は結構役に立つじゃない、と輝夜はそれなりに感心に思った。もちろん、御行を退治したことによって依頼は完全に終了したので、そのあとは適当に謝礼を与えて速やかに屋敷から追い払ったが。

 

 そして、三日目。幸い命を脅かすほどではなく、けれど決して楽観もできない重傷を負って眠り続けていた銀山が、目を覚まして。

 輝夜はようやく、すべてが無事に終わったのだと、思った。

 部屋の中央で、銀山は幾重にも重ねたござの上で横になっている。一枚だけじゃあ床が硬くて寝にくいだろうからと、輝夜が使用人に頼んで町から買ってこさせた。銀山を寝かせる前に自分で横になってみて、ちゃんと床の硬さが気にならないことを確かめたりもした、輝夜自慢の寝床だ。

 銀山が輝夜を見ても寝たままで体を起こそうとしないのは、きっと傷が痛むからなのだろう。輝夜は彼の枕元まで歩み寄って、そこで静かに腰を下ろした。

 

「……」

 

 ふと自分が、目を覚ました銀山に掛ける言葉をなにも考えていなかったことに気づく。否、なにかしらを考えていた覚え自体はあるのだが、ここに来てそのすべてがさっぱり思い出せなくなってしまっていた。久し振りに全力疾走などしたものだから、どこかでぽろりと落としてきてしまったのかもしれない。

 唇が動かないことを一度自覚してしまうと、この沈黙もひどく居心地が悪かった。だから輝夜はとりあえず、なんでもいいから話を振ろうと思って、

 

「……怪我、平気?」

 

 口に出してから早速後悔した。なんだこの下らない質問は。こんなのいちいち尋ねるまでもなく、今の銀山の姿を見ればひと目でわかるじゃないか。体中の至るところに包帯代わりの布を当てていて、どこからどう見たって平気なわけがない。

 案の定銀山は、そんなことをいちいち訊くのか、とでも言いたげに苦笑いをしていた。

 

「や、あんまり平気じゃないよ。節々が痛くてね、体を起こすのも一苦労な状態さ」

「そ、そうよね。ごめん……」

 

 思わず、謝って、輝夜は俯いた。「ごめん」という言葉が、頭の中で強く反響した。お前が謝るのはそんなことじゃないだろう、と言われているようだった。

 だから、輝夜は。

 

「……ごめんなさい」

「別に謝ることでも。私は気にしてないし、」

「そうじゃなくて」

 

 銀山の声を遮って、

 

「あの時……私が余計な真似をしてなければ、あなたが怪我することもなかった」

 

 銀山を助けるために水の中へと飛び込み、弓矢を取って、御行を射た。しかし結界の札を手放してしまっていたのが災いして反撃を受け、深い水の世界で、心をおかしくされそうになった。

 今銀山の体に爪痕を残している傷のほとんどは、輝夜をそこから助け出す際に、御行によってつけられたもの。

 銀山を助けようとして、でも逆に助けられて、それどころかもっとひどい怪我までさせてしまって。ほんとなにやってるのかなあと、輝夜は心の片隅で、己を嗤った。

 

「弓で援護してくれた時のことか?」

「う、うん……。でも、そのせいで私、御行に変なことされちゃって、あなたに怪我させて……」

 

 今となっては後悔しかないが、あの時は本当に、銀山を助けたいと思っていた。彼の危機になにもできないでいる自分が嫌で、どうにかして力になりたかった。

 よくよく考えてみれば、おかしなことだと輝夜は思う。生まれながらにして姫であった輝夜は、常に誰かに守られているという己の境遇に疑問を持ったことはなかった。それが当たり前だと思っていた。

 けれどあの時だけは、そんな自分の立場に生まれて初めて反発した。守られてばかりは嫌で、私も銀山を守りたいと思って、それ以外のことはなにも考えられなくなって、ろくに使えもしない弓へと必死に手を伸ばした。

 

「あの時はもう、ほんとに、必死で」

「……」

「このままじゃいけないって思って。私もやらなきゃって、思って……」

 

 だがどんなに言葉を重ねても、それは輝夜の心に虚しい言い訳となって響いた。このままじゃいけないと思ったからなんだ。私もやらなきゃといけないと思ったからなんだ。そんな言葉で、銀山に怪我をさせた自分の身勝手が許されるのだろうか。

 そもそも輝夜は、銀山に許してもらいたくて、こんな話をしているのだろうか? 許してほしいから、私だってあなたを守りたかったの、必死だったのと、言い訳しているのか?

 

(……あ)

 

 胸が、締めつけられるように、痛くなった。

 だって輝夜は、本当に、許してほしかったのだから。いや、私は気にしてないよ――ちゃんと事情を説明すれば、きっと銀山はそう言ってくれるだろうと、心のどこかで期待していたのだから。

 自分のせいで、こんなにひどい怪我をさせてしまったのに。

 輝夜は最初から、許してもらいたくて、謝っていたのだ。

 

(……)

 

 なんて身勝手な女なのだろうか。銀山にひどい怪我をさせてしまって、彼のために真剣に謝らなければならないはずなのに。なのに輝夜は、許してほしいと、自分のことばっかりで、銀山のことなんて、初めからちっとも考えちゃいなかった。

 でも、許してほしかったのだ。怒られたくなかった。怒られて、愛想を尽かされてしまうのが怖かった。愛想を尽かされて、嫌われてしまうのが嫌だった。

 だから、許してほしかったのだ。

 

(なんで……)

 

 なんでだろう。

 胸が痛い。

 息が苦しくなる。

 辛い。

 泣いてしまいそうだ。

 

(やだ)

 

 怒られたくない。

 嫌われたくない。

 許してほしい。

 やだ。

 いやだ。

 

(どうして)

 

 どうして、だろうか。

 どうして輝夜は、こんなにも、苦しいのだろうか。

 どうして、泣いて、しまいそうなのだろうか。

 

「――姫?」

「ッ……!」

 

 銀山の声が、そよ風のように輝夜の耳に触れる。彼が、不思議そうな顔をして輝夜を見つめている。

 それだけ。それだけ、なのに。

 どうして、こんなにも、怖いのだろうか。

 

「――おーっす、ギン! 生きてるかあ――って」

「――ッ!!」

 

 突如背後から聞こえた、その馴染みのない男の声が、引鉄だった。

 もうなにも見なかった。その声の主が誰なのかも、銀山のことも、なにも見ないままで、がむしゃらに部屋を飛び出した。夏空の下を走る。どこに向かっているのかは自分でもわからなかったし、どこだっていいとも思った。なんだかもう色々なものがおかしくなりすぎて、心の中で渦を巻いている決して綺麗ではない感情が、熱暴走のように輝夜を駆り立てていた。

 転んだ。でも止まらなかった。痛みなんてよくわからなかった。立ち上がって、一度だけ喘ぐように息を吸って、また走り出した。闇雲だった。がむしゃらだった。無茶苦茶だった。無我夢中だった。でもどんなに息が切れても、どんなに脚が痛んでも、この感情は治まらないままだった。

 やがて脚が痺れて、胸が痛んで呼吸ができなくなって、体が動いてくれなくなって。一度止まったらもうダメだった。もう立ってもいられなくて、膝から崩れ落ちて、地面に両手をついて、咳き込みながら必死に息を吸った。

 

「なん、だろう。これ……」

 

 胸を押さえる。痛い。心臓が脈打つだけで、全身が悲鳴を上げている。がむしゃらにひた走ったせいもあるだろう。けれどそれ以外に、もっと別のなにかに翻弄されて、輝夜の心は軋んでいる。

 輝夜にはわからない。酸欠気味の頭では、よく考えることすらできやしない。

 ――この痛みは、一体、なに。

 

「――あの、かぐや姫……様?」

 

 掛けられた声に、輝夜はゆっくりと面を上げた。

 背後に、知らない女性の姿があった。輝夜のあとを追ってきたのだろうか、輝夜ほどではないにせよ、息を切らせてこちらを見下ろしている。屋敷の人間ではないようだ。つまるところの不審者なのだが、輝夜の心は不思議と波立たなかった。

 銀山と同じくらいの年頃の女だ。身につけている胡服が決して高価なものではないから、平民の女なのだろうが、腰あたりまで長く伸びた黒髪は輝夜にも負けないくらいにきめ細かで、その艶やかさに引き立てられるように、顔もよく整っているのがわかる。緩い笑みの形を作った唇は光が強く、まるで桃色の宝石を砕いて散らしたようで、輝夜ですらふいを衝かれる思いがした。

 

「……誰?」

 

 静かに問えば、女性もまた静かに、

 

「私、雪っていいます。銀山さんの知り合いです」

「銀山の……」

「はい。お部屋からあなたが飛び出してきたのを見て、ごめんなさい、勝手ですけど気になって追ってきちゃいました」

 

 微笑む。

 

「もしよかったら、なにがあったのか聞かせてくれませんか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――というわけでギン、なにがあったのか聞かせろや」

「と、言われてもねえ」

 

 ニヤニヤと嫌な笑顔でこちらを見下ろす秀友に、銀山は寝たままで浅く肩を竦め返した。

 

「またまた、そう邪険にしないでくれって。別に茶化したりしねえからさ」

「いや、よくわかってないんだよ。私もね」

 

 わかっているのは精々、輝夜の様子がなにやらおかしかったことくらい。今しがたこの小舎から逃げるように飛び出していったのが、銀山のせいだったのか、それともいきなり現れた秀友のせいだったのかすら、わからないままだった。

 なぜ秀友がこうも突然現れたのかといえば、単純に見舞いに来てくれたかららしい。銀山がまだ目を覚ましていなかった頃にも一度やってきていて、この屋敷に入るのは今回が二度目になるという。

 先の大伴御行による襲撃事件は、屋敷の外でも大層な話題となっていた。その中では、銀山が大怪我を負ったこともまた語られており、友人としてなんとしても安否を確かめねばならぬと、秀友は相当しぶとく翁に食いついたようだった。

 その時のことを思い出して、秀友は呵々と笑う。

 

「まあオレはそれほど心配してなかったんだけど、雪さんがちゃんと確かめないとってうるさくてな! まったく人の嫁さんから心配してもらえるなんて、幸せなやつだぜお前はー」

「……雪、ねえ」

 

 今、この場に彼女の姿はない。飛び出していった輝夜のことを気にかけて、こちらに一言断りを入れてから、追いかけていった。

 

「同じ女として、なんか感じるものがあったんじゃねえかなー。……てか、あれって本当にかぐや姫だったのか? 一瞬すぎてよくわかんなかったけど」

「そうだよ。……雪、不審者扱いされたりしないといいけどね」

 

 事後だけあって、今の屋敷の警固はいつにも増して厳重だ。雪は、銀山と違って警固の者たちみんなに顔を知られているわけでもなかろうから、むやみに輝夜へと近づけば、挨拶代わりにひっ捕まえられるなんてことも充分に有り得る。

 

「そりゃお前、雪さんを不審者扱いするような目のないやつにゃあオレが一発鉄拳制裁をだな」

 

 秀友の惚気話は、適度に聞き流しておく。……雪は外側でこそ物静かな女性だが、内側は男も圧倒するほど勝ち気でしたたかだから、まあ心配せずとも大丈夫だろう。

 

「だからお前、それよりもなにがあったのか聞かせてくれって」

 

 秀友が話を戻してくるが、なにがあったもなにも、

 

「だから私にもよくわかってないんだって」

「いやいや、その前よ。噂には聞いてるけど、死んだはずの人間が半妖怪化してかぐや姫をさらいに来たとかいう話じゃねえか」

 

 ああそっちのことか、と銀山は思った。こちらを見下ろす秀友の瞳が、いつの間にかそこそこの真剣味を帯びている。一応は真っ当な陰陽師だけあって、彼もこの手の話題には敏感だ。

 

「教えてくれよ、後学のために」

「……ふむ」

 

 確かに、死んだ人間が妖怪化して甦るというのは非常に稀有な例だ。向上心のある陰陽師からしてみれば、是非耳に入れるだけでもしておきたい情報かもしれない。

 雪が輝夜と話を終えるにも、しばらく時間が掛かるだろう。

 

「わかったよ。暇潰しにはちょうどいい」

「おう、勉強させてもらうぜー」

 

 人懐こい笑顔で居住まいを正した秀友を横目に、銀山は天井の木目を目で追いながら、ゆっくりと記憶を遡る。

 

「さて、この屋敷でなにがあったのかと言えば――」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――とまあ、こんなことがあったわけで」

「まあ、それはそれは……」

 

 当てもなく屋敷の庭をぶらつきながら、輝夜は雪にすべてを話した。ここで銀山と出会ってから今に至るまでのことを、なにも包み隠さずに。

 雪は、とりたてて熱心という風でもなかったが、適切な時に適切な相槌を打ち、影のように静かに耳を傾けてくれた。とても優しい話の聞き方をしてくれる人だった。だからまるで自分自身と話をするかのように、かぐや姫としてではなく、蓬莱山輝夜として、全部を打ち明けることができた。

 ひと通り話せることを話した輝夜が言葉を区切れば、雪は己の右頬に手を当てながら腕を組んで、困り顔で、

 

「銀山さんが怪我をしたのは、姫様のせいだったのですか」

「うぐっ」

 

 ぐさーっ、と雪の言葉が輝夜の胸に刺さった。輝夜自身がそのように話したのだからなにも間違ってはいないのだが、改めて他人の口から言われると凹んでしまう。

 

「そ、そうね。少なくとも私はそう思ってるし、事実だと思う。……あいつだって、否定しなかったし」

 

 銀山は、輝夜の言葉を聞いてなにも言わなかった。決して、「お前のせいじゃない」とは否定しなかった。

 それは、肯定されていることと同じだと輝夜は思う。

 

「だから……銀山さんの前から逃げ出した?」

「……多分。怒られたくなかったの」

「怒られるのが怖くて、逃げ出した?」

「嫌われたり、しちゃうんじゃないかって思って。……私が悪かったってのはわかってるの。たとえ銀山を助けようとしたんだとしても、言いつけを守れなくて、結果的に迷惑かけて」

「でも、わかってほしい。許してほしい」

「うん。……我ながら馬鹿な女よね。こんな時になっても自分のことばっかで」

「素敵」

 

 掛けられた言葉に、胸が詰まるような思いがした。なにを素敵と言われたのかわからなかった。だって今の輝夜は、言ってしまえば自己嫌悪中で、後悔していて、素敵なことなんてなに一つもなくて。

 一瞬はなにかの皮肉だろうかと思った。けれど雪のたたえた微笑みは本当に透明で、邪な感情なんてちっとも混じっていない。

 問う。

 

「素敵?」

「ええ。だって――」

 

 雪は自信たっぷりに頷き、笑みを深めて。

 

「姫様ったら、銀山さんのことが好きなんですもの」

 

 彼女の言う『好き』は、いわゆる友好や親愛の延長線上にあるものではなく、そこを明確に外れた、恋という名の『好き』だったと思う。けれど、輝夜にはよくわからなかった。そんなわけないじゃないと軽く一蹴するのでもなく、なに馬鹿なこと言ってんのよと図星を衝かれたみたいに慌てるのでもなく。

 ただ、ふっと、息をつくように笑って。

 

「どうなのかしら」

「あら、意外と冷静な反応ですね」

「……まあ、あれだけのことがあったから」

 

 大伴御行は己の欲望のために輝夜をさらおうとし、洗脳のような真似までしようとし、そして邪魔者であった銀山を殺そうとした。

 それが恋、或いは愛という感情を極限まで肥大させたものだとするならば。

 

「……人を好きになるって、どういうことなのかしら」

 

 少し前までの輝夜は、恋とはもっと綺麗な感情なのだと思っていた。人を好きになるというのは、もっと幸せなことなのだと思っていた。

 けれど、今はそうは思えない。輝夜が世の多くの男たちから向けられた『好き』は、どれも薄っぺらで歯が浮くようで、決して綺麗なものではなかった。特に御行から向けられた『好き』は、直視すらできないほどに恐ろしいものだった。

 

「もし、この気持ちが本当に、銀山への恋なのだとしたら」

 

 そして輝夜が今抱いている、銀山に嫌われたくないと恐れて苦しむ気持ちが、輝夜の『好き』なのだとしたら。

 

「――恋って、意外と、冷たいものなのね」

 

 もっと温かいものだと思っていた。恋をすると、体とか心とかが火照るように熱くなって、色んな悩み事が全部どうでもよくなって、幸せな気分になるのだと思っていた。

 なのに今の輝夜は、体も心も全然温かくなんてなくて、悩んでばかりで、幸せなんて程遠くて。

 だったらこの気持ちは、恋なんかじゃないんじゃないか。そりゃあ銀山は、輝夜が今まで見てきた男たちの中では格段に好ましい性格をしている。身を挺して輝夜を守ってくれた。身を挺して屋敷のみんなのために戦ってくれた。好きか嫌いかと言われればもちろん好きだ。でもそれはあくまで助けてもらえた恩とか、他の男よりはマシだとかいう気持ちの延長線上にあるだけで、そこに今回の罪悪感が余計な働きかけをしてしまって、あたかも恋みたいに錯覚させているのでないか。

 

「ねえ、雪。恋って、なんなのかな」

「……」

 

 雪は少し首を傾げて、庭の景色を見回した。鳥と蝉が好き勝手に合唱をしている。使用人の誰かが壊れた屋敷に釘を打って、拍子木のように合いの手を入れている。

 間、

 

「……それは、人それぞれですかね」

 

 こんな答えで申し訳ないですけど、と雪は苦笑した。

 

「恋は、人を幸せにもしますし、不幸にもする。温かかったりもしますし、冷たかったりもする。綺麗だったり、綺麗じゃなかったりもする。……誰かを好きになるというのは、いいことだったり、悪いことだったりもするんだと、思います」

「……」

「私は前者でした」

 

 輝夜は雪を見た。雪もまた輝夜を見て、苦笑を微笑みに変えた。

 

「姫様のその気持ちがどういう恋なのか、そもそも本当に恋なのかどうかは、私には想像することしかできませんけど。でも、人を幸せにしてくれる、温かい、綺麗な、いい恋だってあるんだということだけは、間違いなく断言できます」

「……ちなみに、相手は誰?」

「銀山さんです」

 

 目の前が真っ暗になった気がした。

 

「――なんて、嘘です。私と一緒にここに来た男の方です。姫様は気づいてなかったかもしれませんけど」

「そ、そう」

 

 自分で自分にびっくりしていた。銀山と恋をしているという雪の冗談に、ここまでわかりやすく動揺させられるなんて。

 

「銀山さんは、誰とも付き合ったりはしてませんよ」

 

 そして今、この雪の言葉に、少しだけほっとしているなんて。

 その反応をまるで目論見通りだというように、雪の声は愉快げだった。

 

「願わくは、あなたの恋が素敵なものでありますように」

「……むう」

 

 一杯食わされた、ということなのだろう。なんともまあ、我ながら単純なことではないか。

 銀山にごめんなさいと謝ったのは、許してほしかったから。

 許してほしかったのは、私を嫌ってほしくなかったから。

 私を嫌ってほしくなかったのは。

 私が、銀山の傍に、いたいから。

 

「戻ってきちゃいましたね」

「そうね……」

 

 気がつけば、庭を一周回って、銀山が身を休めている小舎の近くまで戻ってきていた。雪が視線だけで尋ねてくる。銀山のところへ戻るか、どうか。

 銀山に嫌われたくないと思う、この気持ちは、きっと恋なのだろう。けれど、恋だとわかったところでなにかが特別変わるわけでもない。なにも変わらず、輝夜はまだ、銀山に会うのが怖いままだった。

 足取りが鈍る。

 

「……許して、もらえるかな」

「というか、根本的なことを訊きますけど」

 

 斜め前に出た雪の背が、問うてきた。

 

「姫様って、別に謝る必要はないんじゃないですか?」

「……なんで?」

 

 輝夜は目を眇めた。それはおかしいと思った。銀山が怪我をしてしまった責任は、彼を助けるためとはいえ勝手な行動をしてしまった輝夜にある。なのに謝りすらしなかったら、まるで自分は悪くないと駄々をこねているようで、それこそ本当に嫌われてしまうじゃないか。

 けれど雪は輝夜へと振り返り、首を傾げて。

 

「自分を助けてくれた恩人に言う言葉が、『ごめんなさい』なんですか?」

「――……」

「例えば私が銀山さんの立場だったとして、頑張って助けた相手が『ごめんなさい』しか言ってくれなかったら、ちょっと寂しくなっちゃいます」

「……それは、」

 

 咄嗟に言い返そうとして、言葉が出てこない。

 

「助けてもらったら、ごめんなさいよりも先に、まず言うべき言葉がある気がしますけど……。どうですか? その一言さえあれば、優しい銀山さんのことですもの、きっと大丈夫だと思いますよ」

「……」

 

 言葉は出ないままだった。足を止めて、銀山がいる小舎を見つめて、それからため息をつくように、敵わないなあ、と思った。

 かつて輝夜の教育係をしていた女性とは、まったく似つかない性格をしているけれど。それでも雪は、彼女に負けないくらいに様々なものを見通している。しがない平民の出で、とりたてたほどの学もなくて、ほんの十年や二十年そこらしか生きていないのに、輝夜の目から見たって素敵な女性だと思える。恋人がいるらしいが、そんなのはもう夏が暑いのと同じくらいに当たり前のことじゃないか。

 それに比べたら輝夜は顔がいいだけで、なにもできないしなにも知らないしで、今までの人生をいかに無駄に過ごしてきたのかが浮き彫りになるようで、なんだかちょっと凹みそうだ。

 

「……なんだか、不思議ね」

 

 顔がいいという己の武器を、こんなにも頼りないと思ったのは初めてだった。色々なものを見通せる雪のような女性を、すごいと思うことはあれ、羨ましいと感じたのは初めてだった。

 今まではずっと恋をされる側だったから、『相手がどういう男なのか』しか考えたことがなかった。

 けれど今はこうして恋をする側になって、『自分がどういう女なのか』を、気にするようになっている。

 

「恋は、人を変えますよ」

 

 そうなのかもしれないなあ、と輝夜は思う。

 

「大丈夫です。姫様は、そんなに素敵なお顔をされているんですもの。中身なんて、これからいくらでも逆転できます」

「……そうね」

 

 だからまずは、その第一歩として、銀山に言うのだ。

 怪我をさせてごめんなさい、ではない、もっと別の、言わなければならない言葉を。

 この時の自分がどんな顔をしていたのかはわからないけれど、雪は満足気に微笑んで、こちらの背を押してくれた。

 

「それじゃあ私、秀友さん――ええと、一緒に来た恋人の名前です。多分銀山さんと話してると思いますし、姫様を見たら騒ぎ出しそうですから、私が適当に外に連れ出しますね。なのでお二人で、ゆっくりと話をしてみてください」

「ありがと」

 

 いい恋をしたいなあ、と思う。そのためには、きっと輝夜は、変わらなければならない。色々なことを学ばなければならないし、経験しなければならない。

 胸の中にある恐怖心は、完全に消えたわけではないけれど。

 

「行きましょうか」

「うん」

 

 いい恋をしたいから、どうか願わくは、彼の傍にいることを許されますように。

 乾いた土を蹴って、夏の日差しよりも強く、輝夜は祈る。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――おお、雪さんおかえり! そんで隣にいるのはやっぱりかぐや姫様か!? はじめましてかぐや姫様オレは神古秀友ってもんでこいつと同じ陰陽」

「そおーい」

 

 輝夜が戸を開けるなりいきなり詰め寄っていた変な男を、雪はなんの躊躇いもなく蹴り飛ばした。脇腹を的確に打ち抜く鮮やかな回し蹴りだ。とても一朝一夕で身につけられるものではない、プロの技だった。

 べしゃあと床を滑って動かなくなった男の襟首を掴み上げ、雪は「ふふふ」と微笑み言う。

 

「え? 秀友さん、お庭が見てみたいんですか? そうですね、とっても綺麗なお庭ですものね。じゃあちょっと見てきましょうか」

「……」

 

 相手が大の大人にも関わらず、雪はちっとも重そうな顔をしない。ずるずると引きずってあっさりと部屋から出て行く、その背中を、輝夜はひどく呆然としながら見送った。恋人相手にあんなことをしていいのだろうか。いや、恋人相手だからこそできることなのだろうか。

 残された部屋で、やがて銀山が寝たまま低い声で笑った。

 

「あいかわらずだなあ、雪は」

「えっ……あ、あいかわらずなんだ」

「ああ。大人しそうな顔してるけど、あれで意外と身内に容赦しないタチなんだ。下町では、雪が秀友に回し蹴りを叩き込む光景が名物だよ」

「へ、へえ」

 

 下町の女性というのは、どうやらとても逞しいらしい。正拳突きで男を地に沈める輝夜も似たようなものなのだけれど、改めて銀山を目の前にした緊張もあって、そこまでは気が回らなかった。

 

「なにを話してきたかはわからないけど、お前相手にも物怖じしなかったろう」

「そうね……」

 

 よくよく思い返してみれば、初対面の女性に恋愛相談をしてもらうなんてのは、普通ではまずありえないのではなかろうか。

 というか、銀山の言葉にふと違和感、

 

「それはあなただって同じでしょ。いつの間にか敬語が消えてなくなってるじゃない」

 

 しかもつい数秒前なんて、さりげなく「お前」と呼ばれた気がする。帝ですら敬意を払う相手である輝夜に、身分としてはあくまで平民である銀山が、「お前」。もはや物怖じどうこうで片付けていい次元ではない。不敬罪上等だ。

 輝夜に言われて、銀山は初めて気がついたようだった。

 

「ああ、そう言われてみればそうだね……。いつの間にか、つい」

「『つい』で私に敬語使わない男なんて、あなたくらいなもんだわ」

「悪かったね。……それじゃあ直すよ」

「あ、いや……」

 

 だが、それは決して悪いことではないのだと、輝夜は思う。屋敷の者たちがどうかはわからないが、少なくとも輝夜は、このままでいい――否、このままの方がいいのだと、感じていた。

 銀山はもう、ただの他人とか知り合いとかで言い表せる相手ではない。まだまだ出会ったばかりだけれど、それでも輝夜にとっては、特別な人なのだ。特別な人なのだから、敬語なんて使わなくていい。堅苦しい礼儀なんて気にしないで、もっと一緒に、いっぱい、楽しく話をしたい。

 

「別にいいわよ、今のままで」

「そうか?」

「ここまで来たら、逆に戻される方が調子狂うもの」

 

 もちろんこの気持ちは、まだ到底伝えられるようなものではないけれど。

 

「感謝しなさいな。あなたは、かぐや姫を『お前』って呼べる世界でただ一人の男よ」

「……それはまた、随分と恐縮なことで」

 

 銀山は噛み殺すように苦笑して、浅く肩を竦めた。

 

「だが私自身、敬語はあまり得意じゃなくてね。だからそっちの方がありがたいよ」

「うん」

 

 この世界でただ一人、銀山だけが、輝夜に敬語を使わないで話しかけてくれる。そう思うと、輝夜の中で銀山がますます特別な存在になった気がした。

 

「それで?」

「え? ……それでって?」

 

 銀山の問いが出し抜けだったので、思わず尋ね返すと、彼は「いや」と頭の後ろで手を組んで天井を見上げた。

 

「なにも話がないんだったら、わざわざ雪が秀友連れて席を外す理由はないんじゃないかと思ってね」

「……」

 

 タイミングだな、と輝夜は思った。ここで、言えば、きっとすんなりと伝えることができる。逆に、言わなければ、きっとずっと伝えられないままになってしまう。

 迷ったりはしない。言うべきことは、既に決まっているのだから。

 

「――お礼を、言いたくて」

「礼?」

「そう。……私を助けてくれた、お礼」

 

 命を懸けて助けてくれた相手にまず言うべきなのは、『ごめんなさい』なんかじゃなくて。

 

「ありがとう」

 

 きっと、今までの人生の中で一番、たくさんの気持ちを込めた『ありがとう』だった。生まれながらに姫であった輝夜にとって、『ありがとう』とは、ただ社交辞令のために存在する言葉でしかなかった。姫としての体面を保つための、一種の儀礼にしか過ぎなかった。

 一人の人間として、心から誰かに感謝するということを、輝夜はよく知らない。

 

「私は勝手なことをしてしまったし、あなたに怪我もさせちゃったけど」

 

 けれど、輝夜には声がある。言葉がある。

 

「でも、助けてもらえて、嬉しかった」

 

 声を使わなくたって、言葉に頼らなくたって気持ちを伝えられる方法はあるけれど、そんな器用な真似は輝夜にはできないから。

 だから輝夜は、この言葉にあらん限りの想いを込める。

 

「――ありがとう」

 

 これが自分にできる精一杯の感謝を示す方法なのだと、わかっていても、緊張はした。ろくに銀山の顔を見ることができなくて、己の手元に目を落として喘ぐように沈黙した。頭の中に悪い想像が押し寄せてくる。気持ちが上手く伝わらなかったら。拒絶されてしまったら。嫌われてしまったら。

 この恋が、もしも冷たいままで、終わってしまったら。

 ――ふふ、と小さく笑う声、

 

「……!」

 

 胸を衝かれる思いがして、輝夜ははっと顔を上げた。銀山がまぶたを下ろして、どことなく愉快そうに、喉を震わせていた。

 

「や、てっきり謝られるものとばかり思ってたから、ちょっと驚いてね。いい意味でだよ」

「そ、そう」

 

 雪に教えてもらったの、とは言えなかった。それにこちらから言わずとも、銀山はきっと気づいているだろう。

 銀山がまぶたを上げて、輝夜を見た。

 

「私も礼を言うよ。助けてくれてありがとう」

「……え、私、助けてなんて」

「助けてくれただろう。御行を弓で射てくれたのもそうだし、そのあと私が気を失いかけている時に、庇ってくれた」

 

 それは、助けたと言えるのだろうか。今になって思い返せば、あの時輝夜が行動を起こさなくても、銀山は自力で危機を打ち破っていたように思う。あくまで結果のみを見れば、輝夜の行動は完全に藪蛇だったのだ。

 迷う輝夜の表情を読んで、それでも彼は、笑ってくれる。

 

「お互い様だよ。お前のあの時の行動が余計だったというなら、そうさせてしまうような情けない戦いをした私にも責任はあるさ」

「そ、そんなことないわよ!」

 

 咄嗟に叫ぶ輝夜にも動じず、しみじみとした口振りで、

 

「どうにも年のせいか、危機感に欠けるというか、本気の出し方っていうのがどうにもね……」

「え?」

「いや、なんでもない。……まあそういうわけで、この件についてはどっちもどっちだから、笑って済ませるのが一番ちょうどいいと思うんだよ」

 

 それで終わらせてしまっていいのだろうか、と輝夜は思う。銀山の体を見る。布当ての下に刻まれた傷は、決して笑って済ませていいほど浅くはないはずだ。

 もしかして、気を遣われているのだろうか。銀山は輝夜が抱える罪悪感を既に見抜いていて、笑って済ませてしまえばそれも少しは和らぐだろうと考えているんじゃないか。

 

「納得できないって顔してる」

「……だって、こんなの、私に優しすぎるじゃない」

 

 これ以上優しくされたって、輝夜には『ありがとう』と言う以外にどうすることもできない。優しくするのは銀山ばかりで、優しくされるのは輝夜ばかりで、それではあまりに、銀山が恵まれないではないか。

 銀山は顎に手をやって黙考する。

 

「ふむ……じゃあ、一つ頼み事をしてもいいかな」

「……私にできることなら」

 

 もっとも輝夜にできることなんて高が知れているのだが、それでもできる限りのことはしたいと思う。翁だって協力してくれるはずだ。であれば金絡みならなんとでもできるし、それ以外の多少無茶な要求でも、地位と財力にものを言わせればほとんどのことは通るだろう。否、通してみせる。銀山への感謝を示すために、通さなければならない。

 と、すっかり勝手に意気込んでいたものだから。

 

「なに、そんなに大層なことじゃないよ。この通り、私はまだ静養が必要な身だからね。ずっと寝てるだけというのも退屈だし、暇潰しに話し相手にでもなってもらえると、ありがたいと思って」

「……は?」

 

 拍子抜けした。なにそれ? と素で思った。話し相手ってなんだっけと、呆気にとられるあまり一時はそんなことまでわからなくなった。

 

「へ?」

「へ? って……。なにか変なこと言ったかい、私」

 

 とても変なことを言ったと思う。彼はもっと色々なことを頼めたはずだし、輝夜だってできる限り力になるつもりでいたというのに、なんだ話し相手って。

 と、勢いのままに否定しかけたところで、ふと、気づく。

 ――話し相手。

 誰が。

 輝夜が。

 誰の。

 銀山の。

 ――それってつまり、

 

「まあ、嫌だったら構わないけど……」

「嫌じゃないわ!」

 

 叫んだ。前に身を乗り出して、床の上に両手をついて、

 

「話し相手ね!? わかった、任せて!」

「あ、ああ……ありがとう」

 

 あまりの剣幕に銀山が面食らっていたが、輝夜は気にしなかった。それからつい嬉しくなって、居住まいを正して、ふふふと笑った。

 だって、輝夜に話し相手になってほしいということは、つまり。

 つまり輝夜は、銀山の傍にいてもいいのだ。傍にいて、話をしてもいいのだ。

 ひどい怪我を、させてしまったけれど。それでも銀山は、輝夜に、傍にいることを許してくれるのだ。

 だから輝夜は、もう並々ならぬくらいに、舞い上がってしまって。

 

「なんでも訊いて! あ、私も色々訊きたいことがあるんだけどいい!?」

 

 せっかく居住まいを正したのに、また体を前に乗り出して、横になっている銀山をほとんど真上から見下ろして。それから銀山の瞳が驚きで軽く丸くなっているのに気づいて、はっと我に返った。

 銀山が苦笑する。

 

「気持ちはありがたいけど、今はまだいいよ。雪たちを呼んできてもらっていいかな。しばらくは家に戻れそうにないから、その間のことを話し合わないと」

「そ、そうね。わかった」

 

 なんとなく気恥ずかしくなって、返事もそこそこに輝夜は小走りで小舎を抜け出した。夏の強い日差しが目に飛び込んでくる。足を止めて、深呼吸をして、胸を押さえた。

 なんだか体が火照っている気がするのは、きっと今が夏だからではない。

 胸に芽生えたこの気持ちを、輝夜はようやく、温かいと思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ⑥ 「公認の仲ってやつ」

 

 

 

 

 

 色んなことをしようと思った。銀山のために、話し相手になる以外にも、もっと色々なことをしてみようと。

 二~三日ならまだしも、一週間ばかり銀山の話し相手を続けてみると、さすがに話の種が尽きたのだ。しかも、引きこもり街道まっしぐらだった輝夜が話題にできるような体験や知識はそう多くなく、半分以上は銀山の話を聞くばかりだったのだから情けない。……まあ、そのお陰で彼のことを色々と知ることができたので、決して悪いことばかりでは、なかったけれど。

 都に流れ着く前の銀山は、各地を流浪する旅人みたいなことをしていたらしい。彼の見てきた景色や、出会ってきた人々の話を聞くと、輝夜まで都の外に飛び出したような心地になった。そのうち、彼に依頼を出して都の外を案内してもらっても、楽しいかもしれない。

 ともあれ、話し相手になる以外のなにかである。銀山の身辺の世話は使用人たちが担当しているが、だからといって全部を彼らに任せなければならないわけではない。

 幸い、相談相手には困らなかった。雪が、三日にいっぺんほどの頻度で屋敷に様子を見にきてくれたから。

 

「銀山のためになにかをしたいの。話し相手以外にも」

「となると、やっぱり看病でしょうね。今、使用人の皆様がやってくださってるようなことを、姫様がしてみるんです」

「なるほど」

「ただ、なにもかもをやろうとして出しゃばってしまうと銀山さんも辟易してしまうでしょうから、適度な距離感を大切にしてくださいね。あくまで、銀山さんがなにか困った様子だったら、すぐに助けてあげる程度。それが基本だと思います」

「ふむふむ」

「看病ってのは絶好の機会です! もし上手く行けば、ご飯を食べさせてあげたり、体を拭いてあげたり、急接近できちゃうかもしれませんよ!」

「……、」

 

 そんなこんなで、色々なことをしてみよう、と思ったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀山は、本を好んで読むらしい。陰陽師の依頼がない日は、家でのんびりと本を読んだり、都の外をぶらりと散歩したりして過ごすという。なんだか老人みたいな生活だ。

 さておき、この屋敷には翁が蔵書を保管している書斎がある。彼自身の趣味もあって内容は歌集であったり、輝夜に疑問符ばかりを量産させる難しい知識書だったりするが、銀山は乱読派だというから、きっと楽しんでもらえるだろう。

 

「ねえ……本でも読んでみる?」

「本?」

 

 銀山が静養している小舎は、輝夜にとって第二の自分の部屋となりつつあった。いつもの部屋に、銀山の枕元といういつもの場所で、輝夜は彼へと問い掛ける。

 

「本、読むって言ってたでしょ? この屋敷には、おじい様の蔵書がたくさんあるの」

「ほう」

 

 銀山の瞳が、強い興味の色を帯びた。

 

「それは……可能であれば、読んでみたいね」

「もちろん」

 

 懐が広い翁は、己の書斎を屋敷の者たちに開放して、自由に閲覧できるようにしている。窃盗を行えば即雷が落ちるが、そうでない限りは借り入れも自由だ。

 銀山の役に立てる絶好の機会だった。輝夜は勇んで問いを重ねる。

 

「じゃあ、なにか適当に持ってくるわ。どんな本がいい?」

「そうだね……」

 

 銀山は少し考えて、

 

「じゃあ、輝夜のおすすめで」

「……おっ、おすすめ、ね。わかったわ」

 

 本なんてちっとも読まないからおすすめはないの、などと白状できるわけがなかった。輝夜はぎこちない愛想笑いを貼りつけて立ち上がる。

 

「ちょっと待っててね」

「ああ、ありがとう」

 

 やんわり微笑んで礼を言われる、たったそれだけのことで輝夜の心はとても暖かくなった。心なしか、体も軽くなったような気がする。

 なんだかめちゃくちゃやる気になってきた。銀山にこんな風に優しく礼を言ってもらえたなら、そりゃあもう頑張らないわけにはいかない。おすすめの本がどうこうなんて、勢いと雰囲気があればいくらでも誤魔化せるような気さえした。

 

「いってきます!」

「いってらっしゃい」

 

 そのやり取りを同棲している恋人同士みたいだと都合よく妄想しながら、元気いっぱい夢いっぱい、輝夜は意気揚々と小舎を飛び出していく。

 しばらく走ってから戸を閉め忘れたことに気づいて、慌てて引き返した。

 

 

 

 

 

 客観的に見てみれば、かぐや姫の屋敷で厄介になるというこの状況は、世の男に知られたら即座に闇討ちが行われるであろうほどの大事である。仕方がないこととはいえ、銀山がこの場所で多くの時間を過ごせば過ごすだけ、世の男どもから送られてくる嫉妬の念も強くなるのだ。

 ひょっとすると、第二第三の御行が生まれてしまう可能性だってある。ふいに全身を駆け抜けた悪寒に、銀山は天井を仰ぎながらぶるりと身震いをした。

 一週間の区切り目だ。怪我は順調に回復しているが、まだ元気に立ち上がり歩き回るまでには至らない。小さく見積もっても、あともう一週間は、ここでの静養を余儀なくされるだろう。

 二週間――それだけの期間をかぐや姫の屋敷で過ごした男がいるとなれば、世の男どもは、もうあれやこれと事実無根の噂話に精を出すに違いない。そして話し手たちに都合のいいように曲解された噂話は、やがてどこかのお偉いさんの耳に入るのだ。――なにィ、かぐや姫様のお屋敷で二週間もよろしくやってるド阿呆がいるだァ? よしおめェら準備はいいか、そいつが出てきて初日の夜に全員で闇討ちだ。一瞬で終わらせてやろうじゃねェか。

 ひょっとすると銀山の都での生活は、刻一刻と終わりへ近づいているのかもしれない。

 

『――きゃああああああああああ!?』

 

 ため息をついた瞬間、遠くの方からいきなり輝夜の悲鳴が聞こえてきた。ついでに、なにか大きな物が連続して倒れる派手な物音までついてくる。

 しばらくの間静寂があって、やがて屋敷が頓に慌ただしくなっていく。

 

『しょ、書斎の書棚が全部ぶっ倒れてるー!?』

『ひ、姫様! 姫様が書棚の下敷きに!』

『ああっ、ぴくぴくしてるっ! だ、誰かー! 誰か手伝ってくださーいっ!』

 

 使用人の叫びから察するに、本を取ろうとした輝夜が、書棚を一つ残らずぶっ倒して下敷きになっているらしい。バタバタと使用人たちが走り回る音に混じって、銀山のため息が音もなく宙を撫でる。あのお転婆娘は、一体なにをやっているのだろうか。本の一冊すらまともに取ってくることができないとは、どうやら彼女の箱入りっぷりも相当らしい。

 けれどボロボロになりながらも、獲物を仕留めた猫さながら誇らしげに、本を持ってきた輝夜の姿を見ていたら。

 それはそれで、まあ悪くはないのかもしれないなと、銀山は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 次に輝夜が気になったのは、ご飯を食べるの辛くないのかな、ということだった。食事となれば、当然体を起こさないといけないし、箸を使うためには腕を動かさないといけない。これはひょっとすると、怪我が治りきっていない銀山には辛いところがあるのではないか。

 そう思って夕食の席で銀山を注視してみれば、なるほど、腕を曲げ伸ばしする際にかすかに痛そうな顔をしている――気がする。

 

「ねえ、銀山」

「うん?」

「傷、痛くない?」

 

 図星を突かれると、銀山は困ったように笑う。箸を膳の上に置いて、吐息とともに不自然に強ばっていた肩から力を抜いた。

 

「よくわかったね」

「ま、まあね」

 

 銀山はきっと、隠そうとしていたのだろう。輝夜は少しだけ誇らしい気持ちになった。好きな人のこういうところが見抜けるようになると、普通よりも一歩踏み込んだ関係になれている気がして、むくむくと嬉しくなった。

 だが気づいただけではダメだ。気づいて、そして、助けてあげなければ。

 幸い、輝夜がするべきことは既に決まっている。銀山のために食事の手伝いをしてあげればいい。腕を動かすのが辛いのならば、代わりに食べさせてあげるのが妥当なところだ。

 

「……」

 

 今しがた考えたことを、もう一度頭の中で反復させる。

 ――代わりに、食べさせてあげる。

 輝夜が、銀山に、ご飯を、食べさせてあげる。

 私が。

 銀山に。

 

「……」

 

 じわーっと、神経の奥から込み上がるように耳が熱くなって、それは体全体に広がった。自分の心臓の音が、頭に直接響いて聞こえる。目の焦点がかすかに合わなくなって、見えるものがぼんやりと陽炎みたいに揺らめいて見える。しばらくの間、呼吸をするのを忘れていた。

 脳の大半が熱に浮かされる中、隅っこの方で、奇跡的に生き残っていた輝夜の理性が告げている。――もしかして私、結構、すごいことをしようとしてるんじゃない?

 ご飯を食べさせてあげる、なんて、そんな、恋人同士じゃあるまいし。

 いや、でもこれは必要なことだ。傷に響いて食事が辛いのだったら、誰かが助けてあげるのが筋というもの。そしてこの場には、輝夜以外に助けになれる者はいない。だから輝夜がやるしかない。三段論法。そう、これは、仕方がないことなのだ。

 輝夜は銀山にたくさん助けてもらったのだから、その分彼を助けなければならない。それだけの話であって、ほんの一時だけでも恋人同士になれる気がするからやってみたい、なんてことは、断じて考えてはいない。

 考えていないったら、いないのである。

 だからなにも問題はない。ほら行け、蓬莱山輝夜――と、天使、或いは悪魔の、囁きが聞こえて。

 ぽつり、口を切る。

 

「じゃ、じゃぁ……わら、わたひが」

 

 その途端、あ、これはダメだな、と輝夜は思った。緊張で唇がまともに動いてくれない。茹だるような熱にやられて、頭が人語を失いかけている。

 だが、やめようとは思わなかった。喋られなくたって、ご飯を食べさせてあげるくらい、できる。銀山が持っていた箸を無言のまま横取りする。それを小鉢の中に突っ込んで、漬物を摘み上げる。

 きっと、顔は真っ赤だろう。ひょっとすると湯気が上がっているかもしれない。銀山の顔をまっすぐ見てしまうと、恥ずかしすぎて気を失ってしまうかもしれない。

 なので輝夜は、極力視線をまっすぐ合わせないように縮こまりながら、上目遣いで。

 震えて漬物を落としそうになる箸を、銀山の口元にまで、持っていく。

 

「……ん」

 

 言語中枢は、もう完全に職務を放棄してしまっていて。

 

「ん」

 

 それしか言葉が、出てこなかった。

 

 

 

 

 

「……ん」

「……姫」

「ん」

「いや、あのな」

「んっ……」

「……」

 

 溜めた息をほんの少しだけこぼす、ん、ん、という小さな声とともに、輝夜が震える箸で漬物を押しつけてくる。その行動が一体なにを意味するのか、銀山とてわからないわけではない。

 だが、わかることと受け入れることは、まったくの別物だ。

 

「んっ……ん!」

「いや……ちょっと待ってくれ」

 

 食べさせてあげるからさっさと口を開けろ。わかっている。箸を動かすたびに腕の傷が痛むのは事実だったのだから、代わりに箸を持ってやろうという輝夜の判断には、きちんと筋が通っている。

 だがそれでも、彼女は、天下に名高いかぐや姫である。かぐや姫にご飯を食べさせてもらうというこの状況が、世の男たち全員に喧嘩――否、全面戦争を吹っかけるものであることくらい、銀山にだってわかる。

 もし偶然に偶然が重なり、なにかの間違いで外にこの状況が知られれば。第二第三の御行と化した男たちの襲来によって、銀山の仕事は干され、衣食住が成り立たなくなり、もしかすると都から追い出されてしまうかもしれない。

 

「や、姫……一人で食べられるから、ここまでしてもらわなくても」

「……!?」

 

 なのに銀山が断ろうとすれば、輝夜はこの世の終わりみたいに絶望の表情をする。これほどまで究極の二者択一が、果たして今までの人生であっただろうか。

 

「ん……! んーっ……!」

 

 切羽詰まった表情で銀山に漬物を押しつける、輝夜の心中は、早く食べてよどうして食べてくれないのもしかして迷惑なの!? といったところだろうか。段々不安になってきたのか、目元がじわりと濡れてきたようだ。

 

「んーっ……! んー……っ!」

「……」

 

 ――ええい、ままよ。

 さらば私の都生活、と銀山は素早く辞世の句を唱え、口を開ける。

 

「……あー」

「! ん!」

「ごはぁっ」

 

 そして瞬く間に満面の笑顔を咲かせた輝夜に、箸で喉の奥を一突きされた。

 先ほど唱えた辞世の句が、本当に辞世の句になるかと思った。

 

「げほげほげほ……」

「あ……」

 

 ようやく「ん」以外の言葉を口にして、輝夜がさっと顔を青くする。けれど人語を取り戻すことはできなかったらしく、しばらく無言であせあせしてから、やがてはっと気づいて水を差し出した。

 

「ん……」

「……ああ、ありがとう」

 

 喉仏を押さえながら水を呷る。冷えた水は、銀山の傷ついた喉に痛いくらいに染み渡った。

 ふうと銀山が一息をつけば、輝夜がちゃっかりと次の料理に箸を伸ばしている。まだやるつもりらしい。

 

「……ん」

「……」

 

 今度はご飯の乗った箸を伸ばしてくる輝夜を、銀山は半目で睨みつけて、

 

「……二度目は勘弁だぞ?」

「ん」

 

 こく、と輝夜は頷いた。なので銀山は、もう一度口を開けた。

 そして、また顔をぱああっと輝かせた輝夜が、

 

「んっ!」

「げふ」

 

 なにが起こったのかは言わずもがな。さらば私の都生活という辞世の句を残し、銀山は死んだ。

 

「げほげほがほげほ……」

 

 まさかの連続攻撃、しかも的確に同じ箇所をやられた。銀山がござに突っ伏して悶え苦しんでいると、また「あ……」と蚊の鳴くような声をもらした輝夜が、おっかなびっくりとこちらの背中をさすってきた。

 

「げほげほ」

「う……」

 

 水を飲む余裕すらありはしない。喉を火で炙られるような激痛にしばらく悶絶躄地(もんぜつびゃくじ)し、やがて多少マシになった頃に体を起こせば、銀山は悟りの境地へと至っていた。

 

「……」

「ひ、」

 

 輝夜が小さな悲鳴を上げる。銀山は笑顔だった。これだけ酷い目に遭ったにも関わらず、心は不思議と夏の青空のように晴れやかだった。

 怒りという感情を一歩向こう側へと昇華した、新しい世界の幕開けである。

 

「……姫」

「……」

「二度目は勘弁してくれと、言ったよな?」

「……、」

「そしてお前、はっきりと頷いたよな?」

「…………」

 

 輝夜の目尻にじわりと涙が浮かぶ。ふるふると肩が震え始める。絶世の美貌を持つかぐや姫が小動物よろしく縮こまって半泣きになる姿は、きっと、世の男が見たら発狂してあつち死に(・・・・・)するほどに可愛らしかったことだろう。

 だが生憎、今の銀山にはそんなことなどどうでもいい。満面の笑顔のまま輝夜の肩に手を置き、凄絶なまでに優しい声で。

 

「――箸、返してくれるな?」

 

 輝夜からの返事はない。結局最後まで、彼女は人の言葉を取り戻すことができなかった。

 ただ一度、ぐすっと、鼻をすすって。

 それからまるで今生の宝物を手放すかのように、震える両手で、箸を銀山へと差し出したのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……やりすぎちゃった」

「いや、それはやりすぎというか、なんか……その」

 

 輝夜がその失敗談を話すと、雪はとても微妙そうな顔をした。優しい性格の雪でさえ、気遣いの一言すら言えない様子だった。

 そうだよなあ、と輝夜は思う。ご飯を食べさせようとして銀山の喉を箸で一突き、いや二突きしてしまったなんて、笑い話以外のなにものでもないではないか。

 雪は右頬に手を添えながら腕を組んで、半ば呆れるようにため息をついた。

 

「初めに聞いた、本棚に潰されたお話もそうなんですけど……姫様ってもしかして、ドジっ子なんですか?」

「そ、そんなこと……」

 

 ない、と言い切りたかったが、ここ数日の自分を振り返ると否定できなかった。本棚と食事の件を筆頭に、犯した失敗は既に数えきれない。

 ああ、もしかして自分は、ドジっ子なんだろうか。少し前に、雪が手本として銀山を看病してみせたことがあったが、それと比べると、なんだか無性に泣きたくなってきてしまう。同じ女なのに、輝夜の方が何百倍も長生きしているのに、どうしてここまで理不尽な差が生まれるのだろう。ああ、神様は不公平だ。『天は二物を与えず』なんていうが、雪は二物どころか、三つも四つも五つも素晴らしいものを与えられているじゃないか。

 

「ちょっと気負いすぎですよ。一旦深呼吸しましょう?」

「ううっ……」

 

 雪の優しい声音が胸に沁みる。ああ、雪みたいな女になりたい。

 

「ほんと、なにもできないんだなあ。私って」

 

 色々なことをしたいと思うようになって、初めて気づく。蓬莱山輝夜には、好きな人一人を不自由させないように助けてあげることすら、できやしない。

 

「こんなんだったら、もっと色々勉強しておくんだったなあ」

 

 今までぐうたらに生きてきた時間を少しでも他のことへと当てていれば、雪には及ばないにせよ、もうちょっとはいい女になれていたのだろうか。銀山に迷惑を掛けることなく、きちんを彼を助けることができていたのだろうか。

 そう思ってしょぼくれていると、ふいに雪がくすりと笑みをこぼした。嘲るのではなく、慈しむように透明な微笑みだった。

 

「姫様、可愛いですねえ」

「えっ……な、なによいきなり」

 

 いきなりのことだったので、つい狼狽えてしまう。さんざ美しいと褒められてきた輝夜だが、可愛い、と言われたのは初めてだった。

 

「だって姫様ったら、とっても一生懸命に恋をしてるんですもの」

「……そう、かしら」

 

 曖昧に返しながら、けれど心では、そうなのかもなあと思う。ここしばらくは、四六時中銀山のことばかりを考えている。どうやったら銀山の助けになれるかとか、明日は銀山となにをしようかとか、銀山のために明日はもっとこうしてみようとか。今まで『私』を中心にして考えていたことが、全部『銀山』に取って代わった――そんな具合に。

 なんともまあ、我ながら随分と、一途なことだった。

 

「大丈夫ですよ、銀山さんはお人がいいですから。姫様が自分のために頑張ってくれてるんだってことは、ちゃんと気づいてくれているはずです」

「そうかな」

「そうですとも。だって私、姫様よりも、銀山さんのことをよく知ってますからね」

「む」

 

 得意そうに胸を張る雪の物言いが、少し、癪に障る。銀山と雪がそういう関係でないのは、知っているけれど。けれど、銀山のことを自分が一番よく知っていたいと思う、この感情は、きっと嫉妬なのだろう。

 無言のまま唇を尖らせていると、その反応を予想通りだと言うように、雪が「ふふ」と笑みを深めた。

 

「だから銀山さんのこと、もっとよく知ってあげてくださいね」

 

 雪曰く、銀山は恋愛事に対して自然体だという。つまりはなんの構えも取らず、踏み込むことも遠ざかることもせず、ただそこに在るだけ。恐らく彼は、自分が誰かと愛し合うということを想像すらしていないのだろう、というのが雪の見立てだった。

 相手がこれなのだから、こっちまで受け身になったってなにも始まらない。銀山が優しい性格であることを利用して、失敗を恐れずにどんどん行動してみるべし。

 だから輝夜は、もうちょっと頑張ってみようと、思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ねえ……銀山のこと、『ギン』って呼んでみていい?」

 

 その問いを、銀山は少なからず意外だと思った。まさか輝夜の口からその呼び名を聞くことになるとは、予想だにしていなかった。

 御行の襲撃事件から一週間と半分ほどが経ち、貸してもらっている小舎が次第に第二の家となりかけてきた銀山に対し、輝夜が向けた表情には薄い緊張の色があった。

 彼女が口にした『ギン』という呼び名は、現時点で秀友だけが使っている銀山に対する愛称だ。秀友はしばしば見舞いという建前でここにやってきてはあれこれ騒いでいくから、なにかの拍子で耳に挟んだのだろう。

 だが、よもやその呼び名を使ってみてもいいかと尋ねてくるとは、どういう心境の変化だろうか。特別嫌なわけではないが、なぜ、くらいの詮索はしてみたくなる。

 

「それはまた、どうして?」

「えっ……? それは、ええと、その」

 

 問えば、輝夜は困り顔をして俯いた。答えに窮するということは、単に呼びやすいからとか、好奇心に刺激されたからとか、そういった単純な理由ではないのだろう。

 ならば必然、銀山の推測はある一つの可能性に行きつく。相手を対して愛称を使う、もう一つの理由――呼びやすさからでも好奇心からでもない、純粋な、親愛の表現。

 一番気が置けない親友だからと秀友がその呼び名を使うように、或いは輝夜も、また。

 愛称を使ってみたいと思うほど心を開いてくれているのだとすれば、一人の人間として光栄でもあるし、また男としては複雑でもある。

 苦笑し、

 

「まあ、好きにしてくれていいよ。嫌いじゃないしね」

 

『銀山』の一文字目を取っただけの単純な愛称だが、それなりに気に入ってもいた。ギン――銀は、銀山にとって最も馴染みの深い色だから。己を表す代名詞として、これ以上はないのではなかろうか。

 深く追及されなかったことを、輝夜は多少なりとも安堵したようだった。胸を撫で下ろし、それからすぐに人懐こい笑顔を浮かべて言う。

 

「ありがと。それじゃあこれからは、遠慮なく『ギン』って呼ぶわ」

「ああ」

「それで……その」

 

 と、輝夜の声音がふいに不明瞭になる。頬を朱色にして肩を縮めた彼女は、一度なにかを言おうとして、けれど言葉にできないまま俯いた。

 

「今度はどうした?」

「いや、あのね……」

 

 輝夜は、銀山をチラチラと何度も窺いながら、

 

「あんたは私のこと、なんて呼んでたっけ」

「なんてって、普通に『姫』って――ああ」

 

 そこまで答えたところで、銀山は輝夜の言わんとしているところを悟った。なるほど、これは確かに、自分から言い出すのは少し恥ずかしいかもしれない。

 

「じゃあ、なんて呼べばいい? 愛称だったら……『かぐちん』とか?」

「……」

 

 ぱっと思いつきで言ったら、とても微妙そうな顔をされた。

 

「なら、かぐや……かぐー……『ぐーや』とか」

「……やっぱり普通に『輝夜』でいいわ」

 

 どうやらお気に召さなかったらしい。そんなにダメだろうか、ぐーや。

 輝夜は小さくため息をつく。

 

「第一、御行と戦ってた時に、私のこと『輝夜』って呼んでたじゃない」

「……そうだったか?」

「そうだったでしょ……ってなによ、覚えてないの?」

「あの時は色々必死だったからねえ……」

 

 銀山は基本的に相手を下の名で呼ぶから、ついそれが出てしまったのかもしれない。

 

「……」

 

 輝夜は黙っていた。黙って、銀山からの答えを待っていた。頼りなげに揺れる瞳で、銀山が頷いてくれるのを祈るように。

 

「……本当にいいのか? 後々になって不敬罪とか持ってくるのはなしだぞ?」

「そんなの今更でしょ。今だって、敬語なしで話してるんだもの」

「まあ、それもそうか。……ならこれからはそういうことにしようか、輝夜」

「っ……」

 

 名を呼ぶと、輝夜の小さな肩が一瞬、震えた。いきなり呼ばれるとは思っていなかったのだろうか。

 だがその動揺もすぐに、込み上がってきた喜びの色へと取って代わる。にへ、と輝夜はだらしなく頬を緩めて、

 

「うん。そういうことでよろしく、ギン」

「はいはい、輝夜」

 

 かぐや姫と親しく名前を呼び合う関係とは、遂に来るところまで来てしまったなと、銀山は思ったが。

 

「うん、……よろしくね、ギン」

 

 そう言って笑う輝夜の面差しが、なんだかとても、幸せそうだったので。

 これはこれでいいかと、銀山は何も言わないことにした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 それからすぐ、そろそろ昼食の時間だという話になって、輝夜が支度をするために小舎を飛び出していく。

 程なくして、入れ替わるように、竹取の翁が戸を叩いてきた。

 

「翁殿……」

「ああ、そのままで構いませんよ」

 

 体を起こそうとした銀山を、翁の掌が柔らかく制する。

 

「まだ傷に響くでしょう。無理はなさらないでください」

「……ありがとうございます」

 

 翁がここを訪ねてくるのは、今回が初めてではない。依頼主という立場上か、たびたびやってきては、銀山の怪我を気遣ってくれていた。

 

「お世話になっています」

「構いませんよ。このくらいの恩返しは、させてください」

 

 こちらの近くに腰を下ろす、その動きにはやはり水が流れるように自然な教養が染みついていて、本当に元平民なのかと疑ってしまうのはあいかわらずだった。他の貴族たちに爪の垢を煎じて飲ませてやりたくなってくる。口端をゆっくりと動かして微笑む仕草ですらも、隅々まで垢抜けしすぎていた。

 

「いかがですか。輝夜が、なにか迷惑を掛けてはいませんでしょうか」

「あー……まあ、色々と頑張ってはくれています」

 

 喉の奥を箸で二回も突かれて死にかけたのは、まだ記憶に新しい。

 翁は、その答えを初めから予想していたようだった。

 

「こちらの教育が足りず、お恥ずかしい限りです」

「いえ、気にしていませんよ」

 

 世辞ではない。さすがに喉を箸で突かれたのは例外だが、銀山の世話を焼こうと東奔西走するお転婆な輝夜の姿は、見ていてそれなりに楽しくもあった。もし輝夜が、教育が隅々まで行き届いた生粋のお嬢様だったら、こうはいかなかったろう。

 

「あれくらいやんちゃな方が、下町の男にはちょうどいいですよ」

「そうですか。そういえば、門倉様のご友人……神古様には、とても素敵な奥方がついておられましたが、門倉様にはそういった方は?」

「いませんよ」

 

 苦笑混じりに答える。種族問わず女性の知り合いは多くいるが、伴侶と呼べるほど深い仲になった相手は一人もいない。

 

「広く浅く、友人程度の相手ばかりです」

「そうなのですか」

 

 翁は、少し意外そうな口振りだった。

 

「門倉様でしたら、きっと引く手数多でしょうに」

「ッハハハ。そういえば昔から、妙な相手に好かれますねえ」

 

 人間と妖怪の共存を夢見る境界の少女であったり、鬼たちの頂点に君臨し『鬼子母神』と畏怖されるようになった少女であったり。数多くいる友人の仲でも特に親しいのは、みんな性格に妙な一癖がある者たちばかりだ。

「なるほど」と翁は咀嚼するように頷いて言う。

 

「確かに輝夜にも、あれで少しばかり妙なところがあるように思います」

「……」

 

 それは一体、銀山にどんな返事を期待しているのだろうか。

 翁は、閉口している銀山を特に気に留めた風でもなく、陽の光が降り注ぐ窓外を望むと、昔を思い出すようにふっと目を細めた。

 

「最近の輝夜は、とても元気になりました」

「元気すぎるくらいだと思いますが……昔は違ったのですか?」

「ええ。外でこそ、輝夜は箱入り娘とされていますが……実際は少しばかり違います。半分は正解であり、また半分は、誤りでもあります」

 

 ここで二週間近く生活してみて気づくことだが、輝夜には貴族である割に鈍くさいというか、教育が行き届いていないところがある。それはつまり、お嬢様として手塩にかけて育てられたわけではない、ということ。

 

「もともと輝夜は、屋敷の中を好む傾向にありました。誠にお恥ずかしいのですが、あけすけに言ってしまえば、引きこもりの嫌いがあったということになります。もちろん、私が輝夜を箱入りとして育てたのも事実ですが」

「ふむ……」

「そして、もう一つ」

 

 翁の面差しにかすかな陰りが差す。彼はゆっくりとまぶたを下ろし、目元の皺を少しだけ深くしながら、ため息をつくように言った。

 

「かぐや姫として持て囃されることに、少しばかり、倦んでいたようなのです」

 

 故に輝夜は、箱入りとして育てられる一方で、

 

「輝夜自身もまた、望んで屋敷の外に出ようとしなかったのです」

「……そうですか」

 

 翁から告白された事実を、銀山は意外だと思う。そして同時に、仕方のないことだとも思った。人の口に戸は立てられない。人が望む望まないに関わらず、噂話は人の口から口へと伝染し、語り手に都合のいいように解釈され、一人歩きを続けていく。歩き続ける中で、まったく別物の存在へと姿を変えることだって珍しくない。

 噂とは、人間が最も簡単に生み出すことのできる、魔物なのだ。

 

「それで、このところは元気がなかったのですか?」

「ええ。結果的には、そういうことになります」

 

 奥歯に物を挟めたような言い回しだ。銀山はなにも言わず、黙して翁の言葉を待った。

 翁は、後悔するように緩く首を振った。

 

「ですが私は、育ての親として、輝夜の幸福を望んでおりました。伴侶となる者を見つけ、幸福な家庭を築くことを。……故に輝夜の同意を充分に得ないまま、貴族様方の婚姻の申し出を、幾つか、半ば強引に受けてしまったのです」

 

 過日この屋敷を襲撃した大伴御行を含め、五人の貴族が一斉に輝夜へ求婚を行ったという一件は、銀山も噂話では耳にしていた。

 だが噂話は所詮、語るに易く曲解された、事実のように見えて事実でないもの。

 

「あれが、輝夜が外との交流を断つ決定打でした」

「……」

「相当粘着質に、言い寄られまして。……我ながら浅はかでした」

 

 望まない縁談というのがどういうものなのか、銀山にはよくわからないが、少なくとも不快ではあるのだろうと思う。望んでもいないのに勝手に噂ばかりが広まって、望んでもいないのに男たちに言い寄られ続ける日々は、同じことの繰り返しで、息遣いのない牢獄のようで。それだったら自分の殻に閉じこもってしまった方がいいと、輝夜は思ったのだろうか。

 

「輝夜と喧嘩をしたのは、あれが初めてでした」

 

 恥じるように、翁は苦笑した。

 

「どうにか仲直りはできたのですが……それ以来、輝夜はどことなく空元気で振る舞うようになってしまいまして。ですから、なんとかならないだろうかと、屋敷の者たちと頭を悩ませていたのです」

「なるほど」

「色々な手を試してはみたのですが、大した実りも得られないまま――そして、今回の事件が起こりました」

 

 ふいに、翁の話の軸が飛躍する。なぜその話につながるのかと銀山が眉をひそめるのも構わず、翁は立て板に水と語り続けた。

 

「ちょうどその頃、私は、とある陰陽師の方の噂を耳に挟んでおりまして。依頼に従って物の怪を退治するだけでなく、その人柄で傷ついた人の心を開く力があると、もっぱらの評判でした。……なので、もしかするとその方が輝夜の心をも癒してくれるのではないかと、考えたのです」

 

 銀山を見つめて、

 

「はて、その方の名はなんと言いましたかな」

 

 浮かべる笑顔には、好々爺にはどこまでも似つかわしくない、いたずらの色。

 

「確か――門倉銀山、だったでしょうか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……私の当ては当たりました。輝夜は門倉様と出会い、確かに、かつての素直な自分を取り戻したようです。輝夜のあそこまで綺麗な笑顔を、私はもう随分と長く見ていなかった」

 

 ……よくも、まあ。

 よくもまあ、こんなにも回りくどい演技を、こんなにも真面目に続けられるものだ。

 

「門倉様のためになにかをしたいと、怪我が治るまで世話をしてやりたいと、訴えかけてきたのは輝夜の方でした。今だって、門倉様がお腹を空かせているからと、心から楽しそうに厨房へと駆けていきました。……本当に輝夜は、元気になった」

「……翁殿。そろそろ、やめにしませんか?」

 

 いい加減に耳がかゆくなってきたので控えめに訴えてみるのだが、翁はとぼけた顔で、

 

「おや、なにをです?」

「……」

「ほほほ、冗談です。……さすがに悪ふざけがすぎましたな。ですが、それだけあなた様には感謝しているのだと、ご記憶ください」

「……はあ」

 

 とんだ好々爺だと思っていたが、どうしてなかなか、茶目っ気がある。

 ひとしきり「ほっほっほ」と笑った翁は、静かに居住まいを正して、銀山に向けて深く頭を下げた。

 

「改めて、門倉様。輝夜のために尽くしてくださって、ありがとうございました」

「……どう致しまして」

 

 だから銀山は、翁に呼ばれた。屋敷に物の怪が現れたことにかこつけて(・・・・・)、輝夜と接点を持たせるために、翁は屋敷の調査という建前(・・)を銀山へと依頼した。

 つまるところ、依頼を受けてから今日に至るまでの銀山の行動は、それはもう面白いくらいに、翁の目論見通りだったというわけだ。

 

(これは、なんともまあ)

 

 手紙を受け取った時点で裏がある気がするとは思っていたが、想像の斜め上だった。この場に齋爾がいなくて助かったと銀山は思う。もし彼がいたら、銀山の胃には今頃風穴が開けられていただろう。

 

「――ところで。一つだけ、私にも予想外だったことがあります」

 

 翁の声音がふいに真剣味を帯びる。浮かべる笑顔はあいもかわらず柔らかだったが、彼はわずかに細めた瞳で、縫いつけるように銀山を見つめた。

 

「輝夜は確かに、あなた様に心を開きましたが――少しばかり、開きすぎたようでもあるのです」

 

 翁の言葉を引鉄にして、屋敷の遠くから甲高い女中の悲鳴が聞こえてくる。

 

『な、なんなのこの煙、もしかして火事!? ――って、ひ、姫様!? こんなところで一体なにをなさってるんですか、早く逃げないと! ……え、料理? …………料理!? 料理なんですかそれ!? ちょちょちょっちょっと待ってくださいっ、炎がっ、炎がっ! あっ、姫様ダメですそんなよそ見しちゃっ、あー!?』

 

 ついでに、なにかが砕ける音やら爆発する音やらが、聞こえて。

 

「……、」

「……もしも」

 

 その騒音を最後まで聞き届けた上で、翁は微塵も動じることなく、たたえた笑みを静かに深めた。

 

「もしも、万が一のことが、あるようなら」

 

 しっかりと言葉を区切って、大切な念押しをするように。

 翁は今一度、深く頭を下げる。

 

「その時は、是非とも。輝夜のことを、よろしくお願い致します」

 

 万が一のことってなんだとか、一体なにをよろしくするのかとか、そんなのわざわざ尋ねて確かめるまでもない。

 つまり、これは。言ってしまえば、『公認』、ということである。

 銀山は、なにも言えない。

 

「それでは」

 

 軽く会釈し、立ち上がった翁が踵を返す。銀山はなにも言えない。翁がほっほっほと笑いながら戸を開けて、外に出る。銀山はなにも言えない。戸がゆっくりと閉まり、翁の姿が陽射しの向こうへと消えていく。銀山はなにも言えない。

 ぱたん、と扉の閉まる音、

 

「……」

 

 数呼吸の間、

 

「…………なんてこった」

 

 情けない男の言葉が、ぽつりと情けなく、夏の空気と混じって消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ⑦ 「夜を歩く」

 

 

 

 

 

 朝目を覚ましたら、少しだけ汗をかいていた。それを夏の朝だと思いながら、銀山はゆっくりと体を起こした。このところどこか肩肘の張っていた目覚めのあくびは、今日は中空に溶けていきそうなほどに柔らかかった。

 体の痛みが取れている。

 

「……うん」

 

 両腕を上に挙げ、背伸びをすれば、上半身の筋肉が張っていく感覚。それを噛み締めるようにしながらゆっくりと腕を下ろし、深呼吸をする。まだ多少、違和感こそあるが、目立った痛みはなかった。

 試しにすっくと立ち上がってみる。途端に立ちくらみを起こして、銀山は膝に両手をつきながら、吹き出すように笑った。長らくろくに動いていなかったせいで、体はすっかり鈍ってしまったらしい。

 人間の体は大変だね、と自分だけに聞こえる声で呟いたあとで。

 今度はそれを振り払うように、息を吸って、

 

「……治ったかな」

 

 傷に当てていた布当てを外していく。まだ傷の痕跡は残っていたし、人間の体である間は消えてなくなることもないだろうが、些細なことだった。軽めの体操をしても問題はないから、これ以上ここで世話になる必要はないのだとわかればそれでいい。

 指先のほんのかすかな動きまで、すべてが自分のところに戻ってきたのを確かめながら。

 

「よし、全快だ」

 

 最後にもう一度だけ背伸びをして、長らく世話になった第二の我が家をあとにする。

 青以外の色を知らない夏空の下、自分の思うがままに歩き回れることを、銀山は改めて、幸せなことだと思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 怪我が治った以上、これ以上ここで世話になり続けるわけにもいかないので、すぐに下町へと戻るつもりだった。

 ところが、これに輝夜が猛反対した。怪我も治ったし家に戻るよ、と伝えたところ、目に見えて慌てた様子で、

 

「帰っちゃうの!? ……そ、そんなのダメよ!」

 

 そして、家族会議になった。もちろん銀山は輝夜の家族ではないが、とかく銀山と輝夜、そして翁が一堂に会して、今後の生活について話し合うこととなった。

 初日に翁と初めて顔を合わせた場所である応接間にて、まず輝夜がはっきりと手を挙げて言う。

 

「私は反対です!」

「私は、門倉様のお好きなようになさればいいと思いますよ」

「じゃあそういうことで。お世話になりました」

「ちょっとー!?」

 

 家族会議は一瞬で終了した。賛成二、反対一、多数決により銀山の勝ち。

 輝夜が床をビシビシ叩いて喚いた。

 

「ま、待ちなさい! ギンはまだ病み上がりなんでしょ!? あんまり無茶しちゃダメよ!」

「別に、ただ下町に戻るだけじゃないか。無茶もなにもないよ」

 

 それに、下町の家のことが少し気になる。この都は外に比べれば治安はいいが、それでも物取りとまったく無縁というわけではない。今は秀友たちが見てくれているそうだが――否、見てくれているからこそ、怪我が治った以上は早く戻らねばと思った。

 

「私は気にしないのに……」

「お前が気にしなくても私が気にするんだよ。だからさすがにそろそろ戻らせてくれ。あれこれ盗まれて生活が成り立たなくなってたら困るからね」

「だ、だったら」

 

 やや躊躇う色があったが、それでも輝夜の言葉は早かった。頬をほのかな朱色にして、縮こまり、

 

「だったら、ずっとここにいればいいじゃない……」

「……」

 

 いや、なにが『だったら』なのかいまいちよくわからないのだが、そんなことよりも。

 

「……」

「……」

 

 静寂。銀山と輝夜が、ぽかんと呆けながらお互いを見つめ合っている。銀山はもとより、輝夜もまた、自分の口から出てきた言葉に驚いているようだった。

 ただ一人、翁だけが、いつも通りの人のいい笑顔で笑っている。

 大伴御行の襲撃事件を境にして、輝夜からの態度が少しずつ変わりつつあるのには気づいていた。そしてその理由がなんであるのかも、以前翁にからかわれた一件もあって、今となっては認めざるを得ないものがある。

 だがそうだったとして、彼女の想いに応えることはできないだろうと銀山は思う。無論、それにはいくらか理由があるが、一番大きなものは、やはり自分が人ではないことだった。

 輝夜の想いは、『人である』という銀山の嘘の上に成り立ったもの。真実を明かせば、嘘とともに崩れて消えてしまうもの。それは、まやかしなのだと、銀山は思う。

 だが、かといって正直にすべてを話す気にもなれなかった。嘘をつくことへの背徳と、この都で生活し続けること。両者を天秤にかければどちらに軍配が上がるかなど、わざわざ考えるまでもないほどに明白なのだ。もし天秤が背徳の側に傾くのなら、月見(・・)は初めからここにはいない。

 ふとしたように、ガタン、と小さな物音が鳴った。銀山はゆっくりと、輝夜は弾かれたように素早く、その方を見る。

 応接間の外から鳴った物音は、すぐに何者かが走り去っていく足音に変わって、

 

『み、みんなー! 姫様が、姫様が遂に門倉様にーっ!』

『『『な、なんですってー!?』』』

「盗み聞きしてたなあああああ!? ちょっ、待て! 待ちなさあああああいっ!!」

 

 輝夜が怒り狂って応接間を飛び出していった。

 女中たちがきゃーきゃーと騒ぐ黄色い声に、一人、輝夜の喚き散らす声が混じって、結果的に馬鹿騒ぎとなって屋敷中に響き渡る。時折突き抜けて聞こえてくる、輝夜が茶化されたり祝福されたりする言葉から、銀山は努めて耳を逸らすことにした。この騒ぎが、屋敷の外まで聞こえていないことを切に祈る他ない。

 翁はあいもかわらず好々爺の顔でこちらを見つめているが、そんな目をされても困ると、銀山は内心で苦笑する。

 

「輝夜は、本当に元気になりました」

「見ればわかります」

「ええ。……どうですか? 輝夜の言う通り、ずっとここで暮らしてみては?」

「ご冗談を」

 

 翁が意外に茶目っ気のある性格であることは既に知っているが、それにしても彼の言葉は、本気なのか冗談なのか区別をつけにくい。幸い今回は(・・・)冗談だったようで、翁は笑みの吐息をこぼしながら、一つ大仰に頷いた。

 

「もちろん、それは門倉様のお好きなように」

 

 好きなように――つまり翁は、こちらがここで暮らすことを選んだとしても、もはや拒みはしないのだろう。銀山はぼんやりとそう思ったが、口には出さなかった。

 

「……ああ。ですが、できることなら、一つだけお願いしたく思います」

 

 そして、これから言われる言葉は恐らく冗談ではない。はてさてなにを言われるやらと、銀山は静かに身構えた。

 

「なんでしょうか」

「これからも、ふと思い出しては、輝夜に会いに来ては頂けないでしょうか」

 

 それは、嘆願するように。

 ――或いは、手紙だけでも構いません。これで門倉様との関係が終わりとなってしまっては、輝夜はきっと、また塞ぎ込んでしまうでしょう。

 

「ですから、どうか」

「……」

 

 翁の言葉の意味は、よくわかる。打ち解けた相手とぱったり会えなくなってしまったら、誰だって寂しいと思うだろう。

 だが銀山は、頷くでも首を振るでもなく、ただ、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。恐らく、気のせいではないのだろう。

 間違いなく、翁は――外堀を埋めようとしている。

 

 

 

 

 ○

 

 

 一週間、と輝夜は言った。毎日とは言わないから、せめて一週間に一度くらいは、会いに来てほしいと。

 銀山は、善処はする、とだけ返した。銀山が再びこの屋敷を訪れられるかどうかは、正直なところ都の男たちの動向次第だ。何事もないようなら大丈夫だろうし、不穏な空気があるならば、素直に大人しくしておく必要がある。そしてそれは、実際に下町に戻ってみないことにははっきり言えない。

 結果を言えば、銀山が恐れていたほどのことは起こらなかった。もちろん、嫉妬の視線がまったくなかったわけではないが、銀山を爪弾きするような露骨な歓迎もまた、なかった。

 ひとえに、町の人々と上手い関係を築けていたからだろう。陰陽師の仕事に囚われず色んな人たちの相談を聞き、世話を焼いているうちに、町の小さな御意見番として頼られるようになった恩恵だ。かぐや姫を妖怪の魔の手から見事救ってみせた、などと脚色された英雄譚が、ところどころで噂になっているらしい。嫉妬故に男からの相談が減るのは避けられなかったが、代わりに、女から頼られることが増えたので。

 詰まるところ銀山の生活は、あくまで表面上では、今までとさほど変わりないのだった。

 

「まーよかったじゃねえか。オレはもう、お前さんはこっちに戻ってくるなり嫉妬に狂った野郎どもから袋叩きにされるもんだと、諦めてたんだけどよ」

「……ご期待に添えなくて悪かったね」

 

 幸い家の物が盗まれることもなく、この日は銀山宅で回復祝い。我が物顔で胡座をかき酒を呷る秀友に、銀山は軽いため息を返した。そのあとで息を吸うと、強い酒の匂いが鼻の奥を突く。脳まで広がっていきそうな香りはとても芳醇で、しつこすぎるくらいだ。

 秀友は大して酒に強くもないのに飲兵衛だし、辛党でもある。お前の全快祝いだと言って持ってきた酒はまた随分なもので、恐らくは鬼たちの前に出しても好まれるであろうほどの辛口だった。

 

「秀友さあん、ちょっと呑み過ぎじゃないですかー? もうこっちまでお酒の匂いがすごいですよう……」

 

 銀山の隣で、雪が鼻を詰まらせたような声で言った。彼女もそれなりに酒を嗜む方だが、さすがにこれは強すぎるらしい。夫ではなく銀山の隣に座っているのも、酒の匂いから少しでも離れるためだろう。

 そんな雪の控えめな非難を、秀友は呵々と笑いながら受け流した。まるで鬼と一緒に呑んでいるみたいだと銀山は思う。もし秀友の頭にいつの間にか角が生えていたとしても、銀山も、そして雪も、驚きはしないだろう。

 三人だけの小さな宴会を始めてから大層夜も深まったが、秀友の口数だけが一向に衰えない。新しく猪口に酒を注いで、それを一瞬で空にすると、

 

「しっかし、これからほんとにどうすんだよ? かぐや姫サマとは、もうこれですっぱりお別れか?」

 

 秀友が口を開くたび濃くなる酒の香りに、銀山は顔をしかめながら、どうなのだろうなと考えた。ただ、今まで通りの関係を維持するのは無理なのだろうとは思う。銀山に向けられる嫉妬の感情は、表沙汰にこそなっていないが、水面下ではそれなりに多い。謂わば、器いっぱいまで注がれた嫉妬の感情が、表面張力によって辛うじてこぼれないでいるようなもの。ちょっとでも余計なことをしてしまえば、すぐにでも爆発するだろう。

 なので、

 

「まあ……ほとぼりが冷めるまで、しばらくは様子見かな」

「うーん、やっぱりそうなっちゃいますよねえ……」

 

 雪が、少しだけ残念そうな顔をした。

 

「なんとかなりませんかねえ。せめて手紙だけでも、とか」

「どうかなあ……。人によってはそこまで嗅ぎ回ってるやつもいそうだから、侮れないね」

 

 もはや、一種の信仰なのだろう。それほどにまで『かぐや姫』の名は世に知れ渡り、男たちから支持されている。たった一枚の手紙ですら、今の銀山にとっては危険な代物だった。

 

「甘い、甘いぜギン! 男たるもの、世界のすべてを敵に回してでもお前を手に入れる! くらいの気概は見せないと」

「話の趣旨を欠片も理解してない秀友さんはさておき、ほんとになんとかなりませんかねえ」

 

 床に拳を落として熱弁する秀友を当然のように無視し、雪は首を斜めにした。なんとかならないかなあ、という気持ちは銀山も同じだ。……もっとも銀山の『なんとかしたい』は、雪のそれとは少しばかり異なるのだが。

 雪が輝夜を応援する立場を取っていることには、銀山も既に気づいている。

 

「憎いっ。銀山さんと秀友さんと、造様のお屋敷の方々以外の、すべての男たちが憎いですっ。乙女の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んじまえですっ」

 

 雪が都を滅ぼそうとしている。

 

「私と秀友さん、そして銀山さんと姫様たちとで、どこか遠くの人里で静かに暮らすってのも、素敵かもしれませんよねえ」

 

 雪は、酔っているのかもしれない。

 

「馬に蹴られて死んじまえーっ!」

 

 絶対に酔っている。

 少しこめかみが痛む感覚を覚えながら、銀山は天井を振り仰いだ。とりあえずはしばらく様子見をするよと、輝夜に伝えた方がいいとは思う。だが直接会うのは言語道断、代理を立てるのも、手紙を出すのにも危険がつきまとう。言伝用の式神を放つという手もあるが、それすらも不安になってしまうのが、今の銀山を取り巻く状況だった。

 こめかみが痛むのは、きっと酒が強すぎるせいだろう。

 

 結局このあとは、秀友も雪も酔ってしまって、話が進まなくなったので。

 銀山も潔く酔って、すべての現実から、束の間だけ目を逸らすこととした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 二週間が過ぎた。

 

「……来ない」

 

 蓬来山輝夜は苛立っていた。銀山がこの屋敷を去り、今まで通りの平穏で退屈な日々が戻ってきて、しばらくが経ったが。

 

「なんで会いに来ないのよっ……ギンの、バカ――――ッ!!」

 

 想い人からの音沙汰が、一向にない。

 初めの一週間をそわそわと、次の四日をしょんぼりと、そのまた次の三日をいらいらしながら待ち続けたが、いよいよ輝夜の我慢は限界だった。会いに来るのはもちろん、まさか手紙の一つすら送ってもらえないだなんて、夢にも思っていなかった。

 部屋の床を、八つ当たり気味にバシバシ叩く。すぐに掌が赤くなったので、くううと唸りながら叩くのをやめる。

 

「せっかくこの私が、来てもいいって、言ったのにっ……」

 

 苛立ちとか、悔しさとか、寂しさとか、様々な感情が渦を巻いて、なんだか一暴れでもしたい心地だった。

 どうして会いに来てくれないのだろうか。輝夜は考え、やがて掌の赤みが治まってきた頃に、ぽつりと呟く。

 

「なにかあったのかな……」

 

 銀山は、善処はすると言っていた。つまりは、善処していても会いに行けなくなってしまうほどの、なにか大きな出来事があったのだ。

 

「仕事が忙しいのかしら」

 

 会いに行くような時間も作れないほど。でも、それならそうと手紙くらい出してくれてもいいじゃないか。手紙を書く暇すらないほど忙しい、というのは、いくらなんでもありえない気がする。

 ならば、

 

「忘れてるってことはないわよね」

 

 ないだろう。銀山は、人との約束を簡単に忘れてしまうほど不誠実な男ではない。

 

「じゃあ、家の方でなにかあったとか」

 

 例えば、物取りに入られていたとか。……けれど、二週間も音沙汰を寄越さない理由としては、弱すぎる気がする。

 銀山の性格を考えれば、約束を破って二週間もだんまりなのは明らかに異常だ。他にもっと、本当にどうしようもないくらいに、やむを得ない事情があるに違いない。

 ふと、気づく。

 ――異常?

 

「ま、まさか……! 傷が開いたとか、なにか病気したとか!?」

 

 はっとして輝夜は立ち上がった。そうだ、どうしてこの可能性を考えなかったのだろう。屋敷を去る時、銀山はもう怪我は大丈夫だからと何度も繰り返していたが、あれが事実である証拠なんてどこにもない。むしろ、これ以上輝夜たちの世話になるのは申し訳ないと思ってついた嘘である可能性の方が高い。屋敷を出て、家へと戻り、そしてまた床に伏した――なんて話は、銀山ならば、とてもありえそうではないか。

 こうしてはいられなかった。すぐに確認しなければいけないと思った。だが、どうやって確認すればいいのだろうか。遣いを出すというのが常套手段だろうが、出したところで銀山は嘘を貫き通しそうな気がする。やはり、半ば強引にでも、自分の目でしっかりと確かめた方がいい。

 だがまさか、かぐや姫である自分が、自ら銀山の家を訪ねるなんて真似はできないし――

 

(……ちょっと待ってよ?)

 

 はたと、輝夜は思う。今しがた心で考えた言葉を思い出し、慎重に吟味する。

 ――自ら銀山の家を訪ねるなんて真似はできない。

 なぜだろうか。なぜ輝夜は、初めからできないなんて言い切ったのだろうか。

 別に、

 

(……別に、私の方からギンのとこに行っちゃいけない理由なんて、ないんじゃない?)

 

 いいじゃないか、会いに行ったって。向こうから来てくれないのだから、こっちから行く。なにもおかしくはない、誰だって普通に考えることだ。

 銀山がどこに住んでいるのかは、かつてここで話し相手を務めた時に上手く聞き出せている。だから輝夜は、行こうと思えば、行けるのだ。

 もちろん、かぐや姫の立場はまるっきり無視できるわけではない。表立って会いに行ってしまうと大騒ぎになるだろうから、誰にも知られずにこっそりとでなければなけない。

 だがそれさえできれば、なにも問題などありはしない。

 輝夜の方から、銀山に、会いに行ける。

 

(……)

 

 何気なく考えてみたら、もう止まらなかった。――ギンはどんなとこに住んでるのかしら。普通の家だって言ってたけど、下町の普通の家ってどんななのかしら。どんな生活をしてるんだろう。部屋は綺麗に片付いてるのかな。散らかってるかな。意外に私みたいにぐーたらだったりして。家では本をよく読むって言ってたっけ。どんな本を持ってるんだろう。そういえば一人暮らしだから、料理もするんだろうなあ。ギンは、普段はどんなご飯を食べてるのかなあ。

 そうやって色々なことを考えると、なんだか落ち着かなくなってしまった。銀山の家に行く。たったそれだけのことなのに、なんだか世紀の大冒険に臨もうとしている冒険家の心地だった。

 わくわくする。

 会いたい。

 ギンに、会いたい。

 

「…………よし」

 

 輝夜はしばらくの間、真剣な表情でなにかを考えて、やがて頷きとともに動き出す。

 己の立場は重々承知している。だから銀山の家へ行くためには、入念な前準備が必要だ。人通りの少なくなる時間。人の目につきにくい裏道。下町の人たちに紛れ込むための背格好。すべてを完璧に調べ上げなければならない。

 けれど最悪、輝夜には『能力』がある。疲労が激しいから普段はまず使わないのだが、今は存分に利用してやろうとすら思っていた。

 大丈夫だ。

 いける。

 両手の拳をぐっと握り締めて、ふん、と気合を入れて。

 

「……蓬莱山輝夜、突撃します」

 

 かくして輝夜は、夜を歩く。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月の見える夜は好きだ。それは、元々の性格なのか、己の正体が人でないからなのか。たとえ人間になっている今であっても、こうして青白い光を浴びると、銀山の体には確かな力が満ちるようだった。

 家の屋根に寝転がってのんびりと見上げる月は、今宵はいつもより白い。叢雲に隠れながら、怯えるように淡く輝く月を見ると、決まって己のことを考える。

 心の中で自問する。――私は一体、どうやってこの都を去るべきなのだろうか。

 門倉銀山は人間ではない。遠い昔からこの世界で生き続けている、狐の大妖怪だ。本来であれば人に恐れられ、また疎まれるはずの存在だった。

『人化の法』を大成させ、限りなく完璧に近い形で人間たちの中に紛れることができている。けれど本質が妖怪である限り、決して人間と同じように生き、同じように死ぬことはできない。妖怪と人間の間にある絶対的な寿命差は、やがて銀山の正体を明るみに出すだろう。この都で生活を始めて数年、銀山の体は未だ、あの時から微塵も老いていないのだから。

 さすがに、人間の『老い』まで再現することはできなかった。

 今はまだ、大丈夫だけれど。けれどいつかは必ず、限界が来る。

 そしてその『いつか』が訪れた時、銀山は、どうするべきなのだろうか。

 

「……ふふ」

 

 自業自得だよなあ、と自嘲する。人の世界に深く入り込めばこうなってしまうと、初めから予想はしていたはずだった。だがその程度で、人間と一緒に生きてみたいという想いを抑えることはできなかった。

 銀山は、人と深く関わりすぎた。秀友、雪、下町の人々――そして、輝夜と。こうなってしまえばもう、『いつか』別れる時には、それなりの手段を取らなければならない。

 ちょっと旅に出ることにしたとか、そんな取ってつけたような理由では、彼らは納得してくれないだろう。秀友なんて、「じゃあオレもついてくぜ!」なんて言い出すかもしれない。

 己の正体を隠したまま綺麗にみんなと別れることなど、できるのだろうか。

 

「ああ、悩ましい悩ましい」

 

 そう言いつつも、銀山はくつくつと声を押し殺しながら笑った。贅沢な悩みだった。妖怪だけの世界では決して生まれようのないこの悩みを、とても幸せなものだと感じていた。

 この都で人として生きてみると決めた時、かつてともに旅をしていた少女からは、耳が痛くなるほどの猛反対を食らったけれど。

 

「やっぱり、ここに来たのは正解だったなあ……」

 

 粉雪のように、心に染み込ませるように、呟く。

 きっと世界の妖怪たちは、人間とともに人間として生きる銀山を、頭のおかしなやつだと笑うだろう。

 そして銀山は、そうやって笑う彼らを、笑うだろう。

 

「いいもんだよ、人間も」

 

 妖怪と人間がともに暮らせる理想郷を創りたいと、夢描く少女がいるように。銀山は、人間と一緒に生きていきたいと、思う。

 いつかこの都を去ったあとも、きっと自分はなにも懲りることなく、なにも変わらずに、人間とともに生きていくのだろう。

 月に向かって呟く、

 

「それにしても、本当に一体どうしたものか……ん?」

 

 その時、銀山は屋根の下からかすかな物音を聞いた。家の戸を、何者かが控えめに叩く音だった。

 夜は既に更けている。特に親しい間柄でない限り、人の家を訪ねようと思う時間ではない。

 丁寧に戸を叩いた時点で不審者ではなかろうが、念のため、銀山は屋根の縁から下を見下ろしてみる。戸の前に、黒一色の外套で体を、そして深く被った笠で頭を隠した人物が佇んでいる。誰なのかはもちろん、ここからでは性別すらも判断できない。

 

「……?」

 

 秀友や雪ではないだろう。彼らならば、わざわざあんな回りくどい格好をしてやってくる理由がない。雨が降っているわけでもない夏の夜だ。あのような出で立ちで出歩くとなれば、必然、

 

(……夜に紛れている)

 

 人に姿を見られたくないような、後ろめたい理由がある。詰まるところ、不審者だった。

 

(はて)

 

 当てが外れて、銀山は静かに小首を傾げた。ひょっとすると依頼だろうか。あまり表沙汰にしたくない悩みを抱えた誰かが、人目を避けるためにこの時間を選んでやってきた――という線は、ゼロではなさそうだ。

 だが、

 

「ちょっと、ギンー……いるんでしょ、開けてよー……」

「――……」

 

 か細く響いた、そんないかにも寂しそうな少女の声を聞いて、銀山はふっと海に行きたくなった。いや、別に海でなくてもいいのだが、とにかくここでないどこかに行ってしまいたいなあという、とてもわかりやすい現実逃避だった。

 ああ、もう。

 銀山のことを『ギン』と呼ぶ女なんて、この世で一人しかいないじゃないか。

 

「ギンー……ギーンー……」

 

 そのうち、声が捨てられた子猫みたいな有り様になってきたので、銀山は腹を括ることにした。どうして彼女がここに、しかもたった一人でやってきたのか、銀山には到底理解しがたかったが、ともかく戸を叩かれた以上は無視するわけにもいかなかった。もしこの場に偶然誰かが通りかかって、輝夜の正体に気づいてみろ。――ちょっとかぐや姫様こんなところでなにやってるんですか。……へえ、ここに住んでるやつに用があるんですか。ところでここはあの陰陽師野郎の家ですねえ。へえ、ということはわざわざあいつに会いに来たわけですか、お一人で。お一人で。へえ。へえー。

 せっかく収まりかけてきている男たちからの嫉妬が、また元通りになってしまう。

 とりあえず人目につかないところで、事情を搾り出さなければならない。銀山は痛むこめかみを押さえながら、屋根の上から飛び降りた。

 

「ひっ!?」

 

 驚いた輝夜が、転がるように後ずさりをする。途端に、体勢を崩して尻餅をつきそうになるが、両手をわたわたと振ってなんとかこらえ、

 

「な、なんだギンか……。おどかさないでよ」

 

 夜の帳が落ちた中であっても、一目見るだけではっきりとわかる。平民たちの間で好んで着られている質素な胡服を身にまとい、外套を羽織ったところで、かぐや姫の存在感は掠れすらしない。笠の下から覗く相貌は、どこからどう見ても、間違いなく蓬莱山輝夜なのだった。

 銀山のこめかみの痛みがますます鋭くなった。

 

「……ちょっとこっち来い」

「え? きゃっ」

 

 輝夜の細い腕を引っ掴んで、半ば強引に家の中へと引きずり込む。この時間帯であれば他に来客が来る可能性もなかろうから、こここそが最も人目につかない安全地帯だった。

 玄関先で目を白黒させている輝夜に、銀山は振り向いて。

 

「……なにか用か?」

「あ、そうそう」

 

 パン、と両手を合わせた輝夜の仕草は実にあっけらかんとしている。彼女は特別緊張した風でもなく、まるでなんてことはない当たり前のことを告げるように、

 

「いつまで待ってもギンが来てくれないので、私の方から来てみまし――ちょっとなんでそこでため息つくのよっ! 失礼でしょ!?」

 

 ため息の一つくらいはつきたくなると銀山は思う。つまり輝夜がここにやってきたのは、銀山個人に対する完全な私用というわけだ。極端に言ってしまえば、下町の男たちが輝夜を一目見ようとしては、彼女の屋敷の周囲をうろつくのと同じ次元である。

 輝夜が、不満そうに唇を尖らせて銀山の袖を引っ張った。

 

「どうして会いに来てくれなかったのよっ。私、ずっと待ってたんですけどっ」

「……それは、悪かったね」

 

 結局銀山は、下町に戻ってきてから一度も輝夜と連絡を取り合っていなかった。もちろん故意ではなく、それだけ周囲の男たちの目が油断ならなかったということなのだけど。

 すると輝夜は、なぜか得意げに胸を張って、

 

「だから、私の方から会いに来てあげたってわけ! 屋敷ではひきこもりなんて言われてるけどね、私だって一人でお出掛けくらいできるんだからっ」

 

 どやあ。

 とても偉大なことを成し遂げた冒険家のように威張る輝夜を、失礼ながら銀山は、張っ倒してやりたかった。女相手に手を上げる趣味はないので、自重するけれど。

 心の中に込み上がるえも言われぬ気持ちを、ため息とともに外へと吐き出す。

 

「あのな……この状況を他人に見られたら、一体どんな騒ぎになると思う?」

 

 かぐや姫の方から会いに来てくれたというのは、ひょっとしなくてもとても名誉なことなのだろう。だがそれはあまりに名誉すぎて、他の男たちに知られたら都中を巻き込む大戦争が勃発する次元である。とても銀山一人の身に負えるようなものではない。

 輝夜だってそんなのは望んでいないだろうに、なのに彼女はころころと笑うだけだった。

 

「大丈夫大丈夫、人っ子一人とも会わなかったから」

「私がこの都にいられなくなったら、一体どうしてくれるんだい……」

「そうね、その時は……」

 

 輝夜は恥ずかしそうに身を縮めながら、照れ隠しの笑顔で、

 

「その時は、私が拾ってあげるから。心配しないで」

「……」

 

 いや、それはまったく根本的な解決になっていないというか、解釈の仕様によってはとても恥ずかしい言葉に聞こえるというか。

 輝夜もそれを自覚していたのか、段々とりんご色になってくる頬を誤魔化すように、ぱたぱたと両手を振った。

 

「そ、それよりも! 連絡がなかった理由って、傷が開いたとかそんなんじゃないのよね!? 怪我、本当に大丈夫なの!?」

 

 彼女の問いに答えぬまま、銀山は緩くため息をついた。ここで断固として首を縦に振らず、輝夜を追い返すのは容易い。むしろ面倒事を避けるためには、なるべく早くそうすべきだというのもわかっている。

 けれど一方で、まあそこまでしなくてもなんとかなるんじゃないかなあ、と事態を楽観している自分がいるのだから甘いものだ。

 

「ね? 二週間も会えなくて寂しかったのよ。だからほら、少しでいいから、お話しようよ」

 

 そんな風に言われたら、とてもじゃないけど追い返せないなあ、なんて。

 ため息をつく相手は、一人でここまで会いに来た輝夜の暴挙ではなく、それすらも受け入れようとしている己の甘さ。喉の奥でくつくつと飲み込むように苦笑して、銀山は履物を脱いで家の中へと上がった。

 

「立ち話もなんだ」

 

 振り返り、

 

「上がっておいで」

「あ……う、うん!」

 

 促せば、輝夜が満面の笑顔を咲かせて、履物を放り投げるように脱ぎ捨てる。それを行儀が悪いと言ってたしなめ、しっかりと靴先を戸に向けて揃えさせて。

 それからふと、こめかみの痛みがいつの間にか治まっていることに、気づいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 二週間振りに過ごす銀山との時間は、憎たらしいくらいにあっという間に終わってしまった。時間が時間だから長話をするわけにもいかず、話をしていたのはほんの一刻ほどだった。

 今までの人生で、一番短くて、一番幸せな、一刻だった。屋敷に戻れば、きっと輝夜は翁に雷を落とされるだろう。でも全然大したことはない。翁の雷程度でこの一刻をまた過ごせるのならば、きっと輝夜は何度でもこの家を訪れる。

 本当は、このまま銀山と一緒に、夜を明かしたいくらいだったけれど。

 

「……それじゃ、そろそろ帰るわね」

 

 でも銀山はそれを望んでいないから、素直に帰るのが『いい女』だ。輝夜のささやかな目標である雪なら、多少別れが寂しくとも、綺麗に笑って綺麗に別れる。だから輝夜だって、そうするのだ。

 

「送っていくか?」

「いいわよ、そんなの」

 

 当たり前みたいにそう言ってくれる銀山を、やっぱり優しいなあ、と輝夜は思う。輝夜と一緒に外を歩いて、誰かに見つかりでもしたら困るのは銀山なのに。

 

「しかし、一人歩きは危険だぞ?」

「心配してくれてるの?」

 

 そう問い返すのは、きっと卑怯なのだろう。けれど銀山は、迷う素振りも見せずに頷いてくれる。

 

「当たり前だろう」

 

 ああ、もう。なんか、もう、めちゃくちゃ嬉しい。笑ってしまうくらいに嬉しい。そんな言葉を、そんなにまっすぐな目で言われてしまったら、色々なものがダメになってしまいそうだった。彼の傍から、離れられなくなってしまいそうだった。

 でも、ここでその感情に甘えてしまうのは、弱い女のすることだから。

 

「……大丈夫よ。ここに来るまで人っ子一人会わなかったって、言ったでしょ?」

 

 あれは偶然でもなんでもない。たとえ夜でなくても、人が賑やかに往来する昼日中であっても。誰にも気づかれずに、なにものにも囚われずに行動することができる、輝夜だけの魔法。

 向こうの世界の人たちは、『永遠と須臾を操る程度の能力』と、呼んでいたけれど。

 

「普段は疲れるから滅多に使わないんだけど、こういう時に役に立つ、素敵な乙女の魔法があるの」

「……なんか、ものすごく胡散臭いんだが」

 

 銀山の半目が体に突き刺さるようだった。やっぱり、乙女の魔法はちょっと言い過ぎだったかもしれない。

 とはいえ、本当の名前を話しても結果は変わらないのだろう。そんな能力がありえるはずがない、と信じてもらえないのではなく。きっと銀山は、たとえ輝夜がどんなに強大な力を持っていたとしても、こうして心配してくれるのだ。

 嬉しい。

 もう、本当に嬉しいよ、バカ。

 

「……じゃあさ。明日、確かめに来てよ」

 

 はにかむように笑いながら、輝夜は言った。

 

「私が無事に屋敷に戻れたのかどうか、確かめに来て」

 

 週に一度なんて無理だ。一度会ったら六日間も会えない日が続くなんて耐えられない。毎日でも、銀山と会って、話をしたい。

 もはや、『かぐや姫』なんて身分は完全に邪魔者だった。こんな肩書さえなければ、雪と秀友のように身分の差がなければ、毎日でもここにやってきて、銀山と一緒の時間を過ごすというのに。でもこの肩書きは簡単に捨てられるものではない。そう何度も、屋敷を抜け出してここに来られるものではない。

 だから、もう一度、私のところまで来てほしいと願ってしまう。

 

「……ダメ?」

 

 銀山は、すぐには答えなかった。色んな感情と葛藤するように、難しい顔をして考え込んでいた。

 そして、夜の静けさが染み渡る頃に、大きくため息をついて。

 

「……わかったよ」

 

 その言葉は、くたびれていたけれど。

 でも決して、嫌な声ではなかった。自分の負けを潔く認める、後腐れのない、微笑みだった。

 

「じゃあ、明日、会いに行くから」

「……うん!」

 

 輝夜の胸が一瞬で高鳴る。心も体もふわりと軽くなって、そのまま空を飛んでしまいそうな心地だった。

 

「絶対! 絶対よ!」

「わかったって」

「待ってるからね!」

「ああ」

 

 これから寝て、起きて、ほんの少し待てば、銀山が会いに来てくれる。そう思うと、もう居ても立ってもいられなかった。早く屋敷に戻って、早く寝なければと思った。

 胸を両手で押さえて、スキップすら踏んでしまいそうな足運びで、玄関の手前まで歩いていって、振り返る。

 銀山の困った苦笑いを蒸発させてやるくらいに、強く、笑って。

 

「――じゃあ、また明日!」

「ああ。また明日」

 

 また明日。ああ、なんて素晴らしい言葉だろうか。この言葉さえあれば、独りきりの夜なんて、寂しくもなんともない。

 

 銀山の家を飛び出して、夜に紛れて――そして、永遠の時の狭間に入り込む、ほんのわずかな時間。夜空で光るお月様は白く眩しすぎるくらいで、きっと明日も、こんな風に眩しい一日になるんだろうなと輝夜は思う。

 一時期は、冷たくて辛いものだと思ったこの恋心も。

 今はもう、火傷してしまいそうなくらいにあっつくて、幸せで。

 

 

 ――このぬくもりが、永遠に私を温めてくれれば、よかったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ⑧ 「あめやさめ」

 

 

 

 

 

 幸せの絶頂、なんて言ってしまえば途端に陳腐になる気がするけれど。

 でもまあ、結局のところは、そうだったんだろうなあと輝夜は思う。翁が上手く便宜を図ってくれたこともあって、毎日とまではいかなかったが、週に何度かは、輝夜は銀山と会うことができた。

 もう、銀山と会うためだけに毎日を生きているようなものだった。銀山と一緒に過ごせる時間はそれだけ至福で、また独りで過ごす時間はそれだけ無為だった。きっと輝夜は、銀山が隣にいてくれなければ、もう上手に生きていくことはできないのだろう。そう思ってしまうくらいに彼を好きになるまで、さほど時間は掛からなかった。

 もちろん、この幸せが永遠に続くと思っていたわけではない。銀山との時間を重ねれば重ねるだけ、いつかは終わりがやってくるのだという悪魔の囁きが、脳裏を掠めるようになった。たとえ毎日を平穏無事に過ごし、たとえ輝夜が銀山と添い遂げられたとしても。絶対的な寿命の差――銀山の死という形を以て、終わりは必ず訪れる。

 わかっている。

 でもそれは、少なくとも、まだ先にある未来のはずだから。

 だから今は、この幸せに酔ってしまっても、いいんじゃないか。

 向こうの世界で罪を犯し、この世界にやってきたのは、きっと銀山に出会うためだった。彼に出会うために、輝夜は最初から、この世界に堕とされる運命だったのだ。

 だから、今だけはこのままでと――そう、思っていたのに。

 夜は凪いでいた。闇が落ちきり、静寂が広がる世界の中で、輝夜は人知れず紅涙を流した。星空に大きく孔を空けた、皓々と輝く白い月を、見上げて。

 どうして――どうしてよりにもよって、今なのだろうか。これ以上ないくらいに幸せで、そしてこれからも、もっと幸せになっていくはずだったのに。輝夜の想いを引き裂くように現れた魔の手は、現実として語るにはあまりに、御伽話じみていた。

 笑ってしまうくらいに。

 

「……ギン」

 

 縋るように彼の名を呼んでも、ただ胸が痛むだけだった。月の光は、もうどこにも逃げられないほどに強すぎた。

 月の声が聞こえる。

 

「……帰りたくない」

 

 輝夜はかつての故郷で大罪を犯し、この異国の地へと堕とされた。もしそれが、銀山に出会うための運命だったというならば。

 知らないうちに刑期を終え、元の世界へと帰る――銀山と別れ幸福を引き裂かれることが、また一つの(あがな)いだとでも、いうのだろうか。

 初めから、こうして別れるためだけに。

 私はギンと、出会ったのか。

 

「帰りたくないよぉ……!」

 

 悲嘆の声は、何者にも届かない。何者にも届かないまま、夜空の向こうで月に呑まれ、消える。

 涙を流す輝夜を、まるで見捨てるように。

 世界はどこまでも、凪いでいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 このところ、月の様子がおかしい――というのは、都に住むものならば誰しもが耳に挟んでいる噂話だった。

 否、それは既に噂話ではない。紛うことなき現実として、連夜、都の者たちを様々な感情の坩堝へと陥れていた。

 それを、当たり前のことだろうと銀山は思う。今まで見たこともないくらいに月が大きく輝いていて、しかも日を追うごとに更に巨大化していくのだとなれば、見て見ぬふりをできる人間などいはしない。

 大きすぎる月は息も忘れるほどに神秘的で、そして行き過ぎた神秘は、人々の心に恐怖を生みつけた。天変地異の前触れ、或いは物の怪の仕業だと、声高に叫んだのは誰だったか。下町から広がった動揺はやがて都全体に伝染し、看過できぬものとなり、現在では、陰陽師たちに調査を命じるお触れが、都から出されるまでに至っていた。

 とはいえ、

 

「調査っつっても、なにをすりゃあいいんだかなあ」

 

 秀友が銀山の家にやってきてこぼした愚痴は、あまりに的を射ている。このところ月がおかしいのは物の怪の仕業かもしれないので、早急に原因を突きとめるように――などと言われたところで、一体なにをどうすればいいのか見当もつかない。『日に日に巨大化していく月』は、異常が起きている証拠としては充分でも、原因を特定する手掛かりとしては弱すぎた。

 結局、どの陰陽師もそれらしい成果を上げられないまま、無為のままに一週間が過ぎた。そしてその間も、月は目に見えて大きくなり続けていた。昨夜の月は、もう両の掌にすら収まりきらないほどだった。

 

「うあー、やってらんねー……」

 

 秀友が、やる気の欠片も感じられない声でそう吐き捨てて、床の上で大の字になる。お触れが出てからというもの、彼がこうして昼間に銀山の家を訪れ愚痴をこぼす頻度は、傍迷惑なくらいに増えていた。

 

「月が大きくなってる原因なんてなあ。そんなの、たったそれだけじゃあ、わかるわけねえだろって」

「それはまあ、同感だね」

 

 銀山も、月が日に日に大きくなっていく原因はわからない。そもそもこれが物の怪の仕業だと確定しているわけではないし、そこをはっきりさせられない以上、陰陽師ができることなど高が知れていた。一寸先も見えない暗中模索の現状に、秀友のように匙を投げている陰陽師も少なくはない。

 それでも未だ多くの陰陽師が原因解明に精を出しているのは、都が提示した多額の報酬故だろう。一生とまではいえないが、当面は悠々自適に暮らせるほどの額で、銀山も初め聞いた時は「おっ」と思った。もっとも、お金にはそれほど困っていなかったので、すぐに興味を失ったが。

 なので月見は、こう思う。

 

「私は、今の月の姿をもっと楽しんだらいいと思うけどね。とっても綺麗じゃないか」

 

 大きすぎる月に恐怖を抱く者も少なくはないが、それは単に、未知のものを受け入れようとしない心の狭さ故だ。先入観を捨てた純粋な心で夜空を見上げれば、まるで世界と一つになれるように気持ちがいいことを、果たしてどれだけの人間が知っているのか。

 まあそんなのは、銀山の正体が妖怪だからなのかもしれないけれど。

 

「あんな月の前で一人のんびり月光浴してるようなやつなんて、お前くらいなもんだよ……」

 

 秀友から、すっかり呆れ返った半目を向けられる。

 

「あーあ。オレもお前を見習って、雪さんと月を見ながら愛を語り合いたいもんだぜ」

「じゃあそうすればいいだろうに」

「うーむ。でもなあ、金も欲しいんだよなあ。雪さんと一緒に暮らすんだったら、やっぱりちゃんとした一軒家がいいし……。ほら、今のオレの家って借家だろ? しかも一人用」

 

 確かに、今回の報酬を受け取ることができたら、家くらいは簡単に建てられる。ひょっとしたら、貴族たちが住んでいるような豪邸すら可能かもしれない。

 

「やっぱり最低でも、このくらいの家は建てたいよな」

「では、頑張って調べて回ってくれ。私はお金には困ってないしね」

「ちくしょー!」

 

 秀友が床を転げ回って喚く。

 

「さっすが、若手で一番成功してる優秀な陰陽師様は言うことが違うねー! 嫌味かこのヤロー!」

「事実だよ。私はほとんどの稼ぎを酒と恋人に注ぎ込んでる誰かとは違って、金の管理はちゃんとしてるんだ」

「ぐぬう」

 

 もっとも、若手の中ではまずまず成功している方なのも事実なのだろう。竹取の翁から渡された報酬は、あまりの多さに受け取るのを躊躇ってしまうほどだった。

 うだー、と情けない声を上げて、秀友が体を起こした。頭を掻いて、ふとしたように、

 

「そういやお前、まだ姫様とは密会してんの?」

「密会言うな。……月がおかしくなってからは会ってないね」

 

 いや、都の連中に気づかれないようにこっそり会っているのだから密会なのだろうが、ともかく。ちょうど月に異常が出始めた頃を境に、輝夜の屋敷を訪ねても、門番が静かに首を振るようになった。

 

「なんでも、具合が悪いらしいよ」

「お? 風邪でも引いたんか?」

「いや」

 

 同じ質問を、銀山も門番に尋ねている。門番曰く、風邪ではないけれど、あまり元気がない様子なので休ませてあげてほしい、とのことだった。あのお転婆娘が落ち込んでいる姿というのは想像できなかったが、特に食い下がる理由もなかったので、それ以降彼女には会っていない。

 

「ふーん。お前、なんか姫様を傷つけるようなことしたのか?」

「まさか」

 

 最後に会った輝夜はいつも通りのお転婆な輝夜だったし、別れる時も「また来てね!」と満面の笑顔だった。

 

「なんかあったのかねえ」

「そうかもしれないね」

 

 或いは、月の巨大化となにか関係があるのかもしれない――と勘繰るのは、深読みしすぎだろうか。けれど、輝夜が元気をなくしたのと、月の巨大化が始まったのがちょうど同時期なのが、なんとなく気にかかる。

 窓を通して空を眺める。夕暮れが近づき、青から赤へと色を変える途中の空だ。太陽とは逆の方角に、雲に溶け込むようにして白い月が浮かんでいる。太陽よりも一回りも二回りも大きくなった月は、やがて夜空に白い孔を空けるだろう。

 

(一体、なにが起こってるんだろうね)

 

 今の月の姿をもっと楽しめばいい、と先ほどは言ったが、一方でこの異常の原因がまったく気にならないわけでもない。妖怪としてそれなりに長い時間を生きた『月見』でさえ、ここまで大きな月を見上げるのは初めてのことだ。神秘的で美しいのは大変結構だけれど、このままなにも起こらないとは到底思えない。

 

(紫なら、なにかわかるんだろうか)

 

 この都で生活を始めるより前に、ともに旅をしていた少女のことを思い出す。『境界を操る』という類稀な能力を持つ彼女は、境界を視ることで、通常では知り得ないあらゆる事象を見通すことができた。彼女ならば、この月を前にしてなにか感じているところがあるかもしれない。

 だが銀山と彼女は今は別行動中で、こちらから連絡を取る手段はない。たとえ彼女がこの異常の原因を知っていたとしても、銀山にはどうすることもできなかった。

 と、ふいに、銀山の思考を妨げる物音。家の戸が、控えめにではあるが二度、ゆっくりと叩かれた音だった。

 誰かと思って表に出てみれば、戸を叩いたのは貴族からの遣いであり。

 そして、差し出された手紙は、

 

「……」

「誰からだったよ?」

 

 家の中に戻った銀山は、秀友の問い掛けに、浅く肩を竦め返した。それだけで、長い付き合いである彼には伝わったようだった。

 なにも言わず歯を見せて笑う秀友に、銀山もまたなにも言わず、苦笑する。

 差出人は、讃岐造。堂に入った季節の挨拶から始まるその手紙は、あいもかわらず冗長だったが、要点をまとめればやはり内容は簡潔だった。

 

 ――輝夜に、会ってあげてほしい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 すべてを話そうと思った。自分のことを、すべて、銀山に話そうと。

 初めてのことだった。こちら側の世界で、輝夜が何者なのかを本当の意味で知っている人間はいない。翁ですら、輝夜のことを、『この世界の人間』だと思い込んでいる。それでいいのだと思っていたし、これからもそうあるべきだと思っていた。けれど、あの大きな月が空に孔を空けて初めて、輝夜はこのままでは嫌だと思った。

 このままなにもかもを隠したままで、銀山と別れるのは、嫌だった。

 恐怖心はあった。すべてを打ち明けた時、一体銀山がどんな反応をするのかは想像ができない。銀山ならきっと受け入れてくれる気がするし、一方で、信じてもらえなくて、避けられてしまってもなんら不思議じゃないとも思う。二つの未来が輝夜の中でせめぎ合って、心を締めつけてくるようだった。

 絶対に打ち明けなければならない理由なんてないはずだ。なにも話さず、なにも知られないままこの世界を去る。銀山に避けられる可能性を考えれば、そっちの方がよっぽど無難なはずだった。

 けどそれでも、嘘をついたまま銀山との最後を迎えるのは、嫌だと、思ったから。

 この日も、夜は凪いでいた。庭の一角にある池の畔で、輝夜はただ張り詰めた顔をして、水面で揺られる水月を見下ろしていた。

 銀山を待つ間の時間は、首にかけられた縄が少しずつきつく締まっていくような心地だった。ただ息をするだけのことがとても苦しくて、泣いてしまいそうで。待つだけでこれなのだから、銀山の顔を見てしまったら、本当に泣いてしまうんじゃないかと思った。

 それでもいざ顔を合わせてみれば、やあ、と銀山が微笑んでくれた途端、あっという間に首を縄が解けて、こっちまで笑顔になってしまうのだから。

 これが惚れた弱みかあ、と輝夜はしみじみ思うのだ。

 輝夜の隣に、静かに銀山の影が並ぶ。

 

「具合はいいのか?」

 

 久し振りに見る銀山の姿は、強すぎる月明かりに照らされて、ぼんやりと白く揺らめいていた。銀山だけではない。屋敷も庭も、輝夜自身も、今宵はすべてのものが白で染め上げられている。それは現実とは思えないほど神秘的で、幽玄で、輝夜の心をざわめかせた。

 

「……まずまず」

 

 白い水面に目を落とし、輝夜は短くそう返した。とても元気とは言えないが、ここ数日に比べれば随分と立ち直った方だ。この月が現れて間もない頃は、人に会おうとすら思わなかったのだから。

 

「なにかあったのか?」

「うん……まあ、ちょっと色々あったの」

「そうか」

 

 ここで銀山が追及してこないことを、輝夜は彼らしいと思った。銀山は、滅多なことでは他人の内側に踏み込もうとしない。雪がかつて言っていた、自然体、というやつだ。自ら踏み込む真似はせず、ゆっくりと構えて、相手の方から曝け出させようとする。

 もちろんそんなことは、銀山は全然意識していないのだろう。無自覚だからこそ、タチが悪かった。できれば今のところは、追及してほしかったのに。色々ってなにがあったんだ、どうして私を呼んだんだって、訊いてほしかったのに。そうか、なんて一言で済まされたら、もう話が終わってしまうじゃないか。

 沈黙があった。輝夜はどうやって話を切り出そうかと考えたが、とりとめのない思考では、霧を掴もうとするようなものだった。

 

「……お前は」

 

 結局、そうして思い悩んでいるうちに、銀山の方から問いが来て。

 

「お前は、月が嫌いなのか?」

「え?」

 

 けれどそれは、輝夜が予想していた問いではなかった。顔を上げて隣の銀山を見上げると、彼は薄く微笑み、そっと水月を指差した。

 

「さっきからそればっかり、むつかしい顔して見てるから」

「……」

「嫌いじゃないんだったら、そんな顔はしないんじゃないかと思ってね」

 

 どうなんだろうな、と輝夜は思う。月を眺めるのは好きだった。けれど月を眺めて、向こうの世界のことを考えるのは嫌いだった。

 銀山は向こうの世界のことなんて知らないから、彼が言う月とは、夜空にかかるあの白い丸を指すのだろう。じゃあ好きだ。今は少し強すぎるけれど、淡く優しい月の光は、輝夜の心を穏やかにしてくれる。

 ふと、今なら話せるかな、と思った。今なら、自分の本当の姿を、すべて月光の下に曝け出せるような気がした。胸を押さえて銀山を見上げる。彼は、輝夜がなにかを言おうとしていることを既に感じ取っていたようだった。決して促す風ではなく、静かな瞳で――自然体で、輝夜の言葉を待っていた。

 一度周囲に目を配ってみるが、輝夜と銀山以外に人の気配はない。いつものように空気を読んだ翁が、いつの間にか人払いをかけてくれたのだろう。ひょっとすると翁は、輝夜がこれから銀山に打ち明けようとしている真実まで、既に見通しているのかもしれない。

 月を見上げる。どうやって言葉にするか、少しだけ悩んだが、包み隠さずありのままを告げることにした。

 輝夜の、正体。

 私は。

 蓬莱山輝夜は。

 

「――私は、この世界の人間じゃないの」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 輝夜が銀山の問いを予想していなかったように、銀山もまた、輝夜の答えを予想していなかった。この世界の人間ではない――なんてことはない文字通りの言葉のはずなのに、脳が理解するまでには数秒の間が必要だった。

 例えば銀山のような、正体は実は人間じゃないんだ、などとは格が違う。別世界で生まれ育った人間。こうも綺麗な月夜の下で話すには、あまりに突飛で無軌道だった。

 けれどだからこそ、銀山はほとんど直感で、輝夜の生まれた世界がどこなのかを理解した。

 

「……月、か?」

「そう」

 

 輝夜は水月を見下ろし、ふっと花びらを散らすように笑う。空で輝く白月すらも銀山の意識の外へと弾き飛ばす、人間には過ぎた美しさだった。

 けれど、

 

「月にもね、ここと同じ風に、人間たちの世界があるの。私はあの月で生まれ育って、数年前に、『こっち』に堕ちてきた」

 

 脳裏を掠める、そんなバカなという言葉を口にできないほど、輝夜の声には悲しみの色がある。

 

「――知ってた? 私ってね、向こうの世界じゃあ、正真正銘本物のお姫様なのよ?」

 

 冗談だろうと笑い飛ばせないほど、彼女の微笑みは、儚い。

 

「本物のお姫様だから、いつまでもこの世界にはいられないの」

 

 揺れる瞳は、まるで泣いているようで。

 

「帰らないといけないの」

 

 紡ぐ言葉が、涙のようで。

 

「もうすぐ――ギンと、お別れしないといけないの」

 

 嘘だと否定するには、彼女はあまりに、小さすぎた。

 銀山の中で、ゆっくりと糸と糸がつながっていく。恐らく月が巨大化を始めた最初の夜に、輝夜は自分が月へと戻らなければならないことを知った。けれどその事実を上手く受け止めることができず、塞ぎ込んでしまい、銀山に会うこともしなかった。ようやく気持ちの整理をつけられたので、銀山を呼んで、すべてを打ち明けることにした。

 お別れを、するために。

 

「……」

 

 きっと輝夜は、大したことじゃないという風にすべてを話して、後腐れなく綺麗に別れようとしていたのだろう。銀山だって、いつか都を去る時のために、こういう別れ方を考えたことがある。

 けれど、これは、ダメだ。

 方法が悪いのではない。

 大したことはないと必死に自分に言い聞かせて、必死に笑おうとして――でも最後の最後で感情に負けて、下手くそな泣き笑いを見せてしまう、輝夜が悪い。

 そんな顔で別れて、本当に後腐れなく終われると思っているのだろうか。どこからどう見たって未練たらたらで、全然納得なんてできてなくて、別れたあとに一人で大泣きするのが丸わかりじゃないか。

 だから銀山は、苦笑して。

 

「輝夜、少し焦りすぎだよ。一度深呼吸してご覧」

「……」

「一人で突っ走らないで、落ち着いて一緒に話をしよう。そのために、私をここに呼んだんだろう?」

 

 別に、輝夜がこの別れ方でいいと言うのであれば、銀山は構わない。一方的に嘘を打ち明けて、それで終わりにしたいのなら、すればいい。

 ――けれど、本人ですら納得できていないような下手くそな別れ方は、私以外のやつにやれ。

 

「……そうね」

 

 輝夜が、ごめん、と力なく笑った。

 

「私、冷静じゃなかったみたい。……ギンとお別れしなきゃいけないのが、怖くて」

「……それも含めて、話をしようか」

 

 静かに頷いた輝夜が、一歩、銀山の傍に寄り添う。肩が触れ合うほどの距離で、隣り合って、彼女は記憶を遡るように水月に目を落とした。

 輝夜が語る言葉を見つけ出すまでの間、銀山もまたなにも言わずに、水面の白を見つめる。

 ――『月の世界』という言葉の意味を、考えながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 輝夜がすべてを語る間、銀山はなにも言わなかった。相槌の一つも打ちはしなかったが、こちらの声に耳を傾けてくれているのは感じられたので、輝夜は語り続けた。こんな御伽話みたいな身の上をどう話せば信じてもらえるのか、苦心し、何度も言葉につかえながら、それでも最後まで。

 

 今の人間たちが生まれるよりも遥か昔、この世界には別の人間たちが文明を築いていて。

 彼らは、地上の生存競争によって生まれる『穢れ』を忌み嫌い、月の世界へと移り住んだ。

 輝夜は、そうして今や月に一大文明を築く『月の民』の一人であり、正真正銘のお姫様。

 けれど『蓬莱の薬』という薬を飲んだ罪で、この地上へと堕とされた。

 正確に言えば、自らの意志で墜ちたのだ。月の文明はとても高度に発達していてなに一つの不自由もなく、同時に姫という立場も非常に面倒で、故に輝夜の人生はつまらないものだった。だから、月の世界を離れ、人生を変える口実として、あえて『蓬莱の薬』を飲んで罰せられた。

 だが間もなく輝夜の刑期は終わり、月から迎えがやってくる。

 その迎えで、輝夜は、月の世界に帰らなければならない。

 

 話し終わってみればそれだけのことだったが、たったそれだけのことに、自分でも信じられないくらいに時間がかかった。何度も言葉につかえたし、どう言葉にしたらいいのかがわからなくなって、黙り込んでしまったのも少なくなかった。だがそれでも、銀山は煩わしそうな顔一つせずに、じっと耳を傾け続けてくれた。

 嬉しくもあったが、一方で、口を挟まれない分だけ銀山の考えが読めなくて不安でもあった。肯定も否定もされない、というのは、自分だけが独りで暗闇の中を歩いているような錯覚に陥る。

 けれど輝夜は、その考えをふっと頭を振って追い払った。すべてを話すと、そう決めたのだから。だから最後まで、あともう少しだけ、頑張れ、輝夜。

 まだ一つ、話していないことがある。輝夜は銀山の瞳を見上げ、もう一度言葉をつなぐ。

 

「ギンは、不老不死って知ってるでしょ?」

 

 知らないはずはないだろう。言葉の意味自体なら、銀山くらいの年齢になった人間で知らない者はいないはずだ。

 老いることも死ぬこともない永遠の命――人間たちが古来より目指した桃源郷。

 銀山からの返答は、簡潔で短い。

 

「それが?」

 

 けれど決して投げやりではなく、微笑みかけるように優しい言葉だった。だから輝夜はさほど緊張することなく、その行動を起こすことができた。

 

「まあ、見てて」

 

 着物の奥から一振りの小刀を取り出す。昔、翁が護身用として与えてくれたこれを、結局今になるまで、一度も使うことはなかったけれど。

 

「……」

 

 輝夜は、不老不死だ。輝夜がこの地上に来るために飲んだ『蓬莱の薬』は、そういう薬だった。

 これが、輝夜が銀山に隠し続けた最後の秘密。だからこの小刀で自分の体をわざと傷つけて、途端に塞がっていく傷を見せて、不老不死であることを証明しさえすれば。

 もしかすると、気味が悪いと思われてしまうかもしれない。避けられてしまうかもしれない。

 けれどどういう結果になろうとも、それでようやく、すべてが終わる。

 

「……ギン?」

 

 小刀を抜こうとした輝夜の手を、優しく留めるものがあった。月の光で、輝夜の肌に負けないくらいに白くなった、銀山の指だった。

 首を傾げる輝夜に、静かに微笑みかけて。

 もう充分だよ、と彼は言う。

 

「そこまでしなくても、もうわかったから」

 

 だからそんなことしなくていいよ、と。

 

「不老不死なんだろう? 他でもない、お前が」

「っ……」

 

 銀山の方から言い当てられるとは、思っていなかった。反射的に、怯んでしまいそうになるけれど。

 

「『蓬莱』の意味を考えればすぐわかるし……それにお前、自分の手首を掻っ切ろうとしたろう。そこまでされそうになったら、もう誰だってピンと来るさ」

 

 銀山の表情は、輝夜のすべてを知ったあととは思えないほどに穏やかで。声は、柔らかくて。月の世界に不老不死だなんて、眉唾すぎてとてもその場で信じられるようなことじゃないはずなのに、銀山は輝夜をちっとも疑っていないようだった。

 指に力が入らなくて小刀を取り落とし、畔の小石に当たった音でふっと、輝夜は我に返る。

 

「……信じてくれるの?」

 

 問えば、銀山は苦笑して、

 

「なんだ、からかってるのか?」

「そ、そんなわけないじゃない」

「じゃあ、信じるさ」

 

 輝夜は言葉を失った。銀山ならきっと受け入れてくれる、という期待がなかったかといえば嘘になる。けれど、まさかこんなにあっさりと信じてもらえるとは思ってもいなかった。明日の天気は雨だよと言われて、明日また来るよと言われて、それを信じるのとなに一つ変わらないような。それほどまでに、銀山の言葉にはなんの迷いも疑いもない。

 

「こんな、御伽話みたいなのに」

「私はね、こういう話は信じてみたくなるタチなんだ」

 

 世界が膨らむからね、とほころぶ彼の笑顔が、まるで少年みたいに若々しかったから。それを見てようやく、輝夜は水が染み入るように悟ることができた。

 結局、自分がしてきた心配は。

 なにもかも、全部。ただのつまらない、取り越し苦労らしかった。

 

「な、なあんだ……」

 

 本当に、なあんだ、だ。やっぱり銀山は受け入れてくれた。銀山は、輝夜が思っていた通りの人だった。ほら見ろ、やっぱり私の見る目は正しかったじゃないか、と意識のどこかでもう一人の輝夜が胸を張っている。

 そんな自分を笑うように、ゆっくりと息を吐いて。

 銀山の肩に、そっと、頭を預けて。

 

「よかったぁ……」

 

 安心した、けれど、同時に悲しくもなった。銀山に受け入れてもらえた。受け入れてもらえたからこそ、これでもう、全部、おしまいだった。

 肌を通して伝わってくる銀山のぬくもりに、こうして甘えられるのも、最後なのだ。少し、鼻の奥が湿っぽくなる。けれど輝夜は我慢した。銀山には涙を見せず、笑顔で別れるのだと、決めていた。

 彼に出会ってからのことを、思い出す。

 

「……この一ヶ月くらいは、本当に楽しかった」

 

 ――あなたと一緒にいた時間は、たったそれだけだったけど。

 

「でも、本当に楽しかった」

 

 この屋敷で初めて出会った時、あなたは私のことなんかほとんど見向きもしないで、屋敷の調査ばっかりしてた。

 

「あなたは、変なやつだったけど」

 

 でも大伴御行が襲いかかってきた時、どんなに苦しめられても、傷つけられても、あなたは私を守り通してくれた。

 

「それが、温かくて」

 

 私があなたの看病をしようとした時は、たくさん迷惑を掛けてしまったけれど、あなたはそんな私を優しく受け入れてくれた。

 

「それが、嬉しくて」

 

 あなたが二週間も私に会いに来てくれなかった時は、あんまりにも寂しかったから、思わず私の方から会いに行っちゃった。

 

「それが、幸せで」

 

 私は他の人と比べれば、取り柄がなくて、なにもできない女だったけど。

 

「全部全部、素敵な思い出で」

 

 あなたに恋をするという、この感情は、とっても素敵なものでした。

 

「ありがとう」

 

 この地上に降りてきて、本当によかった。

 

「本当に、ありがとう」

 

 あなたに出会えて、本当によかった。

 

「……けど、さようなら」

 

 叶うなら、ずっと一緒にいたかったけど。

 

「ギンのこと、忘れないから」

 

 どうか、私を忘れないでいてください。

 

「門倉銀山っていう、私が恋した男がいたこと」

 

 蓬莱山輝夜っていう、あなたに恋した女がいたこと。

 

「忘れないから」

 

 どうか、忘れないでいてください。

 

「だから」

 

 だから、

 

「さよ、ぅ、――」

 

 さようなら。そう言おうとして、言葉が上手く出てこなかった。

 最後の、最後で。

 鼻の奥に、刺すような刺激が込み上がってきたのを感じたら――もう、ダメだった。

 

「ぁ、」

 

 泣き出す直前の赤子の声。引っ張られるように、目元が一気に湿っぽくなる。

 

「ぅえっ、」

 

 慌てて目元を拭っても、涙はどんどん込み上がってきて。

 口を噤もうとしても、声は次々こぼれ落ちて。

 

「ぅ、あ――うううぅぅ~……!」

 

 もう、限界だった。これでいいんだと思っていた。すべてを話して、笑顔で別れれば、あとにはなにも残らないんだと自分に言い聞かせてきた。

 バカじゃないのか。

 そんなこと、あるわけないじゃないか。

 だって、銀山がいない。理由なんてそれで充分だ。銀山がいなくなってしまうのに、笑顔だとか綺麗な別れ方だとか、ふざけるのも大概にしたらどうなんだ。

 輝夜にでき得る、どんなに綺麗な笑顔を咲かせたって。考えられる限り、どんなに綺麗な別れ方をしたって。あとには絶対に、後悔だけが残る。後悔以外のものなんて、残るわけがない。

 蓬莱山輝夜は、もう。

 銀山と別れるためには、あまりにも、幸せになりすぎたのだ。

 

「ギン~……! ギン~……ッ!」

 

 いやだよ。さよならなんていやだよ。ずっと一緒にいたいよ。ずっとあなたのことを、好きでいたいよ。

 もう、一人では立ってもいられなくて。銀山の胸の中に身を投げ出して、すべてを彼に委ねて。

 どうして輝夜は、月の世界に生まれてしまったのだろう。この地上に生まれたかった。銀山とともに生きて、銀山とともに死にたかった。月の民とか、月の姫とか、もううんざりで。出自も名前も地位も過去も、なにもかもを捨てて、なに一つ特別なものを持たない、ただの女になりたかった。

 おっかなびっくり背中に回された、彼の腕で。

 この体を。

 命を。

 彼の中に、閉じ込めてほしかった。

 

「私、帰りたくない……!」

 

 もう、自分の気持ちに嘘はつけない。

 

「ずっと、ギンと一緒にいたいっ……!」

 

 このぬくもりを失いたくない。失ってしまったら、きっと輝夜は、寒さに耐えられない。

 ――だから、私は、

 

「帰りたく、ない、よおぉ……!」

 

 夜は凪いでいる。輝夜がどんなに悲しんでも、どんなに涙を流しても、世界は、月は、なんの感情も浮かべずにただ凪いでいる。

 当たり前だ。たった小娘一人が泣いたところで、世界は慈悲を恵まない。なにも変わることなく、ただ別れの日だけを、輝夜のもとに突きつけてくる。

 泣いているのは、輝夜だけ。

 大きすぎる夜の下で、少女の慟哭は、ひどく虚しかった。

 

「……輝夜」

 

 ふと、バリトンの声が鳴った。輝夜を支えていた銀山の手が、優しくあやすように、輝夜の背を叩いた。

 

「私は、今この場で月について知ったばかりだから、よくはわからないけど」

 

 銀山の胸に顔を埋めながら、輝夜はその声に耳を傾ける。甘えだった。ダメだとわかっているのに、慰めてほしくて、優しくしてほしくて、我慢が利かなかった。

 言い訳なんてできないし、ここまで来てしようとも思わない。

 蓬莱山輝夜には、本当に。

 銀山がいてくれないと、ダメなのだ。

 もぞもぞと身じろぎをして、銀山を見上げる。彼の表情は静かだった。少なくとも、今の輝夜に同情してくれている顔ではなかった。

 至って不思議そうに、彼は言う。

 

「――帰りたくないんだったら、帰らなければいいんじゃないのか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ひどいなあ……そんなこと訊いちゃうんだ」

 

 それがあまりにひどい問いだったので、輝夜は思わず笑ってしまった。銀山には珍しく、デリカシーのない言葉だった。帰らなければいいと言ったところで、帰らないで済むのだったら、輝夜は初めからこんな風に泣いてなどいない。

 月での生活はひどく憂鬱だったが、人間関係に限っては、必ずしも悪いばかりではなかった。特に教育係をしてくれていた女性とは、親しい関係を築くことができていた。

 自惚れでもなんでもなく、大切にされていた、と思っている。ぶっきらぼうで厳しい人だったけれど、それが彼女なりの愛情の表現だった。きっと彼女は輝夜を娘のように思っていたし、輝夜も、彼女の存在を母のように感じたことは一度や二度ではない。

 表立って言葉にはしなかったし、蓬莱の薬の製作にも協力してくれたけれど、彼女は輝夜の地上行きに大反対していた。娘のような存在である輝夜を、自分の目の届かないところに行かせたくなかった。だから時が満ちれば、我先にと迎えにやってきて、帰ろうと、薬の匂いがする手をそっと輝夜へと伸ばすだろう。

 そして彼女に付き従う形で、月の兵士たちもやってくる。道中の護衛という建前を引っさげ、半ば強引にでも、輝夜を連れ戻すために。

 想像でしかないけれど、大罪人であってもなお月へ連れ帰るだけの理由が、輝夜の存在にはあるはずだから。

 

「さて、本当にどうしようもないのか?」

 

 だが、銀山の声は退かない。

 

「勘違いだったらすまないけど、なにも絶対に、どうしても帰らなきゃならないってわけではないんだろう?」

「……それは、そうかもしれないけど」

 

 確かに、絶対に月へ帰らなければならないと決まったわけではない。あくまで輝夜の想像だ。もしかするとあの教育係は、ここにいたいのならそうすればいい、と言ってくれるかもしれない。月の兵士たちだって、不老不死となった大罪人は月に必要ないと、とっくに見切りをつけているかもしれない。

 だが、それもまた想像に過ぎない。可能性でいえばやはり、月に帰らなければならない未来の方が圧倒的に強い気がする。

 

「輝夜」

 

 銀山の強い声に、思考を遮られる。子どもを諭すように張りのある声だったから、一瞬驚いてしまったけれど、顔を上げてみれば銀山は微笑んでいた。

 まるでなんてことはない、と言うように。

 

「可能性を完全に閉ざしてしまうのは、いつだって本人の諦めだよ」

 

 胸が詰まるような思いがした。

 

「帰りたくないなら、帰りたくないなりに行動してみた方がいいと私は思うよ。このままただ待つだけだったら、帰るしかなくなってしまうんだろう? さて、お前はそれでいいのかな。いいんだったら、私から言えることはなくなってしまうけど」

「……」

 

 それは、輝夜を慰める言葉ではなかった。穿ってしまえばただの事実確認だ。現実を再提示しただけで、これといった優しさも感じられない、ともすれば機械みたいな言葉だった。

 だがその再提示が、輝夜の心に強くのしかかる。

 本当に、このまま終わってしまっていいのか。――いいわけがない。いいわけがないからこそ、輝夜はこうして銀山に泣きついているのだから。

 なら、泣きついて、それで終わりか。そのまま諦めて、すべての可能性をゼロに閉ざして、後悔に(さいな)まれながら、月へと帰っていくのか。

 ――バカじゃないのか。

 

「……!」

 

 悲しみではない、もっと別の感情で胸が熱くなって、銀山の背に回した腕に力がこもる。

 それは、恋が生み出した一つの弊害だった。銀山のことを好きになって、好きな人に甘える快楽を覚えてしまって。蓬莱山輝夜は、彼を好きになる前よりもずっと弱くなってしまっていた。彼に体を預ける心地よさに酔ってしまって、己の足で立つことを忘れてしまっていた。

 思い出せ。大伴御行が屋敷を襲撃した時、輝夜は一体なにをした。

 戦った。非力な己なりに必死になって、弓を手に取り、言葉の矢を射った。

 それと同じだ。あの時必死になって、銀山を守ろうとしたように。輝夜と銀山の仲を引き裂こうとする邪魔者がいるのだから、今回だって戦えばいい。

 

「私が知ってる輝夜は」

 

 その気持ちを後押しするように、銀山がこう言ってくれる。

 

「あの時御行を振ったみたいに、嫌なことははっきり嫌と言って戦える子だと。……そう思っていたのだけど、買い被りかな?」

 

 答える代わりに、銀山を両腕で思いっきり抱き締めてやる。

 

「いてててて。輝夜、痛い痛い」

「うるさい。……生意気なこと言ってくれたお礼よ」

 

 かぐや姫が泣きながら抱きついたっていうのに、顔色一つ変えないで、慰めの一言もなくて、本当に生意気だ。けれど、それが逆に彼らしかった。

 悲しみが氷のように溶けていって、ようやく輝夜の顔に、作りものではない自然な笑顔が戻る。

 

「そう……よね」

 

 心に染み込むような、理解だった。

 

「そう、だよね。本当に帰りたくないんだもの。わがままくらい、言う権利はあるわよね」

 

 そうだとも、と銀山は頷く。

 

「こんな風に泣きついてみれば、お前なら一発なんじゃないか?」

「あー……私の迎えに来る人は、ふつーに『甘えるな』って一蹴しそう」

「おっと、それは強敵だな」

「そうなの。本当にいやーなやつでね」

 

 いつの間にか心はすっかり軽くなっていて、軽口を飛ばすような余裕まで出てきた。

 最初から無理だと決めつけて、諦めてしまうのは、あまりに実りのない生き方だ。

 この手の中に豊かな幸福を望むのならば、人は、笑っていなければならないのだと。

 

(……本当に)

 

 銀山の姿を見ていると、本当にそう思わされる。彼が幸せなのかはわからないが、少なくとも不幸ではないのだろう。それは彼が滅多に暗い顔をせず、明るく、前を見て生きているから。

 彼のように、生きられたなら。

 こんな私でも、幸福を、掴めるのだろうか。

 

(……)

 

 やっぱり、まだ終われない。輝夜の幸せの在処は、銀山の隣だ。月の世界には、輝夜が求める幸せなんてない。

 だから、戦って。月に帰る運命なんて、ねじ曲げて、撥ね除けて。

 この世界で、銀山とともに、生きていく。

 

「さて、気持ちはまとまったか?」

 

 軽く肩を抱かれ、銀山の胸の中からゆっくりと引き離される。それを、輝夜は拒まなかった。銀山に甘えるばかりの弱い女は、これでおしまいだと思った。

 

「ええ」

 

 力強く頷いて、銀山の瞳をまっすぐに見返して。

 

「私、頑張ってみる」

 

 顔くらいしか取り柄がない、なにもできない女だけれど。

 

「こんな私でも、頑張ることは、できるから」

「……そうか」

 

 銀山の言葉は、輝夜を肯定するものでも否定するものでもなかったが、浮かべた笑顔はこちらの背中を押してくれるようだった。それでいいんだと、言われている気がした。

 月を見上げ、輝夜は思う。――そうだ。絶対に、ただで帰ったりなんてしてやらない。泣きついてでも、駄々をこねてでも、自分の素直な気持ちを伝えるのだ。

 不安はあった。けれど勇気もあった。明るすぎる月の光に怯えるだけだった自分は、もうどこにもいない。

 この声に、もう一度、言葉という名の矢を番って。

 この世界で生きていきたいと、伝えるのだ。

 

「なあ、輝夜。月からの迎えが来る時、私も立ち会っていいか?」

「っ……」

 

 ふいな問い掛けではあったが、輝夜の心はさほど大きく波立たなかった。きっと銀山ならこう言ってくるはずだと、心のどこかで予感していたからだろう。

 

「お前以外の月の人間たちがどんな風なのか、興味があるんだ。滅多にない機会だし、ひと目見ておきたいと思ってね。……それに、私からもなにか、お前のために言えることがあるかもしれない」

「……」

 

 私もお前の力になるよ、という優しい言葉。けれど輝夜の心は凪いでいて、嬉しいとは、思わなかった。

 慰めてほしいと思った。優しくしてほしかった。けれど決して、助けてほしかったわけではなかった。

 むしろ、銀山に助けてもらうわけにはいかない。月の民たちは、地上の人間に対して、穢らわしいもの、羽虫同然の存在だという、その程度の認識しか持ち合わせていない。当然、月の世界には地上の人間を殺すことを罪とする法など存在しないし、それで罪悪感を抱く者も滅多にはいない。

 翁や屋敷の者たちは、輝夜を養ってくれた存在だから、月の民たちも無下には扱わないだろう。だが輝夜の心を地上に引き留める一番の原因である銀山は、月の民たちにとって明確な『敵』だ。銀山が月の民たちに出会った時、彼らが一体どんな行動を取るか――それは、輝夜にも予想がつかなかった。

 もしも彼らが、邪魔者は始末して構わない、とでも命令されていたならば。

 その時、銀山は――。

 

「……」

 

 だが一方で、輝夜は気づいてもいた。輝夜がそうであるように、銀山もまた、わがままな人間であることに。

 嫌なことには絶対に首を縦に振らないとか、自分の思い通りにいかないと機嫌を悪くするとか、そういう子どもじみたわがままではなく。

 銀山は――したいと思ったことは、素直にする。そういう、他人に縛られない人間だ。

 ここで輝夜が首を横に振っても、銀山は退かないだろう。一旦は退いたと見せかけておいて、迎えの日にいきなり首を突っ込んでくるくらいの真似は、笑いながらしてくるだろう。

 それは、嫌だった。これ以上、銀山が輝夜のために命を危険に晒すのは、見ていられなかった。

 だから、銀山を巻き込まないために、輝夜が取るべき行動は。

 

「――いいわよ」

 

 なんでもないという風に微笑んで、傍らの彼を見上げる。

 

「迎えの日は?」

「今からちょうど五日後。……その日の夜、月からの使者が、この屋敷に私を迎えにやってくるわ」

「五日後……ね」

 

 ごめんね、と輝夜は心の中で小さく呟く。

 

「そのこと、翁殿には話したのか?」

「ううん、まだ。……でももう吹っ切れたから、ちゃんと私から話すわ」

「そっか」

 

 ごめんね、ギン。最後の最後で、嘘をついて。

 

「……今日はありがとう。お陰で、すごく気持ちが楽になった」

「どう致しまして。……上手く行くことを祈ってるよ。お前がいなくなると悲しむ人が、ここには大勢いるだろうから」

「うん」

 

 でも、大丈夫だから。私は、一人で戦えるから。あなたが危険を冒す必要なんて、どこにもないから。

 

「じゃあ、もうそろそろ帰って大丈夫かな。あんまり長居すると、また面倒な噂が立ちそうだし」

「……うん」

 

 私は必ず、必ず、あなたの隣に帰ってくるから。

 

 ――だからあなたは、どうかなにも知らずに待っていてください。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀山が屋敷を去ったあと、輝夜は翁にすべてを告げる。己の正体を。そしてこれから起こることを。銀山に対してそうしたように――けれど最後まで、嘘偽りない真実だけを。

 

 月からの迎えが来るのは、四日後(・・・)の満月の夜だと。

 

 すべてを知っているのは、天上で光る白い月だけ。けれど月は、月であるが故に、なにも言葉を落とすことはない。

 なにも言わずに。

 すれ違う二人を、ただ、見下ろすだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ⑨ 「月下、銀映ゆる」

 

 

 

 

 

 大丈夫だと信じてはいたが、それは所詮、己の心配を誤魔化すための拙い嘘だった。だから八意永琳は、蓬莱山輝夜を地上流しから解放するその日、自ら迎えの舟を指揮することに決めた。

 永琳にとっての輝夜は、手の掛かる娘のような存在だった。『月の頭脳』として長い年月を月で過ごし、子どもどころか孫がいても不思議ではないくらいだっただけに、輝夜をそういう目で見てしまったのは仕方のないことだったかもしれない。

 輝夜が地上に流された高々数年の時間は、月の民にとってはため息のように些細なものだけれど、娘と引き裂かれたまま生きるには、それなりに長く辛いものでもあった。一時期は、自らも蓬莱の薬を飲んで地に降りることを本気で考えたくらいだ。だが、いつか輝夜がこの世界に帰ってくる日を思い、耐え続けた。

 ……とはいえ、刑期を終えた輝夜が素直に月に戻ってくると、心から期待していたわけではなかった。もしも輝夜が、地上の世界で幸福を手に入れたのならば。きっと彼女は、迷う素振りも見せずに、月に戻るなんて真っ平御免! と言い切ってみせるだろう。

 だから、もし輝夜が月に帰ることを望んだ時には、まっすぐ手を差し伸べて。

 もし地上で生きていくと望んだ時には、私の方からそっと、歩みを寄せようと。

 そう心に決めて迎えた、満月の夜に。月の方舟で地上に降り立った永琳は、輝夜としばし再会を喜び合い、そして彼女の心を聞いた。

 

「永琳。私、月には戻らない。戻りたくない」

 

 ここにいたい、と望んだ輝夜は、その理由をこう語ったのだ。

 

「――私ね、恋をしたのよ」

 

 胸を打たれるような思いがした。その時の輝夜の笑顔が、月光に溶けていくように柔らかで、美しかったから。永琳の記憶に刻まれた笑顔も大概綺麗だったが、それらが一瞬で色褪せ思い出せなくなってしまうほどに、目の前の微笑みは鮮烈だった。

 ――ああ、そうか。

 この子は、この世界で、恋をしたのか。

 

「だから、ここに残って」

 

 輝夜の声は、決して大きくはなかったけれど。

 

「この世界で、生きて」

 

 周囲の雑音を突き抜け、なによりもはっきりと永琳の耳朶を打つ。

 

「――この世界で、恋をしていくの」

 

 それが、まるで神への誓いのようだと、永琳は思う。

 

「……素敵な人なのかしら?」

 

 込み上がってくる笑みを口元だけに留めながら問えば、輝夜は自分のことのように強く頷いてみせる。

 

「きっと、永琳も気に入ってくれるわ」

「……そう」

 

 目を伏せ、呟く。もう充分だった。否、「恋をした」という輝夜の一言を聞いた時点で、もう振り返る必要すらないほどに、永琳の進む道は定まっていた。

 

「あ、でもだからって取っちゃダメだからね。ギンは私の――」

「――輝夜。大事な話があるわ」

 

 輝夜の言葉にそう被せながら、永琳は己の胸に手を当てて。

 そこにしまわれた蓬莱の薬の存在を、静かに、確かめた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――それより以前、月がまだ明るくなりきらない、薄い宵の口の頃に。

 家の戸を足で粉砕して転がり込んできた秀友を、銀山は拳で粉砕していた。

 

「……で、一体なんの用だい。雪」

 

 床に転がって動かなくなった狼藉者には目もくれない。秀友のあとを慌てて追ってきた雪は、転がる男の肢体と真っ二つになった扉の残骸を見て、とても嘆かわしそうに頭を振った。

 それから、ため息を一つ。

 

「ごめんなさい銀山さん、うちのバカがバカをして……」

「それは昔からだからいいよ。それで、なにかあったのか?」

 

 物取りかと思って反射的に拳を叩き込んでしまったが、秀友が戸を粉砕して転がり込んでくるなど初めてのことだ。どうやらなにかあったらしい、ということは、言われるまでもなくわかる。

 銀山の問いに、雪がハッとした様子で、

 

「そ、そうでしたっ。大変なんですよ銀山さん! あくまで噂なんですけど、姫様が、なんか違う世界の人で、月のお姫様で、なんだかよくわかりませんけどお月様に帰っちゃうって!」

「ああ」

 

 なるほどその話か、と銀山は思う。月からの迎えがやってくる前日となって、いよいよ情報が下町にも伝わり始めたらしい。今日は一日中家にこもって札の製作やら準備をしていたので、まったく気づかなかった。

 

「私も聞いたよ。明日の夜だってね」

「ど、どうしてそんなに落ち着いてるんですかっ。姫様がいなくなっちゃうんですよ!? いいんですか!?」

「……」

 

 銀山は答えず、緩く息を吐きながら、壊された家の戸を見下ろした。

 

「……積もる話より先に、戸の修理をしようか。このままだと不用心だからね」

「ぎ、銀山さんっ……」

「大丈夫だよ、雪」

 

 張り詰めた顔をしている雪に、微笑んで、

 

「私だって、なにも考えてないわけじゃないから」

「……」

「だから、まずはこっち」

 

 壊れた戸を拾い上げる。真ん中から真っ二つになってしまっているが、このくらいならば応急処置程度で充分だろう。本格的な修理は、すべてが片付いてからゆっくりやればいい。

 

「……わかりました」

 

 雪が、眉根を少し厳しくしたままで、頷く。

 

「手伝います。終わったら、全部聞かせてもらいますから」

「助かるよ」

 

 下町育ちの雪は、秀友を容赦なく蹴り倒すあたりからもわかる通り、非常に逞しい。扉の修理を手伝う程度なら、或いは秀友よりも有能に、なんなくこなしてしまうことだろう。

 壊れた戸をひとまず雪に任せ、銀山は家の奥へと道具を揃えに向かう。途中、床に横たわる男の屍が邪魔だったので、隅の方に転がしておいた。

 もちろん雪は、なにも言わなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その男が目を覚ましたのは、戸の修理はもちろん、雪に話すべき話もすっかり一段落して、他愛のない与太話へと言葉が移ろいゆく頃になってからだった。部屋の隅でおもむろにのそりと体を起こした秀友を、銀山は半目になって見返した。

 

「おはよう」

「おー、おはようさん。……あれ? なんでオレ、こんなとこで寝てんだ?」

 

 どうやら一連の出来事が記憶から飛んでいるらしい。本当のことを言えば騒ぎ出しそうなので、適当に嘘を吹き込んでおく。

 

「家に飛び込んでくるなり、足を滑らせて頭を打ったんだよ。大丈夫か?」

「本当かよ? ……ううん、なんだかそうだったような、そうじゃなかったような」

 

 もちろん雪は、ここでもなにも言わない。我関せずとばかりの澄まし顔で、銀山が淹れたお茶をのんびりとすすっていた。

 

「まあいっか」

 

 小難しいことを考えるのが苦手な秀友は、すぐに諦めたようだった。気の抜けた息を吐いて、けれどまたすぐに首を傾げて、

 

「……あれ? なんでオレ、ギンの家にやってきたんだっけか?」

「お前もう寝てろよ」

「やっ、待て待て待てよギン、これは違うんだ。ちょっと寝起きで頭働いてなくて、とにかく待ってろすぐ思い出すから」

 

 うんうんと耳障りに唸り始めた秀友から、銀山は速やかに視線を外す。向かい側に座る雪は、ゆっくりと長いため息を一つ落として、哀れな亭主の姿を嘆いていた。

 夜は深まっていた。昨夜に比べてまた一回り大きさを増した月が、星空をかき消すほどに眩く輝いている。ここまで来ると、もはや月ではなく太陽だ。夜ではなく真っ昼間だ。ただ適当に窓を開け放っておくだけで、一日中灯りには困らない。

 今や昼間との違いは、世界が白いということだけ。

 もしかするとあの月は、輝夜を迎えるために地上に近づいてきているのかもしれない。ほんの少し手を伸ばすだけで、もう月の表面に指が触れてしまうかのような。そんな、不思議な心地がする。

 

「……」

 

 ……月の世界。あの白い珠の中には、一体どんな文明が芽吹いているのだろうか。こことは比べものにならないくらいに発達している、と輝夜は言ったが、それは一体どれほどのものなのだろうか。

 そう思いを馳せるだけで、心が粟立つようだった。興奮だった。地上に残るという輝夜の代わりに、自分が月に行きたいくらいだと、思わずにはおれなかった。

 未だかつて、月に生命が芽吹いているなどと考えたことはなかった。それどころか、月というものがなんなのかすら、ろくに考えたことはなかった。

 先入観が完璧に打ち砕かれた。今や銀山の心は、地上を離れ、空を駆け昇り、その果てにある未知の世界にまで広がっている。月とはなんだ。月の民とはなんだ。この地上の妖怪とも、人間とも一線を画す存在。輝夜と同じように、地上の人間となに一つ変わらない見た目をしているのか。それともひと目で月の民だとわかるような、なにか特徴を持っていたりするのか。空の彼方から、どうやって輝夜を迎えにやってくるのか。妖怪のように空を自由に飛び回る術を、彼らはものにしているのか。

 ――ああ、世界が膨らむ。

 

「そうだ、思い出した!」

 

 秀友が、いきなり両の膝を打って立ち上がる。

 

「かぐや姫だよ! あくまで噂なんだけど、かぐや姫が、なんか違う世界の人で、月のお姫様とかで、なんだかよくわからねえけど月に帰っちまうって!」

 

 少し前の雪と同じようなことを叫んで、窓から外の月を指差すと、

 

「いいのかギン、愛しのお姫様がいなくなっちまうぞ!?」

「ところでもう夜も更けてきたけど、雪は帰らなくて大丈夫なのか?」

「あ、そうですね。確かにそろそろ帰らないと……」

「聞いてねえし!」

 

 聞くまでもない。

 

「お前が寝てるうちに、そのあたりの話は雪と済ませたよ」

「なん……だと……」

「それじゃあそろそろお開きだ。私は、明日は大事な用があるからね。今夜はゆっくり休んで疲れを取っておかないと」

「納得行かねー!」

 

 癇癪を起こす秀友と対照的に、雪の反応は素直だった。それは彼女が、明日になにが起こり、銀山がどうするのかを、既に理解しているからだろう。

 お茶、ごちそうさまでした――そう言って立ち上がり、秀友に歩み寄って袖をぐいぐいと引く。

 

「ほらほら秀友さん、もう帰りますよ」

「ちょっと待ってくれ雪さん! オレ思うんだけどよ、なんか最近オレの扱いが雑」

「か え り ま す よ  ?」

「……はい」

 

 なんとわかりやすい上下関係だろうか。雪は旦那を尻に敷くタチだし、秀友は敷かれて然るべき男だし、なんとも互いに相性のいい夫婦だった。

 さっさと正式に結婚すればいいのに、という言葉は心の中に飲み込みつつ、銀山は二人の先導して修理した戸を開け、一歩、夜の町に足を踏み出す。

 

「ほんと、夜だなんて思えないくらいに明るいですよねえ」

 

 背中についてきた雪の声に、まったくだと短く返事をして、夜空を見上げる。針で空けたような無数の小さな穴は星の光。そして拳よりも大きな、ぽっかりと空いた白い孔は月の光。直視するには、もはや少し眩しいと感じるほどに輝きを増している。一度まぶたを下ろせば、月の姿が網膜に焼きついて、チカチカと輝き続けている。

 この世のものとは思えない神秘的な夜空だと、素直にため息をついていただろう。――まぶたを上げた時、視界の片隅で不自然な光を放つ、見慣れないなにかを、見つけなければ。

 

「――?」

 

 白ではない別の光が、夜の中に交じっている。淡い紫の色を帯びた、黄金色の光だった。

 巨大な月の片隅で、しかし月でも星でもないなにかが、光っている。

 月の光が強すぎて、少し、わかりづらいけれど。

 

「どうしました?」

「お、見てみろよ雪さん。あそこになんか――」

 

 秀友たちも、違和感に気がついたらしい。

 視線が向けられる先に、あるものは。

 

(……舟、か?)

 

 銀山が断言できなかったのは、それが水の上ではなく、空に浮いていたからだ。薄い筋雲を衣のようにまとった、帆を持たない、空を泳ぐ舟だった。

 遠近感が上手く掴めなくて、それがどれくらいの大きさなのかは、わからなかったけれど。

 空を泳いでいるという一つの事実だけで、もはや疑問を挟む余地はなかった。あの舟の正体を、銀山は弾かれるように一瞬で、理解していた。

 

(――月からの、迎えの舟!)

 

 迎えの日は、明日の夜だったはずだ。それがなぜ今になっているのか、可能性はいくつか考えられたが、事実として目の前にこの光景が広がっている以上、棒立ちのまま原因を考えるのは無益だった。

 行動は反射だった。その時に一体なにを考えていたのかは、銀山自身もよくわかっていない。ただ自然と、生まれた海亀の子が海を目指すように、両足を翁の屋敷へ向けて踏み出し――

 そして、崩れ落ちる。

 

「……!」

 

 足を踏み出したまさにその瞬間、強烈な眩暈で視界が潰れ、膝から地に崩れ落ちた。一時は自分の体がどうなっているのかすらわからなくなったが、やがて闇の底から浮き上がるように視界が戻ってくれば、どうやら地に両手と両膝をついているらしいことがわかった。しかし一瞬だ。すぐにまた眩暈で天地が真っ逆さまになり、重度の風邪よりよっぽどタチの悪い吐き気が喉を圧迫する。なのに不思議と、頭の中だけが不自然なくらいに軽い。ふわりと、そのままどこかに飛んでいって、消えてしまいそうだ。

 ふいに背後で、二つの物音。

 秀友と雪が、倒れた音だ。

 

「ぎ……ざん、さ……」

 

 声が聞こえたのは、雪からだけだった。銀山は一度まぶたを下ろし、喘ぐように深呼吸をしてから、首だけを動かして背後を振り返る。雪が地面に倒れ伏して、頭だけを懸命に持ち上げて、苦悶の瞳で銀山を見つめている。その横で、秀友は完全に気を失ったのか、指一本動かす気配がない。

 

「な……です、か、これ……」

 

 音を一つ紡ぐたび、激しい痛みに呻くように、雪の体が震える。ほとんど言葉にはなっていなかったが、こうして口を動かせる雪を、銀山は大したものだと思った。そして同時に、その横ですっかり伸びている秀友を、情けないとも。

 再びまぶたを下ろし、今度はゆっくりと、心を落ち着けて深呼吸をする。この強烈な眩暈と吐き気がどうやって引き起こされたのか、ひとたび認識してしまえば、症状は嘘のように引いていった。

 

「……人を夢に落とす幻術」

「……え?」

「都全体を覆うほどの。……出処はさしずめ、あの舟だね」

 

 指から腕へ。腕から全身へ。そうやって体に力を呼び戻し、銀山は立ち上がって空を見た。月の方舟は、淡い紫の色をした、幻術の光を都中に振りまいている。妖術の類かなにかは知らないが、光を見た人間を片っ端から落としていくとは、なかなか大層な幻術だ。かぐや姫が月へと帰る区切りの日に、余所者の介入は必要ないということなのだろう。

 

「あれ、は……姫、さま……?」

「だろうね。……さては輝夜め、私に嘘をついたな?」

 

 噛み殺すように、苦笑する。迎えの日を間違えて伝えられたわけではあるまい。輝夜は間違いなく、嘘だと理解した上で、あの時銀山に明日という日付を伝えたのだ。まさかあの流れでこんな大嘘をつかれるだなんて、さすがの銀山も、油断していた。

 見つめる先で、光の舟が静かに動き出す。風がないこの夜で、帆がないあの船体で、一体なにを推進力にしているというのか。舟はまとった筋雲の衣を波のようになびかせ、水面を裂くように月光を切り、空の果てへと昇っていく。

 あの舟に輝夜が乗せられているのか否か、彼女の願いが聞き届けられたのか否か、事の結末は確かめようがない。手を伸ばせば届きそうなほど近い月とは裏腹に、天へと昇りゆく舟は、あまりにも遠い。

 

「……」

 

 なぜ輝夜があんな嘘をついたのか、銀山にはわからなかった。ただ、あの嘘は決していたずらなどではなく、つかれるべくしてつかれた嘘だったのだろうと、そう感じていた。

 輝夜は、銀山を迎えの席に立ち会わせたくなかった。関わらせたくなかった。なにか特別な理由があって、あの嘘をつかざるを得なかった。

 秀友ほどではないにせよ、それなりに深い付き合いをした友人だ。それ程度のことは、簡単にわかる。

 

「…………」

 

 けれど、心の中で渦巻くこの感情が、決して心地よいものではないこともまた、銀山は理解していた。すべてを話すと誓ったあの月の下で、輝夜は最後の最後に嘘をついた。理由はどうあれ、輝夜の言葉を信じた銀山を、裏切ったのだ。

 たとえその嘘が、銀山のためを思ってのものだったとしても。

 そういう気遣いのされ方は、決して、嬉しくはない。

 白い夜に、轟音が響く。月の船が突如として黒煙を吐き出し、続け様に火を吹いた。その身を赤い火の手で染め上げ、月に叢雲をかけるように黒い尾を引いて、向かう先を天から地へと変えていく。

 予期しない出来事だったが、銀山は薄い笑みすら浮かべながら、舟の落ちゆく様を見つめていた。地上に残るための手段としては強引すぎるんじゃないかと、脳裏にあのお転婆娘の姿を描きながら。

 

「……では、私も行こうか」

 

 意識は元に戻りつつある。まだ若干の不快感が残ってはいるが、それも舟を追い掛ける中で消えるだろう。

 この光景を目の当たりにしてなお大人しく輝夜の帰りを待ち続けるのは、性に合わなかったし。

 それにどうしようもないくらいに、横槍を入れてやりたい気分だった。月からやって来た舟を一目間近で見てみたいという好奇心だったのか、輝夜の嘘に仕返しをしようとする反抗心だったのかはわからないが、行動せずにはおれなかった。

 己の脚に問題なく力が入ることを確認し、銀山は振り返る。

 

「というわけで……少し行ってくるよ、雪」

「っ……」

 

 雪は、まだ体を上手く動かせないでいるようだった。もやを振り払うように何度も頭を振るが、地面に縫いつけられた体をほんの少し持ち上げることすら、できなかった。

 

「だ、め……」

 

 だが、苦しさで歪んだ表情の奥で、彼女の瞳がまっすぐに銀山を捉える。

 

「嫌な、予感……が、」

 

 今にも沈みそうな意識を叱咤し、上手く動かない唇で懸命に紡いだ言葉は、ひどく痛々しくて、泣き出す直前の子どものよう。彼女なりに、なにか予感するところがあったのかもしれない。秀友のように特別な能力を持っているわけではないが、昔から不思議と勘が利く子だった。

 銀山は答えず、ふっと微笑み、言った。

 

「秀友のこと、任せたよ」

「――!」

 

 そこからはもう、振り返りはしない。黒煙の上がる位置から舟が墜ちた先をおおまかに見当づけて、銀山は走り出した。

 雪の掠れた悲鳴をも、置き去りにして。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 反逆だと、誰かが叫んだ。それを、輝夜は否定しなかった。

 永琳が示してくれた地上に残るための手段は、彼女の『月の頭脳』という二つ名とは裏腹に、ひどく強引で滅茶苦茶なものだった。舟を墜とし、追っ手を殲滅する――知性の欠片もない、まるで獣の力技だった。

 これほどまで手荒な手段を取った理由を、彼女はかく語った。

 

「実を言うとね、既に警戒されてたのよ。私があなたの味方をするんじゃないかってね」

 

 だから月の兵士たちの間では、多少なりとも強引に事を進める計画が練られていた。迎えの舟にうざったいくらいに大人数の兵士たちが乗っていたのは、それが理由だったのだと。

 

「だから裏をかく必要があったの。……さすがのあいつらも、まさか私がこんなに滅茶苦茶な手段を取るなんて、夢にも思ってなかったでしょうね」

 

 確かに、永琳の策は上手くはまった。輝夜が素直に舟に乗ったことで完全に油断していた月の兵士たちは、永琳の突然の行動にほとんど対応できないまま、あっという間に舟の制御を手放した。そして舟が墜落した混乱に乗じて、輝夜と永琳は白い大地へと逃げ出した。

 だがそのまま易々と見逃してくれるほど、月の兵士たちは甘くなかった。

 人数の差でもあったし、単純に実力の差でもあったろう。永琳は月の兵士を単騎で迎え撃てるほどに強いが、それでも輝夜という非力な少女を抱えた状態では不利だった。無駄に統制の取れた追撃を見せる彼らの前に、輝夜たちは徐々に逃げ場を失い――そして追い詰められた。

 

「……もう諦められたらいかがです、八意様?」

 

 投げ掛けられる男の声は倦んでいた。投降を促す以上に、輝夜たちを嘲笑うような声だった。

 眼前では、白い大きな月の下で、三十以上になろうかという月の兵士たちが、緩い弧を描いて整列している。これでも半分以上にまで数を削ったのだから、永琳は本当によく奮闘した方だ。

 永琳が焦りの見えない小さな吐息をついて、体で輝夜を守るように、一歩前へと歩み出る。弓手に弓、馬手に霊力の矢を握り、いつでも引き放てるように、静かに構える。

 

「……永琳」

「あなたはじっとしてて」

 

 輝夜たちの背後には森が鬱蒼と広がっていて、地の利を得るのに絶好の場所となっている。だが、そこへ逃げ込めるほどの余裕はなかった。向こうもそれがわかっているのだろう。だから月の兵士たちは一列を保って佇むだけで、一向に輝夜たちを取り囲もうとしない。

 取り囲むまでもないという、余裕の宣言。

 

「っ……」

 

 輝夜の目線は低い。もともと背が高い方ではないが、今は普段以上に、地面が近い。

 

「その怪我が治るくらいの時間は、稼いでみせるわ」

 

 永琳の視線が、素早く輝夜の足下へ向けられる。地へ座り込んだ輝夜の足下には、あるべき部位が欠けていた。

 

 右脚。

 兵士たちに撃たれ、消し飛ばされた。

 

 欠けた右脚を意識すると、傷がひどく痛んだ。輝夜は不老不死であり、身に受けた傷を一瞬で回復させ、肉体を再構成することができる。だが兵士たちに消し飛ばされた右脚は未だ再生しておらず、輝夜から歩く能を奪い、またその身に巨大な刃物を突き立て続けるような激痛を与えている。

 

「ぐっ……」

 

 痛い。傷は右脚にあるはずなのに、頭が一番痛かった。脳天に突き立てた刃で脳を抉られているみたいで、おかしくなってしまそうだった。不老不死になっていなければ、もうとっくの昔に失血死している傷だった。

 

「輝夜……」

「っ……大、丈夫。痛いだけ、だもの」

 

 けれど、涙は流さない。そう、これは所詮、痛いだけなのだから。放っておいたって、死にはしないのだから。輝夜が歯を食いしばれば済む話なのだから。

 だから今は、この状況をなんとかする方が先だった。

 背後の森へは逃げ込めない。輝夜は立ち上がることすらできないし、永琳も、追い詰められたこの状況で己の獲物を手放すわけにはいかないだろう。一度輝夜に手を貸せばもう弓は引けないし、そうなればあっという間に兵士たちに捉えられて終わりだ。

 故に、時間を稼がなければならない――というのに。

 

(くっ……こいつら、一体なにをしてくれたっての……!?)

 

 右脚の回復が遅すぎる。吹き飛ばされてから一分か二分は経つはずなのに、まるで再生を始めている気配がない。

 それに、

 

(それに、なんの躊躇いもなくいきなり撃ってくるなんて……)

 

 前警告すらなかった。兵士たちは、輝夜に向けて引鉄を引くのをまったく躊躇っていなかった。……罪人とはいえ、月の姫君である輝夜に向けて、だ。

 それは一体、どういうことなのだろうか。

 

(……)

 

 極端に治りが遅い傷。……恐らく、武器になんらかの仕込みをしたのだろう。月の優れた技術を以てすれば、それくらいできたって特に不思議はない。

 けれど、どうして、仕込みなんてしていたのだろう。どうして、その仕込みをした武器で、彼らはいきなり輝夜を撃ったのだろう。

 それじゃあ、まるで、

 

 ――まるで、初めから輝夜を撃つつもりだったみたいじゃないか。

 

 く、と輝夜の喉が震えた。痙攣するような笑いだった。傷の痛みのせいなのか、上手く音にはならなかったけれど、喉は何度も震えた。

 

(……結局私なんて、あんたたちにとって、その程度の存在ってことね)

 

 この傷を見れば簡単にわかる。今の輝夜はもう、月の兵士たちにとって、殺してもいい(・・・・・・)存在なのだ。不老不死なんて関係ない。躊躇いなく引鉄を引かれた、その事実に、輝夜は細く長く、息を吐いた。

 自分の心が、月から離れていくのを感じる。

 月に対する思い入れが、まったくないわけではなかった。決していい場所ではなかったけれど、あそこは輝夜の生まれた世界だった。輝夜を育ててくれた、たった一つの世界だった。

 そのたった一つの故郷が、輝夜に銃口を向けている。脅すために――或いは輝夜を、殺すために。

 月とつながっていた、最後の心の糸が、切れた。鋭く呼吸をして、輝夜は月の兵士たちを睨みつける。もともと帰るつもりなんてなかったが、これで完全に腹は決まった。

 私は、絶対に月へは戻らない。

 否――戻るわけには、いかない。

 本当に、銀山に嘘の日付を教えた自分を褒めてやりたい。輝夜にすら、なんの遠慮もなく引鉄を引くような連中なのだ。この場に彼がいたら、間違いなく殺されていただろう。

 永琳が、何気ない朝の挨拶をするような気軽さで、兵士たちへと問うた。

 

「見逃してはくれないのかしら?」

「少なくとも、あなたは無理です」

 

 答えが来るのは中央、他の兵士たちとは違う月の軍服で身を包んだ、恐らく指揮官であろう男。

 彼はあいかわらず、倦んだ声で、

 

そちらの方はさておき(・・・・・・・・・・)、『月の頭脳』であるあなたにまでいなくなられてしまっては困ります。豊姫様や依姫様も寂しがりましょう」

「……もう保護者が必要な歳でもないでしょう、あの子たちは」

「月の民たちを捨てるのですか?」

「隠居したいのよ。ほら、私ももう若くないし」

 

 歳の話をされると笑顔でキレるくせに、一体なにを言っているのだろうかと輝夜は思う。もちろん、口にすれば笑顔でキレられるので、思うだけだが。

 男が、嘆くように首を振った。

 

「八意様……このままでは私たちは、あなた方を反逆者として捕えねばならなくなります。あなたほどの人が、理解していないはずがないでしょう? 私たちは、無用な争いはしたくない」

「あら。なんの躊躇いもなく輝夜を撃っておいて、どの口でそんなことをほざくのかしら」

 

 男の顔から表情が消える。そして細く鋭さを増した兵士たちの視線すら呑み込んで、永琳は笑った。

 状況は圧倒的に不利なのに、それでもなお、美しく。

 

「まだるっこしいのよ。いい加減はっきりさせましょう? 私は輝夜とこの地上に残るわ。……これは、ごめんなさいね、もう心に決めたことなの」

 

 時間を稼がなければならない現状でのこの啖呵は、決して賢い行動ではなかったろう。けれど輝夜には、それを非難することはできなかった。

 わかってしまったのだ。永琳が、怒ってくれていると。天才と謳われた頭脳を持つ彼女でも、感情が理性を上回ってしまったのだと。

 自分のために怒ってくれている永琳を見るのは、もしかすると初めてだったかもしれない。ぐっと、胸が詰まるように痛くなる。けれどこの痛みは、決して苦しくはない。

 

「……ありがとう、永琳」

「礼はまだ早いわよ」

 

 脚の痛みをこたえ、自分にできる限りの笑顔で言った言葉に、永琳からの返事は素っ気なかった。

 

「まずはどうにかして、ここを切り抜けないとね」

 

 その反応を、あいかわらずだなあと思いながら、輝夜は己の右脚に目を移した。傷の再生は始まっている。だが、立ち上がるにはまだまだ足りない。

 

「――八意様のお気持ちは、よくわかりました」

 

 無感情に響いた声に、永琳が目を細めながら男を見遣った。男は笑うでも嘆くのでもなく、まぶたを下ろした無表情のままで、

 

「では私たちも、もはや躊躇いません。――あなた方を、月への反逆者と見なし、捕えます」

 

 片手を挙げる、その動きに合わせて、三十を超える月の兵士たちが一斉に銃を構える。距離は二十メートルもない。引鉄を引けば一秒を待たずに輝夜に弾が届く、必殺の距離だ。

 輝夜の前には永琳がいるのだから、本当に撃つということはないだろう。だが、こうして三十以上の銃口を一度に向けられるだけで、見えない銃弾に胸を穿たれた心地になる。

 

「八意様は、不老不死ではないから殺すな」

 

 無機質な起動音に合わせて、兵士たちの銃器が、淡い黄金色の光を宿す。

 きつく弦を引く音に合わせて、永琳の弓が、月光を映し出し蒼白に輝く。

 男は表情を変えない。

 

「姫様は……一度殺した方が、楽かもしれないな」

 

 そして永琳も、輝夜もまた、表情を変えなかった。もうわかっている。――自分たちが帰る場所は、月ではないのだと。

 

「永琳……」

「ええ、大丈夫」

 

 永琳の番えた霊力の矢が、一際強く蒼い光を放つ。月光すら弾き返すその蒼に、緊張の糸が、音もなく静かに張り詰められていく。

 

「――」

 

 一瞬の静寂があった。糸が張り詰め、切れるまでの、ほんのわずかな沈黙を。

 しかし切り裂くのは黄金でも蒼でもなく――鮮烈なまでの、紅。

 炎だった。背後の森から蛇のように這い出した二つの紅が、熱風とともに輝夜の両脇を駆け抜け、月の兵士たちの眼前で衝突し、弾け飛ぶ。

 

「ッ……! 総員、下がれ!」

 

 直撃していないとはいえ、巻き上がった激しい熱気に怯み、兵たちが堪らず隊列を下げた。

 

「! ……あら、もしかして援軍かしら?」

 

 冗談めかした薄笑いをこぼし、永琳が弓に込めていた力を緩めたが。

 輝夜は、笑えなかった。

 だって――だって、この炎は。

 間違えようがなかった。この、見る者の目を奪う美しい唐紅も。この、見る者の心を焼く気高い熱気も。

 全部、全部。

 それはかつて、輝夜を救ってくれた、炎だったから。

 

「どちら様?」

「おっと……そこの輝夜の、まあ、友人みたいなものだよ。そちらは?」

「そうね……ここの輝夜の、まあ、保護者みたいなものかしら」

 

 背後から聞こえる彼の声を、嘘だと思いたかった。振り返るのが怖くて、彼が来てしまったことを認めたくなくて、目の前で燃える緋色の炎から、目を離せなかった。

 巻き込みたくないと、あんなに願っていたのに。

 

「やあ、輝夜。――無事か?」

 

 どうして、ここに、来てしまったの――?

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無論、永琳がその男に出会うのは初めてだった。だが一目見た瞬間に、この人が輝夜の恋した男なのだと、直感で理解していた。

 輝夜が惚れるような相手だから、きっといい意味でも悪い意味でも優しいのだろうとは思っていたが、どうやら間違いなさそうだ。

 月の舟が発していた幻術を振り切り、都から離れたこの場所まで、輝夜を助けるためにやってくるのだから。

 

「やあ、輝夜。――無事か?」

 

 耳に優しいバリトンの声音で、彼が輝夜を隣から見下ろした。着物で隠されているからか上手く夜の影に紛れているからか、輝夜の右脚の怪我にはまだ気づいていないようだった。

 永琳はもう一度弓を引き絞り、己の霊力で作り上げた矢を、今度は放った。矢は放たれると同時に幾筋もの光芒へと枝分かれし、最終的に数十の矢の束となって、未だ燃え盛る炎の奥へと消えていく。

 ちょっとした牽制のつもりだった。兵士たちの反応を注意深く窺いながら、永琳は声だけを彼へと向ける。

「一応、自己紹介しておくわね。私は八意永琳。説明は要らないだろうからいきなり言うけど、月の人間よ」

「ん……私は門倉銀山。ただのしがない陰陽師だよ」

 

 炎の奥で人影が揺らめき、次の瞬間、青白い光弾が紅をかいくぐって飛び出してきた。輝夜の右脚を撃ち抜いた光弾とは種類が違う、殺傷能力のない衝撃弾――だが、わざわざ喰らってやる道理はない。

 二本目の霊力の矢を番い、即座に放つ。蒼の矢と蒼の光弾が激突し、弾け飛び、光の粒子となって煌めきながら消えていく光景に、彼は興味深げに眉を持ち上げた。

 

「へえ……これが月の世界の技術ってやつか」

「そんなところ。……それで提案なんだけど、とりあえず奥の森に隠れない? ここは、立ち話には視界が良すぎるわ」

 

 男手が増えたのは、この状況ではありがたい。

 

「輝夜、脚を怪我してしまったの。悪いんだけど、運んでもらえる?」

「脚? ……ッ」

 

 輝夜の右脚に目を遣った彼が、途端に表情を険しくした。

 長く、一つ呼吸をする間があって、

 

「なぜ撃たれた?」

 

 端的な彼の問いに、永琳も同じく端的に答える。

 

「この行為は、月への反逆だから」

「……」

「さあ、早く。……やつら、そろそろあなたの炎を越えてくるわ」

 

 彼が放った豪火は兵士たちの進路を大きく妨げたが、それも安全な場所を迂回してしまえばいいだけの話。炎を避け、兵が次々と永琳たちの右手に回り込んでくる。

 それを、番う霊力の矢で牽制しながら。……或いはそのまま、射殺しながら。

 

「輝夜、あなたもなにボケッとしてるの? 早く――」

「――なんで、来たの?」

 

 輝夜への呼び掛けは、彼女の小さな声に遮られた。感情が張り裂ける寸前の、震える声だった。

 永琳は緩く吐息して、背後の森に逃げ込む選択肢を諦める。代わりに、敵の射線上から輝夜たちを守るように、一歩大きく前に出る。

 あいかわらず手のかかる娘だとは思ったけれど、心は自然と穏やかだった。それは、輝夜の頬で、一筋の透明な雫が垣間光ったのを見たからなのかもしれない。

 ああ、この子は誰かのために泣けるようになったんだと――それが、嬉しかった。

 だから永琳は、己の右手の中に再び、霊力の矢を作り出す。

 

「……ごめんなさいね。輝夜はちょっと、大事な話があるみたいだから」

 

 弦を絞り、矢を番え、すべての敵を、ここで押し留めるために。

 己の意志すらも、鋭利な武器へと変えて。

 

「――もう少し、私と遊んでちょうだい?」

 

 月下、矢を放つ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――どうして来たの!?」

 

 涙のように、叫びがあふれた。治りきっていない右脚を引きずり、輝夜は彼の袖に縋りついた。

 佇む銀山の、静かな表情を、見上げて。

 

「ねえ……私、言ったわよね? 迎えの舟は、明日だって」

 

 顔の筋肉が痙攣して、自分でもよくわからないうちに笑ってしまう。夢だと思いたかった。巻き込みたくなくて、来てほしくなくて、だからあんな嘘をついて。

 でも、掴んだ袖から伝わるこの温かさは、紛れもなく銀山の温かさで。

 銀山が、小さく、息をもらすように笑う。

 

「そうだね。まんまと騙された」

「どうして、騙されていてくれなかったのっ……?」

 

 都の人間は、月の民が放った幻術で、みんな眠りに落ちたはずなのに。

 なのに、どうして銀山だけが。

 

「舟が目の前で墜ちたんだ、じっとしてなんていられなくてね。……助け、いるだろ?」

「いらない……!」

 

 輝夜は、赤子のように頭を振った。

 

「そんなの、いらない……! 私は大丈夫だから! だから、ギンは逃げてよっ……!」

 

 頬を、涙が何度も伝う感触がした。今は永琳が守ってくれているが、兵士たちが放つ光弾がいつ銀山の命を奪うかと思うと、輝夜はもう、息の仕方すら忘れてしまいそうだった。

 喘ぐように、息を吸って。

 

「あいつらは、地上の人間を穢らわしいものだって思ってるの! 私にすらなんの躊躇いもなく引鉄を引いた連中なのよ!? ギンが、こんなところにいたら、殺されちゃう……!」

 

 一瞬――ほんの一瞬だけ、銀山の視線が、消し飛んだ輝夜の右脚に向けられる。だから輝夜は彼の袖を引いた。強く。そんなの見なくていいから。そんなの気にしなくていいから。こんなの全然平気だから。

 だからお願い、

 

「私は、不老不死だから、大丈夫だから、ね? 逃げて、お願い、私、ギンにもしなにかあったら、本当に、ダメになっちゃうから――」

 

 必死だった。銀山を引き留めたくて、何度も彼の袖を引いて、上手く呼吸ができなくても必死に息を吸って、本当に必死だった。

 

 だって銀山は、既に輝夜を見ていなかったから。

 縋りつく輝夜を、優しく支えてはくれたけれど。その目は、鋭く、月の兵士たちだけを見ていたから。

 

 最悪が輝夜の頭を過ぎる。

 このままでは、銀山が戦ってしまう。

 輝夜のために、戦ってしまう。

 

「ッ――!」

 

 息を呑むような、短い悲鳴が聞こえた。輝夜たちを守っていた永琳の体が突然(かし)いで、そのまま地に崩れ落ちた。

 

「ッ、永琳!?」

 

 まさかやられてしまったのかと、輝夜の体が腑の底まで凍りつく。永琳は、輝夜と違って蓬莱の薬を飲んだ身ではない。銀山と同じで、たった一撃をもらうだけで簡単に命を失ってしまう。

 だが、永琳はすぐに体を起こした。表情に焦りはあるものの、苦悶の色はない。

 ただ、左手に握られた弓が、真っ二つに砕けてしまっている。

 

「……話は終わったかしら? もうそろそろ、時間稼ぎも限界なのだけど」

 

 さすがに余裕を失った、永琳の口早な問い掛けに。

 けれど輝夜よりも先に応じたのは、銀山だった。

 

「――ああ、ありがとう」

「――ッ!!」

 

 声にならない悲鳴が喉を衝く。ダメだと思った。絶対にダメだと思った。月の兵たちを見据え、永琳の代わりに前に立とうとする銀山を、絶対に行かせてはいけないと。

 なのに、輝夜の体は動いてくれない。それが右脚の怪我のせいだったのか、それとも近づいてくる最悪の現実に打ちひしがれてしまったからだったのか、今となってはもう、わからないけれど。

 離れていく銀山の背中を、輝夜はほんの一瞬すら、引き留められなかった。

 

「あ、あ……ッ!」

「……! 待ちなさい、あなたまさか……!」

 

 永琳が咄嗟に声を上げるが、それも届かない。

 離れていく。

 離れていく。

 

「だめ……! だめえッ!!」

 

 叫ぶ。銀山を止めようと、脚を引きずって、必死に手を伸ばした。

 けれど銀山は、最後まで振り向いてなんてくれなくて。

 突如、輝夜と銀山を引き裂くように立ち上がった炎の壁が、輝夜の腕をかすかに焼く。

 

「熱ッ……!?」

「輝夜!」

 

 もう少しで体にも届くかという距離に、永琳に襟首を掴まれ、引き倒される。

 そして――

 

「あ、」

 

 そして、もう、ダメだった。

 燃え盛る炎の壁が隔てる、向こう側で。

 銀山の背中は、もうあまりにも、遠すぎた。

 

「――」

 

 声は出なかった。ただ、すべての感情がまぶたの裏へと突き上がってきて、涙になるのがわかった。

 

「――悪いな、輝夜」

 

 掛けられる声は、優しかった。

 

「私は、あいつらと少し話をしないといけないから」

 

 穏やかで、温かくて、だからこそ、聞くだけで心が悲鳴を上げるようだった。

 

「だから、今のうちに逃げるといい」

 

 首を振る。泣いた。言葉は出てこなかったけれど、輝夜は赤子のように泣いた。

 泣いて、もう前なんて見えなくて、それでも必死に手を伸ばして。

 けれど、届かない。

 あのぬくもりにはもう、届かない。

 

「さあ、これであいこ(・・・)だ、輝夜!」

 

 その言葉が、なによりも辛く、輝夜の心を抉った。

 こんな優しさ、見せないでほしかった。こんな風に守られたくなんてなかった。こんな風に想われたくなんて、なかった。

 あなたに想われなくたって、構わなかった。

 ただ、傍にいてほしかった、だけなのに。

 

「――行け!」

 

 瞬間、銀山の姿が光の中に消える。

 それは、結界だった。空の上で輝く月を、そのまま地上に落としたかのような、銀色の大きな結界だった。

 結界は、銀山と月の兵士たちを内側に呑み込み、輝夜と永琳を外へと弾き出す。

 その時になってようやく――ようやく輝夜は、叫ぶことができた。

 

 

「――ばかあああああああああああああああッ!!」

 

 

 ねえ……ねえ、ギン。

 こんなに悲しくて、こんなに苦しくて、こんなに痛い涙を、流すくらいだったら。

 

 ――私は、あなたに、恋なんてしたくなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 世界が銀に包まれる間際、輝夜の悲鳴を聞いた気がした。

 その世界には天がなく、また大地もない。淡く揺らめく白銀で四方の彼方を囲まれた、光だけの世界だった。

 こうして巨大な結界を作り上げ、己と月の民を閉じ込めることが、決して最善の手でないことは銀山にもわかっていた。わかった上での選択だった。そうするに足るだけの理由が、今の銀山にはある。

 歓迎代わりに飛んできた光弾を、即座に防御の結界を張って弾き飛ばす。だが予想以上に威力があって、激しい衝撃とともに結界が大きく歪んだ。

 

(……)

 

 これが、月の世界の技術なのだろう。見たこともない細い筒から放たれるこの光弾は、並の妖怪なら一撃で葬るほどの威力がある。人間である銀山が喰らえば、さほど苦しむ間もなく死に至るだろう。

 続け様に飛んできた別の光弾が、今度は銀山を大きく外れて、周囲を包み込む銀の結界に撃ち込まれる。だが先ほどとは違い、こちらの結界は揺らめきすらしない。

 銀山は小さく笑い、言う。

 

「無駄だよ。この結界は少しばかり特殊なんだ。私が解こうとしない限りは解けないさ」

 

 銀山の正面に並ぶ、三十に及ぶ月の兵たちの中心で、指揮官と思われる男が苛立たしげに眉を歪めた。

 

「……たかが地上の人間風情が、小癪な真似を」

「そうやって甘く見てるから、一杯喰わされるんだよ」

 

 月の民は地上の人間を穢らわしく思っていると、輝夜は言った。それは紛れもない事実なのだろう。今銀山に向けられる兵たちの視線は、到底人間に向けるものとは思えないほどに冷めていたし、

 

「殺しますか」

 

 そんな問いが、指揮官に向けて当たり前のように飛ばされるのだから。

 男が、頷くのも煩わしいと言いたげに、緩くまぶたを下ろした。

 

「そうだな。この手の術は、術者を殺せば解けるのが通説だ」

「まあ待てよ。少し話を――」

「答える義理はない」

 

 銀山の言葉を一蹴し、静かに振るわれた男の右腕が、部下たちに一斉掃射を命じる。

 そうして放たれた無数の光弾は――しかしすべてが、銀山の横へと外れ、なにもない銀の大地を穿った。

 

「――?」

 

 月の兵たちに動揺が走る。光弾は、まるで見当違いに――撃った本人たちが驚くほどに、的である銀山を外していた。

 言い知れない違和感を探るように、男が苦く口を開いた。

 

「……幻術か」

「ご明察。……だからこれ以上撃つのは勘弁してくれないかな。弾が無駄だよ」

 

 一人、舌打ちをした兵が武器を構え直したが、それを男が制した。部下に目を配り、なにかを確認し合う短い間を見せてから、

 

「……気が変わった。答えよう。あの方のためにここまでして、その上で貴様は、私たちになにを問う」

「……」

 

 銀山は兵たちの動きに深く注意を配りながら、静かに問うた。

 

「……お前たちは、輝夜を月に連れ帰ろうとしている……で、いいんだよな?」

「そうだが、それが?」

「あいつの右脚を吹っ飛ばしてまでするようなことか?」

 

 ふ、と男が息だけで笑う。

 

「不老不死だから、という答えでは不満か」

「ということは、お前たちにとって輝夜は撃ってもいい相手なわけだ」

 

 輝夜の右脚は、決して事故で奪われたわけではないのだろう。

 

「あの方は蓬莱の薬を飲んだ大罪人であり、月へ反逆の意志を示した逆徒でもあるからな。……八意様とは違って、無傷で連れ帰ってこいとは、命令されていない」

「……なら、お前たちはなぜ輝夜を連れ帰るんだ? 罪人だからか? それとも、姫様だからか?」

「否。あの方の存在が、八意様を御するのに必要不可欠だからだ」

 

 男が、嘆くように頭を振った。

 

「八意様は、天才といえば響きはいいが、要は奇人でな。我々には理解できないような実験や発明をたびたび繰り返し、月夜見様も相当手を焼いておられた。……ああ、『理解できない』というのは、なにをやっているのかが理解できないという意味ではない。なぜそんなことをするのかが理解できない、という意味だ。常人とは思考回路が別物なのだよ、八意様は」

「……」

「性格も、蓬莱山輝夜が可愛く見えるほどのわがままだった。自分の興味がないことには目もくれず、生まれ持った才能を己のためだけに使う。自分以外の人間なんてどうでもいいと、一昔前までは本気で思っていたそうだよ。言動こそ物静かだが、昔の八意様は暴れ馬そのものだった。……蓬莱山輝夜に出会うまでは」

 

 一つ、長く、息を吸う。

 

「なにが原因だったのかはよくわからんが、蓬莱山輝夜と出会って八意様は変わられた。誰にも理解されないような独りよがりな研究はやめて、その才能を他人のために使い、月の発展に大きく貢献してくださった。暴れ馬に、轡と手綱がつけられたわけだな。

 ……そして、その手綱を握っていたのが蓬莱山輝夜だった。ここまで言えば、いくら下賎な地上の人間といえどわかるだろう?」

 

 銀山はまぶたを下ろし、ゆっくりと頷く。

 

「……輝夜が月に帰れば、八意永琳も月に帰らざるを得なくなるから」

「そう。……蓬莱山輝夜が地上に堕ちて、八意様は昔の八意様に戻られてしまった。またわけのわからない研究ばかりをして、月の発展に力を貸してくださらなくなってしまった。それでは困るのだよ。

 月の発展には、八意様の頭脳が必要不可欠だ。そしてそのためには、どうやら蓬莱山輝夜の存在が欠けてはならないようなのでな。だから我らは、蓬莱山輝夜を連れ帰らねばならぬのだ。……それこそ、殺してでも、な」

「……」

「もっともあの方は今や大罪人だ。月に帰ったところで、断罪され、真っ当な生活は送れなくなるだろうが……それもまた、八意様に手綱をつける意味では好都合だろうさ」

 

 一度言葉を区切り、男は宣言するように強い声音で言う。

 

「大罪を犯し、地上へ堕ちてその身が穢れてなお、蓬莱山輝夜には利用価値がある。故に彼女を月へ連れ帰るのは、月全体の意思である。

 ……これで、満足か?」

 

 銀山は答えなかった。答えないまま、ただ、小さく頷いた。

 なんとなく……なんとなくではあるが、輝夜がこの地上にやってきた理由を、本当の意味で理解できた気がした。

 証拠や根拠があるわけでは、ないけれど。恐らく輝夜は、地上の世界に行くことを望んで不老不死になったわけではないのだろう。地上の世界に行きたいと、心から望んでいたのではないのだろう。

 彼女が蓬莱の薬を飲んだのは――きっと、月の世界から逃げ出したいという想いの、裏返しだったのだ。

 輝夜はただ、月の世界から逃げ出しさえすれば。それさえできるのならば、堕ちる先なんてどこだって構わなかった。行けそうな場所が地上くらいしかなかったから、ここに堕ちることを選んだのだと、それだけの話。鳥籠の中の小鳥は、そうして大空に恋い焦がれた。

 存在意義を他人から与えられ、他人のために生かされる命なんて、真っ平御免で。

 自分が生きる人生を、紛れもない自分の足で、歩いていきたくて。

 

(そうか……)

 

 噛み締めるように思った。きっと、偶然ではなかったのだ。輝夜との間にあったすべての出来事が、運命めいた一つの必然だった。一度も自分の足で歩いたことがない輝夜と、常に自分の足だけで歩いてきた銀山と。まったく対極の存在である二人は、対極だからこそ、磁石のように互いに引き寄せられた。

 輝夜との出会いも。

 彼女を守り、大伴御行と対峙したことも。

 不器用な手つきで、お世辞にも丁寧とはいえない看病をされたことも。

 なんの前触れもなく、いきなり家に突撃されたことも。

 大きな月の下で、帰りたくないよと、涙を見せられたことも。

 そのすべてが、きっと、必然だった。すべてが、この『今』という時に向かって集約していた。

 だから、銀山は思う。

 

 

(だから私は――ここにいるのか)

 

 

 それは、天啓のように静かな、深い深い理解だった。自分が今ここにいる理由が、今更になって、すとんと胸に落ちてきた。

 初めは、それほど大したことをするつもりじゃなかった。月の民らと少し話をして、輝夜たちが逃げる時間を稼ぐ程度のつもりだった。

 だが、違う。

 銀山がここにいる、本当の理由は。

 

「……さて、与太話は終わりだ」

 

 起伏のない声とともに、男の右腕が浅く掲げられる。構えられた兵士たちの銃身がみな正しく自分を捉えているのに気づいた時、銀山は咄嗟に結界の札を取り出していた。

 目の前に結界を展開する、それとほぼ同時に、激しい衝撃を放って光弾が炸裂する。結界はあわや崩壊寸前というところまで歪んだが、辛うじて防ぎきることができた。

 

(幻術から、自力で脱したか……!)

 

 これが、月の民が銀山の話に応じた真の意図。幻術から抜け出すまでの、時間稼ぎとするため。

 男は薄く笑い、再びその右腕を掲げて言った。

 

「どうやら上手く抜け出せたようだな。……ならば、いい加減に終わりにしようか」

「……」

 

 幻術から自力で抜け出されたのは、随分と久し振りの話だった。ましてやそれを妖怪ではなく人間にしてやられたのは、間違いなく初めてだった。

 

「矮小な地上の人間とはいえ、加減はせんぞ」

 

 終わりを確信した男の声。だから銀山は、静かに拳を握り締めた。静かに、瞳の奥に力を宿した。

 迷いはなかった。つまらないことはすべて忘れようと思った。月の世界のことも、この世界のことも、あの兵士たちのことも、そして自分自身のことすらも。

 

 すべてを忘れて、今というこの時を、輝夜のためだけに刻もう。

 

「そうだな――」

 

 前へ歩を進め、眩い光弾が迫る中を、紡ぐ言葉、鮮烈に。

 この体を縛る(くびき)を解き放つことを、彼はもう、厭いなどしない。

 なぜなら、彼がこの場所にいる、本当の理由は。

 

 

「――私ももう、加減はなしだ」

 

 

 蓬莱山輝夜を、守るためなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、銀の旋風が巻き起こる。炸裂するはずだった光弾をすべて弾き飛ばし、現れ出るものがある。

 月の兵士たちは目を見開いた。その銀が、あまりに大きすぎたから。

 月の兵士たちは言葉を失った。その銀が、あまりに美しすぎたから。

 一つ一つが天を貫くほどに巨大な、銀の光の束は。

 揺らめく十一の、銀の尾は。

 

「――名乗ろう。月の民よ」

 

 それはまるで、銀の龍を従えるかのように圧倒的で。

 響く声はまるで、神に捧げる歌のように清廉で。

 

「私の名は月見。……ただのしがない、なんて言わないよ」

 

 月の兵士たちは、動けない。

 

「銀毛十一尾。恐らくはこの世界で最も太古の、狐たちの祖」

 

 動いてはいけないんだとすら、感じて。

 

「この名を以て、私は――」

 

 ただその銀に、心を奪われた。

 

 

「――私は、お前たちを討とう」

 

 

 いつしか世界には、銀の色だけで満ちていた。

 世界を遮断する銀の壁よりも、より眩く、より美しく、より気高い銀だった。

 

 それが銀に輝く炎なのだと、月の兵士たちが気づくことはない。

 気づくよりも先に、焼き尽くされている。

 

 陽炎すら残さず、指先の爪から、意識の奥底まで。

 すべてが一瞬で、銀に染まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前で、世界が燃えている。その炎は、あまりに凄絶に世界を焼いた。

 銀色の炎――己が生み出すことのできる最大火力。それを文字通りの全力で放った月見は、立ち眩みのような目眩を覚えて顔を押さえた。無理もない、と思う。数年振りに妖怪の姿に戻っていきなり最大火力を放てば、目眩の一つくらいも起こすだろう。

 ふふ、と小さく笑う。随分と久し振りの話だった。本気になるのも、この炎を放つのも。

 そして、人を殺すのも。

 

「……ともあれ、これでひとまずは大丈夫かな」

 

 月の民は殺した。これで一時の間、輝夜が月に連れ去られる心配はなくなった。

 だが、このあとのことはわからない。もし月の民から新たな追手がかかった時に、輝夜たちはどうするのだろうか。

 少なくとも、逆徒として月から追われる立場になった以上、輝夜が今までのように『かぐや姫』として生きることはできない。月の民が諦めるまで戦い、或いは各地を転々とし、身を隠し、逃げ続けなければならない。

 そしてその時、『銀山』は、どう輝夜と向き合うべきなのだろうか。

 

「……もしかすると私も、このあたりが引き際なのかもしれないな」

 

 呟き、緩く息を吐いた、直後。

 燃える銀の炎の中から飛び出してきた光弾に、月見の体は、まったく反応できなかった。

 

「――……ッ」

 

 半紙を突き破るように、腹を抉られる。決して見えなかったわけではなかった。妖怪の体に戻った今ならば、さほど苦労せずに回避できるはずだった。それにも関わらず月見が反応すらできなかったのは、銀の炎を放った反動もあったが、それ以上に、よもや反撃されるなどとは夢にも思っていなかったからだ。

 世界を焼く銀の奥から這うように現れるのは、一人の男。月見は口から血をこぼし、片膝を地につきながら、まさかという思いでその男を見つめた。

 

「まさか――あれを喰らって生きてるなんてね」

 

 男の全身は焼けただれ、三十以上いた兵士たちの中の誰なのかすらわからない。だがそれでも、男は命までは焼き尽くされていなかった。赤黒くただれた体に、なんらかの術式が発動した、幾何学模様の跡があった。

 防護の術に頼ったとはいえ、既に致命傷であるとはいえ、人間が、あの炎に耐えた。

 月見は咳き込み、喀血する。妖怪に戻った月見からしてみれば、高々腹を撃たれただけのはずだった。妖怪の回復力を以てして、全快までは無理でも、出血くらいはすぐに治まるはずだった。

 だがこれは、ただ腹に孔が空いただけとは違う。血が止まらない。傷が塞がらない。それどころか、まるで虫に喰われているかのように、じくじくと傷口が広がっていく気さえする。

 ふふ、と身を震わせて小さく笑えば、それだけでまた喉の奥から血があふれる。

 

(……これは、ちょっと、まずいか?)

 

 男の右腕が持ち上がる。石像を無理やり動かすように痛々しい動きだ。恐らく引鉄を引けば、それっきりすべての力を失って絶命する。

 だが――もう一発撃たれてしまうと、非常にまずい。

 

「ぐっ……」

 

 体が動かないのはもちろん、なぜか妖力がまとまらない。防御の結界を作り上げようとしても、そうした傍から妖力が散ってしまって、とても形になってくれない。

 それはつまり、防御も回避もできないということ。笑おうとすれば、声の代わりに血が口からあふれる。血を失うように、己の意識までをも失ってしまいそうになる。

 これもまた、月の技術ということなのだろう。都すべてを覆い尽くす幻術然り、銀の炎を耐え抜く防護術然り、傷の回復を妨げ妖力の巡りを阻害する、あの光弾もまた然り。

 大妖怪をたった一発の攻撃で追い詰める、まるで途方もない月の技術を以て。

 そして男が、引鉄を引いた、

 

「――……」

 

 はず、だった。男の右腕が、構えた武器ごと、放った光弾ごと、根本から消滅していた。

 声が、聞こえる。

 

『――ねえ、なにしてるの?』

 

 琴を鳴らすように、張りのある強い声だった。呆然と動きを止めた男の頭上で、音もなく静かに空間が裂ける。裂けた先に見えるモノ――赤黒い瞳が無数に散らばる異空への入口を見て、月見は静かに、内心で苦笑いをした。

 若くして『境界の妖怪』と名を知らしめる少女が使うそれは、内部に無限の体積を持ち、また物理的距離を無視して空間を最短接続できるという、誰しもが羨む便利な技であり。

 

 ――同時に、呑み込んだ異物を亜空の彼方へと葬り去る、魔物の顎門である。

 

 少女の声が、鳴る。

 

『――私の大切な友達に、なにしてくれてんのよ』

 

 ――ばくん。

 

 それで終わりだった。体の大半を喰われ、支えるものを失った二本の足首だけを残し、男は異空へと消えた。

 体に刻まれた防護の術式など、なんの意味も為さなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「月見――――ッ!!」

 

 大慌てで駆け寄ってきたその少女を、月見は口元だけで微笑みながら迎え入れた。輝夜よりも一回り幼い、鮮やかに冴えた金髪を揺らす少女だった。

 境界の妖怪、八雲紫。可憐な見た目でありながら強大な妖怪でもある彼女は、月見が都での生活を始めるまで、ともに世界を旅していた友人だ。以来は別行動となり疎遠になっていたのだが、この月見の窮地に、どこからかわざわざ駆けつけてきてくれたらしい。

 彼女のスキマの前では、結界など、あってないようなものだ。月見は血がいっぱいに広がる口を動かし、

 

「久し振りだね、紫。少し背が伸びたか?」

「あ、そうそう、そうなのよ。これで私もまた一歩、大人の女性に近づいてってそんなの今はどうでもいいでしょ!? お腹、大丈夫なの!?」

「や、大丈夫じゃない」

「大丈夫じゃないの!? ちょちょっ、傷口見せなさい今すぐっ!」

 

 月見は全身から力を抜いて、どさりと真後ろに倒れ込んだ。紫の布地のようにきめ細かな指が、おっかなびっくりと月見の傷口に触れて、

 

「ッ――月見、今すぐ治療するわよ! この傷口、変な術式が混じってる!」

 

 顔を真っ青にして叫ぶ紫を見て、ああやっぱりそうなんだな、と月見は思った。

 じくじくと、傷口が痛む。

 

「こんなの初めて見る……! なによこれっ、わけわかんないっ……!」

 

 涙の一つでも流しそうになりながら、紫が叫んだ。

 

「とにかく治療っ! 大丈夫よ月見っ、私の能力の限りを尽くして、絶対に助けてみせるから!」

「ああ、悪いけど頼むよ――って待て待て、なんでいきなりスキマを開く!?」

 

 突如真下に開いたスキマに吸い込まれそうになって、月見は慌ててその縁を掴んだ。見下ろせば、そこには赤黒い瞳で埋め尽くされた無限の亜空間が広がっている。ひとたび落ちてしまえば、もう月見の力ではここには戻ってこられない。

 紫が、月見の体にしがみついて声を上げた。

 

「私の屋敷に行くからに決まってるでしょ!? じゃないと、ちゃんとした治療ができないじゃないの!」

「ちょっと待った、結界の外に待たせてるやつが」

 

 行け、とは言ったが、きっと輝夜は結界の外で待っている。きっとその場を一歩も動かずに、月見の無事を祈り続けている。

 だから、まずはなによりも、輝夜に無事を伝えなければならないのに。

 

(ッ……)

 

 視界が恐ろしいほどに揺らいだ。天地が引っ繰り返ったを錯覚するほどだった。

 自分以外のものが、いきなりなにもわからなくなる。自分の手が未だスキマの縁を掴んでいるのかどうかすら、知覚できなくなる。

 

「月見……? ちょっと、ねえ大丈夫!?」

(……や、これはちょっと、ダメみたいだ)

 

 口を動かしたが、言葉にはならなかった。目の前は、もうとっくに真っ暗になっていた。

 

「ッ……ほら、手離して! 行くわよっ!」

 

 叫ぶ紫の声は、もう泣き出す寸前にまで張り詰めていて。だからなのかはわからなかったけれど、月見はそれ以上、彼女に抵抗することができなかった。

 指はあっさりとスキマの縁を離れ、体は異空の底へと落ちていく。

 頑張って、頑張ってと、紫の叱咤に耳を叩かれ、意識を失うことこそなかったが。

 もはや心の中で輝夜に詫びることすら、できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――銀の結界が消えれば、そこに残る人影はなにもない。

 月の兵士たちも、輝夜を助けてくれた彼の姿も、ありはしない。

 

 ただ、あの時彼が立っていた場所に、身も凍るほどの血の跡が、残されていたから。

 だから、輝夜は泣いた。今までの人生で一番、声を上げて泣いた。

 気を失うまで泣き続けることが、死んでしまいそうなほどに苦しくて。

 

 それでも死ねない自分を、生まれてはじめて、憎いと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 ⑩ 「永遠」

 

 

 

 

 

 時の流れとは残酷なもので、銀山を失った絶望も、数年目を数える頃にはすっかり和らいでしまっていた。たった数年で立ち直ってしまえるほど、銀山は自分にとってその程度の存在だったのかと、本当に悔しく思ったのを覚えている。

 けれど、ダメだった。どんなに悔しく思っても、年を数えるごとに銀山のぬくもりは少しずつ薄れていって、やがてほとんど思い出せなくなってしまった。顔と声を忘れることこそなかったけれど、ぬくもり一つを思い出せなくなるだけで、銀山との大切な思い出まで色褪せるようだった。

 永琳は、それを幸せなことなんだと言っていた。永遠の時間に囚われた自分たちにとって、人のぬくもりは、いつまでも手の中に覚えていていいものではないのだと。

 でも輝夜は、それを不幸だと思った。永遠の時間に囚われておいて、大切な人のぬくもり一つすら、覚えていることができないなんて。一体なんのための永遠なのか、輝夜にはよくわからなかった。

 幸せな悪夢だった。銀山との思い出は幸せだったが、これがもう触れられない、いつかまた色褪せてしまうものなのだと思うと、泣いてしまいたかった。

 でも、わずかに手の中に残っているぬくもりを、せめて今だけはと、握り締めて。

 

 そうして輝夜は、夢から覚めた。

 

「……」

 

 見慣れた自室の天井だった。体が首まで丁寧に布団で包まれているのを感じながら、輝夜は一つ、なにもない宙へとため息をこぼす。

 なんだか、途方もないほどに長い夢を見た気がした。心の中にまだ夢の余韻が残っていて、しばらくは腕一本動かすつもりになれなかった。

 やがて、首だけを動かして横を見る。枕元で、着慣れた桃色の着物が綺麗に畳まれているのを見て、ふっと思い出した。

 

「あー……私、妹紅に負けたんだっけ」

 

 見ていた夢があんまりにも長かったから、そんなことまで忘れてしまっていた。妹紅と戦って、負けて――だから自分は、眠っていたのだ。

 

「……」

 

 普段なら妹紅に負けるととても悔しいのだけれど、今回は見た夢が夢だっただけに、彼女に恨み事を言うつもりにはなれなかった。妹紅に負けていなければ、輝夜はあの夢を見ることはできなかったろう。

 ふと、このまま二度寝しようかな、と思った。あの夢の中に戻りたいわけではないが、布団を出て着替えをする気には、どうしてもなれなかった。

 布団を深く目元まで被って、また、眠ろうとする。

 

「――輝夜、起きてる?」

 

 それを引き留めたのは、もう何千年と傍らで聞き続けてきた、元教育係の声だった。決して大きいわけでもないのに、部屋の外から襖を越えて、彼女の声はとても綺麗に輝夜の耳まで届く。

 少しだけ大きく、返事をした。

 

「……なあに?」

「あら、起きてるのね」

 

 彼女――八意永琳はそれで襖を開けるでもなく、ただ声だけで、

 

「輝夜、あなたにお客さんが来てるわよ」

「……?」

 

 目元まで被っていた布団を少し下ろして、輝夜は襖の方を見た。一体誰が来たのだろうか。わざわざ永遠亭まで訪ねてきてくれるような知り合いなんて、それこそ妹紅くらいしか心当たりがないのだが、彼女が訪ねてきたのだったら、永琳は『お客さん』なんて言い回しはしない。はっきりと、妹紅が来たと、言ってくれるはずだ。

 

「誰?」

「中で待たせてるわ。だから、いい加減に着替えて出てきなさいな」

 

 こちらの質問に答えていない上に、なんだか癪に障る返し方だった。輝夜はむっとして、ぞんざいに言い返す。

 

「帰ってもらって。私、今は誰にも会いたくないの」

「……誰にも?」

「そう。誰にも」

 

 少なくとも、永遠亭以外の連中の顔なんて見たくなかった。このままなにもせずに、あの人のことを想っていたかった。

 

「そう……。そういうわけなんだけど、どうする? このまま諦める?」

 

 永琳の声が、輝夜ではない別の誰かに向けられる。大方、輝夜に会いに来たという客だろう。中で待たせている、なんて言っておいて、本当はすぐ隣にいたんじゃないか。

 それがますます気に入らなくて、もう絶対に会ってなんかやらないと、輝夜は頭の先まで布団の中に潜り込む。

 

「悪いわね、せっかく来てもらったのに」

 

 もう永琳の声すら聞きたくなくて、耳を塞いでしまおうと思って。

 布団の中で体を丸め、まぶたを下ろし、両手を耳に持っていく、

 

「――せっかく、1300年振りくらいの再会になりそうだったのにね?」

 

 その手の動きが止まり、やがて呼吸までもが止まった。あからさまに輝夜に聞かせてやろうという、わざとらしい抑揚のかかった言葉。その中の『1300年』に、あまりに鮮烈に頭を打たれた。

 タチの悪い冗談だと聞き流すのは容易かったし、実際、輝夜はそうしようとしたけれど。

 そんな輝夜に、襖のとても近いところから、声が掛けられて。

 

「――輝夜?」

 

 永琳の声とは明らかに違う、静かで優しい、バリトンの声。

 たったそれだけで――名前を呼ばれただけのことで、輝夜の心が信じられないくらいに暴れた。頭の中が白熱して、体が震え出して、息が苦しくなって、なんだか自分でもよくわからない声が、こぼれてしまいそうだった。

 声が聞こえる。

 あの人の、声が。

 

「――大丈夫か?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 昔話を聞き終わって開口一番、慧音は笑顔でこう言った。

 

「月見、――殴っていいか?」

「……いや、そう言われて頷くやつはなかなかいないと思うよ?」

「ああ、それもそうだな。――じゃあ殴る」

「待て待て、ストップストップ」

 

 月見はどうどうと両の掌を見せてくるが、それで引き下がる慧音ではない。右で固く熱い拳骨を構え、膝立ちになって、左で月見の肩をぐわしっと掴む。

 永遠亭の広間で茶を交えながら語られた月見と輝夜の過去は、決して楽しいことばかりの思い出話ではなかった。一人の少女が一人の男に恋をし、幸福を知って、けれど辛い別れ方をしてしまって、絶望をも知った話だった。

 であれば、その原因であるといっても過言でないこの男を、慧音は輝夜の代わりに殴らねばならぬのである。

 

「さあ歯を食いしばれっ」

「……一体私は、今日だけで何回お前に怪我をさせられればいいんだろうね?」

 

 それとこれととは話がまったく別だ。確かに過去のゼロ距離弾幕とロケット頭突きは慧音に非があったが、今回は事情が根本から違う。

 

「だって、こんなの、輝夜が可哀想じゃないか」

 

 あの時、『銀山』が一人で月の兵士を迎え撃たなければならない理由はなかった。むしろ、そうしてはいけなかった。永琳とともに戦って、輝夜とともに逃げて、傍にいてあげるべきだった。

 なのに彼は、わかった上で輝夜を遠ざけて、勝手にヘマして勝手に怪我をして、輝夜を悲しませて。

 

「落ち着きなさいな、慧音」

 

 拳骨を放つまでのカウントダウンを心の中で開始していると、テーブル越しで、永琳の静かな声に引き留められた。彼女は茶菓子を摘みながら、ふわりと笑って、

 

「彼を一番に殴るのは、輝夜の役目よ。あなたが取っちゃダメ」

「むっ……それもそうだな」

 

 はっとして慧音は拳を下ろした。昔話で大分時間が潰れたし、そろそろ輝夜も目を覚ますだろう。であれば、わざわざ慧音が彼女の代わりに月見を殴る必要はない。

 殴られるのが確定事項になっている月見は困り顔だったが、助け舟を出す者は当然この場にはいない。慧音と永琳は言わずもがな、鈴仙も苦笑いをして、

 

「大丈夫ですよ、殴られたらすぐに手当てしてあげますから」

「なんの慰めにもならないねえ……。……でもまあ、殴られて済むんだったらありがたい方か」

 

 月見は肩を落として、ため息をついた。

 

「すまなかったと思ってるよ。……まったく探していなかったわけではないんだけどね。まさかこんなところに隠れ住んでたんじゃあ、見つからないわけだ」

「でもいいじゃない、こうしてまた出会えたんだもの。……じゃあ昔話も済んだし、どうする? 早速輝夜に殴られに行く? 多分、そろそろ目を覚ます頃だわ」

「そうだねえ……」

 

 渋い顔をしつつも、見苦しい言い訳を重ねて逃げるような真似はしなかったので、一応は彼なりに罪悪感を持ってはいるらしい。当然だな、と慧音は思う。あれだけのことをやってもし罪の意識がないようだったら、改めて鉄拳制裁をしてやらねばならなかったところだ。

 

「案内してあげるから、二人でゆっくり話してくるといいわ。あなたもその方がいいでしょ?」

「そうだね、助かるよ――っと、このままの姿で行くわけにはいかないか」

 

 今の自分が妖怪の姿に戻っていることを思い出した月見は、懐から一枚の札を取り出した。小さく呪文の言葉を紡ぐと、淡い光の粒子が彼の姿を包んで、ほどなくして人間の体へと変化させていく。

 光の粒子が消えれば、そこにいるのは慧音が初めて出会った時の月見であり、また、蓬莱山輝夜が恋をした男。

 微笑み、永琳が席を立った。

 

「それじゃあ、行きましょうか。銀山(・・)?」

「はいよ」

 

 人の姿となった月見もまた、腰を上げて永琳の背を追う。襖の開く音と、閉まる音。一呼吸分の沈黙があって、

 

「……月見さん、大妖怪だったんですねえ。改めてびっくりです」

「……そうだね」

 

 鈴仙の言葉に、慧音は噛み締めるように頷いた。今でこそ落ち着いているが、昔話の終盤でいきなりその事実を打ち明けられた時には、驚くあまり鈴仙と一緒になって絶叫した。また、反射的にロケット頭突きを打ち出してしまいそうになったほどだ。

 人間だと思っていたら実は妖狐で。普通の妖狐かと思っていたら、実は十一尾などという大妖怪で。いちいち情報を小出しにしてこちらを驚かせてくるのは、狐だからなのだろうか。

 

「妖狐の尻尾って、十一本まで増えましたっけ……」

「いや、九本までなはずだけど……」

 

 妖狐の尻尾は最大で九本まで増えると言い伝えられているが、月見は遠い昔の太古の妖狐だというから、今どきの妖狐とは同じようで違う存在なのかもしれない。そうでなくとも、所詮は言い伝えだ。語るに易く噛み砕かれた伝承には、事実の欠落や誇張などの嘘が交じることもある。

 

「なんだか、色々すごいことになってる気がしますね。姫様も、死んだと思ってた想い人に再会できるんですから」

「……」

 

 きっと輝夜にとって、月見との思い出は幸せで、また同じくらいに辛い記憶だ。

 でもそれも、今日までのこと。

 

「姫様、驚きますかねえ。泣いちゃいますかねえ」

「……どうかな」

 

 遠い昔に死んでしまったと思っていた想い人が、生きて目の前に帰ってきてくれた――その時に胸に押し寄せるであろう感情を、慧音が思い描くことはできない。そもそも慧音は、誰かに恋をするという感情自体を、よく知らない。

 だが、それでもこう思う。

 月見との再会を果たした時、輝夜の心を満たす感情は。

 きっと、幸せという名前をした、恋の気持ちなのだろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 飛び起きていた。頭の先まで浸かっていた布団を跳ね飛ばし、息を殺し、揺れる瞳で襖の向こうを見つめた。

 喉の奥が干上がっている。心臓が、痛みすら覚えるほどに強く胸を叩いてくる。全身が震え出して、吐く息までが白くなってしまいそうだ。

 

「――ギ、」

 

 あの人の名を呼ぼうとした。だが、頭の片隅にいた冷静な自分が、ぐっとそれを引き留めた。

 ありえない。……ありえるわけがない。

 だってあの人は、あの時に死んだ。仮に死んでいなかったとしても、もう千年以上も昔のことなのだから、人間である彼が生きていられるはずがない。

 彼があの襖の向こうにいるなんて、ありえない。

 だから、声が聞こえるはずなんてないんだと、わかっているのに。

 

「――輝夜?」

 

 聞こえる。襖の一歩向こう側から、名前を呼ばれる。

 心がざわめいた。心の中で感情が激しく渦を巻いて、自分でもよくわからない言葉になろうとしていた。それを、輝夜は理性で必死に押し留めた。押し留めて、強く頭を横に振った。

 ――夢だ。これはあの思い出の余韻が生み出した、夢なのだと。

 そう何度も頭を振って、振り払おうと、するのに。

 

「ねえ、輝夜」

 

 永琳の声が聞こえた。呆れるような、失望するような、つまらなそうな声だった。

 

「あなた……今の声が誰だかわからないくらい、忘れてしまったの?」

 

 違う。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。聞いただけで涙があふれそうになるほどに、辛すぎるほどに、よく覚えている。

 輝夜は、また頭を振った。

 

「でも、あの人はもういないっ……!」

 

 それは、なによりも自分に向けられた叫びだった。心の中で言い聞かせるだけではダメだった。叫ばねばならなかった。そうやって感情を吐き出すことで、決壊寸前の自分を支えようとした。

 だって、ここでもし、目の前の夢に負けてしまったら。

 輝夜は、逆戻りしてしまう。あの人の死を認められなくて、あの人のいない現実を認められなくて、絶望と空虚に支配されていた頃に。

 

「あの人は、もう、死んで……!」

「……そうね、私も少し前まではそう思ってたわ」

「……ねえ、やめてよ永琳」

 

 輝夜は祈るようにそう言った。

 ねえ、あなたまで、そんなことを言わないで。

 

「どうしてこんなことするの? 冗談にしちゃあ、最悪だよ」

「仕方ないじゃない、冗談じゃないんだもの」

「ッ……やめて!」

 

 耐えられなかった。永琳まで。輝夜の最大の理解者である彼女まで、こうしてこちらを誘惑する。

 折れてしまいそうになる。

 輝夜は、耳を塞いだ。

 

「なによっ……! またなにか変な薬でも作ったの!? ありもしない夢を見せる薬でも作って、私が寝てる間に飲ませたの!?」

「……」

「ダメなの! ダメなのよっ……!」

 

 挫けてしまいそうになる。

 その場で小さく、体を丸めた。

 

「私は、あの人がいなくても、生きていけるように、ならなきゃいけないのに……!」

 

 なのに、こんなの、

 

「こんなの、ダメになっちゃうよぉ……!」

 

 ここで彼の声を受け入れてしまえば、どんなに楽だろうか。これが現実だと認めてしまえば、どんなに幸せだろうか。

 だが、それではダメなのだ。輝夜は彼の死を偲んでも、囚われてはいけない。永遠の命を持った自分たちは、人の死をいちいち引きずってはいけない。彼の死を乗り越えて前を向かなければならないのだと、教えてくれたのは永琳だったはずだ。空虚と絶望に沈んだ輝夜を現実に引き上げてくれたのは、永琳だったはずじゃないか。

 

「なのに、なんで――」

「――グチグチうるさいわね、さっきから」

 

 それは、随分と久し振りに聞く、永琳のキレた(・・・)声。喉元に氷のメスを突きつけられた気がして輝夜が言葉を止めると、続け様に、ぺしゃんこに潰れたんじゃないかと思うほど強く襖が開け放たれた音がして。

 驚いて顔を上げた輝夜が見たのは、

 

「だらだらとつまらない屁理屈こねないで、その目で確かめてみればいいじゃないの」

 

 苛立たしげな様子を隠そうともせず、仁王立ちで言い放つ永琳と、

 

「あなたは、彼に恋をしたんでしょう? だったら――」

 

 彼女の横で、くつくつと喉で苦笑いをしている、

 

「――だったら、好きな人が夢か現実かくらい、見極めてみせなさい」

 

 あの時となに一つとして変わっていない、彼が。

 ギンが、いる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……あとは任せて大丈夫?」

「ああ。ありがとう」

 

 振り向いた永琳にそう短く礼を言って、月見は部屋の中心を見つめた。不老不死だから当たり前だが、輝夜はあの頃からちっとも変わっていなかった。器量よく整った顔はあいかわらずだし、漆塗りみたいに深い黒髪も、雪化粧さながら白い肌も。ただ、敷き布団の上で呆然と月見を見つめる彼女は、心なしか、一回りだけ小さくなっている気がした。

 

「それじゃあ、広間で待ってるから。ゆっくり話してきなさいな」

「ああ」

 

 永琳はそんな輝夜を特に気に留めた素振りも見せず、あっさりともと来た廊下を引き返していく。気にする必要もないほどに、輝夜のことを信頼しているのだ。今はまだ葛藤しているけれど、すぐにこれが現実だと見極められるはずだと。

 永琳はほんのひと時の間、振り返って。

 

「一人の男を想い続けるってとこだけなら、輝夜は私よりもずっとずっと大先輩だもの」

 

 彼女の背中を苦笑で見送り、月見はその部屋へと足を踏み入れる。輝夜の部屋は、実に様々な置物たちで賑わっていた。恐らく、不老不死の退屈な日々を紛らわすために、手当たり次第に集めていったのだろう。足の踏み場が制限されるほど大層な量だったが、すべて統一感を意識して並べられているためか、霧雨魔法店のように汚い印象は受けない。部屋の一角に本棚があり、厳つい装丁をされた硬派な本が収まっていることを、月見はとても意外に思った。

 月見がそうやって部屋の中を見回す間も、輝夜はこちらをぼんやりと見つめたままだった。その目は月見を見ているようで、月見を見ていない。なんて顔してるんだよ、と月見は思わず笑ってしまいたくなった。けれど輝夜にこんな顔をさせている原因は自分なのだから、笑ってはいけないと思った。

 緩く吐息して、輝夜のすぐ目の前に腰を下ろす。

 目線を同じ高さに合わせて、掛けるのは、この言葉だった。

 

「――また、会えたな」

 

 輝夜の瞳が揺らいだ。それは命の揺らめきだった。言葉にならないたくさんの感情が、瞳の奥で、行き先を求めて懸命に駆け巡っていた。

 五つも六つも呼吸できる、長い間があった。輝夜は俯き、口元をくしゃくしゃにして、肩を震わせ、悲鳴を上げるみたいに息を吸って。

 けれどなによりも先に動いたのは、唇ではなく。

 

「――ッ!」

 

 鋭く空気の破裂する音が、己の頬を張られた音だと。月見がそれに気づくのは、視界が右に吹き飛んで、左の頬に炙るように熱い痛みが込み上がってきてからで。

 

「……痛いよ、輝夜」

 

 視線を前に戻すと、輝夜は張り詰めた顔をしていた。泣き出しそうになりながら、赤くなった自分の掌をじっと見つめていた。

 その手を握り、胸に引き寄せて。

 心の奥底まで、透き通る声で。

 

「あぁ――……、」

 

 あの一発の張り手から、輝夜がなにを感じ取ったのかはわからない。けれど彼女の心の隅々まで行き渡った感情は、やがてあふれる大きな涙となった。

 輝夜は泣いて、それでも、笑って。

 まっすぐに月見を見つめて、言うのだ。

 

「私は、もっと痛かった」

「……」

「もっと、苦しかった」

「……ああ」

「死んでしまいたいって。本気で思ったのよ」

「……でも、生きててよかっただろう?」

 

 今度は右だった。また視界が真横に吹き飛んで、右の頬が炎のようになる。

 

「……輝夜、痛いって」

 

 一発は覚悟していたが、まさか二度目まであるとは思っていなかった。きっと、右も左も真っ赤になっていたのだろう。月見の顔を見て、輝夜が小さく吹き出した。

 

「変な顔。カッコ悪い」

「いや、やったのはお前だからね?」

「そう。私よ」

 

 どこか誇るように言葉を置いて、輝夜がまた動いた。まさかまさかの三度目かと月見は思わず身構えたが、やってきたのは、熱でも痛みでもなかった。

 ふわりと、ほのかな、竹の香りがして。

 前から来た柔らかな衝撃に、月見はふいを衝かれて後ろに押し倒された。見上げる先にあるのは空でも天井でもない。黒真珠の色をした輝夜の瞳と、まっすぐに、目が合う。

 彼女の肩から、黒髪が一房、流れるように落ちて。

 瞳からこぼれた雫が、月見の頬に落ち、透明な線を引いて。

 

「ごめん。ちょっと、本気で泣くから」

 

 紡ぐ言葉は、強くしたたかだったが。

 代わりに新しい雫が、もう一度月見の頬を打った。

 

「だから、今のうちに言わせて」

 

 言いたい言葉はたくさんあったろう。けれど輝夜は、それをすべて声にすることをしなかった。

 次々落ちる涙を、拭おうともせず。

 ただ潤んだ声で、その小さな言葉の雫を、月見へと。

 

「――生きててくれて、ありがとう」

 

 そこから先は、もう言葉ではない。輝夜の胸の中にあるたくさんの言葉が、しかし言葉にならないまま、拙い泣き声として吐き出される。

 月見はなにも言わず、輝夜の体をそっと己の胸に引き寄せた。輝夜は己の体をすべてそこに預けて、振り切れた感情のまま、ただ泣きじゃくった。

 

 1300年越しの想いを、すべて涙に変えるまで。

 ずっと、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いくら相手が女とはいえ、胸の上に乗せたまま畳で仰向けになり続けていれば背中が痛くなる。輝夜の泣き声が収まったのは、ちょうど月見の背が痺れるような痛みを覚え始めた頃だった。

 すんすんと鼻をすすりながら体を起こし馬乗りになった輝夜を見上げて、苦笑する。

 

「どいてもらっていいかな。もう背中が痛くてね」

「……ん」

 

 少し鼻が詰まった声で返事をして、輝夜がゆっくりと月見の上から降りる。そして月見がよっこらせと起き上がれば、横からたちまち彼女に抱きつかれた。

 

「おいおい」

「……いいじゃない、もう少しくらい」

 

 背中に回った輝夜の手が、くしゃりと月見の服を掴む。大切な宝物を、もう二度と奪われまいとするかのように。

 月見はなにも言わず、今は輝夜の好きにさせることにした。彼女のこの手を払い除けるだけの権利は、今の自分にはないように思えた。

 

「……ねえ」

 

 まだ涙の気配が残る声で、ぽつりと問われる。

 

「どうして生きてるの? もう千年以上も、昔のことなのに」

「……どうしてだと思う?」

「知らないわよ。……まさか、本当は人間じゃなかったなんて言うわけでもないでしょ?」

「ハッハッハ、……それ正解」

 

 は? と輝夜の目が点になる。言葉で説明するよりも実際に見てもらった方が早いので、月見はその場で人化の法を解除した。

 ただ元の姿に戻るだけではなく、十一の尻尾まで、包み隠さずに。

 一瞬月見を包んだ光の粒子に、輝夜はおっかなびっくり身を引いたが。

 ほどなくして月見の体が完全に妖怪のものに戻ると、見ていて爽快なほど間抜けな顔をして、動かなくなったのだった。

 

「……というわけで、改めて名乗ろうか」

 

 黙ってて悪かったね、と小さく謝りながら、たくさんの尻尾をゆらりと揺らして。

 

「門倉銀山改め、月見。ただのしがないきづっ」

 

 名乗りの途中で、また頬をぶっ叩かれた。

 

「あ痛ー……」

「なっ、なっ、なっ……」

 

 輝夜は驚愕で全身をわななかせながら、痙攣する唇で必死になにかを言おうとしていた。だが結局はなんの言葉も見つけられないまま終わったようで、あとはただゆるゆると脱力しながら、再び月見の胸元に体を預けた。

 月見はそんな輝夜を抱きとめながら、また赤くなった頬に冗談めかした笑みを浮かべて言う。

 

「驚いてもらえてなによりだよ」

「……あー、うん。なんか驚きすぎて、逆に冷静だわ……」

 

 すっかり脱力しきった輝夜は、それから、バカ、と小さく笑う。

 噛み締めるように、もう一度、

 

「……バカ」

 

 月見は答えず、輝夜の小さな背中を撫でるように叩いた。

 

「なにか、質問は?」

 

 輝夜はもぞもぞ頭を動かす。

 

「今は、いい」

「そうか?」

「うん。あとでゆっくり聞かせてもらうから」

 

 だから、今は。

 

「今は、このままで」

「……」

 

 輝夜は月見の胸に一層体を摺り寄せて、そこからはもう、身動き一つしようとしなかった。

 彼女の縋るような体温を感じながら、月見は緩く息を吐いて、考える。

 月見は一般的な男性ほど、恋愛事に関して熱心になっているわけではないし、自分みたいに日々を好き勝手に生きているようなやつには、恋人や伴侶などといった存在はいない方がよいのだとも思っている。それはきっと、相手を悲しませてしまうだけだから。たといそういった存在ができたとしても、月見は自分の好きなように生きることをやめはしないのだから。

 輝夜はきっと、月見にずっと傍にいてほしいと願うだろう。けれど月見はその束縛を厭い、自分勝手なほど気ままに世界中を歩くだろう。

 だから月見は、輝夜の背を何度か叩いて。

 

「輝夜。お前は男を見る目がないよ」

「あら、そんなのそっちだって同じじゃない」

 

 そう言うのに、まるで予想していたかのように鮮やかに切り返される。輝夜は月見の胸元から顔を上げると、意地悪そうに口端を曲げて、

 

「女運が最悪だわ。私みたいな執念深い女に好かれるんだもの」

 

 月見の脳裏を一瞬、妖怪の賢者やら鬼子母神やらと呼ばれる少女の姿が掠めて、それはありえるかもなあと渋い気持ちになった。

 その反応に、輝夜は満足げに笑みを深める。

 

「覚悟してよね――」

 

 紡ぐ言葉は、宣戦布告をするように、強く、大胆に。

 

「あなたのいなかった今までが、全然、大したことなかったって思えるくらいに」

 

 それは千年以上もの間、絶望に暮れても変わることがなかった、一つの想い。

 

「――あなたのこと、もっともっと、好きになるから」

「……」

 

 この言葉を向けられる先が自分であることを、月見はつくづく、数奇な運命だと思うのだ。何千年と生きてきた己の歴史の、たった数年間をあの場所であのように生きたのは、ほんの出来心でしかなかった。

 なにもあの時でなければいけなかったのではない。なにもあの場所でなければいけなかったのではない。なにも、あのように生きなければいけなかったのではない。

 だが月見は、あの時に、あの場所を、あのように生きて。そうして、輝夜と出会った。

 それは、単なる出来心が生んだ偶然で済ませてしまって、よいのだろうか。

 

「参ったなあ。……どうなっても知らないよ」

 

 天井を振り仰ぎながら言うと、構いやしないわ、と輝夜は強くほころぶ。

 

「あなたがいなくなった時のことを思い出せば、今更怖がるようなものなんてないもの。……だから、うん、お生憎様」

 

 ある意味では、獰猛な、とも表現できる、月見が初めて見る輝夜の笑顔だった。

 

「『どうなっても知らないよ』なんて、こっちのセリフ」

 

 婉然と目を細めて、熱っぽくなった指を、そうっと月見の胸元に這わせて。たったそれだけのことで、目眩がするほどの強い色香が香る。

 竹の花の香りとともに、輝夜は言葉で、月見の胸を叩く。

 

「――私の恋、バカにしないでよ?」

「……ハハッ」

 

 つくづく――つくづく、月見は思う。恋をする女はどうしてここまで強く、ここまで美しく、そしてここまで恐ろしいのだろうか。その姿も、一挙一投足も、言葉も、息遣いまでも、すべてが鮮烈で、強烈で、月見は情けないことに、乾いた笑いを一つこぼすことしかできなかった。

 

「よし、そうと決まったらいつまでもこうしちゃいられないわね。ほら、着替えるからちょっと出て行ってくれない?」

「……はいはい」

 

 立ち上がり踵を返すと、その背に、輝夜から取ってつけたように声を掛けられる。

 

「見たいんだったら別にいてもいいわよ?」

 

 月見は振り返らず、ひらひらと片手だけを振って、まっすぐに輝夜の部屋をあとにした。

 襖を静かに閉め、天井を見上げて、ゆっくりと長く息を吐く。輝夜の言葉が、まだ残響のように耳に残っている。あなたのこと、もっともっと、好きになる。廊下の奥から歩いてくる永琳の姿が見えなければ、月見はいつまでもそこに突っ立ったままだったかもしれない。

 

「話は終わった?」

「……ああ」

 

 静かな問いに、月見もまた静かに答えた。

 

「感想は?」

 

 永琳は、結果は、とは訊いてこなかった。訊くまでもないことだと、わかっているから。

 月見は肩を竦め、苦笑する。

 

「ほんと、参ったよ」

「……そう」

 

 簡潔すぎる感想だったが、それでも永琳にはなにもかも伝わったらしい。月見の肩越しに襖の向こう側を見つめて、莞爾(かんじ)と笑った。

 

「それじゃ、そろそろ昼食にしましょうか。……もちろん、食べていくでしょう?」

「……」

 

 もちろんもなにも、再会が済んだからといってこのまま帰れるはずもない。

 

「そうだね……」

 

 少しの間考えてから、こう言った。

 

「――なにか、冷たいものがいいかな」

 

 とりあえず、この嫌に火照ってしまった体を、冷ましたかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 着替えを終えた輝夜は、部屋を飛び出して広間へと走る。着物の裾を何度も踏んでしまいそうになりながら、それでもできる限り速く、速く、自身が一本の矢のように。

 なぜなら、そこに彼がいるから。今や思い出の中でしか会えなかったはずの彼が、そこで生きているのだから。

 そうして広間へと飛び込んだ輝夜は、他の誰よりもまず先に彼を見つけて。

 きっと、月光のように笑うだろう。

 

「――ギン!」

 

 永遠(とわ)に等しく恋うたその名を、この世のなによりも愛おしく、音へと変えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 竹取物語――了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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竹取物語 余話 「いつか」

 

 

 

 

 

 ――どうして私は、あの人を止められなかったのだろう。

 

 あの怪事件から、二週間が経った。かぐや姫が月に帰ると俄に噂され始めたその日、夜のほんの一時の間、都の人間たちのほとんどすべてが同時に意識を失うという、不可解な事件だった。

 この事件で、二人の人間が、都から消息を絶った。

 一人は、かぐや姫。

 

 そして、もう一人――

 

 

 

 色のない朝だった。柔らかい陽の光が注ぎ、小鳥たちが絶え間なくさえずり、吹く風には爽気が混じっている。夏の終わりの朝。けれど雪には、そのすべてが灰色にくすんで見えた。

 陽のぬくもりが届かない。小鳥たちの鳴き声が響かない。風の中の爽気がわからない。

 感じているのは、ただ重く冷たい、後悔だけ。

 

 あのあと、銀山は戻ってこなかった。秀友を頼むと、それだけを雪に言い残して、空を飛ぶ舟が墜ちた先へと向かって――

 そして、そのまま、帰ってこなかった。

 銀山が死んだと、決定的な証拠が出ているわけではない。だが誰しもが、言葉にこそしないが、彼の命を諦めていた。妖怪が蔓延るこの世界では、二週間以上も行方不明になっている人間がいれば、妖怪に襲われて死んだと考えられるのが自然だった。

 都からややも離れた平原に、大規模な戦闘の跡が見つかったらしい。見渡す限りすべてのものが灰燼へと帰した、凄絶な戦闘の跡だったという。

 銀山がその戦いに巻き込まれたのかは定かではないが、もしそうだとすれば、奇跡でも起きない限り生きてはいないと――そう調査結果を出したのは、大部齋爾だった。都を代表する実力者の報告はひどく淡々としていて、なにも偽ろうとするものがなくて、故に紛れもない真実なのだと、人々の心に突き刺さった。

 そして、雪だけが知っているのだ。

 その戦闘が起こったとされる場所は、ちょうどあの夜に、銀山が向かった方向なのだと。

 わかっていたはずだ。あのまま銀山を行かせてしまえば、とてもよくないことが起こる。雪はそれを予感していた。虫の知らせなどという次元ではなく、天啓のように。だから止めなければならなかった。銀山を行かせてはならなかった。

 けれど、止められなかった。唇が麻痺して、体が震えて、呼び止めることすら、銀山の背中に手を伸ばすことすら、できなかった。

 体が動かなかったなんて、言い訳にもならない。

 あの時銀山を止められるのは、雪しか、いなかったのだから。

 

「……」

 

 ふと、家の戸が控えめに叩かれる音が聞こえた。客なんて迎える気分になれなくて、初めは無視しようと思ったけれど、ほどなくして戸が勝手に開けられ、雪さん、と小さく名を呼ばれると、心の奥がかすかながら揺らめいた気がした。

 戸を叩いたのは、夫の秀友だった。正式に婚約を結んだわけではないが、雪は彼をそういう風に見ているし、彼もまたそう思っているだろう。相思相愛の関係――けれど今の二人の間では、仲睦まじい会話など交わされない。

 

「……雪さん」

「……はい」

 

 秀友は、少し痩せたようだった。もともと綺麗な方ではなかった髪がますますやつれて、ざんばらみたいになっている。それに、瞳の光も、以前ほどの強さがなくなった。とても健康とは言えない秀友の姿を見て、けれど雪はそれを咎めるでもなく、きっと私も今はこんな風なんだろうな、と他人事のように考えていた。似たり寄ったりな有様になっている自分に、そしてなにより秀友をこんな風にしてしまった原因の一端である自分に、今の秀友を咎める権利なんてないと思った。

 

「今日も、行ってくる」

 

 秀友の言葉は簡潔だった。今日も、行く――ここ一週間ほど、雪たちの間で、なにかの儀式のように交わされている言葉だった。

 

「……そうですか」

 

 雪は、頷くだけだった。本当は、雪も秀友とともに行きたかった。秀友とともに、銀山を捜したかった。だが秀友がそれを望まなかった。雪さんはここにいてくれと、そう彼が望んだから、雪は動けなかった。

 件の戦闘の跡が見つかった影響で、強大な物の怪が都の近くに潜伏しているのではないかと、一部の陰陽師たちの間で囁かれるようになっている。だから秀友は、雪に、都の外へは出てほしくないと願っていた。

 大切に思われているのは、嬉しかった。

 でも、だからこそ、雪は泣いてしまいたくなる。

 雪だって、秀友に都の外に出てほしくなかった。銀山と同じように、秀友まで消えていってしまう気がしてならなかった。

 もしも、もしも本当にそうなってしまったら、雪はきっと未来永劫立ち直れなくなってしまうから。

 だから、止めたいのに、

 

「……気をつけてくださいね」

 

 銀山への、そして秀友への罪責が歯止めとなって、口から出てくるのは、結局いつもと同じ言葉。今の雪が秀友に対して持てる言葉など、この程度でしかなかった。銀山の行方を捜そうとする秀友を、銀山を止められなかった自分が、どうして否定できるだろうか。

 不思議な感覚だと、雪は思う。自分は今、泣いているはずなのに。なのに顔では必死に笑っているのが、なんだかおかしかった。

 銀山がいなくなってから、雪は少しおかしくなってしまった。銀山は秀友とはまた違う意味で、雪にとって大切な人だったから、まるで自分の体の一部をなくしてしまったような喪失感だった。

 

「じゃあ、行ってくる」

「……はい」

 

 結局、銀山を止められなかった雪に許されたのは、すべてが夢であることを願ってここで祈り続けることだけ。

 だから、踵を返し雪のもとを去る秀友を、今日もただ見送るだけの――はずだった。

 

『――なーにやってんだよ、お前ら』

 

 そんな、この場にはあまりに似つかわしくない、あっけらかんとした声が、響いて。

 心臓を鷲掴みにされた思いがして、雪と秀友は同時に叫んでいた。

 その名を、

 

「銀山さん!?」

「ギン!?」

 

 それはもしかしたら、二人の弱い心が生み出した、幻聴だったのかもしれないけれど。

 けれど、声はしっかりと、返ってきた。

 

『ああ。ちょっとばかり久し振りだね、二人とも』

 

 男性独特の低い声音は、特に彼の場合、こちらの肌を撫でるように柔らかで、耳に優しい。

 この声は、間違いなく。

 

「ギン……! おいお前、今までどこ行ってやがったんだっ?」

 

 真っ先に声を上げたのは秀友だった。突然の出来事に脳が追いついていないのか、竦んだ笑顔を浮かべて、何度も周囲を見回す。

 ――雪の背筋を、言い知れない悪寒が撫でていく。

 

「心配したんだぞっ?」

『あー……それはまあ、悪かったね』

 

 銀山の声ははっきりと聞こえる。すぐ目の前で話をされているかのように、息遣いまで聞こえてきそうだ。

 ――それなのに、銀山の姿がどこにも見えないのは、なぜ。

 物陰に隠れているにしても、声の調子や方向からすぐにわかるはずなのに。なのに今の銀山の声は、あまりにはっきりと聞こえすぎていた。まるで、頭に直接響いているかのようだった。

 

「どこにいんだよ? 顔くらい見せてくれてもいいじゃねえかっ……!」

『……その話なんだけどね』

 

 もしかしたらこれは、なんてことはない、銀山のタチの悪いいたずらだったのかもしれない。けれど雪は、予感してしまった。

 あの夜、銀山を止められなかった時と同じく、天啓めいて。

 

『しかし、お前たちだってなんとなくわかってるはずなのに、どうして私の口から言わなきゃならないんだろうねえ』

「なんのことだよ……! んなのあとでいいから、まずは出てこいって……ッ!」

 

 秀友だって、きっと既に予感している。それなのに、下手くそに笑い続けながら、銀山の姿を捜すのは。

 

『――私は、もうとっくの昔に死んでるよ』

 

 目の前の現実が、正視すらできないほどに、辛すぎるからだ。

 秀友が呼吸を殺した音が聞こえる。こんな話をする時でさえ、銀山の声音は一貫して柔らかくて。故に、認めたくないと凍りつく雪たちの心に、否応なしに染み込んできてしまう。

 

『だからいい加減ゆっくりしようかと思ってたんだけど、今のお前たちがあんまりにも情けなかったからね。つい口を挟みに来てしまったよ』

 

 銀の光の粒子が舞う。粉雪にも似た光の粒は、玄関の片隅へと引き寄せられ、やがてそこで人の姿を形作る。秀友と同じくらいの、背の高い、人の形を。

 これが――これが、今の銀山に許された姿なのだろう。銀の粒子は、月の光が結晶になったように柔らかで、綺麗だったのに。なのにどこまでも残酷に、雪たちの心を凍えさせた。

 銀の光が、器用に腕組みをして言う。

 

『お前たちは、まず鏡で自分の姿を見た方がいいね。特に秀友。ここにいるってことは、お前はその格好で外を歩いてきたってことだよな。まったく、よく笑われなかったなあ』

 

 雪は秀友を見遣った。彼は震えていた。身を固め、拳を握り、俯いて、氾濫しそうになる感情を必死に耐え忍んでいた。

 

『雪もね……一応、年頃の女なんだからさ。もう少しその……なあ?』

「……ごめんなさい」

 

 銀の光に言われて、雪は小さく笑った。上手く笑えたとは到底思えないが、ただ、笑うことでなにかが楽になればいいなと。

 

「……あのあと、だったんですか?」

 

 言葉の足りない問い掛けだったが、銀の光は頷いてみせる。

 

『そうだね。今都で噂になってる通りで、ほとんど間違いはないよ』

 

 つまり大規模な戦闘が起こったあの場所で、銀山は巻き込まれて死んだ。

 

『一つ間違いを正せば、巻き込まれたんじゃなくて、自分から巻き込まれに行ったってところかな』

「……あの場所で、一体なにがあったんですか? 姫様は……」

『教えない』

 

 銀の光に表情はないけれど、彼は今笑ったのだろう、と雪は思う。

 

『教えないよ。なにがあったかを知ったら、お前たち余計なことしそうだからね』

 

 余計なこと、とは一体なんなのか、ひどく気にかかったけれど、銀の光は答えてくれない。

 

『ちゃんと……かどうかはさておき、輝夜のことも守ったしね』

 

 だから、と続ける。

 

『これは私自身の行動の結果だし、自分でそれなりに納得もしてる。……だから雪も、私のせいだなんて勘違いはしないように』

「っ……」

 

 心を言い当てられ、息が詰まる思いがする。

 

『考えすぎだよ』

 

 それを、銀山の声は一蹴する。

 

『だってそれじゃあ、私がお前に殺されたみたいじゃないか」

 

 くつくつと笑って、銀の光が小さく揺らめく。

 

『なあ……どうしてあの時、お前は動けなかったと思う?』

 

 ふいな問い掛けに、雪は言葉を詰まらせた。雪があの時に動けなくなった原因は、銀山曰く、空を飛ぶ舟から発せられた特殊な術式だったという。だが、今彼が求めているのは、そういう答えではないような気がした。

 上手く言葉を見つけられずに沈黙していると、銀山がふっと笑みの息を落として言う。

 

『秀友がいるからだよ』

「……え?」

 

 銀山の言葉が、少しの間、理解できなくて。

 彼は、そのまま空気に溶け込んでいきそうなほど柔らかい声音で、繰り返した。

 

『秀友がいるから、だからお前は動けなかったんだと、私は思うよ。動いちゃ駄目だったんだね。変に私のあとを追い掛けて、巻き込まれたりしないように。……目を覚ました秀友を、その手で、助け起こせるように』

「……!」

 

 まぶたの裏が、湧き上がるように熱くなったのを感じる。

 銀山の答えは、答えと呼べるほど正確なものではなかった。なんの証拠も根拠もなくて、ともすれば詭弁もいいところだったかもしれない。

 それでも、秀友を助け起こしたこの手に、意味があったのならば――。

 

『秀友は、いつも隣に誰かいてやらないとダメなやつだから。……だから、よろしく頼むよ』

「っ……、……はい」

 

 涙をこらえて頷きながら、ふと雪は、どうしてこの人を選んだのかなあ、と考えた。秀友と銀山。男性としてより魅力的なのは、きっと銀山なのだろうが、それでも雪は秀友を選んだ。

 情熱的な告白をされてつい熱に浮かされたとか、そんな身も蓋もない理由ではない。雪は確かに秀友が好きだった。一人の女として、一人の男である秀友が好きだった。

 素敵なところよりも、素敵じゃないところの方が目立つような男だけれど。

 好きになった理由なんて、自分ですら心当たりがないくらいだけれど。

 

(……)

 

 でも、それでもいいのだろう。理由なんてなくたって、こうして誰かを愛せるのだから。何事にも理由を求めようとするのは、人間の悪い癖だ。

 銀山は考えすぎだと言ってくれたが、それでも雪は、あの時のことを後悔せずにはおれないだろう。銀山に手を伸ばせなかったことを、悪夢のように思い出しては悔い、嘆き、生きていくだろう。

 だが雪には――今の雪には、他に手を伸ばさなけばならない人がいる。

 親友を失い、悲しみに沈む秀友を助け起こすのは。

 助け起こせるのは、雪しか、いないから。

 だから今度こそ、手を伸ばせ――銀の光は、そう言ってくれているような気がした。

 

「……わかりました。好きな人の一人も幸せにできないようじゃ、女が廃りますからね」

 

 目元の潤みを指で払って、精一杯に微笑む。今度は、ちょっとくらいは上手く笑えたんじゃないかな、と思う。

 銀の光も、ふふ、と小さく揺らめく。

 

『さすが、雪は強いね』

「……強く在らないと、銀山さんは私を笑うでしょう?」

『ああ。……だからほら、秀友も負けるなよ。いい加減に諦めついたろう?』

「ッ――!」

 

 掛けられた言葉に、秀友の体が一度だけ大きく震えた。すすり泣くように呼吸をして、息を止めて、

 

「なにが、諦めついただよ……!」

 

 もしここに銀山の体があれば、秀友は彼を殴っていたのだろうか。けれど、色を失うほどきつく握り込まれた拳が打つものは、もうどこにもない。

 代わりに、限界まで込み上がった言葉が、秀友の堰を切る。

 

「――諦められるわけねえだろ!? 諦めるなんて、できるわけねえだろうがっ!!」

『馬鹿』

 

 だが返す銀山の言葉は速く、迷いがなかった。その声音に、強く、厳しく、叱咤する色を込めて。

 

『死者に囚われて己の生を潰すな。お前はなぜそこにいる』

 

 こうして輪郭だけの姿になってしまったのに、言葉を紡ぐたびに、彼の髪が、顔が、瞳が、体が、甦っていくかのよう。

 

『お前は、今のお前みたいな人たちを救うために、その道を選んだんじゃないのか?』

 

 陰陽師である、ということ。

 かつての彼が、この都で多くの人たちを手を差し伸べたように。

 

『人を救えよ秀友。人を救って、人に囲まれて、そして幸福に生きろよ』

 

 光だけで包まれた顔に、表情は見えないけれど。

 

『……私がお前に望むのは、そういうことだ』

 

 銀の色が柔らかく光る、その時彼はきっと、微笑んだのだろう。

 秀友の体が揺らめいた。感情をこらえるのでもなく、吐き出すのでもなく、なにか心の中で大切な区切りが生まれたような、そんな揺らめきだった。

 喘ぐような息遣いは、けれど笑みを作るもの。

 

「……最後の最後まで、そうやって人の世話焼くのな」

『ん……そうか?』

「そうだよ。……この世話焼きめ」

 

 秀友は毒づくが、込められた感情は柔らかだった。だから雪はそっと秀友の傍に寄り添って、彼の腕に己の腕を絡めた。胸の中にあるこの気持ちを共有するように、ぎゅっと。

 銀の光が、おや、と小さく肩を竦める。

 

『やれやれ、見せつけてくれるねえ。……それじゃあ仲睦まじい夫婦を祝福して、私の家はお前たちにあげるよ。まだ残ってるだろう?』

「……いいんですか?」

 

 二人だけの家がほしい、というのは、雪と秀友の一つの夢だった。伴侶がいるわけでもないのにしっかりした一軒家で生活している銀山を、二人で何度も羨ましがった覚えがある。

 

『いいよ。どうせもう使えやしないんだから、好きにしてくれ。……大したものも遺せなかったから、これくらいはね』

 

 ふいに、雪は言葉が出てこなくなった。お礼を言わなければならないのはわかっているのに、喉が詰まる。咄嗟に口を衝いて出そうになった「ありがとう」という言葉が、なんだか今自分が言うべきものではないような気がした。

 だから雪は、少しの間だけ、考えて。

 

「……大切に、使わせていただきます」

 

 深く深く頭を下げて、一音一音を慈しむように。

 胸にあるすべての感謝を乗せるには、これだけではとても足りなかったけれど。

 

「お世話になりました。銀山さん」

 

 真っ白な気持ちでそう言った途端、雪は無性に泣きたくなってしまった。鼻の奥が痛くなって、目元が震えて、今にも声が出てしまいそうで、秀友の肩に顔を押しつけて誤魔化した。

 お世話になりました、なんて、ちょっとカッコつけすぎたかもしれない。銀の光に、ふふ、と小さく笑われた。

 

『――で、夫の方はだんまりか。友人の最期に、なにか気の利いた一言くらい言ってくれないのかな』

 

 雪は、秀友の肩に押しつけていた顔を離して、彼を見た。秀友は、心の中を駆け巡る感情に圧倒されて、なにも言えなくなってしまっていた。雪でさえ、こんなにも胸が張り裂けそうになるのだ。銀山の親友だった秀友の心なんて、もうとっくの昔に張り裂けていた。

 掌を通して伝わってくるその震えが決して小さくはなかったから、雪は慈しむように、秀友へと身を寄せる。

 秀友は肩を震わせ、嗚咽を殺し、なんとか平常心を取り返そうと必死になって、けれどいつまで経っても冷静になんてなれなくて……言葉にしたい想いが多すぎて、雪のような一言に集約させることなど、到底できない様子だった。

 

『……ここでの生活は、楽しかったよ』

 

 それを見兼ねたのか、仕方なさそうに、銀山の方から口を切る。

 

『ここまで楽しかったのは、きっとお前に出会えたからなんだろうね。お前に出会えなくてもきっと楽しかったんだろうけど、間違いなく今には遠く及ばなかったろうさ。お前はどうしようもない馬鹿だったし、呆れるくらいのお調子者だったし、救いようのないくらいに騒がしいやつだったけど、不思議とそれが心地よかった。悪くなかったよ、お前の友人やってた数年間は』

 

 銀山の声はここでも穏やかなままで、本当に不公平だよなあ、と雪は思う。泣いているのは雪たちばかりで、銀山自身はそんな素振り、ちっとも見せてくれやしない。

 きっと、捉え方の違いなのだろう。雪たちは、銀山がいなくなってしまうことを悲嘆している。けれど銀山は全然悲しくなんてなくて、ここで築いた思い出を、とても誇らしいものだと思っていて。

 だから、どこまでも優しい声で。

 こう、言えるのだ。

 

『ありがとう、秀友。……お前という最高の友に巡り会えたこと、忘れはしないよ』

 

 本当に、不公平だ。秀友が耐えられるわけないとわかっていて、銀山はこんなことを言うのだから。

 秀友が崩れ落ちる。膝で地を打って、前にくずおれた体を両手で支えて、咳き込むように泣く彼を、雪はなにも言わずに抱き締めた。涙を忍ぶ体から伝わる熱が愛おしかった。皺くちゃになるほど服を強く握り返される、その震えが愛おしかった。このまま、彼のすべてを、抱き締めてやりたいと思った。

 銀の光が、穏やかな息遣いで笑う。

 

『……さて。言うことも言ったし、私は行くよ』

 

 その輪郭が、ふいに崩れる。足元から徐々に光を失って、散り散りになって、人の形を失っていく。

 これが本当に最期なのだと、雪は静かに悟った。銀の光が消える、これを境にして、雪たちと銀山は隔絶される。触れることはもちろん、言葉を交わすことすら叶わない、生と死という絶対的な壁で。

 悲しみがないといえば嘘になるけれど、それ以上に心に込み上がってくるのは、一つの覚悟にも似た、深い深い理解だった。

 

「秀友さん……銀山さんが」

「ッ……!」

 

 びくりと震え秀友が顔を上げた時、銀の光は既に半分が消えてしまっていた。恐らくあと数秒で、銀は完全に消えてなくなってしまうだろう。旅立つ友人に掛ける最期の言葉を見つけ出すには、あまりにも短い時間だった。

 

「バカ、やろうっ……!」

 

 それでも、秀友は言うだろう。涙の気配は消せずとも、目元を拭って、精一杯に。

 

「なってやるよ! お前みたいな、立派な陰陽師に!」

 

 精一杯に、笑って。

 

「――そんで、いつか絶対、お前をぶん殴りに行ってやるからな!! 覚悟しとけよ!!」

 

 その言葉が銀山に届いたのかはわからないけれど、きっと、届いたはずだ。

 だって銀山は、笑ったのだから。最後の光が消える間際に、幻のように――けれど確かに垣間見えた、銀山の微笑みは。

 涙のあふれた瞳を越えて、雪たちの心の一番深い大切なところに、優しいぬくもりを、与えてくれた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――人の営みは、その死によって完結される」

 

 そう、彼は言った。

 

「だからこれで、『門倉銀山』の物語はおしまい。……ま、あくまで『私』は生きてるんだけどね」

「……」

 

 正直なところ、どうして彼がこのような決断をしたのか、紫にはよくわかっていなかった。『門倉銀山』を死んだことにする必要が必ずしもあったのかどうか、はかりかねていた。

 からりと晴れた、夏の終わりの空だ。暑さの名残がほのかに香る爽気の中で、紫は月見とともに、空高くから都を見下ろしていた。

 下町を行き交う人々が紫たちに気づくことはない。妖怪である自分たちが見つかれば都中の陰陽師から熱烈な歓迎を受けてしまうから、特製の隠形(おんぎょう)の結界で、姿と気配を隠蔽している。

 

「……これでよかったの?」

 

 月の民から受けた傷が無事癒えたあと、都を離れてまた旅を再開すると言い出したのは月見だった。見下ろす一角にある小さな民家は、雪という名の少女の家。月見は都を離れる最後に、あの場所で人間の友人たちに別れを告げてきた。

 幻術を使い、『門倉銀山』に死を与えることで。

 月見は少し困ったように、もはや隠しはしない銀の尻尾をふらふら揺らす。

 

「ダメだったかな?」

「ダメとは言わないけど……わざわざ死んだことにする必要はなかったんじゃないかなって」

 

 それこそ、旅に出ることにした、とか。そういう理由ではダメだったのだろうかと紫は思う。それなら、二人があんなに悲しむこともなかっただろうし。

 だが、月見は静かに頭を振る。

 

「そのあたりは私のわがままかな。旅に出る程度の理由じゃ、あいつら追ってきそうだったからね」

 

 月見が大成させた人化の法は、人間の老いまでは再現できない。何年経っても変わらない容姿――都で生活することではなく、そもそも人間として生き続けること自体が、限界に近づいてきていた。

 だから、人でないとバレてあれこれ問題を起こすくらいなら、最後まで人のままで。

 

「さほど長くもない人間の寿命だ。自分たちの命は、自分たちのために、使ってほしかったから」

 

 そして誰にもあとを追われることなく、門倉銀山一人だけが、都から消えていけるように。

 そのために月見は、門倉銀山の死を以てして、『彼』の物語を完結させた。

 厳しい優しさだと、紫は思う。親友を失った秀友と雪は、今は決して幸せではないだろう。この悲しみを引きずって、しばらくの間は上手に生きられなくなってしまうかもしれない。

 

「あいつらなら大丈夫さ」

 

 だが月見は、彼らを信じていた。でまかせなどではなく、ここで築いた確かな絆に基づく、力強い確信だった。

 あいつらなら、大丈夫だから。

 

「だから、私があれこれ世話を焼くのはもう終わりだ」

 

 人間に惹かれて都に紛れ込んだ狐は、そうして都を離れることを選んだ。築いた絆を最上の宝物にして、別れの最後まで、笑顔のままで。

 

(……いいなあ)

 

 羨ましいと、紫は思う。月見が都で生活している間、紫も紫なりに考えて、人間たちと時を共有して生きてきた。だが、いい思い出と同じくらいに苦い思い出も生まれて、人と関わることの難しさを知った数年間だった。

 だから今、こんなにも誇らしげな顔をして都を去ろうとしている月見が、眩しくて。

 

「……ねえ」

「ん?」

「私にも、あんな風な人間の友達、できるかな」

 

 あんな風に、涙を流して別れを惜しんでくれるような、人間の友達が。

 私にも、いつか。

 

「……どうかな」

 

 月見は曖昧に笑って、友のいる家を見下ろした。

 

「そういう人間が、自分にもいてほしいか?」

「……うん」

 

 決して幸せばかりではないとはわかっている。種族の違い。寿命の違い。それらはいつだって、妖怪と人間の距離を容易く隔ててしまう。

 けれど、それでも月見のように、別れたあとでも強く心に残る、確かな絆を築けたならば。

 それは一体、どれほど素晴らしいことなのだろうか。

 

「それは、お前次第かな」

 

 呟き、月見は空を見上げた。見果てぬ世界へ、遠く遠く思いを馳せるように、目を細めて。

 

「でもまあ、世界は広いからね。大いに期待はできると思うぞ?」

「……そうよね」

 

 妖怪の中にだって、紫の夢を肯定してくれるような物好きな狐がいた。だから人間の中にだって、きっと。

 月見と一緒に青い空を見上げて、己の胸に落とすのは、小さな決意の言葉。

 

「必ず」

 

 輝く太陽があんまりにも眩しかったから、月見がどんな顔をしてくれたのかはわからない。けれど、ぽんぽんと頭を叩かれる感触はとても心地よかったので、悪くはないなと思った。

 

「――そういうわけで、私はただ単に友人に別れを告げに来ただけです。それ以外には、なにも妙なことをする気はありません」

「……? なに言ってるの?」

 

 突然月見が変なことを言い出したので、紫はきょとんと首を傾げた。紫に向けた言葉ではない。月見が敬語を使うところなんて初めて聞いた。

 しかし、この場には紫と月見以外には誰もいないのに、一体誰に――

 

「……ッ!?」

 

 気づく。背後だった。逆巻く風を全身にまとい、紫たちと同じ目線で、空に佇む陰陽師がいた。

 月見もまた振り返り、その男の姿を認めると、言い訳をするように笑って言った。

 

「なので、見逃してくれませんかね。……御老体」

 

『風神』、大部齋爾――殊に風の術においては天狗たちをも凌駕する力を持つ、人の範疇を外れた大陰陽師。人でありながら多くの大妖怪たちから一目置かれ、また同時に危険視すらされている、人間の最強格――。

 紫の隠形の結界は、完全に見破られていた。

 

「……!」

 

 紫は咄嗟に身構えようとするが、それを差し出された月見の腕が遮った。そうされてようやく、不機嫌そうなしかめ面をする齋爾の目に、敵意が宿っていないことに気づく。

 ……どうやら、紫たちを討ちにやってきたわけではないらしい。

 

「すぐに出て行きますよ。もう用は終わりましたから」

「……」

 

 齋爾は応えず、月見の銀の尻尾へと、束の間だけ目を向ける。

 

「……貴様、狐だったのか」

 

 驚くのでも感心するのでもなく、どこまでも憎々しげな声だった。

 月見は苦笑し、

 

「ええ。上手く化けていたでしょう?」

「……なぜこの都に紛れた。それも、陰陽師として」

「単に、人間と一緒に生活してみたかっただけです。……ええ、本当にそれだけ」

「……」

 

 どうしてそんなに怖い顔してるのかなあ、と紫は思う。どうやら決して機嫌が悪いわけではないらしいが、だったらもう少し穏やかな顔をしたらどうなのだろうか。これでは相手に変な誤解をさせてしまうし、実際紫は、齋爾が怖くて月見の背中に隠れてしまっていたりする。

 齋爾はそんな紫を一瞥して、やはり驚くのでも感心するのでもなく、無感情にため息をつく。

 

「……八雲紫か」

 

 紫はビクつきながらちょこんと頭を下げる。

 

「ど、どうも。はじめまして……」

「妖怪の女に興味はない」

 

 カチンと来た。

 

「……ねえ月見、ちょっと先に帰っててくれる? 私、最近どうにも運動不足で」

「落ち着けって。御老体と戦ったら、いくらお前でもたたじゃ済まないよ」

 

 ぐぬぬ、と紫は唸った。月見の意見はもっともなのだが、それにしたって初対面の女にいきなり「興味ない」なんて、このじじい、ちょっと失礼すぎるのではなかろうか。

 いや、興味があると言われてもそれはそれで困るしむしろそういうことは月見から言われたいのだけれど、とにかく今のじじいの発言は一の乙女として聞き逃せない。確かに今の紫は妖怪としてはまだまだ若い方で、体だって、将来の大逆転劇に望みを託すしかないような有様だが、

 

「ねえ月見、やっぱり胸なの? 胸なのかしら……」

「なんの話をしてるんだお前は」

「私だっていつか絶対……」

 

 紫なら境界を操ればある程度誤魔化せるが、そんな小細工は弱い女がすること。やはり一人前の大人の女になるためには、えへんと胸を張れる――そう、文字通り(・・・・)胸を張れる、立派な豊かさがほしいところだった。

 

「……それで、御老体はなにか用ですか?」

 

 ぶつぶつ言いながら自分の胸を触ったりなんだりしていたら、月見に放置された。

 

「別に」

 

 そして齋爾の方も、紫からはもう完全に興味を外しているようだった。おのれこのじじい。

 

「不審な気配がしたから様子を見に来ただけだ。……用が済んだのならさっさと消えろ」

「おや、いいんですか? 都に入り込んだ妖怪を倒して名を上げる、絶好の機会ですよ?」

 

 齋爾は眉間に寄せていた皺を一瞬深くして、しかしすぐに緩める。

 

「……貴様が人に害を為す邪な物の怪なら、喜んでそうしよう」

 

 ……それはつまり、月見をいい妖怪として認めている、ということでいいのだろうか。

 紫は月見の背中から顔を出して齋爾を見た。齋爾の表情はやはり不機嫌だった。この上ないほど不機嫌そうに、ふんと小鼻を鳴らしていた。

 

「だがそうでないなら儂の知ったことではない。どこへでも行き、好きに生きていればいいだろう」

「……一応、礼を言っておきますよ」

 

 月見がこちらに目配せをしてきたので、紫は頷いて傍にスキマを展開する。奥で無数の瞳が蠢く空間は、初めて見る者の度肝を抜くだろうに、齋爾はふっと一瞥しただけで、すぐに興味もなさそうにまぶたを下ろした。

 中に飛び込み、月見が来るのを待つ。彼はスキマの縁に手を掛けて、そこでふと思い出したように齋爾へと振り返る。

 

「このこと、あの二人にバラすのはなしですよ。台無しですからね」

「……」

 

 齋爾は眉一つ動かさず口も利かなかったが、或いはそれこそが彼なりの、不器用な肯定の仕方だったのかもしれない。

 

「では、お世話になりました。もう会うことはないでしょう」

「さっさと消えろ」

 

 愛想のかけらもない返事に苦笑して、月見は最後に下を――友がいる小さな家を見下ろす。

 

「さあ、本当にさよならだ。――どうか、元気で」

 

 その声音に初めて、一抹の寂しさがにじむ。やはりなんだかんだ言って、月見だって寂しいのだろう。あそこまで芝居がかった別れ方をしたのは、月見なりに、寂しさを誤魔化そうとする演技でもあったのかもしれない。

 だから紫は、スキマの中へと入ってきた月見に向けて、

 

「ねえ……また一緒に、旅しない?」

「ん?」

 

 月見が都で生活を始めるより以前、少しの間だけではあったが、紫は彼と一緒に旅をしていた。それを、もう一度やりたいなと思った。

 月見はきっと、人間の親友と別れたことを、ちょっとだけ引きずるだろうから。だから、自分が一緒にいて寂しさを紛らわせてあげるのも、吝かではないのである。

 それに、月見が都でどんな生活を送っていたのか、話を聞きたいと思ったから。

 

「ね、いいでしょ?」

「ふむ……」

 

 月見は口元に指をやって考え、ほどなくして軽く苦笑する。

 

「……ダメだって言っても、ついてくるんだろう?」

「そんなの当たり前じゃない」

「じゃあ好きにしたらいいさ。……お前がいると色々と助かるしね。スキマとか」

「まっかせなさい、たくさん役に立つわよ!」

 

 また一緒に旅ができると思うととても嬉しかったので、紫は月見の腕に飛びついて喜んだ。月見はため息をついていたけれど、それでも紫を押し離したりはしなかった。

 

 そうして二人は、スキマの内部を漂っていく。新しく旅を始める、出発点に向けて。

 瞳たちは、そんな二人を目で追いすらしない。

 各々が好き勝手な方向を向いて、呆れるように、その赤黒い色を細くしていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 赤黒い異空間が徐々に閉じられていき、そして線になって、やがて消える。その異様な光景を、しかし齋爾はただ黙したままで、最後まで見つめ続けていた。

 考えたことは多かった。門倉銀山を名乗っていたあの妖狐について、陰陽師という職業柄か、それとも曲がりなりにも同業者であったからなのか、齋爾の思考は目まぐるしく回転していた。

 八雲紫と行動をともにする銀の狐が、何者か――数十年に渡る年月で培われた齋爾の知識は、そうして一つの推測へと辿り着く。

 

「……そうか。貴様が」

 

 脳裏を掠めるのは、陰陽師たちの間で伝説として語られている、とある噂話。その存在がほのめかされつつも、実際に姿を見た人間が一人としていないことから、半ばお伽話のように語り継がれている大妖怪。

 境界の妖怪・八雲紫を始め、鬼子母神や天魔など、名のある大妖怪たちと友誼を結び、獣に化け人に化け、人知れず世に紛れて生きている。

 妖怪を愛し、またそれ以上に人を愛す――

 

「――銀毛十一尾。或いは貴様こそが、そうなのかもしれんな」

 

 なんの確証もないことだ。けれどなんとなく、そうなのだろうなと思った。幻の銀毛十一尾がもし本当に存在するのなら、きっと彼のような姿をして、彼のように生きているのだと。

 

「……」

 

 無論、だからと言ってなにかが変わるわけでもない。あの狐はこうして都を去り、そして齋爾は、もう決して長い命ではない。あと十年を待たないうちに、己に与えられた命の灯火は、その役目を終えて静かに燃え尽きるだろう。

 だから二人は、もう交わることはない。

 それでいいのだと、齋爾は思う。

 

「……門倉銀山」

 

 呟き、齋爾はゆっくりと首を振った。少し前に、八雲紫が口にしていた言葉を思い出す。……そう、確か彼女は、あの男のことをこう呼んでいた。

 

「さらばだ、――月見」

 

 今ほど純粋な気持ちで彼の名を呼んだのは、初めてだったかもしれない。なぜかはわからないけれど、それほど悪くはない、気分だった。

 だから齋爾は、気づかない。自分の唇が、無意識のうちに、薄い笑みの形を作っていることに。

 風を操りその場を去る最後まで、気づくことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ……秀友さんっ」

 

 雪から掛けられた声に、秀友は顔を上げた。消えてしまったはずのあの銀の光が、再び秀友の目の前を舞っていた。

 それらは蛍のように宙で寄り添い、一つとなって。

 

「あっ……」

 

 光の中からこぼれ落ちたのは、一枚の札だった。反射的に手に取った秀友は、札に書かれた文字を見て、言葉を失った。

 加護、の文字。

 その裏には、見慣れた――秀友が一番よく見慣れた文字で、こう、続けられている。

 

 

 お前の行く先に、どうか豊かな幸福がありますように

 我が最上の友へ、心から

 

 

 ――本当に。

 本当にあいつは、どれだけこちらを泣かせれば、気が済むのだろうか。

 せっかく落ち着いてきていた目元が、また、熱っぽくなってしまって。

 

「秀友さん」

「……ああ」

 

 寄り添ってきた雪の肩を取って、秀友は大きく息を吸った。

 叫ぶ先なんてどこでもよかった。だからもしもこの声が、まだあいつのところまで届くなら。

 

「柄でもないことしやがって! ……この、バ――――カ!!」

 

 今はもう、返事なんて、返ってこないけれど。

 

「ば――――か!!」

 

 一緒に叫んでくれた雪と、二人で笑った。とても綺麗とはいえない泣き笑いだったけれど、一緒になって笑った。

 幸せになろう、と思う。細かいことなんてどうでもいいから、とにかく幸せになりたかった。幸せになることが、銀山にしてやれる精一杯の恩返しなのだと思った。

 

 誰もが羨むくらいに幸せになって、そしてすべてが終わったら、胸を張ってあいつに会いに行けるように。

 

 いつか――いつか、必ず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第29話 「三つの音」

 

 

 

 

 

 我騙す、故に我あり――迷いの竹林を住処とする妖怪兎・因幡てゐにとって、詐欺や悪戯といった悪事とは即ち三度の飯と同じものである。

 存在の比率が精神に偏る妖怪にとって、乾いた心を潤す趣味を持つのは大切なことだ。心の乾きは命の乾き。どこからどう見ても犬にしか見えない白狼天狗が河童たちと将棋を嗜むように。自称清く正しい新聞記者が取材のために幻想郷中を飛び回るように。フラワーマスターが花を愛し太陽の畑を管理するように。てゐにとって心の拠り所になる趣味は、詐欺や悪戯を働き相手の反応を楽しむことだった。

 てゐは、妖怪兎の中では最も長い時を生きた。心が乾くほどに長い時を生きた。故に悪戯する中で得られる手に汗握る駆け引きの熱さ、そして悪戯が成功した時の快感は、てゐの心を潤す干天の慈雨だった。

 我騙す、故に我あり――だからてゐは悪戯を躊躇わない。人間だろうが妖怪だろうが、或いは神であったとしても、迷いの竹林を彷徨う人影があれば、それはてゐの格好の標的だ。ごく一部の例外――藤原妹紅が人里の病人を案内していた場合――を除いて、悪戯しないまま見逃すという選択肢など持ち合わせてはいない。

 今回のターゲットは二人組だった。霧が深いため詳しい出で立ちはわからないが、背の小さい人影とやや高い人影が一つずつ。小さい方は見るからに少女だとわかる一方、高い方は女とも男とも取れる中性的な背丈だ。

 まあ、性別などは些細な問題なので特に興味はない。重要なのは、あの二人組が人間なのか否かだ。もし人間だったら、怪我をさせないように仕掛ける悪戯を軽めのものに限定しなければならない。

 人間に怪我をさせたくないと思っているほどお優しいわけではない。下手に怪我をさせてしまうと永遠亭への風評被害につながって、八意永琳から実験と称したオシオキを食らわされるからだ。さすがにそれは避けたい。

 一方で相手が妖怪であれば、多少派手な悪戯を仕掛けたって怪我をさせる心配がない。もちろん反撃を受けるリスクも高くなるが、そこはこの竹林で何百年と悪事を働き続けているてゐのこと。相手を煙に巻いて逃げ果せる手段など、いくらでも用意している。

 自分で自分にゴーサインを出した。竹藪に上手く身を隠しながら、まずは人間かどうかを確かめるために人影へと近づいていく。

 やがて耳に入った二人の話し声は、どちらも女のものである。

 

「それでどうするんじゃ? お前さんの月見レーダーに従ってここまで来たが、考えなしに進むと迷うだけだぞ?」

「んん、そうですねー……」

 

 知らない声だと思いながら、耳をひくひくさせて意識を集中する。霧に遮られて姿がわからずとも、人か妖怪かを見極めるには気配さえ探れればいい。

 しかして、感じる気配は二つとも妖怪。

 てゐの心の中で、派手な悪戯の決行が確定された瞬間だった。

 

(にっししし……これは、久し振りに派手な悪戯ができそうだねえ)

 

 どこの誰かはわからないが、この二人組がてゐの仕掛けた罠に嵌って、顔を真っ青にして大慌てして最終的に半泣きになりながら逃げ帰っていく様を想像してみる。

 ぞぞぞ、と気持ちのいい寒気が来た。やはり泣かせて楽しいのは女の方だとてゐは思う。てゐと同じくらいの、年端も行かない外見をしているとなおよい。いけない、またぞくぞくしてきた。

 どんな悪戯を仕掛けてやろうかと考えながら、楽しみだなあ、とてゐはほくそ笑む。……そう、本当に楽しみだったのだ。少なくとも、この瞬間までは。

 

「むう……操ちゃんの能力でなんとかなりませんか?」

 

 頂点を目指してグングンと上昇を続けていたてゐのテンションゲージが、ぴたりと動きを止めた。今しがた聞こえてきた名前を脳裏で反芻させる。操ちゃん。

 ……操?

 あれ? とてゐは首を傾げた。なんだか聞き覚えのある名前だった。確か幻想郷の妖怪の中に、そんな感じの名前のやつがいた気がする。

 だが、頭の中に周囲の竹林と同じくらいに濃い霧がかかってしまっていて、あと一歩のところで思い出せない。

 更に声、

 

「いやあ、少し前にやってみたけど無理じゃったなあ。一度引き返して妹紅を探した方がいいんじゃないか、千代?」

「むう……」

 

 ……千代?

 その名前にも聞き覚えがあったが、やはり今ひとつ思い出せなかった。わかることといえば精々、他の妖怪よりも頭一つ以上飛び抜けた、幻想郷でも有名な大妖怪の名だったような気がするだけで――

 

「……」

 

 もう少しでてっぺんに届くはずだったてゐのテンションゲージが、血の気が引くように一気に下降を開始した。ぞぞぞ、と気持ちの悪い悪寒がやってくる。片側の頬がひくひくと上に引っ張られて、そのまま動かせなくなってしまう。背後に死神に立たれたように、両腕は鳥肌でびっしりだった。

 思い出した。

 操と、千代。

 

(て、てててっ天魔様と、きっ鬼子母神様っままま……)

 

 天ツ風操と、藤千代。妖怪の山で天狗を統べる大妖怪と、地底で鬼たちの頂点に君臨する大妖怪。

 幻想郷でもトップクラスと評して過言ではない、最強格の、大妖怪中の大妖怪が。

 霧のすぐ向こう側に、いた。

 

(あっ――――――――――)

 

 たっぷりと五秒は溜めてから、てゐは心の中で絶叫する。

 

(――っぶなああああああああああ!? て、天魔様と鬼子母神様!? なんでそんなのがこんなところにいるの!? そして私はなんでそんなのに悪戯しようとしてるの!? しっ、しししシ死しシしし)

 

 恐怖のあまり、心の中で呂律が回らなくなるという器用な現象が起こった。天魔と鬼子母神である。天狗のトップと鬼のトップである。なりふり構わず本気で暴れ回れば、迷いの竹林はおろか幻想郷すら滅ぼせるであろう連中である。そんな相手に悪戯をけしかけるなど、飛んで火に入る夏の虫に鼻で笑われるくらいの愚行である。

 

(に、逃ーげよ……。うん、命は投げ捨てるもんじゃないよ)

 

 冷や汗をだらだら流しながら、てゐは抜き足差し足で、その場をひっそりと去ること選んだ。当たり前だ。まだ死にたくない。

 けれどてゐの両脚は恐怖ですっかり麻痺してしまっていて、なかなか思うように動いてくれなかった。そんな脚で、抜き足差し足などできるはずがなかった。

 だからつい、足元の竹の葉を強めに踏んでしまって、

 

 ――カサ。

 

「――あの、ちょっと待ってくれませんか?」

 

 そんな、透明なグラスをスプーンで叩いたような、高く澄んだ声で。

 ガッシリ、肩を、掴まれた。

 藤千代――鬼子母神に。

 

「――」

 

 死んだー、とてゐは思った。ただ肩を掴まれただけのはずなのに、なんだかもう人生のゲームオーバーに叩き落とされた心地だった。

 振り返るのはもちろん、返事を返すことすらできない。肩にそっと添えられた鬼子母神の小さな手が、てゐのすべてを完膚なきまでに抑え込んでいた。

 鬼子母神の手は、ともすればてゐのそれと同じくらいに小さいというのに。

 なのに、なんなのだろうか。まるで雲を衝く大巨人の手で握り潰されそうになっているかのような、この圧迫感は。

 声が聞こえる。

 

「あなた、この竹林に住んでる兎さんですよね? あー、よかったです。永遠亭への道のり、わかりますよね?」

「――、」

「案内してもらえると、とっても助かるんですけどー……」

 

 鬼子母神の手が、てゐの肩を静かに撫でた。たったそれだけで、てゐの全身が駆け抜ける圧迫感と悪寒に悲鳴を上げた。

 

「そういうわけで、選んでください」

 

 変なこと訊く人だなあ、とてゐは笑った。頬の筋肉は動かなかった。魂の一欠片まで擦り切れ消滅しかねないこの状況に、フライングで死後硬直を始めたのかもしれない。だから心の中で笑った。大笑いした。

 だってそんなの、選ぶもなにも。

 

「私たちを永遠亭まで案内するか、ぶっ飛んで光るお星様の仲間入りをするか。――どっちがいいですか?」

 

 ――選ぶもなにも、てゐに選択権なんて、端からありはしないじゃないか。

 結局てゐは、最後まで背後を振り返らなかった。せめて鬼子母神たちの姿を視界に入れないことが、てゐの今にも擦り切れそうな精神をつなぎとめる生命線だった。

 

「ご愁傷様じゃのー、お前さん」

 

 あんたが言うな。

 ちっともご愁傷様そうじゃない天魔の声を背で聞くてゐは、どうしようもないくらいに、泣きたいのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして永遠亭では、戦争が勃発していた。

 

「――このスキマアアアアア!! あんたがあの時ギンを連れ去ってなければ、私が千年以上も悲しむことなんてなかったんじゃないのおおおおおっ!!」

「知らないわよそんなのー! あのね、あの時の月見は本当にひどい怪我だったのよ!? それを私が頑張って助けたんだから、むしろ感謝してほしいくらいだわっ!」

「それとこれとは話が別だああああああああっ!!」

 

 女二人の戦争である。部屋の片隅で繰り広げられる輝夜と紫のキャットファイトを、鈴仙は豆鉄砲を食った鳩になった気分でぼんやりと見つめていた。

 本来輝夜と紫は、仲がいいわけでも悪いわけでもなかった。会ったことはあるが、それだけ。永夜異変が収束して以来は顔を合わせることも口を利くこともなかった、まさしく『他人同士』な間柄のはずだった。

 そのニュートラルな関係が完全に崩壊し互いに唾を掛け合う犬猿の仲にまで進展――或いは悪化――したのは、つい先ほどのこと。

 始まりは、昼食後に輝夜が満面の笑顔で宣ったこの一言だった。

 

『――スキマ、潰そう』

 

 なんてことはない。1300年前に輝夜と月見が死に別れるようになってしまった原因が、あの場所から月見を強引に連れ去った真犯人が、紫なのだと――その真実を知った輝夜が、脊髄反射で紫を敵と認識した。

 

『あいつが私とギンの仲を引き裂いたのよ!』

 

 いくら月見を助けるためとはいえ、せめて紫がもう少し冷静だったなら、輝夜が千年以上もの間悲しみに沈むことはなかったかもしれない。今や過ぎ去ってしまった時間を、月見と一緒に幸せに生きていられたかもしれない。恋する少女が心の中の活火山を噴火させるには、あまりに充分な理由だった。

 すると輝夜は、八雲紫の屋敷に奇襲を仕掛けるのはどうかと鈴仙に提案してくる。当然鈴仙は、いや知りませんから、と返した。そうしたら今度は、じゃあどうやってあいつを殴ればいいの? と真顔で訊かれた。だから知りませんって。

 

『……じゃあ、呼ぶか? あいつ、呼べば来るし』

 

 正直なところ、そこで月見がこう発言さえしていなければ、話はなあなあになって戦争が勃発することもなかったろう。だが月見は発言してしまった。本人がなにを思ったのかは知らないが、鈴仙は彼のこの提案を、明らかな失敗だったと考えている。

 そこからはもう、出来の悪いショートコントでも見せられているかのようだった。

 

『――ああ、なんだか唐突に紫に会いたくなってきたなあ! 今すぐ会えないだろうか! 会って伝えたいことが』

『はーいっ、あなたの愛しの紫ちゃんですっ! どうしたの月見、私に伝えたいことってなあに? あ、わかったわよもしかしなくても愛の告』

『スキマアアアアアアアア!!』

『きゃあああああああああ!?』

 

 月見の愛の叫び(ぼうよみ)に応えて目を爛々輝かせながらやってきた紫を、修羅と化した輝夜がすかさずスキマから引きずり落とす。そして畳に鼻の頭をぶつけて涙目になっている怨敵へ、馬乗りになって、

 

「大体なんなのよ、あなたも月見のことが好きなんですって!? ダメですー認めませんー、月見は私のものなんだからっ!」

「なんでそれをあんたが決めんのよ! ってかギンが私のものはこっちの台詞だあああああっ!!」

 

 ……あとはもう、ずっとこの調子なのだった。

 

「ええと……あれは、止めなくてもいいのか?」

 

 畳を転げ回る二人の少女を、慧音が目を白黒させながら指差すけれど、別にほっといていいんじゃないかなあと鈴仙は思う。だって永琳と月見は素知らぬ顔でのんびりお茶を飲み合っていて、完全に我関せずの構えを貫いている。キーキーやかましい輝夜たちのいさかい声がいかに耳障りでも、決して自分のペースを崩さない、年長者の達観した物腰だった。

 それを見ていると、なんだか鈴仙も不思議と悟りを開けそうな心地になってきた。右手で慧音の湯呑みを示しながら、笑顔で言う。

 

「いいんじゃないですか? それよりも慧音さん、お茶が冷めちゃいますよお」

「そ、そうだけど……いいのかなあ」

「いいんですよお。猫が喧嘩してるだけですって」

 

 くんずほぐれつ仲良く畳を転げ回る程度なら可愛い方だ。輝夜の1300年分の恨みがそれで晴れるのなら、永遠亭の畳が傷むくらい、安い代償なのかもしれない。

 鈴仙がお茶をすすって心と体を温めていると、隣の永琳がふいに「それで」と口を切る。

 続く言葉は、

 

「あなたはこれからどうするの?」

「? どうするのとは?」

 

 問われた月見は、小さく首を傾げて問い返す。永琳は一度部屋の時計を確認してから、詫びるように眉尻を下げて言った。

 

「悪いんだけど、私たちはこれから診察の予約が入ってるのよ」

 

 そういえば、今日はこのあと、妹紅が人里から患者を連れてくる予定だった。遠い昔話を聞かされたあとだったから、鈴仙もすっかり忘れてしまっていた。

 ふむ、と月見は顎に手をやる。

 

「じゃあ、邪魔しない方がいいかな?」

「いえ、あなたさえよければゆっくりしていってくれてもいいんだけどね。輝夜も喜ぶだろうし。他に予定があるんだったら、っていう程度の話よ」

「そうだね……」

 

 特に予定はなかったのだろう、月見が腕を組んで思案に耽ると、輝夜と紫が喧嘩する騒音だけが部屋を満たすようになる。1300年分の恨みパワーなのか、どうやら輝夜が押しているらしい。ギャーギャーとやかましい喚き声に、時折、紫の悲鳴が交じり始めていた。

 もちろん、月見と永琳は気にも留めない。

 

「じゃあ、家でもつくろうかな。当面は幻想郷で生活するつもりだし、ないと困るからね」

「あら、いっそここに住んじゃえばいいのに」

 

 茶化す永琳を、月見は「よしてくれよ」と苦笑でいなす。

 

「誰かの脛をかじらなきゃならないほどなにもできない男じゃないよ私は。それに、一人でのんびりできる場所もほしいんだ」

「そう……男手があってくれると助かるんだけど。最近、ウドンゲだけじゃ頼りなくて」

「ふぐうっ」

 

 いきなり飛んできた言葉の矢に胸を貫かれ、鈴仙は呻いた。確かに自分はあまり優秀な弟子ではないかもしれないけれど、なにも客の前ではっきり言わなくてもいいじゃないか。

 そして月見と慧音が、「あー……」ととても心当たりがある目をしているのが、輪を掛けて辛かった。多分、指笛の一件を思い出しているのだと思う。しにたい。

 永琳は、顔を赤くしてしおしお縮こまる鈴仙をナチュラルに無視した。

 

「家をつくるんだったら、相談役は河童でしょうね。……ああ、鬼たち当たってみてもいいかもしれないわね。どうせ萃香とも知り合いなんでしょう?」

「そうだね。河童と鬼――」

 

 ふいに、月見が言葉を噤んだ。自分の発言に、自分で違和感を覚えた顔をしていた。

 

「? どうかしましたか?」

「ああ、いやね……」

 

 鈴仙が問えば、月見は少し考えてから、

 

「そういえば、妖怪の山で鬼たちを見なかったと思ってね」

「ああ……」

 

 月見は500年ほど前の一時期を、幻想郷で生活していたことがあるという。当時は幻想入りの仕組みができあがってから間もなくの頃で、妖怪の山の支配者として、まだ鬼たちが君臨していた時代だ。

 鈴仙は幻想郷にやってきて日が浅いが、射命丸文などの知人から、かつての妖怪の山はそうだったのだと聞かされている。だから頷いて、

 

「見なかったのも無理はないと思います。今の鬼たちは、もう山では生活してないんですよ」

「そうなのか? じゃあどこで」

「それは――」

 

 地底です、と鈴仙が唇を動かしかけたところで、

 ――パアン! と。

 輝夜と紫のいさかい声も押しやって、玄関の方から鋭い音が突き抜けてきた。空気の破裂音にも似たそれが一体なんの音なのか、ふいを衝かれたのもあって鈴仙には見当もつかなかったが、

 

『たーのもおーっ!』

 

 ほどなくして、道場破りにしては可愛らしすぎる少女の声が飛んできたので、来客であるらしいことがわかった。ということは、先ほどの破裂音はもしかして、少女が玄関の戸を開けた音だったのだろうか。へーウチの玄関ってあんなにうるさく開けられるものだったんだー、と鈴仙はなぜか感心してしまった。

 ……玄関、ぶっ壊れていないだろうか。

 騒がしすぎる来客に、永琳が浅く眉を寄せる。

 

「……妹紅ではないみたいね」

「ですね」

 

 妹紅にしては声が幼すぎる。知り合いの中から名を挙げれば、萃香、或いはレミリアを彷彿とさせる幼さだった。

 

「まあ、とにかく行ってくるわ。悪いけど、少し待っててちょうだい」

「はい」

 

 広間を出て行った永琳を見送りながら、一体誰なのかなあ、と鈴仙は考える。玄関をあれほどの勢いで開けられるくらいだから、妖怪なのだろうが、妖怪が永遠亭を訪ねてくるというのは珍しい話だ。ひょっとしたら月見の知り合いが、遠路遥々彼に会いにやってきたのかもしれない。

 だから鈴仙は、ひょっとして月見さんのお知り合いだったりするんですか? と尋ねようとした。

 けれど鈴仙が目をやった先で、月見が目頭を押さえながら俯いていたので、質問の言葉も引っ込んでしまった。

 

「ど、どうしたんですか?」

「あー……いや」

 

 曖昧に呻いて、月見は顔から手を離す。

 

「そうかあ、来ちゃったかあ……」

 

 噛み締めるようなため息と一緒に落とした言葉が、お世辞にも、嬉しそうには聞こえなかったので。

 鈴仙は慧音とお互いに見合ってから、おずおずと問うた。

 

「……お知り合いの方、ですよね?」

「そうだね。よく知ってる相手だよ」

 

 続けて慧音もおずおずと、

 

「ええと……あんまり仲が良くない、とか?」

「そういうわけじゃないんだが……」

 

 歯切れの悪い返答に、鈴仙は慧音ともう一度顔を見合わせた。知り合いだし仲も悪くないけれど、こうして数百年来の再会を喜べないような相手――さて、一体何者なのだろうか。

 玄関の方から、かすかに永琳の声が聞こえる。

 

『はいはい、どちらさま? ……あら、あなたは』

『や、久し振りじゃのー永琳』

 

 来客は一人ではなかった。先ほどの少女の声とは別にもう一人、やや気の抜けたような女性の声が聞こえる。こちらは鈴仙にも心当たりがある。妖怪の山で天狗たちを統べる大妖怪、天魔の声だ。

 

(……え?)

 

 天魔?

 

『珍しいわね、あなたがここにやってくるなんて。……その子は?』

『はじめましてー、永琳さん。私、藤千代っていいます』

『藤千代……ああ、なるほど。道理であなたたちの後ろで、てゐが死にかけの蝉みたいになってるわけだわ』

『一応言っておきますけど、なにもしてませんよ? ただ道案内をしてもらっただけですー』

『わかってるわよ。でも鬼子母神と天魔を同時に案内したんじゃ、生きた心地がしなかったでしょうねえ』

 

 あれ? と鈴仙は首を傾げた。なんだか自分でもよくわからないうちに、ものすごい事態に巻き込まれかけている気がした。

 聞き間違いだろうか。天魔はもちろん、鬼子母神なんて単語まで聞こえてきたような。

 会話は続いている。

 

『それで永琳さん、いきなりで悪いんですけど、ちょっとお邪魔させてもらっていいですか?』

『……まあ、理由は訊かずともなんとなくわかるけど。彼に会いに来たんでしょう?』

『さっすが永琳さん、音に聞く通りの天才さんですね。……じゃあ失礼して』

 

 鈴仙は真顔になって正面の月見を見た。彼は重々しく一つ頷いて、それからなにかを諦めるように、静かに長いため息を落とした。

 襖が開く。鈴仙は振り向くが、そこには誰も立っていない。

 独りでに、勝手に襖が開いて、声が聞こえた。

 

「――月見くん、見ーつけたあ♪」

 

 不思議な響き方をする声だった。蜂蜜を塗りたくった甘い声音は、まるで頭の中に直接流し込まれるように、どこから聞こえてくるのか把握できない。

 

「な、なんだ?」

 

 慧音が不安そうに周囲を見回すけれど、やはりこれといって不審な人影はない。精々、輝夜が紫の背中に馬乗りになって、金髪をめいっぱい引っ張っているくらいだ。

 

「大体、500年振りくらいですねー。あいかわらず元気そうでなによりですー」

 

 いやあああああやめてえええええ、という紫の悲鳴が遠くに聞こえるほど、その声は鮮明に鈴仙の脳裏に響く。

 

「積もる話はたくさんたくさんあるんですけど、それよりもやっぱり、まずは――」

「千代ー、手加減してくれよー……?」

 

 月見が実に情けない声でそう言ったので、鈴仙が思わず彼の方に目を向けた、

 

「ふふふ、わかってますよお」

 

 直後、

 

「――じゃあ、ぶっ飛ばしますね?」

 

 月見の体が吹っ飛んだ。天井スレスレを高く、遠く、襖を通過して縁側を越え、庭すらも縦断して、広がる竹林と霧の向こう側まで飛んでいく。突然投げ入れられた不審物に驚いて、竹林が大きくざわめく。葉擦れの音、竹の枝が折れる音、なにかが地面に落ちる音。

 なにが起こったんだろう、とすら思わなかった。目の前で起こった現実に頭が追いつかなくて、鈴仙はもうバカになったみたいに、なにも考えることができなかった。

 鈴仙も慧音も、そして輝夜と紫も、みんなが時間から置き去りにされ、唖然と身動きを止めた中で。

 

「……ふふっ」

 

 鈴を弾くように高い声で笑い、さっきまで月見が座っていたその場所に、いつの間にか少女が立っている。一体いつから、と疑問を挟む余地すらない。間違いなく彼女は、十六夜咲夜がそうやって現れるように、いきなりそこに出現した。

 しゃらりと小気味よく揺れる藤の髪飾りに、藤の花を鮮やかに染め込んだ着物。そして己が名にもまた藤を冠する、その少女は。

 

「あー、……スッとしました」

 

 月見が吹っ飛んでいった竹林の先を見つめて、ただ一人だけ晴れやかに、笑っていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 大混乱になった。意外にも最初に我を取り戻したのは慧音で、血相を変えて月見を捜しに広間を飛び出していく。一呼吸遅れて紫がそれに続いて、怒り狂った輝夜は藤千代へ飛びかかろうとする。

 そこでようやく現実に帰ってきた鈴仙は、大慌てで輝夜の腰にしがみついた。

 

「ひ、ひひひっ姫様、ストップストップッ!」

「なんでよ!? こいつ、ギンをぶっ飛ばしやがったのよ!? それってつまり永遠亭への宣戦布告でしょ!?」

「私まで巻き込まないでくれます!?」

「なによあんたまさかこいつに味方するつもり!?」

「そ、そうじゃなくてー!」

 

 無論、月見をぶっ飛ばしたのがただの曲者だったなら、こうして鈴仙が輝夜を引き留める理由はない。けれど藤の着物で着飾ったこの少女――藤千代は、鬼子母神と呼ばれ畏怖される大妖怪中の大妖怪なのだ。幼い外見と侮ることなかれ、鬼三百人を組手で負かしたとか、ちょっと暴れたら山が崩れたとか地形が変わったとか、小石を思いっきり空にぶん投げたら二度と落ちてこなかったとか、とかく彼女の腕力に関する噂話は事欠かない。鬼の四天王と名高い伊吹萃香や星熊勇儀さえ、彼女の前では涙目で白旗を上げるという。

 八雲紫とは違う意味で別次元の存在なのだ。もし藤千代がちょっとその気になって拳を振るったら、永遠亭があっという間に瓦礫の山と化してしまう可能性すらある。なんとしても止めねばならぬ。

 だが、怒りの輝夜は止まらない。

 

「ちょっとあんたあああ! いきなりギンになにしてくれてんのよおおおおおっ!」

 

 八雲紫をも圧倒した修羅の形相に、しかし藤千代はとりたてて動じない。きょとん、と不思議そうに首を傾げて、

 

「ギン?」

「月見よ月見! あんた、ギンとどんな関係だあああ!」

 

 少し天井を見上げて考え、こともなげに答える。

 

「将来を一方的に誓い合った仲です」

「よし潰――――す!! 放しなさい鈴仙巻き込まれたいのいやむしろあんたも手伝いなさいほら行くわよっ!」

「落ち着いてくださいよ姫様あああああ!!」

「……なんだかよくわかりませんけど喧嘩売られてますか? いいですよ、買います。揉んであげますので二人まとめてどうぞ」

「うわああああああああ!?」

 

 人間に喧嘩売られるのなんて久し振りですねー、なんて藤千代が嬉しそうに腕まくりを始めたので、しかも何気に自分が頭数に入っていたので、いよいよもって鈴仙は涙目になった。今朝、妹紅と決闘をしに行く輝夜を見送った時に、今日も平和な一日になるといいなあと天に祈ったのが遠い昔のようだ。平和どころかまるで世界の終わりである。

 

「……ちょっとあなたたち、一体なにしようとしてくれてるのかしら」

「おーい千代ー、こんなところで喧嘩なんてやめてくれよー?」

 

 けれど世界は救済された。ようやく広間に戻ってきた永琳と天魔が、鬼も裸足で逃げ出しそうなこの状況に、驚くくらいあっさりと仲裁の手を入れてくれた。

 永琳が輝夜の頭に手刀を落とし、

 

「こら、落ち着きなさいな輝夜。あなたが勝てるような相手じゃないわよ?」

「そんなのやってみないとわからないじゃない! 人の可能性は無限大よ!」

「はいはい、せめて私に勝てるようになってから言いなさいね」

「う、うぐっ……」

 

 天魔は藤千代の手を取って、輝夜の近くから離れていく。

 

「ほーら、なにやっとるんじゃよお」

「いえ、なんか喧嘩を売られたみたいだったので買おうかと」

「それより月見はいいのか?」

「そうでしたっ! 月見くーん、せっかく再会できたんですからお話しましょうよーっ!」

 

 どうやら藤千代にとっては、人間との勝負よりも月見の方が圧倒的に優先順位が高いらしい。瞳を爛々輝かせ広間を飛び出していくその背に、輝夜が「待てえええええ!」と喚き散らすけれど、藤千代は振り返りもせずあっという間に霧の向こうに消えていく。

 うがー! と暴れる輝夜を心底面倒そうに羽交い締めにしながら、永琳は深いため息を落として言った。

 

「もう、なんなのよ一体」

「あっはっは。すまんのー、騒がしいやつで」

 

 天魔が悪びれる様子もなく笑い、永琳がもう一度ため息をつき、

 

「まあ、余所のことを言える立場ではないわね。申し訳ないわ、見苦しいお姫様で」

「見苦しいってなによ! ギンがぶっ飛ばされたのよ!? 騒いで当たり前でしょうがっ!」

「あれは千代のスキンシップみたいなもんじゃよ。許してやってくれー」

 

 スキンシップで相手をぶん投げるって、傍迷惑すぎないだろうか。やはり幻想郷のトップに名を連ねる大妖怪だけあって、鈴仙の常識は通用しないらしい。

 竹藪の葉をがさがさ鳴らして、奥から月見たちが戻ってくる。藤千代がうきうきしながら月見の手を引いていて、月見はものすごく疲れた顔をしていて、慧音と紫が、月見の体中にくっついた竹の葉やらなにやらを甲斐甲斐しく取ってやっている。

 天魔が笑みを深めて、嬉しそうに言う。

 

「みんなみんな、月見が好きなんじゃなあ」

 

 輝夜も紫も藤千代も、それを否定しなかった。鈴仙だって、そうなんだろうなあと思ったし、永琳も、そんなのわざわざ言われなくても、みたいな顔をしていた。

 ただ一人、慧音だけが「ち、違っ!?」と顔を真っ赤にしてわたわたしだして、輝夜と紫に睨まれている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ……ところで、どうして私がこんなところにいるんだろうか。

 八雲紫に、鬼子母神に、天魔。幻想郷を代表する三人の大妖怪と一緒にお茶を飲んでいる自分が、なんだかひどく場違いであるような気がして、上白沢慧音は頭の中で頭を抱えた。

 

「け、けけけっ慧音さ~ん……これって一体どういうことなんですか……?」

「いや……私にもさっぱり」

 

 隣の鈴仙がすっかり萎縮しながら耳打ちしてくるが、こればかりは歴史を司る慧音にも答えようがない。わかることと言えば精々、この場の中心にいるのが月見だということくらいだ。

 月見は今、テーブルを挟んで慧音の向かい側に座っている。人間だと思えば妖狐で、ただの妖狐かと思えば十一尾の大妖怪で、それでようやく終わりかと思えばなんと八雲紫と親しい間柄で、さすがにもうこれ以上はないだろうと思えば更に鬼子母神と天魔とまで知り合いな男だ。ほんの数時間前まで彼が人間であることを疑わなかった慧音としては、もう驚き呆れてなにがなにやら、頭突きを喰らわせようという気も起こらない。

 そんな月見の両脇には、輝夜と藤千代が陣取っている。両手に花とでも言うべきなのかもしれないが、この場合は花よりも爆弾に例えるべきだろうと慧音は思う。月見との再会を一生懸命に喜んでいる藤千代を輝夜が全力全開で威嚇しており、ひとたび間違いが起こればあっと言う間に大惨事につながる構図だ。

 一応は、月見が面倒くさそうな顔をしながらも上手く間を取り持っているので、大丈夫そうだが。

 先ほどまで輝夜に散々痛めつけられていた紫は、月見たちから離れたところで操と一緒にお茶を飲んでいた。もう本当にひどいのよ信じらんないっと紫が涙目になりながら愚痴をこぼしては、操があーよしよしと慰めてやっている。そして永琳一人だけが、どの騒ぎにも決して干渉することなく、完璧な静観を決め込んでいる。

 傍目から見れば少しだけ賑やかなだけのありふれた茶会の席なのかもしれないが、面子が面子だけに慧音は気が気でない。鈴仙も、顔に貼りつけた愛想笑いが完全に干からびていた。

 と、

 

「だからあんた、さっきからギンに引っつきすぎなのよ――――ッ!!」

 

 バアン! とテーブルを両手でぶっ叩き、輝夜が長い黒髪を振り乱しながら絶叫した。怒りの炎が宿った視線の先では、藤千代がこれ見よがしに月見の腕に抱きついている。

 輝夜の剣幕は外野の慧音と鈴仙すらびくりとするほどだったが、当の藤千代は特に動じた様子もなく、いいじゃないですかーとマイペースに笑う。

 

「だって500年振りなんですもの。輝夜さんだって、月見くんと再会した時にはこれくらいやったんでしょう?」

「やっ……それは、その」

 

 図星を突かれた輝夜はほんの一瞬怯むも、すぐに首を振って、

 

「と、とにかく! あんたみたいな子どもにまとわりつかれたらギンだって迷惑でしょ! さっさと離れなさいっ」

「でも私、輝夜さんよりおっぱい大きいですよ?」

「ブフゥッ」

 

 鈴仙がお茶を吹き出し、永琳と月見が天井を振り仰いでため息をついて、輝夜は言葉の矢に心臓を貫かれて石化し(ヒビ入り)、慧音は頭の中が真っ白になった。

 視界の片隅で鈴仙がこぼしたお茶を布巾で拭く中、ゆっくりと五秒、

 

「き、鬼子母神様っ! おっ、男の人の前でそんなことっ……」

 

 我に返った慧音が咄嗟に口を挟むも、藤千代から返ってきたのは、可愛らしく頬の膨らんだ不満顔だけ。

 

「むー。慧音さん、鬼子母神じゃなくて藤千代って呼んでくださいよぅ。そっちの呼ばれ方は好きじゃないんですー」

「あ、申し訳ありません――じゃなくてっ!」

「いいじゃないですかー。客観的事実ですよ?」

 

 いやまあ、確かに藤千代と輝夜はそのあたり着物の上からでもわかるほど明らかな差があるけれどもしかしそんなことを大っぴらに言ってしまったら輝夜が

 

「きっさまあああああああああ!! 人が気にしてるところをよくもおおおおおおおおおお!!」

 

 あ、これ終わったかも、と慧音は思った。主に、爆弾の導火線に火がついたという意味で。

 本来なら雪さながらに白いはずの輝夜の肌が、怒りで炎みたいになっている。

 

「し、仕方ないじゃないのっ! 蓬莱の薬飲んで、体の成長が止まっちゃったんだから!」

「そうなんですか、御愁傷様ですね」

「あああああああああ!!」

「月見くんだって、どうせ抱きつかれるなら硬いより柔らかい方がいいですよねー?」

「なあああああにが硬いですってええええええええええ!?」

「え、もちろん胸ですけど? それ以外になにかあります?」

「うぐあああアあアアアあアアあアあああ!!」

 

 まずい、輝夜が怒りと屈辱のあまり人語を失いかけてきている。黒髪全体がとても不吉な赤黒いオーラをまとって、大蛇みたいに意思を持って蠢き始めていた。

 紡ぐ言葉は呪詛の如く、

 

「潰す潰スつぶすツブすツブスつぶス……」

 

 ああ、輝夜が暗黒面に堕ちていく。明日の文々。新聞の一面を飾る見出しは、『蓬莱山輝夜、妖怪化!?』になってしまうのかもしれない。

 などと、慧音が冷や汗をだらだら流しながら現実逃避していると。

 

「操ー、千代退場ー」

「あいよー」

「あー待ってください月見くんまだたくさん話したいことが、あーん……」

 

 今まで何度も同じ場面に遭遇してきた、とても煩わしそうな声だった。月見が操の名を呼ぶと、彼女もまた今まで何度も同じことを繰り返してきた慣れた手つきで、藤千代を部屋の隅まで引きずって退場させる。

 続け様に、

 

「永琳ー、輝夜も退場ー」

「はいはい」

「え、ちょっと待ってなによ永琳そのおどろおどろしい色の注射器は待ってダメダメやめウッ――」

 

 永琳が輝夜の首にとても不吉な色の液体を打ち込むと、輝夜は一瞬で無抵抗になってその場に崩れ落ちる。一体なにを注射されたのだろうか。永琳に引きずられ藤千代とは反対側の部屋の隅へ退場させられる輝夜が、死んだように身じろぎ一つしない。

 でもまあ、静かになったしいいか。

 爆弾は無事処理された。慧音がほっと胸を撫で下ろすと、月見がやれやれと顔に手をやりながら、脱力するようにため息をついた。

 

「まったく……千代、輝夜をそんな風にからかうのはよしてやってくれ」

「えー? 別にからかってませんよう、ただ事実を言っただけで」

 

 輝夜が気を失っていて本当によかったと、慧音は心の底から思う。

 操に後ろからホールドされた藤千代は、混じり気なく微笑んで、

 

「私は別に、誰が月見くんを好きになっても構いませんよー? おんなじ人を好きになれるって素敵なことじゃないですか。まあ、渡すつもりもさらさらないんですけどね」

「和を以て貴しと為す、じゃな。……あれ、出会い頭に人を投げ飛ばそうとするお前さんが言えたセリフじゃないんじゃないか?」

「それは言っちゃダメですよー操ちゃんー。ぶっ飛ばしますよー?」

「あははーこやつめー」

「あははー操ちゃんめー。――そおい」

「にゃああああああああ!?」

 

 すぽーん、と操の体が宙を舞って、いつぞやの月見のように天井スレスレで襖を通過し、縁側を越え、竹林の手前あたりにべしゃりと落下した。滞空時間が短かったからか、大きな翼を羽ばたかせて体勢を整える余裕はなかったらしい。

 月見の時とは違い、今回の慧音は冷静だった。極めて冷静に、空中をすっ飛んでいく操を目で追いかけることができた。これが妖怪たちの暮らしてる世界なんだなーうんなら仕方ない、と妙に達観した解釈が頭の中に生まれていた。

 わずか二度目にしてこの光景に順応してしまっている自分が、我ながら少し怖い。

 月見が、地面の上でぴくぴくしている操を遠い瞳で見つめながら、遠い声音になって言う。

 

「さて、これ以上騒いでもなんだしお開きにしようか……」

「そうね、そうしてちょうだい。もうすぐ診察の時間だし、怪我人が増えるのは御免だわ」

 

 輝夜の肢体を部屋の隅に転がした永琳が、物憂げなため息と一緒に戻ってくる。それから地面の上で伸びた操を見つけ、匙を投げるように肩を竦めて、

 

「……まったく、あなたたちは本当に元気ねえ」

「や、すまないね。騒がしくて」

「まあ、お互い様ね。こっちこそ品のないお姫様で恥ずかしいわ。不老不死にも効く薬を作っておいて正解だったわね、本当」

 

 部屋の隅で輝夜が操と同じようにぴくぴく痙攣しているのを、慧音は気づかないふりをすることにした。

 

「どれ、紫」

「……あっ、はいっ! なに、どうしたの月見っ!」

 

 月見が紫の名を呼ぶと、彼女は途端に目を輝かせてその場で膝立ちになる。全身から迸るのは、主人に構ってもらえそうで期待が爆発しちゃいそうな子犬のオーラだ。もし今の紫に感情に連動して動く尻尾があれば、残像を残す勢いで左右に振られまくるだろう。

 紫は、あまりの興奮に上手く舌が回らない様子で、

 

「も、もしかして、出番? で、出番なのねっ?」

「そうだけど……」

 

 月見は紫の勢いに若干気圧されながら、

 

「随分と嬉しそうだな?」

「当たり前でしょっ?」

 

 頷く紫の瞳は希望で満ちあふれている。

 

「だって月見、今回の私ってなにしてたと思う? あの暴力女に髪の毛引っ張られてただけなのよっ? そんなのってあんまりじゃない! 私みたいに可愛い女の子には、もっと素敵な出番があるべきだと思うのっ!」

「面倒だから無視して言うけど、そろそろ帰るからスキマを貸してくれるかい」

「任せてっ。そういえば、月見はこれからどうするの? 他に行ってみたいところとかある? よければ連れてってあげるわよというか一緒に行きましょうデートデート!」

「いや、とりあえずはどこかに家をつくろうと思ってね」

「家? ……ということは、また幻想郷で生活してくれるのね!? いいわよ、素敵なお家をつくりましょうっ!」

 

 元気な人だなあ、と慧音は紫を眺めながら思う。悲しそうな顔、怒った顔、疑問顔に、嬉しそうな顔と、本当にころころと表情が変わる。初めて会った時は、胡散くさい笑顔を貼りつけた底の知れない女性という印象だったのに、今ではまるで人里の子どもを見ているみたいだ。

 まっかせなさーい! と元気に立ち上がった紫の横で、藤千代が月見へと問いかける。

 

「月見くん、家をつくるんですかー?」

「ああ。……とそうだ、思い出した。もし都合がつけば鬼たちに手伝ってもらいたかったんだけど、今はもう妖怪の山に住んでないんだって?」

「あ、そうですね。そうなんですよ、今の鬼たちは地底に住んでるんです」

「地底?」

 

 月見のオウム返しに、はいー、と藤千代は頷き、

 

「妖怪の山から洞穴を通って行けるところにあるんです。元々は地獄の一部だったところなんですよ」

「ふうん……なんだってそんな場所に?」

「まあ……ちょっと色々と、折り合いが悪かったんですよ」

 

 泳いだ目で苦笑して、藤千代は話をはぐらかした。鬼たちは、人間に愛想を尽かせて地上を去った。そんな話を人間を愛する月見に聞かせるのは、心苦しいと思ったのかもしれない。

 すぐに、ぱっと明るく笑って、

 

「でも月見くんのためなら、みんな喜んで集まってくれると思いますよ。いいでしょう、紫さん?」

「もちろんよっ。河童たちにも手伝ってもらいましょう。幻想郷の技術の粋を集めて、素敵なお家をつくるのよ!」

「……手伝ってくれるのは嬉しいけど、普通の家でいいからね?」

 

 それから、どこか家を建てるのにいい場所はないか、それだったらあそこはどうか、と盛り上がり始める月見たちを見つめて。

 はー、と感心しきった声を上げたのは、鈴仙だった。

 

「私、大妖怪ってもっと怖い存在だと思ってたんですけど……なんか、意外とみんな等身大なんですね」

「……そうだな」

 

 薄く笑い、頷く。大妖怪だから特別プライドが高いとか、仲間以外の他者を見下しているとか、そんなことは全然なくて、みんなが等身大でよく笑い、よく騒ぐ、どこにでもいそうな普通の女の子で。

 

「月見さんがいるからなんですかねえ」

 

 そうなのかもしれないな、と慧音は思う。或いは蓬莱山輝夜がそうだったように、紫たちもまた、月見と出会って色々なものを変えられた少女なのかもしれない。

 

「……賑やかになりそうだな」

 

 もしも月見が家を建てて幻想郷で本格的に暮らし始めれば、きっとここは、今よりもずっと賑やかに色づくのだろう。彼が幻想郷に戻ってきてたった三日目の時点でこれなのだから、もっともっと。

 

「みんな~、無視はひどいのじゃあ……。月見の時みたいに心配してくれてもいいじゃないかあ~……」

「そんなことより操ちゃん、月見くんのお家をつくりますよっ」

「なんじゃとっ。月見、妖怪の山から麓を見下ろす景色って素敵じゃよねっ。というわけで妖怪の山につくるといいぞ儂が許す!」

 

 土まみれになりながら戻ってきた操も合わせて、話し声は更に賑やかに、暇なく。それがなんだか見ているこちらまで楽しくなってくるような光景だったから、慧音は鈴仙と永琳と、三人で顔を見合わせて、もう一度だけ苦笑した。

 

「よし……そんなところで、あとは移動しながら考えようか。――慧音」

「うえ? あ、ああ。なんだ?」

 

 ふいに月見に名を呼ばれて、少し、どきりとする。

 

「慧音も人里に帰らないとだろう? スキマで送ってもらったらどうだい」

「ああ……」

 

 言われてみれば、自分が帰る時のことをまったく考えていなかった。紫のスキマを使わせてもらえば一瞬だろうし、歩いて帰るよりかはずっといい。

 けれど慧音は、すぐに答えを返せなかった。スキマの便利さはよくわかっているつもりだが、裂け目の向こうでギョロギョロ蠢く無数の瞳がなんとも不気味で、正直ちょっと怖かったりする。入ったら二度と出てこられない、魔界への入口かなにかのように思えてしまうのだ。

 うむむと悩む慧音を見て、月見がふっと笑った。

 

「なんだ、怖いか?」

「えっ!? いや、そ、そんなことはっ」

「でも、わからなくもないねえ。紫、あれってどうにかならないのか? はっきり言って紅魔館よりも悪趣味だと思うぞ」

「ひ、ひどいっ」

 

 月見が軽く半目になって言うと、紫は胸を押さえてたじろぎ、

 

「い、いいじゃないの。あのミステリアスな雰囲気が、私の大妖怪としてのかりすまを演出するのよっ!」

 

 あ、なんだかいきなり怖くなくなった。というか、怖がるのが馬鹿馬鹿しくなった。

 行くよ、と短く返して立ち上がり、月見たちの近くまで歩み寄る。すると紫にジト目で睨まれた。

 

「別に、嫌だったら無理しなくていいんですけどー。どーせ悪趣味な見た目してるしー」

「い、いや、そんなことは……ああもう、月見っ」

 

 余計なことを言ってくれた仕返しに月見の脇腹を殴りつけるけれど、彼は特に痛がった様子もなく、はっはっは、と呑気に喉を震わせていた。

 

「それじゃあ、私たちは行くよ。お邪魔したね」

「ええ」

「はいー」

 

 月見が立ち上がると、永琳はため息をつくように小さく微笑み、鈴仙は三大大妖怪が出揃う地獄の終了に胸を撫で下ろしつつ、小さく片手を振る。

 

「さっさと家をつくって、また輝夜に会いに来てちょうだいね。じゃないとあの子、寂しがるだろうから」

「また千年以上も空けたりしたらダメですからねー?」

「……肝に銘じておくよ」

 

 別れの挨拶もそこそこに、元気よく声を上げたのは紫だ。飛び上がるように立ち上がって、

 

「ようし! それじゃあ月見の家づくりに向けて、しゅっぱーつ!」

 

 慧音たちの頭上に、大きくスキマの入口が出現する。闇色の空を雲の代わりに漂うのは、無数の赤黒い瞳たち。ギョロリと音が聞こえてきそうなほど、一斉に慧音たちへと眼球を向ける。

 怖がるのも馬鹿馬鹿しいと一度は思ったが、こうして間近で見てみると、やっぱりちょっと怖かった。思わず心細くなって、月見の裾を握り締めたりしてしまう。

 そして、スキマが慧音たちを呑み込もうとする、その間際に。

 月見を呼び止める、声があった。

 

「ギン~……」

 

 輝夜だ。まだ薬が抜け切らないのか、う~んと苦しげな呻き声を上げて寝そべりながら、それでもまっすぐに月見を見つめている。

 それを聞いて、意外にも紫がスキマの動きを止めた。不愉快そうに輝夜を睨みつけて、それからぷいとそっぽを向いて、けれど、月見と輝夜の邪魔をするようなことはしない。

 

「大丈夫か?」

 

 月見が問えば、輝夜は呻き声半分で返事をする。

 

「まだ頭がくらくらする~……うー、永琳のバカー……」

「そう思うんだったら、今度からはもう少し品のある女になりなさいね」

「うるさいーばかー……」

 

 まったくもう、と永琳がため息をつけば、月見は小さく苦笑して。

 

「輝夜、私はそろそろ帰るよ。こっちで生活するための家をつくろうと思ってね」

「うー……」

「だから、一旦さよならだ」

「ギンー……」

 

 夢から目覚めるような動きで、輝夜がゆっくりと体を起こす。指一本を動かすのですら、とても億劫そうだったけれど。

 それでも、輝夜がその時に見せた笑顔は。

 

 

「――またね」

 

 

 ずっとずっと、気が遠くなるほど長い間、伝えたいと願い続けてきた言葉を、ようやく伝えることができる。そんな幸福に包まれて、月が輝いたようだった。

 またね――たったそれだけの言葉を交わせることがどんなに尊いものなのかを、輝夜は身を以て知っている。だからこそ彼女の「またね」には、たった三つの音にはとても集約しきれない、万感の想いが込められていた。

 それに、月見が気づいていないということはないだろう。まぶたを下ろして、緩く息を吐いて。それから彼が返す微笑みは、同じく月のように優しい。

 

 

「――ああ。また」

 

 

 彼はその言葉に、一体どんな想いを込めたのだろうか。慧音にはとても想像できなかったが、目に煌めくものを見せて頷いた輝夜には、確かに伝わっていたのだろう。

 八雲紫に鬼子母神――ひょっとすると、天魔もそうなのかもしれない。輝夜と目指す先を同じくする好敵手たちは、強者揃いだけれど。

 けれどそれでも、遠い未来で、もしも輝夜が幸せであるのなら。

 それはきっと、素敵なことなのかもしれないなと――。

 スキマが閉じていく中で、そう、慧音は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第30話 「家をつくろう。」

 

 

 

 

 

 目に留まったのは、妖怪の山をまっすぐ南に下った麓近くだった。慧音や藤千代、操の三人と別れたあと、月見は紫のスキマを使いながら幻想郷を回り、そしてこの場所に目をつけた。

 妖怪の山は幻想郷の北側をほぼ占有する巨大な山で、その南の麓あたりとなれば、およそ幻想郷の中心点――つまりは、東西南北どこに向かうにしても平均的に都合がいい場所、ということになる。活動の拠点を置くには悪くないし、更に言えば山奥とは違って妖怪の住処が少なく、ほとんど手つかずの自然が広がっているため、一人でのんびり生活する場所としても好条件だった。

 

「それじゃあ私、地底に行って鬼たちを連れてくるから!」

 

 月見が周囲の散策をしている間に、紫は鬼たちを集めに地底へと向かっていった。幻想郷と地底は、やはり足だけで行き来するにはやや距離があるらしい。いつか地底に足を向ける際には時間をたっぷり用意しておかないとなと、月見は木々の中を歩きながら思う。

 長閑な森だ。天狗や河童を始めとした山の妖怪たちは基本的に奥の方に家を構えているから、このあたりは昼間でも静謐としている。星が瞬くような木漏れ日と、遠くからさらさらと聞こえてくる川の音が心地いい。ひと時、ここが夜になれば妖怪が蔓延る危険地帯となることを忘れてしまいそうだった。

 そのまましばし森のささやき声に耳を澄ませていると、山頂の方から、操の要請を受けた天狗や河童たちが集まってきた。更にほどなくして、紫が地底から鬼たちを連れて戻ってくれば、

 

「……いや、確かに手伝いがほしいとは言ったけど」

 

 鬼、天狗、河童がそれぞれ数十名ずつと、それ以外にも、興味半分でやってきた山の妖怪たちがちらほらと。目が届く範囲だけでも、ひょっとして百にすら届くかもしれない大所帯は。

 

「さすがに、多すぎやしないかい」

 

 妖怪一匹の家を建てるにしては、明らかすぎる過剰戦力なのだった。

 けれど月見の横で、紫ははっきりと首を振って言う。

 

「なに言ってるのよ月見、だって家をつくるのよ? 少なくて困ることはあっても、多くて困ることはないわ」

 

 彼女は早くもやる気満々といった(てい)だった。まくった着物の袖を四苦八苦しながらなんとかたすき掛けで止めると、ふん、と気合いを入れて、

 

「あんまりのんびりやってもあれだもの。今日明日くらいで完成させるわよっ」

「は? いや、そんなに急がなくても」

「そうは言っても、みんなもうやる気満々なのよ? ……ほら」

 

 軽く微笑んで、紫が月見の背後を指差した直後だった。

 

「つーくみいいいいいっ!!」

「うわっ」

 

 鼓膜が痛むくらいに元気な少女の叫び声と、なにかが後頭部に激突する衝撃が来て、月見は思わず前にたたらを踏んだ。肩の上から、木の枝みたいに華奢な脚が二本、垂れ下がってきているのが見えた。

 顔はわからないが、声と、そして漂う強烈な酒の匂いから、誰であるかは容易に知れる。

 

「……萃、」

「月見いいいいいいいいっ!!」

「うおおっ」

 

 続け様に背中に衝撃。今度は体が浮いたかと思うほどの威力で、完全に前へつんのめった月見が、なんとか踏み留まって体勢を持ち直せば、腰のあたりに手枷付きの腕ががっちり巻きついていた。

 これもまた、何者なのかは言わずもがな。月見は緩いため息混じりに、ゆっくりと彼女たちの名を呼んだ。

 

「萃香、勇儀。離れてくれないかい」

「そうだよお。萃香、伊吹萃香だよお。久し振りだねえ」

「そんでこっちは勇儀だよお。いやあほんとにひっさりぶりだねえ」

 

 月見の肩の上にすっぽり収まった少女――伊吹萃香が、躁状態みたいに両脚をぱたぱたさせながらしゃっくりをする。そして月見の腰にしがみついて半分地面に伸びた女性――星熊勇儀も、焦点の合わない間延びした声でしゃっくりをしていた。

 同族の中でもとりわけ年長者で、鬼の四天王として名を知らしめる彼女らは、月見にとっては藤千代の次に付き合いが長い鬼だ。飲兵衛なのは昔からちっとも変わらず、もう早速酔っ払っているらしい。

 堂々と月見に引っつく二人の鬼を少し羨ましそうにしながら、紫が大きくスキマを開けて言った。

 

「じゃ、萃香たちと適当にお話してて。私、もう一度地底に行って藤千代を連れてくるから」

「ああ、わかった」

「いってらあー」

 

 萃香のでろんでろんな挨拶で見送られ、紫がスキマの奥に消えていく。なんでも藤千代は、鬼のトップだからか地底世界でもまずまず偉い地位にいるらしく、長く留守にする際には引き継ぎ等をしなければならないらしい。基本的には面倒見がいい性格をしている彼女は、仕事もそこそこ要領よくこなしているのだという。

 

「――天魔様ああああああああ!! 今更戻ってきて、しかも今日は仕事しないって、一体どういう了見ですかああああああああッ!!」

「ぎゃー!? つ、つつつっ月見のためなんじゃよ! これはとっても大切な公共事業じゃから、もう仕事ができなくなっちゃっても仕方ないんじゃよ! だからお願い剣をしまってえええええ!?」

 

 空で部下(もみじ)と鬼ごっこをしている操とは、まさに月とスッポンである。

 ともあれ。

 

「……お前たち、あいかわらず呑んでばっかりみたいだなあ」

 

 顔をしかめるほどの酒くささとなれば、果たしてどれほどの量を呑んだのやら。

 頭の上で、萃香が水を飲むように酒を呷った音が聞こえた。ぷはあと一息、

 

「さっきからは特に呑んでるよお。だって月見が帰ってきてたなんて知らなかったんだものー」

 

 月見も呑む? と目の前に差し出された瓢箪の中身が、人間ならば数度口をつけただけで酔い潰れてしまうほど強烈な代物なのだから、伊達に鬼の四天王と数えられているわけではない。大して酒に強いわけでもない月見からしてみれば、飲み口から漂う香りだけで酔っ払えそうだった。

 うんざり顔で手を振って、あたりの空気を入れ換える。

 

「お前たち、酒くさい」

「今日は特別だよお。ほらぁ、呑みなってえー」

「遠慮しておくよ。今から家をつくるんだから、酔ってる場合じゃないさ」

 

 月見が伊吹瓢を押し返すと、あっはっは! と勇儀が背中に響くくらいの大声で笑った。

 

「なに言ってるのさあ、鬼たちはもう宴会始めちゃってるよ? 主賓が呑まなくてどうするのさ」

「……なあ。お前たち、手伝いに来てくれたんじゃないのか?」

「仕事始めの前祝いだよ。めでたいねえ」

 

 なるほど確かに、向こうで輪を作って座った鬼たちは、どこからともなく持ち込んだ酒を互いに振る舞い合っている。これからつくる家について真面目に打ち合わせをしてくれるのだろうと、そう思った少し前の自分がバカみたいだった。

 

「あ、あのー……ちょっといい?」

「うん?」

 

 と、背後から引っ込み思案な呼び声。振り返れば、水色の髪に水色の瞳に水色の服に水色の靴と、まさしく水の中から生まれてきたような河童の少女が、遠巻きからへっぴり腰になって月見を見つめていた。

 

「どうかしたか?」

「いや……その、ちょっとお話したいことがあるん、だけどー……」

 

 恥ずかしがったり緊張したりしているのではなく、どうやら怯えているらしい。一瞬、私ってそんなに怖い顔してるだろうかと首を傾げかけたけれど、頭の上でまた萃香が酒を呑んだ音を聞いて、はたと思い至った。

 胸のあたりでぶらぶらしている彼女の脚を叩く。

 

「ほら萃香、いい加減降りてくれないか。お客が来たみたいだからちょっと話してくるよ」

「んー?」

 

 かつての鬼は妖怪の山の支配者であり、天狗や河童といった妖怪たちより明確に上に立つ存在だった。故に、当時は少なからず鬼に対して恐怖心を持ち、距離を置こうとする妖怪たちがいた。

 その関係が今でも影響力を持っているとすれば、あの少女が怯えているのは月見ではなく、萃香たちということになる。

 

「ほら、勇儀も」

「はあい。……じゃあ月見、あとでちゃんとこっち来て呑みなよー?」

 

 勇儀が左右にフラフラしながら月見の腰から離れ、続けて肩の上から降りようとした萃香が、酔っ払っているせいか途中で手と足を同時に滑らせて、背中から地面に落ちた。

 

「ぎゃん」

「あっはっは、なにやってるのさ」

「滑ったー。あっはっは、私も結構酔っ払ってきてるみたいだねえ」

 

 けれど鬼である彼女はまったく痛がる様子もなく、前後にフラフラしながらすっくと立ち上がって、

 

「そいじゃあ月見、あとで一緒に呑もうねー」

「ああ、家づくりが終わったあとでね」

「ぶうー。そんなこと言ってると、月見の分のお酒なくなっちゃうんだからねー」

 

 頬を膨らませた萃香はそのままそっぽを向いて、勇儀と一緒に鬼たちの酒盛りの輪に突撃していった。鬼を代表する飲兵衛二人の乱入で、周囲はいよいよお祭り騒ぎへと活気づいていく。よく見てみれば、いつの間にか天狗たちまで輪に交じっているらしい。

 ……こんな面子で、果たして本当に家づくりを始められるのだろうか。ひょっとしなくても、手伝いを頼む相手を間違えてしまったのかもしれない。

 ともあれようやく肩の荷が下りたので、月見は河童の少女へと向き直る。

 

「それで、なんの話だ?」

「あ、うん」

 

 萃香と勇儀がいなくなって、少女の表情には少なからず安堵の色があった。胸を撫で下ろすように深呼吸をして、掌大の小さな紙をこちらに差し出してくる。

 受け取ってみれば、なんと名刺であるらしい。幻想郷にもこういう文化が入ってきてるんだなあ、と月見は感慨深く思った。

 書かれた少女の名は、

 

「河城にとり……」

「うん。えっとね、今回の建設の、設計を担当させてもらうことになった河城にとりです。今のうちに挨拶しておこうと思って」

「なるほど。ありがとう、世話になるよ」

「いやいや、お礼なんていいよ! いつかこういうことやってみたいって思ってたからね!」

 

 にとりは裏表のない素直な笑顔を咲かせると、丸めて脇に挟んでいた設計図をその場に広げた。ここに書かれているのが、これからつくる月見の家の草案なのだろう。

 月見はどれどれと紙面に目を落とし、

 

「――」

 

 絶句、

 

「ずっと前から考えてたこのデザインを使ってみようと思うんだけど、やっぱりそっちの意見も聞いておきたくて」

 

 にとりはやや熱っぽくなった声で言う。

 

「ね、どんな感じにする? 装甲厚くして耐久力重視にするか、薄くして高速巡航型にするか。あと、対侵入者センサーとか防弾シールドとか光学迷彩とか色々オプションつけられるけど、なにかほしいのある? あっ、緊急時に備えた脱出艇は絶対必要だろうから、今回はサービスで仕込んでおくよ! それと、武器はA装備、B装備の二つから選べるよ! A装備は広範囲攻撃が魅力だけど、反面威力が低めの初心者向け。B装備は攻撃範囲こそ狭いけど、火力は折り紙つきの上級者向けさ! ――さあどっちにする!?」

「ところでにとり、それ、なんの話だ?」

「え?」

 

 月見が冷静に問うと、にとりはきょとんと疑問顔になって、

 

「なんの話って、家の話でしょ? 移動要塞にしようと思ってたんだけど、どこかおかしかった?」

 

 ツッコんだ方がいいのだろうか。

 

「……普通の家でいいって話は、伝わってないのかな」

「伝わってるよ? だからほら、ごくごく普通の移動要塞じゃん」

 

 月見はもう一度設計図に目を落とす。設計タイトルは、住宅型移動要塞。ごくごくありふれた二階建ての家から、蜘蛛のように広がった長い脚が八本、鉛筆で描かれた大地を穿っている。これで歩いて移動するということなのだろうか。更に屋根の上から四本ほど棒状の物体が生えているが、これらはどうやら、煙突ではなく砲台らしい。

 幻想郷も遂にここまで来たか、と月見は思う。

 

「……にとり。人里にあるような、本当に普通の家でいいから」

「え……そんなっ、移動要塞の浪漫をわかってくれないのっ?」

「わからなくはないけど、私の家でやるのはやめてくれ」

 

 月見はただ、一人で静かに休める家がほしいだけだ。こんなものをつくってしまったら最後、月見の生活から平穏という二文字は永久に消え去ってしまう。

 ぶー、とにとりが唇を尖らせた。

 

「なんでー? こんなにカッコいいのに……。あっ、もしかして多脚型なのが気に入らないの? まあ、確かに安定性には難アリだけどさ。でも仮に履帯型とかにしたとして、そうするとなんかイヤに現実的になっちゃうでしょ? やっぱり、移動要塞に必要なのは浪漫と夢だと思うんだー」

「そういう問題じゃないからね?」

「ぶー……」

 

 頭の後ろで手を組んで、ちぇー、と足下の小石を蹴り飛ばす。

 

「やっぱりダメかあ……。まあ仕方ないよね、さすがにお金かかるし」

「そういう問題でもないからね?」

 

 この少女、決して演技をしているわけではなく、本当に残念がっているらしい。家を動かすという根本からして間違っているとは考えないのだろうか。

 

「じゃあ普通の家で我慢するよ。……あ、でもさすがに脱出艇くらいはいるでしょ?」

「おーい紫ー、今回の作業からこの子を降ろしてくれー」

「うわあー!? ご、ごめんなさいごめんなさいっ、冗談だよ冗談!」

「……ああ、そういえばあいつは地底に行ってたんだっけ。まあ戻ってきてからでいいか」

「よくなあああああいッ!!」

 

 血相を変えたにとりが、月見の腕にひしとしがみついた。

 

「ほ、ほんとにごめんなさい! ちゃんと普通のお家つくるからっ、だからお願い私にもやらせてえええええっ!」

「なぜ?」

「あの、ほんとに謝るんで許してください。移動要塞? 笑っちゃいますよね。なにバカげたこと言ってんのーって感じで。あははははは……」

 

 にとりが段々涙目になって震えてきた。少しやりすぎてしまったかもしれない。

 月見は彼女の頭をぽんぽんと叩き、

 

「変な工夫なんてしなくていいから、普通に生活しやすい家を頼むよ」

「も、もちろんだよっ。任せて、私嘘つかない河童!」

 

 がくがくがくがくと必死に何度も頷くにとりの瞳に、うしろめたい色は混じっていなかった。どうやらわかってもらえたようなので、移動要塞の問題はクリアである。

 ――で、次の問題は、完全に酒が入ってお祭り騒ぎになっている鬼と天狗たちであって。

 ついでに言えば、彼らから離れたところで別の輪を形成している河童たちが、「侵入者に備えた装備は……」とか「やっぱり男なら火力重視で……」などと、実に物騒極まりない打ち合わせをしているのも気になる。

 月見がどうしたもんかと頭を痛めていると、隣にスキマが開いて紫が戻ってきた。彼女は意気揚々とスキマから飛び出し、金髪を天の川のように煌めかせて、

 

「ようし月見、役者も揃ったし早速始め――なんで宴会になってるのよー!?」

「なんでだろうね」

 

 そして着地と同時に、膝からがっくり崩れ落ちていた。

 

「あらー、やっぱりこうなっちゃってましたかー。もう、仕方ないですねー」

 

 続いてスキマからぴょこりと出てきた藤千代は、家づくりそっちのけで騒ぎ散らす仲間たちに驚くでもなく呆れるでもなく、ただやんわりと微笑んでみせた。

 ただし普通の笑顔ではない。嵐が起きる直前の、不吉な黒い笑顔である。

 

「宴会は月見くんのお家をつくったあとでって言ったのに。これはどうやら、物理的教育が必要みたいですねー」

 

 藤千代は表情を変えぬまま腕まくりをして、宴会の輪へとゆっくり歩を進めていく。鬼と天狗たちは、振舞われる酒にすっかり気を取られて、彼女が放つ死神のオーラに気づくことはなかった。

 そして一息、藤千代は、

 

「――うりゃぁっ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――はい、それじゃあみんなで確認しましょうかー。今日みんながここに集まったのは、一体なにをするためですかー?」

「「「はい、月見さんの家をつくるためですっ!!」」」

「じゃあ、私たちが今しなきゃいけないことは一体なんですかー?」

「「「はい、月見さんの家をつくる準備をすることですっ!!」」」

「宴会なんてしてる場合じゃないですよねー?」

「「「はい、仰る通りでございますっ!!」」」

「それと河童の皆さん、これから私たちがつくるものは一体なんですかー?」

「「「はい、月見さんの家ですっ!!」」」

「防弾シールドとか、砲台とかは必要ないですよねー?」

「「「はい、まったくもってその通りでございますっ!!」」」

 

 頭の上に出来立てほやほやのたんこぶをつくった鬼と天狗と河童たちが、たった一人の少女の前に完全平服するというシュールな光景である。適当な切り株の上に立った藤千代を中心に、延べ百名あまりの妖怪たちが教科書みたいな土下座を決める光景は、どこか怪しい宗教の集会でも目の当たりにしたようだった。

 

「ほんと助かるわねえ……藤千代が拳骨振りまけば一瞬で解決するんだもの……」

「確かに、手間が掛からないのはありがたいね……」

 

 それを遠巻きで眺めながら、月見は紫と一緒になってため息をついた。土下座を決める面々に交じって、藤千代が力加減を誤ったのか、大地と同化して動かなくなった犠牲者たちの姿が見える。だが、彼らの名を呼んだり抱き起こそうとしたりする者は一人もいない。それどころか目を合わせる者すらいない。みんながみんな、我が身の惜しさに、藤千代に完全降伏するので精一杯だった。

 

「わあい……。つ、月見と話してて助かったー……」

 

 河童で唯一難を逃れたにとりが、冷や汗まみれになりながら月見の背に隠れている。

 

「鬼子母神様の拳骨なんて勘弁だよ……うう、想像しただけで寒気が」

「私があの中に叩き込んでやってもよかったんだけどねえ」

「ごめんなさいごめんなさい移動要塞とかもうほんとどうでもいいんで許してください絶対ちゃんとした家にしますからお願いします許してください許して」

 

 このままいじり続ければ、にとりはそのうち月見に向けて土下座をしだすのだろう。

 ともあれ彼女が改心したのは明らかなので、このあたりで許してやろうと月見は思う。

 

「……あの、これは一体どういうことですか?」

 

 バサバサと翼を鳴らし、空から降りてきたのは椛だった。ずっと上司と鬼ごっこをしていて事の一部始終を知らない彼女は、藤千代の前に平伏す仲間たちを見て目をぱちくりさせた。

 月見は微笑み、

 

「なんでもないよ。……ところで操は?」

 

 操の姿がどこにも見当たらないので尋ねてみれば、椛もまた抜けるような笑顔で、

 

「さあ、どこに行っちゃったんでしょうねえ?」

「……」

 

 どうやら訊いてはいけないタブーだったらしい。月見は今の会話を綺麗さっぱりなかったことにして、心の中で静かに操の冥福を祈った。

 もういっそ、椛が天魔をやった方がいいのではなかろうか。

 ほどなくして、皆の物理的説教を終えた藤千代が、月見のもとに戻ってきて言う。

 

「ではいよいよ始めましょうかー。日暮れも近いですし、ちゃっちゃとやっちゃいましょう」

「ん、了解。まずは、材料の確保も兼ねて土地をならさないとね」

 

 周囲の緑は人の手が入っておらず思い思いに成長しているし、麓近くとはいえ山なので、土地には斜面が多い。それなりの地ならしをしなければ、とても家を建てられる状態ではなかろう。

 そうですねー、と藤千代は頷き、

 

「じゃあ、あとは私たちがやっておくので、月見くんは帰っていいですよ」

「ああ、わかっ――なんだって?」

 

 気のせいだろうか。今、とてもナチュラルに戦力外通告をされたような気が。

 藤千代は首を傾げて繰り返す。

 

「え? ですから、月見くんはもう帰って大丈夫です。あとは私たちに任せてください」

「……や、鬼も天狗も河童もいて人手は充分なんだろうけど、さすがに私だって少しは役に立つよ?」

 

 確かに月見には鬼たちほど優れた腕力はないし、天狗ほど突き抜けた素早さもないし、河童ほど特化した技術力もないけれど。

 それでも、「もう帰っていいよ」はひどくないだろうか。

 そもそも、家をつくり始めてすらいない状態でどこに帰れというのか。

 

「ああいえ、そういうわけではなくてですねー」

 

 藤千代は少し悩む素振りを見せてから、月見に向けて人差し指を立てた。

 

「ええとですね……まず、月見くんはとても久し振りに幻想郷に戻ってきました」

「……ああ」

 

 次に中指を立て、

 

「私たちは、それがとても嬉しいのです」

「うん」

 

 そして最後に、薬指を立てて。

 

「――なので、帰っていいですよ?」

「……いや、なんで?」

 

 その三段論法には、なにか大切な前提が抜け落ちているような気がする。嬉しいから帰れ。新手のいじめだろうか。

 解説を加えてくれたのは紫だった。どん、と自らの胸を力強く叩いて、

 

「大丈夫よ! 私たちが素敵なお家をプロデュースするから、月見は安心して見てて頂戴っ。幻想郷に戻ってきてくれたプレゼントよ!」

「ああ、なるほど……いや、しかしそうは言ってもね」

 

 どうやらいじめられていたわけではないらしいが、だからといって、男である月見が女である紫たちを置いてどうして帰ることができようか。これからつくるのが自分の家ならなおさらだ。

 幻想郷に戻ってきて早三日、一日目は紫の屋敷で世話になり、二日目は慧音の家で世話になり、そろそろ男らしく頑張って働かねばならない気がする。

 だが、藤千代は困り顔でそっとため息をつく。

 

「月見くんの気持ちはよくわかるんですけど、でもそれだと困っちゃうんですよねー。私としては、ここでばばーんと素敵なお家をつくって、『ありがとう千代、お前に任せてよかった』って言ってもらいたくてー……」

 

 それから彼女は、ふいに赤く色づいた頬を両手で押さえて、えへへ、とだらしなく笑って。

 あ、と月見が嫌な予感を覚えた時には、既に手遅れだった。

 

 

 

「――そしたら『こんな立派な家に一人だけというのも寂しいから一緒にここで暮らそうか』なんて流れになって一つ屋根の下で同棲して気がついたらそれが当たり前の世界になっててそのまま仲睦まじくゴールインしちゃうなんてこともありえるじゃないですかありえないなんて言い切れませんよね可能性はゼロじゃないですああもうそんなそんな私みたいな不束者でよければ喜んでいつまでもどこまでもご一緒しますよ新婚旅行は外の世界に行きたいですね月見くんが見てきた世界を私も一緒に見てみたいですああでも新婚旅行なんて別に行かなくてもいいんですよ私は月見くんと一緒にいられればもうこの上ないほど幸せなんですからだからこの幻想郷でずっと暮らし続けるのもそれはそれは素晴らしいんじゃないでしょうかああんもうやーですよ月見くんったらえへへへへへ……」

 

 

 

 月見はまず頭の中をできる限りカラにしながら藤千代から視線を外し、ゆっくりと空を見上げる。大半が森の枝葉で覆われているが、その隙間からこぼれ落ちる光はとても穏やかな春の日差しで、下向きになっていた心も癒やされるようだった。だが空から視線を戻せば目の前には現実がある。すなわち、藤千代がいやんいやんしながらトリップしている。

 とりあえず、月見は紫を半目で睨んだ。

 

「……随分と、大層な下心があるみたいじゃないか?」

「そ、そんなことないわよっ。さすがに藤千代は例外でしょ?」

 

 慌てて両手を振りながらの紫の反論を、月見は否定しなかった。

 藤千代が月見へと向ける感情は、一口に愛といえど、少なからず異様な愛だ。異様なまでに純粋で、異様なまでに肥大化していて、彼女にとっての一が己であるならば、全は月見であり、そこに他者は存在しておらず、心酔を超え、盲愛すら生ぬるく、すべてが月見へと収束する。

 

「そんなわけで月見くんはなにもしないで見ててほしいんですというかここから離れててほしいんですだって途中を見られちゃったらいざお披露目した時の感動がなくなっちゃうじゃないですかそれだとちょっと困っちゃうんですよねああ大丈夫ですよ変な家は絶対につくりませんしつくらせませんだって将来の私のお家になるかもしれないんですものもちろん素敵なお家をつくってみせますよだから月見くんには安心して帰ってほしいんです」

 

 厄介な好かれ方をされてしまったものだと月見は思う。良くも悪くも、藤千代は己の感情に一途すぎた。藤千代にとって必要なのは『月見』と『それ以外』の区別だけであり、究極的には、『それ以外』のものなんてどうでもいいとすら思っている。

 それどころか藤千代は、必要な理由があるのならば、月見に対してすらその常識破りな腕力を振ることを厭わない。

 そう――永遠亭にて、いきなり月見をぶっ飛ばしたように。

 

「でも月見くんはそれだと納得しないですよねわかってます自分のお家をつくるんだから自分がちゃんと動かないとって思ってるんですよね大丈夫ですわかってますでも私だって譲りたくないんですごめんなさい本当に本当に大丈夫ですから全部私たちに任せてくださいお家が完成したらすぐに連絡しますからというわけでごめんなさいですけど私がスパッと手を下してあげますね」

 

 ぽふ、とふいに藤千代が抱きついてきた。腰に手を回され、彼女の体の柔らかさを意識したのは一瞬。次の拍子には背骨が軋むほどの力を込められ、身動きを封じられた。

 ギリギリと腰が悲鳴を上げるのを感じながら、ああやっぱりこうなるのか、と月見は諦めるように思う。

 紫が、同情に満ちあふれた苦笑いをしている。

 

「ご愁傷様……。でもほんとに任せてくれて大丈夫よ。だからもう少し、のんびり幻想郷を回ってて?」

「……りょーかーい」

 

 藤千代が妖力を開放し始める。永遠亭において、彼女は純粋な腕力だけで、月見を竹藪の奥まで投げ飛ばした。

 ではその腕力を妖力で強化した場合、果たしてどうなるか。

 答えは単純明快至極、

 

「……千代、信じてるからな?」

「まっかせてくださ――――――――いっ!!」

 

 藤千代の喜色満面有頂天外の叫び声とともに、月見は鳥になった。藤千代の声はすぐに聞こえなくなり、風の流れる音だけが月見の耳を支配するようになる。昼下がりの青空が、今まで見たこともないくらいに近くにある。

 外の世界のアニメなどで、キャラクターが空の彼方まで吹っ飛んでキラリと星になることがあるが。

 今の自分がまさにそうなのだろうかと、月見は風の中でぼんやりと、考えていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 この日の霧の湖は、看板に偽りありと言われても仕方がないほどに晴れ渡っていた。普段なら湿気の多い空気はむしろ乾いており、透明な湖面も周囲の森も昼下がりの空も、すべてをはっきりと見渡すことができる。湖のどこをくまなく探し回ったとしても、霧の『き』の字すら見つけられない。

 そんな湖の上で、大妖精は仲間たちと一緒にのんびりと空中散歩をしていた。大した目的もなくただ飛び回っているだけだが、空を飛ぶのが大好きな大妖精にとっては、それでも充分に意味があることだった。体の感覚が風の中に溶け込んで、大自然と一体になれるようで、とても気持ちがよかった。

 

「~♪ ~♪」

 

 鼻歌交じりで湖面すれすれを飛び、水に人差し指の先を浸してみる。湖に一瞬、細い線が走って、けれどすぐに小さな揺らめきとなって消える。その変化が面白かった。急上昇して円を描くように一回転して、水につま先をつけて静止した。

 つま先から広がる波紋を見つめて、は、と短く息を吐く。

 

「んー、いい気持ち……」

「いいきもち」「くーちゅーさんぽ」「ぴゅーん」「みずぱしゃぱしゃー」「きもちいい」「さんぽ」

 

 すぐに大妖精の周りに仲間たちが集まって、思い思い自由な感想を口にした。総じて知能が低い妖精らしい、端的で、それ故不純物のないまっすぐな言葉に、大妖精はしみじみと頷く。

 

「ほんと、平和だねー……」

 

 今日はいつも大妖精を振り回す青い相方が出掛けているから、特に。つい先日、紅魔館への突撃に付き合わされて、白黒魔法使いの熱光線に焼き尽くされるかもしれないところまで行ったのが遠い昔のようだ。

 あの時にチルノを止めてくれた狐の妖怪には、いくら感謝しても足りない。彼が助けてくれたからこそ、今のこの平和があるのだと、そう感じずにはおれなかった。

 だがそんな大妖精を嘲笑うように、仲間たちが周囲をくるくる回って言う。

 

「しかしこのときだいよーせーは」「これがほんのつかのまのへいわであることを」「しらないままなのだったー」

「み、みんななに言ってるの?」

「そうしてだいよーせーはしるのだ」「うんめーからはのがれられない」「おのれがわざわいのもうしごであるのだと」

「そんな言葉どこで覚えてきたの!?」

 

 最近自分の仲間たちは、知能に見合わない奇妙な言葉を覚えつつある。

 

「もっと今の平和を享受しようよっ」

「きょーじゅ?」「なにそれ」「だいちゃんはむずかしいことばをつかうの」

「ええとね、つまり、この平和を受け入れて楽しもうよってことだよ」

「それはわからないよ」「げんそーきょーではなにがおこってもおかしくないの」「もしかしたらいんせきがおちてきて」「みずーみがざっぱーん! ってなるかも!」

「あはは、それはさすがにないよー」

 

 いくら幻想たちが集まってできた幻想郷であっても、いきなり隕石だなんて、そんなそんな。

 ――と、笑った直後であった。大妖精の割とすぐ近くの水面で、ざっぱーん、と派手な水柱が上がったのは。

 

「……、」

 

 大妖精はひどく呆然としながら、跳ね上がった水柱が湖に返っていく光景を見つめた。こちらまで飛んできた水飛沫が、ぽつぽつと顔にかかる。水面がそれなりに大きく波立って、大妖精のつま先から上を濡らす。仲間たちが、水飛沫から逃げて大妖精の背中に隠れる。

 

「…………」

 

 静寂、

 

「……ほんとにいんせきが」「なんてこと」「やはりわざわいのもうしご」

「う、嘘でしょー!?」

 

 大妖精は涙目になって、仲間たちは好奇心で目を輝かせた。

 

「だいちゃんだいちゃん」「いんせきとろーよ」「とってみんなにじまんしよーよ」「ゲットだぜー」「だいちゃんおよげる」「わたしたちおよげない」「だいちゃんきみにきめた」

「う、ううっ……」

 

 仲間たちにぐいぐい手を引かれて、泣く泣く水柱が上がった現場へと向かう。未だ絶え間なく波打つ湖面が、衝撃の生々しさを如実に語っていた。

 恐る恐る、水の中を覗き込む。

 

「ほ、ほんとに隕石だったのかなー……」

 

 落下した瞬間を見ていないとはいえ、さすがに隕石はありえないのではなかろうか。けれども一方で、隕石じゃないとすれば一体なにが、湖のど真ん中に落ちてくるのだろうかとも思う。

 ……やっぱり隕石かもしれない。

 

「だいちゃんレッツゴー」「あたまからぱーんと」「かっこよくー」「すたいりっしゅー」「いんせきー」

「わ、わかったよお。やればいいんでしょやれば、もう……」

 

 大妖精は、頼み事をされたら断れないお人好しな性格だった。服が濡れちゃうなあとか、翅が濡れたら飛べなくなっちゃうなあなどと考えつつも、靴を脱いで仲間たちに預けて、大きく深呼吸をする。

 肺が空気でいっぱいになっていく感覚とともに覚悟を決めて。

 

「……い、行きます」

「いけー」「がんばってー」「いんせきー」「ぱーん」「ふぁいとー」

 

 仲間たちの陽気な声援を背で聞きながら、大妖精は、

 

「え、えーい!」

 

 馬鹿正直に、頭から、湖へと飛び込もうとして――

 

 

 ――直後、突如として浮き上がってきた男の頭と、盛大にごっちんこした。

 

 

「ふみう!?」

 

 目の前で火花が散った。頭の中が真っ白に、或いは真っ黒にもなったような気がして、一瞬遅れて割れるほどの痛みが、それこそあの水柱のように突き上がってきた。

 痛あああああ!? という悲鳴は、言葉にならなかった。唇が――否、体が動かない。すべての感覚がふわーっと宙に浮き上がって、そのままどこかへと消えてしまいそうになる。

 ああ、気を失うんだな、と思った。そうだろうなあ。すごい音したしなあ。気絶くらいしちゃうよなあ。

 なので大妖精は、消えゆく意識の中で、最後に一言。

 

「ばかぁ~……」

 

 どうやら湖に落ちたのは隕石ではなく男の人だったようだが、どうしてよりにもよって、このタイミングで浮き上がってきてくれたのだろうか。

 消えゆく視界の中で最後に見えた銀色に、なんだか見覚えがある気がしたけれど。

 それを思い出す間もなく、大妖精の意識は暗闇に沈んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第31話 「狐とメイドと最高の紅茶。」

 

 

 

 

 

 ひどい目にあった。

 鳥になり大空を駆け抜けた月見が落ちた先は、霧の湖のど真ん中だった。まったく大層な勢いでぶっ飛ばされたものだが、幸か不幸か過去にも何度か同じ目に遭った経験から、飛行術を逆方向に行使して減速をかけたり緩衝の符を使ったりなんだりして、なんとか怪我なく着弾することができた。

 着弾、という表現があながちオーバーでもないのが恐ろしい。

 

「……」

 

 湖の底を無抵抗に漂いながら、月見は水面に向けてため息をついた。ごぽごぽ音を立ててたくさんの気泡が昇っていき、やがて水面に波紋を広げる。その向こう側から差し込む陽の光が揺らめいて、月見の瞳をちらちらと照らす。水の中にも空はあるんだな、と月見は思った。湖の水質が綺麗だからというのもあるのだろうが、水色とも翠とも取れる幻想的な色で揺れる水面と、太陽から落ちてくる青白い光の道筋は、間違いなくここからしか見ることのできない空だった。

 普段の生活ではまず見る機会のないものなので、そういう意味では、藤千代にぶっ飛ばされたのも悪くはなかっただろうか。

 まったくもって、そんなわけあるかと思う。

 幸い怪我こそしなかったものの、こうして全身は服ごとびしょ濡れ。上がったらすぐに火を起こさなければ、芳春とはいえ寒かろう。

 息が苦しくなってきたので、青空観察もおしまいにして月見は動く。仰向けに漂っていた状態から水を掻いて立ち上がって、水底を蹴ってゆっくりと水面へ向かう。

 そうして、水の中から顔を

 

「ふみう!?」

「っ!?」

 

 出した直後、奇妙な誰かの悲鳴とともに、月見の脳天に激痛が走った。湖に落ちた時とは比べものにならない、全神経の至るところまで突き抜けていくような痛みに、さすがの月見も頭を押さえて悶え苦しまざるを得なかった。

 どうやら顔を出すと同時になにかにぶつかったらしいが、こんな湖の真ん中でなににぶつかるというのか。

 

「ばか~……」

 

 と、ちょうど近くで蚊の鳴くような少女の声が聞こえて、続け様に、ちゃぽんとなにかが水に落ちる音までついてきたので。

 月見が涙をこらえながら隣の水面を見てみれば、そこでは緑色の髪をした妖精が、ぷかぷかとうつ伏せで漂いあぶくを量産しているのだった。

 

「おや……」

 

 その姿に見覚えがあったので、月見は片手で頭をさすりながら、もう片方の腕で少女を抱き起こしてみる。顔を見てみれば、やはり間違いない。先日の紅魔館にて頭の弱い氷精に振り回されていた、『大ちゃん』なる女の子だ。

 頭に綺麗なたんこぶをつくって、目をすっかり渦巻き模様にして気絶しているあたり、月見とぶつかったのは彼女だったらしい。

 

「……おおーう」「だいよーせーよ、しんでしまうとはなさけない」「ごっちんこ」「これはいたい」「これはしんだ」「ふみう」

 

 周囲の空には、彼女の仲間であろう小妖精たちの姿もある。目の前の事態にすっかり困惑しているのか、それとも見知らぬ他人である月見を警戒しているのか、戸惑った瞳でこちらとの距離を窺っている。

 

「いんせき?」「ちがう」「じゃなかったー」「きつねがたいんせき」「いんせき」「だいちゃんしんだ」「きつねさん」「ふみう!」

 

 波のように絶え間なく来る言葉たちに月見は一瞬面食らったけれど、落ち着いて聞き分けてみれば、なんてことはない。妖精らしい享楽的な言葉の群れは、その大部分が意味を成さないものだから、必要な箇所だけを掻い摘んで咀嚼すればいい。

 すなわち、隕石、という単語から、

 

「なんだ、私を隕石だとでも思ったのか?」

「おもったー」「ちがったー」「ごっちんこ」「ざんねん」「いんせきー」「ふみうっ」

「なるほどねえ」

 

 目を回す『大ちゃん』を見下ろしながら、月見は神妙に頷く。湖に落ちたのが隕石だと思い込んだ彼女たちは、興味本位で回収してみようと身を乗り出してみた。そしてこの『大ちゃん』が代表して湖に飛び込もうとしたところで、なんとも運悪く――というのが、事の顛末なのだろう。

 

「どれ……大丈夫かー?」

 

 あいかわらず両目が渦を巻いている彼女の頬を、ぺしぺしと叩いてみる。けれど返事はもちろん、かすかな身じろぎすら返ってこない。

 

「しんだ?」

「まさか」

 

 縁起でもないことを遠慮なく訊いてくる一匹に、月見は苦笑しながら、

 

「この子もお前たちも妖精だから死なないだろう? 気を失ってるだけだよ、少しすれば目を覚ますさ」

「そうかー」「よかったー」「よかったー?」「おもしろかったー」「ふみうっ」「ふみうー!」

 

 妖精たちは、目の前で仲間が気絶してもまるでお構いなしだった。心配するどころか逆に楽しそうに笑いながら、ふみうーふみうーとはしゃいで月見の周りを飛び回る。

 

「さて、このまま水遊びしててもなんだ」

 

 月見は飛行術を使って、ゆっくりと水の中から空へ。腕の中にある小さな体を落としてしまわないよう、手に力を込めて、

 

「少し手伝ってくれないかな。火を起こすから、木の枝を集めてほしいんだ」

「おおー」「あつめるー」「もやすー」「ごっちんこ!」「えだー!」「ふみうー!」

 

 月見の頼みを聞いて、妖精たちが笑顔とともにあちこちの森へと散らばっていく。妖精たちにしてみれば、たかが枯れ枝集めも宝石探しみたいなものだ。……まあ、自由気ままな彼女たちのことだから、枝を集めている途中で別のものに気を取られて、そのまま帰ってこなくなるのがほとんどだろうけれど。

 二、三本でも持ってきてもらえれば充分だと前向きに考えて、月見は近くの畔へと向かう。そこでふと、周囲の森を越えたすぐ向こう側に、やたら赤い色で塗り固められた悪趣味な洋館があることに気づいた。

 

「へえ……こんなに湖の近くにあったのか」

 

 近場であることは知っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。これだったら、昨日の今日にはなるが、服を乾かしたあとで訪ねてみてもいいかもしれない。ちょうどあそこで働くメイドの少女と、紅茶をご馳走してもらう約束をしていたのだし。

 

「ふむ……それなら、早く服を乾かさないとね」

 

 既に夕暮れが近い。あんまりのんびりしすぎると、服が乾ききる頃にはすっかり夜だ。

 それとも、吸血鬼の館だし、逆に夜の方がいいのだろうか――などと考えながら、月見は湖の畔に降り立つ。

 それから少し待ってみたが、案の定、妖精たちは戻ってこなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 傍らに熱を感じて、大妖精はゆっくりとまぶたを上げた。

 夕暮れの空だった。夕日と青空の吸い込まれそうになるグラデーションの下で、大妖精は静かに深呼吸をして、自分の記憶を遡った。目が覚めたばかりだからか、頭の中がぼんやりしているけれど、記憶自体は安定している。どうやら、少しだけ長い間、気を失ってしまっていたようだ。

 頭を横に倒すと、傍らで煌々と燃える炎の塊が見える。

 

「!」

 

 反射的に火事かなにかかと思って、大妖精は飛び起きた。けれどすぐに、火事にしては炎が穏やかであることに気づく。パチパチと優しく燃える炎は、どうやらただの焚き火らしい。

 なんだ、驚いて損した、とほっと胸を撫で下ろす。すると今度は、足下が妙にもふもふしていることに気づく。

 土や草の感触ではない。なんだろう、と足下を見下ろそうとして、

 

「目が覚めたか?」

「ふい!?」

 

 完全に不意打ちだった。焚き火ばかりに目が行って盲点だったが、すぐ横に誰かの大きな背中があった。大妖精は素っ頓狂な悲鳴とともに飛び上がり、もふもふの上からわたわたと転がり落ちた。

 妖精は総じて非力である。妖怪などに襲われた際には、弾幕ごっこでもない限りほとんどが逃げる以外の選択肢を持たないし、大妖精も例外ではない。とりわけ、今はいつも自分を守ってくれている相方がいないから、大妖精は一気に怖くなってしまって、脇目も振らずに逃げ出そうとした。

 

「そんなに慌てなくても、なにもしないよ?」

 

 立ち止まったのは、呼び止められたからではない。優しい響きを持つバリトンの声音に、聞き覚えがあったからだ。

 振り返ってみれば、広い大きな背中越しに、彼がこちらを見て微笑んでいる。

 先日の紅魔館で、大妖精たちを「危ないから」と言って逃がしてくれた、銀色の妖狐。

 

「あ……あなたは」

「やあ。昨日振りだね」

 

 細い木の枝を持って軽く手を振る、その仕草が、大妖精の恐怖をふっと穏やかにした。彼が悪い妖怪でないことは、先日の一件で既にわかりきっていた。

 どうやら大妖精は、彼が丸めた尻尾の上に寝かされていたらしい。あのもふっとした心地よい感触を思い出すと、勢いで転がり落ちてしまったことを、今になってちょっぴり後悔してしまう。

 

「……湖に落ちてきたのは、あなただったんですね」

 

 気を失う間際に見た銀色は、間違いなく彼のものだ。独特の艶があるというか、一目でそれとわかる色をしている。

 彼は頷き、

 

「ああ。……それにしてもお互い運がなかったね。頭、大丈夫かい?」

「え、ええ」

 

 あの時のことは、思い出すだけで顔から火が噴き出すようだった。颯爽と湖に飛び込もうとして、ちょうど浮き上がってきた彼と盛大にごっちんこ、だなんて間抜けの極みだし、なんだか自分でもよくわからない、とても恥ずかしい悲鳴を上げたりもしてしまった。

 不幸中の幸いなのは、それを彼に聞かれずに済んだということで――

 

「ふみう」

「!?」

 

 顔どころか、体中から火が噴き出たような気がした。

 彼の背中が、忍び笑いでくつくつと震えている。

 

「まあ、なんだ。可愛い悲鳴だったじゃないか?」

「き、聞いてたんですね!? 忘れてくださいー!」

「そうは言ってもねえ。あんなの、一度聞いたらもう忘れられないと思うけど――ふみう」

「ふみうなんて言ってないですーっ!」

 

 いや、確かに言ってはしまったのだけれど、ともかく。

 大妖精は顔中を真っ赤にして、彼の背中にぽかぽかと殴りかかった。

 

「大体、なんでいきなり湖に落ちてきたんですかっ!」

「それはまあ、色々あったんだよ。ところでふみうは、今日はあの青い子と一緒じゃないのか?」

「あ、チルノちゃんは今日はお出掛けして――って今、私のことふみうって呼びました!? 私は大妖精です! ふみうなんかじゃありませんっ!」

 

 拳に一生懸命力を込めて連続攻撃するも、妖精の力なんて高が知れていた。相手は男だし、加えて体が強い妖怪なので、ちっとも痛がる様子を見せず、

 

「あー……もうちょっと上、上」

 

 大妖精は彼の頭をぶっ叩いた。

 

「あ痛。……ちょっと上すぎるよ?」

「知りませんっ」

 

 頬を膨らませ、

 

「私は大妖精です、百歩譲ってもせめて『大ちゃん』って呼んでくださいっ」

「大ちゃん、ね……。じゃあ、改めて自己紹介だ。私は月見、ただのしがない狐だよ」

「……よろしくお願いします」

 

 一応礼儀として頭を下げておくが、内心はとても穏やかではない、大妖精なのだった。

 

「あー、だいちゃんおきてるー」「いきかえったー」「ふみうっ」「えだもってきたー」「もやすー」「えだー」

 

 と、周囲の森の奥から、あの時一緒に空中散歩していた仲間たちがやってきた。みんな、小さな体の中に細い木の枝を抱えている。

 月見が、呆れたように苦笑して言う。

 

「なんだ、随分と今更じゃないか。……さてはお前たち、途中で遊んでたな?」

「ぎっくー」「あ、あそんでないよ」「ひろったえだでちゃんばらごっこなんてしてないよ」「ぎくり」「ふみうふみう」「わたしたちまじめなよーせー」

 

 妖精たちが愛想笑いをしながら月見の周囲を飛び回る中、大妖精はとりあえず、さっきからふみうばっかり言っている仲間にチョップをお見舞いしてやった。

 

「みぎゃあっ」「ああっ、だいちゃんがおこった!」「ぼくさつ」「ぼくさつよーせーだいちゃん!」「いちげきひっさつ!」「しょくにんげー!」

「だ、だからみんな、そんな言葉どこで覚えてくるのよー!?」

「撲殺妖精大ちゃん?」

「なんでもないですっ!」

 

 これ以上不名誉な呼び名をもらってしまってはたまらないので、首を傾げた月見の言葉を、大妖精は全身を使って否定する。それから、またなにかを言おうと口を開きかけた仲間たちを、キッと一睨みして黙らせれば、彼女たちはきゃーきゃーとはしゃぎながら、月見の肩だったり胸だったりお腹だったりにくっついていった。純粋であるが故に余所者には警戒心の強い妖精たちだが、もう彼にはすっかり打ち解けているようだった。

 月見も特に嫌がる様子を見せず、やんわりと微笑んで焚き火を指差し、

 

「ほら、枝を火にくべてくれるかい」

「くべるー!」「もやすー!」「ぱちぱちするー!」

 

 そう言うなり、妖精たちは大妖精のことなどもうすっかり忘れて、目を爛々輝かせては枝を焚き火の中に投げ込み始めた。たったそれだけのことだが、焚き火の中に枝や葉っぱを投げ入れるのは、不思議と好奇心が刺激されて面白い。投げ込んだ枝が火をもらってパチッと弾けると、妖精たちはキャッキャと無邪気な声で笑った。

 せっかくなので大妖精も、月見の近くに落ちていた枝を一本、投げ込んでみる。

 枝が炎の中に消えていくと同時に、声を掛けられた。

 

「ところで、服は乾いたか?」

「え?」

 

 突然の質問だったので少し驚いてしまったが、答えはそれこそ火を見るよりも明らかだった。湖に落ちてたっぷり水を吸った服だ。ちょっとやそっと焚き火に当たった程度では、乾くはずもない。

 体の小さい大妖精でさえそうなのだから、月見の方も言わずもがな。彼はそうだよねえと気の抜けた声で呟き、途方に暮れた様子で空を見上げた。

 

「ここで乾かせればよかったんだけど、さて、このままだと夜になる方が先だろうねえ」

「私は、家に着替えがあるんで大丈夫ですけど……」

 

 家に帰って着替えて、濡れた服は適当に干しておけばいい。だが月見の方は、そう簡単にも行かないようだった。

 

「着替え、ないんですか?」

「実はこっちには来たばかりでね。……紅魔館に行こうかと思ってたけど、これは先に人里で買い出しかな」

 

 月見が紅魔館の名を口にしたことに、大妖精は少なからずびくりとした。紅魔館はスカーレットデビルの根城であり、そこから近い霧の湖に住む妖精たちは、彼女を恐れている者と恐れていない者の二派に分かれている。大妖精は前者だ。スカーレットデビルはとても恐ろしい妖怪で、少しでも機嫌を損ねる真似をすれば、その場で八つ裂きにされるのだと思っている。死という概念を持たない妖精だから、向こうだって、いちいち殺すことを躊躇ったりはしないだろう。

 しかし、もしかしてと頭を過るものがあった。月見は、紅魔館にて大妖精たちをわざわざ助けてくれたのだから、少なくとも悪い妖怪ではない。であれば、そんな彼と知り合いであるらしいスカーレットデビルだって、さほど、悪い妖怪ではないんじゃないか。

 

「……あの、月見さん」

「ん?」

 

 だから、大妖精は問おうとした。月見に、スカーレットデビルはどんな妖怪なのかと、確かめようとした。

 けれど、それを言葉にする前に。

 

「月見――――っ!!」

 

 背後から、鐘を叩いたように元気な少女の声がして、なんだろうと振り返った。森の向こう側から、大妖精と同じくらいの女の子が、草木を掻き分けて飛び出してくるのが見えた。

 その背には、七色の宝石をぶら下げた、人目を引く綺麗な羽。

 実際に目にするのは初めてだったけれど、噂話だけなら嫌というほど耳にしている。

 スカーレットデビルの妹。狂気に心を蝕まれた、幼くも恐ろしい吸血鬼。

 ――フランドール・スカーレット。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 後ろから何者かに突進され、そのまま勢いで焚き火に突っ込んでしまいそうになったので、月見は割と本気でびっくりした。前もって名前を呼ばれていなかったら、敵だと勘違いして尻尾でぶっ飛ばしてしまっていたかもしれない。

 首に回された、細くて形のいい両腕を見下ろして、力を抜くようにため息をつく。

 

「……危ないよ、フラン」

「えへー」

 

 すぐ耳元で、フランの笑んだ声が返ってきた。息遣いすら聞こえるほどの距離で、彼女の吐いた息が月見のうなじあたりをくすぐった。

 

「こんにちはー。それともこんばんは?」

「まだ明るいし、こんにちはでいいんじゃないかな」

「そっかあ。じゃあこんにちは、月見!」

「はいはい、こんにちは」

 

 耳元ではうるさいくらいの元気いっぱいな挨拶に、月見は苦笑しながら、肩の上にあるフランの頭をぽんぽんと叩いてやった。フランはむふーと気持ちよさそうにほころぶと、両腕に力を込めて、マーキングでもするように月見の肩に頬をすり寄せた。

 フランドール・スカーレット――月見が彼女と出会い、戦い、また狂気に打ち勝つための力となり、友達となったのは、つい昨日の話だ。

 

「フラン、外に出てきて大丈夫なのか?」

 

 月見が問えば、フランは吸血鬼とは思えないほど、太陽のように眩しい笑顔で頷いた。

 

「うん! まだこのあたりだけだけどね、昨日の夜から出してもらえるようになったの!」

「ああいや、そっちもそうなんだけど……」

 

 生まれつき危険な力を持ったフランは、何百年もの間、紅魔館の地下室にて幽閉されていた。それが過去のものとなり、こうして外でフランと話ができるのは、月見としてもとても嬉しかった。

 けれど、

 

「まだ夕日が出てるじゃないか。大丈夫なのか?」

 

 吸血鬼にとって、太陽の光は御法度の弱点だ。そして西の峰の近くでは、間もなく日没を迎える太陽が、有終の美を飾ろうと炎のように燃え上がっている。

 フランがこうして外に出てきているということは、あの過保護なお姉さんが許可をしたのだろうから、大丈夫なのだろうが、それでも心配なものは心配だった。

 

「痛くないのか?」

「うーんと、今くらいの夕日だとね、ちょっとヒリヒリするくらいだよ」

「……それでよく、レミリアが許可を出したねえ」

「お姉様はまだ寝てるよー。なんだか月見の匂いがしたから、黙って出てきたの」

「……フラン」

 

 月見の匂いがした、という発言についてはとりあえず置いておくとして、月見はたしなめるように目を眇めて、

 

「それじゃあ、みんなが心配してるんじゃないか」

「大丈夫だよー、美鈴が追いかけてきてくれてるから」

「い、妹様ーっ! あんまり館から離れるといけないので、そろそろ――あ」

 

 なんてことないとフランが笑った直後、森の奥から美鈴がやってきた。よほど慌てて走ってきたのか、息は切れ切れで、体のあちこちに葉っぱがくっついている。彼女は森が開けた先に月見とフランを見つけると、足を止めて膝に両手をつき、はあああ、と大きく胸を撫で下ろしていた。

 月見は、フランにくっつかれたままで上手く身動きが取れないので、背中越しに軽く手を振って応えた。

 

「こんにちは、美鈴」

「はい、こんにちはです。……まさか本当にいらっしゃるとは思ってませんでした」

 

 美鈴は月見の背中にくっつくフランを見て、息を整えながら苦笑いをした。

 

「『あっちから月見の匂いがする!』って言って、いきなり飛び出していくんですもん。本当にびっくりしました」

「私の匂いって、どんなだい」

「ほっこりする匂いだよー」

 

 フランがほっこりとしながらそう言ったけれど、果たしてそれこそ、どんな匂いなのだろうか。加齢臭じゃないといいなあ、と思う。年齢的には立派なおじいちゃんなのだし。

 まあ、フランがほっこりしているということは、変な匂いではないのだろう。

 肩で息をするのもそこそこに、美鈴が顔を青くしてフランに駆け寄って言う。

 

「それより妹様、とにかく一度館に戻りましょう! そろそろ、お嬢様が起きてくるかもしれません!」

「えー」

 

 フランはすこぶる不満顔で、

 

「せっかく月見に会えたのにー」

「だったら月見さんも紅魔館にいらしてくださいっ。とにかくバレる前に戻らないと、私がお嬢様に怒られちゃうんですよ!?」

「美鈴が怒られるのは別にいいんだけど、そうね、月見も紅魔館においでよー」

 

 ねーねーいいでしょー? と、月見の背中を駄々っ子のように何度も突っつく。心ない一言で美鈴がさめざめ泣いているのを、月見はとりあえず見なかったことにしておいた。

 

「さて、どうしようかな。さっき、湖に落ちちゃってね。服がまだ乾いてないんだよ」

「あ、そういえばなんか湿ってるね。大丈夫?」

「私自身は大丈夫なんだけど、着替えがなくてね。代わりを用意しなきゃいけないんだけど」

「あ、だったら咲夜に任せればいいよー!」

 

 フランが両手を叩いて、嬉しそうに声を上げた。

 

「咲夜なら、月見の服の時間だけを早く動かして、すぐに乾かしてくれるよ!」

「へえ……? そんなことまでできるのか、咲夜は」

「よく、ワインの時間の流れを早くして、美味しくしてくれるの」

 

 どうやら咲夜の能力は、時間を止めるのみならず、加速と減速はもちろん、効果範囲を限定することすらできるらしい。改めて思うが大した能力だ。使い勝手の悪さ故ほとんど出番がない自分の能力に、爪の垢を煎じてやりたくなってくる。

 感心する月見に、それにね、とフランは続けて、

 

「咲夜も、月見に来てほしいって思ってるはずだよ。昨日月見が帰ったあとから、一生懸命紅茶を淹れる練習してるもの」

「おや……」

 

 その言葉を、月見は少なからず意外だと思った。最高の紅茶を、という約束のために、まさか練習までしてくれているとは予想外だった。しかも、一生懸命に、とまで来た。

 

「ずっとお姉様を付き合わせて、たっくさん紅茶を飲ませてね。お陰でお姉様ったらすっかり水っ腹になっちゃって、最後の方は泣きながら『もうやめて~』ってなってて、すごく面白かったんだよ!」

「ッハハハ。それだったら、行かないわけにもいかないねえ」

 

 笑いながら、月見は紅魔館のある方角を見遣った。ここで月見が紅魔館へ行かなければ、恐らく明日以降も、レミリアは紅茶地獄に苦しめられることとなるのだろう。それはちょっぴり、可哀想な気がした。

 

「どれ……大妖精、私は紅魔館に行くから――」

 

 少し前まで一緒に話をしていた少女に、声を掛けようとして、そこで初めて月見は気づく。大妖精の姿が、綺麗さっぱりどこかに消えてしまっている。

 そして、大妖精だけではない。周囲を飛んでいたはずの小妖精たちもまた、いつの間にかいなくなってしまっていた。なるほど、そもそもこの場からいなくなっていたのであれば、突然現れたフランに誰も疑問の声を挟んでこないわけだ。

 ふむ、と月見は少し考えて、

 

「おーい、ふみうー」

「ふみうって呼ばないでくださいっ! ――あ」

 

 その名――もう名前にしてしまっていいと思う――を呼ぶなり、やや離れたところにある茂みの奥から、大妖精がぴょこりと頭を出した。けれどそれは一瞬で、月見と――否、フランと目が合った途端、顔を青くして奥へと引っ込んでいってしまった。

 

「……」

 

 肩越しに感じるフランの呼吸が、少し、細くなっている。

 

「……そんなに怖がらなくても、大丈夫だぞ?」

 

 茂みから声が返ってくるまでは、ややの躊躇の間があった。恐る恐る、腫れ物に触れるような声音で、

 

「で、でも、噂で聞いたことがありますー……。七色の、宝石の翼……あらゆるものを破壊してしまう力を持った、恐ろしい吸血鬼だって……」

「……」

 

 月見は、返す言葉に迷った。大妖精の認識は間違っていない。もちろん月見は、フランが見た目相応に素直で可愛い吸血鬼であることを知っているけれど、彼女が内に秘めた強大な力は、客観的に見てしまえば恐ろしいものであるのも事実だった。

 

「あのっ……あのね、」

 

 拙い声で、フランが応えた。胸に当てた両手で、痛みをこらえるように、

 

「私、なにもしないよ……? 大丈夫、もう、もう、誰も傷つけたりなんてしないから……」

 

 繰り返した「もう」という言葉に込められる想いが、大妖精に伝わることはない。

 けど、それでも。

 

「大丈夫だから、……だから、怖がらないで……」

 

 かつてフランは、身に秘めた力を外から恐れられ、拒絶されてしまわないようにと、姉の手によって幽閉されていた。それは即ち、今のフランに外の世界で居場所を作ることはできないという、一つの宣告だった。

 それを、フランは否定したかったろう。確かに自分は恐ろしい存在かもしれないけれど、でも、居場所は作れるんだと。幽閉を解かれた今、それを自分の力で成し遂げて、姉を見返してやりたかったろう。

 けれど、妖精たちは応えない。まるで初めからそこにいないかのように、沈黙し、息を殺している。

 言葉すら、返してもらえない――その冷たい拒絶は、フランの心に、強く、突き刺さったようだった。

 

「……おいで、フラン」

 

 きつく力のこもった小さな手を、そっと引き寄せれば、フランは何事か、涙のにじんだ声で呻いて、月見の腕の中に崩れ落ちた。

 

「妹様……」

 

 美鈴が、なにか掛けるべき言葉を探している。けれど結局、上手な慰めは見つけられなかったようで、なにも言わずにフランの背中へ手を添える。

 

「月見……やっぱりダメなのかなぁ」

 

 砕けそうに声を震わせたフランに、しかし月見は笑って、

 

「なあに、決めつけるのは早いよ。今すぐは無理でも、大丈夫、わかってもらえるさ」

 

 小さな背を、優しく叩く。

 

「だってお前は、性別も体つきもまったく違う、私と友達になれたんだからね。女の子の友達だって、必ずできるさ」

 

 フランはなにも言わなかったが、決して、月見の胸元から離れようとはしなかった。背中に回された華奢な腕で、息が詰まるほどに強く縋りつかれる、その痛みすら、月見には愛おしいと思えた。

 

「じゃあ、とりあえず紅魔館に戻ろうか。レミリアにバレて外出禁止令でも出されたら、元も子もないからね」

 

 ん、とフランが涙声で頷いたので、月見は彼女を抱いて立ち上がった。それから、大妖精が隠れている茂みに向けて言う。

 

「この火、適当に消しておいてくれるかい。もうちょっと枝を投げたりして遊んでいいから、火事にならないように」

 

 返事はない。けれどそれは、なにを言えばいいのかを迷っているような沈黙だった。自分が答えなかったせいでフランを傷つけてしまったのだと、遅蒔きながら理解していたようだった。

 そしてそれでもなお、大妖精は恐怖を捨て切れず、言葉をつくれないままでいる。

 

「……まあ、今すぐとは言わないよ」

 

 だから、月見は言った。頼み込むのでもなく、押しつけるのでもなく、今はただ、言い聞かせるように静かな声音で。

 

「でも、初めから怖い吸血鬼だとは決めつけないで、この子のこと、見てあげてくれないかな。ちょっとずつでいいから、ゆっくりと、どんな子なんだろうって、気に掛けてみてほしい」

 

 そしてもし、この子の気持ちに応えてみようと、思えたのなら。

 なにも難しいことなんて必要ない。ねえ、でも、こんにちは、でも構わない。

 小さな一つの、言葉さえあれば、関係は作れるから。

 

「――だからその時は、声を掛けてやってくれ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 森を抜ける頃には、フランの心も大分落ち着いたようだった。お姉様に心配されると面倒だからと、完全に元通りとはいかずとも、笑って、ちゃんと一人で残りの帰り道を歩いた。

 紅魔館の門辺で美鈴と別れ、すっかり元気になったフランに腕を引かれて館へ入る。するとすぐに咲夜がやってきて、月見の姿を見るなりひどく目を白黒させた。

 

「つ、月見様? ど、どうしてここに……」

「霧の湖でフランに会ってね、せっかくだからお邪魔させてもらったよ。……紅茶の約束もあることだしね」

「え、あっ……はい、それはそうなんですけど、その」

 

 まさか約束の日が昨日の今日になるとは、思ってもいなかったのだろう。咲夜はそわそわと落ち着かない様子で、月見を見たり手元を見たりを繰り返していた。

 せっかくなので、少しからかってみることにする。

 

「練習のしすぎで、レミリアを泣かせたんだってね」

「え!? ……あ、妹様っ! さては話したんですね!?」

「だって、黙っててなんて言われてないもーん」

「う、ううっ……」

 

 咲夜は、また一段と感情豊かになっていた。月見が初めてここを訪れた時、彼女はいかにもよそ行きの表情で淡々と紅茶の準備を整えていて、月見にえらく大人びた印象を与えたものだけれど、それが今では顔を真っ赤にして恨みがましそうにフランを睨みつけているのだから、なんとも面白い変わりようではないか。

 

「もう少し練習が要るなら、また今度にするけど?」

「……むっ」

 

 からかうように言葉を重ねれば、咲夜はあからさまに不機嫌になって、

 

「そんなわけないじゃないですか。……どうぞ月見様、歓迎致しますわ。約束通り、最高の紅茶をご馳走して差し上げます」

 

 スカートの端を持って一礼する、その仕草は垢抜けていたけれど、頬がちょっぴり膨らんだままになっているあたり、年齢相応に可愛らしくもあった。

 と、月見の視界の端に、なにか桃色の物体がちらついた。なんだろうかと見てみれば、桃色の寝巻きに身を包んだレミリアが、寝惚け眼をこすりながら、吹き抜けになった階段を降りてきていた。どうやらまだ起きがけのようで、足取りはおぼつかなくて今にも階段を踏み外しそうだし、寝相が悪かったのか寝間着は皺だらけ、髪も寝癖であちこちが飛び跳ねている。

 吸血鬼として、或いは紅魔館の当主としてのカリスマは、どうやら布団の中に忘れてきてしまったらしい。これが初対面で月見にグングニルを突きつけた少女なのだから、月見としては笑うべきか呆れるべきか。ちなみに咲夜は呆れていて、フランはころころと笑っていた。

 よたよたと、なんとか階段を無事に降りきったレミリアは、まず咲夜を見て寝言みたいな声で言う。

 

「う~……おはよ~、さくや~……」

「おはようございます、お嬢様」

 

 次にフランを見て、

 

「フランもおはよ~……」

「おはよー、お姉様」

 

 そして最後に、月見を見て。

 

「ちゅーごくも~……あれ? ちゅーごく、なんだかせがのびた~……?」

「ん?」

 

 どうやら紅魔館のご当主は、まだ半分夢の世界にいるらしい。咲夜が顔に手を遣って俯き、フランが口を押さえて必死に笑い声を噛み殺し始めた。

 

「ちゅーごく~……?」

「……レミリア、とりあえず顔を洗ってきたらどうだい」

「えう~?」

 

 なにが「えう~?」か。フランの体がぴくぴくと痙攣し始めている。

 

「ちゅーごくじゃないの~……? じゃあぱちぇ?」

「……私のどこをどう見間違えればパチュリーになるんだろうね?」

「う~……? ……じゃあこあくま」

 

 消去法で答えれば当たるとでも思っているのだろうか。

 月見はため息をついて、

 

「……月見だよ、月見。昨日の今日なんだから、忘れないでくれないかな」

「つくみ~……?」

 

 呟いたレミリアはそのまま何回かふらふらと船を漕いで、やがて、あ~、と間の抜けた声を上げた。

 

「そっか~、つくみね~……。じゃあおはよ~、つくみ~」

「……ああ、おはよう」

「う? でもなんであなたが、こんなとこ、ろ……に…………」

 

 夢見心地だったレミリアの瞳が急に真面目になった。眠気が一瞬で空の彼方へ吹き飛び、血の気が波のようにさあっと引いていき、代わりに羞恥心がむくむくと大きくなっていくのが、月見の目から見てもとてもよくわかった。

 かち、こち、とどこからか時計の音が聞こえて、ぴったり五秒。

 

「~~~~ッ!?」

 

 レミリアの悲鳴は言葉にならなかった。お尻に火でもつけられたみたいに、彼女は全力疾走で階段を駆け上がって、

 

「へぶぅっ」

 

 途中で見事に転んで、

 

「たあーっ!!」

「ふぎゅっ!?」

 

 そこにフランがすかさずボディプレスを仕掛けて、レミリアの上に馬乗りになった。

 階段の中腹で、うつ伏せのまま拘束されたレミリアの両足がばたばたと暴れる。

 

「ちょっ、フラン、やめてっ! 部屋に戻らせてっ! お布団の中に戻らせてえええええっ!!」

「なんで?」

「恥ずかしくて死にそうだからに決まってるでしょ!?」

「ねえ月見、見てみなよー。お姉様の寝癖すごいよー」

「いやあああああ呼ばないでええええええええっ!! 月見、あああっあなたこっち来ないでよ!? 見たらグングニルよグングニルッ!!」

 

 どうやら本気で恥ずかしがっているらしく、レミリアはロデオみたいに暴れ回っていた。上下左右に激しく揺さぶられ、上のフランがきゃっきゃと楽しそうに笑っている。

 もちろん、わざわざ見に行くような真似はしない。冗談抜きでグングニルが飛んできそうだし、それにレミリアの寝癖がいかなものであったかは、彼女が寝惚けているうちに充分すぎるほど見せられたのだから。

 

「違うっ、違うのよ! いつもならちゃんと綺麗に起きられるんだけど、今日はたまたまっ!」

「お姉様の寝癖を直すのは咲夜の日課だよねー」

「違うってばあああああ!?」

 

 カリスマもプライドもかなぐり捨てて暴れるレミリアの絶叫と、その上ではしゃぐフランの笑い声を聞きながら、月見は思わずため息をついたけれど。

 でもまあ、あれがほんの昨日まではまず見られなかった姉妹の姿なのだと思うと、これはこれで、いいことなのかもしれない。

 

「……随分と仲良くなったみたいで、なによりだよ」

 

 昨日の苦労を思い出しながら月見がしみじみと言えば、咲夜は夢を見るように、柔らかい笑顔で頷いた。

 

「ええ、とっても」

 

 

 

 

 

 部屋に閉じこもって出てこなくなったレミリアのことはフランに任せ、月見はとりあえず、シャワーを貸してもらうことにした。「フランも一緒に入るー!」と目を輝かせたフランがあっと言う間にレミリアの部屋に吸い込まれたのを見届け、月見は咲夜の案内で脱衣所の扉を開けた。

 ここもまた咲夜の能力で空間が曲げられているのか、ただの脱衣所にしては広いつくりだった。畳八畳分ほどの間に、大きな鏡の洗面台と、竹編みの脱衣籠、ふわふわに洗濯されたタオルが収まった収納棚、そして隅っこには控えめに体重計が置かれている。扉一枚を隔てた先にはタイル敷きの浴室が広がっており、今は使う人もいないからか、浴槽に湯は張られていない。

 

「では、私は外でお待ちしています。浴室に入られたら呼んでください。すぐに着物の方を洗濯して、乾かしますので」

 

 咲夜は早くもやる気満々になっていて、月見の生乾きの着物をしきりに見つめては、うずうずと洗濯したそうにしていた。

 

「乾かしてくれるだけで充分だよ?」

「いえ、やらせてください。職業病みたいなもので、汚れた服はちゃんと洗濯しないと気が済まないんです」

「まあ……やってもらえるならありがたいけど」

「二十分ほど掛かるかと思いますので、ごゆっくりなさってくださいな」

 

 それでは、と一礼して咲夜が脱衣所を出て行ったので、月見は素直に言葉に甘えることにした。咲夜はあれで意固地というか、頑固なところがあるから、無理に断ろうとすればまたヘソを曲げられるだけだ。長いものには巻かれろ、である。

 着物を竹編みの籠に入れて、浴室に入り、戸を閉める。その音を聞いて、咲夜が脱衣所の扉をノックした。

 

『月見様、入っても大丈夫でしょうか』

「ああ」

 

 心なしか、彼女の声は硬くなっていた。よくよく考えてみれば、扉を挟んですぐ向こう側に裸の異性がいるというこの状況は、年頃の少女にとっては少なからず意識してしまうものがあるのかもしれない。

 とても控えめに扉が開く音がして、浴室の戸に薄く咲夜の影が浮かぶ。扉越しではあるが、彼女がそわそわと落ち着いていないのがとてもよくわかった。

 

『ええと……では、着物をお預かりしますね』

「よろしく頼むよ」

『いえ……』

 

 どこか心ここにあらずな声音でそう言って、咲夜が籠に手を伸ばそうとする。

 その動きが、途中でぴたりと止まる。

 

『……』

「……どうした?」

『ふえっ……あ、はい、ではすぐ洗濯して乾かしてきますね! ごゆっくり!』

 

 咲夜はなぜかひどく後ろめたいことを訊かれたように、ばたばたと大慌てして脱衣所を飛び出していってしまった。誰もいなくなった向こう側の静寂を感じながら、月見ははてと首を傾げる。なにか、彼女を戸惑わせてしまうような変なものでもあったのだろうか。

 だが、籠には服以外の物を入れた覚えはないし、大したことではないだろうと思って、気にせずシャワーを浴びることにした。

 脱衣所にまた誰かが入ってきたのは、月見が髪を洗い終えて、次に体に移ろうとした頃だった。ノックの一つもなく、脱衣所の扉が開いて、閉まった音がする。咲夜ではない。扉越しに見える人影は、薄い紫色をしている。

 紫色、といえば。

 

『……あら? 誰か入ってるの?』

 

 起伏の少ないこの声音からしても、間違いはなさそうだ。

 

『レミィかしら? お客さんが来たから、なるべく早く私にも使わせてほしいのだけど』

「……そのお客さんっていうのは、私のことかな?」

『……へ?』

 

 あまり感情を表に出さない彼女らしからぬ間抜けな声で、静寂は一瞬。

 

『!? ……つ、月見ッ!?』

 

 直後、扉越しのパチュリーの影が突然バランスを失って、どすんと大きく尻餅をついた。

 

『え!? えええっ!? あ、あなた、なんでこっこここっ、ここに』

 

 まさか月見がシャワーを浴びているとは夢にも思っていなかったようで、パチュリーの声は完全に裏返ってしまっていた。この子もちゃんとこういう声を出せるんだなと、と月見は物珍しいものを見た心地になる。

 シャワーを止め、

 

「ちょっと色々あってね、貸してもらってたんだけど……もしかして、今から入るところだったか?」

『えっと、それはまあ、そうだったんだけど』

「ふうん……結構、早めにお風呂に入るんだね」

 

 時間は、まだ日が落ちて間もない頃。この時間から早速お風呂に入ろうとするのは、女性とはいえ珍しいのではなかろうか。

 

『や、それはあなたが来たから……って、それはどうでもいいのよ! と、とにかくごめんなさい! ごゆっくり!』

 

 繰り返しになるけれど、やはり扉のすぐ向こう側に裸の異性がいるというこの状況には、パチュリーとて意識せざるを得ないところがあったらしく、彼女は少し前の咲夜と同じようにばたばたと大慌てして、一目散に脱衣所を飛び出していってしまった。

 

「……ふむ」

 

 また静かになった脱衣所の空気を感じながら、そういえば、と月見は今更のように思う。そういえばこの紅魔館の住人は、女の子ばかり、なのだった。その中でなんの遠慮もなくシャワーを借りたのは、少しばかり軽率だったかもしれない。

 しかも思い出してみれば、一日目は紫の屋敷で、二日目は慧音の家で――つまりは幻想郷に戻ってきてからというもの、女性の家でばかり、風呂を借りているので。

 やはり自分の家を持つのは大切だなと、月見はつくづく今更のように、噛み締めるのだった。

 

 ……一方その頃の咲夜は、月見様の服を洗濯するってそれってやっぱりこの下着もやらなきゃいけないのよねうううううどうしようどうしよう別に嫌とかそんなことはないんだけどなんかすごくどきどきしてああああああああ、と人生最大の煩悶を抱えてオーバーヒート寸前になったりしているのだが。

 月見はもちろん、紅魔館の住人の誰もが、気づいていない。

 

 

 

 

 

 予定より十分ほど長引いて、咲夜が乾いた着物を届けてくれた。浴室の扉越しに「ありがとう」と礼を言うと、咲夜は「いえいえとんでもないですむしろなんだか申し訳ありませんでした!」と平謝りしながら逃げ出してしまったのだが、予定より遅れたのがそんなに申し訳なかったのだろうか。

 しかしそれにしては大袈裟過ぎるというか、もっと他に並々ならぬ理由があるような気がして、月見はうーむと首をひねる。なにか、大切なことを見落としているような違和感があった。そう、例えば――

 

「月見――――ッ!!」

「げふっ」

 

 などと考えながら着替えを終え脱衣所を出たところで、見計らったタイミングでフランが廊下の彼方からすっ飛んできた。吸血鬼としての身体能力を存分に生かしたその勢いはもはや突進に近く、鳩尾に飛びつかれた月見は、肺の空気を一瞬で失って後ろに尻餅をついてしまった。

 

「いったあ……。こら、フラン。もう少し手加減してくれないかな」

「えへへー。だって月見が遊びに来てくれて嬉しいんだもの」

 

 フランは、狙っているのかどうかは知らないが、甘やかされるのがとても上手な子だった。腰にぴったり抱きつかれて、本当に嬉しそうな笑顔で見上げられて、それでもこの子を叱ろうと思える猛者はそういないだろう。

 もちろん、月見も例外ではない。あとに控えていたはずの抗議の言葉は、みんなため息になって消えてしまった。

 

「月見、咲夜がこれからご飯作るって! 一緒に食べよ?」

「おや、いいのか?」

「もちろん! ……ねえ、それで、なんだけどさ」

 

 フランは月見の腰から腕を離し、両手の指を絡ませて、ねだるような上目遣いになって言う。

 

「もし、よかったらなんだけど……今夜はこのままウチに泊まってかない? ほら、咲夜は月見に紅茶をご馳走しないとだし、私も、月見といっぱい遊びたいし……」

「それはありがたいけど……」

 

 申し出はありがたかった。月見の家ができるのは早くとも明日以降になるから、それまではまたどこかで宿を恵んでもらうか、一時の間野狐に戻るかなりしなければならない。紅魔館は月見にとっても居心地がいい場所だから、まさに渡りに船といったところだろう。

 だが、

 

「レミリアはいいって言ってくれたのか?」

 

 あの気難しい年頃のお嬢様は、男を家に泊めるなんて猛反対しそうだ。屋敷の主人に首を振られてしまえば、月見は大人しく別の場所で夜を明かすしかない。

 しかしフランの返答は早かった。二つ返事よりも早く頷き、なんの躊躇いもなく、

 

「お姉様の意見なんてどうでもいいよ。だから、ねえ、泊まってってよー」

「……」

 

 ひょっとしてレミリアは、紅魔館の当主として認められていないのだろうか。

 

「それにお姉様が反対しても、多数決で私たちの勝ちだもん。咲夜も美鈴もパチュリーも小悪魔も、みんな賛成してくれるはずだものっ」

「……そっか」

 

 一体なにが誇らしいのか、そう言ってえへんと胸を張るフランの仕草が、とても愛らしい。

 月見は膝の上からフランを下ろして、その頭をぽんぽんと叩いてやりながら、立ち上がった。

 

「でも、ちゃんと話はしておかないとダメだよ。面倒なことになるからね」

「はーい」

「じゃあ、とりあえず行こうか。案内してくれるか?」

「うん! こっちだよー!」

 

 ぱっと笑顔を咲かせたフランが、月見の手を取り走り出す。けれど途中で、走るよりも飛んだ方が都合がいいと思ったようで、羽を羽ばたかせて月見と同じ目線になっては、早く早くと、一生懸命にこちらの腕を引っ張ってくる。

 五百年近くに渡る暗い闇を背負った分だけ、月見が目を細めてしまうくらいに眩しく輝く、彼女の笑顔は。

 いつか、紅魔館の外でも、花開くことができるのだろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 緊張していた。柄にもなく。

 自分で言うのもなんだが、十六夜咲夜は緊張に強い方だ。そもそも、緊張するということからしてあまりない。レミリアが紅い霧を作り出し、幻想郷に異変を起こした時も。初めて異変の解決に乗り出し、西行寺幽々子と対峙した時も。その後の異変で、伊吹萃香や八意永琳といった遥か格上の相手と闘った時も、緊張したことなんて一度もなかった。

 なのに、どうして、こんな紅茶の一杯を用意するだけで、こうにも手が震えてしまうのだろうか。

 心の中でそう考えてすぐに、いや、と首を振った。咲夜が今準備しているのは、決して『こんな紅茶』などではない。

 最高の紅茶。

 あの人に、ご馳走すると、約束した。

 泊まりたいんだったら泊まってってもいいわよ、とレミリアが月見の宿泊を許可したのは意外だった。てっきり反対するか、そうでなくても顔をしかめるくらいするものと思っていたのに、まさかの二つ返事だった。

 気になってあとから尋ねてみれば、レミリアもレミリアなりに、月見に恩返しをしたいと、思ってくれていたらしい。今はまだ素直にはなれそうにないけれど、それでも、せめてこういうところでくらいは――と。

 そして最後に――悔しいけど、あいつがいるとフランがとっても嬉しそうだから――とも、付け加えてくれた。

 鮮烈だった。わがままで、勝ち気で、自分を中心にして世界を回すような生粋のお嬢様だったレミリアが、自分のためではなく、紅魔館の者たちのためでも親しい友人のためでもなく、ほんの少し前まで赤の他人だった男に、拙いながらも自分なりに考えて感謝を伝えようとする姿を、咲夜は初めて目の当たりにした。

 つくづく、紅魔館にとっての月見という存在が、段々と大きくなってきていることを思い知る。月見と出会って、紅魔館の住人たちは変わった。

 フランは狂気を克服し、とっても綺麗な笑顔で笑えるようになった。

 レミリアはフランと心を通じ合い、少しずつ、他人のことを思いやれるようになった。

 パチュリーは、小悪魔曰く、月見と出会う前よりも身嗜みに気を遣うようになったらしい。

 そして、咲夜だって。

 

「……っ」

 

 どうやって辿り着いたのかは、いまいちよく覚えていなかった。ふと意識した時には、咲夜はティーセットを両手に、月見がいる部屋の前で棒立ちになっていた。

 ……いくらなんでも、緊張しすぎだ。本当に柄でもない。らしくないわよ、十六夜咲夜。

 咲夜はゆっくりと深呼吸をして、目の前の扉をノックした。月見と一生懸命に遊んでいたフランが、レミリアに誘われて星空散歩へ出掛けたのは確認済みだ。パチュリーはあいかわらず魔法の実験で、美鈴は門の前。だから今、この部屋には月見しかいないはず。

 なんとなく――彼に紅茶をご馳走する時は、二人きりで――と、考えていた。

 

『はい?』

 

 扉越しでも、月見の声は不思議とよく通る。

 

「月見様、咲夜です。……紅茶を、お持ちしました」

『ああ、ありがとう。今開けるよ』

「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」

 

 月見の声を制して扉を開けると、ちょうど、彼が持ち上げかけた腰をベッドの縁に戻したところだった。布団とシーツにさんざ乱れたあとがあるのは、フランが跳ね回ったからなのだろう。一応は月見が手直しをしてくれたようだが、咲夜の目から見れば素人仕事だった。

 もちろん、それをわざわざ指摘するような真似はしない。むしろ、ベッドがあんなになるまでフランが月見にじゃれつく光景を、一目でも見ておけばよかったかなと後悔する。それはきっと、見る者に柔らかなぬくもりを与えてくれる、幸福と慈愛に満ちた景色なのだろう。

 首を振った。今は、この紅茶に、集中しなければ。

 

「お疲れ様です、月見様」

「いやはや、まったく」

 

 近くのテーブルにティーセットを置いて微笑むと、月見は肩でも凝ったみたいに苦笑いをした。

 

「本当、フランは元気だね。いや、それとも私が年を取ったのかな。相手をするだけで精一杯だったよ」

「あら、まだそんなにお若いじゃないですか」

 

 人間なら二十半ば程度の見た目でそんなことを言われても、説得力はない。

 

「妖怪だから、見た目が若いのは当たり前さ。でも、これでも結構長生きしてるんだよ?」

「月見様は、もうどれくらい生きられたんですか?」

 

 カップの準備を整える片手間で、尋ねてみる。昨日知り合ったばかりだから当たり前だけれど、咲夜はまだ、月見のことをまったくといっていいほど知らない。

 そして、少しずつでもいいから知っていきたいと、思う。

 さてね、と月見は小さく肩を竦めた。

 

「西暦が始まる前よりかは生きてたと思うけど、細かいところは忘れてしまったな」

「……そうですか」

 

 ということは、少なくとも二千歳以上。途方もない数字だが、特別驚くようなことはなかった。千年以上を生きた妖狐が九尾になるというから、十一尾になるためには、それくらい掛かってもおかしくはないだろう。

 なんだかすごいなあ、と咲夜は思う。月見は、咲夜よりも百倍以上、様々なものを見て、様々なものに触れて、様々なものとともに生きてきた。その人生がどれほどのものかなんて、高々百年も生きられない人間の咲夜には、一生掛かっても理解できないだろう。

 ふと――なんで月見様は妖怪で、私は人間なのかなあ――なんて、そんなことを考えてしまう。けれど今は大切な約束を果たさなければならない時だから、咲夜は心の中で頭を振って、気持ちを切り替えた。

 咲夜が紅茶の準備を整える間、月見からなにかを話しかけてくることはなかった。物珍しそうな顔をしながら、咲夜の一挙一動に絶え間なく視線を注いでいた。そんなに注目されると一層緊張してしまって、咲夜もつい、月見のことを必要以上に意識してしまう。

 だからだろうか。咲夜が手元で小さく陶器を鳴らすたびに、月見の耳がひくひくと動いているのに、気づいたのは。

 

「……」

 

 咲夜は紅茶の準備を続けるふりをしながら、スプーンでカップをさりげなく叩いてみた。

 カチャ。ひく。

 

「…………」

 

 もう一度。

 カチャ。ひくっ。

 

「……………………」

 

 ちなみに咲夜は、動物が、嫌いではない。

 カチャ。ひく。

 カチャカチャ。ひくひく。

 カチャカチャカチャ――

 

「……咲夜?」

「は、はいっ」

 

 月見に胡乱げな目で見られて、今度は咲夜がひくっとする番だった。しまった、つい。

 いや、これは、カップを鳴らすたびにいちいち動く月見の耳が悪い。紅茶の支度をする風景が、そんなにも珍しいのだろうか。

 

「月見様は、紅茶はあまり飲まれないんですか?」

「好んで飲みはしないね。日本育ちだし、日本茶派だよ」

「そうですか……」

 

 じゃあこれからは、日本茶を淹れる練習もしようかなあ――などと、考えながら。

 最高の状態で止めていた、ティーセットの時間の流れを解除する。紅茶の風味が変わってしまわないうちに、手早くカップに琥珀色を注いで。

 

「……どうぞ、月見様」

「ああ、ありがとう」

 

 カップを乗せたソーサーを、月見に手渡す。

 この紅茶が最高の紅茶なのかはわからない。咲夜はこの世に生を受けてまだ二十年も経っていない若輩者だし、世界中を探してみれば、咲夜よりも美味しい紅茶を淹れる人たちはごまんといるだろう。

 けれどこれは、レミリアに泣きべそをかかせるまで試行錯誤を続けた一つの完成形で、間違いなく今の咲夜の限界だから。

 だからせめて、月見の中だけでも、一番になれればいいなあと思う。

 月見は、カップの中で揺れる琥珀色を目を細めながら見つめて、何事かを考えているようだった。けれどそれを言葉にすることはなく、やがてゆっくりと、カップを口元へ持っていった。

 傾ける、その姿が、妙に生々しく咲夜の目に映る。銀狐だからか、やっぱり肌は白めだなあとか。獣なのに爪が短く切り揃えてあるのは、外の世界で生活してたからなのかなあとか。あ、今耳がひくって動いた、とか。そんなどうでもいいようなことばかりを、ぼんやりと考えてしまう。

 ふと気づいた時には、月見はカップをソーサーの上に戻していた。まぶたを下ろして、ふーむと小さな声でなにかを考えていて、一向に感想を言ってくれる気配がない。

 一抹の不安が咲夜の胸を過る。もしかして、美味しくなかっただろうか。もっと美味しい紅茶を知っているのだろうか。もしそうだったら、とてもショックだ。心にぽっかり穴が空いて、しばらくの間寝込んでしまうかもしれない。

 例えばレミリアやフランに「美味しくない」と言われたら、それもまた、とてもショックだけれど。

 でもなんだか、月見に「美味しくない」と言われてしまうのは、それとは少し違う気がする。

 なんというか――すごく嫌だ。とにかく嫌だ。相手がレミリアやフランなら、次こそ頑張ろうと思えるけれど、月見だとその気も起こらなくなってしまうほどに、ショックすぎて、とても嫌な、気がする。

 まるで、己の判決を待つ被告人の心地だ。なにを言われるのだろうかと、そればっかりで頭が飽和して、心臓と一緒に爆発してしまいそう。

 美味しいよ、咲夜。――とても嬉しい。

 これはちょっとイマイチだね、咲夜。――泣いてしまいたくなる。

 きっと、月見が黙っていたのはほんの数秒だ。けれど咲夜にとっては、上手く息が吸えないあまり呼吸困難になってしまいそうになるほどに、長い長い時間だった。

 だから、ねえ、どっちなんですか、月見様。このままじゃあ私、息ができなくて死んでしまいます。

 だから、だから――。

 その心の声が届いたわけではないだろう。けれど月見は、応じるようにまぶたを上げて咲夜を見ると、笑顔を一つ、つくった。

 

「驚いたよ。……紅茶って、こんなに美味しいものなんだね」

「……、」

 

 一瞬、その言葉を理解するのに時間が掛かって、呆けてしまったけれど。

 

「美味しいよ。……私が知る中では、間違いなく最高の紅茶だ」

「……! ありがとうございますっ!」

 

 そうだ、彼は今、笑ってくれてるんだと――そう思ったら、安堵と喜びが津波になってやってきて、今までの不安と息苦しさを一気に押し流していった。正直に白状すれば、腰が抜けるくらいに安心して、ちょっと目元がじわりとした。それくらいに嬉しかった。自分が今まで受け取ってきた「美味しい」の中で、一番幸せな「美味しい」だった。

 体の中に溜まっていた緊張を、はあぁ~~~~、なんて長いため息と一緒に吐き出していると、くすりと月見に笑われた。

 

「なんだ、そんなに緊張してたのか?」

「……そんなの、当たり前じゃないですか。だって、本当に大切な約束だったんですもの」

「ッハハハ、そうか」

 

 カップを傾け、ほっと一息ついて、美味しいね、と呟く、その何気ない月見の仕草が、こんなにも咲夜の心を温かくする。レミリアには申し訳ないけれど、彼女を泣かせるくらいにまで練習を重ねて、本当によかったと思えた。

 と、

 

「お前も飲んだらどうだい?」

「……はっ!?」

 

 いきなりそんなことを言われたので、温かかった気持ちが一気に沸騰して、顔から湯気が吹き出そうになった。無意識のうちに月見が持っているカップに目が行く。お前も飲んだら、ということはつまり、あれだろうか。このカップの紅茶を飲んだらどうかということだろうか。でもそれってひょっとしてもしかしなくても間接

 

「カップ、もう一つ持ってきてるみたいだし」

「へ? …………ああ、そうでしたね」

 

 いきなり冷静になった。バカなことを考えて一人で勝手に慌てていた数秒前の自分を、なんだか全力で殴り飛ばしてやりたい。

 カップを二セット持ってきたことに、特に深い意味はなかった。トレーの上に一つだけなのは寂しいような気がして、理由もなく乗せることにした行きずりのカップだった。

 でもせっかくだし、月見の言う通り、あれで紅茶を飲んでみてもいいかもしれない。もしかしたら彼の「美味しい」がお世辞かもしれないし、自分もあのカップで飲んで、確かめてみようと。

 そう思ってティーサーバーへと手を伸ばして――ふっと、やめた。

 

「……じゃあ、月見様が淹れてくれませんか?」

「私が?」

「ええ、せっかくですし」

 

 どうせ、飲むのだったら。

 彼の手で淹れてもらった紅茶を、飲んでみたい。

 

「でも、私は咲夜みたいに上手じゃないよ?」

「さすがに一から淹れてなんて言いませんわ。……これを、カップに注ぐだけでいいんです」

 

 咲夜がつくったこの紅茶を、月見がカップに注ぐ。それは決して、彼が淹れた紅茶とは言えないだろうけど。

 けど、それでもいい。それだけでも、いいから。

 私のためだけに、やってほしい。

 

「ふむ、それくらいであれば構わないよ。……。どれ」

 

 ベッドから腰を上げた月見が、こちらに近づいてくる。それだけのことなのに、咲夜はわけもなくどきどきした。月見がティーサーバーを手に取ってカップに傾ける、その動きに、少し前の彼みたいになってじっと視線を目を注いでしまって。だから、ああなるほどな、と咲夜は思う。

 他でもない自分のためだけに、誰かがなにかをしてくれている姿というのは。

 こんなにも強く、人の目を引くものなのだ。

 

「はい、できたよ」

「……ありがとうございます」

 

 こんな風に誰かから紅茶を淹れてもらうのは、随分と久し振りのような気がした。もう思い出せないくらいに長い間、咲夜は誰かのために紅茶を淹れる立場であって、淹れてもらう側ではなかった。

 ……なんだかとても嬉しくて、体が不思議なくらいに火照っているのは、だからなのだろうか。

 月見と一緒にベッドに腰掛けて、そうして含んだ琥珀色は、自分でもびっくりしてしまうくらいに美味しくて。なんだか自画自賛しているみたいだったけれど、でもこの紅茶がここまで美味しく感じられるのには、なにか特別な理由があるような気がした。

 

「……美味しいです」

「そうだね。咲夜は本当に紅茶を淹れるのが上手だ」

 

 なぜだろう、月見に褒めてもらえるととても嬉しい。胸が熱くなる。体中がむずむずしてくる。だらしなく笑ってしまいたくなる。レミリアたちに褒められてもこうはならないはずのに、なんだかちょっと変だ。

 

「……そういえば月見様は、今、家をつくっていただいてるんですよね? どのあたりに住まわれるんですか?」

「山の南の麓近くだよ。案外、ご近所さんだね」

 

 ご近所さん。たったそれだけの言葉で、またちょっと嬉しくなってしまうのは、一体どうして。

 

「そうですか……。じゃあ、できあがったら是非お呼びしてくださいね。家事が苦手なようでしたら、色々お手伝いしますよ?」

「ッハハハ、さすがに私だって一人暮らし程度のことはできるよ? ずっと外の世界で生きてきたんだから」

「そうなんですか? 聞いてくださいよ月見様、うちのお嬢様なんて――」

 

 一緒に紅茶を飲みながらくだらない話をする、この時間が、なんだか幸せだと。

 そう感じる、感情の名前を。

 十六夜咲夜は、まだ、知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第32話 「狐と閻魔と因果応報。」

 

 

 

 

 

 時折、こうして昔の夢を見る。懐かしい思い出をもう一度現実でなぞるように、鮮明な息遣いのある夢を見る。かつて生活していた都を離れ、妖怪と人の楽園を創ると決心した紫とも別れ、また遠いいつかのように、一人でのんびりと世界を歩いていた頃の夢。

 絶好の散歩日和の下、山々の匂いが風に乗る道を歩きながら、そうそう、と月見は懐かしく思い出す。

 確かこれは、説教くさい地蔵の女の子と出会った時の記憶だ。人里を目指し、数時間を掛けて山々を越え、ようやく麓まで辿り着いたその道中で、月見は路端に集まって陽気な笑い声を上げている子どもたちの一団を見かけた。

 恐らくは人里の子どもたちだろう。どうやらよほど楽しいことをしているようで、山の方から下ってくる月見には一向に気づく様子がなく、悲鳴みたいな声まで織り交ぜて大盛り上がりしている。

 これほど派手な大笑いを聞かされてしまえば、もはや知らぬ顔をして通り過ぎるわけにもいかない。月見は、今の自分が旅人を装って人の姿になっているのを確認してから、わざと出し抜けに声を掛けた。

 

「なにしてるんだ?」

「!」

 

 途端、子どもたちが顔を真っ青にして振り返った。その表情には、突然声を掛けられたことに対する驚愕が半分と、この場を他人に見られてしまったことに対する焦燥が半分。彼らが皆その手に筆と墨を握っているのに気づいた月見は、次いで彼らが取り囲んでいたものに目を遣って、すぐに強い苦笑で口元を歪めた。

 なるほど、そういうことか。

 

「お前たち、さすがにちょっとこれは……」

 

 月見がそう言葉を濁したところで、子どもたちはようやく我へと返ったらしい。

 

「やっば、人だ!」

「見られた!」

「逃げろー!」

 

 蜂の巣を叩いたような大混乱に陥って、あたりをドタバタと走り回り、我先にと人里へ逃げ去っていく。投げ捨てられた墨の皿が、月見の足下に黒い染みを作った。

 やがて一番足の遅い少年が半泣きになりながらみんなを追いかけていけば、山道にもとの静けさが戻ってきた。月見は足下に散らばった数人分の小皿と筆を眺め、やれやれともう一度苦笑いをした。子どもたちがあれだけ一目散に逃げ出したのも無理はない。どんな楽しいことをしているのかと思えば、事実はとても感心できたものではなかったのだから。

 月見が目を向けた先、山道をわずかに外れた森の手前には、女の子みたいに小さな地蔵が一つ。この地蔵を取り囲んで、子どもたちが筆と墨を両手にやっていたことは――

 

「……これはまた、随分と派手にやったもんだ」

 

 即ち、落書き。文字だったり、絵だったり、なにかの記号だったり、とかく様々なものが地蔵の全身至るところに落書きされて、言葉に言い表せないひどい有様になってしまっている。特に顔なんて、もはや黒くなっていない場所を探す方が難しいくらいだ。

 子どもがやったことだからと笑うには、やや罰当たりすぎるいたずらだった。地蔵を単なる石の塊と捉える者も少なくはないが、小さななりでも立派な菩薩の一尊、仏の次の位にあたる大変ありがたい御方である。そんなお地蔵様の全身を墨まみれにするとはまさに不届き千万、あの子どもたちには近いうちに雷が落ちるだろう。

 

「まあ、まだ明確な信仰を持たない子どもだからこそできることか」

 

 あの子どもたちを見つけ出して叱りつけようなどとは思わない。寿命が短い人間の、更に輪をかけて短い子ども時代だ。これくらい無鉄砲に生き抜いた方が、後々いい思い出になるのだろう。

 

「……とはいえ、このままにしておくわけにもいかないか」

 

 月見は決して敬虔な仏教徒ではないけれど、そうであってもこの有様は、見なかったふりをするには些か心苦しかった。それに、よく見てみれば地蔵の周囲の状態もひどい。足元には腐った落ち葉が溜まり、伸び放題になった草木には蜘蛛の巣も走っている。もしも月見がこの地蔵の立場だったら、誰でもいいから掃除してくれと毎日のように神に祈るだろう。

 なので月見は、掃除をしてやることにした。幸い地蔵の奥には桶や竹ぼうきなどの掃除道具が備えられているようなので、ちょうどいい。確か山を下る途中で近くを川が流れていたはずだし、そこから水を取ってくれば墨を洗い流してやることもできる。

 

「よし……そうと決まれば」

 

 地蔵の横を通り、奥から掃除道具を引っ張りだす。大分傷んではいるが、使えないわけではない。

 桶の中に、都合よく雑巾が入っていたのを確認して。

 

「どれ、まずは水だね」

 

 呟き、水を汲みに道を引き返そうとした折だった。

 

「――あ、あの!」

 

 ふいに、少女の声に背を呼び止められる。まだ幼さの抜け切らないいじらしい声音に、さっきの子どもたちの一人が戻ってきたのだろうかと、月見は思ったけれど。

 振り向き見てみれば、綺麗に九十度で頭を下げる少女の片手には、子どもには似つかわしくない長い錫杖が一本。その錫杖が、傍らの地蔵が持つそれと、まったく同じ形をしていたので。

 

「おや、もしかしてお前は……」

「はい。私、この地蔵です。地蔵菩薩です。子どもたちを追い払ってくれて、どうもありがとうございました」

「ほう」

 

 地蔵菩薩とは文字通り菩薩の一尊であり、衆生(しゅじょう)を救おうとする修験者の名。どうやら、この石でできたお地蔵様の体を媒体にして、現世(うつしよ)に顕現なさっているようである。

 お地蔵様に声を掛けられるのははじめてだったので、月見は礼を返すのもすっかり忘れてしまった。

 

「しかも掃除までしていただけるなんて、本当になんとお礼を言ったらいいか」

 

 心底安堵しきった様子で、少女が面を上げる。黒髪が翻り、顕になったその相貌に、月見は――

 

「ぶはっ」

 

 月見は、吹き出した。あまりの不意打ちに、失礼だとは思いつつも、こらえることができなかった。

 

「なっ!? ひ、人の顔を見ていきなり笑うとは何事ですかっ!」

 

 途端に少女がいきり立って叫ぶが、だったらまずは鏡を見てご覧よと月見は思う。笑いをこらえるので精一杯なので、思うだけで言葉にはできないけれど。

 とにかく、黒い。顎の先からおでこの上まで、唯一色が違うのは、瞳の中の翠色くらい。

 少女の顔は、もうそれは見事なまでに、墨で真っ黒に塗り潰されているのだった。

 ちょうど、そこの地蔵と同じように。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――いやあ、すまなかったね、いきなり笑ったりして……くっく」

「い、今だって笑ってるじゃないですかっ」

 

 汲んできた水で地蔵の墨を丁寧に洗い落とせば、少女の顔はすっかり綺麗になった。しかも黒髪だと思っていたのも全部墨だったようで、今は新緑さながら鮮やかな緑色を取り戻していた。

 地蔵の少女は、名を四季映姫といった。麓の人里とこの山道から悪い妖怪を退ける、ありがたい力を持った地蔵であるらしい。そんな御方がこんなにも幼い姿をしていることを、月見は改めて意外に思った。

 少し前まで彼女を囲んでいた里の子どもたちと、見た目の年齢はそう大差ない。背丈は月見の胸元に届くかどうかも怪しく、ついでに中身の方も、地蔵だからといって特別達観しているわけではないようで。

 

「ひどいですっ、無礼ですっ、罰当たりですっ」

 

 せっかく綺麗になった顔を真っ赤にして、悔しそうに錫杖で地面を叩く姿は、どこからどう見てもまさに子どもなのだった。

 

「……ともあれ終わったよ、掃除」

 

 伸び放題だった雑草を刈り取り、枯れ葉を竹ぼうきで掃き集め、蜘蛛の巣を同じく竹ぼうきで取り払う。たったこれだけのことだが、やってみれば随分と綺麗になった。もとが相当ひどかっただけに、まるで見違えるようだ。

 映姫が真心のない軽い笑顔を浮かべて言う。

 

「あ、ご苦労様です」

「……そこは『お疲れ様』と言うところじゃないか?」

 

 当たり前のことをやってもらったとばかりに、気遣いの気持ちが感じられなかった。

 月見が半目になれば、映姫はふふんと得意顔で、

 

「そうですねえ。あなたが初対面でいきなり私を笑うなんて無礼な真似をしなければ、そう言っていたかもしれませんね」

「いや、あれは不可抗力だろう?」

 

 なにせ、顔が真っ黒だったのだ。初対面とはいえ、初対面だったからこそ、笑うなという方が難しい。

 しかし映姫は人差し指をまっすぐに立て、ピシャリと切り返す。

 

「黙りなさい。どんな理由があれ、初対面でいきなり笑われたら女の子は傷つくんです。そこを上手く取り繕うのが男の甲斐性というものですよ」

「おや、地蔵様が男女差別かい」

「差別ではありません。男性が女性に対して負う当然の務めを説いているだけです」

「……ところで、人前に出る時には身嗜みを整えるっていう、人として当然の務めを説く必要はあるか?」

 

 くうっ、と映姫が歯軋りをした。

 

「あとは、世話になった人には感謝するのも当然の務めだよ」

「あら、自分からそんなこと言うなんて図々しいですね。それにあなた、人間じゃないでしょう」

 

 月見は、ほう、とかすかに眉を上げて映姫を見た。彼女は再び得意顔になって、勝ち誇ったようにすっと胸を反らした。

 

「人間に化けた程度で、私の目を誤魔化せるとでも思いましたか。甘いんですよ」

「ふうん……」

 

 今の月見は『人化の法』こそ使っていないが、決しておざなりな変化をしているわけでもない。それをこうもあっさりと見破られたのは、なかなかに久し振りな話だったので、素直に感心してしまった。

 やはりこんな見た目であっても、修験者らしからぬ上から目線な性格であっても、地蔵は地蔵ということなのだろう。

 

「まだ小さいのに優秀だね」

「そうですよ、私はとても優秀な地蔵で――って待ちなさいっ、あなた今、『小さい』って言いましたか!?」

「ああ、言ったけど……」

 

 事実、映姫の背丈は大きくない。人間でいえば十代に届くかどうかの未成熟な体を、社交辞令以外で大きいと評する者はいないだろう。

 つまり、月見としては単に事実を口にしただけだったのだが、けれど映姫はそれがとても――とてもとても、お気に召さなかったらしい。錫杖をじゃらじゃら振り回して、一生懸命に地団太を踏みながら叫んだ。

 

「私、小さくないですっ!」

「……いや、小さ」

「小さくないっ!!」

「……」

 

 ……まあ、彼女が自分の身長に激しい劣等感を抱いているのはよくわかったけれども。

 しかしだからといって、映姫がどれだけ必死に地団駄を踏もうとも、それで彼女の身長が伸びるわけではない。そう思うと、月見はちょっと気の毒になってしまった。

 月見が掛けてあげるべき言葉を上手く見つけられないでいると、映姫がふるふると震え出した。

 

「そ、そんな生温かい目で見ないでくださいっ! さては自分の背が高いのをいいことに私を馬鹿にしてますね!? 調子に乗らないでくださいっ! 私だってそのうち、ばーんって大きくなりますもん!!」

「……ああ、うん、……そうなるといいな?」

 

 両手を上げて一生懸命真上に背伸びする映姫に、どうか幸よあれ。

 映姫の怒りが沸点を迎えた。

 

「ですからその、可哀想なものを見る目をやめなさいっ! 地蔵に対してなんて態度を取るんですか、さてはあなた悪い狐ですね!?」

「そんなことないよ。地蔵の掃除をしてあげた真面目でいい狐じゃないか」

「黙りなさいっ、私がそう思ったらそうなんです! さあそこに直りなさい、説教してあげますからっ!」

 

 己の足下が映姫の錫杖でビシビシ痛めつけられているのを眺めながら、月見は、なんだか面倒なことになったなあと内心でため息をついた。無論月見とて、決して見返り目当てで掃除をしたわけではないけれど、それでもお礼代わりに説教をされるなど、まったくもって御免である。

 空を振り仰ぐ。いい具合に日も傾いてきたし、適当にあしらって逃げてしまおうか。

 

「早くしなさいっ! それとも、物理的なお説教の方がお好みですか!?」

「どっちも勘弁だよ。さあ、錫杖を振り回すのをやめてくれ。私はもうそろそろ行くからね」

「あ、ちょっ――ま、待ちなさい!」

 

 服の裾を掴まれそうになったので、月見は走った。

 あー! と背中に映姫の叫びが届く。

 

「あなた、逃げるんですねっ!?」

「逃げるともさ。子どもに説教されて喜ぶような趣味はないよ」

 

 映姫が錫杖を振り回しながら追いかけてくるが、体が小さいからかあまり速くない。見る見るうちに、月見との差は大きく広がっていった。

 

「じゃあなー。私に説教したいのだったら、もっとまともな威厳を身につけてからにしてくれ」

「こ、このっ……! 見てなさいっ、すぐに大きくなって見返してやりますからね!?」

「いや、大きくなるだけじゃなくて……まあいいか」

 

 結局、一日中身動きしない地蔵だけに体力が弱いのか、映姫がすぐに息切れを起こして追いかけっこは決着した。

 膝に両手をついてぜえぜえ息をした映姫は、最後の力を振り絞って、めいっぱいの空気を吸って。

 

「今度会ったらお説教ですからね――――――――ッ!!」

 

 その叫びに背中を叩かれながら、随分と個性的な地蔵に出会ったものだと、月見は小さく笑ったが。

 同時に、とりあえず帰りはここを通らないようにしようと、心に堅く誓いもしたのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――そうそう、そんなこともあったっけ。

 目覚めは穏やかだった。寝床として貸してもらった紅魔館の一室――その、咲夜の手で完璧にメイキングされたベッドの上で、月見はゆっくりと体を起こした。

 それから、映姫の叫び声がまだ頭の中で反響していることに気づいて、苦く笑う。

 

「結局、あのあとに会うことはなかったっけ」

 

 次に会ったら説教などと言われたためか、しばらくの間は会いに行こうという気が起こらず、次に月見があの道を通ったのは数年後のことだった。けれどその時には既に、映姫は地蔵ごとどこかへ消えてしまっていた。

 どこか別の場所へ移動したのか、それとも、撤去でもされてしまったのか。

 

「……」

 

 そう思うと、一度くらいは素直に説教されてやっても、いい思い出になっていたのだろうか。

 

「……ともあれ、朝か」

 

 ゆっくり背伸びをしてから、ベッドを降りる。カーテンの隙間から差し込む柔らかな光を見るに、今日も幻想郷は快晴のようだ。

 ドアを小綺麗にノックする音と、声が聞こえる。

 

『……月見様、もう起きられましたか?』

「ああ、ちょうど起きたところだよ」

 

 控えめながらドア越しでもよく通る咲夜の声に、そう返事をして、月見はカーテンを引き開けた。途端、部屋中に満ちあふれた光に一瞬視界が真っ白となって、けれどすぐに満天の青空が広がった。

 空の果てまで透き通る、その青に、目を細めて、笑う。

 ――さて、今日は幻想郷のどこを見て回ろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まずは、妖怪の姿のままで人里へ行ってみることにした。今後幻想郷で生活をする以上、人里へ行くたびに人化の法を使うのは手間になる。例えば人里でよく買い出しをするという藍のように、妖怪として受け入れてもらえるのならば、それに越したことはない。

 けれど月見は、先日ここを訪れた際に、里人に無用な警戒を持たれまいと人を偽った身だ。今になって正体を明かして、果たして受け入れてもらえるのかどうか。正直なところ、俺たちを騙してたのか、なんて言葉を投げられても仕方ないだろうと考えていた。

 だからこそ、月見の正体を見てもとりたてて騒ぐことなく、それどころか「本当に狐さんだったんだねえ」と親しげに声を掛けられた時には、月見はいい意味で肩透かしを食らった思いだった。

 話を聞いてみれば、昨日紫のスキマで人里に戻ってきた慧音が、今後のことを考えてあれこれと気を遣ってくれたらしい。そう広くもない人里だから、慧音が少し里人を集めて話をするだけで、あっという間に里中の噂話となった。

 月見の正体が狐だということと、決して悪い妖怪ではないから、受け入れてやってくれということ。慧音先生が言うなら違いねえ、と里人たちも二つ返事だったのだとか。

 畢竟、なにもかもが杞憂だったのだ。世話焼きな慧音に礼を言うべきだろうと月見は思ったが、彼女は今、寺子屋で授業の真っ最中らしいので。

 

「……なんだか、あれこれ気を揉んで損をしたね」

「ふふ、そうですね」

 

 人里で買い出しがあるのでと言ってついてきた咲夜と一緒に、里の甘味処でのんびりと団子を摘むことにした。店の外にこしらわれた三人掛けの腰掛けに二人で座って、間には二人前の三色団子。この甘味処の看板メニュー、らしい。

 

「咲夜は、買い出しの方はいいのか?」

「ええ、特に急ぎというわけでもないので。もう少しゆっくりしてますわ」

 

 咲夜が三色団子の串を一本手に取り、一番上の桃色の団子を半分だけかじって食べる。その口が笑みの形で緩んだのを見て、月見は何気なしに問うた。

 

「咲夜は、甘いものが好きなのか?」

 

 咲夜は団子を飲み込んでから、

 

「ええ、それなりに……。月見様は?」

「私もそれなりにかな。特別好物というわけではないけど、たまにこうして食べたくなる」

 

 月見も串を取り、桃色の団子を一つ丸ごと口の中へ。控えめながらもしっかりとした甘さが香る、看板メニューを冠するのも頷ける出来栄えだった。

 

「美味しいですね」

「そうだね」

 

 咲夜も、半分になっていた自分の桃色をはむっと食べて、

 

「はいよー、そこの銀髪同士のうら若いカップルさん。お茶だぜー」

「むぐぅっ」

 

 いきなり背後から飛んできた男の声に、月見はとりたてて動じなかったが、咲夜は盛大に驚いて団子を喉に詰まらせかけた。

 

「だ、大丈夫か?」

 

 咲夜は自分の胸をどんどんと叩きながら、何度か咳き込んで、

 

「え、ええ、なんとか……」

「ならいいんだけど……こら店主、妙なこと言っておどかさないでくれよ」

「アッハハハ、すまねえな」

 

 月見が後ろを振り返って半目になれば、甘味処の店主はけれど、微塵も悪びれる素振りなく呵々と喉を鳴らして応えた。顔には五十も半ば過ぎようという老いの色が見て取れるものの、対照的に体つきは逞しく、若々しい生気に満ちあふれている。性格は食べ物を扱う店の主人とは思えないほど粗野で、それが逆に親しみやすい人柄のよさを感じさせる男だ。

 彼は湯呑みの載った盆を月見と咲夜の間に颯爽と差し出し、ニッと大きな歯を見せて笑う。

 

「ちょっとしたお茶目な冗談よ、……冗談でよかったんだよな?」

「当たり前ですっ」

 

 その盆の上から、すっかりヘソを曲げた咲夜が湯呑みをひったくっていく。中身をこぼさなかったのが不思議なくらいの勢いに、月見は苦笑いをして、残った方の湯呑みを静かに手に取った。

 

「繁盛してるみたいだね、店主」

 

 見回せば、店はまさに千客万来の有様だった。外に置かれた腰掛けはすっかり満員になっていて、店内の方から聞こえる談笑も絶えることがない。昼食にはまだまだ早い時間帯でこれなのだから、昼下がりにでもなったらどうなってしまうのだろうか。

 店主は、青空を仰いで豪快に笑う。

 

「いやあ、ウチは普段は細々とやってるしがない甘味処よ。今いるのはほとんどあんちゃんたちが連れてきた連中だぜ? お陰様で、稼がせてもらってますってな」

 

 銀の狐に銀のメイドという取り合わせは、黒髪がほとんどな人里の中では図らずとも目を引くらしい。興味本位で見にやってきて、そのまま流れで団子を頼んでいく里人が、随分と多いようだった。

 

「にしても、あんちゃんが狐っこだったたあ意外だわなあ」

「悪かったね、騙すような真似をしてて」

「や、そりゃあまったくもって構わねえんだがよ」

 

 店主は腕を組み、しみじみ感心しきった様子で何度も頷く。

 

「そうすっとあんちゃんは、妖怪なのに人間を助けてくれたわけだろ。藍様もそりゃあ大層なべっぴんさんだし、ひょっとして狐ってのは、案外気がいい連中なのかね」

「……さあ、どうかな?」

 

 店主の探るような目を、月見は曖昧に笑ってやり過ごす。確かに狐は、狸と一緒になって人間のごく身近で生きてきた妖怪だから、鬼や天狗に比べれば友好的な者は多い。しかしそうであっても、基本的には人を化かすことを生き甲斐とする種族。必ずしも、人間にとって益のある妖怪ではない。

 月見や藍のように、人を化かすことをやめて平穏に生きているのは、ほんの一握り中の一握りだけだ。

 と、

 

「旦那ー、いつものやつちょうだーい!」

 

 店の中から、談笑を突き抜けて張りのいい女性の声が鳴った。青空を射抜く爽やかな声に、けれど店主の表情が見る見るうちに曇っていったので、月見は首を傾げて問うた。

 

「店主、客みたいだけど」

「ん? ああ……」

 

 生返事で頷いた店主は、小声でぼやく。

 

「あんにゃろ、また仕事サボってきたんじゃねえだろうなあ……」

「サボりか」

「ああ、サボりだ」

 

 月見の脳裏を操の能天気な笑顔が掠めていく。もしあいつだったら引っ捕らえて椛の前に突き出すべきかと思うが、残念ながら声からすると別人だろう。

 店主は嘆くように頭を振り、

 

「一応はウチのお得意さんだから、邪険にはできねえんだけどよ……。あんにゃろうの上司の姉ちゃんがよく連れ戻しにやってくんだけど、店の前でそのまま説教始めちまうことが多くてなあ。お陰で結構客足に響くのなんのって」

「私の知り合いにもいるよ、サボり癖があるやつは。どうして真面目にできないんだろうねえ」

「おお、そっか。あんちゃんも苦労してんなあ……」

 

 いや、実際に苦労しているのは椛なのだが――しかし店主がとてもしんみりとした様子だったので、敢えてまで口にはできなかった。

 店の方から、また声が聞こえる。

 

「あっれ? 旦那ー、いないのー? サボりー?」

「うっわ、この世界中であいつにだけは言われたくねえ台詞だなあ……。やれやれ、んじゃまあ行ってくるわ。ごゆっくり」

「ああ」

 

 月見が見送る店主の背中は、男の哀愁の背中だった。

 月見はため息、

 

「ここにもサボり魔が一人……か。ちょっとは咲夜を見習ってほしいものだね」

「い、いえ、私なんて全然……」

 

 咲夜が恐縮したように首を竦めるけれど、それは謙遜ではなく卑下というものだろう。咲夜は本当によく頑張っている。あの広い紅魔館の家事を最前線で率いて、更に手の掛かる主人の世話まで率先してやっているのだから、従者としては藍と並んで幻想郷屈指と評していい。

 そう言うと、咲夜はますます恐縮した様子で縮こまった。

 

「あ、ありがとうございます……。でも私なんて、まだほんとに未熟者で」

「……咲夜が未熟者だったら、未熟にすら届かない無能者がどれだけ出てくるんだろうねえ」

 

 操なんて、あっという間に天魔から哨戒天狗まで降格されられるに違いない。

 

「いえあの、そういう意味で言ったんじゃなくてですねっ」

「わかってるよ。ちょっとした冗談さ」

「……むっ」

 

 十六夜咲夜は、意外と怒りっぽい。またヘソを曲げた彼女は、桃色の次にある白の団子を、今度は一口で頬張っていた。

 

「――あのさー、そこのカッコいい狐のお兄さんや。ちょっといいかい?」

「ん?」

 

 掛けられた声に月見が振り向けば、染物顔負けに鮮やかな緋色のおさげを揺らし、人懐こい笑顔とともにこちらに近づいてくる女性の姿。身の丈ほどはあろうかという大きな鎌を右肩に担いでいて、死神なのかなんなのか、人里に似つかわしくない物騒な出で立ちをした女性だ。

 声から察するに、彼女が先ほど店主を呼んでいた常連客兼サボり魔らしい。月見は同じく笑顔で応じる。

 

「なんだい、美しいお嬢さん」

「むっ」

 

 ……十六夜咲夜は、やはり意外と怒りっぽい。

 緋色髪の女性は、月見の切り返しが予想外だったのか、くすぐったそうに片頬を掻いた。

 

「あや、まさかそう返されるなんて……世辞とはいえ、こっ恥ずかしいねえ」

「先に言い出したのはそっちだろうに」

 

 カッコいい狐のお兄さん、などと言われたので、月見も相応の返し方をしただけだ。……とはいえ、それがあながち世辞とも限らないだけの容姿を、事実として彼女は持っているようだけれど。

 

「まあそりゃあそうだけどね、でもやっぱり嬉しいもんだよ? 実際お前さん、なかなか悪くない顔してるしね。……あ、そういう意味であたいがさっき言ったのはあながち世辞でもないから。それなりに本心だよ、カッコいい狐さん?」

「……」

 

 隣の咲夜がなにやら不穏な気配をまとい始めたので、月見はさっさと本題へ切り込むことにした。

 

「で、私になにか用か?」

「おっとそうだった。悪いんだけど、隣いいかねえ。他に空いてる場所もないみたいでさ」

 

 見回してみれば、外の腰掛けが満員なのはあいかわらずなようだ。本当によく繁盛している。

 なので月見は快く頷き、

 

「どれ、ちょっと待っててくれ」

「おっ、すまないねえ」

 

 腰掛けの真ん中に置いていた団子の皿を、手に取った――

 

「……」

 

 その瞬間、咲夜がすっと動いて真ん中の席を陣取った。

 女性が、おや、と面白そうな顔をしたのに対し、咲夜は対照的に無愛想な声で、

 

「どうぞ、こっちの席に座りなさいな」

 

 先ほどまで自分が座っていた席をぞんざいに叩けば、女性はますます面白いものを見たように、口をニヤリと三日月の形にして言った。

 

「お前さん、確か紅魔館のメイドだね?」

「それがなにか?」

「いーや、別にぃ? ただお前さんの動きがあんまりにも速かったから、なんかそこに座られたくない理由でもあったのかなーって思っただけ」

「……」

 

 不機嫌な咲夜を微塵も意に介すことなく、女性は不敵な含み笑いをして、言われたままの席へドカリと腰を下ろした。

 なんだか妙なことになっている気がする、と月見は思う。

 

「えーっと、お前さんの名前は十六夜咲夜だったね。んで、そっちのカッコいい狐のお兄さんは?」

「人に名前を尋ねるなら、まず自分が名乗ったら?」

 

 なんだか咲夜がセメントだ。一緒に団子を食べていた時の幸せそうだった瞳はどこへやら、今はナイフさながらに冷めきっている。

 しかし女性は、肝が据わっているのかまったく怯む様子がない。

 

「お前さんはあたいの名前知ってるだろう?」

「さあ、誰だったかしら」

「うっわひどおっ。小町だよ、小野塚小町。……あ、そういうわけでそっちの狐さんもよろしくね」

「……ああ、よろしく。私は月見、ただのしがない狐だよ」

 

 もしかすると、咲夜とこの女性――小野塚小町は、仲が悪いのかもしれない。もっとも、咲夜が一方的に小町を敵視している形ではあるけれど。

 

「お前さん、このあたりじゃ見ない顔だねえ。人里で団子を食べる銀狐なんて、少しは噂になってそうなもんだけど」

「最近、外の世界からこっちに来たばかりでね。ええと……そうだね、まだ四日目の新参者だよ」

 

 言うと、小町は感心したように短く口笛を鳴らした。

 

「ほおー、それなのにもうここで団子食えるくらいに馴染んだのかい」

「そういうお前こそ、そんな物騒な物を持ってる割に随分と馴染んでるじゃないか」

 

 月見は、小町が担ぐ長鎌を見て苦笑する。本物かどうかはわからないが、どちらにせよ見た目が立派な凶器であるのは間違いない。そんな物を持って白昼堂々人里を歩く不審者がいれば、たちまち大騒ぎになって慧音がすっ飛んでくるだろう。

 それがないということは、店主の言葉通り彼女はここの常連客であり、かつ危険な人物ではないと里から受け入れられている証拠。

 

「ここに馴染むために、一体何回仕事をサボったんだ?」

 

 うっわ、と小町が露骨に嫌そうな顔をした。

 

「それ、ひょっとしてここの店主から聞いた? まったく旦那も口が軽いねえ」

「結構迷惑してるみたいだったけど」

「そいつは濡れ衣だよ」

 

 拗ねるように唇を尖らせて、

 

「迷惑掛けてるのは、あたいを所構わず説教する四季様の方だって。あたいはたくさん団子を食べてここの売上に貢献してるんだから、むしろ感謝されるべき上客ってもんだ」

「や、それだってもとを言えばお前がサボるから――って、」

 

 月見は呆れながら言いかけたが、途中ではっとして言葉を止めた。

 今、小町の口からこぼれた名は。

 

「――四季様?」

「ん? ……ああ、四季様ってのはあたいの上司。そうそう、自己紹介が足んなかったけど、あたいはこの通り死神でね。だから上司の四季様は、すなわち閻魔様だ。地獄を代表する閻魔王、四季映姫! ってね。べっぴんさんなんだけど、説教くさいイヤーな性格してんだこれがー」

 

 やんなっちゃうよねえと小町が空を振り仰ぐけれど、それにわざわざ相槌を打つような心の余裕は、今の月見にはない。

 一体、どうして予想できるだろうか。昨夜夢を見て思い出したばかりの少女の名を、こんなところで聞くことになるなんて。

 

「こ――――ま――――ち――――…………!」

 

 遠くから響いてくる声は、決して幻聴ではない。声変わりをしたのか、あの頃よりも少し低く、琴を弾くように芯のついた声音は――けれど間違いなく。

 

「うわあ、もう来たよ……。あいっかわらず真面目なんだからもー……」

 

 小町が苦い顔をしてため息をつく。月見は苦笑いをして吐息をこぼす。

 人里の向こうから猛烈な勢いで突っ走ってくる彼女は、遠目からでもはっきりと見て取れるほどに背が高くなっていて。かつて一生懸命背伸びをしてまで訴えた悲痛な願いは、何百年もの時を経て、見事現実となったらしい。

 あの頃とはもう、見違えるほどに大人になった、彼女の姿を。

 けれど、見間違えなどするものか。

 

「久し振りだね、……映姫」

 

 笑みとともに呟いた、その瞬間、

 月見は、

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――月見は、地面で大の字になって青空を見上げていた。

 あれ? と思う。自分は一体どうなったのだろうか。映姫の名を呟いたその直後から、記憶がごっそり抜け落ちてしまっている。

 

「月見様っ! 月見様、大丈夫ですかっ!?」

 

 咲夜の悲鳴みたいな声に耳朶を叩かれて、ああそうか私は地面に倒れてるんだ、と月見はようやく気づくことができた。こめかみのあたりが、鈍く痺れるような痛みを発している。しばらくの間考え、やっとの思いで抜け落ちていた記憶を引っ張りあげる。

 

『久し振りだね、……映姫』

『こ――――ま――――…………成ばああああああああああいっ!!』

 

 映姫の名を呼んだ直後、月見は標的を小町から切り替えた映姫に、持っていた板切れでこめかみをぶち抜かれて。そしてそれがあんまりな威力だったので、少しの間意識が飛んでしまった。

 ……というのが、月見がここで大の字になっている事の顛末なのだった。

 

「ちょっ、四季様!? いきなりなにはっちゃけてるんですか!?」

「だ、だだだっ黙りなさい小町ッ! この狐、今更どの面下げて私の前に出てきたんですか!?」

 

 こめかみを押さえながら体を起こしてみれば、どうやら月見は十メートルほど吹っ飛ばされていたらしい。甘味処の手前で、いきり立つ映姫が小町に羽交い締めにされているのが見える。

 咲夜が、すっかり困惑した様子で月見の背に手を伸ばしてきた。

 

「だ、大丈夫ですか? お怪我は……」

「大丈夫だよ。……ただ、まあ、びっくりしたね」

 

 まさか顔を合わせるなりいきなりぶっ飛ばされるとは思ってもいなかった。映姫にとっての月見とは、それほどまでに憎っくき存在だったということなのだろうか。未だこめかみに残る痛みには、彼女の数百年分の恨み辛みがしっかりと凝縮されていた。

 映姫は暴れに暴れている。

 

「放しなさい小町! あの狐、まだ息があるッ! 早くトドメを刺さなきゃッ!」

「……トドメ?」

 

 その一言を聞いて、咲夜の瞳がまたナイフのようになった。冷たい空気を振りまきながら立ち上がった彼女は、けれど月見を振り返るなり莞爾と笑い、

 

「申し訳ありません月見様、少しだけ待っていてください。――すぐに静かになりますから」

「待て待て待て」

 

 十六夜咲夜は、意外と喧嘩っ早い。なんの躊躇いもなくナイフを抜こうとした彼女を慌てて引き留める。

 

「月見様を傷つけることは、紅魔館を敵に回すことと同義です」

「いや、そう言ってくれるのは嬉しいけどな? とりあえず私は大丈夫だから、落ち着いてくれ」

 

 もちろん咲夜の気持ちは嬉しかったけれど、それにしたって閻魔ともあろう相手に喧嘩を売るとは、彼女もなかなかにはっちゃけている。

 咲夜の方はそれでひとまず収まったものの、映姫はあいかわらず、小町の羽交い締めから抜け出そうと躍起になっていた。一触即発の空気を前に、周囲の里人たちが巻き添えを恐れて次々と退散していく。腰掛けに座って団子を食べていた客も、注文を待っていた客も、みんなが甘味処から遠ざかっていく。

 そしてついさっきまでの賑いが白昼夢だったみたいに、あっと言う間にがらんどうとなって。

 

「四季様っ、ほんと、ほんとお願いしますから落ち着いてくださいっ! 店主がすごい笑顔でこっち見てる! すごい人殺せそうな笑顔でこっち見てますからあああああっ!?」

「大体この狐、今までどこをほっつき歩いてたんですかっ! 何百年も音沙汰がなくて、私がどれだけ寂し――じゃなくて、心ぱ――でもなくて、憤慨したと思ってるんですか!? 今すぐ説教してやるからそこに直れえええええっ!!」

「四季様ああああああああっ!!」

 

 嬉しい繁忙期から一転、涙も涸れる閑散期へと突き落とされた店主が、青筋の浮いたとても綺麗な笑顔で映姫たちを見つめているのが印象的だった。

 

 

 

 

 

 それから少しして、主に映姫が原因の喧騒はすっかり収まり、代わりに腫れ物を扱うような、かすかな緊張を孕んだ空気がピンと糸を張っている。月見は食べかけだった団子を片手に、目の前に広がる光景を驚き半分感心半分の心地で見つめていた。

 声、

 

「――いいですかい。閻魔様ともあろう御方が普通にこの人里までやってくることに関しちゃあ、わたくしにはなにも言う権利がないですし言うつもりもありやせん。むしろ、いっそ放っときゃあいいこのバカをわざわざ連れ戻しに来るのは、大変仕事熱心で素晴らしいと思いまさあ」

 

 甘味処の店先で、店主が滔々と説教の舌を振るっている。そして店主が仁王立ちしたその先で、地べたの上に泣く泣く正座をしているのは二人の女性。

 

「ですがね閻魔様。ウチの店先で騒ぐのだけはやめてくれって、わたくし何度もお願いしてたと思うんですがね。しかも今日はなんですかい? 店先でこのバカを説教されるだけでも客足に響くってのに、いきなりお客さんをぶん殴るってぇのはどういう了見で? 大切なお客さんにそんなことされちまっては、さすがに卑小なわたくしなれど、大変恐縮ながら口を挟まずにはいられねえってもんです。営業妨害って言葉、まさか知らないわけはございませんよね。お客さん、みんな帰っちまったんですが、そのあたりどうお考えで?」

「も、ももも、申し訳ありませぇぇぇん……」

「そんで隣のバカ。オメエ、今日はサボって来たわけじゃないっつってたよな。非番だから大丈夫だっつったよな。大丈夫って五回くらい言ってたよな。あれ全部嘘か。嘘かコノヤロウ。あ?」

「ご、ごめんよ旦那ぁぁぁ……」

 

 四季映姫と小野塚小町。ともに彼岸の存在である彼女らが、二人揃って人間に説教される光景というのは、さすがの月見も言葉が出なくなるほどにシュールの極みだった。一度は根こそぎ人気のなくなった店先に、ぞろぞろと野次馬たちが戻ってくるほどだ。けれどそこから団子の注文まで流れていく者は一人もおらず、失われた客足はどのみち元には戻らない。お陰で店主の説教は水を落とすが如く、もうそろそろ十分近くになるものの一向に途切れる様子がない。

 ううむ、と月見は低く唸り声を上げた。

 

「店主……お前って実は、結構すごい人間だったんだね」

 

 小町の方はさておき、地獄の閻魔王ともあろう映姫を地べたに正座させた上で説教だなんて、並の度胸でできることではない。

 店主は説教の舌を一旦休めると、怒気をしゅっと引っ込めて気恥ずかしそうに笑った。

 

「やあ、俺ァただの甘味処の店主だぜあんちゃん。……それよか、あんちゃんこそこいつらに説教しなくていいのかい。いきなりぶん殴られて痛かったろうに」

「そうですよ月見様。一発殴り返してもいいんじゃないですか」

 

 真顔で物騒なことを言う咲夜が少し怖い。

 

「咲夜……私は本当に大丈夫だから、落ち着いてくれ。な?」

「私は落ち着いてますわ」

「そうじゃなくてね、当の私が怒ってないんだから、咲夜も怒らないで」

「月見様が怒らないから代わりに怒ってるんですっ」

 

 咲夜は不服げに頬を膨らませ、正座している映姫をきつく睨みつけるなり、

 

「大体なんなんですか。出会い頭にいきなりあんなことするなんて、公明正大の閻魔様が聞いて呆れますわ」

「だ、騙されてはなりません! そこの狐は、何百年も前に私にひどいことをしたのです! だからあれは当然の報いで」

「あら。そんな昔のことを未だに根に持ってるなんて、閻魔様も意外と私欲まみれですのね」

 

 繰り返すが、咲夜が怖い。

 一瞬怯んだ映姫は、すぐにぶんぶん頭を振って体勢の立て直しを図る。

 

「……と、ともかく! そこの狐、初めて会った時に私の顔を見ていきなり笑ったんですよ!? ひどいと思いませんか!?」

 

 なるほど、自分の顔が真っ黒だったことは伏したまま、月見にすべての罪をなすりつけようという魂胆か。そうはさせるものかと、月見はすかさず口を挟んだ。

 

「確かに笑ったよ。子どもたちの落書きで顔中真っ黒になっていたからね、つい我慢できなくて」

「そんなの笑って当たり前じゃないですか」

「あうっ」

 

 咲夜にバッサリ切り捨てられ、映姫が胸を押さえて俯いた。ということは、映姫だって自分に非があったことは少なからず自覚しているのだろう。それなのに月見にすべての罪を押しつけようとするあたり、なんとも強情というか。

 映姫の横から、小町が呆れ顔になって言う。

 

「てか、顔に子どもの落書きって。四季様、一体なにやってたんですか」

「し、仕方なかったのですっ。あの時の私はただの地蔵だったから……」

「理由はどうあれ、それではあなたにだって非がありますわ」

「そうだなあ……。落書きした子どもを怒るってんならまだしも、それじゃああんちゃんはただのとばっちりみたいなもんだわな」

「う、ううっ……」

 

 三人に白い目で見られ、映姫がしおしおと縮こまっていく。見事な四面楚歌の構図に、映姫の反論は完全に封殺された。悪は滅びるのである。

 

「閻魔様、このあんちゃんはあなた様が思ってるほど悪人じゃありませんさ。この前なんか、外の森に迷い込んじまった里の子どもを助けてくれたんです。その善行でチャラってわけにはいきませんかね」

「紅魔館では、すれ違っていたお嬢様と妹様の仲を取り持ってくれましたわ。……むしろチャラにしてもお釣りが来ます」

「……」

 

 すると映姫は、心底面白くなさそうなしかめっ面をしながら、もそもそと一枚の手鏡を取り出した。

 おや、と月見は思う。閻魔が持つ手鏡といえば。

 

「もしかして、浄玻璃の鏡か?」

 

 映姫は月見を一瞥し、やはり心底面白くなさそうに、

 

「へえ、知ってるんですか。博識ですね、すごいですね」

「……」

 

 まったくもって褒められた心地がしないが、それはさておき。浄玻璃の鏡は、閻魔が死者の生前を見極めるために使用する鏡だ。一挙手一投足に至るあらゆる生前の行いを暴き出し、いかな嘘をも看破してしまうという。どうやら生者相手にも力を持つようで、これで咲夜たちの言葉が真実がどうか確かめてやろうということらしい。

 

「ところで最近は、プライバシーってものが騒がれててね」

「黙りなさい。他者を公平に裁くためには必要なものです」

 

 月見は肩を竦めて、食べかけになっていた団子をむぐむぐと食べた。

 浄玻璃の鏡に映される真実は、もちろん月見の場所からは見えない。だが映姫にとってはよほど予想外な光景が広がっているらしく、彼女はしばし鏡を食い入るように見つめたのち、やがて残念そうなため息を隠そうともせず、淡々と浄玻璃の鏡をしまった。

 

「どうやら、真のようですね」

「……嘘だったらよかったのに、って顔してる」

 

 咳払い一つで無視された。手に持っていた板切れを月見へと突きつけて、気取ったすまし顔を浮かべながら、凛と通る声で宣言する。

 

「妖狐・月見。あなたのこの二つの善行を鑑みて、過去の罪については不問とします」

 

 特別大声を出しているわけでもないのに、その声音は一切の申し立てを封殺するように強く月見の心に入り込んでくる。これが、紛うことなき閻魔としてのカリスマなのだろう。地べたの上に情けなく正座させられさえいなければ完璧だった。

 とはいえ、あの時出会ったしがない小さな地蔵が、今や地獄を統括する代表者の一人にまで成長したという事実には、素直に感心せざるを得ない。

 それに、身長だってしっかりと伸びているし。

 

「どれ……映姫、ちょっと立ってみてくれないか?」

「なぜですか」

「どれくらい背が伸びたのか気になるんだよ。だからほら」

「……ああ、そうですね」

 

 神妙に頷いた映姫は、それからちょっと得意そうな顔をして、女性らしい起伏に恵まれた胸を惜しげもなく逸らして言った。

 

「では恐れ多くも立ち上がってあげますので、しっかりと目に焼きつけなさい。もう、私の方がお姉さんなんですからね!」

 

 映姫が正座を解いて立ち上がる。そうして改めて見てみれば、映姫の体は本当に見違えるほどに成長していた。あの頃の背丈は魔理沙や慧音よりも下だった気がするが、今は咲夜よりも大きいようだ。もともと器量よしだった顔に、服の上からでも容易にわかる豊かな体つきも加わって、見た目だけならば間違いなく、立派な一人前の女性と評していいだろう。中身はさておき。

 

「大きくなったねえ」

 

 素直に言えば、映姫はますます得意顔になった。

 

「ふふふ、そうでしょう? どうですか、ちゃんとばーんと大きくなりましたよ? すごいでしょう?」

「いや、まったくもってその通りだね」

「もう子ども扱いはさせませんからね。私の方がお姉さんで、しかも閻魔なんですから、ちゃんと敬意を払って接するようにっ」

「さっきぶん殴ったのを謝ってくれたら考えるよ」

「そ、それは……」

 

 ギクリと肩を震わせた映姫は、逃げ道を探すように目を横に逸らしてから、

 

「その……そ、そう、それは因果応報というものです。少なくとも、あの時に私を子ども扱いして馬鹿にするような真似をしていなければ、起こらなかったこと。一つの反省要素ですよ」

「……」

「そ、そもそも、あなたは少し人を喰ったような態度が目立ちますっ。もっと誠実に人と向き合うことを覚えなさい。浄玻璃の鏡で見たところまったく善行を積んでいないわけでもないのですから、そこさえ正せば快適な死後が約束されるでしょう。初対面でいきなり相手を笑ったりせず、子ども扱いせず、説教にはありがたく耳を傾ける。一度きりの人生を謳歌するのは素晴らしいことですが、だからといってあまり好き勝手に生きているようだと手痛いしっぺ返しを食らいますよ? 因果応報は世の理。人を蔑ろにすれば、いずれ自分自身も人から蔑ろにされるようになるでしょう。これに懲りたらきちっと反省して、人と誠実に向き合うことを覚えるように」

「……はあ」

 

 なんとか話を誤魔化そうとして、口から出任せを言っているのが丸分かりだった。そんなに自分の非を認めるのが嫌なのだろうか。公明正大に他者の罪を裁く閻魔様は、己の罪には随分と甘いらしい。

 空返事で頷いた月見は、ともあれ映姫の話が一区切りついたのを好機と見て、さっさと逃げてしまうことにした。今日は他にも行きたい場所があるのだから、映姫の説教で一日を潰されるなど御免である。

 串に刺さっていた最後の団子を口に放り込み、立ち上がる。

 

「……どれ、私はそろそろ行くよ。店主、ご馳走様」

「あいよ、お粗末さん」

「あっ、口にものを入れながら話すなんて行儀悪いですよ!」

 

 案の定飛んできた映姫の横槍を有意義に無視して、団子を早々に飲み込み、財布から代金を取り出す。

 

「あっ……月見様、お金は」

「や、いいよ」

 

 ハッとして自分の財布を取り出そうとした咲夜を、やんわりと制して。

 

「昨日、泊めてもらったしね。これくらいの礼はさせてくれ」

「待ちなさい、女の人のところに泊まったんですか!? そんなの公序良俗に反しますっ!」

 

 喚く映姫を、咲夜もまた無視した。

 

「そうですか……ありがとうございます。では月見様がまた紅魔館にいらした際に、お礼をさせてくださいね。私、これから日本茶を淹れる練習をしてみますので」

「……じゃあ、その時はご馳走になろうかな」

「ちょっと!」

「月見様はこれからどうなさるんですか? 私は買い出しをしてから紅魔館に戻りますが……」

「とりあえず、もう一度慧音のところに行ってみるよ。そのあとは……家ができるまで、またのんびり幻想郷を歩いてみようかな」

「こらあっ! 閻魔の私を無視するなんていい度胸じゃないですか、説教しますよ!?」

 

 なんだか映姫は、閻魔になってからますます面倒な性格に拍車が掛かったような気がする。

 なので月見は代金を店主へと手渡しながら、笑顔で、

 

「じゃあ、あとはよろしく」

「おうよ」

 

 そう言えば、店主もまた笑顔で応えてくれた。なにをよろしくするのかは敢えて明言しなかったが、彼にはしっかりと伝わったらしい。

 

「まいどあり。今後とも当店を是非ご贔屓に」

「そうだね、また団子を食べたくなったら」

「あっ、さてはあなた逃げるつもりですね!? させませんよ、まだ話したいことがたくさ」

「まあまあ閻魔様、ちょいと待っちゃあくれませんかね」

 

 映姫が月見の肩を掴もうと手を伸ばすが、それを遮る、店主の大きな体。

 

「それよりも先に、わたくしの話がまだ終わってねえってもんで。ここはお互い、納得が行くまで話し合うとしましょうや。他でもない、この店の今後のためにね」

「……え、ええと、ですね」

 

 なんだか泣きそうになりながら、映姫が助けを求める視線を向けてくるけれど。

 もちろん月見は、笑顔でこう切り返した。

 

「まあ、仕方ないんじゃないか? だって――」

 

 一息、

 

「――因果応報は世の理、なんだろう?」

 

 映姫は口を一文字に引き結んで、あふれる悔しさをふるふる震えて耐え忍んでいた。だが、「それじゃあ続き、いいですかね」と笑顔の店主に肩を叩かれて、泣く泣く地べたに膝を戻した。

 

「あ、じゃあもうあたいは帰っていいよねー……。それじゃあお疲」

「おう逃げんなやこら座れいっそ土下座しろ」

「扱いひどくない!?」

 

 正座を解く間もなく一喝された小町と一緒に、

 

「それじゃあ、またそのうちどこかで会おうな」

「お、覚えてなさいっ! 次こそ、次こそ絶対に逃がしませんからね!?」

 

 顔を真っ赤にして板切れを地面に振り下ろす、その映姫の姿が、かつて悔しそうに錫杖で地面を叩いていたあの頃と重なる。

 体が大きくなっても、心はそのまま。

 だから月見は、つい微笑ましい気持ちになって、ふっと笑ってしまった。

 

「今笑いましたね!? 私のことバカにしましたね!? この性悪狐――――ッ!!」

 

 月見の背中を叩く怒りの絶叫は、微妙に涙声なのだった。

 

天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず。当然の報いですわ」

 

 咲夜は最後まで怖いままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第33話 「狐と人形師と赤面症。」

 

 

 

 

 

 元地蔵現閻魔な女性、四季映姫との騒がしい再会からしばし。

 慧音への挨拶を終えた月見が、人里を離れてやってきたのは、魔法の森の入口に立つ小さく寂れた古道具屋だった。今より二日前、紅魔館から人里に向かう道中で見つけたこの道具屋、どのような店なのか確かめるのは今だと思った。うららな日差しが注ぐ青空の下と、おどろおどろしい瘴気が渦を巻く森の境界線で、月見は静かにその建物を前にする。

 店には見えない。正面にはなんてことのない背の低い一軒家があって、左手には大きな蔵があって、あたりには商品なのかゴミなのかよくわからない道具たちが散乱している。入口の上で堂々と自己主張する『香霖堂』の看板がなければ、店だと思って近寄ることもなかっただろう。もう少し道具が貯まればそれこそ、魔理沙が言った通り『廃屋』となってしまいそうだ。

 

「……ふむ」

 

 外の世界ではこういうのが意外にも隠れた名店だったりするのだが、果たしてどうか。月見は、ここが本当にお店なのかをいまひとつ量り切れないまま、異界の扉を開ける心地でドアノブへと手を掛けた。

 質素な佇まいに反して西洋風のドアであり、カランカラン、と小洒落た音色を響かすドアベルまでついている。けれど店の中へと一歩足を踏み入れてみれば、ベルの小気味よい音色が詐欺だったと思えるほどに雑多な光景が広がっていた。

 床以外で置けるところはすべてに物を置いた、とでも言うかの如く、目算すら利かないほどの商品たちであふれかえった店だった。棚の中、長机の上、壁、或いは天井と、商品を飾れる場所はどこもかしこも満員で、中には商品の上に商品が積み重ねられ塔を成しているところもある。品揃え豊富、といえば響きはいいけれど、これでは物置小屋に迷い込んだのとそう変わりはなかった。

 ふと、似たような光景をどこかで見たな、と月見は思う。しばらくの間黙して考え、それからようやく思い出す。

 そうだ。ここは、霧雨魔法店に似ているのだ。

 

「……」

 

 なぜそう思ったのかはわからない。霧雨魔法店の惨状に比べれば、ここはとても綺麗に片付いている方だ。足の踏み場だってしっかりと整えられている。けれどなぜか、脳裏にあの白黒魔法使いの姿が霞んで仕方がない。

 向かって正面奥には会計を行う帳場があるが、店員の姿は見られない。……ここで突然奥から魔理沙が現れたとしても、月見はまったく驚かないだろう。

 とりあえず帳場の方へと歩を進めながら、月見は周囲の商品を観察してみる。すると、外の世界ではもう見る機会のなくなった懐かしい道具たちに交じって、電力を必要とする比較的最近のものがあることに気づいた。

 

「ほう……?」

 

 どうやら、ただ雑多なだけの古道具屋ではないらしい。興味深く思っていると、帳場の奥の暖簾をかき分けて一人の男が現れた。

 

「いらっしゃい。ようこそ、香霖堂へ」

 

 声は若い。見た目は月見とほぼ同年代の、店の主人を名乗るにはまだ年若い青年だ。髪はやや灰色がかった銀髪で、眼鏡の奥で光を映す金の瞳は柔らかい。身長は高めだが、一方で体の線は細く、ともすれば優男といった印象を受け得る。

 この店の店員だろうか。青年は月見を見て、意外そうに中指で眼鏡を持ち上げていた。

 

「おや……どうやら一見さんみたいだね」

「はじめまして。……ここの店員さんかな?」

「いいや、店主だよ。一応ね」

 

 ほう、と月見は感心の吐息を一つ。外の世界の道具が置かれているのはもちろん、彼ほど年若い青年に取り仕切られているという点でも、この古道具屋はかなり珍しい部類に入りそうだ。

 ……とその時は思ったけれど、よくよく注意深く見てみれば、どうやらこの店主は慧音と同じで半人半妖らしい。感じる気配に、うっすらと妖怪のものが混じっている。

 

「半人半妖の古道具屋さん……ね」

「そういう君は……狐かな。銀狐なんて、珍しいね」

 

 品定めするような目で、青年が月見の尻尾を観察する。それからふと、喉になにか引っかかったように、眉根を寄せて考え込む素振りをした。

 

「……もしかして君は、月見という名前だったりするかい?」

「そうだけど……どこでそれを?」

 

 月見が問い返せば、青年は苦笑して眉間の皺を解いた。

 

「やっぱりそうなんだね。……昨日、この店に魔理沙がやってきてね。彼女から聞いたよ」

「ああ……」

 

 月見にこの古道具屋のことを教えてくれたのは魔理沙だ。それを考えれば、彼女がここの店主と知り合いだったとしてもなんらおかしなことはないし、ここが霧雨魔法店に似ているのにも納得がいく。

 

「君のこと、大分楽しそうに話していってくれたよ。面白そうなやつがやってきた、ってね。魔理沙の家を掃除してくれたんだって?」

「ごちゃごちゃだったからね、ちょっとだけだったけど。……魔理沙とはどういう?」

「まあ……家族みたいなものかな。一時期、子守りを任されていたことがあってね」

 

 懐かしそうに微笑んだ青年は、けれどふいに、明後日の空を見つめてふっと目を細めた。

 

「昔は素直でいい子だったのに……どうしてあんなことに」

「……」

 

 そんなことないぞ、とっても素直でいい子じゃないか――とは、さすがに、言えなかった。月見がどうコメントしたものかと悩んでいると、青年は低く笑って、静かに首を横に振った。

 

「すまない。こんなこと言っても、困らせてしまうだけだね」

「……お前も大変なんだなあ」

 

 反骨の塊みたいな彼女に振り回されているのは、なにもパチュリーだけに限った話ではないらしい。

 

「お気遣い痛み入るよ。……ともかく、せっかく香霖堂に来てくれたんだ。ゆっくりしていってくれ」

 

 そう言って、青年は己の佇まいを整えた。襟元を正して、声は朗々と、表情には柔らかい営業スマイルを。

 小さく寂れた古道具屋であっても、それは確かに、気骨のある商売人の佇まい。

 

「僕は森近霖之助。この香霖堂と、末永いお付き合いをお願いできれば、これ以上はないよ」

 

 一営業主としての年季を感じさせる堂に入った挨拶だったが、それにしても、『この香霖堂と』の部分に微妙にアクセントが入っていたように聞こえたのは、気のせいだろうか。

 彼の浮かべる営業スマイルが、なんだか月見に釘を刺そうとしているようだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 森近霖之助。この幻想郷で百数十年を生きた半人半妖。魔理沙の実家である『霧雨店』で修行したのち、この香霖堂を開いて独立。魔理沙とは彼女が赤子の頃から家族同然の付き合い。古道具屋を経営する通り道具というものに強い関心を持っていて、更には外の世界についても――おや君は最近まで外で生活していたのかい、じゃあ少し教えてほしいことがあるんだけど――と、云々。

 霖之助は物静かな印象を受ける青年だが、やはり商売人だけあって根は会話好きらしかった。ゆっくりしていってくれ、なんて言いつつも、放つ言葉は運河さながらに絶えず月見を休ませないのだから、まずゆっくりすべきなのは霖之助の方だろう。ふとしたところから話題が外の世界へと移れば、霖之助は本当に止まらなくなってしまったものだから、お陰で彼の人柄を判断するのは容易かった。

 古道具屋の経営者ではあるが、その実、学者や評論家を思わせる思考派のようだ。外の世界に対していかに並々ならぬ興味関心を持ち、いかに考察と探究を繰り返しているのかは、その語りに耳を傾けるだけで容易に察することができる。店に外の道具を置いているのはその延長線でもあるようで、しばしば気に入った物を拾ってきては、飽きるまで適当にいじくり倒したのち店の棚に並べるか、懐にしまって門外不出の非売品にするらしい。

 なるほど、魔理沙の蒐集癖は、もしかすると霖之助に影響されたものなのかもしれない。

 

「外といえば……店に並んでる外の道具は、どこから?」

 

 霖之助に道具や外の世界について喋らせていると日が暮れてしまいそうなので、月見はさりげなく話題を逸らすことで、会話のイニシアチブを取ろうとする。

 

「ああ、それは無縁塚だよ」

「無縁塚?」

 

 けれど予想以上に興味深い答えが返ってきたので、ついオウム返しで訊き返してしまった。月見がかつて生活していた500年前の幻想郷にはなかった土地だ。

 話題が切り替わったことで、熱の入っていた霖之助の口調が多少冷静になる。

 

「魔法の森を山奥に抜けて、『再思の道』という道を進んだ先にある。そこは、幻想郷と冥界を仕切る結界と、博麗大結界とが重なっている場所でね。そのせいで結界が綻んでいて、冥界とつながったり、外の世界の道具が流れ着いたりすることがあるんだよ」

「ほう、それはまた……」

 

 興味深い場所だね、と月見は頷きかけたけれど、ふと喉に小骨が引っかかる違和感を覚えて思い留まった。

 結界が綻んでいる、と霖之助は言った。時には、本来ならば隔絶されているはずの冥界にすらつながってしまうほどに。

 それほどまで不安定な綻びを、紫が修復していないのはなぜだろうか。

 

「……」

 

 外の世界の道具が流れ込む、と霖之助は言った。……では、道具以外のものは?

 500年振りにこの幻想郷へ戻ってきて、今の人里が紫の結界で守護されていると聞いて。それからずっと、頭の片隅で、表に出さないまま考えていたことがある。言葉にして紫に問うのは酷だろうからと、気づかぬふりをしていたことがある。

 もしも、月見の憶測が当たっているならば。

 まさか、『無縁塚』という名は――

 

「――お邪魔するわよ、霖之助さん」

 

 ふいに響くドアベルの音が、月見の思考を遮った。振り向き見れば、ちょうどドアを開けて、店に入ってきたばかりの少女がいた。

 蒼い、と月見は思った。瞳だ。広大な蒼海を極限まで凝縮して作り上げたような、強いコバルトブルーの色をしている。薄く白妙を被せた肌の上で、二つの蒼は大きすぎるくらいで、まるで吸い込まれてしまいそうな心地がした。

 その錯覚を振り払って全身を見てみれば、肩に掛かる程度の金髪をバンド代わりのリボンでまとめて、ドアノブに手を掛けた体勢のままロングスカートをぴくりともさせずに固まっている様は、まさに西洋のドールを思い起こさせる――

 

 ――パタン。

 

「……」

 

 少女が静かにあとずさってドアの向こう側に消えた。

 来店した瞬間に退店するという、斬新な冷やかしだった。

 

「こら、アリス……」

 

 月見が言葉を失っていると、すぐに霖之助が苦笑しながら帳場を離れ、少女が消えていったドアを引き開けた。外に顔を出して彼女を呼び止め、そこから何事か、小さな声で一言二言言葉を交わす。

 一方の月見は、先ほど霖之助が口にした名前を聞いて、過日の魔理沙との会話を思い出していた。魔理沙の友人である、アリスという名の人形師。出会えば抱腹絶倒の如くだと、魔理沙がやけに自信を持っていた。

 もしかすると、彼女がそうなのだろうか。その割には、笑う間もなく鮮やかに逃げられてしまったのだが。

 

「――だからほら、知らない人がいるからって逃げ出すのはなしだ。頑張って克服するって言ったのは君だろう?」

「そ、それはそうだけど……」

 

 断片的に聞こえてくる二人の話し声からして、少女が逃げ出した原因は月見らしい。もう随分と長い年月を生きてきた身だけれど、初対面であそこまで露骨に避けられたのは初めてだった。ひょっとすると狐が大嫌いなのだろうか。そうだとしたらちょっとショックだなあ。

 などと、月見が考えていると。

 

「いや、失礼したね」

 

 霖之助に導かれて、先ほどの少女が抜き足差し足で店に戻ってきた。けれど彼女の表情が、まるで天敵の巣穴に突き落とされた小動物みたいになっているので。

 

「……ええと?」

 

 フォローを求めて霖之助を見れば、彼は片手で少女を示して言った。

 

「彼女は、魔法の森に住んでいる魔法使いのアリス。優秀な人形師なんだけど……この通り、極度の人見知りでね。特に、初対面の男性相手には」

「人見知り……」

 

 月見は何気なくアリスを見た。するとその途端にアリスの体がびくりと飛び跳ねて、恐怖からか羞恥からか、ますます小さく縮こまってしまった。顔なんて遠目でもはっきりとわかるほど真っ赤になっていて、今にも湯気を上げそうだ。

 けれど、ここで黙ってしまってはなにも始まらない。月見はとりあえず、挨拶をしてみる。

 

「こんにちは」

「っ……!」

 

 それなりの速度で逃げられた。後ろに大きくあとずさったアリスはそのまま勢いあまって壁にぶつかって、後頭部を押さえて声なき悲鳴を上げた。

 

「……、」

 

 月見がまたも掛ける言葉を見失っていると、一方の霖之助はとうに慣れているのか、震えるアリスの肩を優しく叩いて、

 

「ほら。挨拶されたんだから、ちゃんと返事をしないと」

「ぅ……」

 

 アリスが、一瞬だけ月見を見た。本当に一瞬だ。目が合った、と月見が思った瞬間には彼女は既に深く俯いて、細い息遣いで深呼吸を繰り返していた。

 それから、俯けていた顔を、ちょっとすぎてなにも変わらないくらいに、ほんのちょこっとだけ持ち上げて。

 

「…………こ、こんにち、は」

 

 やっとの思いで出てきたその言葉は、蚊でももう少しまともに鳴けるだろうと思うほどに小さくて、月見は危うく聞き逃してしまうところなのだった。

 なるほどなあ、と思う。確かに魔理沙のような性格の人から見れば、これは腹を抱えるくらいに面白いかもしれない。

 けれど月見としては、苦笑い、といったところだろうか。少なくとも、本気で怖がっている相手を前に抱腹絶倒するような真似は、月見にはできそうもない。

 

「……席、外すか?」

 

 なんだかこのままでは、アリスが緊張と恥ずかしさのあまり死んでしまいそうだ。

 けれど、霖之助からの返答は否。

 

「いいや、そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ。……アリス、この前注文してくれた人形用の織物を取りに来たんだろう?」

「そ、そうだけど」

「じゃあ少し待っててくれ。奥にしまってあるから、取ってくるよ」

「え……」

 

 霖之助の心ない一言に、アリスが捨てられる子犬みたいな顔になって彼を見上げた。ふるふると震えるコバルトブルーの瞳が、お願いだから一人にしないで、と必死に訴えかけている。

 アリスは極度の人見知りのようだが、霖之助に対してはある程度心を開いているらしい。霖之助は、見知らぬ他人が目の前にいるというこの状況においては、アリスのたった一つの心の支えなのだ。

 そんな彼が一時的とはいえ店の奥に引っ込んでしまったら、アリスにしてみれば、素性の知れない男と二人きりになってしまうわけで。

 

「……や、やっぱり私、帰る」

「こらこら」

 

 血の気の失せた顔で引き返そうとしたアリスの手を、すぐに霖之助が苦笑交じりで捕まえる。

 

「君、そんなんじゃあいつまで経っても人見知りを克服できないよ?」

「で、でも……」

「大丈夫。彼とはしばらく話をしてみたけど、とてもいい妖怪だよ。……それとも、僕の言うことなんて信じられないかな?」

「……っ」

 

 さすが商売人、かどうかはわからないが、逃げ道を封じる卑怯な言い方だった。心を許した数少ない知人からそんな風に言われて、首を横に振れる者などなかなかいないだろうに。

 案の定、アリスの両足は床に縫いつけられてしまった。彼女は極度の緊張に揺れる面持ちで、霖之助と月見の間で何度も視線を行ったり来たりさせていた。

 ねえ霖之助さん、本気で言ってるの? 本気で私を一人にしちゃうの? む、無理よ無理よやめて死んじゃうお願いだから一人にしないでそれか私も連れて行って――。

 などと霖之助に必死に助けを求めているであろうアリスの心中に、月見ですら気がつくのだから、まさか霖之助が気づいていないわけはないはずなのに。

 

「それじゃあ、逃げずに待ってるんだよ」

 

 なんて人のいい笑顔で残酷なことを言い残して、あっさりと店の奥に引っ込もうとするものだから。

 

「おい、霖之助……」

 

 霖之助がこちらの横を通り過ぎる間際、月見は声をひそめて彼を呼び止めようとした。しかし彼はたたえた笑顔をかけらも崩すことなく、同じく声をひそめて、

 

「悪いけど、少しの間よろしく頼むよ」

「いや、だからな」

「できたら、話し相手になってもらえると助かるよ。それじゃあ、すぐに戻るから」

 

 結論。霖之助は救いようのない鈍感野郎か、もしくは好青年に見せかけた薄情者だ。

 取り残されたアリスは、それはもうこの世の終わりみたいな顔をして、もはや震えることすらできずに立ち尽くしているのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「……………………」

「……………………」

 

 泣きたい。いや、冗談などではなく。

 互いが互いの様子を窺いながら、けれど一つも言葉を生むことなく沈黙し続ける空間には、人の心を壊す力がある――といえば大多数の人が大袈裟だと思うだろうが、少なくともアリスにとっては紛れもない事実だった。霖之助が薄情にも店の奥に消え去ってからというもの、アリスは何度泣きたいと思ったことか。何度帰りたいと思ったことか。知らない異性と二人きりで刻む無音の時間に、アリスの心は早くも挫けかけていた。

 不幸だ。滅多に客のいない香霖堂に珍しく誰かがいたと思えば、霊夢でもなく魔理沙でもなく咲夜でもなく、知らない人、しかも男の人だったなんて、不幸すぎて涙が出てくる。

 人見知りという言葉を使えば可愛らしいが、アリスの場合は一種の対人恐怖症に近かった。とにかく人と話すのが苦手で、誰かと目が合うのが恐ろしくて、一緒の空間にいるのが苦痛だった。だから魔法の修行という大義名分のもと、人のいない魔法の森に家をつくって、一人でひっそり人形たちと暮らしていた。

 けれど、魔法の森に居を構えたからといって、外との交流を完全に断てるわけではなかった。……霧雨魔理沙という少女がある日突然家に押し入ってきた時は、泣いた。冗談抜きで泣いた。食べられると思った。この世の終わりだと思った。霧雨魔理沙は涙に弱い、という意外な弱点が明らかになったりもした。

 ……まあ幸い、それで魔理沙に食べられてしまうこともこの世が終わってしまうこともなく、紆余曲折を経て彼女と友達になり、そこから霖之助を紹介されて、人形を作るための材料を売ってもらうようになって。魔理沙も霖之助も根はいい人たちで、交流を続けているうちに、少しずつ人と話せるようになってきた気がして。

 だから、誰かと一緒にいるのもそんなに悪くはないのかなと、これからはちょっと頑張ってみてもいいのかもしれないなと、

 思っていた矢先にこれだ。

 打倒人見知りを掲げて乗り越える壁にしては、今のアリスにとってはてっぺんが見えないほどに高すぎる壁なのだった。

 

「……霖之助、遅いねえ」

「えっ…………あ」

 

 その言葉が、独り言ではなく、自分に向けられたものだと理解するまで、数秒の時間が必要だった。アリスとともに霖之助の戻りを待つ男は、店の棚をぶらぶらと見て回り、手持ち無沙汰に商品を物色していた。

 このあたりでは珍しい、銀色の毛並みを持つ妖狐だ。見た目は霖之助と同じくらいの年齢で、しかしそれ以上に達観しているとでもいうのか、そよ風みたいな物腰をしているのが印象的だった。この気まずい沈黙をまったく意に介した様子もなく、自分の気が向くままに商品をいじくる姿は、さわさわと風が吹いているよう。

 

「ずっと立ってて疲れないか? どこかに座ってたらどうだ?」

「う…………え、ええと」

 

 二度目の言葉は、すぐに話しかけられているのだとわかった。黙っていては失礼だから、なんでもいいからなにか答えないと、と思う。別に疲れてなんていない。だから大丈夫だと答えればいい――と、思うことはできるのに、言葉にすることができない。

 そんな自分が情けなくて、ますます唇が重たくなって、やがて動かなくなってしまう。

 その沈黙を誤解した彼が、ため息をつくように小さく笑う。

 

「ごめん、迷惑だったな」

「っ……そ、そんなこと……」

 

 ない、と、最後まで言い切ることはできなかった。今の状況が迷惑かどうかを言えば、やっぱり人見知りのアリスにとっては迷惑だったから。

 けれどそれは、この妖狐が悪いのではない。元凶は、彼とアリスを二人きりにして勝手に奥へと引っ込んで、なおかつもうそろそろ十分くらいが経つのにまったく戻ってくる気配がない霖之助だ。アリスが人見知りなのはよく知っているだろうに、本当にひどい店主だ。家に帰ったら、香霖堂にしばらく客が寄りつかなくなるよう念入りに呪いをかけておこう。

 

「本当に辛いんだったら、席を外すから。そのくらいは、躊躇わないでくれ」

「……」

 

 多分、優しい人なのだと、思う。緊張して上手く喋れないアリスに戸惑う者、呆れる者、苛立つ者、或いは意地悪に笑う者はたくさんいたけれど、彼は違った。口下手なアリスを快く受け入れて、包み込むように優しい表情で、そこにいる。アリスの負担になりすぎないよう、距離を保ってくれている。

 

「……っ」

 

 だから、アリスは。

 このまま黙っていないで、話をしてみようと、思って。

 決して上手には話せないだろうけど、彼ならきっと、戸惑ったりせず、呆れたりせず、苛立ったりせず、優しい笑顔で付き合ってくれるような気がしたから。勇気を持てるような気がしたから。

 思い出すのは、魔理沙から教えてもらったアドバイス。人と話をしたい時は、相手が興味を持ってくれるような話題を出すのが常套手段。

 そしてアリスには、他人の興味を強く引き寄せることができる、特技がある。

 

「――……」

 

 二回大きく深呼吸をして、手に取るのはアリスの大切なお友達。

 魔力を練り上げ、彼女に命を吹き込んで。

 そうして彼へと投げ掛ける、最初の言葉は――

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――シャンハーイ!」

「……は?」

 

 物静かな香霖堂で響くにしては、えらく珍妙な声だった。月見が思わず振り向けば、アリスの目の前に小さな人形が浮かんでいて、小さな両手で元気に万歳の格好をしていた。

 はて、と月見は先ほど聞こえた言葉の意味を考える。シャンハイ――上海とは、ともすれば首都の北京よりも有名かもしれない、言わずと知れた中国の大都市の名だ。中国の様々な文化が一堂に会するビジネス都市で、無論月見も何度か足を運んだことが、いやそうではなく。

 

「……シャンハイ?」

「シャンハーイ!」

 

 頭に大きな赤いリボンをつけた、女の子の人形である。大きさは、アリスの顔と同じくらい。人形なので表情はないものの、陶器を叩くように澄んだ声は、とても豊かに笑っている。

 その人形の後ろでは、アリスがそわそわと落ち着かない様子で、月見に目を向けては逸らしてを繰り返している。突然の出来事だったので初めはなにがなんだかよくわからなかったけれど、考えてみればなんてことはない。

 あれはいかにも、月見の反応を待っている動きだ。

 

「……その人形は、お前の?」

「え、ええ」

 

 とりあえず尋ねてみれば、アリスがほっとした様子で頷いたので、間違いはなかろう。これは、コミュニケーションの苦手なアリスなりに、月見と話をしようと勇気を振り絞った結果なのだ。自分が最も得意としている人形を見せることで、月見の関心を引き、話の種を蒔こうとしているのだ。

 なるほど、ここまでの勇気を見せられた以上、応えないのは野暮というものだった。月見はアリスを緊張させないよう、柔らかい表情で応じる。

 

「喋る人形なんて、珍しいね」

「そ、そうかしら」

「そうだとも。少なくとも私は初めて見たよ?」

 

 人形は文字通りぬいぐるみなのだが、アリスが使っているのは、魔力を通すことで己の道具や手足として使役できる、陰陽術における式神のようなもの。それが今、月見の前で元気に挨拶をしてくれているのは、主人であるアリスがそうするように命令をしたからだ。

 つまりこの人形は、口下手なアリスに代わって、人とコミュニケーションを取ってくれるもの。腹話術師が人形の言葉を代弁するように、この人形が代弁するのは、そっくりそのままアリスの言葉というわけだ。

 人見知りな自分でも、人形を使えば、誰かと話ができるから。

 

「なるほどねえ」

「シャ、シャンハイッ」

 

 月見がついつい笑うと、人形は恥ずかしそうに両手をぶんぶん振り回した。さしずめ、笑わないでよ、といったところだろうか。

 悪い悪い、と月見は軽く謝って、

 

「その、シャンハイっていうのは?」

「こ、この子の名前……『上海人形』っていうの。半自律型の人形で……あ、半自律型っていうのはね」

 

 自分の得意分野である人形の話となれば、人見知りなアリスでもいくらか饒舌になるようだった。訥々と拙い言葉でも、頑張って人形の解説をしようとするアリスの姿は、見ていてとても微笑ましかった。言うなれば、生徒の一生懸命な自由研究発表を見守る教師の心地に近いかもしれない。

 月見がそうやってアリスの説明に耳を傾けていると、彼女はふいにはっとして、気まずそうに顔を俯かせた。

 

「ご、ごめんなさい……訊かれてもないのに、変なことまで」

「ん? いいよ、続けて?」

 

 そんなことでいちいち頭を下げていたら、訊いてもいないのに外の世界についての考察を散々聞かせてくれた霖之助は、月見に土下座をしなくてはいけなくなる。なにも気にすることはない。上手くできるかなんてわからないけれど、それでも頑張ろうと一生懸命になるアリスの話は、むしろこちらから頼み込んで聞きたいくらいだった。

 

「それで、半自律型って結局どういうものなんだ?」

「え、えっと……要は、人形師が簡単な命令をするだけで、あとは自動で動いてくれる人形のこと……」

 

 かすかに安堵した笑顔を見せて、アリスがまた語り出す。

 

「いつか、完全な自律型の人形を、作りたいんだけど……この子はまだ、未完成で」

「つまり……自分だけの意思を持った人形を、ということか?」

 

 こくり、と上海人形が頷く。

 

「そ、そう……だから、まだ全然、大したことないんだけど」

「おや、そんなことはないぞ?」

 

 月見はアリスの言葉を遮るように言い、そこから先を制した。ふいを衝かれくるりと丸くなった碧い瞳に、微笑んで。

 

「だって、私には作れないもの。人が作れないものを作ることができるんだから、充分、大したことだよ」

 

 沈黙は、香霖堂の絡繰時計が数回ちくたく鳴るだけの間。

 まるで告白でもされたみたいに、ただでさえ緊張で赤くなっていたアリスの顔が真っ赤っ赤になった。

 

「えっ……やっ、私は全然そんな」

 

 恐らく人見知り故に人から褒められる経験がなくて、こういう言葉にほとんど慣れていないのだろう。すっかり度を失ったアリスは咄嗟に両手を振って否定しようとし、けれど途中で、もっと他に言うべきことがあると気づいたのか、

 

「あ、えとそのっ、ありがとうございますっ!」

「あ」

 

 目の前に上海人形がいるのも忘れて勢いよく頭を下げたものだから、月見が止める間もなく、上海人形の背中に見事なヘッドバットが炸裂した。「シャバッ」と変な声を上げて、上海人形が床に叩きつけられる。真っ赤だったアリスの顔から少しだけ血の気が引いた。

 

「あっ……ご、ごめんね、上海」

「シャンハーイ……」

 

 アリスが膝を折って手を伸ばせば、上海人形は服の埃を払い落として彼女の掌の上に乗る。アリスは上海人形を自分の肩に乗せて、「ごめんね」ともう一度謝りながら立ち上がる。それを見て、月見の脳裏を半自律型という単語が掠めた。

 アリスからの説明を思い出せば、半自律型の人形とは、人形師が簡単な命令をするだけであとは自動で動いてくれる人形のこと。そして上海人形は、その半自律型の人形だったはずだ。

 と、いうことは。

 

「……」

 

 気づいてはいけないことに気づいてしまった気がした。月見の予想が正しければ、上海人形は半自律型なのだから、アリスからの命令なしで勝手に動き出すことはできないはずだ。であれば、上海人形がヘッドバットをくらって「シャバッ」と奇妙な悲鳴を上げたのは、そうするように命令を受けたから。「ごめんね」というアリスの謝罪に応じて掌の上に乗ったのも、やっぱり、そういう命令をされたからではないか。

 そしてこの場合、上海人形に命令できるのは主人であるアリスのみ。

 ということはつまり、アリスと上海人形の間で行われるやり取りはすべて、

 アリスの一人芝居、

 

「あ、あの……どうかした?」

「え……あ、いや」

 

 月見ははっと我に返った。アリスが不安そうな目でこちらを見つめている。気づいてしまった事実の片鱗に圧倒されて、いつの間にか難しい顔をしてしまっていたらしい。

 いやいや決めつけるのはまだ早い、と月見は心の中で悪い考えを振り払おうとする。もしかすると上海人形は、部分的には自律化が完成していて、叩かれたら悲鳴を上げたり、謝られたらちゃんと反応を返したりできるハイスペックな人形なのかもしれない。そしてアリスは引っ込み思案だから、たまたまそこまで上手く説明することができなかったり、忘れてしまったりしていたのかもしれない。そういう可能性だって充分にありえる。なのに一人芝居などと勝手に決めつけてしまうなんて、いくらなんでも失礼極まりないではないか。

 もっとも、真相をアリスに確認するほどの勇気は、今の月見にはない。

 

「なんでもない。大丈夫だよ」

 

 だから、月見は微笑む。よしんば月見の悪い予想が当たっていて、アリスが、人と付き合うのを恐れるあまり人形相手に現実逃避してしまった子だとしても。魔理沙なら大笑いするのだろうが、月見は正面から受け止める。

 

「そういえば、自己紹介がまだだったね」

 

 まずは人付き合いの第一歩として、自己紹介。

 

「私は月見。最近こっちにやってきたばかりの、ただのしがない狐だよ」

 

 もしできるのであれば、霖之助のようにアリスと知り合いになって、人見知りを改善するささやかな手助けができればと思う。久遠の昔から人間たちとともに生きてきた月見からしてみれば、最低限以上の交流を断って孤独に生きる人生は、少しもったいないと、思うのだ。

 豊かな友好関係は、人の心をもまた、豊かにする。理想論ではなく、過去の体験に基づく確かな経験則だった。

 

「えっ……ええっ、と」

 

 月見が右手を出せば、アリスは赤みの増した頬でたじろいで。

 けれど数秒の葛藤ののちに、しっかりと自分の言葉で、応えてくれた。

 

「ア、アリス・マーガトロイド……人形師、です。よろしく……」

「ああ、よろしく」

「シャンハーイ!」

 

 嬉しそうな声で右手を差し出してくる上海人形の、その行動が、今だけはアリスの命じたものであればいいと、思って。

 布地のふわふわした小さな手と握手をすると、見計らったようなタイミングで、店の奥から霖之助が戻ってきた。

 

「いや、お待たせしたね。僕としたことが、どこにしまっていたのかすっかり忘れてしまって」

 

 細長い長方形の箱を帳場に置いて、すまなそうに笑う。その笑顔を、月見は嘘なのだろうなと思った。おおかた箱はとっくに見つかっていて、あとは人見知りなアリスが月見とちゃんとコミュニケーションを取れるかどうか、どこかでひっそり聞き耳を立てていたのだろう。

 そして、なんとかかんとか無事自己紹介ができたようなので、一安心して戻ってきた――と、そんなところに違いない。

 

「さて、頼まれていた商品はこれで間違いないね? 確認してみてくれ」

「え、ええ」

 

 ともあれ霖之助が戻ってきたことで、アリスは肩から少し力を抜けたようだった。ちょっとだけ救われた顔をして、ちょこんと月見に会釈をすると、小走りで帳場まで駆け寄っていく。

 

「もう、遅いわよ霖之助さんっ」

「いや、悪かったね。今度からはちゃんとわかりやすい場所に置いておくようにするよ」

 

 他人行儀な霖之助の笑顔が、とても白々しい。

 

「人形用の織物で、赤と白と青。間違いないかい?」

「ええ、大丈夫。……それじゃあこれ、お代」

「毎度あり。……っと、もう行っちゃうのかい? せっかくだから、ゆっくりしていったらどうかな」

 

 お金を払い、箱を受け取るなりすぐ踵を返そうとしたアリスを、すかさず霖之助が呼び止める。悪事を見咎められたようにびくりと肩を震わせたアリスは、言い淀み、主に月見の方を気にしながら、

 

「その……今日はちょっと、他にやらなきゃいけないことがあって」

 

 明言こそしなかったが、その仕草から、アリスが早く月見と別れたがっているのは明らかだった。どこかの薄情な誰かさんが無情にもアリスを置き去りにしたせいで、彼女の精神はもうすっかり磨耗しきっているのだ。

 アリスの人見知りは筋金入りというか、鉄骨入りに近いレベルなので、引き留めるのは酷だろう。

 

「いいじゃないか、霖之助。無理に引き留めるのもなんだ」

 

 自己紹介まで持っていけただけ、今回は充分。ここから先は、また次の機会にでも、ゆっくりのんびりやっていけばいい。そう広くもない幻想郷だから、また顔を合わせた時に、人形のことでも下らない世間話でも、一言でも二言でも、話ができればいいのだ。

 

「……ふむ」

 

 霖之助は顎に手をやって考えてから、諦めるように緩くため息をついた。

 

「……まあ、それもそうだね。それじゃあアリス、またのご来店を」

「え、ええ」

 

 またちょこんと可愛らしく会釈をして、そそくさと、小動物のように出口へと駆けていく、そのアリスの背に。

 

「またね」

 

 と、短く月見が言えば。

 

「……」

 

 アリスはドアに手を掛けた体勢のままで固まって、振り返らずに、

 

「……ま、また」

「シャンハーイ!」

 

 蚊の鳴くように小さな言葉と、上海人形の元気な声を残して、やはりそそくさと、香霖堂をあとにしたのだった。

 ドアが閉まり、ドアベルが鳴り終わり、たっぷりと一度呼吸をするだけの間を置いて。

 

「……あれはまた、なんともまあ」

「そうだろうね」

 

 月見の方から口を切れば、霖之助は含むように苦笑して、帳場の椅子へと腰を下ろした。

 

「彼女ほどの人見知りは他に類を見ないよ。……でも君はなかなかやるじゃないか。まさか初対面で自己紹介まで持っていけるとは思わなかった」

「そうだね。……どこかの誰かさんが妙なお節介を焼いてくれたお陰でね?」

 

 月見の半目に、悪かったよ、と霖之助は素直に詫びる。

 

「でも、これでも人を見る目はあるつもりでね。君なら彼女にいい影響を与えてくれるような気がしたんだよ」

 

 それから、取ってつけたように、

 

「『人を素直にする妖怪』……なんて、魔理沙が言っていたしね」

「……どうかな」

「どうもなにも、君は本当によくやってくれたよ。なにせ僕が初めて彼女に会った時は、ものの見事に逃げられたんだからね。それと比べればまさに雲泥の差さ」

 

 魔理沙がいてくれなかったらどうなっていたことやら――調子のいい笑顔でそんなことを言いながら、彼は左手で、月見の後ろで埃を被っている商品たちを示した。

 

「お礼に、なにか気に入った商品があれば」

「くれると?」

 

 間髪を容れずに首を横に振られる。

 

「それは物と値段によるよ。でも、少なくとも割引くらいはさせてもらうさ」

 

 月見は椅子越しに背後を振り返った。来る日も来る日も商品棚で待ちぼうけを食うばかりの商品たちが、みんながみんな、捨てられた子犬みたいな目で一心に月見を見つめているような気がした。

 月見は少し考えて、

 

「……それじゃあ、また今度道具を買いに来るから、その時に割引してくれるかな」

 

 近いうちに家が完成すれば、様々な道具を買い揃える必要も出てくるだろう。その時に、この香霖堂でもいくつか調達するようにすればいい。先ほど棚を見て回って気づいたが、古道具屋の割に随分と状態のいい品が多かった。

 

「それは構わないけど……今は持ち合わせがないのかい?」

「や、単純に荷物を増やしたくないだけだよ。このあともう一ヶ所、回ってみようと思ってる場所があってね」

 

 現在時刻は昼下がりをややも過ぎた頃。霖之助の薀蓄で時間を食われたが、軽く足を向けるだけならば問題ないだろう。

 霖之助はなるほどと頷き、

 

「それじゃあ、またその時に贔屓にさせてもらうよ。ただしあんまり間が空くと忘れてしまうかもしれないからね、なるべく早めにしてくれるとありがたいかな」

「はいはい」

「ちなみに、どこまで行くつもりだい?」

 

 月見は東を指差して答える。

 

「博麗神社まで」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 博麗神社は、幻想郷の東の端の端、外の世界との境目というまこと辺鄙な場所に建つ小さな神社である。幻想郷に戻ってきた月見が一番に踏んだ土地であるそこへ、こうしてもう一度足を運ぼうと思うのは、偏に当代の博麗をひと目見ておきたいからだった。あれが何代目だったかは忘れたが、博麗の巫女とは紫つながりで縁があった身だ。当代の巫女が果たしてどんな子なのか、それなりに気になっている。

 ちなみに三日前の時は折悪しく留守にしていたようだったので、適当に賽銭だけを放り込んでおいた。外の世界の硬貨だったので幻想郷では使えないが、まあ、気は心である。

 

「霊夢のところに行くなら、いい加減ツケを払うように僕が言ってたって伝えてくれないかい?」

 

 霖之助が、重いため息をつきながらそう言った。当代の巫女である博麗霊夢は、香霖堂の無銭利用を繰り返す常習犯らしい。月見が知る昔の博麗も大概貧乏だったが、それは今でも変わっていないようだ。

 

「ここを都合のいい茶屋かなにかと勘違いしてるみたいでね」

「それだけ心を開いてくれてるってことじゃないか」

「こっちとしてはいい迷惑だよ。この前も、買ってきたばかりの茶葉を一袋丸々持っていかれたんだから」

「……それ、魔理沙の話か?」

「いや、残念ながら違う。むしろ魔理沙はたまに差し入れを持ってきてくれるし、道具の物々交換もしてくれる割とちゃんとしたお客さんだ。それを考えれば霊夢の方がタチが悪い」

 

 霖之助は、噛み殺すように苦笑して、

 

「博麗神社に行くんだったら、気をつけた方がいいよ。霊夢は相当なお天気者だからね。彼女の意に沿わないことをすると、悪い妖怪だと決めつけられて退治されかねない」

「……そいつはまた、なんというか」

「そんな霊夢への対処法は一つ、神社にお賽銭をしっかり入れてあげることだ。普通よりも多めに入れてあげれば、ちゃんと歓迎してもらえるはずだよ」

 

 なんだか近所のガキ大将みたいな巫女さんだった。月見の記憶にある博麗の巫女は、外の世界では絶滅危惧種に指定されている大和撫子な少女だったのだが、守矢神社と同じでやはり過去の話となってしまっているのだろうか。

 霖之助は店内の絡繰時計を一瞥して、話を切り上げるように椅子から腰を上げた。

 

「ともあれ、博麗神社に行きたいならそろそろ出た方がいいよ。幻想郷の端の端だからね、空を飛んでも結構時間が掛かる」

「ああ、そうだね」

 

 月見も立ち上がり、出口へと向かう。途中でたびたび道を阻んでくる道具たちが、「帰るのならついでに私を買ってけ」と口々にせがんでくるような錯覚を、すべて無視して。

 

「じゃあ、近いうちにまた来るよ」

「ああ。是非、今後ともご贔屓に」

 

 営業スマイルの霖之助に見送られ、ドアベルを鳴らしながら店を出る。途端、博麗神社とは反対方向に傾いた太陽が強い西日を浴びせてきて、月見は思わず手で傘を作った。

 薄暗い香霖堂の店内で、すっかり目が慣れてしまっていたらしい。香霖堂にはもっと太陽の光を取り込んだ方がいいと、そう思いながら。

 

「どれ、行こうか」

 

 体に妖力を巡らせ、ゆっくりと漂うように空へと向かう。さすがにのんびり歩きながら向かうには、日は西に傾きすぎていた。

 幻想郷に戻ってきて四日目にして、月見はようやく、移動のために空の下を飛ぶ。

 先日藤千代にぶっ飛ばされて茜色の空を舞ったのは、ノーカウントだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第34話 「狐と博麗とお夕飯。」

 

 

 

 

 

 なにも、空を飛ぶのが嫌いというわけではない。ただ、長年外の世界で暮らしていた影響もあって、のんびり歩く方が慣れているし、性にも合っているというだけの話である。のんびりするほどの時間がなかったり、必要に駆られたりすれば、幻想郷に戻ってきた以上はもちろん月見だって空を飛ぶ。

 眼下には、幻想郷と博麗神社を隔てるように小さな山々が広がっている。三日前には、これらの山肌を縫って伸びている獣道を歩いてみたが、お世辞にもいい道とはいえなかった。足元は木の根やらなにやらでいつ足を取られてもおかしくないし、周囲は鬱蒼と茂る木々のせいで視界が悪く、妖怪がひそんでいたとしても簡単には気づけない。当然、そんな危険地帯をわざわざ歩こうとする人間などいるはずもなく、博麗神社の賽銭箱は、年中無休四六時中で素寒貧なのだった。

 とはいえそんな貧乏神社も、こうして境内に降り立ってみれば決して悪い場所ではない。山の高いところにあるため幻想郷を果てまで一望できるし、今ではもうほとんど散ってしまったが、たくさんの桜の木たちで囲まれているから、花見の穴場としては天下一品だ。然るべき環境を整えれば、少なくとも春の間は、多くの参拝客たちで賑わうことだろう。

 にも関わらず神社の賽銭箱が毎日貧困に喘ぐのは、博麗の巫女が神社の運営を真面目にしていないから――というのは、500年前からしぶとく受け継がれている伝統らしかった。曰く当代の巫女である博麗霊夢は、神社に祀られている神がなんであるかや、そもそも本当に祀られているのかということすら、知らないらしい。早苗が聞いたら貧血を起こすだろう。

 そんな博麗神社の、拝殿の前に立ちながら。

 

「……やあ、また会ったねえ」

 

 小さな賽銭箱の手前に置かれた、『素敵なお賽銭箱はこちらです!』とやたら元気な文字を刻んだ立て札に、なんとなく挨拶をしてみる。もちろん返事など返ってこないけれど、その代わり、物欲しそうな光を放って立て札全体がつやつやと輝いた気がした。

 月見は苦笑を噛み殺しながら財布を取り出し、中身を見てふと気づく。

 

「おや……小銭がない」

 

 紫が換金してくれたはずの古き日本銭が、綺麗さっぱり行方不明になっている。一瞬、どこかでスられたのかと思ったが、お札の方はしっかりと残っているので、

 

「……甘味処でちょうど使い切ったのかな?」

 

 なんともまあ、珍しいこともあるものだった。

 

「しかし、そうするとお賽銭は……」

 

 月見は霖之助から聞かされた話を思い出す。……ガキ大将の気質がある霊夢に歓迎してもらうためには、お賽銭が必要不可欠であり、なおかつ通常よりも多めに入れるのが望ましい。そうしなかった場合、仮に身の危険を伴うなにかが起こったとしても、文句は言えない。

 命が惜しけりゃ賽銭を入れろ。なので月見は、

 

「……それじゃあお札でいいか。景気よく」

 

 本来であればお賽銭は小銭にすべきなのだが、金欠に喘ぐ博麗神社へ力添えする意味を込めることとする。お札を一枚賽銭箱の中へと落とし、鈴を鳴らして二礼二拍手。祈る内容は決まっている。

 

「どうか、あいつらがちゃんとした家をつくってくれますように……」

 

 心の底からそう願う。

 三つ呼吸分の、間。

 そして月見が両手を下ろし、最後に一礼すれば、ずどどどどど、と獣が地を踏み鳴らすような音が聞こえてきて。

 

「――御参拝ありがとうっ!!」

 

 拝殿の影から転がるように飛び出し、地面にブレーキの跡を刻みつけながら現れたのは、博麗霊夢だった。わざわざ名前を尋ねて確認するまでもない。赤と白で彩られた腋のない特徴的な巫女服は、間違いなく博麗の巫女のもの。頭の大きなリボンをご機嫌に揺らして、彼女は太陽みたいに笑うのだった。

 

「願い事、叶うといいわねっ! 大丈夫よ、ウチの神社は御利益抜群だから!」

「あ、ああ」

 

 その勢いに月見が若干面食らっているうちに、霊夢はせかせかと賽銭箱に駆け寄り、嬉々とした様子でそれを持ち上げる。

 上下に動かし、

 

「……?」

 

 首を傾げて左右に揺すり、

 

「…………??」

 

 眉をひそめて斜めに振って、

 

「…………、」

 

 真顔になって上下左右斜めに振り回し、

 

「――――…………」

 

 期待で今にも爆発しそうだった霊夢の雰囲気が、急にしゅっと引っ込んだ。そして入れ替わるように、黒い――本当に目に見えそうなくらいドス黒い、不穏なオーラがあふれ出す。

 

「……小銭の音がしない」

 

 声音は地鳴りのように低く。

 

「ちょっとあんた……」

 

 心に修羅を。顔には般若を。

 そして月見が、なんだかいらない誤解をされてる気がすると、遅蒔きながらに思った直後、

 

「――お賽銭入れねえたぁどういう了見だあああああっ!!」

「うおお!?」

 

 ミサイルみたいに吹っ飛んできた霊夢の飛び蹴りを、月見は咄嗟に横に飛んで躱した。

 

「躱すなっ!」

「無茶言わないでくれ」

 

 鮮やか着地した霊夢はいきり立って、

 

「こ、この私が万年金欠だって知っての所業!? お賽銭も入れずに御利益得ようだなんて、涜神(とくしん)行為もいいところよ!」

 

 うがあああ! と手に持っていた(ぬさ)を振り回し、真剣さながら月見へと突きつける。まあ確かに、月見が入れたのはお札なので、揺すろうが振ろうが振り回そうが音など鳴るはずがないけれど、

 

「お賽銭なら入れたよ」

「嘘つけっ! ……ハッ、さてはあんた悪い妖怪ね!? 上等じゃない、喧嘩なら買ってやるわよ!」

 

 どうしたもんかと月見が空を仰いで、霊夢は意気揚々とスペルカードを抜いた。

 

「スペルカードは二枚よ! 手っ取り早くけちょんけちょんにしてやるわ!」

「ちょっと待て、話を聞いてくれ」

 

 そもそも誤解だし、そうでなくとも月見はスペルカードを持っていないから、スペルカードルールに則った決闘には付き合えない。掌を見せてどうどうと宥めると、霊夢は不愉快そうに眉間に皺を寄せて、構えたスペルカードを一旦下げた。

 

「なに? あ、遺言なら十文字以内でよろしくね」

 

 月見は少し考えて、

 

「……本当に入れたって」

「ほ、ん、と、う、に……あらきっかり十文字ね。じゃあさよなら」

 

 そしてすぐに弾幕が飛んできたが、なんとなく予想できた展開だったので、危なげのない動きですべてを躱した。一度フランの本気の弾幕に付き合わされてからというもの、すっかり目が慣れたらしい。

 目標を見失って地面を叩いた弾幕たちを見て、霊夢が意外そうに眉を上げた。

 

「へえ……なるほど、そんじょそこらの雑魚とは違うってわけね」

「あのさ、話を聞いてくれないかな」

「だからさっきからなんなのよ? 言い訳なら聞かないわよ?」

 

 彼女は苛立たしげな様子を隠そうともしなかったが、それでもスペルカードを下げて攻撃をやめた。代わりにキツツキみたいに猛烈な勢いで貧乏揺すりを始めて、喋るならさっさと喋れと急かしてくる。

 月見は一音一音はっきりと、釘を打つように、

 

「だから、私は本当にお賽銭を入れたんだって」

「またそれ!?」

 

 霊夢が喚いた。彼女の華奢な細足が、けれど地震を起こしそうなほど強く地を打つ。

 

「さっきからしつこいのよ! 入ってないじゃないの、だって小銭の音がしなかったんだから!」

「音がしなかったからって、箱の中が空とは限らないだろう? ちゃんと目で確かめてみてくれ」

「なんでそこまでしなきゃなんないのよ」

「だから、本当にお賽銭を入れたからだって。音がしなかったのは、入れたのが小銭じゃないからだよ」

「はあ? 小銭じゃないって、じゃあ他になにを――」

「お札」

 

 霊夢の不機嫌オーラが一瞬で引っ込んだ。彼女はこの世のものではないなにかを見たように口を半開きにして、まばたきもせず、呼吸もせず、ぼけーっとすべての動きを放棄して突っ立っていた。

 どこかでチュンチュンと小鳥が鳴いている。風が吹いて、新緑の色をまとい始めた桜の枝がゆっくりとしなる。小さな雲から抜け出した西日が、幻想郷に黄色い日の光を落とす。

 ようやく、霊夢がまばたきをした。

 

「……ほっ、」

 

 それをきっかけにして、固まっていた彼女の体が動き出した。肩を小刻みに震わせて、ほのかに紅潮した頬をひくつかせ、期待で今にも胸が張り裂けそうになった声で、賽銭箱と月見の間で何度も視線を行ったり来たりさせた。

 

「ほっ、ほんとうね? 嘘だったら承知しないわよ? 退治するわよ? 身ぐるみ全部剥ぐからね? すっぽんぽんよ?」

「……すっぽんぽんって、お前ね」

 

 年頃の女の子がなんということを。だがお賽銭は間違いなく入れたので、月見がすっぽんぽんになるような未来は、起こりえないはずである。

 浮き足立った霊夢は駆け足で賽銭箱へと駆け寄り、途中で一度月見を振り返って、

 

「逃げないでよ?」

「逃げないよ」

 

 賽銭箱を手に取る。古びた小さな鍵を取り出して、同じくらいに古びた小さな南京錠に突き刺して、うんうん唸ってやっとの思いで外す。

 そして、まるで親からプレゼントをもらった子どもみたいに目を輝かせながら、賽銭箱を開けて。

 

「本当だ――――――――っ!!」

 

 その喜色満面の叫び声は、もしかすると尾根を越えて、人里まで届いたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 博麗霊夢はお天気屋である。とにかく感情の起伏が豊かで、またそれがとてもわかりやすく表に出るし、本人も隠そうとしていない。嬉しい時は太陽顔負けに明るく笑うし、不機嫌な時は般若も逃げ出すくらいの顔をして舌打ちをする。久し振りの参拝客に勇んで出てきては晴天。賽銭が入っていないと誤解しては大嵐。そして本当はちゃんと賽銭が入っていて、しかもそれがお札だったと知れば、

 

「――はいどうぞ、お茶! お煎餅もあるわよ!」

 

 空の果てまで突き抜けるような快晴の笑顔で、彼女は月見に湯飲みを差し出すのだった。

 月見が賽銭箱にお札を入れたのだと知った直後の、霊夢の舞い上がりようは呆れるほどだった。あ~~~~~~~~と長い長い感嘆の声を上げながら、お札を天に掲げてその場でくるくる回って、頬ずりをして、抱き締めて。それからふっと我に返ると素早い手捌きでお札を懐に収め、月見を半ば強引に母屋まで招待した。

 必要最低限の物以外はなにも置かれていない、簡素でがらんどうな八畳間で、月見は苦笑いを浮かべながら湯呑みを受け取る。

 

「誤解が解けたようでなによりだよ」

「ほんっとごめんなさい! やー、あなた本当はいい妖怪だったのね。お札入れてもらえたのなんて初めてだわ!」

 

 あまりの嬉しさに霊夢は半分夢見心地になっていて、背景は完全にお花畑だった。

 

「たまたま小銭がなくてね」

「いや、普通は小銭がないからってお札入れたりしないでしょ。ああいやいや、別にあなたがお札を入れたのが変って言ってるわけじゃなくて、むしろとても素晴らしいことだと思うわ。よし、もし困ったことがあったら私に言いなさい。一回くらいなら力になってあげる」

 

 お賽銭を入れてくれるならいいやつ、入れてくれないなら悪いやつ。そんな至極単純な価値観で妖怪の善悪を決める霊夢は、満面の笑顔で煎餅を一枚つまみ、豪快に噛み砕く。

 

「いやー、このところツいてるわー。実は三日前にもお賽銭が入ってたのよ。あの時はちょっとだけだったけど」

「ああ……あのお金、外の世界のだけど大丈夫だったか?」

 

 三日前のお賽銭といえば、月見が幻想郷に戻ってきてすぐに入れたお金だ。百円玉を入れた。

 霊夢は頷いて、

 

「ええ、紫に換金してもらったから……え、あのお賽銭もあなたが入れたの?」

「ああ」

 

 月見もまた頷くと、ただでさえ天まで昇るようだった霊夢の笑顔が、遂に天すら突き抜けた。

 

「ほんっ~~~~ッとうにありがとう!!」

 

 霊夢はテーブルに大きく身を乗り出して月見の右手を取り、もう涙の一つも流しそうな勢いになって、

 

「そうよね、それが神社に来るお客さんとして本来あるべき姿なのよね! お賽銭箱ほったらかしでいきなり部屋に上がり込んでくるなんて失礼極まりないわよねっ! ああ、幻想郷にこんなに素敵な妖怪がいてくれたなんて、感動っ……!」

 

 なんだか賽銭の一つや二つでえらく好感度が急上昇しているが、それだけ彼女も苦労しているということなのだろう。それに、嫌われてしまうよりかはずっといい。幻想郷の重要人物である博麗の巫女に嫌われてしまえば生活しづらくもなろうから、まったく、甘味処で小銭を使い切った己の悪運を褒めてやりたい気分だ。

 月見は含むように笑って、こちらの右手をぎゅっと握り締めていた霊夢の手を、左の人差し指でとんとんと叩く。ああごめんなさい私ったらつい、と霊夢が手を解いたのを確認して。

 

「お茶まで出してもらっちゃったし、自己紹介しておこうか。私は月見。見ての通り、ただのしがない狐だよ」

「あ、私は博麗霊夢よ。見ての通り、博麗の巫女――」

 

 名乗った霊夢は、そこでふと疑問顔になった。

 

「月見? 月見ってもしかして……紫の友達っていう?」

「ああ、そうだよ」

「あーなるほど、月見ってあなたのことだったのね」

 

 へーあなたみたいないい妖怪があいつの友達ねえ、と意外そうに呟きながら、半分になっていた煎餅を口の中に放り込む。バリボリと軽快に噛み砕く音がとても美味しそうだったので、月見も一枚、頂くことにした。

 

「紫から聞いたのか?」

「そんなとこ。こないだあなたのお賽銭を換金してくれた時に大はしゃぎしてたわよ。月見が帰ってきた月見が帰ってきた、って」

 

 さしずめお札を手にした時の霊夢みたいな状態だったのだろう、と月見は思う。紫も大概、心を許した相手の前では感情の表現が豊かになるから、それこそ小躍りの一つでもしていたのかもしれない。

 

「あんなに嬉しそうな紫なんて初めて見たわ。なに、もしかして恋人同士とかだったりするの?」

「いいや? あくまで友人だよ、友人」

 

 もっとも、紫から向けられている感情までについては、否定しないけれど。

 お茶を一口飲む。そこでふと、お茶が思っていたよりも美味しかったから、月見は霖之助から頼まれていた言葉を思い出した。

 

「ところで霊夢……このお茶、霖之助のところから奪ってきたっていうやつか?」

 

 尋ねるなり、霊夢はあからさまに不機嫌になった。

 

「なに、霖之助さんとも知り合いなの? ……ハッ、まさかあなた、霖之助さんが送り込んできた刺客じゃないでしょうね!? ダメよこのお茶はもう私のもの、袋にだって名前を書いたもの!」

「いや、さすがに取り返しに来たとかそんなではないよ?」

 

 霊夢からお茶っ葉を取り返すのは骨が折れそうだし、そんなことをしたらせっかくいい妖怪だと認識してもらえたのが台無しだ。霖之助には悪いが、この場合は多少の犠牲はやむを得ないだろう。名前を書いたら自分のものだという小学生みたいな主張については置いておく。

 とはいえ、

 

「霖之助も大分困ってたようだったよ。もう大分ツケてるんだろう?」

「仕方ないじゃない」

 

 霊夢は唇を尖らせて、ぷいとそっぽを向いた。

 

「だってお金がないんだし……」

「お金、ね……」

 

 月見は縁側を通して外の風景を眺めた。もちろん参拝客の姿はない。動いているものといえば、風で揺れる木々の枝と、地面の上を仲良く跳ね回る小鳥たちくらい。

 

「やっぱり参拝客は少ないのかな」

「それどころか全然よ全然」

 

 霊夢は憮然とため息をついて、嘆かわしく首を横に振った。

 

「普段来てくれるやつらも、ここを都合のいい休憩所みたいな扱いして、お賽銭なんてちっとも入れてくれないのよ? 『親しき者にも礼儀あり』って言葉を知らないのね」

「……」

 

 果たして霊夢は、『人のふり見て我がふり直せ』という言葉を知っているだろうか。

 

「……まあ、ツケの方は無理でも、せめてものを強引に持ち出すのは考えてくれないかな。霖之助が困ってたのは本当だよ」

「むー」

 

 霊夢はとても不満そうに頬を膨らませたが、やがて口の中の息を吐き出して、八つ当たりするように煎餅を一枚掴み取った。

 

「……まあいいわ。月見さんがたくさんお賽銭を入れてくれたし、ちょっとくらいは我慢する」

 

 ちょっとなのか。……いや、月見が入れたお金はお賽銭としては破格だが、金額そのものは決して大したものではないから、ちょっとが妥当なのかもしれない。どうやら香霖堂が無事平穏を取り戻せるかどうかは、月見のお賽銭にかかっているらしい。

 煎餅を噛み砕きながら、霊夢は夢を見るように言う。

 

「あー、でもせっかくこんなにもらえたんだし、外で豪勢なお夕飯を食べるのもいいなあ」

「夕飯か」

 

 確かに日も暮れてきたし、そろそろいい時間だった。頭の中でたくさんの料理が浮かんでは消えていくのか、霊夢は煎餅を食べているにも関わらず、半開きの口から涎を垂らしそうになっていた。

 

「それにしても、お金がないんだったら、霊夢は普段はどんなものを食べてるんだ?」

 

 お賽銭一つでここまで大喜びするのだから、やはり普段の生活も相当に苦しくて、数々の節約術を駆使することでなんとか露命をつないでいるのだろう。そんなちょっとした疑問を、何気なしに口にしただけのつもりだった。

 それが地雷を踏み抜いたに等しい行為だとは、夢にも思わずに。

 

「……ご飯とお味噌汁」

「なるほど、定番だね。他には?」

 

 沈黙。

 

「……霊夢?」

「……」

 

 沈黙、

 

「……ご飯とお味噌汁」

「いや、それはさっき」

「ご飯とお味噌汁」

 

 月見は真顔になって霊夢を見た。霊夢は居心地が悪そうに月見から目を逸らして、拗ねた子どものように、唇をすぼめて答えた。

 

「……お料理、嫌い」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――別に、一人暮らしで料理ができなくたっていいじゃない。それで死ぬわけでもないんだし。なんていうか、料理みたいに細かい作業って嫌いなのよ。やってると神経がむしゃくしゃしてきて、暴れ出したくなってくるっていうか。やれ分量は大匙何杯とか小匙何杯とか、クソ食らえね。そんなのどっちだって同じじゃない。しかも匙は細かく指定してくるくせに、塩だの胡椒だのは『少々』よ? なによ『少々』って。『適量』とか『軽く炒める』とかいうのもわけわかんないわ。そういうところでは適当なのに、だからって本当に適当にやると変な味になったりするのよ? もう意味不明よ。理解不能よ。ねえ月見さん、料理って一体なにが楽しいの?

 

「お前……味噌汁ってこれ、外の世界のインスタントじゃないか」

「紫がくれたのよ。素敵よね、お湯と混ぜるだけでできちゃうなんて」

 

 博麗霊夢は、料理が大嫌いである。

 

「……『片付けのできない女』第二号か」

「一号って誰?」

「魔理沙」

「失礼ね、あんなのと一緒にしないでよ」

 

 使い終わった食器たちがすし詰めになって山になっている流しを見ると、月見は顔を押さえて呻き声を上げることしかできなかった。ああ霊夢、お前もか。

 霊夢は魔理沙と同じ扱いをされるのが大層ご不満なようだったが、五十歩百歩だと月見は思う。

 

「それに私は、できないんじゃないの。しないだけ」

「魔理沙も同じことを言ってたっけねえ」

「……、……魔理沙と一緒にしないでよ」

 

 やっぱり五十歩百歩だった。

 霊夢に背中を睨まれながら、月見は流しを覗き込んでみる。ご飯に一つ、味噌汁に一つで、一食あたり二つの食器を使用すると仮定すれば、ここですし詰めになっているのはおよそ二週間分といったところだろうか。

 

「よくもまあ、食器だけをこんなに持っているものだね」

 

 料理嫌いな一人暮らしで持つ食器にしては、明らかに多すぎる。それが災いしてこの惨状が生み出されているわけだ。

 霊夢はなぜか得意顔だった。

 

「よくみんながここで宴会を開くからね。食器だけは多いのよ」

「褒めてないよ?」

「……むー」

 

 味噌汁だって、インスタントだし。

 

「まさかご飯までインスタントということは……」

「できればそうしたいんだけどねー。でも紫が買ってきてくれないのよ、それくらい自分でやりなさいって」

 

 随分と久し振りに、紫のことを偉いと思った月見だった。思いながら、ゆっくりと額に手をやって、脱力するように吐息して。

 

「食器で既にこれだったら、食材の管理はどうなってるやら……なんていうのは冗談だけど」

「……」

 

 本当にほんの冗談のつもりだったのだけれど、途端に霊夢が、ものすごい勢いで月見から目を逸らしていったので。

 

「……霊夢」

「……」

「霊夢、私の目をまっすぐに見てみなさい」

「…………」

 

 目線を合わせてすらもらえない。霊夢が冷や汗を流しながら一生懸命に月見から目を逸らし続けるので、それを見た月見も冷や汗をかきたくなった。

 この露骨すぎる反応は、もしかしなくても。

 

「……ちなみに、最後に食材を触ったのはいつだい」

「……」

 

 少し前に、「お料理嫌い」と月見に伝えた時のように。

 横目で月見を睨みつけて、唇をすぼめて、拗ねながら、彼女は言った。

 

「……黙秘権を、行使します」

「……」

 

 どうやら月見は、また、地雷を踏み抜いてしまったらしい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 死亡が確認された食材たちを狐火で丁寧に供養し、生き残っていたものたちをかき集めれば、ちょうど一人一食分の量だけが手元に残った。なんでも以前ここで行われた宴会で余った食材たちらしいが、なまじっか量があっただけに、狐火もなかなか張り切って燃え盛っていた。

 裏庭で繰り広げられる一つの悲劇の結末に、月見は合掌するように目を細めて言う。

 

「霊夢……お前が放っておいたせいで、たくさんの食べ物たちが食べてもらえずに死んでいったぞ……」

「し、仕方ないでしょ!? 私だって好きで放っておいたわけじゃないわよ、『お前も料理くらいできるようになれ』ってみんなが無理やり置いていったのっ! でも料理なんてできないし! だからって誰かにあげるのも勿体ないし! インスタントのお味噌汁美味しいしっ!」

 

 霊夢は、本当にこの幻想郷で十数年を生き抜き一人暮らしをしている少女なのだろうか。ひょっとして月見と同じで、つい最近まで外の世界で生活していたのではないか。インスタント味噌汁を飲みながら。

 ともあれ土間の調理台に生き残った食材たちをひと通り並べて、月見はふむと腕組みをした。これらの食材ももう決して長い命ではない。今日中に使い切らねば、狐火の中に消えた仲間たちと同じ運命を辿ることになるだろう。

 なので。

 

「この食材でよければだけど、私が今日の夕飯を作ってやろうか?」

「……本当ッ?」

 

 月見がそう提案した途端、隣で霊夢の瞳が子どもみたいに輝いた。

 月見は、ああ、と頷いて、

 

「大したものは作れないけどね」

「やっ、ご飯とお味噌汁以外のものが出てくるなら充分大したものでしょ!」

 

 それはただ、霊夢の普段の食生活がおかしいだけだ。別に謙遜したわけではなく、本当に、この食材だけでは大したものは作れないのである。

 だというのに霊夢はもう待ち切れない様子で、右の拳を握り締めるなり、よぅし! と元気に気合を入れていた。

 

「私もお手伝いするわよ! インスタントお味噌汁を作るためのお湯を沸かしてあげる!」

 

 そんなものはお手伝いとはいわない。

 けれど、まあいいかと月見は思った。きっと霊夢は、魔理沙が筋金入りの掃除嫌いであるように、筋金入りの料理嫌いなのだ。ならばとやかく言うだけ無駄だし、あまり差し出たことを言って、嫌われて身ぐるみを剥がされても困る。

 それよりも今は、せめて目の前のこの食材たちだけでも、食べ物として生まれた意味を全うさせてやるべきだ。

 

「ところで月見さんはどうするの? 一緒に食べてく?」

「さて」

 

 月見は顎をしゃくって調理台の上の食材たちを示し、

 

「これが二人分の料理を作れるだけの量に見えるか?」

「……」

 

 料理の大嫌いな霊夢でも、それくらいならわかったらしい。眉間に皺を作って調理台を眺めた彼女は、やがて若干申し訳なさそうになりながら、おずおずと言った。

 

「……インスタントお味噌汁飲む? 美味しいわよ?」

「……また今度にしておくよ」

 

 インスタント味噌汁だけすすっても、自分で自分が憐れになるだけのような気がする。それに月見は妖怪。一食くらい抜いてもなんの問題もありはしないから、苦笑一つで断った。

 

「なんだか悪いわね。よし、困ったことがあったらこの私に言いなさい。二回くらいなら力になってあげる」

「そうだね……まあ、私が悪い妖怪じゃないってことを、理解してくれると助かるよ」

「それはもちろん。お賽銭入れてお夕飯まで作ってくれるあなたは幻想郷屈指の素晴らしい妖怪だわ。私が保証してあげる」

 

 と、霊夢のお腹が、くう、と小さく鳴ったので。

 月見は笑って、

 

「それじゃあ急いで作るから、居間で待っててくれ」

「楽しみにしてるわね!」

 

 嬉しそうな小走りで居間へとすっ飛んでいく霊夢の背中を見送り、調理台へと向き直る。料理は特別好きというわけではないし、腕前だって、藍や咲夜と比べてしまえばとても誇れるようなものではない。意識して身につけたわけではなく、長く人間たちと生活する中で自然と体に染みついた、謂わば年の功みたいなものだった。

 だがそれでも、楽しみにしていると言って土間を飛び出していった、霊夢の笑顔を思い出すと。

 

「……頑張りたくなっちゃうね」

 

 精々自分が持てる技術を尽くして、ご飯と味噌汁だけの食事よりかは、見栄えがするものを作ってやるとしよう。

 月見は緩く笑みの息をついて、戸棚から包丁を取り出す。

 ……刃こぼれしていたので、まずは包丁を研ぐところから始まった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見という名の妖狐について、詳しく知っているわけではないが、同時になにも知らないわけでもない。それは教育係である紫からたびたび話を聞かされていたからであり、故に博麗霊夢は、月見と紫がどういう関係なのか、といった程度のことはもう何年も前から知っていた。

 夕飯の支度を月見に任せ居間へと戻った霊夢は、紫が独白するように言っていた言葉を思い出す。

 妖怪と人間の理想郷を創るという紫の夢を肯定し、応援してくれた人。彼がいなかったら今の自分はなかったといっても過言ではない、何者にも代えることのできない大切な恩人。

 好きなんだ、とも、言っていた気がする。……なんともあのスキマ妖怪が恋をするような相手がこの世に存在するとは、一体どれほど胡散くさい男なのだろうかと、その話を聞いた当時は呆れたものだけれど。

 こうして実際に会ってみれば、まあ。

 恋愛感情云々はもちろん関係なく、好ましい感じの男ではあるなと、霊夢は思っていた。

 まずは常識をしっかり弁えているところがいい。賽銭箱に二回もお賽銭を入れてくれたし、しかも今回はお札だった。面と向かって言うのはさすがに図々しいから控えるけれど、ありがたいので毎日でも神社に来てほしいくらいだ。

 更に、初対面の霊夢のためにわざわざ夕飯を作ってくれるところも悪くない。世話好きなところがあるの、と紫は言っていたが、まさにその通りなのだろう。

 拝殿の前で初めて月見と出会った時、誤解したまま彼をぶっ飛ばしてしまわなくて正解だった。もしあのまま怒りに任せて彼を退治していたら、こうして夕飯を作ってはもらえなかったし、今後お賽銭を入れてもらえることもなかっただろう。ついでに言えば、「月見になんてことしてくれたの!?」と紫に怒られたかもしれない。本当に危ないところだった。

 とは、いえ。

 

「……月見、ねえ」

 

 月見はとても常識的でいい妖怪だ。だがその上で言わせてもらえば、いい妖怪であるが故に、変なやつなのだと霊夢は思う。

 そもそも、人の目線から見て常識的だと思える時点でおかしいのだ。人間は人間、妖怪は妖怪であり、姿形こそ似ることはあるものの基本的にはまったく別の生き物。よって無論のこと、お互いの常識だってまったく別のものになる。そのあたりは、博麗の巫女として人間とも妖怪とも接する機会が多いから、身を以て理解しているつもりだった。

 妖怪は人間じゃないから、賽銭箱にお賽銭を入れてくれない。

 人間は妖怪じゃないから、数時間おきにお腹が空くし、夜は眠くなる。

 

「人間なんだか妖怪なんだかわからない人ね」

 

 銀の狐耳と尻尾が生えているから、妖怪であるのは間違いないけれど。

 でもひょっとすると――彼の心は、人間の側に大きく傾いているのかもしれない。人間の寿命よりもずっと長い時間を、人間たちとともに生きた妖怪は、話をした限りでは人のようにも見えた。

 吐息。

 

「ま……どうでもいいわね、そこまでのことは」

 

 そこで、霊夢は己の思考を打ち切った。珍しい相手だからついつい物思いに耽ってしまったけれど、霊夢にとって所詮他人は他人だ。以前紫に、霊夢は自己と他人の境界線をはっきり区別しすぎると言われたことがあるが、特に反論はしなかった。まあそうなんだろうな、と思っただけだった。

 霊夢にとって必要なのは、相手が何者なのかと、自分にとってどういう存在なのかという二つの情報だけ。月見は紫の友人である妖狐であり、神社にお賽銭を入れてくれるいい妖怪。それさえわかればそれでいい。

 そういった霊夢の人間性を、時に冷たいと言う者もいるが、生まれつきの性分なのだから仕方ない。霊夢は霊夢であり、他人は他人だというその線引きは、多分これからもずっと、一生、変わることはないのだろう。

 

「――あのー、霊夢さあん」

「……あん?」

 

 掛けられた声に、霊夢は面を上げた。いつの間にか、縁側のすぐ向こう側に人影が立っている。大きな黒い翼と白い尻尾という対照的な組み合わせは、朧気にだが見覚えがあった。

 

「あー……なんだっけ、ええと……いぬー……いぬ~、……そう、犬」

「犬!? 犬走椛ですっ! ついでにいえば、白狼天狗ですッ!」

「そうだったっけ」

「そうだったですっ!」

 

 お賽銭も入れてくれない妖怪のことなんて、萃香や文などの例外を除いてよく覚えていない。

 尻尾をぱたぱたさせて怒る椛に、霊夢は極めて淡々と問う。

 

「なにか用? ところで素敵なお賽銭箱は向こうよ」

「ここに月見様が来ていませんか? 綺麗な銀色の毛をした、妖狐の方なんですけど」

 

 当たり前みたいに無視された。これだから人間の常識が通じない妖怪は……というか、

 

(月見さんってば、天狗たちとも知り合いなのね)

 

 まあ、幻想郷の創始者である八雲紫と親しいくらいだ。今更天狗とも面識があるのだとわかったところで、特に感じるものはない。

 

「来てるけど、それがどうかした?」

 

 答えると、椛は安心したように頬を綻ばせた。

 

「ああ、よかったです。天魔様から、今すぐ月見様を連れてくるようにと命を受けてまして」

「ふーん……まあいいけど」

「月見様は今どちらに?」

「土間に――」

 

 と、そこまで答えかけたところで霊夢ははっと思い出した。そうだ。そういえば月見は今、霊夢のために夕飯を作ってくれている真っ最中なのだった。

 なのにここで月見の居場所を教えてしまったら、きっと彼は椛に連れていかれてしまう。となると必然、霊夢の今日のお夕飯は――

 

「――いないわ」

「え?」

「誰かしら、月見って」

「……」

「知らない妖怪ね」

 

 それはちょっとマズい。今ここで月見が連れて行かれてしまうこと即ち、霊夢の夕飯が今回もまたご飯とインスタント味噌汁になってしまうことと同義だ。

 それだけは絶対に、避けなければならない。心の中の焦りを気取られぬよう、霊夢は努めて淡々とした口振りで、

 

「というわけでここにはそんな妖怪いないから、潔く別のところを捜して――」

「まあ、ここに月見様がいるのは私の千里眼でわかりきってるんですけどね」

「この犬ッ!!」

「な、なんですかいきなり!? 私は白狼天狗です、百歩譲っても狼にしてくださいっ!」

「うるさいうるさい、お前なんか犬で充分よ!」

「し、失礼なあっ! 霊夢さんだって嘘ついてたじゃないですか、神に仕える人間がそれでいいんですか!?」

「私、この神社の神様知らないし」

「……あの霊夢さん、本当にそれでいいんですか?」

 

 椛の若干憐れむような目線を、霊夢は有意義に無視して吠える。

 

「ともかく今はダメったらダメ! そうね、あと三十分は待って頂戴」

「そ、そんなに待ってたら私が天魔様に怒られるじゃないですかっ! 今すぐ連れてこいって言われてるんですよ!?」

 

 しかし椛も簡単には引き下がらない。縁側に両手をついて身を乗り出し、そのまま土足で上がり込んできそうな勢いだった。天魔から月見を連れてこいを命令されているのは事実なのだろう。

 だが、霊夢とて引き下がるわけにはいかない。己の夕飯と椛を天秤に掛ければ、どちらに秤が傾くかなど端から決まっている。椛? なにそれおいしいの?

 なので霊夢は、ため息をついて。

 

「……わかったわ。あんたが上司の命令に逆らえないわんこだってことはよーくわかった」

「……なんか癪に障りますけど、わかってもらえたのならまあいいです。それじゃあ早く月見様を呼んで――」

「というわけでここは弾幕ごっこで決着ね」

「わかってもらえてなかったっ! あのですね霊夢さん、人の話聞いてましたか!? 今すぐ、月見様を、連れていかないといけないんですってばーっ!」

「スペルカードは四枚よ」

「うわーん!?」

 

 腰を上げ、ズカズカと大股で縁側から外へ飛び出し、椛の襟首を引っ掴む。椛はいやいや抵抗するが、そんなの知ったこっちゃあない。

 

「さあ、勝負よ! 今日のお夕飯は私が守るっ!」

 

 椛とは、去年の秋に、守矢神社の移転騒ぎの中で戦ったことがある。幻想郷で一大勢力を築く天狗だけあって、決して油断していい相手ではなかった。

 だが問題はない。今の霊夢には、全身全霊を懸けて守らなければならない大切なものがある。そのためならば、神様だって超えられる。

 

「霊夢さんのばかああああああああっ!!」

「うるさいわねこの犬――――ッ!!」

 

 幻想郷の夕焼け空に、椛の断末魔と霊夢の怒鳴り声が響き渡り、弾幕が縦横無尽に天を彩る。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 料理を終えた月見が居間に戻ってきてみると、庭の隅っこでボロボロになって地面と同化している椛が見えた。料理の最中、霊夢が誰かと弾幕ごっこを始めたのには気づいていたし、聞こえてくる相手の悲鳴からもしかしてとは思っていたけれど、やはり間違いはなかったらしい。

 

「おかえりなさい月見さん! お夕飯できたっ?」

 

 目を輝かせながら駆け寄ってきた霊夢に、月見は頷く。

 

「あとは盛りつけるだけだよ。……それで、あの子はなんであそこに?」

 

 ぴくりともしない椛の亡骸を指差す。霊夢は振り向くことすらしなかった。

 

「さあ。なんでも天魔の命令で、あなたを連れ戻しにきたとかなんとか」

「ふうん?」

 

 操の命令ということは、家づくりの方でなにかあったのだろうか。……まさかもうできあがったから呼びに来たなんてのはありえないだろう。昨日の今日だし、早すぎる。

 

「ねえねえ、見てきてもいいっ?」

「ああ、いいよ。……どれ、私は椛を起こして話を聞いてみようかな」

 

 やはり嬉しそうな小走りで土間へとすっ飛んでいった霊夢と別れて、庭に出る。椛は、よほどこっぴどくやられたのか全身の至るところが煤けていて、ボロ布みたいになってしまっていた。

 

「おーい、椛ー」

 

 肩を揺すってみるが、果たして返事はない。ぐるぐる目を回して完全に気を失っていて、彼女が一体なんの用で月見を呼びに来たのかなど、とても確認できそうにない。

 

「ふむ」

 

 けれど、どうやら急ぎの用だったらしいことはわかっているので、とりあえず様子を見に戻った方がいいのかもしれない。

 などと月見が考えていると、傍らに風が舞い降りた気配がして。

 

「ここにいたのね」

「おや……」

 

 射命丸文、だった。地に降り立った彼女はすぐさまスカートの裾を両手でガッチリ押さえ、人どころか妖怪すら殺せそうなほど物騒な目つきで、月見をギロリと睨みつけた。

 その声音は、悪霊の怨嗟のように。

 

「……見てないでしょうね」

「……見てないよ」

 

 月見は呻くようにため息をついた。やはりあの時のことは、何百年が経った今でもしぶとく根に持たれているらしい。

『あの時』というのは、月見が文から嫌われる原因となってしまった一件のことであり、スカートを周到に押さえる彼女の反応から予想できる通り、つまり月見は見てしまったのだ。なにをとは言わない。

 とはいえ『あれ』は半分以上が不可抗力みたいなものだったので、逆恨みもいいところなのだけれど。まあ、わかっていても恨まずにはいられないのが、複雑な乙女心なのだろうか。

 

「こんなところでなにしてんのよ」

 

 殺気すら漂いそうなほど冷たい文の問い掛けに、月見は苦笑混じりで応じる。

 

「いつも通り観光だよ。……操の方でなにかあったんだって?」

「あんたの家ができたのよ。それで宴会するからさっさと戻ってこいって話」

「……本当に?」

「嘘ついてどうすんのよ」

 

 それはまあ、そうなのだけど、昨日の今日で家ができるのはさすがに早すぎではなかろうか。

 文は呆れ顔で、腰に両手を当ててため息をついた。

 

「天狗に鬼に河童にその他諸々で百数十人体制なんだから、あっと言う間にできあがるに決まってんでしょ」

「……なんだか悪いなあ」

 

 これほどの早さなのだったら、恐らく寝る間も惜しんでの突貫作業になったはず。しかも、その上で宴会の準備までしてくれているというのだから、感謝を通り越して罪悪感が襲いかかってきそうだった。

 文の半目が体に刺さる。

 

「ほんと、みんなに働かせて自分はこんなところでのんびりしてるなんて、大したご身分よね」

「……一応弁解しておけば、私だって手伝いたかったんだからね?」

 

 藤千代にぶっ飛ばされてさえいなければ、月見とて多少なりとも力にはなれていた、はずだ。

 けれど文はつんとそっぽを向いて、それ以上取り合ってくれなかった。

 

「ほら、ここでなにやってたのかなんて知らないし知りたくもないけど、さっさと帰るから霊夢さんに一言通してきなさい。あんたのせいで天魔様に怒られたらたまったもんじゃないわ」

「……わかったよ」

 

 月見の返事を最後まで聞かないうちに、文は椛を抱き起こして、往復ビンタをしたり頬を引っ張ったりし始めた。パパパパパパパパと目まぐるしく右へ左へ揺れる椛の頭を見て、痛そうだなあ、と月見は苦笑しつつ、霊夢のところへと戻ることにした。

 ちなみに椛の頬は、餅のようにとてもよく伸びていた。

 

 

 

 

 

 霊夢が、土間でもそもそと鍋をつついていた。

 

「……霊夢」

「――ハッ」

 

 確かにこの料理は月見が霊夢に作ってやったものなので、どんな食べ方をしようとも彼女の自由かもしれないけれど、だからといって皿に盛りつけもせず直接鍋をつつくのはどうなのか。月見が痛む額を押さえながら霊夢の名を呼べば、彼女はびくりと飛び上がって、

 

「あっ――ち、違うのよ月見さん! これはその、ちょっと味見してみたら予想外に美味しくてつい!」

「……口に合ったようでなにより」

「……ごめんなさい」

 

 居心地の悪そうに頭を下げて、近くの棚からあせあせと食器を取り出す霊夢の横顔は若干赤かった。まあ、それだけお腹が空いていたのだろうということで、今回は大目に見るとする。

 

「さて、さすがにあとは一人で大丈夫だろう? 私は帰るよ、なんだか呼ばれてるみたいだったからね」

「あー、あのわんこの件ね。いいわよ。お夕飯どうもありがとう」

「ちゃんと食器に盛りつけてから食べるんだよ」

「わ、わかってるわよっ」

「それと、すし詰めになってた食器は料理のついでに洗っておいたから。次からはあんまり溜めないようにね」

「え? ……あっ、ほんとだ! うわーここまでしてもらっちゃってなんだか悪いわね。よし、次に会った時は私秘蔵のインスタントお味噌汁をご馳走したげるわ。美味しいわよ」

 

 霊夢は少し、インスタント味噌汁から離れて生活した方がいい気がする。

 ともあれ椛が目を覚ましたらしく、庭の方から「あー!?」という絶叫が聞こえてきたので、月見はすぐに向かうことにした。

 

「それじゃあ、また」

「ええ。今度も素敵なお賽銭をよろしくね!」

『つ、月見様ーっ! いるんですよね!? あの、天魔様が呼んでるので、今すぐ戻ってきてくださーいっ! どこにいるんですかー!?』

「はいはい、今行くよ!」

 

 最後に霊夢を一瞥すると、彼女は既に鍋の中身の虜となっていて、月見の存在などとうに頭の中から弾き出したようだった。けれど料理を配膳するその笑顔が本当に幸せそうだったので、まあこれはこれで、いいのかもしれない。

 玄関から外に出ると、すぐに椛が半泣きになりながら駆け寄ってくる。

 

「月見様ー! よかったです、もうこのまま一生会えないかとっ……!」

「そんな大袈裟な」

 

 椛の頬が右の左も真っ赤っ赤になっているのは……間違いなく文の仕業だろう。椛の後ろで、文はとぼけるように無関心な表情をして、神社の景色を眺めているのだった。

 

「ともあれ、待たせたね。早く行こうか」

「はい! 文さんもほら、行きましょうっ」

「はいはい」

 

 まず椛が先陣を切って飛び上がり、すぐに月見もそのあとに続く。文はそれからやや間を置いて、月見の斜め後ろの位置を陣取った。

 

「……? 文さん、どうかしたんですか?」

 

 一緒に並んで飛んでくれない文に、椛が怪訝そうな顔をするけれど。

 

「……別になんでも。ほら、早く行きなさいよ」

 

 文はぶっきらぼうな声でそれだけ言って、決して今の位置を変えようとはしなかった。

 その理由は言わずもがな、月見の隣やそれよりも前の位置を飛ぶと、ふとした拍子にまた見られてしまう可能性が出てくるから。まったく、見られるのが嫌なら椛みたいに長いスカートを履けばいいだろうにと月見は思うけれど、言えば視線で殺されそうなので口にはしない。

 その代わりに、不思議そうに疑問符を量産していた椛に向けて、先を促す。

 

「ま、いいじゃないか。それより今は急がないと」

「おっと、そうでした。では月見様、ついてきてくださいね!」

「はいよ」

 

 春空の高い位置から見下ろせば、幻想郷の遥か彼方までを壮大に一望できる。もちろん、みんなが月見の家をつくってくれたであろう、山の南の麓だってよく見える。

 その場所に、なにやら周囲の森を頭一つ以上突き抜けて、やたら背の高い大屋敷が鎮座しているように見えるのは。

 まあきっと、気のせいなのだろうなと、月見は思い込んでおくことにした。

 

「あっ、あの大きな白いお屋敷が見えますか? あれが、完成した月見様のお家なんですよ」

「……」

 

 時には、現実逃避も必要なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第35話 「狐とみんなと……温泉宿?」

 

 

 

 

 

 普通とは、一体なんだろうか。

 別に哲学めいた問答をしているわけではない。ただ、人によってその感覚に個人差はあれど、「大体このくらい」「ここまで行くと普通じゃない」といった境界線は世間一般によって漠然と存在しているわけで、そういう意味で月見は決して変なことを言ったとは思っていない。

 普通の家でいい。この言葉の、一体なにが悪かったのだろうか。

 

 この言葉を一体どう誤って解釈すれば、三階建て+日本庭園付きの大屋敷、などという常軌を逸したものができあがってしまうのだろうか。

 

「……」

「ふっふっふー、どうよ。驚いた?」

 

 目の前の光景に絶句する月見の隣で、にとり渾身のドヤ顔が炸裂する。

 どこか遠くで、カラスがかあかあと情けなく鳴いている。

 

「いやー、今までつくった家の中でも間違いなく最高傑作だよこれは。昨日藤千代さんがあなたをぶっ飛ばしたあとに、諏訪子たちが手伝いに来てくれてね。さすがは大地を操る神様だね、この規模の土地をあっという間に整えてくれちゃってさ。お陰でほら、こうやって池を作る余裕までできちゃった」

「……」

 

 中央の屋敷を囲むようにして、向こう岸まで二十メートルには迫ろうという巨大な円形の池が出現している。月見たちが立っているのはその外側だ。池には鶴島・亀島・蓬莱山の日本庭園を代表する島が点在していて、架けられた橋は目の覚める赤い手摺が特徴的な太鼓橋。なぜか鯉が泳いでいる。

 春の夕焼け空が、目に染みるくらいに赤く赤く燃えている。

 

「水は山の方から直接引いてるよ。私たちも水浴びしたりする綺麗なやつだから、夏になったら是非飛び込んでみてね! ……で、次はこっちのお屋敷ね。なんていってもまず見た目がすごいよね。大きいってのもあるけど、ほら外壁が全部真っ白でしょ? これね、『月桂』って木材使ってるんだよ。月桂って知ってる? 月の世界に生えてるって中国で言い伝えられてる木なんだけど、なんと妖怪の賢者様が自ら月に突撃してかっぱらってきてくれたんだよ! これがまたとにかくとんでもないくらいにいい木でー、柔らかくて軽くてでも強度高いし耐水性も耐朽性も抜群だし、もうまさに家づくりのために生まれてきたような木って感じでね! 賢者様、帰ってきた時なんか服がボロボロで若干涙目になってたけど、やー本当にいい仕事してくれたよ!」

「…………」

 

 雅な太鼓橋を渡りきった先で、件の大屋敷は鎮座している。にとりの説明にあった通り、『月桂』なる木材で作られた外壁は白一色で透き通っており、周囲には背の高い木々が立ち並び日本庭園の景観を演出しているが、三階建ての屋敷はそれらよりも更に背高のっぽで、家というよりかはどこか秘境の温泉宿めいて見える。

 夕方の少し冷えた春風が、月見とにとりの間を吹き抜けていく。

 

「お屋敷は、一階が住居スペース。居間に客間に書斎に寝室に厨房に水周りに倉庫にその他諸々の部屋は全部まとめてあるよ。三階は、色んな用途に使える小部屋を集めた多目的フロア。景色がいいから幻想郷を遠くまで一望するもよし、お客さんを泊めるのに使うもよし、一階の倉庫で足りなかったら物置にしたっていいし、天気のいい夜なんかは気になるあのコと月見酒ってのも乙だね! そんでもって二階はこのお屋敷の目玉の一つ、百人以上集まっても全然余裕な大宴会場さ! みんなもう集まって、宴会の準備してるはずだよ!」

「………………」

 

 今の場所からでもはっきりとわかるほどに、屋敷の二階が大勢の気配で賑わっている。大きな窓を広々と開け放って、こちらに向けて大きく手を振っている人影がちらほら。萃香に勇儀に、諏訪子に輝夜、藤千代に操……そしてなんと、フランの姿まであるようだった。

 池の片隅で、小魚が音もなく水面を叩く。

 

「ほんと、こんな豪華メンバーで家づくりなんて初めてだったから、私もみんなもすっかりテンション上がっちゃって、寝る間も惜しんで働いたよ! あ、月見は全然気にしなくていいよ私たちが好きでやったことだし、てかむしろこんないい経験させてもらったことに感謝してるくらい! いやあほんとにいい仕事したよこれは、さっすが私だね! ……ところでどうしたの月見、そんな疲れた顔して」

「……いや、なんでもないよ」

 

 月見は目頭を押さえて、全身から脱力するように大きなため息を落とした。なんでもないわけがない。思わずなんでもないと嘘をついてしまう程度には、大問題なのだった。

 いくらなんでも予想外だ。もちろん当初仄めかされていた住宅型移動要塞と比べてしまえば圧倒的にマシだし、月見は今回、みんなの好意に甘えて家をつくってもらったのだから、頭ごなしに苦言を呈していい立場でもない。

 しかしさすがに、一人暮らし(・・・・・)の家でこの規模というのは、メチャクチャだと思うのだ。

 繰り返すが、家というよりかは、どこか秘境の奥でひっそりと経営されている温泉宿を見ている心地だ。四季折々の景色を盛り込んだ豊かな自然と、別世界のように広がる荘厳な日本庭園と、山より清流が流れ込む涼やかな池と、自然と調和した古き佳き日本建築。こんな感じの温泉宿に、何年か前に宿泊した覚えがある。露天風呂からの景色が素晴らしく、大変気持ちのいい時間を過ごさせてくれた宿だった。

 

「まさか、温泉とかまでついてたりしないだろうね?」

「え!? うそ、なんでわかったの!?」

「……なんでだろうね」

 

 温泉宿みたい、ではなかった。これはもう温泉宿だ。四季折々の自然に見事な日本庭園に大きな池に古き佳き日本建築にトドメに温泉なのだから、もう紛うことなき温泉宿だ。

 にとりは、「あちゃ~」と口惜しそうに天を仰いでいた。

 

「秘密にしといてあとでびっくりさせようと思ってたんだけど、気づかれちゃったかあ。そう、その温泉が大宴会場に次ぐもう一つの目玉だよ。諏訪子がいたからね、まさか出てきたら面白いよね~って軽い気持ちでやったらほんとに出てきちゃったんだよ」

 

 一度語り出せば秘密などどうでもよくなったようで、彼女はまた饒舌になって言う。

 

「温泉は室内と室外で二つ。中のは大浴場で、外のは当然露天風呂だよ! 湯加減はもちろん、妖夢が手伝ってくれたから景色もすっごく綺麗で、まさに天国みたいな気持ちよさとなっております! 実際に入った私が言うんだから間違いないッ! あ、妖夢ってのは冥界に住んでる庭師ね」

「なあにとり。私、ここで暮らすのか?」

 

 これが月見の一人暮らしのためにつくられた家であると、一体誰が信じよう。一人どころか、その気になれば十人以上の大家族だって悠々と生活できるに違いない。

 

「はー、改めて見てみるととっても大きいですねー」

 

 月見をここまで案内してくれた椛は、とても視界に収まりきらない屋敷の全景にすっかり感心しきって、尻尾を絶え間なくパタパタさせていた。月見を見上げてとびきりの笑顔で、

 

「こんな素敵なところで生活できるなんて、びっくりですね!」

「ああうん、私もびっくりだよ」

 

 ただ、椛の言う「びっくり」と月見の言う「びっくり」は、まったくといっていいほど別物のような気がする。

 

「さすがに光学迷彩だのなんだのは仕込んでないだろう?」

「大丈夫だよー、鬼子母神様がいたんだから」

 

 裏表なく頷いたにとりは、けれどすぐに「ああでも」と目を細めて、懐かしむように、

 

「一人、このお屋敷に変形機能をつけようとした馬鹿がいたよ……。迸るパッションを抑えられなかったんだね……」

「……」

「でももちろん、すぐに鬼子母神様に見つかってね」

 

 再び無言になる月見を尻目に、彼女は両腕を広げて、自分の身の丈と同じくらいのなにかを抱える仕草をする。

 そして、ふっ、と鋭い呼気を一つ、

 

「――『そんなことしたら、私が月見くんに嫌われちゃうじゃないですかーっ!!』」

 

 夕焼け空の彼方へとぶん投げた。

 きらん。

 

「というわけで河童が一人、夜空のお星様になったのでした。ほんとどこまで飛んでったんだかー」

「さて、立ち話もなんだし中に入ろうか」

「あ、うんそうだね」

 

 名も知らぬ河童よ、安らかに眠れとは言わない。地獄で映姫にこっぴどく叱られてしまえ。

 にとりと椛を連れて橋を渡る。質のいい木の板に足をかけ、山なりを描いて歩いていけば、後ろからついてくる足音は三人分で。

 

「……おや、射命丸」

 

 足を止めて振り返ってみると、月見から五歩分ほど距離を空けてこっそりついてくる、文の姿があった。そういえば屋敷の威容に気を取られるあまり、彼女の存在をすっかり忘れてしまっていた。

 

「お前も来るのか?」

「……なによ。私がいると目障り?」

 

 あいかわらず彼女の声音は不機嫌だったが、月見ももう慣れてしまったので、柳に風と肩を竦めて返す。

 

「そんなことはないけど、意外だとは思うね。てっきり、私と一緒の宴会なんて嫌だって帰っちゃうものだと」

「否定はしないけど、新聞のいいネタになりそうだし、そのくらいは我慢するわよ。私情に囚われてネタを逃す記者は二流だわ」

「……」

 

 せめて表面だけでも、否定してはくれないだろうか。

 池のどこかでぴちょんと小魚の跳ねた音がして、なんだか笑われている気分になった。

 

「もう、文さん。そんなに冷たくしなくたっていいじゃないですか」

 

 椛が頬を膨らませて怒ってくれるけれど、もちろんその程度で態度を改めるほど文の恨み辛みは浅くない。関係ないわよと不愉快げに吐き捨てたきり、そっぽを向いて黙り込んでしまった。

 にとりに、脇腹をちょんちょんと肘でつつかれた。

 

「ねえ月見、あのブン屋になにしたの? あんな露骨に嫌われるったら相当な」

「それは射命丸に訊いてくれ。でも訊かない方がいいよ、竜巻に呑まれるからね」

「どういうことなの……」

「封印された過去、ということさ」

 

 月見はさておき、文はあの出来事を記憶の最深層に叩き落として、五重六重にも及ぶ厳重な封印処理を施したのち、誰も近づけないよう結界を重ねがけしているに違いない。その周囲では文の分身たちがネズミも漏らさぬ哨戒を行っていて、好奇心で記憶を覗こうとする者は容赦なくズタズタに引き裂かれるのだ。

 

「ま、いいじゃないか。それより早く行こう」

 

 しかし幸い、百人以上の大宴会だ。仲のよくない相手が一人いたところで、さしたる悪影響もなかろう。

 池に点在する島の景観を楽しみつつ、橋を渡り切ると、すぐに石畳が玄関への道標を作っていた。左右は既に日本庭園の領域となっていて、木々や景石はもちろん草の一本や砂利の一粒に至るまで、あらゆるものの配置に重要な意味を持たせたかのように、徹底的なまでに作り込まれている。石畳を一歩でも踏み外してしまえば、それだけで山紫水明を穢した罪人として天罰が下りそうだ。外の世界でもなかなかお目にかかれないほど見事な庭園だったけれど、今後これを自分が手入れすることになるのだろうかと思うと気が滅入った。

 さて屋敷正面の戸は開け放たれていて、玄関はそこだけで一人暮らしができてしまいそうなほどにだだっ広かった。とはいえ百数十人分の履物を受け入れきるだけのキャパシティはなかったようで、土間はぶち撒けられた古今東西の履物たちで、ほとんど足の踏み場もない状態になっていた。

 

「やれやれ、これはまたすごいね」

「そうだねえ、もうちょっと広くしておけばよかったなあ」

 

 にとりのぼやきを適度に無視しつつ、履物を脱いで、やっとの思いで式台を踏み越えていく。

 屋敷の中もまた、外の庭園に負けず劣らずの完成度だった。接ぎ目がわからないほど整然と整えられたフローリング。呼吸をすれば澄んだ木の香りが体の隅々まで行き渡るし、足裏に触れる木目は流砂を踏んでいるような柔らかさだ。家の中にいるはずなのに、まるで森林浴をしている心地になってくる。もしこれが外の世界の温泉宿だったら、一週間くらいはのんびりと宿泊していたかもしれない。

 しかし繰り返すが、これは月見が一人暮らしをするために建てられた家である。これからこの豪邸を一人で掃除することになるのかと思うと、ますます気が滅入ってしまう月見だった。

 一体どこから仕入れてきたのか、壁には水墨画、棚には壺やら焼き皿やらが置かれた中、正面を少し進んだところに二階へとつながる階段が陣取っている。両手をめいっぱい開きながらでも楽々通れるくらいに幅広な大階段で、上から聞こえる喧騒は早くもお祭り騒ぎの様相だ。

 ずどどどどど、と誰かが階段を転げ落ちてくる音、

 

「月見――――っ!!」

「ぐっ」

 

 実際に転げ落ちてきたわけではないが、ほとんどそれと変わらない勢いですっ飛んできたフランの体が、小さな砲弾となって月見の腹を打った。けれど月見も男だ。そう何度もみっともない尻餅をついてなるものかと根性で踏み留まり、腹の痛みを努めて意識しないようにしながらとにかく笑う。

 

「フラン、お前も来てたんだね」

「えへー」

 

 腹に抱きついたまま月見を見上げるフランの笑顔は、今日も百点満点だった。

 

「一人か?」

「んーん、お姉様と咲夜も来てるよ。咲夜はお料理作ってくれてて、お姉様は」

 

 と、ずどどどどど、と再び誰かが転げ落ちてくる音、

 

「フラ――――ン!!」

 

 今度はレミリアが、先ほどのフランを凌ぐ勢いで二階から転がり落ちてきた。比喩ではない。よほど大慌てしていたらしく、本当に転がり落ちてきた。

 どすんと尻餅、

 

「いったぁ……」

 

 涙目でお尻をさすったレミリアは、けれどフランの姿に気づくなり、すぐに血相を変えて飛び上がった。

 

「フラン、こんなところにいたのね!? ちょっと目を離した隙に、誰かにさらわれたんじゃないかと!」

 

 無我夢中になりながらフランに駆け寄り、強引に月見から引き剥がし、頭のてっぺんからつまさきに至るまで怪我がないかどうかを隅々確認する。見ていて呆れてしまうくらいの過保護っぷりに、フランは心配してもらえるのが嬉しいのだろう、ちょろっと舌を出してお茶目に笑っていた。

 

「ごめんなさーい。だけどほら、月見が来たから」

 

 レミリアにキッと睨まれた。緋色の瞳の奥に、とても控えめとはいえない嫉妬の色がある。大好きな妹が身内ですらない他人に、ひょっとすると自分以上に懐いているのかもしれないという状況に、彼女の心境は複雑なとぐろを巻いていた。

 けれどそんなレミリアも、最終的にはため息をついて。

 

「……まあ、月見だったらいいわ。ただし、月見以外の男に抱きついたりしちゃ絶対にダメだからね」

「はーい」

 

 嫉妬の色を消さないままで、それでもこうして許してもらえるのは、彼女もある程度は、月見に心を開いているからなのか。

 吸血鬼姉妹の騒ぎが落ち着いたところで、椛が月見の隣に並んで口を開く。

 

「では月見様、私と文さんは先に上に戻ってますね。天魔様に報告しないといけませんので」

「ああ、了解」

 

 椛はぺこりと丁寧に会釈をして、そして文はもちろんそっぽを向いたままで、階段を登って二階へと消えていく。

 その足音が二階の喧騒に呑まれて聞こえなくなると、フランが月見の服の裾を引っ張った。

 

「ねえねえ月見、ここが月見の新しいおうちなの?」

「……そうらしいよ?」

 

 自分でも未だに信じられない――というか、信じたくない部分があるのだけど。

 フランの瞳がきらきらと輝く。

 

「素敵なおうちだね! こういうのって、『おんせんやど』とか『りょかん』っていう、日本のホテルみたいなものなんでしょ? 本で読んだことあるよ」

「……うん、まあ、間違ってはいないよ」

「ねえ月見、一緒に温泉入ろうよー。私、ずっと温泉に入ってみたかったの!」

「はあああ!?」

 

 フランが両手を合わせて微笑んだ瞬間、レミリアの顔が真っ赤になった。フランの両肩を掴んで、ガクガク前後に揺さぶる。

 

「そそそっ、そんなのダメよ! お、男と一緒にお風呂に入るなんてっ!」

 

 フランは激しく上下に動く視界に動じることなく、

 

「えー? お姉様、さっき『月見だったらいい』って言ったばっかりじゃない」

「抱きつくのはよ! 一緒にお風呂だなんて、そんなの論外よっ!」

「ケチッ」

「ケチ!? ちょっとフラン、あのね、おっ、男の人と一緒にお風呂に入るなんてのは、将来を誓い合った相手としかやっちゃダメなのよ!?」

「じゃあ、月見と将来を誓い合えばいいの?」

「ダメに決まってるでしょ!?」

「お姉様のいじわるっ!!」

「なんで!? なんで私が責められるの!?」

 

 そしてぎゃーぎゃー喧嘩し出した二人を眺めながら、月見は含むように苦笑いをした。何百年もずっとすれ違っていた反動なのか、一度仲直りをしたら、二人はとんでもないほどに仲良くなった。それこそ、見ていて呆れてしまうくらいに。

 

「あのさ、月見……」

 

 会話に交じれないでいたにとりが、控えめに月見の背中をつついてくる。

 

「立ち話ならまず上に行ってからにしたら? 一応あなた主賓だし、あんまりみんなを待たせちゃ悪いよ」

「ああ……そうだね、悪かった」

 

 確かに、みんなに顔も見せないままこんなところで立ち話をしなければいけない理由はない。特に今回は人数がとても多い宴会だから、空気の読めない行動はそれだけで大顰蹙だ。

 

「どれ、それじゃあ上に行くよ」

 

 手を叩いて、仲良く口喧嘩をしていたフランたちの間に割って入る。

 

「話はまた、宴会が始まったあとでね」

「宴会が終わったら、一緒に入ろうね!」

「だからダメだって言ってるでしょ!?」

 

 四人揃って階段を登る。途中で逆方向に折り返すこともなくまっすぐ上がっていくと、二階に着くなり、窓ガラスを通して壮大に広がる北側の景色が出迎えをしてくれた。壁がすべて一面ガラス張りになっていて、近傍にはやはり屋敷を彩る日本庭園と、遠方には山奥へと続く豊かな緑が広がっていた。

 

「こっちだよ」

 

 にとりに先導され、階段の後ろへ回るように折り返して廊下を進んでいく。お祭り騒ぎもどんどん近づいてくる。納戸と思われる戸の脇を素通りして更に進み、大きな襖を捉え、

 

「さー月見、刮目せよー!」

 

 にとりが元気よく声を上げて襖を開ければ、途端に飛び込んできた光景に、月見は感心も驚きも通り越してただ呻くことしかできなかった。

 

「……これは、また」

 

 夕焼け色の宴会場である。今月見が立っている北側の出入口を除き、東西南の三方がすべてガラス張りで統一され、太陽の光と外の景観をふんだんに取り込んでいる。目算ですら何畳間になるのか量りきれない広大な茜色の空間では、百人を超える妖怪と人間たちが集結し、更にそれと同数の膳が会場を区切るように整然と並んでいる。

 

「どーよ月見! 驚いたでしょ、すごいでしょ!」

 

 本日二度目となるにとり会心のドヤ顔が炸裂するが、月見は褒め言葉の代わりにため息を返した。もちろん、驚いてはいる。驚いてはいるけれど、これは決して好意的な意味での驚愕ではなく、つまるところ『掃除』という名の二文字が月見の頭にべったりこびりついて離れてくれないのだった。にとりたちは宴会が終わったあとでも構わないから、辞書で『普通』という言葉の意味を十回ほど音読確認しなければならない。今後の幻想郷で、このような大屋敷が無秩序に増殖させられないためにも。

 ともあれ。

 部屋が広いためか、それともみんなが世間話に花を咲かせているためか、月見が来たことに気づいている者はまだいない。藤千代と操が、手の平大の小さな紙を百人一首のように広げて、何事か真剣に話し合いをしている。諏訪子がお腹空いたと畳を転げ回って駄々をこね、神奈子が呆れ顔をしている。萃香と勇儀が、窓際で夕風に当たりながら伊吹瓢を飲み合っている。文が会場のあちこちを見回りながら文花帖にペンを走らせ、椛がボロボロの格好を同僚に笑われて煙を上げている。紫と輝夜がなぜか会場の隅っこでキャットファイトをしていて、永琳が他人のふりをしている。

 藍や咲夜といった従者の面々と、早苗の姿が見えないのは、料理の支度をしてくれているからなのだろう。

 

「じゃあ、私はとりあえず千代たちのところに行ってくるよ」

「月見、一緒にご飯食べようねっ。お姉様も、それくらいなら別にいいでしょ?」

「……まあ、それくらいならね。だけど温泉の方はダメよ。そんなの絶対に認めないからね」

「ぶー」

「……あんたたち、ほんとに月見が大好きなんだねー」

「そうね、まったくだわ――ってちょっと待ちなさいこの河童ッ、なんで私が数に入ってるのよ!? ちっ、違うのよ月見! 確かにあなたにはそれなりに感謝してるけど別に好きとかそういうのは全然」

「はいはい、わかったからほんとに私は行くよ?」

 

 元気な少女三人と別れて、藤千代たちのところへと向かう。後ろの方から「もう、お姉様はほんと素直じゃないんだからー」「違うって言ってるでしょおおおおお!?」「ふぎゃあああなんで私があああああ!?」となにやらレミリアの暴れる音とにとりの悲鳴が聞こえたけれど、もう振り返りはしない。

 途中、すれ違った鬼や天狗たちと軽く挨拶を交わしつつ、

 

「あっ、つ、月見ー! ちょっとお願いがあるんだけど、この暴力女を止め――無視しないでー!?」

 

 輝夜に髪の毛を引っ張られる紫のSOS信号を軽く無視しつつ、

 

「千代ー、操ー」

「――よし、やっぱりこれに決定じゃな! あやつが考えた割には、なかなかどうして素敵な名前じゃないか!」

「そうですねー。これでいよいよ、このお屋敷も完成ですね」

 

 藤千代と操の名を呼んでみるが、周りが賑やかなせいか気づいてもらえない。とはいえわざわざ大声を出すようなことでもないし、二人がなにをしているのかも気になったので、

 

「なにやってるんだ?」

「え? ――ぎゃあああああ見ちゃダメじゃー!」

 

 隣に立って声を掛けるなり、畳に広がっていたたくさんの紙たちに向けて、操が大慌てでボディプレスをした。恐らくは咄嗟に自分の体で隠そうとしたのだろうが、そんなことをすれば当然紙たちは風に乗ってあたりに散らばるわけで。

 足元に飛んできた一枚を拾い上げて、書かれた文字を読んでみる。

 

「……『月桂亭』」

 

 そのいかにも建物然とした名前に、月見ははたと思い至った。

 

「ああ、この屋敷の名前か?」

「まあ、そんなところですー」

 

 バレちゃいましたかーと苦笑いをしながら、藤千代は周囲に散らばった紙を掻き集め始めた。

 

「永遠亭や紅魔館みたいな名前が、やっぱりこのお屋敷にもあるべきだってお話になって、みんなで候補を出し合ったんです」

「ふうん……」

 

 なるほど、これらの紙に書かれているのは決して和歌ではなく、すべてこの屋敷の名前候補というわけだ。せっかくなので、月見も近くの紙を拾い集めてみることにした。麗月院、月華庵、白月殿、銀月亭等々、月見の名前にあやかっているのか、『月』の文字を入れた名前が多いようだった。

 

「で、なにに決まったんだ?」

「それは秘密です。宴会が始まる直前に、操ちゃんと一緒にばばーんと発表するのです。それでいよいよこのお屋敷も完成ですよ」

 

 そういえば、ボディプレスをした操が先ほどから大の字のままピクリともしていない――いや、ピクリとはしていた。小刻みにピクピクと震えていた。

 彼女は青い顔で月見を見上げて、

 

「む、胸を打ったのじゃ……。おっぱい潰れた」

「阿呆」

「ひどいっ。ねえねえ月見、ここで優しい甘~い言葉を掛けてやる方が、儂からの好感度がアップするぞ!」

 

 月見はさらりと無視して、藤千代に集めた紙を手渡した。

 

「さて千代、私は普通の家にしてくれと頼んでいたはずなんだけど」

「大丈夫です月見くん、こんなのは誤差の範囲です」

 

 一体なにが大丈夫なのか、月見にはよくわからない。

 

「あのねえ。こんなにバカでかい屋敷じゃあ、掃除するだけでも大仕事じゃないか」

「大丈夫ですよ。藍さんや咲夜さんや早苗さんあたりが、困った時はすぐに駆けつけてくれるそうです。特に咲夜さんはやる気満々でしたから、是非頼ってあげてくださいね」

「……」

「私もなるべくお手伝いに来ます。ふふふ、これで遂に通い妻でびゅーですね」

 

 月見がどうツッコむべきか頭を悩ませていると、ひと通り紙を集め終えた藤千代はそれを脇に置いて、改めてこちらへ向き直っては少し真剣な顔をした。

 

「ところで月見くん。相談なんですけど、このお屋敷を日帰り温泉宿として開いてみませんか? 冗談半分で温泉を掘り当ててしまったら、もうみんなから希望が殺到して。ほら、幻想郷には、こういう風にきちんと整備された温泉がありませんから……」

 

 ああやっぱりここってそういう認識なんだ、と月見は内心でため息をついた。既に自覚していたとはいえ、他人の口から言われると、また一段と心が寂しくなってしまう。

 藤千代の提案の意図はわかる。確かにこの屋敷は個人宅として所有する程度を遥かに超えているから、温泉宿として広く一般に公開する方がより理に適った形ではある。その方がみんなも喜んでくれるだろうし、入浴料を取れば月見の稼ぎにもなるだろう。

 しかし再三言うが、月見はただ一人でゆっくりできる場所がほしかっただけだ。生活費だって、外の世界で作った蓄えがある。なのに一体なんの因果で、温泉宿の主人なぞをやらねばならないのか。

 というかそれだったら、わざわざこの屋敷を月見の住処にしなくたっていいじゃないか。ここの管理は誰か他の暇人に任せて、月見はどこか別の場所でひっそりと暮らしたって、なんの問題もないではないか。

 と、その時は思ったけれど。

 

「もしかして月見くん……このお屋敷、気に入りませんでしたか……?」

「……、」

 

 不安そうに陰った藤千代の瞳を見ると、その気持ちも引っ込めざるを得なかった。もちろん、多少なりとも下心があったのは事実だろうが、それでも藤千代たちはほとんど善意でこの屋敷をつくってくれた。建設に掛かったであろう手間の見返りを一切月見に要求しない、完全な慈善事業は、並大抵の気持ちでできることではないはず。

 つまりはそれだけ、彼女たちが月見を想ってくれていたということ。確かに、一人暮らしで使うには大きすぎるだろう。たった一人で温泉宿を経営なんて冗談じゃない。

 けれど、だからといって、藤千代たちの想いを無下してこの屋敷を飛び出すことが、果たして正しい行いなのか。

 あまりの広さに呆れ果てるばかりで、気づけないでいたけれど。

 月見のために家をつくってくれたという、みんなの気持ちそのものは、とてもありがたいものなのではないだろうか。

 一度気づいてしまえば、月見の人柄上、もうダメだった。ため息をついて、少し乱暴に頭を掻いて。

 

「……まったく、敵わないなあ」

「……じゃあ」

「わかったよ。……ただし私だって、自分のやりたいことをやめるつもりはないからね。営業時間についてはあとで要相談だぞ」

「さっすが月見くんですっ!」

 

 両手を打ち合わせて、藤千代は花開くように満面の笑顔を咲かせた。

 

「私たちも協力しますよ! ええ、月見くんが望むのであれば、通い妻なんてやめていっそ本妻になったって」

「や、そういうのはいいから」

「あーん……」

 

 調子のいい藤千代の発言は、即座に切り捨てつつ。

 なんだか大変なことになってしまったが、まあなんとかなるかな、という気持ちもあった。紫たちとよく相談すれば上手い経営方法が見つかるだろうし、そうでなくともここは幻想郷だ。適当に玄関さえ開け放っておけば、月見が主人としてなにかもてなしをするまでもなく、みんな勝手にやってきて勝手に寛いで、勝手に満足して勝手に帰っていくに違いない。そういう意味で、ここが法に縛られない場所なのはありがたかった。

 と、

 

「だ~れだぁ♪」

「お?」

 

 いつの間にか月見の後ろを取っていたらしい何者かに、いきなり両手で目隠しをされた。桜餅みたいにふっくらと柔らかい声は女性のもので、どこか覚えのある甘い香りと、やや冷たい掌の温度から、犯人はさほど考えることなくわかった。

 

「幽々子か」

「まあ、500年振りでもわかるんですのね? 嬉しいですわ」

 

 月見の目元から手を離し、そそくさと隣に並んできた少女は、やはり老いとは無縁な人外だけあってか、500年前の姿からなにも変わってはいなかった。少し袖の長い水色の着物と、桜よりも色鮮やかな桃色の髪が、波間を泳ぐようにゆったりと揺れているのは、彼女が此岸と彼岸の境界線上を漂う亡霊だからなのか。

 西行寺幽々子。紫の親友である彼女とは、昔から少なからず、縁があった。

 

「変わってないね」

「月見さんこそ。あいもかわらず若々しくて、素敵ですわ」

 

 月見は息だけで苦笑する。人を手玉に取るような言動と、どことなく裏が読めない微笑みもあいかわらずだ。

 

「またお会いできて嬉しいですわ」

「会えるだろうさ、お互い人外だからね。……そういえば、あの辻切り坊主は?」

 

 かつて月見が幻想郷で生活していた頃、幽々子には常に半人半霊の青年が付き従っていた。大変な主人想いだった彼は、よく幽々子と親しく話をする月見を害虫扱いして、斬れないものはあんまりないという名刀を振り回していたものだ。

 月見が今こうして平穏無事に幽々子と会話できているということは、あの青年はここにはいないらしい。……まあ、あれから()うに500年も経っているのだから、およその理由は想像がつくけれど。

 

「妖忌なら、代替わりをして霊界で隠居していますわ」

「なんだ、生きてるのか」

 

 月見はてっきり。

 もお、と幽々子はお茶目に笑って、

 

「月見さんったら。妖忌に聞かれたら、また斬りかかられますわよ?」

「懐かしいねえ、斬りかかってきたあいつを右から左に流して池に叩き込んだ日々」

「そうですわね、妖忌が河童並みの肺活量を手に入れたのは月見さんのお陰ですわ」

 

 例えば紫に連れられて白玉楼にお邪魔すると、妖忌が毎回のように般若の仮面をつけて斬りかかってくるので、それを受け流して庭の池に叩き込み、上から尻尾で押さえて千を数えさせてやるのが日課だった。数ヶ月にもなると見事に千を数えきってドヤ顔を炸裂させるようになったので、更に押さえこんで千五百を数えさせた。溺れかける妖忌の姿を見て、幽々子と紫は大笑いしていた。

 懐かしい日々である。あの安いコントみたいな関係がもう終わってしまったものなのだと思うと、一抹の寂しさが胸を掠めた。

 

「それで、代替わりしたっていうのは……あの子か?」

 

 幽々子より何歩か後ろに離れたところで、もじもじとこちらを窺っている少女がいる。月見がここに戻ってきて初日に、人里近くの小径で、紅魔館や永遠亭の場所を教えてくれた少女だった。

 灰色がかった銀髪があの辻切り坊主によく似ているから、ひょっとすると娘――いや、孫あたりなのかもしれない。初め会った時は気づかなかったが、背中と腰に携えられた二本の刀は、間違いなくかつて妖忌が使っていた愛刀だった。

 

「あ、そうですわ。もともと、あの子を紹介するために来たんでした」

 

 すっかり忘れていたのか、幽々子はぱっと両手を打って、

 

「ほら妖夢、こっちに来て挨拶しなさいな」

「は、はいっ」

 

 妖夢と呼ばれた少女は、初日と違ってガチガチに緊張している様子だった。背筋をピンと伸ばし、剣術を嗜むからか摺足でやってきて、教科書のように四十五度のお辞儀を決める。とても妖忌の後釜とは思えない礼儀正しさに、月見は無意識のうちに「ほう」と眉を持ち上げる。

 

「魂魄妖夢と申します」

 

 引き締まった表情で名乗った彼女は、それからふと不安げに、

 

「……あの、私のこと、覚えていますか?」

「ああ。あの時は道案内ありがとう。お陰で楽しめたよ」

 

 月見が礼を言うと、まさか覚えてもらえているとは思っていなかったらしく、妖夢の頬がほのかに色づいた。

 

「いえ、そんな……」

 

 おずおずと、

 

「あの、幽々子様からお話を伺いました。なんでも、幻想郷の成立に大きく貢献した御方のようで。あの、私ったら、あの時はそうとも知らずに」

「貢献っていっても、そんなに大したことはしてないけどね」

 

 月見はただ、紫の夢を支えただけ。時に応援して、時に愚痴を聞いて、時に慰めてやっただけだ。

 それよりも。

 

「お前は、妖忌の孫かなにかか?」

「は、はい。魂魄妖忌は私の祖父です」

 

 うーむ、と月見は唸った。落ち着きの『お』の字とすら無縁だったあのやんちゃ坊主にこんなに大人しい孫ができるなんて、一体なんの突然変異だろうか。これが生命の神秘か。

 

「祖父とも、お知り合いだったんですよね?」

「ああ。……いやはや、あいつの遺伝子からお前みたいに可愛い孫が生まれるなんて、世の中不思議なものだね」

「か、かわっ!?」

 

 ストレートな褒め言葉に弱いのか、妖夢の顔があっという間に茹でダコになった。

 

「いや、そんな、私、全然、そんな」

「ふふ、妖夢ったら照れちゃって可愛いわ~。どうですか、月見さん? この子ったらもういい年なのに男の方に対して奥手で、私としても色々勉強させてあげたいと思ってるのですけど」

「ゆ、幽々子様!?」

 

 幽々子お得意の軽口を、しかし妖夢はすっかり真に受けて、わたわたと幽々子を見たり月見を見たりする。かつての妖忌も、こんな風に幽々子にからかわれては大慌てしていたものだ。主人の冗談を冗談として受け流せない生真面目な遺伝子は、祖父から色濃く受け継がれたらしい。

 

「このお庭だって、妖夢が中心になって作ってくれたんですのよ。ちょっと恥ずかしがり屋ですけど、心を許した相手には精一杯奉仕するタイプなので、もしよろしければ」

「後半無視するぞ?」

「月見さんのいけずー」

 

 幽々子が不満そうに頬を膨らませるけれど、妖夢が恥ずかしがるあまりぷしーと湯気を上げて縮こまっているので、これ以上は取り合わない。

 妖夢を見て、

 

「なるほど、妖忌の後釜ってだけのことはあるね」

 

 妖忌は性格に難があったけれど、それでも庭師としての腕前は一流だった。他の妖怪たちの手助けがあったとはいえ、これだけの規模の庭を一日でこしらえてしまうのだから、妖夢の腕前にも疑いの余地はなかろう。

 

「ありがとう。ちょっと広いけど、いい庭だよ」

 

 本音を言えばちょっとどころの次元ではないのだが――もうこれはいいだろう。

 

「い、いえいえそんなっ!」

 

 やはりストレートな褒め言葉に弱い妖夢は、もう大慌てだった。両手と首を、ぶんぶんと音がするくらい必死に振り回して、

 

「今回はその、天狗の庭師さんたちがたくさん手伝ってくれたので、私なんて全然っ!」

「こら~、妖夢~? せっかく月見さんが褒めてくれたんだから、謙遜するくらいならお礼を言いなさいっ」

「えっ、あっ、す、すみません! あっいや、すみませんじゃなくて、ええとその……!」

 

 幽々子にたしなめられしどろもどろになる妖夢を見ながら、月見は狐の直感で確信する。妖夢は慧音と同じで、絶対にからかうと面白いタイプだ。ちょっとした冗談を言ってやるだけですぐに真に受けて驚いたり、慌てたり、顔を真っ赤にしたりする、とても感受性豊かな女の子なのだ。きっと、幽々子からは毎日のように冗談を言われて遊ばれているに違いない。

 四回ほど大きく深呼吸をした妖夢は、まっすぐに月見を見て、けれど最後の最後で耐えきれずに、ちょっと横へと目を逸らして言った。

 

「ええと……その、お気に召してもらえたようでなによりです。ありがとうございます」

「手入れの方法とか、教えてもらえると助かるよ」

「いえいえそんなっ、そんなのは全部私がやりますっ。月見さんのお手は煩わせません!」

 

 なんだが、妖夢の中で自分が随分と高評価されている気がする。幽々子は一体、この子にどんなあることないことを吹き込んだのだろうか。

 そんな幽々子は、いつの間にか月見たちから興味を外して、藤千代の小さな体を胸いっぱいに抱き締めていた。

 

「ねー藤千代ー! 月見さんが来たんだから、お料理運んじゃいましょうよー! お腹空いたーっ!」

 

 幽々子が誇るドリームサイズの饅頭二つに挟まれ、藤千代はとても渋い顔をしている。

 

「そうですねー。それじゃあそろそろ始めましょうかー」

「わーいじゃあ私ちょっと厨房行って手伝ってくるわね! 大丈夫よつまみ食いなんてしな」

「そーい」

 

 藤千代が幽々子を背負投げして、そのまま滑らかな動きで畳の上に組み伏せた。

 

「あー! なにするの藤千代のいけずー!」

「幽々子さんが行くとお料理がここまで届かなくなってしまうのでダメです」

「ひどいっ、藤千代ったら私をなんだと思ってるのっ? ほら妖夢、あなたからもなにか言ってやって!」

「厨房へは私が行くので、幽々子様はそこでじっとしててくださいね」

「妖夢のいけずーっ!」

 

 幽々子がじたばたと暴れるが、馬乗りになった藤千代は笑顔のままびくともしない。一度鬼子母神に組み伏せられてしまえば、正当な方法で抜け出すのはまず不可能である。

 会釈をした妖夢が小走りで座敷を出ていくと、幽々子は最後の希望である月見へと縋り始めた。

 

「月見さん、月見さんならわかってくれますわよね? この私の気持ちが……」

「お腹空いた」

「そうですけどっ。そうですけどそうじゃないんですっ」

「いいじゃないか。食事はみんなで食べた方が美味しいよ」

「つまみ食いっていうのもまた違った美味しさが楽しめるんですのよ? というのはただの冗談で本当につまみ食いしようなんてちっとも考えてないのだから藤千代やめて背中がっ背中があっ」

 

 亡霊は普通の霊と違って肉体を持つから、物理的なダメージがしっかりと通る。藤千代に少々苛烈なマッサージを食らって、幽々子は変な声を上げながらビクビクと痙攣していた。

 ちなみに操は、みんなに無視され続けたからなのか、部屋の隅っこで沈んだ雰囲気をまといながら体育座りしていた。

 程なくして、妖夢が両手に料理の皿を乗せて戻ってくる。更に後ろから、咲夜に藍、早苗といった面々が続いて料理を持ってくれば、会場は早くも最高潮を迎えた。居ても立ってもいられなくなったらしい妖怪たちが、次々と手伝いに名乗りを上げて座敷を飛び出していく。押し寄せる予想外の人数に驚いた階段が、ここまで聞こえるくらいに大きな悲鳴を上げる。

 

「ふ、藤千代ー……? 私も手伝ってきたいなあ、なーんて……」

「あ、今度は腰がいいんですね? わかりました」

「あっ違うのなんでもないのっ、なんでもないなんでもないから、あっ、あっ、あぁんっ」

 

 幽々子の声がなんだか官能的になってきた気がしないでもないが、周囲が大盛り上がりしているお陰で月見にはよく聞こえない。

 

「あ――――ッ!! こら月見ぃ、あんたいつの間に来てたのさー! 来てたなら言ってよ、ほら一緒に呑むぞおーっ!」

「えっ、月見!? うおーほんとだ尻尾もふーっ!」

「おっと」

 

 今更月見に気づいたらしい萃香の大声が、盛り上がりに更に拍車を掛ける引鉄だった。萃香が月見の腰に抱きつくと、すかさず連鎖反応を起こした諏訪子が尻尾に飛びついてくる。

 

「あー、いいなー私もやるー!」

「あっ、ちょっとフラン!?」

「ぐふっ」

 

 そこに便乗したフランが月見の鳩尾に突撃し、

 

「あーじゃあ儂も儂もっ!」

「うおおっ」

 

 元気になった操が更に便乗して背中に飛びつき、

 

「みんなずるいぞー、私も交ぜろー!」

「ちょ、」

 

 輪をかけて便乗した勇儀が右肩にしなだれかかり、

 

「よーしほら椛もっ! 椛も欲望のまま月見に飛びつくのじゃー!」

「え、ええっ!? ダ、ダメですよそんな月見様にご迷惑な」

「天魔の命令じゃー! ほれっ」

「ふわあっ!?」

 

 無理やり天魔に引っ張られた椛が左肩に倒れ込んできて、するともう、それを面白がった他の連中までもがどんどん悪乗りを始めてしまった。座敷全体を巻き込む連鎖反応。四方八方からみんなが月見目掛けて突撃し、またあるものは上から降下し、下を除いたすべての方向から行われる押しくら饅頭に、月見の視界はあっという間になにも見えなくなってしまう。

 

「フ、フラ――――ン!? き、貴様らっ、フランを返せええええええええっ!!」

 

 フランの身を案じて激昂したレミリアが、押しくら饅頭の仲間に加わった気配がする。しかし姿は見えない。一瞬、レミリアの羽のようななにかが月見の視界を掠めたものの、瞬く間に押しくら饅頭の中へと呑まれて消えた。フランはそんな姉の奮闘を露も知らず、とても楽しそうな笑い声を上げながら月見のお腹に抱きついていた。

 一体なにがきっかけだったのか、ふとしたように押しくら饅頭のバランスが崩れて、参加者全員を巻き込んで雪崩の如く倒壊していく。悲鳴、座敷全体を揺らすけたたましい騒音、静寂――そして、笑い声が、爆発して。

 

「……あー」

 

 月見は仰向けになって天井を見上げて、笑い声の代わりにため息を飛ばした。体のあちこちを誰かしらに押し潰されていて、難を逃れた顔と左腕を除いて身動きすらできない状態だ。

 操と萃香が月見の背に潰され、蛙みたいな呻き声を上げているけれど、どうしようもない。

 

「月見くーん、生きてますかー?」

 

 どこからか藤千代に名を呼ばれたので、適当に左腕を振り返しておく。それから、こちらのお腹に引っついたまま動かないでいるフランの肩を叩いた。

 

「……怪我はないか、フラン?」

 

 フランはすぐに顔を上げて、

 

「あ、うん。大丈夫だよ。びっくりしたー」

 

 どこかで誰かに押し潰されているらしいレミリアが、とても情けない声でフランの名を呼んでいる。けれどフランはそんなの知ったこっちゃないと、満面の笑顔を咲かせて言う。

 

「なんだか、とっても楽しくなりそうだね!」

「……そうだね」

 

 この馬鹿らしいほどの盛り上がりようは、幻想郷ならではだと月見は思う。外の世界の常識にすっかり馴染んでしまった身としては、正直これだけでも堪えるものがあるのだけれど、同時に一抹の懐かしさを感じてもいた。

 宴会が始まる。人と妖怪は流し込むように料理を食らい尽くし、浴びるように酒を呑み尽くし、馬鹿になったように騒ぎ散らして、やがて死んだように眠るだろう。

 夕日が間もなく一日の役目を終える、黒と茜が交じり合う空に包まれて。

 屋敷いっぱいに響き渡る笑い声は、来る夜を吹き飛ばすほどに明るくて、眩しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第36話 「宴会は水月苑で ①」

 

 

 

 

 

 だららららららららー。

 

 その声を、初めて聞いた人は一体なんだと思うだろうか。少なくともなにか意味のある言葉ではない。ニュアンスとしては、うららららら、とか、だりゃりゃりゃりゃりゃ、とか、マンガの中でキャラクターが連続攻撃を繰り出す時の掛け声に似ているかもしれない。

 だが、掛け声にしてはいささか棒読みが過ぎている。それに時々、舌が攣ったように発音が不明瞭になったりもしていて、なんとも幼稚な感じである。恐らく掛け声ではなのだろう。

 では、なにか。

 太陽が一日の役目を終えたのち、残りの仕事を月が引き継ぎ、夜の帳が下り始めた幻想郷である。わずか一日で妖怪の山の南に出現した白い大屋敷――その二階、見渡す限り広大な宴会場に、百数十人にも上る妖怪、人間、神たちが集結していた。

 煌々と輝く無数の釣行灯が天井を埋め尽くし、次第に強さを増してきた月と一緒になって幻想的な光が満ちる下では、宴会料理をふんだんに盛りつけた膳が南北に渡って六つの列を為している。そこに座布団と一緒になって座る面々には、種族の境目が一切存在せず、いかにも今回の宴会が無礼講であることを物語っている。

 声の主は、宴会場の正面にあたる南側にいた。

 

「だららららららららー」

 

 答えを言えば、それは操のボイスパーカッションだった。よくバラエティ番組などで重要な発表をする直前に、雰囲気を盛り上げるために使われるドラムロールだった。ただし巻き舌がさっぱりできていないので、傍で聞いていてとても残念なドラムロールだった。

 百を超える妖怪たちを前に、ちっとも恥じる様子もなく下手くそなボイスパーカッションを披露する操と、隣には藤千代の姿があり、

 

「それでは、発表しまーす」

「だららららららららー」

 

 一枚の紙を片手にみんなを見回す。みんなは座布団の上に行儀よく座って、藤千代からの発表を心待ちにしている。

 

「さてさて事前に募集を掛けていた『みんなで月見くんのお屋敷に名前をつけようコンテスト』ですが、総参加者は百三、応募総数は百八十八でした。一番多い方で、なんと八つも候補を出してくれた方がいましたよー。ありがとうございますー」

「だららららららららららっ、ららららららららー」

 

 操が途中で息継ぎをする。

 

「そして、その中から見事採用となったのはー……」

「だらららららー……ばばん!」

 

 音楽的才能がきっと壊滅的なのであろう操のボイスパーカッションがようやく終わり、

 

「「……『水月苑』! このお屋敷の名前は、『水月苑(すいげつえん)』に決定しましたーっ!」」

 

 藤千代と操が一緒になって朗々と叫んだ名に、とりわけノリのいい天狗の男衆を中心として、割れんばかりの歓声が上がった。両手を打ち鳴らし、指笛を響かせ、どこから用意してきたのかクラッカーを鳴らし、そしてなぜか殴り合いをしながら、彼らはこの屋敷に贈られた名を祝福していた。

 白い大きな、水月苑。

 入浴はもちろん百人以上の大宴会まで、なんでもござれな温泉宿、である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 意外にも真っ当な名前だったので、月見は逆にびっくりしてしまった。月見の要望を綺麗に無視してこうも大規模な屋敷を作り上げた連中だから、名前もそれ相応のものになるのではないかと不安に思っていたけれど、どうやら杞憂だったらしい。

 月見は会場の最も上座となる席に座っていて、膝の上には当たり前みたいに「乗せてー」とやってきたフラン。右隣の席には、それを嫉妬して追いかけてきたレミリア。そして左隣の席には、そこを巡って紫と輝夜がキャットファイトをしている隙に、ちゃっかり漁夫の利を掠め取った萃香が座っており、トドメに尻尾には諏訪子が抱きついて眠っているという有り様だった。そんな前後左右を完全包囲された月見の現状が、いかにも子守りを一手に任された哀れなお父さんかなにかのようだったので、お陰様で周囲から向けられる微笑ましげな視線が大変くすぐったかった。

 ちなみに不毛な争いをしていた紫と輝夜は、互いの従者に襟首を掴まれ月見から最も遠い席に連行されたらしく、ここからではもはや姿も見えなかった。殊に八雲家と永遠亭の二ヶ所においては、主人よりも従者の方が圧倒的な権力を有しているのである。

 ともあれ。

 

「水月苑かあ。素敵な名前だね!」

「そうだね」

 

 月見の胡座を座布団代わりに、そして胸板を背もたれ代わりにして、フランが元気な笑顔でこちらを見上げてきた。一緒に温泉に入るなどと公言したあたりから察してはいたが、やはり彼女は、月見に対してそのあたりの羞恥心をさっぱり持ってくれていないらしい。それだけ心を開いてくれているということなのだろうが、隣から突き刺さるレミリアの嫉妬の視線がなかなかキツいので、決して手放しで喜べそうにはなかった。

 レミリアの視線から逃げるように、首を大きく動かして窓から外の景色を望む。屋敷を囲む形でつくられた巨大な池の上には、なるほど、確かに水月が掛かっているから、『水月苑』という名前はこの上ないほどぴったりなのだろう。

 会場の正面では、藤千代と操の結果発表が続いている。

 

「色んな名前があって面白かったのー。あれ、そういえばなんじゃったっけ? 一つ、やけに面白い名前が交じってたよな」

「あー、あれですね。ええとー、……そう、レミリアさんの『十六夜魔館』ですね。多分ギャグだったんだと思いますけど」

「ギャグじゃないわよ!? えっ、いい名前でしょ『十六夜魔館』!?」

 

 藤千代の心ない評価にレミリアが膳を打って喚けば、フランが「やっぱりねー」ところころ笑った。

 

「だから言ったでしょー、お姉様のネーミングセンスはキワどいんだからやめときなって」

「そ、そんなっ。十分以上悩んで考え出した力作だったのにっ」

「よかったねー、これでお姉様のネーミングセンスはダメだって証明されたね」

「み、認めないわよ! ねえ月見、『十六夜魔館』って素敵な名前よね!?」

 

 月見は右腕を掴んでくるレミリアから目を逸らしながら、

 

「……ノーコメント」

「なんで!?」

 

『水月苑』に決まってよかったと心底思う。

 ショックを受けて震えているレミリアに、藤千代がやんわりと苦笑して言った。

 

「レミリアさんー、こういう素敵な日本庭園のお屋敷には、『魔』の文字は合いませんよう」

「そ、それはそうかもしれないけど……」

「それに、『十六夜』ってつくとなんだか月見くんが咲夜さんと結婚してるみたいになるのでダメです」

「――ふえっ、」

 

 月見の一つ奥の列でテキパキと料理の配膳をしていた咲夜が、なんの前触れもなくいきなりすっ転んだ。釣行灯が彩る宙を舞い破滅への秒読み段階に入った料理たちを、近くにいた妖夢やら鈴仙やらが八面六臂の大活躍で見事に救出していく。しかし唯一間に合わなかった魚の刺身が、緩い放物線を描いて幽々子の口の中に消えた。

 それを、妖夢はバッチリと見ていた。

 

「あー! 幽々子様、今お刺身食べましたね!?」

「えー、食べてないわよ?」

 

 幽々子は、あーんと口を開けて、

 

「ほあはひほはひっへはい」

「あれほんとだ……えっ!? じゃあ幽々子様、まさか丸呑みしたんですか!?」

「お刺身は飲み物です」

 

 幽々子はきっと、自分の口に入る大きさのものならなんでも丸呑みできるに違いない。

 それはともかく、すっ転んだ咲夜が未だ立ち上がる気配がなかったので、月見は心配になって彼女の名を呼んでみる。

 

「咲夜ー、大丈夫かー?」

「はえっ!? はっはいっ、全然まったく大丈夫です!」

 

 あまり大丈夫ではなさそうだった。まあ、いきなり結婚だのなんだのと言われれば、年頃の少女だし、困惑するのも無理はなかろう。

 飛び起きるようにして立ち上がった咲夜の顔は、遠巻きの月見から見ても明らかにわかるほどに、真っ赤なのだった。

 そして藤千代の言葉を理解できず放心状態になっていたレミリアも、ようやく我へと返って、咲夜に負けないくらいに顔を真っ赤っ赤にした。

 

「はあああああ!? なんでそんなことになるのよっ、おかしいでしょ!?」

「え? そうだったんですか?」

 

 藤千代は至って不思議そうに首を傾げ、

 

「てっきりレミリアさんの公認だったのかと……」

 

 気を取り直して配膳に戻ろうとしていた咲夜がまたすっ転びそうになって、周囲の妖怪たちに慌てて支えられたのが見える。

 それをよそに、うがー! とレミリアは喚く。

 

「だからなんでそんなことになるのよっ! わわわっ私は認めてないわよ!」

「いえほら、よくあるじゃないですか。自分の大切ななにかに、愛しのあの人と同じ名前をつけるっていうシチュエーション」

「そうなの!? でもそうすると十六夜魔館はダメね! いいわよ水月苑で!」

「へー、そうなんだー。じゃあ私、お部屋のぬいぐるみに『月見』って名前つけようかなー」

「ちょっとフラン!?」

 

 周囲から注がれる生温かい視線の中に、若干刺のあるものが混じりつつあるが、月見の手には負えないので気のせいということにしておこう。

 パンパン、と両手を叩く。

 

「ほら千代、脱線しないで早く話を進めておくれ。料理が冷めちゃうよ」

「あっと、そうですね。まあそんなこんなで、このお屋敷の名前は『水月苑』です。漢字は大丈夫ですかー? 特に鴉天狗の皆さん、新聞にする時に間違えたらぶっ飛ばしますよー?」

 

 鴉天狗の陣営に緊張が走る。

 けれど藤千代はすぐに笑って、

 

「あ、でも大丈夫ですね。このお名前を考えてくれたのは文さんなので、わからなかったら文さんに訊いてください」

「へえ」

 

 なるほど、同じ鴉天狗である文が名付け親なら、必ずしも今確認する必要はない。そうか名付け親は文なのか、と月見は頷き、鴉天狗たちははーいと小学生みたいな返事をして、

 

 それっきり真顔になって沈黙した。

 

 座敷の者たちすべての視線が文へと注がれる。月見からそこそこ離れたところに座っていた文が、「な、なんですか」と小さな声で狼狽える。月見は、先ほどの藤千代の言葉をもう一度頭から咀嚼し直す。

『水月苑』の名付け親は、文らしい。

 文らしい。

 ――ゆっくりと、三つ分呼吸をする間、

 

「「「――嘘だああああああああああ!?」」」

 

 鴉天狗を中心として、爆弾が破裂したような絶叫が轟いた。もちろん月見は叫ばなかったけれど、内心では彼らに負けないくらいに驚いていた。なんていったって、あの文が名付け親だというのだから。

 事情を知らない者たちが突然の騒ぎに目を白黒させる中、津波のように巨大な動揺が鴉天狗たちを呑み込んでいく。やはり同族だからなのか、文が月見を毛嫌いしているという事実は、彼らの間では広く知られているところであったらしい。故にある者は驚愕のあまり右往左往し、ある者は頭を抱えて天を仰ぎ、ある者はものすごい勢いでメモ帳になにかを書き殴り、ある者は驚いた拍子に膳をひっくり返してしまって絶望し、まさしく阿鼻叫喚の様相を呈していた。

 彼らの叫びは収まるところを知らない。

 

「文!? ……文が!?」

「文が、月見さんの屋敷の名前を、考えた!?」

「しかもこんなまともな名前を!?」

「「「嘘だああああああああああ!!」」」

「ちょっとなんですかみんなして! 私が考えた名前だったらなにか悪いんですか!?」

 

 文が膝立ちになって苦言を呈すけれど、本当に嘘みたいなのだから仕方がない。正直月見としても、未だになにかの冗談なんじゃないかと信じきれないでいるくらいだ。

 この名前を初めて聞いたフランが、言っていたけれど。

 世辞を抜きにして、なかなか素敵な、名前なのではなかろうか。

 

「なんだよ文、嫌いだ嫌いだって言ってた男の新築に、んな真っ当な名前送るなんて……ツンデレか!?」

「なに言ってるんですか!? あっこらそこっ、メモを取るなあああああっ!」

 

 ツンデレという言葉に敏感に反応し、早速メモ帳にペンを走らせようとした鴉天狗の青年が、文渾身の飛び蹴りに打ち抜かれた。青年は「ぶげしゃら」と変な声を上げて後方三回ひねりをキメながら吹っ飛んでいくが、その程度でゴシップ好きな天狗たちが黙るはずがない。天狗たちが次々と茶々を入れ、それに文が片っ端から飛び蹴りで応える百花繚乱が巻き起こった。

 巻き添えを恐れた近くの鬼や河童たちが、自分の料理を持ってそそくさと避難をし始める。勇敢にも仲裁に入ろうとした鬼が、あっという間に宙をくるくると舞う。天狗の男衆を一人また一人と蹴散らしながら、文が大声で喚いている。

 

「ち、違うんですってばーっ! 天魔様にやれって言われたから、仕方なくだったんです! あんなの、パッと頭に浮かんだのを適当に書いただけで」

「おーおー、嘘はいかんぞ文ー」

 

 四回くらいひねって吹っ飛んでいった部下を目で追いつつ、操がくつくつと喉で笑う。

 

「儂が紙を渡してからお前さんが出しに来るまで、軽く三十分はあったじゃろが。実は結構真面目に考えたんじゃろー?」

「ち、違います! それは、その、最初のうちはやる気が起きなくて放っておいてただけ」

「結構書き直した跡もあったよなー?」

「……そ、それはっ」

「「「文のツンデレー!!」」」

「うわああああああああ!!」

 

 がふうっげふうっと次々吹っ飛ばされ、鬼たちに運ばれては部屋の隅に積み重ねられていく天狗たちの屍を眺めながら、月見は一つ、深めのため息をついた。

 もちろん月見とて、外の世界で古今東西多種多様な文化に触れて生きてきた身なので、ツンデレがどういう意味の言葉なのかくらいは、知っているけれど。

 

「……操ー、このままじゃあ屋敷が瓦礫の山になるぞー」

 

 文が繰り出した飛び蹴りの数に比例して、座敷で段々と不穏な風が逆巻くようになってくる。風を操る能力を持つ文は、感情の(たが)が外れてしまうと、無意識のうちに竜巻やらなにやらを起こしてしまう傾向にあった。フランとレミリアが、飛ばされそうになった帽子を慌てて両手で押さえた。

 

「おー、すまんすまん」

 

 操は至って愉快げに、

 

「まったく文が可愛らしかったからつい。というわけで千代っ、君に決めたのじゃ! 仲裁は任せたっ」

「もう、仕方ないですねー」

 

 やれやれ調子で、けれど藤千代もまたどことなく愉快げに、嵐の中心へと歩を進めていく。それだけで、事の結末が果たしてどのようになるのか、月見には天啓さながら豁然(かつぜん)と察することができた。

 月見が心の中でそっと合掌を捧げる中、

 

「皆さん、そんなに暴れちゃダメですよー」

 

 藤千代は腕まくり、

 

「はい、そこまでですー」

 

 一拍、

 

「――てりゃぁっ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――はい、というわけでいい加減に始めましょうかー。皆さん、料理はちゃんと行き渡ってますねー?」

 

 嵐は、すっかり収まっていた。騒乱の元凶であった天狗たちは、みんなが頭の上に大きなたんこぶを作って、痛みやら涙やらを耐え忍びながらガチガチの正座をキメていた。

 それが、いかにも親や先生にこっぴどく叱られた子どもを思い起こさせるからだろうか。幽々子が元気よく手を挙げ、わざとらしくかわいこぶった声で叫ぶ。

 

「はいはーいっ! 藤千代ー、私のところに来てる料理がなんだか少ないでーす!」

「大丈夫みたいですねー。それじゃあ乾杯しますので、皆さん準備をー」

 

 藤千代が華麗に無視して手を叩けば、みんながそわそわと酒の準備をし始める。大多数が日本酒だが、スカーレット姉妹と咲夜は赤ワイン。早苗は未成年飲酒に抵抗があるらしく、オレンジジュースを注いでいた。

 

「よーし、ほら月見! たくさん呑むんだぞー!」

 

 そして月見の猪口へは、左隣の席に座る萃香から、伊吹瓢の中身がなみなみ注がれた。途端に強い酒の香りが立ち上がって、膝の上のフランが、うわ、と少ししかめっ面をした。

 

「なあにこれ、くさいー」

「なんだとー? こいつの香りのよさがわからないたあ、あんたもまだまだ子どもだねえ」

「私はワインの方が好きー。ねえ、お姉様?」

 

 話を振られたレミリアは、すっと得意げに胸を張って答えた。

 

「そうね。でも仕方ないのよフラン。ワインっていうのは、私たちみたいな一人前のレディが嗜むものだから! こいつみたいな、レディの『レ』の字もないようなガサツなやつには飲めないの!」

「あっはっは!」

 

 その皮肉をどこ吹く風と受け流し、萃香は呵々と笑って言う。

 

「確かに私は、レディっていえるような品の良さとは無縁だねえ。仕方ないね、それが育ちってもんだ」

 

 もうすっかり癖になっているのだろう、無意識のうちに伊吹瓢を口に傾けようとして、すんでのところではっと思い止まる。それから愛想笑いを浮かべて伊吹瓢を置くと、早く始まらないかねえと頬を指で掻く。

 何分人数が多いので、全員に酒が行き渡るには少し時間が掛かるだろう。

 ちなみに月見の尻尾に引っついていた諏訪子は、料理が行き渡ると同時に早苗に回収されている。もちろん最初は駄々をこねていたが、早苗が「諏訪子様の分も神奈子様が食べちゃいますよー」と呟くなり、血相を変えて早苗の下僕と化した。ご飯の力は偉大だった。

 ちなみにちなみに、それを受けた神奈子は、「私そんなに大食いじゃないよ!?」と顔を赤くしていた。

 会場の正面から戻ってきた藤千代と操が、月見の向かい側の席に腰を下ろす。

 

「それじゃあ、乾杯の音頭取りは月見くんにお願いしますねー」

「ああ、了解」

 

 特に異論はない。今回の月見はみんなの世話になった立場なので、それくらいはやらなければならないだろう。

 

「どれフラン、少しどいてくれるかい」

 

 立ち上がるには、膝の上のフランが少々邪魔だ。目の前でふんわり広がっている彼女の帽子を、ぺしぺしと叩く。

 けれどフランは動く素振りを見せず、こちらを見上げて駄々っ子のように微笑むと、

 

「抱っこしてくれてもいいんだよ?」

 

 そう言った瞬間、レミリアに引きずり下ろされて強制退場となった。「冗談もいい加減にしなさい!」とレミリアが叱りつけるが、当のフラン本人がとても不満そうにぶーたれているので、あながち冗談でもなかったらしい。本当に、随分と懐かれてしまったものだ。

 ともあれ、猪口を手に取って立ち上がる。酒がなみなみ注がれていたため少しこぼれるが、この際気にはしない。どうせすぐに、飲んでいるのか浴びているのかわからない状態になるのだから。

 全体を見渡せば、ちょうど酒も行き渡ったらしい。

 コホン、と咳払いを置いて。

 

「それじゃあ、挨拶も兼ねて少し話すよ」

「「「いえ~!!」」」

 

 子どもみたいな反応が返ってきた。月見は小さく苦笑し、それから真顔になって、

 

「で、どこからどう見ても普通じゃない家をつくってくれたことについて、なにか申し開きを聞こうか」

「「「温泉に入りたいでーす!!」」」

「欲望に忠実で大変よろしい。張っ倒すぞ」

「「「楽しみにしてまーす!!」」」

 

 男性陣はもちろん、とりわけ女性陣の勢いが強かった。やはり人ならざる存在なれど日本育ち。温泉で寛ぎ疲れを癒やしたいと思う和の心は、種族が違えど変わらないらしい。

 

「まったく……でも、まあ」

 

 吐息のように、月見は言う。木造三階建て、豪華日本庭園つきの温泉宿――当初の予想を大幅に外れた結果には、なってしまったけれど。

 けれど下心ありきとはいえ、家づくりを無償で請け負ってくれたみんなの心意気は、ありがたいものだと思ったので。

 

「……お疲れ様。ここをどういう風に切り盛りしていくのかは決まってないけど、今日くらいは、好き勝手にやろうじゃないか」

「「「いえ――――ッ!!」」」

 

 叫び、みんなが盃を高くに掲げる。これ以上はもう待ち切れないと、各々の瞳の奥で満天の星空が瞬いている。

 だから月見は、息を吸って。

 

「――乾杯!」

「「「かんぱあああああい!!」」」

 

 夜の帳が下りてくる、青白い月夜の幻想郷で。

 されど水月苑には、まだまだ、夜は来そうにない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第37話 「宴会は水月苑で ②」

 

 

 

 

 

 やはりというべきなのか、まず一番に騒ぎが起こったのは、幽々子が座る席の周辺だった。月見の場所からでは人影に隠れてよく見えないけれど、騒ぎの内容だけははっきりと伝わってくる。

 

「いっただっきまーっす!」

「幽々子様、ゆっくり食べてくださいね?」

「わかってるわよお。――あ、妖夢、ご飯おかわり」

「はいは――って早っ!? ちょっと待ってください、今の会話のどこにご飯を食べる余裕があったんですか!?」

「ご飯は飲み物です」

「飲んだんですか!?」

「……おい、信じられるか? 俺、幽々子さんがいつご飯食ったのかわからなかった。幽々子さんが茶碗を手に取ったのは見てたはずなのに、気がついたらご飯がなくなってた。なにを言っているのか自分でもよくわからねえ……」

「ふっ……そうか、お前は知らないんだな。これがかの有名な『冥界の掃除屋』の真骨頂よ……。彼女の前では、ご飯も野菜も魚も肉も、すべてが等しく飲み物となる……」

「……! なんてこった、こいつは噂以上だぜ……!」

 

『冥界の掃除屋』……字面は物騒だが、つまるところの残飯処理班だろう。月見がかつての幻想郷で宴会をやった時も、食べきれず余った料理を片付けるのはいつも幽々子の仕事だった。

 

「まったくもう……ちょっと待っててください、すぐに持ってきますから」

「うん。あ、ついでに天麩羅のおかわりもよろしくね」

「だから食べるの速すぎですってばあっ! ゆっくり食べてくださいって言いましたよね!?」

「お刺身もおかわり」

「もおおおおおっ!!」

 

 頭を抱えてヒステリックに叫ぶ妖夢の姿に、先代の妖忌の面影が重なる。ほとんど底なしを誇る幽々子の胃袋に、彼もしばしば振り回されてはヒステリックになっていた。

 ちなみに幽々子におかわりを出す時のコツは、ご飯なら釜ごと、その他の料理であれば鍋ごと放り投げてしまうことである。小さい皿に盛ったところで一瞬でカラにされるだけなので、最初からできるだけデカいものを与えてやればよろしい。行儀という概念が消し飛ぶ幻想郷の宴会ならではの裏技だ。

 

「ほら月見、なによそ見してるのさっ! 呑めっ、どんどん呑めっ!」

 

 ヒステリックに座敷を飛び出していった妖夢の背中を見送ったところで、隣の萃香に伊吹瓢で肩を叩かれた。月見は猪口の中の酒を一気に呷り、萃香の前に差し出す。そこに彼女が、またなみなみと伊吹瓢の中身を注いでいく。

 膝の上のフランが、ご飯を食べる手を止めて、興味深そうに月見の猪口を覗き込んだ。

 

「ねえねえ、このお酒って美味しいの?」

「ん? そうさな……」

 

 伊吹瓢が作り出す酒は超辛口だ。恐らく日本酒を飲み慣れていないであろうフランには、もしかすると合わないかもしれない。

 月見は少し考えて、

 

「まあ、大人の味ってやつなのかな……」

「呑んでみていい?」

「いいけど」

「おや、本気かい? あんたみたいなお子様には、ちょっと早すぎるんじゃないかなー?」

 

 からからと笑って伊吹瓢を呷る萃香に、フランが口をへの字にして抗議した。

 

「そんなことないもん。私だって大人なんだから、これくらい呑めるよ」

「じゃあ呑んでご覧よ。言っとくけど呑むだけじゃダメだからね。呑んで、ちゃんと美味しいと思えて、初めて大人だ」

 

 外の世界に行けば酒を取り上げられた上で確実にランドセルを背負わされるであろう二人が、一体なにを言い合っているのだろうか。

 

「というわけで月見、ちょっとちょうだい?」

 

 とはいえわざわざ揚げ足を取るほどでもなかったので、月見はフランに猪口を渡し、その間に料理を食べることにする。あいかわらず胡座の上に居座る彼女のお陰で、大分食べづらいが。

 フランは、猪口の中でたぷたぷ揺れる酒を、実に大人らしく一気に呷った。ちょっとちょうだいと言いつつ全部行った。萃香が「おっ」と面白そうな顔をする。レミリアがはらはらとフランを見守っている。月見は焼き魚の骨取りで悪戦苦闘している。

 猪口を口から離したフランは、初めの五秒くらいは、鹿爪らしい面持ちで酒の味を吟味していた。けれど六秒目を数えたところで苦虫を百匹噛み潰したような顔になって、うええ、と泣きそうな声をもらして、

 

「おいしくなーい!」

「おっと」

 

 月見の胸に抱きついた。その衝撃で月見の箸から焼き魚の欠片がこぼれ落ち、哀れ、ぽちゃんと汁物の中に消える。あーとため息をつく月見をよそに、フランは月見の着物に顔を押しつけたまま、鼻が詰まった声でひーひー叫ぶ。

 

「なにこれっ、喉がヒリヒリするー! おいしくないーっ!」

「なんですって!? ちょっと、あんたまさか毒盛ったんじゃないでしょうね!?」

 

 血相を変えたレミリアが月見の膝上を侵攻し出すが、萃香はどこ吹く風と伊吹瓢を呷り、つまらなそうに言い返す。

 

「んなわけないでしょうが。だってこいつが呑んだの、もともと月見に注いだ酒だよ? 月見に毒なんて盛ってたまるかい」

「そ、そういえばそうね……」

「ま、この酒は超辛口だからね」

 

 にやりと笑い、見せびらかすように伊吹瓢を揺らして、

 

「さすがに、お子様の口には合わなかったみたいだねえ」

「……ぶー」

 

 フランが、少し涙目になりながら萃香を睨みつける。その反応が優越感をくすぐるのか、萃香は愉快げにころころと笑って、伊吹瓢を逆さまにするくらいの勢いで口に傾ける――

 

「「――その手があったかあああああっ!!」」

 

 いきなり膳に両手を打ちつけたのは、向かいの席の藤千代と操だった。なにか衝撃的な光景でも目にしたのだろうか、彼女たちは鬼気迫った顔をして、そして一方で羨ましそうな目をしながら、涙目のフランを凝視していた。

 フランがたじろぐ。

 

「えっ、な、なに?」

 

 しかしその頃には、藤千代たちの視線は既に月見へと向けられており、

 

「月見、月見っ。なんだか儂も萃香の酒を呑んでみたいなあ! ちょっと猪口を貸してくれんかっ?」

「はあ?」

「私も呑みたいですっ。操ちゃん、次は私ですよ!」

「応ともさ!」

 

 なに言ってんだこいつら、と月見は思う。萃香の酒が呑みたいのなら自分たちのに注いでもらえばいいだろうに、なんでいちいち私のを――と、そこまで考えたところで、ふと気づいた。

 フランは先ほど、月見の猪口で、萃香の酒を呑んだ。

 月見の猪口で。

 ああ、なるほど。

 つまり、こいつらは。

 少し遅れて、萃香とレミリアも気づいたらしい。

 

「ハッ、なるほどそういうことか! よし月見、いちいち猪口に注いで呑むなんてじれったかったね! このままぐっといってよ!」

 

 萃香が満面の笑顔で伊吹瓢を差し出してくるけれど、月見は怒り狂ったレミリアによって胸倉を締め上げられていてそれどころではない。

 

「つ、月見いいいいいっ!? あああっあなたっ、フ、フフッフフランになっ、なんてことをおおおおおっ!!」

「お姉様どうしたの? なにかあったの?」

「フランは知らなくていいのよっ!」

 

 月見の猪口で酒を呑む行為が俗にいう間接キスにあたるのだと、どうやら無垢なフランは気づいていないらしい。まあ、気づいた上でやったのなら相当な策士だ。見た目子どもな彼女が相手だったから、月見も完全に失念していた。

 

「ってかお姉様、月見に乱暴しないでよっ! 許さないよ!」

「フランッ……! あなた、どうして月見の味方ばかりするのよっ!」

「月見は私を助けてくれたんだから、味方して当たり前でしょっ!」

「ちょっと月見聞いてる!? ほら! 私のことは気にしなくていいからぐいっと呑んじゃってぐいっと!」

「待ってください萃香さん! その前にもう一度だけ、月見くんに猪口で呑ませてあげてください! 主に私の幸せのために!」

「いやいや、儂もやりたいから二回じゃよ! 千載一遇のこのチャンス、逃すわけにはいかないっ!」

「……」

 

 スカーレット姉妹は胡座の上で喧嘩し出すわ、萃香は息吹瓢をぐいぐい押しつけてくるわ、藤千代と操は席を立って迫ってくるわで、汁物に落ちた魚を救出する暇もない。月見は意識を放棄したくなったが、紫と輝夜がいないだけマシかと思い、今のうちに制圧してしまうことにする。

 まず萃香を見て、

 

「萃香、座れ」

「なんでさ! いいでしょほら、ちょっとだけだから、」

「 座 れ 」

「……はい」

 

 次に操。

 

「操、座れ」

「そんな冷たいこと言わないで! ほら、猪口でお酒を呑むだけの簡単な作業じゃよ!」

「ところで私、無性に焼き鳥を食べたくてね」

「すみませんでした」

 

 次に藤千代。

 

「千代、座れ」

「月見くんの膝の上なら喜んで――」

「嫌いになるぞ」

「冗談です! 私は月見くんの嫌がることはしませんよ!」

 

 最後に、スカーレット姉妹。

 

「そういえばレミリアは、よくフランをここまで連れてくる気になったね」

 

 そう言ってやれば、レミリアはすぐに喧嘩の手を止めて、笑っているような怒っているような、どちらともつかない中途半端な表情で自分の席に腰を戻した。

 ため息、

 

「初めに言い出したのはフランよ。……そりゃあ、私だって最初は反対したわ。猛反対よ」

 

 百名を超えるこの大宴会に、レミリア自らがフランを連れ出すはずがない。もしなんらかの理由でフランが皆に拒絶されてしまえば、鴉天狗を介して噂があっという間に広がり、幻想郷に彼女の居場所を作れなくなってしまうのだから。

 

「でも、咲夜に言われちゃったわ。……フランを信じてないのか、って」

 

 咲夜は、妖夢や鈴仙ら従者たちと集まって、朗らかに談笑しながらワインを飲んでいる。レミリアはそんな咲夜を遠目に眺めて、もう一度、ゆっくりとため息をつく。

 あんな台詞をわざわざ言われてしまったことを、悔しがるように。

 

「まったく。……そんなこと言われたら、信じてあげなきゃいけないじゃない」

 

 フランが、くすぐったそうに照れ笑いして月見を見上げた。月見もまた微笑んで、フランの頭を撫でるように叩いた。まだ大分ぶっきらぼうでわがままだけれど、それでもレミリアは、少しずつ優しいお姉さんになってきているようだった。

 そんな月見とフランの反応を、少し気恥ずかしそうに横目で見ながら。

 

「ま、まあ、結果的に上手く行ったからよかったけど……。本当に身が削れる思いだったんだから、当分は勘弁してよ」

「お姉様ね、私がみんなに挨拶する時、私以上にびくびくしてたんだよ。あんな小動物みたいなお姉様、初めて見たなあ」

「し、仕方ないでしょう。本当に心配だったんだから」

「あのスカーレットデビルが信じられない! って大騒ぎになってね。でもそのお陰で、私もみんなにすぐ受け入れてもらえたの。……なんだっけ、ぎゃっぷもえ? っていうの? 鴉天狗の人が言ってたんだけど」

「ああ、そういえばそんなこと言ってるやついたわね。月見、どういう意味か知ってる?」

「……」

 

 一応知識として知ってはいるが、さてどうやって説明したものだろうか。月見は少し考えて、

 

「……まあ、そうだね。その人のイメージに合わない仕草とかを、前向きに褒めて言う言葉だよ」

 

 ざっくばらんに当たり障りなく噛み砕けば、そんな感じだろう。『萌え』という単語については言及しない。月見だって、説明できるほど詳しくは知らない。というかツンデレ然り、なぜ鴉天狗がこんな外の言葉を知っているのだろうか。

 幸い、スカーレット姉妹から追及されるようなこともなく。

 

「へー。じゃあ、お姉様は普段からえらそーにしてるから、びくびくしてるのがぎゃっぷもえだったんだ」

「多分ね」

「わ、私、そんなに偉そうにしてないわよ」

「ほう。ということはお前は、初対面で私になにをしたか忘れてしまったのかな」

 

 レミリアは月見からさっと視線を逸らし、冷や汗を浮かべながら気まずそうにご飯をもぐもぐした。

 

「あ、それ咲夜から聞いたよー。いきなりグングニル突きつけて脅したんでしょ?」

 

 フランにずばり言い当てられて、レミリアの肩がびくんと跳ねる。

 

「や、その、あの時は、起きたばっかりで機嫌が悪くて」

 

 宙で箸を彷徨わせながらなんとか弁解しようとするものの、フランは止まらない。

 

「鴉天狗たちから聞いたんだけど、今の紅魔館ってあんまりイメージよくないんだってね。もしかしてお姉様のそういうところが原因なんじゃないの?」

「う、ううっ」

「変にカッコつけてないで、素直になればいいのにー。ほら、前にも言ってたじゃない。もっと月見に」

「わ、わあわあっ!」

 

 なにか都合の悪い話でもされそうになったらしく、顔面を一気に沸騰されたレミリアが、ほとんど体当たりに近い勢いでフランに掴みかかる。するとバランスを崩したフランの頭が月見の左腕にぶつかって、ちょうど持っていた猪口から酒が大きくこぼれてしまった。フランに至っては、驚くあまりワイングラスを完全に放り投げてしまっていた。

 左に座っていた萃香の頭に、ダイレクトで。

 

「「あ」」

 

 日本酒と赤ワインを頭から被り、萃香は血塗れになった。

 

「つめたー!? な、なになに!? 確かにお酒は浴びるほど好きだけど、別に本当に浴びたいって意味じゃ――ってあんたらかーっ!! いきなりなにしてくれてんの!?」

 

 萃香が二つの意味で顔を真っ赤にして叫ぶけれど、頭にすっかり血が上ったレミリアはまったく聞いていない。フランも、レミリアに両手で口を押さえつけられて、半分以上押し倒されそうになっていて、とても返事ができるような状態ではなかった。

 月見の膝の上で、スカーレット姉妹がくんずほぐれつ暴れ回る。

 

「フ、フラアアアンッ!! そそそっ、その話は私たちだけの秘密だって言ったでしょ!? なにナチュラルにバラそうとしてるのよっ!?」

「もがもが」

「いい、とにかく絶対に言うんじゃないわよ月見も全然大した話じゃないんだから気にしないようにっ! わかったわね!?」

「あ、ああ」

 

 レミリアがグングニルの一発でもぶっ放しそうなくらいの剣幕で睨みつけてくるので、月見はついつい頷いてしまうのだけれど、それよりも、血塗れの顔に引きつった笑顔を咲かせてわなわな震えている萃香は、放置なのだろうか。

 なんだか嫌な予感がしてきたので、月見は中身が半分になった猪口をそっと膳の上に戻しておく。

 萃香が爆発したのは、その直後だった。

 

「……ふ、ふふふ。あんたらがあんまりにも月見のこと好きそうだったから今回は譲ってあげてたけど、要らない気遣いだったみたいだね。――くぉらああああああああっあんたらそこどけえええええっ! 月見の膝の上は私のもんだあああああっ!!」

 

 ワインの雫をあちこちに振りまき、萃香がスカーレット姉妹に――すなわち月見の膝の上に突撃する。そして、幼女三人の小さなキャットファイトが巻き起こった。

 もし猪口を手に持ったままだったら、また酒をどこかにこぼしてしまっていただろう。月見は膝の上に三人分の重さを感じながら、釣行灯の天井を振り仰いで、ため息をついた。

 せっかく静かになったと思ったのに、またこれだ。

 

「うわっ、ちょっとなによあんた!? ってかなんでワインまみれになってんのよ、お洋服が汚れるから近づかないでくれる!?」

「一体誰のせいだろうね!? そっちこそなにさ、二人して月見の膝の上でじゃれつくとか見せつけてくれてんの!? あのね、一応言っとくけど月見の膝の上は元々私の特等席なんだよ!?」

「もが――えっ、なにそれ! 独り占めなんてずるいよっ!」

「さっきまで満面の笑顔で独り占めしてたあんたに言われたくないね! さあそろそろ時間切れだ、今度は私が座る番だぞー!」

「うっ……や、やだよ。まだ全然、月見と一緒にご飯食べてないもん……」

「あれだけのことやったんだから充分でしょ! 姉貴に負けず劣らずわがままなやつめっ!」

「わ、私そんなにわがままじゃないよ!」

「私だってわがままじゃないわよ! これでもお淑やかな大人のレディーで――ちょっとなんで二人して鼻で笑うの!?」

「そんなのどうだっていいからあっち行け――――っ!!」

「やだー! 月見と一緒にご飯食べるの――――っ!!」

「どうだっていいってどういう意味だ――――っ!!」

 

 ……。

 あまりの騒がしさに、窓の外から美しい夜の幻想郷を眺めて現実逃避をする、月見なのだった。

 微笑ましいものを見る眼差しが周囲からじっくりと注がれ、体に穴が空いてしまいそうだ。鴉天狗たちが、「いいネタを見つけた」と口々に言い合って素早くメモを取っている。一部の子ども好き――もちろん綺麗な意味ではない――な連中が、男涙を流しながら浴びる勢いで自棄酒を呑み合っている。あー私もー! と立ち上がりかけた紫が、蠢く金毛九尾であっという間に押し潰される。

 

「月見くんは、あいかわらず子どもから人気がありますねえ」

 

 まるで湯呑みのように大きな猪口で酒を呑みながら、月見の正面の席で藤千代が羨ましそうに笑った。やはり鬼だからなのか、彼女は小さい器でチビチビと酒を呑むのを嫌う。

 頬に手をやって緩くため息、

 

「月見くんの膝の上でこんなに騒いでも怒られないなんて……。しかも、フランさんは間接キスまで。純真無垢な、清らかな幼心があってこそ為せる技なんですね」

「儂らの心は、もうとっくの昔に汚れてしまったからのー……。大人になるって悲しい……」

 

 確かに、藤千代と操が月見の膝の上で喧嘩していたら、問答無用で尻尾で引っ叩く気がする。もちろんそれは、二人が月見にとって、それだけ気が置けない相手だからなのだが――言えば一気に調子づかれそうなので、口にはしないでおく。

 そうこうしている間にも膝の上の争いは激しさを増し、力自慢の萃香が、スカーレット姉妹を外野へと突き飛ばす。すると意地悪されたフランがじわりと涙目になって、それを見たレミリアが修羅となって萃香に掴みかかる。

 これではまるで幼稚園児の喧嘩だ。恐らくこの三人と一緒の席にいる限り、月見はいつまで経っても料理を食べられないのだろう。

 特別助けを期待したわけではないが、なんとなく周囲の席を見回してみる。藤千代と操は酒を呷りながら大人になる悲しさについて語り合っていて、助け舟を出してくれる気配はなし。まあ、座れといったのは月見なのでこれは仕方がない。

 幽々子はいつの間にか与えられたご飯の釜を幸せそうに箸でつついていて、そもそもレミリアたちの争いには気づいていないらしい。紫と輝夜は初めから論外。勇儀は仲間から呑み比べを仕掛けられたようで大いに盛り上がっているし、咲夜に始まる従者の面々も、席を寄せ合って女子会みたいなテリトリーを形成していて、期待はできそうになかった。やはり、自力でなんとかするしかないのだろうか。

 と、

 

「つーくみー! ちょっとこっち来てよーっ!」

 

 本大宴会四人目の幼女である洩矢諏訪子が、蛙みたいにぴょんぴょん飛び跳ねながら月見に向けて両手を振っていた。二粒の綺麗な星ご飯をした口で、

 

「早苗が訊きたいことあるんだってー! だからほら、お酒持って早く来ーい! そんで尻尾ーっ!」

 

 隣の早苗が、飛び跳ねる諏訪子を少し恥ずかしそうにしながら、控えめな会釈をする。早苗に呼ばれたというのがそこはかとなく不安だったが、目の前の騒ぎから抜け出す理由としてはなんとも都合がよかった。

 ガキ大将さながらに月見の膝の上に君臨していた萃香の頭を、軽く叩いて。

 

「ほら萃香、降りた降りた。ちょっと呼ばれたから行ってくるよ」

「ぅえー!?」

 

 萃香は体を激しく上下に揺らし、全身で不満を顕にして叫ぶ。

 

「なんでさ! 私、まだ座ったばっかだよ!?」

「だから、向こうに呼ばれたんだって。というかワインまみれの体で人の膝の上に乗らないでくれるかい。風呂に入って着替えておいで」

「ちぇー……。じゃあお風呂入ってきたら今度こそ乗るからね! はい予約したーっ、他のやつなんか乗せちゃダメだよ!」

「はいはい」

 

 正直、今日はもう誰も膝の上に乗せたくないのだが、口答えするとまた面倒になりそうだったので、適当に相槌を打っておく。

 それから、横でさりげなく目を輝かせていたフランに、

 

「フランも『じゃあ私が』みたいな顔しない。ここで大人しくレミリアと呑んでなさい」

「……えー」

 

 すこぶる嫌そうな顔をされた。喉に泥を塗ったような、こうも露骨に不機嫌な彼女の声を聞いたのは、初めてかもしれない。

 

「そ、そうよフラン。あんまり月見にべったりしても迷惑でしょ、いい加減にしなさい」

 

 珍しくレミリアが正論を言うのだが、別に月見を気遣ってくれたわけではなく、ただフランが自分を見てくれないのが寂しいらしい。フランの袖を控えめに引っ張って、いかにも心細そうだった。

 しかしやはりというべきなのか、フランがレミリアの視線に気づくことはなく。

 

「じゃあ私も月見と一緒に行くー」

「!?」

 

 レミリアの表情が妹に裏切られた絶望で染まった。肩をふるふる震わせ、じわりと涙目になって、彼女はこれ以上の屈辱はないとばかりの上目遣いで月見を睨みつけるのだった。睨みつけられても困る。

 

「まあまあいいじゃないですか、フランさん」

 

 やんわりと助け舟を出してくれたのは、藤千代だった。

 

「フランさんが月見くんのことがだーい好きなのはよくわかりましたけど、でも今日は宴会ですよ? せっかくの機会ですもの、もっと色々な人たちとお話してみたらどうですか?」

「……それは」

 

 曖昧に笑って、フランが少し不安げに周囲の人々を見回す。一度受け入れてもらえたとはいえ――いや、受け入れてもらえたからこそ、改めて輪に入っていくのが怖いのだろう。熱心に月見の後ろをついて回ろうとしているのは、月見と一緒じゃないと不安だからなのかもしれない。

 だが、そんなのは杞憂だと月見は思う。かつての狂気に支配された状態ならいざ知らず、今のフランは、どこにだっている普通の女の子と変わりないのだから。普通の女の子を訳もなく除け者にするほど、ここにいる連中は冷たくない。

 というか、現在進行形で、

 

「フランちゅあああああ! もし月見さんの膝の上が飽きたならこっちに、というかいっそ俺の膝の上にぶげら」

 

 鼻息を荒くしながらフランを手招きした天狗の青年が、座敷を一直線に切り裂くレミリア渾身の飛び蹴りで吹き飛ばされた。美しい後方三回ひねりが決まった。

 ついさっきまで萃香のほっぺたを引っ張ったりなんだりしていたのに、思わず目を疑う一瞬の早業である。下心アリで妹と仲良くなろうとする不届き者に、姉の過保護センサーは全開だった。

 着地したレミリアは吸血鬼の犬歯を剥き出しにして、

 

「きっさまあああああっ、鼻息荒くしてフランを呼ぶなっ! イヤらしい目でフランを見るなあっ! ぶっ飛ばすわよ!?」

 

 もうとっくの昔にぶっ飛ばしているのだが、それをわざわざツッコむのは野暮だろう。部屋の隅までゴロゴロ転がっていった青年を、レミリアは更に羽を打ち鳴らし、踏みつけで追撃する。

 

「ぐえ」

「汚らわしいことを考える頭はここか? 貴様、フランに妙なことをしてみろ。グングニルの錆にしてやるからな」

 

 ゴミでも見るような目と、吐き捨てるように冷たい声音。恐らくは、他にもフランに興味津々な子ども好きな連中――繰り返すが綺麗な意味ではない――を、牽制する意味合いもあったのだろう。大切な妹を守るため、圧倒的な力で一方的に語り合おうとする肉体言語至上主義の考えは、まことに妖怪らしい。

 しかし残念なことに、レミリアは天狗の男という生命体を甘く見ている。文の時もそうだったが、彼らは一度や二度蹴っ飛ばされた程度で、自分たちの信念を曲げたりはしない。

 それどころかレミリアに側頭部を踏みつけられる彼は、至って真面目な表情と真面目な口振りで、

 

「あの、もう少し強めに踏んでくれません?」

「――……」

 

 ぞぞぞぞぞ、とレミリアの肌が一気に粟立ったのが、それなりに離れた月見の場所からでもとてもよくわかった。引きつった笑顔でぶるりと大きく震えた彼女は、右手を固く拳にし、そこに妖力を集中させ、振り上げ、

 

「――さて、そういうわけだフラン。せっかく席が近いんだし、千代たちとも話をしてご覧よ」

「いいいいいいやああああああああっ!!」

「ぎいいいいいやああああああああっ!? ありがとうございまああああああああっす!!」

 

 直後響いたレミリアの悲鳴と男の断末魔を、月見は努めて聞かないふりをしつつ、

 

「心配は要らないよ、基本的にはいいやつらばかりだから。たまにおかしくなるけど」

「あ、うん。それは現在進行形でとってもよくわかるっていうか……」

 

 肉を打ち貫く重く激しい打撃音なんて、聞こえないったら聞こえないのである。

 藤千代が頬に手をやって、響き渡る男の断末魔がまるで幻聴であるかのように、やんわりと言う。

 

「私も、フランさんと色々お話をしてみたいですねー。是非、月見くんについて熱く語り合ってみたいです」

「え、月見についてっ? うん、それだったらいいよ!」

 

 月見の名前が出た途端あっさりと掌を返し、フランが藤千代の方へと大きく身を乗り出す。キラキラと目が輝いている。

 

「私も、月見のこと色々と聞きたいっ」

「いいですよー。月見くんってあんまり昔話をしてくれないんですけど、私の知りうる限りすべてのことをお話しましょうっ」

「あーっ、儂も儂もっ! 儂も月見のあんなことやそんなことを知りたいのじゃー!」

 

 藤千代が自分のことのように胸を張って言えば、間髪を容れずに操も食いつき、早速意気投合した彼女たちはそそくさと座布団を寄せ合ってテリトリーを形成し始める。一体なにを言い触らされるのやらと月見は少し不安だったが、知られて困るようなことを知られた覚えもないので、まあ大丈夫だろう。

 続け様に、ようやく月見の膝から降りる決心をした萃香が、ぃよぉーし! と元気よく気合を入れて立ち上がる。

 

「そんじゃあみんなー、ちょっと早いけど温泉入るよー! 温泉でお酒呑むよ――――っ! 一緒に入りたい人挙――――手!!」

「「「は――――っい!!」」」

「よーし今手ェ挙げた男ども、全員立ってこっちきてー! ……あーよしよしよく来たね、じゃあぶっ飛べへんたあああああいっ!!」

「「「ぐあああああああああっ!!」」」

 

 さりげなく萃香と一緒に温泉に入ろうとした野郎どもが、情け容赦ない正拳突きで鳩尾を打ち抜かれてまとめて吹っ飛んでいく。鬼の中の鬼、鬼の四本指に座す大妖怪の一撃に、さすがの彼らも「もっと強めに」などとお茶目を抜かす余裕はなかったらしい。揃いも揃って部屋の隅まで転がり、幸せそうな顔で気絶していた。

 

「……」

 

 ようやく膝の上が軽くなった月見は立ち上がり、凝り固まった体を伸ばしながら周囲を見回してみる。さっき萃香に殴られた連中が吹っ飛んでいった近くで、レミリアが例の特殊性癖な青年からマウントを取って、半泣きになりながら激しく拳を振り下ろしている。青年は鼻血を流してがふうげふうと悲鳴を上げながらも、やはりどこか、満更でもなさそうな顔をしてレミリアにされるがままになっている。周囲では野次馬が指笛を吹いたりしたりしながらレミリアを囃し立て、青年があと何発でダウンするかをネタに賭けを繰り広げている。咲夜が、レミリアの暴走を止めなければと思いつつも、周りが盛り上がっているからいいのだろうかと思い悩んで、少し離れたところでおろおろしている。

 騒がしいのはそこだけではない。

 

「だからその話は、もうほんとに深い意味はないんですってば! みんなだって、なんとなくパッと浮かんだ名前が結構いいやつだったー、なんてのはよくあるでしょう!?」

「そりゃーそうだけどさー、だったらそんなムキになって否定しなくてよくない? 余計怪しく見えるよ?」

「みんながしつこいから頭にきてるんですよ! いい加減にしてください、みんなが期待してるようなのは未来永劫一切ありませんからッ!」

「まあ文がツンデレなのはよくわかったけどー」

「もおおおおおっ!!」

 

 文はあいかわらず色恋好きな同僚たちに突っつかれては暴走寸前になっているし、

 

「ちょっと待ったあああああっ! 今の話はさすがに聞き捨てならないよ! 移動要塞の最大の浪漫は多脚型でしょ!? 履帯型なんて夢がなーいっ!!」

「ふっ……浪漫に溺れて現実性を見失うのは阿呆のすることだぜにとりよ……。お前だって、多脚型の歩行とバランス制御の難しさはわかってるだろう? 最新技術がいついかなる時も優れているとは限らない。時には過去の技術を踏襲することも必要だ」

「過去の技術に胡座かいて夢を見ようとしない方がよっぽど阿呆だね! 私らが夢を見なくなったら、一体誰が幻想郷の技術を変えてくのさ! 確かに多脚型の難しさは私もわかってるよ。でもそれを乗り越えてこそ河童の技術でしょ!?」

「上おおおおお等だにとりいいいいい!! お前とは一度拳で語り合った方がいいみてえだなあああああ!?」

「望むところだあああああっ!! 女だからって甘く見てると痛い目見るからね!?」

 

 にとりを始めとする河童たちは、移動要塞について多脚型派と履帯型派の二派に分かれて、熱く拳で語り合いを始めているし、

 

「ねーねー勇儀、勇儀も一緒に温泉入ろうよー!」

「んー? ああいいよ、ちょうど呑み比べも一段落したしねえ」

「じゃあ、次は温泉に入りながら私と勝負しようじゃないか。――はいそこの『勇儀さんが入るなら……』って途端に目ェ輝かせたお前えええええ!! どぉーせ私はおっぱい小さいですよ悪かったなあああああっ!!」

「えっ誰もそんなこと言ってなもるすぁ」

「つーか萃香さんは小さいってか皆無ぼぐろ」

 

 また萃香の正拳突きで新たな犠牲者が生まれたし、

 

「ちょっと藍ー!? あなたの尻尾がもふもふで気持ちいいのは認めるけど、いい加減放してくれないとお料理が冷めちゃうんですけどっ!」

「そうですね、蓬莱山輝夜ともう二度とあんなみっともない喧嘩をしないと約束できるなら、放してあげます」

「なに言ってるの藍私の話聞いてたのかしら蓬莱山輝夜は私の恋路を邪魔する女郎なのよまあこの私があんなガキに負けるなんて天地が引っ繰り返ったってありえないことなんだけど邪魔な芽は早めに摘んでおくに限るじゃないだから宴会の騒ぎに乗じて今のうちに消すしかって待って待って藍絞まってる絞まってるあああああ紫ちゃんボディのあちこちからミシミシって致命的な異音がー!?」

 

 紫は藍の九尾に絞めつけられてビクビクしているし、

 

「あっほら永琳、なんかちょっと怪我人増えてきたんじゃない? 私のことなんてほっといて、応急処置しに行った方がいいわよ!」

「そうね、あなたが八雲紫ともう二度とあんなみっともない喧嘩をしないと約束できるんだったら、行ってくるわ」

「なに言ってるの永琳私の話聞いてたのかしら八雲紫は私の恋路を邪魔する女郎なのよまあこの私があんなやつに負けるなんて月が地球に落ちるくらいにありえないことなんだけど邪魔な芽は早めに摘んでおくに限るじゃないだから宴会の騒ぎに乗じて今のうちに消すしかって待って待って永琳なによその注射器『初めからこうしておけばよかった』ってどういう意味なのあっちょっやめてやめてストップストップあのね永琳人間の体内にはそんな緑色のマーブルな液体なんて打ち込んじゃダメなのよってあっ、」

 

 輝夜は永琳に変な色の注射を打たれて動かなくなったし、

 

「つ――――く――――み――――ッ!! こっち来てって行ってるでしょ、無視するならそのステキな尻尾を引きちぎって私専用の抱き枕作っちゃうぞ――――わ――――いっ!!」

 

 諏訪子はあいかわらずぴょんこぴょんこと飛び跳ねて、物騒なことを宣っているし。

 

「ちょ、諏訪子様っ……落ち着いてください、騒ぎすぎですよぅ」

「なに言ってるのさ早苗、どこもかしこも似たようなもんじゃない」

 

 諏訪子が早苗に向けて放った何気ない一言を、まったくその通りだと月見は思った。外の世界で人間たちが行う宴会とは似ても似つかない。肉体言語的な意味で盛り上がる馬鹿騒ぎこそが、外の世界の非常識を集めて創られた幻想郷の宴会なのだ。現状、一番大人しくしている人外が幸せそうにご飯の釜をつついている幽々子なのだから、幻想郷の宴会もここに極まれりである。

 そのうち、酔った勢いで弾幕ごっこをし出す連中が現れるかもしれない。

 

「今日の宴会は、いつにも増して盛り上がってますねえ」

 

 フランたちとの話を中断し、藤千代が月見を見上げて言う。

 

「やっぱり皆さん、月見くんが帰ってきて嬉しいんですね」

「どうだか……。普段はもう少し落ち着いてるのか?」

「そうですね、こんな風に賑やかな殴り合いはなかなか起こりませんよ」

 

 どうやら月見が帰ってくると、幻想郷の宴会では殴り合いが起こるらしい。あんまり嬉しくない。

 

「それだけ、みんな自分の気持ちに素直になってるってことですよ。人の心を素直にするのは、月見くんの一つの美点ですから」

「……そうかね」

 

 恐らく褒められているのだろうが、人の心を素直にした結果がこの馬鹿騒ぎなら、それもそれで、あんまり嬉しくはなかった。

 

「……ああ、これもう完璧に無視されてるよね。よし待ってて早苗、ちょっと月見のステキな尻尾刈り取ってくるから。もっふもふの抱き枕ゲットだぜ」

「いや、月見さんも連れてきてくださいよ!?」

 

 ともあれそろそろ諏訪子の目からハイライトが消えかけているので、月見は酒を持って彼女たちのところへと向かう。

 途中、嫉妬に狂った子ども好きな天狗が男涙とともに殴りかかってくるのを、適当に尻尾で吹っ飛ばしておく。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 とある従者の集まりがある。座敷の一角にて座布団を寄せ合いちょっとしたテリトリーを形成しながら、魂魄妖夢は、従者仲間である咲夜、椛、鈴仙らと一緒に談笑の花を咲かせていた。

 少し前まで馬鹿騒ぎが続いていたこの宴会場も、暴走の発端となる連中が軒並み物理的にダウンしたことと、温泉に入りに行ったことで次第に落ち着きを取り戻しつつあった。レミリアの暴走は天狗の青年が完全に気絶したことで収束し、河童たちの大乱闘も、にとり率いる多脚型派とかいうチームが僅差で勝利したらしい。馬鹿騒ぎをしている連中はもうほとんどおらず、部屋の隅に積み重ねられた犠牲者の数は、今や四十を超えていた。

 妖夢も、初めのうちは暴れ回る幽々子の食欲に振り回され酒を呑む余裕すらなかったが、「ここから勝手に取って食べてください!」とご飯の釜と料理の鍋を放り投げてからは平和になった。さすがの幽々子もそれらを平らげれば大分満足したようで、今は親友である紫のところで一緒に酒を呑んでいる。どうやら、蓬莱山輝夜の存在について、愚痴を聞かされているらしい。

 ――蓬莱山輝夜。

 

「……実際、輝夜さんと月見さんってどういう関係なの?」

 

 紫と月見の間柄は既に幽々子から聞かされているし、嘘を吹きこまれたわけでもないと思っている。月見が紫の想い人であるというのは、今日の紫の行動を見ていればなんとなく納得が行くところだ。月見の膝の上でじゃれ合っていたスカーレット姉妹、及び伊吹萃香を心底羨ましそうに睨みつけていたし、隙を見つけて月見のところに行こうとしては、何度も藍の尻尾で拘束されていた。

 けれど、輝夜と月見が親しい関係だったとは初耳だ。それは幽々子も同じだったようで、だから彼女は今、紫の愚痴に付き合いながらさりげなく輝夜について情報収集をしている。

 妖夢の問いに、鈴仙は少しの間考えてから、曖昧に笑った。

 

「昔に色々あったんだけど……まあ結局は、姫様の片想いなのかな」

 

 そうだろうな、と妖夢は思う。これは幽々子から聞かされた話だけれど、月見は、さほど色恋に熱心な性格ではないらしい。ある意味では、某古道具屋の店主と同じで、絶食系ということになるのだろうか。

 

「へえ……そうなの」

 

 咲夜が咀嚼するように頷く。椛はおかわりした焼き魚に夢中で半分聞いていなかったのか、「そうなんですかーすごいですねー」とひどく適当な相槌を打っている。

 鈴仙は更に肩を竦め、

 

「で、その昔の色々が原因で、賢者様とすこぶる仲が悪くて……いや、仲が悪くなっちゃったっていうべきかな、昨日の話だし」

 

 そこからいきなり悟りを開いた眼差しになって、悟りを開いたため息をついた。

 

「今日も顔合わせるなりいきなり喧嘩始めて……。姫様さ、月見さんのこと好きなやつなら鬼子母神様にまで喧嘩売るんだよ? もう、これからずっとこんな感じなのかなあ……」

「……」

 

 今の鈴仙の気持ちは、多分妖夢には痛いほどによくわかった。初めて月見と出会った日――幽々子と紫が喧嘩をおっ始めそうになった時は、場所が場所だったというのもあるけれど、妖夢は割と本気で泣きそうになったのだ。あれが事あるたびに続くのだとしたら、妖夢は間違いなく『捜さないでください』の書き置きだけを残して失踪するだろう。

 つくづく思うが、幻想郷において従者とはかなりハードな立ち位置だ。妖夢と鈴仙についてはこの通りだし、椛は主人である天魔のサボり癖のせいで、一時期は胃に穴が空きかけたらしい。咲夜だって、主人に振り回されることこそ少ないものの、広大な紅魔館の家事を一手に担わされている。あとは藍だって、紫から幻想郷の管理者の仕事を押しつけられることがままあるし、彼女が巻き起こした騒動の後始末に奔走させられたりもしている。従者のことをちゃんと労ってくれるような心優しい主人など、幻想郷では幻想なのだ。

 ふと、月見さんみたいな人が主人だったらよかったのに、と思う。彼のように物腰の穏やかな主人であれば、妖夢の気苦労は減り、無茶な命令に振り回されることもなくなり、更には対等な立場で接してもらえるはず。なんと素晴らしい三拍子だろうか。

 ……念のため断っておけば、月見の従者になりたいという意味ではない。祖父から受け継いだ大切な仕事だ。妖夢が幽々子のもとを離れるのは、きっと彼女との縁が切れる時なのだろう。

 

「まあ、それはともかく」

 

 自棄酒するように酒をぐっと呷って、鈴仙が話題を変えてくる。意味深な流し目を咲夜へ向けて、にやりと笑った。

 

「咲夜は、月見さんのことどう思ってるの?」

「……どうって?」

 

 意味深な問い掛けに、咲夜の片眉がわずかに跳ねる。

 

「いやほら、レミリアさんが公認だとかなんとか。あの時、結構大慌てしてたでしょ? 私、あんな風に可愛い声上げてすっ転ぶ咲夜なんて、初めて見たんだけど」

「あ、あれは……完全に不意打ちだったから……」

 

 大分恥ずかしそうにして、咲夜がきゅっと縮こまった。確かにあの時は、話題が話題だった。なんの前触れもなく結婚だのなんだのと言われたら、たとえ冗談であったとしても、動揺しない女などいるものだろうか。仮に妖夢が咲夜の立場だったら、すっ転ぶかどうかは別として、顔中を真っ赤にして楼観剣を抜き放つくらいの自信はある。

 揺れた心を落ち着かせるように、咲夜が咳払いをする。

 

「月見様は恩人よ。お嬢様と妹様を仲直りさせてくれた、かけがえのない」

 

 妖夢は、自然と上座の方に目をやった。月見と守矢神社の面々と、鬼子母神、天魔らが談笑をする中に、フランドール・スカーレットの姿が交じっている。みんなを一緒に円を作って、誰かの話を聞いては驚き、笑い、楽しげに輪の中へ溶け込んでいる。

 

「……レミリアさんの妹さんは、初めて見ました」

「妹様が今ここにやってこられたのも、月見様のお陰」

 

 狂気のせいでやや気が触れており、長年幽閉されているという噂を聞いていた。けれど実際のフランドール・スカーレットは、噂がまったくの事実無根だったと思わされるほど、明るくて素直な女の子だった。遠くから見つめる自分たちまでが、つられて自然と笑顔になってしまいそうになる。

 心の中の温かさを慈しむように、咲夜がゆっくりまぶたを下ろす。

 

「妹様があんな風に笑えるようになったのも、月見様のお陰」

「……」

 

 月見がフランたちになにをしたのかはわからないし、とりわけ知りたいとも思わない。ただ、小さな女の子が一人、素敵な笑顔で笑えるようになったのだと、その結果さえわかれば充分だった。

 

「……いい人なんでしょうね」

 

 月見とちゃんと顔を合わせてからまだ間もないけれど、それは間違いないのだろう、と思う。八雲紫と蓬莱山輝夜が想いを寄せている。西行寺幽々子が友人だと認めている。フランドール・スカーレットが救われている。

 その人柄は、百を超える妖怪たちが一丸となって、彼のためにこんなに立派な屋敷をつくってあげるほど。

 

「ええ、もちろん」

 

 咲夜が、自信たっぷりと深く微笑む。

 

「そうなんだろうね。私も昨日会ったばっかりだけど、悪い人とは思えなかったし」

 

 鈴仙が、くすぐったそうな苦笑いをしながら頬を掻く。

 

「そうなんですかーすごいですねー」

 

 最後に取っておいた焼き魚の頭を幸せそうに噛み砕く椛は、もう焼き魚と結婚してしまえばいい。

 

「……これから、賑やかになりそうですね」

 

 死屍累々と化しつつある宴会場を見渡す。今日一日だけでこれだけの馬鹿騒ぎだったのだ。明日も、明後日からも、月見の周りには様々な者たちが集い、のびのび賑やかに笑うのだろう。

 きっと、妖怪も人も、関係なく。

 

「……」

 

 なんとなく、幽々子が月見を友と慕う理由の一つが、わかった気がする。

 緩く息をついて、咲夜が立ち上がった。

 

「……さて。じゃあそろそろ、できるところから片付けを始めましょうか」

 

 妖夢は宴会場の惨状を再確認する。膳は散らかり酒瓶は散乱し、座布団は吹き飛び酒に潰れた者たちはあちこちに雑魚寝し、広々とした屋敷からは軽く足の踏み場が消滅しつつあった。確かにこれは、今のうちから少しでも片付けを始めておかないと、明日の朝が大変になりそうだ。

 頷いて、妖夢は猪口に少しだけ残っていた酒を片付ける。

 

「そうですね。ぼちぼちやりましょうか」

「私たちくらいしか、やる人もいないしね」

 

 従者四人で、一緒になって苦笑する。宴会の前準備と後始末は、いつだってどこだって従者の仕事。本当に、ハードな役回りだ。

 けれどこうして、起きている者はもちろん、寝ている者までが笑顔を絶やさない空間で働けるのならば、それはそれで、悪い気はしない。

 料理はもうほとんど片付いている。酒も、準備していた分はすべて封が切られており、間もなく完全に底をつくだろう。そうすれば、いつまでも続くように思えたこの宴会もいよいよお開きだ。

 水月苑にもようやく、遅めの夜が訪れようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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諏訪大戦 ① 「追想の問い掛け」

 

 

 

 

 

 咲夜や鈴仙たちが後片付けを始めるよりも何刻か前――まだこの宴会が、沸騰の最中にあった頃。

 

「――おっそいよ月見ー! なにのんびりしてんのさーこのーっ!」

「ッハハハ、悪い悪い」

 

 やっとのことで守矢組のところまでやってきた月見は、諏訪子のしかめっ面と罵声で盛大なお出迎えをされていた。一度フランたちと別れれば、一部の子ども好きな天狗たちが嫉妬心を剥き出しにして殴りかかってくるので、始末をつけるのにやや時間が掛かってしまった。

 背後では、フランに目をつけているという罪状のもと、レミリア裁判長によって天狗たちが断罪されている。時折「もっと! もっと強くやってください!」なる奇声が響いてレミリアが悲鳴を上げているが、生憎そのあたりは、今日の月見にはもうちっとも聞こえないのである。

 そうして月見がようやく腰を下ろせば、諏訪子のご機嫌ゲージは最底辺から最高潮まで一足飛びだった。

 

「まあ来てくれたんならいいや。んじゃ早速尻尾もふーっ!」

「あーはいはい」

 

 早速尻尾に抱きつき座敷を転げ回り始める諏訪子を、やめてくれと今更咎めたりはしない。

 敢えて確認するまでもないことだけれど、洩矢諏訪子は月見の尻尾が大好きだった。なんでも、尻尾の触り心地から抱いた時の厚み、温度、匂い、そして毛一本一本の柔らかさに至るまでのすべてが、彼女のストライクゾーンを百五十マイルの豪速球で貫くらしい。

 諏訪子にとって月見とは即ち尻尾であり、尻尾のない月見は月見ではない。いつだったか試しに彼女の前で尻尾を隠してみたところ、「尻尾がない月見なんて嫌いだ――――ッ!!」という理不尽なヒステリーの末、天変地異が起こり守矢神社がめちゃくちゃになったという怪事件は、今でもなお月見の記憶に深く刻まれている。

 別に尻尾を触られるのが嫌いというわけではないけれど、跡がつきそうなほどキツく抱き締められてあちこち転げ回られてしまえば、ため息の一つくらいはこぼしたくなるというものだった。とはいえあの惨劇をまたここでやらかされるわけにもいかないので、月見としてはもう、諦めるしかないというか、なんというか。

 まあ、諏訪子の体がとても小さく、くっつかれてもほとんど重みを感じないのが、不幸中の幸いなのだろう。視界の端で猫みたいにゴロゴロする姿は、少なからず目障りだけれど。

 

「……それで、私に訊きたいことってなんだ?」

 

 月見がここに呼ばれた理由は二つ。一つは諏訪子が月見の尻尾をもふもふしたかったからで、もう一つは、早苗がなにか訊きたいことがあったかららしい。例のメニアックなマンガの件じゃなければいいなあ、と祈るように思う。

 問われた早苗は料理の箸を一旦休めて、少し、引き締まった顔をした。大っぴらに口にするのを躊躇うように、声をひそめて、

 

「……諏訪大戦について、教えてもらいたいんです」

「うん?」

 

 寡聞にして聞き覚えのない単語だった。さてなんのことだろうかと月見が小首を傾げていると、横から神奈子が助け舟を出してくる。

 

「私の大和と諏訪子の洩矢が戦った戦だよ。守矢神社の歴史書では、『諏訪大戦』って名前で記されてるのさ」

「ああ、なるほど」

 

 月見は守矢神社には数十年に一度ほどの頻度でしか参拝してなかったし、当然歴史書を見たこともないので、あの戦にそんな名前がつけられているとは知らなかった。

 しかし、それはそれで新たな疑問。

 

「なんでそれを私に? 私以上の当事者が、ここに二人いるじゃないか」

 

 即ち、東軍西軍の両大将だった神奈子と諏訪子だ。月見も諏訪大戦に関わった身ではあるが、あくまで援軍というか、予想外の出来事が起きたので思いがけず首を突っ込むに至っただけであり、諏訪大戦を物語る教師役には、この二人の神の方が適任だろう。

 言いにくそうに頬を掻いたのは、神奈子だった。

 

「いやね……ほら、あれってあんたがいてくれたからなんとか勝てたものの、そうじゃなかったら完全に私の負け戦だったでしょ? だからあんまり思い出したくなくて……」

「諏訪子様も、『負けた戦のことなんて思い出したくない』って仰って、詳しく教えてくれないんです」

 

 諏訪子は月見の尻尾の虜になっていて、こちらの話はまったく聞いていないらしかった。

 

「なので、月見さんだったらどうかなあ……と思いまして」

「……ふむ、そうだね」

 

 諏訪大戦のことは、よく覚えている。神奈子率いる大和の勝利が確実とされておきながらも、当時、偶然洩矢の客将となっていた藤千代によって、危うくすべてが引っ繰り返されそうになった戦だ。

 実際のところ、月見もあの戦についてはあまり思い出したくない。なにせあれは月見が初めて藤千代に出会い、戦い、そして奇跡的に運よく勝つことができた戦であり、つまるところ軽いトラウマみたいなものなのだ。できることなら古傷は抉りたくない。

 

「……ダメですか?」

「いや、ダメということはないけど……」

 

 早苗にしょんぼりとした目で見られてしまえば、結局月見も神奈子と同じく、バツが悪い心地で頬を掻いてしまう。あの戦は、皆にとって苦い経験となった戦だ。月見と神奈子はいうまでもなく、諏訪子だって、さっきからわざとらしいくらいに月見の尻尾とじゃれ合っているのは、聞こえていないふりをするためなのだろう。

 唯一、当時の記憶を笑顔で語れる者がいるとすれば。

 

「……」

 

 月見は少し考えてから、じゃあ、とおもむろに口を開いた。

 

「千代も呼んでみんなで仲良く思い出そうか。それだったらいいよ」

 

 すなわち一蓮托生である。みんなでなるべく朗らかに懐かしめば、抉れる古傷も少なかろう。

 うげー、と神奈子が渋い顔をした。

 

「ほんとに話すの? 気乗りしないなあ」

「神奈子様っ……私、守矢の巫女としてちゃんと知っておきたいんです。だから、どうかお願いします!」

「う、うぐっ」

 

 だが結局、我が子に等しい早苗に土下座さながら深く頭を下げられてしまえば、神奈子とてこれ以上言い逃れはできなかった。

 ふっとため息、

 

「……わかったよ。まあ、たまには物忘れ防止に思い出すのもいいだろうさ」

「! ありがとうございます!」

「早苗に教えるのは、私の霊験あらたかな活躍譚だけにしたかったんだけどねえ……」

「大丈夫ですよ! 私、神奈子様のダメなところももうたくさん知ってますから!」

 

 全然フォローになっていない一言で神奈子がさめざめ涙を流している隙に、月見はいつの間にか狸寝入りを始めていた諏訪子を叩き起こす。

 

「ほら諏訪子、お前もいつまでも聞こえてないふりしてるんじゃないよ」

「うっ……バレてた?」

 

 バレてないとでも思っていたのだろうか。

 

「あとは千代だね。……千代ー、ちょっとこっち来てもらっていいかー?」

「あ、はーい。月見くんのためならどこにだって駆けつけますよー」

「え、なになにー? 私も行くー」

「あー儂も行くのじゃー!」

 

 名を呼べば、すぐに藤千代が腰を上げてやってきてくれる。すると必然、藤千代と一緒に話をしていたフランと操もついてくることになるのだけれど、まあいいだろう。

 途中、さりげなくフランに声を掛けようとした天狗の男が、どこからともなく飛んできたレミリアの電光石火でぶっ飛ばされたのはさておき。

 

「どうかしましたかー?」

「今から私とお前が初めて戦った時の話になりそうなんだけど、よかったら一緒にどうだい」

「おっと奇遇ですね、こっちでもちょうどその話をしようとしてたところだったんですよ!」

 

 運命的ですね! と嬉しそうにしながら、藤千代が月見の向かいに腰を下ろす。それからフランたちを手招きすれば、操は藤千代の隣を陣取り、フランは当たり前みたいに月見の膝上を侵略する。どこかで誰かが、また野太い嫉妬の悲鳴を上げた。

 フランは、月見の胸を背もたれ代わりにしながら、

 

「ねえねえ、なんのお話をするの?」

「私が千代にボコボコにされた話だよ」

「またまた、月見くんったら。勝ったのは月見くんなんですから、ボコボコにされたのは私ですよぅ」

「えっ……つ、月見さんって、鬼子母神様よりお強いんですかっ?」

 

 すっかり目を丸くした早苗に、どうかなあ、と月見は曖昧に笑う。

 

「あの時こそなんとか勝ったけど、実際強いのは千代の方だと思うよ。あの時、こいつは半分以上遊んでたんだしね」

「でも最後はちゃんと本気でしたよ? それで負けちゃったんですから、やっぱり月見くんは強いのです!」

 

 まあ、藤千代が最も太古の鬼であるように月見もそういう類の狐なので、自分が弱い妖怪である、とは思っていないけれど。

 なぜか自分のことのように胸を張った藤千代に対し、同じく胸を張って賛同したのはフランだった。

 

「そりゃあそうだよ! だって月見、実は尻尾がじゅむぎゅっ」

 

 大声で面倒なことをカミングアウトしようとしたその口を、間髪を容れずに両手で封じる。

 

「はいはい、大声でそんなこと言わない」

 

 月見の尻尾の本数については、今の面子の中では早苗を除くみんなが知っているけれど、宴会全体で見れば知らない者の方が多い。そんな中で堂々と十一尾をカミングアウトすれば、恰好のネタを見つけた鴉天狗を中心として瞬く間に大騒乱が起こって、とても昔話どころではなくなってしまうだろう。それはちょっと面倒だった。

 特に隠すつもりはないけれど、大騒ぎの中持て囃されたい願望もまた、ないのである。

 フランはむーむー唸りつつも、どこか楽しそうに両足をぱたぱたさせていた。

 

「え、フランちゃんどうしたの? 月見さんの尻尾がもふもふ?」

「まあまあ、そのあたりは話してるうちにわかりますよ」

 

 まるで見当違いに首を傾げている早苗に、藤千代がやんわりと言う。藤千代の言う通り、あの時は月見も正真正銘全力で戦ったので、話をする上では尻尾の本数にも自ずと触れざるをえない。

 変な騒ぎにならないといいなあ、と祈るように思うのだけれど、果たしてどうだろうか。

 

「それじゃあ始めましょうかー。ふふ、私は今でも鮮明に覚えてますよ」

 

 目を細め懐かしく時を遡っていく藤千代とともに、月見も過去へと己の記憶を馳せる。

 遥か昔、神奈子と諏訪子はもちろん、月見と藤千代もまた、互いを知らぬ敵同士だった頃。

 諏訪大戦という名の、戦へと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 当時はまだ、日本という国は存在していなかった。列島の随所に小国が分立し、当時の文明の非力さ故に他国を侵略するという概念も薄く、各々好き勝手に、或いは四苦八苦しながら土地を治めていた、ある意味では平和だった時代。

 その頃に初めて列島を統一しようと乗り出したのが、八坂神奈子属する大和の国だった。

 月見と神奈子は、既に旧知の仲であった。当時の文明的中心地といえば外国との交易が盛んだった筑紫方面で、大和はどちらかといえば未開の地が多い田舎だったのだけれど、それ故に月見は旅の目的地としてたびたび足を運び、次第に神奈子と懇意になるようになった。

 きっかけは、月見が旅の無事を祈って大和の大社を参拝していた時に、神奈子から直接声を掛けられたことだったか。いずれ全国を統一する国の軍神として、諸国の情勢についてなるべく詳しく知っておきたいから、国にいる間の生活を保障する代わりに旅で見聞きしたことを教えてほしいと――そんな商談めいた話が発端だったと記憶している。

 月見がその提案を受けたのは、路銀を節約できていいかという打算的な考えから。互いを利用する形で始まった関係がここまで末永く親密なものになろうとは、今思い返しても完全に想定外だったといえる。

 諏訪大戦につながる話が初めて神奈子の口から聞かれたのは、そんな功利的に始まった関係を数年続けて、互いに気が置けない友人となり始めた頃。もはや諸々の情勢云々という当初の目的は形骸化し、月見がただ笑い話として旅の土産話をし、神奈子がただ酒の肴として耳を傾ける。そんな付き合い関係に昇華された頃のことだった。

 

「……ねえ、月見。一つ、頼み事があるんだ」

「うん?」

 

 大社の一角にある神奈子の私室で、何人(なんぴと)も交えず二人だけで酒を呑んでいた折に、今まで和気に満ちていた神奈子の面差しがふと畏まった。普段から堅苦しい雰囲気を嫌う豪胆な彼女は、また一方で軍神らしい繊細な一面も持ち合わせていて、こういう表情をする時は大概、それ相応に込み入った話がある時だった。

 月見は、酒を呑む手を休めて言う。

 

「聞こうか」

「……ありがとう」

 

 神奈子もまた酒の手を止め、ゆっくりと、長く息を吐く。少し迷うように唇を動かして、また一息置いてから、投げ掛けられた問い。

 

「次の戦い……あんたの力を、貸してほしいんだ」

「……」

 

 月見は答えず、浅く眉をひそめた。まったく予想外の頼まれ事だった。

 八坂神奈子は、いずれ全国を統一するという志のもと、大和の勢力を拡大されている――すなわち、分立する他国を次々取り込んでいっている。『次の戦い』とは、新たな国をまた一つ大和に併合するために、避けられなかった戦を指すのだろう。

 月見は神奈子の友人に当たる関係だが、彼女のこの思想には賛同していない。かといって、否定しているわけでもない。今のように旅の土産話をして情報を提供したり、しがない話し相手になったりする以外は不干渉――傍観の立ち位置にいる。

 言ってしまえば、「やるならお好きにどうぞ」というのが月見の本音だった。

 大和が志す全国統一は、決して武力統一ではない。無論大和には強大な力を持つ神々が多いけれど、国力そのものは筑紫と較べてもまだ高いとはいえない。そもそも『国』という概念自体がまだあやふやな時代だ。故に神奈子が志す統一図は、力で他国を服従させるのではなく、信仰によって人々を思想的に従えること。互いに納得できるよう対話の席を設けた上で、大和の神を祀る御利益――すなわち保護と保障の名の下に和解し共生する。武力にものを言わせて自分たちの国を侵略してきた悪神を、一体誰が敬虔に祀ろうか。人々の信仰の獲得こそがこの勢力拡大の最たるところなのだから、武力をかませて信仰を蔑ろにしては意味がない。

 そもそも戦になったところで、未だ発展途上な大和が勝てる保証はないのだし。

 故になるべく争いを起こさず、対話を以て――神奈子がそう心を砕いた結果、中には、自ら望んで大和に併合された国もあると聞く。だから月見はこれを大きな時代の趨勢と捉え、必要以上の干渉を避けて身を任せていたし、今後もそれは変わらないだろうと思っていた。

 その矢先に投げ掛けられた、神奈子からの問い掛け。

 

「次の併合先に挙がってる国――洩矢っていうんだけど。そこの土着神が、自分たちの信仰にかなりの誇りを持っててね。自分たちの信仰を奪われてたまるかって、完全に決裂しちゃったよ」

 

 宗教統一は武力のそれに比べれば格段に平和的だけれど、だからといって戦と一切無縁というわけではない。神に対する信仰が顕著な時代だからこそ、大和が勢力を伸ばそうとする先々では、その地方の土着神と、信仰上の対立が起こる場合がある。特に力ある神々が深く根付く、信仰の強固な国とは。

 

「……ふむ」

 

 腕を組み、月見は静かに考える。洩矢の国は、諏訪地方にある緑豊かな小国だ。月見も何度か足を運んだ記憶がある。目玉のついた奇妙な帽子を被った土着神、洩矢諏訪子が神々の長を務めていて、自分たちの信仰の強さを鼻高々に聞かせてくれた。

 神奈子の交渉が決裂したのも頷ける。他国の神に信仰を奪われるなど諏訪子にとっては我慢ならないだろうし、そうでなくとも洩矢に根付く神はミシャグジ――丁寧に祀れば御利益は大きいが、一方で不敬を働けば恐ろしい天罰がある祟り神だ。人々がそう簡単に今の信仰を手放すとは思えないから、洩矢の国は小国なれど、大和にとってはある意味で難攻不落の大国だといえる。

 なるほど、戦を避けられなかった背景はわかった。であれば、話は当初の問答に戻る。

 

「力を貸せって、その戦でなにか心配事でもあるのか?」

 

 大和の国力はそう高くないといったが、それでも次々と他国を併合して勢力拡大している手前、洩矢よりかは確実に上だ。戦が行われたとしても、月見の力が必要になるような事態は起こりえないだろう。

 しかし、神奈子は重々しく月見の問いを肯定する。

 

「みんなは負けるはずがないと意気込んでるし、実際の国力差を見ればそれは明らかなんだけど……でも、なんでか不安なんだ。理由は、自分でもよくわからないんだけど」

「……」

 

 それは即ち、

 

「負ける、と?」

「……」

 

 神奈子は答えなかった。ただ頭を下げるように目を伏せて、「少しでも多く味方がほしいんだ。だから、今回だけでいいから、どうか私に力を貸してくれないか」とだけ言った。

 なにが彼女の不安をここまで駆り立てているのか、無論月見にはわからない。あくまで国力の観点から見れば、まるで杞憂もいいところだろう。

 しかし、神奈子の視線はかたくなだった。

 

「お願い。戦うのが嫌なら、私の後ろで見てるだけでもいい。あんたがいてくれるだけで、ずっと、心強くなるから……」

 

 そう搾り出して頭を下げる神奈子の姿は、とても小さく月見の目に映る。月見にとっては杞憂と気にも掛からないような話でも、彼女は至って真剣だった。真剣になるあまり、気弱になってしまうほどに。

 ここまでか弱い彼女の姿を見るのは初めてだったからか、なんとなく、放っておけなくなってしまって、月見はため息をつくように苦笑した。

 

「わかったよ」

 

 言うなり、跳ね起きる勢いで神奈子が顔を上げた。

 

「ほ、本当!?」

「ああ。ただし前線に出されるのは勘弁してくれよ。あくまで後ろで見てるだけ、或いは本当に万が一の時に助太刀する程度だ」

「あ、ああ! それで構わないよ、本当にありがとう……」

 

 ほっと大きく胸を撫で下ろすその仕草は、大和の神々を統べる軍神としてではなく、まさしく見た目相応の少女のそれ。可愛らしいところもあるじゃないかと微笑ましくなる一方で、同時に強く気がかりでもあった。

 一体何故、神奈子がここまでの不安に苛まれるのか――月見がその答えを知るのは今よりしばし、刃乱れる戦陣の最中(さなか)

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 到底、杞憂だとは思えなかった。

 理由のない言い知れない不安を、気のせいだと言って笑う者もいるだろう。しかし神奈子が以前から感じ続けているこの重苦しい違和感は、気のせいと笑うにはあまりに身に迫りすぎていた。

 正体不明の何者かに、ずっと背後に立ち続けられているような。

 見据える先には、蠢く洩矢の軍勢がある。見晴らしのいい広大な台地だ。地は緑、空は青の一色で埋まり、視界を遮るものはない。敵軍以外に邪魔者のいない戦場はあまりに戦いに向いているが、それが逆に不自然だった。

 大和は未だ発展途上で決して大国とは呼べないけれど、兵力はそこそこのものを持っている。対して洩矢は自他ともに認める小国で、兵も寡兵。格上の国を迎え撃つ戦場としては、この台地はあまりにも素直すぎた。真正面からの激突以外にやりようがない戦場――大和が誘い出したのではない。洩矢が、この場所を戦場に指定したのだ。

 戦場の性質を巧みに活かして何倍もの戦力差を覆したという前例は多く聞くが、これでは地の利などあったものではない。部下たちは皆「洩矢の連中はなにを考えているやら」と呆れ顔を浮かべるばかりだし、それは神奈子も同意見だった。そしてなにを考えているのかわからないからこそ、あの悪寒が今にも神奈子の肌を粟立たせそうになる。

 

「……不気味だな」

 

 神奈子の一歩後ろで先陣を眺める月見が、かすかな警戒の色とともに目を眇めた。

 

「……月見も、そう思うかい?」

「ああ」

 

 首肯、

 

「向こうだって戦力差は理解してるはず。なのにこんなに戦いやすい場所をわざわざ指定するなんて……普通はしないと思うが」

「……」

 

 この戦場は、不可思議なまでに大和に有利すぎた。単純な兵力差のみを考えれば、策を使うまでもなく雪崩れ込むだけで勝敗が決する。洩矢がなにか裏を巡らせていようとも、それすらも、量で叩き伏せられるほどに。

 

「洩矢の土着神は祟り神……なにか策があるのか、はてさて」

 

 戦ってみないことにはなんとも言えないね、と月見は肩を竦める。

 

「だが余程のことがない限りは負けないとはいえ、用心はすべきだね」

「……そうだね」

 

 頷き、神奈子は部下たちに細心の注意を促した。勝利は確実と気を緩めていた部下たちも、絶えず訴え続ければやがて只ならぬものを感じたようで、皆揃って表情を引き締めた。

 

「じゃあ、私は後ろで待機してるよ。……出番がないことを、祈ってるよ」

「……ああ」

 

 月見が後方に下がってややもすれば、戦場の空気が開戦に向けていよいよ乾き始める。神奈子は、彼方の洩矢の戦陣から、数名の人影が近づいてくるのを見た。

 率いるは、洩矢の王・洩矢諏訪子。護衛を引き連れた彼女は欠片も怖じる様子なく悠然と歩を進め、やがて止まれと神奈子の部下に制されるや否や、声高に叫ぶ。

 

「大和の軍神、八坂神奈子に拝謁を願う。通されよ!」

 

 童子としか思えぬ幼い外見であっても、声音に宿る力強さは確かな神の証。神奈子は同じく数名の護衛を連れて、前に出て、直接諏訪子と対峙する。

 こうして向かい合うのは、二度目になる。一度目は侵略ではなく、併合の交渉をするために神奈子自らが洩矢へ赴いた時だ。……それが決裂してしまったから、今二人は、こうして戦場で相対している。

 会話は生まれない。互いにただ無言のまま対峙し、戦場一帯の空気を沸々と張り詰めらせていく。沈黙こそが、なによりも雄弁に不退転の意志を物語っていた。

 不思議なことに、今まで神奈子の胸中に巣食っていた不安が鳴りを潜めている。諏訪子からはなんの重圧も感じない。力ある神としての存在感は神奈子の肌を痺れさせるが、恐怖を覚えるほどではない。

 なら神奈子は、一体、なにを恐れていたのだろうか。

 最後まで言葉はなかったし、今更なにかを言う必要もなかった。そもそも、この戦いを最初に望んだのは洩矢なのだ。交渉を決裂させ、そんなにこの国の信仰が欲しいのなら奪ってみろと、啖呵を切ったのは諏訪子の方。ならば向こうに退く理由はないし、こちらに退く必要はない。

 

「……気をつけてね」

 

 だが、そうして本陣に戻ろうと踵を返した折、神奈子は思いがけず諏訪子の声を聞いた。

 あまりに軽佻な声だった。振り向き見れば、彼女は笑っていた。

 嘲笑にも似て。

 

「悪いけどさ。……うん、本当に悪いんだけど、ね?」

 

 ぞわりと来る。鳴りを潜めていた不安が一気に暴れ出す。眉をひそめて諏訪子を睨みつけ――しかしほどなくして、この怖気の出処が彼女でないことに気づく。

 彼女の、後ろ。

 そこでなにも言わずに佇んでいる、藤の着物を着た、小さな鬼の少女。

 外見だけなら諏訪子とそう大差ない――けれど明らかに異質な少女の微笑みが、わけもなく神奈子の焦りを駆り立てた。目を合わせるだけで息が詰まる。肌が粟立ちそうになる。あの微笑みの奥でうごめく何かが、神奈子の心臓にそっと爪を立ててくるのがわかる。

 諏訪子の声が聞こえる。言葉に宿すは自信と確信。笑みが見せるは、侮蔑と尊大。

 

「本当に悪いけど――勝っちゃうから」

 

 ――風が吹く。戦場を駆け抜ける向かい風は、大和の行く手を遮り、洩矢の背中を押すように、彼女たちの柳髪を乱す。

 

 大和と洩矢。洩矢の兵力を大きく上回り、勝利は揺るぎないと確信されていた大和の軍は――あっけないほどわずかな時間で、戦陣の半数が壊滅した。

 あまりにも圧倒的に、蹂躙された。

 

 たった一人の、鬼の少女に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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諏訪大戦 ② 「神を狩る鬼」

 

 

 

 

 

 生まれて初めて、恐怖という感情を学んだ。

 祟り神を統べる王たる洩矢諏訪子にとって、恐怖とは他者から抱かされるものではなく、他者に抱かせるものだった。祟り神は文字通り祟りを司る神であり、また一方で、正しく祀れば相応の加護を得ることができる神でもある。その清濁併せ持つ強い二面性を利用し、諏訪子は洩矢土着の神としての確固たる地位を築いていた。

 恐怖という感情は、諏訪子にとっては一種の信仰上の道具でしかなかった。だから数週間前、洩矢を大和に併合する気はないかという八坂神奈子の提案を一蹴し、憤るあまりつい宣戦布告してしまった(・・・・・・)時も、焦りこそすれ、恐怖など微塵も感じなかった。

 自分にはきっと、恐怖という感情そのものが欠落しているのだと――本気で信じていたのは、ついさっきまでのこと。

 

「……まったくもう、いきなり危ないじゃないですかー」

 

 これが恐怖なのだという、明確な実感があった。体が凍り、心臓が軋み、呼吸が止まる。歯が打ち震えるほどの寒さを感じるのに、なぜか滴り落ちる汗が止まらない。ついさっき目の前で繰り広げられた光景が、まるで何百年も遥か昔のことのように思えてしまう。

 怪我の一つも、汗の一つすらもなく、諏訪子の部下の神々――ミシャグジたちを、片腕一本で叩き潰した鬼の少女。

 

「さすがの私も、ちょっとびっくりしましたよ?」

 

 非は諏訪子にある。大和との戦を控えて気が立っていたのが原因だろうが、ふらっと神社に現れた鬼の少女を、外敵だと一方的に決めつけて攻撃してしまった。故に彼女はただとばっちりを受けただけであり、ただ、正当防衛をしただけだった。

 なのに――なにが起こったのか理解できなくなってしまうほど完璧に、諏訪子は負けた。ミシャグジたちは皆少女の片腕一撃で沈み、諏訪子もまた地に叩き伏せられ、大の字になって青空を見上げていた。

 向こうが殺すつもりで来ていたなら、間違いなく殺されていた。戦っていたのはほんの数十秒――たったそれだけの時間で、途方もないほどの実力差を頭蓋の底まで叩き込まれた。

 茫然自失としていると、ふと視界に影が差す。鬼の少女が、こちらに手を伸ばしてきている。

 

「……立てますか?」

 

 諏訪子がその手を取ったのは、茫然とするあまりの、無意識な行動だった。

 だが、

 

「うわっ」

 

 いきなり視界が回転し、体が宙に浮いた感覚。少女の怪力のあまり投げ飛ばされたのだと理解したのは、咄嗟の条件反射でどうにか無事に着地してからだった。

 

「あ、ごめんなさい。思いのほか軽かったもので、すっぽ抜けちゃいました」

「……」

 

 半目で睨めば、少女はまるで悪びれる様子もなく、ごめんなさいーと笑う。

 

「どうにもつい、手加減できない性分で」

 

 嘘つけ、と諏訪子は心の中で毒づく。本当に手加減できないのだったら、今頃諏訪子もミシャグジたちも生きてはいない。

 恐ろしかった。これほどにまで強大な妖怪が、この世に存在を許されているという事実が。ミシャグジよりも、諏訪子よりも――そして大和の軍神・八坂神奈子よりも、この少女が遥か高みにいるのだと、まさしく火を見るように理解できた。

 

「……一体何者だい、あんた」

「のんびりこのあたりを旅して回ってます、至って普通な鬼の女の子です。怪しい者じゃないですよー?」

「そういうことを訊いてるんじゃないよ。そういうことじゃなくて……」

「?」

 

 少女の答えは、諏訪子が求めているものとは違っていた。けれど、どう問いを言い直せばよいのか上手く思いつかなくて、そのまま言葉に詰まってしまった。

 結局、先に少女の方が察したようだった。ええとですねー、と口元に人差し指を当てながら、彼女はすっと目を笑みで細めて。

 

「少なくとも私の知る中では、最も太古から生きている、鬼たちの祖――」

 

 底が知れない深い闇色の声音で、恐ろしいほどまで美しく。

 

「――名は、藤千代っていいます」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 今になって思えば、まさに僥倖とも呼べる出会いだった。大和との大一番を控えて、ちょうど戦力不足に悩まされていた時期だったのだから。

 大和との決戦に、この力があれば――そう思い藤千代に恥もなく頭を下げた、あの時の自分の英断を、手放しで褒めてやりたい気分だった。洩矢の客将としてこの戦に参加した藤千代は、本来あるべきだった戦模様を劇的なまでに変えていた。

 本陣の真上をふよふよと漂い、掌を庇に戦場を望みながら、洩矢諏訪子はひょうと口笛を吹く。

 

「いやー、改めて見てもヤバいねあれは。強すぎ。あんなのに勝てるやつなんていないんじゃない?」

 

 地上にいる敵を、石ころを蹴飛ばすように。空にいる敵を、埃を払うように。そうやって大和の神々を瞬く間に撃破していく藤千代の姿に、諏訪子はただ、口端を苦笑で歪めることしかできない。

 藤千代という鬼の少女は、明らかに異常であった。

 童子にも見える幼い外見に反して、齢が知れない。一度尋ねてはみたものの、もうとっくの昔にわからなくなってしまったらしい。つまりは、わからなくなるほど悠久の時を生き抜いてきた大妖怪であるということ――だが、それにしても。

 一般的に妖怪は長く生きれば生きるだけ力を増すが、それにしても彼女は強すぎた。諏訪子の中に根づいていた大妖怪の常識を、藤千代は根底から覆してしまった。千年以上を生きている強力な大妖怪はいくらか知っているが、それでも藤千代の実力に遠く及ばないのは明らか――果たして、どれだけ悠久の時を生き抜いてきたというのか。

 藤千代は、あまりに強すぎた。

 鬼という種族にのみ与えられた、その途方もない戦闘能力も。

 そして藤千代という個体にのみ与えられた、その異能も。

 諏訪子は戦場に目を凝らす。藤千代が、戦場を歩いている。走るのでもなく、空を飛ぶのでもなく、ただ歩いている。

 やがて彼女は、薙ぎ倒された仲間の姿に足を止めていた、一人の神の前に立った。しかし、その神は気づかない。息遣いすら聞こえそうなほどすぐ傍に立たれているのに、いつまで経っても気づく様子がない。そして真横から拳を打ち込まれ、吹き飛び、諏訪子の視界から消えた。

 本当に、強すぎる。身体能力だけでも他を寄せつけないほどだというのに、そこにあんな能力(・・・・・)まで付いているなんて、まさに破格の極みだった。

 大和の軍勢を迎え撃つ、洩矢の布陣は至って単純だった。藤千代とごく少数の精鋭のみを中央に。それ以外の戦力はすべて左翼と右翼に。両翼は突破を目標とせず、ただぶつかった相手をその場に押さえつけ、時間稼ぎをするだけ。

 それだけでいい。

 そうすれば、あとは藤千代が勝手に中央を破壊する。

 破壊し、八坂神奈子を粉砕する。

 

「うん、楽だ楽だ。見てるだけで勝てる戦ほど楽なものはないね。本当にいい拾い物したよ」

 

 思わず笑ってしまうほどに、藤千代の戦は圧倒的だった。彼女は止まらない。一瞬たりとも止まらない。視界に入るすべての神々を拳一つで粉砕し、中央を荒らし続ける。大和の両翼が援護のために進路を変えようとする。それを洩矢の両翼が抑え込む。その間に藤千代は次々と敵を打ち砕き、中央を進み続ける。

 藤千代は、止まらない。彼女の牙は、もう間もなく大和の本陣へ喰らいつこうとしている。そうすれば洩矢の勝利は確定だ。八坂神奈子の実力はいまいちわからないが、藤千代よりも強いことだけは絶対にありえない。命を賭けたっていい。

 藤千代よりも強い存在なんて、存在し得ない。

 藤千代が神奈子を倒して、それで終わりだ。

 洩矢の総大将として、自らの手で神奈子を討とうとは思わない。諏訪子にとっては戦いに勝つこと――己の国を、己の信仰を大和から守ることこそがすべてなのだから。

 勝てば、それでいい。

 だから諏訪子はあくびをしながら本陣まで下りて、適当に敷いていたござの上に寝転がる。

 

「……まあ、戦場の喧騒を聞きながら眠るってのも、乙なもんじゃないかな?」

 

 果報は寝て待て。

 まったくもってその通りだと、洩矢諏訪子は、強く笑った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 諏訪子がそうしてまぶたを下ろした頃、月見は大和の本陣の遥か後方で、ゆっくりと重い腰を上げたところだった。見守っていてほしいという神奈子の願いに応え、小高い丘の上で戦況を見つめていたが、どうにも様子がおかしいことに気づいた。

 強く眉をひそめ、呟く。

 

「……これは、どういうことだ?」

 

 中央、右翼、左翼の三方面で展開される大和と洩矢の激突は、両翼こそ拮抗しているものの、中央だけが別世界のような有様になっていた。

 大和の布陣が、たった一人の鬼の少女に破壊されている。蹂躙という言葉すら当てはめられそうなほど、あまりにも一方的に。

 

「……」

 

 大和の兵は、一人ひとりが並の神を上回る練度を持っている。狐の中では最高格の大妖怪であろう月見とて、彼らの相手をするのはそう楽な話ではない。その豪将たちが、まるで大人と子どもの喧嘩のように、呆気なさすぎるほどに、たった一人の相手に圧倒されている。

 鬼の少女の動きは決して速くない。歩くようにゆったりとした足取りで戦場を進み、静かな手つきで拳を放つ。お世辞にも打撃とは程遠い、まるで埃を払おうとするようなやる気のない動きだ。豪将たる大和の神々が反応できない道理などない。

 なのに、それとは正反対のことが起こる。大和の将たちは反応できない。それどころか、少女に懐に入られたことすら気づかない――まるで、少女の姿自体が見えていないかのように。

 

「……姿を消す能力?」

 

 だが、月見からは少女の姿が見えている。洩矢の神たちも同じだ。乱戦の中で少女の邪魔をしないよう上手く立ち回っており、時に巻き込まれそうになっては、うぎゃー!? と顔を青くして少女に道を譲っている。大和の神々と刃を交えながらも、視界の端では常に、少女の姿を捉えている。

 つまり、少女の姿が見えていないのは大和の陣営だけ。となれば、不特定多数から姿を消すだけの、単純な隠形の能力ではないと見える。効果対象を限定できるというのか。

 

「……どちらにせよ、このままだと負けるか」

 

 だが、能力を抜きにしてもあの少女は異常だ。埃を払うに等しい拳の動きで、屈強な大和の豪将たちを、一つの例外もなく一撃で撃破していくのだから。

 少女の進撃は一瞬たりとも止まらず、いよいよ大和の本陣へ肉薄しようとしている。ここまで来てしまえば、もはや大和の敗北は秒読み段階だろう。軍神の誉れ高き八坂神奈子であっても、恐らくあの少女には勝てない。友を信じる信じない以前に、それだけ少女の力が常識を外れていた。

 

「……」

 

 奇跡の大逆転劇を起こすためには、もう大和は蹂躙されすぎた。中央を破壊されたことで兵たちの士気は下がり、拮抗していた両翼は次第に崩されつつある。今ここで本陣を救援するため転進すれば、両翼までもが崩壊し、いよいよ勝敗が決してしまう。洩矢の陣営が初めから時間稼ぎを目的にしていることもあり、大和の両翼はその場で膠着せざるを得なくなっている。

 ……それによしんば救援に向かえたところで、中央をあっさり破壊してしまうような強大な力を相手に、自分たちができることなどなにもない。正体不明のナニかを、我らが軍神が打ち破ってくれることを信じて、彼らは自分たちが倒されないようにするだけで精一杯だった。

 だが八坂神奈子では、あの鬼の少女には勝てない。

 ならば、本陣を――八坂神奈子を、助けるのは。

 

「あー……仕方ないか」

 

 万が一の時は助太刀に入ると約束した、彼女の友である、月見しかいない。

 無論、月見だってあの少女相手には勝てないだろう。先も言ったが、あれはちょっと常識が違う。月見とてもう大分長生きしている大妖怪なのだから、相手が自分よりも強いかどうか程度は見ただけでわかる。普通に戦えば普通に負ける相手だ。

 しかしだからといって、約束を反故にして友人を見捨ててしまうのも、目覚めが悪かったから。

 

「いかん、そうと決まれば急がないと」

 

 少女の牙は、既に大和の本陣にその先端を喰い込ませつつあった。あのまま噛み千切ってしまう前に、横から思いっきり蹴飛ばしてやらねば。

 風が逆巻くのは一瞬。一度空気を破裂されるような音を響かせれば、そこにもう月見の姿はない。

 一陣の烈風となり、友のもとへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「か、神奈子様……! これは一体、何が起きているのですか!?」

 

 耳を引っ掻く部下の悲鳴を、神奈子は黙れと一喝した。なにが起こっているのか理解できているなら疾うに動いているし、対処もしている。なのに神奈子が未だ本陣で立ち尽くす以外になにもできないのは、眼前の光景が理解の範疇を振り切っていたからだ。

 三方に展開されていた洩矢の布陣のうち、最も寡兵だった中央が、敵本陣へ喰らいつく最短距離であるのは明らかだった。無論罠の可能性は充分視野に入れていたし、その上で打ち破る自信もあった。逆境を跳ね返す強大な武力を誇る豪将と、逆境を力に変える鬼謀を駆使する智将を何人もつけていた。

 その中央が、完全に破壊された。

 これが洩矢の土地を穢した祟りだと、今ここで高らかに宣言する者がいたならば、きっと大和の神々は信じただろう。いや、誰かに宣言されるまでもなく、兵たちの脳裏では既にその二文字が掠めていた。

 だが冷静に考えれば、中央を破壊した現象が祟りでないのは明らかだ。祟りとは即ち厄災であり、飢饉や疫病、或いは天変地異などの超自然的な形で顕れる。洩矢の神々が今この場で大和を祟るというならば、まずは天変地異が起こるだろう。こんな、神々を一体一体『打撃』で粉砕していく祟りなど、ありえるはずがない。

 ならば、姿こそ見えないものの、やはりそこには敵がいるのだと考えるのが妥当。

 神奈子の脳裏を、開戦前に見たあの鬼の少女の微笑みが掠めた。

 

「――!」

 

 まさか、あの少女なのだろうか。姿すら見せずに、大和を一方的に蹂躙しているのは。

 神奈子が以前から感じていた言い知れぬ不安の正体は、彼女なのか。

 目にも止まらぬほどの神速で移動している――否、そんな芸当ができるのならばとっくの昔に本陣まで攻め込まれている。では隠形の類の異能でも持っているのか。そうだとすれば、姿を捉えられない相手とどうやって戦えばいいのか。

 いや――そもそも。

 仮に姿が見えたところで、神奈子たちは勝てるのだろうか。大和の荒ぶる神々を、路傍の小石を蹴り飛ばすように、宙の埃を手で払うように蹂躙する、あまりにも強大すぎるなにかに。

 声が聞こえたのは、唐突だった。

 

「もお、じゃーまでーすよお――」

 

 唐突すぎて、足先から突き上がるように、全身が粟立った。

 

「全員、下がれ! 下がれ!!」

 

 戦の総大将としてなにがあっても決して取り乱してはならぬと、知りつつも、叫ばずにはおれなかった。戦場にはあまりに不釣り合いな鈴の声音は、神奈子が今まで感じたことがないほどに、純粋無垢な殺気で染まっていた。

 

 世界の時が、一瞬だけ止まったように感じた。

 

「――っとぉ!!」

 

 天の地の境界線が消滅した。自分の視界に映るものが、自分の立っている場所が、自分の聞いているものが、なに一つとしてわからなくなった。大地が激震し粉塵が舞い上がり、襲い来た衝撃波に吹き飛ばされて何度も地面を転がった――言葉にすればたったそれだけのことなのに、呼吸が止まった体で呻き、爪の先で土を抉っても、なにが起こったのかなどまるでわからなかった。

 わかるのはただ、結果だけ。

 

 本陣が、破壊された。

 

 立っている味方はいない。そもそも今神奈子が倒れている場所は、本陣ではない。ほんの何秒か前まで本陣だったはずの場所は、神奈子より彼方で土煙を上げている。どうして本陣があんなところにあるのかわからなかった。前後不覚に陥ったあの一瞬で、なにもかもが変わりすぎていた。

 戦場のざわめきすら聞こえなくなるほどの、その場所で。

 立っているのはただ一人――藤の着物を着た、あの鬼の少女だけ。

 粉塵を越えて神奈子の目の前にやって来るのは、ただ一人、彼女だけ。

 

「ごめんなさいー。なんだか段々めんどくさくなってきちゃったので、ドカンと一気にやってみました」

 

 彼女は着物を汚す土埃を払いながら、ここが戦場なのだと信じられなくなるほど柔らかく、笑う。今の状況と少女の存在とが符号しない。だがこの場で立っているのが彼女しかいない以上、大和を蹂躙する死神の正体は彼女以外にありえない。

 総身に力を込める。何度か地面を打ち転がっただけのはずなのに、足が軋んで上手く立ち上がれない。竦んでいるのか。なんとか両足で地を踏むことはできたものの、それっきり縫いつけられたように固まってしまう。

 今ならば神奈子を討ち取るのも容易だっただろうに、少女はなぜかそうしなかった。「もう、ダメじゃないですかー」と可愛らしく頬を膨らませて、腰に両手を当てて、全身で不満をあらわにして言った。

 

「新進気鋭の大和の神々と聞いて期待してたんですが、がっかりです。私一人なんかにここまで突破されちゃってどうするんですかー」

 

 少女に疲れの色はない。それどころか怪我一つ、汗の一つすらもなく、着物の乱れだって、舞い上がる粉塵がついた土埃のみ。完全敗北という言葉が神奈子の脳裏に浮かぶ。大和の神々が。世を平定する確かな力を持った、列島屈指の国津神たちが。

 たった、一人に。

 

「うわっ、なんですかそのありえないものを見る目っ。大和の軍神さんと早く戦ってみたいから、邪魔者には退場してもらっただけじゃないですか。大したことはしてませんよぅ」

 

 常識が違う。

 

「というわけで初めまして、どこにでもいる普通な鬼の女の子です。大和の軍神さんがいる戦ということで、腕試しに参加しました」

 

 少女が呑気に自己紹介をしているうちに、神奈子はようやく今の状況を飲み込み始めていた。自軍は半数近くが壊滅し、本陣も陥落。総大将である神奈子が無事なため戦自体は決着していないが、状況はあまりに絶望的だった。援軍は望めない――仮に来たところでこの少女の前では意味を成さない――上に、一対一。軍神の名に懸けて、たとえこの少女が相手でも負けるとだけは思わないけれど、勝利できたとしても敵総大将と戦えるだけの余力は残らないだろう。もはや戦場のどこかで生き残っているはずの味方に、洩矢諏訪子を討ち取ってくれと祈る他ない。

 そして仲間が洩矢諏訪子を討ち取るためには、なによりもここで神奈子が敗れてはならない。勝つためには、負けてはならない。ようやく思い通り動くようになった体で、己の武器である四本のオンバシラを出現させる。一本一本が神奈子の身の丈を優に超える、巨大な木の柱に、少女は怖じる様子もなく静かに微笑んだ。

 

「では始めましょうか。願わくはあなたが、私の夢を叶えてくれますように」

「……ッ!」

 

 そしてその姿が忽然と、神奈子の目の前から消えた。やはり姿を消す能力の類だ。だが姿が見えずとも、感覚を研ぎ澄ませば妖力の流れから、耳を研ぎ澄ませば微かな物音から、相手の居場所を判断するのは充分に可能――

 

「――」

 

 ――だと思っていたからこそ、神奈子は息を止めた。

 なにも感じない。妖力も、物音も、なにも。

 声、

 

「……ちなみに、まだあなたの目の前から動いてませんよ」

「……!」

「で、今ー……あなたのすぐ真横を通って(・・・・・・・・)、後ろに立ちました」

 

 わからない。隣を通り抜けられた気配など感じない。聞こえてくる少女の声は方向というものを持っておらず、直接脳の中に反響する。彼女が土を踏む音も同じだ。姿が見えず、音の出処がわからず、気配も感じられず、少女の居場所を特定するための判断材料がすべて消失している。

 

「くっ……!」

 

 オンバシラの一本で、なにもわからないまま背後を薙ぎ払う。手応えはない。代わりに少女の声が返ってくる。

 

「……なーんて、嘘ですよ。本当は、初めからあなたの目の前から動いてません」

「ッ……!?」

「さあ、あなたはこの能力を打ち破れますか?」

 

 見通しが甘かった。姿を消すだけの能力だと踏んでいた。だがよくよく考えれば、ただ姿が見えない程度の相手に、大和の豪将たちがまるで太刀打ちできないはずがないのだ。

 姿のみならず、己の存在そのものを、知覚できなくする異能。

 

「こんな能力、別に使わなくたっていいんですけどね。真剣勝負になりませんし。……でも私は、この能力を打ち破ってくれる人を探してるんです。もう何百年も昔から。あなたはどうでしょうか」

「くっ……!」

 

 四本全すべてのオンバシラを、神速の勢いを以て眼前に撃ち出す。地面を抉り、砕き、四つの柱はそこに運河のように深い爪跡を残すが、

 

「ふふ。そんな行き当たりばったりの攻撃が、当たるわけないじゃないですか」

 

 またどこかで、少女が笑った。

 

「今私がどこにいるか、わかりますか?」

 

 クスクス、クスクス。

 

「目の前にはいませんよー。右ですかね。それとも左? もしかして後ろ? あ、ひょっとしたらまた目の前に戻ってきたかもしれませんよ。むむっ、ぐーるぐるあなたの周りを回っている可能性もありますねー。……さあ、どこでしょー?」

 

 挑発するように。試すように。少女はただどこかでクスクス笑うばかりで、いつまで経っても攻撃してくる様子がない。

 遊ばれている。

 

「っ……舐め、るなァ!」

 

 神奈子は神力を一気に開放し、オンバシラをすべて手元に呼び戻した。敵の居場所がわからないなら、わからないまますべてを薙ぎ払ってやる。辺り一帯を焦土に変えてやる。まぐれ当たりで構わない。そのまぐれ当たりでケリをつけてしまえばいい。己の渾身の神力をオンバシラに注ぎ込み、

 

「――?」

 

 そこで、ふいに気づいた。

 オンバシラが、三本しかない(・・・・・・)

 

「どこに――」

「――気づいてなかったんですか」

 

 声は、真上から聞こえた。今までのように脳に直接響くのではなく、明らかに落胆した声色で空から落ちてきた。

 見上げれば、少女がいる。身の丈の倍以上はあるオンバシラに、釘のように指を突き立て――

 

「残念です。案外、弱かったですね」

 

 振り下ろす。

 そのあたりで拾った木の枝を、手慰みにもて遊ぶように。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「っく……!?」

 

 しかし、先に苦悶の声を上げたのは少女だった。神奈子の視界で銀が煌めき、旋風が吹き抜けていくように、少女の小さな体を打ち飛ばした。少女の手がオンバシラから離れ、未だ粉塵が舞う大地に背中から叩きつけられる。されどもすぐに体勢を復帰させ、地を抉る音と新たな土煙を巻き上げ、やがて止まる。まあ、と僅かに眉を上げて、闖入者の銀に目を見張った。神奈子に至っては、茫然とするあまり表情を動かすことすらできなかった。

 

「ふう……悪いね、遅れた」

 

 銀色――月見が、安堵のため息一つで神奈子の隣に降り立つ。

 

「あ、あんた――」

「無事だな?」

 

 遮るように向けられた安否を気遣う言葉に、半ば無意識になりながら頷く。それからはっと首を振って、鬼の少女をまっすぐ見据える月見の肩を掴む。

 

「あんた、なんで来たのさ!」

 

 確かに、万が一の時には力を貸してくれると約束していた。そしてそれは、ただの口約束のはずだった。彼が争いを好まない妖怪であるのはよく知っているから、遠くで見守ってもらえるだけで充分だった。

 なのに、

 

「まあ、約束だしね」

 

 まさか本当に、約束だからと、来てくれるなんて。

 

「……で、お前の軍をここまで追い詰めたのはあの子かい」

「……ああ」

 

 胸を焦がす熱もそこそこに、神奈子は苦汁を舐める思いで鬼の少女を見据えた。蹴り込まれた脇腹を静かにさする、その面持ちに苦悶の色はまったくない。土煙を巻き上げるほどの威力で大地に叩きつけられたはずなのに、お話なら早めに終わらせてくださいねー、とでも言うかのようにケロリとしている。

 神奈子は、呻くようにか細いため息をついた。たった一度の交錯で、少女の途方もない実力を骨の髄まで叩き込まれた。次元が違う。倒すとか時間稼ぎだとか以前に、こうして敵として相対してしまっている時点で間違いなのだ。妖力に頼ることなく、腕一つでオンバシラを小枝のように振り回す膂力。更には、己の存在を認識できなくするという手のつけようがない能力。

『規格外』とは、きっと、彼女という存在を言い表すために生まれた言葉に違いない。

 

「さっさと行け、神奈子。あいつの相手は私がする」

「は……?」

 

 だからこそ神奈子には、告げられた月見の言葉が理解できなかった。

 

「この状況だ、もうお前が総大将を討つ以外に勝機はないだろう? ……だから行け。それくらいの時間は稼いでやる」

「む、無茶だ……! あいつは!」

 

 神奈子は、月見の腕をきつく掴んだ。本来であれば、神奈子はこの提案を喜ぶべきだった。月見の言う通り、もはや敵総大将を直接討ち果たす以外に勝機はなく、そのためには誰かがあの少女を足止めしなければならない。月見がその大役を引き受けてくれれば、神奈子が諏訪子を討ちに行ける。軍神の荒ぶる姿は味方の士気を上げるだろう。

 けれど、

 

「あいつは異常だ! 危険過ぎる……!」

 

 赤子のように首を振った。月見は神奈子の個人的な友人だ。いつ戦いの最中で別れるとも知れない戦友とは違う。本来であれば、この戦場に立っているはずですらなかった。

 確かに、手を貸してほしいと願ったのは神奈子だろう。

 でも、だからって、この戦いで一番危険な役目を、押しつけてしまうなんて。

 

「じゃあこの戦、負けるか?」

「――……」

 

 あくまで淡々とした問い掛けに、神奈子は静かに息を詰めた。それから、そんな問い方は卑怯だと、顔を歪めた。

 負けていいはずがない。絶望的な戦況でも、諦めたくない。軍神の誇りを守るためでもあったし、大和の悲願を果たすためでもあったろう。けれど、それ以上に。

 勝っちゃうから、などと自信満々にほざいてくれたあの生意気な蛙を、一発ぶん殴ってやらねば気が済まなかった。あいつの思い描いた通りの結果で終わってしまうのが嫌だった。きっとあの蛙は、今頃本陣で寝転がって呑気にあくびでもしているだろう。その鼻っ面を、思いっきりぶっ飛ばしてやりたかった。

 

「……」

 

 葛藤は、一つ深く息を吸うだけの間。

 

「……任せて、いいか?」

 

 問えば月見は鬼の少女を見据えたまま、苦笑を以て答えた。

 

「なるべく早めに決めてくれると助かるよ」

「っ……」

 

 あまり長持ちしそうにないから、という言外の言葉が、単なる謙遜だとは思えなかった。月見は確かに同族の中でも最高格の大妖怪だけれど、それはあの少女とて同じ。ならば狐と鬼のうち、どちらがより戦に特化しているのかという点で、月見の不利は明白だった。

 それでも彼は、笑って、この場を任されてやるという。

 だから神奈子も、笑って。

 

「……勝ってくるよ、月見」

「ふふ……上等だよ」

 

 本陣は壊滅。残された味方は僅か。敵の勢いは未だ破竹。敵の切り札はなおも健在。

 ――さりとてまだ、負けてなどいない。

 

「――勝ってこい、八坂神奈子!」

「――ああ!」

 

 強く呼応する。少女の姿などもはや視界に入れないし、意識からも外した。彼女を抑えると言ってくれた月見を極限まで信頼して、神奈子は飛ぶ。

 逆襲の意志を宿した軍神が、戦場に降臨する。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見の予想に反して、鬼の少女は神奈子を止めなかった。空を駆け抜けていく神奈子を一瞥ともせず、ただ柔らかい笑みをたゆたえ、静かに月見を見つめていた。

 勝利を目前にしたところで、敵の総大将を故意に逃がす――しかも味方の大将の下に――それはすなわち、少女が戦の勝敗に興味を持っていないことを意味する。自分たちの大将がどうなろうが、戦に勝とうが負けようが、

 

「……私は、強い方と戦うことができればそれでいいんです。この神々同士の戦なら、私の夢を叶えてくれる方がいるんじゃないかって。諏訪子さんにはごめんなさいですけど、戦の勝ち負けなんてどうだっていいんです」

「……」

「私の能力に臆すことなく、真正面から向かって来てくれる、強い心を持った方と――本気で、戦うこと。何百年も昔から、焦がれて已みません」

 

 少女の姿が、霧へ溶け込むようにふうっと消えた。しかし気配は、変わらずに月見の前にある。声は、変わらずに前から聞こえる。

 

「私の能力は、私の存在を認識できなくする能力です。『認識されない程度の能力』とでもいいましょうか。今は、『姿』だけを認識されなくしている状態ですね。そこに『声』を加えれば――」

 

 少女の声が、どこから聞こえてくるのかわからなくなる。耳を介さず、頭の中に直接音だけを流し込まれる。

 

「完全に消しちゃったらお話できなくなるので、『声の方向性』だけを消してます。次に『気配』――」

 

 続けざまに、少女の気配が感じられなくなる。そうすれば月見にはもう、彼女がどこにいるのか把握できない。

 出処のわからない、声だけが残る。

 

「……とまあ、大体こんな感じになります」

「なるほど。……しかしいいのか、ネタばらしなんてして」

「構いませんよ。バレたところでどうこうされる能力でもないですし」

 

 違いない、と月見は低く笑った。

 少女の声、

 

「洩矢の神々はダメでした。大和の神々もダメでした。軍神さんも、ダメと決まったわけではないですが望み薄でしょう。未だかつて、この状態の私に真っ向から挑んできてくれた方はいません。みんな知覚できない私の存在に怯えて、取り乱して、全然本気で闘ってくれなくなって……」

 

 一拍、ゆっくりと息を吸う間、

 

「あなたはどうですか? 狐さんだと、あまり期待はできませんが」

「まあ、お前と違って荒事が得意な種族じゃないからね」

 

 狐は化かす種族。元々喧嘩など門外漢だ。

 けれど。

 

「なるべく善処はするよ。あいつと約束もしたしね」

 

 笑み、静かに妖力を解放する。枷を外された妖力はゆっくりと肥大し、やがて月見の尻尾を陽炎のように揺らめかす。

 まあ、と少女が面白そうに眉を上げた。

 

「――九尾(・・)、ですか。素敵ですね、実際に見るのは初めてです」

 

 それから、見掛け倒しじゃないといいですねー、と笑って。

 

「――行きますよ?」

 

 戦意は一足飛びで染まる。少女が地を蹴った音。聞こえただけだ。それが前か後ろかもわからない。どの程度の距離なのかも。

 見えない相手への恐怖がないかといえば嘘になろう。けれど誰もいない虚空と対峙する月見は、まずは一つ大きく、息を吸った。

 相手の能力がただ姿を隠すだけではないと、ここに馳せ参じるより前から予想はできていた。どこにいるのかもわからない相手と渡り合えるほど、月見の実力は突き抜けていない。どうにかして居場所を突き止めないことには、喧嘩も時間稼ぎもありはしない。

 わかっている。

 ならば、どうするか。

 

「――……」

 

 息を殺し、感覚を研ぎ澄ませるのは刹那、

 動く。

 

「――狐火!」

「ッ!」

 

 煌めく九尾に灯し、放った唐紅の大炎は。

 少女がわずかに息を呑む音とともに、確かな手応えを、月見のもとに返してきた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――洩矢ッ、諏訪子オオオォォ!!」

 

 軍神は叫ぶ。かつて本陣があったその場所で、暗雲を切り払うように鮮烈に。轟く神の声は、戦場の逆巻く喊声(かんせい)すらをも、ひと時の間止めたようだった。

 喉を振り絞り、強く。

 

「私はまだ、負けてはいない……!」

 

 襲い来る洩矢の神を薙ぎ払い、強く。

 

「大和はまだ、負けていない……!!」

 

 強く、戦場を轟かす。

 

「――だから、そこを動かず待っていろ!!」

 

 軍神の降臨を目の当たりにした大和の神々から、燃え上がるような(とき)の声が上がる。士気はたちまち最高潮に達し、咆吼は光すらも弾き返す。一騎当千とまでは呼べずとも、敵の十や二十程度は容易に相手取れる名将たちの集まりだ。士気さえ取り戻せば、しがない地方の土着神などいかなるものや。崩壊寸前まで攻め込まれていた両翼が、ミシャグジの軍勢を一気に押し返す。

 神奈子の影響力を危ぶんだ洩矢の神々たちが、数にものを言わせて神奈子の下まで大挙する。それがどうしたと、神奈子は笑った。特別な能力を持っているわけでも、桁違いの腕力を持っているわけでもないただの土着神風情に、どうして軍神を止められよう。

 渾身の神力とともに打ち出す、四本のオンバシラ。敵の姿が見えている以上、外しはしない。流星が落ちたように大地は深く抉れ、巻き上がった衝撃波は洩矢の神々を粉塵さながらに吹き飛ばす。

 たった一撃で何十もの敵を蹴散らした軍神の姿に、大和の士気はいよいよ限界を超え天を衝くかの如く。

 

「全軍……!!」

 

 声音、引き絞り、獅子吼の如く。

 

「突、撃 ィッ……!!」

 

 目指すは一点。

 喊声飛び散る戦場抜けた先――洩矢諏訪子の喉笛のみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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諏訪大戦 ③ 「神戦」

 

 

 

 

 

 己がどのようにして生まれたのかは覚えていない。ふと気がついた時には、藤千代は藤千代としてこの世界に存在していた。

 まあなんの前触れもなくいきなりそこに出現したとは考えにくいので、単に幼少の記憶が風化しているだけで、自分も他の生物と同じようにこの世に生まれ落ちたのだろうとは思う。

 しかしそうだとすれば、藤千代は一体、誰の手によって産み落とされたのだろうか。

 少なくとも藤千代が知る限りでは、藤千代は最も太古から生きる鬼だった。気がついた時には既に一人で生きていた。気がついた時には既に『藤千代』という名があった。普通に考えれば、藤千代を産んでくれた親、藤千代を『藤千代』と名付けてくれた鬼がいるはずだけれど、そのあたりのことはいっそ清々しいくらいに覚えていない。

 覚えていないことを、特別寂しいと思ったことはない。元々物事に横着しないさっぱりした性格だったから、自分は覚えていないし、知っている人が他にいるわけでもない以上、まあそんなもんかと割り切って受け入れた。

 己の背後になにも持たない少女は、そうして前に歩いていくことを選んだ。目下の関心事は腕試しだったので、適当に諸国を旅して歩いて、強そうな妖怪なり神なりを見つけたら闘いを挑んで暮らした。そんな単純な生活を送るだけで、千年以上に渡るこの人生も、まあ、まずまず悪くはないなと思えるほど呑気な性格に生まれ落ちたのは、幸いだったかもしれない。

 洩矢の国へ立ち寄ったのは、ほんの出来心。

 けれどそのほんの出来心のお陰で、こうして神々同士の戦争で腕試しができるのだから、悪くない。

 そしてそのほんの出来心のお陰で、こうして、能力を使った藤千代を的確に迎撃してみせる妖怪に出会えるのだから。

 本当に、まったくもって、悪くない。

 

「……」

 

 ゆっくりと、深く呼吸をするように能力を解く。それから同じようにして、鈍い痛みに包まれる己の右腕を見遣る。

 着物の袖を焼き払って、右手の指先から肘までにかけて、大きな火傷の痕。中途半端に肉が焼けた、これまた中途半端な臭いがする。

 大したことではない。それよりも。

 

(……迎撃された)

 

 能力を使い存在を認識できなくした藤千代に対して、眼前の妖狐の迎撃はあまりにも鮮やかだった。完全に虚を衝かれたとはいえ、咄嗟の回避すら間に合わないほどに。

 

「……ふむ」

 

 小さく呟き、藤千代は再度地を蹴った。まぐれ当たりという可能性もある。やはり真正面から攻めたのは単純すぎただろうか。能力を再発動し、己の存在を隠蔽する。地を真上に蹴り、今度は上空から妖狐を強襲する。

 だが左の拳を脇腹に構えた瞬間、また、妖狐の瞳が藤千代を捉えた。

 

「……!」

「せっ!」

 

 九尾による一閃。咄嗟に左腕で防御するが、防ぎ切れず、叩き落とされる。数度、蹴られた小石のように地を転がる。火傷した右腕を擦って、ちょっと痛かったけれど、これも決して、大したことではない。鬼の頑丈な体の前には、それこそかすり傷程度のことだから。

 それよりも。

 足で地を滑り打ち飛ばされた勢いを殺した藤千代は、先刻こちらを捉えた彼の黒の瞳を夢想しながら、ぽつりと呟いた。

 

「……見えている?」

 

 ドクンと、強く、心が胸を叩いたのを感じた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いかに姿が見えず、声が聞こえず、気配を感じられない相手であっても、たった一つ、恐らくは絶対に変えることができないであろう不変の真理がある。

 それは、『そこに存在している』という真理。存在を相対的に隠すことはできても、絶対的に消すことはできない。いかに巧妙に姿を消し、声を隠し、気配をなくそうとも、生物として『そこに存在している』以上、『認識されない程度の能力』にも限界がある。

 ――故にそこに存在している以上は、結界の内側に踏み込めば必ず反応がある。

 藤千代の姿が見えているわけではない。月見はただ、自身の周囲にごく希薄な結界を何重にも展開し、その内側に彼女が踏み込んできた反応から、大まかに居場所を見当づけただけだ。半分以上を己の勘と運に頼った、到底まともな戦い方ではない。

 そして、まともな戦い方を選べるだけの選択肢は、今の月見にはない。

 

(……いやはや、恐ろしい能力だこと)

 

 存在を認識できなくする異能――こうして実際に対峙してこそわかるが、神奈子がまるで対抗できなかったのも頷ける。後方で戦況を見守る傍らで、冷静に事態を俯瞰する時間を確保していなければ、月見だって神奈子と同じ轍を踏んだだろう。

 幸いなのは、必ずしも少女に勝つ必要はないことだろうか。月見がここにいる理由は時間稼ぎ。神奈子が諏訪子を破るまでの間、なんとか上手く立ち回りさえすればいい。

 予想はしていたが、やはり、勝つのは途轍もなく難しそうだし。

 

「……見えている?」

「いや、残念ながら見えてはいないよ」

 

 頭の中に直接響いた少女の声に、苦笑を返す。尻尾で叩き飛ばした向きと舞い上がった土煙から推測するに、多分こっちの方にいるんだろうなーという方向を見ながら、

 

「でも見えないなりに、頑張ってはいるつもりだよ」

「……そうですか」

 

 少し、嬉しそうな声だった。深い霧が晴れていくように、少女の姿がゆっくりとあらわになる。右腕に火傷を負い、地に打ちつけられた衝撃で着物の無惨に破きながらも、彼女は莞爾と笑っていた。

 痛みなど、まるで感じていないというように。

 

「お名前、聞かせてくれませんか?」

「……月見。ただのしがない狐だよ」

「月見さん、ですか。私は藤千代といいます。どこにでもいる普通な鬼の女の子です」

 

 嘘つけ、と月見は思う。……まあ、それはお互い様かもしれないが。

 

「どうやらあなたは、今までの方たちとは違うみたいですね」

 

 少女は、楽しそうだった。

 

「ふふ、見事に一撃もらっちゃいました。右腕なんて、これじゃあ使い物にならないですねえ」

 

 二の腕に届くまで焼け爛れた、少女の右腕。皮膚が破れ赤く腫れ上がり、傷の深いところは黒く変色している。熱傷が皮下組織にまで到達し、皮膚が炭化しているのだ。傷が浅かったところも、皮膚が白化を起こしふやけた半紙のようになっている。

 なのに少女は、決して笑みを崩さずに、

 

「――ふんすっ」

 

 なんて可愛らしく息んだ瞬間、月見は眼前の光景に我が目を疑った。

 無意識のうちに、笑ってしまうほどに。

 

「いやいやお前……なにやってんの」

 

 藤千代の右腕が、回復していっている。

 いや、これはもはや回復などという次元ではない。早回しで時を遡るように、見る見るうちに再生していっている。

 藤千代が、え? と疑問符を浮かべた。

 

「……あなたもできますよね? こう、大地の底から力を吸い上げる感じで、ふんすっ、て」

「……」

 

 月見は目頭を押さえて声なき声で呻いた。どうやらこの少女には、つくづく、月見たちの常識が通用しないらしい。

 ものの十秒足らずで怪我の治療を終えた藤千代は、軽く空突きをして右腕がしっかり動くのを確認し、よし、と頷くと、

 

「月見さん。期待できない、と言ったのは取り消します。ごめんなさい。あなたは、とても、いいですね」

「……それはどうも」

 

 あ、これはマズいな、と月見は直感した。藤千代の笑顔が、ここに来て初めて崩れた。弧を描いた唇の中に、決して好ましくない、狂気の色が宿った。

 

「それじゃあ私も、ここからはちょっと本気です」

 

 ほのかに赤い光を灯す、狂気の瞳。

 月見の肌を打つ藤千代の妖力が、全身を這いずり回るような、異質な悪寒に変わる。声が、底のない深淵を覗き込むような、計り知れない深さを黒を帯びる。

 

「どうやって私の姿が見えないまま戦っているのかは知りませんが……教えてあげます」

 

 宣言、

 

「――そんなの、全然、意味ないって」

 

 ……なにが起こったのかなど、まるでわからなかった。月見が認識できた最後の光景は、藤千代の姿が再び見えなくなったところまで。あとは、気がついた時には既に、大の字になって雲一つない空を見上げていた。

 ――は? と、思わず、呟こうとして、

 

「カッ――」

 

 代わりに出てきたのは、弱々しく咳き込む音。口の中に血が広がっている。なぜ血が、と思うのと同時に、思い出したように全身を激痛が突き抜けた。

 

「ぐ、あ――」

 

 身をよじって悶えることすら許さぬほどの。なぜ今までなにも感じていなかったのかが不思議になるほどの。目の前の現実に置き去りにされていた思考が、今になってようやく再起動する。――なにが起こった。なにが起こったのかわからなかった。自分の体の状態から察するに、なんらかの攻撃を受けたらしい。だが、なにをされたのかわからない。どこから攻撃されたのかもわからない。

 そもそも、本当に攻撃されたのかどうかすら、わからない。

 

「わからなかったでしょう?」

 

 とっておきの秘密を打ち明けるような、楽しそうな少女の声。

 

「『完全喪失』。ほんの一瞬だけですけど、私はこの世界から完全に消えました(・・・・・・・・)。なにをされたのか……なにかをされたのかどうかすら、わからなかったでしょう?」

「ッ、――」

 

 探知の結界は展開していた。にも関わらず、まったく反応がなかった。……藤千代が、そこに存在していなかったから。

 どうやら、月見の見通しが完全に甘かったらしい。絶対不変の真理だと思っていた、『そこに存在している』という事実すらをも捻じ曲げられた。なるほど、この世界ではない別次元の場所から攻撃されてしまえば、月見がまったく反応できなかったのも無理はないのかもしれない。

 冷静に考察している場合ではない。

 

(いや……反則だろ、それは……)

 

 未だ理解が追いつかず、動揺して固まってしまっている体に鞭を打つ。上体を起こすだけでも一苦労だった。そこから腕を杖にし、地に脚を立て、立ち上がるだけの動作に、五分も十分も時間が掛かったように感じた。

 心の中では笑ってやりたい気分なのに、頬の筋肉は微塵も動かなかった。体が本能で理解しているのだ。笑っていられるような事態ではないと。

 

「まだ、倒れないでください」

 

 姿のない、声だけが聞こえる。

 

「まだ、諦めないでください」

 

 祈るように。(こいねが)うように。

 

「――私と、戦ってください」

 

 気がついた時には、また大地を転がっていた。――まただ。また、なにをされたのかわからなかった。

 全身が砕け散ったような、激痛。

 

「ぐ、う……!」

 

 ――戦いとは、対立する二者が互いの存在を認めて初めて成立するものだ。どちらか一方が、この世界ではない別次元の場所に消えてしまえば、それはもう戦などではない。

 蹂躙。

 力ある大和の神々が、そうして敗れ去っていったように。

 少女の声だけが、聞こえる。

 

「私と、戦ってください」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 砂塵逆巻き喊声響く戦場の中心を、一柱の神が駆け抜ける。

 大和の軍神──八坂神奈子は、敵本陣だけを見据えてただただ猛進する。

 

 戦場の両翼で繰り広げられていた戦闘は、神奈子が中央を駆け抜けることで、洩矢が神奈子を足止めするために転進しようとし、大和がそれを食い止めるために立ち塞がるという、今までと正反対の様相を呈していた。幸か不幸か鬼の少女によって拓かれてしまったこの道が、今は洩矢本陣へと切り込む絶好の死角となっていた。洩矢の神々も、まさか神奈子があの鬼の少女を抜いてくるとは思ってもいなかったのだろう。

 振るうは四本の巨大な木柱。オンバシラと名付けられる相棒を縦横無尽に操り、時折立ち塞がる敵を雑草さながら薙ぎ払い、半紙さながら突き破り、八坂神奈子は一瞬たりともその脚を緩めない。

 号令を交わすまでもなく、神奈子と部下たちは通じていた。或いは戦友として長く戦場を共にしてきた中で生まれた共通意識だったのか、もはや視線を交わす必要もなかった。

 行ってください――部下の声なき言葉に背を押され、神奈子は、ただ駆け抜けることだけで応じる。

 

「ッ──!」

 

 突破する。部下たちを、洩矢の神々どもを置き去りにして、八坂神奈子は中央を切り裂く。

 追いかける者はいない。追い縋れる者はいない。既に道は開けた。あの鬼の少女がしてのけたように、今度は神奈子が、敵本陣を己の牙で喰い千切る──

 

「──ああ、やっぱりそう簡単には行かないか。まあ、仕方ないね」

 

 直後、気怠げな声とともに、他の洩矢の神々とは一線を画す色濃い殺気が襲い来る。体を押し潰すような重圧と存在感に、神奈子は反射的に足を止めた。

 見据える先に、ぽつんと、少女。

 頭の上には、きょろりと丸い眼球がついたふざけた形の市女笠。両手には、陽の光を不気味に弾き返す黒輪。

 洩矢の総大将、洩矢諏訪子が。

 

「……」

 

 目を眇めた神奈子をよそに、諏訪子は手を庇にして戦場をひと通り見回すと、無感動な声で言った。

 

「急に騒がしくなったと思って見にきてみれば……ふうん、よくあいつを抜けたね」

 

『あいつ』があの鬼の少女を指していることくらい、わざわざ確認するまでもなく明らかだった。

 

「あいつが負けるなんてのは想像できないからー……誰かが足止めしてくれてるのかな」

「そうだ」

 

 短く答える。すると諏訪子は「ほんとに?」と目を丸くして、今までの無感情が嘘であったかのように大笑いした。

 

「あっははははは! あいつを足止めするなんて正気の沙汰じゃないよ! できるわけないじゃんそんなの、一分でももてば御の字だって! 誰だかわからないけど合掌ぉー、お疲れ様でしたー」

 

 わかっている。正論だ。正論になってしまうほどに、あの鬼の少女は異常だった。

 だがそうであったとしても、(つくみ)を愚弄するその嗤笑の声を、聞き逃すことなどできなかった。

 オンバシラを撃ち出す。神奈子の神力によって、その巨体は瞬く間に流星さながらまで速度を上げる。立ち塞がる洩矢の神々を、すべて等しく一撃で屠ってきた技だ。洩矢諏訪子の小柄な体に突き刺されば、それこそあとにはぺしゃんこになった蛙だけが残るだろう。

 しかし洩矢諏訪子は、その一撃を交差した二本の黒輪で受け止めてみせる。耳をつんざく衝撃音に、うわっ、と諏訪子が両耳を手で塞いだ。

 

「あっぶな! ちょっと、いきなり攻撃は卑怯じゃないかな!?」

「……」

 

 頬を膨らませて怒る諏訪子を無視し、神奈子は小さく舌打ちしてオンバシラを手元に戻した。オンバシラは見た目はただの木柱だが、神奈子の力によって幾重にも守護されているため、その強度は岩石をも凌ぐ。それをああも簡単に受け止めてみせたのだから、やはり見た目が幼くとも、一国の信仰を支配する土着神の頂点。怒りに任せた不意打ちで勝てるほど、甘くはないらしい。

「まったく……」と口をすぼめて呟いてから、諏訪子は自画自賛するように笑う。

 

「でもまあ、よく止めたもんでしょ。これでも藤千代が味方になってくれる前は、一騎打ちであんたを倒すつもりだったんだからね」

 

 諏訪子が右手を高く天に掲げると、応じるように右の黒輪が回転を始める。大した質量もない、叩けば割れそうな薄い輪だが、オンバシラを受け止めてみせたのだからそれ相応の神具なのだろう。

 

「これが今回の私の相棒。あんたの武器が、岩をも砕くオンバシラだってのはわかってたからね。一応、時代の最先端を行くとーせーふーの武器だよ」

「当世風……?」

 

 神奈子は眉をひそめた。黒輪。光を弾き返す黒光りの物質。オンバシラを受け止めるだけの高い強度。

 まさか、あれは――

 

「――鉄か!!」

「御明察ぅ!!」

 

 黒輪が高速回転し、地を抉りながら神奈子へと撃ち出される。オンバシラが大地に残すものとは違う、細く鋭い爪跡は、黒輪が刃を持っていることを意味する。

 神奈子はオンバシラで迎撃に出る。妙な小細工など必要ないと、黒輪の真正面からオンバシラを叩き込んだ。

 神奈子がその判断を下したのは、オンバシラが打ち負けたことなど一度もなかったからだ。神奈子の強大な神力で守られたその神具は、防がれることはあっても、正面から打ち破られることはなかった。当世風の武器かなにかは知らないが、今回もそれは変わらないのだと思っていた。

 だからこそ、己の相棒が、さほど拮抗する間もなくあっさり真っ二つに切断された時。

 八坂神奈子はその光景に理解が追いつかず、意識の外で呼吸を止めた。

 

「無知だねえ、八坂神奈子ォ!!」

 

 諏訪子が笑う。黒輪が回る。

 

「鉄ってねえ! ――木を切り倒すのに、とっても便利なんだよ!!」

「――ッ!?」

 

 行動は反射だった。肌を粟立たせた明確な悪寒に、神奈子は切断されたオンバシラの制御を捨て回避に出る。だが、オンバシラが打ち負けた光景に虚を衝かれ、思考を止めていたのがいけなかった。反射の行動でも躱し切れないほどに、黒輪との距離は近づきすぎていた。

 鋭痛。

 

「く、ぅ……!」

 

 直撃は免れた――が、左腕をやられた。二の腕近くから肩口までがぱくりと裂け、鮮血が飛び散る。

 体勢を崩しよろめいた神奈子へ、追撃は来ない。黒輪を悠々と手元に戻した諏訪子は、動かなくなった神奈子のオンバシラを蹴飛ばして、大胆不敵に宣言した。

 高速回転する黒輪が、空気を切り裂く音色、壮烈に。

 

「今こそ。――今だからこそ、言わせてもらうよ」

「……!」

 

 神奈子は血の流れる肌で知る。挑発でも過信でもない。洩矢諏訪子は確かに、神奈子と一騎打ちを演じ得るだけの力を持っている。

 辺境の小国とはいえ、幾万の信仰をまとめ上げる土着神の頂点。一騎打ちに持ち込めば勝てるなどと、神奈子の独りよがりな妄信でしかない。

 楽観を切り捨てろ。緊張の糸を緩めるな。全力で打ち砕け。

 

「――悪いけど、勝っちゃうから!!」

「――受けて立つぞ、洩矢諏訪子!!」

 

 二つの神力が激突する。片や草原を薙ぎ払い、大地を砕き隆起させ、片や晴天を彼方へ押しやり、何処からか黒雲を呼び寄せる。

 援軍はない。大地が絶え間なく形を変え、暴風雨が触れるものすべてを切り飛ばす彼女たちの戦場に、割って入れる者などいない。

 乾の神と、坤の神の、かみいくさ。

 信仰を巡る二つの国の決戦は、天変地異による戦場の破壊を以て、最終局面を迎える。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「まあ……あれが軍神さんの本気ですか。もう、私にも最初からあれくらいやってくれれば、ずっと楽しめたかもしれないのに」

 

 響く声は、呑気だった。草原が広がる緑豊かだった台地が赤茶けた荒野に変えられていく様を見ても、急に雨が降ってきて不意を衝かれた程度にしか心を動かした様子がない。台地を荒野に変える天変地異など、彼女の前ではにわか雨にも等しい些細なものだった。

 

「さて。向こうの戦いもいよいよ佳境みたいなので、こちらも盛り上がっていきたいんですけどー……」

 

 霞んだ視界の中で、少女の声がゆっくりとこちらに向けられた気配。それから、元気ですか? とでも気軽な挨拶をするように、あっけらかんと、

 

「ところで、生きてますか?」

「……生きてるよ。勝手に殺さないでくれ」

 

 まあ、傍から見れば生死を疑われるような有様になってしまっているのは、否定しない。

 満身創痍、以外に表現のしようがない。白の狩衣は止まらない出血で染め上がり、元の白をほとんど侵食し、初めから赤の狩衣だったと錯覚してしまうほど。頭部からの出血が顔の半分を覆い潰していて、左目は開けられない。更にこの戦場のへそ(・・)のような巨岩に背を預け、草原に紛れながら大地に座り込んだ月見からは、本来あるべき右腕が、ほとんど根本から欠落していた。

 どうやら戦う最中で引き千切られたらしいが、いつ引き千切られたのかは未だにわからないままだ。気がついた時には既になくなっていた。幸い妖獣の月見はこの程度で死にはしないけれど、一方で、立ち上がる気力を根こそぎ奪い去られるには充分だった。

 

「ふふ、ごめんなさい。月見さんがあんまりにも頑張ってくれるものですから、私もつい抑えが利かなくなってしまって」

 

 結果は見ての通り、完敗だったといっていい。

 頬に手を当てやんわり微笑む藤千代に、これといった手負いの痕はない。『完全喪失』とやらを見せつけられてからというもの、なんとかかんとか踏ん張って一つ二つの傷を与えたような覚えはあるが、まあ、例の『大地の底から力を吸い上げて』云々の前にはまったくの無意味だった。そもそも、戦いと呼べるようなものだったのかも疑わしい。

 

「あんなの初めてでした……。あんなにも果敢に立ち向かってきてくれて、私、もう体中が熱くなっちゃいましたよ?」

「……そいつは、どうも」

 

 紅潮した頬を両手で押さえ、湧き上がる恍惚に表情を蕩けさせる藤千代に、月見はほんのかすかな苦笑を返した。普段と同じように笑ってしまうと、傷が痛む。

 

「夢のような時間でした。本当はもっと盛り上がっていきたいんですけど……これでおしまいなのが残念でなりません」

「……」

 

 そうだろうな、と月見は思う。満身創痍になるまで戦っても勝てなかったのだから、これ以上意地を張ったところで結果は変わるまい。

 というか、なぜ全身血だらけで右腕をもがれるような状態になるまで、月見は馬鹿正直に戦い続けたのだろうか。少女はこの戦の勝ち負けに興味を示していない。だったらもっと早い段階で潔く降参していた方が、ここまでひどい怪我を負うこともなかった。

 

「安心してください。あなたの気高い心に最大限の敬意を払って、諏訪子さんと軍神さんの戦いは邪魔しません」

 

 ほら、藤千代だってこう言ってくれている。彼女をここで足止めするという目的は達した。だからもう充分だ。致命傷でないとはいえ、立ち上がれなくなるほどの重傷であるのは確実なのだから、いい加減に休もうじゃないか。

 わかっている。月見はもう休んでいい。むしろ、これ以上の無茶はいよいよ命すら削る行為だから、休まなければならない。

 わかっている。

 ……なのに、

 

「私たちの戦いはこれでおしまいです。大丈夫です、私はもう充分満足できました。軍神さんの戦いにも手出ししません。そんなになるまで付き合ってくれて、ありがとうございました」

 

 なのに、

 

 

「……だから、もう立ち上がらなくてもいいんですよ?」

 

 

 どうして月見は、両脚に、懸命に力を込めているのだろうか。

 どうして、渾身の力を振り絞ってまで、立ち上がろうとしているのだろうか。

 

「月見さん……」

「……なんでかは、私にもよくわからないんだ」

 

 藤千代の瞳には、さすがに月見を気遣う色がある。そりゃあそうだ。ここまで満身創痍になってなおも立ち上がろうとするなど、到底正気の沙汰ではない。なにか、心を強く突き動かす、譲れない感情の一つでもない限りは、素直に諦めて然るべきだった。

 半分以上自分のものではなくなった手足を、地を這うように、動かして。

 少しでも気を緩めれば途切れてしまいそうになる思考を、力づくで押し留めて。

 そこまでして立ち上がろうとするだけの理由が、今の月見にはあるのだろうか。

 

「じゃあ、どうして……」

「あー……まあ、強いて言えば……」

 

 だが、もしかして、というものがあった。こうだ、と断言できるほどはっきりとしてはいない。霧を一ヶ所にかき集めようとするような、とりとめのない、漠然とした感情だったけれど。

 

「多分、負けたくない……んだろうね」

「――……」

「私も、男だしさ。やっぱり、お前みたいな女の子に、こうも一方的に負けちゃうってなると、どうしても、納得が行かないわけだ」

 

 足止めだとか、神奈子との約束だとか、そんなのは二の次で。勝ちたい、もしくは勝てずとも、せめて一矢報いるなにかがなければ気が済まない。

 自分にこんなにも負けず嫌いな一面があったとは意外だった。基本的に争い事は好きじゃなくて、命の駆け引きにまで発展するような戦いは避けて生きてきたから、今の今まで気づいていなかった。

 けれど一度自覚してしまうと、それは思っていたよりもあっさりと、月見の胸に落ちてきた。そうだ。負けたくない。それだけ。それだけでも。諦められない理由としては、あまりに充分ではないか。

 底を突きかけていた体の力が、甦った気がした。

 立ち上がる。血にまみれても、まだ両脚は動く。右腕を失っても、まだ左がある。諦めない限り、思考は動く。

 まだ、戦える。

 

「月見さん……」

「悪いね。こんな虫の息の相手と戦う趣味は、お前にはないかもしれないけど」

 

 砕けそうになる両足を、強く地に突き立てて。(くずお)れそうになる体を、凛然と前へ起こして。深く大きく息を吸う、この痛みすらも、力へと変えて。

 

「――私が諦められるまで、付き合ってくれ」

 

 藤千代が、小さく息を呑んだ音が聞こえた。まさか本当に立ち上がってくるとは思っていなかったのだろう。その瞳を初めて純粋な驚きだけで見開いて、やがて静かな吐息とともに力を抜くと、淡い微笑みを浮かべて言った。

 

「…………ようやく、見つけた」

「うん?」

「いえ、こっちの話です。……いいですよ。お相手(つかまつ)ります」

「……ああ」

 

 藤千代が構える。月見は狩衣の懐に手を入れて、血だらけになってしまった真っ赤な札の束を取り出す。それらを宙に放れば、地に落ちることなく一枚一枚が鳥のように飛び回り、そして一つに合わさり、一振りの剣を作り出す。

 藤千代は、嬉しそうだった。

 

「まあ、そんなこともできるんですね」

「切り札と呼べるほど大したものじゃないけど、ここまで来たらなんだってやってみるさ」

「そうですか」

 

 本当に、嬉しそうだった。

 だからなのかはわからないが、月見もやけに、清々しい気分だった。

 

「……それじゃあ、あなたの美しい心に敬意を表して、もう一度名乗りましょう」

 

 右腕、振り払い、鮮烈に迸る妖力とともに。

 

「藤千代。――全力で行きます!!」

 

 剣、切り払い、不屈に放つ妖力とともに。

 

「月見。――全力で足掻く!!」

「やってみなさい!!」

 

 乾の神と坤の神の戦のように、大地が割れ空が乱れ狂うことはない。云うなれば、旋風。余計な負の感情を一切挟まない力の衝突は、澄んだ一陣の風となって戦場を彼方まで吹き抜けていく。

 これで最後だと、月見は思う。次の交錯で、否応なしにすべてが決着する。己の体力から考えて、剣を振れるのは精々数回だろう。それで決まればよし。決まらなければ、月見の負けだ。

 最後に立つのは、月見か、藤千代か。

 月見が落ちる先は――天国か、地獄か。

 深く息を吸い、剣を構える。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幾千年恋い焦がれた。いかな逆境にも決して砕けず、気高く燃え上がる、不屈の心を。

 己の力が途方もないものであると、既に理解していた。普通に戦えば誰にも負けない存在であると、既に受け入れていた。肉体的な力で自分と並べる者などいない。故に藤千代が他者に希ったのは、肉体ではなく、それよりももっと深いところにある、心の強さだった。

 他を寄せつけない超越的な戦闘能力に、比肩できる者などいない。それは、仕方がないことなのだと、受け入れることができていた。

 けれど、その力の前に誰しもが恐怖し、諦め、戦いを放棄してしまう――それだけは、寂しくて、嫌で、受け入れたくなかった。

 強すぎる藤千代が言えた台詞ではないのかもしれない。誰かが足掻く姿を、求めるということ。他人からしてみれば傍迷惑極まりない、人を見下したような、とても褒められた感情ではなかっただろう。

 それでも、諦めないでほしかった。向かってきてほしかった。肩を並べようとしてほしかった。無理だ。ふざけてる。勝てるわけがない。ありえない。馬鹿げてる。そんな言葉で、遠ざけて、別世界の化け物のように扱って、藤千代を独りにしないでほしかった。

 幾千年、恋い焦がれた。

 

(……ようやく…………)

 

 独りじゃないのだと、感じた。諦めないで戦おうとしてくれる人がいる。諦めないで、自分に並ぼうと足掻いてくれる人がいる。勝てるわけがないと遠ざけないで、むしろ近づこうとしてくれる人がいる。

 今の藤千代は、独りじゃない。

 月見。ぎんのきつね。――うんめいのひと、なんて言葉を使ってしまうのは、陳腐だろうか?

 

「ねえ、月見さん。全部が終わったら、ほんのちょっとだけでいいので結婚しませんか?」

「……、……いや、意味がわからないんだが」

「ふふ、冗談です」

 

 そう、今はまだ、冗談だ。でも彼は、藤千代を藤千代として受け入れてくれた。そんな人と一緒になれたら、それはきっと、素敵なことなんだろうなと思う。

 まあ――今はなによりも、彼の望み通りに、この戦いを最後までやり遂げる方が大事だろう。積もる話は、全部が終わったあとにゆっくりとすればいい。

 手加減はしない。宣言した通りに、全力でぶつかっていく。満身創痍の相手に躊躇いはしない。ここまで来ておきながら手を抜くのは、彼の気高い心に対する侮辱だから。

 つくづく、この戦に参加してよかったと思う。洩矢の国に立ち寄ったのはほんの出来心だ。洩矢神社を訪れたのはほんの気まぐれだ。しかしその気まぐれの結果、藤千代はこうしてこの戦場にいて、こうして月見と戦っている。

 偶然といえばそれまで。

 でもこれは、うんめいなのだと、信じたい。

 

「――行きます!!」

「来い……!」

 

 開放した妖力を拳へ。『認識されない程度の能力』で、己の存在を掻き消していく。全力で行くと宣言した手前、能力だって出し惜しみしない。姿を消し、声を消し、気配を消し、そして世界から消える。

 彼の頑張りには悪いけれど、既に結果の見えた戦いだ。『完全喪失』から放たれる攻撃は、避けようも防ぎようもない必中の一撃。藤千代の攻撃力と彼の残された体力を考えれば、次で間違いなく勝負は決まる。

 でも、それでもいいのだ。もはや結果なんて関係ない。彼の心は、もう充分に見せつけてもらったのだから。だからここまで抗ってくれたことに、こうして藤千代と出会ってくれたことに最上の感謝を込めて、抱き締めるように、愛するように、すべてを決着させよう。

 地を蹴り、彼のもとへ。彼との距離を詰める、この一歩一歩が、どうしようもなく愛おしい。……殴らないとダメだろうか。別に抱きついたっていいんじゃないか。彼だって、痛む上に塩を塗られるようなのは嫌だろうし。どうせ完全喪失の状態じゃ気づかれないんだから、ちょっとくらいぎゅってしてみても――

 いやいや、と首を振る。ここで手を抜くのは彼への侮辱だと、少し前に自分に言い聞かせたばかりなのだから、真面目にやらないとダメだ。抱き締めるのは、すべてが決着したあと。

 彼はまぶたを下ろし、剣を構えたまま微動だにすることなく、すべての神経を研ぎ澄ませている。意味のないことだ。どんなに意識を集中させたところで、絶対に藤千代を認識することはできない。あの紙で作られた剣の切っ先が、藤千代に捉えることはない。

 けれどやっぱり、それでもいいのだ。少なくとも、こちらを見つけ出そうと本気になってくれているその姿だけで、藤千代は満足だった。震えるほどに幸せだった。だから、これで終わりだ。これで終わりにして、あとは動けなくなった彼を介抱して、思う存分抱き締めて――

 ドッ――、と、

 

「え、」

 

 右腕に強烈な違和感。右を見る。肩口から先が途切れている。腕がない。代わりに鮮血が噴き出している。体が少し宙に浮き上がっている。咄嗟にたたらを踏んで体勢を立て直す。

 

「――え?」

 

 前を見る。彼が剣を振り抜いている。刀身に赤い液体が滴っている。切っ先に向けて流れていく。玉となってこぼれ落ちる。

 そして赤い玉が重力に引かれ、地面に落ちて弾けた瞬間、

 彼と、目が合った。

 

「……え?」

「ようやく……!」

 

 口角、つり上げる、獰猛な笑みとともに、

 

「ようやく見つけたぞ、藤千代!!」

 

 彼の左腕が動く。理屈ではなく、ただ本能だけに突き動かされて、藤千代は半歩後ろに身を引く。左の腹から右肩へ、冷たいなにかが通り過ぎていく違和感。一瞬遅れて吹き出す赤。その瞬間、止まっていたすべての痛みが、波濤となって藤千代を打った。

 

「――!!」

 

 予想していなかった痛みに思わずよろめき、けれど唐紅の炎を宿す九尾が目に入った瞬間、考えるよりも先に後ろへと飛んでいた。

 寸前まで自分が立っていた場所を焼き尽くす烈火の、目の覚めるほど気高い赤に、ようやく藤千代の思考が追いついた。

 

「あ、」

 

 右腕を斬り飛ばされた。右肩から、左の腰にかけてを斬られた。だがそんなのは特別大した問題じゃない。どんな攻撃を受けたのかなんてどうだっていい。さすがになくなった右腕までは無理だが、傷口程度はすぐに治せる。だからどうだっていい。

 それよりも。

 それよりも、

 

「は、」

 

 彼が、藤千代を、見ている。『完全喪失』しているはずの藤千代を、逆襲の意志を宿した力強い瞳で、まっすぐに、捉えている。

 彼には、藤千代が見えている。能力を使っているのに。絶対に不可能なはずなのに。今まで誰一人として成し遂げられなかったのに。

 ただ一人、

 彼だけには、

 

「――あははははははははははははははは!!」

 

 感情が爆発した。歓喜を。愉悦を。恍惚を。快楽を。あらゆる喜びを一つ向こう側に飛び越えた、打ち震えるほどの感情の暴走だった。

 着地すると同時に、咆吼する。

 

「――『吼拳』!!」

「……!」

 

 振り切れる感情だけに身を任せて、それ以上のことはなにも考えずに左の拳を放つ。神速を超える速度で突き出された拳は空気の波濤を生み、姿なき獣の咆吼となって、眼前の獲物に喰らいつく。

 表情を凍らせた彼がなけなしの力を振り絞って空へと逃げれば、一瞬遅れて、彼の背後にそびえていた巨岩が幾万の欠片となって砕け散った。しかし波濤はなおも収まらず、大地を破壊し土煙を巻き上げながら戦場を突き進み、やがて彼方で佇立していた森の木々に喰らいつき、炸裂した。

 森が消し飛ぶ。押し固められた空気の波濤は瞬く間に爆散し、逆巻く暴風と化して八方のすべてを薙ぎ払う。もはや視覚すら可能なほどの烈風が彼方より一気に戦場を呑み込み、砕けた岩を、崩れた地盤を、あらゆる大地の残骸を根こそぎ奪い去り、掃討し、なにも残らない荒野へと変えていく。

 

「おいおい、いい加減冗談キツいぞ!!」

「でも躱した!! あなたは、躱した!!」

 

 空で吹き飛ばされないよう踏ん張っていた彼の姿を見つけ、地を蹴り肉薄し、手を伸ばす。だが、やはり躱される。返す刃で放たれた彼の一閃が、藤千代の体に新たな傷をつける。

 偶然じゃない。

 この痛みは、偶然じゃない。

 

「見えてる! 見えてるんですね!? 見えるはずがないのに! 見えるはずがないのに!!」

「ああ、見えているとも! これ以上わけがわからずにやられるのは、さすがに御免だからね!」

「あははははははははははははははは!!」

 

 感情が理性を振り切る。どうして彼に藤千代の姿が見えているのかはわからない。わからないし、どうだっていいとすら思った。こんなにも素晴らしいことに、理由など要らない。もう、余計なことはなにも考えたくない。戦う以外のすべての思考が排除されていく。うんめいのひと。うんめいのひと。未だかつて感じたことのない至上の快楽に、至上の幸福に、藤千代は狂っていた。

 

「せえええええっ!!」

「ッ……!」

 

 月見が振るった剣を側面から叩き、拳一つで破壊する。根本から砕けた武器に月見の動きが止まった一瞬で、彼の胸に手を伸ばす。

 彼の尻尾が二本、間に割って入り、盾となろうとする。妖力で硬化しているのか、鉄のように硬い。無意味だ。研ぎ澄ました爪で切り裂き、そのまま彼の胸元を貫く。

 

「ぐあ……!?」

 

 左腕が肘まで血に塗れ、彼の向こう側へ突き抜けた感覚。まだまだ。腕を振り回し、体ごと廻転し、勢いを乗せて真下へと投げ落とす。

 

「せやあっ!!」

「――ッ!?」

 

 鬼の膂力を以て打ち出された彼の体は、瞬く間に赤茶けた大地に到達し、轟音とともに地盤を砕き粉塵を巻き上げる。人間なら肉塊と化して即死。妖怪なら、死にはしないが骨が砕け、全身を掻きむしる激痛にしばらくは動けなくなる。

 とどめ。拳に渾身の妖力を。抱き締めるように。愛するように。これでおわり。うんめいのひと。もうなにも考えられない。戦うことすらも。ただ本能に突き動かされるだけの、狂った獣になっている。ここで拳を、あの技をもう一度放てば彼がどうなってしまうのかなんて、まるで考えられない。思考など疾うに止まっている。自制心など疾うに消えている。理性など疾うに吹っ飛んでいる。滝が落ちるように、雪崩が落ちるように、星が墜ちるように、拳を、妖力を、空気の波濤を、真下へ、うんめいのひとへ、彼のもとへ、

 

「――あ、」

 

 けれど、できなかった。

 左腕が、根本から、宙に飛んだ。

 胸元から、紙でできた、刃が生えていた。

 

「あ、れ」

 

 痛い。本能の暴走がぷつりと途切れて、夢から醒めるように理性が戻ってくる。この感覚は知っている。ほんの少し前に、右腕を飛ばされたから。体を斬られたから。でもおかしい。だって、この刃は、藤千代がさっき砕いて。彼は、地面に叩きつけられて、動けないはずなのに――

 

「あ」

 

 そして、気づいた。彼を投げ落とした場所。地盤が砕け、粉塵で包まれたはずのその場所が、ただの荒野に戻っていた。

 いや、正確にいえば、戻ったのではない。初めから荒野のままだった。地盤など砕けていなかった。粉塵など巻き上がっていなかった。藤千代は、初めから、誰も投げ落としてなどいなかった。

 ああ、そっか。感情が高ぶって、本能のままに暴走してしまったから、完全にやられてしまった。

 妖狐が得意とする戦術の、最も初歩的で、最も単純で、それ故に最も強力な――

 

「炎を刻め――」

 

 すぐ後ろから、彼の静かな宣言が、聞こえて。

 

「――『火之夜藝剣』」

 

 刃から炎が立ち上がり、体を、意識を焼き払われる一瞬で、藤千代は笑った。生まれて初めて味わう敗北の痛みに、笑って、まぶたを下ろして、全身から力を抜いた。悔しくはあったけれど、それ以上に、眠りたくなるほどに幸せだった。

 喉の奥から血がせり上がってくるので、ちゃんと言葉にできるかはわからない。それでも、届けばいいなと思いながら、藤千代は唇を動かした。

 

「――」

 

 ありがとう、という言葉を。

 私はちゃんと、音にできただろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 戦場を掃討する空気の波濤は、乾の神が乱す風をも、坤の神が狂わす大地をも突き抜けて、二柱の神々を震撼させた。

 

「ッ……!? こ、これは……!」

「みぎゃー!?」

 

 オンバシラを盾にし踏み留まる神奈子の視界の端で、衝撃波にさらわれた諏訪子が瓦礫と一緒にゴロゴロ地面を転がっていく。そのまま戻ってくるなと毒を吐きながら、神奈子は衝撃の出処に目を遣った。

 

「――……」

 

 見つめる先には、なにもない。――なにもなくなってしまっていた。確か向こう側には、洩矢の緑豊かな森林が広がっていたはずではなかったか。それが皆消し飛び、異界の獣が咆吼を上げているかのような、あまりにも暴力的な風の氾濫に呑み込まれ、幾多の瓦礫とともに神奈子の背後へ掃討されていく。

 

「ちょっ、待っ、瓦礫が、痛ッ、ふぎゃー!?」

 

 後ろの方で響く蛙の悲鳴が、意識まで届いてこない。星が墜ちたのだと錯覚するほどの天変地異に、神奈子はただ、オンバシラの陰で呆然と言葉を失うほかなかった。

 

「――あ、」

 

 なにが起きたのかを理解したのは、いつの間にか止まっていた呼吸に、胸が詰まる息苦しさを覚え始めた頃。

 体が、震え出すのを感じた。

 

「あ、ああ……っ!」

 

 あいつだ。あいつしかいない。こんな常識はずれな天変地異を引き起こせるやつなど、この戦場ではあいつ以外に有り得ない。

 なら、あいつと戦っているのは一体誰か。

 あの鬼の少女が、この天変地異を向けた矛先は、一体誰なのか――

 

「――!!」

 

 突き上がる怖気に息を呑む音は、悲鳴にも似ていた。月見の姿が一瞬脳裏を掠めた時、神奈子の全身は理解の範疇を振り切った恐怖に突き動かされ、今すぐ彼のもとへ引き返そうとした。

 

「――あ、」

 

 その動きが、ふと、止まる。戦場を蹂躙する大気の波濤に混じって、未だ激しく揺れ動く、一つの銀の妖力を感じた。

 あの少女の妖力が感じられないのは、能力を使っているからなのだろう。

 しかしなんであれ、こうして月見の妖力を、未だに感じることができるのならば。

 

「つ、月見……!」

 

 泣き出しそうになりながら、神奈子は大きく息をついた。月見は、まだ生きている。これだけ途方もない少女の力を目の当たりにしてなお、神奈子との約束を守るために、戦い続けている。

 

「ふ、ふうううぬうううおおおおおううう! ま、負けてたまるかー! こんじょーッ!」

 

 いくらか落ち着きを取り戻した神奈子の耳朶にようやく、蛙の奇妙な叫び声が届く。振り向き見れば洩矢諏訪子が、まさに蛙よろしく地べたを這いつくばりながら、じりじりと戦線に復帰してきたところだった。

 

「もおーっ、藤千代はいくらなんでも暴れすぎっ! あんたのお仲間さん、これはもしかしなくても死んじゃったんじゃないの!?」

 

 神奈子は強くかぶりを振る。

 

「死んでいない……!」

「へー、そうなんだ! ……でもこれじゃあ時間の問題でしょ!? そこで提案があるんだけどさあー、この戦い、もう私の勝ちでよくないかなあ!」

 

 荒れ狂う暴風に掻き消されぬよう、諏訪子は声を張り上げて、

 

「そうすりゃあいつも戦うのやめるだろうし、お仲間さんの命も助かるよ! でもこのまま私たちが戦い続けてたらあ、次の瞬間にはあいつに殺されちゃうかもね!」

「ッ……!」

 

 一切の虚言を挟まない、事実だけに基づいた降伏勧告に、神奈子の精神が揺らぐ。

 

「大丈夫だよ、私らが勝ってもあんたらにはなにもしないから! ただ、私たちの信仰には二度と手を出さないって約束してさえくれればそれで充分さ! 悪い話じゃないでしょ!?」

 

 葛藤は、大きかった。ここで降伏すれば、神奈子は日の本を統一するという夢を失うかもしれない。けれどこのまま戦い続ければ、二つとない大切な友を失うかもしれない。大和の未来を担わされた軍神として、敗北は決して許されない。けれどその矜持に固執し大切な友を失えば、神奈子はきっと、未来永劫己を許せない。

 軍神としての心と、八坂神奈子という、一人の女としての心。

 

「ほら、どうするのさ! 迷ってる暇あるの!? そんなことしてるうちに、取り返しのつかないことになるかもよ!?」

「ッ――!」

 

 月見の生死を分ける、分水嶺で。

 そして二つの心がぶつかり合う中で、神奈子の思考が、白熱した。

 

「――ああああああああああっ!!」

「うおっとぉ!?」

 

 神力の暴発。思考が濁流と化した。負けられない矜持と意地。失えない恐怖と焦燥。頭が暴走した感情の渦に呑まれ、真っ黒にも、或いは真っ白にもなったような気がして、そこで神奈子の思考は崩壊した。

 諏訪子の鉄輪の前に敗れ、たった一本しか残っていなかったオンバシラを、絶叫とともに撃ち出す。不意を衝かれた諏訪子が空へと逃げれば、神奈子もすぐさま追い縋り、再度オンバシラを振るう。

 

「なに、もしかして脳天にキちゃった!?」

 

 実際、そうだったのだろう。少なくとも、このまま諏訪子と戦い続けることに、なんらかの答えを見出した行動ではなかった。負けたくなくて、失いたくなくて、どうしたらいいのかわからなくて。

 それ故の、至極単純な、暴走だった。

 泣き出した赤子が腕を振り乱すように、オンバシラを振るう以外のことが、できなくなってしまっていた。

 

「――なんだ、結構つまんない決着だったね」

 

 オンバシラは諏訪子には通じないと、わかっていたはずなのに。

 最後のオンバシラが、諏訪子の鉄輪に素気なく切断され、神奈子の制御を離れていく。そしてその時には既に、神奈子の懐にもう片方の鉄輪が入り込んできている。

 鮮血が飛ぶ。

 

「へえ、よく躱したね!」

 

 躱してなどいない。運が良かっただけだ。腹が四分の一ほど、真っ二つになった。

 それは決して、致命傷ではなかったけれど。

 けれど腹以外にももう一つ、大きなものを、真っ二つにしていったような気がした。

 

(ああ、もう――)

 

 悔しいなあ――と、神奈子は思う。たった一人の存在にすべてを狂わされる、泣いてしまいたくなるほどの悔しさだった。

 諏訪子に負けることが、ではなく。

 月見との約束を果たせないことが、打ちひしがれるほどに、情けなかった。

 

「そんじゃあ、こいつで最後ォ!!」

 

 でも、それでも、いいのかもしれない。

 ここで神奈子が負ければ――戦が終われば、少なくとも、月見の命は助かるだろうし。

 負けた戦は、やり直しが利く。失われた命は、やり直しが利かない。

 ならばもう、ここで、負けてしまっても――

 

 そうしてまぶたを下ろそうとした神奈子の視界の端で、紅蓮の花が咲いた。

 

「お?」

 

 諏訪子が眉を上げて、今まさに放とうとしていた鉄輪を止めた。神奈子は閉じかけていたまぶたを上げ、紅蓮の花――狐火へと、顔を向けた。

 

「「え?」」

 

 そして、感じた。

 唐突に感じられるようになった鬼の妖力が、狐火が消えるのと同時にぷつりと途切れて、そのまま消えていくのを。

 消えて、狐の妖力だけが、残るのを。

 

「「――え?」」

 

 無論、それが決着を意味していたとは限らない。また少女が能力を使って、己の存在を隠蔽しただけなのかもしれない。

 だが、戦いの最中強く揺れ動いていた月見の妖力が、次第に凪いでいく。激しい風雨に晒され生まれた濁流が、晴天の下で清流に戻っていくのと同じ。そうして一度静寂を取り戻した彼の妖力は、もう乱れることはない。

 まるで、戦いは終わったと、告げるように。

 

「「まさか――」」

 

 乾と坤の神々が、茫然と声をこぼしたのは同時。

 

 

「――月見が、勝った?」「――藤千代が、負けた?」

 

 

 月見の妖力は、途切れない。凪いだ清流のままただそこに在り続け、遠く離れた神奈子にまで、己の健在を強く知らせてくれる。

 月見には悪いかもしれないが、彼があの少女を打ち破ったなど、まるで信じられる話ではなかった。もちろん、彼が九つの尾を持つ妖狐屈指の大妖怪であることは知っている。しかしだからといって、拳一つで天変地異を引き起こすような規格外な存在と渡り合い、あまつさえ打ち破ってしまうなど、どれほど常識破りな手を使えば可能だというのか。

 先に我を取り戻したのは、諏訪子の方だった。

 

「――あー、もう! 正直言ってわけわかんないけど、これじゃあもう私が勝つしかないじゃんさ!」

 

『月見の命』という最大の交渉材料を失った諏訪子が、頭を掻きむしり、振り払う腕の動きで鉄輪を再度高速回転させる。神奈子のオンバシラをことごとく打ち破ってみせた、必殺の武器。死神の息遣いにも似た、鋭く空気を切り裂く音は――けれど、神奈子の耳には届いていなかった。

 

(ああ――)

 

 それどころか、紅蓮の花が咲いたその場所から、未だ目を離すことすらせずに。

 

(そうか――)

 

 心に染み渡っていくこの感情を、どんな言葉で表現することができただろう。色々な言葉が浮かんでは消えていったけれど、最終的には、頑張んなきゃなあ、という思いだけが残った。

 そう、頑張らないと、いけない。争い事を得意としない妖狐の彼が、戦の権化といっても過言でない鬼を、打ち破ってみせたのだから。そうして、神奈子との約束を果たしてくれたのだから。

 ――だから、私だって。

 

「――」

 

 ようやく、神奈子は己の視線を前に戻した。その時には既に、諏訪子が鉄輪の楔を解き放っている。猛る野獣の如く、吹き荒ぶ木の葉を半紙よりも容易く切断し、傷ついた神奈子の体に終止符を打ち込もうとする。

 けれど、神奈子は冷静だった。――初めからなに一つ思った通りに行かなかった戦の中で、やっと、本当の意味で冷静になれた気がした。

 大丈夫だ。オンバシラをすべて失おうとも――八坂神奈子は、勝てる。懐に飛び込んできた二つの鉄輪に対し、神奈子の答えは決まっていた。

 呼吸を殺し、浅く両腕を広げて。

 その刃を、受け入れる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 八坂神奈子は『軍神』と呼び祀られるが、だからといって特別、戦に特化した能力を持っているわけではない。戦の経験が浅い諏訪子ではあるが、洩矢の趨勢を決める大一番を前に、敵総代表の分析くらいはざっくりと済ませていた。

 八坂神奈子は初めから戦神だったのではなく、元は雨風を司る神だった。その証拠が、彼女の有する能力にある。『乾を創造する程度の能力』とは、すなわち天を――天候を操るものであり、時に雲を払い大地に太陽の恵みをもたらし、時に雲を呼び寄せ人々に雨の恵みを与える、風神、水神、或いは豊穣の神としての力の発現であり、戦いのための能力ではない。故にこの戦いにおいて最も脅威だったのは、大和の軍が誇る兵一人ひとりの練度の高さであり、八坂神奈子個人の戦闘能力ではなかった。

 だからこそ、神奈子との一騎打ちにさえ持ち込めれば、勝機はあると――藤千代と出会う前の諏訪子はそう考えていたし、実際、その読みに間違いはなかった。無論神奈子とて伊達で軍神の名を背負ってはいないので、オンバシラで洩矢の兵を容易く打ち破る力は強大だったろう。だが一方で諏訪子がまるで太刀打ちできないほどでもなく、この日のために用意した二つの鉄輪にも助けられ、諏訪子はむしろ対等以上の戦いを演じることができていた。

 藤千代が負けたのは完全に予想外だった。正直言って夢にも思っちゃいなかった。信じられないとか有り得ないとか否定する以前に、なにがなんだかわけがわからなかった。

 しかしたとえ藤千代が負けたとしても、ここで神奈子を倒せば洩矢の勝利は揺るがない。そして諏訪子には、それを可能にするだけの力がある。唯一の脅威であるオンバシラをすべて切断し無力化した今、丸腰の神奈子を恐れる理由などない。故に放ったこの一撃で、乾と坤の神戦が、ひいては洩矢と大和の神戦が、終結していくはずだった。

 

「なっ――」

 

 そう信じていたからこそ、諏訪子は目の前の光景に息を詰めた。

 鉄輪が止められた。それ自体は問題ではない。鉄輪を止めたモノが問題だった。

 八坂神奈子の、体。

 鉄輪の突進を、体で止め。

 そして鉄輪の回転を、伸ばした両手で、刃を掴んで止めた。

 

「――バカじゃないの!?」

 

 諏訪子は強く叫んだ。一歩間違えれば指が千切れ飛び、体が二つにも三つにも分かたれる可能性があった。敵の攻撃を、我が身を犠牲にして受け止める。そんなもの、一軍を率いる総大将として、到底まともなやり方ではなかった。

 

「バカじゃないさ」

 

 しかし、神奈子の答えは早い。両手から、体からとめどなく血が流れようとも、紡ぐ言葉は静かに、強く。

 

「――勝たせてもらうぞ、洩矢諏訪子」

「……生意気!」

 

 本当に勝つつもりなのだとわかった。オンバシラをすべて失ってなお、体中に決して浅くはない傷を負ってなお、八坂神奈子の瞳は死んでいない。

 諏訪子は腕を振るう。こうして止められたとはいえ、鉄輪の刃が神奈子の肉体に届いている以上、再び回転させて断ち切ってしまえばいい。放たれた諏訪子の神力は、止まった鉄輪に再度息吹を吹き込むはずだった。

 

「……!?」

 

 だが、鉄輪が動かない。諏訪子の命に従い回転を始めようとするが、なにかに遮られ、その場で小刻みに震えるだけ。

 

「なにを――」

 

 気づいた。

 

「――蔓?」

 

 神奈子の両手の傷口から細い蔓が生まれ、鉄輪を絡め取っている。

 諏訪子は眉をひそめた。鉄輪が動かない理由はあれか。だが、引けば千切れそうなただの蔓如きで、オンバシラという神木にも打ち勝った鉄輪が抑え込まれるなど――

 

「ただの蔓じゃあない。――藤蔓だよ」

「……!」

 

 行動は反射だった。鉄輪を呼び戻す。しかし既に刃のすべてを絡め取られてしまっているため、引こうにも回転させようにもビクともしない。

 

(やられた……!)

 

 噛み合わせた歯が軋んだ。伊達でも酔狂でもなかった。八坂神奈子はこのために、体と両手に深い傷をつけてまで、鉄輪を直接受け止めることを選んだのだ。

 ――藤蔓は、採鉄の道具である。竹と比べて強くしなやかな藤蔓は、砂鉄採取の手法である『鉄穴(かんな)流し』において、水底に溜まった砂鉄を掬うざるの材料として好んで用いられる。

 すなわち、藤蔓により鉄が生まれる――藤蔓は、鉄よりも高位の象徴ということだ。しかして神奈子のように強い神力を持つ神であれば、その上下関係を巧みに利用して――

 

「ほら。返すよ、洩矢の」

 

 ――鉄輪から『鉄』本来の象徴を奪い取り、無力化することもできる。

 ようやく手元に返された『最先端の武器』は、藤蔓が絡まり刃全体が赤く錆び朽ちた、ただの『ガラクタ』へと成り果てていた。

 歯が、強く軋んだ。

 

「やってくれるじゃないか……!」

「やってやるさ」

 

 血を失い幾ばくか白くなった唇で、しかし神奈子は、凛と笑う。

 

「あいつが、ここまで命張ってくれたんだ。……私だって、張るもん張らなきゃね」

「……!」

 

 そして諏訪子は、神奈子の背後に二本のオンバシラが立つのを見た。

 歯が、砕けるかと思った。

 

「本当に、やってくれるじゃないか……!」

 

 ほんの少し前に、鉄輪で切断してやったばかりのオンバシラだ。……真っ二つにされたら、制御不能になるんじゃなかったのか。少なくとも、これ以前に断ち切ってやった三本のオンバシラはそうだったはずだ。まさかこの時に備えた布石とするために、わざと制御不能になると見せかけていたとでもいうのか。

 

「随分と出し惜しみしてたもんだね」

「出しあぐねてたんだよ。……上手くやらないと、また真っ二つにされるだけだしね」

 

 焦ってたんだよ私も、と神奈子は薄く笑う。元々巨大なオンバシラだけあって、真っ二つにされているとはいえ、その大きさはなおも神奈子の身の丈を超える。直撃をもらえば勝負が決まるのに変わりはないだろう。

 今までなら、このオンバシラを恐れる理由はなかった。だがここに来てようやく、諏訪子の頬を一筋の冷や汗が伝った。

 

「さあ、真っ二つにできるもんならやってみな……!」

 

 鉄の属性を奪われたガラクタなぞで、霊験あらたかな神具に勝てるわけがない。真っ二つにするどころか、逆にこちらが真っ二つにされる。

 故に諏訪子には、撃ち出された二本のオンバシラに対し、回避以外の選択肢がない。

 

(……あーもう! どうすっかなあこの状況っ!)

 

 認めたくはないが、形勢が完全に逆転した。もちろん、体力的に有利なのは諏訪子の方だ。しかし神奈子にはオンバシラという最大の相棒が甦り、一方の諏訪子はそれに対抗するだけの武器を奪われた。このままでは、いずれ押し切られるのは目に見えている。

 今更になって臍を()むが、遅すぎた。大和を蹂躙する力を持つ藤千代と、オンバシラに打ち勝つ力を持つ鉄輪――その二つがあれば勝ちは確定だろうと、過信して、そこで思考を止めてしまっていた。よもやこうして藤千代と鉄輪が両方とも打ち破られてしまうとは、完全に想定していなかった。よもやこうして追い詰められる側に回されてしまうとは、夢にも思っていなかった。

 思考を焦燥で回転させる。『坤を創造する程度の能力』を使って、大地を武器に変えて戦う――岩をも砕くオンバシラの前では無意味だろう。ならばミシャグジを統べる洩矢神として、神奈子に呪いを掛ける――できなくはないが、強力な呪いをつくるにはそれ相応に入念な下準備が必要になる。高位の神である神奈子にも通用するほどのものとなれば、少なくとも、戦いの最中に即席でつくれるような代物ではない。

 

「……」

 

 ……あれ? もしかしてこの状況、結構詰んでる?

 やっべーとダラダラ冷や汗を流して、冷静さを欠いたのがいけなかった。

 

「せっ……!!」

「うわっ!?」

 

 ふと気づいた時にはオンバシラが目の前に迫ってきていて、慌てて鉄輪を交差し盾にする。しかしもはや錆び朽ちたガラクタなどでは、岩をも砕く神木の突撃を止められるはずもなく、

 

「――!」

 

 鉄輪が砕け散る。そしてなおも受け止めきれなかったオンバシラが、諏訪子の小さな体を跳ね飛ばす。

 

「くうっ――!」

 

 直撃。だが鉄輪の盾である程度勢いは殺せたので、決定打ではない。

 

「ああもう! こうなったらどうにでもなれ!」

 

 叫び、諏訪子はすべての神力を開放する。ここまで追い詰められてしまえば、どうやったら勝てるかなど考えるのはもはや無意味だ。己のできるすべての戦法を手当たり次第にぶつけ、当たって砕けるしかない。

 やってやる、と諏訪子は思う。神奈子の戦術の肝はオンバシラだ。彼女の『乾を創造する程度の能力』は、戦向きの能力ではないから危険視する必要はない。飛び交う二本の神木の動きにさえ細心の注意を払えば、まだ諏訪子にだって勝機は――

 

「――え」

 

 そして、体勢を整えた瞬間、呼吸が止まった。

 八坂神奈子が、目の前に、いた。

 己の最大の武器であるはずの、オンバシラを捨てて。

 あふれる血を玉にして散らすほど、拳を、強く握り締めて。

 

「なっ、」

 

 ――馬鹿な、というのが、諏訪子の率直な心境だった。繰り返すが、八坂神奈子の戦術の肝はオンバシラだ。幾重にも加護を施した四本の神木を縦横無尽に操り、彼女は接近戦でも遠距離戦でも強大な力を発揮する。しかし一方で、神奈子自身の肉体的な戦闘能力そのものは、決して高いものではなかった。当たり前だ。神奈子は元々雨風の神であり、その肉体は戦いのためにつくられたものではないのだから。己の拳など、とても武器として使えるような代物ではない――はずだったのだ。

 単身懐に入り込まれるなんて、完全に想定外。単身で戦うだけの力を持たないからこそ、彼女はオンバシラという武器を振るっていたのではなかったのか。

 その読みが、すべて外された。

 ああ、そうか。八坂神奈子が今までに、馬鹿の一つ覚えのように、オンバシラしか振るわなかったのは。

『自らが単身で相手に突っ込む』というこの最終手段を、諏訪子の思考から確実に排除するため――

 

「さあ、歯ァ食いしばれ――」

 

 あ、やば、と諏訪子が思ったのは一瞬、

 

「――よくも散々コケにしてくれたなこんちくしょうがあああああああああっ!!」

「みぎゃああああああああああ!?」

 

 神奈子渾身の拳骨(・・)が、諏訪子の頭蓋骨を叩き割る――とはさすがに言いすぎだけれど、叩き割られたと錯覚するほど痛かったのは、立派な事実なので。

 あーもうこいつあとで絶対しこたま呪ってやるぅ、と固く心に決めたところで、洩矢諏訪子の意識はふつと途切れた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 なまじっか体が丈夫だと、こういう時に、少し困ってしまうことがある。

 ありがとうと唇を動かしてまぶたを下ろした、あの気持ちのままで気を失えたならば幸せだったろうに、良くも悪くも頑丈な鬼の体のせいで、藤千代は割とはっきりした意識のまま、ぼけーっと青空を見上げているのだった。

 お陰様で全身を蝕む火傷がじくじくと痛くて、せっかくの幸せだった気持ちが、ちょっと微妙な後味になってしまった。

 

「……もうちょっと強めにやってくれてもよかったんですよ?」

「……いや、手負いなりに充分全力だったよ。気を失いもしないお前の方が頑丈すぎるんじゃないかい。両腕吹っ飛んで、胸に穴が空いて、全身に火傷。……いくら妖怪でも、そこは気を失っておくべきところだと思うけどね」

 

 まあそうなんですけどねー、と藤千代は小さく呟く。自分の体がここまで頑丈だとは知らなかった。両腕吹っ飛んで胸に穴が空いて全身に火傷を負う機会など一度もなかったから、こんなになってもまだ大丈夫なんだなー、と自分で自分に感心していた。

 まあ一言で大丈夫とはいっても、あくまで意識がはっきりしているだけで、体はまったく動かないのだけれど。

 視界にふと影が差す。腕の消えた右肩から己の血を滴らす彼が、左に携えた剣から藤千代の血を滴らせ、まっすぐにこちらを見下ろしている。

 

「いいですよ」

 

 藤千代はまぶたを下ろして、そっと微笑んだ。

 

「あなたに討たれるなら、それはそれで、悪くないです」

「……」

 

 うんめいのひとに、送ってもらえるのなら、いいかな、と思う。本音を言えば、もっと色々と、彼のことを知りたかったけれど……それを言葉にする権利は、敗者の藤千代にはないだろう。

 彼の裾が擦れる音。左腕を振り上げたのだろう。あとは、振り下ろすだけで終わり。

 一つ、藤千代が、深く呼吸をするだけの間があって。

 

「――?」

 

 落ちてきたのは、刃ではなかった。ほのかに温かな水を吸った、柔らかいなにかが、無造作に体の上に落ちてきた。

 不審に思った藤千代が、目を開けてみれば。

 こちらの体に上の着物を脱いで被せた彼が、剣を地面に突き刺して、それを背もたれにずるずると座り込んだところだった。

 

「……月見さん?」

「血が染み込んでて悪いけど、我慢してくれ」

 

 彼の行動の意図はわかる。全身火傷――つまるところ藤千代の服など完璧に燃え尽きてしまっていたので、そのあたりを気遣ってくれたのだろう。

 けれど。

 

「……私のこと、討たないんですか?」

「冗談」

 

 問えば、彼は疲れ果てたように弱々しく苦笑して、

 

「私は、殺しをするためにこの戦に首を突っ込んだわけじゃないよ」

「……」

「だから、お前を止められたならおしまいだ。……私も、もう疲れたしね」

「……そうですか」

 

 ふと、戦いの中で両腕を斬り飛ばされてしまったのが、この上なく口惜しいことのように思えた。腕が、手があれば、藤千代の体を包むこの着物を、染み込んだ血にまだ体温が残っている彼の着物を、胸いっぱいに抱き締めるのに。

 ふあ、と彼が小さくあくびをする。

 

「ああ、疲れたら眠くなってきたなあ。……向こうはまだやってるみたいだし、先に休ませてもらおうかな」

「……お昼寝ですか!?」

 

 藤千代は腹筋と背筋の力だけで、そおい! と跳ね起きた。傷が深くて動けないと思っていたけれど、やってみたら意外といけた。

 体の上に被さっていた彼の着物が、足元に落ちる。

 

「お、おい起き上がるな色々見えて――ってうわ、もう治ってきてるし……」

「あ、本当ですね。これはきっと愛の力ですねっ!」

 

 彼に信じられないものを見る目をされて初めて気づいたけれど、体中に広がっていた火傷が、少しずつではあるが治ってきていた。まだ大部分は黒かったり赤かったりしているけれど、ところどころは既に元の肌の色を取り戻している。出血も治まりつつあるようだ。大地の底から力を吸い上げたりは特にしていないので、うんめいのひとを見つけた乙女の、隠された愛の底力に違いない。

 

「まあそんなのはどうだっていいです! それよりも、お昼寝をするなら是非私も一緒に!」

 

 彼はこちらからそろそろと視線を逸らしながら、ゆっくりとため息をついて、

 

「……なんで私より重傷なお前の方が元気なんだろうね」

「抱き枕にしてくれてもいいですよ!」

 

 またため息、

 

「……もう知らん。私は寝るよ」

 

 剣に預けていた背中を横に倒し、色々なものを放棄するように、地割れした大地へ身を投げ出す。藤千代には決して目を合わせない。大部分が火傷で見るに堪えない有り様とはいえ、究極的には素っ裸である相手を、まじまじ見るわけにもいかないということなのだろう。

 別に見てもいいのに、と藤千代は思う。無論藤千代とてそのあたりの節制は弁えているが、彼になら、まじまじ見られるのも吝かではなかった。とはいえどうせ見られるなら綺麗な体を見られたいので、特に口には出さず、足元に落ちていた彼の着物を口で掴み、地面を転がってくるまりながら、彼のすぐ隣で横になった。

 まだ血が乾ききっていない着物は、ちょっとだけ彼の血の味がして、悪くない。

 

「じゃあ、一緒に寝ましょうか。おやすみなさい」

「……はいはい」

 

 返ってきたぶっきらぼうな返事を、心地良いと思いながら、藤千代はもうちょっとだけ彼の傍に添い寄る。逃げられないように、彼の脚に自分の脚を絡めて。

 この人と一緒にいよう、と思う。生まれて初めて出会った、本当の意味で藤千代に歩み寄ってきてくれた人。強大すぎる力故に心のどこかで孤独だった少女は、そうして自分の居場所を見つけた。

 彼の体に両腕を回せない今の状況が、本当に残念でならなかったけれど。

 それ以上に幸せだったので、まあいいかと思いながら、藤千代はゆっくりまぶたを下ろした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……なにやってんの、あんた」

「……なんだろうね」

 

 そして戦いが終結したのち、素っ裸の少女と一緒に寝ている状況について、月見が神奈子から白い目で見られたのは余談。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第41話 「その夜のこと」

 

 

 

 

 

「――というわけで諏訪大戦はそんな感じだったんですよあの時の月見くんは本当に素敵であっいえいえもちろん今だってとっても素敵ですよ当たり前じゃないですか月見くんが素敵じゃなかった時なんて今まで一瞬たりともないですよずっとずっと素敵な私のうんめいのひとなのですああもうほんとに思い出すだけでなんだか体がむらむらしてくるんですよねどうしましょうこれひょっとしたら今夜は眠れない夜かもしれませんよえへへへへへ……」

 

 月見たちが話を終えると案の定藤千代がトリップしだしたので、みんな揃って放置することにした。

 畳の上に寝転がって右へ左へ行ったり来たりしていた藤千代を、操が「あーはいはいあっち行ってようねー」と慣れた手つきで座敷の隅までごろごろ転がしていく。

 

「あの、月見さん……なんですかあれ」

 

 トリップする藤千代を初めて見た早苗が、目を白黒させて転がされていく彼女を指差すけれど、あいにくあのトリップ現象については月見も説明できるほど詳しくは知らないし、特別知りたいとも思っていない。月見にとってあまりありがたくない桃色な妄想が繰り広げられているのは明らかなのだから、知らぬが仏である。

 

「まあ、そういうものなんだよ。あんまり気にしないで」

「は、はあ……」

 

 早苗は若干引いているみたいだった。そのあたりに関しては、初対面でいきなり「『どうか僕を、あなたの犬にしてください』って言ってくれませんか?」なる大迷言を炸裂させた彼女も大概だと思うのだが、気のせいだろうか。

 

「へー。月見、その頃って九尾だったんだー」

 

 一方で月見の膝の上のフランは、藤千代のトリップ現象については特になんとも思わないようで、体を前後に揺すりながらつぶらな瞳で月見を見上げた。

 

「いつから今みたいになったの?」

「大戦が終わったあとだよ。少し休んで腕も元通りになった頃に体を確認したら、いつの間にかね」

「へえー」

 

 信仰が根強い洩矢の国を、いかにして大和に併合するか――そのあたりを神奈子と諏訪子があれこれ話し合っている間に、一週間ほど大和の方で静養させてもらって、ある日ふと尻尾の具合を確認してみた時には既に十一尾になっていた。パチュリーも言っていたが、死力を尽くして戦った結果新たな力に目覚めるとは、少々ファンタジックな気がする。

 ちなみに月見よりも明らかな重傷だった藤千代は、三日目の時点で根本からなくなった両腕含めて完全回復していた。解せない。

 

「え? 今みたいって、今は違うんですか?」

 

 なにも知らない早苗が小首を傾げれば、フランはえへんと我が物顔で胸を張って、

 

「うん! 月見ね、今はなんとじゅむぎゅ」

「はいはい、だからそんな大声で言わない」

 

 昔話を始める前に一度注意したはずなのだけれど、どうやら長い話に忘れられてしまったらしい。すかさずフランの口を両手で塞ぐ。

 

「え? 月見さんがじゅげむ?」

「違うから」

 

 早苗がわけのわからない聞き間違いをしている。

 

「あっ、儂それ全部言えるんじゃよ! じゅげむーじゅげむーごこうのすりきれー!」

「言わなくていいから」

 

 そして部屋の隅で操がわけのわからない悪ノリをしている。そんなの、正しく言えたとしても誰もわからないだろうに。

 

「かいじゃりすいぎょのー、すいぎょうまつーうんらいまつーふうらいまつー! ……しかしやっぱり昔のことだからか、千代も今とは随分違う感じだったのー」

 

 結局寿限無の暗唱を途中でやめた操が、そそくさとこちらに戻ってきて座敷に座り直す。部屋の隅でごろごろしている藤千代は完全に放置らしい。

 月見は、遠くから聞こえる「うふふふふふふふふふふ」と幸せそうな笑い声を極力意識しないようにしながら、

 

「……そうか? 今と大して変わらないと思うけど」

「いやほら、お前さんのことも『月見さん』って呼んどったし」

「ああ。今みたいに呼ばれるようになったのも、大戦が終わってからだね」

 

 それが、藤千代なりの親愛の表現らしい。彼女が人を君付けで呼ぶのは月見だけだし、ちゃん付けで呼ぶのも操だけだ。一方で藤千代のことを『千代』と呼ぶのも、月見と操だけ。

 

「それにしても、藤千代さんすごかったですね……。あの人が本気で暴れたら、幻想郷なんて壊滅しちゃうんじゃないですか?」

「え、そんなの当たり前でしょ?」

「……」

 

 諏訪子の即答に、早苗は真顔で押し黙る。

 諏訪子は月見の尻尾に絡みつきながら、呑気に笑って、

 

「ま、月見がいるなら大丈夫じゃない? なんてったって、その藤千代に勝ってるんだし」

「月見さん……! もしもの時は、幻想郷をよろしくお願いします!」

「やだよ」

 

 月見の即答に、早苗はまた真顔で押し黙る。

 

「第一ね、勝ったっていっても、話した通り運がよかっただけだよ。最後だって、藤千代が暴走してくれたからこそ、上手い具合に幻術がハマったんだ。そうでなかったら負けてたのは私だし、仮にもう一回戦ったとしても、二度と勝てはしないだろうね」

 

 前半は、本気を出してくれていなかったから。後半は、暴走してくれたから。だからこそ月見は諏訪大戦にて勝ちを拾えたのであり、初めから藤千代が純粋な意味で本気だったなら、結果がどうなっていたかなどわざわざ論じる意味もないだろう。

 早苗が絶望の表情をする。

 

「そ、そんな……! じゃあ、もしも藤千代さんが暴走してしまった時は一体どうすれば……!」

「そもそもしないと思うけど」

 

 えへへへへへなんてトリップしながら、部屋の隅を絶え間なくごろごろしているし。

 

「でもまあ、その時は紫でいいんじゃないかい」

 

 月見は、離れたところで輝夜と睨み合いをしている紫へ目を向けた。同じ規格外な能力を持つ者同士、紫に任せた方が何倍も勝率は高いだろう。むしろ能力の一点のみを見れば紫の方が規格外だから、案外普通に勝ってしまったりするかもしれない。たとえ見た目が普通の少女でも、妖怪としての実力は天下一品なのだ。

 そんな紫は月見の視線に気づくと、パッと表情を明るくして、

 

「えっ、なにどうしたの月見!? あっわかったよ私とお話したいんでしょ! いいわよちょっと待っててすぐ行」

「行かせるかあああああっ!!」

「きゃあああ!?」

 

 そして立ち上がりかけた瞬間、間髪を容れず輝夜に飛びかかられて押し倒された。

 

「ちょっとあなたいい加減にしてよ! いくら温厚篤実な私でも、さすがにそろそろ我慢ならないわよ!?」

「温厚篤実ってどういう意味だったかしら。……それはさておきあんただけはダメよ! 私の本能が叫んでるわ、あんただけはギンに近づけちゃいけないって!」

「ふんだ! 言っておくけど私は月見に呼ばれたのよ! 私は呼ばれた! あなたは呼ばれなかった! これが実力の差よ!」

「紫ー、別に呼んでないから気にしないでいいぞー」

「月見のばかあああああっ!!」

 

 ふぎゃー! とまた喧嘩し出した二人よりちょっと離れたところで、藍と永琳が一緒に酒を注ぎ合っている。どちらも、大分疲れ果てた顔をしていた。やはり幻想郷において、従者は苦労人ポジションなのだった。

 

「しかし、運がよかったとしてもよく千代に勝てたもんじゃのお。最後、千代の姿が見えとったらしいけど、なにをやったんじゃ?」

「ん……そうさねえ」

 

 操の疑問はもっともなのだけれど、少なからず答えにくい問いだった。結論をいえば、『当てを外す程度の能力』を使ったからに他ならない。己の能力で幾千の相手を打ち破ってきた藤千代は、ただ歴然とした事実として、この能力はまず破られないと理解していた。月見では絶対に自分の姿を捉えられないと、思い込んでいた。

 その認識に間違いはなかった。慢心でも自惚れでもなく、間違いなく事実だった。――そして、その事実を打ち破ってみせるのが、月見の能力だった。

 だからこそ、答えにくい。『当てを外す程度の能力』における最大の弱点は、相手にその名を知られてしまうこと。この能力は自分の運命を相手に委ねる、天国か地獄かの大博打をするようなものなのだから、タネを知られてしまえばそれだけで大きなデメリットになる。

 あ、と小さく声を上げたのはフランだった。

 

「もしかして、能力を使ったの? 私の時と同じで」

「……まあね」

「ほー? なんじゃあそれは、気になる話じゃの」

 

 操に探るような流し目を向けられ、「話してもいい?」とフランが月見を見上げる。月見は、まあそれくらいならいいだろうと思って、吐息混じりに頷いた。

 

「えっとね……月見が初めて紅魔館に来てくれた時のことなの。その時は、まだ私の中の狂気がずっと大きくて」

「ふむふむ」

 

 フランの話に耳を傾けながら、操がくいっと猪口を呷って、

 

「それで私ね、暴走しちゃって、『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』でね、月見の『目』をドカーンしちゃったんだけど」

「ブフゥッ」

 

 噴き出した。噴き出した酒は神奈子にかかった。

 

「は!? 月見の『目』をドカーンしたって、それって死!? 月見、さてはお前さん亡霊じゃなー!?」

「ち、違うよ! 確かにドカーンしちゃったんだけど、でも月見は平気だったのっ!」

 

 詰め寄ってきた操に、フランがわたわたと両手を振る。神奈子にかかった酒を、早苗がわたわたと布巾で拭く。

 

「能力を使ったんだって。私もどんな能力かは知らないんだけど、とにかくそれで大丈夫だったんだよ」

「あ、ああ、なんだそうなのか……」

 

 ほっと胸を撫で下ろした操は、それからすぐ不機嫌面になって、

 

「しかし能力か。お前さん、いつも秘密だ秘密だって言って、いつまで経っても儂に教えてくれんよなー?」

「そのあたりは、なんとなく察してくれると嬉しいよ」

「むう。相手の能力を無効化する能力とかかー? それなら藤千代の姿が見えたのも、フランの能力食らって生きてるのも説明できるが」

 

 月見は苦笑。そういう単純な能力だったなら、一体どれだけ楽だったろうか。

 操は俄然勢いづく。

 

「ぃよぅし、いい機会だしここで能力のこともカミングアウトしちまおうじゃないか! さあさあどうぞ! 恥ずかしかったらーほら、儂の耳に顔を近づけてー、愛をささやくようにぽそぽそっと教えてくれてもいいんじゃよ! ――ってどうしたんじゃ、そんな幽霊でも見たような顔して」

「……ああうん、幽霊というか」

 

 般若が操の真後ろに。

 

「――ねえ、天魔」

「ん? なんじゃよお、今大事な話しとるのに……」

 

 ウザったそうな素振りで振り返った操は、般若――もとい神奈子の、とてもステキな笑顔を見て石化した。表面上では笑顔でも、背後から吹き出すドス黒いオーラは紛うことなき般若の顔を描いていた。

 とてもステキな笑顔の神奈子は、同じくとてもステキな声音で、

 

「ねえ。あんたさ、さっき酒噴き出したでしょ?」

「う、うむ」

「あんたの前に座ってたの、誰だっけ」

「……あ、あー、誰じゃったかなー?」

「ところで私の服、濡れてるよね。なんでかな」

「……ええとー、そのー……なんでー、かなー……?」

 

 操が救いを求める目で月見を見る。月見はさっと目を逸らす。操は救いを求める目で早苗を見る。早苗は「わ、私、布巾洗ってきますね!」と慌てて席を立つ。操は救いを求める目でフランを見る。フランは「あっ、私、いい加減にお姉様を止めてこないと!」と逃げ出す。操は救いを求める目で諏訪子を見る。諏訪子はぐーぐー狸寝入りをしている。

 孤立無援。

 ふるふる震える操に、ポン、と神奈子の肩叩き、

 

「天魔。――表、出ようか」

「い、いやじゃー!? ほっほらほらあれって驚愕の事実じゃったし!? 今回はたまたま酒呑んでたのが儂だけじゃったけど、お前さんたちも呑んでる最中だったらやっぱり噴き出してたと思うんじゃよっ! だからこれは不可抗力でやめてお願い引きずらないでー!?」

 

 むんずと足を掴まれ、操がズルズルいずこかへと引きずられていく。

 

「ああっ、着物が、着物がまくれてっ、ちょっ神奈子ストップストップちょっと冗談ならないところまでまくれてきたいやあああああ操ちゃんまさかのサービスショットー!?」

 

 畳と擦れて大分際どいところまでまくれあがってきた着物を、操が必死に両手で押さえて抵抗するけれど、神奈子は意にも介さない。

 

「も、椛ーっ! ご、ご主人様のピンチじゃよ! ビーフジャーキーあげるから助けてー!?」

「……」

「あれ無視!?」

 

 ついでに椛もまったく意に介さない。

 そして座敷の端まで到達した神奈子は、大窓を広々開け放って、闇も深まり始めた夜の世界へと、

 

「そおい」

「ぎゃあああああ!?」

 

 操を放り投げた。黒髪に黒の着物で黒ずくめな操の姿が、あっという間に夜に紛れて――或いは真下に落下して――見えなくなる。

 更に神奈子自らも夜の中へと身を躍らせ、

 

「かっ神奈子、いくらなんでもいきなり投げ捨てるのはひどい――ってまさかのオンバシラ完全武装!? まっ、待つんじゃ確かに食後の弾幕ごっこってのも乙なもんじゃけどっ、いやーほら儂って鳥目だからもうお前さんの姿もろくに見え――見えないからヤメテ!?」

 

 一瞬、スペルカードを発動したらしい光が煌めき、七色の弾幕が一方的に夜を彩り始める。おっ遂に始まったかーなどと口にしながら、何人かの妖怪たちが窓際に寄って見物を始める。その様をぼんやり眺めながら、月見は音のないため息をもらす。

 ……どうやら水月苑の夜は、まだまだ、静かになりそうにない。

 

「にゃああああああああああ!?」

 

 あ、操が墜ちた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――これは、宴会に参加したほとんどの者たちが知らない、水月苑の夜がとっぷりと深まりきったあとのこと。

 八坂神奈子の天罰で操が撃墜されて以降も、ひっきりなしに名を呼ばれては座敷中を歩き回っていた月見が、ふいにその口元を押さえて、肺の中の息をすべて入れ替えるような大あくびを飛ばした。

 ちょうど妖夢が、幽々子とともに、祖父との思い出話を聞かされていた頃だった。

 

「あらあら。月見さん、お疲れですか?」

 

 そのあくびがあんまり大きかったので、幽々子がくすりと笑みをこぼす。

 月見も、照れ隠しをするように軽く笑って、

 

「そうだね。酔いも大分回ってきたみたいだ」

 

 無理もないと妖夢は思う。月見は名を呼ばれ行く先々でみんなから酒を注がれ、鬼たちにも負けないくらいの量を呑んでいた。酔いが回ってきた、なんて今更のように言っているけれど、きっととっくの昔に酔っぱらっていただろう。

 月見は、酔いが顔や態度に出るタイプではないらしい。こうして話をしてみても、特別、今までの様子と変わったところは見られない。

 ただ、とても眠そうだ。またあくびをしている。

 

「月見さんは、酔うと眠くなるタイプですものね」

「そうなんですか?」

 

 妖夢が月見を見ると、彼は涙がにじんだ目をこすりながら、

 

「普段は、眠くなるまで呑むことなんてまずないんだけどねえ。さすがに今日は呑みすぎたよ」

「あの……でしたら、無理はなさらなくて大丈夫ですよ」

「そうね~。私たちも、普段ならもうとっくに寝てる時間だしね」

 

 日付は随分前に替わっているし、ほとんどの参加者たちはとっくに酔い潰れて、好き勝手に雑魚寝をして幸せそうないびきをかいている。妖夢だって、まぶたがちっとも重くなっていないわけではない。

 眠そうな月見の姿に影響されたのか、幽々子が、あふ、と小さなあくびをして、

 

「なんだか私も眠くなってきましたわ~。それじゃあ月見さん、一緒に寝ましょう?」

「えっ」

 

 妖夢は思わずドキリとしたが、月見はどこ吹く風と笑って返す。

 

「一緒に寝るって言ってもね。どうせ、このままここで雑魚寝する感じになるんだろう?」

「お布団はないんでしょうかね? 私、ちゃんとお布団で寝たいですわ~」

 

 ……どうやら、また幽々子お得意の冗談だったらしい。無駄に焦った自分が馬鹿みたいだ。

 さておき確かに、これから寝るのであれば妖夢も布団がほしいところだった。堅い畳の上で、座布団を二つに畳んで枕代わりに――昼寝ならまだしも、それで朝まで寝るのはあまりよろしくない。きっと体だって節々が痛くなって、目覚めの気分は最悪だろう。

 もっとも鬼や天狗、河童といった面々は、老若男女関係なく堂々と畳を敷き布団にしているけれど。まあ彼らは妖怪だから、たとえ手ぶらで野宿になっても大丈夫なのだろう。

 

「どれ、ちょっと訊いてみるか。……千代ー。ちょっといいかー?」

「はいはーい」

 

 月見が名を呼べば、藤千代が酔った様子も疲れた様子も眠たげな様子も見せずに、やんわり笑顔でこちらの方を振り返る。さすがは鬼子母神というべきか、水月苑建設の総監督を務めたあとにも関わらず、彼女の体力は底なしだった。

 その手には、綺麗に折り畳まれたタオルケットが何枚か。先に眠ってしまった仲間たちに、一人一人甲斐甲斐しく、タオルケットをかけて回っていた。

 

「どうしましたー?」

「布団はどこにあるのかと思って。さすがにそろそろ眠くてね」

「布団でしたら、このお部屋を出てすぐの納戸に、このタオルケットと一緒に入ってますよ。ただ昨日の今日なので、まだ二十人分くらいしか用意できてませんけどー」

「……二十人分、ね」

 

 どこか乾いた切ない笑みをこぼした月見に、妖夢も苦笑いで同情する。まだ二十人分、ということはこれから更に増えるのだろう。やはりこの水月苑は、温泉宿、なのだった。

 ふと、咲夜が「お手伝いに来てあげなきゃ」とやたら嬉しそうに張り切っていたのを思い出す。紅魔館の家事を取り仕切るだけでも大変だろうに、それでもなお月見の手伝いを申し出ようとは、白玉楼の家事だけで悲鳴を上げている妖夢とは雲泥の差だった。これが従者としての格の違いか。半人前でごめんなさい。

 妖夢が自己嫌悪に陥っている脇で、月見と藤千代の会話は進む。

 

「月見くん、寝るんですかー?」

「ああ、寝るよ。いけなかったか?」

 

 藤千代は首を振り、

 

「いえいえとんでもない。どうぞ、ゆっくり寝ちゃってください」

「じゃあ取ってこよう。……とりあえず三人分でいいか?」

「あっ、わ、私も手伝いますよ!」

「大丈夫だよ。大した量じゃないしね」

 

 半人前でもこれくらいできるもん! と手伝いを申し出たものの、あっさり断られてしまった。月見の優しさ故なのだと気づいてはいるけれど、なんだか頼りにされていないみたいでちょっぴりショックである。

 一旦座敷を出て行った月見は、すぐに両腕に二人分の、そして尻尾にもう一人分の布団を乗せて戻ってきた。

 

「はい」

「あ、ありがとうございます」

 

 月見から布団を受け取る。普段妖夢が使っているものよりも一段ともふもふで、自分のすべてを委ねたくなってしまうくらいに気持ちがよくて、触っただけで早速あくびが出てきた。

 

「月見さんはどこで寝ますか~?」

「どこだって同じだろうさ」

 

 幽々子の問いに短く答えて、月見はその場で布団を広げ始める。じゃあ私はお隣に~、と幽々子がさりげなく隣を陣取っても、まるで気にする素振りがない。広げた布団をパンパンと両手と尻尾でならして、

 

「それじゃあ、お先に休ませてもらうよ」

「あ、はい。おやすみなさい」

「おやすみなさい~。よい夢を~」

 

 おやすみ、と眠たそうな声で小さく言って、最後にもう一度あくびをして。

 そして月見は、ぽん、と軽い音と煙を立てて狐の姿になり、布団の上で丸くなった。

 

「……?」

 

 頭の理解が追いつかなかった妖夢は、小首を傾げて、もう一度目の前の現実を咀嚼し直す。

 月見が、狐の姿になって、布団の上で丸くなった。

 

「……」

 

 狐の姿。

 狐、

 

「――うえええむぐぅっ」

「はいはい妖夢、騒がないのー」

 

 思わず叫びかけた瞬間、幽々子に後ろから口を塞がれた。妖夢はもがもが抵抗しながら、驚愕の眼差しで幽々子を見返した。

 いや、よくよく考えてみれば月見は狐の妖怪なのだから、別に狐の姿になったところでなにもおかしくないのだけれど。

 でも、なぜだろう。まさかこのタイミングで狐の姿になるとは思ってもいなかったからなのか、月見が狐になった姿を想像してもいなかったからなのか、とにかくものすごくびっくりした。今年始まって以来の衝撃だった。

 銀狐である。大きさは、普通の狐より一回りも二回りも大きくて、妖夢が背中に跨がれそうなほど。くすみのない豊かな銀の毛並みはひと目でわかるほどにふさふさもふもふで、釣行灯の明かりをきらきらきめ細かに反射している。狐といえば短い金毛のイメージが強かった妖夢にしてみれば、もふもふの銀狐というのはかなりのインパクトだった。具体的には、あのふっさふさなお腹あたりにもふーっと顔を埋めたくなるくらい。

 

「ふっふっふ、説明しましょう」

「もが」

 

 いつの間にか隣に藤千代が立っていた。彼女は穏やかにお腹を上下させる銀狐を見下ろし、天使とでも出会ったかのように目を弓にして、小声で言う。

 

「月見くんは、お酒に酔って眠くなると、この狐さんの姿になって寝るんですよー」

「もが……な、なんでですか?」

 

 いい加減邪魔だった幽々子の手を振り解いて、同じく小声で尋ねる。

 藤千代は首を少し斜めにして、

 

「さあ、そこまでは……。でも、酔っ払ってる間に無意識のうちになにかをやっちゃうってことはよくありますよね。私も昔は、酔うと服を脱いで寝てしまう癖がありましてー」

 

 後半に付け加えられた一言は、とりあえず有意義に無視するとして。

 

「ちなみに今は酔ってなくても脱ぎます」

 

 ……無視するとして。

 

「どう? 可愛いでしょ、狐の月見さん」

 

 幽々子に耳元でささやかれて、妖夢は改めて銀狐を見下ろす。もふもふ。月見の体が緩く上下すると、豊かな毛並みが綿毛のように揺れる。もふもふ。そのお陰で、あまり見慣れない狐にも関わらず、まるで犬を目の前にした時のような親しみやすさを感じる。もふもふ。

 ……妖夢はおずおずと、

 

「……あの、ちょっとだけ触っても大丈夫ですかね」

「ダメよ~。それでもし月見さんが起きちゃったら、人型に戻っちゃうかもしれないじゃない」

「妖夢さん、心で撫でるんですっ。心の手で撫でるんですっ。心の中でならなにをしたってうふふふふふ」

 

 微妙にトリップしかけている藤千代は、やっぱり有意義に無視する。

 けれど、彼女がおかしくなってしまうのも無理はないのかもしれない。なんていったって、もふもふの銀狐だ。もしこの狐が月見でなく、かつここが宴会の席でなければ――例えば周囲に人の目がない森の中とかであれば、妖夢は間違いなく欲望に負けてもふもふしていただろう。そして目を覚ました狐に向かって、大丈夫大丈夫、怖くないよ、なんて話しかけちゃったりしただろう。

 

「あれ? ……えっ、月見が狐になってるっ?」

 

 いつの間にか狐の姿で寝ている月見に、まず気づいたのはフランだった。すると続け様にレミリアが気づき、咲夜が気づき、次々と連鎖反応を起こして、皆が銀狐の存在に気づき始める。

 眠る月見を起こさない範囲で、ちょっとした黄色い嵐が巻き起こって。

 そしてそれが収まる頃には、みんながみんな、月見の周りに殺到して人垣を作り上げていた。

 

「すごーいかわいいー! すごいねお姉様、かわいいねっ」

「そ、そうね……。まあ、そのへんの野狐に比べれば少しはマシな方かしら。あくまで、少しは、だけど!」

 

 最前線にいるスカーレット姉妹を始め、みんながひそひそ声で叫び合っている。

 

「わ、私、狐なんてはじめて見ました……! 普段の人型の月見さんと、この狐の月見さん……これがギャップ萌えってやつなんですね! 不肖東風谷早苗、戦慄ですっ!」

「いやあ、私もこれは久々に見たねえ。……はいこら諏訪子、さりげなく飛びつこうとしない。起こしちゃうからダメだってば」

「ぅえー!? そんなっ、こんなに素晴らしいもふもふがすぐ目の前にあるのに!? ひどいっ、こんなの生殺しだよっ」

 

 早苗は興奮で顔を赤くしながら震え、神奈子は懐かしそうに笑い、ホールドされた諏訪子はじたばた暴れる。

 

「……永琳」

「ダメよ」

「まだなにも言ってないでしょ!? ただちょっと飼いたいなって思っただけで――あーはいはい嘘です冗談ですそんなこと考えてませんー! だから注射器取り出すのいい加減にやめてくれないかしら!?」

 

 永琳が黒い笑顔で注射器を構え、輝夜が引きつった表情でジリジリ後退していく。

 

「はわー……素敵な毛並みですねえ。私なんかよりも全然……」

「だーいじょうぶじゃよー椛だってしっかりもふもふしとるからっ! ……ところで文、お前さんそんな遠くからチラ見してるくらいならこっち来ればよかろうに」

「えっ、や、私は別に興味ありませんからっ」

 

 椛が自分の毛並みと月見の毛並みを比べてしょんぼりして、ボロボロの操がそんな椛をもふもふして、文がみんなから離れたところで一人で勝手に顔を赤くしている。

 

「……ねえ、藍」

「……なんですか」

「かわいいわねえ」

「そうですね。……わかりましたから紫様、鼻血拭いてください」

「おっとっと」

 

 なぜか紫が鼻血を垂らしていて、藍が呆れ顔でティッシュを手渡しつつ、横目でしっかり月見を観察している。

 

「ふっふっふー、上手く行ったね! みんなで月見にたくさんお酒呑ませた甲斐があったってもんだ!」

「こういう時にしか見れない姿だからねえ。……まあ、その、やっぱりかわいいもんだね」

「うふふふふふふふふふふ……」

 

 萃香がどやー! と胸を張って、勇儀が照れくさそうに頬を掻いて、藤千代がトリップしている。

 

「へー、月見さんって狐の姿だとこうなるんだあ。ねえ咲夜も見てみ――咲夜? 咲夜ー?」

「――ハッ。な、なに?」

「いや……どうしたの? ボケっとして……」

「な、なんでもないわ。ええ、なんでもないの。なんでも」

 

 咲夜が目に見えて挙動不審になっていて、鈴仙が不思議そうに首を斜めにしている。

 

「では、月見くんも寝たので私たちも寝ましょうかー。この部屋を出てすぐの納戸にお布団があるので、皆さん自由に持ってきちゃってくださーい」

 

 そしていつの間にか妄想世界から戻ってきた藤千代が静かに手を叩けば、みんなが「はーい」と小声で返事をして、忍び足で寝床の準備をし始める。

 その時になってようやく、妖夢は自分が敷布団を抱き締めたまま固まっていたことに気づく。

 

「妖夢~? どうかしたの?」

 

 多分、小難しい顔をしていたのだろう。こちらを覗き込んで問うてきた幽々子に、ゆっくりと首を振り返す。

 たった一人の妖怪を中心にして、どんな種族の者たちも関係なく集まって、笑う――それが、少し新鮮だっただけだ。

 

「なんでもないですよ」

「そう? ……あ、月見さんの隣で寝るなら今のうちよっ。ほら、みんなが戻ってきちゃうわっ」

「い、いいですよ私は」

 

 わたわたと両手を振る。狐の姿とはいえ、月見は基本的には人型の妖怪、すなわち立派な男だ。そんな人のすぐ隣で一晩をともにするなんて、奥手な妖夢には大分ハードルが高い。

 私はここでいいです、と言って、幽々子を挟んで月見の反対側に布団を敷く。やがて布団を抱えたみんなが足音を殺して戻ってきて、我先にと月見の周りを制圧していく。ドタバタと大分うるさい物音が鳴るが、酒がすっかり回った月見は、ただゆっくりお腹を上下させるだけ。

 それがなんだか幼い頃にやったお泊り会みたいだったから、妖夢はつい、笑ってしまった。

 枕に頭を預け、穏やかな心地で、釣行灯が光る天井を見上げる。正直なところ妖夢は、控えめな性格も手伝って、宴会のように騒がしい雰囲気というのがあまり得意ではない。だから今回の宴会では、咲夜たちと集まって小規模なテリトリーを形成して、少しでも周囲の喧騒を気にしないで済むようにしていた。

 けれど、今妖夢の耳を騒がせているこの喧騒は、さほど、悪いものでもなかったから。

 

「ふふ」

 

 水月苑がオープンしてからのことを、考えてみる。妖怪の山の近くなのだから、たくさんの妖怪と、神と、時には人間たちで賑わうのだろう。

 この宴会みたいに、種族の違いも、壁も超えて。

 そうしてみんなが、笑っているのだろう。

 

「はーい、それじゃあ皆さん、おやすなさーい」

「「「おやすみなさーい!」」」

 

 まだまだ元気な少女たちの声を聞きながら、妖夢はそっとまぶたを下ろす。

 それはきっと、素敵なことなのだろうなと、思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第42話 「閻魔様の抜き打ち家庭訪問」

 

 

 

 

 

 でっかい萃香とフランに押し潰されて、ヒラメみたいになる夢を見た。

 しかして嫌な脂汗ともに目を覚ませば、月見は確かに、萃香とフランに押し潰されていたのだった。

 

「……」

 

 断っておけば月見はヒラメになんてなっていないし、萃香とフランもでっかくなんてなっていない。お腹のあたりに二つの重苦しい違和感。萃香とフランが二人仲良く、月見の腹を枕にして眠りこけている。

 

「……ああ」

 

 その枕にされた哀れな自分の腹が銀の毛で包まれていたので、月見は夢から覚めるように今の状況を理解した。見回せば、周囲では幽々子であったり紫であったり咲夜であったり諏訪子であったり、見知った少女たちがみんな幸せそうな寝息を立てている。ほとんど無秩序に広がった布団畑の中心で、月見は銀狐の姿で眠っていた。

 狐の姿になった時の記憶はおぼろげだが、これといって驚いたりはしない。酒に酔うとこの姿で寝てしまうのは昔からだ。ただ500年振りなので、懐かしいな、とは思う。

 萃香とフランを起こしてしまわないよう慎重に二人の下から這い出て、更に眠る少女たちの体を踏んづけないよう、狭い隙間を静かに縫って布団畑を脱出する。

 それから、人の姿に戻った。狐の姿が嫌いなわけではないが、やはりこちらの方が、慣れ親しんだ自分の体だと思えた。

 

「ふう」

 

 ぐっと上に伸びをして、周囲を見回してみる。料理や酒の類は既に片付けられているものの、その代わりに座布団に布団にタオルケット、そして未だ夢路を辿る妖怪たち人間たちがあちこちに散らばっていて、ここが昨日できたばかりの新築だとはとても思えない惨状が広がっている。

 まあ、宴会明けの朝ならこんなものだろう。

 

「……あえ? 月見くん?」

 

 と、布団畑の中心近くから少女の声。一拍遅れて、藤千代が片目をこしこししながら起き上がる。

 

「ああ、悪い。起こしちゃったか?」

「いえいえ、ちょうど目が覚めたところですよ。おはようございますー」

 

 藤千代は、ちゃんと着物を着ていた。さて彼女には、就寝時に服を脱ぐ大変悪い癖があったはずなのだが、さすがに直したのだろうか。

 月見の言わんとしていることを察して、藤千代はあくび交じりに頬を緩める。

 

「さすがにこんな大勢の前では脱ぎませんよー」

「まあ、そうだな。いいことだ」

「それとも脱いでほしかったですか?」

 

 月見は無視し、顔を洗いに行くことにした。

 座敷を出ると、あーん待ってくださいよー、と藤千代の声がくっついてくる。

 

「月見くん月見くんっ。私、月見くんに訊きたいことがあります!」

「なんだ?」

「『こんな立派な家に一人だけというのも寂しいから一緒にここで暮らそうか』ってセリフはまだで――あーだから待ってくださいよおー!」

 

 駆け足で階段を駆け下りる。駆け足がついてくる。

 

「でも、さすがに通いづ――こほん、お手伝いに来るのはいいですよねっ? お掃除とか、一人じゃ大変ですもんねっ?」

「……」

 

 通い妻と言いかけたところは聞かなかったことにして、月見だって、水月苑の家事をたった一人でこなせるとは思っていない。加えてここは、名目でこそ月見の家だが、実際は温泉宿――外から客を迎え入れ歓迎しなければならない場所だ。家事から接待まですべてを一人でこなすためには、分身の術の習得が必要不可欠だろう。もしくは咲夜のように、時間を操る術か。

 

「あ、顔を洗うなら突き当たりを左です」

 

 故に、掃除を手伝ってくれるという藤千代の申し出は素直にありがたいのだ。ただし若干、いや明らかに下心が浮いて見えるのが気になる。

 突き当たりを左に曲がる。それから、ゆっくりとため息をついて。

 

「そうだねえ。少なくとも慣れるまでの間は、助けてもらおうかな……」

 

 月見は時間を止める能力なんて持っていないし、忍者でもないし、特別家事が上手いわけでもない。見事に外堀を固められてしまった感はあるが、ここは意地を張る場面でもないだろう。

 くっついてくる藤千代の声が、とても元気になった。

 

「まっかせてくださいっ! ちなみに、通い妻じゃなくて本妻がほしくなった時も任せてくださいね!」

 

 月見は後半部分を有意義に聞き流しつつ、

 

「なるべく迷惑を掛けないようにはするよ」

「そこは頑張らなくてもいいのに……。今は週一くらいでしか来られないかもしれませんけど、月見くんが望むなら、いっそ地上で生活できるようにさとりさんを説得しますもん! 物理的に!」

「や、そんなことしなくていいから」

 

 鬼子母神の物理的説得、それすなわち月見たちの基準で言うところの処刑である。この水月苑に変形機能をつけようとした愚かな河童のように、夜空でひっそり輝くお星様の仲間入りをするのだろう。

 ……ところで、あの河童は本当にどうなってしまったのだろうか。結局見つからなかったという話だが、もしかすると幻想郷の外まで吹っ飛んでいったのかもしれない。

 

「ところでその、さとりっていうのは?」

「あ、私の地底のお友達です」

 

 地底、と月見は小さく呟く。妖怪の山から洞穴を通っていける、元は地獄の一部だったところ――そういえば、それくらいのことしか聞いていなかった。

 

「もしかして、行ってみたいって思ってます?」

「そうだね。少し」

 

 こうしてゆっくり体を休められる家もできたことだし――本当にゆっくりできるのかどうかは甚だ疑問だけれど――、また幻想郷を歩き回る時に、目的地にしてみてもいいかもしれない。

 

「でも、月見くん含め地上の妖怪は、地底に行くためには紫さんの許可が要りますよー。いつもみたいに一人でぶらりと行くと怒られちゃうと思うので、気をつけてくださいね」

「ふうん?」

 

 生返事をしながら、月見は眉をひそめる。紫の許可がないと立ち入れないということは、事実上の立ち入り禁止区域といっていい。幻想郷の一大勢力である鬼たちの住処が、どうしてそんな扱いをされているのか。

 そういえば、と月見はふっと思い出す。月見は一昨日の永遠亭で、鬼たちが地底に移り住んだ理由を藤千代に尋ねていた。そしてその時彼女は、言いづらそうに「折り合いが悪かった」とだけ言って、話をはぐらかしていた。

 あの時は特に気に留めなかったけれど、立ち入り禁止の事実を聞いた今となっては、否応なしに引っ掛かる。

 足を止め、藤千代へ振り返る。つられて足を止めた彼女を見下ろして、

 

「ひょっとして、地底って結構ワケありなのか?」

「……」

 

 藤千代の沈黙を、月見は肯定と受け取った。

 少なくとも、明るい理由でつくられた住処ではないのだろう。幻想郷の土地は決して広くないが、住む場所がなくなってしまうほど狭いわけでもない。地底がどういう世界かはわからないけれど、元々地獄だったというからには、新世界を夢見て足を踏み入れるような場所ではなかったはず。

 藤千代は答えない。笑っているような悲しんでいるような、曖昧な表情をして、月見の脇腹あたりを見つめている。

 

「答えづらいことか?」

 

 藤千代はだんまりを続ける。肯定するのでも否定するのでもなく、答えるか否かを真剣に苦悩する沈黙だった。

 やがて藤千代は、月見を見上げて言う。躊躇いがちに身を引いた、下手な苦笑いで、

 

「……月見くん、怒りません?」

 

 やはり、楽しい話ではなさそうだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ごめんなさい。――鬼たちはもう、人間を、好きではなくなってしまいました」

 

 元々鬼は、人間に対して好意的な種族だった。

 もちろん、この表現には語弊がある。かつて陰陽術が全盛期を迎えた時代、人をさらう妖怪の代名詞をいえば鬼だった。鬼たちはその途方もない身体能力を武器として、幾度となく人間の生活と命を脅かした。

 けれど彼らは決して、人間に対して卑しい感情を持っていたわけではない。大多数の妖怪が食事のために人を襲ったのと違い、鬼たちは力(くら)べ――即ち戦いのために人を襲った。

 人間には、己、或いは仲間の危機に直面すると、理屈を超えた驚異的な力を発揮する能がある。例えばかの高名な大妖怪である金毛九尾の一匹は、さんざ好き勝手を尽くし人間を苦しめた果てに、この力の前に討ち倒された。

 鬼たちは、人間との真剣勝負を望んでいた。人間が持つ未知の力に、自分たちの拳が通じるのか試したかった。故に人さらいは、人間たちに危機を与え戦いの舞台へのし上げるための、招待状めいた行為だった。

 当時のことは、伊吹萃香がよく宴会の席で偲んでいるらしい。あの時の人間は骨があって、強くて、戦うのが本当に楽しかったと。

 鬼は人間が好きだった。そして好きだったからこそ人をさらい、真剣勝負を挑み続けた。――まこと、勝負事を好む鬼らしい在り方だ。

 だが人間は、良くも悪くも合理的な生き物である。圧倒的格上である鬼たちに対して、いつまでも正面からぶつかるなどという自殺行為は続けない。戦いの中で鬼の弱点を探り、有効な戦法を編み出し、やがてそれらが体系化されると、人間は鬼との真剣勝負を避けるようになった。

 口を悪くして言えば、卑怯な戦いをするようになった。

 

「きっと、裏切られたような心地だったんでしょうね」

 

 人間たちの行動は正しい。負ければ命を失うことだって珍しくないのだ。そもそも、鬼たちが用意した土俵に馬鹿正直に上がらねばならない理由からしてない。

 間違っていたのは、人さらいなどという残忍な手段で土俵を作ろうとした鬼たちの方。それがもたらした帰結を裏切りと呼び嘆くのは、被害妄想というものだろう。

 けれど鬼は、嘘を嫌う生き物だった。だから、好きだった人間たちが嘘を武器に戦うようになってしまったことが、悲しかった。

 嫌いになってしまうくらいに。

 

「地底に住処を移す話は、実は、月見くんが昔ここにいた時から出始めてたんです。もっともみんな月見くんのことを気にして、表には出しませんでしたけど」

「……」

「月見くんが外に出て行ってすぐですね……。同じ頃地上で忌み嫌われていた他の妖怪たちを集めて、ここを去りました。私は、人間のことを嫌いになったわけではないんですけど、鬼子母神の立場上仕方なく」

 

 人間たちと生活圏を同じくする生き甲斐を感じられなくなった鬼たちは、土蜘蛛や覚妖怪など、地上で爪弾きにされていた妖怪たちを連れて地底に下り、幻想郷に次ぐ妖怪たちの楽園を築いた。曲者やひねくれ者ばかりが集まってしまったが、藤千代を始めとする数人の良識者たちが代表となって統治することで、なんとかかんとかやっているらしい。

 とりあえず、果たして藤千代が良識者かという命題については、ここでは問題にしないこととする。

 

「怒りますか? 人間を嫌ってしまった鬼たちを」

 

 藤千代は儚げに笑った。怒られることを、覚悟している表情だった。

 もちろん、決して気持ちのいい話とは言えなかった。やはりどれだけ歳を経たとしても、自分の好きなものが嫌われているという事実は、針のように心に刺さるものがある。

 残念だと思う気持ちや、考え直してほしいと望む気持ちがないといえば、嘘になるけれど。

 月見は緩く、息をついて。

 

「……怒らないよ。お前たちだって、嫌いになりたくてそうなったわけじゃないだろう?」

 

 好き嫌いとは単純明快な感情論であり、だからこそ難しい。それは、生き物の本質に関わることだから。なにを好むもなにを嫌うも、己の理性が及ばぬ次元で定められた、必然みたいなものだから。

 理性で好き嫌いを制御できるのならば、人の子どもたちは食卓に嫌いな食べ物を出される地獄を見ないし、妖怪たちが縄張り争いをすることもないし、八雲紫は夢を見なかったし、鬼たちが幻想郷を去ることもなかった。そして好き嫌いが理性でどうにかできるものではないからこそ、人の子どもは嫌いな食べ物を鼻をつまんで食べないといけないし、妖怪たちはテリトリーに入ってきた余所者に吠えかかるし、こうして幻想郷が成立しているし、そこに鬼たちの姿がない。

 運命づけられた、時代の趨勢みたいなものだと月見は思う。

 口を挟むのは簡単だ。けれど、考え直してくれなんて言うつもりはない。

 月見が口を挟んでなにかがわかるくらいなら、鬼たちは初めから、人間を嫌ったりはしていないのだから。

 

「難しいものだね。なかなか」

「……そうですね」

 

 お互いに、苦笑する。

 

「でも、そんなに悪い場所じゃないですよ。みんなのびのび生活してるので、機会があれば是非来てみてください。月見くんならきっと大丈夫です」

「ああ。その時は、よろしく頼むよ」

 

 そこで、藤千代はいくらか肩の力を抜けたようだった。すっかりいつも通りに戻った、ふんわりとした笑顔で、

 

「洗面所はそこを曲がってすぐです。……じゃあ私、みんなを起こしに戻りますね」

「ああ」

 

 藤千代と別れ、一人、教えられた通りに廊下を進む。するとすぐに大きな両引き戸があったので、ここだろうかと開けてみれば、

 

「……」

 

 洗面所というか、脱衣所だった。ただし水月苑は温泉宿なので、一般民家の脱衣所とはわけが違った。

 入って正面には、洗面台が三つ。この時点で既に一般的ではない。左手には八畳間を三部屋分つなげたくらいの広い脱衣スペースがあり、壁一面には衣服を入れておく木製の棚とカゴ。中央では、休憩用の背もたれのない腰掛けが等間隔で列を為している。それを越えた奥には恐らく風呂場へとつながるであろう引き戸と、傍には現実に挑む強者の出現を黙々と待ち続ける、渋い貫禄に満ちた体重計。

 一瞬、風呂場がどれほどの広さなのか気になった月見だが、間違いなく見ても気が滅入るだけなので、あとにするべきだろうと判断。さっさと顔だけ洗って気分を入れ替え、二階の宴会場へ戻ることにした。

 しかしいざ階段に足を掛けたところで、玄関がノックされる音に呼び止められた。階段の一段目に足を乗せたまま、月見ははてと振り返る。今が正確に何時なのかは把握していないが、それにしたって客が来るにはまだまだ朝早い。知り合いの大半が二階で眠りこけている中、果たして誰がやってきたというのか。

 

「ごめんくださーい!」

「……」

 

 その声を聞いた途端、居留守を使おうかなと反射的に考えてしまった月見は、多分悪くない。

 最初の「ご」を聞いた時点で誰だかわかった。秋風のように涼やかで張りのある女性の声は、幼少時代からの成長ぶりから、月見の脳に鮮明に記憶されていた。そうでなくとも昨日の今日だ。わからないわけがない。

 つい返事を躊躇っている月見の先で、玄関のノックが次第に殴打へと変わりつつある。

 

「ごめんくださーい! いないんですかー!? まさか居留守なんかじゃないでしょうねー!?」

 

 戸に手を掛けられた気配。ほんの少しだけ横に引かれて、

 

「あら、開いてる。――ということは居留守ですね!?」

 

 ずっぱーん。

 温泉宿の顔としてそれなりに頑丈なつくりになっているはずの両引き戸が、襖を開けるような軽々しさで綺麗に真横に吹っ飛んだ。

 そして全開放された玄関を挟んで彼女と目が合ってしまえば、もはや居留守も無視もできるはずがない。

 月見はため息、

 

「おはよう。朝から騒々しいね」

 

 四季映姫はふくれ面、

 

「誰のせいですか!」

 

 月見のせいなのだろうか。

 

「私相手に居留守を使うなんて上等ですね。説教をご希望なら素直にそう言ってくれればいいのに」

「ご覧の通り広い屋敷だから、気づくのに時間が掛かっただけだよ」

 

 元ありがたいお地蔵様兼幼女、現地獄の閻魔様兼自称大人の女性、四季映姫である。つい先日月見と数百年来の再会を果たしたばかりの彼女は、捨て台詞となっていた『次こそ絶対に逃がしませんからね』を体現するかのように、どこからか水月苑の存在を嗅ぎつけてきたらしい。嫌な嗅覚をお持ちのようだ。

 今やすっかり目線が高くなった映姫は、玄関を見下ろし不機嫌そうに顔を歪める。

 

「なんですかこれは」

 

 指差す先には、百を超える履物がごちゃごちゃに散らばる地獄絵図。

 映姫は、地獄というよりかはゴミ捨て場を見るような目をしていた。月見は肩を竦めて答える。

 

「昨日から宴会をやっててね。ちょっとばかり人数が集まりすぎたから、不可抗力だよ」

「……そうですか」

 

 幻想郷の宴会については映姫も諦めている部分があるのか、仕方なさそうにため息をついて、すぐに月見へ視線を上げた。

 凛とした翠の瞳が、逃げるなよと言外に語っている。

 

「それよりもこのお屋敷です。なんですかこれは」

「私の家、兼日帰り温泉宿」

「ふざけないでください」

 

 これが冗談だったら、月見はどれほど楽になれるだろう。

 映姫は疑り深い目で月見を覗き込む。

 

「なにを企んでるんですか」

「……なんで私が悪事を働くのが前提なんだろうね?」

「今のが冗談でないとしても、あなたがこんな行楽施設を経営しようだなんて不審の極みです。さあ白状なさい。今なら未遂ですから、罪はまだ軽くて済みます。まああなたならどんな些細な罪でも許しませんけど」

 

 さすがは幾千幾万の罪を裁く閻魔王、血も涙もない。

 月見は悄然と頭を振って、

 

「なにも考えちゃいないよ。私だって、できれば普通の家で暮らしたかったんだから」

 

 とはいえ無償で家をつくってくれた皆の厚意を無下にするつもりもないので、この話はもういいのである。触れてくれるな。

 それよりも、と話題の転換を試みる。

 

「どうしてお前がここに? ここに私がいるなんて、どこで知ったんだ?」

「簡単なことです。先日、店主の説――いえ、店主とのお話が済んだあとで、あなたの行方を捜したのです。そうしたらここに辿り着きました」

 

 一瞬『説教』と言いかけたことについては、揚げ足を取らないでおく。映姫相手にやっても面倒になるだけだし。

 

「昨日は仕事も残っていたので已むなく引き返しましたが、今日はオフなのでそうは行きませんよ。さあ、覚悟なさい」

「……」

 

 沈黙する月見に、映姫はどこまでも澄まし顔だった。

 

「あなたには、主に目上の女性に対する礼儀について、これから諭さねばならないことが多くあります。宴会はもう終わったのでしょう?」

「まあ終わってはいるけど……もしかしてそれだけのためにわざわざここまで来たのか?」

 

 月見を説教するためだけに貴重な休日を使って地獄から遥々やってきたのだとすれば、閻魔様のありがたすぎる愛情に、滂沱の涙があふれ出そうだ。数百年前、彼女に目をつけられてしまった自分を全速力で空の彼方まで蹴り飛ばしてやりたい。

 映姫は真顔で首を横に振る。

 

「それだけなんてことはありません。私にとってはとても重要な問題です。死活問題ですらあります。私はもう子どもじゃありません。立派な大人なのです。大人なのですから」

 

 ギラギラ光る映姫の瞳は、本気と書いてマジと読む、を地で行く迫力に満ちていた。そのうち炎が燃え始めるだろう。

 梃子でも動かぬ固い決意で、彼女はズカズカ玄関に上がり込んでくる。

 

「そういうわけでお邪魔しますよ。……まったくこんなに汚くして、みんな一体なにをやってるんですかだらしない。玄関はその家の顔となる大事なところ、汚くしていてはお客さんに失礼です」

「……」

 

 正直なところそのまま回れ右でお引き取り願いたいのだが、そんなことをしたら最後、公務執行妨害だとかなんだとか難癖をつけられた上で説教ルートに直行しそうだったので、已むなく迎え入れるしか選択肢がない。

 ああ、強大すぎる権力の前では、己のなんと無力なことか。

 

「みんなは上ですか?」

「ああ。宴会明けでまだ寝てるから、あんまりうるさくしないでやってくれ」

「あら、なんでですか?」

 

 月見は嫌な予感を覚えて映姫を見た。映姫はにっこり微笑んで言った。

 

「もういい時間じゃないですか。これ以上の朝寝坊は不健全です」

 

 うきうきわくわく。そんな心踊る音が今にも聞こえてきそうな、大人の女性には程遠い無邪気な笑顔で、

 

「目覚まし代わりに、私が叩き起こして説教してあげましょう」

「……」

「ふふふ、この履物の量を見るに百人くらいはいそうですね。そんな大人数を一度に説教するのなんて初めてです。腕が鳴りますね」

 

 月見はもはやなにも言えず、その場でゆっくりと大きく息を吸って、吐く。

 それから、では失礼しますねーと軽やかな足取りで階段へと向かっていく、映姫の背中を見つめて。

 ――悪い、みんな。

 心の中で、仲間たちに先立つ不幸を合掌した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 予想外のことが起きた。月見が映姫のあとに続いてとぼとぼと二階へ上がってみると、宴会場のあちこちで雑魚寝していたはずのみんなの姿が、忽然とどこかへ消えてしまっていた。

 

「ん?」

「……誰もいないじゃないですか?」

 

 もぬけの殻である。だらしなく散らばった布団と、半分めくれ返った状態で放置されているタオルケットと、枕代わりに半分に折り畳まれたまま、癖がついて戻らなくなってしまった座布団たち。

 それだけだった。

 

「はて」

 

 有名な都市伝説、メアリー・セレスト号の逸話が脳裏に浮かぶ。散らかる布団もタオルケットも座布団も、どれもがたった今まで誰かが寝ていたように生々しい。

 というか、実際にたった今までみんなが寝ていたはずなのだけれど、どこに消えてしまったのだろうか。

 

「いやー、危なかったです。ギリギリでしたー」

 

 と、月見のすぐ傍から少女の声。――藤千代だった。月見が気づくなり、ぽふんと右の脇腹あたりに抱きついてくる。

 

「千、」

「しーっ。今は喋らないでください」

 

 咄嗟に彼女の名を口にしかけたところで、人差し指一本で制された。

 

「今私、能力を使ってるので。申し訳ないですけど、合わせてくださいー」

「……」

 

 なるほど、と月見は頷く。藤千代が有する能力――『認識されない程度の能力』。文字通り、自分の存在を他人から認識されなくする隠形の異能。

 これ見よがしに月見に抱きつきごくごく普通の声量で喋る彼女に、しかし傍の映姫が気づいた素振りはまったくない。広間のあちこちを見回して、「玄関に履物があったじゃないですか! なのにどこに!」と一人で憤慨している。今の映姫に藤千代の姿は見えていないし、声も聞こえていないし、更にはすぐ傍にいる気配すらも伝わっていないのだ。

 月見を見上げた藤千代が、むー、とかわいらしい声で唸る。

 

「やっぱり、月見くんには私の能力が通じないんですねー」

 

 ということは彼女、月見に対しても能力を使っているらしい。しかし残念ながら、『認識されない程度の能力』は月見には通用しない。

 月見の能力――『当てを外す程度の能力』による逆転現象。かつての諏訪大戦において、月見はこの能力で藤千代の当てを外し、彼女の姿を捉えることに成功した。さしずめ、『月見に藤千代は見えない』――それを一度逆転させた以上、あれから何百年何千年と経とうと、『月見に藤千代は見える』のだ。

 

「でも、そういうのも素敵ですよね。例えば私の能力が暴走してしまって、存在を認識されなくしたまま制御できなくなってしまったとしても……世界でただ一人、月見くんだけは、私を見つけてくれるんですから」

 

 えへへぇ、とだらしない笑顔で擦り寄ってくる藤千代を早速引き剥がしたくなる衝動に駆られるが、すぐ隣に映姫がいる状況ではそれも躊躇われた。ここで月見が藤千代になにかをしたとしても、映姫の目には月見の阿呆な一人芝居に見えることだろう。進んで人から白い目で見られたい欲望はない。

 とりあえず藤千代の好きなようにさせながら様子見していると、

 

「ツクミン補給ツクミン補給」

 

 藤千代が寡聞にして知らない謎の物質を補給し始めた。そして更にすりすりとすり寄ってくる。なかなか気味が悪い。

 藤千代はなぜか得意げに答える。

 

「ツクミンは、月見くんにすりすりすることで摂取できる栄養素です。炭水化物、たんぱく質、脂質、ビタミン、そしてミネラルと並んで、六大栄養素と呼ばれています。欠乏すると禁断症じょ」

 

 映姫が足元の布団に手をやって「まだ温かい……」とか呟いている隙に、月見は藤千代をひっぺがした。話の途中とか知ったこっちゃない。

 

「あーん……」

 

 藤千代の寂しそうな顔を無視し、映姫に聞こえないよう囁き声で、

 

「で、みんなはどこに行ったんだ?」

「ツクミンをもう少し補給させてくれたら教え――あああああ冗談ですごめんなさいアイアンクローはダメですっダメですっ」

 

 藤千代は体があまり大きくないので、とてもアイアンクローしやすい。

 

「……あなた、一人でなにをしているんですか」

「ん? ……いや、なんでも」

 

 いつの間にか映姫が冷めた目でこちらを見ていたので、月見は已むなく藤千代を解放した。

 あいたたたー、と両のこめかみあたりを揉み解している藤千代は一旦置いておいて、未だ不審な目をしている映姫の気を逸らすために、話題を進める。

 

「……で、みんなどこに行ったんだろうね」

「あなたも知らないんですか? ……嘘おっしゃい、さしずめ私に説教させまいとどこかに匿ってるんでしょう? 人の楽しみを奪うなんてやっぱり性悪ですね」

「なあ……お前、そんなに私のことが嫌いか?」

 

 小さい頃の映姫をからかった月見にも非はあるのだろうが、なにもここまでセメントにならなくても。

 それなりにショックを受けながら言うと、映姫はなぜかその言葉にひどく驚いた様子で、びくりと肩を震わせた。

 慌てて月見から手を逸らし、言い訳をするように唇を動かす。

 

「や、べ、別にそういう意味で言ったんじゃなくて……」

 

 コホン、と咳払い。

 

「ま、まあ、嘘を言っていないのであればいいんです。ええ」

 

 なにか並々ならぬ恥ずかしさがあるらしく、話は終わりだとばかりにまた空咳をして、

 

「でも、だとしたらみんなはどこに行っちゃったんですか」

「さて」

 

 月見は肩を竦めて目線を藤千代へ移す。アイアンクローの痛みから回復した彼女は、両手をこめかみから離すと、まるでこともなげにこう言った。

 

「ああ、映姫さんのお説教が嫌だったのでみんなで逃げました」

「……」

 

 もちろん映姫には聞こえていない。難しい顔をして、「まさか逃げられた……?」と考え込んでいる。

 

「こうして映姫さんがやってきたということは、月見くんもお知り合いなんですよね? じゃあ知ってると思いますけど、映姫さんってひどい説教癖がありましてー」

 

 藤千代は、べー、と映姫に舌を出して、

 

「下から声が聞こえたので、紫さんを叩き起こしてみんなで逃げちゃいました」

 

 なるほどね、と月見は内心で合点する。紫のスキマを使ったのであれば、みんなの姿がここまで忽然と消えたのにも納得だ。

 

「映姫さんのお説教は、みんなほんとに大嫌いなんですよー。一時間は当たり前、ひどい時は二時間も三時間も……」

 

 明後日の空を見つめ感傷的なため息を落とす藤千代は、まさしく『経験者は語る』といった体だった。もともと地獄の一部だった地底を治めている立場だけあって、閻魔である映姫とはなにかと縁があるのかもしれない。

 

「ごめんなさい、片付けもせずに逃げちゃって……。でもほんとに、映姫さんの説教だけは嫌なんですよぅ……」

 

 想像するのも恐ろしいのか、珍しく藤千代がふるふる震えている間に、月見は座敷をひと通り見回してみる。料理の片付けこそ済んでいるが、布団にタオルケットに座布団があちこちに吹っ散らかって、お世辞にも綺麗な状態とはいえない。

 けれど月見は、大したことだとは思わなかった。規模はさておき立派な家をつくってもらって、宴会も開いてもらって、食事の片付けだって咲夜や妖夢たちが率先してやってくれた。これでもなお胡座をかき続けるようなら、いよいよもって男のプライドを溝に蹴り捨てるようなものである。後片付けくらいは月見がやらねばならないだろう。

 

「本当にごめんなさい。お詫びに、私がお嫁さんになってあげるので許してください」

「いや、そういうのはいいから」

「……なに言ってるんですかあなた?」

 

 つい声に出してしまって映姫にまた不審な目をされたが、なんでもないよととぼければ幸い深くは勘繰られなかった。映姫にとっては月見の変な発言よりも、説教のため皆が消えた原因を探る方が大事なのだ。

 月見は、ぶー、とふくれ面をしている藤千代を無視して、

 

「それよりどうする? みんな、逃げちゃったみたいだけど」

「や、やっぱり逃げられたんですか!? なんでですかっ、せっかく私がありがたいお説教を聞かせてあげようと思っていたのに!」

 

 それこそがみんなに逃げられた原因なのだと、映姫は夢にも思っていないらしい。大きく見開かれた翠の瞳には、信じられないという驚愕がありありと浮き出ていた。

 そして藤千代の半目にも、信じられないという呆れ果てる気持ちがありありとにじみ出ているのだった。

 人生最大の楽しみに逃げられた映姫はいきり立っている。

 

「くっ……あなた、誰が宴会に参加していたのか教えなさいっ! あとでまとめて説教してあげます!」

「……もう、本当に冗談がお上手ですねー映姫さんは」

 

 藤千代が冷たい笑顔で腕まくりを始めるが、もちろん映姫は気づかない。

 

「月見くん。なんだか私、無性に映姫さんをぶっ飛ばしたくなりました。いいですか? いいですよね? はい、任せてください」

「……」

 

 厄介払いができるという意味ではそれもいいのかもなあと一瞬思ったけれど、しかしそれで映姫の怒りを買い説教地獄へ叩き落とされるのは月見である。まこと、世の中とは理不尽なものだ。

 なので月見は、さりげなく二人の間に体を割り込ませ、

 

「みんなで楽しんだあとなんだから大目に見てくれよ。だからこうして逃げられるような羽目になるんだぞ?」

「く、くうっ……」

「はい、そういうわけで帰った帰った。私はここの片付けをしなきゃいけないからね」

 

 半分は映姫に、もう半分は藤千代に向けてそう言えば、藤千代は比較的素直に頷いて、

 

「あっとそうでした、私ったらみんなを待たせてるんでした。それじゃあ月見くん、また会いましょう! 今度はちゃんとツクミンを補給させてくださいねー!」

 

 元気よく手を振りながら、ぱたぱた広間を飛び出していった。……後半のツクミン云々は、色々面倒なので聞こえなかったことにしておこう。

 さてもう片方の映姫であるが、彼女はしかめ面をしたままその場を動こうとしない。むう、と小さく唸りながら、広間を散らかす寝具たちへと目を向けている。

 

「……映姫?」

 

 彼女は広間をぐるりと見回して、しばらく考え込んでから、

 

「私も手伝います」

「……おや」

 

 その申し出を、月見は少なからず意外だと思った。閻魔になってからというものますます態度が尊大になった映姫とはいえ、それなりの協調性は持ち合わせているらしい。

 などと考えていると、半目で睨まれた。

 

「あなた、なにか失礼なこと考えてませんか?」

 

 月見は肩を竦めて受け流す。

 

「単に意外だと思っただけだよ。……しかしいいのか? 数があるから大変だぞ?」

 

 布団とタオルケットは数十人分、座布団に至っては全員分だ。ただの片付けとはいえ、この数にもなれば立派な重労働だろう。

 けれど映姫は己の発言を翻すどころか、どこか得意顔になって尊大に胸を反らすのだった。

 

「いいのです。大人のお姉さんとは、掃除のできない不甲斐ない男のために一肌脱いで、手伝いくらいしてあげるものなのです」

「……」

「感謝するように」

 

 ところで、かつて蜘蛛の巣と墨汁まみれになっていた哀れな地蔵を綺麗に掃除してあげたのは、一体誰だったろうか。

 そう思うだけで、口にはしない。掃除のできないダメ狐の烙印を押されているのは面白くなかったが、月見も大人の男なので、細かいことは気にせず素直に厚意を受け取るのである。

 

「それじゃあ、やろうか」

「よーく見ているようにっ。私が、掃除のきちんとできるお姉さんなのだということを教えてあげますから!」

 

 悔悟棒をしまい、映姫が意気揚々と布団畑に突撃していく。本当に大丈夫なのだろうかとやや不安になりながら、月見も手近なタオルケットを拾い上げる。

 ……結論をいえば、映姫の手際はそれはそれは見事なものだった。自分が掃除のできる女だと証明する意気込みと、更に元々の几帳面な性格も相まって、すべての布団を寸分の狂いもなく畳み、寸分の乱れもなく納戸に収納していく。標的がタオルケットに切り替わっても同上だ。もしもなんらかの理由で閻魔の職を失った時、彼女はメイドとして生まれ変わるのだろう。

 

「どうですか? きちんとできてるでしょう? すごいですよねっ? 私ったら、もうどこからどう見てもお姉さんですよねっ」

 

 しかし残念ながら、掃除のできる者が皆大人だとは限らない。例えば咲夜は年齢的にはまだ未成年だし、そうでなくとも布団なりタオルケットなり、とりあえずなにかをしまうたびにいちいちきらきらした瞳で月見の袖を引っ張ってくる映姫は、どこからどう見ても背伸びをして大人になったつもりでいるただの子どもだった。

 もちろん口にはしない。そうだねそうだねと適当に相槌を打っておけば、調子に乗った映姫がどんどん布団に飛びかかっていくので好都合だった。なんとも扱いやすい少女である。

 そんなこんなで面倒くささを感じるほど手間取ることもなく、部屋の片付けはあっさりと終了した。広い座敷には最終的に、月見とドヤ顔の映姫だけが残った。

 

「ふふふ、すっかり綺麗にしちゃいました。どうですか? 私の実力、思い知りましたか?」

「ああ。ありがとう、助かったよ」

「そうですよねっ。えへへ……」

 

 助かったのは事実だし最後くらいはちゃんと褒めてあげようか、と月見が素直に礼を言えば、映姫はもうすっかり舞い上がって、色づいた頬を両手で押さえ脂下がるのだった。

 

「じゃあ、下に降りようか。お茶くらいは出すよ」

「あら、感心ですね。それではご馳走に――っと、待ちなさい」

 

 回れ右をしようとしたところで、呼び止められる。月見が足を止めると、映姫はこちらの傍に寄ってすんと鼻を鳴らし、

 

「……やっぱりあなた、ちょっとお酒くさいです」

「まあ、宴会明けだしね」

「さしずめお風呂にも入ってないんでしょう?」

「……宴会明けだしね」

 

 不潔です、という映姫のジト目が体に刺さる。

 映姫はため息をついて、けれど一方でどことなく楽しそうに、

 

「決まりですね。お茶の前に、この私が、恐れ多くも、お酒くさいあなたの着物を洗ってあげましょう」

 

 『この私が』と『恐れ多くも』に、強烈なアクセントが付いている。

 

「別にそこまでしてもらわなくても、洗濯くらい自分で」

「黙りなさい。自分でやろうとするのは感心ですが、だからといって女性の前でお酒くさいのは無礼ですよ」

 

 しまっていた悔悟棒を取り出して月見へ突きつけると、映姫は言葉とは裏腹に莞爾と微笑む。

 

「まず、お風呂に入ってきなさい。その間に私が洗濯してあげます」

 

 本当に、楽しそうに。

 

「まったくもう、これだから大人の女性は大変ですねっ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 風呂場はやはり広かった。温泉宿の目玉としてつくられたのだから当たり前なのだが、この規模になるともはや大浴場と呼んでいい。整然と敷き詰められた踏み心地のいい床タイル、台形状に切り取られた御影石の浴槽、山の緑と空の青を一望できる巨大な吹き出し窓。窓の一部は勝手口になっていて、外に出た先で控えるのはヒノキの露天風呂である。

 御影石の浴槽は、難なく水泳ができる程度には広い。外の露天風呂も、ここまでではないにせよ、やはり広い。たった一日の突貫工事とは思えないほど素晴らしいつくりなのだが、月見は感心するのでも感動するのでもなく、ただ、掃除が大変そうだなあとため息をついた。

 ついでに言えば、見晴らしがよすぎるというのも問題だ。さざなみのように広がる日本庭園も、彼方でなだらかな尾根を築く春の山々も、天一面を埋め尽くす春空も、どれもどれもが見事で、開放感に満ちあふれていて――それ故に覗いてくださいと言っているとしか思えなかった。

 どうやら水月苑の運営にあたっては、覗きの対策が最優先課題となりそうだ。覗きが出ない、とは思わない。むしろ絶対出る。あいつらは絶対に覗く。

 

「一体どうなることやら……」

 

 まあそのあたりは、追々紫や藤千代たちと相談して決めていけばいいだろう。もしかすると彼女たちも、既に対策を考えた上でこのつくりにしたのかもしれないし。

 映姫が、「時間が掛かると思うのでゆっくりしてきていいですよ」と言ってくれたのを幸いに、体と髪をしっかり洗ってからのんびり湯船に浸かってみる。湯の色は薄い乳白色。湯温はちょっぴり熱め。一日振りというのもあってか、全身が痺れるような気持ちよさだった。天国のようだと謳ったにとりの弁も、あながち誇張ではないかもしれない。

 とはいえ、客が来ている中で本当にゆっくりするわけにもいかないので、十五分程度で上がることにした。露天風呂の方に行ってみるのも考えたけれど、妙に嫌な予感がしたのでまたの機会とする。

 浴場を出て、タオルで体を拭きつつ棚からカゴを引っ張りだす。中には、白地に青で文様を描いた温泉浴衣が一着入っている。温泉に入りに来た客への貸出用なのか、何十着か備えつけられているのを見つけた。

 着物が乾くまでの間に合わせには、充分だろう。袖を通して映姫のところへと向かう。

 水月苑の居間は、玄関から向かってすぐ右手の渡り廊下から入ったところにある。もはや驚くこともないが、やはり広い部屋だ。ここだけで、小さな家なら一軒建てられてしまいそうなだけの面積がある。

 映姫は、居間の中央にポツンと置かれたテーブルで、我が物顔でお茶を飲んでいた。洗濯は既に終わったようで、着物は物干し竿に袖から袖へと貫かれ、磔みたいになって縁側で干されている。

 

「お帰りなさい。体、ちゃんと洗ってきましたか?」

「それはもちろん」

「では……ほら、ちょっとここに座りなさい」

 

 映姫がテーブルを平手でぺしぺし叩いて、向かい側に座れと促してくる。言われるがまま月見がそこに腰を下ろすと、リンゴの乗った皿と湯呑みを渡された。

 

「どうぞ」

「なんだいこれは」

「見たまま、リンゴとお茶です。お茶は大分熱めに入れてますが、熱いうちに飲んでください。お酒くさいのを解消するのに効果がありますから」

 

 リンゴやお茶に多く含まれるカテキンとフラボノイドが高い消臭作用を持っていて云々。確かに、そんな話が脳の片隅に記憶されているが、

 

「わざわざ用意してくれたのか?」

「ふふふ、そうです。私はお姉さんですからね、こういう気配りもきちんとできるのです。どうです、恐れ入ったでしょう?」

「それは……面倒を掛けるね。ありがとう」

 

 恐れ入ったかどうかはさておき。

 映姫は、ふふん、といかにも得意そうに胸を張る。

 

「礼など要りません。ただ、あなたが私を子ども扱いしなくなればそれでいいのです」

「私が言うのもなんだけど、あの時のこと、本当に根に持ってるんだな」

「当たり前ですっ!!」

 

 途端、テーブルに映姫の拳骨が落ちた。屈辱と恥辱で膨らんだ頬が、リンゴさながらに赤い。

 

「私ももう長い時を生きましたが、あれは人生最大の屈辱でした! 本来であれば決して許されない大罪ですっ、地獄行き確定ですっ! それを不問にした私の、なんと心の広いことか!」

 

 月見は適度に聞き流しながらお茶をすすり、ほう、とのんびり息をつく。

 映姫はもう一度テーブルを殴り、ふう、と気持ちを落ち着けるように息をつく。

 

「ですが、私がもう子どもでないことは今日で何度も証明されましたので、あなたもわかってくれたと思います。これでいくらあなたが性悪でも、二度とあんな過ちを繰り返すような真似はしないはず。……わかりますか? 私は、あなたにもう一度チャンスを与えてあげるのです」

「さすが、閻魔様は寛大だね」

 

 掃除を手伝ってくれたり洗濯してくれたり軽食を用意してくれたり、変なところで月見の世話を焼きたがるようなので、ある意味ではとても心優しい女性なのだろう。子ども扱いに関しては、蟻の這い出る隙間もないほど心が狭いようだが。

 そしてこういった、大人らしさを連想させる褒め言葉に対しては、彼女はすぐに鼻高々になる。

 

「ふふ、そうですよ。感謝するように」

「……」

 

 ちょっとずつ、『四季映姫の扱い方』がわかってきたような気がする、月見だった。

 手元の小皿からリンゴを手に取る。よくお弁当のデザートとして生息していたりする、ウサギさん型のリンゴだった。フラボノイドはリンゴの皮に多く含まれているというが、それにしたってただの軽食にしては凝っている。

 

「確認するけど、これはお前が切ったんだよな?」

「ええ。宴会の余りなんでしょうね、ちょうど一つ見つけましたので。お姉さんな私は、リンゴもちゃんと切れるんですよ」

 

 月見は、切ったリンゴをせっせとウサギさんにする映姫の姿を想像してみる。ついでにもう少し遡って、月見の着物をせっせと洗濯するところも。多分、「もう、手が掛かるんですから~」なんて文句を言いながらも、にこにこ笑顔で、鼻歌でも歌いながら作業していたのだろう。

 

「ふむ」

 

 これではむしろ、

 

「お姉さんというよりかは、恋人か女房みたいだね」

「は――」

「ああ、別に変な意味じゃないよ。私のずっと昔の友人に、そいつには勿体ないくらいにできた女房がいてね。それを思い出して、少し懐かしくなった」

 

 思えば雪も、秀友が酔い潰れた次の日には酒を片付けたり秀友の服を洗ってやったり、『自称二日酔いに効く雪必殺薬膳茶(地獄仕様)』を作ってやったりしていた。ちなみに飲んだ秀友は「ガボッ」と変な声を上げて死んで、二日後になって息を吹き返した。確かに死んでいては二日酔いもなにもありはしないので、ある意味では効果抜群の薬膳茶だったといえる。

 ちなみに『自称二日酔いに効く雪必殺薬膳茶(天国仕様)』というバリエーションもあるらしく、飲んだ秀友はやはり死んでいた。

 懐かしいねえとしみじみ思っていると、ふと、あれだけお喋りだった映姫がすっかり静かになっているのに気づく。どうしたのだろうかと前を見てみれば、

 

「……」

 

 緑の髪に帽子を被って女の体を生やしたリンゴが――いや。

 首の根元から頭の先まで真っ赤っ赤にして、四季映姫が物言わぬリンゴと化していた。

 

「……ふむ」

 

 本気で絶叫する一秒前を切り取ったみたいな顔をしている。よく気をつけてみれば彼女の口だけが微妙にカタカタ震えており、中で言葉にならない感情が大洪水を起こしているのがありありと見て取れる。

 月見は映姫の目の前でひらひらと手を振ってみた。反応なし。

 おーい、と声を掛けてみた。反応なし。

 猫騙しをしてみた。反応なし。

 

「……」

 

 ウサギさんを半開きの口に突っ込んでみた。

 映姫が真後ろにひっくり返った。

 

「ふあっ!? い、いひはいはひお」

「おかえり。リンゴ、美味しいよ」

 

 起き上がった映姫は、自分の口の中で頭隠して尻隠さずになっていたウサギさんを引っ張りだして、憤然と、

 

「いきなりなにするんですか!? びっくりしたじゃないですかっ!」

「なんだか放心状態になってたみたいだから」

「あなたが変なことを言うからでしょうがっ!! なんなんですか、そのっ……ええと……っ」

 

 もじもじとなにかを躊躇う間があって、やがてぽそぽそしおらしい声で、

 

「こっ、…………こいびと、とか……にょうぼう、とか……」

「ただの例え話だからね?」

「当たり前ですっ!!」

 

 張りのある声音で一喝、またテーブルを殴られる。

 

「そもそも私、恋人とか、」

 

 そこまで言ったところでまたもじもじして、

 

「だっ、…………だんなさん、とか……」

 

 また白熱して、

 

「ともかくっ、そんなの全然いないですもん!」

 

 まあ実際にいるのだったら、話をするだけでここまで赤くなったりはしないだろう。リンゴになったりしおらしくなったり怒り出したり、なんとも忙しい閻魔様だ。

 

「なんですか、もしかして期待しちゃったりしてるんですか!? ま、まあ私は大人の女性なので、そういう目で見てしまうのも仕方ないですがっ!」

「……」

「そんな『うわなに言っちゃってんのこいつ』みたいな目をするなあああああっ!! さ、さてはあなた、私のことバカにしてますね!? 残念な人だと思ってますね!?」

 

 正直、ちょっと思った。

 月見がいたたまれなくなってさっと目を逸らすと、映姫は「もおおおおお!!」とテーブルを悔悟棒でメッタ打ちにしながら、体全体で激憤をあらわにするのだった。

 

「あ、あ、な、た、はっ……!! どうしてそう、いじわるな……!」

「……いや、むしろお前が勝手に暴走して自爆」

「言い訳しないでくださいっ! よしんばそうだとしても、あなただって男なんですから上手くフォローしてくださいよお!」

 

 映姫の若干涙目な訴えに、月見は少し考えて、

 

「……私は、少しくらい残念な方がいいと思うよ?」

「フォローになってなああああああああああっい!!」

 

 映姫渾身の叫びは、もしかすると人里あたりまで飛んでいったかもしれない。そうやって肺の中の空気をすべて音に変えた映姫は、もうテーブルに半分突っ伏しながら、ぜーぜー喘いで必死に酸素を補給していた。

 

「……大丈夫か?」

「だっ、だれの、せい、ですか……」

 

 月見のせいなのだろうか。映姫だって大人の女性を自称するなら、もう少し感情を理性で律する力を身につけてはどうだろうか。

 ともあれ映姫が息も絶え絶えで喋ることすらままならない様子だったので、月見はしばらく黙って彼女の呼吸が整うのを待つ。

 映姫は十秒ほどで復活して、突っ伏していた上体を起こすと、

 

「……わかりました。私、決めました」

 

 真剣な面持ちで一つ頷いた彼女に、月見の背筋を嫌な悪寒が駆け抜けた。なにを言われるのかはわからないが、絶対にろくなことではないという確信に近いなにかがあった。

 

「あれから何百年か経って少しくらいはと思ってましたが、やはり見過ごせません」

 

 しかして、月見の予感は的中する。

 

「あなたには、私が直々に、生きとし生ける者として正しい道を説いてあげる必要があるようです」

「……」

「仕事の合間に都合を見つけて、なるべくここまで様子を見にきてあげましょう」

 

 言葉を失っている月見を余所に、映姫は「名案ですね~」と自画自賛するように深く頷く。

 

「ちょうど、あなたがこの温泉宿をきちんと公序良俗に反せず営業していくのかどうかも気になりますしね。ですのでここは、大人である私が監視すべきでしょう」

 

『大人』にアクセントをつけては胸を反らす映姫を見て、失礼ながら月見は、その柔らかそうなほっぺたを思いっきり左右に引き伸ばしてやりたかった。きっとよく伸びるに違いない。

 あ~、と盛大に言葉を濁し、

 

「……いやほら、私みたいな卑小な狐にわざわざ貴重な時間を割くことはないと思うぞ? ちゃんと閻魔の仕事を」

「生者を改心させ正しい道へ導くのも、閻魔の大切な役目の一つです」

「……ほら、向こうだって忙しいだろうし、あんまりこっちに来ると迷惑に」

「大丈夫です、閻魔の仕事は交代制ですから。閻魔って実は二人いましてね、もう一人の閻魔が仕事中の間は私に自由時間が与えられるんですよ」

「考え直した方がいいと思う。主に私のために」

「聞く耳持ちません」

 

 月見がどうしたもんかと頭を抱えていると、思い立ったが吉日とばかりに、映姫がお茶の残りを飲み切って席を立った。

 

「そうと決まれば、今回は一旦戻ります。あなたをきちんと監視できるよう、仕事のスケジュールを調整する必要がありそうですから」

「……なあ映姫、本気か? 本気で言ってるのか?」

「当たり前じゃないですか。閻魔の本気を見せてあげます」

 

 月見を見据える瞳は、使命感が燃える本気(マジ)の瞳だった。

 

「ちゃんと規則正しい生活を心懸けること。ふしだらな生活をしたら説教です。温泉宿は真心を以て経営すること。経営者としてあるまじき行為を働いた際は有罪です。そして他人を小馬鹿にすることなく、何者にも礼節を以て接すること。他人に私みたいな屈辱を味わわせる真似をしたら地獄行きです」

「……映姫、あのな、」

「それでは、また会いましょう。すみませんが片付けはお願いしますね。さすがにそれくらいはできるでしょう?」

 

 本気(マジ)の映姫はもはや振り返らない。迷いのない足取りで月見の横を通過し、まっすぐに居間をあとにする。

 居間の襖が閉まった音。玄関が開き、すぐに閉まった音。空を飛んだのか、映姫の気配があっと言う間に遠ざかっていく。

 そして水月苑に仮初の平和が戻ってきて、たっぷりと十秒。

 

「……あー」

 

 怒りでも呆れでも悲しみでも寂しさでも苦しさでもないえも言われぬ感情を抱きながら、月見は真後ろに大の字になって倒れ込んだ。なんだか、見上げる天井がやけに遠くにあるような気がした。

 

「……なに考えてるんだろうなあ、あの子は」

 

 映姫は、月見のことを決して快く思っていないはずである。なのに今日一日だけで充分すぎるくらいに月見の世話を焼いて、更には暇があれば様子を見にきてやると言う。地獄を代表する閻魔王が、たった一匹の狐のために。

 そこまでして、そこまでしてでも、自分を大人だと認めさせたいのだろうか。彼女曰く性悪らしい、月見の性格を叩き直したいのだろうか。

 映姫の真意は、いまひとつ、はかりかねるところだけれど。

 とりあえずは、確実に言えることが一つ。

 

「さて……どうしたものかね」

 

 大屋敷。温泉宿。閻魔様の家庭訪問。

 一人でゆっくりできる場所がほしいという月見の当初の願望は、こうして完全崩壊と相成ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第43話 「温泉宿『水月苑』営業日誌」

 

 

 

 

 

 ――以下、とある鴉天狗の新聞記事より抜粋――。

 

 

 

 幻想郷に初の温泉宿! その名は『水月苑』!

 

 この記事を読んでいる皆さんは、妖怪の山の麓に、白い大屋敷がつくられたことは既にご存知だろう。幻想郷でも類を見ない白い外見を持つ屋敷として、この山でも随分と噂になっている。

 だが、あの屋敷がどういう経緯でつくられたものなのかまで知っている者は限られているはずだ。故にここでは、あの屋敷が一体なんであるかを余すことなく解説しようと思う。

 結論を先に言ってしまえば、あの屋敷は温泉宿である。幻想郷では聞き馴染みのない言葉かもしれない。温泉宿とは、宿の中でも特に温泉入浴を醍醐味としたものを指す。宿の名前は『水月苑』で、これは筆者の同僚である射命丸文氏が命名したものだ。

 水月苑を取り仕切る亭主は、数日前に外の世界から幻想入りした妖狐・月見氏。同氏は放浪癖があり長らく外の世界を旅して回っていたが、今回、およそ500年振りに幻想郷に戻ってきた。それを記念して、妖怪の賢者である八雲紫様、鬼子母神の藤千代様、そして我らが天魔様が主導となって建築し月見氏にプレゼントしたのが水月苑だ。つまり水月苑は温泉宿であるが、同時に月見氏のマイホームでもあるのである。

 ちなみに元々は普通の屋敷にするつもりだったが、冗談半分で温泉を掘ったら本当に掘り当ててしまったため、せっかくなので温泉宿にしてみることにしたのだという。案外適当な経緯だが、これは余談だろう。

 

 さてその水月苑であるが、温泉宿である以上、相応の金銭を支払えば私たちも温泉を利用することができる。綺麗に整備された大浴場で、美しく彩られた山紫水明を臨みながら湯に浸かる――筆者は完成記念の宴会中に一度入浴させていただいたが、正直に言おう、最高だった。それ以外の言葉は必要ない。

 水月苑は現在、今週末のオープンに向けて絶賛準備中の段階だ。時が来れば、筆者もあの快楽を再び味わうため、是非足を運ぼうと思う。

 

 しかしながら、もちろん注意点もある。これについては八雲紫様が箇条書きでまとめてくださったので、利用の際にはよく注意し、モラルのある温泉ライフを心懸けよう。

 

 

・水月苑の営業日は、毎週末の二日間です。これ以上営業日を増やすと月見の負担になってしまうので、ご理解ください。週末にどうしても予定がつかなくて別の日に入浴を希望する場合は、月見に直接相談してください。

 

・日帰り入浴推奨です。宿泊ももちろん可ですが、水月苑は月見のマイホームでもあるので、希望者は前もって月見とよく相談し、許可をもらってください。

 

・入浴は、二日間のうち一日目が女性のみ、二日目が男性のみ可となりますのでよく留意してください。特に、一日目にのうのうやってきた男性の方は地獄を見ることになります(比喩ではありません。スキマで本当に地獄に叩き込みます)。

 

・タオルや浴衣等の貸出は行いますが、できる限り持ち込むようにしてください。月見の仕事をあまり増やさないように。

 

・同様の理由から、石鹸とかもなるべく持ち込むようにすると、月見からの好感度が上がるかもしれません。私はもちろん全部持ち込みます!

 

・その他、月見に迷惑を掛けないよう常識的な利用をお願いします。

 

・ちなみに覗きですが、私と月見と藤千代と操を同時に敵に回す覚悟があって、かつ遺書を書き終えた人はまあやればいいんじゃないかしら。でも、その時は一切冗談抜きで容赦しないから♪

 

 

 ――だそうで、最後の一文から迸るような殺気を感じるのは筆者だけだろうか。

 愚かな犠牲者が、この山の同胞たちから出ないことを祈るばかりである。

 

 ところで温泉といえば、筆者の思い出は――

 

 

 

 ――以上、とある鴉天狗の新聞記事より抜粋――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……遂に、この日が来たな」

 

 次第に高さを増していく太陽を縁側で望みながら、月見は一人腕を組み、重々しい声音で独りごちた。最終決戦直前の、決意の朝だった。

 最終決戦――つまり温泉宿水月苑の初オープンの日――すなわち女性専用の入浴日。

 十中八九、露天風呂への覗きが出現するであろう、まさしく決戦の日であった。

 

「……月見」

 

 足音も気配もなく、背後から出し抜けに名を呼ばれる。だが月見は驚かなかった。振り返らぬまま、端的に応じた。

 

「……首尾はどうだ、紫」

「水月苑の周りに結界を張ったわ」

 

 紫からの答えは、いつにない真剣味で研ぎ澄まされていた。月見の友人としてではなく、妖怪の賢者としての、言い知れない底の深さを感じさせる声音だった。

 

「現状ではとりあえず、月見以外の男が内部に入り込むと反応するようになってる。この結界を越えずして、水月苑に近づくのは不可能よ」

「上々だ。……藍は」

「はい」

 

 続け様に月見が問えば、紫ではない別のアルトの声が、

 

「式の作成は終わりました。数はひとまず五十ですが、大丈夫でしょうか」

「ああ、充分だよ。ありがとう」

「いえ」

 

 極めて事務的で淡々とした報告が終わり、ひと時、互いの腹を探り合うような沈黙が満ちる。

 一つ深く呼吸して、ぽつりと口を切ったのは紫だった。

 

「……来るかしらね」

 

 すかさず問い返す。

 

「来ないと思うか?」

「「……」」

 

 極めて不快げな沈黙。身震いしたくなるような肌寒さを感じながら、月見は太陽の光に目を細め、吐息した。

 ……遂に、この日が来た。

 水月苑の覗き対策については、紫たちとあれこれ話し合った。それにも関わらず、不審者を察知する結界の展開と、式神による周囲の哨戒だけという、ある種手の抜いたような警備を計画しているのは――あけすけに言ってしまえば、餌を撒くため、だった。

 例えば、外からは中が見えず中からは外が見える、といったような特殊な結界を張る策もあった。境界を操る紫にかかれば呼吸に等しく容易い策だし、覗きを無力化するには実に効果的だ。

 けれど、初めからそういった確実な方法で封じ込めてしまっては、覗きを企てる男たちにしてみれば溜まったものじゃない。なんとかして結界を無効化する。外がダメなら、内部に隠しカメラを仕掛けるなどする。より巧妙かつ厄介な手段で、彼らは己の欲望を満たそうとするだろう。

 故にその前に一度、体に直接叩き込んでやる必要がある。覗きを決行した愚か者たちが、行き着く地獄を。

 一応、『覗きは、月見と紫と藤千代と操を四人同時に敵に回す行為だ』と謳い、釘を刺してはいる。けれど、言葉だけではわからない、もしくは立ち止まろうとしない蛮勇とは必ずしもいるものだ。故にそいつらをわざと手の抜いた警備で釣り上げ、断罪して見せしめとする。

 言葉による相互理解ではなく、恐怖と暴力による一方的な圧政。

 正直に言おう。覗き犯の処刑方法について、紫、藤千代、操の三人が笑顔で話し合う光景は、鳥肌が立つほど恐ろしかった。

 吐息。

 

「……とりあえず、ご苦労様。開店まではまだ大分時間があるから、好きに休んでくれ」

「じゃあさ、一足先に温泉に入ってきちゃっていい?」

 

 打って変わって、気の抜けるようなあどけなさというか、そそっかしさを感じさせる声が月見の耳をくすぐる。振り返れば、すっかり少女の顔に戻った紫が、えへー、と無垢な表情で笑っている。

 

「朝一番の貸し切り露天風呂って、素敵じゃない。ねえ、藍?」

「えっ……ええと、その」

 

 思いがけず問われた藍が、ぴくりと尻尾を震わせる。なにか答えるのに後ろめたいものがあるのか、彼女は紫と月見の間で視線を何度も往復させ、やがてしおしおと縮こまって。

 

「……」

 

 結局なにも言わないまま、とても恥ずかしそうに、尻尾をへんにゃりとさせたので。

 やはり妖怪とはいえ、女性とはかくも、温泉が大好きなのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そういえば、月見様」

 

 朝一番の温泉を終え、心なしか肌のつやつや成分が増した藍が、月見にお茶の準備をしながら何気なく口を切った。

 

「近いうちに、私の式神を挨拶に来させようと思っているのですが」

「式神?」

 

 彼女の口から出た意外な単語に、月見はテーブルに肘をついて眉を上げた。ちなみに、向かい側には藍が座っている以外に人影はなく、彼女の主人である紫は未だ温泉をご機嫌に占領している。そろそろ一時間近くが経つが、藍曰くこの程度はいつものことらしい。

 ともあれ、語られた話の内容だ。

 

「ええ。橙という、化け猫の式神です」

 

 藍が式神を作っていたというのは初耳だった。藍は紫の式神だから、この場合の橙なる化け猫は、式神の式神という少しややこしい立ち位置にいる存在となる。

 ふうん、と頷きかけた月見は、ふと会話の中の違和感に気づく。

 

「近いうちにって」

 

 挨拶させるのだったら今日ついでに連れてきてしまえばよかっただろうに、なぜ日を改める必要があるのか。

 その疑問が呼び水となって、月見は幻想郷に戻ってきて一日目――紫の屋敷で寝床を貸してもらった時のことを思い出す。そういえばあの時、屋敷には紫と藍しかおらず、橙という式神は姿はおろか名前すら出てこなかった。

 ということは、

 

「ええ。橙は、私たちと一緒に生活しているわけではないんです。普段は山の外れの外れにある、マヨヒガという化け猫たちの里で暮らしています」

 

 式神となった妖怪は、必ずしも主人に生活を束縛されるわけではない。もちろん藍のように常に主人の隣で助けとなることを求められる場合もあるが、必要な時だけ主人に呼び出され、それ以外は自由な生活をさせてもらえる場合もある。

 そして橙という化け猫は、どうやら後者の式神らしい。

 

「本当なら、今日連れてきてしまった方が楽だったんですが……まあ、一つの試験みたいなものでして」

「試験?」

「ええ」

 

 藍は湯呑みへお茶を注ぎながら、

 

「将来八雲の名を継ぐ者として、格上の相手にも怖じることなく、礼節を以て相対できるかどうか……といったところですかね。せっかく月見様がこちらに戻ってきてくださって、いい機会なので」

 

 つまりは、八雲の式神として恥ずかしくない挨拶ができるかどうかテストしてみましょう、ということらしかった。

 湯気を立てる湯呑みを月見の前へ差し出し、一つ、藍は区切るように息をつく。

 

「まだ若い式神なので失礼があるかもしれませんが、見てやってはもらえませんでしょうか」

「それは、もちろん大丈夫だけど」

 

 月見としても、藍が選んだ式神となれば是非会ってみたいし、それが向こうから来てくれるのなら拒む理由などない。

 だが、苦笑して言う。

 

「それはいいけど、あることないこと吹き込んで変な先入観持たせるのはやめてくれよ?」

 

 藍は少々、月見のことを過大評価しすぎているフシがある。昔紫が藍とちょっぴり喧嘩した際に、「私と月見のどっちが大事なのよ!」と勢いに任せて尋ねたところ、真顔で「月見様ですけど」と即答されてしまい、主人と式神の関係について丸三日真剣に悩む羽目になったとかならなかったとか。

 まあそれは、仕事をサボったり押しつけたりして、藍に迷惑を掛けてばかりな紫の自業自得のような気がするけれど。

 大丈夫です、と藍は莞爾と笑んで頷く。

 

「私は、私が月見様に対して感じていることを素直に教えるだけですので」

「……」

 

 とても不安だった。もしも橙が妖夢のように感受性豊かで素直な子だったら、挨拶よりも先に誤解を解くところから始まりそうだ。

 

「月見ー、上がったわよー! あー、気持ちよかった!」

 

 と、ようやく朝風呂から上がったらしい紫が、タオルを頭に乗せながら部屋に戻ってきた。彼女はほかほか湯気に包まれ幸せそうな顔で、当たり前みたいに月見の隣に腰を下ろすと、

 

「あ、そうそう。お風呂入ってる間に思い出したんだけど……はい、これどうぞ!」

 

 スキマに手を突っ込んで、なにか布の巻きつけられた細長い棒を取り出した。受け取った月見が、なんだろうかと思い紐を解いてみれば。

 ゆ、だった。

 よく銭湯の入口に垂れ下げられているのを見かける、中央に巨大な『ゆ』の一文字を刻んだ暖簾だった。

 紫がきらきらした目で月見を見つめている。どうやら、飾って! ということらしい。

 そういえば彼女は、何事にも形を気にしてから入るタイプだった。例えば大妖怪と認められるようになった境の日に、突然胡散くさいキャラを演じ始めて月見に白い目で見られたように。

 なにやら並々ならぬ楽しさがあるらしく、紫は子どもみたいにはしゃいでいる。

 

「ちゃんと玄関の上に引っ掛けるところがあるから!」

「ああ、そうなんだ」

「オープンする時は、ちゃんとそれを垂らしてね! じゃないと締まらないから!」

 

 はいはいと生返事をしつつ、月見は部屋の時計を確認する。

 水月苑の営業開始までは、あと一時間を切っている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幻想郷において、一般的に『山』といえば、それは妖怪の山を指す。幻想郷ではそれが最も有名な山であり、天狗たちが大きな社会を築く重要な土地であり、他の山とは一線を画した存在だからだ。

 日本で『山』といえば、富士山の姿を思い描かない者はいないだろう。その概念を、一種の常識にまで浸透させた形だと思えばいい。

 とはいえ無論、幻想郷に妖怪の山以外の山がないわけではない。妖怪の山と比べてしまえばどれも小さく、名前すら与えられていないようなものばかりだが、仲間は確かに存在している。

 妖怪の山の南西側に隣接するここも、そんな名もない山の一つだった。ただ、妖怪の山となだらかに尾根がつながっているため、ここが別の山なのだと意識する者は少ない。

 そこに、彼らは潜伏していた。

 

「――通信。こちらコード・アリス、潜伏地点に到着した」

 

 その鴉天狗は自らをアリスと名乗り、手にした無骨な通信機にそう報告した。少しして、紙をこすり合わせるようなノイズを前置きにして応えが来る。

 

『こちらコード・ジョバンニ、了解した。メンバーが揃うまでそのまま待機せよ』

「コード・アリス、了解。――通信終了」

 

 短く応え、通信機を置く。パンパンに膨れたナップザックを肩から降ろし、深呼吸をする。木漏れ日の中で天を仰ぎ、遂にここまで来た、と思った。

 むせかえるほどの緑が生い茂った、山肌の緩い斜面だった。アリスはあつらえむきな背の高い茂みに身を隠し、落ち葉を集めて座布団を作り、倒れ込むように腰を下ろした。

 手元の通信機から、ノイズ混じりの声が聞こえる。

 

『通信。こちらコード・ネロ、北方に異常なし』

『コード・オズより報告。東方も異常なし』

『コード・マルコ、西方も異常ありません』

『コード・ヘンゼル、南方も異常なし』

『コード・ジョバンニ、了解した。引き続き警戒に当たれ。――通信終了』

 

 こうして互いを作戦名で呼び合い、感情を押し殺して淡々と通信を行うことで、不思議と場の雰囲気も引き締まるようだった。初めはここまでする必要があるのだろうかと疑問に思っていたが、実際にやってみると悪くない。どうせ呼ばれるならカッコいい名前がいいからと、一番人気だったこの作戦名を勝ち取った過去の自分を褒めてやりたい気分だった。

 ちなみにこの作戦名であるが、幻想郷でも有名な某人形師の少女とはまったく関係ない。断じて。

 

『通信。コード・ガリバー、潜伏地点に到着しました』

『コード・ジョバンニ、了解。……よし、これで全員揃ったな』

 

 本作戦のリーダーであるジョバンニの言葉に、アリスは静かに呼吸を引き締め、居住まいを整えた。

 

『諸君、聞きたまえ』

 

 通信機を手に取り、耳へ近づける。

 泣いて馬謖を斬ろうとするような、硬い声、

 

『――ダルタニアンが逝った』

 

 ノイズが混じる通信機越しでさえ、メンバー全員の息を失う音が聞こえた。

 

『単身、ターゲットへの直接潜入を試みたが……やはり、周囲に探知用の結界が張り巡らされていたようだ。恐らく、八雲様だろう』

「……」

 

 俺のお気に入りの童話は三銃士なんだ、と子どもみたいに笑った、ダルタニアンの姿が脳裏を過っていく。目元に熱いものが込み上がってきた。拳で拭う。

 

『諸君。――戦友(とも)に、黙祷を』

 

 通信機から感じられる仲間の気配が静まり返り、十秒ほどの間、砂場をかき回すようなノイズだけで満たされる。皆が祈りを捧げている。アリスもまぶたを降ろし、志半ばで無念に沈んだ戦友(とも)が、英霊となれることを祈った。

 

『……戦友(とも)のためにも、我々は進まねばならぬ』

 

 アリスは前を見る。妖怪の山の南西に位置するこの場所からは、山の南側の麓周辺を一望することができる。

 水月苑を。

 水月苑の、露天風呂を。

 

『決戦の時は近い』

 

 アリスは胸元から懐中時計を取り出し、時間を確かめる。

 水月苑営業開始の、四十分前。

 

『では、各自準備に取り掛かれ。健闘を祈る。――通信終了』

 

 ブツ、と通信の切れた音が、作戦の始まりを告げる。

 成し遂げねばならぬと、アリスは思った。なんとしても成し遂げねばならぬ。己のために。仲間のために。死んでいったダルタニアンのために。

 震える己の手を、大丈夫だと激励する。そう、絶対に大丈夫だ。今のアリスたちには、ダルタニアンがその生命を以て示してくれた進むべき道があるのだから。

 彼は、教えてくれたのだ。

 

 近づくのは危険だから、遠くから覗け――と。

 

 ありがとう、ダルタニアン。だからお前は、安心して天国から見ててくれ。すべてが無事に終わったら、戦利品となるであろう楽園(エルドラド)の写真をありったけ焼き増しして、お前の棺桶に突っ込んでやるから。

 ひと時作業の手を止め、空を見上げる。

 ダルタニアンが、アリスに三銃士を見せてくれた時と同じ笑顔で、サムズアップをしてくれているような気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――それで、早速焼き鳥が一つできあがったわけだけど」

 

 営業開始を四十分前に控えた頃、水月苑周辺に張り巡らせた紫の結界に反応があった。紫がスキマを駆使して即刻確保したところ、カメラに通信機に盗聴器諸々を装備した鴉天狗だったため、庭に転がして月見と藍の狐火で焼いた。焼き具合は、せっかくなのでウェルダンにしてみた。

 営業開始三十分前。月見は庭の片隅で、ぷすぷすと香ばしい煙を上げている鴉天狗だったモノを眺めながら、

 

「どうする? 多分まだまだ来るぞ」

「みんな丸焼きよ」

「ですね」

 

 紫と藍のなんの躊躇いもない即答を、月見は大変頼もしいと思う。寒気がするほどに。

 紫が、震える拳を天に突き上げて叫ぶ。

 

「覗きは死すべし!! 私の入浴シーンを覗いていいのなんて月見だけよっ! ……あっ、でもだからって本当に覗いちゃダメよいきなり裸見られちゃうのはちょっと恥ずかしすぎるからちゃんと然るべき手順を踏んでからね!」

 

 月見は無視し、

 

「それじゃあ、そろそろ式の方も動かそうか」

「そうですね」

 

 同じく紫を無視した藍と頷き合い、事前に準備していた紙片の束を取り出す。獣の形に切り取られたそれらは、妖力を込めることによって意思を持って動き出す簡易的な式神。以前、月見が人里の子どもを探し出す際に使った『人形(ひとがた)』と同系統のものだ。

 覗きを企てる不届き者すべてが、あの鴉天狗だったモノのように、のこのこと温泉まで近づいてくるわけではない。中には警戒心が強く、遠く離れた場所から望遠鏡かなにかで覗こうとする輩もいるだろう。

 そいつらを炙り出すための、この式神だ。月見と藍が紙片に妖力を注げば、ポンポンと次々白い煙を上げて、庭中にたくさんの子狐が現れる。

 その数、およそ百。

 

「あーっ!? なにこれっ、かわいー!! 私と月見の子どもみたいっ!!」

 

 三十センチに届くかどうかの小さな体、さらさらの金毛、くりくりと丸い瞳に、さっそく心を射抜かれた紫がひょいと一匹を抱き上げて、

 

「あ、紫様、」

 

 起爆した。

 数メートルの火柱を上げる大爆発である。打ち寄せる熱気と熱風に月見と藍が思わず体を背け、やがて収まった頃に視線を戻せば、そこにはぷすぷすと香ばしい煙を上げる紫だったモノが転がっていた。

 

「……」

 

 なんともいたたまれない沈黙が周囲に満ちていく中、月見は少しの間だけ藍とお互いを見つめ合って、どちらからともなくふっと笑った。

 

「……まあ、爆発したのがここでよかったね。中だったら天井が焦げてた」

「そうですね。幸い誘爆もしませんでしたし」

「ちょっと待ってえええええええええ!?」

 

 紫だったモノが絶叫しながら跳ね起きる。金髪があちこちに跳ね上がり、服が焼け焦げてボロボロになり、顔中が煤だらけになった彼女は涙目で、

 

「なんで!? なんでいきなり爆発するの!? 狐エクスプロージョン!?」

「紫様、これは一定時間以上触れると起爆する攻撃型の式神なので気をつけてくださいね――とついさっきまで言おうとしてました」

「へーそうなんだありがとうっ! どうしてくれるのよせっかく温泉入ってお肌つやつやになったのにーっ!!」

「もう一回入ればいいのでは?」

「入るわよもちろんっ!!」

 

 キー! と焦げた金髪を振り乱しながら地団駄を踏む。爆発をモロに喰らったにも関わらず、挫けない元気な少女だった。

 ともあれ藍が説明してくれた通り、起爆効果を持つ攻撃型の式神だ。この子狐たちは営業時間の間だけ水月苑の周囲を哨戒し、覗きと思われる不審者には噛みつき攻撃からの爆発という血も涙もない連続技を叩き込む。また爆発時に上がる派手な火柱から、覗き犯の居場所をはっきりと月見たちに伝えてくれる。

 紫の結界と、この狐の式神たち。これで、餌に釣られた愚か者たちを縛り上げる準備は整った。

 

「さて、どうなるかね」

「……そうですね」

 

 敵の数は不特定。だが先ほど焼き鳥にした鴉天狗は通信機を持っていたから、どこかに連絡を取り合う仲間が隠れているのは間違いない。

 通信機まで一緒にウェルダンにしてしまったのがやや悔やまれるが、ここまできたら持てるすべての力を以て当たるのみ。

 紡ぐ言葉は静かに、けれど揺るぎない意志を以て。

 

「さあ……始めようか」

 

 まず怪しい場所は、南西方向にあるあの小さな山。

 百にもなる式神たちを、水月苑の裏からこっそりと、かつ素早く野へ放つ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――こちら、コード・アリス。ターゲット周辺に、次々客が入りつつある模様」

『コード・ガリバー、こちらも確認しました。……守矢神社に永遠亭、白玉楼の面々、それに鬼と天狗と河童も多数。よりどりみどりですね』

『こちらコード・ジョバンニ、確認した。各々機器の最終チェックを怠るな。ネロ、オズ、マルコ、ヘンゼルの四名は最大レベルで周囲を警戒せよ』

 

 開戦の時が近づいてきている。水月苑のオープンから一分ほど過ぎた頃、アリスは汗ばんだ手で通信を切り、フィールドスコープを一旦目から離して深呼吸をした。

 唯一、ダルタニアンの戦死を例外として、事はすべてが上手く進んでいた。水月苑への客の入りようからして、楽園(エルドラド)がこの世に顕現するまではあとニ~三分。加えて、未だ向こうがこちらに気づいた様子はない。

 楽観はできない。月見のもとにはスキマを使える八雲紫がいて、更に先ほど、そこに天魔と鬼子母神が合流していた。彼我の戦力差を考えれば、この場所を知られた瞬間にデッドエンドは必至――まさに一瞬の油断が命取りとなる、命綱のない綱渡りだった。

 けれど勇者たちは退かない。込み上がってくる恐怖を使命感で押し潰し、息を殺して、その時を待ち続けている。戦友(とも)が、一人死んだのだ。ここまで来て今更逃げ出せるものか。

 

「……」

 

 森は、静かだった。風の音と、葉擦れの音と、自分が呼吸をする音。それら三つの音に囲まれ、アリスの集中力と覚悟は最大限まで研ぎ澄まされる。

 通信に、前触れはなかった。

 

『こちら、コード・ガリバー。――来ました』

 

 雷撃に身を打たれ、アリスはフィールドスコープにしがみついた。水月苑の隅。壁のように並んだ大きな吹き出し窓。温泉の湯気で曇ったガラスの向こう側で、すらりと長い線を描く肌色の双脚が、見えた。

 

「――!」

『総員、戦闘態勢!』

 

 通信機から響いたジョバンニの号令に、アリスは反射的な動きでカメラを構えた。河童たちが持てる技術を結集して創り上げた、超高倍率のズーム撮影を可能にした逸品。倍率を上げる。上げる。上げる。最大まで上げるが捉えきれない。ナップザックの中からコンバージョンレンズを取り出して装着する。

 捉えた。これでもなお距離を詰め切れず、被写体はやや小さいものの、見える範囲になった。

 ガラス一枚を隔てた向こう側に、湯気とバスタオルで遮られた体が見える。窓の上部に切り取られて顔はわからないが、それなりの成長を経た少女のものだとアリスは判断する。

 ゴクリと、生唾を呑み込んだ。チャンスは一瞬――湯船に浸かるために、バスタオルを解いたその直後。

 仲間からの通信はない。全員が楽園(エルドラド)を手中に収めるため、限界を超えて意識を研ぎ澄ませている。

 もう少しだ。あと少し、あとほんの少しで、ダルタニアンが拝めず逝った楽園(エルドラド)を捉え切ることができる。そうだ、すべてが終わったら酒を呑もう。仲間たちと一緒に、前後不覚になるくらいの酒を呷って、我々の勝利を喜び合い、ダルタニアンへの手向けとしよう。ああ、見ているかダルタニアン。今、ファインダーの中の少女がバスタオルを脱ごうとしている。俺はシャッターを切るぞ。手ブレに細心の注意を払って、シャッタースピードは最速設定で。くそ、震えるな俺の両手よ。ここで失敗して手ブレでも起こしてみろ、俺はダルタニアンになんと詫びればいい。戦友(とも)たちだって全員が成功するとは限らない。プレッシャーに負けて全員が失敗してしまうかもしれない。だから俺がやるしかないんだ。他の戦友(とも)が皆失敗しても、俺が成功できれば大金星だ。今夜は無礼講の大宴会だ。ダルタニアンも報われる。天国で喜んでくれる。だからやれ。少女がバスタオルの結い目に手を掛けた。カウントダウンを始めろ。

 三、ニ、一、

 シャッターを切る、

 

『――ぐああああああああああ!?』

 

 瞬間、通信機の音量限界を振り切った、回路を焼き切らんとするほどの断末魔が、アリスの鼓膜に炸裂した。

 

「――!?」

 

 それだけではない。北側から地を揺らす爆発音とともに、アリスの位置からでも目視できる巨大な火柱が上がった。ファインダーから完全に目を離し、立ち上がる緋色を眺めて呆然と動きを止める。シャッターチャンスを逃した――否。

 

『――敵襲か!?』

 

 通信機を震わすジョバンニの叫びに、アリスは弾かれたように我を取り戻した。

 

『なにがあった! 報告しろ!』

「今の声、ネロか!?」

 

 通信機を鷲掴みにし、アリスもまた叫ぶ。火柱が上がった方角からして間違いない。今の悲鳴は、北側の警戒に当たっていたネロのものだ。

 

「ネロ! どうした、応答しろッ!」

『……ア、 ス……』

 

 アリスの必死の呼び掛けに、ネロから応答があった。だが雑音がひどい。通信機をやられたのか、今にも切断され応答不能になってしまいそうなほどのノイズが乗っている。

 

『やら……た……き ねだ……こ つね……をつ ろ……』

「おい! おい、ネロ!?」

 

 とてもなにを言っているのか聞き取れなくて、悲鳴に近い声になりながらもう一度呼び掛ける。

 だが、二度目の爆発と立ち上がった火柱によって、ネロとの通信は完全に絶たれた。

 

「……ッ!」

 

 その場を実際に確かめたわけではないが、誰しもが直感的に理解していた。熱風が自分たちのもとまで打ち寄せる感覚の中、理解せざるを得なかった。

 ――ネロが、逝った。

 

『くっ……! 総員、迎撃態勢ッ! なにかが来ているぞ!!』

「くそっ、だから言ったじゃねえか……! その作戦名は死亡フラグだってよォ!!」

 

 なぜ彼が、愛犬とともに非業の死を遂げた少年の名を作戦名に持ってきたのか、アリスにはどれほど頭を悩ませてもわからないし、そんなことは今はどうだっていい。ネロが戦死した以上、そこには敵がいる。あれほどの火柱を巻き上げる強大な爆破能力を持った敵が、すぐそこまで迫ってきている。

 やられてたまるか、と思った。ダルタニアンのためにも。ネロのためにも。楽園(エルドラド)のためにも。つーかあと少しで絶好のシャッターチャンスだったのによくも邪魔してくれたなコノヤロウと心の中で毒を吐き散らして、アリスは武器が入った傍らのナップザックまで手を伸ばし、

 もふっ。

 

「……もふっ?」

 

 もふっ、だった。柔らかで、温かくて、不思議な弾力があって、羽毛布団を遥かに凌ぐほどの触り心地を持った、もふもふのなにかだった。

 無論、こんなもふもふしたものを持ってきた覚えなどない。アリスがナップザックに入れてきたのは通信機と、楽園(エルドラド)を収めるために必要な機材と、武器と――どれも硬くて冷たい物たちばかり。

 では、これは――

 

「……狐?」

 

 狐である。身の丈が一尺になるかどうかの、くりくりとつぶらな瞳でアリスを見上げる子狐が、こちらとナップザックの間で行儀よくおすわりをしていた。なるほど、ナップザックと思って触ったのはこの子だったようだ。道理でもふもふするわけである。

 

「……しかし、狐か」

 

 子狐の頭から手を離し、アリスは眉をひそめて考える。一体どこから出てきたのか、まったく気がつかなかったが、まあ山の中だしこんなこともあるだろうか。

 それにしては、なにか引っ掛かるものがあるのだけれど。

 

「――って、それどころじゃねえって!」

 

 のんびりもふもふしている場合ではない。背後には敵が迫ってきているのだ、早く逃げるなり応戦するなりしなければ、冗談抜きで地獄を見る羽目になってしまう。

 

「……」

 

 そう思いつつも、あのもふもふがなんとなく名残惜しくなったので。

 アリスは最後にもう一度だけ、子狐の頭に手を乗せて、

 

「ほら、いい子だからそこをどいて」

 

 起爆。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「くそっ……一体なにが起こっているんだ!?」

 

 普段から冷静沈着を座右の銘とするジョバンニだが、この時ばかりは、瞬く間に広がっていく危機的状況に平常心を奪われていた。山のあちこちで爆発音が炸裂し、火柱が天を衝き、戦友(とも)との通信が次々切断されていく。

 この場に、仲間は六人いたはずだった。だが突如としてネロが逝き、アリスがやられ、ガリバーとの通信が途切れ、オズの場所で火柱が上がり、マルコの消息が途絶え、ヘンゼルの断末魔が聞こえ――そして気がつけば、通信機から聞こえるはずの戦友(とも)たちの声は、なに一つとしてなくなってしまっていた。

 ジョバンニは白熱した頭で思考する。敵が直接乗り込んできたわけではない。月見にせよ、八雲紫にせよ、鬼子母神にせよ天魔にせよ、彼らほどの大妖怪がここまで暴れれば、強烈な妖気が発せられるはず。だが現実は、精々爆発の際に微弱な妖力が感じられる程度で、故に戦友たちは皆、相手の接近を気づけずにやられてしまった。

 

「くっ……!」

 

 向こうがどのような手でこちらを攻撃しているのかはわからない。わからないからこそ、これ以上の抵抗は無意味だった。

 不本意ではあるが、退くしかない。ジョバンニは手早く荷物を整えると、木々の中に紛れながら、妖怪の山から離れる方向に走り出す。相手がどこにいるのか掴めない以上、見晴らしのいい空へ飛び出すのは危険だった。

 だが、

 

「ッ――」

 

 走り出してそう間もないところで、ジョバンニはハッと足を止める。

 囲まれている。

 

「――」

 

 頬を粘性のある冷や汗が伝った。……気配は微弱だが、確かにいる。ジョバンニの前後左右をくまなく包囲する、完璧に統率された、たくさんのなにかが。

 息を殺し、どうする、と自問した。頭を過る選択肢は三つ。強行突破するか、空へ逃げるか、降伏するかだ。この内、降伏はすなわち死を意味するので真っ先に除外される。空へ逃げる――この場はなんとかなるかもしれないが、顔を見られぬまま完全に逃げ切る必要性を考えると、やはり見晴らしのいい場所に体を晒すのは避けたい。かといって、相手が何者なのかも掴めていない現状で、強行突破を図るのも危険過ぎる。

 

「……いや」

 

 呟き、ジョバンニは白熱する己を宥めるように、ゆっくりと息を吸った。恐れてどうする、と思った。この作戦を計画した当初から、このような事態に陥る覚悟はしていたはずだ。死ぬかもしれない。否、敵の戦力を考えれば、死ぬ可能性の方が高い。それでも己はこの作戦の決行を決意した。多くの同胞たちが呆れ果て、ジョバンニから距離を置いた中で、七人の勇敢な戦友(とも)たちが、ジョバンニと運命をともにする覚悟を見せてくれた。

 ダルタニアン。アリス。ガリバー。ネロ。マルコ。オズ。ヘンゼル。

 今となってはもう、皆、ジョバンニを置いて逝ってしまったけれど。

 

「……退けるものか」

 

 己を取り囲むこの気配が何者なのか、わかりはしない。

 けれど、たった一つだけ、確かに言えることがあった。

 

「……貴様らは、仇」

 

 ジョバンニから七人の戦友(とも)を奪い去った、憎むべき敵。楽園(エルドラド)の前に立ちはだかる、越えねばならぬ障害。

 ならば、どうして退くことができようか。どうして、降伏することができようか。

 志半ばで逝った戦友(とも)の仇を討つためにも、己が最大戦力で、真正面からねじ伏せて、突破する。

 大丈夫だと、ジョバンニは思った。蔓延る敵は数こそ多いが、気配は貧弱そのもの。そしてジョバンニは、幻想郷が誇る一大勢力である天狗の一角だ。数の差を考慮したとしても、不利ということはありえない。

 故にジョバンニは、一気に妖力を開放し、一瞬でケリをつけようと――

 

「「「――見ーつけた♪」」」

 

 ――あ、死んだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――でも実際、お前は運がよかった方だよ。未遂ってことで、私と藍に丸焼きにされるだけで済んだんだしね」

「……は、はあ。そうッスか……」

 

 紫と藤千代と操が罪人の処刑を行っている頃、月見は水月苑の居間で、妖怪二人とテーブルを囲みのんびりお茶を飲んでいた。一人は、月見の隣に座る八雲藍。そしてもう一人は向かい側に座る、全身がこんがり焼けた鴉天狗の青年である。

 彼は未遂ということもあり、紫たちから命だけは見逃してもらえた幸運な鴉天狗だった。まあ、全身が枯れ果て今にも砂になって崩れ落ちてしまいそうな有様では、あながち幸運とも言え切れないかもしれないが。いっそひと思いに処刑された方が楽だったのかもしれない。

 青年は、水気のない砂漠みたいな声で、

 

「……ほ、ほんとにスンマセンでした……ら、藍さんも」

「月見様が目を瞑ると仰ったから見逃すだけだ。二度目はないよ」

「は、はいぃっ! 肝に銘じておきまッス!」

 

 藍の絶対零度の返答に、青年が畳に頭を打ちつけるくらいのアツい土下座をキメた。

 月見は緩くため息をついて、縁側の向こうにある小さな山を眺めて言った。

 

「……見てご覧、あそこの山で天変地異が起きてるだろう。竜巻が八つくらい起きてるのは、操だね」

 

 水月苑の周辺は長閑な春の昼日中だが、あそこの山だけが世紀末みたいな惨状になっている。

 

「あと、今地震が起きて山の一部が崩れたね。あれは藤千代。ゲリラ豪雨みたいに降り注いでる弾幕は紫かな」

「……、」

 

 青年の笑顔は完全に干涸らびていた。

 

「そしてあの火柱は……ああ、私の式神か。回収し忘れてた」

「月見さん、マジですみませんでした。俺が間違ってました」

 

 青年が土下座どころか五体投地をしだしそうな体勢になっているのだが、なぜだろうか。

 ともあれ。

 

「本当に馬鹿なことをしたね、お前たちも。……こういうことは、本当は言わない方がいいのかもしれないけど」

 

 月見は、畳に額をこすりつけている青年を、静かに見下ろして。

 

「実は今回、みんな水着持参で入浴してるんだよ」

「……は?」

 

 青年がゆるゆると顔を上げた。味方に背中から撃たれたみたいな顔をしていた。

 

「だから、水着。誰かしら覗きにやってくるのはわかってたからね。紫たちに協力してもらって、今日だけは水着を持ってくるように伝えてもらったんだ。もちろん、お前たち男には知られないように」

 

 今日のオープン初日を楽しみにしていた少女たちはたくさんいた。けれど、覗きがほぼ出ると確定されている状況では、いくら紫たちが監視してくれる中とはいえ、一糸まとわぬ姿になってしまうのには抵抗がある。

 そこで、「だったら水着を着て入ればいいんじゃないですか?」との名案を出したのが早苗だった。海がない幻想郷では、前々から外の世界の水着なる服装に興味を持っている少女がたくさんいたらしい。これを機に是非一度着てみたい! というわけで、紫が資金を徴収し、人数分の水着を買い集め、今日という日を迎えることとなった。

 

「……、…………じゃあ、つまり」

 

 恐ろしい結論に辿り着いてしまった青年の体が、ガクガクと小刻みに震え出す。枯れ果てた細い腕が、今にも真っ二つになって折れてしまいそうになっている。

 なんとも憐れではあるが、同情はしない。外の世界だったら問答無用で警察のお世話になる犯罪だ。ある意味当然の報いなので、月見は柔らかい笑顔とともに告げた。

 

「そう。――お前たちは、完全に釣られたんだよ」

「――……」

 

 青年が砂になって崩れ落ちた。

 

 

 

「――あ、やってるやってる。ということは、やっぱり覗いてる人たちがいたんですね……。水着着ておいてよかったぁ」

「お手柄だったじゃん早苗~。まあ私は、水着だろうが裸だろうがあんま気にしないけどー」

「諏訪子様、温泉で泳いじゃダメですよ……あの、ところでなんですけど」

「んー?」

「なんで諏訪子様、スクール水着なんですか?」

「知らなーい。よくわからないけど、私はこれを着なきゃダメなんだって。紫が言ってた」

(金髪にスクール水着……しかも旧型とは……。紫さん、侮れないですね……)

 

 

 

「――お前たちには悪いけど、これでいい見せしめにはなるだろうね。鴉天狗たちも新聞でばら撒いてくれるだろうし」

 

 軽い地震が起きて、向こうの山の一部がまた崩れる。龍が如く暴れ回る竜巻たちが、木々を根本から空へと吹き上げていく。爆撃かなにかのように降り注ぐ妖力弾が、山肌を焼け野原に変えていく。……この天変地異に等しい人災を目の当たりにしたあとで、のこのこと覗きを企てられる命知らずはさすがにいないだろう。紫の策は、大変上手い具合にハマったようだ。

 

「月見様。この砂、どうしますか」

「ほうきで掃いといてくれ」

「わかりました。チリ一つ残さず捨てておきますね」

 

 藍の絶対零度の微笑みが恐ろしい。

 それから少しして、紫と藤千代と操の三人が、とても晴れ晴れとした笑顔を咲かせながら戻ってきたので。

 月見は心の中で、旅立った愚か者たちに静かな合掌を捧げたのだった。

 

 ちなみに今回の主犯である八人の鴉天狗たちだが、後ほど、一人の例外もなく揃って地獄にスキマ送りにされた。そこで四季映姫の手伝いとして性根をメタメタに叩き直され、謹厳実直・温厚篤実・品行方正な人格者と変わり果てて帰ってくるのは、一ヶ月後のことである。

 四季映姫曰く、とっても楽しかった、らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第44話 「狐は魚で幼女を釣る」

 

 

 

 

 

 得てして、八雲紫の行動は唐突である。

 なにかをしたいと、そう思い立ったらまず行動。やったら周りにどんな影響があるのかとか、誰かの迷惑になるんじゃないかとか、そういった世間体はひとまず度外視し、自分のやりたいように気ままに行動する。北斗七星が北極星を喰うまでの時間を一瞬で求められる、などという凄すぎて逆にピンと来ない桁違いの頭脳を持っている割に、頭より先に体が動くタイプなのだ。

 よってその日も、八雲紫の行動は唐突だった。

 

「月見、月見っ! 水月苑のお池に、適当にお魚突っ込んどいたから!」

「……はあ?」

 

 なんの脈絡もない話題を、前置きなくいきなり振られるなんて日常茶飯事。スキマで水月苑にやってくるなり挨拶より早くそう叫んだ紫に、朝っぱらから一体なんなんだと、月見は眉をひそめて問い掛けた。

 

「いきなりどうしたんだい」

 

 対してスキマから上半身を出した少女は、実に楽しそうな様子ではきはきと答えるのだった。

 

「だってほら、あんなに大きなお池なんだもの。ちょっと外の世界から連れてきてみたの!」

「魚って」

 

 月見は縁側を通して、水月苑の周囲をぐるりと囲むきらびやかな池泉庭園を眺めた。遠目では特に変わった様子は見られないが、今日も今日とて朗らかな春の陽気の中、凪いだ水面の下では魚が適当に増えたという。

 

「あ、もちろん生きてるやつよ?」

「死んでたら怖いよ?」

 

 死んだ魚がぷかぷか浮かぶ水月苑の池。新手の嫌がらせだろうか。

 月見は庭から紫へ視線を戻し、

 

「また、随分といきなりだね」

「そうね、一時間くらい前にパッと思いついただけだし」

「……」

 

 ため息、

 

「それであそこの池に?」

「そうそう。ほら、幻想郷って、お魚が釣れる場所ってあんまりないじゃない」

 

 幻想郷は内陸部の山奥にあるので当然海はないし、食用になる川魚にせよ、釣れるような場所は限られている。紫が外の世界から仕入れてくるなどしない限り、食卓に並ぶ機会が多いのは圧倒的に山の幸だった。

 

「私たち幻想郷の住人は、お魚はあんまり食べないから気にしないけど。でも月見は今までずっと外で生活してたんだし、きっと食べたくなる時もあるでしょ?」

「……そうだね」

 

 そう言われて、月見はなんだか無性に魚を食べたくなってしまった。最後に食べたのは、水月苑完成記念の宴会の時。魚は、昔から川に飛び込むだけで容易に確保できる食材だったから、月見にとっては油揚げ以上に慣れ親しんだ味だ。

 

「だから、身近にお魚が釣れる場所があればいいなあと思って! ……というわけで、はいコレ! 私からの愛のプレゼントッ!」

 

 さて喜色満面の紫が一度スキマに引っ込んで取り出したのは、釣竿だった。輝かしい光沢を放つリール付きの、素人目でも安物ではないとわかるモデルがなぜか五本も。ついでにルアーケースまである。

 紫が、自信満々と胸を大きく反らして言う。

 

「釣りはよくわかんないから、適当に買ってきちゃった。でも、結構高かったからいいやつだと思うわよ!」

 

 彼女の何事も形から入ろうとする悪い癖は、こんなところでも発揮されるらしい。わざわざ高いお金を出したりしなくても、川魚を釣る程度なら木の枝と糸と針さえあれば充分だろうに。

 月見は再度ため息、

 

「……いくらだ? お金は出すから」

「え、いいわよそんなの。こんなの買ってピンチになるほど貧乏じゃないわよ、私」

「いや、そういうわけにも」

「いいのいいの、言ったでしょ愛のプレゼントだって! それじゃ私、他にもやりたいことがあるからもう行くわね! 楽しんでねー!」

「あ、おい」

 

 結局、月見が咄嗟に伸ばした右手に振り返ることもせず、紫はあっさりとスキマの中へ消えていってしまった。残されるのは、愛のプレゼントであるらしい釣り道具たちと、嵐が過ぎ去ったあとの染み入る静寂だけ。

 月見は置いていかれた釣竿たちを見下ろしながら、まったくもうと頭を掻いた。ちょっとした小さな嵐であるあの少女は、次は一体どこを騒がせに行ったのだろう。やりたいことがあると言っていたが、まあ、決してろくなことではないだろうから、無駄な仕事を増やされて胃を痛める藍の姿が容易に想像できた。

 とは、いえ。

 

「……せっかくだし、一つ、やってみようかな」

 

 くれるというのであれば、まあ。

 もし引きがよければ、今日の昼食は焼き魚にでもしてみようかと。

 そう思いながら、月見は銀色の釣竿を一本、手に取ってみるのだった。 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 釣れすぎた。

 

「……あいつ、一体どれだけの魚を突っ込んだんだか」

 

 月見が釣竿を置いて桶の中を覗き込んでみれば、横方向はもちろん、縦方向にもすし詰めになった魚たちが、劣悪極まる環境に決死のボイコットを敢行している。水月苑へ架かる太鼓橋の上で一時間ほど竿を振るってみたが、台所から持ってきた桶が二つともこの有様になったのだから、驚きを通り越して不安すら感じるというものだった。

 一体池の下では、どれほどの魚たちがひしめいているのだろう。加減を間違えた紫の手によって、ここが生け簀に変えられていなければいいのだが。

 ともあれここまで釣れすぎてしまえば一回の食事では当然使い切れないし、干物にするにしても多すぎるので、二つの桶のうちよりボイコットが激しかった方を、願い通り自然へ帰してやることにした。橋の上から落とすのは乱暴だろうから、庭の方から池の畔へ向かう。

 そうして魚たちを水の中へ解放してやっていると、ふと、橋の上がかすかに騒がしくなった。

 

「……?」

 

 太鼓橋は、別名で反橋とも呼ばれるように、橋の中央にかけて円形に反り上がっていく形を取る。故に池の畔に座って魚をリリースする月見とは高低差があり、手摺が障害物になっているのもあって、なにが起こっているのかはよくわからない。

 ただ、バシャバシャとしきりに水を叩く音が聞こえるから、取り残された魚たちが奇跡の大脱出劇でも繰り広げているのかもしれない。まあ、一匹二匹に逃げられたところで特に困りはしないので、月見はゆっくりと桶の魚たちを逃がし、のんびりと橋の上に戻る。

 と、

 

「……」

「こ、こらっ、暴れないで……えいっ、えいっ」

 

 お魚咥えたドラ猫――ではないが。

 橋の上では、どうやら化け猫であるらしい小さな女の子が、桶の中の魚たちと手に汗握る肉弾戦を繰り広げていた。

 

「っ……! っ……!」

 

 化け猫の少女が鋭い猫パンチを繰り出し、避けきれず怯んだ魚の一匹をすかさず掴みにかかる。だが魚もやられてばかりではない。むしろこの時を待っていたとばかりの渾身の馬鹿力で、右へ左へ体をくねらせ暴れ回り、驚いた少女の隙を逃さず大空へと飛翔。そのまま橋の上でべしっと一回バウンドして、あるべき世界へと自由落下していった。

 ぽちゃん。

 

「あーっ、逃げられた……! で、でもまだ大丈夫。まだまだいっぱいいるもん……!」

「……」

 

 この化け猫の少女、魚との格闘に夢中になるあまり月見には気づいていないらしい。こちらがすぐ真後ろに立っても振り返る様子はなく、緑の帽子の両脇で大きな猫耳が忙しなく震え、二又に分かれた尻尾は生き物のように躍動する。

 

「えいっ! よし、今度は上手く行っ――あー!」

「…………」

 

 ぽちゃん。

 化け猫少女は、魚捕りが下手くそだった。また魚が一匹消えていった水面を見下ろして、少女はふぬぬと悔しそうに震えた。

 

「大丈夫かー?」

 

 見かねた月見が声を掛ければ、少女はびくりとこちらを振り返ったけれど、すぐに空元気な笑顔を浮かべて、

 

「だ、大丈夫です! 次こそちゃんと捕まえてみせますからっ!」

「そっか。……頑張って」

「は、はいっ。ありがとうございます!」

 

 今度こそ、今度こそ、と念仏のように復唱して、少女が再び桶の中の魚たちと対峙する。まずは猫パンチで相手の体力を奪う作戦だ。目にも留まらぬ速度でびしびしと四連打ほど叩き込めば、狭い桶の中で魚たちが逃げられるわけもなく、直撃を食らった何匹かの動きが鈍る。

 好機と見た少女が、すぐに掬い上げようと手を伸ばす――その前に、月見は横槍を承知で口を挟んだ。

 

「待った、焦ってもいいことはないよ。掬い上げるよりも先に、まずは魚をしっかり掴むことだ。慌てないで、両手で包み込むように」

 

 出鼻を挫かれた少女は目を丸くして月見を見上げたけれど、ほどなくして月見が応援してくれていると理解したのか、嬉しそうに綻んで頷いた。

 

「はいっ、わかりました! やってみますね!」

 

 猫パンチで弱っている一匹に向けて、ゆっくりと両手を伸ばす。さっきまでのようにただ左右から挟むのではなく、上下も加えて、包み込むように。

 

「しっかり掴めたか?」

「はいっ」

「なら仕上げだ。驚かせないように、静かに持ち上げてごらん」

 

 少女が、そろそろと両手を桶から持ち上げる。魚は初め、何度か左右へ身をくねらせ抵抗したけれど、猫パンチが効いているのか力強さがない。またゆっくりと持ち上げられているため、極端に慌てて逃げ出そうとする様子もなし。結局それ以降は目立った駆け引きを繰り広げることもなく、観念するように少女の手の中に収まった。

 不安げだった少女の表情が、ぱああっと瞬く間に明るく輝いた。

 

「や、やった! やりました! 捕まえられましたっ!」

「ああ、見てたよ。おめでとう」

 

 興奮で尻尾をぱたぱたさせる少女へ、微笑んでやれば、彼女は恥ずかしそうに身を竦める。

 

「あ、ありがとうございます。私ったら、猫なのに魚を捕まえるのが下手で……」

「そうみたいだね」

「あうっ……お、お恥ずかしいです……。で、でも大丈夫です! 今回の貴方様のアドバイスで、なにかを掴めたような気がしましたっ!」

「そうか、それはなによりだよ。……それで、お前はどうしてここに?」

「あっ、そうでした。私、ここのお屋敷に住んでいらっしゃる、月見様という妖狐の方に挨拶を……しよ、う……と…………」

 

 はきはきと元気のよかった少女の言葉が、急に尻すぼみになって自然消滅した。口を半開きにしたまま、彼女の目線は月見の背後で揺れる銀の尻尾に固定されている。こちらが妖狐であることに、今になってやっと気づいたらしい。

 

「え、ええと」

 

 少女が、ひくひく震えるいびつな笑顔で月見を見上げた。表面張力が決壊するギリギリのラインで、今にも泣き出しそうに、叫び出しそうに、

 

「もしかしなくても……あなたが月見様、です……か?」

「ああ」

 

 月見は莞爾と微笑み、深く深く頷いて返した。

 

「そうだよ。――いらっしゃい、泥棒猫さん?」

「ご、ごめんなさ――――――――い!?」

 

 決壊。せっかく捕まえた魚を明後日の空に放り投げ、少女がまばたきも許さぬ高速の土下座をキメる。

 三秒間ほど空を泳いだ魚は、鱗にきらきらと太陽の光を反射させながら、ぽちゃんと池の中に落ちて消えた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい本当にごめんなさい申し訳ありません」

「いや……それはもうわかったから」

 

 泥棒猫の少女は、名を橙といった。ちょうど先週末、藍がここまで挨拶にこさせると話をしていた、彼女の式神にあたる化け猫だった。藍が急かしたのか少女の性格が律儀なのか、週明けになるなり早速やってきてくれたらしい。

 こういっては失礼かもしれないが、九尾の大妖怪である藍の式神の割には、驚くほど平凡な妖怪だった。見た目は人間でいえば十歳前半の子どもで、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、紫のように少女のなりでも強大な大妖怪であったり、藍のように外見以上に成熟した人格を持っているわけではない。良い意味でも悪い意味でも、幼い見た目から受ける印象そのままに、天衣無縫で純真無垢な少女だった。だからこそ彼女は、ここで魚を見た途端に当初の目的を忘れて狩猟本能全開になっていたし、今は月見の目の前で、深々とした平謝りを繰り返している。

 ちょっとした皮肉のつもりで言った『泥棒猫』が、彼女の心を相当深いところまで抉ってしまったらしい。言うまでもなく魂魄妖夢と同じで、お人好しすぎて冗談がまったく通じないタイプである。はてさてどうしたものなのか、月見がいくら顔を上げてくれと言っても、橙は九十度のお辞儀と謝罪を決してやめようとはしなかった。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい悪気はなかったんですお魚食べたかったんですごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 幻想郷は内陸部にある世界なので、食用の魚といえばそこそこ珍しい部類に入る。釣れたて新鮮の魚でぎっしり満たされた桶は、化け猫である橙にとっては宝石箱にも見えたことだろう。

 それは月見にだってよくわかっているし、釣れた魚は、半分を池に戻してもなお、一人で食べるには多すぎるくらいだった。だから橙が魚を盗もうとしたことも、失敗して三匹ほど池に落とされてしまったことも、咎めるつもりはないのだけれど。

 

「八雲紫様、ひいては八雲藍様の式神にあたる者として、大変失礼なことしてしまいました……! 命乞いはしません、煮るなり焼くなり好きにしてください」

「……」

 

 橙の表情は至って大真面目だった。この子は、月見を一体なんだと思っているのだろう。

 ため息、

 

「お前、藍になにを吹き込まれたんだ?」

 

 機嫌を損ねると喰われるとかだろうか。もしそうだとしたら、この子の誤解を解いたのち、藍とも真剣に語り合わなければならないのだが。

 橙は頭を上げて直立不動の姿勢を取ると、上官を前にした兵隊さながらにはきはきとした口調で答える。

 

「いえ! お優しい方なので緊張する必要はない、とお見送りしてくれました!」

「ならその藍曰くお優しいらしい私は、お前を煮たり焼いたりすると思うか?」

「え……」

 

 なにが予想外だったのか、橙はくるりと目を丸くしてしばらく考えたのち、やがて気づいてはいけないことに気づいてしまったように大きく仰け反った。

 

「ま、まさか、生でガブリと!?」

「……お前、そんなに私に喰われたいのか?」

 

 なぜ、喰われるのが前提になっているのだろう。

 なんだかこのまま話し続けても無駄なような気がしたので、月見は未だ魚が暴れる桶を小脇に抱えて、水月苑の方を指差して言う。

 

「とりあえず、中に入らないかい。それにもうすぐお昼だ。たくさん釣れたんだし、少しくらいご馳走するぞ?」

「!?」

 

 橙の体に雷撃が走る。頭の先から足元まで駆け抜けた衝撃に大きくわなないた彼女は、普通のものを見るのとは明らかに違う瞳で、一心に月見を見上げて言った。

 

「ま、まさか、お目こぼしいただけるのですか!?」

「だから、最初からそう言ってるだろうに……」

 

 段々疲れてきた月見である。

 

「そうじゃなかったら、魚と格闘してるお前を見た時点で拳骨してるさ」

「で、ですがっ、だとしたら『泥棒猫』というのは……!」

「あーもう、悪かったねちょっとからかってみただけだよ。『泥棒猫』は取り消すし、煮たりも焼いたりも生で喰ったりもしないから安心してくれ」

 

 どうして自分が謝っているのかよくわからないのだが、ともかくそういうわけなので、もうこの場はお開きったらお開きなのだ。

 

「な、なんてお優しい方なんでしょう……! お目こぼしくださっただけではなく、お魚までご馳走してくださるなんて……っ!」

 

 なにやら津波のような感動に打ち震えている橙も、もう無視である。

 

「じゃあ、先に行ってるぞー」

「あっ、お待ちくださいっ! あの、どうもありがとうございます! なんとお礼を申し上げたらよいか、藍様が敬愛なさっているのがよくわかるといいますか――」

 

 後ろにひっついてくる橙の感動の言葉を半分くらい聞き流しながら、月見はやれやれとため息をついて思う。

 八雲紫の式神である八雲藍の式神、橙。

 主人たちとはまた別の意味で、癖のある少女だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 釣った魚は、わざわざ厨房で捌く気分でもなかったので、素焼きにすることにした。くべた薪に狐火で火をつけ、魚を通した串を何本か、近くに突き立てておく。狐火で直接一気に焼くという手もあったが、橙と少し話をしたかったので、ゆっくり焼いた方が都合がよかった。

 橙は、焚き火の近くで両膝を折って、魚が焼けていく様をきらきらした目で観察していた。二又に分かれた尻尾が、メトロノームのようにリズミカルに揺れている。かすかに鼻歌が聞こえるので、どうやら相当上機嫌らしい。

 その様子を水月苑の縁側で眺めながら、月見は橙の背へ問い掛ける。

 

「橙、ちょっといいか?」

「あ、はい! なんでしょう!」

 

 機敏な動きで振り返った彼女に、自分の隣を手で叩いて促す。

 

「ちょっと話を聞きたいことがあるから、付き合ってくれるかな」

「私でわかることならなんなりと!」

 

 快活な笑顔で頷いた橙が、小走りで駆け寄ってきて月見の隣に腰を下ろす。両脚がぴったり揃えられ、両手が膝の上に据えられ、背筋が地面と綺麗な垂直を成すという、見ていて違和感があるくらいに仰々しい座り方だった。

 苦笑。

 

「別に、そんなに畏まらなくても。楽にしてくれていいよ?」

「いえいえ、お気遣いなく」

 

 さて、月見が訊きたいこととはこれである。橙の月見に対する態度が、初対面であるにしても不自然なくらいに堅苦しい。決して自惚れではなく、どうやら橙の頭の中では、月見は相当な格上として認識されているようだ。

 確かに数千年を生きた月見と、普通の範囲を抜け切らない化け猫とでは、彼我の格に大きな隔たりがあるのは事実であろう。しかしその違いを、橙が潜在的な力で見抜いたかどうかは疑わしい。むしろ、紫と藍から変なことを吹き込まれたと考えるのが妥当だった。

 

「私のこと、紫や藍からはなんて聞いてた?」

 

 問えば、橙は、そうですね、と少し考えてから、

 

「すごーい大妖怪であることは聞かされてます。一番昔から、藍様よりも長く生きていらっしゃる妖狐なんですよね?」

「多分だけどね。私より昔から生きてる狐は聞いたことがないから」

 

 出だしは普通だった。いきなり事実無根の作り話が飛び出てくるんじゃないかと心配していただけに、少し安心した。

 

「あっ、そういえば、尻尾が十一本もあるそうなんですよね! 見せていただいていいですか?」

「ああ、いいよ」

 

 自分から見せびらかす真似こそしないが、特別ひた隠しているわけでもない。

 月見が尻尾を十一に戻すと、縁側いっぱいに広がった銀の絨毯に、橙は顔中を輝かせながら感嘆の声を上げた。

 

「わあああっ! すごいです、藍様に負けず劣らずのもふもふですっ! あの、触っても大丈夫でしょうか!」

「ご自由に」

「ありがとうございます!」

 

 猫じゃらしにじゃれつくようにもふもふし始めた橙へ、続きを促す。

 

「それで、他には?」

「あ、はい。そうですね、あとは――」

 

 尻尾を両手で触ったり持ち上げたりする橙の話は、意外や意外、月見の心配が杞憂になるほど事実に即したものだった。紫との出会い、藍との出会い、そして今に至るまで。時折やや誇張したような表現も見られたけれど、口を挟むほどではない。これは、紫たちに対して不信感を抱いていた己を恥じなければならないだろう。

 

「あ、それと紫様が、私と将来を誓い合った仲だって」

「よし、紫はあとで狐火だな」

 

 訂正、やっぱり紫は紫だった。

 どこからか紫の抗議の声が聞こえてきた気がしたが、空耳に違いない。

 

「月見様と藍様が出会った頃のお話も、ちょっとだけですけど聞きました。ただ、詳しくお話していただく前に、紫様が藍様にボコボコにされてしまって……」

 

 藍、お前。

 

「……懐かしいねえ。あいつ最初は、私を格下の狐だと思って強めに出てたっけ」

「藍様の黒歴史なんですってね」

 

 藍にタメ口を利かれていたのは、今も昔もあの時だけだ。月見が十一尾だと知ったあと、顔を真っ青にして土下座してきた藍の姿は、今でも自分のことみたいにおもしろおかしく思い出せる。……せっかく思い出したのだし、今度藍と酒を呑む機会でもあったら、これをネタにからかってみても面白いかもしれない。多分、喉を掻きむしりながら発狂してくれるだろう。

 などと考えながら、パチパチと音を立てて焼けていく魚を眺め、吐息。

 

「しかしまあ、安心したよ。変なことばっかり吹き込まれてるんじゃないかと心配してたんだ」

「そうなんですか」

「藍は私のことを過大評価しすぎてるし、紫はバカだしね」

 

 ねえバカってひどくない!? と紫の悲痛な叫びが聞こえた気がするが、空耳のはずである。

 

「でも私は、藍様たちが月見様をお慕いしているのも、わかりますよ」

「ほう、例えばどのあたりが?」

 

 興味本位で訊いてみれば、橙は横から月見を見上げて、春風みたいに柔らかく微笑んだ。

 

「私ってちょっと人見知りで、誰かとお話するのって、あんまり得意じゃないんですけど……でも、月見様とのお話は緊張しませんし、不思議と安心します」

 

 はにかみ、

 

「……なんだか、お父さんと話をしてるみたい、です」

「……」

 

 虚を衝かれた月見は少しの間目を丸くして、それから吹き出すように笑った。

 

「お父さんか。それじゃあそのうち、『こっち来ないで!』とか、『ウザいから視界に入らないでよ!』とかいう反抗期がやってくるのかな」

「やってきませんよ!?」

 

 冗談はさておき。

 

「そろそろ、いい匂いがしてきたね」

「あ、そうですね」

 

 焚き火の方から、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。遠目ながら、魚の表面がこんがりと色づいてきているのがわかる。

 

「もう食べられますかねっ?」

「さて、もう少しじゃないか?」

 

 橙が待ち切れない様子で尋ねてくるけれど、そんなに長話をしたわけでもないので、まだ肉は生焼けだろう。月見も橙も、生魚を美味しくいただける妖怪の身ではあるが、やはり一度焼いたからにはじっくり行きたいところだ。

 

「ちょっと、具合を見てきますね!」

 

 次第に強さを増す美味しそうな匂いに負けて、橙が腰を上げて焚き火に駆け寄ろうとする。

 しかし元気よく一歩目が踏み出されたところで――月見と橙は、『それ』を見た。

 

「ん?」

「え?」

 

『それ』はまさしく、黒の球体、としか表現のしようがない物体だった。正体は不明だが、ちょうど橙くらいの子どもが立って入れる程度の、黒いボールのようななにかが、橋の向こうからふよふよとこちらへ漂ってきていた。

 

「なんだ、あれ」

「さあ……?」

 

 尻尾を一本へと戻しながら、月見は眉を寄せてその球体を観察する。空を飛んでいるから、ボールではないだろう。加えて、大して風もない中を横方向に移動しているので、風船の類とも思えない。

 それは月見の目線あたりの高さで浮かび、蛇の体を描くように揺れ動きながら、焚き火の近くまで来たところで動きを止めた。

 

「?」

「??」

 

 月見と橙が揃って首を傾げて不思議がっていると、突如として球体の中から伸びてきた華奢な腕が二本、突き立ててあった魚の串を鮮やかにかっさらっていった。あ、と橙が小さく声をもらす。魚はそのまま球体の中に呑み込まれ、しばらくするとむしゃむしゃむしゃとなにやら絶賛お食事中らしい音。ついでに、「あつつ……うわ、なにこれまだ生焼けじゃん。まあいいや、久し振りのお魚美味しい……♪」となにやら少女の幸せそうな声まで聞こえてくる。

 よくわからないが、どうやらあの球体の中には誰かがいて、魚を現在進行形で盗み食いしているらしい。

 ……盗み食い。

 

「……」

 

 月見は隣の橙を盗み見た。橙は、案の定というべきか、ハイライトの消えた虚ろな目で黒の球体をじっと見つめていた。絶望に叩き落とされた無辜(むこ)なる者が、ダークサイドに染まった時の顔だった。

 

「黒い球体から出てくる腕……そうか、あいつがあの常闇の……」

 

 ああ、鈴を転がすようだった橙のかわいらしい声が、呪詛を呟く祈祷師のような恐ろしい低音に。

 月見を見て、橙は黒いオーラであふれる笑顔を咲かす。

 

「月見様。申し訳ないですけど、少しお時間をいただいても大丈夫ですか?」

「……大丈夫だけど」

 

 その声はすっかりいつもの調子に戻っていたが、笑顔には、ダメとは言わせない計り知れぬ凄みがあった。

 

「ありがとうございます。では、ちょっと失礼して」

 

 軽く会釈をした橙は、黒い笑顔のまま縁側を離れて、未だお食事中の音がもれる球体の方へ歩いていく。球体は食事に夢中になっているため、その場でふよふよ浮かんだまま逃げる様子がない。

 球体を真正面に捉えた橙はまぶたを下ろし、大きく深呼吸をして。

 一息、

 

「ふか――――――――ッ!!」

「ふにゃああああああああああ!?」

 

 尻尾の毛を剣山刀樹さながらに逆立て、球体の中へと果敢に突撃していった。瞬く間に球体から轟く、少女の悲鳴。

 橙の体が溶け込むように黒の中へと消えたので、どうやらあの球体は、影かなにかでできているようだったけれど。

 

「ふしゃ――――――――ッ!!」

「いたたたたた!? ちょっ、待って、いたっ、やめっ――にゃああああああああああ!?」

 

 橙渾身の獅子吼、少女の悲鳴、そしてバリバリバリバリとなにかを引っ掻き回す音を聞いていたら、球体の正体がなにかなんて些細な問題であるような気がして。

 とりあえず月見は、傍に置いておいた予備の魚にせっせと串を通し始めるのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ぐすっ……すびまぜんでじだっ……えぐっ、お魚食べて、ごめんなざいっ……」

「……」

 

 縁側に座った月見の目の前で、金髪に赤リボンの女の子がベソをかきながら正座している。月見はどう言葉を掛けてやるべきか悩み、橙は頬をぷっくり膨らませてそっぽを向いている。

 あのあと橙による怒りの乱れ引っ掻き攻撃がしばらく続いて、やがて影に光が差すように消滅した黒球から、涙目になりながら落ちてきたのがこの少女だった。見た目は橙よりも更に一回り幼く、人間でいえば十歳に届くかどうか。もともとは白のブラウスと黒のスカートで可愛らしく着飾っていたのだろうが、いかんせん橙に散々引っ掻かれたせいでどちらもズタボロになっていて、オマケに腕や顔のあちこちにも赤い線が走っているので、なんとも惨めったらしい。

 橙曰く、幻想郷では『常闇の妖怪』の二つ名で知られている、ちょっとした妖怪らしい。ただし強大な力を持っているわけではなくて、例の球体に入ってふよふよ漂う移動手段がなんともユニークなので、一時期妖怪たちの間で話題になった、といった程度の意味合いだ。『闇を操る程度の能力』を持つ闇の妖怪である彼女は、昼間のうちはそうやって日光を遮断しておかないと、目に見えて弱体化してしまうのだとか。

 名を、ルーミア。

 

「許じでくだざいぃぃっ……お魚、とっでもおいじぞうで、づいっ……」

 

 痛々しい涙声で、土下座をするようなルーミアの謝罪。目の前でご馳走を奪われた橙はまったく取り合う様子がないので、とりあえず、月見が代わって話をすることにする。

 

「そんなにお腹が空いてたのか?」

 

 鼻をずびずび言わせながら、ルーミアは何度も頷いた。

 

「うんっ……このどごろ、あんまりご飯食べでなぐでっ……!」

「それはまた、どうして」

「今がら一週間ぐらい前にっ、人間を、食べようどしだんだげどっ……! その時に、変な炎の術でっ、追い返ざれでっ……!」

「……ん?」

 

 月見は眉をひそめた。なんだろうか。今のルーミアの話、なにか引っ掛かるものがあるような。

 

「ぞれ以来、夜の狩りが上手ぐ行がなくなっぢゃっで……! でも昼間は力が出なぐでなにもでぎないし、そじだら、木の実とかじが食べるものがなぐでっ……!」

 

 人間を食べようとした。炎の術で追い返された。とても引っ掛かる。なんだったろうか。

 一週間前といえば、月見が幻想郷に戻ってきてまだ間もなく、大体紅魔館か人里あたりを歩いていた頃で――

 

(――あ)

 

 思い出した。ここに戻ってきて初めて足を踏み入れた人里で、月見は迷子になった里の少女を捜すため、慧音とともに外の森に分け入って。そしてその帰り道にて、一匹の妖怪を、狐火を使って追い払っていた。

 

『あ、こんなところに人間だー♪ ねえねえ、あなたたちは食べてもいい人』

『はい、狐火』

『みぎゃー!? あ、あっついよー!?』

 

 ――あの時はあたりが既に暗くなっていたため、人形(ひとがた)による防御線を展開し、近づいてきた妖怪を無条件で焼き払うようにしていた。故に相手の姿は見ていないのだが、よくよく思い出してみれば、なるほど声が目の前の少女とよく似ていた気がする。

 

「でも木の実なんがじゃお腹は膨れなぐでっ、すごぐお腹空いて、ああもう私死んじゃうのかなっで思っで、そじだらここからすごく美味しそうな匂いがしでっ、我慢でぎなぐでぇっ……!」

「……、」

 

 月見は心の中で冷や汗をかき始めた。もしかして、もしかしなくても、ルーミアを空腹に苛ませ、魚を盗み食いしてしまうほどに追い詰めてしまった原因は――

 月見は引きつった愛想笑いをしながら、

 

「……ええと、まあ、なんだ。災難だったな?」

「うんっ……! 本当に辛がっだ……!」

 

 ルーミアに涙をボロボロ流しながら頷かれて、冷や汗の量がダラダラ増した。もちろん狐火を撃ったことに後悔はないし、客観的に見て非もないだろう。あの時の月見は、慧音と里の少女を守らなければならなかったのだから。

 だが、まさかあの一撃――正確にいえば二撃――がここまでルーミアを苦しめていたとは、彼女の幼い外見も相まって、罪悪感が心に迸るようだった。

 やっべー、と月見は思う。

 

「それで月見様、この子、どうしますか?」

「そ、そうだね」

 

 不機嫌そうな橙にそう問われて、珍しくどもってしまった。普通であれば、食事を盗まれたのだし、説教なりなんなりなにかしら罰を与えるべき場面なのだろう。少なくとも橙の瞳は、そうするべきだと強く月見に訴えてきている。

 けれど、

 

「ごめんなざいぃぃ……っ! 許じでくだざい、食べないでくだざいいいぃぃ……!」

 

 慧音たちを守るためとはいえ、あの時ルーミアに狐火を放ち、結果彼女をここまで泣かせる根本的な原因となったのは自分だ。そんな自分が、目の前でずびずび大泣きしている彼女に更に罰を与えるなど、まるで鬼畜の所業ではないか。

 というか、橙もそうなのだがなぜこの子も、自分が食べられるのを前提にしているのだろう。月見はそんなに、妖怪をむしゃむしゃ食べそうな見た目をしているのだろうか。ちょっと傷つく。

 どうするべきかと珍しく焦りながら考えていると、ふと、焚き火の方から魚の焼ける香ばしい匂いが漂ってくるのに気づいた。橙が怒りの乱れ引っ掻きを炸裂させる間に刺しておいた予備の分が、段々と焼き上がってきたらしい。

 くう、とルーミアのお腹がかわいらしく鳴る。慌ててお腹を押さえ「違うの違うの私はもうお腹空いでないがらもっと食べだいなんで欠片も思っでないから許じでえええええ」と命乞いを加速させる憐れなルーミアに、月見は、今の自分にできる精一杯の微笑みで。

 

「なに、もともとたくさん釣れて一人じゃ食べ切れなかったんだ。別に気にしちゃいないよ」

 

 呆けたように動きを止めたルーミアが、ぐずっと大きく鼻をすする。月見は続ける。

 

「なんだったら一緒に食べるか? みんなで食べた方が美味しいよ。橙もいいだろう?」

「私は、月見様が許すのであればそれに従いますよ」

 

 てっきり嫌がられるかと思ったが、橙の返事は素直だった。頷き、それから気まずそうに顔を背けた彼女は、両手の人差し指同士をつんつんして、

 

「その、私はあまり、偉いこと言える立場でもないので……」

 

 確かに、未遂ではあるが彼女も魚を盗もうとした身。決定権は月見にある、ということだろう。

 

「それじゃあ決定だ。……ルーミア。もうすぐ中まで焼けるだろうし、今度は一緒に食べようじゃないか」

「……ぅえっ、」

 

 ルーミアが、飛び跳ねるように大きくしゃっくりをした。目元になみなみ溜まっていた大量の涙が、一気に決壊し、滂沱となってこぼれ落ちた。この一週間の辛み苦しみをすべて凝縮して、体の中から吐き出すように。

 

「うええええええええっ……!! ありがどう、ありがどうぅぅ~~~~……!!」

「あー、はいはい。よしよし……」

 

 泣きじゃくりながらお腹あたりに抱きついてきたルーミアを、優しく受け止めて慰めてやる。……そうでもしないと、罪悪感に押し潰されて干物になりそうだった。

 

「ここの池には魚がいっぱいいるから、食べたくなったらおいで。釣竿もあるし、好きに釣ってくれていいから」

「うん……!! う゛んっ……!!」

「お優しいですねえ、月見様」

「……ハッハッハ、そうかな」

 

 笑い声が完全に干涸らびている。

 ――私は今、上手く笑えているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのあとは三人で一緒に魚を食べ、ルーミアのお腹がいっぱいになったところでご馳走様となった。どうやら半端なく飢えていたようで、ルーミアは月見が釣った十匹以上の魚をほとんど一人で平らげてしまった。魚を一口食べては本当に幸せそうに笑う彼女を見て、橙はニコニコともらい笑いをし、月見はズキズキと良心を痛めた。

 そして、お腹がいっぱいになったあとは。

 

「くう……すう……」

「すう……ん、ゆ……」

 

 お腹がいっぱいになったあとは、縁側でそのままお昼寝の時間だった。縁側に伸ばされた月見の尻尾を枕にして、橙とルーミアが二人仲良く、花びらが揺れるように安らかな寝息を立てている。食べ物の恨みから始まった関係とはいえ、それでも一度ともに食卓を囲んだからなのか、二人はもうすっかり仲良しさんになっていた。

 一方で身動きが取れない月見は、事前に持ってきた本を手元で広げて暇潰しだ。

 結局ルーミアは、月見を命の恩人として認識したらしかった。お腹を空かせ行き倒れる寸前だった彼女にとって、快くたくさんの魚を恵んだ月見は、冗談抜きで仏様かなにかに見えたらしい。終いには月見を「お狐様」などと呼び奉る始末だったので、月見はそのうち稲荷神にでもなってしまうかもしれない。

 ああ、心が痛い。お陰様で、せっかくの読書にいつまで経っても集中できない。

 

「……おや」

 

 と、ふと本から顔を上げた月見は、水月苑と外とをつなぐ太鼓橋の袂に、今となっては見慣れた濃い藍色の帽子を見つけた。……どうやら今日は、水月苑営業開始以来初となる、閻魔様の抜き打ち家庭訪問の日だったらしい。水月苑を前に堂々と仁王立ちし、凛と引き締められた面持ちには、今日こそあの性悪狐を改心させてやるんですからね! という傍迷惑な意気込みがありありと浮き出ている。ただでさえルーミアと出会って精神が擦り切れているというのに、そこに閻魔様の追い打ちとは、今日は厄日かなにかだろうか。近いうちに、雛に厄を引き取ってもらう必要があるかもしれない。

 勇み足で玄関に向かおうとする四季映姫は、途中で縁側に月見の姿を見つけ、はっと表情を変えた。

 

「あ、見つけましたよ! さあ、私の言いつけ通りの生活をしていたかどうか、確かめてあげますからね!」

 

 石畳を直角に曲がり、飛石の上を跳ねるようにやってきた元気な閻魔様に、とりあえず月見はそっと人差し指を立てて言う。

 

「しー。悪いけど、今はちょっと静かにしてやってくれ」

「? ……ああ、なるほど」

 

 月見の尻尾で眠る二人に気づいた映姫は、コホンと咳払いをしてから声のトーンを落とした。

 

「これは失礼しました。……しかし、なんであなたのところでこんなにかわいらしい子が寝てるんですか。吐きなさい、籠絡してなにをするつもりだったんですか」

「……なにをするつもりもないし、なにもしてないよ」

 

 籠絡という言葉を否定できないのが辛い。いや、あくまで結果論の話で、やろうと思ってやったわけではないのだけれど。

 それから月見は、本を畳んで。

 

「……なあ、映姫」

「なんですか?」

 

 明後日の空を眺め、目を細める。小鳥がさえずる春の柔らかな陽気の中で、太陽の光が、今日はやけに心に沁みるような気がした。

 呟きは、ため息のように。

 

「……因果って、怖いな」

「……??」

 

 映姫は初めきょとんと首を傾げていたが、やがて、月見が因果で厄介な目に遭ったのだと気づいたようで。

「それ見たことですか! 私の説教を素直に聞かないのが悪いんですよっ!」とのありがたい御言葉に、月見のメンタルは間もなくゼロを振り切り、悟りの境地へと至ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第45話 「デコピン・クライシス」

 

 

 

 

 

 その日、朝の時間を使って家の簡単な雑事を終えた月見は、太陽がややも高くなった頃になって、ある場所へ出掛けようと身支度を整えていた。一人暮らしには広すぎる水月苑での生活や、慣れない温泉宿のやり繰りに時間を取られ、今まで思うように遠出する機会を作れないでいたけれど、それも今日までである。

 今日は温泉の開放日ではないし、掃除はこのあいだ咲夜に手伝ってもらってあらかた終えたし、地底から自称通い妻がやってくることも、お腹を空かせた闇妖怪が魚をせがみにやってくることもない。故に今日は、以前から気に掛けていた『あの場所』へと足を向ける絶好のチャンスだった。

 広い屋敷の戸締まりを、数分掛けて粛々と終え、いよいよ月見は玄関を外へとくぐる。そして、太陽に背を向けながら戸をきちんと閉めた、

 

「あっ……つ、月見さんっ」

「ん?」

 

 ところでふいに掛けられる、聞き馴染みのある声。振り向き見れば、

 

「おや……美鈴か」

「お、おはようございます」

 

 紅魔館にて健気に門番を務めるチャイナ娘、紅美鈴が、絶望の底へ転がり落ちる一歩手前みたいな顔をして立ち尽くしていた。

 

「……どうした?」

 

 なにやらただならぬ空気を感じて月見が問えば、美鈴は動揺する心をひた隠すように、下手くそな愛想笑いを浮かべて口を開いた。

 恐る恐る、

 

「あ、あのっ……もしかしてこれから、お出掛けですか?」

「そうだけど……」

 

 春も間もなく後半に差しかかるこの時期に、半袖で寒いということはなかろうに、美鈴の体はなぜかカタカタと震え始めていた。

 

「も、戻りは、何時頃になりますか?」

「どうかな……特に決めてはいないけど、そうだね」

 

 なんだか美鈴が泣き出しそうになっているのが気になるけれど、まずは質問に答えるべきだろうと月見は思い、今回の目的から考えて単純に、

 

「まあ、夜が更ける頃までには」

「うわあああああ――――ん!!」

 

 告げた瞬間、絶叫した美鈴が涙を振りまきながら崩れ落ちた。

 

「ど、どうした?」

 

 両手と両膝を地面について、歯車の狂った絡繰人形みたいに虚ろな表情でカタカタしている。

 

「うふふふふふ……そうですか、夜までお出掛けですか。そうですよね、月見さんもお暇じゃないですものね。いやいやいいんですよ、月見さんのお時間なんですから月見さんの自由に使うべきだと思います。こんなのはただ事前に月見さんの予定を確認しなかった私が悪いのであって、ああもうそうじゃないどうして月見さんがいるって確かめてから休みをもらわなかったのよ私のバカアアァァ……」

 

 ひどい哀愁に満ちた言葉の羅列から、月見は美鈴がここにやってきた理由を推測する。とりあえず、日々紅魔館の門番に勤しむ彼女が、珍しく休みをもらってきたらしいことはわかる。そして、月見になにかしら用があったらしいことも。

 ではその用とは一体なにかと考え、はたと気づく。

 そういえば美鈴は、門番の仕事が忙しいからなのか、今まで一度も温泉に入りに来たことがない。

 

「ぉんせんー……」

 

 ビンゴだった。温泉に入りたくとも仕事のせいで入れない日々が続き、今日になってようやく休みをもらえたので喜んでやってきたものの、月見が用事で外出するためダメだった――となれば、その絶望はいかなるものや。涙を振りまき崩れ落ちるのも頷ける。

 ふむ、と月見は腕を組んで、

 

「休みは今日一日だけか?」

「そうなんですっ……夜も夜で、ちょっと別件で用事が入ってまして……!」

「わかった。じゃあ、今日はお前に付き合うよ」

「そ、そうですよね。大丈夫です、紅魔館のお風呂に入浴剤を入れて温泉ごっこするのでって、え!? あっ、あああっあのっ、今なんて言いました!?」

 

 美鈴が驚愕の表情で月見の裾にしがみついた。絶望が満ちた地獄の中で、星が煌めくような、一筋の希望を見つけ出した目をしていた。

 しがみつかれる重さを感じながら、月見は繰り返す。

 

「だから、今日はお前に付き合うよ。別に急ぎの用事でもないし、また明日にするさ」

 

 もちろん、明日になれば地底から自称通い妻がやってくるかもしれないし、腹ペコになった闇妖怪が魚釣りに来るかもしれないし、妖怪の賢者やかぐや姫が押しかけてくるかもしれないし、説教好きな閻魔様が抜き打ち家庭訪問を仕掛けてくるかもしれない以上、今日用事を済ませられるのであればそれに越したことはない。

 しかしだからといって、ここで美鈴の切なる願いを無下に切り捨てるなど、どうしてできよう。きっとこのまま温泉に入れなかったら、美鈴は紅魔館の浴槽にお湯をなみなみと張って、入浴剤を何袋も贅沢に突っ込んで、虚ろな瞳で鼻歌を歌いながら温泉ごっこをするのだろう。それはちょっと――いや、かなり哀れである。

 なので月見は、裾にしがみつく美鈴の肩を叩きながら。

 

「温泉だけといわず、ゆっくりしていくといいよ。今日はお前の貸し切りだ」

「……つ、月見さあんっ……!!」

 

 ぶわわっ、と美鈴の目元から熱い涙があふれだす。悲しみではない別の感情にふるふると震えた彼女は、地の底から間欠泉が吹き上がってくるように長いタメ(・・)を作って、一、二の、三で爆発させた。

 

「――月見さあああああん!! ありがとうございます、ありがとうございますうううううううう!!」

「おっと」

 

 がっちりと腰に飛びつかれて、危うく押し倒されそうになった。

 

「いいんですか!? 本当にいいんですか!? ああ、これはもうなんとお礼を言えばいいか!」

 

 お腹のあたりから月見を見上げる美鈴の瞳は、フランにも負けないくらいの無邪気で眩しい輝きに満ちている。どうやら、温泉に入れるのが天へ突き抜けるほどに嬉しいらしい。こうして異性にぎゅうぎゅう抱きつくのもお構いなしだ。

 その大袈裟すぎる勢いに、月見は若干仰け反りながら、

 

「本当だって。だから離れてくれるかい」

 

 これがフランのように小さな子や、紫や藤千代のように特別親しい相手であれば、取り立てて動揺することもなかったろう。けれど美鈴はまだ知り合ってからひと月にも満たない相手であり、ついでにいえばそれなりに恵まれた体つきをしている女性なので、詰まるところさっきから月見の腿を挟み込んでいる妙に柔らかい二つの物体が否が応でも

 

「ガッ」

 

 その時、月見の前髪を掠めるように落ちてきた一冊の本が、そのまま美鈴の額を直撃した。辞書さながらぶ厚い魔導書の、しかも金具で武装された角の部分だった。もはや凶器とも呼ぶべきそれに額を強襲された美鈴は、月見の腰からずり落ち、両手で患部を押さえてふおおおと呻いていた。

 魔導書といえば。

 

「おや、パチュリー」

「……おはよう」

 

 上を見れば、案の定パチュリーが降りてきたところであった。青空で元気に輝く太陽とは対照的な無表情と、同じく感情が浮かばない、起き抜けのようにぼんやりとした瞳。地面まで届きそうなほど裾の長い衣服が、さざなみみたいにふよふよ漂う。

 地にゆっくり両足をつけた彼女は魔導書を回収すると、未だ悶え苦しんでいる美鈴を見下ろして、ようやくその瞳に冷ややかな感情を宿した。

 

「……まったく、なにやってるのよあなたは」

「えっ、それパチュリー様が言うんですか!? 魔導書落としたのって絶対わざとですよね!?」

「ええ」

「二つ返事で頷かれたっ! わかってましたけどっ、わかってましたけどもっ!」

 

 美鈴が額の痛みとは別の痛みでさめざめ涙を流すも、パチュリーはまったく動じない。

 

「でも、もし私じゃなくて咲夜だったら、おでこが赤くなる程度じゃ済まなかったでしょうね」

「……、」

「咲夜から頼まれたのよ。あなたが月見に変なことしないように、監視してほしいって。それであとから報告してほしいって」

「べ、別になにも変なことなんてしてないですよ!」

「そう。……じゃあ、さっき月見に抱きついてたのは、なにもおかしくない普通のことって報告して大丈夫ね?」

「ごめんなさいごめんなさい変なことしましただからお願いですので見なかったことにしてくださいまだ死にたくないですすみませんでした」

 

 顔を真っ青にしながらパチュリーに平謝りする、あいかわらず地位の低い美鈴はさておき。

 

「外で会うのは初めてだね」

「そうね」

 

『動かない大図書館』という二つ名の通り、パチュリーは一日の大半を大図書館で本とともに過ごし、滅多なことでは太陽の下を歩かない少女だ。こうして外で話をするのも、無論、初めてとなる。

 パチュリーは水月苑を仰いで感心したようにため息をつき、それから周囲の庭を眺めて、「……悪くない場所ね」と小声で呟いた。

 

「紅魔館から眺めたことはあったけど、こうして見てみると随分なところなのね」

「まあ……みんなのお陰というかみんなのせいというかね」

 

 こうして水月苑に腰を据えてからは、大図書館へ本を借りに行く機会も増えたので、パチュリーという少女の人柄が少しずつわかるようになってきていた。遺伝子の底まで魔術に支配されたような少女で、殊に魔術が関わった場合の集中力は凄まじく、研究中は食事も睡眠もロクに摂らないほど。お洒落だとかなんだとかいう女の子らしい話題にはまるで無頓着で、着るものなんて体さえ隠せればそれでいい。研究中は服を替えないのはもちろん、シャワーすら浴びないのも珍しくはない。

 けれど最近は、ちょっとずつ人目を気にして、身嗜みを意識するようになってきているのだと――そう楽しげに語ってくれたのは、小悪魔だった。

 パチュリーの髪からは、ほのかにシャンプーの香りがする。衣服からは、洗いたての洗剤の。どうやら水月苑にやってくるにあたって、身嗜みを一新してきたらしい。

 パチュリーがなぜ身嗜みを気にするに至ったか、そのあたりの理由は小悪魔からこっそりと教えられた。もちろんあの時は、魔理沙は弾幕を撃ってくるわパチュリーは発作を起こすわで忙しかったため、パチュリーからどんなにおいがしていたのかなんて、まったく覚えていないけれど。

 でも、それを教訓にしてちゃんとシャワーを浴びてから水月苑にやってくるあたり、やはりパチュリーも、女の子なのだった。

 

「パチュリーも、温泉に入っていくか?」

 

 美鈴同様、パチュリーもまだ温泉に入ったことはなかったはずだ。

 

「いいかしら? 予定があるならいいわよ、このまま中国の首根っこ引っ掴んで帰るから」

 

 美鈴の肩がビクンと跳ねたのは、とりあえず見なかったことにしておく。

 

「私は構わないよ。……美鈴、貸し切りの話はなしになりそうだけど大丈夫か?」

 

 問えば美鈴は真顔で、

 

「ここで私にダメと言える権利はないと思います」

「無難な判断ね」

「咲夜さんの名前を出されたら、もうどうしようもないじゃないですかぁ~……」

 

 一応は美鈴も月見と同じ妖怪のはずなのだが、まさに平伏叩頭、ここまで人間を恐れているのも珍しい。……ひょっとすると咲夜は、紅魔館の裏の支配者なのかもしれない。咲夜がいなくなると紅魔館の家事が機能しなくなるという意味では、特に。

 

「まあ、ゆっくりしていくといいさ。どうぞ、いらっしゃい」

「あっ、月見さん……その前に、一ついいですか?」

 

 鍵を掛けてからまだ間もない玄関を開けようと、回れ右をしたところで、背中に美鈴の声が掛かる。

 なんだいと月見が背中越しで振り返れば、美鈴は白い歯を見せる無邪気な笑顔で、力こぶをつくるように右腕を曲げて。

 

「月見さん、腕っ節に自信はあります?」

「……うん?」

 

 その言葉を聞いて、また始まった、とパチュリーが呆れながらため息をついていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 紅美鈴は武術を嗜む。

 彼女は主に妖精の襲撃から紅魔館を守る門番だが、無論、日がな一日直立不動で突っ立っているわけではない。襲撃のある日とない日でいえば後者が圧倒的に多いので、時には門を離れて休憩し、自分の好きなことに時間を使ったりもする。

 そんな時に打ち込む趣味の一つが、紅魔館の花壇のお世話であり。

 そしてもう一つが、武術。

 もっとも武術は、花壇の世話とは違って、趣味の範疇に収まるものではないけれど。

 

「いやー、ありがとうございます月見さん。こんなお願いまで聞いてもらっちゃって」

「構わないよ。たまには本格的な運動もいいだろうさ」

 

 武術を嗜む美鈴は、誰かと組手をするのもまた好む。十メートルほどの距離を開け、軽い準備運動をしながら月見と向かい合った美鈴の瞳は、遠目からでもはっきり見て取れるほどの高揚で輝いていた。滅多に巡り合えない大妖怪との組手の機会に、彼女の武術家としての血が、早くも騒ぎ出しているようだった。

 水月苑からややも離れたところにある、あつらえ向きに開けた森の中だ。準備運動をしている二人をよそに、パチュリーは適当な木陰に腰を下ろし、春のまどろみの中であくびを噛み殺した。

 

「パチュリー様ー、ちゃんと見ててくださいねー」

「はいはい、わかってるわよ」

 

 毎日を本に囲まれて過ごす生粋の文系であるパチュリーが、美鈴から審判役を頼まれたのは必然だったろう。武術にはてんで縁がないし、そうでなくとも体が弱い自分に、組手のような荒事なんてできるはずもない。まさしく、木陰に座ってのんびり二人を見守っているのが分相応だ。

 

「そろそろ白星を取れるといいわねえ」

「頑張ります! ……あ、だからって手加減はしないでくださいね月見さん! いや、本気で来られても困るんですけど!」

 

 どっちなのよ、とパチュリーは心の中で笑う。けれど、言わんとしているところはなんとなく理解できた。『戦い』としては本気を出さず、『組手』としては手加減をしないでほしい、という意味だろう。月見はあのレミリアをもねじ伏せた大妖怪なのだから、本気を出されてしまえば勝ち目などあるはずがない。

 美鈴が大妖怪相手に組手を申し込むのは今に始まったことではないが、対戦成績は未だ黒星ばかりだった。同じ屋根で暮らす同胞として擁護しておけば、決して美鈴が弱いわけではない。むしろ、長年の武術の修行で培われた戦いの技術は、紅魔館はもちろん幻想郷規模で見ても頭一つ飛び抜けている。それこそ、大妖怪にだって引けを取らないほどに。

 なのに大妖怪と呼ばれる連中は皆、美鈴が武器とする『技術』を、純粋な『力』一つでねじ伏せてしまう。柔よく剛を制す、なんて言葉はあるけれど、剛があまりに桁違いになってしまえば、柔はあっと言う間に捻り潰されてしまう。伊吹萃香や風見幽香と組手をした時は、初めこそ美鈴が優勢だったものの、最終的にたった一撃の拳に涙を飲まされた。

 さて、今回はどうだろうか。パチュリーの見立てでは、月見は妖術を使った遠距離戦も、肉体に頼った接近戦もこなせるオールラウンダーだ。狐なら妖術を得意としないはずがないし、一方でその尻尾の一撃は、レミリアを容易く戦闘不能に追いやるほど。いくら組手とて、美鈴の勝機は薄かろう。

 付け入る隙があるとすれば、月見の性格。彼はフランが底なしに懐いている通り、妖怪とは思えないほど穏やかな性格をしているから、どこぞのバトルジャンキーたちとは違ってしっかり手加減をするはずだ。

 故に、本気を出される前に一気に押し切ってしまえば、或いは。

 

「……それじゃあ、先に有効打を入れた方が勝ちってことで」

「了解」

 

 一本勝負であれば、美鈴にも充分勝機がある。それにさっきから春の陽気のせいで眠いので、さっさと終わらせてもらわないと船を漕ぎかねないパチュリーだった。

 月見は特に気負った様子もなく、「こういうことをするのも久し振りだねえ」なんて呑気に独り言を呟いていた。美鈴が武術独特の呼吸法で集中力を高める一方で、彼はあくまで自然体のまま、肩を回したり、手を握って開いたり。

 傍目から見れば油断大敵もいいところだけれど、大妖怪というのはみんなこうなのだ。構えがない。過去に美鈴が組手を申し込んだ相手の中でも、八雲藍は袖に両手を入れたままだったし、風見幽香は日傘を差したままだったし、伊吹萃香に至っては酔っ払って足元がおぼつかない状態だった。そしてそれにも関わらず、美鈴は敗北した。

 大妖怪とは皆、闘うための構えを必要とすることなく、自然体のままでいつでも必要な力を発揮できる――そういう次元にいる存在なのだ。

 

「二人とも、準備はいい?」

「いつでも」

「こっちも大丈夫です!」

 

 月見は穏やかに。美鈴は力強く。二人の返事を確認し、パチュリーは木陰で右手を掲げる。

 それをゆっくりと前に振って、眠いなあ、と思いながら。

 

「じゃあ、始め」

「――ッ!」

 

 試合開始を宣言した直後、美鈴が踏み込んだ。姿勢を低く、地を鳴らし土を蹴り上げ、強く前へと駆け抜ける。典型的な猪突猛進――だが、悪い手ではない。

 元々実力のかけ離れた相手だ、後手に回ったところで勝ち目はない。勝機があるとすれば、月見が本腰を入れ始めるよりも先に、先手必勝で一撃を叩き込むのみ。

 美鈴の動きは速かった。駆け抜ける風がパチュリーの髪を揺らしたと錯覚するほどで、常人には姿を捉えることすら難しかったかもしれない。

 されど相手は、常人の枠とはまったくの別次元にいる大妖怪。駆け抜けた美鈴が月見の懐に入り込み、拳を抜く、

 

「っ……!」

 

 よりも先に、美鈴の体が、宙を舞っていた。

 動体視力に自信のないインドア派なパチュリーには、なにが起こったのかさっぱりだった。気がついたら美鈴が飛んでいた。まるで自分から飛んだんじゃないかと思うほど、あまりに一瞬で。

 多分、投げ飛ばされたのだと、思う。誰に、といえば対戦相手である月見しかいないのだが、断言できない自分がいる。パチュリーの目には、月見がなにかをしたようにはまったく見えなかったのだから。

 相手を組み伏せるのではなく、ただボールを上に放るような軽い投げだった。月見の後方へぽーんと飛んでいった美鈴は、すぐに空中で体勢を整えて、危なげなく着地する。振り返り、構え、壮健の色とともに苦笑。

 

「いやあー……びっくりしました」

 

 そこでようやく、パチュリーは美鈴を投げ飛ばしたものの正体を知った。尻尾だ。いつの間にか振り抜かれていた月見の銀尾が、蛇を思わせる不気味な動きで、彼の背後へと戻っていくのが見えた。

 

「警戒はしてたんですけど、予想以上に速かったです。さすがですね」

 

 同感だと、パチュリーは思う。速いなんてもんじゃなかった。パチュリーにはまったく見えなかった。特別妖力を使ったりはせず、純粋な身体能力のみで、あれほどの速度。……妖力による強化が加わったらどうなってしまうのか、レミリアが一発で叩き伏せられたのにも納得してしまう。

 美鈴が横目でパチュリーに目配せする。

 

「パチュリー様、今のはセーフですよね?」

「……そうね」

 

 というか、まったく見えてなかったので判定不能だ。まあ、月見からの異議申立てもないので、スルーでいいだろう。

 続けて、と小さく頷けば、美鈴と月見は再び向き合う。

 

「……尻尾を使うのは反則かな?」

「いえいえ、構いませんよ。……あ、でもさすがに十一本は勘弁してもらえると……」

「美鈴が強かったら、使っちゃうかもしれないねえ」

「あ、じゃあ大丈夫ですね。私はまだまだ修行中の身なので」

 

 軽く笑い、構えた両手の指先まで力を巡らせ、深呼吸をする。そうやって再度構えた美鈴に対し、やはり月見は自然体のまま。

 美鈴が月見の尻尾に注意しつつタイミングを窺うけれど、その間、月見に動きを起こす様子はなかった。静かに、美鈴が攻めてくる時を待っている。手加減をしているのか、それともカウンターが彼のスタイルなのか。

 と、

 

「……!」

 

 今度はパチュリーにもなんとか見えた。なんの予備動作もなくいきなり月見の尻尾が跳ね、刺突の形を以て美鈴へと迫る。

 だが、パチュリーでさえ視認できる程度の攻撃に、美鈴が反応できない道理はない。直撃する限界まで尻尾を引きつけてから、鋭く呼気を一つ、体の軸を横にずらしつつ腕で払い、最小限の動きで回避する。美鈴が誇る『技術』あってこそ為せる技だ。月見が、ほう、と感心したように眉を上げる。

 脇へ逸れなにもない地面を打った彼の尻尾を、美鈴は両腕で抱え込む。

 

「おおっ、もっふもふです!」

 

 別に言わなくてもいい感想を素直に口にしたあとで、一気に引っ張れば、

 

「――お」

 

 月見の体が尻尾に引かれ半回転し、そのまま宙に浮いた。まさに狐の一本釣り――大の大人である彼を楽々フィッシュするとは、やはり美鈴も、人間と同じ見た目で立派な妖怪なのだ。パチュリーだったら、浮かすのはもちろん引き寄せることすらできず、ただ黙々と尻尾をもふもふするしかないだろう。

 ……。

 ……そういえば私、まだ月見の尻尾を触ったことないわね。もっふもふって、どのくらいもっふもふなのかしら。

 などとパチュリーの思考が脇へ逸れているうちに、一気に勝負どころである。月見は美鈴に背を向けたまま慣性に遊ばれている状態で、美鈴としては恰好のチャンスだ。迫ってくる彼の背に向け、拳を構えて、

 

「……なんの!」

「!」

 

 地面に投げ出されていた月見の尻尾が一瞬で戻り、美鈴の拳を受け止める盾となった。

 

「もっふもふ!」

 

 なんで美鈴は、尻尾に触った感想を逐一報告してくるのだろうか。触ったことがないパチュリーに喧嘩でも売っているのか。やはり先刻月見に抱きついていた件は、咲夜に報告しなければならないかもしれない。

 ともあれ尻尾が美鈴の拳を受けたことで、月見の体は吹き飛ぶけれど、有効打にはならない。地に沓の跡をつけながら飛ばされた勢いを殺す月見に対し、美鈴はすぐに追撃に出る。

 地を蹴り、再び前へ。風をまとい、一気に距離を詰める。月見はまだ滑る足を止め切れておらず、行動が制限されている。続けざまに、美鈴の二度目の好機だ。

 月見が尻尾を打ち出して美鈴の突撃を止めようとする。だが、既に一度躱した攻撃など、美鈴なら目を瞑ってでもいなしてみせるだろう。走る最中であっても、彼女は見事に対処してみせた。腕を内側から外へ向けて払い、再び尻尾を弾いた、

 

 ――瞬間、弾かれた尻尾がぐるりと内側に丸まって、そのまま美鈴の体に巻きついた。

 

「「あっ」」

 

 美鈴はもちろん、パチュリーも、つい小さく声を上げてしまった。最小限の動きで合理的に回避しようとする武術家の癖――それを衝かれた。

 

「あっ、あっ」

 

 美鈴が焦りながらなんとか脱出しようともがくけれど、尻尾はびくともしない。やがて体勢を立て直した月見が、ふっふっふと不敵に笑いながら美鈴に近づいていく。美鈴は両腕はおろか両脚までぐるぐる巻きにされていて、辛うじて倒れないでいるだけの状態。あとはもう月見の好きにされる他ない。

 パチュリーはため息をついて、前に乗り出していた体をゆっくりと木の幹に預けた。冷や汗を流す美鈴の目の前に立った月見は、にっこり笑って、親指と中指で恐怖の円形を作り上げた。

 ひー!? と、美鈴が顔を真っ青にして悲鳴を上げる。

 

「それってデコピン!? デコピンですか!? まままっ待ってくださいそれって地味に痛いんですよしかも月見さん妖怪じゃないですか絶対痛いですよやめてくださいご慈悲をください!?」

「いや、一発有効打入れないとダメってルールだし、でも無防備の女の子を殴れるほど残忍でもないつもりだしね」

「むしろデコピンの方が残忍ですよおおおおおっ!! いやー!?」

 

 迫り来る月見の魔の手から逃れようと飛び上がり、バランスを崩してびたーんと地面に横倒しになる。それから水揚げされた魚よろしくびちびち暴れる同胞の情けない姿に、パチュリーはため息をついてのそりと腰を上げた。

 結果はもはや明らかだ。あとは美鈴がデコピンを喰らって悲鳴を上げるだけだから、これ以上はレフェリーストップだろう。

 そう思い、二人の間に口を挟んだ、

 

「月見、」

 

 直後に肌を粟立たす、身を焦がすような殺気。

 

「――!」

 

 春の眠気が消し飛んだ。唇を止め、息を詰め、脊髄反射的な速度で探査魔法を展開し、殺意の出処を暴き出す。

 正面――月見たちを挟んだ森の深くから迫り来る熱気と、その矛先は、

 

「月見ッ!」

「……!」

 

 パチュリーが叫ぶのと、月見もまた敵の場所を察したのは同時。彼は表情を険しくして森の奥へ振り向くなり、尻尾を大きく振って美鈴を投げ飛ばす。美鈴にフィッシュされた汚名を見事に返上する、チャイナ少女の鮮やかな一本釣り――って、

 

「ちょっ」

 

 美鈴の落下地点が自分だと気づいた瞬間、パチュリーはなけなしの筋力を精一杯に発揮して横に跳躍した。跳躍というよりかはほとんど倒れ込むような情けない逃げ方だったのだけれどそれはさておき、直後に自分が立っていた場所に美鈴が「ごふっ」と背中から落下してきて、健気に咲いていた一輪の花が哀れ根本からへし折られる。

 もし判断が一瞬でも遅れていたら、あの花みたいになっていたのはパチュリーだったかもしれない。合図もせずにいきなりなんてことをしてくれるのだろう。だが、今はそんなことに文句を言っている場合ではない。

 森の奥から津波の如く押し寄せてきた大炎が、月見の体を呑み込もうとしている。

 

「月見!?」

「月見さん!?」

 

 それなりに離れているパチュリーまでもが火傷しそうになるほどの熱量。驚愕に目を剥いた美鈴が、背を打った痛みに呻く間もなく跳ね起きる。パチュリーは舌打ちをして魔導書を開き、周囲に水の魔法陣を展開する。しかし、圧倒的に炎の方が速い。

 間に合わない、

 

「――!」

 

 轟、と大気が打ち震える音。突風が吹いたと見紛うほど鮮烈に空気を切り裂き、月見の銀尾が、迫る豪火を一文字に薙ぎ払った。

 ……ああそうだ、とパチュリーは思う。不測の事態に柄にもなく本気で慌ててしまったが、月見はレミリアをも打ち負かした大妖怪。文字通り火力だけの単純な攻撃に、一体どうして遅れなど取ろうか。

 残火が花びらのように散る中で、パチュリーに背を向けたその表情は見えないけれど、きっと彼は笑ったろう。

 

「この炎……なるほど」

 

 小さく呟いた直後、なんの前触れもなく月見の姿が消えた。否、消えたと錯覚するほどの速度で森の奥へ飛び込んだのだ。地を揺らす一瞬の低音と、立ち上がった風に木々が震える葉擦れの音。次々移り変わる目の前の光景にパチュリーの頭が追いつくより先に、矢継ぎ早に響く小さな爆発音と、なにかが高速で森の中を飛び回るざわめき。

 そして決着の音は、ばちーん、と強くなにかをひっ叩く痛そうな音と、ひにゃー、などという少女のかわいらしい悲鳴で、それっきり森は静かになった。パチュリーが感じた殺気も、津波の如き豪火も既に白昼夢と化し、小鳥のさえずりと春の陽気が、さざなみのように周囲に戻ってきたのを感じる。

 ……ひょっとして、思っていたよりも大した事態ではなかったのだろうか。パチュリーと美鈴が揃って互いの顔を見合わせていれば、やがて森の奥から戻ってきた月見は、服の所々を焦がしていたけれど、顔にはいつも通りの柔和な笑みを浮かべていた。

 加えて尻尾の先には、先ほどまでは見られなかった人影が。

 

「うー。先生ってば、もうちょっと手加減してくれたっていいじゃない。不老不死ったって痛みは感じるんだよ?」

「はっはっは、いきなりあんな炎をぶっ放してきたお前が言えた台詞じゃないねえ」

 

 月見の尻尾で全身ぐるぐる巻きにされ、宙ぶらりんになって連行されてきた少女は、引きこもりがちなパチュリーでもある程度は聞き及んでいる相手だった。幻想郷に三つだけ存在している永遠の命の一つであり、かつての永夜異変の際には、レミリアと咲夜が少しお世話になったとか。なるほど彼女は炎の術を得意としているというから、月見を奇襲した犯人も彼女なのだろう。

 おでこを真っ赤にして若干涙目な彼女は、頬を膨らませながら足をじたばたさせている。

 

「だからってデコピンなんて鬼畜だよ! 首が吹っ飛ぶかと思ったんだからね!?」

 

 まさかあの『ばちーん』って、デコピンの音だったのだろうか。それにしては、まるで平手打ちをかましたような快音だったのだけれど。

 本来デコピンを喰らわされるはずだった美鈴は、真っ赤っ赤になった少女のおでこを見て、引きつった笑顔でぶるりと震えるのだった。

 というか、

 

「先生の鬼畜ー。鬼ー」

「私は狐だよ」

 

 ……『先生』って、一体なに?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第46話 「トレジャーハート」

 

 

 

 

 

 強いてその関係を言葉にするのであれば、教師と教え子ではなく、先輩と後輩に近いのだろうと月見は思っている。月見は彼女に対して教鞭を振るった覚えなど一度もないし、また教えを乞われた記憶もない。それでも彼女が月見を一方的に『先生』と呼ぶのは、今の自分がいるのは月見のお陰だという一種の敬意に基づくものであり、つまるところ月見は、彼女にとって『人生の師』というやつなのだった。

 大それたことをやったわけではない。駆け出しの陰陽師だった彼女とひょんなことから戦う羽目になって、そこで適当にあしらってやった結果目の敵にされたというか、『いつか超える目標』みたいに認識されてしまって、以来たびたび戦いを繰り返すうちにいつしか先生と呼ばれるように――と、それだけの話だ。だが、それだけ、の過程が意図せず今の彼女の形成する大切な要素となっているらしく、それ故の『先生』なのだという。

 

「もう。先生ってば、戻ってきてたんなら教えてよ。まったく音沙汰なしなんてあんまりだと思うんだけどー?」

 

 森から水月苑への帰り道で、月見の右隣を歩く彼女はとても不満げだった。蓬莱の薬を飲んで以来成長を放棄したその体は、輝夜よりも指先一つの程度低い。代わりに色の抜け落ちた白髪は輝夜をも凌ぐ長さで、彼女の後ろ姿を脚の先まで覆い隠している。一歩、一歩と足を動かすたびに、頭の上の大きなリボンがふわふわ揺れる。

 藤原妹紅――真っ赤に腫れ上がっていたデコピンの痕は、不老不死の再生力を以てして既に影もなくなっていた。

 

「一応、一回家には行ったんだけどね。その時は折が悪かった」

「いやいや一回ダメだったくらいで諦めないでよ」

 

 以前妹紅の家を尋ねたのは、幻想郷に戻ってきてまだ三日目の頃だった。それ以来は、そう広くもない幻想郷だしそのうち会えるだろうとのんびり構えて、特に月見の方から足を向けたりはしていなかった。迷いの竹林までわざわざ出向く用事がなかったのも一つの理由だろう。水月苑ができてからというもの、輝夜が積極的に遊びに来るようになって、脱・ひきこもりを達成したのは意外だった。

 まあそんなのは建前で、本当は妹紅の存在自体をすっかり忘れてしまっていたのだけれど――世の中には、得てして闇に葬られるべき真実というのはつきものである。

 

「いやー、ほんとびっくりしましたよ。普通に敵かなにかだと思いました」

 

 月見の左で美鈴が苦笑すれば、その奥でパチュリーもこくりと頷いた。

 

「再会の挨拶にしては、かなり過激だったんじゃないかしら」

 

 月見は、挨拶代わりに妹紅がぶっ放してきた大炎を思い出す。月見を丸々呑み込む、津波のような。言うまでもなく、直撃すれば大妖怪の月見とて無事では済まなかった一撃だ。

 妹紅は事もなげに答える。

 

「それはまあ、あれくらいの気持ちで行かないと先生に一撃なんて入れられないでしょ」

 

 果たして彼女は、一撃入った時点で再会の挨拶が今生の別れになるかもしれない可能性を理解しているだろうか。自分が不老不死だからなのか、彼女は少々、生死の境界線に疎いような気がする。

 まあ、あんな火力だけの攻撃に当たってやるつもりなど毛頭ないのは、事実だけれど。

 妹紅は悔しそうに肩を竦めて、

 

「ま、結局今回もダメだったけど。……500年振りだけど、全然差が縮まった気がしないなあ」

「……あなたは、月見とはかなり長い付き合いみたいね」

「そうだね。先生と出会ったのは、もう千年くらい前だっけ?」

「千年……」

 

 その答えになにか思うところがあるのか、パチュリーは難しい顔をしながら声をひそめ、独り言のように、

 

「……咲夜には念のため報告かしら」

「? 紅魔館のメイドがどうかしたの?」

「いいえ、なんでもないの。こっちの話よ」

 

 なぜそこで咲夜の名が出てくるのかは……まあ、月見には、わかるようなわからないようなといったところだろうか。

 疑問顔の妹紅は追及したげだったが、折よく水月苑名物の朱い太鼓橋が見えてくると、山紫水明に魅せられてかその気も失せたらしい。はあー、と口を半開きにしてあちこちを走り回り、池を覗き込んだり、手を庇にしながら屋敷を眺めたりする。遠足にやってきた小学生みたいな反応だった。

 

「噂には聞いてたけど、やっぱりすごいとこだねえ。これ、山の妖怪たちにつくってもらったんでしょ? あいかわらず愛されてるなあ先生はーこのこの」

 

 妹紅がいっちょまえに脇腹を肘で突っついてきたので、月見はお返しだとばかりにその頭をバシバシ叩いてやった。あまり背が高くないのでとても叩きやすい。

 

「ふぎゅっ……」

「さて、じゃあ中に入ろうか。美鈴たちはそのまま温泉だろう?」

「はいっ、是非とも!!」

 

 体全体で頷く美鈴の瞳は、未だかつてないほどの希望で光り輝いていた。隣のパチュリーが呆れて半目になるほどに。

 

「あ、じゃあ私も――」

「お前はダメだ。ちょっと話があるから付き合え」

 

 元気よく便乗しようとした妹紅を押さえつけるように、またその頭をバシンと叩く。ふぎゅん、と変な声を上げた彼女は、眉間にとても不満そうな皺を寄せて月見を見上げた。

 

「えー? 別に話なんて温泉のあとでも」

「大事な話だ。……いいから付き合いなさい」

「……」

 

 少し真面目な声で答えてやれば、妹紅はすぐにこちらの意図を察したようだった。困ったように笑って、肩を竦めて。

 声音はあくまで明るく、

 

「仕方ないなあ。……まあ、500年振りだし、積もる話もあるよね」

「ああ、色々とね」

 

 具体的には――蓬莱山輝夜のこと、とか。

 月見が初めて永遠亭に行こうとしたあの日、妹紅は蓬莱山輝夜ごと、竹林の一部を丸々焦土に変えていた。実際に戦いの場を見たわけではないが、とても弾幕ごっこの範疇には収まりきらない、殺し合いにも近い争いをしていただろうことは容易に想像が利く。

 どうして、輝夜を殺したのか。

 500年前、かぐや姫への復讐に焦がれていた少女は。

 今でも輝夜を、恨んでいるのだろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 決して、裕福な家庭の生まれではなかった。

 もちろん当時でいう貴族であった藤原家は、控えめに見ても潤沢な財力を持っており、貧富を問えば間違いなく裕福の側だった。しかし金銭面で恵まれているからといって、その家のすべてが裕福だとは限らない。多すぎる財力は、得てして人の心を鈍く曇らせる。

 例えば、愛情、とか。

 家族として、親子として、人間として最も始原的なそこが欠けているようでは、いくら金が有り余っていようとも、本当の意味での裕福には程遠い。

 妹紅の父は、愛に真摯な男ではなかった。仮に真摯だったなら、妹紅はこの世に生まれていなかったろう。四男五女の子。果たして妻と呼べる女が何人いたのか、妾の子である妹紅もよく覚えていない。

 もちろん当時の貴族の間では、夫が複数の妻を持つのも珍しくなかったのだと、知ってはいるけれど。

 四男五女の子をもうけてなお、女に飽きたらず私欲だけでかぐや姫に求婚を行ったのだから、まあ、誠実な親でなかったのは確かだった。生涯一人の女とだけ添い遂げるような貴族も、圧倒的少数派だが、いたことにはいたのだし。

 

 とはいえそれでも、妹紅にとって、父は父、だった。

 

 望まれて生まれた子ではないといえ、さして愛情を与えてもらえた覚えがないとはいえ、それでもこの世でたった一人しかいない、妹紅の父だった。

 父がかぐや姫への求婚に失敗し、貴族として大きな汚点を背負わされた時、意外にも妹紅の心を支配したのは、かぐや姫に対する怒りだった。求婚が成功すればいいと祈った覚えはない。しかしあのような結果で終わることを望んだ覚えも、またない。

 かぐや姫が誰との縁談も望んでいなかったのは、なんとなく察していた。多分、かぐや姫想いの竹取の翁が、ちょっと暴走してしまっただけなのだろうと。故に最終的にはあれこれ理由をつけて断るんだろうなと、なんとなく予想はしていた。

 けれどその中で、必ずしも、父に恥をかかせる必要などなかったはずだ。

 

 しかしながら、それだけで話が終わったのなら、かぐや姫を嫌いこそすれ、恨むようなことはなかっただろう。妹紅が実際に、何百年にも渡ってかぐや姫を恨むことになったのは、それだけでは話が終わらなかったから。

 繰り返すが、妹紅の父は誠実な男ではなかった。意中の相手に求婚を断られたのみならず、要らぬ恥まで背負わされ貴族としての体面を大きく傷つけられた父は――あけすけにいってしまえば、その怒りの矛先を妹紅へと向けた。

 まあ妹紅は妾の子で、存在自体、世間には公にされていなかったし、色々と都合がよかったのだろう。今でいう虐待というほどではなかったが、しばしば辛い言葉を浴びせられ、些細なことで手を上げられるようになった。

 元々、妹紅に明確な愛情を注いでくれていたわけではない。しかし一度産ませてしまった子である以上、必要最低限の人情だけは忘れないでいてくれた父が、それすらも忘れてしまった。

 これをかぐや姫のせいといわずして、なんといえばいいのか。

 暴言を吐かれるたびに、かぐや姫への恨みが増した。頬を打たれるたびに、復讐の想いが強くなった。それらの感情が引き返しの利かないところまで肥大化するのに、さほど時間は掛からなかった。殺してやりたいと思ったことなど、一度や二度ではない。不老不死の薬を飲むに至ったあとも、相当しばらくの間は、妹紅の心は復讐に支配されたままだった。

 

「――だから、あの時に輝夜を殺したのか?」

 

 月見から向けられるまっすぐな視線を、嫌だなあ、と妹紅は思う。嫌い、というわけではない。むしろ好き。でも、その視線とこの話題は、ちょっと、相性が悪い。

 月見とは、かつて彼がここで生活していた500年前まで、長い付き合いがあった。その時点で既に、彼が輝夜と知り合いであることは聞かされていた。

 けれど、彼が輝夜にとってどれほど大切な存在だったかまでは、知らなかった。輝夜と出会い、殺し合いを始めて何年か経って、憎しみ以外にも親近感のような感情を覚え始めてきた頃に、向こうから直接打ち明けられて初めて知った。

 

『私ね、好きな人がいたのよ』――。

 

 卑怯だよなあ、と思う。だって輝夜は、月見のことが好きなんだから。この世で一番好きなんだから。

 そんな輝夜の想い人の前で、輝夜を殺したことについて、話をするなんて。

 整理がつかない心に、時間稼ぎをするように、妹紅はちょっとだけ話題を逸らす。

 

「その前に、さ。先生、自分が輝夜に好かれてるって、私に黙ってたでしょ」

 

 月見の片眉が、ほんのかすかに動いた。

 

「……明確に言われたわけじゃなかったしね。その手の話題は、自分の憶測だけで話せるようなことじゃないだろう?」

「あー。それは、まあそうかもしれないけど」

 

 確かに、私ってかぐや姫に好かれてたみたいなんだよねえ、などと憶測だけで話をする人がいたら、頭大丈夫かこいつと白い目で見る他ない気がする。

 月見は浅く肩を竦めて、

 

「とはいえ、この前会ってきた時に、遂に真正面から言われてしまったんだけどね」

「あ、そうなんだ」

 

 ということは輝夜は、月見はもう死んだと悲しみに暮れるだけの日々より、一歩大きく前に進んだのだろう。よかったね、輝夜――なんて、無意識のうちに思ってからふと、

 

「……」

「どうした?」

「……いや」

 

 ……よかったね、か、と妹紅は心の中で笑う。かつては冗談抜きで殺してやりたいと思っていた相手に、まさかそんな言葉を贈る日が来るなんて、夢にも思っちゃいなかった。

 

「……」

 

 なんとなく、今なら話せそうな気がした。今の、妹紅と輝夜の関係を。

 一度、深く呼吸をして、口を切る。

 

「――私があの時輝夜を殺したのは……なんていうのかな。儀式……ってほど仰々しいもんじゃないか。日課……ってほど頻繁にやってるわけでもないし……あーなんていうのかな、そのぉー……」

 

 ええい、私の貧弱な語彙力め。一言でズバリ表現する言葉が見つからない。

 

「とにかくあれだよ、お互いが生きてるのを再確認するための……習慣……みたいな」

 

 習慣。うわー全然しっくり来ない。輝夜に聞かれたら笑われそうだ。

 というか、これでは説明の順序がおかしい。月見も、若干要領を得ていない顔をしている。なんとなく話せそうだと思っただけで、話の筋道も組み立てずに喋りだしてしまった己を呪う。

 また、深呼吸。

 

「……えっと、それよりもまずね。私、もう輝夜のこと恨んでないんだよ」

「……そうなのか?」

 

 月見がかすかに眉を上げる。500年前の妹紅までしか知らない彼なら無理もない。当時の妹紅だって、まさか未来の自分が輝夜と和解するなどとは、想像してもいなかったのだし。

 

「先生が出て行って、二百年くらい経った頃だよ。迷いの竹林でぱったりと輝夜に出くわしてね。あんまりにもぱったりすぎたもんだから、私も輝夜もなにも言えなくなっちゃってさ。そんで挙句の果てに出てきた言葉が『あ、こんにちは』だよ? 向こうも『こ、こんにちは』とか普通に返してくるし。まあ輝夜は私の顔なんて知らなかったろうから、知らない人に挨拶されたら挨拶返して当然なんだろうけど」

 

 更に言えば気が動転しすぎて、挨拶のあとに「きょ、今日はいい天気ですね」「そ、そうですね」とか世間話をしてしまった。曇りだったのに。馬鹿すぎる。

 ……まあ、それは、ここで敢えてまで話す必要はないだろうし、永久に闇に葬っておくけれど。

 

「……それで?」

「で、そこでやっと私も正気に返ったから……とりあえずはやっぱり、思いっきりぶん殴ったよね。あとは流れるままに殺し合いだよ。いやー、あの時の私たちは完全に獣だったね」

 

 ……こういう話を笑いながらするのは、おかしいだろうか。でも今の妹紅にとっては、確かに笑い事だったのだ。なんの前触れもなくぱったり出会って、お互いに動揺しまくって、とりあえず挨拶をして、世間話をしてからの、殴り合い殺し合い。今となってはほぼ完全に和解して、一緒に酒を呑んだりする関係になったからこそ、その始まりはあまりに滑稽だった。

 

「……なるほどね」

 

 聡い月見は、話を聞いただけでそのあたりまでを察したようだった。こういうところをすぐにわかってくれるから、先生との話は、楽でいい。

 

「戦ってるうちにさ、色々、輝夜のこともわかってきて……結構似た者同士なのかな、とか。ほら、先生も言ってたじゃん。輝夜って、あれはあれで結構かわいいところあるって」

「……言ったっけかな」

 

 今となっては盛大な告白をされたあとだからだろうか、月見は若干バツが悪そうな顔をしていた。恥ずかしがるように尻尾が揺れたのを見逃さない。今後はこれをネタにからかっても面白いかもしれないなと、心の片隅にメモを取っておく。

 

「というかそれって、自分もかわいいって言ってるようなもんだぞ」

「……かわいくないかな、私」

「いや、充分」

「えへへ」

 

 ちょっと嬉しい。まあ、これでも一応、女としてはそこそこ気を遣ってるつもりなのだ。不老不死なので、半分くらいは意味がないけれど。

 

「しかし、それだったら最初の質問だ。輝夜を恨んでないんだったら、もう戦ったり、殺し合ったりする必要はないように思うけど?」

「うーん……これは不老不死な私と輝夜の価値観だから、先生にわかってもらえるかはわかんないけど」

 

 初め妹紅は、輝夜との戦いを儀式と例えた。響きは大仰すぎるけれど、結局はそれが一番近いんじゃないかと妹紅は思う。

 お互いが生きているのを、再確認するということ。

 

「ああいう風に命懸けで戦ってるのとさ。生きてるなって、思えるんだよね」

 

 傷を負う痛み。息が切れる苦しさ。血が流れる熱さ。勝った時の嬉しさ。負けた時の悔しさ。

 その中で感じる心臓の鼓動が、紛れもない、生きているという実感。

 

「不老不死、だからさ。普通に生きてるだけだと、やっぱり、色々と色褪せちゃうんだ。だからああいう風に、命張って戦うの。こんなことできるのは、同じ不老不死の、輝夜だけだし」

 

 自分たちが、この世界で、息をしているのだと。自分たちの心臓が、この世界で、鼓動を刻んでいるのだと。

 それを確認し合うための、二人だけの、儀式なのだろう。

 

「……」

 

 月見は静かな表情をしている。偏った先入観を持たず、妹紅の価値観を正しく理解しようとするような。輝夜を殺された、という事実に、一つの折り合いをつけようとするような。

 

「……二つ、確認させてもらっていいか?」

「うん」

「一つ。あれは、輝夜と納得し合った上でやってることなんだろう?」

「……うん」

 

 初めは妹紅が一方的に積年の恨みをぶつけるだけだったが、少しすれば輝夜もトサカに来たようで、真正面から戦いに応じてくれるようになった。そうやって互いの気持ちを投げ合っているうちに、恨みとか怒りとかまでどこかに投げ飛ばしてしまったらしくて、いつしか戦いの目的は、生きている実感を得るためという現在の形にすり替わっていた。

 もうやめようと言ったことは一度もないし、言われたこともない。むしろ、またやろう、ならお互いに何度も言い合った記憶がある。

 

「なら、もう一つ」

 

 月見は、今まで以上に真剣な声音で、

 

「……お前は、輝夜を殺したくて殺してるのか?」

 

 あ、なるほどな、と妹紅は思った。確かにそれは、彼が一番、気にしそうなことだった。

 だからこそ、自信を以て答えた。

 

「違うよ。まあ昔は、殺したいって思ってたのは否定できないけど……でもさっきも言った通り、私はもう輝夜を恨んでない。確かに殺し合う必要は、ないのかもしれないけどね」

 

 けれど殺し合うことこそが、妹紅たち不老不死なりの、命の感じ方なのだ。

 それはひょっとすると、微妙な違いなのかもしれない。不老不死とはいえ、ああも簡単に互いの命を奪い合う行為を、正当化なんてできないかもしれない。

 けれど、妹紅や輝夜の心にあるのは、怨恨だとか嫌悪だとか、そういう後ろめたい感情ではない。

 欲望のままに殺し合うのではなく、不老不死なりに、命の鼓動を感じて、生きていくための。

 前を向くための、正の感情。

 

「……そうか」

 

 月見の反応は穏やかだった。先ほどまでの力のある表情は消え、まぶたを下ろし、そよ風が吹くように、

 

「なら、安心したよ」

「……いいの? 恨んではいないけど、殺し合ってるのは事実なんだよ?」

「だがもしお互いが不老不死じゃなかったら、お前たちはあんなことはしない」

 

 妹紅は閉口する。月見は続ける。

 

「私が心配してたのはね、お前が……なんていうかな、『殺したがり』になってしまったんじゃないかってことだよ。お前が私を『先生』と呼ぶのなら、少なくとも、私はそういう生き方を示したつもりはないからね」

 

 妹紅は小さく笑った。確かに月見の生き方は、『殺し』なんて物騒な言葉からは縁遠い。

 月見が、肩を竦めて言う。

 

「とはいえ、確かに殺し合い自体は感心できることじゃないね。普通の弾幕ごっこじゃダメなのか?」

 

 決して咎めるのではなく、なんてことはない、普通の会話として。殺し合いを認めてもらえたわけではないけれど、少なくとも、口うるさく叱りつけてやめさせるほどでもないと、許してもらえたようだった。

 だから妹紅も、普通の会話のように。

 

「どうかなあ。輝夜の方が、あれで結構ノリノリだからね。私がよくても、あっちが物足りないってぶーたれるかも」

「あいつ、変なところで血の気が多かったりするしなあ……」

「もしかしたら、輝夜の方が『殺したがり』だったりするかもね」

 

 軽い冗談を言って、ふふふ、ははは、と笑う。

 ……妹紅は、輝夜との殺し合いをやめないだろう。月見の意見をもっともだと理解した上で、それ以上に、妹紅にとっては宝物にも似た、大切な日常の一部だから。少なくとも月見が本気で妹紅を咎めない限り、妹紅は今まで通り戦い続けていくだろう。

 殺すためではなく。

 心が命を叩く鼓動を、感じるために。

 

「まあ、ほどほどにな。あんまりやりすぎるようだと、私も黙ってられないからね」

「うん。その時は、とめて」

 

 生きる実感は得たいが、『殺したがり』になりたいわけではない。

 もし月見が妹紅を強く咎める時が来るならば、それはきっと崖から足を踏み外す一歩手前だから、素直に受けよう。

 

「ありがとう。……先生は、やっぱり優しいね」

「そうか?」

 

 そうだよと、と妹紅は思う。本当に優しい。人の生き方を闇雲に否定しない。先入観を持たず理解しようとし、そして実際に最大限まで理解した上で、肯定か否定かを決定づける。更にはその生き方がよほど人道に反したものでない限り、大抵のことは受け入れてしまう。

 人の心を癒やし、また時には傷つけることもあるだろう、美点とも欠点とも取れる優しさだ。

 500年前から、変わらない。

 ふいに居間の襖が開いて、タオル片手に濡れた髪を拭くパチュリーが入ってきた。温泉から上がったらしい。いつもの不健康的な頬がすっかりピンク色に上気していて、傍目から見ても、温泉がいかに気持ちよかったかが伝わってくる。またいつも被っている帽子が頭の上になく、髪もリボンで結われていないストレートだったから、普段とは受ける印象が大分違った。一瞬、本当にパチュリーなのかどうか判断しかねたくらい。

 

「月見、上がったわ。……久し振りに気持ちよかったわ、ありがとう」

「お帰り。美鈴は?」

「もう少し入ってるって」

「なにか飲むか?」

「そうね……ちょっと喉が渇いたから、水をもらっていい?」

「もちろん」

 

 月見が水を取りに行こうと席を立ったので、話は終わりかな、と妹紅は判断した。であれば、次にやることは決まっている。跳ねるように立ち上がって、

 

「先生、私も温泉入ってきていい?」

「いいよ、もう話は終わったしね。……脱衣所は、玄関から入った正面の廊下を進んで、突き当たりを左。あとは進んでればわかるよ。タオルとかは備えつけがあるから、好きに使ってくれ」

「ありがと!」

 

 温泉に入るのは久し振りだ。もちろん幻想郷にはそういった穴場が何ヶ所かあるが、整備の手が入り込んでいないため、大抵は木の葉やら虫の死骸やらがプカプカ浮いて鳥肌モノの様相を呈していたりする。夢にまで見た、手入れされた綺麗な温泉。想像するだけでテンションが上がってきた。

 小走りで脱衣所へ向かおうとすると、すれ違いざまパチュリーに声を掛けられる。

 

「悪いんだけど、ウチの門番がのぼせないか見ててもらっていいかしら」

「わかった」

 

 それくらいお安い御用だ。というか、のぼせてやいないかと心配されるほど、あの門番は温泉の虜になっているらしい。つまりはそれ相当の入り心地ということだ。期待は鰻登りである。

 小走りで脱衣所に飛び込み、ちゃっちゃと服を脱いで大浴場への戸を開ける。

 ……美鈴が湯船で背泳ぎをしていたので、妹紅も泳いでみることにした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「はい、水」

「ありがとう」

 

 水の入ったコップを手渡す。風呂上がりのパチュリーは肌がすっかり上気していて、こういってはなんだが死人が生き返ったような、すっかり見違えた印象を月見に与えた。普段顔色がよくないのは、やはり大図書館の奥にこもって魔術の研究ばかりをしているからなのか。そうだとすればちょっと惜しい。

 

「ねえ、月見。ちょっと、話に付き合ってもらっていい?」

「ん? それはもちろん、構わないけど……」

 

 ふいな切り出しに、月見は浅く眉をひそめた。こうして改まった確認を取るということは、そこそこ込み入った話だと推測できる。しかしパチュリーとはさほど付き合いが深いわけでもないから、どんな話をされるのかてんで想像できない。

 さてなんだろうかと月見がパチュリーの言葉を待っていれば、彼女はなにやら一冊の真新しい手帳を取り出して、テーブルの上で一ページ目を広げた。

 続く話の内容は、以下のようなもの。

 

「私たち紅魔館の住人って、まだあなたのこと詳しく知らないじゃない? だからこのあたりで一度、あなたがどういう妖怪なのかはっきりさせておこうと思うの」

「……なるほど?」

 

 月見が返す言葉は、自然と尻上がりになる。一応納得はできるものの、それにしてはやけに脈絡がないというか、なぜこのタイミングでそんな話をされるのだろう。

 疑問はいくつがあるが、特に断る理由もないかと思ったので、どうぞと先を促す。

 

「ありがとう。それじゃあ最初の質問ね」

 

 真っ白な羽ペンを右手に装備したパチュリーは、ペン先をインクに浸しつつ、

 

「――あなたと八雲紫の関係は?」

「……」

 

 なぜそれを一番初めに訊くのだろう。『どんな妖怪かはっきりさせる』のであれば、あなたはどのくらい生きている妖怪なの? とか、もっと先に訊くべき質問があるように思うのだが。

 とりあえず、答える。

 

「気心の知れた友人だよ。妖怪にしては珍しく、あいつも人間好きでね。そのあたりで意気投合して、昔は一緒に旅をしたこともある」

「付き合いはどれくらいになるのかしら?」

「ここ500年くらいは私が外にいたから疎遠になってたけど、それを含めれば千年以上になるね」

「八雲紫って、あなたのことが好きらしいわね」

「まあ……ね」

「あなたは彼女のことをどう思ってるの?」

「……やんちゃで手の掛かる古馴染み、かな」

「彼女の想いに応えようとか、考えたことは?」

「どうしようかと考えたことはあるけど、そういう対象としてあいつを見たことは、今までのところなくてね」

「ふむ……」

 

 記念すべき最初の一ページ目に、パチュリーがなにやらメモを取っていく。月見は、どうしてこんなことを訊かれてるんだろうかと疑問に思いつつも、次の質問を待つ。

 書き終えたパチュリーは視線を上げ、

 

「じゃ、次ね。――あなたと蓬莱山輝夜の関係は?」

「……なあパチュリー、これって」

「あなたがどんな妖怪か知るための質問よ?」

 

 白々しい。これではもはや、月見がどんな妖怪かなんてのは関係なくて、単に月見の友好関係を探るためだけの質問ではないか。

 だったら初めからそう言えばいいものを、どうして『月見がどんな妖怪か』などと見え透いた嘘をつくのか――

 

「友人――という表現が適切かはわからないけど、仲のいい知り合いかな。昔、私が陰陽師のフリをして人間たちの都で暮らしてた時に知り合った」

「付き合いはどれくらい?」

「色々あって随分と長い間会えてなかったから、実際に付き合った時間は一年にもならないよ」

「蓬莱山輝夜って、あなたのことが好きらしいわね」

「……そうだね」

「どう思ってる?」

「……お転婆娘?」

「彼女の想いに応えようとか」

「応える応えないに関わらず、気がついたら一緒に生きてることになるって言われたよ。……私としては紫と同じで、そういう対象としてあいつを見たことはまだないけどね」

 

 ふむふむ、とパチュリーはまたメモ。月見は正直、どうしてこんな質問をされているのかつくづく疑問なのだが、羽ペンを動かすパチュリーの表情は真剣そのものだったので、彼女にとっては相当大事な確認事らしい。

 その後も訊かれたのは、藤千代とはどんな関係か、天ツ風操とはどんな関係か、西行寺幽々子とはどんな関係か、伊吹萃香とはどんな関係か、射命丸文とはどんな関係か、八坂神奈子とはどんな関係か、洩矢諏訪子とはどんな関係か――そして、月見が彼女たちをどう思っているか、ということ。

 考えすぎかもしれないが、やたらと恋愛的な関係を気にして、話を探られているような気がする。

 質問はまだ止まらない。東風谷早苗、魂魄妖夢、犬走椛、星熊勇儀、八雲藍、八意永琳、鈴仙・優曇華院・イナバ、河城にとり、上白沢慧音、博麗霊夢、霧雨魔理沙、四季映姫・ヤマザナドゥ、小野塚小町、鍵山雛、そして藤原妹紅――

 

「――なるほどね。大体わかったわ、ありがとう」

「……どういたしまして」

 

 ようやく話が終わってみれば女性関係の質問ばかりだったので、月見はなんだか疲れてしまった。緩くため息をつきながら、ふむふむとメモの内容を見直しているパチュリーに問うた。

 

「メモまでして、一体なにに使うんだ?」

 

 まさか鴉天狗みたいに新聞を作っているとか、そんな隠れた趣味があるわけでもなし。

 パチュリーは少し考えてから、言葉を選ぶように、

 

「そうね……云うなれば、お節介ってところかしら」

「……」

 

 なんとなく……わかったような、わからないような。

 

「じゃあ、ついでに紅魔館のことも訊いておこうかしら」

 

 むしろ、そっちの方が本命なんじゃないか……とか。

 

「レミィのことはどう思ってる?」

「……わがままなお嬢様かつ、過保護なお姉さん。初対面でグングニルを突きつけられたのは一生忘れないよ」

「ふふ、しっかり伝えておくわ。……フラン」

「娘同然の存在かな」

「フランが聞いたら大喜びしそうね。……中国」

「私でできることなら力になるから、色々と負けないでくれ」

「ダメよ甘やかしちゃ。……小悪魔」

「仕事真面目ないい子だよ。もう少し、弾幕ごっこが強くなれるといいね」

「魔理沙に一回も勝てないのよねえ……。じゃあ、最後に――」

 

 パチュリーは、一拍溜めて。

 

「――咲夜、は?」

「……」

 

 ささやかな、悪戯をけしかけるような。

 そんな、見え透いた笑顔で。

 

「……いい子だよ。紅魔館の家事で大変だろうに、私の方まで当然みたいに手伝ってくれる。レミリアにはもったいないくらいにいい従者だ」

「それって、レミィじゃなかったら一体誰に相応しいのかしら」

 

 苦笑。

 

「私、なんては言わないよ」

「そう。……で、それだけ? もう少し、他になにかないのかしら」

 

 どうして咲夜の時だけ、やたら詳しく話を聞きたがるのか……とか。

 

「そうだね……例えば、幻想郷の従者――咲夜以外に、藍とか、妖夢とか、永琳とか、椛とか」

 

 そうやって真剣にメモを取っているのは、誰のためなのか……とか。

 

「もしその中から、一人を従者に選べるんだとしたら――」

 

 どうして自分は馬鹿正直に答えているのか、とか――

 

「――私はきっと、咲夜を選ぶんだろうね」

「……」

 

 パチュリーは、答えなかった。静かな手つきで、月見の言葉を漏らさずメモに書き留めて、ペンを置くと同時に満足げに笑った。

 

「ありがとう。とっても有意義なお話だったわ」

「……一応言っておくけど、変なことには使わないでくれよ」

「ええ、そこは誓うわ。言い触らしたりはしないから、安心して頂戴」

 

 言い触らさない。それは決して、誰にも教えない、という意味ではないんだろうな……とか。

 

「それにしても、中国ったら遅いわね。いつまで入ってるのかしら」

「疲れが溜まってるんだろうさ。せっかくの休日なんだから、のんびりさせてやったらどうだい」

「まあ、それもそうね」

 

 なくさないように念入りにしまわれた、あの小さなメモ帳が、一体誰の手に渡るのか……とか。

 月見は緩く首を振って思考を打ち切ると、さて弱ったもんだと、ただ、小さく息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「はい、咲夜。今日のおみやげ」

「……?」

 

 水月苑から帰ってきたパチュリー様に、いきなり『おみやげ』を渡された。

 なんの変哲もない、ただの小さなメモ帳だった。

 

「なんですか、これ?」

「見てみればわかるわ」

 

 言われるがまま、一ページ目をめくってみる。……月見と八雲紫。千年以上前からの知り合いで、一時期は一緒に旅をしていたこともある。八雲紫は月見のことが好きらしいが、月見はそういう対象で彼女を見たことはなく――

 なんだろう、これ。

 

「パチュリー様……?」

「まあまあ、とりあえず持っておきなさいな。そのうち必要になる日が来るから」

「??」

「じゃあ私、研究に戻るから」

「あっ」

 

 結局なに一つ詳しい説明をすることなく、パチュリー様は大図書館に戻っていってしまう。彼女の意図がまったく読めない私は、疑問符を量産しながらその場で立ち尽くす他ない。

 

「ええと……?」

 

 とりあえず、メモ帳の中にざっくり目を通してみる。大きく丁寧な字で、一ページごとに見出し。月見と八雲紫。月見と蓬莱山輝夜。月見と藤千代――

 ……月見様の交友関係をまとめたもの、だろうか。だとすれば、ちょっとどころではないプライベートな代物だ。どうしてパチュリー様は、こんなものをおみやげになんて……。

 月見様のプライベートを覗くのは憚られたし、今はちょっと忙しいので、とりあえず置いておいてあとでゆっくり考えよう。そう思ってパラパラとページをめくっていると、ふと私の名前が見えたような気がして、びっくりして手を止めた。

 慌てて後ろへめくり直す。あった。一ページに一つずつある見出しの、一番後ろ。他よりも一際大きく、丁寧な字で。

『月見と咲夜』。

 

「――……」

 

 なにかを考えるよりも先に、私の両目は既に本文へと流れていた。――いい子。紅魔館の家事だけでなく水月苑の方まで手伝ってくれる、レミリアにはもったいないくらいにいい従者。

 そこから、三つほど、改行して。

 二重のアンダーライン付きで強調された、やたら力強い最後の一文に、私は――

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ねえねえ、お姉様。今日の咲夜、なんだかすっごく機嫌よくない?」

「……フランもそう思う? 私、起きた時からあの子の笑顔しか見てないんだけど」

「今も、微妙に鼻歌歌ってるよね」

「なにかいいことでもあったのかしら? ……パチェ、あなたなにか知ってる?」

「さあ? ……ふふ、一体なにがあったのかしらね?」

「~♪ ~~♪」

 

 ――後日私は、咲夜から例のメモ帳を返された。月見のプライベートに関わることだから、あまりジロジロ読んでしまうのは気が引けるらしい。まったく律儀なことだ。ライバルたちに置いてかれてもいいんだろうか。

 ただ、それからもう少しあとになって、初めて気づいたのだけれど。

『月見と咲夜』のページだけが、なにやら途轍もなく慎重に切り取られた跡とともに、なくなっていたので。

 それを指摘した時の咲夜の顔は――まあ、一周回って冷やかす気も起こらなくなった、とだけ書いておこう。

 しかし驚いたことに、咲夜はまだ、自分が月見に対して抱いている想いに気づいていないらしい。いや、さすがになにかしら感じているものはあるだろう。けれど一方で、自分はレミィの従者として恩人を慕っているだけなのだと、だからこんな(・・・)感情なんて錯覚なのだと言い聞かせて、本当の気持ちに気づかないふりをしていると見える。……はてさて生まれて初めて抱く感情に、さすがの完全で瀟洒なメイドも、相当翻弄されてしまっているようだ。

 

「……さっさと気づきなさいよ、ニブチンさん」

 

 彼は、手強いから。いつまで経っても冷静になれず自分に嘘をついてるようじゃあ、ライバルたちに敗北するのは確実だから。そして敗北してから後悔したって遅いわけで、間違いなく今の咲夜は、恋愛小説でいえばすべてが手遅れになった頃に「もっと素直になってればよかった」とか涙しちゃうタイプのヒロインである。

 ……なんて、恋すらしたことのない私が言っても、説得力がないか。でも小説なんかはよく読むので、知識だけはあるつもり。

 十六夜咲夜は、今日も紅魔館を隅々まで奔走している。いつものメイド服の胸ポケットに、最近になって新しく増えた、小さな小さな宝物を入れて。ちょっと嫌なことがあると、その宝物を見て、暗い気持ちを吹き飛ばして、今日も彼女は仕事に勤しむ。

 その、幸せの絶頂みたいな笑顔を盗み見ながら、私は。

 とりあえず一方的な力添えとして、オススメのラブロマンス小説でも貸してやろうと、思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第47話 「銀のおくり火」

 

 

 

 

 

 カラン――と、ドアベルを鳴らした。

 

「おや。いらっしゃい、月見」

「ああ」

 

 魔法の森を人里側に抜けたところにある、倉庫めいた雑多な古道具屋。本来であれば、昨日やってくるはずだった場所。美鈴の貴重な休日に付き合い、不老不死な後輩と再会を果たした翌日に、月見は単身、この香霖堂のドアを叩いていた。

 所狭しと商品が並ぶ雑然とした店内には似つかわしくない、この小洒落たドアベルを鳴らすのは三度目になる。およそ一週間前、水月苑が完成したあとの日用品揃えで、約束通り財布に優しい買い物をさせてもらったばかりだ。お陰様で店主の霖之助とはすっかり打ち解けて、今や月見を迎え入れる彼の笑顔は、客よりかは友人を歓迎するそれに近くなってきていた。

 と、

 

「よう、月見。こんなところで会うとは奇遇だな」

「……おや、魔理沙か」

 

 日用品揃えの時は見事に閑古鳥が鳴いていた香霖堂に、この日は霖之助以外にも人影があった。霧雨魔理沙が、椅子に座った霖之助の膝を更に椅子にして、我が物顔で本を広げてくつろいでいた。

 まさか人が、しかもそんなところにいるとは思ってもいなかったので、月見は一瞬面食らったけれど、すぐに霖之助と魔理沙が、家族同然の間柄であったことを思い出して納得する。ひねくれ者の魔理沙も、気を許した家族の前では割かし素直で人懐こいということなのだろう。

 霖之助が、少しだけ気恥ずかしそうにして笑った。

 

「すまないね、こんな格好で。……ほら魔理沙、お客が来たんだから、いい加減に降りてくれるかい?」

「客だと?」

 

 眉をひそめた魔理沙は本から視線を上げ、月見を見て、冗談だろうと言うように口端を意地悪く曲げた。

 

「おいおい月見、こんななにもないところになにを買いに来たってんだ?」

「失礼だね。これでも彼は、前回来てくれた時には色々と道具を――」

「ああ、悪い。今回は客じゃないんだ」

 

 どこか誇らしげに反論しようとした霖之助の言葉を遮って、月見は来客用の椅子に腰を下ろした。霖之助は目に見えて残念そうに肩を落とし、魔理沙は勝ち誇るようにふっと笑った。

 

「そうか……。しかし、そうだとしたら一体なんの用かな。まあ君であれば、ただの世間話でも歓迎だけどね」

「おい香霖、私の時とは偉く態度が違うじゃないか」

「今まで君が僕にしてきたことを、胸に手を当てながら思い返してみるといい。そこに答えはあるよ」

 

 魔理沙は両手で本を開いたまま即答。

 

「商品を物々交換したり、たまに差し入れを持ってきたりもしてやってる、香霖堂の貴重なお客様だろ?」

「十の善行は、たった一度の悪行で堕落する。……霊夢と一緒に僕のお気に入りの茶葉を持っていったの、忘れちゃいないよ」

「心が狭い男だぜ」

「心の広さは関係ないよ。僕が許可していない以上、あれはいわゆる窃盗に当たるということを、君たちは理解するべきだ。そもそも――」

「……なあ霖之助。それはまたあとにして、とりあえず私の話を聞いてもらって大丈夫か?」

 

 なにやら面倒な話が始まりそうだったので、月見は苦笑一つで霖之助の話を制した。仲がいいのは大変結構だけれど、ここで説教はさすがに勘弁だ。

 取り繕うように笑って、霖之助が指の腹で眼鏡を持ち上げる。

 

「確かにそうだ、すまないね。……それで、話とは?」

「ちょっと、道を尋ねたくてね」

「道……?」

 

 オウム返しされた疑問の声に、月見はああと頷いた。今日の月見の目的地は、香霖堂ではないもっと別の場所にある。ここのドアベルを鳴らしたのは、その目的を果たすための、所謂前準備というやつだ。

 霖之助のみならず、魔理沙までもが、不思議そうな目をして月見を見つめている。確かに道案内なんて、わざわざ古道具屋にまでやってきて乞うものではないかもしれない。

 けれど『あそこ』までの道のりを教えてもらうのに、霖之助以上の適任はいないだろうと、月見は考えていた。

 なんていったって霖之助は、店に並べる道具を調達するため、或いは己の知識欲を満足させるため、『あそこ』には何度も足を運んでいるというのだから。

 

「それくらいは構わないけど……しかし、そのためにわざわざここまで来たのかい?」

「お前に訊くのが一番だと思ってね」

「ちなみに、どこまで?」

 

 パチクリとまばたきをした二人分の視線に、軽く微笑んで、答える。

 

「ちょっと、無縁塚まで」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幻想郷は、二種類の結界によって外の世界から隔離されている。その中の一つ、常識と非常識を区別し妖怪を保護する特殊な結界、通称『博麗大結界』は、幻想郷を今のカタチで存続させるためになくてはならない要として、八雲紫――もしくはその式神である藍――の手によって、厳重な注意のもと管轄されている。なにか問題が起これば即刻修正され、かすかな違和感が生じるだけで藍が調査に駆り出されるという徹底ぶりだと聞いた。

 けれど幻想郷の中でただ一ヶ所だけ、その博麗大結界に綻びが生じつつも、修正されないまま野放しにされている場所がある。

 幻想郷に迷い込み、誰にも救われることなく無縁のままで死んでしまった――もしくは、初めから妖怪の食料となるために連れて来られた人間たちを、形式上埋葬する墓場。

 弔われた仏の多さ故に死後の世界に近く、冥界の結界と博麗大結界とが干渉し合うことで綻びが生まれ、生死の境界線すら曖昧になった異界。

 無縁塚。

 

「――そこに行くためにはこの地図の通り、魔法の森を山奥の方に抜けていくことになる。森を抜けると、『再思の道』という一本道に出るから、そこをずっと進んでいった先だ」

「なるほど」

 

 霖之助が、無縁塚についての講釈を述べながら、地図の道筋をゆっくりと指でなぞる。魔法の森を越え、山と山の間を断ち切るように伸びる道を進んだ、幻想郷の果ての世界。

 

「念のため警告しておくと、幻想郷一の危険地帯だよ。凶暴な妖怪がいるのはもちろん、複数の結界が干渉し合っている影響で、心の弱い者は自分の存在を維持することすらできなくなると聞く。……僕としては心配なのだけど、本当に行くつもりなのかい?」

「もちろん」

 

 霖之助の心配げな視線に、月見は二つ返事で頷いた。危険地帯であることは、まったくもって問題ではない。こういう言い方はよくないけれど、半人半妖の霖之助でも行き来できる場所なのだから、大妖怪である月見にとって脅威となるはずがない。

 

「これでも、ある程度の腕っ節は持ってるからね」

「なら止めはしないけど……しかし、一体なんの目的で? 僕みたいに道具を蒐集するわけでもないだろう?」

「そうだね……色々な言葉で表現できそうだけど、まあ、観光かな」

「はあ?」

 

 素っ頓狂な声を上げたのは、あいかわらず霖之助の膝の上を占領する魔理沙だった。

 

「お前な、あんなところに行ったってなにも面白いもんなんてないぜ?」

「ということは、魔理沙は行ったことがあるのか」

「まあ、成り行きでな……。でも、あんなところにはもう二度と行きたくない」

 

 苦虫を噛み潰した表情で吐き捨て、俯く。脳裏を過った苦い光景から、目を背けるように。

 

「……香霖の話は聞いてたろ? 外から人が迷い込むって」

「ああ」

「そんであそこには、知能の『ち』の字もないような凶暴な妖怪がたくさんいる。だから、その……」

 

 魔理沙は言い淀む。人と妖怪が出会う交差点。人と出会った妖怪がなにをするのか。妖怪と出会ってしまった人がなにをされるのか。

 

「あー、なんだ……まあ、察してくれ。つまりあそこは、そういう(・・・・)場所なんだ。なにも楽しいものなんてない」

 

 魔理沙の声は、わずかではあるが震えを帯びていた。もしかすると彼女は無縁塚で、妖怪と出会ってしまった人間の成れの果てを、見てしまったのかもしれない。

 そうか、と月見は小さく呟いて、けれど無縁塚に行くという己の意志を変えることはしなかった。むしろ、だからこそ、自分は行かなければならないのだと思う。

 妖怪と人間が共生すると謳われたこの楽園の、闇の部分を。

 真正面から見つめて、そして、受け止めたいと思う。

 きっと紫は、月見がそうすることを、望んではいないだろうけれど。

 

「それでも行くよ。……観光というのは言葉が悪かったね。真実を受け止めるために――とでも、格好つけて言っておこうか」

「……」

 

 魔理沙は顔を挙げないまま、「ま、私の知ったこっちゃないけどな」と掠れた声で呟いて、それっきり殻にこもるように本へと目を戻した。

 残りの会話を、霖之助が引き継ぐ。

 

「一人で大丈夫かい? なんなら、近くまで魔理沙に案内させても……」

「いや、一人で行けるよ。……無理に付き合わせるのも悪いさ」

 

 魔理沙は本を読むふりをしたまま、否定も肯定もしない。けれどその頑な沈黙は、明らかに、近くまでとはいえ無縁塚に向かうことを拒絶していた。

 怖がる少女に、無理を言うつもりはない。

 

「この地図、借りて大丈夫か?」

「ああ。死ぬまで借りる、なんて言い出さなければ構わな――いたっ」

 

 魔理沙が仏頂面で、頭の上にある霖之助の頬をぺちんと叩いた。ずれた眼鏡を悄然と整える霖之助に、月見は苦笑して、地図とともに席を立った。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

「ああ。……そうだ、もし面白そうな道具が落ちていたら持ってきてもら――いたっ」

 

 また魔理沙が霖之助の頬を叩いて、

 

「……まあ、なんだ。気をつけてけよ」

 

 ぶっきなぼうな口調ではあったが、そこには一応、月見を気遣う色が見え隠れしていたので。

 

「ああ。ありがとう」

 

 魔理沙への評価を上方向に修正しつつ、そして、またずれた眼鏡を整え直している霖之助に同情しつつ、月見は香霖堂をあとにする。

 

「またのご来店を、よろしく頼むよ」

 

 皮肉げに背中を叩いてきた霖之助の言葉に、今度はちゃんと買い物をしてやらないとな、と思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 再思の道は、秋になれば咲き誇った彼岸花で道そのものが真っ赤に染まり、まさしく異界の入口のような、幽玄の世界をつくりあげるという。けれど今の季節は春。彼岸花はこの時期になると、花はもちろん葉すらも枯れ果て、地上からはほとんど姿を消してしまう。お陰様で此度の再思の道は、異界を思わせる不気味さとはまったく無縁の、なんの変哲もない遊歩道と成り下がっていた。ここを抜けた先に公園が広がったとしても、月見は驚きはしないだろう。

 ただしこれは、あくまで見た目だけを述べた場合。

 例えば風に乗って運ばれてくる空気についていえば、確かに、ここが普通の場所ではないと知らしめられる一つの違和感があった。

 

(腐臭……か)

 

 狐の優れた嗅覚を以てして、ようやく感じ取れるかどうかというかすかなものだが、無縁塚に近づくにつれて次第に強さを増してきている。それ相応の腐臭を放つなにかが、無縁塚には眠っているということなのだろう。

 それに吹く風そのものも、とても春風とは思えない不気味な冷気を帯びている。荒涼とした風に揺すられる木々はひどく痩せ細り、まるで磔刑にされた屍のよう。葉擦れの音は、女がすすり泣く声。空はまったくの快晴だというのに、陽射しの暖かさがここまで届かない。

 ふと木々の陰に目を遣れば、片手で持てる程度の石を積み重ねて杜撰に作られた慰霊の塚が、ちらほらと散見されることに気づく。無縁塚は既に始まっているのだ。心に、ドロリと重い粘液が垂れるのを感じる。けれど月見は決して歩みを鈍らせることなく、ただまっすぐに進み続ける。

 ここからが無縁塚だという、明確な境界線があったわけではなかった。歩を進めるにつれ徐々に道幅が広がり、やがて道そのものがなくなって、自然と開けた場所に出ていた。

 

「……」

 

 思っていたよりも、見晴らしがいい景色ではあった。だが、例えば妖怪の山から幻想郷を一望するような雄大さはなく、ただただ殺風景だった。

 視界に入るものは、濁った色の草木と、山と、

 無数の塚。

 

「……ふむ」

 

 ここが、無縁塚。彼岸に存在しながらも、半分が死者の世界となった場所。

 今がまだ昼間なのもあってか、女のすすり泣く声以外はなにも聞こえない。鼻をつく腐臭も、気にはなるが、耐えられないほどではない。月見はとりあえず、東側から回って周囲を散策してみることにした。

 そして歩き始めてからそう間もないところで、ふと、足を止める。

 

「……おや?」

 

 視界の中に、草木と山と、塚以外のもの。無縁塚の骸骨のような木々を寄せ集めて作った小さな掘っ立て小屋が、あまりに無造作に、月見の行く先に鎮座していた。

 月見は眉をひそめた。小屋はまだ作られてそう間もなく、周囲の雑草は刈り取られ、玄関前には薪が積み上げられている。誰かがここで生活しているのは一目瞭然だったが、こんな腐臭のきつい危険地帯で、一体誰が。

 興味本位で、玄関の戸を叩いてみる。けれどいつまで経っても返事がないので、どうやら留守にしているらしい。

 こんな場所に居を構える変わり者の顔を一目見たかったところだが、仕方がないので吐息とともに踵を返して、

 

「――人の家の前で、一体なにをしてるんだい?」

 

 振り返った先に、くるりと丸い、灰色の獣耳が見えた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 日課である無縁塚でのダウジングを行っていたところ、家の前に人影を見かけた。不審に思って戻ってきてみれば、このあたりでは初めて姿を見る、綺麗な銀の毛並みをした妖狐だった。

 ナズーリンは、無縁塚に掘っ立て小屋を作って質素に生活している、ダウジングが趣味の妖怪鼠である。同時に、あたりに住む他の鼠たちのトップを務めたりしている、ちょっとした妖怪鼠である。更には毘沙門天の弟子なんてものもやっている、とてもちょっとした妖怪鼠である。

 そんなとてもちょっとした妖怪鼠であるナズーリンにとって、無縁塚は歩き慣れた己の庭のような場所だった。よく無縁塚中をダウジングして回っているので、普段からどういった者たちが遥々再思の道を越えてくるのかは、よく把握している。一番の常連がアイテム蒐集癖のある古道具屋の店主であり、次点がサボリ癖のある陽気な死神だ。

 けれど、この銀狐を見るのは初めてだった。ナズーリンの記憶違いというのはありえない。記憶力には自信があるし、そうでなくとも一点のくすみもない美しい銀の毛並みは、ひとたび目にすればすぐさま脳裏に焼きつくだろう。

 

「――人の家の前で、一体なにをしてるんだい?」

 

 声を掛けたのと同じくらいのタイミングで、銀狐がこちらを振り返る。あの古道具屋の店主に似て、温厚そうな佇まいをした男だった。ナズーリンを見るなり目を丸くし、

 

「おや……もしかして、ここの家主か?」

「だったらなんだと言うのかな」

 

 ナズーリンは鋭く問い返す。鼠は、昔は毘沙門天の遣いとされる高貴な動物として知られていたが、西洋での一件を経て以降は、病原菌を媒介する卑しい生物として軽んじられるようになってしまった。故に初対面でいきなり舐められてしまわないよう、強く毅然とした態度で相対するのは大事なことだった。

 妖狐は薄く笑い、

 

「いや、こんなところでこんなものを見かけるとは思ってなくてね。一体誰が住んでるんだろうって、気になったんだ」

「こんなところでこんなものに住んでいたらいけないのかい?」

「まさか。でも、そうさな、意外ではあるね」

 

 返答を聞きながら、ナズーリンは注意深く妖狐を観察する。物珍しそうな目こそ向けてくるが、決してナズーリンを侮っているわけではないようだ。ある程度、友好的な印象を受ける。そんじょそこらの無礼者とは違う、まずまずの良識を持った妖怪らしい。

 だからといって油断はしない。

 

「お前は、こんなところに住んでなにをしてるんだ? 見たところ、あまりいい場所とは思えないけど」

 

 妖狐が、鼻のあたりに手をやりながら顔をしかめた。どうやら無縁塚の腐臭を気にしているらしい。

 

「そうかい? 慣れればどうってことないし、それにここでは仲間の餌が簡単に手に入るからね。さほど悪くはないさ」

 

 ナズーリンは、己の尻尾から吊り下げられている仲間入りのバスケットを目遣った。中には、見慣れない妖怪に驚いて縮こまっている仲間が三匹。ナズーリンはさておき、彼らは人肉を好む肉食鼠なので、外からしばしば人間が迷い込むこの場所は絶好の狩場なのだ。先ほども、恐らく昨夜に喰われたのであろう人間の残骸を、彼らが丁寧に処分したところである。

 

「ついでにいえば、私はダウザーでね。どうやらここには大層なお宝が埋まっているらしくて、だから住み込みで調査を続けてるんだよ」

「ダウザー……というと、ダウジングか」

「然り」

「成果の方は?」

「……お宝は、そう簡単には見つからないものだよ」

 

 ナズーリンはさっと視線を逸らした。ガラクタしか見つかってないなんて言えない。本当にここにお宝が眠っているのか段々不安になってきているなんて、ダウザーのプライドに懸けて絶対に言えない。

 

「ということは、その長い二本の棒はダウジング用か」

 

 月見の視線が、ナズーリンの持つ二本のダウジングロッドに向けられた。ナズーリンの背丈と同じくらいに長いかっこ(・・・)型のロッドは、それぞれの両先端が、東西南北を表す言葉のイニシャルで装飾されている。ダウジングの際には欠かすことのできない、ナズーリンの大切な相棒だ。

 

「格式高くロッドと呼んでくれると嬉しいよ。この二本のロッドと、あとはこのクリスタルを使ってダウジングを――」

 

 首から下げた八面体のクリスタルを、彼の前に見せようとして――ふっと、やめた。

 思う。

 

(……なんで私は、こんなに気安く話をしてるんだ)

 

 油断はしないと気を引き締めた傍から、いきなり場の雰囲気に流されかけていた。……ダウジングの時にはこのクリスタルも使うんだ、なんて、そんなこと訊かれてもいないのだし、話す必要なんてないじゃないか。

 妖狐が首を傾げる。

 

「どうした?」

「……いや、そういえばまだダウジングの途中でね。雑談をしてる暇はなかったのを思い出しただけだよ」

 

 嘘だ。ナズーリンは基本的に暇を持て余す生活をしていて、ダウジングだって、雑談する余裕もないほど集中して行うわけではない。

 けれど、彼とこれ以上話をするのは、ちょっと危ないなと思った。身の危険を感じるのではなく、このまま話を続けていると、この男に、気を許してしまいそうだった。

 つい今しがた出会ったばかりの相手なのに、まさかそんな、あのお人好しなご主人サマじゃあるまいし。

 

「ああ……なるほど、それは邪魔してすまなかったね」

「いや、気にしなくていいさ。声を掛けたのは私の方だからね」

 

 自分で言うのもなんだが、ナズーリンは親しくない相手にはそこそこ強気で出るタイプだ。鼠だからといって馬鹿にされないようにする意味でもそうだし、毘沙門天の弟子として、鼠であることにそれなりの尊厳と誇りを持っているという意味でも。

 けれどこの男の前では、そういった心の鎧が全部剥がされて、丸裸にされてしまいそうな、気がする。気弱で寂しがりな本当の自分が出てきてしまいそうで、いけないな、と思う。

 緩く、ため息。

 

「それじゃあ、私は行くよ」

「ああ……」

 

 やや要領を得ない彼の返事を、意に介すことなく、振り返り、ロッドを構えて歩き出す――その背に。

 

「なあ、ちょっといいか?」

 

 声を掛けられ、立ち止まり、振り返らぬまま、

 

「……なんだい? まだなにか?」

「いやね。私はここに散歩みたいなものをしに来たんだけど、どうにも殺風景すぎてつまらなくてね」

 

 ここでようやく、振り返る。散歩だって? ――そんな胡乱げな目を向けてやるけれど、彼はいかにも人がよさそうに、微笑んで。

 

「もしよかったら、ついていってもいいかな」

「……、」

「ダウジングをしてるところっていうのも、ちょっと見てみたいし。……もちろん、邪魔なら一人寂しく歩き回ることにするけど」

 

 邪魔だからやめろと一蹴するのは容易かったし、心の鎧を保つためにはそうするべきだった。出会ったばかりの相手と一緒に歩いたって、間が持てなくなって気まずい思いをするだけ。一人でのんびり、好きなように歩いてダウジングをするのが一番気楽なのだと、わかってはいた。

 けれど、

 

「……」

 

 けれどなぜか、ナズーリンは、断る気になれなくて。

 小さなため息とともに回れ右をして、なるべくぶっきらぼうを装って言う。

 

「……好きにしたまえ。ただし、本当に邪魔だったら遠慮なく追い払うからね」

「ッハハハ、肝に銘じておこう」

 

 歩き出せば、からから笑った彼の、機嫌のよさそうな足音がゆっくりとついてくる。それを背中で感じながら、なんだか変だと、ナズーリンは自分で自分を訝んだ。

 どうしてこんなに、気を許してしまいそうになるのだろうか。彼の佇まいから、彼の言葉から伝わってくる雰囲気が、なんだか胸が詰まるほどに懐かしい。

 なんだろう、とダウジングもせずにぼんやり考えて、しばらくしてからふっと気づく。

 

 ……ああ、そうか。

 似てるんだ。

 お人好しで、物静かで、優しくて、のんびり屋で、世話好きで、まっすぐで、裏表がなくて、したたかで。

 そして、人の心を素直にする聡い力を持っていた、あの尼僧に。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 かつてナズーリンの隣には、妖怪鼠たちとはまた別に四人の仲間がいた。人間の尼僧と、船幽霊と、入道使いと、毘沙門天の遣いであるご主人様。尼僧を中心にして形成された、家族のような、一つの完成されたコミュニティだった。

 かつての話だ。尼僧が魔界に、船幽霊と入道使いが地底にそれぞれ封印されてしまって以降、コミュニティは崩壊した。ご主人様も、しばらく前に毘沙門天のところへ戻り、一から修行をやり直している。コミュニティが崩壊したあの日、なにもできなかった自分を二度と繰り返さないために。いつか来るべき日に、皆の力となるために。そしてナズーリンは幻想郷に残り、主人が戻ってくるまでの間の、ある種の監視役となった。

 今、ナズーリンがこうして誰かと一緒に道を歩くのは、もしかするとそれ以来の話なのかもしれない。道具を蒐集しに来た古道具屋や、霊魂を回収に来た死神と話をすることはある。けれどともに歩くことはない。みんなと一緒にいた頃を思い出してしまうから。だから初めから距離を置いて、近づかない、はずだったのだけれど。

 

「――君は、どうしてこんなところに来ようと思ったんだい?」

 

 先に声を掛けたのは、ナズーリンの方だった。ダウジングの邪魔はするなと釘を刺しておきながら、結局自分の方から話し掛けてしまうのだから、ナズーリンは心の中で己を笑う。

 ナズーリンの言葉に素直に従い、影のようについてくるだけだった、銀の狐。

 

「ここあるのは、見ての通り山と木と草と、無数の無縁仏だけだ。散歩をするのなら、他にいくらでもいい場所があったと思うけど?」

 

 ロッドの反応に意識を集中させたまま、彼を見ることもせずに問えば、答えはすぐに返ってきた。呑気に笑った気配、

 

「そりゃあそうだ。なにもないし、遠いし、腐臭はするし、まさにいいところなしだね」

「ならどうして、私の後ろをついてくるんだい? さっさと家に帰って、他にやりたいことをやった方が有意義というものだよ」

 

 続けて問いを重ねると、今度は沈黙が返ってきた。一瞥してみれば、彼は無縁塚の遠い山々を望んで、物思いに耽るように目を細めていた。

 どうやらワケありらしいと、とナズーリンは彼の表情を読み解く。ここが幻想郷随一の危険地帯と承知の上で、殺風景な自然と無縁仏以外になにもないと知った上で、果たそうとしているなんらかの目的がある。

 彼の答えは沈黙のままだった。けれどナズーリンは、無理に訊き出そうとは思わなかった。答えにくいなら答えなくてもいい。答えても答えなくても、ナズーリンと彼の関係は変わらない。

 ロッドに視線を戻し、再び意識を集中する。歩き出し、数度呼吸するだけの、間があって。

 

「――ここにはどれくらいの頻度で、外から人が迷い込むんだ?」

 

 ナズーリンは、ロッドから完全に意識を外して振り返った。彼はあいかわらず、遠くの山々をぼんやりと見つめるばかりで、ナズーリンの方には一瞥たりともしなかったけれど。

 

「わかる範囲でいいから、教えてもらえないかな」

「……」

 

 声が、やや据わっている。軽い気持ちで答えていいような質問ではないのだと、ナズーリンは判断する。なぜ彼がそんなことを気にするのか、いまひとつ推し量れなかったけれど、さほど難しい質問でもなかったので、記憶を遡って正直に答える。

 

「日によってまちまちだけど、平均すれば一日に一人二人といったところかな。今日は、既に一人いたみたいだね。私が見つけた時にはもう残骸になっていたけど、仲間が美味しくいただいたよ」

「……そうか」

 

 鹿爪らしい雰囲気を見せた割に、彼の答えは簡素だった。無感情な声で短く呟き、ようやくナズーリンを見て、淡く微笑んだ。

 

「ありがとう。ダウジング、続けてくれて構わないよ」

「……」

 

 やっぱり――と、ナズーリンは思う。

 やっぱりこの男は、あの人に似ている。種族も性別も外見もあまりに違いすぎるけれど、雰囲気というか、目に見えない奥にある部分が、どうしてか彼女を彷彿とさせる。

 言葉にはしない。まぶたを下ろし完全に口を閉ざした彼がこれ以上応じてくれるとは思えなかったので、気づかなかったふりをして、ロッドに目を戻す。

 大したことじゃない、と思う。何億という生命であふれかえっているこの星だ。あの人と雰囲気が似ている者など、世界中からかき集めればすぐさま数え切れなくなるだろう。

 その中の一人が、たまたま、ナズーリンの隣にいる。それだけの話。

 

「じゃあ、行くよ」

「ああ」

 

 ロッドの反応に従い、ナズーリンはまた歩き出す。色の悪い雑草を踏み、糸のように痩せ細った木の枝を躱し、冷たい春風が吹く中を歩いていく。

 ロッドが指し示す地点は、段々と近づいてきている。

 まあ今回も、見つかるのはガラクタだけなのだろうけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 というわけで、やっぱりガラクタだけだった。

 

「まあ、たまにはこんな日もあるさ。次回に期待だね」

「……そうだね」

 

 たまにどころか毎回毎回こうなのだと素直に白状できるはずもなく、ナズーリンはすっかり意気消沈しながら、家までの帰り道をとぼとぼと歩いていた。

 せっかく人が見ている前なのだから、カッコよくお宝を見つけ出して胸を張りたかったのだけど、やはり現実はそう甘くないらしい。あんな、なにに使えばいいのかすらわからないようなガラクタなど、持ち帰れば自分が憐れになるだけだ。廃品回収屋、もとい古道具屋の店主がやってきた際に教えるため、場所だけは覚えておくけれど。

 

「それにしても、遠回りさせて悪いね。まっすぐ戻りたかったんじゃないか?」

「構わないよ。ここはそう広い土地でもないからね、まっすぐだろうがそうじゃなかろうが大して差はない」

 

 ダウジングしながら歩いてきた道をそのまま引き返すのは味気ないからと、無縁塚をぐるりと一周回るように、わざと遠回りな方角を選んだのは彼だった。それに付き合うことにしたのは、ひとえに出来心だろう。

 まあ、もう少しくらいは、一緒に歩いてみてもいいかなとか。

 出会ったばかりの男なのに、どうやら自分で思っていたよりも人恋しくなっていたらしい。無駄にあの人のことを思い出させてくれる、彼が悪いのだ。

 

「……そういえば、まだ名前を言っていなかったね」

 

 名前なんて、どうせほんのひと時だけ出会って別れるだけの相手だから、名乗る必要も知る必要もないと思っていた。けれど、今となってはそうもいくまい。あの人に似ている、不思議な妖怪。今度ご主人様の様子を見に行く時に、もしくは、いつか地底から仲間たちが帰ってきた時に、いい土産話となりそうだから。

 

「私はナズーリン。この無縁塚で宝探しをしている、ただの卑近なダウザーだよ」

「よろしく。私は――」

 

 微笑み、名乗る、彼の唇の動きが、

 

「――ッ」

 

 小さく息を呑む音とともに、止まって。

 

「……どうしたんだい?」

 

 彼は、ナズーリンを見ていなかった。浅く眉を詰めて、張り詰めた顔をして、自分たちが歩を向ける先を睨んでいた。

 ――くちゃ、と、肉を喰む音。

 

「……ああ」

 

 それだけでナズーリンは、彼が見つめる先になにが広がっているのかを知った。

 ため息をつくように、前を見て。

 

「どうやら、二人目がいたみたいだね」

 

 血だまり。転がった肢体。群がる牙。

 この無縁塚ではさして珍しくもない、人が、妖怪に喰われている光景だった。

 群がっているのは、狼の妖怪だ。体長はナズーリンを超えるほど巨大で、けれど言葉を解すほどの知能がなく、本能のままに血肉を求めて無縁塚を彷徨い歩いている、限りなく獣に近い妖怪たち。

 十にも及ぶかという顎門に群がられ、(ほふ)られる人間の姿は、ほとんど見えない。だが、唯一ナズーリンの位置から確認できる細腕に既に生気はなく、ただ妖怪に(むさぼ)られるだけの肉塊と化しているのは明らかだった。

 まだ太陽が沈まないうちから、なんとも活発なことだ。それだけ飢えていたということなのだろう。バスケットの中で身を浮かせた仲間たちを、苦笑一つで制す。

 

「やめておきたまえ。おこぼれを狙ったところで、君たちなら逆に喰われるのがオチだよ。それに、食事なら少し前にしたばかりだろう?」

 

 チュー、と仲間たちが残念そうに鳴いたので、どうやら今朝の残飯処理だけでは満足していないらしい。小さな身体に反して、彼らは目の前の狼たちにも負けない、なかなかの健啖家なのだ。

 だが、その気持ちを汲んであの狼たちを追い払うつもりにはなれなかった。ナズーリンは毘沙門天の弟子にあたるまずまず格のある妖怪だが、特別腕っぷしが強いわけではないし、荒事も好きではない。

 なので、家に帰ったら私のご飯を分けてあげようかな、などと考えながら。

 

「さて、どうする? 回り道でもするかい? それとも――」

 

 横取りして、昼食にでもするかい? ――なんて、さっきから隣で黙ってばかりいる妖狐に、ほんの軽い冗談を言おうとした。

 ――風、

 

「……?」

 

 初めは、そよ風のように小さな違和感だった。ナズーリンの髪を撫で、梳くように、静かに妖気が流れている。

 それが誰の妖気かなど、疑問に思うまでもなく明らかで。

 

「君、」

 

 一体なにを、とナズーリンが口にするより早く。

 空気が爆ぜる音とともに、そよ風が逆巻く烈風と成る。

 

「――ッ!?」

 

 爆ぜた妖気に全身を打たれ、吹き飛ばされそうになって、目を開けてもいられなくて、ナズーリンは大きく後ろにあとずさった。突然の事態に悲鳴を上げた仲間たちが、こちらを置き去りにして一目散にどこかへ逃げ去っていく。――薄情者たちめ、どうやらご飯を分けてあげるという話はなしになりそうだ。

 舌打ちをするような余裕はない。

 

「……君! 一体どうしたんだっ!」

 

 吹き荒ぶ烈風が強すぎて、ナズーリンは両腕で顔を守りながら、叫ぶようにして問うた。渦の中心には、あの銀狐がいる。彼の妖気の奔流だった。放たれる力のあまりの強さに、流れがそのまま風と成るほどの。

 妖狐はナズーリンを見ていなかった。ナズーリンの声すら、聞こえていないようだった。強大な渦の中心で、ただ静かに瞋恚(しんい)の炎を燃やして、まっすぐに狼たちを見据えていた。

 烈風に打たれ、骸骨のような木々が、根本から折れそうなほどに大きくしなる。葉擦れの音は、もはや女のすすり泣きではなく、悲鳴のようにも聞こえる。ナズーリンの視界の端で、小石を杜撰に積み上げて作られた無縁仏が、呆気なく崩れ落ちていく。

 

「ッ……!」

 

 滅茶苦茶だった。彼の尻尾はたった一本。銀の毛並み以外にはなんの変哲もない、ごくごく普通の妖狐なのだと思っていた。だがナズーリンを圧倒する力の奔流は、並という言葉で片付けるには異常すぎた。

 烈風に乗せられ、彼の周りを銀の光が舞っている。乱れ狂う妖気が熱を孕み、銀色の炎を帯びては、流星のように煌めいて消えていく。

 或いは大妖怪にすら並ぶかもしれない、心の臓を直接殴りつけられるような、重さと、気高さ。

 強大な妖力に狼たちは一瞬気圧されたけれど、やっとありついた食料を奪われてたまるかと、一致団結のもと喉を震わせ威嚇を始める。……その瞬間、狼たちの体の向こう側で、ほんの一瞬だけ、喰われた人間の死顔が見えた。

 

 年端も行かない、少女だった。

 

 それを見た彼が、なにを思ったのかはわからない。そもそも、彼には、なにも見えてなどいなかったのかもしれない。

 ただ、静かに。

 

「二度は言わない――」

 

 けれどその声音は荒れ狂う風にも負けず、強く、深く、狼たちの奥底に響き渡る。

 

 

「――失せろ」

 

 

 ……力の差など、考えるまでもなく歴然だった。知能の低い未熟な妖怪たちですら、本能でそれを理解してしまえるほどに。明確な『死』というイメージを以て気圧された一匹が、小さく悲鳴を上げながら逃げ出せば、あとは烏合の衆のように容易く崩壊した。去り際に肉を持ち去ろうとする者すらおらず、完全に獲物を諦めた狼たちが、吸い込まれるように森の奥へと消えていく。

 あとに残るのは、血だまりと、かつては人間だった肉の塊。

 

「……」

 

 深呼吸をするように細く長く息をついて、彼が妖力を収めていく。やがて無縁塚にいつもの静寂が戻り、肩から力を抜けるようになっても、ナズーリンはなにも言えないままだった。なにかを言おうとすら思えないまま、ただぼんやりと、彼の横顔を見上げる以外にできなかった。

 く、と小さく、震えるように彼が笑った。

 

「……すまなかったね、驚かせて」

「あ……いや」

 

 咄嗟に否定しようとするが、上手く唇が動かない。ナズーリンは、言葉を探そうとして、喰い荒らされた人間の残骸を見遣った。人としての原型が残っているのは、頭と、左腕の一部分だけで、顔のつくりを見るに十を少し超えた程度の、本当に幼い子だったとわかる。

 もちろん、ナズーリンがそれでなにかを感じることはない。人間の、しかも見たこともない完璧な他人だ。憐れみはしないし、ましてや悲しみを抱くこともない。ナズーリンが人間の死を嘆くとするならば、それはこの世でたった一人、あの人が逝く時だけなのだから。

 けれど、彼は、違うようだった。

 

「……ナズーリン」

 

 少女の亡骸を見下ろし、彼は言う。

 悼むように。

 

「――少し、時間をもらっていいか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そのおくり火は、淡い銀の色をしていた。薪も枯れ葉もくべることなく、彼の妖力だけを以て、彼の身の丈と同じほどにまで燃え上がり、亡骸を静かに灰へと変えていく。

 

「……そういえば、自己紹介が途中だったね」

 

 死者の眠りを妨げまいとするように、彼が穏やかな声音で言う。

 

「私は月見。ただのしがない狐だよ」

「……」

 

 銀の炎と、それを見守る妖狐の背を、ナズーリンは一歩後ろに退いた場所から、なにも言わずにぼんやりと見つめていた。結局、ナズーリンにはなんの言葉も掛けてやることができなかった。時間をくれと言った月見が、弔いの準備をする間も。そして銀のおくり火が燃える中で、こうして名前を教えてもらっても。

 言葉なら既に見つかっていた。だが、音にすることができなかった。声を掛けるのが躊躇われた。

 別に、強大な妖気に当てられて怖くなったわけではない。ただ、こうして人間を弔う月見の姿が、ナズーリンの知っている世界とは少し違うところに存在しているような気がして、迂闊に触れることができなかった。

 突飛といえば突飛だ。喰われた人間の埋葬自体は、森近霖之助という古道具屋の店主が道具探しついでにしばしば行っているので、さほど珍しいものではない。けれど、月見は妖怪だ。妖怪と人間の間に立っている霖之助とは違って、完全に魔の側に位置する存在だ。妖怪が人間を――しかも特別親しい間柄にあったわけでもない、まったくの赤の他人を――弔うという異常性を、この妖狐は自覚しているのだろうか。

 今、ナズーリンの心に強くあるのは――

 

「……」

 

 月見が両手を合わせ、眠るようにまぶたを下ろしている。ただ目の前にある一つの死を悼み、弔うために、彼は遺骸に群がる妖怪たちを追い払って、そして、おくり火の前で静かに祈っている。

 種族の壁を取り払って、妖怪が、人間を、憐れむだなんて。

 ――それじゃあまるで、人の身に生まれながら妖怪を救おうとした、あの人みたいじゃないか。

 

「……君は」

 

 祈る、その月見の背に、かつての彼女の姿が重なった。自分の意識が過去へと吸い込まれていくのを感じながら、ナズーリンはようやく口を開くことができた。

 

「君は、ここに人間を救いに来たのか……?」

「まさか」

 

 まぶたを上げた月見が、合わせていた両手を解いて小さく笑った。

 

「私はただ、無縁塚を見に来ただけだよ。この場所が、今の幻想郷にとって必要なシステムだってことくらいはわかってる。幻想郷の内側で妖怪と人間を共存させるためには、食料となる人間は外から連れてくるしかない」

 

 自嘲するように、

 

「わかっていたし、覚悟もしていたつもりだった。……しかしまあ、恥ずかしながら、実際に目の当たりにしてしまったら、我慢ならなかったわけだ」

「……」

「でもこれっきりだよ。ここがどういう場所かはもうわかったし、今後近づくことはない。……そうしないと、きっと、繰り返してしまうからね」

 

 関わってしまえば、きっとまた、救おうとしてしまうから。

 だからもう、関わらないようにする。

 

「……それでいいのかい?」

「そうしないといけないだろう? 私の身勝手で幻想郷のシステムを崩すわけにはいかない。紫にも怒られてしまうよ」

 

 彼の口から妖怪の賢者の名が出てきたことに、驚きはしたけれど。

 ナズーリンは表には出さず、緩く首を振って、銀のおくり火を見つめて思う。

 

(……まったく。いつまで寝てるんだい、みんな)

 

 地底に封印された仲間たちもそうだけれど――分けてもあの人には、絶対にこの妖狐を紹介してやりたかった。妖怪を想う物好きな人間に、人間を想う物好きな妖怪がいるんだと、教えてやりたかった。

 あの人があんなに夢を見て焦がれていた、人のために生きている妖怪が、ここにいる。

 けれど、教えられない。あの人の封印を解くためには、魔界へ渡るための聖輦船が必要不可欠で。その聖輦船は、他の仲間たちとともに地底に封印されていて、ナズーリンには手が出せなくて。結局ナズーリンにできるのは、この幻想郷で待ち続けることだけで。

 

「……君は、幻想郷のどこに住んでるんだい?」

「妖怪の山の麓近くに、水月苑という白い屋敷がある。そこだよ」

 

 ああ、とナズーリンは思った。妖怪鼠の情報網で、そんな名前の温泉宿が新しくできたらしいことは聞き及んでいた。

 月見が、どうしてそんなことを? と問いたげな視線を向けてきたので、正直に答える。

 

「会わせたい人がいるんだ。……今はまだ、色々と事情があってできないけど」

「ふむ?」

「でも、いつかは……君に会わせたい。会ってもらいたい」

 

 妖怪を想う人間と、人間を想う妖怪が、もしもいつか、出会えたのならば。

 

「……きっと、いい関係になれると思うから」

 

 月見はさておき、あの人の方はきっと彼に興味津々になるだろう。人間と妖怪がともに生きていける世界を創りたいと、病に冒されたように夢見ていたのだから。

 月見がおくり火に目を戻し、ふっと笑う。

 

「そうか。……じゃあ、時が来たら水月苑までおいで。歓迎するよ」

「……ああ」

 

 ナズーリンの見つめる先で、銀のおくり火が消えていく。月見の妖力でつくられた特殊な炎は、この短時間で、遺骸を完全な灰へと変えていた。

 

「あとはこれを集めて、塚を作って……だね。すまない、もうちょっとだけ待っててくれるか?」

「構わないよ」

 

 月見が、塚とする石を探して手近な木々の中に分け入っていく。その姿が見えなくなってから、ナズーリンは緩く息を吐いて、やれやれと思いながら二本のロッドを構えた。外の道具が多く流れ着く無縁塚だ。わざわざ家に戻るまでもなく、少し歩けばすぐに誂え向きのものが見つかるだろう。

 

「……遺灰を入れるものが要るね」

 

 今や灰となってしまったこの人間を、月見とともに悼むわけではないけれど。

 

「ああやって祈るところを見せられたら、私だけがなにもしないわけにはいかないしね」

 

 彼の背があの人に似ていたのなら、なおさら。ロッドの反応がすぐ近くだったのを幸いに、ナズーリンは骨壷を求めて歩き出す。

 途中、逃げ出した薄情者(なかま)たちがとてもすまなそうな顔で戻ってきたので、とりあえず蹴っ飛ばしておいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ありがとう、ここまで付き合ってくれて」

「礼を言われるほどじゃないさ。他にすることがあったわけでもないし」

 

 無縁塚から再思の道に入っていく途中で、月見はナズーリンへと振り返った。喰われた人間の弔いを簡単に終えたあと、ここまでの見送りを買って出てくれたのは彼女だった。家の前で初めて出会った時こそ睨まれたけれど、少しは打ち解けることができたらしい。

 ただそうすると、ナズーリンの住処が無縁塚にあるのが惜しい。今後月見の方から、この場所に足を踏み入れることはないだろうから。

 

「世話になったね」

「いいや。……次は、私の方から会いに行くよ。できることなら、君に会わせたいあの人を連れて……ね」

 

 ナズーリンがいう『あの人』とは一体誰なのか、月見は特に尋ねなかった。その話をする時、ナズーリンの表情に暗い陰が差すのには気づいているし、そうでなくとも向こうから詳しく話そうとしないのは、彼女が言った通り複雑な事情があるからなのだろう。

 今は無縁塚での出来事が少し尾を引いていて、あまり余計な話をしたいとは思えなかった。

 

「その時は、歓迎するよ」

「……ああ」

 

 そう言ってやれば、そよ風が吹き抜けるようにナズーリンが微笑んだ。小さな見た目にそぐわず皮肉屋というか、斜に構えた態度が目立つ少女だったけれど、ようやく外見相応に、無垢な笑顔が見られた気がした。

 ナズーリンと別れ、一人、乾いた春風とともに再思の道を進む。思ったことは多かった。けれど、そのすべてが靄みたいにとめどなくて、心の中で上手く形にならなかった。

 妖怪と人間の共生を謳う幻想郷の裏で、ああいった人喰いが毎日のように起こっていることに、失望したわけではない。予想していたし、覚悟だってしていた。ここでは人間が一人も妖怪に喰われないのだと、虫のいい願望を抱いていたわけではなかった。だが、実際に妖怪に屠られる人間の姿を見てしまえば、何百年も人とともに生きてきた身だけあって、心に刺さるものがあるのは事実だった。

 紫を責めようなどとは思わない。力のない妖怪たちは、血肉を得るために、生き抜くために、人を喰らわねばならない。今ではもう何千年も昔のことだが、生まれて間もない頃の月見だってそうだった。人を喰らうのが、妖怪が力を得るための唯一かつ絶対の近道だった。

 幻想郷では、外の世界から忘れられたたくさんの妖怪が生きている。天狗や鬼のように、高い知能を活かして独自のコミュニティを形成し、人を喰らうことをやめた妖怪たちがいる。一方で人語を扱えるほどの知能を持たず、獣のように、原始的に生き続けている妖怪たちもいる。

 そういった者たちの間では、縄張り争いや食料の奪い合いはまさに死活問題で、争いに勝つためには強くならねばならなくて、強くなるためには人間を喰らわねばならなくて。

 紫だって気づいているはずだ。月見と同じくらいに人間を愛する彼女なのだから、無縁塚の現状を、肯定的な目で見たりはしていないはずだ。

 けれど、妖怪が人間を喰らうのは、人間が動植物を食べるのと同じくらいの、謂わば立派な自然の営みで。だから、どうにかしたくても、どうにもすることができなくて。

 

「……月見」

「……紫」

 

 紫が、いた。まるで何十年も何百年も、気が遠くなるくらいに長い時を、ずっとひとりぼっちでいたかのように。強張っていて、震えていて、今にも泣き出しそうになりながら、再思の道の真ん中で、たったひとり、月見を待ち続けていた。

 月見が初めて出会った頃の、小さくて泣き虫だった、八雲紫。

 乾いた春風に揺すられて、痩せた木々たちが泣いている。

 

「つ、月見っ……あのねっ、」

 

 月見がなにかを言おうとするよりも先に、紫がそう切り出した。しゃっくりでもするような、脆い、声だった。

 

「私、ずっと、なんとかしたいって思っててっ……確かに無縁塚は、今の幻想郷に必要なものかもしれないけど、でもだからって、全然、このままでいいとか、ちっとも思ってなくて、だからっ……」

 

 教師に叱られまいとする生徒のようでもあったし、親に嫌われまいとする子どものようでもあったかもしれない。震える拳で胸を押さえて、瞳があふれそうになるのを懸命に耐えて、紫は言うべき言葉を探していた。

 

「黙ってたのは、ごめんなさいっ……でも、いつか絶対、なんとかするからっ……」

 

 こらえきれなくなって、声に涙の気配が混ざり始めても、紫は決して言葉を止めなかった。拙くても。不完全でも。情けなくても。それでも必死に言葉を探して、自分だけの、声へと変え続けた。

 肩で大きく、息を吸って、

 

 

「――だから、幻想郷を、嫌いにならないでっ……!」

 

 

 ……紫の最後の言葉が消えて、あとには葉擦れと、彼女が涙を押し殺す音だけが残った。月見はなにも言わないまま緩く空を仰いで、深呼吸をするように、長く深く息を吐いた。

 この感情を、敢えて言葉にするのなら、落胆だと思った。

 まっすぐに、紫を見て。

 

「紫。一つ言わせてもらうぞ」

 

 紫の肩がびくりと震える。構わずに続ける。

 

「お前、私をなんだと思ってるんだ?」

 

 紫の言わんとする意味はよくわかる。確かに月見は人間が好きで、無縁塚で名も知らぬ少女が妖怪に喰われる光景を目の当たりにした時、好意的な感情を抱かなかったのは事実だ。だから紫は、月見が幻想郷に幻滅してしまったのではないかと怖くなって、こうして涙をこらえて、嫌わないでと願うのだろう。

 つまりは、幻滅されたと、思われている。

 その評価は少し心外だなあと、月見は思うのだ。

 紫の言う通り、無縁塚すら必要なく、本当の意味で妖怪と人間がともに暮らしていけるのであれば、それはこの上ない理想の世界だろう。幻想郷は未だ、本当の意味で楽園となれたわけではない。

 けれど、だからといってどうして嫌いになろうか。月見は、紫がたくさん笑って、たくさん怒って、たくさん悩んで、たくさん泣いて、そうしてやっとの想いで幻想郷を創り上げたことを知っている。誰も仲間がいない、たった独りの状態から、ここまでの世界を築き上げたことを知っている。その頃の想いが、何百年と経った今でも、欠片も薄らいでいないことを知っている。

 

「確かに無縁塚の存在は、理想ではないだろうさ。……でもね」

 

 幻想郷に戻ってきて、水月苑での生活を始めて、月見はここにたくさんの笑顔があふれていることを知った。妖怪の山にも、紅魔館にも、永遠亭にも、人里にも。妖怪も、人間も、神も、みんなが思い思いに日々を過ごして、思い思いに笑って生きている。

 

「お前は、本当によくやってるよ」

 

 紫は今までの人生を幻想郷のために捧げてきたし、今だって捧げ続けている。恐らく彼女は、そうして己の一生を、この世界のために使い続けるのだろう。

 それは、月見にはとても真似できない、目も眩むくらいに、強くまっすぐな想いだから。

 

「前にも言った気がするけど、それは、私が代わりに胸を張ってもいいくらいだ」

 

 すべての人が、妖怪に命を奪われない世界。本当の楽園――そのためには、妖怪の生き方を根底から覆さなければならない。いくら境界を操ることができる紫でも、幻想郷を創り上げた以上の夢物語だ。叶えるための手段なんて、月見には到底想像できないし、紫だって同じだろう。

 なのに彼女は、いつか絶対になんとかするからと言う。作りものではない、命がこぼれ落ちるような、本物の涙とともに。

 そこまでされて、

 

「嫌いになんてならないよ。……なれるわけがない」

 

 だから、震える小さな紫の頭に、慰めるように手を置いて、微笑んでやる。陳腐だけれど、そうすることが、紫の変な思い込みを吹き飛ばしてやる一番のやり方だと思ったから。

 

「……いつか、なんとかできるといいな」

 

 紫は少しの間、その言葉を心に染み渡らせるようにゆっくりと息をして、それからまた、うえ、と小さく泣いた。

 悲しいからではなく。怖いからではなく。

 流れ星のように光って消えた彼女の涙が、決して冷たいものではなかったので。

 

「ほら、帰るぞ」

 

 紫の頭を軽く叩いて歩き出せば、彼女の横を通り過ぎた瞬間に、背中から両腕を回された。

 

「おっと」

 

 月見の足が止まる。こちらの背に顔を埋めて、紫が一度、大きくしゃっくりをする。

 

「月見」

「……なんだ?」

 

 背中から抱きつかれれば歩くこともできないので、月見が諦めて応じれば。

 背中越しで、紫が微笑んだ、気配がした。

 

「私、頑張るから」

「……」

「だから、また、支えてくれる?」

「さて」

 

 月見は、とぼけるように息をついて、

 

「でも、愚痴くらいならいつでも聞いてやるよ。……幻想郷を創ろうとした、あの時みたいにね」

「……えへへ」

 

 だらしなく笑って、紫が月見に回した両腕の力を強めた。

 それからたっぷりと一つ、長く呼吸をするだけの間。

 

「――よし、じゃあさっそく今日やりましょう! 今夜は水月苑でお月見をしながら宴会よっ!」

 

 涙のあともなくすっかりいつも通りになった紫が、月見から両腕を離し、拳を天に突き上げて叫んだ。

 その綺麗な百八十度の変わりように、月見は眉をひそめつつ、

 

「……今日? いきなりか?」

「だっていつでもって言ったでしょ? 藍も呼ぶわよ! 美味しい料理をいっぱい作ってもらうの! あ、そういえば月見って橙にはもう会ったのよね? なら橙も呼びましょうっ! 未来の八雲家をちょっと先取りってことで――あー待って先に行かないでよーっ!?」

 

 はっちゃけ少女を置き去りにしながら、早く家に帰って休もう、と月見は思う。なんだか急に疲れてきてしまった。歳だろうか。

 

「ねえ月見、スキマは使わないの? 一瞬で帰れるわよ?」

「歩いて帰れるなら歩いて帰るさ。お前もたまには体を動かしたらいいんじゃないか? これから宴会をするんだったら、大分食べるんだろう?」

「うっ……そ、そうね。これ以上増えるのはさすがに――あっ違うのよ、今のはただの言葉の綾であって、別に変な意味があるわけじゃなくて」

「ああ、わかってるよ。太ったんだろう?」

「大正かあああああい!! せめてオブラートに包んでよバカ――――ッ!!」

「肉が」

「いやああああああああッ!?」

 

 ふぎゃー! と変な声で叫んだ紫が、月見の背中に飛び掛かる。小さな大妖怪の少女を背中にくっつけた月見は、身体的にも精神的にも重たくなった足取りで、色々なものを諦めるようにため息をつく。

 また乾いた春風が吹いて、再思の道に葉擦れの音が響いた。

 クスクスと、子どもが笑っているような、葉擦れの音が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第48話 「阿礼が歩んだ道」

 

 

 

 

 

 人里に顔を出す時、妖怪である自分の姿を気にすることは、すっかりなくなっていた。初めて『人間』としてここにやってきてから、そろそろひと月近く。今や月見の存在は、妖怪であるにもかかわらず、里の住人たちから暖かく受け入れられるようになっていた。

 月見が悪い妖怪ではないと説明して回ってくれた慧音の尽力については、無論感謝する他にないが、もともと、里人たちが人外を見慣れているお陰というのもあったのだろう。人里には、日頃から悪意のない人外たちがしばしば足を運んでいる。永遠亭印の置き薬を配って回る月の兎であったり、食材の買い出しをする九尾の狐であったり、団子を頬張りながら仕事をサボる死神であったり、その死神を連れ戻しにやってきた閻魔様であったり、花を売りに来たフラワーマスターであったり、そもそも、里人なら誰しもが知っている、寺子屋の先生からして半分妖怪なのだ。悪意のない妖怪に対しては、里人たちは、こちらが拍子抜けしてしまうほどに好意的だった。

 道ですれ違えばご近所さんみたいに親しげな挨拶をされ、店の前を通れば「安くしとくよ!」と呼び止められる。子どもたちに出会えば、尻尾を遊び道具にされたり、遊んでと責付かれたりする。……つい先日に、無縁塚で少し苦い経験をしたからだろうか。あくまで人里の中に限っただけの話だけれど、こうして妖怪と人間が垣根なく笑い合える世界は、とても温かいものだと思う。

 土だらけの手で遠慮なく尻尾をもふもふしてくるいたずらっ子たちを、こらこらと追い返しつつ、月見は買い物袋片手に人里の大通りを進む――の、だけれど。

 

「……」

 

 ……耳を澄ませば、聞こえる。月見の後ろから、こそこそと、小走りするように追い掛けてくる小さな足音が。

 首だけで振り返れば、見える。物陰に隠れ切れずちょこんとはみ出した、薄紫の髪の上で咲く椿の花弁が。

 

「……阿求」

 

 椿の花が、ピクッと震えて物陰に引っ込んだ。

 

「……もうバレてるから、隠れても意味ないぞ」

 

 またぴょこりと出てきた。

 月見は浅くため息、

 

「こんなこと、いつまで続けるつもりなんだ?」

「いつまでだって続けますよ。諦めませんからね――」

 

 物陰から頭だけを出して、彼女は力強く宣言する。

 

「月見さんの幻想郷縁起、必ず書き上げてやりますから!」

 

 現九代目阿礼乙女、稗田阿求。

 選手宣誓というよりかは、宣戦布告のように。まるで親の仇でも目の前にしているかのように、少女の面持ちは精悍としていて。

 幻想郷縁起、という単語を頭の中で反芻させてから、なんだか面倒なことになってるなあと、月見は二度目のため息で(くう)を薙いだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「あなたが月見さんですね! ちょっとお話を聞かせてください!」

 

 事の発端は、阿求のその一言まで遡る。水月苑という新しい住居を手に入れたことで、生活用品を取り揃えるために人里で買い出しをしていた月見を、出し抜けに引き留めたのが彼女だった。

 

「……? 確かに私が月見だけど……」

 

 雅な少女であった。人里の少女といえば、大抵は手頃な値段の和服で素朴に着飾り、一方で男子にも負けない気の強さで元気に跳ね回っているのであるが、この少女はそれとは正反対。そんじょそこらの和服とは明らかに一線を画す作りのいい素材で、若草色の着物の上に、黄色の袖がついた上着を被せ、袴は鮮やかな赤色。薄紫のボブカットに椿をあしらった髪飾りを乗せて、一見華やかに着飾っており、咲かせた笑顔も明るいけれど、不思議と受ける印象は淡く儚い。

 この時点で、どうやら普通の里の子が話しかけてきたわけではないらしいと感じていたし、実際彼女の自己紹介は、その月見の推測を裏付けるものだった。

 

「私、九代目阿礼乙女、稗田阿求と申します。……『御阿礼の子』についてはご存じですか?」

「いや……?」

 

 聞き覚えのない言葉だが、そんな『阿礼乙女』などという大層な肩書きを、ただの人里の子が名乗るはずもなし。

 阿求はすぐに続ける。

 

「では、稗田阿礼という名は」

「……それはもちろん」

 

 知っている。知らないわけがない。現存する日本最古の歴史書、古事記を、太安万侶とともに編纂した稀代の大天才。月見も、直接の面識はないが、その顔を一度見に行ったことがある。相当昔の話なので、もう顔形は思い出せないけれど。

 まさか、と思った。

 

「……『稗田』って」

「ええ、その『稗田』です。そして『御阿礼の子』は、稗田阿礼が代々転生を繰り返して生まれた子を指す言葉なんです」

「……」

 

 なにやら、活気ある往来に満ちた大通りで話すには似つかわしくない、大層なお話だ。

 

「御阿礼の子には、会ったことがありませんか」

「そうだね。阿礼の顔は見たことがあるけど、面識はない。……そもそも、阿礼が転生を繰り返してるってこと自体が初耳だよ」

「そうですか。まあ昔は、このあたりの事情は稗田家だけの機密になってましたからね。転生とか、そういう寿命に関わる話には、うるさい時代だったと聞いてますから」

 

 確かに代々転生を繰り返す人間がいると公になっていれば、人間たちの中で大きな話題となっただろうし、妖怪たちの間にも噂くらいは流れてきただろう。

 加えて月見の記憶が正しければ、幻想郷ができて間もない500年前の時点では、『稗田』にまつわる話を聞く機会は一度もなかった。月見が外に出て行ったあとに、紫が手引きして幻想入りさせた血筋なのだろうか。

 

「とまあ自己紹介はこんなところで、ちょっとお願いしたいことがありまして」

「ふむ。聞こうか」

 

 あの『稗田』から直々のお願いとなれば、なんとも興味がある。とりあえず、大通りのど真ん中で話し続けるのもなんなので、広場の方に足を向けながら。

 

「御阿礼の子は代々、『幻想郷縁起』と呼ばれる書物の編纂を行っています」

 

 月見の隣を歩きながら、阿求は(そら)んじるように流れる口振りで言う。

 

「幻想郷縁起は、平たく言えば妖怪についての情報をまとめた書物でして。今回はそこに、月見さんの項目を作らせていただきたく」

「……ふむ」

 

 顎に手を遣って青空を見上げ、月見は静かに考える。妖怪についての情報をまとめた書物。書物を謳うからには、不特定多数に向けて公開されるはず。そこに月見の項目を載せるということは、月見のプライベートなあれやこれが、広く世間に筒抜けになると考えていいだろう。

 頷き、月見は笑顔で答えた。

 

「うん、お断りするよ」

「ありがとうございます! それじゃさっそくそこの茶屋にでも入ってってなんでですか!? ちょちょっ、待ってください行かないでくださいっ!」

 

 目的地を広場から水月苑へ百八十度変更、帰ろうとしたところで、慌てた阿求に袖を鷲掴みにされた。首だけで振り返れば、彼女は信じられないものを見るような瞳で月見を見上げていた。

 

「ど、どうしてですか!? ちょ、ちょっとだけでいいんです! お時間は取らせません!」

「いや、間に合ってるよ」

「なにがですか!? ちょっと、適当なこと言って丸め込もうとしないでくださいっ!」

 

 ふぬー! と袖をグイグイ引っ張られて、強引に振り返らされる。

 

「も、もしかしてお忙しいんですか? なら後日、日を改めてお伺いしますから……」

「や、そういうわけではないけど」

「じゃあなんでですか!? いいじゃないですか、ちょっとお茶をする程度の時間で済みます!」

 

 ふうむ、と月見は腕を組んで答えを渋った。断っておけば、決して阿求と話をするのが嫌というわけではない。問題なのは、ここで話に応じてしまうと、幻想郷縁起に月見の項目が追加されてしまうことだ。

 

「まさか、他に理由が?」

「……ああ。阿求、正直に言うよ」

 

 月見はなるべく仰々しい雰囲気を装ってそう切り出す。その雰囲気に気圧されて、阿求も「は、はい」と背筋をまっすぐに引き締める。

 そう。幻想郷縁起に月見のページができてしまうのは、正直に言ってよろしくない。

 なぜならば、

 

「本に私の名前が載るだなんて、こっ恥ずかしいじゃないか」

「あー、なるほど~…………は?」

「そういうわけだ。私のことは諦めてくれたまえ」

「待ちなさあああああい!!」

 

 そして躊躇いなく踵を返したところで、しかし阿求がすかさず回り込んできた。興奮のあまり頬を赤くし、両腕を大きく広げながら、彼女はすっかり困惑し切った声で、

 

「こ、こっ恥ずかしいってなんですかっ」

「そのままの意味だよ。話を聞く限り、幻想郷縁起は要は妖怪図鑑みたいなものだろう? 図鑑に私の名前が載るなんて、とてもとても」

 

 例えば烏天狗の新聞などとは違い、書物とは、時代を越えて人々に読み継がれていくものだ。特に幻想郷縁起は、御阿礼の子が転生を繰り返して編纂し続けている書物だというから、もはや立派な歴史書と言える。

 つまりその縁起に記された妖怪たちは、幻想郷の一つの歴史として、末永い未来にまで語り継がれていくわけで。

 阿求が両腕をぶんぶんと振り回す。

 

「恥ずかしいって、なに人間みたいなこと言ってるんですかっ。他の妖怪たちはみんな、『好きにしな』とか『あんたも暇だねえ』とかって笑いながら、適当に付き合ってくれたのにっ」

「中には私みたいな妖怪だっているだろうさ」

 

 月見はからからと笑って、ちょうどいい位置にあった阿求の頭をぽんぽんと叩いてやった。

 

「詰まるところ、気分じゃないんだよ。……これなら、妖怪らしい断り方だろう?」

「む~……!」

 

 心底気に入らないといった様子で、阿求がムスッと頬を膨らませた。恐らく、断られるなんて想定していなかったのだろう。俯き、うんうんと頭を捻って、やがてパッと顔を上げると笑顔で、

 

「じゃあ、もしお話を聞かせてくれたら油揚げをご馳走しますよ!」

「食べ物で釣ろうとしてもダメだよ」

「!? そ、そんな。狐なのに油揚げに釣られない……!?」

 

 阿求が瞠目して戦慄いている。釣ろうとしたのをまったく隠そうとしないあたりは潔い。

 

「藍さんはこれで一発だったのに! あなた、油揚げが好きじゃないんですか!?」

「いや、もちろん好きだけど……」

 

 ひとえに好物といっても、毎日でも食べないと満足できないタイプと、何日かにいっぺん食べられればそれで満足できるタイプがある。月見にとっての油揚げは後者だ。

 月見は肩を竦め、

 

「釣られるほどじゃないさ。長生きすれば、舌も変わるってことだね」

「長生きしてるって、どれくらいですか?」

「はいはい、さり気なく情報を引き出そうとしない。言ったろう、気分じゃないって」

「く、くううっ……!」

 

 また椿の花が咲く頭を叩いてやれば、阿求は込み上げる屈辱をこらえるようにふるふる震えていた。腹立たしげに眉を立てて、メモ帳と万年筆を取り出すと、何事かガリガリと力強く書き込んでいく。

 

「いいですもん、とりあえずいくつかのことはわかりましたもん。一つ、初対面の相手を子ども扱いする傾向がある。二つ、ノリが悪い」

「あのねえ……」

 

 月見が呆れると、阿求はしたり顔で胸を反らし、

 

「月見さんが悪いんですよ。だって話を聞かせていただけなかったら、私が見て感じたことを書くしかないですもんね。もしかしたらちょっと失礼な内容になってしまうかもしれませんけど、仕方ないですよね?」

 

 どうやら買収作戦の次は、恐喝作戦らしい。こちらに向けられた意味ありげな流し目は、暗に「失礼なことを書くぞ」と明言しているかのようだった。

 月見は阿求の頭から手を離し、緩く吐息。

 

「そもそも、私のことを諦めるって選択肢はないのかな」

「私が負けたみたいで嫌です。私にもあるんですよ、幻想郷縁起編纂者としてのぷらいどが」

「油揚げで買収しようとしたり、失礼なことを書くかもって脅したりすることがか?」

「真実を掴むためには、己の手を汚すのも已むなしです」

「それがお前のやり方なら私はなにも言わないけど、そういう誠意に欠ける相手だと、余計話をする気なんて起こらなくなるねえ」

「なっ……卑怯ですよ、脅すんですか!?」

「まずは鏡を見ようか、阿求」

 

 阿求はぷいとそっぽを向いて、手帳に三つ目の項目を書き込んだ。

 

「三つ、月見さんは人と真面目に話をしてくれない……と」

「ところで阿求、お前の幻想郷縁起って、その……そんなんでいいのか?」

「そっ、そんな不憫そうな目しないでくださいよー! 月見さんが話をしてくれないからじゃないですかあっ!」

 

 いー! と歯を見せて怒る阿求の姿は、へそを曲げた子犬によく似ていた。ぐるるる、なんて唸り声が今にも聞こえてきそうで、彼女のお尻あたりに逆立った尻尾が見える気がする。

 

「いいです、もうこうなったら自力で調べて書き上げてやります! 稗田の底力を見せてあげますからねっ!」

「そっか、頑張れ」

 

 まだ小さいのにそこまで頑張るなんて感心だなあと、若干温かい気持ちになりつつ微笑むと、阿求はまた口を一文字に引き結び、ふるふる震えて屈辱を耐え忍ぶのだった。

 

「あなた、さては私を子ども扱いしてますね……!?」

 

 実際子どもだろうに。

 阿求はまた万年筆を握り締め、

 

「四つ、月見さんはいじわるっ!!」

「書き上がったら私に見せてくれよ。身も蓋もない変なことを書かれたらたまったもんじゃないからね」

「いーっだ! どうなっても知りませんからねっ!!」

 

 月見としてはあまり深いこと考えていなかったのだけれど、どうやらこれが、彼女の熱意を非常に面倒な方向に燃え上がらせてしまったらしい。

 つまり、その日を境にして、月見は阿求にストーキングされるようになった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……いやお前、それは完全に自業自得だろう」

「まあ、そうなのだけどね」

 

 人里の中央広場は、子どもたちのかわいらしい活気で満ちていた。ちょうど寺子屋が休み時間ということもあり、広場を跳ね回って元気に遊ぶ子どもたちを、月見は近くの腰掛けから慧音とともに見守っていた。

 その折、阿求にストーキングされるようになった経緯を話してみたのだけれど……慧音から返ってきたのは冷たい半目で。

 

「言っておくけど、私は助けないからな」

「別に助けてほしくて話をしたわけじゃないよ。ただ……」

 

 月見は、首だけで後ろを振り返ってみる。今日も今日とて民家の物陰では、椿の髪飾りがぴょこぴょこと出てきては、引っ込んでを繰り返している。あいかわらずかくれんぼが下手な子だ。

 緩く、笑みの息。

 

「熱心な子だと、思ってね」

「面白い妖怪を見つけると、問答無用で幻想郷縁起に載せようとするのは……先代の頃から変わりないね」

 

 慧音が浮かべた苦笑には、過去を懐かしむ色があった。きっと彼女も、先代の御阿礼の子からしつこく話をせがまれたのだろう。

 

「そうか、幻想郷縁起には慧音も載ってるんだね。あとでちょっと見てみようか」

「み、見なくていいよあんなのっ。大したことは書いてないし――や、違うから阿求、そういう意味で言ったんじゃないから! だからお願い死なないでえええええ!?」

 

 真横にぶっ倒れて動かなくなった阿求を慧音が慌てて生き返らせに行っている間に、月見は膝に頬杖をついてぼんやりと考える。――代々転生を繰り返し、古来より一つの書物を書き続ける少女。果たしてその人生とは、いかなるものなのだろうか。

 寿命が底なしに長い妖怪とは違う、また死ぬことがない不老不死とも違う、死んでも新たな命を抱いて甦る、転生者。少し、興味を引かれる言葉だ。

 と、ふいに月見の足元にボールが転がってきた。それを追い掛けて、すぐに子どもたちが集まってくる。月見はボールを拾い上げて、一番に駆け寄ってきた男の子に手渡してやった。

 

「ほら」

「ありがと、狐のお兄ちゃん!」

 

 子どもたちの行動は素早いもので、一部は既に月見の後ろに回って、尻尾を触ったり叩いたりして遊び始めている。中には腰掛けの上に立って耳を触ってくる子などもいて、ちょっとした大所帯になってしまった。

 今となってはもはや慣れっこなので、怒鳴るような大人げのない真似はしないけれど。

 月見がすっかり子どもたちのおもちゃになっていると、ボールを受け取った少年が問うてきた。

 

「ねえ、狐のお兄ちゃん。お兄ちゃんって、けーね先生とどんな関係なの?」

「うん? ごくごく普通の、知り合いだよ……こら、耳を引っ張るな。痛いって」

 

 調子に乗って耳をグイグイ引っ張り始めたいたずら小僧をたしなめつつ、

 

「ほんとに?」

「本当だよ。……他になにに見えるってんだ?」

「んー、……お父さんとお母さん」

 

 ゴン、と背後から物音。見れば慧音が、民家の塀に頭をぶつけてうぐぐと呻いている。

 月見はとりあえず見なかったことにし、

 

「……からかってるのか?」

「そんなことないよ! だってお兄ちゃんとけーね先生、髪の色とか似てるから他人には見えないし……」

 

 少年は屈託なく、向日葵みたいに大きく笑って、とどめに一言。

 

「――二人で話してるところとか、ウチのお父さんとお母さんにすごく似てるもん!」

 

 ズシャア、と背後からまた物音。今度は阿求ではなく慧音が、真横にぶっ倒れて物言わぬ骸と化していた。

 そしてその傍では、阿求が瞳を爛々と輝かせて、ものすごい勢いでメモ帳になにかを書き殴っていた。

 

「……」

 

 あ、なんかそれわかるー。――確かにウチのパパとママにも似てるかもー。――僕は兄妹に見えるけどー? ――じゃあ私は恋人ー! ――などと、無邪気な子どもたちが好き勝手に盛り上がっていく中。

 月見は静かにため息をついて、とりあえず元凶である少年へ、

 

「こらこら。そういうことは、あまり声を大きくして言うものじゃないよ」

「そうなの?」

「ああ。……見なさい、慧音が真横にぶっ倒れて動かなくなってるだろう? あれは、お前の言葉がショックだったからだよ」

「そ、そうなの?」

「じゃなかったら、あんなところであんな風に倒れたりはしないだろう? 服が汚れちゃうのに」

「そ、そうだね」

「そうだとも。だからほら、みんなも盛り上がらない」

 

 更に恋人派と兄妹派に分かれて論争を繰り広げる全員に向け、

 

「お前たちも知ってるだろう? 慧音は人から茶化されるのが嫌いだ。……茶化された時、慧音はいつもお返しになにをしてた?」

 

 子どもたちの表情が瞬間的に凍りついた。

 それと同時に、慧音がむくりと体を起こした。肩が小刻みに震え始め、しゃっくりをするような笑みがこぼれ出し、蠢く銀髪はさながらメドゥーサの如く。

 

「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」

「――みんな、ここまで言えばあとはわかるな? 自分たちがなにをすべきか」

 

 あふれた慧音の妖力が氷のような冷たさで背中に突き刺さってくるのを感じながら、聞こえてくる調子の外れた笑い声から全力で意識を逸らしながら、月見は子どもたちをぐるりと見回して言う。

 恐怖に強張った面持ちで、子どもたちはぎこちなく頷く。

 

「お、お前たち、いいいぃぃ……!」

「よし、上等だ。それじゃあ、みんな――」

 

 人から茶化された時、驚かされた時に、慧音がいつも反射的に取っている行動。

 それはすなわち、

 

「――逃げろ!!」

「「「うわああああああああああ!!」」」

「待てええええええええええ!!」

 

 頭突きによる、言論弾圧。

 蜂の巣を叩いたように散らばった月見たちを、慧音が半人半妖の身体能力を遺憾なく発揮して追い回す。

 一人、また一人と捕まっては例外なく頭突きを叩き込まれていく光景を見て、里の大人たちは、昔の苦い記憶を思い出したようにひきつった笑顔を浮かべていた。

 

 ちなみに月見、その日はなんとか逃げ延びたものの、後日、また人里に買い物にやってきたところを闇討ちされた。続け様に、「あのあとは本当に大変だったんだぞ!」と一時間ほど説教された。聞くところによれば、阿求を含め、なぜか一部の大人たちも同じような被害を受けたらしい。

 やはり、ひとたび上白沢慧音という少女をからかってしまうと、あとには身も凍るような血の制裁(ずつき)が待ち構えているのである。

 人里の茶屋では、月見と阿求を中心として、ささやかな被害者の会が催されていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 阿求のストーキングは、その後二週間ほど、月見が人里にやってくるたびに続いた。

 そしてある日、ぱたりと、消えた。

 初めは、充分な情報が集まったから家で編纂を始めたのだろうと思っていた。しかしどうにも、あまりに唐突だったからだろうか。なにかあったんじゃないかと妙な不安がこびりついて離れなかったので、立ち寄った八百屋で尋ねてみたのだけれど。

 

「――風邪?」

「ああ」

 

 オウム返しで問うた月見に、店主は眉を下げて頷いた。

 

「阿求ちゃんは、まあ、あんまり体が強い方じゃなくてよ。最近はよく外も出歩いてたし……ああ、あんちゃんのせいなんかじゃねえよ。もともと、月に一回くらいは体調崩すんだ、あの子は」

「大丈夫なのか?」

「熱はまだ下がってねえけど、大事ないってよ。慧音先生のお墨付きだ」

「そうか……」

 

 月見は小さく息をついた。まさか、阿求が体調を崩していたとは予想外だった。執拗にこちらの後ろを追い回す姿は、月見の目にはある種、生き生きとしているように見えていたのだけれど、本当は無理をしていたということなのだろうか。

 若干歯切れを悪くして、店主が続ける。

 

「なんでも、紫様に捕まって……夜通しで酒を呑まされたせいだとか」

「は? なんでそこであいつの名前が……というかなにやってるんだあのやんちゃ娘は」

「や、ほら……阿求ちゃんな、あんちゃんのことを知ってる連中に、色々話を聞いて回ってたみてえでよ。……そしたら、その話を聞きつけた紫様に誘拐されたらしい」

「……」

 

 月見は目頭を押さえて青空を仰いだ。

 まぶたに降り注ぐ太陽の光が、じんじんと瞳まで染み込んでくる。

 

「んで、そのまま朝まであんちゃんのことを語られまくって、酒も散々呑まされて、体調崩しちまったらしいぜ。慧音先生が様子を見に行った時に、ふざけんなーって元気に愚痴ってたらしい」

「あー……あの馬鹿はとりあえず置いておくとして、その様子だと、確かに大事はなさそうだね」

 

 なかなか皺が取れない眉間を揉み解しつつ、月見は苦笑した。ふざけんなーなんて元気に悪態をつくだけの余裕があるなら、心配もいらないだろうか。

 

「体は弱いけど――」

 

 店主は己の左胸を拳で打って、歯を見せる一笑。

 

「その分だけ心が強えからな、阿求ちゃんは。病は気からっていうし、すぐ治んだろ」

「そっか」

「でもまあ――」

 

 そこで、店主がふいに声の調子を変えた。腕を組み、顎を手で撫でて、なにかを露骨に期待するような眼差しで、月見を舐めるように見遣った。

 また、歯切れ悪く、

 

「あー……ところでよ。ウチの店はな、今日は果物が安い」

「……?」

 

 月見は店先の立て看板を見た。確かに、赤文字で大きく『果物特売日』と書かれているが、それがどうかしたのだろうか。

 店主はなおも、いまひとつ奥歯に物が挟まった様子で、

 

「中でも……特にりんごが安くてな。すりりんごにすると、輪を掛けて美味い」

「……ああ」

 

 そこで、月見は店主が言わんとしている意図を察した。なるほどそういうことかと、くつくつ喉を低く震わせて笑った。

 財布を取り出し、言う。

 

「それじゃ、いくつか包んでもらおうかな。……りんごだけじゃなんだし、適当に見繕ってくれ」

 

 一息、

 

「――阿求の家の地図と一緒にね」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 稗田家は、阿礼の代から千年以上に渡って続く由緒正しい家系であり、人里でも大きな力を持つ名家だった。八百屋の店主が描いてくれた地図は、地図というよりかは落描きのような乱雑さだったのだが、それでも迷いなく辿り着けるほどに、その屋敷は立派で広大だった。

 千余年前に訪れた、かの竹取翁の屋敷を彷彿とさせる広さだ。人里で、ここよりも大きな建築物は他にないだろう。屋敷を囲う白の築地塀は、まるで内側と外側を違う別世界で仕切っているかのように、幽玄かつ凜然と佇んでいる。

 ただ門をくぐるだけで、どことなく畏まった心持ちになるのを感じる。なにも悪いことはしていないのに、咎められやしないかとわけもなく不安になる。それだけの偉容が、この屋敷には確かに存在していた。

 住み込みの使用人がいるのだろう。園路伝いに広がる庭園には、丁寧に人の手が入り込んでいるようだった。春風に吹かれ、さわさわと、庭の木々がたおやかになびく様を見ていると、気後れしていた心が静まり返っていく。

 驚くべきは、齢たった十余にして、既に阿求がこの稗田家の当主であることだろうか。幾度となく転生を繰り返せば、まだ子どもながら家名を背負えるほど熟達できるのか。その割には年相応に子どもらしい一面も多々あったから、使用人たちの間に、変な噂をばらまかれていなければいいのだけれど。

 月見が玄関の戸を叩くと、応じてくれたのは、(かしら)にややの霜を置いた初老の女性だった。女中なのだろう。初め、その両の目は優しげに細まっていたけれど、月見の姿を見るなり大きな驚きで見開かれたので、そこで初めて、月見は自分が妖怪の姿のままであったことを思い出した。人に化けておいた方が、よかっただろうか。

 

「ああ、私は――」

「――ええ、知っていますよ」

 

 とりあえず怪しい者じゃないと弁解しようとするも、まるで未来を知っていたように、女中が莞爾(かんじ)とした微笑みを咲かせた。

 

「銀色の毛を持った、妖狐。……月見様、ですね? 阿求様から、お話はかねがね聞いておりますわ」

 

 ゆったり、歩くような声だった。先を折られた月見はすっかり返事を忘れて呆けてしまったが、女性は特に気に留めた様子もなく続けた。

 

「まさか、こうしてお目にできるとは、思っていませんでした。……阿求様に、なにか御用でしょうか?」

「……ああ」

 

 どことなく、竹取翁を彷彿とさせる雰囲気の女性だ。少しだけ懐かしい気持ちになりながら、月見は右手の紙袋を掲げて答えた。

 

「阿求が体調を崩したと聞いたから、見舞いに」

「あらあら……まさか、妖怪の方がお見舞いに来てくださるなんて」

 

 女中は、たおやかな仕草で口元を隠して、

 

「それに、その紙袋……あの果物屋さんのもの、ですね。嬉しいですわ。ちょうど果物を、切らしていたところで」

「それはちょうどよかった。……あの子の具合は?」

「熱がまだ下がりませんが、元気なものです。ええ、早く風邪を治して、貴方様のことを調べるのだと、意気込んでおられますわ」

 

 ふふふ、と意味深に笑う女中に、月見は苦笑。

 

「……阿求は、私のことをなんて?」

「それは、正直に申し上げてよいものかどうか」

 

 つまりは、正直に答えるのを躊躇ってしまうような言い様だったらしい。どこかの閻魔様と同じで、性悪狐と叫んで回ったりしたのだろうか。

 月見が小さなため息と肩を落とすと、女中はたたえた笑みをそのままに、優しく首を振った。

 

「貴方様が、阿求様の仰るような妖怪でないことは、わかっていますよ。こうして、わざわざお見舞いに来てくださるのですから」

「……」

 

 本当にあの子、使用人たちになにを言い触らして回ったのだろう。月見のその心配を知ってか知らでか、女中はこちらに対して身を半歩後ろに引いて、奥の腕で屋敷の中を示す。

 白くて、少し傷んだ働き者の指先を、月見は目を丸くして見つめた。

 

「どうぞ、お上がりになってくださいな」

「……いいのか?」

 

 そんなになんの警戒もなく、初対面の妖怪を家に上げるだなんて。月見の内心の驚きを、彼女は表情から汲んだようだった。ええ、と頷き答える声音は、あいもかわらずに歩くような速度でありながら、一方で確信するように、強い。

 

「阿求様は、強がっておられますが、少しだけ心細くなっているみたいで。妖怪の方は、お体も大変丈夫で、風邪にはまず(かか)らないと聞きます」

 

 腹の上で丁寧に両手を重ね、こちらが気後れするほど畏まって、頭を下げる。

 

「よろしければ、少しの間だけ、阿求様にお会いになっていただけないでしょうか」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「なっ、なんであなたがこんなところ……ケホッ、ケホッ」

「ああ、阿求様。急に動かれてはお体に障りますよ」

 

 月見の見舞いは、案の定、阿求にはまったく歓迎されなかった。驚くあまり跳ね起き、直後体を折って咳き込んだ阿求を見て、召使いの女性が慌てた様子で駆け寄っていく。

 女中に支えられ、続け様に何度か咳き込みながらも、阿求は風邪を引いているとは思えないほど光の強い瞳で月見を睨み返す。

 

「なにしに来たんですか!」

「阿求様、この方は、阿求様のお見舞いに来てくださったんですよ」

「なんでですか!」

「今まで人里歩くたびにあとを尾けられてたんだ。ぱたりとやんだら、気になりもするさ」

 

 部屋に入ったらその瞬間怒鳴られそうだったので、月見は襖をくぐらず、入口に佇んだまま、

 

「それで里の八百屋で訊いてみたら、お前が風邪を引いたって」

「果物を、頂きましたよ。阿求様、ちょうどりんごが食べたいと、仰ってましたよね?」

「む、むうっ……」

 

 りんごという言葉が女中の口から出た途端、阿求は唇をへの字にして怯んだ。むむむ、としばらく月見を睨みつけて、やがて諦めたように、布団の中へと体を戻した。

 月見から顔を背けるように、寝返りを一つ。嫌味な声で、

 

「じゃあもう用は済みましたよね。どうもありがとうございました、気をつけて帰ってくださいね」

「阿求様……」

 

 困惑した様子で、女中が頬に手をやって吐息した。まさか阿求が、風邪を引いているにもかかわらず、ここまで月見に敵愾心を見せるとは思っていなかったのだろう。せっかく来ていただいたのですから、とか、阿求様はこの稗田家の当主なんですから、とか、そんな小言にも似た言葉で、なんとか阿求を振り向かせようとしていた。

 手持ち無沙汰になった月見は、意識と視線を部屋の方に向けてみる。

 阿求の私室なのだろう。広く、そしてがらんどうとしていた。年頃の少女が好むような置き物の類は一つとしてない。壁のほとんどすべてが本棚で埋め尽くされていて、時代を経た古い紙の匂いと、かすかな墨の香りが部屋中に満ちている。部屋の一角に置かれた机の上では、編纂途中だったらしい書物が広げられたままになっている。個人の部屋とするには広すぎる座敷の真ん中で、阿求の姿はいやに小さい。

 これが、齢十余の幼子の部屋。

 

「もう、阿求様ったら……」

 

 女中の、ほとほと困り果てたような声が聞こえた。どうやら説得は失敗したらしく、阿求はぷいとそっぽを向いて、月見たちに背を向けたまま黙り込んでいた。

 その背から放たれるのは、言葉なき「ほっといてください」オーラだ。説得を諦めた女中は、静かな足運びで月見の前まで戻ってきて、力及ばすと頭を下げた。

 

「申し訳ありません。阿求様ったら、もう、かわいくない意地を張って……」

「かわいくなくて悪かったですね」

 

 飛んできた不機嫌声に、万策尽きたとばかりに嘆息して、

 

「どうか、お気を悪くしないでください。ほんの少し、意地っ張りなだけなのです」

「……そうだね。それはなんとなくわかってるよ」

 

 阿求が意地っ張りなのは、こちらを追いかけ回していた今までの姿を思い出せば嫌でもわかる。

 

「せっかく来てくださったのに、申し訳ございません」

「ん……」

 

 女中の謝罪に、月見ははっきりとは答えなかった。答えないまま、彼女の肩越しに、不貞腐れたように狸寝入りしている阿求の後ろ姿を見つめた。

 ここで踵を返すのは簡単だった。けれど、こうやってわざわざ見舞いにまでやってきたからこそ、月見は改めて感じる。知的好奇心。御阿礼の子。千年以上も昔から転生を繰り返すその人生とは、いかなるものや。さる境遇で生まれ育つ少女とは、いかなるものや。

 阿求が、縁起を書くために月見のことを知ろうとしたように。

 月見もまた、阿求という転生者のことを、今少しだけ知ってみたいと思う。

 だから月見は、女中にそっと耳打ちをする。

 愉快ないたずらを思いついた、狐の笑顔とともに。

 

「一ついいか? 悪いんだけど――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 すぅー……と襖が滑り、ぱたん、と閉じる。そして部屋に静寂が戻ってきてようやく、阿求は肩肘張っていた体からふっと力を抜いた。

 遠ざかっていく足音が、月見のものであるのには気づいていた。そして、部屋にはまだ女中が残っていて、こちらの枕辺にそっと腰を下ろしたのにも気づいていた。

 降ってくるのは、また「稗田家の当主なのだから」などという聞き飽きたお小言だろうか。阿求は風邪を引いているのだから、そんなのは治ったあとでもいいだろうに。相手の機先を制するように、素早く言葉を投げ掛ける。

 

「どうしてあの人を屋敷に入れたんですか? 言いましたよね、慧音さん以外の人は誰も入れないでって」

 

 吐息し、

 

「――心配なんて、されたくないのに」

 

 月見さんはいじわる――かつてメモ帳に記したその一文が、必ずしも正解でないのにはとっくに気づいていた。この数日間、阿求は月見を知る人たちにたくさん話を聞いて回った。上白沢慧音に始まり、十六夜咲夜、東風谷早苗、霧雨魔理沙、八雲藍、彼がよく買い物をするというお店の店主、果ては里の子どもたちまで。そうやって調べれば、彼が妖怪とは思えないほどに人がよくて、温厚な性格をしていることくらいは簡単にわかる。特に十六夜咲夜と八雲藍は、彼のことを相当高評価しているみたいだった。

 だから、会いたくなかった。体調を崩した今の姿を見られたら、気を遣われてしまいそうだったから。腫れ物を扱うように。憐れむように。同情するように、言葉を掛けられてしまいそうだったから。

 

 気を遣われるのは、嫌いだ。

 

 今までの人生は、ずっとその繰り返しだった。特に最近は、御阿礼の子が短命で病弱であると広く知られるようになってしまったから、人から気を遣われる折がずっと多くなった。

 そして阿求は、短命で、体が弱い、そんな自分の境遇に同情するような言葉が大嫌いだった。

 相手の厚意を無下にするつもりはない。他者を思いやれる気持ちは、人としてとても尊いものだと思う。

 けれど阿求は、己の境遇を不幸だと思ったことなんて一度もない。

 短命でも。病弱でも。確かに体が弱いのは、時に大変だと思うこともあるけれど、それを憐れと感じた覚えは一度もない。

 短命でも。病弱でも。後世のために歴史を紡いでいく、この御阿礼の子の役目は、阿求にとってこの上なく誇らしいものだ。

 

 なのにどうして、こんなにも誇らしい私の人生を、他人から「可哀想だ」なんて見下されなければ(・・・・・・・・)ならない?

 

 人は、自分よりも恵まれていないものを見た時に、可哀想だと思う。自分の幸福と、他人の不幸の狭間で、憐れみという感情は生まれる。

 同情なんてのは、所詮、自分が相手よりも裕福だからできる心の贅沢なんだ。

 だから阿求は、同情されるのが嫌いだ。

 私はお前よりも恵まれてるんだぞと、言外に言われているような気がして、大嫌いだ。

 それは、傍から見ればとても卑屈なことなのかもしれないけれど。

 

「私は、大丈夫なのに」

 

 ……みんなから気を遣われなきゃいけないほど、弱くないのに。

 憐れんでほしいなんて、思ってないのに。

 そこまで一気に吐き捨てようとしたところで、阿求はハッと我に返った。いけない、と思う。感情に流されてよく考えないまま心を吐露してしまうのは、精神が弱っている証拠だ。

 普段なら、決してやらないようなミスだった。やっぱり風邪のせいで、少しだけくたびれてしまっているのかもしれない。

 自分自身を励ますように、できるだけ明るい声を飛ばした。

 

「そういえば私、りんごが食べたいんですよ。剥いてもらえませんか?」

「ああ――」

 

 そうして、傍らから返ってきた声は。

 

「それだったら大丈夫だよ。さっき、女中さんが準備しに行ったからね」

「――!?」

 

 阿求の予想よりもあまりに低く、穏やかだった。

 跳ねるように全身が震えて、その勢いのままに寝返った。女中ではない。とっくに帰ったものだと思っていた銀の狐が、阿求の枕辺で胡座を掻いて、座っていた。緩い三日月を描いてつり上がった彼の口端が、どうだ、驚いたろう、と笑ったのが見えた。

 

「な、あっ……!」

 

 叫び声なり悲鳴なりを上げて然るべきはずだったのに、驚くあまり、一周回って体が固まってしまって、口から出た音はたったそれだけだった。声を出すという手段自体が頭から消し飛んでしまって、ただパクパクと、痙攣するように顎を震わすことしかできない。

 水を失った魚みたいになっている阿求を見て、月見の笑顔が気まずげに崩れた。

 

「そ、そこまで驚かれると、ちょっと悪いことした気持ちになるね……」

「ど、どうしてあなたがここにいるんですかあっ!?」

 

 そこでようやく、阿求の胸の奥で溜まりに溜まった言葉の鉄砲水が、堰を砕いて飛び出してきた。

 

「うわちょっとなにナチュラルに入ってきてるんですかまままっまさか私が弱ってる隙に襲うつもりなんですかいやあああああケモノですケダモノですそんなことしたら幻想郷縁起に全部包み隠さず書いてやりますからね後世まで後ろ指を差されて生きていくことになりますよざまあみろです!!」

 

 息継ぎ。

 

「大体誰の許可を得てここにいるんですかここは私の部屋です乙女の部屋に勝手に入らないでください失礼です無礼です非常識ですお見舞いは終わったじゃないですか一体これ以上なんの用ですかうわーさてはやっぱり私を襲うつもりなんですねまさかあなたこんな子どもの体に興味があるんですかいやあああああケモノですケダモノです変態ですさっさと帰ってください人呼びますよっ!!」

 

 顔を真っ赤にして、肺の中身がすっからかんになるまで叫び通して。

 そして肩で息をしながら顔を上げれば、月見が目をまんまるにして、時を忘れたように呆然と固まっている。その姿を見たら、なんだか阿求もいきなり冷静になってしまって、呼吸する以外の一切の動きを止めて彼を見返してしまう。

 奇妙な沈黙。外で小鳥がさえずり羽ばたく音。嗅ぎ慣れた古書と墨の匂い。

 それを破って、く、と短く咳き込んだように鳴ったのは、月見の小さな笑い声だった。

 笑われた。いや、当然だ。阿求はそれだけのことを、勢いに任せて後先考えずに叫んでしまった。頭の中が焼かれたように熱くなる。

 

「や、悪い悪い」

 

 彼は未だ、喉だけでくつくつと笑いながら、ふうと一つ息をつく。

 呆れるのでもなく、嘲るのでもなく、ただ、安心したように。

 

「本当に元気みたいで、なによりだよ」

「……」

 

 口の中に準備していた文句のあれこれが、ぐっと喉の奥に吸い込まれて消えた。元気そうでよかった、なんて、夢にも言われるとは思っていなかったから、完全に毒気を抜かれたというやつだった。

 浮きかけていた体を布団の上に戻して、ため息をつく。

 

「私のこと、心配でやってきたんですか?」

「紫がなにやらやらかしたって聞いてね。それでちょっと気になって」

「うわ……」

 

 ひどい胸焼けを起こしたみたいに、体中に熱っぽい不快感が込み上がってきた。……嫌なことを思い出した。といっても、もうほとんど覚えていないのだけど。

 どうやら知らず識らずのうちに、相当なしかめっ面をしていたらしい。月見が若干面食らった様子で尋ねてくる。

 

「なにをされたのか訊いても?」

「そんなの覚えてませんよ。ええ、覚えられなくなるくらいに呑まされたんです。それだけは確実です。二日酔いしていないのが奇跡ですよ」

 

 吐き捨てるように言ってやれば、月見は天井を仰いで、ひとしきりの間嘆息していた。

 

「まったくあいつは……。昔から、羽目を外しすぎるとろくなことをしない」

「……月見さんは、紫さんと親しいんですよね」

 

 月見のことを語る紫の瞳がとてもとても輝いていたのを、まぶたの裏がぼんやりと覚えている。

 

「親しい……そうだね、腐れ縁みたいなものかな。あいつの奇行には、私もほとほと参ってるよ」

「むしろ私、ついこの間まで、紫さんにあんな一面があることすら知らなかったんですけど」

 

 煙が服を着て歩いているみたいに、のらりくらりとした胡散くさい性格――と、阿求の記憶と幻想郷縁起には刻まれている。あの姿と、昨夜の彼女の姿とはまるで別人だ。

 紫さんの縁起を書き直さないとなあ、なんて、半ば上の空になりながら思う。

 

「紫はね、元々の性格がそうだから」

「そうなんですか?」

「ああ。胡散くさいというか……そういうのは、大妖怪らしさを出すためのキャラ作りなんだよ。あれで、結構形から入りたがるタイプでね」

「……詳しいんですね」

 

 腐れ縁だからね、と月見は小さく頬を掻いた。

 

「ともかく、あいつには私から油を搾っておこう。……もっとも、もう藍にこってりやられてるだろうけど」

「……ええ、そうしてください」

 

 二度目があるのだとしたら笑えもしない。治まっていた頭痛が舞い戻ってきたのを感じながら、阿求は枕に深く頭を預けた。

 彼を追い出そうという気持ちはすっかり消えていた。けれど、これ以上話をするつもりもなかった。まぶたをすぼめ、天井の木目を眺める。このまま彼が黙っているのであれば、もう眠ってしまおうかなと思って、阿求は部屋に染みついた古書の匂いに意識を委ねようとした。

 

「――転生を繰り返す人生というのは、一体どういうものなのかな」

 

 その静寂を波立てない、風が流れるように静かな問いが、しかし唐突に阿求の耳に届く。閉じていたまぶたを浅く持ち上げて見てみれば、彼はこちらを見ていなかった。壁を埋め尽くす書架の列に、左から右へとゆっくり目を通しながら、まるで(そら)んじるかのごとく、唇を動かしていた。

 

「それは、楽しいのかな」

「……」

 

 或いはそれは、問いですらなかったのかもしれない。目についた本の背表紙を読み上げただけの、ただの独り言だったのかもしれない。

 ここで阿求が聞かぬふりをして夢に落ちても、きっと彼はなにも言わないだろう。少なくとも、明確な答えを期待しての問いだとは思えなかった。

 だから阿求も、ただの独り言のつもりで、天井の木目を追うように自分の人生をなぞった。

 

「楽しくは、ないですよ」

 

 先代以前の記憶は()うに消えているけれど、稗田阿求の人生を思い返して、紡ぐ。

 

「転生の負荷かなにかかはわかりませんけど、御阿礼の子は代々短命で病弱です。ついでに言えば、転生の準備をするために生きているうちから色々準備をしないといけないので、自分の好きなように生きることができるのは、ほんの二十年ぽっちでしょうか。ああ、稗田家の当主だとかを絡めればもっと少なくなりますね。……笑っちゃいますよね。もう人生の半分を折り返してるんですよ、私。これだけ言えば、私がどういう人生を繰り返しているのかは推して知るべしでしょう」

 

 そこで一旦言葉を区切って、阿求は横目で月見を見遣った。果たして彼はこちらを見ていないし、そもそも、今の言葉を聞いていたのかどうかすら怪しい。その視線は、書架の一角――ちょうど幻想郷縁起が収めてある箇所で留められている。

 

「見せてもらっていいかな?」

 

 まぶたを下ろし、短く答える。

 

「ご自由に」

「ありがとう」

 

 着物が擦れ、彼が立ち上がる音。畳の鳴る音が、阿求が踏むよりもずっとゆったりとしたリズムで遠ざかっていく。

 その気配を感じながら、阿求は言葉を紡ぎ直す。

 

「平気で千年以上を生きるあなたたちにはわからないでしょう。繰り返されるとはいえ、たった二十年そこらで終わる人生がどんなものかなんて。

 転生には百年以上時間が掛かりますから、繰り返すたびに、人から忘れられます。記憶は引き継がれませんから、繰り返すたびに、ゼロからの再スタートです。御阿礼の子の役目は決まっていますから、繰り返すたびに、同じ轍の上を歩き直すんです。

 ええ。この人生、」

 

 唾を、飲み込み、

 

「――楽しくなんて、ちっとも、ないんですよ」

 

 いつしか独り言は、月見の背へと向ける明確な言葉となりつつあった。彼の言葉を聞きたかった。こうして阿求の境遇を知って、彼がなにを思うのか知りたかった。

 

「どう思いますか?」

 

 彼は心優しい妖怪らしい。十六夜咲夜が、スカーレット姉妹を仲直りさせてくれたんだと、本当に嬉しそうに語っていたのを覚えている。

 本当か? 彼は本当に心優しいのか? 他の人たちと同じように、安易な気持ちで同情を振りまくだけの、機械みたいに冷たい優しさではないのか?

 同情することと優しいことは、違う。

 もしもあなたが、本当に心優しい妖怪なら。

 

「こんな人生しか送れない私を、あなたは、どう思いますか?」

 

 この想いを、見抜いてほしかった。病弱で短命という、そればかりに囚われて、可哀想だなんて決めつけないでほしかった。

 確かに阿求に与えられた人生は、お世辞にも、楽しいものとはいえないけれど。辛いこともあるけれど。

 でも、嫌いじゃないんだと。御阿礼の子として生きる二十年は、楽しくないし、大変だけれど、でもとても誇らしいものなんだと。

 この想いを、見抜いてほしかった。

 彼は応えない。阿求が最近編纂したばかりの縁起を手に取って、指先で紙の縁をつまんで、めくる。年季の入った紙がこすれる、かさりと乾いた音。阿求の好きな音。その薄っぺらい、破れば風に乗せられどこかへ消えてしまう一枚の紙に、阿求がどれほどの想いを込めたのか、見抜いてほしかった。

 一体どれほど、阿求は待ち続けただろう。

 

「……ふむ」

 

 一息。

 彼は、それから答えた。

 こちらを振り返ることもせず、

 縁起のページを静かにめくって、

 触れれば溶けていくように、柔らかな声音で、

 滔々と、たった一言。

 

「――阿求は、すごいね」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 確かに月見には、たった二十年で終わる人生がどのようなものかなんてわからない。もう月見は、その何十倍もの時間を生きてしまったから。

 ただ、きっと一瞬なんだろうな、とは思う。妖怪だろうが人間だろうが関係ない。二十年の人生というのは、恐らく、太陽が登り始めてから沈むまでと同じくらいの、ほんの一瞬の時間でしかないのだ。

 あと十年かそこらかするだけで、この少女は、もう幻想郷の向こう側の世界に渡ってしまう。

 だからこそ、月見は素直に、すごいと思った。

 

「……すご、い?」

「ああ」

 

 気の抜けたような阿求の声に背で相槌を打って、月見は幻想郷縁起の頁をめくる。

 この世の妖怪についてまとめた、一つの歴史書としての出来を問えば、あまり優れているとはいえないかもしれない。言うなれば、趣味でしたためた妖怪の観察日記だろうか。視点は客観的でなく、文章は論理的でなく、読みやすいといえば響きはいいけれど、月見の知識欲を刺激するほど学術的な価値はない。

 けれど月見は、この本を好きだと思った。こんなにも温かい本を手に取るのは久し振りだった。頁をめくるたびに、指先で感じる。文を読むたびに、心で感じる。この縁起の編纂に、阿求がどれほどの想いを込めているのかを。

 

「たった、二十年でも」

 

 それは愛であり、誇りであり、稗田阿求という少女のすべてだった。稗田阿求という少女が、生きてきた道そのものだった。

 

「それでも、こんな本を書けるんだから、すごいことだよ」

 

 この本は、息をしていると、月見は思う。人の手で、一枚一枚丁寧に作られた紙の触感。最近になって編纂したばかりなのか、文字の一つ一つから香るかすかな墨の匂い。そして、読むたびに脳裏に浮かび上がってくる、この縁起を編纂する阿求の姿。

 笑っている。体調が優れない時も、嫌なことがあった時も、辛い思いをした時も。阿求は、いつも笑顔で、この縁起を編纂し続けている。

 生半可な想いでできることではない。この本を編纂することに、たった二十年しかない命を、全部(なげう)ってもいいと。冗談でも伊達でもなく、本気でそう信じているから、短命でも、病弱でも、悲嘆せずに、笑顔で日々を歩んでいる。

 

「それは、すごいことだよ」

「なんで……あなたは、私を可哀想だと思わないんですか? たった二十年そこらの命を、憐れだと、思わないんですか?」

「さて、どうだったかな」

 

 この本を読む直前までは、その気持ちがなかったわけではない。けれどこうしてこの本を手に取ってなお、阿求が憐れだなどと、思えるはずがなかった。

 だって、本人にその気持ちがないのだから。それどころか、たった二十年の命に、誇りすら見出しているのだから。わざわざ憐れむ理由がなかった。

 だから、

 

「――そんなことは、縁起を読んでいるうちに忘れてしまったな」

 

 縁起を閉じ、痛めてしまわないように、静かに書架へと戻して。

 

「なあ、阿求――」

 

 振り返り、

 

「気が変わった。この縁起に、私のことも載せてくれないか?」

「ふえ!? な、なんですかいきなりっ」

 

 まるで告白でもされたみたいに、阿求が顔を真っ赤にして飛び起きた。直後に少しふらついて、両腕を杖にしながら、

 

「だってあなた……あ、あんなに嫌だって言ってたじゃないですかっ」

「言ったろう、気が変わったんだよ」

 

 月見はもう一度書架を見る。一代に一冊。そうして今や九冊目となった縁起の背表紙に、また指をかければ、そこから本の確かな息遣いが伝わってくる。

 理由なんて簡単だ。人の心をいとも容易く変容させてしまう、病にも似た感情の名前。

 

「一目惚れみたいなものかな。私は、この本が好きだ」

「――」

「だから、私の記事を書いてもらえたら、とても光栄かなって。……それだけの話だよ」

 

 本に、恋をするということ。何千、何万という本を今まで読んできたけれど、ここまでの別嬪さんはそうそういやしないと、月見は一本取られた思いで苦笑する。

 背表紙から指を離し、

 

「だから――」

 

 書いてみてくれないかな、と、振り返って、その言葉を音にしようとした。

 ――雪解けのように涙を流す阿求の顔を、見るまでは。

 

「え――」

「あ――、やっ、み、見ないでくださいっ!」

 

 ほんの一瞬だった。我に返った阿求はすぐさま顔を枕に押しつけて、頭の先まで布団を被り、巣穴に逃げ込んだ小動物みたいになってしまう。

 それがあんまりにも刹那の出来事だったから、見間違いかと思ったけれど。

 

「ち、違っ……これはその、わ、私は風邪引いてます、からっ! だから、ちょっと、鼻がツンってしちゃっただけ、でっ……」

「……」

 

 聞こえる涙声からして、間違いはなさそうだ。そして、風邪を引いているからという説明が、ただの言い訳であることも。

 まさか泣かれるとは予想していなかった。嬉しかったからなのか、それとも嫌だったからなのか。呆気に取られるあまり、思考の巡りがいまいち悪い。

 まあ、いつまでも棒立ちになっているわけにもいかないので、ふっと笑って気持ちを入れ替える。

 

「どうしたんだ?」

「っ……」

 

 歩み寄れば、布団の中で阿求の体が震えたのがわかった。月見はその隣に腰を下ろす。色の薄い小さな指が布団の端をぎゅっと掴んで、絶対に見ないでと、懸命の意思表示を行っている。

 もちろん、その殻を無理やり引き剥がすつもりはないけれど。

 

「嫌だったか?」

「ち、違いますっ!」

 

 否定の言葉は、焦ったように早口だった。

 

「ただ、そんな風に言ってもらえたのは、初めて、で。だ、だから、」

 

 長い葛藤の間があって、やがてぽそりと、

 

「……ぅ……ぅれしく、て」

 

 少し熱っぽくなった指先が、小さく震える。その気持ちを吹き飛ばそうとしてか、やけに空元気な声が、布団の中から響いてくる。

 

「も、もおっ、いきなり変なこと言わないでくださいよっ。私、結構冗談抜きで、縁起の編纂に命懸けてるんですからね? 一目惚れだとかなんだとか言われたら、びっくりしちゃうじゃないですか」

「ッハハハ、悪い悪い。……でも、本心だよ」

 

 ビクン、と布団が飛び跳ねた。

 

「う、うううっ。だ、だから変なこと」

「変なことじゃないさ」

 

 阿求の涙声を遮って、繰り返す。

 

「ああ。――変なことじゃ、ない」

 

 この感情が変なものなのだとしたら、まるで月見の見る目がないみたいではないか。幻想郷縁起が、人から恋をされるに値しない、ただの平凡な妖怪観察日記みたいではないか。

 そんなことはない。幻想郷縁起は、間違いなく素晴らしい本だ。機械で勝手に大量生産され、一律な価値を勝手に付与されるばかりな外の本とは違う。本を形作る紙の一枚一枚に。本を彩る文字の一つ一つに。本を綴じる糸の一本一本に。そのすべてに阿求の指先が通い、想いが、込められている。決して金で釣り合わせることなどできない、温かくて尊い息遣いが、幻想郷縁起にはある。

 

「……幻想郷縁起は」

 

 震える声で、阿求が言った。

 

「幻想郷縁起は、最近は、あんまりいい評価をされないことも多いんです。元は、初代御阿礼の子である稗田阿一が書き始めた本で、力のない人のために、妖怪の生態とか弱点とかを書き記してたんですよ。でもそんなの、妖怪と人がほぼ共存している幻想郷じゃ、毒にも薬にもならないじゃないですか。だから人によっては、縁起を編纂する私を、なんでそんなことしてるのかなあ、って変な目で見たりするみたいなんです。こんなの、転生してまで書き続けるようなもんじゃないだろって言う人もいるんですよね。こんな誰でも書けそうな本を書くだけで転生できるなんてずるい、とか言われたこともあります。まったくもう、困っちゃいますよね」

 

 その声は、一見すると、笑っていたけれど。

 

「さ、さっきも言いましたけど、私って、縁起の編纂に結構命懸けてるんですよね。こんな本、かもしれませんけど、それでも私にとってはかけがえのない本なんです。ほんの二十年しか生きられない御阿礼の子が、たった一つ、この世に遺していけるものなんです。だから私は、代々縁起を書き続ける御阿礼の子の役目に、少なからず、誇りを感じてたりするんですよ。

 なのに、こんな誰でも書けそうな本、とか。

 こんなの、転生してまで書き続けるようなものじゃない、とか。

 そ、そういうのって、なんだか、御阿礼の子のすべてを否定されてるみたいで、嫌、じゃないですか」

 

 泣き笑い、の声。

 

「だから、たまには悩んだり、するんですよね。もうこれ以上、転生なんてしなくてもいいんじゃないかって。もう、ほとんどすべての人たちから必要とされていない縁起を、これ以上書き続ける意味なんて、ないんじゃないかって。

 御阿礼の子が、生きている意味なんて。もう、ないんじゃないか……って」

「……」

 

 一方的な感情の発露を、月見はただ、なにも答えずに聞いた。多分、今まで誰にも吐き出したことなんてなかったのだろう。こんなにも弱い自分の姿を、人前に晒したことなどなかったのだろう。きっと阿求は、かわいい見た目をして、とてもプライドが高い少女だから。弱い姿を決して人には見せようとしない、孤独なほどに誇り高い少女だから。

 だから彼女は今だって、布団の端を握り続ける指先を、絶対に緩めようとしない。

 

「……月見さん、教えてください」

 

 揺れた声のまま、阿求が問うた。

 

「私は、いい本を、書けていますか?」

 

 祈るように、

 

「本を、書き続けても、いいんでしょうか」

 

 問われるまでもない、と月見は笑った。

 

「もし縁起を馬鹿にして笑うやつがいたら、その時は私も笑おう。――お前は本当に見る目がない、ってね」

「っ、ぅ……」

 

 必死に押し留めていた感情が、揺らぐ気配。爪が隠れて見えなくなるほどに、強く布団の端を握り締めて。こぼれ落ちそうになる声を、喉の力を振り絞って懸命に押さえ込んで。

 

「わかり、ました」

 

 布団の下に隠れたその表情は、月見からは見えないけれど。

 それでも阿求は、きっと笑ったと思う。

 

「書きます、あなたのことを。……書かせて、ください」

 

 今まで己が歩み続けてきた道を、誇るように。

 

「最高の縁起を、書いてみせますから」

 

 布団の中で、もぞもぞと阿求が動いた。少ししてから端を持ち上げ、ちょこっとだけ顔を出して、涙の跡が残る眼差しで月見を見上げた。

 

「……お話、聞かせてくださいね?」

「ああ」

「約束、ですよ? あとになってやっぱり恥ずかしいなんて、ダメですからね?」

「もちろんだとも」

 

 だから。

 そう言って月見は、阿求の頭をそっと叩いた。

 

「まずは風邪を治して。そしたら、お前の気が済むまで付き合うから」

「……わかりました」

 

 それ以上は、また恥ずかしくなったのだろうか。阿求は布団を頭の先まで引き上げて、逃げるように、月見の向こう側へ寝返りを打ってしまう。

 少し、長い沈黙があって、

 

「そ、そういえば。りんご、遅いですね」

「ん? ああ、そうだね……」

 

 右肩上がりな声に言われて、月見が襖の方を見てみる――と。

 

「あ」

「……あら」

 

 襖をちょっとだけ開けて、絶賛覗き見中だった女中と、目が合った。

 病人とは思えないほど暴れ回る阿求を宥めるのに、とても苦労した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 それから三日後、人里での買い出しの途中で。

 月見はふいに、少女に背中を呼び止められた。

 風邪はもう大丈夫なのかいと、月見が問えば。

 もうなんてことはないですと、少女は答えた。

 

「さあ――お話、たくさん聞かせてもらいますからねっ!」

 

 そよ風に吹かれてなびく、薄紫色の髪の上で。

 白い椿の花が、とても誇らしげに揺れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第49話 「天ツ風操の華麗なる一日」

 

 

 

 

 

 天ツ風操の朝は、目覚まし時計で窓ガラスを粉砕するところから始まる。

 

「……しまった、またやってしまった」

 

 操の私室という限りある世界を飛び出し、無限の大空を舞い山のいずこかへと消えていった目覚まし時計を見送って、操は朝っぱらからブルーな気分になった。粉々になって殉職した窓ガラスを悼む気持ちはない。ただ、これをやってしまうと主に修理代方面で椛が非常にうるさいので、彼女の説教をどうやって切り抜けようかと思うと今から頭が痛い。やはりビーフジャーキーでご機嫌を取るのがいいだろうか。「こんなのいりません!」と意地を張りつつもしっかり取っておいて、部屋に戻ってからもそもそ頬張っているのを操は知っている。

 ともあれ、朝だった。

 

「……どれ」

 

 軽く伸びをして、布団から出る。普段から寝室として使っている、八畳間ほどの和室だ。決して広くはないが、広すぎる部屋で独り寂しく寝るのも落ち着かないので、ちょうどいいくらいだと操は思っている。

 天狗たちの中には個人の家で生活している者も少なくないけれど、曲がりなりにも天魔である操は、山の奥地に自然とともに築かれた、天狗の大屋敷で寝泊まりをしている。単純な敷地面積だけなら水月苑も白玉楼も凌ぐ大屋敷で、操に割り当てられた部屋は十近く。この寝室を始め、日常生活で使うリビングとなる部屋や、水回りの部屋、書斎、執務室、簡単な料理ができる台所、納戸、その他操自身もなにに使うか決めていない空部屋などなど。これらが一つの民家として独立しているのではなく、あくまで屋敷のごくごく一部分としてつくられているのだから、果たして誇るべきか呆れるべきなのか。きっと、この屋敷をつくった代の天魔は相当な贅沢病だったのだろう。

 押入れを開け、普段着である黒の着物を引っ張り出す。寝間着を脱いで、鴉の羽を思わせる黒の袖に腕を通しながら、ぽつりと独りごちる。

 

「さて、今日はなにをしようか」

 

 無論、仕事は、しなければならない。けれど仕事ばかりをするわけにもいかない。存在の比重が精神に大きく傾いている妖怪だから、したくもない仕事ばかりをして心に負担を掛けていては、この命はあっと言う間に枯れ果ててしまう。心の疲れを紛らわす気分転換は、殊に妖怪には必要不可欠な、呼吸にも似た生きるための営みなのだ。

 一日の仕事をキチンと終わらせてくださるなら、どうぞお好きなようになさってくれて結構です、と椛のお許しももらっている。……もっとも、結局仕事を終わらせられなくて椛に怒られ、執務室の椅子に縄で縛りつけられるのが、日常茶飯事なのだけれど。

 

「……ふふ」

 

 椛の姿を脳裏に思い描き、操は小さく笑った。若い故に未熟なところも多いけれど、彼女は同僚に並ぶ者なしと謳われるほど仕事熱心だ。親から引き継いだ役目を、その小さな背中で健気に背負って、一生懸命に東奔西走してくれている。

 表向きこそ、しがない一匹の白狼天狗という肩書きだけれど。

 実際の椛の役目は、天魔である操のお目付役。

 かつて、椛の父親が、そうだったように。

 

「小父貴。お主の娘は、本当にいい子に育っているよ」

 

 主人――天魔のために、犬になることすら厭わずに、走る。故の『犬走』。

 先代から、先々代から――操が知らないほど遥か昔から、そういう意を込めて、天魔とともに受け継がれてきた名だと聞いた。

 

「まあ、元気すぎてよく噛みつかれるけどな」

 

 それも、一つの愛嬌なのだろう。

 耳を澄ませば、ほら、聞こえる。名は体を表すが如く、犬っぽい、操の可愛い部下が、走ってきている。

 

『――天魔様あああああ! また窓を壊しましたねえええええっ!?』

 

 操は苦笑いをして、着物に帯を通す手を速めた。そして同時に、瞑想するようにゆっくりとまぶたを下ろして、己の中のスイッチを切り替える。

 堅苦しくて無愛想な本来の人格を、引っ込めて。

 お調子者で剽軽な、もう一つの人格へと、切り替える。

 切り替えが終わるのと、椛が尻尾を逆立てながら部屋に飛び込んできたのとは、同じタイミングで。

 

「天魔様っ! 一体何度言ったらわかるんですか、窓の修理費が嵩むのでやめてって」

「もーみじいいいいいっ!!」

「わひゃうっ!?」

 

 その言葉を遮って、体当たりするように勢いよく抱きつけば、椛は形のいい二つの瞳をまんまるにして飛び上がった。

 

「ちょっ、いきなりなんですか!?」

 

 操は椛のもふもふを堪能しながら、にんまりと笑って、

 

「んー? ごめんなさいのスキンシップじゃよお。すまんのう、ビーフジャーキーあげるから許してっ」

「それってバカにしてませんか!? 窓の修理を申請するのも目覚まし時計を買い替えるのも、全部私なんですから、ほどほどにしてくださいよ!」

「これはあれじゃね。もう窓を強化ガラスにするしかないねっ」

「なんで目覚まし時計ぶん投げるのが前提になってるんですか! 直してください!」

「だって、もう体に染みついちゃってるっぽいし……。気がついた時には、既に窓に風穴が空いてたんじゃよ。すごいよねっ」

「全然すごくないですよ、もお~……ああ、着物の帯がちゃんと締まってないじゃないですか。ほら、結んであげますから放してください」

「はーい」

 

 大体、いつも通りの朝の風景だった。日によって怒られたり怒られなかったり差はあるけれど、いつも、目を覚ました操のもとにはすぐに椛がやってきて。

 

「……ちなみに、ビーフジャーキーは食べるか?」

「……、……食べません」

「え? 椛、今の間」

「食べませんっ!!」

 

 こんな感じで、天ツ風操の一日は始まる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やりたいことがまとまらなかったので、午前中は仕事をすることにした。

 椛に気の毒そうな目をされた。

 

「天魔様……どこかで頭を打ったんですね? 大丈夫ですか?」

「ひどいっ。ねえ椛、儂だって真面目に仕事しようと思う時くらいあるんじゃよ!」

 

 一日の時間は二十四時間の有限だ。そのすべてを有意義に使いこなすためには、やりたいことがまとまらないままぼけーっと時間ばかりを浪費するような真似は、断固として避けなければならない。

 なので考えがまとまるまでの間は、片手間にでも仕事を進めておけば、時間を有効活用できて後悔が少ないじゃないか――と、操は遂にその真理へと至ったのである。

 椛にとても胡散くさそうな顔をされたのは、そこそこ傷ついたけれど。

 

「どういう風の吹き回しかは知りませんが、でも、いいことですね。じゃあ今のうちに、明日の分を先取りするくらいの気持ちでやっちゃってください」

「任せるんじゃよ!」

 

 朝食を終えて、操は意気揚々と執務室の椅子に座った。天魔は天狗を統べる長であるのはもちろん、事実上、妖怪の山の代表みたいな立場でもある。山では、天狗の印刷技術や河童の科学技術を筆頭として独自の文化が形成されており、人里との交易もそこそこ行われているので、必然的にそれを管理する報告書だのなんだのが発生する。それらの報告書を取り仕切る役職は他に専門がいるため、実を言えば操が目を通す必要はないのだけれど、やはり『長の許可が必要』という制約は、この幻想郷でも儀礼のように扱われる一つの形式なのだった。

 なんでこんなことしなきゃなんないんじゃよーめんどいーとぶーたれていた若かりし頃――もちろん今だってとても若いと自負するけれど――の操に、こうすることで自分たちの長が誰なのかを皆に認識させることができ、秩序のある社会を築く一助となるのです、と仰々しく説いたのは先代の犬走だった。そのあとに、特に操様はこれをキチッとやっておかないと皆が天魔と認めてくれないでしょうから、とあんまりな蛇足をつけられたのは……まあまさしく蛇足だろう。

 

「では、これが今日の分の書類です。よろしくお願いしますね」

「応さ!」

 

 椛が持ってきた本日分の書類は、ちょうど本一冊になるかどうかでかなり少なめだ。山の住人たちは皆自由奔放で、書類の提出も自由奔放に行うため、操のもとに届く量は日によって多かったり少なかったりする。月見が幻想郷に戻ってきたその日、机の上に形成されていた書類タワー(製作期間二週間)の姿を思い出すと、なんだかわけもなく懐かしい気持ちが込み上がってきた。

 この程度の量であれば、午後からなにしようかなーと考えながらのんびりやったとしても、そう時間は掛からないだろう。どうやら、今日は楽な一日になりそうだ。

 

「言うまでもないですけど、逃げないでくださいね」

「逃げない逃げない。今日はこいつをさっさと終わらせて、午後から思いっきり遊ぶのじゃ!」

 

 もちろん、本心である。同じようなセリフを宣ったあと堂々と失踪した記憶は何度かあるので、信じてもらえるかは不安だったけれど。

 

「ふふ、そうですね。頑張ってくださいね」

 

 まあ、それなりに長い付き合いだけあって、このくらいはちゃんと伝わるらしい。椛は満足げに微笑み一礼して、自分のもう一つの仕事である哨戒任務を行うために、執務室をあとにしたのだった。

 

「……よし」

 

 椛が去り静かになった執務室で、操は小さな声で気合を入れる。無論、仕事に対してではなく、

 

「ではでは、午後からなにをして遊ぶか、全力で考え抜こうではないか!」

 

 操にとって、仕事と遊び(プライベート)の優劣など所詮その程度だ。そして、それでも妖怪の山はそこそこ上手くやっているのだから、問題はないのだと操は思う。

 左手で書類を一枚取り、右手で朱肉を取り出し、印判を持って。

 

「遊びに行くなら、やっぱり月見のところかなーっ!」

 

 書類の内容にろくに目を通さないまま、べたーん、と勢いよく捺印した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ねえ……椛って、天魔様のお目付け役やってて大変じゃないの?」

 

 それが、犬走椛が生涯最もよく投げ掛けられる質問の一つである。元気? とか、調子はどう? とか、それと同じくらいの頻度で訊かれる。山の哨戒を行い、間もなく昼の休憩時間も近づこうかという頃になって、やはりというべきか「今日のお昼はなににする?」と同じくらいに何気ない口振りで、椛は同僚からそう尋ねられた。

 今まで何百回と訊かれた問いだ。返す答えは、()うの昔から決っている。

 

「大変だよ。ものすごく」

 

 答えるたびに疑問に思うのだが、みんなには椛が暇を持て余しているように見えるのだろうか。そうだとしたらちょっと傷つく。

 天ツ風操は、とんでもなく手間が掛かる主人であった。よく仕事を抜け出すのはもちろんのこと、私生活もかなりのズボラで、今朝なんかは帯の結びが甘かったのをわざわざ締め直してあげた。彼女の私室は、放っておくとすぐに物置みたいな惨状になってしまうので、定期的に掃除をしてやらなければならない。捺印の終わった書類と終わっていない書類、或いは部門が異なり区別しなければならない書類を面倒くさいと言って全部一緒くたにしてしまうので、書類の整理は椛の役目だ。独りじゃ寂しいからなんかお話しておくれよう、なんて下らない理由で夜中に呼び出されたのも一度や二度じゃない。

 私はあなたの母親ですか! と思わず平手打ちしたくなってくるほど、とにかく手の掛かる主人なのだ。哨戒天狗としての仕事の他に、そんな彼女の世話までしなければならないのだから、椛はきっと妖怪の山で一番忙しい天狗なのだろう。

 椛の答えに、同僚は苦笑しながら、

 

「じゃあさ、辞めたい……というか、他の人に任せたい、とか思ったことはないの?」

 

 これもまた、よく訊かせる質問だった。そして返す言葉も、やはり考える前から決まっていた。

 

「ないよ。私は、『犬走』だもん」

 

 天魔の最も近い従者にのみ与えられるその名を、父より受け継いだ瞬間から、操のために生きることを宿命づけられた。そうしてただの白狼天狗だった『椛』は、『犬走椛』として確立された。

 宿命に翻弄されたわけではなく、自分でしっかりと納得した上での結果だ。よく周囲からは誤解されることがあるけれど、決して強制されたのではなく、椛は椛の意志で『犬走』の名を継いだ。椛が望めば、ただの白狼天狗としてこの山で生きていくこともできた。だが椛はそうしなかった。

 それが父に対する憧れからだったのか、『犬走』の名に対する義務感からだったのか、或いは操に対する敬畏からだったのか、今となっては、操に振り回されるストレスで忘れてしまったけれど。

 

「すごいなあ、椛は」

 

 天狗たちの大屋敷へ戻る空の途中で、同僚はそう言って青空を振り仰いだ。

 

「私だったら、多分一週間ももたないと思うなあ。天魔様、いっつも元気で楽しそうにしてるから、親しみやすくてすごくいい方だとは思うんだけど、でもちょっと羽目を外しすぎてるというか、天狗の長としてもうちょっと威厳というか……あ、いや、これは決して悪口を言ってるわけじゃなくて」

「わかってるよ。……それに、悪口ではないと思うよ。事実だもん」

 

 椛は喉だけで笑った。確かに普段の操はおちゃらけていて剽軽で不真面目で、とても天狗の最上位に立つ器とは思えないほどの子どもである。そんな彼女の姿を、この同僚のように、必ずしも好意的に受けとめていない者というのはしばしばいる。

 

「でも一応『犬走』として擁護しておけば、天魔様、本当にやらなきゃいけない時はちゃんとやる方だから」

 

 天ツ風操は、二つの人格を持っている。日常生活の中でまとっている、自由奔放で天衣無縫な人格。そして天魔として本当に重要な任務を遂行する時にだけまとう、冷静で思慮深い峻厳たる人格。これらの人格を必要に応じて切り替えて、天ツ風操は生きている。前者はダメダメすぎて話にならないが、後者はまさに天魔の名を背負うに足る、気高く畏ろしい人格だ。

 どちらが操の本当の顔で、どちらが作られた仮面なのかは、椛にはわからない。少なくとも椛が父に連れられ、初めて操に会った時には既に、彼女は二つの人格を切り替えて生きるようになっていた。

『犬走』を始めとする、天魔に親しいごく一部の側近にしか知らされていない秘め事だ。そういう真実を自分だけが知っていて同僚は知らない、というのは、なかなか優越感を刺激されるものがあって、悪くはないなと椛は思う。

 同僚は、浮かぬ顔。

 

「ふーん……椛が言うなら間違いないんだろうけど、私にはなんだか想像できないなあ」

「あっ、でも天魔様、今日は珍しくちゃんと仕事してくれてるみたいなんだよ」

 

 同僚が幽霊にでも遭ったような顔をした。

 

「えっ……明日の天気って、雨だっけ」

「……そうかもね」

 

 もしかすると、いつぞやの異変みたいに雪が降ったりするのかもしれない。ちゃんと仕事をしているだけでみんなから正気を疑われる天魔。今度から駄天魔と呼ぼう。

 ともあれ。

 

「とりあえず、私は一回天魔様のところに戻るね。ちゃんと真面目にやってくれてたなら、多分もう終わってると思うから」

「大変だねー。いってらっしゃーい」

 

 ヒラヒラと苦笑いで手を振ってくれた同僚に、同じような顔で手を振り返して、椛は操のもとへと向かう。

 その途中にふと眼下の森を見下ろして、思いがけず目に飛び込んできた銀色に、小さく笑った。

 どうやら、午後になってからの操の遊び相手は、『彼』で決まりになりそうだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 果たして、水月苑に遊びに行く方向で考えはまとまった。

 

「やっぱり遊びに行くなら月見のとこじゃよねーっ!!」

 

 びたーん! と最後の書類に捺印して、いえー! と操は椅子を蹴飛ばして立ち上がった。これで今日の仕事はもうおしまい、あとは明日の朝目を覚ますまで仕事のことは考えなくていい。なんと素晴らしいのだろうか。なんだかテンションが上がってきた。

 印判と朱肉を叩き込むようにして引き出しにしまう。机の上に散乱した書類の整理は椛がやってくれるので――もとい、椛から「天魔様は絶対にやらないでください!」と厳命されているので――放置でよろしい。よって後片づけもこれでおしまいだ。執務室から扉一枚を隔ててつながる私室に突撃し、月見の姿を脳裏に描きながら支度を始める。

 

 月見と操が出会ったのは、もうずっと昔、幻想郷がまだ影すらなく、山にも天狗以外の妖怪が住んでいなかった頃。当時は操もまだ、天魔ではなく、次期天魔候補という立場ではあれど、それ以外はなにも特別なものを持たないごくごく普通の鴉天狗だった。

 ごくごく普通の鴉天狗として、山の哨戒をして修行させられているところに、月見が山登りにやってきた。

 その時は彼の傍らには藤千代がいて、それを見た操はなにを思ったのか、月見たちに刃を向けて臨戦体勢に入ったのだから、今思い出すと笑ってしまう。……いや、操は哨戒をしていたのだから不審者には刀を抜いて当然なのだけれど、それにしたって相手との実力差をもう少し考えられなかったのかと云々。

 しかも戦ったのは月見ではなく藤千代の方だったのだから、これはもうまったくもって笑えない。能力をフル活用して文字通り本気で戦っていなければ、天ツ風操という鴉天狗はとっくにこの世から消滅していただろう。若気の至りって恐ろしいよねー。

 ちなみに、ほんの短い間とはいえ藤千代と互角に戦えたのは、操のささやかな自慢だったりする。二度とやるつもりはないが。

 

「ふふ、懐かしいなー」

 

 支度をする傍ら、操の頬に笑みが浮かんだ。そんな感じで月見と藤千代の二人に出会い、操は、すぐに月見たちに心を開いた。次期天魔なんて肩書きを背負っていたからか、基本的に山の外に出してもらえず箱入りで育てられていたので、山の外からやってきた月見たちにはもう興味津々で、子犬みたいに後ろをついて回ったのを覚えている。月見も藤千代も面倒見がいい妖怪だったから、そんな操を一切邪険にすることなく、色々な旅話を聞かせてくれた。

 そうやって月見たちと関わる影響は、ほどなくして他の仲間たちにも伝わっていった。仲間意識が強く排他的だった天狗たちが、多少角が取れて、山に他の妖怪たちを受け入れるようになった。今でこそ鬼たちが地底に移り住んでしまったけれど、お陰様で妖怪の山は、人里とかにも負けないほどの仲良し社会である。

 月見がもたらしてくれた影響は、本当に大きい。

 などと昔を懐かしんでいるうちに、支度が終わっていた。タオルに手ぬぐいに石鹸にエトセトラエトセトラ、これでいつでも水月苑に突撃して温泉にダイブできる。今日は水月苑の営業日ではないが、操と月見の仲であれば普通に入れてもらえるだろう。

 なので操は意気揚々と、

 

「では水月苑に出ぱ――ふぎゅっ!?」

「!」

 

 駆け足で私室を飛び出すのだけれど、そうするなり、なぜか扉の前に立っていた月見に激突した。結構な勢いでぶつかってしまったので、衝撃で後ろに尻餅をつくかと思ったけれど、

 

「おっと」

 

 その前に優しく両肩を掴まれて、抱き留められた。

 抱き留められた。

 抱き。

 

「……」

 

 つまるところ、月見の胸元に顔を埋められそうな程度には、密着しているのだった。

 呆然、

 

「……どうした操、そんなに慌てて出てきて」

「はっ」

 

 我に返る。その頃には既に、操は彼の胸元から離されてしまっていて、なんだか千載一遇のチャンスボールを見逃し三振してしまったような、とても悔しい気持ちになった。

 ちくしょー儂のバカバカバカー!! と心の中で地団駄を踏みながら、顔では笑って、

 

「ちょ、ちょうど水月苑に遊びに行こうとしてたんじゃよ。お前さんこそどうした? ……ハッ、まさか遠路遥々儂に会いに来てくれたのか!?」

「麓からだからそんなに離れてもないけどね。ちょっと頼みたいことがあって」

「……ぶー」

 

 月見はもう少し、乙女に夢を見せてくれてもいいような気がする。まあ、月見の方からわざわざ会いに来てくれたとなれば、なんであれ嬉しいけれど。

 

「天魔様、お仕事は終わりましたか?」

「む? ……なんだ椛、おったのか」

「……最初からずっとおったです」

 

 月見の後ろには、椛が付き従っていた。憮然とため息をついて、

 

「あんなに堂々と飛び出してきたからには、ちゃんとやることやったんですよね?」

「おう、やったやった。机の上にぶちまけてあるのじゃ」

「ぶちまけ……ハァ、まあいいです。ちゃんとやってさえくれたなら」

「椛、ため息ばっかりついてると幸せが逃げるぞ?」

「……ツッコみません。ツッコみませんからね」

 

 椛にとても冷ややかな半目で睨まれたのだが、なぜだろうか。

 ともあれ。

 

「月見、頼み事ってなんじゃ?」

「ああ。鴉天狗たちが作った新聞を見せてほしくてね。古いやつで構わないから、とりあえず今作られてるやつをひと通り」

「それは構わんが」

 

 主に印刷業に携わっている山伏天狗たちに頼めば、十分も待たないうちにひと通り持ってきてくれるだろう。

 

「それで?」

「その中でよさそうな新聞を、一つ取ってみようと思うんだよ。……なにか、有意義な情報を得られることもあるかもしれないしね」

 

 なるほど、と操は得心した。別に月見だけに限ったことではないのだけれど、とかく妖怪にとって、退屈とは命を脅かすといっても過言でないほどの大敵だ。存在の比重が精神に置かれているから、退屈に生活を喰らい尽くされ、生きることを憂うようになってしまえば、妖怪はあっと言う間に老いて消えていってしまう。

 だから、退屈に打ち勝つように充実した日々を送るのは大切なこと。操は特別熱中している趣味こそないけれど、毎日を自分のやりたいように、元気に生きるのをモットーにしている。そういう意味では、仕事を途中で抜け出して椛に追い回されるのも、日常にスリルと刺激を与える一種のスパイスなのだ。椛の前で言ったらたたっ斬られそうだ。

 そして月見のモットーは、興味を惹かれる物事を見つけては実際に足を運び、目で見て、体で感じて、己の世界を広げること。そのために鴉天狗の新聞を利用して、情報収集の一助にしようとのお考えらしい。

 

「しかし、いいのか? 鴉天狗の新聞なんて、学級新聞みたいなもんだぞ?」

 

 外の世界の新聞は、両腕を広げるくらいの大きな紙に、小説みたいに小さな字をびっしり敷き詰めて両面印刷して、それを何十枚も束ねてようやく一部になるという。それと比べてしまえば、天狗の作る新聞など子どもの遊びみたいなものだ。チラシみたいな小さな紙に片面印刷が大半で、内容も内輪ネタばかり。

 

「でも、探せば一つくらいはまともなのもあるだろう?」

「まあ、そりゃあそうかもしれんが」

「とりあえず、見せてもらえないかな」

 

 月見が望むのであれば、操に断る理由はない。幸い、午後の自由時間はたっぷりとあるし、温泉にダイブするのはこのあとでも問題ないだろう。

 操は勇ましく己の胸を叩き、

 

「よし、任せておけ! 椛! 山伏の連中に頼んで新聞をもらってくるのじゃーっ!」

「えっ、なんで私なんですか! 『任せておけ』って言いましたよね!?」

「よし、(椛に任せる儂に)任せておけ! てことじゃよ」

 

 ちなみに発音は、かっこ椛に任せる儂にかっことじ任せておけ! である。

 椛に白い目で見られた。

 

「天魔様……あなたという人は……」

「同感だな。……どれ、私も手伝うよ。案内してくれるか?」

「あーやっぱり儂に任せるのじゃー! というわけで月見、遠慮なく手伝ってくれちゃって!」

 

 月見にも白い目で見られた。

 ちょっとぞくぞくした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 現在鴉天狗によって作られている新聞の、最新号のみをすべて集めれば、ちょっとした本二冊分程度の厚さになった。さくっと目を通せる量でもなさそうだったので、操は月見を私室に招待して、お茶をご馳走してあげることにした。操だって、巧拙はさておきお茶くらいは淹れられるのである。

 

「で、どんな感じだー?」

 

 操は湯呑みで両手を温めながら、テーブルを挟んで向かい側の月見へ問い掛けた。月見は左の新聞の山から一部を手に取り、素早く目を通してから右の山へ置くのをずっと繰り返していて、特に変化のない表情からして、あまりいい成果は得られていないようである。

 今持っている新聞を右に置いたところで、ううん、と月見が唸った。

 

「これは確かに……こういうのもなんだけど、あんまり本格的な方ではないみたいだね」

「じゃろうなー」

 

 鴉天狗の新聞作成は、所詮趣味の一環だし、身内で共有して話題にし合う程度の存在意義しかない。加えて天狗は、山の外の出来事になんててんで無頓着だから、月見が求めるような情報など、面白いくらいに載っていないことだろう。

 

「すまんなあ、しょーもない新聞ばっかりで」

「いや、謝ることじゃないさ……っと、これは」

 

 と、機械的な動きで次の新聞を取った月見が、ここで初めて目の色を変えた。操も思わず身を乗り出す。

 

「お? なんかいいのあったか?」

「……そうだね、これはなかなか。名前は、はながし……いや、『花果子(かかし)念報』か」

 

 花果子念報。うっすらと聞き覚えがあるが、さて誰の新聞だっただろうか。操とて、すべての新聞とその発行者を隈なく把握しているわけではない。

 

「山の外についての記事も、ちゃんと載ってるみたいだ」

「ほー」

「ふむ、内容もまずまずだし悪くは――ん?」

 

 満足げに頷きかけた月見が、やにわに眉をひそめた。

 沈黙。

 

「……」

「どった?」

「いや……」

 

 月見はゆっくりと、なにか二つを見比べるように、

 

「随分と……記事になってる出来事が起こった日付と、新聞の発行日とが開きすぎててね」

「ふむ?」

 

 つまり、記事の情報が古いということだろうか。

 

「ああ、そうか。その新聞、さてははたてのやつのか」

 

 思い出した。新聞作りを趣味とする明るく活動的な鴉天狗の中で、珍しく内気でひきこもりがちな女の子。彼女の作成する新聞は、内容も然ることながら、なによりもその情報の遅さ故に、あまりよくない意味で有名だった。

 実際に翼を動かして取材に行ったりはせず、自身の『念写する程度の能力』を使って家から一歩も出ずに情報を収集し、それを新聞にまとめる。ただし、念写によって得られる情報はすべてがよそで一度話題にされたものであるため、二番煎じが避けられず、常に最新情報を得られるとも限らない。

 なので、

 

「ものによっては……二週間近く間が空いてるのもあるね」

 

 といった内容になってしまうことが往々にしてよくあり、新聞としての完成度は、お世辞にも高いとはいえないのだった。

 

「その新聞はそんなもんらしいよ。何分、作っとるやつが特殊でな」

「ふーむ……」

 

 月見は、肩透かしを食らったようにため息をついて、

 

「……まあ、一応候補には入れておくか」

 

 右手に積み重ねられた新聞たちの、そのまた一つ右隣に花果子念報を置いて、次の新聞へと目を通す作業に戻っていった。

 そこから先は、月見の興味を射止めるような優等生が出てくることもなく。

 

「なかなかないもんじゃねー」

「そうだねえ」

 

 左手に残った新聞は残りわずか。未だに候補は花果子念報のみ。退屈げな月見の表情にも次第に諦めの色が見え始め、右手で頬杖をつきながら、彼が静かなため息とともに次に目を通す、

 

「……」

 

 通す、

 

「……お?」

「お?」

 

 月見の表情が変わった。頬杖をやめて姿勢を正す。おもむろに真剣味を帯びた瞳で、紙面に鋭く目を通していく。操はただ沈黙し、月見からの言葉を待つ。

 音のない時間は二十秒ほどで、

 

「……操、これにしよう」

「おおっ?」

 

 月見は紙面から顔を上げ操を見ると、その面持ちに、ようやく満足げな色を通わせた。

 

「いいのを見つけた。……これは、もう決まりかな」

「ほほー」

 

 月見のお眼鏡に適ったとなれば、山の外の出来事もちゃんと記事にされていて、かつ花果子念報のように情報が遅れたりしていない、とても新聞らしい新聞ということだ。まさかそこまで完成度の高い力作が隠れていようとは、存外鴉天狗の新聞も捨てたもんじゃないのかもしれない。

 

「ちなみに、なんて新聞じゃ?」

「ええと、これは……」

 

 月見は紙面の右上を見て、

 

「――『文々。新聞』」

 

 ――あ、めちゃくちゃ面白いことになってきた。

 この新聞は知っている。ぶんぶんまる、という発音がやけに独特で印象深かったから、発行者の名前も含めてとてもよく覚えている。はてさてよりにもよってその新聞をお目にかけるとは、なんともまあ、運命とは数奇なものではないか。

 操は込み上がってくる興奮を懸命に抑えながら、

 

「それが一番だったか?」

「そうだね」

 

 月見は二つ返事で頷く。

 

「山の外の出来事が数多く取り上げられてるし、記事になるのも速い。内容は詳しく読んでみないとわからないけど、これだけ記事が豊富なら、広く浅く情報収集するには打ってつけだろう」

「なるほどなるほど」

 

 興味を惹かれた出来事があれば実際に足を運んで確かめるから、月見が求めるのは、情報の質よりもその量と速さ。つまり幻想郷最速の鴉天狗が丹精込めて作る新聞は、月見にとってあまりにも相性抜群だったらしい。

 なんだか、ものすごく楽しくなってきた。操はテーブルに両手を打ちつけ、膝立ちになって勢いよく声を上げた。

 

「よぅし、あとは任せておけ! その新聞の発行者には、儂から話を通しといてやろう!」

「うん? それはありがたいけど、こういうのは私の方から直接頼むべきじゃないか? ……ええと、発行者は」

 

 月見の手からすかさず新聞をかっさらう。ここで発行者の名前を知られでもしたら、せっかくの美味しい展開が台無しだ。

 

「大丈夫じゃよ大丈夫じゃよ! ほら、この新聞作っとるやつって、新聞のネタ集めで昼間はほとんど山にいないから! だから、戻ってきたら儂の方から話をしといてやるさ!」

「そうか……?」

 

 無論、月見が『彼女』のところまで直接頼みに行くとしても、それはそれで面白い。しかしこの場合は、できることなら操が代理で彼女のところまで行くべきだ。そして、もおーお前さんの新聞が一番だって本当に褒めちぎってたんじゃよーと持ち上げに持ち上げて、やがて嬉しさを抑え切れなくなった彼女が、はにかみながら「一体誰なんですか? お礼を言いに行かないと」と尋ねてきたところで、すかさず「月見じゃよ」と答えて大爆発させるのだ。

 やばい、想像しただけでめっちゃ楽しい。

 

「それよりも月見、儂、水月苑の温泉に入りたいんじゃよ! いいじゃろ? いいじゃろっ?」

「それは構わないけど」

「よしっ、じゃあすまんが先に戻っててくれんか! ちょっと用事を思い出したから、それを終わらしたらすぐ行くんじゃよ!」

「あ、ああ……?」

 

 新聞の話を再び掘り返される前に一気に丸め込み、半ば部屋から締め出すようにして月見と別れる。急な展開を月見は少なからず訝しんでいたようだったけれど、結局深入りしてくることもなく、頭を掻きながら水月苑へと戻っていった。

 念のため、月見が飛び立ってから数分ほど間を開けて。

 

「……よし」

 

 屋敷を出て、黒の大翼を羽ばたかせ空へ身を躍らす。この時間帯であれば、『彼女』は新聞のネタ集めで幻想郷中を飛び回っているはずだ。操すら凌ぐ幻想郷最速の異名を、存分に発揮して。

 まぶたを下ろし、感覚を研ぎ澄ませる。最速の弊害か、彼女が飛び回る道筋は大抵風がけたたましく乱れるので、操ならば少し集中するだけで容易に居場所を突き止めることができる。

 

「……ふむ」

 

 どうやら今日の彼女は、博麗神社のあたりを飛び回っているらしい。風の乱れ方からして、ちょうど神社に向かっている最中と見える。

 それを確認するなり、操はすぐに飛び出した。飛行速度に自信があるわけではない。彼女が博麗神社で一息ついている最中に会えなければ、あっという間にすれ違ってしまうだろう。

 

「ふっふっふ、一体どうなるか楽しみじゃね!」

 

 躍り出しそうな胸のときめきを抑えて、代わりに翼を一層強く打ち鳴らす。

 果たして彼女は――射命丸文は、月見が自分の新聞を読みたがっていると知った時、どんなに面白い反応をしてくれるだろう。顔を真っ赤にして絶叫するだろうか。それとも意外と、もじもじと控えめに戸惑ったりするのだろうか。これを機に、文の月見嫌いがちょっとでも解消されればいいのだけれど。

 張り裂けそうな期待を原動力にして、操は一気に加速していく。

 本当に楽しい一日になりそうだと、思いながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……」

 

 犬走椛は、笑っている。

 操が執務机の上にぶちまけていった書類を眺めて、笑っている。

 

「…………」

 

 なるほど確かに、あの駄天魔はすべての書類に捺印をしているし、書き込みが必要なものにも筆を走らせてはいるようだ。

 しかし当然ながら、書き込みして捺印すりゃーそれで万事おっけー、なわけがないのであって。

 

「…………ふふっ」

 

 大剣を取りに行かなきゃなあ、と。

 犬走椛は、とってもステキな表情で、笑っている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幸い行き違いにもならず、操は無事に文を見つけることができた。ちょうど博麗神社へ向けて、山の一つを越えたあたりの空だった。

 

「お、文ー!」

 

 両腕をぶんぶん振って、向かいから飛んできた文を呼び止める。幻想郷最速の異名を取る彼女は、空の世界ではまさしく風だ。操の姿に気づくなりすぐに急停止、長い長い制動距離を経て、会話をするのにちょうどよい距離になったところでようやく止まる。

 

「……天魔様?」

「やっほー」

 

 朗らかに挨拶する操に対し、文は少なからず面食らった様子だった。幻想郷随一の新聞好きである文は、一日の大半を新聞作りとネタ集めで奔走しているため、天魔と顔を合わせる機会は滅多にない。こうして話をすること自体が水月苑での宴会以来だし、ましてや山以外の空で顔を合わせるなど、疑うまでもなく初めてだった。

 

「どうしたんですか、こんなところで?」

「ちょっと用事があってな。お前さんを探してたんじゃよ」

「私を?」

 

 文は目をパチクリさせている。まあ確かに、操のように一族を代表する大妖怪ともなれば、部下に用事がある際は遣いを走らせるのが基本。操自らが相手のもとまで直接足を運べば、得てしてこういう反応をされるものだ。

 

「珍しいですね。どうしたんですか?」

「ん……まあ立ち話もなんじゃし、飛びながら話そうか。今から山に戻るのか?」

「ええ、取材は大体終わったので」

 

 回れ右をして、文と一緒に翼を動かす。

 

「それで、御用って?」

「おお。実は、お前さんの新聞を是非読みたい! ってやつがいての」

「……本当ですかっ?」

 

 文の顔がぱああっと輝いた。予想通りの反応に、操の頬にも思わず邪悪な笑みが浮かんだ。

 

「うむ、本当じゃよー。みんなが作っとる新聞をひと通り見てな、その中でお前さんのが一番だったから、是非! って」

「そ、そうですか」

 

 文はなるべく平静を装おうとしているようだったが、頬はほんのり色づいているし口元はニヨニヨしているしで、めっちゃ喜んでいるのが丸わかりだった。

 

「記事の種類が豊富だしネタも新鮮だしで、もー私が読む新聞はこれしかない! って感じで褒めちぎってたんじゃよー」

「そ、そうなんですか……!」

 

 ゆっくりと大空を泳いでいた文の翼が、急にパタパタと忙しなく動き出した。多分、犬が喜びを尻尾で表現するのと同じ感じなのだろう。もしもこの場に誰もいなければ、きっと文は「~~~~!!」と声にならない喝采を上げて、大空中をくるくる飛び回ったりしたのではなかろうか。……あ、鼻歌を歌い出した。もうめちゃくちゃ嬉しそう、というか幸せそうだった。

 そして真実を告げて大爆発させる瞬間が楽しみすぎて、操もとても幸せな気持ちなのだった。

 文が、えへへ、とはにかみながら、

 

「一体誰なんですか? 私、直接挨拶しに行かないと」

 

 よしきた任せろ。

 これは謂わば言葉の四尺玉。

 

「ああ、それはな――」

 

 導火線に火をつけ、筒を文に向けて、操は満面の笑顔でぶっ放した。

 

「――月見じゃよ」

 

 文が錐揉み回転しながら墜落していった。

 バキバキバキー、と木の枝を次々粉砕し、森の中へと消えていく。

 

「……」

 

 えっ錐揉み回転ってなにそれ器用、と操が言葉を失っていると、ちょうど十秒が経った頃に、

 

「――天魔様ああああああああああ!!」

 

 絶叫とともに、文が森から飛び出してきた。体のあちこちを枝やら木の葉やらでデコレーションしたまま、操の目の前まで飛んでくると、相当混乱しているらしく両手でわけのわからないジェスチャーをして、

 

「う、嘘! 嘘ですよね!? それかドッキリ! やだなあもう天魔様もお人が悪いですよ!」

 

 操はふんわり微笑んで答える。

 

「文。――マジじゃ」

「……、……マジ、ですか」

「マジですのじゃ」

「――……」

 

 文の体がふらっとよろめく。今まで可愛らしく赤らんでいた頬が見る影もなく真っ白になっていて、どうやら冗談抜きで貧血を起こしかけたらしい。

 

「まあお前さんが作っとる新聞だとは気づいてなかったみたいじゃけど」

 

 自失茫然としている文の肩を、操は景気づけにポンと叩いて、

 

「でも、『文々。新聞』が一番だって言ってたのはほんとじゃよ! よかったね!」

「全然よくないですよおおおおお! 一体どうしろっていうんですかそんなの!」

 

 文が癇癪を起こして叫ぶけれど、そんなのどうするもなにも、

 

「普通に読ませてやればいいじゃないか。お前さんが願って已まない購読希望者だぞ?」

「で、でも、なんであいつにそんなっ」

「いい機会じゃないか、せっかくだからいい加減に月見と仲直りしてこいよぅ! なんてことはない、新聞と一緒に『今までごめんなさい』みたいな手紙でも添えてやればいいんじゃよ! 口では言えない恥ずかしがり屋な一面を演出できて、好感度アップ間違いなしっ! よかったね!」

「だから全然よくないですってばあああああっ! い、嫌です好感度アップとか必要ないです! 確かに私の新聞を選んでくれたのは、」

 

 そこまで勢いだけに任せて叫んだところで、文はちょっともじもじして、

 

「……まあ、ちょっとは嬉しいですけど……」

 

 口をすぼめてそう言うなりまたいきり立って、

 

「でもだからって、誰でもいいってわけじゃないですッ!」

「あーはいはい、とりあえずそのあたりの話は月見に挨拶しちゃってからねー」

「やっ、ちょっと引っ張らないでください! い、嫌です嫌です絶対に嫌ですーッ!?」

 

 逃げられないよう文の腕をがっしりとホールドしながら、操は水月苑へと強引にルート変更する。一方で腕を引かれる文は完全にへっぴり腰で、なんだかお化け屋敷に入りたくなくて駄々をこねる子どもみたいになっていた。

 されど、駄々をこねられた程度で操は退かない。確かに、文をおちょくってやろうという悪戯心があるのは否定しない。しかしながら同時に、今の文と月見の関係をどうにかしてやりたいという老婆心が存在しているのも、また立派な事実なのだった。――あ、老婆心は字面が嫌だから親切心ってことにしておこっと。

 周知の通り、文と月見は仲が悪い。けれどそれは、文が過去の事件をひきずって未だ月見に心を開けないでいるだけという、呆れてしまうくらいにしょうもない話だ。そして月見も何分あの性格なので、今の文の態度を、『まあしょうがないもの』として受け入れてしまっている。

 文と月見は、『あの事件』が起こるより以前は普通に仲がよい知り合い同士だった。だから一度仲直りしてしまえば、また昔のような関係に戻れるはずなのだ。……そう願って今まで経過観察してきたのだが、どうにもまったく事態が進展しないので、天狗一族もいい加減業を煮やしているのである。さっさと仲直りしちまえよあんたら。

 しかして経過観察だけではダメとなれば、もう外からアクションを掛けてやるしかない。なので半ば強引にでも、文と月見が会話する機会を作ってやらねばというのが、天ツ風操の意見であり、ひいては天狗一族の総意なのだった。

 

「ほれほれ往生際が悪いぞ! 客を選り好みするなんて、お前さんそれでも自称一流の新聞記者かっ!」

「それとこれとは話が別ですっ! やーめーてーくーだーさーいー!」

 

 青空の中でぎゃーぎゃーと言い合いながら、ちょっとずつではあるが水月苑に近づいていく。スピード勝負では勝てずとも、力比べでは操に分があるらしい。

 

「どうしてお前さんはそんなに素直じゃないんじゃ! 今時、子どもの方がまだ聞き分けがあるぞこのおこちゃまめ!」

「嫌なものを嫌って言ってなにが悪いんですか! そ、それにちょっと話が急すぎます! 少し整理する時間をください!」

「時間をあげれば月見のところに行くのか?」

「……」

「はーいれっつごーれっつごー!」

「いやー!?」

 

 文の抵抗が一層激しさを増した。綱引きならぬ腕引きが拮抗し、その場で雁字搦めの硬直状態に入った。おのれ、このわがまま娘め。こんなペースでは、水月苑に着く頃には日が暮れてしまうではないか。せっかくの自由な午後を、こんなしょーもないことで食い潰されるわけにはいかない。

 文には悪いが、ここは多少『能力』を使ってでも強引に

 

「嫌だって言ってるじゃないですか天魔様のばかああああああああああッ!!」

「にょわっ!?」

 

 文渾身の絶叫。急に乱れ始める大気。文の『風を操る程度の能力』が暴走する前兆に、あっやば、と操が文から手を離した瞬間、

 

「ぎゃあああああ!?」

 

 弾幕が直撃したかのような風圧に、操の体が木の葉さながらに吹き飛ばされた。しかも運が悪いことに、下方向へだった。少し前に文がそうしたように、操もまたバキバキと木の枝を粉砕し、広がる春の森の中へと墜落した。

「ばかあああああぁぁぁぁぁ……」という半泣き声が山の方向へ遠ざかっていくが、枝に引っ掛かって干された布団みたいになっている操に、追い縋れる道理などなく。

 

「う、うぐぐ。しまった、ちょっとやりすぎたか……」

 

 よもや能力が暴走するほど嫌がられると思っていなかった。子どもじみた意地っ張りも、ここまで来るとなんだか逆に清々しくなってしまう。ほんっとに文はツンデレさんじゃねー。

 

「……ま、反応は面白かったからそれでよしとするか」

 

 天狗屈指の空の曲芸師がきりもみ回転で墜落していく様など、まず見られるものではない。それをこの目に収められたならば、全身にひっついたみすぼらしい木の葉のデコレーションも、吐き気を催す腹部の痛みも、受け入れるべき一つの代償である。

 

「……よし! やりたいこともやったし、そろそろ水月苑に行こうかな!」

 

 干される布団状態を脱出し、翼がぶつからないように気をつけながら、森を空へと抜ける。文の姿はもう影もないけれど、「ばかあああああぁぁぁぁぁ」という半泣き声は、今でもなお幻聴のように耳に残っている気がした。

 水月苑へは、三分足らずも飛べばすぐだった。念入りに体についた木の葉を払い、身嗜みを整えてから、操は満面の笑顔で玄関に飛び込んだ。

 

「つーくみーっ! 遊びに来たのじゃ――って、」

「おかえりなさい、天魔様」

 

 戸をくぐった先には先客がいた。見慣れた銀の髪に銀の尻尾、白狼天狗犬走椛が、他人行儀なよそ行きの笑顔で操を待ち構えていた。更に玄関を上がってすぐのところには、月見の姿もある。

 この光景の意味を、操は沈黙して考える。

 

「――ああ、なるほど。じゃあ儂はご飯よりもお風呂よりもまず先に月見を゛っ」

 

 言い終わる前に、椛の平手が操の頭で快音を鳴らした。

 

「いたい……」

「前置きなしで本題入りますけど、午前中の書類、ほとんど間違ってたのでやり直してください」

「えっ」

 

 操は目を点にして椛を見た。椛はとてもステキな笑顔だった。無意識のうちに、操の背を冷や汗が伝うくらい。

 ――あれ? これってもしかして、やっちまった?

 

「……さ、さすがにほとんどってのは冗談じゃろ?」

「八割方間違ってました。更にそのうち三割ほどは書類を一から作り直さないといけないレベルだったので、これから書類の作成者さんに頭下げて、もう一度書き直してくれるよう頼みに行きます」

「椛がか?」

 

 快音。

 

「いたいよぅ……」

「さあ行きますよ。残念ですけど午後のお休みはなしです」

「うえ!? まっ待って待って! 嫌じゃー!?」

 

 ぐわしっと腕を掴まれたので、操は全力で抵抗した。手近なところにあった戸棚を自由な方の手で引っ掴んで、少し前の文のように、へっぴり腰でその場に踏み留まる。

 椛の冷ややかな半目が操を射抜く。

 

「往生際が悪いですね。それでも私たち天狗の長ですか」

「だ、だってせっかくの自由時間が! やるのは明日とかでも大丈夫じゃろ!?」

「明日も明日で新しい仕事があります。……今やっておかないと、明日は一日中執務室から離れられないですよ? それでもいいんですか?」

「く、くううっ……!」

 

 操は歯を軋らせて悔しさを耐え忍ぶ。なんて卑怯な脅しなのだ。別にあんな書類、あってもなくてもそう大差ないのだから、多少の間違いくらい目を瞑ってくれてもいいのに。相変わらず椛は仕事に対して真面目すぎだ。こういうところの遺伝子ばかり父親から受け継ぎおってちくしょうめ。

 

「椛っ椛っ、そんなに肩肘張ってもいいことないぞ! ちょっと温泉に入って落ち着こう?」

「刀の錆にならないとわかりませんか?」

「うわーん!」

 

 操は涙目になった。椛の瞳から段々とハイライトが消えてきている。このままでは冗談抜きで刀の錆にされてしまうのだが、しかしだからといって、あんなに楽しみにしていた午後の自由時間を根こそぎ奪われるだなんて、この世のものとは思えない鬼畜の所業ではないか。椛は鬼畜だ。THE・鬼畜わんこだ。まだ死にたくないので口にはしない。

 

「月見っ、月見からもなにか言ってやってくれっ!」

 

 操は最後の希望を求めて月見に縋るが、彼は着物の袖に両手をしまったまま、肩を竦めて、

 

「仕方ないだろう。お前は天魔なんだから、いや天魔じゃなくたって、自分のやったことにはちゃんと責任持たないと」

「裏切り者――――ッ!!」

「はいはい、次はちゃんと仕事を終わらせてから来なさいね。そうしたら温泉だって貸し切りにしてやるから」

「約束じゃぞ!? こうなったら儂、その約束だけを希望に生きるからな!?」

「はーいじゃあ行きますよー」

「ぬわー!?」

 

 ぐいっと腕を引かれて外へと引きずり出された。スピード勝負はいざ知らず、力比べは椛の圧勝だった。やはり日頃から様々な仕事に奔走しているだけあって、体が鍛えられている。

 

「ううー……すんごく楽しみだったのにぃ……」

「それじゃあ椛、操のことよろしく頼むぞ」

「任せてください、もう一切容赦しませんから!」

「剣抜きながら言うのやめて!?」

 

 椛は笑顔だったが、剣を抜き放つ動作に躊躇いはなく、その瞳は一切の冗談を含まないマジの瞳だった。

 剣先で尻をつつかれ、操は泣く泣く山の奥へと連行されていく。

 

「怪我したくなかったらキリキリ動いてくださいねー。まずは河童たちのところに謝りに行きますよー」

「ひーん!」

 

 その半泣き声は山の至るところへ反響するが、それを聞いた山の妖怪たちは特別訝しむこともなく、「ああ、またか」と一つ頷くだけ。

 

「……THE・鬼畜わんこ」

「なにか言いました?」

「なんでもないです! あっだからお尻突っつかないで、あっあっ」

 

 結局操はこのあと、椛に山中を連れ回されては頭を下げさせられ、屋敷に戻ってからは執務机に縛りつけられ、やっと解放してもらえたのは夜もとっぷり深まった頃だった。

 もう心身とも疲れ果ててなにをする気も起こらず、くすんくすんと鼻をすすりながら、布団にくるまって不貞寝した。

 椛のばーか、ばーか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第50話 「ここから、また」

 

 

 

 

 

『天魔様ああああああああっ!! 今日という今日は許しませんからねえええええ!?』

『ぎゃあああああ!? 椛っ、ちょっ、危なっ、ひやっ――だ、誰か助けてええええええええ!?』

 

 

「……またやってる」

 

 いつもの光景だった。穏やかに晴れた晩春の青空。今日も妖怪の山では哨戒天狗が見回りをし、山伏天狗が書類の印刷を行い、鴉天狗が新聞を配って回っている。そしてどこかで、怒りの椛に追い回される天魔が悲鳴を上げている。まったくもって、いつもの光景である。

 なにもかもが見慣れた光景の中、文は友人を訪ねるために、天狗の大屋敷の中を歩いていた。

 文の右手には、紙製のファイルに収められた数枚の書類がある。明日の朝一発行予定である『文々。新聞』最新号の原稿を、先ほどやっとこさ校正し終えたので、山伏天狗の友人まで引き渡しにいこうとしているところだ。

 

『ごめんなさああああああああい!?』

『待ちなさあああああああああい!!』

「……」

 

 窓のすぐ外で天魔と椛の声がドップラー効果していくが、気にも留めない。広大な大屋敷の廊下を何度も曲がり、進んで、ちょうど天魔の断末魔が響いたところで、ノックし慣れた扉の前まで辿り着く。

 扉越しに友人の名前を呼べば、すぐに返事。

 

「はいはーい。……あ、文」

 

 扉を開けて顔を出した友人にも、先ほどの断末魔を気にしている様子はまったくなかった。何事もなかったかのように、文の右手のファイルを見るなりニカッと笑って、

 

「お、今回の原稿? お疲れー」

「ええ」

 

 原稿をファイルごと手渡す。友人は紙面の内容にさらりと目を通して、感心したように、

 

「おー、今回もよく取材してきたねえ」

「大したことじゃないですよ」

「またまた。こんな風にあっちこっち飛び回ってネタ集めしてくるのなんて、文くらいだよ。だから充分大したもんじゃん」

 

 それは文が大したものなのではなく、他の同僚たちがおかしいのだ。内輪ネタで盛り上がっていればそれで満足な同僚たちが、新聞記者の肩書きを名乗っているのは滑稽だと文は思う。あんなのは新聞記者のあるべき姿ではない。まあ、趣味だからといわれればそれまでなので、文に強く言う権利はないけれど。

 

「じゃ、今回は何部刷る? 前回と同じでいい?」

「……、」

 

 問われた瞬間、脳裏にいきなり銀狐の姿が浮かんで、文は自分で自分にびっくりしてしまった。

 月見が『文々。新聞』の購読を希望している、と天魔から聞かされたのはつい先日の話だ。あれから一晩以上悶々と悩みに悩んだものの、未だに、彼の希望に応えるかどうかは結論できていない。

 自分の新聞を選んでもらえたのは、素直に嬉しい。今まで何百年も外の世界で生活してきた月見だから、きっと新聞も読み慣れているだろう。そんな彼のお眼鏡に適ったということは、『文々。新聞』は、新聞としてある一定の完成度を持っていると考えていい。

 大部分の鴉天狗にとって、新聞づくりとは一介の趣味であり暇潰しの延長線でしかないので、山の外まで出て行って取材に奔走する文を、物好きな目で見ているやつらも多いけれど。

 少なくともそんなやつらの新聞よりも、文の書いたものは、優れていた。その点は何度考え直しても嬉しいし、機会があれば、礼の一言くらい言ってやらんでもないとすら思えるほどだ。

 しかしながら、じゃあこれから毎回月見に新聞を届けてあげるか、となれば話はまったく別なわけで。

 

「文ー? どうした?」

「えっ……」

 

 友人に顔を覗き込まれ、はっと我に返る。

 

「ああ、いえ。とりあえず、前回と同じでいいです」

 

 元々、希望者にサンプルで配る分も入れて余分に刷っているのだ。仮に、万が一、いや億が一、彼のところへ届けに行くようなことになっても、困りはしない。

 

「はいはーい。じゃ、今日の夕方頃にはできあがるから」

「ええ、お願いします」

「あいよー。んじゃーまた――っと、そうだ」

 

 戸を閉め部屋に引っ込もうとした友人が、ふと立ち止まって。

 にんまりと、なんとも嫌らしい笑顔でこちらを見つめると、

 

「……ちゃんと、月見さんに届けてあげないとダメだからね?」

「ッ……!!」

 

 ……この時の私は、一体どんな顔をしていただろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いくら文とて、なにも最初から月見を毛嫌いしていたわけではない。むしろ、昔は、そこそこ仲がよかった方だと思う。

 今でこそ新聞作りという趣味を見つけて落ち着いているけれど、当時の文は放浪癖があって、仲間意識や排他意識もさほど強くなかったから、旅の合間に山を訪れる月見を、それなりに歓迎していた気がする。そんな時期があったなんて今では信じられないし、昔の自分も、まさか未来でこんな関係になるとは夢にも思っていなかったろう。

 今でこそひどくこじれた関係になった割に、きっかけは意外と単純だった。

 500年ほど前――八雲紫により生を受けてまだ間もない幻想郷には、彼がいて。

 当時の文のちょっとした不注意と、神懸かり的な間の悪さが、すべての始まりだった。

 

 鴉天狗は同族の中でも主に広報などの連絡役を担当するけれど、常にそればかりが仕事というわけではない。時には自慢の翼を存分に打ち鳴らして、不審な者が忍び込んでいないか山を哨戒して回ったりもする。

 しかしながら文は、その見回りとやらがあまり好きではなかった。

 広報関係の仕事が好きだったというのもあるが、なにより退屈なのだ。妖怪の中でも指折り強大な天狗の縄張りに、敢えて近づこうとする余所者などそういるはずもなく、哨戒とはまるで名ばかりで、実際はなにをするでもなく空を飛んでいるだけ。それはそれで楽ではあるのだけれど、同時にひたすら退屈であり、文にとっては時間の穀潰し以外のなにものでもなかった。

 とはいえ当時の文は、まだ普通に毛が生えた程度の鴉天狗。サボればすぐさま、大天狗の拳骨の餌食になってしまうのであって。

 故に例えば、森の中を高速で飛び抜けていく息抜き、なんてものを考えついてしまったとしても、それは仕方がないことなのだった。

 次々と迫り来る木々を天狗の優れた動体視力で見極め、どう躱すべきかを一瞬の思考で判断し、最小限の回避運動で飛び抜ける。運動になるし、なによりスリルがあった。たまに失敗して痛い目を見ることもあるけれど、それも含めて暇潰しと眠気覚ましには最適で、当時は取り憑かれたように森の中を飛び回っていた。

 

「――ふう。今日もいい感じ」

 

 区切りをつけて一旦森を抜け、青空の下へ出て、一息つく。身嗜みを確認。思いっきり飛び回った影響で髪が跳ねている他は、特に問題はない。手櫛で髪を整える。

 始めて間もない頃の、事あるたびに葉っぱまみれになったり服を枝で破いてしまったりしていた自分を思い出すと、この一週間で随分と上達したものだ。我ながら子どもらしい遊びに夢中になっているものだと思うが、同時にささやかな打算もあった。こうして日々森の中を駆け抜け、飛行技術を鍛えていけば、それはいずれ文の強力な武器となる。

 ただでさえ文は、同僚の中でも一歩二歩と抜きん出た飛行技術の持ち主なのだ。才能は努力を裏切らないから、こうして仕事すがら鍛錬を続けていけば、やがては幻想郷で一の空の曲芸師になれるかもしれない。

『幻想郷最速』――なんて、ちょっとカッコいいのではなかろうか。

 よし、と呟くように気合を入れて、文は再び森の中に飛び込んだ。手足が如く翼を打ち鳴らし、縦横無尽に木々を躱して、時には回転し枝のわずかな隙間をくぐり抜け、葉擦れの音も置き去りに、ただひたすらに飛んでいく。

 この、自分自身が風になったような感覚は、嫌いではない。知らず識らずのうちに、文は鼻歌を口ずさんでいた。歌いながらでも、あらゆる障害物をほぼ無意識で回避できてしまうほどに、文の感覚は研ぎ澄まされていた。

 ――とはいえ、なにか一つの物事に集中すればするほど、視野は狭まり落とし穴が見えなくなってしまうもの。

 むせ返るほど鬱蒼と枝葉を伸ばした大木を躱すため、高度を更に落とし、文字通りの地面すれすれで、文の体ほどに太い枝をくぐり抜けようとした直後。

 まさか幹の陰から、同じように枝の下をくぐろうとした人影が出てこようだなんて、夢にも思っちゃいなかった。

 

「――!?」

 

 咄嗟に判断を下す猶予すらなかった。当然だ、文は風すら置き去りにするほどの速度でかっ飛んでいたのだから。故に、自分がどうやって人影を躱したのかは覚えていない。覚えてはいないものの、無意識の自分はどうにかこうにか上手くやったらしく、奇跡的に衝突だけは免れていた。

 そこで、ほっと胸を撫で下ろして気を緩めてしまったのが、文の敗因だろう。ここは森の中。人影一つを奇跡的に躱したところで、次の障害物はあっという間にやってくるのに。

 つまるところ文は、その先で堂々と君臨していた大木の中に、真正面から突っ込んでしまい、

 

「きゃあああああ!?」

 

 一気にわけがわからなくなった。顔面に痛み。咄嗟に目を閉じて両腕で顔を守る。耳に入ってくるのは、葉が激しくこすれる音と枝が圧し折れる音。だがそんなものがわかったところでどうしようもない。ともかく必死に顔だけは守って、文は慣性に弄ばれる他ない。

 一瞬、空中に抜け出した感覚がした――が本当に一瞬で、すぐにまた別の木の中に飛び込んだ。抜け出した。飛び込んだ。抜け出した。そんなことをもう二回ほど繰り返して、ようやく文の体は止まった。

 となれば、最後に文を待っているのは当然、無慈悲な落下であり、

 

「――げふっ」

 

 ……途中、近くの木から伸びていた太い枝に腹を打って、そのまま物干し竿に干された布団みたいになったのだった。

 一瞬、三途の川が見えた、気がする。

 

「うぐごごごぉぉぉ……」

 

 少女らしからぬ品のない呻き声が口から出てきた。喉の奥から物理的に込み上がってきそうになるナニか。口を押さえて必死に我慢する。

 

「――お、おい、大丈夫か!?」

 

 遠くの方で聞こえる声は、恐らくぶつかりそうになった人影のものだろう。こちらに駆け寄ってくる気配がする。

 痛むお腹に鞭を打って、文は干された布団状態から脱出した。すれ違ったのはまさに一瞬だったから、人影が誰だったのかはわかるはずもない。しかし誰であっても、日本三大妖怪の一角に数えられる天狗として、情けない姿を晒すわけにはいかなかった。

 枝から飛び降り、着地するなりすぐに身嗜みを整える。髪、あちこち飛び跳ねていたので即刻手櫛で直してOK。肩、葉っぱがくっついていたので素早く手で払ってOK。上着、皺が目立つが裾を持って何度か引き伸ばせば及第点。スカート――

 

「……」

 

 スカート、

 

「……へっ?」

 

 我が目を疑った。ごしごし両目をこすって、もう一度下を見て、けれど広がった変わらぬ光景に血の気が失せた。

 ――さて、問題です。

 文のスカートは、一体どこに消えてしまったのでしょうか。

 

「おい、大丈夫か――」

 

 多分、こんなにも自分の運命を恨み憎んだのは、今日にもあとにもこの時だけだと思う。

 文は血の気が失せた表情のままで前を見た。木々の間を縫って、男がこちらに近づいてきているのが見えた。

 綺麗な銀の毛並みをした妖狐は、文がそこそこ見知った相手。

 彼――月見と、目が合って、

 

「……」

「……」

 

 逃げ出すなりなんなりすればよかったものを、この時の文の思考は完全に麻痺してしまっていて、ただぽかんと立ち尽くすことしかできなかった。月見は初め、文の恰好が直感的に理解できなかったらしく、ひどいしかめ面を浮かべて目を眇め、けれどほどなくして少し慌てたように顔を逸らし、やがてとても気まずそうな動きで後ろを向いた。

 その行動が意味するところを察して、真っ白になっていた文の心に、ある感情が沸々と湧き上がってくる。それは決して清々しい感情ではなかったはずだけれど、不思議と文の頬には爽やかな笑顔が浮かんでいた。感情が振り切れると笑ってしまうのは妖怪も同じなんだな、と他人事のように俯瞰している自分がいた。

 

「……月見さん」

「……なんだい」

「見ましたね?」

 

 まあ、自分でもわけがわからなくなるほどド派手に木の中に突っ込んだのだ。例えば、どこかの枝に運悪くスカートが引っ掛かって脱げてしまったのだとしても、それは、仕方のないことだとは思う。

 けれどスカートが消えた結果、必然外気に晒け出されることになった『これ』を、こうも真正面から見られてしまっては、さすがに話は別であって。

 

「……」

 

 背中を向けたままの彼に、文は、

 

「とぼけなくてもいいですよ。見たんでしょう? ほら、桃色の」

「ん? いや、確か白だっ――あ」

「大正解ですよバカアアアアアアアアアアッ!!」

 

 文は、大絶叫とともに全力全壊の竜巻を叩き込んだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そうして月見を木の葉みたいに山頂まで吹っ飛ばして以降、文の中での彼に対する評価は、地獄の底まで一気に格下げとなった。

 それはもちろん、あれから何百年が経った今でも、変わってはいない。

 

「……なによそれ、意外と下らなーい」

 

 という話を知り合いの鴉天狗にしたら、予想以上に白けた反応が返ってきた。同じ女として、多少なりとも共感してもらえるものと思っていたので狼狽える。

 

「く、下らなくないわよ。全然大したことでしょうが」

「いや、下らないわよ。だって、もう500年近く前のことなんでしょ? どんだけ前の話してんのよ」

 

 この日の夕方、天狗の大屋敷では宴会が開かれていた。経緯はよく覚えていない。誰かが酒を呑み始めたのにみんなが便乗したからかもしれないし、天魔が「お酒呑みたいのじゃー!」と騒ぎ出したからなのかもしれない。理由を知っている者は誰もいないが、まあ、ふと気がついたら宴会になっていたなんて内輪ではよくあることなので、文も特に気にしていない。

 以前水月苑で開かれた宴会のように、屋敷の大宴会場では、天狗はもちろん山の妖怪たちが所狭しと集まって騒ぎ散らしている。雷のような爆笑の声が轟いたり、酒樽を呑み干す勢いで呑み比べが行われていたり、はたまた巨乳派と貧乳派という世界で最も下らない派閥が殴り合いで雌雄を決そうとしていたりと、おおよそ、見慣れたいつもの宴会風景である。

 意外なのは今、文の隣で一緒に酒を呑んでいる、同僚の存在だろうか。

 

「下らないってんなら最初から訊かないでよ。思い出すのも嫌なんだからこの話は」

「それは悪かったわね。でも気になってたのよ。その月見って妖怪、天狗たちの間でも結構有名みたいだし? ……ま、全然役に立つ話じゃなかったけどねー」

 

 そう言って皮肉げに肩を竦めた少女は、姫海棠はたてという。文と同じ鴉天狗で、しかし同族では珍しいひきこもり体質から、こういった宴会の場には滅多なことでは顔を見せないと定評がある――のだが、今回はどうやら、その滅多なことが起こったらしい。久し振りじゃない、どういう風の吹き回しよ、なんて世間話をしているうちにいつの間にか昔話になっていて、酔いに乗せられてか、思い出したくもない昔話を話してしまった。

 あーあ、と辟易しながらため息をついて、猪口をぐっと傾ける。今日の酒は、かなり辛口のものを選んでいた。喉を焦がすような痛快な感覚は、嫌な気持ちを忘れさせてくれる。

 半分まで減った猪口を片手に、はたてが殴り合う巨乳派貧乳派を眺めながら、

 

「てかほんと、そんな昔の話をなんで未だに根に持ってるわけ? 少なくとも聞いた限りじゃあ、あんたの不注意が原因のただの事故で、月見さん全然悪くないじゃない」

「……うるさいわね」

 

 独り言のように言って、文は猪口に酒を注ぎ足そうとした。けれど酒瓶がいつの間にか空になってしまっていて、ぴちょん、と落ちた一雫が、猪口に一瞬の波紋を広げただけだった。舌打ちをして、次の酒瓶に手を伸ばす。周囲には、既に空瓶が何本も転がっている。

 たとえ酒の辛さが、嫌な気持ちを忘れさせてくれるといっても。こうして忘れるたびに思い出してしまうのでは、あんまり意味ないなあと文は思う。

 ……文の不注意が招いた事故だということくらい、とっくの昔に気づいている。文があんな遊びをしたりせず、真面目に仕事をしていれば起こらなかったはずの事故。なにもかも、巡り合わせが悪かったまったくの偶然。月見は意図せず巻き込まれてしまった、憐れな被害者。――この数百年間で仲間たちから飽きるほど指摘されてきたことだし、自覚だってしている。

 けれど、

 

「でもあんただって、あの時の私と同じ立場だったら竜巻くらい起こすでしょ?」

「そもそも、そんな立場になんてならないのでご安心ください」

 

 澄まし顔にわざとらしい丁寧語と、いちいち皮肉ったらしい言動が癪に障る。八つ当たりするように、文は酒を注ぎ足した猪口を一気に呷った。

 休む間もなく酒瓶を猪口に傾けていると、傍らからまた声、

 

「……で、あんたはなんで月見さんのことが嫌いなの?」

 

 文は酒を注ぐ手を止めて顔を上げた。裏表のない、真っ当な疑問顔をしているはたてに、強く眉をひそめ返した。

 

「……あんた、人の話聞いてた?」

「聞いてたわよ。どうせ、下着を見られたからとか言うんでしょ」

「わかってるならなんで」

 

 そんなこと訊くのよ、と続けるよりも先に、遮る言葉。

 

「本当に? 本当にそれが理由なわけ?」

 

 どうしてそんな質問をされるのか、文にはよくわからなかった。それ以外の理由なんてあるはずがない。今も昔も、文の心にあるのはそれだけだ。

 だから、当たり前でしょう、意味がわからないわと、呼吸をするように返せるはずだった。

 

「……、」

 

 だが、言葉が詰まった。

 

「ま、一回話を聞いただけの素人意見だけど。でもなんか、あんたってほんとに月見さんが嫌いなのか、私にはよくわかんなかったわ」

 

 なに言ってるのよ、とか。わけわかんないわ、とか。否定の言葉ならいくらでも頭に浮かんでいるのに。

 

「――なんか、無理やり嫌おうとしてるっていうか」

 

 なのになぜか、胸が詰まる。それが、腹が煮えくり返るほどに気に入らない。

 ようやく出てきた言葉は、否定というよりかは、揺れる自分に言い聞かせる暗示のようだった。

 

「誤解なんてしてないわよ。……今も昔も、許してなんていないんだから」

「あっそ」

 

 自分から振った話なのにこの態度。姫海棠はたては、基本的に臆病で小心者なくせに、鴉天狗の中では内弁慶だった。

 先輩として軽く指導でもしてやろうかと思ったが、それより先に、はたては颯爽と腰を上げていた。

 

「じゃ、聞きたいことは聞いたし私は行くわね」

「……ふん」

 

 どこへでも好きに行けばいい。もう知らない。文も、これ以上はたてと話を続けたい気分ではなかった。

 

「あ、そういえば椛も月見さんとよく会ってるって言ってたわね、っと。……ねえ椛ー、ちょっといいー?」

 

 犬らしく甲斐甲斐しく酔い潰れた者の世話をしている椛へと、歩いていくはたての背を、見送りはしない。当て所もない方向へ視線を飛ばして、また酒を呷る。

 呟きは、自分自身に確かめるように。

 

「……許してなんて、いないんだから」

 

 今までずっと、そうだったのだから。だから今だって、変わってはいない。変わっているはずがない。

 巨乳派と貧乳派の闘争が巨乳派の辛勝で決着しているのを、心底どうでもいい気持ちで眺めながら。

 傾ける酒は、なんだか喉が焼けていくみたいに、辛い。

 

「おーおー、こりゃ随分と呑んどるのお、文」

 

 掛けられた声に、文はゆっくりと視線を上げた。転がった酒瓶を躱して音もなく寄り立ったのは、髪も着物も墨色一色で染め上げた、天狗たちの長だった。

 午前中に椛に地獄を見せられたというのに、なんとも元気そうだ。この様子だとまったく反省していまい。明後日にでもなれば、すぐに追われる天魔と追う椛の光景が復活するだろう。

 

「隣、いいかー?」

 

 山のトップとは思えないほど人懐こい問い掛けを、文は少し考えてから了承した。あまり話をしたい気分ではなかったのだけれど、こういう宴会の場では、来る人は拒まずが暗黙のルールだ。いくら機嫌が悪いからって、嫌です、なんてはっきり言ってしまうのはナンセンスだし、大人げない。

 

「はたてと大分揉めとったみたいじゃないか」

 

 よっこらせ、と豪胆に胡座をかいて、天魔はくつくつと喉で笑った。

 

「お前さん、向こうからでもわかるくらいすごいしかめっ面じゃったぞ」

「……別に、そんなことないですよ」

 

 素知らぬ顔で返しつつ、まだその話を引っ張られるのか、と文は内心げんなりした。相手が天魔でさえなければ、無視していたかもしれない。

 

「まあまあ、別にからかいに来たわけじゃないから安心しとくれ」

 

 にぱっと人が良さそうに笑って、天魔が酒瓶を猪口に傾ける。文はなにも言わず、こっそりとため息をついて、自分の猪口を口へと持っていく――

 

「――お主、いつまでこんなことを続けるつもりだ?」

 

 その手が、ぴくりと跳ねて、酒がこぼれた。だが、スカートの上に落ち膝まで染み込むその冷たさを、文は意識できなかった。隣を見る。透明色で覆われた猪口の底を、じっと見つめている天魔がいる。

 いや――彼女は本当に、天魔なのだろうか。直感的に理解する。目の前にいるのは間違いなく天魔であり、そして先ほどまでの天魔とは決定的に違っている。剽軽で、お調子者で、子どもっぽくて、あんなに人懐こい笑顔で文に寄ってきた天魔ではない。

 ゆっくり動いて、文を見つめる黒の瞳は、寒気がするほどに深い。

 

「一つ、昔話をしようか。儂の部下の、とある鴉天狗の話だ」

 

 文はなにも言えない。こうして見つめられるだけで、胸が締まる。言葉を向けられるだけで、息が詰まる。同じ場所にいるだけで、体が竦む。剽軽。お調子者。子どもっぽい。人懐こい。そのすべてが当てはまらない。

 

「そいつは如何せん大層な退屈嫌いで、哨戒任務を与えられた日は、なにやら妙なことをして遊んでいたらしい。森の中をどれだけ速く飛び抜けられるか、とか聞いたな」

 

 いつの間にか、座敷全体がしんと静まり返っている。錯覚だ。天狗と河童の呑み比べはいよいよ最高潮に達しているし、宿敵に勝利した巨乳派が絶叫に近い勝鬨を上げて、敗れた貧乳派は拳で畳を打って悔しがっている。なのに、それらの喧騒が、文の耳にはまったく届いてこない。

 

「しかしその最中に、ちょっとした事故があった。それで不運にも巻き込まれてしまった儂の友人が、まったくもって不運にも、その鴉天狗から目の敵にされてしまった。まあ所詮ささいな行き違いだし、儂もそのうち時間が解決するだろうと踏んでいたが……呆れたことに、何百年経った今になっても、それがまったく変わっていなくてな」

 

 天魔が云わんとしていることは疾うに察している。普段であれば、ふざけないでください、なんですかそれ、ととっくに文句を言ってるところだ。だが、文はいつまで経っても口答えできない。指一つすら動かせない。完膚なきまでに、すべてを封殺されている。

 天狗の中では――否、幻想郷規模で見てもトップレベルの大妖怪である文が、こんなにも。

 

「しかし儂は――いや、その鴉天狗を除いた皆が、疑問に思っておるよ。あやつは本当に、儂の友人のことが嫌いなのかと。……本当はとっくに許しているのに、嫌いなんだと、意固地に自分に言い聞かせ続けているのではないかとな」

 

 心臓を鷲掴みにされた心地がして、思わず声を上げそうになった。掠れるように息がもれただけで、なにも言えなかった。

 

「儂が思うに、一種の自己防衛のようなものなんだろうさ。己の後ろめたい失態、後悔や恥辱……そういったストレスを、他人に責任転嫁して和らげようとする。あとは、今更許すのは負けた気がしてみっともないなんて、意地を張ったりもしているのかもな」

 

 はたてと話をしていた時とは訳が違う。天魔の言葉に徹頭徹尾、心の奥底をひどく揺さぶられているのを感じる。聞き流せない。無視できない。まるで、天魔が発する言葉そのものに、恐ろしい魔力が宿っているような。

 

「まるで陳腐な自己暗示だな。あやつが嫌いなんだと自分に信じ込ませて、本当の気持ちを認めようとせず、見て見ぬふりをする。……いや、気づいてすらもいないのだろうな。

 ――さあ、どうだ? 文」

 

 名を呼ばれた、たったそれだけのことで、文の心臓が悲鳴を上げた。

 ぐらぐら揺れる。

 見返せば、覗き込んでくる天魔の瞳の、限りなく深い黒の奥底に、自分の姿がぽっかりと映って――

 

「――お主、本当に月見のことが嫌いなのか?」

「――ッ!」

 

 結局、最後まで声は出なかった。けれど、体は動いてくれた。猪口を投げ捨てて、立ち上がって、走って、座敷から逃げ出して、外に飛び出して、羽ばたいて。

 どこに行くのかなんて考えられなかった。そもそも文は、自分がなにをしているのかすらよく理解できていなかった。ただ体が、本能が、これ以上同じ場所に留まるのを拒んでいた。

 どきどきしている――なんて表現すれば当たり障りがないけれど、これは明確な痛みだった。心が軋る耐え難い苦痛だった。

 自分が今までずっと守り続けてきた大切ななにかを、侵されてしまったかのよう。

 嫌いだと思っていた。許していないと思っていた。その感情を、今まで疑ってすらいなかった。紛れもない事実のはずだった。なのに今になって、急に、わからなくなってしまった。

 嫌いなのだと思う。許していないのだと思う。嫌いなはずだ。許していないはずだ。

 けれど否定の言葉が、どうしても出てこない。

 

「わけっ、わかんない……!」

 

 ようやく枷を破って出てきた言葉は、少し、濡れている。泣き出してしまいたいくらいに、なにもかもがわからなくなってしまっている。

 夕日が西の峰に沈み、朱色と闇色が混じり合う空を、文はがむしゃらになって切り裂いた。もしも自分の体がずっとこのままだったなら、幻想郷の端の端まで飛んで行ったかもしれない。

 しかし今の文は、幸か不幸か、先ほどまで自棄酒を呑んでいた身。

 限界は、呆気ないほどに早く訪れた。

 

「……う」

 

 渦を巻くように視界がねじれ、胃の奥からドロドロとした不快感が込み上がってきた。言うまでもなく吐き気であり、自棄酒してすぐ空をがむしゃらにかっ飛べば、まあ、うべなるところなのだった。

 

「……やっば……」

 

 強烈な視野狭窄に陥ったかのように、目の前がチカチカしてろくにものも見えない。体の制御を自分ではない誰かに奪われて、フラフラと墜落しそうになりながら高度を落としていく。途中、木にぶつかったり枝に行く手を遮られたりしながらも、なんとかかんとか、文は地面まで辿り着くことができた。

 

「うああぁ~……」

 

 幸い、吐きこそしなかったけれど、視界は渦巻き体は震え、胃はコールタールでも流し込んだかのよう。辿り着いた地面を這うことすらできず、文は半ば倒れ込むような形になって、ただ情けない声で呻くことしかできなかった。

 最悪だった。なんだかもう、ひと思いに泣いてしまいたかった。腹立たしいやら、情けないやら、色んな感情が激しく渦を巻いて、文という少女を圧倒していた。

 もう、泣いても、いいかなあ。

 

「……射命丸?」

 

 ふいに聞こえたそのバリトンに、さほど、驚きはしなかったと思う。とにかく具合が悪くて、驚く余裕もなかったというべきかもしれない。

 地面に突っ伏したまま顔も上げられずにいると、また声。

 

「お前、人の庭でなにして……大丈夫か?」

 

 ああ、そうか。ここは、ちょうどこいつの庭だったのか。

 本当に、ついてない。

 

「おい、射命丸?」

 

 彼の手が、静かにこちらの肩に触れた。それを払い除ける気力すら、今の文にはなかった。

 だがせめて、己の現状くらいは伝えなければ色々と誤解される。酒の味が強く残る唇を、懸命に動かした。

 

「酒に……酔った、のよ」

「酒?」

「色々、あったの……色々あって、抜け出して、でも、具合……悪くなって」

 

 笑われるだろうと覚悟していたが、彼の反応は静かだった。

 

「……立てるか? とりあえず、私の家で休むといい」

「……いいわよ、そんなの。一人で帰れるわ」

「立ち上がれもしないくせによく言う。顔、真っ青だぞ」

 

 だろうなあ、と思う。自分でも、顔から血の気が失せて冷たくなっているのを感じる。

 返事もしないでいると、向こうの声音もさすがに堅くなった。

 

「とりあえず運ぶからな。文句は酔いが冷めてから聞いてやるから」

「ぅ……」

 

 肩を少し強く掴まれる。ほとんどうつ伏せの状態だった体がゆっくりと回転して、仰向けになって、背中と腿のあたりを支えられる。体が宙に浮く感覚。土を踏む、自分のものではない足音。かすかに揺れる。

 その一つ一つはおぼろげに感じたけれど、酔っているお陰で、果たして自分がどういう運ばれ方をしているのかまでは意識できずに済んだ。

 ……少しの間、眠っていたのかもしれない。文がふとまぶたを上げると、知らない天井の下、知らない部屋で寝かされていた。

 

「……」

 

 そして傍らには、月見の姿。

 銀色とともに掛けられる言葉は、あくまで優しい。

 

「具合は?」

「……最悪よ」

 

 そう、本当に最悪だった。はたてにせがまれて、昔の嫌な話を思い出した。天魔に妙なことを言われて、自分でも不思議なほどに取り乱した。だからがむしゃらになって空を飛べば、あっという間に体調を崩して半死人状態。果てはこうして、月見のところで世話になる。今日はなに一つとしていいことがない。

 水月苑の、客間かどこかの空き部屋なのだろう。文の部屋より一回り二回りも広い大層なお座敷に、ぽつんと敷かれた布団の上で、文は寝かされていた。

 首を横に倒せば、胡座をかいた月見の姿と、コップ一杯分の水が見えて。

 

「薬、飲めるか?」

 

 水と一緒に、袋に入った粉薬。

 

「この前、輝夜が置き薬を押し売りに来てね。ひっくり返してみたら、酔いに効く薬もあったよ」

 

 永遠亭の薬らしい。あそこの薬は酔いにもよく効くから、願ってもなかった。

 体調を確認する意味も込めて、自力で体を起こしてみる。どうやら峠は越えたようで、まだひどい眩暈は残っているが、動けないほどではない。

 薬を受け取り、口に放り込んで、水を一気に流し込む。水はよく冷えていて、喉を駆け抜ける爽快な感覚とともに、少しだけ目の前がはっきりしたような気がした。

 とはいえ、ほぼ根こそぎ枯れ果てた気力が回復するほどではない。

 

「具合がよくなるまで、ゆっくり休んでいくといいさ」

「……」

 

 文は少しの間悩んで、結局、枕の上に頭を戻すことにした。月見の世話になるのは癪だったけれど、それよりもなによりも、今日はもう疲れ切ってしまっていた。

 

「しかし、お前が酔ってそんなになるなんて珍しいね。なにかあったのか?」

「……別に」

 

 突き放すように言って、布団を手繰り寄せ、顔を背ける。そこでふと、煙が揺らめくように、操の姿が脳裏に甦った。

 ――お主、本当に月見のことが嫌いなのか?

 

「……」

 

 あの問いに対する答えは、未だ見つからない。見つからなくなってしまった。嫌いなのか、そうでないのか、自分で自分の気持ちが、わからなくなってしまった。

 ひょっとして、本当に天魔の言った通りなのだろうか。下着を見られた恥ずかしさを全部月見に押しつけて、都合のいいストレスの吐け口にして。嫌いなんだと思い込んで、そこから先の思考を一切止めてしまって。

 もしも彼を拒絶し続けてきたこの数百年間が、全部勘違いだったのだというならば。

 文は一体なんのために、月見を嫌い続けてきたのだろう。

 

「……天魔様に、変なこと言われたのよ」

 

 そうこぼしてしまったのは、きっと、辛かったからだ。今の自分の心を、自分だけで抱え続けるのが怖かった。誰でもいいから、聞いてほしかった。

 たとえ隣にいるのが彼であっても――或いは、彼だからこそ。

 

「本当に、あんたのことが嫌いなのかって。自分自身に、そう信じ込ませてるだけなんじゃないかって」

「……」

 

 彼はなにも答えなかった。それでよかった。変に相槌を打たれれば、躊躇ってしまうから。返事が来なければ、ただ一方的に、吐き出していくことができる。

 

「そんなことないって思ってた。ありえないって思ってた。実際、他の同僚たちに言われた時はそうやって否定してきたのよ。……でも天魔様に言われた瞬間に、急に自分の気持ちがわからなくなっちゃって」

「……操、ね」

 

 ぽつりと彼がこぼした声には、なにかを確認するような色があった。横目で見てみれば、月見は口元に指をやって、何事か真剣に考え込んでいるようだった。

 

「……なに?」

 

 なにか、変なことでも言っただろうか。

 

「いや。……一応確認するけど、操と話してたらってのは間違いないか?」

「間違えるほど酔っちゃいないわよ。……さすがは天魔様ってことなのかしらね。言葉自体が魔力を持ってるみたいだった」

「……」

 

 カリスマなんて言葉には世界一縁がない、お調子者で頼りない天魔様だと思っていたけれど。しかしあの時、文を射抜いてみせた深い闇色の瞳は、明らかに尋常のものでなかった。

 まあ、考えてみれば当然なのだろう。普段の姿がどこまでも滑稽であったとしても、彼女は文よりも長い時を生きる最強の鴉天狗だ。能ある鷹は爪を隠す、ということなのだろう。鴉だけれど。

 ふと、傍らの彼が立ち上がった気配。

 

「ま、ともかくゆっくりしていくといいさ。私はちょっと席を外すよ」

「……そう」

 

 随分と素っ気ない言い様だった。しかし、興味がないから適当にあしらった、というわけではなさそうだ。なにか他の物事に気を取られているせいで、つい雑な言い方になってしまった――のだろうか。

 なにかあったのかしら、と内心訝しむが、わざわざ追及しようとも思わなかった。話したいことを話して、少なからず気持ちは楽になったので、あとはもう休んでしまいたい。

 月見の気配がゆっくりと遠ざかって、静かに襖を開け閉めする音とともに、部屋から消えていく。一人きりの静寂が沁み入るように広がっていくのを感じながら、文は音もなくため息をつく。

 つまるところ、わからないのがわかる、という安っぽい哲学じみた状態だった。五里霧中。暗中模索。手探りですら前に進めない、完全な暗闇の中にいる。

 自問、

 

(本当に、私は)

 

 彼のことが、嫌いなのだろうか。……本当に嫌いなのだったら、酔いが大分楽になってもなお、文が今の状況に甘んじているのはなぜなのか。嫌いなやつの世話になるなんて真っ平御免だからと、今頃屋敷から抜け出していてもいいくらいなのに。

 酔っているから。気力がないから。疲れているから。本当にそれだけなのか。そんな簡単なことすらも、今の文にはわからない。

 

(……もう、意味わかんない)

 

 布団を顔の半分ほどまで引き上げて、文は殻にこもるように丸くなる。

 落としてしまった自分の心は、もうどこを探しても、見つけられなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 部屋を出た月見が玄関へ向かうと、カラカラと控えめな音を立てて、ちょうど彼女が中に入ってこようとしているところだった。

 

「こんばんは、操」

「お、おー。こんばんはー、なのじゃー……」

 

 月見が笑顔で出迎えると、操は戸の取手を掴んだまま、びくりと一歩だけあとずさった。その声にいつもの陽気さはなく、まるで門限を破ってしまって怖々と帰ってきた子どものようにも見えた。

 まったくちょうどいいタイミングだと月見は思う。恐らく文の様子を見に来たのだろうが、どうあれ向こうからやってきてくれたのであれば好都合だった。

 どことなく怯えた様子で、ええと、その、と拙い言葉ばかりを呟いている操に構わず、一気に切り込む。

 

「操。お前、あの子に『能力』を使ったろう」

「うぐっ……ということはやっぱり」

「ああ、庭先でヘバッてたから客間で休ませてる。……大分、不安定になってたぞ」

 

 もちろん酔っているせいもあるのだろうが、一方で文は、操の能力の影響を強く受けてもいた。事実操の能力には、人の心をああも不安定にしてしまうだけの力があった。

 

「『暗示する程度の能力』。……自分以外の相手には、使わない約束じゃなかったのか?」

「……」

 

 暗示――すなわち思い込み。特定の言葉を言い聞かせることによって、実際に心や体になんらかの作用を引き起こすこと。

 言葉は力を持っている。昔の人々は洋の東西を問わず、言葉には精霊が宿り、現実世界に霊妙な働きを及ぼすものと考えていた。そしてそういった力を持つ言葉の数々を、『言霊』と呼んだ。

 言霊の力はまこと絶大で、その真理を掴んだ者は、たった一声で不可思議な現象を次々と起こし、たった一言で天変地異すらをも掌握してみせると信じられていた。その真偽はさておき、言霊の持つ力がいかに強大かは、かの日本神話でも枚挙にいとまがないほど取り上げられている。

 操の能力は、平たく言えば自分の言葉を『言霊』に変えて、自他に様々な影響を与えるものだといえる。言葉自体が魔力を持っていたみたいだったと文は比喩していたが、それは断じて思い違いなどではない。操が紡ぎ出す言葉は、その音に正真正銘の魔力を乗せて、聞く者の心に入り込むのだ。

 例えば自己暗示によって、自分の中に『天魔』の人格と『天ツ風操』の人格を複数所持しているように。そして今回のように――言葉だけで相手に暗示を掛けて、精神を大きく揺さぶってみせたように。

 

「す、すまんかった……」

 

 掠れてしまいそうな声で、操が詫びた。肉体の上に存在する人間がその破壊を以て死に至るように、精神の上に存在する妖怪にとっては、精神の破壊こそがなによりの致命傷となる。たった一言で他者の精神を崩壊させることもできるその能力を、『妖怪殺し』の異能と評したのは、一体誰だったか。

 操の能力はあまりに強大だった。操は、己の能力がいかに危険な代物なのかを知っていた。故に能力で他人の心を操るような真似はしないと誓いを立て、その名を秘匿事項として外から伏せることにした。『暗示する程度の能力』を知っているのは、操が心の底から認めた、ごく一部の親しい者のみ。月見と藤千代と、紫と、椛を含めた歴代の『犬走』――その程度だろう。

 月見は、緩くため息。

 

「私とあの子の関係に見かねたんだろうけど……」

 

 操が誓いを破った理由に、想像が利かないわけではない。彼女は天狗たちの長として、また月見の友人として、月見と文の関係をひどく気に掛けていたようだった。数百年経っても変わっていない現状にいい加減業を煮やして、一石を投じたのかもしれない。

 本当に月見が嫌いなのか――そう暗示を掛けることで、文の心に波紋を与え、状況の改善を図ろうとしたのかもしれない。

 

「でも、お前の能力で無理やりってのはね」

「そ、それは違う!」

 

 否定の声は、思いの外強かった。首を振った操は、まっすぐに月見を見て、

 

「確かに儂は、文に能力を使った。でも、ちょっと揺さぶった(・・・・・)だけなんじゃ。無理やりなどとは考えとらん!」

 

 謂れのない誤解を忍ぶように、固く拳を握り、

 

「……月見。どうして文は、儂の言葉に揺らいだと思う?」

「……それは、お前の言葉がそういうものだから」

「違う。確かに儂の言葉はそういう力を持つけど、言霊だって、どんな時でも常に効果を表すわけじゃない」

 

 一息、言葉を区切る。

 

「……なあ月見、儂のこと好きか?」

「うん? それはもちろん、友人としてだけどね。……どうしたいきなり」

「今儂、能力を使ったのじゃ」

 

 不思議がる月見の反応を、我が意を得たりというように。そして一方でどこか残念そうに、操は小さく笑った。

 

「確かに儂の言葉には、聞く者を惑わす力がある。でもそれも、相手の心に隙があってこそなんじゃ。儂を友人として正しく好いてくれていて、その気持ちに嘘を持っていないお前さんには、儂の暗示が効かなかった」

「……」

 

 なるほど、と月見は心の中で呟いた。操の言わんとしていることが、なんとなくではあるが理解できた気がした。

 つまり、文が操の言葉に揺らいでしまったのは、

 

「無論、時間を掛けて繰り返し、何度も能力を重ね掛けすれば、最終的に儂に操れない心はないんじゃけど。……でも文は、儂がたった一回、しかもほんのちょっと揺さぶっただけで、ああも簡単に乱れた。それだけ、自分で自分に嘘をついていた、という証拠じゃな」

 

 もっとも気づいてはいなかったようじゃけど、とため息のように付け加えて、

 

「だから、儂は……文に、本当の気持ちに気づいてほしかったんじゃ。文が水月苑の名前を一生懸命考えとったのを見た時点で、お前さんのことは、きっとそれほど嫌ってないんだなって、わかってたから……」

 

 そこからは幼い子どもが言い訳をするように、言葉も勢いもたどたどしくなる。

 

「文があそこまで乱れたのは、儂も予想外じゃった。それは、素直に謝る。約束を破ったことも、ごめんなのじゃ。……でも、お前さんたちを無理やり仲良くさせようなんて考えてない! ただ、ちょっと、ちょっとだけ、きっかけを、作りたかっただけなんじゃ……」

 

 それはひょっとすると、お節介というものだったのかもしれない。操には悪いが、ちょっときっかけを、なんて軽い言葉で済まされる問題ではなかった。もし操が一歩でも加減を間違えていたら、文はそのまま狂っていたかもしれないのだから。

 

「本当に、すまん……」

「……」

 

 もっとも、謝る操を責めるつもりもない。やり方は決してよくはなかったかもしれないが、彼女の気持ち自体は本物だ。そうでなければ、こうして泣きそうな顔で震えるはずもないだろう。

 それに、本来操が頭を下げるべき相手は、月見ではないのであって。

 

「操、謝る相手が違うんじゃないか?」

「……」

「お前が能力を使った相手は、あの子だろう?」

 

 だから、操が話をすべきなのは、文。

 

「お前の気持ちは充分わかったし、私は責めないよ。むしろ、お前にそんなことをさせてしまって悪かったね」

「そ、それは違う……こんなの、儂が勝手にやっただけで」

 

 だが、月見が文との関係を改善するようなんらかの行動を起こしていれば、回避できたかもしれない未来だ。月見は、文から向けられる感情に悩みこそすれ、本気で解決しようとはしていなかった。何千年の時を生きて多くの人や妖怪に出会い、好かれ嫌われ、時には崇敬され憎悪され、あらゆる感情を向けられ慣れた(・・・・・・・)。だから相手から好かれようが嫌われようが、深刻に考えずそういうものとして受け入れてしまうのは、月見の悪い癖だった。

 

「ともあれ、今日のところはまた出直してくれるかい。本当に具合悪そうだったし、今の状態じゃ落ち着いて話なんてできないだろうから」

「……そうじゃな。すまん、迷惑掛ける」

「迷惑じゃないさ。今まで放ったらかしにしてたツケが回ってきたようなもんだ。これを機に反省しないとね」

 

 肩を竦めてそう言えば、操もようやく一息をつけたようだった。

 

「……そうじゃな、そうしてくれ。お前さんたちは、元々ちゃんと仲良くできるはずなんだから」

「……実際、元々はそうだったからね」

 

 あの時神懸かり的な間の悪さで文と交錯してさえいなければ、きっと今頃、気兼ねなく友人と呼び合える程度にはなっていたのだろう。

 

「では、儂は戻るよ。宴会を抜け出してきたからな、そろそろ戻らんと椛にバレるのじゃ」

「ああ」

 

 闇夜に紛れるように外へ出た操について、玄関先まで見送りをする。闇色の彼女の翼が、バサリと大きく空を打つ。

 

「文のこと、よろしく頼む」

「ああ」

「なんだったら、この一晩で仲良くなっちゃってもいいんじゃよ?」

 

 すっかりいつもの調子に戻って笑う操に、月見はヒラヒラと手を振って。

 

「酒、呑み過ぎるなよ」

「さすがにもう呑めないんじゃよ。……明日、文に謝らんとならんしな」

「……そうか」

 

 それからはどちらも口を開くことなく、またな、と目だけで告げた操が山頂の方へ羽ばたいていく。黒い髪に黒い着物、黒い翼と三つ揃った彼女は、羽音を残してあっという間に夜の中へと消えていった。

 かすかに聞こえるその音を遠くに聞きながら、月見は小さくため息をついた。鴉の羽音を聞いて、かつて月見が山登りをしていた時、途中で出会っては快く道案内を引き受けてくれていた文の姿が、ふっと脳裏に甦った。

 今となってはもう、何百年も昔の話だけれど。

 自分たちは今からでも、あの頃に戻れるのだろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 結論を言えば、文はすべての話を聞いていた。月見が微妙に座敷の戸を閉め損じていたのに乗じて、布団に入ったまま気づかれないよう風を操り、月見たちの話を己の耳まで届けていた。

 操の能力がすべての原因だったという真実に、もちろん動揺はしたけれど、それ以上に納得させられた。能力が絡んでいるのなら、自分でもわからなくなるほどに心がおかしくなってしまうのも、腑に落ちるところなのだと思った。

 けれど一方で、頭に強く残っている言葉。

 

(……自分で自分に嘘をついていた……か)

 

 無論、今となっては確かめる術などない。今の文はもう、なにが嘘でなにが本当だったのか、それすらもわからなくなってしまったのだから。

 けれど――もしも本当に、嘘だったのだとしたら。

 

「……起きてるか?」

 

 彼の声が聞こえた。音もなく襖を開けて、撫でるように静かな声だった。狸寝入りをするかどうか少し悩んだけれど、結局、なに? と短く返した。

 

「どうだ、具合は。なにか飲み物でも持ってこようか?」

 

 そう尋ねられて初めて、文は随分と喉が渇いていることに気づいた。薬を飲んだばかりとはいえ、体はまだまだ熱っぽい。

 

「……じゃあ、水」

「了解。少し待っててくれ」

 

 襖が閉まって、彼の足音が遠ざかっていく。文はくるまっていた布団から顔を出すと、宵の口の淡い月明かりが差し込む座敷で、幻想的に浮かび上がる天井に目を凝らした。

 

「……」

 

 そういえば――と、ふと疑問に思う。文はどうして、ここで休ませてもらえているのだろう。

 たとえ自分に嘘をついていたとはいえ、文が月見を嫌っていたのは立派な事実だったし、月見だって、そんな文を好意的な目で見たりはしていなかったろう。……好ましく思えない相手を、わざわざ家に上げて介抱したりなどするものだろうか。少なくとも文なら、声を掛けこそすれ、わざわざ一室を貸し与えるような真似はしない。

 文は妖怪。酔って体調を崩したからって、それでなにか危険な状態になるわけでもないのだし、放っておかれたって大したことはなかった。

 

「お待たせ」

 

 再び襖が開く音と、彼の足音がして、視界がほのかに明るくなった。頭を倒して見れば、部屋に入ってきた月見の馬手には水の入ったコップ、弓手には桶が一つあって、尻尾には灯り代わりの狐火が灯っている。

 

「はい、どうぞ」

 

 差し出されたコップを、文はゆっくりと体を起こして受け取った。コップ越しに水の心地よい冷たさが伝わって、思わず小さなため息がこぼれた。

 月見は文の隣に腰を下ろすと、桶を枕元に置き、中から水月苑の浴衣を取り出した。

 

「その格好で寝づらい時は、好きに着替えてくれて構わないよ。で、こっちの桶は緊急用」

「……吐かないわよ」

 

 そのあたりは、女の意地とでもいおうか。

 月見は軽く笑い、

 

「もちろん。使われないのが、一番いいことだ」

 

 更に、桶の中からタオルを取り出す。

 

「こっちは汗でもかいたら使ってくれ。……あとは、なにか要るか?」

「……充分よ」

 

 そう、充分だった。大丈夫かと声を掛けられ、一室と布団を貸してもらい、薬をもらって、更には水に桶に着替えにタオルまで。文と月見の関係には不釣合いなほどに、充分すぎた。

 好きでもない相手にどうしてここまでしてくれるのが、文には到底理解できなくて、難しい顔でコップの水を睨みつけながら、ぽつりと呟くように尋ねた。

 

「……なんで、ここまでしてくれるのよ」

「うん?」

「私は、……私は、あんたにここまでしてもらうような資格のあるやつじゃ、ないでしょ」

 

 助けてもらうに値するようなことを、文はなに一つとして彼にしてこなかった。いつだって敵視して、突っぱねてばかりで、助けられるよりも、なにもせず捨て置かれる方が文には分相応だった。

 けれど月見は、下らない問答に答えるように、肩を竦めて。

 

「資格もなにも、人の庭先で倒れてたんだ」

 

 当然のように、

 

「だったら相手が誰だろうと、ひとまず休ませてやるのが道理だろうさ」

「……」

 

 文はまぶたを下ろし、水の冷たさを感じながら、小さく長い、息を吐いた。

 この時の感情を強いて言葉にするならば――呆れた。本当に呆れた。月見にではない。間の悪い事故であられもない姿を見られて、それからずっと意固地に嫌いを貫き続けてきた自分が、ひどく幼稚だったように思えて、だから呆れてしまった。

 きっと月見は、目の前で倒れている者がいれば、たとえ大嫌いな相手でも、親の仇であっても手を差し伸べるのだろう。好きも嫌いも、性別も種族も立場も、すべての垣根を飛び越えて。

 紅魔館で、フランドール・スカーレットを。

 人里で、上白沢慧音を。

 遥か昔の都で、蓬莱山輝夜を、助けたように。

 さんざ嫌われ、邪険な扱いをされ続けてきた、文にすらも。

 

「……」

 

 そんな底抜けなお人好し相手に、何百年も昔の話を引きずって嫌いだのなんだのと――なんだか、馬鹿馬鹿しかった。

 だから、小さく、笑った。

 

「……どうした?」

「別に。バカなやつだなって、思って」

「私が?」

「他に誰がいるのよ」

「ひどいなあ」

 

 心外そうに苦笑いする彼と一緒に、少しの間だけ、笑う。

 きっと、勘違いではなかった。文は確かに月見を嫌っていたし、その感情に誤解はなかった。

 ただ――意地っ張りだった。別にそこまでする必要なんてないのに、自分から許してしまったら負けた気分になるからと、意地を張って、嫌いを貫き続けた。

 そして今、こうして助けられて、彼の呆れるほどお人好しな人情に触れて、これ以上意地を張るのも馬鹿馬鹿しくなった。

 きっと、そうだった。傾けたコップの水が文の喉を潤すように、ようやく得られた理解は体の芯までそっと落ちて、心を潤すのだろう。

 空になったコップを返す傍らで、文は月見に声を掛ける。

 

「そういえばあんた、天狗の新聞を取ろうとしてるんだって? 今日の宴会で耳に挟んだんだけど」

 

 もちろん、嘘だった。宴会で耳に挟むまでもなく、文は既に、『文々。新聞』の発行部数が一部増えることを知っていた。

 

「ああ、そうだよ。……そういえば操に頼んだまますっかり音沙汰がないね。忘れられてるんだろうか」

 

 特に深い理由はないが、なんとなく、からかってみたくなった。月見はどうやら、『文々。新聞』を誰が作っているのか、まだ知らないらしいから。

 

「まあ、そのうち届くんじゃない? 私たちの新聞なんて、面白いネタがあった時だけ気まぐれで作られるようなものだし」

「それにしてはいい新聞だったけど……山の外の出来事も豊富に取り上げられててね、大したものだったよ」

 

 むくむくと湧き上がってくる爽快な優越感を、文は懸命にひた隠した。幸い部屋が薄暗いからか、月見に気づかれた様子はなかった。

 

「そういえば、お前も新聞を書いてるんだろう? なんて新聞なんだ?」

「……さあ」

 

 含むように笑って横になり、布団を首まで持ち上げる。

 

「秘密よ、秘密。それよりも、眠いからもう寝るわ」

 

 今この場で、面と向かって真実を教えるのは、文にはまだ難しそうだから。だから精々、あとでたっぷり驚かしてやろう。

 体調の悪いこちらを気遣ったのか、月見が特に追及してくることはなく。

 

「そうか。……ゆっくり休めよ」

「言われなくても休むわよ。明日まで引きずったら嫌だし」

「ああ。じゃあ、おやすみ」

 

 月見が立ち上がる。狐火とともに離れていく彼の背が、襖の向こうに消えてしまう直前に、文はそっと口を開いていた。

 

「ねえ」

「……ん? どうした?」

 

 襖の隙間から覗き込んできた、彼の顔は見ないまま。

 天井を見上げ、瞑想するようにまぶたを下ろして。

 

「……悪かったわね。今まで」

 

 謝った、わけではなかった。文は、嫌いに拘り続けてきた今までの自分に後悔はしていないし、月見に悪いことをしたとも思っていない。たとえ勘違いであったとしても、嘘であったとしても、月見が嫌いだったあの感情は、間違いなく文のものだった。

 本気で謝ったわけではない。

 ただ、今までの意地っ張りだった自分に、さよならを。

 

「……ああ」

 

 少し意外そうに声をこぼして、月見はそれからふっと、柔らかく笑った。

 

「なあに。――大したことじゃないさ」

 

 そう――大したことじゃあなかった。特別大したことでもない感情に、文は馬鹿馬鹿しくも、何百年もの間拘り続けてきた。

 だから、忘れよう。……いいや、受け入れよう。何年も経った未来の宴会の席で、こんなこともあったっけ、と笑いながら思い出せるように。

 だから、さようなら。意地っ張りだった、私。

 

「それじゃあ、おやすみ」

「……うん」

 

 襖が閉まり、狐火が消え、月明かりだけの頼りない世界。けれど、そんなに心細くはない。

 早起きしよう、と思う。月見が起きるよりも、朝日が昇るよりも早くに起きて、一直線に家へ帰って、支度をしよう。まだ直接渡せるほど素直にはなれないけれど、せっかく文の新聞を選んでくれた彼の慧眼には、まあ、応えてやらんでもないのである。

 ここから始まるのだと、文は思う。昔に戻るのではなく、今を続けていくのでもなく、すべてを白紙に戻して、未だ見ぬ新しい場所へと。

 文と月見は、きっと、ここからまた始まっていく。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 庭のどこかで、小鳥が陽気に鳴いていた。晩春の朝の空気は快晴ながらも少し湿っていて、やがてやってくるであろう雨の季節の訪れを予感させた。

 酔って体調を崩した文を客間で休ませた、翌日の朝だった。起き抜けの月見は顔を洗ってほどよく身嗜みを整え、文を泊めた一階の客間へと足を向けた。

 しかしその襖の前で、ふと足を止める。

 

「……おや」

 

 襖が開いていた。奥の客間では貸していた布団が綺麗に畳まれ、文の姿は、もうどこにも見えなくなっていた。

 

「随分と早起きだこと」

 

 日が昇ってから、まだそれほど時間は経っていない。別に朝日と早起き勝負までしなくたって、のんびり休んでいってくれて構わなかったのだけれど。

 だが、朝一番で水月苑を飛び出したということは、体調はすっかりよくなったのだろう。礼の一言も置いていかないあたりがなんとも彼女らしい。

 昨夜に、悪かった、と謝られたのは意外だった。今になって思えば、幻想郷に戻ってきてから初めて、普通の知人同士のように話をしたかもしれない。けれど一方で、文の酔いと操の暗示のせいで出た、一晩限りの夢だったのかもしれない。

 

「……ん?」

 

 月見はふと、畳まれた布団の上に、見慣れぬ一枚の紙が置かれているのに気づいた。なんだろうかと思い、客間に入って、手に取ってみれば。

 

「……『文々。新聞』?」

 

 月見がかねてより目をつけていた新聞の、日付を見るに最新号らしい。二つ折りにされた紙面では、今回の一面記事が写真とともに大々的に報じられている。

 一瞬、なんでこれがこんなところに、と不思議に思ったけれど。

 

「……まさか」

 

 やがて思い至った一つの可能性に、月見は愕然として小さく呟いた。それに応えるように、二つ折りになった新聞の隙間から、掌に乗るくらいの小さな紙がこぼれ落ちた。

 拾い上げて見てみれば、もう間違いはない。

 

 

『文々。新聞 定期購読料請求書

 今度取り立てに行くから、雁首揃えてキチッと払うこと!』

 

 

 そして最後に添えられていたサインを、月見は心の底から一本取られた思いで、ゆっくりゆっくりと読み上げた。

 

「『清く正しい射命丸』……ね」

 

 なるほど、道理で初めてこの新聞を選んだ時、操がテンションを急上昇させていたわけだ。よりにもよって文の新聞に目を掛けていたとは、運命のいたずらとはこういうことをいうに違いない。

 まさに意外や意外――けれど月見が本当に驚いているのは、そこではない。

 文が月見の希望に応えて、ちゃんと最新号を置いていってくれたこと。まさか元々懐に忍ばせていたわけではなかろうから、月見が起きるよりも先に一旦家に引き返して、わざわざ持ってきてくれたのだろう。

 しかも請求書付きだから、決して今回ばかりの気まぐれではなく、次回もそのまた次回も、水月苑には真新しい『文々。新聞』が届けられるのだ。

 文の筆跡は潔く、迷いがなかった。操の暗示の影響を受けながらも、それ以上の納得と理解を以て、紛れもない自らの意思で書かれているのが見て取れた。

 だから、ぽつりと呟く。

 

「一歩前進……ってやつなのかな」

 

 そして、笑った。差し当たってはまず、朝食の支度よりも先にやらなければならないことが決まった。

 精々今後は嫌われることのないよう、まずは仰せの通り、雁首揃えてキチッと払ってしまおうと。

 春の陽気よりも清々しい心地で、月見は朝一番で、水月苑の貯蓄を確認しに向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第51話 「ぶらり旧地獄一人旅 ①」

 

 

 

 

 

 月見は、梅雨があまり好きではない。

 雨が嫌いというわけではない。もちろん晴れてくれるのであればそれに越したことはないけれど、雨もまた、空の風情ある表情の一つなので、二日三日降り続く程度であれば表立って顔をしかめるような真似はしない。

 しかしながら、一週間以上もしつこくしとしと降り続いてしまえば、さすがにため息の一つもつきたくなろうというものだった。

 月見が梅雨を苦手とする理由は至極単純で、散歩がしづらくなるからだ。幻想郷の道はコンクリートで舗装されておらず、すべて土が剥き出しになっているため、ひとたび雨が降れば沓と服を汚す天然のトラップと化してしまう。基本的に散歩は歩いてやりたい主義である月見にとって、道を歩きづらくしてしまう雨はなかなかの天敵なのだった。

 幸い、退屈はしていない。週末は温泉を求めるお客さんがあいかわらずたくさんやってくるし、紫や輝夜やフランはよく遊びに来てくれるし、咲夜や妖夢や早苗は差し入れをくれたり掃除を手伝ってくれたりするし、藤千代や操と話をするのはなんだかんだでいい退屈凌ぎになるし、お腹を空かせてやってくる霊夢やルーミアに料理を振る舞ってやるのも悪くはないし、魔理沙やパチュリーと魔法談義をするのもいい刺激になるし、慧音や阿求から幻想郷の歴史を教えてもらうのも有意義だし、映姫の押し掛けだって慣れてしまえばどうということもない。ここしばらく思うように外に出ることができずとも、みんなのお陰で、それなりに満足な毎日を送れている自覚はある。

 しかしながら、退屈でなければずっと引きこもりの生活でもよいかとなれば、月見は断固、否なのである。

 

「……ふむ」

 

 濁った灰色の雨空を縁側から見上げながら、出掛けよう、と月見は思った。汚れた服を洗濯するのが手間とはいえ、それでも足を動かしたいという欲求に軍配が上がった。

 しかしながら、雨の中遠出をするつもりにもなれなかったので、なるべく水月苑の近くで行けそうな場所をリストアップしてみることにした。人里――は、梅雨の間でも買い出しで何度か行っている。紅魔館――フランたちがよく遊びに来てくれるし、温泉の開放日である明日あたりもまた来るだろうから、こちらから出向くまでもない。霧の湖――退屈凌ぎになるようなものはなさそうだ。魔法の森――論外。

 となると、天狗の屋敷や守矢神社などを目指して、山登りをするのがよいだろうか。

 

「……いや、待てよ?」

 

 ふと思考の片隅に引っ掛かるものを感じて、月見は浅く眉をひそめた。

 数秒の黙考、

 

「確か……地底への入口は、山のどこかにあるんだったか」

 

 そんな話を、永遠亭で藤千代と再会した時に聞かされた覚えがある。今の今まですっかり忘れてしまっていたけれど、ひょっとすると地底は、今足を向ける場所としては打ってつけなのではなかろうか。

 地底は文字通り、地表の下に創られた世界。空を硬い岩盤で覆われたその場所に、地上の雨がどうして届こう。

 稲妻を閃かすような、名案だった。

 

「よし」

 

 小さく呟き、月見はぱたぱたと小走りで縁側を駆けていく。地底は月見にとって未知の世界だから、早めに行動するに越したことはない。

 胸を鳴らす小さな高揚感に、やはりこれが私の生き方なのだと、思いながら。

 急ぎ足で支度をする月見の笑みは、梅雨に入ってからようやく、若々しい生命力で満ち満ちていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 地底へ続くという洞穴は、雨にもかかわらずそのへんを飛んでいた、働き者な哨戒天狗をつかまえるだけですぐに見つかった。毎日山中を飛び回っているだけあって、彼らは山の地理には非常に詳しい。

 正規の登山道を大きく横に外れて、侵入者を拒むように入り組む木々を躱していけば、やがて目の前にそびえた山肌を穿つように、大きな洞穴が一つ、大口を開けて佇立しているのが見えた。高さは月見の身の丈よりもやや高いかどうかで、横は両腕を広げても悠々入っていけそうなほど。入り口自体はそう大きくないが、一歩を踏み入れたところですぐに空間は広がり、なにも見えない常闇の奥へと続いていっているのがわかる。

 未知の世界を予感させる神秘的な雰囲気はない。入口の岩肌にはさんざ木の根が巡り、苔が繁茂し、どちらかといえばおどろおどろしく、魔界に通じる魔物の顎門めいている。近づくだけで心なしかあたりの空気が冷え込んだ気がするし、奥から呻き声に似た不気味な風音が聞こえてくるのは、果たしてただの錯覚なのか。

 入口の手前には、手作り感あふれるなおざりな立て看板が一つあって、

 

『地底につながる洞穴につき、いつまで経っても立ち入り禁止じゃ! 回れ右! by天魔』

 

 デカデカと書かれた草書体の下には、片や小綺麗な楷書体で、片や癖のある行書体で、二つの補足事項が小さく書き足されている。

 

『ただし、月見くんはいつまで経っても立ち入り許可ですよー。どんと来い! by月見くんのお嫁さん』

『一応、地上と地底はお互いにあんまり干渉しないことになってるから、行ってもいいけどみんなと仲良くしてあげること! 目指せ友達百人! byあなたのゆかりん』

 

 指先に狐火を灯し、嘘八百な二つの署名を念入りに焼き潰しておく。

 それから唐傘を畳み、慎重な足取りで洞穴に足を踏み入れる。岩そのものを無造作にぶちまけて、苔でびっしりと覆われている入口近辺の足場は、特に気をつけて。

 

「……狐火」

 

 尻尾の先に明かり代わりの狐火を灯し、少し進むと、連絡橋として最低限の手だけは入れられているらしく、平らに均された歩きやすい足場になった。天井も、既に月見が見上げるほどに高くなっている。思っていたよりも、通行に不便な道ではなさそうだ。

 と、思っていたのだが。

 

「……」

 

 洞穴の観察をしながらしばらく進むと、道は急勾配へと差し掛かった――というか、崖だった。進むべき道が月見の足先からすっぽり消滅していて、代わりに底の見えない漆黒の奈落が広がっている。まさに地獄の底まで続いているかのような、という比喩は、この場合比喩にはならないのだろう。人外たちが通る道だけに、飛行を前提にした作りとなっているのは当然かもしれない。

 試しに、足元に転がっていた小石を投げ入れてみる。しばらく待ってみるが、底にぶつかった音は一向に返ってこない。まあ、わかっていたことだ。

 

「どれ」

 

 月見は狐火の火力を上げて、周囲の障害物に注意しつつ、ふよふよ漂うように下降を開始する。途中、羽休めできそうな足場を見つけてはのんびり洞穴の景色を観察してみたりしたが、見えるものはいつまで経っても岩ばかりだったので、そのうち飽きて下降だけに意識を集中させるようになる。

 そんな単純作業を、一体どれだけ続けただろうか。

 

「……ん?」

 

 ふと、月見は尻尾の狐火を消した。するといつの間にか、火をつけずとも困らない程度に周囲が明るくなっているのに気づいた。多少薄暗い感はあるが、周囲の岩肌を問題なく目視することができる。

 こんな洞穴の奥深くで一体なにが光源となっているのか、月見にはよくわからないけれど、どうあれ光があるのはありがたかった。間もなく崖も一番下まで下り終え、薄闇の中を一直線に伸びていく道は、いよいよ地底への到達を予感させた。

 変わり映えしない洞穴の風景にもそろそろ退屈してきたので、飛行速度を上げてさっさと抜けてしまうことにする。進めば進むほど光はより明るく、洞穴特有の冷えた無機質な空気にも、次第に別の色が混じり始めて――

 

「――ばあ!」

「は?」

 

 カアン! ――と、額を小気味よくなにかにぶつけたのはその直後。

 

「いっ……たー……」

 

 間近に迫っていた地底の気配に気を取られていたのもあるし、なによりそれなりの速度で飛んでいたせいで、まったくもって反応できなかった。じんじん痛む額を押さえ、うぐぐとひとしきりその場で呻いていると、なにやら背後で「にゃあああああっ」と緊張感のない少女の悲鳴が聞こえた。

 痛みが治まってきたので振り返り見れば、

 

「止めてえええええっ」

「……」

 

 天井の岩肌からロープで吊るされ、なにやら前後に振り子運動をしている一つの桶、

 

「見てないで止めてえええええっ」

 

 の中に、小さな少女。

 少女を入れた桶があっちへ行ったりこっちへ来たりするのを眺めながら、なるほど、と月見は納得した。どうやら、ついさっきぶつかったのはこの桶だったらしい。道理であんな快音が鳴ったわけだし、中身が入っていたなら痛いわけである。

 

「止めてって言ってるでしょこのばかあああああっ」

「……」

 

 ともあれ桶の中の少女が大変ご立腹な様子だったので、月見は揺れる桶をはっしと掴んで止めてやった。

 中の少女は、大して大きくもない桶にすっぽりと収まっている通り、背丈が大変小さかった。幻想郷の小妖精たちといい勝負かもしれない。月見がさて一体何者だろうかと覗き込む先で、少女は胸を押さえながらぜいぜいと喘いでいるのだった。

 

「び、びっくりした……まさかおどかそうとしておどかされるなんて。まさにミイラ取りがなんとやら」

「どちら様で?」

「相手に名前を尋ねる時はまず自分から。でも私は淑女なので、恐れ多くも名乗って進ぜよう」

 

 呼吸を整え終わった少女は桶の中から月見を見上げて、バチッと星が瞬くウインク、

 

「みんなご存知地底世界のアイドル、キスメちゃんです☆」

 

 月見は桶をプッシュ&リリースした。

 

「いやあああああぁぁぁ……」

 

 撃ち出された桶は物理法則に従い、キスメの声は振り子運動のまま遠ざかって行く。

 

「ごめんなさいごめんなさい本当は釣瓶落としのキスメですううううう」

 

 そして一往復して戻ってきたところで、月見は再びはっしと受け止めた。

 少女はまたぜーぜー肩で息をしていた。

 

「な、なんてきちくのしょぎょう……今までたくさんの妖怪たちにこの冗談を言ってきたけど、文字通り突き飛ばす反応をされたのは初めて。悔しい、でもなんだか新鮮」

 

 変なやつに出会ってしまったかもしれないと月見は思う。

 

「……それで、あなたは? 私がちゃんと名乗ったんだから、あなたも名乗るべき」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「なにそれつまんない。そこはもっと私みたいに、みんなご存知地上世界のスーパースター、ツクミンで――はい冗談です。だからまた手を放そうとしないでくださいお願いします」

 

 変なやつに出会ってしまった。

 

「ところでさっきはごめんなさい。頭、怪我してない?」

「なに、大したことじゃないよ。……しかし、なんでいきなり私の目の前なんかに」

「おどかそうと思って。――ばあ」

「……」

「……てへ」

「確かに、ある意味ではびっくりしたけど」

「私の手に掛かればざっとこんなもんよ」

「ところで私にも、お前をおどかす秘策があってね」

「待って待ってなんでいきなり投球フォームなの。やめて投げないでお願いやめてひょっとしなくてもさっきの根に持ってるでしょすみません調子乗りました許してください」

「そうか。自信あったんだけど……」

「がっかりしないでくれますか」

「まあ、冗談だけどね」

「この狐め。悪い妖怪は食べちゃうよ」

「ほう、そんな小さな体で私のどこを食べると」

「私はこう見えて、頭から容赦なく食べちゃう肉食系女子」

「へえ」

「今までそうやって葬り去ってきた鯛焼きは数知れず」

「……鯛焼きか」

「美味しいよね。あなたは鯛焼き食べる?」

「最近食べてないねえ」

「じゃあ、今度地底でオススメのお好み焼き屋さんを紹介したげる」

「鯛焼きは?」

「なにかを得るためには同等のなにかを犠牲にしなければならないのです」

「なんの話だよ」

「冗談。軌道修正。……だから私は、あなたも頭から容赦なく食べちゃうよ」

「お前みたいなちみっ子がねえ」

「甘く見てもらっては困る。実は今の私は、敵を欺くための仮の姿。真の姿はないすばでーのお姉さん」

「ふうん」

「なにそのどうでもよさそうな反応。ひどい」

「だからなんの話をしてるんだよ私たちは」

 

 ……本当に、変なやつに出会ってしまった。

 

「……キスメー? そこに誰かいるのー?」

 

 と、岩陰の方から別の声。振り向き見れば、ひょこりと顔を出してきたのはまたも少女であり。

 

「……ん、どちら様? キスメの知り合い?」

「よくぞ聞いてくれました。実はこの人こそ、知る人ぞ知る地上世界のスーパースにゃあああああぁぁぁ……」

 

 とりあえず月見は、下らないことを言う釣瓶落としを再びリリースしておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 釣瓶落としのキスメと土蜘蛛の黒谷ヤマメは、ともにこの洞穴一帯をねぐらにして生活している妖怪らしい。薄暗い洞穴でもはっきりとわかるほどに、色のいい金髪のポニーテールを揺らしているのがヤマメ。薄暗い中ではちょっとわかりにくい、深みのある緑のツインテールを揺らしているのがキスメ。ヤマメは、かつて地上を追われた妖怪の割には非常に気さくで親しみやすく、少し立ち話をするだけですぐに打ち解けることができた。

 よって、問題はもう片方のちっこいやつであり。

 

「言っておくけど私は地底の妖怪じゃないので、そこは注意してほしい」

「ほう、そうなのか」

「ただ暗くて狭いところが好きなだけ」

「陰険……」

「こんなに可愛らしい地底のアイドルが陰険なわけない」

 

 表情筋が貧弱なのかポーカーフェイスなのかは知らないが、涼しい顔で安いコントみたいなセリフを連発させる自称地底のアイドルは、曲者揃いの幻想郷でも頭一つ抜き出た問題児らしかった。地底ではそこそこ有名な妖怪らしい。主に、話をするとロクなことにならないという意味で。

 

「それは多分、みんな私の可愛さにどぎまぎしてるんだと思う。行き過ぎた可愛さは罪。てへ」

「……」

 

 こいつ、本当にどうしてくれよう。

 ヤマメがすまなそうに――本当にすまなそうに俯いて、力なく笑った。

 

「ごめんね、めんどくさいやつで。ウザかったら無理に付き合わなくてもいいからね」

「こんなに可愛らしい地底のアイドルがウザいわけない」

 

 正直ウザい。

 調子に乗っているキスメをヤマメがたしなめる。

 

「あんたねえ、初対面の相手にはもう少しまともな接し方しなさいって何度も言ってるでしょ? そんなんだから初対面でドン引きされるんだよ?」

「まあドン引きされるのもそれはそれでゾクゾクするものが」

「……」

「ヤマメにドン引きされてしまった。なんてこと」

 

 月見もドン引きである。

 キスメから若干距離を取りつつ派手なため息をつくヤマメは、恐らく相当苦労しているのだろう、キスメと一緒に生活する中で積もり積もった言い知れぬ哀愁を醸し出していた。瞳のハイライトが若干消えかけているように見えるのは、きっと薄暗い洞穴のせいではないだろう。

 

「最近さあ、キスメの友人ってだけで、地底の連中からも微妙に避けられるようになってて……はは、私の居場所はもう地上にも地底にもないのかもね」

「ヤマメ、そんなんじゃ幸せが逃げちゃうよ。笑顔笑顔」

 

 ヤマメがキスメを桶ごとぶん投げた。

 

「いやあああああぁぁぁ……」

 

 キスメは美しい放物線を描いて宙を舞い、しかし途中で天井と桶をつなぐ縄がピーンと張ったので、瞬く間に振り子運動へと移行。

 

「ヤマメのばかあああああ……」

 

 それなりの勢いで右へ左へ行き交うキスメを見て、ヤマメも少しは気が晴れたらしく、すっかり元通りの人懐こい笑顔で月見を見上げた。

 

「で、旧都に行くんだよね。だったらここをまっすぐ進めばいいよ。こんなところで道草食ってないで、さっさと進むのが吉さね」

「……」

 

 月見は、にゃあああああっと右からやってきてあっという間に左へ消えていった、『さっさと進むのが吉』の原因を目で追いながら、

 

「……じゃあ、お言葉に甘えて進ませてもらおうかな」

「はいはい、旅のお供に可愛いマスコットキャラはいかがですかああぁぁぁ……」

 

 変なドップラー効果が聞こえたが気のせいだろう。

 

「それじゃあヤマメ、世話になったね」

「縁があったらまた会おうねー」

「話聞いてますかあああああ」

「あっとそうだ、多分洞穴を抜けたところに女の子がいると思うんだけど、変なこと言われても気を悪くしないでやってね」

「変なこと、というと?」

「あのおおおおおっ」

「ちょっとねー、口が悪いというか、初対面の相手にも結構失礼なこと言うやつなんだ。でも悪気があってやってるわけじゃなくて、ただ不器用なだけだから、怒らないでやってね」

「ふうん……わかったよ、ありがとう」

「呪ってやるうううっ」

「じゃあねー。ばいばい」

「ああ」

「しこたま呪ってやるうううううっ」

 

 ……。

 キスメの恨み事を背中で聞きながら、本当に変なやつと知り合っちゃったなあと、月見は重いため息をつくのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 洞穴を抜けると広大に視界が開けて、そしていきなり谷になっていた。

 生まれて初めて足を踏み入れる地底世界は、思っていたよりもずっと明るかった。太陽の訪れない場所だが不思議なことに、日常生活に困らない程度には光がある。とはいえ地上の空の下とは比べるべくもなく、どことなくぼんやりとしていて、淀んだ薄ら寒い空気が漂っている。

 足下をほぼ垂直に切り込んでいく谷は、人間が入り込む世界ではないからか防柵の類は一切なく、覗き込めば底では川が流れていた。思っていたほど深くはなく、その気になれば、釣り糸を垂らして暇潰しができそうだ。魚がいるのかはともかく。

 そしてすぐ近くには、こちら側と向こう岸をつなぐ太鼓橋。少し傷んだ木目板と塗装の取れた欄干が、緩いアーチを描きながら対岸まで伸びている。橋を渡ってしばらく進んだ先にはぼんやりと橙色の灯りを宿した町並みがあり、恐らくあそこが、藤千代たちが移り住んだという旧都だろう。

 

「……」

 

 などと周囲を観察していれば、橋の中ほどで、本当に釣りをしている少女を見つけた。木と糸で作ったお手製の竿を右手で持ち、左手で橋の欄干に頬杖をついて、とても退屈そうな表情で谷の底を見つめている。

 彼女が、ヤマメの言っていた『女の子』だろうか。向こう岸へ行くにはこの橋を渡るしかなさそうなので、道すがら、ついでに声を掛けてみることにする。

 

「もし、そこのお嬢さんや」

「……」

 

 なんとも面倒くさそうな動きで、少女がゆっくりと振り向いた。薄暗い地底世界には似つかしくない、綺麗な金髪とエメラルドブルーの瞳をした少女だった。けれど肝心の表情がとんでもないほど不機嫌なしかめっ面だったので、月見は思わず、続けて掛けるはずだった言葉に詰まってしまった。

 この威圧感、かつての文とタメを張れる気がする。

 

「……」

 

 少女は口を固く閉ざしたまま月見を上から下まで観察し、終えるなり盛大なため息を隠そうともせず、

 

「ナンパかしら。妬ましい行動力ね。この橋から身を投げてみたらどう?」

「……えー」

 

 訂正、文と比べるどころの話ではなかった。初対面でいきなり自殺を勧めるとはこれいかに。

 月見を射抜く視線は刃物の如く。

 

「私みたいなやつにナンパなんて、憐れんでるつもりなのかしら。ふうん、妬ましいくらい優しいのね」

「……」

 

 確かにヤマメの情報通り、友好的な相手ではなさそうだ。

 とはいえ月見とて、何千年もの時を生きた大妖怪。この程度の雑言で言葉を荒らげるほど、気の短い性格ではないつもりだ。それに地底には、ひょっとしたらこういう癖の強い住人が多いのかもしれないから、これしきで怒っていては観光など夢のまた夢だろう。

 とりあえず、コミュニケーション。

 

「なにしてるんだ?」

「見ればわかるでしょ。その目は飾りなのかしら」

「……釣れるのか?」

「見ればわかるでしょ。どうやらその目は飾りみたいね」

「……」

「というかあなた、地上の妖怪ね。地上の妖怪はここへは立入禁止だって、洞穴の入口に看板が――ああ、そういえばその目は飾りなんだったわね。ごめんなさい」

 

 初対面の相手にここまで情け容赦のない罵詈雑言。なんとなく、彼女がこんなところでぽつんと釣りをしている理由がわかる気がした。そしてそれでもキスメよりかはマシだと思えるあたり、あの釣瓶落としがいかにウザい妖怪だったのかが身に染みて理解できるのだった。

 肩を竦め、

 

「一応、妖怪の賢者殿と、あとは鬼子母神殿から許可はもらってるよ」

「はあ? ……なに、もしかしてその二人と知り合いとか?」

「まあ、友人みたいなものだね」

「友達がいるのね。妬ましい。死になさい」

 

 なにやら友達の話題になった瞬間、少女が一層不機嫌になって悪口もレベルアップしてしまった。どうやら、この少女の前で友達の話はタブーらしい。……まあこれだけ口が悪いのだったら、仮に友達がいないのだとしても、無理からぬことなのかもしれないが。

 しかし出会ったばかりの月見にもここまで忌憚ない罵声を飛ばせるとは、彼女、一体何者だろうか。そのあたりを月見の視線から察した彼女は、またため息をついて、

 

「私は、橋姫だから」

「ほう」

 

 なるほど、橋姫。であれば、先ほどから妙に「妬ましい」と繰り返しているのにも、ひとまず納得が行くところであった。

 橋は、古来より二つの異なる世界をつなぐための通路であると考えられていた。すなわち一種の『境界』であり、外からやってくる外敵を拒み、内から出て行く者たちの無事を祈るために、いつしか守り神が祀られるようになった。

 橋姫とは読んで字の如く、大元を辿れば橋を守護する女神のことである。何分嫉妬深い神様として有名で、橋姫が守護する橋の上で他の橋を褒めたり、嫁入りする女を渡らせたりすると祟られるという。しかしこの信仰は早くに衰え、いつしか嫉妬深いという性質だけが残されて、代表的な『宇治の橋姫』にある通りの、恨みを抱えた鬼神として描かれるようになった。

 そんな橋姫の信仰は、外の世界ではもうなくなってしまったといっても過言でないけれど、やはりここは幻想郷の真下にある世界だけあって橋姫様もご健在で、地上と地底の境となるこの橋を、健気に守護していらっしゃると見える。……まあ、本当に守護しているのかどうかはわからないが。釣りをして遊んでいるし。

 と、橋姫の釣り竿にピクピクと反応。手元に伝わる揺れを感じて、嫉妬全開だった彼女の顔が俄に引き締まる。

 

「なんだ、釣れるんじゃないか」

「当たり前でしょ。じゃなかったら釣りなんてしないわよ」

「じゃあ、とりあえず私の目は飾りじゃなかったということで」

「ちょっと黙ってなさい妬ましいったらありゃしない」

 

 もはやなにを妬まれているのかもわからない。月見は黙って、橋姫と魚の格闘を見守ることにした。

 特に大物が掛かったわけではないらしく、引きは弱い。大したことはないと踏んだ橋姫は竿を脇に挟み、両手で糸を手繰り寄せて獲物を引き上げていく。

 やがて月見の視界に入ってきた魚は、

 

『ウボァー』

「そおい」

 

 橋姫が竿ごと魚を――魚なのかは甚だ疑問だがともかく――リリースした。

 橋の下で控えめな水柱が上がり、投げ捨てられた竿がどんぶらこーどんぶらこーと川下の方へ流れ去っていく。

 

「……」

「……コホン」

 

 橋姫は一つ空咳をすると、くるりと月見へ振り向いて何事もなかったかのように、

 

「で? 妖怪の賢者と鬼子母神に頼み込んでまで、あなたはどうしてこんなところに来たのかしら?」

「……なあ、今の」

「ここで生活してる私が言うのもなんだけど、わざわざ地上からやってくるほどの場所じゃないわよ」

 

 どうやら触れてくれるなということらしい。一体なんだったのだろうか。月見の目には、なにやら五本足くらいのUMAが見えた気がするのだけれど。

 ともあれ。

 

「……今まで来たことがない世界だからね。どういう場所なのか、興味があって」

「そんなしょうもない理由で二人から許可をもらったっての?」

「というか、いつでも好きな時に来ていいみたいな感じだね」

「へえ、仲がいいのね。友達がいない私への当てつけね。妬ましい死になさい」

 

 本当にまったくもって容赦がない。確かにこの性格では、地上の世界から遠ざけられてしまったのも、うべなるところなのかもしれない。というか本当に友達がいないらしいこの少女は。

 されど橋姫は、嫉妬深い鬼神となるより以前は、夫を強く想い続ける一途な女性として描かれてもいた。だから言動こそつっけんどんでも、彼女も根はきっと心優しい乙女なのだろうと月見としては思いたいのだけれど、どうだろうか。

 それに、友達がいないと言った彼女の瞳が、ほんの少しだけ、寂しそうに見えなくもなかったから。少女がもし本当は友達を欲しているのであれば、月見もちょうど地底の知り合いを何人か作りたかったところだし、ちょうどいい話ではないか。

 

「じゃあ、ここで会ったのもなにかの縁だし、よかったら私と友達」

「さっさとこの橋から身を投げてくれる?」

 

 最後まで言わせてすらくれないなんてひどい。

 橋姫はため息、

 

「どうやらほんとにナンパみたいね。余計なお世話よ。私には必要ないわ」

「……いや、必要どうこうで作るもんじゃないだろう友達は」

 

 苦笑しながらそう返せば大変不愉快そうに睨みつけられたので、月見は小さく肩を竦め、

 

「変なこと言って悪かったね。他に当たってみるよ」

「……」

 

 地底自体が仲違いによって創られるに至った世界なのだから、まあすんなりは行かないだろうとは思っていたけれど、初っ端から出鼻を挫かれて骨までヒビが入った気分だった。地底の住人は手強い。

 これ以上怒られる前に行った方がいいかな、と月見が旧都の明かりを眺めながら空気を窺っていると、ふと橋姫の眼光が和らいだ。かといって親しみの感情を宿したわけではなく、なにか一つ物事を諦めたように、気の抜けたため息だった。

 

「……あなた、変な妖怪ね。私みたいなやつと仲良くなろうとするなんて、やっぱりその目は飾りなんでしょうね」

 

 あいかわらず情け容赦のない物言いは、けれど不思議と悪口には聞こえなかった。それはきっと橋姫が、本人も気づかないほどにうっすらと、微笑んでいたからなのだろう。

 

「ま、変な妖怪ってことで、名前くらいは覚えておいてあげる。……私は水橋パルスィ。さっきも言ったけど、橋姫よ」

 

 さっきまで妬ましい死になさいと喚いていた者の言葉とは思えないほど柔らかな名乗りに、月見もまた微笑んで応じた。

 

「私は月見。ただのしがない狐だよ。よろしく、パルシィ」

 

 しかし名を呼び返した瞬間、パルシィの顔がめちゃくちゃ不機嫌になった。具体的には、背後で黒いオーラが立ち上がって、目が怒りで赤く輝かんとするくらいに。

 ……なにか、地雷を踏んでしまっただろうか。もしかして、いきなり名前で呼ばないでくれる馴々しいわね妬ましい、とかそういうことを気にするタイプだったか。

 しかして橋姫が低い声でこぼした不満は、以下のようなものであった。

 

「パルシィじゃなくて、パルスィよ。間違えないでくれる?」

「え? ……パルシィ、だろう?」

 

 不機嫌オーラ、パワーアップ。

 

「パ、ル、スィ、よ。『シィ』じゃなくて、『スィ』」

「……ああ」

 

 なるほど、どうやら彼女は水橋パルシィではなく、水橋パルスィらしい。微妙な違いなので、一度聞いただけではわからなかった。確かに名前を間違えられてしまえば、橋姫じゃなくとも誰だっていい顔はしない。

 なので月見は謝罪ののち、今度は注意深く、

 

「ええと……水橋パルシ、……パリッ、……パル、スィ、だな」

 

 ゴミでも見るような目で見られた。

 

「いやいや待て待て、もう大丈夫だ。……水橋パルsee」

 

 ゴミでも見るような以下略。

 

「……まあ、少し発音しづらいのは私もわかってるわ」

「パルseeじゃダメか」

「突き落とすわよ」

 

 ネイティブな発音はお気に召さないらしい。

 

「ならあだ名はどうだ? ……そうだな、可愛らしく『パルパル』とか。これなら呼び易」

「さようなら。あなたのことはすぐに忘れるわ」

「うおお待て待て背中を押すなっ」

 

 過去の『かぐちん』の一件然り、もしかすると月見には、そのあたりのセンスが綺麗さっぱり欠如しているのかもしれない。冗談抜きで突き落とされそうになったので、申し訳ないが、尻尾を巻きつけてパルスィの動きを拘束させてもらうことにした。

 

「ッ……ちょっと、なにするのよ」

「悪かったから、突き落とすのはやめてくれ」

 

 あんな五本足のウボァーと鳴くUMAが生息する川に突き落とされるなど、断じて御免である。

 振り向き見れば、パルスィがじたばた身じろぎしている。

 

「くっ……なんなのよこのもふもふは。無駄に触り心地いいのが妬ましいわ」

「……ありがとう」

「褒めてないわよ呆れたポジティブ思考ね妬ましい」

「はいはい」

 

 段々とパルスィの雑言にも慣れてきた気がするし、だからこそ思う。キスメよりかは何倍もマシだと。

 帰り道でまたあいつに会うのだろうかと思うと、今から気が重い。

 

「ちょっと、もう突き落とさないから放しなさいよ」

「……ああ、悪い」

 

 憂いある未来を一人で嘆いていたら、パルスィの不機嫌な声で現実に引き戻された。月見が尻尾を解くと、パルスィは少し皺がついた服を平手で伸ばして、やれやれと長いため息をついた。

 

「言いづらいんだったら『水橋』でいいわよ。そっちの方が楽でしょ」

「いや、大丈夫だよ。パルsee」

「殺すわよ」

 

 ちょっとからかいすぎたらしい。橋姫は鬼神なので、きっと喧嘩は鬼並みに強いだろうし、宇治の橋姫の伝承を考えれば呪術にも詳しそうだ。仲良くなっておいた方が長生きできるに違いない。

 

「わかったよ、水橋」

「まったく……ああ、本当に妙な妖怪と知り合っちゃったもんだわ」

 

 もう目を合わせるのも疲れたのか、パルスィは橋の欄干に頬杖をついて、五本足のUMAがいる水面を眺めながら、

 

「で、いい加減に話戻すけど。あなた、本当にここから先に行くつもり?」

「もちろんだとも。なにかオススメの観光スポットとかあるかい?」

「オススメってあなたね……なにを勘違いしてるのか知らないけど、地底はそんなに楽しいところじゃないわよ。そもそも地上世界を追いやられた連中が集まってるんだから、あなたを歓迎するわけない」

「でも、無理やり追い返されたりするわけじゃないだろう?」

 

 こうしてパルスィが、なんだかんだで、月見の話し相手をしてくれているように。

 

「それはそうだけど……」

「本当にダメそうだったら、その時は素直に帰るよ」

「はあ。よくわからないわね」

「橋姫としてはどうなんだ? 余所者はここから先には行かせられないってなると、少し困ってしまうけど」

 

 パルスィは水面を見つめたまま、しばらく考えて。

 

「……好きにしたら? 橋姫なんて、今となってはただの嫉妬深い鬼神だもの。橋の守り神としての信仰は疾うに廃れたわ」

「そうか。じゃあお言葉に甘えて、好きにさせてもらおうかな」

 

 行ってもいいのであれば、やはり月見に引き返すという選択肢は存在しなかった。地底世界に興味があるのは事実だし、それにいい加減に月見の方から藤千代を訪ねておかないと、「月見くんってば全然遊びに来てくれないじゃないですかー!!」と彼女の我慢が限界突破して、とても面倒なことになりそうなのだ。それでぶっ飛ばされでもしたらたまったもんじゃない。

 そう、とパルスィの反応は簡潔だった。

 

「それじゃあいってらっしゃい。精々頑張りなさいな」

「ああ。また帰り道に」

 

 パルスィが横目でこちらを振り向く。その瞳が虚を衝かれたように丸くなっていたのは一瞬で、すぐに元の不機嫌な――けれどどことなく気恥ずかしそうな――顔をして、ぷいとそっぽを向いた。

 

「……さっさと行きなさい。妬ましい」

「はいはい」

 

 今までで一番、女の子らしい情緒に揺れた声音に、月見はそっと苦笑しながら、彼女の後ろを通りすぎようとする。

 が、ふと冷たいなにかに頭を打たれたのを感じて、足を止めて。

 

「……なあ、水橋」

「? なによ」

 

 月見は岩肌で覆われた薄暗い地底の空を振り仰ぎ、呆然と言う。

 

「……なんで、雨が降るんだ?」

「はあ? ……降るに決まってるでしょう、梅雨だもの」

 

 しとしと、しとしと。

 どうやらこの地底も幻想郷と同じで、外の常識が通用しない世界らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第52話 「ぶらり旧地獄一人旅 ②」

 

 

 

 

 

 不思議にもこの地底世界には、天気が存在しているらしい。

 

「参ったなあ。ここなら雨も降らないだろうと思ってたんだけど」

「確かに、地上で生活してるあなたからしてみれば意外かもね」

 

 空を硬い岩盤が覆う世界なので当然太陽の光は届かないし、雲だってできない。けれど梅雨の間は雨が降り、冬の間に雪が降るのは、何メートル地下へ潜ろうとも変わらない一般常識らしかった。

 もはや嫌というほど見慣れてしまった雨がしとしとと降る中を、朱色が鮮やかな唐傘を広げてとぼとぼと歩く。そんな月見と同じ傘の下には、つい先ほど知り合ったばかりの橋姫が、寄り添うようにぴったりと収まっている。

 世間一般でいうところの、相合傘である。

 なんでも、傘を持ってこなかったらしい。

 

「そっち、濡れてないかい」

「大丈夫よ。お上手な気遣いですこと妬ましい」

 

 どうしてこんなことになっているのかといえば、成り行きとしか説明のしようがない。

 まさかの雨に出鼻を挫かれこそしたものの、せっかく旧都の目の前までやってきたのだから、月見としては今更引き返すわけにもいかない。一方でパルスィも、雨が降ってきたので旧都にある家に帰るという。

 となれば自分だけ悠々傘を差して女の子を濡らすというのもどうかと思ったので、そんなのするわけないでしょ馴れ馴れしいのよ妬ましいと罵られるのを覚悟で相合傘を提案してみたのだけれど、これが意外にも、あっさり了承されてしまったのだった。

 まったくもって、成り行きである。それ以上でもそれ以下でもない。

 なんでも、別に恋人じゃああるまいし一緒の傘に入ったってなんでもないでしょ、とのことらしい。むしろ恋人でもないからこそ問題になるのではなかろうかと月見は思うが、まあ、こうすれば二人とも雨に濡れず丸く収まる以上、パルスィさえ気にしていないのならいいのだろう。

 旧都の町並みは、人里に似ていた。焼杉の家屋が道の両端に建ち並ぶ、外の世界では見る機会も稀になった宿場町風。玄関先の釣行灯が見通す先まで整然と列を為す様は百鬼夜行が如く、しとしととした小雨が逆にアクセントとなって、幻を絵の具に筆を走らせたような深い幽玄さで満ちている。厚い岩肌の下に広がる町並みは開放感こそないものの、地上の町ではまず感じえない、心の奥が痺れるような重厚感を感じる。

 今は雨故に人気は少ないけれど、本来は住人の往来賑やかな、人里にも負けない活気に満ちた町なのだろう。どこかで客引きの声が聞こえるのはただの幻聴か、それとも誰かが雨にも負けず頑張っているのか。

 

「……で。旧都に着いたわけだけど、あなたはこれからどうするわけ?」

「ん、そうだね」

 

 横でこちらを見上げるパルスィに、月見は少し考えてから答える。

 

「とりあえず千代――鬼子母神殿を捜そうか。どこに住んでるか知ってるか?」

 

 藤千代が地底に住んでいるのは知っているが、どこに家があるのかまでは教えてもらっていなかった。

 パルスィからの返答は、さあね、と素っ気ない。

 

「でも、ここを少し行った先の十字路に居酒屋があって、よく鬼たちが酒を呑んでるわ。誰か一人くらい、知ってるやつがいるんじゃない?」

「ふむ。ではそこを当たってみようか」

 

 鬼には知り合いも何人かいるし、ちょうどいい。昼間から酒を呑まされないようにだけ気をつければ、有意義な情報が得られそうだ。

 ありがとうと礼を言うものの、やはりパルスィの返事は素っ気なかった。ぷいとそっぽを向いて、

 

「礼は要らないわよ妬ましい。じゃ、私は帰るから」

「雨、大丈夫か?」

「送ろうか、とでも言うつもり? まったく本当にお人好しなのね妬ましい。走ればすぐだし、ここまでで充分よ」

「そうか」

 

 月見は苦笑。彼女の情け容赦ない言い様にも今やすっかり慣れてしまったあたり、文に罵られていた頃の経験が生きている気がする。

 けれど違っていたのは、ほとんど背中を見せるほど大きくそっぽを向きながらも、最後にぽそぽそとした声で、

 

「……一応、礼は言っておくわ。ありがとう」

 

 それが、一周回って指摘する気も起こらなくなるほどに、恥ずかしそうな様子だったので。

 今度は苦笑ではなく、微笑んで応じた。

 

「またね」

 

 その一言で、パルスィの肩が情けないくらいにビクリと震えて。

 

「……妬ましい」

 

 苦し紛れの捨て台詞のように呟き、あとは居ても立ってもいられない様子で傘から飛び出して、小雨の注ぐ街道を外れの方へと走り去っていくのだった。

 その姿が家屋に隠れ見えなくなるまで見送ったところで、さて、と月見は吐息、

 

「じゃ、私も行こうか」

 

 今のところは梅雨時の外周区だけあって人気もほとんどないけれど、鬼たちが住む都だし、中心に向かえばそのうち賑やかになるだろう。

 くるりと傘を回して雨粒を振りまくと、旧都の中心へ続く街道を、ゆっくりのんびり歩いてゆく。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 しばし進めば案の定、梅雨時とはいえ賑やかな景観になった。傘がぶつからないよう気を遣う程度には街道いっぱいまで往来が増えて、道の両脇では、雨にも負けず出店が美味しそうな香りを漂わせている。決して前向きな理由でつくられた都ではないけれど、住人たちの活気は地上の町を凌ぐほどで、客引きの声を聞くだけで月見も自然と陽気な気分になった。

 とはいえ、ここで客引きに応じて「店主ーこれ一つ頼むよー」などと言ってみる度胸は、今の月見にはない。

 

「……」

 

 袖振り合う住人たちに、避けられている。周囲にぽっかりと空間ができるほどではないにせよ、すれ違った妖怪が、主に月見の尻尾を見て仰け反ったり、「なんで地上の妖怪が……」と好意的ではない声で呟いて離れていったりする。袖振り合う人々でこれなのだから、出店の前で気安く注文などした暁には、塩をまかれるかもしれない。

 旧都は、鬼が地上で忌み嫌われた妖怪たちを引き連れて築いた都。長年に渡って地上で嫌煙、迫害された妖怪たちは、そこで生きる者たちに好意的な感情を持っていない。それを考えれば、パルスィはむしろ好意的に接してくれた方だったのだろう。

 

「……やっぱりまずは、千代に会わないとね」

 

 もしくは勇儀など、他の鬼でも構わない。顔馴染みに出会えれば、今の状況も少しは変わろうか。

 パルスィに教えられた居酒屋は、それからすぐに見つかった。十字路の一角に『酒』の赤提灯を揺らす町家が鎮座していて、中から雨を乾かすほどに明るい喧騒が響いてきている。まだ昼間のうちからここまで馬鹿騒ぎをする連中となれば、きっと鬼たちに違いない。

 軒下に入って傘を畳む。すると、思いのほか水滴が足下に飛び散った。旧都の町並みを眺めながらのんびり歩いているうちに、すっかり水を吸ってしまったようだ。

 ただでさえ歓迎してもらえない可能性があるのだし、余計な顰蹙は買わないよう、ここでしっかり水気を

 

「――上オオオォォ等だ貴ッ様アアアアアア!!」

 

 払おうとした瞬間、野太い怒声とともに入口の戸が粉々に砕け散った。

 月見のすぐ真横のスペースを容赦なく薙ぎ払い、何者かの大柄な体が、雨空の下まですっ飛んでいったのが見えた。見るも無残なただの木片と化した戸の残骸たちが、ぼとぼとと儚い音を立てて周囲に散らばる。道行く人々が突然の事態に仰天し、どよめきながら足を止める。月見は傘の水を払おうとした姿勢のまま固まっている。

 

「……」

 

 もしも月見の立ち位置が一歩でも横にずれていたら、今頃この木片たちと一緒になって、地べたをゴロゴロ転がって泥まみれになっていたのかもしれない。

 気を取り直して前を見れば、街道の真ん中で片膝をつきながら、鬼の青年が苦い顔で口端の血を拭っていた。右の頬に手酷く殴られた跡があるので、どうやら面倒事らしい。居酒屋の酒気は人々の心を開放的にするが、それ故に、些細な口論でしばしば喧嘩が起こる。

「てめえ、なにしやがる!」と青年が吠えれば、すぐに店の中から応じる声、

 

「黙りやがれ! 大人しく聞いていれば、てめえ今日という今日こそはただじゃおかねえぞ!」

「逆ギレしてんじゃねえよ! 話を振ってきたのはてめえの方だろうが!」

 

 炎のような怒りのオーラとともに出てきたのは、こちらも鬼の青年だった。相当頭に血が上っているらしく、真横の月見に気づく素振りもない。指を槍さながらに相手へと突きつけて、雨を吹き飛ばすほどの剣幕で怒鳴る。

 

「うるせえ、てめえだってわかってるだろ! 俺たちにもう言葉は必要ねえ……拳で決着をつけてやる!!」

「……ああそうだな、確かにてめえのフザけた理論には言葉もねえよ。残念だなあ、てめえとはきっと分かり合えると思ってたのによお!!」

 

 喧嘩の原因は、なんらかの意見の食い違い。怒れるあまりダダ漏れになった二人の妖気が、ぶつかり合い、背筋も冷える一触即発の空気を散らし始める。巻き添えを恐れた通行人たちが、次々と顔を青くして退散していく。妖怪屈指の戦闘力を持つ鬼同士の喧嘩となれば、周囲への被害も計り知れない。

 さすがにこれは止めた方がいいかな、と月見は一瞬思ったけれど、

 

「――だぁから、着物には控えめな胸の方が似合うっつってんだろうがあああ!! どうしてそこがわからねえんだあああああ!!」

「うるせえええええ!! てめえ常識考えろよ、巨乳の方が、あの着物を下から押し上げる感じの方がいいに決まってんじゃねえかあああああ!!」

 

 どうやら放っておいてもまったく問題なさそうなので、さっさと店の中に入ってしまうことにした。

 そうだった。かつて妖怪の山で天狗と一緒に生活していただけあって、鬼の中にも、ああいう恥知らずな連中というのは多いのだった。

 漢二人の拳が火花を散らす。

 

「てめえ幽々子さんの恰好思い出せよ! あれだよ上手く言葉にできねえけど、こう……あの膨らみがこう……こうさあ!!」

「ざけんなてめえ萃香の着物姿見たことあるか!? オレぁ一回だけ見たことあるが、あれはもう……こう……とにかくすごくてだなあ!!」

「ハン、だったらてめえは勇儀さんの着物姿見たことあんのかよ!? オレはねえけど想像しただけで色々ダメになっちまいそうですゴチソウサマ!!」

「わからなくはねえ……! だがそれでも、萃香の方が上だ……!」

「分からず屋め……! あっ、おいそこの狐なあんた! あんたはどっち側につく!?」

 

 うるさい巻き込もうとするな二人でやってろ二人で相打ちして朽ち果てろ。

 月見が背後の喧騒を無視して店の中に入ると、ちょうど外に飛び出そうとしていたらしい、小さな女の子とぶつかりそうになった。月見の鳩尾にヘッドバッドを喰らわす寸前で急ブレーキを掛けた少女は、慌てた顔でこちらを見上げて、

 

「あっ――い、いらっしゃいませ! 只今ご案内しま」

「巨乳うううううううううう!!」

「貧乳うううううううううう!!」

「……ご、ごめんなさい! ちょ、ちょっとだけ待っててください!」

 

 なんの妖怪かまではわからなかったが、きっと居酒屋でお手伝いをしている子なのだろう。まだ小さいのにあんな馬鹿どもの相手をしないといけないとは、世も末である。

 教科書のような九十度で頭を下げた少女が、青い顔で店の外に飛び出していく。とはいえまさか鬼の喧嘩に割って入れるはずもなく、遠巻きのところでおろおろしながら、

 

「ふ、二人とも喧嘩はダメっ! ダメだよっ!」

「ハッ――そうだてめえあの子を見ろ! あの子の着物姿! そして控えめな胸! これを至高と言わずしてなんとする!」

「これから大きくなるもん!! ……って、そうじゃなくて! とにかく喧嘩しないでったらぁ!?」

「君はそのままの君でいてくれ! できれば萃香みたいに身長もそのままゲフッ」

「そうだよな、これから大きくなるよな! 大丈夫だどんどん大きくなってそして勇儀さんに負けないくらいにガフッ」

「貧乳うううううううううう!!」

「巨乳うううううううううう!!」

「うわーん!? やめてよもー!?」

 

 ……。

 もちろんそのあたり、個人によって好みが分かれるのは月見も承知している。しかし、唇を切るほどに殴り合い、たくさんの人々が往来する街道のど真ん中で叫び合ってまで、雌雄を決さねばならぬほどのことだろうか。『みんな違ってみんないい』では譲れないものがあるということなのか。そんなんだから世界から争いがなくならないのである。

 

「勇儀お姉ちゃん、助けてー!?」

「あー、はいはい。仕方ないなあもう」

 

 少女の悲痛な叫びに応じて、店の中でのそりと腰を上げたのは星熊勇儀その人であった。曰く着物を着るだけで一部の男をダメにしてしまうらしい彼女は、心底面倒そうにため息をついて、それから月見に気づくなりぱっと表情を明るくした。

 

「あれっ、なんだい月見じゃないか! なんだ、こっちに来てたんだね!」

「ああ、まあね」

「よーし、んじゃあちょっと一緒に一杯どうだい。ちょうど退屈してたところでねー」

 

 藤千代の居場所も知りたいのでそれは構わないのだけれど、助けが来てくれず外で涙目になっている少女のことは、無視なのだろうか。

 こちらの腕を取って席に戻ろうとした勇儀の頭を、尻尾で鮮やかにひっ叩く。

 

「あいた。どったの、もしかして都合悪い?」

 

 無言で店の外を指差す。

 着物の裾をぎゅっと握り締め、涙目でぷるぷる震える少女を見て、あー! と勇儀は両の手を打った。

 

「そうだ、そういえばあれを止めるんだった。いやあ、すっかり忘れちゃってたよ」

「……勇儀お姉ちゃん、ひどい」

「ごめんごめん」

 

 反省の欠片もない笑顔で謝罪したのち、少女に目線を合わせて、

 

「よし。ここから先はお姉さんと、この狐のお兄さんに任せときな」

「おいなんで私が頭数に入って……あーもう、すごい期待する目で見だしちゃったじゃないか」

 

 今までの涙目もどこへやら、月見を見上げる少女の瞳が、きらきらと惜しみなく輝いている。

 

「狐のお兄さん、助けてくれるの?」

「そうだよ。このお兄さんはね、実はとってもつよーい妖怪なんだ」

「ほんとに?」

 

 きらきら。

 

「ほんとほんと。喧嘩したら、多分私も勝てないだろうねえ」

「ほんとにっ? すごいんだねっ」

 

 きらきらきらきら。

 

「……勇儀」

「あっははは、んじゃあさっさとやろうか。あんたは左、私は右ね」

「頑張って、狐のお兄さんっ」

 

 きらきらきらきらきらきらきらきら。

 

「……まったく」

 

 まったくもって気は乗らないが、ここまで期待されてしまえば逃げるわけにもいかない。

 月見は雨空の下、拳をぶつけ合うたびに軽い衝撃波を生み出している闘争を眺めながら、

 

「あの二人、強いのか?」

「いんや、私より弱いよ」

「いや、そんな当たり前のことは聞いてないんだが……まあいいや」

 

 ため息一つ、勇儀とともに喧嘩の輪の中心へ。

 

「あっ、さっきの狐の――オレに力を貸してくれるんだな!? よしきた!」

「あっ、勇儀さん! ちょっとこいつに見せてやってくださいよ、姐さんの着物姿の破壊力を! ついでにオレも見たいです!」

 

 月見も勇儀もともに笑顔で、片や雨粒を弾く銀の尻尾を、片や怪力乱神の右腕を振りかぶり、

 

 

 

 

 

 

 

 

「――はいどうぞ、狐のお兄さん! ウチの店自慢のお酒だよ!」

「ああ、ありがとう」

 

 そして二匹の鬼をそれぞれ一撃で粉砕した月見と勇儀は、居酒屋の一角で少女の手厚い歓迎を受けていた。

 まだ昼間だというのに、店は大層な大賑わいだった。決して広くない店内は見渡す限りの満席で、皆の陽気な笑い声を隅々まで響かせ、梅雨の湿気を店の外まで吹き飛ばしている。鬼の喧嘩を一発で仲裁した腕前と、鬼の四天王たる勇儀の知り合いである点。更には芳醇に広がった酒気のお陰もあって、地上の妖怪である月見に顔をしかめてみせる者は幸いにしていなかった。

 店の外では、例の二人組が頭にたんこぶをつくって揃って気絶し、『反省中。』の貼り紙とともに雨曝しになっている。怒った少女が『反省中。』を貼っつけたあたりから俄に雨脚が強まったのだから、どうやら地底世界にも、天罰というものは存在しているらしい。通行人が誰一人として見向きもしていないので、旧都ではよくある光景なのかもしれない。

 満点の笑顔で月見にお酒を持ってきた少女は、店主の一人娘らしかった。男手一人で育ててくれている父のため、幼いながらも看板娘として活躍する健気な子なのだとか。

 

「なんだよ月見ー、たったそれっぽっちかい?」

 

 月見の目の前に置かれた徳利一本に、勇儀が口をすぼめてぶーたれた。

 

「つまんないなあ、もっと呑みなよお」

「私は、酒を呑みに地底に来たわけじゃないんだよ」

「まあ、そうだろうけどさ。どうせ観光とかいうんでしょ?」

「わかってるなら話が早い。というわけで、地底に来たからには一度は見ておけーってなスポットはないか?」

「あっははは!」

 

 勇儀は呵々大笑したあと、愛用の大盃になみなみと注いであった酒を一息で呑み干して、

 

「ぷは。あるわけないじゃんそんなの」

「……そうなのか?」

「だってあんた、ここは元々地獄だったとこだよ? 見てて楽しくなるようなもんなんてあると思う?」

 

 ……ないのだろうか。

 月見は、隣に立つ少女に視線を投げて尋ねてみた。すると、とても難しそうな顔をして大真面目に考え込まれてしまったので、勇儀の弁もあながち極論ではなかったらしい。

 少女はしばらくうんうん唸ってから、

 

「灼熱地獄とか、かなあ。今でも、一応動いてはいるんだけど」

「……それ、見てて楽しいのか?」

 

 目を逸らされた。

 

「……じゃあ、血の池地獄とか」

「見てて楽しいのか?」

「……」

 

 返事がない。

 

「…………針山地獄」

「地獄以外でなにか一つ」

「…………」

 

 沈黙が辛い。

 勇儀が大笑い。

 

「あっははは、だから言ったでしょ! そういう場所なんだよここは、ほらだから諦めて私と酒を呑もうじゃないか」

「本当か? 本当になにもないのか?」

「じゃあとりあえずお酒十本追加ねー。もちろん一升瓶で」

「おいコラ」

「……せ、聖輦船! 聖輦船はどうかな!」

 

 危うく月見の二日酔いコースが確定する間際、救いの手を差し伸べてくれたのは少女だった。両手をわたわたさせている。

 

「地底の空を飛んでるお船なんだよ! 珍しいでしょ!」

「ほう?」

 

 空飛ぶ船、と聞いて月見が思い出したのは、千年以上も昔の都で見た月の方舟だった。まさかあれと同じような船が、地底の空を飛んでいるというのだろうか。

 見上げる先で空飛ぶ船が駆ける光景を夢想した時、好奇心が一気に傾いたのを感じた。

 

「それって、乗れたりするのか?」

「どうだろ……でも、そのお船に乗ってる妖怪さんが、たまにお酒を呑みに来てくれたりするよ。すごく優しい妖怪だから、話せば大丈夫かも?」

「ほう、そうか」

 

 月の方舟を見たのは千年以上昔の話で、しかもほんのひと時だけだったからほとんど覚えていない。一度月の世界へ行った時も、空を飛ぶのは弾幕やら光線やらで、空飛ぶ船を拝むのはついぞ敵わなかった。

 あれと似たような船を地底のどこかでお目にかけられるとなれば、探さないという選択肢はなさそうだ。

 微笑み、

 

「ありがとう。探してみるよ」

「う、うん! ああ、よかった……」

 

 看板娘の端くれとして、客におすすめスポットの一つも紹介できないようでは沽券に関わるのだろうか。少女はほっと胸を撫で下ろして一礼すると、可愛らしい小走りで店の奥へと戻っていった。「おとーさーんおさけじゅっぽーん」と聞こえた気がするが、まあ月見の幻聴だろう。そうに決まっている。

 勇儀が早くも二杯目を空にする勢いで、頬杖をつきながら大盃を傾けている。

 

「聖輦船ねえ。私も見たことはあるけど、旧都の上は滅多に飛ばないよ。見つかるといいけどねえ」

「式神を使ってでも見つけてやるさ」

 

 せっかく地底にやってきたのだから、ここでしか味わえない経験を楽しむべきだ。酒を呑むのなんて、地上に戻ってからでもいつだってできる。

 いよいよ月見に酒を呑む気がないとわかって、勇儀は若干不機嫌になったみたいだった。

 

「それよりもあんた、聖輦船もいいけどちゃんと藤千代に会っときなよ。あんたがここに来るの、もうずっと楽しみにしてたんだから」

「ああ……」

 

 そういえば、月見がこの店を選んだ元々の理由は、藤千代の居場所を訊くためだった。知り合いに出会えてすっかり安心し、忘れてしまっていた。

 

「千代がどこにいるか、知ってるか?」

「んんっと……多分地霊殿じゃないかね。今日はそこに行くって言ってたような気が」

「地霊殿……?」

 

 勇儀は頷き、

 

「旧都の中心にある洋館だよ。紅魔館の地底バージョンみたいなもんさ。まああんな悪趣味な見た目はしてない、普通の洋館だけどね」

「ふうん……千代の知り合いでもいるのか?」

「うん。古明地さとりっていう」

 

 聞き覚えのある名前だったので記憶を遡り、ほどなくして、藤千代が友達だと言っていたのを思い出す。

 それならば話が早い。

 

「じゃあ聖輦船は一旦置いて、まずはその地霊殿とやらに行ってみようか」

「……ところで月見。あんたその、さとりって妖怪のこと、知ってるのかい?」

 

 歯切れが悪い上に視線を合わせようとしない、なんともよそよそしい問い掛けに、いいやと首を振った上で、

 

「でも単純に考えれば、覚妖怪だろう?」

 

 覚――鬼や天狗、狐や河童に比べれば劣るものの、全国的に広く知られる有名な妖怪だ。野山の奥に棲み、相手の心をすべて見透かす特殊な能力を持っている。そこだけ聞くとなんとも厄介そうだが、山に入ってきた人間をこの能力でからかおうとしては偶然焚き木が弾けて顔にぶつかったとか、運悪く桶のタガ(・・)が外れて顔面を直撃したとか、果ては思いがけず飛んできた斧で大怪我しそうになったとか、とにかく不幸な目に遭っては「人間は心にもないことを突然してくるから恐ろしい」と言い残して去っていくという、なにかと不憫な説話がつきまとっていたりする。

 とはいえ、心を読む覚妖怪の能力が、恐ろしいものであるのに変わりはない。

 

「いいのかい? 覚妖怪は私らの心を……」

 

 そこまで言いかけて、勇儀は脱力するように吐息。

 

「……まあ、あんたがそんなこと気にするはずもないか」

「ッハハハ、そうだね」

 

 もちろん月見だって、生まれて初めて覚妖怪と知り合った時は、片っ端から心を読み尽くされて苦い思いをした。だがそれも過去の話だ。外の世界を歩いていた分だけ数百年のブランクはあるが、さほどひどい事態にはならないはずである。

 慣れればどうってことないよ、と言えば、勇儀は感心半分呆れ半分で、

 

「はあ、アレを『慣れ』の一言で片付けられるあんたはさすがだね。同じ地底の連中ですら距離を置いてるってのに」

 

 徳利一本分の酒をほどほどに消費しつつ、さとりという少女について、勇儀から少し詳しい話を聞いてみる。あけすけな話をしてしまえば、心を見透かされて嫌な思いをしない者などそういないわけで、さとりはこの地底でも爪弾き者になっているらしい。建物自体は灼熱地獄に蓋をする意味合いもあって旧都の真ん中に建てられているけれど、藤千代以外に好んで近づこうとする者はまずいない。向こうもそれを理解してか、大抵の用事は遣いを立ててざっくりと済ませ、滅多なことでは姿を見せない筋金入りのひきこもりだとか。

 

「藤千代は、あの能力があるからね。上手い具合に調節して、心だけを読まれないようにしてるらしいよ」

「なるほどね」

 

 勇儀の口振りに、普段の快活さは見て取れない。心を読まれる難しさと、鬼としての人情の間で、彼女の心は複雑に揺れているようだった。

 それを取り繕うように、空元気に笑う。

 

「ま、そいつに会ったらよろしく頼むよ。私らじゃ上手くできないだろうし、向こうも迷惑だろうしね」

「……そうか」

 

 なんにせよ、まずは藤千代に頼まれた通り、さとりと会ってみるのが第一歩なのだろう。

 ちょうど酒が片付いたので、財布の準備をしながら立ち上がる。

 

「……狐のお兄さん、行っちゃうの?」

「ゆっくりしてる時間も、あんまりないしねえ――って、」

 

 一瞬は勇儀に呼び止められたのかと思ったが、それにしては声が幼すぎる。隣を見れば、一体いつの間にやってきたのか、看板娘の少女がじっと月見を見上げていた。

 今生の家族と生き別れするかのような、とてつもない悲愴に満ちた顔で。

 

「ど、どうした?」

 

 あー始まった、と勇儀が小さく苦笑いしている。

 少女は涙声で、

 

「もう行っちゃうの?」

「ああ、お酒も呑み終」

 

 少女がじわりと涙目になった。月見は続けるはずだった言葉を見失った。

 潤んだ瞳で、潤んだ声で、

 

「本当に行っちゃうの?」

「……」

 

 うるうる。

 

「やだよぅ……」

「…………」

 

 うるうるうるうる。

 

「もっと一緒にいたいよぅ……」

「………………」

 

 うるうるうるうるうるうるうるうる。

 ひっく。

 

「……、……じゃあ、もう一杯だけもらうよ」

「! うん、待っててねっ!」

 

 途端に目に沁みるほど眩しい笑顔を咲かせ、欣喜雀躍しながら駆けていった少女の背を、月見は最後まで見送ることができなかった。目頭を押さえて俯く。

 くっくっく、と勇儀が低く喉を震わせている。

 

「破壊力抜群だよねえ、あれ。わざとやってると思うでしょ? ところがどっこい、あれがあの子の素なんだよねえ」

「……やられたよ」

 

 半ば倒れ込むように、椅子の背もたれに深く身を預ける。

 

「あれのお陰で気がついたら財布がスッカラカンになってたってやつ、結構いるんだよねえ」

「おいおい、そんなに持ってきてないぞ……」

「や、持ってこなくて正解だよ。どうせ根こそぎ搾り取られるんだから、少ない方がいい」

「……」

「とんだ商売上手もいたもんだよねえ」

 

 まったくだ。あんなに本気で悲しんでいる女の子を無視し帰りなどすれば、人格を疑われたとしても文句は言えそうにない。

 どうやらこの呑み屋は、一度足を踏み入れてしまった以上、少女のお許しが出ない限りは帰らせてもらえない魔の巣窟らしかった。もはや悪辣な詐欺のようだが、幼い少女の純朴な心が相手となっては、いくら月見とて分が悪すぎた。

 

「はい、おまちどおさま!」

 

 少女が、足の指先から頭のてっぺんまで喜びに満ちあふれた様子で、月見のところに新しい徳利を持ってくる。

 

「それじゃあ、ごゆっくり!」

「……ああ」

 

 少女の笑顔を正面から見返すこともできない。ぱたぱたぱた、と可愛らしい小走りが消えていったのを確認してから顔を上げれば、勇儀がによによと嫌な口で笑っていた。

 大盃を掲げ、

 

「そんじゃあ、改めて乾杯と行きましょうか。――新たな犠牲者の誕生を祝って、ね」

「……はいはい」

 

 もうどうにでもな~あれと思いながら、月見も投げやりな動きで徳利を掲げる。

 

「――あ、勇儀お姉ちゃん、狐のお兄ちゃん! 一升瓶十本、もうちょっとで持ってくからね!」

 

 冗談だろう、と泣きたくなった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 というわけで、月見の財布は空になった。

 

「……やれやれ」

 

 本当に、もう、それしか言葉が出てこなかった。居酒屋で金を使い切るなど初めての経験である。勇儀も言っていたが、大した額を持ってきていなくて本当に助かった。

 幸いだったのは、最低限酒を呑まされずに済んだことだろうか。一升瓶十本を抱えて勇儀は呑ませる気満々だったが、これから地霊殿に向かうんだからやめてくれと必死に説得した甲斐あって、昼食を奢る方向で見逃してもらえた。なので月見の財布を素寒貧にした大部分は、「いっぺん食べてみたかったんだよね~」と調子に乗ってフルコースを頼んでくれやがった勇儀である。

 まあ、手痛い出費ではあったが、酔っ払うほど酒を呑まされてしまうよりかはずっといい。とりあえず、もしまたあの居酒屋を訪ねる機会がある時は、酒一杯分だけのお金を財布に入れて行こうと心に誓う月見だった。

 雨脚和らぎ音もなく小雨が降りしきる中、地霊殿は、さほど探すまでもなく見つかった。元々旧都の中心にある建物だけに、街道に沿って進むだけですぐだった。

 少なくとも月見が目にした中では、旧都唯一の洋風建築だった。正面には天主堂を思わせる背の高い塔屋があり、そこから左右に伸びる白い外壁は、途中でそれぞれ直角に折れ曲がり、奥へと向かって続いていっている。上空から見下ろせば、恐らく綺麗な四角形を描いていることだろう。吸血鬼が住む不気味な紅魔館とはまさしく逆で、聖堂を前にしたような荘厳さは、ここが地獄であることを忘れさせる偉容に満ちている。

 紅魔館の外観にすっかり慣れてしまった月見としては、いい意味で予想を裏切られた思いだった。自分の中の常識が、幻想郷に侵されてきているのを感じる。

 ともあれ。

 

「……ふむ」

 

 洋館の周囲には背の高い白の囲いが巡っていて、正面には紅魔館と同じく、堅牢な鉄製の門がそびえている。ただ、門番の姿が見当たらないのだけれど、用がある場合はどうすればいいのだろうか。勝手に入ってしまうのはさすがに気が引ける。

 と、視界の端に小さな黒い影。

 

「おや」

 

 黒猫であった。ただし尻尾の先が二又に分かれているので、猫又かなにかの妖怪と見える。

 黒猫は門の隙間をくぐり抜け月見の足下までやってくると、なー、とひと鳴きして、地霊殿の方へと踵を返した。

 

「……ついてこいって?」

 

 黒猫は振り向き、

 なー。

 ゆらゆら揺れる二尾の尻尾が、月見を手招きしているようだったので。

 

「……どれ、お邪魔します」

 

 門に錠は掛かっていなかった。ギイ、と金具が軋む音とともに足を踏み入れれば、すぐに洋風の庭園がお出迎えをしてくれた。中央の白い煉瓦張りの道を中心に、左右対称となるように植物が配置されていて、立体的に刈込みされた形は、迷路めいた幾何学模様を描いている。確か、幾何学式庭園と呼ばれるデザインだっただろうか。どうやら冥界の庭師にも引けを取らない、優秀なお手伝いさんがいるようだ。

 庭園を抜けた先は今度は白いタイル張りの階段になっていて、屋敷の玄関へと続いていた。タイルを踏み鳴らす小気味良い音とともに登りきってみれば、一足先に到着していた黒猫が、玄関の扉を爪でカリカリ引っ掻いていた。開けてー、ということらしい。

 唐傘を畳んで、しっかりと水気を切ってから、

 

「はいはい、今開けるよ」

 

 なー。

 観音開きの扉を引き開ける。木材の軋む音。すぐに黒猫が体を滑り込ませ、そのままエントランスの奥へ走り去っていこうとする。

 

「あ、おい」

 

 呼び止めれば、黒猫はこちらを振り返って、

 な!

 

「……ここで待ってろって?」

 

 なー!

 どうやら人を呼んできてくれるらしい。なかなか接待上手な黒猫だった。

 人を待つ間、月見は手持ち無沙汰にエントランスの景色を観察してみることにした。元々薄暗い地底に建つだけあって、屋敷の中も少々薄暗い。フロアは吹き抜けで、正面には二階へ上がる大階段。登った先には大きなステンドグラスがあり、その下で通路は二つに枝分かれて、一階と同様に左右の廊下へとつながっていく。壁の随所ではランプが淡い明かりを灯していて、ステンドグラスの光彩と幻想的な調和を成している。天井は高く、繊細な意匠をこらした純白の柱で支えられた威容は、まさしくどこかの聖堂にでも迷い込んだと錯覚させられるほどだ。

 なのでついつい上ばかりを見てしまいがちだが、視線を下ろしてみれば、足元にもまた面白いものがある。

 床の所々がステンドグラス張りになっていて、しかも、ほのかに光っているときた。

 

「……へえ」

 

 近づいて見てみれば、どうやらステンドグラスの下は空洞になっているらしい。触ってみるとじんわり温かい。灼熱地獄の上にある建物だというから、もしかしたらその熱を利用しているのかもしれない。

 天然の床暖房完備、というわけだ。踏み抜いたら怖いので、一応、上には乗らないでおく。

 

「すみません、お待たせしてしまいました」

 

 と、廊下の奥からぱたぱたと足音。振り向き見れば、この屋敷の主人にしてはまだ年若い、菫色の髪をした少女がいた。

 

「あら、どうされたんですか? ……ああ、確かに床をステンドグラス張りにしてるのは珍しいかもしれませんね」

 

 だが一瞬で心を読み透かされたあたり、恐らく、彼女が古明地さとりで間違いないだろう。心臓の前で瞳を開く生々しい眼球は、第三の目。覚妖怪が相手の心を読む時に使う、特別な器官だと聞いている。

 

「ええ、そうです。私がこの地霊殿の主、古明地さとりです。はじめまして、月見さん」

 

 こちらの名を知っているということは、既に藤千代から色々と話を聞かされているのかもしれない。

 不思議な印象を受ける少女だった。西洋館の主人といえばレミリアの姿が真っ先に思い浮かぶが、あのお転婆お嬢様とは百八十度違って、立ち振る舞いは楚々と垢抜けており、落ち着きを払って佇む様は外見以上に大人びている。一方でフリルを多くあしらい可愛らしく着飾った姿は、レミリアと同じくらいに幼いようにも思える。更にどこか違う世界にいるような感情の読めない瞳も相まって、見方次第で大人にも子どもに見える、錯視絵めいた女の子だった。

 興味深く思っていると、さとりがふいに顔を赤らめて、一歩後ろに仰け反った。

 

「か、かわっ……い、いきなりなにを言うんですか、もうっ」

 

 ……ああ、そこに反応するんだ。

 

「そ、それに興味深いって……そんなの突然困りますっ」

「……一応弁解しておけば、いや弁解しなくてもわかるだろうけど、変なことは考えてないよ?」

 

 月見の頭の中は、全部筒抜けなのだし。

 

「それはまあ……わかってますけど……」

 

 いきなりペースを乱されたのが悔しいのか、さとりはむ~としばし月見を睨んでから、コホンと咳払いをして仕切り直しした。能力を使って常に相手の行動を先読みしていくからこそ、予想外の事態にからっきし弱いという弱点は、どうやら覚妖怪の伝承通りらしい。

 

「と、ともかく。藤千代さんから話は聞いています」

「具体的には、どんな風に?」

「えっ……、それは……その……」

 

 さとりが、「えっちょっとそんなこと言っちゃっていいのかしら」みたいな困った目をした。その反応だけで、彼女が一体なにを吹き込まれたのか容易に予想がつく。大方、目の前で藤千代が何度もトリップしだして大変だったことだろう。

 

「は、はい……藤千代さんには悪いんですけど、かなり大変でした……。あっ、もちろん私、藤千代さんのお話が全部本当だなんてちっとも思ってないので安心してくださいね!?」

「……ああ」

 

 なんだか気を遣われた。えーっと大変かもしれませんけどとりあえず頑張ってください負けないでくださいね応援してますから嘘じゃないです本当ですよ!? とかそんな感じのさとりの心の声が、月見には聞こえた気がした。

 さとりが大きめの咳払いをした。

 

「と、とにかくっ。地霊殿までようこそいらっしゃいました。お茶を出すので、ゆっくりしていってくださいね」

「おや、いいのか?」

 

 てっきり月見は、地上の妖怪に飲ませる茶なぞあるかー! と塩をまかれる可能性も考えていたのだけれど。

 

「そんなことしませんっ! 嘘か真かはさておき、藤千代さんから話は伺ってますし……」

 

 多分半分くらいは嘘だと思う。

 

「半分もですか!? ……あっ、ええと……と、とにかくゆっくりしていってくださいって話です! もおっ!」

 

 怒られた。やはり頭の中身がすべてダイレクトに伝わってしまうのは、少しばかり考えものである。

 ……正直、面白い反応だなーと思ったのは月見だけの秘密だ。

 

「お、おもしろっ!?」

 

 しまった、月見だけの秘密が。

 さとりは頬をじわじわと赤くして、

 

「つ、月見さん! あなた、私をからかってますか!?」

「や、悪い悪い。覚妖怪と話すのは久し振りだから、ちょっと勘が戻らなくてね」

「ということは、これがあなたの平常運転なんですね……」

 

 とても物言いたげなさとりの半目を無視して、月見は思考を覚妖怪用に切り替える。コツは、一切の雑念を振り払うことだ。幻想郷に戻ってきてからは悟りの境地に至ることも増えたので、どうってことない。

 

「どれ、それじゃあお言葉に甘えさせてもらうとしようかな。千代もいるんだろう?」

「……はい。では、ご案内します」

 

 さとりはなおも不満げだったが、結局諦めたらしい。ため息をついて、静かな足取りで月見を先導し始める。

 月見は、さとりの小柄な背中に続きながら、

 

「……ちなみに、今は私の心は読めるのか?」

 

 覚妖怪は、胸の前にある第三の目を使って相手の心を読むという。ということは、想像だけれど、さとりが背中を向けている今は、心を読まれないのではないか。

 どうやら当たりだったらしい。さとりは静かに首を振り、

 

「いいえ。今のあなたは、第三の目の死角にいますので」

「なるほど」

 

 となれば、無理に雑念を滅却しなくても大丈夫そうだ。

 古明地さとりは、覚妖怪の割にはひどく物腰が柔らかだった。月見の記憶にある覚妖怪は、己の能力を存分に発揮して相手の心を読み、からかうのを生きがいとした種族だったはずなのだけれど、少なくともさとりからは、こちらをからかってやろうという悪戯心は感じられない。久し振りに覚妖怪と話をする月見としては、肩から力を抜けるというものだ。妖夢や慧音ほどではないにせよ、リアクションも申し分ないので、またからかってみても面白そうだし。

 

「今、なにか失礼なこと考えませんでした?」

「え? 今は心は読めないんじゃ……」

「か、考えてたんですね!? まさかと思って鎌をかけてみましたけど、案の定です!」

 

 なんと、してやられた。覚妖怪だけあって、そのあたりの勘は鋭いのかもしれない。心を読まれないからといって油断できない。

 さとりが顔を赤くしながら振り返る。

 

「藤千代さんが言ってました、たまにいじわるな時があるって! どうやらそこは嘘じゃなかったみたいですね!」

「失敬な。実際にお前になにかをしたわけでもないだろう?」

「考えるだけでも充分いじわるですっ」

 

 つーんとそっぽを向いてまた歩き出す、そのさとりの背中を見て、月見は低い声で苦笑した。やはり、いちいち悪くない反応だった。

 

「もうっ……覚妖怪をからかおうとする妖怪なんて、初めて見ました」

「そうかな」

「ひ、否定しませんでしたね!? からかおうとしてたんですね!?」

 

 しまった、またやってしまった。やはりこの少女、可愛らしい見た目以上に侮れない。

 

「か、かわっ……またそんなことぉ!」

 

 しまった、いつの間にかさとりがこちらを振り返っている。これでは頭の中がすべて筒抜けだ。

 まあ結果的には見てて実に面白いので、悪くないけれど。

 

「お、おもっ……あなた、さっきから一体なんなんですか! 心を読まれるのが嫌じゃないんですか!?」

「いやすまん、さっきからお前の反応がどうにも面白いから、これなら心を読まれるのも悪くはないなって」

「いじわるっ!!」

 

 狐の悪戯心をツンツン刺激するものがある。顔を真っ赤にして思いっきり叫んださとりは、ぷい! と実に勢いよくそっぽを向いて、それからため息とともにがっくり肩を落とした。

 

「もう、調子狂うなあ……」

「私は、そのままのお前でいいと思うよ?」

「それって面白いからですよね!? 絶対面白いからですよね!?」

 

 覚妖怪・古明地さとり、ツッコミの才能が光る。

 

「ツ、ツッコ……も、もういいです! もう先に行きますからね!? いいですね!?」

「ああ、うん」

 

 むしろここまで過剰に反応してくれるのが律儀すぎるというか。回れ右をしてずんずん歩き始めたさとりの背中に、月見も置いていかれないようにしっかりついていく。さとりは若干不機嫌になってしまったらしく、それ以降は進んでこちらに話しかける様子はなかった。

 そうしてステンドグラスが淡く光る廊下を、しばらく進んで。

 

「……月見さん」

「ん?」

 

 さとりの足取りが段々心もとなくなって、とあるドアを前にしたところで遂に止まった。応接室、と書かれている。どことなく途方に暮れたというか、どうしたらいいのかわからなくなっている迷子みたいな面持ちで、一心にドアノブを見つめている。

 

「……どうした?」

「いえ。私も、すっかり忘れてしまってたんですけど……」

 

 さとりがドアノブに手を掛ける。気持ちを落ち着けるように一つ深呼吸をしてから、決死の覚悟を決めた様子で開け放った先には――

 

 

「――えへへへへへやーですよさとりさんったらああでもさとりさんがそう言ってくれるということは私と月見くんは傍から見ればそういう関係に見えなくもないってことですよねああそういえば月見くんはいつになったらこっちに遊びに来てくれるんでしょうこうやって焦らすのは月見くんの得意技ですけど焦らしすぎってのも問題ですよね私ってあんまり我慢強い方じゃないですしこのままだと色々大胆な行動に出ちゃうかもしれませんようふふふふふ月見くん月見くん早く来ーい早く来ーい……」

 

 

 ソファーの上をバタバタ転がりトリップしている、藤千代がいて。

 

「……これ、どうすればいいんですか?」

 

 なんだか泣きそうになっているさとりに、月見はため息をつきながら、心の中ではっきりこう返した。

 ほっとけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第53話 「ぶらり旧地獄一人旅 ③」

 

 

 

 

 

 藤千代は、およそ十分ほどで妄想世界から帰ってきた。

 

「気がついたら月見くんが隣にいました! これぞ愛の為せる技ですか?」

「私に訊くな」

「じゃあそういうことで!」

「ええいひっつくな」

 

 隙あらば肩にすり寄ってこようとする藤千代を、月見は尻尾を使ってぐいぐい押し返す。客人としてソファーを貸してもらっている手前、あまりみっともない姿を晒すわけにもいかないのである。

 いや、向かい側でお茶の準備を整えるさとりが、この互いに譲らぬ戦いを見てなかなか困ったように笑っていたので、既に手遅れかもしれない。

 

「お二人とも、本当に仲がいいんですね」

 

 月見の心を読んだにもかかわらずなにも言ってこないので、やっぱり手遅れのようだ。

 藤千代がえっへんと胸を張っている。

 

「そうなんですよ。大地が裂けようと離れない堅い絆で結ばれているのです」

「だからひっつくなって」

「さとりさんさとりさん、月見くんの心を読んでくださいっ。月見くんはツンデレさんなので、きっと満更でもないと思ってるはずっ」

「……鬱陶しいと思ってるみたいですね」

「がーんっ」

 

 わざとらしく仰け反った藤千代が、やはりわざとらしく、よよよと崩れ落ちていく。

 

「もう月見くんったら、素直じゃないんだから……」

「さとりさとり、千代の心を読んでみてくれ。きっとこうやって油断させる魂胆のはず」

「えっと……ごめんなさい。私、藤千代さんの心は読めないんです」

 

 ああ、そういえばそういう話だったか。『認識されない程度の能力』を上手く使って第三の目から逃れているのだと、勇儀が酒を呑みながら教えてくれたのを思い出す。

 ……ついでにあの店で財布の中身を空にされたことまで思い出してしまい、ちょっとブルーな気分になった。

 ひと通りお茶の支度を終えたさとりが、同情するように柳眉を下げた。

 

「月見さん、あのお店に行ってきたんですね……」

「行ってきちゃったんだよねえ……。知ってるのか?」

「直接行ったことはないんですけど……外にお遣いを出すと、たまにあの店でお金を全部使ってきてしまうことがあって」

 

 今までいくら搾り取られたことか……とため息をつくさとりもまた、ブルーな表情だった。こんなところにまで被害が及んでいようとは、つくづくあの看板娘が、末恐ろしい商売上手なのだと戦慄させられる。将来はきっと、夫を尻に敷いているに違いない。

 

「あ、お茶どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 

 さとりが淹れてくれたお茶を受け取る。趣ある濁りの日本茶だ。地霊殿という建物が純西洋風なだけあって、紅魔館に行った時と同様紅茶が出てくるものと思っていたので、少し意外な気分になる。

 もっとも、咲夜によく紅茶をご馳走してもらう身とはいえ日本茶派なので、一向に大歓迎だけれど。

 

「もちろん紅茶もありますが、地底ではまだあんまり広がっていないですし、慣れてない方も多いんです」

「なるほどね」

 

 さとりの言う通り、例えば鬼の連中が好んで紅茶を飲んでいる姿は想像できない。地上でも、日頃から紅茶を嗜んでいるところといえば、紅魔館以外にあるのかどうか。西洋の文化は、幻想郷では未だ少数派だ。

 熱いので気をつけながら一口含んでみれば、月見が淹れるよりもずっと美味しい。

 さとりが、少しくすぐったそうにはにかんだ。

 

「日本茶に限らず、お茶を淹れるのは好きなんです」

 

 その花が綻ぶような笑顔を見ながら、月見は思う。やはりさとりは、月見の記憶にある覚妖怪とは似ても似つかないほど穏やかな性格をしている。人の心を読む能力を持っていても、それを悪用することなく親切で友好的。ともすれば、彼女が覚妖怪であること自体を忘れてしまいそうになるくらいだ。

 地底の住人からは避けられがちとのことだが、正直、あまり理解できない。普通にいい子ではないか。避ける理由がどこにあるというのか。

 さとりが、とてもくすぐったそうに頬を赤らめた。

 

「……別にからかってるわけじゃないぞ?」

「う……それはわかってるんですが、その……」

 

 さとりはきゅっと身を縮め、なんとも初々しくぽそぽそと、

 

「覚妖怪は、昔から嫌われ者なので……その、そういう褒め言葉には、ちょっと慣れてないというか」

「そんなもんかね」

「というか、覚妖怪を褒める人なんて初めて見ましたっ。悪口を言うつもりはないですけど、でも月見さんはちょっと変ですっ」

「まあ月見くんは、基本的に誰かを嫌いになったりしないですからねー」

 

 いつの間にか復活していた藤千代が、まだ熱いお茶をちょびちょびと飲みながら朗らかに笑った。

 その言葉を、月見は特に否定しない。自分がそういった、『誰かを嫌う』というマイナスの感情に疎いことは、文との一件を通して既に自覚済みだ。何千年も昔から生きて何千何万という人々を見てきたから、そのあたりについては達観してきているのかもしれない。

 そして、誰かを嫌わないのは藤千代も同じ。というか彼女の場合は、持ち前のふんわり柔らかい人柄で、誰とでもすぐに仲良くなってしまう。さとりの友人をやっているのがその証拠だ。鬼子母神の名を畏れる者は多くとも、人として嫌う者はほとんどいないのである。

 なので別に、月見だけが変という話ではない。

 

「むー……」

 

 しかし自称褒め言葉に弱い覚妖怪は、納得の行かない様子で月見を睨みつけているのだった。……褒められて不機嫌になる子というのも珍しい。もしかするとあれだろうか。彼女はどちらかというと、優しい言葉を掛けられるよりも厳しい言葉をぶつけられる方が好

 

「月見さん?」

「冗談だよ」

 

 莞爾と咲いたさとりの笑顔には、有無を言わさぬ凄みがあった。

 ともあれ、冗談を言われたさとりがまた「むー……!」と不機嫌になってしまったので、月見はさりげなく話題を変えることにした。

 

「さりげなくないですけどね」

 

 そこは目を瞑ってくれると嬉しい。

 

「ところで、この地霊殿には灼熱地獄があると聞いたんだけど」

 

 さとりはしばらくじとーっと半目をやめなかったが、やがてため息とともに、

 

「正確には、灼熱地獄『跡』ですね。一応動いてはいますけど、使われてはいないので」

「なるほど。……せっかく地底に来たんだし、よければ見ていきたいと思ってね」

「はあ……。行って楽しいところではないと思いますけど。熱いですし」

 

 それはそうなのだけれど、やはり見られるものは見ておかないと遥々地底までやってきた意味がないというか、途中の洞穴では地底世界のアイドルを自称するわけのわからないチミっ子に目をつけられ洞穴を出てすぐの橋では橋姫に妬ましい死になさいと罵られ地底の居酒屋では財布がすっからかんになるまで搾り取られそれでおしまいというのはさすがに旅の思い出としては如何せん

 

「わっ、わかりました。案内をつけますから、どうか楽しんできてくださいっ」

 

 わかってもらえたようでなによりである。

 

「おりーん!」

 

 さとりが『おりん』なる誰かの名を呼べば、ちょうど月見が座っていたソファーの真下から、一匹の黒猫が這い出してきた。月見を地霊殿まで案内してくれた、あの二叉の黒猫だ。

 予想外の場所からの登場に、さとりが目を丸くしている。

 

「お燐、そんなところにいたの?」

 

 黒猫は呑気に、なー、とひと鳴き。

 

「隠れてなくてもよかったのに」

 

 なー。なー、なー。

 

「……お燐、今日の晩御飯は抜きね」

 

 な!?

 一体なにを話しているのだろうか。長年世界中を旅して歩いた月見は外国語にまずまずの覚えがあるが、さすがに猫語は専門外だ。ただ、『おりん』なる黒猫がなにか余計な一言を言って、さとりの怒りを買ったと見える。さとりの脚にしがみついて、命乞いならぬ飯乞いをしている。

 

「撤回してほしいんだったら、ちょっとお手伝いをしてちょうだい。月見さんを灼熱地獄跡に案内してあげて」

 

 な!

 御心のままに! とでも言うかのようにはっきり頷き、黒猫は月見にチラリと目配せ。言葉はわからないが、ギラギラと使命感に燃える瞳から、ついてきて! と言われたことくらいは容易にわかった。

 お茶をぐっと飲み干し、ソファーを立つ。

 

「ごちそうさま。それじゃあ、ちょっと失礼させてもらうよ」

「楽しめるかどうかはわかりませんが、ゆっくりしてきてください」

「いってらっしゃいー。私は、もう少しさとりさんと話してますね」

 

 少女二人に見送られ出入口へ向かうと、いつの間にかドアノブで、黒猫がぷらーんと宙吊りになっていた。自力で開けようと試みたらしいが、悲しいかな、失敗したらしい。

 

「どれ、ちょっとどいてご覧」

 

 黒猫がドアノブから飛び降りる。月見はノブに手を掛けて扉を開けてやる。

 ……その瞬間、黒猫が猛ダッシュで外に飛び出して、そのままノーブレーキで突き当たりの角を曲がって消えた。

 

「……」

 

 本当にあの黒猫、月見を案内する気があるのだろうか。どうやらあの子の晩御飯は抜きになりそうだ。

 と思って呆然としていたら、黒猫と入れ替わるようにしてこちらへ走ってくる、一人の少女。

 

「お待たせー、おにーさん。それじゃあ行こっか」

「ああ……?」

 

 なんとなく流れのままに頷いてしまったけれど、さて彼女は一体何者か――少女の出で立ちを観察しているうちに、お尻のあたりで黒の二叉が揺れているのに気づき、ぽんと手を打つ。

 

「ああ、おりん」

「あ、そうそう。気づかないかなー? と思ってたけど、そんなことなかったね」

 

 どうやらあの黒猫は、ノーブレーキで曲がり角の向こうへ消えたのち、わざわざ人型に変化してから戻ってきたらしい。なぜそんなに回りくどい真似をしたのか、月見にはいまひとつ理解できなかったが、

 

「ほら……男の人の前で変化するのって、恥ずかしいじゃん?」

 

 まあ、少女、もしくは女性独特の感性の問題ということなのだろう。……ちなみに変化の術とは瞬きも許さぬ一瞬で行われるため、特別、変化途中のアレな姿を見られるとかそういった心配とは無縁だ。そうでなければ、かつて宴会の終盤で酔っ払い、少女たちの目の前で狐に変化して寝た過去を持つ月見の世間体は、疾うにこの地底よりも深い地獄の底まで失墜している。

 それは、さておき。

 

「じゃ、自己紹介だね。私は火焔猫燐。火車の妖怪だよ。『お燐』って呼んでね」

「よろしく。私は月見。ただのしがない狐だよ」

 

 さておき、黒猫改め、火焔猫燐である。黒猫の姿からは一転して、深紅の瞳と三つ編みがまず目に飛び込んでくる少女だ。一方で、黒猫の名残なのか身を包んでいるのは黒のドレスで、三つ編みを留めるリボンや靴なども黒く、操同様黒を好む性格なのだと推測できる。目はやや釣り目だが、八重歯が覗く笑顔は橙と似ていて、とても人懐っこそうだ。

 そして、火車。死者を火葬場や葬儀場に送る『野辺送り』の最中に、黒雲とともに現れては死体を持ち去ってしまうと伝えられる出雲の妖怪だ。猫の姿をしているとされ、実際、年老いた猫が火車に化けると説いた説もある。その信仰は根強く、かつては火車の目を欺くために偽の棺を用意し、葬儀を二度行うこともあったとか。……こんな可愛い見た目をして、嬉々として人間の死体集めをしているのだろうか。あまり想像したくない光景ではあった。

 

「それじゃ、行こっか」

「ああ」

 

 最後にさとりたちに軽く手を振って、応接間をあとにする。

 パタン、と扉を閉める音。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……それで、どうでしたか? 月見くんのこと」

 

 どうだったかと問われれば、変な妖怪だったというのが率直な感想だ。

 悪口を言うつもりはない。けれどほとんどの者たちが覚妖怪の能力を恐れ距離を置いた中で、むしろ心を読まれるのを利用してこちらをからかってくるような相手になんて初めて出会った。今まで見たこともない妖怪。だからやっぱり変な妖怪だと、古明地さとりは思う。同時に、藤千代から聞かされた通りだったとも。

 

「……藤千代さんの言った通り、変な人でした。初めてです。覚妖怪の私に、あんな風に――」

 

 心を読むのも、読まれるのも、恐ろしいことだ。数え切れないほどたくさんの心を読んできた。だから、己の能力がどれほど他人から疎まれるものなのか、古明地さとりは痛いほどによく知っていた。

 好意的な反応はまず返ってこない――返ってきたとしても、それは初めだけ。最初は純粋な好奇心だけで、言葉にせずとも意思が伝わる珍しさを面白がっていた者たちも、結局は、一度心に浮かべれば最後すべてが筒抜けになるという事実に、やがて恐怖を覚え拒絶するようになる。もしくは、表面上は好意的に見えても、心の中では恐ろしいことを考えている下賎な連中というのも、少なからずいた。

 それが、普通だった。幻想郷最強と謳われる鬼子母神すら、さとりに心を読まれるのを忌避して、能力を使うことで第三の目の認識から外れているのだから。

 だからこそ、心が読まれることを気にするどころか、逆に利用してこちらをからかう姿すら見せた月見の存在は、さとりにとってなによりも鮮烈だった。

 

「――本当に変ですよね。私みたいな妖怪相手に、かわいいとか、面白いとかなんて考えて、からかおうなんて」

「多分、それって半分以上素だと思いますけどねー。ふふ。月見くんと話してる時のさとりさん、見ていてとてもかわいらしかったですよ?」

「……それはもう、忘れさせてください」

 

 さっき、お燐にも同じことを言われた。一応は真面目に月見を案内しているようだが、彼女の晩御飯抜きを取り消すと、まだ心に決めたわけではない。

 

「嫌でしたか? 月見くんと、話するの」

 

 どうだったのだろうか、とさとりは思う。とりあえず、非常に疲れたのは確かだ。ほんの数十分彼と話をしただけで、笑ったり怒ったり、向こう一週間分は表情筋を動かした自覚がある。

 けれど。

 

「……嫌では、なかったですね」

 

 月見と話をしている最中こそ、たびたび不機嫌になったりしたけれど。

 こうして思い返してみると、それよりもなによりも、やっぱり新鮮だった。慌てるあまりよく考えないまま口を動かしてしまったり、顔を真っ赤にして品のない大声でツッコんでしまったり。地底にやってきてからは――いや、地上で暮らしていた時期を含めても、こんなことをして生きていた記憶はほとんどなかった。なんだか自分が自分でなかったみたいで、笑ってしまう。

 自嘲するのではなく、ただ、さっぱりした気持ちで。

 

「それほど、悪くは、なかったです」

「仲良くできそうでしょうか。もしそうだと、私としても非常に嬉しいんですけどー……」

 

 さとりは口元に笑みを残したまま、目を伏せ、それはどうかな、と思う。確かに月見はいい人だ。数十分話した印象だけに限っていえば、もしかして、と期待してしまう部分があるのは事実。

 けれどそういった相手と、結局は上手く行かず疎遠になってしまった事実も、さとりの記憶には数多く刻まれている。

 

「……仲良くするっていっても、どうすればいいんでしょうね。私、そういうのはよくわからないです」

「なにもしなくていいと思いますよ」

 

 さとりは反射的に伏せていた視線を上げた。

 静かな表情のままお茶を傾ける、藤千代のかすかな笑顔が見える。

 

「特別なことなんて、なにも要らないですよ。ごくごく普通の、さとりさんの、ありのままの姿を見せちゃえばいいんです」

「……でも」

 

 それで上手く行った経験なんて、地霊殿のペットたちや藤千代の例外を除いては一度も、

 

「それでいいんです。……だって月見くんは、そういう人ですから」

「……」

 

 藤千代の心は読めないけれど、それでもわかる。嘘をついている者は、こうも綺麗には笑えない。月見という妖狐と、最も多くの時間を共有した友の一人としての、掛け値ないまでの確信だった。

 当たり前の公式を、諳んじるように、

 

「人のありのままの心を、ありのままに受け入れる。……月見くんの最大の美点であり、欠点なのです」

 

 だからさとりも、小さく笑った。

 

「……あの人のこと、本当によくわかってるんですね」

「ふふふ、そうなのです。海よりもふかーく、山よりもたかーく、空よりもひろーい関係なのですよ」

 

 なんだかいいなあ、とさとりは思う。そんな風に胸を張れる友人なんて、さとりには一人もいない。世界でたった一人の妹とすらも、決して仲が悪いわけではないが、胸を張れるほど互いを理解し合っているわけでもない。

 それが覚妖怪の宿命なのだと、ずっと長らく諦めていたけれど。

 

「そうですね……そうなれれば、いいですね」

 

 もう一度、望んでもみても、いいのだろうか。

 

「なれますよ。私も、お手伝いするのです」

「……ありがとうございます」

「いつか、三人で一緒にお酒でも呑みましょうっ」

 

 ああ。いつか本当に、そうなれればいいなと。

 さとりは夢を見るようにまぶたを下ろして、はい、と小さくささやいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「おにーさんって、変な妖怪だよねえ」

「そうらしいね」

 

 もはやあまりに言われ慣れた評価である。

 

「覚妖怪のさとり様と初対面であんなふつーに話する人なんて、鬼子母神様以来だよ。でもおにーさん、鬼子母神様と違ってさとり様に心読まれてるんでしょ?」

「まあね」

「やっぱり変だあ」

 

 灼熱地獄跡の入口へは、応接間を出てから一分と掛からなかった。どうやら地霊殿の中庭に位置しているらしく、二十秒ほど廊下を進んで中庭に出て、更に二十秒で中央まで歩いて到着だった。

 雨は、いつの間にかすっかりあがっていた。廊下の勝手口から出た当初は、正門の庭園と同様丁寧に刈り込まれた庭が広がっていたが、進んでいくうちに物珍しい光景が目につくようになる。

 

「……ここが?」

「ここがというか、このあたりが、ね」

 

 庭の中心を基点として等間隔で、廊下で見たのと同じように、足元がステンドグラス張りになっている。ただしその大きさは大人数名が一度に出入りできるほどで、さながらなにかの扉のようにも見える。

 そして実際、その通りなのだろう。ステンドグラスが横にスライドして開け閉めできる構造になっていたので、さしずめここが――

 

「この天窓から降りてった先が、灼熱地獄跡だよ」

「地面にある窓って、天窓っていえるのかなあ」

「ニュアンスが通じれば問題ないんだよ、おにーさん」

 

 然もありなん。

 

「開けてみても?」

「いいよー」

 

 膝を折って、足元のステンドグラスをスライドさせてみる。その大きさ故に重量があるため、両手を使った。開けた瞬間、暗闇の奥から粘性を持った嫌な熱気が噴き出してきて、思わず顔をしかめた。

 温度自体は、思っていたほど高くはない。しかしさすが地獄の名を冠しているだけあって淀んでいて、風に敏感な操あたりを放り込めば、しばらくの間ふぎゃあああああとのたうち回って苦しんだのち、ひっそりと動かなくなるだろう。

 隙間ができないよう、丁重にステンドグラスを閉じておく。

 お燐が、喉をころころさせて笑った。

 

「あはは。やっぱり地上育ちのおにーさんにはキツいかな?」

「お前は平気なのか?」

「まあね。住み慣れた故郷の空気ってやつだよ」

 

 とてもではないが、暗闇の奥がどうなっているかなど、確かめてみるつもりにはなれなかった。灼熱地獄跡の見学はここで終了となりそうだ。すまんさとり、頑張ってみたけど楽しめなかったよ。

 

「この天窓たちを開け閉めして、熱を逃して温度を調節するんだよ。今は……一つも開いてないから、ちょうどいい感じみたいだね」

「地霊殿が床暖房完備なのも、この灼熱地獄のお陰なんだね」

「そういうこと。……あっと、そうだ」

 

 なにかを思い出したらしいお燐が、パンと両手を打ち、

 

「せっかくだし、ついでにあたいの友達を紹介しときたいんだけど……今は奥の方にいるかなあ?」

「友達……火車か?」

「んーん、地獄鴉だよ」

 

 地獄鴉――とは聞き慣れない名前だが、要は地獄に生息している鴉の総称だろうか。

 

「あたいと同じで、さとり様のペットだよ。ここの温度管理を任されてるのさ」

 

 お燐の話を聞きながら、月見は、足元のステンドグラスの奥から何者かが近づいてくる気配を感じた。もしかすると、件の地獄鴉かもしれない。しかし気配があまりに希薄なため、お燐は気づかないまま、人当たりのいい笑顔で友達の紹介を続け、

 

「名前は、霊烏路う」

 

 ガン!

 足元のステンドグラスが悲鳴を上げた。ついでに、「うにゃあっ!?」と女の子の悲鳴も聞こえた。

 

「にゃ!? な、なになに!?」

 

 お燐がびっくり仰天して飛び上がる。その頃には既に、足元まで近づいてきていた何者かの気配は、急速に落下を開始している。

 ……心なしか、「うにゃあああああ~……」と情けない少女の悲鳴がフェードアウトしていった気がしないでもない。

 間、

 

「……あー、なんだそういうことか。もう、びっくりしたー」

「……もしかしなくても、今のって」

 

 ほっと胸を撫で下ろしているお燐に問えば、彼女は実に答えづらそうに苦笑して、

 

「あー、ええと、そのー……まああれだよ。おくう、鳥頭だから」

「……」

「結構こういうことがあるんだ。うん、それだけだから、気にしないで」

 

 閉口する月見を尻目に、お燐がステンドグラスを開けて、暗闇の奥に向かって叫ぶ。

 

「おくうー、生きてるー!?」

 

 返事はない。

 

「……大丈夫なのか?」

「んー、まあ大丈夫でしょ。今の灼熱地獄の熱くらいじゃ、地獄鴉は火傷もしないよ」

 

 月見が心配しているのは、火傷ではなく頭の方なのだけれど。

 しかし結構ある光景だけに、お燐はまったく気にしていなかった。

 

「もー、だからいっちょまえに考え事しながら飛ぶのやめなって言ってるのに。何回注意してもダメなんだから……」

 

 ぶつくさ言いながらステンドグラスを閉める。月見は、灼熱地獄の底でたんこぶ作って気絶しているであろう少女に、心の中で静かな合掌を捧げた。

 

「えっと、話戻すけど、名前は霊烏路空ね。あたいたちは『おくう』って呼んでるよ。この通り、ちょっと抜けてるのがかわいいやつなんだ」

「覚えておくよ」

 

 むしろ、忘れられそうにない。某自称地底世界のアイドルに負けず劣らず、インパクトのある登場――いや、退場だった。

 

「じゃ、灼熱地獄跡はこんなとこだね。あと、見て回りたいところとかある?」

「そうだね……」

 

 今回の地底一人旅で、もう一つ見学候補に挙がっているのは聖輦船だ。しかし重力から解き放たれ空飛び回るような船が、今はどのあたりで風を切っているのか。

 そんなことを考えながら、何気なしに空を見てみると、

 

「……ん? あれって……」

 

 見上げる空、もとい岩盤を横切る、地上では見慣れない飛行物体。半ば岩盤と色が同化していてわかりづらいが、指を差してみれば、お燐はすぐにわかったようだった。

 

「ああ、聖輦船だね。地底を飛び回ってるお船だよ」

「なんと」

 

 旧都の上はあまり飛ばないとの事前情報だったが、こんなにあっさり巡り合えるとは素晴らしい僥倖だ。

 しかし、ここで欲望に駆られて追い掛けるわけにもいかない。今は地霊殿にお邪魔している最中なのだから、さとりに断りも入れずに飛び出してしまっては無礼に当たる。かといって、聖輦船の速度は思っていた以上に速く、今から応接間に戻りなどしては見失ってしまうだろう。

 ならば、どうするか。久し振りに見たー、と呟いているお燐の隣で、月見は一枚の紙片を取り出した。人の形を象った式神、『人形(ひとがた)』に聖輦船を追尾させて、あとで気兼ねなく追い掛ければいい。

 掌に乗る程度の小さな式神は、燕のように空を切り、あっという間に見えなくなっていく。お燐の尻尾が、器用に『?』マークを描いた。

 

「今、なにしたの?」

「式神に聖輦船を追わせたんだ。機会があれば見学してみたいと思ってたからね。さとりに断りを入れてから、追い掛けるとしようか」

「ふーん……さすがは妖狐。妖術はお手の物ってわけだね」

 

 厚かましくなりそうなので強くは言わないが、腕に覚えはある方である。

 

「それじゃあ、一旦戻ろうか」

「そうだね。……これで晩御飯が食べられるといいんだけど」

「お陰で助かったよ。私からも、さとりには説明するとしよう」

「おにーさん、いい妖怪っ!」

 

 太っ腹ー! などとよくわからない褒め言葉をもらいながら、お燐と一緒に応接間へ戻る。扉を開けると、すぐにさとりから声が掛かった。

 

「あ、おかえりなさい。楽しめ――は、しなかったみたいですね。ごめんなさい……」

「いや、謝らなくても。それに、まったくなにもなかったわけじゃないしね」

「はあ。……ああ、おくうですか。もう、またやったのね。お客さんの前で恥ずかしい……」

「よくあることなのか?」

「ええ、二日に一回くらいは……」

 

 結構なハイペースだった。二重の意味で、おくうの頭が心配である。

 ともあれ。

 

「さとり、お燐をありがとう。ちゃんと案内してくれたから、晩御飯はあげてやってくれな」

「そうですか。月見さんがそういうなら」

「やったー!」

 

 その場で飛び上がり全身で喜びをあらわにしたお燐が、「ありがとー!」と満面の笑顔で月見の袖を引っ張った。お茶を飲んでいた藤千代がぐぐっと身を乗り出した。

 

「むっ、お燐さんずるいです! 私もやりますっ」

「お前は座ってろ」

「がーん……」

 

 パタンとソファーに倒れた藤千代を、全員が無視して、

 

「……で、さとりにちょっと相談したいことがあるんだけど」

「あ、なんでしょう。……なるほど、聖輦船を見かけたんですね」

「あまり遠くへ行かれてしまう前に、できれば追い掛けたいんだけど、いいかな」

 

 さとり相手なら細かい説明もいらないだろうと、単刀直入に訊いてみれば、気を害した様子もなく返事は柔らかだった。

 

「ええ、構いませんよ」

「ありがとう。悪いね」

「いえ、」

 

 一度首を振ったさとりはそこで言葉を切り、気不味そうに月見を見上げて、

 

「あの……いい思い出ができるといいですねっ」

「……」

 

 どうやら気を遣われたらしい。ああ、そういえば財布が軽いのを思い出した。「そうだといいね」としか返せない自分が、なんともやるせなかった。

 遠い目をして見えもしない明後日の空を見つめていると、さとりがわたわたしながら話題を替えた。

 

「と、ところで! あの、聖輦船に行かれるなら、一つお願いをしたいことがあるんですけど……」

「ああ、いいよ」

 

 月見は、内容を聞く前から二つ返事で頷いた。さとりは常識的なので、例えば藤千代のように、いきなり「私をお嫁さんにしてください!」とかふざけたことは言わないはずだ。

 

「言いませんっ! ……こほん」

 

『お嫁さん』という単語に顔を赤くしたさとりは咳払い、

 

「私、妹がいるんです。こいし、というんですけど。もし聖輦船でこいしを見かけたら、お手数なんですが、連れて帰ってきてもらいたいんです」

「妹さんも聖輦船に?」

「それはわかりません。もしいたら、の話です」

 

 ふむ、と月見は考える。さとりも行き先を把握していないとは、これでは迷子というか、家出少女の捜索を頼まれたような心地だ。

 さとりが苦笑する。

 

「あながち間違ってもいないです。家出というわけではないんですけど、放浪癖がある子で。もう三日もここに戻ってきてないんです」

「それはまた」

「よく、聖輦船に忍び込んだりしてるみたいなんです。なのでもし見かけたら、お願いしたくて」

「お安い御用だよ。捜してみよう」

 

 さとりの妹となれば当然覚妖怪だから、第三の目を持っているかどうかで、一目見ればすぐ判断できるだろう――と思っていたのだが、さとりが静かに首を振った。

 

「いえ、捜さなくて結構です。本当に、ちらっと見かけたらでいいので」

「?」

「というか、捜しても見つけられないと思います。気がついたらすぐ傍にいて、気がついたら消えている。そういう子なんです」

「『無意識を操る程度の能力』っていうのを持っててね。人が意識していない、無意識の狭間に、こいし様は入り込むんだ」

 

 補足してくれたのは、月見の後ろで控えていたお燐だった。だからこそ月見には、さとりたちの言っている意味がなんとなく理解できた。

 月見はさとりとの会話に意識を集中させていたので、後ろのお燐の存在をすっかり忘れてしまっていた。すなわちお燐の存在を、意識の外に置いていた。

 意識の外――無意識。

 恐らく古明地こいしの能力は、自分を道端のこいし(・・・)と同じにするものなのだろう。古明地こいしは間違いなくそこにいる。けれど人々はそれを古明地こいしと意識できず、道端のこいし(・・・)を気に留めないのと同じように、無意識のうちに素通りしてしまう。

 一言で言えば藤千代と同じ隠形の能力だが、彼女のように、人から認識されなくなるものとは訳が違う。

 姿は見えるし、声だって聞こえる。けれど、それをこいしだと意識できない。意識しようとすることもできない。無意識のうちに見逃し、聞き逃してしまう。

 さとりが頷く。

 

「ええ、そんな感じです。なので、捜そうとしてもあんまり意味がないんです。それこそ広大な河原で、失くしたこいし(・・・)を捜すのと同じなんですよ」

「……なるほどね。確かにそれだと、捜してどうにかなる問題じゃなさそうだ」

 

 お願いされた以上は見つけてやりたいが、捜そうとしてもしなくても同じこととなっては、まさしく『もし見かけたら』程度の話でいいのだろう。ある意味では、藤千代よりも厄介な能力だ。

 

「ありがとうございます。お礼はしますので……」

「大丈夫だよ。こっちこそ、美味しいお茶のお礼だ」

 

 そう言うと、さとりはちょっどくすぐったそうに目を伏せて、ありがとうございます、とぽそぽそ呟いた。

 

「じゃ、そろそろ行こうかな。見失ってもなんだし」

 

 聖輦船を追わせた式神の気配は、もう随分と遠くにまで行っている。これ以上離れられると、追い掛けるのも楽ではなくなってしまう。

 さとりがソファーから腰を上げて、律儀に頭を下げてきた。某わがまま吸血鬼のお嬢様に心底見習ってもらいたい、来客を迎える家主として鑑になる姿だった。

 

「申し訳ないです、大したもてなしもできなくて」

「いやいや。もう赤の他人ってわけでもないんだし、そんなのは気にしないでいいよ」

 

 さとりが、やや面食らった様子で顔を上げた。さしずめ、もう赤の他人じゃないとか何様ですか図々しい、といったところだろうか。

 

「違いますっ! 月見さん、からかわないでくださいっ」

「悪い悪い」

 

 とまあ、これくらい力を抜いてもいいんじゃないかと思うのだが、どうだろうか。

 さとりが、なにかに怯えるように小さく体を竦めた。

 

「う……いいんですか? 私、覚妖怪なのに……」

「むしろ、なにがダメなのかよくわからないんだが……」

 

 もしもさとりの言わんとしているのが、「覚妖怪なんかと親しくしていいんですか?」という意味だとするならば、月見は誠に遺憾ながら、さとりのほっぺたを餅のように引っ張ってやらねばならない。

 

「も、餅……というか、誠に遺憾とか言っておいてすごく楽しそうじゃないですかっ」

 

 それはさておき。

 真面目な話、覚妖怪と親しくしてはいけない、などという話がありえるのだろうか。例えばこれが幻想郷の未来を左右する外交問題とかであれば話は変わるのだろうが、月見もさとりもただの個人。お互いの気持ちが共通してさえいれば、親しくすることのなにが悪となろう。

 もちろん、さとりが「あなたと仲良くするなんてお断りです塩まきますよ!」と思っていなければの話だけれど。

 

「お、思ってないです!」

「じゃあいいんじゃないか?」

 

 あ、と小さく声をもらしたさとりに、月見は笑って、

 

「改めて、よろしく。さとり」

 

 右手を差し出す。それを、さとりはまるで生まれて初めて目の当たりにするような表情で、きょとんと見つめて。

 

「……よ、」

 

 深呼吸するように、たっぷりと長く、息を吸ってから。

 ほのかに赤い頬で、笑って、

 

「……よろしくお願いします。月見さん」

「ああ」

 

 ようやく重ねられたさとりの右手は、月見のよりもちょっとだけ、熱っぽかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ところでさとり」

「はい、なんで――って、いたたたたたひゃひゃひゃ!?」

「おお、本当に餅みたいに痛っ」

 

 怒られた。半泣きで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第54話 「ぶらり旧地獄一人旅 ④」

 

 

 

 

 

 ほっぺたを引っ張られて半泣きになったさとりに叱られているうちに、すっかり遅くなってしまった。式神の反応を追った月見が聖輦船に辿り着く頃には、旧都の町並みは遠くへ消え、草木一本生えないいずこかの荒地ばかりが広がるようになっていた。

 聖輦船は、見た目自体はまさに『大きい木造の和船』と簡潔に言い表すことができた。かつての都で見た月の方舟のように、淡い光を放っていたり、薄雲をまとっていたりは当然しない。海賊船めいた偉容は束の間月見を圧倒したが、目についたものといえば逆にそれくらいで、空を泳いでいる以外はごくごく普通の帆掛け船だった。

 だからこそ、なんとも不思議な船だと月見は思う。

 

「ふうん……」

 

 聖輦船に並んで飛行し、その姿を観察する月見がまず気づいたのは、船体がかなり綺麗だということだった。木材が傷んでいない。もちろん多少の経年劣化はあるものの、船の名誉の勲章である海水による腐食がまったく見て取れない。修理をしたような跡もないので、腐食された部分の木材を張り直したわけでもなさそうだ。

 だがそれ以上に不思議なのは、風がほぼ吹いていない旧都の上空を、一定の速度で飛行していること。こんな頼りない風の中では、帆が生み出す推進力など雀の涙ほどでしかないだろう。なにか別の力が船全体に作用していなければ、こうも安定した飛行は実現できない。

 まさか、初めから空を飛ぶために造られた船だとでもいうのだろうか。そんなの、月の世界の話じゃああるまいし。

 周囲に人影が見られなかったので、月見はとりあえず甲板に降り立ってみることにした。船首に立ち、生まれて初めて経験する、空飛ぶ船から見渡す景色は、

 

「……」

 

 光の差し込まない暗い空、もとい岩盤。生物はもちろん緑の影すらもない、荒涼とした殺風景な大地。妖怪の月見でさえ違和感を抱く、未だ地獄の名残を孕み澱んだ空気。

 生まれて初めての空飛ぶ船は、飛んでいる世界があまりにも悪すぎた。

 どうせ空を飛ぶのなら、やはり青空の下と緑の上を飛ばねばならんと月見は思う。果たしてさとりが健気に応援してくれた通り、楽しい思い出をつくることができるのか、のっけから不安になってきてしまった。

 背後に誰かがいると気づいたのは、その直後だった。最小限まで気配と足音を殺し、獲物との距離を詰める狩人の如く背後を狙っていると気づいた瞬間、月見は反射にも近い速度で反応していた。

 振り返らぬまま、尻尾で背後を一閃する。

 

「ぎゅふ!?」

 

 月見の予想に反して、聞こえた悲鳴は幼かった。振り返ってみれば、受け身も取れず甲板の上をごろごろと転がっていく、見慣れぬ妖怪の姿があって、

 

「まさか……鵺か?」

 

 見慣れない妖怪だが、見慣れないからこそ、その名が一瞬で脳裏に弾き出されていた。

 鵺。スズメ目ツグミ科に分類される、トラツグミという鳥の別称だ。一方歴史上では、平安時代の末期に京都御所に出現した、猿の頭、狸の体、虎の手足に蛇の尻尾を持つという、正体不明の妖怪を指す名前でもある。正体不明故に名も持たなかったこの妖怪が、鳴き声がトラツグミに似ていたことから『鵺』と名付けられて以降、今や本物の『(トラツグミ)』よりも有名な存在になったといえるだろう。

 その鵺が、目の前にいた。

 実際に目にするのは初めてだった。かつての平安末期、風の便りでその存在を知りひと目見ようと京に向かったものの、割とあっさり退治されたらしく結局無駄足になってしまった、あの時の徒労は未だ鮮明に思い出すことができる。

 もしかすると、地底にやってきて一番の収穫かもしれない。なるほどこういう妖怪だったのか、ふむふむなるほど、とその奇妙な出で立ちをまじまじ観察していると、起き上がった鵺が、青筋を浮かせながらズンズンと四足歩行で迫ってきた。

 

「ちょっと! あんたいきなりなにすんのよ!」

 

 トラツグミの鳴き声ではなく、それどころかごくごく普通の少女の声である。体長一メートル半以上、子どもが見れば悲鳴を上げて逃げ出すか大泣きするかの二択であろう不気味な姿をしておきながら、琴を鳴らすように若くかわいらしい女声はシュールの一言に尽きた。月見の中にあった鵺の理想像が、それはもう一発で粉々になって砕け散るほどに。

 そうか、こんな妖怪だったのか……と驚き半分がっかり半分になりながら、とりあえず、弁明する。

 

「悪かったね。でも狐にとって、尻尾ってのは自分の手足以上の立派な武器だ。気配を殺して忍び寄ったりするもんじゃないよ」

「ぐっ……それはあれよ、ちょっとおどかしてやろうと思っただけで……」

 

 この妖怪、本当に鵺なのだろうか。かつての京都御所を恐怖に陥れたという、妖怪としては輝かしい経歴を持っている割に、いかんせんカリスマが感じられないというか、駆け出しの狐か狸が覚えたての変化の術で化けているだけに見えないこともない。

 

「私が思ってた鵺とはなんか違うなあ」

 

 不満を口に出してみたところ、鵺の青筋が一気に濃くなった。

 

「なんですって! 私のことが怖くないっての!?」

 

 その見た目と声のギャップが怖いといえば怖い。

 月見は肩を竦め、

 

「怖がってほしいんだったら、怖がるようなことをしてご覧よ」

「ふん、泣いて後悔しても遅いんだから。……がおー!」

 

 鵺が前足を上げて飛び掛かってきたので、よしきたとばかりに尻尾で弾き飛ばした。

 ぺちんみぎゃあごろごろごろ。

 賑やかに甲板の端まで転がっていった鵺は、それっきり沈黙、

 

「……はい、残念」

「ちょっとあんたねええええええええええ!!」

 

 少女が絶叫しながら飛び起きた。せっかくの綺麗な肌色を迸る怒りで真っ赤っ赤にして、今度は船に穴を開けるように、力強い二足歩行でズンズンと――

 

(……ん?)

 

 少女。

 少女であった。

 一体いつからだったのか、鵺の姿が少女になっていた。

 

「あんた、私に喧嘩売ってんの!?」

「おっと」

 

 木を容易くへし折ってみせそうなほど強靭だった虎の手足が一転、猫のように細くすらっと伸びた腕で、月見の胸倉を締め上げてきた。ぴょこぴょこと生物みたいに動くアホ毛を生やした、ショートボブの少女である。若干涙に濡れた釣り目は激しい怒りに染まっていて、鎌のような形をした右の翼が月見を切り裂かんと暴れ回り、矢印状になった左の翼が、いつでも月見の息の根を射抜けるよう脳天・喉仏・心臓にロックオンされている。

 少なくとも、うぬぬぬぬぬー! と唸るかわいらしい声が、きちんと似合う姿ではあった。

 しかし、先ほどまでの鵺はどこに行ってしまったのか。

 少女が吠える。

 

「最初のは私も悪かったかもしんないけど、今度は完璧にあんたが悪いわよね!? 怖がらせてみろって言ったのはあんたよね!? なのにぶっ飛ばすなんでひどくない!?」

「あー……それはあれだよ。びっくりしてしまったからつい手が出たんだ。悪かったね」

 

 もちろん嘘である。怖がらせる方法=飛び掛かるという図式が古典的すぎたので、ツッコミを叩き込んだといった方が正しい。

 しかし少女は単純なのか、月見の嘘を完全に信じきったようだった。

 

「え? あ、そうなんだ……。ふふん、そうならそうと早く言いなさいよ。びっくりしたんだったらなにも怒ることはないわ」

 

 満足げに頷いて月見の胸倉から手を離し、ご満悦な様子で胸を反らす。口が『ω』の形を描くドヤ顔は、今までの不気味な姿からはかけ離れて、子猫みたいな愛らしさだった。

 まあ、それはさておいて。

 

「それで? さっきまでの鵺はどこに行ったんだ?」

「はあ? どこって、こうしてあんたの目の前に……ああ、そういうこと」

 

 少女はつまらなそうに小鼻を鳴らし、

 

「私の能力よ。『正体を判らなくする程度の能力』」

「ほう?」

 

 それはまた、『鵺の声で鳴く得体の知れないモノ』らしい能力だ。いや、その能力を持っていたからこそ、正体不明の妖怪として名を与えられるようになったのだろうか。

 

「なにに見えるかは、その人の先入観とイメージでまちまちね。……あんたには、それこそ鵺の姿で見えてたっぽいけど」

「お陰様で、見た目と声のギャップがシュールだったよ」

「ふん」

 

 ぷいとそっぽを向いた少女は、半目で、

 

「で? そういうあんたは何者よ」

「月見。ただのしがない狐だよ。地底を観光しててね、その一環でここにやってきたんだけど」

「ふうん……?」

 

 地底を観光って正気で言ってる? と今までの経験上変な目で見られるかと思ったが、意外と少女の反応は穏やかだった。それどころか興味深そうに眉を上げると、月見に一歩近づいて下から覗き込むように、

 

「狐ってことは、地上の妖怪なんだ?」

「ああ」

「ものは相談なんだけど、私をこの地底から出してくれない?」

「私に言われても」

 

 月見は肩を竦めた。地上と地底は互いに不可侵の関係であり、その約定を中心となって結んだのは紫と藤千代だ。かつて水月苑建築の際に鬼が地底からやってきたのも、今月見がこうして地底を散策しているのも、すべて彼女たちの許可の上に成り立っているのであって、逆をいえば許可を得られない限り、月見がどうこういえる話ではない。

 ぶー、と少女がとても不満そうに頬を膨らませた。

 

「なんでよー。いじわる」

「地上と地底の関係は知ってるだろう?」

「じゃあなんであんたはここにいるのよ」

「そりゃあ私は、千代――鬼子母神殿から許可をもらったからね。お前も交渉してみたらいいんじゃないか?」

「む、無理に決まってるでしょそんなの。今まで鬼子母神様の怒りを買って、上の岩盤と同化した妖怪が何人いると思ってるの」

 

 藤千代のぶっ飛ばし癖は、どうやら地底でも猛威を振るっているらしかった。一度危ないところまで行った経験があるのか、少女は完全に血の気を失って、極寒の地に放り込まれたみたいにガタガタ震えていた。

 

「しかし、どうして地上に?」

 

 鵺は恐らく、人間からも妖怪からも嫌われてここまで追いやられたわけではないのだろう。京都御所を恐怖に陥れた張本人だし、力のある人間に懲らしめられて、この地底に封印されてしまったと考える方が自然な気がする。

 であれば、初対面の月見に頼んでまで地上に戻りたがるのも納得だが、

 

「ちょっと連絡を取りたいやつがいるのよ。……あんた、二ツ岩マミゾウって名前、聞いたことある?」

「……あー」

 

 とても嫌な名前を聞いた。いや、別に嫌いな相手というわけではなく、むしろ月見の方が全力で嫌われている相手だった。

 予想通りの反応だったのか、少女が小さく苦笑した。

 

「ま、狐の間であいつの名前を知らないやつなんていないわよね」

「そりゃあね……」

 

 二ツ岩マミゾウは、佐渡に住んでいる化け狸の大妖怪。狐と二ツ岩マミゾウの関係を、一言で簡潔に述べるならば――未来永劫相容れることのない犬猿の仲、だろうか。

 元々妖狐と化け狸は、妖術を得意とする者同士、なにかとライバルとして対立することが多かったのだが、この場合はそれ以上に、マミゾウの方が自他ともに認めるとんでもない狐嫌いなのだ。その程度たるや、彼女の縄張りである佐渡に狐が一匹もいない理由は、全部彼女が外に追い出したからだというのだから呆れてしまう。

 向こうがそんな有り様なので、狐の中でマミゾウに好意的な感情を持っている猛者はまずいない。月見も、嫌いとまではいわないが、大分苦手な相手ではある。ちょっと話しかけただけでブチ切れられ、情け容赦なく叩き潰されそうになったのは、一体いつの出来事だったろうか。

 まあ、軽くあしらってやったが。

 

「知り合いなのか?」

「そんなとこ。ここに封印されてからは連絡も取れてないから、まあ、ちょっとは心配されてると思うのよ」

 

 マミゾウは狐嫌いだが、狐以外であれば妖怪はもちろん、人間に対しても非常に友好的だ。故に狐を除く妖怪からは広く慕われているし、一部の人間からは『二ツ岩大明神』の名で奉り上げられてもいる。あの『鵺』と交友があったとしても、なんら不思議なことではない。

 

「しかし、なんとか鬼子母神殿の許可はもらえたとしても、外と連絡を取るんじゃあ今度は妖怪の賢者殿に目を付けられそうだね」

「そうなのよねー。……あ、じゃあこんなのはどう? ここから出してなんて言わないから、代わりに、地上に戻ったら妖怪の賢者に話だけでもしてみてよ。お礼はちゃんとするから」

「それくらいは構わないけど」

 

 しかしその結果、もしマミゾウが幻想郷にやってくるなんて事態にでもなったら――赤い戦火に包まれる幻想郷。妖怪たちの喊声。人間たちの悲鳴。幻想郷から狐を駆逐しようと猛威を振るうマミゾウと、それに抵抗する妖狐たちの戦いは七日七晩続き、後の幻想郷縁起では『炎の七日間』と記されるようになり――

 有り得ない、と言い切れないあたりが恐ろしい。佐渡から狐を駆逐したあいつならやりかねない。

 まあ、後々になって覚えていたら、紫と話をしてみるとしよう。覚えていたら。ただ、よくはわからないが、すぐに忘れてしまいそうだ。なぜだろうか。

 

「じゃあよろしくね。鬼子母神様の方は自分でなんとかしてみるから」

「……まあ、頑張って」

 

 人の力を当てにするだけでなく、ちゃんと自分でも行動しようとするあたりは感心だが、どうか少女が空の岩盤と同化しないことを祈るばかりである。

 ともあれ、出会って早々胸倉を締め上げられたりもしたけれど、無事に打ち解けることができたらしい。地獄から抜け出す月見という名の蜘蛛の糸を見つけて、少女が初めて気さくに笑った。

 

「私は封獣ぬえ。『ぬえ』は、平仮名で『ぬえ』ね」

「よろしく」

「で、聖輦船の見学に来たってことでいいのかしら? 奥に今の持ち主がいるから、話でもしてみたら?」

 

 ぬえが親指で示した先――甲板の中心に、船室へと続く扉がある。

 

「行ってもいいのか?」

「あー、じゃあ私が呼んできてあげる」

 

 この少女、意外と面倒見がいいのかもしれない。正体不明の妖怪『鵺』の隠れた一面に、やはり人間たちの伝承など当てにならないものだと月見は思う。

 ぬえの背に続いて、船室の方へと向かう。途中、何気なしに周囲の景色を眺めてみるも、見えるのはやはり紫紺色に淀んだ殺風景だけ。早くも青空が恋しくなってきているあたり、月見はあまり、地底での生活には向いていないのかもしれない。

 扉を目の前にしたところで、ぬえが半身になって振り返る。

 

「じゃ、ここで待ってて。ちょっと話してくるから」

「よろしく頼むよ」

「はいはい。……ムラサ~、起きてる~?」

 

 ムラサなる人物の名を呼びながら、ぬえが船室の中へと消える。その折、迂闊にも扉を閉め忘れたようだったので、好奇心に負けた月見はちょっとだけ中を覗いてみることにした。

 床から壁から天井まで、そのすべてが木材でつくられた部屋。間取りは八畳間より更に一回り広く、中央には剥き身の木でできたテーブルと、四隅には同じく剥き身の樽がいくつも積み重ねられている。樽の上は物置場所と化しているようで、小箱や置物や観葉植物など。四方八方が木材に包まれた、自然との調和あふれる純朴な小部屋は、まるで森の奥深くに丹精込めて作られた秘密基地のようだった。

 ぬえは、この部屋から更に奥へ続く扉を開けて、向こうにいる誰かと話をしていた。――そう、お客さん。この船を見学しに来たんだって。……ううん、地上の妖怪だってよ。うん、狐。とりあえず顔だけでも出してやったら?

 ぬえが一歩足を引くと同時に、扉の奥から少女がぴょこりと顔を出した。ぬえと同じ黒のショートヘアーを揺らし、その上には錨のマークがついたキャップを乗せている。ちらりと見えた鍔の広い襟と赤のスカーフは、セーラー服、すなわち水兵服だろう。出で立ちから見て、あの子が聖輦船の持ち主と思われる。

 月見の姿に気づいた少女が、不意を衝かれたように目を丸くした。しかしほんの一瞬で、

 

「やあやあすみません、お待たせしました!」

 

 さながらたんぽぽのような、温かく親しみやすい笑顔だった。少女はぬえを押し退けパタパタと小走りでやってくるなり、ほおぉーと大仰な顔をして月見を見上げた。

 

「ほんとに狐だ……。ぬえって悪戯好きで、よく私たちに嘘つくんですよ。なので半信半疑だったんですけど、まさか本当に、こんなところまで地上の妖怪がいらっしゃるなんて」

「ちょっとムラサ、それは今話すようなことじゃないでしょ」

 

 バツが悪そうに顔をしかめるぬえをあっさり無視し、まだ出会ってほんの数秒にもかかわらず、気さくに右手を出してくる。

 

「私、村紗水蜜っていいます。船幽霊です。この船の、まあ、船長みたいなもんをやってます」

「月見。ただのしがない狐だよ。よろしく」

 

 船幽霊といえば、海の事故で亡くなった人間の霊が、怨みや悲しみなど負の感情によって半妖怪化した地縛霊のようなもの――と思っていたが、なにもそれだけに限った話ではないらしい。海がない地底でも元気に活動しているし、その言動は、恨み辛みが元となって生まれた妖怪とは思えないほどに明るく、握手を交わした手は温かい人情で満ちていた。

 

「よろしくお願いします。私のことは、気軽にキャプテン・ムラサとでも呼んでください」

 

 月見は一瞬思考、

 

「わかったよ、キャプテン・ムラサ」

「……、」

 

 水蜜は一瞬沈黙、

 

「ええと……こ、こんな地底くんだりまでわざわざ」

「面白そうな船だったからね。……ん? ということはこの船って幽霊船なのか、キャプテン・ムラサ?」

 

 船幽霊は、幻の船に乗って現れることもあるという。この船が幽霊船だとすれば、空を飛んでいるのにも納得できるが、

 

「い、いえいえ。この船は見た通り、木で造られてるちゃんとしたお船ですよ」

「ふうん……なのに空を飛んでるなんてすごいじゃないか、キャプテン・ムラサ」

「わ、私の自慢の船なんです。えへへ」

 

 水蜜の笑顔がひきつっている。後ろの方で、ぬえが笑いを噛み殺している。どうかしたのだろうか。

 

「そ、それであの、月見さん」

「どうした、キャプテン・ムラサ」

「そ、その、キャプテン・ムラサってやつなんですけど」

「それがどうかしたか、キャプテン・ムラサ」

「よ、世の中には、初対面の空気を和やかにする、ツッコミ狙いの冗談というやつがあってですね?」

「ふむ? よくわからないな、キャプテン・ムラサ」

「なのでこう、そんな真顔で返されると色々と困っちゃうというか」

「難しいな、キャプテン・ムラサ」

「あ、あの。もしかして私、いじめられてますか?」

「もっとはっきり言ってくれないとわからないぞ、キャプテン・ムラサ」

「怒っていいですか?」

 

 水蜜が赤い顔でふるふる震え始めたので、このあたりでやめた方がよさそうだ。

 

「冗談だよ、水蜜」

「く、くううっ……! 優しそうなお顔に騙されましたが、そういえば月見さんは狐でしたね!」

 

 くひひひひひと変な声で笑っていたぬえの頭を、水蜜は思いっきり引っ叩いた。

 

「いったぁ!? なにすんのよ!」

「あんたが笑ってるからでしょうが!」

「あんたが笑えるようなことやってるからでしょうが!」

「仕方ないじゃない、ほんとにあれで呼ばれるなんて思ってなかったんだもん!」

「調子乗って慣れてないことするからよ。あんたみたいなのが人にいたずらするのは百年早いの」

 

 ところで、狐にいたずらしようとしたら尻尾でぶっ飛ばされたという、どこぞの鵺の話を水蜜に聞かせてやる必要はあるだろうか。

 

「ムラサ~、さっきからうるさいわよ~。どうかしたの~?」

 

 そんなことを月見が考えていたら、ふと地面を這いずるように気怠げな声が聞こえて、扉の奥からまた別の少女が顔を出してきた。

 飲み会で散々酒を呑んだ翌朝の女子大生だった。長い青髪は寝癖ですっかりよれよれになっていて、寝間着は若干下着が見えかけてしまうほどにくちゃくちゃで、あちこちから覗く素肌には、正視が躊躇われるほど大人びた成長の跡が

 

「ちょっ、なんて恰好で出てきてんのよあんた!」

 

 ぬえが顔を青くして、月見と寝間着少女の間に割って入った。恐らく気を利かせてくれたのだろうが、そのせいで寝間着少女は月見の存在に気づかないまま、

 

「……ぬえ? あんたいたの?」

「いたから。いたから早く着替えてきなさいって。客が来てるのよ客が」

「……客ぅ?」

 

 ここでようやく、月見と寝間着少女の目が合った。月見はとりあえず、お邪魔してるよ、と簡単に手を振った。あ、はい、と少女が目を丸くして頷いた。

 五秒、

 

「――きゃああああああああ!?」

「へぶぅっ!?」

 

 真っ青な悲鳴とともに、少女の平手打ちがぬえの頬を打ち抜いた。

 ぬえが床に崩れ落ちた時には、既に寝間着少女の姿は消えている。扉の向こうで、ドタバタとけたたましく走り回る音、

 

「ちょっと、お客さんって男の方じゃないの! そうならそうと早く言ってよ、あああああこんな恰好で出てっちゃったなんて!」

「……なんで私は殴られたの?」

 

 涙目のぬえが赤く腫れた頬をさする。本来であれば月見が殴られるべき場面だったのだろうが、距離が距離だけに、目の前にいた彼女が標的になったのかもしれない。気を利かせて間に割って入ってくれたというのに、なんとも不憫なとばっちりだった。

 水蜜がため息ついた。

 

「まったく、だから普段から早起きするようにしなって何度も言ってるのに、あいかわらず面倒くさがりなんだから。……すみません月見さん、みっともないところ見せちゃって。良い薬になるんで、あいつが戻ってきたら冷たい目で迎えてやってください」

「そんなことはしないよ。慣れてる」

 

 某気高い吸血鬼のお嬢様だって寝癖が爆発していたし、藤千代に至っては、そもそも寝間着すら着ない有り様である。それに比べれば、充分笑って見過ごせる範囲内だ。

 

「ね、寝癖が直らない……あああああ申し訳ありません、もうしばらくだけお待ちくださいー!?」

「焦らなくていいぞー」

 

 どたんばたん、と船が賑やかに揺れている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「どうも、大変失礼致しました……」

「いやいや、こちらこそ突然やってきてすまないね」

 

 少女は、名を雲居一輪といった。三分ほどの荒療治でなんとか人前に出られる姿を取り戻した彼女は、椅子に深く座り込んで、己の軽率な行動をどんより雲とともに猛省する真っ最中なのだった。

 氷を彷彿とさせる、蒼く澄んだ長い前髪が目を引く。飲み会明けの女子大生みたいだった姿は、今は尼僧になっているので、どうやら妖怪でありながら仏門に下った身らしい。前髪より後ろを丸々頭巾で覆い、服も、極力肌を晒さないよう荒療治ながらもぴっしりと着込まれている。

 珍しいことに、紫と同じで一人一種族の妖怪だという。強いて名をつければ『入道使い』とのことだが、月見が知る限り、入道を従える妖怪一族など聞いたこともないので、一人一種族と考えるのが妥当なのだろう。かすかに感じる妖気も、どことなく人間らしいというか、月見が今まで見てきたどの妖怪とも異なる独特の波長をしていた。

 そんなわけで、一輪がどんより雲をまとっているのは決して比喩ではない。雲山という名の見越入道を、彼女は確かに、雲の形で自分の周囲にまとっているのだった。

 桜色をした雲には、『門倉銀山』の頃に同業者だった大部齋爾にも似た、厳しい老翁の相貌が浮かんでいる。一見すると近寄りがたい印象を受けるが、実は口下手でシャイという、なかなか可愛い性格をした入道である。

 雲山も含め五人揃ってテーブルを囲む中で、水蜜がころころと笑っている。

 

「ま、良い薬になったじゃん。これに懲りたら、ちょっとは生活態度を改めなさいな」

「くっ……これは違うのよっ。あんただって知ってるでしょ? 昨日はあの居酒屋であの子に目をつけられちゃったから、つい呑み過ぎて……」

「……一輪、お前もか」

 

 まさか地霊殿に引き続きこんなところでも、あの少女にやられた被害者に巡り合えようとは。もはや商売上手の一線を越えて、無差別に財布を爆撃するテロリストみたいだった。

 

「え……まさか、月見さんも?」

「……財布が空になったよ」

「ああ……私もですよ。あれは反則ですよね……」

 

 一輪のまとっていたどんより雲が、月見にまで伝染しつつある。

 

「あの子に悪気がないのはわかってるんだけど、さすがに財布を空にされてしまうとね……いや、断れない私たちも悪いんだが……」

「今月、結構ピンチなんですよね……ふふふ、塩を舐める生活にならないといいですけど」

「そう……元を辿れば、私が殴られた原因もその居酒屋ってことね……」

 

 ついでにぬえにも伝染し始めた。

 はあ……と三人揃ってため息をついていると、唯一ブルーじゃない水蜜が、「え? え?」と焦りながら、

 

「ちょ、ちょっとみんな、元気ないですよ! もっと盛り上がっていきましょ! ほら一輪、お茶淹れてきてお茶!」

 

 景気付けのように高らかな指名に、一輪は顔を上げて眉をひそめた。

 

「……普通、そこはあんたが率先して淹れてくれるところじゃないの?」

「私より一輪が淹れた方が美味しいでしょ。お客さんに下手なお茶は出せないの!」

「……まったく」

 

 一輪はため息をつきつつも、水蜜よりお茶を美味しく淹れられる自負はあるようで、

 

「すみません、少し失礼しますね」

 

 礼儀正しく頭を下げながら断りを入れて、雲山とともに一旦部屋を出て行った。

 

「で早速訊きますけど、月見さんってぬえの彼氏さんですか?」

「がふっ」

 

 そして頬杖をついていたぬえが、額からテーブルに激突した。

 跳ね起きる。

 

「ムラサ!? あんた一体なに言ってんの!?」

 

 火山が噴火したみたいなぬえに対し、水蜜はさながら、海で吹く潮風のように涼しげだった。ひらひら手を振って、

 

「やだなー、ただのお決まりのジョークじゃん。ほら、なんか空気も暗かったしね。いくら恋人いない歴千年だからって本気にしちゃダメだよー」

「当たり前よっ! てか恋人いない歴千年はあんたも同じようなもんでしょ!」

「私はほら、恋愛は自分でするよりも人のを見てる方が好きなタイプだから。でもぬえはダメだねー、寂しがり屋だし。早くいい人見つけなよー」

「べ、別に寂しがり屋とかそんなんじゃ! ……あんたも勘違いするんじゃないわよ!? こんなの、ムラサが勝手に言ってるだけなんだから!」

「それはもちろん」

 

 槍のように鋭く突きつけられたぬえの人差し指に、月見は浅く肩を竦めて返した。月見はもう、そのテの冗談でぬえみたいに顔が赤くなるほど若くはないのだ。

 賛同してもらえたのになにが悔しいのか、ぬえは、くっと歯軋りをしていた。

 

「そんな当たり前みたいに頷かれても、それはそれでなんかムカつくわ……!」

「え? それってつまり、頷いてほしくなかったってコト?」

「だあああかあああらあああああっ!!」

 

 どうやらぬえは、いじられるタイプらしい。

 

「違う! 違うってばあ! あんなのただの言葉の綾でっ、……とにかく変な解釈したらぶっ飛ばすんだからね!?」

 

 ぬえがテーブルに両手を打ちつけて叫んだ瞬間、部屋の外から一輪も叫んだ。

 

「ちょっとぬえ、お客様の前でなんて口利いてんのよ! ――雲山、拳骨!」

「えっちょまっ、ふぎゅん!?」

 

 音もなくすっ飛んできた雲山がぬえに綺麗な拳骨を落とし、また音もなく部屋を出て行った。時間にして、およそ三秒ほど。過去幾度となく同じことを繰り返してきたのであろう、熟練の手捌きが光る職人技だった。

 

「ふ、ふぐおおお……」

 

 鉄拳制裁されたぬえが頭を押さえながらテーブルに突っ伏し、水蜜は愉快げに笑った。

 

「月見さん、覚えといてくださいね。一輪ってお客さんの前だと猫被りますけど、本性は今みたいにすごい暴力女で」

「雲山、GO!」

「いやー地獄耳ー!? ふぎゃっ!」

 

 また三秒だった。テーブルの上で、「おおおぉぉ……」と亡者みたいな呻き声を上げる少女、二人。

 月見は軽く微笑み、

 

「仲いいね」

「……まあ確かに、付き合いだけは長いですけどね」

 

 水蜜がとても不満そうに顔を上げた。ぷっくり膨らんだたんこぶをさすりながら、涙目で、

 

「でも、親しき仲にも礼儀ありだと思うんです」

「ああ……それはなんとなくわかるよ」

 

 出会い頭に必ずと言っていいほど、笑顔で砲弾みたいなタックルをかましてくるフランの姿を思い出す。彼女にもそろそろ、男の意地にも限界があるんだということを教えてやるべきなのかもしれない。子どもに抱きつかれて永遠亭に運ばれたなんて、不名誉な事件が鴉天狗の新聞に載る前に。

 

「月見さんも苦労してるんですね……」

「出会い頭にぶん投げられたこともあったっけねえ」

 

 もっとも、フランの突進攻撃にせよ藤千代のぶっ飛ばしますにせよ、あれはあれで確かな親愛の表現なのだ。互いに気が置けない関係だからこそ、変に気を遣ったりせず、ありのままの自分でぶつかっていける。それだけ心を開いてくれているのだと思えば、多少肉体的な痛みが発生する程度はどうってことないわけがないので、是非ともやめていただきたい。

 水蜜とぬえが拳骨のダメージから回復してくると、お茶の支度を終えた一輪が戻ってきた。漆塗りされた小綺麗な盆の上には、湯呑みが四つ並んでいる。

 

「……?」

「お待たせしました。どうぞ、月見さん」

「……ああ、ありがとう」

 

 差し出された湯呑みを受け取る。自分の席に湯呑みを一つ、残りの二つを水蜜とぬえに手渡す一輪を見ながら、はて、と月見は首を傾げる。

 

「一輪、一人分足りなくないか?」

「え? ……ああ、雲山の分なら大丈夫ですよ。雲ですから、飲食は必要ないんです」

「いや、そうじゃなくて……ほら、」

 

 強烈な違和感、

 

「……?」

「……月見さん?」

 

 口元に手を遣り、思考の渦中に落ちる。違う。雲山が飲食を必要としないのは、既に入道の知識としてわかっていたことだ。その上で月見は、一人分湯呑みが足りないと言った。だが自分でも、なぜそんなことを言ったのかがわからなかった。

 この部屋にいるのは、月見と水蜜、一輪、雲山、ぬえ。わかっている。雲山の分は必要ないから、湯呑みの数は四つで合っている。わかっている。

 なのに――『いや、そうじゃなくて……ほら、』――あのあとに月見は、なんと続けようとしたのか。なんと続けるはずだったのか。わからない。思い出せない。

 それは云うなれば、己の理解の範疇を外れた、完全な無意識の領域――

 

「……!」

 

 だからこそ。だからこそ、月見は気づいた。無意識、という言葉。地霊殿を発つ前に聞かされた、さとりからの話。

 無意識を操る、少女。

 

「……いるのか? ――こいし」

「うん」

 

 いた。部屋の隅で、積み重ねられた樽の上に腰掛けて、両脚をぶらぶらさせながら。

 古明地こいしが、笑っていた。

 

「「「……!?」」」

 

 一輪たち三人が、血相を変えて椅子を跳ね飛ばした。突如として現れた少女の姿に、鹿爪らしい顔が凝り固まった雲山ですら、確かな驚愕で目を見開いていた。

 その中で月見だけは、腰を上げることもなく、ただふっと笑った。なるほど、と思った。実際にこうして体験した今だからこそ、腑に落ちるように理解することができた。

 これが、無意識を操る能力。人の意識を外れ、無意識の狭間に入り込む異能。

 今になって思えば確かに、あの場所には、こいしがずっと座っていた。ただその姿を、月見たちがこいしだと意識できていなかっただけで。こいしは月見がこの部屋に招かれた当初から、ずっとあの場所で、月見たちの姿を見つめ続けていた。

 

「お前が、古明地こいしか」

「そうだよ」

 

 色調こそ異なるものの、姉のさとりとほぼお揃いの服。左胸の前に浮かんだ第三の瞳。一目でさとりの妹だと納得できる一方で、彼女とは受ける印象がまったく異なる少女だった。さとりのように、外見以上に大人びた印象は欠片も受けない。小さな見た目そのままに、ありのままに、樽に座って両脚を揺らす姿はただ幼い。発育の遅い妖怪の肉体に引っ張られ、精神までもが、成長を止めてしまっているかのように。

 一輪たちから向けられる敵意にも近い視線を、微塵も意に介さず。

 こいしはその銀色にも近い翠の髪を揺らし、両手を高く上げて、空へ突き抜けるほど無邪気に笑った。

 

「――ぱんぱかぱーん! こんぐらっちゅれーしょーんず!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 こいしが害意を以て乗り込んできた悪人でないとわかれば、一輪たちの口から出たのはため息だった。

 

「そう……心を読まなくなった覚妖怪、ね」

「そうだよー」

 

 肩透かしを食らったように座り直した一輪に、こいしはやはり両脚をぶらぶらさせながらにこにこと笑った。――月見の膝の上で。

 

「……なあ」

「んー?」

 

 こいしの翠の瞳がくりくりと月見を見上げる。月見は、膝の上にささやかな少女の重さを感じながら、

 

「どうしてここに座るんだい」

「? だって他に椅子ないもの」

 

 当たり前でしょ? みたいな顔をして言われた。……月見の常識が間違っていなければ、人の膝の上は椅子などではなかったはずだけれど。だが、同じことをフランに何度もやられているせいか、まあいいか、と思って流してしまった。慣れとは恐ろしい。

 

「なかなかの座り心地でー」

「それはどうも」

 

 さて、古明地こいしである。彼女の自己紹介によれば、心を読まなくなった覚妖怪とのことだ。なるほど彼女の第三の目は、さとりと違って眠るように閉じられており、その中に他者の姿を映すことはない。なので心を読まれない安心感からか、一輪たちもひとまずは、こいしを来客として受け入れる姿勢を見せていた。

 ただし不法侵入されたも同然なので、決して釈然とはしていない様子だったけれど。

 

「それにしても、月見ったらすごいねー。まさか気づかれるとは思わなかったなあ」

 

 月見の膝の上でご機嫌に体を揺らすこいしは無邪気そのもので、同じ妹という共通点もあってか、フランの姿を彷彿とさせられる。

 

「偶然だよ。完全に無意識だった」

「それでもすごいよー。だってここの人たちったら、私もう何度もここに来てるけど、一回も気づいてくれたことないもの」

「え」

 

 こいしが放った何気ない一言で、一輪たちの空気にヒビが入った。

 少し探り合うような間があってから、水蜜が恐る恐る、

 

「……何度も、来てたの?」

「そうだよ。お陰で色々いたずらできて楽しかったわ」

「!?」

 

 ヒビの入った空気が凍結した。

 

「じゃ、じゃあもしかして、私の部屋にあるマンガのカバーと中身をめちゃくちゃにしたのって!」

「私だよー」

「ぬあー!」

 

 水蜜が頭を抱えて奇声を上げ、続けて一輪が、

 

「じゃあ、キッチンの麦茶とめんつゆを入れ替えたのは!」

「私だよー」

「こ、このっ……」

 

 一輪が頬をひくひくと引きつらせ、最後にぬえが、

 

「じゃあ、私の下着を盗んだのって!」

「? それは知らないよー」

「……えっ」

「知らなーい」

「……じゃ、じゃあ誰が?」

 

 血の気の失せた顔で固まったぬえを、全員が無視した。

 

「あ、あんたがいたずらしてたのね!? しょーもないのに地味に嫌らしいいたずらばっかりして!」

「ムラサの言う通りよ! ちょっとここに直りなさい!」

「あははっ、やだよー」

 

 月見の膝の上から飛び降りたこいしの姿が、ふっと見えなくなった。本当に消えたわけではない。こいしの姿をこいしとして意識できなくなったので、さながら消えたと錯覚しているだけだ。

 ……とはいえ、錯覚であれどもこいしの姿が消えたのは立派な事実。水蜜が椅子を蹴飛ばして立ち上がる。

 

「ああっ、いなくなった! 一輪、捜してっ」

「言われなくても! 雲山、GO!」

「ちょっと! ちょっと待ってよ、じゃあ誰が私の下着盗んだっての!?」

「こっちだよー」

「あ、いた! ……ダメ、またいなくなった!」

「雲山、とりあえず手当たり次第にいくわよ! ムラサは出口を封鎖!」

「ラジャー!」

「いやあああああ怖くなってくるから無視しないでええええええええ!?」

 

 ぬえの悲痛な叫びに、やはり応える者はおらず。

 水蜜と一輪が、こいしを逃さないよう出入口の封鎖にかかり。

 逞しい二本の豪腕を出現させた雲山が、部屋中を文字通り縦横無尽に飛び回りこいしを捜して。

 こいしが、楽しそうに笑いながら能力を使って出たり消えたりして。

 誰にも反応してもらえないぬえが、うわあああああっとテーブルの上に泣き崩れて。

 

「――あ、おかわりもらうよ」

 

 それらの喧騒を柳に風と受け流しながら、月見はのんびりと、お茶のおかわりを湯呑みに傾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第55話 「ぶらり旧地獄一人旅 ⑤」

 

 

 

 

 

 鬼ごっこというべきか、かくれんぼというべきか。

 ともかく、逃げるこいしと追う一輪たちの闘いは、こいしの圧勝という形で幕を下ろした。

 

「わーい、私の勝ちー」

「……まさか月見さんの膝の上に戻ってたなんてね。道理でいくら捜しても見つからないわけだわ」

 

 月見の膝の上で呼吸ひとつ乱さず喜ぶこいしを尻目に、一輪が疲労困憊のため息を吐き出した。水蜜もぐったりしてテーブルに寝そべっているし、雲山だって疲れた表情こそ見せずとも、複雑そうに眉間に皺を寄せて瞑目している。更にみんなに無視され続けたぬえは腕を枕にしてぐずぐず鼻をすすっていて、さながら歴史的大敗を喫したあとの少年サッカーチームみたいな、そんな沈んだ空気が広がっていた。

 一部始終をざっくり振り返れば、以下のようになる。

 初めこそ血眼になってこいしを捜していた一輪たちだったが、五分間ほど必死に走り回ってもなんの成果もなく、やがて「なんでこんなことしてるんだっけ……」とモチベーション崩壊を起こした。そうして次第に諦めムードが広がり始めたところで、無意識を操る能力を解いたこいしが、月見の膝の上に満面の笑顔で出現した。

 つまり部屋中を必死に走り回っていた一輪たちの頑張りは、まったくの徒労。まさに灯台下暗し、彼女たちを襲った虚脱感はいかなるものや。

 こいしが一輪たちから素直に逃げ回っていたのは、初めの一分間ほどだけだった。あとは飽きたらしく、当たり前のように月見の膝に戻ってきて、誰もいない空間で東奔西走する一輪たちを笑いながら観察していた。

 もちろん月見は、こいしがまた膝に乗ってきた時点ですべて気づいていたのだけれど――

 

「月見さんも、わかってたなら教えてくださいよー……」

「ッハハハ、悪い悪い」

 

 水蜜のとても不満げな半目に、月見は悪びれもしない笑みを返した。この程度の騒ぎで腰を上げるほど、月見の気は短くない。地上では、これよりよっぽど賑やかな喧騒が、毎日のように繰り広げられているのだから。

 

「地上で、よほど賑やかな生活してるんですね……」

「……そうだね」

 

 つくづくそうだと、月見は思う。数百年振りに博麗神社の鳥居をくぐってから今日に至るまで、幻想郷の住人たちはみんなが笑顔で、元気いっぱいで、月見をなかなか退屈させてくれない。

 まあ、せっかく数百年振りに戻ってきたのだから、そうでなくては困るのだけれど。

 

「ところでこいし、お姉さんが心配してたぞ。もう何日も家に帰ってないんだって?」

「んー?」

 

 膝上のこいしを見下ろしてそう声を掛けたが、返ってきた反応は生返事だった。興味がない質問に興味がないまま答える、投げやりな声音。

 

「実はお姉さんから、聖輦船で見かけたら連れて帰ってくるように頼まれててね」

「そうなの? まったく、あいかわらずお姉ちゃんは心配性だなー。ほんの三日くらい帰ってないだけなのに」

「家族が三日も帰ってこなかったら、心配して当たり前だよ」

 

 例えばフランが三日も紅魔館に帰らなかったら、レミリアは半狂乱になって、文字通り草の根を掻き分けながら幻想郷中を捜し回るだろう。外の世界であれば、なにか事件に巻き込まれたんじゃないかと警察に捜索願いが出される。

 

「だから、一旦帰って安心させてやりなさい」

「んー……そうかあ。わかった」

 

 こいしはあまり乗り気ではなさそうだったが、最終的には、月見の言い分を理解してくれたようだった。偉い偉いと小さな頭を撫でるように叩くと、んー♪ とご満悦な様子で笑った。

 

「月見は、お姉ちゃんの知り合いなの?」

「知り合いになったばかり、というべきかな。ここに来る前に、地霊殿に寄ってきてね」

 

 へー、とこいしが意外そうに目を丸める。

 

「お姉ちゃんに心読まれて、嫌じゃなかったの?」

「なに、慣れればどうってことないさ。それに上手いことやれば、心を読まれるのを利用してからかったりもできるしね。話をしてて、なかなか楽しかったよ?」

 

 さとりは、大人しい性格ながら芸人向きなところがあるのか、月見の心の声にいちいち律儀なツッコミを入れてくれるから面白い。顔を真っ赤にしたり思いっきり叫んだりわたわた慌てたり、リアクションも申し分ないので、ああいう子になら心を読まれるのも大歓迎というものである。

 さとりに知られたら、また怒られそうだ。

 

「月見さん、すごいですね……覚妖怪と話をして楽しいだなんて、」

 

 そこまで言い掛けた一輪が、こいしの存在を思い出してはっと口を噤んだ。けれどこいしは聞いていなかったらしく、ぼんやりとした顔で月見に体をもたして、

 

「ふーん……月見って、変な妖怪ね」

「ッハハハ、もう言われ慣れたよ」

 

 まあ、覚妖怪との会話を楽しむやつなど圧倒的少数派だろう。

 噛むように笑って、まぶたを下ろす。

 

「でも、多分さとりは、みんなが思い描いてるような覚妖怪とは違うんじゃないかな。心を読んでからかってやろう、とかそういう感じは全然なかったしね」

 

 地底のみんながさとりを敬遠するのは、『覚妖怪』という種族がもたらす先入観のせいだ。心を読まれる。知られたくないことを知られ、嫌な目に遭う。そういった恐怖ばかりに気を取られて、誰もさとりを一人の少女として見ようとしていない。

 先入観に囚われ距離を置くことを、責めはしないけれど。

 

「一度話をしてみると、意外と仲良くなれたりするかもよ」

 

 けれどなにかをきっかけに、その関係が変わればいいなと思う。一歩を踏み出す勇気が、いつか、皆の心に生まれればと。

 

「……」

 

 水蜜たちは答えない。決して無視したのではなく、どう答えるべきなのかを、彼女たちは判断しかねているようだった。

 さとり個人を嫌っているわけではない。覚妖怪という種族自体に馴染めないでいるだけ。ただ心を読まれるのが怖くて、どう接すればいいのかわからないだけ。

 なら、いくらでも希望はある。本当にちょっとしたきっかけさえあれば、種族の壁なんて、呆れてしまうくらい簡単に打ち破れるものだから。事実として幻想郷では、妖怪も人も神も関係なく、皆が種族の違いを越えて、笑い合っているのだから。

 いつかみんなが、古明地さとりは全然怖くなくて、むしろかわいげがあって面白い子なんだと気づいてくれる日がくれば、それはきっと素敵なことだろうと。

 そんな未来を夢想していると、月見はふと、膝の上の重みが消えてなくなったのに気づいた。

 

「……こいし?」

 

 月見の膝から降りたこいしが、ふらふらした危なっかしい足取りで出入口に向かっていた。月見が名前を呼んでも反応はなく、そのまま緩慢な動きでドアを開けて、甲板へと出て行ってしまう。

 

「……?」

「どうかしたんでしょうか……?」

 

 突拍子のない行動に、一輪たちも首を傾げていた。いきなり甲板に出て行くのはともかく、月見に名を呼ばれても無反応だったのは明らかにおかしい。

 下着を盗まれたショックから立ち直れないでいるぬえを放置して、三人でこいしの後を追う。こいしは甲板の縁から外の景色を眺めて、なにかを探すように、ゆっくりと首を左右に動かしていた。

 

「こいし、どうした?」

「んー……」

 

 声を掛けるが、返ってくる反応は、ほとんど無視されたのと大差ないほどに薄い。月見は眉をひそめた。月見の膝の上で無邪気に笑っていた今までのこいしとは、明らかに様子が違う。正気があるのかどうかすら疑わしく、これではまるで夢遊病のような――

 

「……」

 

 月見はこいしに歩み寄り、その肩に、少し力を入れて手を置いた。

 

「こいし」

「――え?」

 

 こいしが振り返った。驚いた表情をしていた。ただ肩に手を置かれたことだけではなく、今の自分の状況そのものに驚き、目を丸くしていた。

 周囲を見回し、自分がどこに立っているのかを認識すると、ふっとため息をついて。

 

「ああ……ごめんね、ぼーっとしちゃってた」

「……やっぱり、無意識だったのか」

 

 恐らく、無意識を操る能力による弊害なのだろう。時折こうして、自分自身が無意識に囚われ、自覚のないままに行動してしまう。

 

「家に帰ろうって、思ってたから。……昔からこんな感じで、気がついたら知らない場所に立ってることとか、結構あるんだ」

「……そうか」

 

 こいしの面差しに、かすかな影が差した。

 

「第三の目を閉じて、心を読めなくなったのまではよかったんだけど……こういうところはちょっと困っちゃうんだよね。これのせいで家に帰れなくなったり、危ない目に遭ったのも一度や二度じゃないもん」

 

 放浪癖がある子だと、さとりは言っていた。だから、外を出歩くのが好きな活発な子なのだろうと、月見は思っていた。……本当にそうなのだろうか。もしかすると彼女の放浪癖は、能力の弊害によって意図せず生まれてしまった、望まぬ力の顕れなのかもしれない。

 事情を理解した一輪と水蜜は、複雑そうに眉を寄せて閉口していた。月見も、表情こそ穏やかだけれど、内心では苦いものを噛んでいた。無意識による勝手な行動。それは言い換えれば、自分以外の誰かに自分のすべてを乗っ取られ、操られてしまうのと同じだ。自分の知らない誰かが、自分の中に棲んでいるのと同じだ。ちょっと困っちゃう、とこいしはなんでもないことのように言ったが、決してちょっとどころの話ではないだろう。泣いてしまいたくなるような経験をしたことだって、きっと、あるのだろう。

 だから月見は、ため息をつくように微笑んで、

 

「……それじゃ、家に帰るか?」

「……そうだね。多分、船に戻っても、また無意識のうちに帰ろうとしちゃうと思う」

「わかった。じゃあ、私も一緒に行くよ」

 

 え? とこちらを見上げたこいしの蒼い瞳を、膝に両手をつき、まっすぐに覗き込んで。

 

「帰り道の途中でなにかに気を取られたら、無意識のうちにそっちに行っちゃって、また帰れなくなるんじゃないのか?」

 

 こいしの視線が、横に逃げた。

 

「……うーん、そうかも」

「だから、私が見てるよ」

 

 意図せず自覚のない行動をしてしまうのなら、隣で誰かが見ていればいい。なにかに気を取られて道を外してしまうのなら、誰かがそっと肩を叩いて、こっちだよと、呼び戻してやればいい。

 

「それなら大丈夫だろう?」

「そうかもしれないけど……いいの?」

 

 こいしの瞳が、水に指先をつけたように揺れた。一緒に帰ろうと、誰かから提案されること自体を、彼女はとても不思議に思っているようだった。まるでそんなこと、今まで一度も、言われたことがないというように。

 月見は頷く。

 

「もちろん。お前のお姉さんにも頼まれてるしね。断っても、勝手についていくよ?」

「……そっか」

 

 こいしがほころんだ。それは、心配性な姉に呆れる、困ったような仕草だったけれど。

 

「うん。……じゃあ、一緒に帰ろ」

 

 余計な感情が伴わず、常に無邪気で、それ故にどこか機械的だったこいしの笑顔に。

 ようやく、一つ深く息をするような、淡い感情が覗いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局ぬえは、月見とこいしが聖輦船を立つ頃になってもめそめそしたままだった。

 何者かに下着を盗まれて怖がる気持ちは共感されるべきだが、それにしても情けなさすぎである。いつまで経っても泣きやまないので一輪――というか雲山――に拳骨を落とされ、それでまたわんわん泣き始めてしまうぬえを見て、月見はとりあえず、自分の中の『鵺』像を大幅に下方修正するのだった。

 

「ううう、みんなひどいよお~……。ほんとに怖いんだよ、もう夜一人で眠れないよおぉぉ~……」

「こら、お見送りなんだからシャキっとしなさい。また拳骨するわよ?」

「うえぇぇ~……」

 

 一輪の腕にへっぴり腰でひっついて、ぬえがぐすぐすと鼻をすすっている。まるで、とんでもなく怖いホラー映像を見てしまって姉に泣きついている妹みたいだ。

 

「すみません月見さん、だらしない子で……」

 

 いい加減辟易した口振りで一輪がため息をつくけれど、月見は笑って、

 

「いいんじゃないか、元気があって」

「ものには限度があります。……このあと、ちゃんと躾けておきますので」

「うん……まあ、ほどほどにな?」

 

 むしろ首が縮むほどの拳骨を落とす一輪と雲山の方が、限度を知るべきではないかと思わなくもない。一輪の容赦ない一言にびくりと震えたぬえは、涙目で逃げ出して、今度は水蜜の腕にひっついていた。

 水蜜は、慣れているのか苦笑。

 

「これで京都御所を恐怖に陥れた大妖怪だってんですから、笑っちゃいますよねー」

「意外ではあるね」

 

 大妖怪『鵺』は泣き虫、と心の隅の妖怪ノートにしっかり書き留めておく。

 ひぐっ、とぬえが大きくしゃっくりをした。

 

「それじゃあ、そろそろ行くよ。お茶、御馳走様」

「いえいえ。大したもてなしもできずにすみませんでした」

「機会があったらまた来てくださいねー。地上のお話とか、色々と聞かせてくれると嬉しいです」

「……ぐすっ」

 

 一輪が楚々と頭を下げて、水蜜が気さくに手を振って、ぬえが鼻をすする。雲山はあいかわらず厳つい顔をしていたが、月見と視線が合うと、目だけでそっと黙礼した。

 最後に、一輪がこいしを見て。

 

「……あなたも、もしまた来ることがあるならいたずらしないで顔を出してちょうだい。お茶くらいなら出したげるから」

「はーい」

 

 わかっているのかいないのか、こいしは挨拶もそこそこに甲板から身を乗り出し、「それじゃあ行こ!」と月見の手を強く引っ張った。誰かと一緒に家に帰れるのが、居ても立ってもいられないほどに嬉しいらしい。それだけ、『無意識を操る程度の能力』には振り回されてきたということなのかもしれない。

 一輪たちと手を振り合いながら聖輦船を離れれば、船は空を切って、あっという間に月見たちから遠ざかっていく。風が吹かない地底の空を泳ぐ後ろ姿に、ああそういえばどうやって空を飛んでいるのか訊き忘れたなと、月見はふと、そんなことを考えた。

 まあ、また次の機会でいいことだ。ふっと笑い、隣のこいしを見下ろす。

 

「じゃ、帰ろうか」

 

 月見の手の中には、こいしの小さな掌が収まっている。こうして手をつないで帰れば、途中で離ればなれになってしまうこともないはずだから。

 月見を見返したこいしは、重ねた掌に力と熱を込めて、顔いっぱいにほころんで頷いた。

 

「うん!」

 

 その心からの笑顔が、あまりに強く綺麗だったから。

 空のない地底に、一瞬外の景色が映ったようだと、月見は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 聖輦船が大分旧都から離れてしまっていたのもあって、帰り道は、決して短い道のりではなかった。おまけにこいしが、なにか面白そうなものを見つけてはすぐさま右に曲がろうとし、なにかに変なものに気を取られてはしきりに左へ行こうとするものだから、まるでやんちゃな子犬の散歩でもしているみたいだったと月見は思う。

 

「着いたね」

「ああ」

 

 見下ろせば、四角形の縁を切り取った形の地霊殿と、ステンドグラスが七色を彩る中庭が見える。正面は言うまでもなく、こうして空から見ても綺麗な佇まいをした館だ。ただ単に自分の好きな色で塗り潰せばいいのではないということを、あの吸血鬼お嬢様にも是非見習ってもらいたい。

 ところで、

 

「……なんだか、少し暑くないか?」

 

 地霊殿の真上に来た途端に、妙に周囲の空気が生ぬるくなった気がする。サウナの空気を、遠巻きから浴びせられているような。

 こいしは地霊殿の中庭を見下ろして、すぐに頷いた。

 

「きっと、おくうが灼熱地獄の空気を入れ換えてるんだよ。……月見、おくうにはもう会った?」

「いや、まだ会ってはいないよ。灼熱地獄を管理してる子なんだってね」

 

 なるほど、中庭のステンドグラスを開けて灼熱地獄の換気をすれば、逃げた熱が空に昇りもしよう。中庭では確かに、ステンドグラスがずれて、いくつか黒い穴を空けている。

 そして、おくうという少女。ステンドグラスに脳天から激突して気絶し自由落下するという大失敗をやらかしてなお、頑張って自分の仕事に励んでいるらしい。失敗に挫けない強い心を持った子なのか、それとも鳥頭故に、失敗したこと自体を忘れてしまったのか。

 

「じゃあ、今いると思うから紹介するよ! 行こ!」

「おっと。わかった、わかったから落ち着いて」

 

 元気なこいしにグイグイと手を引かれて、中庭に降り立つ。折よく地面のステンドグラスが一枚横に動いて、モグラ叩きのゲームよろしく、一人の少女がぴょこりと顔を出した。

 

「おくうー」

 

 こいしが少女の名を呼ぶ。おくう――霊烏路空は、振り向くなり一瞬表情を明るくしたけれど、すぐにこいしと手をつなぐ月見の存在に気づき、血相を変えて全身を強張らせた。

 

「こいし様っ、それ……!」

 

 瞳に烈火が燃えるように浮かび上がったのは、触れれば火傷する明らかな敵愾心。……そういえば地底の妖怪は、地上の妖怪を快く思っていない場合があるのだった。あの居酒屋の連中然り、さとりたちにせよ一輪たちにせよ、みんな気のいい妖怪たちばかりだったから、すっかり忘れてしまっていた。

 灼熱地獄に続く穴から飛び出し一目散に駆け寄ろうとするおくうを、こいしが「大丈夫だよー」と笑顔で制した。

 

「この人はね、悪い妖怪じゃないよ。ここまで戻ってくる途中でね、私がまた変な場所に行かないように見ててくれたんだよ」

「っ……」

 

 おくうが足を止めた。こいしのフォローがあってなお、その瞳の奥には直視も憚られる激情の炎。月見の印象は、初対面の時点で既に最悪を振り切っているらしい。まるで親の仇にでもされた気分だ。

 

「……はじめまして。私は月見、ただのしがない狐だよ」

「……霊烏路空。地獄鴉」

 

 とりあえず挨拶をしてみたものの、返答は機械の合成音かと思うほど無機質で冷たかった。そしてそれ故に、無感動な声音の奥で押し殺された嫌悪が一層際立っている。

 ひとまず返事をしてもらえたという点では、まったく希望がないわけでもなさそうだけれど――

 

「おくう。月見はお客さんなんだから、そんなに怖い顔しちゃダメだよ」

「……」

 

 こいしが唇を尖らせても、片眉を動かしすらいない。なにも言わず、身動きひとつせず、ただじっと、刃物めいた眼力で月見を射抜いている。

 腰よりも長く伸びる黒髪に、後頭部を丸々覆い隠すほどの大きなリボンをくっつけている。一見すると幼い顔立ちをしているが、対照的に背丈は高く、背中の翼も大きいので、羽根を広げて月見を睥睨する様はなかなか威圧的だ。左右に広がりがちな髪型は、もともとの癖っ毛なのか、それとも内心で燃え盛る敵意の炎が表面化したものなのか。

 文といいこのおくうという少女といい、なにかと鴉には嫌われやすい月見である。この場にこいしがいてくれなければ、殴るように蹴るように、罵倒の飛礫をぶつけられていたのだろうか。

 

「もー、おくうったら……」

 

 やがて辟易したこいしがため息をつき、おくうから視線を外した。月見の袖を引っ張って言う。

 

「じゃあ月見、中入ろ」

「あ、ああ……しかし、いいのか?」

 

 なんというか、背を向けた瞬間に包丁で刺されそうなのだけれど。

 

「いいよいいよ。私が大丈夫だって言ってるのに、聞き分けのないおくうなんて知らない」

「っ……!」

 

 おくうが、苦虫を百匹くらい噛み潰した顔をした。火に油を、どころの話ではない。こいしをいいように懐柔していると取られたのか、もはや人でも殺せそうな目をしていた。

 だが、こいしは知らん顔で、

 

「ほら、行こ」

「ああ……」

 

 腕を引っ張られるまま回れ右をする前に、本当に刺されやしないだろうなと、月見はもう一度だけおくうを見たが、

 

「……こいし様に免じて見逃すけど」

 

 返ってくるのは、憎悪を限界まで煮詰めて発酵させたような、女とは思えないほどドス黒い声、

 

「こいし様たちになにかしたら、ただじゃおかないから」

「……言われなくてもなにもしないから、安心してくれ」

「信じられない。……私は絶対に、信じない」

 

 こいしに両手で腕を引かれた。多分、本気だったのだと思う。その子どもらしからぬ力に踏み留まることもできず、月見は已むなく中庭をあとにする。

 実際に、後ろから刺されこそ、しなかったけれど。

 月見の背には最後まで、刃物と変わらない物騒な視線が、深く深く突き刺さったままだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見が、こいしを連れて聖輦船から戻ってきた。元は自分から頼んだこととはいえ、まさか本当に見つけて連れ帰ってきてくれるとは思っていなかったので、なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。

 

「……本当に、ありがとうございました。月見さん」

「どういたしまして。お役に立てたようでなによりだよ」

 

 地霊殿のエントランスで、さとりは月見に深く頭を下げた。本来であればもっとちゃんとした礼をするべきなのだろうが、折り悪く時計は既に、地上でいうところの夕暮れ時を指していた。

 明日は予定が入っているため、そろそろ帰らなければならないのだと月見が言った時、こいしの落胆のしようはさとりが驚くほどだった。今だってさとりの隣で、ぶーぶーと頬を膨らませながら、

 

「月見、もう帰っちゃうのー? 泊まってけばいいのにー」

「こら、こいし」

「ッハハハ、ごめんな。明日はちょっと予定があってね、夜はその準備をしないとならないんだ」

 

 心を読んでわかったところによると、どうやら月見は、地上では温泉宿のようなものを経営しているらしい。明日から始まる週末の二日間は、幻想郷の住人たちに向けて温泉を開放するため、今夜は浴場の掃除をしたり、色々やらなければならないことがあるのだとか。

 月見についてく! といつ言い出してもおかしくないこいしの腕を引っ張って、たしなめる。

 

「月見さんにも地上の生活があるんだから、無理を言っちゃダメよ」

「ぶー……」

 

 それでもやっぱり残念でならないらしく、こいしはいじけた顔をして、エントランスの床をガシガシ蹴っ飛ばしているのだった。

 聖輦船で出会いここに戻ってくるまでの短時間で、こいしがこうも月見に懐いてしまうとは誤算だった。確かにこいしはあまりに能天気で警戒心がないように見えるが、それでも誰彼構わず心を開くほど扱いやすい子ではない。そうでなかったら、さとりとの関係だって今よりもう少しは上手く行っている。

 そんなこいしと、驚くほどあっさり仲良くなってみせた月見の姿は、姉妹仲がよいと自信を持てないでいる身としては悔しいほどに羨ましかった。同じ覚妖怪でありながら、片や能力とともにあり片や能力を捨てた差なのか、こいしとの間には、いつも言い知れぬ距離があるように思う。

 

「こいし様、随分とおにーさんが好きになっちゃったみたいですね?」

 

 お燐がいかにも猫らしく笑って茶化すものの、こいしはどこ吹く風で、

 

「なんだろうね。月見は地上の妖怪だけど、一緒にいるとなんだか安心できるんだよ」

「……」

 

 こいしは第三の目を閉じ、心を閉ざした代わりに、無意識を操る能力に目覚めた。そしてそれ故に、心を読むだけではわからない超越的ななにかを、無意識のうちに感じ取れるようになっていた。

 ふと、安心という言葉について考える。文字通り、心が安らいでいる状態。月見と一緒にいると、こいしは心が安らぐのだろうか。

 お燐が、うんうんとこいしに共感している。

 

「なんとなくわかる気がするなあ。おにーさん、空気みたいだもの」

「……それは褒められてるのかな?」

「もちろん。存在感が薄いとかそういう意味じゃなくて、空気みたいに、傍にいるのが気にならないんだよ。いい意味でね」

「おや、ありがとう」

 

 では、自分にとってはどうなのだろうか。少し考え、すぐに首を振った。安心などできるはずがない。出会ってから今まで散々からかわれたせいで、ちょっと隙を見せただけで、またなにかをされるんじゃないかと気が気でない。お燐は空気みたいに気にならないと評したが、さとりは逆に、変に彼の存在を意識してしまう。

 けれど。

 

「それじゃあ、そろそろ行くよ。世話になったね」

 

 けれど、それはそれ、決して嫌なことではない。からかわれるのは恥ずかしいし、ちょっと困ってしまうけれど、絶対にやめてほしいと嫌悪するほどでもない。

 なんだかんだで。

 藤千代以外にも、友達ができたみたい、とか。

 断じて言っておけば、からかってほしい、なんて意味ではない。からかわれないで済むのであれば、それに越したことはないけれど。

 でもこういう関係も、それほど、悪いものじゃないのかなと、思う。赤の他人な旧都の住人とも、心を読まないと意思疎通できないペットたちとも、心を読めないこいしとも違う。

 心を読まれてもちっとも気にせず、それどころか逆手に取って、歩み寄ってきてくれるひと。

 いつか三人でお酒も呑もうと、藤千代は言った。本当に、そうなれればいいと思う。いつか、友と呼べる者たちと盃を傾け合うことができたら、それはきっと、素晴らしいこと。

 だから、ああそっか、とさとりは思って。

 

「またねー。今度は一緒に遊ぼうね!」

「元気でねー」

 

 傍にいると心が安らぐのが、こいしにとっての『安心』。一緒にいてもまったく気にならないのが、お燐にとっての『安心』。

 そして、さとりにとっては。

 

「……また、いらしてくださいね」

 

 ここで別れても、また会ってみたいと思える、この感情こそが。

 私にとっての、安心という形なのだろう。

 

「待ってますから」

 

 祈るように、両手を重ねて、淡く微笑む。

 雪が融けて、新しい若葉が芽吹くように。

 今まで生きてきた中で、一番、暖かい気持ちで笑えた気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「今だ隙あり必殺キスメちゃんボンびゃああああああああっ」

「……」

 

 カッコーン。

 地底から地上へと戻る洞穴の途中。そうして月見は桶を傘でホームランした。

 

「いやあああああ助けてええええええええっ」

「…………」

 

 振り向き見れば、遊園地のバイキングみたいな勢いで振り子運動をしている、釣瓶落とし。

 

「……やあ、また会ったね」

「助けてって言ってるでしょばかああああああああっ」

 

 また会っちゃったなー、と月見は遠い目をしながらため息をついた。

 自称みんなご存知地底世界のアイドル、キスメちゃんである。感情が面に出にくいクール系と見せかけて、一度口を開けば反応に困るボケばかりを連射する変な妖怪である。できれば再会したくなかった。

 悲鳴と棒読みを足して二で割ったとても微妙な声でドップラー効果を再現しつつ、キスメが右へ左へ行ったり来たりしている。

 

「助けて助けて助けて助けて助けろ助けて助けなさい」

「はいはい」

「わーいありがゲフゥッ」

 

 左上から流れてきた桶を、目の前でキャッチする。桶の運動速度が一瞬でゼロになって、慣性の法則で前に打ち出されたキスメは桶の縁に腹を強打し、そのまま干された布団みたいになって動かなくなった。

 

「……大丈夫か?」

「ゲフガホゲボグボ」

 

 あまり大丈夫ではなさそうだ。

 

「ゲホゲホ……ひ、ひどい。こんなにひどい助け方をされたのは生まれてはじめて。というか助けられたのかどうかすら疑問」

「大変だねえ」

「うわすごい他人事。そんなひどいこと言ってると、鬼子母神様にあなたに食べられたって吹き込んじゃうよ。もちろん性的に」

「釣瓶落としって焼くと美味いのかな……」

「食べられちゃう。物理的に」

 

 狐火を豪々燃え上がらせた尻尾を近づける。

 

「って待って待って本当に焼こうとしないで桶が焦げる焦げる焦げちゃう桶があああ私のベストパートナーがあああいやあああああミディアムレアになっちゃうううううう」

 

 青い顔と真顔を足して二で割ったとても微妙な表情で狐火をふーふーするキスメを見て、本当に変な妖怪だよなあと、月見は低い声で唸ることしかできないのだった。

 キスメの五体投地のような土下座がキマってから、少し。

 

「――で、なんでついてくるんだ?」

「せっかくこうして運命の再会を果たせたのだから、もっと一緒に愛を語り合うべき」

「間に合ってます」

「間に合ってるんですか。爆発してください」

「ところでヤマメには会わなかったね」

「私よりもあの女がいいのねこのスケコマシ」

 

 なにやら退屈すぎて枯れ果てそうとのことだったので、洞穴を抜けるまでの間、キスメの話し相手を務めることになってしまった。曰くこの少女、月見と一緒だと会話が弾むので楽しいらしい。月見は疲れる。

 釣瓶落としは空を飛ぶのが得意でないそうなので――だからこそ彼女たちは天井からぶらさがるのだろう――、キスメ入りの桶を手に持って、月見は洞穴を飛んでいく。

 

「地底旅行はどうだった?」

「終わってみれば、それなりに楽しめたよ」

「私と運命の出会いができたから?」

「……………………ああ、そうだね」

「どこからどう見ても可哀想なモノを見る目ですありがとうございました」

「お前ってさ、こう……昔、どこかで頭を思いっきり打ったりとかしなかったか? 頭のネジが吹っ飛ぶくらいに」

「これは遠回しに頭おかしいって言われてる予感。常識を逸脱した才能を持つ者は、いつだって世間から理解してもらえないのね」

「お前の才能って?」

「かわいいこと。てへっ――はい冗談、ちょっとしたお茶目なジョークです。だから投げ捨てようとしないでくださいお願いします」

 

 調子に乗るキスメを早々に投げ捨てるべきか本気で苦悩しつつ、地上へとつながる急勾配を狐火の明かりの中で進んでいく。行きは初めて通る道だからとゆっくり進んだが、今は早く帰って明日の準備をしなければならないので、余所見などする暇はない。

 キスメがまた、

 

「なんだかんだで、あなたは優しい妖怪」

「なんだいきなり」

「デレ期。フラグを立てるなら今」

「……」

「まさかの無視……。さては既に攻略したいヒロインがいるのねこんちくしょう」

「で、なんだいきなり」

「まあ、なんだかんだでお話に付き合ってくれるし。面倒だったら逃げればいいのに」

「一周回って逃げる気も起こらなくなってるんだよ」

「大丈夫、私にはわかる。これはあなたのデレ期。私は迷わずフラグを立てに行く」

「間に合ってます」

「爆発しろおたんこなす」

 

 初めこそゆっくり時間を掛けて下りた急勾配も、障害物に気をつけながら一気に昇ってみれば、ほんの数分の道のりだった。

 

「そろそろ出口だよ」

「私はここで捨てられるのね。所詮は行きずりの女」

「一人で戻れるだろう?」

「三十パーセントの確率で死ぬ」

「そうか。頑張って」

「……うん、頑張る。くっ、やっぱりまだまだ好感度が足りない……」

 

 こうして帰り道をともにしたことで、段々とキスメとの付き合い方もわかってきた月見である。真面目に話をしても疲れるだけなので、頭の中を半分くらいカラにして、テキトーに答えてしまうのがよろしい。

 そんなこんなで、キスメという面倒な同伴者を抱えながらも、無事に洞穴を抜けた月見だった。地上は、日が完全に落ちてからまだ間もない、薄い夜の帳で包まれていた。星が見えない曇天ながらも雨はやんでおり、深呼吸をすれば、湿った森の空気と雨の残り香が月見の肺を満たした。

 尻尾の狐火を消して、洞穴側に振り返る。膝を折って、なるべく平たい石の上にキスメの桶を置いた。

 

「はい、それじゃあここでさよならだ」

 

 キスメは桶の中で立ち上がると、ペコリと綺麗に頭を下げた。

 

「うん。ありがとう、お話楽しかった」

「それはなにより」

「またお話しようね。あなたとのお話は本当に楽しい。これは新しいベストパートナーの予感」

「……まあ、考えておくよ」

 

 月見は苦笑しながら頬を掻いた。どうやら気に入られてしまったらしい。ひょっとすると今回の地底旅行で一番大きな収穫は、いい意味でも悪い意味でも、キスメと知り合ってしまったことなのかもしれない。

 

「じゃあ、死なないように気をつけてね」

「大丈夫、私はこんなところで終わる女じゃない」

 

 桶の縁に両手を掛けたキスメが、ふんっと全身に力を込める。しかし五秒ほど経ってもなにも起こらず、更にふぬぬぬぬぬと力を振り絞ってようやく、桶が墜落間近のUFOみたいによろよろと浮き上がった。

 

「……大丈夫か?」

「せ、制限時間は、三分」

 

 飛行術が苦手というのは本当なようで、キスメは早くも息切れを起こし始めていた。これでは三分どころか、一分持つのかどうかも怪しい。目を離した瞬間に墜落しそうだ。

 まあ、彼女とて伊達に洞穴で生活している妖怪ではないので、大丈夫だろうけれど。

 

「じゃ、じゃあね」

「……ああ」

 

 ふよふよ、ふよふよ、今にも重力に負けそうになりながら、亀と名勝負を演じる速度で、キスメは一生懸命に飛んでいく。こんなところで終わる女じゃないという彼女の台詞を信じて、月見も水月苑へ向けて飛んでいく。

 背後から、あああっカコーン! と綺麗に墜落した音が響いてきて、一瞬引き返すべきかどうか悩んだけれど、首を振って聞かなかったことにした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「月見――――ッ!!」

「ぐはあっ」

 

 そして水月苑に戻ってきた月見を待っていたのは、フランの元気いっぱいな突進攻撃だった。いつも通り鳩尾と肋骨に甚大なダメージを負いつつも、男の根性でなんとか踏み留まり、お腹にすりすりしているフランの頭を優しく叩いた。

 

「こらフラン、もう少し手加減してくれって何度も言ってるだろう?」

「えへへ。ごめんね。でも月見に会えて嬉しいんだもん」

 

 腹部にダメージを負うたびにやめてほしいとしみじみ思うのだけれど、フランの無邪気な笑顔で見上げられてしまえば、まあいいかと叱る気も失せてしまう。本当に甘やかされるのが上手な子だ。そしてそれを見たレミリアが羨ましそうに月見を睨みつけるまでが、フランの突進攻撃における一連のお約束(テンプレ)なのだった。

 水月苑の玄関先で月見の戻りを待っていたのは、フランとレミリアと咲夜だった。スカーレット姉妹は夜行性なので、しばしば、こうして宵の口に水月苑を訪れる。

 

「どこに行ってたの?」

 

 レミリアは、待ちくたびれたのか不機嫌そうな顔をしていた。ちゃんと出迎えてほしいなら、ご近所さんとはいえ、前もって連絡くらいはしてほしいものだと月見は思う。

 お腹にフランをくっつけたまま、

 

「ちょっとね。もしかして、大分待ってたか?」

「ほんの十分程度ですわ。お気になさらず」

 

 昼間の家事で既にクタクタになるほど働いたろうに、疲れの色ひとつ見せることなく、咲夜が楚々と一礼した。

 

「明日の準備は、もう終わってますか?」

「いや、これからだけど」

「ああ、よかったです。それじゃあお手伝い致しますわ」

 

 しかも、これから更に水月苑の掃除まで手伝ってくれるらしい。藤千代であったり映姫であったり、藍であったり早苗であったり妖夢であったり、水月苑の掃除を手伝ってくれる協力者はそこそこいるが、中でも咲夜の働きはズバ抜けていた。殊に掃除という一点に限れば、咲夜は他の誰よりも、ひょっとすると月見以上に、水月苑のことを知り尽くしているだろう。

 

「毎回悪いね。助かるよ」

「いいえ、このくらいは当然のことです」

 

 本当に当然のことだと思っているらしいく、咲夜の返答はまっすぐで迷いがなかった。やはり出来過ぎた従者だと月見は噛むように笑って、心の片隅に、今度お礼をしようと小さくメモを取った。

 フランに引っつかれながら玄関下に入って、戸に手を伸ばす。淡く妖力を込めると、カシャン――と、ガラスを叩いたように長く伸びる錠の音。力自慢の妖怪が多い幻想郷では、通常の錠前が意味を為さない場合も多いので、月見はこうして呪術的な戸締まりをするようにしている。

 戸を開け、

 

「じゃ、温泉に入るならさっさと入っちゃいなさい。あとで掃除して、湯を張り替えるからね」

「はーい。月見も一緒に入ろ?」

「だぁから、それはダメだって何度も言ってるでしょ!?」

 

 フランがもはやお決まりとなりつつある一言を炸裂させ、血相を変えたレミリアがフランに掴みかかる。ぶーたれるフランと真っ赤になって騒ぐレミリアを見下ろして、月見と咲夜はどちらからともなくほころんだ。この子たちと一緒にいると、本当に、つくづく、娘たちでもできたみたいだと錯覚させられる。

 レミリアに強制連行されていくフラン、及びそれについていく咲夜と別れて、雨がやんでいるのを幸いに、座敷へと続く渡り廊下を全開放する。途端に風が雨の匂いを孕んで吹き込んできて、月見はひとつ、ゆっくりと長く、全身へ行き渡らせるように深呼吸をする。

 夏が始まる匂いだと、月見は思う。湿っていて、少し喉に貼りつくような、噛めば味すら感じられそうな、夏を運ぶ雨の匂い。

 春は終わった。あとは空を覆うあの雲たちが役目を終えれば、外の世界がそうであるように、幻想郷にも夏がやってくる。

 新しい季節の足音は、耳を澄ませば、もうすぐそこまで近づいてきていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ① 「緋想の霧」

 

 

 

 

 

 初めは、ほんの小さな違和感だった。

 しつこく続いた梅雨も一度過ぎ去れば早いもので、表と裏が替わるように、あっという間に夏本番へと突入した。絵の具をぶちまけたみたいに空高い青と、矢が降り注ぐかの如く強烈な陽射しと、火計のように身を焦がす熱気はまさしく夏だ。燦々輝く天からのスポットライトを浴びて、今日も蝉たちの大合唱は途切れることがない。

「夏だー!」と元気に外で跳ね回るか、「夏だー……」と家に引きこもって涼を取るかの二択しかないであろうその日、初めに違和感に気づいたのは月見だった。縁側の木陰になった隅に座り、足元に水の張った桶を置いて足湯ならぬ足水をしつつ、団扇を揺らして涼を取っていた時のことだった。

 

「……?」

 

 普通の人間や妖怪では到底気づくことのできない、砂浜に小石が一粒混じるような、小さな小さな違和感だった。しかし、幻想郷の妖怪としては一番歳を食っているからなのか、暑さに参って頭がぼんやりしている中でも、月見はその違和感を確かに感じ取った。

 

「ふむ?」

 

 例えるならば風呂上がり、自分の体から湯気が立ち上がっているような。息を止めて目を凝らさなければわからないほどかすかだけれど、時折一筋の煙めいた流れが、肌の近くでくねっている……気がする。

 あまりにも希薄すぎるので、見間違いかもしれないけれど。

 

「妖力……ではないよな」

 

 妖力は、特に抑えようと意識しない限り、自然と体から漏れ出てしまうもの。だが『気配』という言葉でも言い換えられるその流れは、基本的に目で見ることができず、加えて、漏れ出ていることに何千年も生きて今更違和感など覚えるはずもない。

 では、妖力でないとすれば、一体なにか。

 

「……まあ、いいか」

 

 そこまで考えたところで、月見はあとに続くはずだった思考を放棄した。違和感があまりに微弱すぎるため、この炎天下の中でわざわざ汗水垂らして調べる気にはなれなかった。特に嫌な感じがするわけでもなし、しばらく様子を見て長く続くようなら、陽射しが穏やかな日に暇潰しで調べてみればよい。

 そう結論し、団扇でのんびりゆったりと、顔を扇ぐ。

 無性に氷嚢が欲しくなる、夏の本番。

 

 そして二日後、月見は、体から立ち上がる煙が決して真夏の幻覚ではないと確信した。

 陽射しの厳しさが多少和らいだのを幸いに、週末の温泉宿営業日に向けて、屋敷の掃除を行っていた頃だった。夏日の掃除はなかなかな重労働であり、ちょっと油断するとすぐにだらけてしまいたくなるので、気分転換の意味も込めて、本格的に違和感の考察を開始する。

 まず疑問なのは、この煙は一体なにかということだ。目を凝らして手の甲を見れば、やはりわずかながら目に見える流れがある。微差だが、二日前より濃くなっているようだ。

 一見すると霧のように見えるが、霧ではないだろう。真夏の昼日中に、生物の体から霧が自然発生する現象など聞いたことがない。

 廊下の上を、軽くほうきで掃きながら考える。

 自分の体から、煙めいたなにかが漏れ出す現象といえば。

 

「気質……とかかな」

 

 気質。体の内部に存在し、すべての生物が持つ個体的な性質を司るもの。

 古代中国においては、万物を構成する根本的な物質は『気』であるとされ、その気によって形成される物の性質を『気質』と呼ぶ。また心理学においては、個人の性格の根幹を成すものであり、刺激に反応する場合の先天的な行動を特性化した――まあつまりは、『個人』を形成するとても重要な要素、ということだ。

 その気質が生物の体から外に放出されるのは、さして珍しい現象ではない。個人差はあるが、すべての生物は皆、無意識のうちに周囲に気質を振りまいて生きている。

 そうやって放出された気質は、同じくして周囲を漂う人々の気質と混ざり合い、現実世界に様々な変化を引き起こす。明るく社交的な人が一人いると、なんとなく場の空気そのものが和やかになる現象は、決して錯覚などではなく、その人の持つ明るい気質が実際に影響を及ぼしている好例だ。

 他にも例を挙げれば、雨男とか、晴女と呼ばれる人たちなど。あれも、その人の持つ雲を呼ぶ気質、雲を払う気質が、実際の天気にまで影響を与えているといえる。

 今月見の体から放出されているのは、気質である――真夏の霧を疑うよりかはよっぽど現実的だ。

 ほうきで集めたゴミを、ちりとりですくいながら呟く。

 

「でも、かすかにだけど目に見える」

 

 生物が放出する気質の量は、その時の精神状況や周囲の環境によって増減するが、目に見えるほどの濃度で漏れ出すことがあるとは初耳だ。単に月見の勉強不足か、それとも、

 

「……自然現象じゃない」

 

 誰かの手によって、人為的に引き起こされている異常――という線は、ありえるだろうか。これが外の世界であれば、そんなまさかと一笑に付しただろうが、あいにくここは幻想郷だ。外の常識は通用しない。

 そう思ってより注意深く観察してみれば、どうやらこの霧、外に向けて流れていっているらしい。

 換気中の窓から吹き込んでくる、穏やかな夏の風に逆らって。

 

「ふむ」

 

 好奇心が震えるのを感じた。これが人為的に引き起こされた現象だとするならば、一体誰が、なんの目的でやっているのか、調べてみるのも悪くはない。

 だだっ広い屋敷の掃除にも、飽きてきたところだ。集めたゴミを捨て、ほうきとちりとりをしまい、戸締まりをして外に出る。途端に、空からは燦々たる陽射しが、地上からは蝉たちの大合唱が集中砲火をかけてきた。やっぱり家でゆっくり涼んでようか、と一瞬挫折しかけたが、首を振って自堕落な思考を追い払う。

 まずは、立ち上がった気質の流れ行く先だ。意識を集中させて、流れを感覚的に追跡する。どうやら、山の天辺に向けて流れていっているらしい。

 空を飛び、気質が流れる方へ。春を越えてより一層深みの増した、緑の山肌が眼下に広がる。向かい風に逆らって空を切る感覚は、ひと時の間、夏の暑さを忘れさせてくれた。

 すれ違う天狗たちと挨拶をしたり、最近仲良くなった厄神と世間話をしたり、守矢神社の上を跨いだりしつつ、気質の流れに注意して飛んでいくと、結局、辿り着いた先は山頂だった。東西南北を端から端まで一望できる、幻想郷で一番高い場所。

 だが、どうやらここがゴールというわけではないらしい。

 

「へえ……もっと上か」

 

 からりと晴れた空を仰ぎ見る。ここまで登ってきてもなお、気質は更に高い場所を目指して流れていっている。この先にあるものといえば、当然、綿飴みたいに真っ白い雲だけであり、

 

「……雲の上、か」

 

 どんな季節でも天候であっても、常変わらずに山の空を覆う、叢雲の上に築かれた世界。悟りを開き、俗世を捨て、享楽に身を委ねた究極ののんびり屋たちが住む世界を、月見たちは『天界』と呼ぶ。

 

「……」

 

 この気質の流れが人為的に起こされたものであるならば、天人が犯人という可能性はありえるだろうか。俗世を捨て地上を去った天人たちが、わざわざなんの目的で。

 まあ……そもそも、これが本当に人為的な現象なのかすら、まだわかっていないのだけれど。

 

「なにはともあれ、昇ってみないことには始まらないか」

 

 せっかくここまでやってきたのだ、今更引き返すのも勿体ない。

 空を征く。更に青の彼方へ。

 この選択が、やがて月見が初めて『異変』に関わることとなる、小さな小さなきっかけだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 予想外の敵が立ちはだかった。

 山頂と天界とをまっすぐ結んだ道の途中に、どれほどの大きさなのかも見当がつかない巨大な雲。山頂から見上げた時にはなかったはずが、空を昇る月見がおやと思っているうちに、あっという間にできあがってしまった。

 

「……うーむ」

 

 地上を見下ろせば、この雲が幻想郷に大きな影を落としている。それに急に風が強くなってきたし、空気も湿ってきたようだ。

 もしかすると、積乱雲の類かもしれない。この見当もつかない大きさといい、雲の内部から感じる言い知れないプレッシャーといい、そんじょそこらの雲とは違う。

 積乱雲は、空には激しい対流現象をもたらし地上には豪雨をもたらす、夏の代名詞ともいえる雲の名だ。内部では気流が乱れ、気温が氷点下を下回り、それによって生まれた水滴や氷の塊が飛び交って、ついでに『雷雲』の別称の通り雷までもが暴れ回っているという、ちょっとした世紀末を凝縮した世界になっている。例えば飛行機が積乱雲の中に迷い込んでしまうと、気流の乱れで正常な飛行はまず不可能になり、機体は氷点下の気温で凍りつき、更には飛び交う氷の塊でボコボコにされてしまうとか。

 実際に経験したわけではないのであくまで上辺だけの知識だけれど、地震や台風などと並んで、自然が生み出す脅威のひとつである。

 月見が持つ選択肢は二つ。この積乱雲を大きく迂回して天界を目指すか、諦めて出直すかだ。強行突破は考えない。不可能ではないだろうが、危険なのは間違いないし、そのリスクに見合うだけの結果が得られるとも限らないのだ。夏の間のささやかな気晴らしで、ハイリスク・ノーリターンは避けたいところだった。

 

「さて、どうしよう」

 

 などと呑気に考えているうちに、風は更に強まりつつある。上昇気流が発生しているらしく、油断したら一息で雲に吸い込まれてしまいそうだ。そう、例えばちょうど、下から吹き上げられてきているあの鴉天狗みたいに――

 

「――って、」

「月見ー!? た、助けてー!?」

 

 誰かと思えば操だった。他の鴉天狗よりも一際大きい双翼が、上昇気流を馬鹿正直に受け止めてしまっているらしく、決して小さくはない彼女の体が木の葉さながらにもてあそばれている。このままではあっという間に積乱雲の中へと吸い込まれ、光が届かない世界で上下に左右に掻き回され、氷点下の気温でじわじわと凍りついて、やがてすべてが終わった頃に、『操だったモノ』だけが静かに地上へ落下していくことだろう。

 ……さすがにそれは可哀想なので、助けてやることにした。舞い上がってきた彼女の体を抱き留める。

 

「つ、月見ー!!」

 

 操の両目からアツい感動の涙があふれだす。しかしその翼がなおも大きく開かれたままだったので、次の瞬間、月見ごと一気に吹き上げられそうになった。

 慌てて踏ん張り、叫ぶ。

 

「おい、翼畳め!」

「む、むむむっ無理じゃよ! 風が強すぎて、もう畳むこともできないんじゃー!」

「毟り取るぞ!」

「それはヤメテ!?」

 

 お互い世紀末の世界に放り込まれる一歩手前なので、恥も外聞もなく結構激しく抱き合っちゃったりしているのだが、あいにくそんなことを気にしている場合ではない。

 

「操、能力! 能力使えばなんとでもなるだろ!」

「ハッ! そ、そうじゃね! よし、ちょっと待ってて!」

 

 操がまぶたを下ろし、静かな表情で何事かを呟く。途端、強烈に打ちつける上昇気流を容易く押し返して、黒の双翼が一気に畳められた。――『暗示する程度の能力』。自己暗示を掛けて身体能力を底上げする程度、操にとっては造作もない。

 

「よし、このまま離れ――」

「いや、儂に任せておけ!」

 

 つい先ほどまで風にもてあそばれるだけだった情けない姿とは打って変わり、凛と響く力強い声音だった。その声が耳に届いた時には、既に月見の天地は逆転している。月見の背に両腕を回した体勢のまま、操の双翼が大きく打ち震え――

 

「――!」

 

 滑空――否。

 上昇気流を一文字に切り裂き、墜落する。

 

「う、お……!」

 

 逆巻く気流が全身を直撃し、目も開けていることすらできない。五感の情報がなにひとつとしてわからなくなって数秒、突如として落下する感覚がなくなって、足の裏側がなにかに触れた。

 ……目を開けてみれば、どうやら山頂に戻ってきたらしい。積乱雲が遥か天高くにある。あれほどの高さからものの数秒で落ちてきたとなれば、恐らく隕石にも似た落下速度だったことだろう。

 とりあえず、ふ~とこれ見よがしに額の汗を拭っていた操を、軽く肘で小突いた。

 

「あ痛。なんじゃよお、せっかく頑張ったのに」

「限度ってものがあるだろう。付き合わされるこっちの身にもなってくれ、心臓に悪い」

 

 もしも操が翼の制御をちょっとでも誤っていたら、山頂はぐちゃぐちゃになってよくわからない肉塊と、真っ赤な血の池が広がる地獄絵図と化していただろう。外の世界のジェットコースターとか、バンジージャンプとかスカイダイビングとか、そのあたりを遥かに超えた卒倒モノのアトラクションだった。月見ですら寿命が縮まった思いがするのだから、気の小さい妖夢やアリスあたりなら泡を吹いて失神する。

 とはいえなんとか無事に戻ってこられたのに変わりはないので、月見はため息で胸を撫で下ろしつつ、

 

「操、いい加減に放してくれ」

 

 ところで、未だ月見たちは落下時の状態のまま――つまり月見は、操にぎゅっと抱き締められてしまっているわけで。

 わざとらしく両腕に力を込めながら、操はニヤニヤと、

 

「えー、もう少しツクミンを補給――あああああっアイアンクローはダメじゃーダメじゃーっ!」

「操、お前もか?」

 

 ツクミンは、月見に接触することで摂取できる栄養素である。炭水化物、たんぱく質、脂質、ビタミン、そしてミネラルと並んで六大栄養素と呼ばれており、欠乏すると禁断症状が云々。藤千代をアイアンクローしてやった春が懐かしい。

 うぐおおお、と側頭部を押さえて蹲る操を無視して、やっとこさ身の自由を確保した月見は空を見上げる。

 

「……さて、どうしようかな」

 

 危うく積乱雲に吸い込まれる窮地は脱したが、行き先が明るくなったわけではない。積乱雲に覆われた空は昼間なのに薄暗く、吹き荒ぶ風はひょうひょうと不気味に鳴いていて、今にも一雨降ってきそうだ。今日は諦めて出直した方がいいだろうか。

 

「……なー、月見ぃ」

「ん?」

 

 いつの間にかアイアンクローの痛みから回復した操が、蹲ったまま恨めしそうに積乱雲を睨みつけている。

 

「さっきさあ、儂、あの雲のせいで大分情けない姿を晒したじゃないか」

「いつものことだ、気にしてないよ」

「それってフォローされてなくない!?」

 

 空咳。

 

「……まあそれはそれとして、天魔って天狗の一番えらーいやつじゃろ? 空の支配者みたいなもんじゃろ? そんな儂が、たかが図体デカいだけの雲如きにやられっぱなしで引き退がるなんて、天魔として、それ以前に一の天狗として、いかがなものかと思うんじゃよ」

「……」

 

 操の瞳の奥で、逆襲の意志を宿した不穏な光が瞬いている。

 彼女が言わんとし、またやろうとしているところを察した月見は、もう一度空を振り仰ぎ、

 

「……私さ、天界に行こうと思ってたんだよ」

「うむ。あれじゃろ? 儂らの体から出てる霧」

「なんだ、気づいてたのか」

「モチのロンじゃ」

「死語だろそれ……」

「げ、幻想郷ではまだまだ現役じゃよ!」

 

 しかし考えてみれば、この気質の流れに気づいていないのだったら、わざわざ好き好んで積乱雲に近づく阿呆もいるまいか。

 

「まあそういうわけじゃから、あの積乱雲が消えてなくなれば、儂は汚名返上名誉挽回できるしお前さんも天界に行けるし、いいことだらけじゃよね」

「そうだね」

「うむ」

 

 月見と操は頷き合い、

 

「――というわけで、ちょっとぶっ飛ばしますのじゃ」

 

 瞬間、妖気が弾けた。普段からなにかと面倒くさがりで争いを好まない操が、自ら進んで妖力を開放したのは、月見が幻想郷に戻ってきてから初めてだろうか。積乱雲が生み出す気流とは明らかに違う、肌を切り裂くような猛々しい烈風に、月見の服が狂ったようにはためいた。

 

「ほれほれ、ちょっと離れといて」

「ああ」

 

 言われずとも、やる気になった操の傍にのこのこと立ち続けるほど馬鹿ではない。たとえ普段がどんなに情けなくても、どんなにダメな鴉天狗でも、それでも操は天魔の名を継いだ大妖怪なのだ。彼女の実力を妖怪の中で上から数え上げれば、わざわざ五指を折るまでもない。

 月見は速やかにその場を離れ、山頂の隅へ。その標高故に緑がほとんど残されていない荒涼とした大地の中心で、操は右の袖を一気にまくり上げると、華奢な腕に目視すら可能なほど色濃い妖力を集中させ、握り締めた拳を脇腹に据える。

 そこでようやく、月見は疑問に思った。

 

「おい、ちょっと待」

「ひっさーつ……!」

 

 月見の制止の声は、もはや操には届かなかった。彼女が放つは、鬼子母神と呼び畏れられる少女が使う、かつて乾と坤の神々の戦場を荒野に変えた一撃。

 

「『吼拳』! ――操ッ、ばーじょんっ!!」

 

 万物を喰らい尽くす空気の波濤、風を支配する天魔に放てぬ道理はなし。

 天へと拳を突き上げ、そこから放たれた妖力が、瞬く間に積乱雲から風の支配権を奪い取る。藤千代の放つ吼拳がどこまでも猛々しい野獣の咆吼とするならば、これはさながら、天へと昇り征く龍そのもの。触れる風をすべて取り込み巨大化し、上昇気流すら己の(きざはし)にして、螺旋を描き昇り征く龍は一呼吸の間に積乱雲へ牙を突き立てる。

 炸裂。

 操がはしゃいだ。

 

「どっかーん!」

 

 その言葉通り、空が爆ぜていた。かつての諏訪大戦で月見が目の当たりにした光景と、そう大した差異はない。ただ空気の咆吼に喰われ薙ぎ払われるのが、大地か空かの違いだけ。

 そして数秒遅れて、波濤は月見たちのもとにも押し寄せる。大地が根こそぎ奪い去られるほどではないにせよ、到底顔も向けていられないほどの暴風に、踏ん張りきれなかった小石たちが次々山頂から薙ぎ払われ、巻き上がった土煙は落ちることなく虚空へ消えていく。

 およそ、十秒。ようやく目を開けられるようになった月見が空を見れば、そこにはもう積乱雲など影も形もない。

 あるのはただ一色の青空と、天界を乗せた恒常の白雲のみ。

 空の道を遮る壁は消え去り、これで晴れて、あの白雲の上を目指せるようになったわけだ――が。

 

「よっしゃー決まったーっ! 儂に勝とうなんざ千年早いんじゃぶぁーか!」

 

 ぴょんぴょん何度も跳び上がり、欣喜雀躍を全身で表現している操を尻目に、月見は顔を手で覆いながらため息をついた。心底思う。他にやりようはなかったのだろうかと。

 山の空を覆い尽くすほど巨大な積乱雲を、影も残さず吹き飛ばす一撃なのだ。ぶっ放す前に、もうちょっと安全確認とか、誰かが巻き込まれでもしたらどうするつもりなのか。

 もし仮に、万が一、巻き込まれてしまった不幸な誰かがいるとすれば、到底無事では済むまい。そう例えば、ちょうど空から落ちてきているあの人影のように、全身ズタボロで完全に気を失い、頭から真っ逆さまになって――

 

「――って、」

 

 それが本当に巻き込まれてしまった哀れな犠牲者だと気づいた瞬間、月見は飛び出していた。あれに巻き込まれて五体満足でいるということは、体の丈夫な妖怪だろうが、妖怪とはいえあれほどの高さで頭から落ちたら無事では済まない。地を蹴り空を駆け、月見は落ちてきた人影を間一髪で抱き留める。

 

「っと。……誰だ?」

 

 知り合いではなかった。髪はバサバサ、服はボロボロ、目をグルグル回して気絶している、なんとも惨めったらしい有り様の女性だった。天狗ではない。それどころか山に住んでいる妖怪ですらない。しかし山の妖怪でないなら一体誰が、積乱雲の付近を飛び回った挙句操の『吼拳』に巻き込まれるというのだろう。

 

「おーい、大丈夫かー?」

「う、う~ん……」

 

 軽く揺すってみれば、寝言みたいなかすかな呻き声が返ってきた。大事はなさそうなので、ひとまずは未だにぴょんぴょんしながら「いやーさすが儂じゃねー」と自画自賛しまくっている操のところに戻ることとする。

 見知らぬ女性を抱えて戻ってきた月見に気づいて、操が裏切られたように目を剥いた。

 

「お、お前さん、なに新しい女侍らせとるんじゃ!? 流れ的に侍らせるなら儂じゃろ!?」

「黙れ元凶」

 

 お花畑な操の脳天を、すかさず尻尾で一閃。

 

「あ痛。……ってなんだ、衣玖じゃないか」

「知り合いか?」

「んー、まあ知らん仲ではないな。どうしたんじゃこいつ。あっはっはこんなにボロボロになって、まるで儂の吼拳に巻き込まれたみたいじゃないかー」

 

 月見は真顔になって操を見た。操はとても気不味そうにさっと目を逸らした。

 

「……操」

「うぐっ……」

 

 呻いた操は言い訳がましく月見を横目で窺いながら、ぽそぽそと、

 

「いやほら、そいつ、竜宮の使いなんじゃけど。竜宮の使いって、基本的に雲の中を泳いで暮らしとるやつらなんじゃよね。だから多分、偶然、たまたま、儂が吹っ飛ばしたあの積乱雲の中を、泳いどったんじゃない、かなー……?」

「……」

 

 なるほど、竜宮の使い。竜の世界と人間の世界の狭間を漂い、竜の言葉を地上の生き物たちに伝える役目を担う妖怪たちだ。操の言う通り人生の大半を雲の中で過ごしているため、吼拳に巻き込まれて空から降ってきたとしても、特別おかしな話ではない。

 吐息。

 

「……とりあえず気を失ってるみたいだから、どこかで休ませてやってくれないか?」

「ん? そいつ、起きとるぞ?」

「は?」

 

 月見は下を見た。竜宮の使い――衣玖というらしい――の、透き通る緋色の瞳と目が合った。一体いつの間に起きたのだろうか。

 衣玖は、つくりのいい目をパチパチしばたたかせながら月見の顔を見上げて、次にゆっくりと月見の胸元あたりを見て、最後に俗にいうところをお姫様抱っこをされている自分の状況を見て、

 三秒、

 

「――きゃああああああああああ!?」

「づあ!?」

 

 バチッと来た。目の前が瞬間的に真っ白になって、ふっと全身から力が抜ける。しかし崩れ落ちる寸前でなんとか踏み留まって、頭を振り、目を数回開け閉めしてようやく視界が回復すれば、衣玖の姿がどこかに消えていた。

 微妙に灰色がかった視界で捜してみると、衣玖は月見から十メートル以上念入りに後退した場所で、尻餅をついたような体勢で蹲っていた。ぜえぜえと肩で息をし、月見を睨みつける視線は若干涙目だ。電気を発生させる能力でも持っているのか、周囲ではバチバチと空中放電が起こっている。

 どうやら先ほどバチッと来たのは、彼女が生み出した電気に感電したからのようだ。ほんの一瞬の出来事で助かった。もしどこぞのアニメの如く何秒間もバチバチやられていたら、今頃月見は操に担がれて永遠亭行きだったろう。

 

「なななっ、なんですかあなたは!?」

 

 衣玖はすっかり平常心を失っていた。顔を真っ赤にし、両腕で主に胸のあたりを守って、尻餅をついたままじりじりと後退していく。目が覚めたら知らない異性に抱きかかえられていたとなれば、うべなるかな。

 

「なっ、なんで私にあんな……も、もしかして変質者の方でしょうかっ! ビリビリしますよ!?」

 

 既にされたが。

 

「あー、衣玖ー? 衣玖さーん? 儂の姿が見えるかー?」

 

 見る見る激しさを増す空中放電に、操が顔を引き攣らせながら間に入ってきた。顔見知りの登場に、グルグルと混乱の極みにあった衣玖の表情がいくらか冷静になる。

 

「……天魔さん?」

「うむうむ。とりあえず事情を説明すると、こやつは空から落ちてきたお前さんを助けただけじゃよ。別にやましいこととか考えてたわけじゃないから、許してやってくれ」

「はあ……って、え? 空から落ちてきた?」

 

 吼拳の破壊力故か、衣玖は記憶まで混乱しているようだった。眉をひそめてしばらくうんうん考え込むと、やがて赤かった顔があっという間に真っ青になって、

 

「お、思い出しました! 天魔さん、あなたなんてことしてくれたんですか!?」

「あー、うん、すまん」

 

 怒りで肩を震わせ立ち上がった衣玖から、操は逃げるように顔を逸らした。

 胸倉を締め上げる勢いで、衣玖が大股で元凶に詰め寄る。

 

「冗談抜きで死ぬかと思いましたよ!? ああもう、羽衣はボロボロだし、帽子だってどこかに吹っ飛んでっちゃったじゃないですか! お気に入りだったのに!」

「雲が邪魔じゃったらつい……」

「ついで殺されかけてたまりますかっ! 私だったからこの程度で済んだものを、並の妖怪だったら雲と一緒に消し飛んでいたところです!」

「だ、だからすまんかったって! ちょ待っ、電気出てる電気出てる落ち着いて!」

 

 まるで椛みたいにガミガミ怒鳴ってくる衣玖(空中放電付き)を、操は懸命に押し返しながら、

 

「そ、そういうわけだから、こやつに悪気はなかったって話はおーけーか?」

 

 衣玖の怪訝そうな瞳が月見を捉えた。月見はとりあえず、また感電させられるんじゃないかと衣玖の空中放電を警戒しながら、敵意のない笑顔をひとつ。

 怒りではない別の色で顔を赤くした衣玖が、弾かれたように背筋を伸ばして頭を下げた。綺麗な四五度だった。

 

「も、申し訳ありません! 先ほどはそのっ、気が動転してしまって。助けていただいたのに、とんだご無礼を……」

「……こっちこそ、驚かせて悪かったね」

 

 衣玖の空中放電が収まっていく。とりあえず、またビリビリされる心配はなさそうだ。

 

「本当にすみませんでした……。い、痛かったですよね?」

「一瞬だったから大したことはないよ。……ただそう、びっくりしたけど」

 

 月見が苦笑とともにそう言えば、衣玖はもう恥ずかしさと申し訳なさのあまり湯気のひとつでも上げそうになりながら、しおしおと縮こまっていくのだった。

 浮世離れした美貌を持つ少女である。地上の穢れと無縁な竜の世界で生きているからなのか、肌は真水で濡れたような艶があって、潤んだ桃色の小さな唇は、それだけで下卑た男の理性を奪うだろう。……ただ今は、髪も服もボロボロにやつれていて大変みすぼらしい。操の吼拳に巻き込まれてさえいなければ、生糸のようにきめ細かな髪とフリルが踊る衣装は、さながら空を泳ぐ天女の如く妖艶な波を描いていたのだろうが。

 下着が見えてしまうような破け方をしていないのが、不幸中の幸いだった。

 

「私、永江衣玖と申します。……すみません、こんなみすぼらしい格好で」

「月見だよ。よろしく。……服の方は仕方ないさ。悪いのは操だ」

「だ、だから、すまんって何度も言ってるじゃないかー……」

「まったくですよ」

 

 肩身が狭そうにしている操を、衣玖は恨みたっぷりの半目で睨んだ。

 

「大体、なんでいきなり雲を吹っ飛ばしなんてしたんです? 一雨来るのがそんなに嫌だったんですか?」

「いや、それはほら……」

 

 操は人差し指同士をつんつんしながら、

 

「ちょっと天界に行こうと思って……。あんな大きな積乱雲に立ち塞がられたら、行こうにも行けないじゃないか」

「それはそうかもしれませんけど……しかし、天界ですか?」

 

 衣玖が不思議そうに首を傾げる。

 

「なぜそんなところに?」

「ちょっと気になることがあっての。月見と一緒に調べてみようと思うんじゃ」

「? ……よくわかりませんけど、妙なことはしないでくださいよ? 天界と地上の関係の悪化は、龍神様も望むところではありません」

「わかっとるって。さすがの儂もそこまでバカじゃあないよ」

 

 暗に自分が少なからずバカだと自覚していると思われる発言を残しながら、操が翼を大きく動かして、ふわりと空に飛び上がった。

 

「そんじゃ月見ー、さっさと行くぞー。ほれほれ、はよぉせー」

「ああ……?」

 

 生返事をしながら、月見は首を傾げた。気のせいだろうか。操の相貌に、そこはかとない焦りの色が浮かんでいる気がする。別に急ぐ理由などないはずなのに、まるで一刻も早くこの場を離れようとしているような――

 声。

 

「――天魔様ああああああああっ!!」

「げえっ!? 来おった!」

 

 ああなるほど、と月見は思った。

 麓の方から飛んできた耳を突く絶叫は、操のお目付け役である少女のもの。確かに、積乱雲を吹き飛ばすほどの一撃を独断でぶっ放しなどすれば、あの子が黙って自分の仕事を続けるはずもない。

 振り向き見れば、果たして狂ったような勢いで翼を羽ばたかせ、犬走椛がすっ飛んできている。

 大剣装備で。

 

「天魔様あああっ!! さっきのって絶対天魔様の仕業ですよね!? 一体なんてことやらかしてくれてるんですかあああっ!!」

「くっ、あいかわらず仕事真面目なやつめ! ……悪いが衣玖、この場は任せたのじゃ! 適当に空気読んで足止めしといて!」

「は!? ちょっと、あなた待」

「んじゃ月見、儂は先に行っとるからなー!」

 

 無茶振りされた衣玖の抗議の声も聞かず、操は舞い散る黒い羽根だけその場に残し、あっという間に青空の小さな点となってしまう。

 幻想郷最速の鴉天狗とタメを張れるほど見事な逃げ足に、数秒遅れて山頂に到着した椛が、くっと悔しげに歯を軋らせた。

 

「逃げられた……! 本当に逃げ足だけは速いんですからあの駄天魔は……!」

「椛」

「あっ、月見様! おはようございます!」

 

 しかし月見が声を掛けるなり、パッと眉間の皺を吹き飛ばし笑顔で挨拶してくるのだから、その百面相ばりの切り替えはさすがというべきか。ところで、駄天魔とは一体なんだろうか。あまりに操にぴったりな二つ名である。

 行儀のいいお辞儀から頭を上げた椛は、月見の隣で半ば呆然としている衣玖を見て、疑問符を浮かべた。

 

「そちらの方は?」

「あっ……どうも、はじめまして。永江衣玖と申します」

「はじめまして、犬走椛です。天魔様の、まあ、お目付け役みたいなものをしています。遺憾ながら」

 

 最後に付け足された一言から、椛の普段の苦労がありありとにじみ出ていた。妖怪の山では一日一回必ず、椛が怒り狂って操を追い回すという。椛の胃は大丈夫だろうか。

 衣玖はみずぼらしい自分の恰好ばかりが気になって、そこまで気が回らなかったようだった。気恥ずかしそうに小さく笑って、

 

「すみません、こんなボロボロの格好で」

「……あの、つかぬことをお訊きしますが、それってもしかして天魔様が……」

 

 その惨憺たる有り様を見て頬を引き攣らせた椛に、少々答えづらそうにしながら、

 

「……ええ、まあ」

 

 その瞬間、椛が弾けるような笑顔を咲かせて言った。

 

「わかりました。天魔様はあとで撫斬りにしておきますね」

「「……」」

 

 ひょっとすると椛は、幻想郷で一番怒らせてはならない従者なのかもしれない。未だかつて、ここまで清々しい笑顔で主人討伐を宣言した従者がいただろうか。

 さておき。

 

「椛。操なんだけど、今すぐ撫斬りにするか?」

「そうしたいのは山々なんですけど……」

 

 大剣の腹を撫でながら残念そうに言う椛は、結構怖い。

 

「でも今は他に仕事があるので、天魔様が戻ってきてからにします」

「なるほど。……じゃあ私と操は、ちょっと天界で調べ物をしてくるから。終わったら逃げないように連れて帰ってくるから、今は見逃してくれ」

「あっ、いいんですか? ありがとうございます、そうしていただけるとすごく助かります」

 

 椛の大剣が、太陽の光を不気味に反射してゆらりと揺らめいた。嬉しそうに耳をひくひくさせる椛はとても可愛らしかったのだけれど、なぜだろう、月見は背筋の寒気が止まらなかった。

 自分の笑顔が乾いている気がする。

 

「それじゃ、行ってくるよ」

「わかりました。お気をつけてくださいね」

 

 椛に見送られながら、空へ。後ろに衣玖が続いた。

 

「では、私も戻ります。お着替えをしないといけないですし」

「……すみませんでした、天魔様が」

「いえ、大丈夫です。そのかわり、ちゃんと注意してあげてくださいね」

「ええ、そうはもう! 任せてください、しっかり言って聞かせますから!」

 

 多分、体に直接言って聞かせるんだろうなあ、などと思いながら。

 

「じゃあ」

「はい、いってらっしゃいませ!」

 

 随分とすったもんだしてしまったが、椛と別れ、月見はやっとこさ天界へと向かう。

 体よりうっすら立ち上がる霧は、未だまっすぐに、空の遥か高くへ昇り続けている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もしもこの世に桃源郷が存在するのなら、きっとこういう風景をしているのだろう。

 足の裏を優しく押し返す、絨毯のように柔らかな緑で覆われた平原には、七色の花々が咲き乱れ、雲の下まで透き通るほど澄み切った清流が流れている。清水は遠く離れた岩山から湧き出しており、滝となって流れ落ちる途中で幽かに虹を作り出している。川辺には清水に育てられた清浄な桃の木が並び、地上から昇ってきた邪気を光合成のように取り込み、浄化している。風が吹けば、浄化された空気がたくさんの花びらを運び、淡い霞が広がる世界に七色の彩りをちりばめる。

 俗世のしがらみから解き放たれたこの天上の世界を、人は『天国』と呼び崇めるだろう。清浄に包まれた世界はそれ故にひどく夢想的であり、なるほど確かに、自分がこうして生きていることすら忘れてしまいそうだった。

 

「……おー、来たかー」

 

 操は、雲の縁から天界に上がってすぐのところで原っぱに寝そべり、夏風邪でも引いたみたいにぐだぐだと寝返りを打っていた。顔色がいつもより少し白くなっている。

 

「大丈夫か?」

「うー、微妙に息苦しいのじゃあ……」

 

 その原因はわかりきっている。天界の澄み切った空気は、清浄すぎるが故に、妖怪にとっては馴染めないものなのだ。海の魚にとって、真水が毒となるのに似ているかもしれない。月見も、体調を崩すほどではないが、先ほどから吸い込む空気に違和感を覚えている。

 

「もういやじゃー。つくみぃー、おぶってぇー……」

「先行ってるぞー」

 

 そんな操を容赦なく置き去りにして、月見は先に進んだ。こうして天界に辿り着いた以上、彼女の下らないわがままに付き合うつもりはない。一直線に、平原の中央――そこに立つ、一人の少女のもとへ。

 詩が聞こえる。

 

「天にして大地を制し 地にして要を除き 人の緋色の心を映し出せ――

 緋色の霧、それは非想の気 非想の気、それは生物の本質 天気とは即ち、非想天の本質なり――」

 

 夏の晴れ空よりも青い髪をなびかせ、天を生み。

 エプロン状に広がる衣服をはためかせ、雲を作り。

 右手に握られた緋色の剣に太陽を乗せて、光を映し。

 腰から下がった紙垂にも似た七色の飾りで、虹を描く。

 天界という世界をその小さな体に詰め込んで、広大な平原の中心でたった一人、詩とともに舞い踊る少女。極小の空を描き出すその姿は、まるで天女のようだと――思い、実際に彼女は天女なのだと気付いて、月見は含むように笑う。

 空は、晴れている。雲の上に築かれた天界だけあって、見上げる先に白はなく、どこまでも青一色で染め抜かれている。

 夏の空。

 遠い昔に、『門倉銀山』が、竹取翁の屋敷から望んだのと同じ。

 なにかが起こりそうな、夏の空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ② 「天を描く少女」

 

 

 

 

 

「――いやあああああ!? こ、こっち来ないでえええええ!?」

 

 本来、天界とは呆れるほど平和な世界である。

 透き通る清水が流れ、七色の花が咲き乱れる土地はもちろんのこと、なによりこの世界に住んでいる天人という種族は、俗世のしがらみを捨ていわゆる悟りの境地へと至った者たちであり、恨みや妬みといった負の感情を一切持たず、日々を享楽的に遊んで暮らしている。無論、そんな天人たちが下らない争いなどを起こすはずもなく、天界は地上の人間たちから見れば、紛れもなく『天国』と呼んで差し支えない桃源郷なのだ。

 本来であれば。

 

「ちょ、ちょっと待ってえええ! 一旦タイム、タイム! お願いだからやめてえええええっ!?」

「……」

 

 桃の木陰に座って夏の日差しを凌ぐ月見は、目の前で繰り広げられる光景と、耳をつんざく少女の悲鳴を前に、深呼吸をするように長いあくびを噛み殺した。

 広い天界の平原を、あてどなく必死に逃げ惑う少女。その後ろから猛然とした勢いで迫ってくる――三つの竜巻。

 少女が草原を駆け抜ければ、巻き上がったかすかな風に夏の花々がさわさわと揺らめく。そしてそれから五秒くらいすると、続け様に三つの竜巻が到来して、花々は憐れ天空の花びらとなって青空の彼方へ消える。

 触れるものすべてを容赦なく薙ぎ払う、大自然の猛威である。お陰様でこの日の天界は、少々、平和じゃない。先ほどから顔面に打ちつける風は強烈で、髪がばさばさと絶えず踊り狂っている。竜巻から十二分に離れた月見にしてみれば強めの扇風機に当たっているような心地よさだが、真後ろから追い掛けられる少女の心境はたまったもんじゃないだろう。

 案の定、悲鳴。

 

「そっ、そこの狐さんっ、見てないで助けてよおおおおお!?」

「……いや、でもねえ」

 

 右方向から少女の緊急SOS信号を受信した月見は、けれど腰を上げず、それどころか桃の木にゆっくりと背中を預けて、視線を左方向へ。

 

「だそうだぞー。もう少し手加減してやったらどうだー?」

「はっはっはー、こんなのまだまだ序の口じゃよー」

 

 左の空で、操が呵々と笑いながら答えた。空中で器用に胡座をかいて、竜巻から逃げ惑う少女をおもしろおかしそうに観察している。少し前にようやく天界の空気に慣れた彼女は、むしろ今は大変絶好調な様子で、目の前の少女に大自然の脅威を叩き込む真っ最中なのだった。

 

「言わんでもわかってると思うが、手は出すなよー。これは儂とあやつの、手出し無用の真剣勝負(だんまくごっこ)なんじゃからなー」

 

 そう。俄には信じがたいことに、月見の目の前で繰り広げられているのは弾幕ごっこなのだという。……月見の記憶と認識が正しければ、確か弾幕ごっことは、霊力なり妖力なりで作り上げた弾に特定の軌跡を持たせて撃ち合うゲームだったはずではなかったか。逃げる少女。笑う操。暴れる竜巻。見渡す限り、弾幕などどこにも見当たらない。

 けれど思い返してみれば、月見が唯一経験したフランとの弾幕ごっこ――とはお世辞にも呼べない戦闘――において、彼女はレーヴァテインという名の炎剣を縦横無尽に振り回していた。要するに、何事にも例外はあるということなのだろう。もしかすると弾幕ごっこは、究極的には回避不可能な攻撃さえ使わなければいいのであって、その攻撃方法について事細かな制限はないのかもしれない。

 そうであれば、月見が口を挟むことはなにもない。右を向いて、

 

「というわけで、自分の力で頑張ってくれー」

「ばかあああああ!!」

 

 少女は既に涙目だった。少女が右に曲がり左に曲がりいくら複雑に走り回って振り切ろうとしても、三つの竜巻はその後ろをぴたりとくっついていく。それどころか時には先回りをし逃げ道を塞ごうとするなど、生き物じみた狡猾ぶりである。

 まあ、曲がりなりにも天魔の名を戴く操が操る竜巻なので、当然ではあろう。むしろ、そんな竜巻からもうかれこれ五分近く、全力疾走で逃げまくっている少女の方がすごい。酸素の薄い空高くで生活しているだけあって、化け物じみたスタミナである。

 

「もうやだあああああ!! なんでこんなことになってんのよおおおおおおおおっ!?」

 

 そういえば、なぜだったろうか。

 積乱雲を払い無事天界に辿り着いた月見は、とりあえず第一村人発見くらいの軽い気持ちで、空を描き舞い踊る少女に声を掛けたはずだった。

 それが一体どうして、こんなことになっているのかといえば――

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「なにしてるんだ?」

「ぅひゃい!?」

 

 声を掛けた瞬間、少女が変な悲鳴を上げて飛び跳ねた。驚くあまり手にしていた剣がすっぽ抜け、地面に突き刺さる。バランスを崩して前につんのめりそうになり、必死に踏み留まって振り返った少女の相貌は、さながら万引き現場でも見られたような激しい動揺で戦慄いていた。

 天界に辿り着いた月見が見つけた、天を描く少女――十中八九、彼女なのだろう。月見たちの体から霧が立ち上がる、この謎めいた現象の黒幕は。

 先ほどまで詠っていた詩も、随分と怪しかったし。

 

「えっ……え、ええぇっ!?」

 

 音程のズレた声とともに、少女が飛ぶように何歩も後ずさった。いきなり後ろから声を掛けた月見が悪いとはいえ、少々驚きすぎではなかろうか。

 

「な、なんで……どうして」

「ええと。とりあえず、驚かせて悪かったね」

 

 とても話ができる状態ではなさそうだったのでひとまず謝ったら、少女は数秒ほど呆けてから、ぶんぶんと大袈裟に首を横に振った。

 

「いやっ、そのっ、確かに驚いたのは驚いたけど、別にいきなり声を掛けられたからじゃなくて、もっと別の理由があったのであって」

「はあ」

「と、とりあえず、はじめましてっ!」

「あ、ああ。はじめまして」

 

 あれ? と月見は思う。つい先ほどまでいよいよ黒幕を見つけたと思っていたのだが、気のせいだったろうか。目の前で髪が宙で踊るほど勢いよく頭を下げる少女は、どこからどう見ても、黒幕らしい怪しさとは無縁の普通の少女だった。

 人見知りの気でもあるのか、おずおずと、

 

「よ、ようこそ遥々天界まで……」

「ああ、なんだか私たちの体から気質がもれてるようでね。その流れを追ってきたらここに辿り着いたんだけど」

 

 びくーん、と少女の肩がジャンプした。

 

「……」

「えっ、あっ……ええと、……なんのこと?」

 

 それで誤魔化せると思っているなら、なかなかお花畑な頭をお持ちと見える。

 月見は危うく拍子抜けしそうになっていた気持ちを入れ直して、

 

「やっぱりお前が黒幕か。私たちの気質を集めて、なにをするつもりだ?」

「え、えーっ、と……」

 

 両手の指を交差させながら、少女は引きつった笑顔で言葉を濁した。その仕草がもう完全に私が犯人ですとメガホン装備で叫んでいるようなものだと、彼女は気づいているのだろうか。

 そうやってしばらくうんうん唸った彼女は、結局観念したのか、最終的にわざとらしく胸を反らして開き直った。

 

「ず、随分と気づくのが早かったわね! それで、早速私を止めに来たってことかしら!」

「ん? いや、そういうわけではないけど」

「え?」

「え?」

 

 間、

 

「……私を止めるために、わざわざ天界まで来たんじゃないの?」

「いや? ただ、誰がこんなことをしてるのか気になって……」

 

 そこで月見は一度言葉を切り、く、と小さく笑う。

 

「というか、人から止められるようなことをしてたのか?」

 

 この少女は、月見たちから気質の霧を集めている。それは間違いないとしても、気質を集めるという行為が具体的にどんな意味を持つのかについては、月見にはよくわからない。実際に集めてみた経験はないし、集めるとこんなことができます、などと解説してくれるマニアックな本を読んだ記憶もない。

 一見、人道を積極的に踏み外していきそうな素行の悪い少女には見えないが、

 

「あ、あー、そうね、別に大したことじゃないのよ。だからあなたは気にしなくて大丈夫。うん」

「……」

 

 少女の目は完全に泳いでいた。繰り返し思うが、彼女はそれで誤魔化せると思っているのか。

 さてどうしたものか、と月見は考えた。夏の暇潰しという軽い気持ちでここまでやってきたはいいものの、思っていたより話がきな臭い。もし少女が企んでいる『人から止められるようなこと』が、幻想郷に悪影響を与えるものならば、この場でやめさせるべきか否か。

 考え事をしていたら、背後からのそのそ近づいてくる人影に最後まで気づかなかった。

 

「つぅくみいぃぃぃ~……」

「おっと」

 

 甘ったるい強請り声と同時に、腰のあたりが急に重くなった。恥も外聞もなく両腕回して抱きついて、こちらの脇腹にほっぺたをくっつけている操の脳天を、肘で小突く。

 

「こら、あんまり変なことするな。人前だぞ」

「う~……」

 

 天界の清浄すぎる空気に慣れない操は、未だに船酔い患者みたいに絶不調だった。どう反応すべきかわからず固まっている少女に気づいても、うーうー呻きながら、

 

「誰じゃあこいつはぁ~……」

「今回の黒幕」

「ちょ、ちょっとバラさないでよっ」

 

 バラしたのはお前の方だと月見は思う。主に自爆という意味で。

 操の眉がぴくりと揺れた。あいかわらず具合悪そうではあったが、少なくともうーうーやかましかった呻き声は止まり、

 

「ほー、お前さんがのう。儂らの気質を集めて、なにをするつもりじゃ?」

「だ、だから別に大したことじゃないって」

「異変でも起こすのか?」

 

 操の短い言葉に、少女の体が明らかに氷結した。呼吸すら止めたのが、月見の目からでもとてもよくわかった。

 図星――しかし、

 

「……『異変』って?」

 

 異変を起こす――言葉の意味はわかる。日常生活では見られない、なにか異常な現象を起こすこと。だがここで操が言っているのは、単にそういう意味だけでの『異変』ではない。操と少女の間だけで通じる、辞書を引くだけではわからない特別な意味があると月見は感じた。

 

「どれ」

 

 よっこらせ、と操が月見の腰から離れ立ち上がる。月見の横を通り一歩前へ出る際に、「とりあえずここは任せておけ」と彼女は目で語った。特に異論のない月見は口を閉じる。

 

「……そうよ」

 

 今更誤魔化すのも遅いと悟った少女が、俯き、苦々しく口を開いた。

 ふうん、と操は一言、

 

「……なにが目的じゃ? 幻想郷でも乗っ取るのか?」

「失礼ね。そんなことしないわよ」

「じゃあなぜ」

「それは……」

 

 逡巡、

 

「……つまらないから、よ。天界の生活は、毎日が歌って踊ってばかり。天人にとってはそれが当たり前で、誰一人として不満も退屈も感じていないんだけど、私は嫌なの。歌が嫌いなわけじゃない。踊りが嫌いなわけじゃない。でもそれだけじゃあ、毎日同じことを繰り返すだけの人形みたいで、生きている気がしなくて、嫌なのよ。

 だから、異変を起こしてみようって。異変を起こして、それを解決しにやってきた人間たちと闘って、そして、」

 

 短い間、

 

「――まあ、そうすれば少しは楽しくなるんじゃないかと思ってね、私の人生も。それだけ」

 

 奥歯に物を挟んだような言い方だった。同時に月見たちに口を挟む間を与えぬよう、一刻も早くこの話を切り上げるよう、わざと口早に話している風でもあった。

 まあ、なぜと問われ馬鹿正直に真実を語る黒幕もいないだろうが――

 

「私が異変を起こす理由は以上。次は私の質問に答えて頂戴」

 

 少女が毅然と顔を上げた。握る拳に、一瞬、震えるように力がこもった。

 問い掛けは静かに、

 

「――あなたたちは、私を止めに来たの?」

「いいや、別に」

 

 操の答えは早かった。月見と違い、恐らくは『異変』という言葉の本当の意味を知りつつも、即答だった。

 

「異変の解決は、儂らの仕事じゃないしのー。一応訊いておくが、異変っつってなにをするつもりじゃ? あんまり被害がデカくなるようなのはダメじゃぞ?」

「わかってるわよ。……あなたたちから気質の霧を集めて、緋色の雲をつくるだけ。それで幻想郷の天気をめちゃくちゃにするの」

「ほー」

 

 操と少女が対話の応酬を続けている間、蚊帳の外になっている月見も蚊帳の外なりに、ここまでの話を整理してみる。察するに『異変』とは、幻想郷規模でなんらかの異常現象を引き起こすことではないだろうか。気質を集め作り出した雲ならば、そこに住む人々の気質に応じて晴れ間が差し、雲が生まれ、雨が降り注ぎ、時には風が吹き荒び雷が轟くとしても不思議ではない。

 それが人為的に起こされている現象だとわかれば、解決に名乗りを上げる者もいるだろう。そういった人々と闘って暇潰しをしようというのが――あくまで少女の話を鵜呑みにすれば――今回の真相ということらしい。

 操は特に興味がないのか、「そうか」とあっさり頷いていた。

 

「じゃあ好きにやるといいさ。儂らは元々、なんで気質が集められてるのか知りたかっただけじゃ。それがわかったなら、もうやることはない」

「ふうん……本当にいいの? 止めなくて」

「止めてほしいか?」

 

 びくっ、とあいかわらず動揺が体に出やすい少女。

 

「そ、それはちょっと困る、かな」

「ならいいじゃないか。……ああ、でも」

 

 ふとなにかを思い出したように、操が青空に向けて大きく背伸びをした。それから肩を回したり、首を左右に傾けて伸ばしたり。天界の空気にも大分慣れてきたのか、血色がよくなってきた顔でニヤリと笑い、

 

「お前さんが異変を起こすというなら、ここは一つ、テストでもしようか」

「……テ、テスト?」

「うむ。異変となれば、必然的に鍵を握るのはスペルカードルールじゃ。異変の首謀者が実は雑魚でしたー、じゃあ霊夢も魔理沙も拍子抜けするだろうからな」

 

 深く息をするように翼を広げ、淡い妖力の開放とともに。

 

「――ちょっと儂と、弾幕ごっこしてみようか」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 というのが、少女が竜巻と追いかけっこをするようになった顛末である。

 

「うわああああああああん!!」

 

 少女は涙目で逃げ続けている。時間としては、もうそろそろ十分が経過するだろうか。あんな大声で喚きながら全力疾走で逃げまくる少女のスタミナの限界は、未だに見えない。

 しかしこの追いかけっこが始まっておよそ十分ということは、竜巻がここの平原を蹂躙し始めて十分ということである。七色の花々が咲き乱れる幻想的な美しさを秘めていた土地は、徐々にただの原っぱへと変わりつつある。

 このままでは天人たちからクレームが殺到して、衣玖が忌避していた地上と天界の関係の悪化なんてこともありえそうだ。なので月見は左を見て、

 

「操ー、そろそろ許してやったらどうだー?」

「にょーっほっほっほー楽しいのーう」

 

 弾幕ごっこを始めてからというもの、操は見違えるように絶好調だった。

 少女がやはり涙目で吠える。

 

「弱い者いじめはんたああああああああっい!!」

「おっとこれはすまんかった。――じゃあお前さんを強者と認めて、本気で相手をしてやろう」

「ばかーっ!!」

 

 操がとっても楽しそうな笑顔で右腕を振ると、少女の逃げる先で更に三つの竜巻が発生した。

 

「ひいいいいいいいい!?」

 

 少女が青い顔で曲がれ右をすると、その先で更に更に三つの竜巻が発生した。

 少女が血の気の失せた顔で回れ右をすると、その先で更に更に更に三つ竜巻が発生した。

 四面楚歌、

 

「あっ、」

 

 そして少女は天を舞った。

 

「きゃああああああああああ!?」

 

 前後左右から竜巻たちのアツい抱擁を喰らい、少女の小さな体があっという間に空高く打ち上がった。綺麗な放物線を描いて落ちる先が幸いにもこちらの近くだったので、月見は妖術で巨大化させた尻尾をエバーマットみたいにして敷いておく。

 落下してきた少女が、もふっと銀の海に呑み込まれる。

 

「ふわっ、」

 

 そしてバウンド。弾力抜群のマットの上で少女は後ろに一回転し、弾んだ勢いを止められずそのまま尻尾からずり落ちて――どすん。

 いったあ、と少女がお尻を押さえて呻いているが、背中から直に落ちるよりかはマシなはずなので大目に見てほしい。

 月見が尻尾を元に戻すと、左から操の不満そうな声が飛んできた。

 

「なんだなんだあ、もうおしまいかー?」

「さ、さすがにもういいわよ!」

 

 よろよろ立ち上がった少女が吠える。髪があちこちに飛び跳ねていてみっともない。

 

「なによあれ、あんなの反則でしょ!?」

「そうかー? ただデカいだけの単純な攻撃じゃないか。実際、お前さんだって長い間逃げ回ってたじゃろ」

 

 海を漂うようにゆっくりと翼を動かし、操がこちらまで飛んでくる。

 

「で、お前さんでも逃げ回れるくらいなんじゃから、霊夢――異変の解決役である博麗の巫女なんかは、一瞬で躱して儂に反撃しとるよ」

 

 確かに操のあの攻撃は、穿って見方をすれば、ただの竜巻に追尾性が加わっただけだった。速度だって女の子が走って逃げられる程度なのだ、躱して反撃するなり、追尾性を利用して操を巻き込もうとするなり、対処の仕様はいくらでもあったろう。月見が春に体験したフランの弾幕の方が、ずっと強力で非常識だった。

 

「何分も逃げ回るくらいなら、さっさと反撃すればよかったじゃろうに」

「そ、それは……ちょっと気が動転しちゃって! だ、だって竜巻に追い掛けられるなんて初めてだったし!」

「負け惜しみ乙ー、じゃな。……というわけで月見ー、勝ったんじゃよー! 褒めて褒めてーっ!」

 

 両腕を大きく広げて抱きつこうとしてきた操の笑顔に、月見は尻尾を叩きつけてやる。

 

「あふんっ……ああもうあいかわらず冷たいっ、でもこれはこれでもふもふだから吝かじゃないのじゃー」

「ちょ、ちょっと待ちなさいっ」

 

 少女が抗議の声を上げた。大股で素早く操に詰め寄り、胸倉を掴む勢いで、

 

「私、まだ負けてなんてないわよ!」

「んお? あー、もういいんじゃよそれは。どうせお前さん、今まで一度も弾幕ごっこしたことないクチじゃろ」

 

 痛い図星を衝かれた顔をした少女に、操は尻尾をもふもふしながら嘆息し、

 

「動きが素人すぎるわ。ま、天界の連中は弾幕ごっこなんてまずしないだろうから、当然っちゃ当然じゃけどなー」

「えっと……せっ、接近戦は得意よ!」

「ほー。じゃあもう一回やるか?」

「……」

 

 少女がへっぴり腰で操から後退していく。もう身も心も、少女の完全敗北なのだった。

 操がヒラヒラと手を振って言った。

 

「安心せー、最初にも言ったがお前さんの異変を止める気はないよ。とはいっても、今のお前さんじゃ異変を始めたところで、博麗の巫女に一瞬でやられて終わりじゃろうがのー」

「く、くううっ……」

 

 少女はスカートの裾を握り締めてひとしきりの屈辱に震え、それから恐る恐ると操に尋ねた。

 

「……あのさ。異変を解決に来る博麗の巫女って、あなたよりもっと強いの?」

「おー、強い強い。儂は立場上弾幕ごっこなんて滅多にやらんが、向こうは百戦錬磨のエキスパートじゃからなあ。弾幕ごっこに限れば、幻想郷でも五本指とかに入るじゃろ。このままじゃあ、『今回の異変は随分しょうもなかったわねー』なんて呆れられながら異変終了じゃね。かわいそうに」

 

 少女が涙目でぷるぷる震えている。

 

「まー、さすがに気質が充分集まるのはまだ先じゃろ? それまで頑張って強くなるしかないじゃろうなー」

「強くなる……」

 

 オウム返しで呟いた少女が、はっと両の手を打った。少女の頭の上で、ぴこーんと豆電球が光ったような気がした。

 期待に満ちた眼差しで操を見て、

 

「ねえ、」

「断る」

「まだなにも言ってないでしょ!?」

 

 操の鮮やかすぎる一刀両断に、少女はまた涙目になった。

 

「せめて最後まで聞いてよ!」

「……仕方ないのお。ほれ、言うてみ」

「うん。私が異変を起こすまで、修行に付き合ってくれない?」

「ほい、最後まで聞いたぞ。じゃあ月見、そろそろ帰ろうかー」

「うわあああん!!」

 

 少女が地団駄を踏み始めた。

 

「な、なんで!? いいじゃないちょっとくらい!」

「儂は忙しいんじゃ。明日も朝から仕事をせにゃならんのでな」

「操。今のセリフ、椛に伝えておくから」

「まままっ待つんじゃ今のはちょっと言葉の綾というか、いやっ仕事があるのは事実なんじゃけど、椛が本気にしちゃうから伝えないでお願い!?」

 

 まあ月見が伝える伝えないにかかわらず、明日の操は一日中執務室に監禁だろう。というか、仕事ができるような状態で明日を迎えられるのかどうかも怪しい。操を撫斬りにするのだと意気込んでいた、椛の笑顔が脳裏に甦る。

 

「と、ともかくダメったらダメじゃ! はっきり言って面倒くさ――ゲッフン、忙しいのは事実じゃからな!」

「……」

 

 少女はとても物言いたげな目で操を睨んでいたが、弾幕ごっこでコテンパンにされた手前強く出ることもできず、

 

「じゃ、じゃあ……」

 

 じゃあ、なんなのか。わざわざこちらから確認するまでもない。少女の期待の眼差しが今度はこちらに向いたので、月見も鮮やかに一刀両断した。

 

「断る」

「だ、だから最後まで聞いてってばあ!」

「まあ聞くだけでいいならいくらでも」

 

 果たして少女は今日一日だけで、何回涙目になったのか。

 月見は、浅くため息。

 

「大体私は、お前と同じで弾幕ごっこはしたことがないんだ。教師役なんて引き受けられないよ」

「え? そ、そうなの……?」

 

 弾幕を撃たれた経験はある。だがそれは、あくまで撃たれただけであり、弾幕ごっこの経験とは厳密には別なのだろうと月見は思っていた。

 なにせ月見は、スペルカードルールに必要不可欠なスペルカードを一枚も持っていないし、それどころか弾幕を撃った経験すらないのだ。幻想郷に戻ってきてから今まで、ただ、躱すか傍から眺めていただけ。弾幕ごっこのルールなど、知り合いがやっている姿見て漠然と把握している程度でしかない。それで一体なにを教えられるというのか。

 話を切り上げるように、木陰で休めていた腰を上げる。

 

「だから、他を当たった方が賢明だと思うよ」

「ほ、他って……」

 

 頼みの綱をあっさりと失って、少女は愕然としている。

 

「地上の知り合いなんていないわよ! 天人も、弾幕ごっこなんてしないし!」

「自主トレしかないんじゃないか?」

「なにすればいいのかわかりません!」

 

 自信満々で言われても、そんなものは月見も知らない。

 操が呆れ顔で、

 

「さすがにスペルカードは持っとるじゃろ?」

「それはもちろん……」

「んじゃあ、とにかく実戦を繰り返して場慣れすることじゃよ。習うより慣れろじゃ」

「一人じゃできないじゃない!」

「知るか。弾幕を撃てる知り合いの一人くらい、探せばさすがにいるんじゃないのか?」

 

 ぐっ、と苦虫を噛んだように少女の顔が歪んだ。咄嗟になにかを言いかけた少女は口を噤み、伏し目がちになりながら誤魔化すように言った。

 

「……わ、私の知り合いにはいないわよ」

「じゃあ諦めるんじゃなー」

「お、お願い、ちょっとだけでいいから! せっかく異変を起こすのに、そんな、ボロ負けなんて嫌よっ」

 

 どーするんじゃあー、と操は大変面倒くさそうな顔をしていた。月見としても少々面倒になってきているのだが、目の前の少女がまた涙目になりそうになっているので、仕方なく考えてみる。

 習うより慣れだと、操は言った。それは月見も同意する。実際月見は、フランとの避けられない戦いの中で、弾幕の躱し方を体と本能に直接叩き込んだ。仮に誰かと弾幕ごっこをすることになったとしても、並大抵の攻撃には負けない自信がある。まあ、月見自身肝心の弾幕が撃てないので、勝てもしないだろうが。

 しかし少女はスペルカードを持っており、弾幕を撃つ程度ならばできるという。であれば、習うよりも慣れるべきなのは回避の方。すなわち、どんな攻撃を前にしても決して涙目で逃げ出したりせず、果敢に立ち向かう精神力だ。

 それを考えれば、今の少女に必要なのは、なにも弾幕を撃てる知人というわけではない。

 

「弾幕を躱す練習くらいなら、私でも手伝えるかもね」

「ほ、本当に!?」

 

 少女の目が輝いて、操が怪訝そうに首を傾げた。

 

「でもお前さん、弾幕撃ったことないって」

「ああ、だから弾幕以外のものを使えばいい。……幸い、式神の扱いは得意だからね」

 

 弾幕を撃った経験はないが、傍で見た経験なら何度もある。妖精同士が遊びでやっている簡単なものから、温泉客がひょんなことから水月苑上空で始める本格的なもの、フランに撃たれまくった非常識なものまで。その軌道を式神に組み込めば、擬似的な弾幕の再現も容易く可能だ。

 月見の考えを察し、操が顎に手を遣って頷いた。

 

「あー、なるほど。確かに、それだったら訓練にはなりそうじゃな」

「そ、そうなんだ! よし、じゃあ私の訓練に付き合ってください! お礼はするから!」

 

 先ほどは笑顔で断った月見だが、今改めて考えると、少女に付き合うのも悪くはないかと思っていた。ここで少女に協力すれば、幻想郷における『異変』というのがどういうものなのかを、極めて身近で知ることができる。操の話を聞く限りではなにやら霊夢が活躍するらしいし、気になるところだ。

 しかし、同時に喉に引っ掛かる疑問がある。

 

「ところで、『異変』の黒幕に力添えするとか。そういうのって、やっても大丈夫なのか?」

 

 少女は月見たちから気質の霧を寄せ集め、作り上げた緋色の雲で幻想郷の天候を乱そうとしている。つまりは悪いことをしようとしているのであり、果たして気軽に協力なぞしてよいものなのか。もしも幻想郷の住人たちから罪人扱いされるような可能性があるのなら、残念ながら力添えは無理だろう。

 操は少し考えてから、

 

「大丈夫じゃと思うよ。お前さんは知らんだろうけど、最近の幻想郷では何年かに一回くらいは異変が起こっててな。紅魔館と白玉楼……あと永遠亭の連中も、かつては異変を起こしたことがあるんじゃよ」

「へえ……」

 

 見知った名前が操の口から出てきて、月見は少なからず意外に思った。レミリアたちも幽々子たちも輝夜たちも、今でこそすっかり馴染んでいるけれど、かつては異変を通して、幻想郷の住人に害を為した立場だったらしい。

 

「そんなあやつらでさえ、今ではみんなに受け入れられてのんびり暮らしとる。……どれだけ迷惑掛けられても、異変が無事解決したら、宴会を開いてみんなで酒を呑んで、綺麗さっぱり水に流すってのが昔っからの伝統じゃ。今じゃあ、異変が始まると同時に『よし来た!』っつって宴会の計画を立て始める連中までいたりするくらいでなー」

「……そうか」

 

 月見は喉だけで小さく笑った。ふと、思い出す言葉があった。幻想郷ができてまだ間もない頃に、紫が、まるで世界に刻みつけるように、熱意を持って繰り返していた口癖。

 幻想郷は、すべてを受け入れる。

 敵も味方も、悪意も善意も、幻想も現実も、すべて。

 

「だからまあ、黙っとけば問題ないんじゃないかー? 儂だってこやつが異変を起こすとわかった上で見逃すわけじゃし、同罪じゃよね。……ところで月見っ、同じ罪を共有した男女の仲って一気に深まると思うんじゃけど、そのあたりどう思う?」

 

 月見は有意義に無視し、

 

「それなら、私でよければ手伝ってもいいよ」

「ほ、本当っ!?」

 

 つまらないから。だから異変を起こすんだと、彼女は言った。それが真実かどうかはわからないが、すべてが嘘のでまかせでもなかったと、月見は思っている。

 月見自身も、かつては似たような気持ちから、妖怪にして外の世界を選んだ身だったから。その、共感意識みたいなものだったのかもしれない。

 

「ただし、過度な期待はしない前提でね」

「ぜ、全然大丈夫よ!」

 

 少女が、音がしそうなほどに強く首を振った。

 

「お願いしてもいいの!?」

「まあやるからには、なるべく力になれるように頑張るさ」

「やったあ! あ、ありがとう! ございます!」

 

 飛び跳ねるように喜ぶ少女を見て、さて妙なことになったものだと月見はくつくつ笑った。気質を集めている犯人を突き止めに来たはずが、なんの因果か異変の手助けをすることになってしまった。

 

「ほら操、いい加減に尻尾放してくれ」

「えー、まだツクミンがへぶうっ」

 

 尻尾にひっつく操を強引に振り落とし、月見は少女と向かい合う。

 

「じゃあ、これからよろしく。私は月見。ただのしがない狐だよ」

「え?」

 

 そう言って右手を出したら、なぜか「なにやってるのこの人?」みたいな目をされてしまった。

 それはまるで、こうやって握手を求められたこと自体が、初めてだったかのようで。

 

「……あ、そっか」

 

 少し時間をかけてからようやく、本当にこれで正しいのだろうかと言うように恐る恐る、右手を持ち上げて。

 

「……比那名居、天子です」

 

 月見の右手と重ね、微笑む、

 

「よろしく、お願いします」

「ああ。よろしく」

 

 緊張で硬くなった声と、右手にこもった不安げな力加減。

 小さくて不器用なその姿が、まるで、絵の具で描かれた拙い青空のようだと。

 そう、月見は思った。

 

 

 

 

 

 ――かくして、彼は少女と出会う。ちょっぴり偉そうで、プライドが高くて、でも不器用で寂しがりな、一人の小さな少女と出会う。

 これより始まるのは、少女が起こした異変の話。500年振りに幻想郷に戻ってきた彼が、生まれて初めて関わることになった異変の話。

 

 空が、泣いた。

 夏の、異変。

 

 ――東方緋想天。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あのー、月見? 月見さん? どうして儂を尻尾でグルグル巻きにするのでせう?」

「椛と約束したんだよ。絶対に逃げられないよう、責任を持ってお前を連れて帰るってね」

「ちょっお前さんなに勝手にそんな約束を!? い、いやじゃー! だって今帰ったら儂絶対撫斬りにされるじゃろこういうのはもっと時間を置いてほとぼりが冷めてから――待って月見さん絞めつけないであああああっ儂の体のあちこちから致命的な異音が!? かふっ……」

 

 

 

 ……東方緋想天。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ③ 「修行といじめは紙一重」

 

 

 

 

 

「――いやあああああ!? こ、こっち来ないでえええええ!?」

 

 本来、天界とは呆れるほど平和な世界である。

 透き通る清水が流れ、七色の花が咲き乱れる土地はもちろんのこと。なによりこの世界に住んでいる天人という種族は、俗世のしがらみを捨ていわゆる悟りの境地へと至った者たちであり、恨みや妬みといった負の感情を一切持たず、日々を享楽的に遊んで暮らしている。無論、そんな天人たちが下らない争いなどを起こすはずもなく、天界は地上の人間たちから見れば、紛れもなく『天国』と呼んで差し支えない桃源郷なのだ。

 本来であれば。

 

「ちょ、ちょっと待ってえええ! 一旦タイム、タイム! お願いだからやめてえええええっ!?」

「……」

 

 桃の木陰に座って夏の日差しを凌ぐ月見は、目の前で繰り広げられる光景と、耳をつんざく少女の悲鳴を前に、深呼吸をするように長いあくびを噛み殺した。

 ――気のせいだろうか。同じことを、つい先日もやったばかりのような気がする。

 広い天界の土地を、あてどなく逃げ惑う少女。その後ろから猛然とした勢いで迫ってくるのは――本日は、紙吹雪、だった。

 数は百を下らない。一枚一枚が完璧に統率され、遊泳する小魚の群れのように空を舞うのは、人形(ひとがた)という名の式神だ。それぞれは掌くらいに小さくとも、百を超える大群を成し、見上げるほどの巨体を作り上げる様は、まるで人智を嘲笑うモンスターだ。真後ろから追いかけられる天子の心境はたまったもんじゃないだろう。

 

「つっ、月見っ、見てないでとめてよおおおおお!?」

「……いや、でもねえ」

 

 右方向から天子の緊急SOS信号を受信した月見は、けれど腰を上げず、それどころか桃の木にゆっくりと背中を預けて、空を仰いだ。やっぱり前もこんな感じのやり取りをしたばかりな気がするな、と思いながら、

 

「……修行だし、自分の力で頑張ってくれー」

「ばかあああああ!!」

 

 そう、修行。比那名居天子という少女と出会い、弾幕ごっこの修行を手伝うことになった翌日、早速月見はこうして、教師役を全うするため遥々天界までやってきたのだけれど――

 

「もうやだあああああ!! いきなりこれはレベル高すぎでしょおおおおおおおおっ!?」

 

 修行開始から、早十分。

 比那名居天子は今日も今日とて涙目で、天界を逃げ惑っている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 要は、『弾幕みたいななにか』でさえあればいいのである。圧倒的物量で襲いかかってくる攻撃に怯まずに立ち向かう精神力を磨けるのであれば、月見が無理にスペルカードを作ったりする必要はない。

 だから式神を使うことにした。一晩かけて内職みたいにせっせと作った千枚の人形(ひとがた)を携えて、月見は早速天界へと向かった。

 天界の平原では、決して遅くない時間にもかかわらず既に天子が待っていた。夏の日差しを凌ぐ桃の木陰で、心なしか、まるでデートの待ち合わせでもしているかのようにそわそわと、あっちを見たりこっちを見たり。そして月見の姿に気づくなり、ぱっと明るい笑顔でとてとて駆け寄ってくる様は、さながら人懐こい小動物だろうか。

 

「こ、こんにちは、月見」

「こんにちは。待ったか?」

「う、ううん、今来たとこ」

「……」

 

 なにやら、図らずとも本当にデートみたいな会話が成立してしまった。なぜかはわからないが天子は相当緊張しているらしく、強張った上目遣いで月見の顔色を窺っている。人見知りなあの人形師と似た、相手との距離感が上手く掴めず不安になっている瞳だ。意外とこの子も、そういうのを気にする臆病な一面があるのだろうか。

 苦笑。

 

「そんなに怖がらなくても、私は操みたいに竜巻を起こしたりはしないよ」

「え、あっ、いやその、別に怖がってるわけじゃなくて」

 

 天子は両手を振ってから、やっぱり不安げな上目遣いで、

 

「その……天人以外と話すことってあんまりないから……」

 

 天人以外の相手とどう付き合えばいいかわからない、ということだろうか。

 

「気にしすぎだよ。私は、自分で言うのもなんだけど気が長い方だからね。練習でもするつもりで、気楽に話してくれると助かるよ」

 

 そうでないと、これからしばらくは曲がりなりにも教師と教え子の関係なのだから、苦労することも多いだろう。地底で橋姫の罵詈雑言を乗り切った経験もあるし、少しくらい失礼なことを言われても、月見は特に気しない。気にするほど若い時代は疾うの昔に過ぎ去った。

 

「そ、そう……そう言ってもらえると、助かるわ」

「堅苦しいのはあんまり好きじゃなくてね」

 

 ニッと歯を見せながら笑えば、天子の表情も和らいだ。

 夏の日差しを浴びながらの立ち話もなんなので、天子が月見を待っていた、桃の木陰まで移動する。月見は木の根元に、目印をつけるように突き立てられている一振りの剣を見て、

 

「そういえば、この剣は?」

 

 思い返せば先日も、天子はあの剣とともに舞い空を描いていた。鍔のない細身の剣は、たった今炉から上げたばかりのように強い緋色を帯びており、ひと目でそんじょそこらの業物ではないと見て取れる。

 

「ああ……あれは、緋想の剣。人の気質を集めて、霧に変えるの」

「へえ……じゃあ、あれを使って私たちの気質を集めてるのか」

「そうなるわね」

 

 てっきり月見は、天子自身がそういう能力を持っているのだと思っていた。『気質を集める程度の能力』とか。

 一度木陰に腰を下ろし、持ってきた袋の紐を解く。中は人形の紙片で満たされており、袋を覗き込んだ天子が疑問符を浮かべた。

 

「これ、なに?」

「人形。式神の一種だよ」

 

 へえー、と頷いた天子は、またすぐに首を傾げて、

 

「……なんでこんなにたくさん?」

「これを弾幕の代わりにするんだよ。私は、弾幕を撃ったことはないけど、式神を使うのは得意だから」

 

 論より証拠だ。袋越しに軽めの妖力を流し込むと、力の供給を受けた人形が数十枚、勢いよく空に飛び上がって、月見たちの周囲を旋回し始める。驚いた天子が、ひゃっと声をあげて縮こまる。寸分も乱れもなく生き物のように、或いは機械のように旋回を続ける人形たちに、少しおっかなびっくりとしながら、

 

「うわ、す、すごい」

 

 月見が妖力を通して指示を送ると、飛んでいたすべての人形が同時に旋回を中断。吸い込まれるように月見の背後へ集合し、滞空したまま待機状態に入るまでは、一度息を吸って吐くよりも早い。

 天子が、口を半開きにしてぽけーっとしている。

 

「……とまあ、こんな感じでね。これを弾幕に見立てて動かせば、躱す訓練くらいにはなるだろう?」

「な、なるほど」

「習うより慣れだよ。私も弾幕の躱し方は、実戦で学んだ」

 

 弾幕はこう飛んでくるからこう躱せ、なんて口で説明できるものではない。スペルカードが十枚あれば十の弾幕。カードを宣言する人によってその軌道は千差万別に変化するのだから、言葉で論じていては夏が終わってしまう。

 月見が、フランとの『人形遊び』を通して体で学んだように。こと弾幕ごっこに限って言えば、百聞は一見に如かないし、また百見は一践に如かないというのが、月見の確かな実感だった。

 天子が神妙な顔で頷いた。

 

「確かに、そんなに時間があるわけでもないしね……」

「そうなのか?」

「うん。多分あと二~三日もすれば、異変を起こすのに充分な気質が集まると思う」

 

 であればなおさら、口を動かしている暇はない。

 

「じゃあ、早速始めようか」

「わかった」

 

 天子が地面に突き立てていた緋想の剣を抜き放つ。太陽の光を弾き返した刀身が、火の粉のように赤い煌きを散らした。

 月見が座る桃の木から、弾幕ごっこに必要なだけ距離を取って。

 

「よし……じゃあ、来なさい!」

 

 振り返り凛と剣を構えてみせたその姿を、月見は、案外様になってるなと感心しつつ、

 

「では――」

 

 浅く右手を挙げて、始め、と静かに宣言した瞬間、動いた人形は一枚、

 

「ひゅい!?」

 

 飛燕を欺く速度で風を切り、天子のおでこを強襲した。さながらハリセンを思いっきり打ちつけたような、痛快な音があたりに響き渡った。

 

「いっ――たあああああ!?」

 

 天子が真っ赤になったおでこを押さえて叫ぶ。人形は見た通り紙で作られた式神だが、今は妖力で硬化をかけ、だいたい木の板と同じ程度の硬さになっている。当たればそれなりに痛い。

 

「といった感じで今くらいの速度で動かすから」

「えええっ!? ちょっ、ちょっと待ってよ! いきなり速すぎるし、あとなんで硬いの紙なのに!?」

「速いのは、実際に私が撃たれた弾幕がこれくらいだったから。硬いのは……当たっても痛くないんじゃ緊張感がないだろう?」

「いじわるー!!」

 

 知ったこっちゃない。一度教師役を引き受けた以上は、中途半端な育て方などしないのである。

 

「じゃ、あとは適当に動かすから、頑張ってくれ」

「ほんとに!? ほんとに今みたいな感じでやるの!?」

 

 天子の悲痛な訴えを無視して、月見は人形に弾幕の動きを組み込んでいく。イメージは、紅魔館でフランに撃たれた弾幕だ。あの弾幕は幻想郷でも間違いなくトップクラスの速度と密度を持っていたが、いずれ天子が闘うことになる博麗霊夢は、操曰く幻想郷の五本指に入る実力者だというから、ひょっとするとフラン以上の弾幕を操ってみせるのかもしれない。異変開始まで三日程度しか猶予がない以上、ぬるま湯から修行を始める余裕はない。

 数百の人形たちが一斉に行動を開始し、そして天子は逃げ出した。

 しかし当然ながら、走った程度で人形を振り切れるはずもなく、後頭部や背中にビシビシバシバシ当たりまくる。

 

「いたっ、まっ待って、あう! せ、せめてもうちょっと――ひゃん! お、お願いだからきゃう!? あうっ、やめっ、いたっ、ひうっ、あうっ、いたっ、痛い痛い痛い!? いやー!?」

「……」

 

 平原の彼方へ逃亡する天子を見送って、まったく、と月見はため息をついた。修行を通して強くなろうとする心懸けは殊勝だが、あれでは弾幕ごっこをマスターするのが先か、それとも秋がやってくるのが先か。

 

「ひにゃー……」

 

 足をもつれさせて転ぶ天子の姿は、これから異変を起こそうとしている黒幕とは思えないほど、情けない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 とまあそんなこんなで、比那名居天子は今日も元気に逃げ回るのであるが。

 

「お願いだからやめてえええええっ!!」

「……」

 

 天子が許しを乞い続けて更に十分が近いため、月見はさすがに、少し休ませてやることにした。妖力の供給を切れば、天子を容赦なく袋叩きにしていた人形たちが、ただの紙に戻ってはらはら舞い落ちていく。月見が桃の木陰から腰を上げ、近くまで行ってみると、地面に崩れ落ちた天子は半泣き状態だった。

 彼女は月見に気づくなり怒りで戦慄き、ギリッと強く歯軋りをすると、

 

「いじめないでよバカ――――ッ!!」

「おっと」

 

 いきなり投げつけられた緋想の剣を、月見は危なげのない動きで躱した。刺さったらどうするつもりなのだろう。

 剣が背後に転がっていったのを感じながら、

 

「お前って結構、怖がりなのか?」

「あんなのに袋叩きにされたら誰だって怖いわよ!」

「しかし三日後くらいには、あんな紙ぺらじゃなくて弾幕に袋叩きにされるかもしれないんだぞ?」

「う、ううっ」

 

 やはりあれだろうか、自分の命が懸かっていないからだろうか。月見がフランと弾幕ごっこをした時は、負ければ殺されるかもしれないという危機的状況だったからこそ、砂漠が水を吸うように弾幕の躱し方をマスターできた。

 ……まあ、さすがに修行であのレベルまでやるつもりはないけれど。今の時点で既に半泣きなのだ、やったら恐らく、この少女はマジ泣きする。

 

「弾幕ごっこって、あ、あんなにすごいものなの?」

「まあ、あれはレベルが高い方だとは思うけど……でもお前がいずれ闘うことになる霊夢は、弾幕ごっこなら幻想郷でも五本指なんだろう? だったら、『レベルの高い弾幕』くらい普通に撃ってくると思うが?」

「そ、それはそうだけどぉぉぉ……」

 

 ううううぅぅ~、と天子が鼻をすんすんすすっている。

 

「お、お願い……! お願いだから、もうちょっとだけでいいから優しくして……! 私、もう、どうすればいいのかとか全然わからなくて、痛くて、なにも考えられなくて、本当にダメなのよぉぉぉ……」

「……」

 

 言い回しがなんかやらしい感じになっているのはさておき、ふむ、と月見は腕を組んだ。今の天子の主張には認められるべきものがある。なにも考えられないとまで言われてしまえば、『慣れ』でマスターするのにも時間が掛かりそうだから、少し低いレベルに見直す方が逆に近道かもしれない。

 天子自身、追い詰められて力を発揮するタイプでは……どう見ても、なさそうだし。

 

「……わかったよ」

 

 月見は、苦笑して。

 

「じゃあ、お前のレベルに合うところから地道にやっていこう。……ただし、異変に間に合わなくても文句は言わないでくれよ?」

「い、言わないわよ!」

 

 仄暗い水底に沈みかけていた天子の瞳に、再び光が差した。

 

「ほ、ほんとに!? ほんとに優しくしてくれるの!?」

「するさ。私だって、お前を泣かせに来てるわけじゃないんだ」

「そんなの当たり前でしょ!? ……あ、当たり前、よね?」

「当たり前だから。だから距離を取らないでくれるかい」

 

 頬を引きつらせてじりじり後退していく天子に、ため息一つ、

 

「……じゃあ簡単なところから始めるから、もう少し余裕があるとかキツいとか、教えてくれるか? それでお前に合ったレベルを探していこう」

「わ、わかった」

 

 具体的には、妖精たちが遊びでやっているような弾幕からだろうか。そこから、雛と椛が見せてくれたような、いわゆる決闘として一般的な弾幕を通過し、最終的に月見と同程度の回避能力を身につけられれば申し分ない。

 尻尾を伸ばして、背後に転がっていた緋想の剣を拾い上げる。それを天子の前に差し出し、

 

「じゃあ、やろうか」

「え、ええ」

 

 天子は緋想の剣を受け取るため、もふ、と尻尾に触って、

 

「……」

 

 もふもふ。

 もふもふもふもふ。

 もふもふもふもふもふもふもふも

 

「……天子」

「はっ、はいっ! そ、そうよね修行よね! わかってるわよ大丈夫!」

 

 とは言いつつも、その手は馬鹿正直に尻尾をもふもふし続けていたので。

 そのへんに落ちていた人形を一枚操作して、天子の背後から突撃させる。

 後頭部をぶっ叩かれ、ふぬぬと涙目で呻く天子を尻目に、月見の物憂げなため息が空に溶けた。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 しかしよくよく考えてみれば、天子は荒れ狂う竜巻や踊り狂う人形の群れから、十分以上休みなしで逃げ回れるほど体が強いのだ。肌を若返らせ肉体を丈夫にするという天界の桃を常食している影響かはわからないが、とにかく天子の身体能力は、人としては相当上位に位置づけられる。

 であれば当然、優れているのが体力だけで終わるはずもなく。

 

「――せいやあああああっ!!」

 

 凛と響く気合を一発、天子が緋想の剣を己の前に突き出す。それと同時に剣先から無数の光線が放たれて、前方を舞っていた人形を一枚残さず撃墜する。弾幕ごっこの基本中の基本である、相手の弾幕を自分の弾幕で相殺する動き。

 更に天子は腕を前に置いたまま体を反転。振り返る動きで、

 

「ふっ!」

 

 背後を斬り払えば、剣の軌跡に沿って緋色の炎が立ち上がり、背後から迫ってきていた人形を焼き尽くす。間髪を容れず上から襲いかかってきた人形には、脚に霊力を込め背後に跳躍することで対応。すぐに剣から光線を発射して、これもまた即座に撃墜していく。

 修行を開始してから、早三日。もはや人形たちは、天子に触れることすらできなくなっていた。

 これが、始めた頃はひにゃーとかよくわからない悲鳴を上げていた少女と同一人物なのだから、なんともまあ。

 

「……よし! 月見、終わったわよー!」

 

 などと考えているうちに、天子がすべての人形を撃墜し終えていた。緋想の剣を足元に突き立て、こちらに向けて誇らしげに手を振っている。

 一日の修行を開始してから、月見がこうして腰を上げるまでの時間も、随分と短くなった。

 

「ああ、見てたよ。大分上達したじゃないか」

「ふふん、私にかかればざっとこんなもんよ!」

「初めの情けなかったのが嘘みたいだね」

「あ、あれは忘れてっ」

 

 あればかりは忘れようと思って忘れられるものではないから、無理な相談だ。人形に袋叩きにされ涙目な天子の姿は、ほんの数分前に見たばかりのように、おもしろおかしく思い出せる。

 

「ともあれ、お疲れ様。……じゃあこのあたりで、私の修行はおしまいかな」

「え……」

 

 まだまだ体力の有り余っている天子が、すっかり拍子抜けして目を丸くした。

 

「も、もう終わりなの?」

「式神も、全部使い切っちゃったしねえ」

 

 月見がせっせと夜なべをして、数え切れないほどの人形で満たした袋の中身も、今しがた天子に撃墜されたのを最後にすっからかんになってしまった。それに、単純な式神とはいえ何百という数をこさえるのはそれだけで重労働なので、そろそろ勘弁してほしい。

 

「か、紙ペラ斬っただけで終わりなの? 一回くらい、実戦やってみましょうよ!」

「……いやだから、私は弾幕を撃ったことがないんだって」

 

 しかし弾幕を撃った経験のない月見では務まらない役目とはいえ、一度は実戦で成果を確かめたいという天子の気持ちはもっともだ。一応、事前に操を連れてこようとしたのだが、椛に「天魔様は今日はお忙しいんです」と満面の笑顔で断られてしまった。執務室の奥から誰かのすすり泣く声が聞こえたのは、きっと錯覚ではあるまい。

 天子は引き下がらない。

 

「弾幕なんて簡単よ! こう……えっと、ふん! ってやって、うりゃ! ってやれば楽勝楽勝!」

「……そうか」

「ってか、式神操るのあんなに上手かったんだから、弾幕くらいどうってことないでしょ! ほらほら!」

 

 天子に急かされて、そうだなあ、と月見は腕を組んだ。弾幕ごっこは、幻想郷で一番人気の決闘方式であり、同時に遊びでもある。幻想郷に身を置いている以上、弾幕ごっこに関わらず生きていくのは難しいだろうし、いつかはフランの時のように、やむを得ず闘わなければならない時というのもやってくるかもしれない。

 それを考えれば、弾幕を撃つ感覚くらいは掴んでおいた方が身のためなのだろうか。

 吐息。

 

「……わかったよ。やってみようじゃないか」

「そう、その意気よ! 大丈夫大丈夫、私が保証するから!」

 

 出所不明の自信でたっぷり頷いた天子は、月見から充分な距離を取り、剣を構える。

 

「さあ、来なさーいっ!」

「はいはい」

 

 というわけで、弾幕である。究極的には妖力で弾を作り撃ち出すだけとはいえ、経験不足である以上なにが起こるかはわからない。幾何学的な軌跡で芸術性を演出する点など、ひとまず小難しい話は置いておいて、まずは単純に『撃つ』ことに集中すべきか。

 

「……それじゃ、行くぞー」

「おー!」

 

 元気な天子の返事を聞いて、月見は静かに妖力を開放した。周囲に銀色の弾幕を展開していく。妖力で弾を作る経験自体ほとんどなかったが、数に反して思いの外上手く行った。

 案外いけるかも。

 そう思って右腕を振り、撃ち出した、

 

「ひうっ、」

 

 瞬間、弾幕は一発も外れることなく、全弾天子を直撃していた。

 炸裂。

 

「ひにゃー!?」

「……」

 

 ……速すぎた。

 フランの弾幕をイメージしてやったつもりが、どうやら加減を誤ったらしく、なんだか本物の銃弾みたいな速度でぶっ飛んでいってしまった。撃ち出してから目標に炸裂するまでの時間が、コンマ何秒という世界である。人間に躱せるわけがない。

 ひゅー、とどこか寂しい風が吹いて、着弾地点から立ち上がっていた煙を運び去っていく。そうして視界が晴れれば当然、月見の目の前では天子がボロボロになって倒れている。

 

「……ふむ」

 

 月見は腕を組んで、一息。

 言うまでもなく、

 

「――ごめん、失敗した」

「殺す気かああああああああああっ!!」

 

 天子が爆発した。火山が噴火したみたいな勢いで飛び起きて、月見との距離を一瞬で詰めて、胸倉を鷲掴みにし、

 

「あっ、あああっあなたねえええええ! 加減って言葉知ってる!? あんなの人間が躱せるようなもんじゃないわよ!?」

 

 月見は激しく前後に揺さぶられながら、

 

「わ、悪かったって。結構難しいね」

「わざとやったんじゃないかってレベルよ!?」

「悪い悪い。……どれ、次はもう少し気をつけてみるから」

「も、もうやらなくていいわよっ! あなたに弾幕ごっこの才能はないっ」

 

 天子に一刀両断され、月見は仕方なく妖力を収めた。どうやら月見も弾幕ごっこに関しては天子と同じで、実戦より先にまずは一人で修行しなければならないレベルのようだ。

 天子がこちらの襟元を掴んだまま、はあぁぁ~と脱力していく。

 

「もお~……せっかくいい気分で終われそうだったのに微妙な感じになっちゃったじゃない~……」

「……お詫びと言っちゃなんだけど、尻尾触るか?」

「……まあ、触らせてくれるのなら」

 

 物で機嫌を取ろうなんて失礼ね! みたいな顔をしつつも、尻尾を差し出せば満更でもなさそうにもふもふし始める天子なのであった。

 

「ところで」

「なに?」

 

 もふーっとすっかり笑顔で尻尾をホールドしている天子を、月見はまっすぐに見据えて。

 

「そろそろ、異変が始まる頃合いなんじゃないか?」

「……」

 

 二~三日もあれば充分な気質が集まると、天子は言っていた。修行開始から、今日で三日目になる。

 笑顔を消した天子は、月見の尻尾をぎゅっと抱き締めて、

 

「……うん。気質は充分集まったし、そろそろ、みんなの気質に応じて天気が変わり始めると思う。……ここに来る途中に、緋色の雲ができてたでしょ? あれが、みんなの気質が集まったやつ」

「なるほど。それじゃ、いよいよだな」

「……うん」

 

 また少しだけ、尻尾を抱く天子の力が強くなった。

 そこに震えは、なかったけれど。

 

「なんだ、緊張でもしてるのか?」

 

 困ったように、天子は力なく笑った。

 

「……まあ、ちょっとだけ」

「そんなに肩に力入れてたら、霊夢にこっぴどくやられるぞ?」

「や、やられないわよっ」

 

 頬を赤らめて、それからぽそぽそと、

 

「……あなたに、こんなに手伝ってもらったんだもの。ただでやられたりなんてしない」

「……そうか」

 

 まあ、そうでなければ、わざわざ指南役を買った月見の立つ瀬もないというものだ。やれるだけのことはやったし、あとは霊夢たちとの闘いをしっかりと楽しんでほしいと月見は思う。

 

「……なあ」

「なに?」

「お前が異変を起こす本当の目的を、訊いてもいいか?」

 

 天子が驚いた目でこちらを見上げた。その反応が予想通りだったから、月見は眉を下げて笑った。

 

「お前、まさかあれで本当に誤魔化せてたと思ってたのか?」

「……」

 

 操だって、きっと気づいていたろう。ただ興味がなかったから、追及しなかっただけで。

 天子は、ひどく戸惑った様子だった。

 

「な、なに言ってるの? 別に私は、あの時嘘をついたわけじゃ」

「そうだね。天界の暮らしがつまらないからってのも、それはそれで事実なんだろうと私は思ってる」

「だったら――」

「けどそれは、いくつかある目的の内のひとつでしかないんじゃないか?」

 

 天子が閉口した。

 

「無理に訊くつもりはないけど」

「……」

 

 恐らく天子は、天界の暇な生活を紛らわす以外にも、なにか別の目的で異変を起こそうとしている。そうでなければ操に異変の目的を問われたあの時、一切の追及を封殺するように、毅然と相対することなどできなかったはずだ。

 ただの暇潰しで行動している割には、天子は『異変』というものに気持ちを込めすぎていると――そう、月見は思う。

 

「それは……ちょっと、言えないかな」

 

 やはり月見の尻尾をぎゅっと抱いたまま、天子は歯切れの悪い声で言った。誤魔化すように明るく笑って、月見の尻尾をめちゃくちゃにわしゃわしゃしながら、

 

「な、なんていうかな……は、恥ずかしくて! ほんと、言ったら笑われちゃうくらいしょーもない理由なの! だから、秘密っ」

「……わかった。わかったから、とりあえず尻尾を放してくれ」

「あっ、ご、ごめん」

 

 お陰様で尻尾が見事にやつれてしまった。月見はボサボサになった毛並みを手櫛で整えながら、あいかわらず愛想笑いではぐらかそうとしている天子を見て、ため息をついた。

 実はよからぬことを企んでいる、とか。

 どうやら彼女がそういう悪巧みと無縁らしいことは、ともに過ごしたこの三日でなんとなく感じていた。時々偉そうにすることもあるが、天子はとても素直でよい子だ。誰かを困らせたり泣かせたりして、笑うような人間ではない。

 だから、まあいいか、と思った。今の反応を見るに、恥ずかしくて言えないのは本当のようだし、恥ずかしがるということは本当に大したことではないのだろうし、無理やり聞き出すまでもないのだと。

 尻尾が元通りになったのを確認して、

 

「そうそう。明日と明後日は、用事があってこっちには来られないから」

 

 具体的には、温泉宿水月苑の営業日だ。炎天下の真夏日であっても、入りに来るお客さんたちはそれなりにいる。

 天子が頷く。

 

「うん、知ってる。温泉でしょ?」

「なんだ、知ってたのか」

「地上のことは、ここから結構覗いてるから」

 

 見えるわけでもないのに足元に目を遣って、呟く。

 

「……楽しそうよね、地上は」

「まあ、天界とはまったく違う世界だからね」

 

 争いのないきらびやかな生活で満ちた天界とは違って、地上では妖怪も人間も、優雅とはほど遠く好き勝手に騒ぎ散らしている。時々、喧嘩をしてしまうこともあるけれど、だからこそ一人ひとりの距離が非常に近い世界だ。

 天子の瞳には、羨望にも似た色があった。

 

「ほんと、ここなんかとは違って、楽しい世界なんだろうなあ。……羨ましい」

「だったら、遊びに来ればいいじゃないか」

 

 え? と、天子がぽかんとした顔で月見を見上げた。

 月見は、微笑んで。

 

「知っての通り、私の屋敷には温泉があってね。いつでも歓迎するぞ?」

「……、」

 

 天子は……こういってはなんだか、素っ頓狂な顔をしていた。月見の言葉が完全に予想外で、頭の動きが止まってしまって、そのまま身動きのひとつもできなくなってしまっていた。

 そんなに変なことを言っただろうか。

 

「天子?」

「えっ? ……あっ、えっと、その」

 

 正気に返った天子は、ちょっとわたわたしながら、

 

「いや、その……そんな風に言ってもらえるなんて、思ってなかったから……」

「そうか?」

「そ、そうよ。普通そういうのって、友達同士でするような話でしょ?」

「おや。私はお前のこと、もう友達みたいなものだと思ってたけどね」

 

 ひゅえっ、と天子が変な声を出した。

 

「今日でかれこれ三日付き合ってるわけだし、お互い気軽に名前で呼び合ってるし? 少なくとももう他人同士ではないと、思ってたんだけど」

 

 天子は、また完全に機能停止して石化している。けれど、なにやら並々ならぬ恥ずかしさがあるらしく、微動だにしない中でも喉の下から頭の先にかけて、じわじわと顔が赤くなっていっているのがわかった。

 そしてほっぺたがさくらんぼみたいになったところで、彼女は半開きになっていた口で、ふあっ、と喘ぐように息を吸った。

 

「そっ、…………そ、そうなの?」

「いやまあ、お前が嫌じゃなければね?」

「い、嫌じゃないわよ! 全ッ然!」

 

 ぶんぶんと大袈裟に首を振って、月見に抱きついてしまいそうになるくらい、大きく大きく体を乗り出してくる。友達になってみないかと、月見が声を掛けた時のフランととてもよく似ていた。こっちが思わず身を引いてしまうような勢いも、必死なくらいに月見を捉えて動かない瞳も、全部。

 

「そんな、初めて友達ができたみたいな反応しなくても」

「い、いや、さすがに初めてってことはないわよ!? 一応私、天界では有名人なんだし!」

 

 勢いのまま言い切った天子は、そこから気持ちを区切るように、ゆっくりと深呼吸をする。浮かべる微笑みは、はにかむように。青い髪を一房、指先で挟んでいじくりながら。

 

「でも……地上の、お友達は、初めて……かな」

 

 こんな真夏日には暖かすぎるくらい、本当に心地よさそうな笑顔だったから、月見も悪い気はしなかった。

 

「……まあ、まずは異変だね。上手く行くのを祈ってるよ」

「……うん。ありがと」

「それじゃあ、私はそろそろ帰るよ。明日の準備もしないといけないしね。お疲れ様」

「う、うん。……あ、あの」

 

 振り返ろうとしたところで、天子が躊躇いがちにそう言った。

 

「どうした?」

「えーっと……その……」

 

 天子はちょっともじもじしていた。少し、俯いて、ほんのり色づいた顔を横に逸らして、恥ずかしそうに両手の指を絡め合わせていた。

 月見が疑問符を浮かべながら、しばらく待てば。

 

「そ、その……」

 

 天子はやがて、告白でもするみたいに、

 

「ま、またね」

 

 やっとの思いで口にしたのは、そのたった三つ。そのたった三つに、どうしてそこまで恥ずかしがるのかがおかしくて、月見はつい、笑ってしまった。

 

「な、なんで笑うのよっ」

「や、悪い悪い」

 

 悔しそうにぽかぽか殴りかかってきた天子を、どうどうとなだめつつ。

 

「またな、天子」

 

 同じように三つ、言ってやれば、天子はしばらくうぐぐと唸ってから、でも最後には、

 

「……うん。またね」

 

 まだ赤みの残る顔で、はにかむように、微笑むから。

 本当に、上手くいけばいいと月見は思う。天子がやろうとしていることは決して褒められたものではないし、本当の目的もわからないままだけれど。でも個人的な感情でいえば、修行を手伝った分を抜きにしても、やはり上手くいってほしい。

 だって、比那名居天子は、こんなにも。

 

「ほ、本当にまた来るわよね? 修行終わったからもう来ないなんて言わないでよ、その、お礼もしてないし……」

「せっかくだし、異変が終わるまで見届けるつもりだったけど」

「そ、そう。ならいいのよ、うん。……ありがと」

 

 こんなにも、笑顔が似合う子なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ④ 「正常性バイアス」

 

 

 

 

 

 白虹(はっこう)と呼ばれる自然現象がある。太陽や月に薄い雲が掛かることで、内部の氷晶がプリズムの役割を果たし、周囲に光の輪を作り出す現象のことである。白い虹を背負った太陽の姿はさながら後光が差しているかのように神秘的で、見上げる者に大自然の奥深さを教えてくれる。

 こうして白虹の掛かった青空を見上げるのは、いつ以来なのか思い出せないほどに久し振りだ。

 なぜいきなりこんな話をしたかといえば、つまるところ月見の気質は、この『白虹』だったらしい。天子の修行が完了した翌日、水月苑の温泉の開放日。縁側から見上げる太陽の周りには、眩しさに目を細めてなおくっきりとわかるほどに、色の濃い白虹が浮かび上がっていた。

 

「ふうん……」

 

 どこかで蝉がじわりと鳴き始めたのを感じながら、月見はぽつりと独りごちた。このタイミングで、こうも珍しい自然現象を目にかけられるのだ。天子による異変が、いよいよ本格的に始まったと考えるべきだろう。水月苑に限らず幻想郷の至るところで、その土地に住む人々の気質に応じて、様々な天候が現れているはずだ。

 外に出づらくなるような天気は嫌だなあと常々思っていたところだったので、白い虹ができるだけというのはありがたい。

 

「温泉の方も、これなら問題ないだろうね」

 

 というわけで、あいもかわらず蝉が元気な、真夏日だけれど。

 今週も温泉宿『水月苑』は、いつも通りに営業開始である。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 春に比べれば当然客足は少なくなったが、それでもタオル片手にやってくる者たちはそこそこいる。暑い日に入る温泉もそれはそれで味があるらしく、少女たちは、暑いですねーやんなっちゃいますねーなどと文句を言いながらも元気なものだ。

 水月苑の営業初日に、覗きを企てた鴉天狗数名が文字通り地獄送りにされて以来、同じ轍を進もうとする愚か者どもはぴたりと現れなくなった。単純に身の程を弁えたのはもちろんのこと、紫が境界を操る能力を遺憾なく発揮して、外から中が見えなくなるという特殊な結界を温泉周りに張ったことが大きい。隠しカメラによる内部からの盗撮も、にとり率いる女性河童チームが探知機フル装備で警戒中だ。お陰様で月見は、本日も名ばかりの温泉宿亭主を体現しつつ、居間でのんびりゆっくりとお茶を飲んでいるのである。

 

「月見さ~ん。こんにちは~」

「おや」

 

 月見がこれからの予定を考えていると、ふと縁側の方から、桜餅みたいに柔らかい少女の声が飛んできた。誰がやってきたのかは振り向くまでもない。もちろん、振り向くのが礼儀なので、そうするけれど。

 

「いらっしゃい、幽々子」

「やっほ~。温泉に入りに来ましたわ~」

 

 温泉セット片手にふよふよ漂い、お家芸のぽやぽや笑顔を浮かべた西行寺幽々子が、縁側から亡霊独特の色白な手を振っていた。幻想郷でもかなりの温泉好きである彼女は、週末になれば必ず水月苑を訪れる常連客だ。この日も冥界から、決して近くない距離を遥々飛んできたと見える。

 

「今日は遅かったね」

 

 いつも開店とほぼ同時に駆け込んでくる彼女が、『こんにちは』の頃になってからやってくるとは珍しい。

 幽々子は頬に手を添えて、そうなんですよお、と物憂げにため息をついた。

 

「今日はちょっと、朝から一悶着ありまして」

「ふうん? なにかあったのか?」

 

 月見が問えば、白虹が光る空を見上げてぽつりと、

 

「……やっぱりここでは降らないか。まあ、ここは月見さんの家だし当然かしら」

「……」

 

 低く呟くなり、またぽやっと笑って、

 

「月見さん。――比那名居天子って女の子、知ってますわよね?」

 

 いきなり抜き身の刀で斬りかかってきた。月見に構える隙を与えないほど、あまりに鮮やかな太刀筋であった。

 月見は喉の奥で笑った。一見なにも考えていない能天気な少女に見えて、西行寺幽々子は時折、こうしてなんでもお見通しであるかのように、突然深く核心を衝いてくることがある。彼女が幻想郷でも指折りに油断できない相手であることを、こうして切り込まれるまで、月見はすっかり忘れてしまっていた。

 人差し指で、玄関を示した。

 

「入っておいで。お菓子でも出そう」

「お饅頭がいいですわー!」

 

 元気よく玄関へすっ飛んでいった幽々子に苦笑しつつ、月見はちゃっちゃとお菓子の支度を整える。壁際の棚から饅頭やら煎餅やらを適当に引っ張り出し、お盆に突っ込んで振り返ると、幽々子がうきうきした顔でお菓子の到着を待っていた。

 

「――それで、さっきの質問だけど」

 

 お菓子で満たされたお盆をテーブルの中央に置くなり、幽々子が早速饅頭をかっさらっていったのを眺めながら、月見は片腕で頬杖をついた。

 

「比那名居天子。確かに知っているよ」

「ああ、やっぱり。そうだと思いましたわ」

 

 幽々子は嬉々として饅頭の包装を解きながら、

 

「今朝、一悶着があったってお話なんですけど。実は、白玉楼に雪が積もったんです」

「ほう?」

 

 白玉楼――すなわち冥界は死者の世界であり、元々は結界によって現世から隔絶されていた。だが今では仕切りとなっていた結界が消滅したため、ある程度、こちら側と近い世界になりつつあると聞いている。

 その影響もあってか、異なる世界とはいえ冥界も異変の影響を受けているようだ。幽々子、もしくは妖夢の気質が、本来ではありえない夏の雪を降らせたと見るのが妥当だろう。

 

「それで、妖夢に雪掻きを任せてる間に、ちょっと調べてみまして。天界の方まで行ってみたところ、いたんですね、比那名居天子という子が」

「なるほど」

 

 頷いてから、月見はふと疑問に思った。天界に行って天子に会ったということは、幽々子は彼女と闘ったのだろうか。

 

「そしたら、修業の成果を見せるんだっていきなり喧嘩吹っかけられたので、適当に返り討ちにしたんですけど」

 

 天子……。

 月見は心の中で、顔を手で覆いがっくりため息をついた。幽々子にコテンパンにされ涙目な天子の姿が、目の前にいるかのようにくっきりと浮かんできた。

 

「話を聞いてみたら、幻想郷中の気質を集めて異変を起こしてるんですってね。道理で、夏なのに雪が降ったりしたわけですわ」

「そのようだね。……私の気質は、『白虹』なのかな。朝からずっと掛かっててね」

「ああ、そういえば掛かってましたわね。とてもくっきり出ていたので、よく覚えてますわ」

 

 幽々子が饅頭を、ひょいと口の中に放り込んだ。健啖家らしい豪快な食べ方だ。顔の下半分を総動員して味を堪能し、広がった甘味に、「ん~♪」と目元はふにゃふにゃになる。

 そんな人畜無害に可愛らしい幽々子が、一体なにを考えて異変の話を振ったのか、月見にはさっぱりわからなかった。単なる好奇心なのかもしれないし、なにか狙いがあるのかもしれない。亡霊の名を体で存分に表す掴みどころのなさはさすがといったところだ。幽々子が相手だと、どうにも会話の主導権を握りにくい。

 幽々子が天子を下した今、異変はもう終わってしまうのか否か――それとなく話してくれるよう誘導するよりかは、いっそ素直に尋ねてしまった方がいいのかもしれない。

 などと月見が考えていると、饅頭を飲み込み恍惚なため息をついた幽々子が、

 

「でも、月見さんったらさすがですわ。私もそこそこ早く気づいた自信がありますのに、一体いつから気づいてらしたんです?」

「今週の頭だね。多分、一番乗りだったんじゃないかな」

「まあ」

 

 驚いたようにそんな声をあげるが、ただの演技なのが丸わかりだ。薄々感づいていたか――もしくは隠し事の下手くそなあのお転婆天人が、また勝手に自爆するなりしたのか。

 まあ後者だろうなあ、と月見は思う。

 

「月見さんって、異変についてご存知だったんですか?」

「多少ね」

 

 月見が異変について持っている知識は、ほとんどが操と天子の会話から断片的に採集したものでしかないが、認識としては間違っていないと思っている。

 

「そういえばお前も、異変を起こしたことがあるんだってね」

「ええ。幻想郷中の『春』を集めて、西行妖を満開にしてみようと思ったんです。その影響で、幻想郷では春なのに雪が降った――というか、季節が冬に逆戻りしたんですの。それで、異変という扱いになりまして。……結局、桜を咲かす前に霊夢たちに負けちゃったんですけど」

 

 なにやら、西行妖をどうとか、さらりと末恐ろしい言葉が聞こえてきたが……まあ、幽々子がこうして今でも存在し続けているということは、大丈夫だったのだろう。

 当時の記憶を失っているので当然だが、自分がどれほど恐ろしい真似をしたのか、幽々子はまったく理解していないようだった。早くも二つ目の饅頭に手を伸ばしつつ、裏の読めない笑顔で語り続けた。

 

「うちの妖夢も、異変解決に行ったことがあるんですよ。半人前のあの子にはいい修行になりますから。なので今回も妖夢に行かせようと思って、まあ、私が天界に行ったのはその下見ですわね。

 というわけで、私は天界で比那名居天子と会ってきましたし、闘って勝ちもしましたけど、異変を止めてはいないのです。異変を解決するのは、あくまで人間の役目ですから」

「ふうん……」

 

 つまり、これからも異変は続くわけだ。あれだけ修行をしたのにもう終わりでは、天子はもちろん月見まで不完全燃焼なので、少なからず安心する。

 また、豆を食べるように饅頭を口に放り込んだ幽々子が、

 

「あ、ほうえひはふふひあん。ひふあおいひっへおへはいあ」

「……」

「……むぐむぐ」

 

 しばらく黙って饅頭の飲み込み、

 

「あ、そうでした月見さん。実は折り入ってお願いが」

「なんだ?」

「今回の異変なんですけど、月見さんはどう動かれます?」

「どうって……」

 

 幽々子がやってくる直前まで、考えていたことだ。答えは既に、ほとんど出かかっている。

 

「特別、妙なことをするつもりはないよ。このまま水月苑でのんびり傍観してるさ」

 

 そもそも異変が無事に始まった時点で、月見が天子と関わる目的は達成されたも同然なのだ。霊夢と一緒に異変を解決するのはもちろん、天子とともに人間たちの前に立ちはだかるのだって、月見にとってはなんの意味もない。

 あとはただ、この異変の結末を見届けられればそれで充分。

 幽々子が、安心したように両の掌を合わせた。

 

「ああ、それでしたらよかったです。さっきも言いましたけど、異変解決は、妖夢にとってとてもいい経験になると思うので」

「ああ。……ひょっとして、妖夢に自分の力でやらせるとか?」

「ええ。なので、そうですね、異変が起きてるよって人間たちに教えて回ったりするのは遠慮していただきたいんです。自分の力で異変の発生を見抜けるかどうか――それも、ひとつの立派な修行ですから」

「ふむ。私は構わないよ」

 

 それでなにか月見にデメリットがあるわけでもなし、断るような理由はない。

 

「ありがとうございます。今度、お礼を致しますわね」

「そこまでのことじゃないよ。元々、人間たちに協力するつもりはなくてね」

「月見さんは、比那名居天子の味方だから――ですか?」

 

 ああ、と月見は思う。やはりこの少女は、初めから全部お見通しで月見に異変の話を振ってきたらしい。まあ、薄々感づいていたので驚きはしない。

 肩を竦める。

 

「天子のやつ、本当にあれこれ口を滑らせたんだな」

「ええ、まったく」

 

 幽々子は、楽しそうだった。

 

「月見さんったら、あんまり紫を困らせちゃダメですわよ?」

「……やっぱり不味かったかな、異変に協力したのは」

「ふふふ、違いますわよお」

 

 くすくすと笑うなり、月見から目を逸らしてぽつりと、

 

「……いえ、あながち間違いでもないわね。ある意味では」

「?」

「じゃあお話は終わりましたし、私、温泉に入ってきますね~」

 

 ぱんと両手を打って、幽々子がそそくさと席を立った。話はこれで終わりだと言い切らんばかりに、疑問符を浮かべる月見など見て見ぬふりで、

 

「お饅頭、ごちそうさまでした~」

「……ああ」

 

 月見は追及しない。したところで、幽々子は絶対に答えてくれないだろう。意味深な笑みを浮かべる彼女になにを言おうが、それこそ幽霊を素手で捕まえようとするように、のらりくらりと躱されるだけだ。口先で、幽々子に勝てるとは到底思えない。

 ご機嫌そうに浴場へ向かう幽々子の背をひとしきり見送って、誰もいなくなった空間で、月見はゆっくりと長いため息をつく。

 白虹は片時も消えることなく、夏の空で輝き続けている。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

「――まあそこそこやる方ではあったけど、私に言わせりゃまだまだだね」

 

 とは、朝一で気質の流れを追って天界に昇り、比那名居天子を撃破して、その帰り道で水月苑に立ち寄った萃香の弁である。

 

「確かに、躱す方は上手だったよ。私もちょっと手を焼いたさ。でも肝心の弾幕がダメだね。悪くはないけどよくもない。素人なのが丸わかりだよ」

「そうか。わかったから降りろ」

「やだぁー」

 

 こちらの膝を占領しご機嫌で酒を呷る萃香に、月見は無言のままがっくり肩を落とした。曇り空が広がりいつもより涼しい夏日とはいえ、こうも密着されてしまえばやはり暑い。そして酒くさい。

 水月苑の営業二日目、男性専用の温泉開放日。夏にもかかわらず、やはり露天風呂の方からはお客さんの元気な笑い声が響いてきている。萃香も笑っている。月見だけがため息をついている。

 萃香曰く、

 

「ここは、私のずっと昔からのお気に入りの場所だよー? ちゃんとまあきんぐしておかないとね、あのレミリアの妹に取られないように」

「酒の臭いでか」

「まあなんでもいいよ」

 

 萃香とフランが水月苑で出会うと大抵、月見の膝の上を巡って喧嘩を始める。「月見は私のものなのーっ!」「いいや私のだねっ!」などと大変誤解を招く口論をしながらお互いのほっぺたをむいむい引っ張っているので、実際輝夜に誤解されて三つ巴の大乱闘に発展しかけたこともある。やめさせようとは常々思っているのだが、萃香はもとより、普段はいい子なフランすら頑に首を振って聞かないので、めぼしい成果は上げられていない。

 

「そもそも、人の膝の上は椅子じゃないって何度も言ってるはずなんだけどね……」

 

 ため息混じりにそう言ったら、ちっちっち、などと生意気な反応をされた。

 

「月見はわかってないねー、この座り心地が。一度座ったら病みつきだよ」

 

 自分で自分の膝の上には座れないので、わからなくて当然だが。

 

「硬くて座りづらいんじゃないのか、普通」

「この硬さがいいんだよー」

 

 誰にも邪魔されることなく月見の胸板に体を預けて、萃香は大変ご満悦な様子だった。ふいに、昔はこういう風にこいつを子守りをしてたっけなあと懐かしくなって、月見は萃香の頭をぽんぽんと叩いた。

 

「ところでさあ、月見」

「ん?」

「月見って、あの比那名居天子とかいう天人と仲いいの?」

「……幽々子にも似たようなことを訊かれたっけね」

 

 洞察力の鋭い幽々子ならさておき、飲兵衛な萃香までもがあっさり気づくのだから、天子の自爆癖は相当なのだろう。月見も心の底からそう思う。

 萃香が頭で、月見の胸元をコンコンと小突いた。

 

「さてはまた新しい女を作ったんだなー。紫を泣かせちゃダメだぞー」

「そんなんじゃないって。友人だよ」

「友人ねえ……」

 

 疑り深い半目で呟いた萃香は、まあいいけどお、とそっぽを向くように酒を呷って、

 

「ぷは。……ということはなにさ? 今回の異変って、月見も一枚噛んでるの?」

「噛んでるっていっても、異変が始まる前に、あの子の弾幕ごっこの練習を手伝っただけだよ。ここから先はなにもするつもりはないさ」

「あはは、賢明だね。スペルカードも持ってない月見じゃあ、霊夢たちにボコボコにされるのがオチだよ」

 

 霊夢は知り合いにも容赦ないからねー。そう言って伊吹瓢を置いた萃香は突然、寝返りを打つように月見の胸に顔を押しつけた。

 

「宴会が楽しみだねえ。……そんじゃあ、今日はここで昼寝するぅー……」

「……布団敷くから、そっちで寝てくれないか?」

 

 せめて諏訪子みたいに、尻尾を抱き枕にして寝るとか。こんなほとんど抱きつかれた状態で昼寝などされたら、身動きがとれなくなってしまう。そして暑い。

 月見の顎のすぐ下で、萃香の頭がいやいやと揺れた。

 

「やだぁー。わーい、月見の匂いだぁー……」

 

 そして月見がなにかを言うよりも先に、あっという間に穏やかな寝息を立て始めてしまった。月見の静かなため息が、萃香の夕日色の髪をさらさらと撫でた。

 浴場で元気に騒ぐ男たちの声と、疲れを知らぬ蝉の大合唱で満たされる中、呟きはかき消されそうなほど小さく、

 

「……足痺れた」

 

 男一匹月見、我慢の時。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 天子曰く、コテンパンにやられたらしい。

 新しい週の頭を迎え、月見が早速天界へ様子を見に行ってみれば、天子から返ってきたのはしょぼくれたため息だった。

 

「ごめん、月見……。あんなに修行手伝ってもらったのに」

「そんな、謝らなくても」

 

 そよ風に吹かれて、平原全体がさわさわと優しい声をあげている。桃の木陰で穏やかに揺れる枝葉を見上げていると、季節が春に戻ったかのような心地よさを覚える。天界の清浄すぎる空気にも、もうすっかり慣れた月見だった。

 そして自然と笑顔もこぼれる月見の横では、両膝を抱え込んだ天子がどんより雲をまとっているのだった。

 

「だって、本当に完敗だったんだもん……」

「あいつらは、弾幕ごっこに関しては相当なやり手みたいだからね。負けても仕方ない」

 

 弾幕ごっこは妖怪と人間の実力差を平等化する手段として知られているが、使い手のポテンシャルに応じて、弾幕の質が上下するのは立派な事実。片や死を操る冥界の最高責任者、片や鬼の四天王となれば、その実力は語るまでもない。

 天子が、これで何度目になるのか早くもわからなくなったため息をついた。

 

「でもせめてもうちょっと、一矢報いたかったなあ……。これじゃあ、月見との修行でなにも成長できてないみたい……」

 

 そこまで呟いたところで、ハッと顔を上げて、

 

「いや違うの、今のは月見の教え方が悪かったとかじゃなくて! たくさんのことを教えてもらったのに、それを全然活かせてない私が情けないって話で……」

「そうか? 私の教え方が悪かったってのも、あると思うけどね」

 

 指南役に勤しんだ三日間を思い出し、月見はやんわりと苦笑した。月見はただ弾幕の躱し方を天子の体に叩き込んだだけであり、しかもそれだって、本物の弾幕すら使ったわけではなかった。例えば弾幕ごっこに精通した他の誰かが教鞭を執っていれば、天子はもっともっと成長していけたはずだ。

 しかし、天子はふるふると首を振る。

 

「そんなことない。月見が自分で思ってる以上に、私はたくさんのことを、月見から教えてもらってるんだから」

「ふうん……?」

 

 天子は、不思議と強い目をしていた。膝を抱え込む両腕に押しつけられ、半分以上隠れた横顔。その表情は見えないけれど、唯一覗く緋色の瞳には、自分の言葉が決して嘘ではないと、まっすぐに信じる想いが表れていた。

 こんな年寄り狐の背中になにを学ぶようなことがあるのか、月見にはいまひとつ、わからなかったけれど。

 

「まあ、幸い異変を止められたわけじゃないんだ。次はもっと頑張らないとね」

「それはもちろん! ……でも、どうして異変を止められなかったのかしら。私、負けたのに」

「異変を止めるのは、あくまで人間ってことなんだろう」

 

 幽々子は、妖夢に異変を解決させるための下調べで。萃香は、単純に誰が異変を起こしているのか気になって。そうして空を昇った彼女たちは、しかし解決自体は人間の役目だからと、天子を見逃して立ち去った。

 

「人間、か……。やっぱり霊夢じゃないとダメってことなのかな」

「そうかもしれないね。昔の異変も、全部霊夢が中心になって解決していたみたいだし」

 

 だが今回に限っては、その霊夢こそが問題なのである。

 

「そういえば、霊夢ってまだ動いてないの? もう異変は始まってるのに……」

「夏バテ中だ」

「えっ」

「……夏バテ中だ」

 

 月見とて今回の週末、いつものように温泉宿で名ばかりの亭主になっていただけではない。空いた時間で博麗神社まで足を伸ばして、霊夢がどうしているか様子を見に行った。

 だが境内に入った月見が見たのは、

 

『……霊夢、生きてるかー?』

『ああぁぁぁううぅぅぅ~……し~~ぬ~~……』

 

 母屋の座敷で干物みたいになっていた、変わり果てた霊夢の姿であり、

 

『もうやだぁぁぁ~……昨日くらいから、ただでさえ暑かったのが更に蒸し暑くなって……しぃぃぃぬぅぅぅ……』

 

 恐らく、霊夢の気質が『快晴』かなにかなのだろう。ギンギンに輝く太陽から注がれる惜しみない熱光線は、博麗神社一帯の温度を三十度の大台にまでのし上げていた。干物ができあがるわけである。

 霊夢の夏バテ具合たるや、不憫に思った月見が団扇で扇いでやっただけで、「わ~い月見さん大好きぃ~……愛してるうぅぅ~……」と現金極まる発言が飛び出したほどだ。霊夢は今日も家の座敷に寝っ転がり、己の体が干からびるまでのカウントダウンを刻一刻と刻んでいっている。

 天子が引きつった顔をした。

 

「そ、そうなんだ……それはちょっと、予想外かな」

「もしかしてなくても、このままだと霊夢は動かないかもしれない。もっと別の方法で、異変が起こってるんだと気づかせでもしないと」

 

 霊夢に限った話ではない。一日二日天気がおかしくなった程度でまさか異変を疑う人間がいるはずもなく、人里あたりの様子ものんびりとしたものだ。少なくとも月見が知る限り、異変の発生に気づいている人間はまだ一人もいない。

 人間というのは存外、実際に自分の身に危険が及ぶまで、異常な事態を異常と認識することができない。例えば非常ベルが突然鳴った時、大半の人は誤作動かなにかだと思い込んで、避難することなど微塵も考えない。もしくは目の前の異常に薄々気づきながらも、大したことはないだろうと高を括ってなにもしない、など。

 人の危機感は思いの外鈍感だ。ましてやちょっと天気がおかしくなるだけでは殊更、人の脳は束の間の違和感を覚えるだけで終わりだろう。

 こんなことなら、『異変が起こっていることを人間たちに吹聴したりしない』などと、幽々子の前で約束しない方がよかったかもしれない。

 天子が難しそうに唸った。

 

「……うーん、じゃあ別のやり方も考えてみるわ」

「そうした方がいいだろうね」

 

 少しくらい危機感を煽るくらいでないとダメなのだろう。かつて幽々子が起こした異変だって、春が冬に逆戻りするとなれば作物への被害が大きかったはずだ。外の世界ほど農業技術が発達していない幻想郷では、それなりに死活問題になる。

 己の身の危険を感じて初めて、人々は重い腰を上げる。

 

「ま、それはこれからゆっくり考えるとして……」

 

 そこで言葉を区切った天子が、月見の袖をクイクイと引っ張った。

 

「ねえ月見、よかったら練習に付き合ってくれない?」

「? 今日は式神は持ってきてないけど……」

「そっちじゃなくて。躱す方はそこそこできるようになったから、今度は撃つ方を練習したいの」

 

 萃香曰く、天子は躱すのは上手いが撃つ方がダメダメだという。本人も一応自覚しているようで、要は月見に的になってくれということらしい。

 

「別に構わないけど……自分で言うのもなんだが、躱すのはそこそこ自信あるぞ?」

 

 挑発するように月見が言えば、大胆不敵に、天子は笑った。

 

「へー、じゃあ手加減は要らないわね! 今までの修行でいじめられた分、たっぷり仕返ししてあげるから!」

「さて、そう簡単に行くかな?」

 

 月見はよっこらせと腰を上げ、天子は意気揚々と走り出す。月見が肩を回したり首をひねったりして準備体操する先で、弾幕ごっこに必要な距離を取った彼女は振り返り、緋想の剣片手にぴょんぴょんと飛び跳ねる。

 

「さー、行っくわよー!」

「ああ、遠慮なくどうぞ」

 

 初めのどんより沈んでいた空気は、もう嘘だったかのように綺麗さっぱり吹き飛び、すっかり上機嫌になった天子はその後も終始笑顔で、月見目掛けて弾幕を撃ちまくった。

 結局天子の弾幕は、ほんの数発が掠っただけだったけれど。

 それでも最後に元気よくお礼を言う天子は、月見が見ていて眩しいと思うくらいに、晴れ晴れとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸せだった。楽しかったとか、嬉しかったどころの話ではない。天子の体中を隅々まで満たし、あふれだしそうになるほどの充実感は、紛れもなく幸福と呼ぶに相応しいものだった。

 月見と出会ってからの日々は、満ち足りていた。

 もう異変なんて、途中でやめてしまってもいいんじゃないかと思うくらいに、満ち足りていた。

 けれど天子は、やめなかった。やめてもいいんじゃないかと思ってすぐに、今の天子と月見の関係は、異変によってかろうじてつながれているものなのだと気づいた。

 月見がこうして天界までやってきてくれるのは、天子が異変を起こした張本人だから。このまま人間たちに知られることなく異変をやめてしまえば、きっと天子と月見の関係もまた、終わりを迎える。月見にはもう、わざわざ天界まで昇る理由がなくなってしまう。

 そうしたらきっと、また逆戻り。

 また、ひとりぼっち。

 だから天子は異変を続けた。やっぱり、なによりも、異変を起こした本当の目的を果たさなければならないのだと思った。果たさずしてやめるわけにはいかないのだと再認識した。

 成し遂げて初めて、きっと、自分はこの檻から外に飛び立てるのだから。

 故に今度は、少し手荒な手段になったっていい。夏バテして引きこもっている霊夢を動かすためには、むしろヒヤリとさせるくらいでなければならないのだと。

 

 そうして天子は、間違えた。

 

 いや――きっと初めから、間違えていたのだ。

 初めから、全部。

 

 

 

 

 

 

 

 

 このまま終わるのだと思っていた。今はまだ時でなくとも、やがて人々は異変の発生に気づき、博麗の巫女が動き出し、そうして解決されていくのだと思っていた。

 

「ん……霊夢か? 夏バテはもう大丈夫なのか――っと、魔理沙も一緒か」

「おう、魔理沙ちゃんも来たぜ。……とりあえず、上がってもいいか?」

「構わないけど」

「んじゃ、お言葉に甘えるぜ。……ほら霊夢、お前も」

「……お邪魔します」

 

 甘かった。大したことにはならないだろうと高を括っていた。天子なら大丈夫だと――そこで思考を止めて、彼女のことを、なにも正しく理解しようとしていなかった。

 

「……それで? こんな朝っぱらからなにかあったのか?」

「……それは」

「あー、まあ、ちょっとばかし面倒なことがあってな」

 

 月見にならできたはずだ。異変が始まる前から、天子と最も近い位置にいたのは月見だった。気づけるのは、月見しかいなかった。

 だが、気づけなかった。

 

「簡潔に言うと、少し前にちょっとした地震があったらしくてな」

 

 本当に天子を理解しようとしていれば、いくらでもやりようはあった。

 その上で目を逸らしたのは、月見の方。

 

 

「――博麗神社が倒壊しちまった。瓦礫の山になっちまったぜ」

 

 

 人知れず狂った歯車が、月見と天子を、引き裂こうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ⑤ 「白虹貫日」

 

 

 

 

 

 言葉の意味は理解できた。だが、なぜ彼女がそんなことを言うのかはわからなかった。だから聞き返した。

 

「……なんだって?」

 

 理解したくなかった、というのもある。

 魔理沙が、霊夢を連れて水月苑を訪ねてきた。彼女はあいかわらず人を喰ったように飄々と笑っていたが、一方で霊夢は、今にも舌打ちの一つでも飛ばしそうなほど機嫌が悪く、月見と目が合ってもろくに挨拶すらしなかった。

 最初は、夏バテしているところを無理やり連れ出されたから虫の居所が悪いのだろうと思っていた。しかし、それにしてはどうにも険悪すぎるというか、さすがに挨拶もなく黙り込んだままなのはおかしいと思い、なにかあったのかと尋ねた月見に、肩を竦めて答えたのは魔理沙だった。

 

「ま、つい聞き返しちまう気持ちもわかるが……これは立派な事実だぜ。なんだったら今すぐ見てくるといい。変わり果てた姿が拝めるぜ」

 

 ――そうか、と思う。唇を噛み、歯を軋らせるように思う。

 こんな言葉が。

 こんな言葉が、返ってくるのか。

 

「――今朝早く、博麗神社が地震で倒壊した。跡形もなく、木っ端微塵にな」

 

 その時月見の脳裏を過ぎったのは、博麗神社が崩れ去る光景でも、天界で霊夢たちを待ち侘びている天子でもなかった。

 

 ただ、この幻想郷を誰よりも愛する、小さな管理者の姿だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 博麗神社は、古い建物だ。歴史書を(ひもと)くまでもなく、この幻想郷で最も古くから存在している。

 当然だ、あの神社から幻想郷が始まったのだから。すべてあそこから始まった。立っている場所こそ、幻想郷の端の端という辺鄙なところだけれど、博麗神社は間違いなくこの世界の中心であり、『すべて』と評しても過言ではない場所だった。

 だから博麗神社は、八雲紫によって守護されていた。人里がそうであるように、周囲には特殊な結界が構築され、害意ある妖怪を近寄らせないようになっていた。

 博麗の巫女を守り、それ以上に、博麗神社という場所そのものを守るために。

 

 ――地震というのは、盲点だったと言わざるをえない。博麗神社に張られる結界は、博麗大結界と同じ理論の結界だ。害意ある敵を退けることはできても、善も悪もなくすべてを等しく呑み込む自然現象を防ぐことはできない。

 博麗神社は古く寂れた見た目の通り、建造物として実に貧弱で、必要最低限の遷宮を行っていたのかどうかすら怪しかった。地震で倒壊してしまうほど、神社の状態が経年劣化していたとしても、月見はこれといって不思議に思わない。

 

 だから今、月見がこんなにも思考をめまぐるしく動かすのは、別の違和感。

 そもそもの話、今日の朝に、地震など起こっていなかったはずなのだ。

 

 霊夢に、地震が起こった時間を確認した。朝食を摂っていた時間だった。揺れなんて、一瞬たりとも感じなかった。

 月見が、考え事に耽りすぎていただけなのかもしれない。しかし、劣化が激しいとはいえ建造物ひとつを潰すような地震に気づかないなど、ありえるだろうか。

 水月苑と博麗神社は、土地が狭い幻想郷だ、互いにそう離れているわけではない。なのに片や博麗神社は倒壊し、片や水月苑は揺れもしないなど、そう安々と頷ける話ではない。

 

 やや、突飛な飛躍ではあるけれど。

 その地震は、本当に自然現象だったのだろうか。

 自然では考えにくいことが起こったのだから、そこになんらかの人為的な介入を疑うのは、突飛ではあれ的外れではない。それに、意図的に地震を起こせるだけの力があり、なおかつ起こすに足る動機を持っている人物に、一人だけ心当たりがあるのだ。

 

 ――比那名居天子。

 

 互いに友人同士を名乗る間柄だ。数日間修行の手伝いをした中で、天子という少女について色々なことを聞かされたし、月見の方から訊きもした。

 例えば、天子が持っている剣は『緋想の剣』と呼ばれる天界の宝剣で、気質を自由自在にコントロールする力を持っている、とか。

 例えば、天子は『大地を操る程度の能力』を持っていて、地震など大地の自然災害をある程度制御できる、とか。

 霊夢曰く、博麗神社では何日か前から地震が頻発していたらしい。しかし少し揺れる程度の些細なものだったので、「なんか地震が多いわね」と不思議に思うだけで、それが異変によるものだとは考えもしなかったという。

 そして今日になって突然強い地震が起き、神社が倒壊した。

 

 例え話だ。

 数日前、月見から地上の様子について――人間たちはまだ誰も異変に気づいていないと――報告を受けた天子は、異変解決の最有力候補である博麗の巫女をターゲットに、己の能力と集めた気質を上手く使って地震を引き起こす。しかしちょっとした程度の揺れでは一向に気づいてもらえなかったため、焦れた天子はつい、神社の強度を計算に入れないまま強い地震を起こしてしまって――。

 なんの確証もない想像だ。

 そして同時に、ありえないと否定できる材料もない。

 

「……ねえ、……」

 

 ただ、十中八九これは事故だ。博麗神社の破壊が目的なら初めからそうすればいいだけの話だから、わざわざ数日前から小さな地震を繰り返し起こす理由がない。

 それに、天子を妄信するわけではないけれど。

 一歩間違えば、崩れる神社に押し潰され霊夢が死んでしまう可能性もあった。誰かを、殺すなど、あの子が企むとは考えられない。神社の度を超えた経年劣化は、天子にとっても甚だ予想外だったはずなのだ。

 

「ねえ、月見さん……」

 

 だがもう一方で、たとえ故意でなかったとはいえ、神社を倒壊させてしまったのは立派な事実。しかも、このままでは霊夢は動かないかもしれないと、天子に焦られるような報告をしたのは他でもない月見だ。月見の言葉があったからこそ天子は、博麗神社に地震を起こすという手段を考えるに至った。

 だとすれば、博麗神社倒壊の原因となった、根本的な引鉄は――

 

「ちょっと、聞いてるの……?」

 

 大したことはないと高を括っていたのは、月見も同じだ。月見の不用意な発言が、天子の背を悪い方向に押してしまった。

 

「ねえったら……」

 

 ならば月見は、一体どうするべきなのだろう。

 一体どんな顔をして、天子に。

 紫に、会えば――

 

「――月見さんっ!」

「!」

 

 ピシャリと響いたその声に、月見の意識は現実に引き戻された。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ちょっと月見さん、どうしたの? ボーッとして……」

「寝不足かー?」

 

 目の前で、仲良く煎餅をかじる少女が二人、怪訝そうな顔でこちらを見つめている。今回の異変について話を聞かれている最中だったことを思い出した月見は、緩く首を振って、強張っていた肩から力を抜いた。

 動揺しているらしい。目の前の、霊夢と魔理沙の存在すら忘れ、思考の渦中に落ちてしまうほどに。

 

「……いや、すまない。少し、考え事をね」

「私の神社が壊れちゃったのよっ、考え事なんてしてる場合じゃないわっ」

 

 霊夢が、テーブルをべしべし叩いて頬を膨らませた。悪い悪いと月見は謝りながら、中央のお菓子を詰めたお盆に、棚の饅頭やら煎餅やらを補充した。

 物でご機嫌を取ろうなんて失礼ねっなどと口では憤慨しながらも、霊夢は満更でもなさそうな顔になって、

 

「というわけで、この異変についてよ。どんな小さなことでもいいんだけど、なにか知らない?」

 

 疑念や動揺は絶えないが、まずは彼女の質問に答えるのが先だ。とはいえまさか知っていることすべてを話すわけにもいかないので、月見は言葉を選びながら、

 

「……幻想郷で起きてる異常気象が異変の影響だというのは、お前たちも気づいてるな?」

「ええ。私のところがずっと快晴続きだったのも、そのせいみたいね。まったく迷惑極まりないわ」

「私だったら霧雨だな。カビが生えやすくなって、こっちもいい迷惑だぜ」

「魔理沙、ちゃんと掃除はしてるだろうな」

「今はそんなこと話してる場合じゃないだろ?」

 

 さもありなん。

 

「原因は……私たちの気質が、大気中に過剰に漏れ出してしまったから」

「だから、その人の気質に応じて天気が変わると。……ところで月見さんの気質は?」

「白虹だよ。太陽の周りに、丸くて白い虹ができてる」

「へえ、そういうのもあるのね……」

 

 口ではそう言いつつも、実際のところ大して興味はないようで、霊夢はお茶をすすったり新しいお菓子に手をつけたり。その一方で魔理沙は席を立ち、縁側まで行って空を見上げ、「おお、本当だ」と小さく声をあげていた。

 月見は続ける。

 

「普通、人それぞれの気質に応じて自在に天気が変わるほど、気質が過剰に漏れ出すなんてありえないことだ。……私たちの気質を集めている黒幕がいるのは、間違いない」

「そうね。私の神社を壊したのもそいつに違いないわ! 私の勘がそう叫んでる!」

 

 霊夢がテーブルに強く両手を打ちつけた。その衝撃で湯呑みがグラリと傾き、お茶が数滴こぼれるけれど、怒りに燃える彼女の瞳にはまったく映っておらず、布巾に手を伸ばす素振りもなかった。

 縁側から戻ってきた魔理沙が、気の毒そうに苦笑いをした。

 

「まったく、黒幕が誰かは知らんが同情するぜ。これじゃあ、私の出る幕なんてないかもな。面白そうだからついてくが」

「問題はその黒幕の居場所ね」

 

 布巾を取ってこぼれたお茶を手際よく拭く、意外な気配りを見せる魔理沙に、しかし霊夢は見向きもしない。

 

「山の上に緋色の雲ができてるし、なにより私の勘が向こうが怪しいって叫んでるんだけど、月見さんはどう思う?」

「……そうだね。私もそこが怪しいと思うよ」

 

『天界』という言葉は出さない。霊夢だって博麗の巫女なのだから、山頂まで行けば自ずと目的地が天であることを知るだろう。あまりに的確すぎる助言は、不審を生む。

 霊夢が右手を拳にし、跳ねるように立ち上がった。

 

「よぅし、月見さんも怪しいって言うなら間違いないわね! ほらさっさと行くわよ魔理沙、いつまでのんびりしてるの置いてくわよ!」

 

 そして魔理沙の肩をグイグイ引っ張るのだが、彼女はどこ吹く風と涼しい顔で、

 

「落ち着けよ、出されたお茶はしっかり味わってやるもんだぜ」

「……」

 

 呑気にお茶を傾ける彼女を見ていくらか冷静になったのか、霊夢はそそくさと座り直して、お盆の中の饅頭に手を伸ばした。確かに食べられる時は食べておかないと損よね、と小さな呟きが聞こえた。特に饅頭はそろそろ処分しないといけないものなので、遠慮なく食べてくれるとありがたい。

 さておき、饅頭をむぐむぐと咀嚼する霊夢に、月見は一枚の札を差し出した。

 

「霊夢、これを持って行け」

「?」

 

 札を見た霊夢は、きょとんと疑問顔で、

 

「なによこれ」

「交信用の札。霊力を込めて話しかければ、私が持っているもう一枚の方に声が届くようになってる。……もしかしたら、なにか力になれることもあるかもしれないしね」

 

 霊夢が天界に昇った先で、なにか話がこじれないとも限らない。その時は、月見が、駆けつけてやれればと思う。

 

「ふーん……まあ、一応もらっておくわ。ありがと」

 

 霊夢はやはり興味がなさそうだったが、かといって訝るでもなく、素直に受け取って懐の奥にしまった。もらえる物はもらっておく主義なのだろう。

 それからしばらく、彼女はお菓子を端から端まで堪能して。

 

「――よし、お腹も膨れたしそろそろ行きましょうか」

「だな。月見、御馳走さんだぜ」

「ああ、お粗末様」

 

 席を立った二人に続いて、月見も立ち上がった。お盆の中は完全にすっからかんだ。賞味期限の危ないものは粗方処分できたので、次もまたお願いしたい。

 博麗霊夢、そして西行寺幽々子。水月苑にとっては貴重な、賞味期限の近いお菓子処分係である。

 

「で、お前はこれからどうするんだ?」

 

 魔理沙の問いに、二つ返事をするように返した。

 

「私は、博麗神社を見に行くことにするよ」

 

 行ってなにかをできるわけではないけれど、行かずに、なにもしないわけにもいかない。博麗神社がどのような姿になっていても、この目で見て、逃げずに受け止めなければならないと思う。

 

「神社は壊れちゃったし、行ってもなにもないわよ?」

「普段からなにもないけどな」

 

 霊夢の鋭いチョップが決まる。

 

「あ痛ー……」

「お賽銭箱も瓦礫の山に埋もれちゃったし。……あ、そういうわけでお賽銭なら私が直接受け取るわよ!」

 

 輝く期待とともに突き出された霊夢の右手に、月見は苦笑しながら、小銭を一枚置いてやった。

 

「わーい、ありがとー! やー、さすが月見さんだわー」

 

 なんの懐の足しにもならないであろうたった一枚の小銭に、霊夢はもう、札束を受け取ったみたいに大喜びだった。「見なさい魔理沙、これが人として正しい行いよ!」「意味がわからんぜ」と呆れられている彼女の姿を見つめながら、月見は思う。

 本当に、強い子だ。

 博麗神社の倒壊。奪われたものは、決して自分の寝泊まりする場所だけではないはずなのに。傷つけられたものは、決して目に見える部分だけではないはずなのに。

 確かに霊夢は、怒っているだろう。けれどその怒りは、どちらかといえば苛立ちに近い感情であり、賽銭を一枚手に入れるだけであっさり引っ込んでしまうようなものであり――『本気』の怒りではない。

 ……なら、『彼女』はどうなのだろう。

 倒壊した博麗神社を見た時、大切な思い出を傷つけられた時、彼女は怒りに我を忘れるのだろうか。悲しみに涙を流すのだろうか。

 この幻想郷を、この世の誰よりも深く愛する、あの少女は。

 

「じゃあ、行ってくるわね月見さん!」

「……ああ」

 

 玄関先で、気概あふれる霊夢と魔理沙を見送る。

 

「いってらっしゃい。気をつけてね」

「任せといて! 月見さん、異変解決したら宴会だからねっ!」

「ちゃっちゃと解決してくるぜー」

 

 山の頂上向けて飛んでいく二人の背は、あっという間に木の陰に隠れて見えなくなる。強い夏の日差しと対照的に、月見はその面差しにふっと影を落とし、ゆっくりと長い息をつく。

 緋色に染まった、雲の下で。

 

「……私も、行こうか」

 

 やがて、月見も動き出す。

 心のどこか片隅に、一抹の胸騒ぎを覚えながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 言葉は、出てこなかった。

 小さく、古く、寂れ、それでもどこか不思議な温かみのあった神社は、文字通り瓦礫の山と化していた。折れ、砕け、崩れ去り、意味のないただの木片と成り果てた『博麗神社だったもの』が、無造作に月見の眼前に転がっているだけだった。

 山肌をぽつりと拓いた土地故に、いつもどこかで小鳥の鳴き声がした緑豊かな境内が、今は物音ひとつなく静まり返っている。生き物の声はもちろん、葉擦れの音すら聞こえない。

 現実から、ここだけが切り離されてしまったかのようだ。

 それほどまでに、目の前の光景は信じがたかった。

 なんとなく――なんとなく、大丈夫な気がしたのだ。魔理沙の言葉を信じていなかったわけではないし、霊夢の怒りを演技だと思っていたわけでもないけれど、境内に入ればきっと、そこにはいつも通りの風景が広がっている気がしたのだ。

 打ち砕かれた。

 覚めたくない夢から、覚めてしまった心地だった。

 

「……そうか」

 

 噛み締めるように呟く。己が目で見てなお嘘だと首を振れるほど、月見は年若くない。認めたくない気持ちを残しつつも、目の前の光景は地に引かれる雨粒のように、すとんと月見の胸まで落ちてきてしまう。拝殿はもちろん、本殿も、手水舎も社務所も母屋も全部。これでよく、霊夢に怪我ひとつなく済んだものだ。

 足下に転がる無骨な神社のかけらを見下ろしながら、く、と月見は喉だけで笑った。自嘲だった。夢なら覚めればいいと思って、笑うことしかできなかった。

 体の一部を、もがれたような。

 さして博麗神社と深い関わりを持たない月見でさえ、ここまでなにも言えなくなるのだ。幻想郷が始まった時から――否、幻想郷が始まるよりもずっと昔から、ずっとこの神社に寄り添って生きていた『彼女』の心は、一体どれほど打ちのめされるのだろう。

 緩く首を振った。確定だ。博麗神社は間違いなく倒壊したし、状況とタイミングを考えても、まっさきに疑うべき犯人は天子の他にいない。

 けれど――どうしても、小骨のように喉に引っかかるものがあった。

 なぜ、博麗神社は倒壊したのか。簡単だ。幻想郷の各地で異常気象が続きつつも、人間たちが、博麗の巫女である霊夢が、異変の発生を見抜くことができなかったから。だから月見は「別の方法を考えた方がいいかもしれない」と天子に助言をしたし、彼女はその言葉に従って、博麗神社に地震を起こすという手段を実行した。そして恐らくは不運な事故で、博麗神社を倒壊させてしまった。

 簡単なことだ、けれど。

 

「……」

 

 しかし――どうして、博麗神社なのだろう。

 どうして、博麗神社『だけ』だったのだろうか。

 異変の解決には人間の力が必要であり、その最前線を担っているのは確かに霊夢だろう。だが幽々子が「妖夢に解決させたい」と言っていたことからして、必ずしも博麗の巫女が異変を解決しなければならない決まりがあるわけでもないはず。人間であれば魔理沙でも、咲夜でも早苗でも、極端な話人里の一般人でも、異変解決に名乗りを上げることはできるのだ。

 博麗神社を狙ったのは、理に適っている。

 しかし博麗神社『しか』狙わなかったのは、一体なぜなのか。

 人間なら誰でも構わなかった、はずなのに。

 どうして、霊夢だけを。

 

「……」

 

 考えても仕方のないことだ。そしてだからこそ月見は、自分も天界に向かわなければならないのだと思った。異変が解決されるまで傍観するなどと、悠長なことはもう言っていられない。

 打倒天子に燃える霊夢を、引き留めてでも。

 天子に真実を、問わねばならない。

 瓦礫の山から目を外し、振り返る、

 

「――うっひゃー、一体なんだってんだいこりゃ。派手な喧嘩でもあったのかねえ……」

 

 勢いのいい少女の声が耳朶を打った。視界の端で揺らめいたのは、トレードマークの緋色のおさげと、肩で担ぐほど巨大な長鎌。

 小野塚小町が、神社の長い石段を登り切って、ちょうど境内に入ってきたところだった。

 

「ん? おや、月見じゃないか。こんなところで会うなんて奇遇だね」

 

 月見の姿に気づくなり、小町は人懐こい笑顔で駆け寄ってきた。変わり果てた神社を目の当たりにしても、普段と変わらない明るさで人に声を掛けられる胆力には、いい意味でも悪い意味でも感心してしまう。

 あまり人と話をしたい気分ではなかったのだが、名を呼ばれた手前無視するわけにもいかなかった。できる限り笑顔を意識して、

 

「そっちこそ。こんなところまで来るのは珍しいんじゃないか?」

「ん? ま、そうかもねえ」

 

 彼岸屈指のサボり魔として名高い彼女は、よく人里の甘味処で団子を頬張っているし、温泉好きということで水月苑を訪れることも多いけれど、遥々博麗神社にまで出没するとは初耳だ。

 

「また、サボりかい」

「いいや、今回ばかりは大丈夫だよ。……本当だって。だからそんな胡散くさそうな顔しない」

 

 さてこの少女は、何度非番を騙り温泉に入っては映姫を召喚し、閻魔様の説法会at水月苑を開催させたか覚えているだろうか。

 

「本当に本当だって。ちょっと気になることがあって、ちゃんと四季様から休みもらってるんだよ」

「……本当にそうなら、いいけどね」

 

 まあ、月見には関係のないことだ。仮にここで、あの説教好きな閻魔様が小町を連れ戻しにやってきたとしても、月見は絶対に付き合わない。今だけは、なにがあっても。

 小町は目の前の光景に特に衝撃を受けた風でもなく、ただちょっと珍しいものを前にしたような目で、変わり果てた神社の残骸を眺めていた。

 

「で、これは一体何事? まさかあんたがやったわけじゃないでしょ?」

「今朝早くに、地震が起きたって聞いてるよ」

「地震かあ。やっぱり、今起こってる異変が影響してるのかねえ」

 

 まったくここの巫女さんがさっさと解決してくれないから、こっちもちょっと迷惑してるんだよー、と小町がぼやいた。月見にはよくわからないが、今回の異変は冥界のみならず、完全に別世界である彼岸にまで影響を及ぼしているらしい。

 こういってはなんだが……今の月見にはどうでもいいこと、だけれど。

 

「……ねえ、月見。あんたの気質って、なんだい?」

「ん?」

 

 小町がふと、威勢がよかった声の調子を落とした。彼女には珍しく、気遣わしげに沈んだ声だった。

 横目で月見を一瞥して、

 

「気質ってのは幽霊……言ってしまえば人の本質さ。だから、気質によって変化した天候を見れば、そいつの本質や未来の姿が見えたりする。……気質診断、要は簡単な占いだよ」

 

 言っていることはわかるが、なぜ、急にそんなことを。

 小町の答えは、腫れものに触るか否か迷うように、歯切れが悪かった。

 

「いや……なんか、悩んでるみたいだったから。気休め程度にしか、なんないかもしれないけど」

「……」

 

 悩んでいる――か。

 月見は心の中で小さく笑った。そりゃあそうだ。一年に一度あるかないかといっても過言でないくらい、今の月見は悩んでいる。一寸先も見えない霧の中にいるようなものだ。天子のこと、霊夢のこと、紫のこと、そしてなにより、自分自身のこと。天子への助言を誤り、博麗神社倒壊の根本的な原因を作ってしまった、自分のこと。

 とりあえず、小町の質問に答える。

 

「太陽を見てご覧」

「太陽? ……ああ、なるほど」

 

 手を庇にしながら空を見上げた小町が、すぐに納得の声をあげた。空には今も、輝く太陽を丸く囲むようにして、色濃い白虹が浮かび上がっていることだろう。異変が起こり始めてから今までずっとそうだったのだから、今更確認するまでもない。

 黙って、小町の診断結果を待つ。

 

「ふうん、『白虹』ねえ。白虹といえば、」

 

 しかし、そのまま答えへとつながっていくはずだった言葉が、

 

「ん? ……いや、待って。あれって……」

「……どうした?」

 

 月見は小町を見た。彼女はこちらの問いに答えず、眉根を詰め、厳しい表情をして、睨むように太陽を振り仰いでいた。

 つられて、月見も空を見上げた。夏の強い日差しで一瞬視界が白に染まるけれど、すぐに慣れて空の色がわかるようになる。

 なんてことはない。普段と変わらない太陽に、見慣れた白虹。異変が始まってから、もう何度も見上げた光景。

 だが、

 

「……ありゃ、白虹貫日じゃないか」

 

 唯一白虹の位置だけが、少し、今までとは変わっている。太陽の周囲を均等に囲んでいた虹の輪郭が、今は一部が太陽と重なっている。

 さながら虹が、太陽を貫いているかのように。

 小町が顔を歪めた。

 

「白虹は白虹でも、あれは相当に佳くない。もっぱら、災いの前兆だね。古代の中国じゃあ、白虹は干戈(かんか)を、太陽は天子――すなわち君主を表すってされててね。太陽が白虹に貫かれてるってのは、天子が干戈で貫かれるってことで、昔から兵乱や動乱なんかの、災いの兆しってされてるのさ」

 

『白虹日を貫けり』――白虹貫日は古来より、その神秘的な姿とは裏腹に不吉をもたらす前兆である。

 おかしい。少なくとも昨日までは、白虹は正常に太陽の周りを囲っていたはずだ。今日になって――博麗神社が倒壊した今日になって、それが変わった。これではまるで、神社の倒壊が月見にとって災いになるとでも暗示しているかのよう――

 

「――……」

 

 息、が、止まった。

 気づいた。

 気づいて、しまった。

 

「まあ、言い伝え、迷信程度のことだけどね。でも今は、気質が天候を変えるという条件下だ。あんたに君主って呼べる存在がいるのかはわかんないけど、とにかく、もしかしたら誰かによくないことがあるかもしれないよ」

 

 小町の言葉がまるで遠くに聞こえる。自分の体が冷たくなっていくのがわかる。なのに心臓だけが焼けるような熱を帯びて、音が脳に反響しそうなほど、激しく月見の胸を叩いている。

 考えすぎだと思った。馬鹿げたこじつけだと思った。

 君主と呼べる存在なんて、月見にはいないけれど――

 

 

 けれど、天子(・・)と呼べる少女が、いるだなんて。

 

 

 そんなふざけたことが、あってたまるものかと、笑い飛ばしたかった。

 

『――月見さん!!』

 

 なのに――なのに、月見の懐から声が響く。交信用の札の片割れを通して、霊夢の、悲鳴にも似た叫びが響く。

 

『月見さん、聞こえてる!?』

 

 起こってくれるなと、思っていた。頭の片隅で、考えうる限り最悪の事態として想像はしていたけれど、どうか起こってくれるなと切に祈っていた。

 

『大変、大変なの!!』

 

 信じていたかったのだ。確かにこの現実は、辛いものだけれど。でもあの子は、人間を愛しているから。人と妖怪を共存させるために幻想郷という世界を創り上げてしまうほど、優しい少女だから。だからきっと大丈夫だと。たとえ涙を流しても、早まった行動(・・・・・・)だけはしないはずだと。

 そう、信じたかったのだ。

 

『お願い、今すぐ来て! 今すぐ来て、あいつを止めて!!』

 

 甘かった。あの子の愛を見くびっていた。月見が思っていたよりもずっと、あの子の愛はまっすぐで、ひたむきで、それ故に危険なものだった。

 

『じゃないと――』

 

 あの子は、幻想郷を愛していた。

 

『じゃないとっ……!』

 

 八雲紫は、博麗神社を、愛していた。

 

『――あの天人が、殺されちゃう!!』

 

 ――大切な場所を壊された現実に、怒りで我を忘れるほどに。

 

「――ッ!!」

 

 もう、余計なことはなにも考えなかった。考えられなかった。あらん限りの妖力を開放する。放たれた妖力は大気の流れを生み、切り裂くかの如き烈風を織り成す。瓦礫の一部が崩れ、小町が瞠目し息を呑むが、意識にも入れない。

 飛ぶ。変わり果てた神社の景色も、小町の悲鳴も、心の中に広がっていた迷いすらも、すべてを置き去りにして。

 その先に、ただ一つ――

 天界だけを、見据えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ⑥ 「天へ昇れ ①」

 

 

 

 

 

 やっとこさ白玉楼周辺の雪掻きを終えた妖夢を出迎えたのは、幽々子の必殺脳天幹竹割りだった。

 

「いたい!?」

「まったくもう、妖夢~! 遂に最後までこの異変に気づかなかったわね!? このっこのっ」

 

 そのままタックルをくらって押し倒され、馬乗りでおでこをペチペチペチペチ、

 

「ちょ、ちょっと待ってください幽々子様、意味がわかりませ、いたたたっ!?」

「本当にわからないの!? あっきれた!」

 

 ぷりぷり怒っている幽々子曰く、

 

「だ~か~ら~、異変が起きてるのよ! ここでずっと雪が降ってたのはそのせいなんだってば!」

「そ、そうなんですか!? てっきり幽々子様が降らせてるものだとばかり……」

「そうだけど、そうじゃないの~! いくら私でも夏に雪を降らせるなんてできるわけないでしょ!? 異変が起きてるからこそ、こうやってあたり一面まっちろけにできたんだってば!」

「わ、わかりました! わかりましたからやめてくださっいたっ、いたいいたいいたい!?」

 

 ちゃんと雪掻きしなさいって命令したの幽々子様じゃないですか!? と反論したが、当たり前のように無視された。荒れ狂う幽々子の右手は収まることを知らず、絶え間なく妖夢のおでこを強襲し続けている。

 

「不甲斐ないっ! 不甲斐ないわよ妖夢っ、あんなにグダグダしてた霊夢だっていよいよ動き出したってのにあなたはなに!? 今日もせっせと雪掻きだなんて、仕事熱心なのはいいことだけど、そんなんじゃあダメよ!」

「む、無茶言わないでくださいよ~!」

「無茶じゃないわっ。主人の命令をただ聞いてるだけじゃあまだまだ半人前よ! 一人前の従者は、主人の言葉の裏まで読んで自ら行動しないとっ」

「わっ、わかりました! わかりましたから、もう叩くのはやめてくれませんか!?」

「妖夢の半人前ーっ!」

「ひん!?」

 

 ベチーン、とトドメの一撃。それっきり幽々子は妖夢の上から降り、頬を膨らませたまま四つん這いで、煎餅の置かれたテーブルまでのそのそと這っていった。

 

「もうっ」

 

 そして素早い手つき煎餅を一枚かっさらい、口の中へと放り込む。バリボリバリボリバリボリと惜しみない咀嚼音が響く中で、妖夢はすっかり赤くなったおでこを涙目でさすりつつ、幽々子の言葉を頭の中で整理してみることにした。

 まあ今になって思えば確かに、夏に雪が降るなんて普通では考えられない異常気象なのだから、まっさきに異変を疑ってもよかった気がする。ちょうど妖夢には、春に雪が降る異変を幽々子とともに起こした前例があるのだし。ただでさえ量が多い掃除洗濯炊事買い物に更に雪掻きまで加わって、毎日クタクタな忙しい日々を送っていたからか、まったく頭が回っていなかった。

 しかし仮に異変だと気づけていたとしても、今の私じゃあんまり力になれないだろうなあ――と、妖夢はすっかり筋肉痛になった両腕をさすりながら苦笑した。剣の修業は、少しの間だけお休みになりそうだ。

 ――バリボリバリボリバリボリバリボリ、

 

「――って幽々子様、一体いくつ食べてるんですか!? お煎餅は一日五枚までですよ!」

「まだ三枚目でーす」

「じゃああと二枚だけ取ってください。残りはしまいますから」

 

 十枚くらいかっさらっていった。

 

「なにしてるんですかあああああっ!!」

「ふんだっ! 今の私は虫の居所が悪いのよっ、もう誰にも止められないわ!」

「自棄食いだけはやめてください! お菓子が! 食べ物が! お金が! エンゲル係数があああっ!?」

「そんなの知りませーん!」

 

 幽々子が煎餅を両腕に抱えて走り出した。妖夢はすぐさま追跡した。

 白玉楼を走り回る二人分の足音が、ひっきりなしに響き渡る。

 

「大体幽々子様、昨日だってお饅頭五つ食べてたじゃないですか! 一日三つの約束なのに!」

「一昨日食べてなかったからその分ですー!」

「一昨日は四つ食べてましたよね!?」

「……」

「待ちなさあああああい!!」

 

 普段から白玉楼の雑用を一手に任されている身であり、更には剣術の道に生きる者であるのも相俟って、鬼ごっこなら妖夢が断然有利……のはずなのだけれど、不思議と幽々子との距離は一向に縮まらなかった。それどころか、ちょっとでも気を緩めるとすぐ引き離されそうになってしまう。運動神経がいいようにはちっとも見えないのに、殊に食べ物が絡む時だけ、西行寺幽々子は驚異的な身体能力を発揮するのである。その実力を剣術稽古の時にも少しは発揮してほしいと云々。

 襖続きの座敷を通過し、渡り廊下を走り抜ける。一足先に突き当たりを曲がって消えた主人の背を追って、妖夢も床板を強く打ち鳴らしながら体の向きを変えた瞬間、

 

「きゃっ」

 

 なにかにぶつかって尻餅をついた。突き当たりを曲がっていきなりで一体なににぶつかるのかと、妖夢がびっくりして目を開けると、そこにはつい先ほどまで追い掛け回していた水色の背中があった。

 脊髄反射で反応する。

 

「あっ幽々子様! やっと観念してくれたんで――」

 

 立ち上がり、前に回り込んで、幽々子が抱いている煎餅たちを取り返す、

 

「……?」

 

 直前にふと、眉をひそめた。幽々子からの反応がない。妖夢が試しに煎餅の一枚を手に取ってみても、まるで微動だにせず、棒立ちのまま。

 普段の幽々子であれば、絶対にありえない反応――。

 

「幽々子様……?」

 

 幽々子は妖夢を見ていなかった。表情を消し、目を細め、冥界の彼方――幻想郷が広がる方角を見(はる)かしていた。

 ――音が、消えていた。

 息をすることすら躊躇われる、体を締めつけられるような静寂だった。妖夢は眦を開いて、目の前に立つ主人から一歩後ろへ、すかさず距離を取った。

 今ここにいるのは、普段から妖夢を困らせてばかりな、自由奔放な亡霊の少女ではない。閻魔王からこの世界の管理を命ぜられた、唯一無二の冥界の姫君。

 その場に跪いた。ひとたび幽々子が『冥界の管理者』の衣をまとった以上、妖夢に余計な口出しをする権利などなかった。ただこうして、片膝をついて、間もなく与えられるであろう命を待つのみ。未だ幽々子の両腕に抱かれる煎餅のことなど、切って捨てるように意識から外した。

 ひらり、桜の花びらの如く舞い落ちた雪が、渡り廊下の上で前触れもなく溶けた。それを繰り返すような声で、幽々子は呟いた。

 

「……そう。やっぱりあなたはそうするのね、紫……」

「……幽々子、様?」

 

 片膝をついたまま、妖夢は幽々子を見上げた。幽々子は今まで見つめていた方角からふっと視線を外すと、手近な襖を開けて座敷に入って、その一角に持っていた煎餅をすべて置いた。

 

「お煎餅、とりあえずここに置いておくから。忘れないでおいてね」

「は、はい」

「それじゃあ、ついてきなさい妖夢。私たちも動くわよ」

「ま、待ってください!」

 

 無礼を承知で、声をあげた。

 

「一体、なにがあったのですか?」

 

 急に追いかけっこをやめて、じっと幻想郷の方角を見霽かすなり、ただ一言、ついてこいと。無論、幽々子にそう命ぜられれば妖夢は付き従うだけなのだが、これでは一体なにがなんなのか、動揺する己の心に整理をつけることができない。

 幽々子は腕を組んで、緩く息をついた。

 

「ちょっと、向こうで面倒なことが起こってるみたいだから」

「面倒……ですか」

「そう。だからちょっと、お友達を助けに行こうと思って」

 

 幽々子のお友達といえば、

 

「紫様……ですか?」

 

 幽々子は答えなかった。一度、首を振って、

 

「一刻を争いそうだから、今は動きましょう。そのあたりは、行きながら教えてあげるから」

「……わかりました」

 

 ただ……多分、只ならぬことが起こっているのだと思う。幽々子がなにを見たのかはわからないが、大したことでなかったのなら彼女がこんな顔をするはずがない。

 冥界の管理者としての仮面をつけなければならない、なにかがあったのだ。

 幽々子とともに玄関に回り、素早く身支度を整えて、外へ出る。急ぐ中でも、戸締まりだけはきちんと確認して。

 

「行くわよ」

「はい」

 

 すぐに飛び立つ。夏の銀世界が広がる冥界を越え、幻想郷へ。

 心のどこかに感じる病巣のような不安が、どうか杞憂であればいいと、思いながら。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 天界にやってくるのは初めてだった。

 曲がりなりにも博麗の巫女として、幻想郷の雲の果てにそういった世界が存在しているのは知っていたけれど、実際に見るのも足を踏み入れるのも人生初である。ガラスの如く透き通った清流と、虹を砕いてちりばめたような七色の花々。そして神々しい霊力を帯びた桃の木が彩る世界は、芸術的感性に滅法疎い霊夢ですら、思わずため息をつく程度には現実離れしていた。一瞬、遠路遥々こんなところまでやってきた理由を忘れかけたくらいだ。

 美しい景色に見入るのもそこそこに、当初の目的を思い出した霊夢は、目つきを鋭くして周囲を見回した。霊夢たちの体から漏れ出した気質は、最終的にこの天界まで昇ってきているようだった。今はこれといって不審な人影は見当たらないが、気質はなおも、この平原の中心に向けて流れていっている。

 黒幕は近いと、霊夢の勘が告げている。であれば一刻も早く気質の流れを追って、神社を倒壊させてくれやがった犯人の胸倉を絞め上げてからの背負投げに持ち込みたいのだけれど、

 

「……で、あんたはなにダウンしてるのよ」

 

 その、前に。隣を見れば、元気だけが取り柄なはずの普通の魔法使いが、完全にへたり込んでグロッキーになっていた。どこか具合がよくないのか、やけに顔色が悪い。

 

「ちょっと、大丈夫?」

「……むしろ私は、なぜお前が大丈夫なのか訊きたい」

 

 なによそれ、と霊夢は眉をひそめた。それではまるで、体調を崩していない霊夢の方がおかしいみたいではないか。

 魔理沙は息苦しそうに肩で呼吸しながら、呻くように、

 

「一応確認するけど、お前、どこもおかしくないんだな?」

「?」

 

 質問の意味がまるでわからない。

 

「ただ空を昇ってきただけでしょうが。どこがおかしくなるってのよ」

「……あー、くそ。これも才能ってやつなのか? 理不尽だぜ……」

「??」

 

 彼女がなにを言いたいのかさっぱりだが、霊夢は深く考えなかった。大方、毎日暗くじめじめした場所で生活しているものだから、邪気を払う桃の神聖な霊力にあてられたのだろう。妖怪みたいなやつである。

 そんなことよりも、黒幕探しだ。

 

「歩ける?」

「ちょっと休む……。先に行っててくれ。あとで適当に追いつくから」

 

 魔理沙が大の字で倒れて動かなくなったので、そ、と霊夢は素っ気なく回れ右をした。回復するまで待ってやるつもりなど毛頭ない。霊夢の頭の動きは既に、間もなく出会うであろう黒幕との距離を如何に詰め、如何に胸倉を絞め上げるかのシミュレーションに費やされている。

 やはり、発見と同時に一気に掴み掛かるのがいい気がする。息つく暇も与えぬように。そうすればたとえ相手が人外でも、虚を衝かれて反応が間に合わないはず。

 あとは適当に、弾幕でケシズミにすればオーケーだ。

 気質の流れに注意し、七色の花が揺れる天界の平原を進む。草花は、まるで極上の寝具かなにかみたいにふわふわしていて、霊夢の足裏を心地よい感触で押し返してくる。せせらぐ清流の水音は霊夢の心を透き通らせるし、霊気をまとった桃の木の姿は、怒髪天の怒りすら忘れさせそうだ。天人は滅多なことでは争いをしない平和主義者だというが、その理由の一端が、この天界の景観にあるのだろう。これほど神聖に満ちた場所で争うのがいかに無粋な行為なのかは、巫女でありながら信仰心の薄い霊夢でも、直感に近い領域で理解できた。

 まあ、どうでもいいことだ。そう、無粋とかマジどうでもいい。黒幕は絶対に許さん。

 だが、

 

「……にしても、人っ子一人いないわねえ」

 

 天人が住む世界という割には、その天人の姿がどこにも見えなかった。ここは、天界でも人が寄りつかない外れの方なのだろうか。どこまで進んでも、見えるのは草花と桃の木と、清流と霞のかかった岩山ばかり。

 観光に来たんじゃないってのに。

 どこまで行っても変わり映えしない景色に、霊夢が少し、苛々し始めた頃だった。

 

「……あら」

 

 足を向ける先に立つ、桃の木の木陰に、ようやく人影を見つけた。まだ遠目だが、同年代くらいの少女のようだ。両膝を深く抱え込んで座るその傍らには、たった今炉から上げたばかりのように光り輝く、一振りの剣がある。

 自分の体から漏れ出した気質が、その剣に集まっていっているのに気づいた瞬間――霊夢は怒声を張り上げた。

 見つけた。

 

「そこのあんたぁ!!」

「……!」

 

 少女が弾かれたように顔を上げる。霊夢は半ば駆け足で、足元の草花を次々薙ぎ倒しながら、少女との距離を詰めていく。このまま喰ってかかるつもりだった。少女が黒幕だと確定したわけではないが、あの剣が霊夢たちから気質を集めている以上、彼女が異変に関わる重要人物なのは間違いない。胸倉を絞め上げ情報を聞き出し、本当に黒幕ならそのまま背負投げだ。

 そう、内心黒く高笑いしながらやる気満々だったのに、

 

「あ……」

 

 年長者から怒られそうになって、怯える、子どものような。

 そんな顔をされてしまったので、舌の先まで出掛かっていた啖呵が、みんな奥に引っ込んでいってしまった。

 足は、既に止まっていた。

 あくまで、霊夢の経験上だけれど。

 異変を起こす者、或いはそれに協力している者というのは、誰しもが傲岸不遜で、恐れを知らずに霊夢と敵対してくる。紅霧異変のレミリア然り、春雪異変の幽々子然り、永夜異変の永琳然り、みんな意味深な笑顔を張りつけて、止められるものなら止めてみろと言わんばかりに、小生意気に行く手を阻んでくる者たちだった。

 なのに、目の前の少女には、

 

「……あんたが、異変を起こしてる黒幕?」

「っ……」

 

 その強さがまるでない。控えめに尋ねてみても、口を堅く引き結び、沈黙するだけ。膝を抱えて座り込んだまま、立ち上がろうともしない。

 まるで、弱い者虐めでもしている気分だ。

 

「……えーっと、違うなら他当たるけど」

 

 気質を集める緋色の剣という決定的な証拠があるにもかかわらず、一瞬は本気で人違いを疑ってしまったほどだ。彼女が異変に関わる重要人物なのだと、頭ではわかっているのに、適当に謝って回れ右をしてしまいたくなってくる。

 少女の唇が、うなされるように動いた。

 

「博麗、の、巫女」

 

 譫言めいた言葉でも、その声音はまるで竪琴を弾いたように美しかった。

 

「……確かに、私が博麗の巫女だけど」

「……」

「はっきりさせたいんだけど、あんた、異変に関係ある人?」

 

 少女がまた俯いてしまった。かすかに肩が震えている。初対面でこうもあからさまに怖がられてしまうと、いくら霊夢といえど心外である。霊夢はただ、黒幕の胸倉を絞め上げて往復ビンタを喰らわせたのち背負投げしてトドメに弾幕でケシズミにできればいいのであって、別に命まで取ろうとしているわけではないのに。

 だがいつまで待っても答えが聞けそうになかったので、さて他にあたりますか、と踵を返しかけた瞬間、

 

「……私が、異変を、起こしたのよ」

 

 一気に距離を詰めて胸倉を掴み取った。

 そのまま力ずくで引き上げ、無理やり立ち上がらせる。

 

「っ……」

「へえ。あんたが、異変を起こしたんだ」

 

 苦悶に歪む少女の顔など構いもしない。

 

「ってことは、今までの地震もあんたの仕業なのよね」

「……」

 

 ほんのかすかだが頷かれたので、拳に一層の力を込めて思いっきり突き飛ばした。少女が桃の木に背を打ちつける、したたかな音、

 

「ッ……!」

「よくもやってくれたわね!? お陰様で、秘蔵のインスタントお味噌汁が全部瓦礫の下よ! 見つからなかったらどうしてくれるの!?」

 

 つい先日紫が差し入れしてくれたばかりだった、外の世界のインスタント味噌汁を想う。今回は丁寧に箱詰めされた高級ギフトセットで、なんと十種類にも及ぶ多種多様な味噌汁が揃えられていた。一袋当たりの単価は、一般的なお賽銭の金額よりもずっと上。それが一種類三袋で計三十袋なのだから、霊夢には冗談抜きで宝の山に見えていたのだ。

 せっかく、敬虔な思いで神前にお祀りしていたのに。

 

「あああああ思い出したらムシャクシャしてきた! どうしてくれんのよちくしょーっ!」

 

 両手で髪をグシャグシャに掻き乱しながら、霊夢は夏の大空に向かって吠えた。あの高級ギフトセットはもちろんのこと、今となっては、他のインスタント味噌汁たちまで全部瓦礫の下だ。井戸で水汲みをしていた時に地震が起きたため霊夢本人は事なきを得たが、代わりにインスタント味噌汁たちが犠牲になったのだ。

 この行き場のない怒りをどうすればいいのか――否、行き場ならある。この怒りの吐口とするべき黒幕が、目の前にいる。スペルカードを抜き放つ動きに、躊躇いなどあるはずがない。

 

「さあ、ケチョンケチョンにしてやるから覚悟しなさい! 今更泣いて許しを乞うてもムダよ!」

「……ごめん、なさい」

「早くあんたもスペルカードを――なんですって?」

 

 霊夢はひどく眉をひそめた。桃の木に寄りかかったまま、俯き、唇を引き結んで、スカートをぐしゃぐしゃにしながら震えている少女が見える。

 霊夢はため息、

 

「あのね、今更謝ってもムダだって」

「ごめん、なさい……!」

「……だからね、」

「私、本当に、取り返しのつかないことを……っ!」

 

 込み上がってくる感情を懸命に抑え込もうとして、崖っぷちの場所で一進一退の攻防を繰り返す、決壊寸前の声。スカートを握り締める両手が、血の気を失って白くなるほどの。

 

「……、」

 

 続けるはずだった言葉を見失いながら、霊夢はこの光景の意味を考えた。まさか、本当に謝ってくるとは思っていなかったのだ。しかも決してその場凌ぎなものではなく、恐らくは強い後悔と罪悪感に苛まれながらの、聞くに堪えない憐れな懴悔。

 動揺した。大体望んで異変を起こすような連中なんて、どいつもこいつも自己中心的で、自分が悪いことをしているなんて欠片も思っていなくて、こうして霊夢がスペルカードを抜いたって、それすらも一興とばかりに反撃してくる面倒なやつらばかりなのだ。

 レミリア・スカーレットにせよ、西行寺幽々子にせよ、八意永琳にせよ、みんなそうだった。

 だから、今回も当然そうなるものと思っていた。そうなるはずだから、勢いに任せて弾幕を撃ちまくって、多少なりとも怒りを発散できると思っていた。

 なのに、ごめんなさいと、本気で謝られて。

 霊夢は、自分が一体なにをするために天界まで昇ってきたのか、唐突にわからなくなってしまった。

 

「ま、待ちなさいよ。まさか、神社が倒壊したのはただの事故だとでも?」

 

 辛うじてスペルカードを構えた右手だけは下ろさずに、霊夢は問う。少女は頷く。

 

「信じて、なんて言えないけど……。でも、神社を壊すつもりがなかったのは本当なの……! ただあなたに、異変に、気づいてほしくて……」

 

 今回の異変、確かに霊夢は完全に出遅れた。異常気象による連日快晴続きで、暑さにやられ、夏バテを起こし、ろくに空を見上げもせずに、毎日座敷でぐうたら寝返りを打つばかりだった。数日前から小さな地震が頻発しても、大したことないだろうしなにより面倒くさいと自分に言い訳をして、うだうだと腰を上げようともしなかった。

 例えば。

 例えばもしも霊夢が、異常気象や頻発する地震にもっと疑問を持ち、面倒くさがらずに行動を起こしていたならば――

 

「……!」

 

 その可能性に気づいた時、霊夢は体中から血の気が落ちていくのを感じた。スペルカードを構え続けていた右腕からも完全に力が抜けて、地面に向かって垂れるだけの木の枝と化した。

 なによそれ、と――なによそれと、本気で思った。

 

「――お、いたいた。おーい、霊夢ー……って、なんだこりゃ?」

 

 背中の方から、相方の声と足音が聞こえてくる。体調は回復したらしくすっかり元の血色を取り戻した魔理沙が、霊夢の隣に立って、桃の木の袂でただ謝罪の言葉を繰り返す少女を見て目を丸くする。

 

「おい霊夢、なに泣かせてるんだよ。気が立ってるのはわかるが、無関係の相手を泣かせるのはよくないぜ」

「……無関係なんかじゃないわよ」

 

 霊夢は、だらりと垂れた腕に力を込めることもできぬまま、

 

「それどころか、張本人だわ……」

「は? ……張本人って、異変を起こした? こいつが?」

 

 そう。闘う意志ひとつも見せることもなく、涙を忍び、懴悔と謝罪の言葉だけを繰り返す、この少女が。

 

「……おいおい、一体なにがあったってんだよ。お前、こいつになにをやったんだ?」

「なにもやってないわよ……」

 

 そう。霊夢はなにもしていない。少女を突き飛ばし、桃の木に叩きつけはしたけれど、今彼女が涙を耐え忍ぶ理由はもっと別。

 

「……ほんとにどういうことだ? 休んでた魔理沙さんにもわかるように説明してくれ」

「……そんなの、私にだってわからないわよ」

 

 そう。なにがなんだかわからない。少女は霊夢に、異変に気づいてほしかったと言った。だから地震を起こしたのだといった。どうして、気づいてほしかったのか。なぜ、気づいてもらわなければならなかったのか。

 この少女だって、なにか目的があって異変を起こしたのだろう。幻想郷を紅い霧で覆おうとしたレミリアのように。幻想郷中から春を集め、西行妖を咲かそうとした幽々子のように。

 そういった目的を果たすためには、異変の解決役である博麗の巫女など、動かないでいてくれた方が好都合のはずなのに。

 なぜ自分は、この少女に呼ばれたのか。

 問おうと、霊夢は思った。このまま一方的に謝られるだけでは、いつまで経ってもなにもわからないし、変わらない。少女ばかりが罪悪感に押し潰されていく姿など、見ていて面白くもなんともない。

 己の過失に罪を感じるのは勝手だ。事実彼女は、霊夢の住む家を破壊するという、謝罪だけでは済まないことをしてくれたのだから。

 ――だがその結果私に頭を下げるというならば、それ相応の理由と事情をはっきりさせやがれ。

 なにもわからぬまま押しつけられる謝罪の言葉ほど、聞いていて不愉快なものはない。

 

「――ねえ、教えてよ」

 

 故に霊夢は問うた。なぜこの少女は、涙をこらえ、壊れたように謝り続けるのか。そもそも謝るくらいならなぜ、幻想郷で異変を起こしなどしたのか。

 

「ごめんなさいだけじゃ、なにもわからないわよ」

 

 少女の言葉が止まる。

 

「教えてよ。あんたが異変を起こした目的を」

 

 霊夢は深く、息を吸う。

 

「――ねえ。どうして?」

「……」

 

 それ以上、霊夢はなにも言わなかった。言うべきことはすべて言ったから。魔理沙はなにも言えなかった。なにを言えばよいかわからなかったし、口を挟むべきでもないと思ったから。

 そして少女もまた、なにも言えなかった。一度、口を動かそうとした気配はあったものの、霊夢からは見えないなにかが歯止めとなって、結局答えは出てこなかった。

 苛立つほどの沈黙だった。

 

「――言えるわけない……!」

 

 少女が嗚咽とともに大きく息を吸って、両手で顔を覆った。

 それは、拒絶の言葉だった。

 

「こんなの、言えるわけない……ッ!」

「……っ」

 

 絶望的な隔たりを感じた。霊夢には、少女の心がわからなかった。ただ、重く分厚い扉で何重にも覆われ、誰からも見えないように閉ざされていることしかわからなかった。当然といえば、当然なのかもしれない。自分からなにをするでもなく、自然と人や妖怪を周囲に集めてきた霊夢だ。自分の方から歩み寄る術を、霊夢は知らない。

 知らないことを初めて、拳を握るほどに歯がゆいと思った。

 脳裏を、銀の尾を持つ狐の姿が掠めた。人の心を解きほぐす不思議な力を持った彼なら、少女の心の扉を、ひとつひとつ開けていくことができるのだろうか。霊夢が知るべき問いの答えを、心の奥から掬い上げることができるのだろうか。

 爪が肌に痕をつけるほど、強く拳に力を込めた。

 

「……そんなんで、引き下がると思わないで」

 

 なるほど確かに、霊夢に人の心の扉を開けていく力はないだろう。誰かの話を聞くのは苦手。誰かに優しくするのも苦手。そもそも他人に興味がない。そんなスタンスで生きてきた霊夢が今更人を理解しようとしたところで、できることなど高が知れている。

 だから霊夢は、優しくしない。あの銀狐のように、相手の心を少しずつ解きほぐしていくなんて、できっこないから。

 力ずくで、ぶち破ってやる。

 

「納得できないわよ。なんであんたが異変を起こしたのかもわかんないのに、そんな風に馬鹿の一つ覚えみたいに謝られたって、許せるもんも許せないわ」

 

 それこそもう一度、胸倉を絞め上げてでも。霊夢は霊夢なりの方法で、少女から真実を引き出してみせる。

 引き出さなければならないのだと、思った。

 

「教えてもらうわよ、全部。……力ずくでも」

 

 天界にまでスペルカードルールが普及しているのかはわからないが、異変を起こしておいて知らないなどとは言わせない。

 

「私が勝ったら話してもらう。話したくないんだったら、私を倒してみせなさい」

 

 どの道この少女が異変の黒幕である以上、霊夢は闘わねばならないのだ。闘う理由が、異変を止めるためから、真実を問い質すために替わるだけ。

 俯く少女の顔には未だ迷いがあるが、構いはしなかった。その迷いごと、ぶち破ってやるのだと。

 棒切れとなっていた腕に力を通わせ、再びスペルカードを構える、

 

 

「――まあいいじゃないの、霊夢」

 

 

 その、動きが、止まった。止められた。

 背後から肩に伸びてきた、作り物みたいに綺麗な、少女の手で。

 

「――……」

 

 なぜだろう。なぜか霊夢はこの時――心臓が止まりかけたように感じた。不意を衝かれて驚いたとか、怖かったとかじゃなくて、なんの前触れもなく腹を刃物で刺されたような、筆舌に尽くしがたい感情で体が竦んで、一切の動きはもちろん、呼吸までをも止めざるをえなかった。

 肩に乗せられた小さな手を、振り解くことができない。ただ振り返ることすらも、できない。

 

「言えるわけがない理由を、無理に聞き出す必要なんてないわ」

 

 甘い声だった。耳にまとわりつき、甘ったるい粘性をもって徐々に皮膚の奥へと染み込んでいくような。鳥肌が立つくらいに、震え上がるほどに、神経を侵す、甘い声。

 今まで聞いたことがないほど優しいその声音が、なぜかこんなにも恐ろしい。

 

「ええ、理由なんてどうだっていい」

 

 なにも特別なことをしているわけではない。内に秘めた感情を発露するのでもなく、あらん限りの妖力を開放するのでもなく、ただその静かな声音だけで、彼女は万象一切を抑え込んでいる。霊夢も、魔理沙も、少女も動けない。滴り落ちる汗を拭うことすらできないし、しようとも思えない。

 手を乗せられた己の肩が、砂に変わって崩れ落ちそうだと、霊夢は思う。

 

「大事なのは、ただ」

 

 止まっていた呼吸に、体が軋み始めた。だから霊夢は息を吸った。己を抑え込む楔を打ち砕かんと、大きく深く、

 

「――あなたが博麗神社を壊したという、結果だけ」

「――!」

 

 振り返った。振り返ることができた。だがもはや、そこには誰の姿もない。

 

「初めまして、比那名居天子」

 

 既に霊夢の隣を通り過ぎ、少女の目の前まで距離を詰めている。

 

「私は、八雲紫」

 

 なんてことはない挨拶だった。そしてそれだけで終わってくれたなら、一体どれほど幸いだっただろうか。なんだ、考えすぎただけじゃない、ほんと馬鹿みたい、と霊夢は自分で自分を笑うことができた。

 ――八雲紫が、キレて(・・・)いるなんて。

 私の馬鹿な勘違いだったと、笑うことができたのに。

 悲鳴、

 

「――ッ!」

 

 今度こそ、霊夢は彼女の姿を捉えた。八雲紫。強く振り切った右腕に、目に見えるほど色濃い妖力の残滓が残っている。

 

「突然で、悪いんだけど」

 

 少女の体が吹き飛んでいる。蹴り飛ばされた路傍の小石のように、何度も大地を打ち転がっている。

 

「美しく、残酷に」

 

 紫じゃないと、霊夢は思った。彼女は間違いなく八雲紫であり、しかし霊夢が知る八雲紫とは、凄烈なまでに違う。

 妖怪にとっては毒となるはずの、邪気を払う桃の霊力すらも封殺して。

 

「――この世界から、消えて頂戴」

 

 幻想郷の生みの親。霊夢の母親代わり。月見に恋する少女。そのどれでもない。

 幻想郷最強の大妖怪――八雲紫だった。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 なにひとつ理解できていなかったのだと思った。

 所詮はたった一週間そこらの関係なのだから、多くのことを理解できる方がおかしいのかもしれない。けれど曲がりなりにも友を名乗る者として、比那名居天子という少女を、この異変越しに少しでも理解できているつもりだった。

 なにひとつ、理解できていなかった。

 そもそも天子は、自分が異変を起こした本当の目的すら月見に話していない。そして月見は、その本当の目的を聞き出そうとしなかった。その時点で理解など程遠く、すれ違ってしまっていたのだろう。

 

 ――ひょっとすると天子は、霊夢に異変を解決してほしかったのかもしれない。

 

 なんの根拠もないことだけれど、私怨など個人的な感情を除けば、博麗神社に拘る理由などそれくらいしかないように思えた。幽々子と萃香に手痛い完敗を喫したあとも、彼女は妙に霊夢の動向を気にしていた。

 天子は自らが異変を起こした目的を『暇潰し』だと言っていたが、あれは十中八九嘘だ。本当に暇潰しが目的なら、もっと多くの人々に異変を知らしめるべきであり、博麗神社だけを狙って地震を起こす必要がない。

 単純に霊夢と闘いたかったという線も、恐らくない。そんなの、博麗神社に直接殴り込んでしまえばそれで済む話だ。腕試しが目的だとすれば、地震はもちろん、そもそも異変を起こす理由すらなくなってしまう。

 だから天子の本当の目的は、霊夢と闘った、その先にあるもの。

 それが一体なんなのかは、天子をなにひとつとして理解できていなかった月見にはわからない。

 わからないからこそ。

 

「……霊夢。ひとつだけ、頼まれてくれないか?」

 

 握り締めた交信用の札――その霊夢に渡した片割れに向けて、声を飛ばす。自分の口から出てきたとは思えないほど固く、張り詰めた声だったが、特に不思議に思わなかった。むしろ、心が最低限冷静を保っているだけ上々。それだけ事態は逼迫している。

 大妖怪の中でも指折り強大な力を持つ紫が怒り狂えば、人間一人の命など、蝋燭の炎よりも容易く掻き消されてしまうものなのだから。

 札から返事の声が響く。

 

『なに? まさか、手を出すななんて言うつもり?』

 

 札越しに届く霊夢の声もまた、普段の彼女からは想像できないほどに強張っていたけれど、その言葉は月見にとってなによりも心強く響いた。霊夢は、紫を止めようとしてくれている。住む家を破壊した憎むべき相手であるはずの天子を、助けようとしてくれている。

 心が少し、落ち着きを取り戻した気がした。

 答える。

 

「紫を止めろとは言わない。紫がもし本気で――本気で天子に怒っているのなら、人間のお前では絶対に止められない」

『……ちょっと、月見さん』

「――だから、時間を稼いでくれ」

 

 苛立ちを孕んだ霊夢の声を、静かに制して続ける。

 

「今、私は全力でそっちに向かっている。でも、どうしても、どうやっても、あと数分時間が掛かるんだ」

『……』

「お前にとって、その天人は神社を破壊した憎い相手かもしれない。それを承知で、どうか聞き届けてくれないか。私がそっちに向かう間だけ、どうか――」

 

 一息、

 

「――どうか彼女を、死なせないでくれ」

『当たり前でしょ』

 

 即答だった。言われる前から答えを決めていたように。言われるまでもないことだと一蹴するように。

 

『私はね、なにも納得なんてしてないのよ。まだ、あいつが異変を起こした理由も聞いちゃいないんだから。そんな状態で、なにもわからないまま終わらせられるなんて御免だわ』

「……霊夢」

『それに、初めて会った時に約束したしね。……困ったことがあったら、二回くらいなら力になってあげるって。これはその一回目』

 

 顔の見えない札越しでもはっきりと、霊夢が微笑んだ気配がした。

 

『うん。だから、なんとか上手くやってやるわ。本気で怒ってる紫を見るのは初めてだし、ちょっとだけ怖いけど……頑張る』

「……任せて、いいか?」

 

 辛いことを押しつけてしまうと月見は思う。紫の実力がどれほど常識を外れているかは、娘同然に育てられた霊夢だってよく知っているはずだ。藤千代と双璧を成す幻想郷最強。その強大無比なる能力の前では、月見だって無力に等しい。

 そんな相手に時間稼ぎをしろだなんて、とても人間に頼んでいいようなことではないはずなのに。

 

『――任せなさい』

 

 それなのに霊夢は、己の胸を叩くように、力強く応じてくれる。

 

『約束するわ。あいつは絶対に、死なせない。……あ、でもなるべく急いでね、ほんと時間稼ぎくらいにしかならなそうだから』

「……、……ありがとう」

『お礼はあとでたっぷりしてくれていいわよ。……じゃ、そろそろ本格的に割り込まないと危なそうだから。またね』

 

 充分だと、月見は思った。その言葉だけで、今の月見がどれほど救われたか。どれほど心の中で、有り難いと思ったか。理由はどうあれ、天子に死んでほしくないと、ともに願ってくれる味方がいる。それが、こんなにも心強い。

 だからこそ、月見は飛ぶ。視界に映る森羅万象を、すべて背後に置き去りにして。打ちつける風で体が切り裂かれそうになっても、それでもなお速く、月見は一直線に天界へと、

 

 

「――狐火」

 

 

 ひどく平坦な声だった。流れる景色と一緒にして、気にも留めず通り過ぎてしまうほどの。それでも月見が辛うじて反応できたのは、声が聞こえたからというよりかは、獣としての本能が冷たい敵意を感じ取ったからだった。

 

「……ッ!」

 

 目の前を唐紅の大炎が埋め尽くす。躱すには、今の月見はあまりに速く飛び過ぎている。

 当たる――ならば。

 

「狐火!」

 

 月見は尾を振るい、狐火で己の体を包み込んだ。相殺する必要はない。これほどの勢いで飛んでいるのだ、炎に身を焼かれるのは一瞬。その一瞬だけ、凌げればいい。

 抜ける。

 

「ッ……、と」

 

 緋色の残火が散る中で、月見は裾をはためかせながら静止した。着物の随所に焼け焦げた跡。まあ、大した問題ではない。

 それよりも。

 

「……できれば、出会いたくはなかったんだけどね」

 

 消え行く炎が、空に溶け込む赤い花びらとなって舞っている。美しく、そして強力な狐火だった。直撃していれば、月見とて空を飛ぶことすら敵わなくなっていただろう。

 それほどの炎を扱える妖狐など、妖怪の楽園たる幻想郷でも数が限られている。限られすぎて、そのまま名指しで断言してしまえるほどに。

 

「なあ。――藍」

 

 月見が顎を上げて見据える先。天界へ続く(きざはし)を遮るのは、金毛九尾。

 八雲紫の懐刀――八雲藍が、感情の読めない静かな瞳で、じっと月見を見下ろしていた。

 それだけではない。

 

「……橙も」

「っ……」

 

 八雲藍の式神――橙もまた、ひどく思い詰めた顔をして、藍の裾を皺ができるほどに握り締めていた。

 なぜお前たちがここに、と月見は問うたりしない。ここにいて当然なのだ。藍と橙は、八雲紫の従者なのだから。

 

「……さすがですね、月見様」

 

 賞賛の言葉に反して、藍の声音はどこまでも無感動だった。

 

「今の一撃で終わってくれれば、楽だったのですが」

「それはまた、随分と物騒だね」

 

 言われるまでもなく、あの狐火が月見を墜とすために放たれた一撃だったのは明白だ。

 普段であれば、藍が月見に牙を剥くなど考えられないことだけれど。

 

「……ここから先へは、月見様でも、月見様だからこそ、行かせられません。すべてが終わるまでは、どうか」

 

 すべてが終わるまで――紫が天子を裁き終えるまでの、足止め。

 

「……紫の命令か?」

「……いいえ。紫様は、なにも言いませんでした」

 

 すなわち、黙認。半分は紫の意思であり、もう半分は藍自身の意思といったところだろうか。

 彼女たちが、月見と天子の関係をどこまで知っているのかはわからない。すべて知っているのかもしれないし、なにも知らないのかもしれない。だがひとたび紫が天子を裁こうとすれば、必ず月見が止めに来ると、それだけは確信していたのだろう。だから藍は自ら月見の足止めとなることを選んだし、紫もそれを止めなかった。

 月見は緩く首を振って、細く長い息を吐いた。やはり――やはり彼女たちは本気なのだと、諦観するように、理解せざるをえなかった。

 

「少しの間、お付き合いいただきます」

「……」

 

 表面上冷静を装いつつも、月見の胸中には確かな焦りがあった。内心で舌打ちもした。藍の介入は、決して望んでいたことではないが予想はしていたし、実力差に物を言わせて押し通せるとも考えていた。怒りで我を忘れた紫が凶刃を振り下ろしてしまう前に、天子を助けるためには、そうしなければならなかった。

 たとえ藍の背後から、霧の奥から現れ()でるように、十二体の式神が召喚されてもだ。

 

「……お前がそれを使うのは、久し振りに見るね」

「そうですね。確かに、久し振りに使います」

 

 十二神将――六壬占に由来を持つ、かの大陰陽師安倍晴明が使役した式神。蛇の姿をしている者の他、女神の姿、文官の姿など様々だが、共通しているのは、一体一体から大妖怪に匹敵するだけの力を感じることだろうか。

 一対十三――まさに四面楚歌ともいえる状況だが、これでもなお、月見には押し通せる自信があったのだ。伊達に何千も年を食って生きてきたわけではない。紫や藤千代のような常識を逸脱した例外を除けば、月見より右に並べる大妖怪などそうそういない。

 問題なく突破できるはずだった。

 橙さえ、いなければ。

 

「……橙」

 

 眉を歪め、その名を呼んだ。橙は、どれほど過大評価しても『普通』以上にはなりえない幼い式神だ。しかし、だからこそ、藍よりも十二神将よりも、月見にとって厄介なのは彼女だった。

 金毛九尾の藍と、一体一体が大妖怪に匹敵する十二神将が相手だ。いくら月見とて、実力的にも状況的にも、手を抜いて戦う余裕などない。

 では、強大な大妖怪二者がぶつかり合った時、なにも特別なものを持たない普通の妖怪が巻き込まれると、果たしてどうなってしまうのか――。

 苦笑した。

 

「藍……それはちょっとばかり、卑怯じゃないかな?」

「……言ったはずです。ここから先へは、行かせられないと」

 

 答える藍には、わずかだが迷いの色があった。当然だ。あれだけ可愛がっていた式神を、戦いを有利に進めるための盾に使うなど、顔色一つ変えずにできることではない。万が一があった時、橙の負う傷は決して軽いものでは済まないのだから。

 だがそれでも藍は、ただ主人のために、月見を足止めできる最も有効な手段を選んだ。

 さて――追い詰められたなと、月見は思う。月見が取れる選択肢は二つ。足を止めて戦うか、構わずに天界へ突き進むか。

 もし戦う場合――橙を最低限巻き込まないよう配慮しつつ藍を倒すなど、ほとんど無理難題だ。不可能とは思わないが、一分一秒が惜しいこの状況で選ぶべき選択肢ではない。

 なら、二人を無視して突き進むか――だがどうにかこうにか天界に辿り着いたとして、今度は紫を止めなければならない。彼女が怒りで我を忘れている以上、力ずくの強攻策だって迫られるかもしれない。そこに藍と橙まで合流でもしたら、それこそ本当の無理難題だ。

 可能ならば、ここで藍と橙に退場してもらうのが理想なのだ。しかしそれでは、結局馬鹿正直に足止めを食らうこととなってしまい、最悪の場合は霊夢との約束を果たせないかもしれない――。

 

(……くそ)

 

 ここで戦うべきではない。そして同時に、戦わずに突破するべきでもない。まったくもってよくできた状況じゃないかと月見は思う。

 

「――橙!」

 

 一縷の望みに縋るような思いで、橙の名を呼んだ。橙は心優しい妖怪であり、月見を、父親みたいだと慕ってくれていた。そんな相手と対峙しなければならないこの状況を、彼女は心の底から(いと)うだろう。今だって橙は、藍の裾を両手でぎゅっと握り締めて、泣き出しそうな顔で佇んでいる。

 橙だって気づいているはずだ。こうして月見の前に対峙することで、自分は一人の少女を、間接的に殺してしまうかもしれないのだと。

 

「そこを、どいてくれ。……お前だって、気づいているんじゃないのか?」

「ッ……」

 

 橙の瞳が揺れた。小さく息を呑み、唇を歪め身を竦める様は、走った心の痛みに呻いたようでもあった。

 しかし、

 

「ごめんなさい、月見さん……!」

 

 悲痛な声でそう叫んだ橙に、月見はひとつ、緩く息をついた。

 

「これで本当にいいのかは、私にもよくわからないんです……! でも紫様は、藍様は、私なんかよりもずっとずっと頭が良くて、きっと私じゃ思いつきもしないことを色々考えて、その上でこうしてるんだと、思うからっ……!」

 

 藍も橙も、良い意味でも悪い意味でも、主人を想いすぎる式神であった。彼女たちは契約で結ばれた主従の関係であり、そしてそれ以上に、長い年月を掛けて絆を深め合った家族であった。

 善悪ではない。ただ、辛い思いをしているその人の傍にいて、せめて自分だけは、支えてあげたいから。

 

「だから、ごめんなさいっ……!」

 

 だから藍は望んで月見の前に立っているし、橙は望んで藍の傍にいる。

 式神としてではなく、家族としての選択。

 それを、月見にとやかく言う権利などないけれど。

 

(こうなるんだったら、小町も連れてくるべきだったか……)

 

 せめてあと一人味方がいれば状況も変わるのだろうが、望むべくもない。式神を遣いに出し援軍を求めるにしても、やはり一分一秒が惜しい現状、自分一人の力で切り抜けてしまうのが最良。

 やるしかない。

 やらなければ、全部終わってしまうだけなのだから。

 

「……では、行きます」

「……」

 

 感情を押し殺して宣言した藍に対し、月見はただ、己が妖力を開放することだけで応えた。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 月見と交信を終えた霊夢は、すぐさま行動を起こした。札をしまい、代わりにスペルカードを抜いて走り出す。

 紫は、正気かどうかすら疑わしいほど、完璧にキレて(・・・)いる。扇とともに繰り出す斬撃は桃の木を容易く斬り飛ばし、弾幕は大地を抉り取る。こんなことを考えたくはないけれど、恐らく紫は、あの天人を殺そうとしている。

 博麗神社を壊されて、怒りに駆られる気持ちはわかる。実際霊夢も、瓦礫の山になった神社の姿を思い出すだけで、腸が煮えくり返りそうになるのだから。

 しかし、霊夢は知っている。あの天人は、神社を壊してしまった己の過ちを、本気で後悔していた。一言発するたびに命すらすり減らすような、あんなにも痛々しく鬼気迫る謝罪は、とても演技でできるようなものではなかった。

 情状酌量を与えるつもりはない。

 だが最低限の事情も聞かずに一方的に殺そうとする行為が正しいなどと、霊夢は絶対に認めない。

 

「……おい、霊夢!」

 

 走り出すなり、魔理沙に背を呼び止められる。霊夢は立ち止まり、けれど振り返らず、苛立たしい気持ちを抑えながら応える。

 

「なによ? 見りゃわかるでしょ、切羽詰まってるから早くして」

「……本気か? 本気で、あれに割り込むつもりか?」

 

 霊夢とて博麗の巫女だ。妖怪退治の名目で、名も知性もない野蛮な妖怪を退治した経験は幾度もある。

 それとは比べ物にならない。比べようとすることすら間違っている。

 世界が変わり果てていく。清流は斬撃で抉られ流れが曲がり、霞を戴いた岩山は弾幕で砕かれ崩れ落ちる。スペルカードとは根本的に違う、命を奪うための攻撃だ。

 天人の少女がそれらを紙一重で躱し、辛うじて生き長らえているのは、単なる紫の気まぐれでしかない。

 その事実を前に、恐怖がないといえば嘘になるけれど。

 

「……行くわよ」

 

 銀の狐と、約束をした。霊夢の力では紫を止められないけれど、彼ならばきっとできるから。だから彼がここに辿り着くまでの間、時間を稼ぐと約束をした。

 恐怖はあるが、迷いはない。だって月見は、霊夢が任せなさいと答えた時、本当に救われた声をしていたのだ。

 どんなことがあっても泰然自若としている月見の、こういってはなんだが情けない声は、今まで聞いたことがなかった。月見があんなになるまで心を砕く相手なのだ。あの天人は、絶対に悪人なんかじゃない。殺されるなんて絶対に間違っている。

 だから霊夢は迷わない。振り返り、逆に問う。

 

「……あんたはどうするの? ま、怪我じゃ済まないかもしれないし、逃げるなら今のうちだけど」

「ははは、――冗談」

 

 お気に入りの帽子の鍔を掴んで、大胆不敵に笑った魔理沙に、だったら初めから訊くなと霊夢も笑った。

 

「目の前で殺されそうになってるやつがいるのに、放っておけるわけないだろ」

「そういうことよ。……でもほんとにいいの? 下手したら死ぬかもよ?」

「まあ、お前の陰に隠れてれば大丈夫だろ。いくらあいつでも、博麗の巫女のお前にゃあ、あんま手は出せないだろうし」

「ひどいわね。人を盾扱い?」

「援護射撃は任せろだぜ」

 

 上等だ、と頷く。互いの腹は決まった。

 

「う、あぐっ!?」

 

 突き刺すような悲鳴に耳朶を打たれ、霊夢は慌てて正面を向いた。視界の端をなにかが掠める。遂に紫の一撃をまともに受けた少女が、血の気が引くほどの速度で地面を何度も跳ねて転がっていく。

 一体どれほどの力が加われば、人の体とはああも小石のように打ち飛ばされるのだろう。少女の体がようやく止まった時、もう、霊夢の位置からその姿はほとんど見えなかった。

 心底辟易した様子で、紫がため息をついた。

 

「さすがは天人、と言ったところかしら。ほんと、体だけは丈夫なのね」

「っ……」

 

 どこまでも倦いた声で、

 

「でも好都合だわ。あなたにはそれなりに苦しんでもらわないと、私の気が済まない」

「……魔理沙、覚悟はいい? そろそろ行くわよ」

 

 問う霊夢は迷わず、答える魔理沙は躊躇わない。

 

「……ああ!」

 

 宣言する。己のスペルカードを。

 この身を縛りつける恐怖を、力ずくで弾き飛ばすように。

 

「霊符・『夢想妙珠』!」

「恋符・『マスタースパーク』!」

 

 紫は、まさか自分が攻撃されるとは夢にも思っていなかったのだろう、七色の弾幕と極太の光線に、まったく反応することができず、光の中に呑み込まれていく。

 直撃――けれどこんなもの、きっと時間稼ぎにもならない。

 霊夢は祈る。時間は稼ぐと、約束した。けれど、果たしてどれほどの間踏ん張ることができるのか、自分でもまったく想像ができない。

 十分か。

 三分か。

 一分か。

 三十秒か。

 もしかしたら、十秒と持たないかもしれない。

 だから。

 

 ――だからお願い、早く来て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ⑦ 「天へ昇れ ②」

 

 

 

 

 

「――あんた、なに?」

 

 などと、初対面でいきなり正面切って言われた時のことは、今でも本当によく覚えている。

 百年近くは遡る話だ。衣玖が初めて天子と顔合わせした経緯は果たしてなんだったのか、そこは記憶が曖昧だが、ともかく会った瞬間いきなりこう言われた。どちら様? でも、あんた誰? でもなく、ただ無表情のまま、あんたなに、と。

 比那名居天子はすこぶる唯我独尊で、とにかく傍若無人で、途轍もなく傲岸不遜な少女であった。世界は自分を中心に回っていると、結構本気で思っているらしい節があって、他人など、この言葉からも読み取れる通り、同じ生物として見ているのかどうかすら怪しい。そんな少女だった。

 泣かしてやろうかこの小娘、とプッツンいきかけたのをよく覚えている。空中放電したい気持ちを抑え、なんとか愛想笑いで誤魔化したあの時の衣玖は、もっと賞賛されてもいいはずだ。

 その日の天界は、日差しの柔らかな青空にもかかわらず、どこかの雲でゴロゴロと雷が鳴っていた。

 

 ところで衣玖は、他人があまり好きではない。かといって嫌いでもない。興味がない、という表現が最も正鵠を射る。

 龍宮の使いは生涯のほとんどを雲の中で暮らすので、他人と関わりを持つことに意味を感じていないし、独りでいることを苦痛に思うこともない。衣玖個人ではなく、そもそも龍宮の使いという種族自体が、人との交流を望まない淡泊な性格なのだ。

 そんな龍宮の使いである衣玖が、すこぶる唯我独尊でとにかく傍若無人で途轍もなく傲岸不遜な少女と出会えば、果たしてどうなるか。

 比那名居天子を、『超絶どうでもいいやつ』のカテゴリーに分類した。

 ちなみにカテゴリーは、上から順に『どうでもよくないやつ』『ちょっとはどうでもよくないやつ』『大体どうでもいいやつ』『超絶どうでもいいやつ』『ビリビリ』の五段階である。『ビリビリ』とは、出会った瞬間に感電させたくなるくらい嫌いなやつのことである。

 天子を『ビリビリ』に分類するかどうかは悩みどころだったが、まあ一応、初対面だし良家の娘だし。

 そんな感じで衣玖はそれから一切、『超絶どうでもいいやつ』である天子と関わるのをやめた。元々必要以上の理由で関わるつもりもなかったので、大して差はないだろうが――ともかく初対面でいきなり物扱いしてくれた腹いせに、衣玖もまた、天子を生き物として見ないようにした。まれに偶然顔を合わせても、特に挨拶もなくすれ違うだけ。衣玖は天子を無視し、天子もまた衣玖を無視する。どちらからなにを言うでもなく、自然とそういう関係に落ち着いた。

 

 変わったのは、つい最近のことだった。

 ほんの数ヶ月前である。幻想郷がまだ、過ごしやすい穏やかな春だった頃。その日衣玖は偶然、天界で天子と出くわした。そして、今まで通り一言も言葉を交わすことなく、すれ違ってさようならになるはずだった。

 だがその間際、

 

「おっ……おは、よう」

 

 は? と、総領娘相手になかなか失礼な反応をしてしまったが、うべなるかな。なにせ、衣玖がなにをするでもなく、天子の方から挨拶をしてきたのだから。

 今まで何十年間も、ずっとなにも言わなかったのに。

 耳がおかしくなったのかしら、嫌だわまだ若くてピチピチなのに、とか現実逃避をしていたら、また、

 

「お、おはよう」

「……」

 

 さてこの子は誰だろう、と衣玖は本格的に分析を開始する。外見はどこからどう見ても比那名居天子その人だが、しかし彼女が、知人はともかく衣玖のような他人相手に自分から挨拶をするとは考えにくい。となれば目の前にいるのは比那名居天子ではなく、大人しくて礼儀正しい双子の姉か妹、もしくは今日が新任一日目の影武者かなにかと見なすのが妥当。

 

「あ、あのー……」

「……」

 

 現実逃避もいい加減にしよう。

 わかっている。彼女は間違いなく比那名居天子だ。なぜ今日になっていきなり挨拶をしてきたのかはわからないが、そんな不安げな上目遣いをされてしまえば、とりあえず返事をしないわけにはいかなかった。

 

「ええ、おはようございます。総領娘様」

 

 軽い愛想笑いとともに会釈をすると、たったそれだけのことなのに、天子は一世一代の告白に大成功したみたいになった。

 

「――! え、ええ! おはよう! ございます!」

 

 ……この時彼女が弾けさせた笑顔を、衣玖は未だにはっきりと覚えている。頬や眉のかすかな動き、安堵であふれた息遣い、そのすべてが鮮明に網膜に焼きついている。同性の衣玖ですら、こんな顔で笑えたんだと感心し、見惚れてしまったほどだった。

 その日を境に、比那名居天子という少女は変わった。まるで裏返しになったみたいに、人に対して友好的になった。長らく傲岸不遜だったせいか、その姿は実にぎこちなく不器用ではあったけれど、それでも相手を気遣おうと心を砕く姿勢は、なんとも微笑ましく衣玖の目に映った。

 性格も丸くなった。人の悪口を言わなくなったし、笑顔も増えて、年頃の女の子らしくなった。本当に、姉とか妹とか影武者とか言われた方がまだ納得できるほどの変わり様だったのだ。

 であれば当然、一体なにがあったのか、悪い物でもたらふく食べたのではないか、どこかで頭を打ってネジが外れたのではないかと、天子の正気を疑うのが道理。

 

「総領娘様……大丈夫ですか? 色々と」

「……なんでかしら。なんでかわかんないけど、今すっごく失礼なこと訊かれた気がする」

 

 不服そうな天子の半目はさておき。

 

「でも総領娘様、なんだか今までとは別人みたいですよ」

「わ、悪かったですねー。別にいいじゃない、私にも色々と考えることがあったのよ」

「はあ。それってもしかして、最近妙に地上を覗いてるのと関係あるんですか?」

 

 びくーん、と天子の肩が跳ねた。オマケで、「うえっ」と変な声までついてきた。

 気づいたのはごく最近だ。天子の変わり様があまりにも別人すぎたから、ついつい気掛かりになって後ろを尾けているうちに、日に何度か地上の世界を覗き見しているらしいことに気づいた。

 

「なにか、気になるものでも見つけたんですか?」

「……ま、まあ、ちょっとね。ほんと、大したことじゃないんだけど」

 

 嘘つけ、と衣玖は思う。視線が完璧に宙を泳いでいる。比那名居天子は、嘘をつくのが壊滅的に下手くそだった。

 

「ひょっとして、気になる人でも見つけたとか」

「ぶっ……ち、違っ! 確かにちょっと気になってはいるけど別に全然変な意味じゃなくって、ってなに言わせんのよもおっ!」

 

 総領娘様は案外アホの子、と天子の評価を大幅に書き換えておく。

 ともあれ、果たしてどういう意味での『気になる』なのかは触れないとしても、地上の誰かを観察しているのは間違いなさそうだ。近頃天子の性格が改善されつつあるのも、その人の影響だったりするのだろうか。

 地上ねえ、と衣玖は考える。天子が変わり始めたのは、春がまだとても過ごしやすかった頃。その頃に、幻想郷で話題になった人物といえば――

 

(――ああ)

 

 さほど悩むまでもなく、衣玖はすぐに思い至った。ちょうど衣玖自身も、機会があったら行ってみたいなあと思って、頭の片隅にメモを取っていたのだ。

 

 春といえば、幻想郷に新しく温泉宿ができた。

 そこで亭主を務めているのは、外の世界からやってきたばかりの、銀の狐だという。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 もちろん、本人に確認したわけでもない一方的な想像だ。けれど、あながち的外れではないし、それどころかど真ん中に大当たりだろうと衣玖は自負している。

 だってそりゃあ、月見と知り合ってからの天子を観察していれば、嫌でも確信せざるをえないというものだ。

 まず、身嗜みが念入りになった。衣玖も同じ女性だし、身嗜みには結構気を遣っている方なので、そのあたりの観察眼は鋭いつもりだ。衣服は皺ひとつないし、髪も一本一本の毛先に至るまでしっかり整えられている。かすかに桃のいい香りがするのは、朝にお風呂に入るか香水をつけるかしたからだろう。月見と会う日の天子はいつもそうだった。逆に、月見と会わない日の彼女からは、桃の香りはしなかった。

 そして、なんというか、とにかく幸せそうになった。今まで笑うことも珍しかった彼女が、鼻歌を交じえながら毎朝ご機嫌に出かけていって、月見と修行をし、毎夕充実感でいっぱいの顔で帰路につく。明日も修行があるのならその後も就寝するまでずっと笑顔だし、修行がなければ段々寂しそうになっていく。修行がない日はどことなくしょんぼりしながら、地上を――多分、水月苑を――眺めている。

 恋愛どうこうというよりかは、憧れの先輩とお近づきになれて舞い上がる新入生みたいな。

 だから衣玖は、天子が緋想の霧を集める異変を起こしても、見て見ぬふりをすることにした。元々異変になど興味がなかったし、幻想郷における異変がどういう趣旨で解決されるのかは知っていたし、そうでなくとも天子と月見をつないでいる唯一の架け橋に、わざわざ口を挟むのは野暮だと思った。

 たとえその結果、緋色の雲が巨大化し、幻想郷を大地震が襲うとしても。

 雲の中で生き、ただ龍神の言葉を人々に伝えることだけを使命とする自分にとっては、些細なこと。

 

「というわけで、さりげなく地震が起きます」

「……」

 

 物言いたげな操の半目を有意義に無視して、衣玖は会釈をした。

 

「確かに伝えましたので。――では次に行きます」

「こら、待て待て」

 

 だが踵を返しかけたところで呼び止められたので、仕方なく振り返った。

 

「なんですか。他にも回らなければならないところがたくさんあるんですが」

「お前さんはほんっとあいかわらずじゃな。物事には順序ってものがあるだろうに」

 

 天狗の大屋敷の一角にある、天魔の執務室だ。いずれ幻想郷を襲うであろう地震の脅威を皆に知らせて回るため、まずは最寄りにあたる天狗の縄張りにまで足を運んだのだけれど。

 要件のみを手早く伝えた衣玖に、書類の山に囲まれた操は不満げだった。

 

「お前さんさあ、要点を簡潔に話すのはいいけど、かといって要点しか話さないってのもどうかと思うぞ。もっとこう、他愛もない世間話をして場の空気を和ませるとか」

 

 なんでそんなことしなきゃならないんですか、と衣玖はため息。

 

「なるべく手短にお願いしますと、あなたの部下さんからお願いをされてしまいまして。実際、無駄話はしない方がよさそうですよね。その書類の山を見る限り」

「むう……」

 

 積み重ねられたりぶち撒けられたりした書類たちで、執務机のスペースはほとんどが制圧されてしまっている。操と顔を合わせて話すのは久し振りだが、馬鹿みたいに仕事を溜め込む悪い癖は一向に改善されていないようだ。

 手短に終わらせていただけると助かります……と申し訳なさそうに苦笑していた、当代の『犬走』である少女の姿を思い出す。彼女も先代同様、自由奔放過ぎる主人の性格に胃をとことん痛めつけられているのだろう。まだ若いのに不憫なことだ。

 

「それにあなたなら、今の説明だけでも充分でしょう?」

「いやまあ、そりゃあそうじゃけどー」

 

 宏観(こうかん)異常現象と呼ばれる、緋色の雲による地震の発生。空を生きる天狗の長を、曲がりなりにも務めている操が知らないはずはない。

 衣玖は素っ気なく言う。

 

「他の天狗たちにも、伝えておいてくださいね。今はまだ普通に毛が生えた程度ですけど、今後の成長次第ではそこそこ被害が出る可能性もありますので」

「ふーん」

 

 背もたれに深く体重を預けた操は、天窓を通して空を見上げる。

 

「そんなところまで大きくなったのか」

「まあ、そういう異変ですからね。いい加減に解決しておくべきだと思いますが、人間たちはなにをやっているんですか?」

「博麗の巫女は絶賛夏バテ中でなー。他のやつらもまだ気づいてないっぽいんじゃよねー」

 

 ペンを鼻と上唇の間で挟んで、

 

「んー、屋敷に被害が出るのは困るなあ。……おーい、椛ー」

 

 パンパン、と手を二回叩けばすぐに、外で待機――というか操が知らぬ間に逃げ出したりしないように監視――していた部下が入ってきた。胃の具合が気遣われる白狼天狗、犬走椛は、まず衣玖に折り目正しく頭を下げてから、次に操には白い目で、

 

「なんですか? 休憩は二十分前にしたばかりなのでダメですよ」

 

 まっさきに休憩を疑われるあたり、この天魔は本当に部下から信用されてないんだなあと衣玖は思う。

 操が椅子にふんぞり返っていた姿勢から飛び起き、その拍子に鼻と唇で挟んでいたペンが床に落ちた。

 

「ち、ちがわいっ、ちょっと大事な話じゃよお。なんでも、近いうちに地震が起こるっぽくてな」

「はあ……?」

 

 一瞬、「仕事をサボる言い訳にしては随分低レベルな……」みたいな感じで白けた顔をした椛は、すぐに衣玖が龍宮の使いであったことを思い出して、ああと納得した。

 

「そういうことですか。じゃあ、お屋敷の補強をしないといけないですね」

「そうそう。だからちょっと、そのあたりの話をみんなに伝えに行かなきゃなんなくて」

「はい、私が手配しておきますね」

 

 操が悲しそうな顔で椛を見た。椛は圧力のある微笑みで応えた。

 

「そうやって仕事から逃げ出そうとしても無駄です」

「ぎ、ぎっくー」

「ダメですよ? 天魔様にはその書類を片付けるという立派な仕事があるんです。地震の件は私の方で処理しますから、天魔様は仕事をしてください」

「ぐ、ぐぬぬ」

 

 山ができるほど仕事を溜め込んでなお隙あらば逃げ出そうとし、そしてそれをあっさり看破されて縄で縛られる操を、衣玖は白い目で見ていた。

 

「はい、ちゃんとお仕事ができるように椅子に縛りつけてあげます。これで大丈夫ですね?」

「儂はお前さんをそんな風に育てた覚えはないぞー!?」

「奇遇ですね、私にもありません」

「も、椛がグレてしまったあっ……! 昔はあんなにいい子で甘えんぼ――って待ってキツいキツいキツい!? いやあああ嫁入り前の体に傷が……だからキツいって!?」

 

 椛の手つきは実に熟練していて、さながら水が流れるようだった。恐らく、何度も同じことを繰り返してきたから慣れているのだろう。先ほど操の目論見をあっさり看破したことといい、椛が『犬走』として優秀であればあるほど、今までにどれだけ苦労してきたのかが察せられて、衣玖はやっぱり不憫な気持ちになった。

 などと同情しているうちに、椛は手早く操を縛り終えていた。

 

「はい、終わりましたよ。それじゃあ頑張ってくださいね」

「く、くそー!? 右腕以外を全部縛りつけるとは、なんと卑劣っ! これじゃあ書類に捺印するくらいしかできないじゃないかーっ!」

「してくださいよ、捺印。今日中に終わらせてくださいね」

「うわーん!」

 

 ところで、もう帰っていいだろうか。

 

「衣玖さん、助けてーっ!」

「……」

 

 助けを求められたので、帰ることにした。

 

「では、私はそろそろ失礼しますね」

「おまっ、無視か!? ああもう、本っ当に淡白なやっちゃな! 儂が憐れじゃないのかー!?」

 

 確かに憐れではある。主に、「こんなのが天魔……」という意味で。

 こんな天魔に振り回される不憫な従者をせめて労ろうと思って、衣玖は椛にだけ向けて微笑んだ。

 

「椛さん、頑張ってくださいね」

「あ、はい! ありがとうございます!」

「衣玖さん儂にもなにか一言!」

 

 操には真顔で、

 

「仕事しろ」

「ひーんありがとうございまーす!」

 

 ちくしょー! と椅子の上でロデオみたいに暴れ回る操を見ていると、本当にこれ以上は馬鹿馬鹿しくなってきたので、衣玖はさっさと次に行こうと思った。

 距離を考えれば、次に向かうべきは河童たちのところだろう。最近このあたりにできたという神社にも、一言伝えた方がいいかもしれない。それが終われば水月苑。ああそういえば、地震が起きたらあそこの温泉にも被害があるかもしれないから、今のうちに入りに行くべきかなあ。

 

「――天魔様」

 

 などと考えながらドアの前まで行ったところで、向こう側から静かな、けれどよく通る芯の太い声があがった。聞き覚えのない男の声だった。

 

「天魔様、緊急の報告があります。しばしお時間を」

「……んあー? なんじゃ、とりあえず入ってこい」

 

『緊急』と聞かされ露骨に嫌な顔をした操が、なんとも面倒くさそうにそう返したので、衣玖はひとまず脇に避けて道を譲る。

 失礼しますと短く前置きし、粛々とした空気をまとって入ってきた男は大天狗だった。女として決して身長の低くない衣玖ですら、高く見上げなければならないほどの大男だ。恐らく、それなりに地位も高い。

 大天狗は、椅子に縛りつけられた操を見て一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を戻し淡々と、

 

「先ほど、子飼いの鴉から報告がありました」

「あーもう、この忙しい時になんじゃよお。大したことないやつならお前さんたちで適当に」

「博麗神社が倒壊した模様」

 

 空気が変わった。

 空気を読む能力を持つ衣玖だからこそ気づけた、などという程度の低い話ではない。肌で感じるのはもちろん、目で見、耳で聞くことすらできそうなほどの重圧。肌が粟立ち体が竦む、世界そのものが変わったと錯覚せしめるまでの、あまりに凄絶な変容だった。

 天ツ風操。

 

「……ふうん?」

 

 口端を曲げて不敵に笑う彼女は、つい先ほどまでのおちゃらけた姿とはあまりにかけ離れている。たとえ瞳に映る姿形が変わりなくとも、映らぬ奥深いところにあるものが、まさしく別人ともいえるほどに。

 

「それは、また」

 

 心に直接刻み込ませるように、ひどく蠱惑的な声だった。

 

「嘘偽りはないか」

「かようなこと、冗談などでは申しますまい」

「そうか。……どれ、椛。縄を解け」

「は、はいっ」

 

 操を椅子に縛りつけた張本人である椛が、完全に萎縮しきっている。縄を解きにかかる動きに、迷いや疑いの類は一切ない。ありえるわけがない。ひとたび操がこの姿を見せたなら、たとえ『犬走』といえども逆らう権利などありはしない。

 どういう芸当かは知らないが、天ツ風操には完全に隔たった二つの顔があることを、衣玖はもう何百年も前から知っていた。天魔とは思えないほど不真面目でお調子者な顔と、天魔という名の重圧をすべてをもって体現する顔。知ってはいたが、実際に切り替わる(・・・・・)瞬間を目の当たりにするのは初めてだった。お陰様で少し気圧されてしまって、心臓の鼓動が速くなっている。

 縄を解かれた天魔は立ち上がり、大天狗へ向けて滔々(とうとう)と問う。

 

「博麗のやつは」

「ちょうど井戸から水を汲む最中だったようで、外傷はありませぬ。それと、ようやく異変に気づいて調査に乗り出したようですな」

「倒壊の原因は」

「明け方、なんでもひどい地震があったとか」

「地震? ……だそうだが、衣玖?」

 

 問われ、衣玖は少なからず狼狽した。――知らない。もちろん龍宮の使いとて、この世で起こる地震を一切合切すべて網羅しているわけではない。前以て警告する必要もない小規模なものは平気で無視するし、本当に小さなものは把握してすらいない。

 だが、建物を倒壊させるほど大規模な地震を見逃すなど、ありえない。

 困惑する衣玖の瞳を見て、ふむ、と天魔は顎に手を遣った。

 

「心当たりなしか。……儂も、今朝に地震があったなどとは初耳だな。椛はどうだ?」

「いえ……私も、心当たりはありません」

「ええ。……妙なことに、地震が起きたのは博麗神社の周辺のみだったとの報告があります。それが真なら、ここが揺れなかったのも道理かと」

「……!」

 

 衣玖は小さく息を呑んだ。自然現象ではありえない、極めて局地的な地震を発生させる。そんな芸当ができてしまう人間に心当たりがあった。

 恐らくそれは、天魔も同じだったのだろう。まぶたを伏せ、吐息し、

 

「……わかった。報告ご苦労だったな」

「ああ、天魔様。僭越ながら、もう一点」

 

 天魔は沈黙を以て促す。大天狗はやはり淡々と告げる。

 

「博麗神社の倒壊を受けて、八雲紫が動き出した模様」

「――……」

 

 その言葉が示す意味を、衣玖は直感的に理解することができなかった。或いは無意識のうちに、理解するのを拒んでいたのかもしれない。

 思考が先に進むのを拒否している。

 倒壊した――否、倒壊させられた(・・・・・)博麗神社を見て、八雲紫が、一体なにをするために動いたのか――

 

「……そいつは、少し不味くないか?」

 

 なにが、不味いのか。

 ぽつりと言った天魔は、まっすぐに衣玖を見て、

 

「衣玖。お主とあの小娘の関係は詳しく知らんが、まったくの他人という訳でもなかろう?」

 

 そうだ。あの小娘――比那名居天子とは、互いに友人と呼び合うほどではないけれど、会えばそれなりに話をするし、衣玖だって、今はもう悪い感情は抱いていない。

 だがそれが、一体どうしたと

 

「あの小娘、殺されるぞ」

 

 心臓を刺されたような気がした。ただでさえ巡りの悪かった思考が完全にシャットダウンした。目の前が真っ暗になった――もちろんそれはただの錯覚だが、脳が目に映るものをなにひとつ認識しなくなったのは確かだ。呼吸の仕方すら忘れて、喘ぐこともできずに、衣玖はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

「――行け(・・)衣玖(・・)

「――ッ!」

 

 けれど不思議と、天魔のその一声で、衣玖はすべてを取り戻すことができた。暗闇に落ちた思考を再起動し、息を吸い、床を強く蹴って駆け出した。

 自分が行って、幻想郷最強の大妖怪相手になにができるのかなど、わかりはしないけれど。

 足下から水が迫り上がるような焦燥の中で、衣玖は生まれて初めて、龍宮の使いの勤めに背くと決めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 あーやっちまったなー、と霊夢は心の底から思う。紫に向けて弾幕を撃った。直撃した。すなわち、もう後戻りはできないということだ。ここから先は出たとこ勝負。月見が駆けつけてくれるまで、腹を括って時間稼ぎをするしかない。

 後悔はない。だがやはり、心臓の鼓動が速い。

 

「魔理沙、紫見といて」

「おう」

 

 霊夢と魔理沙の弾幕は、同時に叩き込まれたことで図らずとも爆発を引き起こしたが、まさか幻想郷屈指の大妖怪がその程度で倒れるはずもなし。警戒を魔理沙に任せて、今のうちに天子のもとへ駆け寄る。

 紫に散々弄ばれたことで、夏空に虹をかけたようだった服は無惨に擦り切れ、破れてしまっている。しかし紫の言葉通り、体だけは人間離れして頑丈らしく、傷は浅いし意識もはっきりしているようだった。

 霊夢に抱き起こされ、天子は驚愕で目を剥いた。

 

「あなた、なんで……」

「詳しい話はあと! さっさと立ちなさい!」

 

 無駄話に精を出す余裕はない。怪我人を抱えながら戦う余裕だってない。天子には申し訳ないが、痛む体に鞭を打ってでも戦力として役立ってもらわなければ、到底現状を切り抜けることなど――

 

「――ねえ、霊夢。なにしてるの?」

 

 鳥肌が立った。

 耳元。

 

「なんで、そいつを助けようとするの?」

 

 首筋を、蛇が這うように指が撫でた。たったそれだけで、霊夢の体は完璧に凍りついた。

 

「ダメだよ、そんなことしちゃあ……」

 

 指が這い上がってくる。首、頬、目元と近づいてくるにつれて、妙に甘い香りが漂い、意識がぼんやりとしてくる。あ、マズいなこれ、と心のどこかで焦りながらも、体はまるで動かない。気づいた時には、夢に落ちていく直前の、足が地から離れる独特の浮遊感が――

 

「――どっせーいッ!!」

「ッ!」

 

 威勢のよい相方の声が、真っ暗になりかけた霊夢の意識に活を入れた。その途端、漂っていた甘い香りが散り散りに霧散し、真後ろに迫っていた巨大なプレッシャーが、横殴りの打撃音とともに吹き飛んでいったのを感じた。

 箒に跨がった魔理沙が、上空を縦に旋回して霊夢の隣に降り立った。

 

「霊夢、起きろ!」

「ッ……起きてるわよ」

 

 まぶたの上に残る不気味な眠気を、霊夢は強く頭を振って払い落とした。恐らく、相手の意識を断つ力を持った妖術。魔理沙が横槍を入れてくれなければ、とっくにやられていた。

 魔法による障壁を展開した上での、全速力の突進攻撃だった。この状況だから魔理沙とて手加減はしなかっただろうに、吹き飛ばされた紫はすぐに空中で体勢を整え、痛みを知らぬ涼しい顔であっさりと着地してみせた。

 魔理沙が、渋い顔で舌打ちをした。

 

「結構全力でやったんだから、ちょっとは痛そうな顔してほしいんだけどなあ……自信なくすぜ」

「……仕方ないでしょ。相手が相手だもの」

 

 弾幕が直撃し爆発をモロに喰らっても、服の所々が(すす)けただけ。傷らしい傷は、恐らくまったくといっていいほど負っていない。

 所詮スペルカード、所詮弾幕とはいえ、加減を捨てれば相応の殺傷力は発揮できるものだ。いくら体が頑丈な妖怪だって、直撃すれば無傷で済む道理などないはずなのに。

 ひとたび弾幕ごっこという制約を取り払えば、人間と大妖怪という、彼我の実力差がここまで開くのだと――目の前でまざまざと見せつけられて、気が遠くなる思いがする。なるほど確かに、月見が「お前では絶対に止められない」と言い切ったのも納得だ。

 八雲紫は、大妖怪の中でもとりわけ化物だ。人間一人二人が立ち向かったところで、どうにもならないほどに。

 

「……立ちなさい。いつまで私の世話になってる気?」

「う、うん……」

 

 とりあえず、天子を立たせる。天子はまだ今の状況を理解しきれず困惑していたが、痛む体を押して立ち上がってくれた。

 それを魔理沙とともに前に出て庇うと、紫は静かに首を振り、嘆かわしく息をついた。

 

「……あなたたち、自分がなにをしてるかわかってる?」

「わかってるわよ」

 

 霊夢は即答した。それがどうした、と思った。

 

「わかってるわよ。これ以上、あんたの好きにはさせないわ」

「……」

 

 紫が、手にした扇で口元を隠し、目を細めた。そこに浮かんだ感情を隠すように。

 

「どうして、そんなことするの?」

「どうして……? あんたのしてることがおかしいからよ!」

「どうして? なにがおかしいの?」

「おかしいことだらけよ! なんでいきなり、この天人を殺そうとするわけ!?」

「だってそいつは、霊夢の神社を壊したのよ? 私の大切なものを壊したのよ?」

「だから殺すっていうの!?」

「私の大切なものを壊したやつに仕返しして、なにがおかしいの? 悪いことをしたやつを裁いて、なにがおかしいの?」

「……!」

 

 正直なところ霊夢は、まだ心のどこかでは、紫のことを信じたかったのだ。なにか事情があるんじゃないか、とか。話せばわかることもあるんじゃないか、とか。この期に及んでなお甘いことだけれど、それでも紫は、霊夢にとって最も母親に近い存在だったから。

 だが、

 

「そいつは悪いことをした。許せないことをした。だから私は、八雲紫として仕返しをする。幻想郷の管理者として、罪を裁く。……なにも間違ってないでしょう?」

 

 ああ、と霊夢は愕然とした。無駄だと思った。手を伸ばした程度ではどうにもならないほどの隔絶だった。たとえどれほど信じたくとも、認めたくなくとも、やはり目の前にいる八雲紫は、霊夢の知っている八雲紫ではなかった。

 これが、月見のことが大好きなんだと、常日頃から惚気(のろけ)ている少女の言うことなのか――そう思ったら、握り込めた爪が肉を抉るほどに悔しくなって、霊夢は怒りのままに叫んでいた。

 

「わけわかんないっ! なんでその程度のこと(・・・・・・・)で、この天人が殺されなきゃならないの!?」

「……」

 

 紫の反応は静かだった。始めの五秒、紫は指先のひとつすら動かさずに佇んでいた。そして六秒が経ったところでまぶたを下ろし、なにかを諦めるようにゆっくりと首を振って、ひとしきり長く、ため息をついた。

 十秒。

 扇を、

 ――パチン。

 

「――ッ!?」

 

 息ができなくなった。息が止まるほどのプレッシャーが、勢いと物量だけで相手を圧し潰す瀑布のようになって、霊夢と魔理沙の全身にのしかかった。

 膝が折れなかったのは――霊夢たちの抵抗が勝ったからなのか、それとも膝すら折れなくなるほどに、体が氷結してしまっていたからなのか。

 

「……その程度のこと、かあ」

 

 感情の消えた声で、紫が呟いた。

 

「霊夢なら、わかってくれると思ったんだけどなあ……」

 

 深く俯いたその表情は見えないが、霊夢にはわかる。紫は今、なんの表情も浮かべていない。紫の胸の奥底で渦巻いているのは、声や顔で表せるほどなまやさしい感情ではないのだと。

 

「……私はね、博麗神社とずっと一緒に、この幻想郷をつくってきたの。ずっと、ずっとよ。本当にずっと。霊夢だったら、何回も転生しないといけないくらい。……私にとってあの神社は、幻想郷の始まりであって、幻想郷そのものでもあったの」

 

 なにかを言わなければいけないと、霊夢の本能が警鐘を鳴らしている。今ならわかる。霊夢はやってはいけない失言をしてしまった。束の間の怒りに我を忘れ、博麗神社の倒壊を『その程度のこと』と切って捨ててしまった。他でもない、紫にとって我が子にも等しい霊夢自身が。

 だから言い訳でもなんでも、なにかを言わなければならなかったはずなのに、紫の重圧で氷結した体では、ただ乾いた舌で息をすることしかできなかった。

 

「……お、おい。霊夢? 霊夢さん? お前、なんてことしてくれちゃってるんですか?」

 

 魔理沙の言葉遣いが変になっている。冷や汗で顔をぐっしょり濡らして、口の片側だけが釣り針でも引っかけられたみたいにひきつっている。霊夢も同じ顔で笑った。ああやっぱりとんでもない間違いをしちゃったんだ、と泣きそうになりながら笑った。

 天子ひとりを守るだけでよかったはずだ。紫の狙いは天子ひとり。博麗の巫女である霊夢と、その相方にあたる魔理沙は、傷つけることが躊躇われる相手。だから霊夢と魔理沙がともに天子を庇えば、紫にとってこの上ない妨害となるはずだった。

 その関係が崩れた。

 

「でも、そっか。その程度のこと、なんだ。霊夢にとっては、博麗神社なんて、その程度のことだったんだ。そっか、そっか、………………そっか」

「あ、あはは……」

 

 紫の、怒りの矛先が、

 

「霊夢。……霊夢にも、おしおき」

 

 天子から、

 霊夢に、

 

「――ごめん。地雷踏んだ」

 

 須臾。紫が一体なにをやったのかは、霊夢にはわからなかった。油断していたわけではない。見逃したわけでもない。足を前に動かした様子も、スキマを開いた様子もなかったのに。

 気がついた時には、紫が既に手の届く距離にいて。

 一閃、

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 紫の怒りは至極当然のものだ。己の人生でたったひとつ、何物にも代えられない大切なものが、見ず知らずでどこの馬の骨かもわからない他人に破壊されたのだ。

 大切な場所を穢されれば、神様だって怒り人間を祟り殺す。だから同じことをされれば、妖怪だって。

 当然のことだ。だから天子は、決して死にたいと思っていたわけではないけれど、死にたくないと足掻くこともできなかった。それほどまでに打ちひしがれていた。結局月見にすら打ち明けられなかった、バカみたいに自分勝手な願望のために、たくさんの人に迷惑を掛ける異変という手段を選んだ。そして挙句の果てには、故意でないとはいえ博麗神社を倒壊させてしまった。

 もし一歩でも間違えていたら、霊夢は瓦礫に押し潰され死んでいたかもしれないのだ。

 バカすぎて、笑えもしない。

 そんな自分に、死にたくないと、言える権利なんてないんじゃないかと――霊夢に助けられるまでは、そう思っていた。

 住む場所を奪った許せない相手のはずなのに。実際紫が現れるまでは、泣いても無駄だと天子を絶対に許さなかったのに。

 それでも、天子が殺されるのはおかしいと、強い声で、庇ってくれた。だから紫が霊夢までにも腕を振り上げた時、天子は、今だけはすべてを振り絞って足掻くと決めた。

 自分の命を守るためではなく。

 博麗霊夢を、守るために。

 

「せいっ、やあっ!!」

 

 体を蝕む痛みなど気にならなかった。自分の意志で緋想の剣を握り、前へ出て、一気に斬り上げる。霊夢の眼前まで迫っていた紫の扇を、力任せに弾き飛ばす。

 返す刃。

 

「ふっ……!」

 

 斬り下ろす。焦りもなければ動揺もない静かな動きで、一歩退がり躱されるが、そんなのは刃を返す前から想定済みだ。

 振り切った刃の軌跡から、無数の光線を生み出す。

 

「……っ」

 

 ほぼ刃が届くほどの超至近距離で放たれた雨に、さしもの紫も背後へ跳躍した。その隙に呆然としていた霊夢の手を取り、紫から距離を取る方向に駆け出す。

 

「ナイスだ!」

 

 霊夢と一緒にここまで昇ってきた少女――確か、魔理沙といったか。彼女もまた弾幕を放って、天子の後退を援護してくれた。

 しかし――天子は紫を見る。あくまで牽制とはいえ、物量に物を言わせた攻撃が掠りもしない。邪魔な木の枝を躱すような、本当に何気ない表情のまま、すべてを鮮やかにいなされている。弾幕の方が彼女を避けているのではないかと、そんなありえない疑問すら抱いてしまうほどだ。

 

「……お前、傷は大丈夫なのか?」

 

 紫から充分な距離を取り終えると、魔理沙がつと天子の体を一瞥した。気遣いの色はなく、向けられた視線はどこまでも胡乱げだ。

 戦えるのか、と暗に問われているような気がした。端的で、わかりやすい。

 答えた。

 

「大丈夫」

 

 確かに、服はボロボロで見てくれこそひどいものだけれど、傷そのものはさほど深刻ではない。霊夢たちが庇ってくれていた間に、痛みも大分楽になった。妖怪並みに頑丈な天人の肉体の賜物だ。

 大丈夫。戦える。

 

「……ありがとう。助かったわ」

 

 それだけ短く言った霊夢が、握られっぱなしになっていた天子の手を強引に振り解いた。天子を拒絶したのではなく、怪我人に庇われた己の不甲斐なさを悔いているようだった。再び天子の前に立ち、札を構え、縫いつけるかの如く鋭い眼光で紫を睨みつける。

 

「そこまで動けるんだったら、悪いけど手を貸してくれないかしら。このままだと自分がどうなるのかくらい、わかってるでしょ」

「……うん」

 

 殺される……のかはわからないが、無事で済まないことだけは確かだ。それほどに、大切なものを破壊された紫の怒りは深く重い。

 

「……」

 

 紫は、十二分に開いた彼我の距離を詰めようともせず、鼻白んだような目つきでじっと天子たちを見据え続けている。攻撃の意思を見せないのは、いつでも手を下せるのだという余裕の宣言なのか。こうしてただ向かい合って立つだけでも、その圧倒的な存在感は天子の肌を震えさせる。

 三対一でも、この状況を切り抜けるビジョンがまったく浮かばない。

 だから、深呼吸をした。

 

「……霊夢、魔理沙」

「なに? なにか作戦でもある?」

 

 紫から目を外さず問うてきた霊夢に頷き、言う。

 

「二人とも、もう帰って」

 

 絶対に油断が許されないこの状況で、霊夢と魔理沙が、紫から完全に意識を外したのがわかった。

 

「……はあ?」

「なに言ってんだ、お前?」

 

 理解不能。まったく取り合うつもりもない、下らない冗談を一蹴するような態度。それを、天子は少しだけ嬉しく思う。二人が揃って天子を庇い、紫と戦うことしか考えていなかったから、そうやって不可解な顔でこちらを振り返るのだろう。

 その上で天子は、もう一度、

 

「ここから先は、私一人で大丈夫だから。だからあなたたちは、もう帰った方がいい」

 

 ここまで言えば、さすがに二人の表情も強張った。

 

「……自分がなにを言ってるのか、わかってる?」

「死ぬ気か?」

 

 死ぬ気。そうなのだろうかと自問してすぐに、そうなのかもしれないと納得した。死ぬつもりはないが、紫と一対一で戦うという選択は、死神に自ら首を差し出すようなものなのかもしれない。

 納得した上で、

 

「だってあなたたちは、この戦いに関係ない。本来なら、ここに立っている人間じゃない」

 

 これは、天子の罪だ。そして八雲紫は、天子が(あがな)わなければならない罰そのものだ。

 霊夢と魔理沙を巻き込む必要性を感じない。そもそも、自分の願いを叶えるためだけに異変を起こし、その結果博麗神社を倒壊させてしまう過ちを犯した天子に、彼女たちから差し伸べられた手を取る権利があるとは思えなかった。

 なのに図々しくも彼女たちの善意に甘えて、二人をこれ以上の危険に晒してみろ。それでもし万が一のことがあったら、天子はもう救いようのない愚か者だ。自分の利益だけを考えて、平気で他人を利用し傷つける、あの頃の天子と同じままだ。

 もし天子が昔のままの自分であったなら、これ幸いと霊夢たちを盾にしただろう。二人の善意を都合よく利用して、狡賢く保身に走ろうとしただろう。それどころか、博麗神社を倒壊させた己の罪を、罪と認めることすらしなかったかもしれない。

 仮定の話だ。今は違う。

『あの人』の姿を見て、変わろうと決めたのだから。愚かだった昔の自分と、決別しようと決めたのだから。

 

「私は、大丈夫。だから、お願い。もう帰って」

「そっちの方が、私としても助かるわね」

 

 割り込んだ声があった。八雲紫の声は、待ちくたびれたように()んでいた。

 

「霊夢と魔理沙が一緒にいられると、やりにくいことこの上ないし。是非そうしてほしいものだわ」

 

 これは天子と紫の問題であり、そのどちらもが霊夢たちの介入を必要としていない。だから霊夢たちは帰るべきという、至って当然の帰結である。

 紫の扇が、パチンと小気味の良い音を鳴らす。

 

「……そういうわけで、霊夢たちはもう帰りなさい? 他でもない、こいつ自身が望んでいることだもの」

「ええ」

 

 天子は頷く。

 

「気持ちだけ、受け取っておくから。ありがとう」

 

 緋想の剣とともに、前に出る。

 この選択の意味を、天子もなんとなくは理解している。

 最期になるかもしれない。

 だからこそ、自らに誇れない選択はしない。

『あの人』だってきっと、そうするはずだから。

 

「……?」

 

 だが、霊夢の横を通り過ぎたところでふと足が止まった。止められた。袖を引かれている。

 博麗霊夢が、深く俯き、口を引き結んだまま、なにも言わずに天子の袖を掴んでいる。

 

「……どうしたの? 今のうちに早く帰って、」

「バッカじゃないの?」

 

 揺れる声で、断ち切られた。

 少し、間があって、

 

「――なによそれ。バッカじゃないの?」

「……霊夢?」

「バカよ。ふざけてる。バカみたい」

 

 ヒステリーを起こした子どもみたいなことを言う。

 また、肩を震わせながら息を吸う間、

 

「なに、一人で勝手に決めてんのよ。本来ならここに立っている人間じゃない? なによそれ。なに勝手に決めてんの」

「……でも、実際そうでしょう? 私が、あなたの神社を壊すなんてバカな真似をしていなければ、」

「――ここに立っているべき人間だとかどうだとか、そんなのどうだっていいのよ!!」

 

 殴られるように、胸倉を掴まれた。霊夢が顔を上げた。眉間にひどい皺を寄せて、歯を剥き出しにして、博麗霊夢は怒っていた。息を呑むほど近い距離で、天子に怒声を張り上げた。

 

「あんたは知らないだろうから、教えてあげるわ! 私はね、あんたを守れって頼まれてるのよ!」

「え、」

「誰にだと思う!? まさかわからないなんて言わせないわよ!」

 

 鼓膜が痛み脳が痺れる中、天子の意識の片隅で、銀が揺れた。天子が知り霊夢が知る『誰か』など、それしか心当たりがなかった。

 

「その人が、どれだけ必死な声で私に頼んできたかわかってる!? 私が頷いた時、どれだけ救われた声で、『ありがとう』って言ったかわかってる!?」

「……ぇ、あ」

 

 期待がなかったと言えば嘘になる。もしかしたら、ひょっとしたらと、甘えるように考えてしまったことがあったのは事実だ。

 だが、すぐに首を振って否定した。確かに天子の知る『彼』ならば、どんな事情があれ友人を無言で見捨てる真似はしないだろう。しかし、怖かった。駆けつけた彼が天子の味方をしてくれるとは限らない。博麗神社を破壊してしまった過ちを、紫とともに糾弾するかもしれない。それは嫌だった。すごく嫌だった。想像するだけで泣いてしまいそうになったのだ。もし本当に現実になってしまったら、きっと天子の心は耐え切れずに壊れてしまう。

 嫌われたくなかった。

 だからわざと、考えないようにしていたのに。

 

「あああぁぁぁぁぁもうッ、あっきれた!! 本ッ当に、呆れ果てるくらいの自己満足だわ!!」

 

 天子の胸倉を掴むのとは逆の手で髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、霊夢が吼えた。体を越え、心を貫き、魂にまで刻みつけんとするように。

 

 

「あんた、自分がどれだけ月見さんから想われてるのか、全ッッ然気づいてないでしょ!?」

 

 

 天子の目の裏に広がる神経がすべて、焼かれたように一気に熱くなった。それがあんまりにも痛かったから、いつの間にか涙がにじんだ。

 

「いるのよ、あんたを助けたいと思ってる人が! いるのよ、あんたに死んでほしくないと思ってる人が! ――いるのよ! あんたを助けに、全力でここに向かってきてくれてる人がッ!!」

 

 言葉が出てこない。同時に、なにかを言おうとも思わなかった。懸命に唇を引き結んだ。そうしないと、嗚咽がこぼれてしまいそうだったから。

 天子にとって、すべてのきっかけとなってくれた人が。

 月見が。

 天子を、助けようとしてくれている。

 

「私はね、あんたを守るって月見さんと約束したの! なのに今更どの面下げて帰れっていうのよ! 帰り道で月見さんとすれ違った時、どうやって言い訳すればいいのか教えてくれる!?」

 

 霊夢の叫ぶ一言一句が、今までに体験したことのない未知の鼓動を以て、天子という少女の一番深いところまで浸透していく。心が震え、肌が粟立ち、意識が白熱する。頬を伝った一雫には、命の、熱さが宿っている。

 キンキンと悲鳴を上げる鼓膜の痛みも、胸倉を掴まれたまま激しく揺すられる痛みも、あいもかわらず焼けるような目の奥の痛みも。

 そのすべてが、天子という少女の中で鼓動を刻んでいる、命の痛みだった。

 

「さあ、どう!?」

 

 だから、

 

 

「――『もう帰って』なんて、もっかい言えるもんなら言ってみなさいッ!!」

 

 

 ――今までの人生で一番、死にたくないと、思った。

 随分と長い間、黙ってしまっていたように思う。無論それは、十秒にも満たないような僅かな時間だったけれど、天子にとっては十分にも一時間にも感じられるほど、途方もなく尊い時間だった。

 

「……そっ、か。月見が、来てくれてるんだ」

 

 本当は不安に思っていたのだ。自分と月見は、本当に友達なのかと。月見はとても優しい性格をしているから、ひょっとしたら嫌々天子に付き合っていたんじゃないかと。友達なんて、社交辞令みたいなものだったのではないかと。

 けれど月見は、やっぱり月見だった。やっぱり彼は、天子が憧れた通りの彼だった。

 涙と一緒に、笑った。

 

「……どうしよう。なんかそれ聞いたら、本当に、どうしようもないくらいに死にたくなくなっちゃった」

 

 月見に会いたい。会って、『ありがとう』を言いたい。応援してくれてありがとう。友達になってくれてありがとう。私を変えてくれてありがとう。

 そのために霊夢たちの力を借りたいと願う天子は、愚かだろうか?

 

「どうしようもなにも、それでいいのよ」

 

 ハン、とうんざりしたように鼻で笑って、霊夢が天子の胸倉から手を離した。

 

「まったく、ようやく話がまとまったわね。まあ少しは時間稼ぎになったからいいけど。……魔理沙もいいでしょ?」

「んあー? なんだ、話は終わったか?」

「んあーって……あんた、話聞いてた?」

「まあ、半分くらいはな」

 

 霊夢の半目が魔理沙の背に突き刺さった。……そう、背だ。魔理沙は天子も霊夢も見ていなかった。油断のない構えで、じっと正面の紫を見据え続けていた。

 

「お小言はなしだぜ。お前らがあーだこーだやってる間、私はあいつを見張ってやってたんだからな。むしろ感謝してくれ」

「あらそうなの、ご苦労様」

「まったくだぜ。敵が目の前にいるってのに、よくあんな堂々と立ち話ができるもんだ」

 

 そこでようやく天子は疑問に思った。魔理沙の言う通り、今は目の前に戦うべき相手がおり、ここは紛れもない戦場なのだ。いくら魔理沙が気をつけてくれていたとしても、紫が口のひとつも挟んでこなかったのはなぜなのか――

 

「……そう。やっぱり、月見はこっちに向かってるのね」

 

 紫は、その瞳になにも映していなかった。まぶたを下ろし、感情の読めない口振りで、今しがた霊夢が告げた事実を反芻させていた。

 眉をひそめたのは霊夢だ。

 

「……なに、あいつ。月見さんが来てるってわかってたのに、随分余裕なのね」

 

 天子は、月見と紫の関係を詳しく知らない。しかし紫は、霊夢の叫びを聞くまでもなく、月見がここに向かってきていると予想していたようだった。それを考えれば、お互いのことをよく理解し合った、親友とも呼べる間柄なのかもしれない。

 そんな親友が、自分ではなく、大切なものを壊した憎い敵を助けようとしている。信頼できる友との対立。いくら妖怪の賢者たる八雲紫であっても、動揺しないはずがないのに。

 なのに目の前の紫は、あまりに落ち着きすぎている。

 紫が静かに言った。

 

「……月見なら、来ないわ」

「……え、」

「藍と橙がお話(・・)に行ったから。だから来ない」

 

 霊夢と魔理沙が、隠そうともせず舌打ちをした。藍と橙という名が誰のものなのかは知らないが、紫の言う『お話』が文字通りの意味ではないことくらい、天子にだって容易に理解することができた。

 即ち、足止め。

 月見が駆けつけるだろうことは予想済みだった。霊夢や魔理沙だけでなく、無二の親友にまで立ち塞がられてしまえば、いくら紫でも分が悪すぎる。だからどうか、すべてが終わるまで天界に近づけないようにと。

 

「――それがなによ。月見さんは来るわ」

 

 しかし、霊夢の否定は速かった。月見がやってきてくれることをなにひとつとして疑わない、強くまっすぐな言葉だった。

 

「約束したもの。だから絶対に来てくれる」

「……どうかしら。いくら月見でも、そう簡単には行かないと思うけど」

「あら、不思議ね。私にわかるんだから、あんたにだってわかるものと思ってたけど」

 

 笑みすら、見せて。

 

「月見さんは、こういう約束を破ったりなんて絶対にしない。違う?」

「……」

 

 紫は、答えなかった。……なにも言い返せなかったように、天子の目には見えた。

 

「当たりでしょ? じゃあ、やっぱり来てくれるわよ」

「同感だな。『悪い悪い、遅くなった』とか言って、すぐにひょっこりやってきてくれるだろうさ」

 

 それが本当に、心の底からその通りだと思えたから、天子も自然と笑えていた。もしかしたら殺されてしまうかもしれないのに、月見のことを想うと全然怖くなくて、それどころかこうやって笑顔すら浮かべてしまえる。

 やっぱり、月見はすごい。

 私が憧れた人は、本当にすごい。

 

「……そう」

 

 紫の声は、冷えていた。しかしそれは、にじみそうになる感情を必死に押し殺し、冷静を偽ろうとした不完全な声だった。

 だからこそ天子は、なぜ紫がここまで落ち着いているのかを唐突に理解できた。

 紫は、葛藤している。それが友と敵対することへの恐怖なのか、友が敵対したことへの悲嘆だったのかはわからない。だが紫の心の中ではなんらかの感情が氾濫を起こしかけていて、それを必死に悟られまいとするがために、体が不自然なまでの落ち着きを見せていたのだ。

 そして紫は恐らく、その内なる感情を封殺した。

 

「――じゃあ、その前にさっさと終わらせましょうか」

 

 直後に放たれた桁違いの妖力は、悪寒を越えて、肌が痛みすら覚えるほどの重圧となって天子たちを襲った。

 

「……ッ!」

 

 地の唸る音が聞こえる。圧倒的な妖力の波濤が、かすかではあるが、天界の広大な大地を確かに震わせている。

 多分、紫は――覚悟を決めた。

 

「……例えば遠い昔、幻想郷がまだ影もなくて、妖怪たちが日本中を跋扈(ばっこ)していた時代のことだけど」

 

 感情を封殺し切った声音で、紫は言った。

 

「当時の人間たちもね、私たち大妖怪を倒そうとしたことは何度もあったわ。陰陽師に修験者、お侍さん。数十なんてのじゃ利かないくらいの人数で討伐隊を組んで、万全を期して大妖怪に挑んで……でもそれでも、人間たちが敗れることも珍しくなかった」

 

 大妖怪と呼ばれる相手に、挑む。

 

「……霊夢、魔理沙。最後に訊くわ」

 

 その意味を問う、最後通告だった。

 

「――その選択で、本当にいいのね?」

「あんただって聞いてたでしょ。私は月見さんと約束してんの」

 

 即答であった。

 

「任せときなさいって、大口叩いて言っちゃったのよ。ダメでした、じゃあ立つ瀬がないでしょ」

「私は別に約束なんざしてないが、まあ、今更帰るのも後味悪いしな」

 

 もう帰れとは言わない。今更天子がなにを言ったところで、霊夢たちは絶対に引き下がらないだろう。霊夢は荒っぽくて向こう見ずだし、魔理沙は人を喰ったように飄々としているけれど、さすが月見の知り合いだけあって、二人とも根は心優しい少女たちだ。

 だから天子は、二人を守る。それがいずれやってきてくれるであろう月見のために、天子ができること。

 そして、『ありがとう』を言うんだ。今まで全部の『ありがとう』を言って、今度こそ本当のことを言おう。天子が異変を起こした本当の理由も、その理由に至るまでに歩いた道も、すべて。

 それさえできれば、どんな罰でも甘んじて受けよう。

 だから、ねえ、月見。もう一度だけ、あなたに会いたいって、願ってもいいのかな。私を助けたいと言ってくれた、心優しいあなたに。

 

「月見さんが来るまで、なんとしても堪えてやるから」

「窮鼠猫を噛むって言葉もあるしな。楽に行くと思うなよ」

 

 霊夢と魔理沙が、霊力と魔力を解放する。無論、紫の重圧を真っ向から跳ね返せるほどの力はなかったけれど、それでも天子にとっては震えるほどに頼もしかった。

 たった、二人。

 でも、二人もいてくれる。月見も入れれば三人だ。頼もしすぎて、どんな強敵だって撥ね除けられそうじゃないか。

 その気持ちを疑いはしない。今は疑わなくていい。自分を信じろ。霊夢を信じろ。魔理沙を信じろ。月見を信じろ。紫なんてあっちいけだ。

 緋想の剣を渾身の力で握り締め、霊力を解放。三人分の力の波濤は、ほんの一瞬だけ紫の妖力を押し返したが――完全に拮抗するには、あとほんの一歩だけ足りない。

 

「くっ……!」

 

 これが、大妖怪。人間と一線を画した妖怪から、更に一線を画して進化した存在。霊力や妖力の大小だけで勝敗が決まるわけではないが、相手の力に呑み込まれれば精神は瞬く間に摩耗し、体の動きはひどく鈍る。

 紫の妖力が、更にその重圧を増した。

 

「ッ……わかってはいたけど、やっぱり無理か!」

 

 霊夢が吐き捨てた。

 

「魔理沙、砲撃! 呑み込まれるより先に、こっちから仕掛けるっきゃないわ!」

「任せとけ!」

 

 紫の妖力は天子たちの霊力を見る見るうちに押し退け、戦場を制圧しようとしている。魔理沙が小型の八卦炉に似たアイテムを構え、紋様が描かれた先を紫に向ける。一度天子を救ってくれたあの巨大な熱光線で、迫り来る妖力の土手っ腹に風穴を空ける。

 しかし。

 

「――?」

 

 八卦炉のチャージが完了するよりも先に、天子の背を押すもうひとつの妖力があった。

 

「――ああ、よかった。どうやら、間に合ったみたいですね」

「……この、声……!」

 

 天子は息を呑んだ。感じたことのある妖力に、聞き覚えのある声。しかしそこから導き出される名前を、俄に信じることができなかった。

 人のためになにかをするような、善意のある妖怪ではなかったはずだ。傲慢で人を見下しているのではなく、純粋に自分以外の他人に興味がなくて、ただ龍神から受けた命令を履行するだけ。何度か話をしたことはあるが、言動はどこか機械的で慇懃無礼。顔を合わせるのは大抵が偶然のすれ違いで、プライベートな理由で待ち合わせたことなど一度もない。

 そんな、彼女が。

 

「随分と大事になってるみたいですねえ。……私の名前、覚えてますか? 別に覚えてなくてもいいですけど」

 

 正直言って苛々することも多かった歯に衣着せぬ物言いに、こんなにも心が(たぎ)るのは初めてだった。

 

「お久し振りですね、総領娘様」

 

 なにか返事をしなきゃと思うのに、込み上がってくる感情を抑えるのに精一杯で、いつまで経っても口ひとつ動かせない。

 絹のように薄い雲をまとい、緋色の羽衣をなびかせて、天よりも更に高いところから降りてくる――龍宮の遣い、永江衣玖。

 その姿があんまりにも美しかったから、私なんかよりもよっぽど天女みたいじゃないかと、天子は涙のにじんだ視界で思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 金と銀が交錯する。

 緋色の空に金色の稲妻が走れば、迎え撃つように銀の光が瞬き、衝突し、弾ける。飛び散った妖気の残滓は刹那の炎となって、緋色の空を彩る星屑となる。

 月見と藍の戦いは、拮抗していた。黄金色の九尾によって展開される藍の苛烈な攻撃を、月見は同じく九つの尾でやり過ごし、息つく暇もない連携を見せる十二神将には、残りの二本で対応する。

 今日ほど、己の十一尾をありがたいと思ったことがあっただろうか。

 とは、いえ。

 

「――!」

 

 この圧倒的に不利な状況で墜とされずにいるだけ大したものなのだろうが、そうやって時間を重ねれば重ねるだけ、月見の心には焦燥が募った。

 少しずつ、少しずつ、近づけてはいるけれど。

 空の彼方は、未だ途方もなく遠い。

 

「ッ……!」

 

 上下左右から迫ってきた金毛九尾を弾き、背後に回り込んできた十二神将の一体を狐火で焼き尽くすと、ふと、藍からの攻撃が途切れた。

 月見と対峙する先で、藍はため息をつくように微笑んでいた。

 

「……本当に、さすがですね。月見様」

 

 表に浮かぶ表情こそ控えめだったが、心から、感服したような声だった。

 

「こんなにも、私に有利な条件下なのに。……正直、勝てる気がしません」

「……そうかい」

 

 そんなことを言って、どうせ勝つ気などないのだろうと月見は思う。藍がこの場に立ち塞がる目的は、あくまで足止めだ。月見を倒すことではない。

 

「……月見様。どうか退いては、くれませんか」

 

 藍は祈るようにそう言った。

 

「私は、月見様と戦いたくありません。……橙だって」

 

 常に藍の傍に付き従い、月見の反撃を封じ込める最大の障害となっている少女は、戦闘が始まる前からずっと泣きそうな顔をしている。

 月見は苦笑、

 

「だったら、お前たちの方からどけてくれると助かるんだけどね」

「……それは、できません」

 

 唇を噛み、きつく拳を握り締める。そうやって胸の中で渦巻く感情を抑え込んで、藍は言う。

 

「私は紫様の式です。今の紫様の気持ちが、私には痛いほどに理解できるんです」

 

 それは決して比喩などではない。藍ほど高度な式神となれば、主人の心理状態をある程度共有する力をも備えている。たとえ主人の命令がなくとも、その危機を自ら察して、助けに行けるように。だからこそ主人が抱いた悲しみを、意図せずとも共有してしまうことだってあるだろう。

 

「博麗神社を壊されたことが、紫様にとってどれほど辛く、悲しいことなのか。……月見様にも、わかるでしょう?」

「……ああ」

 

 月見だって、紫がどれほどの悲しみを抱いたのかは理解しているつもりだ。月見は彼女の式神ではないが、それ以上に、付き合いの長い友人だから。

 少なくとも月見がかつてここで生活していた500年前ですら、紫は博麗の巫女を我が子のように可愛がり、博麗神社を我が家のように大切に想っていた。だから普段はどうしようもなく面倒くさがりな彼女が、自ら結界を張ってまで神社を守護していた。月見が今まで幻想郷を離れていた年月でも、それは変わらなかったことだろう。

 心はもちろん、体すら抉られた心地がしたはずだ。幻想郷の始まりから、ずっとともに歩み続けてきた博麗神社が。謂わば自らの半身といっても過言でなかったはずのそれが、無惨に崩れ果てた意味のない瓦礫と化した時。

 

「……もうすぐ終わります。紫様も言ってました。そうしたら神社を建て直して、それで全部元通りだって」

「……」

 

 紫の気持ちは理解できるつもりだ。紫のためにこうして月見の前に立つ藍の気持ちだって、理解できるつもりだ。紫たちは間違っていない。唯一無二の大切な物を破壊された時、抗いがたい憎しみを覚えるのは正当な感情だ。その憎しみを晴らすために報復に打って出るのも、生物として本能づけられた普遍の感情だ。

 わかっている。

 けれど、だからこそ、どうしても納得が行かなかった。

 

「……なあ、藍。全部元通りになるって、お前は言ったよな」

「はい。なにも変わりません。異変を終わらせて、博麗神社を建て直せば、なにも変わらずに――」

「女の子が一人死んでいるかもしれないのに、なにが元通りなんだ?」

 

 藍が、息を詰まらせた。

 

「お前だって、お前だからこそ、わかっているはずだ。紫が天子に下そうとしている裁きとやらが、一体どういうものなのか。……それで異変を終わらせて、博麗神社を建て直せば元通りになるだなんて、私には到底思えない」

 

 冷淡な言い方だけれど、壊れた神社は元通りにできる。元通りにできるならば、倒壊によって人々が受けた怒りや悲しみも、時間を掛けて癒していくことはできるだろう。

 だが、失われた命は決して元通りにならない。元通りにならない以上、人々の心に空いた喪失の孔を、どうやっても癒していくことなどできはしない。月見はそれを知っている。至上の友であった神古秀友との寿命の差を、月見は今でも本当に惜しかったと思っているし、『銀山』が死んだと思い込んでいた輝夜は、だからこそ『月見』が生きていたと知った時に、心からの涙を流した。

 天子の命は、もはや天子一人だけの命ではない。

 だから止めたかった。紫に問いたかった。お前の怒りは正しい。報復に打って出る感情も正しい。けれどそれで天子の命を奪ってしまうところにまで、なにひとつ顧みないまま走っていってしまっていいのか。

 お前の目の前にいる、我が子のように愛しい少女が、やめてくれと叫んではいないか。なぜ霊夢がやめてと叫ぶのか。そして、なぜ私がお前を止めようとするのか。目の前にある光景の意味を考えることすら放棄して、比那名居天子という少女をなにも知ろうとしないまま、憎しみにだけ囚われてしまっていいのか。

 

「教えてくれないか、藍。私にはどうしてもわからない。女の子が一人死んでるのに、それでどうして元通りになるのか、教えてくれないか?」

「っ……」

「私は、真実を知りたい。なぜ天子が博麗神社を倒壊させるなんて真似をしたのか。そこに悪意はあったのか。……なにか、運の悪いすれ違いをしているだけではないのか。そのために、紫を止めないといけない」

 

 だから、

 

「……行かせてくれ、藍」

 

 藍は答えなかった。砕け散りそうなほどに拳を握り、俯き、歯を軋らせ、耐えがたい葛藤と必死になって戦っていた。傍らの橙が、揺れる瞳で主人の横顔を見上げた。せめぎ合う藍の心を気に掛けているようでもあったし、どこか、これ以上誰も傷つかないで済むことを祈っているようでもあった。

 しかし、

 

「――十二神将」

 

 藍が小さく呟いた直後、その背後に控えていた式神たちが一斉に再生を始めた。傷ついていた者は元の姿を取り戻し、月見の狐火で依代を焼かれ消滅していた者には、新たな体が与えられる。

 完全無欠の十二神将が、再び月見の行く手に立ち塞がる。

 

「……藍ッ!」

「でも!! ――でも私は見たんですよ、紫様が泣いていたのを!!」

 

 返ってきた声は、悲鳴にも近かった。

 

「これが天災だったなら、私も、紫様も自分を納得させることはできたでしょう! でも博麗神社は、壊れたのではなく、壊されたんです! あの時紫様は泣いたんじゃない! 泣かされた(・・・・・)んですよ、あの天人に!!」

「……!」

 

 だからこそ藍は、月見の前に立つことを選んだ。式神として、紫の助けになりたかったのは紛れもない事実。しかしそれ以上に、ともに幻想郷を創り上げた家族として。

 紫を悲しませた天子のことが、許せなかったのだ。

 

「だから、私は! ……私、は……っ!」

 

 八雲藍は止まらない。金毛九尾が揺らめく。十二神将が構える。

 なんとなく、確信があった。このまま再び戦いの火蓋を切って落とせば最後、藍は月見を倒すか、自分が倒れるかするまで絶対に止まらない。だからこの瞬間は、藍を言葉で止める最後の隙だった。

 

「……」

 

 しかし月見はなにも言わずにまぶたを下ろし、ひとつ、細く長い息をついた。その行いの善悪を度外視して、本当に素晴らしい式神だと思った。心から主人に共感し、主人を助けるために自ら考え、同族と敵対することも厭わずに、主人だけを想ってその力を振るう。すべての式神の規範ともいうべき、絵物語のような従者の姿が、今月見の目の前にある。

 無理だ。

 月見では、藍を絶対に止められない。

 倒すしかない。それ以外の方法では、藍は絶対に止まらない。

 完膚なきまでに、理解した。

 だからこそ、微笑み、呟いた。

 

「――お前が来てくれて、本当によかった」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 十二神将が、一体残らず消滅した。

 直接その光景を見て確認したわけではない。しかし『式神を操る程度の能力』を持つ藍は、振り返るまでもなく直感した。背後に待機させていた十二体の式神がすべて、一瞬で消滅し、吹かれれば飛ぶだけのただの紙片へ返ったのだと。

 

「――なっ、」

 

 硬直した。直感に頭の理解が追いつかなかった。藍はずっと、月見から目を離さなかった。だから断言できる。月見はなにもしていない。視認できないほどの神速だったわけでも、藍が油断して見逃したわけでもない。本当に、月見はなにもしていなかった。なにもしていなかったのなら、十二神将が術式を破壊され紙に返されてしまうはずがない。だが事実、十二神将はひとつの例外もなく消滅した。

 ありえないことが、起こった。

 

「……!」

 

 月見が動いた。十一尾を瞬く間に一尾へ戻し、飛行術を爆発させる。驚異的な速度で打ち出された彼の体は一瞬で藍の頭上を取り、そのまま天界まで駆け抜けんとする。

 

「くっ……!」

 

 藍は咄嗟に反応した。なぜ十二神将が突然破壊されたのか、考えてもわからないことは早々に切り捨てた。消滅したのならまた召喚し直せばいいだけのこと。だから今は、なんとしてでも月見を止めるのが先。

 振り向く、

 

「――『現世斬』」

「ッ……!?」

 

 静かな宣言。上空の月見を目で追っているうちに、何者かに懐を取られている。

 対応しなければならないと、頭では理解していた。懐に入り込んできた闘気をいなし、更に天界へ向かう月見の行く手も遮る。容易ではないが決して不可能でもないと、頭では理解できていたはずだった。

 それでも頭より体が先行してしまったのは、大妖怪とはいえ逃れえぬ獣の性なのか。

 

「――!」

 

 肌を粟立たせる懐の闘気に、体が馬鹿正直に反応した。瞬間的に、月見の存在が意識から抜け落ちる。橙の腕を掴んで背後に跳躍し、それでも追い縋ってきた神速の銀閃を、硬化した九尾を盾にして防ぐ。

 それからようやく理性が本能に追いついて、唇を噛んだ。――やられた。

 空を、白い綿毛が舞っている。

 否――それは綿毛などではなく、季節外れな雪の欠片なのだと気づいた瞬間、藍は言葉にならないほどの悔しさが己の中で燃え上がったのを感じた。

 なるほど。なるほど確かに彼女ならば、十二神将を一瞬で無力化することもできるだろう。紙を依代にして作成される式神は、平たく言えば紙に命を宿らせたもの。だからその命を奪われてしまえば、式神は問答無用でただの紙へと戻り沈黙する。藍の『式神を操る程度の能力』にとって、彼女の『死を操る程度の能力』は、この世で最も相性の悪い天敵だった。

 けれど、藍が悔しさに震えるのはそこではない。十二神将を破壊されたこと自体ではなく、その結果として彼女が月見を助けたという事実こそが、理解不能と評せるほどの激情となって藍を襲っていた。

 だって。だってあなたは、紫様の親友のはずなのに。ひょっとしたら月見様よりも、この世界の誰よりも、紫様を深く理解してくれているはずなのに。あなたは月見様と違って、あの天人となんらかの関係を持っているわけではない。月見様と違って、あいつに味方する義理も理由も、ないはずなのに。

 なのに。なのにどうして。

 どうして紫様じゃなくて、月見様に、あの天人に、味方するんですか。

 博麗神社を壊した、紫様を泣かせた、あの天人に。

 

「どうしてなんですか、幽々子様……ッ!!」

 

 答えはなかった。真夏の雪空の下で響くのは、悔しさを振り絞った、引き裂くような藍の叫びだけ。

 西行寺幽々子はなにも答えず、そのお家芸ともいえるぽやぽやとした顔で、ふっと藍に微笑みかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ⑧ 「天へ昇れ ③」

 

 

 

 

 

「……どうされるんですか、天魔様?」

 

 問われた操は腕を組み腐心した。それを今まさに考えているところなのだが、かといって彼女にその忖度(そんたく)を乞うのは酷だろう。大天狗が去ったのち、操の傍らでただひとり指示を待ち続ける椛の顔には、傍目でも見て取れる強い動揺の色があった。

 博麗神社が倒壊したとなれば、当然の反応だ。

 操は天狗だし、仏道を邪魔する魔物と考えられている天狗だし、神への信仰心など持たない以上は神社が壊れようがなんだろうが興味はない。椛だってそうだろうし、他の妖怪たちだって同じだろう。

 しかしあの場所が、少なくとも八雲紫にとって特別な意味を持った聖地であったことくらいは、幻想郷に住む妖怪ならば知能の高低を問わず誰だって知っている。その聖域を穢した時にどんな報いを受けるのかもまた、誰だって知っている。

 博麗神社が倒壊した。しかも、どうやら何者かの仕業によるものらしい――。

 ある程度知能のある妖怪がこの話を聞けば、皆が大口を開けて呆れるだろう。

 ――誰だか知らねえけどやっちまったなあ。ご愁傷さん。

 誰だか知らない相手なら、操だってそう思う。

 

「……」

 

 だが今回の場合、黒幕は操の知らぬ相手ではない。実際に確かめたわけではないが、十中八九、比那名居天子で確定だ。地震を呼ぶ緋色の雲。異変による異常気象。気質を集める力。天子の手札を充分に活かせば、特定の場所だけを襲う超局地的な地震を起こすことも可能だろう。彼女が幻想郷の外の人間であることを考えれば、博麗神社の重要性を知らず標的にしたとしても不思議はない。

 なら実際に天子が神社を倒壊させたとして、それは彼女の計画の内だったのか。

 否だと、操は思う。

 天界で出会って、弾幕ごっこをして、少なからず天子の人柄は理解したつもりだ。彼女は、とても不器用な子だった。嘘をつくのがヘタクソで、弾幕ごっこがヘタクソで、人と付き合うのがヘタクソだった。

 月見とおっかなびっくり話をしていた小動物みたいな姿は、『初々しい』という言葉でも言い換えられただろう。今まで悪人として生きていた人間が、急に改心して、善人になろうと努力し始めたばかりのように。

 そんな不器用な子が、初めから壊すつもりで博麗神社を攻撃したとは思えない。

 つまり、不慮の事故。

 

「しかし、月見がついていながらこうなるとはな……」

 

 操にとって最も予想外なのはそこだ。天子の傍には、弾幕ごっこの修業を通して仲を深めたであろう月見がいたはずなのだ。まさか紫の最大の理解者である彼が、博麗神社への攻撃を天子に許したとは考えられない。

 月見は、知らなかった。

 月見に知らせないまま、天子は独断で神社を標的にした。

 そうして二人は、すれ違ってしまった。

 

「いや、むしろ……月見だからこそ、か」

 

 月見は、妖怪の中では類を見ないほど人がいい男だ。物静かで、穏やかで、声を荒らげて人を怒ったりなんて滅多にしない。妖怪だろうが人間だろうが神様だろうが、常に何者をも理解し受け入れようとする、美点とも欠点ともいえる癖がある。

 たとえ厄神が話し相手でも、絶対に距離を取ったりはしない。

 レミリアにいきなりグングニルを突きつけられても、どうってことない。

 何百年も昔の話を引きずって文に毛嫌いされても、大したことじゃない。

 望んでもいない馬鹿でかい屋敷をプレゼントされたって、まあ仕方ない。

 一人でのんびり地底に出掛けて、嫌われ者の橋姫や覚妖怪と、簡単に知り合いになって帰ってくる。

 閻魔様に週一くらいで家庭訪問を食らうのだって、もう慣れた。

 いい意味でも悪い意味でも、月見は人に穏やかすぎる。

 もしかすると彼は、比那名居天子という少女を受け入れすぎていたのかもしれない。

 

「……まったく」

 

 倒れるように椅子に座り込み、天窓を見上げた操は深くため息をついた。本当に面倒なことになった。紫が動けば月見も動く。そして紫が天子を敵と見なすならば、月見がつくのは天子の側だ。

 幻想郷でも指折りとされる、大妖怪二人の対立――考えるだけで目眩がしそうになってくる。

 

「――あはは、あいかわらず『そっち』のあんたは考え事好きだねえ。普段の方とは大違いだ」

 

 姿なき三人目の声が突如として響いて、驚いた椛の尻尾が逆立った。

 操は天窓を仰いだまま、

 

「……ノックくらいしてくれんか。鬼とてそのくらいの礼儀は知っておるだろう」

「ごめんごめん。『そっち』のあんたを見るのは久し振りだったから、ちょっと観察しちゃってたあ」

 

 執務室の隅――誰もいないはずの壁際から、霧を晴らすように現れるのは大きく捻れた二本角。無骨に鳴った鎖をこする音に、逆立っていた椛の尻尾が安堵でへにゃりと垂れ下がる。

 許可なくここまで入り込んできた闖入者を、縛り上げる真似はしない。しようとするだけ無駄なことだ。彼女を縛り上げられる者など、果たしてこの幻想郷にいるのかどうか。

 

「なんの用だ」

「んー、いやー、どうするのかなーって。あんたも、あの天人とは知らない仲じゃないんでしょ?」

 

 朝にもかかわらず酔いの回った赤ら顔と、ふらふらと安定しない足捌き。強い酒気を放つ酒虫入りの瓢箪と、三本の鎖をじゃらじゃらと引きずる。

 椛に窓を全開してくるよう指示しながら、操は目を細めて問うた。

 

「そういうお主はどうするんだ、萃香」

「んぅー。まぁー、行くだけ行ってみようかなーって」

 

 ふらふら操の対面までやってきた萃香は、よいしょっとぉ、とそんな声をあげて、書類が散乱している執務机を椅子代わりにした。執務室の窓をすべて開け放って戻ってきた椛が、うわあっと顔を青くした。

 

「萃香さん、大事な書類があるんですからやめてくださいっ」

「ん? あー、ごめんねー」

 

 萃香が座ったあたりの書類を素早く回収し、一枚一枚鬼気迫った形相で確認する。幸い折れ曲がったりしたものはなかったようで、椛はほっとため息をついていた。

 萃香は悪びれる様子もなく、ころころと笑っていた。

 

「それで? お主は行くと言っていたが」

「まあ、一回だけだけど一緒に弾幕ごっこした相手だしさ。このまま黙って見捨てるのもあれかなあって」

「だがその場合、相手は紫だぞ」

「うん。だから止めるんだよ。あの天人のためってのもあるけど、それ以上に紫のため」

「……親友なればこそ、というやつか」

「そんな感じー」

 

 くひひと変な声で笑って、萃香が瓢箪の中身を直接口に傾ける。いつ酒をこぼされてもいいように、椛が卓上の書類を目覚ましい速度で整理し始めている。

 操は椅子に深く腰を預けたまま、

 

「親友といえば、幽々子は?」

 

 彼女もまた萃香と同時期に天界へ昇り、弾幕ごっこで天子をコテンパンにした一人だと聞いている。

 

「幽々子は、庭師連れて月見の方に行ってるよー。なんか、藍に足止め食らってたみたいだから」

「そうか。……なんだ。結局、全員揃って紫を止めるつもりか」

 

 月見に萃香に幽々子。紫と最も近い位置にいる親友三人は、皆が紫と敵対し天子を守る道を選んだ。

 萃香は、特に表情を変えなかった。酔っ払って緩くなった表情筋を緩くしたまま、弓にしなった瞳で、

 

「そりゃあそうだよ。今はね、神社が壊れたショックでちょっと周りが見えなくなっちゃってるだけ。このままやりたいようにやっちゃったら、ぜえったいに後悔するよ、あいつ」

 

 だから、私たちが止めてやんないとねー。

 手の掛かる友人に、しょうがないなあ、と苦笑いするような。そんな、穏やかな声だった。

 

「……しかしだとしたら、お主、なぜわざわざ儂のところに来た。儂がどう動くかなんて放っておいて、さっさと天界に行った方が」

「あー、いやねー? それはそうなのかもしんないけど、ほら、万が一ってこともあるじゃん。月見が上手く言葉で止めてくれればいいけど、紫もかなーり不安定な状態だろうし、ほら……ね?」

 

 なんとなく、わかった。

 

「藤千代と短時間とはいえ互角に戦ったあんたがいれば、備えあれば憂いなしでしょ。……まあ、あんなやつどうでもいいって言うんだったら、しょうがないからひとりで行くけど」

「……いや」

 

 緩く首を振って、操は立ち上がった。

 萃香と違って、紫を止めようという世話焼きな気持ちがあるわけではない。ただ純粋に、比那名居天子を死なせたくないと思う。

 操が起こした竜巻から、涙目で逃げ惑っていた姿を思い出す。月見に修業を手伝ってもらえることになって、飛び跳ねながら喜んでいた姿を思い出す。

 あんな風に振る舞えるかわいらしいやつを、黙って見捨てるのも忍びない。そう考えてしまうのは、ずっと昔から月見や藤千代の隣で、影響を受け続けてきたからなのか。

 

「儂も行こう」

「おっ、そうこなくっちゃねー」

「……え? 天魔様、行ってしまわれるんですか?」

 

 ひと通り書類の整理を終えていた椛に、笑うのが苦手なこの人格なりに精一杯、微笑んで言う。

 

「さすがにこの状況で、仕事を続けろとは言わんだろう?」

「……」

「……待て、目からハイライトを消すな!? ええい仕方ないだろう、今は緊急事態というやつだ!」

 

 仕事くらいちゃんとしてなよ……と萃香から白い目で見られた。

 お前にだけは言われたくないと、心の底から思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 桜の花が散るように、雪が舞い落ちていく。遠いどこかで蝉が鳴く季節とは裏腹な白い欠片が、淡い緋色の空にとてもよく映えている。

 月見の頬に落ちた欠片がひとつ、すぐに雫と変わって滴り落ちていく。そのひやりとした涼しさが、焦燥に浮かされていた月見の頭を徐々に冷却していく。

 ――なぜ、雪が降っているのか。

 天子の力でつくりあげられた緋色の雲が、人それぞれの気質に応じて自在に天気を変えるからだ。夏に雪が降ることだって十二分にありえる。

 ――しかしなぜ、雨でも風でもなく、雪なのか。

 彼女が来たからだ。

 遮るもののなくなった天を見上げ、深く、息を吸った。

 

「――まさか、来てくれるとは思ってなかった」

 

 月見のすぐ後ろで、互いの背中が触れ合うほどすぐ後ろで、西行寺幽々子はのほほんと答えた。

 

「ふふ。私、月見さんや紫のことならなんでもお見通しなんですの」

 

 本当にそうなのかもしれない、と月見は思う。くすくすと心地よい笑みとともに紡がれるこの軽口が、決して冗談でなかったとしても月見は驚かない。現世(うつしよ)幽世(かくりよ)の狭間を生きる存在だからか、本当にそうなのかもしれないと思わせる底の深さが、事実として幽々子には宿っていた。

 ほんの数日前にも、目の前でまざまざと見せつけられたばかりだ。

 月見の背後で、藍が布を裂くような叫びをあげた。

 

「どうしてなんですか、幽々子様……ッ!!」

 

 月見と対峙した時とは比べものにならない、そこには筆舌に尽くしがたい怒りと悔しさがにじんでいた。

 月見に代わり藍と対峙する幽々子は、その問いには答えなかった。

 

「行ってください、月見さん」

 

 祈るような声だった。

 

「紫を……お願いします」

「……」

 

 初めは、どうしてなのかは月見にもわからなかった。幽々子と天子はまったくの赤の他人でこそないが、それでも、所詮は一度弾幕ごっこをしただけの関係にしか過ぎない。月見とは違う。天子と紫を天秤にかければ、秤はすぐさま紫の側に傾くはずなのだ。

 なのに幽々子は雪の降り積もった冥界から遥々駆けつけ、月見を助けてくれた。

 月見を助ける行為がすなわち天子を助け、紫を否定することにつながるのだと、幽々子が気づいていないとは思えなかった。だからこそ藍は今にも歯を噛み砕きそうなほどの激情を燃やして、幽々子を、幽々子だけを()めてつけている。

 今ならわかる。

 幽々子は、紫を助けてほしいのだ。

 だからこそ月見を助け、天子を助け、紫を否定するのだ。

 月見の問い掛けは短く。

 

「任せて、いいか」

「もちろん」

 

 返される声は、気負った様子もなく朗らかだった。もうそこに祈るような色はなく、いつも通りぽやぽやと、

 

「でも、お礼は期待してもいいですわよね~?」

「……ああ」

 

 人里で、最高級の饅頭を買ってやろうと思う。彼女だけではない。祖父を彷彿とさせる見事な剣技で藍を牽制してくれた、半人半霊の従者にも。

 

「――ありがとう」

 

 それだけ言って、月見は飛んだ。心強い味方となってくれた彼女たちを最大限に信頼し、すべての力を、ただ天へと昇りゆくためだけに注ぐ。

 振り返ることはない。

 月見はもう、天界だけを見ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 背後で炸裂した烈風に、ひゃっと小さな悲鳴がもれた。吹っ飛ばされそうになった帽子を慌てて両手で押さえる。振り返れば既に彼の姿はなく、遥か天上で、針で空けたような小さな点と化している。

 来るとわかってはいたものの、ここまで強烈な置き土産をされるとは予想外だった。凄まじいとしか言葉が出てこない。これほどの速度で飛べる狐を――いや、妖怪を、幽々子は未だかつて見たことがなかった。

 藍に月見を追う素振りはない。追えるわけがない。ここまで決定的な差が開いてしまえば、スキマでも使わない限り追いつくのは不可能に違いない。

 

「……幽々子様、これでよかったんですか?」

 

 幽々子の前に立ち油断なく剣を構える妖夢は、けれどその瞳に明らかな疑問の色を浮かべていた。結局幽々子は、「月見さんが困ってるから助けに行く」としか顛末を説明しなかった。精神的に未熟なところの多い妖夢では、すべてを語れば逆に大きな困惑や迷いを生むだろう。

 短く答える。

 

「いいのよ。……それよりも、さっきの『現世斬』は見事だったわ。まるで妖忌が戻ってきたみたい」

 

 世辞ではない。あの太刀筋は本当に見事だった。まだまだ半人前のくせに、毎日の雪かきで筋肉痛になっているくせに、戦闘になった途端やたらと光るものを発揮し出すのだから、剣術バカの血は争えないなと幽々子は思う。

 突然褒められて、妖夢の頬がさっと赤らんだ。

 

「えっ……あ、ありがとうございます」

「その調子で、もう少しだけ頑張って」

「は、はい……」

 

 えへへ、と照れくさそうにしたのはほんの一瞬で、すぐ正気に返った妖夢は心新たに藍へ剣の切っ先を向ける。その瞳にもう揺らぎはない。こうやってすぐ丸め込まれるところが彼女の半人前たる所以なのだけれど、まあ、それはそれでいいのかもしれない。

 少なくとも、従者としてあまりに優秀すぎる藍よりかは、幽々子の性に合う。

 

「幽々子様……ッ!!」

 

 普段の藍からは想像もできないほど、激しい怒りの叫びであった。

 

「なぜあなたが――紫様の友であるあなたが、あの天人に味方するのですか!?」

 

 肌に突き刺さるほど荒れ狂う妖気の波動を、嚥下し、幽々子は微笑んだ。

 

「あら。私は月見さんを助けただけで、あの天人に味方したつもりはないわよ?」

 

 藍が、今にも狐火をぶっ放しそうな顔をした。

 幽々子は苦笑、

 

「確かに私は紫の友達だけど、友達だからって、いつどんな時でも意見が一致するとは限らないでしょう?」

「……つまり幽々子様は、紫様が間違っていると?」

「ええ」

 

 当然のことだったので、即答した。

 藍が、その瞳を冷たい不快感で眇めた。

 

「――なぜ」

「じゃあ、逆に訊くけど。このまま紫が、怒りに任せてあの天人を……そうね、殺したとしましょうか。それは本当に、紫にとって最善なのかしら?」

 

 紫の怒りは、仕方のないことだと思う。紫にとって、博麗神社は本当に大切なものだったのだ。幻想郷の始まりであり、幻想郷とともに歩んだ思い出を詰め込んだ場所であり、幻想郷そのものでもあった。その聖地を、比那名居天子に、理由はどうあれ踏み躙られたのだ。

 紫の怒り自体を否定するつもりはない。ただ、

 

「もし、あの天人を本当に殺しでもしちゃったら……紫、あとになってから絶対に後悔するわよ」

「……」

「だってあの天人、月見さんと仲いいもの。殺しちゃったら、冗談抜きで月見さんとの関係まで壊れちゃうと思わない?」

 

 紫がやろうとしていることは、結局のところは復讐だ。そして復讐とは、見事恨みを晴らせばそれで綺麗さっぱりおしまいとはならないものだ。復讐は新たな復讐を生むとまでいうつもりはないけれど、なにかしら禍根をひび割れのように残していく。

 月見は、優しすぎる妖怪だ。たとえ天子を殺されてしまったとしても、月見はそれすらも受け入れるだろう。紫を責めるような言葉はすべて呑み込んで、ただ自分だけを責めて、苦心し、上手く折り合いをつけられる場所を見つけ出し、やがては紫の行動そのものを正当化してしまうのだろう。そして表面上はなにも変わらない日々を紫と過ごしながら、目に見えないところでは、天子を助けられなかった己を永遠に悔いていく。

 彼ならきっと、そうなのだろうなと思う。

 そうなってしまった時に、紫は果たしてどんな感情を抱くだろう。

 決まっている。お前は間違っていなかった、仕方のないことだった――そんな痛々しい言葉で許される自分を、許せなくなるだけだ。

 天子は死に、月見は心に大きすぎる傷を負い、紫は取り返しのつかないことをしてしまった自分を一生後悔する。誰も幸せになんてなれやしない。これを間違っていないと言わずして、他になんと言えばいいのか。

 

「そんなこともわからなくなっちゃうなんて、神社を壊されたのが本当に許せなかったのね。……だから、周りが気づかせてあげないと。そうでしょ?」

「っ……」

「私が月見さんを助けたのは、月見さんの言葉が一番、紫の心に届くから。あなたも、それがわかっているから月見さんを困らせてたんだと思うけど」

 

 藍は、紫が月見に勝てないことを知っている。紫はなによりも月見の言葉に弱いし、月見の感情に弱かった。心底惚れてしまった弱みというやつで、月見に頼られればなんであれ手伝ってあげたくなるし、やめろと言われればなんであれ躊躇いが生まれてしまう。月見に殺すなと止められた時、紫の怒りが容易く迷いに変わりかねないことを、八雲藍は知っている。

 だが、博麗神社が破壊されて、紫は本当に傷ついていて、たとえ犯人が月見の知り合いであっても許すことなんてできなくて、じっとしてなんかいられなくて。もし月見に止められて、殺すなと言われて、それで本当に殺すのをやめてしまったら、まるで天子の行いを認めてしまうようで、どこにもぶつけられなくなった怒りと悲しみは、紫の中でずっと彼女を苦しめ続ける。そんなのは彼女の式神として見ていられないから、耐えられないから、藍はどうしても、紫と月見を会わせたくなかった。

 理解はできる。

 共感はしない。

 

「……そんなの、わからないじゃないですか……っ!」

 

 藍は、泣きそうな顔をしていた。

 

「それでも私は、あの天人が許せません! 紫様を泣かせたあいつが許せません! 月見様だって、あいつに騙されて、利用されているだけなのかも……」

「や、それはないわよ」

 

 一蹴した。それから、本当にそれだけはありえないなあと思って、つい笑ってしまった。

 

「ねえ、藍。あなた、あの天人とお話したことある?」

「……ありませんが」

「じゃあ、なんでもいいから一回お話してみるといいわよ」

 

 幽々子は天子と一度弾幕ごっこをしたきりの関係だが、それでも知っている。

 比那名居天子は、かわいいやつだ。妖夢と同じで、人の嗜虐心をつんつんと刺激するタイプだ。弾幕ごっこで割とあっさり幽々子に敗北し、涙目でぷるぷる震えて悔しがっていた姿には、妖夢に負けずとも劣らぬものがある。

 というのはまあ、個人的な趣味の話だが。

 それに天子は、恐らく相当なレベルで月見に懐いている。もしも月見との縁が切れたら、冗談抜きで泣くんじゃないかと思うくらい。弾幕ごっこでコテンパンにしてやった時、「せっかく月見に鍛えてもらったのにっ……!」といじけていたので、月見さんの知り合いなの? と興味本位で尋ねてみたらあとはまあ。

 ああもうほんっとにわかりやすいわねこの子~とか、これは紫に新たなライバル出現かしら~とか、とても微笑ましい気持ちになったものだ。

 

「なんていうかね、毒を抜かれると思う」

 

 あれは、博麗神社をぶっ壊してやろうなどと目論むような悪人ではない。誰かの悲しむ姿を見て喜ぶような異常者ではない。「月見は、その……私にとっては大事な人っていうか……いや、別に変な意味じゃないのよ!? 私のこと、友達って言ってくれて、それで……!」だのなんだのとわたわた慌てて勝手に自爆したあのアホの子を見ていると、あれこれ邪推する自分が馬鹿らしくなってくるのだ。

 

「あの子は、悪い子じゃないわよ。神社をわざと壊したってこともないと思う。だから、どうしてこんなことになってしまったのか、話を聞いてみるくらいはしてもいいと思わない?」

「っ……」

 

 藍が、遠目でもはっきりとわかるほど強く唇を噛んだ。

 

「幽々子様まで、そんなことを言うのですか……!?」

 

 決定的な心のすれ違いを、拳が震えるほどに悔しがっていた。

 

「もし本当に、あの天人が悪人でなかったなら……紫様の心に空いた孔を、一体なにが埋めてくれるのですか!?」

「だからといって、月見さんの心にまで孔を空けてやろうというの?」

「っ……!!」

 

 見ていて痛々しくなるほどに、藍は葛藤し、苦悩していた。苦しむ息遣いが、幽々子の耳にはまるで嗚咽のようにも聞こえた。

 藍だって、心のどこかではわかっているのだ。自分の行動は、紫のしようとしていることは、決して最善の選択ではない。比那名居天子を裁いたところでなにも根本的な解決にはならないし、それどころか今の幻想郷に新たな禍根を刻んでしまうことにも気づいている。

 心のどこかでは、わかっている。

 じゃあ。

 じゃあどうすればいいのだ。

 比那名居天子を許せというのか。大切なものを壊されたのに、思い出を傷つけられたのに、黙って泣き寝入りをしろとでもいうのか。

 ――もう、どうすればいいのかわからない。

 藍の苦しみを、この場の誰しもが理解していた。事情を知らない妖夢ですら刀を持つ手が震えていたし、橙に至っては既に涙すら流して、藍の裾を一生懸命に握り締めていた。

 

「私は! 私、はっ……!!」

「――まあまあ。そんなに思い詰めないの」

 

 だからこそ幽々子は、微笑んだ。私がここにやってきたのは、きっとこのためでもあったのだろうなと思いながら。

 

「そうやって苦しいことぜぇんぶ背負い込んでも、なんにもいいことないわよ? だからほら、ここいらでパーッと発散しちゃいましょ」

 

 藍は初めは不思議そうな顔をしていたが、スペルカードを抜いた幽々子を見て、目を見開いた。

 

「月見さんは、もう天界に辿り着くでしょうし……あとは、紫自身が決めること。だからあなたは、紫がどんな選択をしても受け入れられるように、溜まったもの全部吐き出しておきなさいな」

 

 この異変、一番悲しんでいるのは間違いなく紫だが、一番苦しんでいるのは間違いなく藍。

 紫は、月見が。

 だから藍は、私が。

 

「胸を貸してあげるから、遠慮せずにど~んと来なさい! 私も遠慮しないわよ~?」

「……」

 

 藍はしばらくの間、呆然と幽々子を見つめていたが――やがてため息をつくように、淡く笑った。

 

「……まったく、幽々子様には敵いません」

 

 ですが、と続けて、

 

「ひとつ訂正させてください。――あくまで実力という点では、胸を貸すのは私の方です」

「…………ふぅん、そう」

 

 ちなみに『胸を貸す』とは、上の者が下の者に稽古をつけてやることである。

 

「ゆ、幽々子様? あの、あんまり無茶は……」

「……大丈夫よぉ、お茶目な狐さんとちょぉーっと遊んであげるだけだから。――だから下がってなさい、巻き込んで墜とさない自信はないわ」

 

 ひいっ!? と顔を真っ青にした妖夢が、逃げるように――というか逃げた。脇目も振らずにすたこらさっさだった。

 

「ら、藍様? あの、なんだか笑顔が怖……」

「大丈夫だよ。ちょっと、どっちが上かはっきりさせるだけだから。――だから離れててくれ、な? できるな? な?」

 

 はひいっ! と顔面蒼白で敬礼をして、橙も逃げ出した。そうして合流した二人の従者たちは、互いに寄り添ってガタガタと震え上がっていた。

 

「……そういえば、あなたと弾幕ごっこをするのは初めてかしら」

「そうですね。……言うまでもないでしょうが、手加減は無用ですよ?」

「もちろん~」

 

 ――とまあ、藍の口車に乗せられているのは完全に演技なわけだが。せっかく藍がやる気になってくれたので、合わせているだけだ。

 それでいいのだと、幽々子は思う。これが今の幻想郷の在り方だ。嫌なことがあったら、弾幕ごっこで気分転換。苦しいことがあったら、弾幕ごっこで憂さ晴らし。そうやって、今の幻想郷は回っているのだから。

 もちろん、負けてやるつもりなど毛頭ない。今の幽々子は、いつもよりちょっとハイテンションなのだ。

 

「言っておくけど、今日の私は手強いわよ~?」

 

 ありがとうと、月見に礼を言われたのだから。ただの礼と侮るなかれ、そんじょそこらの『ありがとう』ではない。月見からの、魂すらも込めたような、無上の感謝で満ちた『ありがとう』だ。紫ですら言われたことがないかもしれない、大変貴重な『ありがとう』なのだ。

 あんな風に感謝されてしまったらもう、最後まで、月見さんのために頑張んないとなあ、と思うので。

 

「なんてったって――」

 

 軽妙洒脱にスペルカードを構え、開戦を告げる声は朗々と。

 

「――今すっごく、有頂天なんだからっ!」

 

 桜の如く雪が舞い散る夏空の下で、解き放たれる力の波濤は二つ。

 力は決して途切れぬ弾幕の嵐となって、緋想天に無数の流星を散らした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 別にこれといって仲がよかったわけではない。会えば、まあ、挨拶と世間話くらいはする。偶然道ですれ違うことはあっても、二人で予定を合わせて落ち合ったりはしない。天子と衣玖は精々その程度の関係であり、たとえどれほど自惚れても、『友人』という表現は当てはまらないだろうと天子は思っていた。

 だからこうして――己の身の危険も厭わずに、前に立って守ってもらえる光景など、考えたこともなかった。

 

「なんで……」

「なんででしょうね」

 

 衣玖らしい、慇懃無礼な答えであった。天子を振り返りもしない。

 

「なんでかわかりませんけど……なんとなく放っておけなくて、来てしまいました」

「な、なんとなくって……」

 

 天子はたじろいだ。衣玖が衣玖らしい声で、衣玖らしくないことを言っている。一瞬、ほんとに衣玖よね? とつい疑ってしまったほどだ。けれど風を受けて優雅にたゆたう緋色の羽衣は、間違いなく天子の記憶と一致している。

 天子の認識が間違っていなければ、衣玖は、いや龍宮の使いは、『なんとなく』などというひどく適当な理由で、自らを危険に晒すほどいい加減な妖怪ではなかったはずだ。今この状況で八雲紫と対峙することがどういう意味を持つのか、理解していないわけがないのに。

 

「……意外ねえ。龍宮の使いが割って入ってくるなんて」

 

 同じことを考えたのか、紫の声音には静かな驚きの色がにじんでいた。また同時に、新たな闖入者の姿に苛立ってもいた。

 

「あなたたちは、もう少し利口なものだと思ってたけど」

「そうですねえ。自分でもちょっと意外です」

 

 だったら、なぜ。

 衣玖は苦笑、

 

「――まあ、なんだかんだで、総領娘様も『ちょっとはどうでもよくないやつ』になってたってことなんですかね」

 

 独り言のような言い方だった。そしてそれで、衣玖は勝手に自己完結したらしかった。

 

「そうですね。……もしも総領娘様が昔のあなたのままだったら、私はこの場にいなかったでしょう」

 

 ですが、と続け、

 

「あなたは変わった。見違えるほどに。……これって全部、あの銀の狐さんのお陰なんでしょう?」

 

 霊夢と魔理沙が、えっなにそれ初耳、みたいな顔をした。天子はどう答えればいいのかわからず、とりあえず曖昧に笑い返しておいた。

 否定はしない。というか、ど真ん中に百点満点の大当たりだ。けれどそれを月見以外の人前で認めるのは、ちょっと恥ずかしかった。

 

「私は、あまり他人に興味がないですけど。……でもあなたと月見さんは、もう少し、見ているのも悪くはないかなって、思います」

 

 ひょっとするとそれは、彼女なりの最上の褒め言葉だったのかもしれない。いつも愛想笑いを張りつけている衣玖が、この時ばかりは演技とは思えぬほど穏やかに、頬を緩めていたから。だから天子は、ああ、とため息をつくように感嘆した。

 これが、月見だ。

 温厚な人柄で、ただ色々な人たちと友誼を結ぶだけではない。本人は別に意識もしていないのだろうが、不思議と、いつの間にか、結んだ友誼を他の人々まで広げてしまう。彼の周りでいつもいつも、人間も妖怪も神様も、みんなみんな好き勝手に笑い合っているのがその証拠。

 天子が、憧れた光景。

 そうして彼は、天子と衣玖の間をも、いつの間にかつないでくれていた。

 

 ――ああもう、やっぱり死ねないじゃないか。

 あなたのお陰で、私は変われた。あなたのお陰で、助けてくれる仲間ができた。

 なのにこのまま、ありがとうも言えずにさよならだなんて、絶対に嫌だ。

 会いたい。

 会いたいよ、月見。

 

「……紫さん。確かに総領娘様は、あなたにとって許されないことをしてしまったかもしれません。ですが、どうか今一瞬、思い留まってはくれませんか?」

 

 そーよそーよ、と霊夢が便乗した。

 

「こいつはね、悪気があったわけじゃないの。神社を壊しちゃったこと、本当にすごく後悔してて、何度も私に謝ったわ。だから、」

「――もう、そういう次元の話じゃないのよ」

 

 霊夢の言葉を遮り、紫が唐突に笑った。嘲笑とも自嘲ともとれる、力のないシニックな笑みだった。

 

「相手に悪意があるかないかにかかわらず、絶対に越えてほしくない一線って誰にでもあるでしょう? 理屈を超越した感情って、誰しもが抱くものでしょう? 私にとっては、それが博麗神社だったのよ。もう、理屈で納得できるような次元じゃないの……!」

 

 悪気はなかったんだから許してやれ、なんて。そんなの、大切なものを踏みにじられた被害者からしてみれば、屈辱以外のなにものでもない。それで許してなんになる。壊されたものが元に戻るのか。傷つけられた心が元に戻るのか。そんなので救われるのは、罪を都合よく許されたことになる加害者だけだ。許したことにさせられて(・・・・・)しまう被害者は、なにひとつとして救われやしない。

 衣玖の言葉も霊夢の言葉も、紫にとってはただ心の傷を広げる刃でしかない。まるで泰然自若としていた紫の表情に、初めて、痛々しい歪みが浮かんだ気がした。

 霊夢は言い返す。

 

「だからって、あんたはいちいちやりすぎなのよ。月見さんに嫌われるわよ」

「っ……、そうやって月見月見って、月見の名前を出せば私が躊躇うと思わないで……!」

 

 紫は声を荒らげる。心の奥でずっと封殺していた感情に、深いひびが走ってしまったかのように。

 それが引鉄となったのかはわからないが、紫の周囲に目でも追えないほどの速度で弾幕が形成されていく。

 だあー!? と魔理沙が悲鳴をあげた。

 

「なぁーんでお前は、向こうがトサカに来るようなことばっか言うかな!?」

「じ、事実でしょ!?」

「一言多いんだよ、明らかにっ! ……こなくそっ、『マスタースパーク』ッ!!」

 

 紫が弾幕を掃射すると同時に、魔理沙がミニ八卦炉を使い、天子の視界を潰すほどの熱光線を放つ。迫り来る弾幕を片っ端から喰らい尽くし、紫の懐まで穿つ風穴を空ける。

 

「っ……」

 

 紫は舌打ちひとつで扇を振るい、眼前に巨大なスキマを展開する。それだけでマスタースパークはあっさりと異空へ呑まれ、光すら残さずに消え失せる。

 ぬぐぐ、と魔理沙が呻いた。

 

「スキマは反則だろ……。あれじゃあどうやったって、こっちの攻撃なんて当たりっこない」

 

 紫の妖力は途切れない。なおも嵐の如く巻き上がり、第二派となる弾幕の空を作り上げていく。嫌というほど冷静だった紫の姿は、もう見る影もない。腹立たしげに、苦しげに、拳を震わせ、歯を軋らせ、前を見て、天子だけを睨めつけて、まとわりつく望まぬものをすべて振り払おうとするように、感情を力に変えてゆく。

 

「――是非もありません。一度、彼女を止めます」

 

 口早な衣玖の発言に、首を振る理由はないが、

 

「つっても、どうするんだ? お前だって見ただろ、あのスキマ相手じゃ――」

「私が彼女の動きを止めます」

 

 霊夢が眉をひそめた。

 

「……できるの?」

「任せてください。なのでみなさんは、その隙に上手いことやっちゃってください」

 

 詳しい説明はなにひとつとしてなかったし、そんな悠長なことをしている時間もなかった。紫はなおも弾幕の数を増やしていく。その物量は、もはやスペルカードルールの制約を逸脱していた。引鉄を引けば、天子たちの立つ平原を容易く更地へ変えるだろう。

 このままでは、やられてしまうだけ。

 

「とにかく、行きます」

 

 衣玖が、羽衣を揺らし前に出る。天子は霊夢たちと視線を交わし、頷き、互いの意思を確かめ合う。

 ――直後、鼓膜を打ち抜くほどの轟音が木霊した。

 

「……!?」

 

 駆け抜けた閃光で、刹那の間視界が白で染まる。驚いたなどという程度の低い話ではない。背筋が震え上がる本能的な恐怖すら感じて、天子は脊髄反射で己の前方を凝視した。

 紫の体が、驚愕と苦悶の表情とともに『く』の字に折れ曲がっていた。

 ――以前、衣玖に興味本位で歳を訊いた時のことを思い出した。

 衣玖の『空気を読む程度の能力』は、応用次第で雷を生み出すことも可能であり――だから私を怒らせるとビリビリしますからねー気をつけてくださいねー、と黒い笑顔で脅された経験がなければ、紫の体を貫いたのが雷なのだと気づくことはなかっただろう。

 展開されていた無数の弾幕が、空へ溶けるように消滅していく。弾幕を維持することすらできなくなるほどのダメージが、紫の体を駆け抜けたという証左。

 紫の動きが、止まった。

 

「――皆さん!」

「……!」

 

 絶好の隙だった。

 

「やるわよッ!」

「ああ! 人間様の意地を見せてやるぜ!」

 

 二人の声に背を押され、天子は空へ飛んだ。天界と呼ばれるこの場所よりも、更に高い天の先へ。

 迷いがないといえば嘘になる。だがそれ以上に、今の天子にはもう、このままやられるわけにはいかない理由があるのだ。

 天子を支えてくれる人がいる。助けたいと言ってくれた人がいる。

 だから、馬鹿な失敗をしてしまった自分だけれど、取り返しのつかないことをしてしまった自分だけれど、諦めてしまいたくなかった。

 この異変を通して、天子が本当に願っていたこと。諦めかけた夢の欠片に、もう一度手を伸ばしたかった。

 その想いを、燦然と輝く緋色の波動へと変える。

 

「ッ……!」

 

 紫が苦悶を押して体を動かそうとする――が、衣玖の方が速い。

 

「させません」

 

 二度目の閃光と轟音、

 

「――ッ!?」

 

 紫の体が、今度は『く』の字から反対方向に跳ね上がる。弾幕はもちろん、スキマの展開すら許さない。

 充分だった。

 響く宣言は三つ、

 

「『夢想封印』!!」

「『ファイナルスパーク』!!」

 

 それは、片やひとつひとつが紫を呑み込むほど巨大な七色七発の弾幕であり、片やマスタースパークを遥かに凌駕し、立ち塞がるものすべてを等しく嚥下する『砲撃』。

 そして、

 

「――『全人類の緋想天』!!」

 

 開放した霊力を最大限に、天子が放つは天より降り注ぐ緋色の彗星。ファイナルスパークほどすべてを呑み込む派手な物量はないが、代わりに限界まで凝縮され研ぎ澄まされた軌跡は、万物を貫く剣が如く。

 

「――!!」

 

 三人の全力が紫を貫き、包み込み、嚥下し――星屑を撒き散らし、爆ぜる。

 それは奇しくも、弾幕ごっこの決着を告げる、光の終止符と同じ輝きをしていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 あとには静寂だけが残った。

 直視が敵わないほど激しい閃光が消えれば、天子たちの眼前にはただひとつ――八雲紫の倒れ伏した姿。着物の随所が破れ、焼け落ち、うつ伏せで、身動きひとつする様子もない。押し潰されそうになる妖力のプレッシャーもすでになく、かつての静けさを取り戻した平原の姿が、かえって不気味すぎるほどだった。

 

「……終わったと思うか?」

 

 天子が地に降り立つと同時、半信半疑で呟いた魔理沙に、誰も反応を返すことができなかった。

 三人が全力を撃ち込んだのだ。いくら大妖怪とはいえ、気を失うこともあるだろう。

 だが一方で、幻想郷最強の地位に君臨する彼女が、こうもあっさり膝を屈しなどするものなのか。

 

「……とりあえず、今のうちに逃げちゃえばいいんじゃないの」

 

 紫の狸寝入りを疑うような、神経質な声だった。

 

「本当に、ちょっと目を回してるだけかもしれないし。だったら今のうちに月見さんと合流しちゃえば、私たちの勝ちだわ」

 

 霊夢が、紫から遠ざかる方向を指さして言う。本来であればスキマを操る紫から逃げるなど不可能だが、それも彼女の意識が健在であればの話だ。こうして彼女が沈黙した以上、月見の到着を馬鹿正直に待ち続ける必要はない。

 

「ちょっと待ってて、月見さんに連絡取るから」

 

 霊夢が、懐から一枚の札を取り出した。垢抜けした草書で描かれた術式に、自然と、一瞬――ほんの一瞬、皆の視線が霊夢へと引き寄せられる。

 その一瞬が、どうしようもない命取りになった。

 天子が紫から視線を外したのは、本当に一瞬だったはずだ。一秒か、二秒か、ともかく誰だって簡単に数えられる程度の刹那でしかなかった。

 

「――あ、」

 

 その一瞬で、ゆらり、まるで幽鬼のように前触れなく、唐突に、八雲紫が立ち上がっていた。

 全身の肌が粟立ったのと、霊夢と魔理沙の体が吹き飛んだのは同時。

 理解の範疇を振り切っていた。背後から二人の小さな悲鳴が聞こえて、ようやく紫の姿が消えていることに気づいた。振り返る。霊夢と魔理沙の体が、何度も地面を跳ねて転がっている。だが紫はいない。どこにもいない。

 

「下がって!!」

 

 衣玖に肩を引かれた。爪が食い込み跡を残すほどの力に、まるで投げ飛ばされたような心地がした。

 

「『龍魚ド――

 

 衣玖の声が、あまりにも不自然な位置で途切れる。天子は倒れそうになる体で慌ててたたらを踏み、振り返る。

 赤、

 

「あ、」

 

 本来あるべき場所を離れ、鮮血とともに宙を舞う衣玖の右腕(・・・・・)を見た時――ようやく、意識が現実に追いついた。

 

 追いついた時にはもう、終わってしまっていた。

 

 痛みはなかった。けれど確かに、自分の右肩から袈裟の方向へ、体が斬り裂かれていくのを感じた。

 だからきっと――見たこともないこの赤い飛沫は、

 私の、血。

 

「――……」

 

 走馬灯なんて流れなかった。黒で潰れていく天子の意識を埋め尽くしたのは、すべてのきっかけになってくれた、心優しい銀の狐の姿だった。

 

 ――体が崩れ落ちていく。

 

 わがままお嬢様だった天子に、変わるきっかけを与えてくれた。ちょっとだけいじめられたけれど、弾幕ごっこの修行を手伝ってくれた。水月苑にいつでも来ていいと言ってくれて、天子と友達になってくれた。

 

 ――真っ暗になっていく。

 

 そんな彼と、もう一度会うこともできずに終わってしまうのが悔しかった。紫を非難する資格なんて天子にはないけれど、それでも最期に、少しだけでいいから、ありがとうの一言くらいは伝えさせてほしかった。

 

 ――なにも聞こえなくなっていく。

 

 もう一度会いたかった。もう一度話をしたかった。もう一度、いっしょに修行をしたかった。もう一度、尻尾を触りたかった。もう一度、また明日と約束をして別れたかった。もう一度、月見のことを考えながら眠りたかった。もう一度、天界に昇ってくる月見を待っていたかった。

 もう一度、おはようと、一緒に笑い合いたかった。

 

 

 ――すべての感覚が消えていく。

 

 

 もう一度……。

 もう、一度……。

 

 

 ……………………。

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 …。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ⑨ 「ヘヴンリー・クライ」

 

 

 

 

 

 始めはささいな出来心だった。その出来心を、今では手放しで褒めちぎってやりたい。

 今から何ヶ月か前の春の日だ。その日、喉から少女らしからぬ呻き声が出てきそうなほど退屈していた天子は、頭の中をカラにしながら地上の世界を見下ろしていた。

 頭の中をカラにしていたということは、なにか面白いものを見たかったり、見つけたかったりしていたわけではないということ。歌に飽き、踊りに飽き、読書に飽き、勉強に飽き散歩に飽き運動に飽き料理に飽き食事に飽き昼寝に飽きてしまえば、やりたいことがなんにもなくなって、ボケーっと地上を眺めるくらいしかできなくなってしまっていた。

 いつからだろう。これといった目的もなく、欲望もなく、日々を惰性のまま生きるようになったのは。

 昔はまだ楽だった。曲がりなりにも比那名居一族の総領娘として、ある種の英才教育というか、学ばなければならないことはとかくたくさんあった。勉強は好きでなかったが、好きでなくともやらねばならないことがあるという状況は、今思えばそこそこありがたかったような気がする。

 粗方の教育を修了し、自由時間が多くもらえるようになった途端、天子は自分を見失った。いや、初めのうちはまだ大丈夫だったのだ。自分の欲望が赴くまま、総領娘の権力を悪用して傍若無人の限りを尽くし、本来とはまた違った意味での『不良天人』の名をほしいままにした。

 十年くらいは持っただろうか。いつしか、自分勝手に振る舞うのにも飽きてしまった。

 もともと、飽きっぽい性格だったのだ。

 だから遂に、生きることにも飽きてきたのだと、それだけの話。

 こうして地上を見下ろしているのだって、特に理由があるわけではない。ベッドに寝転がってボケーっと天井を眺めることもできたし、天界の街中をボケーっと歩くこともできたし、清水の流れをボケーっと見続けることもできた。そんな中で天子が地上観察を選んだのは、やはり出来心だったのだろう。

 銀の狐を見つけた。

 

 

 

 初めは、変な狐だとしか思わなかった。普通、狐の毛色は黄金であり、稲荷神であれば白と相場が決まっている。銀狐と呼ばれる狐もいることにはいるが、どれも黒と白が入り混じった、あまり銀とはいえない色をしている。しかし彼は、陽の光を星屑にして返すほど、徹頭徹尾が美しい銀色であった。彼ほど銀狐という言葉が似合う狐を、天子はその時になって初めて目の当たりにした。

 妖怪だろう。稲荷神ではない。稲荷信仰において神の遣いは白狐であり、銀狐は金狐と並んで悪しき存在として扱われている。信仰されない狐――それはすなわち、妖狐ということだ。

 変な狐。しかし所詮は、ちょっと毛の色が珍しいだけのこと。天子がそれ以上、彼の姿を目で追い続ける理由などなかった。

 彼が人里のど真ん中で、子どもたちにじゃれつかれながら買い物をしてさえいなければ。

 妖怪の前では人間など赤子みたいなものだというのに、子どもたちに妖狐を恐れている素振りはまったくなかった。子犬みたいに後ろをついて回り、子猫みたいに尻尾にじゃれつき、小猿みたいに背中をよじ登ったりしている。一生懸命妖狐の手を引いて、うちのお店も見てってよーとせがんでいる子どもまでいる。

 子どもが子どもなら、大人も大人だ。妖狐の怒りを買ったって文句は言えないほどはしゃぐ子どもたちを、たしなめる者など一人もいない。みんながにこにこと笑顔を浮かべて、微笑ましそうに妖狐一行を見守っている。中には子どもたちに便乗して、尻尾をもふっと触っていく連中までいる始末だ。

 そして子どもが子どもで大人が大人なら、妖狐も妖狐である。つきまとわれるわ尻尾を触られるわ背中によじ登られるわ手をぐいぐい引っ張られるわで、相当目障りで失礼なことをされているはずなのに、青筋のひとつも浮かべやしない。さすがに耳を引っ張られた時だけは顔をしかめるものの、それ以外は満更でもなさそうな様子で、子どもたちのされるがままになっている。子どもたちと一緒にのんびり歩いて、のんびり買い物をして、時には立ち止まりのんびり遊んでやったりしている。

 それは、異様な光景であった。確かに地上の世界では、人間と人外の距離は思いの外近い。過去に地上観察をした時にも、買い出しをする金毛九尾、居酒屋をはしごする鬼、置き薬を配って回る兎、人気和菓子店の行列に並ぶ半人半霊などを目撃している。そもそも、人里の代表からして半人半妖である。

 だが彼は、その中でも群を抜いて人に友好的すぎた。人間が狐の耳と尻尾をつけて歩いているかのようだ。いや、同じ人間同士ですら、あそこまで面倒見のいいお人好しは稀だろう。

 少し、興味が湧いた。どうやら相当な変人みたいだから、暇潰しで眺めるにはちょうどいい。

 

 

 

 のんびりと買い出しを終えた妖狐は、やはり子どもたちにぐいぐい手を引かれて、里の広場の方へ向かっていった。一体なにをするのかと思えば、ベンチに座り両目を手で覆った妖狐を置いて、子どもたちが一斉に里中に散らばっていく。

 かくれんぼらしい。

 素で、はあっ? と尻上がりな声が出た。そんな馬鹿なことがあるかと思った。恐らくいい歳をしているであろう妖怪が、人間の、しかも子どもの遊びに付き合うだなんて。

 妖狐がゆっくり数を数えている間に、子どもたちは実に手慣れた様子で、思い思いの場所に身を隠していく。八百屋からダンボールを借りて頭から被る者、ストローを装備し池に飛び込む者、屋根に登り地上からの死角を衝く者など。レベルが高い。

 そして六十を数え終えた妖狐が立ち上がり、こちらもまた手慣れた様子で子どもたちを捜し始める。のんびりふらふらと歩いているくせに、悩むことも迷うこともなく、次々と子どもたちを見つけ出していく。子どもが隠れそうな場所は既に把握しているのだろう。

 手慣れているということは、それだけ経験があるということだ。一体彼は何度、ああやって子どもたちとのかくれんぼに付き合ってきたのか。

 更には子どもたちを捜す中でも、人里の代表を務める少女に感謝されたり、椿の髪飾りをつけた少女になにやらしつこく追い回されたり、メイドな少女と親しげに談笑したり、子どもたちの親から貰い物をしたり。

 笑顔、だった。

 彼の傍らには、常に誰かがいた。常に誰かが、楽しそうに、嬉しそうに、微笑ましそうに、笑っていた。

 こんな世界があるのかと――その時天子は、愕然としていたと思う。お嬢様育ちな天子にとって、笑顔とは、単に相手のご機嫌を取るための処世術でしかなかったから。最後に愛想笑い以外の笑顔を浮かべたのは、一体いつの話だろう。

 ああもあたたかい笑顔であふれる世界があることを、初めて知った。

 だから天子はふと気がつけば、彼の姿ばかりを追いかけるようになっていた。

 

 

 

 新しい日課ができた。それ以来天子は毎日天界の縁まで駆けていって、池の魚を覗き込む子どものような目で、地上の世界を眺めるようになった。

 あの妖狐の姿を、追い続けた。

 すぐに、あの妖狐が、最近になって山の麓あたりにできた温泉宿の亭主であることを知った。週末になると、北は妖怪の山から南は迷いの竹林、東は博麗神社から西は無縁塚まで、幻想郷の至るところからたくさんのお客さんが集まっていた。冥界や彼岸といった、この世とは異なる世界から足繁く通う者もいた。お客さんを迎え入れる妖狐の周りでは、まるで宴会のような笑い声が木霊していた。

 ある時は、夜中に突撃してきた吸血鬼の姉妹を迎えて、庭でバーベキューをしていた。

 ある時は、不老不死の少女や常闇の妖怪や化け猫と一緒に、屋敷の池で釣り大会をしていた。

 ある時は、藤の着物を着た鬼の少女にメイド服の少女、守矢神社の巫女に冥界の庭師、更には地獄の閻魔様に金毛九尾といった面々と一緒に、温泉宿の大掃除をしていた。

 屋敷の周囲だけに限った話ではない。人里はもはや言わずもがな、山に登ればすれ違う天狗や河童たちみんなから手を振られ、紅魔館に寄ったついでで門番に差し入れをすれば感動でむせび泣かれ、霧の湖に立ち寄れば氷の妖精から弾幕ごっこをけしかけられ、魔法の森を歩けば偶然出会った人形師に逃げられ、香霖堂のドアベルを鳴らせばその後何時間も出てこず、博麗神社にお賽銭を入れれば貧乏巫女から厚く感謝を捧げられ、永遠亭に行けば月のお姫様に抱きつかれる。

 屋敷にいても外を歩いても、やっぱり妖狐の傍にはいつも誰かがいて、やっぱり楽しそうに笑っている。そしてその中で生きる妖狐は、なんというか、命を謳歌しているように天子の目には映った。ああも日々を楽しんで生きているやつがいるのに、それに比べたら今の自分は一体なんなんだと、嫉妬すらしてしまうほどだった。

 故に、天子は豁然(かつぜん)と悟った。

 ――私に足りないものは、これ(・・)だ。

 天子と妖狐の決定的な違いは、隣人の存在だった。ともに笑い合える仲間だった。『不良天人』として傍若無人を尽くした天子に、友達とか、知り合いとか、そういう存在は一人としていない。だが、妖狐の周りにはたくさんの人たちがいる。老若男女も種族の違いも超えて、たくさんの人たちが妖狐と一緒に生きている。

 対極だ。自分とはまるで正反対の場所に、あの妖狐はいる。

 ――もしかして、今の私の人生がこんなにも退屈なのは。

 それは私が、独りぼっちで生きているからなんじゃないか。

 そんな気がした。独りぼっちでいるのを寂しいと思ったことはなかったし、むしろそっちの方が、人間関係に悩まない分だけ気楽でいいとも思っていた。けれどたくさんの人々に囲まれて生きる妖狐の姿を見て、自分の根底が決定的に揺らいだのを感じた。

 もしも私に仲間がいれば、あんな風に、笑って毎日を過ごせるようになるのだろうか――。

 だから天子は、妖狐の姿を追い続けた。彼の生き方を知れば、生きることにすら飽きてしまった自分の人生を、なにかしら好転させる手掛かりが得られるような気がした。

 春の終わり。

 いつしか天子は、人々に囲まれる妖狐の姿に、憧憬を抱くようになっていた。

 

 あんな風に。

 月見みたいになりたいと、思ったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――あああああああああああああああああああ!!」

 

 血を吐くほどに、喉が震えた。

 人が出すような声ではなかったと思う。自分の小さな体の、一体どこをどう動かせば、これほどの声で叫ぶことができるのか。ただ少なくとも、途中で本当に血を吐きそうになって、霊夢の叫びは感情の半ばで途切れた。

 天子が倒れている。

 大空みたいに青かった髪を、天そのものみたいに綺麗だった服を、直視すら躊躇われるほど赤黒く染め上げて崩れ落ちた彼女は、動かない。

 もう、ぴくりとも、動かない。

 

「……ッ、ハッ、ハ……ッ!」

 

 動かない天子を見下ろし、紫が肩で息をしている。霊夢たちの総攻撃で、紫は決して軽くない傷を負った。服は破け、帽子は消し飛び、肌には血もにじんでいた。しかしそれらの痛みをすべて、怒りという感情の爆発だけで強引に振り切って、紫は天子を斬り捨てた。

 霊夢の短く揃えられた爪が、土を抉った。

 

「ゆぁ、いっ…………!!」

 

 きっと、喉をやってしまったのだと思う。声が掠れて上手く出てこない。だが声が出ずとも、体が動かずとも、霊夢の奥底を這いずり回る激情だけは治まりようがなかった。

 信じられなかった。信じたくなかった。無論霊夢とて、紫が不殺の妖怪などとゆめゆめ思っていたわけではない。霊夢が知らないだけで、人を殺したことも、喰ったこともきっとあるだろう。人と妖怪が、完全とはいえないまでも幻想郷で共存を始めたのは、高々ここ数百年程度の話だ。

 だが霊夢の目の前で、霊夢が殺すなと何度も訴えた少女を、こいつは。

 潰れた喉で、霊夢は咆えた。紫に一撃をもらい、地面を何度も打ち転がった体はまるで石のようだ。赤熱した脳でどれほど命令しても、汚れた指先が再度土を抉るだけ。

 関係ないと思った。

 隣では、同じく一撃をもらった魔理沙が完全に気を失って動かなくなっている。龍宮の使いも、この状況で姿が見えないということはやられてしまったのだろう。

 霊夢しかいない。

 あいつをぶっ飛ばせるのは、霊夢しかない。

 

「――ぐ、あ、ああああああああ……ッ……!!」

 

 そんな体で立ち上がったところで、満身創痍のお前になにができる? ――そう自問する声が聞こえた。

 関係ない、と答えた。

 なにができるとか、できないとか、そういう次元の話じゃない。

 博麗霊夢は、今は、たとえこのまま一生動けなくなるとしても今だけは、動かなければならない。

 ――だから、動いてよ。

 動いてよ、私の体。

 なんで動かないのよ。

 動いてよ。

 動けよ。

 今すぐ動いて、目の前のあいつをぶっ飛ばしてやれよ。

 荒く肩を上下させる紫が、横目で霊夢を捉えた。

 

「……やめなさい、霊夢。獣みたいだわ」

 

 獣だっていい。

 それで紫をぶっ飛ばせるなら、獣にだってなってやる。

 ――だから動けよ、私の体!!

 

「……まったく」

 

 だが、駄目だった。たとえ満身創痍の体でも、気力だけですべてを覆すなんて。そんなの、所詮は御伽噺の中だけの話で。

 静かなため息の音。結局、首を振った紫に真横に立たれ、額をそっと指で這われても。

 それでも霊夢の体は、最後まで動いてくれなかった。

 

「もう、忘れなさい。悪い夢だったのよ」

「っ……ぅ……」

 

 甘い香り。夢に落ちる感覚。あの時と同じだ。あの時は魔理沙が助けてくれたが、今は、誰もいない。

 これで終わりだという、あまりにも鮮明すぎる絶望だった。

 

(……ああ、もう)

 

 全身から力が抜けて、霊夢を唯一突き動かしていた怒りすらも消えた。これ以上足掻く精神力を根こそぎ奪われ、あとに残ったものはといえば、自分のすべてを否定したくなるほどの自己嫌悪だった。

 情けない。悔しい。天子を守れなかった己の無力が惨めすぎて、涙すら流れない。

 もしも。

 もしも自分に、もっと力があれば。

 天子を守ることも、月見との約束を守ることも、できたのだろうか。

 もっと、力があれば――。

 だが、そんなの夢想したところでもう意味はない。これでなにもかも終わりだ。きっと霊夢はすべてを忘れる。天子のことも、この異変のこともすべて忘れる。紫の術が脳を髄まで染み込んでしまえば、次に目が覚めた時に待っているのはなにもなかったことにされた偽りの日常だ。

 終わり。

 霊夢は天子を守れなかった。月見との約束を守れなかった。そしてすべてを忘れた。それで終わり。

 終わりなのだ。

 悲しいとも思わなかった。涙は最後まで、流れなかった。

 まぶたを閉じた、

 

「――はい、そこまで」

 

 

 

 紫が術を完成させる間際、後ろから肩に手を添える者があった。

 それに一瞬気を取られた直後、紫の視界が回転した。

 投げ飛ばされている。

 

 

 

「――お疲れ様、霊夢。頑張ったねえ」

 

 聞き馴染みのある声が聞こえた。紫の術が完成する間際だった。額を這う指の感覚がどこかに消えて、代わりに一回り小さな、けれど抱き締められるように温かい掌が、霊夢の頬を優しく撫でた。

 もうほとんど微睡んだ意識では、それが果たして誰の掌だったのか、判断することはできなかったけれど。

 

「大丈夫だよ、あの天人は生きてる。月見が今、助けた。だから、もうだいじょーぶだ」

 

 けれど、なにを言われているのかはわかった。

 これで全部終わりではなかったのだと、わかった。

 

「でしょ?」

「ああ。もう大丈夫だよ」

 

 あの人の声。

 

「――ありがとう、霊夢」

 

 涙が流れた。

 それですべて救われたかのように、霊夢は意識を手放した。

 もう大丈夫なのだと。

 本当に、そう信じることができたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 なにが起こったのかは、肩に手を添えられた時点で理解していた。その上で紫の心に湧いたのは、憤怒でも悲嘆でも焦燥でもなく、染み渡るように静かな諦念だった。

 回転した体勢を整え、地を足で踏む。

 

「紫ったら、随分と暴れたねえ」

 

 意識を失った霊夢を庇い、童子と見紛うほど小さな少女が立っている。ふらふらとおぼつかない足下で、一見すれば隙だらけに見えるが、その異様な存在感は金縛りのように紫の肌を痺れさせる。

 

「でも、もうこのへんにしといてやったら? 私は、やめといた方がいいと思うなあ」

 

 木の枝めいた華奢な細腕に宿るのは、一振りで大地をも砕く鬼の怪力。たとえどれだけ幼い見た目をしていようとも、内に秘めた力は紫にも引けを取らない――否、ことその体一つの戦闘能力に限れば紫すらも凌ぐ、小さな小さな大妖怪。

 鬼の四天王として伝説に名を残す少女――伊吹萃香は、そうやっていつも通りに、伊吹瓢の中身をのんびり喉へ傾けていた。

 

「……」

 

 萃香まで来たかと、静かに思う。予想していなかったわけではない。彼女だって紫と同じで、人間という種族に肩入れしている妖怪の一人だ。紫が怒りを理由に人間に危害を加えれば、止めようとすることもあるだろうと考えてはいた。

 その上で、考えなかったことにした。

 月見は、仕方ない。殺されそうになっている命があればまず止める。そういう妖怪だから、仕方ない。でも萃香は違う。

 紫が月見と出会うよりも前から、ずっと親睦を深め合ってきた親友同士だから。

 だから、萃香が敵に回ることを考えたくなかった。紫の怒りを我が身のように理解し、共感してくれるのではないかと願っていた。

 結局、ただの独りよがりだったのだ。

 紫に共感し、自らの意思で力を貸してくれたのはたった一人だけ。その一人だって紫の式神なのだから、言ってしまえば手を貸してくれるのが当たり前だ。

 そういう意味では、紫に本当の味方など一人もいない。月見も萃香も、霊夢も魔理沙もみんなが紫の敵で、博麗神社を壊した悪い天人の味方。

 寂しくて、泣いてしまいそうだ。

 ねえ。ねえ、そいつはそうやって、みんなから守られるのに値するやつなの? 確かに私は、絶対に正しいことをしてるわけじゃない。でもそれは、博麗神社を壊したそいつだって同じ。なのに、誰にも味方してもらえないくらいに間違ってるのは、私なの?

 ねえ。

 ――ねえ、教えてよ。月見。

 立ちはだかる萃香の奥。天界を吹き抜ける夏風の中で、陽光を弾き返す強い銀色が揺れている。

 月見はなにも言わず、もう決して離すまいとするように、天子の体を強く腕の中に抱いている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 名前を呼ばれたような気がして、天子はゆっくりとまぶたを上げた。そうしたら目の前に月見の顔があったから、夢かな、と思ってしまった。

 ひょっとしたら神様が、最期に願いを叶えてくれたのかしら。

 

「……遅くなってごめんな、天子」

 

 耳をくすぐる、聞き心地のいいバリトンの声。少しずつ、周りの状況が頭に入ってくる。どうやら天子は、月見の腕の中にいるらしい。背中に腕を回される、優しいぬくもりを感じる。

 本当に夢みたいだと思ったけれど、ふと、びっくりするくらいに真っ赤になった自分の体が見えたので、夢ではなさそうだ。

 紫に、斬られた。

 でも、不思議だ。普通、これくらい出血したら、意識なんてあっという間になくなってしまいそうなものなのに。それとも、見た目ほどひどい傷ではないのだろうか。そういえば痛みもほとんど感じない。月見の腕の中にいる温かさだけを感じる。なんて都合がいいんだろう。

 やっぱり神様が、願いを叶えてくれたのかな。

 唇を動かす。

 

「――月見、」

 

 血を吐くこともなく喋れたので、そのまま続ける。

 

「……私ね、ずっと、月見に憧れてたんだ」

 

 月見が、虚を衝かれたように眦を持ち上げた。

 

「私と月見が出会ったのは、少し前の天界が初めてだけど。でもそれより前から、私はあなたのことを知ってたの」

 

 思い出すのは、幻想郷がまだ春だった頃。

 

「ものすごく退屈してて、本当にどうしようもなくなってた時に、暇潰しで地上を眺めてたら……月見を見つけたの」

 

 あれからずっと、月見の背中ばかりを追い掛けてきた。

 

「……私、天界の中じゃあ『不良天人』って呼ばれてて……まあ、嫌われ者、なのかな。昔はすごいわがままで、やりたい放題やって、たくさんの人にたくさん迷惑を掛けてたから。……でも、今は違うよ。自分で言うのもなんだけど、ずっと丸くなって、ちょっとは女の子らしくもなったつもり」

 

 当時の天子が今の天子を見たら、きっとなにがなんだかわからなくて放心してしまうだろう。別人だと言われても仕方ないと思う。

 私がこんなにも変われたのは、

 

「全部、月見のお陰なんだ……。月見って、お友達たくさんいるでしょ? 人間だったり妖怪だったり、男の人だったり女の人だったり、たくさんの人たちがあなたの周りにはいる。でも、嫌われ者の私にはいなかった。……だからかな。あなたを……ううん、あなたと、あなたの周りにいる人たちを見ていたら、今の自分がすごく寂しい生き方をしてるって、気づいたの。

 月見みたいに、なりたいって、憧れて……」

 

 月見の傍に――地上に行きたいと、考えた。

 今になって思えば、きっとそこが運命の分水嶺だったのだ。そして天子は間違えた。あの時己の心を奮い立たせ、天界を下り、地上に降り立つことができていれば、きっと博麗神社を壊してしまうことも、紫に斬られてしまうこともなかった。

 ということはつまり、天子は降りられなかったのだ。いざ天界の縁に立って地上を見下ろすと、足が震えて動けなかったのだ。

 地上に降りていったとして、天子がみんなに受け入れてもらえる保証などどこにもない。むしろ『不良天人』である自分に、誰かと上手くやっていく力があるとは思えなかった。今は、遠くただ眺めているだけだからなにも心配はない。一度地上に降り立ってしまえば、もうそんな甘えは通用しない。

 もしもなにか間違えてしまって、地上の者たちから拒絶されてしまったら。天界がダメで、地上でもダメになってしまったら。

 長い間独りで生きてきた天子は、人の心を汲み取る力に弱かった。どうすれば人と仲良くなれるのかがわからなかった。だからもしものことを考えてしまうと、急に怖くなって、足が竦んだ。

 

「……だから、異変を起こそうって思ったの」

 

 別に、異変を起こさなければならなかったわけではない。異変を起こしたかったわけでもない。数ある選択肢のうちで一番理想的だったのが、『異変を起こす』という手段だった。だから異変を起こすと決めた。

 自分から降りられないのなら、向こうから昇ってきてもらえばいいのだから。

 

「暇潰しだなんて、嘘っぱち」

 

 そんなのはただの建前で、本命は、月見と――地上の人々とつながるきっかけを作ること。異変を利用すればそれが可能だった。ちょうど幻想郷では、いくつかの前例があったのだから。

 過去に異変を起こした者たちが皆、最終的に幻想郷の住人たちと和解し、受け入れられてきたという前例が。

 

「ただ、みんなに、私を、見つけてほしかっただけで」

 

 だから同じことをやれば、私だって、みんなに受け入れてもらえるかもしれないと思った。地上に降りていくことすらできない情けない自分でも、異変を利用すれば、あの輪の中に入れるきっかけを得られるかもしれないと期待した。

 その結果がこのザマだ。

 

「馬鹿だよね、私……」

 

 異変を起こすまではよかった。憧れの月見と一緒に修行をして、ちょっといじめられたりもしたけれど、あの時の天子は幸せだった。

 異変を起こしてからがダメだった。幻想郷の天気がおかしくなってすぐに、亡霊と鬼が天界に昇ってきてくれたが、彼女たちに異変を解決する気はまったくといっていいほどなかった。だから、やっぱり博麗の巫女が動かないといけないんだと思って、博麗神社をターゲットに小さな地震を起こすことにした。度重なる地震に不審を抱いた霊夢は原因の調査に乗り出し、やがて天子の待つ天界へと辿り着くはずだった。

 けれど霊夢は夏バテになってしまっていて、小さい地震を起こす程度じゃあ全然気づいてくれなくて。

 それでつい、少しヒヤリとさせるくらいじゃないとダメなのかと早まってしまって。つい、神社の脆さを計算に入れないまま強い地震を起こしてしまって。

 

「ほんと、ばかだなぁっ……!」

 

 少し、鼻の奥がツンとしてきたのを感じて、天子はゆっくりと深呼吸をした。泣いてはダメだ。自虐をしている場合でもない。最期かもしれないのだから、最期くらいは、ちゃんと笑顔で、ありがとうを、

 

「――、」

 

 ありがとうを。

 言う、はずだったのに。

 

「……月見?」

 

 なんの前触れもなく、ぎゅうっと、月見の胸の中に抱き締められてしまったから。

 あ、と小さく呟いた時には、もう遅かった。

 感情が、決壊していた。

 

「――ごめんね……! ごめんね、月見……ッ!」

 

 結局、天子が伝えたかった言葉は『ありがとう』などではなかった。そんなの、ただの子どもじみた強がりだった。

 修行を手伝ってくれてありがとう、ではなく。応援してくれてありがとう、ではなく。友達になってくれてありがとう、ではなく。

 修行を手伝ってくれたのに、応援してくれたのに、友達になってくれたのに、

 

「ごめんなさいっ……! うまく、できなかったよぉ……!」

 

 月見の胸に顔を押しつけて、必死に嗚咽を噛み殺した。目を痛くなるくらいに閉じて、必死に涙をこぼすまいとした。けれど全部無駄だった。いつまで経っても月見が放してくれなかったから、天子は少しの間、ぐちゃぐちゃになってしまって、赤子みたいに泣きに泣いた。

 本当に、馬鹿だ。

 変わりたいと、月見みたいになりたいと願って、少しくらいは彼の背中に近づけたつもりだった。でも実際は、なにひとつとして変われてなどいなかった。自分の都合だけで勝手な行動を起こして、他人に迷惑を掛けて、傷つけて、その上関係のない人たちまで巻き込んで、怪我をさせて。

 住む家を破壊されたのに、それでも天子を守ろうとしてくれた霊夢も。本当に赤の他人なのに、それでも一緒に戦ってくれた魔理沙も。他人に興味なんてないはずなのに、それでも駆けつけてくれた衣玖も。

 月見だって、服の至るところが傷んでいる。鋭利ななにかで斬り裂かれた跡があり、炎で焼かれた跡があり、薄い血がにじんだ跡がある。紫が放った足止めに苦しめられながら、それでも乗り越えて、天子を助けに来てくれた。

 みんなみんな、泣いてしまいたいくらいに優しい人たちばかり。

 なのに、なのにどうして私だけが、こんなにもダメなのだろう。

 

「悔しいっ……! 悔しいよぉぉぉ……!!」

 

 足が竦み、地上に降りられなかった自分が悔しかった。異変を起こすという楽な手段に逃げた自分が悔しかった。軽い気持ちで地震を起こし、博麗神社を壊してしまった自分が悔しかった。

 なにひとつ変われていなかった自分が。

 これで最期かもしれない自分が。

 涙も止められないほどに、悔しかったのだ。

 

「ごめんね……! ごめんね……っ!!」

 

 謝ってなにかが変わるとは思わないが、ただそうすることしかできない。嗚咽を何度も噛み、月見の胸に顔を押しつけ、涙はもう滂沱(ぼうだ)のようで、天子はただ、

 

「――謝ることはないさ」

 

 声が、止まった。

 月見の大きな掌が、優しく、柔らかく、天子の髪を梳いた。

 

「ああ。少なくとも、お前が私に謝ることなんてひとつもない」

 

 一体、いつぶりなのだろう。誰かの腕の中に包まれ、赤子をあやすように頭を撫でられるのは。

 そんな家族みたいなことをしてくれる人は、もう天子には、何年も何十年もいなかった。魂の奥底まで染み渡っていくような深い深い安らぎを感じて、気がつけば天子もまた、月見の背に両腕を回していた。

 止まったのなどほんの一瞬で、天子の頬を再び涙が伝っていく。けれどこの涙は、今まで流していたものとは少し違っているような気がした。

 あたたかい。

 

「むしろ、謝るのは私の方だ。このままじゃあダメかもしれないって、お前に焦られるようなことを言ってしまったしね」

「それは、」

 

 違うよ、と否定するよりも先に、

 

「だから、あとは私に任せてくれ」

 

 普段の柔和で穏やかな声とは違う、凛と耳朶を打つ強い響きだった。

 

「――こんな世界、私がどうとだって変えてやる」

 

 背に回された月見の指先が、まるで爪を立てるような力を帯びた。そこに宿っているのは瞋恚(しんい)ではなく、仁義でもなく、どこまでもまっすぐに澄んだ決意だった。

 月見の両腕が、まるで自分のすべてを――命そのものを包んでくれているような気がして、なんだかどうしようもなく安心してしまって、気づけば全身から力が抜けていた。

 力が抜けて、全部を月見に委ねていた。

 

「だから、今日はもうお休み」

 

 なんだか眠くなってきた。けれど恐怖はなかった。不思議と、このまま眠ってしまっても、また必ず目を覚ませるような。

 目を覚まして、また、月見と話ができるような。

 そんな、気がした。

 

「……また、助けられちゃうね」

 

 本当に助けられっぱなしだ。天子に変わるきっかけを与えてくれた。新しい日常を与えてくれた。弾幕ごっこの修行を手伝ってくれたし、友達にもなってくれた。

 もしも月見と出会えていなかったら、天子は今でも天界で独り、退屈に日々を喰われ続けていた。

 

「大したことじゃないさ」

 

 天子の耳元で、月見が静かに微笑んだ。

 

「お前を助けられなかったら、私としても実に目覚めが悪くてね。そういう意味では、自分が嫌な思いをしたくないだけさ。自分を守るためにやっているだけ。大したことじゃない」

「……ばか」

 

 天子も、笑った。

 

「……ありがとう、月見」

 

 一番初めに伝えたいと思っていた言葉は、自分でも拍子抜けしてしまうほどあっさりと、口からこぼれ落ちていた。

 天子の胸に満ちている気持ちは、こんな言葉では到底伝えきれなかったけれど。

 

「礼を言うには早いよ」

「早くないよ」

 

 月見の腕の中で、身じろぎするように小さく首を振って。

 大きな背中に、また、両手を回して。

 

「……ぜんぜん、早くない」

「……そうか」

 

 それから、ああもう眠るな、と思った。頭の中がぼんやりしてきて、まぶたが重くなってくる。明かりを消して布団に潜り込んだ時と同じ心地で、体が眠りに沈んでいくのを感じる。

 月見が優しく、髪を梳いてくれた。

 

「……おやすみ」

「……ぅん」

 

 まぶたが落ちる。今までの人生で一番暖かい寝床に体を預け、天子は透き通るような眠りに落ちていく。

 意識が途切れる寸前で、唇を動かした。

 ――あなたに会えて、本当に、よかった。

 果たしてこの言葉は、音になっただろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――だってさ。ちゃんと聞いてた、紫?」

 

 確かに。

 確かに、不可能ではないのだろう。スペルカードルールによる決闘は禍根を残さない。恨みっこなしの一本勝負。異変がスペルカードルールで解決されれば、それは事実上の仲直りだ。レミリア・スカーレット然り、西行寺幽々子然り、八意永琳然り、八坂神奈子然り――萃香だって、かつては異変を通して霊夢たちと対立し、敗北と和解を経て、幻想郷の住人たちに受け入れられてきた。今までみんなそうだった。和解できず幻想郷から居場所を失った者など一人もいない。

 だとすれば、「幻想郷に受け入れられること」を目的に異変を起こすことだってできるだろう。だがまさか本当にそんなことを考えるやつが出てこようとは、萃香にしてみれば痛快すぎて、声をあげて笑ってしまいそうだった。喉の奥をひくつかせ、口端を曲げるだけに留めておくけれど。

 

「っ……」

 

 萃香の問い掛けに、正面で佇む紫は答えなかった。俯き加減でよく見えないが、口元が唇を噛むように動いたから、聞いていなかったわけではないのだろう。同時に、聞きたくない言葉でもあったことだろう。

 壊したいから壊した。いっそのことそうであったなら、迷わずに済んだだろうに。

 

「どうする? まだ、やる?」

「……」

 

 紫はなおも答えない。だが地面に向かって伸びる棒切れと化したその両腕に、再び力がこもることもない。

 いい加減、紫だって気づいただろう。確かに本来、妖怪は人間を喰らうものであり、その命を奪うことに心を痛めない者は多かった。萃香も、紫も、生まれて間もない頃はそうだった。特にあの頃は、人を喰らって強くならねば他の妖怪に喰い殺されかねない、弱肉強食の世界であったから。

 今はもう違う。

 萃香だって、紫だって、今はもう変わったのだ。人を喰っていた頃とは違う。息をするようにその命を奪えていた頃とは違う。

 自分の中の致命的な矛盾に、紫はもう、気づいたはずだ。

 

「……ぅおお~い、月見ー!」

 

 聞き慣れた声が背後から聞こえて、萃香は首だけで振り返った。天界の縁の方から、こちらへ向かって飛んでくる人影がちらほらと。呑気に月見の名を呼びながら率いているのは、すっかりいつもの調子に戻った操であり、

 

「ちょっと天魔様ぁー、こんなところまで連れてきて一体なんなんですかー?」

「だぁから、お前さんらの力が必要だって何度も言っとるじゃないかっ。はいはい口よりも羽を動かす!」

「はぁ……ここ、空気が綺麗すぎてあんまり長居したくないんですけど……」

 

 慣れない天界の空気にため息をついているのは、幻想郷最速の異名を持つ射命丸文と、彼女ほどではないにせよスピード自慢の天狗たち。なーるほどねー、と萃香は口端を曲げた。

 人手を集めるから先に向かっててくれ、なんて言ってどこかに飛んでいったと思えば。

 

「ほら文っ、あいつじゃ! あの天人をばびゅーんと永遠亭に運ぶ! 怪我しとるから大至急っ!」

「ぜ、全然話が見えないんですけど……」

「とりあえずそのあたりは儂が責任持つから気にしないでっ! ハイ他のみんなも、ええと、霊夢と魔理沙と衣玖じゃな! キビキビ運ぶんじゃー!」

 

 紫を止める方ばかりに気を取られてすっかり失念していたが、確かに怪我人の搬送も重要だ。

 操にしては気の利いた行動に、月見は胸を打たれたような顔をしていた。

 

「操、あいつ……」

「にゃはは、こりゃーあとでお礼言っとかないとダメだねー」

「……そうだな」

 

 月見の腕の中では、天子が苦しさを感じさせない安らかな呼吸で眠っている。袈裟の方向に大きく走った裂傷には、幾枚もの札が折り重なり貼りついて、あふれ出てくる出血を見事に抑え込んでいる。止血の符、とでもいったところだろうか。昔から古今東西様々な術に手を出しては、気まぐれであんな風にオリジナルの符を作っていた月見だった。

 傍目ではあるが、楽観できるほど浅くはないにせよ、致命的なまでに深い傷でもないようだ。止血も既に終わっていることだし、このまま永遠亭まで運べば間違いなく助かるだろう。

 

「……そいつを運べばいいわけ?」

 

 月見の傍に降り立った文が、不機嫌な声で口早に確認した。月見との関係云々よりかは、単純に天界の空気から早く逃れたくて、先を急いでいるかのようだった。

 

「ああ。永遠亭まで、どうか頼む」

「そう」

 

 月見から託された天子の体を、服が血で汚れることも厭わずに受け入れる。二度ほど揺り動かし、決して落とさぬように、堅く。

 

「……深くは訊かないけど、大丈夫なんでしょうね?」

「ああ」

 

 主語のない問いではあったが、答える月見に迷いはなかった。萃香の頭上を超え、紫を見据えたその瞳は、強い。

 

「ならいいけど」

 

 ぶっきらぼうに肩を竦めた文は、それからぼそっと、

 

「……頑張りなさいよ」

 

 それっきりだ。突風が吹き荒び、萃香が一瞬目を瞑ればもう、そこに文の姿はない。天界の縁から下界へ向かって消えていく人影が、見間違いかと思うほど束の間、視界の隅で音もなく動いただけだった。

 あっさりと置き去りにされた天狗たちが、霊夢たちを抱え慌てて追いかけていく。操が、よろしく頼むぞー! と手をぶんぶん振って見送る。

 

「へー。まさかあいつが、あんたを応援するなんてね」

 

 月見と文の仲が改善したのは知っていたが、まさか文の方から「頑張れ」などという言葉を口にするほどだとは思っていなかった。新聞の新刊を毎回水月苑まで直接届けに行っているというし、意外と仲良しになっているのだろうか。

 月見は苦笑、

 

「もちろん、頑張るさ」

「ん。じゃあ私らは、万が一に備えて待機してるからー」

「ありがとう。でも、手間は掛けさせないよ」

 

 前を見た。唇を噛むでもなく、両手を握り締めるでもなく、体を震わせるでもなく、静かな悲しみだけに囚われ佇む紫を。

 手間は掛けさせない――その言葉には、どこか確信にも似た響きがあった。

 月見も気づいているのだろう。紫の矛盾に。

 ――紫はもう、比那名居天子を殺せない。

 一歩を踏み出す。

 

「……紫」

 

 名前を呼ぶ。答えはない。それでも月見は名を呼んだ。歩みを進めた。

 どうとでもしてやると少女に誓ったこの世界を、変えるために。

 辛いこともあったけれど、それでも最後には、みんなが笑えるように。

 

「紫」

 

 八雲紫は、なにも言わない。

 泣き出しそうな顔で、月見だけを見ている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――この異変、きっと本当に悪いやつなんていないんだよ」

 

 荒れ果てた平原で辛うじて倒れずにいた桃の木の陰に座り込んで、萃香が開口一番そう言った。

 

「天子も、月見も、紫も、霊夢も、私だって、みんなが等しく間違った。その皺寄せが、偶然あの子に行っちゃったんだ」

「……」

 

 足を前に投げ出し両手を後ろにつく子どもらしい座り方で、差し込む木漏れ日に目を細める。その表情は、喜怒哀楽の哀が欠如しているような彼女には珍しく儚げだった。

 お前さんもそんな顔をするんだなと心の中で呟いて、操は隣で胡座を掻く。

 

「天子は博麗神社を倒壊させてしまったし、そもそも起こす必要もない異変を起こした。月見は天子に、必要以上に手を貸しちゃった。紫は、神社壊されて怒るんだったら日頃からちゃんと修理しとけって話だし、霊夢だってわかりやすく異変が起こってるのに、神社が壊れるまで腰を上げなかった。……私だってまあ、一回天子と闘ったのに、目的も訊かないで見逃しちゃったわけだしね」

 

 静かだった。夏風が吹いて、桃の枝葉と、足元の草花が涼しげに揺れている。その音だけで満たされている。この平原の、本来あるべき姿だった。

 操が見据える先では、ちょうど指先くらいの大きさになった月見と紫が、互いに寄り添って話をしている。その声は、ここからでは遠すぎて聞き取れないけれど。

 

「とりあえず、儂らはなにもしないで済みそうじゃなー」

「そうだね」

 

 月見が紫を言葉で止められず、やむをえず戦ってしまうこともあるだろうと思っていた。月見の言葉にも耳を貸さないほど、紫は怒りで我を忘れているのではないかと思っていた。すべて杞憂だったようだ。

 

「紫も、段々冷静になってきたんだろうね。だからきっと、もう大丈夫だよ」

 

 こんな時でもこんな場所でも伊吹瓢をがぶ飲みして、萃香はいつも通り、にへらっとだらしなく笑った。

 

「それにしても、まさかみんなと仲良くなりたいためだけに異変を起こしちゃうなんてねえ。笑っちゃうよ」

 

 異変を起こした者たちは、異変を起こしたからこそ幻想郷に受け入れられる――本来それは、スペルカードルールがもたらす副次的な結果でしかないし、別にそういう決まりが存在しているわけでもない。地上に馴染むきっかけほしさに異変を起こすなんて、無軌道だし破天荒だしなにより遠回りすぎる、なんとも傍迷惑極まる発想だ。

 だからこそ、面白い。

 

「あんなに面白いやつを殺すなんてあんまりな話だよ。いっぺん酒でも呑みながら、とことん話し合ってみるべきだね」

 

 呑めるのだろうか、と操は思う。今や事態は収束しつつあるが、一方で傷つけられたものはあまりにも大きい。今までのように後腐れなく酒を呑んで馬鹿騒ぎして、それで笑いながら日常に戻っていけるほど、単純な話ではないように思う。

 けれど、

 

「だから……だからさ」

 

 萃香が、祈るように、

 

「だからさ、月見。どうか、綺麗に終わらせて。誰も苦しまないで、みんなが笑えるようにさ」

 

 否――事実として彼女は、祈っていたのだろう。両手を胸の前でひとつに握り締めて、そっとまぶたを下ろして、神へ捧げるように紡がれるのは、確かに祈りの言葉だった。

 

「誰も笑えないような終わり方なんて、私はやだよ」

 

 操は、前を見た。

 

「この異変が終わったら、みんなで。――みんな(・・・)で、宴会するんだから」

 

 操だって、そう思う。

 この願いは、届くのだろうか。

 操が見つめ、萃香が祈る先で、月見と紫の対話は続いている。

 風が流れる音よりも静かに、続いている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 決着であった。

 花びらめいた光の粒子が飛び散り、爆薬を炸裂させたように、派手な轟音と烈風が巻き上がる。風はあっという間に幽々子の背後へ吹き抜けて、着物の裾を躍るようにはためかせる。

 弾幕ごっこの決着を告げるこの終止符を、こうして外から眺めている以上は、勝利を手にしたのは幽々子だった。

 それが現実だ。

 だから胸を貸したのは、幽々子の方なのだ。

 ボロボロになった体を押さえ、ゆっくりとひとつため息をついた藍に、笑みを以て告げた。

 

「私の勝ちね、藍」

 

 藍は苦笑した。

 

「……そうですね。まったく、幽々子様には本当に敵いません」

 

 若干の悔しさは残るものの、憑き物が落ちたような顔だった。

 本当に、スペルカードルールとはありがたいものだと幽々子は思う。幽々子は相手の命を奪って勝つのは得意だが、命を奪わずに勝つのは苦手だ。妖忌の代から続く剣術稽古もどちらかといえば精神修行の意味合いが強く、故に幽々子は、スペルカードを除けば敵を攻撃する手段というものをまるで知らない。できるのは、能力を使い、相手の命を問答無用で奪うことだけ。

 幽々子のようなただの亡霊と、藍ほどの大妖怪が対等の舞台で力を競えるのだから、やはりスペルカードルールとは偉大なものだ。

 

「お疲れ様でした、幽々子様。……お怪我はありませんか?」

 

 傍らまで飛んできた従者が、幽々子の見てくれを確認するなり気遣わしげにそう言った。幽々子の服も藍に負けず劣らずボロボロになっていて、傍から見ればどちらが勝者かわからないかもしれない。

 幽々子は嘆かわしく首を振り、

 

「あんまり大丈夫じゃないわねえ。早く怪我を治すために、明日はたくさんお饅頭を食べないと」

「大丈夫みたいですね。安心しました」

「ぶーぶー」

 

 こんなみすぼらしい格好になるまで頑張った主人に対して、なんと冷たい発言。ボロボロの藍に、「大丈夫ですか!? お怪我はないですか!? なにかお手伝いできることはありますか!?」と一生懸命詰め寄って苦笑されている向こうの従者を見習ってほしい。多分向こうに同じことを言ったら、「お饅頭ですか! わかりました、買ってきます!」と大真面目に返されそうな気がする。今だけ従者を交換したい。

 ため息、

 

「まあそういうわけだから、藍。あなたはもう大人しくしてなさいな」

 

 天を見上げた。

 

「というか、行くだけムダでしょうね。あんなにすごかった紫の妖力が、すっかり収まってるもの」

 

 藍と弾幕ごっこをする中ですら感じられた紫の妖力が、いつの間にか消えている。幽々子たちが決着したのと同じように、向こうも終わったのだ。

 月見が間に合ったのか、それとも間に合わなかったのかは、わからないけれど。

 

「あとは紫たちが決めること。私たちにできることはない。そうでしょ?」

「……そう、ですね」

 

 散々張っていた気が抜けたのだろうか。わずかにふらついた藍を、橙が小さな体で咄嗟に支えた。

 

「大丈夫ですか、藍様……?」

「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」

 

 家族のような絆を見せる向こうの従者と、主人に肩を貸しもしない冷酷な従者を見比べて、明日は饅頭をこっそり五つ食べてやろうと幽々子は心に決めた。

 その気遣いができない冷酷な従者は、迷いの多い瞳で空を見つめており、

 

「……月見さんは、間に合ったのでしょうか」

「そうねえ……」

 

 間に合ったはずだと、幽々子本人は思っている。月見さんならきっとやってくれたはず、と信じている。しかしそれは所詮個人の願望であり、絶対だと断言できるものではない。

 翻って妖夢の迷いない視線が、幽々子を捉えた。

 

「幽々子様。なにが起こっているのか、教えていただけませんか」

「……」

「紫様はなにをしようとしていたのか。なぜ月見さんは、紫様と敵対してまでそれを止めようとしたのか。……この異変でなにが起こっているのか、教えてください」

 

 ここまで来れば、断る理由はなかった。

 

「私も全部知ってるわけじゃないから、話せるのはちょっとだけよ。それでもいいなら」

 

 妖夢が頷いたのを確認し、幽々子もまた空を見上げた。

 

「この異変はね――」

 

 緋色の向こうで広がる白の世界へと、静かに思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ⑩ 「結末の条件」

 

 

 

 

 

 竹の香りを感じて天子は目を開けた。

 自分が知らない場所で寝ていることへの動揺は、これといってなかったと思う。本当に目が覚めたばかりで、まだ半分以上夢の中にいるような心地だったから、驚いたり焦ったりできるほど体も心も動いてくれなかった。

 ひとつ、ゆっくり、大きく、息を吸った。

 胸が上下する感覚と、かすかな痛み。

 生きている。

 

「……」

 

 竹の香りに混じって、薬の匂いがする。呼び起こされるように、今までのことを思い出す。

 月見の腕の中で、眠りに落ちた記憶。背中にまだ、月見に抱かれた時のぬくもりが残っている気がする。なんだか、本当に夢を見ていたみたいだ。

 息を、吐いた。

 

「……目、覚めた?」

 

 掠れた声が聞こえて、天子はゆっくりと頭を傾けた。後頭部を丸々覆う大きなリボンと、腋のない大胆な巫女服が目に入ってくる。博麗霊夢が、びっくりするほど穏やかな面差しで、慈しむように天子を見下ろしていた。

 神社を壊した天子に怒ったり、復讐に駆られる紫に怒ったりと、なにかと怒ってばかりだった霊夢からは想像もできないほど、その姿は深窓の人形めいて浮き世離れしていた。背もたれのない椅子に腰掛け、膝の上で両手を絡ませる姿は美しくて、ひょっとして別人なんじゃないかと疑ってしまったくらい。

 ようやく少し、自分の表情が動いた気がした。

 

「よかった。随分と眠ってたわよ。丸々二日」

「……」

「どこか、具合悪いとことかある?」

 

 緩慢な動きで、小さく首を振った。体が宙に浮いているみたいで変な感じはするものの、それだけ。傷の痛みだってこれといってひどくはない。もっとも目が覚めたばかりで、まだ口もロクに動かせないというのはあるかもしれないけれど。

 というか、それよりも、

 

「ああ、私の声は大丈夫よ。ちょっと、喉痛めちゃってね。でもそれだけ。じきによくなるって言われたから、あんたは気にしないこと」

 

 尋ねるより先に、全部言われてしまった。琴を弾いたように高らかで張りのあった霊夢の声が、見る影もないほど痛々しく掠れてしまっている。天子が眠っている間に、一体なにがあったのだろう。

 

「はいはい、そんな顔しない。自分の方がよっぽど重傷なのに、他人の心配とは随分余裕じゃないの」

 

 だが見た限り辛そうではなかったし、なにか言うと叩かれそうだったので、早くよくなるといいね、とだけ思うことにした。

 霊夢が、溜まったガス抜きをするように大きく伸びをした。それから、

 

「魔理沙、起きなさーい。天子が目を覚ましたわよ」

「んぉー?」

 

 寝惚け半分に間延びした声が、天子の眠るベッドのちょうど向かい側から聞こえた。まだ首を上げられるほど体が動くわけではないので想像だが、きっと向かいにもベッドがあって、そこで魔理沙が寝ていたのだろう。「よく寝たぜ~」と、呑気にあくびをしているのが聞こえる。

 足音、

 

「おう天子。生きてるか?」

 

 にゅっと突然視界に入ってきた魔理沙が、白い歯を見せる笑顔で天子を見下ろした。それが雨雲を吹っ飛ばす太陽みたいだったから、天子もつられて少し、笑った。

 

「なに失礼なこと言ってんのよ。生きてるから起きたんでしょうが」

「おお、そりゃあそうだな」

「はいはい、それじゃあお昼寝して体力が回復した魔理沙さんは、みんなを呼んできて頂戴」

「おう、眠気覚ましに軽く運動といくか」

 

 魔理沙が壁に立てかけてあった箒を手に取り、長いスカートをものともせず身軽に跨がって、帽子を深く被り直すなりなぜかスペルカードを

 

「魔符・『スターダストレヴァリエ』ーッ!」

 

 ばごん。

 

「……」

 

 まだ心も体も覚醒しきっていないからだろうか。服を着るように魔力をまとった魔理沙が部屋の扉をブチ抜き消えていったのだが、いっそ清々しいくらいにまったく動揺しなかった。ただ、魔理沙は元気だなあ、とそんなお年寄りのおばあちゃんみたいなことを考えた。

 真っ二つになった扉の崩れ落ちる音が、右から左に抜けていく。霊夢も、なにも起こらなかったみたいに何食わぬ顔で、

 

「あんたが寝てた間のことを補足すると――ってまあ、私も昨日目を覚ましたばっかりなんだけど。とりあえずここは永遠亭っていって、幻想郷にある診療所ね」

 

 知っている。天界から月見の姿を追いかける傍らで、幻想郷の主要な地名や建物はひと通り覚えた。迷いの竹林の奥深くに建つ診療所で、月の世界からやってきた人間や兎たちが、優れた医術を駆使し人々の助けとなっている場所だったはずだ。

 月見にご執心なお姫様がいるらしいことも、知っている。月見の交友関係は、性別も年齢も種族も生まれた世界も選ばない。

 

「結果から言うと、月見さんがなんとかやってくれたみたい」

 

 その名を聞いた途端、すっかりのんびり屋になっていたはずの天子の心臓がどきんと跳ねた。ただ月見という名前そのものに、天子の意識が隅々まで傾き、雪崩れ込んでいく。

 心臓の鼓動、全身を巡る血の感覚が一気に戻ってきて、やっと本当の意味で目を覚ましたように思う。

 

「でも、一件落着ってわけでもないみたいね。私も詳しくは聞けてないんだけど、紫はまだ――ってこらっ、なに起き上がろうとしてんのよ! 安静にしてなさいって!」

 

 起き上がろうとすると、胸の傷がたちまち軋み始める。痛むわけではないが、せっかく塞がった傷がまた裂けて広がっていきそうな、とにかくすごく嫌な感じだ。無意識のうちに躊躇してしまって、なかなか上手く起き上がれない。

 それでも。

 

「月見、は」

 

 咄嗟に伸ばされた霊夢の腕にしがみつき、声を絞り出して問うたら、呆れ顔で苦笑された。

 

「なに、そんなに月見さんに会いたいの? 大丈夫よ、さっき魔理沙が呼びに……っと、噂をすれば」

 

 廊下の方から、バタバタと忙しない足音が聞こえてくる。

 

「――ほら月見っ、早くしろって!  天子が目を覚ましたんだぜ!?」

「わかってる、わかってるから。だから尻尾を引っ張るのはやめてくれ……」

 

 その声を聞いた瞬間、ただでさえどきどきしていた天子の心臓が、輪を掛けて大暴れし出した。突き飛ばされたみたいに霊夢の腕から離れて、ピンと背筋を伸ばす。なぜかはわからない。わからないが、とにかくそれくらい緊張したのだ。

 

「天子ー! 月見連れてきたぜー!」

「あ……」

 

 転がっていた扉の残骸を蹴飛ばして、魔理沙が銀の尻尾を引っ張りながら部屋に入ってくる。すると一拍遅れて、遠慮を知らない魔理沙に困り顔な、彼の姿が現れて。

 その途端、今までの緊張が嘘だったように、天子の心を満たしたのは安らぎだった。力んで凝り固まっていた表情筋があっという間に弛緩して、ひょっとしたら少しだらしないくらいに、自然と笑みが浮かんでいた。

 

「……やあ。よく眠れたか?」

 

 聞き心地のいい穏やかなバリトンも、全部を包み込んでくれるような微笑みも、なにひとつ天子の記憶と変わらない。

 天子の思い描く通りの彼に、また会えた。それが、震えるほどに嬉しかった。

 

「――月見」

 

 このたった三つの音が、どうしようもなく天子を安心させてくれる。

 

「おはよう」

「ああ、おはよう。天子」

 

 また彼に、名を呼んでもらえることが。

 涙すらにじむほどに、幸せだったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ねえ魔理沙、ちょっといいかしら」

「なんだ永琳。今結構いい雰囲気なんだから、水を差すのはナシだぜ」

「いえね、なんだか部屋の扉が真っ二つになってる気がするんだけど。これって私の気のせい?」

「ああ、それか。頭の悪いやつにはそう見えるんだぜ」

「へえ、そうなの。……ところであなたのスペルカードは素晴らしい威力ね。こんなにしっかりした扉をものともしないんだもの」

「いやあ、照れるぜ。ま、何事も火力が大事ってことでちょっと待て永琳やめろやめろわかった私が悪かった謝るってすみませんでしただからその青紫色の注射器をしまって、あっ、ちょ」

 

 ということがあってせっかくの再会の雰囲気をブチ壊されてからしばし、天子の包帯を交換し終えた永琳が、その陶器みたいに美しい指先をゆっくりと膝の上に戻した。

 

「さすがは天人、ということかしら。完全でないとはいえ、もう傷が塞がってる。これなら、あと二~三日もすれば退院できるでしょう」

「ありがとうございます」

「ただ、傷が浅くなかったのは事実だから……跡は、残るかもしれないわ。そこは、ごめんなさいね」

 

 とんでもないです、と天子は首を振った。謝られることなんてなにひとつもない。命が、助かったのだから。傷が残る程度、どうってことないと思った。

 真っ白い病衣を着直したところで、永琳が廊下に向かって声をあげた。

 

「月見、もう入ってきて大丈夫よ」

「……なあ永琳、魔理沙のやつ本当に大丈夫なのか? さっきからずっと震えっぱなしなんだが」

「お仕置き用の痺れ薬だもの、痺れるのは当然よ?」

「いや痙攣っていうんじゃないのかこれは……」

 

 本来であれば扉があったはずの空間を通して、床に投げ出されビクンビクンと震えている少女の足が見える。気にしたら負けだと思うことにする。

 永琳を含め、月見、霊夢、衣玖、あと一応魔理沙も――みんなが一堂に会した病室で、口を切ったのは霊夢だった。

 

「そんじゃま、改めておはよう、天子――って言っても、もう昼下がりだけどね。話しても大丈夫かしら。それとももう少し寝てる?」

「ううん、大丈夫」

 

 天子は首を横に振った。今はなによりも、確認したいことがある。

 

「あの……みんなは怪我、大丈夫なの?」

「それを一番重傷なあんたが訊くか」

 

 霊夢に呆れられたが、だって、それでも、みんなが天子を守るために傷ついてしまったのは事実なのだ。

 特に、

 

「衣玖……右腕は」

「見た目ほど、大したことはないですよ」

 

 天子が紫に斬られる間際、衣玖の右腕が鮮血を振りまき宙を舞ったあの光景は、今でも脳裏に染み着いて離れない。

 衣玖は右腕全体を包帯で覆い、首から下げた布で固定している。だがその痛々しい姿とは裏腹に、彼女が浮かべた笑顔はあっけらかんとしていた。

 

「これは、腕をくっつけるのに固定しておく必要があるのでやっているだけです。利き腕が使えないのは不便ですけど、それだけですよ」

「……く、くっつけ?」

 

 なにやら今、人間の常識ではありえない表現が聞こえたような。

 

「無理やり千切られたりしてしまうとまた生えてくるのを待つしかないんですけど、幸い、傷口がとても綺麗でしたので。多分、明日にもなれば元通りになりますよ」

「は、生える?」

 

 いや、妖怪の再生能力が人間と比べものにならないのは知っているけれど。

 本当に? と月見に視線で問うたら、本当だよ、と二つ返事で頷かれた。

 

「腕は千切れてもまた生えてくるよ。私の時もそうだった」

「あら。あなたの腕を千切ったなんて、一体どこの化け物の仕業かしら」

「鬼子母神」

「……本当に化け物だったわね」

 

 月見と永琳がなにか話をしているが、混乱しているせいでまったく頭に入ってこない。どうやら妖怪の再生能力は天子の想像の遥か上を行くようだ。もしかして、体を真っ二つにされたら断面からそれぞれ再生し、最終的に二人に分裂してしまったりするのだろうか。ありえないとは言い切れない。

 

「ちょっと待って月見さんなにそれあなた鬼子母神となにやってんの」

「昔の話だ、どうでもいいじゃないか。それよりも、今は天子の質問だ」

 

 なにやら霊夢が騒いでいるのだけれど、やはり頭に入ってこない。とりあえず、医者である永琳がなにも言わないのだから、元通りになるという衣玖の言葉は真実だと判断できる。だったらそれでいいではないか。深く考える必要はない。ほっと胸を撫で下ろすと、心のしこりがひとつ取れたような気がした。

 混乱していた頭を落ち着かせ現実に帰ってくると、ちょうど霊夢と目が合った。

 

「私はちょっと打撲して喉もやっちゃったけど、どっちも大人しくしてれば治るから大丈夫よ。魔理沙……も大丈夫でしょ。多分」

 

 視界の片隅で、魔理沙の足がビクンビクンしている。気にしたら負けなんだと、もう一度強く自分に言い聞かせる。

 最後に月見が、

 

「私は……というか、私が一番軽傷だったからね。特に治療も必要なく、一日で勝手に治ったよ」

「輝夜が治療したじゃない」

「永琳、お前の常識ではあれを治療というのか」

「いえ、いわないわね」

 

 なにかを思い出したらしい彼は渋い顔をして永琳に笑われていたが、ともかく、みんな大丈夫そうだ。……ただし魔理沙を除く。

 

「よかったあ……」

「ちょっと、まだ安心するのは早いわよ」

 

 安堵のため息をこぼしたら、すぐに霊夢から鋭い声が飛んできた。

 

「じゃあ本題ね。月見さんのお陰で一応紫は止まったみたいだけど、まだ完全にあんたを許したわけでもないみたい」

「……」

「月見さん。そのあたり、天子が目を覚ましたら話すって約束だったわよね?」

 

 皆の視線が、自然と月見に集中した。どこか朗らかだった空気が一変して、息をするのも躊躇われるほどに張り詰めていく。天子はもちろん、霊夢も、衣玖も、永琳でさえ、その面持ちを険しくして月見の言葉を待っている。

 あの時天子が、月見の腕の中で眠ったあとに、一体なにがあったのか。八雲紫は、まだ天子を許したわけではない。ならば天子が目を覚ました今、紫は一体なにを願うのか――。

 

「そうだね――」

 

 月見がゆっくりと息を吸い、吐いた。腕を組み、言葉を迷うように目を伏せる。それは単に、どこから話すべきなのか考えているからなのか、或いは語るには憚られる事実が待ち受けているからなのか。

 心臓を鷲掴みにされるような沈黙。やがて彼は口を開く。

 

「紫は」

「月見いいいいいいいいっッ!!」

「ぐはっ」

 

 そして、天井から降ってきた紫に押し潰された。

 

「……は?」

 

 緊張が一瞬で消し飛びなにもかもが氷結したのも束の間、月見のお腹に馬乗りする紫は涙目で、

 

「ねえ月見聞いてっ!? 藍ったらひどいのよ!? 今日のおやつね、橙にはいちごのショートケーキを作ってあげてたのに、私にはチロルチョコだったのっ! しかも一個! なんなのよこの差! なんでご主人様の方が貧相なの!? 遠回しに痩せろって言ってるの!? 確かにこの前自棄食いして体重増えちゃったけどっ、でもだからって十円はひどくない!? ズルいズルい羨ましい私もいちごのショートケーキ食べたかった――――――ッ!!」

 

 などと喚き散らしながら、月見の胸をぽかぽか叩く。月見は、どうやら押し倒された際に鳩尾に紫の膝が入ったらしく、青い顔をしてぷるぷる震えている。

 幻想郷最強格の恐ろしい大妖怪――だったはずの八雲紫が、なにやらおやつの内容に発狂しヒステリーを起こしている。それだけでも天子の頭は既に容量オーバーだったのに、更に廊下の方からズドドドドドと地響きがして、

 

「スキマアアアァァ!!」

「きゃあ!? あ、現れたわねこのひきこもりっ! ここで会ったが百年目よ!」

 

 もしもそこに扉があれば、魔理沙に負けない勢いでブチ破っていたであろう。身の毛もよだつ絶叫とともに飛び込んできた少女が、足を止めるどころかむしろ加速して紫に飛び掛かり、

 

「ギンといちゃつくなああああああああっ!!」

「きゃあああ!?」

「げふっ」

 

 紫の胸倉を掴んで引きずり落とし、ついでに月見の鳩尾に膝を叩き込み、

 

「つ、つつつっ遂にやってくれたわねこの残念金髪!? 私の家でギンを押し倒すなんて、なによっ、私のことバカにしてるのこのバカチンッ!」

「バ、バカチン!? 言ってくれるじゃないこのひきこもりっ! ってかそもそも、だァれがあなたの家なんかで月見を押し倒しますかっ! 押し倒すんだったら自分の家で、ちゃあんとお布団の上で押し倒しますー! どっちかっていえば押し倒されたいけどっ!」

「それが辞世の句ってことでオーケー?」

「ふんだ! そっちこそ、いつまでも私がやられてばかりだと思わないことねっ!」

 

 上等よ! と紫の頭をぺしぺし叩く少女、少女のほっぺたをむいむい引っ張る紫、青白い顔で動かなくなった月見、ため息をつく霊夢、呆気にとられて固まっている衣玖、眉間を覆って嘆息する永琳、ビクビクしている魔理沙の足、そして天子は、

 

「……なにこれ?」

 

 頭の上に疑問符をたくさん量産しながら、とりあえず、自分のほっぺたをむいーっと引っ張ってみた。

 普通に痛かった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 八雲紫は二人いるのかもしれない。

 だって、斬られたのだ。自業自得とはいえ殺されかけたのだ。故に天子にとって紫は紛れもない恐怖の対象であったし、妖怪の賢者と呼び称えられるのだから常に冷静で、合理的で、大妖怪の恐ろしさを全身で体現する女傑なのだと思っていた。

 それがこれである。

 

「落ち着いたかバカ娘」

「はいぃ……ごめんなさぁぁぁい……」

 

 妖怪の賢者が、仁王立ちする月見の正面でしおしおと正座している。

 鳩尾の痛みから復帰した月見が笑顔で振り下ろした鉄拳は、傍から見ても背筋が凍るほどだった。紫の帽子の下では、できたてほやほやのたんこぶが湯気を上げていることだろう。月見の背後に金剛力士像的ななにかが見えるのは、果たして目の錯覚なのか。

 

「……何事にも、場の雰囲気とタイミングというものがあると私は思うんだよ。お前、こうやって色々ブチ壊すの、今回が初めてじゃないよな? むしろ結構頻繁に台無しにしてくれるよな? どうしてこうも空気が読めないんだお前は」

「はんせえしてまぁぁぁす……」

 

 紫が鼻をぐすっとすすった。彼女は完全に涙目だった。天子の中にある紫のイメージが、もはや完璧に行方不明だった。

 二人いると考えれば、辻褄は合うのだ。天子を斬ったのは、常に冷静で合理的で大妖怪の恐ろしさを全身で体現する女傑である八雲紫姉。今目の前にいるのは、姉とは対照的に幼く女の子らしい八雲紫妹。付き合いの長い月見や霊夢はそれはわかっているが、天子には当然見分けがつかない。そういうカラクリなのではないか。

 ぐるぐる回る天子の混乱を、霊夢は表情から察したらしい。

 

「天子……あんたの気持ちはよくわかるけど、これが普段の紫よ」

「あ、うん。わかってるわかってる。双子の妹さんでしょ?」

「紫は紫よ。これって現実なのよね……」

 

 マジですか。

 いや、そういえば天界から月見の生活を眺めていた頃、彼の後ろを子犬みたいについて回る金髪の少女を見かけた気がする。あれが紫だったのだろうか。しかし幻想郷で金髪といえば黒の次くらいにちらほら見かける色なので、あまり自信がない。

 でも、そっかあ、怖い人じゃなかったんだ。

 ちょっぴりほっとしたような、元々怖くない人を本気で怒らせてしまった自分の失敗がますます申し訳ないような。そんな微妙な気持ちの天子の先で、月見の説教は更に熱を増している。立て板に水を流すが如き糾弾を一身に受ける紫の姿は、もはや親に叱られて反省している子どもであり、飼い主に怒鳴られてしょんぼりしている小動物のそれだった。もしも天子の体が満足に動く状態だったなら、「もうやめて! この子だって反省してるじゃない!」とか言って庇っていたかもしれない。それくらい哀れだった。

 なお紫と喧嘩していた黒髪の少女は、月見に負けず劣らずイイ笑顔な永琳に襟首を掴まれ、いずこかへと引きずられていった。血の気の失せた顔で猛抵抗していた少女の命乞いが、今はぷっつりと途切れてしまっていることについては、あまり考えてはいけないような気がする。

 魔理沙はあいかわらずビクンビクンしているし、黒髪の少女は生死不明だし、紫は月見の説教で半泣きになっているし。

 確か天子たちは、張り詰めた空気の中でとても大切な話をしようとしていたはずではなかったか。なんだろうかこのカオスは。

 衣玖と一緒に茫然自失としていたら、いつの間にか月見の説教が終わっていた。

 

「まったく……だがまあ、お前の方から来てくれたのはちょうどいい。ほら、天子が目を覚ましたから、話するぞ」

「はぁい……」

 

 ぐずずっと一際大きく鼻をすすり、手の甲で涙をぐしぐし拭う紫のせいで、旅立ってしまった緊張感がイマイチ帰ってこない。

 立ち上がり、まだ赤くなったままの瞳で天子を見据えた紫は、最初の反応としてため息をついた。体からそっと力を抜くような、嫌みのない穏やかな吐息だった。

 

「……まず、あなたを斬ってしまったことは謝るわ。ごめんなさい」

「……!」

 

 面食らった。まさか開口一番で謝罪されるとは思っていなかった。

 瞠目する天子に、紫が弱々しい笑みを見せる。

 

「でもそれだけ、博麗神社を壊されたのが……簡単にいえばショックだったの。それは、それだけは、どうか理解してくれないかしら」

「……はい」

 

 天子は重く頷き、それから頭を下げた。自分で言えた義理ではないかもしれないけれど、充分に理解しているつもりだ。頭を下げた状態で視線を下に動かすと、己の胸元を覆う真っ白い包帯が見える。

 

「取り返しのつかないことをしてしまったと、自分でもわかってます。私の勝手な行動のせいで……」

「私たち幻想郷の住人と交流する、きっかけが欲しかったんですってね。……まったく、別に異変なんか起こさなくても、足を動かして口で伝えれば済む話なのに」

「うっ……ご、ごめんなさい」

 

 足と口を動かせばそれで済んだ話。まったくもって同感だ。たった一歩を踏み出す勇気すら持てなかったあの頃の自分が、本当に恥ずかしいし情けない。

 てっきり非難されたものと思ったが、紫はどこか懐かしそうに目を細めていた。

 

「……でも、わからなくもないわ。私も昔、人間たちに興味を持って色々といたずらしてた頃があった。道具を隠したり、物音を立てたり。自分で歩み寄る勇気がなかったから、そうやって向こうの方から気づいてもらおうと思ってたのね」

 

 吐息、

 

「あなたは、昔の私にそっくりだわ。……もちろん、あなたほどやんちゃはしなかったけどね」

「ご、ごめんなさい」

「それはさっき聞いた」

 

 紫の瞳に敵意がないのはわかっていたけれど、それでも一度斬られた相手だからか、ふとした拍子につい体が竦んでしまう。気が小さいわねー、と霊夢が呆れ笑いをしていた。霊夢が豪胆すぎるだけだと思う。

 

「あなたのことは月見から全部聞いた。……だから私も、あなたに話すわ。あなたの処遇も含めて、すべて」

「……わかりました」

 

 だがこれは、天子が向かい合わねばならないこと。小さく深呼吸をして、紫の瞳をまっすぐに見返す。せめて、目だけは逸らさないでいようと思う。紫の言葉を徹頭徹尾すべて、正面から受け止めようと思う。

 紫はゆっくり、薄雲を伸ばすように息をついて。

 顔とまぶたを伏せ、過去を思い返す痛みに唇を噛み締めながら、静かに重い口を切った。

 

「――心にぽっかり、孔が空いた気分だった」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もしも心というものが形を持っていて目に見えるなら、今の紫の心には、向こう側まではっきり見通せるほどの孔が空いているはずだ――。

 他人事みたいにそう思った。痛みなど感じなかった。崩れ去った博麗神社を目の当たりにして紫ができたことといえば、気を失ったみたいに立ち尽くして、神社だった欠片をただ眺め続けることだけだった。

 一体どれほどの間、自分がそうやって呆けていたのかはわからない。数秒、数分、数時間、数日、数週間、数ヶ月、数年、あらゆる表現が当てはまるような気がしたし、言葉で言い表せるほど具体的な感覚ではなかったようにも思う。

 きっかけは、ふいに頬を伝ったくすぐったい感触だった。目元から顎先へ、重力に引かれなにかが落ちていくむず痒さを感じてようやく、随分と前から止まってしまっていた頭の動きが帰ってきた。

 雨でも降ってきたのかと思って空を仰いだけれど、その瞬間夏の太陽に目を刺されてすぐにやめる。

 涙だと気づくまで、笑えるくらいに時間が掛かった。

 その時になってようやく、紫は自分が悲しんでいるのだと理解した。

 

 紫の『幻想郷の管理者』としての記憶は、博麗神社から始まっている。妖怪たちが欲望のまま縄張り争いしていた無法地帯を、幻想郷として創り上げるまで――そして幻想郷が生まれてからの長い年月で、常に紫とともに在ったのは博麗神社だった。

 目も当てられないくらいズタボロになっていた神社を、萃香たちの力を借りて復活させた時から、すべてが始まった。ここが、すべての出発点だった。

 嬉しいことがあった時、宴会をやってお祝いした場所は、ここ。

 前途多難な幻想郷創世の道すがら、イライラが溜まって我慢できなくなった時、みんなを集めて自棄酒を呑み交わした場所も、ここ。

 なんとなく人肌が恋しくなった時、友人知人を招待してお泊り会を開いた場所も、ここ。

 特になにをするでもなく、縁側から景色を眺めて一息ついた場所も、ここ。

 調子が悪い時、悲しい時、辛い時、ただ足を運ぶだけで元気を分けてくれた場所だって、この博麗神社。

 常に一緒だった。紫にとって幻想郷の記憶とはすなわち、博麗神社とともに過ごした時間の蓄積でもあった。

 きっと紫は、博麗神社が大好きだった。

 今の今まで考えたこともなかったけれど、きっと、そうだった。

 博麗の巫女の仕事柄、妖怪の襲撃を受けることが多かったこの土地に、自ら結界を張って守護したのも。

 神社を破壊しようと群れを成した妖怪たちに立ち塞がり、神社に手を出すなら容赦はしないと啖呵を切ったことも。

 博麗の巫女が大事だっただけではない。それ以上に。

 ただ、博麗神社が、大好きだったから。紫にとって博麗神社は、愛する幻想郷そのものでもあったのだと。

 こうして失って、初めて気づいた。

 

「――紫様」

 

 後ろから誰かの声が聞こえた。ようやく回復した頭の動きがまだ本調子ではなくて、咄嗟に顔が浮かんでこない。

 振り返ると、ちょうど藍が、体を揺らすほど大きく息を呑んだところだった。

 

「……どうしたの、藍?」

 

 どうやら、紫の顔を見て驚いたらしい。そんなにひどい顔なんて、していないはずだけれど。

 藍が逃げるように目を泳がせた。なにかを言おうとして唇を動かすが、あと一歩のところで音にならない。聡明で思慮深い藍には珍しく、その相貌からは激しい動揺と困惑の色が見て取れる。

 

「? 藍?」

「……紫、様」

 

 口にすることすら躊躇うような、弱くたどたどしい声だった。

 

「泣いて……」

「……ああ」

 

 言われてようやく、涙も拭わずにいたことに気づいた。

 指の腹を目元にさっと走らせ、微笑む。

 

「大丈夫よ。……私は、平気」

「……」

 

 けれど、あまり上手くは笑えなかったようだ。藍は安堵するどころか、目元をますます辛そうに歪めて黙り込んでしまった。普段はダイエットしろと言っておやつを作ってくれなかったり、自分でやれと言って仕事を手伝ってくれなかったりするいじわるなのに、こういうところでだけは心配症な式神であった。

 藍がいてくれてよかったと、心の底から思っている。もしも藍がいなかったら、今頃自分はなにをしていただろうか。きっとなにもしてはいなかったのだろう。目の前の現実を受け入れられずに錯乱し、わけのわからないことを口走りながら泣き叫んでいたかもしれない。博麗大結界の状態や霊夢の安否すら、確かめないまま。

 隣に信頼できる従者がいる。その事実が、紫を最低限ではあるが冷静にさせていた。

 

「……神社が倒壊した原因ですが」

 

 言いたいことはもっと別にあったことだろう。だが藍は喉まで出かかっていた言葉を理性で飲み込み、従者としての務めに徹した。

 

「地震、で間違いなさそうです。相当揺れたようでした」

「……そう」

「かなり、老朽化していましたから……」

 

 博麗神社を大々的に修復したのは、幻想郷創世を始める際の一度だけだ。それ以降はとりわけ痛みのひどい箇所を部分的に補修するだけで、外の世界で行われる遷宮のように、社殿を丸々建て替えたことは一度としてない。

 他でもない博麗の巫女が、そういった手間と時間をよしとしなかったのだ。紫自身、博麗神社の古く寂れた佇まいや、数百年を経てくたびれた木材の肌触りと香りが好きで、全部造り替えてしまうのはなんとなく嫌だったというのもあるかもしれない。

 過去に起こった大きな地震は、龍宮の使いの警告を目安に念入りな補強を行うことでやり過ごしてきた。これからも、そうなっていくのだと思っていた。

 だが結局、今回に限って、龍宮の使いは動いてくれなかった。

 それを、頭ごなしに非難することはできないけれど。

 

「……あの、紫様」

 

 藍がまた、黄金色の瞳を迷いでさまよわせた。

 

「……その。地震が起こった、原因なのですが」

 

 紫は沈黙を以て先を促す。束の間俯いた藍がやがて意を決して紡いだ言葉は、まるで鉄砲水を吐き出したようだった。

 

「何者かによって、人為的に引き起こされた可能性が」

「――……」

 

『人為的』という単語の意味を思い出すのに、少し時間が掛かった。

 

「周囲の鳥獣に話を聞きましたが……揺れたのは、神社の近辺のみだったと。この山を少し離れると、地震が起こったことすら知らない者もいました」

 

 決して意味を取り違えぬよう、藍の言葉をひとつひとつ慎重に解体していく。

 老朽化していたとはいえ神社一棟を倒壊させた地震だ、その揺れは幻想郷の全土を駆け巡ったことだろう。人里あたりなら多少の被害も出ているかもしれない。博麗神社の状況はわかったから、このあとは他の場所の様子も見て回らなければならない。

 そうじゃないのか。

 

「博麗神社だけが揺れた――自然現象ではありえないです。ということは、短絡的ではありますが……」

 

 ああ、と紫は思った。目の前のもやが晴れていく心地がした。果たしてその表現が的を射ていたかはわからないけれど、少なくとも大切な思い出を抉られ空虚となっていた紫の心に、ひとつの明確な意思が生まれた。

 藍は、こう言っているのだ。

 博麗神社は、壊れたのではなく――

 

(――壊された(・・・・)?)

 

 ああ、そうか。

 つまり今、幻想郷で起こっている異変は、

 妖怪の山の上に広がっている、緋色の雲は、

 全部、そういう(・・・・)

 

「………………………………」

 

 感情の方向性が決まった。

 己の過失は認める。日頃から神社をしっかりと補修していれば、回避できていた未来だったかもしれない。龍宮の使いに頼ったりせず、初めから自分で動くべきだった。失ってから初めて気づくとは我ながら愚かだった。

 自然に起きた地震だったなら、割り切れていただろう。

 だが、これは、違う。

 緋色の雲――地震雲が持つ大地のエネルギーを操り、博麗神社にだけ狙いを定めて。

 そうして崩れ去った神社の残骸を見て笑っているやつが、いるのかもしれないという事実。

 心を焼かれる音が聞こえる。

 

「赦さない……!!」

 

 抉り取られた思い出の孔を埋めた感情は、怒りという名の、黒にも似た赤い炎だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「だから私は、あいつが赦せなかったの……!」

 

 赦せなかった。

 赦せなかった、はずだったのだ。少なくとも比那名居天子の体をこの手で斬り裂く瞬間まで、紫は本気でそう思っていた。

 けれど天子を斬った瞬間に、なにもかもを理解した。

 自分は決して、比那名居天子を殺せないのだと。

 

「傷つけられたんだよ、私の思い出を! 穢されたんだよ、私の幻想郷を……!! だから、赦せなくてっ……!」

 

 目の前に、月見がいる。天子を助けた月見がいる。広大な天界の平原には、わかる範囲で彼以外の姿が見えない。萃香や操が場所と時間を作ってくれたのだと知って、だから紫はもう我慢もできなくて、ずっと聞いてほしかった心の叫びを月見にぶつけていた。

 

「なのに……! なのにっ……!」

 

 比那名居天子の体は既に、射命丸文によって永遠亭へ運ばれた。あとは八意永琳の手厚い治療のもと、間違いなく一命を取り留めるだろう。

 月見が来てしまったからだと、すべての理由を押しつける真似はしない。

 

 だって、思い返してみれば初めからおかしかったのだから。

 

 赦せなかったのなら、復讐が目的だったのなら、さっさとやってしまえばよかったじゃないか。霊夢と魔理沙が割って入ってきた時点で、事態が好ましくない方向に進んでいるのはわかりきっていた。だからさっさと終わらせてしまえばよかったのだ。紫にはそれができたはずだ。

 どうして自分は、霊夢と魔理沙に割り込まれ、龍宮の使いに邪魔をされ、思わぬ形で総攻撃を喰らってしまうその時になるまで、比那名居天子を斬らなかったのだろう。

 赦せなかった、はずなのに。

 

「死んじゃえって、思ってたのに……! ダメだった……っ!!」

 

 天子を斬った瞬間に、なんとなくだけれど、それがわかった。

 扇に妖力の刃をまとわせ、振り下ろした瞬間に――無意識のうちに、躊躇ってしまった。知らないうちに、手を緩めてしまった。殺すつもりで放ったはずの一閃は、命を刈り取るには程遠い、なんてことはないただの袈裟斬りでしかなかった。

 最後まで復讐に徹することができるほど、非情になりきれなかった自分がいた。

 死んでしまえとすら思っていたのに、殺したくなかった。

 致命的な矛盾。滑稽な話。霊夢も魔理沙も、龍宮の使いも萃香も操も藍も橙も、月見も、誰一人として関係ない。

 誰が味方だろうが誰が敵だろうが、初めから無理だったのだ。

 体当たりするように、月見の胸に飛び込んだ。

 

「月見のせいだよ! 自分でも知らないうちに、きっと私は、あなたから影響を受けすぎてた……!」

 

 月見と出会う前の紫だったら、殺せていたはずだ。殺せなかったのはきっと、月見と出会い、変わってしまったから。

 優しくて甘いこの妖狐に感化されて、いつの間にか紫まで甘くなってしまっていた。それこそもう、人をひとり殺すことすらできなくなってしまうほどに。

 知らず識らずのうちに、くすりと小さな笑みがこぼれた。果たしてそれは、自嘲だったのか。

 

「なんだかなあ……本当に、なんだかなあだよ……」

 

 結局自分は、なにがしたかったのだろう。月見と対立して、藍と橙に辛い役目を押しつけて、霊夢と魔理沙を傷つけまでして、その果てに得られたものといえば、月見のお人好しが自分にも感染していたらしいという事実くらい。大切なものを傷つけられ、全身が沸騰するほどの怒りを覚えたはずなのに、外に向けて当たり散らすこともできず、内側に抱えて耐え忍ぶだけで、むしろ初めよりも悔しさが増していた。

 空気が抜けていくような虚脱感が、全身に広がっていくのを感じる。月見の襟元をくしゃくしゃにしたまま、胸元に顔を押しつけたまま、紫はもう色々と限界で、無性に泣いてしまいたくなって、

 

「紫」

 

 震えていた紫の背を、月見の両腕が、

 

「お前の気持ちは、こんな私でもわかってるつもりだ。でも、それでも」

 

 紫は、月見の腕の中で、

 

「……思い留まってくれて、本当に、よかった」

 

 泣いた。何時振りかもわからないくらいに本気で泣いた。声を押し殺すこともしないで、それはもう、ずっと昔に返ったように大泣きした。ぽかぽかぽかぽか、月見の胸を手当たり次第に両手で叩いた。

 

「悔しいんだよ!? 悔しかったんだよ!? 辛いんだよ!? わかってるの!? 本当に、わかってるの……っ!?」

 

 もう立っていることもできなくて、月見と一緒になって座り込んで。

 

「月見のバカ!! バカ!! バカバカバカバカッ、ばかっ、ばか、ぁ……っ!!」

 

 月見を責めているわけではなかった。本当に我慢の限界で、月見の一言で最後の砦を破壊されて、とにかくどんな形でもいいから、体中に溜まった不純物を吐き出さずにはおれなかった。軽い幼児退行みたいなものだったのかもしれない。

 目の前にいるのが月見だったから、月見にぶつけた。そんな、月見からすれば傍迷惑もいいところな、八つ当たり。

 

「ああ。……ああ」

 

 けれど月見は、文句のひとつも言わずに優しく抱き締めてくれた。だから紫も、もう我慢しなくていいんだと思って、感情が振り切れるままに全部を吐き出した。

 或いは目の前にいるのが月見だったからこそ、吐き出せたのかもしれない。自分の弱い姿を見せられるのは、今も昔も、月見だけだったから。

 このあたりは、月見の掌の上だったのかもしれない。そう思うとちょっと癪だったけれど、まあ。

 たとえ八つ当たりであっても、思いっきり泣いて思いっきり吐き出して、静かに抱き締めて静かに受け止めてもらえたら、涙が自然と治まる頃には、少なからずすっとしてしまった気がするので。

 やっぱり月見には敵わないなあと、紫はつくづく思うのだ。

 泣きやんだ紫の背を優しく撫でながら、月見が言った。

 

「『幻想郷はすべてを受け入れる』って、お前は昔から言っていたね」

「……」

 

 反射的に、身構えてしまったと思う。幻想郷はすべてを受け入れるんだから天子も受け入れてやれ、なんてひどいことを言われると思ったから。

 けれど落ち着いて考えてみれば、月見がそんなことを言うはずがなかった。

 

「天子がなにを思って異変を起こしたのかは、お前ももうわかったはず。だからもう少しだけ、見てやってほしいんだ。幻想郷の住人たちが――幻想郷が、あの子をどう受け入れるのか」

 

 まだできあがって間もなかった頃とは違って、今の幻想郷はもう、紫があれこれと手を焼かねばならないほど子どもではない。紫も幻想郷の管理者を名乗ってこそいるけれど、結界の維持を含めた重要な仕事は徐々に藍へ引き継ぎしているし、橙だってゆくゆくは八雲の名を継ぐだろうし、恐らくはそう遠くない未来のうちに、紫は幻想郷の母としての使命を終えるだろう。

 紫が母親面してあれこれ口を挟むことなど、今となってはなにもないのだ。例えばある日異変を起こした余所者がいたとして、そいつを仲間と見なし共生するか、敵と見なし拒絶するかは、幻想郷に住まう人々が決めること。そしてどちらの結果となろうとも、たとえその先に待っているのが幸福でも不幸であっても、幻想郷はすべてを等しく受け入れる。

 そうやってすべての種族の者たちが、自らの手を取り合いつくりあげていく楽園になればいいと願っていた。

 目先の怒りに囚われて、そんなことも忘れてしまっていた。

 どうせ、自分にはもうなにもできないと理解したのだ。ため息をつき、

 

「……わかった。月見の言う通りにする。あとのことは、幻想郷に、任せるわ」

 

 もしも天子が霊夢たちと和解し、この幻想郷に居場所を作ることができたならば。

 その時は素直に、認めよう。たった一歩を踏み出す勇気も持てなかった――どこか昔の自分に似た、臆病で不器用な少女のことを。

 だが、ひとつだけ、

 

「でも……月見を疑うわけじゃないけど、私の目で確かめさせて? あいつの、本当の気持ちを」

 

 地上とつながるきっかけがほしかった。博麗神社を倒壊させるつもりは全然なかった。それが天子の本当の気持ちなのだと――こういう場面で月見が嘘を言わないのはわかっているけれど、でもいくら月見の言葉であっても、そのまま鵜呑みにしてしまうことはできなかった。

 他でもない紫自身が、大切な思い出を踏みにじられた記憶に打ち勝ち、比那名居天子という少女を認めるために。

 彼女の心を試すくらいの権利は、今の紫にもあると思う。

 

「……具体的には?」

「大したことじゃないわ」

 

 どこぞのお姫様のように、無理難題を押しつけてやるつもりはない。その気になれば紫が手を下すことだって容易にできるけれど、あえて天子に任せてみようと思う。

 こうしていられるのももう終わりだろうからと、月見の腕の中にいるあたたかさを全身に刻みつけながら、紫は言った。

 

「それは――」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――それは、あなたが気質を集めてつくりだした緋色の雲を、消滅させること。消滅させて、幻想郷に地震が起こらないようにすること。……要は、後始末はきちんとしましょうってことね」

 

 紫が滔々と紡ぐ言葉を、天子は静かに受け止める。

 

「自分の過ちに後悔があるのなら、罪を償う誠意があるのなら、できるはず。そしてそれさえできるのならば、私はもうとやかく言いません」

 

 決して容易な要求ではない。胸の傷もあるがそれ以上に、空を覆う雲を一部とはいえ消し飛ばすなど、人の手が届く範囲を外れているかもしれない。

 できるか、と自問すれば――できる、とは断言できない。

 けど、それでも。

 

「……信じさせて。あなたの想いを」

 

 目の前に広がる可能性に、一度目は手を伸ばせなかった。勇気を持てずに目を逸らし、異変を起こすという楽な手段に逃避した。

 だから、今度こそ。

 今度こそ逃げずに、手を伸ばそうと。

 真っ白いシーツを握る己の指に、人知れず決意の力がこもった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ⑪ 「届け」

 

 

 

 

 

 しかし、決意を固めた瞬間問題にブチ当たった。

 一言で雲を払うといってもどうすればいいのか、まるで想像ができない。

 

「――緋色の雲は、地震のもととなるエネルギーを詰め込んだ容器です。なので、容器を壊す……つまり雲を払えば、中身は大気に溶けて消えるでしょう」

 

 山の上空を覆う緋色の雲について、専門家である衣玖の講釈を聞きながら、天子は思考の渦へと落ちていく。

 

「確認しますと、緋色の雲は決して大きいものではありません。仮に今の状態で地震が起こったとして、建て付けの悪い屋根の瓦が落ちる程度はあるでしょうが、建物が倒壊したりとか、そういった被害にはならないはずです」

 

 それは天子もわかっている。幻想郷中から気質を集め、緋色の雲をつくりあげたのは他でもない天子だ。幻想郷の天気を狂わせるのに最低限であり、かつ大きな地震は起こらないよう、調整には最大限気を遣った。

 謂わば緋色の雲は、放っていてもとりわけ問題のないもの。それを払うなど普通は考えもしないし、やれと言われたところでやろうとは思わない。

 紫に認めてもらいたいという、嘘偽りのない想いがない限りは。

 

「まあ、博麗神社みたいに脆い建物がなければですけど」

「だってよ、紫」

「はいはい、すみませんでしたー」

 

 想いはある。紫に認めてもらいたいと願う、小さな灯火のような想いに嘘はない。今度こそ、逃げずに手を伸ばすのだ。方法があるのなら死力を尽くそう。

 けれど、その方法が。

 

「そういうわけなので、これといって危機感を持つ必要はないかと」

「ちょっとー、そういう言い方はやめてくれなーい?」

「もちろん、雲を払う使命感を持つのは大事です。ですが、危機感まで持つ必要はないという話ですよ」

「……まあ、結果的に雲を払ってくれるならどっちでもいいですけどー」

 

 顔を上げると、紫が唇を尖らせながら月見の尻尾をもふもふもふもふ、

 

「真面目にやれ」

「あう」

「……」

 

 月見にチョップされた。額を押さえてぶーたれる紫の姿に愛想を尽かして、せっかく戻ってきた緊張感がまたどこかに旅立っていったのを感じる。

 衣玖と目が合った。

 

「とはいえ、雲としての規模は大きくないといっても、私たちの目から見れば充分巨大です。雲を払うと言葉で言うのは簡単ですが、実行はかなり難しいですね」

 

 相手が雲でなく、なにか物体であるなら話は単純だった。緋色の雲は、形を持っているように見えるのは地上から見上げるからであって、実際は視認も難しい気質――気体が寄り集まってできている。斬る叩くといったやり方は通用しない。

 手がないわけではないのだ。緋想の剣には、気質を集めると同時に気質を斬り裂く力がある。空に集まった気質を片っ端から斬り裂いて消滅させていけば、最終的には緋色の雲も消せるかもしれない。

 だがそれは、湖の水を柄杓ですべて掻き出そうとするようなもの。相手の規模が桁違いすぎる。

 または、気体の集まりなのだから強力な風かなにかで吹き飛ばすことも可能かもしれない。しかし天子が操れるのは大地の力であり、空の力ではない。

 

「地震が起きるまでは……今朝確認したところだと、最長で五日です。具体的な時間帯は私にもわかりません。五日後かもしれませんし、ひょっとしたら今日中にでも起こってしまう可能性はあります」

 

 しかも、じっくりと作戦を練る時間までもがないと来た。諦めたくはないけれど、どうしても理性が自問してしまう。

 ――あの雲を払うことなんて、今の天子に可能なのだろうか?

 

「……ちょっと紫、いくらなんでも無理難題すぎるでしょうが。天子の体の状態、あんただってわかってるでしょ?」

 

 同じことを考えたらしい霊夢が、非難のこもった視線で紫を射抜いた。対して紫は、素知らぬ顔でそっぽを向いて、

 

「知らないわよ。そいつが勝手に撒いた種でしょうが」

「だからってねえ……」

「ふんだ。怪我をさせたのは私だし、さすがに一人でやらせるのは無理だってくらいわかってるわよ。誰かと一緒にやればいいでしょ」

 

 え、と天子の声がこぼれた。紫は明後日の方に顔を向けたまま、

 

「一人だけよ。霊夢でもいいし、そこの龍宮の使いだっていいし、月見だっていい。なんだったら、ここにいない誰かでも構わないわ。もしもあなたに力を貸してくれる誰かがいるのなら、その一人と協力することを認めます。協力よ。その人に全部任せちゃうのはダメ」

 

 吐息、

 

「……これが、私にできる譲歩の限界」

「……」

「あなたはもう、独りじゃないんでしょう?」

 

 天子を見つめて、淡く微笑んだのはほんの束の間。次の瞬間には表情も雰囲気も一変させて、いよぉし! と両手を固めて立ち上がる。

 

「じゃあ私は帰るわね! 藍に、なんとしてもショートケーキを作ってもらうんだからっ!」

 

 ああ、諦めてなかったんだ。

 黄金の瞳を使命と欲望で燃やした紫は、スキマを展開し、赤黒い眼差しが蠢く異界の中へと消えていく。

 スキマが閉じる間際に月見が、

 

「太るぞー」

 

 閉じたはずの空間の向こうで、紫の悲鳴が木霊した気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もちろんそれで紫が戻ってくることもなく、あとには締まりきらない微妙な空気だけが残った。

 

「ほんと、色々とブチ壊してくれるやつよねえ……」

「まったくだ。どうしてああも空気を読んでくれないのか」

 

 霊夢と月見が、一緒にしみじみと頷き合っている。今まで何度も似たような場面に遭遇してきた経験者の面差しだった。そして自由奔放すぎる所業に呆れつつも、どことなく、すっかりいつも通りな彼女の姿に安堵しているようでもあった。

 あれが本当に八雲紫なのかどうかを今更疑ったりはしないけれど、こびりつく『恐ろしい大妖怪』という先入観を修正するには、今しばらく時間が掛かりそうだ。

 霊夢が胸の前で両腕を開き、肩を竦めた。

 

「ま、あんなのはいつものことだしどうだっていいわ。それよりも、雲をどうにかする方を考えましょ」

「といっても、総領娘様が助けを求められる相手なんて高が知れてると思いますけど」

「うぐっ」

 

 衣玖の何気ない一言が、天子の心をかなり深いところまで抉った。

 

「あー……そういえば、友達いないんだっけ」

「あうっ」

 

 更には霊夢から若干生温かい目で見られて、なんだから胸の傷口が開きそうだった。

 だが、負けじと反論する。そう、今の天子はもう昔とは違うのだ。

 

「い、いるもんっ。……月見とか」

「月見さんとか?」

「……月見とか」

「月見さんしかいないんですね」

 

 あれ、なんだか目から汗が。

 

「でもま、月見さんが適任でしょうね。私と魔理沙じゃあ、さすがにあの雲はどうしようもないし」

「私は龍宮の使いなので、龍神様の許可なく雲を消すことはできませんし」

「月見さん以外に友達もいないし」

 

 なんで、霊夢と衣玖の息がこうもぴったり合っているのだろう。なんだか仲のいい友達同士みたいじゃないか。月見しか友達がいない天子への当てつけか。いじめか。いじめなのか。

 しょんぼりする天子を尻目に、霊夢は月見へと微笑みかけた。

 

「月見さんも、まさか嫌だなんて言わないでしょ?」

 

 とっておきの秘密をバラすように、意地悪く口端を曲げて、

 

「だってあんなに真剣な声で、『天子を死なせないでくれ』って私に頼み込んできたんだしね?」

「ッハハハ。覚えられてたか」

「当たり前でしょー? あんなに、なんていうのかしら、切実っていうの? そんな月見さんの声聞くのって初めてだったもの」

 

 そういえば、と天子は思う。霊夢と魔理沙が天子を助けてくれたのは、他でもない、月見にそう頼まれたからだった。天子を助けたいと思っている人がいる。天子に死んでほしくないと思っている人がいる。天子を助けるために、全力で駆けつけようとしてくれている人がいる。

 自分がどれだけ月見から想われているのか、全然気づいていないだろうと――そう、胸倉を掴まれ、怒鳴られた。

 だったら、

 

 ――だったら私は、一体どれだけ、月見から想ってもらえているのだろう。

 

 無論そこに、男女の違いを根本とする恋愛感情があるとはゆめゆめ思わない。天子を見る時の月見の眼差しが、いつも優しく澄んでいるのには気づいている。例えば異性として興味を抱いているとか、あけすけに言って体を狙っているとか、そういった俗っぽい感情とはまるで無縁だ。きっと女の子が相手であれば、彼は誰にでも同じような眼差しを向けるのだろう。

 自分だけが例外、というわけでは決してない。

 けれど、もし――もしも、たくさんいる知人友人の一人としてではなく、そこから一歩先へと進んだ、大切な友として認めてもらえているならば。

 だからこそ霊夢がこうやってからかうくらいに必死になって、天子を助けてくれたのならば。

 そう考えると、なんだかこう、すごく、ものすごく、

 

「ほら見なさいよ、月見さん。天子のこのだらっしない顔」

「――はっ。ま、待って、今のは違っ……!」

 

 天子ははっと我に返った。どうやら相当ひどい顔をしていたようで、霊夢が呆れ、衣玖がくすくすと笑い、月見が照れくさそうに頬を指で掻いていた。身をよじりたくなるほど幸せだった心地が一気に吹っ飛んで、身をよじりたくなるほど恥ずかしくなった。

 だって、仕方ないじゃないか。憧れの相手なんだから。

 憧れの人から大切に想われているとわかったら、そりゃあ嬉しいに決まっている。ついだらしない顔になってしまうのも仕方ないではないか。人として当然の反応だ。不可抗力だ。自然の摂理だ。ばか。

 

「……もちろん私でよければ、最大限協力させてもらうさ」

 

 嫌に生暖かい空気を物ともせず、月見が穏やかに口を開く。

 

「せっかくここまで来たんだしね。もう一息、頑張らないと」

「月見……」

 

 傷口に染みるような心の震えが、天子の身も心をも覆い尽くした。本当にありがたい――いや、もはやありがたいなどという言葉では足りない。たとえどれほど知恵を絞り言葉を尽くそうとも、天子の全身を満たすこの感情を言葉で言い表すことなどできやしない。

 なにからなにまで、本当に助けられっぱなしだ。

 月見がいたから、今の自分がいる。月見がいなかったら、今の自分はありえなかった。

 どんな言葉でも贈り物でも足りない。この恩を返すためには、もう、自分のすべてを捧げるしかないんじゃないかとすら、

 

「……」

 

 すべてを、捧げる。

 ささげる。

 すべてを。

 ささげ、

 

「――~~~~ッ!?」

 

 なにやら変な妄想が吹き出てきそうになって、天子はぶんぶんと首を振った。

 霊夢と衣玖がにやにやしていた。

 

「一体なにを妄想したのかしらね」

「な、なんでもない! です!」

「きっとあれですよ。月見さんに恩を返すためには、もう自分のすべてを捧げ」

「ひああああああああああ!?」

 

 衣玖の顔面めがけて枕をぶん投げた。

 かいしんのいちげき!

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 穴に入りたい。

 穴があれば、迷うことなく、水へ還る魚のように飛び込んでいたはずだ。穴を掘る道具があれば、躊躇うことなく手に取って全力で動かしたはずだ。実際、穴ではなかったけれど、天子は布団を頭の先まで被ってダンゴムシみたいになって、身を焼くほどの羞恥をひたすら耐え忍んだんだから。

 だと、いうのに。

 月見の背におぶさって空を飛んでいるこの状況は、一体なんの公開処刑なのか。

 大したことはないと何度も言ったのだ。胸の傷はまだ塞がったばかりだが、違和感こそあれ痛みがあるわけでもないし、一人でも飛んでいけると何度も主張したのだ。だが霊夢は「せっかくだから月見さんに運んでもらいなさいよー」とにやにやして聞く耳を持ってくれず、衣玖も「そうですね、その方がいいと思いますよ」と頷くばかり、更には永琳の「運んでもらえるならそれに越したことはないわよ」がトドメとなって、結局月見の厄介になることとなってしまった。

 まあ、自分が怪我人だからというのは百歩譲るまでもなく納得できる。しかし、運んでもらう相手が必ずしも月見である必要はなかったはずだ。魔理沙がようやくビクビク状態から復活したのだから、箒に二人乗りでもさせてもらった方が色々と無難だったのに。

 

「天子ぃー。月見さんの背中、堪能してるー?」

「その話はもうやめてよー!?」

 

 にやにや顔で茶々ばかりを入れてくる霊夢に、天子はそろそろ涙目だった。

 せめて一矢報いる気持ちで睨みつけたら、一蹴するように肩を竦められた。

 

「本当に嫌だったらそう言えばよかったのよ。でもあんた、最後の方は自分から月見さんの背中に乗ったじゃない」

「う、ううっ」

 

 そう。そうなのだ。一人で大丈夫だだの魔理沙の方がいいんじゃないかだの散々抵抗したくせに、月見におぶってもらうチャンスなんてこれが最初で最後かもしれない、と思った瞬間もうダメだったのだ。だからこそ一層、霊夢のにやにや顔が心に刺さる。

 もちろん、白状する、それさえ我慢すれば夢のようだった。天子が思い描いていたよりも意外と固くて、そして温かくて、天子の体がすっぽり収まってしまいそうなくらいに大きい。ふと気が緩めば寄りかかってしまいたくなるほど、不思議と安心させられる。男の人の背中とは、みんなこうなのだろうか。

 これが天子と月見だけだったなら、ちょっと寄りかかってみたりもしたのかもしれないけれど。この場でやろうものなら、霊夢はもちろん衣玖や魔理沙からもなにを言われるやらなので、あくまで月見の肩に手を掛けるだけで我慢する。

 

「まったく、おアツいこって」

 

 理性と欲望の狭間で格闘する天子を眺めて、魔理沙が舌打ちするようにそう言った。永遠亭を飛び立つ際に「香霖にもこれくらいの甲斐性があれば……」と呟いていた彼女は、面倒見のいい月見に終始誰かの姿を重ねているようだ。天子に嫉妬しているわけではないらしい。

 やがてそれも無駄なことだと悟ったのか、上空――緋色の雲を仰いでため息をつく。

 

「……しっかし、あの雲をどうにかしろって、紫も無茶苦茶言いやがるぜ。月見よ、あんなの吹っ飛ばすなんてほんとにできるのか?」

「まあ、なんとかなるんじゃないか?」

 

 作戦は至って単純だ。月見が狐火で雲を払い、天子はそれに必要な霊力を貸し与える。

 問題は、緋色の雲を焼き払うなど本当に可能なのかということ。天子や魔理沙に限らず、霊夢と衣玖もそこを疑問に思っているのだが、月見はまったく気負った素振りもなく、いつも通りのんびりとした笑みを浮かべている。

 月見の実力はよく知らないが、尾を増やすごとに力を増すという妖狐の鉄則を考えれば、一本の月見はごくごく普通の妖怪だ。普通の妖怪が、緋色の雲を煙も残らず吹き飛ばすのはさすがに無理だろう。あれを払えるのは、八雲紫クラスではないにせよ、大妖怪と呼ばれる者たちだけなのではないか。

 なのに月見が「なんとかなる」と焦った様子も見せないのは、なんらかの強力な『能力』を持っているからなのか。そういえば天子は、月見がどんな能力を持っているのかを未だ知らない。

 しかし真実がどうであれ、天子はただ月見を信頼するだけだ。霊力を貸し与えるだけの役目でも全力を尽くす。霊力が枯れ果てる最後の一滴まで、すべてを彼に捧げよう。

 すべてをささげる。

 

「……! ……!」

 

 またアレな妄想が広がりそうになって、天子はぶんぶん頭を振った。違う違う。そんなの全然まったく望んでなんてない。そういうのもちょっといいかもしれないな、とか絶対に思っていない。絶対。断じて。

 暴れたものだから、月見に気づかれてしまった。

 

「おっと。どうかしたか?」

「はえ!? いや、ええっと……そ、そのっ、重くないかなって、思って!」

 

 口走った言葉は完全な出任せだったが、一方で月見におぶさった当初から気掛かりなことでもあった。幸い、今まで散々怠惰な生活を続けたツケが体に出ていない天子だけれど、状況が状況なのでどうしても意識してしまう。

 月見はからからと笑った。

 

「まさか。そんなに貧弱に見えるかい、私」

「大丈夫ならいいんだけど……やっぱり、気になっちゃうというか」

「心配しなくていいさ、本当に大丈夫だからね。軽すぎて、背負ってること自体忘れそうになるくらいだよ。あまり妖怪の体力を舐めないでいただこう」

 

 そこまで言われてしまったら、怪我人の天子は引き下がるしかない。ふと横を見ると、霊夢たち三人が寄り合って、空を飛びながら器用にひそひそ話をしていた。霊夢があいかわらずにやにやしていた。しにたい。

 そんなこんなで、無事妖怪の山に到着。まず月見が、そのあたりを哨戒していた白狼天狗を捕まえて声を掛けた。

 

「ちょっといいか?」

「……おっと、月見さん。こんちゃッスー」

 

 立ち止まった白狼天狗の青年は緩い挨拶をして、月見の周りを見るなりため息、

 

「あいかわらず両手に花で。見せつけてくれますねえ」

 

 月見は苦笑、

 

「成り行きだよ」

「成り行きで両手に花持つとか、羨ましいッスわー」

「月見さんが持ってるのは天子だけで、私たちはただの付き添いよー」

「霊夢さんわかってないッスねえ。たとえ付き添いでも、女の子と一緒にいるのはそれだけですごいことなんスよ!」

「あんた友達いないの?」

「うわーこれ男友達も女友達もみんな同じだと思ってるやつだー!!」

 

 リア充爆発しろ!! と青年がよくわからないことを叫んでいたが、『りあじゅー』って一体どういう意味だろう。

 ともあれ。

 

「で、なにか御用ッスか? 天魔様なら、少し前に椛に引きずられてきましたけど」

「……またやってるのかあの駄天魔は」

「まあ、一日一回の恒例みたいなもんで。今じゃあ、天魔様が何分間逃げられるかでみんなで賭けやったりしてますよ。大体十分くらいが限界みたいッスけどねー」

 

 ここで青年が、んん? と疑問顔で天子を凝視した。

 

「ってか、『天子』って……ひょっとしてあれッスか? あの雲つくって異変起こしてるっつー……」

「……っ」

 

 天子は小さく息を呑んだ。今回の異変となんの関係もない、ごくごく普通の天狗が天子の名を知っている――天狗がゴシップ好きだとは知っていたが、まさかここまで情報の浸透が早いとは思っていなかった。

 ひょっとしたら、今回の異変について文句のひとつでも言われるのではないかと、月見の肩に掛けた指が自然と強張る。青年は天子を矯めつ眇めつ観察すると、なにかを噛み締めるように深く頷き、いきなりキリッと表情を改めて、

 

「初めまして天子さん。ところで、俺とお友達通り越して恋人から始めるってのはボグロ」

 

 霊夢が弾幕を叩き込んだ。

 

「なにすんスか霊夢さん!?」

「悪い虫は駆除されて当然よ」

「だって天子さんってあれッスよね!? こう、俺ら幻想郷の連中と仲良くなるきっかけがほしくて異変起こしたとかいう人ッスよね!? その張本人がこんなかわいこちゃんとなればもうこの俺がお友達どころか恋人すら吝かでない覚悟で」

「魔理沙、やっちゃってー」

「おっけえー」

「魔理沙さん、お手伝いしますよ」

「おっ悪いな」

 

 続け様に、魔理沙のマスタースパークと衣玖の雷撃が青年を呑み込んだ。

 

「天子さあああああんお返事お待ちしてまああああああああ……」

 

 青年の断末魔が下方向にフェードアウトしていく。生い茂る木々の枝葉をバキバキと粉砕し、緑の大海原に落ちて消える。

 静寂、

 

「……天子、気をつけなさい。天狗の連中にはああいう下心見え見えのクズが多いわ。男がみんな月見さんみたいなのじゃないわよ」

 

 いや、そんなのは当然わかっているけれど、

 

「総領娘様、世間知らずですからね。ダメですよ、甘い言葉に騙されちゃ」

「いや、今の甘かったか? ま、クズってのは同意だがな」

 

 なんでみんな、そんな唾でも吐き捨てるみたいに。

 

「つ、月見……いいの?」

「ん? ああ」

 

 月見にこっそり耳打ちして尋ねてみたが、彼は事もなげに、

 

「ここではよくある光景だよ。あの天狗もちょっとすれば復活するから、気にしなくていい」

「そ、そうなんだ」

 

 天子みたいな『不良天人』は例外だけれど、俗世を捨てた正統な天人たちは皆争いを好まないため、天界では、誰かが誰かを武力で傷つける争いなどまず起こらない。もし起こればそれだけで大騒ぎだし、厳しい刑罰だって用意されている。

 しかし地上では、あれが本当に日常茶飯事の光景らしく、

 

「さて、とりあえず操のところまで行こうか。雲を払うんだったら、話くらいは通しておかないと」

「あの方なら、これを利用して仕事をサボろうとしそうですね」

「さっさと終わらせて宴会しましょー」

「そうだなー、最近やってなかったしなー」

「……」

 

 天子以外の誰しもが疑問を挟むことなく、緑の海へ沈んだ青年を置き去りに、天狗の屋敷目指して山を登っていく。

 月見の背で天子はふと、昔の私って本当に地上で暮らしてたのかなあと疑問に思った。自分の常識と幻想郷の常識が、なにか決定的にズレているような気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 執務室で椅子に縛りつけられ泣いていた天魔に事情を説明し、場所は山の上空へと移る。

 

「……ねえ。本当に、できるかな」

 

 この場所から見上げる緋色の雲は、天子の視界を埋め尽くしてしまうほどに大きい。これだけの雲を残らず焼き払うためには、一体どれだけの火力が――そしてどれだけの霊力が必要になるのか、まるで想像ができない。

 できないなどと思いたくはないけれど、この大きさを前にしてしまってはそれも揺らぐ。

 表情の曇った天子とは対照的に、隣の月見はあっけらかんとしていた。

 

「まあ、なんとかなるんじゃないか?」

「なんとか、って……」

「それじゃあ訊くが、他にいい方法でもあるかい」

「……むう」

 

 それを問われると、返す言葉もない。実際、胸に塞がったばかりの傷という爆弾を抱えた天子では、霊力を貸す以上にできることがあるとも思えない。であれば、月見がこれしかないと言うのであれば、天子にとっても『これしかない』わけで。

 不安という感情など露知らず、月見はやんわりと微笑んだ。

 

「まあ、心配は要らないよ。……それよりも、問題は」

 

 それから物憂げに眉をひそめると、緋色の雲とは逆の方向――真下に広がる山の頂を見下ろして、

 

「……まったく、どうしてこうなったかなあ」

「えーっと……さあ?」

 

 眉間を押さえてため息をつく月見に、天子は歯切れの悪い苦笑を返すことしかできなかった。

 山頂は、妖怪や神はもちろん人間まで集まりごった返して、ちょっとした宴会みたいな騒ぎになっていた。

 

「ふれぇー! ふれぇー! つっ、くっ、みぃーっ!!」

「月見くーん、頑張ってくださいねーっ! 応援してますよー!」

 

 山頂を制圧している集団は三つある。ひとつは天魔と鬼子母神を筆頭に、月見へ元気なエールを飛ばす女の子たちの集まりであり、

 

「つくみーっ、頑張ってねー!!」

「こらフランッ、日傘から出ちゃダメよ! ちょっとは落ち着きなさい!」

「咲夜、あなたもフランみたいに声出して応援しないと。そんな熱心に見つめてるだけじゃ、いつまで経っても月見には届かないわよ。色々と」

「はいっ!? い、いえ、私は別に……」

 

 日傘の下で元気に跳ね回る吸血鬼の姉妹であったり、こんなところにやってきてまで読書をしている魔法使いであったり、顔を赤くして狼狽えているメイドであったり、

 

「頑張れーっ、月見さーん! ……ほら妖夢、あなたも応援しないとっ」

「幽々子様、お饅頭食べながら応援するのはやめてください……恥ずかしいですよ、もお~……」

 

 ビニールシートを広げてピクニック気分でお菓子を摘んでいる亡霊であったり、その亡霊を呆れながら諫める半人半霊であったり、

 

「尻尾ーッ!! 尻尾もふーッ!! 放せえええええッ私はあの尻尾をもふもふするんだあああああッ!!」

「おっ、おおおっ落ち着いてください諏訪子様ぁ!? お気持ちは大変よくわかりますが、今は邪魔しちゃダメですよぉっ!?」

「もふううううううううううっ!!」

 

 血走った目で半狂乱になっている小さな神様であったり、それを必死に羽交い締めする巫女であったり、

 

「あの雲を払うってなれば、こりゃあ久し振りに月見の本気が見られそうだねえ。楽しみだよ」

「そうだね、酒の肴にはもってこいだ……うん、美味しい! もう一杯ー!」

 

 木陰に座ってのんびり酒を呑み交わす、注連縄を背負った神様と捻れた二本角を持つ鬼であったり、

 

「……椛? あの、椛さん? どうしてこんなところで、大剣を砥いだりしているのでせうか?」

「あら、にとりさん。……ふふふ。本当は、こんなところに来てる場合じゃないんですよ。片づけないといけない書類がたくさんあるんです。このあと、どさくさに紛れて逃げられたら面倒じゃないですか? だから今のうちに、切れ味を整えておかないとって思って」

「あ、あはは。そうなんだ。アハハハハハ……」

 

 黒い笑顔で大剣を砥いでいる白狼天狗であったり、その光景を見て後ずさりしている河童であったり、

 

「……はたて? あんた、なんでこんなところに」

「んー、なんか面白そうなことになりそうだし、新聞のネタにでもしてみようかと思って。そういう文こそなにやってるのよ。月見さんでも見に来た?」

「別に……暇だっただけよ」

 

 恐らく新聞のネタ集めにやってきたのであろう鴉天狗であったり、とにかく、たくさんの少女たちであった。

 それだけでも充分賑やかなのだが、もう片方の集団も負けてはいない。

 

「フルゥエエエ~!! フルゥエエエ~!! 天! 子! ちゃあああああん!!」

「ガンバルゥエエエ~!! ガンバルゥエエエ~!! 天! 子! ちゅああああああ!!」

『うおおおおおおおおおお!!』

 

 一体どこから調達してきたのか、『天☆子』などとプリントされた謎の応援旗を振り回して、山に棲む天狗や河童の男衆が、もはや絶叫と呼んでも差し支えないほどの大声を張り上げている。額に『天☆子』のハチマキを装備し、応援旗を持っていない者は『天☆子』のうちわを装備し、更には背中で『天☆子』の文字が煌めく法被まで装備して、漢たちはカルトめいた集団の化していた。

 応援は嬉しいのだが、正直怖い。

 そして最後の一団が、霊夢に魔理沙、衣玖など、どちらのテンションにもついていけず、「えっなにやってんのこいつら」みたいな顔で呆然と立ち尽くしている者たちなのだった。

 声援。

 

「「「つくみーっ、ガンバー!!」」」

「「「ガンバルゥエエエエエッ、天子ちゅあああああん!!」」」

「あのなあお前ら、これは見せ物じゃないんだよ! 怪我しても知らんからな!」

「「「もーまんたーい!!」」」

 

 ああもう、と月見がすべてを諦めるように投げやりなため息をついている。天子は苦笑し、やかましくて、理解不能で、けれど決して不快ではない喧噪に耳を傾ける。

 

「天子ちゃあああああん! これが終わったら是非俺と友達に! いやいっそ恋人に!」

「隊長。会員No.28が天子ちゃんの独占を目論む発言を」

「殺せ」

「ラジャー」

「ぎゃあああああ!?」

「愚かなやつよ……天子ちゃんは誰のものでもない。天子ちゃんはその名の通り、天界より我ら俗界へ降臨なすった天使。一切の邪を交えず、敬虔な心で信奉することこそが、我ら『天子ちゃんマジ天使!』クラブの鉄の掟で」

「――あぁんたらさっきから天子がどうとか、まぁた変なこと考えてるんじゃないでしょうねえ!? ……成敗ッ!!」

「あっ霊夢さん違うんですこれはただぐあああああ!?」

「隊長ー!? あっヤベこっち来た総員退避いいいぎゃあああああ……」

 

 変な恰好をした男たちが霊夢の弾幕で次々吹っ飛ばされていく様は、まったくもって滑稽で、

 

「霊夢さんちょっと落ち着いてください俺たちはこの通り健全な青少年で――あああああっ俺の天☆子フラグが流れ弾で真っ二つにいいいいい!?」

「ふっ……どうやら選択肢を誤ったようだな。これでお前の天子ちゃんルートは完全消滅――貴様なに俺の天☆子フラグまで叩き折ってくれてんじゃあああああ!!」

「うるせえええええ!! ふはははははこうすれば相対的におんなじじゃざまあみやがれえええええ!!」

 

「上等じゃあ!!」と『天☆子』の応援旗を折られた青年たちが半狂乱になって喧嘩し出す姿は、まったくもって無軌道で、

 

「――はーい、それじゃあみんな準備おっけー? いっくわよー、いっせぇーの、」

「「「ぎゃああああああああああ!?」」」

 

 霊夢の掛け声を合図に、少女たちが男めがけて一斉に弾幕を叩き込む光景は、まったくもって馬鹿馬鹿しくて、

 

「……あ、は」

 

 けれど天子は、自然と笑えていた。無軌道でも、理解不能でも、馬鹿馬鹿しくても、そこでは妖怪も人間も関係なく、みんなが一緒になって絆を育んでいる。天界の暮らしと比べれば非常識ばかりだけれど、非常識だからこそ、こんなにも天子の心を惹きつけてやまない。

 この輪の中で暮らせたら。

 きっと、すごく、楽しいのだろうなと思う。

 

「……ねえ、月見」

 

 天子は胸を両手で押さえ、まっすぐに月見を見つめた。

 

「私はもう、言葉じゃ言い表せないくらいに、あなたに助けられちゃったけど」

 

 きっと天子は、月見に一生頭が上がらないだろう。月見はもはや、単なる憧れだけの存在ではない。憧れよりも一歩向こう側の世界にいる、無二の恩人であり、かけがえのない大切な人となってしまった。

 なんだってできる。冗談抜きでそう思う。

 月見のためなら、どんなことだってできてしまえるような気がする。

 だから今は、今だけは、もう一度、

 

「もう一度だけ、手伝ってください」

 

 これ以上月見を頼るのは申し訳ないと、考える気持ちがないといえば嘘になる。だが、今更なのだ。もう天子は、散々なくらいに月見に助けられてしまった。だからいっそ開き直って、最後まで助けてもらえばいい。

 助けてもらって、そのあとに、思う存分恩返しをすればいい。

 

「もう一度だけ、力を貸してください」

 

 私はまだ、強くないけれど。一人ではなにもできない、弱い女だけれど。

 でもいつか必ず、あなたみたいに強くなるから。

 強くなって、たくさん恩返しをするから。

 だから、今だけは。

 

「――もう一度だけ、助けてください」

 

 山が凪いでいる。風が静まり返り、束の間、山頂から響く少女たちの声援すら消えていたように感じた。

 だからだろうか。月見が微笑んでくれた息遣いが、本当によく、耳に響いて。

 

「ああ。任せておけ」

「……うん」

 

 頷いた。任せられる。月見になら、自分のすべてを委ねられる。

 月見と一緒なら、絶対に負けない。

 ほら。空を覆う緋色の雲が、息を吹きかければ消えるただの煙に見えるじゃないか。

 

「さて。では、やろうか」

「うん」

 

 傷の具合を確かめながら、天子は少しずつ霊力を開放していく。月見もまた十一の尾を雄大に揺らし、水が湧き出すように妖力を――

 

「……?」

 

 あれ? と天子は思った。気のせいだろうか。今しがた自分の目に映った光景の中で、なにかひとつ、絶対に見落としてはならない決定的な違和感があったような。

 天子は月見を見た。

 

「……どうした?」

 

 月見が首を傾げる。その奥で、十一の尾が、ゆっくり波打つように揺れている。

 天子はごしごしと目をこする。十一の尾が、ゆったり白波のように揺れている。

 天子はぱんぱんと両頬を叩く。十一の尾が、さわさわと渚のように、

 十一、

 

「「「――えええええええええええええええ!?」」」

 

 大騒ぎになった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ああ、そういえばお前には言ってなかったっけ」

「言ってなかったわよ!? 全然まったくちっともさっぱりこれっぽっちも言ってなかったわよ!?」

 

 月見が、金毛九尾ならぬ銀毛十一尾だった。

 なにがなんだかよくわからないが、とにかく十一本だった。

 

「悪い悪い。まあそういうわけだから、」

「どういうわけでしょうかっ!」

 

 狐につままれた、なんてかわいらしい話ではない。長い助走をとって、全力疾走で跳び蹴りを食らわされたかのような衝撃だった。十一尾の妖狐など、無論、見るのも聞くのも生まれて初めてである。

 だって。

 だって狐の尻尾って、九本までしか。

 口をパクパクさせる天子の心を読んだ月見は、肩を竦めて事もなげに、

 

「何事にも、例外はあるものだよ」

「そ、そうかもしれない……けどぉ!」

 

 なにがなんだかよくわからなくなっているのは天子だけではない。山頂では、目を点にしてフリーズしている者、口をあんぐり開けて機能停止している者、何事かわけのわからない言葉を叫びながらお互いの頬を引っ張っている者など、上を下への大騒ぎが勃発している。

 しかしよく気をつけて見てみれば、鬼子母神や天魔、吸血鬼の姉妹や亡霊の少女など、一部まったく驚いておらず、それどころか周りの混乱を楽しむように眺めている者たちがいる。

 つまり、知っている人はちゃんと知っている事実というわけで。

 

「……私、もしかして騙されてた!?」

「悪かったって。でも騙すつもりはなかったんだよ。尻尾の本数なんて大した話じゃないし」

「現在進行形で大騒ぎになってますがっ!」

「うおおおおおおおおおお!! もっふうううううううううう!!」

「す、諏訪子様落ち着……きゃあああ!?」

 

 月見の尻尾に異様なまでの執着を見せていた守矢の神が、もっふもふの十一尾を前にしていよいよ理性を破壊された。巫女の羽交い締めを力ずくで振り切り、己自身が一発の弾丸となって、波打つもふもふ天国めがけて一直線に、

 

「ひっさぁぁぁつ! 諏訪子だいびーんぐっ!!」

 

 武器を持たず、神力をまとうこともせず、ただ己の肉体だけで突撃する姿にはどこか神々しさすら

 ぺしん。

 

「あああああぁぁぁー……」

 

 尻尾に弾かれ緑の海へ落ちて消えた。「諏訪子様ー!?」と巫女が悲鳴を上げた。

 月見はやはり事もなげに、

 

「そういうわけで、私は実はちょっとした狐でね。……あの雲を払う程度、ゴリ押しでどうとでもできる」

「……!」

 

 思い返せば、どうしてその可能性を考えなかったのだろう。八雲紫の友人で、妖怪からも神からも一目置かれ広く慕われる彼が、なんの変哲もないただの妖怪である方がおかしいではないか。

 十一尾の妖狐など、規格外もいいところだ。「なんとかなる」。あの言葉は決して根拠のない楽観や驕りではなく、己の実力から導き出されたごくごく自然な確信だったのだ。

 これならば緋色の雲など、既に払えたも同然であり、

 

「……けれど私は、あくまで協力するだけだ」

「……え、」

 

 天子の心に希望の光が灯った直後。

 月見の低い呟きが咄嗟に理解できず、天子は首を傾げ、

 

 炎に、呑まれた。

 

「――ッ!?」

 

 悲鳴が口を切るすんでのところで気づき、理解する。炎ではない。しかし炎とも呼べるほど熱く気高い、圧倒的なまでの妖力の奔流だった。

 月見。

 

「あの雲を払うんだったら、最低でもこれくらいの霊力はほしいな!」

「……!?」

「さあ! お前の力、私に届かせてみせろ!」

 

 銀が煌めいている。迸る力のあまりの濃度に、妖力そのものが熱を持ち、色を宿し、目に見える流れとなって回転する。その軌道が風を生み、音を生み、烈風、或いは爆風とも思える力の坩堝へ、問答無用で天子の体を叩き落とす。

 ほとんど目を開けていることもできない中で、声が聞こえた。

 

「心配するな、本当に足りない分は私が補ってやる! だから気兼ねなく全力で来い! この程度、お前なら簡単に超えられるはずだ!」

 

 もう月見がどこにいるのかもわからないけれど、その声は、笑っていた。だから天子は、唐突に、突きつけられるように理解せざるを得なかった。

 試されている。

 体を労りながら、なんて甘っちょろいやり方じゃあ、紫は絶対に天子を認めてくれない。己の想いを示すために、逃しかけた夢を今度こそ掴み取るために、立ち塞がる壁を力ずくでブチ破り、胸の傷が開くことも厭わない覚悟があるのか。

 これくらいはやってくれないと、紫は納得してくれないぞと。

 月見は天子を、試していた。

 

「そ、そんな……っ!」

 

 動揺なんて言葉では足りなかった。あんなにも心強く、そして優しく天子の心を支えてくれた月見が、今は越えなければならない壁という事実。まるで自分が世界でたった独りになってしまったかのようで、頭が真っ白で、ぐちゃぐちゃで、なにがなんだかわからなくなってしまう。

 

「さあ、どうした!」

「……っ!」

 

 耳朶を叩かれ、言われるがまま霊力を開放する。しかし月見の、暴力的とすらいえる妖力が渦巻く中では、さながら嵐の下でロウソクに火を灯そうとするようなものだった。

 

「く、う……っ!」

 

 必死で霊力を放つも、そうした傍から嵐に呑まれ、散り散りになって消し飛んでしまう。これではまるで足りない。霊力の出力を上げる。だがある程度行ったところで胸の傷に嫌な感覚が走り、これ以上はダメだと本能が警鐘を鳴らす。

 

「ちょ、ちょっと待って! こんなの無理っ、無理だよ!」

 

 もはや、声は返ってこなかった。どこが天でどこが地かもわからない世界で、ほんの一瞬、月見の姿が見えた。彼は笑っていた。口端を曲げ、天子を値踏みするように大胆不敵な瞳で、ただ待ち続けていた。

 理解した。

 月見はもう、助けてくれない。

 

「……あ、」

 

 それを悟った瞬間、天子の中でなにかが崩れた。やるべきことはわかっている。上も下もない銀の暴風を押し退け、己の霊力を月見まで届かせればいい。お前の力を見せてみろと月見は言っている。だがわかったところでそれがなんだ。天子は怪我人だ。そうでなくともちょっと長生きしただけのただの天人だ。人間なのだ。

 常識を外れた大妖怪の力に、人間が、打ち勝つなんて。

 できる、わけが。

 

「――……」

 

 意思が、歩みを止めていた。

 すべてが麻痺している。月見の圧倒的な妖力を前にして、天子という存在そのものが呑み込まれ始めている。抵抗できない。抵抗しようとも思えない。ただ銀の波濤に押し流されるだけの、人形でしかない。

 諦めという名の毒が、天子の体を、心をゆっくりと蝕み、目の前が暗く、

 

 

「――頑張れ、天子!!」

 

 

 声が、聞こえた。

 大気の悲鳴を押し退け、銀の奔流を薙ぎ払い、麻痺した天子の感覚をも突き破って、強く、強く。

 霊夢の声が、聞こえた。

 

「あんたねえ、月見さんの妖力に呑み込まれてどうすんのよ! そんな腑抜けを、紫が認めてくれるとでも思ってんの!?」

 

 喉を潰し、掠れてしまった声なのに、その響きはなによりも強く、

 

「こんなの無理だ、とか思ってんじゃないでしょうね!? なにやる前から勝手に諦めてんのよ! 傷が開くのでも気にしてる!? そんなの、終わったら私たちがすぐ永遠亭に運んでやるから心配しないっ!」

 

 まだ喉は治りきっていなくて、きっと声を張り上げるのはすごく辛いはずなのに、それでも決して途切れることなく、

 

「紫に認められたいなら、後先考えないで思いっきりやりなさい!! 紫に見せつけてやりなさいよ、あんたの想いを! ここで諦めたら、あんた絶対、一生立ち直れないくらい後悔するわよ!?」

 

 天子の心の奥底を、殴りつけるように、

 

「――だから頑張れ、天子!!」

 

 目を、開けた。

 目まぐるしい銀の嵐。どこが天でどこが地なのかもわからないと思っていた。けれど、冷静になってみればなんてことはない。上が天で下が地、初めからなにも変わっていない。

 下を見た。銀の風の隙間から、みんなの姿が見えて。

 言葉の波濤が、押し寄せてきた。

 

 頑張れ。頑張れー。やってやれえ。できるよ。頑張れー。天子ー。頑張れ。やっちゃえー。行けー。天子ちゅあああ。大丈夫。信じてるよー。頑張れー。ファイト。それいけー。ガンバルゥエエエ。いけるよー。ファイトー。

 頑張れ、天子。

 天子。

 ――天子。

 

「――……」

 

 山頂に集結していた、すべての者たちが。弾幕で黒コゲにされたはずの男衆が、月見に声援を送っていたはずの少女たちが、周囲の盛り上がりについていけず立ち尽くすばかりだった者たちが。

 そのすべてがひとつとなって、天子を、天子ただひとりを、応援してくれていた。

 

「なん、で……」

 

 天子は、余所者だ。しかもそんじょそこらの余所者ではなく、異変を起こしたくさんの人に迷惑をかけた余所者なのだ。名前を知らない人がたくさんいる。顔も知らない人が大多数である。なのにその初めて見たばかりの人たちが、誰一人として外れることなく天子の背を押そうとしてくれている。

 それは一体、どうして。

 

「わからないか?」

 

 銀の嵐が吹き荒ぶ中でも、眼下から絶え間ない声援が押し寄せる中でも、月見の声はとてもよく通る。

 

「お前は異変の首謀者だし、まあ、博麗神社を倒壊させた張本人でもあるから、このあたりじゃああっという間に噂が広がった。……お前がなぜ異変を起こしたのかってのと一緒にね」

 

 彼は笑っている。不敵に口端を曲げた、天子を試す笑みではなく。

 そっとまぶたを下ろし、天子の動揺を解きほぐすように、

 

「だからみんなも、お前に興味を持ってるんだよ。異変を起こしたとか博麗神社を壊したとか、そういうわだかまりはさっさと取っ払って、早く話をしたくてウズウズしてるんだ。……それは、男どもを見れば一目瞭然だね」

 

 結局、簡単な話だったんだよ。そう、彼は言った。

 

「初めから、異変を起こす必要なんてなかったんだ。ただ、天界から降りてくるだけでよかった。それだけであいつらは、きっとお前を受け入れていた」

 

 まぶたを上げ、穏やかに笑みを深め、

 

「不器用で、臆病で、回りくどくて――でも、どこか愛らしくて、憎めない。そんなお前を、あいつらが受け入れないはずがなかったんだ」

 

 まっすぐに、天子を見る。

 

「さあ――まだ無理だと思うか?」

 

 天子に、手を差し伸べる。

 

「私は、どうってことないと思うけどね」

 

 ほんの数歩前へと進んで手を伸ばせば、指が掛かる距離。

 

「あと、たったこれっぽっち(・・・・・・・・・)だ」

 

 とっておきの隠し玉を炸裂させるような。

 こんな時でなければ見惚れてしまっていたかもしれないくらいに、無邪気で若々しい笑顔だった。

 

 

「――お前が夢見た世界は、ここにあるぞ」

 

 

 この時全身を満たした感情の名を、天子は知らない。歓喜。感動。高揚。次々と浮かんでは消える言葉をすべて向こう側へと飛び越えた、知りようのない未知の感情だった。

 心から湧き上がった火種のような熱が、頭の先へ、指の先へ、足の先へ、そして全身へと浸透し、

 

「あ、――」

 

 体が震え、喉が震えた。その小さな綻びからこぼれ落ちた火種は、けれどその瞬間に、天子の全身を焼き尽くす凄絶な烈火となった。

 

「――あああああああああああああああ!!」

 

 叫んだ。全身が炎のようだった。心は炎となっていた。自制という(くびき)を粉々に破壊し、破裂するようにあふれ出た激情が生んだものは、すなわちこの叫びであり、そしてもうひとつ、銀の奔流を薙ぎ払い顕現した、煌めく青の道筋だった。

 体が赤熱し、思考が白熱し、天子はただ突き進むだけの塊と化す。

 

「う――あああああああああああああああッ!!」

 

 全身が悲鳴を上げた。塞がっていた胸の傷が再び開く嫌な感覚。本能が警鐘を鳴らす。理性がブレーキを掛けようとする。だが止まらない。迷いや躊躇いが頭を過ぎることすらない。本能からも理性からも切り離され、今まで感じたことのないなにか別の存在に突き動かされて、天子はただ、あらん限りの霊力を、青を、

 

「――、」

 

 自分の中で、音を立てて壊れていくものがあった。

 それはきっと、限界という名の、楔だったはずだ。

 青が、銀を、突き破った。

 

「――上等だあああああ!!」

 

 月見が吼えた。普段の穏やかな姿からは想像もできない、獲物に突き立てるような鋭い犬歯が覗く、獰猛な獣の笑みであった。

 突然、天子の体がふわりと持ち上げられる。驚く間もなく、月見の両腕が背中へと回る。顔が月見の胸に埋もれて、月見の匂いがいっぱいに広がって、突然すぎてなにがなんだかまったくわからない。

 なにがなんだかまったくわからないまま、天子の霊力が、滝壺へ落とすように呑み込まれていく。

 

「火傷するから、じっとしてろよ!」

 

 そして身を焦がすほどの熱気を感じてようやく、天子の理解が追いついた。

 炎。天を衝くほどに巨大化した月見の十一尾が、十一尾そのものが、燦然と火の粉を散らす銀の炎となって、鎌首を空高くへと持ち上げている。

 生まれて初めて見る色の炎。肌はおろか心すら焦がすほどの大炎はどこまでも気高く、とめどなく舞い散る銀の細氷はどこまでも美しく――綺麗だと、天子は思った。

 

「――行くぞ」

 

 静かな声が耳をくすぐって、天子の肩を抱く大きな掌に力がこもる。

 天子は、頷いた。

 

「――うん」

 

 銀が蠢く。天を捉える。顎門を開ける。更に燃え上がる、

 

「全天を焼け……!!」

 

 刹那、大気が哭いた。

 

 

「――銀火!!」

 

 

 見上げる視界が、空が、ただ一色の銀で染まった。広大に広がっていたはずの緋色の雲が、呆気ないほど一瞬で銀の向こう側へと消えた。天子の全霊力を注ぎ込んで生み出された炎は、月見の妖力を起爆剤にして天への道を突き進む。

 銀の炎が、咆吼を上げた。

 それは、獣だった。触れる者すべての命を灰燼(かいじん)に変えることしかできない、死を振り撒く銀の獣だった。

 なのに空を征くその後ろ姿は、猛々しく、勇ましく、気高く、天子の瞳と心を惹きつけてやまない。

 叫んだ。

 月見と、ともに。

 

「「届けえええええええええええええええ!!」」

 

 全天が焼ける。生物だろうがなんだろうが関係ない。ただ目の前に行く手を遮るものがあるならば、銀の炎はすべてを等しく呑み込み、焼き尽くし、去る道に影すらも残しはしない。

 

 それがたとえ、空を覆う巨大な緋色の雲であろうとも。

 天を焼いた銀がやがて消えれば、代わりに空を彩るのは青。

 青い青い、夏の空だけが、広がっている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 当事者である月見たちを差し置いて、眼下から喝采が競り上がってきた。見下ろせば、喜びで万歳をしている者、ハイタッチをしている者、拍手をしている者、なぜか殴り合いをしている者。宴会みたいな馬鹿騒ぎになっている彼ら彼女らの姿を見て、月見もようやく、終わったのだと思えた。

 尻尾を一尾へ戻し、己の腕の中で、天を見つめたまま呆然としていた天子の頭を、

 

「天子」

「……あっ」

 

 そう言って優しく叩けば、ぴくりと震えた彼女がゆるゆると月見を見上げた。

 

「月見、私……」

 

 目の前の光景に頭が追いつかず、夢と現と彷徨うその瞳に、月見は微笑んで。

 

「お疲れ様」

「……!」

 

 天子の瞳が、小石を投げ込まれた水面のように揺れた。頬が強張り、口端が引きつり、目元がくしゃりと歪んだところで彼女は、

 

「っ……!」

「おっと」

 

 月見の胸に抱きつき、顔をぎゅっと押しつけて、それから静かに、声のない嗚咽で肩を震わせた。

 

「……本当に、お疲れ」

 

 涙を耐え忍ぶ小さな背を、月見はあやすようにゆっくりと撫でた。本当に、天子はよく頑張った。

 あんなド派手なやり方でしか、雲を払えないわけではなかった。天子の傷の具合に気をつけながら少しずつ消していく方法もあっただろうし、むしろその方が安全で確実だったはずだ。

 ただ、きっと、紫が求めていたのはこういうことなのだろうなとは思う。誰でもできるような安全策など見たくはない。怪我の具合など二の次で、紫の言葉に応えること――自らの想いを示すことだけにすべてを注ぐ覚悟。そのための荒療治であり、強行策であり、必要悪だった。

 もちろん、あの時の妖力が月見の全力というわけではないけれど。

 かといって、情けをかけていたわけでもなかった。実際、霊夢の声援がなければ危なかったのではなかろうか。

 天子はもう独りではない。危なくなった時には、声を張り上げて背中を支えてくれる仲間がいる。幻想郷の住人たちは、天子という少女を既に受け入れ始めている。そしてできたばかりの仲間たちに背を押され、天子は立ち塞がる壁を鮮やかに斬り払い、突き破り、限界を超えて、想いを示してくれた。

 これ以上、この子に望むことなどなにもない。

 

「天子ー、大丈夫ー!?」

「生きてるかー!?」

 

 霊夢と魔理沙が一直線に飛んでくる。びくりとした天子は慌てて月見から離れ、顔を上げて目元を拭い、なんとかこしらえた即席の笑顔で彼女たちを迎えた。

 

「霊夢。魔理沙」

「お疲れ。……で、怪我は大丈夫なの? 傷、開いたりしてない?」

「必要なら送ってくぜ?」

 

 ぴっちり包帯を巻かれているとはいえ、天子は月見の目の前でなんの恥じらいもなく胸元を確認すると、

 

「……ちょっと開いちゃったかも」

「……まあ、そんなにヤバそうな感じじゃないからいいけど。このあと、ちゃんと永遠亭に戻るわよ」

 

 怪我の具合が深刻でないのなら、先に確かめなければならないことがある。霊夢が、どこを見つめるでもなく虚空へ向けて声をあげた。

 

「紫、見てるんでしょ? 出てきなさい」

「――はーい。呼ばれて飛び出て、紫ちゃんでーす」

 

 霊夢の背後の空間がパクリと裂け、現れたスキマの奥から、紫が勿体振ったよそ行きの顔で――

 

「「「……」」」

 

 瞬間、月見たちの間を駆け抜ける、言葉にすることのできない微妙な空気。

 

「……え? なに、どうしたの? 呼び出しておいてその反応?」

 

 心外そうな顔をしている紫は、どうやら気づいていないらしい。「……なあ、これってツッコんだ方がいいのか?」と魔理沙が目線で訴えてくる。「ほんとにこいつは色々と台無しにしてくれるわね……」と霊夢が半目になっている。どう反応すればいいのかわからず、天子が下手な愛想笑いをしている。

 代表して月見が、

 

「……紫」

「つ、月見っ、なんでそんな目で私を見るのっ? やめてっ、このままじゃなんだか目覚めちゃいけない私に目覚」

「ほっぺたに生クリームついてるぞ」

 

 紫がものすごい勢いでスキマの奥に引っ込んでいった。

 五秒、

 

「――はーい。呼ばれて飛び出て、紫ちゃんでーす」

「ケーキは美味しかったかしら?」

「見なかったことにしてよ霊夢のバカーッ!!」

 

 せっかくカッコつけて出てきたのにいいいっ! とさめざめ涙を流している紫は、完全にバカの姿だった。どうしてくれるんだろうこの空気、と月見は心の底から思う。

 紫がしゃっくりをしている。

 

「ぐすっ……仕方ないじゃないっ、だって藍のショートケーキすっごく美味しいんだもん! 官能的よ! 悩殺的よ! あれは世界も狙えるわ!」

「もう帰っていい?」

「霊夢のばかあああっ!!」

 

 ここまで台無しにされると、逆に清々しくなってきた。

 パンパン、と両手を叩く。

 

「はいはい、それじゃあ本題」

「……ううっ、月見がフォローしてくれなぁい……」

 

 知ったこっちゃない。

 紫はしばらく唇をへの字にしていたが、やがて天子と目が合うと、吐息。

 

「……最後に、ひとつだけ訊かせて」

 

 いつしか『幻想郷の管理者』としての静かな面持ちで、彼女は祈るように、こう問うた。

 

「あなたは、幻想郷が好きですか?」

 

 そこに紫が、一体どんな、どれほどの想いを乗せたのかは、月見には到底想像しきれないけれど。

 わずかに揺れた天子が、氷を溶かすように時間を掛けてつくった、空の果てまで透明な微笑みは。

 

「――はい」

 

 そしてそのたった一言に詰め込まれた途方もない想いは、どうやら紫の目には、及第点として映ったようだった。

 

「比那名居天子。――私は幻想郷の管理者として、あなたの想いを認めます」

 

 笑顔。

 しょうがないなあと。本当にしょうがないなあと。子どもの過ぎたいたずらを、親が愛に負けて許すような。指先ひとつまみの、ほんのちょっぴりの悔しさを混ぜ込んで、八雲紫は笑っていた。

 

「それだけの気持ちがあれば……きっと、私がなにも言わなくても、大丈夫でしょう」

 

 霊夢と魔理沙が天子を振り返る。また感極まって震えている泣き虫な女の子に、三日月みたいににんまり笑って。

 

「「――やったああああああああああ!!」」

 

 随分と遠回りをして、辛い思いをして、時間ばかりが掛かってしまったけれど。

 天子が伸ばした掌は、ようやくその中に、焦がれて已まなかった夢の欠片を掴み取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 ⑫ 「見果てぬ青の先まで」

 

 

 

 

 

 もしもこれが皆敬虔な信仰心を持った参拝客なら、今頃霊夢は、目を小判にしながら涎を垂らしていたのだろうか。

 緋色の雲が払われてから、早いもので三日が経った。幻想郷の天気はすっかり元へと戻り、見上げればからりと晴れた夏の空、耳を傾ければ照りつけるような蝉の声。

 そして高らかに尾根を駆け抜ける、釘を打つ音。

 博麗神社の建て直しを開始した、今日がその一日目である。

 月見が見回す限り、ここにも妖怪あそこにも妖怪でごった返すような賑わいである。建築に覚えのある腕自慢妖怪たちがこれでもかというほど集結し、以心伝心の動きで基礎工事を行っている。諏訪子が土地を整え河童が木材を準備し、萃香の指揮のもと天狗たちが土台を築いていくのだが、まるで積み木を組み上げていくような手際のよさだ。ここに鬼たちが加われば、なるほど水月苑を一日で仕上げた手腕も納得の行くところかもしれない。

 その中に交じって、月見も微力ながら手伝いを、

 

「えっと、では次の質問よろしいでしょうか!」

「ん? ああ……」

 

 したいのは山々なのだが、取材熱心な鴉天狗の少女に捕まってしまっていた。

 もちろん、文ではない。敬っているのかおちょくっているのかわからない慇懃無礼な敬語が代名詞の彼女だが、月見に対してだけは百八十度回転し、鋭い刺を持つ冷ややかなタメ口を使うことで広く知られている。なので今月見の目の前で熱心にペンを動かしているのは、つい先程名刺で名前を知ったばかりの相手であり、

 

「ではではっ。先日、月見様がなんと十一尾の尻尾をお持ちの妖狐だと明らかになりましたが、その本数になったのはいつ頃のことなのでしょうか?」

「……それ、他のやつらからもう何度も訊かれたからさ。そっちから教えてもらってくれ」

「ダメですっ。新聞記者として、ちゃんと自分の目で見、耳で聞いて確かめないとっ」

 

 文に負けず劣らずの情熱は大変立派なのだが、それが紙面まで反映されていないのが惜しい。天狗の新聞は数あれど、過去月見の心を掴んだのは『文々。新聞』ただひとつである。

 山の妖怪を含め大勢が見上げる先で、必要とはいえ十一尾を開放したのは迂闊だったかもしれない。お陰様で異変が終結してから三日が経った今でも、月見のところまでメモを片手にやってくる鴉天狗はひっきりなしだ。今なら、外の世界で日々マスコミに追い掛け回される有名人と、仲良く酒を酌み交わせる自信がある。

 

「――というわけだ。これくらいで大丈夫か?」

「はいっ、ありがとうございます! それでは次の質問に参りますね!」

「……残り、あとどれくらいだ?」

「あと少しですよ! ええと……あと、たった三十程度で」

 

 どうせそれも今までされた質問と同じなんだろうなと思うと、ため息しか出てこない月見なのだった。実際にやっては失礼なので、心の中だけで留めておくけれど。

 というわけで、逃げ出す口実を探して周囲をさらりと見回してみる。しかしさすがは建築慣れしている集団だけあって、助けを必要としている者などまったく見当たらない。その連携はまるで初めからシナリオの決められた劇を演じるようであり、月見が手伝いを申し出たところで、精々足を引っ張るのが関の山なのかもしれない。

 さっさと残り三十全部答えた方が楽かあ――と、月見が諦めかけたところでふと、

 

「ほらほら、どうしたのー? ペース落ちてるわよー」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 私は病み上がりなんだから、も、もうちょっと手加減……!」

「聞く耳持ちませーん。手伝いをしたいって言い出したのはあなたじゃない。自分の言葉には責任を持つこと」

「だからってこれは無茶よー!?」

 

 河童天狗の玄人たちに交じって、ひとつ、今日初めて木材の重さを知ったかのように初々しい少女の姿。

 比那名居天子が、紫にいじめられていた。

 

「はーい、次はこれねー。ちゃっちゃとよろしくー」

「いじわるー!!」

 

 スキマの奥からポーンと吹っ飛んできた木材を小さな体で懸命に受け止め、河童のもとまでひいひい言いながら運んでいく。妖怪ならばいざ知らず、彼女は人間で、なおかつ特別体を鍛えているわけでもない華奢な少女だ。自分の身の丈ほどの木材を抱えて無理に走り回れば当然、

 

「へぷっ」

 

 見事地面と接吻した天子に追い打ちをかけるように、スポーンとスキマから吹っ飛んできた追加の木材が、

 

「ひにゃー!?」

 

 哀れ木材の下敷きとなった天子を見て、月見は苦笑しながら腰を上げた。彼女の不幸を利用するようで悪いが、この場から逃げ出す口実としてはちょうどいい。

 

「月見いいいっ、助けてえええええ!」

 

 折りよく情けない声で助けも求められたことだし、鴉天狗の少女に軽く手を振り、

 

「悪いけど、続きはまた今度ね」

「あっ、月見様ー!?」

 

 逃げるように――まあ実際逃げているのだが――早足で天子のところへ向かう。しかし、こういうシチュエーションで真っ先に駆けつけそうな、『天子ちゃんマジ天使!クラブ』とかいう連中はどうしたのだろうか。彼らならむしろ、殴り合って先を争いながら天子の手助けをしそうなものだが――。

 

「天子ちゃん大丈夫っすか!? 待っててください今俺が優しく手当グエ」

「させるかあっ! 天子が呼んだのは月見さんであんたじゃないわよ! こっちで家具運ぶの手伝いなさいっ」

 

 救急箱を小脇に目ざとく駆け寄ろうとした鴉天狗の青年が、霊夢に襟首を掴まれ引きずられていく。その光景から、『天子ちゃんマジ天使!クラブ』の面々が真面目に仕事をしている理由を察しつつ、

 

「大丈夫か?」

「月見ぃ~、紫がいじめるうぅぅ……」

 

 木材の下から這い出してきた天子は、鼻をすんすんすすって涙目だった。しかし天人の頑丈な体のお陰で、怪我らしい怪我はひとつもない。嘘か真か、安物な刃物程度なら傷ひとつもつかないとか。

 

「ほら、立てるか?」

「……うん」

 

 月見が手を差し伸べると、天子は雲間から陽が覗くように淡くほころんだ。今回から始まった話ではなく、およそ緋色の雲を払ったあの日あたりから、彼女は月見がささいな手助けをするたび幸せそうな顔をするようになっていた。こういう反応をされると、手を貸す側としてもやはり悪くないもので、彼女も意外と人から甘やかされる才能があるのかもしれない。

 紫がスキマからひょこりと顔を出すなり、これ見よがしにわざとらしくため息をついた。なんだかんだで今までのことを根に持っているのか、天子に対してだけはかなりイヤミな態度を取る紫である。

 

「役立たずねえ」

「ぐ、ぐぬぬ」

「紫。この子は人間なんだから、ほどほどにしてやんないと」

「月見はこいつに甘すぎっ。やるって言ったのはこいつの方なのに!」

「確かに手伝うっては言ったけど、運ぶ木材がぽんぽん吹っ飛んでくるのはいじめでしかないと思いますっ!」

 

 天子が、さりげなく月見の後ろに隠れながら涙声で叫んだ。それを見て、紫の眉間にますます不機嫌そうな皺が寄る。ここで月見が退けば、天子は地獄のような労働を強制されるに違いない。

 

「木材運びなら私がやるから」

「うー! 月見はほんっとにこいつの肩ばっか」

「天狗たちの取材にはもう飽き飽きなんだ。適材適所。一緒に、やろうじゃないか」

 

『一緒に』のところをかなり強調していったら、紫の眉間の皺がころっと消し飛んで、

 

「そうねっ。じゃー月見、一緒にやりましょう! 愛の共同作業っ!」

「はいはい」

 

 まあ、天狗の取材から逃げられるならなんだっていい。

 紫が周囲を見回して、スキマの縁に頬杖をついた。

 

「天子は、そうねえ……みんなすごく手際がいいし、手伝うようなことなんてなさそうだけど」

 

 どうやらみんな暇を持て余していたらしく、博麗神社の再建工事には、両手からあふれるほど充分すぎる人手が集まっている。現に一部の妖怪たちはやることがないようで、端っこの方で茶菓子を摘み合ったり、大声で談笑したりしている有り様だ。

 天子が、「月見がやるなら私も一緒に……」みたいな顔をしているが、

 

「天子ー! 暇だったら、ちょっとこっち来てくれなーい?」

 

 折りよく、もしくは折悪しく、萃香とともに工事を監督する霊夢からお呼びがかかった。両腕いっぱいに広げた設計図と、難しい顔をして睨めっこしている。新しい母屋に新しい家具をどう配置するか、今から早速シミュレーションしているのかもしれない。

 

「ちょうどいいじゃないか。行っておいで」

 

 天子が迷うように紫を見た。紫は、頬杖をついたまま鼻でムスっとため息をついたけれど、決して、行くなとは言わなかったので。

 

「えっと……じゃあ、ちょっとだけ行ってきますっ」

 

 服の土埃を手早く払って、一直線に霊夢のもとへ。二人で一緒に設計図を覗き込み、

 

「どうかしたの?」

「ちょっと居間の内装を考えてたんだけど、どうせだったらあんたの意見も聞いてみようと思って」

 

 大きな設計図の左端を霊夢が持ち、右端を天子が持って、

 

「……ここに箪笥置くの? こっちの方がいいんじゃない?」

「あー、それは私も迷ったんだけどね。やっぱそっちの方がいいのかしら」

「その方がいいと思うなあ。そしたらほら、これをこっちに持ってきて……」

「あ、なるほどねー。だったらさ――」

 

 二人揃って頭を悩ませ、打てば響くように意見を交わし、時には朗らかな笑い声をあげる。博麗神社を壊した者、壊された者という関係はすでに過去のものとなり、今や彼女たちは、互いが友人として申し分ない関係を築いていた。

 自然と頬が緩む月見の横で、紫はまたため息をついている。

 

「まったく。あいつもそうだけど、霊夢もまあ、あんな呑気に笑っちゃって」

 

 あまり人に気を許さない少女だと思っていた。人間とも妖怪とも関わりの深い博麗の巫女だけあって、知人友人は種族を問わず多くいるが、一方で誰からも一線距離を取った、どこか損得勘定な振る舞いが目立つ少女だった。

 賽銭を入れてくれる上客の月見には、そこそこ親密に接するし笑顔も見せる。

 しかしそうでない相手にはどこまでも冷たく素っ気なく、笑顔も滅多なことでは見せはしない。

 そんな彼女が、損得関係なく誰かと気ままに笑い合う姿は、ひょっとすると紫ですら初めて見たのかもしれない。

 

「……きっとこれこそが、幻想郷から望まれた結末だったんでしょうね。見てよ。嫌そうな顔してるやつなんて一人もいやしない」

 

 討論が白熱している天子と霊夢はもちろん、それを見守る月見も、神社の骨組みを着々と作り上げていく妖怪たちも。

 そして……なんだかんだで、紫だって。

 みんな、笑っている。気に食わないことや辛いこともあったけれど、それは全部終わった話。これからは、同じ場所で一緒に生活をしていく仲間だから。

 

「……お前には、礼を言わないとな」

「? なんで? あいつのことを認めたから?」

 

 いや、と月見は小さく首を振った。まったくの的外れではないが、それよりも大きく勝る感謝の気持ちがあった。

 首を傾げる紫を見返して、おどけるように口端を曲げる。

 

「あの子を受け入れてくれるような、優しい幻想郷をつくってくれたことに……かな」

 

 完成した当初は、本当に完成したとは胸を張れないほど上手く行かないこともあった幻想郷だけれど。今やここは、種族を問わず皆が笑い合えるあたたかい世界に成長した。

 こういう世界があればいいと、夢想したことは昔から何度もある。そして、それはもう夢ではない。まぶたを上げればすぐ目の前に、夢が現実となった光景が広がっていることを、月見は心の底から素晴らしいと思うのだ。

 虚を衝かれて紫がくるりと目を丸くした。それから数秒間、ゆっくりと、頬が色づいていって。

 

「……ありがと、月見」

 

 やがてこぼれた微笑みは、心に柔らかな日射しを落としたように、あたたかかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もちろん、落成式など名ばかりである。

 要はみんな、酒が呑みたいのである。

 

「みんなー! 香霖のとこから旨い酒をかっぱらっ――じゃなかった、お裾分けしてもらってきたぜー!」

「こっちも! 天界から秘蔵のお酒をかっぱらっ――じゃなかった、分けてもらってきたわー!」

「私だって! 外の世界から高級なお酒をかっぱらっ――じゃなかった、買ってきたわよー!」

 

 新生博麗神社の落成式、兼、比那名居天子の歓迎会である。暇を持て余す山の妖怪たちが寄ってたかってフル稼働した結果、工事はわずか一日で完了した。そして庭の手入れと家具や神具の運び入れがあらかた終われば、待っているのは当然宴会というのが幻想郷の習わしであった。幻想郷の宴会は時間を選ばす、まだ太陽の高い真っ昼間だろうが関係ない。

 この宴会のためだけに余った木材で特大のテーブルを作っている者がおり、酒や食材を次々運んでくる者がおり、仲間を呼びに飛んで行く者がおり、新しい母屋の台所で鍋を振るっている者がいる。そのどれにも属することなく、博麗霊夢はたったひとり、ご神木の幹に背中を預けてため息をついている。

 

「はーあ。せっかくお賽銭箱も新しくなったってのに」

 

 工事を手伝いもしなかったくせにタダ飯をしようとしている連中も含め、参加者はざっと眺めただけで百は下るまいし、ひょっとしたら二百にすら迫るのかもしれない。総じて宴会好きな幻想郷の住人たちとはいえ、これほどの大人数が集まるのは珍しい。

 これが全員参拝客だったなら、きっと今の霊夢は幸せだった。これが全員参拝客ではないので、今の霊夢は憂鬱だった。

 艶のある木目に金具で堅牢な装飾を加えた、博麗神社の新しい素敵なお賽銭箱に、お金を入れてくれたのは今のところ月見と天子だけだ。早くも馬鹿騒ぎの様相を呈しつつあるその他の人間妖怪神様諸々は、わかっていたこととはいえ、拝殿の方へは近寄りもしてくれない。

 まあ、今回は霊夢もタダで酒を呑んで美味しいご飯を食べられるので、目を瞑るけれど。

 

「……霊夢は、交ざってこないのか?」

 

 いきなり隣から声が聞こえて、少しびっくりしてしまった。振り向けば、一体いつからそこにいたのか、月見が銀の尻尾を麦穂のように揺らしている。半分ぼうっとしていたせいで、声を掛けられるまで気づかなかった。

 

「月見さん……びっくりさせないでよ」

 

 喉で笑った月見は詫びるでもなく、

 

「随分と、考え事をしてたみたいじゃないか」

「んー。これがみんな参拝客だったらいいのにって」

 

 正直に答えたら、またくつくつと笑われた。それほど変なことを言ったつもりはないのだが、月見の笑顔はこんな時でも裏表がなく穏やかなので、そう悪い気はしない。

 

「お料理はもう終わったの?」

「もうすぐ運べるよ」

 

 結局、神社と母屋の設計は従来のものをそっくりそのまま踏襲した。デザインはもちろん、大きさも場所もすべて丸々だ。「今までずっと暮らしてきた場所を別物にしちゃうなんて嫌!」と頑に主張する霊夢が紫を感動させた――などという話があるはずもなく、ただ設計を考えるのが面倒くさかっただけである。

 変わったところといえば精々、建物がボロくなくなって、一部家具の置き場所が変わったくらい。今までとまったく同じ場所に、まったく同じ形で建っている母屋からは、段々と美味しい香りが漂ってきていた。

 

「まあ、みんな私よりもずっと料理が上手いから、ほとんどやることなんてなかったけどね」

「ふーん。月見さんのお料理、私は好きだけどなあ」

「おや、ありがとう」

 

 もちろん、月見の腕前が藍や妖夢や咲夜よりも上だとは思っていない。けれど霊夢は、月見の作る料理の味が好きだった。特別手が込んでいるわけでもなく、特別な味付けをしているわけでもない素朴な味わいは、もともと質素な生活を好む霊夢の舌によく馴染んだ。藍たちが作る懐石料理みたいな品々は、舌が肥えていない霊夢には少し合わない節があるのだ。……無論、タダで食べられるなら喜んでいただくが。

 だから月に何度か、水月苑まで遊びに行って料理をご馳走してもらうのは、ここ最近になって加わった霊夢のささやかな楽しみだ。

 霊夢は月見を見て、

 

「ねえ。……ちょっと、話しない?」

「? 構わないけど」

 

 ご神木の根本に腰を下ろす。それを見た月見も同じように、よっこらせ、と座り込む。人間ならば三十代とも言いづらい若い見た目をしているくせに、猫背で胡座をかく姿がまるでおじいちゃんみたいだったから、霊夢はくすっと笑った。

 

「月見さん、それじゃあまるでおじいちゃんみたい」

「実際、おじいちゃんだよ。私より長生きしてる妖怪なんてそうそういないはずだ」

「じゃあ今回の異変は、おじいちゃんの体には少し堪えたかしら?」

「ああ、そうだね」

 

 月見は後ろに両手をついて、胸を反らして空を見上げ、

 

「……今回ばかりは、本当に疲れたよ」

 

 本当にその通りだと、霊夢は思う。今までの異変なら、首謀者を弾幕でボコればそれで終わりだった。弾幕ごっこで幻想郷随一の実力を持つ霊夢なら、特別難しい役目でもなかったのだ。

 なのに今回はどういうわけか、神社が壊れるわ紫が暴走するわ天子が殺されそうになるわ緋色の雲を消し飛ばせと言われるわ。

 もしも月見がいなかったら、自分と魔理沙だけだったら、今この風景に辿り着くことは決してできなかった。紫に敗れ、天子を失い、そしてすべてをなかったことにされた偽りの日常を生きていたのだろう。

 一人の少女が目の前からいなくなったことすら、思い出すこともなく、のうのうと。

 考えただけで鳥肌が立つ。

 

「……月見さんには、ほんとに感謝しないとね」

「それを言ったら私だって、お前には感謝しているよ」

 

 首を振った。まぶたを下ろせば甦る。一閃の下に斬り捨てられた天子が、血の飛沫をまき散らし崩れ落ちていく。思い出すだけで体が凍えるようだ。動かなくなった天子をただ見ていることしかできなかった己が、すべてを解決してくれた月見に感謝されるなんて、ちゃんちゃらおかしな話ではないか。

 だが、

 

「わぷっ――ちょっと、なにするのよ」

 

 ガシガシと、ほとんど叩いているのと大差ないほど乱暴に頭を撫でられて、霊夢は月見の腕を素早く振り払う。

 それを、月見は気にした風でもなく、

 

「なに暗い顔しているんだよ。私に感謝されるのは迷惑だったか?」

「そんなんじゃ……ただ、私は天子を守りきれなかったし、月見さんに感謝される権利なんて、ないって思っただけで」

 

 またガシガシしようと伸びてきた月見の右腕を、すかさず掴み取る。

 

「っ……月見さん、さっきからなんなの? 私、頭撫でられて喜ぶような年頃はとっくに終わったんだけど」

 

 だが月見は男性で、しかも妖怪だから、力は少女で人間な霊夢よりずっと強い。両手を使って抵抗しても負けてしまいそうだ。押し切られそうになる一歩手前でぷるぷる震えていると、月見が白い歯で笑って、

 

「そうか? 随分と、ませたことを言う子もいたものだと思って、ね!」

「わわっ……!?」

 

 右手に気を取られている隙に、左手でガシガシされた。それで慌てて左手を止めようとしたら、今度は右でガシガシ。右を止めようとすれば左でガシガシ。そのうちどちらも止められなくなってしまって、両手でガシガシガシガシガシガシ。

 もおーっ! と両腕を滅茶苦茶に振り回した。

 

「子ども扱いしないでったらっ! 確かに私は、あなたの歳からすればまだまだ子どもなんでしょうけどね、」

「――ありがとう、霊夢」

 

 と。

 顔を真っ赤にして怒っている自分がおかしいとすら思えるくらいに、優しく柔らかな言葉だった。

 霊夢が続けるはずだった言葉を見失っているうちに、

 

「お前はちゃんと、私との約束を守ってくれたさ。あそこで元気に走り回っている子は一体誰だ?」

 

 月見が指を差した先では、天子が子犬みたいに走り回って食器の準備をしている。

 月見が言いたいことはわかる。月見と交わした約束は、「天子を死なせないでくれ」だった。天子はああして生きている。だから、約束を守れなかったわけではない。

 わかってはいるのだ。

 

「……でも、天子を守りきれなかったのは、事実」

「だがお前がいてくれなければ、私は間に合わなかったかもしれない。お前がいてくれたから私は間に合ったし、天子だって助かったんだ」

 

 ひょっとしたら、月見の言う通りなのかもしれない。実際、幻想郷最強格の大妖怪相手に、霊夢という人間はよくやった方なのだろう。ただしそれは、紫の心に大きな葛藤があったからこそのことだったけれど。

 もしも紫に初めから迷いがなければ、きっと一瞬で終わってしまっていた。

 実力ではない。ただ、運がよかっただけなのだ。

 

「……月見さんには、わからないかもしれないけどね。私、怖いのよ。怖かったんじゃなくて、今だって怖い。……天子が、斬られた時の、こと」

 

 多分、トラウマになってしまっているのだと思う。人が死にゆく姿を見たのは初めてだった。あんなにも、人の死の足音をすぐ耳元で聞かされたのは初めてだった。目の前で動かなくなった者に、手を伸ばすことすらできない己の無力は、今でも繰り返し夢で甦るほど恐ろしかった。

 

「正直言えば、今すぐにでも忘れちゃいたいくらいなんだけど……でも、忘れちゃダメなんだと思う。私ね、自慢するわけじゃないけど、弾幕ごっこはかなり強いからさ。スペルカードルールが根付いた今の幻想郷でなら、割と怖いものなしだって思ってたの」

 

 いざこざが起これば、スペルカードルールに則った決闘で白黒をつけるのが今の時代の習わし。それが当たり前だったから、スペルカードルールを取り払った時にどういうことが起こるのかなんて忘れていたし、思い出そうともしていなかった。

 その答えが、きっと天子であり、月見であり、紫であり、そして霊夢だった。妖怪(ゆかり)はその気になればいつだって人間(てんし)の命を奪うことができ、それを人間(れいむ)は見ていることしかできなくて、止められるのは、同じ力を持った妖怪(つくみ)だけ。

 スペルカードルールがなければ、人はあんなにも無力なのだと。そのために、スペルカードルールというものが生まれたのだと。弾幕ごっこで数々の妖怪を蹴散らした記憶に埋もれ、忘れてしまっていた。

 だから霊夢は、戒めなければならない。網膜に焼きついた悲劇の光景を、二度と繰り返さないために。

 

「だからお願い、あんまり優しくしないで。じゃないと私、きっと自分で自分を許しちゃう」

 

 そして、忘れてしまう。あの時天子を失いかけた恐怖も、守れなかった痛みも。

 

「……」

 

 月見の感謝を無下にするような拒絶は、きっと失礼だったろう。けれど月見は眉ひとつ歪めることなく、ただ雲がまっすぐ伸びていくように、静かに長く、息を吐いて。

 霊夢の背を、大きく広げた掌で二回、叩いた。

 叱咤するように。

 

「確かに、それも必要なことなのかもしれないな」

 

 でも、と。霊夢ではなく、走り回る天子を見つめながら、

 

「なにも、天子のために頑張った自分の想いまで、否定することはないんじゃないか」

「そんなこと……」

 

 答えかけてから霊夢は考えて、それから言い直した。

 

「そんなことないわ。そもそも、私が天子のために頑張ったってのが間違い。私はただ、あのまま天子を殺されたら、自分が納得できなくて嫌だっただけ。だから、天子のためじゃなくて自分のために」

 

 霊夢の言葉を遮って、月見がくつくつと笑った。喉を痙攣させるような笑みだった。

 

「私も、似たようなことを天子に言ったよ。……そしたら、バカ、って言われた」

「……」

「それにお前、私たちが雲を消し飛ばす時に、先陣切って天子を応援してたじゃないか。喉を痛めて声も掠れてたのに、まるでお構いなしでさ。あれも自分のためか?」

「あ、あれは……っ」

 

 咄嗟に言い返そうとしたが、なぜかどうしようもなく焦ってしまって、上手く言葉を見つけられなかった。月見の指摘はもっともだ。確かにあの時霊夢は、潰れた喉で声を張り上げる痛みを懸命に耐え忍んでいた。苦しむくらいならやめておけばいいのに、黙ってはおれなかった。けれど、天子のためだったわけでは決してない。ないったらない。あくまで、中途半端な終わり方をされては自分が納得できないからであって、最後の最後で諦めかけていた天子に苛立ったからであって、

 

「はっはっは」

「……」

 

 けれど呑気に笑う月見を見ていたら、反論する気持ちも引っ込んでしまった。月見は、霊夢をからかって遊んでいるわけではない。霊夢の中に芽生えた感情を喜び、慈しむ、父親のような姿だった。

 ほんのさっきまで、おじいちゃんみたいだったくせに。なるほど、月見を「お父さんみたい」と言って慕うあの吸血鬼は、彼のこういう姿に惹き寄せられたのかもしれない。

 吐息。

 

「……月見さんも、天子のためだった?」

 

 苦し紛れのつもりでそう問うたら、月見は隠そうとすることもなく、ああ、とはっきり頷いた。

 

「結局は、そうだったのかもしれないな。……見てご覧」

 

 月見が母屋の方を指差す。つられて視線を動かしたら、あろうことか天子が、顔面から、へぐぅっと玉砂利の中に突撃したところだった。甲斐甲斐しく宴会の準備に奔走するあまり、足を滑らせたらしい。どっと周囲が沸き立つ中、「わっ、笑わないでよっ!」と手で地団駄を踏んでいる。

 月見は笑みを深めて、

 

「可愛げのあるやつじゃないか。……死なせるには、惜しすぎるよ」

 

 天子が転んだ瞬間、ちゃっかり背後からカメラのシャッターを切っていた鴉天狗の青年が、『天子ちゃんマジ天使!クラブ』に流れる動きで拉致され、境内の隅で袋叩きにされている。

 そんなアホくさい光景を眺めていたら、霊夢も自然と、体から力が抜けていた。

 

「……そうね」

 

 苦笑、

 

「死なせるには、惜しいやつよね」

 

 博麗霊夢は、自分と他人の線引きを冷淡に行い、損得勘定で動く人間である。自分は自分、他人は他人であり、自分にとって都合のいい人物だけがいい人であり、他はどうでもいい。月見は賽銭を入れてくれるしご飯を作ってくれるからすごくいい人。紫はインスタント味噌汁を持ってきてくれるし、なんだかんだでよく面倒を見てくれるからまあいい人。森近霖之助はツケがどうこうさえ言わなければいい人。魔理沙はただの腐れ縁。賽銭も入れてくれない妖怪なんて知ったこっちゃない。

 天子と関わったところで、これといっていいことがあるわけではないだろう。むしろ博麗神社をぶっ壊してくれただけ、損得をいえば大損もいいところだ。

 でも、なぜかはわからないけれど。

 不思議と、あいつだけは。

 

「……ねえ、月見さん」

 

 怪我はないかとファンクラブの面々に詰め寄られ、わたわたおろおろしている天子の横顔を見ているうちに、霊夢の唇は自然と言葉を紡いでいた。

 

「私、修行しようと思うの。……スペルカードルールに頼らなくても、人ひとりくらいは守れるように」

 

 無論霊夢だって、博麗の名を継ぐ者だ。今の幻想郷には、スペルカードルールを理解できるほどの知能を持たない妖怪が少なからずいるし、そういった連中の退治を依頼されることだってある以上、妖怪を倒すための術は押しなべて心得ている。そして、今まではそれで充分だと思っていた。

 だが今回の一件で、大妖怪と呼ばれる者たちが、自分とはまるで別の次元にいることを改めて思い知った。……まあ、比較対象が紫なので、些か極端すぎるかもしれないけれど。

 ともかく今のままでは、きっとまたいつか、繰り返してしまう。またいつか、守りたい人を守ることもできず、ただ叫ぶことしかできない日が来てしまう。

 そんなのはもう、嫌だから。

 

「……なぜ、その話を私に?」

「手伝ってよ」

 

 月見の顔を、下から覗き込んだ。

 

「月見さんって、妹紅に修行つけてあげてた時期があったんでしょ?」

「あれは、修行でもなんでもなくただ戦ってただけだよ」

「それでもいいから」

 

 というか、そっちの方が自分の性に合っている。霊夢は、頭ではなく体で理解して覚えるタイプだから。例えば紫のような、やれそれはこうするべきだのあれはこうするべきだのと、事あるたびにネチネチ言う教え方は嫌いだ。

 自分が体で理解できるまで、辛抱強く、一緒に戦ってくれる人がいい。

 そしてそれは、きっと、月見なのだろうなと思う。

 

「ダメかしら?」

「いや……」

 

 言い淀んだ月見は意外そうに腕を組んで、

 

「逆に訊くが、私でいいのか?」

 

 知り合いだけは多い霊夢なので、頼めそうな相手ならもちろん月見以外にもいる。萃香あたりなら、きっと大喜びして相手になってくれることだろう。

 けれどやっぱり、選べるのであれば、月見がいいと思う。

 なんというか。

 月見と一緒なら、強くなれる、気がしたから。

 だから、言った。

 

「月見さんじゃないと、ダメ」

 

 吹き出すように、月見が笑った。

 

「ッハハハ。そこまで言われちゃったら、断ろうにも断れないね」

 

 暇な時でよければね、と。そう言って、微笑んでくれたので。

 

「……うん。お願い」

 

 これは本当に博麗霊夢なのだろうかと、自分で自分に苦笑した。少し前の自分だったら、こんなことは天地がひっくり返っても言い出さなかったはずだ。修行なんてかったるい。紫や魔理沙からは呆れられるが、そんなのしなくたって弾幕ごっこはもう充分強いし、妖怪退治で困ることもないから構いやしない。――ほら、修行してよかったと思ったことも、修行してなくて後悔したこともないし。

 けれど今回の異変では、喉が潰れるほどに後悔した。せめて自分にもう少し力があれば血は流れなかったかもしれないと、もう何百回悔いたかもわからない。

 後悔、できるようになったのだ。自分でも知らないところで、博麗霊夢は思いの外変わっていた。

 そういえば今年に入ってから、今までより思いの外変わった者たちは随分と多い。傲慢だったレミリアは物腰が多少柔らかくなり、冷淡な女だった咲夜は年頃の女の子らしくなり、深窓のお姫様めいていた輝夜はアウトドアなお転婆姫になり、早苗は獣耳が好きというよくわからない趣味を隠さなくなり、人が好物だったはずのルーミアは水月苑で釣りを楽しむ人畜無害の妖怪となり、阿求はどこか陰りのあった笑顔が吹っ切れたように明るくなり、霖之助は「君も月見を見習って……」と小言がやかましくなり、紫はただの残念になった。

 いい意味でも、悪い意味でも。

 今年になってから――正確には春がやってきてから変わった者たちの、随分とまあ多いこと。きっと霊夢が知らないだけで、実際はもっと多いのだろう。

 これは、単なる偶然なのだろうか。それともどこぞの、底抜けに優しくて世話焼きな妖怪のせいなのだろうか。

 歓声が聞こえた。

 

「ん。そろそろっぽいわね」

 

 いつの間にか完成していた特大テーブルに、藍や妖夢など料理上手な面々が配膳を始めている。風に乗って漂ってきた料理の香りが、反則的なまでに霊夢の鼻腔をくすぐった。

 肉だ。

 最後にお肉を食べたのは、いつだっけ。テンション上がってきた。

 

「霊夢ー! 月見ー! そろそろ始まるよー!?」

 

 折りよく天子から声を掛かったので、霊夢は月見と二人揃って、よっこらせと腰を上げた。それからふと、宴会の輪の中心で天子が手招きしているこの光景が、噛み締めるほど尊いものであるように思えて、実際歯を噛み締めながら、霊夢は大きく手を振り返した。

 

「今行くー!」

 

 名を呼ばれこうも元気ハツラツな返事をするのだって、今までじゃあ絶対ありえなかった。博麗神社の新生に合わせて自分までもが生まれ変わったみたいで、なんだか少しくすぐったい。

 けれどそれは、思いの外、悪い感覚ではなかったので。

 

「ほら、行きましょ!」

「ああ」

 

 月見の袖を引っ張って、力強く地を蹴り出す。

 お・に・くーっ! と。そんなことを、考えながら。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――そんじゃあ、音頭取りは天子がやるわよー! みんな、ちゅーもーく!」

「ちょっと待ってよー!?」

 

 そして天子は涙目になった。宴会の準備がすべてつつがなく完了し、さあいよいよ乾杯だという頃合いになって、やっぱり初めの挨拶は霊夢なのかなーなどと考えていたらなぜか自分が前に叩き出されていた。百人以上にもなる参加者たちの視線が全身をくまなく直撃する。ひいい、と天子は五歩ほど後退する。

 こういう挨拶はあまり得意ではない。というか嫌いだ。得意という人の方が珍しいはずだ。一体なにが楽しくて、大勢の視線に晒される中でスピーチなぞしなくてはならないのか。元々考えるよりも先に口が動くタイプなので喋れることは喋れるのだが、勢い任せ故に変なことを行ってしまったり、思いっきり舌を噛んでしまったり、ふとした瞬間頭が真っ白になってなにも言えなくなってしまったりと、押しなべていい思い出がない。

 焦る天子を煽るように、霊夢が野次を飛ばしてくる。

 

「ほらー、あんまりみんなを待たせちゃダメでしょー? さっさとなさい」

「こ、これは神社の落成式なんだから、霊夢がいいと思うなあ!」

「なに言ってんの、落成式なんてただの建前よ。これはあんたの歓迎会。だからあんたが挨拶するのは当然でしょ」

「で、でもぉ!」

 

 せめて前もって言ってくれればやりようもあったのに、いきなりだなんてあんまりすぎる。しかも味方がいない。なにかと天子を助けてくれるファンクラブの面々も含め、みんなが期待の瞳で天子を見ている。一部は河童製のボイスレコーダーまで装備している有り様である。天子の頭は早くも真っ白となり、体は砂漠の砂と化して崩れ落ちそうだった。

 文字通りの大弱り。であれば、天子が救いを求める先は当然、

 

「つ、月見~……」

「あんた、困った時にすぐ月見さん頼るのやめなさい。どんだけ依存してんのよ」

「うぐっ」

 

 霊夢に一刀両断され、天子は胸を押さえて呻いた。……もしかしてそうなんじゃないかと自分でも疑っていたが、やっぱり依存しているのだろうか。ここ最近、月見が傍にいてくれるととても安心する。長時間離れると、なんとなく不安で落ち着かなくなってしまう。ちょっとでも困ったことがあると、条件反射みたいに月見の姿を捜してしまう。

 今だってほら、人垣の中から月見を見つけるだけで、緊張でバクバクしていた心臓が少し穏やかになる。……「いつも月見さんばっかりいいいぃぃ!」と怒り心頭で襲いかかってくる男たちを尻尾でぺしぺし弾き飛ばしているのは、この際あまり気にしないでおこうと思う。

 あらかたの男たちを迎撃したところで月見が、

 

「無理そうだったら、私が代わろうか?」

「月見さん、甘やかしちゃダメよ」

 

 どうやら霊夢は、なにがなんでも天子に喋らせたいらしい。いじわるだ。

 霊夢の刺のある視線を、月見はやんわりと受け止めて、

 

「無理だったら、だよ。せっかくの機会だし、みんなに言いたいことがあるなら言ってみたらどうだ?」

 

 なにか、言いたいことがあるんじゃないのか? ――言葉なき言葉でそう問われ、天子は少しの間、考えた。言われてみれば確かに、みんなの前で話ができる機会はこれが初めてだ。今になって初めて気がつくけれど、そもそも天子は、月見以外のみんなにまともな自己紹介すらしていない。

 

「……」

 

 右手に持った盃の中で、酒の波紋が音もなく静まっていく。みんなが行儀よく口を閉じて、天子の言葉を待っている。天子はまぶたを下ろし、ゆっくりと長く、深呼吸をする。

 前を見た。

 

「……皆さん、こんにちは。はじめまして、の人もいるのかな。比那名居天子です」

「「「こんにちはあーっ!!」」」

 

 予想外の大合唱が返ってきて、後ろにひっくり返るかと思った。慌てて踏み留まり、

 

「え、ええっと! ……まずは、その……みんなもう知ってると思うけど、私は異変を起こしました。みんなに、色々と迷惑掛けちゃったと思います。ごめんなさい」

 

 頭を下げた瞬間、口々にいろんな言葉が飛んできた。すべてを聞き取ることはできなかったけれど、気にするなとか、幻想郷じゃああんなの日常茶飯事よとか、むしろ今までの異変と比べると物足りなかったなーとか、どれもが天子を気遣ってくれる温かい言葉だった。

 それだけでもう天子は泣きそうになってしまったけれど、頑張って続けた。

 

「……霊夢と、紫も。神社を壊しちゃって、ごめんなさい」

「その話はもういいのよ」

 

 霊夢は手首を縦に振って、

 

「元々ボロっちい神社だったり、むしろ建て直すのにちょうどいい機会だったわ。ねえ紫?」

「はいはい、私はなにも言いませんよーだ」

 

 紫がぷーいとそっぽを向くけれど、決して霊夢の言葉を否定はしない。ふと天子と目が合って、彼女は肩を竦めた。

 

「ほら、続けなさいな」

「う、うん」

 

 緋色の雲を払ったあの日以来、紫が天子を否定することはなくなった。神社の建て直し工事では散々いじめられたし、言葉の端々にもやや刺があるので、紫自身、まだ自分の心にちゃんと整理をつけられたわけではないのだと思う。

 だがそれでも、続けなさいと――このまま話し続けてもいいと、言ってくれる。普通だったら、帰れと叫ばれても仕方ないはずなのに。

 本当にありがたくて、なんだか目元が湿っぽい。

 

「えっと、みんな、本当にありがとう。……私が異変を起こした理由は、もうみんな知ってると思います。あんなことしかできなかった私だけど、でも、なんていうのかな。楽しくやっていけたらいいなって、思ってるので」

 

 みんなの前で改めてこんなことを言うのはすごく恥ずかしくて、心臓はバクバクで唇と舌はパサパサだった。けれど、決してこの言葉を途切れさせはしない。

 これは、なにも変われなかった今までの自分に告げる別れの言葉。今までの自分では、きっと口が裂けても言えなかった言葉。

 帽子が落ちてしまいそうになるくらい深く、頭を下げて。

 

「……なかよくしてくれると、嬉しいです。よろしくお願いします」

 

 比那名居天子は、弱くなった。他者を拒絶し、孤高に、孤独に、けれど一人でも強く生きていた頃へはもう戻れない。

 誰かと共に過ごす日々の彩りを、知ってしまった。

 誰かの腕に抱かれるぬくもりを、知ってしまった。

 ――人に甘える、ということを、知ってしまった。

 だから天子は、誰かと共に生きていきたい。月見と。月見の周りの人たちと。たくさんの人たちとたくさんのことを体験して、たくさん笑って、時には怒ったり泣いたりもするかもしれないけれど、最後にはやっぱり笑って生きていきたい。

 

「――ほら、いつまで頭下げてんのよ」

 

 呆れたような霊夢の声が聞こえて、天子は恐る恐る顔を上げる。皆が盃を天子へ向けている。こっちはいつでも準備オーケーだと言うように、抑えきれない不敵な笑みをにじませている。

 

「宴会の挨拶は、頭下げて終わりじゃないでしょ? まだ、大切な一言が残ってるじゃない」

 

 うんうん、とみんなが一斉に頷く。それだけだ。みんなが口端を吊り上げて笑うばかりで、天子の言葉に答えてくれる人はひとりもいない。

 けれどそれでも、天子は息を呑むほどに嬉しかった。宴会を始めるにあたって欠かしてはならない『あの言葉』を、みんなが今か今かと待ち侘びている。天子が叫ぶ時を待っている。自分たちが叫ぶ時を待っている。

 鳥肌が一気に立ち上がってきて、目元が潤み、鼻の奥がツンと痛んだ。声が出てしまいそうになるのを必死に我慢した。右手の盃から、お酒がちょっぴりこぼれてしまった。狙いすましたように、頑張れー頑張れーと茶々が飛んでくる。ちょっとだけ、咳き込むような、おかしな声が出てしまう。

 胸が張り裂けそうだった。嬉しすぎて、もはや痛みすら感じた。

 ――なかよくしてくれると嬉しい? そんなの言われるまでもない。

 そんな言葉が聞こえてしまうのは、自分勝手だろうか?

 

「っ……」

 

 涙を拭う。比那名居天子は、このあたたかさが大好きだ。ここにある営みが大好きだ。時にはすれ違ったり、失敗してしまったりして、喧嘩をしたり涙を流したり、決して綺麗なことばかりではないけれど。

 それでも最後には、なんだかんだで、みんなが一緒になって笑っている。

 世界も種族も性別も年齢も、すべてを清々しく取っ払った、いのちを営むあたたかさ。

 その中心に、自分がいるのだ。ようやく、いられるようになったのだ。

 だから、叫んだ。

 

「そ、それではぁっ!」

 

 それは思っていた以上に情けない涙声だったけれど、構いやしない。

 

「新生・博麗神社の完成を祝して!」

「天子の幻想郷デビューを祝してー!」

 

 霊夢から予想外の合いの手を入れられたって、なんのその。

 

「「「祝してーっ!!」」」

「ありがとー!」

 

 津波みたいな大合唱が来たって、もう怯まない。

 だって私、今がこんなにも、幸せなんだもの。

 だから、笑え。太陽の光すら、弾き返すように。

 

 盃を高く掲げ

 胸いっぱいに息を吸って

 

 見果てぬ青の先まで、どこまでも、どこまでも。

 

 

「――かんぱあああああいっ!!」

「「「かんぱあああああいっ!!」」」

 

 

 ……ひょっとしたら少し、泣き笑いみたいになってしまったかもしれないけれど。

 それはそれ。今までの人生で一番の笑顔だったはずだと、天子はちょっぴり、自惚れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――東方緋想天、了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方緋想天 後日談 「その後の少女たち」

 

 

 

 

 

「いっ、た――――――――いっ!?」

 

 鐘のような悲鳴であった。

 戦いにおいて、人間の体と妖怪の体とは能力的に大きな隔たりがある。妖怪の体は総じて強靱で荒事に向いているが、一方で人間の肉体は非力で脆い。拳で戦えばまず勝ち目はないから、刀や弓などの武器に頼らざるをえないし、祈祷や祭祀などといった呪術も編み出された。だがそういった力を我が物とし妖怪に対抗したのも一部の人間のみで、脆く非力なまま妖怪に蹂躙された人間も決して少なくはなかった。

 幻想郷という楽園が完成した今でも、妖怪がその気になればいつでも人間を害せるのは変わっていない。

 つまるところ今回も、月見のデコピンが霊夢のおでこを打ち抜いたのであり、

 

「……はい、おしまい」

「むー……」

 

 博麗霊夢は本日も、赤くなったおでこを押さえて涙目なのだった。

 牽制の弾幕が途切れた隙に一気に距離を詰め、素早い動きで的を絞らせないままバチン。妖怪の山に霊夢の悲鳴が木霊し、月見の連勝記録はいよいよ五十の節目へと突入した。

 ひょっとすると三日坊主で終わるのではないかと疑ったりもしたが、意外にも霊夢は飽きることなく水月苑までやってきて、月見と実戦形式の試合に勤しんでいた。天子を守り切れなかった一件が、それだけこたえたということなのだろうか。博麗神社の再建から十日近くが経ち連敗記録が五十になっても、飽きっぽいはずの霊夢は決して匙を投げなかった。水月苑の上空を色鮮やかな弾幕が飛び、ついでに霊夢の悲鳴が飛ぶのは、今となっては天魔の悲鳴に並ぶ山の新名物となりつつある。

 霊夢は頬をぷっくり膨らませている。

 

「……月見さんって、何気に弾幕躱すの上手いわよね。スペルカードも持ってないのに、どこで覚えてきたのよ」

「まあ、ちょっとね。……でも、近づかせないために弾幕で撹乱するってやり方は悪くないと思うよ」

 

 無論、スペルカードルールで用いられる遊びの弾幕ではない。魅せることではなく相手を墜とすことを最大の目的とした、戦いのための弾幕だ。大妖怪相手にはやや威力が心許ないが、牽制としては充分光るものを発揮している。

 ただ、霊夢の弾幕がそうやって鋭くなればなるほど、月見も慣れてどんどん躱すのが上手くなっているので、どこまで行っても差が縮まらないイタチごっこになっているけれど。

 

「撹乱するつもりが逆に撹乱されてれば世話ないけどねー」

「そのあたりは、いいようにやられたら大妖怪の面子がなくなるってことで」

「むう……あーあ、遠いなー」

 

 霊夢としては、自分一人で月見たち大妖怪と渡り合うのが理想かつ目標らしいが、それは至難の道だと月見は思う。その昔、陰陽師と呼ばれた者たちは、いや陰陽師でなくとも、人は強大な妖怪を討つ際には必ず複数人で武器を構えた。もしくは真っ向勝負を避け、妖怪からしてみれば卑怯とも思えるような策を弄した。たった一人では埋めようのない力の差を、人間たちは数と策で補う他選択肢がなかったのだ。

 霊夢は才能あふれる少女だ。それは、ここしばらく試合に付き合っている月見もよく肌で感じている。試合とはいえ、大妖怪相手に彼女ほど物怖じせず立ち向かえる人間は、幻想郷を探しても二人といないだろう。

 だがそれでも、人間と大妖怪の力の差は、才能だけで覆せる限界点を振り切っている。大妖怪と単身で同じ舞台に立つことができるのは、途方もない才能に、途方もない研鑽を上乗せした者だけだ。――その昔、人の身でありながら『風神』と呼び讃えられた、どこぞの御老体のように。

 己をあの次元まで昇華させるためには、霊夢はまだ、若すぎる。

 

「でも、焦ることはないさ。正直、この調子だとそのうち追いつかれそうだって冷や冷やしててね」

「ふーん……」

 

 とはいえさすがは博麗の名を継ぐ者ということなのか、修行を開始してから早十余日、霊夢の成長速度には目を見張るものがあった。なにより、彼女の持つ妖怪退治の道具が強力だ。相手を自動追尾する御札や妖怪の力を封じる封魔針など、昔の陰陽師が見たら喉から手が出るほど欲しがるに違いない。

 加えて、霊夢自身の勘もいい。理屈よりも直感が勝るタイプなのだろう、十数歳の少女とは思えない動きを見せられることも少なくなかった。

 涼しい顔をしているが、実は月見もなかなか手を焼いているのだ。このまま霊夢の成長が続けば、一年を待たないうちに歯が立たなくなってしまうかもしれない。

 もっともそれはあくまで、『試合』という範囲内での話だけれど。

 

「それじゃあ今日はここまでにして、お昼にしようか」

「待ってました!」

 

 むすっとしていた霊夢の仏頂面が、一瞬で空の彼方に吹っ飛んだ。健気に修行を頑張る霊夢をささやかながら応援しようと、昼食をご馳走し始めたのは数日前からだが、ひょっとすると彼女が修業を頑張る本当の理由はこれなのかもしれない。

 霊夢がうきうきと、

 

「今日のお昼ごはんはなにっ?」

「魚はどうだ? 昨日の夜に池で釣りをしていったルーミアが、何匹か置いていってね」

「いただきます!」

 

 ちなみにあの小さな闇の妖怪は、魚を置いていく際には決まって「これ、いつもお世話になってるので、お供え物です!」と仰々しく頭を下げていく。いよいよ本格的に月見を神様だと勘違いしているようなので、近いうちに指摘しておこうと思う。

 

「えっと……なにか手伝う?」

「お客さんに手間を掛けさせたりはしないさ。作っておくから、温泉に入って汗でも流しておいで」

 

 霊夢が大根を鷲掴みし肩より高い位置で包丁を構えたのを見た瞬間、月見は静かに、彼女に料理を教える道を諦めた。

 

「それじゃあ、戻ろうか」

「うん。いつも悪いわねー」

 

 そんなこんなで、今日も幻想郷はいつも通り、平和、の二文字である。

 緋想天の異変が終わって、十余日。

 すべてが夏の幻であったように、今までがずっとそうであったように、突き抜けて平和の限りなのである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「さー、見てなさぁい! これが、私が数十年かけて磨き上げたボール捌きよー!」

 

 その十余日の間に、天子を受け入れたのは人里の住人たちだった。

 もちろん彼女を受け入れたのは山の妖怪たちも同じなのだが、山にいればいいのにと残念がる『天子ちゃんマジ天使!』クラブの訴えを断って、人里を選んだのが天子の方だった。天人とは要は天の世界で生活している人間のことだし、特に天子の場合は元々地上で生活していた人間だったともいうし、同族が集まる場所には自然と惹かれたのかもしれない。

 ちょうど人里では、天子に打ってつけの天職があった。総領娘――つまるところお嬢様としての英才教育で培った知識を遺憾なく発揮し、同時に里人たちとの交流も幅広く行える職――。

 とはいえまさか天子が、人里で寺子屋の先生を始めようとは、月見は未だに意外で意外で仕方ないと思うのだ。更にはそれが大成功を収め、一躍、里で噂が絶えぬ人気教師となってしまったのだから面白い。

 

「天使先生すげー! ボールが生きてるみてー!」

「ふふふ、天界でやってた蹴鞠の経験がこんなところで活きるなんてねー。何事も無駄にはならないもんだわ」

 

 お昼の休み時間である。苦しい勉学から解放され、ボールと一緒に元気いっぱい跳ね回る子どもたちの中で、新任教師の天使()先生が、その一際突出したプレーで周囲の視線を独占している。外の世界のプロサッカー選手顔負けで、ボールを手足のように操っている。

 昼食を片付けた月見が人里まで足を伸ばしたのは、ある用事を済ませるためというのが大半だけれど、天子の様子が気になったというのも立派な事実だった。もっとも彼女は、もう月見がわざわざ心配する必要もないほど上手くやっているようだったが。

 世辞を抜きにして、天職だったのだろう。お嬢様育ちだから学力は申し分ないし、こういってはなんだが子どもっぽい性格をしているので、生徒たちとの相性もよい。おまけに天界からやってきたというステータスのお陰で、生徒たちの好奇心を完全に独り占めだ。

 天界からやってきた天使様だから、天使先生。その人気たるや、初日から慧音の存在が霞むほどだったという。

 寺子屋の一教師というよりかは、勉強を見てくれる近所の世話好きお姉さんのような。人里屈指の堅物である慧音が営む寺子屋に、天子のような清涼剤は必要だったことだろう。

 

「もうすっかり馴染んでるみたいじゃないか、慧音」

「ああ、そうだな。本当に助かってるよ」

 

 お陰様で、月見が子どもたちの遊び相手をしていたのも昔の話。今ではこうして慧音と一緒に、みんながはしゃぐ姿を広場の隅から見守る立場である。

 もっとも、体を動かすのが得意ではない物静かな生徒たちは、今でも月見の周りに集まって、尻尾をもふもふしたり耳を引っ張ったりしているのであるが。

 尻尾を撫で回している女の子が言う。

 

「天使先生ねー、すごいんだよ。けーね先生のわっかりにくい授業を、すごくわかりやすく解説してくれるの」

「……慧音」

 

 そういえば何度か寺子屋の授業風景を覗いたことがあったが、慧音の振るう教鞭はもっぱら生徒たちから不評だったか。

 慧音があからさまに狼狽える。

 

「い、いやっ、そんなことはないぞ!? 確かに天子は、初めてにしてはなかなか筋がいい方だが、私だって」

「みんな、もう天使先生が全部授業すればいいのにって思ってるよー」

「く、くうっ」

 

 上白沢慧音、完全敗北。新任教師に生徒の人気も信頼もすべて奪われ、先輩教師としての面子は丸潰れだった。

 わからなくもない。慧音の授業は、いささか理に落ちているというか、まるで教科書の内容をそのまま朗読しているかのような授業なのだ。教科書といえば、外の世界では多くの子どもたちを夢に誘ってきた歴戦の睡眠誘発剤なので、授業の受けが悪くなってしまうのも必然なのだろう。その一点だけに限れば、恐らく、月見が教鞭を執っても慧音には勝てる。

 女の子がまた、

 

「それにけーね先生、ボール遊びも苦手だもんねー。いいとこなしだね」

「お、おまっ、先生相手にそこまで言うか普通!?」

「……」

 

 そういえば阿求に幻想郷縁起を読ませてもらった時、慧音のページにそんなことが書かれていた気がする。顔面でボールを受け止めたり、ボールを空振りしてすっ転んだりしている……だったろうか。

 

「よーし、行っくわよー霊夢ー!」

「えっ、ちょっと待っあう!?」

 

 きっと、ちょうど今、天子からのパスを顔面で受け止めた霊夢みたいな感じなのだろう。

 彼女も彼女なりに天子のことを心配していたのか、月見の後ろにくっついてこそこそとやってきて霊夢だったが、今はなぜかボール遊びに強制参加させられていた。子どもらしい遊びなどしたことがないのだろう。ボールの扱いが予想外に下手で、鼻っ面を押さえてふぬぬと呻くところを子どもたちに笑われていた。

 慌てて霊夢のところまで走っていく天子の姿を目で追いながら、月見はふっと笑って、

 

「ま、本当に上手くやってるみたいでよかったよ」

 

 つられるように、慧音も笑った。

 

「なんだ、随分と心配してたみたいじゃないか?」

「そりゃあそうだ。あれだけのことがあったんだから、上手く行ってくれないと大弱りだよ」

 

 緋色の雲を消し飛ばしてしばらくの間は、十一尾について知人友人みんなから相当しつこく追い回されたけれど、天子が子どもたちと仲良く遊ぶこの光景を見たあとなら、呆れるほどに安い代償だったと思える。

 汚名返上名誉挽回を狙う虎視眈々とした瞳で、霊夢がボールを蹴っ飛ばすため助走を取っていく。

 

「……世話好きなのは、相変わらずだな。初めて人里にやってきた時から変わらない」

「年だからかね」

 

 そうやって霊夢が放った渾身の右足は見事に真芯を外し、ボールはほぼ真横に転がって月見の足元までやってくる。

 天子が両腕を挙げて、元気に大きく手を振っている。

 

「月見ー! ごめーん、ボール取ってー!」

「巫女のお姉ちゃん、どこ蹴っ飛ばしてるんだよー」

「下手っぴー」

「く、くううっ。み、見てなさいよ。博麗の巫女の名にかけて、こんなのすぐにマスターしてやるんだから」

 

 幼子特有の、悪気のない、けれど人をやや小馬鹿にしたような物言いに、天使先生がすかさず反応した。「こらっ」と鋭く子どもたちをたしなめ、

 

「霊夢は初めてボール遊びしたんだから、そんな風にからかっちゃダメよ。あなたたちだって、初めてで上手くできないのに笑われたら嫌でしょ?」

 

 なかなかどうして、生徒をきちんと叱るその姿は立派に教師然としていた。そして天使先生と呼び慕われる人気故か、子どもたちも素直に反省して霊夢に謝ったりしていたので、ひょっとしたら慧音よりも教師らしいかもしれない。

 月見は足下のボールを拾い、

 

「天子ー、行くぞー」

 

 投げる。ボールは綺麗な放物線を描いて、ちょうど天子がいる位置に、

 

「え? ――へぷっ」

 

 ちゃんと反省してくれた生徒たちにうんうんと満足げだった天子は、見事に反応が遅れた。数秒の時差があってから振り向くなり、少し前の霊夢同様、顔面でボールを受け止めることとなった。

 ボール遊びは終わり、鬼ごっこの始まりである。

 無論月見が、追われる側で。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そもそも、鬼ごっこをするために人里に行ったのではないのだ。ちょうど人里に行く用事があったので、そのついでで寺子屋を覗いてみただけなのだ。

 というわけで鬼ごっこを適当なところで切り上げた月見がやってきたのは、冥界、白玉楼であった。

 自分の方からこの場所を訪ねるのは久し振りだ。綺麗に掃き掃除された石段を一歩一歩と登る、その足音に誘われて、昔の記憶が鮮明に甦ってくる。奇声を上げて斬りかかってくる妖忌を尻尾で弾き飛ばし、そのまま石段の一番下まで転がしてやったものだ。もしくは庭の池に叩き込み、尻尾で頭を押さえ千を数えさせたことなど。

 郷愁の念に浸っていると、石段を登り切った先の、屋敷の方から声が聞こえた。

 

「妖夢ーっ、妖夢ー! お菓子がなくなっちゃったわ、買ってきてー!」

「えっ、もうなくなったんですか!? 二日前に買ってきたばかりですよ!?」

「知らないわよそんなのー! なくなったものはなくなったのっ、今すぐ買ってきて頂戴!」

「そ、そんなあ~……」

 

 どうやら、図らずとも最高のタイミングらしい。石段を登り切った月見は門をくぐり、庭先を進みながら掌を拡声器代わりにして、

 

「幽々子ー、妖夢ー。異変のお礼を持」

「はあいお待ちしてましたわ月見さんようこそ白玉楼へっ!」

 

 縁側の襖を吹き飛ばし、西行寺幽々子が満面の笑顔で宙を舞った。比喩ではなく、本当に宙をくるくると舞った幽々子は月見のところまで飛んできて、

 

「現世より遥々、ようこそいらっしゃいました。ところで尻尾から下げたその風呂敷の中身は箱ですわねお菓子の箱ですわねっそうですわねっ」

 

 月見と目を合わせたのなどほんの一瞬で、あとは月見が尻尾から提げた風呂敷、及びその中の大福の箱を、星屑振りまく瞳で上から下から観察していた。

 月見が人里で果たしたかった用事とはすなわちこの大福を買うことであり、この大福は、異変で月見を助けてくれた少女たちへのささやかな感謝の気持ちだった。風呂敷で包まれた箱は全部で四つあり、渡したい相手は魔理沙、幽々子、妖夢、衣玖だ。

 なお元々は五つあったのだが、ひとつは霊夢へ既に渡している。「月見さんっ、大好きっ!!」と人里のど真ん中で歓声をあげられた。天子たちに大変余計な誤解をされた。

 幽々子がきらきら輝く瞳でこちらを見上げていたので、月見は風呂敷から箱をひとつ取り出し、

 

「遅くなってしまったけど、異変で助けてもらった礼だ。好きに食べるといい」

「わーいっ!」

 

 その瞬間、幽々子の姿が消えた。そして大福の箱も消えた。

 月見の脳が状況を理解した時には既に、幽々子は縁側で正座をして、鼻歌を歌いながら、丁寧な手つきで箱の包装を解きにかかっている。恐らく今の一瞬に限って、射命丸文の幻想郷最速の異名は陥落したはずだ。

 包装を解き終えた幽々子が、桐箱に刻まれた大福の銘を見て瞠目した。稲妻が走り抜けるエフェクトとともに、

 

「こっ、これは……っ!? まさか幻の大福、『白雫』ですか!?」

「な、なんですってえーっ!?」

 

 廊下の突き当たりから妖夢がすっ飛んできた。どうやら掃除の途中だったらしく、三角巾とエプロンとはたきと雑巾を装備した彼女は主人と同じ驚愕の顔で、

 

「ほ、本当だ! 幽々子様、これ本当に白雫ですよ! 完全予約生産なのに店主が気紛れでしか作らないから向こう十年まで予約がいっぱいになっちゃってて手に負えなくなった店主が『もう作らなくてよくね?』って匙を投げかけてる幻の白雫ですよ!?」

「妖夢近寄らないで埃がつく!」

「ひどい!?」

 

 と、まあ。

 やけに詳しい妖夢が勢いで解説してくれた通り、巷では幻の呼び名をほしいままにしている最高級大福らしい。その名になにひとつ恥じることのない、それこそ白い雫が結晶化してできあがったような一品は、しかし口に入れた瞬間たちどころにとろけ、食べた者の凝り固まった疲労や癒え切らない心の傷までをもとろかすという。

 人里の住人たちを対象に調査した、一生で一度は味わいたい食べ物アンケート、十年連続ぶっちぎりの第一位。

 病に伏した老人が、最期に一口食べたいと望むのは白雫。

 人間はもちろん、大妖怪や神々すら恋い焦がれる。

 そんな、都市伝説めいた謎のヴェールに包まれた白雫である。そんな製造中止寸前の白雫なので、手に入れるまで十日近く掛かったのである。

 妖夢はもはや、この世のものではないなにかを見る目をしていた。

 

「つ、月見さん、どうやってこれを!?」

「店主と話をしていたら成り行きでね。作ってもらえることになった」

 

 月見がその和菓子屋を訪ねたのは、博麗神社の落成式が終わった次の日のことだった。中途半端なものは買わないと決めていた。月見を、そして他でもない天子を救ってくれた少女たちへは、相応の品を贈って感謝の気持ちとしなければならない。店主に、「この店で一番美味しい品は?」と尋ねる。

 すると、「誰への贈り物だい?」と店主。ひと目見ただけで贈り物を探していると見抜く眼力はさすがといったところか。月見は正直に答えた。

 ――助けたい人の命を助けるために、力となってくれた人。その人がいなかったらきっと、女の子がひとり、笑顔を失っていた。だから、なるべくいい礼をしてやりたいんだ。

 そんな感じのことを言ったら、店主が咽び泣いていた。

 

『へっ……そんな話を聞かされちゃあ、下手な品を出すわけにゃあいかねえな。何人分だい? ……五人か。よし、十日だ。十日くれ。その十日で、今の俺に作れる……いや、今の俺にもまだ作れねえような、最高の菓子を作ってやらあ』

 

 そして今日、店主が満を持して完成させた品が、この白雫だった。曰く、「これは俺が今まで作ったどの白雫とも一線を画す――そう、云うなればスーパー白雫だっ!」とのことだが、まあそれを彼女たちに伝える必要はないだろう。

 月見を見上げる幽々子の笑顔は、まるで生きているかのように血色がよく、太陽もあざむく眩しい希望と歓喜で満ちあふれていた。

 

「月見さんっ、ありがとうございます! 私、もう何年も前からこれを食べてみたいって思ってたんですけど、妖夢ったらいつまで経っても買ってきてくれなくて!」

「こ、これは買おうと思って買えるものじゃないんです! ……と、ところで幽々子様」

 

 妖夢が白雫の箱を見下ろしながら、涎を垂らしそうな口で、

 

「わ、私にもひとつだけでいいので」

 

 幽々子の姿が消えた。そしてやっぱり、白雫の箱も消えた。

 逃亡。

 

「……」

 

 ひょー、と夏にしてはやけに肌寒い風が吹き抜けていく中、一拍遅れて状況を理解した妖夢の顔が、くしゃっと音がしそうなほど大きく歪んで、

 

「……ひっく」

「あーほら、泣かない泣かない」

 

 一生に一度出会えるか否かの名品を、目の前で持ち去られた絶望は如何なるものや。情緒を根本から粉砕された妖夢はあふれでる涙を隠すこともできず、ぐずぐず鼻をすすりながら月見の裾に縋りついてきた。

 

「月見さんっ、こんなのってあんまりですよおおおぉぉ~……!」

「そうだな。だからほら、妖夢の分もあるよ」

「ぅえ?」

 

 感謝の品はしっかり人数分、別々の箱で。幽々子と妖夢が同じ場所に住んでいるからといって、ひとつの箱にまとめるような手抜きはしない。

 月見は風呂敷からもうひとつ箱を手に取り、それを妖夢の目の前へ。

 

「開けてご覧」

 

 箱を受け取った妖夢は、まさかそんな、こんなことがあっていいのかと――箱を縁側に置き、震える両手で恐る恐る包装を解いて。

 そして現れたのが白雫の桐箱だとわかった瞬間、顔を両手で覆い膝から崩れ落ちた。

 

「う、うえっ、うえええぇぇ~……!」

「……おーい、だから泣くなって」

 

 泣きやんでもらうつもりが大泣きさせてしまった。顔を覆った両手の隙間から、涙が湧き水のようにあふれでてきている。一度手で拭う程度ではまるで意味がなく、妖夢は目元を何度も何度もごしごししながら、

 

「ご、ごめんなさい、その、私、誰かからこんなに、優しくしてもらえたのって、すごく久し振りで、その、うっ、うえええ~……!!」

「……苦労してるんだな」

 

 一体どれほどの思いをすれば、あんなに小さな瞳から、ビー玉みたいな涙がぼろぼろあふれでてくるのだろう。とてもではないが、贈り物をされた人間の反応とは思えない。どうして幻想郷の従者たちは、誰も彼も苦労をしてばかりなのか――やるせなくなった月見は、すすり泣く妖夢の背中を優しく撫でてやることしかできなかった。

 数分後、ようやく泣きやんだ妖夢が、

 

「月見さんっ、月見さんも一緒に食べましょう!」

 

 未だ涙の跡を残しながらも、ものすごく真剣な表情で月見を下から覗き込んだ。

 有無を言わせない気迫のようなものを感じる。天下に名高き伝説の白雫、確かに月見も一口食べてみたいと思っていたのは事実であるが、

 

「……いいのか? もう二度と手に入るかもわからないんだ、思う存分味わったらどうだい」

「これは、月見さんがいてくれなかったら手に入らなかったものです! なので月見さんも食べないとダメです!」

 

 体が密着するほどの距離。いつもの妖夢なら悲鳴を上げて後ずさるはずなのに、今はむしろ、更にぐいぐいと寄ってくるほど鬼気迫っている。その一途な姿が頑固者だった妖忌にそっくりだったから、ああやっぱりこの子はあいつの孫なんだなと、月見は改めて思い知らされた。

 

「お願いです、一緒に食べましょうっ! じゃないと、私の気が治まりません!」

「わかった、わかった。それじゃあお言葉に甘えていただくよ」

 

 そろそろ、冗談抜きで抱きつかれてしまいそうだ。月見が苦笑しながらそう言うと、妖夢の顔が夜明けみたいに明るくなった。

 

「はいっ! それじゃあ私、お茶を淹れてきますね! ちょっと待っててください!」

 

 結局、白玉楼の縁側で、妖夢と早めのおやつタイムとなった。包みを解いた白雫が文字通り輝くほどの美しさだったから、妖夢はしばらく口をつけることすらも躊躇っていたが、やがて意を決して頬張り、

 

「っ~~~~! 美味しい! すっごく美味しいです! 生地はお餅みたいに優しい弾力があって、でもさくっと簡単に噛み切れて、口の中で雪みたいに溶けて……! 甘さは芳醇ですけど決してしつこすぎず、舌の上に残る仄かな香りがお茶ともとってもよく合います!」

 

 蕩けそうになる頬を必死に抑え、けれど抗い切れずふにゃふにゃになって、えへへぇ、とだらしない笑顔で、

 

「月見さんっ、ありがとうございます! 私、今までの人生で一番幸せですっ!」

「……それはよかった」

 

 口の周りを白い粉だらけにして言う妖夢があんまりにも幸せそうだったから、月見はもう、隣に座っているだけでお腹がいっぱいなのだった。

 もちろん白雫は、噂に違わず大変美味な大福だった。自分の分も余計に頼めばよかったと、思わず後悔してしまったほどに。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 問題は衣玖だ。

 白玉楼で早めのおやつを終え、魔法の森で魔理沙にも大福を渡し、風呂敷の中の箱はいよいよ残りひとつ。これを腐るより前に衣玖へ渡せるかどうかが、目下月見を悩ませる最大の問題だった。

 雲の中を漂って暮らす龍宮の使いは、姿を見ること自体が稀という非常に珍しい妖怪だ。どこか決まった場所に住処を持っているのかも不明で、会おうと思って会える相手なのかすら怪しい。天子に話を聞いてみても、たまに偶然見かけたりするくらいで、会おうと思って会ったことは一度もないという。

 そんな相手に直接贈り物を渡すとなれば、当然、一筋縄でいくはずもない。月見が衣玖を見つけ出すのが先か、それとも白雫が腐るのが先か。一分一秒も無駄にできない戦いの火蓋が、今切って落とされようとしていた。

 

「……あ、月見さん。よかった、危うくすれ違いになるところでした」

「……」

 

 はず、なのだが。

 水月苑の太鼓橋の上で、張本人にぱたりと出くわした。

 博麗神社の落成式が終わって以降、天女が空へ帰るように龍の世界へ戻っていったはずの衣玖が、なんか普通にいた。

 月見はぽそりと、

 

「……まさかこうも簡単に会えるとは」

「え? もしかして、私のこと捜してたんですか?」

「ああ、ちょっとね」

 

 なんだか拍子抜けだったが、あてもなく空を延々飛び回るよりかはずっといい。

 

「異変の時、天子を助けてくれただろう。だから礼をしたくてね」

「……あら」

 

 白雫の箱を手渡す。受け取った衣玖は、まるでこういった贈り物を生まれて初めてされたかのように目をパチクリさせている。

 

「人里で有名な大福だ。迷惑でなければ是非。味は保証するよ」

「……これはこれは、どうもありがとうございます」

 

 言葉に反して衣玖に笑顔はなく、ただ呆然と箱を見つめて、

 

「えーと、その、すみません。私、こういった贈り物をいただけるのは初めてで、どうしたらいいか……」

「顔を見ればわかるよ」

「龍宮の使いは、同族以外の方と親しくなることが滅多にありませんから……。え、ええとあのっ、こういうのってただ受け取るだけでいいんでしょうか? 私からも、なにかお礼をした方が……」

「そこまで心配しなくても大丈夫だよ」

 

 おろおろそわそわしている衣玖が少しおかしくて、月見はくすりと笑ってしまった。

 

「それに、お礼で渡したものにまたお礼をされたら、イタチごっこじゃないか」

「む、むむ」

「受け取ってもらえれば、それで充分」

「そ、そういうものなのですか……」

 

 見返り目当てで人に贈り物をするほど、月見は卑しい性格はしていないつもりだ。

 衣玖はしばらくの間難しい顔で葛藤していたが、やがて心の整理がついたのか、箱を両腕で抱き締めて微笑んだ。

 

「……ありがとうございます。大切にしますね」

「……いや、生ものだから早めに食べた方がいいと思うよ?」

「そ、そうですよねっ!?」

 

 なに言ってるんでしょうね私! あははは! と赤くなった頬を笑って誤魔化す姿は、さながら世間知らずなお嬢様といったところだろうか。思い返せば初対面の時も、不可抗力ながら変質者扱いされ涙目でびりびりされたのだ。龍宮の使いという大変珍しい種族とはいえ、浮世離れした美貌を持っているとはいえ、心はあくまで普通の女の子なのだった。

 

「と、とりあえず、ありがとうございます。美味しく頂戴しますね」

「ああ。……それで、お前はここでなにをしてたんだ?」

 

 危うくすれ違いになるところだった、ということは彼女もまた月見を捜していたのだろう。しかし、衣玖から捜されるような心当たりはない。

 

「あ、はい。私も月見さんを捜してまして……待っていれば会えるかと思ったので、勝手ながらお庭の景色を眺めていました」

 

 落ち着きを取り戻した衣玖は、雄大に広がる水月苑の池泉庭園を見渡して、

 

「素敵なお庭ですね」

「お前にそう言ってもらえるとは光栄だね」

 

 もっとも、これら絢爛な庭園をプロデュースしたのは主に妖夢であり、手入れをしているのも妖夢であり、月見はといえばちまちまと草取りをしている程度なので、威張れないけれど。妖夢に教わりながら、庭の手入れ方法は目下学習中だ。

 衣玖は苦笑、

 

「それじゃあまるで、私がこういうのに五月蝿い女みたいじゃないですか」

「ああ、深い意味はないよ。単純に、お前みたいな美人さんのお眼鏡に適って光栄だって話だ」

「び」

 

 龍の世界の住人だけあって衣玖は浮世離れした美貌を持っているから、美的感覚も浮世離れしているのではと思っただけのこと。そんな彼女が素敵と評するのだから、やはりこの庭園の出来栄えは極めて見事なものなのだろう。今度妖夢と会った時に、忘れず伝えておこうと思う。

 

「……月見さんって、まるで息をするみたいにそういうことを言いますよね……」

 

 か細い抗議の声が聞こえたので見てみれば、微妙に頬の赤い衣玖が、上目遣いの半目で月見を睨んでいる。

 そういうこと、とは。

 

「そういう言葉は、私じゃなくて総領娘様に言ってあげたらいいと思います……」

「なんの話だ?」

「ですからその、あの……、……びじんだ、とか」

 

 衣玖はちょっともじもじしていた。まるで、私なんか全然そんなことないです、とでも言うように。

 

「私の目がおかしいってことはないはずだけど」

「で、ですからあっ! そういうことをさらりと言っちゃうのがどうかと思うんですっ!」

「? そうか」

 

 月見としてはただ、綺麗なものを素直に綺麗と言っただけなのだが。

 まあ、あまりストレートに褒められるのは好きでないのだろう、と思って納得しておく。

 

「そ、そもそも私、こういう話をしにここまで来たのではなくてですねっ」

 

 衣玖は赤くなった顔を隠すように横を向いて、深呼吸をし、そして空咳をした。

 深々と、頭を下げた。

 

「月見さん。……ありがとうございました」

「どうした、突然」

 

 衣玖は顔を上げこそしたが、答えずにそのまま、

 

「総領娘様は、あなたと出会ってからとても幸せそうになりました。……月見さんは知らないと思いますけど、昔の総領娘様は本当にひどかったんですよ。何度びりびりしてやろうと思ったことか」

 

 昔の天子は、とんでもないわがままでやりたい放題をやっていたという。具体的にどういった有り様だったのか、興味本位で本人に尋ねてみたところ、アハハアハハと笑いながら誤魔化されたことがある。

 

「荒れていたというか、毎日がすごくつまらなそうだったんですよ。きっとあの時の総領娘様は、自分を取り巻くあらゆるものに興味を持っていなかった。自分の命にすらも」

「……」

「でも、あなたと出会ってからはそれが変わりました」

 

 独りぼっちで寂しく生きていたからこそ、人に囲まれ、妖怪に囲まれる月見に憧れた。天界で初めて出会った時から――いや、月見がまだ、比那名居天子という少女のことも知りもしなかった頃から。彼女はずっと、月見の背中を追いかけ続けていた。

 

「まるで別人ですよ。この子にこんな笑顔ができたのかって……実は性格が逆の双子の妹がいたんじゃないかって、一度は本気で疑いましたもの。

 そして……」

 

 まぶたを下ろし、

 

「総領娘様を笑顔にしたのも、その笑顔を守ったのも、全部月見さんなんだなって。そう思ったらやっぱり、改めてお礼を言いたくて」

 

 また深く、頭を下げた。

 

「総領娘様と出会ってくれて、ありがとうございました」

「……、」

 

 ――出会ってくれて、と来たか。

 

「……そのために、わざわざ?」

 

 やっとの思いでそれだけ言った。それしか言えなかった。天子を助けてくれてありがとう――そんな言葉であったならまだ、言えることもあっただろうに。

 

「ええ。このため、です」

「……お前は、息をするみたいにそんなことを言うんだね」

 

 少し前の意趣返しをするように、衣玖は笑った。

 

「あら、なんの話ですか?」

「なんでもないよ。……まったく。これは、充分すぎるお返しをもらってしまったね」

 

 月見の渡した大福が、霞んでしまうくらいの言葉だったではないか。女性のまっすぐで真心のこもった言葉は、いかんせん男の心に届き易すぎて困る。

 うなじのあたりを掻いた。

 

「まあ、なんだ。よかったら、家でゆっくりしていくか? ここには温泉があってね。今なら貸し切りだよ」

「えっ」

 

 衣玖が虚を衝かれて目を丸くした。それが、突然の誘いに驚いたというよりかは身構えたように見えたので、

 

「覗きなら心配ないよ。紫が特殊な結界を張っててね、浴場は外から覗けないようになってる。そうでなくともそんな不埒な真似をする輩は、鴉天狗の新聞で晒し上げられて、世間体が地獄の底まで失墜して、ついでに紫のスキマで本当に地獄行きだ」

 

 かつて水月苑開業初日に覗きを企てた愚か者どもは、藤千代らの手によってボロ雑巾となり、更に性根を叩き直すという名の下、映姫から容赦ない人格改造を施された。山の男たちに大きな衝撃と恐怖を植えつけたあの一件は、今でも覗きを防止する素晴らしい抑止力となってくれている。

 苦笑、

 

「もちろん、お前が私を信用してくれていれば、だけどね」

 

 月見が覗くかもしれない――という疑いも、なきにしもあらず。心外だが。

 衣玖が慌てて首を振った。

 

「い、いえ、決してそういうわけではなく……」

 

 それから肩を縮め、ぽそぽそと、

 

「私、そんなにわかりやすい顔してましたか……?」

「……ん?」

「で、ですから……温泉、とか」

 

 温泉を勧めたこと自体に、これといって意味があったわけではない。ああもまっすぐで真心のある礼を言われてしまえば、ちょうど屋敷の前にいることだし、お茶くらいは出すべきだろうかと思っただけのこと。そして水月苑でゆっくりしていくということはすなわち、温泉でゆっくりしていくということと同義なのだ。

 衣玖は、隠していた本音をズバリ言い当てられたような、とても恥ずかしそうな上目遣いをしていた。

 ということは、やはり彼女も、

 

「その……私はどうも、他の方々と一緒に入浴するのが苦手といいますか、一人でゆっくり入るのが好きといいますか……ここの温泉には私も前々から興味を持っていたんですけど、さすがに一人で使わせていただくのは無理だと思って、今まで来たくても来られなかったところがあるといいますか」

 

 なにやらぶつぶつ言っているが、要するに、

 

「それじゃあ、一名様ご案内……ってことでいいか?」

「……はい」

 

 しおしおと縮こまりながら、小さく、そう頷いたので。

 やはり女の子とはかくも、温泉が大好きなのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 貸し切り温泉を思う存分堪能しご満悦な衣玖を見送ると、ほぼ入れ替わるタイミングで、今度は藍と橙がやってきた。だから月見は、ああもうそんな時間なのかと、次第に薄暗く変わりつつある青空を見て思った。

 

「こんばんは、月見様」

「こんばんはー」

 

 片や堅苦しく、片や愛くるしく頭を下げる二人を、月見は緩く息をついて出迎える。

 

「こんばんは。やっぱりというべきか、今日も来たね」

「はい。今日もお邪魔させてください」

 

 博麗神社の落成式が終わってからほどなくである。突然水月苑にやってきた藍が、橙と一緒にお詫びをさせてほしいと訴えてきたのは。

 なんでも異変のさなか、主人のためとはいえ月見と敵対してしまったことへの詫びだという。

 

「別に私は、気にしちゃいないんだけどね」

「そういうわけにもいきません」

 

 いかにも、堅苦しすぎる嫌いのある藍らしい。

 確かにあの時、二人と戦わざるをえなかったのは決して望ましいことではなかった。月見も藍も、戦いたくて戦ったわけではなかった。しかし同時に、互いに譲れないものを秘めた、避けられえぬ衝突でもあったのだ。

 今更、話を蒸し返す真似をするつもりはない。幸いにも、異変は最悪を迎えることなく終結したのだから。月見はもう、とっくの昔に水に流している。

 けれど生真面目すぎる式神は、断固として首を縦に振ろうとしなかった。

 

「月見様がよくても、私がダメなんです。私の気が済むまでやらせていただけると、そういうお話になったはずですが」

 

 確かにそういう話ではある。ただし月見が許可したというよりかは、死んでも引き下がろうとしない藍の気迫に無理やり押し切られたという方が正しい。

 しかして藍が選んだ『お詫び』の方法は、月見の身の回りのお手伝いなのだった。夕食の支度、日用品の買い出し、屋敷の掃除にその他雑用。助かっているのは事実なのだが、しばしば藤千代や咲夜と出くわしては火花を散らしているのはなんなのか。

 今日も藍の両手には、食材をたっぷり入れた袋が二つ提げられている。藍が水月苑の夕食事情を牛耳り始めて以来、「なんで私を呼んでくれないのよーっ!」と紫までもが突撃してくるようになったので、揃える食材も四人分だ。

 

「わかったわかった。今日も世話になるよ」

 

 話の通り藍の気が済むまでは、月見がなにを言おうとも無駄なのだろう。

 藍の凝り固まっていた表情が、多少和らいだ。

 

「はい。腕によりをかけて作りますので」

「藍様っ月見様っ。私、お魚食べたいですっ」

「いつもの場所に釣り竿があるから、好きに使ってくれて構わないよ」

 

 水月苑の池で魚が手に入ると知って以来、橙は釣りの常連客だ。同じく魚釣り妖怪と化したルーミアとともに妹紅へ師事し、その腕前を着々と高めてきている。

 

「では、月見様はゆっくりなさっていてください」

「手伝うか?」

「いいえ。お詫びをする方のお手を、煩わせるわけにはいきません」

 

 生真面目すぎてもはや素気ない返事に、月見は苦笑、

 

「じゃあ、橙と一緒に釣りでもしてようかな」

「え、いいんですか?」

「いいもなにも、逆に私の方が訊きたいけど」

「もちろんいいですよ! 月見様と一緒のお魚釣りは、楽しいので!」

 

 藍とは対照的に、頭をわしゃわしゃ撫で回したくなるくらい愛くるしい笑顔だった。こういう時にしばしば、この子は本当に藍の式神なのだろうかと疑ってしまうことがある。藍はただ教育するだけでなく、橙の天衣無縫な姿から是非、柔らかな人柄というものを学びとっていってほしい。

 同時に、藍の生真面目すぎる部分が橙まで伝染らなければいいな、とも。

 

「それじゃ、四人分釣れたら持っていくよ」

「はい。よろしくお願いします」

 

 藍と別れ、橙とともに釣り竿を引っ提げ外へ出る。水月苑の周囲に架かる太鼓橋が、屋敷の庭園も山の景観も一度に楽しめる絶好の釣りスポットだ。

 

「魚は四匹釣ればいいかな。どっちが多く釣れるか、競争でもしようか」

「はい! 負けませんよー」

 

 橋の欄干は小さい子どもの背丈と同じくらいの高さがあるので、橙やルーミアは大抵、欄干に直接座って釣り糸を垂らす。橙が猫らしく軽やかな跳躍で欄干に飛び乗ると、月見はその腰にクルリと尻尾を巻きつける。なにかの拍子で池に落ちてしまうといけないので、即席のチャイルドシートである。ふかふかもふもふの肌触りは、橙からもルーミアからも好評だ。

 お互い同時に釣り竿を振って、まず橙が一匹目を釣り上げた頃。

 

「……月見様は、私と藍様がこうやってお手伝いするの、迷惑ですか?」

 

 ぽつりと聞こえた言葉に、月見は水面から視線を上げた。

 

「ん? そんなことはないが……どうしてだ?」

「その……私の気のせいだったらいいんですけど」

 

 橙は針に掛かった魚を外しながら、

 

「私たちがお手伝いに来ると、月見様、少し困ったような顔をしてるので……今日も」

「……ああ」

 

 確かに、困った顔はしていたかもしれない。橙にすら気づかれるほど顔に出ていたのだとしたら、少し失礼だっただろうか。

 微笑む。

 

「迷惑だったからあんな顔をしていたわけじゃないよ。こうして手伝ってくれるのはすごくありがたいし、助かってるさ。でもだからこそ、ここまで手伝ってもらって、逆にお前たちの負担になってるんじゃないかと思ってね」

 

 特に藍は、昼夜を問わず主人の身の回りの世話がある。そしてその主人が紫なので、時には仕事を押しつけられたり面倒事に巻き込まれたり、精神肉体ともども疲れ果てる日は多いだろう。そんな中で、毎日のように水月苑までやってきて夕食の支度だの掃除だの、並の体力と精神力でできることではない。

 

「もし少しでも負担になってるんだったら、無理はしなくていいんだよ……とは思うんだけど、まあ、藍はそういうのは絶対に首を縦に振らないからね」

「ああ、わかります。藍様、頑固ですからね」

 

 大人びているように見えて、あれで結構わがままなのである。

 

「異変はなんとか上手いこと収まったわけだし、もう私は気にしちゃいないからね。だから余計に、苦労をかけてるんじゃないかと不安なわけだ。……そういう意味では、確かにちょっと困ってるかもね」

 

 とりわけ藍に限ったことではないが、幻想郷の従者たちは、もっと自分に甘くなってもいい気がする。雑事を手伝ってくれる咲夜にせよ、庭を手入れしてくれる妖夢にせよ、「疲れてるんだったらいいんだよ」としばしば声を掛けてはいるものの、「いえ、大丈夫です」以外の返事が返ってきたためしがない。

 当初は屋敷が広すぎるから仕方ないと割り切っていたが、しかし、いつまでも年下の少女たちに助けられっぱなしなのは男としてどうなのか。

 魚を桶に移し終えた橙がタオルで手を拭いて、また釣り竿を振るう。その姿を見ながら月見はふと、

 

「……私も、式神をつくってみようかな」

「式神ですか?」

「ああ」

 

 強引なやり方だが、式神にすべての雑事を任せることで、無理やり手伝いが必要ない状況をつくりだすという方法。自分がやるまでもなく綺麗に掃除された水月苑を見れば、少女たちが手伝いをする理由もなくなるだろう。

 

「でもそれだと藍様、『やっぱり私ではお邪魔だったんですか……!?』って誤解しちゃいそうです」

「あー、そうだよなー。そうなんだよなあ……」

 

 ショックのあまり涙目でふるふる震えているところまで完璧に想像できる。あいつなら絶対にそうなる。

 あとなんとなく、咲夜もへそを曲げそうだ。なんとなく。

 藤千代だって、「それじゃあせっかくの通い妻計画が台無しじゃないですかーっ!!」と暴走してしまうかもしれない。

 

「どうしたものか……」

 

 釣り竿がひくひく動いたので、一気に引き上げる。右へ左へ元気に暴れる魚を片手で押さえつけ、針を、

 

「それに藍様、今は今で結構幸せみたいですから……。こういうの、夢だったみたいですし」

「おっと」

 

 外した瞬間、見計らったタイミングで魚が火事場の馬鹿力を発揮し、危うく逃がしてしまいそうになった。池へ落とすよりも先に、桶の中へ叩き込んだ。

 

「びっくりした。……ところで橙、今、なにか言ったか?」

「いえ、なんでもないですよ」

「? そうか」

 

 橙が小声でなにかを言っていたような気がしたが、魚に夢中で聞き逃してしまった。

 まあ、なんでもないと笑顔で首を振るくらいだから、単なる独り言かなにかだったのだろう。

 

「もしも式神をつくるとしたら、月見様はどんなのがいいですか?」

「そうだなー、橙みたいないい子がいいかなー」

「うええっ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げた橙が、危うく欄干から滑り落ちそうになった。もふもふチャイルドシートをしていて助かった。

 

「大丈夫か?」

「は、はい、どうもお手数を……で、でもっ、いきなりびっくりさせないでくださいっ」

 

 尻尾をぱたぱたさせながら可愛らしく怒る橙に、月見は笑いながら、

 

「ッハハハ、私の式神は嫌かね」

「い、いえ、決してそういうわけではないですけど、私は既に藍様の式神で……それに、私を式神にするなんて話じゃないですよね!?」

「まあ、それはそうだ」

 

 仮にこの案を採用するのであれば、月見は紙の式神を使うだろう。その方が、『誰かに手伝ってもらっている』という感覚がなくて済む。橙のように、生物に式神を憑かせて使役することはない。そうやって、誰かの生活を縛ってしまうのは好きではないから。

 

「そうですか……もし月見様が式神をつくって、私たちのお手伝いが必要なくなったら、藍様悲しんじゃいますね」

「……」

 

 幼子らしい率直で素直な橙の発言が、月見の心をささやかに抉る。

 手伝いをしてくれる気持ちはありがたいのだが、やはり何事も行きすぎると息苦しくなるよなあと。

 そう改めて実感しながら月見は、さてお手伝い熱心な少女たちをどうやって説得したものかと、あれこれ頭を悩ませるのだった。

 

 ちなみに釣り勝負は、月見が一匹で橙が三匹、完敗だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「なあ、紫。今度、私と外の世界に遊びに行かないか」

「!?」

 

 藍渾身の懐石料理みたいな――いや、実際懐石料理だったのだろうが――夕食を食べ終え、藍が橙を連れて温泉に行った頃。

 麦茶を飲みながらのんびりしていた紫にそんなことを言ったら、天と地がひっくり返ったような顔をされた。

 口をあんぐり開けて石化している紫に、月見は半目で、

 

「なんだその顔」

「えぇっ!? だ、だってそのっ、つっつつつ、月見の方から、でっ、デートに誘ってくれるなんて!?」

 

 誰もデートとは言っていないが。正気に返った紫は赤くなった頬を両手で押さえ、「うへへへ」と気味の悪い笑みを浮かべていた。

 月見はため息、

 

「喜んでるところ悪いけど、お前が想像してるのとはちょっと違うと思うぞ」

「えっ」

「外で、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。ただ、手伝ってもらうだけじゃあ悪いから、用事が済んだら一緒に街を歩いてみないかってことだね」

「……にへへへ」

 

 ダメだコイツ。

 

「だってだってっ、月見の方からそんな風に誘ってくれることって滅多にないじゃない!」

「まあ、そうかもしれないけど」

「手伝ってほしいことってなに!? 私にできることならなんだってするわよ!」

 

 紫の瞳は、あふれる希望で子どもみたいに光り輝いていた。冗談でもなんでもなく、今の彼女なら頼めばなんでもやってくれるのだろうなと月見は思う。

 

「大したことじゃないよ。外の世界で生活してた頃に、溜め込んでた荷物があってね。向こうで置きっぱなしになってるから、そろそろこっちに持ってきてしまいたいんだ」

 

 長年気ままな一人旅に勤しんできた月見は、あまり両手が塞がる以上の荷物を抱える主義ではないけれど、旅先では主に知り合った人からの贈り物という形で、不可抗力的に手持ちが増えてしまうことも多かった。なので、なかなか捨てるに捨てられないそれらを置いておく目的で、適当なアパートを一室借りていたのだ。

 どうせ外に戻る予定はしばらくないのだし、放置して無駄に家賃を払い続けるよりかは、いっそこちらへ持ってきてしまおうと思う。殊に物の運搬という点では他の追随を許さない、紫のスキマを使わせてもらえれば一瞬だ。

 

「なるほど……もちろんいいわよっ! 私のスキマでちゃっちゃと終わらせて、たくさん遊びましょっ!」

「助かるよ。……日時は任せるよ。ただ、今は外も蒸し暑いだろうから、ある程度涼しくなってからだといいかな」

 

 幻想郷の夏ももちろん暑いが、外の世界はそれ以上だ。特に都心部の暑さは筆舌に尽くしがたいものがあり、さながら高層ビルで覆われた蒸し釜である。毎年多くの熱中症患者が病院へ運ばれるのも、あれでは当然としか言い様がない。

 なので夏がその猛威を振るい始める頃になると、避暑と称して北側の地方、もしくはいっそ南半球にまで逃げるのが、外で暮らす月見の毎年の恒例行事だった。夏には夏の魅力があるのはわかっているけれど、暑さは寒さと違って、着る物で調節しづらいから少々苦手だ。過ごしやすさという一点だけでいえば、月見は夏よりも冬を選ぶ。

 外の世界の蒸し暑さには心当たりがあるのか、紫は苦笑いをしていた。

 

「そうね、外の暑さはこっちの比じゃないものね……。うん、じゃあ涼しい日があったら迎えに来るから、一緒に行きましょ!」

「ああ。ありがとう」

 

 とまあ、ここまでを傍から見れば、楽をするために紫を利用していると思われるかもしれないけれど。

 本当のところをいえば、荷物運びこそがついでであり、本命は紫と遊ぶ方なのだ。所詮は自己満足でしかないけれど、今年の夏は、紫にとって決していい季節ではなかったはずだから。だからせめて、少しくらいは、辛い記憶を束の間でも忘れられる、楽しい時間というものがあってもいいはずだろうと。

 口に出すことはしない。それはきっと、恩着せがましくて卑しい行いだから。

 紫の笑顔が、眩しい。

 

「お礼を言うのは私の方よ! ……ありがとう、月見! 私、すっごく楽しみ!」

「……そっか」

 

 この際、いっそのことデートでも構いやしない。それで紫が楽しんでくれるなら。

 早速当日の予定を考え始めた気の早すぎる少女を見て、月見はそっと、ため息をつくように笑った。

 

 

 

「……ただいまあがりまし――って、どうしたんですか紫様。そんな気味悪く笑って、頭でもおかしくなりましたか」

「ひどいっ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ところでこのところ、月見の一人暮らしが名ばかりのものとなりつつある。

 とにかく客が多いのだ。大した用事があるわけでもなく日中から居座る者や、夜にやってきてはそのまま泊まっていく者まで。ひどい時は、示し合わせたわけでもないのに次々と人が集まり、自然と宴会が始まってしまうなんてこともある。彼女たちの中では、この屋敷は月見の家である以前に温泉宿であり、気軽に立ち寄って騒ぐのが当然という認識なのかもしれない。

 無性に霖之助と酒を呑みたくなってきたが、それはさておき。

 だからなのか、食べ物を持ち込んだり差し入れたりしてくれる少女というのがちらほらといる。このところ水月苑の夕食事情を牛耳る藍もそうだし、咲夜や妖夢、映姫、早苗、妹紅、ルーミアなどは、まるで自分が屋敷の玄関をくぐる対価とするように、思い思いの食材やお菓子を持ち寄ってくる。客の多い水月苑でさほどエンゲル係数が高騰せずに済んでいるのは、ひとえに彼女たちの気遣いのおかげだ。

 天子もそうやって、水月苑に差し入れを持ってきてくれる少女の一人だった。

 ただ、

 

「……天子。差し入れを持ってきてくれるのは嬉しいんだけど、もう少し、こう、程度というものをね?」

「ご、ごめんなさい……」

 

 三日連続で朝っぱらからダンボールいっぱいの桃を持ってこられれば、さすがに困惑せざるをえないというものだったが。

 台所で三段積み重ねられた桃のダンボールたちを見て、申し訳なさのあまり縮こまっている天子曰く、

 

「なにかお礼をしたくて……つ、つい」

「まあ、もっと早くに言わなかった私も悪いけど……」

 

 中に詰め込まれた桃の数は、低く見積もっても合わせて百は下るまい。ダンボールを抱えた天子が二日連続でやってきた時点で、なんとなく嫌な予感は覚えていたものの、まさかそんなと高を括ってしまったのは失敗だった。いくら客が多い水月苑でも、これはちょっと消化が間に合わない。

 

「しかし、こんなに持ってきて大丈夫なのか?」

「それは大丈夫。これでもまだまだ、食べきれないくらいあるから」

 

 桃は天界で最もメジャーな食べ物であり、それ故にみんな食べ飽きており、毎年途轍もない量が余るとか。木の数を減らそうにも、天界の空気を浄化してくれる極めて重要な植物なので、増えないように管理するのが関の山なのだそうだ。

 天界で育ったこの神聖な食べ物は、地上でしばらく置けば邪気を祓う力が失われ、妖怪でも美味しくいただけるようになるという。

 天子が、髪が翻るほど勢いよく頭を下げた。

 

「ごめんなさいっ。その、邪魔だったら持って帰るから……」

「いや、ありがたくいただくよ。持って帰るのも大変だろう?」

 

 このダンボールを水月苑まで運んでくる時点で、天子は顔中真っ赤の汗だらけだったのだ。今だって頬にはまだ熱が残っていて、血色のいいピンク色になっている。

 あんな姿になってまで持ってきてくれた心ある差し入れを、まさか突き返すなどできるはずもない。

 

「でも、さすがにこの量は……」

「手がないわけじゃないさ。水月苑の、新しい名物にでもしてみるのはどうかな」

 

 客だけは多い水月苑だ。特に週末は、夏故に客足がいくらか少なくなったとはいえ、そこそこの人たちが温泉目的で訪れる。温泉で火照った体に染み渡るようキンキンに冷やして、爪楊枝付きの一口サイズで提供すればウケがよさそうだ。

 

「へえ……! うん、いいんじゃないかしら。とっても素敵だと思う」

「それじゃあさっそく、今度からやってみようかな」

「私も手伝います!」

 

 暗かった顔つきを吹き飛ばし、天子が元気よく手を挙げた。

 

「桃、一人で切るのは大変でしょ?」

「それはそうだが」

 

 ちゃっかり水月苑の若女将を自称している紫では、桃を切る要員としてとても心許ない――というかそもそもお手伝いとして心許ない――ので、手伝ってもらえるならありがたいけれど。

 

「いいのか? ……というか、包丁使えるのか?」

「つ、使えるわよそれくらい!」

 

 天界で退屈極まる日々を過ごしていた頃に、暇潰しで包丁の扱い方はマスターしたのだと天子は胸を張った。りんごの皮を全部つなげたままで剥けるし、うさぎさんも作れるという。お嬢様育ちというだけで、反射的に壊滅的な腕前を想像した自分を反省する月見である。

 

「私だって女の子だもの、これくらいできないとっ」

「……そうだな」

 

 お嬢様育ち=料理下手という先入観を月見に植えつけた元凶である、輝夜の姿が脳裏をよぎる。そういえば、料理と称してボヤ騒ぎを起こした輝夜の素晴らしい料理センスは、未だに健在なのだろうか。

 緩く首を振った。

 

「じゃあお言葉に甘えて、力を貸してもらおうかな」

「任せてっ。頑張るから!」

 

 命を救われた恩を返すためなのか、それとも単に憧れの存在として強く慕っているからなのか。とにかく天子は、どれほど小さなことでもいいから月見の手助けをしようと躍起になっているフシがあった。そして、手助けすることを己の最上の喜びとしているフシも。今だって彼女は、まるで自分のことみたいに満足げな笑顔で、ほのかな鼻歌を口ずさんでいる。

 差し入れはもちろん、水月苑の掃除やらなにやらまで率先してやろうとするから困りものだ。主に、咲夜や藍と出くわして火花を散らしているという意味で。

 

「じゃあこれくらいの桃じゃ足りないかもしれないから、もっと持ってこないと!」

「いや、どれくらい食べてもらえるかわからないし、今回はこれで様子を見ような?」

 

 少々後先を考えない性格をしているので、こうやって空回りしてしまうのも珍しくない。

 

「そ、そうよね。ごめんなさい……」

「天子。やる気になってくれるのは嬉しいんだけど、もうちょっと冷静になろうな」

「はい……」

 

 肩を叩いてたしなめると、天子は恥ずかしさのあまりしおしおと縮こまっていくのだった。

 

「――さて。そろそろ行かないと、寺子屋に間に合わないんじゃないか?」

「あ、そうかも」

 

 里の寺子屋は慧音を中心に、何人か手伝いの大人たちが交代交代で勤めることで運営されている。しかし天子は毎日休まず出校し、今や手伝いを超え立派な一教師へと成長した。里で一番人気の新任教師は、たった一日休むだけで生徒たちからブーイングの嵐だという。先輩教師としての立場をどんどん失っていく慧音は、きっと教室の隅で暗い雲を背負っているのだろう。

 天子を見送りに、外へ出る。太陽の下で一度伸びをした天子が、スカートを可憐に揺らし振り返った。

 

「えっと……それじゃあ、いってきます」

「ああ、いってらっしゃい」

 

 こうして月見が見送りをするたびに、天子はいつも決まって幸せそうな顔をする。ほんのりと色づいた頬で、俯きがちになりながら、こそばゆそうに淡くはにかむ。いつのことだったかその仕草を偶然目撃した哨戒天狗が、鼻血をまき散らしながらくるくると池へ落下したことがある。

 

「……あ、あの、月見っ」

「なんだ?」

 

 天子の頬を染める赤が、この青空の下で、まるで夕日を受けたみたいに濃くなっていく。

 

「その……ちょっと、後ろ向いててくれない?」

「? どうかしたのか?」

「い、いいからっ。ほら早くっ、寺子屋に遅れちゃう」

 

 わたわたと挙動不審な天子を不思議に思いつつも、月見は言われた通り回れ右をした。

 後ろを向けば、水月苑の玄関が視界いっぱいに広がる。土間が少し砂埃で汚れているので、掃除をした方がいいなと思う。先日橙と釣りをした時に思いついた式神の案を、一度試してみてもいいかもしれない――

 ――と、

 

「……天子?」

「……」

 

 柔らかな感触がした。ふわふわと舞い降りてくる、真っ白な羽根のように。

 天子に、抱き締められていた。

 

「……え、えっと」

 

 後先を考えない突発的な行動だったのか、天子は自分でも焦った声をしていた。月見のお腹あたりに、天子の両腕が戸惑うように回されている。風に乗って香る桃の匂いが鼻腔をくすぐる。背中越しに、今にも暴走しそうな天子の胸の鼓動を感じる。

 

「……」

「……」

 

 一体全体どうしたのか、しばらく待ってみてもさっぱり反応がなかったので、月見は気絶でもしてるんじゃないかと思って、

 

「天子?」

「え、ええっと! なんていうかな!」

 

 慌てに慌て半分以上裏返った声で、天子がいきなりまくし立てた。途轍もないほど緊張しているのか、知らず識らずのうちに体が強張り、月見をぎゅっと抱き締めながら彼女は、

 

「――私、幸せ! すっごく幸せっ! だから、ありがとうっ!」

 

 そこまでだった。少し苦しいくらいだった天子の腕の感触がふっと消える。振り返れば、全身の血液が集結したんじゃないかと思うほど真っ赤っ赤な天子の笑顔が、逃げるように遠ざかっていく。

 

「あ、あはは……そ、それだけっ! ごめんね、変なことしちゃって!」

 

 破裂寸前だった天子の胸の鼓動が、まだ背中を叩いている気がする。

 確かに後先を考えない天子だけれど、それにしたって予想外な行動だった。真っ赤っ赤になって、しどろもどろになって、笑って誤魔化すことしかできなくなってまで、なぜいきなりあんなことをしだしたのか。

 その憶測を呑み込んで、月見は笑った。

 

「よかったよ。お前が、幸せで」

「っ……」

 

 天子が、よろめいた。

 

「そ、そんなこと言わないで……」

「なぜ?」

「だ、だって……、」

 

 天子は顔を両手で覆い、今にも消えてしまいそうなか細い声で、

 

「……………………だって、すごく、嬉しくなっちゃう……」

 

 天子の頭からは、ジュウジュウと白い湯気が立ち上がっているような気がした。

 人からの好意に、触れ慣れていない子なのだろう。ファンクラブの連中から食事はどうかとかデートはどうかとか誘われるたび、顔を真っ赤にして狼狽えていると聞く。今まで傲岸不遜の限りを尽くし、人から嫌われそれが当たり前となっていたが故に、人から好かれてしまうと途端にどうしたらいいのかわからなくなって、勢いで変なことをしてしまう。

 今しがたの大胆な行動も、その延長線だったのだろうと――今はまだ、そう思っておくことにしよう。

 

「ほら、早く行かないと。本当に遅刻しちゃうぞ」

「そ、そうよねっ!? じゃあ、いってきます! また――」

 

 勢いのまま最後まで言ってしまいそうになった言葉を、天子はぐっと飲み込んだ。深呼吸をして、咀嚼するように唇を動かして。

 最後は決して誤魔化しの笑顔ではなく、心から。

 

 

「――またね」

「ああ。いっておいで」

 

 

 ――幻想郷は本日も、穏やかな平和の二文字である。緋想天の異変が終わって十余日、すべてが夏の幻であったように、突き抜けて平和の限りである。

 

 時には誰かが涙を流し、怒りに震えることもあるけれど。

 

 それらをすべて乗り越えて、今日も幻想郷は、笑っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、おはよう天子。今日は遅かったな――って、顔が真っ赤だぞ!? 風邪でも引いたのか!?」

「……あー、うん、その。……引いちゃった、かも」

「大丈夫か? 今日は休んで安静にした方が……」

「ううん、そういう意味じゃなくて……体は大丈夫なんだけど、こう…………心の風邪というか」

「はあ……?」

「と、とにかく大丈夫っ! 心配しないで、いけないと思ったらちゃんと休むから!」

「まあ、一応元気そうだからいいが……もし万が一があったらちゃんと言うんだぞ。体調管理も教師の仕事だ」

「はあい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第69話 「八雲藍のクロレキシ」

 

 

 

 

 

 当時の自分は普通に楽しんでやっていたはずなのに、何年か経ってからふと思い出すとなぜかどうしようもなく死にたくなる記憶のことを、外の世界では『黒歴史』というらしい。

 どういう経緯で生まれた言葉かは知らないが、『黒』は元々不吉、もしくは不幸といったニュアンスを持つ色だから、葬り去りたい過去を『黒い歴史』と表現するのは実に巧いと月見は思っている。

 それがどうしたか。

 黒歴史を抱えているのは、なにも人間だけに限らないという話だ。例えば文にとって例のスカート紛失事件は正真正銘の黒歴史だろうし、神奈子や諏訪子にとっての諏訪大戦も、立派な葬り去りたい過去のひとつだろう。

 妖怪も、神も同じなのだ。

 故に、冷静で思慮深い優秀な式神である藍が黒歴史を抱えていたとしても、別におかしくもなんともないのだ。

 

「――私と藍が出会った時の話か。ああ、よく覚えているよ」

「ちょちょちょっちょっと待ってください月見様!? 話すんですか、話してしまうんですか!?」

「いいじゃないの藍、橙が知りたいって言ってるんだし」

「はい! 私、藍様と月見様のこと、もっとよく知りたいですっ!」

「えっ、あっ、」

「私と藍が初めて出会った頃は、藍がちょうど九尾になったばかりでね、」

「うわああああああああああっ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 遂に、なった。

 遂に、九尾になったのである。

 最高格の妖狐に、なったのである。

 後に八雲藍と呼ばれるようになる少女がこの世に生を受け、およそ五百年が経った頃のことだった。

 基本的に、妖狐の実力と尻尾の本数は対応する。一本から始まり、最大で九本まで増える。つまり尻尾を九本持っている狐というのは、妖狐の中で最も位が高い――いやそれどころか、妖怪という括りで見てもその最上位に君臨する、深く畏怖されるべき大妖怪なのだ。

 そんな九尾に、遂になったのだ。

 長かった気もするし、一瞬だった気もする。決して楽な道のりではなかった。弱かった頃の藍は、他の妖怪たちからいじめられることも少なくなかったし、人間から狩りの標的にされることもあった。力のない自分を呪ったことは一度や二度ではない。だから己の見聞を広めるため一人旅をし、行く先々で修行を重ね、いつかみんなを見返してやる気持ちで力を蓄え続けた。

 その集大成であった。今や藍は、妖狐の中でも最高格。日本に蔓延る魑魅魍魎(ちみもうりょう)から、一線を画して進化した存在。人間はもちろん、鬼や天狗からも畏れられ、神からすらも一目置かれる大妖怪なのであった。

 感無量だった。今でこそ多少は落ち着いたが、九尾になりたてほやほやだった頃の藍は、もう達成感と満足感と優越感の塊だった。

 すると、どうなるか。

 

 ぶっちゃけ調子に乗った。

 

 旅先で仲間たちに出会った時、それとなく自分が九尾であることを明かすと、彼らは決まって驚愕し、また口々に藍を持て囃した。それが嬉しかった。快感だった。自分がただの妖怪とは違う特別な存在になれたのだと、五臓六腑へ染み渡るように実感できて感動していた。

 酔っていたのだ。見聞を広めるためだったはずの一人旅が、いつしか持て囃されたいがためだけの行脚(あんぎゃ)へと変貌してゆくほどに。

 当時の藍は、とにかく己の九尾に絶対の自信と――そして少なからずの自尊を、乗せていた。

 

 

 

 

 

 激しい雨が降る日だった。気持ちのいい青空が広がっていたのは午前中だけで、午後になって藍が山を下り始める頃には、空は黒い雨雲で隅々まで征服されてしまっていた。

 

「……油断したなあ。まさかこんなに降ってくるなんて」

 

 あまりの雨足の強さで、ぼやく自分の声すらろくに聞こえなくなるほどだ。雨というよりかはもはや水飛沫に近い。おまけに風までひどいせいで、雨粒がほとんど真横から飛んでくる。水はけの悪い地面ではあっという間に水が溜まり、川のようになって下へ下へと流れ始めている。

 当然、木陰に避難した程度ではまるで意味がなく、服などとっくの昔にびしょびしょだった。

 元々野山で暮らす獣だった藍が、今更雨に濡れることを厭いはしないけれど。

 

(それにしたって、雨宿りする場所がほしいな)

 

 いくらなんでも強すぎだ。叩きつけられる雨粒に痛みすら感じるし、前もほとんど見えない。信仰心の厚い人間なら、神の怒りじゃ神の怒りじゃと喚いて一心不乱に祈祷を捧げ始めるのではないか。

 どこか小屋か洞穴を見つけなければ、一息つくことだってできやしない。袖で顔を守りなんとかかんとか視界を確保して、藍は篠突く大雨の中をひた走っていく。

 

 人の姿を偽り野山を巡るようになってから、随分と久しい。元々は修行目的で始めた一人旅だったが、見知らぬ妖怪や人間の営みに触れ、四季とともに移り変わる世界の中を巡り歩くのは、思いの外藍の性に合っていた。

 人の住む領域を歩き続ける中で、妖術の精度はどんどん上がり、今では都の中心まで何食わぬ顔で入り込めるようになった。

 妖の住む領域を歩き続ける中で、戦いの術と力を貪欲に吸収し、今ではどんな相手でもほとんど負け知らずになった。

 飽きることなく歩き続ける中で、気がつけば、尻尾も九本になっていた。

 

「あっ……洞穴がある」

 

 そうやって日本中を歩き回っていれば、今日のようにびしょ濡れになってしまう日もままある。ぬかるみに何度も足を取られながら頑張って走っていると、運よく、そそり立つ崖の懐にぽっかりと穴が空いているのを見つけた。それが洞穴なのだとわかった瞬間、藍は迷わず山道を外れ、火事場から逃げ出すように洞穴へと転がり込んでいた。

 救われた心地すらした。

 

「ふう……ああもう、本当にびしょ濡れだ」

 

 服のあちこちから絶え間なく雫が滴り落ち、足元にはあっという間に水溜まりができてしまった。これでは、足を滑らせて川で溺れたのと大差ない。濡れた顔を濡れた手で乱暴に拭い、藍は上を仰ぎ見た。

 藍が悠々立てる程度には、そこそこ高さのある洞穴だった。横幅は、ちょうど両腕を広げられるくらい。思った以上に深さがあるらしく、奥は荒涼とした闇で包まれており、

 半裸の男がいた。

 

「――へっ、」

 

 思わず変な声が出た。濡れた髪を手拭いでわしわし拭いている、若い男がいた。

 繰り返すが、半裸――上半身裸で。

 

「……、」

 

 一瞬、どこから湧いて出てきた!? と思ったがなんてことはない、藍が気づいていなかっただけだ。大雨がひどくて、とにかく一刻も早く洞穴に入りたくて、前なんてロクに確認してもいなかった。

 見た目は、まだまだ若いといえる部類であろう青年である。透き通る銀髪の上に白い手拭いを乗せて、闖入者の藍を不思議そうに見返している。背が高く体格は細目だが、貧弱な印象は受けず、むしろ洗練された引き締まり具合で大変目の保養

 

「……お前も休んでいくか?」

「はっ」

 

 声を掛けられてようやく、藍は我に返った。

 首が変な音を立てるくらいの勢いで、横を向いた。

 

「す、すみません! ええとこれは偶然というか事故というか決して他意があったわけでなく不可抗力であって覗こうとしたとかそういうのは断じてありえないわけですみません申し訳ありません」

 

 焦るあまり自分でもなにを行っているのかよくわからない藍とは対照的に、男の反応は穏やかだった。

 

「気にしなくていいよ。むしろ、こっちこそ見苦しいものを見せてしまってすまないね。まさか人が来るとは思ってなくて」

「い、いえ、見苦しいだなんて……」

「え?」

「なんでもないですっ!!」

 

 危なかった、つい本音が。……本音なのだ。そうでなかったら、思いっきり横を向きながらも横目でちらちらと男の体を盗み見ていたりする道理はない。筋肉質で屈強な男というのもまあ魅力的ではあるけれど、藍としてはやはり過ぎたるは及ばざるが如しで、彼のように固さと靭やかさが絶妙に調和した肉体美こそ

 

「そこ、濡れるだろう? 遠慮しないで、火に当たるといい」

「は、はあいっ!!」

 

 煩悩にまみれすぎたせいか、返事は完璧に裏返っていた。ぶんぶんと首を振って、すーはーと深呼吸までして、藍は改めて目の前の状況を把握し直すことにした。

 藍と同じで、山越えの途中で雨に降られたのだろう。荷物は足元に大きめの巾着がひとつあるだけなので、近くの村か集落にでも住んでいる青年なのかもしれない。手拭いを頭に乗せたまま、脱いでいた上着を拾い上げて、湿って重くなった袖に腕を通していく。

 ああ、服を着てしまうのか。ちょっと残ね――煩悩退散。

 吹き込む雨が当たらない程度に進んだ場所では、焚き火が煌々と明かりを灯している。なるべく入口の近くで火を(おこ)しているのは、噴き上がる煙を外へ逃がすためだろう。洞穴はまだ奥へと続いているようだったが、闇に包まれているせいでその先はわからなかった。

 

「使うかい」

「あ……ありがとうございます」

 

 巾着の中から、男が新しい手拭いを引っ張りだしてくれた。隅々までシミひとつない新品だ。ちょっぴり申し訳なかったが、手持ちがあるわけでもないのでありがたく拝借する。

 髪を拭いたり服の水気を搾ったりしながら、藍は男に、

 

「それにしても、よく薪を確保できましたね。この大雨の中で」

「一雨来そうな気配はあったからね、降り出す前から集めてたんだ。……まあ、途中で結局降られてしまって、この通り服は濡れてしまったけど」

 

 そうかそういうやり方があるのか、と藍は素直に感心した。一雨来そうだとわかった時点で、無理はせず雨宿りの準備をする。降り出す前に山を越えようと、そればかりに気を取られていた藍は考えもしなかった。

 

「ところで」

「はい」

 

 異性の前で変な癖がついてしまわないよう注意深く髪を拭いていると、男が火に薪をくべながらぽつりと、

 

「お前は、狐かい」

「……!」

 

 幸いにも雨宿りできる場所にありつけたことで、すっかりに安心し、油断しきってしまっていた。震えた肩、強張った表情。図星を衝かれたと、なによりも馬鹿正直に語る反応となってしまった。

 だがそれで藍が早まったことを考えるより先に、男が静かに反応した。笑みを見せ、

 

「私も、狐だ」

「……、……なんだ、そういうことか」

 

 ふー……と長い安堵のため息が藍の口から出た。藍は、人の命を奪うことに抵抗はないが、かといって無用な殺しをしたいわけでもない。相手が誰であれ争わずに済むのであれば、それに越したことはないと思っている。

 がっくり肩から力を抜いて、火の傍に腰を下ろす。男が、くつくつと喉の奥で笑った。

 

「お互い、人に化ける必要もなさそうだね」

 

 かすかな妖力の流れとともに、男の変化の術が解ける。その髪の色と同じ、くすみのない銀色の尻尾がひとつ現れる。それを見た時、藍の心にむくむくと込み上がってきたのは自尊心だった。

 男は一尾の妖狐。ということは、ここで藍が九尾であることを明かせば――。

 この男の、度肝を抜ける。びっくり仰天というやつだ。「金毛九尾様とは知らずとんだご無礼を!?」なんて感じになるかもしれない。

 想像しただけでニヤニヤしてきた。

 それを誤魔化すように、わざとらしく咳払いをした。

 

「そ、そうだな。隠していないと、少し邪魔になるんだが……」

 

 これ見よがしにそんなことを言って、藍は颯爽と変化の術を解く。藍の背後で波打った金毛九尾に、男が思わず目を見開いたのがわかった。

 よし、驚いてもらえた。どうやら言葉も出てこない様子だ。心の中でぐっと拳を握る。やはり何度経験しても、九尾を明かしたこの瞬間というのは耐え難い快感であった。彼は見たところ物静かな青年のようだが、それが間もなく大混乱に陥るのだと思うと、口端が吊り上がらないよう抑えるのに大分苦労した。

 さあ、おどろけえっ!

 なんて、思っていたのだが。

 

「へえ――九尾か」

「そ、そうなんだ。実は」

「そうか。それはまた」

 

 男はそれだけ言うと藍から目線を外し、火に新しい薪を一本放り込んだ。

 ――あれ?

 

「まさかこんなところでお目に掛かるとはね。一人旅か?」

「え? あ、うん、そんなところだけど――いや、ちょっと待て」

 

 パチパチ弾ける焚き火みたいに高揚していた藍の心が、一気に冷めた。

 

「? どうかしたのか?」

「……いや、なんというか、その」

 

 逆に訊きたい。なぜお前はそんなにも冷静なのかと。

 男が驚いた顔をしたのは初めの数秒だけだ。あとはこの通り、特に動揺した様子もなく火の世話を続けている。藍が格上の大妖怪だと明らかになったにもかかわらず、口の利き方を改める素振りもない。

 藍は口の端をひくつかせながら、

 

「わ、私は、九尾なんだ」

「ん? ああ、それは見ればわかるが」

「うん」

「……」

「……」

「……それで?」

「えっ」

 

 今度は藍が驚く番だった。本気で言っているのかこいつは。

 

「お、驚かないんだな」

「九尾には会ったことがあるからね。昔の話だけど」

 

 なるほど、九尾を見るのは初めてではないのか。だとしたらこの冷静極まる態度にも納得――いやいやいや。

 

「あ、あのなあ。お前の尾の数は一で、私は九だ。お前のその態度、どこか改めるところがあるんじゃないのか」

 

 ちょっとイラッとしたので、はっきりと言ってやった。つまりは、おうおう目上の相手に敬語も使わねえたぁご挨拶じゃねえか、というやつである。

 実際、この男の態度はそこそこ問題だった。妖怪は人間と違って貴賤の差に囚われないが、一方で実力に基づく上下関係には敏感な者が多い。弱肉強食の世を生きる妖怪たちにとって、格下からナメられてしまうのは大問題なのだ。

 その場でボコボコにされたって文句は言えない。今ここにいるのが、妖怪の中では比較的温厚――だと自分では思っている――な藍だからよかったものを。

 

「その態度、改めないとそのうち痛い目を見るぞ」

 

 表面上は、年長者のありがたい忠告として。その裏には、びっくり仰天してもらえなかったことへの不平不満落胆その他諸々を込めて。藍が唇を尖らせながらそう言えば、男はまるで予想外だったみたいに目を丸くして、それからふっと頬をほころばせた。

 ああそうか、と腑に物を落とすような微笑みだった。

 

「それは失礼。……んんっ、ではこれでよろしいでしょうか」

「……まあ」

 

 少々わざとらしい咳払いが気になったが、自分も同じことをやった身なので強くは言えない。

 それにしても、言葉遣いを改めたにもかかわらず、未だ格上(らん)に対する恭順と敬服の心が見えない気がするのは、邪推というものだろうか。

 

「お前は些か、相手との格の違いに無頓着みたいだな」

 

 男の反応はどこまでも涼しい。

 

「お気に召さなかったのなら、申し訳ありません」

 

 逆に訊きたいが、お気に召すとでも思っているのだろうか。なんだか噛みついてやりたい気持ちになってきたが、そんなことをしたら九尾としての品格を疑われるので、我慢する。

 

「……まあいいさ。私もそこまで狭量じゃない」

 

 つまらないやつと一緒になってしまったものだ。聞かれないようこっそりと、ため息をついた。

 男は藍と同じで、住む場所を定めず一人気ままに旅をしている狐だった。藍とは反対方向からやってきたらしく、山を下ると集落があること、住人の部外者への警戒は薄く、人間に化けていれば簡単に宿を取れることなど、一応耳寄りな情報を教えてくれた。雨が上がったら是非立ち寄って、着物を洗濯するなり湯浴みをするなりしたいと思う。

 

「そちらの方には、なにがありましたか?」

「しばらく山が続くよ。それ以外はなにも……強いて言えば修験者の姿を見かけたから、面倒にならないよう気をつけることくらいかな」

「修験者ですか。よくやりますね、人間も」

 

 本来人外の領域であったはずの山に、人間が進んで立ち入るようになったのはいつからだったろうか。特に近頃は山を修行の場と捉え、験力の会得を求めて自ら足を踏み入れる仏教徒が随分と多くなった。中には実際に験力を得たことで調子づき、あたりの魑魅魍魎を退治して回る輩まで出てくる始末なのだから、妖怪としてはいい迷惑この上ない。

 藍も、そんな修験者に何度か喧嘩を売られたことがある。まあ、みんな尻尾でぶっ飛ばしてやったが。

 

「妖怪には妖怪、人間には人間の領域があるだろうにな」

「まあ、人に紛れて生きている私たちが言えた義理でもないですがね」

「……揚げ足を取るな」

 

 軽く睨みを利かせたら、申し訳ありません、と男は苦笑していた。それがまったくもって申し訳程度の謝罪だったから、ぐぬぬぬ、と藍は心の中で低く唸った。

 頭ではわかっている。この世界に存在する妖狐すべてが、格の違いに従順なわけではない。この男のように、格上を格上とも思わない、人を喰った性格の悪い狐も少なからずいるだろう。わかっている。ああわかっているとも。

 

(……うぬぬぬぬぬっ……!)

 

 けれどやっぱり、悔しかった。九尾の藍が、妖狐の中でも最高格の藍が、たった一尾の妖狐にこうも軽んじられるなどあってはならないことだ。これはあれだろうか。本気で怒らないとわかってもらえないやつだろうか。礼儀を体に直接叩き込んでやらないといけないのだろうか。暴力は好きではないが、このままでは一尾相手に負けたみたいで大変気に食わないので、実力行使も決して吝かではない。

 

「……ところで」

「……なんだ」

 

 言い返してやる、と思う。なにを言われても、男が二の句も継げなくなるくらい華麗に言い返して、そのまま礼節とはなにか、敬う心とはなにかということについて、逃げ場も与えずみっちり教え込んでやろうと

 

「すぐ後ろに、やたらと大きい蜘蛛がいますけど」

「ひゃい!?」

 

 思わず跳び上がりそうになった。しかし腰が浮きかけるすんでのところで堪えて、いや待て、と冷静に分析した。

 ――あからさますぎる。つまりこれは、私をからかうための真っ赤な嘘。ここで驚いてしまってはこいつの思う壺……っ!

 咳払いをした。

 

「あ、あのなあ。いくらなんでもそんな見え透いた嘘」

「いや、本当で――あっ首に」

「ひやわああああああああああっ!?」

 

 うなじあたりをゾワッとした感覚が駆け抜けたので、今度こそ藍は跳び上がった。両手で必死に首を払いながら横に吹っ飛び、這う這うの体で恐る恐る振り返ると、確かに今まで藍の頭があった空間に、天井からぶら下がったやたらと大きい蜘蛛がいた。

 保護色のせいで見づらいが、どうやら拳大くらいの大きさはありそうだ。というか、さっきうなじに悪寒が走ったのって、まさか本当に一瞬とはいえあれが冗談抜きで首に――

 その光景を想像してしまい、全身鳥肌まみれでぷるぷる涙目になっていたら、男にからからと笑われた。

 

「蜘蛛はお嫌いですか」

「あんなのがいきなり首に来たら誰だって怖いよ!? 鳥肌だよ!」

 

 動揺しすぎて、少々語尾がおかしい藍である。

 

「すみません、もっと早く気づけるとよかったんですけど」

「わざと黙ってたんじゃないかってくらいだよ!」

「まあ、こんな洞穴ですしね。蜘蛛に限らず、他にも色々といるのかもしれません」

「ばかっ!!」

 

 なんかもう、洞穴全体をこの狐もろとも狐火で消毒したい藍なのだった。

 

「しかし、あれですね」

 

 他にもいやしないだろうな!? とびくびく周りを確認する藍に、男はあいかわらず、愉快げに肩を揺らしながら、

 

「金毛九尾ともあろう御方にも、かわいいところがあるのですね」

「……っ!」

 

 血の気の引いていた藍の顔が、羞恥と怒りで一気に白熱した。一見褒め言葉のふりをして、これは暗に「九尾なのに意外と情けないんデスネー。ハハッ」と人を見下げた発言である。つまるところ、藍はまたこの男に馬鹿にされたのであって。

 気がついたら、男の頭を尻尾でぶっ叩いていた。

 

「あ痛ー……」

「お前はぁ! なんでそんなに、意地が悪いんだっ!」

 

 涙目のまま距離を詰め、男の胸倉を絞め上げて揺さぶる。なんだかもう踏んだり蹴ったりで、藍は軽い錯乱状態に陥っていて、

 

「九尾なんだぞ!? 偉いんだぞ!? 強いんだぞすごいんだぞっ!? なのになんでそうやってバカにするんだっ、バカって言った方がバカなんだぞばかぁっ!!」

「う、お、お、お……ちょっ、落ち着」

「うるさいうるさいうるさいうるさいばかばかばかばかばかばかあああぁぁっ!!」

 

 男を前に後ろに揉みくちゃにし、頭を尻尾でビシバシビシバシ叩きまくる。

 半泣きになりながら錯乱する、とても九尾の大妖怪とは思えない少女の姿を、拳大の蜘蛛だけがぷらぷら左右に揺れて見つめていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ひどい目に遭った。

 

「……ああ、まだ頭が痛い」

 

 九尾を振り回し半泣きで暴走する少女を落ち着かせる頃には、月見はすっかりボロボロになってしまっていた。数分間に渡り頭をひたすら叩かれまくったせいで、髪があちこちに飛び跳ねてしまっているのがわかる。それと前後にひたすら揺さぶられまくったせいで、服も乱れに乱れてほとんど半裸みたいな有り様だ。

 自分のみっともない恰好で手で整えながら、月見は細く長いため息を吐き出した。

 決して他意があったわけではない。蜘蛛を怖がって涙目になる少女の姿は、金毛九尾の大妖怪とは思えないほどに微笑ましくて、それ故の純粋な「かわいいところがあるのですね」だったのだ。しかし今思い返せば、確かに皮肉と受け取られても仕方なかったかもしれない。

 そんな微笑ましい大妖怪の少女は、もふもふの九尾にくるまってすっかり不貞寝してしまっていた。また蜘蛛に襲われたりしても大丈夫なよう、全身を包み込んで完全防御しているので、傍目からは黄金色のデカい饅頭が鎮座しているように見える。足の先っちょがちょっぴりだけはみ出しているのが、また随分とかわいらしい。

 恐らく、九尾になってまだ間もない若い(・・)妖狐と思われる。見た目はもちろん、九尾を得たことで少々自信過剰になっているあたりがなんとも初々しい。大妖怪になった喜びからあれこれ大人ぶろうとしている姿は、かつての紫と重なる部分もあって、十一尾の月見からしてみれば微笑ましい以外の何物でもなかった。

 ちなみにあのやたらと大きい蜘蛛は、月見が尻尾に乗せて外へご退場いただいた。降りしきる雨をものともせず、新しい安息の地を求めて茂みへ消えていったその背中は妙に逞しかった。

 

「……しかし、九尾か」

 

 鎮座する特大饅頭を眺めながら、月見はぽつりと独りごちる。

 正直、自分が十一尾だと明かすべきかどうかは何度も考えたし、悩みもした。しかし九尾を明かした時の少女が、なんというか、ものすごく得意げな、いかにも「どぉだあっ!」みたいな顔をしていたので、茶々を入れるのも大人げないと思いなにも言わずにいた。

 もし月見が十一尾を明かしていたら、果たして少女はどんな反応をしていただろう。非常に気になるところだったが、自分の実力をひけらかすようで恰好悪いので、首を振って考えなかったことにした。

 

「どれ、私も少し寝ようかな……」

 

 外の雨はまだまだやみそうにない。黙々と火の番をするのも退屈だし――というか火が消えても狐火で点け直せばいいだけの話だし、月見も少女を見習って、昼寝をするくらいがちょうどよいのかもしれない。

 地べたの上で寝心地は悪いが、最低限尻尾を枕にして月見は横になる。

 不貞寝をする少女の呼吸に合わせて、黄金色のもふもふ饅頭が膨らんだりしぼんだりしているのを観察していたら、月見もあっさりと眠りに落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、このもふもふ饅頭に包まれた少女を起こすにはどうすればよいか。

 体内時計で、二時間ほど寝ていたと思う。ふと目を覚ました月見が外を見てみると、空はあいかわらずの鈍色(にびいろ)ながらも、雨はすっかりあがっていた。豪雨だったので山道はぬかるんでいるが、歩けないほどではなさそうだ。

 なので月見が眠った時とまったく変わっていないこのもふもふ饅頭を、どうにかしようと思うのだけれど。

 

「……」

 

 月見は試しに、饅頭を軽く小突いてみた。もふっと手が尻尾の中に埋もれていって、もふんっと跳ね返された。素晴らしい肌触りと弾力の尻尾だ。

 月見は試しに、饅頭を前後に揺すってみた。もふんもふんと揺れ動くだけで、少女からの反応は返ってこなかった。素晴らしい柔らかさと靭やかさの尻尾だ。

 感心している場合ではない。どうやら少女は爆睡しているようで、もふもふ饅頭は絶えず膨らんでしぼんでを繰り返している。九尾の狐だし、このまま放っておいても問題はないだろうが、かといって眠る女の子を置き去りにするのも気が引ける。

 

「……ふむ」

 

 その時月見は、もふもふ饅頭から少女の足の先っちょだけがはみ出しているのを思い出した。

 足の指の裏を、ちょんちょんとつついてみた。

 

『ん~……んぅ……』

 

 饅頭の中からくぐもった声が聞こえたが、覚醒までは至らない。

 小さい足の指を摘んで、くいくいと引っ張ってみた。

 

『んんぅ~……!』

 

 もふもふ饅頭がもそもそと揺れ動いた。もうちょっとだろうか。

 では満を持して、足の指の付け根あたりをこしょこしょこしょこしょ

 

「ふにゃああああああああああっ!?」

 

 少女が猫みたいな悲鳴で飛び起きた。そしてそのまま、動かせる尻尾を総動員して月見の頭をぶっ叩いた。

 

「いたー……」

「ふあっ、あ、あぁ……あ?」

 

 真っ赤な顔で荒い息を吐く少女は、ぐぬぬと呻いている月見に気づくなり目を吊り上げて、

 

「……あああっ、またお前か!?」

「……ああ、うん。起こそうと思ったんだけど」

「はははそうか一瞬で起きられたよありがとうっ!」

「った」

 

 また尻尾で一撃。

 

「一体なんなんだっ、なんなんだお前はぁっ! 九尾の私に、こんなっ、こんなっ」

「だって、尻尾を叩いたくらいじゃ起きてもらえなかったし……」

「敬語ッ!!」

「あ、はい」

「私をからかうのもいい加減にしろぉ! い、いくら私でもそろそろ怒るぞ!?」

 

 既に怒っている気もするが。怒り心頭で涙目な少女は、今にも狐火をぶっ放しそうな気迫で尻尾を逆立て、ぐるるるるると月見を威嚇しているのだった。

 

「まあまあ、落ち着いてください。雨があがりましたよ」

「……そうか」

 

 やっとか、と大きくため息をついた少女は、すぐに冷たくそっぽを向いて、

 

「ふん。これでもう、お前なんかと一緒にいる必要はないな」

「そういうことになりますね」

「じゃあ私は行く。これ以上お前と関わるのは御免だ」

 

 月見としても、雨があがった以上は暗い洞穴に引きこもっている理由などない。ちゃっちゃと火の後始末をして、少女と一緒に外へ出る。

 

「む、大分ぬかるんでるなあ……まあ、背に腹は代えられないか」

「滑って転ばないように、気をつけてくださいね」

「誰が転ぶか! あのな、お前ほんとにいい加減にひゃわっ!?」

 

 言っている傍から少女が足を滑らせたので、月見はすかさず尻尾で抱きとめた。

 

「……」

「……なにか言うことは?」

「うるさいうるさい! お前なんか知るかばーかっ!」

 

 その後、真っ赤な顔で暴れる少女がまた足を滑らせ、また月見が尻尾で抱きとめ、また少女が暴れて足を――というのを三回ほど繰り返してからやっとこさ、

 

「では、お達者で。縁があればまたどこかで」

「私はお断りだ! お前なんか、大っ嫌いッ!!」

 

 月見は登る道を、のんびり笑顔で。少女は下る道を、半分ベソをかきながら。月見が手を振って見送る間、少女は振り返りもせずズンズン大股で道を進んで、

 転んだ。

 

「……おーい」

「う、うううぅぅ~……っ!?」

 

 泥だらけになった少女が、屈辱と恥辱でぷるぷる震えている。大股で歩いたりなんかするからだと月見は思う。

 生温かい目をする月見の先で少女は起き上がると、こちらに向けてべーっと舌を出して、木々の向こうへあっという間に飛んでいってしまった。

 静寂が戻ってくる。さわさわと葉擦れの音だけが響く山のささやきを、ゆっくりと大きな呼吸とともに感じながら、月見はぽつりと呟いた。

 

「……いやあ、元気な子だったなあ」

 

 妖狐は総じていたずら好きだが、同時にどこか腰の据わった連中が多いので、少女のように感情剥き出しで驚いたり怒ったりする狐は新鮮だった。できればまた弄――いや、色々と話をしてみたいので、縁があればいいなと思う。

 どうやら手酷く嫌われてしまったようなので、難しいかもしれないけれど。

 でも案外、あっさりと再会できる気がした。その時は、いい加減に十一尾を明かしてやろうかねと――そんなことを考えながら月見は歩き出して、すぐに立ち止まり、

 

「……そういえば、名前を聞いてなかったな」

 

 月見はこの日、金毛九尾の少女と出会った。

 けれど『八雲藍』と出会うのは、まだしばらく、先の話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ねえ、らーん。藍にちょっと紹介したい人がいるんだけど、いいかしらー?」

「? ご友人ですか?」

「そうそう。世界中をのんびり一人旅してる人でね、どこほっつき歩いてるのかしばらくわかってなかったんだけど。この前ようやく見つけたから、いい機会だと思って」

「いいですよ。……というか、私はもう紫様の式なんですから、あなたの都合に合わせるのは当然のことです」

「ふふ、ありがと。……絶対びっくりするわよ! なんてったって、尻尾が十一本もあるお狐さんなんだからっ!」

「――……、…………はあっ!? え!? えええっ!? 紫様、あの御方とお知り合いだったのですか!?」

「え? うん、そうだけど……ひょっとして藍も知り合いなの?」

「いえ、お会いしたことはないんですけど……で、でも十一尾の妖狐といったら、私たちの間では半ば伝説というか、神格化されてるというか……とにかく妖狐で一番すごい御方なんですよ!?」

「あ、うん、そうみたいね。自分より昔から生きてる狐は知らないって言ってたし」

「そ、そそそっそんな御方とお会いするなんて……ああっ、日頃からもっとちゃんと毛繕いをしておくんだった!」

「大丈夫よ! 藍の尻尾はいつも綺麗でふさふさもふもふだって、私が保証するから! ……それじゃあ今から連れてくるから、準備して待っててね!」

「まっ待ってくださいまだ心の準備が、あっ、紫様ー!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 藍は死ぬかもしれない。心臓が破裂して。

 だって、十一尾の妖狐なのだ。十一尾の妖狐といえば、同族でただ一人、九を超える尾を持つに至った妖狐の中の妖狐であって、仲間の内では神聖視する者もいるくらいなのだ。人の世界に紛れて人の姿で生きているため、その御姿を見た同胞はほとんどおらず、一部ではただの噂話だと疑われているほど――。

 そんな御方が、これから藍の目の前に。

 死ぬ。心臓が破裂して。

 

「あ、あわわわわわ……」

 

 紫の屋敷である。お茶の支度は終わった。部屋の掃除も済んだ。間に合わせながら毛繕いもしたし、それ以外の身嗜みも整えた。しかし唯一、心の準備だけがいつまで経っても終わらなくて、藍はそのへんをうろうろしたり、正座してそわそわしたりしていた。

 寿命がものすごい勢いで減っていっている気がする。

 

「ひ、ひいいい……」

 

 藍はぶんぶん首を振った。違う、ここは逆に考えるのだ。十一尾の妖狐様に、これからお会いすることができるのだ。仕える主人のご友人という、信じられないほど近い関係で知り合うことができるのだ。なんと身に余る光栄なのだろう。なんと思いがけない僥倖なのだろう。明日いきなり死んでしまうことになったとしても、もう藍に一切悔いはない。

 

「――よいしょっと。お待たせ、藍」

「う、うわあああっ」

 

 なんの前触れもなくスキマが開いて、紫が屋敷に戻ってきた。そして藍は逃げ出した。

 

「ちょっと藍、どこ行くのー!?」

「だ、だってえ!」

 

 押し入れに逃げ込んだ藍は、半開きの戸から顔だけ出して震えながら、

 

「や、やっぱり無理ですよお! わ、私なんかが、あの御方をおもてなしするなんて」

「なにちっちゃいこと言ってるのよー。私の式神なんだから、私と初めて会った時みたいに堂々としてればいいんだって」

「あっやめてください紫様その話はダメです」

 

 念願の九尾になってからしばらくの間、色々と調子に乗ってしまった時期があったのは、藍の立派な葬り去りたい過去だった。紫に「私の式神になってみない?」と誘われた時、力ずくでやってみろ! と勇ましく啖呵を切って割とあっさりボコボコにされたのを思い出すと死にたくなってくる。境界を操るなどという、反則中の反則みたいな能力を持っている紫も紫だけれど。

 

「大丈夫よー、礼儀とか気にしない人だから。いつも通りの藍なら平気平気!」

「なあ紫、まだ顔出しちゃダメか? あまり長居したくないんだがここ」

「あっ、もうちょっと待っててね。藍ったら恥ずかしがり屋さんで」

 

 スキマの奥の方から、優しい響きをした男性の声が聞こえる。不思議とどこかで聞いた覚えがあるように思うのだけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 心臓が破裂寸前だったが、押し入れに隠れた今の状態の方がよっぽど失礼なことに気づいて、意を決して外に飛び出した。

 紫がぐっと親指を立てた。

 

「それでこそ私の式神よ! ……あ、そういうわけで月見、もういいわよー」

「はいはい」

 

 心臓ってここまで暴走しても破裂しないものなんだなー、とどこか冷静な感想を抱きながら、藍はめいっぱいに背筋を伸ばした。けれど正面を直視する勇気まではなく、俯きがちになりながら、ぎゅっと目を閉じて、ほとんど沸騰しかけた頭で必死に初対面の挨拶を搾り出そうとした。

 とりあえず、礼儀は気にしない人だと言っていた紫の言葉を信用するとして、堅苦しい言葉を選ぶ必要はない。大事なのは、はっきりと、聞き取りやすい声で挨拶すること。緊張に負けて噛んでしまったり、早口になってしまったりした瞬間、藍の葬り去りたい過去に新しい記憶が並ぶこととなる。

 目を開ける。スキマから降りた紫の小さな足が、音もなく畳を踏んだのが見える。少し間を空けて、今度は男の立派な足。そして、くすみのない銀色の尻尾。美しい銀色だった。なぜかどこかで見たことがあるように思うのだが、やはり十一もの尻尾を持つ御方は毛並みも素晴らしいんだなあと、

 見惚れていたら、声を掛けられた。

 

「ああ、やっぱりお前だったか。久し振りだね」

「……え?」

 

 久し振り? それはおかしい。だって、こんなにも綺麗な銀色をした狐に、今まで出会った記憶なんて――

 

「……」

 

 あれ?

 そういえば、この銀って。

 顔を上げた。

 

「やあ」

「――…………」

 

 周囲を彩っていた小鳥の鳴き声や葉擦れの音が、波が引くように一気に遠くなっていった。代わりに藍の耳を満たすのは、全身の血の気が滝みたいな勢いで落ちていく音だ。一瞬、目の前が真っ暗になりかけた。そのまま気を失えたなら、一体どれほど楽だっただろうか。

 

「……あれ? 月見、ひょっとして知り合いなの?」

「知り合いってほどでもないけど、一度会ったことはあるね」

 

 脳裏に浮かぶ記憶がある。今となっては百年以上前のことだろうか、篠突く雨に降られ逃げ込んだ洞穴で、藍は一匹の狐に出会った。一尾のくせに九尾の藍をまったく敬ってくれず、それを注意したらわざとらしく慇懃無礼な敬語を使い、挙げ句の果てには眠る藍の足をこしょこしょくすぐってくれやがったあの生意気な狐――

 ひくっ、と口の端が引きつった。

 

「あっ、…………あなたが、月見様、ですか?」

「ああ。あの時は、名乗るのも忘れちゃってたけど」

 

 なにかの間違いだろうと思いたかった。しかし彼の尻尾がふいに揺らめくと、あっという間に十一尾にまで増えてしまったので、いよいよ藍は気絶しそうになった。

 というか、気絶させてください。

 

「それじゃあ、改めて名乗ろうか」

 

 体は震えるどころか一周回って石化しているのに、頭の中だけは目まぐるしい渦を巻いている。あの時出会った一尾の妖狐は、実は十一尾の大妖狐だった。藍よりもずっと格上だった。妖狐で一番すごい御方だった。

 ――ところであの時、自分の方が偉いのだと疑いもしなかった藍が、彼にしたことといえば。

 ひとつ。敬語を使わない彼に、「いつか痛い目を見るぞ」と偉そうに説教をしました(痛い目を見たのは藍でした)。

 ふたつ。お前は格の違いに無頓着なんだな、と偉そうに睨みを利かせました(無頓着なのは藍でした)。

 みっつ。尻尾でぶっ叩きました(ぶっ叩かれるべきなのは藍でした)。

 よっつ。胸倉を掴んで、ばかばかばかばかと罵りました(ばかなのは藍でした)。

 いつつ。また尻尾でぶっ叩きました(ぶっ叩かれるべきなのは以下略)。

 むっつ。「お前なんか、大っ嫌いッ!!」と思いっきり叫びました(燃やされても文句は言えません)。

 ななつ。この御方に向けて、べーっと舌を出しました(やはり燃やされても以下略)。

 おまけにもうひとつ。あの日以来もたびたび思い出しては、生意気な狐めっ今度会ったらヤキを入れてやるっと毒づいてました。

 誰に。

 十一尾の、大妖狐様に。

 妖狐の中で、一番すごい御方に。

 藍の中で、ぷっつんとなにかが切れた。男は優しく微笑んだ。

 

「私は月見。ただのしがない狐だよ」

「――、――――――」

 

 そうして藍は灰になった。

 

「……藍? らーんー? どうしたの白眼剥いて、……し、死んでる……ッ!」

「いやいやいや」

 

 なんだろう。なんなのだろう。なんといえばいいのだろう。恥とか後悔とか嫌悪とか絶望とか、そんな簡単な言葉で説明できるほど生易しい感情ではなかった。何百年もの時を生きた藍の知識ですらまるで表現しえない、途轍もないほど凄絶で、とてつもないほど陰惨で、藍の体には到底収まりきらない巨大なナニカ。どんな方法でもいいから今すぐ吐き出さないと自分の心が耐え切れないと感じているのに、藍という存在そのものが圧倒され、蹂躙され、最後の最後までなにもすることができなかった。

 絶対に越えてはいけない一点を、全力疾走で飛び越えた気がした。

 その結果藍の心にもたらされたのは、悟りだった。

 悟りに満ちた、穏やかな微笑みだった。

 

「――紫様」

「あ、はい。よかった生きてた……あの、よくわかんないけど大丈」

「短い間でしたがお世話になりました」

「はい?」

「首を吊ります」

「えっ」

「首を吊ってお詫びします」

「……ええと、うん、とりあえず一回落ち着いて」

「腹を斬る方がいいでしょうか?」

「……あの、」

「ああでも、紫様に介錯をお願いするわけにもいきませんね。やっぱり首を吊ります」

「ねえ藍、待って落ち着いて!? 死んでるっ、目が死んでるっ!」

「もう生きていけない」

「藍ー!?」

 

 死を恐れ、仏の救いに縋り、悟りを求めて神に祈る人間たちの気持ちなどわからないと思っていた。しかしなるほど、悟りというものがこんなにも晴れやかで心穏やかな境地であるならば、仏の教えが長年人の心を掴み続けているのも頷けるかもしれない。

 もうなにも怖くない。

 さて、丈夫な縄を探しに行こう。

 

「ちょっ藍、どこ行くの!? だ、ダメよよくわかんないけどとにかくそっち(・・・)に逝っちゃダメえええええ!? 月見、あなた藍になにしたの!?」

「なにをしたというか……なにをされたかって話かな。九尾になってまだ間もなかった頃のその子が、私に礼儀」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

「いやあああああ!? 藍が壊れちゃったあああああ!!」

 

 そこから自分がどうなったのかは覚えていない。気がついたら日付が変わっていて、自室の布団で寝ていて、ああよかった夢かと思った瞬間枕元に紫と月見がいることに気づいてまた発狂しかけて、紫に羽交い締めにされながらボロボロ泣いて月見に謝ったらそれはもういいんだよと許してもらえて、この御方の広い心と比べたら私のなんと矮小なことかとまたボロボロ泣いて、なんかそのうち紫が酒を持ってきて宴会が始まって、酌をされるまま呑んでいたらまた記憶が飛んで、目が覚めたら紫と一緒に月見の腰にひっついて寝ていた。

 乗り越えるのに、一ヶ月以上掛かったと思う。

 そして藍は、『八雲藍』となるより前の記憶を封印すると決めた。そうでないとやってられなかった。八雲藍の黒歴史、いやもはやトラウマは、そうして闇の奥底に葬られ厳重に封じられた。

 時折些細な会話から思い出してしまいそうになっては、奇声を上げて発狂寸前になるけれど。

 それでも八雲藍は今日に至るまで、強い心で生き続けている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――とまあ、そんな感じのことがあってね。いやはや懐かしい」

「そうだったんですかー。藍様って、昔は結構やんちゃ(・・・・)だったんですね!」

「私と初めて会った時もねー、こう、すごい澄まし顔で『私を式にしたければ力ずくでやってみろ!』って」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 

 その日、藍は再び壊れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第70話 「姫海棠はたての災難な取材記録」

 

 

 

 

 

「――あ、あの、初めまして。私、姫海棠はたてという鴉天狗の新聞記者です。本日は、月見様に是非取材をしたいと思い、お伺いしました。宜しければ、少しお時間をいただけないでしょうか……」

 

 舌を噛みそうだった。

 というか、さっきは噛んだ。

 その日、鴉天狗の姫海棠はたては、自分の家でぬいぐるみに向かってそう話しかけていた。

 断じて頭がイカれたわけではないと断っておく。傍から見ればそう疑われても仕方のない光景ではあろうが、これはこれでちゃんとした理由があってのことなのだ。やりたくてやっているわけではない。

 

「……ご、ご質問はこれで以上です。お忙しい中、どうもありがとうございました。新聞が発行されたら、是非ご覧になってみてください――。

 ……って、こんな感じでいいのかしら……?」

 

 う~~~~んと重苦しい声で唸り、はたてはぬいぐるみを抱き締めてベッドの上に転がった。柔らかな枕に半分顔を埋めて、はあ、とため息をつく。

 

「ううう、緊張する~……」

 

 月見さんに取材をしよう。

 柄にもなくそんなことを決心したのは、夏を賑わせた緋想天の異変が終わってから間もなくの頃だった。

 緋想天の異変が終わって間もなくとは、だいたい、今から三週間前のことである。

 すなわち三週もの間ずっと、はたてはぬいぐるみ相手に取材の練習をしては、こうしてベッドの上を悶々と転がっているのである。

 

 はっきりいって内弁慶なのだ。はたては天狗の仲間内であれば至って気さくで強気なのだが、それ以外となると実に弱気で口下手な小心者なのだ。さすがに人と目が合っただけで逃げ出すどこぞの人形師ほどではないが、緊張して思うように話せなくなってしまう程度には、はたても人見知りという病を患っているのだった。

 トラウマ、というやつだ。

 生まれて初めての取材で。

 全然上手くできなくて。

 それで、ひどいことを言われてしまって。

 以来、見知らぬ他人と話をするのが苦手になってしまった。曲がりなりにも新聞記者のくせして情けないと、同僚の文には何度も笑われたが、口から生まれてきたようなやつには私の気持ちなんて絶対にわからないとはたては思っている。しかしいつまで経っても笑われてばかりでは大変不愉快なので、ここいらで月見への取材をきっかけに、人見知りを少しでも改善しようと思い立ったのである。

 なぜ月見か。

 月見が、恐らくは幻想郷で一番温厚な妖怪だからだ。

 どこの新聞だったかは忘れたが、みんなのお父さん、みたいなことを書かれていた気がする。子どもに好かれやすいらしい。常闇の妖怪と一緒に釣りをしたり、尻尾を猫じゃらしにして化け猫少女と遊んだり、吸血鬼の妹を肩車して散歩したり、生意気な氷精をお菓子で餌付けしたりする姿は、同僚たちの間で時おり話題になっているのを聞く。また彼の屋敷は週末になると温泉を一般開放するが、近頃は比那名居天子と連携して、天界の桃を無料でご馳走してくれるようになったという。

 面倒見がいいのだ。

 面倒見がいい彼なので、取材の練習相手としては最適なはず――と、そういう話なのだった。

 とはいえ、

 

「優しいってわかってても、緊張するものは緊張するなー……」

 

 はたては、月見と直接顔を合わせたことすら一度もない。同僚に誘われて温泉に行った時、ちらっと横顔を見かけた程度だ。きっと月見は、姫海棠はたてという鴉天狗がいることなど知りもしていないのだろう。

 彼がはたてにとって他人である以上、優しいという前情報もあまり意味がない。だいたい普段が温厚で優しい人ほど、いっぺん怒るとヤバいと相場が決まっているのだ。十一尾の妖狐という彼の実力を考えれば、はたてなど文字通りイチコロである。

 ぶんぶん首を振った。

 

「い、今更後には引けないわ。文にも言っちゃったし……」

 

 へええ~そうなんですか~結果を楽しみにしてますね~と、あの慇懃無礼な鴉天狗はニヤニヤしていた。どうせ失敗するんだろう。そう決めつけて疑っていない顔だった。

 あいつをギャフンと言わせるために、なんとしても成功させなければならない。失敗などしてはもう嫌というほど笑われるだろうし、内容次第では『文々。新聞』で晒し上げられるなんて可能性もありうる。

 天井を見上げ、ため息をついた。

 

「……もう一回だけ練習しとこ。なるべくつっかえないで、自然な感じで言えるように……」

 

 体を起こし、ベッドに正座して、目の前にぬいぐるみを置く。そうして姫海棠はたては、本日二十回目を数えた予行練習に没頭していく。

 

 あんなトラウマを植えつけられるなんて。

 今はもちろん、知らないままで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 一日目、昼。

 天狗の縄張りから水月苑へは、山を麓まで下るだけで到着する。個人の家とは思えない大屋敷が山紫水明を切り開き、池泉庭園が太陽の光を弾き返す光景は、何度見ても圧巻のため息がもれてしまう。

 

「あいかわらず、すごいお屋敷……」

 

 八雲紫と鬼子母神、そして我らが天魔様を主導とする山の住人たちが、月見の「普通の家でいい」という要望を完全無視してつくり上げた傑作だと聞いている。勝手にこんな大屋敷を押しつけられていい迷惑だったろうに、それでもきちんと温泉宿亭主の肩書きを背負っているあたり、月見という男の懐の広さが窺える。

 

「さて、と……」

 

 とはいえ今日はあいにく、庭園の観光に来たわけではない。はたては山の新鮮な空気で深呼吸をして、手早く身嗜みを確認した。服よし、髪よし、ペンよしメモよし覚悟よし。玄関まで降り立って戸を叩けば、いよいよ取材スタートだ。

 

「よ、よし。やってやる。やってやるわよ」

 

 ぬいぐるみ相手の予行練習は、あと一回だけあと一回だけと思いつつ、結局深夜までやってしまった。しかも、緊張してなかなか寝つけないというオマケつきだった。お陰でだいぶ寝不足だが、その分、あんなに練習したんだからきっとできるはずだと、出所不明の自信が湧いてきているのを感じる。

 両手を拳にし、ふんす、と気合いを入れて、

 

「……あれ? 誰あんた?」

「え?」

 

 こうして声を掛けられて初めて、正面の空に誰かがいるのだと気づいた。

 同じ女のはたてが見惚れるほど、浮き世離れした美貌の持ち主だった。初めて知ったのだが、どうやら黒という色も光り輝くものであるらしい。雨が降ったわけでもないのに、どうしてその黒髪が夏の日差しを易々と呑み込み、控えめで、けれどしたたかな光を宿すことができるのか、はたてはいくら考えてもわからなかった。言葉で表現すれば同じ『肌色』のはずなのに、彼女の肌ははたてのそれとは決定的に質が違って見える。手も足も隠れてしまうほど裾の長い豪華な着物が、彼女の美貌を際立たせるただの脇役と成り下がっている。これほどの違いを見せつけられればもう、目の前の少女が『かぐや姫』なのだと気づくまで、さほど時間は掛からなかった。

 

「……あ、えっと」

 

 思いがけない人物の登場で、はたての頭が一瞬真っ白になった。「誰?」と訊かれたのだから名乗らなければいけないのに、いつまで経っても自分の名前が出てこない。火炙りにされているのかと思うほど顔が緊張の熱を帯び、目の前がぐるぐる回り出したような感じになる。当然、さっきまでの自信など木っ端微塵に砕け散っている。

 知らない人からいきなり声を掛けられると、すぐこれだ。

 待って待ってどうしようどうしようと右往左往するはたての心など知る由もなく、少女――蓬莱山輝夜は、不思議そうな顔ではたてを上から下まで観察した。

 

「……あんた、ギンに何か用?」

「え、え? ギン?」

「あー、月見よ月見」

 

 眼下の水月苑をちょんちょんと指差して、

 

「この屋敷に住んでる狐」

「え、えっと、」

 

 そこではたては、今ようやく思い出したかのように息を吸った。大丈夫、慌てることはない。全然大したことのない普通の質問じゃないか。取材を始める前のウォーミングアップだと思って、軽い気持ちで答えてしまえばいい。

 息を吐いて、

 

「そ、そうです。新聞の取材をしようと思って……」

「……ふーん。そう。そう……」

 

 そう答えた途端、輝夜がどんより雲をまとってがっくりと項垂れた。そのまま墜落していきそうなくらいだった。

 

「え、あの」

「ああ、ごめん、気にしないで」

 

 今にも崩れ落ちそうな顔をしてよく言う。

 はたてはおずおずと、

 

「あの、もしかして月見さ――月見様と会う約束をしてたとか?」

「そういうわけじゃないんだけど……まあ、会おうと思ってはいたわ。できれば二人で」

 

 悔しさのにじんだ輝夜の言葉を聞いて、ああ、とはたては思い出した。そういえば蓬莱山輝夜は、どういう経緯かは知らないが、月見に心底お熱な少女のひとりだったはずだ。一時期は筋金入りのひきこもりとして有名だった彼女が、水月苑近辺――というか月見の近辺でよく目撃されるようになり、天狗の男どもが歓喜と嫉妬で狂っていたのは記憶に新しい。

 輝夜はぶつぶつ言っている。

 

「なんでよ……私、なにか悪いことしてるの……? 神様のばかー……」

「え、えっと、なんだかすみません」

 

 ここまで思い出せれば、目の前で輝夜が切実なため息をついているのも納得だった。好きな人と二人きりで会おうと勇んでやってきた彼女にとって、はたては完全にオジャマムシなわけだ。好きな人はいないから想像だが、たとえばはたてが輝夜の立場だったら、どう頑張っても嬉しい顔はできない気がする。

 輝夜がふっと笑った。砂の上に指で描いたような、薄ぼんやりとした儚い笑顔だった。

 

「いえね、別にあなたを責めてるわけじゃないの。ギンは私のものじゃないし、こうやっていろんな人から頼られるところはやっぱりギンだなって誇らしくもあるのよ。……でも、いくらなんでも多すぎでしょ? なんていうか、ギンと二人きりでゆっくりできる日ってないの? ギンは滅多にこっちまで来てくれないし、私の方から会いに来ても、スキマとかその式神とかその式神の式神とか鬼子母神とか天魔とかわんことか吸血鬼とかメイドとか霊夢とか魔理沙とか亡霊とか庭師とか風祝とか蛙とか注連縄女とか天人とか閻魔とか死神とか河童とか厄神とか闇妖怪とか妖精とか、いっつも誰か別の女がいるんですけど……」

「……あ、あはは」

 

 どうやらこの少女は、もうしばらくの間月見と二人きりになれていないようである。明後日の空を見つめた目の焦点が合っていない。顔で笑って心で泣くとは、まさに今の輝夜を指して言う言葉なのだろう。適当な愛想笑いをしながらはたては、わんこって椛のことかな、とそんなズレたことを考えた。

 苦笑、

 

「あの。そういう話だったら、私、また明日にするのでいいですよ」

「……え?」

「これといって、急ぎの用事でもないですし」

 

 嘘だ。急ぎの用事でないのは本当だが、そんなものは所詮ただの建前で、どうにも輝夜を月見と会わせてやりたくて仕方がなかったのだ。恋の味は知らずとも同じ女に生まれた者として、好きな人と二人で過ごしたいと願う切実すぎる輝夜を、あえてまで邪魔することなどできなかったのだ。

 輝夜がよろめいた。

 

「あ、あんたっ……!」

 

 目尻に涙を溜めて、

 

「あんたっ、いい鴉天狗ね!」

「う、うわわっ」

 

 両手をぎゅっと握られ、ぶんぶんと激しく上下に振られた。息が届くほどすぐ近くから覗き込まれて、不覚にもどきっとしてしまった。突然過激なスキンシップをされて驚いたのもあるし、間近で見たかぐや姫の満点の笑顔が、その美貌と合わさって息も止まるほどだったからというのもある。

 空の上で、輝夜は器用に飛び跳ねている。

 

「あんたみたいないい鴉天狗もいるのね! 私、鴉天狗っててっきり、『文々。新聞』のやつみたいなのばっかかと!」

「……えっと、とりあえず、あんなのと一緒にしないでください」

 

 どきどきしていたはたての心臓がいきなり冷静になった。あの慇懃無礼を絵に描いたようなやつが鴉天狗の基準になっているとは、なかなかぞっとしない話だった。はたては至って普通の常識人なのである。

 

「じゃあ私、戻るので。いい時間が過ごせるといいですね」

「本っ当にありがとうっ! あんたのことは忘れないわ!」

 

 そのくせはたての名を尋ねることもせず、輝夜はさっさと水月苑の方へ飛んで行ってしまった。長い黒髪がスキップを踏むように躍っていて、本当に嬉しそうだ。あそこまで喜んでもらえたなら、緊張でなかなか寝つけなかったのも、予定が一日狂うのも、まあ大したことじゃないかなと思えた。

 練習する時間が一日増えてラッキー。そう前向きに考えて、はたては来た空を引き返していく。

 

 この際だし、はっきり言ってしまおうと思う。

 今日この日にすべてを片づけてしまわなかったことを、はたては心の底から後悔した。

 

 

 

 

 

「ギ――――ンっ!!」

「はいはい。そんな大声で呼ばなくても聞こえてるよ」

「遊びに来たわよっ! ねえ、ひょっとして今、もしかしなくてもひとり」

「あ、輝夜だ。こんにちはー」

「……、」

「ちょうど今、天子が新しい桃を持ってきてくれてね。せっかくだし、ひとつ食べ――ってどうした、膝から崩れ落ちて」

「……そうですよねー、ひとりなわけないわよね。わかってたわよ。くすん」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 二日目、昼。

 

「さてと。じゃあ改めて、出発っと」

 

 昨日と同じ手順で服よし髪よしペンよしメモよし覚悟よしを確認して、はたては再び水月苑に向かった。昨日の反省を活かしてたっぷり睡眠を取ったため、頭の中がとてもスッキリしている。心も実に晴れやかで、さあ取材をしよう、と自然なやる気が湧きあがってきている。昨日のはダメだ。寝不足で頭が重たくて、やってやるやってやると必死な自己暗示で恐怖を誤魔化して、あんな状態でまともな取材ができたとは到底思えない。一日時間を置いて正解だった。あのタイミングで声を掛けてくれた輝夜には、感謝しなければならないだろう。

 そういえば彼女は、無事に幸せな時間を過ごすことができたのだろうか。そうだったらいいなと思う。立ち塞がる好敵手たちに負けず、これからも笑顔でいつづけてほしいものだ。

 また誰かと出くわすことはなかった。水月苑の玄関に降り立ったはたては、一度新鮮な空気を胸いっぱいに取り込んでから、決意を込めた拳でつくりのいい引き戸をノックした。

 決意を込めた声で、

 

「ごめんくださーい!」

 

 さあ、いよいよ取材スタートだ。これからの自分の行動をシミュレートする。月見が出てきたら、まずは聞き取りやすい声でしっかりと挨拶。きちんと四十五度で頭を下げて、それから用件に入る。取材の練習相手となってほしいこと。自分は人と話をするのがあまり得意でないので、なにか失礼なことをしてしまうかもしれないということ。それでも精いっぱい力を尽くすので、どうかお時間をいただけないかということ。引き受けてもらえたらちゃんとお礼を言う。今は都合が悪いと言われたら、いつなら大丈夫かを確認する。たとえ断られてしまっても嫌な顔はせず、話を聞いてくれたことにしっかりお礼を――

 

「……って、あれ?」

 

 いつまで経っても玄関が開かないし、それどころか返事も返ってこない。

 嫌な予感がしつつもはたてはもう一度、

 

「……ごめんくださーい!」

 

 さっきより少し強めに戸を叩いてみたが、やはりウンともスンとも言わない。

 試しに戸を引いてみると、開かない。

 がっくりと肩が落ちた。

 

「そっか……確かに、こういう場合もあるわよね……」

 

 月見が留守の可能性をまったく考えていなかったのは、自分がひきこもりだからだろうか。月見は散歩が趣味で、普段から家を開けることも少なくないと――どこかの新聞で読んだ一文が、今更のように甦ってきた。

 

「仕方ない、出直すかあ……」

 

 肝心の月見がいないのでは、どう頑張っても取材などできっこない。まさか飛び回って捜すわけにもいかないから、夕方あたりにまた出直すのがいいだろうか。

 ついてないなーとため息をついて、踵を返す。

 

「あら? もしかして留守なのですか?」

「あー、どうやらそうみたいで――」

 

 庭の飛び石を優雅に跨いで、ちょうど玄関に足を掛けた少女がおり、

 

「――って、うえあああっ!?」

 

 その少女が誰なのか気づいた瞬間、はたては文字通り跳びあがった。それから後ろにバランスを崩して、玄関の戸に背中を打ってしまう。じんわりとしたむず痒い痛みが背中を覆っていくが、はたては身じろぎひとつすることができない。

 絶句するはたてを見て、少女が眉をひそめた。

 

「む、人の顔を見るなりそこまで驚くとは失礼ですね」

(えっ――、)

 

 冠のように大きな帽子と、右手には記号にも見える文字を刻んだ悔悟棒。

 新聞の写真で見たことがある。

 

(え、閻魔様あああああぁぁぁ!?)

 

 幻想郷最強の双璧を組む八雲紫と鬼子母神ですら、この少女の前では恐れをなして逃げ出すという。己の口ひとつで最強を超える陰なる最強、四季映姫・ヤマザナドゥが、はたてのすぐ目の前でむすっと腕組みをしていた。

 自分の頭がおかしくなったかと思った。

 

「なっなななっ、なんで、あなたのような方が、こんなところに……!?」

「私も用があったんですよ、ここに住んでいる狐に。……でもそう、留守なのですか」

 

 用があったということは、彼女も月見の知り合いなわけだ。月見の交友関係は、年齢や性別や種族のみならず、どうやら世界の壁すらをも越えるらしい。彼岸から遠路遥々、閻魔様が個人の家を訪ねに来るなんて聞いたこともない。――もう月見さんなら宇宙人とも友達なんじゃないかなー。あーそういえばかぐや姫って宇宙人だったなー。わーい月見さんすごーいあははははは。

 現実逃避をしている場合ではない。幻想郷では、四季映姫という少女が閻魔であることを知らない者はいても、超がつくほどの説教好きであることを知らない者はいないのだ。おまけに、彼女の説教は相手を選ばない。強面の男だろうがか弱い乙女だろうが、我慢を知らない子どもだろうが足腰の弱い老人だろうが、一度閻魔様の怒りを買ったが最後、みんな仲良く地べたに正座させられる羽目になるのだ。

 さて今ここに、そんな閻魔様から目をつけられてしまった哀れな少女がひとり。

 はたては冷や汗をダラダラ流しながら、

 

「こ、ここっ、ここの方とは、親しいのですか……?」

「え? いえ、そんなことはないです。ただの監視対象ですよ、監視対象」

「そ、そうなんですかあー……」

 

 監視対象ってなによとか、超どうでもいい。超逃げたい。

 

「……そう、あの狐はあくまで監視対象であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。料理や掃除を手伝うのだって、どうせあの狐ひとりではなにもできないに決まっているからなんです。本当にそれだけなんですから」

 

 映姫が難しい顔でぶつぶつ独り言を言っていたが、はたてはすべて聞き流した。聞き流して、現状を無事切り抜ける方法を全身全霊で模索した。

 幸い映姫は、怒らせさえしない限りは無害な少女だ。よって、面倒になる前にさっさと逃げるのが吉である。今になって思えば月見が留守で助かった。そうでなければ、映姫が見つめる先で月見に取材するなどという公開処刑が行われていたかもしれない。

 

「……そういえばあなた、見ない鴉天狗ですね。あの狐になにか用ですか?」

「え、ええまあそんなところだったんですけど、留守みたいなので出直そうと思います! では失礼します!」

「あ、ちょっと」

 

 聞こえなかったふりをした。今の自分にできる精いっぱいの笑顔を貼りつけ、はたては一目散で家まで逃げ帰った。中へ飛び込み厳重に鍵をかけて、自分でもよくわからない奇声をあげながらベッドにダイブした。

 布団にぎゅっと縋りついて、ほぎゃあああああとバタバタゴロゴロ転げ回る。

 外に出たら、また閻魔様と出くわすかもしれない――そう思うと今日はもう、このドアの鍵は開けられそうにない。

 

 

 

 

 

「……なんだったのかしら。変なの。

 でも、これだけ騒いでも出てこないということは本当に留守なんですね。残念です……あ、いや、残念というのは決して変な意味ではなく! ええと……そ、そう、お説教ができないから残念なのです! あの狐、今回は上手く逃げたみたいですが次はそうは行きませんよ! ええ!

 ……。というか、私は一人でなにをやってるんだろう……。だ、誰も聞いてませんよね?

 ……。

 …………帰ろう」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 三日目、夜。

 

「……うーん、やっぱり昼は出掛けてることが多いのかな?」

 

 この日も昼に一度行ってみたが、月見はまた留守だった。なので夜を待ってから、はたては再度家を出発した。あまり遅くを訪ねては失礼かもしれないので、太陽が落ちきってからまだ間もない、薄闇が広がり始めた宵の口を狙う。

 幻想郷に夜の帳が落ち始めると、白々とした外壁を持つ水月苑は、まるで建物自体がぼんやりと光っているように見える。周囲の池が月の光を反射する鏡となっているから、そう錯覚させられるのかもしれない。ドーナツ状に切り取られた水の中ではドーナツ状の夜空が広がっていて、穴を空けたように水月が浮かんでいる。水月苑という名は文が名付けたものだと聞いているが、はたての目の前の景色とあまりにぴったりすぎて、勝負したわけでもないのに負けた気分になった。

 三度目の正直を祈りつつ屋敷の前へ回ってみると、常居にあたると思われる一角で、ほんのりとした柔らかな明かりが灯っていた。少なくとも、月見が帰ってきてはいるようだ。ひとりでいるとは限らないけれど。

 

「……とにかく、行ってみよう」

 

 月見がひとりでいるとは限らないが、月見以外の誰かがいるともまた限らない。玄関を叩いてみないことにはなにも始まらないのだ。周辺に誰の姿も見当たらないことを、鳥目な自分なりに頑張って確かめてから、はたてはまっすぐ玄関まで飛んだ。

 

「よし。今度こそ……」

「なにが今度こそよ」

「にゃいっ!?」

 

 しかし、二度あることは三度あるともいう。風をまといながら玄関に降り立つその間際、またしても背後からいきなり声を掛けられて、はたては空中ですっ転びそうになった。慌てて振り返れば、どうしてまったく気がつかなかったのか、二人の少女が揃って胡乱げな顔をしてはたてを見つめていた。

 二人ともとても背が低いので、庭の木か岩の陰に紛れて、鳥目のはたてからは見えなかったのかもしれない。本当に幼子かと思うほど背が低くて、片や蝙蝠を彷彿とさせる翼を、片や七色の宝石を吊り下げた不思議な羽を広げており、これじゃあまるで吸血鬼――

 って、

 

「まったく、なんなのよお前は。いきなり空から降りてきてびっくりするじゃない」

「お姉様、こいつ鴉天狗だよ。鳥目だから気づかなかったんじゃない?」

「――……」

 

 はたては貧血を起こしそうになった。こんなの予想できるものか。振り返ってみたら幻想郷でただ二人、誇り高き西洋の吸血鬼(ヴァンパイア)が立っていたなど。

 

(そっか……夜は夜で、こういう場合もあるのね……)

 

 どうしてよりにもよってこう、はたてがちょうどやってきたタイミングで鉢合わせるのだろう。しかも一昨日はさておいて、昨日が閻魔様で今日がスカーレット姉妹ときた。普段出くわすことなんてまずないのに、どうしてこういう時に限って。いじめか。

 辛い現実に打ちひしがれている場合ではない。レミリア・スカーレットはプライドが高く、気に入らない相手には一切容赦をしないという。水月苑の完成を記念して開かれた宴会では、それで鴉天狗を何人もボコボコにしたとか。

 そしてフランドール・スカーレットも、姉と違って幼く愛らしい性格ながら、手にする能力は『ありとあらゆるものを破壊する』などと物騒極まりない。もしなにかの手違いで彼女の機嫌を損ねてしまえば、はたてなど文字通り瞬殺だろう。

 思い返せば昨日の閻魔様はまだマシだった。彼女の説教は地獄のような苦しみだが、かといって決して死ぬわけでも怪我をするわけでもない。だが今回は違う。冗談抜きで生命の危機である。事実としてはたての生命を脅かせるだけの力が、彼女たちには備わっている。

 

(あ、あわわわわわわわわ……)

 

 蛇に睨まれた蛙みたいになっていたら、レミリアの深紅の瞳に射抜かれた。

 

「あなた、見ない鴉天狗ね。月見の知り合い?」

 

 当然、萎縮するはたてが嘘などつけるはずもなく、

 

「いやっ、別にそういうわけではないです!」

 

 大失言だと気づいた。

 

「へえ……知り合いでもなんでもない鴉天狗が、どうして一人でここまでやってくるのかしら」

「なんだか怪しいね、お姉様」

(し、しまったあああああ!?)

「しかも時間は夜、あたりはこの通り薄暗い。……なにか妙なことをするにはうってつけね」

「ものすごく怪しいね、お姉様」

(ひいいいいい!?)

 

 人生終了のカウントダウン開始である。あとは妹の方がちょっと能力を使うだけで、もしくは姉がその鋭い爪を振るうだけで、はたてが次に目覚めるのは永遠亭どころか三途の川だ。

 スカーレット姉妹が、顔を寄せ合い小声で何事か話し合っている。恐怖に支配されたはたての目には、怪しい鴉天狗をどうやって処分、もしくは料理するか相談しているようにしか見えない。

 

(に、逃げなきゃ、逃げなきゃ……)

 

 だが、吸血鬼相手から逃げられるのか。はたてはこれといって飛ぶスピードが速いわけではないし、鳥目のせいで薄闇の中では圧倒的に不利だ。しかし向こうは吸血鬼だから遅いはずがない上に、夜行性である以上は夜目も利くだろう。

 ああもうダメだ、おしまいだ。

 話し合いを終えた姉妹がいきなり両腕を挙げ、鋭利な牙を光らせる大声で叫んだ。

 

「ぎゃおーっ!!」

「がおーっ!!」

「ぎゃああああああああ!?」

「食ーべちゃーうぞーっ!!」

「ちゃーうぞーっ!!」

「いやああああああああああ!?」

 

 ――冷静に考えればそれは、特別恐ろしい光景ではなかったのかもしれない。たとえ吸血鬼とはいえ、決して背が高い方ではないはたてより更に頭一つ小さい女の子二人が、がおーがおーと一生懸命飛んだり跳ねたりしている姿は、もしかするとこの上なく愛くるしいものだったのかもしれない。

 しかし、まあ、先入観とは恐ろしいもので。

 もうおしまいだと絶望していたはたての目には、結構本気で、紅い瞳を炯々光らせ獲物を喰らい尽くそうとする悪魔に見えたので。

 

「ご、ごめんなさああああああああああい!?」

 

 逃げた。一目散だった。昨日の比ではないくらい全身全霊で逃げた。家で布団のかたつむりとなってガタガタガタガタ震えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。

 夢を見た。スカーレット姉妹にむしゃむしゃされちゃう夢だった。丑三つ時に跳ね起きてこっそり泣いた。

 

 

 

 

 

「あー、面白かった」

「すっごく怖がってたねー。楽しかったね、お姉様っ」

「……なんだなんだ? どうしたんだお前たち、こんなところで騒いで」

「月見ー! こんばんはー!」

「ぐふっ……。だからフラン、もうちょっと手加減してくれって何度も……というか、なにかあったのか?」

「そうね……月見、少し気をつけた方がいいかもしれないわよ。なんか怪しい鴉天狗がうろうろしてたから。とりあえず追っ払ったけど、また来るかもしれないし用心しときなさい」

「鴉天狗……?」

「あのブン屋じゃないわよ」

「そうか……一体誰だろうね」

「すごく怪しかったよー。月見、狙われてるの?」

「そんなことはないと思うけど」

「大妖怪のあなたを狙うなんて、とんだ命知らずもいたものね。……あなたなら心配ないと思うけど、なにかあったら言いなさい。まあ、その……世話になってるし、力くらい貸すわよ」

「私も手伝うよー! 月見を傷つけるようなやつは、けちょんけちょんにしてあげる!」

「ッハハハ、ありがとう。まあ大丈夫だと思うけど、もしもの時はよろしく頼むよ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 四日目、朝。

 

「あ、朝! 朝早くなら絶対大丈夫でしょ!」

 

 この日のはたてはわけもなくハイテンションだった。どうしようもなくわくわくどきどきしていて、居ても立ってもいられなくて、朝食も支度もそこそこに家を飛び出した。口の端から変な笑いがこみあがってきている。きっと失敗続きなはたてを憐れんでくれた神様が、こっそりと力を与えてくれたのだろう。神様、ありがとう。

 ヤケクソになっているわけではない。断じて。

 ここまで来たらもう、朝早くは失礼なんじゃないかとかそんな気遣いは二の次だ。変な連中と出くわすことなく、一人で安全に、確実に月見と会うことが最優先である。それさえできればあとはどうとでもなる。今のはたてならどうとでもできる。

『目的と手段が入れ替わる』という言葉が頭に浮かんだが、気にも留めない。

 しかし天は、はたてに力を与え、また試練をも与えた。木陰にこそこそ隠れて水月苑の様子を窺っていたら、屋敷へ続く太鼓橋をのんびり談笑しながら渡る、二人の少女の姿を見つけた。

 後ろ姿からでも誰だかわかった。半霊をふよふよ漂わせている方が魂魄妖夢で、よれよれの兎耳をつけている方が鈴仙・優曇華院・イナバのはずだ。新聞で見たことがある。

 ううむ、と唸った。

 

(そんなに嫌な相手ではないけど……)

 

 妖夢も鈴仙も、危険な存在だという噂は寡聞にして聞かない。むしろ、日頃から主人に振り回され苦労している、哀れむべき人物だったはずである。鉢合わせになったところで問題はなかろうが、今までが今までだけに、どうしても躊躇してしまう。

 どうしよーどうしよーとうんうん悩んでいたら、後ろから突然声を掛けられた。

 

「もしもし、そこの鴉天狗なあなた」

「は、はあい!?」

 

 最近、こんなのばっかりな気がする。

 つい大声を出してしまったせいで、橋を渡る途中だった二人に気づかれた。

 

「あ、咲夜さん」

「咲夜も、月見さんのお手伝いに来たのー?」

 

 二人がそう名を呼んだ通り、はたての後ろに立っていたのは十六夜咲夜であった。昨日はたてを散々な目に遭わせてくれた憎っくきスカーレット姉妹に仕える、完全で瀟洒な懐刀である。咲夜は駆け寄ってきた二人に軽くと挨拶を返すと、一転、鳥肌が立つほど冷たい瞳ではたてを見据えた。

 

「……で、あなたは一体何者かしら」

「え? 咲夜さんのお知り合いじゃないんですか?」

 

 妖夢と鈴仙が疑問符を浮かべる。咲夜は首を振り、

 

「どうしてこんなところにこそこそ隠れて、月見様のお屋敷を窺ってたのか」

 

 今が初対面のはずなのに、どうやらはたてへの好感度は既に最悪らしい。言葉を刃と成してはたての心へ突き立てるような、一切の情けも容赦もない氷点下の声音だった。

 

「まさかとは思うけど。――お嬢様たちが言っていた、月見様の命を狙ってるとかいう鴉天狗じゃないでしょうね」

「「「!?」」」

 

 時間の流れが止まったかと思った。

 

「「な、なんですってえっ!?」」

「ちょっと待ってえええええ!?」

 

 少女たちを未曾有の激震が襲った。妖夢が驚愕の表情で動きを止め、鈴仙が信じられないモノを見る目で大きく仰け反り、はたては頭の中が真っ白になった。

 なにが起きた。昨夜、はたてが家で布団を被って泣いている間になにが起こった。

 

「さ、咲夜さん……! それは本当なんですか!?」

「こんなこと、冗談で言うと思う?」

 

 むしろ本気で言っているのかこのメイドは。

 だってそんなの、普通ありえるわけがないじゃないか。月見は天魔の大切な友人であり、ひいては最強妖怪の二枚看板である八雲紫と鬼子母神が愛する男でもあるのだ。そんな男の命を狙おうものなら最後、はたてが目を覚ますのは、三途の川をすっ飛ばして閻魔の目の前だろう。

 というかそもそも、ただの鴉天狗なはたてに、十一尾の大妖狐である月見を倒せるはずがないのに。

 考えてみればそれくらい、この少女たちでも簡単にわかるはずなのに、

 

「し、信じられない……! そんなことしてただで済むと思ってるの!?」

「もちろん、ただで済むはずがないわ。……さて、覚悟はいいかしら?」

「ちょ、ちょっと待ってってばあっ!?」

 

 気がついた時には咲夜がナイフを構えていたので、はたてはもう全身を使って必死にかぶりを振った。

 

「ど、どう考えたっておかしいでしょそれ!? 話を聞いてっ!」

「そ、そうですよ。さすがに、ちょっとおかしくないですか?」

 

 妖夢だった。一番頼りなさそうだった彼女がおずおずと間に割って入り、どうどうと両の掌を出して咲夜を宥めた。

 

「月見さんが誰かから命を狙われるくらい恨まれるなんて、私には思えないです。なにか誤解があるんじゃないんですか?」

 

 どうしよう、この子が天使に見える。

「確かに……」と冷酷だった咲夜の表情が揺れた。己の潔白を叫ぶ最大のチャンスだった。感動の涙を拭い、はたては息を吸って声高に、

 

「そ、そうよ! 私は別に」

「いいえ、待って! 恨まれてなくても命を狙われることは充分にありえるわ……!」

「ちょっとそこの兎いいいっ!!」

 

 どうしよう、この兎の耳を根本から引き千切ってやりたい。

 

「師匠から聞かされたことがある! 世の中には誰かを強く想うあまり、殺傷行為に及んでしまう猟奇的な思考を持つ人がいるって!」

「なっ……ほ、本当ですか!? そんなことが……!」

 

 もうはたては白目を剥いている。

 鈴仙は重々しく頷き、

 

「そういう人たちは、こう考えるらしいわ……。愛する人を自分の手で殺せば、もう誰にも奪われる心配がない。心も体も命も、全部が自分のものになるって! 恨み以外の感情で人の命を狙ってしまうことだってあるのよ!」

「そ、そんなっ……ひどいです!」

 

 顔を真っ青にした妖夢が、口を両手で覆って体を震わせた。咲夜も冷静な面持ちを貫いてこそいたが、握り締めた拳が血の気を失って白くなっていた。

 誰かが呟くように言った。

 

「狂ってる……」

 

 あなたたちがね。

 

「間違いないわ……! そうすれば辻褄が合う!」

「合うわけないでしょ!? だから話を聞いてって」

「なるほど、危うく騙されるところでした……。そんな理由で月見さんの命を狙うなんて、許せません!」

「そうね。私たちの手で止めましょう」

 

 妖夢が刀の柄に手を掛け、咲夜がナイフを冷たく光らせ、鈴仙が指で銃の形を作る。

 ――あれ、私死ぬ? ここで死ぬ?

 一周回って冷や汗も流れないはたては、妖夢が鯉口を切った音を聞いた瞬間、

 

「誤解だってばああああああああああっ!!」

「あっ、逃げた!」

「追うわよ!」

 

 なんなのだろう。はたてはなにか、こんな天罰めいた不運を与えられてしまうような罪を犯したのだろうか。ただ一匹の妖狐に取材しようと思っただけだ。取材をして、ちょっとでも人見知りを克服したかっただけだ。

 なのになんで、ナイフとか、斬撃とか、銃弾とか。

 本当に、なんで、

 

「もうやだああああああああああ!!」

「「「待ちなさあああああい!!」」」

 

 一対三の弾幕ごっこ。勝てるわけがない。

 全身ズタボロになりながらも命からがら逃げ延びたはたては、家に飛び込んで鍵をかけて布団を被ってガタガタ震えながら、一日中さめざめと枕を濡らした。

 今なら厄神に、「厄い厄い。近寄らないで」とあっちいけされる自信がある。

 

 

 

 

 

「……逃げられたわね。やっぱり天狗だけあって逃げ足が速いわ」

「でも、これで懲りたんじゃないですかね。相当参ってたみたいですし」

「そうかしら……あんな猟奇的な思考を持ってるやつが、そう簡単に諦めるとは思えないけど」

「そうね……お嬢様に相談してみましょう。月見様の敵は、紅魔館の敵だし」

「私も、幽々子様に話をしてみます」

「じゃあ私も姫様に話そーっと。……月見さんを敵に回すのは、幻想郷そのものを敵に回すのとほとんど同じなのに。ほんと、なに考えてるのかわかんないわ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 五日目、昼。

 

「逃げちゃダメよ……逃げちゃダメよ……逃げちゃダメよ……」

 

 さっきからずっとこんなことばかりを言っている。精神的に追い詰められすぎて、段々目が血走ってきているはたてである。このままでは冗談抜きで、地獄で閻魔様とご対面する日が近い。

 現状を打破する方法は、たったひとつ。月見に直談判して、誤解を解いてもらうよう誠心誠意お願いする他ない。月見の周りにいる少女たちは、多分、はたての言葉になんて絶対に耳を傾けてくれない。暴走した彼女たちを止められるのは月見だけなのだ。

 もはや頼れるのは月見だけであり、それ以外はみんな敵だと思っている。それくらいの気持ちで臨まなければ生き残れないと、はたての生存本能が告げている。これはもう、取材などという生易しい次元ではなくなっている。やるかやられるか、喰うか喰われるか、生きるか死ぬかの生存戦争だった。

 水月苑の正面である。

 

「よ、よし。今度こそ誰もいない……!」

 

 木陰から念入りに三十回ほど確認した。今度こそ自信をもって断言できる。間違いなく水月苑の周囲に邪魔者はいないし、遠くから向かってくる人影もない。

 今しかない。

 一気に行った。すれ違った木々がしなるほどの風をまとい、はたては瞬く間に水月苑の玄関へ辿り着いた。もう後ろも振り向かない。まっすぐ玄関の戸を叩く。

 

「ごめんくださーい!」

『――はいはい。ちょっと待っててくれ、すぐ行くよー』

 

 返事はすぐに返ってきた。耳に優しいバリトンの声音は、紛れもなく月見のものだろう。その途端、言葉にできない達成感がはたての胸に去来した。感極まって泣きそうになってしまった。会いたい人に会えるという、ただそれだけのことで、こんなにも胸が震えたのは初めてだった。神はいたのだ。諦めないで手を伸ばし続ければ、神は必ず微笑んでくれるのだ。

 

『お客さんか。ちょっと代わってくれるか、行ってくるから』

『あ、いいですよ。私が行ってきますから』

『そうか? 悪いな』

 

 神は必ず、微笑んで、

 

『はいはい、今行きますよー』

 

 微、笑んで――

 

「お待たせしましたー、ようこそ水月苑へ――あら」

(ああああああああああああああああああああ)

 

 目の前で微笑んでくれていたはずの神様がどっかに消えた。感動的な達成感が波よりも速く引いていった。天国の扉にすら見えていた水月苑が、あっという間に地獄の門へと変わり果ててしまった。

 ひどい。

 ひどすぎる。

 カラカラ開いた戸からひょこりと顔を覗かせたのが、月見でなく、鬼子母神だなんて。

 あんまりにもあんまりだった。

 

(あ、は、ははははは……ははは……)

 

 精神の許容量を完全に振り切っていた。容量オーバーを迎えた脳は活動を停止し、はたてはひくひくと痙攣するように笑いながら、ただその場に立ち尽くすだけの人形と化した。

 傍から見れば真っ白に燃え尽きたようになっているはたてを上から下まで眺めて、鬼子母神――藤千代はたおやかに微笑んだ。

 

「あらあらー。初めて見る顔ですが、知ってますよー。月見くんからお話は聞いてます」

 

 微笑みの奥に、決して友好的ではない別の感情を宿らせて、

 

「――月見くんの命を狙ってる、悪ーい鴉天狗さんですよね?」

(あはははははははははははははははははははは)

 

 終わったー、とはたては思った。はたてはただのしがない鴉天狗、相手は幻想郷最強の大妖怪。もう完全完璧にゲームオーバーだ。鬼子母神の前でははたての命など、道端を歩く蟻ん子みたいなものだ。

 格が違いすぎて、逃げようとすら思えない。

 

「まったくもう、ダメじゃないですかー。月見くんにひどいことをしようとする悪い妖怪さんは、月見くんの将来のお嫁さんとして見過ごせません」

 

 ぽす、と藤千代に抱きつかれた。突然行動に戸惑う間もなく、背中に回された驚くほど華奢な腕が、唸り声を上げるようにはたての背骨を絞め上げる。

 空を衝くかの如き大巨人の手の中で、ギリギリと握り潰されそうになっているかのような錯覚。はたての体が宙に持ち上がる。あっ死ぬ、とはたては思う。

 

「操ちゃんの部下さんですから手荒な真似はできませんけど、まあ、とりあえずー……」

 

 走馬灯が駆け抜けた。鴉天狗として生まれ落ちてから今日に至るまで、そういえば、あんまり幸せな道は歩けなかったように思う。不幸ばかりだったわけではないけれど、かといって幸福が多かったわけでもなく、極めて平凡で面白味のない人生だった。

 もしもいつか再び、自分がこの世界に生を受けた時は。

 その時は、幸せになりたいなあと心の底から思う。人並みの幸せでいい。人並みにお金があって、人並みに友達がいて、人並みに楽しい人生を、人並みに笑って過ごせればそれでいい。

 宣告、

 

「――とりあえず、ぶっとばしますね?」

 

 ――ああもう、本当に、なんて理不尽なんだろう。

 思えば、輝夜に月見を譲った一日目、あの時にすべてを終わらせてしまえばよかったのだ。そうすれば、吸血鬼姉妹に誤解され、メイドと半人半霊と月の兎に誤解され、誤解が誤解を呼び誤解を重ね誤解まみれになった挙句、こうして鬼子母神直々にぶっとばします宣言をもらうこともなかった。あれが運命の分水嶺だったのだ。輝夜には申し訳ないが、あそこで月見を譲るべきではなかったのだ。

 そしてはたては選択を誤った。今この瞬間に限って、はたてはこの世の誰よりも不幸だった。断言できる。今のはたてより不幸なやつなんていやしない。妖怪の長い寿命の中でゆっくりと消費していくはずだった悪運を、この一瞬でチリひとつ残さず使い切り、そうしてはたては夜空で輝くお星様になるのだ。

 神はいなかった。

 だからはたては、もう祈らなかった。

 

「せーっ、のおーっ……」

 

 これからはたてを彼岸まで投げ飛ばすとは思えないほどの愛らしい掛け声。鬼子母神の両腕に妖力が迸る。たったそれだけで、はたての全身はチリチリに燃え尽きてしまいそうになる。視界が回転する。自分がどうなっているのかもうわからない。わかろうとも思わない。せめてなにもわからないまま終わればいいなと思う。痛いのは嫌だから。

 そして、

 

 

「――おいおい、なにやってるんだ。やめなって」

 

 

 神はいた。

 はたてが思っていたよりもずっとずっとすぐ傍で、優しく手を差し伸べてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ッハハハハハハハハハ!!」

「わ、笑わないでよ!?」

 

 笑われた。大笑いされた。月見さんってこんな風に笑ったりするんだ、と意外に思ってしまうくらいめちゃくちゃ笑われた。脳が沸騰したみたいに一瞬で熱くなって、はたては天魔の友人に敬語を使うことすらすっかり忘れて、テーブルを両手で打ちながら力いっぱい叫んでいた。

 

「本当に死ぬかと思ったんだから! ……あっ、いや、死ぬかと思ったんですからね!?」

「くくく……だって、なあ? なにがどうこじれれば、ただの新聞記者だったはずのお前が、私の命を狙う暗殺者になるんだい」

「そんなの私が知りたいわ――知りたいですっ!!」

 

 間一髪だった。月見という名の救世主が降臨してくれていなければ、はたては幻想郷の空を切り裂く打ち上げロケットと化していたところだ。月見の一言で藤千代の暴走はぴたりと治まり、それどころか何事もなかったかのようにはたてを歓迎し、今は慣れた手つきでお茶の支度をしている有り様である。やはりはたてが睨んでいた通り、暴走した少女たちを止められるのは月見だけなのだ。

 それにしても、

 

「く、く、く……いやー、これは傑作だ。腹が痛い」

「そうですねー。まるで作り話みたいです」

「う、うう……笑い事じゃないですよお~……」

 

 やっとこさすべてが理不尽な誤解なのだと訴えることができたとはいえ、それでこうも笑われてしまえば、はたてはその場でしおしおと縮こまることしかできないのだった。

 ようやく笑いが治まった月見が、話しながら桃を切る作業に戻った。

 

「しかし、迷惑を掛けたね。話を聞く限りじゃあ、あの子たちがお前の話も聞かずに勝手に誤解してるみたいだし」

「ええ、まあ……でもそれは、月見さん、いえ月見様が謝ることでは」

「月見様、か。無理に畏まらなくても大丈夫だよ。あんまり得意じゃないんだろう、そういうの」

 

 う、とはたては小さく呻いた。確かに尊敬語だとか謙譲語だとかは得意でないが、かといって天魔の友人たる相手に砕けた言葉など使えるはずもない。ただ、やっぱり心の広い人なんだな、とは思う。

 答えを迷うはたてに、まあいいけど、と月見は肩を竦め、

 

「それよりも、みんなには私から説明しておこう。さすがにこのままじゃあ、外もろくに歩けなくて困るだろう?」

「えっ……いいんですか?」

 

 はたては思わず身を乗り出した。元々そう頼むつもりだったとはいえ、まさか月見の方から切り出してもらえるとは思っていなかった。

 

「いいもなにも、私からでないとダメじゃないか? それともお前が頑張って説得するか?」

「い、いえ。助けてください、お願いします……」

 

 はたてが自力で説得を試みたが最後、弾幕をこれでもかというほど叩き込まれてボロ雑巾と化すのだろう。実際、昨日は一歩手前まで行った。

 

「今日中に式を飛ばしておくよ。……ほら千代、お前も謝ったらどうだ。お前にぶっとばされる直前まで行ったんだ、生きた心地がしなかったろうさ」

 

 もう死んだなって思いました。

 

「そうですねー。ごめんなさいはたてさん。私ってばどうにも、月見くんのことになると周りが見えなくなるタチでして」

 

 藤千代は反省しているのかいないのか、のほほんと微笑みながらお茶ができあがるのを待っている。文句のひとつくらい言ってやりたい気持ちはあったが……いや、ここは怪我なく助かっただけ御の字と思うべきなのだろう。

 

「悪いけど、今日明日くらいは家でゆっくりしていてくれるかな。念のために」

「いえ、そんなっ……どうもありがとうございます!」

 

 月見の心遣いが、人間不信一歩手前だったはたての荒んだ心に、じんわりと温かい熱を持って染み込んでいく。なんて常識的で優しい妖怪なのだろう。幻想郷のすべての生き物たちに、彼の爪の垢を煎じて飲ませてやりたかった。

 感動していたら、なんだか目元が湿っぽくなってきた。

 

「……月見くん月見くん、はたてさんが月見くんの優しさに痺れてますよ」

「よっぽど辛かったんだろうなあ……どれ、桃が剥けたよ。好きなだけ食べるといい」

「お茶もできましたよー」

 

 月見から綺麗に切られた桃を、藤千代から透き通る色合いのお茶を渡されて、不覚にもはたては少しの間、声を押し殺して泣いてしまった。月見の背後に後光が差している気がする。もしも仏様がこの世に顕れたら、きっと彼のように、慈愛あふれるあたたかな微笑みを浮かべているに違いない。

 一瞬は地獄の門にすら見えた水月苑だが、やはりはたてにとっては天国だったのだ。すべての恐怖と苦痛から解き放たれ自由となったはたての心は、まさに翼が生えているかのようで、もはや恐れるものなんてなにもなかった。こぼれ落ちる涙を拭い、震える指でメモとペンを取り出した。

 

「そ、それでですね。私、月見様に取材をしたいと思いまして」

「ああ、いいよ。迷惑料代わりだ、今日は好きなだけ付き合おう」

「あ、ありがとうございますっ。それでは、少々お時間をいただきまして――」

 

 辛いこともたくさんあったけれど、今になって思い返せば、あんまり大したことではなかった気がする。きっとこの言葉にできない幸福を感じるために、通らなければならない道だったんだ。

 もう忘れよう。

 今がこんなにも、満たされているのだから。

 

 

 

 

 

 ――結局はたては、この五日間の経験を通して、見事に人見知りを克服した。というか、鬼子母神にぶっとばされる寸前という最大級の地獄を味わったからなのか、取材の恐怖なんて全然大したことがないように思えて、生まれ変わったみたいに明るくなってしまった。

 取材が楽しいと、思えるようになった。

 だからはたては、新聞づくりにおいて能力の使用を封印した。気になったことがあればまず翼を動かし、口を使い、目を凝らし、耳を澄ませて、記事に必要な情報を自分の力だけで収集した。

 そうして発行した渾身の『花果子念報』は、従来の汚名を一気に返上する会心の出来となったので。

 近いうちにはたては、新聞の名前を変えてみようかなと、思っている。

 

 

 

 

 

「――さてと。それじゃあ私がここまで上手くやるなんて欠片も思ってなかった射命丸文さん、なにか言うことはある?」

「……新聞記者としてやっとスタート地点に立ったくらいで、調子に乗らないでくれる?」

「すぐに追いついてやるわよ。私の新聞、月見さんにも褒めてもらえて、これからの成長次第じゃあ取ってもいいって言ってもらえたんだから」

「……」

「そうしたら、月見さんが今取ってる新聞は用済みかしらねえー?」

「…………」

「『巧遅は拙速に如かず』なんて言葉もあるけど、速さくらいしか取り柄がない新聞ってのもねえー?」

「………………負けないわよ」

「え? それって、やっぱり月見さんには自分の新聞だけを取ってほしいってこと?」

「はあ!? なんでそんな話になるのよ!」

「いやだって、月見さんが私の新聞取るのは嫌なんでしょ?」

「新聞記者として、客を取られるのは屈辱だから! ただそれだけで、あいつなんて全然関係ないわよ!」

「ふーん。ま、そういうことにしておきましょうかー」

「こ、このっ……! はたて、あんた輪をかけて嫌な性格になったじゃない……!」

「褒め言葉として受け取っておきまーす」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第71話 「すとらいくあっぷ・ふれんどしっぷ ①」

 

 

 

 

 

 仕方のないことだったと、誰しもが言う。

 そうなのかもしれない。実際、ほんの半年ほど前までフランは精神を狂気に侵されていたし、そのせいで能力を暴発させてしまうことも少なくなかったし、人から避けられたり恐れられたりするのは必然だったといえた。

 それはフランも、仕方のないことだったと理解している。

 しかし同時に、それはもう過去の話であるはずだ。月見と出会い、レミリアと和解して、フランは狂気を跳ね返す堅い絆を手に入れた。あの日以来は能力が暴発したことも、狂って我を失ってしまったことも一度としてない。自分で言うのもなんだけれど、プライドばかりが高くて素直じゃない姉とは比べ物にならないくらい、人畜無害な女の子になれたと思っている。

 だから未だ、フランに月見以外の『友達』がいないのは。

 決して仕方のないことなのではなく、ただ、自分の勇気が足りないせいなのだ。

 

「お疲れ、美鈴」

「あ、妹様。お疲れ様ですー」

 

 ある夏の異変があった。山の空が緋色の雲で覆われた異変は、ある臆病な女の子が、幻想郷の世界へ踏み出すきっかけとするために起こした異変だった。

 それだけのためにわざわざ異変を起こすなんて、変なの。姉はそう言って呆れていたが、フランは変だとは思わなかった。確かに比那名居天子の行動は、回りくどくて、傍迷惑で、決して褒められたものではなかったかもしれない。でもフランは褒める。すごいと思う。だって天子は、たとえどれほど回りくどくても、傍迷惑でも、自分の意志で行動を起こしたのだから。

 勇気が出なくてなにもできない自分とは、大違いだ。

 

「今日もお出掛けですか?」

「うん。いつものところに」

 

 月見と出会い、水月苑へ遊びに行くようになってから、フランの世界は間違いなく広がった。話をする人がたくさん増えた。名前を知っている人がたくさん増えた。妹にしたいと言ってくれる人がたくさん増えた。けれど友達だと思えるほど打ち解けた相手は、未だに月見だけだった。

 月見はフランの大切な友達であり、命の恩人であり、お父さんみたいに甘えられる唯一の相手だ。どれだけべったりしても、咲夜が羨ましそうな顔をするくらいべったりしても、嫌な顔ひとつせずいくらでも受け入れてくれる。「お前は甘やかされるのが上手だね」といつだったか月見は言っていたが、それを言ったら月見だって、甘えさせてくれるのがすごく上手だと思う。

 月見はきっと、フランが一言助けを求めれば、いくらでも快く世話を焼いてくれるのだろう。

 だからこそ、いつまでも甘えてちゃダメだよねと思うのだ。

 

「そうですか……頑張ってくださいね」

「うん。ありがと」

 

 フランドール・スカーレットは、今日もこっそりと紅魔館を抜け出す。就寝時間をいつもよりちょっと後ろへずらし、過保護な姉がすやすや眠る頃合いを見計らって。咲夜に眠気覚ましの珈琲を淹れてもらい、日光対策のクリームを塗ってもらって。

 お供には、姉と同じデザインの日傘を一本。

 

「じゃあ、行ってくるね」

「はい。いってらっしゃいませ」

 

 今日も門の警護に勤しむ家族へ手を振って、フランドール・スカーレットは歩いていく。

 自分の足で。自分の意志で。

 自分の力で、友達をつくるために。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見は幻想郷で一番、紅魔館をよく訪ねてくれる客らしい。一週間に何度も来てくださるのは月見様くらいですと、いつだったか咲夜が嬉しそうに言っていたのを思い出す。

 自覚はある。紅魔館が誇る大図書館は月見のお気に入りの場所だし、なによりこっちから顔を出してやらないと、咲夜とフランが拗ねるのだ。「月見様、最近紅魔館にいらしてくれませんよねー」「ねー」と二人揃ってジト目で文句を言われた時のことはよく覚えている。お陰様で紅魔館は、水月苑を除いて月見が最も入り浸っている場所なのである。

 だからだろうか。最近は買い物や散歩の道すがら、特に用事がなくても、紅魔館の方へふらっと立ち寄る機会が増えた。水月苑と距離が近いご近所さんだというのもあるのだろう。その日、決して意識したわけではないのだけれど、天気がいいから散歩をしようと思い立った月見がまず向かったのは紅魔館だった。

 

「……うん?」

 

 足を止めたのは、紅魔館の血みどろな屋根を眼下に控えた頃だった。

 背が高い鉄製の門の前に、美鈴ともう一人、誰かがいた。日傘の下にすっぽりと隠れて、その姿は見えないけれど。

 

「……レミリアかな?」

 

 あの日傘は、確かレミリアのお気に入りだったと記憶している。しかし自信はない。夜行性の彼女がこんな朝早くから外を出歩くとは、俄に考えづらかった。

 月見が首をひねっている間に、美鈴と何事か話をしたらしい何者かは、森へ――霧の湖の方へ――歩いていってしまう。

 

「?」

 

 なんだったのだろうかと疑問に思うが、美鈴に訊けば済むことだと判断し、

 

「美鈴」

「……あ、月見さん。おはようございますー」

「ああ、おはよう」

 

 門の前に降り立って、人懐こい笑顔で迎えてくれた美鈴に尋ねた。

 

「今、レミリアがいたか?」

「え? ……あー、見ちゃってましたか」

 

 美鈴が困ったように頬を指で掻いた。それが、あまり好意的な反応には見えなかったので、

 

「……見なかったことにした方がいいか?」

「いえいえ、そこまでのことじゃないですよ」

 

 美鈴は控えめに両手を振り、それから、うーむと難しそうに腕組みをした。

 

「あー、でも、妹様には黙っていてもらえると……」

「ということは、なにかフラン絡みかい」

 

 だったら、レミリアがこんな朝早くから出歩いているのも納得だ。大切な妹のためなら、きっと日傘だってかなぐり捨ててみせることだろう。

 

「はい。お嬢様は、妹様を追って霧の湖に向かったんですけど」

「へえ……あの子、湖に行ってるのか」

 

 少し、意外に思う。霧の湖は、こういってはなんだがあまり面白い場所ではない。湖以外のなにかがあるわけではないし、その名の通り霧がよく立ち込めるので、森林浴にも不向きだ。元気でアホの子な氷精と、少し気弱でふみうな妖精がいなければ、月見だって足を運ぶことはなかっただろう。

 なお月見が散歩がてら霧の湖まで足を運ぶ理由は、チルノとの親睦を深めるためというのが大部分である。どういう経緯かはいまいちわからないが、なぜか月見はチルノからライバル視されてしまっていて、弾幕をぶっ放されるわ水月苑の池を凍らされるわ変な噂を流されるわ、いい加減困っているのでそろそろ和解しておきたいのである。餌付け用のお菓子を忘れてはならない。

 

「しかし、一体なんの用で?」

「んー」

 

 少し考える素振りをした美鈴は、口で語るよりも現場を見せた方がいいと踏んだらしい。

 

「……見に行ってみます?」

 

 湖の方角を指差し、

 

「多分、面白いものが見られると思いますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうもこの少女、初めから隠すつもりなどなかったようだ。月見が答える前からその瞳は「当然行きますよね?」と雄弁に語っていたし、実際月見が頷けば、彼女は訊いてもいないうちからたくさんのことを教えてくれた。

 

「妹様には、『月見には教えないでねっ!』と言われてるんですけどね」

 

 夏の新緑が鮮やかな森を進む中、美鈴は月見の隣でそっと苦笑した。

 

「でも私、月見さんには……他の誰が知らなくても、月見さんにだけは、知っていてほしいって思うんです」

 

 ざっくりとまとめれば。

 フランは夏の異変が終わったあたりからしばしば霧の湖に出掛け、『あること』を成し遂げようと自分一人の力で頑張っている。本人はレミリアの目を盗んで内緒でやっているつもりなのだが、幻想郷一過保護な姉はとっくに気がついており、こそこそと後を追いかけては陰ながらエールを飛ばしている。美鈴を始め、咲夜とパチュリー、小悪魔は、余計な首を突っ込まずあたたかい目で見守っている。

 およそ、そういった内容の話であった。

 

「妹様、本当に頑張ってるんですよ。今までは月見さんにべったりしてばかりでしたけど、いつまでも甘えたままじゃダメだって思ったみたいなんです」

「……そうか」

 

 月見の頬に、自然と穏やかな笑みが浮かんだ。なかなか感慨深い話だった。一緒に寝ようよーとか一緒に温泉入ろうよーとか、何度断っても諦める気配がないあの甘えん坊も、月見が知らないところでいつの間にか成長を始めていたらしい。

 

「いいことだね」

「まったくです。月見さんが初めて来てくださったあの日以来、みんないい意味で変わったので感謝感謝ですよ」

 

 美鈴が明るく笑ったのはほんの一瞬だった。次の瞬間にはため息をついて俯き、月見がギリギリ聞き取れない声でぽつりと、

 

「……まあ、咲夜さんがヤキモチ焼きになっちゃったのはアレですけど」

「なんだって?」

「なんでもないですよー。あ、そろそろ湖に着きますね。では月見さん、ここからはお静かにお願いします。しー、ですよ」

 

 そっと人差し指を立てて言われてしまえば、大人しく黙らざるをえない。そろりそろりと忍び足な美鈴を見習って、月見も物音を立てないよう、次第に霧が出てきた中を慎重に進んでいく。

 白みがかった視界の向こうで、うっすらと揺らめく湖畔が見えた。

 

「このあたりから見ましょうか」

 

 おあつえ向きな茂みに身を隠し、月見と美鈴はぴょこりと頭を出して湖の様子を窺う。霧が濃くなってきたせいでなんの人影も見えないが、無人というわけではなさそうだ。奥の方から声が聞こえる。

 しかし、

 

「……なにやら騒がしいね」

 

 怒鳴り声というか、金切り声というか。

 美鈴が苦笑した。

 

「あはは……やっぱりまたやってるんですね」

 

 騒ぎが段々近づいてくる。湖上を覆う霧のカーテン越しで、二つの小さな影が躍った。「あたい」というフレーズが聞こえたから、片方の影はチルノのようだ。虫の居所が悪いらしく、ぎゃーぎゃーと甲高い声をあげている。

 そしてもうひとつ、荒ぶるチルノを必死に宥めようとしている声が、

 

「――あーもうっ、あんたもいい加減しつこいわね! さっさとあっちへ行っちゃいなさいよーっ!」

「ま、待って! 話を聞いてってばー!?」

 

 フランドール・スカーレット。

 霧をかき分けようやく姿を見せたと思えば、弾幕の雨が降り注ぐ中で、フランがチルノから逃げ惑っていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まあそうなるよなあ、と月見は思うのだ。

 霧の湖周辺の自然は、妖精たちにとってひとつのオアシスであるらしい。大きいのからちっこいのまで様々な妖精たちが暮らしていて、時に遊び感覚で徒党を組んでは紅魔館を襲撃し、美鈴や咲夜を困らせている。そんな怖い者知らずな妖精たちのトップに君臨しているのが、同族の中では異様なほど高い力を持つ氷精・チルノだった。

 チルノは妖精でありながら、いっちょまえに仲間意識と縄張り意識に強いところがある。自分たちの憩いの場を侵す部外者を見つければ、それが誰であろうと問答無用で撃退しようとする蛮勇である。今、月見の目の前でフランを追い掛け回しているのも同じ理由なのだろう。

 日傘片手に一生懸命弾幕を回避するフランを見ながら、月見は隣の美鈴に、

 

「面白いものっていうのは、あれのことか?」

「あはは。だって、吸血鬼が妖精から逃げ回ってるんですもん」

 

 美鈴は襲われるフランを心配する素振りもなく、なんとも微笑ましそうな顔をしていた。心配するまでもないのだ。危なっかしいとはいえ所詮は弾幕ごっこだし、そうでなくとも吸血鬼であるフランは、その気になれば目障りな妖精一匹くらい簡単に消し飛ばしてしまえるのだから。

 ではなぜ、フランはチルノを消し飛ばしてしまわないのか。美鈴が逃げるフランを目で追いながら、ほうっと温かいため息をついた。

 

「妹様……妖精たちと、友達になろうとしてるんですよ」

「――そうか。そうだよな」

 

 月見は深く頷いた。なんとなく、そんな気がしていた。フランが霧の湖まで足を運ぶような理由など、きっとそれくらいしかないのだと。

 これは、あの時の続きなのだ。

 幻想郷がまだ春だった頃。藤千代にぶっ飛ばされた月見が、霧の湖に墜落したあとのこと。月見を迎えにきたフランが、妖精たちに恐れられ、避けられた、あの時の。

 

「ほら……この前、天人の子が異変を起こしたじゃないですか。あれに感化されたらしいですよ。私も頑張んなきゃ! って」

 

 実に回りくどくて傍迷惑で、痛々しい失敗もしてしまったけれど、最後は自分の力で夢を掴み取った天子。

 その姿から勇気をもらったんだろうと、美鈴は教えてくれた。まだまだ幼いところもあると思っていた少女たちが、月見の知らないところで影響し合い、成長している。それでこうもえも言われぬ気持ちになってしまうのは、月見が年寄りだからなのだろうか。

「そうか」ともう一度深く頷くセンチメンタルな月見の横で、美鈴がふと小首を傾げた。

 

「あれ? ところで、お嬢様ってどこにいるんでしょう……」

「……そういえば、姿が見えないね」

 

 美鈴の話によれば、幻想郷一過保護な姉は一足先に紅魔館を出発し、頑張るフランをじっくりねっぷり見守っているはずである。美鈴と一緒に捜してみると、

 

「――ああっ、危ないフラン避けてっ! ……よしいいわよ、今だそこで反げ――ってなんで反撃しないのよ! そんな生意気な妖精なんて、ぶっ飛ばしちゃいなさいってばー!」

 

 小さな声がした。月見たちから少し離れたところの茂みで、見慣れた桃色の帽子がぴょこぴょこと飛び跳ねていた。

 

「あ、お嬢様。あんなところに……」

 

 霧でやや霞んでいるが、間違いなくレミリア・スカーレットである。木陰の下で日傘を畳み、両腕をぶんぶん振り回して声援をあげている。

 

「ダメよフランッ、妖精たちと仲良くなりたいのはいいけど、だからってそんな下手に出てちゃあ! いじめっ子なんかに負けちゃダメッ、キチンと実力の差をわからせてあげないと! ほらそこ、隙だらけだから一発――だからぁっ、なんで反撃しないのよもぉーっ!」

 

 もちろんそのエールは、フランに気づかれてしまわないよう、月見たちがギリギリ聞き取れる程度のものでしかなかったけれど。

 美鈴が頬に手を当て、目を弓にした。

 

「ふふ。お嬢様、かわいいですねえ」

「……そうだね」

 

 確かに愛らしい。その代償として、吸血鬼のカリスマは行方不明だけれど。

 云うなれば、テレビの前で一生懸命ヒーローや魔法少女を応援している子どもであった。ああやって陰ながら応援することで、一緒に戦っている気になっているのだ。チルノが派手な弾幕を撃てば顔を青くし、フランがそれを躱せばガッツポーズをし、さあ反撃よっ、あーもうなんでなにもやり返さないのよおっとそればっかり言っている。そればっかりに全神経を総動員させているので、月見たちの存在にはさっぱり気づいていない。

 聞こえるはずもない姉のエールが背を押したのか、フランが意を決して声をあげた。

 

「あ、あのっ! 私は、あなたたちとお話がしたくて、友達に……!」

 

 当然、荒ぶるチルノは聞き耳を持たなかった。

 

「そんなこと言って、あたいたちを油断させて食べちゃうんでしょ!? そーはいかないわよっ!」

「だから違うってばー!?」

 

 猪なのだ。チルノは仲間意識が強く縄張り意識が高く、ついでにアホの子なので一度スイッチが入ってしまうともう止まらない。走り出した彼女を止める方法は三つ、諦めて倒されるか、仕方ないと割り切って倒すか、餌付け用のお菓子をチラつかせるかだ。

 姉のエールに更なる熱が入る。

 

「フランッ……言葉で解決しようとするのも大事だけど、時には実力行使も已むをえないものなのよ……!? だからほら、ちょっとだけでいいから――」

 

 その時チルノの放った一発が、ほんのちょっと――見間違いかと思うほど本当にちょっとだけ――フランの服を掠って、

 

「ああっ、今掠った! あいつの弾幕がフランを掠った!? じょじょじょっ上等じゃない妖精の分際でそっちがその気ならこっちにも考えがあるんだから」

 

 すかさずトチ狂ったレミリアが高く腕を掲げ、赤い妖力で輝く槍を顕現させ、

 

「は?」

 

 月見がそうこぼした瞬間には、既に美鈴は動いていた。

 腰を低く落としたまま、彼女は獣の如き勢いで加速した。地を蹴る音がまったく聞こえない、まるで宙を滑るような走りだった。レミリアとの距離を瞬く間に詰め、その勢いのまま、てーい! とボディプレスを仕掛ける。

 避けられるわけがなかった。

 

「グングにゅむ」

 

 レミリアの体が、美鈴の下に押し潰されて消えた。同時に、あと一歩のところで名を呼んでもらえなかったグングニルが、赤い霧となって消滅していく。

 一秒足らずの出来事である。チルノはまったく気づかず弾幕を撃ち続けており、フランもまた、まったく気づかず弾幕を躱し続けている。月見だけが、美鈴の体の下からはみ出る桃色の裾を眺めている。

 

「……」

 

 とりあえず、合流することにした。茂みから顔が飛び出ないよう、四つん這いでそろそろと移動していく。途中でため息をついた。

 もしも美鈴がいてくれなかったら、今頃は霧の湖の形が変わり、チルノは跡形もなく消し飛んでいたのだろうか。

 

「……美鈴」

「あ、月見さん。いやはや、危なかったですよー。まさかアレを撃とうとするとは私も予想外でした」

 

 美鈴の女性の魅力豊かな体に押し潰され、レミリアはピクリともしない。

 というか、

 

「おい、それ」

「え? ……あ」

「きゅ~……」

 

 打ち所が悪かったらしい。誇り高き吸血鬼は、両目をぐるぐる巻きにしてすっかり伸びてしまっていた。

 美鈴はしばらく黙って、

 

「――さて、お嬢様も大人しくなりましたし戻りましょうか。あんまり長居するとバレちゃいますからね」

「大人しくなったというか、大人しくさせられたというか」

「た、たまたまですたまたま! 決して、私が重いとか、そんなんじゃないですからね!? 決して! 断じて!」

 

 どうしてこの少女はこんなに必死なのだろう。

 ともあれ、紅魔館に戻るのは賛成だ。フランが自分の力で頑張ると決めたのだから、月見もまた、あたたかい気持ちで見守るだけである。

 たとえチルノに仲間たちが加勢し、ますます苛烈な弾幕をフランに浴びせているとしても。

 さすがに息切れを起こしたフランが、もう弾幕を躱すのだけで精一杯で、声をあげる余裕すら失っているとしても。

 

「よーし、みんなもう少しよ! 押せ押せー!」

「だ、だからっ……も、もう、やめ、あう!?」

 

 ……レミリアが気を失っていて、本当によかった。

 フランの努力が報われるのは、もうしばらく先になりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 月見がレミリアを抱きかかえ、美鈴が日傘を広げて紅魔館まで戻ってくると、門のところで咲夜が待っていた。

 とてもイイ笑顔だった。美鈴の顔がさーっと青くなった。

 

「あー……さ、咲夜さん……」

「お帰りなさい、中国」

 

 とても可憐な笑顔のはずなのに、なぜか有無を言わさぬ凄みがある。

 

「仕事もしないで、一体どこに行っていたのかしら」

「えぇっと、ですね……」

 

 冷や汗を流す美鈴は少し迷ってから、

 

「その、月見さんと二人で」

「二人で?」

「あーっいや違いますっ、月見さんとお嬢様の三人で! 三人で! 三人ですよ!? 三人ですからね!? 三人で散歩してまして、決して途中まで二人きりだったとかそんなそんな! ……だからナイフはダメですってばあっ!?」

 

 あいかわらず、仲がいい二人であった。

 流れる動きでナイフを抜きかけた咲夜は、しかし途中で月見の存在を気にしたのか、コホンを咳払いをして得物をしまった。今度はなんのプレッシャーも感じない、彼女本来の柔らかな微笑みだった。

 

「いらっしゃいませ、月見様。申し訳ありません、中国がご迷惑をお掛けしてしまって」

「……あの、なんで迷惑を掛けた前提になってるんでしょうか」

 

 美鈴の半目を当然のように無視し、

 

「それに、お嬢様を運んでまでいただいて。本当にありがとうございます……というか、なにがあったのですか?」

「ちょっと、美鈴に誘われてね」

 

 月見が事の顛末を説明したら、最終的に咲夜が白い目で美鈴を見ていた。

 

「中国……月見様には黙っているようにと、あれほど妹様が言っていたのに」

「ご、ごめんなさいっ!? で、でもでも私はただ誘っただけで、実際に行くって言ったのは月見さんで」

「月見様に責任をなすりつけるの?」

「とんでもないです全面的に私が悪いですすみませんでした」

 

 ……本当に仲いいなあ。

 妖怪が人間の、しかもなんてことはない少女相手にヘコヘコする姿を見られるのは、さすがの幻想郷でもここだけだろう。二人の上下関係が厳密にどうなっているのかは知らないが、改めて、だいぶ不思議な光景ではあった。美鈴だって弱い妖怪ではないのだから、咲夜より上とはいわずとも、対等くらいにはなれそうなものだけれど。

 やっぱり、アレだろうか。こうやって周りから不遇に扱われるのを、それはそれで実は楽しんでいるのだろうか。いじめられて喜びを覚えるとは、美鈴もなかなか上級者のようだ。

 怒り狂った椛に追いかけ回されるのを、それはそれで楽しんでいる駄天魔の姿が脳裏に浮かぶ。操、お前にも仲間がいたぞ。

 

「月見さんっ、なにか失礼なこと考えてませんか!?」

「いや、なんでも。……ともあれ、美鈴いじりはこれくらいにして」

「美鈴いじり!?」

「私自身、行くって言ったのは本当だよ。だから、あんまりいじめないでやってくれ」

「そうなんですか……もう、妹様にはちゃんと黙っていてくださいね?」

「私との扱いの差ッ!!」

 

 美鈴がさめざめ涙を流したが、いつものことなので、月見も咲夜も気にしなかった。

 

「さて、いい加減レミリアを寝かせてあげないとね」

「どうぞお入りください。……そういえば、今日はどのようなご用件で紅魔館に?」

 

 用という用があったわけではない。散歩の途中でなんとなく立ち寄っただけであり、まあ強いて言えば、

 

「お前の顔を見に来た」

「へ」

「私の方からも顔を出しておかないと、どこかのメイドさんは不機嫌になるようだからね」

「……、ま、紛らわしいことを仰らないでください、もおっ」

 

 ぷいとそっぽを向かれてしまった。顔を出さないでいるとへそを曲げられ、出したら出したで怒られる。月見は一体どうすればいいのだろう。

 さめざめ泣いていたはずの美鈴がいつの間にか復活して、ニヤニヤと舐めるように咲夜を見ていた。

 

「んんー? 咲夜さん、紛らわしいってなにがですかぁー? 一体なにを勘違いして」

 

 美鈴のチャイナ帽子をナイフが射抜き、そのまままっすぐ飛んで煉瓦塀に突き刺さった。見るも無惨なチャイナ帽子のはやにえである。

 

「……、」

 

 あとほんの数センチ狙いがずれるだけで大惨事だった美鈴は、涙目でぷるぷる震えて、

 

「中国……なにか言った?」

「な、なんにも言ってないですごめんなさぁい!?」

 

 二本目のナイフを構えてにっこり笑顔な咲夜を前に、日傘を放り投げてアツい土下座をキメる。

 というか、日傘、

 

「――あっつうううううい!?」

「ガフッ」

 

 日光に肌を焼かれたレミリアが月見の腕の中で跳ね起きて、その拍子に華麗な裏拳が月見の顎を打ち抜き、

 

「にゃあ!?」

 

 暴れたレミリアは地面に落下し、どすんと盛大な尻餅をついた。

 

「お嬢様、大丈夫ですか!?」

「あ、咲夜……ううう、肌がひりひりするよお~……」

 

 咲夜がすかさず日傘を回収し助けに入る。レミリアが焼かれた肌を涙目でさすっている。美鈴が「あっやっちゃった」みたいな顔をして青くなっている。月見は顎を押さえてぷるぷる震えている。

 レミリアの赤くなった肌と、痛みに呻く月見を交互に見た咲夜はぼそりと、

 

「……帽子だけじゃ足りなかったみたいね」

「あ、あははははは……」

 

 美鈴はそろそろ砂になりそうだった。

 

「もう、いきなりなんなのよぉ……」

 

 ぐすっと鼻をすすったレミリアはまだ頭の理解が追いついていないらしく、涙目をこすりながらあたりをキョロキョロ見回して、月見に気づくなり小首を傾げた。

 

「……なんであなたがいるの? というか、顎押さえてなにしてるのよ」

「……いや、なんでもないよ」

 

 強靱な身体能力を持つ吸血鬼の一撃はかなり効いたが、男一匹月見、泣き言は言わぬ。

 そこでようやくレミリアが、あーっ! と大声をあげた。

 

「なんで私こんなところにいるのよ! フランがっ! フランがあの猪口才妖精に!」

「お、落ち着いてくださいお嬢様!」

 

 日傘から飛び出していこうとした主人を、咲夜が慌てて引きとめた。

 

「妹様は一人で頑張ると仰っていたじゃないですか! 割り込んでしまってはダメです!」

「うぐっ……で、でもあの妖精、フランに弾幕を」

「お嬢様が助けに入って、それで妹様が喜ぶと思いますか?」

「む、むう……」

「妹様なら大丈夫ですよ、お嬢様と同じ吸血鬼なんですから。なので今は傷の手当てをしましょう。万が一跡が残っては大変ですわ」

 

 レミリアはしばらくの間、ふぬぬぬぬぬと苦渋の葛藤を繰り広げていたが、やがて咲夜の言い分を受け入れたようだった。

 少しもどかしそうに、ため息をついた。

 

「……わかったわ。じゃあ、部屋に行きましょう」

「はい。月見様もどうぞ、手当ていたしますので」

「ん? いや、私は大丈」

「……」

「……わかったよ」

 

 そうやって不機嫌そうに頬を膨らませるのは反則ではないかと、月見はつくづく思うのだ。

 

「それにしても、どうして気を失ったりしてたのかしら。なんだか、おっきくて柔らかい饅頭みたいななにかに襲われた気がする……」

「大丈夫ですわ、お嬢様。中国とは、私があとでよーくお話しておきますから」

「…………ああ、そう。そういうことね。おっきくて柔らかい饅頭ってそういうことだったのね。そう。ふふふ」

 

 レミリアが、自分と美鈴の体のある一部分を見比べて、黒く笑う。

 

「咲夜、お話する時は私も呼んで頂戴」

「わかりました」

「ア、アハハハハハ……」

 

 美鈴の瞳から光が消えかけている。

 月見はとりあえず、美鈴の肩をポンと叩いた。彼女は泣いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見の手当てをしている間、咲夜は終始楽しそうだった。

 それ自体は別に構わないのだが、しかしいくらなんでも、脱脂綿に消毒液にピンセットはないと思うのだ。擦りむいたり切ったりしたわけではないし子どもでもないのだから、消毒液で湿らせた脱脂綿をピンセットで持って、「動かないでくださいね~」と患部にちょんちょん押し当てる必要などまったくないはずなのだ。しかし咲夜は一向に聞く耳を持ってくれず、にこにことなんとも楽しそうにしながら、月見の顎を何度も何度もちょんちょんしていた。一分くらいずっとちょんちょんしていた。月見が「咲夜……」と半目を向けたらハッと我に返って、顔中真っ赤にして縮こまっていた。

 それを見たレミリアが、「私より先に月見の手当てなのね……」とだいぶ渋い顔をしていたが、まあさておき。

 必要のなかった手当てが終わり、色々と満足したらしい咲夜から無事解放された月見は、長い廊下を渡って大図書館まで足を伸ばそうとしていた。特に用事があるわけではないのだが、せっかくなので顔くらいは出しておこうと思う。もっともパチュリーは今日も自室にこもって魔術研究をしていて、会えるのは小悪魔だけだろうけど。

 そんなことを考えながら、廊下を曲がった瞬間だった。

 フランがいた。

 

「おっと」

「あっ……」

 

 足音ひとつ立てず、とぼとぼと体を引きずるように歩いていた。あと一歩前へ出ればぶつかる距離で、月見とフランは同時に足を止める。フランの暗い瞳が月見を見上げる。

 

「あ、月見……」

 

 いつもなら出会った瞬間に嬉々と突撃してくるフランが、この時ばかりはビクリと肩を震わせた。あちこち破けた服と、じくじくとした痛みに耐えるような表情から、なにがあったのかは一目瞭然だった。

 だがなにも知らないことになっている立場上、月見はその通りのふりをして答える。

 

「どうしたんだフラン、いつもなら寝てる時間だろう?」

「う、うん……えっとその、ちょっと夜更かし? あの、朝更かしというか」

「それに服も破けてるし……なにかあったのか?」

「ちょ、ちょっと転んじゃって」

 

 天子ほどではないにせよ、フランもまた嘘をつくのが下手な子だった。ここで月見と出会うのが完全に予想外で、見るからに挙動不審で、どうやってこの場を切り抜けようかと一生懸命考えているのがよくわかる。

 月見はそれに気づかないふりをしたまま、

 

「怪我してないか?」

「だ、大丈夫だよ! 心配しないで、こんなの寝ればすぐ治るから!」

「ならいいけど」

「ええと、月見は本を借りに来たの? ごめんね、私、そろそろ寝ようと思ってて。お姉様にも怒られちゃうし……」

「大丈夫だよ。ゆっくりおやすみ」

「う、うん……」

 

 上手く誤魔化せたとすっかり思い込んだフランが、月見の目の前で堂々と胸を撫で下ろした。この子、実はわざとやってるんじゃないかと月見は思う。誤魔化そうとしているのは口だけで、本当は気づいてもらおうとしているとか。きっとレミリアもこんな感じで、フランが自分に隠れてなにかをやっていると悟ったのだろう。

 

「じゃ、じゃあおやすみ」

「ああ」

 

 そう言って月見の脇を通り過ぎようとしたフランが、ふと足を止めた。

 

「……どうした?」

「……うん」

 

 なにかを考えているらしいフランと、少しの間目が合う。フランはすぐに視線を落とし、月見のお腹をしばらく見つめて、それから、

 

「ん」

 

 ぽふ、と月見のお腹に抱きついた。

 

「おっと。……どうした?」

「……んー」

 

 フランは月見の腰をぎゅーっとしたり、お腹にすりすりしたりして、およそ二十秒後、

 

「……ん! ありがと、元気出た!」

「……どうしたしまして?」

 

 なんとなく、本当になんとなく、ツクミン補給ツクミン補給とかつて擦り寄ってきた藤千代の姿が重なった。いや、まさか、フランに限ってそんなことが。

 

「私、頑張るからっ!」

 

 だが真相がどうであれ、フランにもとの笑顔が戻ったのはいいことだったので。

 月見は膝を折って、弓手でフランの帽子を勝手に取り、馬手で頭をわしわしと撫でた。

 

「わわっ」

「よくわからないけど、応援してるぞ」

「あっ……ぅ、ぅー」

 

 嬉しさと悔しさが半々に混じった表情で、フランが赤くなった頬を両手で押さえた。上目遣いで、唇を尖らせ、

 

「もお……月見がそんなんだから、私、いつまでも甘えちゃうんだよ……?」

「ッハハハ。まあ、お前に甘えられるのは嫌いじゃないからね」

「……ぅー」

 

 スカートをぎゅっと握り締めて、顔が見えなくなるくらい深く俯く。耳まで真っ赤になっている。一緒にお風呂に入ろうと笑顔で誘ってくるようなフランが、こうも恥ずかしがるのは珍しいなと思っていると、

 

「……えいっ」

 

 頭に乗った月見の手を振り払ったフランが、今度は首に抱きついてきた。月見の頬を、フランのきめ細かな髪がこそばゆく撫でていく。両腕を月見の後ろでしっかりクロスしながら、彼女はわがままを言うようにささやく。

 

「部屋まで送ってっ」

「いいけど」

 

 今度は大声だった。

 

「私が寝るまで一緒にいてっ!」

「わ、わかったわかった。耳の近くで叫ばないでくれ」

 

 まるで返事をするように、フランが両腕にぎゅっと力を込めた。月見は苦笑しながら左手の帽子をもとの場所に戻し、フランの小さな体を抱いて立ち上がった。

 

「それじゃあ、行くよ」

「……ん」

 

 きっと、何度もチルノに弾幕で追い返されて、何度やってもダメで、少し参ってしまっていたのだと思う。元気出たと笑っていたのも、ただの意地っ張りだったのだろう。恥ずかしがっているように見えたのも、月見の勘違いだったのかもしれない。首に回されたフランの両腕は、ちょっとだけ熱っぽくて。

 そして、震えていた。

 なにかを必死にこらえる息遣いが、月見の耳元で響いていた。

 

「……」

 

 月見はなにも言わず、フランの背中をそっと撫でながら歩いていく。たとえば、チルノに話を聞いてもらいたいならお菓子を持っていくといいとか。大妖精という物分かりのいい子がいるから、そっちに当たってみるのも手だとか。そういう言葉が次々と頭に浮かんでは、音にならないまま消えていった。

 月見は、なにも知らないのだ。

 なにも知らないから、なにも言えない。言ってはいけない。言えば、ひとりで頑張ると決意した彼女の心を、踏み躙ることとなってしまうから。

 

(……大丈夫。大丈夫だよ)

 

 だから月見は、心の中で言葉を紡ぐ。

 

(私はなにも心配していない。お前ならできるって、本気で信じてる)

 

 だって、お前は。

 

(私と友達になった)

 

 生まれた国も、種族も、性別も、体格も、ものの考え方も。なにもかもが違いすぎる私と、お前は友達になった。

 

(恐ろしい妖怪なんかじゃない。狂気に蝕まれていたあの頃とは違う。こういうことで涙を流せるお前は、もう普通の女の子なんだ)

 

 だから、

 

(不安になってもいい。お前が不安になった分だけ、私がお前を信じる)

 

 ――だから、

 

「――負けるな、フラン」

 

 答えは、返ってこなかった。けれど、それでも構いやしなかった。

 首に回ったフランの両腕は、あいかわらず、ぎゅうぎゅうと苦しいくらいだったけれど。

 肩越しに伝わっていた彼女の震えが、いつしかすっかり、治まっていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第72話 「すとらいくあっぷ・ふれんどしっぷ ②」

 

 

 

 

 

 咲夜はよく、月見に料理の差し入れをしてくれる。

 曰く、作りすぎて余ってしまうとのこと。お裾分けの理由としては実に定番だが、それにしたって少々頻繁すぎるというか、いつも決まって二~三日おきに持ってくるのはなぜなのだろうか。「今回もまた作りすぎてしまってみたんです」とか、なにかおかしい気がするのは月見だけだろうか。「次はなにを作りすぎてしまいましょう?」とか、絶対おかしいと思うのは月見だけだろうか。咲夜の料理はとても美味しいからありがたいのだけれど、なんだろう、この餌付けされているかのような感覚は。

 ともあれ。

 昨日の夕方、咲夜がそうやって料理を持ってきたついでで、フランの状況を報告してくれた。

 やはりというべきか、上手く行っていないらしい。毎回毎回気合いを入れて出掛けていっては、しょぼくれて帰ってくるそうである。

 ここまではいい。いや、決してよくはないが、予想できていたことなのでとやかくは言わない。

 問題はその次だ。

 レミリアの限界が近い。

 愛する妹が落ち込む姿を否応なく見せつけられているお姉さんは、そろそろ堪忍袋の緒が千切れ飛ぶ寸前なのだそうだ。今は咲夜が必死に宥めて我慢してもらっているが、それでも、もってあと三日。三日後、もしフランがしょぼくれて帰ってくるようなことがあれば――

 

「……霧の湖の地形が変わる、か」

 

 冗談に聞こえないから怖い。というか、先日は美鈴がいなければまさにそうなっていただけに、月見はそろそろ頭痛がしてきそうだった。

 できることならなんとかしてやりたいとは、月見も咲夜も、それどころかレミリアも美鈴もパチュリーも小悪魔も、みんなみんな思っている。しかし当のフランが、「絶対に諦めない!!」といよいよ着火してしまったらしく、なんとかしようにもなんともできない状況が続いている。

 無論、フランが着火してしまったのは、月見が傷心した彼女を慰めた翌日からである。

 ひょっとすると月見は、余計なことをしてしまったのかもしれない。フランが諦めるか、チルノが折れるか、レミリアが爆発するかの三つ巴の我慢比べ。一番初めに根を上げるのが一体誰かなど、いうまでもなく――。

 そんな憂鬱な気持ちで迎えた、その日の朝。

 月見は水月苑の庭の隅で、こそこそと動く人影を見つけた。

 

「……」

 

 恐らく本人は隠れているつもりなのだろうが、丸見えであった。岩の陰から、新緑さながら鮮やかな髪と、それを結わう黄色のリボンと、昆虫を思わせる透き通った翅がはみ出している。

 名前はすぐに出てきた。

 

「おーい、ふみうー」

 

 月見が縁側からそう声を掛けた瞬間、人影が岩陰から飛び出して叫んだ。

 

「ふみうって呼ばないでくださいっ!! ……あ」

 

 しかしてふみうこと大妖精は己の失態に気づき、「うわあ……」と観念した様子で項垂れたのだった。

 月見は喉で笑いながら、

 

「どうした。お前が一人で来るなんて珍しいね」

 

 大妖精が水月苑にやってくるのは大抵、相方のいたずらに無理やり付き合わされた時だ。最近だと、チルノが水月苑の露天風呂を凍らせ「さすがあたいね!」とドヤ顔を炸裂、その後月見に拳骨を落とされ気絶、大妖精が「ごめんなさいごめんなさい本当にごめんなさい」と平謝りするなんてことがあった。

 大妖精が両手の指同士を絡ませながら、言いづらそうに口を開いた。

 

「……えっと、そのー。なんといいますか、ちょっとお話を聞いてほしいことがありましてー……」

「もしかして、フランのことか?」

「え!? な、なんでわかったんですか!?」

 

 なんでもなにも、大妖精が一人で水月苑を訪ねてくる理由となればそれくらいだろう。

 

「未来予知というやつだよ。こう見えて、私はすごい狐でね」

「そ、そうなんですかー……。感心しちゃいます」

「嘘だけどね」

「!? だ、騙したんですか!?」

 

 もー! とぷんぷん怒っている大妖精に微笑んで、月見は縁側に腰を下ろし、隣を平手で叩いた。

 

「おいで。そこで立ちながら話すのもなんだろう」

「むー……」

 

 大妖精はしばらく頬を膨らませていたが、やがて「月見さんだし言うだけムダか……」みたいな顔でため息をついた。庭の飛石を跳んでとてとてとやってきて、月見の隣に腰を下ろす。

 なにやら失礼な反応をされたようだが、まあ気にしない。

 

「なにか飲むか?」

「いえ、大丈夫です……」

「そうか。……じゃあ、話を聞こうか」

 

 はい……と大妖精が浮かぬ顔で頷く。少しの間どう話すか悩んでから、彼女はぽつぽつと語り出す。

 曰く。

 ここのところずっと、紅魔館からフランドール・スカーレットがやってきては、チルノに弾幕で撃退されている。大妖精はそれをいつも隠れて見ているのだが、フランがなにか話をしたそうにしているので気になっている。自分たちと友達になりたがっていることにも、なんとなく気づいてはいる。しかしチルノは「そうやってあたいたちを油断させて、隙を見て食べちゃうんでしょ!」と言っていて、実際その通りなのかもしれない。そうでなくとも吸血鬼と話をするのは怖くて、どうしても見て見ぬふりをしてしまう。

 

「……悩んでるんです。このままでいいんだろうか、それともこのままがいいんだろうかって」

 

 大妖精にとって、吸血鬼は恐怖の権化である。紅魔館の傍で生活しているだけ、その力がどれほど強大なのかは身を以て知っている。最近は落ち着いているが、以前は紅魔館で凄まじい妖力が発生するのも珍しくなく、大妖精を何度も震え上がらせた。

 決定的なのは、その時に感じていた妖力が、フランのものと一致していること。

 恐らくは、フランの心がまだ狂気に冒されていた頃の話なのだろう。

 

「吸血鬼の人たちと比べれば、私なんて――ううん。チルノちゃんだって、きっと足下にも及ばないんだと思います」

 

 あんな恐ろしい力を持つ吸血鬼の前では、自分なんか一瞬で殺されたっておかしくない。

 だから、怖い。話がしたいと何度も訴えるフランの姿を、まっすぐに見つめることができない。

 どうすればいいのか、わからないと。迷いの多い口振りで、大妖精はかく語った。

 

「自然と一体の私たちは、怪我をしても……死んじゃったとしても、緑がある限りすぐに再生します。だからチルノちゃんみたいに、後先考えないというか、『怖い』っていう感情をあまり感じない妖精がいるのは事実です。……でも、こうして生きている以上は当然痛みを感じますから、それを怖がる妖精がいるのも事実です。私だってそうです」

「うん」

「なので、チルノちゃんがあの吸血鬼――フランさんを追っ払って、私たちを守ってくれてるんですけど。でもフランさんは、紅魔館に戻っていく時……すごく、辛そうな顔をしていて」

「……仕方ないかもしれないね。話すら聞いてもらえないのでは」

 

 だがそれでも決して諦めず、フランは声をあげ続けている。他でもない、妖精たちと友達になりたいという彼女の心が、本物だから。

 大妖精が頷く。

 

「わかってます。私たちを油断させて食べちゃうんだってチルノちゃんは言いますけど、そんなの全然関係ないんですよね。わざわざ油断なんかさせなくたって、フランさんが本気になれば力ずくでどうとでもできる」

「でもフランはどうにもしない。それどころか、チルノの弾幕に反撃すらしない」

「はい。……だから、本当に私たちと話がしたくて来てるんだって、わかってはいるんです。わかってはいるんです、けど……」

 

 頭ではわかっていても、体が恐怖に負けてしまう。

 

「月見さん。……私、どうすればいいんでしょう」

「……ふむ」

 

 月見は腕を組んで、考えるふりをした。思っていた通りだった。なにからなにまで、月見が予想していた通りの内容だった。先日湖を覗いた時は姿が見えなかったが、いつもチルノと一緒にいる大妖精のことだから、きっとどこかから様子を窺っていて。そして妖精とは思えないくらい聡明な彼女のことだから、きっと悩んでくれているのだろうと。

 だから月見の答えなんて、話を聞く前からとっくに決まっていた。

 

「それで、私に背中を押してもらいにきたと。そういったところかな」

「――え、」

「あの子はいい子だ。危ない子じゃない。本当にお前たちと友達になろうとしてるんだ。だから仲良くしてやってくれ――そう言ってほしい。そうやって自分を安心させたい。違うか?」

「っ……!」

 

 大妖精が顔を苦痛で歪めた。それは、知られたくなかった図星を衝かれたという、言葉なき肯定であった。

 月見は、できる限り優しく微笑む。

 

「ごめんな。でも、いじわるを言ってるわけじゃないんだ」

 

 大妖精の気持ちはわかる。未知の存在にたった一人で向かい合うというのは、とても心細くて怖いことだ。ついつい、誰かを頼ってしまいたくなる。助けてもらいたくなる。勇気を振り絞って立ち向かうよりも、目を逸らして自分を守る方に心が傾く。

 それは高い知性を持つ生き物として逃れられぬ業だから、非難はしない。けれど、気づいてほしい。

 

「お前は、私に『仲良くしてやってくれ』と言われたから。人にそう言われたから、仲良くしてあげる(・・・・・・・・)のか?」

「――、」

「友達って、そういうものだったかな」

 

 少なくともそんな作られた(・・・・)関係を、フランは望んでなどいない。フランが願うのは、他でもない、自分の力だけで作り上げた友達だ。だから誰にも助けを求めず、フランはたった一人で頑張っている。

 大妖精が、愕然としたように顔を伏せた。月見は続けた。

 

「なあ、覚えてるか? 私とお前が初めて出会って、お前とフランが初めて出会った時のこと」

「え? えっと、」

「あの時、私はこう言ったよ」

 

 ――初めから悪い吸血鬼だとは決めつけないで、この子のこと、見てあげてくれないかな。ちょっとずつでいいから、ゆっくりと、どんな子なんだろうって、気に掛けてみてほしい。

 

「仲良くしてやってくれとか友達になってやってくれとか、私は一言も言っていない。……そしてそれは、今も変わっていないよ」

「……」

「それにね」

 

 俯いたままの大妖精を、しかし月見はまっすぐに見据えて、

 

「あの子は、一人で頑張ってる」

「……!」

「誰の力も借りずに、たった一人で勇気を振り絞って、お前たちと話をしようとしてる。……怖いのは、あの子も一緒だよ。お前と同じさ。たとえ強い力を持っていても、中身はお前と同じ、女の子なんだ」

 

 もしもダメだったら。友達になれなかったら。そう考えると、胸が苦しくて、泣いてしまいたくなることだろう。とりわけフランは、誰かと一緒にいた時間よりも、ひとりぼっちで過ごした時間の方がずっと長いから。

 だがそれでも、あの子は、一人で戦い続けている。

 

「だから、もう一度言おう。……あの子のことを、見てあげてほしい。吸血鬼としてではなく、一人の女の子として。一人で頑張っているあの子の勇気を、見て見ぬふりだけは、しないでほしい。

 そこから先は……お前が考えて、決めることだ」

 

 妖精と吸血鬼としてではなく、同じ女の子同士として。そうしてお互い歩み寄ることができれば、それはきっと、素晴らしいことだから。

 

「……私、」

 

 大妖精が、ぽつりと言った。俯けていた顔を上げて、

 

「私、月見さんに相談して、よかったです。ありがとうございます」

「……どういたしまして」

 

 その微笑みが、迷いを吹っ切ったように晴れやかだったから、月見も笑った。

 

「そうですよね。フランさんは私たちと話をしに来てるんですから、私たちが決めないとダメですよね」

 

 見違えるほどまっすぐで、揺るぎない言葉だった。

 

「私、フランさんと話をしてみます。フランさんが、どんな女の子なのか、知ってみようと思います。フランさんと同じ、自分一人の力で」

「……そっか」

 

 大妖精は、本当に妖精なのだろうか。人間の子どもと比べても遜色ない――いや、人間の子どもですら、ここまで聡明な子は稀だろう。

 たまらず、大妖精の深い緑の髪をくしゃくしゃと撫でた。

 

「お前は偉いな、ふみう」

「ひあっ……ちょっ、撫でないでくださ――っていうか、またふみうって呼びましたね!? もおーっ!」

「もうこれ、お前のあだ名でいいんじゃないか?」

「絶対に嫌ですッ!!」

 

 ていっ! と手を払い除けられた。ほっぺたをりんごみたいにして大妖精がなにかを言おうとするが、その前に月見が、

 

「頑張ってな」

「え? あ、はい……うー、なんか丸め込まれてるような」

 

 大妖精はしばらくほっぺたを膨らませたままだったが、やはりというか、また「月見さんだし言うだけムダか……」な顔でため息をついて、縁側から飛び降りた。

 

「……話を聞いてくれて、ありがとうございました。なんだか素直に感謝できませんけど」

「気のせいさ」

「気のせいじゃないですっ! アレで私を呼ぶのは、もうこれっきりにしてくださいよ!?」

「わかったよ、ふみう」

「……お、怒ってもいいですよね!? これは私、本気で怒らないとダメなんですよね!?」

「気のせいさ」

「……あ、頭に強い衝撃を与えてピンポイントに記憶を……そうすれば月見さんも正常に……」

「ははは、どうしたそんな太い木の棒なんか持ち出して――危なっ!?」

「よ、避けないでください! 大人しくぶたれてください、これはあなたのために必要なことですっ!」

「なるほど、これが撲殺妖精大ちゃんというやつかい」

「もおおおおおおおおおおっ!!」

 

 木の棒をぶんぶん振り回して暴走する大妖精、それをのんびり尻尾でいなす大妖怪。

 二人のじゃれ合いは、やがて庭の手入れにやってきた妖夢が「月見さんを狙う刺客っ!?」と盛大に誤解し剣を抜き放つまで続いた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ふーん。じゃあ結局、今回もあなたの世話焼きは発揮されたわけね」

「向こうからきた相談に乗っただけだよ。だからノーカウントだ」

 

 月見が断固として言い返すと、パチュリーは無言のまま肩を竦めた。まったくもう、とでも言いたげな反応だった。

 住処へ戻る大妖精を見送った月見は、妖夢に庭の手入れを任せ、すぐに支度をし紅魔館までやってきていた。昨晩、咲夜に頼まれたのだ。もしレミリアが本当に暴走してしまったら自分たちでは止められないから、様子を見に来てくれないかと。

 もちろん、二つ返事で了承した。ようやくあと一歩のところまでやってきたのだから、今更台無しにされるわけにはいかないのである。

 

「フランにバレたら怒られるわよ? ……って、もう何度も言ってるけど」

「なあに。狐だし、誤魔化すのは得意だよ」

 

 なにも知らないフランがいつも通り出発したら、咲夜が知らせに来てくれる手筈となっている。それまで月見は大図書館で待機し、パチュリーとのんびり世間話なのであった。

 館内に置かれた休憩用の丸テーブルで談笑していると、小悪魔がお茶を淹れてきてくれた。

 

「月見さん、お茶が入りましたよー」

「ありがとう、こぁ」

 

 今となっては小悪魔に、『こぁ』という愛称で呼ぶことも許されるようになった。

 

「日本茶を淹れてみましたよー。まあ、咲夜さんと比べればお粗末だと思いますけど」

「いや、咲夜は……なんというか、例外だろう」

 

 咲夜が淹れるお茶の美味さは、上手く言葉にできないが、普通とはひとつ違う次元に昇華されているように思う。外の世界で喫茶店でも始めれば、瞬く間に超有名人気店となって大繁盛するだろう。

 小悪魔からコーヒーのカップを受け取ったパチュリーが、ふっと笑った。

 

「頑張って練習――というか、あれはもう研究ね。この前、レミィが実験台にさせられてたわ。もう当分、日本茶は見たくもないそうよ」

「……そうか」

 

 確か何ヶ月か前の春に、レミリアは同じ理由から紅茶で泣かされたのではなかったか。お茶が弱点な吸血鬼が誕生するのも、そう遠い未来ではないのかもしれない。あまり深くは考えないようにしようと月見は思う。

 小悪魔のお茶を一口飲んでみると、普通に美味しい。

 

「なんだ、私なんかよりもよっぽど上手じゃないか」

「あ、本当ですか? よかった、ちょっとだけですけど練習した甲斐がありましたー」

 

 小悪魔のこめかみあたりから伸びた一対の羽が、ぴこぴこと照れくさそうに揺れた。彼女の感情と連動しているらしく、嬉しいことがあった時は今のようになり、悲しいことがあった時はへんにゃりと垂れ下がる、犬の尻尾みたいな羽であった。

 

「ところで当たり前みたいに付き合ってもらっちゃってるけど、研究の方は忙しくないのか?」

「大丈夫よ、ちょうど一区切りついたところ。……そうでなくとも、あなたと話をするのはいい息抜きになるからね」

「こんなこともあろうかと、朝一でシャワーも浴びましたしね――はうっ!?」

 

 パチュリーが、魔導書の角――金具で武装済み――で小悪魔の脇腹を思いっきり殴った。運悪く骨に当たったらしく、だいぶ痛烈な音がした。

 

「ふおおおぉぉ……」

「こぁ。私は、からかわれるのが嫌いよ」

 

 テーブルの縁に手を掛けて座り込み、脇腹を押さえてぷるぷる青くなる小悪魔を、七曜の魔女はとても冷ややかな眼差しで見下ろしていた。

 苦笑している月見に気づいて、空咳。

 

「……ところで、新しく魔導書を読んでみる気はないかしら。この前、よさそうなのをひとつ見つけたのよ」

「そうだね……それじゃあ借りてみようかな。最近読んでなかったし」

「そう。……わからないことがあったら遠慮なく訊いて頂戴。私にとってもいい復習になるしね」

 

 別に、今更になって魔法使いを目指しているわけではない。だが月見は元々読む本を選ばないし、パチュリーも、魔法理論について落ち着いて語り合えるパートナーを欲しているフシがあった。一応、魔法使い仲間の魔理沙とアリスがいるものの、片方とは価値観が違いすぎてすぐ口論となったり、もう片方とは性格が噛み合わずなかなか話ができなかったりと、パチュリーにとってはいささか物足りないらしい。

 一見すると口数の少ない寡黙な少女だが、根はお喋り好きなのだ。そういえばこのところ、月見に対して笑顔を見せてくれる頻度が増えた気がする。

 うずくまってぷるぷる震えている小悪魔が、青い顔で無理やり笑った。

 

「パチュリー様、月見さんから質問してもらえるようにわざと難しい本――はぎゃあっ!?」

 

 今度は脳天だった。床に崩れ落ちた小悪魔は両手で頭を押さえ、おおおぉぉ……と少女らしからぬ低音で悶絶していた。

 パチュリーがまた咳払い、

 

「あなたの知識なら問題ないはずよ」

「……そうか」

 

 それが照れ隠しの類なのは、微妙に赤くなった頬から一目瞭然だったが、月見はなにも言わなかった。ただ今度から、わからないことがあったら頼りにしてみようと思う。

 それから涙目な小悪魔を慰めたり、パチュリーとまた世間話を続けたりして、お茶がそろそろ飲み終わる頃合い。

 

「――だ~れだ」

「む」

 

 いきなり目の前が見えなくなった。どうやら目隠しをされたらしく、月見の体温よりも少し温かい、ほんのりとした指の熱を感じる。

 気配などまるで感じなかったから、犯人など言わずもがな。

 

「……咲夜。時間を止めてやってくるのはやめてくれないかな、心臓に悪い」

「ふふ、正解です」

 

 指の感触が消え、元の視界が戻ってくる。肩越しに振り返れば、楽しそうに、そして少し恥ずかしそうに、はにかみながら月見を見下ろしている咲夜がいる。

 パチュリーがぽつりと、

 

「うん……なかなか積極的になってきたじゃないの」

 

 確かにこのところ、咲夜からのスキンシップがやたら親密に――というか、小悪魔的な一面を覗かせるようになってきている。今のようなちょっとしたいたずらもそうだし、時にはさらりと文句を言ってみたり、これみよがしに不機嫌な態度を取ってみたり。お陰様で、初め出会った頃とはもう随分と印象が変わってしまった。

 もちろん、年頃の女の子らしくて大変結構だと思う。時々困るけれど。

 さておき、そんな彼女がやってきたということは。

 

「時間か?」

「はい。妹様が霧の湖に向かいました。お嬢様も、間もなく出発すると思います」

「ふむ。では、私も行くか」

 

 残りのお茶をひと飲みで片づけて腰を上げると、パチュリーが呆れるようにため息をついた。

 

「本当に世話焼きなんだから」

「別になにもしやしないよ。レミリアが暴走すると困るから、様子を見に行くだけだ」

「それが世話焼きなんだってば」

 

 まあ、フランは月見にとって娘みたいな存在だから、その分どうしても気になってしまうのだ。

 

「悪いけど、魔導書はまた今度ね」

「はいはい。いってらっしゃいな」

「こぁ。お茶、ご馳走さま」

「あ、はい。お粗末さまですー」

「……月見様、小悪魔のお茶を飲んだのですか?」

 

 と、咲夜が空になった湯飲みを見下ろし目を眇めた。若干不機嫌そうな声で、

 

「……美味しかったですか?」

「ん? ああ、それはもちろん」

「ちょ!? 月見さん、咲夜さんの前でそれは」

 

 小悪魔が顔を真っ青にして叫んだが、遅かった。

 例の、かわいらしいのにやたら有無を言わさぬ圧力がある笑顔だった。

 

「小悪魔。今日の夜のお茶の練習、付き合ってくれないかしら」

「……あー、せっかくなんですけどそのー、パチュリー様から本棚の整理を頼まれてて」

「別にあとでいいわよ、急ぎでもないし」

「パチュリーさまあああああっ!?」

「じゃあ決まりね。付き合いなさい」

「…………ぐすっ」

 

 ああ、と月見はようやく合点が行った。咲夜は、お茶で客をもてなすことに対して並々ならぬこだわりと誇りを持っている。そんな彼女の前で他の人が淹れたお茶を褒めたのは、少々迂闊だったかもしれない。

 咲夜は、意地になった子どもみたいな顔をしていた。

 

「月見様。私、負けませんから」

 

 いや、どちらが美味しかったかとなればもちろん咲夜の方なのだが、しかし小悪魔の前でそれを言うのもどうかという話であり、

 

「……まあ、なんだ」

 

 結局、

 

「その……頑張って」

「はい。頑張りますから」

「月見さーん!?」

 

 すまない、こぁ。

 がっくり膝から崩れ落ちた小悪魔に、月見は心の中で詫びた。

 日本茶がトラウマな悪魔の誕生まで、あと半日ほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、月見さん。ついさっき、お嬢様が湖の方に行きましたよー」

「ああ、ありがとう」

 

 ここへやってきた時はまだ背の低かった太陽が、いつの間にかすっかり高くなって、伸びる白雲や突き抜ける青空とともに空を眩しく彩っている。夏本番を乗り越えいくらか暑さも和らいだとはいえ、まだまだ秋の足音は遠い。

 月見が咲夜と一緒に外へ出ると、門の近くにこしらわれた花壇で、美鈴が花たちの手入れをしていた。日頃から紅魔館の門を守る彼女のささやかな息抜きが、武術の型稽古であり、シャベルやジョウロを片手に花壇の世話をすることだった。

 

「幽香さんからもらった種、もうすぐ咲きそうなんです」

「ふうん……幽香か」

 

 月見の脳裏で、赤いチェックのスカートがふわりと翻る。幻想郷を代表する大妖怪である彼女は、月見が未だ再会できていない古馴染みの一人だった。『フラワーマスター』の異名を取るほど緑を愛する所以か、昔から四季の彩りを求めてあちこち放浪する癖があって、今も長らく太陽の畑を留守にしているらしい。恐らく、もうそろそろ帰ってくるとは思うのだけれど。

 美鈴がタオルで流れる汗を拭き、苦笑した。

 

「で、お嬢様ですけど。だいぶ根詰めた顔してたんで、よろしくお願いしますね」

「そうか……じゃあ、早く追いかけた方がよさそうだね」

「お留守番よろしくね」

「はい、わかりま――って、あれ? 咲夜さんも行くんですか?」

「私が頼んだんだよ。一緒に来てくれると心強いからね」

 

 もしも万が一があった際、彼女の能力ほど頼りになるものもないだろう。咲夜は一見クールな表情を装っていたが、ほんのちょっぴりだけ、口の端が得意そうに緩んでいた。

 

「どこかの門番と違って、月見様にご迷惑はお掛けしません」

「だから、なんで私が迷惑を掛けた前提になってるんですかっ。私、むしろ活躍したんですからねあの時!? いくら私が月見さんと一緒に出掛けたのが羨ましいからって」

 

 咲夜の瞳がギラリと光り、前回に引き続きチャイナ帽子のはやにえができあがった。

 美鈴が涙目で、

 

「咲夜さんっ、それ本当に危ないのでやめてくださいよおっ!? っていうかまた帽子があああっ!」

「あなたが私をからかわなければいいだけの話よ」

「い、いいじゃないですかこのくらいぃ~……! 月見さんからも、なにか言ってやってくださいっ」

「仲いいね」

「……ぐすっ」

 

 至って本心から言ったつもりなのだが、美鈴は両膝を抱えて座り込み、シャベルでザクザクと土いじりを始めてしまった。

 

「では月見様、早く行きましょう」

 

 それを、咲夜は息をするように無視した。美鈴の土いじりが激しくなった。

 

「……美鈴。今度、差し入れでも持ってくるから」

「あ、本当ですか? わあい、楽しみにしてますね。……ふふふ、私に優しくしてくれる人なんて月見さんくらいですよ。いや構ってもらえるのは嬉しいんですけど、もう少しこう、労りというか思い遣りというか……」

 

 やっぱり嬉しいんじゃないか。

 いじられることに喜びを見出す美鈴を操と同じカテゴリーに分類しつつ、月見は霧の湖へ向かった。前回同様、湖が近くなったあたりから忍び足で進んでいくと、レミリアの姿はすぐに見つかった。この日もやはり手頃な茂みに隠れて、ハラハラドキドキと目の前の光景を見守っている。

 ハラハラドキドキしているということはつまり、

 

「――あんたもいい加減しつこいわねっ! もっとてってーてきにやっつけてやんないとわかんないの!?」

「だ、だーかーらー! 私は、話を聞いてほしいだけなんだってばーっ!」

 

 前回見た光景となにが違うのかといえば、今日は霧が濃くないので離れたところからもよく見える、といった程度だろうか。問答無用で弾幕をぶっ放すチルノと、それを日傘片手で必死に回避するフランの姿は、数日前からまったくといっていいほど進展していなかった。

 咲夜が小声で、

 

「……とりあえず、お嬢様と合流しましょう」

「そうだね」

 

 レミリアの一生懸命なささやき声が聞こえる。

 

「フランッ、どうしてやり返さないの……!? そいつは言葉が通じないいじめっ子なんだから、立ち向かわなきゃダメよっ!」

 

 心配性なお姉さんは、エキサイトしすぎて見事な中腰になっていた。首から上が完全に茂みからはみ出ていて、バレていないのが奇跡に近い。

 すぐに咲夜が動いた。

 

「先に行ってますね」

「ああ」

 

 咲夜の姿が隣から消え、レミリアの真横に屈んだ体勢で出現する。咲夜の便利な能力を大変羨ましく思いながら、月見は物陰にこそこそと隠れて、四つん這いの恰好で進んでいく。

 

「お嬢様」

「――ッ!?」

 

 名を呼ばれるまで、レミリアは真横の咲夜に気づかなかったらしい。

 

「さ、咲夜? あなたも来てたの?」

「はい。月見様も一緒ですよ」

 

 レミリアがこちらを振り返る。月見は四つん這いの体勢のまま、とりあえず、やあと片手を挙げてみる。

 変なモノを見る目が返ってきた。

 

「……あなた、そんな恰好でなにしてるのよ」

「私はお前みたいに小さくないんだ。普通にしてたら見つかっちゃうだろう」

 

 まあ、いい歳した男が四つん這いで地面を進む姿の間抜けさは認める。今更だが、狐の姿になっておけばよかったかもしれない。

 ともあれようやくレミリアたちと同じ茂みまで辿り着いたので、胡座を掻いて、頭を低くした。

 

「レミリア、お前もしゃがまないと。完全にはみ出てるぞ」

「おっと……」

 

 レミリアが帽子を両手で押さえ、ぺたんとその場に座り込む。脚を『ハ』の字に開く女の子座りは、彼女の幼い外見にとてもよく映える。フランもよくこういう座り方をしているから、性格が正反対でもやはり姉妹なのである。

 レミリアは、だいぶ邪険な目をしていた。

 

「……あなたまで、なにしに来たのよ。言っておくけど私は戻らないからね」

「なに、私もフランが気になってね」

「あなたもフランが心配なのねっ?」

 

 一瞬で嬉しそうな目になった。

 

「よしわかったわ、一緒に出てってあの生意気な妖精をぶっ飛ばしましょう! ついてきなグエ」

「待て、待て」

 

 勝手に自己完結して飛び出していこうとしたレミリアを、月見は襟首引っ掴んで強引に連れ戻す。なにすんのよ! と暴れる彼女を膝の上に乗せて、

 

「落ち着けって。ここでお前が出て行っちゃったら、フランの今までの頑張りが水の泡じゃないか」

「で、でも!」

「フランを信じて、もう少し様子を見てみよう」

「ぐぬ……」

 

『フランを信じて』の部分を強調して言うと、レミリアはあっさりと大人しくなった。束の間、月見の膝の上という自分の状況について葛藤したようだったが、結局抵抗することもなく、

 

「……でも実際、このままじゃ進展があるとは思えないわ。あの妖精、フランの言葉にまるで聞く耳持たないんだもの」

 

 月見の膝にすんなり収まった主人を見て、咲夜が目を丸くしている。月見もどういう風の吹き回しなのか不思議に思ったが、どうあれ大人しくなったのは好都合なのでなにも言わない。

 

「確かに、チルノだけが相手なら難しいだろうけど……このあたりに棲んでる妖精は他にもいるだろう?」

 

 具体的には、大妖精とか。

 

「それはそうだけど、ここで出てこないならいないのと一緒よ! やっぱり私たちが止めるしかないのよ!」

「それで悲しむのはフランだよ」

「……うー!」

 

 レミリアが両足をばたばたさせて不満を露わにするが、確かに。

 迷いの晴れた微笑みで、話をしてみると誓ったのだ。大妖精が、今の状況に見て見ぬふりをしているとは思えない。まさか、どこかへお出掛けしている最中とでもいうのだろうか。

 最悪のタイミングである。チルノの弾幕は途切れることを知らないし、フランも、情け容赦ない拒絶の弾幕に気力と集中力を削がれ、動きが目に見えて悪くなってきている。体を何度も弾幕が掠り、そのたびにレミリアがじたばたと暴れる。月見が両腕で抑えつけ、咲夜が言葉で説得してなんとか宥めているものの、これでは時間の問題だ。チルノの弾幕がフランを直撃すれば最後、咲夜を押しのけ月見を蹴散らし、霧の湖に怒りのスカーレットデビルが君臨し――

 そんな最悪の想像が月見の脳裏を過ぎった、その時であった。

 

「チルノちゃ――――――――ん!!」

 

 待ちに待った声が響いた。湖の薄霧を全身で切り裂いて、小さな人影が妖精らしからぬ猛スピードですっ飛んでくる。驚いて振り返ったチルノは、流星みたいに迫ってくる緑のサイドテールを見て目を輝かせた。

 

「あ、大ちゃん! いいところに来たわね、この吸血鬼やっつけるの手伝ってよ!」

 

 フランの表情が張り裂けるように歪み、レミリアの暴走はいよいよ最高潮へと到達する。顔を殴られるわ腕を引っかかれるわ、胸にヘッドバットされるわかかとで脚を蹴りつけられるわ、月見はもうほとんど前を見ることもできず、咲夜の何事か必死な声を聞きながら、辛うじてわかったことといえば大妖精が猛スピードのままチルノに

 

「チルノちゃんのばかあああああぁぁぁ!!」

「ガッ」

 

 チルノにラリアットをかました。

 ラリアットをかました。

 ラリアット、

 

「……うわぁ」

 

 それは果たして、誰の声だったのか。レミリアだったのかもしれないし、咲夜だったのかもしれないし、ひょっとしたら月見自身だったのかもしれない。呆気にとられるあまりそんなこともわからなかったが、しかしこれだけは断言できた。みんなドン引きだったのだと。

 時が止まった、気がした。

 撲殺妖精大ちゃんが放つ流星ラリアットを喰らったチルノは、竹とんぼを上から眺めるように回転し、そのまま湖へ真っ逆さまに落下。首をモロに刈り取られた以上耐えられるはずもなく、控えめな水柱を上げて、湖をぷかぷか漂う物言わぬ屍と化した。

 

「……」

 

 沈黙する月見たちの先で、くるりと縦に一回転して立ち止まった大妖精が、ほっぺたをぷんすかと膨らませて、

 

「チルノちゃんっ、ちょっと出掛けてくるから吸血鬼さんが来たら待ってもらっててって言ったでしょ!? 私の話聞いてなかったの!?」

 

 少なくとも今は聞いてないだろうよ、と月見はぷかぷかするチルノを眺めながら思う。

 

「……な、」

 

 レミリアがようやくそれだけ言った。

 

「な、……なかなか筋のいい一撃だったじゃない。喰らったら私もただじゃ済まないわね」

「……お嬢様、落ち着いてください」

「……敵ながら哀れだわ」

 

 チルノだって、決して悪いことをしていたわけではない。フランの言葉に耳も貸そうとしなかったのは事実だけれど、それだって仲間を守ろうとしてのことであり、仲間を強く想うが故の行動だった。

 その結末が、相方の情け容赦ない流星ラリアット。

 もしかすると妖精の中で一番強いのは、チルノではなく大妖精なのかもしれない。

 

「チルノちゃん、聞いてるの!?」

「……あ、あのー……その子、気を失っちゃってて聞こえてないと思うんだけどー……」

 

 ようやく我へと返ったフランが、おずおずと大妖精に声を掛ける。腰が完全に引けている。「こ、これ、逃げた方がいいのかな?」と考えていそうな顔である。

 大妖精がすごい勢いで振り返って、すごい勢いで頭を下げた。

 

「ごめんなさいっ! うちのチルノちゃんはほんっっっとにバカで、こうでもしないと話を聞いてくれないの!」

「……えっと、うん、大変だね」

 

 大変なのは、チルノに振り回される大妖精なのか。それとも、大妖精に撲殺されるチルノなのか。

 

「今までも、ずっとチルノちゃんが迷惑掛けてたよね! ごめんなさい!」

 

 フランが慌てて両手を振った。

 

「う、ううん! その、私って吸血鬼だし、こうなっちゃうのも仕方ないかなって……」

「……ごめんなさい。私、あなたのこと怖がってて、今までずっと隠れて見てるだけだった」

 

 ずっと――本当にずっとだった。幽閉を解かれたフランと初めて出会った時からずっと、恐怖に負けて目を逸らし、耳を塞ぎ、なにも知らぬふりをしてきた。こうして言葉を交わすのも、フランの前に自分から姿を現すことすらも、今が紛れもない初めてだったはずだ。

 フランが一人で頑張っているから、自分も頑張ると決めた。

 

「でも……あなたがこんなに頑張ってるのに、私だけ逃げてちゃダメだって、思ったから」

 

 迷っていたのも、怖がっていたのも、もう全部昔の話。

 そうして大妖精が紡いだ言葉は、フランがずっと願い続けてきた――

 

「……話、しよっか」

「……!」

 

 小さな笑顔と、小さな掌。フランが息を呑み、動きを止めたのなど一瞬で。

 あっという間に目元が潤み、頬が引きつり、こらえきれず崩れた唇からかすかな嗚咽がこぼれる。それを両手で覆い隠しながら、フランは頷いた。

 震える体をいっぱいに動かして、何度も、何度も。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……さて。ここからはもう、私たちが見守る必要もないだろうさ」

 

 茂みから覗けば、湖の畔に並んで座り、たどたどしくも楽しげに言葉を交わす二つの背中が見える。湖から引き上げられた物言わぬチルノが傍で転がっているが、それも大したことではないと思えるほどに、その光景はあたたかかった。

 もう心配は要らない。

 月見は胸を撫で下ろすように一息ついて、ぽけーっとしていたレミリアの肩を叩いた。

 

「それじゃあ、お邪魔虫はさっさと退散しようか」

「……え? あ、ああ、そうね。そうしましょう」

 

 レミリアは、拍子抜けするほどに大人しかった。普段の彼女なら、「いいえっ、まだ油断はできないわ!」とでも言ってしつこく食い下がりそうなものなのに、抵抗らしい抵抗もせず月見の膝から降りてしまう。

 そして茂みの向こうに広がる光景を見て、またぼんやりと固まってしまう。

 

「……お嬢様?」

 

 咲夜が小首を傾げた。レミリアの顔に浮かんでいたのは、フランの想いが届いたことへの安堵でもなく、意地悪妖精を懲らしめられなかったことへの未練でもなかった。ただその場で、ゆっくりと息を吐いて、

 

「……そうね。帰りましょう。きっともう、大丈夫」

 

 小さく笑い、月見の隣を通り過ぎて、不気味なほどあっさりとその場をあとにしてしまう。

 あれだけフランを心配していたのが、まるで嘘のように。

 咲夜すら置いて、たったひとり。

 

「どうしたんでしょう……?」

「……」

 

 レミリアが一体なにを思っていたのか、長年の付き合いである咲夜ですらわからないのだから、当然月見にだってわからなかった。ただ少なくとも、これだけは断言できた。

 あれは嬉しい時に浮かべる笑みではない。寂しい時に使う笑みだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――正直ね。私、フランにはできないと思ってたのよ」

 

 私の部屋に、ひとりで来なさい。必ずよ。

 紅魔館へ戻った月見に美鈴が伝えた、レミリアからの伝言であった。それは月見が、紅魔館の住人たちと出会って以来初めて、レミリアの部屋へ招かれた瞬間でもあった。

 紅魔館の主人としてのプライドなのか、はたまた単純にそういうお年頃なのか。レミリアは、自分の部屋に身内以外の者が近づくのをひどく嫌っていた。身内とは要するに、フランと咲夜、美鈴、パチュリー、小悪魔の五人であって、それ以外ではお手伝いの妖精メイドすら入室は許されていないという徹底ぶりだった。

 部外者でしかも男の月見など、まさに以ての外である。いつだったかフランに連れていかれたことがあったが、その時部屋の主から飛んできたのは、赤面絶叫付きの情け容赦ない飛び蹴りであった。掠れかけた意識の中で、「かかかっ勝手に入ってこようとすんじゃないわよ! いくらあなたでもそこまで気を許した覚えはないわよ! まだ!」とか叫んで暴れるレミリアを、フランが必死に羽交い締めしていたのは覚えている。

 そんな気難しいお嬢様が今日になって突然、一体どういう風の吹き回しなのか。首を傾げながら部屋を訪ねた月見に、レミリアはなにも言わなかった。

 なにも言わずにベッドの縁を叩いて、月見を座らせ。

 そうして自分はベッドの上に寝転がり、天蓋を見上げて。

 意地っ張りなレミリアが初めて月見に見せる、小さくて弱い、お姉さんの姿だった。

 

「妖精相手に話なんて通じないとか、そんなんじゃなくて。フランにはまだ、自分だけの力で誰かと友達になったり、できないんじゃないかって」

 

 レミリアの性格が妹とほぼ百八十度違っているように、部屋の内装もまた、フランのそれとは正反対だといえた。ぬいぐるみや絵本といったものは影のひとつもなく、フランの部屋を鮮やかに彩っているピンクや黄色などの色合いが、ここからはすっかり抜け落ちてしまっている。広い間取りと立派な家具のお陰で一見すると豪華絢爛だが、一方で余計なものはほとんどなにも置かれておらず、数世紀を生き続けた歳月そのものを表すように落ち着いている。

 背中の方から、レミリアの声が聞こえる。

 

「私のせいとはいえ、今まで外とほとんど交流がなかった子だもの。あなたの屋敷で宴会をやってからは、みんなから妹にしたいとか言われてたけど、それもその場限り。とても友達って呼べるような人はいなくて……だから、誰かと友達になる方法なんて、あの子は知らないはずなのに」

 

 月見は肩越しに後ろを振り返る。両腕をめいっぱい伸ばせそうなほど広いベッドで横になり、レミリアは顔を反対側へ傾けている。空色の髪に隠れて表情は見えないけれど、さっきからやたら饒舌なその声音に、普段の威勢のよさはかけらも見えない。

 

「だから最終的には、私が出て行かないとって思ってたのよ。最後には私が出て行って、橋渡しをしなきゃなんないんだって。……でも結局、考えすぎだったみたいね」

 

 天蓋を見上げた彼女は、右手の甲を額に乗せて、くしゃりと目を細めた。

 

「過保護だって自覚はあったわ。でも、必要だとも思ってたのよ。あの子にはまだ、紅魔館の外で一人でやっていけるほど知識も経験もないから、私が見ていないとダメなんだって。

 ……でも、違ったみたい。あの時のフランの背中を見て思ったわ。ああ、この子は私が思ってるほど弱くなんてなかったんだな……って」

「……」

 

 月見はベッドの縁で斜めに座り直し、レミリアを見下ろした。まるで見上げる先に太陽があるかのように、彼女は眩しそうな顔をしていた。

 脳裏に焼きついているなにかが、眩しすぎて、妬ましい。

 そんな、唇を噛むような、か細い声だった。

 

「あの子は私が思ってた以上に強かった。だから、なんていうのかしらね……ちょっとだけ悔しかったのよ。こう言うと言葉悪いけど、本当に自分だけでやっちゃったフランが、生意気だなあって。少しくらいは私を頼ってほしかったなあって」

 

 ああ、そうか。霧の湖を去る間際に見せた、レミリアのあの寂しそうな笑みは。

 すべて合点がいって、月見は知らず識らずのうちに、レミリアの頭へと手を伸ばしていた。

 

「……ちょっと、なにするのよ」

 

 半目で睨まれる。レミリアの綿毛みたいに柔らかな髪を指で梳きながら、月見は微笑む。

 

「なに。お前は本当に、いいお姉さんだと思ってね」

「んなっ……」

 

 レミリアの頬が、じわじわと真っ赤に染め上がっていく。なにかを言い返そうとして、口がぱくぱくと動いている。しかし結局それらしい言葉も出てこなかったのか、逃げるようにそっぽを向いて、

 

「ちゃ、茶化さないで頂戴っ」

「茶化してなんかないさ。……本当に、いいお姉さんになったもんだ」

 

 家族が頼ってくれなかったから、ちょっとだけ寂しくて、悔しい――初めて出会った頃の、歪んだ愛情を抱えていた彼女からは想像もできない。変わっているのはなにもフランだけではなかった。レミリアだっていつの間にか、月見が見違えるほどに成長していた。

 レミリアはそっぽを向いたまま、寝返りを打って月見に背を向けた。

 

「……ま、まあ」

 

 きゅっと体を丸め、もぞもぞとした声で、

 

「私だって、学ぶ時は学ぶわよ。幸い、近くに世話焼きな誰かさんがいるし……手本には困らないというか……」

 

 青い髪の隙間から覗く耳たぶは、まるで茹でダコのようで、

 

「だ、だから、その、」

 

 最後はもう、蚊が鳴くように弱々しく、

 

「あなたと出会ったのは、まあ……それほど悪くはなかったって、思わなくも……ない、かしらね」

「ッハッハッハ。それはまた、光栄だね」

 

 一体誰が予想しただろう。あの意地っ張りでわがままなお嬢様から、こんな言葉を掛けられるなんて。

 ここでレミリアの頭をわしゃわしゃと撫でくり回したら、台無しだろうか。けれど、そうやっていじってやりたくなるほど光栄だったのは紛れもない事実だ。

 

「あ、あー……そういうわけだから、そのー……」

(……ん?)

 

 と。レミリアがまだなにかを言おうとする中、月見は廊下をとてとてと走ってくるかわいらしい足音に気づく。

 紅魔館の廊下をああやって走る人物を、月見は一人しか知らない。ただこの日はいつもよりずっと上機嫌で、スキップを踏むように明るく弾んでいた。

 だから月見は、ああそうか、と思って。

 

「い、いいかしら。一回しか言わないわよ。だからよく聞きなさい」

 

 レミリアがぶつぶつと何事か言っているが、足音はもうすぐそこまで近づいてきていて、

 

「あっ、……ありが」

「――お姉様っ!!」

 

 次の瞬間飛び込んできたフランに、なにもかも掻き消されてしまった。

 驚いて跳ね起きたレミリアの口が、続きを紡ぐことなく『が』の形のままで固まった。元気いっぱい飛び込んできたはずのフランも、くるりと目を丸くして固まっていた。しかしその原因である月見が「やあ」と手を振ると、フランはすぐもとの笑顔を弾けさせ、

 

「つっく、みーっ!」

「おっと」

 

 両手をいっぱいに広げて、月見の胸に飛び込んでくる。普段の突進攻撃みたいな勢いはなく、ボールが跳ねたようなフランの体はすっぽりと月見の腕の中に収まった。

 フランが月見の胸にほっぺたをぎゅうぎゅう押しつけていると、レミリアがようやく再起動した。

 

「フ、フラン、あなたなんてタイミングで」

「おねえさまー!」

「きゃあ!?」

 

 フランがレミリアにもアタックする。不意を衝かれたレミリアは受け止められず、二人仲良くベッドに倒れ込む。

 

「こらっ、いきなりなにするの!」

「えへへー」

 

 過保護スイッチをポチッとオン、レディとしての嗜みに欠ける妹をレミリアはすぐさま説教しようとしたが、自分の胸の上でふわふわ笑うフランを見るなり一秒で玉砕した。「ガフッ」と一撃必殺だった。普段ではありえない積極的なスキンシップに、妹大好きお姉ちゃんは早くも息絶え絶えであった。

 レミリアが顔を両手で覆ってぷるぷるするばかりなので、代わりに月見が、

 

「どうした、フラン。随分とご機嫌じゃないか」

「あ、そう? やっぱりそう見える?」

 

 そりゃあもう、全身から幸せのマイナスイオンが放たれて、レミリアが過剰摂取で死にかけているほどだ。

 レミリアは、だらしない笑顔を必死にこらえるあまり顔のあちこちが引きつって、ちょっと不気味な感じになっていた。それでもなんとかフランを見返し、

 

「い、一体どうしたの? なにか、いいことでもあったのかしら」

 

 なにがあったのかなんて、本当はレミリアも月見もわかっているのだ。それでもわからないふりをした。レミリアと月見は、フランの頑張りなど露も知らないという設定になっているし。

 なにより、フランの口から直接、答えを聞きたかったから。

 フランは、うんっ! と大きく大きく頷いた。

 

「あのね! とっても――」

 

 月見もレミリアも、今日という日をきっと永遠に忘れないだろう。

 甘えん坊だった少女が。

 弱かったはずの妹が。

 

 

「――とっても、いいことがあったの!」

 

 

 ――自分の翼で、大空へと羽ばたいていった日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……そういえばレミリア。フランが部屋に入ってきた時、なにか言いかけてなかったか?」

「え!? ……な、なんでもないわよ、バカッ!!」

「え、なになにー? ……あ、もしかしてあれ? 今度こそ月見にありがとうって」

「わああああああああああっ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第73話 「茜空より、赤く眩しく」

 

 

 

 

 

 八雲紫という少女のことを、誤解している者たちは随分と多い。

 幻想郷を管理する神の如き存在であること、鬼子母神と双璧を成す幻想郷最強の大妖怪であること、境界を意のままに操る規格外の能力を持っていること、ぬらりくらりと底が知れない不気味な性格――というキャラ作り――をしていること等々、理由はいくつかあるけれど、ともかく八雲紫は強大で恐ろしい妖怪なのだという噂が、幻想郷の一部ではまことしやかに囁かれているらしい。

 荒唐無稽もいいところだと月見は思う。

 噂を鵜呑みにしている連中たちに、見せてやりたい。

 

「――月見っ、お出掛けしましょっ!」

「ぐふっ」

 

 なんの前触れもなくスキマで天井から降ってきて、満面の笑顔でボディプレスしてくる少女の、一体どこが恐ろしい大妖怪なのか。

 噂とはまこと、当てにならないものである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ああ、前に言ってたやつだね」

「そうそう!」

 

 もう先月のことだ。外からの荷物運びを手伝ってもらう代わりに、一緒に街を歩いて遊ぶという約束を紫と交わしたのは。

 時の流れとは不思議なもので、未来を見据えるとものすごく長く感じるくせに、過去を振り返った途端にものすごく短く感じる。一時間も一日も、一週間も一ヶ月も一年も、あとになってから振り返ればみな等しく一瞬だ。要するにいつまでも続くと思われた真夏日がいつの間にか和らいできているのは、それとまったく同じ理屈なのだ。

 日中はまだまだ暑いけれど、夜は随分と過ごしやすくなった。暦の上でも、夏はもう終盤に差し掛かっている。この調子ならきっと、ふと気がついた時には紅葉が始まっているのだろう。

 だからだろうか。月見を押し倒し、腹の上で馬乗りになって、紫は遊園地へ行く直前の子どもみたいにはしゃいでいた。

 

「向こう、今日はかなり涼しいみたいなの! 夏としては異例なくらいだって!」

「へえ……それはなによりだね」

「でしょでしょ!? だからほらっ、お出掛けしましょ!」

 

 きゃいきゃいとはしゃぐのは構わないのだれど、人の腹の上でゆさゆさ動くのは、息がしづらくなるからやめてほしい。

 

「わかった、わかったからまずは降りてくれ。また増えたんじゃないか?」

「ふぎゃん!?」

 

 破邪の言霊を喰らった紫が、胸を押さえて月見の腹の上から転げ落ちるという芸人ばりのリアクションをかました。彼女は倒れ伏したまま起き上がることもできず、青白い顔で息も絶え絶えになりながら、

 

「ちょ、ちょっとだけ……本当にちょっとだけだから……ふ、太ってなんかないもん……」

「……そうか」

 

『なにが』増えたのかはまだ一言も言ってないのだが、まあ、敢えてまで口にはすまい。体を起こし、乱れた衣服を整える。

 先月約束を交わした瞬間から、紫はこの時をずっと心待ちにしていた。毎日にこにこしながら予定を考え、わくわくしながら現地の下調べをし、そわそわしながら涼しくなる時を待ち続けていた。藍から聞いた話では、このところ外の天気予報を確認しては、ため息をつくばかりの毎日だったらしい。

 今までの期待が無駄にならないよう、今日は思いっきり楽しんでほしいものだと思う。無論、月見も最大限努力はする。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 紫の立ち直りは早かった。

 

「おやつの回数を二回に減らせば――あっ、大丈夫だった!? よぅし、だったら早速行きましょう!」

 

 おやつは一日一回じゃないのかという至極当然の疑問を、思い浮かばなかったことにしつつ。

 

「じゃ、まずは私のお屋敷で準備しましょ! どんなお洋服がいいかしらー。月見も意見聞かせてね!」

「はいはい」

 

 出掛ける前に、手早く戸締まりだけは確認する。居間に戻ってくると、スキマを開いて待ちきれない紫がそわそわと体を揺らしている。

 ぎゅっと、手を握られた。

 

「今日は、いっぱい楽しみましょうねっ!」

「……ああ」

 

 弾けんばかりの笑顔を見せつけられて、月見の頬も自然と緩んだ。月見でなければコロッとやられてしまいそうな、それはそれは愛くるしくも美しい笑顔だった。

 まったく、本当に、八雲紫は恐ろしいと思い込んでいる連中に見せてやりたい。

 たとえ比類なき強大な能力を持っていても。妖怪の賢者と呼び畏れられる大妖怪でも。幻想郷を創世し、そしてその行く先を静かに見守る、ある種、神とも呼べる存在であったとしても。

 それでも彼女は、よく怒って、よく泣いて、よく驚いて、よく笑う。

 どこにでもいる、ごくごく普通の女の子なのだと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ほぼ物置き同然の扱いなのである。よって生活のしやすさよりも安さと広さを重視した、今では数も減った古風漂うボロアパートなのである。

 紫の屋敷で支度を終えた月見はまず、閑静な住宅街という使い古された表現がよく似合う場所へとやってきていた。都市部から外れ、更に郊外からも追いやられるように押し出されたそこは、二階建て以上に高い建物がほとんどなく、道幅は大型車お断りと言わんばかりに狭く、平日の昼間とはいえ出歩く人も見かけない、大都市の傍にあるとはとても思えないほどの田舎なのだった。

 月見が借りているボロアパートは、そのひっそりとした住宅街の中にひっそりと鎮座している。果たして築何十年の建物だったか、長い年月を掛けて綺麗なベージュ色だったはずの外壁は黒ずみ、所々には不穏なヒビも走っている。屋根の近くにペイントされたアパートの名は、風雨に晒され擦り切れて半分以上が判読不能。二階へと上がる鉄骨の階段はあちこちが茶色に腐食し、登り降りの際には命綱がほしくなるような有様である。

 アパートとしての生涯を終えたら、すぐさまお化け屋敷として再出発できそうな――そのいかにもな外観に、紫は腰が引けた苦笑いをしていた。

 

「……月見、こんなところで生活してたの?」

 

 いつも被っているお気に入りの帽子を外し、淡い水色のワンピースで涼やかに着飾っている。夏の日差しを白の日傘で凌いでなお、なびく金髪はきめ細かに輝く美しさで、彼女自身の器量のよさもあいまって、どこか高貴な家系のお嬢様のようでもあった。

 いつもと違う恰好をしているからこそ改めて思うのだが、見た目だけはとんでもない美少女なのだ。見た目だけは。

 一方で月見は人化の法を使用し、ポロシャツにジーンズという、極めて庶民的でラフな出で立ちである。「カジュアルな月見も見てみたい!」という紫たってのご要望だ。外見自体は若いので似合っていないということはないはずだが、御年ウン千歳のお年寄りには少々くすぐったいコーディネートだった。

 しばらく見ぬ間にまた一層年季を増した気がするアパートの威容を仰ぎながら、答える。

 

「寝泊まりはあまりしたことないけど……でも最近リフォームしたらしくて、部屋は意外とまともだよ」

 

 見た目が廃墟同然と侮るなかれ、部屋は清潔感あふれる純洋風で、家賃は脅威の月々二万円だ。

 つまるところ、ワケあり物件なのだ。

 

「わ、ワケあり……? おばけが出るの!?」

「いや、私が祓ったから出ないよ」

 

 元々は外見はもちろん中身もボロなアパートだったが、十年近く前、ちょうど月見が借りている部屋で自殺者が出てしまい、その影響でリフォームを行ったと聞いている。内側をあらかた改装した時点で資金が底をついてしまい、外は手付かずとなってしまったとも。以来、問題の部屋ではなにかと心霊現象が絶えず、家賃の安さに引かれた学生やOLがやってきては逃げ出すを繰り返し、遂に月々二万円まで引き下げられることとなったらしい。

 もちろん、月見は心霊現象など気にしない。そもそも月見自身が人ではない。なので入居初日に髪の長い女の幽霊が現れても、これといって動じることなく、御札でぺしぺし叩いてお帰りいただいた。なので、今はただ家賃が安いだけの普通の部屋だ。

 

「部屋は二階の角部屋だよ」

「はーい」

 

 事前に不動産屋に立ち寄って、預けていた鍵は回収している。

 茶色く錆び朽ちた階段を、耳障りなほどギシギシ軋らせながら登っていく。後ろの方から、「大丈夫、月見が大丈夫なら大丈夫……私は重くない、重くない……」と真剣な自己暗示が聞こえてくるがとりあえず無視する。階段を登り切ったところにある照明の周りでは、夏の風物詩とでもいうべきか、さんざ張り巡らされた蜘蛛の巣がちょっとしたトンネルを形成していた。どの巣にも飛んで火に入った夏の虫がびっしりとくっついており、男の月見が見ても寒気がするグロテスクな様相を呈している。都心から離れた、自然に近い田舎ならではの光景だろう。

 階段を無事登り切った紫が、ほっと胸を撫で下ろす間もなく悲鳴をあげて縮こまった。

 

「まっ、まままっ待って月見、この蜘蛛の巣っ、蜘蛛っ、くくくっくもくもっ」

「……お前、蜘蛛なんか怖がるなって」

 

 幻想郷最強の大妖怪が、蜘蛛に負ける貴重な瞬間であった。

 

「ち、ちがっ、蜘蛛が怖いんじゃなくて、蜘蛛の巣がダメなのおっ! こんなのがもし髪とか顔にでもくっついちゃったらっ、……あああああっ想像しちゃったー!?」

 

 いやー!? と全身鳥肌でぶるぶる震えている紫を、放置するべきかどうかで少々真剣に悩む。しかし、今日は彼女に楽しんでもらうための一日であったことを思い出し、

 

「ほら、手。私がついてるから、大丈夫だって」

 

 らしくはないかもしれないけれど、今日一日くらいは優しくしてもいいだろう。そう思って差し出した月見の右手を見て、紫の瞳から感動の涙があふれ出した。

 

「つ、月見っ……! ありがとうっ!」

「あ、こら」

 

 紫は月見の手を取るどころか腰めがけて抱きついてくる。月見の脇腹にほっぺたをぎゅうぎゅう密着させ、見るも情けないへっぴり腰で、

 

「ぜっ、ぜぜぜっ絶対に離さないでよ!? 先行かないでよ!? み、見捨てられたら泣いちゃうからね!?」

「……はいはい」

 

 腰に幻想郷最強の大妖怪をくっつけ、月見は頭上に気をつけながらゆっくりと歩を進める。といっても蜘蛛の巣は天井近くにあるから、背伸びやジャンプでもしない限りは引っかかるはずもないのだ。紫もわかってはいるのだろうが、それでも嫌なものは嫌らしく、首が前だけを見たまま微動だにもしない。

 結局ドアの鍵を開けて中に入るまで、紫は月見の腰にひっつきっぱなしだった。

 

「はい、着いたよ」

「た、たすかったあ……っ!」

 

 玄関をあがってすぐのフローリングに崩れ落ち、はあああああ、と派手な安堵のため息をつく。未だ鳥肌気味な両腕を一生懸命さすって、

 

「信じらんないっ。月見は久し振りに戻ってきたから仕方ないけど、なんで誰もお掃除しないのよっ」

「確かに、これはちょっと壮絶だね」

 

 帰りもまた通らなければいけないのだし、荷物の片付けが終わったら、適当な棒でぱっぱと払った方がよさそうだ。

 ともあれ、およそ半年振りの我が家である。玄関はひと二人が並んで立てる程度の広さで、目の前にはキッチンを兼ねた廊下が伸びている。その先にある扉の先がリビングであり、廊下の途中を曲がったところの扉は水回りにつながっている。リビングは八畳間で、横には引き戸で区切って六畳間とベランダが隣接している。

 リビングは、無数とはいえないまでも、そこそこたくさんのダンボールの山で埋め尽くされていた。主に月見が旅の中で買ったもの、拾ったもの、もらったものが無秩序に突っ込まれている。自由に歩ける面積の方が狭い物置同然の室内を、紫はふむふむと興味深げに見回した。

 

「まともな部屋だろう?」

「うん」

 

 ダンボールが山を作っている以外は、ごくごく普通のアパートの一室だ。あまりにまともすぎて、この部屋で自殺があったという話が根も葉もない創作かと思えるほどである。月見自身、この目で自殺者の霊を見るまでは半信半疑だった。

 紫は月見を置いてリビングを突き進み、引き戸を開けて隣の部屋まで突入していった。なにをやっているのかと思えば、どうやら部屋の間取りを観察しているらしい。

 

「初めて入るアパートの部屋とかって、なんだかすごくわくわくするわよねー」

 

 さもありなん。

 それからも紫は、ベランダに出てみたり水回りを確認したりキッチンを眺めたり。「将来は広いお屋敷で仲睦まじくと思ってたけど、こういう狭いお部屋ってのも意外と……」とかなんとかブツブツ言っているが、月見は気にせず荷物の整理を開始した。

 ひとまず、陶器や書物などすぐに運んでしまって問題ない物と、こちら側の科学技術が使われているため紫の検閲が必要な物とに分別していく。少しすると紫がキッチンの方から戻ってきたので、

 

「スキマを出してもらっていいか? 運べる物から運んでしまおう」

「あ、はーい」

 

 紫は部屋を見回し、

 

「……それじゃあ、押し入れを水月苑の納戸につなげましょうか。一旦、中にしまってるのを全部出しちゃって」

「……ああ、そうか。そういう芸当もできるんだったな、お前」

 

 スキマ経由で幻想郷まで運んでもらえればと思っていたが、必要なかったようだ。よくよく考えてみれば、なるほど、境界を操る彼女なら扉の向こう側を別の空間へつなぐ程度は造作もないことなのかもしれない。

 紫の能力を始めとして、咲夜の時を操る能力、萃香の疎密を操る能力など、応用の利く便利な力というのがつくづく羨ましい月見である。

 

「すごいでしょー」

「ああ。まったく、恐れ入るよ」

 

 素直に褒めたら、えへへー、と紫は大変ご満悦な様子だった。

 押し入れの中身を一度、紫と協力しながらすべて取り出す。布団を引っ張り出した時、紫が顔を埋めて深呼吸していたのは見なかったことにする。空になった押し入れの前で紫がうんうんと唸り、それから勢いよく戸を開け放てば、その先には見慣れた水月苑の納戸が広がっていた。

 

「それじゃあ、張り切って運びましょー! 愛の共同作業ね!」

「はいはい」

 

 荷物はだいぶ量があるが、そこは人間よりも身体能力に秀でた妖怪である。月見はもちろん女性の紫も、まるで空のダンボールを運ぶようにちゃっちゃと動いて、作業は十分も待たずに終了した。

 ちなみにこちら側の科学技術が使われている機械類は、紫がスキマの中にぽいぽいと放り込んでいた。やはり、安易な持ち込みは厳禁らしい。

 

「……そういえばさ、月見」

「ん?」

 

 最後にしまい忘れがないかを確認しているところで、紫がふとしたように言った。

 

「月見ってさ。こっちで生活してる間、お金ってどうやって工面してたの? まさかアルバイトとかしてたわけじゃないでしょ?」

「ああ。それは、私たちが運んだ荷物の中に答えがあったんだけど」

 

 昔とは違って今の御時世は、なにをするにもお金が掛かるものだ。別に一銭もなくたって妖怪の月見はなんとでもできるのだけれど、人間社会で様々な体験を満喫する上では、やはり持っておくに越したことはないものである。

 人間社会の生活で必要な資金を、妖怪の月見がどうやって捻出していたかといえば、

 

「幻想郷を出て間もない頃は、まだ妖怪退治とかしてたかな。妖怪が軒並み幻想郷に移ってってからは、除霊とか。科学技術が発達してそれもやりづらくなってからは、昔に人間たちからもらったりした、今でいう骨董品を売って……かな」

「……ああ、そういうこと。確かに古いお皿とかあったわね」

「私が持ってても、どうせ埃被せるくらいしかできないしね」

 

 骨董品を愛する人のコレクション、或いは資料館、博物館のガラスケースの中など。そういった場所で飾られた方が、彼らも輝きを放つことだろう。

 無論、比較的容易に大金が得られるという魅力があったのも否定はしない。

 

「外で生活する妖怪なんてそんなもんさ。人間と一緒に仕事してたりするのは、どこぞの狸くらいだろう」

「狸?」

「ほら、佐渡の。二ッ岩マミゾウ」

「ああ」

 

 人とともに暮らし、人の助けとなって生きる――かつて月見が『銀山』と名乗っていた時代の姿を、今の社会で体現しているのは彼女くらいだ。化け狸故によく人を驚かして遊んでいるようだが、一方で厄介事の始末を引き受けたり、貧しい者には金銭を貸し与えたりと、妖怪ながら佐渡の人間たちからはよく慕われていると聞いている。

 と、なぜかここで紫の視線が不審げなものに変わる。

 

「月見……一応確認するけど、私に黙ってそいつと仲良くなってたりは……」

「しないよ」

 

 月見は即答し、苦笑した。

 

「だってお前、あいつが狐嫌い中の狐嫌いなのは知ってるだろう? 仲良くなろうとなんかしたら叩き潰されるよ。まあその前に叩き潰すけど」

 

 しかし紫は、疑り深い眼差しを解こうとしない。

 

「わからないわよっ、嫌よ嫌よも好きのうちっていうじゃない! 大体そーいう相手に限って、きっかけひとつで一気に仲良くなっちゃったりするのよ! 月見だって、あんなに仲悪かった文といつの間にか仲良くなってるし!」

「そうか?」

「そうよ! なによっ、この前だって二人仲良く新聞の改善点とか話し合っちゃってまーっ!」

 

 確かに月見が文の新聞を購読し始めてから、紙面の内容についてしばしば意見を求められるようになったのは事実だ。相手を選り好みせず様々な意見を取り込もうとする熱意はさすがだなと感心していたのだが、紫の目にはそんな風に映っていたらしい。

 紫のテンションがどんどん上昇していく。

 

「閻魔様だって、口ではあーだこーだ行ってるけど絶対憎からず思ってるわよ! そうでもなかったら、わざわざ遠くから男の人の家に押しかけて掃除したり料理したりするものですか! なんなのあのツンデレッあざといっ」

「紫、遊ぶ時間がなくなるから先進んでいいか?」

「あ、はーい」

 

『遊ぶ時間』を強調して言ったら、紫の変わり身は一瞬だった。このあたりの扱いやすさは楽でいいよなあと月見は思う。

 

「しまい忘れもなさそうだし、押し入れを元に戻してくれ」

「任せてっ」

 

 紫が押し入れの前でうんうん言っている間に、月見はがらんどうに戻った部屋をぐるりと見回した。ほとんど物置き同然にしか使わなかった愛着のない部屋とはいえ、これで見納めとなれば不思議な寂しさがこみあがってきた。心霊現象の原因は()うの昔に追っ払ったのだから、次の住人からはちゃんと大切に住んでもらえることだろう。

 

「月見、終わったわよー」

「了解。じゃあ不動産屋に戻って……遊ぶのは午後からになりそうだな。昼食はどうする?」

「もちろん食べるわよっ。お洒落なお店にするか、それともこっちならではの『じゃんくふーど』ってやつを食べようか悩んでるんだけど、月見はどっちがいい?」

 

 などと午後からの予定を話し合いながら、二人揃って部屋を出て――

 

「ぴいっ!?」

「あ」

 

 そういえば、蜘蛛の巣を払うのをすっかり忘れていた。

 月見の裾にしがみついてぶるぶる震えている幻想郷最強の大妖怪(笑)を、月見は心の底から情けないと思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ところで藍は、和洋中なんでもござれな幻想郷有数の料理上手である。外で店を立ち上げれば、たちまち長蛇の列ができテレビで取り上げられ雑誌の取材が押し寄せるであろう腕前。しかも料理だけでなくお菓子まで絶品と、台所に立たせればまさしく無双。

 つまりはわざわざ高いお金を払ってまで高級料理店を選ばずとも、ぶっちゃけ藍にお願いした方が美味しいのだ。しかも自炊なので、食費も低く抑えられる。

 なのでここは紫たっての希望で、外の世界ならではの『ジャンクフード』を食べてみる方向で話がまとまった。

 要するに、ハンバーガーであった。

 

「つくみバーガーのセットをお願いします!」

「え? ……つきみバーガーのことでしょうか?」

「え? ……あ、そっか。素で間違えちゃった」

「つきみバーガーは、あいにく秋限定のメニューとなっております。申し訳ございません」

「そ、そんなあっ」

 

 結局、ごくごく普通のハンバーガーであった。

 ほとんど待たずに出てきたハンバーガーセットを受け取り、月見と紫はちょうど空いていた二人掛けの席に座る。平日だからか、サラリーマンやOLの一人客が大半を占め、控えめな音量で流れるジャズ以外は物静かな店内だった。周りの迷惑にならないよう、月見は声を落として、

 

「それで、午後はどうするんだ?」

「んーとね……」

 

 午後の予定を計画したのは紫だ。気合い充分な少女は、今日のためにカンニングペーパーまで用意してきたらしい。

 取り出したメモ帳に素早く目を通して、

 

「映画を観ようと思うんだけど、どの映画がいいか月見の意見も聞きたいの」

「なにか面白そうなのはあったか?」

「本当は恋愛映画がよかったんだけど、今日はやらないみたいなのよねえ……。私としては、この二つのどっちかだと思うんだけど」

 

 紫がテーブルの上で広げたメモ帳には、今日放映されると思われる映画の一覧がメモされている。その中で二つ、赤ペンでまあるく印が付けてあるのは、

 

「超未来SFサスペンスバトルアクションスペクタクルファンタジーロマンス巨編、『俺、この戦争が終わったら結婚するんだ……』!」

「……」

「それとこっちの、超歴史SFミステリーバトルアクションスペクタクルオカルトホラー巨編、『もういい、俺は自分の部屋に戻る!』」

「…………」

「面白そうじゃない?」

「……そうだね」

 

 どこの世界にも、ぶっ飛んだ連中はいるんだなあと月見は思う。

 

「月見はどっちがいい?」

「甲乙つけがたいね」

 

 いろいろな意味で。

 

「ところでお前、ホラーは平気なのか?」

「え? そ、それは……こ、怖い怖くないは問題じゃなくて、きゃーって言って抱きついちゃったりするのが定番なのっ!」

「なるほど、下心アリと」

「乙女心って言ってっ。……でも、こっちのファンタジーの方も……故郷の恋人のために生きて戦争から帰ることを誓うシチュエーションって、素敵よねえ」

「……まあ、食べながらゆっくり考えよう。ほら、冷めてしまうしね」

「そうねっ」

 

 この世の理不尽を知らない紫の無垢な反応が、なんとも気の毒で目に染みた。お陰で、「あのな紫、この世には死亡フラグってものがあってな」と説明するべきかどうか、だいぶ真剣に悩んでしまった。結局、楽しそうな紫に茶々を入れるのも躊躇われて、なにも言わなかった――否、言えなかったが。

 たいして大きくもない普通のハンバーガーなので、十分くらいで食べ終わった。

 

「――ごちそうさまっ」

「ん。どうだった?」

「んー、まあ値段相応ってところかしら。とりあえず、いかにも体によくない食べ物ーって感じはしたわ……」

「ジャンクフードだからね。……ほら、口にケチャップついてる」

「……月見、拭いて?」

「自分でやれ」

「……ぶー」

 

 月見の視界の端で、一人用の席に座ったサラリーマンがビックなバーガーにかぶりついている。バンズの間からレタスがボロボロこぼれ落ちてしまっているが、サラリーマンはいちいち気にするのも億劫なのか、仏頂面で黙々と食べ続けている。

 一瞬目が合って舌打ちされたように思うが、気のせいだろう。「リア充め……」という人を呪い殺せそうな呟きなどまったく聞こえなかった。

 

「で、結局どっちを観ようか。私としては両方気になるから、紫が観たい方で構わないけど」

 

 映画の話だ。タイトルを見ただけで内容が予想できるとはいえ、予想できるからこそ、実際に映画館で確かめてみたい好奇心に駆られるのは事実だった。釣り針があまりにもデカすぎて、罠とわかっていても気になってしまう。ここまであからさまな罠なら、いっそ盛大に引っかかってみるのもありかと思えてくる――その心理的誘惑こそが、制作陣の狙いなのだろう。

 そして月見の目の前に、罠を罠と知らないまま引っかかろうとしている無垢な少女がひとり。

 

「ん~……じゃあ、こっちのファンタジーな方にしましょ! きっとラストは故郷の恋人と結婚してハッピーエンドなのよ! 素敵……」

「……はっはっは」

 

 結婚式のシーンでも脳内再生されているのか、うっとりと幸せそうにしている紫を見て、月見は乾いた声で笑った。

 ――すまん。すまん紫。その映画は観たことないけど、こればっかりは断言できる。

 その主人公は、間違いなく、絶対に、志の半ばで死ぬ。

 死亡フラグからは、逃れられないのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やっぱり死んだ。

 例のセリフから、わずか五分後の出来事だった。

 

「ううっ、なんて悲しいお話だったの……!? 結婚はおろか、もう一度会うことも声を聞くこともできずに死んじゃうなんて……っ!」

 

 上映後、紫はハンカチを片手に止まらぬ感動と悲哀の涙を流していた。月見の目にはコメディの類としか映らなかった作品も、恋する少年少女たちには違って見えたのか、紫と同じくハンカチを手放せなくなっている客は随分と多かった。月見がおかしいのだろうか。

 

「主人公の男の人を月見に、恋人を私に脳内変換してたから悲しさ倍増よぉ……!」

「……」

 

 どうやら紫の頭の中では、月見は膝に矢を受けて死んでいったらしい。

 

「月見っ……私たちは、幸せになりましょうね……っ!」

「はいはい。……ティッシュ使うか?」

「ありがとおっ……!」

 

 ずびびびと品もなく鼻をかんでいるのは紫だけではない。他にもすすり泣く声やら互いの愛を誓い合う言葉やらが場内の至る所から聞こえてきて、月見はまるで自分が異世界に迷い込んだような心地になった。

 紫の涙が治まってから映画館を出ると、時刻は早くも昼下がりになっていた。道行く人々の中に、中高生と思われる子どもたちの姿が交じり始めている。紫に案内されてやってきたこのあたりの街は、どうやら映画館を含め多くのアミューズメント施設が密集していて、苦痛な勉学から解放された子どもたちの格好の遊び場となっているようだった。

 賑やかな雑踏の中に二人で紛れながら、

 

「他には、どこか行くか?」

 

 月見が尋ねれば、悲しみを乗り越えすっかり元気になった紫は笑顔で、

 

「もっちろん! ねえ、ゲームセンターに行ってみたくない? 私、まだ入ったことがないの」

 

 紫が指差した先――車道を挟んで向かい側の通り――にはなるほど、ゲームセンターと思しき派手な電飾をつけた建物がある。

 土地の限られた都会らしく、横に狭く縦に広いゲームセンターだ。横断歩道を渡って行ってみれば、店頭にはクレーンゲームが何種類か並べられていて、若さあふれる学生たちが歓声をあげながら熱中している。入口にドアは設けられておらず、店内のBGMやゲーム筐体のSEなど、ピコピコと甲高い音が垂れ流されて、道行く人々を誘惑している。入口近くの液晶では、最近の流行りと思われるアニメ映像がループ再生されていて、大きなお兄さんたちが足を止めて見入っている。

 とりあえず店内へ入ってみると、途端に押し寄せてきた音の津波に、紫が目をぱちくりさせた。

 

「う、うわあっ……ゲームセンターって、結構うるさいのね」

 

 店内のBGMも筐体のSEも、アニメ映像も千円札が両替されジャラジャラと小銭が雪崩れる音も、すべてが現代技術によってもたらされる喧騒であった。自然の音を極限まで排斥した機械音の独壇場は、幻想郷ではまず体験することのできないものだろう。

 すっかり面食らっている紫の手を引いて、店内を適当にブラつく。建物は四階建てで、一階はクレーンゲームやガチャガチャなど大衆向けのゲームが集められているようだ。案内看板には、二階が音楽ゲーム、三階が格闘やシューティングなどのバーチャルゲーム、四階がスロットやダーツと書かれている。

 

「なにか、やってみたいゲームはあるのか?」

「あっ、もちろんあるわよ!」

 

 紫は素早くカンニングペーパーを確認して、

 

「えっと……こういうシチュエーションでは、二人で銃を撃って協力して敵を倒すゲームが定番だって!」

「ああ……」

 

 確か、ガンシューティングゲームというジャンルだったはずだ。右手でうきうきと銃の形を作っている紫の知識の出処がどこかはさておき、そのテのゲームといえばおどかし要素が満載なイメージなのだけれど、この少女は果たして大丈夫なのだろうか。

 

「クレーンゲームはあとでやりましょ!」

「了解」

 

 紫とともに三階へ向かう。三階のフロアを踏むと、ただでさえ賑やかだった喧騒が一層賑やかになった。派手な爆発音、もしくはクラッシュ音などのSEが大音量で響き渡り、筐体が壊れるのではないかと思うほどボタンを叩きまくる音がひっきりなしに駆け抜ける。年寄りの月見は、それだけでもう耳が痛くなりそうだった。

 ゲームのジャンルの問題か、女性客の姿はほとんど見当たらない。階段付近は格闘ゲームのスペースで、制服の割合も大分少なくなり、私服を着た大きいお兄さんたちが瞬きもせず筐体のボタンを連打している。順番待ちをしている太り気味のお兄さんが、月見と紫を見た瞬間に舌打ちした気がしたが――まあ、このうるさい中だし、きっと気のせいだろう。

 ガンシューティングの筐体を探して、フロアを進んでいく。物理法則を無視した空中戦を繰り広げる格闘ゲーマーの後ろを通り過ぎ、とんでもない勢いで壁に激突していったレースゲーマーの横を通り過ぎ、フロアの一番奥まで進んだところでようやく、

 

「お、これじゃないか?」

「ほんとに!? わーいやるや――……」

 

 飛び跳ねるようだった紫の声が、急速な尻すぼみで消えていった。おどろおどろしい血を滴らせたような文字で、その筐体にはこう書かれている。

 CITY OF DEATH――死の街と。

 

「……」

「ホラー系みたいだね」

 

 紫は石化している。

 引鉄以外にボタンのない銃型コントローラを使う、極めてオーソドックスなガンシューティングゲームである。筐体手前の台に硬貨の投入口があり、コントローラが二台置かれており、簡単なゲームの説明が記載されている。――次々襲いかかってくるモンスターを一掃せよ! モンスターの頭部を撃つと大ダメージを与えられるぞ! リロードを行うには、銃口を画面の外へ向けよう! 特殊な条件を満たすと、隠しステージに挑戦することができるぞ! 君は真のボスへ辿り着けるか! 二人プレイの場合、プレイ結果から二人の相性値を測定することが可能!

 正面の大型ディスプレイではデモ映像が流れており、ボスと思われる巨大クリーチャーが画面いっぱいにアップされており、それを見た紫が顔を真っ青にしてぷるぷるしていた。

 

「……紫。怖いなら別の」

「だっ、だだだっ大丈夫よこんなの! っていうかお昼に映画の話した時もなんだけどさ、月見って私が怖がりだとでも思ってない!? 平気よ! へっちゃらよ! 最近の映像技術はすごいなあって、ちょっと感心してただけなんだからっ!」

 

 とりあえず、紫がこういうビックリ系に弱いのはよくわかった。

 月見がなまあたたかい目を向ける先で、明らかに強がっている紫が筐体に二人分の硬貨を投入した。台の説明を見て、「へー相性度診断なんてできるのね。まあ私と月見は当然百パーセントだけど! むしろ千パーセントかしら!」とやたら饒舌である。意気揚々とコントローラを手に取り、試しに引鉄を引いたり画面へ向けたりして、そこでようやく、

 

「ほら、月見もっ。こんなの怖がってちゃダメよ!」

 

 恐らく本音は、「早くこっち来て一緒にやって独りにしないで!」だろう。

 ともあれ、このゲームをやるのに異論はない。クレーンゲーム程度ならまだしも、こういった本格的なアーケードゲームをやった経験はないので、なかなかに楽しみだった。

 月見もコントローラを手に取る。デモ画面はいつの間にかオープニング画面へ切り替わっており、地の底から響くような低音ボイスがタイトルコールを行っている。まだゲームが始まったわけでもないのに、紫はもう銃を画面に向けて臨戦態勢を取っている。

 

「……難易度選択だって。ノーマル、ハード、デスの三段階」

「……の、ノーマルで!」

 

 台のボタンを操作してノーマルを選択。一瞬画面が暗転し、すぐにゲームが始まった。

 同時に、紫が引鉄をカチカチカチカチ引きまくった。

 

「撃つの早いって。まだムービーじゃないか」

「そっ、そんなこと言ってえ! どうせいきなりバーンって来るんでしょ!? 騙されないもんっ!」

 

 ムービーは、いきなりバーンと来ることもなく淡々と進んでいる。主人公である壮年の男性トムと、パートナーと思われる若い女性ジェシカが、レーシングばりの速度でバイクをかっ飛ばしている。とある街で謎のバイオハザードが発生したため、生存者の救出へ向かうところだ――というお決まりのストーリーが字幕で告げられる。

 

「フーッ、フーッ……」

「……」

 

 紫が猛獣に怯える小動物みたいになっている。

 主人公たちが街に到着すると、すぐに大量のゾンビがお出迎えをしてくれた。ざっと二十体くらいだろうか。トムとジェシカがホルスターから銃を抜く。「ARE YOU READY?」とゲーム開始を告げる字幕が画面に躍る。月見は銃を構える。紫は既に引鉄を連射しまくっている。

 

「くれぐれも、冷静にね」

「つつつっ月見こそっ!」

 

 血文字のおどろおどろしいカウントダウンが終わり――戦いが始まった。

 

 

 

 

 

「――つっ、つつつっ月見いっ!? た、弾がっ、弾がなくなっちゃったんだけど、どうすればいいのお!?」

「リロードしないと」

「リロードってどうやるの!?」

「さっきチュートリアルが」

「そんなの覚えてないっ!!」

「……銃を画面の外に向けるんだよ」

 

 

 

「紫、さっきから民間人巻き込んでる! 撃てばいいってもんじゃないぞ!」

「そ、そんなの知らないわよおっ!? 私たちは死に物狂いで戦ってるの! 見ればわかるでしょ!? なのになんで向こうから巻き込まれにくるの!? こんなの向こうが悪いわよ! 自業自得よっ!」

(……ああ、民間人の誤射数がすごい勢いで)

 

 

 

「なっ、なななっなんかデカいの出てきたあっ!?」

「中ボスかな。……なるほど、防具をつけてるから頭撃ってもダメージを与えられないってさ。二人で関節部分を狙うと大ダメ」

「わかったっ、二人で頭を狙えばいいのねっ!?」

「おい落ち着け」

 

 

 

「ひいっ!? ……みゃあ!? ……ふゅい!? さ、さっきからいきなり出てきてばっか……! そんなので私がびっくりすると思わなぴぃっ!?」

「……」

 

 

 

「……ふ、ふふふ、遂にボスよ! 私と月見のコンビネーションなら当然ね!」

「まだ一面ボスなのに、もう残機ゼロだけどね。体力もあと半分くらいしか」

「黙らっしゃい! ……あ、出てくるみたいよ! まあ、ここまでやってきた私たちならどんな相手でも――ちょっと待ってなによ今の不意打ち!? あっ、待ってやられちゃうっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ」

「…………」

 

 

 

 

 

『相性度:八パーセント!

 どうもお二人の相性はあまりよくないようです。というか、ダメダメなジェシカがひたすら足を引っ張っていて相性以前の問題です。こういったゲームは初めてでしょうか? まずは何度かプレイを重ね、ゲームの雰囲気に慣れることをオススメします。

 でもこれは、裏を返せばお互いもっともっと仲良くなっていけるということであり、もっともっと腕前を高め合っていけるということ。またの挑戦をお待ちしています。

 

トム:判定B

 必要以上の弾薬を使うことなく、冷静沈着に敵を撃破していくスナイパータイプ。非常に優秀なポテンシャルを秘めています。ただ、相方のフォローで忙しかったのか、被ダメージ率が少々高かったようです。一人プレイであれば、きっと優秀な成績を収められることでしょう。是非挑戦してみてください。とりあえず、お疲れ様でした。

 

ジェシカ:判定F

 ホラー映画なら、「もうこんなところにいられない! 私は自分の部屋に戻るわ!」と清々しくフラグを建てて清々しく退場するタイプの超ビビリのようです。ビビりまくり、照準ブレまくり、民間人誤射しまくりでなにひとついいところがありませんでした。まずはお化け屋敷やホラー映画などで、ビックリ耐性をつけるところから始めた方がいいかもしれません』

 

 

 

 

 

「は、はちぱーせんと……だめだめ……ちょうびびり……いいとこなし……」

「……相性、いまいちみたいだね」

「うわああああああああん!!」

 

 紫が膝から崩れ落ちた。

 

「ううっ、こんなのおかしいわよぉ……っ! こういう時って相性度百パーセントとか出しちゃって、お互いの絆の深さを再確認するものじゃないの!?」

「違うみたいだね」

「なんでよ!」

「お前がビビリだからじゃないか」

「ぐっ……う、ううううう~……っ!」

 

 事実、紫のプレイはひどかった。ゾンビが接近してくるたびにきゃーきゃー悲鳴をあげ、画面外からいきなり襲われるたびにぴーぴー絶叫し、両目をぐるぐる巻きにして、照準も中途半端なままひたすら銃を乱射するばかり、チュートリアルや月見のアドバイスなどまるで見えていないし聞こえていない。一面ボスまで辿り着けただけでも、充分よくやった方だったと月見は思う。

 診断結果の画面が徐々にフェードアウトし、初めに流れていたデモムービーへと切り替わる。先ほど一面ボスとして登場したモンスターが街を手当たり次第に破壊しており、精悍な顔つきをしたトムとジェシカが、銃で弾幕を張りながら勇猛果敢に立ち向かっていく。

 こんな感じで戦えればよかったんだけどなあと思いながら、月見は隣でいじけている紫に、

 

「どうする。もう一回やるか?」

「……べーっだ!! 私と月見の相性が八パーセントとか、なんっにもわかってないゲームなんか知らないっ!」

 

 紫は乱暴な手つきでコントローラを戻し、

 

「別のゲームやりましょ! ……言っておくけど怖いわけじゃないわよ! せっかくたくさんのゲームがあるんだから、いろんなのをやんないと面白くないってだけなんだからっ!」

「はいはい」

 

 ぷんすかしながら大股で歩く紫の後ろにくっついて、月見は当てもなく店内を散策する。確かに色々なタイトルのゲームが置かれてはいるが、二人で楽しくできるようなものといえばなにがあるだろうかと月見は思う。ガンシューティングゲームはどうやらあの一台だけのようだし、格闘ゲームは大きいお兄さんたちで制圧され一見さんお断りの雰囲気を醸し出している。

 あちこち見回していると、

 

「……えい」

「おっと」

 

 いつの間にか隣に並んでいた紫が、月見の右腕に自分の両腕を絡めてきた。

 

「なんだいいきなり」

「……別に」

 

 紫はぷーいとそっぽを向き、ぶつぶつと小声で、

 

「……私と月見は、相性抜群なんだから」

「……」

 

 負け惜しみを言うような言葉だった。絡められた紫の両手に、きゅっとかわいらしい力がこもっている。月見はふっと笑みの息をつき、前を向いて、同じくらいに小さな声で言った。

 

「……私だって、そう思ってるさ」

 

 その言葉は、ちょうどすれ違い際、劇的勝利を収めたらしい格闘ゲーマーの野太い雄叫びでかき消された。

 

「え? ……月見、今なんて」

「ん? あそこのレースゲームがちょうど二つ空いてるから、やってみようかって」

「そ、そう? ……ほんとに? なんか違うこと言ってなかった?」

「なんのことだ?」

 

 ――聞き取れなかった、お前が悪いよ。

 紫の腕を強引に引いて、早足で先へ進む。紫は疑問符を浮かべて戸惑っていたが、遅れないよう頑張ってちょこちょことくっついてくる。先ほど雄叫びをあげた格闘ゲーマーが、二人の後ろ姿をひとしきり目で追ったのち、「オラァお前もう一回やるぞ今度はボコボコにしてやらぁ!!」と友人に喧嘩を売っている。

 

 

 

 

 

 その後、紫はレースゲームで大破炎上して涙目になったり、格闘ゲームでCPUに情け容赦ないハメ技を喰らって涙目になったり、音楽ゲームで間違って最高難易度を選択してしまい、まったくついていけず涙目になったりしていた。つくづくゲーム運が悪い少女である。

 そんなこんなで月見たちが最後に行き着いたのは、一階のクレーンゲームコーナーだった。

 

「さて、どれをやってみる?」

「んー……」

 

 何十台もの筐体が整然と並べられた、クレーンゲーム街道ともいえるフロアを進んでいく。アニメのフィギュアやぬいぐるみ、クッションやキーホルダーなどの各種グッズ、更には普通の店では見かけないビッグサイズのお菓子などたくさんの景品が、筐体の中で微動だにすることなく挑戦者の出現を待ち構えている。

 月見の知識でクレーンゲームといえば、所謂UFOキャッチャーと呼ばれる類で、ぬいぐるみなどを両脇から挟んで開口部まで運んでいくタイプなのだが、こうして見ると他にも様々な種類があるようだった。景品がわざと不安定な足場の上に載せられていて、クレーンを使って足場から引きずり落とすもの。サイコロをクレーンで取って、出た目に応じて景品がもらえるもの。先の尖った金具がつけられたクレーンで風船を割り、割った色で景品が決まるもの。単純なクレーンゲームを超えた店の創意工夫が見て取れる、眺めていて飽きないほどのバリエーションだった。

 その中で紫が目をつけたのは、店の入口付近に置かれた典型的なUFOキャッチャーだった。

 

「月見っ、月見っ見て! 狐のぬいぐるみがあるわよ!」

 

 紫に手招きされて見てみれば、可愛らしくデフォルメされた動物たちのぬいぐるみが、あふれんほどに詰め込まれた筐体である。ぬいぐるみは両手に乗るくらいの大きさで、種類は犬や猫、兎、猿、羊、熊、ライオン、ペンギン、イルカなど実に様々だ。狐もその中に交じって、ちょこんと行儀よくおすわりをしている。

 

「やってみるか?」

「もっちろん! ……ああっ!?」

 

 筐体の周りを回ってぬいぐるみを観察していた紫が、いきなり素っ頓狂な大声をあげた。何人かの客が驚いてこちらを振り向いた気配、

 

「なんだいきなり」

「見てっ! 銀狐! 銀狐のぬいぐるみがあるっ!!」

 

 興奮で頬を赤くした紫が、ガラスをバンバンと叩きながら右奥の隅を指差す。そこには他のぬいぐるみに半分埋もれる形で、なるほど銀狐がぴょこんと頭を出している。

 紫の瞳に火がついた。

 

「絶っ対取るッ!!」

「……まあ、頑張って」

 

 月見が肩を竦めた頃には、紫は既に硬貨を限界まで投入し終えており、

 

「月見のぬいぐるみ月見のぬいぐるみ月見のぬいぐるみ月見のぬいぐるみ月見のぬいぐるみ」

「……」

 

 そこにゲームを楽しむ笑顔はない。あるのはただ、絶対に逃せない獲物を見つけた肉食獣さながらの、まばたきも許さぬ本気(マジ)の瞳。

 これは、もはやゲームなどではない。紫が見事ぬいぐるみを狩り獲るか、それとも紫が無様にお金を狩り獲られるかの真剣勝負だ。

 楽な相手ではない。場所があまりに悪すぎる。クレーンの初期位置は筐体の左手前で、目標は右奥、つまり一番遠い位置にある獲物ということになる。しかも、他のぬいぐるみたちに半分埋もれてしまっているのも厄介だ。正攻法でゲットしようとすれば、まずは周囲のぬいぐるみをどかすところから始めなければならない。

 まるで気が遠くなる話だった。確かこういう時は、店員に相談すれば取りやすくしてもらえるのではなかったか――。

 

「……あ、あれっ!? う、動かない……! つくみっ、ぬいぐるみ取るやつが横に動かなくなっちゃったんだけど!?」

「……」

 

 紫が横移動のボタンをバシバシ連打している。まずは、移動ボタンを押せるのは縦横一度きりだと説明するところから始まる。

 

 

 

 

 

 まず五回やってもダメだった。なので素直に店員へ相談し、周りの邪魔なぬいぐるみをどかしてもらった。

 また五回やってもダメだった。店員が、クレーンゲームのコツを色々と解説してくれた。

 また五回やってもダメだった。店員がサービスで、ぬいぐるみを真ん中あたりまで移動してくれた。

 また五回やってもダメだった。段々気の毒そうな顔になってきた店員が、ぬいぐるみをかなり近いところまで移動してくれた。

 だが、また五回やっても、

 

「と、取れないぃぃぃ~……っ!」

「……取れないね」

 

 取れない。紫が何度挑戦してもとにかく取れない。お金ばかりがどんどん溶けていく非情な現実に、紫はもはや本日何度目かもわからない涙目でぷるぷる震えているのだった。

 店員も途方に暮れていた。

 

「ええと、その、すみません。ここまで上手く行かないのは私も初めてで、どうアドバイスすればいいか……」

「謝らなくても。むしろこっちがすみません、なにぶん初めてなもので」

 

 掴めはするのだ。掴めはするが、ぬいぐるみを持ち上げていく最中、もしくは一番上まで到達しクレーンがわずかに揺れた瞬間、まるで紫をあざ笑うかのようにポロッと落ちてしまうのだ。そして失敗するたびに紫が「あぁーっ!」とか「いやあーっ!」とか絶叫するせいで、周りにはちらほらと野次馬が集まり始めていた。

 

「うぐぐぐっ……負けるもんですかぁ! 次こそ取ーるっ!」

 

 すっかりヤケクソとなってしまった紫が、叩きつけるように筐体に硬貨を投入する。ガラスにおでこをくっつけて、血走った目でゆっくりボタンを、

 

「……あの、彼氏さん」

「なんですか」

 

 その鬼気迫った背中を眺めながら、店員がおずおずと月見に声を掛けてきた。別に彼氏ではないが、とりあえず月見が答えると、

 

「差し出がましいかとは思いますが……ここは、彼氏さんが代わりに取ってあげてはいかがでしょう」

「ふむ」

「正直に申し上げますと……あの、このまま続けても」

「いやあーっ!?」

 

 二六回目の紫の絶叫、

 

「……このまま続けても、お金がいくらあっても足りないかと……」

「……ですよね」

 

 紫が自分の力で取りたそうだったから、ここまでついつい見守ってしまったけれど。どうやら今日の紫がゲームの神様から見放されてしまっているのは、ここまで来ればもう明らかであった。

 筐体に手を掛けたままがっくり蹲っている紫の、小刻みに震えている肩を優しく叩く。

 

「紫、私が取るよ」

「つ、つくみぃ……っ!」

 

 悪夢の二六連敗を喫し、紫の精神はもう限界のようだった。グズッと大きく鼻をすすって、

 

「お願い、仇をとってぇ……!」

「頑張ってください、彼氏さんっ」

 

 だから彼氏じゃないって。

 紫と交代し、財布から硬貨を投入する。クレーンゲームをやるのは久し振りだ。というか、何年か前に興味本位で数回やったきりなので、ほとんど初めてのようなものだ。紫よりかは断然上手くできるとは思うが、自信があるわけでもない。

 とりあえずはなにも難しいことを考えず、軽く感覚を掴むくらいの気持ちでアームを操作する。

 

「……」

 

 アームが左右に大きく爪を開き、ほわんほわんとファンシーなSEを響かせながら下降を開始する。ぬいぐるみを軽く押すくらいの位置で停止して、爪を閉じて目標を掴み取る。

 ここまではいい。

 ここからが勝負だ。ここから先で紫は何度も涙を呑んだ。

 さすがに一度目で取れるとは思っていないが、紫が両手を合わせて見守っている手前、あっさり落とすなんて恰好のつかない結果は避けたい。アームが上昇を開始する。掴みが甘かったのか、持ち上がった瞬間ぬいぐるみが少しずり落ちる。紫が小さく悲鳴を上げる。しかしギリギリのところで落ちることなく、ぬいぐるみはアームとともにみるみる上昇していく。

 最高点に達した。

 アームが一際大きく揺れた。

 ぬいぐるみは落ちなかった。

 ここまで来ればあとはもう、

 

「やっ、」

 

 元の位置まで戻ってきたアームが、ゆっくりと爪を開いて、

 

「やったああああああああっ!!」

「うおっ」

 

 ぬいぐるみがぽとりとゴールインを果たした瞬間、爆発した紫が月見の頭めがけてタックルをかました。首に両腕をぎゅっと回してぶら下がり、彼女は人の耳元でキンキンと、

 

「すごいすごぉい! さっすが月見っ!」

「……というかお前、なんで今まで取れなかったんだ」

「……」

 

 真顔になった紫は逃げるようにしゃがみこんで、取出口からぬいぐるみを取り出した。また笑顔で、

 

「月見っ、ありがとう!」

「……どういたしまして」

 

 宝物でも手に入れたみたいな紫に、月見は浅く笑みの息をついた。まあ、こうしてぬいぐるみを無事に取ることができたのだ。紫の壊滅的なゲーム運の悪さについて、もはやとやかくは言うまい。

 おすわりをした銀狐のぬいぐるみを胸いっぱいに抱き締めて、紫がくるりとスカートを翻す。機械が群生するこのゲームセンターで、まるでそこだけが七色の花畑であるかのように。野次馬の多くがその姿を見て微笑ましく目を細め、そして一部はぼけっと鼻の下を伸ばしていた。

 月見の後ろから、店員がグッとサムズアップをした。

 

「さすがですね。カッコいいですよ、彼氏さん」

「あ、黙ってましたけど彼氏ではないんですよ」

「え!? ……えっ!?」

「いや、本当に」

 

 紫は何度もくるくる回って、全身であふれる幸せを表現している。ぬいぐるみを高く掲げたり、抱き締めたりして、「これはウチの家宝にしましょ!」とか「名前は当然月見ねっ!」とか言っている。

 月見はふと外を見る。夕暮れが既に始まっている。夕食は藍がご馳走をこさえてくれるというから、そろそろこちら側の世界を去る時が近い。

 少しくらいは、紫の思い出に残るなにかができただろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 茜色に染まった道を、紫をつれてぶらぶらと進む。どこか目的地があったわけではない。帰るまで少し時間に余裕があったから、適当にあたりをぶらついて、店の商品を眺めたり、藍や橙へのお土産を買ったりしていた。

 そうやって店をいくつか回る間、紫は両腕で抱き締めた銀狐のぬいぐるみを片時も離そうとしなかった。冗談でも世辞でもなく、本当に宝物になったのだろう。今だってぬいぐるみの頭を何度も撫でたり、つぶらな瞳を見つめてえへへと笑ったり、とにかく大変ご満悦な様子だった。

 

「気に入ったかい」

「もっちろん!」

 

 元気よく頷いた紫は、月見の目の前にぬいぐるみを掲げて、

 

「この子は八雲家の家宝としますっ。名前はもちろん月見ね!」

「……ああ、うん」

「毎日一緒に寝ちゃったりしてー!」

 

 大通りを離れ人気の少ない小道を歩いているお陰で、きゃーきゃー黄色い声をあげる紫が白い目で見られることもない。今日一日中あちこちを歩き回って、妖怪とはいえ疲れが出始めているだろうに、彼女はむしろ朝よりも元気になっているようだった。

 

「なんだかあっという間だったけど、楽しんでもらえたかい」

「もぉーバッチリよ! 本当に楽しかったっ!」

 

 月見に向けたぬいぐるみを、紫はぴょこぴょことご機嫌に揺らした。

 

「宝物までもらっちゃったし、もう言うことなし!」

「……そっか」

 

 ほとんど紫に言われるがまま付き合っただけで、気の利いたエスコートのひとつもできなかった月見だけれど。抜けるような笑顔でそう言ってもらえると、肩の荷がすっと下りた気がした。

 本当に純粋な少女だ。クレーンゲームでぬいぐるみを一個取ってもらった程度で、ここまで喜ぶ少女が普通いるだろうか。幼いといってしまえばそれまでだが、そのくすみのない幼さが今はぽかぽかと心地よい。

 

「でも、月見は退屈じゃなかった? 私ばっかりやりたいことやってて……」

「大丈夫だよ」

 

 ふと不安げな顔つきになった紫の言葉を、月見は心配ご無用とばかりに遮る。退屈だったわけがない。不満などあるわけがない。笑顔が絶えない紫をただ見ているだけで、月見だって満たされるのだから。

 微笑んだ。

 

「お前のさっきの笑顔だけで。私だってもう、言うことなしだ」

「む、むむっ……」

 

 紫がちょっぴりたじろいだ。夕日色に染まった頬をぬいぐるみで隠し、半目で、もしくは上目遣いで月見を睨んで、

 

「……そういう不意打ちはよくないと思います」

「嘘は言ってないよ」

「……むー」

 

 吐息。前を見て、

 

「……ねえ。ひょっとして今日って、私のために……」

「……」

 

 月見もまた前を見て、ふっと息をついた。

 

「荷物を運びたかったのは事実だよ」

 

 観念するように、

 

「……でも、それだけじゃなかったのも、立派な事実だね」

「……そっか」

 

 紫が、ぬいぐるみを抱く両腕に、きゅっと愛おしげな力を込めた。

 月見たちが見つめる先で、西の空が赤々と染まっている。夕日は背の高いビルに遮られて見えないのに、なぜだろう、今日の夕暮れはいつもより眩しく、熱いようだ。

 その事実をはぐらかすように、月見はぽつりと言った。

 

「――ともあれ、よかったよ。今日一日楽しんでもらえて」

「あら月見、随分と気が早いんじゃない? まだ日が暮れただけで、今日は全然終わってないわよっ」

 

 駆け足で前に出た紫が、燃える夕暮れ空を背に振り返った。

 

「このあとは私の屋敷で藍のご馳走を食べて、みんなでお酒を呑みます! そう簡単に寝られると思わないでよ!」

「……ッハハハ、それは大変そうだ」

 

 ああ、そうだ。なんだかすっかり終わったつもりになっていたが、今日はまだまだ、あと六時間ほど続くのだ。

 

「今日は帰さないわよー! 藍と橙と、みんなで一緒に寝るんだからっ。もちろん月見がまんなかでね!」

「お前は、本当に元気だねえ」

 

 つくづく、月見はそう思う。余程のことがない限り、紫が落ち込んだり疲れたりしている姿というのを見たことがない。一日中飛んだり跳ねたりするだけの元気が、あの小さな体の一体どこからやってくるのだろう。

 

「当たり前よー」

 

 茜色の空よりも眩しく笑った紫の、実に事も無げな言葉だった。

 

「だって、月見がいるもの」

「……そっか」

「そうそう! ……じゃあいい感じで人気もないし、人払いして帰りましょ。おなかすいたー!」

 

 名残を惜しむように空を見上げ、人払いの術を構築し始めた紫の背を、今の自分はどんな顔で見つめているのだろう。

 手元に鏡があるわけではないので、わからないけれど。

 

「よっし、準備かんりょーっ! 月見、行きましょ!」

「……ああ」

 

 今が幸せで幸せで仕方がない。そんな笑顔とともにそっと差し伸べられた手を、そっと取った自分は。

 まあ、きっと、似たような顔をしているのだろうなと。

 そう、月見は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第74話 「好敵手という名の――」

 

 

 

 

 

 夏は終わりだとばかりに太陽が燦々輝いて、蝉が鳴いていた。

 いつも深い霧が立ちこめている迷いの竹林で唯一、透き通った空を見上げられる場所がある。そういう特別な場所だからなのか、ここから望む青空はいつもとまた違って美しく見える。白と青のコントラストが目覚ましく、凹凸すら感じられそうなほどくっきりしていて、自然の風景というよりかは人工の絵画を見ているような。

 その穴場の名を、人は永遠亭と呼ぶ。

 幻想郷最高の医療施設でありながら交通の便が最悪という、実にクセモノな診療所である。

 

「れーせん、れーせーん! お酒呑むから持ってきてー!」

「え!? ……姫様、まだ昼間ですよ!?」

「いいからいいからー。早くしてねー!」

 

 藤原妹紅は、その実にクセモノな診療所と、幻想郷で最も関わりが深いといえる人物の一人である。竹林の外から永遠亭までを往復する回数で、妹紅の右に出る者はいないだろう。また、妹紅が竹林の案内役に抜擢されさえしなければ、永遠亭が診療所として機能することもなかっただろう。

 ある意味では妹紅こそが、今の永遠亭の在り方を決定づけたと言えるほど。

 そんな永遠亭と関わりが深い妹紅だけれど、竹林を切り拓いて建てられたその純和風なお屋敷に、お邪魔をしたことは実のところほとんどない。不老不死の妹紅が医療の助けを借りることなどまずないし、そうでなくとも永遠亭は妹紅のライバルが住む場所であり、要するに敵の根城であり、そんな場所に自分の方からのこのこ入っていく理由も義理もありはしないのだ。あくまで竹林の案内役の務めに従って、人里の病人を護衛し、導いてやるだけなのだ。

 ではなぜ今、妹紅は永遠亭の縁側で胡座をかいて、夏の青空を見上げてなどいるのか。

 

「……あれ? そういえば、あんたを屋敷に招待するのって初めてだっけ?」

 

 その元凶が、妹紅のすぐ隣で正座をしている。女としてそこそこ自信のある妹紅のプライドが、ひと目見ただけで木っ端微塵になりかねないほどの美貌である。少女の名は蓬莱山輝夜であり、かつて『かぐや姫』の名で都の男を虜にした美少女であり、妹紅が今なお殺し合いを続ける好敵手(ライバル)であり。

 そして今日、妹紅を永遠亭へ招待した張本人である。

 床に散らばった長い黒髪が、陽の光を受けて黒瑪瑙のように輝いている。妹紅の白髪も同じように散らばっているが、正直言って質の差が月とスッポンだ。輝夜の黒髪が宝石だとすれば、妹紅の白髪は紙くずみたいなものだ。お互いが不老不死であることを考えれば、これは日頃の生活習慣や手入れの違いによるものではなく、純粋な生まれながらの差なのだろう。

 髪ひとつ取っただけですでにこれなのだから、肌や目鼻立ちについては、言わずもがな。

 相手が地球外生命体である以上、人間離れしているのはある意味当然とはいえ、ここまで歴然たる差があると女として結構凹む。

 胡座の膝に頬杖をついた。

 

「ま、私がここにお邪魔したのって、気絶したあんたを運んだか気絶してあんたに運ばれたかのどっちかよね」

 

 殺し合いの話だ。基本的に勝敗が決したら気絶した相手は放置だが、気が向いた時には永遠亭まで運んでやったり、逆に運ばれたりすることもある。

 

「でもあんた、目が覚めたらいっつもすぐ帰っちゃうじゃない。やっぱり初めてみたいなもんだわ」

「……かもね」

 

 こんな日がやってくるなんて、思ってもいなかった。妹紅と輝夜は今でこそ和解しているけれど、かといってすっかり仲良しさんかといえばそうでもない。仲がいいといえるほどよくはないし、悪いといえるほど悪くもない。赤の他人ではないけれど、友達でもない。

 好敵手。こいつにだけは、絶対に負けたくない。きっと輝夜も、そう思っているだろう。

 輝夜と一緒に酒を呑むのは初めてではない。以前、博麗神社で宴会をやった時に、成り行きで酒を注いだり注いでもらったりしたことがある。

 けれどあの時は、他にもたくさんの人間や妖怪がいた。だから輝夜と二人きりで酒を呑むのは、今日が紛れもない初めてのはずだ。

 きっとこれも、先生のお陰なんだろうなと思う。

 なぜなら、妹紅と月見の関係が輝夜にバレたのだから。

 

 

 

『……あれ、輝夜? 水月苑に行ったんじゃなかったの?』

『……行ったわよ。ええ、行きましたとも。でも留守だったわ』

『あー、そっか。タイミング悪かったね』

『ええ、まったく。――なんでギンがあのスキマと外の世界に遊びに行ってるの!? なんなの!? デートなの!? 二人きりなの!? 私が一体いつからギンと二人きりになれてないと思ってるのようわああああああああん!!』

『……ああ、そういうこと』

『なんなのよおっ……! 私だってギンと二人きりで遊びたいわよ! 二人でたくさんお話したいわよ! 毎日じゃなくていいの、一週間に一回とかでもいいの! なのにダメなの!? 私そんな欲張ったこと言ってる!?』

『いっそ泊まりにでもいけばいいじゃん』

『泊まりに行くとスキマに邪魔されるのっ!!』

『あ、そう……。せめて永遠亭が竹林にさえなければ、先生の方から来てくれたりするのかもしれないけどねえ』

『うう、引っ越そうかなあ……――って、え? 先生?』

『ん?』

『あんた今、先生って言ったわよね?』

『言ったけど』

『よね。ギン――月見が? 先生?』

『え?』

『え?』

『……』

『……』

『……言ってなかったっけ?』

『い、言ってないわよ!? いや、あんたが「先生」って呼んで慕ってる人がいるのは知ってるけど、でもそれがギンだなんて全然まったくちっともさっぱり聞いてないわよ!?』

『ああ、そうだったんだっけ。ごめんごめん。――じゃあ私はこれで』

『まっ、待ちなさあいっ!! あんた、ぎ、ギンとどういう関係なの!? ……まさかっ!?』

『いやなにがまさか?』

『――わかったわ。妹紅、あんたこれから暇よね? ついてきなさい』

『やだよ、これから釣りに』

『いいからついてきてよっ! 拒否権なしっ!! あんたがギンとどういう関係なのか、ぜんぶ聞かせてもらうんだからあっ!!』

『あ、ちょ』

 

 

 

 なんとも強引なお姫様もいたものである。そういう意味では、招待されたというよりかは拉致されたといった方が近い。

 

「姫様ー、お酒持ってきましたよー」

「あ、ご苦労様ー」

 

 妹紅がしみじみ記憶を遡っていると、徳利二本と猪口二つをお盆に乗せた鈴仙が突き当たりを曲がってやってきた。どうやら酒を呑ませて洗いざらい聞き出してやろうという魂胆らしいが、妹紅ははじめからぜんぶ話すつもりなので、はっきり言って無意味である。タダ酒ごちそうさまです。

 

「足りなかったら呼んでください。新しいのを持ってきますから」

「瓶ごと持ってきてくれてもよかったのに」

「このお酒は冷やして呑むのが美味しいんです。丸ごと持ってきたら、ぬるくなっちゃうじゃないですか」

「ふーん」

 

 輝夜はあまり気にしていないようだった。酒の味に拘るタイプではないのだろう。鈴仙の言葉を鵜呑みにして徳利を受け取るその顔つきは、日本酒なんてぜんぶ同じ味じゃない、なんて失礼なことを考えていそうだった。

 一方で妹紅は、鬼ほどでないにせよ酒好きの自覚があるので、鈴仙の気遣いはありがたい。

 

「よし……じゃあ妹紅、洗いざらい吐いてもらうわよ! 覚悟せよー!」

「はいはい」

「あはは……頑張ってくださいね」

 

 鈴仙の苦笑いは、果たしてどちらへ向けたものだったのか。鈴仙の後ろ姿が突き当たりを曲がって消えるなり、輝夜が徳利を妹紅の目の前へ持ち上げた。

 

「ほら、酌したげる」

「ん、ありがと」

 

 猪口をひとつ取って差し出すと、とっくりとっくり、小気味のいい音を立てながら酒が注がれていく。真昼間の酒は、陽の光を吸収して鏡みたいに光り輝いていた。月明かりを受けて妖艶に光る酒は美しいが、こうしてまばゆく透き通った姿もなかなか悪くない。

 妹紅も徳利を取って、酒を注ぎ返す。

 乾杯はしなかった。ニッと口端を曲げ、

 

「そんじゃまあ、そこまで聞きたいんだったら語ってあげましょうかね。私と先生の深い仲ってやつを」

「むっ……、わ、私だって負けてないわよ」

 

 その反応が予想通りすぎたから、妹紅はつい声をあげて笑ってしまった。かつて、都の男たちを虜にしたかぐや姫が。妹紅の父をも魅了し、そして妹紅の生活をぶち壊してくれた女が。あろうことか妹紅に嫉妬しているだなんて、なんておかしくて、愉快な話なのだろう。

 

「ちょっと、そこでなんで笑うの」

「さぁてね」

 

 勢いよく酒を呷り、夏の空へ薄い雲を引くように、火照ったため息をつく。

 

「私が先生と出会ったのはね、私が、ほんとにまだ駆け出しの陰陽師だった頃」

 

 そうやって妹紅が語り出せば、物言いたげだった輝夜も諦めて、お姫様らしい上品な手つきで酒を口へ、

 

「――私が、先生を退治しようとしたのがきっかけだったっけ」

「ぶしゃんっ!?」

 

 直後、酒を噴射した輝夜にいきなり頭をぶっ叩かれたのを、妹紅は心底理不尽だと思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そもそも妹紅が陰陽師として妖怪退治をするようになったのは、不老不死となって軽く四半世紀ほどが経ってからだった。

 その四半世紀に至るまでは、常軌を逸した苦労の連続だった。いや、『苦労』なんて言葉で軽々しく言い表せるようなものでもなかっただろう。外見が成長しないから、ひとつの地に長く留まることはできない。白い髪と赤い瞳を気味悪がられ、誰とも交流することができない。怪我が瞬く間に治っていく光景でも見られようものなら、化物の子として排斥される。

 そして、独りで生きていく力を持たない自分自身がなにより足枷となった。

 妾の子とはいえ貴族であったから、妹紅の生活はそこそこ裕福な方で、食べる物も着る物もただ息をしているだけで勝手に出てきた。そういう生活に慣れすぎていた。だから不老不死となり家を捨てた時、金を得る方法がわからず、食料を得る方法がわからず、生きていくためにできることがなにひとつとしてなかった。

 野垂れ死んで当然だったのだ。

 だが妹紅は死ななかった。死ねなかった。不老不死だから。どんなに飢えようがどんなに渇こうが、死んでは甦るの繰り返しで、終わりなどなく永遠に苦しむだけの地獄。あれで、よく気が狂わなかったものだと思う。

 違うか。

 あの時の妹紅は、すでに狂っていたのだろう。自ら手首を掻き切り喉を切り裂き、血を失って体が冷たくなっていく感覚は、今でも思い出せるほど鮮明な記憶となって刻まれている。忘れることはない。忘れるには、妹紅はあまりに自害を繰り返しすぎた。

 まともに生きられるようになるだけで、数年が経っていた。

 

 妖怪退治を始めたのは、他に選択肢がなかったからだといえる。独りで旅をする道中の安全を確保し、人並みに稼ぎ人並みの物を食べて生きるために、妖怪退治――陰陽師という職はこれ以上ないほど都合がよかった。

 かつて戦った妖怪の呪いのせいでこうなった、とか。そんなことを適当に言っておけば、白い髪と赤い瞳にも一応説得力を持たせられたのが一番大きかっただろう。妖怪を退治する善人として振る舞えば、少なくとも不老不死だとバレない限り排斥される可能性は低くなり、生活も随分としやすくなる。

 だから、学んだ。あの頃は、輝夜への復讐心などさっぱり忘れていたと思う。ただ毎日を生きるのに必死すぎて、復讐まで頭を回す余裕がなかった。思い出したのは、ある程度術を覚え、ひとりで生きることに慣れ、心がゆとりを持ち始めてからだった。

 

 ただし、ここでもまた呆れるほど時間が掛かる。

 才能がなかったのだ。今でこそ陰陽師として一流の実力を手に入れているが、それは妹紅が不老不死だったからであり、普通の人間ではどうやっても真似できないほど途方もない時間を、陰陽術の研鑽に費やしたから。学び始めて間もない頃の妹紅なんて目も当てられなかった。

 師事できるような知り合いもいないから、すべてが独学と試行錯誤の繰り返しだった。ある程度術を使えるようになるまで三年。ある程度妖怪と戦えるようになるまでまた三年。その間は何度も何度も妖怪に殺された。殺されて、殺されて、しかしそのたびに生き返って、殺して――そうやって、蝸牛(かたつむり)が這うよりも遅い足取りでしか、強くなっていくことができなかった。

 気がつけば十年が経っていた。十年経ってようやく妹紅は、ひとりで全国を巡り歩き、必要に応じて金を稼ぎ、人並みの物を食べて生きていけるようになったのだ。

 

 月見と出会ったのは、その十年からまた少しばかり時が過ぎて、普通に毛が生えた程度の陰陽師となった頃だった。

 

「なるほど。化け狐……ですか」

 

 小さな村だった。人口は百に満たず、土地も世間話をしながら軽く回ってしまえる程度で、むしろ集落といった方が妥当だったかもしれない。山をひとつ下り次の山へと続く道を大きく外れ、緑の中で紛れるように築かれたその場所へ、妹紅が立ち寄ったのはただの偶然だった。

 見るからに長閑な生活をしていて、妖怪に悩まされているとは思えない。稼ぎはできそうもないが、山ひとつを越えて疲れた足を休ませるにはちょうどいい。

 その当てが見事に外れた。村人たちは妹紅が陰陽師であると知るや否や、こちらから尋ねるまでもなく妖怪退治の依頼を持ってきてくれた。本当によかった助かったと早くも妹紅を拝み始めた老人たちを落ち着かせ、詳しく話を聞いてみれば、

 

「何度か村の若い衆が捕らえようとはしたのですが、ぬらりくらりと逃げられてしまい……。そこで是非とも、陰陽師殿に退治していただきたく」

「話はわかりました」

 

 なんでも、化け狐に作物や酒を盗まれて困っているとか。少し前からぽつぽつと被害が出ていたが、今日になって突然、開いた口が塞がらなくなるほどの量を盗まれたらしい。

 村長である老爺の話にひとまず相槌を打ち、妹紅は腕を組んで考えた。

 化け狐――つまりは妖狐。狸と双璧を成す妖怪随一の悪戯好きで、よく人間を化かしてからかっては遊んでいる。実力は上と下の幅が広く、上は九尾の狐と呼ばれ人間はおろか妖怪からも畏れられるが、下は普通の人間が農具を持っただけでも勝てるほど弱い。人を化かすという厄介な力を持つ反面、人の血肉を求めて彷徨うことは滅多になく、危険度は数いる妖怪の中でも低い。

 こんな辺境の村でチマチマと盗みを働くようなら、そう強い妖狐の仕業ではないだろう。陰陽師として駆け出しにちょっと毛が生えた程度の妹紅でも、充分に対処は可能だと判断できる。

 頷いた。

 

「わかりました。そのご依頼、承ります」

「ああ、ありがとうございます……!」

 

 途端、張り詰めていた老爺の表情がほろりと崩れた。両手を合わせて、深々と頭を下げたりまでする。頭を上げてくださいとか、まだ気が早いですよとか妹紅は苦笑して返すが、内心はそうそう悪いものではない。

 誰かに感謝されるなんて、今までの生活では考えられなかったことだから。何年も何十年も、人から罵倒され、排斥されてばかりだったから。だからちょっとくらい、誰かの力になれるという事実に優越感を覚えたって、神様も見逃してくれる。

 もちろん、優越感に浸るだけで終わったりはしない。ここまで深々と感謝された手前、失敗しましたではまるで示しがつかない。格下の妖怪相手に油断して、殺された経験も何度かある。たかが狐といえど楽観はできない。楽観が許されるほど、妹紅は大層な実力者ではない。

 依頼がなんであろうと、相手がどんな妖怪であろうと、持てるすべての力を尽くす。

 その決意を胸に、夕暮れまでまだ少し時間があるからと、妹紅は山へ調査に向かう。

 これが自分の人生に大きな意味をもたらす『彼』との出会いになるなど、無論、夢にも思っていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 夜に歩く山がどれほど危険で恐ろしいかを知ったのは、妹紅がまだ、独りで生きることに慣れていなかった頃だ。

 まあ、平たくいえば死んだ。食料ほしさに軽い気持ちで足を向けたのが運の尽きだった。ものの見事に遭難し、日が落ちても山を下ることができず、自分自身の姿すらまるで見えない闇と恐怖の中で、よくわからないうちに妖怪に喰い殺されていた。

 山は異界だ。特に、夜の山は。人間が我が物顔で闊歩できるのは、山脈で覆われたこの島国に水たまりのように存在している平地だけで、一歩山へ足を踏み入れればそこはもう人の領域ではない。鳥獣、妖怪、或いは神々たちの世界。近頃は修業目的で山ごもりをする仏僧というのがいるようだが、そういう連中はきっと正気じゃないんだろうなと妹紅は思っている。

 死んだこともないからそんな真似ができるのだ。

 死亡経験アリの妹紅が言うのだから、間違いない。

 ともあれ、山だった。天を衝くように屹立した木々が枝葉を壮大に広げ、空模様すらロクにわからない有り様である。この緑の膜が夜になると月明かりを根こそぎ奪い、自分の掌すら見えない本物の闇を作り出す。まだ太陽は沈んでいないはずなのに、あたりはもう夜が迫ってきているかのように薄暗かった。

 あとすこし粘ってなんの手掛かりもなれば、今日のところは引き返そうと思う。

 恐らくあの山にいると思います、といういささか頼りない証言を信じてやってきてはみたものの、さすがにちょっと歩いた程度でどうにかなるほど甘くはなかったようだ。式神をいくつか飛ばして広範囲を捜索しているが、狐の住処を暴く手掛かりはひとつも見つかっていない。

 というか、妹紅はただ山道に沿って歩いているだけで、周囲の散策をしているのは実質式神たちだけだ。駆け出し陰陽師の妹紅では式神の精度も高が知れているけれど、もうすぐ日暮れだし、どんな妖怪が棲息しているかわからない初めての山だし、進んで迷う危険を冒していく勇気がなかった。

 幾度となく踏まれることで草花が枯れ、土が固められた、ほとんど獣道に近い山道を進んでいく。静かな山だ。山を歩くのは、かつて遭難して死んだ過去のせいでいつも気が進まないが、一方でどこか荘厳な雰囲気は好きでもあった。人の世界では決して味わえない、異界の空気。なんとなく居心地がよいと感じるのは、妹紅が人ではなくなったせいなのか。

 息を吸った。

 

「……さてと」

 

 そろそろ、捜索に放った式神たちが戻ってくる頃合いだ。四半刻探してなにも見つからなければ戻ってこいと、式神たちへは命じていた。

 その場で少し待っていると、燕さながら軽やかに木々を交わして、人形(ひとがた)の式神たちが戻ってきた。時間いっぱいまで飛び回っていたということは、結果は訊くまでもなくハズレだろう。案の定式神たちは、妹紅の周囲をくるりと一度、左回りで回った。

 

「はいはい、ご苦労様……って、あれ?」

 

 そして戻ってきた人形を回収しているところで、妹紅はふと気づく。数が一枚足りない。数え間違えたのかと思ったが、もう一度やり直してみてもやはり、

 

「……あー、もしかして逃げられちゃった?」

 

 たまにあるのだ。こういった下級の精霊を憑けて使役する類の式神は、術者の力量が不十分だと満足に命令を聞いてくれなかったり、勝手な行動をしてどこかに消えてしまったりする。式神をどれほど意のままに操れるかが、陰陽師の実力を平たく示すひとつの指標だった。

 なおこの指標に基づくと、式神にお遣いの途中で逃げられるような者は、例外なくただの青二才である。

 

「……はあ」

 

 ため息が出た。現実を見せつけられた気がした。十年以上修業を続けて、自分にもちょっとくらいはと思い始めていたけれど、自惚れもいいところな幻想だったようだ。

 式神には逃げられ、妖狐の住処を暴く手掛かりもなし。

 結果としては、散々もいいところだろうか。

 

「……明日は頑張んないとなあ」

 

 今日は元々時間がなかったから仕方ないとしても、もし明日一日かけてまるで駄目だったなら、『その程度』の陰陽師として見切りをつけられるだろう。

 故に妹紅が今すべきことは、あとちょっとだけと悪足掻きをするのでなく、明日へ疲れを残さぬようしっかりと休むこと。

 そう思い、すっぱり諦めて踵を返す、

 

「……ん?」

 

 その間際、視界の端で小さく白いなにかが躍った。

 最後の一枚だった。

 

「あ……なんだ、遅れてただけか」

 

 どうやら、逃げられたわけではなかったようだ。妹紅がほっと安堵したのも束の間、最後の一枚はおよそ一分遅れで戻ってくるなり、妹紅の周囲とくるりと右回転で回った。

 

「……」

 

 なにも見つからなかったら左回り。なにか怪しいものを見つけたら右回り。

 そう命令していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あとちょっとだけだ。

 せっかく式神がなにかを見つけてくれたのに無視するのはあんまりだから、ちょっと確認してみるだけなのだ。

 決して、手ぶらで帰って「なにもわからなかったです」と報告するのが恥ずかしいとか、そんなことは断じてないのだ。

 その式神が案内したのは、山道を大きく外れた山の奥深くだった。迷わないよう木に目印をつけてなお、自分の居場所がわからなくなりはしないかと不安になるほどだった。『この音』さえ聞こえてこなければ、きっととっくの昔に、遭難する恐怖に負けて引き返していただろう。

 喧騒が聞こえる。複数の集団が自由気ままに笑い合う、宴会めいたどんちゃん騒ぎが。

 こんな鬱蒼とした山の中で馬鹿騒ぎをする連中となれば、人外に違いない。

 

「……ありがとう。あとは私ひとりで大丈夫」

 

 小さく礼を言って、妹紅はここまで案内してくれた式神を回収する。ゆっくりと深呼吸をして、引き締めていた気を更に限界まで研ぎ澄ませる。声はもう目と鼻の先だ。深い森に遮られその姿は確認できないが、騒ぎの規模からして相当の数が集まっているとみえる。万が一不用意な音を立てて見つかってしまえば、そのまま数に任せて袋叩きにされるなんてのも否定はできない。

 落ち葉の少ない土を選び、足音を殺し息を殺して、一歩、また一歩と進んでいく。道はいつしか、緩やかな上り坂になっている。声は、この斜面を登り切った先から聞こえる。

 登った。

 森が拓けていた。

 

「っ……」

 

 一瞬の判断だった。妹紅はとっさに、太い木の幹の裏へ逃げ込んだ。物音が立たなかったのは奇跡に近い。

 腰を落とし、手頃な藪に紛れながら、蝸牛を見習う慎重な動きでもう一度『それ』を見る。

 

「……」

 

 それは、三十も超えようかという群れだった。普通の狐とそう変わり映えしない妖狐たちが、森を拓いてできた空間でぴょんぴょん飛び跳ね、料理を楽しみ、また酒を愉しんで思い思いに騒ぎ散らしている。

 大当たり。

 そして、大当たりだからこそ、

 

(どうしよう……ここで叩くべき?)

 

 妹紅は次に自分が取るべき行動を迷う。普通に考えれば、妖狐たちをまとめて退治し依頼を見事達成する好機である。しかしそれは、妹紅に数の差を跳ね返せるほどの実力があればの話だ。自分が駆け出しの陰陽師であることを忘れてはならない。

 緊張で高鳴る鼓動を抑え込み、見える範囲で妖狐の数を数え直してみる。あちこち元気に飛び跳ねているのでやや手間取ったが、何度やってもやはり三十はいる。これほど多くの妖怪を一度に相手取った経験は、今の妹紅にはまだない。

 これが鬼や天狗であれば脇目も振らず逃げ出すのだが、妖狐という、妖怪全体で見れば決して強くない種族というのが妹紅を迷わせた。

 息を吐く。

 

(……焦りは禁物。とりあえず、もう少し様子を見てみよう)

 

 焦って手柄をものにできるほど、自分は体も心も強くない。まずはなにより、状況を正確に把握しなければならない。

 結論をいえば、その判断をしていて正解だったと心の底から思った。

 銀の狐がいた。

 

(……ッ!)

 

 その狐は、妹紅の視界を遮る木々の、ちょうど真後ろに隠れていた。切り株に腰掛け酒を盃で楽しみながら、穏やかな瞳で仲間たちを見守っている、

 人の姿をした、狐であった。

 

(……危ない。様子見してて正解だった)

 

 功を焦って飛び出していたら、山の新しいトラウマがひとつ増えていたところだったかもしれない。

 人の姿をした妖怪が、なぜ危ないか。中には鬼や天狗などはじめから人の形をして生まれてくる者もいるが、本来獣であるはずの妖怪が人の姿をしているということは、元の姿を捨てしまえる程度の力と知能を持っているからだ。獣のまま獣のように生きていた妖怪が、一段上の次元に進化した形とでもいおうか。

 当然その分、普通の妖怪よりも強大である。世に名高い大妖怪と呼ばれる者たちは、そのほとんどが人の姿をしている。

 顔を覆った。

 

(あちゃー……こりゃあ、私の手に負える依頼じゃなかったかな)

 

 強そうには見えない。妖狐の実力を示す基準となる尾の本数は一だし、仲間たちを見守る瞳は父親のようだし、見るからに優しそうだ。だがどんなに低く見積もっても、そのあたりでぴょんぴょんしているただの狐どもよりかはずっと上のはず。

 ただでさえ数が三十以上で分が悪いのに、そこに人型の妖怪までご登場となれば、妹紅が取るべき行動はもはやひとつであった。

 逃げよう。前向きにいえば一旦退いて、相応の支度を整えよう。

 決して物音を立てないよう、戻る道順を念入りに確認する。

 

「……しかし、私なんかのために宴会まで開いてもらってよかったのか?」

 

 声が聞こえた。耳に心地よい低さと深さを兼ね備えた響きは、あの銀狐の声であった。

 妹紅は耳を貸さず、これからの自分の行動を頭の中で思い描く。行く手を阻む下り坂を、狐たちから見つからないよう中腰のままで、足音ひとつ立てずに下りていくのはいくらなんでも無理だ。少々情けない恰好ではあるが、四つん這いで後ろ向きになりながら、一歩一歩慎重に下りていくべきかもしれない。

 今度は、別の狐と思われるしわがれた声が、

 

『良いのですよ。偶然とはいえ、月見様のような御方とお会いすることができたのですから。見てください、皆のこのはしゃぎ様を』

「みんな見事に酔っ払ってるねえ。……そういえばこの酒、なかなか美味しいけど、どこから仕入れてきたんだ?」

『え? あ、ああ、それは……ええと、どうでしたかな、なにしろ若い者に任せきりだったもので』

 

 どうせ村から盗んだ酒だろうと妹紅は思う。

 ともあれ、やはり四つん這いで行くのが無難だろう。どうせ見ているやつなんていない。服が汚れてしまうかもしれないけれど、見つかる危険性を考えれば遥かにマシだ。

 まずは、下り坂の手前まで、

 

『そ、それにしても、これほどまで愉快な宴も随分と久し振りです。月見様のお陰ですかな。ハッハッハ』

「そうかね。……でもまあ、愉快なことは確かだね」

 

 地に両手をつき両膝をつき、ゆっくり、ゆっくり、それこそ蝸牛になった心地で、

 

「――どうやらこの雰囲気に惹かれて、お客さんもやってきたみたいだしね」

(は?)

 

 ちょっと待ってそれってどういう、と妹紅が思った時にはすでに遅く、

 

「そこの茂みに隠れてるやつ。どちら様だい?」

 

 ギョロリ、と。

 狐たちの視線がぜんぶ、一斉にこちらへ向いたのを感じた。

 動けなくなった。

 

(……あー)

 

 しまった。

 バレてた。

 銀狐が喉で笑って、

 

「この感じ、妖怪ではないな。人でも迷い込んだか」

 

 さて。

 どうしよう。

 とりあえず、見つかってしまった以上は四つん這いを続ける意味などない。いっそ走って逃げるか。いや、森の中の追いかけっこで獣に勝つのは無理だろう。

 そもそも、逃げるっていってもどこに逃げるのか、とか。

 めでたく妖狐たちに見つかった状態で、まさか村まで逃げ帰るわけにはいかないだろうとか。

 そんなことをぐるぐると考えていたら、なんだかもう進退窮まってしまったような気がして、

 

「……ふむ、だんまりかな?」

『確かめさせましょう。おい、誰か、』

 

 そのしわがれた声が引鉄となって、妹紅は一気に飛び出した。

 逃げる方向ではなく、進む方向へ。同時に札を抜き放つ。もうやるしかない。ここまで来たらヤケクソだ。手始めに最大火力をぶつけて、飛び跳ねて驚いている狐どもをある程度始末できれば上々。

 が、

 

「――ぅきゃん!?」

 

 視界が真上に吹っ飛んだ。なにが起こったのかまるでわからなかった。そのままたたらすら踏めず後ろにひっくり返って、みっともなく尻餅をついてしまう。

 当然、発動間際だった炎の術も綺麗さっぱり消し飛んだ。

 おでこがじんじんと痛いしお尻がひりひりするし、涙で前がよく見えない。不老不死でも痛いものは痛いのだ。一体なにが起こったのか、いや、そんなことよりも今は早く持ち直さないと、

 

「……あーっ!?」

 

 涙を拭って前を見た瞬間、妹紅は思わず場違いな大声をあげた。

 狐たちが料理を背中に載せたり尻尾でお酒を持ったりして、すたこらさっさと退散を開始している。

 

「……ちょ、ちょっと! 待ちなさいっ!」

 

 てっきり全面対決になるものと思い込んでいたので、すっかり反応が遅れた。慌てて追いかけようとするも、

 

「待っ――ひんっ!?」

 

 またなにかにおでこをぶっ叩かれる。

 そして今度はそれだけで終わらず、立て続けに頭のあちこちをビシバシビシバシ、

 

「あっ、ちょっ……いたっ、あっ、あうっ、いたたたたた!?」

 

 にゃー!? と両腕をぶんぶん振り回すがまるで意味がない。ほとんど目を開けていることもできなくなって、その場で情けなくしゃがみ込んでしまう。けれどギリギリのところで踏み留まった意地と敵愾心が、妹紅の感覚を研ぎ澄まさせた。

 なんとなくわかってきた。

 鳥のような影が、妹紅の周りでひゅんひゅんと風を切っている。本物の鳥なのか、それとも鳥の形をした別のなにかなのかは定かでないが、どうあれさっきから人の頭をビシバシビシバシと、味方でないのは明らかである。

 

「こんっ……のぉっ!」

 

 焼き払ってやった。自分を中心にして手加減無用の豪火を発生させ、飛び回る影を力ずくで絡め取る。炎に呑まれ燃え尽きた紙の残滓が、妹紅の目の前をはらはらと散っていく。

 

(――式神?)

 

 それは、妹紅が山の探索で用いたのと同じ、人の形を模して作った紙の式神だった。

 なぜ。

 

(あの銀狐か……!)

 

 妹紅の解答は早かった。力ある妖怪のごく一部は、そこらの陰陽師よりよっぽど達者に式神を操ると聞いたことがある。妹紅の術が完成するよりも早く式神を放ち、巧みな操作で妨害と足止めを行う。ただの狐にそんな芸当ができるはずもないから、犯人はあの銀狐で確定だ。

 しかして件の銀狐は、やはりと言うべきか、他の狐たちと一緒にすたこらさっさしており、

 

「このっ……待てって言ってるでしょうがあっ!!」

 

『ここは無理をせず、自分も退いて体勢を立て直す』という選択肢など、思いつきもしない。

 妹紅の怒りを体現したかの如く燃え上がった炎で、深紅の翼をつくりあげ、空を駆けた。妹紅の叫びを聞いて振り返った銀狐が、おっ、と少し意外そうな顔をした。

 無論、駆け出し陰陽師な妹紅のことなので、空を自由に飛び回れるほど達者な翼ではない。飛ぶというよりかは、吹っ飛ぶといった方がふさわしい有様である。おまけに方向転換がほとんどできないし、一度飛び出してしまったら最後、減速もロクにままならないというポンコツ技だ。

 しかし少なくとも、熱風を破裂させることで生まれるその速度は、走るよりかはよっぽど速い。

 狐たちの頭上を飛び越え、前に出た。

 

「……!」

 

 着地し、飛行の勢いをひたすら地を抉ってなんとか殺す。脚を痛めたが気にも留めない。どうせすぐに治る。振り向き、同時に札を抜き放つ。

 今度こそと、思っていた。

 

『――狐舐めんなああああああああっ!!』

「ひあ!?」

 

 啖呵を切った狐の一匹に、顔面めがけて飛びかかられるまでは。

 咄嗟にしゃがんで躱したが、今度は一匹どころか、

 

『お前たちも続けえええええっ! このままじゃ丸焼きだぞぉっ!』

『『『うおおおおお!!』』』

「えっちょっ、ふわひゃあっ!?」

 

 料理を捨て酒を捨て、黄金色の砲弾となった狐の群れにあっという間に押し倒されてしまった。顔も腕も腹も脚も、ぜんぶがもふもふで埋め尽くされる。いっそ都合がいい、このまま焼き尽くしてやると思ったが、術が発動しない。そこでようやく、札が噛み千切られてボロボロになっていると気づく。

 一気に血の気が落ちた。喰い殺されると思った。喰われたところで不老不死の妹紅は再生するだけだが、かといって喰われるのが平気かとなればそれも違う。痛みだって感じるし、こんなだって女としての尊厳がある。何十匹という狐たちに群がられ、肉のひとつも残さず喰らい尽くされるなんて、想像したくもない。

 かつて山で妖怪に喰い殺された、恐怖の記憶が甦った。

 

「や、やだっ……!」

 

 今まさに、喉笛を噛み千切られるのではないか。脳が白熱し、体が凍りつき、狐たちを追い払おうともがくことすら満足にできなかった。ただその場で身をよじり、ぎゅっと目を閉じて涙をこらえることしか、

 

『ちょっと待てぇっ、よく見たらかなりの可愛い子ちゃんじゃねえか!』

『『『な、なんだってぇっ!?』』』

『女だー!』

『ぷにぷにのお腹だー!』

『もちもちのほっぺだー!』

『つるつるな脚だー!』

『『『くんかくんか!!』』』

「待てえ――――――――――――ッ!!」

 

 恐怖が一瞬で激怒に変わった。

 

「なにしてんじゃあんたらあああああ!?」

『久し振りの女を堪能してます!』

『お腹ぷにぷにですね!』

『ほっぺもちもちですね!』

『脚つるつるですね!』

『『『くんかくんか!!』』』

「やめろ――――――――――――ッ!! あっこらっ、どこに顔押しつけてんだへんたああああああああああいっ!!」

『ぺろぺろ』

「いや――――――――――――ッ!?」

 

 荒い息遣いで迫ってくる狐たちの隙間から、気の毒そうな苦笑いをしている銀狐が見えた。その足元にはくたびれた毛並みの老狐もいて、

 

「そういえばこのあたり、雌が少ないって言ってたっけ」

『……お恥ずかしい限りです』

「まあ、やりすぎなければいいんじゃないかい。退治されちゃうのは勘弁だし」

「見てないで助けろ――――――――――――ッ!!」

 

 絶叫しながら、妹紅はほっぺを舐めようとしてきた狐に拳を叩き込む。しかしこの狐ども、いくら殴っても蹴っても『ありがとうございます!』としか言わず怯みもしない。チリひとつ残さず焼き尽くそうと札を取り出しても、『させるかぁっ!』と一瞬で噛み千切られてしまう。

 傍から見れば、動物にじゃれつかれる女の子という微笑ましい光景だったのかもしれないけれど。

 でもこいつらは妖怪で、どうやら雄らしくて、お腹を足でぷにぷにされるわ、脚にすりすりされるわ、あちこち匂いを嗅がれるわ舐められるわ、なんかこれ、いっそ喰い殺された方がマシだったような、

 

「いい加減にしろこの変態狐ども――――――――――――ッ!!」

『『『ありがとうございま――――――――――――っす!!』』』

 

 妹紅の絶叫は、夕日が完全に暮れるまで野山に響き続けていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 お嫁に行けなくなるかと思った。

 いや、不老不死になった時点ですでに行けないのだろうけど、まあともかく。

 

「ふ、ふふふ、ふふふふふ……」

 

 肩をひくつかせながら妹紅は立ち上がる。周囲では、頭にたんこぶをつくって気絶した狐たちの肢体が転がっている。中には、顔面に足跡をくっつけているものもある。殴りに殴って蹴りに蹴って、ようやく変態狐どもを成敗した妹紅である。

 結局最後まで助けてくれなかった銀狐を見て、ひくひく笑いながら、

 

「つ、つつっつ次は、あんたの番よ……!」

「私はなにもしてないだろう?」

「うるさぁいっ! あんたがこの狐どもの親玉でしょ!? だったら部下の責任はあんたの責任よ!」

『いやあの、月見様はただ旅の途中に立ち寄ってくださっただけで』

「うるさいってばぁっ!!」

 

 銀狐の足元で老狐がなにか言ったが、妹紅は耳も貸さなかった。服はよれよれで、体のあちこちがべとべとで、女としての尊厳を割とボロボロに砕かれた妹紅はとにかく怒髪天を衝く勢いだった。変態狐を数十匹ボコった程度じゃまるで治まりがつかない。だいだい、この銀狐が式神で邪魔さえしてくれなければ、はじめの一瞬でほとんどケリがついていたはずなのだ。つまり、妹紅の体のあちこちが涎でべとべとしているのは、この銀狐のせいだといえるのだ。

 札を抜いた。

 

「ぜっっったい許さない!!」

「わかったわかった」

 

 銀狐が、腹を括るようにため息をついた。

 

「じゃあ、お前の気が済むまでお相手するよ」

『月見様……よろしいのですか?』

「だって、このままにしといたら一生追いかけられそうだぞ?」

 

 地の果てまで追いかけて焼き尽くしてやると思う。

 

「大丈夫。こんな女の子に負けたりはしないさ」

『それはそうでしょうが……』

「ふんだ。女の子だからって高括ってると、痛い目見るんだから」

 

 実際、小娘相手だと油断していた妖怪をぎゃふんと言わせた経験は多い。自分の手札――不老不死を最大限に活かせば、人型とはいえ一尾の妖狐くらい倒してみせる。

 銀狐は、これといって妹紅の挑発を面白がりもしなかった。

 

「ほら、お前は下がってて。どうやら炎の術を使うようだ。巻き込まれたら大変だよ」

『……わかりました』

 

 頷いた老狐が、遠く離れた茂みの方へ駆けていく。それを見送ってから妹紅は霊力を開放し、燃え上がった炎で紅蓮の翼をまとう。

 足元に転がっていた変態狐どもに引火した。

 

『『『あっちゃあああああ!?』』』

『ありがとうございま――いやこれはさすがに無理だあああああっ!?』

 

 ぎゃんぎゃんと悲鳴を上げながら、一斉に飛び起きた変態狐どもがどこか森の奥へ吹っ飛んでいく。もう二度と顔を見せるなと思う。

 深呼吸、

 

「――行くわよ!」

「ああ。いつでもおいで」

 

 銀狐は腕を上げることも腰を落とすこともせず、自然体のままで佇んでいる。緊張感の欠片もない静かな表情をしている。構えるまでもないという向こうの余裕が嫌というほど伝わってきて、ひどく癪に障った。

 構いやしない。油断したければ勝手に油断していろ。

 代償は命だ。

 

「――っ!!」

 

 二枚目の札で、妹紅は自分の体を丸々呑み込むほどの豪炎を生み出す。様子見なんてまどろっこしい真似はしない。予想外の反撃で致命傷をもらったって、それはそれで結構。殺されたふりをして、向こうが勝ちを確信した隙を衝けばいい。

 蛇のように走った豪炎が、山の一角を赤々とした光で染め上げた。

 

 

 

 ……だがまあ、ぶっちゃけた話。

 いつ気を失ったのかは、まったく覚えていないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がついた時には、何者かの背中でこそばゆい揺れを感じていた。

 

(――あれ?)

 

 掠れた視界と霞がかった頭で、妹紅はぼんやりと疑問に思った。自分は一体どうなったのだろう。そして、どうなっているのだろう。夢でなければ、自分の記憶は、紅蓮の翼を打ち鳴らしあの銀狐に勇ましく突っ込んでいったところで途切れている。

 誰かにおぶわれているのだと気づくまで、そう時間は掛からなかった。

 夢だったのだろうか。それとも、今が夢なのだろうか。

 もう何十年もの間感じていなかった、人と肌が触れ合うぬくもりだった。

 

「ん……」

 

 思わず、小さな声がこぼれていた。自分がどういう存在になってしまったのかを理解して以来、もう二度と感じることはできないと諦めていたぬくもりに、気がついた時には心が弛緩してしまっていた。

 もしもこのまま何事もなかったなら、きっと眠ってしまっていただろう。

 掠れた視界が治った瞬間、やたら見覚えのある銀色の髪が広がって、跳ね起きた。

 続けざまに、憎いくらい見覚えのある銀の狐耳が飛び込んできて、叫んだ。

 

「――やああああああああああっ!?」

「いだっ!?」

 

 目の前のつむじに拳骨を叩き込み、妹紅は全身を躍動させて暴れに暴れた。あの銀狐におぶわれている。なにがなんだかわからないが、とにかくそれが事実である。であれば当然、妹紅の矜持が今の状況を許すはずもないのである。

 しかし、人におぶわれた状態で暴れれば当然、

 

「あっ、」

 

 腿を支えてくれていた銀狐の手がすっぽ抜け、妹紅の体は後ろへひっくり返り、

 落下、

 

「――え?」

 

 しなかった。恐る恐る目を開けてみると、妹紅の体に銀の尻尾がくるりと巻きついている。

 その状態で、妹紅は宙に抱えあげられていた。

 

「あっ……こらっ、放しなさい! 放せえっ!」

「……まったく。つくづく元気な女の子だこと」

 

 見下ろす先では、銀狐が迷惑そうな顔でつむじのあたりをさすっていた。蹴っ飛ばしてやろうと思って両足をじたばたさせるが、あと一歩のところで届かない。ならばいっそ、この体に巻きつく尻尾の毛をむしりとってやろうかと思って、

 

「自分の立場を理解してくれると助かるよ。それとも、痛い目を見ないとわからないかな?」

「っ……」

「このまま絞めあげたっていいし、地面に叩きつけてやってもいい」

 

 そこまで冷たく言い切った銀狐は、重く長いため息をついて、

 

「……だから頼む、いい加減に大人しくしてくれ。そしたらなにもしないから」

「……」

 

 それがこちらへ頼み込むような、頭のひとつでも下げるような口振りだったので、不意を衝かれた妹紅は毛をむしりとる寸前で動きを止めた。

 両手いっぱいに掴んだ銀の毛並みは、今まで感じたことがないくらいふさふさもふもふだった。

 

「……その言葉、信じられる証拠は?」

「お前に危害を加えるのが目的なら、こうやって話をしたりなんかしていない」

 

 まあ、確かに。

 

「じゃあ、私をおぶってたのはなぜ? 一体どこに連れていくつもりだったのかしら」

「麓の村まで」

「はあ?」

 

 こいつは嘘を言っているのだろうか、と妹紅は考えた。だって、妹紅をわざわざ麓の村まで運ぶ理由が彼にはない。自分の巣まで持ち帰って餌にするか、その場で捨て置く方がよっぽど合理的である。

 妹紅は周囲を見回した。一体どれほど眠っていたのだろう、日はほとんど落ちきって、山は冷たい不気味な闇で包まれ始めている。あとほんの少し時間が経つだけで、ここら一帯は完全な闇に呑み込まれてしまうだろう。昔のトラウマが音もなく甦ってきそうになって、妹紅は寒がるように体を震わせた。

 ここが山のどのあたりなのかはわからない。山道どころか獣道すら見当たらず、木々と落ち葉ばかりが闇の奥深くまで広がっている。本当に村へ向かっているのか、それとも、人知が及ばぬ山奥まで妹紅を引きずり込む最中なのか。

 

「信じられない」

「信じられないなら、自分が行きたい方へ行くといい」

 

 妹紅に巻きついていた尻尾がいきなり解けた。妹紅は驚きながらも、危なげのない動きでしっかりと着地、

 

「夜の山をちゃんと歩けるなら、だけどね」

「う……」

 

 銀狐の不遜な笑みが目に入って、そこで妹紅はようやく、望む望まざるにかかわらず自分には選択肢がないのだと気づいた。当然、まともに動けるわけがない。ここがどこなのかも村がどっちの方角なのかもわからないし、間もなくやってくるであろう夜の山に独りで取り残されたら、昔のトラウマが完全復活してしまって、体育座りをしながら一晩中すすり泣いてしまうだろう。

 独りになるのだけは嫌だ。たとえ目の前にいるのが、妹紅をひどい目に遭わせてくれたいけ好かない妖怪であっても。

 釘を刺すように銀狐を睨んだ。

 

「……もし嘘だったら、死に物狂いで大暴れしてやるからね?」

「ッハハハ、肝に銘じておこう」

 

 耳に優しい声音で笑って、銀狐が歩みを再開した。あっという間に闇の向こうへ消えそうになった背中を、妹紅は慌てて追いかける。

 

「ちょっと、速いってば!」

「ああ、悪い。なんだったらまたおぶろうか?」

「ふざけないで!」

 

 完全なる闇は、刻一刻と近づいてきている。山のどこか遠くでは、狼か野犬の遠吠えが響いている。風が吹くたび、周りの木々が妹紅を包囲するようにざわざわと揺れる。銀狐が気を利かせて狐火を灯したが、それでも闇は一歩も引くことなく、隙あらば妹紅を呑み込んでやろうと鳴りをひそめ続けている。

 夜の山だ。かつて妹紅がその命を容易く奪われた、人が踏み込んではいけない恐ろしき異界。

 

 でも、なぜだろう。

 今日の夜の山は、思っていたよりもあんまり、怖くなかった。

 

 

 

「……そういえば、私っていつ気を失ったの?」

「覚えてないのか?」

「覚えてるんだったら訊いてない」

「ほら……炎で翼をつくる術。あれで一気に飛び出して」

「うん」

「上手く止まれなかったのかな。木にぶつかって」

「……」

「ばたんきゅう」

「…………」

 

 つよくなりたい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――宴であいつらが出した料理と酒って、村から盗んできたものだろう」

 

 そう、銀狐が言った。

 

「で、食料を盗まれて困った人間たちが、折りよく村を訪れたお前に依頼を出したと」

「なんだ、気づいてたの?」

「いや。お前を運びながら、そうなんじゃないかなと考えてた」

 

 夜の中を進む。月明かりは鬱蒼と茂った木々に遮られ、銀狐が尻尾の先に灯した狐火以外は、自分たちを照らすものがない闇の中である。先を進む銀狐から三歩ほど離れた距離を保ちながら、妹紅は道なき道を歩いてゆく。

 とりあえず山を下ってはいるようだが、この先に本当に村があるのかどうかは、やはりわからないままだ。

 

「お前は、陰陽師としてはまだ若いようだ。そんな子が、たったひとりで、好きで私たちに喧嘩を売ったとはどうも思えなくてね」

「ご明察。村の人たちから依頼されたのよ。悪い狐たちを退治してってね」

 

 話す声と、歩く音と、狐火の燃える音だけが響いている。

 

「道理で、よくあれだけの料理を準備したものだと思ったよ」

「……ねえ。あれって、あんたが盗んでくるように命令したわけじゃないのよね?」

 

 妹紅はぽつりとそう問うた。妹紅が宴を木陰から盗み見していた時、銀狐は仲間に、この酒はどこから仕入れてきたのかと尋ねていた。自分で盗んでくるよう指示したのならあんなことはまず訊かない。

 背中越しに、銀狐が頷く。

 

「信じてもらえるかはわからないけど、そうだね。私がこの山に入ったのは、今日の昼頃でね。そこであいつらと出会って、まあ、成り行きで宴をすることになって」

「それで支度ができるまで待ってるあんたに黙って、あの狐たちがやったのは村へ盗みに入ることだった――と」

「まあ、そうなるんだろうね」

 

 あーあ、と妹紅は頭の後ろで手を組んだ。

 

「村の人たちに、どう報告しようかなあ……」

 

 退治すべき対象には逃げられ、盗まれた酒も食料も取り戻せなかった――結果としては散々もいいところだ。謝罪しなければならないのは確定だし、報酬だって当てにはできまい。路銀はまだ蓄えがあるのでどうでもいいが、村の人たちの感謝と期待を裏切ってしまうのは心苦しかった。

 銀狐が振り返り、苦笑した。

 

「悪かったね。詫びといってはなんだけど、あいつらは私から油を搾っておこう。盗んだ物も……そっくりそのままは無理だけど、それに見合うだけの物は返させる」

「はあ?」

 

 思いがけない提案に、妹紅はつい頓狂な声をあげた。

 

「なによそれ。妖怪が人間の味方をするの?」

「味方もなにも、悪いことをしたのはこっちの方だろう」

「……それはそうだけど」

 

 あくまで腕っぷしの強さだけで捉えれば、妖怪は人間よりも上位に君臨する存在である。そのせいか、人間を虐げたり、人間から金品を搾取するのは、強者として当然の権利だと陶酔している妖怪が少なからずいる。そこまでは行かずとも、大半の妖怪たちは、人間に対して罪の意識を感じるということを知らない。

 人間相手に進んで謝罪し、かつ詫びまでしようと言ってくる妖怪がいることを、妹紅は生まれて初めて知った。同時に、今ひとつ信用できなかった。疑心暗鬼となって沈黙していると、銀狐がまた妹紅に背を向けて歩き出す。妹紅もそれについていく。

 少し、夜の静謐(せいひつ)に浸る間があった。

 

「昨夜ね。私も、あそこの村で世話になったんだ。一宿一飯の恩ってやつだね」

「……ちょ、ちょっと待って」

 

 あんた一体なにして、

 

「私は旅の狐でね。寝床に困ったら、人間に化けて宿を貸してもらったりする。珍しい話でもないだろう? 狐は、人間たちに最も近い妖怪だ」

 

 銀狐が言っていることはわかる。今のご時世、人里に妖怪が出たとなれば、ほとんどか狐か狸、もしくは(むじな)川獺(かわうそ)の仕業と相場が決まっている。人間に化けて人里へ入り込んだ狐や狸の噂も、職業柄、耳にする機会は決して少なくない。

 だがそういう連中の目的は大抵がいたずらであり、この銀狐がいう一宿一飯の恩なんてのはまったく次元が違う話であり、

 

「そういうわけだから、宿を恵んでくれた相手に砂をかけるような真似はしたくないんだ」

「……それ、どう反応すればいいのよ私は」

 

 わかった、信じるわ――なんて、まさか妖怪相手に二つ返事できるはずもない。かといって彼の口調は、嘘を言っているわけではないように聞こえる。肯定するにも否定するにも突飛すぎる話で、妹紅は見えもない夜空を振り仰ぐ。

 

「そうさな、まずは明日の朝までに返せるものは返すよ。手をつけてない酒とかね。それから一週間くらいは毎朝、村の入口にでも食料を届けさせよう。村人たちにはそう伝えてくれれば」

「――変な妖怪ね、あんた」

 

 銀狐の言葉を遮って、妹紅は毒を抜かれた心地で笑った。世にはここまで変な妖怪がいるんだと。そう思った。

 妹紅の理解が正しければ、彼はただとばっちりを受けただけのはずだ。村での盗みは仲間たちが勝手にやったことであり、彼は指先ひとつ分も関与していない。宴で振る舞われた料理と酒が盗品であることすら、教えてはもらえなかった。まったく与り知らぬ罪で妹紅に目をつけられて、さぞやいい迷惑だったことだろう。

 なのに彼は、妹紅を村まで送り届けると言い、仲間たちに代わって盗みの謝罪をし、果てはその詫びまでしようと買って出た。

 これでは、まるで、

 

「あんた、実は人間だとかじゃないでしょうね?」

 

 まるで人間の考え方だ。妹紅の前を進み闇をかき分けていく男が、人の姿をした狐というよりかは、狐の姿をした人間に見えてくる。なるほどこの男のような妖怪なら、なに食わぬ顔で村にもぐりこんで、誰にも怪しまれることなく一宿一飯をいただくこともできるかもしれない。

 銀狐が、喉だけで笑った。

 

「よく言われるよ」

「……そう」

 

 森が拓けた。月明かりを遮る緑の膜がなくなり、少しだけ周りが見えるようになった。そこは山道のすぐ脇であった。下る方向に目を遣ってみると、そう遠くない距離の向こう側で、橙色の灯りがいくつか輝いているのが見えた。

 山の入口。

 

「村の人間たちが、お前を心配して目印()を焚いてるのかな」

「……」

 

 ――本当に案内してくれたんだ、この狐。

 正直、騙されていることも覚悟していたのだけれど。

 

「ここまで来れば、あとは一人でも大丈夫だよな。灯りくらいは自分で出せるだろう?」

「……バカにしないで」

 

 妹紅はすばやく札を取り出し、炎の術を発動した。炎は鳥の形となって飛び立ち、妹紅の周りを旋回する。夜の道を照らす明かり程度なら、これくらいもあれば充分だろう。

 銀狐が、満足そうに頷いた。

 

「それじゃあ、ここでさよならだ。今日は面倒を掛けたね」

「……そうね」

 

 本当に、今日は散々な一日だった。依頼は達成できないし、変態狐どもにあちこち舐め回されるし、木にぶつかって自滅するという大失態を犯して敗北するし、踏んだり蹴ったりもいいところだ。

 けれど、

 

「でも、まあ……そこまで気にしてもいないわ」

 

 そんな言葉が、妹紅の口から自然と紡がれていた。今になって思い返すと、なぜだろう、そう悪いことばかりでもなかったなと思ったのだ。

 妹紅は陰陽師だが、陰陽師を職として選んだ理由は、別に妖怪に恨みがあったからでも人を助けたかったからでもない。あくまで、白い髪と赤い目に理由を与え、人並みの路銀を得ることができるからだ。今でこそ誰かの助けとなる喜びを実感してはいるものの、人を困らせる妖怪はぜんぶ滅してやろうとか、困っている人々をすべて救ってやろうとか、そういう義憤に駆られているわけではない。

 妹紅は、妖怪が嫌いではないのだ。むしろ妹紅もまた人外である分だけ、妖怪相手の方が気が合うのではないかとすら思っている。

 人の生活を脅かす妖怪は悪だが、互いが傷つかずに済むのであれば、それに越したことはない。

 仲良く暮らせればいいのに。そう思ったことが何度かある。

 ひょっとすると妹紅は、人を理解してくれるこの銀狐と出会えたのが、嬉しかったのかもしれない。感謝の言葉も、顔馴染み相手のように自然と言えた。

 

「ありがとね。お陰で助かったわ」

「どういたしまして」

 

 初めはいけ好かないやつだと思っていたけれど、まあ。

 実際こうして助けられてしまえば、信じないわけにもいかないと思ったので。

 

「そういえば、名前を訊いてなかったわ。私は藤原妹紅。あなたは?」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「月見、ね」

 

 そう呟いて、妹紅は山道までの斜面を下りていく。それから振り返り、銀狐――月見に向けて、鋭く指を突きつけた。

 突きつけて、大胆不敵に笑った。

 

「助けられちゃったし、今日のところは退いてあげる。でも、次はこうは行かないからね」

「次って」

「私、こう見えて結構執念深い女なの。……私のこと、大した陰陽師じゃないって思ってるでしょう?」

 

 答えが返ってくるまで、失礼なほど結構な間があった。

 

「……いや、まだ子どもなのに大したものだと」

「だから、今度会ったらコテンパンにしてあげる。コテンパンにして、ぎゃふんって言わせてやるんだから」

 

 半分は本当だ。木に激突して自滅では全然納得できないし恥ずかしすぎるので、次はきちんと勝ち負けを決めたいと思っている。

 半分は嘘だ。世の中には『言霊』という概念がある。こんな風に言っておけば、いつかまたどこかで、ぱったりと再会できるような気がした。

 人を想う、この狐に。

 だから、妹紅は言うのだ。

 

じゃあ(・・・)またね(・・・)

 

 怖い怖い、と月見は笑った。

 

「病気や怪我に気をつけてね。次戦う時に、言い訳の余地があっちゃあいけない」

「そうね」

 

 死を捨てた自分には関係のないことだが、妹紅は頷いておいた。

 背を向ける。炎の鳥で足元を照らし、ほとんど麓近くの山道を下っていく。

 葉擦れの音が聞こえた。振り返ると、まるではじめから誰もいなかったように、そこにはもう誰の姿もなかった。

 夢だったとは思わない。

 この記憶が幻でないことは、花びらのように舞い散る赤い残火が証明していた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――んで次の日になったらお酒が返ってきて、それから毎朝、本当に食料が届けられるようになってね。あの時は笑ったよ」

「ふうん……」

「とまあ、私と先生が出会った頃の話はこんな感じ」

 

 そう言って話を締めながら、よくここまで覚えてるもんだなあと妹紅は思った。あの村の次にどこへ向かったのかとか、あの村の前はどこを歩いていたのかとか、そういうのはさっぱり覚えていないくせに、月見と出会った時の記憶だけは昨日の献立よりも鮮明に思い出せる。思い出すのに時間が掛かったところなんてひとつもなかった。それだけ、当時の出来事は妹紅にとって鮮烈だったのだ。

 語りが弾んだお陰で酒も進み、もう五回ほど鈴仙をおかわりに呼んでいる。猪口の中身をぐっと呑み干し、徳利を手に取ってみると、半分ほど注いだところで空になってしまった。また鈴仙を呼ばなければならない。

 そこでふと、輝夜のどこか小骨が引っかけた表情に気づいた。

 

「どったの」

「ん? いや……あんたとギンって、初めからぜんぶ知ってたわけじゃなかったんだなって。ほら、ギンが私と知り合いだってこととか、あんたが不老不死だってこととか」

「あー、そだね。そのあたりはもうちょっとあとからだよ」

 

 何度か別れては再会するのを繰り返して、十年くらいが経った頃だったろうか。成長しない体をさすがに怪しく思われて、妹紅は自分が不老不死であることを明かした。月見が輝夜と面識があることを知ったのも、ちょうどその頃だった。まさか都の有名人だった『門倉銀山』が月見だったとは、あの時は本気で度肝を抜かれたものだ。

 

「で、酒がなくなったから鈴仙呼んで」

「またぁ!? ちょっと、ついさっき呼んだばっかでしょうが!」

「徳利一本なんてすぐなくなっちゃうって。いっそ瓶ごと持ってきてもらった方がいいかな?」

「……あんた、鬼とも呑み合えるわよ」

 

 呆れ顔のまま、れーせーん、と輝夜が声をあげる。どこからか、もうですかあ!? と驚いた声が返ってくる。妹紅はくつくつと笑う。

 

「私は先生が好きだよ。でも、好きじゃない」

「え?」

「なんていうかな……敬愛? 感謝と憧れと尊敬と親愛。『人として好き』ってやつで、『異性として好き』ではない。要するに、あんたが心配してるような関係じゃありません」

 

 目をパチクリさせている輝夜を覗き込んで、ニヤリと口端を曲げて、

 

「安心した?」

「……ふ、ふん。ならいいのよ。これ以上ライバルが増えるのは御免だわ」

 

 逃げるように、ぷいとそっぽを向かれた。妹紅はくひひと笑って、半分だけの酒を一口で空にした。

 

「ねえ。私からもいっこ訊いていい?」

「な、なによ」

「輝夜って、先生のどこが好きなの?」

 

 前々から気になっていたことだった。輝夜には、かつての都で貴族からの婚姻を断りまくったという実績――もしくは前科――がある。すでに意中の相手がいるのではないか、もしくはひょっとして男嫌いなのではないかと、あの頃はいろんな憶測が都中を席捲していたものだ。

 言い寄る貴族たちをすべて追い払い、月見を選んだ。その理由が一体なんなのか、彼を先生と呼び慕う者として興味津々なのである。ここで是非輝夜を問い質して、あとで先生をからかってやりたいと思う。

 答えが返ってこない。

 

「ちょっと輝夜、聞いてる?」

 

 まさか悩んでいるわけじゃないだろう、一日中先生のことばかり考えているようなやつが――と思って、横を見たら、

 見たこともないくらい真っ赤になって湯気をあげている、輝夜がいた。

 蚊の鳴くような声が聞こえた。

 

「……ぜんぶ」

「え」

 

 妹紅はぽつりと言った。輝夜はぽそりと言った。

 

「ぜんぶ、すき」

「……」

「ぜんぶ、だもん……」

「…………、」

 

 ……うわぁ。

 うわぁ。

 ちょっと待って、いま猛烈に酒が呑みたい。辛い酒を喉の奥底まで一気に流し込みたい。じゃないとなんかすごくムズムズゾワゾワするというか、奇声をあげて髪を両手でかきむしりたくなるというか、とにかく鈴仙早く来て早く酒持ってきてじゃないと私このまま爆発しちゃうああもう幸せそうでヨカッタデスネコンチクショウ!!

 

「お待たせしましたー。持ってきましたよー」

「よくやった鈴仙!」

 

 突き当たりを曲がってやってきた鈴仙に妹紅は飛びついた。「はえ!?」と目を白黒させる鈴仙に構わず徳利を奪い取り、そのまま一気に自分の口へ傾ける。喉が焼けるような辛さと、よく冷えた呑み心地の奥で確かに感じる熱さが全身へ染み渡り、妹紅の体を蝕んでいた不純物を焼き尽くしていく。

 

「くいいいぃぃ……!」

「ちょ、なにやってるんですか妹紅さん!?」

「うっさい今は緊急事態だ!」

 

 徳利の酒はまだ半分ほど残っている。流れる動きで輝夜の口にねじこんだ。

 

「もがぁ!?」

「おら輝夜ぜんぶ呑めやぁっ!」

「がぼがぼがぼごぼ!?」

「姫様ー!?」

「がぼごぼ、……あいふんほほほあ――――――――――――ッ!!」

「ぐはあっ」

 

 殴られた。妹紅は床に転がり、輝夜は徳利を吐き出し、

 

「けほっけほっ……いきなりなにしてくれてんの!? 死ぬかと思ったわよっ!」

「うっさい! そっちこそ、なぁにいきなりノロけにノロけて天元突破してくれちゃってんの!? 吐くかと思ったわよっ!」

「吐!? し、失礼なあっ! だいたい、訊いてきたのはあんたの方でしょうが! 私は正直に答えただけよ!」

「あはははははぜんぶ好きって幸せそうで羨ましいですなあ! 私が不老不死になってどんだけ苦労してきたと思ってんのよ、私に対する当てつけかっ!?」

「知りませんそんなのーっ! ってかなによ、その自分だけが苦労してるみたいな言い草! 私だってね、今までずっとギンが死んだと思ってたのよ!? その悲しみと苦しみに比べたら、あんたの苦労なんてさかむけ(・・・・)みたいなもんですーっ!!」

「……あのー、私もう戻っていいですか?」

「ハン、今が幸せなやつの言うことは全然響かないわねえ!」

「不幸な自分アピールご苦労様ですーっ!」

「……あの、じゃあ私、もう戻りますから」

 

 妹紅は輝夜の頭をビシバシ叩き、輝夜は妹紅のほっぺたをむいむい引っ張る。この争いはやがて永遠亭の上空を舞台とした弾幕ごっこへ発展し、夏の青空を華麗に彩り、永遠亭の一部を華麗に破壊し、ブチ切れた永琳によって共々矢で撃ち落とされることとなるのだが――

 

「……あの、師匠」

「なに?」

 

 そんな未来の話はさておいて、永琳のところまで戻ってきた鈴仙は、小さく首を傾げながら言った。

 

「姫様と妹紅さんって……実は結構、仲良しですよね?」

 

 作業の手を止めた永琳は、やれやれ調子なため息をもって答えた。

 

「なにを今更」

 

 永遠亭の縁側では、お互いのほっぺたを引っ張り合いながら、二人の少女が転げ回っている。

 わーわーぎゃーぎゃーと、揃って仲良く騒ぎ散らしながら、転げ回っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第75話 「K ①」

 

 

 

 

 

 マンガみたいな話をしよう。

 身内と呼べる人たちがみんな死に、引き取り手もなく天涯孤独となった。

 マンガの中だけの話だと思っていた。

 

 両親は、物心がつく頃にはすでにいなかった。不幸な事故だったと聞いている。寂しくはあったが、祖父母がまるで我が子を扱うように可愛がってくれたので、不幸だと思うことは一度もなかった。むしろ過保護なほど惜しみなく愛されていた分だけ、他の同級生より幸せだとも思っていた。

 しかし、何事にも終わりはやってくる。

 自分が中学生になったあたりで祖母が病で逝き、祖父もまた、先日逝った。

 未成年にして早くも家族を失った自分だが、身寄りはない。名前もロクに知らない他人みたいな親戚はちらほらといるものの、どうやら自分を引き取ったり、支援したりするつもりは皆目ないようだ。祖父の葬式に素知らぬ顔で姿を見せたのが最後で、それ以降は音沙汰のひとつもない。

 わかっている。悪いのは自分だ。いくら若いとはいえ自分みたいな人間を、好き好んで引き取ろうとするお人好しがいるとは思えない。

 霊感体質。霊が見える人間。よくないモノを引き寄せる人間。

「あそこに誰かいるよ」と言って、誰もいない空間を指差す。

 誰もいないと言えば、「なんで見えないの?」と真顔で返される。

 同じ部屋にいるだけで、どこからともなく変な音が聞こえたり、物が突然倒れたり、様々な気味の悪い現象と出くわす。

 そんな子どもが近くにいたら、そりゃあ、親戚は誰も近寄らなくなる。親戚でさえそうなのだから、同級生など言わずもがなだ。みんなから避けられ慣れてしまえば、やがて自分自身も、進んで誰かと仲良くなろうとは思わなくなる。

 イマドキの言葉でいえば、ぼっちというやつだ。

 祖父母が逝ってしまった今、自分は真の孤独の中にいた。

 

「……どうすんだろうなー、これ……」

 

 自分で聞いても無感動な声だった。どうするんだなんて言っておいて、困っている様子はまるでない。困るという感覚など、もうとっくの昔に麻痺している。

 着の身着のまま、夕暮れの空の下を当てもなく歩いている。

 吐き気がするほど居心地が悪かった祖父の葬儀を終え、なんとか学校に復帰したはいいものの、そこでようやく自分は、天涯孤独というものの恐ろしさを知った。舐めていた。『誰もいない』――言葉にすればたったそれだけのことが、こんなにも虚しいとは思っていなかった。案外なんとかなるんじゃないかと、軽々しく考えていた自分がこの上なく愚かだと思えた。

 自分は別にひとりでも平気だから。というかひとりの方が気楽でいーし。そんなことを言って粋がっている同級生が何人かいる。かくいう自分もそうだった。

 知らないからそんなことが言えたのだ。ひとりの方がいいなんて宣っておきながら、実際のところひとりで生きている高校生なんていやしない。気楽に会話できる友人が一人はいる。教え導いてくれる先輩や先生がいる。SNSでバカをやれる仲間がいる。家に帰れば家族がいる。自分にだって祖父がいた。そうやって何人もの人たちに支えられて生きているやつが、「ひとりでも平気だ」とか、まるで笑い話ではないか。

 隣に、誰もいない。「ただいま」という言葉に誰からの返事も返ってこなかった時、携帯に登録された祖父の電話番号がもはや無意味なものだと気づいた時、自分はその恐ろしさを知ったのだ。

 だから学校が終わると、自分は家に帰るのが怖くなってしまって、今までずっと当てもなく町を徘徊していた。

 そして今も、徘徊している。

 

「参っちまうなー……」

 

 本当に。もちろん、いつまでも祖父と一緒にいられるなどと虫がいいことを考えていたわけではない。いつかは別れの時がやってくるのだと、頭では理解していた。でもそれは、高校を卒業して、進学するなりなんなりしたあとに就職して、祖父の援助がなくても生きていけるようになって、想像はできないけれど結婚もして――とにかく、まだずっと先のことだと思っていた。

 自分は一体、どうすればいいのだろう。

 世界のすべてから見放されてしまったかのようだ。そして事実、自分は周囲のすべてから見放され、独りなのであった。

 これから、どうやって生きていけばいいのか。

 そんなことも、わからなくなってしまった。

 

「っ!」

 

 そのとき、石かなにかに躓いてバランスを崩した。普段であればちょっとたたらを踏む程度で、問題なく立て直せるはずの躓き方だった。

 どうやって生きていけば、なんてクソ真面目な考え事をしていたせいで、情けないほど反応が遅れた。

 

「った!」

 

 ロクに受け身を取ることもできず、ほとんど胸から倒れ込む。両腕と両膝をしたたかに打ってしまい、駆け抜けた鋭痛に顔をしかめる。角ばった小石が散らばる地面だったのが災いした。右の膝から血が流れている。

 最悪だ。

 だがお陰で、正気に返ってこれた気がした。

 

「…………帰ろ」

 

 いつまでも当てもなく徘徊して、まるで意味がない。そんなことをしたって、誰かが助けてくれるわけでもない。さっさと家に帰って、これからのことを考えた方が建設的ではないか。

 ため息。ぼんやりと思う。

 独りでも生きていくべきなのか。

 それともいっそ、祖父たちと同じところへ行ってしまうのもありなのか。

 ゆっくりと考えてみよう。死ぬのは別に、いつだってできることだから。

 そう思い、立ち上がった。

 

「……さてと。随分適当に歩いちゃったけど、ここはどこ――」

 

 見覚えのない場所だが、どうせ近所の空き地か公園だろう。この町の地理ならだいたい頭に入っているし、そうでなくともポケットの中には、GPS機能付きの携帯電話がある。

 だから別にどこでも問題ないと、高を括っていた。

 

「……えっと」

 

 思わず、呟いていた。

 

「――ここ、マジでどこ?」

 

 自分を取り囲んでいたのは、人工的な建物がひとつとして存在しない、殺風景極まる剥き出しの大自然だった。

 

「……え、ちょ、待っ」

 

 焦った。どう見たって近所の空き地や原っぱではない。街路樹とは明らかに違う痩せ細った不気味な木々が乱立し、見渡す限りどこまでも平地が広がり、どれくらいの距離かもわからないほど彼方を山々が囲んでいる。家やビルの建造物はどこを探しても影ひとつなく、石を杜撰に積み上げた塚のようなものがあちこちに散らばっている。

 都会とまではいえないとしても、自分が住んでいたのはそれなりに大きな町だった。ところどころに申し訳程度の雑木林や緑地公園があるだけで、それ以外はコンクリートの道と家とビルが敷き詰められた、人工物であふれかえった町だったはずなのだ。

 こんな、見渡す限りの大自然で囲まれた場所があるなんて、聞いたこともない。

 ひと目見ただけで、ヤバいと思った。携帯電話を取り出す。地図のアプリを起動し、GPSで現在地を取得する。

『現在地を取得できません』というテロップが表示されるまで、さほど時間は掛からなかった。

 それからようやく、携帯電話が圏外になっていることに気づいた。

 

「……は、は」

 

 乾いた笑いが口からもれた。意味がわからなかった。なるほど確かに、自分は当てもなく町を彷徨い歩いていた。どこをどんな風に歩いたかなんて覚えてもいない。ふと気づいたら知らない場所に立っていたとしても、ありえない話だとは言い切れないだろう。

 そこは認めよう。

 だがものには限度がある。

 繰り返すが、自分が住んでいたのはそれなりに大きな町だった。コンクリートの道と家とビルが敷き詰められた、人工物であふれかえった町だった。隣町も同じだ。自分の町は内陸部で、周りをたくさんの町で囲まれていて、山でハイキングをしようと思ったら車を飛ばすか、電車をいくつか乗り継ぐかしなければならない。

 なのに一体どこをどう歩けば、見たこともない、聞いたこともない、電波が届かずGPSも役に立たない山奥に迷い込んでしまうのか。

 しかも、そんじょそこらのただの山奥ではない。平原のあちこちに散らばっている、大小様々な石を積み上げたもの。まるで、ありあわせの材料で死者を弔った塚のようにも見える。

 もしこれが本当に塚だとすれば――いや、塚でなくともこんなものは常軌を逸している。ぱっと見渡す限りでも、百では下らないほどの数が散らばっている。この異様な風景を作り上げた何者かが近くにいるのだ。どう考えたってまともではない。お化け屋敷やホラー映画なんかよりもよっぽど恐ろしくて、気づけば大きく身震いをしていた。

 ふと、インターネット上で都市伝説として語られている、異世界に迷い込んだ人の話を思い出した。確かその人は、BBSに最後の書き込みをして以降消息が途切れ、生死不明となっていたはずだ。

 ひょっとすると自分も今、その一歩手前にいるのだろうか。

 

「いや、まあ。確かに、死ぬのもありかな? とか思ったのは事実だけどさ……」

 

 あくまで選択肢のひとつのつもりだった。家に帰って、ゆっくりとこれからのことを考えて、何日かひとりきりの日常を過ごしてみて、それでも頑張ろうと思えなかったら、まあそういう選択肢もあるのかなと思っていただけで。なにも本気だったわけではない。

 こういうときばっかり張り切って願いを叶えてくれやがる神様は、きっと、サディストだ。

 

「ちくしょー……マジでどうしよ」

 

 困るという感情を、随分と久し振りに思い出した。いや、困るなどという生易しいものでなかった。知らない土地でひとりぼっち。人の気配はなく、それどこか建物のひとつもない。助けを求められる相手もおらず、どこに行けばいいのかもわからず、なにをどうすればいいのかも頭に浮かばない。わかるのはただ、このままなにもしなければ野垂れ死ぬということだけ。

 怖すぎる。冗談じゃない。祖父を失ったばかりの今でなければ泣いていた。足が震えて、立っていることもできなくて、膝から崩れ落ちた。転んで切った傷が痛んだが、そんなことを気にする余裕もとっくになくなってしまっていた。

 湿った声で、呟いた。

 

「……神様が、死ねって言ってんのかなー」

 

 地面に両腕をついて、その場で丸くなる。まぶたを下ろして、目の前の現実を拒絶するように暗闇の世界へ閉じこもる。生き延びるためにはなにかをしなければならないのに、そんな気持ちなど綺麗さっぱり湧いてこない。むしろ、眠ってしまいたい。今まで散々彷徨い歩いたからなのか、心地よい眠気が襲ってきていた。その眠気に身を委ねて、もう、眠ってしまってもいいのではないかと思った。

 よくわからないけれど。

 このまま眠れば、楽になれるような。

 そんな、気がした。

 不思議な感覚だ。自分という存在が段々と解けていくような。解けて、消えてしまっていくような。頭のどこかで、待てやめろ、戻ってこれなくなるぞ、しっかりしろと叫んでいる自分がいるけれど、それがどうしたといった感じだった。だってこんなにも、悪くない感覚なのだから。だからきっと、悪いことにはならない。

 死んでしまうとしても。

 こんな気持ちで死ねるなら、それはそれで、悪くない。

 だから自分は、それっきり思考を止め、呼吸を止め――

 そして、

 

「そおい」

「はぐあっ!?」

 

 いきなり脇腹を蹴っ飛ばされた。体が横に転がって、大の字でぶっ倒れて、赤い夕暮れ空が視界いっぱいに広がった。

 当然、眠気など綺麗さっぱり消し飛んだ。

 声、

 

「まったく、なにをやっているんだい君は。ここで消えかけてる人間なんて久し振りに見たよ」

「え? え?」

 

 じんじんと痛む脇腹を押さえて起き上がる。一体どこからやってきたのか、すぐ傍に小学生くらいの女の子が立っていて、自分の方を冷ややかな半目で見下ろしている。

 

「どうせ死ぬなら、妖怪たちに潔くその体を差し出してくれると助かるよ。ついでに、私の仲間たちにおこぼれをくれると理想的だ」

「え、あ、えっと、なんかすみません?」

「まあ、外来人の君にこんなこと言ってもわからないだろうけどね」

 

 不思議な少女だった。いや、不自然な少女だった。異質とすらいってもいい。同年代では背が高めな自分と比べると、頭ひとつ分ほど身長差がある。ランドセルを背負って小学校に通っているような女の子である。どう考えても、こんな得体の知れない山奥で出会うような相手ではない。

 両手には、見たこともない不思議な形状の棒を握っている。途中でL字を描いて折れ曲がり、それぞれの先端ではなんらかの記号が(かたど)られている。アルファベットなのかもしれない。とりあえず、ひとつが『S』の形をしているのはわかった。

 そして。

 女の子の頭の上に、パンダ――いや、ネズミか。ネズミの耳が乗っている。しかも背後からは尻尾と思われる細長いシルエットが伸び、くるりと渦巻きを描いて、その先端に小さなバスケットを吊り下げている。黒いスカートの裾の部分が切り絵みたいに切り取られており、太腿がチラチラと覗いて実にけしからん出で立ちである。

 コスプレ少女。

 こんな不気味な山奥で。

 幼い外見に反して、大人顔負けに落ち着いた口調だった。

 

「それで、目は覚めたかい?」

「え? あ、はい。お陰様で?」

「それは上々。感謝したまえ。私が蹴っ飛ばしてなければ、君は今頃消滅していたよ」

「あ、やっぱり? ――っていやいやいや」

 

 とりあえず会話を行いながら、現状を整理するため思考を回転させる。

 

「確かに、このまま死ぬかな? とは思ってたけど、消滅ってなにさ」

「文字通りの意味だ。気づいてなかったのかい? 体が半分透けていたよ、君」

「……えーっと」

「ここはそういう場所なんだ。生きる意志の希薄な――要は死にたがりの人間が迷い込み、心の弱い者は己の存在を保つことすらできない。肉体も残さず死ぬということさ。食い気のある獣たちからすれば、餌が残らないのはちょっと困る」

「待って、ごめん、待って」

 

 思わず両手を前に出して、女の子の川のような言葉を遮った。話の内容が電波すぎて、どこからどう噛み砕けばいいのかわからない。目の前にいるのがかわいらしい女の子ではなく、例えば不潔そうな感じのするおじさんだったら、迷わずヤバい人認定して逃げ出しているところだ。

 女の子が、くつくつと笑った。

 

「君、ここがまともは場所じゃないのはわかってるだろう?」

「えっと、うん」

 

 それくらいは。

 

「私のことも、まともな人じゃないと思ってるだろう?」

 

 どう答えてよいかわからず沈黙する。だがその沈黙が、なによりも雄弁な回答である。

 女の子は笑みを崩さない。

 

「その認識でいいさ」

「え、」

「ここはまともな場所じゃない。まともな人もいない。わかりやすくていいだろう?」

 

 いや、いいだろう? とか言われても、

 

「ついておいで」

「え、ちょっと」

「もうすぐ日も暮れる。こんなところでいつまでも話すのもなんだし、歩きながら説明しよう。幸い、君みたいな人間の相手は初めてじゃないしね」

「ま、待ってってば!」

 

 引き留める。こんな一方的に、言葉を押しつけるだけ押しつけておいて、

 

「意味わかんないって! 一体全体、どういうことだよ!」

「だから、それを歩きながら説明すると言ってるんだ。ああ、私のことが信じられないならついてこなくたっていい。君が本当に死にたがりなら、そこでじっとしてるといいさ。死の方から一目散で駆け寄ってきてくれる」

「……、」

「まあ、まともな死に方はできないだろうけどね」

 

 それっきりだった。女の子はまるで素っ気なく振り返って、どこかへ向かって歩き始めてしまう。その足取りに、迷いや後ろめたさは一切ない。自分がこのままなにもしなければ、女の子は自分をおいてどこかへ立ち去るだろう。

 さて、どうしたものか。

 女の子の存在は、地獄の中で垂れてきた蜘蛛の糸と同じだ。縋りつかなければ、いよいよ為す術がなくなってしまう。どこかもわからない謎の山奥で逞しくサバイバルができるほど、自分には知識も力もない。

 一方で、この蜘蛛の糸を登った先に救いがあるとも限らない。たとえ見た目がかわいらしい女の子であっても、ネズミのコスプレをしながら電波トークを繰り広げるような相手を信じろなんて到底無理な話だ。連れて行かれた先に怖い人たちがいて、襲われたりなんだりするかもしれない。

 でも。

 でもこの子は、たとえネズミのコスプレをしていても口を開けば電波トークでも、生きている人に変わりはないわけで。

 そして彼女の言う通り、ここに留まって生きて帰れるとは、どれほど楽観視しても思えないわけで。

 夕日が遠い尾根の向こう側へ消え、段々と夜の帳が降りてきている。ただでさえ不気味だった風景が、薄暗くなったことでますます雰囲気を増してきている。幽霊の一人二人は平気で出てきそうだ。遠くで狼かなにかの遠吠えが聞こえるのは、きっと幻聴ではない。

 

「……」

 

 消去法だった。少なくとも、この場所で夜を迎えるメリットはない。だから立ち上がり、切った膝の痛みを極力意識しないようにしながら、女の子の後ろ姿を追いかけた。

 女の子が振り返りもせず、

 

「ついてくるんだね。ひょっとしたら、私は君を騙しているのかもしれないよ?」

「はいはい。どうせこっちには選択肢ないでしょーが。ちっとでも可能性がある方に懸けるだけだよ」

「そうか。……気休めにもならないだろうけど、安心したまえ。騙すつもりはないから」

「それはいいんだけど……」

 

 女の子の背中から三歩ほど離れた位置について、無数の塚が散らばる原っぱを進んでいく。女の子の後ろ姿を眺めていたらふと、尻尾の先から吊るしたバスケットの中に、三匹ほどネズミが入っているのに気づいた。まさか、ペットだろうか。彼女がなぜここまでネズミに拘っているのか、自分には到底想像もできない。

 

「それで、どこに連れてってくれるわけ?」

「まともな人がいるところまで……かな。少し遠いから、歩くことになるけどね」

「なんだ……まともな人、ちゃんといるんじゃん」

 

 まともな人なんていない、と言っていたから自分はてっきり。

 

「こんなところまでゴミ拾いに来るような変人だがね。外来人の扱いは心得てるだろうさ」

「あー、まあ助かるならなんだっていいや」

 

 この女の子の、やたら知的で思わせぶりな話し方にはもう慣れた。『外来人』なる謎の言葉についても、今は訊かない。

 

「……でさ。まずはっきりさせときたいんだけど、君、何者? ただの女の子には見えないよ」

「――妖怪」

 

 女の子が、振り返った。

 思わず、足を止めた。

 

「え?」

「妖怪鼠、ナズーリン。まあこの先会うことはないだろうけど、覚えてくれても構わないよ」

 

 ようかい。妖怪。日本人なら老若男女問わず誰でも知っている、太古の科学。当時の知識では説明できなかった現象に理由を与えるため、人の手によって生み出された社会的装置。

 女の子の尻尾が、くるりとくねった。

 針金を入れた作り物では到底真似できない、まるで生きているかのような動きだった。

 女の子は、笑った。

 

「――信じるか信じないかは、君次第だ」

 

 その瞳は、人間ではありえない。

 薄闇の中でも妖しく輝く、深い深い紅の色をしていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――だから、ついこの間もまた霊夢と魔理沙に、買ってきたばかりのお菓子を持って行かれてしまったんだ。月見、君からも言ってやってくれないか。僕が許可を出していない以上、あの行為は窃盗という犯罪なんだということを」

「わかったわかった。……お前も随分苦労してるよなあ」

 

 森近霖之助は、どうも酔いが回ると愚痴っぽくなるらしい。右手に持った猪口の底まで深く視線を落とし、「霊夢も魔理沙も、盗みとツケさえやめてくれればいい子なのに……」とぶつぶつ言っている霖之助に、月見は同情的な苦笑いを返した。

 今日の店じまいを終えた香霖堂の、裏庭に面した縁側であった。着々とその輝きを増しつつある月を肴にしながら、月見は霖之助と、野郎二人水入らずの酒盛りをしていた。

 香霖堂で霖之助と二人で酒を呑むようになったのは、夏を間近に控えた春の終わり頃からだったと記憶している。きっかけは、なんてことはない、たまには野郎同士静かに酒を呑みたいと月見が思ったからだ。少女たちと賑やかに楽しむ酒も嫌いではないが、いかんせん賑やかすぎて、いつも宴会みたいなバカ騒ぎになってしまうのは困りものである。

 そんな経緯から始めた野郎二人の酒盛りは、思いのほか霖之助にも好評だったらしく、以来は月に何度か香霖堂で、お互い酒を注いだり注いでもらったりしている。そしてその中で霖之助がもっぱら話題にすることといえば、香霖堂で数々の横暴を繰り広げる古馴染み二人に対する愚痴なのだった。

 博麗霊夢と霧雨魔理沙の紅白黒コンビは、香霖堂をタダで利用できる休憩所と勘違いし、我が物顔でお菓子やお茶を持って帰る、ツケるばかりで一向に代金を支払わないなどの傍若無人を繰り返している――というのは、もはや月見もよく知っているところだ。月見が酒を呑みに来るたび、やれあれを持って行かれた、これを持って行かれた、また代金を払ってもらえなかった等々、愚痴の種は尽きる様子がない。深く項垂れてため息をつく霖之助の横顔は、なんだか一気に老け込んでしまったように見えて、お前も大変なんだなあと月見はしみじみ思った。

 霖之助が顔を上げた。

 

「苦労してるのは君もそうだろう? 毎日毎日昼も夜も客がやってきて、ロクに一人で休めもしていないそうじゃないか」

「それはそうだけど、かといってあながち迷惑してるわけでもないよ。一人で暇してるよりかはずっといい」

「経営の方は大変じゃないのかい?」

「藍とか咲夜とか、手伝ってくれる子がいるからね、それほどでもない。客も、みんな勝手にやってきて勝手に帰って行くから楽なもんさ。もしかしたら代金踏み倒してるやつもいるのかもしれないけど、別にお金ほしさでやってるわけでもないしね。特に気にしてない」

「八雲紫と蓬莱山輝夜の喧嘩は?」

「始まったら即行で外に叩き出す程度には慣れた」

 

 霖之助は苦笑、

 

「……まったく。君は、物事を前向きに捉えるのが上手だね。見習いたいよ」

 

 月見は一笑、

 

「ッハハハ、うじうじするのは趣味じゃないんだ」

「うじうじ、か。これは痛いところを衝かれたね」

「そう思うんだったら、なんとかしないとな。……やんわり口で言ってもわからない相手なんだ、いっぺん怒鳴りつけるくらいしないとダメなんじゃないか?」

「そうはそうかもしれないんだが……しかしこう、怒鳴ったりするのは、あまり得意でなくてね。あとから思い出して死にたくなる。女の子が相手ならなおさら」

「……やっぱりお前、苦労するタイプだよ」

 

 将来は尻に敷かれるんだろうなー、と月見はそんなことを思った。霖之助に結婚する予定があるのかはわからないけれど。

 酒瓶を手に取り、

 

「もう一杯、いくかい」

「……もらうよ」

 

 霖之助の猪口に酒を注ぐ。無色透明の大吟醸は、今は月明かりに照らされて、少し青白い。

 表の方からノックの音が聞こえたのは、ちょうど霖之助の猪口がなみなみ酒で満たされた頃だった。月見と霖之助は同時に振り返り、また同時にお互いを見合って首を傾げた。

 

「……霖之助、客じゃないか?」

 

 月見が霖之助と酒盛りをする時、香霖堂はいつもより早めに店じまいをする。故に、遅めのお客さんがやってきたのだとしても不思議ではないけれど、

 

「……まさか、噂をすればってやつじゃあないだろうね」

「さあ」

 

 霖之助が細めた瞳には警戒の色がある。霊夢か魔理沙じゃないかと疑っているようだ。

 今度は、ノックの音とともに声が聞こえた。

 

「店主ーっ! いないのかい!? あまりに儲けがないから、とうとう店を畳んだのかな!」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

「この声って……」

「ナズーリン、だね。ふむ、彼女がやってくるなんて珍しい」

 

 月見の脳裏に、かつて無縁塚で出会った妖怪鼠の少女が浮かんだ。無縁塚で道具を蒐集する霖之助と、同じく無縁塚でダウジングをするナズーリンは、互いに面識がある知人同士だと聞いている。

 

「とりあえず、行ってきたらどうだい」

「そうだね……じゃあ、ちょっと席を外すよ」

 

 霖之助が猪口を置いて立ち上がったところで、また声が飛んでくる。

 

「店主、居留守を使ってるなら出てきた方が君のためだよ! 外来人だ! まさか見捨てるってことはないだろうね!」

 

 霖之助が歩きかけた足を止め、月見は思わず眉を上げた。

 少し間があってから、霖之助が声を張り上げた。

 

「今行くよ! ちょっと待っていてくれ!」

 

 ノックの音がやんだ。霖之助は緩く息をつき、それから横目でつと月見を見た。

 

「……無縁塚に迷い込んだ人間は、大概がすぐ妖怪に食べられてしまうんだけどね。まれに――本当にまれに、五体満足で生き延びる人間もいるんだよ。そんな人間を、ナズーリンは連れてきてくれることがある」

「……」

「詳しくは知らないけど、毘沙門天の弟子なんてのをやっているみたいでね。皮肉屋だが、人間には比較的優しいんだ」

 

 今日はここでお開きみたいだね。そう言って、霖之助は小さく笑った。

 外来人――幻想となったものが集う幻想郷に、どういう因果か外から迷い込んでしまう人間がいる。無縁塚は博麗大結果が綻ぶ幻想郷唯一の場所であるため、特にそういう人間が多いという。

 外の世界で生きる意味を見失った、死にたがりの人間。

 大抵はそこで妖怪に喰われてしまうようだが、まれに運良く生き残る者がいる。妖怪に襲われたことで死の恐怖に気づき、生きたいと願い直す者がいる。そういった人間は紫が記憶を消して外へ送り返すようだが、中には故郷を捨て、幻想郷で生きることを選ぶ人間もいる。

 

「……月見。君も来るといい」

 

 霖之助が、静かに言った。

 

「……いいのか?」

「だって、君」

 

 振り返り、苦笑した。

 

「気になって気になって仕方ない。そういう顔をしているよ」

「……そうか」

 

 自覚はなかったが、そうなのかもしれないなと月見は思った。かつて目の前で、誰にも救われず死んでいった外来人のなれの果てを見たことがあるから。

 あの場所とはもう関わらない、中途半端な気持ちで関わってはいけないのだと、言い聞かせてきたけれど。

 こうして向こうの方からやってきてしまったのなら、見て見ぬふりをするのは難しそうだ。

 ナズーリンが吠えた。

 

「……店主っ、いつまで待たせる気だい!」

「僕だって暇じゃないんだ! もう少し寛大になってくれると助かるよ!」

「女を待たせる男は、どんな理由があれ悪だ!」

 

 素気ない返答に、霖之助ががっくり肩を落として項垂れた。「どうして僕の周りの女性はこうもみんな横暴なんだ……」とか、そんな感じのボヤきが聞こえた。

 というか、今更なのだが、

 

「なあ、霖之助。『裏に回ってきてくれ』って、そう言えば解決だったんじゃないか?」

「……、」

 

 本当に、今更すぎたようだ。

 

「――店主っ、いい加減にしろぉっ!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 自らをナズーリンと名乗った女の子に連れられ、やってきたのは『香霖堂』なる建物の前だった。ナズーリン曰く、愛想のかけらもない店主が営業するセンスのかけらもない古道具屋らしい。

 至って純和風の建物で、正面には一階建てのこじんまりとした母屋があり、左手には昭和あたりのチラシがべたべた張られた蔵がある。壁沿いではたくさんの箱や壷や置物、果てはアナログテレビや錆だらけの看板までもが積み重なり、なるほど道具屋といえば道具屋らしいが、一方でゴミの不法投棄現場のようでもある。夜の薄闇と合わさってなかなか怪しい雰囲気を醸し出しており、ナズーリンの案内でなければ近寄ろうとも思わなかっただろう。

 ナズーリンがドアをノックしてから、すでに一分が経っている。ナズーリンはむすっと腕を組んでいる。

 

「……いつまでも出てこないで、一体なにをやっているんだあの店主はまったく。悪いけど、もう少し待っていてくれ」

「…………あぁ、うん」

「随分と上の空みたいだね。大丈夫かい?」

 

 誰のせいだよ。

 歩きながら話すという言葉通り、香霖堂に辿り着くまでの道中で、ナズーリンはここがどこなのかを自分に説明してくれた。大変詳しく。懇切丁寧に。わかりやすく。隅から隅まで。

 幻想郷。

 現代社会で幻想となった者たちが行き着く最後の楽園。日本にあって日本にない場所。人間と妖怪と神々が共存する世界。

 異世界。

 マンガじゃねーのと思う。

 実際、はじめ説明を聞いた時はそう言った。この子はネズミのコスプレをしていて口を開けば電波トークで、頭の中もなかなか吹っ飛んでるんだなと本気で思った。

 神様がどうかはわからないが、少なくとも妖怪なんて生命体はこの世に実在しないのだ。昔の知識では説明できなかった謎の現象を、山の奥深くに住んでいた得体の知れない原住民族を、朝廷に従わなかったまつろわぬ者たちを『妖怪』と呼称したのであって、虎柄パンツに棍棒を持った鬼だとか、翼を生やした修験者姿の天狗だとか、いやらしい笑みを浮かべて小豆を洗う小豆洗いだとか、そういうのは昔の人々によって「こんな感じかな?」と想像された姿であり、いってしまえばただの創作なのだ。

 お前が普段から見ている幽霊も妖怪の仲間だろ、という揚げ足取りは受けつけない。

 なのにナズーリンは、この幻想郷には角を生やした鬼がいるし、翼を生やした天狗がいるし、小豆洗いもまあそのへん捜せばいるんじゃないかい? などと言う。

 まっさかー、さすがにそんなあからさまな話にゃ騙されないぜー。そう笑って終わるはずだった。

 ナズーリンが目の前でくるくる空を飛んで見せたり、ネズミ耳がちゃんと頭から生えてるのを見せてきたり、突然襲いかかってきた狼のような生物を弾幕とかいう謎の攻撃で撃退してさえいなければ。

 

(……マジで異世界なのかなー)

 

 入口のドアの上に掛けられた、『香霖堂』と堂々書かれる木の横看板を見上げながら、仮にここが本当に異世界だとすれば、自分は果たして帰れるのだろうかと思った。マンガやアニメなどでは、異世界にトリップした現代人はそう易々とは帰れないのがお約束(テンプレ)だ。帰る方法はない、なんてことになったら非常に困――

 

(――らないか、別に)

 

 元の世界に戻らなければならない理由なんて、ないように思う。家族はみんな逝ってしまったし、会えなくなったら悲しい知人がいるわけでもないし、これといって叶えたい夢もないし、ネット中毒でもないし。

 というか、オカルトが科学で否定される世界よりも、妖怪や神様が当たり前のように存在している場所の方が、霊感体質の自分には分相応なんじゃないか――。

 そんな夢みたいなことをふと考えたところで、ようやく目の前のドアが開いた。

 

「お待たせしたね」

 

 顔を出した男にナズーリンはジト目で、

 

「遅すぎるぞ店主。一体なにをしていたらここまで人を待たせられるんだい」

「月見と酒をちょっと、ね。大目に見てくれ」

「……へえ、月見がいるのか。それはちょうどいい」

 

 ナズーリンの時と同じで、現代人の自分からすれば不自然な男だった。獣耳や尻尾を生やたりはしていないものの、その代わりに服が――家庭科の成績が壊滅的だった自分では上手く表現できないけれど――まさしくマンガの中でしか見ないようなデザインをしている。和洋折衷とでもいうのか、和服に近い作りでありながら意匠自体は洋風で、コスプレの服屋に並んでいそうである。

 外見は二十代ほど。柔和な顔でナズーリンと会話する姿は、一応、悪事とは無縁の優男っぽい。

 

「――ともかくほら、外来人だよ。君なら今までにも何人も拾ってるだろう?」

「人聞きが悪いことを言わないでくれ。確かに、何人か保護したことがあるのは事実だけどね」

 

 ちなみに『外来人』とは、幻想郷に迷い込んだ現代人たちを指す言葉らしい。

 男がこちらを見た。

 

「はじめまして。僕は森近霖之助。ナズーリンからもう説明があったかもしれないけど、ここで道具屋をやっているよ」

「はじめまして……。えーっと、すみません、こんな時間に」

 

 携帯の示す時間が、この世界でも通用するのかどうかはわからないけれど。

 

「どうも『外来人』とかいうやつらしくて……右も左もわからないというか」

「気にすることはないさ。君のような人間は初めてじゃない」

 

 右手で眼鏡をくいっとやった男――霖之助が、逆の手で香霖堂の中を示した。

 

「さて外はこの通り夜だし、話は中で聞こう。ずっと歩いてきて、疲れたろう?」

「あはは……じゃあ、お邪魔します」

 

 招かれるがまま、純日本家屋な香霖堂で唯一洋風なドアをくぐる。初対面の男の家。当然少なからず不安はあったが、かといって迷ったわけでもなかった。ここは自分の知らない異世界で、夜で、道を歩けば狼のような生物に襲われる場所なのだ。逃げたところでどうしようもないから、腹を括って前に進むのである。

 

「ナズーリンはどうする?」

「……そうだね、ここまで来たら最後まで付き合おうかな。なにより、君が彼女に不埒な真似をしないとも限らない」

「失敬な」

 

 さすがは道具屋というべきか、中はたくさんの道具であふれかえっていた。棚に壁、天井にテーブルに椅子に床の隅と、歩く場所以外で物を置けそうな場所はあらかた制圧されてしまっている。しかし、不思議と居心地は悪くなかった。家の納戸や体育館の倉庫、理科室や美術室や音楽室などの準備室――自分がまだ幼かった頃、そういった物がたくさん置かれた部屋に足を踏み入れたときの、あの言葉にできない不思議な高揚感に似ていた。

 

「すげー……」

 

 思わず見入っていたら、霖之助が眼鏡の奥で目を光らせた。

 

「おっと、君はこの雰囲気のよさがわかるのかい」

 

 その横でナズーリンが肩を竦めて、

 

「なーにが『わかるのかい』だ。呆れられてるに決まってるだろう」

「いやー、結構嫌いじゃないですよこういうの。ガキの頃を思い出すなー」

 

 あの頃の自分には、この世のあらゆるものが宝物に見えていた。だから家の納戸や体育館の倉庫や学校の準備室なんかは、金銀財宝であふれた宝物庫のようなものだったのだ。あの頃の童心をまさか異世界で思い出すとは思っていなくて、なんだか随分と久し振りに、穏やかな気持ちで笑えた気がした。

 ちょっぴり見て回りたいと思っていると、店の奥の方から、ゆったりとこちらへ近づいてくる足音に気づく。顔を向ければちょうど、暖簾が男の右手でめくられたところであり、

 

「――」

 

 なにかが映った(・・・・・・・)

 目にゴミでも入ったように、顔を手で覆って、何度も瞬きをする。ゆっくりと焦点が合ってきて、自分の掌と、香霖堂の床が見える。隣では霖之助とナズーリンがなにか話をしていて、めくられた暖簾の下には不思議そうな男の顔がある。

 元の景色だ。

 

「……あれ、」

 

 なんだろう。男と目が合った一瞬、なにかを思い出しそうになった。頭の中でノイズが入ったような。聞こえもしない声が聞こえそうになったような。

 ナズーリンがコスプレ少女ではなく本物の妖怪だとすれば、彼もまたそうなのだろう。頭の上に綺麗な銀色の獣耳を乗せており、同じ色の尻尾が一本、床に向かってゆったりと伸びている。アニメやマンガの影響なのか、反射的に、妖狐という言葉が脳裏を過ぎった。見た目は霖之助と同じくらいか、それよりも若干大人びて見える程度で、打ち明ければなんでも受け入れてくれそうな、心の広い佇まいをしている。

 言うまでもなく、初めて見る顔である。

 じゃあ、さっき頭の中に走ったノイズは、一体。

 

「……あ」

 

 そっか。狐耳って、アニメとかマンガだと猫耳の次くらいにありがちだし。

 だからつい、なにかのキャラクターと重ねてしまいそうになって、それでさっきのノイズだったのだろう。狐耳のキャラクターといえば、ぱっと考えただけでも三人ほど思い浮かぶ。そのどれもが目の前の男とは似ていなかったが、ともかく、そんな感じに違いない。

 なるほどなるほどと自己完結して納得したら、ずっと不思議そうな顔をしていた男がこちらから視線を外し、霖之助に声を掛けた。

 

「霖之助。お茶の支度ができたよ」

 

 聞き心地がいい、優しいバリトンの声だった。

 霖之助がようやく男の存在に気づいて、

 

「おっと……すまないね、つい立ち話をしてしまった」

「やあ、月見」

 

 ナズーリンがふっと微笑んだ。どこか皮肉屋な態度を崩さなかった彼女が初めて見せた、ひどく無防備な笑顔だった。

 

「君と再び会うのは……『あの人』を連れてからにしたかったのだけど」

「気にしなくていいさ。気長に待つよ」

 

 男も笑みを見せ、

 

「それにしても、お前が外来人を保護したりしてるなんてね」

「保護なんて大層なものじゃないさ。気まぐれで、ここの店主に押しつけてるだけだよ。実際今回も、一度は見捨てようと思った」

「ちょい待ち、それ初耳」

 

 なにやら恐ろしい言葉が聞こえて思わず口を挟んだら、ナズーリンは元の皮肉げな顔で、

 

「驚くような話でもないだろう? あそこがどういう場所で、妖怪がどういうものかは、すでに説明したはずだよ」

「いやまあ、そうだけどさ」

 

 自分が迷い込んだ場所――無縁塚は幻想郷で最も危険な場所で、喜んで人を喰らうような恐ろしい妖怪が、毎夜毎夜餌を求めて徘徊している。餌とはすなわち、外から迷い込んだ死にたがりな人間たちである。

 ナズーリンは進んで人を喰らうほど野蛮ではないが、人の死を悼むほど博愛主義でもない。

 人が喰われる光景なんて、とっくの昔に見慣れたと。そう、言っていた。

 

「じゃあ、なんで助けてくれたんだ?」

 

 一度は見捨てようと思って、でも見捨てなかった。つまり、助けようと思い直したのだ。それはなぜなのか、

 

「……さあね」

 

 ナズーリンは肩を竦めて、横目でつと、男の方を見ながら言った。

 

「助けるようなことでもないと思ったら、どこぞのお人好しな狐の姿が浮かんできてしまってね。それでつい、目覚めが悪くなってしまったんだよ」

「……」

「この男に感謝するといい。彼と出会っていない頃の私だったら、見捨てていただろうよ」

 

 この幻想郷には、大きく分けて三種類の妖怪がいるという。ひとつは主に無縁塚を住処としている、人を率先して襲う凶暴な者たち。もうひとつは、人間と望んで交流する温厚な者たち。最後が、人を襲いはしないが進んで共存するわけでもない、完全な中立を保つ者たち。

 

「望まずして無縁塚に迷い込んだのは不運だが、ここで彼に出会ったのは幸運だね。彼ほど人間に味方する妖怪はいないよ。この店主よりかは、よっぽど君によくしてくれるだろう」

「ナズーリン、君は僕のことをなんだと思ってるんだい?」

「無縁塚までガラクタ集めに来るけったいな変人だが……それがどうかしたかい?」

 

 もういいよ、と霖之助がため息をついて、ナズーリンがくつくつと笑った。それを見て、なんとなくではあるが、森近霖之助という青年の立ち位置がわかった気がした。きっと、将来は女の尻に敷かれて苦労するのだろう。

 半笑いで同情していたら、ふと、男と目が合った。こちらがなにかを考えるより先に、男が言う。

 

「じゃあ、一応名乗っておこうか。私は月見。すでにナズーリンが言った通り、狐の妖怪だよ」

「はじめまして。えーっと、どうも間接的に助けてもらっちゃったみたいで、なんとお礼を言えばよいか……」

「ッハハハ、そんな覚えのないことで感謝されても困るよ」

 

 嫌味な感じがまったくしない、透明な笑い方だった。礼を言おうとした出鼻を呆気なく挫かれたのに、気分が悪くなるどこかむしろ心が軽くなる。こうも不思議な笑い方ができるのは、彼が人ではないからなのだろうか。

 

「名前を訊いても?」

「あ、すいません。私ったら名乗りもしないで」

 

 そういえば、恩人のナズーリンにすら名乗っていなかった。知らない世界に迷い込んで、自覚がなかったとはいえ死にかけて、それだけ余裕を失ってたのかもしれない。

 

「私、神古志弦(かみこしづる)っていいます。バリバリの女子高生っす」

「……神古?」

 

 月見がオウム返しをした。自分にしてみれば見慣れた反応だった。同姓の人間に未だ出会ったことがない珍しい苗字なので、自己紹介をすると大抵こういう反応が返ってくる。

 

「はい。神様の『神』に、『古』いって書いて。人間にはご大層な苗字っすよねー」

「――……」

 

 月見が二の句も継げなくなった様子で、だんまりと口を閉ざした。そこまで驚く? と不思議に思ったけれど、自分はそれ以上深く考えることもなく、やっぱり珍しい苗字なんだなーとそんな呑気なことを思った。

 

 この名が、彼にとってどれほど特別な意味を持っているのか。

 今はまだ、わかるはずもなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第76話 「K ②」

 

 

 

 

 

 

「――ところで、生きてるか?」

 

 初対面の相手に訊くようなことではなかったと思う。しかし事実として月見はそう尋ねたし、その男は茂みに頭から埋もれて足だけを出しながら、うおおぅ、と返事をしたのか呻いたのかよくわからない声をあげた。

 当時はちょうど月見が『人化の法』を完成させた頃で、要するに今から千年以上も昔の話で、山を歩けば野犬や狼に襲われるのも珍しくない時代だった。このときの月見は、『人化の法』でつくりだされた人間の肉体に慣れるため、野山を散歩して回ったり旅人を装って都に潜り込んだりしていた。だから時には、こうして面白い光景と出くわすこともあった。

 なかなかお目にかかれるものではない。迫る野犬から逃れるため、崖の上からなんの迷いもなく飛び立つ男の勇姿など。

 もっとも勇ましかったのははじめだけで、あとは情けない悲鳴をあげながら落ちていったけれど。落下地点に運よく豊かな緑があったからよかったものを、そうでなければ骨を折るくらいはしていたところだ。

 男の足がピクピクと動いた。

 

「し、しくじった……まさかここまで高い崖だとは思わなかったぞちくしょう」

「確かめもせずに飛んだのか?」

「いやだって止まった瞬間ガブリな状況だったし」

「追い払えばよかったじゃないか。ひとりでこんな山の中を歩いてるんだ、腕には自信があるんだろう?」

「ふっ。血気盛んな野生とはいえ、わんこに手を上げるのは俺の流儀に反するぜよ」

 

 変なヤツなんだな。ピクピク動く足を眺めながら、月見はそう納得した。

 

「おっと、こうしてる場合じゃねえや。そこにいると思われる御方、立ち寄ったついでに手を貸しちゃあくれんかね」

「ああ」

 

 茂みから男の右手が飛び出てきたので、月見は同じく右手で取って引っ張り出そうとした。しかし片手だけではなかなか上手くいかず、両腕で力いっぱい踏ん張ってようやく、男を茂みの中から引っ張り出せた。

 やはり、人間の肉体とは非力なものだ。

 

「ぶはー。やあ、すまんすまん。おかげで助かった」

「怪我は?」

「なあに、体が丈夫なのが取り柄でな」

 

 全身に葉っぱやら毛虫やらをくっつけたみっともない恰好で、にへらと男は笑った。

 粗野な男だった。さっきまで茂みと一体化していたからではない。もとからざんばら(・・・・)みたいな髪であり、小汚くくたびれた服なのだ。がたいは服の上からでもわかるほど逞しく、肌の色も濃いため、そのあたりの農村から着の身着のままで飛び出してきたようにも見える。けれどその振る舞いに卑しさや汚さはなく、野山を元気に駆け巡る子どもがそのまま大人になったような、どことなく純朴な人懐こさを感じる。

 葉っぱと毛虫を払った男が立ち上がった。月見よりほんの少しだけ、背が高かった。

 

「あれ、そういやあのわんこたちは」

「私が追い払ったよ」

「ほおー。あの荒ぶるわんこたちを一人で追い払うとは……お前さんもなかなかの手練れと見た」

 

 見よ、俺の名推理……みたいな顔を男はしていた。楽しそうなやつだなあと月見は思う。

 

「それはともかく、こんなところでなにをやってたんだ? 一人で歩くような場所じゃないだろうここは」

 

 ここは都からほどなくの場所にそびえる山であり、それ故に野犬やら妖怪やら、なにかと不穏な噂が絶えない場所だ。少し前からこの山を大きく迂回する道ができたので、わざわざ好き好んで近づこうとする者は少ない。

 男がにっと歯を見せ、言った。

 

「ちょっくら都に行こうとしてたんだ。遠回りは趣味じゃなくてな」

「……」

 

 豪胆というか、蛮勇というか。

 

「ってか、それだったらお前さんも同じだろうが。なにしてんだこんなとこで」

「私は……」

 

 月見は少し悩んで、

 

「……近いうちに都で生活しようと思っててね。このあたりがどういう土地なのか、少し散策していた」

 

 嘘ではない。そう遠くないうちに月見は陰陽師あたりを偽って、本当に都で暮らしてみようと考えている。ただ当てどない放浪を続けるばかりではなく、時には人の姿を偽り、束の間を人間たちとともに過ごしてみる――月見が昔からやってきたことだ。

 今回は、できる限り長い時を過ごしてみようと思っている。都のど真ん中で、人間として。そのために、『人化の法』も完成させた。

 男がやおら勢いづいた。

 

「おおっ、お前さんもそうなのかよ!」

「お前さんもって」

「いやー、実は俺も似たようなこと考えててなー。都に知り合いがいなくてちょっち不安だったんだけど、これはいいや」

 

 なにやら目をつけられた気配、

 

「よかったよかった。じゃあ、これからよろしくな」

「待て待て。話が見えないぞ」

「お前さん、名前は?」

「人の話を聞け」

 

 おっとすまねえ、と男は改まり、

 

「名乗りもしないで名前を訊くのは失礼だったな。やー、俺としたことが気分が高ぶってるぜ」

「……もういいよそれで」

 

 ため息をつく月見が見えてもいないのか、男はいっそ図々しいくらいに右手を差し出して。

 初対面の相手になんの遠慮も警戒も物怖じも見せず、にへらと人懐こく笑った。

 

「俺は、神古秀友。長い付き合いになるといいな」

 

 ――ここから、始まった。えらく唐突に。えらく一方的に。月見がかつて最も心を許した人間は、そうして月見の目の前にやってきた。

 今でもよく、覚えている。

 まるで昨日のことのように、思い出せるのだ。

 

 

 

 

 

「私、神古志弦(かみこしづる)っていいます。バリバリの女子高生っす」

「……神古?」

 

 ――あのときのあいつは、ちょうど目の前の少女みたいに笑っていたのだと。

 

「はい。神様の『神』に、『古』いって書いて。人間にはご大層な苗字ですよねー」

「――……」

 

 考えたことは多かった。熱病でも患ったように、月見の頭の中はめまぐるしく回転していた。『神古』というたった二つの文字に、月見の心は面白いくらいに翻弄されていた。

 苗字が同じだけ。

 そう思おうとした。だが一度心の中に生まれてしまった『まさか』を、その程度の逃避で誤魔化すことなどできなかった。

 違うと思おうとすればするほど、目の前の少女があいつと似ているような気がしてならない。背中あたりまである髪を雑にまとめて垂らしているのは、髪の手入れを面倒くさがったあいつを彷彿とさせないこともない。学校の制服を少しだらしなく着崩しているのを見て、あいつもみっともない恰好をしては雪に叱られてたっけなあと思い出す。月見を見る目の色と形は、はきはきと活発そうで、後先を考えなさそうだ。

 そして、なにより。

 初対面の相手に遠慮も警戒も物怖じもない、にへら、と人懐こい笑顔。

 考えるなという方が無理な話だった。

 

「……お前、脚に怪我してるね」

 

 月見はよく考えもせずにそんなことを言った。それくらいしか、今の自分には言えなかったのだと思う。少女――志弦の右膝に、出血で赤くなった箇所がある。

 志弦は自分の右膝を見て、今更思い出したように、あーと間延びした声をあげた。

 

「ちょっと転んじゃって。でも大したことないっすよ。血はほとんど止まってるし、痛みも引いてるし」

「怪我をしているのかい?」

 

 霖之助が、横から志弦の膝を覗き込んだ。

 

「ふむ。救急箱を持ってきた方がよさそうだね」

「んな大袈裟な。こんなん、唾つけときゃ治りますって」

「……君、男の子みたいなことを言うね」

 

 誰か心当たりがあるかのような苦笑いだった。志弦はとりわけ気にした風でもなく、それどころか愉快そうに、

 

「あっはは、よく言われます。……あ、ちなみにちゃんと女ですからね。胸もありますよ」

「それは……」

 

 霖之助は志弦から目を逸らし、少し迷ってから、

 

「……見ればわかるよ」

 

 一応、制服の上からでもそれとわかる起伏を持つ少女である。

 隣でナズーリンが呆れた。

 

「君に恥じらいというものはないのかい」

「おじいちゃん曰く、私は生まれる性別を間違ったんだってさー」

「……」

 

 笑い方のひとつを取ってみても、ついあいつの姿が脳裏に浮かんでしまう。

 意識しすぎだ。月見は首を振り、自分への気つけの意味も込めて、少し強めに手を叩いた。

 

「さあ、立ち話もこれくらいにしておこう。お茶が冷めてしまうよ」

「おっと、そうだったね。志弦――と呼んでもいいかい?」

「いっすよー」

「では志弦、どうぞ中へ入るといい。君のこれからについて話をしよう」

 

 霖之助は香霖堂の奥を手で示しながら、なに食わぬ顔で言った。

 

「ここでの記憶を捨てて外へ帰るか、外を捨ててここに骨を埋めるか。その選択をね」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 どうも志弦は、帰ろうと思えば帰れるらしい。

 幻想郷の東の端に博麗神社という古い社があり、そこの巫女さんに頼み込む。もしくは幻想郷を管理しているとある妖怪がいるので、その者を捜し出してお願いする。そのどちらかの方法で、志弦は元の世界へ帰ることができる。ただし代償として、ここで体験した記憶の一切を失う。それが嫌であれば、この地で一生を過ごし骨を埋めるしかない。

 霖之助から語られた話を要約すれば、およそそういった内容であった。

 動揺はしなかった。むしろ、わかりやすすぎて拍子抜けした。

 

「帰すわけにはいかないとか、帰る方法はない……てわけじゃないんすね」

「少し空間がズレているとはいえ、日本にある世界だからね」

 

 志弦の手元には、軽く塩を振っただけの簡素なおにぎりと、夕食の余りらしい大根と油揚げの味噌汁が並んでいる。志弦が怪我の手当てをしている間に、霖之助と月見が手早く用意してくれたものだった。

 時間が時間だから仕方ないとはいえ、座敷へ通されるなり盛大に腹が鳴ってしまったのは、なかなか恥ずかしかった。

 

「それにしても、すみません。夕飯までご馳走してもらっちゃって」

「いや、むしろ大したものを用意できなくてすまない。ちょうど食材を切らしていてね」

「いやいや。感謝こそすれ、文句なんてないっすよ」

 

 味噌汁を一口すすると、歩き疲れた体にじわりと熱が浸透していって、ついついほっとため息をついてしまう。祖父が死んでからは食事も買って済ませてばかりだったので、たとえ急ごしらえであっても、しっかりと誰かの手が通った料理は久し振りだった。

 それに、出会ったばかりの人たちとはいえ、テーブルを誰かと一緒に囲むのも。酒を片手に親身に話を聞かせてくれる霖之助がおり、慣れた包丁捌きでりんごを剥いてくれている月見がおり、おにぎりを仲間たちに食べさせてやっているナズーリンがいる。どうやら純粋な人間は志弦だけらしいのだが、それがまったく気にならない不思議な調和がこの座敷には満ちていた。ともすれば、自分が異世界にいることすら忘れてしまいそうだった。

 さっきから、ずっとこんな調子だった。香霖堂に入るまではそこそこの警戒心を持っていたはずなのに、今はすっかり安心しきってしまっている。出会ったばかりの相手なのに、この人たちは大丈夫だと感じている自分がいる。

 原因はわかっている。

 志弦の目の前でりんごを捌いている、月見だ。

 

「はい、剥けたよ」

「やー、ありがとうございます」

 

 月見は三つに切った半個分のりんごを志弦に、もう半分をナズーリンの仲間たちに差し出した。すぐさま飛びついた元気のいいネズミたちを見ながら、物静かで柔らかい微笑みをたたえている。どこか達観した雰囲気すら感じさせるその面差しを眺めながら、志弦は薄ぼんやりと考える。

 感覚としてまず、月見は信頼できる人だという直感がある。根拠はない。ないが、まるで神からお告げでも下されたような、限りなく確信に近い直感だった。そうすればあとは、月見の知り合いである霖之助とナズーリンも信頼できるのだろうとなり、今の状況の出来上がりである。

 なぜ月見は信頼できると感じるのか、さっきから何度も考えている。そういう雰囲気があるのは事実だ。霖之助やナズーリンとは年季が違う。遥か古から存在している大樹のような、生きとし生ける者としての『深さ』が月見にはある。見る者すべてを優しく包み込み、静かに、あたたかく見守るような。悠久の時とともにこの世界を見つけ続けてきた、ある種、父のような。

 でも、なぜだろう。

 それだけじゃない気がする。

 なにか、もっと別の理由があって、志弦は月見を信頼できる人だと判断している。そこまでわかっているのに、そこから先がどうしてもわからなかった。知っているはずなのに、忘れてしまっている。思い出せないでいる。そんな気がする。

 難しい顔をしていたら、霖之助の声が聞こえて現実に引き戻された。

 

「――というわけで、君に与えられた選択肢は単純だ。元の世界へ戻るか、ここに留まるかだね。もっとも君にも家族や友人がいるだろうから、戻るのが一番だと思うけど」

「あー……えーっと、そうっすね」

 

 家族、もういませんけど。一瞬そう言おうかと思ったが、やめた。変に同情されても、居心地が悪くなるだけだ。

 代わりに、

 

「ちなみに、帰らないでここに残るのを選んだ人とかって、いるんですか?」

「いるよ。向こうで生きる理由を失った人なんかは、ここを新天地にして、新しくやり直したりしている」

「そーですか……」

 

 ――生きる理由、か。

 おにぎりを咀嚼しながら、志弦は沈黙した。自分はどうしたいのだろう、と思った。向こうに戻りたいとは思わない。戻ったところで、今の志弦を待ってくれているものはなにもない。だったらいっそのこと、この幻想郷という新天地で、新しい人生を歩むのもありなのだろうとは思う。妖怪が当たり前のように存在する世界なら、志弦の霊感体質だって受け入れてもらえるかもしれない。

 しかし、ひとたびここに残ることを選べば最後、二度と元の世界へは戻れないという。たとえ志弦を待ってくれているものがない世界でも、このまますっぱり縁を切ってしまうのは躊躇われた。志弦が生まれ育った世界であり、志弦が生まれ育った家である。家族は失ってしまったが、思い出は遺されている。

 

「……まあ、今ここで結論を出す必要もないだろう」

 

 静かな、月見の声だった。

 

「今日はもう夜も更けたし、帰るとしても明日になるだろう。だったら一晩、ゆっくり考えてみたらどうだい」

 

 霖之助が同調した。

 

「そうだね。自分の今後を決める選択だ、考える時間は多い方がいい」

「えーっと……ということは、泊まらせてもらえるんですか?」

「そうなるね。別にここでもいいし、ここから少し歩いたところに人間たちの集落があるから、そこの僕の知人を当たってもいい。……ああ、月見の屋敷という選択肢もあるね」

 

 そう言ってから、自嘲するように笑って、

 

「僕としては、月見の屋敷がオススメだね。彼個人の家であり、同時に温泉宿としても有名だ。正直、僕のところじゃあ大したもてなしもできないだろうから、そっちの方がゆっくりできると思うよ」

「私もそっちを推すね。ここに泊まりでもしたら、店主になにをされるかわかったもんじゃない」

「……ナズーリン。君は、僕のことが嫌いなのかい?」

「すまないね。なぜかはわからないが、君には後々、大変な手間を掛けさせられるような気がするんだ。あまり気を許してはいけないと、私の本能が告げている」

 

 霖之助がため息をついて、ナズーリンがくつくつと笑って、それからどちらからともなく沈黙した。志弦の答えを待つ沈黙だった。呑気におにぎりを頬張っていた志弦は慌てて飲み込んで、

 

「ええっと、そうっすね、あー……」

 

 一瞬迷ったが、まったく知らない異世界のことだから悩むだけ無駄だと気づき、

 

「じゃあ、二人がおすすめする月見さんのところで……?」

「だそうだよ、月見」

「私は構わないけど」

 

 月見はふたつめのりんごを剥いている。

 

「でも、歩いていくには少し遠いぞ?」

「飛んでいけばいいじゃないか」

「簡単に言うね」

 

 霖之助の言葉に苦笑し、

 

「私はそれでいいけど、志弦は飛べないだろう」

「それがどうし――ああ、そういうことか」

 

 志弦もわかった。月見は空を飛べるが――空を飛ぶということに関しては、ナズーリンが実演してくれたのでもう驚かない――、志弦はもちろん飛べない。従って月見の屋敷まで飛んで移動するとなれば、志弦は彼におぶるなり抱えるなりしてもらわなければならない。出会ったばかりの男にそんなことをされるのは、女としてちょっと気になるんじゃないの、という話のようだ。

 なんだそんなことか、と思った。

 

「いいっすよ別に。私、気にしないんで」

「ッハハハ、即答か」

 

 一本取られたというように、月見が笑った。

 

「普通、年頃の女の子なら迷って当然だと思うけど」

「んー、まあそうかもしれないっすけど」

 

 でも、月見さんだし。

 そう思う。あいかわらず根拠はいまひとつ不明だが、この人に任せておけば大丈夫なのだと。

 本当に、不思議だ。

 

「君は、警戒心もないんだね」

 

 ナズーリンが呆れていた。志弦は笑い返した。

 

「私もよくわかんないけど、月見さんなら大丈夫かなーって思うんだよね。……月見さんは、それで私になにか変なことすんの?」

「……いや」

 

 月見ははっきりと首を振った。

 

「誓って言おう。私はお前の味方だ」

「じゃー大丈夫っすねー」

 

 そう言って、志弦はおにぎりを頬張る。広がった塩の素朴な風味が消えないうちに、続けて味噌汁を流し込む。なんの変哲もないただのおにぎりと味噌汁なのに、今は途轍もないほど美味しく感じられた。ぷはぁー、なんてため息をついていたら、霖之助がすっかり目を丸くしていた。

 

「……今までいろんな外来人を見てきたけど、君みたいなのは初めてだよ」

「同感だ。君なら案外、幻想郷で暮らすのもお似合いかもしれないね」

「そかな」

 

 霖之助とナズーリンが、うんうんとまったく同じ動きで頷く。月見だけがなにも言わず――けれどどこか懐かしそうな顔をしながら、剥き終わったりんごをテーブルの中央に置く。

 ナズーリンの仲間たちがすかさず飛びつく。ネズミもこうして見るとかわいいもんだなーと、志弦は小さく笑う。

 確かに自分には、ここで暮らすのも――ここで暮らす方が――合っているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃー、どうもお世話になりました」

 

 腹ごしらえが済み次第、志弦と月見はすぐ出発した。香霖堂の外で、志弦は見送りをしてくれた霖之助とナズーリンに頭を下げる。

 

「後悔のない選択ができることを、祈ってるよ」

「落っことされないように気をつけたまえよ」

「どうもです」

 

 夜はすでに更けているはずだが、外は随分と明るかった。香霖堂に入るときの方が暗かったとすら感じるほどだ。もちろん薄暗くはあるのだが、照明なしでも霖之助たちの顔が問題なく見えるし、香霖堂や周囲の木々の輪郭もくっきりしている。夜が更けた分、月がとても明るく輝いているのだ。嘘みたいに大きく、描いたように青白い月が幻想郷を隅々まで照らしていて、もしかしたら街灯がないのは必要ないからなのかもなと志弦は思う。

 

「今更だけど、本当におんぶでいいのか?」

 

 月見は未だ、志弦をおぶって飛ぶことが納得できていないようだった。本人が嫌がっているわけではなく、「こんな野郎におぶられるなんて本当に嫌じゃないのか?」と疑心暗鬼なように見える。

 志弦はにっと笑って言い返す。

 

「なんだったらお姫様抱っこでもいいっすよ? いっぺんやられてみたいと思ってたんで」

「……本当に大丈夫そうだね」

「月見さん、素材はいいんだから、もちっと自信持っていいと思うなー」

 

 実際、月見のような人から手を差し伸べられたら、困っている女の子はついつい手を取ってしまうのではないか。彼の雰囲気がそう思わせる。顔だってそう悪くないし、達観した佇まいと悠然とした立ち振る舞い、そして聞き心地のよいバリトンの声音は、執事や紳士という言葉を彷彿とさせる。今の和服姿も大変上品で見事だが、洋服であれば燕尾服が似合いそうだ。執事喫茶とか絶対イケる。おまけに頭の狐耳と腰の尻尾は、『そういう趣味』の女からすればたまったもんじゃないに違いない。

 なお霖之助は、泰然自若な月見とは対照的に、甘いルックスが似合いそうだと志弦は思っている。ホストとか。後ろからそっと抱き締められつつ耳元で甘い言葉を囁かれたら、大半の女性はきゃーきゃー黄色い奇声をあげてそのへんを転げ回るだろう。

 さすが異世界、レベルが高い。

 

「というわけで、レッツゴーですよ」

「わかったよ」

 

 月見が背を向けて片膝をついたので、志弦は遠慮なく行った。誰かにおんぶをしてもらうのなんて祖父以来だ。祖父は老人の割にガタイがよく、歴戦のツワモノ然とした男だったが、触った感じ月見もそう引けを取っていない。線が細く見えるのは和服のせいで、実は脱いだら引き締まっているのかもしれない。

 月見が立ち上がった。女とはいえ人間ひとりを背負っているとは思えない、実に軽やかな動きだった。

 

「おおー。力持ちっすね」

「妖怪は、人間よりもずっと体が丈夫なんだよ。ナズーリンくらいの見た目をして、片手で木をへし折るようなやつだっている。人ひとりを背負うくらいは朝飯前さ」

「へえー……」

 

 ナズーリンくらいの女の子が、笑顔で木をへし折っている光景を想像する。うわようじょつよい。異世界すごい。

 

「じゃあ、私の体重とかは気にしなくてよさそうっすね」

「ッハハハ、もっと重くたって問題ないよ」

「なんだとぉ。旦那ぁー、女の子にそういう発言はバッテンですぜー?」

「わかったわかった、耳を引っ張らないでくれ」

 

 月見の耳をグイグイ引っ張りながら笑っていたら、霖之助とナズーリンが呆れ返っていた。

 

「……君たち、本当に今日初めて出会ったのかい?」

 

 ああ、と志弦は思う。やっぱり他人の目からでも、そういう風に見えるのか。

 

「……不思議ですよね」

 

 自分の口から出ているのかわからなくなってしまうくらい、穏やかな声だった。

 

「なんか、初めて会った気がしないんです」

 

 月見の耳を、くいくいと引っ張った。

 

「……私と月見さんって、ほんとに初めて会ったんですよねー?」

「そうだと思うけどねえ。ただ、私は今までお前と同じ世界で生活してて、こっちに来たのは最近なんだ。だからお互い覚えていないだけで、どこかで会ったことはあるのかもしれない」

「ふーん……」

 

 確かに、そういった可能性もなくはないのかもしれない。けれど、それだけでは説明できないと志弦は思う。

 初めて会った気がしないのは本当だ。そしてそれだけであったなら、月見の言う通り、昔どこかで出会っていた可能性も否定できないし、単なる気のせいだろうと笑い飛ばすことだってできた。

 それだけじゃないのだ。

 ずっと一緒だった(・・・・・・・・)気さえする。子どもの頃から今になるまで。だから初めて出会ったばかりなのに、おんぶされたり、耳を引っ張って笑ったり、こうも心を許してしまえる。

 この感覚は、昔どこかで出会っていたとか、気のせいだとか、そんな単純な言葉では説明できない。

 しかし、ではなんなのかと問われれば、それもわからない。

 

「不思議ですねえ」

「不思議だねえ」

 

 私はこの人を知らない。けれど、初めて出会った気がしない。

 私はこの人を知らない。けれど、なぜか知っていた気がする。

 私はこの人を知らない。けれど、ずっと一緒だった気がする。

 

 考えてみれば、単純なことだったのだ。

 もっとも志弦がそれを知ったのは、今はまだ先の未来。

 幻想郷中が雪化粧で覆われた、凍える白の季節だったのだけれど。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 神古家の歴史は古いと聞いている。

 ただ、それがどこまで歴史を遡るものなのかを志弦は知らないし、祖父も祖母もわからなかったようで、今となっては完全に闇へと消えた言い伝えの類である。

 代々、霊能者の血筋であったらしい。遠い昔はその力を人々のために役立て財を成すこともあったが、オカルトが科学で解き明かされる時代になってからはそれもなくなり、普通よりちょっと大きい程度の古民家を子々孫々守るだけの家系と化した。それでも霊を見る血だけはしぶとく生き残り、祖父母はもちろん、写真でしか顔を知らない両親を通して志弦にまで受け継がれた。

 志弦が自分の家について知っていることなんて、この程度だ。

 

「うむぅ……」

 

 旅館でしか見たことがない、御影石造りの広大な湯船に身を浸しながら、志弦は温泉の気持ちよさと現状への苦悩が入り混じった煮え切らないため息をついた。

 月見の屋敷は、それはもう豪華だった。ひと目見た瞬間に「あっこれ絶対温泉あるわ」と確信できるほど豪華絢爛であった。周囲を広大な池が囲んでおり、それを活かした日本庭園が彩りに華を添えており、屋敷は温泉宿の名に恥じない三階建て。個人が所有する家の規模として明らかに異常である。月見さんってもしかしてすごい金持ちなの!? と思ったが、どうやら月見の知り合いたちが勝手に建てた屋敷であり、彼個人の財力は関係ないのだそうだ。どの道おかしい。

 そんな豪勢極まる月見の屋敷なので、当然、温泉も並大抵ではない。志弦がかつて身を浸してきた、どの旅館の温泉とも一線を画している。広さ自体は普通だし、内風呂と露天風呂という構成も定番だが、大きな窓から青白い月の光がたっぷりと降り注ぎ、壁では行灯をモチーフにした照明が煌々と炎を灯しているため、幻想的すぎて言葉も出ないほどだ。ただただため息だけが出てくる。月見の妖術によって灯された炎は、普通のそれよりもずっと明るく、また熱くもなければ燃え移ることもないシロモノのようで、屋敷の至るところで照明として大活躍している。

 こうも幻想的な屋敷で一晩を明かせるというだけで、志弦はもう、この世界にやってきてよかった! と現金に舞い上がってしまった。そのせいで膝の怪我を忘れたまま湯船に飛び込んでしまい、独りでアホらしく悶え苦しむ羽目になったのは――まあ、誰にも見られなくて心底よかったと思う。

 

「……んぐぅー……」

 

 とは、いえ。

 自分の今後を考えると、くつろいでばかりもいられない。霖之助の言葉を思い出す。

 

「……ここでの記憶を捨てて向こうに戻るか、向こうを捨ててここに骨を埋めるか、か」

 

 ただのしがない女子高生に求める決断としては、随分と大事なのであった。

 なんとなく、自分の気持ちが見えてはいるのだ。家のことを考えると戻った方がいいのだろうとは思うが、決して「戻りたい」とは思わない。それどころか、ここに残るのもアリかもしれないという思いは着実に強くなってきている。元の世界と幻想郷を天秤にかければ、秤は後者へと傾き始めている。

 吐息。

 

「……ここで暮らすことにしたら、じっちゃん、あの世で怒るかなあ」

 

 どちらかといえば、厳格な祖父だった、と思う。志弦が向こうの世界を、あの家を捨てたら、彼岸の祖父は大層顔をしかめてぶつくさ言いそうだ。普段は父のように優しい一方で、やや時代錯誤の嫌いがあり、『家』が関係したときだけはやたらと頑固な祖父であった。

 お前はこの家を継ぐのだと。刷り込みのように、幼い頃から何度も言われてきた。

 けど、それでも。

 

「なんだろう……このまま月見さんを忘れちゃ、ダメな、気がする」

 

 向こうへ戻ることを選べば、志弦はここで過ごした記憶をすべて忘れるという。それはつまり、月見のことも綺麗さっぱり忘れ、はじめから出会わなかったことになってしまうのだと思う。

 それは、よくわからないけれど、ダメだ。

 嫌だ、ではなくて。

 ダメだと、思う。

 だから、戻りたくない。戻ってはいけない。

 湯船の中でじゃぶじゃぶと暴れた。

 

「……うあああっ、でもなあああ~! このまま家に戻れないっていうのがなあああ……」

 

 問題もある。志弦がこの世界を選べば、元の世界へはもう戻れないという。つまり、家から荷物を持ってくることすらできないということである。

 服や下着などの着替え。タオルや歯ブラシや化粧品などの生活道具。集めた本。祖父母と暮らした思い出。小中学校の卒業文集やパソコンのハードディスクの中身など、残していくわけにはいかない黒歴史の数々。

 そういったものがすべて、向こうの世界で置き去りになってしまう。自分の今の荷物――学校の制服と間もなく充電が切れる携帯電話と、大したお金も入っていない財布――だけで、この世界を生きていかなければならない。

 それはやはり、抵抗があった。

 

「うぐぐぐぐぐ……!」

 

 悶える。こうなるとわかっていれば、事前にちゃんと荷物をまとめておいたのに。そうすればなにも後ろ髪を引かれることなく、この世界で生きていくことを選べていたはずなのに。

 湯船の中でばしゃばしゃとのたうち回ってから、ぼへぁー、と脱力した。

 

「うん……これ、悩むだけ無駄だわ。私じゃどうしようもないし……」

 

 一番の選択肢は、向こうの荷物をきちんと整理してからこちらへ移り住むこと。それができなければ……泣いて馬謖を斬る思いで、どちらかを捨てるしかない。

 

「月見さんに相談しよ……もしかしたら、なんとかなるかもしんないし」

 

 そうと決まれば、泊めてもらう立場でいつまでものんびりするわけにもいかなかった。体内時計だから自信はないが、恐らくもう三十分はゆっくりしている。志弦は速やかに浴場を出て、貸してもらったタオルで髪と体を吹き、ちゃっちゃと下着に足を通す。

 ふと、目に入ってくるものがある。

 

「……」

 

 脱衣かごの中に、淡い桃色の生地をした小さな巾着が入っている。一見するとお守りのようであり、実際、志弦にとって大切なお守りであった。昔から霊障で悩まされることの多かった志弦のために、祖母が手作りしてくれたものだった。

 神古の家を代々守ってくれていたというありがたいお札――の、切れ端が入っている。長く積もった歴史の中でほとんどが失われ、切れ端だけになってしまったと聞いている。巾着の結び目に小さく長い鎖が取りつけられていて、肌身離さず首から下げられるようになっている。

 幼い頃は、このお守りに何度も何度も助けてもらった――気がする。結果論という言葉を持ち出してしまえばそれまでだし、昔の記憶を美化しているだけかもしれないけれど、それでも志弦はこのお守りの力を信じていた。

 もう十年以上の付き合いになるから、ありがたい力はきっと失われてしまっているだろう。しかし今でも、志弦の心を常日頃から支えてくれる立派な宝物だ。

 

「……うん」

 

 眺めていたら、なんだか元気が湧いてきた。

 

「よっし、やっぱりあれこれ悩むのは私らしくないっ。ここは潔く、土下座でもなんでもして押し切ってやりましょー! いざとなったら女の涙だ!」

 

 着替えの速度をスピードアップし、月見が寝間着として貸してくれた浴衣に袖を通す。今は夏だし、温泉あがりで体が火照っているので適当に着崩す。もちろん、お守りを首に通すのも忘れない。皺くちゃの制服を腕に掛け、幻想的な炎が照らす廊下を早足で駆け抜け、志弦は月見が待ってくれているであろう茶の間へと飛び込んだ。

 

「月見さーん! あがったよー、」

「あ、来た来た。あなたが噂の志弦ちゃん?」

 

 ものすごい美人さんがいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ほへっ」

 

 変な声が出た。美人すぎて。

 茶の間というよりは広間みたいな座敷の真ん中で、月見ともう一人、なにやらとんでもないべっぴんさんが座っている。世の中には『人形のような』という美人の形容があって、いやーでも人間と人形って結構違うしそのたとえはキツくね? なんて志弦は前々から思っていたのだが、白状しよう、本気で人形かなにかかと思った。

 多分、着ている服のせいなのだと思う。

 紫のドレス。いや、ドレスではないのかもしれないが、ともかくお洒落に疎い志弦からすればそう見える。

 日本で生まれ育った一市民の一般常識に基づけば、あれは女の子が普段着で着るようなものではないはずだ。胸元が大胆に開いており、彼女のスタイルのよさと相まって、悩殺的を通り越して犯罪的ですらある。なのに頭にはフリル付きの幼らしい帽子を乗せていて、それがまた大変よく似合っている。

 女性の妖しさと少女の幼さ。相反する二つを抱えた絵に描いたようなアンバランスさが、志弦に人形だと錯覚せしめた。普段からあんな服を着て生活しているのなんて、きっとお人形さんくらいなのだろうと。

 

「……あれ? あのー、もしもーし。志弦ちゃーん?」

 

 そんな人形みたいな格好が似合っているのだから、事実彼女は美人だった。煌めく行灯のライトアップに後押しされて、まさしく息を呑むほどである。金色の髪は淡く光り輝いているようだし、肌はしっとりと麗しく、素手で触れることすら躊躇われる。透き通る青い瞳はくっきりと存在感があり、唇はつつけば震えそうなほど瑞々しく、その二つが小さく控えめな鼻を挟んで絶妙な調和で成立している。声なんて、もはやなにか神聖な楽器みたいだ。

 この少女と比べたら、温泉あがりの濡れた髪もロクに整えず、浴衣もテキトーに羽織って紐を締めただけで、祖父を以てして生まれた性別を間違えたと言わしめるような自分なんか、

 

「女子力たったの五か。ゴミめ……」

「……ご、ゴミっ? どどどっどうしよう月見っ、私、またなんか変な失敗しちゃった!?」

「あーっいや違います、貴女様があまりにお美しすぎて軽く自己嫌悪といいますかっ! 貴女はスーパーミラクルべっぴんさんで女子力は五十三万でっ、ゴミは他でもない私です生まれてきてゴメンナサイ!」

「え、あ、ありがとう……って、ダメよ自分で自分をゴミなんて言っちゃ! あなただってかわいい女の子じゃない!」

「ハハハこんなだらしない恰好で女子力皆無な私の一体どこがかわいいと」

「えっと、その、ほら……そ、そういう需要もあると思うの! 残念系っていうか」

「フォローになってな――――――――いっ!!」

「ごめんなさ――――――――い!?」

 

 呆れた月見が間に入ってきてくれるまで、一分くらいずっとすったもんだしていたと思う。

 

「落ち着いたかお前たち」

「は、はい……どうもすみませんでした。取り乱しちゃって」

「こ、こちらこそ……」

 

 テーブル越しに、べっぴんさんとぺこぺこ頭を下げ合う。べっぴんさんは、志弦の勢いにすっかり気圧されたのか、若干腰が引けていた。警戒心が強い小動物みたいで、結構かわいかった。そんな些細なところにまで女の子としての差を感じてしまって、志弦は心の中でウッと胸を押さえた。

 ところで、誰だろう。

 月見は一人暮らしだといっていたから、妻、もしくは妹など、一緒に住んでいる家族という線は低い。志弦がお風呂を満喫している間に、月見が呼んだ知り合いだろうか。

 と思っていたら、向こうから自己紹介してくれた。

 

「えっと、はじめまして。八雲紫と申します」

「あ、どうも。神古志弦です。外来人? とかいうのやってます」

 

 やくもゆかり。なんて綺麗な名前なのだろう。やはり本当に持っている(・・・・・)人というのは、名前からしてすでに格が違うものらしい。

 紫の横で、月見が麦茶をコップに注ぎながら、

 

「霖之助が言っていた、幻想郷を管理している妖怪だよ」

「あー、そうなんですか……マジですか!?」

 

 いきなり叫んだ志弦に、紫の肩がびくりと跳ねる。こんな、どこからどう見てもべっぴんさんで、けれど小動物的なかわいさをも併せ持っている、志弦よりちょっと年上、いや下手をしたら同い年くらいの女の子が。

 この世界の管理者。

 すなわち、この世界のトップ。一番偉い人。

 ……これはたとえるなら、全国的に有名なある大企業に入社したばかりの新人が、いきなり代表取締役と個人面接をするようなものだろうか。いきなり緊張してきた。というかさっき、思いっきり真正面から怒鳴ってしまったのですが。

 

「そっ、」

 

 笑顔がひきつった。

 

「そのような御方とは露も知らず、先ほどはとんだご無礼をば……」

「気にしなくていいよ。敬意を払うような相手じゃないさ」

「ひどい!? ちょっと月見、それどういう意味ー!?」

 

 紫が月見の腕をぐいぐい引っ張った。確かに、ガチガチに畏まらなければならないほど怖い人ではなさそうである。

 

「お前が風呂に入っている間に呼んだんだ。……今後のことで、だいぶ悩んでるんだろう? 気になってることがあったら、訊いてみるといい」

「あー、見透かされちゃってましたか。わざわざ申し訳ないっす」

「うー、無視されたぁ……」

 

 紫がしょげているが、それがなぜか様になる雰囲気が彼女にはあった。

 月見が、麦茶のコップを志弦の前に置いた。

 

「話しづらいこともあるだろうから、お前の判断に任せるよ」

 

 ありがたく頂戴して、志弦は苦笑する。

 

「あはは、確かに気軽に話せるようなのじゃないっすねえ。……でも、そうですね、聞いてもらえます?」

「ああ」

 

 思い返してみれば、家族がいなくなってしまったことを、自分から誰かに話したのは初めてだったかもしれない。しんみりとした空気がなんとなく苦手な志弦は、人から同情されるのもまた苦手だった。祖父の葬式の時も、家族を失った悲しみより、ただただ居心地の悪さばかりを感じていた。

 家族が元気に暮らしている人間から、可哀想にとか、大変だったわねとか、そういう言葉の軽い同情をされると、自分が惨めに見えて悔しさすら湧いてくるのだ。もちろん、たとえお決まりの社交辞令でも志弦を気遣ってくれてはいたのだろうが、相手を労る気持ちが必ずしも伝わるものではないのだと、志弦はそのときに学んだ。

 だから、なるべく大したことのないように、明るい雰囲気で話したつもりだった。私はもう終わったことなんで、同情とかいらないですよーと。もっとも志弦がそう思って笑顔でいればいるほど、月見と紫の表情は曇っていったけれど。

 ひと通り話し終わったところで、紫が目を伏せて言った。

 

「そう……大変だったのね」

「あはは……」

 

 まあ、やっぱりそういう反応になっちゃいますよねえ。

 いや、わかっている、これは心ある者として自然な反応だ。だから、いちいち気にする志弦の方がひねくれているのだ。自分の精神が、まだまだ中途半端に幼いということなのだ。

 けれど、

 

「……家族が皆、か」

 

 けれど、月見の反応だけは、少し違っていた。

 

「……機会があれば、会ってみたかったよ」

「……」

 

 祈るような顔をしていた。

 それはただ独り残された志弦を憐れむのではなく、死んでいった者たちを悼む言葉だった。そういう風に言ってくれた人が初めてだったせいもあるのだろうが、月見の言葉は、呆気ないほどすんなりと志弦の胸まで落ちてきた。

 こういう言葉の方が、好きだなと。志弦はそう思う。

 なぜ月見が、知りもしない赤の他人の死を悼み、また、会ってみたかったと願うのかは、わからないけれど。

 

「……そうですね」

 

 気がつけば、自然と笑えていた。

 

「月見さんなら、きっと仲良くなれてた気がします」

 

 月見が祖父と酒を呑んでいる光景を夢想する。決して言葉は多くないけれど、祖父が何事か口を動かして、月見が静かに相槌を打っている。その傍では、祖母が微笑みながら二人に酌をしている。

 たったそれだけの光景なのに、なぜだろう、志弦はどうしようもなく胸が切なくなってしまった。本当にそうだったらよかったのにと思った。だからこそ、この光景がもう決して叶うことのない夢なのだという事実に胸が痛んだ。

 慌てて、明るい声で言う。

 

「まあそんなわけなんで、待ってくれてる人も、戻ってやりたいこともこれといってないわけなのです。正直、こっちで暮らすのもアリなのかなーなんて思ってるくらいで」

「そうなの? いいわよ、あなただったら大歓迎だわ」

「……い、いやいやそう言ってもらえるのはありがたいんですけど、ちょっと待ってください」

 

 今日遊ばない? と誘われてオーケーをしたような即答だった。志弦は更に慌てて、

 

「でもやっぱ、家にも大切なものとかいろいろあるんで、置きっぱにしたくもないんです」

 

 紫は考える素振りも見せない。

 

「じゃあ、こっちに持ってくる? 最先端の精密機械なんかはダメだけど、そういうの以外なら」

「……、……いいんすか?」

 

 話がトントン拍子で進みすぎて、逆に志弦が戸惑ってしまった。だって聞いた話によれば、ここで暮らすことを選べば最後、元の世界へは戻れなくなると、

 

「……あ、もしかしてそのへんのサポートは充実してるってやつですか。お手軽幻想郷引っ越しプラン学割付き的な」

「んーん、普通はこんなことしないわ。めんどくさいし、キリがないし」

 

 じゃあなんで、

 

「月見の頼みだもの、一番の選択をさせてやりたいって。……だから、あなただけ特別。向こうから必要な荷物を持ってきて、ここで人生をやり直すのが、あなたの一番の選択なんでしょう?」

「……えっと、まあ、そう思ってますけど」

 

 志弦は紫と月見を交互に見た。躊躇いがちに、

 

「……なんか、ここまでしてもらっちゃって、いいんすかね」

 

 自分が望んでいたことなのに。すんなり話が煮詰まったら煮詰まったで、かえって申し訳なくなってしまう。

 紫が可憐に微笑んだ。

 

「いいのよいいのよ。月見からのお願いなんだもの」

「そうですか……」

 

 なんとなく、ああこの人は月見さんのことが好きなんだな、と志弦は思った。『月見からのお願い』という部分に、どう見ても普通と異なる深い感情を込めたニュアンスがあった。

 好きな人にお願いされたから、本当はちょっとめんどくさいけど、頑張っちゃう。

 なんて健気な人なのだろう。月見と紫がどういう関係かはわからないし、いま尋ねるようなことでもないから黙っているけれど、幸せになってほしいなーとそんなことを思う。

 ともあれ。

 

「んと。……じゃあ私、ここに残っても……いいっすかね」

「……その選択で、いいんだな?」

 

 月見の、静かな問いだった。それがお前の答えなのか。家族を失った悲しみで自棄になっているわけでも、ただ異世界にやってきた勢いだけで決めたわけでもない、後悔のない選択だと言い切れるのか――そう、問われている気がした。

 

「――後悔しないよ」

 

 答えた。

 

「上手く言葉にできないけど――ここにいないといけない、気がする。ここのことを、忘れちゃいけない気がする。理由は、わからないけど。……だから私は、ここに残って、その答えを探す」

 

 一拍、

 

「……って、なにカッコつけたこと言ってんすかね私! よ、要はここにいたいってことで! ご迷惑じゃなければ、よろしくお願いしまっす!」

 

 中二病同然のハズカシイ言い方になってしまったと気づき、熱くなった顔を隠すように深く頭を下げる。返事はすぐ返ってきた。

 

「ああ。よろしく、志弦」

 

 顔を上げると、びっくりするくらい優しい表情をした月見がいて、

 

「正直なところ、お前がその選択をしてくれて私は嬉しいよ。ようこそ幻想郷へ――って、これは紫のセリフか」

 

 紫がすかさず片手を上げ、高らかに言った。

 

「ようこそ幻想郷へ!」

 

 志弦は、蕾が開くように笑った。

 

「……あははっ」

 

 体が、そしてそれ以上に心がぽかぽかとしてあたたかいのは、きっと温泉あがりだからではないはずだ。ああそうだ、と思う。誰かと穏やかに過ごす時間は、こうも心があたたかくなるものなのだと。祖父を亡くして以来すっかり途方に暮れて、そんなことも忘れてしまっていた。

 ――だから、いいよね、おじいちゃん。

 家督を継ぐ約束は、ちょっと果たせそうにないけれど。

 

「じゃあ、お前が住む場所を決めないとね。向こうから荷物を持ってくるにしても、それが決まらないことには置き場もないし」

「そうっすねー。……ちなみに、ここに住むってのは」

「そっ、そんなのダメですーっ! 羨ま――じゃない。なにか間違いとかあったらダメだから絶対にダメッ!」

「……紫さん、わっかりやすいなー」

「……にゃ、にゃんのことかしら」

 

 ここに残りたいと願った志弦の選択に、嬉しいという言葉で、応えてくれた人がいる。

 志弦の心を惹きつけて已まない、不思議な人がいる。

 忘れてしまいたくない人がいる。

 だから、志弦は。

 

「……ね、月見さん」

「うん?」

「なんてーか……ありがとう。いろいろと」

「……どういたしまして」

 

 神古志弦は、ここにいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第77話 「K ③」

 

 

 

 

 

 知らない天井だった。

 というのがただの気のせいだと気づくまで、十秒くらい掛かった。

 

「……ぁー」

 

 目を覚ました志弦は布団の上で大の字になって、知っている、けれど見慣れてはいない天井に向かって間延びした声をあげる。上手く焦点の合わない目を何度かしばたたかせると、段々視界がクリアになっていって、昨日までの記憶も甦ってくる。

 幻想郷。

 水月苑の客間。

 要するに、爆睡であった。

 

「んぃぃぃ……!」

 

 志弦は手足を思いっきり伸ばして、大の字から『1』の字になる。五秒くらいして、また大の字に戻る。

 祖父を亡くして以来で、一番ぐっすり眠った気がする。時間を確かめるまでもなく、体がそう実感していた。もぞもぞと起きあがり、肺の空気をすべて入れ替えるような大欠伸を飛ばす。窓からまばゆい日光が降り注ぎ、外では小鳥がかわいらしい声でさえずっている。呆れるほどの晴天である。

 寝惚け眼のまま、呟いた。

 

「……異世界なんだよなあ、ここ」

 

 自分が自分の家以外の場所で目覚めると、志弦は大抵不思議な感覚を覚える。夢と現の狭間にいるような、自分が見ている世界にいまひとつ現実味がないような。けれど昨日のことはとてもよく覚えているから、志弦が今いる世界は間違いなく現実なのだ。

 よくわからないうちに、無縁塚という場所に迷い込んでいて。

 妖怪鼠とやらのナズーリンに助けられて。

 霖之助や月見や、紫と出会って。

 そして、この世界で生きていくと決めたのだ。

 

「……うし!」

 

 小さく気合いを入れて志弦は立ち上がった。窓から見える外の景色は光で満ちあふれており、どうやら少し朝寝坊のようだ。泊めてもらっている立場として、これ以上惰眠を貪るわけにはいかない。

 折りよく、部屋の外から声が聞こえた。

 

『志弦、起きてるかー?』

「あー、月見さん。おはよー、今起きたとこー」

 

 耳に優しいバリトンの声音を聞くと、志弦の頬も自然と緩んだ。今の自分にはこうやって起こしに来てくれる人がいるんだなと思うと、胸の奥がちょっぴりだけあたたかくなる。

 襖の向こうで、月見が苦笑した気配。

 

『おはよう……と言いたいところだけど、おそよう。ぐっすり眠ってもらえてなによりだよ』

「え」

 

 志弦は窓の外を見る。そこでようやく、朝にしては太陽が随分高いところで輝いていると気づく。

 志弦は恐る恐る、

 

「……あの、月見さん。今、何時?」

『昼前だね。昼食はなにが食べたい?』

「……」

 

 ひく、と口の片端がひきつる感覚、

 

「……す、すみません、すっかり寝坊しちゃって」

『いいよ、私も起こさなかったんだから。昨日いろいろあって、疲れてるだろうと思ってね』

 

 月見の優しさが、情けないくらい胸に染みる。

 

「ええと、すみませんすぐ起きます、起きて朝食、じゃない昼食の支度手伝います」

 

 ほとんど半裸みたいな有様になっていた浴衣を急いで手早く整える。皺くちゃの布団を大雑把に直し、小走りで襖の方へ向かう。

 その途中でふと、床の間の壁に掛けられた鏡が目に入った。

 

「……」

 

 イソギンチャクみたいなひどい頭をした、女型のモンスターが映っている。

 女子力たったの五か、ゴミめ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 神古志弦という少女は、あいつ――神古秀友によく似ている。

 ともに時間を過ごせば過ごすだけ、やはり月見はそう思う。お世辞にも寝相がよいとはいえなくて、寝癖がいっそ清々しいくらいにひどいあたりはまさにそうだ。苗字が同じだからそう感じてしまうだけだと言い聞かせてきたけれど、ただの偶然という言葉で片づけるにしては、どうも上手くできすぎてはいないか。

 不甲斐ない話、お陰で昨夜はよく眠れなかった。もともと大して眠らなくてよい妖怪でなければ、月見も志弦を笑えないほど朝寝坊をしていたはずだ。

 無論、確かめようのないことではある。今から千年以上もの歳月を遡る話なのだから。秀友の血が現代まで生き永らえていて、こうして自分の目の前にやってきたのではないか――そんなものは所詮、決定的な証拠もなにもない、月見の都合のよい希望的観測でしかないのだ。

 あまり、本気になって考えない方がよいと思う。考えれば考えるほど、泥沼にはまってしまうだけだろうだから。

 月見が思考を打ち切ると、肩のすぐ後ろから志弦の声が聞こえた。

 

「いやあ、今朝は――じゃない。もう昼なんすよね。ええと、とにかくご迷惑をお掛けしました……」

「だから、起こさなかった私も私だって何度も言ってるだろう? 気にしなくていいよ、ほんとに」

 

 イソギンチャクのような頭になっていた(らしい。見せてもらえなかった)志弦は、水で濡らす程度ではまったくダメだったらしく、結局昼間からひとっ風呂浴びていた。お陰で少し、石鹸のいい香りがする。背中越しに感じる彼女の体温は、月見より若干あたたかい。

 

「あはは、そう言ってもらえるとありがたいっす……」

 

 首へ回された志弦の両腕に、ぎゅっとしがみつくような力がこもる。

 

「そ、それでですね」

「うん」

 

 あたたかい体温とは裏腹に、血の気を失ったような声だった。志弦は生唾を呑み込み、意を決して下を見ると、ひいっと小さく悲鳴をあげた。

 ぶるりと大きく身震いをし、胸いっぱいに息を吸って、

 

「――めっちゃ高くて怖いんですけどおおおおおぉぉぉぉぉ!!」

 

 怖いんですけどおおおおおぉぉぉぉぉ……とやまびこが響き渡る。

 空である。

 地上の木々がミニチュアに見えるほどの空である。

 志弦をおんぶし、守矢神社までの山を登る道中である。

 志弦が喚く。

 

「つ、月見さん、お願いだから離さないでよ!? ……いやフリじゃないですからねマジで!?」

「わかってるよ。わかってるから、耳元で騒がないでくれ」

 

 志弦が幻想郷で暮らし始めるにあたって、まず決めなければならないのは生活の場であった。これが決まらないことには外から荷物を持ってきたところで置き場がないし、人里で必要な生活道具を買い揃えることだってできない。なので幻想郷をざっくり案内する意味も込めて、今日は志弦が暮らせそうな場所をいくつか回ってみようという話になっていた。

 まあいくつかといっても、守矢神社と人里の二ヶ所くらいだけれど。人間と妖怪がほぼ共生している世界とはいえ、人間の安全が保障されている場所は相当限られている。加えて外来人を受け入れられるほど余裕のある土地となれば、志弦が暮らす場所は人里一択となるはずだった。

 守矢神社へ向かっているのは、完全に月見の独断だ。そこで志弦が居候させてもらえるかはまた別として、早苗に会わせておく価値は充分にあると思っている。最近になって外からやってきた人間同士だし、同じ女性で同い年である。幻想入りしたばかりで右も左もわからない志弦にとって、早苗の存在はなにより心の支えとなってくれるだろう。

 それにもし守矢神社で居候できるようなら、ついでに修行をつけてもらえるではないかという打算もある。志弦は霊感体質のようだし、そうでなくとも人外が蔓延(はびこ)る幻想郷だから、護身の方法を覚えておくに越したことはない。

 というわけで昼食を取り次第、志弦をおぶってさっそく空を飛んでいたのだけれど。

 

「お前、高いところダメなのか? 昨日屋敷まで飛んだときは平気そうにしてたから、大丈夫なものと思ってたけど」

「き、きききっ昨日は夜で、どんくらい高いとこ飛んでるのかよくわかんなかったからっ! それにね月見さんっ、これ高所恐怖症関係なく普通の人なら危険を覚える高さだって!? めっちゃ見晴らしよすぎて怖えええええ!! 命綱もないしいいいいいっ!!」

 

 現在地は、山の中腹を少々越えたあたりだろうか。確かに、ここから見渡す麓の景色は壮大だ。幻想郷の南の端、迷いの竹林までを余すことなく一望できる。

 月見は尻尾で麓の方を指差し、

 

「あそこで白い煙を上げてるのが人里だよ。外来人も含めて、人間たちが集まって生活してる場所だ」

「ひゃっはー月見さん超クールゥー!! 私のSOS信号を受信してくれると嬉しいなーっ!?」

「そうやって、高い場所にいるのを意識しちゃうからダメなんだよ。ほら、上を見てみるといい。お前たち人類が夢にまで見た大空がこんなにも近いじゃないか」

「私は夢見てねーしっ!!」

 

 ゆめみてねーしー!! とやまびこが元気よく叫んだ。生きるか死ぬかの瀬戸際な志弦とはうってかわって、随分と楽しそうな声だった。

 

「今日のやまびこはまた元気だね」

「やっほおおおおお!! しいいいいいぬうううううううう!!」

 

 恐怖のあまり錯乱し始めた志弦がそんなことを叫ぶ。少し間があって、やはり元気な少女の声が、

 

『やっほー!! 死んじゃダメだよーっ!! 私がいるよーっ!』

「……はい?」

 

 月見をいよいよ絞め殺そうとしていた志弦の両腕から、唖然としたように力が抜けた。混乱のさなかとはいえさすがに気づいたらしい。

 

「……え? 月見さん、今のって」

「やまびこだね」

「いやいやほら、やまびこって声が反響するあれでしょ? なのになんで、」

 

 まったく別の言葉が、まったく別の少女の声で返ってくるのか。

 

「やまびこはただの自然現象であり、同時に妖怪の仕業でもあるのさ」

 

 月見は薄く笑い、山頂に向けて飛ぶスピードを少し落とした。

 

「二種類のやまびこがいるんだ。ひとつはお前が言う通り、自然現象としてのやまびこ。もうひとつは今みたいな、妖怪としてのやまびこ」

「あー……そういや『山彦』って妖怪いますね。犬みたいな。あれが返事してくれてるってことすか」

「そう」

 

 もっとも随分とかわいらしい声をしていたから、志弦が脳裏に描いている『山彦』とはかけ離れた姿をしているだろうけど。

 

「意外とノリがいい連中で、さっきみたいにいろんな返事を返してくれるよ。守矢神社までもう少しだし、ちょっと遊んでたらどうだ?」

 

 外の世界はもちろん、やまびこは幻想郷でも忘れられつつある存在だ。昨今は山から「やっほー」と叫ぶ者もめっぽう減ってしまい、活躍の場を失ったやまびこたちは寂しい毎日を過ごしているらしい。そんなところに恐怖でまみれた絶叫とはいえ「やっほー」が飛んできたのだから、それはそれは嬉しかったに違いない。その証拠に、声はもうぴょんぴょん飛び跳ねるかのように元気いっぱいだった。

 

「ふーん……」

 

 志弦はしばらくの間沈黙して、それから突然にんまりと笑った。秀友がよく、ロクでもないことを思いついたときにやっていた顔だった。

 息を吸って、

 

「ありがとーっ! もう大丈夫ー!」

『――よかったー! 頑張ってねー!』

 

 満足げに頷いた志弦はいきなり、

 

「……生麦生米生卵っ!」

『――え!?』

 

 一瞬唖然としたやまびこは、すぐに自分の役割を思い出し、

 

『……な、生麦生米生卵っ!』

 

 これで止まる志弦ではない。

 

「隣の客はよく柿食う客だっ!」

『――隣の客はよくかきくー客だっ!』

 

 志弦が更に、

 

「坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いたっ!」

『――坊主が屏風に上手にびょーずの絵を描いたっ! ……あう、』

 

 更に、

 

「青巻紙赤巻紙黄巻紙っ!」

『――青巻紙赤巻まみ黄まみまみっ! う、うぐぅっ……!!』

「蛙ぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ、合わせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこぉっ!」

『――か、蛙ぴょこぴょこ三ぴょきょきょこっ、……合わせてぴょこぴょこ六きょぴょぴょきょっ!! う、うううぅぅ~……っ!?』

「この竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから竹立てかけたぁっ!!」

『――……こっ、この竹垣にたてかけかけ』

 

 静かになった。気のせいだろうか、えぐっとべそをかいたような声が聞こえた気がした。

 志弦は、会心のいたずらが大成功したガキ大将みたいな顔をしていた。

 

「……お前、早口言葉上手いね」

「ばっちゃんがめっちゃ上手かったんすよ。ガキの頃にいろいろ教えてもらって、でも全然上手く言えなくて悔しくて、半年くらいは練習したかなー」

 

 ちょうどよい遊び相手を見つけたことで、彼女は空高くにいる恐怖を綺麗さっぱり忘れているようだった。今のうちに上まで行ってしまおうと、月見は飛ぶスピードを元に戻す。

 声が返ってくる。

 

『――つ、次っ! 次は負けないからっ!』

「お、やる気満々だねー。月見さん、なんか早口言葉知ってる?」

「知ってるけど……なんで私に振るんだい」

「やー、私が知ってる早口言葉ってあとは難しいのばっかで。簡単に言えそうでなぜか言えない、くらいのやつ知らないかなーと」

「ふむ……」

 

 月見は軽く咳払いをして、考えた。一見簡単そうに見えて、やってみると意外と上手く行かない早口言葉といえば、

 

「――東京特許許可局!」

『――東京特許きょきゃ、』

 

 間、

 

『――東京特許許可きょきゅ!』

 

 また間、

 

『――と、東京特許きょかきょくっ!! ……や、やったっ、言えたっ』

 

 月見はすかさず、

 

「東京特許許可局今日急遽特許許可却下!」

『――ええぇっ!? と、東京特許許きゃきょきゅ今日急遽きょっきょ許きゃっ――うわあああああああああんっ!!』

 

 夏の終わりの青空に、少女の大泣き声が響き渡った。あふれる涙を振りまきながらどこかへ走り去っていったような、そんな響き方だった。

 志弦がにやにやしていた。

 

「お主もなかなかやりますなー」

「……それほどでも」

 

 つい勢いで。

 そのあとは志弦が何度「やっほー」と言っても、自然現象のやまびこが虚しく反響するだけだった。いじけて帰ってしまったのかもしれない。

 

「やー、やまびこさんには悪いけど楽しかったあ」

「それはなにより……どれ、こっちもちょうど着いたよ」

 

 月見は眼下を見下ろす。山の山紫水明を切り拓いて、博麗神社よりもひと回り大きく、また綺麗に手入れされた境内が広がっている。石畳を敷いた参道では、早苗が竹ぼうきでせっせと掃き掃除をしていた。見る限り参拝客の姿はない。

 つられて下を向いた志弦が、

 

「――ぎゃあああああ高い怖い死」

「はいはい、今下りるから騒がないで」

「ちょっと待ってもうちょいゆっくり下りて絶叫マシーンじゃないんだからあああああっ!?」

 

 志弦の悲鳴に気づいた早苗が空を見上げて、月見を見つけるなり笑顔で大きく手を振った。

 

「月見さーんっ!」

 

 月見は境内に降り立って、

 

「やあ、早苗」

「こんにちはです! はうあっ、今日も素晴らしいお耳と尻尾で……!」

 

 月見と出会ってからというもの、早苗の『趣味』はますます悪化の一途を辿っているそうである。『趣味』とは具体的にいえば、獣耳や尻尾を生やした男女を愛でる趣味である。椛がたびたび被害に遭っている他、この前は藍が人里で、帽子を取ってくださいっお耳を見せてくださいっとしつこくせがまれ苦労したとか。

 月見を見つめる早苗の視線が恍惚としているのは、極力意識しないでおく。ハアハアした息遣いなんて絶対に聞こえない。

 これさえなければ――これさえなければ、本当に、いい子なのだけれど。

 月見は背中から志弦を下ろした。

 

「立てるかい」

「な、なんとかあ……」

 

 グロッキーな志弦の恰好を見た早苗が、息を呑んで呟いた。

 

「えっ……高校の、制服……?」

「今、暇か?」

 

 詳しい話は腰を据えて。そんな気持ちを込めて月見は、神奈子が注連縄の手入れをし諏訪子が昼寝をしているであろう母屋の方へ目を向けた。

 

「ちょっと、話を聞いてほしいことがあってね」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 守矢神社について、志弦が得た情報を確認しておこう。

 去年の秋に、外の世界から敷地丸ごと幻想入りした神社であるという。祭神は八坂神奈子と洩矢諏訪子の二柱で、東風谷早苗という少女が風祝――厳密には違うらしいが要は巫女みたいなもの――を務めて管理している。少女一人で管理できる程度なので決して大きくはなく、町の一角にある素朴な神社といった印象である。しかし諏訪信仰という有名な信仰を司る神社で、その歴史は千年以上を遡り、大変由緒正しいとのこと。

 八坂神奈子はこの神社の表向きの(・・・・)祭神で、背中に巨大な注連縄を浮かべたいかにも神様然とした女性。少々古めかしい恰好のためだいぶ年上に見えるが、実のところはお洒落をすれば少女でも通りそうなほど若々しい。性格は豪放磊落かつフランクで、「姐御!」と呼ばれるのがとても似合いそうだ。表向きの祭神である理由は、どうやら話せば長くなるらしい。

 洩矢諏訪子はこの神社の本当の祭神で、ランドセルを背負って小学校に通っていそうな少女、いや幼女である。実際、神奈子とはまさに対極な子どもらしい性格をしていて、大好きなものは月見の尻尾。彼女は月見の姿を見るや否や、志弦の存在などまるっきり放置して尻尾に抱きつき、すやすやと夢の世界へと旅立ってしまった。

 東風谷早苗は志弦と同い年で、守矢神社の風祝であると同時に、現人神という存在でもある。現人神とは、具体的には天皇など神の血を継いでいるとされる人間のことで、守矢神社を継ぐ者は代々そういう役割なのだとか。志弦が遠い目をしたくなるほどの美少女で、性格はとても元気で明るく、きっと学校に通っていた頃は相当モテただろう。

 そして――

 

「――あ、じゃあウチで暮らす?」

「え?」

 

 恐らくこの少女は、志弦の予想を遥かに上回るお人好しのはずだ。

 場所は、守矢神社の母屋へと移っている。テーブル越しで向かい合う志弦と早苗を、月見が少し離れたところから見守ってくれている。彼の隣では神奈子が胡座をかいて座っており、尻尾では諏訪子が引っついてお昼寝をしている。

 第一印象で、優しそうな人だとは思っていた。志弦たちを快くこの座敷まで案内し、麦茶の支度をしながら、自己紹介ついでで神社の縁起をざっくりと説明してくれた。そのざっくりとした説明がとても聞きやすく、神社や神道がさっぱりな志弦でもそこそこわかりやすかったから、気配りができるいい人なのだろうと思った。

 そして、志弦の自己紹介へとバトンタッチして。

 ――というわけで私はいわゆる天涯孤独ってやつなので、元の世界に戻っても、まあ、やりたいこととかあんまりないわけなのです。だから、これからはこの幻想郷で暮らしてみようかなとか思ってて、

 そこまでだった。「はじめまして、神古志弦です」から始まった志弦の自己紹介がそこまで進んだ瞬間、今まで静かに相槌を打つだけだった早苗がいきなり口を挟んできた。まるでふと思い出したかのように。あまりに唐突すぎて、志弦の目には早苗がよく考えもしない出任せを言ったとすら思えたほどだ。

 言葉の意味が理解できるまで、呆れるほど時間が掛かった。

 守矢神社を囲む鎮守の森が、さわさわと心地良い音色を奏でている。月見の尻尾を抱き枕にして丸くなった諏訪子が、すひーすひーとかわいらしい寝息を立てている。聞こえる音といえばそれくらいで、志弦はもう一言も喋ることができなくなってしまっている。頭の中で用意していた言葉は見る影もなく木っ端微塵だ。ただただぽかんと固まっていると、早苗が不思議そうに首を傾げた。

 

「……あれ? そういう話じゃなかった?」

「いや……」

 

 やっとそれだけ言えた。

 もちろん、結論をいえばそういう話ではある。同い年で、しかも同じ外からやってきた過去を持つ仲間がいるこの場所で暮らせるのなら、これほど肩の力を抜けるものはない。だがそれは志弦が頼み込むべきだったことであり、向こうから誘ってくるようなものではなかったはずだ。

 だから志弦は、この人は底抜けのお人好しなのかもしれないなと思う。たとえ志弦が同い年で、同じ外来人であったとしても、ついさっき出会ったばかりの相手に「ここで暮らさないか」なんて、普通は到底言えたものではない。

 頭よりも口を動かす。

 

「まあ……確かにそういう話ではあるんだけど」

「あ、よかったあ。てっきり、早とちりして変なこと言っちゃったかと」

「ごめん、そっちの方から言われるとは思ってなかったから」

 

 早苗が、少し気恥ずかしそうに頭を掻いた。

 

「やはは……幻想郷に外来人は結構いるけど、みんな年上の人たちばかりで、実を言えばちょっと寂しかったの。だから、住む場所に困ってるならどうかなあって思って。私たちくらいの外来人なら、当然向こうでの生活があるから、戻ってっちゃうのが当たり前で……」

 

 あ、と失言に気づいた顔をして、俯く。

 

「……ごめん。なんていうか、あんまり喜んでいいことじゃないよね。あなたも大変だったのに」

「い、いや、いいよそんなん」

 

 志弦はさばさばと手を振った。確かに裏を返せば、天涯孤独となって幻想入りした志弦の境遇を喜んでいるようにも聞こえるけれど、わざわざそんな受け取り方をするほどひねくれてはいやしない。

 苦手な空気になりそうだったので、慌てて話題を進める。

 

「もちろん、私も……同年代がいる場所で生活できるなら、いいなっては思ってる」

 

 しかし、

 

「でもさ……ほんとにいいの? なんか昨日から話がトントン拍子で進みすぎて、わたしゃあ逆に不安ですよ」

 

 早苗が苦笑した。

 

「旨い話には裏がある……って?」

「そーいうつもりはないけど……」

「もちろん、タダ飯を食わすつもりはないよ」

 

 琴を強く弾いたような、張りのある声だった。自己紹介以外は沈黙を貫いていた神奈子が、胡座の膝に頬杖をついていた。

 

「そうだね……私たちを信仰するってのがひとつと、巫女見習いとして早苗の手伝いをするってのがひとつ。せっかくの若い労働力だから、ここで生活するからには役立ってもらうよ」

「……ちなみに、『信仰する』ってどういう意味っすか? なんか怪しい宗教みたいなのじゃ」

「そんなわけないでしょ。朝は神棚に祈りを捧げるとか、日頃から神様の存在に感謝するとか、そういうのだよ。早苗の手伝いってのは、境内の掃除とか御札作りとか、それ以外の日常的な家事とかもかな。ゆくゆくは、布教活動の方も手伝ってくれるとありがたいけど」

 

 要するに、守矢神社の第二の巫女さんになれ、ということだろうか。自分に巫女服が似合うとはとても思えないけれど、手伝い程度なら、居候する者として当然の責務なので納得した。

 

「それと、こいつが一番大切だけど――」

 

 神奈子は白い歯を惜しげもなく晒し、それはもう、思わず「姐御ぉ!」と叫びたくなるような爽やかな笑顔を見せた。

 

「――早苗のよき友となってくれること。それさえできるなら、私はなにも言わないよ」

「姐御ぉ!」

 

 そして志弦は実際に叫んでいた。

 

「え!? な、なによ突然」

「神奈子さんがイケメンすぎて、わたくしめは心が震えております」

 

 神奈子たち二柱の神と早苗の関係が、神と人間、もしくは祀られる者と祀る者を超えた、家族同然の深い絆であることはすでに説明があった。つまり神奈子は、自分を信仰してもらうよりも神社の手伝いをしてもらうよりも、早苗――家族に新しい友達ができることがなにより大切だと言っているのだ。イケメンすぎる。霊感体質のせいで幼い頃から恵まれなかった志弦は、神様という概念に対して消極的な印象すら抱いていた。それがぜんぶ消し飛んだ。生まれて初めて、神様ってすごいと思った。

 

「私、神奈子さんなら信仰してもいいです!」

「そ、そう……? ま、まあ、私の神徳がわかってもらえたようでなによりだよ」

 

 褒め言葉に弱いのか、神奈子はちょっと恥ずかしそうだった。それが所謂ギャップ萌えというやつだったから、志弦はつい調子に乗って、

 

「よろしくお願いしまっす、姐御!」

「そ、その『姐御』ってのやめてよ。恥ずかしいから……」

「これも私のしんこーしんの表れっす!」

「え、そ、そうなの……? なら……いいけど」

「さすがです姐御!」

「ちょっと、」

「痺れます! 私、かわいい系はちょっと難しいんで、姐御みたいなイケメン女子になりたいっす!」

「や、やだなあもう……ってちょっと待って、それって遠回しに私がかわいくないって」

「そんなことないですよ神奈子様っ!!」

 

 早苗が食いついた。

 

「前々から言ってるじゃないですかっ、神奈子様はちゃんとお洒落すればすごくかわいくなるって!」

 

 志弦もすかさず続く。

 

「私も同感です! ちょっとイメチェンしてみたらどうっすか?」

「や、えっと、それは……神として、あんまりちゃらけた恰好はできないから……」

「いやー、でもマジで勿体ないっすよ。絶対見違えますって!」

「ほ、本当……? 正直、あんまり自信ないんだけど……おだててるわけじゃないよね?」

「いやいや、姐御に嘘ついたりしないですって!」

「そうですそうです! 確かに神様としてきちんとした恰好をするのは大事ですけど、たまには息抜きも必要ですよ! 今度、人里でお洒落な着物とか買ってみましょうっ!」

「着物っ……! あーもうこれ絶対似合うわ。買うまでもなくわかるわ。髪もこう、もうちょっとふんわりを抑えめにして……いや、いっそストレートでもいいかもな」

「そうそう! 神古さん、わかってるじゃない……!」

「東風谷さんもね……!」

 

 早苗とグッとサムズアップを交わす。早苗という味方を得たからか、もうすっかりテンションが上がって、エキサイトしてしまって、だから志弦は気づかなかった。蚊帳の外になっていた月見と、どうやら起きていたらしい諏訪子が、

 

「……ねえ、月見。神奈子って、結構チョロいよね」

「……そうだね」

 

 と、呆れ顔で呟いていたことなど。

 神奈子がもじもじしている。

 

「そ、そうかなあ……? に、似合うかな……えへへ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 話がだいぶ逸れてしまった。

 

「じゃ、じゃあ話を戻すけど……」

「う、うん」

 

 目の前の早苗の頬が、若干赤くなっている。たぶん、志弦も似たような感じになっていると思う。出会ったばかりの相手とその場の勢いだけで意気投合していたというのは、いま思い返すと少しばかり恥ずかしかった。

 神奈子はまだもじもじしていて、「ねえ、あんたたちもそう思う……? 私、もうちょっと自信持っていいのかな……」と月見と諏訪子に絡んでいる。月見は眉ひとつひそめず紳士的に対応しているが、諏訪子はとても面倒くさそうな顔をして狸寝入りをしている。もうしばらくの間はあのままだろうなあと思うと、ちょっぴり申し訳ない気分になった。

 もちろん、お世辞を言っていたつもりはないけれど。神奈子は志弦と違って、相応の恰好をすれば相応のべっぴんさんになる逸材のはずなので、そのときが来たら是非立ち合わせてほしいと思う。

 さておき。

 

「私は、当てがないならこの守矢神社で暮らしてみたらどうかなあって思います。神社のお手伝いをしてもらえると助かるし……」

 

 それから早苗は、ちょっぴりだけ舌を出してはにかんで、

 

「友達になってくれると……嬉しいし」

「ねえ、東風谷さんって学校でかなりモテたでしょ?」

「え!? ど、どうしたの突然っ」

 

 だって、今の表情を青春時代真っ只中の青少年たちの前でやってみろ。『ズキューン』ってやつだ。かくいう志弦も、自分が女でなかったら危なかったかもしれない。

 

「む、昔の話はいいのっ」

「うわー否定しないし。さてはクラスのアイドルだったんだなー? バレンタインデーとか、きっとクラスの男子は東風谷さんからチョコもらえないかってムラムラ」

「か、神古さぁんっ!」

 

 志弦はからからと笑って、早苗の目の前に右手を伸ばした。

 

「志弦でいいよ。……友達、だし。さん付けはなしでいきましょー」

 

 友達だから、なんて。こういうことを言うのは随分と久し振りだったので、果たして自然な表情ができたかどうか、不安だったけれど。

 花が開くように微笑んでくれた早苗を見るに、まあ、それほど悪いものではなかったのだろう。

 右手が、重なった。

 

「うん。よろしくね、志弦」

「あいあい。霊感体質で、いろいろ迷惑掛けると思うけどねー」

「それは大丈夫! 巫女の修行してるうちに、悪い幽霊なんてバシバシ祓えるようになるからっ。志弦はかなり霊力が強いみたいだし、きっと一人前の巫女になれると思う」

「へえー……?」

 

 霊力が強いといわれても、自分の体の中にそんな未知の力が眠っているなんて、いまひとつ実感が湧かなかった。けれど、ないよりはずっといいなと思う。昨日の無縁塚での経験からすれば、人間がいつでもどこでも安全に暮らせる世界ではないのだろうから。

 

「……話はまとまったか?」

 

 少し疲れたような、月見の声だった。見ると、やはり若干疲れた顔の月見がいて、その横では神奈子が真っ赤になって湯気を上げていた。神奈子があんまりにもしつこく絡んでくるものだから、いっそとても紳士的(・・・・・・)に対応してやったのかもしれない。

 惜しいものを見逃したなー、と志弦は思いながら、

 

「うん。とりあえず、ここに居候させてもらって、巫女見習いやることになりました」

「それはなにより。じゃあ、あとは向こうから残りの荷物を持ってくるだけだね」

 

『残りの荷物』という言い回しについて補足しておく。一介の女性として下着を替えたり歯を磨いたりできないのはアレだったので、昨晩のうちに着替えや歯ブラシなど最低限の荷物だけは持ち込んでしまったのだ。紫が『境界を操る』とかいうよくわからない能力を使い、水月苑の納戸を志弦の家の玄関につなげた時は度肝を抜かれた。要するに、どこでもドアみたいなものだったのだろうと今では思っている。

 

「いつやりましょ?」

「紫と確認してだね。でも、別に急ぎではないだろう?」

「そっすね」

 

 あ、と気づく。

 

「そういえば荷物、月見さんの屋敷に置きっぱだ。持ってこないと……」

「ああ、それなら私が今から持ってくるよ」

「え? でも」

「また、高いところを飛んでみるか?」

 

 頬がひきつった。

 

「……お願いします」

「よろしい。……ほら諏訪子、起きてくれー。昼寝はもうおしまいだ」

 

 月見が、また尻尾を抱き枕にして夢の旅人となっていた諏訪子を揺すった。うー、と幼い掠れた声がして、

 

「なにぃー……どうかしたのぉー……?」

「用事ができたから一旦帰るよ。だから放してくれ」

「ぅえー……!?」

 

 諏訪子はすこぶる嫌そうだった。もふもふ抱き枕を両腕と両脚でぎゅっとホールドし、

 

「やだぁー……もふもふー……!」

「すぐ戻ってくるから。本当だよ」

「うー……」

 

 志弦の頬に自然と笑みが浮かぶ。どこからどう見ても幼女にしか見えない幼女が千年以上の歴史を持つ由緒正しい神様だというのだから、幻想郷はとても面白い世界だと思う。これからたくさんの場所を回って、たくさんの人、妖怪、神様たちと出会ってみたい。

 

「ほんとぉ……? 約束だよ。嘘ついたら祟るからぁー……」

「はいはい」

 

 諏訪子がしぶしぶ月見の尻尾を解放し、むくりと起き上がった。寝惚け眼をこすりながらあくびをし、志弦を見て、次に早苗を見て、

 

「……そーいえば、そっちの話はどうなったのー?」

「ここで一緒に暮らすことになりました。巫女見習いとして、いろいろお手伝いしてもらう予定です」

 

 早苗が答えると、諏訪子はふーんと生返事をして、それから志弦を見て笑った。

 ほわっと。ひと目見るだけで心があたたかくなる、陽だまりのたんぽぽみたいな笑顔だった。

 

「よろしくねぇー」

「……あ、」

 

 その笑顔を見て、志弦はふと気づかされる。今日からは彼女たちが、志弦と同じ場所で同じ時間を刻む家族なのだ。この神社が、志弦の帰ってくる場所なのだ。

 居候という言葉で、軽く考えていたけれど。

 それは家族を喪った志弦にとって、とても大切で、かけがえのないことではないのか。そんなかけがえのない人たちの気持ちに応えるなにかを、志弦は今まで見せただろうか。

 ただ早苗と、よろしくーと、軽々しく握手を交わしただけ。

 慌てて正座をした。

 

「……諏訪子さん。神奈子さん。早苗。……月見さんも」

 

 このまま雰囲気で流しては絶対にいけないと思って、柄にもなく、背筋をぴんと伸ばして。

 額を畳に押しつけるくらいに、深く深く、頭を下げた。

 

「――これから、お世話になります!」

 

 いつしか蝉が鳴かなくなった、夏の終わり。

 いずれやってくるであろう実りの秋は――きっと志弦の心にも、かけがえのないなにかを、実らせてくれるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――志弦ー、ちょっといいー?」

「あいあい。どったの早苗ー」

「うん、ちょっと。……持ってきた荷物の整理、まだ掛かりそう? 少しだけでいいから、巫女服を着てみてほしいんだけど」

「……巫女服」

「うん。今あるのでサイズが合わなかったら、新しくこしらえないといけないから。……あ、予備だから普通の巫女服だけど我慢してね」

「……いや、逆に私はそういうのでいいよ。早苗のみたいな、ヒラヒラでお肌見えまくりなやつはちょっと……」

「えー? かわいいと思うんだけどなあこれ……。はい、じゃあちょっと上脱いでー」

「はいはいー」

「……むー。志弦って背高いし、胸も結構大きいよね。いいなあスタイルよくて……」

「あっはは、こんなとこばっか女っぽくてもねー。肝心の中身がダメダメなのですよ」

「そんなことないと思うけど……ん?」

「んー?」

「これって……お守り?」

「あー、そう。こうやって首から下げといた方が、いつも持ち歩けていいと思って」

「へー……手作りのお守りだね」

「ばっちゃんのねー。私、昔は霊障? とかいうのが結構ひどかったから。中身はお札の切れ端ですぜー」

「お札……」

「やはり巫女さんとしては、興味ある感じかね?」

「うん……ちょっぴりね」

「中、見てみる? 大したもんじゃないけど」

「え。でも、お守りでしょ?」

「もーまんたいもーまんたい。お札の切れ端を、なくさないように巾着に入れてるってだけだから。……ほい」

「あ、ほんとだ……。ボロボロだね。だいぶ古いお札みたい……」

「いつ買ったやつなのかは、じっちゃんもばっちゃんも知らなかったなー。ウチの家を代々守ってくれてたありがたーいやつだとかなんとか」

「……」

「どったの?」

「……たぶんこれ、買ったお札なんかじゃないと思う」

「うん?」

「今はもう力がなくなっちゃってるけど、相当強い術が掛かってたみたい。こんなの売り物じゃありえないよ」

「え? ……もしかしてマジモン?」

「こんな切れ端でも、すごい力の……残滓っていうのかな。そういうのを感じるから、志弦の家を代々守ってくれてたってのもあながち……」

「……うへー、実は結構とんでもないやつだった感じか」

「ウチの神社でも、ここまでのやつを作ろうと思ったら……神奈子様と諏訪子様の御力をたくさん借りて、何日も何日も祈祷を重ねないといけないかな」

「はー……売り物じゃないってことは、誰かが手作りしたってことだよねえ」

「そうだと思う。きっとこれを作った人は、志弦のご先祖様を、すごく大事に想ってくれてたんだろうね。……志弦のことも、きっと守ってくれてたんじゃないかな」

「……そっかー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第78話 「フラワーマスターは友達に優しい」

 

 

 

 

 

 この幻想郷は、呆れるほど平和な世界である。

 それは、敢えて裏を返して意地の悪い言い方をすれば、平凡ということでもある。年に一回ほどの頻度で発生する異変を除いて、そうそう大きな事件もなく日々は緩やかに過ぎていく。もちろん平和であることは大変結構だけれど、一方で月見のように、無造作に過ぎゆく平々凡々な毎日を忌避している妖怪というのは決して少なくない。

 存在の比重が精神に偏る妖怪からすれば、心の渇きは命の渇き、すなわち退屈こそが最大の敵である。だから月見も含め多くの妖怪たちが、常日頃から己のセンサーを最大感度にして、面白い事件やらなにやらを探し回っている。

 たとえば外来人によって外の新しい文化が持ち込まれれば、すぐさま幻想郷中で一世を風靡するように。

 守矢神社の第二の巫女となった志弦が山中の有名人となるのは、まあ、当然というものだったのだろう。

 

「なかなか人気者みたいじゃないか、志弦」

「いやー、ただ珍しいってだけっすよ。客寄せパンダみたいなもんでしょ」

 

 水月苑の縁側でごろんと大の字な志弦が、苦笑いな声でそう言った。

 自由奔放なファッション文化が根付く幻想郷ではむしろ珍しい、小袖に袴の伝統的な巫女服を着ている。志弦の幻想郷デビューを祝して、霖之助が一手に製作した特注品だと聞いている。袴が濃い青色をしているのは、博麗ではなく守矢の巫女であることを示すためだろう。当然、腋は出ていない。

 かわいい服は苦手らしい。特に早苗や霊夢が普段から着ている、肩やらなにやらを惜しげもなく晒すようなものは。

 

「なんか毎日みたいに天狗さんの取材が来てさー。マスコミに追い回される芸能人の気持ちが、ちょっとはわかる気がするなー」

 

 その横で月見が眺める『文々。新聞』には、今回も志弦をメインに据えた記事が載っている。八坂神奈子直々の修行の成果を発揮して、不浄霊をひとつ祓ってみせたとか――。

 元々、才能があったのだろう。神奈子と早苗を師として巫女の修行に励む中で、志弦はメキメキとその才覚を開花させていた。記事の通り小さな霊を祓う程度なら造作もなく、また飛行術も習得し、こうやって一人で水月苑を訪ねてくるようにもなった。もっともまだ、あまり高いところは飛べないようだけれど――どうあれ、彼女がほんの少し前までただの女子高生だったと言って、果たして何人が信じるだろう。

 それほどに志弦は、幻想郷での暮らしによく馴染んでいた。

 

「どうだい、こっちでの生活は」

「やー、向こうよりずっといいっすよ。なんてーか、気楽で。勉強もしなくていーし」

 

 早苗に連れられて、幻想郷のあちこちを見て回ったそうである。北は妖怪の山、南は迷いの竹林、東は博麗神社、西は無縁塚の近くまで。そうすれば当然、小袖と青い袴という典型的すぎて逆に目を引く巫女姿のお陰で、志弦の存在はあっという間に幻想郷中へ知れ渡る。

 この前、温泉に入りに来た客が言っていた。――俺はああいうのを待ってたんだよ。古き佳き伝統のっつーか。や、博麗の巫女や早苗ちゃんの恰好だってもちろんかわいいさ。だがな旦那、俺ぁ実を言うと、巫女さんがああやって腋だの素脚だのを軽々しく晒すのはいかがなもんかって思ってる。懐古主義ってやつかもしんねえけどさ、やっぱり人前で極力肌を出さない、淑やかであり、かつ慎ましやかな佇まいこそが神に仕える女ってもんだと思うわけよ。つまり志弦ちゃんは最高だね。本人がすげえ明るくて元気な子ってのも、ギャップ萌えってやつで一向に悪くねえ。あとさりげなく胸もある。小袖を下から押し上げるあの隠し切れないボリューム……たまらん。もしも退治されるんだったら、俺ぁああいう巫女さんに退治されてえって思う。なあ旦那。俺、これから守矢神社信仰するわ。

 まさに志弦は今、時の人というやつなのだった。

 

「それに……霊を祓ったり空飛んだり、マンガみたいなことやってる自分がすげー楽しいんです」

 

 志弦はため息をついた。その口元には、確かな笑みの形があって、

 

「やっぱり私、こっち選んで正解でした。ありがとーございます、月見さん。月見さんがいなかったら、向こうから荷物持ってこれなかったし……そもそも、無縁塚で死んでたかもしれないわけですし」

「大したことじゃあないさ」

 

 月見も笑みを返した。

 

「お前がここにいてよかったと思うのなら、私も嬉しいからね。それだけで充分だ」

「……おぉー不意打ち。私なんかトキめかせてもいいことないっすよー?」

「本心を言っただけだよ」

「いや、本心でそういうことをさらっと言っちゃう方が……でもまあ、月見さんらしいか」

 

 志弦が寝転がったまま、んいい、と上に大きく伸びをした。

 

「……にしても、随分と涼しくなったっすねー」

「そうだね」

 

 具体的には、こうやって縁側でひなたぼっこができるほどに。夜は少し肌寒いくらいだ。もう、秋の足音はすぐ耳元までやってきている。

 

「夏も終わりっすねー……」

「そうだねえ……」

 

 ぽかぽかと心地よい日和のせいで、少し眠い。このまま昼寝をしたら最高に気持ちよさそうだ。志弦はすでにまぶたを下ろし、大の字で脱力しきって、寝息のように穏やかな息をしている。

 月見も気がついた時には、まどろんでしまっていた。

 

「…………」

「…………」

 

 このまま寝てしまうのはどうかと思いつつも、どうも抗いきれない。ぽかぽかな陽射しも、どこかから聞こえる小鳥のさえずりも、のんびりと吹き抜けていく爽やかな風も、すべてが月見を夢の世界へと後押しする。まあ、ちょっとくらいなら、いいか。そんな悪魔のささやきが聞こえたのを最後に、月見の意識は風のない中で消えゆくロウソクの灯火みたいになって、途切れた。

 あまり時間は経っていなかったと思う。

 

「――ねえ」

 

 突然近くから声が聞こえて、月見はゆっくりとまぶたをあげた。目の前に少女が立っている。どこかで見覚えがあるような気がしたが、まだ半分まどろんでいる月見はそれが誰だったか思い出せない。

 小柄な少女だった。月見の胸元に、ちょうどおでこが来るくらいだろうか。赤いチェックのスカートが強烈に目を引く。色白な両手で差した日傘をくるくると回し、癖っ毛気味の緑の髪を風でなびかせながら、やたらご機嫌な笑顔で月見を見下ろしている。

 まだ名前が出てこない。

 少女が言った。

 

「ねえ。私とあなたって、友達じゃない」

 

 ちょっとずつ、眠気が抜けてくる。

 

「なのに、連絡してくれないなんてひどいと思うの」

 

 日傘。

 緑の髪。

 赤いチェックのスカート。

 喉元まで出かかっている。

 

「今日久し振りに家に戻ってみたら、向日葵たちが『銀の狐が来てた』って教えてくれて、それで慌てて調べたのよ? 畑まで来てたんだったら、書き置きくらい残してくれてもいいじゃない」

 

 向日葵。

 畑。

 思い出した。

 眠気が吹っ飛んだ。

 

「あー……」

 

 月見はそんな声をあげて、

 

「……久し振りだね、幽香」

 

 少女は、向日葵みたいににっこりと笑った。

 

「ええ。久し振りね、ねぼすけさん」

 

 それから彼女は大きく息を吸って、

 そこから三秒ほどタメて、

 

「――帰ってきてたんなら教えてよバカああああああああああっ!!」

 

 衝撃波が飛んできた。

 後ろにひっくり返るかと思った。

 キンキンとした耳鳴りに耐える月見の横で、志弦が「寝てないです教官!?」と変なことを言いながら飛び起きた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 だいたい、ぜんぶ向こうが悪いのだ。

 その当時、自分の二つ名である『フラワーマスター』といえば、端的にいって『恐ろしい妖怪』の代名詞みたいなものだった。縄張りに足を踏み入れる者があれば、人間妖怪問わず一切容赦をしない恐ろしい妖怪である――そんな噂が、どうやら幽香の与り知らぬところでまことしやかに囁かれているらしい。

 理不尽な話もあったもんだと思う。

 なにも幽香だって、やりたいと思って侵入者をいちいち叩きのめしているわけではない。自分で言うのもなんだけれど、妖怪の中では優しいというか、気性が穏やかな方ではあるはずだ。そうでなければ、花という可憐で繊細な生き物たちを愛せはしないから。

 だから悪いのは全部、幽香の縄張りで無礼を働く侵入者どもの方なのだ。

 幽香の縄張りは『太陽の畑』といい、わかりやすくいうところのお花畑である。幽香が最も愛する花である向日葵をはじめとして、季節の植物たちが至るところで風景を彩っている。緑の絨毯の中を伸びる細々とした歩道以外は、すべてが植物たちの領域だ。

 だからだろうか。太陽の畑を訪れる無法者どもは、どうも軽い気持ちでこう考えるらしい。

 一本くらい手折って持って帰ってもいいだろうとか。

 ちょっとくらい踏んづけても大丈夫だろうとか。

 実際、草花が荒らされたことも少なくはない。それは幽香にとって、真正面から顔に泥団子をぶつけられるようなものである。最大級の侮辱である。どうぞ叩きのめしてくださいと言っているようなものなのであり、だから幽香は実際に叩きのめしてやっているだけなのだ。

 先に喧嘩を売ってくるのは、いつも決まって向こうの方。

 なのにその結果が『フラワーマスターは恐ろしい妖怪だ』なんて、理不尽すぎて笑ってしまう。

 

「……はあ」

 

 太陽の畑の最奥にある我が家の窓際で、幽香は元気のないため息をつく。

 はじめは、むしろその方が都合がいいのではないかと思っていた。幽香自身が世から恐れられることで、畑に余所者が近寄らなくなり、結果として植物たちを守ることができるのではないかと。

 甘かった。

 そうやって幽香の名が強者として知れ渡ることで、かえって幽香を倒して名をあげようとする連中を呼び寄せることとなってしまった。

 そうすれば当然、緑の絨毯を越えて幽香の家までやってくる連中が増える。であれば必然、家の手前で海のように広がっている花――向日葵たちを目にする連中が増える。

 幽香が最も愛する花を目の当たりにした連中は、一様に眉をひそめて、吐き捨てた。

 

 ――なんだ、この薄気味悪い花は。

 

「……はあ」

 

 この頃人々から愛されていた植物といえば、梅、桜、萩など、枝に小振りでかわいらしい花を結ぶものたちだった。だから人の顔ほどもある大輪をひとつ咲かす向日葵は、どうも一般的な美的感覚からは外れていたらしい。それが見渡す限り一面に花を咲かせ、かつすべてが揃って太陽の方向を向いているとなれば、冗談抜きで物の怪かなにかに見えるのだそうだ。

 冒頭で述べた噂話には、実を言えば続きがある。

 ――フラワーマスターは、縄張りに足を踏み入れる者があれば、人間妖怪問わず一切容赦をしない恐ろしい妖怪である。そしてその縄張りでは、巨大で黄色い薄気味の悪い花が、所狭しとひしめいているという……。

 ひどい。

 ひどすぎる。

 あんなにかわいいのに。あんなにいい子なのに。

 

「……なんで、わかってもらえないのかなあ」

 

 お陰でこのところ、幽香はずっと元気がなかった。植物たちの世話をするとき以外は、ずっと家に閉じこもってため息ばかりをついている。寝不足気味だし、食事だって満足に喉を通らない。

 鏡を見たら、隈のひとつでもできているかもしれない。

 

「はあ……」

 

 このすすり泣くようなため息は、今日でもう何度目になるのだろう。

 幽香は首を振って立ち上がった。このままではいけないと思った。家に閉じこもって、毎日ため息ばかりをついて、食事も睡眠も満足に摂らないで、その先に明るい未来があるなんて到底思えない。妖怪にとって、心の退廃は存在そのものの退廃だ。

 以前と比べて、力が上手く使えなくなってしまっているように思う。このままでは、花を貶す無礼者どもを追い払うことすらできなくなってしまう。

 いじけてばかりいないで、なんとかしなければならない。

 だからまずは、向日葵たちの世話をして気分転換をしようと思った。

 声が聞こえた。

 

「――……」

 

 それは、空気を振動させることで伝わってくる一般的な『声』ではなかった。『花を操る程度の能力』を持つ幽香だからこそ聞くことができる、植物たちの思念とでもいおうか。太陽の畑では幽香の力により植物のネットワークが形成させていて、なにかあったときはすぐ知らせが飛んでくるようになっている。

 誰か来た。誰か来たよ。

 そんな声だった。だから幽香はひどく顔をしかめ、舌打ちし、玄関へ向けて踵を返した。日傘を手に取り、肩慣らしにその場で振るう。鉄の塊を振り回したような、容赦なく空気を切り裂く音。

 悪くない。幽香は玄関を出て、植物たちが教えてくれる方向を頼りに、ゆっくりと歩を進めた。

 一歩足を動かすたびに、ふつふつと腸が煮えていく。植物たちが『誰か』と表現したということは、やってきたのは幽香の知人ではない。であれば当然、興味本位で、もしくは幽香を倒し名を上げるためにやってきた侵入者に決まっている。

 そして侵入者であるなら、幽香の花たちを見てなにをするのかもまた決まっている。

 今までがずっとそうだったのだから。だから今回の侵入者も、一面に広がる向日葵たちを見て、薄気味悪い、噂通りだと吐き捨てるだろう。

 感謝しなければなるまい。

 感情のまま敵を叩き潰す。ストレスを発散する方法としては、この上ないだろうから。

 

 やがて幽香が見つけたのは、綺麗な毛並みをした銀の狐だった。

 家からそう離れた場所ではなかった。その狐は幽香に背を向け、あたり一面を埋め尽くす黄色い海を微動だにせず眺めていた。向日葵たちが、見られてる、見られてるー、と声をあげている。

 やはり、見覚えのある姿ではなかった。狐の知り合いなんて幽香にはいない。上背と体格から判断するに、男の狐であるようだ。よほど目の前の光景に気を取られているのか、背後の幽香に気づいた素振りはない。

 少し、声を掛けるかどうか悩んだ。事実いままでの侵入者には、「なにをしているの?」くらいの最低限の問答はしてきた幽香だった。けれど声を掛けた結果、この男の口から出てくるのが向日葵たちを貶す言葉かもしれないと気づき、首を振った。

 なにも言わせず叩き潰してしまえばいい。

 挨拶なんて要らない。ゆっくりと日傘を持ち上げる。一瞬で妖力を全開放し、逃げる暇も与えず距離を詰め、一撃必殺で叩き潰す――『恐ろしい妖怪』の自分なら造作もないことだ。

 謝りはしない。『恐ろしい妖怪』がいるとわかってズカズカと足を踏み入れてくる、この狐が悪いのだから。どうしようもなく虫の居所が悪い今日このときの幽香と出会ってしまった、この狐が不運なのだから。

 息を吸った。

 数を数えた。

 三、

 二、

 一、

 

「綺麗な花だね」

「――はえ?」

 

 そして幽香は、頭の中が真っ白になった。

 今のは一体誰の声かという、そんな馬鹿げたところから考え始めなければならなかった。

 聞こえた声と、聞こえた言葉の二つが結びつかなかったせいだ。男の声が聞こえたのはいいとして、向日葵たちを褒めてくれる言葉が聞こえたのは一体どういうことだろう。

 男の人といえば、ちょうど目の前に。

 まさか、

 

「初めて見る花だけど、これはすごい。眩しくて、まるで太陽でも見てるみたいだ」

 

 また、男の声だった。褒められた、褒められたー、と向日葵たちが嬉しそうにはしゃぐ。それを聞いてようやく、幽香の頭の理解が追いついてきた。

 追いついてきたからこそ、余計に混乱した。

 

「え? え? ……えっ?」

 

 だって、もしも幽香の認識が正しいなら、目の前の狐が向日葵たちを褒めてくれたことになる。幽香が最も愛する花を。今まで誰しもが、薄気味悪いと言って忌み嫌った花を。

 それは、つまり、どういうことを意味するのか。

 男がこちらを振り返った。たったそれだけのことなのに幽香はひどくびっくりしてしまって、「ひぇ」とかよわい声が口からこぼれた。

 自分の胸元あたりまでしかない幽香を見下ろして、男が意外そうな顔をしている。なにか言わなきゃと幽香は思うが、そう思えば思うほど頭がこんがらがってさっぱり言葉が出てこない。混乱は焦燥を生み、焦燥は瞬く間に顔全体を覆う熱となる。心の中にいる自分が、混乱のあまり両目をぐるぐる巻きにして、両手をあちこちに振り乱して、あわわわわわとそのへんを走り回っている。心の中がこの有様なのだから、ひょっとしたら今の自分は湯気のひとつでもあげているかもしれない。

 男が笑みを作った。

 

「はじめまして」

 

 幽香は完全に勢いだけで答えた。

 

「は……は、はじめましてぇっ!」

 

 声が見事に裏返ってしまって、幽香はちょっとしにたくなった。

 燃えあがる恥ずかしさで逆に冷静になれたのが、なんとも皮肉だった。

 

「私は月見。ただのしがない狐だよ」

「か、風見幽香、です」

 

 自己紹介をしながら、深呼吸をする。とにかく落ち着かなければならない。幽香は『恐ろしい妖怪』と誤解されるのは嫌いだが、強大な大妖怪として名が知られること自体は決して吝かではないのだ。そして自分がある程度高名な妖怪となったからこそ、その事実に恥じないよう、瀟洒で大人びた『くーるびゅーてぃー』である必要があるのだ。

 目の前の狐が、幽香の花に無礼を働く『悪いやつ』でないのは明らかだった。ならば幽香も、向日葵を褒めてくれた彼の慧眼に見合うだけの態度を見せなければならない。それがオトナの女性というやつだ。

 咳払い、

 

「……ようこそ、太陽の畑へ。狐が来るなんて珍しいわね」

 

 なんとか自然に言えた。男――月見は笑みを崩さぬまま、

 

「噂はかねがね。見たこともない花が一面に咲き乱れる畑の主で、侵入者には容赦なく鉄槌を下すとか」

「あ、あれは、みんながこの花たちを薄気味悪いって言うからよ。……綺麗だって言ってくれたあなたには、なにもしないわ。当然でしょう?」

「そうなのか」

 

 意外そうな口振りだった。

 幽香の胸がチクリと痛んだ。そうなのかって、そうに決まってるじゃないか。まさかこの狐も、他のやつらと同じで噂を鵜呑みにしているのだろうか。幽香をただの恐ろしい妖怪だと思っているのだろうか。一度向日葵を褒めてもらえた分だけ、余計にショックだった。ひどい、なんで男の人はこんなのばっかり――と唇を噛んでいたら、

 

「日傘振り上げてるから、てっきりそれで私を叩き潰すつもりだったのかと」

「……あ」

 

 訂正。他でもない自分のせいでした。

 慌てて日傘を下ろして、

 

「……ご、ごめんなさい。その、てっきりまた、向日葵たちの悪口を言われると思って」

 

 ああ、と男は納得した素振りで、

 

「薄気味悪い花だとか聞いてたけど、噂は当てにならないものだね。こんなに綺麗なのに」

「ひぅ」

 

 あっいけない、と幽香は思う。ものすごく嬉しい。今まで散々悪口ばかりを言われてきた反動なのか、まるで自分が褒められているみたいにめちゃくちゃ嬉しい。やっぱり向日葵はかわいいのだ。わかってくれる人はわかってくれるのだ。今まで向日葵たちに注いできた幽香の愛は、なにも間違ってなんかいなかったのだ。

 いつしか、当初の混乱と緊張は空の彼方だった。

 

「ひまわりっていうんだね、この花」

「そうなの!」

 

 幽香はいきいきと身を乗り出して、

 

「私が、一番好きな花なのよ」

「この景色を見ればわかるよ。お前がどれだけこの花を大切にしてるかがよくわかる」

「そ、そう?」

「そうだとも」

 

 ああ、私いま、変にニヤついたりしてないかしら。

 

「あ、あなたはなにしにここへ?」

「見たこともない花が見られるって聞いてね、どんなものかと思って。……ああ、迷惑は掛けないよ。すぐ帰るから」

「ぇ……」

 

 捨てられる子犬みたいな声が出た。

 

「か、帰っちゃうの?」

 

 せっかく、向日葵の素晴らしさをわかってくれる人と巡り会えたのに。

 もしかして、長居するような場所ではないと見切りをつけられてしまったのだろうか。確かに花畑以外に、他の魅力がある場所ではないけれど。でも、ようやく出会えた仲良くなれるかもしれない人にそんなことを思われたのだとしたら、とても悲しい。

 月見は不思議そうに、

 

「あまり居座られても迷惑じゃないかと思ったんだけど」

「あ……そ、そういうこと」

 

 なるほど、どうやら気を遣われただけだったらしい。幽香はほっと胸を撫で下ろし、

 

「それは、私の花をいじめるやつらだけよ。あなたなら……別に、迷惑だとは思わないわ」

「そうか?」

「そ、そうよ。だから、ほら、ね? 別に、もうちょっと見てったりしても、私はなにもしないわよ? 怖くないわよ?」

 

 今だから白状しよう、自分が育てた花のかわいさが誰にも理解されなくて、幽香はとても寂しかった。だから、ようやく巡り会えた向日葵を褒めてくれた人と、このままさよならしてしまうのはとても嫌だった。もっとここにいてほしい。ここにいて、いろいろと話を聞かせてほしい。いろいろと話を聞いてほしい。一緒に、花の素晴らしさを理解し合いたい。

 そう切実に思ってはいるのだが、大妖怪としてのメンツが邪魔をして、

 

「お、お茶とお菓子もあるわよ? 美味しいわよ? 自信作よ?」

 

 もう少しマシな誘い文句があっただろうに。

 たぶん、ある程度見透かされてしまっていたのだと思う。やがて月見が浮かべた微笑みは、完全に愛くるしい小動物かなにかを眺めるそれだった。

 

「じゃあせっかくだし、花についていろいろ教えてもらおうかな」

「ま、任せて頂戴っ!」

 

 けれど月見の返事ですっかり舞い上がってしまった幽香が、そこまで気づけるはずもなく、

 

「そ、それじゃあ私の家まで案内するわね! ついてきてっ!」

「ああ」

 

 くるりと踊るように踵を返し、幽香は早速歩き出す。

 隠しきれない喜びを顔中で表現し、オマケに鼻歌まで口ずさんでいる『恐ろしい妖怪』の後ろ姿に、向日葵たちがくすくすとおかしそうな声をあげていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 要するに、『記念すべき友達第一号』というやつだ。

 風見幽香という少女は、友達という概念をかなりオーバーに捉えているフシがある。神聖視とまではいかないにしても、それと遜色ないほど崇高な存在として認識しているはずである。なにかあった時に連絡を取り合うのは当たり前、困った時に助け合うのは当然のこと、常日頃から協力し合うのは一般常識、家を訪ねて親睦を深め合うのは自然の真理、裏切りや隠し事など無礼千万。きっとそう考えているに違いない。

 原因は定かでないが、ともかく、風見幽香は超絶的な友達想いなのだ。

 あれから何百年と経った今でも、それはまったく変わっていなかった。

 

「……まったく、連絡の不徹底はもうこれっきりにしてよ? 次からは、せめて書き置きだけでもしていくこと。友達なんだから、だんまりなんてあんまりじゃない」

「悪かったよ。本当に反省してる」

 

 さっきからずっと、『友達』の部分を何回も何回も強調して、月見の耳にタコでも作る気なのかというほどしつこくぶーたれている。幽香にとって、友達から大切な連絡をもらえなかったというのはとてもショックな出来事なのである。それが、記念すべき友達第一号な月見ならなおさらだ。

 月見は苦笑、

 

「次からはちゃんと連絡するよ。だからほら、せっかく再会したんだし、もっと楽しい話をしないかい」

「話を逸らさないでっ」

 

 場所は縁側から茶の間へ移り、テーブルを志弦を含めた三人で囲んでいる。幽香は月見の向かい側で行儀よく正座し、人差し指を立てて、だいたいあなたはねえとどこぞの閻魔様みたいにぷんすかしていた。志弦がニタニタととても楽しそうな顔をして、月見と幽香を交互に観察している。月見は幽香にお茶を差し出す。

 

「ほら、お茶でも飲んで落ち着いて」

「……いただくわ」

「志弦もどうぞ」

「どうもっすー」

 

 夏の厳しさもすっかり和らぎ、熱いお茶が美味しい季節になってきている。

 ずっと喋り続けて喉が渇いていたのか、湯呑みを受け取った幽香は上品な手つきでそっと一口、

 

「あ、幽香」

「ひんっ!?」

「熱いから気をつけ――てほしかったなあ」

 

 幽香が涙目で舌の先っちょをふーふーしている。淹れたてをいきなり飲もうとすれば誰だってそうなる。ため息をつく月見の横で、志弦が顔を俯けてぷるぷる笑いをこらえていた。

 静寂、

 

「……コホン」

 

 なんとか火傷の痛みを耐えきり、涙目を素早く拭った幽香は咳払い、

 

「ま、まあ、そうね。せっかく再会したんだし、今はそっちを喜ぶこととしましょう」

 

 風見幽香について補足しておこう。彼女は友達想いで心優しい少女だが、一方で大妖怪たる己の力に、或いはレミリア以上の強い誇りを持ってもいる。大妖怪の誉れに恥じぬよう、クールビューティーでカリスマあふれる自分を目指しているようである。なので今みたいな恥ずかしい失敗をすると、素知らぬ顔でなかったことにしようとする癖がある。

 見て見ぬふりをしろというのは難しい話かもしれない。だが悪戯心で揚げ足取りや子ども扱いなどしようものなら、幽香は瞬く間にヒステリーを起こして暴走し、ひどい時は精神退行をも引き起こす。俯いて笑いをこらえるだけだった志弦の選択は大変正しいのだ。

 幽香がクールに微笑んだ。

 

「改めて、久し振りね。変わってないようで安心したわ」

「お前もね」

「随分と派手なお屋敷に住んでるのね。こんな贅沢する癖なんてあなたにあったかしら?」

「まあ、いろいろあってね。温泉もあるから、入りたい時は好きに入っていいよ」

「あら、ありがとう。そのうちね」

 

 それから、お茶をふーふー冷ましている志弦を横目で見て、

 

「で、こっちの人間は? 名前はさっき聞いたけど、こんな巫女なんていたかしら」

「あー。私はまあ、幻想入り? とかいうのをしたばっかで、最近になって守矢神社で暮らし始めたのです。だから巫女さん。まだ見習いだけどねー」

「ふうん……」

「月見さんには、いろいろお世話になっちゃって……いや、今でもお世話になりまくりかな。ともかく、仲良くさせていただいてますです」

 

 幽香は呆れたように笑った。

 

「人間を当たり前みたいに家に入れる妖怪なんて、あなたくらいでしょうね」

 

 ま、あなたらしくていいと思うけど。そうぼそっと呟いて、

 

「月見と仲がいいなら、これからも会うことになるでしょう。一応、よろしくね」

「あいあい。よろしくねー、幽香ちゃん」

 

 幽香の体にヒビが入った。気がした。

 五秒、

 

「……ゆ、幽香ちゃん?」

「え? ……中学生くらいだよね?」

「それは見た目の話でしょうがっ! 私はあなたなんかの百倍くらい長生きしてるんだから、いくらなんでもちゃん付けはないでしょ!?」

「そかな。かわいくていいと思うけど」

 

 確認するが、幽香は子ども扱いされるのが大嫌いである。

 

「ふ、ふふふ。確か、志弦とかいったわよね? 人間のクセして私に喧嘩売るなんていい度胸じゃない」

「いやいや、私はただ本心を」

「一発っ! 一発殴らせなさいっ!! 今すぐ!!」

「あはは。冗談だよ、幽香」

「むぎぎ!」

 

 おちょくられた幽香が顔を赤くしてぷるぷる震えている。傍で見ている月見は気が気でない。いくら幻想入りして日が浅いとはいえ、人間が妖怪を――しかも幻想郷最強格の大妖怪を――からかうなど、怖いもの知らずを通り越して命知らずの領域である。

 まあ、志弦らしいといえば、志弦らしいけれど。

 

「ほら幽香、落ち着いて。大妖怪たる者、いつも上品でお淑やかに、だろう?」

「ぐむっ……そ、そうね。時には寛大な心で見逃してあげるのも、大妖怪の貫禄ってやつよね」

 

 あっさり丸め込まれるちょろい大妖怪が深呼吸をしているうちに、月見は志弦を半目で睨んで釘を刺した。志弦は舌の先をちょろっと出して、反省しているのかいないのか、てへへと呑気に笑っていた。

 

「ところで月見。このお屋敷の庭って、誰がデザインしたの?」

 

 いくらか冷静を取り戻した幽香が、だしぬけにそんなことを訊いてきた。自分が愛する植物の話をして、上手く気持ちを落ち着かせたいのかもしれない。植物の世話に詳しい幽香は、その延長上で庭仕事にも精通している。

 ただ、妖夢渾身の力作を眺める眼差しは、少し不満そうだった。

 

「妖夢だけど」

「……なるほどね。まあ、あの子は日本庭園一筋だし、仕方ないか」

「なにかご不満でも?」

 

 幽香はテーブルに両手を打って叫んだ。

 

「花々の彩りが欠けてるのよっ! もっと赤とか黄色とか白とかピンクとか! 向日葵なんて一本もないじゃないっ!」

「お前は日本庭園をどうしたいんだ?」

「お花畑を作りましょっ!」

 

 そういう意味ではなく。

 

「でも日本庭園だし、あんま鮮やかにしない方がいいんじゃない? 向日葵も合わないっしょ」

「そんなのやってみなきゃわからないわっ!」

 

 志弦にそう叫び返して、幽香はすでに立ち上がっていた。フラワーマスターの頭の中では、もう水月苑の庭に花壇を作るのは決定事項である。

 

「早速やりましょっ! きっと素敵なお庭になるわよ!」

「……そうだねえ」

 

 月見は悩む。妖夢曰く、日本庭園は石ひとつの位置から庭の先に広がる景色まで、すべてが意味を為して調和しているものであるという。素人の手に負えるものではありません、手入れは私にお任せください、と何度も口を酸っぱくして言っている。勝手に花壇なぞ作ってしまっては、月見にはわからない調和が崩れてしまうのではないか。

 けれど幽香の瞳はあふれる希望と期待できらきら輝いていて、月見が頷いてくれるのを欠片も疑っていない顔で、断られた瞬間に絶望と失意のドン底まで墜落していきそうで、そう思うと月見はどうも断りきれず、

 

「……じゃあ、隅の空いてるところを使ってくれ。ただし、あまり派手になりすぎないようにね」

「さっすが、話がわかるわねっ」

 

 あたり一面に幸せのマイナスイオンを振りまきながら、幽香が小走りで駆け出した。茶の間から飛び出す寸前で振り返り、

 

「道具はどこにあるのかしら?」

「私が持っていくよ。庭を歩いて、どこに作るか考えてるといい」

「悪いわねっ」

 

 ぱたぱたとかわいらしい足音が、玄関の方へ遠ざかっていく。

 それが聞こえなくなったところで、志弦がぽつりと言った。

 

「……やっぱり、幽香ちゃんでいい気がするけどなー」

 

 月見はなにも言わず肩を竦めて、よっこらせと重い腰を持ち上げた。

 ここらへんがいいかしらー、あっこっちもいいわね! とそんな元気な声が庭から飛んでくる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そろそろ修行の時間だという志弦を途中まで見送って、月見が水月苑まで戻ってくると、庭の一角で幽香がスコップを振り回している。たたみ一畳分ほどのスペースがごっそり掘り返されていて、そのあたりから取ってきたと思われる石で囲いが築かれている。その隅で、抜かれた芝が哀愁漂う小さな山と化している。

 月見は問うた。

 

「調子はどうだい」

 

 幽香は答えた。

 

「ぼちぼちね!」

 

 ざくざくと、スコップで土を耕す音が響いている。

 

「なにか手伝おうか?」

「あなたは黙って待ってればいいのっ」

 

 幽香は、とても楽しそうだった。無骨な軍手に指を通し、頬に土をつけて、庭仕事をする女の子の顔とは到底思えない。大好きなお菓子の掴み取りをしているような。犬や猫をかわいがっているような。そんなきらきらした瞳でスコップを振り回し、どんどん土を掘り返していく。

 風見幽香という少女は、本当に植物が好きだった。初めて出会い、家に招かれたときも、彼女は月見が圧倒されるくらいの勢いで植物の素晴らしさを語りまくっていた。今もまったく変わっていない。むしろ、初めて出会ったときよりも若返っているような気さえする。

 変わらない友人の姿は、いつだって月見を安心させてくれる。

 

「植えてほしいお花とかあるー?」

「任せるよ。思い思いにやってくれ」

「そう? じゃあ好きにやっちゃうわよー」

 

 月見は縁側の板敷きに座り、元気な幽香の姿を視界の隅に入れながら、中空を眺めて考え事を始める。そう大した内容ではない。幽香が花壇を完成させたあとはどうするか、夕食はなににするか、明日の朝食はどうするか、明日はなにをして過ごすか、幽香はどんな花を植えるのだろうか、昼ごはんはなににするか、食材はどれほど残っていたか、妖夢に怒られないだろうか、明日は晴れるだろうか。幽香は花壇作りにすっかり没頭し、月見に話しかけてくる様子はない。蝉はもう鳴かなくなり、小鳥は今でも元気にさえずっており、ざくざくとスコップの音が混じっている。

 幽香が再び口を開いたのは、次第に考えることもなくなってきた月見が、本を取ってこようかと腰を上げかけたときだった。

 

「……ねえ、月見」

「ん?」

 

 幽香は振り返りもせず、

 

「あなたはいつ、また外の世界に出て行くのかしら?」

 

 その問い掛けを、月見は少々意外だと思った。いつ、この幻想郷から出て行くのか。それを面と向かって尋ねてきたのは、幽香が初めてだった気がした。

 

「出て行かない、ずっとここにいるってのは……まあありえないでしょうけど」

「そうだね。……でも、お前からそれを訊かれるとは思ってなかったな。紫にも訊かれないようなことなのに」

「それは違うわよ」

 

 幽香が作業の手を止めて、振り返った。少し、咎めるような眼差しだった。

 

「訊かないんじゃなくて、訊けないんだと私は思うわ。――怖くて」

「……」

 

 月見は体を反らし、後ろに両手をついた姿勢で空を見上げた。鳶が飛んでいる。緩く息をついてから、答えた。

 

「……そのあたりは、適当だよ」

「……」

「三年か五年か。十年以上かもしれないし、案外、来年かもね。……ともかく、また行きたくなったときに行くつもりだよ」

「外の世界が、楽しいから?」

 

 月見は幽香を見て苦笑した。幽香はもう月見を見ておらず、ぼんやりとした手つきで、花壇にスコップを突き立てていた。

 

「そもそも私は、どこかの土地に五年以上留まった記憶がない。そういうタチなのかもね。それに、私だけに限った話でもないけど、向こうで生まれた妖怪だからね。生まれ故郷に帰るのは、むしろ当然のことだろう」

「……」

「今はまだこっちにいたい気持ちが強いし、ある程度時間を空けた方が、また向こうに行ったときの刺激が増えていいとも思ってる。でも――」

 

 吐息、

 

「――いつかまた、あの世界が恋しくなる時が来る。そのときは間違いなく。私はまた、この幻想郷を去るのだろうね」

 

 世界中を歩いてきた。住む場所を定めず、北へ歩き南へ進み、東へ行き西へ向かい、ずっとそうやって生きてきた。そして、これからもそうやって生きていくのだろうと思う。

 幽香はしばらく答えなかった。

 後ろを向いているため表情は見えないが、その背中は普段よりも小さく見えた。やがてポツリと、

 

「……私はあなたのことを大切な友達だと思ってるから、正直、ずっとここにいたらいいのにっては思うわ。でも、出て行くとしても私はなにも言わない。そういう生き方、わからないわけでもないしね」

 

 四季の彩りに合わせ、その季節の花々を求め、幻想郷中をほっつき歩いて生きている。幽香は恐らく、この世の妖怪の中で最も月見に近い生き方をしている。

 だから幽香は、月見の生き方を否定はしない。

 けれど、

 

「無理やり出て行くのは、もうやめにしなさいよ」

 

 500年ほど前――かつて自分が幻想郷から出て行ったときのことを言っているのだろうと、月見は思う。

 

「……ちゃんと話をして、納得してもらったはずだけど」

「んなわけないでしょうがバカ。ほんとに納得してもらえたと思ってるの? あなたが話をしたとき、みんなそういう顔してた? 諦めたような顔してなかった?」

 

 月見はなにも言えない。

 

「あれじゃあ無理やり出て行ったも同じよ。だから、次出て行く時は、ちゃんと(・・・・)そのあたり折り合いつけてからにしなさい」

「……それはまた、難題だね」

 

 特に紫は、月見がどう言葉を尽くしたとしても、きちんと納得して頷いてくれることはないように思う。

 

「できないんだったら諦めてここに腰を据えなさい。あらゆるものは常に変化していく。もう、あなたが今まで通りの生き方をできる時代でも世界でもないのよ」

「……まったく、耳が痛いね」

「そうでしょう。いっそすっぱり諦めたらどう? いいじゃない、あなたを好きでいてくれる人が、ここにはたくさんいるんだもの」

 

 そう言われて誰の顔も浮かばないほど、月見は鈍感ではない。事実として好きだと言ってくれる人がいる。熱心に家事を手伝ってくれる人がいる。何度も差し入れを持ってきてくれる人がいる。毎日のように会いに来てくれる人がいる。

 たった半年。幻想郷に戻ってきてまだたった半年だけれど、月見の周りにはもう随分とたくさんの笑顔が増えた。

 

「ちなみにその中に、お前はいるのかな」

 

 ちょっとした悪戯をするつもりでそう問うたら、幽香の肩がピクリと震えて、結構な間があって、

 

「……当たり前でしょう。友達なんだから」

 

 あいもかわらず後ろ向きで表情は見えないけれど、それは気恥ずかしそうにしぼんだ声だった。

 月見は笑った。

 

「ありがとう」

「……ふ、ふんだっ。礼を言ったからには、どうするのか本気で考えなさいよ」

「ああ」

「じゃあ私はこっちに集中するから。もう話しかけないでよ」

 

 月見は頷き、口を閉ざした。後ろにごろんと引っくり返って、頭の裏で両手を組んで、鳶が舞う青空を一人で見上げる。

 幽香の言う通りなのかもしれない。

 今はまだ大丈夫でも、いつか必ず、外の世界に戻りたいと思うときが来る。それは、他でもない自分自身のことだから、間違いないと自信をもって断言できる。

 けれどもう、月見が今まで通りの生き方をできる時代でも世界でもない。

 すべてに逆らって、また外の世界へ出て行くのか。

 すべてを受け入れて、この世界で生き続けるのか。

 

「~♪ ~♪」

 

 幽香のご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。秋らしい涼しさを孕んだ風が月見の頬を撫で、庭の木々たちがさわさわとささやくような声をあげる。

 鳶が鳴いた。

 空を覆う無数の青と白は、いつもより少し、高く見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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閑話 「重なるアイツ」

 

 

 

 

 

「――うわあああああすげええええええええっ!! いやーかぐや姫って月に帰ったんじゃなかったんだね、ってかそもそも本当に実在したんだね!! ヤバいよヤバいよスペクタクルだようっひゃー超絶ウルトラべっぴんさんんんんんんんん!! 私は女子力五のゴミですよーアハハハハハハハハ!!」

「「……」」

 

 一人でラリっている志弦を、早苗と輝夜は能面みたいな顔で見ていた。

 

 

 

 早苗が志弦に幻想郷の主な土地を案内して回ったのは先日のことだが、本来であれば、その日のうちに永遠亭の訪問も終わっているはずだった。しかし永遠亭は迷いの竹林の奥に立つ診療所であり、迷いの竹林といえば、幻想郷でも指折りの危険地帯として知られる場所である。きちんと道案内をつけなければ、永遠亭に辿り着くのはもちろん、生きて外へ出ることすら難しい大自然の迷宮だ。いくら早苗が優れた力を持つ巫女であっても、そういった場所でわざわざ家族(しづる)を危険に晒す理由などないわけで。

 早い話が、先日は道案内をつかまえることができなかったため、已むなく竹林の入口で引き返したのだ。主に医療の分野で幻想郷から欠かすことのできない施設にもかかわらず、交通の便が最悪というのはどうなのだろうと早苗は常々疑問に思っている。蓬莱山輝夜も、竹林のせいでギンが遊びに来てくれないとか嘆くくらいなら、永遠亭ごと引っ越してしまえばいいのに。そうすれば早苗たちも行き来がしやすくなって一石二鳥なのに。なにか理由があるのだろうか。

 仕切り直しの日は別にいつでもよかった。今すぐ顔を見せに行かなければならないほど重要な相手でもないので、今度近くを通ったときでいいかと早苗は軽く考えていた。しかし、そこで志弦が予想以上の勢いで食い下がった。

 彼女は声を大にして訴えた。――だって早苗、永遠亭にはかぐや姫がいるって言ってたじゃん! かぐや姫っていったら超有名人じゃん! わたしゃあ早く会ってみたいよ! ――好奇心が旺盛で行動を躊躇わないところは、とても志弦らしいと早苗は思う。

 今日は幸い、竹林の入口付近で筍掘りをしていた名もなきイナバをつかまえることができた。彼女に道案内をお願いし、遂に志弦は、念願のかぐや姫とのご対面を果たすことができたのだ。

 その結果がコレである。

 

「つーかさー、幻想郷の女って全体的にお顔のレベル高いよねー。竹林案内してくれた兎っ子はありゃー将来相当綺麗になるだろうし、鈴仙もヤバい。あんなん、町中歩いたら十人中十人が振り返るよ。そんでトドメにかぐや姫様の、私の語彙力じゃ到底表現もできない美しさですよ。あー、私って真ん中くらいの顔は持ってるだろって思ってたけど、こりゃーいよいよ自信なくすなー……」

 

 さっきまでハイテンションで叫んでいたはずの志弦が、今は広間の壁際で体育座りをしている。ふへひひひと変な笑いで肩を震わせている。どのみちラリっている。

 予想はしていた。なにせ、相手は日本人なら知らぬ者などいないかぐや姫なのだ。そんな相手と対面して、まさか志弦が平静でいられようはずもない。早苗だって、初めて輝夜と出会ったときはかなり興奮してしまった。しかしそれでも、志弦のようにラリったりはしなかったはずだが。

 輝夜が広間にやってきても声ひとつあげず、愛想よく自己紹介をしたところまでは完璧だった。しかしそのあと、輝夜が名乗ったところで遂に志弦の我慢が限界を迎え、火山が噴火するようにテンションは急上昇し、その反動で今は壁際で体育座りなのだった。

 輝夜が苦笑いをしながら、ぽそりと言った。

 

「なるほどねえ。これは確かに、『あいつ』の血って感じがするわ……」

「……?」

 

 それがあまりにも小さな声だったので、早苗は聞き取れなかった。確かめようかと思ったが、輝夜はもう志弦に向けて手招きをしていて、

 

「ほらちょっと、ひとりでラリってなんかないでこっち戻ってきなさいな。まだ話が途中でしょ」

「はっ。そ、そーでしたそーでした。いやーすみません私ったら、かぐや姫様があんまりべっぴんさんなもんでつい」

 

 正気に返った志弦が、ずりずりと品のない四つん這いで広間の中心まで戻ってくる。空席になっていた座布団へ座り直し、心なしかいつもより背筋を伸ばして、

 

「えーっと、改めまして神古志弦です。この間幻想入りして、なんだかんだあってここで暮らしていくことになりました。今は守矢神社の見習い巫女やってます」

「こっちみたいなヒラヒラの巫女服じゃないのね」

 

 輝夜が早苗と志弦を見比べる。この日も志弦は、袴に小袖の伝統の巫女服を着ている。腋のない巫女服は好みに合わないらしく、好きで着ている立場としては少々寂しい早苗である。

 

「あー、これはちょっと私にはかわいすぎるんで……」

「ふーん……」

 

 輝夜が品定めするような視線で志弦を凝視する。頭の先から正座した足の指先までじっくり観察し、鑑定士みたいな顔つきで黙って腕を組む。

 志弦が首を傾げる。

 

「……あの、なにか?」

「ああ、ごめんなさい。昔の知り合いに似てる気がしたの。これでも、長生きしてるから」

「あー、かぐや姫ですもんねー。平安? 奈良だっけ? とにかく千年以上っすよね」

「まあね」

「しかも物語の通りめちゃくちゃ美人だし……」

 

 そこで志弦はため息、

 

「誰だよ、当時でいう『美人』が今でも美人とは限らないとか言ったやつ。もー女としてやるせなくなるくらいなんですけど……」

 

 志弦がまた壁際で体育座りを始めそうだったので、早苗は強引に軌道修正をした。

 

「とまあそんなこんなでして、これからよろしくお願いします。病気になったときとかは、ここでお世話になると思いますので」

「……そうね」

 

 輝夜の鑑定士みたいな顔つきが、先ほどから晴れない。志弦を見てずっとなにかを考えている。

 

「……あの、輝夜さん。どうかしましたか?」

「あっ」

 

 突拍子もなく、輝夜がそんな声をあげた。志弦の肩に虫が止まっているのを見つけたように、細く形のいい眉を上へあげて、

 

「さっきからなにか忘れてるような気がしてたんだけど、そういえばこのあと用事があるんだったわ」

「あ、そうなんですか」

 

 なるほど、だから難しい顔をしていたのか――早苗はそう納得する。

 

「悪いけど私は準備しないといけないから、今度は永琳のところにでも挨拶に行ってちょうだい。鈴仙を呼ぶわ」

 

 れーせーん! と輝夜が襖の向こうへ声を張り上げる。大声まで綺麗な人だ。すぐに屋敷のいずこかから、はーいただいまーと元気な返事が返ってくる。

 ちなみに、と志弦が、

 

「かぐや姫様も鈴仙も大変な美人であらせられますが、ということはその永琳さんとやらも?」

 

 この質問には、早苗が答える。

 

「当然美人だよー。大人になったらこうなりたい! って感じで」

「だよねー」

 

 半分、自虐的なため息混じりだった。

 気持ちはわかる。幻想郷の女の子はみんな美人揃いである。とりわけ妖怪や、輝夜を始めとした月の住人など、純粋な人間ならざる者たちの容姿というのは本当にすごい。『オーラが違う』とはまさにああいうことを言うのだ。外の世界では結構モテるクチで、ある程度は顔に自信を持っていた早苗も、幻想郷にやってきてからはすっかり世界の広さを思い知らされた。

 もっとも、女子力五を自称する志弦だって顔自体は決してマズくない。友達関係は霊感体質のせいで上手く行っていなかったようだが、そうでなかったら同級生から告白くらいはされていたはずだと思う。世界の広さに打ちひしがれる気持ちはわかるが、志弦に限ってはもっと自信を持っていい気がする。

 失礼しまーす、と鈴仙が入ってきた。

 

「姫様、お呼びですか?」

「二人を永琳のところに連れてってあげて。私、用事を思い出したからちょっと出掛けてくるわ」

「用事ですか?」

 

 初耳だ、という顔を鈴仙は一瞬したが、すぐに切り替え、

 

「わかりました。……じゃあ二人とも、ついてきて」

「あいあーい」

 

 志弦がいち早く席を立ったので、早苗も立ち上がる。

 

「それじゃーかぐや姫様、これからよろしくです」

「ええ」

 

 志弦と一緒に輝夜へ会釈し、部屋を出る。鈴仙が襖を閉める音を聞きながら、そういえば、と早苗はふと思い出す。

 あのとき、輝夜が一体なにを呟いていたのか確認しそびれたが――まあ、大したことではあるまい。

 

 

 

 

 

 早苗と志弦の姿が襖の向こうへ消えたのを見送り、輝夜は心の中で十を数えた。

 数え終わるなり、すぐに行動を開始した。広間を出て誰の姿もないのを確認し、まっすぐに玄関へ向かう。出掛ける準備もへったくれもありはしない。着の身着のまま靴だけを履き、霧で包まれた竹林へ足を踏み出す。

 用事があるのは本当だ。ただ厳密にいえば、思い出したのではなく、あの瞬間にできた(・・・)というのが正しいが。

 向かう場所は、決まっている。

『神古』の名を聞いた輝夜が向かうべき場所など、たったひとつの他にありはしない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 妖怪の森の麓近くを拓いて建てられた水月苑は、月見の屋敷であると同時に温泉宿でもあるため、当然ながら昼夜を問わず来客が多い。数多くいる月見の知り合いが掃除を手伝っていたり、もしくは単に休憩していたりするのは日常茶飯事だし、大勢と入浴するのが苦手な妖怪が、こっそりやってきて湯を楽しんでいたりする。月見と二人でゆったりのんびりしたいと常日頃から願っている輝夜だが、このような事情があるためいつもさっぱり上手く行かない。この日もやはり、茶の間では月見と他にもう一人、湯飲み片手にのほほんとしている少女がいた。

 八雲紫だった。

 舌打ちしそうになった。

 それは向こうも同じだったようで、紫は輝夜を見るなり剣呑と目を細め、

 

「あら、ひきこもりのお姫様。こんなところまで遥々なにをしに来たのかしら」

 

 輝夜は紫とすこぶる仲が悪い。詳細は省くが、彼女は輝夜を千年以上に渡って悲しませることとなったある事件の原因であり、同時に恋敵でもあり、要するになにがなんでも絶対に負けられない宿敵なのだ。お互い顔を合わせると、いつもメンチを切り合ってばかりいる。それで月見に迷惑を掛けているのはわかっているが、しかし、どうしてもこればっかりは、一人の女として譲ることができないのである。

 今回も、そのようになるはずだった。

 

「どうしたんだい、慌てた風で」

 

 月見の声を聞いて、輝夜はここまでやってきた理由を思い出した。

 だから、正直に言った。

 

「大事な話があるの」

 

 睨み返すのではなく、まっすぐな瞳で紫を見て、

 

「少しの間、ギンを貸して」

 

 当然ながら、紫の反応は素気ない。

 

「なによそれ。なにも今じゃなくてもいいんじゃないの?」

「今すぐ確認したいことなの」

 

 紫と月見を引き離すための、真っ赤な嘘っぱちだと思われたはずだ。ため息の音、

 

「――あのねえ。私と月見の邪魔をするならもうちょっとマシな」

「お願い」

 

 気がつけば輝夜は、紫に向けて頭を下げていた。頭をほんのちょっと前へ傾けただけの、紫からはただ俯いたようにしか見えない不格好なものだったが、それでも、輝夜が紫に『お願い』をするのはこれが初めてだった。

 

「お願い。本当に大事な話なの。五分だけでいい、別に横で見てたっていいから」

 

 幻想郷の管理者である紫なのだ、神古志弦が幻想入りして守矢神社で暮らし始めたのは当然知っているだろう。悔しいけれど輝夜以上に月見をよく知っている紫なのだ、『神古』という名が指し示す可能性にだって当然気づいているだろう。

 別に聞かれたって構わない。輝夜はただ、月見と話ができればそれでいい。それさえできれば、今日のところはこのまま引き下がったっていいとすら思う。

 無視されたのではないかと思うほど、長い間があった。

 紫が言った。

 

「――ああ。そういえば私、ちょうど月見に渡したいものがあったんだったわ」

 

 輝夜は顔を上げた。紫はこちらを見ておらず、頬杖をついて茶の間の隅を眺めながら、

 

「でも屋敷のどこにしまったか忘れちゃったから、戻って捜してこないといけないわねえ」

「……、」

 

 虚を衝かれた輝夜が固まっている隙に、紫はさっさと足下にスキマを開いている。

 

「それじゃあ月見。私、ちょっと戻るから」

「ああ。ゆっくり捜しておいで」

 

 月見が、まるでぜんぶお見通しであるかのように穏やかな笑みで紫を見送る。だから輝夜は、やっぱりそうなのだろうかと思った。本当は月見に渡したいものなんてなくて、けれど素直に輝夜のお願いを聞くのは癪だから、それらしい急拵えの口実をでっちあげて――

 

「あ、あのっ」

 

 紫の姿がスキマの底へ消えようとしたので、輝夜は慌てて、

 

「あ、ありがとう!」

 

 微妙なタイミングだった。輝夜がその言葉を口にしたとき、紫の姿はすでに見えなくなってしまっていた。スキマの口まで閉じていたわけではなかったから、まったく聞こえなかったということはないはずだが、同時にちゃんと聞こえたかどうかも怪しい。

 まあ、聞こえなかったなら聞こえなかったで、別に構わないけれど。輝夜の返事も待たないでさっさと行ってしまう方が悪いのだ。もう頼まれたって二度と言ってなんかやらない。

 

「人のこと言えないよなあ」

 

 紫が消えていった畳の下を見つめながら、月見が愉快そうに肩を震わせた。

 

「ならちょっとだけ席を外してやるって、素直に言えばいいのに。嘘つくにしたって、もうちょっとマシな言い方があると思わないかい」

「……」

 

 輝夜は、なんと返せばいいかわからず曖昧に笑った。輝夜の方から頼み込んだこととはいえ、今までずっと仲が悪かった相手から突然優しくされて、どうも全身がむず痒かった。

 さっさと本題に入ってしまおうと思う。どうせ紫のことだ、あまり長く待つつもりなどないに違いない。痺れが切れたら、たとえ話の途中だろうが遠慮なく首を突っ込んでくるだろう。無駄話に費やしていい時間なんてない。

 輝夜は小走りで、テーブルを挟み月見の正面の位置に座った。改まるような話でもないので、率直に言う。

 

「あのね。今日、ウチに神古志弦が来たんだけど」

「……ああ」

 

 月見はゆっくりとまぶたを下ろした。静かに、噛み締めるような反応だった。

 

「ねえ、ギンはどう思うの」

「どうって?」

 

 白々しい。輝夜が言いたいことなんて、もうぜんぶわかっているくせに。

 上等だと思う。ならば、はっきりと言ってやろう。

 

「あれ、雪と秀友の子孫なんじゃないの?」

「……」

「『神古』なんて苗字そうそうあるとは思えないし、それにあいつの言動、秀友と似てる気がするわ」

 

 月見は答えないし、まぶたを上げもしない。

 正直なところ、輝夜は秀友と親しかったわけではない。仲がよかったのは雪の方であり、秀友については、姿を見かけたり挨拶をしたり、雪から話を聞かされたりする程度だった。けれど雪が語ってくれた『秀友』と、先ほど輝夜の目の前に現れた神古志弦は、なんだか似通っている点が多いような気がするのだ。

 

「しかも、霊を祓ったりなんだりする素質もあるんでしょ。偶然にしてはできすぎてると思わない?」

「……」

「ねえ、なにか言ってよ」

 

 ようやく、月見がまぶたを上げた。緩く天井を見上げ、紫煙を飛ばすようなため息をついた。

 

「……私だって、それは考えたさ。考えないわけがない」

 

 でも、と続け、

 

「もう千年以上昔の話だ。確かめようがない」

「そんなことは……ないでしょ?」

 

 輝夜が月見のためにできることはなにもないけれど、例えば八雲紫なら、能力を応用して時を遡ることもできるのではないかと思う。上白沢慧音だって、満月の夜には完全に妖怪化し、一夜限りではあるが埋もれた歴史を掘り返す力に目覚めると聞いている。

 そう言ってやったら、月見は小さく笑って、

 

「ああ、そっか。それは考えなかったなあ」

「……ギン?」

 

 輝夜は首を傾げた。月見の様子がおかしい気がする。しかしその正体がなんであるかまではわからず、ひとまず目先の話を優先する。

 

「えっと、だからね、確かめようと思えば確かめられるでしょ?」

「……そうだね」

「確かめ……ないの?」

 

 月見は、頷きも首を振りもしなかった。

 

「……正直ね、まだわからないんだ。自分がどうしたいのか」

 

 手元を見下ろし、静かな顔で、けれど困り果てたような声だった。

 

「確かめたいという気持ちがないといえば嘘になる。でも同時に、このままでもいいんじゃないかと思ってる自分もいるんだ。確かめた結果、後悔することになるかもしれない。だったらいっそ、今のどっちかわからない状況のままの方が……ってね」

 

 月見のどこがおかしいと感じたのか、ようやくわかった。

 輝夜の知っている月見は、いつも前を向いている人だ。目の前の現実をまっすぐに見つめ、ありのままを受け入れる力を持っている。目を逸らしたり、背を向けることをしない。少なくとも、かつて『かぐや姫』だった輝夜を勇気づけてくれた月見はそうだった。

 もちろん、今の月見もそうであるはずだ。

 けれど、この瞬間に限っては違う。

 逃げている。立ち止まって、思考を止めてしまっている。現実に背を向けて、素知らぬ振りをしている。

 だから輝夜は、本当に今更な話だけれど、月見が『神古』という名をどれだけ大切に想っていたのか理解できた気がした。あの夜――月が空に白い孔を空けたあの日の夜、月見は月人によって深い傷を負い、紫の治療によって事なきを得た。しかしその後、月見は都へは戻らず、『門倉銀山』としての生活に偽りの死という終止符を打ったと聞いている。

 秀友と雪が、決して自分の行方を追わぬように。都に戻って、友として関わり続ければ、いつか必ず正体に気づかれる日が来てしまうから。

 別に、妖怪だとバレること自体を恐れたのではないのだろうと輝夜は思う。たとえ月見の正体を知っても、雪はそれを受け入れたはずだ。そして雪が受け入れるなら、秀友だって同じであったはずだ。

 月見が本当に忌避したのは、自分の正体を知られた結果、秀友たちの生活を壊してしまう可能性。

 人間と妖怪が共存を始めたのなんて高々ここ数百年の話で、昔は両者の溝はずっと深く険しかった。妖怪とつながっていると知られた人間が、周囲からどのように扱われるかなど、当時は火を見るよりも明らかだったから。

 月見がそうまでして守りたかった『神古』の名が、千年以上の時を越えて、再び目の前にやってきたかもしれない――。

 いくら月見でも、冷静でいられるはずがなかったのだ。確かに、神古志弦の姿を見ているとまさかと思わされる。けれどそれは、どこまでいっても「もしかして」の域を出ない妄想である。その「もしかして」も、苗字が同じだからという先入観が生み出したただの錯覚かもしれない。

 輝夜だって、わかっている。

 でも、それでも。

 

「じゃあ……どうするの?」

 

「もしかして」に縋りついたまま、これからずっと志弦という少女を見守り続けていくのか。

 

「……今は、まだ」

 

 月見は、答える。

 

「私の心に整理がつくまで、時間をくれないか。そうすれば、ちゃんと確かめようと思える日が来るはずだから」

 

 苦笑、

 

「情けない答えですまないね」

「……そんなことないわよ」

 

 輝夜はゆっくりと首を振った。今すぐ確かめなければどうこうという問題ではない。時間さえあれば大丈夫だと月見が言うなら、輝夜はそれを信じようと思う。

 笑い返した。

 

「でも、あんまり長く待たせないでよ。私だって気になるんだから」

「ッハハハ、そうだね」

 

 本当に、どうなのだろう。輝夜と月見が胸に抱く「もしかして」は、ただのひとりよがりな妄想なのか、それとも神が与えてくれた天啓なのか。

 輝夜と月見が知る神古。目の前に現れた神古。二つの『神古』は、つながるのか、つながらないのか――。

 面白いことが増えたじゃないかと思う。

 今はただ、月見の心に決心のつく日が、一日でも早く訪れますように。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――はーい時間切れですーっ! さっさと月見を返してあなたは帰ぶっ――ちょっと、なにもビンタすることないでしょ!?」

「うっさいわね、いきなり目の前に出てこないでよ心臓に悪いっ! あと空気読んでよ今そういうことやっていい雰囲気じゃなかったでしょ!?」

「知らないわよそんなのー! なによっ、さっきはちょっとは素直なトコもあるんじゃないって思ったのに、気のせいだったのかしら!」

「えーえー気のせいですー! あんたなんかにお礼言った私が間違いだったわ! 話が終わったら素直に帰ろうかと思ってたけどそれもやめよっ!」

「上等じゃない、ここで引導を渡してあげる!?」

「返り討ちにしてあげる!」

「……お前たち、本当に仲いいよなあ」

「「そんなことないっ!!」」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第79話 「幻想郷苦労人同盟・夏の陣」

 

 

 

 

 

「それではこれよりぃ、第一回! 月見さんのお悩み相談室を開催しまあーっす!」

 

 成り行きとは時に悩ましい事態を引き起こすものである。今の自分の状況を改めて見直すととりわけそう思う。

 提灯とランタンがもたらす薄ぼんやりとした光の中に月見はいる。周りには竹のコップを片手にエキサイトしている美鈴がおり、わあーとぱちぱち拍手をしている椛と妖夢と鈴仙と小悪魔がおり、酒を傾けながら同情してくれている藍がおり、面白そうな顔で静観している鰻屋台店主がおり、膝の上にはちょこんと大妖精がいる。ある共通点を持って集まった少女たちに囲まれながら、月見はなにやらお悩み相談をさせられるそうである。

 美鈴さえ酔っていなければ、こうはならなかっただろうに。この面子の中で最も勢いよく酒を消化している絶好調な少女は、酔いの勢いも大変絶好調なのだった。赤ら顔で叫ぶ、

 

「じゃあー最初は私がいきまーっす! もぉーきーてくださいよ月見さあん、咲夜さんなんですけどお――」

 

 単純に酔っているからなのか、それとも今ばかりはナイフが飛んでこないとわかっているからなのか、今日の美鈴はやたらと元気でスキンシップが激しい。月見の腕にべったりと体をくっつけて、湿った瞳でメイド少女への愚痴をぶちまける。

 ひゅーひゅーと口笛で茶化す店主の、けれど決して悪気のない楽しそうな笑顔を盗み見ながら、月見は観念するように蒲焼きを頬張った。

 うん、美味い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 このところ月見はときおり、迷いの竹林のイナバたちに拉致されることがある。今日も朝っぱらから拉致された。五匹十匹で押しかけてきて、月見の手を引っ張るわ耳を引っ張るわ、どさくさに紛れて尻尾をもふもふするわと騒ぎ散らすのである。

 一体誰の差し金かなど、言わずもがな。子どもに甘い月見の性格を的確に攻め、見た目幼女なイナバばかりを送ってくるあたりは見事としか言い様がない。

 というわけで太陽も沈んだ頃にようやく輝夜から解放された月見は、一人で屋敷へと戻る空の道を飛んでいた。

 日頃から幻想郷のあちこちを歩き回っている月見だが、永遠亭を訪ねる回数だけは他より目立って少ない。単純に遠いというのもあるし、なにより迷いの竹林が厄介なのだ。道を覚えようと努力してはいるが、今のところ、迷った回数が増える以外のめぼしい成果は上げられていない。

 それを考えれば、輝夜の方から遣いを送ってくる今の状況はむしろありがたいともいえる。これが毎日のように続けばさすがの月見も迷惑がろうが、輝夜もそのあたりは弁えてくれているので、今のところ頻度は『ときおり』である。

 その分、永遠亭では思いっきり構って構ってされるのだけれど。

 まあ、自分が会いに行くことで元気いっぱい笑顔いっぱいになってくれる人がいるというのは、ありがたいことなので。

 月見はこれからも、竹林のイナバたちに拉致され続けるのだろう。

 

 それなりの充実感を覚えながら帰路につく途中で、その屋台を見つけたのはただの偶然だった。ふと魔法の森の方角から漂ってくる美味しそうな匂いを嗅ぎつけなければ――そしてその匂いに腹の虫が刺激されなければ、ふらふらと道草をすることもなかっただろう。

 香霖堂よりも山側へいくらか進んだ、魔法の森の入り口付近だった。

『八目鰻』と書かれた暖簾と提灯を引っ提げ、あたり一帯に官能的な鰻の匂いをばらまく、大変けしからん屋台であった。

 

「へえ……こんな店があったのか」

 

 店の設備一式をリアカーの上に乗っけた、古き佳き屋台である。暖簾の奥では五~六人ほど並べそうな座席が一列で鎮座しているので、人力移動の屋台としてはかなり大きい。人間がこんな場所でこんな屋台を開いているとは思えないから、妖怪が妖怪向けにやっているお店なのだろう。

 まだ店を開けて間もないのか、客の姿が見えなかったので、月見はせっかくだからと暖簾をくぐってみた。

 元気な声が飛んできた。

 

「いらっしゃいませー! ……あ! 誰かと思えば、水月苑の旦那様じゃないですかー」

 

 鳶色の和服をたすき掛けし、頭に藍色の三角巾を乗せた下町風情な女の子だった。鳥の妖怪なのか、背中からふわふわ羽毛の翼を一対伸ばして、同じくふわふわな耳をぴこぴこと動かしている。幻想郷ではさして珍しくもないとはいえ、一人で屋台を営業するにしてはかなり若い子だ。ぱっと見は霊夢や魔理沙と同じくらいで、人懐こい笑顔からはそれ以上の幼さが見て取れる。それでいてこの道を始めて長いのか、月見をあたたかく迎え入れながらも、両手は休むことなくテキパキと仕込みをしている。

 初めて見る顔だった。

 

「どこかで会ったかな」

「あはは、このへんの妖怪で旦那様を知らないやつなんていないですよー。温泉、いつも堪能させてもらってます!」

「なるほどね」

 

 温泉の常連客らしい。人の顔と名前はすぐ覚える方だが、さすがに客を一から十まで覚えてはいないので納得した。

 少女が料理の手を止めて、ぺこりと行儀よく頭を下げた。

 

「ようこそ、私の屋台へー。女将のミスティア・ローレライでーす」

 

 気さくな名乗りに、月見も笑顔で応じた。

 

「月見だよ。よろしく」

「はーい。今日は、私の屋台を見つけてくれてありがとうございますです」

「美味しそうな匂いがしたから、ついね」

「美味しい鰻がありますよー。よかったら、どうぞゆっくりしていってください――と、言いたいところなんですけど」

 

 少女――ミスティアは料理の仕込みを再開しながら、苦笑した。

 

「生憎、今日は貸し切りなんですよー」

「おや、残念。ということは、人気のお店なんだね」

「自分で言うのもなんですが、味には自信がありますよ! 目標は幻想郷で鰻ブームを巻き起こして、焼き鳥を撲滅することです!」

「なるほど。鳥だもんね」

「許されざるってやつです!」

 

 なぜか無性に焼き鳥が食べたくなってきたが――月見は黙っていることにした。

 

「あ、でもでも持ち帰りはできますので! ちょっと待っててください、もうすぐできるのがありますから!」

 

 そういう妖怪なのだから当然といえば当然だが、ミスティアの声音は小鳥が歌うようによく通る。何気ない世間話でも、ただ耳を傾けているだけで自然と心が和らぐ気がする。この屋台が貸し切りされるほど人気なのは、単に料理の味がいいだけではないのだろう。

 調理台に設置された火床の上では、すでに何切れもの八目鰻たちが串焼きされ、香ばしく焼けた衣をまとっていた。赤々と輝く炭火の熱で焼かれ、油が弾ける小気味のよい音と、空腹を刺激する芳醇な香り。

 

「たまらないね」

「ですです! 旦那様も、これを機に鰻の魅力にハマっちゃってください! もう焼き鳥なんか食べちゃダメですよっ!」

 

 ああ、焼き鳥が食べたい。

 蒲焼きができあがるまでの間、席に座って待たせてもらうことにした。匂いで腹が鳴ってしまわないよう辛抱しながら、月見は改めて屋台の中を観察する。

 屋台両脇の提灯に加えて、屋根の下から古ぼけたランタンが等間隔で吊り下げられている。照明としてはやや心許ないが、明るすぎず暗すぎない雰囲気が、かえって夜の屋台によく映えている。もう少しあたりが暗くなれば、闇の中でぼんやりと浮かび上がる店構えは大層幻想的に映るだろう。

 向かって右手の戸板がおしながき。八目鰻に始まり、おでん、お酒、つまみの類など様々なメニューを書いた木版が引っ掛けられている。左手の戸板は酒を置く棚だ。多種多様な酒瓶に交じって竹製のコップが並んでおり、また随分と風情がある。

 そして正面には、鰻の身を返してはタレを塗り、また返しては塗りを繰り返しつつ、鼻歌を口ずさむミスティアの姿。そういえば鰻を焼くのはとても手間が掛かるのだと月見がぼんやり思い出していると、屋台の外から賑やかな話し声が聞こえてきた。

 今日、この屋台を貸し切っているというお客さんたちだったようだ。月見の背中に気づいたらしい一人が、あーっ!? と派手な大声をあげた。

 

「こらーっみすちーっ! 今日は私たちの貸し切りのはずじゃ――あっ、月見さんじゃないですかー!」

「……美鈴?」

 

 暖簾を左右に掻き分け飛び込んできたのは、意外にも紅美鈴であった。いつも健気に門番を務めている少女と、紅魔館の外で出会うのは珍しい。予想外の偶然に月見が目を丸くしていると、続いてわいわい賑やかな少女たちの集団が、

 

「あ、本当だ。月見さん、こんばんはー」

「こんばんはですー」

「おや」

 

 小悪魔に妖夢、

 

「こんばんは。月見様もお夕飯ですか?」

「今日は姫様がお世話になりましたー」

「珍しいですね、月見様がこのような場所に来られるのは」

「おやおや」

 

 更に椛、鈴仙、藍と来て、

 

「……」

「……ふみう?」

「絶対そう呼ぶと思ってましたっ!! もおーっ!!」

 

 最後にふみうこと大妖精が姿を現せば、さすがに疑問が浮かぶ。

 

「……どういう集まりだ、これは?」

「ふふーん、なんだと思います?」

 

 美鈴が不敵な笑みでそう問うてくる。月見はしばらく考えて、

 

「……本当にどういう集まりだ?」

 

 この面子の共通点がわからない。従者の集まり――の割には大妖精がいるし、咲夜の姿もない。案外共通点などなくて、単なる知り合い同士の女子会なのかもしれないが、それにしても大妖精が交じっているのは不思議な感じがする。

 もう少し粘ってみるが、やはりわからなかった。

 

「……降参だ。わからないよ」

 

 月見が両手を上げると、美鈴が元気よく答えた。

 

「正解はですねー、幻想郷苦労人同盟です!」

「……」

「苦労人同盟ですっ!」

 

 ……ああ、なるほど。

 美鈴と小悪魔は、レミリアや咲夜やパチュリー。妖夢は幽々子。椛は操。鈴仙は輝夜と永琳。藍は紫。大妖精はチルノ。

 大変納得した月見であった。

 

「いらっしゃい、みんなー」

 

 ミスティアが蒲焼きに団扇で風を送りながら、にぱっと営業スマイルを咲かせた。

 

「旦那様は、お持ち帰りだから大丈夫だよー」

「あー、そうなんだ。……でも月見さんなら一緒に呑んでもいいですよー! むしろ呑みましょっ! 私、月見さんとお酒呑んだことないですし!」

 

 席に座る月見の首へ、美鈴が後ろから両腕を回してくる。お出かけ前にシャワーでも浴びてきたのか、石鹸のいい香りがする。そのまま人の耳元で、

 

「ねー、一緒に呑みましょーよー」

「今日はやたら元気だね」

「今日という日をずっと楽しみにしてたんで! 今の私はテンション高いですよっ」

「私は構わないけど、他の面子はいいのかい?」

 

 実をいえば月見も、持ち帰りといわずここで一杯引っ掛けたい気分だったので、美鈴の誘いはありがたい。しかしせっかく仲の良い女の子同士の集まりなのに、野郎の月見が交じってしまっては台無しではないのか。

 月見のそんな心配をよそに、周囲の反応は穏やかだった。藍が頷き、

 

「私は、月見様なら拒む理由がないです」

 

 周りもそれを否定しなかった。ただ一人、大妖精だけが胡乱げな半目で、

 

「……いいですけど、月見さん、いじわるしないでくださいよ? ふみうって呼ばないでくださいね?」

 

 美鈴が首を傾げて、

 

「そういえば大妖精ちゃんって、月見さんから『ふみう』って呼ばれてるの? かわいいね。私もふみうちゃんって呼んでも」

「ぜ、ぜぜぜっ絶対にダメですっ!! 月見さん以外の人からそんな風に呼ばれるなんて絶対に嫌ですっ!?」

「へー、月見さんだけが呼んでいい特別なあだ名ってこと? それってひょっとして……」

「言葉の綾ですっ!?」

「じゃあこれからは遠慮なく呼ばせてもらうよ、ふみう」

「ぶん殴りますよ!?」

 

 最近、大妖精の言動がますます過激になってきている気がする。相方を流星ラリアットで一発KOした光景は、まだ月見の記憶に色濃く焼きついている。

 ミスティアがころころと笑った。

 

「あはは、さすが旦那様は人気者ですねー」

「ありがとう。お陰で、退屈しない毎日を過ごさせてもらってるよ」

「もともと退屈はしてなかったですけど、月見さんが来てから更に賑やかになりましたからねー」

 

 美鈴はもうすっかり月見の背中にもたれかかっている。お陰でさっきから妙に柔らかいあれこれが当たっているのだが、テンション高めな彼女のことなので、指摘されたところですかさず「月見さんもそういうの気にするんですねー」とニヤニヤするのが狙いなのかもしれない。なので無視する。

 

「なんか活気が増した気がするよねー。……あ、そろそろ焼けるよー。どうぞみんな、座って座ってっ」

 

 ミスティアに促され、苦労人同盟の面々は席順の話し合いを始めた。やはり美鈴が元気である。――とりあえず月見さんは真ん中でー、はいっ私隣座りますっ! もう一人、隣に座りたい人ー? あれ、いないんですか? ……はい藍さん速かったですねー。

 

「……あー、そうだ」

 

 話がまとまりかけたところで、ミスティアがふとしたように作業の手を止め、腕を組んだ。

 

「ウチの座席って六人掛け――どう詰めても七人が限界なんだった」

 

 美鈴たちがはっとしてお互いを見合わせた。月見を含めると、人数は全部で八人となる。

 間、

 

「……やっぱり私は持ち帰りで」

「いやいやまだわかりませんよ月見さんっ! とりあえず座ってみましょ!」

 

 と美鈴が言ったのでとりあえず座ってみるのだが、やはり店主の言った通り、どう頑張っても一人余ってしまう。仮に全員座れたとしても、ぎゅうぎゅう詰めで食事どころじゃなくなってしまうのは確実だ。

 ここは、誰かが座るのを諦めなければならない。であれば立ち上がるべきは当然、元々ここにはいないはずだった月見だろう。

 

「じゃあ私は立ってるよ。行儀悪いけど」

「えーっ」

 

 美鈴がすぐ唇を尖らせた。

 

「またとない機会だから一緒に座りたいですー。藍さんも一緒がいいですよねー?」

「へっ? ま、まあ、それはそうだけど」

「そうはいってもね」

 

 まさか女の子を一人立たせて、自分が悠々と酒を呑むのも気が引ける。

 ミスティアが言う。

 

「なにか椅子代わりでも用意しますかー? 座り心地は保証できませんけど」

「椅子代わり……そうかっ」

 

 なにかを思いついたらしい美鈴が、輝く瞳で月見を見つめた。

 

「閃きましたっ。私が月見さんの膝の上に座ればいいんです!」

「嫌だよ」

「がーんっ!? そ、即答しないでくださいよお!?」

 

 考えるまでもない。身長の高い美鈴がそんなことをしたら、いくら月見でも前が見えなくなってしまう。そんな有様で、どう食事をし酒を呑めというのか。

 

「お前は背が高すぎるよ。やるなら、そうだね……」

 

 その発言に深い意図があったわけではない。よく月見の膝の上に乗っている子といえばフランや萃香であり、彼女たちといえば人の幼子ほどの身長しかないのであり、この場で同じくらいの子といえば『彼女』だっただけのこと。

 しかしどうあれ、月見は大妖精を指差した。

 大妖精を。

 指差した。

 

「このくらいがちょうどいいかな」

「「「……」」」

 

 

 

 

 

「――ではでは、皆さんお酒は行き渡りましたねー?」

 

 すっかり呑み会幹事を気取っている美鈴に、少女たちがはーいと息を合わせて返事をした。月見もああと簡潔に答える。そして月見の膝の上にちょこんと座った大妖精が、はーい……ととてもか細い声をあげる。はじめは嫌です嫌です恥ずかしいですと渋っていたが、ミスティアの「そうしてくれるとお店としてはありがたいかなーっ」の一言で諦めた、なんともお人好しな大妖精である。

 月見を真ん中にして、右が美鈴、小悪魔、椛。左が藍、妖夢、鈴仙の席順で座っている。もともと六人掛けの座席なのでなかなか窮屈だ。隣同士と肩が触れ合い、左の藍は少し照れくさそうだが、右の美鈴はむしろ月見に腕を絡める勢いではっちゃけている。竹のコップを頭の上まで掲げ、

 

「それでは幻想郷苦労人同盟うぃずゲストの月見さんっ、盛り上がって参りましょーっ! かんぱーっい!!」

「「「かんぱーい!」」」

「か、かんぱーい……」

 

 みんなの元気な乾杯と大妖精の控えめな乾杯で、いよいよ呑み会が始まった。すかさずミスティアが、

 

「はーいっ、それじゃあウチ自慢の八目鰻だよー! 堪能しちゃってーっ!」

「みすちーお酒おかわりっ!」

「はーいめーりん呑むの早いよー。めーりんの一気飲みに気を取られて誰も私の鰻見てくれてないよー。いきなりそんな飛ばして平気なのー?」

 

 美鈴はだらしなく笑う。

 

「えへへー。だってえー、やっとこの季節が来たかーって感じでー」

 

 横から藍が補足してくれた。

 

「もともと月に一度くらいでやっている集まりなんですけど、蒲焼きはちょうど今回からなんです」

「ああ、これからが旬だもんね」

 

『土用丑の日』という有名すぎる謳い文句のせいで鰻=夏のイメージが定着しているが、実のところ旬は秋から冬にかけてなのだ。美鈴に二杯目のお酒を出したミスティアが、うんうんと大きく二度頷いた。

 

「そうなんですっ。なので今でも充分美味しいですけど、これから冬にかけてもっと美味しくなっていきますよ!」

「それは楽しみだね」

 

 皿を手元まで持ってくると、見事としか言い様のない蒲焼きが三切れ乗せられている。絶妙な火加減と秘伝のタレで焼き上げられたその身は、ランタンの明かりの下ではまるで黄金色に輝いているかのようだ。オマケに香ばしく甘い匂いが一気に押し寄せてきて、たまらず、くうと可愛らしくお腹が鳴った。

 大妖精の。

 

「……」

「お、お腹空いてるんですからいいじゃないですかっ」

「自分で食べられるよな?」

「食べられますっ!」

 

 割り箸を二本割り、一膳を大妖精に手渡す。

 

「あ、ありがとうございます……」

「じゃあ、いただこうか」

 

 丸々一切れはやや大きいので、真ん中に箸を通して大妖精とはんぶんこする。大妖精の髪の毛にタレを垂らしてしまわないよう気をつけながら、素早く豪快に頬張る。

 弾けた。

 

「――美味い」

「~~っ! 本当です、すごく美味しいですっ!」

「ありがとうございまーす!」

 

 八目鰻の蒲焼きを食べるのなんて、一体何年振りの話なのだろう。漂う強烈な香りとともに頬張った瞬間、張りのある身が口の中でこれでもかというほど存在を主張し、唾液と混じったタレがさながらあふれでる肉汁のように舌の上で躍る。噛めば噛むほど身とタレが絡み合い、痺れすら生み出す暴力的な旨味となって口の中を蹂躙する。

 さすがは八目鰻――外の世界では幻と化した食材、そんじょそこらの養殖ものとは一味違う。大妖精なんて、あまりの美味しさに足をぱたぱたさせて喜んでいた。他の少女たちも、ほっぺたを押さえて至福で満たされた顔をしている。

 

「やー、みんないい表情ですよー。私、そういう表情見たさでお店やってる部分もあるのでっ」

「これからは、もっとたくさん見られるようになるだろうね」

「旦那様も、ぜひぜひお知り合いを連れていらっしゃってくださいねー!」

 

 今度霖之助と酒を呑むときは、ここにしてみようかなと思う。出不精な彼のことなので、了承してもらえるかはわからないけれど。

 美鈴が叫んだ。

 

「みすちーお酒ーっ!!」

「だから早いって!?」

 

 驚異的なスピードで二杯目をカラにしたハイテンション門番は、もう頬が赤くなり始めていた。

 

「美鈴、いくらなんでも飛ばしすぎだろう」

「えへー。ぶっちゃけ、酔い潰れて月見さんに介抱してもらうのもアリかなって思ってまーす」

 

 月見の右肩にしなだれかかり、

 

「いやー、いま私が月見さんの隣でお酒呑んでるって、咲夜さんは知らないんですよねー。これって優越感ですよねー」

「どうせ知られるんだから、あんまり羽目は外さない方がいいんじゃないか?」

「咲夜さんのナイフが怖くてえー、ツクミン補給ができますかーっ!」

「待て、それどこで知った」

「天魔様がー、この前山で騒いでましたあ。門番なのでえ、結構そういうのは聞こえてくるんですよねー」

 

 アノヤロウ、と月見は思う。

 

「そうだっ、咲夜さんといえば聞いてくださいよー月見さーん。月見さんのお悩み相談室ですよー」

「美鈴、お前絶対もう酔ってるだろう」

「いいですねえ、月見さんのお悩み相談室!」

 

 美鈴は聞いちゃいなかった。明らかに酔っている。決して酒に強い方ではないのだろう、もともとハイテンションだったのが輪をかけていい具合におかしくなってきている。

 門番という役職柄なにかと地味だった少女が、ここまでいきいきとした顔をするものなのか。立ち上がって叫ぶ、

 

「よぉーしみんなー、今日は月見さんに愚痴聞いてもらっちゃおーっ!」

 

 わあーぱちぱち、と盛り上がる屋台。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 話を冒頭へ戻そう。そんなわけで月見は、ハイテンション酔っぱらい門番から絶賛愚痴られ中なのであった。

 

「――というわけでえっ、咲夜さんはもうちょっと手心ってものを知るべきだと思うんですっ! なんかやるとすぐナイフが飛んでくるって、一体全体どういうことですかって話ですよ! ここまで過酷な労働環境他にあります!?」

「……うん、そうだね」

 

 もう、竹のコップで五~六杯はカラにしたはずだ。しかも、運動したあとに水を飲むかの如き勢いで。今はさすがにミスティアからお預けをくらいちびちびと白湯を飲んでいるが、顔はもう頬どころか全体が真っ赤になっている。

 スキンシップも一層過剰になっている。腕に絡みつかれるわ首に息を吹きかけられるわ服を甘噛みされるわ、その上咲夜さんが咲夜さんがと同じ愚痴ばかり二十分以上聞かされている月見は、もはや菩薩の心地である。周囲の少女たちの眼差しもだいぶ同情的だ。膝の上の大妖精なんて、「この人こわい……」とか呟いている。

 月見は横の藍に、

 

「……この子はいつもこんな感じなのかい」

「ええ、まあ、元気にこの集まりを仕切るのはいつものことなのですが……今回はちょっと飛び抜けてますね」

 

 藍は苦笑、

 

「月見様と一緒にお酒を呑めて、よほど嬉しいのでしょう」

「はぁーいっ! 私ぃ、ずっと羨ましかったんですよお。ほら、水月苑の完成記念の宴会だって出られませんでしたしー」

「ああ、確かにいなかったね」

「咲夜さんたちに『お留守番よろしくね』って当たり前みたいに言われてえっ! 私だって参加したかったのにぃー!」

「わかったから落ち着け」

「私はあ、落ち着いてますよぉーっ!」

 

 美鈴が、やや音程の狂った声できゃっきゃと笑った。ここに来て更に酔いが回ってきたようだ。怒ったり笑ったりさめざめ愚痴ったりと表情がころころ変わって、傍目からはもはやラリっているようにも見える。

 そろそろ本気で落ち着かせた方がいいんじゃないかと月見が思っていると、

 

「あの、美鈴さーん」

 

 一番右端に座っていた、椛であった。

 

「なあにー椛ー」

「そろそろ席替えしませんか?」

「えー」

 

 美鈴が渋るが、椛も引かない。

 

「私も、月見様に聞いてほしい悩みがあるんです。月見様のお悩み相談室、なんですよね? 独り占めはズルいと思います」

「むむっ……」

 

 大人しくて礼儀正しい性格の椛にしては、珍しく強引な口振りだった。痛いところを衝かれた美鈴が途端に怯む。『月見さんのお悩み相談室』と勢いだけで宣言してしまった、過去の自分を悔いているようにも見えた。気の抜けた笑みで頭を掻き、

 

「……わかったー。あはは、やっぱり独り占めはダメだよねー。じゃあ今度は椛の番っ」

「はい、ありがとうございます」

 

 美鈴と椛が席を入れ替える。ようやっと一息つけた月見が肩の荷を下ろしていると、隣に座った椛がぽそりと、

 

「これで、月見様も少しは気が休まりますか?」

「……もしかしてお前」

 

 二つ隣の美鈴を気にしながら、椛は申し訳なさそうに、また一方で照れくさそうにしながら、舌の先をちょっぴりだけ覗かせた。

 

「……美鈴さんには、内緒にしてくださいね」

「椛、頭撫でていいか?」

「ダメですよ!?」

 

 冗談だ。しかし、思わずそんな冗談を口にしてしまうほどの感動に駆られたのは事実である。美鈴の爆竹みたいな愚痴で月見が困っていると察するや、自ら席替えを提案して状況の改善を試みる。なんと気遣いのできるいい子なのだろう。

 

「どうか大目に見てあげてください。美鈴さん、本当に苦労してるみたいですから……」

「ああ、わかってるよ」

 

 気持ちが落ち着いたら眠くなってきたのか、美鈴はカウンターに突っ伏して大きなあくびをしていた。小悪魔に優しく背を撫でられながら、そう遠くないうちに夢の世界へ旅立つことだろう。

 普段からたくさん苦労しているのだ、こんなときくらいはいい夢を見てほしいと思う。

 

「助かったよ。ありがとう」

「いえ、お役に立てたのであればよかったです」

「じゃあ、今度はお前の悩みを聞こうか」

「え? ……ああ」

 

 一瞬疑問符を浮かべた椛は、それからくすりと微笑んだ。

 

「大丈夫ですよ、あれはただの方便ですから。月見様も、愚痴はもうお腹いっぱいでしょう?」

「……椛、頭」

「ダメですってば!」

 

 冗談だ。

 

「でも、本当になにもないのか? 苦労してるのはお前も同じだろう、主に操のせいで」

「ええ、まあ、それはそうなんですけどね」

 

 椛は両手で持った竹のコップを一度口へ傾けて、それから、どんな顔をすればいいかわからないのでとりあえず笑ったような、そんな中途半端な笑みを浮かべた。

 

「確かに天魔様にはいろいろ振り回されてますけど、このところ、天魔様をとっ捕まえて折檻するのがちょっと楽しくなってきたというか」

「……」

「何事もないと、それはそれで据わりが悪いんですよね」

 

 月見もどんな顔をすればいいのかわからない。

 椛はあくまで笑顔である。

 

「慣れって怖いですよね。最近は、次はどうやって天魔様を折檻しようかって、そんなことを考える余裕まで出てきてしまって。いつも同じやり方だと、こっちとしても味気ないですし。ある意味ではこれも悩みの種ですね」

「…………、」

 

 ああ、どうやら月見は誤解していたようだ。自由奔放すぎる操に毎日振り回される不憫な子という印象があったのだけれど、椛は月見が思っていたよりもずっとずっと逞しかった。逞しすぎるくらいに成長していたのだ。

 椛に折檻されるのをそれはそれで楽しんでいる操と、操を折檻するのをそれはそれで楽しんでいる椛。これ以上ないWin-Winの関係ではないか。素晴らしい。月見が口出しすることなどなにもない。

 そう思っておくこととする。

 

「……なんか、あんまり心配なさそうだね。頑張ってくれ、これからも」

「はいっ。今後も頑張って折檻していきますのでっ」

 

 そういう意味で言ったのではないのだが、月見はもうなにも言わなかった。ただ笑顔で頷き、そして心の中で操に合掌した。

 椛のひとつ奥を見る。

 

「こぁは? やっぱりなにかと苦労してるのか?」

「え? うーん、どうでしょう」

 

 美鈴はもう眠ってしまったらしい。幸せそうに微睡んでいる彼女の背中を撫でながら、小悪魔は苦笑した。

 

「正直、皆さんと比べてしまうと、苦労してるっては言いづらいですねー」

「そうか? あんなに広い大図書館の整理整頓をしてるんだから、充分大変だと思うけど」

 

 純粋に何万冊あるのか想像もできない量の本を整理するのもそうだし、紅魔館の大図書館は、地下に存在しているため太陽の光が届かない。広大な空間なので閉塞感こそないけれど、そんな場所で来る日も来る日も本の整理整頓ばかりをしていたら、月見なら一週間を待つことなく飽きるだろう。

 どちらかといえば読書好きな月見ですらそう思うのだ。小悪魔の仕事は他の従者たちに負けず劣らず大変だし、それを何食わぬ顔でこなしているのはとてもすごいことだと思う。

 小悪魔は照れくさそうに、

 

「まあ、好きでやってる部分もあるので。それに最近は、妹様の遊び相手をしたりもしてますから。もちろん大変だと思うことはありますけど、それ以上にやり甲斐があるんです。月見さんがいらっしゃるようになってからは、みんないきいきとしてますからね。一緒にいられるのが楽しいんですよ」

 

 この子、本当に悪魔なのだろうか。天使の間違いではないか。心の奥にじんわりと染みていくこの静かな感嘆が、立派な若者に胸を打たれる年寄りの気持ちというものなのかもしれない。

 

「美鈴みたいに、みんなからいじられたりは?」

「あー……たまに、ですね。でもそういうときは、私からもいじり返しますのでおあいこって感じです。月見さんの前では割とおとなしくしてますけど、私、悪魔ですから。そういうのは結構好きなんですよ」

「……そっか」

 

 この子も椛と同じなんだなと、月見は思う。大変なことも多い仕事だけれど、その中で自分なりのやり甲斐と楽しさを見つけて日々を有意義に生きている。だからきっと、今の仕事を辞めたいなんて考えたこともないのだろう。

 こういう子たちのことを、従者の鑑というに違いない。

 月見は下を――鮮やかな緑の髪で覆われたかわいらしいつむじを――見た。

 

「妹様といえば、大妖精」

「はい?」

「フランとチルノは、上手くやってるかい」

 

 フランが大妖精たちと友達になってから、早いもので何週間か経つ。このところ、フランの笑顔は以前にも増していきいきと輝くようになっていた。新しい友達ができて、仲良く遊ぶことができて、毎日が楽しくて楽しくて仕方ないのだそうだ。

 上手くやっているのだろうとは思っている。しかし何分相手があのチルノなので、いろいろ不安といえば不安なのだ。

 大妖精はどことなく疲れた感じで、あははと力なく笑った。

 

「上手く行きすぎてて逆に大変なくらいですよ。チルノちゃん、フランちゃんを子分扱いしてあちこち連れて回ってるんですけど、フランちゃんもそういう風に接してもらえるのが嬉しいみたいで……なんていうか、その、チルノちゃんが二人に増えたみたいというか」

「あっはは、それはまた」

 

 意外に思い、同時に納得もした。フランは長年の幽閉生活で孤独を味わった弊害なのか、常に誰かの後ろをついていこうとする少女だった。誰かと一緒になにかをするのを、この上なく楽しいと感じる少女だった。そんな彼女にとって、みんなの先頭に立って突っ走るチルノの姿はとても眩しく映ったのだろう。

 小悪魔が目を丸くした。

 

「え。妹様、そんなことになってたんですか?」

「フランから聞いてないのか?」

「ええ。仲良くしてもらってるってしか言ってなかったんで、知りませんでした」

 

 だろうなあと月見は思う。「子分扱いしてもらってるの!」と笑顔で報告しようものなら、過保護お姉ちゃんは光の速さでブチ切れて妖精たちに特攻を仕掛けるはずだ。さすがは妹、姉の手綱の締め方をよく理解している。

 大妖精がため息をつき、

 

「吸血鬼を子分扱いする妖精なんて、初めて見ました……。なので、傍で見てるといつもハラハラドキドキで」

「お互い楽しんでるならいいんじゃないかい。……ただ、そうだね、フランに変な影響がなければいいけど」

 

 たとえばチルノと一緒にいたずらを繰り返すことで、人間を平気で困らせるような性格になってしまうとすると考えものだ。なので月見は、大妖精の頭をぽんぽんと叩いて、

 

「二人のこと、よろしく頼むよ」

「は、はいっ。頑張ります! フランちゃんは無理ですけど、チルノちゃんなら力ずくで止められるので!」

 

 そのときはきっと、撲殺妖精大ちゃんの流星ラリアットがチルノの喉笛を刈り取るのだろう。なぜだろう、気絶したチルノの横で、ごめんなさいごめんなさいと大妖精に平謝りするフランの姿が見える気がする。

 ともあれ、次。

 

「藍は……改めて聞くこともないかな」

「そうかもしれませんね。私と紫様の関係は、月見様が一番よくご存知でしょう」

 

 八雲家のストッパーたる藍の冷酷無慈悲なツッコミで、今日も紫は涙目になったはずだ。

 

「もう一周回って、ダメな紫様が可愛く見えてるくらいですので。月見様の心配には及びません」

「それはなんとなくわかるなあ……」

 

 もしも紫が真面目で手間の掛からない少女だったら、正直に言おう、気味が悪い。紫はもちろん悪い意味でダメではあるけれど、同時にいい意味でもダメなのだ。ダメなところがあるからこそ、一層愛らしくて憎めない。そういう意味では月見も藍も、椛と似たような症状を抱えてしまっているのかもしれない。

 次。

 

「妖夢はどうだ?」

「わ、私ですか? そ、そうですね……」

 

 妖夢は少し考えて、

 

「……とりあえず、幽々子様の食い意地ですかね。それに尽きると思います」

 

 ですよねえ、と妖夢と美鈴を除く全員が頷いた。むしろそれ以外になにがあるのか、みたいな空気だった。

 ミスティアが拳を震わせ、

 

「幽々子さん……私を見るたびに『焼き鳥が食べたいわあ』とか言いさえしなければ、いっぱい食べてくれるいいお客さんなんですけどね……!」

「……」

 

 まさか自分も同じことを考えていたとは口が裂けても言えない月見である。

 

「いくら食べても太らない亡霊なのをいいことに、もうほんとに食べてばっかで。話を聞く限り、生前の幽々子様は小食だったみたいなんですけど……」

「どのくらい食べてるんだあいつ」

「ええと……ひどい時は一日に二回……いえ、三回買い出しに行きますね。買ってきた食材がその日のうちになくなってしまって、次の日の朝食分を買いにいかないといけない時がありまして。それと同じ日に運悪くおやつの買い出しが重なると三回です」

 

 冥界から人里までは決して短い道のりではない。それを妖夢のようなまだ幼い少女が、両手いっぱいの荷物を抱えながら頑張って三往復もしている姿を想像すると、月見はなんだか目元が湿っぽくなってきてしまった。

 

「いっぺんでまとめて買えるといいんですけど、私はそんなに力持ちでもないので……」

「妖夢、そういう時は私のところまで来ていいんだぞ。手伝うから」

「い、いえいえそんなっ、月見さんのお手を煩わせるほどでもないですっ!?」

「いや、充分大変だと思うんだが……」

 

 うんうん、とみんな頷いている。

 

「しかも、それ以外にも白玉楼の庭と、私のところの庭まで手入れしてくれてるじゃないか。それでいつ休んでるんだ?」

「え? ちゃんと夜は寝てますけど……」

 

 ものすごく嫌な予感、

 

「……妖夢、記憶を遡って教えてくれ」

「は、はい」

「最後に休暇をもらったのはいつだ。なお休暇とは、白玉楼で普段している仕事を一切することなく、一日丸々自由だった日を指すものとする」

「それは――」

 

 妖夢は少し考え、

 

「えーっと……」

 

 かなり考え、

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいね」

 

 真剣に考え、

 

「……………………ええと、」

 

 一生懸命考えて、

 

「……お、おじいちゃんから庭師の役目を継ぐ前はたくさん」

「みんな、今度妖夢に休暇を取らせようと思う。異論は?」

「「「ないです」」」

「えぇっ!?」

 

 妖夢が目を丸くして驚いているが、驚愕しているのはこちらの方だ。鈴仙が血相を変えて、

 

「え!? じゃ、じゃあ妖夢って、おじいちゃんから庭師を継いでからは一日も休みもらってないの!?」

「……い、いや、多分、どこかで一日くらいは休んでた……ような気が」

「覚えてないんだったらもらってないのと一緒だよ!」

 

 小悪魔が、「美鈴さんですら月に一日はもらってるのに……」と戦慄している。月見は尋ねる。

 

「ちなみに、妖忌から庭師を継いだのっていつ頃なんだ?」

「えっと……もう十年以上前になりますね」

「……、」

 

 十年以上休みなし。外のブラック企業も真っ青である。

 もはや悩む必要もなかった。

 

「よし。じゃあ今度、私が幽々子に交渉してみるから」

「あ、あの……そこまでしていただかなくても私は平気で」

「駄目よっ!」

 

 鈴仙が間髪を容れずに叫んだ。妖夢の両肩を掴み、ある種の気迫すら宿る大真面目な瞳で、

 

「あのね妖夢、大事な話だからよく聞いて。それは、『ワーカホリック』っていう病気なの」

「えっ……そ、そうなの!?」

 

 妖夢が目を剥く。鈴仙は重々しく頷く。

 

「師匠に教わったから間違いないわ。外の世界じゃあ割と有名な病気で、毎年これで亡くなる人は多いそうよ」

「そ、そんなっ……!」

「……」

 

 ツッコんだ方がいいのだろうか。いや、あながち間違ったことは言っていないのだが、ともかく盛大に勘違いした妖夢がぷるぷる涙目になっていて、

 

「わ、私、死んじゃうの?」

「大丈夫よ」

 

 鈴仙が微笑んだ。あらゆる苦しみから衆生を救済する、釈迦の如き微笑みだった。

 

「ワーカホリックの治療法はとっても簡単。仕事ばっかりしないで、ちゃんとしっかり休むこと。これだけよ。簡単でしょ?」

「な、なるほど……!」

 

 妖夢の涙目から悲嘆と絶望が消え去り、徐々に決意と希望の光が広がっていく。両手を拳にして気合を入れて、彼女は勇ましく叫ぶのだった。

 

「わかりました。……私、休みますっ!!」

 

 周りの少女たちから口々に声援が飛ぶ。応援してるよ。きっと大丈夫だよ。困った時はいつでも相談してね。一緒に長生きしようね――みんなのあたたかな心に囲まれて、妖夢は目元からきらりと一筋、流れ星のような涙を流しながら、笑った。

 

「……」

 

 月見は幻想郷のほのかな闇を垣間見た気がして、なにも言えなかった。

 

「……じゃあ、もし休ませてもらえそうになかったら私を呼んでくれ。説得しに行くから」

「はいっ……! そのときはよろしくお願いします!」

 

 ふと、妖夢はどうやって休日を過ごすんだろうと、月見はそんなことを考える。さすが十年以上いっぺんも休んでいない少女だけあって、家事と庭仕事と剣術以外のことをやっている姿がまるで想像できない。

 まあ、彼女にも趣味のひとつやふたつはあるだろうから、やることがなくて結局仕事をしている――なんてことには、まさかならないはずだ。そうだとも、まさかそんな。

 だから、なんとなーく感じるこの嫌な予感は、ただの杞憂に違いないのだ。

 では、最後。

 

「鈴仙は?」

「やー、私は大したことないですよ。ちゃんと休みももらってますし。たまに姫様からわがまま言われたり、師匠の薬の実験台にされたりするくらいで」

「さらっととんでもないこと言わなかったか?」

 

 実験台とか聞こえたような。

 え、そうですか? と鈴仙はあくまで自然体である。

 

「ああ、実験台ってやつですか? 人間用の薬は姫様、妖怪用の薬は私が実験台にされるんですよ。いや、決して変な薬ではないですよ? まれに飲んだ瞬間記憶が飛んで、気がついたら三日くらい経ってて、幻想郷のどこかにひとりで突っ立ってたりする程度なんで」

 

 断言しよう、一番ヤバい。藍が目を剥いて固まり、妖夢が絶句し、椛が途方に暮れ、小悪魔が頬を引きつらせ、大妖精がぷるぷる震えて、ミスティアがなにも聞かなかったふりをして鰻のおかわりを焼いている。

 鈴仙がふっとニヒルに笑う。

 

「医学の分野では、どうしても生物実験は必要なので……」

「……そうか」

 

 月見はそれしか言えなかった。本能が叫んでいる、これ以上この話題を続けてはならないと。鈴仙から視線を外し、手元の竹のコップを見下ろして、ゆっくりと長い息を吐いた。

 

「なんで、幻想郷の偉い連中はこう――」

 

 従者たちに苦労をかけてばかりなのか。部下をきちんと気遣い、労い、信頼と尊敬を集める優れた主人というのは幻想郷では幻想なのだろうか。これでは、いつ夜逃げされたり退職届を叩きつけられたりしてもおかしくないというか、

 

「それで何年も仕え続けてるんだから、やっぱりお前たちはすごいよ」

 

 本当にそう思う。彼女たち優秀な従者がいてくれるからこそ、その主人たちも辛うじてまともなラインで留まっているのだ。従者たちがいなければ、ストッパーを失った紫があちこちで騒ぎを巻き起こし、仕事を放棄した操によって山の経済が滞り、門番のいなくなった紅魔館は妖精の遊び場と化し、大図書館は書物がまったく整理されていない倉庫と成り果て、お腹を空かせた冥界の掃除屋が人里で猛威を振るい、永遠亭では治療と称して患者が新薬の実験台にされるのだろう。幻想郷の平和を支えているのは、妖怪の賢者でも博麗の巫女でもなく、他でもない真面目で優秀な従者たちなのだ。

 

「お疲れ様。そして、ありがとう」

 

 そう言わずにはおれなかった。彼女たちが頑張って主人の世話をしているから、今の幻想郷は平和だし、きっとこれからも平和なはずだ。月見は彼女たちの主人ではないけれど、それでも敬意を表し、感謝を捧げ、褒め称えよう。

 

「あいつらはみんな、いい従者を持ったね」

 

 心の底から、そう思うのだった。

 

「……いやー、」

 

 しばらく沈黙があって、鈴仙が間延びした声をあげた。

 

「こ、このタイミングでそんなこと言われるとは予想外でした……月見さん、不意打ちはダメですよお」

 

 桜色の頬を、照れくさそうに指で掻いている。見れば、藍は縮こまってそわそわしていて、椛は尻尾がぱたぱたしていて、小悪魔は耳がぴこぴこしていて、妖夢は真っ赤になって髪の毛の先をいじくっている。

 褒めすぎただろうか。いや、そんなことはない。月見は大妖精の頭を撫でる。赤子のようにさらさらな髪である。

 

「本心だよ」

「月見さあん! 月見さんのその優しさを、師匠たちに一割でもいいから分けてあげてください!」

「そうすると私の優しさが合計で七割ほど減るけど」

「やっぱりそのままでいいです!」

 

 というか、このくらいは優しさでもなんでもなく、至って真っ当な気遣いの内だろう。事実として彼女たちは、称賛されるべきだけのことをしているのだから。

 

「――づぐみざああああああああんっ!!」

 

 寝ていたはずの美鈴がいきなり飛び起きた。隣の小悪魔が小さく悲鳴をあげ、

 

「め、美鈴さん、寝てたんじゃ!?」

「えぐぅっ……おぼろげながら聞いでおりまじだぁ……!」

 

 美鈴はなかなかひどい顔をしていた。涙をぼろぼろ流しながらぐずっと鼻をすすって、

 

「わだじっ、がんどうじまじだぁ……っ! づぐみざんみだいにいっでぐれるひどなんで、づぐみざんだけでずよぉっ……!」

「とにかく顔を拭け」

「ちり紙ありますよー」

 

 ミスティアが美鈴の目の前にちり紙を置く。美鈴は三枚ほど取って、品もなくずびびびと鼻をかむ。

 大妖精がようやく、

 

「月見さん、頭撫でないでください!?」

「……反応遅かったね」

「そ、それは……月見さんがあまりにさりげなく……というか、なんで撫でるんですかっ」

「お前もチルノとフランの面倒をよく見てくれてるから、えらいぞーと思って」

「そ、そうですか? えへへ――って騙されませんよ!? 撫ーでーなーいーでーくーだーさーいーっ!」

 

 そういう割に、大妖精はあまり抵抗していない。意外と満更でもないのかもしれない。

 鼻をかみ終えた美鈴が、

 

「月見さんっ、もっとお話を聞いてください! そして私の傷ついた心を癒やしてくださいっ! もー月見さんだけが私の心のオアシスですよ!」

「美鈴さん、あんまり月見様を困らせちゃ……」

「いや、いいよ」

 

 椛の言葉を遮って、月見は深く息を吸い、腹を括った。妖夢や鈴仙の話を聞いているうちに、考えが変わった。彼女たちの苦労は月見の想像を超えていた。だから彼女たちの心労を少しでも和らげることができるなら、今日一日愚痴に付き合う程度はなんてことないと思った。

 

「今夜はとことん付き合おうじゃないか」

「さっすが月見さんですっ!」

 

 美鈴が諸手を挙げて喜び、ミスティアが朗々と叫ぶ。

 

「はーいっ、おかわり焼けましたよー! 鰻もお酒もまだまだあるんで、どんどん盛り上がっていきましょーっ!」

「いえーっ!!」

 

 はてさて、今日はいつまで呑み続けるのだろう。魔法の森の近くだけあって周囲はひどく静まり返っているけれど、『八目鰻』の提灯を垂らすこの屋台だけが、まるで縁日のように騒がしい。

 首を回すと、コキコキと小気味の良い音がする。それから、いえーいえーと元気すぎる二人についていけない少女たちと目が合って、くすりと笑う。

 宴はまだ終わらない。

 その後月見はおよそ日付が替わる夜更けまで、従者たちの苦労をいたわり、頑張りをねぎらい、今より少しでも待遇が改善されることを祈りながら過ごした。

 

 ただ、後日聞いた話によれば。

 従者たちはみな、月見と一緒に酒を呑んだなんてズルいと、主人や上司から揃って文句を言われたそうである。

 自分だって、よく水月苑にけしかけて呑んでるくせに。

 まったくもって、是非もなし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第80話 「銀髪兄妹里歩き ①」

 

 

 

 

 

 幻想郷の従者たちは、みんな偉い。

 紅魔館の家事をテキパキ取り仕切る咲夜をはじめ、大図書館の整理整頓を役目とする小悪魔、みんなにいじられてもめげない美鈴、おバカな主人のストッパーを務める藍、毎日天魔と追いかけっこをする椛、薬の実験台にされている鈴仙、従者となってこの方休みをもらったことがない妖夢など。幻想郷で誰かの部下として頑張っている少女たちは皆、日頃から尋常ではないほど苦労を重ねている。たとえ本人にその自覚がないとしてもだ。

 よく体調を崩さないものだと思う。人間ならもちろんのこと、妖怪だって、ストレスが限界を超えれば胃に穴が空き心身に異常を来す。疲れた素振りなどちっとも見せず、出会えばいつも笑顔で挨拶をしてくれるその健気な姿は、感心を通り越して畏敬の念すら月見の心に湧き上がらせる。

 並の従者なら、とっくの昔に夜逃げしているはずなのだ。

 だからその日の朝も中頃、パンパンに膨らんだ風呂敷を背負ってやってきた妖夢の姿に、月見はなにを言われるまでもなく一発で事態を理解した。

 

「妖夢……遂に幽々子に愛想を尽かしたんだな? わかった、あいつとは私がじっくり話をしておくから」

「ち、違いますよ!?」

 

 どこからどう見ても、必要最低限の荷物だけを持って職場から逃げ出してきたとしか思えないのだが。

 太陽がほどよく高くなり、月見がそろそろ出掛けようかと考え始めていた朝だった。幻想郷もいよいよ秋のはじめに突入し、日がな一日ぽかぽか陽気でとても過ごしやすくなってきている。間もなく木々は赤色黄色の雅な衣をまとい、多くの果実を実らせるだろう。暑さが苦手な人にも寒さが嫌いな人にもちょうどよい、数多の生き物を癒やす恵みの季節である。

 そんな恵みの季節になって早々、この少女は夜逃げみたいな恰好でなにをしに来たのかといえば、

 

「この中身は白玉楼のお菓子です。私の留守の間に、幽々子様に食べ尽くされてしまってはたまりませんので」

「ふむ?」

「今日は私、初めてのお休みを頂けたんです!」

 

 妖夢がきらきらした目でそう言ったので、月見はああと納得した。先日ミスティアの屋台で開催された、幻想郷苦労人同盟の呑み会を思い出す。

 

「ちゃんともらえたんだね」

「はい! 『わーかほりっく』の危険性について一生懸命訴えたら、幽々子様もわかってくれました!」

 

 いろいろと誤解がありそうな気はするが、どうあれ、妖夢が休みをもらえたのはよいことだった。ゆっくり羽を伸ばしてほしいと思う。祖父より今の務めを継いで以来初めての休日に、彼女の瞳は夢と希望と活力で漲っているのだった。

 

「それで、どうして私のところに?」

 

 妖夢は夢と希望と活力が漲る笑顔で言う。

 

「はいっ。いい機会なので、ここのお庭をまとめて手入れしようと思いまして!」

「なに?」

 

 月見は思わず、

 

「すまない妖夢、もう一度言ってくれるかい」

「え? ……いい機会なので、ここのお庭をまとめて手入れ」

「ダメだ」

「なんでですか!?」

 

 むしろ本気で言っているのかこの少女は。

 

「妖夢。今日の休暇にあたって、お前がやっていけないことは五つある」

「は、はい」

 

 月見が真剣な面構えで語りかけると、ただならぬものを感じた妖夢はぴんと背筋を伸ばした。月見は人差し指を立て、

 

「ひとつ、白玉楼の家事」

「はい」

「ふたつ、幽々子の身の回りの世話」

「……はい」

「みっつ、買い出し」

「は、はい」

「よっつ、剣の修行」

「……」

「そしていつつ。庭仕事だ」

「じゃ、じゃあ私はなにをすればいいんですか!?」

 

 妖夢が途方に暮れた様子で叫んだ。それが冗談や演技には見えなかったので、ようやく月見は事の重大さに気づき始める。

 

「思いっきり遊んで羽を伸ばせばいいだろう。趣味のひとつやふたつ、」

「わ、私の趣味は剣のお稽古と、庭のお手入れです」

 

 まさか、この少女、

 

「……ほら、たまにはぱっと金を使って、人里で美味しいものを食べるとか」

「そ、そんな勿体ないことできません!? 贅沢は敵です!」

 

 まさか、

 

「……お前、今日一日なにをして過ごすつもりだったんだ?」

「えっと……とりあえず、昼間のうちにここのお庭をできるだけお手入れして」

 

 この少女、思っていたより深刻かもしれない。

 

「わかった。妖夢、もういい」

「ああでも、広いお庭なので夜までかかっちゃうかも……え、どうかしましたか?」

 

 どうしたもこうしたもあるか。月見は笑顔で告げた。

 

「私と遊びに行くぞ」

「……へ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「え!? えぇ!?」としどろもどろな妖夢を半ば強引に連れ出して、現在地は人里へ移る。

 たくさんのお店が軒を連ねる大通りは、今日も里人の輝かしい活気で満ちていた。八百屋や道具屋の客引きの声が途切れることなく響き、甘味処や定食屋が昼に向けた仕込みに奔走している。竹の買い物カゴを片手に大人たちが談笑し、寺子屋を卒業したばかりの子どもがあたりを走り回って遊んでいる。まるで里に住む者すべてが家族であるかのような賑わいは、月見がやってきた半年前からちっとも変わっていない。

 さてその賑わいの隅っこで、月見は小さな井戸端会議を形成していた。なにはともあれ、まずは作戦会議である。朝の買い物をしていたらしい天子と、ちょうど近くにいた男女数名を捕まえて、

 

「……というわけで、なにかいいお店でも知らないか?」

「うーん……」

 

 問われた天子が、口元に人差し指を当てて考え込んだ。両腕でぶ厚い紙の束を抱え、肘からは筆記用具が入った紙袋を提げている。今やすっかり人里の一員となった天使先生にとって、寺子屋で使う道具の買い出しは立派な仕事のひとつなのだ。

 なのでこのあたりのお店に関しては月見より断然詳しいはずなのだが、いかんせんその表情は芳しくない。

 

「一言でいいお店っていっても……妖夢は普段どんなところに行ってるの?」

「え、えっと……八百屋さんとかお豆腐屋さん、お菓子屋さんなんかはよく使います。買い出しで」

 

 みんなに囲まれて、妖夢は若干肩身が狭そうにしている。

 

「あとは、白玉楼のお庭用に花屋さんや道具屋さん……とか」

「それって、要するに仕事でってことよね? ……遊んだりするときは?」

「そ、それは……」

 

 目を逸らし、

 

「……そ、その、そういうのはちょっとよくわからない……です」

「……えっと」

 

 人里は、基本的には文明開化以前の古き佳き町並みが残る場所だけれど、外来人の影響でそれ以降の文化がいろいろ持ち込まれてもいる。たとえば定食屋と客取り合戦を演じる洒落た洋食屋、和菓子屋の隣で暖簾を垂らす懐かしい出で立ちの駄菓子屋、ほろ苦い珈琲の香りを漂わす喫茶店、明らかにコンビニを意識した雑貨屋などは里人から大層評判だし、本屋では外の本が並んだり、呉服屋では洋服が飾られたり、舞台では歌舞伎や能楽と一緒に演劇が上演されたりもする。土地の小さい里ではあるけれど、決して遊んで回る場所まで少ないわけではないのだ。美味しいものを買い食いしつつお店を巡るだけで、一日くらいは簡単に潰せる。

 しかし、魂魄妖夢を甘く見てはならない。彼女は白玉楼の庭師に就任して以来休みなしであり、そんな労働環境を一切疑問に思っていなかった筋金入りのワーカホリックである。仕事以外の用事で店に入ったことなど、一度もないのではないか。あったとしても多くはあるまい。

 少し黙っていた天子がまた、

 

「えっと、美味しいものを食べたり」

 

 妖夢は即答する。

 

「しないですね。自分で作った方が安く済みますから」

「……いろんな服を買ったり」

「いろいろ買ってもどうせ着ないので、必要以上には買わないようにしてます」

「……本とか」

「私は体を動かす方が好きなので……」

「お、お芝居を見たり!」

「おじいちゃんは好きだったみたいですけど」

「……う、歌を詠むとか」

「そういうのも特には……」

 

 天子がだんだんしょんぼりしてきた。

 周りの里人たちも、腕を組んで複雑そうな顔をしていた。

 

「そういえばあたし、妖夢ちゃんが買い出し以外でここに来てるの見たことなかったねえ。なるほどそんな事情があったのかい……」

「まさか、一度も休みをもらったことがないなんてなあ」

「妖夢ちゃんくらいの子なら、まだまだ遊び足りない年頃だろうに」

 

 うーむ……と、里人も月見も天子も、みんなが低い声で唸る。

 妖夢が慌てて、

 

「あ、あの、私そんな、特に遊びたいとか思ってるわけじゃないです。むしろまだまだ半人前なので、もっと修行しないといけないくらいで」

「うーん、そいつはどうかねえ」

 

 この面子の中では一番皺の目立つ女が、眉間の皺をますます深くした。

 

「妖夢ちゃんくらいの歳じゃ――まあ、実際のところはあたしとどっこいどっこいなんだろうけどね。それはともかく、遊んだことがないってのはどうかと思うよ。あたしら人間にとっちゃ、若いうちに遊ぶのも立派な修行のひとつさね」

「そ、そうなんですか?」

 

 妖夢が目をしばたたかせた。そんなの考えたこともなかった、と言うような反応だった。

 

「ま、遊んだ経験が生きていく上で役立つことなんてほとんどないけどね。でもだからって、決して無意味ってわけじゃない。人の心ってのは、遊ぶ経験を通しても成長するもんなんだよ。ねえお狐様」

「は? ああ、うん、そうだとは思うけど」

 

 なぜそこで妖怪の月見に振るのか。あながち間違いでもないだろうから頷いておくけれど。

 女は我が意を得たりと笑い、

 

「ほら、お狐様もこう言ってる」

「そうなんですか……。知らなかったです。まだまだ勉強が足りませんね」

 

 純粋な妖夢は早くも真に受け始めている。女は更に畳みかける。

 

「それに、たまに思いっきり息抜きすることで違ったものが見えてくることもあるしね。ただの遊びと侮ることなかれ、何事も無駄にはならないもんだよ。経験することが大事さ、ねえお狐様」

「その『お狐様』ってなんだい」

「やだねえ、あたし知ってるよ、狐は神様の使いなんだろう? だから『お狐様』だよ」

 

 いや、神の使いは稲荷であって妖狐とは別モノなのだが、というかそんな誤解をしているのはルーミアだけだと思っていたのに何故人里で、

 

「というわけで、試しに今日一日、仕事のことは忘れて遊んでごらんよ。人生経験を積むのは立派な修行だろう?」

 

 ……まあ、彼女がいい具合に妖夢を丸め込んでくれそうなので、今は黙っておこう。妖夢はすっかり「それもそうかもしれない」という顔で考え込んでおり、

 

「そう……ですね。確かに、剣を道を進むことだけが修行ではないですよね……」

「そうさね」

 

 女が二度力強く頷いて、揺れ動く妖夢の心にトドメを刺した。

 

「だからほら、今日は思いっきり楽しんでおいで」

「……はいっ。貴重なお話、ありがとうございました!」

 

 こういう女の子がセールスや宗教のペテンに引っかかって痛い目を見るんだろうなあと月見は思う。

 

「それじゃあ回るお店だけど、この先にある駄菓子屋なんかどうだい? 外来人のお婆さんがやってる店でね、駄菓子以外にも外から流れ着いたっていうおもちゃが置いてあるんだよ。自由に遊べるようになってるから、いっぺんやってみるといい」

 

 里人たちは、口々にいろんなお店を教えてくれた。どんなお店がいいのかは皆目見当もつかないので、とりあえず手当り次第だった。あそこの喫茶店は他にない珍しい食べ物を置いてるとか、今日の何時から一風変わった演劇が上演されるとか、つい最近どこどこにおもしろいものができた、あそこの裏メニューは実に美味い、お洒落をしたいならあの店で決まり、ここの何々は見ておく価値がある、どこの某が最近開いた店は評判がよくってな、エトセトラエトセトラ。

 ひと通り出揃ったところで、月見は話をまとめた。

 

「よし、それじゃあのんびり回ってみようか」

「わかりましたっ」

 

 遊ぶと聞いてはじめはあまりいい顔をしていなかった妖夢だが、今はすっかり乗り気になっている。なかなかいい感じだった。これで、残された唯一の懸念といえば、

 

「あ、でも私、お金はあまり……」

「ああ、それなら気にしないでいいよ。私が出すから」

「へ!?」

 

 背筋をピンと伸ばしたその反応を見るに、やはり彼女はぜんぶ自分で払うつもりだったようだ。

 甘い。今日は他でもない妖夢のための休日なのだから、お金のことなど気にせず思いっきり楽しむべきである。お財布の具合なんてものは月見に丸投げしておけばよろしい。

 

「なにかほしいものとかあるか? よほどのものでなければ言ってごらん」

「や、やっ、それはとてもありがたいお話ではあるのですが、月見さんにそこまでしてもらうのは」

「いいじゃないかい、妖夢ちゃん」

 

 またあの女だった。

 

「男のこういう申し出はありがたく受けとくもんだよ。思いっきり甘えちゃいな」

「は、はあ……」

 

 半信半疑な妖夢の横で、天子がなにやら羨ましそうな顔をしているのは――あまり気にしないでおこうと思う。

 

「じゃ、行くよ」

「は、はいっ。……あの、つ、月見さん」

「ん?」

 

 さっそく歩き出そうとした月見の背を妖夢が呼びとめた。月見が振り返ると、妖夢は緊張で赤くなった顔を隠すように深く頭を下げて、力いっぱい叫ぶのだった。

 

「不束者ではありますが、よろしくお願いしますっ!!」

 

 ざわ……! ざわ……! 騒然とする大通り。

 きっと、本日はお世話になりますとでも言いたかっただけなのだろう。しかしそれが緊張のあまり不束者になってしまうあたりはなんとも妖夢らしいし、勢いのあまり大通りの端まで届くような大声になるあたりも妖夢らしいし、つまりは現在、あらぬ誤解が凄まじい速度で人里中を伝播していっているのであり、

 やはりあの女が、

 

「――そうだね。ま、いっそそういう関係にでもなったつもりで」

「うわあ――――――――――――っ!?」

 

 ようやく己の過ちに気づいた妖夢が情けなく絶叫する。

 せっかくの休日だが、まずは、ざわつく里人たちの誤解を解いて回るところから始めなければならなかった。

 寺子屋そっちのけでやたら一生懸命協力してくれた天子の姿が、妙に印象的だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うう、ひどい目に遭いました……」

「お前は勢いで喋る前に、一旦立ち止まって冷静に考える余裕を持つべきだね」

「肝に銘じます……」

 

 あらぬ誤解を解き終わり、やけに達成感のある顔で寺子屋に戻っていった天子と別れ、月見と妖夢は里のこぢんまりとした駄菓子屋を前にしている。

 例の女が口に出していた、外来人の老婆が営んでいる駄菓子屋である。

 月見はこの店を知っている。天子がやってくる前は子どもたちの遊び相手を務めさせられるのも少なくなかったので、その一環で訪ねたことが何度かある。今は客はいないようだが、もうしばらくすれば寺子屋帰りの子どもたちで大層賑わうのだ。

 見てくれはいかにも昭和のそれで、里では珍しいガラス張りの引き戸を通して店内が覗き見できるようになっている。飴玉や一口サイズの煎餅、きなこ餅、麩菓子などが木箱に入って陳列されている。材料が手に入らない都合で仕方ないのだろうが、駄菓子の品揃え自体はそう大したものではない。それよりも目を引くのは、壁に引っ掛けられたり天井から吊り下げられたりしている、笑ってしまうほど懐かしいおもちゃたちだった。

 忘れ去られたものが流れ着く幻想郷だからというのもあるし、ここの老婆がなにかと経験豊富で、大抵の遊び道具は手作りしてしまえるのだ。お手玉やおはじき、独楽、竹で作った水鉄砲、空気鉄砲、竹とんぼにけん玉にでんでん太鼓と、駄菓子よりずっと品揃えがいい。今挙げたのはどれも有名なおもちゃだが、中には月見ですら名前を知らないようなものもある。駄菓子屋というよりかは、小さなおもちゃの博物館みたいな店なのだった。

 妖夢を連れて店内へ入る。奥の座敷へ続く小上がりでは、骨董品みたいな老婆がちょこんと正座し、そこだけ時間の流れが違うのではないかと思うほどゆったりのんびりお茶をすすっている。

 月見が店内を半分進んだところで、老婆が「あらあらまあまあ」と顔を上げた。年老いた猫が鳴いたような声だった。

 

「その長ぁい尻尾、ひょっとして月見さんかしら」

「そうだよ。しばらく振りだね――ああ、いいよわざわざ立たなくても。腰に響くだろう」

 

 老婆はそれでも立ち上がろうとしたが、案の定響いたらしく、苦笑いをしながら腰を下ろした。

 

「いやだわ、こんな近くにいらっしゃるまで誰だかわからなくって。お久し振りですねえ」

 

 座敷の時計を見て、

 

「でも、寺子屋が終わるにはまだ早いけれど」

「子どもたちの相手は、もう天使先生の仕事だよ」

「ああ、そうだったわねえ。じゃあ、今日はどんなご用でいらっしゃったのかしら」

「この子の付き添いだね」

 

 妖夢は、月見の少し後ろで物珍しそうにあたりをキョロキョロしている。見たことないものばっかりだと顔に書いてある。

 老婆は、今になって初めて気づいたようだった。

 

「あらあら、随分とかわいらしいお客様だこと」

「へあ!?」

 

 ストレートな褒め言葉に弱い妖夢は見事に飛び跳ね、

 

「い、いえ、私はそんなかわいくなんか……」

「髪の色が月見さんにそっくりねえ。ふふ、月見さんの妹さんかしら」

「違います!? 髪の色なら咲夜さんの方がそっくりです!?」

「妖夢、そういう話じゃないと思うよ」

「ごめんなさいっ!?」

 

 月見の記憶が正しければ、妖夢は勢いで喋る前に一旦考える余裕を持つと肝に銘じたはずだが。

 老婆は、まるで孫に会ったみたいな笑顔だった。

 

「ふふふ。なぁんにもないところだけど、どうぞゆっくりしていってね」

「そんな、なにもないだなんて。私が見たことないものばかり置いてあって、すごいと思います!」

 

 妖夢が力強く言い切るが、老婆はそれよりも前の部分を不審に思ったらしい。

 

「見たことないものばかり……? 変ねえ、ぜんぶがぜんぶじゃないけど、里では人気のおもちゃたちよ」

「ああ。それは、私がこの子を連れてきた理由と絡むんだけどね」

 

 月見がこの店にやってくるまでの顛末を掻い摘んで説明すると、老婆はなんとも大袈裟に相槌を打って、

 

「あらあら、そうなの。じゃあ、どうぞお好きな玩具で遊んでいって。お代は別に結構だから」

「えっ……いいんですか?」

「いいのよ、ここはそういうお店だから」

 

 妖夢が半信半疑の目で店内を見回す。ただ単に駄菓子とおもちゃを並べているだけの店ではない。商品が置かれたスペースとは別に、独楽を投げて対決させる土俵、射的の的をズラリと並べた台など、おもちゃで自由に遊ぶための場所が用意されている。むしろ、店としてはそちらの方が本命なのだ。

 

「寺子屋帰りの子どもたちが、手軽な値段で駄菓子をつまみながら遊んでいくところなんだよ」

 

 それぞれの駄菓子を入れた小箱には、小綺麗な文字で値段が書かれている。それを見た妖夢が目を剥き、

 

「えっ、や、安い……! こんなに安くして大丈夫なんですか!?」

「駄菓子は安いものよ。でも、儲けがあるかという意味では、あんまり大丈夫じゃないわねえ」

 

 そりゃあそうだ。安い原材料を使い機械で大量生産できる外の世界とは違って、人里では材料の確保も製造もすべて自分の手でやらなければならない。しかも、単価が安いから儲けるためには数を売らなければならない、いわゆる薄利多売の商売である。子どもたちが毎日元気に外で遊んでいる分だけ、今時の外の世界よりかはよっぽど客は多いだろうが、それでも家族を養っていけるほどの儲けはまず出ないはずだ。

 

「でもいいのよ。儲けたくてやっているわけじゃないんだもの」

 

 労力と利益があまりに見合わないから、お金欲しさでやるような商売ではない――それは裏を返せば、老婆が売上以外の目的でやっているということになる。

 

「子どもが好きなの。だからおもちゃを置いて、自由に遊べるようにしてるのよ。子どもたちが私のお店で元気に遊んでくれるなら、それで充分。お金の方は、息子が立派に稼いでくれるようになったから」

 

 きっと、駄菓子屋の店主とは皆そうであるはずだ。子どもが好きでなかったら、そもそも駄菓子を売る商売など考えもしないはずだから。駄菓子屋とは、大人が子どもを想う気持ちから生まれ、営まれていく店なのだ。

 感受性が豊かな妖夢は、すっかり感心しきっていた。

 

「そうなんですか……」

「そう。だからほら、どうぞ遠慮なく遊んで頂戴。お客さんが笑顔で楽しんでくれることが、私にとっては一番の『儲け』なのよ。遊び方は月見さんが教えてくれるわ」

 

 妖夢がどれから遊んだものか悩んでいるようだったので、月見は一角にある射的の台を指差した。

 

「悩んでるんだったら、まずは射的でもやってみないかい」

「射的ですか……わかりました、やってみます!」

「ちなみに射的っていうのはね、」

「射的くらいはさすがにわかりますからね!?」

 

 的へ向かって左手には、使用する銃が置かれたスペースがある。老婆お手製の空気鉄砲に交じって、外の世界では定番なコルクガンも二丁だけだが置かれている。香霖堂に並んでいたものを慧音が買い取り、このお店へ寄付したものだ。はじめは壊れていて使い物にならなかった――だからこそ霖之助も慧音に売り払った――らしいが、老婆の職人技によって修復され、今では新品同然の輝きを取り戻している。

 せっかくなので、このコルクガンを使ってみることにする。月見はいつも老婆と一緒に子どもたちを見守る側だったので、実際にやってみるのは初めてだった。

 妖夢にコルクガンを手渡す。

 

「使い方は簡単。銃口にコルクを詰めて、あとは撃つだけだよ」

「こ、こう……ですか?」

 

 月見の見様見真似で、妖夢がうんしょうんしょと銃口にコルクを押し込む。なんとも危なっかしい手つきである。間違って引鉄を引きやしないかと不安だったが、いくら妖夢でもそこまでおっちょこちょいではなかったようで、何事もなくコルクをはめ終え、「次はどうするんですか?」といった顔で月見を見上げる。

 どうするもなにも、あとは撃つだけだ。位置は、的から三メートルほど離れたところに線が一本引かれている。たったそれだけの距離とはいえ、実際に銃を構えてみると案外遠い。妖夢も同じことを感じたようで、

 

「こ、こうして見ると意外と距離がありますね」

「もっと近くから撃っても大丈夫よ」

 

 お許しがもらえたので、月見は素直に一歩前へ出た。少し迷ってから妖夢も続く。

 的を置く台は三列の雛壇になっていて、それぞれの列では老婆お手製の的が「俺様に当てられるもんなら当ててみな」といった風格で勇ましく屹立している。一点、三点、五点、十点の四種類があり、点数が高いものほど的は小さくなる。手前の列は点数の低い的がほとんどで、奥に行くほど高いものが増えていく。要するに点数の低い的ほど当てやすく高いものほど当てにくい、単純明快なギャンブルを迫る構成だった。子どもたちはよく、どちらが高い点数を取れるかで熱い勝負を繰り広げている。

 

「構え方は人それぞれだけど、こんな具合で、左手を銃身に添えて支えるのが基本かな」

「ふむふむ……」

「で、あとは自分の狙いを信じて――撃つ」

 

 月見は引鉄を引いた。ポンッと小気味よい音がして、放たれたコルク弾がなかなかいい勢いで飛んでいく。一番手前の列にある的を狙ったのだが、コルクは理想の二センチほど隣を通り過ぎて、そのままぽとりと床へ落ちた。

 つまりは、ダメダメであった。

 

「外しちゃったかあ。これで当たれば、ちょっとは恰好がついたんだけど」

「い、いえ、そんな。ちゃんと恰好よかったで――」

 

 そこまで言った妖夢はやっちまった顔で、

 

「じゃ、じゃあ次は私の番ですねっ!? そうですよね!?」

「……そうだね」

 

 妖夢の自爆癖は、やはり一生治らないのかもしれない。

 妖夢がわたわたと銃を構える。そんな慌てながらでまともな照準ができるはずもないのに、彼女はすぐさま、月見同様手前の的に銃口を向けると、

 

「え、えいっ」

 

 そのまま撃った。コルク弾は見事雛壇の縁に命中し、斜め上へ跳ね上がって、妖夢の頭にぽこんと当たって床に転がった。

 沈黙、

 

「……」

「……えーっと」

 

 妖夢が銃を構えた恰好のまま石化している。しゅうしゅうと湯気を上げ始める。

 月見はとりあえず、

 

「まああれだ、すごいじゃないか。ある意味才能があるかもしれないぞ」

「こんな才能要らないですーっ!?」

 

 うわー! と妖夢は頭を抱えてうずくまり、

 

「い、今のはなかったことに! お願いですから忘れてくださいっ!?」

「ごめん、網膜に焼きついてる」

「わあああああん!!」

 

 なぜコルク弾であそこまで見事な跳弾ができるのか、月見にはよくわからない。きっと才能が可能にした奇跡の芸当だったのだろう。妖夢以外の子では絶対に真似できないはずだ。

 

「慌てながらやるからだよ。もっと落ち着いて狙ってごらん」

「はぁい……」

 

 妖夢が床のコルク弾を拾い、しょんぼりしながら立ち上がる。銃口にコルクを詰めて深呼吸をし、心機一転、

 

「こ、これからが本番ですからねっ」

「ああ」

 

 銃を構える。狙いは先ほどと同じで一番手前の的だ。十秒掛けてじっくり照準を定め、最後にもう一度ゆっくり深呼吸をして、いざ引鉄を、

 

「ていっ」

 

 結果だけを述べよう。再び見事に跳弾し、今度は月見の頭に当たった。

 

「……妖夢」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!?」

 

 この少女、絶好調である。

 老婆の、それはそれは微笑ましそうな笑顔。

 

「あらあら、なんだかすごいわねえ」

「まったくだね。こんなの誰にも真似できないよ」

「うう、一向に嬉しくないよぅ……」

 

 さすがに三度奇跡が起こるようなことはなかったが、妖夢はお世辞にも上手い方ではなく、三点の的に当てるのが精一杯だった。しかしたった三点でも、

 

「や、やった! 月見さん、当たりました! 当たりましたよっ!」

「ああ、見てたよ。やったね」

「やりましたっ」

 

 月見の袖をくいくいと引っ張り、まるで十点を倒したようにはしゃぐ妖夢の姿を見て、老婆はいつにも増してあらあらまあまあしているのだった。

 ちなみにこのあと妖夢は、「もうコツは掴みましたっ。次も当てますよ!」と自信満々で引鉄を引いて見事に外し、真っ赤な顔を両手で覆ってぷるぷるしていた。妖夢らしいといえば、妖夢らしい気がする。

 

 

 

 

 

 とにかく、この日の妖夢は絶好調だった。

 

「あーっ!?」

 

 投げ独楽。勢いよく投げるあまり変な方向へ吹っ飛ばしてしまい、駄菓子の小箱を粉砕する。

 

「あう、」

 

 お手玉。頭の上に乗る。

 

「ひん!?」

 

 けん玉。おでこにぶつけて涙目になる。

 

「ぎゃー!?」

 

 竹とんぼ。思いっきり飛ばしすぎて、壁にぶつけて壊してしまう。

 

「わあああん!?」

 

 だるま落とし。なぜかことごとくだるま崩しになる。

 

「えい! ……えい! ……えいっ! うぐぐぐぐぐぅっ……!」

 

 めんこ。いくら投げてもひっくり返らない。

 そして、あやとりでなんだかよくわからないモノができあがったところで遂に、

 

「も、もういいです! もうわかりましたっ、私に遊ぶ才能はないんです! 私は剣と庭仕事しかできないダメな女なんですーっ!」

 

 妖夢はグレた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ほら妖夢、美味しい駄菓子がいっぱいだぞー」

「お菓子で機嫌を取れるなんて思わないでください!」

「じゃあ食べないのか?」

「食べないとは一言も言ってないです!」

 

 老婆と一緒に並んで小上がりに腰掛け、小箱から色とりどりの駄菓子を取り出す。早速妖夢がもそもそと頬張り、それを月見と老婆が愛らしい小動物を見る目で眺めている。妖夢の頬がぷっくり膨らんで見えるのは、単に機嫌が悪いからなのか、それともお菓子を頬張りすぎているからなのか。

 怒られた。

 

「そんな顔で見ないでくださいっ」

「ああ、悪い」

「あらあら、ごめんなさい」

「おばあさんは悪くありません。月見さんはダメです!」

 

 理不尽な。

 

「私は知ってるんですからねっ、私があれこれ失敗したとき月見さんがすごく楽しそうな顔してたって! 人の失敗を笑うなんていじわるですっ」

「確かに笑ってはいたけど、それはあれだよ、かわいいやつだなあと微笑ましくだね」

「……そ、そんなところでかわいいとか言われても、ぜんぜん嬉しくないです」

 

 もちろん、真に受けてすぐ赤くなってしまう妖夢である。

 

「でも、いい経験にはなったろう。里の子どもたちはああいうもので遊んでいるわけだね」

「……まあ、そうですね。勉強にはなりました」

 

 妖夢が肩から力を抜き、ため息をついた。どこか自虐的な色を混ぜて。

 呟く。

 

「こんなの、全然知りませんでした。私ってつくづく、仕事以外のことはなんにも知らないで生きていたんですね……」

「それは仕方ないさ」

 

 月見は、一口サイズの小さな煎餅を一枚手に取った。

 

「私だって、妖夢と出会うまでは日本庭園のことをなにも知らなかった」

「……」

「なにもかもを知って生きるなんて、誰にもできっこないよ」

 

 口に放り込む。横から、老婆が「そうねえ」と同意する。

 

「私だってもう随分長生きしたけど、それでも知らないことばっかりだわ。毎日が勉強ね」

「そう……なんですか」

「そう」

 

 月見は煎餅をのみこみ、

 

「だから、そう深刻に考えることもないよ。確かに今までは知らなかったけど、今日知ることができただろう? だったら明日からは違う自分だ。それで問題ないと、私は思うよ」

「……」

 

 妖夢は少しの間、手の中で半分の長さになった麩菓子を見下ろしていた。ゆっくりとした動きで端っこをかじって、むぐむぐと咀嚼し、それから、

 

「……そうですね」

 

 自分とは違う考え方をする月見を、羨むような笑みだった。

 

「そういう風に考えた方が、楽しいですよね」

 

 吐息、

 

「まったく、月見さんには敵いま」

 

 ぐぐう。

 腹の音だった。

 妖夢の、腹の音だった。

 なかなか技アリのタイミングであった。

 

「「「……」」」

 

 痛々しいまでの沈黙。妖夢の笑顔がすっかり引きつって、決壊寸前でぷるぷる震えている。なにかを言わなければならない。言わないと妖夢が泣く。なので月見は機転を利かせ、

 

「……お前、幽々子に似てきたんじゃないか?」

「いやああああああああっ!!」

 

 妖夢が小上がりから転げ落ちた。地べたに座り込んで、自分の腹を拳でガスガス殴る、

 

「どうしてっ、どうしてこのタイミングでお腹が鳴るんですかっ、どうしてこんなに空気が読めないんですか!? 確かにお腹は空いてますよ、お昼時ですもんねっ、でもお菓子を食べてなお鳴るなんてこれじゃあ本当に幽々子様みたいじゃないですかあああああ私のお腹のばかあああああぅえほっけほっ」

 

 しかも思いっきり殴りすぎてむせている。

 

「……」

 

 月見はぼんやりと思う。もちろん、妖夢が常日頃から、天然というかドジっ娘というか、失敗が多いタイプの女の子であることは知っている。しかし、それでも、果たしてここまでひどかっただろうか。本当に絶好調である。なんというべきか、とにかく、これではもはや紫や操にも引けを取らない。

 あの二人と同レベルとは――なんだかだんだんと妖夢が哀れに見えてきた月見だが、老婆だけが「あらあら」とまったく動じていない。

 

「じゃあ、そろそろお昼を食べてらしてはどうですか?」

「そうだね。そうしようか」

「うう、至極真っ当な反応がかえって辛いよぅ……」

 

 月見は立ち上がって、しょんぼりしている妖夢の肩を叩いた。

 

「ほら、行くよー」

「あっ、待ってくださいまだお菓子が、」

 

 妖夢は食べかけの麩菓子を残らず口に突っ込んで、お茶で一気に流し込む。ごちそうさまでしたっと湯呑みを返すと、老婆が、

 

「気に入ったおもちゃはあった? なんだったらお土産に持って帰ってもいいのよ」

「い、いえそのっ、幽々子様に笑われる未来が丸見えなので遠慮しておきます!」

「けん玉とかいいんじゃないかい」

「絶対に嫌です!!」

 

 と、まあ。

 そんなこんなで、一軒目のお店から大変濃密で有意義な時間を過ごすことができた。

 

「せっかくだし、食べ歩きでもしてみようか。出店でいろいろ売ってるしね」

「食べ歩きですかあ……やったことないです」

「じゃあ決まりだ」

 

 さて、妖夢には悪いけれど――。

 次の店ではどんな騒動を見せてくれるのだろうと、ちょっぴり期待し始めてしまっている月見なのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第81話 「銀髪兄妹里歩き ②」

 

 

 

 

 

 人里の通りは、毎日が縁日みたいなものだ。その場で買ってその場で食べられる、持ち帰り前提のお店がいろいろ軒を連ねている。品揃えは豊富で、団子や饅頭のお菓子類から始まり、油揚げ、天麩羅、焼きおにぎりなどなどが店先を色とりどりに彩る。しかも店員も客も実に活気がいいものだから、ただ歩いているだけでこっちまで楽しくなってくる。

 はじめは、二人分のお代を払う月見に申し訳なさげな妖夢だったけれど。

 当てもなく店をいくつか回り、だんだんとお腹も膨らんでくる頃には、それも吹っ切れたのかすっかり感心しっ放しになっていた。

 

「こんなにいろんな食べ物が売ってたんですねー……知らなかったです」

 

 魂魄妖夢は食べ歩きをしない。それ自体は別に悪いことでもなんでもないが、ともかく原因は白玉楼の食事事情である。出来合いのものを買うと、食材から自分で作るよりどうしてもお金が高くつく。西行寺幽々子という健啖家が支配する白玉楼において、余計な食費をかければ家計はあっという間に炎上する。よって妖夢は必然的に、「買い歩きをするくらいなら自分で作って安く済ませる」という超経済思考な女の子へと成長したのである。

 そんな妖夢にとっては、食べ歩き云々より、そもそもお金を出して食事をすること自体が新鮮だったようで、

 

「なんだか、里の様子がいつもと違って見えます」

 

 すれ違う人々を眺める妖夢の口元には、ほのかな笑みの形があった。

 

「私が今まで見てきた里の姿は、ほんの一部分でしかなかったんですね」

「たまには悪くないだろう、こういうのも」

「はい。あの女性の方が言っていた言葉の意味が、ようやくわかってきました」

 

 新しい経験は新しい視野を生み、新しい視野は見慣れた景色をまた違った姿で見せてくれる。

 

「確かに、この経験がこれからの人生で役に立つとはあまり思えないですけど。でもなんだか、今までの半人前な自分から一歩前進できた気がします」

「……そうか」

 

 いや、それはさすがに気のせいだと思うのだが――敢えては言うまい。

 

「さて、次はどうする? もう少し、なにか食べてみるか?」

「そうですねえ……」

 

 食べ物を扱う店にとっては、今がこの日一番の書き入れ時だ。あっちでもこっちでも出来立ての匂いをガンガン飛ばして、まるで容赦なく道行く人々を誘惑している。もう少し、あとちょっとだけと言い訳しながら、ついついいつまでも食べ続けてしまいそうだ。月見は別にそれでもいいのだが、しかし、それだと後日体重計に乗った妖夢が悲鳴をあげるかもしれない。

 妖夢と一緒に目移りしていると、突然名を呼ばれた。

 

「月見ーっ!」

「ん?」

 

 わいわいと賑やかな大通りの喧噪を通り抜けて、鈴のようによく響く声だった。月見が声の主を捜すと、たい焼き屋の前でぴょこぴょこ手を振っている少女がいる。瑞々しく揺れる緑の髪と赤いチェックのスカートが、青空の下ではまるで一輪の花そのものに見える。

 

「おや、幽香」

「こんにちは!」

 

 子ども顔負けの元気な挨拶だった。

 妖怪の巷では強大な大妖怪として、そして人間の巷ではお花が大好きな女の子として知られている、フラワーマスターこと風見幽香である。夏が過ぎ去ると同時に幻想郷放浪の旅を終えた彼女は、この頃は人里でもよくその姿が見かけられるようになっていた。里の花屋へ顔を出しに行く途中か、はたまたその帰り道か。トレードマークであるおしゃれな日傘は、大通りでは邪魔になるため綺麗に畳まれている。

 ちょいちょいと手招きをされたので、月見は妖夢を連れてたいやき屋に向かった。風見幽香は大変な友達依存症だ。一度名を呼ばれ手招きをされた以上、これを無視すれば笑顔の鉄拳制裁が待っている。

 妖夢の姿に気づき、幽香が小首を傾げた。

 

「あら? 冥界んとこの庭師じゃない」

「こんにちは、幽香さん」

「ええ、こんにちは。……どういう風の吹き回しかしら、あなたが男を連れて歩くなんて」

「い、いえ、むしろ私が連れていただいているというか」

 

 これまでの顛末を妖夢が説明すると、幽香はふーんと喉だけで相槌を打った。

 

「そういうこと。あなたらしい話ね。どうせ、普段から家事か庭仕事か剣の修業しかしてないんでしょ」

「お恥ずかしいです……」

 

 幽香だって、普段から花の世話しかしていないような気もするが――口にはしない。風見幽香の扱い方その一、『揚げ足取りをしてはならない』である。

 

「それで、お前はここでなにを?」

「なにって、これよこれ」

 

 幽香はたい焼き屋を指差し、

 

「美味しそうだから買って帰ろうと思って。……なによその顔は。私だってお菓子くらい食べるわよ」

「まあ、そうだけど」

 

 しかし、人里でたい焼きという庶民のお菓子を買い食いするのは、彼女が志す『クールビューティな大妖怪』にふさわしいのだろうか。ふさわしいのだろう。風見幽香の扱い方その二、『子ども扱いをしてはならない』である。

 

「ところで月見。あなた、私が作った花壇の手入れはちゃんとしてる?」

「水は毎日やってるよ」

「よろしい。今度手入れしにいくからよろしくね」

 

 いきなり、

 

「……ちょっと待ってください。それ、なんの話ですか?」

 

 妖夢だった。人が変わったように真剣な目つきで、

 

「まさかとは思いますが……その花壇、水月苑のお庭に作ったとかじゃあ」

「まさかもなにも、そうに決まってるでしょ。それ以外のどこに作るのよ」

「――……」

 

 妖夢が二の句を失い硬直する。ここまで来れば月見にもわかる。幽香が花壇を作ると言い出したとき、月見の心の片隅で薄ぼんやりと生まれた不安の種が、いよいよ芽を出してしまったのだ。

 

「――月見さん」

 

 振り向いた妖夢は笑顔だった。けれどその瞳は、まったくといっていいほど笑っていなかった。

 

「ちょっと急ぎの用事ができました。すぐ戻りますので、ここで幽香さんと待っててくれますか?」

「……ああ」

 

 有無を言わせぬ凄みがある。幽香が眉をひそめる。

 

「なに、私も?」

「幽香さんにも関係する大事なことなんです。大丈夫です、本当にすぐ戻ります」

「……まあいいけど。ここでたい焼き食べてるから、その間は待っててあげる」

「ありがとうございます。では、ちょっと失礼しますね」

 

 会釈をした妖夢は空へ飛びあがり、つむじ風を置土産にする結構な速度で、あっという間に水月苑の方角へと消えていった。

 幽香が肩を竦め、

 

「なにあれ」

「……よほど大事な用事を思い出したんだろうね」

 

 具体的には、自分が真心込めて世話をしている水月苑の庭に、一体どんな改造が施されてしまったのか確かめに行くとか。場所が庭のほんの片隅だから、妖夢も朝の時点では気づかなかったのだろう。

 やはり、事前に話くらいは通すべきだったのかもしれない。

 

「まあいいわ。それより、たい焼き食べましょたい焼き」

「せっかくだし、奢ろうか」

「そう? ありがとう、あとで必ずお礼はするわ」

 

 たい焼きを二つ頼む。すでに焼いている途中のものがあったらしく、さほど待つことなくほかほかの出来立てを渡された。妖夢に待っていろと言われた手前、店の横で立ち食いすることとする。月見は喉仏から、幽香は脳天から食べる派である。

 

「美味しいかい」

「ぼちぼちね!」

 

 言う割に幽香の食事ペースは早い。はむっとめいっぱい笑顔で頬張って、口全体を躍動させもごもごと咀嚼する。なかなか見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。それにつられて足を止めた何人かの里人が、店の前に列を作り始める。

 妖夢が空の彼方からすっ飛んできたのは、月見がたい焼きを食べ終わり、とっくの昔にごちそうさまをしていた幽香が二つ目を頼むか悩んでいる頃だった。

 声がはっきりと聞こえた。

 

「――幽香さああああああああん!!」

「え? ……な、なによあれ」

「……」

 

 幽香が空を見上げて目を丸くする。その横で、すべてを悟った月見はひっそりとため息をつく。やはり、月見の独断で幽香に好き勝手をさせるべきではなかったのだ。

 幽香の目の前に降り立った妖夢は、胸倉に掴みかかるような剣幕で、

 

「み、見てきましたよ! 幽香さん、あなたなんてことしてくれたんですか!?」

「な、なんの話よ」

 

 あまりの勢いに、さすがの幽香も気圧されている。妖夢は更に詰め寄り、

 

「花壇ですよ花壇っ! あんなところにあんなものを作ったら、せっかくのお庭の景観が台無しじゃないですか!?」

「……へえ」

 

 妖夢が言わんとしているところを察して、幽香の両目がすっと細くなった。

 

「ひょっとしてあなた、こう言いたいのかしら。――私の花壇が邪魔だって」

「当たり前じゃないですかっ!」

 

 ブチ、といっそ清々しい音、

 

「言ってくれるじゃないこの半霊庭師! あんなに色とりどりで綺麗なお花たちが邪魔ですって!? あれのよさもわからないでよく庭師なんかやってられるわね!」

「私が言ってるのは花じゃないです! 水月苑のお庭にはそぐわないですけど、お花自体が綺麗なのは認めます! 問題は花壇ですっ! 柵で囲って『ゆうか』って、日本庭園ナメてますよね!?」

「自分の花壇に名前書いてなにが悪いのよっ!」

「よそでやってください!」

 

 あっという間の大喧嘩だった。普段は押しの弱いの妖夢が、庭師のプライドを傷つけられたからか幽香相手にまるで臆していない。言われては言い返し、言い返されては反論し、二人の舌戦はみるみるうちに白熱していく。抑えきれなくなった霊力妖力が体からあふれだし、驚いた里人たちが慌てて退散していく。散り散りになるたい焼き屋の行列、ちょっとちょっとこんなところでやめてくれよと店主の悲鳴、妖夢と幽香は止まらない、

 

「幽香さんにはわからないでしょうけどね、日本庭園においては景観の調和が最重要課題なんです! 綺麗なお花も、ただ置けばいいってものじゃないんですっ! あれじゃあお花たちが可哀想ですよ!」

「さっきから随分と私のセンスにケチつけてくれるじゃないの!? たった数十年生きただけの半人前が、いっちょまえに名人様気取りかしら!」

「あんなのそれ以前の問題です! ともかく花壇をどけてください! 私は、あのお庭の手入れを月見さんや藤千代さんたちから頼まれてるんです! 勝手なことしないでくださいっ!」

「あら残念、だったら私の勝ちね。だって、月見の許可をもらった上であそこに花壇を作ったんだもの」

 

 妖夢が絶望の表情で月見を見た。さすがに黙ってはいられまい。

 

「……すまない、妖夢。事前に相談するべきだったね」

「つ、月見さんっ……本当なんですか? 本当に……」

「隅の方なら大丈夫かと思ったんだ。本当に申し訳ない、すべて私の浅学故だ」

 

 日本庭園のいろはについて門外漢なのは当然として、なにより妖夢の庭師としてのプライドを甘くみてしまっていた。広い敷地のほんの片隅、ほんの一部に作られた花壇を見て、まさかここまで強い拒絶反応を示すとは思っていなかった。昨日今日に始まった付き合いではないのだ。魂魄妖夢という少女の性格を、正当に評価できていなかった月見の落ち度としか言いようがない。

 妖夢が唇を引き結んだ。震える手できつく拳をつくる。

 

「……わかりました。それであれば……仕方ない、ですね」

 

 そして、幽香が己の勝利を確信した瞬間、

 

「――じゃあ今から勉強しましょうっ。あの花壇はどかすべきですっ、月見さんが言ってくださればあとは私がやっちゃいますので」

「こらああああああああああっ!?」

 

 振り出しに戻った。

 

「あなたねえ、月見に媚びを売るのは反則でしょ!?」

「幽香さんだって似たようなものでしょうがっ! そして媚を売るとか言うのやめてください!」

「だいたいさっき言ったでしょっ、月見は私の花壇に賛成してくれたの! あなたがなんと言おうとムダよ!」

「それは、月見さんがお庭のことをよくわかっていなかったからです! 人の知識の隙につけいるなんて、大妖怪のすることですか!? しかもそれでお庭の景観を台無しにしてるんですから、フラワーマスターの名が泣くんじゃないですか!?」

「むぎーっ!!」

 

 幽香はもちろん妖夢も一向に折れる気配がなく、もうお互いのおでこがくっついてしまいそうだ。そのうち紫と輝夜の喧嘩のように、頭をぺしぺし叩いたりほっぺをむいむい引っ張りだすのではないか。お陰様で、たい焼き屋店主の突き刺さる半目で背中に穴が開きそうな月見であった。

 しかし、際限なく続くと思われた舌戦にも終止符が打たれる。意外にも、幽香が先に身を引いたのだ。肩から力を抜いて吐息し、

 

「……わかったわ。まったくもう、しょうがないんだから」

 

 そして次の瞬間、地面を強く踏み鳴らして彼女は叫んだ。

 

「――なら弾幕ごっこで決着よ!!」

 

 そっちかよ。

 今のはどう見ても、幽香が若者の意見を尊重する大人の余裕を見せつけて和解する流れではなかったか。しかし彼女の瞳は、言葉で解決するなら弾幕ごっこは要らぬとばかりに燃えあがっており、

 

「あなたが勝ったら花壇は大人しく撤去するわ。でも私が勝ったら、もう私のやることに口を挟むのはやめてちょうだい! これなら文句ないでしょう!?」

「……わかりました。受けて立ちます!」

「上等よ! 月見もいいわね!?」

 

 月見はこめかみを押さえ、

 

「……わかった。わかったから、迷惑が掛からないように離れたところでやるんだよ」

「わかってるわよそれくらい。……よし、じゃあついてきなさい半霊庭師! 勝負よっ!」

「言っておきますけど、私、負けませんからね!」

「それはこっちの台詞よ! フラワーマスターの実力を見せてあげるわ!」

 

 勇ましく啖呵を切り合いながら、少女二人が空の彼方へすっ飛んでいく。その背中をひとしきり見送って、月見は疲労と安堵が半々に混じったため息をつく。

 ともかく、周りに迷惑を掛けず決着できるならもうなんだっていいような気がしていた。振り返る。たい焼き屋の店主が、同情的な苦笑いを浮かべている。

 

「月見さんも大変っすねえ」

「すまないね、店の前で騒いじゃって」

「まあ、被害はなかったんでいいですよ」

 

 嵐は過ぎ去り、散り散りになっていた客が少しずつまた集まってきている。店主が腕を捲り直し、はいはいもうすぐあがりますよーと己の仕事場へ戻っていく。

 月見は人差し指をひとつ立てた。

 

「店主、私にももうひとつ頼む」

「あいよー」

 

 こういうときは、甘いものを食べたくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 よほどの熱戦だったらしい。妖夢と幽香は、どちらも煤けてボロボロになった恰好で帰ってきた。ただしそのみっともない姿とは裏腹に、どちらも秋晴れみたいな笑顔を浮かべていた。

 

「なかなかやるじゃない。まさか引き分けられるとは思ってなかったわ」

「正直ギリギリでした……。やっぱりお強いですね、幽香さんは」

 

 互いのおでこを擦り合わせんばかりだった喧嘩腰は、空の彼方に置き忘れてきたのだろうか。たい焼き屋の店主が思わず手を止めて呆けてしまうほどの変わりようだった。先ほどまでとは別人のように、まるではじめから友達同士だったかのように、二人は互いの健闘を惜しげなく称え合っている。

 月見が二つ目のたい焼きを片付け、店主が差し入れしてくれたお茶をゆっくり飲み終えた頃だった。

 

「おかえり。話はまとまったかい」

「はい」「ええ」

 

 妖夢と幽香はまったく同時に頷き、

 

「引き分けでしたので、折衷案とでもいいましょうか。幽香さんのお花を取り入れた庭のデザインを、私が考えることになりました」

「これからは、二人であなたの庭をつくっていくってことね。もちろんいいでしょう?」

 

 妖夢と幽香も、そして持ち主の月見も納得できる素晴らしい着地点だった。安堵しながら頷く。

 

「構わないよ。好きなようにやってくれ」

「ああ、よかったです。……では早速なんですけど幽香さん、あの花壇のお花ですけど、他にもっといい場所があるのでそっちに移動してみたらどうでしょう?」

「そうね、少し意見を聞かせてもらおうかしら。私も、日本庭園の勉強をしないといけないし」

 

 考えてみれば、仲良くできない方がおかしいのだ。幽香が花をこよなく愛しているのは周知の通りだし、妖夢だって、植物が嫌いなのだったら庭師なんて仕事はやっていない。互いに植物の魅力をよく理解している似た者同士だからこそ、ひとたび歯車が噛み合ってしまえば、あとはもう二人だけの世界が広がるばかりとなる。

 仲良くたい焼きを注文して、近くの茶屋で弾幕ごっこの疲れを癒しながら、新しい水月苑の庭について意見を交わし合う。

 お陰で月見は、まあ、すっかり蚊帳の外となってしまったのだけれど。

 今日は妖夢のための一日なのだから、彼女が笑顔であるのなら、それでよいのであろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ど、どうもすみませんでした。私たちだけ盛り上がってしまって」

「ッハハハ、すっかり仲良くなっちゃって」

 

 一時間くらいはずっと話し込んでいたはずである。幽香と別れ、月見たちがまた里の通りを歩き始めた頃には書き入れ時もすっかり過ぎ去り、里の賑わいは少しばかり落ち着きつつあった。だがこの時間もこの時間でおやつ時というやつなので、静かになったかといえばそうでもない。通りを往来する里人はとても減ったとは思えず、定食屋の代わりに今度は菓子屋や甘味処が客引きの声を張りあげている。あのたい焼き屋の前にも、小腹を空かせた老若男女が列を作っている。

 妖夢と幽香の話は、後日一緒に庭の手入れを行う形で決着した。頑張って幽香さんのお花を活かさないといけないと、妖夢は今から大層張り切っていた。やる気に満ちた瞳の中には、同じ趣味を持つ仲間と出会えた喜びも少なからず浮かんでいる。それで二人の仲が深まるのなら、庭なんてどうぞ好きにしてくれて構わないと月見は思う。

 妖夢が月見の後ろをくっつきながら、

 

「それで、次はどこのお店に向かうんですか?」

 

 妖夢と幽香が二人で盛り上がっている間、月見はずっと蚊帳の外だったのだ。このあとの予定なんて、もう家に帰って寝るところまで十回以上考えた。

 

「呉服屋はどうだろう」

「服……ですか?」

 

 月見がちらりと後ろを見ると、妖夢は案の定「どうしてそんなところに?」といった顔で首を傾げている。月見はため息、

 

「妖夢、自分の恰好を見てごらん」

「え? ……あ」

 

 幽香との話があんまりにも楽しかったものだから、すっかり忘れてしまっていたのだろう。ひょっとすると気づいてすらいなかったのかもしれない。

 

「そんなボロボロの恰好のままというのはね。だから服を買いに行くよ」

 

 妖夢は知りもしないはずだ、茶屋で盛り上がる自分と幽香が、ボロボロの恰好故にだいぶ奇異の目で見られていたことなど。ともすれば月見がなにか乱暴を働いたように見えないこともないし、実際茶屋の店員からはそれとなく疑われた。なので多少財布に響くとしても、妖夢のそのみすぼらしい恰好は速やかになんとかしなければならないのである。呉服屋に向かうこの道の中ですら、すれ違う里人にどんどん誤解されているのではないかと不安で不安で仕方がない。

 

「な、なるほど……って、いやいや待ってくださいっ!」

 

 一瞬納得しかけたが妖夢はすぐ首を振り、月見の袖を引っ張ってブレーキをかけた。

 

「そ、それってもしかして……服を買っていただけるということですか?」

「そうだけど」

「だ、ダメですよそんなの!? さ、さすがにそこまでしていただくわけには。それに、屋敷に帰れば替えの服くらいはありますから……」

 

 服を買うと言い出したら、妖夢はこんな風になりそうだ――と月見が茶屋で十回以上考えていた想像を、寸分も違わない見事な反応だった。月見は苦笑し、

 

「気づいてないかもしれないけど、今のお前の恰好、結構誤解されるんだぞ。私がお前に乱暴をしたんじゃないかって」

「そ、そんな!?」

「さっきの店でも耳打ちされたよ。お狐さん、あんたこの子たちに変なことしたんじゃないだろうね――ってね」

 

 妖夢の顔がみるみる青くなっていく。

 

「す、すみません、私、そうとも知らずとんだご迷惑を――」

「だからこその呉服屋だよ」

 

 責任を感じて暗くなっていく妖夢の声を、月見はわざと明るく遮って、

 

「思うにお前、普段からあまりお洒落もしないだろう? これを機にいろいろ着てみるといい。新しい自分が見つかるかもしれないし、きっといい経験にもなるよ」

「う……」

 

 主人に一人前の従者と認められていないからなのか、妖夢はやたらと自己評価が低い。自分なんて人から世話してもらうほどの者じゃない、むしろ自分の方がお手伝いをしなければならないと、きっと本気で思っているはずだ。目上の相手からの厚意に極端な抵抗を持っている。今日のはじめに天子たちと井戸端会議をしたときもそうだった。

 しかし一方で、彼女は押されればNoとは言えないお人好しな女の子でもある。月見に決して少なくないお金を出してもらうことへの抵抗よりも、これ以上迷惑は掛けられないという責任感が勝ったらしく、

 

「わ、わかりました。今回だけ、甘えさせていただきます……」

「それに私自身、お前の着物姿を見てみたいっていうのもあるしね。絶対似合うと思う」

「へっ!? い、いいいっいえそのっ、わ、私なんて全然ですね」

 

 袖を掴む妖夢の手が緩んだ隙に、月見はさっさと歩き出す。あああっあのっ、ほんとに期待しないでくださいよ、私は幽々子様と違って全然スタイルもよくないですし云々と、妖夢の慌てた声が背中にくっついてくる。人知れずそっと笑う。

 月見の妹みたいだと、駄菓子屋の老婆が妖夢を見て言っていた。

 なるほど確かに、手の掛かる妹を持った兄の気持ちとは、ちょうど今のようなものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 言葉など一言も必要ではなかった。呉服屋の女主人は、妖夢の恰好をひと目見るなり一発ですべてを察し、帳場の椅子を蹴飛ばして勢いよく立ち上がった。

 

「なっ、なんて恰好をしてらっしゃるんですかっ! なるほどわかりました、そんなお姿でここにやってきたということはつまりそういうことですね!? 任せてくださいっ、女の子がそんなみすぼらしい恰好で外を歩くなんてこの私が許しません! カモンッ!!」

「えっ、あの、ちょっとー!?」

 

 嵐みたいな人だった。妖夢はあっという間に店の奥へ連れ去られ、月見は入口にぽつんと取り残され、従業員の青年がどこか達観した苦笑混じりで、

 

「すみません。ウチの主人はどうも仕事熱心すぎて、服の汚れとかほつれとか、そういうのが許せないんです。……えっと、お連れ様の服を買いに来たということでいいんですよね?」

「ああ。なんか、任せちゃって大丈夫そうだね」

 

 店の奥で、「どんな着物になさいますっ? お好きな色は? 柄は? よく運動はなさいますか? あっ、採寸させていただきますねっ」と女主人は超絶に張り切っている。妖夢の声はまったくといっていいほど聞こえてこない。きっと、わけがわからずされるがままになっているに違いない。

 

「月見さん、妹さんなんていましたっけ――というのは冗談ですけど」

「別の店でも言われたんだけど、そんなに似てるかな」

「月見さんに狐耳と尻尾がなかったら……もしくは、お連れ様に狐耳と尻尾があったら、ですけどね。髪の色が似てますし、見た目の歳の差もそれくらいじゃないですか?」

「……そうかもしれないね」

 

 もっとも実際の歳の差は、妹どころか娘でも孫でも利かないくらいにかけ離れているのだけれど。

 

「しかし、あんなにボロボロの恰好でなにかあったんですか?」

「弾幕ごっこだよ」

 

 青年は、ああー、と長い納得の声をあげ、

 

「なるほど。俺も見たことありますけど、あれって結構服がダメになりやすいんですよね。この前里の空で、誰だったかな、まあ女の子二人が弾幕ごっこやってたんですけど、ウチの主人なんかもうカンカンになって。あんな風に服を粗末にする遊びなんか認めない、私が空を飛べればとっちめてやるのに――って」

 

 店の奥から声、

 

「……ちょ、ちょっと待ってください! 恥ずかしいです、そんな裾の短い……!」

「最近の若い方にはこういうのが人気なんですよ! 大丈夫です、絶対似合います私が保証します!」

 

 どうやら、月見が思っていた以上にお洒落をさせられそうだ。

 

「元気な主人だね」

「あれは元気すぎですよ、まったく年甲斐もないというか。……あ、ちなみに母です。お客様の前では『主人』で通してますけどね」

「へえ、そうなんだ。随分若いね」

 

 月見と妖夢が兄妹に見えるというなら、そっちだって姉弟に見える。

 青年は苦笑、

 

「女だからですかね。化けるのだけは上手いんですよ」

 

 月見も笑みを返し、

 

「それじゃあ、妖夢も大層化けさせられそうだね」

 

 時間にして、およそ十分ほどだったはずである。月見が青年と世間話をしたり、服を勧められては断ったりしていたところでいきなり、

 

「――でっきましたよーっ!!」

 

 店の奥から女主人が両腕を広げて飛び出してきた。両足をぴったり揃えたブレーキで立ち止まり、むふーっと鼻息も荒いまま叫ぶ、

 

「ほらほら、どうですかこれっ! もおーっ犯罪的なくらいキュートだと思いません!?」

 

 こっちを向いたまま自分の背後を手でぱたぱたするのだが、そこには誰の姿もない。よもや自分のことを言っているわけではあるまい。

 

「誰もいないけど」

「え? ……あっ」

 

 月見に言われ振り返った女主人が、また店の奥へすっ飛んでいく。

 床を踏み鳴らす音と、騒がしく言い合う声が、

 

「こらあっ妖夢ちゃん、なんで一緒に出てこないのっ? 早くお披露目しないと!」

「むむむっ無理ですよこんなの私はもっと地味な恰好で充分で」

「問答無用ーっ!」

「うわわわわわっ!?」

 

 ドタバタギャーギャーと賑やかな喧騒が次第に近づいてきて、女主人に背を押される妖夢が暖簾の向こうから姿を――

 

「――ほう」

 

 率直な感想としては、驚嘆という言葉を使うのが正しい。まず驚き、次に感嘆した。心機一転着物をまとった妖夢の姿はそれだけ新鮮であり、鮮烈だった。

 ほとんど白同然の淡い萌黄色の生地に、大小様々な花弁の模様が目を見張る職人技であしらわれている。花弁の数は決して多くなく、色もまた薄いけれど、その全体的に儚げな色彩が妖夢の大人しい雰囲気とよく調和している。頭にはいつものリボンと一緒に宝物みたいな花簪まで添えられており、幽香とはまた違った意味で、彼女自身が一輪の花のようである。

 そしてなにより目を引くのは、着物の丈だろう。短い。動きやすさを重視しているのか、膝にやや届かない程度の長さしかない。つまりは普段長いスカートで隠されている妖夢の素足が、目に悪いほど惜しげもなく晒されているのである。恥ずかしさで顔を真っ赤っ赤にし、少しでも素足を隠そうと裾を懸命に引っ張っているそのいじらしい姿は、なるほど女主人が犯罪的と評したのもうべなるかなと思える。

 

「はい月見さん感想を一言っ!」

 

 月見は頷き、

 

「マズいね。そんな恰好で外に出ちゃっていいのかな。新しい天使がやってきたって騒ぎになるかもよ」

「へぇあっ!?」

 

 妖夢の顔面がボフンと湯気をあげ、女主人がますますエキサイトする、

 

「ですよねーっ! もおーっかわいすぎって話ですよねー!」

「うえええっ!?」

 

 青年もううむと唸り、

 

「いやー、同感ですね。正直俺、彼女持ちじゃなかったらヤバかったかも」

「にゃあぅっ!?」

 

 人里の青春真っ盛りな少年たちが見れば、冗談抜きで見惚れるかもしれない。まだ幼さが残る今の時点でこれなのだから、将来はきっと引く手数多のはずだ。白玉楼庭師の跡継ぎ問題は安泰である。

 

「はあいっ妖夢ちゃん感想を一言!」

「恥ずかしいですっ! 下がスースーしますし、」

「あ、ごめん。服の感想じゃなくてほら、みんなにかわいいって言ってもらえた感想」

「恥ずかしいです!!」

 

 妖夢渾身の叫びだった。女主人はため息をつき、

 

「もぉー恥ずかしがり屋さんなんだからー。あっでもほら、見て見て」

「わっ、押さないでくださいっ!?」

 

 妖夢を月見の隣まで無理やり押し出して、一体なにを言い出すのかと思えば、

 

「同じ着物同士だと、ますます兄妹みたいに見えますよっ」

「きょっ、」

 

 せっかくなので、月見は笑顔で返してみる。

 

「今日はウチの妖夢がお世話になりました。まったく素晴らしい着物をご用意くださって」

「月見さんっ!?」

「いえいえー、素敵な妹さんで羨ましいですわ」

「――あぅ、」

 

 妖夢の顔が、赤に紅と朱を重ねて、もう爆発寸前みたいな有り様になっていく。

 

「将来は引く手数多だろうねえ。これは大変だ」

「えー違いますよう、これもう今から引く手数多ですよーう。うむ、またいい仕事したぜっ」

「俺の友人に恋人がほしいって毎日騒いでるヤツがいるんですけど、出会わないように気をつけてくださいね。その場で告白されかねないんで」

 

 すっかり茹でダコな妖夢の反応が面白かったからというのもあるが、ともかく三人揃ってべた褒めしていたら、妖夢の脳は遂に負荷限界(オーバーロード)を迎えたらしく、

 

「……かっ、」

 

 旬のトマトより真っ赤っ赤な顔で、胸いっぱいに大きく息を吸い込んで、このように爆発したのであった。

 

 

「――か、からかわないでよお兄ちゃんっ!!」

 

 

 ……。

 沈黙した。

 どうしようもないほど沈黙した。鳥肌が立つくらいに沈黙した。

 

「――あ」

 

 自分が叫んだ言葉の意味をようやく理解した妖夢が、早回し映像のように顔面蒼白となり、それからまた真っ赤になるという大変器用な芸当をかました。

 代表して女主人が、

 

「――あら、もしかして結構まんざらでもない感じ?」

「ふにゃあああああああああああああああっ!?」

 

 猫のような悲鳴をあげた妖夢は猫のような動きで店の隅っこまで転がって、しゃがみガードをしながらじゅうじゅうと蒸気をあげるヤカンとなった。

 だからあれほど、なにか言う前に一旦立ち止まって考える余裕を持てと。慧音のことをお母さんと呼んでしまう里の子どもじゃあるまいし、いくらべた褒めされて冷静じゃなかったとはいえ、それで月見を本当に「お兄ちゃん」と呼ぶなどありえるだろうか。しかし妖夢なら仕方ないと思ってしまうあたり、今日の彼女はやはり掛け値なしに絶好調なのだった。

 

「……ともあれ、代金は私が払うよ。おいくらだい?」

「あ、はいはい、ちょっと待ってくださいねー」

 

 女主人が帳場の方へ駆けていき、こなれた手つきでパチパチと算盤を弾く。立派な花簪が入っている分だけ、予想より少しばかり高かった。財布が一気に軽くなる。

 

「じゃあ、これ」

「毎度ありがとうございまーす」

 

 代金を受け取った女主人は妖夢の方を振り向き、にんまりと笑いながら、わざとらしい大声で言う。

 

「いやあー、優しいですねえ。――月見お兄ちゃん?」

 

 まさか妖夢が耐えられるはずもない。

 その後しばらくの間、店の中では猫の悲鳴が響きっぱなしだった。

 

「にゃあああっ! にゃああああああああっ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 だって、魂魄妖夢はひとりっ子なのだ。当然、もしも自分に兄がいたら、姉がいたら、弟が妹が、と考えたことはひつじ雲の数くらいはあるわけで。

 例えば、妖夢にとって一番身近な女性である幽々子。彼女が自分の姉だったら、という想像を昔は何度もしていた。例えば、十六夜咲夜。自分と違って非の打ち所がない従者で尊敬できるし、髪の色も似ているから、ああいうお姉ちゃんがいたらいいなあなんて常々考えている。例えば、人里を元気に跳ね回っている子ども。ああいう弟か妹がいたら楽しそうだなあと思ったのは一度や二度ではない。

 そして、月見。

 認めよう、妖夢は前々から月見をそういう目で見ていた。だって妖夢はひとりっ子で、兄弟姉妹という存在にぼんやりと憧れていて、月見が唯一親しく話せる異性の友人で、そんな月見は大人びていて、尊敬できて、髪の色が自分とそっくりで、父や兄という言葉がいかにも似合いそうな男なのだ。そういう目で見るなという方が無理だ。素直に認めるのは恥ずかしいが、もはやそれが紛れもない事実なのだ。

 妖夢はつい今しがた、上白沢慧音をお母さんと呼んでしまう里の子どもさながらに、月見をお兄ちゃんと呼んでしまった。思いっきり叫んでしまった。それが言い逃れ不可能の絶対的な証拠だ。

 いくら妖夢でも、別になんとも思っていないただの異性をそんな風に呼び間違えるほどバカではない。すなわち月見をお兄ちゃんと呼んでしまったのは、自分が心の奥でそういう感情を抱いているからに他ならない。

 白状する。

 駄菓子屋で、老婆から月見の妹みたいだと言われたとき。この呉服屋で、女主人から兄妹みたいに見えると言われたとき。

 ものすごく恥ずかしかったが、それでもほんのちょっぴりだけ、嬉しかったのだ。

 心の奥だけに留めておけばよかったものを。

 

(いっ、いくらなんでも本当にお兄ちゃんって呼んじゃうのはないよありえないようわあああああ私のバカああああああああああ)

 

 後ろで月見が着物の代金を支払ったり、妖夢の古い服の修繕をお願いしたりしているが、まったく振り返ることができない。店の隅でただひたすら丸くなっている。この日一番の自己嫌悪である。誰か、穴を掘って私を埋めてください。

 

「妖夢ー」

 

 自分の自爆癖が今日ほど恨めしく思えた日はない。自爆は自爆でも、今のは威力が高すぎて自分自身が跡形もなく消し飛んでしまうような大失敗だ。これと比べたら、今までの失敗なんてみんなシャボン玉が割れたようなものだ。もう誤魔化せない。月見にはもうぜんぶバレたと思っていい。心の奥に秘めるだけだった頃にはもう戻れない。これは呪いだ。これから妖夢は一生、月見の顔を見るたびに今回の大失敗を思い出しては、恥ずかしさのあまりしにたくなるのだ。

 

「おーい、妖夢ー」

 

 なんだかマズい。考えれば考えるほど混乱してくる。自分の心に整理をつけられない。いつまでもこんなところで丸くなってはいられないとわかっているが、じゃあ一体どうすればいいのか。どんな顔をして月見を振り返ればいいのか。というかよくよく思い返せば今日の妖夢はことごとく恥ずかしい失敗をしてばかりでああもうごめんなさい幽々子様おじいちゃん月見さん私はやっぱりダメな半人前でしたごめんなさいごめんなさいご

 

「こら」

「ひょい!?」

 

 いきなりうなじを突っつかれて、妖夢は文字通り飛びあがって驚いた。咄嗟に振り返るより先に、頭の上の方から声が降ってくる。

 

「いつまでもなにやってるんだい。もう会計は終わったよ」

 

 月見の声だった。振り向きかけていた首を慌てて前に戻した。

 

「つ、月見さん」

「ほら、そんな風にしてたらせっかくの着物が汚れちゃうじゃないか」

 

 それは、いつも通りの月見の声だった。耳に優しいバリトンの声音。彼はいつだってそう。どんなことがあっても決して取り乱さない。ちょっと予想外の事態が起こるだけですぐ面食らい、焦るあまり変な失敗をしてばかりな自分とは大違い。彼のような者が一人前の大人であり、自分みたいなのが半人前の子どもなのだ。

 天と地ほどにも違う。

 ため息が出た。

 

「……月見さん。なんだか、すみません」

「?」

「せっかく付き合ってくださったのに、みっともないところを見せてばかりで……」

 

 自分みたいな半人前が、月見を兄のように思うだなんておこがましい。月見の妹として、こんな自分はふさわしくもなんともない。咲夜や椛の方がよっぽど似合う。彼女たちは妖夢よりずっと大人だし、妖夢よりずっと優秀な従者だから。もしも月見に本当に妹がいるなら、きっとそういう素敵な女であるはずだ。

 髪の色が似ているからなんて、たったそれだけの理由で周りから兄妹扱いされて、なんだか月見に申し訳がなかった。

 きっと月見は、迷惑だったろうに。

 だから笑った。自嘲だった。

 

「……本当に、ごめんなさい。こんなの、ご迷惑でしたよね」

「そうか?」

 

 妖夢は振り返った。びっくりしてしまうくらい優しい顔をしている月見がいる。妖夢を慰めるための演技などでは、絶対にできない。

 

「私は、満更でもなかったけどね。白状すると、妹がいたらこんな風なのかなって思ってたよ」

「……え、」

 

 それはまるで、妖夢の心を読んでいたかのような。

 

「……で、でも私、みっともない失敗ばかりでご迷惑を」

「それはどこの月見の話だ? 私は、お前のそういうところも好きだよ。ああやっぱり妖夢だなって、安心するしね」

「月見……さん」

 

 わかってはいた。月見はそういう妖怪だ。人の決して好ましくない欠点も、どういうわけか好意的に受け入れてしまう。普通の人なら辟易しそうな八雲紫の暴走にだって、彼はため息をついたりぶつくさ言ったりしつつも、なんだかんだで楽しそうにしている。

 だから月見は、妖夢のみっともない失敗も笑顔で受け入れて――

 ――ってちょっと待て、

 

「あ、危うく騙されるところでしたっ! それってつまりあれですよね!? わ、私がみっともない失敗をすると、月見さんは安心するってことですよね!?」

「うん、まあね」

「うわあああああん!」

 

 妖夢は月見にぽかぽか殴りかかった。

 

「い、一瞬感動した私がバカでしたっ。優しいと思った私がバカでしたっ! いじわるです!!」

「ッハハハ、悪い悪い。でも、こういうのって日頃の行いが」

「あーあー聞こえませんー聞こえませんー!!」

「いてて。悪かったって」

 

 そんなことを言いつつも、月見はまるで反省しているように見えない。それが悔しかったのでますますぽかぽかぽかぽかしていたら、突然手を取って引っ張られた。

 

「ひゃ、」

 

 月見は笑う。

 

「ほら、元気になったなら行くよ。まだまだ、回っていない店はたくさんあるからね」

「……」

 

 ああ。

 本当に。

 彼の言葉を聞いていると、どうしてこんなにも、心が安らぐのだろう。どうしてこうも、肩から力を抜かれてしまうのだろう。

 もっと怒ってやろうと思っていたのに。言いたい文句の半分も終わっていないのに。まだまだ叩き足りないのに。

 その気持ちが、大地に吸われる水のようにどんどん消えていってしまって、

 

「――うん」

 

 結局最後には、それだけの言葉と、小さな笑顔が残ってしまうのだから。

 慕う兄を持った妹の気持ちとは、ちょうど今のようなものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――優しいお兄ちゃんでよかったねー」

「にゃ――――――――――――っ!?」

 

 三分前に戻る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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月面戦争 ① 「フライミートゥーザムーン」

 

 

 

 

 

 ちょっとだけ。そう思ったのが運の尽きだった。

 ほんの何十分か前まで、月見はたまにはいいかと思って、初秋が訪れた庭園を眺めながら月見酒をしていたのだ。何者にも邪魔されず、ひとりで静かにのんびりと、鈴虫の優しい歌声を聞きながら、青白い満月の下で楽しむ酒はまことに風流であった。

 過去形である。

 

「ほらぁー月見ー、手が止まってるぞぉー。もっと呑めぇー」

「……うん」

 

 月見の膝の上を陣取った萃香が、足をばたばたさせながら伊吹瓢を振り回した。心地よかった鈴虫たちの歌声が、少女たちのわいのわいのと賑やかな喧噪に押しやられて今はほとんど聞こえない。賑やかといえば響きはいいが、要は風流とは縁遠い宴会である。唯一変わらない満月だけが、月見に柔らかい月光を落として同情している。

 萃香に藤千代、紫に藍に橙、幽々子と妖夢、操と椛。

 ひとりきりの月見酒のはずが、いつの間にかすっかり大所帯なのであった。

 

「まったく……なんでお前らは、人が酒を呑んでるときに限ってこぞって集まるんだ」

「不思議ですよね~」

 

 幽々子は酒に酔うと、普段にも増して雰囲気がふわふわぽやぽやになる。わたあめみたいな笑顔で月見の右腕に体重を預けた途端、その奥で紫が「なにひっついてるのよぉっ!?」とわめき声をあげた。更にその奥では藍が、嫉妬で狂う主人をまあまあと宥めている。幽々子がまったく怯んだ様子もなく、「じゃんけんで負ける方が悪いんですーっ!」と言い返す。

 

「お酒は、みんなで呑む方が楽しいですよー?」

 

 左腕には、藤千代がひっついている。

 

「とっても賑やかで、いいじゃないですかー」

「まあ、そうだけど」

 

 床に投げ出された月見と藍と椛の尻尾を、橙と操が一緒になって触って回り、「どれも素晴らしいもふもふです……!」「もふもふ天国じゃね……!」と戦慄している。月見と藍は慣れているが、椛は少々恥ずかしそうである。どさくさに紛れて妖夢が、月見の尻尾をさりげなくもふもふしている。

 そんな感じの大所帯だった。萃香が、月見の胸板にこてんと頭を押しつけた。

 

「そうだぞー。お酒呑むなら声掛けてくれればいいのにー。黙ってひとりで楽しもうとするのが悪い」

「たまには、ひとりでのんびりってのもいいかと思ったんだよ」

「ダメですー。幻想郷の住人たるもの、みんなと一緒に仲良くお酒を呑む義務があるんですー」

 

 大の酒好きであり宴会好きである萃香は、仲間から酒に誘ってもらえないのがなにより大嫌いだった。ひょっとすると彼女は、体の一部を霧状にして飛ばすことで、自分に黙って一杯やっている仲間がいないか幻想郷中を監視しているのではないか。月見はふっとそんなことを考える。

 

「月が綺麗ですねー……」

 

 屋敷を囲む池を眺めて、幽々子がうっとりとため息をついた。水月苑の名の通り、池の形に切り取られた夜空の中では皓々(こうこう)と白い水月が浮かんでいて、

 

「なんだか、あのときのことを思い出しますわ~」

 

 月見越しに藤千代が反応した。

 

「それってあれですかー? 紫さんの力で、月の都に遊びに行った」

「遊びて。まあ、お前さんにしたらその程度のもんだったんじゃろうけどー」

 

 操が月見の尻尾を撫でくり回しながら、

 

「……まあ確かに、あのときはこんな感じの月だったのー」

「……藍様、なんの話ですか?」

 

 橙が藍の裾を引っ張る。藍は苦笑する。

 

「あれは……なんていうのかな。いろいろと理由があって、紫様が妖怪を引き連れて月に戦を仕掛けたんだけど……」

「どっかのだぁーれかさんのせいで、大変なことになっちゃったのよねー……」

 

 紫がじとーっと半目で藤千代を見る。藤千代はにこにこ笑っている。

 橙以外はみんな心当たりがあったようで、話題はどんどん広がっていった。妖夢が幽々子に、

 

「幽々子様、もしかしてあれのことですか? おじいちゃんが狂ったっていう……」

「そうそう。ふふふ、あのときの妖忌は傑作だったわね~」

 

 操が椛に、

 

「椛はあのときのこと、小父貴から聞かされてたっけ?」

「ええ、大雑把には……天魔様を全身全霊で折檻したと」

「よりにもよってそこ!?」

「あの駄天魔は駄天魔は駄天魔はって、百回くらい言ってました」

「むぎいいいぃぃ!!」

 

 わいわいとまた賑やかになった少女たちの声を聞きながら、月見は記憶を遡っていく。幽々子と一緒の月面観光。文明のかけらもない荒涼とした白の大地。月見の話に耳を傾けてくれた心優しい少女。藤千代と互角の戦いを演じてみせた、月見が知る限りで最も強い人間。

 

「懐かしいね」

「ええ、とっても~」

 

 この世でただひとつ、月見がどんなにしつこく拝み倒そうとしても、紫が断固として首を縦に振ることのない願いがある。

『月に行きたい』。

 かつて月見は、月の兵器で一度殺されかけたことがあるから。それは紫にとって、悪夢すら赤子に思えるほど恐ろしい記憶だから。当時のお忍び月面観光はどこかの誰かさんのせいであっさりとバレてしまい、それはもうこっ酷く怒られたし、泣かれもした。『月に行きたい』なんて、月見はもう、たとえ冗談であっても口にはできなくなってしまった。

 あれが、月の世界をこの目で見た最初で最後だった。

 

「……」

 

 月見は夜空を見上げる。何年も何千年も、月は久遠の時を変わらぬ姿で刻み続けている。

 では、そこに住む人々は。

 月に広がる世界は今でも、あの頃から変わっていないのだろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 今でこそ日本という国は人間の天下であり、妖怪は表からほとんど姿を消してしまったけれど。

 過去に一度だけ、この構図が逆転しかけたことがある。つまりは人間の数が減りに減り、妖怪の数すら下回ろうとしたことがある。

 理由は、いろいろあった。冷夏や暖冬などの異常気象、暴風雨や地震の自然災害、火災、飢饉、疫病、戦、略奪――およそ考えうる限りのあらゆる災難が降りかかり、正視に耐えないほど多くの人間が命を落とした時代だった。その中で、異常気象や疫病の原因と考えられていた魔の存在――妖怪への恐怖はかつてないものとなり、それが現実の妖怪を最果てなく勢いづけた時代でもあった。

 当時、人間たちは疲弊しきっていたのだ。

 そして妖怪たちは、まるで裏を返したように、どうしようもないほどの力を持て余していた。人が人ならざるモノを『迷信』と否定することでその力が失われるのなら、逆もまた然り、人が人ならざるモノを過剰に恐怖することで妖怪は凶暴化する。暇潰し感覚で人間を襲う者が各地で急増し、時には決して少なくない命が闇雲に奪われることもあった。今こそ人間に代わって我々が天下を取るべきではないか、などと過激な思想を唱え出す連中もいた。

 当然、八雲紫は黙っていられない。

 妖怪と人間がともに暮らす楽園を築くため、それはなんとしても乗り越えねばならない試練だった。あのときばかりは月見も手を貸した。紫とともに東奔西走し、暴れる妖怪たちを抑え込み、過激派の連中と対話を重ね、どうにかこうにか早まった行動だけはさせないギリギリの均衡を維持させていた。

 その間に人間たちが元の生活を取り戻してくれれば――妖怪への恐怖が薄まりさえすれば、話はまだ単純に片が付いていたはずだった。だが現実はそうならなかった。

 異常気象や疫病が治まることを知らず、総人口の実に三分の一もの人間が命を落とすという事態となって、妖怪たちは遂に暴走の寸前を迎えることとなる。

 世の中の妖怪たちは、もう、暴れたくて暴れたくて自分を抑えきれなくなっていた。

 だから紫は、実際に暴れさせてやることにした。

 

「――ねえ、みんな。そんなに暴れたいんだったら、私に力を貸してくれない?」

 

 各地の有力な大妖怪を一堂に集めて、八雲紫はかく語った。

 

「思う存分暴れられる最高の戦場を、あなたたちに与えてあげる」

 

 月見は、訳あってその場にはいなかった。故に、あとになって藤千代や操から聞かされた話だけれど。

 

「――私と一緒に、月の世界を侵略してみませんこと?」

 

 そのときの紫は珍しくカリスマ全開で、事実、次の日は大雨が降ったらしい。

 

 

 

 

 

 早い話、月見はハブられたのだ。

 かつて月人の攻撃で死にかけた月見を、月の世界へ連れて行くなど言語道断。すべてを知れば必ずついてきたがるはずだから、そもそもなにも教えなければいい。

 紫はそう考えたらしい。

 誤算だったのは、彼女の友人に、こういうことでは口の軽いぽやぽや少女がいたことだろう。

 

「ねえ、月見さーん。今度紫が月の世界に行くみたいなんですけど、知ってました~?」

「詳しく聞かせてくれ、幽々子」

「は~い♪」

 

 だいたいぜんぶ、幽々子が悪い。

 

 

 

 

 

 

 

 西行寺幽々子という少女について、実のところ月見はあまり詳しくを知らない。より正確にいえば、月見はまだ人間だった頃の彼女を知らない。紫から紹介されたときにはすでに、幽々子は現世(うつしよ)幽世(かくりよ)のあわいを漂う亡霊となってしまっていた。

 以前から紫は、人間の友という存在にある種の憧憬ともいえる感情を抱いていた。月見にとって神古秀友がいたように、種族の違いや寿命の差を跳ね返し、別れたあとも強く心に焼きつく絆というものに焦がれていた。そんな中で出会ったのが、西行寺幽々子という少女だったそうだ。

 

 幽々子の父はある有名な歌人で、桜をこよなく愛していた。その想いは、最期は立派な桜の木の下で往生したいと願うほどで、事実彼はその言葉通りに生涯を終えた。すると彼を慕う者たちまでもが同じ場所で後を追いたいと願い始め、その桜の下では、両手の指では到底足りないほどの命が消えていくこととなった。

 それは見ようによっては、桜が人間を取り殺しているようにも見えただろう。無論、真実は違う。しかし真実がどうであれ、『噂』という道無き道を歩かされることとなった桜は、いつしか見る者を死へと誘う妖怪桜――西行妖の名で、人々から恐れられるようになった。

 父の愛していた桜が、父の形見ともいえる大切な桜が、人々から謂れない噂で化物呼ばわりされている――その耐え難き現実がどう影響したのか、幽々子の『死霊を操る程度の能力』が、ある日を境に『死を操る程度の能力』へと変質してしまった。そして自らまでもが人を死に誘うだけの化物なのだと悟った幽々子は、すべてに絶望し、誰にもなにも言い遺すことなく西行妖の下で命を絶った。

 

 否。

 西行妖によって、自害させられた(・・・・・・・)

 

 そういう妖怪(・・)だったのだ、西行妖は。己の足元で死んだ人間の精気を吸い続けたこと。人々から妖怪桜と恐れられていたこと。この二つの事実が、人を死に誘う妖怪桜を本当に生み出してしまった。人の精気を求める化物と化した西行妖は、幽々子の能力を『死を操る程度の能力』に変質させ(・・・・)、自らの袂で取り殺したのだ。

 他感作用(アレロパシー)。特殊な物質を分泌することで生物に多様な影響を与える、特定の植物にのみ許された特別な力。妖怪と化した西行妖は、それで少女の能力を変質させることもできたし、人間を自害させることだってやってのけた。

 この世ならざる力を持つ少女の精気を吸収すれば、更に強大な力を得ることができるから。

 西行妖の誘惑に抗うだけの気力など、この世に深く絶望した少女には残されていなかった。

 

 ――幽々子の精気を取り込んだ西行妖の力は、もはや紫ですら迂闊に手出しできないほどだったという。このままではいずれ、数えきれないほどの人間の命が失われることとなってしまう。彼岸まで巻き込んだ議論の末、幽々子の死体を核に使い、西行妖に封印を施す運びとなった。

 魂に刻まれた『死を操る程度の能力』を持つ限り、幾度転生を繰り返そうと、幽々子が救われる日は永遠に来ない。

 ならばいっそ魂のまま、輪廻の輪を外れ、すべてを忘れて、そうして死後の世界で暮らしていくのが救いなのではないか――。

 

 生前の記憶をすべて失い、紫のことも忘れてしまったけれど。

 けれど、どういう形であれ、大切な友達が今でも傍にいてくれる。

 それだけが、悪夢から覚めたあとにただひとつ残された救いだったのだと。

 そう、聞いている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――というわけで、次の満月の晩、戌の刻頃に決行みたいですわよ~」

 

 しかし目の前の少女のほわほわと呑気な笑顔を見ていると、そんな凄惨な過去の話も月見はすっかり忘れてしまう。亡霊として甦った幽々子は記憶を失ったのみならず、生前のしがらみから解き放たれたせいなのか、この世に悩みなどないとばかりに明るく呑気な性格をしていた。生前はとても物静かで、陰りのある笑みが目立つ少女だったらしいけれど。

 昔の名残は見目麗しい外見のみで、それ以外はほぼ別人だと紫は言っている。それが幸なのか不幸なのかは、月見にはわからない。

 さておき話を終えた幽々子に短い相槌を返して、月見は考えた。

 幽々子の屋敷にお邪魔をするのも、これでもう何度目かになる。今回寄ったのはただの寄り道なのだが、その結果としてとても興味深い話を聞けたのだから、たまには道草も食ってみるものらしい。

 その、『とても興味深い話』について要約しよう。

 ――日本各地で力を持て余す妖怪たちを兵力にして、紫が月の世界へ戦を仕掛けようとしている。暴れたい者に思う存分暴れられる戦場を与え、あわよくば、月の優れた技術を手に入れることで、自分たちの生活を豊かにしようとしている。

 まとめれば、たったこれだけの話である。

 だからもちろん、裏がある。月見は腕を組み、胸を撫で下ろすような一息をついた。

 

「なるほど。月人との模擬戦……ね」

「意外ですわよね~」

 

 まさか久方振りの戦に息巻く妖怪たちは夢にも思わないだろう。此度の一件が、紫と月人の間で結ばれた密約のうちであることなど。

 人間が魔の存在を過剰に恐怖することで、今の妖怪たちはかつてないほど血気高ぶってしまっている。言葉で抑え込むのはもはや限界が近く、ここから先はもう実際に暴れさせてやる他ない。かといってそれで人間を襲うのは論外だし、妖怪同士で争わせるのも躊躇われる。

 皆の溜まりに溜まった鬱憤を晴らしてやるには、どうすればいいのか。どうするのが最善なのか。紫は真剣に考え、一生懸命に考え、そして思い出した。

 かつて大妖怪の月見にいとも容易く瀕死の傷を負わせた、月人という名の存在を。

 

「私はよく知らないんですけど、月の世界にいる人間たちは、私たちのことを汚らわしい存在と思ってるんですってね」

「ああ」

 

 当時のことは、月見もよく覚えている。傷を負わされてからの記憶はどうも曖昧だが、その前に月人と交わした言葉の数々は、殊のほか鮮烈な記憶となって脳裏に焼きついている。

 虫を見下すような。

 そんな言葉だった。

 紫とてそれは理解していた。月人はまさに月とスッポンといえるほど地上を超越した技術を有しており、空を飛ぶ舟を開発し、都を丸々覆う幻術を展開し、大妖怪の月見を一発で瀕死に追い込む武器を使う。戦を仕掛ければ、ほぼ間違いなく負ける。多くの同胞の命だって失われることになるだろう。

 しかし、それでも。

 今も災害や疫病に苦しみ命を落とし続ける人間たちと、体がちょっと丈夫なのをいいことに、今こそ人間を支配すべきだのなんだのと驕り高ぶる妖怪たち。人間を更なる危機から救い、調子づく妖怪に灸を据えることを考えれば――。

 苦肉の策だったはずだ。紫だって、決してこんな選択をしたくはなかった。この試練の時代を、どうか血を流すことなく乗り越えようと必死に尽力していた。

 だがとうとう、背に腹は代えられないところまで来てしまった。遂に力を抑えられなくなった妖怪が、ひょっとすると明日にでも徒党を組んで人間を襲い始めるかもしれない。ただでさえ災害や疫病で苦しんでいるのに、妖怪どもまで一斉に襲いかかってきたら、人間たちはもう立ち直れなくなってしまうかもしれない。

 今まさに氾濫しかねない大河を、目の前にしているような。

 だから、手遅れになってしまうよりかはずっといい。そう思い宣戦布告に赴いた月の世界で――しかし紫の悲壮の覚悟は、いっそ呆気ないほどの肩透かしを食らうこととなったのだけれど。

 月人のお偉いさんに、言われたそうである。

 

 

 

『――断る。誰が好き好んで、貴様ら地上の妖怪と戦いなどするものか』

 

 ――私たちを汚らわしい存在と思っているはずなのに、なぜ。

 

『だからこそだよ。確かに我らの力があれば、貴様らに戦を仕掛けられたところで勝利するのは容易い。だがその結果として、月の土地を穢してしまう。貴様は自分の家に虫が入ってきたら、その場で踏み潰すのか?』

 

 ――虫扱いされるのは癪ですが、確かに。

 

『加えて、我らにとって「穢れ」とは単なるよごれの類ではない。我らに死という名の限界をもたらす、病のようなものなのだよ』

 

 ――病?

 

『本来、生命とは生まれながらにして不死であり、寿命とは穢れによってもたらされる不治の病だ。貴様らが生まれた瞬間に死への道のりを歩み始めるのは、すべてが穢れのせいなのだ。だから我々は地上を捨て、一切の穢れなきこの月の世界へ移り住んだ』

 

 ――まあ、それらしくは聞こえます。

 

『事実だ。貴様には理解できんだろうがな。……故に我々は穢れを忌避し、穢れを生み出す殺生を忌避する。戦を仕掛けられたところで貴様らを虐殺するのは容易だが、貴様らの血で月の土地を穢すのは避けねばならん。……地上を戦場にしてよいのであれば、いくらでも殺してやるが? 地上がどれほど穢れようと知ったことではないしな』

 

 ――……いえ。それでは私がここまで来た意味がありません。

 

『だろうな。よって、貴様の申し出を受けるつもりはない。戦の相手をしてほしい? 驕り高ぶる妖怪どもに灸を据えてほしい? 寝言は寝てから言ってくれたまえ』

 

 ――……。

 

『……だからこそ』

 

 ――え?

 

『それでもなおこの世界へ攻め入ろうとする愚か者がいるならば、我々は土地を穢さぬために、極力命を奪うことなく撃退しなければならない』

 

 ――……それって。

 

『このところ玉兎たちも実戦経験を積めていないと聞くし、いい折となるだろう』

 

 ――……。

 

『そんな愚か者どもがいればの話だがな』

 

 ――…………。

 

 

 

 かくして。

 こちらは妖怪たちを思いっきり暴れさせてやることができるし、向こうは貴重な実戦経験を積める。双方にとって利益があったからこそ、戦という名目の模擬戦(・・・・・・・・・・)が成立したのである。

 当然、紫が語る『月の技術を手に入れて生活を豊かに』云々など、同胞を焚きつけるための真っ赤な嘘である。

 

「……汚らわしいからこそ、自分たちの土地で殺すような真似はしない、か」

 

 月見の記憶の中にいる月人が、なぜ言葉も通じぬほどの敵愾心で満ちていたのか、今ようやく理解できた気がした。

 いくら穢れようと知ったことではない地上だったから。とうに穢れで満ちた地上は、月人にとって唯一殺生が禁じられない世界だから。逆を言えば、然るべき場所で相対されすれば、決して話が通じない相手ではなかったということだ。

 少し、安心した、と思う。言い出しっぺの紫はもちろん、戦ができると聞けば萃香や勇儀といった腕自慢も食いつくだろう。彼女たちが月の兵器で命を奪われるようなことはないと――幽々子の話を聞く限りでは、どうやら信じてもよさそうだった。

 ふとしたように、幽々子が言った。

 

「それで、月見さん。もしよろしければなんですけど、私と月面旅行でもいたしません?」

「は?」

「だって月見さん、行きたいと思ってるでしょう?」

 

 それはまあ、月の世界を知る千載一遇の好機だし、殺される心配がないのであればこっそり参加してしまおうとも思っているが、

 

「模擬戦とはいえ戦だぞ? 旅行ってほど愉快なものにはならないと思うけど」

「それはまあ、そうなんですけど」

 

 幽々子はそこで言葉を切った。ぼんやりとした目で庭を眺めて、気をつけなければわからないほどのかすかなため息をついた。

 

「……冥界の管理者の件が、そろそろ正式に決まりそうなんです」

「……そうか」

 

 前々から話には聞いていた。西行妖の封印には彼岸も一枚噛んでいたらしいから、彼岸としては、危ないものは手の届くところに置いておきたい意味合いもあるのだろうと月見は思っている。

 

「正式に決まれば、私は妖忌と西行妖を連れて、冥界へ移り住むこととなります。……そうなってしまったら、もう、あんまり会えないと思いますから」

「……」

「だからその前に、思い出……というほどでもありませんけど。月見さんと一緒に、どこかへお出掛けしてみたいんです」

 

 それはむしろ、屋敷の外へ向けた憧憬であったのかもしれない。生前の記憶を一切失った幽々子は、この屋敷以外の世界をほとんど知らない。その危険すぎる能力故、外に出ることをほとんど禁じられている。冥界へと送られてしまえば、現世との関わりはほぼ断たれると考えていい。紫のスキマを頼りでもしないと、月見の方から会いに行くのは不可能になるだろう。

 だからその前に、少しでも。

 そう、庭を眺める幽々子の寂しげな横顔は、語っているような気がした。

 

「……じゃあ最初の質問だけど、仮に私たちが月面旅行したところで、周りは立派な戦場だよ。雰囲気なんてあったもんじゃないし、危ない目にも遭うかもしれない。それでも行きたいかい」

「はい」

 

 答えるときにはもう、幽々子はいつも通りの笑顔だった。

 

「月見さんと一緒なら、どこへでも」

 

 月見は苦笑する。幽々子は、本気なのか冗談なのかいまいちはかりかねる言い回しを好んで使う。妖忌という青年も、よくそれでからかわれている。

 あまり深く考えず聞き流すのが、この亡霊少女と上手く付き合うコツだった。

 

「それに、もし危なくなっても、月見さんが守ってくださるでしょう?」

「ッハハハ、随分と信頼してくれてるんだね」

「それはもう。紫が、この世で一番信頼しているお友達ですもの」

「それはお前の方じゃないか?」

「そんなことないですわよ~。もー紫ったら、私のところに来るといっつもいっつも、あなたがああ言ったこう言ったって、そればっかりなんですもの」

「変なこと吹き込まれてないだろうね」

「さあ、どうでしょう?」

 

 ははは、ふふふ、と二人揃って笑った。

 

「……それじゃあ、行ってみようか?」

「ええ、是非」

 

 月見は一度、月人の攻撃で重傷を負い死にかけた(らしい)身である。月見はよく覚えていないが、そのとき一生懸命治療してくれた紫はトラウマになっているようで、だからこそ月見に此度の戦を黙っているのだと思う。もしこっそり参加していたことがバレれば、幽々子ともどもこってり油を搾られることになるだろう。

 しかし、それでもこんな機会、もう二度とあるかもわからない。月の世界をこの目で見て、この体で知ることができる、人生で最後の好機かもしれない。

 であれば月見は、紫に誠心誠意謝る方を選びたい。

 ところで、

 

「妖忌はどうするんだ? 今回の件に参加するなんて言ったら、絶対暴走するだろうあいつ」

 

 この屋敷では、住み込みの庭師兼幽々子の剣術指南役、兼お目付け役兼護衛兼世話係という大層な肩書きを背負って、魂魄妖忌という青年が働いている。主人である幽々子に、藍が赤子に見えるほど堅苦しく生真面目で絶対的な忠誠を誓っていて、屋敷に男が寄りつくことすら認めておらず、寄らば刀を抜くという徹底ぶりであった。月見も斬りかかられた。その後、「私の大切なお友達に斬りかかる妖忌なんて大嫌いッ!!」と幽々子に怒鳴られ、二週間ほど寝込んだそうである。

 幽々子は笑みを動かしもしない。

 

「適当に誤魔化すので心配要りませんわ~」

 

 そういえば、今日は屋敷が随分と静かである。

 

「姿が見えないけど、あいつはどこに? 買い出しか?」

「ええ、ちょっととおーくまで行かせました」

 

 幽々子はあくまで笑顔のまま、

 

「だって、月見さんとお話するのに邪魔なんですもの」

「……」

 

 頑張れ、青年。

 

「……そういえば月に行ったとして、その場合は私がお前を連れ出したってことになるのかな」

「大丈夫ですわ~。妖忌の警護が目障りで逃げ出したってことにしますから」

 

 ……頑張れ、青年。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 かくして、満月であった。

 紫が指定した集合場所である湖畔は、ひと目で数える気が失せるほど無数の妖怪であふれかえっていた。紫は日本中を回って声を掛けて歩いたそうだが、それで本当に日本中から集結してしまったらしい。

 つまりはそれだけ、暇を持て余し、力を持て余す者たちが多かったということだ。これだけの数が人間に牙を剥いていたかもしれなかったのだと思うと、さすがの月見も肝が冷えた。

 月見と幽々子は、集結した黒山の最も外側から、更に距離を置いた場所の木陰にひっそりと紛れ込んでいる。いや、実のところかなり目立っている。月見は珍しい銀の毛並みを持つ妖狐だし、幽々子の水色の着物だってそうそう見かけるものではない。どちらも月明かりの下ではよく映える。普通ならただ突っ立っているだけで周囲の目を引き、どこからか全体を見渡しているだろう紫にも気づかれてしまうはずだ。

 普通なら。

 

「すごいですわね~、この御札。誰も私たちに気づかないなんて」

「こうやって静かにしてれば、だよ。あんまり大声は出さないように」

 

 月見も幽々子も、着物の裏地に一枚の札を貼りつけている。月見がこの日のために丹精込めて作った、簡単な隠形の札である。簡単とはいえ作り込んでいるので、こうして隅の方で静かにしている限りは、紫の目だって欺けるはずだ。効果は今日一晩ほど続く。

 月見は隣の幽々子に、

 

「それにしても、よく抜け出せてきたね。どうあいつを言いくるめてきたんだ?」

 

 もちろん、妖忌のことを言っている。超絶的に生真面目な彼であれば、主人を戦場へ行かせるのはもちろん、そもそも夜に一人で出歩かせることすら断固反対だろう。血相を変えて幽々子を引き止めている姿が目に浮かぶようだし、百歩譲っても自分を護衛につけろと喚き散らすはず。適当に誤魔化すとは言っていたが、一体どんな魔法を使ってきたのか。

 幽々子はあっけらかんと答えた。

 

「なんてことはないですわ。疲れたからもう寝るって言って、ぐっすり休みたいから絶対に起こさないでって釘を刺して、私の寝間着を着せた案山子をお布団に突っ込んでおしまいです」

「は?」

 

 耳を疑った。

 

「……じゃあ、もしかして妖忌って」

「ええ」

 

 幽々子はなぜか自信たっぷりに頷いて、

 

「なーんにも知らず、案山子の警護をしております」

「……」

 

 月見は目を覆った。真っ暗になった視界の中で、このあと自分に襲いかかってくる未来が見えた気がした。

 幽々子はころころと笑っている。

 

「だって、本当のことを話したら屋敷から出られなくなっちゃうじゃないですか~」

「そうだけど……そうだけどさあ……」

 

 闇の中で、月見は修羅と化した妖忌に怒涛の斬撃を浴びせられている。おのれ妖怪め、貴様が幽々子様を誑かしたのか、今日という今日こそ成敗してくれる。すっかり頭に血がのぼって、月見はもちろん幽々子の言葉にもまるで聞く耳を持たない。仕方がないので、池に叩き込んで冷却してやる。

 そこまで未来が見えたところで月見は目を開けた。ため息、

 

「……もうどうにでもなれ」

「楽しみですわね~」

 

 幽々子の途方もない能天気っぷりが、今はどうしようもなく羨ましかった。

 黒山は着々とその規模を増してきている。鬼や天狗をはじめとする妖怪の一大勢力はもちろん、人の形をとれぬ異形の者まで。赤の他人が圧倒的に多いが、中には見覚えのある顔もちらほらと交じっている。しかし月見たちに気づく者はいない。この札を身に着けている限り、たとえ誰とすれ違おうとも、

 袖を引かれた。

 

「おーい」

「ん?」

 

 童女であった。屈強な妖怪が数多く集まったこの場では、異質ともいえるほど小さななりをしている。淡く紫がかったようにも見える黒髪は背を隠すほど長く、左の前髪を一房、耳の上に回して雅な藤の髪飾りで留め、白く艷やかな肌を同じ藤の着物で覆い隠す様は、力仕事など生まれてこの方したことがない深窓の箱入り娘にも似ている。しかしその幼い見た目とは裏腹に、大樹が根を張ったような底の知れぬ存在感を放っており、月見を見上げる藤色の瞳はただただ深い。

 頭からすらりと、美しく伸びた二本角。鬼である。

 というか、思いっきり顔見知りである。

 

「こんばんはー、月見くんー」

 

 しかもバレている。

 幽々子が途端に不安げな顔で、

 

「月見さん……この御札、大丈夫なんですの?」

 

 月見も自信がなくなってきた。

 少女が、えへんと大きく胸を張った。

 

「ふふん。なにやら術を掛けているようですが、私の前では無意味なのです」

「……一応訊くけど、どうしてわかった?」

「え? 私が月見くんを見逃すわけないじゃないですか」

 

 そんなことを真顔で答えられても困る。しかし同時に、妙に説得力がある気もする。

 名を、藤千代という。月見が己より長生きしている狐を知らぬように、彼女もまた、己より古くから生きる同胞を知らぬ鬼である。しかし月見とは比べ物にならぬほど、神々が間違って創り出したのではないかと疑うほど、規格外で非常識な力を持った大妖怪でもある。ある戦では数万人分の戦力差をたった一人でひっくり返し、月見を半分遊びながらボロ雑巾にした。

 ここに彼女がいるということは、

 

「お前も参加するのか?」

「もちろんですよー。お月様に住んでる人間たちと戦えるなんて、またとない機会ですもの」

「……そうか」

 

 月人逃げてー。

 幽々子から話を聞いた限り、紫が交渉を行った月人のお偉いさんは自信満々だったそうだ。驕り高ぶっているのでも妖怪を見下しているのでもなく、実際それに値するだけの力を連中は持っている。空を飛ぶ舟も、都を丸ごと夢に落とす幻術も、大妖怪の月見を一撃で瀕死に追いやった武器も、すべてが妖怪の持つ力を超越してしまっている。

 しかも、それはもう百年以上昔の話だ。であれば今の月の技術は、当時より確実に進化を遂げているはず。たとえ殺生禁止という制約の中であっても、妖怪を一撃で戦闘不能にする程度は息をするようにやってのけるかもしれない。

 ――けれど藤千代って、なんというか、突然隕石が降ってきてこの星の生命体が根こそぎ死滅しても、ひとりでケロリと生き残ってそうだし。

 本当に自分は、この少女に勝ったことがあるのだろうか。あれは夢だったのではなかろうか。夢だったような気がしてきた。

 

「操ちゃんも参加しますよー」

「へえ……いや、大丈夫なのかそれ。次期天魔候補だろう、あいつ」

「一週間ゴネり倒したみたいですよ。でも、こわ~い護衛の方がついてるので大丈夫でしょう」

 

 幽々子が前屈みになって、

 

「あのー、藤千代さ~ん」

「え?」

 

 首を傾げた藤千代はキョロキョロと周囲を見回し、十秒ほどしてからようやく月見の横をして、

 

「……あっ、幽々子さんじゃないですかー。いつからそこに? 全然気がつきませんでした」

「……月見さん。どうやらこの御札、大丈夫みたいですわね」

「……そうだね」

 

 むしろなぜ月見だけ一発でバレたのか。随分と理不尽な少女である。

 幽々子は気を取り直し、

 

「この前ご挨拶に伺ったきりでしたけど、覚えていてくださったんですね」

「そりゃあもう、紫さんのお友達ですからねー。幽々子さんも参加するんですか?」

「いえいえ。月見さんと一緒に、ちょっと月の世界を歩いてみようかなと」

 

 藤千代は少し考え、ほどなくして納得した顔で、

 

「ああ。そういえば幽々子さんは、もうすぐ冥界の管理人さんになるんでしたか」

「そうなんです。だからその前に、少しでも思い出を作りたくって」

「なるほどー。……月見くんと一緒にお散歩なんてとても羨ましいですけど、そういう事情であれば私はお邪魔虫ですね。楽しんでくださいねー」

「あら……ありがとうございます」

 

 幽々子が目を丸くして頭を下げた。月見も、やけに物分かりがいいなと意外に思う。

 ちっちっち、と藤千代は指を振る。

 

「好きな人の後ろをついて回るだけなら犬でもできます。時には空気を読んで身を引くのも、いい女の条件なのですよ」

「なるほどね。見直したよ」

「ふふふ、これで月見くんの好感度が鰻登りですねっ。計画通りです!」

「見損なったよ」

「えーっ!!」

 

 なんでですかー!! と藤千代がぷんすか飛び跳ねたところで、集まっていた妖怪たちが俄にどよめいた。全員が湖の中心に目を向けて、背伸びをしたり立ち位置を変えたり、必死になにかを見ようとしている。月見の位置からは少々遠すぎて、なにが起こったのかはわからないけれど、

 

「そろそろ時間かな?」

「かもですねー。では私、みんなのところに行きますので! よい旅を!」

「そちらも御武運を~」

 

 小さい体を存分に活かして、藤千代は黒山の隙間を華麗巧みにかいくぐり、あっという間に月見たちの視界から消えた。それから月見が少し視線を上げると、湖を舞台とした中空で、一人の少女らしき影が着物の裾をなびかせているのが見えた。

 紫のはずだ。

 

「――みなさん、今宵はお集まりいただきありがとうございます」

 

 月見の場所からは遠く離れているにもかかわらず、不可解なほどよく響く言葉だった。なにかしら境界をいじっているのだろうと月見は推測する。

 月見の前ではいつも元気にはっちゃけている紫だが、このときばかりは賢者の名に恥じない妖しさと艶やかさとたたえていた。まず声の質からして違う。月見が聞いたこともないくらい低く、堂々たる響きである。ただ耳を傾けているだけで体が引き締まる思いだったし、実際周囲からはそこはかとない緊張感が生まれ始めている。

 雰囲気だって右に同じだ。月見が感じ慣れている幼く愛らしい気配は見る影もなく、よくいえば妖艶で、悪くいえば不気味である。これが八雲紫の、妖怪の賢者としての顔なのだろう。ここまでまざまざと見せつけられたこともそうないので、月見は腕を組みながら唸った。

 

「……あいつでも、やるときはちゃんとやるんだね」

「そうみたいですね~」

 

 きっと、藍に助けてもらいながら一生懸命考えて、一生懸命練習した口上なのだろう。貫禄ある気配を振りまき語る姿は大変堂に入っており、周囲からの反応も悪くない。

 

「おお、なんとお美しい声音か……拙者が最後にお目にかかったときは、まだ童女ほどであったが。むう、遠すぎてお姿がよくわからぬ」

「見違えるほどお美しくなられているぞ。顔や背丈はもちろん……胸もな」

「そうか……遂に胸が来たか」

「ああ……胸だ。おっぱいだ」

 

 名も知らぬ男二人が手をわきわきさせている。幽々子が生ゴミを見る目をしている。

 さておき、紫の口上である。どうやって月の世界まで行くのかはずっと気がかりだったが、曰く、湖面に映った満月の境界をいじくって、空に浮かぶ本当の満月と入れ替えたとのこと。あとはただ湖の月めがけて飛び込むだけで、あっという間に向こうまで行けてしまうと賢者は語った。

 改めて思う。

 

「紫の能力って、本当になんでもありなんだねえ……」

「すごいですわよね~……」

 

 間違いなく、この世のあらゆる能力と比べても規格外だろう。

 今か今かと浮き足立つ妖怪たちに囲まれ、紫は声高に叫ぶ。

 

「さあ――進軍します!!」

 

 耳を割らんほどの喊声があがった。(くびき)から解き放たれた血の気あふれる妖怪たちが、先を争うようにして湖の月へ身を躍らせていく。

 月見は木の幹に預けていた背をあげて、

 

「私たちも行こうか」

「はい」

 

 歩き出そうとしたところで、幽々子にいきなり手を握られた。

 

「……どうした?」

「いえいえ」

 

 いつも通り柔らかくも、どこか強引な笑顔だった。

 

「離れ離れになりでもしたら大変ですもの。さあ、行きましょう?」

 

 そしてそのまま、月見の返事も待たずに歩き出してしまった。月見は疑問符を浮かべながらも幽々子の横へ並び、つと彼女の横顔を盗み見た。

 

「~♪ ~♪」

 

 これから戦場に行くとは思えない、それはそれは、どうしようもないほど楽しそうな笑顔。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――幽々子様あああああ!! どこに行ってしまわれたのですかああああああああっ!?」

 

 なお湖畔で妖怪たちが喊声をあげたとき、某所では庭師も喚声をあげていたとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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月面戦争 ② 「天上天下古今無双」

 

 

 

 

 

 こっちは寂しいものだった。地上を遥かに超越した文明を持っているというからどんなものかと思えば、藤千代を迎え入れたのは草木の影も形もない荒れ果てた大地の姿だった。

 文明どころか、生命の気配すらない。藤千代は拍子抜けして呟く。

 

「……ここが、お月様?」

「ええ」

 

 紫が小さく頷いた。紫さんが言うならそうなんだろうな、と藤千代は思った。紫は少なからずお調子者で抜けているが、決して頭が悪いわけではない――むしろ育ちが悪い藤千代とは比べ物にならないくらい聡明なので、こういうところで間違ったことは言わない。

 それから目の前の景色を改めて見てみると、なるほど、やっぱりここは月なのかもしれないと藤千代は思い直した。地上から見上げる月はいつも白く、青白く、銀色に光り輝いている。そして、藤千代がいま空から見下ろしている大地はどこまでも白い。大地が白いから、地上から見ると白く見えるのは理に適っている気がする。もし地上と同じようにたくさんの人間が文明を築いているのなら、大地の白以外にも、明かりを灯す赤や橙色が見えていいように思う。

 納得したが、それはそれで新たな疑問、

 

「じゃがそうだとすると、月の文明とやらは?」

 

 一緒にやってきた操が代弁してくれた。紫は間髪を容れずに答える。

 

「私たちが住んでる地上はとても広いでしょう。都みたいに常に人の活気で満ちている場所もあるし、山奥のように人の手が入り込んでいない場所もある。藤千代、操、あなたが知らない場所だっていくらでもある」

 

 改めて納得した。

 

「なんでも月人たちは都の周りに結界を張ってて、その外側を『表』、内側を『裏』って区別してるみたいなの。私たちが普段地上から見てるのは、『表』なんだって」

「儂らが今いる場所は?」

「『裏』の隅のそのまた隅っこ。ご覧の通り、文明の欠片も見て取れなくなっちゃうくらい月人の都からは離れてるわ。ここまで来ちゃうと、景色は『表』とほぼ変わらないみたいね。模擬戦とはいえ、自分たちの生活圏内で戦うわけにはいかないってことでしょう」

 

 見上げる空は暗い。星空が、ここに来た目的を忘れて見入ってしまうほど美しく輝いている。その中で一際大きく、けれどほとんど暗闇に沈んで見えない星がある。傍で輝く太陽の光を受けて、輪郭だけが青白く幻想的な輝きを帯びている。

 紫が同じ場所を見上げて言う。

 

「あれが私たちのいた場所」

「へえー」

 

 普段藤千代たちが地上から月を見上げているように、月からも地上が見えるわけだ。であれば、あの中のどこかに日本があって、その中に藤千代の住む山があるということになる。藤千代の知っている地上のすべてが、拳大ほどのあの小さな球の中に凝縮されているらしい。なんだかあまり想像ができない。

 また疑問。

 

「あれ? お月様から太陽が見えるということは、ここって今、お昼なんですか?」

「そうなるわね」

「お昼なのに、空は暗いんですねー」

 

 紫は考える素振りも見せない。

 

「空気が地上と違うから。要は光の波長と拡散の話だけど、説明要る?」

「あー、難しくなりそうなので要らないでーす」

「右に同じー」

 

 操が藤千代と一緒に両手で耳を塞いだ。次期天魔候補という肩書きのため箱入り娘な彼女だが、大好きなのは体を動かすことで、勉学は机仕事と同じくらいに大嫌いなのだ。

 藤千代と操が浅学なのではない。むしろ、妖怪の学としては自分たちあたりが平均だと思う。つまりは光のハチョウだのカクサンだのと、至極当然のように話す紫がおかしいのであって、

 

「……紫さんって、ほんと知識だけはすごいですよね。普段はあんななのに」

「知識の深さと頭のよさが比例しないいい例じゃよねー」

「し、失敬なあっ。私だって頭いいわよ! 計算とか得意だもんっ!」

「いや、儂が言ってるのは、こう……勉学的な頭のよさじゃなくて……生き物としての頭のよさというか」

「つまり生き物としてバカってこと!? っていうか、それ操に言われたくないんですけどっ!」

「なんじゃとおっ!? こっちこそお前さんに言われとーないわっ」

 

 どっちも似たようなものだと思うけどなあと藤千代は思う。

 まるで影のように黙って控えていた従者二人――八雲藍と『犬走』――が、まったく同時に口を開いた。

 

「安心してください、紫様はバカです」「安心してください、お嬢はバカです」

「「キーッ!!」」

 

 仲が良いおバカ二人はさておいて、藤千代は前を見る。紫が開いた境界の扉を越えて、大地には続々と妖怪たちが集結しつつある。彼らが見据える先には、一様にして白い大地だけが広がっており、

 

「……月人さん、来ませんねー。まさか、どこかに隠れて待ち伏せしてるとか?」

 

 隠れるような物陰もないが。ともかくまだそれらしい姿のひとつも見えないので、開戦まではまだまだ時間が掛かりそうだった。

 紫が頬に手をやって思案げに、

 

「それはないと思うけど……だってすごく自信満々だったもの。いかにも、真正面からねじ伏せてやるーって感じで」

「ふふふ。本当にそうだとしたら、とっても楽しみですねー」

 

 自分の中で、煙のような高揚感がくゆるのを感じた。紫から聞かされた月人の言葉を思い出す。――月の土地を穢さぬため、命を奪うことなく撃退する。まったく随分な言い草ではないか。つまり、「殺そうと思えば簡単にできる」と暗に言い切ってしまっているのだから。

 あながち嘘ではないのだろう。月見を、妖怪の中でも一頭地抜けた力を持つ月見を、たった一撃で戦闘不能にまで追いやってみせたと聞く。地上とかけ離れた技術を持つ月人は、地上の人間とかけ離れた戦闘力まで持ってもいるのだ。

 もし叶うのであれば、互いに全力で戦ってみたかった。なにも我慢せず、なにも遠慮せず、この世のすべてを塵芥に変えるまで暴れ続ける、身を焦がすような、心を焼くような、耐え難い耐え難い戦の快楽。

 かつて月見と戦った、あの至福のひとときのような。

 紫に釘を刺された。

 

「一応言っておきますけどね。あなたまで暴れるとすんなり勝っちゃうかもしれないんだから、そのあたりはしっかり自重してよね。そういう約束で連れてきてあげたんだから」

「むう……案外大丈夫なんじゃないですかー? 月人さんの技術は、月見くんも一撃でやられちゃうくらい桁外れなんでしょう?」

「それはそうだけど……」

 

 苦い記憶を思い出した紫は一瞬顔をしかめて、すぐにふっと笑った。自分にはどうしようもできないモノを見たときの、焦点距離が遠い笑みだった。

 

「でも、あなたが負けるところなんて想像できないわ……」

「右に同じー」

 

 操も似たような目をしていた。ついでに藍と犬走も以下略。

 そんなことないのに、と藤千代は思う。自分は、自分が負けている姿を想像できる。だって、本当に負けたことがあるのだから。本当に勝てなかった相手がいるのだから。前々から何度も何度も言っているのに、紫も操もいまひとつ信じてくれない。

 とはいっても、それはそれ。藤千代は月見に負けている姿が想像できるからこそ、月見以外の誰かに負けている姿は想像できなかった。

 否、想像したくもなかった。月見以外の誰かに負けてしまったら、月見が自分の特別ではなくなってしまうから。

 藤千代を負かしたのは、後にも先にもこの世でただひとり、月見だけ。

 月見、だけ。

 それがいいのだ。

 だから自分は、いつか遠い未来に命を終えるそのときまで、もう誰にも負けはしない。

 操が上に伸びをした。

 

「……しっかし未だに人影ひとつ見えないんでは、向こうの準備が整うのは一体いつに」

 

 そのとき藤千代には、操の声が突然途切れたように聞こえた。実際は違うのだろうが、騒然ともいえる慌ただしいざわめきに、隣人の言葉は完全にかき消されてしまった。

 前を見る。

 

「……ねえ、紫さん」

「……なにかしら」

 

 妖怪たちをどよめかすその原因を見て、藤千代は目をこすりながら、

 

「……月人さん、いつの間にやってきたんですか?」

 

 ただただ白いばかりの荒廃した大地であったはずだ。身を隠せるような障害物はひとつもなく、多少の凹凸があるだけの真っ平らな地平線が広がるばかりだった。月人と思われる人影はもちろん、生命の気配すらどこを見渡しても見つけられなかったのだ。

 寸分の乱れもなく整列し、妖怪たちと厳かに対峙する武装集団など、絶対にいなかったはずなのだ。

 紫がはじめて答えに悩んだ。

 

「……恐らくだけど」

 

 淡く光が煌めいたかと思うと、武装集団の数が倍に増えた。

 

「私がお昼寝してたわけじゃないなら……一瞬で出てきたように見えたわね」

 

 紫が言い終わる頃にはもう四倍になっている。藤千代は思わず唸る、

 

「はあー……あれが月の技術とやらですか」

 

 それは異様な光景だった。一人二人ならまだ納得のしようもあっただろうが、数百にもなろうという集団が目の前で次々増殖を繰り広げる様は、地上の常識からすればただただ理解不能だ。操も目をひん剥いており、

 

「敵さんの能力か? スキマみたいな……」

「でも、紫さんのとはどう見ても違いますよねー。本当に一瞬で出てきてますし」

 

 藤千代たちは、紫が湖に開いてくれた境界の扉を通って、自分の足を動かしながらここへやって来た。だが向こうは違う。全員が寸分の狂いもなく整列した姿のまま、指一本動かすことなく、一瞬のうちに出現している。まるではじめからそこにいて、藤千代たちに見えていなかっただけのように。

 瞬間移動。

 怪しいのは精々、姿を見せる直前に淡く光の粒子が散る程度だろうか。

 

「……私、紫さんの能力ってとても便利ですごいって思ってたんですけど、これはあっちの方が上ですねえ」

「ぐぬっ……わ、私の能力は移動することだけじゃないもん。たかが瞬間移動する程度で」

「じゃが、お前さんでもさすがにあれは真似できんじゃろー?」

「で、できない……けどぉっ!」

「あの力があれば、紫さんのスキマはもう用ナシですねー」

「ううっ、私の賢者としての威厳が盗られたぁ……っ!」

 

 安心してください、そんなもの元々ないですから。

 増殖は続いている。敵陣の大半を占めているのは、妖怪とどっこいどっこいの軽装に身を包み、頭から白く長い兎の耳を生やした者たちだった。月の世界には『玉兎』という、月人の部下、あるいはペットという立ち位置で暮らしている種族がいると紫がどこかで言っていた。見た目から判断すれば、あれがそうなんだろうなと藤千代は思う。つまりは雑兵ということだ。

 しかしたかが雑兵とはいえ、まったく同じ武装に身を包んだ彼女らが碁盤の目へ沿うようにどこまで整列する様は、まさしく圧巻の一言に尽きた。無駄口を叩く輩もまるでいないように見える。戦に対する高い覚悟と使命、そして並外れた練度で統率された軍団であり、とても実戦経験が不足しているとは思えない。なにも考えずあっちこっちに散らばって、わいわいと好き勝手に騒いでいる妖怪とは雲泥の差だ。

 そんな無数の玉兎に混じって、獣耳を生やしていない人間と思しき人影も、少数ではあるが確認できる。あれが月人で、役目としては玉兎の指揮といったところだろうか。どうあれその月の軍団の姿は、藤千代にかつての大和国の(つわもの)たちを思い起こさせた。数がこちらより明らかに少ないので、少人数で効率的に敵を撃破する作戦を持っているのかもしれない。寡兵だからと高を括って、考えなしに進軍したら痛い目を見るかもしれない。

 まあだからこそ、真正面から突っ込むのだけれど。

 いつしか、増殖は収まっていた。

 

「そろそろですね」

「そうね」

「うむー」

 

 月の軍団の油断も隙もない佇まいに気圧されて、無駄口を叩く妖怪は次第に減ってきている。ピリピリとした、産毛の震えるような緊張感が生まれ始めている。藤千代の好きな空気だった。もちろんできる限り自重はするが、あまり長持ちはしないかもしれないなと藤千代は思う。

 犬走がまさしく影の如く動いて、操の隣へ立った。

 

「お嬢、言っておきますが前線には出しませんからね」

「えーっ!?」

 

 操の声はもはや悲鳴に近かった。

 

「なしてじゃ!? 小父貴、いいって言ったじゃないかーっ!」

「言いましたね、月に行くだけならいいと。戦に参加していいとは一言も言っていません」

「……ほ、ほら、次期天魔候補ともなれば、敵を華麗に撃破する華麗な実力も必要じゃろ!? そのためには実戦経験が必要不可欠で」

「ああ、普段の私の稽古では物足りなかったのですね。では次からもっと厳しく行きます」

「そういう意味じゃなくってぇ!?」

「安心してください、天魔の仕事は戦の前線に立つことではありません。ただ黙々と机仕事をしていればいいのです」

「にゃぎゃーっ!!」

「では後方に下がりますよお嬢。巻き込まれては大変ですからね」

「ちくしょー!!」

 

 襟首を掴まれた操がずるずる引きずられていく。それを手を振りながら見送って、藤千代は紫に問う。

 

「紫さんはどうするんですか?」

「私も下がってるわ。私が戦っちゃ元も子もないし……藍もそれでいい? それとも、ちょっと暴れてくる?」

 

 藍は苦笑、

 

「紫様、私は別に戦好きではないですよ」

「そう? でも、私とはじめて会ったときなんか結構」

「さあ紫様急いで下がりますよっ! 巻き込まれては大変ですからね!!」

「えっちょっと待って、あーっカッコよく号令するって決めてたのにー!?」

 

 紫が脂汗を流す藍に引きずられていく。それを手を振りながら見送って、藤千代はいよいよ前を見据えた。

 見渡す限り幾万の大敵、無数の妖怪、無量無辺の白い大地。息を吸う。地上とは少し違う味の空気に、喉が透き通り、引き締まる。

 言った。

 

「――それでは皆さん、準備はいいですかあー!?」

 

 音に聞こえた鬼子母神の号令に、大地を割らんばかりの野太い大合唱が返ってきた。

 

「今日は難しいことは綺麗さっぱり忘れて、思いっきり暴れちゃいましょーっ!!」

 

 応の咆吼で大気が震える。気圧された敵の隊列が少し乱れる。なんだか宴を始めるみたいだ。そう思ってすぐに、実際そうなのかもしれないなと、藤千代は小さく笑った。

 これは有り余った力を発散するための戦であり、積もり積もった鬱憤を爆発させる宴。

 だから、

 

「皆さんにとって、これが佳き戦となりますように――」

 

 どうか、みんなが心の底から楽しめる宴となりますように。

 想いを込めた腕を勇ましく振って、藤千代も吼えた。

 

「――ではでは、とっつげきーっ!!」

 

 もはや、月そのものが揺れているかのようだった。すべての妖怪が、それだけで敵を打ち砕かんほどの喊声をあげ、策などまったく用意せず、愚直なまで一直線に進軍する。

 藤千代も突撃した。

 どうにもやっぱり、我慢できそうになかったのだ。

 

「――儂もたまには暴れたいよおおおおおっ!!」

「――藤千代に出番取られたああああああっ!!」

 

 次期天魔候補と賢者の情けない叫びなんて、もう聞こえない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その光景を、月見と幽々子はやはり離れたところから見ていた。

 

「始まったね」

「始まりましたね~」

 

 進軍の音は地響きに似ていた。白い大地を惜しげもなく踏み鳴らし、猪も回れ右で逃げ出しそうな猛々しい正面突破である。地を走る者、空を飛ぶ者の違いはあれど、敵の側面や後ろに回り込もうとする者は一人もいない。

 妖怪は人間と違って体が丈夫だし、力の顕示欲も強いので、いかに策を弄して最小限の手間で勝つかより、いかに己の実力で敵を叩きのめすかに重きを置く傾向がある。とりわけ鬼に代表される強大な妖怪の中には、小賢しい策を嫌悪し、そういったやり方に頼る人間を侮蔑する者もいる。妖怪にとっての戦とは、複雑怪奇な知略のぶつけ合いではなく、単純明快な力と力の一騎打ちなのだ。

 罠になど、嵌ってからどうするか考える。

 愚直ではあるだろう。せっかく人間と同等の知能を持っているのに、宝の持ち腐れであるかもしれない。けれど月見は、そんな愚かしいほどまっすぐな戦い方が決して嫌いではなかった。

 腹を割った一騎打ちの果てにやってくるのは、概して「なかなかやるな」「お前もな」なのだから。

 さて、そんな剛毅で愚直な妖怪に、月の民はどう立ち向かうのか。月の技術に物を言わせて無理やりねじ伏せるのか、それともその技術をもたらす優れた知能を活かし、神算鬼謀で幻惑するのか。

 正直なところ、なにが起こったのかを一度で理解することはできなかった。

 月人の側で一瞬光が瞬いたかと思うと、黒い塊と化して突き進んでいた妖怪たちが木っ端微塵に吹き飛ばされた。

 

「「「おぎゃーっ!?」」」

「……おお」

「わ~」

 

 幽々子がぱちぱちと拍手をした。

 月見の知識で説明すれば、藤千代が組手と称しながら仲間たちを吹っ飛ばす光景に近かった。藤千代が拳を振ると拳圧で衝撃波が生まれ、喰らった連中が大空へ跳ね飛ばされるのだ。それとなかなかよく似ている。吹き飛ばされた妖怪たちはひとりひとりが見事な放物線を描き、あちこちに「へぐうっ」と落下していく。

 地上だけではない。また月人の側で閃光、

 

「「「おぼふっ!?」」」

 

 空から進軍していた妖怪たちが木の葉同然に吹っ飛ばされ、

 

「ちょっ待っ、なんじゃこりゃ――ぎゃーっ!?」

「あいつらなんか飛び道具使うぞぉ!? みんな気をつけおぎゃんっ!?」

「田吾作ーっ!? おのれ月の人間め、この俺様が田吾作の仇をハアンッ!?」

「権兵衛ーっ!? あっ待ってなんかこっち来ぶしゃん!?」

「「「ぬわああああああああっ!?」」」

 

 妖怪たちが次々空を流れるお星様と化して、前線はあっという間の大混乱に陥った。

 一方、離れたところから戦場を眺める月見はようやくわかってきていた。かつて月見が戦った月人は不思議な光の弾を撃ち出す武器を使っていたが、どうやらそれと似たようなものらしい。弾速は速くかつ射程は長く、まだお互いの顔も見えないほどの距離を一瞬で駆け抜けていく。いくら身体能力が優れる妖怪でも、初見でいきなり対応することはできなかった。面白いようにぽんぽん吹っ飛ばされている。幽々子が感嘆の声をあげる。

 

「すごいですね~。あれが月の世界の技術ですか」

「どうやらそうらしい」

 

 しかし、妖怪とてただ吹っ飛ばされるだけではない。時間が経つに連れて目が慣れてきたのか、ちらほらと弾幕をくぐり抜け月人へ肉薄する連中が現れ始めた。その中の誰かが声高に叫ぶ、

 

「てめえらよく見てろおっ、この俺様の勇姿をなあ!」

「「「お、親方あっ!!」」」

 

 月人に迎撃の体勢を整える間も与えず、風を置き土産にしながら一気に間合いへ飛び込んで、

 

「――あばばばばばばばば!?」

「「「親方ああああああああっ!?」」」

 

 罠だった。月人の側から正体不明の光線が放たれ、喰らった妖怪はビクビク痙攣しながら地に崩れ落ちた。続け様に一匹の玉兎が素早く飛び出し、その妖怪の頭にペタリとなにかを貼りつける。妖怪の体が最後に一度だけビクンと震えて、それっきり一切沈黙した。

 幽々子が首を傾げた。

 

「あれって……」

「……遠目でわからないけど、妖怪を封じる札かなにかかな」

「月人って、そんなものも使うんですか?」

 

 わからない。けれど、使うとしてもそうおかしな話ではないと月見は考える。かつて月見を瀕死に追いやった一撃にも、傷の再生を阻害する術が仕込まれていた。ひょっとすると月人は、呪術や魔術といった分野でも地上を遥かに超えた力を持っているのかもしれない。

 ともあれ、これで月人側の基本的な戦法が明らかとなった。まとめて突っ込んでくる連中をはじめの光弾で吹っ飛ばし、浮き足立ったところを次の光線で各個撃破。トドメに封印の御札を張りつけてしまえば、その妖怪はもうただの無力な置物だ。

 本当に、妖怪たちの命を奪わずして勝つつもりなのだろう。

 

「月見さん」

 

 幽々子に、くいくいと手を引かれた。

 

「なんだか大丈夫みたいですし、私たちも行きましょう?」

「……そうだね」

 

 体の丈夫な妖怪たちが、光弾で吹っ飛ばされるもののすぐ立ち上がり、「こんにゃろおおおっやりやがったなああああああ」とまた元気に突撃していく。そしてまた空を舞う、もしくは光線を撃たれて「あばばばばば」となる。

 なんだか本当に、放っておいても大丈夫そうだったので。

 

「じゃあ、行こうか」

「ええ」

 

 ずっと握りっぱなしになっていた幽々子の手を引いて、白い大地を歩き出す。今のところは月人と妖怪の姿しかない荒野だが、進んでいけば景色も変わるかもしれない。

 幽々子は、月見の隣を歩かなかった。月見に手を引かれる恰好のまま、トコトコと目の前の背中を追いかけ続けていた。傍目であれば、月見に無理やり連れて行かれているようにも見えるかもしれない。もっともはじめはそう思った人も、幽々子のにこにこと楽しげな表情を見れば、首を振って考えを改めるだろうけれど。

 それは、月見に手を引かれて歩くという状況そのものを楽しんでいる顔だった。

 月見と一緒ならどこへでも、と幽々子は言っていた。あのときは冗談だと思っていたが、案外本気だったのかもしれない。本気だったからこそこんな殺風景な白い大地でも、彼女は心の底から楽しそうにして、月見の後ろにくっついてきている。

 声が聞こえた。

 

「……冥界なんて、行きたくなくなっちゃうなあ」

 

 ため息と一緒にこぼれ落ちたような声だった。

 

「紫も一緒に、もっと、もっと……」

「……」

 

 ――意外と、寂しがりな少女なのかもしれない。幽々子は友人とのんびり話をしたり、からかって遊んだりするのが好きな子だと月見は思っている。だから、決して今生の別れではないとはいえ、友人と離ればなれになってしまうのは、つまらなくて寂しくて嫌なのかもしれない。

 これからしばらくの間は、なるべく幽々子の屋敷から離れない方がいいだろうか――そう考える。せめて幽々子が現世に留まっている間は、紫と一緒に足繁く屋敷を訪ねて、何気ない世間話でもなんでもいい、ゆっくりのんびりと長閑な思い出を作るべきなのかもしれない。

 友人にそっと手を引かれるだけで、たまらなく幸せそうな顔をする少女なのだから。

 月見がそんなことを考えているうちに、幽々子はすっかりいつもの調子に戻っていた。足下を見て、

 

「それにしても、本当になんにもない場所ですわねえ」

「模擬戦とはいえ戦場に使う場所だからね、生活圏からは離れてるんだろう」

「月人さんの都、行けるなら行ってみたいんですけどね~」

 

 このままずっとずっと真っ直ぐ進んでいけば、恐らく月人たちの建造物も見えてはくるのだろう。しかし、調子に乗ってあまりここから離れてしまってはいけない。繰り広げられる戦が決着すれば最後、月見たちも潔く地上へ帰らなければならないのだ。調子こいてあちこちほっつき歩いているうちに、取り残されてしまいました、もしくは月人に捕まってしまいました――などとなってしまっては、ちょっと笑えない。

 白だらけの大地を進む。

 

「なにか見えますか~?」

「なにも見えないねえ」

 

 しかし大地はどこまでも、白に白を重ねた白だらけであった。

 月見は立ち止まり、ため息をついた。

 

「……このまま歩き続けてもダメそうだね。どうしようか」

「仕方ないですわね~……。じゃあ、一緒に星空でも見上げましょうか? あ、おみやげに月の石を持って帰るのもいいですわね」

 

 月見と手をつないだまましゃがみこんで、幽々子が手頃な大きさの小石を探し始める。戦場で石探しをする呑気な少女の姿に苦笑しつつ、月見は改めて月の世界を見回す。遠方から戦の喧噪が響いてきており、その反対側では、不気味なまでの静寂との虚無の空間。

 本当に、不思議な場所だ。見上げれば満天の星空が輝いており、同時に太陽が眩しすぎるほど己の威光を主張している。月見の常識に従えば、太陽が出ているということは昼である。一方で、暗黒の空に無数の星が散らばっているということは夜でもある。この世界は昼であり、また同時に夜でもあるのだ。太陽は青空で輝くものだと思っていた月見の常識が、根底から破壊された。たとえ月人の住む都は見れずとも、この光景だけで月までやってきた収穫としては充分だと思った。

 それに、昼と夜が同居する空に浮かぶ一番大きな星。地上から見上げる月より一回りも二回りも、手を伸ばせば掴めてしまいそうなほど大きな球体。闇の中に沈み、その一部の輪郭だけが太陽の光で青白く縁取られた姿は、月見の思考を未だ見ぬ天の世界へと引き込んで已まない。

 

「うーん、あんまりいい形の石がないですわ~。月見さんも手伝ってくださいな」

 

 見下ろせば幽々子が、足下の小石を拾っては捨ててを繰り返している。

 

「どんな形がいいんだい」

「記念にお屋敷に飾りたいので、置物として申し分ないのがいいですわ。角が立ってないやつとか」

「河原の小石みたいな?」

「ええ。ほらほら、一緒に探しましょ~?」

 

 幽々子にくいくいと手を引かれたので、月見は膝を折って適当なひとつを摘んでみた。たったいま砕かれたばかりのようにゴツゴツしており、なるほど置物として飾るには少々味気ない。

 軽く見回す限り、このあたりはどこもかしこも似たような小石ばかりのようだ。この中から丸い綺麗なものを見つけ出すのは、少しばかり骨が折れるかもしれ

 

「――Freeze」

 

 それがどういう意味を持つ言葉なのか、幽々子はわからなかった。月見はわかった。

 背後。

 

「……なんて言ってもあなた方はわからないと思いますが、要は、動くなってことです」

 

 仲良く土いじりをする月見と幽々子の脳天に、背後からなにかが突きつけられている。当然自分たちからは見えないが、どうせロクなものではあるまい。

 さすがの幽々子も表情を変えていた。息がもれたような声で呟く。

 

「……いつの間に」

 

 誰もいなかったはずなのに。

 月見もそう思う。物音はもちろん、気配までなにひとつとして感じなかった。まるで月見たちの背後に突然、かつ一瞬で出現したかのように。

 いや――紛れもなくそうだったのだろう。戦が始まる少し前を思い出せ。月の兵たちは事実そうやって、この真っ白い戦場に一瞬で出現してみせたではないか。

 声、

 

「そのまま両手を上げて、ゆっくりと立ちなさい。妙な真似をすれば――撃ちます」

 

 随分とうら若い少女の声だった。その響きから想像される外見は、紫や幽々子と比べてもそう大差ない。どうやら地上の人間とは違い、月の人間は少女でも関係なく戦場に立つものらしい。

 などと、のんびり考えている場合でもないか。残念ながら、月見特製の隠形の札も、月人相手にはまったく通用しなかったらしい。これはすなわち月人に見つかったのであり、月見たちの脳天に突きつけられているのは間違いなく月の兵器であり、生殺与奪の権利をほぼ握られたといっても過言ではない状況である。

 もしも背後にいる月人が、月見の記憶に刻まれた姿と同じであるなら――。

 不安げな顔をしている幽々子に目配せをし、両手を上げて立ち上がる。一拍遅れて幽々子も続く。

 首だけで振り返る。数は、月見が思っていたよりもやや多かった。月見と幽々子の頭に奇妙な棒状の武器――それが銃という名であることを月見はまだ知らない――を突きつけている玉兎が二匹ずつで、遠巻きには更に八匹。月の技術への絶対的な自信の表れか、戦に出る戦士とは思えないほどの軽装をしている。全員が若い少女である。頭からは長い兎の耳を垂らしており、例外なく厳しい視線で月見と幽々子の背を射抜いている。

 その中心、

 

「物分かりがよいですね。助かります」

 

 声の主はやはり少女であり、玉兎ではなく月人であった。遠巻きの八匹に守られ、場違いすぎるほどきらびやかな出で立ちをして彼女は立っていた。色が薄い金の長髪を結うこともせず、鍔が円を描く真っ白い帽子を乗せて、腿のあたりで大きく開いたスカートから大胆に脚を晒している。天気がいいからと散歩にやってきたような風体であり、そんな少女が複数の部下を従えて月見を包囲させている様は、お偉いお嬢様を通り越してお姫様のようでもあった。

 

(――姫様、か)

 

 あの夜のことを思い出す。月が天に白い孔を空けた夜のことを。自分たちの姫をも冷酷に捕らえようとした、血の気もない、冷たい冷たい月人たちの姿を。

 どうなのだろう。

 いま月見を取り囲む彼女らは、あの頃と同じ月人のままなのか、それとも――。

 

「まずは、名乗っておきますね」

 

 扇を広げ、あくまで優雅な佇まいのままで、少女は言った。

 

「私は綿月豊姫。……はじめまして、地上の妖怪さん?」

 

 好意的な笑顔であるわけがない。

 でなければ、月見たちの頭蓋に未だ武器が突きつけられている道理などないのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月の技術を以てすれば、迫り来る妖怪どもを近寄らせぬまま駆逐する程度は容易いことである。一度引鉄を引けば十の命を撃ち飛ばす銃器、一度スイッチを押せば万の命を消し飛ばす兵器が月にはゴロゴロと存在している。これが本当の意味での戦であれば、今頃妖怪どもは一匹残らず絶命し、月の兵士たちの(かちどき)が空へ轟いている頃合いだっただろう。

 ではなぜ、我が軍はわざと威力の低い武器を使用し、妖怪どもとご丁寧に白兵戦を演じてなどいるのか。理由はふたつある。

 ひとつは、殺生による穢れを生み出さないため。穢れは月人にとって死をもたらす病原菌であるため、それを生み出す行為は基本的に忌避されている。地上の妖怪となれば、死の際に振り撒かれる穢れも相当なものとなるだろう。だから、極力殺さずに勝利できるならそれに越したことはない。

 そして、ふたつ。

 スイッチを一度二度押した程度で終わらせてしまっては、自分がつまらないし面白くないからだ。

 もっとも。

 

「――来られませ、天津甕星(あまつみかぼし)

「「「おぎゃー!?」」」

 

 そんな思惑の甲斐もなく、すでに退屈な戦なのだけれど。

 天より降り注いだ無数の光の柱が消えると、あとにはすっかり目を回して動かなくなった妖怪どもが転がっている。みんな、いい感じに体がコゲて香ばしい煙をあげている。もちろん致命傷にはほど遠いが、すぐに目を覚ますほどの軽傷でもないらしいのは、すでに何匹もの妖怪を沈めて証明済みだ。自分が使役できる中ではこの『天津甕星』が、もっとも手早く、もっとも効率的に敵を行動不能にできる神だった。

 綿月依姫はそこで一度刀を納め、細く長いため息をついた。

 

「――いいですよ。あとはお願いします」

「わかりましたー」

 

 依姫が短く命じると、後ろから玉兎たちが飛び出し、動かなくなった妖怪の頭やら背中に御札をぺしぺし張りつけていく。「あふん!?」と妖怪どもは変な声をあげて一瞬震えたが、すぐにまた動かなくなる。

 月の技術で作られた、魔性のモノを抑え込む札だ。妖怪の力と動きを封じる効果があり、かつ、一度張りつければ妖怪では剥がすことができない。無理に剥がそうとすれば反魔の術によりダメージを受ける。多少斬ったり撃ったりした程度では倒れもしない連中を、問答無用で無力化する手段であった。

 月の優れた技術は、なにも科学だけで形作られたものではない。魔性のモノに対抗する呪術や魔術もまた、地上より遥かに高い水準で発達している。

 それぞれの武器や能力である程度ダメージを与え、敵の動きが鈍ったところに御札でトドメを刺す――多くの玉兎にとっては馴染みのない実戦だが、特訓の成果が出ているのかみんなよく健闘していた。戦況は終始優勢である。この調子で行けば、あと一時間を待つまでもなくケリがつくだろう。

 ケリが、ついてしまう。

 また、ため息。

 

「……もう少し、手応えのある敵がいると思っていたのですが」

「だったら、御力を使うのやめたらどうです? 依姫様なら、剣一本でも問題ないでしょう」

 

 横で苦笑した玉兎に、依姫は表情を変えず、

 

「二の力しか持たない相手を三の力で倒しても、つまらないことに変わりはありません」

「……おー、さすが依姫様」

「私は、百の力で渡り合える相手と出会いたい」

 

 綿月依姫は、月の民最強の剣士である。驕っているわけではない。事実として依姫は、今の月世界で自分より強い戦士というものを知らない。だからこそその実力を買われ、女でありながら『月の使者』のリーダーを務めているわけだし、玉兎の戦闘指南もその大部分を取り仕切っている。かつて自分の師であった八意永琳ですら、『戦い』という一点のみに限れば、依姫には決して及ばなかったほどなのだ。

 天才的な剣術の才能に加え、八百万の神々を己の肉体に降ろし使役するという、神の如き――いや、まさしく神そのものといえる能力。今しがた何匹もの妖怪を一撃で沈めた『天津甕星』すら、自分にとっては準備体操のようなもの。

 これではまったくもって、不完全燃焼――。

 違うか。

 自分はそもそも、まだ火がついてすらいないのだと。依姫は、三度目のため息をつきながらそう思った。

 

「どこかにいないのでしょうか、私が本気で戦える相手は」

「いたらいたで困りますけどねそれ。……と、すみません、通信です」

 

 二歩後ろへ下がった玉兎が、耳に手を当てた。

 

「はい、こちら第一部隊」

 

 その間、依姫は次の敵を探して戦場を見回す。無論、敵はどこに目を向けても充分すぎるほどいるのだが、その中で依姫の眼鏡に適う強者となれば皆無だった。強くはあるのだろうが、それだけ。数字でいえば十か二十がいいところであり、百の依姫には遠く及ばない。

 力を使わず剣一本で戦えば、まあまあ楽しめはするのだろうが。

 

「……え? 本当ですか? ……はい、……わかりました、依姫様に伝えます」

 

 玉兎が通信を終えた。依姫は目だけで報告を促す。

 

「第十一、及び十二部隊が苦戦しているようです。敵は、鬼が二人」

「ほう」

 

 ただの戦況報告だろうと高を括っていたが、存外、興味深い内容だった。

 たとえ実戦経験が浅くとも、此度の戦に参加している玉兎は皆、依姫が直々に手塩をかけて育てあげた戦士である。この戦に備えて特別訓練もやったのだ、断じて弱いということはありえない。弱かったらおしおきする。実際依姫が見回す範囲では、慣れない実戦で多少の緊張こそあれ、皆が一歩も怯むことなくよく戦っている。中には、一人で何匹もの妖怪を圧倒している者もいる。

 そんな戦士たちを、逆にたった二人で相手取っている猛者がいるらしい――。

 

「まだしばらくは持ちこたえられますが、援軍をいただけると助かる……と、そんな内容でした」

「……なるほど、わかりました」

「どうされます?」

 

 問われるまでもない。

 

「無論、行きます。……これでようやく、少しは楽しめそうだ」

 

『百』の敵だとは思えない。そんな猛者がいるならその存在はすでに通常回線(オープンチャネル)で共有されているはずだし、部隊の二つ三つはとっくに壊滅している。

 だがそれでも、少しでも手応えのある敵と出会えるならば。

 

「あはは、了解です。……じゃ、そう伝えますね」

 

 苦笑した玉兎が再び、耳元の通信機に手を掛けようとした。依姫は戦場の彼方まで意識を澄ませ、まだ見ぬ猛者の気配を少しでも早く感じ取ろうとした。

 いきなりだった。

 

「あのー、すみませーん」

「――っ!?」

 

 まず声が聞こえ、次に依姫は、己の右隣に立つ異質な存在に気づいた。そしてその瞬間にはもう、依姫の右腕は超人的な反射速度で愛刀の鯉口を切っていた。

 付き従っていた玉兎には、ただ、光が閃いたように見えたはずだ。

 己の不覚を悔いる暇もなかった。完全な反射故に全力で放たれてしまった依姫の居合いは、まさしく一筋の閃光と化していた。放った本人が咄嗟に止めることすらできない絶望的な速度。愛刀の剣先が描く銀の軌跡が、容赦なく、そこに立っていた人影をまるで容赦なく真っ二つに、

 

「おっと」

 

 信じられないことが起こった。

 真っ二つになったのは、依姫の愛刀の方だった(・・・・・・・・・・)

 

「――な、」

 

 振り切った刀が軽い。刀身の中ほどから先が綺麗さっぱり消失している。折れた刀身が、まるでその部分だけ時を止められたかのように、依姫の目の前で置いてけぼりになっている。

 なぜ。

 止められたからだ。

 小さな小さな鬼の少女に、親指と人差し指の、たった二本(・・・・・)で。

 

「もー、いきなり危ないじゃないですかー」

「っ……貴様、」

 

 玉兎が銃口を向けながら叫んだ言葉は、呆気なく途中で終わった。

 

「ちぇいっ」

 

 依姫の居合いを二本の指でへし折ってみせた少女が、反対の親指と中指で円を作り、それをデコピンの要領で玉兎へ向けて弾いた。

 思わず目を閉じかけるほどの旋風が起こった。あとは自分の背中で繰り広げられたことなので、詳しくはわからない。

 だがそれでも、くぐもった悲鳴をあげた玉兎の気配が、嘘みたいに彼方まで吹っ飛ばされていったことだけは理解できた。

 

「……あ。ごめんなさい、つい」

「っ……」

 

 依姫は大きく後ろへ跳躍し距離を取る。少女は追ってこなかった。軽く腕を振り、二本指で挟んでいた刀身をまっすぐ地面に突き刺した。

 

「でも、そっちだっていきなり斬ってきたんですからおあいこですよね?」

 

 おあいこなものか。少女は無傷でピンピンしているが、こちらは部下を一人――

 違う。

 一人ではない。相手から距離を取って、視界が広がった今だからこそ気づいた。

 妖怪どもに御札を貼って回っていたはずの部下が、全員倒れ伏してぴくりともしていない。

 

「っ、みんな……!」

「あ、大丈夫ですよ。ちょっと眠ってもらっただけなので」

 

 そういう問題ではない。此度の戦にあたって、自分たち月の戦士は全員が、月の科学と呪術を融合させた最新の戦闘服(バトルスーツ)を装備している。まとうだけで身体能力が飛躍的に向上し、部位を問わずあらゆるダメージを緩和する。顔面に銃弾の雨を食らおうとも、ちょっと鼻血が出る程度で済むほどの代物なのだ。

 その防御性能を突破して、依姫すら気づけないほど一瞬で、全員の部下を撃破してみせた少女――

 

「……何者ですか」

「ごくごく普通の鬼の女の子です」

 

 見た目相応に愛らしい笑みだった。藤の花を模した髪飾りが、しゃらりと小気味よい音で揺れた。

 

「さっき、空から光がバババ! って降り注いでたじゃないですか。あれ、あなたの仕業ですか?」

「……そうだとしたら?」

「是非」

 

 悪寒、

 

「――是非、お手合わせしてほしいなって」

「……!」

 

 そのとき依姫は、きっと、笑ったと思う。少女は表情をまったく変えなかったし、なにか特別なことをしたわけでもなかった。ただ依姫に向けて妖気を放っただけであり、なんてことはない戦闘の意思表示であるはずだった。

 鳥肌が立った。

 桁が違う。今まで対峙してきたどの妖怪よりも。

 愛らしい眼差しのまま放たれた妖気が、依姫の全身を波濤の如く呑み込んだ。全身の産毛が逆立ち、毒でももらったように肌が痺れる。両肩にのしかかる重圧に、気を抜いたら膝からひしゃげてしまいそうになる。

 天を背負っているかのようだと、依姫は思う。

 だから、笑ったのだ。

 

「……ははっ」

 

 なんだ。

 いるじゃないか。

 依姫の願いを叶えてくれるかもしれない、最高の敵が。

 問う。

 

「……先ほど、別の部隊から通信がありました。随分と強い鬼が二人いると。あなたがその片割れですか?」

「つーしん? えっと、たぶん萃香さんと勇儀さんですねー。私ではないです」

 

 だろうな、と思う。もしもこの少女が相手だったなら、部下は援軍を求める間もなくやられていたはずだ。

 更に問う。

 

「その鬼二人とあなた、強いのはどちらですか?」

「私ですね」

 

 即答だった。

 

「まだまだ、若い者には負けませんよー」

「……そうですか」

 

 見た目は童女と変わりないくせに、まるで老婆のような口振りだった。まあ妖怪は肉体が老いづらい存在だし、それに、もうこれ以上の問答など必要ない。

 充分だった。プライベートの回線で通信を入れた。

 

「お姉様、聞こえますか」

『……はいはい、どうしたの依姫』

 

 返事はすぐ返ってきた。用件のみを簡潔に告げる。

 

「私の部隊ですが、私を除いて全滅しました」

『……は!? ちょっと待って、それどういう』

「問題ありません、敵は一人です。なので私が相手をします。姉様は、皆へ念のための注意喚起をお願いします」

 

 一息、

 

「――なにがあっても足手まといだから近づくなと」

「……ふふ」

 

 鬼の少女が、笑う。

 答えが来るまで、少し間があった。

 

『……わかりました』

 

 いつもお転婆な姉にしては、珍しく固い声音だった。

 

『一人で、大丈夫なのね?』

「私で駄目なら、他の誰がやっても駄目ですよ。……それでは」

 

 通信を切る。心配してくれた姉には申し訳ないが、長話をしたい気分ではなかった。

 だって私はもう、一秒でも早く目の前の少女と戦いたくて、疼いて疼いて仕方ないのだから。

 体が震えている。ああこれが武者震いか、と依姫は思う。生まれて初めての武者震いは、剣の道を生きる者として光栄ですらあった。

 

「――私は、綿月依姫」

 

 勝手に動き出してしまいそうな体を懸命の理性で抑えつけて、依姫は名乗る。

 

「自分で言うのもなんですが、月の民最強の剣士です」

「はじめまして」

 

 少女も名乗る。

 

「私は、藤千代」

 

 依姫と、同じ言葉で。

 

「自分で言うのもなんですが――最強の鬼です」

「……!」

 

 ああ、もう、我慢できない。

 挑みたい。全身、全霊、自分が持ちうるありとあらゆる力を懸けて。

 依姫の居合いをたった二本の指で完璧にヘし折り、

 指一本触れることなく玉兎を遥か彼方へ打ち飛ばし、

 ほんの少しの妖気を開放しただけで依姫を震えさせる、

 なにもかもが桁違いな、この少女に。

 

 戦は続いている。敵味方を問わず怒号めいた喊声が響き、大気が震え、大地が揺れている。数多くの妖怪が倒れ伏しており、劣勢に追い込まれている味方も何人か目に入る。

 もうどうでもいい。

 邪魔な思考をすべて脳から叩き出し、依姫はありとあらゆる感覚を目の前の少女だけに注ぎ込む。自分自身を一振りの剣と化すように。心を炎と変えるように。少女だけを見て、少女だけを聞いて、少女だけを感じる。

 始まる。

 戦が始まる。

 他の誰でもない、依姫だけの戦が。

 

 

 

 

 

 後に、ある玉兎はキレながら語ることとなる。

 なにがあっても近づくなとは言われたが。

 

 ――そっちから近寄ってこないでくださいよ!? マジで死ぬかと思ったんですからね!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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月面戦争 ③ 「ギザミミ玉兎は帰りたい」

 

 

 

 

 

「……ねえ藍、私は夢を見ているのかしら」

「安心してください、私も同じものを見ています。というか、その質問はもう四度目です」

 

 だって仕方ないじゃないか、本当に信じられないのだから。

 最強の妖怪とは一体誰か――紫たち妖怪の間ではしばしばそんな議論が交わされる。昔と比べると妖怪の数が随分と増えたし、力自慢として名を上げる者も多くなったから、起こるべくして起こった議論だったといえよう。金毛九尾、酒呑童子、フラワーマスターなど、強大な妖怪として天下に知られる二つ名は今やそう珍しいものではない。

 にもかかわらず、その議論において口々に挙げられる名といえば、ほぼ間違いなくたった二人の少女に集約される。

 八雲紫と藤千代である。

 実力を高く評価してもらえるのは満更でもないが、名を挙げられた当事者として紫は訴えたい。藤千代と比べるのだけはやめてほしい。だってそのせいで、「実際どっちが強いか闘って決めません?」みたいな話を藤千代から吹っかけられるのだから。本当にやめてくれ、自分はまだ死にたくないのである。

 確かに、自分でも敢えて言おう、紫は途轍もなく強い妖怪だった。身体的な力自体は普通の鬼とどっこいどっこいだが、それを補って余りある強大な能力を引っ提げている。『境界を操る程度の能力』――この力の限界がどこにあるのかは、紫本人さえ把握していないし想像がつかない。割とどんなことでもできてしまうのではないかと思っているし、事実、割とどんなことでも実現させてきた能力であった。

 そしてそんな、割とどんなことでもできてしまう紫がこの世で唯一恐れる妖怪が、藤千代という鬼の少女なのである。

 もちろん、紫と藤千代は友達同士だ。月見の話で一晩中語り合える程度には仲が良い。しかしそれでも、闘うのだけは冗談抜きで御免被る。

 おかしい。あんなの生物として致命的に間違っている。単純な腕っ節の時点で、すでに並べる者がこの世に存在していない。しばしば組み手と称して、仲間の鬼たちをぽんぽんと空へ放り投げ遊んでいる。そしてその中には、伊吹萃香や星熊勇儀といった屈指の実力者も含まれている。

 石を真上に投げたら二度と落ちてこなかったとか、一度腕を振っただけで山が崩れたとか、緑豊かな平原を一発で荒野に変えたとか、ある戦で数万の戦力差をたった一人で引っくり返したとか、彼女が日常的に放っている妖気だけで弱い妖怪は失神してしまうとか、ともかく藤千代に関する噂話は休まることを知らないし、事実彼女の実力なら、それらがすべて真実ではないかとも思えてしまう。

 能力に頼るまでもなく、あらゆるものを腕一本でひねり潰してしまえる――そんな少女。だから本音をいえば、藤千代をこの戦に参加させたくはなかったのだ。彼女が戦に出たら、それだけで勝負が決まってしまうから。この戦は、妖怪たちが溜まりに溜まった鬱憤を爆発させるための宴であり、藤千代が月人を蹂躙する見世物ではないのだから。

 紫とて、月の技術の恐ろしさは知っている。瀕死の月見を泣きながら手当したあの夜のことは、今でも忌々しいほどよく覚えている。

 だがそれすらも、藤千代という少女は力ですべてをねじ伏せてしまう。

 そう思っていたのだ――ほんの数分前までは。

 呆然として呟く。

 

「夢にも思ってなかったわ……藤千代と互角に戦える人間がこの世にいるなんて」

「まあ……ありえないような光景なのは否定しません」

 

 遠くから、声が聞こえる。

 

『――来られませ、天津甕星!!』

『きゃー』

『『『おぎゃああああああああああ!?』』』

 

 順に、馬鹿デカい光の柱を天より落とした依姫、それを軽々飛んで躱した藤千代、着弾地点で巻き込まれて地面と一体化した妖怪たちである。

 

「……なによあれ。神の力をあそこまで使いこなす人間なんて初めて見たわ。よく体が壊れないわね」

「そういう力を持っているのかもしれませんよ。月人の歴史は、尋常ではないほど長いと聞いてますし」

 

 また声、

 

『――ちぇやぁっ』

『……なんのっ!』

『『『のぎゃああああああああああ!?』』』

 

 順に、拳圧で衝撃波を放った藤千代、紙一重で躱した依姫、着弾地点で巻き込まれて吹っ飛んだ玉兎たちである。

 

「――ってかちょっとっ、あっちこっち駆け回りながら戦うのやめてよ!? みんな巻き込まれてるじゃない!?」

「止めてきてはどうですか?」

「……藍、お願いっ」

「私に死ねと? 紫様の方が適任でしょう」

「私に死ねと?」

 

 二人揃ってため息。

 

「うう、もう滅茶苦茶よお……やっぱり藤千代を連れてきたのは間違いだったんだわ」

「それは仕方ないですよ。月見様と違って、藤千代様は鬼の頭目ですから。隠し通すなんて不可能です」

「もおどーにでもなーあれー……」

 

 藤千代と依姫は絶好調である。お互い競い合える最高の敵を見つけたことで、彼女らは完全に周りが見えなくなってしまっていた。縦横無尽に戦場を駆け巡り、敵味方問わずどんどん巻き込んで、戦を混乱の坩堝(るつぼ)へと叩き落としていく。しかも、二人ともまだ様子見で全然本気を出していないと来た。ということは、彼女たちの戦はこれからますます激化の一途を辿り、そうなれば巻き込まれる人数もグンと跳ね上がるわけだ。

 もうダメだ、おしまいだ。

 いじけて丸くなっていたら、背後から名を呼ばれた。

 

「紫殿、藍殿。もう少し距離を取った方がいいですよ。巻き込まれては大変です」

 

『犬走』だった。目の前の光景にただただ圧倒されている紫と藍をよそに、彼は秋のそよ風のような佇まいを寸分乱してもいなかった。まるで普通の妖怪と普通の人間が戦っているところを見るような目で、藤千代らの激突を冷静に追いかけている。

 興味本位で、紫は尋ねた。

 

「……ちなみにあなただったら、あの剣士とどこまで戦える?」

 

『犬走』もまた剣を使う。その太刀筋を紫は実際に見たわけではないが、剣術に長けた天狗の中でも一頭地を抜いているとは聞いている。

『犬走』は苦笑、

 

「いくら私でも、あれの相手は骨が折れますよ」

「……そう」

 

 勝てない、とは、彼は言わなかった。骨が折れるけれど、まあやれないことはない――そう言われた気がした。この男まで戦好きでなくてよかったと、紫は心の底から思う。そしてだからこそ、これほどの男を部下として使役する天魔の実力に、底の知れない薄気味悪さを感じる。

 鬼なら藤千代。狐なら月見。各々の種族で最も強いといえる者の実力はおよそ把握している紫だが、天狗の長である天魔だけはいまひとつ読みきれない。

 もしも天魔の力が世に知れ渡るようになれば、「最強の妖怪は誰か」という議論も、今とはまた違う形を見せるのかもしれない――。

 ようやく、気づいた。

 

「そういえばあなた、……操はどこに行ったの?」

 

 あのお調子者な次期天魔候補の姿が、いつの間にか消えている。

 物静かだった『犬走』の表情が、初めて崩れた。彼は「え?」と頓狂な声をあげ、後ろに誰もいないのを確認すると周囲を見回し、しかし操の姿はどこにも影もなく、

 五秒、

 

「……ふふふ」

 

『犬走』は、にんまりと笑った。

 

「さてはお嬢、どさくさに紛れて……ふふふ、本当にやんちゃなんですからあの駄天魔候補は」

 

 あっこれダメなやつだ、と紫は思う。『犬走』が、背から大剣の鯉口を物騒に切る。

 

「紫殿、藍殿。ちょっと急用ができてしまいましたので、私は行きます」

 

 それは問答無用で背筋を凍らす、とってもステキな笑顔であった。

 

「申し訳ありませんが――邪魔はしないでくださいね?」

「「は、はひっ!」」

 

 藍と揃って、必死にコクコク頷く他ない。

 紫がこの世で恐れる妖怪は藤千代だけだと先ほどは言ったが、訂正しなければならないだろう。

 

「お嬢……そんなに折檻してほしいのならそう言ってくれればいいのに。しょうがないですねえまったく、ふふふふふ」

 

 犬走怖い、超怖い。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……まったくもう、依姫ったら」

 

 ため息とともに肩から力を抜いて、豊姫はうんともすんとも言わなくなった通信機をしまった。それから忘れないうちに、頼まれていた注意喚起を部下に指示出ししておく。

 正直今でも信じられない。依姫の部隊が、依姫だけを除いて全滅してしまっただなんて。しかし妹の性格は自分が一番よく知っているから、嘘ではないのだろうとも思う。

 必勝の戦になると高を括っていたが、とんだ強敵もいたものだ。

 首を振った。妹の性格を一番よく知っている豊姫は、妹の実力だって誰よりもよく理解している。依姫が誰かに負ける姿なんて想像ができない。だから心配はしていない。むしろ、依姫の部隊を壊滅させたという謎の強敵に感謝すらしていた。

 高鳴る興奮で、今にも胸が張り裂けてしまいそうな。

 あんな依姫の声は、もう随分と長い間聞いていなかった。

 だから豊姫は前を見る。依姫が月の使者を率いる者として敵と戦っているように、豊姫もまた己の役目を全うしなければならない。

 凛と響く声音で告げた。

 

「――ご協力に感謝します」

 

 豊姫の目の前で、地上よりやってきた妖狐の男と亡霊の少女が、両手を上げて恭順の意思を示している。豊姫の部下たちがそれを取り囲み、皆一様に銃口を向け、いつでも撃てるよう引鉄に指を掛けている。相手がなにか不審な動きをすれば、豊姫が一言命令を下せば、その瞬間に敵を蜂の巣にできる必殺の距離である。

 できることなら、こういう形では出会いたくなかったのが本音だった。妹同様、月の使者のリーダーを務める豊姫は所謂『お偉いさん』の身分だが、その中では珍しく地上の生命体を嫌悪していない。それどころか、案外仲良くできるのではないかとすら思っている。

 きっと、かつてともに暮らしていた師の影響なのだろう。師は豊姫が生まれる前から、地上の命に一定の理解を示していた。地上の生命体=悪と断ずるお偉いさんの頭の固さを、常々嘆きため息をついていた。その思いはやがて師を、大罪人として罰せられた輝夜に付き従い地上の世界で生きていくと決断せしめるに至る。

 恐らく豊姫は、師が望んで下りていった世界の者たちと、理解し合えることを信じたいのだ。自分たちにそれができるなら、師だってきっと、地上で平穏無事に生きているはずだから。

 けれど、今は状況が状況だった。豊姫が妹と同じく月の使者を率いる者である限り、不審な妖怪を見つければ捕らえなければならない。戦に目もくれず戦場の隅でコソコソしている者があれば、武器を突きつけて誰何(すいか)しなければならない。

 

「ごめんなさいね、手荒な真似をしてしまって」

 

 軽く謝罪をしつつ、豊姫は問うた。

 

「教えてください。あなたたちは、こんなところで一体なにをしていたのですか?」

 

 亡霊の少女が、不安げな顔で男を見上げた。男は少女に目配せをしてから、臆した素振りもなく答えた。

 

「形のいい石を探してたんだ。おみやげにいいと思ってね」

「……なるほど、そうですか。ですが生憎ながら、月の石をおみやげに持って帰るのは重罪で――おみやげ?」

 

 豊姫は狐を二度見した。狐がああとはっきり頷いた。豊姫は少しの間考え、それからようやく、自分が『月の石をおみやげに持って帰るのは重罪』という謎の新法律を口走ったことに気づいた。慌てて首を振り、

 

「えっと、その、正直に答えてください。あなたたちは、ここでなにをしていたの?」

 

 今後は亡霊が、

 

「ですから、おみやげに持って帰ろうと思って、綺麗な石を探してたんです」

「待って待って」

 

 えっと。

 どうやら豊姫の質問が悪かったようだ。訊き方を変えることにする。

 

「あの、ここに戦をしにきたのよね?」

 

 狐が、

 

「いや、私たちは観光に」

「ねえ、ねえ待ってお願い!?」

 

 おかしいのは向こうの頭だろうか。それとも、豊姫の耳なのだろうか。思わず前のめりで尋ねる、

 

「そ、それ、本気で言ってるの?」

「もちろん。……それでさっき、石を持って帰るのは重罪とか言ってた気がしたけど」

「あ、いや、あれはなんというか時差のせいで……とにかく、石くらいは別にいいけど」

 

 当然、真っ先に嘘を疑った。この二人は、例えば月の民を陥れる罠を張るなど、なんらかの白状できない悪事を働いていて、それを隠すために潔白を偽ろうとしているのではないか。もしくはそうやって豊姫たちを混乱させ、油断を誘い隙を作り出そうとしているのか。

 部下が皆、一様に戸惑った面持ちで豊姫の指示を待っている。なので豊姫は即座に決断した。幸い自分の手札には、こういうときに頼れる秘密兵器がある。

 

「師匠が作った嘘発見器の出番ね」

 

 豊姫の師であった八意永琳は、その活動分野を医学のみに限らない博学多才の女だった。いろいろと発明品を残している。それは大部分の人がガラクタと呼ぶようなものばかりだけれど、中にはキチンと役立つものも混じっている。

 周りの部下から、「えっ」みたいな反応な返ってきた。

 

「大丈夫なんですかそれ。八意様の発明品ですよね?」

「そうだけど、嘘発見器は大丈夫なやつよ。依姫と何度も使って遊んだもの」

 

 今でもよく覚えている。――「依姫は男の人に興味がないー。マルかバツか!」「無論、マルです。私は剣の道一筋で」バチーン、「いたい!?」「依姫のウソつきーっ! やっぱり興味津々なんじゃない!」「ぐっ……なら今度は私の番です! お姉様は最近太った! マルかバツか!」「……ふ、太ってなんか」バチーン、「いたい!?」

 部下が『八意』の名を口にした瞬間、狐の耳が一瞬ピクリと震えていたことに、豊姫は気づいていない。

 

「じゃあ、ちょっと待ってて。すぐ取ってくるから」

 

 豊姫の能力は『海と山をつなぐ程度の能力』であり、平たくいえば瞬間移動(ワープ)の能力である。移動対象は自分のみならず、ある程度の範囲の物体をまとめて転移させることもできる。何千何万という月の軍隊を、一瞬でこの戦場に出現させたのは他でもない豊姫だ。自分の部屋へ転移し、嘘発見器を取って戻ってくる――豊姫の能力なら恐らく五秒も掛からない。

 狐と亡霊を見た。

 

「一応言っておきますが、妙な動きをすればタダでは済みませんからね」

 

 とはいえ戻ってくるまではほんの数秒なのだ、妙な動きができるとしても程度は知れている。狐が首を傾げて何事か考え込んでいるが、豊姫は気にも留めない。この場の警戒を部下に任せ、瞳を閉じ、意識を集中させ、自分一人を月の都まで転移させる、

 

「――ああ、思い出した。八意ってもしかして、八意永琳のことか?」

 

 研ぎ澄まされていた豊姫の意識が、一発でぶちのめされた。

 十秒くらい石化していたと思う。

 

「――え、」

 

 ようやく声が出た。

 

「……ま、待って、どうしてあなたがその名前を」

 

 狐は答えず、ひとりだけ腑に落ちた様子で頷いた。

 

「そうか、彼女も月の人間だったものな。ここで名前を聞いてもおかしくはないか」

「答えてっ!!」

「豊姫様……!」

 

 冷静でなどいられるはずがなかった。胸倉を掴む勢いで詰め寄ろうとして、近くの部下に慌てて止められる。それでも豊姫は叫ぶ。

 

「知っているんですか!? 師匠を――八意永琳様を!?」

 

 確かに、考えてみれば可能性はゼロではない。永琳が地上へ下っていったのはもう数百年昔の話だが、妖怪であればその倍以上を生きる者もさして珍しくはない。だから目の前の狐が、もし地上へ下りた永琳となんらかの縁を持っていたとしても、ありえない話だと否定はできないのだ。

 もしも。

 もしもこの狐が、本当に永琳を知っているのなら――。

 話を聞きたい。いや、聞かなければならない。永琳は公式記録では行方不明という扱いになっているし、事実、彼女が地上へ下りてからというものその行方は(よう)として知れない。今となってはもう、生きているのか死んでいるのかすらわからないのだ。もちろん豊姫は師を信じているが、確かめようがない以上はどうしても不安がつきまとう。

 この狐は、豊姫が長年求めていた答えを知っているのかもしれない――その気持ちで逸る豊姫を宥めるように、彼が小さな笑みを浮かべた。

 

「すまないけど、私は永琳と親しかったわけじゃない。一度会ったきりでね」

 

 でも、と続けて、

 

「……輝夜とは、まあそれなりに、仲が良かったよ」

「っ……!」

 

 豊姫は、己がやるべきことを悟った。嘘発見器なんてもうどうでもよかった。地上の妖怪が永琳の名を口に出す時点で、嘘を疑う余地などないのだから。

 部下へ命じた。

 

「みんな、武器を下ろして」

「……しかし」

「下ろしなさい。彼らは敵ではありません」

 

 豊姫が求めている答えを与えてくれるかもしれない、重要な客人だ。

 部下たちが、戸惑いながらもゆっくりと武器を下ろした。絶好の隙だったはずなのに、狐も亡霊も、両手を上げた姿勢のまま身動きひとつしなかった。

 本当に、戦をしに来たわけではないのだろう。

 

「あなた方の目的が戦でないのなら、私たちにも戦う理由はありません」

 

 そう。きっと自分は、こういう言葉で出会いたかったのだと。

 この巡り合わせを与えてくれた神に感謝しながら、豊姫は微笑んだ。

 

「――もしよければ、お話を聞かせてくれませんか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――みぎゃーっ!?」

「よっしゃあーっ!」

 

 チビが小石みたいに宙へ吹っ飛ばされ、ノッポはガッツポーズをした。

 

「はい萃香一点減点ーっ! これで私が一点優位だね!」

「はあああああ!?」

 

 チビは空中で猫のように回転して叫ぶ、

 

「なに言ってんのっ、今まで私が一点優位だったんだからまだ同点でしょ!?」

「あっははは萃香、いくら私に負けるのが嫌だからって嘘はダメだよー? 鬼の名が泣いちゃうよ?」

「泣いてんのはそっちでしょうがっ! 私は六十四人倒してこれが五発目の被弾だから合計五十九点、勇儀だって六十三人撃破の四発被弾だから五十九点でしょ!?」

「残念、私も六十四人倒してるんだなー」

「ウッソだーっ!!」

「ホントーっ!!」

 

 おうちかえりたい。とあるギザミミな玉兎は心の底からそう思う。おうちにかえってあったかいお布団にくるまって一日丸々ぐっすり眠って、美味しいものをお腹いっぱい食べられる幸せな夢を見たい。かえりたい。もうやだ。

 すべての悪夢は二週間前から始まった。その日の稽古の時間、上官にあたる依姫がとんでもないハイテンションで道場にやってきた。品のある立ち振る舞いはいつも通りだったが、目が子どもみたいにきらきら輝いていたので、間違いなくハイテンションだったはずだ。

 ギザミミ含め、それなりに長い間依姫の部下をやっている同僚はその瞬間に本能で察した。――あっ、これ絶対ロクなことになんないやつだ。

 しかして、やはりロクなことにならなかった。玉兎たちを整列させ、前に立った依姫はぐっと拳を握って声高に叫ぶのだった。

 

『――今から二週間後に、地上の妖怪たちが月へ攻め込んできますっ』

 

 この時点で勘のいい同僚が二匹ほどバックレようとするも、神速の依姫に回り込まれ竹刀で美しいたんこぶをもらう。依姫は続ける、

 

『月の平和を守れるのは、私たち月の使者を除いて他にありません……!』

 

 ここまで来ればギザミミにも、これから自分たちにどんな不幸が降りかかってくるのか想像できた。デカいたんこぶを押さえてぷるぷる震えている同僚がいなければ、ギザミミもバックレようとしたはずである。

 依姫の瞳は、もはや遠足前の子どものそれだった。

 

『――というわけでこれから二週間、スパルタであなたたちを鍛えあげますからねっ』

 

 もうやだ、このスポ根戦闘狂(バトルジャンキー)

 あれから今日に至るまでの記憶は、正直あまり振り返りたくない。依姫は毎日きらきら輝く瞳で、戦に備える重要な稽古という名目の下、ギザミミたち部下をひたすら遠慮なくボコボコにした。強すぎる者の宿命というべきなのか、周りに誰一人として対等に渡り合ってくれるライバルがいないから、いろいろと鬱憤も溜まっていたのだと思う。お酒なしでは生きていけない者をアル中、違法な薬物に依存している者をヤク中と呼ぶなら、戦い大好きな依姫はバト中だ。恐らくこの少女は、一日一回必ず剣を握らないと禁断症状で死ぬに違いない。

 どうやって生き残ったのかは記憶が曖昧だが、とにかくギザミミは奇跡的に地獄の二週間を乗り越えた。

 そしてとうとう迎えた此度の戦で、またしても悪夢のような不幸に直面しているのである。

 そもそもギザミミは開戦前からおうちかえりたい状態だったのだが、曲がりなりにも依姫の特訓を生き抜いた身であるので、まあそれなりに上手いこと戦っていた。雪崩れ込んでくる異形の妖怪どもを衝撃弾で吹っ飛ばし、浮足立ったところを電磁弾で痺れさせて、トドメに封印の御札を貼って何体も行動不能にした。

 その繰り返しで終わってくれれば楽だった。そうなってくれれば自分がこうして、馬鹿デカい熊のような妖怪の体をバリケードにこそこそ隠れることもなかったのに。

 戦の差し迫った喊声(かんせい)とは少し違う、少女の場違いなほど元気な声が聞こえる。

 

「……だあーっもぉーいーしいーしっ! こうなったら一点じゃきかないくらいの大差つけて圧勝してやるし! 見てろーっ!!」

「あっはっは、そうこなくっちゃねえ!」

 

 鬼である。チビのノッポの二人組である。人の姿をしている妖怪は、そうでない者より高い力を持っている場合が多い、と話には聞いていた。しかしあのチビとノッポはその中でも更に頭抜けた力を持つ鬼らしく、ギザミミの仲間たちがもう何十人もやられてしまった。ギザミミも、五回くらい「あっ死ぬ」と思った。お陰様で、今は随分前に倒した熊らしき妖怪の体をバリケードに、こそこそと隠れて戦況を窺っている。月の技術を集約させた最新の戦闘服(バトルスーツ)を着ているといっても、やっぱり怖いものは怖い。おうちかえりたい。

 

「たりゃーっ!」

「ゲフッ」

「おりゃーっ!」

「ゴフッ」

 

 猟犬のような速度で一気に距離を詰めたチビとノッポが、それぞれ素手で玉兎を殴り飛ばす。チビに殴られた方は水切り石みたいになって地面を転がり、ノッポの方は打ち上げ花火みたいになって空を飛んだ。一拍遅れて二匹の憐れな玉兎は青い光の粒子で包まれ、転がる体が止まるより先に、もしくは地面に落ちるより先に、それぞれの武器だけを残して虚空へと消えた。戦闘続行不能のダメージを受けたと判断した戦闘服が自動で転送(トランスポート)システムを起動し、主人を都の医療施設へ転送したのだ。

 絶対おかしい。戦闘服には魔術呪術その他諸々で幾重にも防護の術式が織り込まれているため、一見普通の布切れだが実弾すら弾き返す堅牢な防御性能を誇る。それなのに一発もらっただけで戦線離脱なのだから、つまりはあのチビとノッポのパンチが実弾以上の破壊力を持っているということではないか。生身で喰らったらお陀仏ということではないか。おうちかえりたい。

 

「よーしこれで六十点っ!」

「なんのっ、こっちだって六十一点さ!」

 

 ちなみにチビとノッポがさっきから点数を叫び合っているのは、どうやらそういうゲームをしているかららしい。玉兎を一匹倒すごとに一点獲得、攻撃を喰らってしまうたびに一点減点、先に百点取った方が勝ち。バカじゃないのか。おうちかえりたい。

 つまりは、そんなゲームをやりながらの遊び半分でも玉兎を圧倒してしまえる猛者なのである。なんとか動きを止めようと味方が懸命の弾幕を張っているのだが、これがまた当たらない。さっきから何百発も撃ち続けているのに、まだほんの数発しか当たっていない。まさに『下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる』というやつだが、奇跡的に当たったところで足止めできるのはほんの一瞬だし。

 結局、すっかり戦意喪失したギザミミができたことといえば熊さんの陰でガタガタ震えることくらいで、そうこうしている間に周りの味方はみんなやられてしまった。

 もうダメだ、おしまいだ。いよいよ絶望し始めるギザミミには未だ気づかず、チビがノッポに、

 

「みんな倒しちゃったね」

「そうだね。……まだ百点取ってないし、次はあっちの方にでも行こっか。みんなの様子も気になるし」

 

 はいそうですみんな倒されちゃいましたここにはもう誰もいません誰も隠れてなんかいません私なんか殴ったら一点どころかマイナス百点ですだからどうかお気になさらず行っちゃってくださいさようなら!

 

「んじゃ、よーいドンで行こうか。位置についてー……」

 

 やったああああああああああ。

 ギザミミが心の中でグッとガッツポーズをした、まさにその瞬間であった。

 

「よーい、」

 

 ギザミミの頭上を越えて放たれた光弾が、脇目も振らずチビとノッポめがけて殺到した。

 

「「……!」」

 

 二人の反応はギリギリで間に合った。弾き飛ばされたように大きく跳躍し、着弾と同時に炸裂した光の不意打ちを見事躱しきる。なにかが起こったのかわからないギザミミの背後から声、

 

「大丈夫っ!? 助けに来たよ!」

(あ――――――――――――――――――――――――――――)

 

 ギザミミは痙攣しながら振り返る。三十以上にはなろうかという、とても頼もしい数の援軍であった。わぁい助けに来てくれてアリガトウゴザイマス、とギザミミは白目を剥いた。

 そういえばとっくの昔に戦線離脱した同僚が、通信で援軍を頼んでいたっけ。

 着地したノッポが目を光らせた。チビも牙を見せて笑う。

 

「おや……向こうから来てくれたよ。これは手間が省けたね」

「そだねー。……ふうん、結構いるじゃん。じゃあそろそろ決着つけようか、勇儀」

「望むところだ」

(ひえええええええええええええええ)

 

 せっかく、せっかく、上手いこと見つからないままやりすごせそうだったのに。

 素晴らしいタイミングで駆けつけてくれやがった同僚が、使命感たぎる炎の瞳でギザミミの肩を叩いた。

 

「私たちが来たからにはもう大丈夫っ。さあみんなの仇を取るよ!」

 

 あ、じゃあお任せしますんで私は帰っていいッスかね――そう言いたい。言った瞬間この熱血玉兎からビンタをもらい、更には依姫にチクられて地獄の特訓『あらあらそんな軟弱者に鍛えた覚えはありませんようふふ』コースが確定するだろうが。ほんと帰りたい。

 チビが、

 

「あー、そこに一匹隠れてたのか。気づかなかったなあ。じゃあ援軍呼んだのもあいつかー」

(ハイ違います誤解です濡れ衣です)

 

 ノッポが、

 

「んじゃまた援軍呼ばれる前に全員ノシて、みんなのとこに戻ろっか」

(いやあああああああああああああああ)

 

 熱血がにやりと笑う、

 

「さあ、それはどうでしょうかね。この者もどうやらお前たちの隙を窺っていた最中だったようですが、これでも依姫様の特訓を耐え抜いた猛者です! 一対一だってお前たちには負けやしませんっ」

(黙ってろてめえええええええええええええ)

「「へえ……そうなんだ」」

(んぎゃあああああああああああああああ)

 

 ギザミミは泣いた。心の中で泣いた。顔は笑っていた。それを見て熱血も微笑んだ。

 

「ふふっ……その余裕の表情、さすがですね。頼もしいです」

 

 ひょっとして今ギザミミがすべきなのは、目の前のお花畑を一刻も早く始末することなのではないか。

 

「さあ行きますよっ! 私がこの者とともに前を受け持ちますので、皆さんはバックアップをお願いします!」

 

 衝撃弾と電磁弾、どっちがいいだろうか。衝撃弾は相手を大きく吹き飛ばせるが殺傷力自体は低いから、百発叩き込んでもこのお花畑は倒せない気がする。ならば電磁弾はどうか。戦闘服の防護術式を考えても多少痺れさせることはできるだろうが、そんなんじゃあぜんぜんギザミミの気は晴れない。

 そうか、この銃を鈍器にして後頭部を殴れば、

 

「行きましょうっ、我々の勝利のために!」

 

 って待てやめろ引っ張るな、くそうこの不安定な体勢じゃあ思いっきり後頭部を殴っても致命傷は与えられない、いやそれでもやるしかない大丈夫だできる自分を信じろやるぞやるぞ私はやるぞいっせーの、

 と銃を振りかぶったところで、いきなり裂帛の声が轟いた。

 

「……操ちゃんとるね――――――――ぃどっ!!」

 

 このいかにも「必殺技ですっ!」とテンション高めな叫びを聞いた瞬間から、ギザミミの記憶には少しばかり空白がある。馬鹿デカい洗濯機の中に放り込まれたような、ものすごい遠心力で全身を蹂躙され、気がついたときには白い大地に横倒しでぶっ倒れていた。

 

(…………………………………………あー)

 

 体のあちこちがジンジンと熱くて痛い。しかし戦闘続行不能とは判断されなかったらしく、自分の体はいつまでも白い大地に転がったままである。前方にチビとノッポの背中があり、その奥には自分が先ほどまで隠れていたはずの熊さんが見える。どうやら自分は、勢いよく吹っ飛ばされるあまりチビとノッポの頭上を越えたらしい。

 チビとノッポが、背後のギザミミに構わず揃って空を見上げている。ギザミミもなんとなくつられて同じ方を見てみると、翼のやけに大きな天狗の少女が羽ばたいていて、

 

「危なかったな、萃香、勇儀……。じゃがっ、この儂が来たからにはもう大丈夫じゃよ!」

 

 チビとノッポは揃って半目で、

 

「「うわぁ……操だ」」

「ちょい待てぇっ、せっかくの助っ人になんじゃその反応!?」

「いや頼んでないし。ってか、これからせっかく面白くなりそうだったのにどうしてくれんのこの空気」

「ほんっと空気読めないよね操って」

「なんで!? なんで儂が叩かれてるの!?」

 

 そういえば、お花畑とその仲間たちはどうなったのだろう。見える範囲には影も形もない。みんな戦線離脱してしまったのだろうか。羨ましい、どうせなら自分もひと思いにやられてしまいたかった。そうして看護婦さんに優しく看病されながら、真っ白いお布団ですやすや眠りたかった。どうして自分だけここに取り残されているのだろう。取り残されるべきなのはお花畑の方じゃないか。おうちかえりたい。

 チビとノッポと女天狗の言い合いは続いている。女天狗が空で器用に地団駄を踏んで、

 

「い、いーじゃないかいーじゃないか、儂だってたまには暴れたいんじゃよ! 毎日毎日小父貴と剣の修業ばっか、やってられっかってんじゃ! 今日もここまで来といて戦には参加するなとか抜かすし、もう目を盗んで勝手に出てきてやったわっ」

「うわあ。知ーらないんだ、あとでこっぴどく折檻されるんじゃないの」

「ってかそれが狙いなんじゃない? あんたって好きなんでしょそういうの」

「徹頭徹尾違うんですけど!? と、とにかく、もう誰も儂を止めることなんてできないんじゃよ! なんか最近、みんなからただのダメなやつみたいに思われてる気がするし、ここいらでいっちょステキでカッコいい儂を見」

「――お嬢?」

 

 女天狗が泣きそうな顔をした。女天狗の背後に、いつの間にか鬼が立っていた。いや、鬼ではなく天狗なのだが、ともかくギザミミの目には鬼に見えた。

 笑顔の鬼だった。

 

「お嬢、こんなところでなにをしているのですか?」

「ひっく、」

 

 女天狗は早くも半泣きだった。チビとノッポが肩を竦めて、まー当然こうなるよね、やっぱ好きでやってるんじゃないのあいつ、と言い合っている。

 鬼の笑顔が三割増しになる。

 

「おやお嬢、無視ですか。いい度胸ですね」

「ど、どうしても我慢できなくて、ちょっとだけ羽目外してましたあああぁぁ……」

「なるほど。まあ仕方ないですね。ここのところ人間の恐怖心が過剰になっているせいで、お嬢も大変だったことでしょうし」

 

 女天狗がぱああっと救われた表情になって、

 

「まあそれは置いておいて」

 

 ひっく。

 

「何度言ったらわかるのですか、私が許可したのはあくまで月に来ることだけです。戦に参加していいとは一言も言っていない。そもそもちょっと人間の恐怖心が過剰な程度で力を抑えられなくなるとは、まったくもって修行が足りません」

「ぐすっ、」

 

 どうしてこんなことになってるんだっけ、とふとギザミミはそんなことを思った。ほんの二週間ほど前まで、ギザミミはとても平和な日常を謳歌していた。ほどほどに訓練をサボり、友達と楽しく遊んで、美味しいものをお腹いっぱい食べて、すやすやと気持ちよく眠っていた。

 

「いや……これは私の落ち度でもあるのかもしれませんね。お嬢が力を抑えられなくなってしまったのは、私の修行が甘かったからという見方もできます。そうですね、申し訳ありませんでした。ささやかな罪滅ぼしとして、明日からは真心を込めてビシバシ行きますので」

「えぐっ、」

 

 だが二週間前からすべてが狂った。依姫が遠足前の子どもみたいな目で道場に飛び込んできたから――いや、そもそもの話、妖怪がギザミミたち月の民に宣戦布告をして、それが依姫の耳に入ったからだ。

 妖怪とは、ちょうど目の前にいるやつらのことだ。

 

「……まあ、こんなところで積もる話をしてもあれですね。まずは戻りますよ。大丈夫です、私が責任をもってお嬢をお守りいたします。そうしないと折檻できなくなってしまいますからね」

「あ、あの、小父貴」

「――また、私に同じことを言わせるつもりですか?」

「…………うぇぇぇ」

 

 ああそうか。つまり私が依姫様に二週間ボコボコにされたのも、こんなところでぶっ倒れているのも、おうちかえりたいのもぜんぶこいつらのせいか。

 堪忍袋の緒が切れる、という表現をよく見かけるけれど、実際のところそんな感覚はまったくといってなかった。ギザミミの堪忍袋の緒は、切れるまでもなく一瞬で消滅した。

 

「それでは萃香殿、勇儀殿、失礼いたしました」

「ばいばーい。操のことよろしくねー」

「いっぱいかわいがってやってねー」

「ええ、それはもう」

「うえええええぇぇぇぇぇ……」

 

 ギザミミは幽鬼のように音もなく立ち上がった。堪忍袋の緒が消滅する高純度な怒りの為せる技か、ギザミミの気配は完璧に遮断されていた。もし依姫がこの場にいれば、「ほう、特訓の成果が出ていますね」とさも自分の手柄であるかのように顎を撫でたはずである。

 鬼に襟首を掴まれ連行されていった女天狗は無視し、チビとノッポのみにターゲットを絞る。武器なんていらない。封印の御札を馬手弓手に一枚ずつ握り締め、ギザミミは己の体ひとつで前へと足を踏み出す。

 足音は響かない。チビとノッポは気づかない。

 

「あーあ、せっかく強そうなやつに出会えたと思ったのに……天狗たちはあんなの天魔にしてほんとにいいのかなー?」

「実力はあるんだろうけどね……あの竜巻もかなりすごかったし」

 

 あと十五歩、

 

「……さて。操が全員やっちゃったことだし、やっぱりあっちの方に行こうか」

「そだねー」

 

 あと十歩、

 

「そんじゃあ行くよ。位置についてー、」

 

 五歩、

 

「よーい、」

 

 三。

 

「――ッシャオラアアアァァッ!!」

「「……ッ!?」」

 

 ギザミミは野獣の如き絶叫で跳びかかった。チビとノッポが咄嗟に振り返る。遅い。遅すぎてあくびが出た。

 チビのおでことノッポのお腹に、ぶん殴る勢いで封印の御札を叩きつけた。

 

「「あーっ!?」」

 

 鬼二人の体がビクンと震え、そのまま糸を切ったように呆気なく崩れ落ちた。

 

「やられたーっ! なにこれっ、体に力入んない!」

「こなくそっ、こんなの力ずくで――あばばばばばばばば!?」

「勇儀ーっ!? くそうだったら私が――だばばばばばばばば!?」

「萃香ーっ!?」

 

 ギザミミは肩で息をしながら二人を見下ろす。二人はじたばたと喚く、

 

「くそーっ、背中から不意打ちなんて卑怯だよ!」

「そうだよ! 正面から正々堂々と勝負しなよ卑怯者ぉ!」

 

 ギザミミは叫んだ。

 

「じゃぁかしいわ!! 後ろからいきなりぶっ飛ばしてくれたてめぇら妖怪にゃ言われたくないっつの!!」

 

 チビとノッポの目が点になる。ギザミミは続ける、

 

「ったくさんざ好き勝手暴れてくれやがってクソッタレ!! てめぇらのせいでこっちは大迷惑だよ、あの頃の平和な日々を返せよこの野郎が!! ……聞いてんのかゴラァッ!!」

「「え、えっと」」

「謝れよ!! てめぇらが売ってきた喧嘩だろうが!!」

「「ご、ごめんなさい……」」

「謝って済む問題じゃねえっつーのっ!!」

 

 ギザミミはラリっていた。自分がなにを叫んでいるのか自分でもよくわかっていない。とにかく感情の針が振り切れるまま、喉の奥からせり上がってくるドス黒いモノをひたすらに言葉に変えて吐き出す。

 

「だいたいなんだよ、先に百点取った方が勝ちだあ!? アッハハハ随分と楽しそうでござんすねえっ、戦中に遊んでんじゃねえよ!! 戦すんのか遊ぶのかどっちかにしろよ!! 私らはてめぇらの遊びに付き合わされて病院送りにされてんのか、アァン!?」

「「あ、あの、落ち着いて」」

「さっきの天狗も天狗だよ、なにしに来たんだよアイツ!! 私らぶっ飛ばしてそれで終わりか!! アイツのわけわかんねえコントのために私らはぶっ飛ばされたわけか!! アッハッハッハーウケるーッ!! モブキャラ馬鹿にすんのもいい加減にしろよド畜生め!?」

 

 チビとノッポが「ねえ、もしかして操の竜巻で頭が……」「うん……気の毒だけど」みたいなことをぽそぽそ耳打ちしている。当然、今のギザミミにそんなものは聞こえない。

 

「もういい、もうおうちかえる!! 帰ってあったかい布団で寝る!! やってられっかバーカバーカッ!!」

「「あ、帰るんならこの御札剥がしてから」」

「ア゛ァッ!?」

「「……自分たちでなんとかします」」

 

 よろしい。

 ギザミミはため息をついた。だんだん気持ちが落ち着いてきた。そして冷静になってくると唐突に、この戦のことがひどくどうでもよく思えてきた。

 依姫の地獄の特訓の賜物か、それともひとえに月の最新技術がもたらす優れた装備のお陰か、戦慣れしていない玉兎たちはみんなよく健闘している。見渡す限り、御札を貼られ行動不能になった妖怪が山のように見えるし、通信で援軍なんかを要請した部隊もウチくらいだろう。戦況は至って優勢のはずだ。

 ギザミミひとりがひっそりと消えたところで誰も気にしないし、なんの問題もありはしない。同じ部隊の仲間は、チビとノッポの手でみんな病院送りになったのだから。

 そのチビとノッポは、あれこれ御札を剥がそうと試行錯誤しては「あばばばばば」と痺れている。気を失いもしないなんて呆れた体力馬鹿だが、この様子なら当分の間は動けまい。自分は強力な鬼二体を行動不能にしたのだ。戦果としては充分だ。自分はよくやった。仲間の仇は取った。依姫様、やりましたよ。

 よし、おうちかえろう。

 踵を返す。遥か彼方の空で、謎の光の柱がゲリラ豪雨みたいに降り注いでいるのが見える。なんだろうあれ、いや違う、凄まじい勢いでこっちに近づいてきてってちょっと待て

 

「「「グェーッ!!」」」

 

 チビやノッポと仲良く揃って、ギザミミは降り注いだ光の柱に叩き潰された。

 声、

 

「ふふふっ、数を増やせばいいってもんじゃないですよーっ」

「こんなものはまだまだ序の口です! 更に密度を上げますよっ、その余裕がいつまでもつでしょうか!」

 

 風のように遠ざかっていったその声を聞いて、ギザミミは自分の身に起こった悲劇をすべて理解した。

 ああ、そっか。あの光の柱って、依姫様の。

 依姫。

 

「……………………………………………………」

 

 ギザミミは今、泣いていいと思う。

 確かに、なにやらとんでもない強敵が現れて、依姫が珍しく全力で戦うらしいことは、通信で聞かされていたけれど。

 なんだろう。なんなのだろう。自分は、なんでこんな目に遭っているのだろう。

 依姫直々の地獄の特訓でボコボコにされ、やりたくもない戦に強制出撃させられた。チビとノッポに仲間を次々病院送りにされ、自分も何度かやられそうになって寿命が縮んだ。お花畑が現れて、余計なことだけやらかして勝手に消えた。女天狗の不意打ちでぶっ飛ばされ、少しの間怒りで理性が飛んだ。そしてもういいおうちかえると心に決めた瞬間、依姫の天津甕星に巻き込まれて叩き潰された。

 神様、私のことが嫌いなら嫌いってはっきり言ってください。こんな回りくどいやり方でいじめるんじゃなくて。

 

「……あんた、消えるのかい」

 

 ギザミミは地面にめり込んでいた顔を抜いた。似たような恰好で地面にめり込んでいるノッポが、どこか気遣わしげな顔をギザミミに向けていた。

 そこでギザミミはようやく、自分の体が淡い光の粒子に包まれつつあると気づいた。

 ああ、そっか。

 やっと、終われるんだ。

 そのとききっと自分は、笑ったと思う。ノッポも笑った。チビは体の半分以上が地面にめり込んで、もうピクリとも動かなかった。

 

「まあ、あれだよ」

 

 ノッポが、友人に話しかけるような気さくさで言った。

 

「今回は、なんかめちゃくちゃになっちゃったけどさ。また機会があったら、そんときこそ一対一で勝負だよ」

 

 ギザミミはもちろん、満面の笑顔で応えた。

 

「――絶対に嫌ですっ」

 

 目の前に光が満ち、ギザミミの全身が不思議な浮遊感で包まれる。そうしてまた一匹の玉兎が、音もなくそっと戦場から消える。

 ――ようやく、楽になれた気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……うわー、また随分とこっぴどくやられましたねえ。誰にやられたんです? 鬼? それとも天狗?」

「……依姫様」

「えっ」

「依姫様です」

「……えっ」

「依姫様なんですっ!!」

「…………えぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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月面戦争 ④ 「トンガリ玉兎は頭が痛い」

 

 

 

 

 

「……あ、ねえねえ藍、ほら見て。また藤千代たちに巻き込まれて妖怪が吹っ飛んだわよ。わーいみんなゴミのようだー」

「紫様、目が死んでます」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――うーん、なかなか安定しないわねえ。もうちょっとこっち……あっいい感じいい感じ! じゃあはい、椅子持ってきてー」

 

 豊姫の部下ことトンガリ耳玉兎は、時たまに、豊姫様って実はバカなんじゃないかなと思うことがある。もちろん、彼女が非常に学力に秀でた才媛であることは知っている。ただ、ペーパーテストの点数では計れない、人間性とか、常識とかいった部分であまりに天真爛漫、自由奔放が過ぎ、誤解を恐れず言えば変人のように見えるところがある。

 変なところで抜けているというか、天然というか。

 どこかの本かなにかで、天才と呼ばれる人間には得てして変人が多いという一文を見た覚えがある。今は昔の話だが、月随一の頭脳を持っていた八意永琳なる少女も大概だったという。そして綿月豊姫は、そんな『月の頭脳』の弟子である。だからやっぱりトンガリは、自分たちの上官はちょっと変な少女なのだろうと思うのだ。

 この光景を見れば、あまり反論する人もいないのではないか。

 喊声(かんせい)やら地響きやらなにやらが鳴り渡り、いつ流れ弾が飛んできてもおかしくない、正真正銘の戦場――の隅っこで。

 地上から遥々乗り込んできた、自分たちが倒すべきであるはずの敵――妖怪を、うきうきとテーブルセッティングしつつ歓迎しようとしているのだから。

 

「さあっ、どうぞどうぞ座ってくださいな! お茶の用意ができなくてごめんなさいね。でもでもっ、代わりに桃がありますからよければどうぞ!」

「わーいっ!」

 

 豊姫も豊姫なら敵も敵である。豊姫が桃のこんもり載ったカゴをテーブルに置くと、すかさず亡霊の少女が食いついた。なんの遠慮も警戒もなく椅子に腰掛け、身を乗り出し豊姫に負けないくらいうきうきと、

 

「うわ~、すごく美味しそう! ほらほら、月見さんも座りましょ!」

「ああ」

 

 亡霊に手招きされ、もう一人の敵であるはずの狐も、言動こそ静かだったがやはり遠慮することも疑うこともせず椅子に腰を下ろした。

 なんだろう。なんなのだろう。この光景をおかしいと思うトンガリがおかしいのだろうか。なぜ自分の上司は、自分たちが倒すべき敵は、戦をするどころか仲良くお茶会みたいなものを始めようとしているのだろう。なんでいがみ合うところか和気藹々としているのだろう。おかしいのは世界か、それとも自分か。

 そんな究極の問い掛けをトンガリが己に課していると、桃をひとつ手に取った豊姫が振り向きざまに、

 

「あなた、これを剥いて頂戴」

「……あの、豊姫様」

「ねえ、剥いて?」

 

 トンガリは沈黙して言われた通りにした。基本的に玉兎とは、長いものに巻かれてしまう種族である。その事なかれ主義な性格が災いしてか、この世界では割と月人からペット扱いされている。

 

「……豊姫様、フルーツナイフかなにかは」

「あなたが腰に差してるのがあるじゃない」

 

 豊姫様。これは敵を倒すための武器であって、桃の皮を剥くためのものじゃありません。

 とまさか口答えできるはずもなく、トンガリは言われた通りにした。一応剥けたが、月の桃はとても瑞々しいので手がビチョビチョになった。皿の上で適当に八等分する。

 

「……できましたよ」

「ご苦労様」

 

 豊姫が、八等分された桃に爪楊枝をぷすぷす刺しながら、

 

「じゃあ私はこの方たちとお話しするから、その間はみんな待機ね」

 

 ……はい。

 ちょっとげんなりしながら仲間たちのところへ戻る。仲間の一人が、いかにも「災難だったね……」と同情的な顔でタオルを貸してくれた。そんな物を戦場に持ってきてるなんて準備がいいなあと感心しつつ、ありがたく拝借する。

 いきなり、

 

「……ん~っ、おいしーっ! おかわりー!」

 

 は?

 手を拭き終わったトンガリが振り返ると、亡霊の少女が落ちそうになったほっぺたを両手で押さえていて、更にはついさっきトンガリが剥いたはずの桃が綺麗さっぱりどこかへ消えてしまっていて、

 

「……えっと」

 

 豊姫が、今度は桃ひとつではなくカゴを丸ごと持って、ふんわりと微笑んだ。

 

「あなたたち、これぜんぶ剥いて?」

 

 トンガリのみならず、その場にいた玉兎たちは全員心の底から思ったはずである。

 ……あれ、私たちってここになにしに来たんだっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 十個ほどの桃を仲間と手分けして捌き終え、トンガリたちはやっとの思いで待機に戻る。豊姫の前には、桃を三切れほど乗せた小皿。狐の前には、桃を五切れほど乗せた小皿。そして亡霊の前には、残りの桃をぜんぶ山のように盛った大皿が桁違いの存在感を放って鎮座している。どう見ても一人分の量を超越しているのに、亡霊は怯むどころかますます目を輝かせており、

 

「いっただきまーっす!」

「幽々子、ゆっくり味わって食べなさい。せっかくみんなが剥いてくれたんだから」

「……むー」

 

 狐の言葉の端からささやかな気遣いの心を感じて、トンガリは彼こそが私たちの味方なのではないかと思った。トンガリたちが桃のお皿を持って行ったときも、彼はさりげなくお礼を言ってくれていた。豊姫も亡霊もなにも言わなかったのに。

 豊姫がコホンと咳払いをした。

 

「……さて。改めまして、綿月豊姫と申します。『月の使者』というものの代表をやっています」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「西行寺幽々子と申します~。ただのしがない亡霊です」

 

 嘘つけ。特に亡霊の方。十個近い桃をぜんぶ一人で平らげようとするようなやつが『しがない』なんて、トンガリは絶対に認めない。あんたのせいで私の両手がすごくフルーティーな香りを放っているじゃないか、どうしてくれる。

 狐が問う。

 

「その、『月の使者』というのは?」

「平たくいえば、あなたがたのような月の外からやってきた方たちに対処を行う組織です。必要があれば、今のように武力で月を防衛することもありますし、逆にあなたがたの世界へ赴くこともします」

 

 狐が神妙に頷く。

 

「なるほど。ということは私が知ってる月人も、その『月の使者』とやらだったのかな」

「そう、そのお話を詳しく聞かせていただきたいのです」

 

 豊姫が目の色を変えて狐を見返した。それを尻目にしつつ、亡霊が五切れほどの桃を一気に口へ放り込む。トンガリはもはや見なかったことにする。

 

「あなたは、八意永琳様を知っているのですね?」

「ああ。もう随分と前のことだけど、輝夜が『蓬莱の薬』とやらを飲んだ罰でこっちにいた時期があったろう」

 

 豊姫は首肯。

 

「そのときに、まあひょんなことから輝夜と親しくなってね。その縁で、月から迎えが来た夜に永琳とも出会ったんだ」

 

 トンガリがまだ生まれてもいなかった頃の話だ。だが歴史に大きく名を刻まれた事件なので、ある程度の概略は聞き及んでいる。刑期を終えた蓬莱山輝夜を連れ戻すため、八意永琳を筆頭に月の使者が地上へ向かったが、誰一人として生きて帰ってこなかったと。

 そしてそれは、八意永琳の叛逆であったのだと。

 

「そうですか……。しかし当時、輝夜様は人間たちの都で生活をしていたはずですが。なぜ妖怪のあなたと?」

「私も同じ場所で暮らしていたからさ。……もちろん、人間としてね」

 

 狐が尻尾をくるりと動かした。豊姫は束の間ぽかんと目を丸くしたが、ほどなくしてからふっと笑った。狐の言葉を、心のどこかで喜んだような。そんな笑顔だった。

 トンガリの場合はもう少し時間が掛かった。狐は変化の術を得意とする妖怪のはずだから、人間に化け、人間に紛れて生活していたということだろうか。

 

「なんだか納得しました。……やはりあなたは、向こうで暴れている妖怪たちとは随分と違うみたいですね」

 

 それはトンガリもなんとなく感じる。上手く言葉にできないが、怖くない。妖怪と話をしているという感じがしない。ともすれば、豊姫の同じ人間のような。

 狐が喉の奥で笑う。

 

「それを言ったらお前こそ、私の知ってる月人とはだいぶ違うね。私の知ってる月人だったら……」

 

 指で銃の形をつくり、それを豊姫へ向けて、

 

「私たちを見つけた時点で、容赦なく攻撃してきたと思うけど」

「……」

 

 豊姫は答えず、なにかをこらえるように目線を下げた。

 

「……あなたは、八意様と出会ったときに、随伴していた月の民とも?」

「会っているよ。歓迎はされなかったけどね」

「そんな生易しい話じゃなかったって聞いてますけど」

 

 亡霊が、桃を頬張りながら不機嫌な顔をした。

 

「殺されかけたんでしょう、月見さん? あのときは本当に怖かったって、紫が言ってましたわ」

 

 それだけで豊姫は、過去月の民と狐の間になにがあったのか察したのだろう。眉を歪め、唇を噛み、その場で深く頭を下げた。

 

「……それは、本当に申し訳ありませんでした。私などの言葉ではまるで足りないでしょうが、謝罪させてください」

 

 少なくともトンガリの目には、嘘偽りのない誠意の謝罪に見えた。

 

「いや……」

 

 まさかこんな風に謝られるとは思っていなかったのだろう。狐は表面こそ平常のままだったが、内心は相当面食らったらしく二の句を失っていた。とっさになにかを言おうとして、口を噤み少しの間沈黙する。緩く息をつき、腹を括るような間をひとつ置いて、彼もまた静かに頭を下げる。

 

「……謝罪が必要なのは私の方だ。私はあのとき――月人を、殺めた」

 

 直立不動を保っていた仲間たちが、ピクリと体だけで反応した。トンガリも、指くらいは震えたかもしれない。

 思わず顔を上げた豊姫が問う、

 

「あなたが? ……八意様ではなく?」

「ああ。私だ」

 

 横から亡霊が、あいもかわらず不機嫌そうに口を挟む。

 

「それは仕方ないと思いますけど。だってそうしないと、殺されていたのは月見さんの方だったんでしょう?」

「幽々子、少し黙っていてくれ」

 

 狐にピシャリと言われ、肩を竦めた亡霊は八つ当たりするように三切れの桃を口へ放り込んだ。……ああ、気がつけばもう四分の一くらいが消化されてしまっている。このままのペースで亡霊が桃を食べ続ければ、数分もせずうちに間違いなくまたおかわり確定だ。トンガリの両手が、ますますフルーティーな香りを放つことになってしまう。

 沈黙は、数十秒は続いたと思う。

 

「……私たち月の民は」

 

 考えをまとめきらないまま喋り出したような、たどたどしい口振りだった。

 

「当時はまだ、あなたがた地上の住人に対して排他的な思考しか持ち合わせていませんでした。皆が皆そうだったわけではないのですが、少なくともこの国を動かしている上層部はそうだった。輝夜様を連れ戻す際も――」

 

 一度言葉を切り、迷いながら、

 

「――地上の人間はいくら殺めようとも問題にしないと。そういう命令が下っていたと聞いています」

 

 いつの間にか、亡霊の少女が桃を頬張る手を止めている。今までのぽやぽや顔が嘘のようだ。研ぎ澄まされた刃物めいた、細く、容赦のない瞳で豊姫の顔面を射抜いている。いつどんなことが起こっても対応できるよう、トンガリは腰に()いた己の武器へ手を掛けておく。

 

「ですがっ、」

 

 豊姫は語気を強め、

 

「ですが、それは少しずつ変わりつつあります。地上の生き物たちを、穢れを媒介する敵としか見ない考え方は、次第に古いものと廃れつつあります。私たちが忌避すべきは穢れそのものであり、決してあなたがた地上の生命ではないと」

 

 目を伏せ、

 

「みんな、恐れているだけなんです。穢れのない世界で暮らしているが故に、いざ穢れを受けたとき自分がどうなってしまうかわからないから。寿命をもたらすといっても数年でどうこうという話ではないですし、然るべき手順で祓い清めることもできます。最近の研究でそこまで証明されているのに、彼らは耳を貸そうとしない。『今までがずっとそうだったから』と、楽な方へ逃げて、自分たちが信じてきたものに縋りついて、変わることを恐れている。彼らの目には過去しか映っていないのです。今までがずっとそうだったから、今更地上の生命に心を許すわけにはいかないなんて……まるで子どもの意地悪ではないですか。月の民は技術による豊かさを得た代わりに、心の豊かさを失っているのです」

 

 八意様の影響なんだろうなと、トンガリは思う。豊姫の教育係であった八意永琳は、当時の月の民としては相当珍しく、地上の生命に一切のマイナス感情を持っていなかったと聞いている。元々地上で生活していた最古の月の民だというから、生まれ故郷にはいろいろと思い入れがあったのかもしれない。もしくは単に、月の民史上最高の天才にとっては、月の生命も地上の生命も区別に値するものではなかったのかもしれない。ともかくそんな彼女から様々な話を聞かされた影響で、豊姫にとっても地上とは忌避するものではなく、純粋な興味の対象であった。

 永琳から「この世界を頼む」と託されてさえいなければ、とっくの昔に師を追って地上へ下っていたはずだ。

 豊姫の思想が正しいのかどうか、肯定されるべきものであるのかどうか、学の浅いトンガリにはいかんせん判断しがたい。ただ間違いなくいえるのは、思想によって世界を変えるのは、技術によって世界を変えるより何千倍も難しいということである。古から連綿と続く由緒ある思想を打ち砕く行為は、とにかく周りに敵を作る。お偉方の中には豊姫の存在を煙たがっている者も少なくないし、明確に批判の声こそ上げないものの、触らぬ神に祟りなしと沈黙を貫いている者はもっと多い。

 白状すれば、トンガリもどちらかといえば沈黙派だ。豊姫は心の豊かさがどうこうと言うが、トンガリとしてはそんなものなどどうでもよくて、大事なのは、ここが平和で不自由のない楽園ということである。だったら変に地上の連中へちょっかいを出したりせずとも、今までのまま平和に暮らしてゆけばよいではないか。楽園の生活に満たされている者は、外の世界になど興味のかけらもないのだ。

 だが、

 

「……ごめんなさい。こんなの、だからどうしたって話ですよね。まるで言い訳をしてるみたい」

「――そうでもないさ」

 

 まるで雲間から差し込む日差しのように、狐が笑んだ。

 

「ありがとう。この世界に来てよかったよ。お前のような月人と出会えたんだから」

「……っ」

 

 豊姫の目元がくしゃりと歪んだ。ひょっとすると、見間違いだったのかもしれない――思わずそう考えてしまうほど一瞬の出来事で、トンガリがゆっくりとまばたきをし終えた頃には、豊姫もまた狐と同じくして相好を崩していた。

 

「……あなたのような方が、徒に月の民を殺めたとは思えません。八意様と輝夜様を、守ってくださったんですよね? 地上で生きていくと決めた二人の願いを、叶えるために」

「……それこそ、だからどうしたという話じゃないかい。私が月人を殺めたことに変わりはないよ」

「そうかもしれません。……ですがそれでも、私にあなたを責めることはできません。仮に私があなたの立場だったら、きっとあなたと同じで、八意様たちの味方をしたと思いますから」

 

 トンガリは、とりあえず今の言葉は忘れておこうと思った。極端な言い方をすれば今の豊姫は、妖怪を肯定し月の民を否定したのも同じだ。トンガリたち玉兎は面倒に巻き込まれたくないので聞き流すけれど、お偉方に知られでもしたら大目玉だろう。もっとも豊姫なら、毅然と反論して逆に言い負かしてしまいそうだが。

 

「……私も、あなたと出会えてよかったです。あなたのような妖怪もいるのですね」

「どの世界にも、変わり者はいるということだね」

「ふふ……そうかもしれませんね」

 

 月の民が地上と友誼を結ぶべきなのかどうか、トンガリにはわからない。ただ、必要のないことだとは思う。わざわざそんなことをせずとも月の民はこれからも平和だし、これからも繁栄の一途を辿っていくだろう。

 けれど、

 

「月見さん。よろしければ、輝夜様のこと、地上のこと……いろいろ聞かせてくださいませんか?」

「喜んで。私も、月についていろいろ教えてもらえると嬉しいよ」

「ええ、喜んで」

 

 豊姫も狐も、ここが戦場だということをつい忘れてしまうくらいに穏やかな表情をしている。ともすれば、こっちまでつられて頬が緩んでしまいそうになる。あんなにも安らいだ顔をした豊姫を、トンガリは随分と久しい間見ていなかった気がする。

 お互いがこんな風に笑えるのなら、まあ、地上を知るのもあながち悪いことではないのかもしれないと――そう、トンガリは思った。

 

「あのー」

 

 そのとき、やおら手を挙げた亡霊が曰く、

 

「桃がそろそろなくなっちゃいそうなので、またおかわりいただけると嬉しいんですけど~」

 

 ちょっと待て。

 見れば、亡霊の大皿にこんもり載っていたはずの桃がもう残り数切れになっていた。バカな、いくらなんでも早すぎる。トンガリが豊姫と狐のやりとりで気を取られる間に、この亡霊はどれほど馬鹿げた速度で桃を食っていたというのか。トンガリは大口を開けて愕然とした。そしてそんなトンガリが馬鹿であるかのように、豊姫はつくりのいい指先を口元までやって、くすりと呑気に微笑むのだった。

 

「あら……ふふ、随分と気に入っていただけたんですね?」

「ええっ、もうすごおっく美味しくてっ」

 

 豊姫様、笑っている場合じゃないです、そこはなんとしても疑問に思ってください。この月の世界のどこに、桃を十個近く一瞬で平らげてなおおかわりがほしいなどと抜かす図々しい大食いがいますか。

 トンガリの心の叫びは、もちろん誰にもまったく届くことなく、

 

「いくらでも余ってますので、好きなだけ食べていいですよ。一度都に戻って取ってきますね。他にも見ていただきたいものがたくさんあるんです」

「わーい!」

「じゃああなたたち、」

 

 豊姫はトンガリたち玉兎を見回し、

 

「えっと、右から五人、私についてきて」

 

 もちろん、トンガリも入っている。

 トンガリは心の中でげんなりとため息をつき、同じく指名された他四名とアイコンタクトで慰め合いながら、頭の片隅にメモを取った。

 ――果物ナイフとおしぼりは、必ず持ってくること。

 両手の桃の香りが、あいもかわらずフルーティーである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……あ、犬走殿。お帰りなさい」

「ただいま戻りました、藍殿。無事に見つかりましたよ」

「――しくしくしく、儂も暴れたかったよぅ……しくしく……」

「あはは……あいかわらずなようで、お疲れ様です」

「――ふふふっすごーい、藤千代とあの月人のせいで月の大地がボッコボコー。地上から見たらやっぱりボッコボコに見えるのかしらーアハハハハハ」

「……そちらも、なにやら大変なことになっているようで」

「ええ……まあ」

「「……」」

「「……お互い、苦労しますねえ」」

 

「しくしくしくしく……」

「あはははははははは」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 久し振りだった。

 本当に、久し振りだった。正真正銘の真剣勝負で、自分が後手に回るなど。

 まだ剣を握り始めて間もなかった、できたてほやほやの半人前だった頃以来だ。そして、一人前の剣士となってからは紛れもなくはじめてでもあった。磨きあげてきた太刀筋が歯がゆいほど届かず、神々の御力が笑えるほど通用せず、時が進めば進むにつれて依姫だけが追いつめられていく。いつまで経っても少女には傷ひとつつけられず、逆に自分でも不思議なほどあっさりと一撃をもらい、依姫の体に鈍い痛みだけが蓄積されていく。

 藤千代と名乗った鬼の少女が、そこらの雑魚とは比べ物にならない、桁外れに強大な妖怪であることはひと目見た時点でわかっていた。だが、実際に戦ってみてわかった。ゼロがひとつ多いなんて次元ではない。三つか、四つか、それ以上か、ともかく藤千代は依姫の予想よりも遥かに桁を外れて強かった。

 天津甕星(あまつみかぼし)は駄目だった。最大密度でぶっ放しても軽々躱されるし、直撃したと思っても腕一本で弾かれた。元々威力の高い力ではないから、本当に直撃させたところでダメージのほどは期待できないと結論し、三分粘った時点で諦めた。

 火之迦具土(ひのかぐつち)も駄目だった。なんでも「炎を使う相手には覚えがありますよー」とかで、こちらはもうまったく掠りもしなかった。すべてを焼き尽くす神の炎も、当たらないのだったら意味がない。一分足らずで諦めた。

 火雷神(ほのいかずちのかみ)も駄目だった。七頭の炎の龍は、召喚された瞬間に拳一発の衝撃波で消し飛ばされた。藤千代の着物を雨で濡らしただけで終わった。端から期待していなかったので早々に諦めた。

 須佐之男命(すさのおのみこと)も駄目だった。「動けば祇園様の怒りに触れる」と忠告した瞬間、藤千代はどんとこーい! とその場で元気に飛び跳ねて祇園様に喧嘩を売った。そして、終わってみれば着物の端っこがほんの少し切れただけだった。

 このあたりから、依姫はだんだんヤケクソになってくる。

 手当たり次第でいろいろな神の御力を試した。一日でここまで多くの神を呼び寄せた日は他にない。この前の稽古で呼んだばかりの神、稽古で使うには強力すぎてここしばらくご無沙汰だった神、いつ以来呼ぶのか思い出せないほど疎遠だった神など、使えそうな力を持つものは思いつく限りで呼びまくった。あらゆる戦法を模索し、ときに真正面から突っ込み、ときに背後から虚を衝き、空を薙ぎ払い、大地を破壊し、あらゆる可能性を懸けて依姫は藤千代に迫ろうとした。

 だが、

 

「――てーいっ」

「ぐうっ……!?」

 

 だがそれでも、この少女はあまりに遠すぎた。

 カウンターでもらった拳圧を咄嗟に剣で受けた瞬間、刀身が刹那も耐えられず砕け散り、全身を打つくぐもった衝撃とともに依姫は吹き飛ばされた。笑えるくらいの速度で空を飛んでいる。今の自分の体は、地上から見ればそれこそ流れ星のように見えるはずだ。神懸りとなった依姫の体は、その副次的な効果として身体能力が大きく向上するが、そうでなければなにを考える間もなく地面に着弾し、月面のクレーターをひとつ増やしていたかもしれない。

 神懸り故の神懸りな反応で逆転していた天地を修正し、依姫はしかと両脚から着地した。さすが神の御力を宿した体だ、砲弾みたいな速度で着地しても痛くも痒くもない。

 ただそれでも、吹っ飛ばされた勢いを完全に止めるには、地上絵を描けそうなほど長い距離を滑らなければならなかったのだけれど。

 どうあれ五体満足で事なきを得た依姫は、しかし、その瞬間にその場で脱力し片膝をついた。体にダメージがあるわけではない。精神的な問題である。

 

「は、は」

 

 ヤバい。

 楽しい。

 楽しすぎる。

 楽しすぎて、気を緩めたら体から力が抜けてしまう。剣を持つ手が震えてしまう。勝手に頬がつり上がってしまう。

 戦っている。

 いま私は、戦っている。

 

「――よいしょっと」

 

 そんなかわいらしい掛け声とともに、正面の大地が粉々に弾け飛ぶ。依姫の髪が狂ったようにたなびき、拳大に砕けた石ころが頭上を越えて背後まで転がっていく。

 月の表面に新しいクレーターを作り上げ、藤千代が依姫の前に立つ。

 依姫は息だけで笑った。なんてことはないただの高速移動も、この鬼がやると途端に兵器をかましたような有様だ。着地と同時に大地を木っ端微塵にするやつなんて、もちろん依姫だってはじめて見た。着地というよりも着弾ではないか。

 

「いやー、すごいですねー」

 

 そのくせ、見た目だけはなんてことのない童女である。髪や着物の土埃を小さな手でせっせと払いながら、藤千代は戦場にひたすらそぐわないおっとり声で言う。

 

「今のを喰らっても傷ひとつないなんて……本当に人間ですか?」

 

 依姫も問いたい。お前は本当に妖怪か。妖怪を超越したなにか新しい生命体ではないのか。

 

「いえ……もう半分以上は神様なんでしょうね。神様の力をそこまで使いこなせる人間なんて、私たちのところにはいないでしょう」

「……それなら、そちらだって」

 

 依姫はゆっくりと立ち上がり、また息だけで笑った。

 

「あなたほどデタラメな存在など、私たちのところには誓っていません。八百万の神々の御力がまるで通用しないとは」

「いえいえ、これでも結構一生懸命ですよー。ギリギリです」

 

 息ひとつ乱していないくせによく言う。

 だが、だからこそ、依姫の体は歓喜で震えるのだ。

 

「……最強の鬼、ですか。最強の妖怪の間違いでは?」

「んー、どうでしょう。妖怪みんなと戦ったことなんてないですし……それに私、負けたことありますし」

「は、」

 

 ちょっと待て、

 

「ま、負けた? あなたよりも更に上を行く妖怪が、地上にはいるのですか?」

「あ、でも、私が今よりも弱かった昔の話ですよ」

 

 一気に脱力した。それから、こんなバケモノみたいな妖怪にも弱い頃はあったんだな、と思った。

 藤千代が、ほのかに色づいた頬を両手で押さえた。

 

「でも、たとえまだ弱かった頃の私でも、あの人が全力で打ち破ってくれたのは事実なんです。ボロボロになっても絶対に諦めないで、何度でも立ち上がって、何度でも立ち向かって――そして、私を超えていってくれたんです」

「……そうですか」

 

 そのとき恐らく依姫は、藤千代を羨んだと思う。月最強の剣士とされる自分には、そんな風に立ち向かってきてくれる誰かなんていはしない。そもそもの話、たとえ稽古であっても依姫と闘おうとしてくれる者すらいない。玉兎の戦術指南をする以外は、ただひとり、孤独に剣の素振りを繰り返し、型稽古を積み重ねるばかりの日々。だから依姫は、今回の戦を心の底から楽しみにしていたのだ。

 

 ――なお、部下に避けられる最大の理由はその実力ではなく性格(バトルジャンキー)なのだが……もちろん依姫は、今も昔もまったく気づいていない。

 

「……よい人と巡り会えたのですね」

「そりゃあもう。運命の出会いというやつですよ」

 

 藤千代の表情は恍惚としていた。そんな顔をできる藤千代が、やっぱり少し羨ましかった。

 

「……ちなみにその方、まさか人間ということはないでしょう。この戦には参加しているのですか?」

「してますよー。でも、私たちと違って戦目的じゃないですからね。案外、もうそのへんで月人さんと仲良くなって、いろいろとお話してたりするかもしれませんよ」

「は、はあ……随分と変な、いえ、個性的な方なのですね」

「そこがまた素敵なんですよ」

 

 ということは、ひょっとすると藤千代が言うその妖怪は、依姫の姉と出会っているのかもしれない。戦の混乱に乗じて不審な動きをする妖怪へは、姉の部隊が対処を行う手筈だった。

 藤千代の言葉を鵜呑みにするなら、姉は今頃、その妖怪と仲良く世間話を弾ませているのだろうか。姉は依姫以上に地上の妖怪に対して友好的だから、決してありえない話ではないと思う。

 もしも本当にそうであれば、きっと姉は喜んでいるだろう。

 笑みが浮かんだ。

 

「……少し興味が湧きました。あなたを倒したら、次はその方を探してみましょうか」

 

 藤千代もまた、笑みで応えた。

 

「むむっ、させませんよー。月見くん以外の人に負けたら、月見くんが私の特別じゃなくなっちゃいますからね。私はもう誰にも負けないのです」

 

 それが不遜だとは思わない。月最強の剣士すらこうして圧倒してみせるのだ、この戦場で一番強いのは間違いなく彼女だろう。

 今は、まだ。

 負けるつもりなど毛頭ない。ならば、自分がこの戦で成長すればいい。この戦いの中で、自分が藤千代よりも強くなってしまえばいい。そうすれば勝てる。できなければ負ける。最高のシチュエーションではないか。比類なき強敵を打ち破ってみせてこそ、依姫が剣を振るう理由はある。

 勝つために。

 

「――来られませ、金山彦命(かなやまひこのみこと)

 

 折れた剣を鞘へ戻し、正面へ一文字の形で突き出す。深く息を吐き、吸う動きに合わせてゆっくりと鞘から引き抜いていく。――金山彦命は、金属を司る鋳造の神である。折れた剣を元通りに再生させる程度、どうということはない。

 藤千代と戦いを始めてからというもの、一番多く呼び寄せている神は間違いなく彼だろう。なにせ、藤千代の攻撃を受け止めるたびに剣がへし折れるのだから。殴る蹴るで剣を爪楊枝みたいに粉砕してしまう藤千代は、やはりデタラメなのだと思う。

 完全に元の姿を取り戻した相棒を、今一度鞘から抜き放つ。折れては直し、折れてはまた直し――この子には無理をさせてしまっているかもしれない。けれど、もう少しだけ頑張ってほしい。依姫が勝つのか、藤千代が勝つのかはわからないけれど、勝敗は次で必ず決するから。

 静かに、腹を括った。

 あの神を呼ぼう。

 

「……今の私に扱える、問答無用で最強の神です。その強大な御力故に体への負担が大きく、長時間は使えません。私の限界まで耐え切れば、あなたの勝ち。そうでなければ私の勝ち――」

 

 一息、

 

「――よろしいでしょうか」

 

 是の声。

 

「――ええ、いつでも」

 

 依姫は頷き、地に愛刀を突き刺した。膝を折り、剣を握る拳に額を添え、下ろしたまぶたの闇の中で意識を研ぎ澄ませていく。

 祈った。

 勝ちたい相手がいます。

 負けたくない敵がいます。

 だからどうか、貴方様の御力をお貸しください――。

 

「来られませ――」

 

 この名を呼ぶのは二度目になる。はじめて呼んだのは、八意永琳がまだ依姫の師であった頃。そしてその一度限りで、決して闇雲には呼ばぬ方がいいと、遠回しな使用禁止を言い渡されることとなった神。

 其の名は、

 

 

「――『建布都神(たけふつのかみ)』」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 自分たちは、一体なんのためにここにいるのだろう。

 別に哲学をしようとしているわけではなく、至極真っ当な現状への疑問である。トンガリの認識が正しければ、今日この場所で繰り広げられているのは、地上から攻め込んできた妖怪を撃退するための防衛戦であるはずだ。そして綿月豊姫をリーダーとするトンガリの部隊は、戦の混乱に乗じて妙な真似をする妖怪がいないか監視し、いれば捕えるなり尋問するなりして対処を行うのが役目だった。そしてそしてトンガリたちはその方針に則り、戦場の隅のそのまた隅っこでこそこそ土いじりをしていた狐と亡霊を、見事捕まえたはずだった。

 トンガリは己の手元を見る。

 なぜかこんな場所に折り畳み式の長机があり、その上には白いまな板が載っている。まな板の上に置かれているのは、都の八百屋あたりで並んでいるなんの変哲もない桃である。自分は右手に果物ナイフを持っていて、左手は桃の瑞々しい果汁で少し濡れてしまっている。まな板の左隣には切った桃を盛りつけた皿があり、右隣ではまだ手をつけていない桃がカゴに入って順番待ちをしている。ここまでを一セットとして、自分の横には更に二セット、同じ状況で黙々とナイフを振るい桃の皮を剥く同僚がいる。

 繰り返すが、ここは隅のそのまた隅っことはいえ立派な戦場である。なのになぜ、自分は銃ではなくナイフを握って、敵と戦うのではなく桃の皮剥きをしているのか。

 トンガリは前を見る。そこには丸テーブルを囲んで座る三人の人影があり、

 

「――では月見さんに質問でーっす! 月見さんは紫のことが好き! マルかバツか!」

「……正直言うと、私はあいつのことが嫌」バッチーン、「いった!」

「あーっ、月見さんのウソつきー! ふふふ、やっぱり紫のことは好きなんですのね?」

「昔からの縁だしね。いい友人だよ」

「……ちょ、ちょっと、こここそバチーンと行くところでしょうっ? なんでウンともスンとも言わないんですの!?」

「そりゃあ、嘘をついていないからだね。……じゃあ今度はこっちの番だ。幽々子、お前は桃を食べ過ぎである。マルかバツか」

「むーっ、ひどいですわ月見さん。そんなのバツに決まって」バッチーン、「いたぁい!? 月見さんっ、これ壊れてますわっ」

「壊れてないよ。……しかし本当にすごいなこれ。どんな仕掛けになってるんだろう……」

「そうですよねっ、すごいですよねっ! みんなしょーもない発明だってバカにするんですけど、私はもっと評価されるべきだと思うんです!」

 

 またも繰り返すが、ここは隅のそのまた隅っことはいえ立派な戦場で、自分たちは怪しい敵を捕縛したはずなのである。

 なのに、なんで。

 なんで自分たちのリーダーは、そんな敵と仲睦まじく嘘発見器で盛り上がっているのだろう。

 改めて考えてみると、やっぱり絶対におかしい。

 

「ところでみんなー、桃はまだ剥き終わらないのー?」

「……ハッ。す、すみません、只今」

 

 豊姫の声で我に返り、トンガリは止まっていた作業の手を再開させた。いや、別に、私たちは戦うためにここにいるのですから敵はみな排除すべきですなどというつもりはないのだ。痛い思いをするのは嫌だし、痛い思いをさせるのも目覚めが悪いから、戦わず済むのであればそれに越したことはない。遠くの戦場でバカスカ暴れている(バトルジャンキー)と違い、言葉だけで敵と和解してしまった姉の手腕には感服の念すら覚える。

 でもやっぱり、戦場で桃の皮剥きっていうのは、なんというかその。

 あんまり深く考えたら、負けなのだろうか。

 

「これを一人で発明したのなら、永琳は相当すごい人間だったんだろうね」

「長い歴史を持つ月の民でも、最高の頭脳を持つ天才だったとされていますっ。私の師でもありました!」

 

 敬愛する師を知る人物と出会えて、豊姫はもうすっかりハイテンションだった。

 

「他にもいろいろと面白い発明を残してくださったんですよ! ゆで卵の殻を一瞬で剥く装置とか、折り畳み傘を一発で綺麗に畳んでくれる装置とか!」

 

 断言する、とてもしょうもない。もちろん、ゆで卵の殻を剥くのも折り畳み傘を畳むのも自分でやると面倒だから、そういう意味で便利な発明なのは認める。しかし、かといってすごい発明かといえばそれは違う。一人で月の技術水準を何百年も進めたとさえ言われる永琳の功績を考えれば、やはりそのあたりはしょうもない発明なのだと思う。永琳も、きっと手慰みの暇潰しで適当に作ったのではなかろうか。

 

「……よくわからないけど、永琳は発明家かなにかだったのか?」

「いえ、一応は医学が専門でした。ですが八意様の比類なき頭脳は、その活躍を医療だけに留めず、あらゆる分野に多大な功績を残したのですっ」

 

 豊姫の師匠自慢にますます拍車が掛かる。綿月豊姫はこうなると途端に面倒くさい。八意様はあれがすごいこれがすごいと話の種は尽きることなく、その勢いたるや、夜通しの休憩なしで喋り倒せるほどである。

 自信に満ちた表情で持っていた扇を掲げ、

 

「中でも一番すごいのは、この扇ですっ。八意様が基礎理論を作りあげたのですが、あらゆるものを素粒子レベルに分解する風を起こすことができるのです!」

「そりゅうし?」

「それって美味しいんですか~?」

 

 亡霊、お前はちょっと食い物から離れろ。

 ふふん、と豊姫は得意顔で、

 

「簡単にいえば、どんなものでも吹き飛ばせるということです。実演してお見せしましょうっ」

 

 トンガリたち桃の皮剥き部隊を見て言う。

 

「あなたたち、まだやってたの? 早く終わらせて持ってきなさいっ」

「はいはい、いま行きますよー」

 

 だんだん上官への敬語が適当になってきたトンガリである。

 桃の皮剥き部隊は、奇しくも三人全員同じタイミングで作業を終えた。片手で持つのが少し辛いくらいの大皿で、瑞々しく輝く桃の切り身がこんもり山を築いている。それが三枚分である。どちらかといえば小食なトンガリなんて見ただけで胃がもたれたが、亡霊の少女はかつてないほどきらきらしてよだれを垂らしそうになっているのだった。もうヤダこの亡霊。

 大皿を、豊姫たちが囲んでいる丸テーブルまで運ぶ。小さなテーブルなので、大皿を三枚も並べれば他にはなにも置けなくなってしまった。嘘発見器は、とりあえず地べたにでもよけておく。

 量が量なので、甘く芳潤な果実の香りがあっという間に広がった。豊姫が持ってきたフォークで一切れを取って、

 

「これはフォークといいます。こうやって、爪楊枝みたいに突き刺して物を食べるための道具です。こちらの方が食べ易いと思いますのでどうぞ」

「はーいっ!」

 

 そのフォークを受け取った亡霊が、間髪も容れぬままはむっと頬張ってしまった。マナーも遠慮もあったものではなかったが、しかしこの亡霊、とにかく美味そうに桃を食べる。なんてことはない、どこでも手頃な値段で買えるただの桃なのに、まるで一流のシェフが魂を込めて作りあげたフルコースみたいな扱いだ。だからだろうか、気がついたときには、トンガリはやれやれと観念するような心地で笑っていた。

 豊姫も微笑み、そして話を戻した。颯爽と席を立ち、

 

「――ではこれから、あそこの長机をこの扇で吹き飛ばしまーす」

「ちょっと待たれよ」

 

 普段まず使わない部類の言葉がトンガリの口から出た。豊姫が白々しいほどきょとんと首を傾げ、

 

「なあに?」

「なあに? じゃないです。なにしてくれようとしちゃってるんですか」

「だって、他にいい感じの的がないもの」

 

 もしもトンガリと豊姫の地位が逆だったなら、平手打ちの一発くらいは飛んでいたはずだ。

 

「……豊姫様、あれは私たちの部隊の備品なんですから、そんなことしたら始末書」

「それじゃあいっきま~す!」

「こらああああああああ!!」

「わあ~っ」

「拍手するなそこの亡霊いいいっ!!」

「それ~っ!」

「ぬわーっ!?」

 

 豊姫がノリノリで扇を振った。その瞬間豊姫の前方で突風が巻き起こり、黙々と佇んでいた長机を一瞬で塵芥まで分解し、星の煌めきが美しい空の彼方へと葬り去った。

 トンガリたち玉兎が二の句を継げなくなっている中、豊姫だけが元気に、

 

「はいっおしまいです! どうですか、すごい扇でしょうっ?」

「「……」」

「あれっドン引き!?」

 

 狐はもちろん、先ほどまで拍手をしていた亡霊まで完全に腰が引けていた。

 狐が訥々(とつとつ)と、

 

「……なあ、豊姫。今のは、その。『吹き飛ばす』というより、『消し飛ばす』だった気が」

「まあ、そうとも言います」

「あれ、元に戻せるのか?」

「いいえ? 素粒子――要するに、これ以上ないくらい粉々に分解したので。砂を集めて岩にしようとするようなものです」

 

 間。亡霊が、

 

「……例えばそれを、人に向けたら?」

「当然さっきの長机と同じことになります」

「「……」」

「ドン引きしないでぇっ!?」

 

 この少女、「わあーすごーい!」と拍手喝采されるとでも思っていたのだろうか。もちろんあの扇にはしっかりと安全装置がついているのだが、地上からやってきた狐と亡霊にそこまで想像できるはずもないから、なにかの拍子に自分たちまで消し飛ばされるんじゃないかと気が気ではないはずだ。

 実際、あの扇のレベルにもなると道具というよりもはや兵器である。豊姫は口にしなかったが、あれは最大出力で森すらも一瞬で塵芥に変える力を備えている。例えばこの兵器を此度の戦で使えば、ほんの二~三回振るだけでほとんど勝負が決まるはずだ。豊姫はそんな危ないものを常日頃から携帯しているし、結構頻繁になくしている。八意永琳の発明が月の発展に大きな功績を残したのは事実だが、あの扇の基礎理論を作ったのだけは完全に余計だったと思う。そして、そんな危ない理論を豊姫に引き継いだのは完全に失敗だったと思う。

 ドン引きされてちょっと恥ずかしい豊姫が、わざと大きめの咳払いをした。

 

「と、ともかくっ。今の月の技術は、八意様の御力なくしてはありえなかったといっても過言ではありません。本当に素晴らしい御方なんですっ」

「……とりあえず、お前が永琳をとても誇らしく思ってるのはよくわかったよ」

 

 豊姫の顔がぱああっと輝いた。今更言うまでないかもしれないが、綿月豊姫は親バカをもじっていうところの弟子バカである。

 

「あの、月見さん。月見さんは、このあとお暇ですか?」

「ん? このあとって……」

「この戦が終わったあとです。是非会わせたい人がいるんです! 綿月依姫という、私の妹なんですけど」

 

 トンガリは遠く離れた戦場の中心地へ目を向けた。そういえば、少し前まで光の柱が降り注いだり炎の龍が現れたりしていたのに、いつの間にかすっかり大人しくなっている。依姫の勝負は決着したのだろうか。そうであれば依姫が、恐らく妖怪側で最も強い強敵を撃破したのであり、引いてはこの戦の決着自体が近づきつつあるということになる。

 

「へえ、妹がいるのかい」

「はいっ。今は向こうの戦場で戦ってます。私たちの間では、最強の剣豪とか言われてて――」

 

 そのとき。

 そのときトンガリは、戦場の中心に、音もなく一筋の稲光が落ちるのを見た。

 だからどうした、というような話だった。見えたのはほんの一瞬だし、玉兎の放つ光弾と光線が飛び交う戦場である。ただの見間違い、もしくはそういった妖術を使う妖怪がいたのだろうと思い、トンガリはそのまま自分がいま見た光景への興味を失うはずだった。

 息が、できなくなった。

 言葉で表現するにはあまりに超越的だった。空気が変わったとしか、トンガリの平凡な玉兎の感性では言い表すことができない。今までの戦場とはまったく異なる空気が中心から芽吹き、信じられない速度でトンガリたちの背後へと駆け抜けていった。

 ただしそれは、自分たちの立っている世界が変わったのではないかと錯覚するほど、あまりに劇的な変貌である。

 肌が痛い。ピリピリする。電流でも流されているみたいに痙攣している。誰かに押されたわけでもないのに体が後ろへ傾いて、トンガリは思わず三歩後ずさった。心臓が早鐘を打ち始める。首全体を蠕動(ぜんどう)させ、口の中の空気もろとも生唾を呑み込む。やっとの思いで、呻くように口から息をする。

 なにかいる。

 あの中心に、なにかがいる。

 豊姫が、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。

 

「この感じ、まさか……っ!?」

 

 通信機を取り出し、ほとんど金切り声のように叫ぶ。

 

「依姫!? ちょっと依姫っ、あなたまさかあの神を呼んだの!? 依姫っ!? こらぁっ、返事なさいっ!!」

 

 ――神?

 豊姫の言葉を理解するまで、少し時間が掛かった。トンガリは、戦場を別世界に変えてしまうほどの威圧(プレッシャー)を放つ神など知らないからだ。トンガリもまた、依姫の地獄の特訓の被害者である。だから身をもって知っている。断言できる。

 格が違う。トンガリが今まで見てきたどの神とも。

 天津甕星や火雷神のように、本来戦うためにあるわけではない神々の力を、強引に武器として振るうのではなく。

 あれはきっと、正真正銘、戦うためだけに存在する神の力。

 今トンガリが感じているのは、絶対的強者に対する本能的な畏怖。

 

「つ、通じない……! ああ、この御力に晒されて壊れちゃったのかしら……ど、どうしましょう……」

「……一体何事だ?」

 

 すっかり狼狽えておろおろする豊姫を、狐がそっと気遣わしげに見上げた。椅子から腰を上げてこそいないものの、彼の面持ちにも明らかな動揺の色があった。亡霊の少女もまた、不安げに眉を寄せて狐の袖を掴んでいる。彼らも感じているはずだ、戦場を呑み込む桁違いの力の波濤を。

 みっともない姿は晒せないと気づいた豊姫が、細く長い息を吐いて、ゆっくりと椅子に腰を戻した。

 

「……私の妹、依姫は、自分の体へ自由自在に神を降ろし、神懸り状態となってその力を振るうことができます。向こうで光の柱が降り注ぐのや、炎の龍が現れるのをあなたがたも見たと思います。あれはすべて依姫の力です」

「……それはまた。ということは、これも?」

「はい。過去に一度だけ、この神を呼んだことがあります。しかしそのあまりに強大すぎる御力のため、決して呼ばぬ方がいいと、依姫と誓い合った神でもありました」

 

 首を振り、

 

「それを破って呼んだということは……依姫と戦っている妖怪が、尋常ではないほど強いということになりますが……」

「ああ……一人心当たりがあるよ」

 

 狐が苦笑した。

 

「本当にバケモノじみて強いやつでね。戦に参加してる妖怪全員よりも、あいつ一人の方が強いだろうってくらい」

「藤千代さんですわね~……」

 

 依姫の呼び出した神がいかに強大で桁外れかは、トンガリだって本能で簡単に理解してしまえるほど明らかである。そこまでしなければ勝てないほど強い妖怪がいるのは驚愕の事実だったが、今はそんなことよりも、

 

「豊姫様、依姫様はなにを呼んだのですか……? これほどの御力を持つ神とは一体……」

 

 トンガリの問いに、豊姫はすぐには答えなかった。扇を広げて口元を隠し、しばらくの間考えてから、諦めるようにひとつため息をついた。

 

「――建御雷神(たけみかづちのかみ)

 

 そう、ぽつりと言った。

 

「またの名を建布都神。国譲り神話において、数多の国津神(くにつかみ)を従える王たる大国主神(おおくにぬしのかみ)が、ひと目見ただけで負けを悟ることとなった神。また、その息子である建御名方神(たけみなかたのかみ)という武神すら、まったく歯が立たず敗走したと伝える書物も存在する神。葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるため、天照大御神(あまてらすおおみかみ)思兼命(おもいかねのみこと)が切った切り札――高天原(たかまがはら)最強の戦神です」

「……」

 

 トンガリはしばし黙考し、

 

「……えっ。豊姫様、それマズくないですか?」

 

 建御雷神が具体的にどんな御力を持つ神かは知らない。しかし戦場の端まで呑み込む濃厚なプレッシャーからも、豊姫の話からも、今までの神とは格が違うのだけは明らかなわけで、

 

「みんな、巻き込まれちゃったりするんじゃ……」

「……」

 

 豊姫の視線がつつつっと横に逃げた。パチン、と小気味よく扇をたたみ、彼女は打って変わって朗らかな笑顔を咲かせた。

 

「さあさあ月見さんっ、今度はそちらのお話も聞かせてくださいっ。輝夜様とはどういったご関係だったんです?」

 

 逃げやがった。

 確定である。依姫が建御雷神の御力を振るい戦い始めたら、間違いなく大変なことになる。同じ戦場で戦っている味方も妖怪も、みんな巻き込まれて悲惨なことになる。

 

「……」

 

 とは、いえ。それでトンガリになにかできることがあるわけではない。助けに行くなんて以ての外だ。そんなことをしようものなら最後、トンガリもまた、悲鳴を上げて逃げ惑う烏合の衆の一匹と化すに違いないから。

 豊姫が逃げたのだ。だったらトンガリも逃げたって、なにも、悪いことなどないのである。

 そう自分に言い聞かせ、トンガリは祈った。

 ――みんな、どうか無事で。

 俄に痛くなってきた頭を抱えて、トンガリは大きくため息をついたのだった。

 

 

 

 

 

 もちろん、トンガリは知らない。月の都の医療施設で、

 

「ちょっと! さっきからみんなして依姫様にやられた依姫様にやられたって、一体なにやってるの!? 妖怪と戦ってるんじゃなかったの!? どういうこと!?」

「「「こっちが訊きたいですっ!!」」」

 

 なんというか、もう、いろいろと手遅れになっていることなど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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月面戦争 ⑤ 「戦争、ダメ、ゼッタイ。」

 

 

 

 

 

 体が砕け散りそうだった。

 神降ろしは大なり小なり器となる依姫の体に負担を掛ける行為だが、やはりこの神の場合ともなれば一頭地を抜いている。戦を司る神たる所以か、凄絶かつ暴力的な力の奔流は、己の肉体の中で戦が繰り広げられているかのようだ。しかも、藤千代に勝ちたいという依姫の願いを聞き届けてくれたらしく、過去に一度だけ呼んだときより明らかにみなぎる力が強い。少し気を緩めるだけで呑み込まれてしまいそうになる。

 苦笑した。

 

「……まったく。本当に、途轍もないほどの御力です」

 

 建布都神(たけふつのかみ)――またの名を建御雷神(たけみかづちのかみ)。戦を司る神として、恐らく彼の右に出る者はあるまい。

 依姫の見据える先で、藤千代が柳眉を上げて感嘆した。

 

「まあ……凄まじい神格ですね」

「自分でもそう思います。……今までは戦のためにあるわけではない神の御力を、無理やり武器として使っていただけに過ぎませんでした。ですがこれは、正真正銘戦神の御力です。格が違いますので、ゆめゆめご油断なさりません様」

 

 剣を握る己の手が白い。肌も髪も服もすべてが淡い白の光を帯び、稲光のように走る煌きを散らしている。建布都神とは、戦神であり、また神鳴り(・・・)の神。彼の神の御霊を宿すことは、すなわち神鳴り(・・・)の力を宿すことでもある。

 剣がカタカタと震えている。依姫の武者震いではない。戦神が放つ桁違いの神格についていけず、共鳴を通り越して悲鳴をあげているのだ。試すつもりはないが、一度振れば最後、依姫の力に耐え切れず木っ端微塵に砕け散るだろう。

 呼んだ。

 

「――布都御魂(ふつのみたま)

 

 愛刀が依姫と同じ白の光を帯びる。それは、建布都神が携える神剣の名――戦神が振るうにふさわしい格をまとったことで、波紋がやむように愛刀の震えが消えた。

 これでいい。

 あとは、斬るだけ。

 

「――よろしいでしょうか」

 

 藤千代へ、問うた。

 藤千代は、答えた。

 

「ええ、いつでも」

「――参ります」

 

 そして初めの一手で、依姫は藤千代との彼我の距離をゼロにした。

 

「む」

 

 藤千代が少し眉を上げた。その瞬間には、依姫はすでに神剣を振り下ろす動作へと入っている。雷の神、建布都神――その太刀筋は閃く雷光の如し。

 しかし、敵も()る者。依姫が間合いを詰めた瞬間には、藤千代の右腕もまた動き出していた。指先に妖力が集中する。これまで幾度となく、依姫の斬撃を親指と人差し指の二本で受け止めた動きである。

 甘い。

 言ったはずだ、ゆめゆめ油断するなと。

 

「……!?」

 

 藤千代が初めて表情を変えた。笑うときも驚くときも、攻めるときも守るときも、いついかなるときも決して途切れることのなかった彼女の『余裕』が、この刹那をもって完膚なきまでに崩れ去った。

 見事な判断だったとしか言い様がない。

 

 

 ――ふ つ、

 

 

 雷霆(らいてい)が走る。依姫が神剣を振り下ろした瞬間、太刀筋の延長線上に伸びる大地が、地平線の彼方まで真っ直ぐに一刀両断された。

 

「……!!」

 

 建布都神が名に持つ『布都(ふつ)』とは、物を断ち切る音を文字に表したものである。そして神が己が名として携える文字は、その神が持つ力そのものを示すものでもある。

 すなわち物を断ち切る『布都』の文字を持つ建布都神は、その太刀筋をもって万象一切を一刀両断する。

 藤千代の回避は、指先の薄皮一枚で間に合った。白い肌についた一本の赤い線から、珠のような血がたった一滴だけ浮かぶ。それは紙で擦って切ってしまったかのような、怪我のうちにも入ることのないつまらない切り傷だった。

 でも、それでも。

 

「ようやく……!」

 

 幾百の斬撃を重ね、それでも傷ひとつつけることができなかった少女に、

 

「――ようやく届きましたよ、藤千代!!」

 

 紫電が閃く。横に飛んだ藤千代の足が地に着くよりも速く。止めることなど許さない。この一閃は、立ち塞がるありとあらゆる障害を等しく一太刀で斬り捨てる。防御は不可能、この距離、この速度、この状況なら回避もさせない。今度こそ、今度こそ依姫の一閃が、地上世界の古今無双をふつと断ち切る、

 はずだった。

 

「なっ――」

 

 目を疑った。藤千代は右腕を少し前に出し、今までとなにも変わらない二本指で、迫り来る神の雷を受け止めようとした。

 いや――回避など許さない必殺の距離だったのだ。むしろ、それが已むを得ない判断だったのかもしれない。

 

「んっ……!」

 

 無事で済むわけがない。藤千代の指先が神剣の刀身に触れた瞬間、着物の袖が無惨なボロ布と化して千切れ飛び、彼女の全身に無数の裂傷が刻み込まれた。飛沫のような鮮血が飛び散る。傷は頬、胸、腹部、脚にまで及び、右腕などもはや目も当てられなかった。妖怪の体がどこまで丈夫なのかは知らないが、少なくとも人間であれば、向こう数年は使い物にならないであろう有様だった。

 

「――」

 

 しかし。

 止められた。

 止められていた。あらゆるものを一刀両断するはずの一閃が、この期に及んでなお。

 少女の、小枝のような、たった二本の指で。

 馬鹿な――と目を剥いて愕然としたのはほんの一瞬だった。すぐにその考えを振り払う。いや、なにを驚くことがあろうか、この少女に依姫の常識が通用しないのは()うにわかりきっていたことではないか。止められない斬撃を止める程度、彼女ならやってのけたってなにもおかしいことはない。

 想定の範囲内。そう思え。

 だが依姫とて、必殺の一撃をむざむざ止められたわけではない。ひと目見ればわかる、藤千代は間違いなく軽くない傷を負った。建布都神の御力は、間違いなく通じる。依姫の剣は、間違いなく届く。ようやく、ようやくこの少女と対等に戦うことができるのだ。追い縋れ。喰らいつけ。あと少し、あともう少しで自分はこの少女を超えることが

 

 

「――ふふっ」

 

 

 小さな鈴を転がしたような、あどけない愛らしい笑みの声だった。

 全身の鳥肌が立った。直感に体を突き動かされ、依姫は『雷光の如し』の速度で後ろへ跳んだ。

 

 藤千代が、変質した。

 

 そのとき依姫の脳裏を過ぎったのは、何百年も昔に師の永琳から聞かされた些細な雑学だった。笑顔という表情の起源を辿ってゆくと、やがては威嚇という真逆の行動へ行き着くという。

 特に興味もなかったので当時は聞き流していたが――なるほど。

 全身に浅くない裂傷を負い、右腕など使い物にならぬほど血塗れになって。

 それでもなお陶然と笑みを花開かす常軌を逸した姿は、依姫の心を確かな怖気で震わせた。痛みで気が狂ったっておかしくないはずなのに。藤千代くらいの少女なら、泣き叫んだって然るべきなのに。

 この鬼には、痛覚がないのか。そう思う。

 自分だって人からよく戦闘狂扱いされる身だが、さすがに右腕を潰されて笑うなんて無理だ。戦に狂うとは、こういうことを言うのだ。依姫の目の前にいる少女は、間違いなく狂っている。

 

「……ふふふ」

 

 それだけでも、もう腹が膨れるほど信じられなかったのに。

 

「……!?」

 

 目を疑うなんてもんじゃなかった。意味がわからなかった。藤千代の血にまみれた全身が、まるで時を遡るような速度で回復を始めた。

 三秒。右腕以外の傷が塞がるまでに掛かった時間である。

 そして右腕まで含めすべての傷が完全再生するのには、たったの七秒だった。

 

「……ははっ」

 

 あんぐりと開いた依姫の口から、痙攣に似た乾いた息がもれた。長い長い崖を死力を尽くして這い上がり、頂に手を掛けた瞬間突き落とされた。そんな気分だった。そして同時に、自分の中でなにかが吹っ切れたような感覚も覚えていた。

 剣を握る手に、痛みすら覚えるほどの力を込めた。

 

「――本当に」

「ふふふ……」

 

 この少女は、どこまで依姫の上を行ってくれるのだろう。どこまで次元が違うのだろう。どこまで途方もない化物なのだろう。

 衝撃でも悲嘆でも絶望でもない、ただただ純粋な理解の感情。

 わかっていたはずだ。

 目の前の少女は、まだ全然、ちっとも、本気なんて出してくれてはいないのだと。

 

「本当に……っ!」

「うふふふふふっ……」

 

 だから。

 だから依姫もまた笑みを花開かせ、叫ぶのだ。

 

 

「――本当に最高ですよ、藤千代ッ!!」

「――あははははははははははははははは!!」

 

 

 圧壊。天上天下古今無双の戦は、もはや力の放出だけで世界の姿を変える。桁違いの神力と妖力は龍が如き暴風を生み、粉塵を巻き上げ月の星空を覆い隠す。一秒で一度大地が裂け、次の二秒で三度割れ、更に二秒で五度砕け散る。白い大地と満天の星空だけが果てまで広がる、寂しくもどこか幻想的だった月の世界は、そうして虚無の空間へと作り変えられていく。

 自分より遥か高みの強敵へ、死に物狂いで立ち向かうこのひとときが。

 快楽とも呼べる狂気となって、綿月依姫のすべてを呑み込んでいく。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「「「いいいいいやああああああああああっ!?」」」

 

 そして戦場は地獄と化した。

 それは災害であった。敵味方の区別などなくすべてを等しく呑み込む天災であった。真っ白く広がる月の大地を、渦巻く桁外れの力が圧壊し、超長距離射程の斬撃が斬り刻み、超高密度の拳圧が砕き飛ばす。それが雷光すら置き去りにする超速度で戦場を蹂躙し、龍が空へ昇るような逆巻く烈風を生み出すのである。ある妖怪はこれを天変地異と捉え、ある玉兎はこれを空爆と捉えた。文化の違いより生まれる相違はあったが、この災害を前にして取った行動は誰しもが一致していた。

 

「総員退避ぃぃぃぃぃ!!」

「逃げろおおおおぉぉ!!」

 

 喧嘩なんかしてる場合じゃねえ――満場一致の逃走劇である。敵味方を区別しない災害相手に、もはや彼らにも互いの区別など必要ではなかった。皆が戦意をかなぐり捨て、武器を放り投げ、どこにあるのかもわからない安全を求めて逃げ惑う烏合の衆を化す。惨たらしく変わり果てていく月の大地、飛び合う怒声、悲鳴、絶叫。その光景は、まさにこの世に顕現した阿鼻叫喚の地獄である。

 誰かが叫んだ。

 

「紫様あああっ!! 賢者様あああああっ!! お助けええええええええ!?」

 

 そのとき戦場の遥か後方で賢者は、

 

「」

「しっかりしてください紫様っ! 寝てる場合じゃないです! 大変なことになってますってばあっ!?」

 

 白目を剥いて口から魂を吐いていたため、従者から大変キレのある往復ビンタを喰らっている最中だった。しかしそれでも正気に返らないので、この賢者、役立たずである。

 となれば、妖怪たちは自分でなんとかするしかない。

 

「きゃあああああ!?」

「あぶねええええええええっ!!」

「ふわっ――あ、ありがとうございます……い、いや、なんで敵の私を助けて」

「うっせぇなどうだっていいよそんなの!? とにかく逃げるぞおおおおおっ!!」

「はっ、はいいっ!!」

 

 地獄の様相を呈する戦場では、逃げ遅れた玉兎を助ける妖怪の姿があった。

 

「ちょっと待ってえええええ! 誰か、誰かこの御札剥がしてえええええ!?」

「っ……ああもう、世話の焼ける!」

「お、おお……悪いな、助かった」

「妖怪の礼なんかいらん。さっさと逃げるぞ!」

 

 逆に、御札を貼られ動けなくなっている妖怪を助ける玉兎の姿もあった。

 

「ぎゃあーっ!?」

「ひえええええ!?」

 

 逃げ切れず粉塵で覆われた空を舞う者も、少なからずいた。

 ともかく、ともに逃げ延びようと必死に足掻く中で、妖怪と玉兎の間に奇妙な一体感が生まれ始めていた。嘘か真か、対立する二つの勢力を和解させるためには、その二勢力に共通する新たな敵を与えるのが効果的であるという。月の大地に顕現した地獄を前にして、敵も味方も、妖怪も玉兎もありはしなかった。人間離れした身体能力を持っていても、優れた武装で身を固めていても、彼らは必死に逃げ惑う矮小な一生命でしかなかった。

 彼らはひとつになっていた。

 ひとつになった心で、叫ぶのだった。

 

「「「藤千代サンの馬鹿ヤロオオオオオォォォ!!」」」

「「「依姫様のバカあああああぁぁぁ!!」」」

 

 叫んでなにかが変わるわけではないと当然わかってはいたけれど、それでも叫ばずにはおれなかった。

 すべてを等しく噛み砕く戦の牙、斬り裂く戦の爪。粉塵を巻きあげ変わり果てる大地、悲鳴とともに逃げ惑う力なき人々。

 それはまさしく、月面戦争なのだった。

 

 

 

「――紫様っ! 起きてください紫様ぁっ!!」

「へぶっ……ら、らんぶっ、ちょっちょっとやめえぶっ」

「藍殿、それ叩きすぎて逆に起きなくなるやつです」

「……ハッ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……もおどーにでもな~あれ~」

「豊姫様っお気を確かに!?」

 

 そして戦場の片隅ではトンガリが、虚ろな目で現実逃避し始めた上官を懸命に揺さぶっていた。目が死んでいる豊姫はされるがままで無表情に笑う。

 

「なんなのよこれぇ……ここまでしなきゃいけないなんて、依姫は一体なにと戦ってるのぉ……」

 

 見渡す限りの戦場では、世紀末もかくやの天変地異が繰り広げられている。迸る神力と妖力が暴風を巻き起こし、雷が走り抜けては大地が砕け、けたたましい轟音が響き渡っては世界が揺らぎ、トンガリの視界を正視も憚る地獄へと変貌させていく。巻き込まれている玉兎と妖怪の阿鼻叫喚が聞こえる。桃の皮剥きをさせられたときは「なんで戦場でこんなこと……」なんて疑問を抱いていたトンガリだけれど、今は心の底から豊姫の部下でよかったと涙していた。あんなのに巻き込まれるなんて絶対に御免だ。桃の皮剥きマジサイコー。

 ハッと正気に返った。

 

「ってか豊姫様、あなたあの神様のこと知ってたんじゃなかったんですか!? なんであなたが一番ショック受けてるんですか!」

「知ってたわよぉ……でも昔依姫が呼んだときは、もちろんそのときもすごい御力だったけど、でもここまでじゃなかったの。こんなの私も知らないわよぉ……もう意味わかんないぃぃ……」

 

 意味がわからないのはトンガリも同じだ。依姫は一体なにと戦っているのか。一体どんな化物が相手であれば、あそこまでの天変地異を引き起こさなければならないのか。しかし間違いなく言えるのは、このままでは月の地形が変わるということである。ということはお偉方に怒られるということである。すなわちお偉方にガミガミ言われてストレスMAXな綿月姉妹――特に依姫(バトルジャンキー)――が、特訓という名目でまたトンガリたちをボコボコにするのである。己の平穏な未来を守るため、トンガリはなんとしてでも豊姫を正気付けねばならぬ。

 

「豊姫様っ、とにかくあれは絶対にダメなやつです! なんとかしてやめさせないと!?」

「やだ。とよひめここでつくみさんたちとおはなしするんだもん」

「幼児退行してる場合じゃねえええええ!! またお給料カットされて美味しいもの食べられなくなりますよ!?」

「――さて、なにか策を練らないとね」

 

 豊姫が突然キリッとした。この状況ですらぱくぱくもぐもぐ桃を食べ続けている亡霊と比べれば霞むが、豊姫もこれで結構な食いしん坊なのだ。食べ物を餌にされると案外すんなり動く。

 彼女は扇を広げ口元を隠し、それらしい雰囲気を漂わせながら細い視線で戦場を見つめた。

 

「依姫は私がなんとか止められると思うけど……問題は妖怪の方ね。あなたたち、できる?」

「むりですいやですだめですしにますおうちかえります」

 

 トンガリは幼児退行した。他の玉兎もすごい勢いで首を横に振った。豊姫はため息、

 

「そうよねえ……ほんとどうしましょう、このままじゃ私の美味しいご飯が……」

「私が止めようか?」

 

 物珍しそうな顔でフォークを観察していた狐が、独り言かと思うくらい何気なく、かついきなりそう言った。お陰様で、トンガリや豊姫が驚いて振り返るまで数拍の間が合った。

 豊姫が目をしばたたかせ、

 

「つ、月見さん……今なんて」

「ああ……ごめんごめん」

 

 狐はフォークを置き、

 

「断言はできないけど、私ならなんとかできると思う」

「……つ、月見さん、お強いんですね」

「いや、どっちが強いかといえば向こうだよ? いくらなんでもあれに勝つのは無理だ」

 

 苦笑、

 

「けど……相性というやつなのかな。勝つのは無理でも、止めるだけなら。お前だって似たようなものだろう?」

 

 確かに、豊姫と依姫のどちらが強いかといえばほぼ間違いなく依姫の方だろう。しかし、かといって普段の上下関係まで妹に軍配が上がるわけではない。むしろ『姉』と『妹』の違いというのはなかなか絶対らしく、妹はいつも姉のペースに乗せられて苦労している。正座して姉に説教されている妹の姿も、トンガリは何度か目撃している。

 それと似たようなことが、この狐と藤千代なる化物にも言えるのだとしたら。

 

「……充分です。お願いしてもよろしいでしょうか」

「ああ」

 

 フォークで桃を一切れ頬張ってから、狐は立ち上がった。それから、桃を貪るように食べている亡霊を見下ろして、

 

「幽々子はここで待ってるように」

「この桃を食べ終えるまでは動きませんわっ」

「あなたたちは、ここで幽々子さんを守ってあげて」

 

 豊姫の指示に、トンガリたち玉兎は五回くらい必死に頷いた。ありがとうございます、ついてこいとか言われたらマジどうしようかと思ってました。

 

「こちらへ」

 

 豊姫に促され、狐は彼女とともに前へ出る。

 

「私の能力が、わかりやすく言うところの瞬間移動であるのはすでにお見せしたかと思います」

「ああ」

「ここからでは遠すぎて詳しい状況がわからないので、まずは巻き込まれない程度に接近します。その後、隙を見て月見さんを、依姫と戦っている妖怪の前まで転送します。そこからは……お願いします」

 

 狐が首肯する。豊姫もまた頷きを返す。トンガリは生唾を呑み込む。亡霊は桃を食べ続ける。

 それは奇妙な、月人と妖怪の、味方と敵の共同戦線だった。月の命運が、豊姫と、敵であるはずの狐の手に委ねられている――とまでいうのはさすがに大袈裟だが、トンガリたち月の使者の命運くらいは握っているはずである。

 このまま月の土地がメチャクチャになれば、間違いなくお偉方から特大の雷を落とされる。お給料だってきっと減らされる。その前に止めなければならない。もうとっくに手遅れな気もするが、ともかく、今止めればまだなにかが変わるかもしれない。

 淡い光の粒子を散らし、豊姫と狐の姿が掻き消える。

 トンガリは両手を組んで合わせた。豊姫様、狐のお兄さん。

 

「――どうか、御武運を」

 

 暴れ回る天変地異を白目で眺めながら、ほんとお願いしますマジで、とトンガリは神にも縋る気持ちで祈った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 数字にしてみれば、二分にも満たない白昼夢のような時間だったはずである。

 そのたった百余秒足らずで、依姫と藤千代は無数の交錯を繰り返した。幾百建布都神の御力を振るい、幾百藤千代から拳を叩き込まれ、いつしか依姫の肉体は本当に砕け散ってしまいそうになっていた。藤千代の一撃を神剣で受け止め、受け止めきれず弾き飛ばされ、着地しすぐさま前に出ようとしたその刹那、依姫は天地がひっくり返るほどの吐き気に襲われ片膝を折った。

 

「ぐぅ……っ!」

 

 神降ろしの副作用だ。建布都神の御霊は藤千代と渡り合えるほどの力を依姫に与えたが、同時に使うたびに体を蝕む毒でもあった。きっと、今日一日で何十もの神々を降ろし続けたせいもあるのだと思う。ともかく人外の力を長く体に留め続けたせいで、依姫は肉体的にも精神的にも限界を迎えつつあった。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 依姫の苦悶が己の打撃によるものではないと察すると、藤千代は追撃ではなく距離を取ることを選んだ。ここで畳みかければ間違いなく勝てるというのに、なんとも彼女らしい選択だと思う。

 いつからだったろう。藤千代の目的が依姫に勝つことではなく、依姫が限界を迎え動けなくなるまで、ただひたすらに戦い抜くことだと気づいたのは。

 この少女は、勝つためではなく、戦い続けるために戦っているのだ。幾度となく依姫の斬撃を受け止めたことで、着物はさんざ千切れ飛んで、もう隠れるべきところが辛うじて隠れているだけのような有様だけれど、体はまったくの無傷である。最後の交錯で剣先が掠めた左腕の傷は、もうとっくの昔に再生を終えてしまっていた。

 わんわん頭が揺れる感覚の中で、依姫は深呼吸を繰り返す。まだ立ち上がるのは無理だが、とりあえず声は出せた。

 

「……何度見ても反則的な再生速度ですね。そういう能力をお持ちなのですか?」

「あ、これはただの気合です。こう……ふんすっ、て」

 

 もう驚きもしなかった。むしろなにもかもが規格外な彼女らしくて、自然と笑みがこぼれていた。

 握り拳ひとつで大地を砕く途方もない膂力(りょりょく)と、幾百の交錯を繰り返しても息ひとつ乱れない底なしの体力と、頭を割っても倒せないのではないかと思わしめる常識外れの再生力。まさに、この戦場において、藤千代は戦い続けるためだけに存在する化物だった。

 

「……残念ですが、もう限界が近いようです。さすがに神を降ろしすぎました。恐らく、あと一分ともたないでしょう」

 

 明日は全身筋肉痛だろうなと、そんなことをふっと思う。

 

「そうですかー。残念です、もっともっと戦っていたかったですけど」

「私もです。まったく、底なしの体力を持つあなたがた妖怪が羨ましいですよ。……まあ、ないものねだりをしても仕方がないので」

 

 深く息を吸い、依姫は折れた膝に枯渇寸前の力を込めて立ち上がった。段々目眩が引いてきた。しかし、どのみち戦うのはもう無理だと思う。本能が言っている、これ以上足を動かせば今度こそ依姫はぶっ倒れる。

 だから、最後に、たった一度だけでいい。

 全力で、剣を振るうくらいは。

 

「これで最後です。……私の全力、受け止めてください」

 

 藤千代は、迷いなく頷いた。

 

「ええ、喜んで」

「……ありがとうございます」

 

 頷いてくれたことにではなく、こうして出会い、戦ってくれたことに礼を言って、依姫は神剣を腰の鞘に収めた。右足を前に、左足を後ろに。柄を握る手が藤千代から見えなくなるまで、低く落とした体をひねり、そのまま一切の動きも呼吸も止めた。

 居合い。間合いなど関係ない。依姫がひとたび神剣の鯉口を切れば、依姫の視界に映る一切を、地の果てまで、空の果てまで、剣を振るった軌跡の通りに等しく一刀両断するはずである。

 藤千代を除いては。

 きっと藤千代は、それすらも凌いでみせるだろう。限界だった。もう今の自分では、藤千代に勝つ未来をどう足掻いても想像することができなかった。

 だからこそ、依姫は次の一瞬に、限界を超えて己のすべてを注ぎ込むことができるのだ。

 

「……ではでは私も、ちょっと本気です」

 

 そう言って藤千代は、依姫と似たような体勢を取り始めた。鏡で映したように左足を前、右足は後ろで腰をやや落とし、左手は手前で緩く開いて、右手は固い拳に変えて後ろへ引く。

 なんてことはない、右の拳を打つための構え――だが、依姫は感じた。桁外れを誇る藤千代の妖力が、すべて、恐ろしい密度で右の拳に収斂(しゅうれん)されていく。

 

 ――もしもこの場に月見がいれば、血相を変えてやめさせたはずだ。

 なぜならそれは、かつての大和と洩矢の戦で、緑が茂る戦場を一瞬で荒野に変えた技なのだから。

 

 依姫の全感覚から、藤千代以外の存在が消失した。余計なものは見ない。無関係なものは聞かない。邪魔なものは感じない。自分のすべてを、藤千代という名の、賞賛すべき強者のために。

 

 少しの間、静寂があった。

 

 極限の戦闘を繰り広げる者のみが可能にする御業か、依姫と藤千代は言葉でも視線でもなく心で通じ合った。行こう、と、二人の心が同時にそう言った。だから二人はその言葉に従い、片や居合いの刃を抜き、片や拳の妖力をすべて波動に変えて放つはずだった。

 現実はそうならなかった。

 コンマ何秒かという奇跡的な差だった。

 

 

「――依姫のおバカあああああぁぁぁっ!!」

「へぶうっ!?」

 

 

 突然目の前に現れた少女から痛烈なビンタをもらい、依姫は為す術もなく吹っ飛ばされた。

 そこから、依姫の意識は少しばかりの間途切れる。目が覚めたのは、地面に倒れて頭を打った痛みからだった。横倒しになった視界の中には誰の姿も映っていないが、依姫は自分の足元あたりで巨大な存在感が膨れあがっているのを感じた。

 依姫の全身に、無数の脂汗が玉となって浮かびあがった。それは日頃の生活の中で依姫の潜在意識に刻み込まれた、一種の防衛本能ともいうべき反応だった。藤千代を前にしたときの畏怖とは明らかに違う、恐怖という名の、生物が持つ原始的な感情のひとつだった。

 依姫がこの世で恐れる存在は、たったひとり。

 

「――よ り ひ め ?」

 

 怒ったときの、お姉様。

 依姫はふるふる震えながら顔を上げた。自分のすぐ足元のところに、怒ったお姉様こと豊姫が満面の笑顔で立っている。とてもステキな笑顔である。ステキすぎて、依姫は姉の背後に、女子供も構わず喰らい尽くしそうな恐ろしい般若の面を幻視した。

 というか。

 依姫は、建布都神の御霊を体に降ろしている。当然身体能力は極限まで強化され、物理的な衝撃に対する防御力も上がっている。加えて、月の最新技術を投影した戦闘服をまとってもいるから、今の依姫は藤千代と肉弾戦を演じることができるし、彼女の拳を喰らったってちょっと飛ばされる程度で済んでいるのだ。

 なのに、姉のビンタをもらった瞬間、束の間ではあるが体だけでなく意識まで飛んだ。もちろん、完全な不意打ちであったことと、脳の近くを殴られたことが大きかったのだろうが、どうあれ普通の月人にできる真似ではないわけで。

 依姫は、恐怖に震えながらぎこちなく笑った。

 

「さ、さすがですねお姉様。見事な一撃でした」

「あら、ありがとう。でもね、それはどうだっていいの。依姫、あなた」

「――って、ちょっと待ってください!?」

 

 姉の言葉を遮って依姫は跳ね起きた。ビンタのダメージが脳から抜けたことでようやく思い至った。姉に殴られる直前まで自分がやろうとしていたこと。そして、今ここに姉がいるということ。それはつまり、

 

「お姉様っ、私はまだ一騎打ちの途中です! 危ないから離れて、」

「ああ、それだったら大丈夫よ。ほら」

 

 豊姫が半分後ろを振り返りながらなにかを指差した。ちょうど姉の体に隠れていたので、一歩横にずれて見てみると、

 

「ほーら千代ー、もふもふの尻尾だぞー。好きなだけ触っていいぞー」

「わーいっ! もふーっもふーっ!」

 

 狐と思しき男の尻尾にじゃれついて、藤千代が子猫みたいに地面をゴロゴロしていた。

 依姫の全身からどっと緊張が抜けた。

 

「……えぇ」

「まったくもう、ほんと危ないところだったわ。……月見さーん! ご協力ありがとうございますー!」

 

 ……月見?

 確かそれは、『藤千代を倒したたった一人の妖怪の名』ではなかったか。なるほどあの男が、と依姫は興味深く月見を観察した。妖狐、というのは予想外だった。あまり戦闘が得意な種族ではなかったはずだが、中には『白面金毛九尾』の名を響かす大妖怪もいるというから、彼もその類なのかもしれない。

 狐らしからぬ綺麗な銀色の尻尾を一本だけ垂らし、狩衣を更に動きやすく簡略化したような質素な和服で着飾っている。体格は和服の上からではわかりづらいが、少なくとも筋骨隆々の大男ではない。顔立ちも精悍と柔和を足して二で割った具合なので、正直あまり強そうには見えなかった。

 もっとも、それは依姫にも藤千代にも言えることだ。自分は『一歩も動かず黙っていれば普通の女の子』なんてあんまりな評価をもらうこともある身だし、月見の尻尾をもふもふする藤千代に至っては完全に幼子である。

 妖怪の実力は、外見からは計れない。戦うことで初めてわかる。いつか彼とも戦えるだろうか。戦いたいなあ。強い男の人っていいよなあ。

 しかし、そんな月見と姉が仲良く手を振り合っているということは、

 

「お姉様、あの狐の方と知り合いになったので?」

「あっ、そうそう! 妖怪だけどとってもいい人なのよ! さっきまでずっとお話してたのっ!」

 

 いつものお転婆な調子に戻った姉を見て、そうですか、と依姫は苦笑した。あの狐、まさかとは思っていたが、本当に姉と仲良くなってしまっていたとは。温厚そうな見た目通り、争いを好む性格ではないのだろう。でもお願いしたら戦ってくれないかなあ。戦ってみたいなあ。

 

「――さて、依姫」

 

 なんて考えていたら豊姫がこっちを振り向いて、また例の、背後に般若の面が見える微笑みを咲かせた。依姫の口から「ひぇ」と変な声が出た。

 

「ねえ。お姉ちゃん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「な、なんでしょう」

「ちょっと周りを見てみて? なにか気づくことはない?」

 

 依姫は言われた通りにした。当然ながら豊姫と藤千代と月見がいるのだが、それ以外で特に目につくものはない。せいぜいズタボロになって変わり果てた月の大地と、遠くの方で転がっている玉兎や妖怪が見えるだけで――

 

「……」

 

 そして依姫は、本当の意味で正気に返った。戦の興奮で頭から抜け落ちていたあんなことやこんなことを、青空が広がるように豁然とすべて思い出した。

 

「ねえ、依姫?」

 

 ふるふる震える依姫に、豊姫は般若の笑みを深め、

 

「今日の戦で、いくつか私と約束したことがあったわよね? なんだったかしら」

「…………」

 

 依姫は怖くてなにも言えない。

 

「あなたは強力で危険な能力を持ってるんだから、使うときはみんなを巻き込まないように注意するはずだったわよね? そのための『なにがあっても近づくな』だったのよね? なにあなたの方から近寄って巻き込んでるの?」

「………………」

 

 泣きそうになってきた。

 

「あと、このへんの土地がメチャクチャになっちゃってるんだけど、どうするのこれ? あなたが直すの? ねえ?」

「……………………」

 

 涙が出てきた。

 

「それと、建御雷神。昔、危なすぎるから使わない方がいいって、私や八意様と約束したわよね? ねえ、あなた今日でいくつ約束破ったの?」

「……………………ぐすっ」

 

 ち、違うんですお姉様、藤千代という望外の強敵が現れた影響でつい頭から抜け落ちてしまってて、決して忘れていたわけでは、いや忘れてましたけど、ともかく故意に約束を破ったのではなく事故にも等しい不可抗力であって今では反省していますごめんなさいだから少し落ち着いてくれませんかほっほらお姉様はやっぱり明るく笑っている姿が一番でそんなドス黒く微笑むのはどうかと

 ――パチン。

 豊姫の扇をたたむ音、

 

「依姫」

「……、」

 

 そして姉から、笑顔が消えた。

 

「――ちょっとそこに正座ァッ!!」

「は、はいぃっ!!」

 

 怒った姉には逆らえない。

 怖いお姉ちゃんを持った妹の、足掻きようのない宿命であった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――戦争は終わった。

 

 かつて、『白面金毛九尾』の二つ名を世に知らしめた、玉藻前という名の妖狐がいた。妖狐の中では歴史上に最も深くその名を刻み込んだ、藍にとっては大先輩にあたる偉大な大妖怪である。

 しかし実のところ藍は、そんな偉大な大先輩をまったくもって尊敬していないし、それどころか軽く軽蔑している。

 なぜなら彼女は、かつての印度では『華陽夫人』の名で、中国では『妲己』の名で国の王を誑かすことで、私利私欲に千人以上の人々を――歴史に名を残す妖怪の中では最も多くの人間を虐殺した、極悪中の極悪妖怪だからだ。

 生きるためではなく、己が愉しむためだけに人間を殺し続けた異常者。藍はどちらかといえば平和主義な妖怪なので、玉藻前の悪逆非道の数々は天地がひっくり返ったって尊敬できないのである。

 なぜ彼女のことを思い出したのかはよくわからない。けれどもしこの場に玉藻前がいれば、つまらない、興醒めだと言って慨嘆しただろう。そして自分は今、この程度で済んでよかったと心の底から安堵している。そう感じることができる自分を、少しだけ幸いだと思った。

 割れ、砕け、原型を留めていない月の大地。傷つき、疲弊し、意気消沈して動くことができない妖怪と玉兎たち。戦が終わったあとに残されたのは、見る者すべての言葉を封殺する、惨たらしいまでの虚無の空間だった。

 幸いにも死者がなく、巻き込まれた者たちも大したことのない怪我で済んだからよかったものを。

 これがもし本当の意味での戦だったなら、今頃一体どうなってしまっていたのか――やはりたとえ已むを得ない事情があったとしても、戦なんてやるものではない。争いは罪だ。そう藍は強く思う。

 しかして、この惨状を生み出した張本人である二人の少女は、

 

「――ねえ依姫、ほんとどうするのこれ? 上の連中から絶対あーだこーだ言われるわよ? あなたがどうにかして能力で直すってことでいい? 大地を司る神くらいいるでしょう?」

「……お姉様。正直申し上げますと、今日はもういろいろな神を降ろしすぎて限界で」

「え、なに聞こえない。もう一度、言えるもんなら言ってみて頂戴」

「……………………なんでもないです」

 

 片や依姫という少女は、地べたに正座で姉から説教を喰らい、

 

「藤千代のバカッ、バカッ!! ウソつき!! わからずや!! おたんこなすっ!! あんぽんたんっ!! すっとこどっこい!!」

「ごめんなさいー……」

 

 片や藤千代も地べたに正座し、藍の主人から癇癪を起こした子どもみたいな罵倒をもらっていた。

 

「月見もぉっ!! こんな御札まで作って、そこまでして月に来たかったの!? 月見、月人になにされたか忘れたの!? なんで私が黙ってたかわからないの!? バカッ!! おたんこなすっ!! あんぽんたんっ!!」

「……悪かったよ。ごめん」

 

 そして藤千代の横では月見が正座し、

 

「そして幽々子っ!! 月見にこのこと教えたの幽々子でしょ!? 私、絶対黙っててって言ったわよね!? 約束したよね!? 幽々子を信じた私がバカだったの!?」

「ご、ごめんね、紫~……」

「バカッ!! すっとこどっこいっ!! すっぽんぽんっ!!」

「すっぽんぽん!? ゆ、紫、それ違うから落ち着いて~!」

 

 幽々子も正座し、

 

「あ、あのっ、小父貴! どさくさに紛れて儂まで正座する必要はないと思うんじゃけど、そのへんいかが!?」

「どうですか、晒し者になった気分は」

「儂、放置ぷれいってあんまり好きじゃな――ゴミを見る目ヤメテ!?」

「お嬢……いえ、駄嬢。いろいろ終わってますねあなた」

「誰のせいでこうなったと!?」

 

 ついでに操も正座していた。

 もちろん、戦に直接は参加せず、危ない目にも遭わなかった藍だからこそ言えることだとは思う。けれど月見や藤千代たちが揃って正座しガミガミ説教される姿は、なんだか微笑ましくて、本当にこの程度で済んでよかったと藍は痛感するのだ。

 それにしても、まさか月見が隠形の御札までこしらえてこっそり参加していたとは予想外だった――いや、今になって振り返れば、頭のどこか片隅でひょっとしたらという思いはあった気がする。月見には月人から瀕死の傷を受けた過去があると聞くが、そんな連中の住む世界になんの物怖じもなく入っていけるところはなんとも彼らしいと思う。そして、それで綿月豊姫なる月人の少女と仲良くなってしまうあたりも。

 しかし、そんなのは紫にとっちゃあどうでもいいわけで。

 

「月見いいいいいっ!!」

「いだだだだだ!?」

 

 激怒する紫は月見の耳をぐいーっ! と真上に引っ張り、

 

「月見のバカバカバカバカバカバカバカバカッ!!」

「ゆ、紫、痛い、いだだだ」

「そんなの知らないっ!! 月見っ、わかってないでしょ!? あのとき(・・・・)、わ、私が、どれだけ! どれだけ怖かったか、ぜんぜんっ、わかってないでしょ……っ!?」

 

 肩で息をする紫の瞳が、あっという間に涙でいっぱいになった。なにか言おうと必死に口を動かすけれど、言葉はちっとも出てこなくて。

 観念したように息をついた月見が、真上から見下ろす紫の襟元を軽く引いた。それだけで紫の体はあっさりと崩れ落ち、月見の腕の中で、紫はそのまま、目の前の肩に顔を押しつけて、少しの間だけ頑張って嗚咽を噛み殺そうとしていた。

 そのとき(・・・・)のことを藍は詳しく知らないし、あまり知りたいと思える部類の話でもないので、今の紫の心を一から十まで推しはかることはできない。しかし仮に、藍の目の前で月見が殺されかけたとすれば、それは藍の心に底知れぬ恐怖を刻み込むだろう。だから、藍よりずっとずっと月見を強く想っている紫は、藍の想像よりずっとずっと恐れているはずなのだ。

 月見は、紫に黙って勝手に月までついてきた。どさくさに紛れて、用意周到な隠形の御札まで貼っつけて。それはつまり、紫にバレたら怒られるとわかっていたのであり、わかった上でやられた(・・・・・・・・・・)という事実の、紫にとってどれほど口惜しいことか。

 恐らく月見は、幽々子に焚きつけられたのもあって、ちゃんと謝って埋め合わせすればいいとでも考えていたのだろうが。

 結局、甘かったのだ。

 もちろん、ちゃんと謝って埋め合わせをすれば紫は月見を許すだろう。ただし、埋め合わせの量は半端では済まない。これから当分の間、月見は紫の傍から離られなくなるはずである。きっと朝から夜まで、何日も何日も。少なくとも、冬がやってきて紫が冬眠するそのときまでは。

 足腰に力が入らない紫を月見が両腕でしっかり支え、さすがに反省したらしい幽々子が、震える背中を優しく撫でて慰めている。紫が泣き出したことで説教を続けるような雰囲気ではなくなったらしく、豊姫も『犬走』もやれやれと片笑みながら舌鋒を収めた。すっかり意気消沈していた周りの妖怪や玉兎の空気も、少しばかり弛緩したように思えた。

 豊姫が言った。

 

「それにしても、土地がズタボロになった以外は大したことなくてよかったわ」

 

 間髪を容れず、一匹の玉兎が鋭く手を挙げて叫んだ。

 

「豊姫様ぁっ! 私たちの心もズタボロでーっす!」

「大丈夫大丈夫、死ななきゃ安いわ」

「自分がずっと安全なところにいたからってーっ!!」

 

 玉兎からの激しいブーイングをさらりと無視し、豊姫はパンパンと両手を叩いて、

 

「はい、それじゃあ戦はおしまいっ。みんなもう充分でしょう?」

 

 明確に言葉を返す者こそいなかったが、途端に湧き上がったグダグダな空気こそがなによりわかりやすい返答だった。

 その中で依姫がぽそりと、

 

「お姉様、まだ藤千代との決着が」

「ごめん、あなたには訊いてないの。黙ってなさい」

「……はい」

 

 依姫はそろそろ涙目だった。

 藤千代が微笑み、

 

「大丈夫ですよ依姫さんっ。とっても楽しかったので、またいつかやりましょうね!」

「っ……はい、是非!」

 

 もちろん、妖怪と玉兎は全力で叫んだ。

 

「「「絶ッッッ対に御免じゃあああああ!!」」」

 

 戦争、ダメ、ゼッタイ。

 天上天下古今無双の戦はみんなの心にとっても大切な教訓(トラウマ)を刻み込み、恙無(つつがな)く終了と相成ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後は、妖怪も玉兎もへとへとに疲弊してしまったことと、すっかりいじけた紫が「かえるっ!! おうちかえるっ!!」と癇癪を起こしたこともあって、グダグダな空気のまま解散の運びとなった。月見はまだ残って豊姫と話をしたい風だったが、今のご機嫌ナナメな紫には逆らえない。藍が少し助け舟を出していなければ、彼もまた、『犬走』に襟首を掴まれ連行されていく操のようになっていたかもしれない。

 このまま限界まで月に居続けるのは論外だが、お別れの挨拶だけはさせてもらえることになった。寂しげに眉を下げた豊姫が、顔半分だけの力ない微笑みで言った。

 

「行ってしまわれるんですね、月見さん。残念です。姫様のこと、いろいろとお聞きしたかったんですけど」

「私も残念だよ。……でも、この通り怒らせちゃったからね。もうワガママは言えないさ」

「う――――――――…………」

 

 月見の左腕には紫がひっついていて、泣き腫らし赤くなった目で、低く唸りながら豊姫を睨んでいる。今の紫にとって、月見と接触してくる月人は一人の例外もなく最大限の警戒対象だ。たとえ月見が大丈夫だと認めた相手でも、絶対に気を許しなどしない。

 

「あ、あの、そんなに睨まなくてもなにもしな」

「う――――――――…………っ!」

 

 その姿はさながら、大好きな飼い主を守ろうと頑張って敵を威嚇している小動物の類だろうか。もしも紫に尻尾がついていたならば、その毛並みはピンピン逆立って天を衝いていたに違いない。大妖怪の名を体現する恐ろしさはなく、ただひたすら微笑ましいばかりである。紫様、またひとつ賢者の威厳を失いましたね! と藍は思った。

 なぜ紫にここまで警戒されているのか、なんとなく心当たりはあったようで、豊姫は寂しげながらも迷うことなく手を引いた。

 その横では対照的に、すっかり意気投合した藤千代と依姫が固く握手を交わしていた。

 

「藤千代、あなたと会えて本当によかったです。これで、きっと、私はまた強くなることができる」

「また、どこかで会えるといいですね」

「ええ。……そのときは、今度こそ、あなたに本気を出させてみせます。待っていてください」

「ふふ。じゃあそのときは、私も、今よりもっと強くなってお待ちしていますね」

 

 藍は笑顔で思う。とっても素敵な約束ですけど、やるなら地上以外の誰もいない世界でやってくださいね。お願いですから。

 夜空に浮かんでいる星を適当にひとつ見繕って、戦場として与えてやればいいのではあるまいか。どうせこの二人なら、空気がなくたって気合でなんとかしてしまえるだろうし。

 というか、「今よりもっと強くなる」とか言ったかこの鬼。

 

「豊姫さん、おみやげありがとうございます。美味しくいただきますわね~」

 

 幽々子が、月の桃が十個ほど詰まった袋を抱えながらうきうきと言った。いいえ、と豊姫は首を振り、

 

「それしか用意できなくてごめんなさい。時間さえいただければ、箱でいくらでも持ってくるんですけど」

「う――――――――…………っ!」

「……とまあ、この通りみたいなので」

 

 うーうー唸って豊姫を威嚇するだけの小動物と化している紫に、みんなが揃って苦笑した。

 

「……では、皆様。気をつけてお帰りくださいね」

 

 そう力なく言う豊姫が、本当に名残惜しそうだったので。もしここで自分たちが「やっぱり帰らない」と心変わりすれば、彼女は満面の笑顔で歓迎してくれるのだろうと藍は思う。意外だったし、不思議な感じもした。月人という存在を紫の話でしか知らなかった藍は、やはり彼女らを妖怪に非友好的な種族だと思っていたから。こうもわかりやすく別れを惜しまれると、なんだか尻尾の付け根あたりがムズムズしてくる。

 いや、多分藍の考えは間違っていない。月人は間違いなく妖怪には非友好的であり、豊姫と依姫が例外中の例外なのだろう。理由は知らないが、ともかく、どこの世界にも変わり者はいるのだ。その変わり者をこの戦で引き当ててしまう月見と藤千代の、なんと運の強いことか。

 

「また、どこかでお会いできることを願っています」

「ああ。縁があればまた」

「月見いいいいいっ!!」

「いだだだだだ」

 

 紫がすごい勢いで月見の耳を引っ張って、そのままスキマの方へ引きずっていってしまった。月見と豊姫がいかにもお互い通じ合った風だったから、我慢の限界を迎えたらしい。「月見はぜんっぜんわかってないっ!」とか「月人と仲良くするなんて絶対にダメなんだから!!」とか「ズルいズルい私だって月見といっぱいお話したいのにっ!!」とかムシャクシャ吐き捨てている。怒りの矛先がズレてきているように見えるのは気のせいだろうか。

 紫が飛び跳ねながら叫んだ。

 

「ほらみんなもお! 置いてくわよもーっ!!」

 

 やれやれと、そんな小さな笑みの息をついて、藍たちは紫を追いかけた。その背に、

 

「さようならーっ!」

 

 豊姫と依姫が、大きく手を振ってくれたので。

 まず月見がすぐ手を振り返し、幽々子と藤千代も続いて――そして少し悩んだ末、藍もまた、控えめではあるけれど三人の真似をしてみた。

 月の世界には、笑顔で藍たちを見送ってくれるようないい月人もいる。

 いろんな意味でひどい戦だったけれど、最後は少しだけ、穏やかな気持ちになれた。

 

 

 

 

 

 ――ちなみに、この戦が終わってからのことだけれど。

 今回の戦を通して争うことの虚しさを知った大半の妖怪たちは、「平和な生活サイコー」とめっきり大人しくなり、闇雲に人間を襲うことはなくなった。

 無論皆が皆そうだったわけではないが、ほどなくして人々を苦しめ続けた疫病と飢饉が去り、魔の存在への恐怖が和らいだことで、力を抑えられず暴れてしまう妖怪もいなくなった。

 世界は平和になったのである。

 

「……あっ! 紫さん、私いいこと思いつきましたよ!」

「……ロクな予感がしないけど一応訊いてあげる。なに?」

「今回の戦で物足りなかった方、きっといますよね? そんな方は是非是非私にかかってきてください! いつでもどこでも好きなだけお相手いたしますよっ」

「「「…………………………」」」

 

 平和になったのである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「斬る」

「うおっと!?」

 

 そして月見が慌ててしゃがむと、まるで容赦のない銀閃が耳の毛先を掠めた。

 

「待て妖忌、落ち着け」

「うるさいっ! 幽々子様から聞いたぞ、やはり貴様が幽々子様を!」

 

 鬼と化した、魂魄妖忌であった。

 悪い予感というのは得てしてよく当たるもので、月から帰ってきた後日、幽々子の屋敷にやってきた月見を歓迎してくれたのは妖忌の斬撃だった。なんとなく襲われる気がしていたから躱せたものの、そうでなかったら耳が落ちていたかもしれない。月見は妖忌から距離を取りつつ言う、

 

「こら、幽々子から話を聞いたならわかるだろう。幽々子はあくまで自分の意思で抜け出したのであって、」

 

 妖忌は月見を追いかけつつ叫ぶ、

 

「黙れっ、貴様が幽々子様を誑かしたのだ! おのれ妖怪め、今日という今日こそ成敗してくれるっ!!」

 

 予想通りの反応で逆に安心した。

 では月へ行く前に見た未来の通り、池に叩き込んで無理やり冷却してやろうと、

 

「妖忌っ、やめてっ!!」

 

 月見が尻尾を動かそうとした瞬間、屋敷から颯爽と飛び出してきた幽々子が妖忌を後ろから抱き締めた。「おほう!?」と妖忌が変な声を出した。

 幽々子は、自分の体を全体的に押しつけて、

 

「やめて妖忌っ、私のために争わないでっ!」

「ゆ、ゆゆ、幽々ゆゆゆ幽々ゆゆ幽ゆ々幽」

 

 それは、月見の目からでもよくわかるほど見事な密着具合だった。死地へ赴く恋人を引き止めるようにぐいぐい行っている。そのお陰で妖忌は、怒りとはまったく別の感情で顔を真っ赤にしながら、ガタガタと剣を落としそうなほど派手に痙攣していた。

 もちろん妖忌は、『堅苦しい武士』の印象をまったく違うことなく、女性からの身体的接触に対しまったく免疫がない。ましてや相手が敬愛する主人で、女としての発育具合も見事の一言となれば、

 

「お」

 

 破裂寸前一秒前の顔、

 

「――おおおおおおおおおおおおおおお!?」

 

 そして爆発した妖忌は幽々子を振り切って庭を突っ走り、あろうことか自分から、魚が水へ帰るように迷いなく池に飛び込んだ。

 

「……」

 

 派手な水飛沫が収まると、妖忌が背中でぷかぷかと浮かびながら小さなあぶくをあげている。月見は無言で幽々子を見る。幽々子はぴくりともしない妖忌をしばらく見つめ、それから自分の胸に両手を当てて、

 

「――いいですわねこれ。今度から妖忌を黙らせるときはこうしてみましょう」

「……そうか」

 

 まあ、わざとやってるんだろうなとは薄々感づいていたけれど。

 とりあえず月見は、謹厳実直で穢れない青年の、それ故に災難な未来を憂い、心の中で合掌した。

 頑張れ、青年。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第87話 「その夢と因果」

 

 

 

 

 

 ああ、私、ここで死ぬんだ。

 そう覚悟したのは、後にも先にもあの一度だけだ。

 

 森の中を走っていた。幾本もの木々の間を駆け抜け、茂る枝葉が生み出す影を乗り越え、足元で咲く花を踏み潰し、息が枯れるのも構わずがむしゃらに走っていた。

 逃げていたのだ。

 古明地さとりは、森の中を逃げ惑っていた。

 背後から情け容赦なく迫ってくる、怖気立つほど冷たい、刃物のような気配から。

 

 この頃はまだ、さとりは太陽の光の下で息をしていた。それと同時に、他種族との関わりが今まで以上に上手く行かなくなり、次第に住む場所を失い始めた頃でもあった。

 予兆はあった。予想もしていた。だから遂に、来たるべき時が来てしまったのだと、それだけのこと。

 古明地さとりは――もう間もなく、人間たちの手によって退治されるのだ。

 

「ッ、ハッ、ハ……ッ!」

 

 体が重い。息が冷たい。氷の塊を背負い、鉄の塊を引きずりながら走っている気さえする。ロクに呼吸をすることもできないし、意識だって半分飛びかけている。確かに随分と長い距離を走りはしたが、しかしただ走っただけでこうはなるまい。

 掠れた視界で、己の体を見た。

 赤黒い服を着ている。

 早いものだ。ついさっき見たときは、多少なりとも青い布地が残っていたはずなのに。

 これだけ血を流してしまえば、いくら妖怪とはいえ、体の自由も利かなくもなろうか。

 思わず笑った瞬間、声が聞こえた。

 

「まったく……さっさと諦めれば楽に終わらせてあげるのに。追っかけるこっちの身にもなってよ」

 

 これだけ血を失ってもなお、その声を聞いた瞬間に全身の体温が落ち、肌が粟立つ。

 ため息の音を聞いた気がした。

 

「──封魔針」

 

 もはや、どこをやられたのかもわからなかった。さとりの意思に反していきなり膝が折れたから、恐らく脚なのだろうとは思う。さとりの体はあっという間に前へ傾き、そのまま為す術もなく崩れ落ちた。

 

「……ッ!」

 

 枯れた喉では悲鳴も出てこない。

 たった一本の糸でつながれていたさとりの肉体と精神が、完全に途絶した。頭はすぐさま起き上がるべく命令を飛ばすのに、肝心の体がまったく反応しない。羽を切られた虫のように、ただその場で身をよじることしかできない。

 

「やれやれ。やっと捕まえたわよ」

 

 悶えるさとりを侮蔑するように、覇気のない気怠げな声だった。積もった落ち葉をゆっくりと踏み鳴らし、足元の方向から近づいてくる気配がある。さとりは必死の思いで倒れた上体を起こし、やっとの思いで振り返る。

 腋のない巫女服。

 さとりの命を狙う死神は、呆気にとられてしまうほど色鮮やかで、美しかった。

 

「無意味な追いかけっこも終わりよ。神妙にすることね」

 

 温度のない目をしている。慈悲があるわけではなく、かといって冷酷に閉ざされているわけでもない。そのどちらでもない虚無の瞳を覆っているのは、混じりけのない憂鬱ただひとつのみ。

 さとりの能力が、否応なく巫女の思考を読み取る。

 ――さっさと帰りたい。

 ――さっさと帰ってお夕飯を食べたい。

 ――なにを食べようかな。

 巫女は、さとりを見ているのにさとりを見ていなかった。視線はまっすぐさとりへ向いているのに、映っているのはさとりを退治した先の未来だった。まださとりはこうして生きているのに、巫女の頭の中では、すでにさとりは生きてなどいなかった。

 歯牙にもかけないとは、こういうことを言うのだ。

 打ちのめされる。怒りも悲しみも悔しさも通り過ぎ、もうなんの感情も浮かんでこない。強いて言うなら諦観だ。逃げ続けるだけの気力もなく、立ち向かうだけの勇気もなく、命乞いをするだけの執着もない。

 いつしか、言葉がこぼれていた。

 

「どうして……」

「仕事だからよ」

 

 血も涙もない即答だった。

 

「私に依頼してきた人がいたの、あんたを退治してくれってね。……だったら私は、巫女としてそれを全うするだけ」

 

 一息、

 

「──私があんたを退治する理由なんて、それで充分」

 

 さとりだからこそわかる、それは嘘偽りのない巫女の本心だった。そう行動することだけを義務づけられた式神のような、無機質すぎるまでの使命感だった。

 妖怪にとってどこまでも無慈悲で、人間にとってどこまでも正しい。ほんの数度足を動かすだけで事足りる距離なのに、さとりには目の前の少女が、絶望的なほど遠くかけ離れた存在のように見えた。

 

「さて、最期に言い遺すことでもある?」

「……」

 

 さとりは心の中で小さく笑った。いきなり襲いかかってきたやつが随分な言い草だ。遺言なんて、前々から死期を予想していた者が、前々から準備していたからこそ遺せるものだろうに。

 案の定、これといって浮かんでくる言葉もない。まあ、それほど親しい知人友人もいないし、一番大切な妹は無事に逃がすことができたのだし、別に遺言なんて遺さなくても――

 

「──お姉ちゃん!!」

 

 血を失い冷たくなった体が、それ以上のすさまじい悪寒で襲われた。

 巫女から逃げる間感じていた焦燥や恐怖とは、比べるのも馬鹿らしくなるほどの絶望だった。巻き込みたくなくて、守ってやりたくて、自分が囮になることで遠くへ逃がしたはずの、

 

「こいし!?」

「お姉ちゃん……っ!」

 

 横の茂みが動いた。全身木の葉だらけで、泥だらけで、枝で切ったのか膝や腕から血まで流して、古明地こいしが猫のように飛び出してきた。

 飛び出し、巫女の目の前に両腕を広げて立ちはだかった。

 驚愕なんて言葉では到底足りなかった。

 

「な、なんで、どうして来たの!? 早く逃げてっ!!」

 

 全身の血が、残らずぜんぶ抜け落ちた心地になる。

 さとりは、元々非力な覚妖怪の中でも輪をかけて運動が得意ではない。だからこうして人間相手に簡単に追いつかれ、追い詰められている。一方で妹のこいしは、ズバ抜けて秀でてこそいないものの、姉と比べればずっとずっと運動神経がよかった。

 姉の言いつけを守り真逆の方向へ逃げた振りをして、あとから追いかけることだってできるだろう。

 だが、可能不可能を論じるのと、実際にやるかどうかは話が別だ。さとりは咄嗟に立ち上がろうとする。しかしその瞬間、駆け抜けた激痛に呻いて膝から崩れ落ちる。今更のように、右脚が針と呼ぶには太すぎる凶器で貫かれているのに気づく。

 こいしが叫んだ。

 

「お願いっ、お、お姉ちゃんを、退治しないでっ……! お願いだから……っ!」

 

 よほどなりふり構わず走ってきたのか、ロクに喋れもしないほど喉が枯れている。その必死の言葉に胸を打たれた風でもなく、巫女は両目をすっと無感動に眇めた。

 

「……あんた、後ろのやつの妹ね。なに、わざわざ追いかけてきたの? あんたを守りたいっていうお姉さんの意思に免じて、見逃そうと思ってたんだけど」

 

 余計な仕事が増えた――そんなどこまでも鬱陶しげなため息をつき、こいしへ札を突きつけて、

 

「邪魔するんなら、あんたもまとめて退治するわよ?」

「ッ、ダメ……!」

 

 最悪だった。さとりは浅はかな己を責めた。こいしを無事に逃がしたかったのなら、もっと周到に手を尽くすべきだったのだ。最後かもしれない姉の願いなら素直に聞いてくれるはずだと、こいしという妹を信じすぎていた。

 動かなくなった脚を引きずって、せめて一歩、一歩でもと、こいしの背中に縋りつこうとする。

 

「こいしっ! 馬鹿なことしてないで、逃げてっ!!」

 

 こいしだって、姉と同じで戦いは得意ではない。たった一人の人間とはいえ相手は妖怪退治の専門家なのだ、こいしがひとりで勝てるくらいならとっくの昔に自分が追い払っている。

 だから、このままではこいしも――退治されてしまう。

 

「こいし! こいしっ!!」

 

 さとりは懸命に妹の名を呼んだ。そのたびに全身が苦痛で悲鳴をあげた。……そしてこいしは、それでも巫女の前から動こうとしなかった。

 

「……そう」

 

 巫女が、諦めるように首を振った。

 

「それが、あなたの望みってことなのね。……だったら、願いを叶えてあげるわ」

 

 例えば大妖怪が全妖力を開放したときのような、派手な烈風と重圧は感じなかった。かといって、取るに足らない貧弱な霊力だったわけではない。

 研ぎ澄まされすぎて、大気が荒立たない。重圧も生まれない。しかしその圧倒的な力の存在感に、全身の肌が粟立つのは変わらない。

 こいしの片膝が突然折れた。人間離れした巫女の霊力に呑まれたのだ。

 しかし、それでも、彼女は巫女の前から動こうとしない。……いや、もしかしたらすでに、動くこともできなくなってしまっていたのかもしれない。

 

「こい、し……!」

 

 役に立たない脚のことなどもう知らない。さとりは腕の力だけで懸命に体を引きずって、遂にこいしを後ろから抱き締めた。もちろん、自分にできることなんて、たったのそれっぽっちだったけれど。でも、だからって、なにもしないわけにはいかなかったから。

 

「……一応、さよなら、とだけは言っておくわ」

 

 あいもかわらず心を揺らした素振りもなく、巫女は吐息した。

 そして紡がれた言葉は、巫女が誇る最強の術式の宣言だった。

 

「神霊──」

 

 こいしはなにも言わなかった。なにも言わず、たださとりが回した両腕にそっと己の手を重ねた。

 さとりもまた、なにも言わず──たった一人の家族を抱き締める両腕に、自分にできるありったけの想いを込めた。

 

 声。

 

 

「──『夢想封印』!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた。

 そこは闇で、自室のベッドの上だった。

 

「ッ、ハッ……! ハッ……!」

 

 息が干上がっている。全身が脂汗でまみれている。まるで、本当に死ぬ直前だったように胸が苦しい。軋む体でゆっくりと大きく息を吸い、古明地さとりはようやく、自分の身になにが起こったのかを理解した。

 また、あの夢だ。

 昔から、もう数え切れないほどうなされている。

 

「っ……」

 

 寒い。今はまだ、秋になったばかりのはずなのに。

 ロクに力の入らない手で布団を手繰り寄せ、顔を埋める。しかしその瞬間、闇の中で再びあの光景が浮かびあがりそうになって、慌てて布団を剥ぎ取った。

 ──やはりしばらくの間は、寝つけそうにない。

 唇を噛み、さとりはベッドを抜け出した。ホットミルクでも飲んで、タオルで汗を拭こう。自室を出て、暗がりの廊下をおぼつかない足取りで歩いてゆく。

 余計なことは考えない。下手に頭を動かせば動かすほど、呪いのようにあの悪夢を思い出しては辛くなるのだ。人のトラウマを読んで戦う妖怪が、自分のトラウマで泣くなんて笑えもしない。

 悪夢にうなされた夜はいつもこうして、心を無にしながらキッチンへ向かうようにしている。

 だから、さとりは気づかない。

 地霊殿の廊下の、さとりが進む方向とは逆側の闇の奥──そこから自分の背をじっと見つめる、悲しげな瞳があることに。

 今も昔も、気づいていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 案の定、そのあとはなかなか眠れなかった。いっそこのまま起きていようかとも思ったが、しばらくして気持ちが落ち着いてきたらほんのりと眠くなってきたので、さとりはもう一度ベッドに戻って今度こそ寝た。

 悪夢は、見なかった。

 よって寝坊した。

 昼夜の区別がない地底で寝坊というのも奇妙な表現だが、ともかく普段起きる時間になってもさとりは眠ったままだった。誰も起こしに来てはくれなかった。いや、誰かしら様子を見には来たはずだが、よく眠っているさとりを見て、寝かせてあげようとでも考えたに違いない。ペットたちは皆かしこく、さとりがおらずとも自立的に雑務をこなしてくれるし、妹も妹であちこちを好き勝手に放浪している。さとり一人が寝坊したところで、地霊殿の日常にはこれといった支障もないのだ。

 だから誰もさとりを起こそうとすることなく、さとりはすやすやと眠り続けた。

 夢から戻ってくるきっかけとなったのは、部屋のドアがノックされた音だった。

 

『さとり様ー、さとり様ー。起きてますかー?』

「ぅ……んん……」

 

 さとりはぼんやりと目を開けた。見慣れた自室の天井。寝起きで頭が働かず、十秒ほどぼけーっとしていると、

 

『さとり様ぁー』

「……あ。ご、ごめんなさい、お燐」

 

 ようやく覚醒した。今の自分の状況が、いっぺんに頭に入ってくる。お燐がこうして起こしに来てくれているということは、さとりがよほど手酷く寝坊したか、ペットたちだけでは対応できない緊急事態が発生したかだ。

 さとりはベッドから抜け出しつつ、

 

「ごめんなさい、寝坊してしまったかしら」

『それは大丈夫ですよ、あたいも起こさなかったんですし。……開けても?』

「ええ、どうぞ」

 

 そっとドアが開き、その隙間からお燐が顔を覗かせる。さとりは大急ぎで寝間着から普段着に着替えている。

 

「あ、そんなに慌てなくても大丈夫ですよー」

「? なにかあったんじゃないの?」

「あったにはあったんですけど、緊急事態というわけではないので」

 

 確かに、お燐に慌てている素振りはない。けれど、どうしたものかと弱っているようには見える。

 

「ただ、ちょっと困った事態といいますか……」

「……一体なにがあったの?」

 

 お燐はへにゃりと耳を垂らして、すっかり困り果てた様子で苦笑した。

 

「実はこいし様が、おにーさん――月見を連れて帰ってきちゃって」

「……は!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「いやあ、びっくりしたよ。風呂場の掃除をしようと思ったら、かごに女の子の服が入ってたんだから」

「えへへー」

 

 月見曰く。

 朝の掃除をしに風呂の脱衣所へ向かうと、なぜかかごに女の子の服が入っている。帽子と服の色合いからすぐにこいしだと気づき、名前を呼んでみると、風呂場の方から元気な返事が返ってくる。なにゆえ彼女が自分の屋敷で、しかもちゃっかり風呂に入っているのかはさておいて、地底の妖怪が地上まで出てきているのはマズいのではないかと思い、温泉上がりのこいしを連れてここまでやってきた――というのが、事の顛末であるらしい。

 当然、

 

「も、申し訳ありません! ウチの妹がとんだご迷惑を……!」

 

 さとりは、先ほどからずっと月見に頭を下げっぱなしだった。人の屋敷に無断侵入したのみならず、お風呂まで勝手に使ったとなれば、怒鳴られたって文句は言えないしさとりの教育を疑われたってぐうの音も出ない。

 しかし当の月見はさして気分を害した風でもなく、ソファに浅く腰掛けて、いつも通りのゆったりとした物腰だった。心を読んでみても、どうやら本当に怒っていないようだった。さとりとしてはありがたいやら申し訳ないやらなのだが、

 

「……というか、こいし! 月見さんから離れなさいっ」

「えー」

 

 月見の背中とソファの間に入り込んだこいしが、後ろから彼の首に両腕を回している。だから月見はソファに背中を預けられないのだ。

 こいしは唇を尖らせ、

 

「いいじゃない、月見だって嫌がってないもん」

「だからって……!」

「いいんだよ。娘というか孫というか、ともかくそういうのが増えたみたいで満更でもないもんさ」

 

 さとりの第三の目が月見の心を読む。――なんでも月見には、彼を父親のように慕い、また彼自身にとっても娘同然な吸血鬼の子がいるそうだ。こいしと同じくらいの、笑顔が愛くるしい女の子だった。

 だからだろうか、下心なんてものはちっともなく、それこそ本当に新しい娘でも持ったみたいに、こいしを優しく想ってくれているのが伝わってくる。なんだか月見さんらしいなあと、さとりはすっかり肩の力を抜かれてしまった。

 

「……わかりました。ありがとうございます」

 

 だが、自分勝手が過ぎる妹に半目を向けるのは忘れない。

 

「……それで? こいし、どうして勝手に地上まで出て行ったりしたの?」

 

 地上と地底は今のところ不干渉の約定が結ばれていて、原則として双方への往来は厳禁だ。破ったところで別に罰則があるわけではないけれど、世の中には面子とか世間体などというものがある。月見の真似をしたのかもしれないが、彼の場合は八雲紫や藤千代の旧友だからこそであり、要するに例外中の例外なのだ。

 こいしは左右に揺れながら、

 

「だって月見、こっちまでぜんぜん遊びに来てくれないんだもん。だから私の方から遊びに行ったの」

「それは仕方ないでしょ? 月見さんには地上の生活があるんだから、いつでもこっちに来られるわけじゃないのよ」

 

 はじめて出会った梅雨のあの日以来、月見はだいたい月に一度程度の割合で、この地霊殿まで遥々顔を見せに来てくれている。さとりはそれだけでも恐縮な思いだったが、月見に心底懐いてしまった妹にとってはちっとも満足できなかったのだ。第三の目を閉じてからというものすっかり気ままな性格になってしまって、思い立ったら即行動、やりたいことをやりたいままにやるのがポリシーになってしまったのは困り者だ。

 

「だいじょぶだいじょぶ、バレなきゃ問題ないでしょ?」

「あのねえ……」

 

 確かにこいしの能力があれば、誰にも気づかれず地上に行って帰ってくることもできるだろうけれど。

 月見がこいしの手の甲を諭すように叩いた。

 

「こいし、あまり家族を困らせるものではないよ」

「……むー」

「これから、もっとちゃんと顔を見せに来るから。それで手を打ってくれ」

「本当っ?」

 

 こいしがころっと笑顔になって、

 

「じゃあ我慢するっ。約束だよ!」

「ああ」

「じゃあねー、指切りしよ!」

「つ、月見さん……」

 

 なにもそこまでしていただかなくても――と申し訳なくなったさとりは口を挟もうとしたが、いいんだよ、と月見の心の声に制された。

 ――大丈夫だよ。面倒だったり迷惑だったりするんなら、誰もこんなことしないだろう?

 本日二度目、さとりはまた肩の力を抜かれた。これが月見さんなんだな、という実感だった。人と友誼を結ぶ努力を惜しまない――いや、本人からすれば努力という意識すらないはずだ。息をするように人と関われる。お人好しすぎるほど面倒見がいい。過去の一件を引きずり地霊殿に閉じこもりがちな自分とは正反対で、さとりの目には少し、月見の姿が眩しく映った。

 ふと、この世にもう少しでも月見のような妖怪が多ければ、なんてことを考えた。もしも本当に世界がそんな風だったなら、さとりが地霊殿に閉じこもることも、そもそも地底に移り住むこともなかったかもしれない。太陽の光が当たる場所で、それなりに上手く折り合いをつけてもらいながら、のんびり平和に暮らしていたかもしれない。

 そう夢想することに、意味などないけれど。

 

「――指切ったっ」

 

 仲良く指切りしている月見とこいしを見ていると、思わずにはおれない。

 ひょっとすると月見はそう遠くないうちに、この地霊殿のみならず、地底そのものにまで新しい光を差し込ませてしまうのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見にとって、古明地こいしとフランはとてもよく似ている。

 どちらも明るく元気いっぱいな女の子だし、背格好がちょうど同じくらいだし、なにより月見によく心を開いてくれている。どちらも洋館で暮らしているし、心配性なお姉さんを持っているし、同じ屋根の下で暮らす家族からよく慕われてもいる。だからだろうか、月に一度の地霊殿訪問を重ねるに連れて、段々と娘が増えたような心地になってきている自分がいる。

 

「ほらほら月見ー、早く早くー」

「わかったわかった。そんなに引っ張らないで」

 

 月見の手をグイグイ引っ張り先へと急かす姿なんて、まさしくフランではないか。ご機嫌なリズムで揺れるこいしの背に、月見は七色の宝石を吊り下げる吸血鬼の翼を幻視した。

 地霊殿の長い廊下を歩いている。先ほどまでさとりとのんびり世間話をしていた月見だが、今は飽きたこいしに彼女の部屋まで連行される途中だった。口よりも手足を動かす方が好きな子なので、月見が話ばかりしているとすぐこうなるのだ。

 はてさて今日はどんな遊びに付き合わされるやらと思いながら、月見はなんとなしに、窓の向こうで広がる地霊殿の中庭へ目を向けた。綺麗に手入れされたガーデニングと、灼熱地獄跡へと続くステンドグラスの天窓が見える。この景色を前にすると思い出す少女の名があるのだが、今はそれらしい姿は見当たらない。折悪しく――いや、彼女の場合に限っては、折よくというべきなのか。

 ちょうど、こいしも同じことを考えたらしかった。

 

「おくういないね。でも、いない方がいいのかなあ」

 

 月見を見上げ、

 

「ごめんね。おくう、月見にいっつも意地悪なことばっか言ってるよね」

 

 灼熱地獄跡の温度管理を役目としている霊烏路空は、月見が――というか地上の妖怪全般を毛嫌いしているようで、知り合ってからこの方、その絶対零度の瞳が和らいだためしは一度もない。もしかするとかつての文を超えるかもしれない、月見の人生史上最大の強敵だった。

 ただ、

 

「本当はすごく優しくていい子なんだよ。でも、ちょっと意地っ張りで」

 

 何度か見かけたことがある。さとりやこいしを前にしたときのおくうは、見ているこちらにまで伝染(うつ)ってしまうくらいのとても素敵な顔で笑っている。それがおくうの本来の姿なのだろうと月見は思う。だからこそ地上の妖怪に向けるおくうの感情が、嫌悪を超えて憎悪とすらいえるものであることを認めざるをえない。

 霊烏路空は主人想いな優しい妖怪であり、故に地上の妖怪を毛嫌いするのだ。おくうにとって地上の妖怪とは、かつて主人たちを拒絶しこの地の底まで追いやった上、その事実を忘れ、太陽の下でのうのうと平和な日々を過ごしている『敵』に他ならないのだから。

 

「あ」

 

 中庭へ目を戻したこいしが、ふと小さな声をあげた。月見がつられて同じ方を見ると、いつの間にか開け放たれていたステンドグラスの底から、黒い翼を羽ばたかせておくうが飛び出してきたところだった。

 今回は、頭をぶつけたりはしなかったようだ。

 あー、とこいしがため息をついたような声で、

 

「おくう、機嫌悪そうだなー」

「そうなのか?」

「うん。ああいう風に勢いよく飛び出すのって、大抵イライラしてるときなの」

 

 おくうは月見たちに気づいていない。遠目だが、両脚で荒っぽく着地してみせたおくうは、なるほど唇をへの字に曲げてなんとも不機嫌そうに見える。軽い気持ちで声を掛けようものなら、返ってくるのは射るかの如き視線と抉るかの如き罵倒の一択だろう。

 

「「……」」

 

 言葉など一言も必要ではなく、月見とこいしは一瞬のアイコンタクトだけで通じ合った。頭の中では同じ言葉が浮かんでいるはずだ――『触らぬ神に祟りなし』。おくうがこちらに気づいていないのなら、このまま立ち去ってしまった方がいい。抜き足差し足で慎重に、かつ迅速に廊下を渡り切ろうとする。

 運がなかったのだろう。

 

「――あっ、お前! また来てたの!?」

 

 あー。そんな顔で月見とこいしは足を止めた。

 覚悟を決めて外を見る。案の定、眉を逆立ててズンズン接近してきているおくうがいる。勝手口を蹴飛ばす勢いで開け放つ。一歩を進めるごとに表情がどんどん険しくなっていく。月見はとりあえず、

 

「……やあ、空」

「気安く話しかけないで!」

 

 話しかけてきたのはそっちだろうに。

 おくうはそのまま月見の胸ぐらに掴みかかるかと思われたが、こいしがすかさず割り込んだ。

 

「こらおくうっ、いつまで月見のこと『お前』なんて呼んでるのっ」

「っ……こいし様」

 

 足を止めたおくうは一瞬戸惑ったが、すぐに鋭い眼光を甦らせて月見を睨む。

 

「こいつは、地上の妖怪じゃないですか」

「『こいつ』じゃないってば。月見だよ」

「名前なんてどうだっていいです!」

 

 まったく取りつく島もない。口を開くべきでないのは一目瞭然なので、月見はなにも言わずに黙っている。さすがのこいしも頭を痛めた様子でため息、

 

「あのねー……月見は大丈夫だって何回も言ってるでしょ? 私にも、お姉ちゃんにもひどいことしないよ? いっつも遊んでくれるんだよ?」

「……」

 

 が、もしおくうがこの程度で考えを改めるのであれば、月見は彼女ととっくの昔に和解している。おくうはこいしの言葉には答えず、代わりにまた月見を睨んで、

 

「そうやってこいし様たちに尻尾振って、なにを企んでるの」

「……おくう、いい加減にしないと怒るよ」

 

 こいしの声音に明確な怒りが宿った。月見を庇ってくれるのは嬉しいのだが、しかし待ってほしい、それでは火に油を注ぐばかりで、

 

「こいし、落ち着いて。喧嘩はダメだよ」

「月見……」

 

 だから買い言葉はやめて、ここは上手くやり過ごそう――そう言外に言ったつもりだったのだが、上手く伝わらなかったらしく、

 

「ねえ、おくう。これでもまだ、月見が悪い妖怪だと思う?」

「……」

「おくうだけだよ、そんなこと言ってるの」

 

 閉ざされたおくうの唇が、怒りを噛み締めるように震えた。

 

「……私は、絶対に信じません」

 

 泣きそうな声で、腕を振った。

 

「だいたい、さとり様とこいし様をここまで追いやった地上の連中が、今更なんの用だっていうんですか!? 知らないからそんなことができるんです! さとり様は、さとり様は、昨晩だって(・・・・・)──」

「おくうっ!!」

 

 その怒号の主がこいしだったのだと、月見はすぐには理解することができなかった。こいしの小さな体の、一体どこからそんな大声が出てきたのか――そう思わしめるほどに、それはあまりに強烈で容赦のない叫びだった。

 おくうが悲鳴のように息を呑み、それっきりすべての動きを止めた。

 こいしはゆっくりと長く深呼吸をし、きつく絞り出すような声で言った。

 

「……私、言ったよ。いい加減にしないと怒るって」

 

 おくうの表情が、崩れた。

 最悪だった。おくうもおくうだが、こいしもこいしだった。触らぬ神に祟りなしだとわかっていたはずなのに、結局こいしは、触るどころか相手を思いっきりぶん殴ってしまった。それはおくうにしてみれば耐えきれないほどに苛立たしく、悲しく、そして残酷な拒絶に他ならなかった。

 泣いていたはずだ。

 

「っ……!」

 

 こいしに背を向け、翼のはためく音と力なく舞い落ちる黒の羽根だけを残して、おくうの姿は灼熱地獄の底へと消えた。

 羽根がすべて床に落ちると、こいしが月見のお腹に飛び込んできた。突然の行動に驚いたのはほんの一瞬で、抱き留めたこいしの肩が震えていると気づいたから、月見は膝を折って彼女の背中を優しくさすった。

 頭が冷えて、だんだんわかってきたのだろう。自分が一体、家族になにをしてしまったのか。

 

「……大丈夫だよ」

 

 必死に声はあげまいとするこいしをあやしながら、月見は言った。

 

「空があんな風に私に言ってくるのは、お前のことが大好きだからさ。地上の妖怪が嫌いっていうのもあるんだろうけど、それ以上に、お前が心配で心配で仕方がないんだ」

 

 すん、とこいしが鼻をすする。

 

「私はまだ無理そうだけど、お前ならすぐ仲直りできるよ。……自分がなにをしたらいいか、わかるな?」

 

 こくん、と頷く。

 

「私がいるとまたややこしくなるだろうから、お前ひとりでやるんだ。できるな?」

 

 こくん。

 

「いい子だ」

 

 背中をさする恰好のまま、月見はこいしを抱いて立ち上がった。こいしがひゃっと小さな声をあげ、その拍子に月見とまっすぐ目が合った。

 

「ぅ……」

 

 泣き顔を見られたのが恥ずかしかったのか、こいしはすぐさま月見の肩に顔を埋めた。月見は微笑み、震えの止まったこいしの背中を優しく叩いた。

 

「でも、謝りに行くのはお互い落ち着いてからね。まずは部屋に行って休もう」

 

 こくん。

 

「……月見さん? なにかあったんですか?」

 

 月見の肩に顔を埋めたままなこいしをあやし続けていたら、ふと背後から名を呼ばれた。今の騒ぎを聞きつけたのだろう、お盆の上にジュースのコップを乗せたさとりが、早歩きで突き当たりを曲がってきたところだった。

 或いは、こいしが怒鳴ったのは正解だったのかもしれない。それでおくうが逃げ出していなければ、さとりまで巻き込んで、事態は目も当てられないほどややこしくなっていたはずだから。

 月見が答えるより先に、彼女は月見の心を読んで――もしくはあたりに散っている黒の羽根を見て――途端に腑に落ちた顔をした。

 

「……おくうですか。すみません、あの子はきっとまた失礼なことを言いましたよね。あとでよく言って聞かせますので――」

「よしてくれ。ますますややこしいことになっちゃうよ」

 

 さとりが不思議そうに眉を寄せた。月見は中庭を――おくうが消えていったステンドグラスを眺め、

 

「こればっかりは、今すぐ言ってどうこうできる問題じゃないよ。私を庇ってくれるのは嬉しいけど、これじゃあ空が可哀想だ。あの子は、本気でお前たちを心配してるんだから。なのに怒られるなんて、空にしたらきっと堪ったもんじゃない」

 

 むしろ、褒められないことをしているのは自分なのかもしれない。さとりやこいしをはじめとして、勇儀やパルスィ、聖輦船の面々など、月見と好意的に接してくれる者たちは多いけれど、それでも地底は過去の後ろめたい因縁から生み出された世界なのだ。紫や藤千代から許可をもらっているとはいえ、会いたがってくれる人がいるとはいえ、そうそう軽い気持ちで足を踏み入れていい世界ではないのかもしれない。

 だから、押しつけてはいけない。

 

「ゆっくり時間を掛けるべきだと私は思うよ。私の友人に言わせれば、あらゆるものは常に変化していくそうだ。焦らずじっくり構えていれば、不思議とそのうちに、わだかまりが解けるいいタイミングが巡ってくるものさ」

 

 文のことを思い出す。仲直りをしようと、特別月見が意識していたわけではない。けれど妙な巡り合わせで突然酔った彼女が降ってきて、一晩屋敷で休ませてやるうちに、あんなに嫌われていたのがすっかり過去の出来事となっていた。

 時間がすべてを解決してくれる、というわけではないけれど。でも、焦ることで見失うもの、あえて時間を掛けることで見えてくるものはあるはずだと月見は考える。

 

「逆効果だから、空を叱らないこと。私なら大丈夫だよ。急がないで、もう少しどっしり構えてみよう」

 

 そして聞こえたのは、一息をつくような呟きだった。

 

「……やっぱり、月見さんは月見さんですね」

 

 さとりが、微笑んでいた。

 

「ありがとうございます。正直私、とても不安だったんです。おくうが、月見さんから嫌われてしまうんじゃないかって。このまま仲良くなんてできないんじゃないかって」

「おや、随分と短気な妖怪だと思われてたんだね」

 

 ごめんなさい、と苦笑し、

 

「でも今の月見さんの言葉を聞いて、考えが変わりました。いつか絶対、おくうもわかってくれるはずです。月見さんなら、大丈夫なんだって」

「……そうなればいいね」

「なりますよ、きっと。案外、私たちの誰よりも仲良くなっちゃったりするかもしれませんよ?」

「想像できないなあ……いて」

 

 突拍子もなく、こいしに首の皮をつねられた。あいかわらず月見の肩に顔を押しつけたままの彼女だけれど、なんとなく、「また月見はお姉ちゃんとお話ばっかして!」と怒られたような気がした。

 バッチリ見ていたさとりが、

 

「こら、こいし……」

「あんまり立ち話するなってさ。じゃあ、行こうか」

 

 よっとこいしを抱き直し、彼女の部屋まで向かう道を再開する。その後ろをさとりが、コップのジュースをこぼさぬよう慎重な足取りでついてくる。

 月見はもう一度だけ中庭を見た。灼熱地獄跡へと続くステンドグラスは、すべてが固く閉ざされている。

 今はまだ、月見の存在を拒絶するように。

 

 

 

 結論をいえば、月見とさとりの予感は当たっていた。幻想郷が真っ白く染まった冬の季節に、『タイミング』は巡ってくることとなる。

 ただしそれは、単なるタイミングと呼ぶにはあまりに大きく険しい、異変という名の試練だったのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第88話 「その名と因果」

 

 

 

 

 

 地霊殿からの帰り道に、ふと空を見上げたら聖輦船を見かけた。

 太陽がない地底のため判断し難いが、月見の体内時計では夕暮れの頃合いだった。何度見ても不思議な空飛ぶ船が、旧都の外れあたりを、中心から遠ざかる方角に向けてゆったりと泳いでいる。藤千代や勇儀の顔を見に行くか悩んでいた月見は一秒で決断した。鬼のところはまた今度でいいだろうと即決し、進む方角を変え歩くのをやめ、離れゆく聖輦船の尻尾をまっすぐに追いかける。

 いつでも同じ場所で月見を待ってくれている地霊殿とは違い、聖輦船は空のあちこちを泳いでいるので出会えるときと出会えないときがある。前回地底に来たときは、どこを見渡しても見つけられなかった。なので今回こそは、ご無沙汰だったみんなの顔を見に行こうと思った。

 船幽霊の水蜜に、入道使いの一輪、入道の雲山、そしてぬえ。みんな気のいい連中で、いつも暖かく月見を迎え入れてくれる。

 聖輦船に追いつくと、甲板ではぬえが暇そうな頬杖でだらけていた。退屈で退屈で今にもぶっ倒れそうな有様だったけれど、それも月見に気づいた瞬間空の彼方へ消し飛んで、

 

「おーいっ!」

 

 両腕をぶんぶん振って歓迎してくれたぬえに、月見も手を振り返す。甲板に降り立つと、彼女は一目散で駆け寄ってきて、

 

「久し振りじゃない! 元気にしてたーっ!?」

 

 と、月見の肩を一発元気に叩いた。少し痛かったが、これが彼女なりのスキンシップらしいので甘んじて受ける。吸血鬼砲弾と化して突撃してくるフランに比べれば、肩がヒリヒリする程度はなにするものぞ。

 頷く。

 

「ああ、特に変わりなく。お前は?」

「暇で暇で死にそうだったわ!」

 

 はじめてやってきたときに、『鵺』の姿で襲われたのが嘘のようだ。もしかするとぬえは、この聖輦船で一番月見に心を開いてくれているかもしれない少女だった。彼女もまたフランやこいしのように、もう少し打ち解ければ腹やら背中やらに飛びついてきそうな人懐こさがある。

 なぜそこまで仲良くなれたか。

 

「そうそう、聞いて聞いて! あんたが来てない間に、マミゾウから手紙の返事が来たの!」

「おお、よかったじゃないか」

「うん。ほんとにありがとね。あんたと出会ってなかったら、賢者様に手紙届けてもらうなんてできなかったもん」

 

 その理由がこれだ。ぬえは佐渡で名を馳せる化け狸・二ツ岩マミゾウの旧友なのだが、いかんせんここに封じられてしまってからはまったく連絡を取れていなかった。そこで頼みを受けた月見が奇跡的に忘れることもなく仲立ちし、紫に手紙を届けてもらうよう計らったのだ。

 夏の間に無事届けてもらえたらしい。そしてその結果に大きな恩を感じたぬえが、月見を友達認定してくれたというわけなのだった。

 

「やっぱり持つべきものは友達ねー。あんたと出会えてよかったわ!」

「光栄だよ」

「うむ、光栄に思うがよいー」

 

 機嫌がすこぶるよいとき、彼女の口はかわいらしい『ω』の形を描く。

 

「それで、マミゾウはなんて?」

「うん、息災でなによりって。いつか地底から出られたときはまた会おうねって書いたんだけど、そんときはマミゾウも幻想郷に移り住もうかって考えてるみたい」

「……」

 

 月見は沈黙、

 

「……あんたの言いたいことはわかるわ。えっと、ちょっとこれ見て」

 

 ぬえが綺麗に折り畳まれた二枚重ねの紙を取り出し、月見の目の前で広げた。マミゾウから返ってきた手紙のようだった。二枚目をめくり、

 

「この、最後のとこ」

 

 ぬえが指差したところを見てみると、

 

『ところでぬえ。ひとつつかぬことを訊きたいのじゃが、「月」の字で始まって「見」の字で終わる狐が幻想入りしたとかいう噂を聞いてはおらんか? 地底から出られないお主に地上の噂が届くかはわからんし、聞いておらんとしても今は確かめたりせんでよい。じゃが、お主が地底より出られた暁にはなんとしても確認し、必ず儂に知られるようにしておくれ。もし、万が一あの狐めが幻想郷にいるようなことがあれば、今度こそ討ち果たすために入念な戦支度をせんとならんからの』

「……」

 

 頭が痛くなってきた。

 

「……えっと、一応まだ知らせてはないから安心して?」

「……ありがとう」

「ってか、わざわざ名指しで警戒されるって、あんたどんだけマミゾウから嫌われてるのよ。戦支度とか書いてあるし」

 

 月見は無実だと切に訴えたい。だいたい、突っかかってくるのは毎回マミゾウの方なのだから、月見が自分の身を守るのは正当防衛であり不可抗力であるはずなのだ。なのに月見が反撃すれば「おのれ卑劣な!」と言い、逃げ回っていれば「おのれおちょくっとるのか!」と言い、被害を最小限に抑えつつやられてみれば「おのれ本気で戦え!」と言う。結果、月見がなにをやってもマミゾウの狐恨みパワーだけがこんこんと蓄積されていくのである。ひどい袋小路もあったもんだと思う。

 吐息。

 

「……とりあえずこれは、お前がいつか地上に出たときまで保留で」

「それはいいけど……大丈夫なの? いろいろと」

 

 新しい友達が旧友の敵、という事実にぬえは複雑な様子だった。勝ち気でわがままな性格かと思いきや、存外友達想いなのだ。そういうかわいらしいところがマミゾウにも受け入れられ、千年近く連絡が途絶えてもなお変わらぬ絆を結んでいるのだと思う。

 それより、マミゾウ。大丈夫かと言われればあまり大丈夫ではないのだが、

 

「まあ……なんとかなるだろ」

 

 今までがなんとかなってきたのだ、きっとこれからもなんとかなるであろう。……それに、ぬえがいつか地上に出られるそのときまで、月見が幻想郷で生活しているとも限らないのだし。

 

「伊達に今まで喧嘩を吹っかけられ続けてきたわけじゃないしね。上手くやってやるさ」

「……マミゾウはほんっとあいかわらずねー」

 

 ぬえが苦笑した。自分の思い出とまるで変わっていない友人に呆れつつも、それをどことなく懐かしんでいるようでもあった。

 月見から手紙を受け取り畳んでしまうと、船室の方を指差して、

 

「で、せっかく来たんだし寄ってくでしょ? ムラサたちも会いたがってたわよ」

「是非、お邪魔させてもらうよ」

 

 ご機嫌なぬえの足取りに続いて、聖輦船の船室へお邪魔する。何百年分もの歳月がまるで感じられない小綺麗なドアを、ぬえは張り手を打つようにして勢いよく開け放ち、

 

「ムラサーっ、いちりーん! 月見が遊びに来たよー!」

「「……はえ?」」

 

 月見は見る。部屋の真ん中にドデンと置かれた大きなテーブルで、二人の少女が溶けかけの蝋人形みたいになって突っ伏している。村紗水蜜と雲居一輪である。月見に気づくなり水蜜は笑顔で席を立ったが、一輪は対照的に顔面を蒼白にした。

 そんな一輪の水色の髪は、まるで起き抜けみたいに見事な寝癖でバサバサになっていた。妖怪の身でありながら仏の教えに帰依する修行僧としては――いや、そもそもの話女として、だいぶズボラでみっともない恰好だった。「月見さんいらっしゃいですー! お久し振りですねー!」と人懐こく歓迎してくれている水蜜の隅で、ふるふる震える一輪はじわじわと赤くなって、

 

「つ」

 

 立ち上がり、手元で湯呑みを載せていた茶托(ちゃたく)をひっ掴み、

 

「月見さんが来たときはすぐに教えてって言ったでしょばかああああああああっ!!」

「みぎゃあっ!?」

 

 フリスビーよろしくぶん投げ、カコーン! と見事ぬえのおでこを打ち抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――てかさー、見られて困るなら普段からしゃんとしてなさいって話よー。修行僧のくせしてズボラすぎるんじゃないの一輪ってー」

 

 恥ずかしすぎて完全に本気だったのだと思う。一輪の放った剛速球で見事ストライクされ、おでこをぷっくりと赤くしたぬえが、テーブルに伸びながらぶーぶーと頬を膨らませた。いつもなら地獄耳で聞きつけた一輪が雲山に拳骨を命令するところだが、あいにく彼女は身支度で忙しいので、奥からドタバタと物音が響いてくるのみである。

 ぬえの向かいの席で、水蜜がころころと笑った。

 

「一輪は昔から、私たちの前ではズボラなところ多いよねー。今はこんな生活だし余計に」

 

 月見が初めて聖輦船を訪ねたときも、一輪は呑み会明けの女子大生みたいな有様で出てきたし、事実仏僧なのに酒を呑んでいた。確か僧侶は不飲酒戒のもと飲酒を禁じられているが、実際のところは『般若湯』といった隠語を使用して、堕落しない範囲で飲むなら罪ではないと主張する者が後を絶たないのだったか。

 

「月見さんの前ではおめかししてますけど、実際は寝起き悪いし部屋は散らかってるしで、結構ダメな女なんでっ。騙されちゃあダメですよー」

 

 ぬえが、テーブルに伸びたまま両脚をバタバタさせた。

 

「一輪のズボラー、ダメ女ー」

「いえーいダメダメ女ー」

 

 二人とも仲が良くてなによりである。ところで、奥のドアから音もなく般若が入ってきたのには気づいているのだろうか。

 

「――ムラサ、ぬえ?」

 

 水蜜とぬえがこの世の終わりみたいな顔をした。見た目は聖女、心は鬼神な一輪は言う。

 

「ねえ。今、なんだかズボラとかダメダメ女とか聞こえた気がするんだけど。私の聞き間違いかしら?」

 

 ぬえは血の気の失せた顔で、

 

「きっ、きききっ気のせいじゃないかなー。今ちょうど、一輪のこと褒めてたところだったしっ」

 

 水蜜が冷や汗をダラダラ流して、

 

「そそそっそうそう! 一輪は寝起きがとってもいいしー、部屋は綺麗だしー、結構いい女だよねって!」

 

 一輪は、微笑んでいる。

 

「ふーん、そうなの」

「「そ、そうそう!」」

 

 とってもステキに、微笑んでいる。

 

「……ふふふ」

「「あ、あははははは……」」

「ふふふふふふふふふふ」

 

 ごちん。みぎゃあ。

 ごちん。ふぎゃあ。

 

「――まったく。確かに私は朝に弱いし、お掃除も決して上手くはないわよ。でも、だからって笑い話にするなんてひどいと思いません?」

「……うん、そうだね」

 

 月見の向かいの椅子に座って、たっぷりおめかしした一輪がぷりぷりと頬を膨らませた。月見の視界の端では、デカいたんこぶができた頭でテーブルに突っ伏し、ぴくりとも動かなくなっている哀れな二人の少女。調子に乗った水蜜とぬえを、一輪――もとい雲山――が拳骨で断罪するのは、聖輦船でしばしば見かける恒例行事である。

 いやー、と一輪が気恥ずかしげに片笑み、

 

「それにしても先ほどは失礼しました。どうも地底の生活は退屈で、そのせいかつい気が緩んでしまって……」

「ということは、私が来なかった間も特に変わりはなしかい」

「ですねえ」

 

 旧地獄と呼ばれる荒涼とした土地故か、はたまた住人の大半が鬼だからなのか、地底は酒を呑んで騒ぐ以外の娯楽がいかんせん乏しい。悪い場所でないとは思うのだが、正直なところ、みんなよく元気に暮らせるなあというのが月見の本音だった。仮に月見がここで生活を始めたら、一月ほどでやることがなくなり干涸びる気がする。

 

「地上のお話、またいろいろと聞かせてくれると嬉しいです」

「私の話でよければ」

 

 なので一輪たちの退屈を少しでも紛らわすため、地上で起こったあれこれをみやげ話として話して聞かせるのが、ここを訪れた月見の果たすべき最も大切な役目なのだった。

 ちょうど、水蜜とぬえが復活した。

 

「うぐぐ……ようやく痛みが抜けてきたよぅ……」

「……あれ、私どうしてたんだっけ……」

 

 ぬえなんて、強くぶたれすぎて記憶の欠落を起こしている。ちょっとやりすぎなんじゃないかい――月見がそんな目で雲山を見ると、厳つい顔の入道は複雑そうに眉を歪めて俯いた。お嬢の命令なのでいかんせん……と、口数少ない老爺は語っている気がした。お嬢の一輪は、素知らぬ顔でお茶をずずずとすすっていた。

 

「わたくし村紗水蜜は、聖輦船でのパワハラ撲滅を強く訴えますぅぅぅ……」

「じゃあ私は、聖輦船での悪口撲滅を訴えましょうか」

「ぶー。あれくらいいーじゃん、私たちと一輪の仲なんだからぁー」

「親しき仲にも礼儀ありよ」

「ぶーぶー」

 

 むくれる水蜜とうんうん唸っているぬえを無視して、

 

「ほら、月見さんがまた地上の話を聞かせてくれるって」

「ぶー……まあ、地上の話は面白いからいいけどさー」

 

 前回月見が聖輦船を訪ねたのは夏がまだ暑かった頃で、そのときは天子が起こした異変のことを話した。あれ以来はこれといって大きな事件もなく、平和で賑やかな毎日が続いている。ある鴉天狗の少女が月見の命を狙う刺客に仕立てあげられたり、紫と外の世界へ遊びに行ったり、守矢神社に新しい巫女さんが増えたり、話せそうな話題には事欠かない。

 揃って脳天のたんこぶを擦っている水蜜とぬえの不憫な姿を見て、月見の脳裏に甦る思い出があった。幻想郷の平和を陰ながら支えている、働き者で苦労性な従者たちの話であれば、きっと彼女たちも共感してくれるだろう。

 

「じゃあまずは、この前私が新しく見つけた鰻の屋台での話なんてどうだろう」

「「「鰻……」」」

 

 途端に涎を垂らしそうなった三人に苦笑し、月見は語り始める。鰻の味についても、しっかり話さないとなと思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……なんていうか、その、拳骨くらいで文句言ってる自分が贅沢に思えてきました」

 

 その言葉で、水蜜は月見が語った話を総括した。

 

「なんなんですか、十年以上休みなしで働き続けてたとか、薬の実験台にされてるとか……私だったら逃げ出しますよそれ」

 

 苦労している者同士共感してもらえるかと思ったのが、スケールが違いすぎたらしく水蜜は逆に引いていた。そうか普通はこういう反応なのか、と月見は思った。従者たちの苦労を間近で見つめ続けてきたせいで、どうやら月見の感覚も狂ってしまっているらしい。

 一輪も戸惑いを隠せない様子で、

 

「た、大変なんですね、地上の従者の方々は」

「いや、もう大変なんてもんじゃないでしょこれ……。あー、私たちのご主人様はいい人でよかったー」

「ん?」

 

 ――私たちのご主人様?

 初耳だった。

 

「……お前たちにも主人がいるのか?」

 

 月見の反応に、水蜜はあーと間延びした声をあげた。

 

「そういえば、月見さんにはまだぜんぜん話してませんでしたっけ。聖のこと」

「初耳だね」

 

 船内でそれらしい姿を見かけたこともない。聖輦船で生活を共にしているのは今ここにいる三人の少女と、一人の強面な入道だけであるはずだ。故に『聖』は船の外で別居している人物ということになるが、主人だけが他所で暮らすというのも妙な話に思う。

 話してもいい? と水蜜が一輪に目配せをした。一輪は少し考えてから、

 

「そうね、いいわよ。月見さんはもう、私たちの立派な友人だしね」

 

 ぬえが月見だけに聞こえるささやき声で、

 

「ムラサと一輪の大切な人なんだって。私も詳しくは知らないけど」

 

 水蜜が『ご主人様』というくらいなのだから、そうなのだろう。しかしならばなぜ、この船で一度も姿を見かけたことがなく、また今の今まで話にもならなかったのか。よくよく思い返してみると、ここに来たときはいつも月見が話をしてばかりで、彼女たち自身のことはあまり教えてもらっていなかったと気づく。

 ちょうど同じことを考えたらしい水蜜が、

 

「思えばいつも月見さんに話をしてもらってばっかで、私たちのことってほとんど話してなかったかもですねー」

「そうだったかもね」

「じゃあじゃあ、これを機に私たちのことを知っちゃってください!」

 

 さてどこから話したもんですかねーと腕を組んで考え始めた水蜜に、横から一輪が、

 

「まずは姐さんのことからでいいじゃない。ちょうどその話だったし」

「……だね! というわけで聖ですね。名前は聖白蓮っていいまして、まあご主人様ってのもあながち間違いではないんですけど、私たちにとっては家族同然に大切な人なんです」

 

 テーブルに肘をつき、水蜜は懐かしげに両手の指を絡める。

 

「もう千年より前の話なんですけど。私と一輪って、昔は結構荒れてたんです」

 

 すかさず一輪が補足した。

 

「荒れてたのはあんただけでしょ。――あ、ちなみに当時の記憶はムラサの黒歴史らしいので、ご希望とあらばついでにお話」

「わ、わあわあっ!?」

 

 水蜜が大慌てて一輪を黙らせた。

 

「そ、そこは気にしなくていいところです! 訊かないでくださいよっ、半狂乱になって暴れますからね私!?」

「……訊かないよ」

 

 月見の知り合いにも、蒸し返されれば首の根をかきむしりながら暴れるほどの黒歴史を抱えた狐がいる。そっとしておくのが水蜜のためであり、ひいては月見自身の身のためである。水蜜の目は本気だった。興味本位で片足を突っ込もうものなら、水蜜は本気で暴れる。

 咳払い。

 

「……ともかくですね、当時の私たちに救いの手を差し伸べてくれたのが聖なんです。珍しいですよね。妖怪を退治するんじゃなくて、救おうとした人間なんて」

「……待った、その白蓮って人間なのか?」

 

 千年より前の話、なんて言うものだから月見はてっきり。

 

「あっそうでした、そこ抜けてましたね。聖は人間の僧侶なんです。見た目は……一輪と同じくらいかな? 女なので、尼僧、尼さんってやつです」

 

 思っていた以上に興味深い話だった。人間が妖怪から、主人と認められるほど強く慕われるなんてよっぽどのことだ。その聖白蓮なる尼僧はよほどの才媛であるらしい。

 しかしだとすれば、千年以上前の話というのは一体――という疑問は、口にはしなかった。とっくの昔に仏の世界へ旅だった故人なのか、なんらかの手段で現代まで生き延びている超人なのかは、黙って聞いていればわかるはずだ。

 水蜜は続ける。

 

「聖は人間でありながら、妖怪を救うことを使命にしていました。……人間を救わなかったわけではないですよ。『妖怪と人間がともに暮らせる世界を創る』。それが聖の口癖でした」

 

 ――妖怪と人間がともに暮らせる世界、ね。

 そのとき月見は、きっと笑ったと思う。呆れるのでも嘲るのでもなく、ただ慈しむように。まったく同じ夢物語を声高に語り、本当に幻想郷という世界を創りあげてしまった少女を月見は知っているから。見ず知らずの人間に古馴染みの姿がピタリと重なって、他人事とは思えないくらいの親近感が胸に満ちた。

 

「そんな経緯で、私と一輪も救われちゃったクチでして。当時からすれば考えられませんけど、まあ、なかなか上手くやってたんですよ聖は。私たちの他にも、妖怪なのに神様の代理人になっちゃったのとか、その監視役でやってきてすっかり居座っちゃったのとかいたんです。寅丸星と、ナズーリンっていうんですけど」

「ナズーリン?」

 

 突然知り合いの名前が出てきたので、月見は目を丸くした。

 

「お前たち、あの子の知り合いなのか?」

「え?」

 

 水蜜と一輪もまったく同じ顔で、

 

「……月見さん、ナズーリンを知ってるんですか?」

「ああ。幻想郷で暮らしてるよ?」

「うそぉっ!?」

 

 水蜜が椅子を蹴飛ばして立ち上がった。驚くあまりそのまま一歩よろめき、

 

「そ、そうだったんですか!? 月見さん、なんでそれを早く言ってくれなかったんですか!」

「まさかお前たちと知り合いだとは思わないだろう」

「ナズーリンから聞いてなかったんですか!?」

「あの子、自分の話はほとんどしないからねえ」

 

 だーっ! と水蜜は帽子の上から頭を掻き回して叫ぶ。

 

「確かにナズーリンはそういうとこあったなー! あーもうっ、こんなだったらもっと早くこの話しとけばよかったーっ!」

 

 一輪が、目を輝かさんほどの驚嘆で前に身を乗り出した。

 

「そうだったんですか! こんなことってあるんですね!」

「そうだね。まさかこう話がつながるとは」

 

 厳つい顔つきで凝り固まった雲山も、今ばかりは丸くなった目を何度もしばたたかせていた。月見たちの心は一致しているはずである。――まさか、知り合いが知り合いの知り合いだったなんて。

 なるほど、と思う。

 今になって思えば、ナズーリンが言っていた『会わせたい人』とは白蓮のことではないか。恐らく白蓮は、人間でありながら今もなんらかの方法で生き長らえていて。月見も大概人間に肩入れしすぎる妖怪だから、そこに妖怪を救う白蓮の姿を重ねられたのかもしれない。

 水蜜がゆるゆると椅子に(くずお)れ、がっくりとため息をついた。

 

「うー、まったくなんてこったいですよ……。もっと早く知ってれば、私たちもぬえみたいに手紙でも届けてもらったのに……」

「というか幻想郷に住んでるんだし、私が届けようか?」

「……そっか!? そういう手もありますね!?」

 

 またガタンと立ち上がる。さっきから座ったり立ったり忙しい少女である。

 

「じゃあちょっとお願いします! この話が終わったら、超スピードで一筆したためるので!」

「ああ、いいよ」

「やったー!」

 

 喜ぶ水蜜が、雀のようにあたりをぴょんぴょん飛び跳ね始めた。胸の前で両手を合わせ、「あー連絡取るのなんて久し振りー、元気にしてるかなー」と嬉しそうに言い、くるりと一回転してみたりする。マミゾウに手紙を送れたときのぬえもこんな感じだった。普段であれば一輪が静かにしろと叱る場面だが、今回ばかりはさすがの彼女も、なにも言わず穏やかな笑みを浮かべるだけだった。

 一輪は月見を見て、

 

「ところで、星のことはなにかご存じですか?」

「いや、そっちはわからない。ナズーリンに訊いてみるよ」

「ありがとうございます。……今度月見さんがいらっしゃるときを、心待ちにしてますね」

 

 そうだね、と月見は頷く。地霊殿でこいしと約束した手前もあるし、次回の地底訪問は今までよりもずっと早くなりそうだ。

 またくるりと回った水蜜が声高に言った。

 

「そうとなれば話の続きですっ。そういうわけで妖怪の味方でもあった聖は、私たちから妖力を分けてもらうことで特別な力を身につけたのです! えーっと、確か『しゃしょく』とか『しゃちゅう』とかなんとか」

 

 捨食と捨虫の術だ。前者が食事と睡眠を魔力で補い、後者が老いを捨て長寿を得る人外の術である。月見の知り合いだと、パチュリーがよく捨食の術を使って部屋に閉じこもり、不眠不休で魔法の実験を行っている。魔法使いと呼ばれる種族の中では、この二つの術をマスターすることが一人前の条件であるともいう。

 だんだん話がわかってきた。聖白蓮は生まれ自体は人間だが、捨食と捨虫の術を身につけたことで人外の領域に足を踏み入れており、今でもどこかで生きている。しかし簡単に会うことはできないなんらかの事情があって、だからナズーリンは『いつか会わせたい』と表現した。

 当たっていたのだろう。椅子に座り直すなり、元気いっぱいだった水蜜の声音が暗く落ち込んだ。

 

「……ただ、ここからはちょっと辛気くさい話になっちゃうんですけど。聖は人間で、人間だったからこそ、その思想は他の人間たちに受け入れられませんでした。聖が妖怪を助けて回ってるって、バレてしまって……悪魔呼ばわりされた聖は、魔界に封じられてしまいました」

 

 だから、『いつか』だったのだろう。

 悲しくはあるが、それが時代の定めともいえる結果なのだと月見は思う。今はまだしも千年前は、まだ妖怪と人間の溝が深く隔たれていた時代だった。妖怪が人間を喰らうということ、そして人間が妖怪を退治するということが当たり前のように行われていた時代だった。弱肉強食のヒエラルキーでは、妖怪が上で人間が下だった。

 なにも、妖怪を救うこと自体が悪だったわけではない。妖怪を救うことが、結果として人間を救うことにつながるなら話は別だったはずだ。だが白蓮の場合はそうでなかった。少なくとも人間たちの目には、白蓮が世のため人のためではなく、単なる私利私欲のために妖怪の味方をしていると映った。妖怪は人間の敵で、敵の味方は敵で、すなわち妖怪に味方する人間は敵だ。

 だから、消された。

 

「月見さんって、かなり長生きな妖怪なんですよね。ひょっとして、噂とかで聞いたこともあるんじゃないですか?」

「……どうだったかな。ピンとは来ないよ」

 

 そんな人間がいるらしいとどこかで聞いたような気もするし、聞かなかった気もする。正直なところ――力を求めて妖怪に近づいた人間の噂というのは、当時はさして珍しいものではなかった。妖怪が持つ強大な力は、しばしば非力な人間たちを誘惑する。人外の力に取り憑かれ人の道を踏み外した者は、文字通り後を絶たなかったといっても過言ではない。だから、妖怪を助ける見返りに力を求める人間がいたとしても、大した話題にもならなかったはずだと思う。

 

「……まあ、そんなわけで聖が魔界に封じられて、私たちも、それを助けようとしたところを逆にやられてしまいました。情けない話ですけど、神古とかいう腕だけは確かな陰陽師だったんです」

「なるほどね――って、」

 

 ちょっと待て、

 

「――神、古?」

「? ええ。詳しくは知りませんけど、仲間の陰陽師からはそう呼ばれてたと思います」

「――……」

 

 肉体の感覚が喪失した。しばらくの間月見は思考だけの存在となって、水蜜の言葉の意味を必死に理解しようと足掻いていた。

 もちろん、反射的に脳裏に過ぎった最悪の想像を、なんとか否定する形で噛み砕こうとしてだ。まだそう(・・)と決まったわけではない。いろいろな可能性が考えられる。単なる水蜜の聞き間違いで本当は違う名前である、長い地底生活のせいで当時の記憶が薄れている、同音なだけで文字にすると違う苗字かもしれない、同姓というだけでなんの関係もない赤の他人、

 

「どうしたの?」

「っ……」

 

 ずっと黙っていたぬえの声を久し振りに聞いて、月見は正気を取り戻した。水蜜が、

 

「あ、もしかしてこっちは聞いたことがあるとか? 聖を封印したんですから、相当な腕利きだったとは思うんですけど」

「……そうだね。そんな噂を聞いたことがあるよ」

 

 嘘だ。

 水蜜が天井を振り仰ぐ。

 

「あー、やっぱりですかー。うぐぅ、何度思い返しても忌々しいです。私たちの生活がめちゃくちゃになったのって、ぜんぶその陰陽師のせいっていっても過言じゃないんで」

 

 一輪がため息、

 

「そうねえ……何度復讐してやりたいと思ったことか」

「……」

 

 月見はなにも言えない。心の底から褒めちぎってやりたい。志弦の名を、偶然とはいえこの場で一度も口にしていない今までの自分を。

 そして、これからも口にすることはないだろう。

 

「……話を戻しますね。といっても、もう話すことはあんまりないですけど。その陰陽師のせいで私たちはバラバラになって、現在に至るというわけです。とりあえず当面の目標は、なんとかしてこの地底から抜け出して、星やナズーリンと合流して聖を助けに行くことですね」

「……そうか」

 

 ――そうか。

 こんな風に。

 こんな風に、話がつながるのか。

 かつて月見の友だった『神古』と、水蜜たちを封印した『神古』と、今幻想郷で暮らしている『神古』が、すべてつながるのかはわからないけれど。

 

「――というわけで、まずはその第一歩として、月見さんにナズーリンへの手紙を託したいと思います! よろしくお願いしますねっ!」

「……ああ。任せておいてくれ」

 

 上手く笑えたはずだ。

 これは、少なくとも今だけは、絶対に知られてはならないのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 妖怪鼠のネットワークは、幻想郷のだいたいあちこちに張り巡らされているという。その中には水月苑も例外なく含まれているようで、よく庭をちょろちょろ走り回っている姿を見かけるし、時には橙に見つかって狩られそうになったりしている。

 水月苑に戻ってきた月見はその日のうちに魚で鼠たちをおびき寄せ、食事の対価としてナズーリンへの伝言をお願いした。妖怪故に普通の鼠より高い知能を持つ彼らは、人間の言葉も難なく理解する。翌日の昼も近くなる頃には、無縁塚から遥々ナズーリンが訪ねてきてくれた。

 

「ご足労すまないね、ナズーリン」

「構わないさ、君もあそこには近づきたくないだろうしね。……しかし、私に渡したいものってなんだい?」

 

 座敷に招いてお茶を出してから、月見は綺麗に封をされた二通の手紙を差し出した。

 

「お前の友人から、手紙を預かってきたよ」

「手紙? なんでわざわざそんなもの、」

 

 胡乱げに手に取ったナズーリンは、差出人の名を見るなり息を呑んだ。だが同時に、それだけですべて理解もしたようで、静かなため息とともに両の肩から力を抜いた。

 

「……そうか。君、地底でムラサと一輪に会ったんだね」

「正確にいえば、すでに何回か会っていたんだ。ただ、お前たちが知り合いだとは気づかなかった」

「仕方ないさ。私だってなにも話さなかったんだから」

 

 童女ほどの見た目に反して知的な言葉遣いをするナズーリンは、事実頭の回転が目覚ましく速い。余計な問答などなにひとつすることなく、

 

「ありがとう。あとで大事に読ませていただくよ」

 

 それだけ言って、二通の手紙を丁寧にしまった。

 

「……それにしても驚いた。まさか君が地底を行き来していたとは」

「友達のよしみというやつなのかな。賢者殿や鬼子母神殿とは、付き合いが長くてね」

「なるほど。鼠たちのネットワークで聞き及んでいるよ、十一尾の大妖狐殿?」

「おや、バレていたか」

 

 ナズーリン相手にはあまり隠し事もできなさそうだ。その気になれば水月苑に居座る鼠たちを通して、月見の私生活すら丸裸にできるのかもしれない。

 

「こうして手紙を預かってきてくれたということは、私たちの昔話も聞いたんだろう?」

「ああ」

「ならもう隠さず言ってしまうけど、私が君に会わせたいと思っているのは聖だよ。人間でありながら妖怪に手を差し伸べようとするけったいな変人でね。妖怪でありながら人間を弔った君と、なんだか似ていると思わないかい?」

 

 暗にお前も変人だと言われた気がするが、それはさておき。

 

「なかなか手厳しい評価だね、変人とは」

「おっと、これはムラサたちには黙っていてくれ。二人は聖を深く敬愛しているからね」

 

 ということは、ナズーリンは違うのだろうか。

 

「ムラサたちからどこまで話を聞いたかはわからないけど、私は聖に救われたわけでもなんでもなく、毘沙門天様から監視役で派遣された客分みたいなものさ。敬愛しているかといえば……まあ、答えに悩みはするね。信頼できる人間と認めてはいるが」

「……ああそうだ、それで思い出した。確かお前たちにはもう一人、寅丸星という仲間がいたとか」

「ああ、ご主人のことかい? 私の監視対象だよ。元々は妖怪だったんだが、聖の推薦で毘沙門天様の代理人となってね。だがそれが、まあ正式な手続きで許しを得たわけではない、毘沙門天様の寛大な黙認というやつだったから、それで監視役として私が派遣されたわけだな」

 

 きっと、昔を思い出して少し楽しくなっているのだと思う。元々よく喋る方ではあるが、ナズーリンはいつにも増して饒舌だった。

 

「普段はいかにも頼りなくて情けない方なんだが、これが仕事をさせたときだけは不思議と優秀でね、監視なんてほとんど名ばかりだったよ。人間たちの信仰も上手く集めていた。……だからこそ、聖が魔界に封じられたときはなにもできなかったのだけどね」

 

 やや眉を下げ、

 

「まさか、自分を信仰してくれている人間を裏切ることなんてできないからね。はっきりと言ってしまえば、私とご主人は聖を見殺しにした。だからムラサたちと違って、地底に封じられることもなかった。私は仕方のないことだったと割り切っているんだが、ご主人はどうも居ても立ってもいられなかったみたいでね、今は毘沙門天様のところで一から修行し直しているよ。いつかムラサたちの封印が解かれたとき、今度こそ一緒に聖を助けに行くんだとね。……私はそのときを、ここで待ち続けているというわけさ」

 

 苦笑した。

 

「すまないね、思い出したら止まらなくなってしまった」

「構わないよ。ちょうど、星の行方を訊かれていてね。今度地底へ行ったときに、ムラサたちに報告させてもらうよ」

「ああ、そうしてくれたまえ。いつでも、待っているとね」

 

 そうだね、と月見は曖昧に笑った。ナズーリンや水蜜たちの願いが叶うとき。それはすなわち――

 

「……なあ、ナズーリン」

「うん?」

 

 ひょっとすると、これは藪蛇なのかもしれない。けれど、月見はどうしても問わずにはおれなかった。

 

「白蓮を封印したっていう、陰陽師のことなんだけど」

「……それが?」

「ナズーリンは、その人を知っているのか?」

 

 なにかを考える間があって、

 

「……いや」

 

 ナズーリンは、ゆっくりと、はっきりと首を振った。

 

「さっきも言ったけど、私とご主人は聖を見殺しにした。聖が封印されたところも、ムラサたちが封印されたところも見ていない」

 

 少し、月見を窺い、その上で言葉を選ぶような一拍があった。頭の回転がいいナズーリンは、きっとおぼろげながら察していたはずだ。

 

「……名前も顔も知らない相手だよ。それに私とご主人はね、別にその陰陽師とやらを恨んではいない。聖とて、なんの理由もなく、不条理に魔界に封じられたわけじゃないからね。そうされてしまうだけのことをやっていたのは事実だ。その陰陽師とやらを恨むのは、お門違いというやつだろう」

「……」

 

 白状しよう。月見は今、心の底から安堵している。

 

「……少しは、気が休まるかい?」

 

 月見はただ、ありがとう、とだけ言った。ナズーリンは頷き、切り替えるように明るい声音で、

 

「まあ、十一尾の大妖狐殿ともなれば、いろいろと複雑な過去をお持ちでもあるだろう。これはたとえ話だがね、もしムラサたちがあのときのことを根に持ってあーだこーだするようなら、私とて黙ってはいないよ。毘沙門天様を信仰していた人々を恨むなら、それは毘沙門天様を恨むのと同義だ。……だから、」

 

 けれど最後の一言だけは、無防備に微笑み、暖かく言うのだ。

 

「……私はたぶん、君の味方だ」

 

 月見は、そっと静かな吐息を返した。

 

「……お前は将来、いい女になりそうだね」

「む……」

 

 予想外の返しにナズーリンは少し赤くなり、

 

「ふ、ふふん、そうだろう。うっかり惚れたりしないように気をつけたまえよ」

「ああ。肝に銘じておくよ」

「……まあ、なんだ」

 

 熱っぽい頬を指で掻いて、大きめの咳払いをし、

 

「なかなか一悶着ありそうな気配だが、私が望むことは変わらないよ」

 

 月見をまっすぐに見て、どこまでもまっすぐな言葉で、

 

「君を聖に会わせたい。そのためなら、いつだって力を貸すさ」

「……ありがとう」

 

 藪蛇かもしれないと覚悟はしていた。けれど終わってみれば、まさかここまでナズーリンに救われることになるとは思ってもいなかった。無論、すべての問題が解決したわけではない。自分に都合のいい事実に縋って、都合の悪い現実から目を逸らそうとしているだけなのかもしれない。

 けれど、それでも。

 ナズーリンと話ができて、本当によかった。

 

「これじゃあ手ぶらで帰すのもなんだな。……生け簀に池で釣った魚がいるけど、何匹かどうだろう」

「くれるというならありがたくいただくよ。魚はなかなか食べられないしね」

 

 尻尾がくるくる動いたナズーリンに笑みを返し、月見は立ち上がる。一人で庭の一角にある生け簀へ足を進めながら、ゆっくりと、けじめをつけるように深呼吸をする。

 覚悟が決まった。

 慧音のところに行こう。

 かつて月見の友だった『神古』と、白蓮を封じた『神古』と、今幻想郷で暮らしている『神古』。慧音の歴史を編纂する力で、そのすべてを解き明かそう。

 たとえその結果として、後悔することになるとしても。

 遅かれ早かれ、いつか志弦の存在が知られてしまうときはやってくるはずだ。そうすれば間違いなく、月見が脳裏で思い描いている通りのことが起こる。そのとき揺るぎない意思で水蜜たちと相対するために、月見は知っておかなければならない。

 月見が『門倉銀山』を名乗っていたあの頃から、ぜんぶつながっていることなのか。

 それとも、なんてことはないただの取り越し苦労なのか。

 

 誤算だったのは、たったひとつ。

『そのとき』の訪れが、月見の予想よりずっとずっと早かったということだけだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――月見さーん、こんちはー」

「……、志弦」

「……? なに、どったの?」

「ああ、いや……こんにちは。いらっしゃい」

「えっと……なんかあった? 今一瞬、すげー深刻な顔してたような……」

「なんでもないよ。……ああ、大丈夫。本当に、なんでもないから」

「……??」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第89話 「その付喪神、弾丸少女につき」

 

 

 

 

 

 事前に話の筋道は考えていたつもりだったのだが、実際に喋り始めてみるとこれがなかなか難しかった。覚悟は決めたなんて恰好つけておいて、実はまだまだ心の整理をつけられていなかったといういい証拠だ。けれど慧音は迷惑な顔ひとつせず真摯に耳を傾けてくれて、お陰で月見は、『神古』にまつわる因縁を知りうる限りで語り終えることができた。

 

「……なるほどな。事情はわかった」

 

 静かな反応だった。手元の湯呑みをゆっくりと回しながら、慧音はひとつ大仰に頷いた。それから目を伏せ、そっと包み込むような声で、

 

「……ようやく、向き合うことにしたんだね」

「……ああ」

 

 もちろん、慧音は輝夜と同じで、はじめからすべてを察していた者の一人だった。かつて『神古』という名の友がいたことを、永遠亭で彼女に話したのは他でもない月見だ。早苗に連れられやってきた志弦とはじめて出会ったとき、思わず動揺してしまって、誤魔化すのがちょっと大変だったそうである。

 顔を上げた慧音は、少し苦い表情を作った。

 

「しかし、そうか。地底に『神古』の名を恨む妖怪が……か」

「……」

「確かに、あまり気楽に構えられることではないな。誤解でも志弦に危険が及びかねない」

 

 返す言葉が見つからなくて、月見はそっと視線を横に逃がした。部屋の角に棚があり、くたびれた風格の和綴本と、なにが書かれているのかも知れない紙の束がいくつも収まっている。

 慧音の家にはもう何度かお邪魔している身だが、寺子屋の教師をしている者らしく、もしくは幻想郷の歴史を編纂している者らしく、ここはたくさんの書物であふれた家だった。玄関と風呂場以外で本の置かれていない場所はないんじゃないかとすら思う。この茶の間はまだ片づいている方だが、これが彼女の私室あたりになると、さながら本の森とばかりに雑然としているのだ。

 月見は緩く息をつき、もう一度慧音を見て、

 

「頼めるだろうか」

 

 かつて月見の友だった『神古』と、白蓮を封じた『神古』と、今幻想郷で暮らしている『神古』。この三つの因縁を、慧音の力で解き明かすことはできるのか。

 

「お安い御用さ」

 

 快い即答だった。

 

「お前にも志弦にも、寺子屋じゃあなにかと助けられてるからな。これくらいの恩返しはさせてくれ」

 

 志弦は時たま、天使先生と一緒に子どもたちとボールを蹴り合って遊んでいることがある。

 頭を下げた。

 

「ありがとう。満月の日は忙しいらしいのにすまないね」

 

 慧音の『歴史を創る程度の能力』は、完全に妖怪化する満月の一夜でのみ使用が許される特別な能力である。だからなのか、このときの慧音は少しでも多くの歴史を編纂するため、一息つく間すら惜しんで一心不乱で働きまくっているそうだ。血がたぎって好戦的になっている影響もあるのか、作業の邪魔をする者は誰であれ敵と認識されるらしく、差し入れをするため戸を叩いただけでブチ切れて頭突きを喰らわされた、という逸話が里ではまことしやかに囁かれている。月見も過去の満月の晩に一度だけ、慧音の家の玄関に「歴史編纂作業中」「邪魔立て禁止」「ノック厳禁」「差し入れ不要」「用事は明日」「頭突きします」と貼り紙がベタベタ貼られているのを見たことがある。

 慧音は苦笑、

 

「月に一度、一晩限りしか使えない不便な力だからな。……ところで、それに関してひとつ断っておかないといけないんだが」

 

 そう言って、慧音はすまなそうに頬を指で掻いた。

 

「埋もれた歴史を掘り返すというのは、それこそ発掘作業みたいなものなんだ」

「というと?」

「狙った歴史を的確に掘り当てられるとは限らないということさ。年代と地域でおよその目星はつけられるんだが、どんな歴史が出てくるかは掘ってみるまでわからないんだ」

 

 なんとなく、わかった。つまり、

 

「お安い御用なんて言っておいてなんだが、いつまでにできあがるか約束できない。次の満月ですんなり終わるかもしれないし、冬になってしまうかもしれないし、年が変わってしまう可能性もある。そこだけ了承してはくれないだろうか」

「わかったよ」

 

 月見は二つ返事で了承した。普通であればもう知る術もない何百年もの歳月に埋もれた歴史を、慧音は限られた時間の中で頑張って探してくれるのだ。感謝こそすれ、文句など言える筋合いもなかった。

 話がまとまり、月見と慧音はどちらからともなく腰を上げた。だらだらと無駄話を続けるようなことはしない。

 

「ありがとう。仕事中にお邪魔したね」

「いいさ、ちょうどいい息抜きになった」

 

 明日寺子屋で実施するテストを作っている最中にもかかわらず話を聞いてくれた慧音には、やはり感謝する他ない。せめてもの気持ちとして、余計な邪魔はせずさっさと退散するのだ。

 

「……ああ、そうだ」

 

 そうして玄関までやってきたところで、慧音がふと月見の背に、

 

「月見。よければなんだけど、ひとつ頼まれてはくれないだろうか」

「私でできることなら」

「里の外れに墓地があるのは知っているかな」

 

 月見は頷く。わざわざ好んで行くような理由もないので、あくまで場所を知っているだけだが。

 

「天子にそこの掃除を頼んでいてね。私も今の仕事が片づき次第行くつもりだったんだが……どうにも、もうしばらく掛かりそうなんだ」

「なるほど」

 

 つまり、よければ手伝ってやってきてくれないか、という話のようだ。

 

「いいよ。行ってこよう」

「助かるよ」

 

 眉を開いた慧音は、それからぽそりと、

 

「……天子も、私が手伝いに行くよりそっちの方が嬉しいだろうしね」

 

 ……ノーコメント。

 

「道具は、墓地に備えつけがあるからそれを使ってくれ。落ち葉を集めたり、雑草を取るくらいで充分だから」

「了解」

 

 最後にもう一度だけ礼を言って外に出た月見は、むず痒い感覚を誤魔化すように尻尾を振り、記憶を頼りに目指すべき方角へ歩き始める。

 

 ――人生とは、いつなにが起こるかわからないものである。

 これが良くも悪くも新しい出会いをもたらすことになるなど、今は当然、知る由もない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ところでこの頃、月見はよく天子に驚かれる。

 決して妙なことをしているわけではなく、ただ人里などで姿を見かけた際に声を掛けているだけなのだが、それがなぜか、天子にとっては毎回毎回驚愕の出来事であるらしい。素っ頓狂な声をあげたり飛び跳ねたり、ひどいときはつんのめって転んでしまったりすることもある。

 月見のときだけである。他の人が声を掛けてもこうはならない。

 そんなわけで、ほうき片手で墓地の草取りをしていた天子に後ろから声を掛けてみると、彼女は素っ頓狂な声をあげて飛び跳ね、勢い余って前につんのめるという見事なスリーコンボを炸裂させた。

 

「つ、月見っ? どうしたの、こんなところに……」

 

 ちょうど引き抜いたところだった雑草を明後日の方向にぶん投げ、月見のところまでまっしぐらに駆け寄ってくる。その顔の上では、驚きと喜びと困惑と緊張がてんやわんやになって入り乱れている。

 

「慧音から話を聞いてね。手伝いに来たよ」

「んぅ、」

 

 天子がしゃっくりを呑み下したような変な声を出した。思わず真顔になる月見の目の前で彼女はわたわた慌てて、右を見、左を見て、更に竹ぼうきを握った己の手元を見て、最後に恐る恐ると上目遣いで、

 

「……い、いいの?」

「もちろん。迷惑じゃなければ」

「ぜ、ぜんっぜん大丈夫っ! ありがとう、すっごく助かっちゃう!」

 

 天子の百点満点の笑顔が炸裂した。とても嬉しいことがあったときだけ見せるこの表情にやられ、ファンクラブの連中が鼻血を噴きながら集団発狂した事件はあまりに有名だ。夏の結成以来会員数は増加の一途で、最近になって遂に百名の大台を突破したとか。嘘か真か、里の人間にも会員がいるとかいないとか。

 さておいて。

 

「道具はどこに?」

「こ、こっち。ついてきてっ」

 

 足取りの軽い天子に案内され、月見はボロボロの物置から竹ぼうきを手に取った。歴戦の風格あふれるガタイのいい竹ぼうきだ。いずれ年数が経過し付喪神化した暁には、雲山のような厳つい老爺の顔が現れるのだろう。

 天子と二人揃って、寂れた墓地の掃き掃除を始める。

 今はまだ秋も深まりきっていない頃なので、落ち葉の類はそう多くない。それよりも、夏の間に思う存分成長した雑草の方が目についた。月見がほうきを物置にしまい雑草取り職人と化すまで、さほど時間は掛からなかった。

 天子がぽつりと、

 

「……な、なんか、久し振りだね。二人だけでなにかするのって」

「そうか? ……そうかもな」

 

 ひょっとすると、夏の異変以来なのかもしれない。月見が天子の仕事を手伝うときは、大抵慧音や里の人々が近くにいるし、天子が水月苑の家事を手伝ってくれるときは紫や輝夜や咲夜その他諸々の少女たちがいる。そもそも、こうして二人きりで話をすること自体が久し振りな気がした。

 天子が、サッササッサと妙にせわしなくほうきを動かしている。

 

「で、でもほんとにごめんね。手伝ってもらっちゃって……」

「なあに、ちょうど用事が片付いたところでね。逆になにをしようか悩んでたくらいだったんだよ」

「……そうなんだ」

 

 天子がふと掃除の手を止め、何事か真剣な顔で黙考を始めた。首を傾げる月見にも気づかず、ぶつぶつと独り言を呟きながら思考の海に沈んでいく。しばらく経っても一向に浮き上がってくる様子がなかったので、月見はまあそのうち戻ってくるだろうと思って、草取り職人の仕事を再開した。

 そのまま、どちらとも言葉を交わすことなく三分が過ぎ、

 

「……ね、ねえ」

 

 背中の方からようやく天子が、

 

「それってつまり、月見って、今日はもう特に予定がない……んだよね」

「そうだね」

 

 まさか、それを三分もずっと考えていたのか。月見は天子を振り向く。天子は月見に背を向けて、なぜか同じ場所ばかりをひたすらほうきで掃きまくっており、

 

「あ、あのね、」

 

 並々ならぬ緊張を孕んだ声音で、天子は大きく息を吸って、

 

「も、もしよかったらこのあと、」

 

 いきなりだった。

 

「――う、うらめしやあ~~~~っ!!」

 

 ヤケクソな感じの叫び声をあげて、天子のすぐ傍の墓石から人影が飛び出してきた。

 

「……!」

 

 墓石の陰に身を潜めていたのだ。ずっと地面の雑草に集中していたせいで、この瞬間になるまでまったく気づかなかった。両腕を高く振りかざし、今にも天子に飛びかからんとしている。秋晴れが心地よい昼の墓場で、わざわざそんないたずらをする人間がいるとは思えない。

 妖怪。

 間に合わない、

 

 ――天子が振り向きもせず、獣のような動きでほうきを振るった。

 竹ぼうきの先端――要するに竹の枝がチクチクしてとても痛い部分――がちょうど顔面に突き刺さって、人影はものすごいエビ反りで後ろにひっくり返った。

 

「……」

 

 月見はのたうち回っている人影を半目で見ながら、

 

「……天子」

「あっ……ご、ごめんなさい!? つい……!」

 

 比那名居天子が夏の特訓で培った反射神経は、今もまったく衰えていない。

 それはともかく、痛みのあまり声をあげることすらできずのたうち回っているのは、天子と同じくらいの背丈の少女だった。両手で顔を押さえているため容貌はわからないが、髪は透き通るスカイブルーで、同じ色のスカートと純白のブラウスのコントラストが、まるで空から生まれてきたかのようだ。天子が夏の青空の少女だとすれば、こちらはまさしく秋の空。どうやら妖怪ではあるようだが、こんな真っ昼間から人を襲うあたり血の気は随分と多いらしい。

 というか、

 

「ちょ、ちょっとっ、そんな短いスカートで転げ回っちゃダメだってば!? み、見えちゃう見えちゃうっ!」

 

 ……あまりまじまじと観察しない方がよさそうだ。何気なしに少女が飛び出してきた墓石へ目を逸らすと、紫色の渋い唐傘が転がっているのに気づく。わずかながら妖気が感じられたので、月見はああと納得した。

 

「だ、大丈夫?」

「は、はい、なんとか……」

 

 天子に手を貸してもらいやっとこさ起き上がったこの少女は、唐傘の付喪神なのだろう。大声をあげながら天子に飛びかかったのも、単に彼女をおどかそうとしただけのことだったわけだ。

 付喪神の少女が、両目に溜まった涙をさっと指で拭った。妖怪でも珍しい、赤と水色のオッドアイだった。彼女はその宝石みたいな両目でまず天子を見て、次に月見を見て、そして最後に天子が握っている竹ぼうきを見た瞬間、

 

「う、うわあああああん!! また失敗したああああああああっ!!」

 

 大粒の涙をぶわっとあふれさせ、泣く子も黙る強烈な泣き声だった。月見と天子がなにかを言う暇もなく、付喪神の少女は地べたと一体化するような土下座をキメて、

 

「ごめんなさいごめんなさいお腹が空いてたんですおどかそうとしただけですだからお願いです許してくださいいいいい!!」

「「……」」

「うわあああああ無反応だ許してもらえないんだ、あああああきっとこのまま襲われちゃうんだ食べられちゃうんださでずむだあああああ……!!」

 

 ひいいいいい! とそのまま亀になって震え始めた少女を、仏像の心地で眺めながら月見は思う。こういう反応をされるのももう三度目だか四度目だかになるのだが、月見はそんなに女子供問わずむしゃむしゃ食べてしまいそうな妖怪に見えるのだろうか。橙のときもルーミアのときもそうだったが、地味に傷つく。

 月見はため息をつき、ぼんやりと途方に暮れていた天子に、

 

「……そういえばさっき、なんて言おうとしてたんだ?」

「え? えっと、」

「びええええええええええ!!」

「「……」」

 

 わざわざ言葉など交わさずとも、月見と天子の心はシンクロしたはずだ。

 ――変な妖怪(やつ)に出会っちゃったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ほ、本当にお手伝いするだけでいいんですね!? いぢめないでくださいね!?」

「いじめないよ。はいはい、口よりも手を動かす」

 

 しかしたとえ泣き虫で面倒くさそうな感じの妖怪であっても、この場合立派な労働力ではある。なので襲われた仕返しはしないと約束し、交換条件で墓地の掃除を手伝ってもらうことにした。

 少女は多々良小傘といい、案の定唐傘の付喪神であり、あまりに純粋無垢で無防備な少女だった。はじめは草取りをお願いしたのだが、さほど丈があるわけでもないスカートでなんの恥じらいもなくしゃがもうとしたため天子に一発退場を食らい、今はせっせと竹ぼうきを動かしている。その中で、月見と天子に向かって何度も叫ぶ。

 

「……ほ、本当に本当ですよね!? さでずむだけはやめてくださいね!?」

 

 下っ手くそな発音だが、さでずむとはサディズムのことであり、要は痛いことはしないでくださいと言っているのだろうと思われる。そんな感じで小傘があんまりにも必死なので、さすがの天子も呆れ気味だった。

 

「もうなにもしないから大丈夫だってば。最初のはほら、いきなり襲われたからびっくりしちゃっただけで」

 

 小傘は神妙に頷く。

 

「あれは見事な御手前でした……。さぞや名のある達人とお見受けいたします」

「はい?」

「あれが、音に聞く『居合斬り』なる剣術なのですね。感服する他ありません」

 

 小傘は本気で感服していた。冗談や演技の類にはまったく見えない。どうやらこの少女もキスメと同じで、真面目に考えてはいけないタイプの少女であるらしい。

 真面目に考えてしまって言葉を返せないでいる天子の代わりに、

 

「襲われた本人がこう言ってるんだから、本当になにもしないよ。むしろ、最後までちゃんと手伝ってもらえたらお礼をしないとね。里のお菓子とか、食べたことあるか?」

「ふぐうっ」

 

 小傘が変な声をあげて鼻をすすった。月見のまさに目の前で彼女の両目になみなみと涙が浮かび、体がぷるぷると小刻みに震え始める。

 いきなり叫んだ。

 

「不肖小傘、感動いたしましたぁっ……! なんとお優しい方々なのでしょう!」

 

 やっぱり変な妖怪だよなあと月見は思う。

 

「無礼をお許しいただけるだけでなく、お礼など、まさかそのように扱ってくださるなんて……! 私がこの前おどかしたフラワーマスターなる方は、それはそれは恐ろしい制裁を私に下したというのに!」

「なにやってんのお前」

 

 なぜよりにもよって彼女を。

 小傘はボロボロ流れる涙を拳で拭い、恐縮そうに身を縮め、

 

「実はわたくし、まだ付喪神になってから日が浅く……あの方が、まさかあのように恐ろしい妖怪だとは知らなかったのです。見た目が小さかったので大丈夫かと思ったのですが……」

 

 断言する、それは幻想郷で一番おどかしてはいけない相手だ。遥か格下の付喪神におどかされたとなれば彼女のプライドは両足で踏みにじられただろうし、その理由が「小さかったから」では追い打ちで泥までぶちまけられたに等しい。怒り狂い涙目で暴走するフラワーマスターの姿が、ついさっき見たばかりのようにはっきりと想像できた。

 しかし、同時に納得もした。そうであれば頭のネジが取れかけたような、若干アッパーの入った小傘の言動にも説明がつく。妖怪化してからまだ日が浅すぎるため、自覚はないだろうが、自分の中に芽生えた妖怪としての精神が安定しきっていないのだ。さながら自我の確立していない子どもが、自らの喜怒哀楽をコントロールできないように。

 故に、

 

「……ちなみに訊くけど、その相手にはおどろいてもらえたのかい」

 

 こうやってちょっと話題を変えるだけで、小傘はころっと笑顔になって、

 

「あ、はいっ。『ひゃん!?』って悲鳴をあげて、後ろに尻餅までついてもらえました! 恐ろしい制裁を受けはしましたが、あのときはちゃんとお腹いっぱいになったのです!」

 

 クールビューティーでカリスマあふれるフラワーマスターを月見が微笑ましく思っているうちに、またえぐえぐと鼻をすすって、

 

「ふぐぅ……っ! 主様に忘れられ、この世界にやってきてからは空腹に喘ぎ、やっとおどかすことのできた相手からはボコボコにされる日々……! ここまで優しくしていただけたのははじめてかもしれません!」

「苦労したんだね」

「はいっ……! ですがご心配には及びません! お二方の大海原の如き優しさに触れて、なんだか元気になって参りました!」

 

 本当に、コロコロとよく表情が変わる。小傘は目元の涙を一瞬で引っ込め、ぐっと希望とやる気で震える拳を作って叫んだ。

 

「お二方の寛大な御心にお応えするため、全力でお掃除させていただきます……! 他にもなにかお力になれることがあれば、なんなりとお申し付けください!」

「ああ、頑張って」

「はいっ!」

 

 力強くほうきを握り締め、たりゃーっ! と小学生みたいに振り回しながら勇ましく落ち葉を集め始める。その現金な姿を目で追いながら、天子が不思議そうに首を傾げる。

 

「なんか、こういう妖怪ってはじめて見たかも……」

「付喪神になって日が浅いみたいだしね。まだ精神が安定してないんだろう」

 

 墓石の裏を見に行った小傘が元気に、

 

「あっ、誰ですかこんなところに傘なんて捨てたの! こんなイケテナイ傘でもちゃんと大事に――あっこれ私の傘です! 道理でステキな傘だと思いました!」

「「……」」

 

 頭のネジがいかんせん緩いのも、自我が芽生えて間もないからだと思いたい。

 さてこのできたてホヤホヤの付喪神、ほうきの扱いこそ下手くそなものの、とにかくやる気いっぱいテキパキ動くので戦力としては申し分なかった。正直あまり期待してはいなかったのだが、下手をしたら月見たち以上に働いてくれるかもしれない。

 

「どれ、私たちも負けてられないね」

「うん」

 

 掃き掃除の方は小傘に任せ、月見と天子は再び墓地の雑草を抜きにかかる。たった一人分人手が増えるだけでも随分と違うもので、一時間もする頃には集めた落ち葉と雑草でこんもりとした山ができあがった。

 ある程度すっきりした墓地をひと通り見て回り、天子が満足げに頷いた。

 

「うん、もうこんな感じでいいと思う。お疲れさま」

「はいっ。お二方もお疲れさまでした!」

 

 小傘は最初から最後までずっと元気なままだった。あちらこちらをやる気いっぱい走り回ったというのに、その笑顔には疲れひとつにじんだ様子がない。これが若さか、と月見は思う。なんだか自分が一層年寄りになってしまった気がして、痛めたわけでもないのに気がついたら腰をさすっていた。

 道具を元の場所へ戻し、集めた落ち葉と雑草を始末したところで月見は小傘に尋ねる。

 

「さて、このあとはどうする? よければ里でお菓子でもご馳走するけど」

「あ、いえ。とても光栄なお話ではあるのですが……」

 

 小傘はふるふると首を振り、それから改まった様子でまっすぐ月見を見つめた。

 

「その代わりと言ってはおこがましいのですが、ひとつ相談に乗っていただきたいことがありまして」

「? 聞こうか」

「ありがとうございます。実は……」

 

 よほど真剣な相談事らしく、小傘の面差しにふっと暗い影が差した。

 

「私が、まだ付喪神になって日が浅いのはすでにお話したかと思います。言い訳のようになってしまいますが、そのため人をおどかす勝手がわからず、なかなか思うようにお腹を満たせない日々が続いています」

「うん」

「ところで妖狐は、人を化かすことに長けた種族で、古来より多くの人間をおどかしてきたと聞きます!」

 

 小傘がなにを言おうとしているのか察しがついた。なので月見は、目の前で深々と頭を下げた小傘に笑顔で、

 

「お願いします、」

「お断りするよ」

「まだなにも言ってないんですけど!?」

「さ、帰ろうか天子」

「え、あ、うん」

「ちょちょちょ、待ってください待ってくださいませ!?」

 

 踵を返そうとしたら袖を引っ張られた。

 

「死活問題なんですっ! 私の明日のご飯のため、どうか人間をおどかす極意を授けてはくださいませんか!?」

「あ、お前の後ろに日傘を差した緑の」

「ぎゃあああああこの前はおどかしてごめんなさいごめんなさい申し訳ありませんでしただからもうさでずむはやめて──って誰もいないじゃないですかあ!? 違いますっ、私をおどかすんじゃなくて人間をおどかすんです!」

「天子、お前の後ろに化け物が!」

「きゃあーびっくりしたあー食べられちゃうー!」

「思いっきり棒読みじゃないですかあああああ! ふ、二人揃っていじぢめないでください! 私は真面目な話をしているのですよ!?」

 

 叫ばずともわかっている。わかってはいるが、月見の本能もまた叫んでいる。この子を弟子になどしようものなら最後、絶対にロクなことにはならないのだと。

 しかし小傘は必死になるあまり、いよいよ月見の腰に縋りつき始める。

 

「お、お願いします! もちろんお礼はしますっ、お金は持っていませんが、そのぶん体でお支払いしますっ! 身の回りのお世話でもなんでも!」

 

 周りに誰もいない墓地で本当によかった。

 さておいて、どうしたもんかと月見は本格的に悩み始める。もちろん小傘が言っていることはぜんぶ本当で、幻想入りしてからは糊口を凌ぐ毎日が続いていて、だからこそこうして、藁にも縋る必死の形相で月見を頼ってくれているのだと思う。哀れに思う気持ちはある。しかし、ここでうっかり情に流されてしまってよいのか。安易な同情は反って罪だ。一時の感情で答えを決めた結果、待っているのは月見も小傘も幸せになれない未来かもしれない。

 想像するのだ、「体でお支払いしますっ! 身の回りのお世話でもなんでも!」などと野外で思いっきり叫んでしまうような少女を身近に置いたら、月見の生活はどうなってしまうのか――

 ――やっぱり断ろう。

 

「……ねえ、付喪神さん。あなたの気持ちはわかるけど」

 

 と結論して月見が現実に帰ってきたら、いつの間にか天子が膝を折って小傘と目線を合わせていた。

 

「でも、月見にも月見の都合があるの。ここで無理に押し切って、嫌々教えられたりしたらあなたも辛いでしょ?」

 

 天使先生の本領発揮である。優しい声音で道理を説き、小傘の肩にそっと両手を置いて、

 

「――それに、幻想郷にいる狐は月見だけじゃないでしょ? それ、別に月見じゃなくてもいいでしょ?」

 

 気のせいだろうか。浮かべた笑顔に言い知れぬ圧力があるような、指がミシミシと小傘の肩を圧迫しているような。

 天子は最後まで、優しいヤサシイ笑顔だった。

 

「――だから、ちょっと月見から離れて? ね? 離れなさい」

「……は、はひっ」

 

 青い顔で頷いた小傘が、ゆるゆると月見の裾から両手を離した。あまりの恐怖に腰が抜けたのか、ぺたんと女の子座りで崩れ落ちてぷるぷる震える。そして案の定、その両目にじわりと涙が浮かんで、

 

「さ、さでずむだあああぁぁ……」

 

 すんすん鼻をすすり始めた小傘に構うことなく、天子はこれでよしとばかりの表情で腰を上げた。

 

「……なかなか手厳しいじゃないか、天使先生」

「そんなことないわよ、月見が甘すぎるのっ。嫌なら嫌ってちゃんと言わなきゃ」

 

 返す言葉もない。

 

「それに、こういう些細なところからライバルは増えて――」

「ライバル?」

 

 派手な咳払い、

 

「なんでもないっ!? と、ともかくこれで話はおしまいっ! 付喪神さんもいいでしょ!?」

「う、うぐうっ……」

 

 ぜんぜんよさそうではなかったが、しかし小傘は天子が怖くてNoと言えない。

 月見は緩く息をついた。

 

「……他の狐に当たってくれ。私より暇してるやつはそれなりにいるだろうしね」

 

 もしも月見が実際に暇だったなら、退屈凌ぎで彼女を弟子に取りもしたかもしれない。しかしわざわざそんなことをせずとも月見の毎日は充実しているし、たくさんの個性豊かな少女たちがいつも月見を楽しませてくれている。そこに小傘が加わったら、妙な化学反応が起きてしまうかもしれない。それに今は、『神古』の件もあったばかりで、あまり新しいことを始めようとも思えない。

 

「それじゃあ、私たちはもう行くよ」

「あっ……」

 

 小傘が咄嗟に手を伸ばすが、それが再び月見の裾を掴むことはない。月見は振り返らない。せめて容赦なくこの場を去ることで、拒絶の意思表示になればよいと願う。

 小傘はずっと、月見を見ていた。拗ねた子どもみたいな目で、唇を引き結んで震えながら、じっと月見だけを見ていた。

 月見たちが墓地をあとにしても、ずっと、ずっと──……

 

 

 

 

 

 

 

 

「――で、月見。なんだあそこの妖怪は」

「……うん」

 

 ()けられた。

 もちろん月見と天子ははじめから気づいていたし、慧音もひと目見ただけで一発だった。里の立ち並ぶ民家の陰に隠れて、墓地で別れたはずの多々良小傘が、なんとも未練がましい目つきでじいっと月見の背を見つめている。

 月見と天子が人里に戻ると、ちょうど外で用事を済ませていたらしい慧音と出くわした。なので掃除が終わった報告をしていたのだが、その間、上手く隠れているつもりの小傘は里人たちの視線を一身に集め続けていた。

 とにかく目立つ。この人里で彼女ほど水色の少女はいないし、びろーんと長い舌を出した紫色のオバケ傘まで差している始末なのだからそりゃあもう目立つ。私を見てっ! と言わんばかりである。みんな思っているはずだ、この子はなにをやっているんだろう、これで隠れているつもりなのだろうかと。

 慧音の半目が月見に刺さった。

 

「……お前のことだから大丈夫だろうけど、変な妖怪を連れてきたわけじゃあないだろうね?」

「……悪い妖怪ではないよ」

 

 変な妖怪というのは否定できないし、したところで肝心の小傘があれでは説得力もあるまい。

 天子が苦笑する。

 

「ごめんなさい、なんだか目をつけられちゃったみたいで……」

「天子は悪くないさ。どうせ目をつけられたのは月見の方だろう?」

 

 よくおわかりで。

 

「しかも、だいぶ穏やかじゃなさそうだ。……ここでなにか面倒を起こされちゃあ困るぞ?」

 

 月見はこのあと自分に降りかかりかねない災難を想像する。――小傘が里のど真ん中で、「お願いします助けてくださいお礼はなんでもしますから!」となりふり構わず泣き叫び始める。それを目撃した里人たちから致命的な誤解を受け、月見の世間体はみるみる間に失墜する。月見自身は慧音に頭突きで撃墜される。瞬く間に人里を駆け抜けた噂話はやがて妖怪の山まで届き、見事鴉天狗の新聞を一面で飾る。そして新聞経由で事態を知った紫や藤千代や輝夜が、満面の笑顔を浮かべながら水月苑に特攻してくる。

 ――というのはさすがに考えすぎだが、しかしそれだって、小傘が相手では決してありえないとも言い切れない。

 そう思ったら、こんなところでのんびりしていては命取りな気がしてきた。なので月見は天子と慧音に、

 

「とりあえず、今日のところは屋敷に戻るよ。目的は私だし、そうすればここからも離れてくれるだろう」

「あ……」

 

 天子が捨てられる子犬みたいな声を出した。

 

「どうした?」

「あっ……いや、えっと、」

 

 天子はわたわた焦って、

 

「その、気をつけてね! 一応妖怪だし、なにしでかすかわかんないし!」

 

 ちなみにこのとき月見は、墓場で天子がなにか言おうとしていたことを完全に忘れていた。

 

「なるべく穏便に解決してくるよ」

「う、うん……」

 

 もしそのことを欠片でも覚えていれば、天子が残念そうにしていたのにも気づけたかもしれない。

 天子たちと別れ、月見は屋敷の方角へ、小傘が後を追えるようわざとゆっくり飛んでいく。途中で振り返れば狙い通り、こそこそとついてきている小傘の姿が見える。地面近くで木やら岩陰やらに身を隠しているが、やはりオバケ傘のせいでとても目立っている。

 もちろん気づかないふりで飛び続けながら、はてさて一体どうしたものかと月見は首をひねった。

 

 

 

 

 

「……うう、また誘えなかったぁ……」

「お前は月見が相手のときだけ押しが弱いなあ……子どもたちの前ではあんなにハキハキしてるのに」

「だ、だってぇ……」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 水月苑に架かる反橋の中ほどで足を止め、秋で満ちあふれた庭の景色を眺めるふりをしながら、月見はさりげなく己の背後を確認する。水月苑の周囲を囲む木々の一本、その後ろから、紫色のオバケ傘と妖怪赤舌が如き長いべろ(・・)がはみ出している。

 やはり、多々良小傘である。彼女は未練たっぷりの表情で木の後ろから顔を覗かせ、そしてすぐに引っ込めた。

 いっそのこと、諦めた方が一番楽なのかもしれない――そう何度か考えた。こんなところまでしぶとくついてくるくらいなのだ、ちょっとやそっと口で聞かせたくらいでは断固として引き下がらないだろう。ひょっとしたら、「承知していただけるまでここを動きません!」などと言って玄関先に居座り始めるかもしれない。まるでマンガみたいな話だが、彼女に限っては本当にやりかねない雰囲気がある。

 人をおどかす極意なんて、月見だって知らないのに。

 なるほど、確かに妖狐は古来からたくさんの人間を化かしてはきただろう。しかし、『化かす』と『おどかす』は同じようで微妙に違う。『おどかす』は人をびっくりさせたり怖がらせたりすることだが、『化かす』は変化や幻術で相手を困惑させることである。必ずしも人を驚かせ、怖がらせるものではない。

 別に妖狐はそれでいいのだ。所詮は面白半分でやっている悪戯の類なのだから。

 小傘はそれではダメなのだ。自分のお腹を満たすために必要なことなのだから。

 どうせ教えを乞うなら自分と同じ、生きるために人をおどかしている妖怪を頼ればいいのに。

 

「……」

 

 そのあたりをきちんと丁寧に説明すれば、あの少女は大人しく諦めてくれるだろうか。月見の中にいる自分が言う。やってみればいいじゃないか、もしかしたらすんなり上手く行くかもしれないしね。挑戦してみなければどんな可能性もゼロだよ。そしてもう一人の自分が反論する。下手に刺激するのはよした方がいい。変に意地を張られて、本当に玄関先に居座られでもしたらどうするんだい。

 ため息が出た。

 

「おーい、月見さーん」

 

 そのとき、空の方から小傘ではない少女の声が降ってきた。それから一拍ほど遅れて、月見から小傘の姿を遮るように、赤と白の巫女服の少女が現れる。

 

「霊夢か」

「こんにちは、月見さん」

 

 霊夢は挨拶もそこそこに、裏表のない朗々とした笑顔で、

 

「ねえ、いま暇? 暇だったらちょっと付き合ってよ」

 

 どうやら修行の話らしい。さすがに夏と比べれば頻度こそ落ちたものの、霊夢は今でもこうして水月苑までやってきて、模擬戦をしたり温泉に入ったり、ご飯を食べたり昼寝をしたりしていく。才能の塊である彼女は夏よりも更に腕前を上げ、今では萃香や文と手合わせをすることもあるという。

 月見は力なく答えた。

 

「いいけど、今はちょっと立て込んでてね」

「? なにかあったの?」

 

 月見は霊夢の背後を指差す。つられて霊夢が森の方を見た瞬間、幹から顔を出していた小傘が「ひゃわっ」と小さな声で引っ込んだ。

 もちろん、あいかわらず大きなオバケ傘がはみ出している。

 

「……なにあれ」

「ちょっといろいろあって、尾けられちゃっててね」

「はあ。……まったく、月見さんはあいかわらず変なのに好かれるのねえ」

 

『あいかわらず』ってどういう意味だろう。そして自分はなぜ、それで紫の顔を思い浮かべるのだろう。

 霊夢が突然目を剥いた。

 

「……わ、わかったわよ!? つまり、これが今日の修行ってことね!?」

「……ん?」

 

 この少女はいきなりなにを言って、

 

「とぼけなくてもいいわよ。あの妖怪を倒せってことでしょ? そして、見事倒せたら今日のお昼ごはんはご馳走にしてあげると!」

 

 徹頭徹尾違う。

 

「なるほどねー。でも月見さん、人選を間違ったわね。博麗の巫女があんな付喪神に後れを取ると思う?」

「おい霊夢、」

「よーし、行っくわよー!」

 

 いやだから、徹頭徹尾違うと、

 

「おい人の話を」

「神霊・『夢想封印』っ!」

 

 嗚呼。

 あゝ。

 やる気は大変結構なのだが、人の話を聞いてほしかった。

 月見を丸々飲み込みそうなほど巨大な七つ七色の光弾が、鎖から解き放たれた猟犬の如き速度で吹っ飛んでいく。不穏な気配を感じた小傘が「あれ?」と木陰から顔を覗かせたが、とりもなおさず、命取りであった。

 小傘の視界は、七色の光で埋め尽くされていたはずだ。

 

「──へ?」

 

 断末魔なんて、響かなかった。

 七色の光弾が太い木の幹を爪楊枝みたいにへし折り、小傘を情け容赦なく押し潰し、ダメ押しとばかりに炸裂した。星屑めいた光の欠片が飛び散ったのは、弾幕ごっこの名残だろうか。白煙が舞い上がり、くぐもった音とともに木が崩れ落ち、小傘の安否を完全に闇の中へと消し去っていく。

 

「……」

 

 頭が痛い月見をよそに、霊夢は渾身のガッツポーズだった。

 

「やったぁっ! これでお昼ごはんはご馳走ね!」

「…………」

 

 どうしてくれよう、この状況。

 図らずも小傘にお帰りいただくという月見の目的が果たされた気もするが、そんなことを気にしている場合ではない。

 

「……とりあえず、温泉にでも入っておいで。私は準備をするから」

「そうねっ。楽しみにしてるわね!」

 

 一旦霊夢を連れて玄関へ向かい、妖術で閉ざしていた戸を開ける。そして霊夢がうきうきと温泉の方へ消えていったのを確認し、重苦しくも踵を返す。

 ともかく、安否確認くらいはするべきだろう。

 幸い折れた木に潰されるようなこともなく、小傘は両目をぐるぐる巻きにして気絶していた。服がいい感じに焦げている以外で外傷はなさそうだが、傘はあちこちがバキボキ折れていて見るも無残な有様だった。目玉が『×』になっている。

 

「……おーい」

 

 月見は小傘の肩を軽く揺する。う~ん……と唸る声が返ってくるものの、目を覚ますには至らない。

 もう面倒くさいので、ほっぺたをむいーっと引っ張った。

 とてもよく伸びた。小傘が跳ね起きた。

 

「い、いたたたたたっ!? ご、ごめんなさいごめんなさいもうしませんっですからさでずむはやめ――って、あれ?」

「おはよう」

 

 小傘は元気だった。特に痛みを抱えた様子もなく目を白黒させた彼女は、根本から折れた木とボロボロになった自分の傘を見て、呆然と両の肩から力を抜いた。

 

「あ……私、いきなり巫女に攻撃されて……」

「……ああ」

 

 怒られるだろうか、と月見は少し身構える。確かに小傘は月見をストーキングしたが、言ってしまえばそれだけで、特別なんらかの害を与えたわけではない。なのに夢想封印を叩きこまれたなんて濡れ衣もいいところだし、小傘がそれで怒るのであれば、自分に反論する余地はないのだと。

 甘かった。多々良小傘というできたてホヤホヤの付喪神は、月見の予想を全力疾走で斜め上へと飛び越えていった。「そうですか……」と深く項垂れ、暗く沈んだため息をついて、

 

「ということは、私はあなたの弟子にはなれないのですね……」

「……うん?」

「いいんです、わかってますから。今のは私の実力を試すテスト。『この程度の攻撃でやられるようじゃあ俺の弟子なんざ百年早えぜ』ということですよね?」

 

 なにを言ってるんだろうこの子。

 

「不意を衝かれたとはいえ未熟でした。失望させてしまいましたよね……」

「いや、お前は一体なにを」

「ですが、ですが私は、それでも諦めきれません……! お願いです、もう一度だけチャンスをください! 一生懸命修行して、貴方様のお目に適うよう強くなってみせますからっ!」

 

 わかった。さっき夢想封印を喰らった衝撃で、もともと緩んでいた頭のネジが吹っ飛んでしまったのだ。なんてことだ、と月見は胸の中で涙した。そうやって現実逃避をした。

 小傘が力いっぱい震える拳を作り、燃える瞳で月見を見つめた。

 

「修行してきます! 今の攻撃を打ち破れるほど強く……! あんな巫女に負けないほど強くっ……! ですからその暁には、どうか今一度、私を弟子にすることをお考え直しくださいませ!」

「いや、あのな? 人の話を」

「私、負けませんっ……! 必ず強くなって、貴方様から人をおどかす極意を教わってみせます!」

「だから、話」

「差し当たっては、あの攻撃を打ち破るためにはどんな修行がいいか……あ、いえいえ、この程度の問題は自力で解決しないとなりませんよねっ。わかりました、私なりの方法で強くなってみせます!」

「……」

 

 もう疲れていた。

 小傘はすっくと立ち上がり、月見に向かって深々と頭を下げた。

 

「それでは失礼しますっ。次にお会いするときには、生まれ変わった私をお見せいたします……!」

 

 もう疲れていた月見は、なにもかもがどうでもよくなって、

 

「……うん、まあ、あれだ。ほどほどにな? いろいろと」

「はいっ! では、ありがとうございました!」

 

 ──ああ、純粋無垢で一生懸命すぎるが故に音の速さで道を踏み外した弾丸少女は、一体どこに向かおうとしているのだろう。

 決まっている。一周回って元の場所に戻ってきて、それを延々と繰り返すだけだ。

 小傘の背を見えなくなるまで見送り――断じて思考停止し石化していたわけではない――、月見は今回の騒動を、この一言を以て終結させた。

 

 ――恐るべし、多々良小傘。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第90話 「草の根妖怪ネットワーク・抜け首編 ①」

 

 

 

 

 

 一年のうちでどの季節が好きかと問われれば、月見はやはり秋と答える。

 なんといっても、過ごしやすい。これに勝るものはない。夏ほど暑すぎず冬ほど寒すぎず、秋晴れ空の爽快さといったら訳もなく散歩に出掛けたくなるほどだ。おまけに紅葉は美しいし、食べ物は美味しいし、完全無欠とはまさにこのことではないか。

 

「……本当に、いい季節だよなあ」

 

 水月苑に架かる反橋の上からぐるりと見回してみると、改めて月見はそう思わざるをえない。水月苑を囲む山の木々はもちろんのこと、もともと美しかった庭の景観が、紅葉によってまさに息を呑むほどまで深まっている。空は申し分のない快晴で、耳を澄ませば秋風とともにささやく木々の声、池に流れ込む川のせせらぎ、ぴちょんとどこかで魚が跳ねた音。ついついため息が出てしまう。

 水月苑を見る。

 もちろん、はじめはいろいろと悩むことも多かった。一人暮らしの家としては明らかに大きすぎるし、温泉なんかがついているせいで温泉宿をやる羽目になるし、普通の家でいいと再三念を押したにもかかわらずこんなものを造りあげてしまった藤千代たちの身勝手さには、何度ため息をついたかも覚えていない。

 けれど、なんだかんだで。

 広すぎる屋敷は咲夜や藍をはじめとする少女たちのお手伝いで綺麗に保たれているし、温泉の利用客はみんな常識的に楽しんでいってくれるし、庭は妖夢と幽香の徹底的な管理で美しく輝いているし。

 そして、知人友人があちこちから気軽に集まり、笑ったりなんだり気ままに騒いで、月見を退屈させてくれない場所。

 こんな素晴らしい屋敷を持てた月見は、感謝するべきなのだろう。

 今日も佳き一日になりそうだと、そう思う。

 

「さて、そろそろ行こうかな」

 

 つい秋の絶景を前にして考え込んでしまったが、月見はもともと散歩に行こうとしていたのだ。せっかくこんなにも清々しい天気なのだから、紅葉で染まった森の中を行くのもよいと思って、空は飛ばず、月見はのんびりと歩き出す。

 

「……ん?」

 

 その間際、視界の端をなにかが掠めた。

 それは、水月苑の池をぷかぷか浮かんで漂っていた。サッカーボール程度の大きさで、大きなリボンのようなものをつけている。今はもう夏の話だが、川で涼を取っていた河童が、惰眠を貪っているうちにここまで流されてくるなんてことがあった。

 それと似たような手合いかと月見が目を凝らしてみると、

 

 後頭部であった。

 より詳しくいえば、生首であった。

 

「……、」

 

 月見は絶句した。目の前の光景が意味している事実を、察しつつもすぐには呑み込むことができなかった。

 しばらくの間、小鳥だけが鳴いていた。

 ようやく細いため息をつき、月見はゆっくりと天を振り仰いだ。澄み渡る秋の青空が、なにかの皮肉のように思えてきた。妖怪に襲われた人間の成れの果てか、もしくは妖怪同士の縄張り争いの成れの果てか――どの道あれでは生きてはいまい。

 まぶたを下ろし、呟く。

 

「……墓を作らないとな」

 

 わかってはいたはずだ、皆が皆争うことをやめた平和思考な妖怪ばかりではないと。無縁塚だけに限らず、それは妖怪の山でも同じであると。むしろ、今までこうした光景と出くわさない方が不思議なくらいだったのかもしれない。

 生来獣故か勘は悪くない方なのだが、やはり当たらないときは当たらないようだ。

 今日は辛抱の一日になるかもしれない――そう唇を噛み締めながら月見は顔を上げ、

 

『ガボガボ』

「……は?」

 

 再び絶句した。

 生首が、あぶくを上げている。まるで生きているかのように。いや、生きていないのだったら起こるはずのないことだが、しかしいくら妖怪でも生首だけになってまで生きているとは考えづらい。すわ物の怪の類かと――他でもない自分自身が物の怪なのに――思いかけたところで、はっと気づいた。

 

「――そうか、抜け首か」

『ガボガボガボ!』

 

 抜け首――中国の妖怪『飛頭蛮』の流れを汲む、首が胴体から分離し飛び回ると伝えられる妖怪だ。その性質から『ろくろ首』と同一視されることが多いが、元は別々の妖怪で、それどころか抜け首が原型となってろくろ首が生まれたとさえいわれている。月見が狐の祖、そして藤千代が鬼の祖であるなら、抜け首はまさにろくろ首の祖。天狗や河童と比べれば地味な知名度とは裏腹に、幻想界隈ではさりげなく大きな役割を果たした妖怪なのである。

 

「……なるほど、そういうことか」

『ガボガボゴボガボ!?』

 

 月見は胸を撫で下ろした。なにゆえ首だけが池で浮かんでいるのかは不明だが、ともかくあれが抜け首であれば、月見の心配はまったくの杞憂だったことになる。どうやら、今日はつくづく勘の当たらない日であるようだ。まったく、こんな朝っぱらから随分と人騒がせな妖怪で

 

『ガボガボガボゴボガボガボゴボガボッ!!』

 

 月見は慌てて生首を救出した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……いやはや、お陰様で命拾いをしました。ありがとうございます」

「いや、むしろすまなかったね。もっと早く助けるべきだったろうに、つい驚いてしまって」

 

 生首は案の定抜け首であり、嘘みたいに真っ赤な髪に大きなリボンの女の子であり、名を赤蛮奇といった。体がないので想像だが、見た目は霊夢や魔理沙と同い年くらいの少女で、実際の身長もそれくらいだと思われる。人に紛れて生きるろくろ首の始祖らしく、人里の外れに居を構え、里人のふりをしてこっそりと暮らしている妖怪だという。

 赤蛮奇の頭がかすかに動いた。どうやら首を振ろうとしたらしい。

 

「庭の池に生首が浮いていれば仕方のないことと思います。あまりお気になさらずに」

「そういってもらえると助かるよ」

 

 溺れたショックで喜怒哀楽を忘れてしまったかのように、顔の筋肉は無表情からぴくりとも動かない。その静かな見た目に背かずとても落ち着いた話し方をする少女で、月見は真っ当に感心した。先日に多々良小傘という強烈すぎる付喪神と知り合い、そして今朝の池を漂う生首と来たものだから、また変な妖怪が出たんじゃないかと不安に思っていたのだ。久し振りに、常識的でまともな妖怪と出会えた気がした。

 そんな赤蛮奇の首を、タオルを敷いたテーブルの上に置き、月見は妖術で風を送って、彼女のびしょ濡れの髪を乾かしてやっていた。そういう妖怪とはいえまさか生首の髪を乾かす日がやってこようとは、夢にも思っていなかった月見である。人目を避けるため茶の間の襖をすべて閉じ切っているが、誰かに見られでもしたらとんでもない誤解をされそうだ。

 赤蛮奇が、「むむむ」とふかふかのタオルの上で唸った。

 

「とてもお上手ですね。やはり温泉宿の旦那様となれば、お客の髪を乾かすことも多いのでしょうか」

「まあ、一部の知り合いなんかはね」

 

 名前を挙げれば、輝夜とフランが特に。お陰様で、腕前には多少自信がある。

 

「赤蛮奇は、人里で暮らしてる妖怪らしいけど」

「ああ、そんなご丁寧にお呼びくださらなくても結構ですよ。長くて呼びづらいですからね、親しみを込めてばんきっきとお呼びください」

「……」

「冗談です」

 

 おかしい。確か月見の勘によれば、久し振りにまともで常識的な妖怪と出会えたはずではなかったか。まさかまたそっち系の少女なのか。小傘に続いて二回連続なのか。幻想郷の妖怪はそんなばっかか。

 

「話を戻しますと、確かに私は人里で生活しておりますが」

「ああ、ええと」

 

 月見はひとまず判断を先送りにし、

 

「私も人里にはよく行ってるけど、今が初対面だよなと思って」

 

 もちろん月見とて、人里を隅から隅まで知っているわけではないし、住人を一から十まで記憶しているわけでもないが、その点赤蛮奇はとても特徴的な容姿をしている。抜け首だし、髪は綺麗な赤色だし、霊夢にも負けない大きなリボンを――今は髪を乾かしているので外しているが――身につけている。たとえ直接会わずとも、姿を見かけさえすればそれだけで記憶に焼きつくだろう。

 首だけで赤蛮奇は器用に頷いた。

 

「ええ、旦那様とお会いするのははじめてになります。もっとも、そのお噂は幾度となく音に聞いておりますが」

「……そうか」

「こんなナリの妖怪ですからね、あまりおおっぴらに里を歩くわけにもいかないのです。首が取れて子どもに泣かれること数知れず、ご老人の中には卒倒し仏になりかける者もおりました。……もちろんカモフラージュはしているのですが、何分私、取れやすい体質でして」

「それはまた、難儀だね」

 

 曰く、ちょっと肩がぶつかっただけでも危ういとのこと。そこまで行くと、首を胴体から切り離すことのできる抜け首というよりかは、元々切り離されているデュラハンあたりが近いような気もする。里でふとした拍子に首が落ちてしまい、近くの老人が泡を吹いて成仏しかけたという事件を経て、彼女は必要以上の外出を控えるようになったのだそうだ。

 

「驚かれること自体は、私も妖怪なので喜ぶべきことなのですが。ただ、それで里に居づらくなってしまっては困りますので」

「なるほどね」

 

 月見は納得した。そうであれば、不意の事故で首が池に落ちてしまったとしても不思議では――いや、やはり不思議だ。近くに赤蛮奇の体はなかったし、だから彼女は今、首だけの姿で月見に髪を乾かされているのだ。ふと立ち寄った際に落としたわけではなく、それなりに離れたところから首だけが飛んできた、もしくは流れてきたということになる。この子に一体なにがあったのだろうか。

 

「それで、あまり外を出歩かないお前がなぜここの池に?」

「……」

 

 沈黙、

 

「……赤蛮奇?」

「あ……申し訳ありません。実は、そのあたりの経緯はよく覚えていなくて」

「覚えていない?」

 

 ええ……と赤蛮奇は首だけで俯く。

 

「今日は大変いいお天気でしたので、友人に会いに行こうと思い颯爽と家を出たところは覚えています。それがどうしてあのようになってしまったのか……ひょっとするとこれが、事故による一時的な記憶の混乱というものでしょうか。本で読んだことがあります」

「……そうかもね」

 

 顔はあいかわらずの無表情なのに、今は少しだけ楽しそうに見えた。

 

「貴重な体験ができたのは喜ばしいのですが、少し困りました」

「体がどこに行ったかだろう?」

「はい」

 

 抜け首は首と胴体が完全に分離する妖怪と思われがちだが、実はそうではない。一見するとそう見えるというだけの話で、本当はしっかりと糸でつながっている。それは精神、或いは魂といった類のもので形作られた目には見えない糸であり、だから世の抜け首たちは、頭が胴体から落ちてしまっても自分で拾ってつけ直すことができる。首が伸びる妖怪ことろくろ首も、本当に首が伸びているわけではなく、頭と胴体をつなぐ魂の糸が彼らの場合は目に見え、かつそれが首のように見えてしまっているというのが真実なのだ。

 そんな抜け首諸氏にとって生命線ともいえる魂の糸だが、もちろん伸びる範囲には限界があり、胴体から離れすぎるとプツンと切れてしまう。そうなるといよいよ脳の命令が胴体まで届かなくなってしまい、結果、動き回る生首と動かなくなった胴体の二つができあがる。

 つまりは今、幻想郷のどこかで、司令塔を失った赤蛮奇の胴体が首なし死体のように転がっているのだ。

 

「それほど離れていなければ、なんとなくどこにあるかを感じ取ることはできるのですが……少し離れすぎてしまっているようです。何事もなければいいのですが」

 

 死体と間違われて埋められてしまうかもしれないし、発見者次第では喰われてしまう可能性もありうる。嘘か真か、抜け首はしばらく胴体に戻らないでいると死んでしまうという。

 

「助けていただいたお礼もできていませんが、申し訳ありません、このあとすぐ捜しに行こうと思います」

「そうだね。そうした方がいい」

 

 月見は妖術で生み出す風を強めながら、

 

「……捜すの手伝おうか? その状態で一人で捜すのも大変だろう」

 

 飛び回れるから移動には困らないとはいえ、手足もないとなればかなり不自由のはずだ。胴体を捜す上でもそうだし、もし途中で誰かに襲われでもしたらなぶり殺しにされてしまう。

 赤蛮奇の頭がもぞもぞと動いた。多分、月見の方を振り返ろうとしたのだと思う。

 

「……よろしいのですか?」

「もちろん。このままだと気になって散歩もできそうにないしね。用心棒程度の役には立つよ」

「なるほど、一理ありますね。確かにこのままでは、誰かに襲われたとしてもほとんど抵抗すらできません」

 

 水月苑から見送ったのが彼女の最期の姿だった、などとなってしまっては月見としても大変目覚めが悪い。そうでなくとも、ちゃんと体を見つけられたのか気になって気になって夜も眠れなくなりそうだ。明日の朝を清々しい心で迎えるため、彼女に力を貸すのは吝かでないのである。

 

「では、厚かましくもご協力いただいてよろしいでしょうか」

「ああ。それじゃあ、ちゃっちゃと乾かしちゃうよ」

「はい」

 

 妖術の風を更に強め、月見は急いで、しかし決して乱暴にはせぬよう細心の注意で手を動かす。

 その後リボンを付け直すところまでやったところ、「本当にお上手ですね……プロの犯行です」とよくわからない方向で感心された。

 フランの髪を乾かすとき、ついででサイドテールを作るところまでやっている成果だと思う。たぶん。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まず月見と赤蛮奇は、池に流れ込む川の流れを上流へ辿ってみることにした。意外と川幅のある小川のため、夏の間はよく、上流で昼寝をしていた河童がそのまま流されてくることもあった。それを考えれば今回の赤蛮奇もやはり、川上でひょんなことから転落してしまい、首だけが水月苑まで流されてきたのではないか。この川のどこかで、赤蛮奇の体がひっかかっていたとしてもおかしくはない。

 川の真上を飛びながら目を凝らす月見の横で、生首少女もふよふよ浮遊しながら目を光らせている。生首と一緒に空を飛んでいる自分の姿は、傍目から見るとどのように映るのだろう。幸いにも、いつも山を哨戒している下っ端天狗とはまだ出くわしていない。

 赤蛮奇が細いため息をついた。

 

「むう、しばらく登ってみましたがなにもありませんね。やはりそう簡単には行きませんか」

「そうだね」

 

 強いて言えば、頭にデカいたんこぶをつけた河童が一匹ぷかぷかと流されていったが、幻想郷ではよくある光景である。

 

「なにか思い出したことは?」

「いえ……ですが、なぜでしょう、先ほどから頭が少し痛みます。記憶が失われても、体が覚えているのでしょうか。このあたりでなにかがあったのだと」

 

 月見はいま一度眼下を見下ろす。このあたりは森が開けていて見晴らしと風通しがよく、川縁の勾配もなだらかである。足を滑らせて川に落ちる、なんてことはなさそうだが。

 

「そちらの式神はどうですか?」

「いや、こっちもまだ特には。……捜し物をするには範囲が広すぎるからね」

 

 赤蛮奇の記憶喪失がとにかく痛い。どこで胴体と離ればなれになったのかがわからない以上、捜索範囲はこの山と、人里からここへ至るまでの土地全体にまで及ぶ。言葉にするだけなら簡単だが、それだけで幻想郷の総面積の三割ほどにはなるはずだ。飛ばした式神もとりあえず手元にあった数十程度でしかなく、捜索範囲を隈なくカバーするのは不可能に近い。

 それに、赤蛮奇の体が必ずしも見える範囲に隠れているとは限らないのだ。死体と間違われて持ち去られてしまった、埋められてしまった、あらゆる可能性が否定できない。目の数だけに頼った戦法では危険である。

 

「……よし、じゃあやり方を変えてみようか」

「と、言いますと?」

「この先に河童の里があるから、そこで聞き込みをしてみよう。もしかしたらなにか知ってるやつがいるかも」

「なるほど。妙案です」

 

 変な噂が立ちそうなのであまり人と会いたくはないのだが、四の五の言ってはいられまい。躊躇している間に手遅れになる可能性だってあるのだ。このあたりの捜索を式神に任せ、月見は生首とともに飛んでいく。

 (つつが)なく聞き込みができればベストだが、まあ無理だろう。

 なのでどうか、聞き込みの目的だけは最低限果たせられますように。

 

 

 

 

 

 

「――つ、月見っ……! そうだよね、月見も妖怪だから生首飛ばして散歩したくなるようなバイオレンスな気分のときだってあるよね!? 大丈夫っ、私は月見の味方だよ!」

「いや、これは」

「ばあ~っ」

「ひょおおおおおおおおいっ!?」

 

 そしてにとりは池に落ちた。

 にとりに体当たりをしておどかした赤蛮奇が、首だけではあるがえへんと胸を張るような仕草をした。

 

「やりました」

「なにやってんのお前」

 

 にとりは浮かんでこない。

 

「人間をおどかすと里にいづらくなってしまう可能性がありますが、妖怪はその限りではありません。せっかくなのでおどかしてみました」

 

 余計なことを。

 ようやく浮かんできたにとりが、

 

「ぶはっ!? びっ、びびびびびっびっくりしたあっ!? さてはあんた抜け首だな!?」

「ふふん、気づくのが一歩遅かったですね」

「くうっ、生首連れて歩くバイオレンス月見に気を取られてそこまで頭回んなかった……!」

 

 バイオレンス月見とは一体なにか。

 さておき、河童の里である。技術者集団の里だから近代化が進んでいるのかと思いがちだが、実際は山の恵みを存分に享受し、豊かな緑と清らかな小川にそっと寄り添う長閑な原風景である。しかし耳を澄ませば、川のせせらぎや小鳥のさえずりに混じって、どこからか金槌で金属を打つ音が聞こえてくる。にとり曰く、技術と自然は共存できるんだよ! という。

 今日もたくさんの河童が水浴びして遊んでいる里一番の池から、にとりはようやくのろのろと這いあがった。河童の技術で撥水加工を施しているのか、服が見事に水を弾いている。

 

「うー、してやられたー。どうせおどかすならみんなまとめてやってよ、なんで私だけ……」

「ナイスリアクションでした」

「ふーんだ」

 

 空飛ぶ生首に尻込みしていた周りの河童たちが、ただの抜け首というオチにほっと胸を撫で下ろしている。見事におどかされて悔しいにとりは、ちょっぴり不機嫌な目で赤蛮奇を見返す。

 

「で、抜け首が私らの里になんの用? おどかすんならよそでやってよ」

「実は、ちょっと困り事でね」

 

 この生首少女に喋らせると話がこじれそうな気がしたので、すかさず月見が事の経緯を説明した。今朝、水月苑の池に赤蛮奇がいきなり生首で浮かんでいたこと。どうやら胴体と離ればなれになってしまったらしいが、彼女は記憶が混乱しておりなにがあったのか思い出せないでいること。なので胴体捜しをする一環で、ここまで聞き込みにきてみたこと。

 

「抜け首の体ねえ……首がここにあるってことは、その体はいま首なしなわけだよね。私はそんなの見てないなあ」

「そうか……」

 

 にとりは池周辺の仲間たちに向けて、

 

「みんなーっ、今日このあたりで首なし死体見た人いるー?」

「首なし死体ではありません、新鮮ぴちぴちのまいぼでぃです」

 

 にとりは笑顔で無視した。

 周りの河童たちもみんな揃って首を傾げるばかりで、それらしい返事は返ってこない。にとりが肩を竦め、

 

「狭い里だしさ、そんなの見かけたやつがいたらすぐ話題になるよ。というわけで、ウチらへの聞き込みは空振りじゃないかなー」

「むむう……一体どこへ行ってしまったのでしょう、まいぼでぃ……」

「聞き込みだったら、私らより天狗にした方がいいんじゃないの? 山中飛び回ってるんだし」

「……天狗かあ」

 

 月見は渋い顔をした。にとりの意見はもっともなのだが、

 

「新聞に変なこと書かれそうだなあ」

 

 中には文をはじめ、記者としてのプライドを持って新聞作りに打ち込んでいる者もいるが、そんなのは圧倒的少数派で、ほとんどにとっては所詮趣味の域を出ていない。故に天狗の新聞というものは、如何に正しい情報を正しく伝えるかよりも、語るに易く聞いて楽しいようしばしば脚色される傾向にあることを、月見は春の新聞選びで実感していた。生首を従えて出歩く妖怪、なんていかにもあいつらが好きそうな話ではないか。向こうから見られてしまうのは仕方ないとしても、こちらから見られに行くのは少し気が引ける。

 

「にゃはは、それは月見の人徳次第だよ。月見ならありえるかも……! なーんて思われちゃったら、明日の一面はきっとバイオレンス月見だね」

 

 人徳関係なく、あいつらなら面白半分であることないことをでっちあげそうだが。

 しかし、生首少女の方はすでにやる気満々になっていて、

 

「なるほど、素晴らしいご意見です。旦那様、早速向かってみましょう」

「……了解」

 

 月見は心の中で首を振り、悪い考えをそっと奥の方へ押しやった。かっけらかんとした赤蛮奇を見ているとつい失念してしまうが、今が彼女の命にも関わりかねない緊急事態だということを忘れてはならない。それが赤蛮奇を助けることにつながるのなら、月見は私情を押して最善を尽くすべきだ。なにかあったときに後悔するのは、どうせ自分自身なのだから。

 出発しようとした月見たちの後ろ姿を、にとりがふと呼び止めた。

 

「あ。そこの生首、ちょっと待った」

「生首ではありません、私は赤蛮奇で――むむ?」

 

 彼女は藪から棒に赤蛮奇の頭を抱え込み、にいっと大胆不敵に笑って、

 

「――よくもさっきはおどかしてくれたなあああああっくらえええええええええ!!」

「おうっ!?」

 

 そのままトライを決めるラグビー選手よろしく、どっぱーんと池に飛び込んだのだった。

 ……ああ、また髪を乾かす手間が。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……いやはや、一日に二度も池へ落下し、その両方で殿方に髪を乾かしていただけるとは。貴重な体験です。人生経験がみるみる豊かになっています」

「……よかったね」

 

 さらさらヘアーを取り戻したプラス思考な生首を連れて、月見は再び山の空を飛んでいる。ただしあまり人に見られたい状態でないのは変わりないので、飛んでいるのは木々の上ではなく森の中である。もちろん、転がっている赤蛮奇の体を偶然見つけられるのではというほのかな期待も込めている。

 できれば誰にも出会うことなく天狗のところまで行きたかったのだが、たくさんの人外が暮らす山でまさかそんな都合のいい話があるはずもなく、行く手の木の枝に一人の少女が腰掛けていた。服を見ただけで一発で誰だかわかった。

 

「おや、雛だ」

 

 月見は少し安心した。厄神の鍵山雛は、月見が知る人外の中では指折り常識的で話のわかる少女だった。紫と違ってはっちゃけていないし、萃香と違って飲んだくれではないし、レミリアと違ってプライドが高くもなく、キスメと違って変な性格でもなく、小傘と違って思い込みが激しくもない。また椛のように、一見まともに見えながらも最近怪しい趣味を――主に操によって――開発されつつあるわけでもない。個性あふれる幻想郷の住人の中では地味かもしれないが、それ故に月見にとっては、数少ない清涼剤的な友人なのだ。

 彼女なら、今の月見を見ても変な誤解をすることはあるまい。せっかくなので赤蛮奇の体を知らないか訊いてみようと思い、

 

「おーい、雛、」

 

 声が届くくらいの距離になったところで、ようやく気づいた。あの少女、木の枝に腰掛けたままうつらうつらと舟を漕いでいる。

 胸の空くような秋晴れの昼日中である。日差しはぽかぽかと暖かく、風は涼しく爽やかで、葉擦れの音は子守歌のように優しく心地よい。なるほど確かに、この大自然に抱かれればまどろんでしまうのも仕方ないかもしれない。

 

「お昼寝してるみたいだね。邪魔しちゃ悪いかな」

「そうですね」

 

 そう言って月見は足を止めた。赤蛮奇は軌道を斜め上に修正し、雛めがけてふよふよと飛んでいった。

 ……ん?

 

「どうした? なにか見つけたか?」

 

 赤蛮奇は平然と、

 

「せっかくなのでおどかします」

 

 おいコラ。

 月見が止める間もなく、赤蛮奇はまどろむ雛のお腹にぽすんとアタックをした。目を覚ました雛が、「ひゃっ」と小さな悲鳴をあげてソレを受け止める。お腹のところを見下ろせば、そこにあるのは当然少女の生首である。

 三秒、

 

「――ばあ~っ」

「ぅきゃああああああああああっ!?」

「ぉぼふっ!?」

 

 雛が赤蛮奇を木の幹に叩きつけた。そしてその拍子にバランスを崩してしまい、

 

「あっ、」

 

 後ろにひっくり返って真っ逆さま。月見はすぐに尻尾を伸ばし、雛の体にくるりと巻きつけて受け止めた。

 

「つ、月見……っ!」

 

 地面に下ろされるなり、彼女は月見の腕を掴んで涙目で、

 

「お、おばっ、おおおっおばっおばばっおっおばけっ」

 

 そりゃあ、目を覚ましたらお腹のところに生首があったとなれば、誰だって死ぬほど驚く。月見は雛の肩を叩いて、

 

「大丈夫だよ雛、あれは抜け首だ」

「ぬ、ぬけくび」

「ああ。……おい赤蛮奇、いたずらも大概にしてくれ」

「うぐぐ……人を呪わば穴二つ。なかなかの一撃でした……」

 

 赤蛮奇が、墜落寸前のUFOみたいになりながらふらふらと下りてくる。おでこが見事なくらい真っ赤になっている。それ即ちこの生首が肉体を持っているということであり、決してオバケの類ではないことの証明である。

 ようやく事態を飲み込んだ雛は、

 

「……び、びっくりしたあああああ……」

 

 へなへなと脱力し、その場にがっくり座り込んでしまうのだった。

 

「大丈夫か?」

「しぬかとおもったあああああ……」

「ナイスリアクションでした」

「……ぐすっ」

 

 赤蛮奇に謝罪をさせつつ、先ほどのにとり同様、月見が事のあらましを説明する。そしてこのあたりで首のない体を見かけていないか尋ねるのだが、雛からの返事は芳しくなかった。すっかりご機嫌ナナメな彼女はぷいとそっぽを向いて、

 

「知らないわよ、そんなの。首なし死体なんて見かけたら絶対覚えてるはずだし」

「いえ、首なし死体ではなく新鮮ぴちぴちのまいぼでぃで」

 

 雛は無視した。

 

「まったく……あいかわらずあなたのところには、変な妖怪ばっかり集まるんだから」

「……ははは」

 

 多々良小傘の姿が脳裏を過り、咄嗟に否定できない月見である。

 

「……ともかくそういうわけだから、もしそれらしい首なし死体を見かけたら、埋められたり食べられたりしないよう計らってくれると助かるよ」

「ですから首なし死体ではなく」

 

 月見は無視した。

 

「ほら、行くよ」

「む、そうですね。事態は一刻を争います」

「もぉ~、せっかく気持ちよくお昼寝してたのに……」

「すまなかったね」

 

 ここまで来れば、さすがの月見ももう諦めている。はじめは珍しくまともな子かと思ったが、赤蛮奇もまた間違いなくそっち系(・・・・)の妖怪だ。紫や小傘同様、思うがままやりたいように爆走して人を振り回すタイプ。この生首少女もやはり、個性豊かな幻想郷の妖怪たちの一員なのだ。

 こうして月見がついてきて正解だった。そうでなければ空飛ぶ生首の噂が山中を駆け巡り、博麗の巫女が妖怪退治に派遣されていたかもしれない。

 

「……あ、そうだ。ちょっと待ちなさい、そこの生首」

 

 一足先に次の目的地へ飛んでいこうとした赤蛮奇の背――もとい後頭部を、雛が呼び止めた。「生首ではありません、私は」と反論する生首に構わず、彼女はにっこりと微笑んで、

 

「あなたからとても『厄い』においがするわ。体をなくしただけでも大変だけど、これからもっと災難に遭うかも」

 

 月見はだんだん自信がなくなってきた。このままこの生首少女に付き合い続けて大丈夫なのだろうか。もしかすると、今すぐ屋敷へ引き返しのんびりと一日を過ごすべきではないのか。

 

「それはおどかされた仕返しとか、お前の厄の影響とかではなく?」

「ではなく。月見、あなたにもとばっちりが行くかもね」

「……」

「見捨てないでください、旦那様」

 

 半目で赤蛮奇を見たら、うるうるとした眼差しを返された。あざとい。

 

「しかし、厄ですか。まさかあなたは……」

「ええ、厄神よ」

「なんと、恐ろしい御方から恐ろしい宣告を受けてしまいました。旦那様、もしこのまま体が見つからず私が息絶えてしまったら、灰はここの山頂から大空に向けて撒いてください。そして、霧の湖のわかさぎ姫、迷いの竹林の今泉影狼という妖怪に伝えてください。赤蛮奇は立派に生き、立派に死んでいったと」

「なあ、帰っていいか?」

「見捨てないでください、旦那様」

 

 月見はため息。

 

「……とりあえず、もう誰かをおどかすのはこれっきりにしてくれよ?」

「了解しました。ここからは真面目に捜しましょう」

「ここからは?」

「滅相もございません、もちろん今までも真面目でした」

 

 なんだろう、まるであの釣瓶落としと話をしているかのようなこの感覚は。もちろん、ある程度ちゃんとした会話が成り立つだけこちらの方がずっとマシだが、それでも月見は少し疲れてきてしまった。その上「これからもっと災難に遭う」かもしれず、「月見にもとばっちりが行くかも」しれないのだ。やっぱり、今日は辛抱の一日になるのかもしれない。

 そのときふと、月見の頭の中で、ぷつりと糸が途切れたような感覚。

 

「……む」

「どうされましたか?」

 

 月見は麓の方角を振り返る。また頭の中で糸が切れる。

 この感覚は、

 

「……式神が誰かに潰された」

「……なんと」

 

 麓の方を飛び回らせていた式神が、少なくとも二枚やられた。視覚共有はしていなかったので、誰の仕業なのかはわからない。ただわかるのは、飛燕の如く飛び回る式神を仕留められるほどの手練れということだけ。そんじょそこらの妖怪ではない。

 またぷつり、

 

「……ちょっと様子を見に行こう。結構なペースでやられてる」

「まさか、これは私の体捜しを妨害する刺客の仕業でしょうか。私の体はすでにその者の手中に落ちている……?」

 

 真相は不明だが、不明だからこそ、確かめに行った方がよさそうだ。

 

「……えっと、なにかあったの? 引き留めてごめんなさい、もしそうなら早く行った方が」

「ああ、悪いけどそうするよ」

「あ、旦那様、申し訳ないのですが首だけの状態で速く飛ぶのは難しく」

 

 月見は赤蛮奇の首を小脇に抱え、一息で飛び出した。また、頭の中で式神との回線がひとつ途切れる。そこからおおまかな場所を見当づけて、月見は滑るように山を下っていく。

 ようやく、なにかしら手掛かりを得ることができるかもしれない。

 さっさと赤蛮奇の体を見つけて、月見も昼寝がしたい気分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第91話 「草の根妖怪ネットワーク・抜け首編 ②」

 

 

 

 

 

 月見が山を下る間も、式神の反応はぽつぽつと消え続けた。

 ここまで来れば、やはり何者かが、はっきりとした意思を持って式神を潰しているのは明らかだった。あちこち飛び回る式神を、一匹一匹見つけ出して丁寧に破壊する――そんな真似をするのは式神に飛び回られると都合の悪い者か、よほどの暇人のどちらかしかありえない。行方知れずとなっている赤蛮奇の体が関わっている可能性は、決して否定できないのではないか。

 それにしても、犯人の手際のよさと言ったら大変見事の一言に尽きた。式神を通してその姿をひと目見ようとしているのだが、途轍もない速度で死角を取られ、男か女かすらわからぬままあっという間にやられてしまう。結局、これだったら自分の目で確かめた方が早いと断念し、月見はひたすら山を下ることに集中せざるをえなくなった。確実にいえるのは、よほどの手練であるということ。一応、なんらかのいざこざが起こる可能性も覚悟しておく。

 なお生首少女はこんな最中だというのに、「殿方に頭を抱えられるなんてはじめてです。これでまた人生経験が豊かになりました」と大変呑気な様子だった。泰然自若としていると褒めるべきか、能天気すぎると嘆くべきか。

 そして、山の中腹を過ぎ去った頃。

 ところで、今日は月見の勘がまったく冴え渡らない日である。よって、「赤蛮奇の体の行方を知る怪しい妖怪かも」などと考えながら山を下りれば、果たしてどうなるのか。

 怪しい妖怪どころか、射命丸文と姫海棠はたての二人組だった。生首を抱えた月見の姿に気づくなり、文は軽く眉をひそめ、はたては大きく仰け反って戦慄いた。

 

「つ、月見様っ……! そうですよね、月見様も妖怪ですから生首抱えて散歩したくなるようなバイオレンスな気分のときくらいありますよね!? 大丈夫です、これは私の心にそっとしまって痛っ」

「ばぁか」

 

 にとりとまったく同じ反応をするはたての脇腹を、文が呆れながら拳で小突いた。

 

「どうせ抜け首とかそのへんの妖怪でしょ。そうね……そいつは体をなくした抜け首で、あんたのことだから捜すのを手伝ってやってる最中ってとこかしら?」

「……おお」

 

 月見は思わず唸った。もしやこの少女、今までずっと空から見ていたのではないか。もちろん今の自分が誤解を多分に含む有様であるのは認めるが、中にはひと目で察してくれるいいヤツだっているかもしれないとひそかに期待していた。その第一号に、まさか文がなってくれるなんて。

 

「ズバリだよ。よくわかったね」

 

 文はあいかわらず、ぷいと素っ気なくそっぽを向いた。

 

「……別に。あんたに人間の生首抱えて外歩くような度胸なんてあるわけないし」

 

 はたてがにまりと笑い、

 

「へえー、なんだかんだで月見様のことよく見てるんじゃぼっ」

 

 文の鉄拳が脇腹にめりこんだ。だいぶ容赦のない音がした。

 為す術もなくうずくまってぷるぷるする同僚を、文は脇目で見ることもなく、

 

「……で? 随分急いでやってきたみたいだけど、なにか用?」

「ちょっとね。……赤蛮奇、とりあえず自己紹介。真面目にね」

「お任せください」

 

 月見は赤蛮奇の首を前に差し出す。赤蛮奇はふよふよと宙を漂いながら、

 

「はじめまして、赤蛮奇と申します。見ての通り抜け首です。親しみを込めてばんきっきとお呼びください」

 

 真面目にやれと月見は言ったはずだが――まあ及第点ということにしておく。

 その瞬間、どこか無機質な印象すらあった文の顔つきがころっと笑顔になった。

 

「はじめまして、私は射命丸文です。清く正しい新聞記者をやってます。よろしくお願いしますね、ばんきっきさん」

「おお、まさか本当に呼んでいただけるとは。感激です。……しかし」

 

 赤蛮奇は不思議そうに、

 

「先ほど旦那様とお話していたときとは人当たりが違いますね。声のトーンが見違えるほど明るくなりました」

「え? なんですか、ばんきっきさん?」

 

 文はニコニコ笑顔である。

 

「いえ、ですから、先ほど旦那様とお話していたときのどこか棘のあるあなたは一体どこに」

「ごめんなさい、よく聞こえないです」

 

 ニコニコニコニコ。

 

「……なるほど、わかりました。つまりあれは、旦那様の前でだけ見せることができる本当の自分というやつで」

「え?」

 

 ニコニコニコニコニコニコニコニコ。

 いま自分の乗っている場所が地雷の真上だと気づき、赤蛮奇は口を噤んだ。

 

「……なんでもありません。どうやら気のせいだったようです」

「もぉーばんきっきさん、突然変なこと言わないでくださいよおー」

 

 はたてがぽそりと、

 

「……ほんっと素直じゃな」

「蹴りもほしいの?」

「めっ、滅相もございませぇん!?」

 

 そうなのだろうか。月見はむしろ、文の態度はかなり素直な部類に入ると思っている。赤蛮奇が『本当の自分』と例えたがまったくその通りで、文はもともと棘のある性格なのだ。剽軽な笑顔で人懐こく絡んでくる普段の姿は、彼女が新聞記者として身につけた一種の処世術。月見だけに限らず、はたてなど付き合いのある同僚に対しては基本的に棘々しい。

 文の脚の届かないところまで飛び退いたはたてが、わたわたと慌てながら話を逸らした。

 

「とっところで、ばんきっきは月見様のこと旦那様って呼んでたけどっ!」

「? ええ、旦那様は温泉宿の旦那様ですから」

「え? ……ああ、なんだそういう……せっかくスクープかと思ったのに……」

 

 はたての言わんとしていることはなんとなくわかる。なので月見は念のため釘を刺しておく。

 

「はたて。わかってると思うけど、新聞で変なことでっちあげたりしないように」

「し、しませんよお。ってか、なんで私だけに釘刺すんですかっ。文だってやりかねないですよ、月見様を陥れるために!」

「いや、文は……そんなことしないだろう」

 

 文はすまし顔で、

 

「当然ね。事実無根の捏造をでっちあげたりなんかしないわ。それが誰かを貶めるようなのならなおさらね」

 

 結局、文は新聞記者としてはかなりまともで信用できるやつなのだ。それは、彼女の新聞を購読している者として断言していい。無論文とて他の鴉天狗と同じで、少なからずパパラッチな気質はあろうけれど、彼女の新聞には人を(いたずら)に困らせるようなタチの悪い記事などひとつもない。そうでなかったらはじめから彼女の新聞を購読したりはしていない。ネタ探しには貪欲だが、そのネタをどう扱うかの線引きはきちんと弁えているしっかり者なのだ。

 

「え、なにこの『お互いのことはいちいち言わなくてもよくわかってます』みたいな空気……。文ってさ、なんだかんだで月見様と仲良っぶなあいっ!?」

 

 文のローキックをはたてはギリギリで躱した。

 

「やっぱり蹴りもほしいみたいね」

「べっ、別にからかおうってわけじゃないってば!? あんたと月見様はもう仲直りしたんでしょ!? だったら仲がいいのはぜんぜんいいことじゃひいっ!?」

 

 また躱す。

 今の月見と文の関係がどんな言葉で表せるのかは、当の月見にもよくわかっていない。友人と呼べるほど親しいわけではないし、かといってただの知り合いというほど距離があるわけでもない。知人以上友人未満――けれどお互いのことに関しては、ひょっとすると普通の友人以上によく理解し合っている気がする。なかなか不思議な距離感である。

 まあ、そんなことは今はどうだっていい。じりじりと間合いの読み合いをしている天狗娘の間に割って入り、月見は強引に軌道修正した。

 

「で、私がここに来た理由だけどね。このあたりを飛ばしてた式が誰かにやられたようで」

「はあ? なに、これってあんたの式神だったの?」

 

 そう言って文がポケットから取り出したのは、紛うことなき月見が飛ばした人形(ひとがた)の式神だった。真ん中から縦に一刀両断され、ただの紙ぺらに戻ってしまっている。

 意外な犯人ではあったが、すぐに納得した。鳥のようにあちこち飛び回る式神を軽々無力化してみせたのは、幻想郷最速の異名を取る彼女ならではの芸当だったわけだ。

 

「そう、まさしく。それに赤蛮奇の体を捜させてたんだけど……」

「そういうこと……悪いわね、怪しい式神かと思って斬っちゃったわ」

「いや、いいよ。勝手に飛ばしたのはこっちの方だ」

 

 畢竟(ひっきょう)、赤蛮奇の体を持ち去った犯人が、悪意を持って式神を潰していたわけでないのなら、月見にとやかく言うつもりはない。

 

「ちなみに、お前たちは取材の帰りか? この子の体を見かけたりは……」

「しないわね」

「しないですね。首なし死体なんて見かけたら、次の紙面のトップニュースですよ」

 

 赤蛮奇がやはりすかさず、

 

「首なし死体ではありません。新鮮ぴちぴちのまいぼでぃです」

 

 みんな揃って無視した。文が言う。

 

「捜し物なら、椛に頼んでみたら? 千里眼持ってるから、そういうの得意だし」

「千里眼?」

「そう、『千里先まで見通す程度の能力』。……知らなかったの?」

 

 知らなかった。その使いにくさ故、己の能力を人に知られぬよう生きている月見は、誰かの能力を進んで問い質すことをしない。椛に限らず、先ほど会ってきたばかりのにとりや、他にも霊夢、妖夢、鈴仙、橙、小町など、能力を知らない知人は案外多いのだ。

 赤蛮奇の目が輝き、はたてが苦笑した。

 

「なんと、それは素晴らしいです。救世主到来の予感がします」

「椛、最近自分の能力が逃げ出した天魔様捜すのにしか役立ってないって嘆いてましたから、頼ったら尻尾振って喜ぶと思いますよ」

 

 まさに渡りに船というやつだった。月見が思い描く通りの能力を本当に椛が持っているなら、聞き込みだの式神飛ばしだのせずとも彼女を見つけさえすれば一発解決ではないか。この時間であればちょうど操を執務室に縛りつけて、一日の仕事をてきぱき運んでいる最中だろう。

 

「旦那様。これはなんとしても、その者に助力をお願いするべきです」

「そうだね」

 

 もともと高かった椛の評価を更に上方向へ修正しつつ、月見は赤蛮奇の首をまた小脇に抱えようとした。

 突然だった。

 

「――ひぎゃあああああああああああああああ!?」

 

 それは、命の危機に瀕した断末魔というより、限界を超えた恐怖と直面したときの金切り声に近かった。そして山全体に響き渡ったのではないかと疑うほどの、途轍もなく大きな叫びでもあった。

 全員がその方角を振り返る。麓の方向。恐らくそう遠くはない。

 

「だ、誰かあああああ!! 誰かああああああああっ!!」

 

 月見の脳から天狗の屋敷を消し飛ばすには、あまりに充分だった。助けを求めるその叫びが少女のものだと気づいた瞬間、月見は赤蛮奇の頭を抱えるのも忘れて飛び出していた。

 

「あっ、旦那様!」

 

 答える間も惜しかったので、月見は無視した。

 あれほどの大声、どう考えたって尋常ではない。人里から山までは子どもが歩いていけるような道のりではないし、危ないから近づいてはいけないと慧音の教育も徹底しているはず。であれば今の悲鳴の主は、人間ではなく妖怪である。しかし人外の豊かな生活圏内であるこの山で、一体どれほど奇々怪々な事件が起きれば、妖怪が金切り声で助けを求めなどするというのか。

 悲鳴が聞こえたと思しき森の中へ飛び込むと、這々の体でどこかに逃げようとしている少女を見つけた。向こうも月見に気づき、

 

「あぁ……っ! た、助け、助けてっ……!」

 

 顔面蒼白でガタガタ震えながら、月見へ必死に手を伸ばそうとする。犬のような耳を垂らしているので、やはり人ではない。月見は急いで駆け寄り少女の手を取った。

 

「大丈夫か!?」

「う、うん……!」

 

 少女が月見の腕に縋りつき、救われた表情で胸を撫で下ろした。安心したら気が緩んだのか、その双眸に湧きあがるような涙が浮かんで、

 

「うええ……! 助かったよぉぉぉ……! 怖かったよぉぉぉ……っ!」

「……なにがあったんだ?」

 

 月見も、胸を撫で下ろした。少女の体に外傷はないし、服も至って綺麗なものだ。周囲に怪しい人影もないので、誰かに襲われていたわけではないらしい。

 少女がきつく目を瞑り、自分の背後斜め上――つまり木の上――を指差した。

 

「あっあああっ、あっあれっ……!」

「?」

 

 つられてその方を見上げる。

 それから、五秒の間があった。

 

「……うわぁ」

 

 月見は、ようやくそれだけ言った。それだけしか言えなかった。

 なるほど。

 なるほど道理で、この少女が絶叫しながら助けを求めたわけだ。

 背後から声、

 

「旦那様っ! 近いです! このあたりからまいぼでぃの気配を感じます!」

 

 振り返れば、文に抱きかかえられながら猛烈な勢いで接近してくる生首。

 それをバッチリ見てしまった少女が、

 

「ふぎゃあああああおばけええええええええっ!? ――ふあっ、」

 

 遂に恐怖の負荷限界を超え、ぐるぐるおめめでぱたりと失神してしまった。

 

「おばけではありません、私は赤蛮――む、気を失ったのですか。まあ驚いてもらえたのでよしとしましょう」

「……で? 一体なにがあったわけ?」

 

 スカートをしっかり押さえながら降り立って、文が月見の背中に問うた。月見は糸が切れた少女の体を支えながら、なにも言わず、ただ『ソレ』がある場所を――今しがた少女がそうしたばかりの木の上を――ゆっくりと指差した。

 その方を見た文と赤蛮奇が、

 

「……うわぁ」

「……なんと」

 

 遅れて追いついてきたはたてが、

 

「もおー文ぁっ、速いってばー。月見様のことが心配なのはわかるけど、もうちょっとゆっ――うわぁ……」

 

 みんなドン引きだった。そうなってしまうのも仕方のない光景が、月見の指差す先には広がっていた。

 今にも動き出しそうなくらい不気味な怪樹の上で、

 曲がりくねった枝と枝の隙間に片足を引っかけ逆さ吊りで、

 大量の赤黒い液体を怪樹の幹伝いに垂れ流す、

 首のない、屍だった。

 簡潔にいえば、『木の上で首を斬り落とされたのち逆さ吊りで遺棄された、猟奇殺人の現場』だった。

 

「……まいぼでぃ……どうしてこんなことに」

 

 赤蛮奇の、胴体だった。

 

「ひぇぇ……」

 

 はたてがか細い声で身震いし、

 

「つ、月見様、あれってもしかして血じゃ」

「いや、あれは赤ワインだね」

「赤ワイン」

「そうね……ちょっと酒くさいわ、ここ」

 

 見れば怪樹の根本に、割れた赤ワインの瓶と思しき欠片が散らばっている。赤蛮奇も頷く。

 

「友人と一緒に飲もうと思っていたものですね。それが偶然割れてしまったのでしょう。……これは、ある意味で奇跡ともいえる光景かもしれません」

 

 確かに、これが意図的に作られたものでないのだったら相当だ。よりにもよって首を失った赤蛮奇の胴体が、よりにもよって妖怪みたいな怪樹の上で、よりにもよって逆さ吊りで、よりにもよって血のような赤ワインまみれになっている。わからないまま見るとひたすらホラーだが、タネがわかってしまえば感心すら覚えてしまう。凄まじいまでの偶然である。雛が言っていた『災難』とは、これのことだったのだろうか。

 

「それにしても……」

 

 なにも言えないでいる月見たちをよそに、赤蛮奇は首だけで、ちょっぴり得意げに胸を張るのだった。

 

「こんなこともあろうかとドロワーズを履いてきて正解でした。パンツじゃないので恥ずかしくありません」

 

 月見たちは、三人揃って長いため息をついた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「旦那様、大変です。体がとてもお酒くさいです」

「うん、知ってる」

 

 赤蛮奇は遂に己の体を取り戻した。一体どれだけの間逆さ吊りになっていたのかは知れないが、ともかく久し振りに両脚で地を踏みしめた体の周りを、彼女はくるくると何度も行き来して、ワインまみれである以外に変なところがないか念入りに確認している。あれで身嗜みには気を遣う方であるらしい。首の部分を覗き込んで、むむむと難しく眉根を寄せる。

 

「首もワインまみれですね。これでは戻りたくとも戻りづらいです」

「この先に川がありますから、そこで洗えるところは洗ったらどうですか?」

 

 文が、山の斜面を横切って進む方向を指差した。森に遮られてその姿は見えないが、耳を澄ませば清流の音が聞こえる。はじめに月見たちが上ってきた川だ。

 

「その間に、私がタオルでも取ってきますよ。なにか拭くものがあった方がいいでしょう?」

「おお。お願いしてもよろしいでしょうか。とても助かります」

「悪いね文、成り行きなのに」

 

 文は、自分で自分に呆れたような顔で肩を竦めた。

 

「誰かのお節介が伝染(うつ)ったのかしらね」

 

 そして軽やかなつむじ風を残して、あっという間に山頂の方角へ飛び去っていった。風が収まる頃になって、はたてが鹿爪らしく眉を寄せて唸った。

 

「月見様と文、絶対仲いいと思うんだけどなー」

「今までがひどかったから、反動でそう見えるだけかもよ」

「そうなんですかねー。でも、『余計なこと言わなくても通じる仲』って、普通に友達同士でも難しいと思うんですけど……」

 

 それは、付き合った年月の深さではなく互いの機転と洞察力で決まる関係だからだ。ナズーリンと紫がいい対比になるだろう。ナズーリンはとても聡明で機転が利くから、まだ知り合ってほんの数ヶ月の関係だけれど、出逢えばいつもとんとん拍子で話が進む。一方で紫はなにぶん天衣無縫すぎるので、付き合いは相当長いのにいつも話がしっちゃかめっちゃかする。

 他にも、前者であれば藍や咲夜、後者であれば輝夜や操など。もちろん文も、無数に積み重ねた取材の経験で鍛えられているので、頭の回転はめっぽう速い。

 体の具合を確かめ終わった赤蛮奇が、首だけで振り返った。

 

「では、私は早速行ってみようと思います。皆さんはどうされますか? 無事まいぼでぃは見つかりましたので、もうご迷惑はお掛けしません」

「ここまで来たら最後まで付き合うさ」

 

 赤蛮奇の中では、きっと体を見つけた時点で一件落着しているのだろう。しかし月見にとっては、彼女が無事家へ帰るところまで見届けなくては心配で心配で仕方がない。なんてったって彼女は、厄神様から『更なる災難』のお墨付きをいただいたばかりなのだから。雛があそこまで言い切ったのだ、まさか体がワインまみれになった程度でおしまいではあるまい。ご迷惑はお掛けせずとも、ご心配はお掛けするのである。

 はたてが首を傾げながら、よくわからないけどとりあえず、といった感じで、

 

「あ、えーと、じゃあ私も?」

「いいのかい。これから戻って新聞づくりじゃ?」

「いえ、次の新聞はもうほとんどできあがってるんですよ。まあ、取材半分ですかね。家に帰ってぼーっとするより、とりあえず足動かしてた方がいいかも、なんて」

 

 本当に元ひきこもりなのかと疑うほど殊勝な心掛けだ。この地道な努力が実を結び、はたては近頃、新聞記者としてメキメキと頭角を現してきている。恐らく文は、背後からだんだんと近づいてくる足音に焦りを感じ始めているはずだ。「殻を破った」という表現が、はたてほど似合う者も他にはおるまい。

 

「感心だね」

「えへへ」

 

 というわけで、みんな揃って移動を開始した。ぐるぐるおめめで気絶している犬耳少女も、放置していくには忍びなかったので、勝手ながら運ばせてもらうことにする。背が小さいお陰で、横抱きで簡単に持ち上げられた。

 目的地に向けふよふよ飛んで行く道中で、はたてが犬耳少女の顔を覗き込んで首を傾げた。

 

「狼……ではないですよね。犬? 月見様のお知り合いですか?」

「いや、はじめて見る子だよ。それと、たぶん山彦じゃないかな」

 

 なんとなく、だけれど。萌葱色の髪からのっぺりと垂れた斑模様の耳は、一見犬っぽく見えて犬っぽくない。犬のようで犬でない妖怪といえば、月見は山彦を思い出す。ここ数百年ご無沙汰だったので記憶がおぼろげだが、昔見かけた山彦もこんな耳を持っていた気がする。

 はたてが、その姿に見入るように数度頷いた。

 

「へえー、山彦ですかあ。私、はじめて見たかも……」

「確かに、あまり見かけない妖怪ですね」

 

 首と胴体別々で飛ぶ赤蛮奇が、別々のままで犬耳少女を覗き込んだ。胴体の方まで首と同じことをする意味はあるのだろうか。仮にこのタイミングで少女が目を覚ましたら、その瞬間に絶叫してまた失神するんだろうなと月見は思う。

 ところで。

 

「ちなみに、赤蛮奇。体は無事見つかったけど、結局なんであんなことになってたんだ?」

「……あー」

 

 赤蛮奇はぼんやりと遠い目線で、

 

「……申し訳ありません、そこまではまだ思い出せず」

「そうか……」

 

 友人に会おうと思い颯爽と家を出た、というところまでは覚えている赤蛮奇を信用するなら、

 

「会おうとしていた友人は、どこに住んでるんだ?」

「霧の湖です。名前はわかさぎ姫といいます」

 

 やはりおかしい。人里からの距離で考えれば、霧の湖は妖怪の山より手前の土地である。なにゆえ赤蛮奇は、本来の目的地である霧の湖を通り過ぎ、妖怪の山で胴体と離ればなれになったのか。そして、胴体が水辺から離れた森の中で逆さ吊りとなった一方で、首だけが水月苑の池に浮かんでいたのはなぜなのか。空を飛んでいる途中になんらかのトラブルで墜落してしまったとしても、首と胴体はもっと隣り合った場所に落ちるはずではないか。

 考えれば考えるほど不思議だ。改めて、この少女の身に一体なにが起こったのだろう。

 そうこう考えているうちに川に着いた。赤蛮奇が、首まで隠れる襟の大きなマントを脱いで、

 

「では、とりあえず手と首を洗ってきます」

「滑って落ちないようにね」

 

 ここはちょうど、山場らしく巨大な岩がごろごろ集まって険しい川辺を形成していた。もし足を滑らせでもしたら、岩に体をぶつけるわ川に落ちてびしょ濡れになるわで散々な思いをするに違いない。

 

「旦那様、私はそこまでドジではありません」

「赤蛮奇、厄神様の言葉を思い出してごらん」

「……気をつけます」

 

 赤蛮奇が注意深く首を洗いに行く間に、月見は山彦を近くの木陰に寝かせる。その隣にはたてが腰を下ろして、

 

「それにしても、この山彦も災難でしたね」

「そうだね」

 

 災難な山彦といえば、月見は夏の終わりを思い出す。志弦との早口言葉勝負にボロ負けし、月見の「東京特許許可局今日急遽特許許可却下」でトドメを刺され、泣きながら走り去っていった少女のことを。

 そういえば、あのときの山彦と目の前の少女は、なんだか声が似ていた気がする。

 

「……」

 

 ……まさかな。

 まさかそんな因果があろうものなら、運命とはまこと数奇なものである。

 少女が目を覚ました。

 

「う、う~ん……――ハッ!? こ、ここは!?」

「おはよー」

「うひゃあ!?」

 

 隣のはたてに驚いて飛びあがりかけるも、すぐ月見に気づいて、

 

「あ……あなたは」

 

 どうやらぼんやりとでも覚えていたようで、少女の強張った肩から少し力が抜けた。

 

「おはよう。気分はどうだい」

「だ、大丈夫……。あはは、ごめんね。私ったら見苦しいところを……」

 

 臆病そうな少女だが、殊のほか口振りは明るく気さくだった。彼女は照れくさそうに頬を掻き、次の瞬間真っ青になって、

 

「――そっ、そういえばあのおばけは!? 殺人現場は!?」

「うん。お前、抜け首って知ってるか?」

「え? う、うん……って、」

 

 一呼吸の間、

 

「……もしかして」

 

 月見は無言で川の方向を指差した。赤蛮奇が首だけでくるくる回りながら、「抜け首の赤蛮奇です。親しみを込めてばんきっきとお呼びください」ともはやお約束の自己紹介をした。その下で、体は体だけでバシャバシャと器用に首のあたりを洗っていた。

 山彦がへなへなと脱力した。

 

「うう、そういうことだったの~……?」

「災難だったね」

「トラウマものだよ~……」

 

 月見も、あの光景はちょっと夢に見そうだと思う。

 全身の空気が抜けるようなため息をついてから、山彦が首を振って顔を上げた。

 

「えっと、どうもご迷惑をお掛けしました。私は、山彦の幽谷響子っていいます」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「鴉天狗の姫海棠はたてです。よろしくねー」

「よろしくです。……ところで」

 

 響子は不思議そうな目で月見を見上げ、

 

「あの、月見さん。月見さんと私って、どこかで会ったことある……かな?」

 

 月見は少し考え、

 

「……いや? これが初対面だと思うけど」

「……うーん、そっかあ。なんだか月見さんの声、どこかで聞いたことがある気がしたんだけど」

 

 ひょっとしなくてもこの少女、あのときの山彦ではあるまいか。

 

「あれ、なんだろ、頭の片隅がチクチク痛むような……なにか忘れてるような……」

 

 絶対あの山彦だ。

 どうする、と月見は速やかに思考した。どうにかして話を逸らすべきか、いっそ月見の方から謝ってしまうべきか。どちらにせよ、響子がすべてを思い出せば月見はこっぴどく叱られるに違いない。はたてがいる前でそれはどうか。新聞のネタにされたりはしまいか。やはりここは話を逸らすべきか、しかし逸らすにしてもどうやって、

 事態は思いもよらぬ方向から動いた。

 

「――おうっ!?」

 

 赤蛮奇の、悲鳴には程遠い驚きの声が聞こえて、

 

「……う、うわわわわわっ!? 何事!? い、痛っ、いたたたたた!?」

 

 バサバサとけたたましい鳥の羽音。一瞬は文が戻ってきたのかと思ったが、はて彼女にはこうもやかましく翼を鳴らす趣味があっただろうか、などと思いつつ月見が振り向くと、

 

「だっ、旦那様ーっ! た、助けてくださいー!?」

 

 果たしてどこから現れたか、翼を広げれば月見にも迫ろうかという大鷲が、赤蛮奇の首をまさに鷲掴みにして飛び去っていくところだった。

 

「「「……………………えっ」」」

 

 月見もはたても響子も、傍目から見ればわざとらしいくらいに反応が遅れた。その間にも赤蛮奇の首はどんどん地面から遠ざかっており、

 

「な、なんの! このまま連れ去られてたまりますかっ! まいぼでぃ――――――――っ!!」

 

 首の高らかな叫びに、胴体はすぐさま反応した。立ち上がり、全身に妖力を漲らせ、首を助けるため勇ましく岩を、

 

 ――蹴ろうとした瞬間足を滑らせ、背を岩に打ちながらばしゃーんと川へ落下した。

 

「まいぼでぃいいいいいいいい」

 

 バシャバシャ暴れる胴体が、急流にさらわれどんどん流されていく。ジタバタ暴れる首が、大鷲にさらわれどんどん小さくなっていく。その混沌とした光景を見せつけられながら月見は、

 

「……はたて、とりあえず首の方を任せていいか? 私は体を引っ張り上げるから」

「……ハッ」

 

 口を半開きにして固まっていたはたては再起動して、

 

「わ、わかりました! ……ばんきっき――――っ!! 待ってええええええええっ!!」

「たぁーすぅーけぇーてぇー……」

 

 なんとなく。

 なんとなく謎がすべて解けたのを感じながら、流されていく赤蛮奇の胴体を追いかける月見であった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「旦那様っ、とうとう思い出しました! あいつです! すべての元凶はあの大鷲ですっ!」

「……だろうね」

 

 とどのつまり、赤蛮奇はすでに一度大鷲にさらわれていたのである。赤蛮奇は静かに、けれど込み上がる熱を隠しきれない口振りで当時の記憶を物語る。

 

「霧の湖到着間近のところで、突然あやつに首を奪われたのです……! 体の方で慌てて追いかけたのですが、やつも素早く、それでこの山まで来てしまったのですね」

 

 大鷲ら猛禽類は、突如音もなく空より飛来し、その鋭い鉤爪で獲物を一気にかっさらっていく。狙われるのはなにも小動物だけではない。近代化が始まる以前の日本では、それで人の赤子がさらわれるというのも決して珍しい話ではなかった。時に人間すらさらってみせる彼らにとって、ふよふよ漂う赤蛮奇の首はなかなかいい獲物に見えたのかもしれない。

 

「そして山の上空に差しかかったところで、私も首だけながら必死に抵抗しておりましたので、やつの拘束から遂に抜け出しました。しかしなにもかもが突然の出来事で動揺しておりました私は、咄嗟に飛ぶこともできぬまま真下の川へ落下したのです。恐らく運悪く浅瀬で、頭を打つかしたのでしょう。記憶はそこで途切れ、気がついたときには旦那様の池で浮かんでおりました」

「で、途中まで追いかけてきてた胴体の方も、お前が意識を失った時点で墜落。こっちは森の中に落ちて、あの奇跡的な惨状を生み出したと」

「はい。謎はすべて解けました」

 

 からまっていた糸がすべて解けたのを感じて、月見は細く長いため息をついた。雛が言っていた『更なる災難』とやらも、きっと今しがたの騒動のことだったのだろう。当然、タオルを持って戻ってきた文からは大変白い目で見られた。

 そんな災難な赤蛮奇は、茂みの奥で、はたてと響子に体をせっせと拭いてもらっている最中である。言うまでもなく男が覗いていい状況ではないので、月見は文の厳しい監視の下、川辺の岩に腰掛けなにをするでもなく清水の流れを眺めている。同じく隣に座った文が言う。

 

「あんな妖怪、放っときゃいいのに」

 

 なじるのではなく、ただ疑問を音にしたような軽い口振りだった。

 

「思うにあの妖怪、後先考えないで思ったことを思ったまま行動するタイプでしょ。大人しいナリはしてるけど、普段の天魔様と似てるわ」

 

 そう言われてみると、そうかもしれない。赤蛮奇の性格をとても明るくしてのじゃのじゃ言わせれば、それはもう操と瓜二つな気がする。

 

「今日私と会うまでも、いろいろあったでしょ」

 

 あった。もっとも、被害者となったのは月見ではないけれど。

 

「だから、体見つかったならもう放っておけばいいのに。妖怪なんだから死にゃしないわよ別に。このまま夜まで面倒見る気?」

「まあ、確かにね」

 

 とりわけ、気心の知れた友人というわけではない。それどころか今朝出会ったばかりの相手であるから、まだ知人とすらいえない仲かもしれない。そんな妖怪の捜し物をいちいち手伝って、なおかつ家まで送った方がいいかなんてことまで考えるのは、正真正銘のお節介なのかもしれない。厄神様のお墨付きまでもらっているのだ、これ以上のドタバタに巻き込まれぬうちにさよならをする方が合理的ではあるのだろう。

 しかし月見が答えるより先に、文が肩を竦めていた。

 

「……ま、そういうのを途中でほっぽらないのがあんたか」

 

 心の中まで見透かされている気がして、月見はそっと苦笑した。

 無論、月見とていつでも誰にでもこうというわけではない。慧音が頭突きの構えを見せればすぐ逃げ出すし、映姫が説教のにおいを漂わせれば頑張って話を逸らすし、紫と輝夜が喧嘩を始めれば速やかに外へ叩き出す。

 けれど月見は、ドタバタとした日常自体は決して嫌いというわけではない。巻き込まれている最中こそため息をついたりげんなり疲れたりするけれど、あとになってから振り返ると、まあ悪くはなかったなと思い直すのだ。これといってやることもなく、家でぼーっと一日を浪費するよりはずっといい。そう考えれば赤蛮奇の向こう見ずな性格も、ひとつのいい愛嬌なのではなかろうか。

 といったニュアンスの返答をしたら、文は深呼吸みたいに大きなため息をついていた。

 

「なんだい」

「べっつにー」

 

 けれど無愛想な言葉に反してその口元には笑みの影が浮かんでいて、月見としても悪い気はしなかったので、まあいいかと思った。

 

「お待たせしました、お二方」

 

 赤蛮奇の声につられて振り返ろうとしたら、文にむんずと首を掴まれた。なんだなんだと月見が不意を衝かれているうちに、

 

「……うん、ちゃんと服は着てるわね。はいおっけー」

「……」

 

 ……ああ、そういうことね。

 もちろん、赤蛮奇はしっかりと服を着ていた。ただし傍目でもはっきりわかるほど水を吸っているし、搾った跡でヨレヨレで、だいぶみっともない恰好であった。もっとも本人は気にした素振りもなく、

 

「厄神様が仰っていたのは、あの大鷲のことだったのですね。あやつにはいつか必ずリベンジせねばなりません」

 

 なんて、呑気に一息ついていたけれど。

 ともかく、これでようやく一段落した。

 

「さて、赤蛮奇」

「はい」

 

 ここまで来れば、もはや月見の話はひとつである。

 

「悪いことは言わない。今日はもう家に帰って、明日仕切り直した方がいいと思う」

「……むぅ」

 

 一理ある、という顔を赤蛮奇はした。大鷲に二度もさらわれかけたとなれば、さすがに普段の能天気な反応も鳴りを潜め、

 

「……そうかもしれません。私としても、今日は波乱の一日となる気がしてなりません」

 

 すでになっている気もするが。

 

「そうでなくともその恰好じゃあ、一度戻った方がいいだろう。里まで送るよ」

「よろしいのですか?」

「今のお前は、里まで無事に帰れるかどうかすら怪しいからね」

 

 赤蛮奇は言い返せず、

 

「……そうですね。では、ぼでぃーがーどをお願いします」

「ああ。……じゃあ文、はたて、そういうわけだから」

「はいはい」

「お疲れ様でしたー」

 

 文は目も合わせず素っ気なくいい、はたては愛嬌よくぺこりと頭を下げた。

 

「響子もまたね」

「え……あ、うん」

 

 響子も頷いた。よしでは早いこと行ってしまおうと、月見は赤蛮奇を連れて早速、

 

「――ねえ、ちょっと待って?」

 

 ちぃ……っ! と月見は心の中で舌打ちした。どさくさに紛れてこのまま逃げてしまおうと思っていたが、そうは問屋が卸してくれなかったようだ。

 幽谷響子である。彼女はつかつかと月見に詰め寄り、

 

「ねえ、月見さん」

「……なにかな」

 

 目を逸らしがちな月見をまっすぐ見上げて、こう言った。

 

「東京特許許きゃきょきゅ」

「……」

「と、東京特許許きゃきょきゅ、今日急遽特許許きゃきゃっか」

「…………」

 

 響子はふるふる震えながら、それでもにこりと笑って、

 

「あれ、月見さんでしょ?」

「……、」

「ね? 月見さんでしょ? ね?」

 

 月見は己の敗北を悟った。

 

「……あれはつい出来心で」

「ばかああああああああああ――――――――――っ!!」

 

 さすがは山彦というべきか、山中に響き渡るとんでもない大声だった。文が耳を塞ぎ、はたてがひっくり返りそうになり、月見の意識が数秒真っ白になって、赤蛮奇の首が落ちた。

 このあとめちゃくちゃ怒られた。もちろん、涙目で。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……悪かったね、巻き込んじゃって」

「いえ、お気になさらずに。私もいろいろ助けていただきましたから」

 

 響子のお説教から解放され、月見と赤蛮奇が人里に辿り着いたのは正午も過ぎた頃だった。響子はやはりあの早口言葉事件で山彦のプライドをズタボロにされていたらしく、説教の苛烈さたるや閻魔様をも圧倒しそうなほどだった。途中で、「そういえば、一緒に早口言葉言ってきたもう一人の女の人は誰!?」と矛先が逸れていなければ、月見が解放されるのはまだまだ先の話だったかもしれない。

 月見は心の中で合掌する。――すまない志弦、身代わりに使うような真似をして。でももとはといえばお前が蒔いた種だから、甘んじて受けてくれ給え。

 今頃は、山彦の高らかなお説教が守矢神社に響き渡っているはずである。

 

「それでは、どうもお世話になりました」

 

 人里の景色を背にして、赤蛮奇がぺこりと会釈をした。首は落ちなかった。

 

「こういってはなんですが、皆さん明るい方でとても楽しかったです。旦那様の周りは、とても賑やかなのですね」

「……そうかな」

 

 賑やかだったのは、むしろ赤蛮奇のお陰だった気もするけれど。にとりをおどかしたし、雛だって泣かせたし、響子を失神させまでしたし、胴体でホラーな事件現場を再現し、極めつけには大鷲にさらわれた。これらがぜんぶ午前の間に起こったのだと、今日はまだ半分しか終わっていないのだと、月見はちょっぴり信じられない気持ちでいる。

 

「友人に、素敵なお土産話ができました」

「ああ……ええと、霧の湖と迷いの竹林の」

「はい、わかさぎ姫と今泉影狼です。人魚とルーガルーです」

 

 霧の湖も迷いの竹林もたびたび足を運んでいる場所だが、そんな妖怪と出会った覚えはない。幻想郷に戻ってきてもう半年になるが、月見が未だ知らない住人は人間妖怪を問わずまだまだたくさんいる。

 

「二人とも、あまり知らない人の前には出たがりませんからね。……ですが、私が旦那様と出会ったのもなにかの縁。いつか旦那様にもご紹介したいと思います。二人とも、私の自慢の友人です」

「そっか。じゃあ、いつでもおいで」

「はい。……それでは、失礼します」

 

 赤蛮奇が最後にまた一礼した、そのとき月見は、奥の通りを曲がって妖夢が歩いてくるのに気づいた。ちょうど買い出しの帰り道らしく、パンパンに膨らんだ手提げ袋の重さに負けぬようせっせと頑張っている。大変なときは手を貸すと何度も言っているのだが――方向性は違えどやはり祖父に似て、意外と頑固な少女なのである。

 ちょうど赤蛮奇と入れ違いになりそうだし、少し手伝おうかなと。月見がそんなことを考えていたら、

 

「あっ」

 

 我が家を目指し颯爽と歩き出した赤蛮奇が、五歩も行かぬうちに早速コケた。わざとではなかったと思う。両腕から地面に倒れ、その拍子に首が落ちて、おむすびころりん、もしくはどんぐりころころが如く見事に転がった。

 妖夢の足下まで。

 神懸かりすぎる、とこのあとの展開が読めた月見は遠い目をしながら思う。

 

「……へ、」

 

 妖夢が足下を見た。

 バッチリ目が合った。

 数秒の沈黙、みるみる青くなる妖夢の顔面、そして赤蛮奇は、

 

「……う~ら~め~し」

「みいいいいいぃぃぃぃぃ!?」

「ぶっ」

 

 言い終わらぬうちに絶叫した妖夢が、土煙を巻くものすごい勢いで人里の彼方に走り去っていった。当然荷物は置き去りであり、赤蛮奇は落下してきた手提げ袋に容赦なく押し潰された。

 

「……」

 

 人里の彼方で、みいいい! みいいいいい! と妖夢の悲鳴が木霊している。

 ……類は友を呼ぶ、という言葉がある。

 旦那様ー、旦那様ー、へるぷです、へるぷでございますーと食材の下でモゾモゾ動く青いリボンを、能面のような顔で眺めながら。

 ひょっとしてわかさぎ姫と今泉影狼もこんな感じだったりするのかなと、月見はそこはかとなく不安になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第92話 「草の根妖怪ネットワーク・人魚編」

 

 

 

 

 

「月見様ー!」

「お狐様ー!」

「「釣り竿貸してくださーいっ!」」

「はいはい。今日も気をつけてね」

「「はーいっ!」」

 

 橙とルーミアは、初対面でいきなりケンカしていたのが嘘みたいに仲良くなった。

 それもこれも、偏に釣りという共通点があってこそだといえる。橙はもともと魚が好きだし、ルーミアもルーミアで釣りの奥深さとやらに目覚めたらしく、こうしてしばしば二人元気にやってきては、水月苑備え付けの釣り竿を借りていく。今日はいないようだが、ときにはここに妹紅が加わって、釣りのなんたるかをアツく指導していたりすることもある。橙とルーミアと妹紅の三人組が、月見の中で釣りバカトリオと呼ばれているのは今のところ月見だけの秘密だ。

 

「よーし、今日もどっちが多く釣れるか勝負だよ、ルーミア!」

「負けないよー!」

 

 釣り竿引っ提げ仲良く飛び出していく二人の背を見送り、月見は息とともに優しく笑んだ。二人が親友みたいに打ち解けるきっかけとなってくれたのだから、本来ある必要のなかったこの巨大な池にも少なからず感謝の念が湧いた。食べたいときにいつでも魚が食べられるし、紅葉とともに庭の景色を彩る様は見事の一言に尽きるし、なんだかんだでこの池には世話になることが多い。

 反橋の上で危なっかしくちょこまかしている二人を、縁側に腰掛け、秋の涼しさに身を浸しながらそっと見守る。

 結局ルーミアは、『お狐様』という仰々しい呼び方を改めてはくれなかった。一応、月見がただの妖怪であることは理解してくれたようなのだが、「でも私にとっては恩人なので」と言って頑に譲らなかったのだ。ちょっぴり、発音が気に入っているというのもあるらしい。

 もちろん月見としてはできれば普通に呼んでほしいのだが、「……ダメですか?」と不安げな上目遣いをされてしまえば降伏せざるをえず。幼い子どもの上目遣い攻撃ほど、大人を困らせる厄介な兵器も他にはあるまい。

 それにしても、二人の少女が元気に釣りをしている以外は、今日はまこと静かな日であった。つい一昨日にあんなことがあったものだから、余計にそう感じるのかもしれない。昨日なにをしていたかは大雑把にしか思い出せないのに、一昨日なにがあったかは隅から隅までよく覚えている。あの愉快極まりない抜け首少女は、今もどこかで賑やかな騒動を巻き起こしているのだろうか。

 と物思いに耽っていたら、早くもルーミアが一匹目を釣りあげていた。あのくらいの女の子なら触るのを嫌がったって不思議ではないのに、実に慣れた手つきで針を外し、水を張った桶に放り込む。なんだか仕事人のようである。実際、子どもが興味本位で釣り竿を振るっているのとはワケが違う。どっちが多く釣れるかと釣り勝負をすれば、月見ではもうほとんど歯が立たなくなってしまっている。

 負けじと橙の釣り竿もしなった。まるで池の中へ落ちていくように、

 

「っ、来た! ……ってわわわ!? す、すごい大物……! ルーミア、手伝って!」

「わかった!」

 

 はて、と月見は首を傾げた。女の子が一人で釣りあげられないほどの大物なんてこの池にはいないはずだが、どこからか迷い込んできたのだろうか。それとも紫がまた勝手に突っ込んだのか。

 月見が縁側から見守る先で、竿を一緒に握り締めた橙とルーミアが、せーのっと声を合わせ、

 

「「それーっ!!」」

「ひえええええっ!?」

 

 ……最近、こういう予想外の光景に出くわしても動揺しなくなった自分がいる。

 竿に引っ張られ水面から顔を出したのは、悲鳴を聞けばわかる通り少女だった。より詳しくいえば、人魚――日本妖怪の人面魚体ではなく、人の上半身と魚の下半身を持つ、所謂西洋のマーメイド――だった。どうやら服に針が引っ掛かっているらしく、

 

「や、やーめーてーくーだーさーいー!? 服が、服が破けちゃいますーっ!」

「わっ、本当にすごく大きい!」

「今日のお昼はご馳走だね!」

「いやあああああもう私のこと食べる前提でお話してるううううう!? たっ、助け、お助けください旦那様ーっ!!」

 

 たぶん、月見のことを呼んでいるのだと思う。

 ルーミアが「やっぱり素焼きかな」と言い、橙が「お刺身ってのも……」と喉を鳴らし、人魚少女が「うえええええ」と涙目になっている。賑やかでいいことだと思いながら、月見はよっこらせと腰を上げた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……あっ、月見様! 見てくださいっ、すごい大物ですよ!」

「今日のお昼はご馳走だよー!」

「いやああああああああ」

「こらこら、食べちゃダメだよ」

「「えーっ!」」

 

 と。

 食いしん坊な少女二人から人魚を救出し、月見はひとまず、池のほとりで詳しい話を聞いてみることにした。月見は地べたに尻尾を引いて座り、人魚は水辺に沈んだ岩を椅子代わりにする。尾びれで水面をちゃぷちゃぷ鳴らしながら、人魚はしょんぼりとしたため息をついた。

 

「はあ……どうもありがとうございました。お陰で命拾いしましたぁ……」

「災難だったね」

「まったくですぅ……」

 

 やはり、何度見ても、見紛うことなく人魚である。上半身だけが萌黄色の着物を着た少女で、下半身だけが淡い天色をした魚である。なんらかの妖術を使っているのだろう、品よく着込んだ着物もふわふわロールが利いた髪も、まるで蓮の葉のように強く水を弾いている。雫が着物のあちこちできらきらと光って、さながらお洒落なアクセサリーだ。尾ひれと同じ色の髪と瞳は日に大変よく映え、透き通った湖を覗き込むような錯覚を月見に抱かせた。

 これで笑顔でも浮かべていようものなら非の打ち所もなかったのだろうが、生憎と彼女の表情は曇りがちで、

 

「はあ、最近のお子さんはとても食欲旺盛なんですねえ。自分より大きな相手もぜんぜん怖がらないで、すごく元気ですー」

「え? ……ああ、うん、そうだね」

 

 危うく食べられそうになったというのに、随分と呑気な反応だった。……やはりこれはあれだろうか。お互い脳天気なところがいかにも『類は友を呼ぶ』という感じだし、あの子もちょうど人魚の友人がいると言っていた。

 しかし結論を急がず、まずは自己紹介。

 

「水月苑にようこそ。私は月見、ただのしがない狐だよ」

「あ、はぁい。霧の湖からやってきました、人魚のわかさぎ姫と申します」

 

 思った通りの返事だった。

 

「赤蛮奇から教えてもらったよ。自慢の友人だって」

 

 あの抜け首少女が口にしていた、自慢の友人の一人目である。曰くいつか紹介したいという話だったが、それより先に向こうからわざわざ訪ねてきてくれたらしい。

 わかさぎ姫の表情が、ぱあっとたんぽぽみたいに明るくなった。

 

「私もばんきちゃんから教えてもらいましたぁ。ばんきちゃんの恩人だって。ばんきちゃんを助けてくれて、ありがとうございました」

「大袈裟な、ちょっと捜し物を手伝っただけだよ」

「でもばんきちゃん、すごぉっく感謝してましたよー。とっても賑やかで楽しかったって」

 

 ……ああ、体を捜したことに感謝してたわけじゃないんだ。

 

「それで私、お礼を言わなきゃって思って。久し振りに川登りをして、ここまで泳いできたんです」

「それはわざわざ」

「楽しかったですー」

 

 ほんわかとした少女だった。脳天気なところがあるのは同じだが、赤蛮奇のようなアクの強さはなく、人を穏やかな気持ちにさせる親しみやすさを感じる。例えばアリさんの行列を眺めていたらお昼になっていたとか、ひなたぼっこでウトウトしていたら太陽が沈んでいたとか、そういうことを平気でやっていそうな子だと月見は思う。

 

「実は私、前から旦那様のことは存じておりましたぁ。たびたび霧の湖で、チルノちゃんたちと遊んでらっしゃいましたよね?」

「ああ」

 

 より正確にいえば餌付けをしていた。大いに誤解を招きそうなのが悩みの種だが、しかし、事実としてあれは餌付けだったのである。

 

「チルノとは仲がいいのか?」

「はぁい。よく湖ごとカチカチに凍らされる仲なんですー」

 

 仲良しとは一体なんであったか。友達どころか、一方的な加害者と被害者の関係ではあるまいか。そして、なぜわかさぎ姫はのほほん笑顔のままでそんなことを言うのだろうか。天然か、ツッコミ待ちか。わかさぎ姫の真意が読み切れず反応に悩む。

 そうこう考えているうちに、

 

「そのときから、きっとお優しい方なんだろうなあと思ってたんですけど。ばんきちゃんからお話を聞いて、こうして助けてまでいただいて、やっぱり旦那様はお優しいのですねー」

「……ありがとう」

 

 そりゃあ幻想郷の逞しすぎる少女たちと比べれば、月見なんて弱っちい優男の部類である。

 

「ところで、旦那様ぁ」

 

 自分の頬にやんわり手を当てて、わかさぎ姫が小さく首を傾げた。

 

「実は、ご迷惑でなければご相談したいことがありましてー」

「? 聞こうか」

「はぁい。私、ここに棲んでみてもよろしいでしょうか?」

 

 予想のナナメ上を行く申し出だった。一瞬深読みしかけてしまったが、すぐに彼女が人魚で、霧の湖に棲んでいる妖怪であることを思い出し、

 

「ああ、ここの池にか?」

「はぁい」

 

 その場でぽよんと弾むような、とても柔らかい返事だった。

 

「私、知りませんでした。ここって、私の仲間がたぁっくさんいるんですねー」

「ああ、そうだよ」

「ですから、ここで暮らしたら楽しそうだと思ったんですー」

「それは……まあ、構わないけど」

 

 もちろん霧の湖と比べれば見劣りするが、水月苑の周囲をぐるりと囲む池はかなり広い。しかも諏訪子が相当張り切ったらしく、優美な見た目からは想像もできない深さがある。その気になれば、人魚や河童の団体様だって気ままに生活することができるだろう。

 月見は、反橋の上で元気に釣りをしている少女二人を指差した。

 

「ああやって釣りをする子がままいるけど、それはいいのか?」

「あー、そうですねぇ」

 

 わかさぎ姫は少し考え、

 

「でも、あれも大自然がお定めになった摂理のひとつですしー……それに、ああいう小さな女の子の栄養になれるなら、みんなも本望なんじゃないでしょうかぁ」

「……」

 

 それは一体どういう意味で解釈すればいいのだろう。まさか最近、釣り勝負で橙とルーミアにまったく勝てなくなってきているのは、彼女たちが腕前を上げたからではなく――。

 ――いや、バカな、そんなことがあってたまるか。天狗どもが取り憑いたわけじゃああるまいし。月見は首を振った。

 ともかく。

 

「変に荒らしたりしなければ、好きにしてくれて構わないよ」

 

 これが「ひとつ屋根の下」のような話であれば月見とて断ったが、池は屋敷と空間的に切り離されている。まあちょっと珍しい魚が増えるようなものだろうと、このとき月見は軽い気持ちで考えていた。

 ありがとうございますー、とわかさぎ姫が両手を打った。嬉しそうに動いた尾ひれが、水面でちゃぷちゃぷと小気味のいい音を鳴らした。

 

「霧の湖はお友達があんまりいないですし、ヌシさんのも怖いので、ちょっとお引っ越ししてみたい気分だったんです。助かりましたぁ」

 

 月見の感覚でいう膝の上あたりに礼儀正しく手を置いて、ぺこりと頭を下げた。

 

「ではー、これからよろしくお願いいたします。私のことは、『ひめ』とお呼びください。ばんきちゃんやかげちゃんからも、そう呼ばれてるんですー」

「わかったよ、ひめ」

 

 かげちゃんとは、もう一人の友人であるという今泉影狼なる妖怪だろう。ひょっとするとそのかげちゃんも、近いうちに水月苑を訪ねてくるのかもしれない。

 

「私、早速向こうから荷物を持ってきたいと思います。思い立ったが吉日ですー」

「また釣られないようにね」

「はぁい」

 

 ぽよんと返事をしたわかさぎ姫が水の中に飛び込む。飛び込むとはいっても、さすがは人魚というべきか、水面にわずかな波紋を立てるだけの、まるで吸い込まれるように見事な動きだった。あっという間に池の一番深いところから顔を出して、

 

「旦那様~」

 

 なんて、月見に向けて愛らしく手を振っていたので。自然と頬が緩むのを感じながら、月見もひらひらと手を振り返した。

 えへへーと満足げにはにかんだわかさぎ姫が、また水の中に消えて、

 

「――来たっ、大物だ! たあーっ!」

「ひえーっ!?」

 

 その五秒後、反橋のところでルーミアに一本釣りされていた。

 釣られないように気をつけろと言ったばかりのはずだが。

 

「あれ、またさっきの人魚だ」

「ほんとだ……ハッ! こ、これはまさか、暗に私たちに食べてもらいたいっていう」

「ちーがーいーまーすーっ! うええええええええ」

 

 涙目でビチビチしているわかさぎ姫を、能面の顔で眺めながら。やっぱりあの子は赤蛮奇の友達なのだと、月見は改めて思い直した。

 よっこらせ、とまた腰を上げる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 というわけで、水月苑に新しい住人ができた。

 正確にいえば「水月苑の池に」である。すべて月見が暮らす屋敷の外の話なので、一晩明けてもさして一緒に暮らしているといった実感はなかった。敢えて例えるなら、気紛れな野良猫が庭にやってきた、くらいの感覚だろうか。本当にただの気紛れなのか、それとも本気で棲みつくつもりなのかは、わからないけれど。

 

「旦那様~」

 

 明くる朝、月見が出掛けようと反橋を渡っていると、橋の下からのほほんとした声に呼び止められた。覗き込んでみると、水面から胸より上を出して、ぴょこぴょこと手を振っているわかさぎ姫がいた。

 月見も手を振り返し、

 

「おはよう、ひめ」

「おはようございますー。お出掛けですか?」

「ああ、適当にぶらっと」

 

 行く場所は特に決めていない。紅魔館、香霖堂、人里、太陽の畑、博麗神社など、散歩がてら知り合いのところをのんびり回ってみようと思っている。

 

「で、どうだい棲み心地は」

「はぁい」

 

 わかさぎ姫はぽよんとほころび、

 

「お友達がたくさんできましたぁ」

「それはよかった」

「やっぱり、ここは素敵な場所ですねー」

 

 それは月見も同感だ。自画自賛ではなく、この場所を作り上げてくれたみんなに感謝するという意味で。

 

「ところで旦那様、今日は迷いの竹林へは行かれますかー?」

「ああ……どうかな。もしかしたら近くへは行くかも」

 

 竹林の近くには妹紅の家があるので、彼女の顔を見に行くのもいいかもしれない。永遠亭には、恐らく行かない。竹林で迷う可能性が大だし、行ったら最後、あのお姫様は間違いなく夜まで解放してくれなくなる。

 そうですかあ、とわかさぎ姫はゆったりと頷き、

 

「竹林にはかげちゃんが棲んでますので、もしお見かけしたら声を掛けてみてください」

「そうだね、見かけたら。……どんな妖怪なんだ? 見た目の特徴とか」

「犬ですー」

 

 犬。

 

「……いや、赤蛮奇の話だとルーガルーで」

「はぁい。でも、犬みたいにかわいいんですよー。お手とかおすわりとか、ちゃあんとできるんですー」

「……犬だね」

「犬ですー」

 

 操曰く、椛にビーフジャーキーをあげると、そんなの興味ないという顔をしつつも尻尾がふりふりしているという。犬みたいな振る舞いはすまいと気をつけつつも、体がしっかり反応してしまう少女なのである。けれどそれに引き換えかげちゃんは、ビーフジャーキーを見た瞬間目を輝かせて飛びつきそうな感じがした。

 わかさぎ姫がくすりと笑う。

 

「かげちゃん本人は、私は誇り高きルーガルーだ~! ってえばってるんですけどね。……本当は私たちの方から連れてくるべきだとは思うんですけど、場所が場所なので、私もばんきちゃんも思うように会えないんです」

「なに、そのうち会えるだろうさ」

「ぜひ、お手! ってやってみてくださいねー」

 

 それは親友であるわかさぎ姫だからこそ許されるのであって、月見がやろうものなら噛みつき攻撃一択な気がする。

 ともあれ。

 

「引き留めちゃってごめんなさぁい。いってらっしゃいませ~」

「ああ。いってきます」

 

 わかさぎ姫に見送られ、月見は橋を渡りきったところで飛揚する。思えば、誰かに見送られて屋敷を出たのははじめてだろうか。貴重な時間を割いてまで丁寧に見送ってもらえると、気分も自然と上向きになるものである。

 空の上まで来たところで下を見る。小魚よりも小さくなったわかさぎ姫が、まだ元気に手を振ってくれている。

 その屈託のない姿に自然と頬が緩むのを感じながら、月見は向こうからでもはっきり見えるように、大きく尻尾を振り返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 残念ながら、かげちゃんには会えなかった。

 幻想郷の東西南北をのんびりと巡り、月見が水月苑に戻ってきた頃には、太陽もほとんど沈んだ彼誰時になっていた。そして、反橋の上にゆっくり降り立ったところで、

 

「月見――――――――――ッ!!」

「ごふっ」

 

 屋敷の方から突如としてすっ飛んできたフランに、久方振りとなる弾丸鳩尾タックルを喰らった。モロに入ったが、月見は男と大人の根性で耐え切って、

 

「ケホ……フ、フラン」

「こんばんはーっ!」

 

 あいもかわらず、百点満点の愛くるしい笑顔。

 

「来てたんだね」

「来てたっ。チルノちゃんと大ちゃんもいるよ!」

 

 フランが背後を指差す。見れば、ちょうど大妖精が向こうから橋を渡ってきているところである。

 デカいたんこぶ作って動かないチルノを引きずって。

 

「……」

「こんばんは、月見さん」

「……あ、うん。こんばんは」

 

 普通に挨拶された。

 にこにこしているフラン、あくまで自然体の大妖精、たんこぶチルノ――月見はこの光景の意味を考える。まあ、犯人は十中八九、撲殺妖精大ちゃんだろうが。しかし彼女とて、なんの理由もなく友達に暴力を振るう悪い子ではない。つまり、大ちゃん必殺の拳骨をもらってしまうようななにかを、チルノがこのあたりでやっていたのだと思われる。

 はてさて、どんないたずらをしてくれていたのやら――と、そこまで考えたところでふと気づいた。

 なんだかあたりが妙に涼しい。

 

「……ああ」

 

 ようやく事の次第を察して、月見はそんな納得の声をもらした。それに間髪を容れないタイミングで、大妖精が勢いよく頭を下げた。

 

「ごめんなさいっ! チルノちゃんはこの通り、私がおしおきしておきましたので!」

 

 月見はカチンコチンになっている庭の池を眺めながら、

 

「……久し振りにやられたね、こりゃ」

 

 薄暗いせいで今の今まで気づかなかったが、少なくとも見える範囲はすべて凍らされてしまっているように見える。

 チルノは氷の妖精で、珍しく並の妖怪に匹敵する強い力を持っているので、よくいろいろなものを凍らせて遊んでいるのだ。主な被害者は霧の湖や周辺の動植物だが、今日は不幸にも水月苑の池が標的となったらしい。大妖精の拳骨が飛んだのにも納得が行った。

 餌付け作戦、もといお菓子プレゼント作戦が功を奏して、最近はいたずらされていなかったのだが。

 

「ほんとにごめんなさいっ! チルノちゃんったらほんとにバカで!」

 

 近頃の大妖精は、チルノの相方というより保護者みたいになりつつある。

 月見は苦笑、

 

「今更とやかく言わないけど、魚だっていろいろ棲んでるんだから、目を覚ましたらよく言って聞かせて――」

 

 魚。

 思い出した。

 弾かれたように月見は欄干から身を乗り出し、広がる池の隅々まで目を光らせた。カチンコチンになった水辺、まさかどこで、引っ越してきたばかりのわかさぎ姫までカチンコチンになってはいまいか。彼女ならば充分にありえる。

 

「どーしたの?」

 

 こっちにはいない。疑問顔のフランにも応えず、月見は続けざまに反対側へ目を凝らす。左、右、手前、奥、水の底、庭園の景色に隠れた物陰、

 

「…………」

 

 ああ。

 嗚呼。

 月見の全身に押し寄せる、筆舌に尽くしがたい凄絶な諦観。

 

「う~ん……あれ? なんであたい、こんなところで寝てるんだろ……」

 

 折よく、チルノが目を覚ました。見た目相応に知能が高くない彼女は、自分が寝ていたのではなく気絶していたのだということもわかっておらず、しぱしぱおめめで周囲を見回し、

 

「あ、月見だ」

「やあ、チルノ。また随分とやってくれたね」

「? なにが?」

 

 おバカだから忘れたのか、それとも脳に強い衝撃を受けたせいで記憶が飛んでしまったのか。

 大妖精がぷんぷんと怒った。

 

「もーっ、なにがじゃないでしょチルノちゃん! 月見さんのお庭のお池、こんな風にしちゃって!」

「……あっ、思い出した!」

 

 チルノがすっくと立ち上がり、得意げな顔で胸を張りつつ、カチコチになった池を指差した。

 

「見て見て、すごいでしょ! カチコチよ!」

「カチコチだね」

「ふふふ、そんなに褒めないで!」

「いや褒めてないけど」

「なんだとーっ!」

「あーっ、月見のこと叩いちゃダメだよ!」

「ってか、まず謝らなきゃダメでしょもおーっ!」

 

 途端にわいわいぎゃーぎゃー賑やかになった三人娘を眺めながら、月見は微笑み混じりのため息をついた。仲がいいのは大変結構だけれど、今はそれよりも、

 

「お前たち、ちょっとついておいで」

 

 月見が今しがた見つけたものを、この三人には見せなければならない。月見が歩き出すと、すぐにフランがついてきて、少し遅れてから大妖精が続いて、そうなればチルノも動かざるを得なくなる。三人娘を連れて月見は反橋を渡り、緑の輪郭に沿って庭を隅の方へと進んでいく。

 傷めてしまわないよう気をつけながら、妖夢が手入れする草花を避けて水辺へ向かう。その、橋の位置から見るとちょうど岩場に隠れた場所で、

 わかさぎ姫が、カチンコチンの氷漬けになっていた。

 

「……わぁー」

 

 フランが、どう反応すればいいのかわからないけどとりあえず、みたいな感じでそう言った。

 

「あれ? 人魚だ」

「うわあーっ!?」

 

 チルノがきょとんと首を傾げ、大妖精が顔を真っ青にした。

 マンガのように見事な氷漬けである。厚さ数センチの牢獄で覆われ、夜が近い薄暗闇の中、わずかな光を反射してテカテカと透き通っている。きっと、チルノのいたずらに巻き込まれまいと逃げる最中だったのだろう。水の中から這い出ようとする恰好のまま凍ってしまっているのが、また随分と哀愁を誘った。

 

「チルノちゃん、また人魚さん凍らせたの!? 可哀想だからやっちゃダメだって言ってるでしょーっ!?」

「し、知らないってば。なんでこいつがこんなところにいるの?」

 

 どうやらチルノに気づかれることもなく凍らされたらしい。カチコチになったわかさぎ姫が、なんだか涙目に見えるような気がした。

 大妖精がおろおろして、

 

「ご、ごめんなさいっ! ひょっとしてこの人魚さん、月見さんのお知り合いだったんですか!?」

 

 さっきからチルノの代わりに謝ってばかりな大妖精が、ますます保護者に見えてくる月見である。

 

「昨日知り合ったばかりだよ。……ともかく、まずは氷を溶かさないと」

「はいっ!」

 

 フランが元気に手を挙げて、

 

「私も手伝う! レーヴァテイン出すよっ」

「うん、やめてくれ」

 

 ここであんなものをぶっ放されたら、氷が溶けるどころか、庭が火の海に呑まれて人魚と狐の丸焼きができあがる。

 結局月見が狐火と妖術を駆使し、四半刻ほどでわかさぎ姫を救出した。その頃には黄昏時の闇はますます深くなり、空では月が青白い光を帯び始めていた。

 

「はあー……また凍らされちゃいましたぁー……」

 

 体温が極端に下がったせいで冬眠気味なのか、わかさぎ姫はとても眠そうだった。声がいつにも増して間延びしていて、体はうつらうつらと左右に揺れている。尻尾の狐火で彼女を温める月見としては、こっちに倒れてきやしないかとハラハラドキドキである。

 大妖精がぺこぺこと頭を下げている。

 

「ほんとごめんなさいごめんなさいっ、チルノちゃんがいっつもご迷惑を……! ……ほら、チルノちゃんも謝ってっ!」

「えー? こんなところにいるこいつが悪」

「チ ル ノ ちゃ ん?」

「ご、ごめんなさい……」

「私じゃなくて人魚さんに謝るのーっ!」

「こらこら、喧嘩はダメですよぉー」

 

 月見の背中におんぶのようにくっついているフランが、ころころと笑った。

 

「大ちゃん、ほんとチルノちゃんのお姉ちゃんみたいだねー」

「そうだね」

 

 月見は保護者という言葉を思い浮かべていたが、それもまたしっくり来る。自由奔放すぎる妹に手を焼かされる、礼儀正しいお姉ちゃんといったところだろうか。さとりとこいしの姿が脳裏を過ぎった。

 大妖精にガミガミ言われて観念したらしいチルノが、わかさぎ姫の前でほんのちょっぴりだけ頭を下げた。自分のプライドと葛藤しながら、もじもじと伏し目がちに、

 

「そ、その、ごめんなさい。今度から気をつけるわ」

 

 わかさぎ姫はかくりと首を傾け、

 

「……すやー」

「むきーっ!!」

「ひえあああああ冷たあああああい!?」

「チルノちゃんなにしてるのーっ!!」

「だって! だってこいつ、あたいがせっかく謝ったのにいーっ!!」

 

 怒り狂って冷気を振りまくチルノ、それを羽交い締めで止めようとする大妖精、ひえええっと月見の狐火を盾にするわかさぎ姫。

 フランはにこにこして、

 

「変なのー。面白い人魚さんだね」

 

 月見は浅く肩を竦め、

 

「ほんと、賑やかだこと」

 

 いい意味でも悪い意味でも、事あるたびに騒動を巻き起こす。もっとも、自ら騒動の火種となる赤蛮奇とは違って、わかさぎ姫は巻き込まれる場合が多いようだけれど。

 彼女がこの池に棲み続ける限り、賑やかな生活には事欠かなそうだと、月見は期待半分不安半分の心地で思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 わかさぎ姫は、やはり巻き込まれ体質、もしくは人気者体質らしかった。

 

 あるとき。紫と輝夜が水月苑で鉢合わせし、いつものように口喧嘩からの弾幕ごっこに発展。その流れ弾が容赦なく直撃し、目を回して水面を漂っていた。

 あるとき。「あら、なんでこんなところに人魚が……え、ここに棲んでいる? ……ここに棲んでいる!? そ、それってまさか同せ……ちょ、ちょっとあなた、ここに直りなさい! 少し話がありますっ!」と映姫に説教されて涙目になっていた。

 あるとき。水月苑へ遊びに来た早苗と志弦に、「すごーい本物の人魚だーっ!!」「やべーっすげーっ!!」ときらきらした目で詰め寄られ、どうしたらいいかわからずおろおろしていた。

 あるとき。永琳から「そういえば、人魚の肉が不老不死の妙薬なんて伝説があるわね……」と研究対象的な目で見られ、ひえええと縮こまって震えていた。

 あるとき。水辺でひなたぼっこをしていたところ、水月苑床下で暮らす妖怪鼠にガブリとやられ、ふみゃああああああ!? と一人でビチビチしていた。

 あるとき。月見が朝起きて池を見てみると、なぜか頭にたんこぶをつくってぷかぷかと気絶していた。一体なにをやっているのだろう。

 

 そんなこんなで、わかさぎ姫が池に棲みついてからというもの、水月苑はますます賑やかなのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 絵に描いたような三日月の夜だった。

 叢雲のない空の上で、欠けた月は嘘のように明るく、きめ細かな無数の星々を従えて輝いていた。豊かな自然の広がる庭では秋の虫たちが歌い、風に揺られる草花の囁きはまるでそれと語らうかのようである。水月苑の名が示す通り、水上の夜空には青白い幻の月が浮かび、水面に幻想的なまでに澄んだ光を息づかせている。

 しかし、この日は。

 虫たちの歌に混じって。いや、そのりんりんとした響きすら無粋と思わしめるように、蕩々と天へ伸びゆく歌声があった。

 月見がそれに気づいたのは、入浴を終え、濡れた髪を拭きながら茶の間へ戻る途中のことだった。

 歌声を聞いた瞬間、足も手も、呼吸すらをも止めていた。

 

「これは……」

 

 普通の歌ではない。形容の言葉が咄嗟に出せぬほど月見の琴線を刺激する。耳から入ってきた響きが、そのまま体の芯へ染み込んで溶けていくような。そしてその過程で、えも言われぬ極上の快楽を伴うような。

 人外の歌。魔に属する者が奏でる、魔性の力を帯びた歌。

 この途方もなく美しい歌声を持つ種族を、月見はひとつしか知らない。足の向ける先を変え、月見は玄関から外へ出た。夜空に響く歌声を頼りに進み、ほどなくして、水辺の石に腰掛けて歌う一人の少女の背中を見つけた。

 人魚の奏でる歌はこの世のものとは思えぬほど美しく、ときに人を死に至らしめることすらあるという。

 ちょうど歌が終わったようだったので、月見はその場で拍手をした。少女――わかさぎ姫が、「ひゃえ!?」と小さな悲鳴をあげて振り返った。

 

「いい歌だったよ」

「あ、あー、旦那様ー……」

 

 うわわっとわかさぎ姫はたじろいで、

 

「え、えっと、いつからそこに?」

「つい今しがただよ。とんでもなく綺麗な歌が聞こえたものでね」

「わわわ……お、お恥ずかしいですー……」

 

 青白い夜の中ではわかりづらいが、わかさぎ姫が赤くなった頬を押さえて俯いた。

 

「ごめんなさい、その、月がとても綺麗だったものでつい……お、お騒がせしましたぁ」

「とんでもない。アンコールを聴きたいくらいだよ」

 

 本当に素敵な歌声だった。確か人魚の奏でる歌は、人を惑わそうと邪な心で歌えばその通りになり、清らかな心で歌えば比類なき極上の音楽となるのだったか。歌で稼ごうと一念発起したら、あっという間に幻想郷中のアイドルになってしまいそうだ。

 

「わわわ……あ、アンコールですかぁ」

 

 わかさぎ姫はますます顔を赤くして、

 

「実はそのぉー、私、歌うのは好きなんですけど、人前では恥ずかしくて苦手でー……」

「ああ……じゃあ屋敷の中で聴いてるよ。私はここには来なかったということで」

「あ、あーっ、お待ちください!」

 

 踵を返そうとした月見を呼び止め、告白でもするみたいに思い切った顔で、

 

「や、やっぱり歌いますっ!」

「え、でも恥ずかしいんだろう? 無理をすることはないよ」

「そ、それはそうなんですが……でもその、いつもお騒がせしているお詫びと申しますか、ここに棲まわせてもらっているお礼と申しますか……あ、あっち向いて歌えば平気だと思いますので!」

 

 月見に背を向ける方向を指差しそこまで言ったところで、不安げに表情を曇らせた。

 

「私の歌なんかじゃ、お詫びにもお礼にもならないと思いますけど……」

「そんなことはないさ」

 

 とんでもない、とばかりに月見は大袈裟に否定した。微笑み、

 

「ありがとう。それじゃあ、特等席で聴かせてもらおうかな」

 

 手頃な芝生のところを探し、尻尾を座布団にして座り込む。いよいよ緊張してきたらしく、わかさぎ姫が両手を振ってわたわたしている。

 

「あ、あのー、失敗しちゃうかもしれないので、あんまり期待はしないでくださいねっ?」

「いやー、あんな綺麗な歌声を聴かされちゃったあとじゃ難しいねえ」

「ひ、ひええ……」

 

 わかさぎ姫はますますあたふたしていたが、やがて腹を括ったらしく、顔と身を引き締めて大きく深呼吸をした。

 背を向け、静かに、天へと伸びゆく声音で、歌を奏でる。三日月と星空の下、水月が浮かぶ青白い水面の上で歌う人魚の姿は、脳天を突き抜けるほど幻想的で、蠱惑的で、月見は知らず識らずのうちにため息をついていた。

 緊張しているせいか、わかさぎ姫はたまに歌詞を忘れてしまったり、声が裏返ったりしてしまっていたけれど。

 それを差し引いても――いや、それを含めて一生懸命歌う少女の背中はとても愛らしくて、久し振りに、心ゆくまで満足できるコンサートだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 それからというもの。

 

「旦那様~っ!」

 

 月見が出掛けようと家を出ると、いつも決まって池の方から飛んでくる声がある。月見が振り向くと、今日もわかさぎ姫が元気に手を振ってくれている。

 

「お出掛けですかぁー?」

「ああ。お留守番よろしく」

「はぁい」

 

 いつも決まったやりとりだった。わかさぎ姫はいつも池から月見を呼び止め、月見はいつも反橋から水面を覗き込んで。

 手を振り、こう、言葉を交わすのだ。

 

「いってらっしゃいませ」

「いってきます」

 

 ――水月苑の池には、人魚が棲んでいる。

 

 

 

 

 

「――うわわっ、なんじゃこりゃ!? せんせー! せんせーすごいよ人魚釣れたーっ!」

「うええええええええ」

 

 そして、偶に釣られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第93話 「草の根妖怪ネットワーク・ルーガルー編」

 

 

 

 

 

 合理的に考えればやるべきでないとわかっていても、なぜか無性にやりたくなって我慢できなくなるときがある。

 例えば迷いの竹林がそうだ。迂闊に入っても迷うだけだとわかっているのに、やたら挑戦したくて仕方のないときがある。というより、今現在がまさにそうである。その日月見は、妹紅にも竹林のイナバにも道案内を頼むことなく、たったひとりで果てなき竹やぶの中を勇猛果敢に進んでいた。

 勝率をいえば、恐らく十パーセントにも上るまい。道案内なしで永遠亭まで辿り着けたのは、この半年で三回か四回か。しかし、今日はなんだかいけるような気がするのだ。出処不明の自信がこんこんと湧きあがってきていて、踏み出す足には欠片の迷いも不安もありはしない。こっちへ進めば間違いなく辿り着けるはずだと、正体不明の確信が月見を支配している。

 月見とて、今まで考えなしに妹紅やイナバの背中にくっついていたわけではないのだ。道案内される中でも、月見は常に道を覚えようとたゆまぬ努力を重ねてきた。足を踏み入れるたびに景色を変える竹林で、風景を目印にするのは危険かつ無意味なので、どの方向に何歩進むのかを体に繰り返し教え込んだ。今日がその集大成を見せるときだ。この方向に何歩進むのかは忘れてしまったが、ともかく今日はいけるはずなのだ。

 右へ曲がる。

 少女がいた。

 

「おっと」

「ふみ゛ゃあっ!?」

 

 正確にいえば、ほんの二~三メートル先も見えない深い霧の中から突然出てきた。つまりは向こうにとっても月見がいきなり出てきたように見えたわけで、心底驚いた少女は後ろにつんのめって見事な尻もちをついた。

 

「いったー……」

「悪い、大丈夫か?」

 

 はじめて見る少女だった。ぴょこりと尖った大きな獣耳と、ドレスの下から覗く尻尾、そして鋭利な指先の爪、痛がる口の端から覗く犬歯。月見の脳裏にすぐさま狼という言葉が浮かび、続けて赤蛮奇とわかさぎ姫の友人だという少女の名前も浮かんだ。

 少女は目を丸くして月見を見上げ、

 

「ど、どちらさま? こんなとこに誰かいるなんて珍しい……」

「月見。ただのしがない狐だよ」

 

 月見は少女に手を差し伸べる。少女は「はあ」と気の抜けた返事をして、とりあえずといった感じでその手を取り、

 

「こんなところになんの用で……」

 

 月見に引かれて立ち上がる。

 

「……っと、ありがと。えーっと、私は今泉影狼よ」

 

 案の定、少女はわかさぎ姫が言うところの『かげちゃん』だった。輝夜に負けないくらい長く豊かな黒髪と、ドレスを下からまくりあげて自己主張する大きな尻尾が目を引く、ふかふか毛並みのルーガルーであった。抱き締めたらすごく気持ちよさそうだ。早苗なら間違いなく、「ちょっとだけ! ちょっとだけですからっ!」と目を輝かせて詰め寄るシロモノである。

 

「話はかねがね、赤蛮奇とひめから」

「は? なんであの二人のこと……って、ちょっと待って」

 

 影狼は月見を上から下まで観察し、

 

「月見……銀色の狐……」

 

 なにかに気づいた顔をした。猜疑の色で目を眇め、

 

「……ねえ。ひょっとしてひめを……その、た、食べようとしたのって」

「……ああ、それは私」

「ふか――――――――――ッ!!」

「おお!?」

 

 いきなり鋭い爪を振りかざして跳びかかってきた。月見は奇跡的に躱した。

 

「いきなりなんだ!」

「う、うるさいっ!? お、お前なのね、ひめにひどいことしようとしたのは!」

「いや、違うけど」

「『それは私だ』ってさっき言ったでしょ!?」

 

 言っていない。月見は「それは私の知り合いだね」と言おうとしたのだ。そして、誰かさんがいきなり跳びかかったりしてこなければ、ちゃんとそのように言えていたはずだ。

 影狼は顔を真っ赤にして叫ぶ。

 

「さ、最ッ低!! 優しそうな顔してとんだケダモノね!? その上ひめを騙して籠絡するなんて……!」

「……??」

 

 なんだろう、話が見えない。今しがた跳びかかられたのはまだいいとして、『ケダモノ』とか『籠絡』とかは一体どこから出てきた言葉か。なぜ影狼は顔を真っ赤にしてわなわな震えているのか。怒っている、だけではないような気がする。なにやら致命的な誤解をされているのではないか。

 などと月見が考えているうちに、影狼はバネのように身を縮めて、

 

「私の友達に仇為すやつは、ここで成敗してやる!」

 

 助走をつけて跳びかかろうとしたのか、スペルカードでも宣言して弾幕を放とうとしたのか、果たしてどちらだったのかはついぞ月見にはわからなかった。犬歯を剥き出しにし、唸り声をあげるような勇ましい顔つきで、影狼は大きく後ろへ跳躍して距離を取り、

 その瞬間に落とし穴に落ちた。

 

「へ、」

 

 影狼が悲鳴を上げる間もなかった。彼女の姿が一瞬で月見の視界から消え、ほとんど同時に、バシャンと水たまりに落ちたような音。それっきり静まり返り、気の毒なほど静まり返り、やがてか細くか細く、

 

「……ぐすっ、……う、うえええ……!」

「……」

 

 月見は顔を覆ってため息をついた。

 迷いの竹林には因幡てゐというイタズラ兎が棲んでいて、落とし穴をはじめとするあんな罠やこんな罠を張り巡らせては獲物が引っ掛かるのを心待ちにしている。あの落とし穴もその一環で仕掛けられ、そのまま忘れ去られてしまったものであろう。たまにあるのだ。幸い月見が被害に遭ったことはないが、道案内の妹紅が何度も涙を呑まされている。

 

「う、うううっ、うわあああああん……!」

 

 さておき。

 この声から察するに、落ちた影狼は泣いてしまったらしい。「バシャン」と音がしたから、さしずめ泥水でも入れてあったのだろう。一度似たような罠に落ちた妹紅が、様子を見に来たてゐで兎鍋を作ろうとしたことがあった。

 周りに別の罠が張られている可能性も否定できない。月見は念を入れて軽く浮きあがり、真上から落とし穴の底を覗き込んでみる。

 

「ぐすっ、えぐっ、……ひぐっ」

 

 穴の深さは二メートル程度で、底には案の定泥水がしたためられていた。影狼は尻もちをついた恰好で、胸のあたりまでどっぷり泥に浸かって、哀愁漂う嗚咽でずびずび鼻をすすっていた。白と赤の色鮮やかだったドレスはもちろん、艶やかだった黒髪も半分以上が泥の中だ。泥の水溜まりに落ちたというより、泥風呂に浸かっているというべきかもしれない。

 確かにこれは泣く。月見もきっと、同じ目に遭ったら心の中で泣く。

 

「う、うええええええええ!」

 

 覗き込む月見に気づいて、影狼がますます大声で泣き始めた。助けを求めているのか、それとも人に見られた羞恥と屈辱で心が折れてしまったのか。

 どうあれ、見過ごせまい。幸いにも幅のある大きな落とし穴だったので、月見は泥に足がつくギリギリまで下りていって、

 

「ほら、大丈夫か?」

 

 本日二度目、影狼にそっと手を差し伸べるのだが、

 

「うええええええええ」

「……おーい、影狼?」

「わああああああああん」

「……」

 

 影狼はぴーぴー泣くばかりで、月見の手を取るどころか目を合わせてもくれなかった。

 ――わかさぎ姫曰く、影狼は自らを『誇り高きルーガルー』だと豪語しているという。

 紫にせよレミリアにせよ幽香にせよ、そういうやつに限って子どもっぽいのはもはやお約束なんだなと思いながら。

 月見は仕方なく、泣き虫かげちゃんを頑張って慰めるところから始めることにした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ぐすっえぐっと半泣きな影狼を引っ張って、月見は水月苑まで戻ってきた。

 いろいろ考えた結果、距離がある分の手間を差し引いてもこうするのが一番のような気がしたのだ。竹林に分け入って間もなかったのと、帰りの道のりを忘れていなかったのが幸いした。影狼の泥を落とすことができ、代わりの服を用意することができ、ついでに彼女の「ケダモノ」「籠絡」なる誤解を解くこともできる場所――すなわち、温泉がある、貸出用の浴衣がある、わかさぎ姫がいるの三拍子揃った水月苑をおいて他にはない。

 運がいいことに、池のほとりにはわかさぎ姫だけでなく赤蛮奇の姿まであった。

 わかさぎ姫が水月苑の池に移り棲んだと知ってから、ちらほらと遊びに来るようになっていたのだ。それ自体は一向に構わないのだが、初対面の相手をとりあえず生首モードでおどかそうとする癖のせいで、なにかと騒ぎを起こしてばかりなのには手を焼かされている。驚くあまり池に落ちた者は数知れず、その場でふっと卒倒してしまった者や、泣き出してしまった者も少なからずいる。もっとも、咲夜や藍や映姫が可愛らしく悲鳴をあげる瞬間を見られたという意味では、決して悪いことばかりではないのだけれど――。

 さておいて、二人仲良く世間話を楽しんでいる風だったので、月見はこれ幸いとその隣に降り立った。

 

「赤蛮奇、ひめ」

「あ、これは旦那様。おかえりなさ――」

 

 振り向いた瞬間、赤蛮奇は胸から下が真っ茶色な友人の姿に目を丸くした。

 

「おぉ……影狼、随分と変わり果てた姿になって」

「わあっ!? ど、どうしたのかげちゃんその恰好!」

 

 田んぼに落ちたってこうはなるまい。普段がおっとりなわかさぎ姫も、これにはさすがにびっくり仰天だった。影狼がぐすっと情けなく鼻をすすった。

 かくかくしかじか、月見はここに至るまでの経緯を説明する。竹林のイタズラ兎については聞き及んでいたようで、二人ともすぐに納得してくれた。

 

「なるほど、落とし穴に。運がなかったわね、影狼」

「ぐすっ」

 

 大鷲に二度も頭を攫われた赤蛮奇が言えたセリフではないと思う。

 

「かげちゃんったら、ドジなんだからぁ」

「……ぐすっ」

 

 たまに釣り竿で釣られているわかさぎ姫が言えたセリフではないと思う。

 月見は話を進める。

 

「そんなわけだから、風呂にでも入れてやってくれないか。ここのを好きに使ってくれていいから」

「それは構いませんが……」

 

 赤蛮奇の瞳がきらりと光り、

 

「もしかすると、貸し切りというやつでしょうか」

「ああ、どうぞ。影狼を綺麗にしてくれさえすれば、あとはゆっくり楽しんでもらって構わないよ」

「お任せください、影狼は私が責任を持って綺麗にします」

 

 とても頼もしい熱意に満ちた言葉だった。しかし、以前月見と体捜しをしたときよりも明らかなやる気が感じられるのは気のせいだろうか。赤蛮奇の頭の中では、温泉>自分の体なのだろうか。

 わかさぎ姫が咄嗟に手を挙げ、

 

「あー旦那様、私も入りたいですー」

「ご自由にどうぞ。影狼をよろしくね」

「はぁい。ありがとうございますー」

 

 これでいい。友達と一緒にのんびり湯船を楽しめば、幼児退行気味な影狼の機嫌も自ずと回復するだろう。ついでに、「ケダモノ」「籠絡」なる誤解もお湯に溶けて流れてしまえばよいと願う。

 わかさぎ姫が改めて泥だらけの影狼を上から下まで眺め、難しそうに眉根を寄せた。

 

「でもかげちゃん、それじゃあお洋服はもうおじゃんねえ。洗っても落ちないと思うし」

「ぐすっ」

「備えつけの浴衣があるからそれを使ってくれ。間に合わせくらいにはなるだろう?」

「あー、はい。それはありがとうございますなんですけどー……」

 

 わかさぎ姫がふいに月見を凝視する。品定めをするような顔つきで、月見の瞳を奥の奥まで覗き込む。なんとなく目を逸らしてはいけない気がして、月見はまばたきも惜しみながら辛抱強くわかさぎ姫の言葉を待つ。

 その反応が満足だったのか、わかさぎ姫は再びほわっと笑って、

 

「……でも、旦那様なら大丈夫ですねぇ」

「ん?」

 

 なんのことかわからない月見に、にやりとした赤蛮奇が、

 

「つまりですね、服の替えは用意できても下着の」

「ふか――――――――――――――――ッ!!」

「おうっ!?」

 

 涙目から一転、一瞬で真っ赤になった影狼が赤蛮奇に跳びかかった。首を的確に奪い取り地面に押さえつけて、ボールを獲物と見なした犬さながらの激しさで、

 

「あっやめて影狼噛まないで、ってかあのねあのねそんな泥だらけでじゃれつかれたら私まで泥だらけになっちゃうからちょっと待って待ってやめてやめあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

「がうがうがうがうがう!!」

 

 転がしたり叩いたり噛みついたりする影狼の、パタパタと忙しなく動く尻尾を眺めながら、月見はぽつりと小さく言った。

 

「……犬だね」

「はぁい」

 

 わかさぎ姫は、頬に手を当ててとても微笑ましげな様子だった。

 

「かわいいでしょ」

「……そうだね」

 

 赤蛮奇には悪いが。涙目で友人の首を泥だらけにしていく少女の姿には、なかなかどうして憎めない愛嬌があった。

 

「ガルルルルルルルルッ!!」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 

 それにしてもこの生首、あいかわらずである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 女の子らしい長風呂となり、三人があがってくる頃にはすっかりお昼時だった。まず「只今あがりました」と首を浮かせた赤蛮奇が茶の間に入ってきて、続けて「とっても気持ちよかったですー」と実は飛べたらしいわかさぎ姫がふよふよと漂ってきて、最後に、

 

「……」

 

 注意深くぴっちり浴衣を着込んだ影狼が、いささかバツの悪そうな顔をしてそろそろと戻ってきた。腿のあたりを念入りに両手で押さえ、小さい歩幅でちょこちょこと歩いている。なぜそんなに変な歩き方をしているのかを問えば最後、間違いなく引っ掻き攻撃が飛んでくるので、月見は気づかなかったふりをした。

 テーブルまで三人を促す。

 

「おかえり。……桃を剥いたからよければどうぞ」

 

 テーブルの中央には、桃の切り身を載せた小皿が三枚。天子は今でも積極的に桃を差し入れしてくれる。それ自体はとてもありがたいのだが、何分差し入れの回数が多いので、こうして隙あらば客にご馳走していかないとすぐ腐らせてしまうのだ。

 

「おお、なんと至れり尽くせりなのでしょう。旦那様への好感度がギュンギュン上昇しています」

「……」

「待ってください、そんな能面みたいな顔しないでください」

 

 この抜け首少女、だんだんとキスメに似てきてやいないか。あんな少女が幻想郷に二人も……想像するだに恐ろしい。

 

「冗談はいいから早くお食べ、ぬるくなっちゃうからね」

「おう……確かに冗談ではあるのですが、そんなにあっさり流されると女として複雑です」

「いいからいただきましょ。ほら、かげちゃんが涎垂らしそうだもの」

「そ、そんなことないっ!」

 

 ならば、いま慌てて口元を拭ったのはなぜなのか――敢えてまで問うまい。

 赤蛮奇たちは、月見の正面に三人並んで座った。左から、わかさぎ姫、影狼、赤蛮奇の順番だ。肩が触れ合うくらいに詰めても誰も気にしていないあたり、この三人は本当に仲がいいのだと月見は思う。

 いただきまーすと三人とも行儀よく言って、早速影狼が手を伸ばそうとしたところで、

 

「あ、影狼」

 

 いきなり赤蛮奇が、

 

「お手」

「わん!」

 

 影狼はとても元気にお手をした。それはもう、よく躾されたわんこのように完璧かつ見事なお手だった。

 そして沈黙する。微笑ましい一場面を見た者たちの間で発生する、ほんわかと柔らかな沈黙である。その『微笑ましい一場面』となってしまった影狼は笑顔のままじわじわと赤くなり、次第にぷるぷると震え始めて、

 五秒、

 

「――がううううううううっ!?」

「ふぐうっ」

 

 影狼が赤蛮奇のおでこをぶっ叩き、吹っ飛んだ首が部屋の隅まで転がっていった。

 月見の浮かべるほのかな笑みに気づき、影狼は顔中を真っ赤にして叫ぶ。

 

「ち、違っ! 今のはその、冗談っていうか、無意識っていうか、……とにかく違くて!」

「かげちゃん、お手ーっ」

「わんっ! ……………………うがああああああああ!?」

「ひえええええっ!?」

 

 なにをやっているのかこの娘たちは。

 影狼に押し倒されてぺちぺち叩かれる人魚を尻目に、赤蛮奇の首がふよふよと戻ってきて言う。

 

「……とまあこんな感じで、犬……もといルーガルーの今泉影狼です。私とひめ共々、どうぞよしなに」

「犬じゃないってばあああああ!」

「影狼、お手」

「わ――も、もう引っ掛からない! もう引っ掛からないからね!?」

 

 どうやら今泉影狼は、月見が思っていたよりもずっとずっと犬っぽい少女のようだった。はじめわかさぎ姫から話を聞いたときは、ビーフジャーキーを見せたら飛びつきそうだなんて冗談めかして考えたものだが、ひょっとするとあながち間違ってもいないのかもしれない。ビーフジャーキーを買い置きしていないのが悔やまれる。

 ともかく、話が進みそうにないので月見は手を叩き、

 

「はいはい、ふざけるのはおしまいにして。影狼にちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「……なによ」

 

 影狼がわかさぎ姫を尻に敷いた恰好のままで睨んでくる。わかさぎ姫が「かげちゃん重い~」と音を上げて、影狼にほっぺたをむいーっと引っ張られている。

 月見は構わず、

 

「竹林で、『ケダモノ』とか『籠絡』とか言ってた件なんだけど」

「あ、あー」

 

 影狼はぎくりとして、

 

「えっと、あれは私の勘違いだったわ。悪かったわね……」

「そうか?」

 

 影狼が、逃げるようにあてどなく目線を泳がせている。まるでその話はするなと言わんばかりである。月見はまあわかってもらえたならいいかとスルーしようとしたが、まさか赤蛮奇が見逃してくれるはずもなく、

 

「話は温泉に入りながら聞きました。影狼ったらなんと、旦那様がひめを性的に食」

「うにゃあああああ――――――――――っ!?」

「おうっ」

 

 また部屋の隅まで転がっていく、赤蛮奇の生首。

 それを目で追いながら月見は、なるほどそりゃあケダモノだと内心納得した。例えば「あの狐のところで食べられそうになった」とわかさぎ姫が言ったとすれば、そういった誤解が起きる可能性もなくはない――のかもしれない。随分と想像力が豊かな話だとは思うが。

 ところで影狼がそんな誤解をしてしまったということは、すなわち誤解されかねない発言をした元凶がいることを意味する。

 

「赤蛮奇、ひめ。一応確認するけど、変なこと言い触らしちゃいないだろうね」

「とんでもないです、影狼が勝手に誤解しただけです」

「そうです、悪いのはかげちゃんですー」

「だ、だって! 女が男のところで『食べられそうになった』って言ったら、普通そっちを疑うでしょ!?」

「「いやあ……ないわ」」

「うわあああああん!!」

 

 友人二人になまあたたかい目をされ、影狼はそろそろ涙目だった。

 

「影狼は耳年増で想像力豊かだからね。でも大丈夫、そんな影狼が私たちは好きよ」

「ぜえええんぜん嬉しくないなあああああ!?」

「どうせバレるんだから、変に猫被らないで最初から本当のあなたをかみんぐあうとしていくのもありだと――待って待って暴力反対犬パンチ禁止やめてやめあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 

 茶の間の隅っこで、影狼必殺の犬パンチがビシバシ炸裂する。……「ふざけるのはやめ」と言った月見の舌の根も乾かぬうちにもうこれだ。ひょっとするとこの少女たちは、月見が知り合った中では最も――紫と藤千代と操の三バカ娘以上に――賑やかで愉快な三人組なのかもしれなかった。

 

「がうがうがうがうがうっ!!」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 

 それにしてもこの生首、以下省略。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 食べ物の力は時に偉大である。

 元気がよすぎる三人娘のせいでなにがなんだかわからなくなりそうだったので、月見はいい加減彼女らに桃を召し上がってもらった。すると赤蛮奇もわかさぎ姫も影狼もすっかり大人しくなってフォークを動かし、なんとも幸せそうに表情筋を弛ませるのだった。中でも影狼が微笑ましい。元気に口を開けて桃を頬張り、すっかり骨抜きされた笑顔ではむはむ咀嚼しつつ、大きな犬耳がご機嫌にぴこぴこと揺れる。犬は犬でもこれでは子犬だ。ここまで幸せそうに食べてもらえるなら桃たちも本望に違いないし、もう少し見ていたいと思った月見が追加の桃を剥き始めるまで時間は掛からなかった。

 

「ところで、旦那様」

 

 そして追加の桃ももうすぐ食べ終わろうかという頃合いで、赤蛮奇がふいに口を切った。

 

「旦那様は、『草の根妖怪ネットワーク』というものをご存知ですか?」

「いや? なんだいそれは」

「よくぞ訊いてくださいました。私たち三人が立ち上げたチームの名です」

 

 誘導尋問を喰らった感覚。

 さておいて、

 

「なにをするチームなんだい」

「特になにもしません」

「は、」

「どうでしょう。旦那様も、私たち『草の根妖怪ネットワーク』に所属してみませんか」

「いや待て、なんだ『なにもしてない』って」

「? そのままの意味ですが」

 

 ひょっとすると月見はおちょくられているのだろうか。この抜け首少女ならやりかねないと思う。

 なので、ここは嘘とは無縁そうなわかさぎ姫に目配せをしてみる。彼女は桃を咀嚼しながら少し考え、

 

「……えっと、特別なことはほんとになにもやってないんですよー。強いて言えば、『お友達として仲良くするチーム』って感じで」

 

 つまりは、ある目的を持って結成された集団ではなく、単なる仲良し同士の集まりということだろうか。

 だが、それはそれで新たな疑問が浮かぶ。

 

「なぜ私にその話を?」

「それはもちろん、旦那様とより親睦を深めたいと思いまして」

「それこそなぜだい? まさか、知り合った相手全員に声を掛けて回ってるわけじゃないだろう」

「もちろんですとも。私自身、旦那様と出会うまでは殿方に声を掛ける日が来ようとは思ってもいませんでした」

 

 月見は黙して続きを促す。

 

「先日の体捜しの一件で実感したのですが……旦那様の周りはとても賑やかで楽しいのです」

「うんうん」

 

 わかさぎ姫が二度頷き、

 

「私もここに棲むようになってから、毎日いろいろなことがあって退屈しませんー」

「それは私なんて関係ないさ。お前たち自身に魅力があるからこそ、周りも自然とお前たちを受け入れてくれるんだよ」

「それも、旦那様がいてこそなのだと私は感じます」

 

 赤蛮奇は言う。

 

「旦那様が上手く間を取り持ってくれるのです。だからどんなに賑やかでも、決してやかましくなく、楽しいと感じることができるのではないでしょうか」

「……まあ、誰かが首だけで何度も人をおどかしたり、何回注意してもそこの橋で釣られたりするものだから、間を取り持たざるを得ないというかね」

 

 赤蛮奇とわかさぎ姫がさっと目を逸らした。影狼は幸せそうに残り少ない桃をはむはむしていた。

 

「……ともかく、私は、旦那様の周りの賑やかな空気に惹かれました。なのでより親睦を深めるため、『草の根妖怪ネットワーク』にご招待したいと思うのです」

 

 要するに「私たちともっと仲良くなりましょう」という、随分と光栄な申し出のようだった。赤蛮奇が言うことなので面白半分というのも否定はできないが、それでも異性の月見を、自分たちのチームに入れてもいいと認めてくれたのは素直にありがたかった。

 

「……仮に私がそのチームに参加するとして」

 

 わかさぎ姫と影狼を見る。

 

「お前たちはいいのか?」

「私は大歓迎ですー」

 

 わかさぎ姫が即答した。まあ、彼女ならそう言うのだろうなと思っていた。彼女はきっと、相手が誰であろうともそうやって、ふんわりと両手を合わせて歓迎してしまうだろう。たとえ食べられそうになっても「最近の小さいお子さんは元気ですねー」で済ませてしまう人魚姫は、懐が並々ならぬほど広いのだ。

 問題は影狼である――と思ったのだが、意外にも彼女の反応はさばけていた。

 

「まあ、別にいいけど。ただし、二人を傷つけるようなことしたら許さないから」

「……、」

 

 月見は毒気を抜かれた。赤蛮奇やわかさぎ姫はまだしも、影狼とはまだ今日はじめて出会ったばかりで、しかも運悪く誤解があったせいで第一印象もよくなかった。加えて彼女は赤蛮奇のように脳天気なわけでも、わかさぎ姫のようにお人好しなわけでもない。誤解が解けたとはいえ、内心ではまだ月見を警戒しているのではないのか。そんな相手をあっさりチームの一員と認めてしまうのは、単に二人に意見を合わせただけなのか、それとも彼女なりの思惑があってのことなのか。

 顔に出ていたらしく、赤蛮奇に読まれた。

 

「ふふふ。なんだかんだで影狼は、異性の友人というのに興味津々なんです。なんといっても耳年――待って影狼、爪はダメ、ダメ」

 

 この抜け首少女は、定期的にふざけないと生命活動に支障を来す病にでも罹っているのかもしれない。永遠亭を紹介するべきかどうか、そろそろ本格的に悩み始める月見である。

 爪を光らせ赤蛮奇にじりじり詰め寄る影狼の後ろから、わかさぎ姫がすかさず、

 

「こらあっ、ダメよかげちゃん! おすわりっ!」

「……わん!」

 

 影狼は元気におすわりをした。影狼基準だと、おすわりは所謂女の子座りらしかった。

 五秒、

 

「――ひいいいいいめええええええええ!?」

「ひえええええ!?」

「こらっやめなさい影狼! おすわり!」

「わん! ……う、うわああああああああああん!?」

「……」

 

 ……ああ、せっかく静かだったのに。

 涙目で暴れる影狼、押し倒されるわかさぎ姫、転がっていく赤蛮奇の首。何度言っても賑やか極まりない三人娘を眺めていたら、月見は気づいたときには、

 

「ッハハハハハ」

 

 と、声をあげて笑っていた。

 赤蛮奇たちが揃ってピタリと動きを止め、目を丸くして月見を見返した。月見は込み上がってくる笑みを噛み殺し、ひとつの大きな吐息に変えて吐き出して、

 

「――まったく。私は、お前たちの方がよっぽど賑やかだと思うけどね」

 

 部屋の隅の方で、赤蛮奇の首がころんと横に転がった。首を傾げようとしたのだと思う。

 

「……そうでしょうか?」

「そうだとも。たった三人でここまで賑やかなのはそうそういないぞ。特に影狼、お前が入ったら見違えるようだ」

「え。そ、そう? ……でもなんだろ、あんまり褒められてる気がしないような」

 

 影狼に押し倒されているわかさぎ姫が、大きな尾びれをじたばたさせて呻く。

 

「かげちゃん重いよぉ。潰れちゃうからどい」

「ひいいいいいめええええええええ!?」

「ふみょみょみょみょみょ!?」

 

 そして、影狼がわかさぎ姫のほっぺたをみょーんみょーんと引っ張る。

 本当に。紫と藤千代と操が揃ったって、ここまで賑やかになるかどうかわからない。けれど決してやかましく不快なのではなく、知らず識らずのうちに笑みが浮かんでしまうようなかわいらしい喧騒だった。三人の途方もない仲のよさを、これでもかと見せつけられている心地がした。

 だから月見はこう言った。

 

「わかった。入ろうじゃないか、『草の根妖怪ネットワーク』」

「おおっ」

 

 赤蛮奇の首がすかさず飛んできて、月見の周りを一回転した。

 

「よろしいのですか?」

「お前たちがよければね」

「ダメなのでしたら誘っていません」

「ふみゅみゅみゅみゅみゅ!?」

「こらぁっひめ、影狼! じゃれ合ってる場合じゃないわよ、旦那様が私たちのメンバーに」

「元はといえば誰のせいかなああああああああ!?」

「ふみぇみぇみぇみぇみぇ!?」

 

 今度は赤蛮奇が影狼にほっぺたむーいされるのを、苦笑混じりで眺めながら。

 だから私は入るのだろうな、と月見は思う。やっぱり自分は、元気いっぱい活気いっぱいなみんなの姿を眺めているのが好きなのかもしれない。昔から、紫を筆頭とするお転婆な少女たちと縁があったお陰で。疲れを知らずあちこち跳ね回る彼女らの姿は、その場の空気だけでなく月見の生活までより明るいものにしてくれる。退屈に殺されるくらいなら慌ただしさに忙殺される方がよっぽどよくて、元気がよすぎる彼女らに手を焼かされるのもひとつの醍醐味なのだ。

 もっとも周りが賑やかになればなるほど、一人でのんびりしたいときに限って放っておいてもらえなくなる可能性は高まるけれど――それはまあ、そのときに考えることとして。

 とりあえず。

 

「かにぇおう、はにゃひをひひはにゃにゃにゃにゃにゃ!」

「かげちゃんおーもーいー! どーいーてーつーぶーれーるーっ!」

「がううううううううううっ!!」

 

 ……また、桃を剥こうかなあ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いじる赤蛮奇とわかさぎ姫、そしていじられる影狼という構図は、結局その日がお開きになるまで延々と続いた。やはり影狼は、『草の根妖怪ネットワーク』の中では逃れようのないいじられポジションなのだった。

 それから、数日後のことである。

 咲夜と一緒に水月苑二階の大広間を掃除していたところ、月見はふと、庭の方で誰かの言い争う声があることに気づいた。

 

「こらぁっかげちゃん、ちゃんと自分でやらなきゃダメでしょっ。人任せで楽な方に逃げようとしてー!」

「だ、だってぇ!」

 

 というか、わかさぎ姫と影狼だった。月見は疑問符を浮かべている咲夜に、

 

「知り合いが来たみたいだ。ちょっと行ってくるよ」

「わかりました。では、私は掃除の方を進めてますね」

 

 断りを入れて一階へ下り、玄関に向かう。外からはあいかわらず、「逃げちゃダメ」とか「恥ずかしい」とか二人の言い合う声が飛んできている。

 わざと勢いよく戸を開けた。

 

「どうかしたのかい、二人とも」

「み゛っ!?」

 

 反橋の袂付近の水辺で、影狼がびくーんと大きく飛び跳ねたのが見えた。わかさぎ姫が、この機を逃すかとばかりに水の中から大きく手を振り、

 

「旦那様ー! かげちゃんがぁ、お話があるみたいですー!」

「ひ、ひめぇっ!」

「ちゃんと自分でやりなさいっ」

 

 影狼が「ひぇえ」と変な声で鳴いて、右へ左へわたわたおろおろしている。なぜそんなに慌てているのか月見にはわからない。話というのは、その両手で大事そうに抱えている水月苑の浴衣ではないのだろうか。

 助け舟を出してみることにした。

 

「おはよう、影狼。浴衣を返しに来てくれたのかな」

 

 予備をもう一着持っていたのか、それともわざわざ新調したのか、影狼ははじめて竹林で出会ったときと同じ恰好をしていた。赤と白の対比が鮮やかな大きめのドレス。足元まで覆うスカートでも隠し切れないふさふさの尻尾が、緊張であっちこっちへ忙しなく動いている。

 影狼は立ち止まり、

 

「え、ええ……」

 

 頷くなり意を決して大きく息を吸い、ヤケクソ気味な小走りで月見の目の前までやってきた。つっけんどんな態度で浴衣を差し出し、目も合わせずぶっきらぼうな口振りで、

 

「こ、これっ。貸してくれてありがとう」

「どういたしまして」

 

 月見が受け取ろうと手を伸ばした瞬間、影狼ははっとして浴衣を引っ込め、

 

「い、言っておくけどね!」

 

 犬歯を光らせながら吠えた。

 

「ちゃ、ちゃんと念入りに洗ったから! ……三回くらい洗ったから! だから借りたときよりキレイなわけで、変なことに使おうとしてもムダよ!」

「? 変なことって?」

「え? そ、それは……」

 

 浴衣でできる変なことといえば、左前で着るとか。それくらいしか思い浮かばなかった月見が問うた途端、影狼は目に見えて狼狽えた。緊張とは別の感情で顔を赤くし、伏し目がちになりながら小声で、

 

「その……に、においかいだり……とか」

「……」

 

 ……ああ、そんなこと考えたりしてるから妙に緊張してたわけね。

 

「お前、本当に想像力豊かなんだなあ……」

「そ、そんな菩薩みたいな顔しないで!? こ、これくらい女として警戒して当然でしょ!?」

 

 否定はできない。できないが、月見がそういった卑しい悪事を働く輩だと思われているのなら心外の一言に尽きる。山の天狗じゃああるまいし。

 わかさぎ姫が池のほとりから言う。

 

「旦那様はそんなことしませんよねー?」

「考えもしなかったよ」

「ほらぁ。かげちゃんのへんたいー」

「う、うぐぐぐぐぐう……っ!?」

 

 想像力豊かなかげちゃんはぷるぷる涙目だった。

 

「安心してくれ、誓ってそんな真似はしないから。じゃなきゃ、温泉宿なんてとっくの昔に廃業してるさ」

「むう……」

 

 月見が管理する温泉なら大丈夫だろうと、多くの少女たちから信頼を寄せられている身だ。彼女らの気持ちを裏切ることすなわち、月見の存在が社会的に抹殺されることを意味する。確実に死ぬとわかりきっている自殺行為を敢えてする勇気など、月見は持ちあわせていないのだ。

 だから、

 

「だから、一旦落ち着いて――」

 

 月見は影狼に右手を差し伸べ、微笑んだ。

 

「――お手」

「わんっ!」

 

 もちろん、影狼は元気にお手をした。

 白状しよう。はじめ見たときからずっと、一度でいいからやってみたいと悪戯心を刺激されていたのだ。影狼の掌は、肉球的な感触が表れているのか大変ぷにぷにで柔らかかった。

 

「……………………………………………………」

 

 影狼、笑顔のまま石化。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 殴られるわ蹴られるわ引っ掻かれるわ噛みつかれるわでボロボロになった月見が、やっとの思いで大広間に戻ると、咲夜がじとーっと半目でお出迎えしてくれた。広間の掃除はとっくに終わったらしく、隅々まですっかりピカピカになっている。

 拗ねた子どもみたいな口振りだった。

 

「月見様には、あんなご趣味があったんですね。知らなかったです」

 

 間違いなく、『お手』のことを言っているはずである。月見はどう答えるか少し悩み、

 

「……つい魔が差してね」

「じー……」

 

 咲夜の半目が、月見の良心に風穴を空けそうだった。

 

「と、ともかく。掃除はもう終わったのかな」

「じ――――……」

「どうだい、少し休憩でも……咲夜?」

「じ――――――――……」

 

 少し様子がおかしい。無論、月見が今しがたやってきた『お手』に原因はあると思う。草の根妖怪ネットワークの中では割と日常茶飯事でも、よそにとっては違うのだと理解はしている。

 けれど、それにしても。

 怒っている、というより。

 どことなく、不満そうな。

 

「……」

 

 月見にとって十六夜咲夜は、純粋な人間の中では、今年の春から最も多くの時間をともに過ごした相手である。だからなのか、わざわざ言葉にされずとも、彼女がなにを訴えているのかなんとなくわかってしまうときがあるのだ。

 その感覚によれば、咲夜がこのジト目で訴えようとしているのは――。

 

「……咲夜」

 

 自分の正気を疑いながらも、月見が己が感じた通りに行動してみた。

 

「――お手」

 

 と。

 そう言って月見が差し出した右手に、

 

「わんっ」

 

 十六夜咲夜は、待ってましたと言わんばかりにお手をした。

 どうやら正解だったらしい。月見は己の直感を手放しで褒めた。もし勘違いだったらとんでもない赤っ恥だっただけに、まるで一世一代の大博打に勝利したような心地だった。

 問題は。

 なにゆえ十六夜咲夜が、自ら率先して月見に『お手』をしているかである。

 

「……咲夜?」

「……、」

 

 月見の目の前で、「待ってました」な咲夜は段々真顔になって、うっすらうっすらと赤くなっていって、

 次の瞬間、咲夜の姿が忽然と消えた。不意を衝かれてあたりを見回すと、大広間の隅っこでうずくまりしゅうしゅうと湯気をあげている後ろ姿が見えた。

 

「……なにやってるんだい」

 

 いつぞやの妖夢みたいな反応である。

 咲夜は恥ずかしさたっぷりの小さくしぼんだ声で、

 

「も、申し訳ありません……。面白そうだと思って私もやってみたんですけど、その……お、思いの外恥ずかしくなってしまって……」

 

 咲夜には意外と天然な一面がある。そうでなければ、面白そうだから自分も『お手』をやってみよう、なんてことは逆立ちしたって考えられないはずだ。更には実際にやってみてはじめてその恥ずかしさに気づき、部屋の隅っこでしゅうしゅう湯気をあげてしまうのだから、まったくもって妖夢も苦笑いな天然っぷりだと思う。

 ふと考える。

 

「お前は、動物になったら犬が似合いそうだね」

 

 元々主人想いだし、自分の仕事に一生懸命だし、さっきの『お手』なんて影狼顔負けだった。今の月見の眼力なら、うずくまる咲夜の腰付近にへんにゃりと垂れた尻尾を幻視できる。カチューシャのあたりに犬耳も見えるのである。

 咲夜は顔を上げぬまま、

 

「犬……ですか。そういえば、狐も生物学上は犬の仲間だと聞きました」

「ああ、そうだね。なら、咲夜も犬になったらおそろいだ」

「……」

「まあそんなことより、少し休憩しようか。すまなかったね、ほとんど任せちゃって」

「あ、いえ……」

 

 その後、休憩を終えてからも咲夜はテキパキとお手伝いを続けたが、終始、どこか上の空でなにかを考え込んでいる様子だった。尋ねてみても「なんでもないです」の一点張りだったので、追及はしなかったが。

 「なんで私は人間なんだろう……」と大変哲学的な呟きが聞こえたので、もしかすると咲夜は、思春期特有の人生の悩みにぶつかってしまったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ――というのはもちろん、月見のただの勘違いである。

 その日の夕方、紅魔館に戻った咲夜はパチュリーに問うた。

 

「パチュリー様……」

「なに? どうしたの、そんな思い詰めた顔で」

「はい……あの、犬耳が生える魔法ってありますか?」

「は」

「できれば尻尾も」

「し、」

 

 果たして咲夜に犬耳が生えたのかどうかは――きっと、七曜の魔女だけが知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第94話 「しばし遠い春を想う」

 

 

 

 

 

 なんとも勿体ないことに、この世は過ごしやすい季節ほど早く過ぎ去るようにできている。

 もちろん、所謂『楽しい時間ほど早く終わり辛い時間ほど長く続く』という心理が作用している可能性は否めない。しかしそれを差し引いても、やはり冬の足音は随分と近づいてくるのが早いと月見は感じる。夏の暑さが和らいだのがつい一週間ほど前で、肌寒くなり始めたのが昨日一昨日の話のように思える。恵みの秋はあっという間に終わりを迎え、幻想郷を小手調べの寒波が覆い、本格的な冬の到来を住人たちに予感させていた。

 まだ雪は降っていないが、それも今だけだろう。朝は思わず身震いしてしまうほど冷えるし、出掛ける際は襟巻きや手袋が手放せなくなりつつある。多くの生命にとって最も過酷な辛抱の数ヶ月。月見が幻想郷に戻ってきてからはじめて迎える、白の季節だった。

 そんなあの日の冷えた朝方、起きがけの月見は寝室から一歩出た瞬間スキマに落下した。

 声をあげる暇もなかった。まだ完全に起ききっていない頭と体では、咄嗟に飛んで回避することもできなかった。襖を開けて一歩目の足元で待ち構えるなんて卑怯ではないか。月見は数秒の間、無数の瞳が蠢く赤黒い空間を漂い、ほどなくして何処かの畳にべしゃりと背中から叩きつけられた。

 コフ、と一瞬呼吸ができなくなる。そんな月見にお構いなく、すぐ傍から降ってくる明るく元気な声、

 

「おはよう、月見っ」

「……ああ」

 

 そこにいたのはうきうき笑顔の紫であり、落ちた先は、今となってはすっかり見慣れた八雲邸の茶の間だった。

 呻く月見は畳の上に大の字になって、

 

「……朝っぱらから突然なんだい。心臓に悪い」

 

 彼女の行動が唐突なのは今に始まったことではないけれど、それでもなにも言わずスキマで強制搬送というのは珍しい。いつもなら天井から降ってきて、これこれこういうわけで連れて行くけどいいかと確認くらいはするはずなのに。

 紫はうきうき笑顔のまま膝を折り、月見の脇腹をツンツンとつついた。

 

「残念ながら、あなたは私に捕まってしまいました」

「なんだって、それは本当に残念だ」

「そこは嘘でも肯定しないで!?」

「冗談だよ。はい、続き」

 

 むう……と紫は口をへの字にしながらも、空咳ひとつで気を取り直して、

 

「月見には、今日一日私と一緒にいてもらいます。拒否権はありませんっ」

「それは……構わないけど」

 

 これといって、急ぎの用事があるわけでもない。

 

「しかし、一体なんの用で?」

「……なんだと思う?」

 

 わからないから訊いているのだけれど。

 

「ねえ。……月見は、覚えてる? それが答え」

「……」

 

 それでも一応、考えてみることにした。

 随分と思わせぶりな質問だ。そういう訊き方をしてくるということは、もちろん紫は覚えていて、同時に月見にも覚えていてほしいと願っているのだと推測できる。それが、彼女にとってとてもとても大切なことだから。だから月見が出かけてしまう前に、もしくは水月苑に誰かがやってきてしまう前に、朝一番で月見を誘拐した。そしてその上で、月見に要求するのは『今日一日一緒にいること』と来ている。

 紫と一緒にいてあげなければならない、大切なこと。

 月見は記憶を遡る。決して最近とは限らない。もしかすると、月見がかつて幻想郷で生活していた頃、幻想郷がまだ完成していなかった頃、もしくはそれ以上の過去まで遡るのかもしれない。例えば昔のちょうど今頃の季節、月見と紫はなにをしていたか。そういえば、あの頃も紫に問答無用で拉致されていたような気がする。その理由は確か――

 

「――ああ」

 

 考えてみれば、簡単なことだった。

 起き抜けを前置きなくいきなり強制搬送されたのにも、ぜんぶ納得がいった。

 

「そうか。……もう、そんな季節なんだな」

 

 こく、と紫は頷いた。それから、月見が思い出してくれたことを喜ぶように、にへ、と小さく笑った。

 月見はまぶたを下ろし、深く息を吸って、もう一度その言葉を繰り返した。

 

「……そうか」

 

 不思議な感覚だった。月見にとっては何百年振りにもなる話だからか、頭ではわかってもまるで実感が湧かなかった。なんの根拠もないのに、これからも同じ日常が続いていくのだと疑ってもいなかったのだ。

 紫が、言った。

 

「そう。……だから、ね? いいでしょ?」

「ああ」

 

 月見は起き上がり、ちょっぴりだけ寂しそうな紫の瞳を、まっすぐに見返した。

 あの頃と、同じ言葉で。

 

「そうだね。今日くらいは、一緒にいようか」

「……!」

 

 途端に花開く、眩しく愛くるしい、少女の満点の笑顔。

 

「――うん!」

 

 それと同じタイミングで、廊下の方からぱたぱたぱたーっと元気な小走りの音が聞こえてきた。

 

「……あ、月見様! おはようございます!」

 

 転がり込んできたのは橙だった。かわいらしい花柄のエプロンを着て、ぴっしりと三角巾を被っている。藍と一緒に朝食の支度をしているのだろう。普段は『マヨヒガ』という化け猫の里で暮らしているが、こうしてしばしば八雲邸にやってきては、率先して藍のお手伝いをしているとてもよい子なのだ。

 

「おはよう。こんな朝からお手伝いなんて偉いねえ」

「えへへ……待っていてくださいねっ、もうすぐ支度ができますから!」

 

 忽然と現れていた月見を前にしても、橙は驚きもせず、疑問符のひとつも浮かべなかった。座敷の真ん中までトテトテと駆けていき、瞬く間に整理したテーブルの上を布巾でテキパキ拭きながら、

 

「月見様の分の朝ごはんも、ちゃんと用意しましたので!」

「ありがとう。……どれ、私も皿を運ぶくらいは手伝うよ」

「いえいえ、大丈夫です!」

 

 立ち上がろうとした月見をすかさず制して、彼女はまばゆい笑顔で言うのだ。

 

「月見様は、紫様のお傍にいてあげてください!」

 

 紫が顔を両手で押さえてぷるぷる震え、「天使……っ」と小さい声で呟いている。そうなってしまうのも無理はない、本当に思いやりあふれる眩しい言葉だった。さすが、橙の純粋な性格と藍のまっすぐな教育がよく表れている。

 台所の方からその藍の呼ぶ声がして、元気に返事をした橙がまたぱたぱたぱたーっと駆けていく。月見は健気な少女の背中を見送って、

 

「将来は立派な子に育つんだろうなあ……。さすが、いい教育してるよ」

「ふふふ、それほどでもないわ」

「え? お前のことは言ってないけど……」

「なんで!? わ、私だっていろいろ教えてるもん!」

「……そうなんだ、すごいね」

「本当だってば!」

 

 普通に意外だった。てっきり橙の教育も家事と一緒で、ぜんぶ藍に放り投げているものだとばかり。

 しかし、そうと知ったら途端に不安になってきた。もちろん紫だって、こんなナリでもいっぱしの大妖怪なのだから、妖術呪術の方面でその気になれば教鞭を執ることもできるのだろう。更には『妖怪の賢者』の二つ名らしく、様々な学問に精通しているという意外な一面も持つ才媛である。

 だが、技や知識に収まる薀蓄(うんちく)を語るだけが教育には非ず。むしろ、技でも知識でもない、生きとし生けるものとしての心を育むことこそが本懐。教科書を読ませるだけで立派な子どもが育つなら、誰も子育てや教育で苦労などしないのだ。

 こいつ、絶対余計なこと教えてる。ドヤ顔で教えてる。間違いない。目に浮かぶようだ。

 そして橙に吹き込まれた余計な知識を、あとで藍がその都度修正しているのだろう。幻想郷に紫Jr.が誕生していないのは、ひとえに藍の努力の賜物。やっぱりあいつの教育はさすがだなと、月見は噛み締めるように思うのだった。

 橙と藍が座敷に入ってきた。二人とも両手に木目豊かな折敷(おしき)を持っていて、藍は組んだ九尾の上に更に二膳を載せている。「朝からそんな気合入れなくても……」と呆れるほど見事な朝食である。八雲藍は、とりわけ料理に対して妥協という言葉を知らない。

 

「おはようございます、月見様」

「おはよう。また随分気合入れて作ったねえ」

 

 折敷の上で、藍特製の朝食は光を放たんばかりだった。このまま料亭の懐石として出しても通ってしまいそうだ。ご飯に汁物に焼き物、煮物、揚げ物、蒸し物、和え物、果物――この朝早くに合わせてここまでの品を仕上げるためには、夜空が白み始めるのと同時に起床しなければならないのではないか。

 料理をテーブルに並べた藍は、胸に手を遣ってちょっぴり得意げな顔をした。

 

「月見様に下手な料理はお出しできませんから。気合入れましたっ」

 

 紫が半目で、

 

「ねえ藍、それってつまり私には出せるってこと? こんなに豪華じゃないわよねいつも」

「……さあ配膳できましたっ。冷めないうちに食べましょう!」

 

 藍は笑顔でスルーした。

 紫が頬を膨らませ、月見の袖をぐいぐい引っ張った。

 

「月見っ、どう思うこれ!? ご主人様への敬意が足りないんじゃないかしらっ」

 

 だったら普段から、敬意を払ってもらえるようなカリスマある行動を心がけてごらんよと思う。

 もっとも、

 

「そうかな。真面目が服着て歩いてるような藍が、あんな態度をするのってお前くらいだろう? それは裏を返せば、お前のことを気が置けない家族だと思ってる証拠じゃないか」

 

 前提として、藍が紫を主人として尊敬しているかはわからないけれど、家族として愛情を寄せているのは間違いない。夏の異変のとき、彼女はひたむきに紫を想い、月見と戦うことすら厭わなかったのだから。そうでなかったら、紫の顔面にはとっくの昔に辞表が叩きつけられている。

 そして、好きな相手を雑に扱うというのはすなわち、「この人なら大丈夫」という掛け値のない信頼の裏返しなのだ。肩肘を張らず、体面を繕わず、変に気を遣わず、ありのままの自分を見せられるほど心を許しているという言い逃れのできない証拠なのだ。

 

「そっか……そうね、そういう考え方もできるわね! もぉー藍ったら素直じゃないんだからっ」

 

 あっという間に丸め込まれるチョロい紫を、微笑ましい気持ちで眺めながら。

 けれど、決して間違ってはいないはずである。

 他でもない月見自身もまた、そうなのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 特にこれといったこともなかった。予定らしい予定を立てることもせず、月見は紫たちと、その場の思いつきに任せてのんびりゆったり時を過ごした。

 

「――月見月見、尻尾出して! 毛繕いしてあげるっ」

 

 食後しばらく。紫がブラシを片手にきらきらした目で詰め寄ってきたので、月見はやらせてみることにした。もちろん普段なら素気なく断っているところだが、今日くらいは特別なのだ。

 

「「……」」

「……お前たちもやってみるか?」

「「はいっ」」

 

 じーっと月見の尻尾を凝視していた藍と橙も、どうせだからと誘ってみたら二つ返事だった。

 毛が抜けても大丈夫なよう、紫がスキマからチェック模様のレジャーシートを引っ張りだして畳に広げる。尻尾をすべて出すのは、夏の異変以来の数ヶ月振りだった。月見が十一尾をシートの上に乗せると、ちょっとした銀のもふもふクッションが出現した。

 というわけで、ブラッシングである。人にやってもらうのは一体何百年振りなのだろう。「これは……夏より更にもふもふになってる! なんてこと!」「もう冬ですからね」「藍様も、一段ともふもふになりましたよね!」と他愛もない雑談で盛り上がりつつ、少女たちが思い思いのやり方でブラシを動かしていく。月見はされるがままになりながら、テーブルに頬杖をついてぼーっと庭の景色を眺めている。

 背中に、紫の楽しそうな声が掛かる。

 

「どう月見、気持ちいい?」

「ああ、もちろんだとも」

 

 月見はそれから少し悩み、

 

「……でも、紫が一番下手だね」

「うそぉ!? なんでどーして!? こんなに愛情こめてやってるのに!」

「紫様、いいことを教えてあげます。気持ちをこめるだけで上手くいくなら、誰もなにも苦労なんてしないんですよ」

「う、うぐぐぅ……!」

 

 藍は言うまでもなく上手い。この少女は本当に、なにをやらせても高い水準でそつなくこなす。月見にもプライドがあるのでやらないが、狐の姿でぜんぶを任せたらさぞや天国のような心地になれるはずだ。

 橙も意外と上手い。藍と比べれば子どもらしいたどたどしさが否定できないけれど、気持ちをこめてくれているのが伝わってくるし、それがよく手つきに表れている。明らかに場慣れしている。きっとマヨヒガでは、たびたび仲間たちの毛繕いをしてあげているのだろう。

 そして紫。もちろん、下手というのは藍たちと比べればの話で、決して壊滅的な腕前をしているわけではない。気持ちだって、もしかすると三人の中では一番よくこめてくれているかもしれない。しかし少々空回り気味というか、縦横無尽にブラシを動かすものだから毛先が絡まってだいぶ痛痒い。ってかいま明らかに「ブチッ」っていったんだがお前。

 しかし、まあ。

 

「み、見てなさいよー。すぐに一番上手くなってやるんだから!」

 

 藍と橙の手元を盗み見つつ、あれこれ試行錯誤しながら一生懸命頑張る紫に、これ以上を言うのも野暮だと思った。気持ちだけですべてが上手く行くとは限らないけれど、心さえこもっているのならいくらでも伸び代はあるのだ。またブチッといったが気がするが、ともかくそういうことだから好きにやらせてみようと思うのだ。

 そしてだんだんと、紫のブラシで毛を抜かれる痛痒さがクセになりかけてきた頃だった。

 

「さあ月見、選んでっ。誰と誰にやってほしい?」

 

 月見の尻尾は十一本あるので、三人で均等にブラシをかけていくと二本余る。もちろん藍も橙もはじめは主人に譲ろうとしたが、なぜか紫が「月見に選んでもらわないとダメなのっ」と変な意地を張って聞かなかった。つまり、最後には誰か一人が諦めなければならないのであるが、

 

「……っ」

 

 紫がものすごい眼力で月見を凝視している。真剣に、必死に、けれどどこか不安げに。自分を選んでほしいと願いつつも、一番下手だし選んでもらえないだろうなあ――そんな諦めも混じっているように思える。

 だから、というわけではないけれど。

 月見は藍と橙を見た。まさに同じことを考えていたようで、アイコンタクトだけで月見たちは通じ合っていた。藍と橙がお互い頷いて意見を確認し合い、最後に藍が月見へ向けて首を縦に振る。だから、月見も同じ動きを返して微笑んだ。

 

「……じゃあ、二本とも紫にやってもらおうかな」

「……へ?」

 

 紫の目が点になった。

 

「あ、えっ、二本とも? で、でもでも私が一番下手だし……」

「関係ないよ。私は、お前にやってもらいたいんだ」

 

 単純な腕の良さで選ぶなら、紫の予想通りに藍と橙に頼むのが筋なのだろう。しかし、繰り返しになるが、今日だけは特別なのだ。紫が喜んで、楽しんでくれるのならそれが一番いい。

 別に、藍と橙の毛繕いは、これからも頼めばやってもらえる。

 けれど紫の場合は、違うのだから。

 

「ダメかな」

「ぜ、ぜんぜん!?」

 

 紫はわたわたして、

 

「ほ、本当に私でいいのね!? あとでやっぱりって言ってもダメよ!? 最後まで私なんだからね!?」

「ああ。お願いするよ」

 

 夢じゃないんだ、ほんとに月見が私を――そんな顔で紫が押し黙る。しかし状況が飲み込めてくるにつれて、次第に頬がだらしなく弛んでくる。それを唇に力を入れて支え、ほんのりと赤らみながら、彼女はやがて笑顔の大輪を咲かせた。

 

「まっかせて! 愛情だけなら誰にも負けないんだからっ」

 

 そのとき月見と藍と橙は、きっと同じ顔をしたと思う。『妖怪の賢者』の呼び名らしからぬ、幼くて、無邪気で、お調子者で、垢抜けなくて。

 しかし、そういう彼女こそが。自分たちは、なによりも好きなのだという顔を。

 

 

 

 

 

 ちなみにこのあと、藍の尻尾も毛繕いしようということになって、

 

「どうだい藍、心地の方は」

「え、ええ、とても気持ちいいです。……でも、やっぱり紫様が一番下手ですね」

「うぐぐぐぐぐ……!」

 

 やっぱり、愛情がすぐさま実を結ぶほどこの世は甘くなどないようだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして、博麗霊夢は雷鳴のような腹の虫を響かせた。それを否応なく目の前で聞かされた霧雨魔理沙は魔導書から目を上げ、女としての自覚が決定的に欠けている友人に向けて顔をしかめた。

 

「おい霊夢、お前さっきから一体なんなんだ。いくらなんでも腹減りすぎだろ」

 

 一度ならまだしも、今のでもう何度目になったのやら。ぐぐううう、と霊夢は腹で返事をした。器用すぎてイラッとした。

 もともと魔理沙は博麗神社の常連客だが、とりわけ冬の間は、ほとんど毎日をように鳥居をくぐるのが毎年の恒例行事だった。

 なぜか。

 炬燵があるからだ。

 炬燵はいい。人類が生み出した最高級の叡智の結晶だ。炬燵を超える発明品は、魔理沙が学ぶ魔術界隈にだって転がっちゃいない。炬燵を発明した人類は間違いなく優秀な種族であり、その端くれに自分如きが生を賜ることができたのは、魔理沙にとってほんのささやかな誇りでもあった。

 特にこの、博麗神社母屋に置かれた炬燵。なんでもこれは電気炬燵というやつで、人里でちらほら見かける囲炉裏や火鉢を使った炬燵を進化させた最強の炬燵らしいのだ。事実、魔理沙にとっては満場一致で最強の炬燵だった。スイッチをカチッと入れるだけでアラ不思議。暑くなったら簡単に消せて、寒くなったらまた簡単につけることができて、火を管理する手間なんて一切ナシ。最強である。

 だから魔理沙は毎日頑張って冬の凍える空を飛び、博麗神社の母屋に居座るのだ。

 なぜ年中無休で素寒貧の博麗神社にそんな高級品があるかといえば、それは霊夢が、八雲紫にとって娘同然の存在であるからという一言に尽きる。この炬燵は紫が外の世界から持ち込んだものだし、電気を供給するためのコードが伸びる先は、小さなスキマでつながれた何処とも知れぬ外の世界である。かわいい娘には暖かく冬を越してほしいという、八雲紫の粋な計らいなのだった。

 なんといっても、魔理沙の体を直接、均等に、まるで包み込むように優しく温めてくれるのがいい。これは暖炉や囲炉裏では到底及ばないこたつだけの御業だ。この犯罪的な心地良さを知ってしまえば最後、もう今までの生活に戻ることはできない。我が家の暖炉も暖かいことには暖かいので冬の間は重宝するが、それでも炬燵が秘める驚異的なポテンシャルには遠く及ばない。

 しかし、それは裏を返せば。

 人間を堕落させるあまりに強力、かつ危険な毒である。事実魔理沙の目の前には、さながら溶ける蝋人形と化してテーブルに突っ伏し、最低限の空腹を満たすことすらやめてしまった人間の成れの果て(はくれいれいむ)がいる。向かって右手には、こたつに首までもぐり込んで、二度と目覚めないのではないかと思うほど爆睡している妖怪の成れの果て(いぶきすいか)がいる。二人とも炬燵により精神を破壊され、二度と訪れることのない人生の大切な一分一秒を、ただドブに捨て続けていくだけの無為な生命体と化している。それは炬燵に心を喰われた者が最後に行き着く、哀れで愚かな堕落と退廃の究極型だった。

 人としてこうはなるまい。心の底からそう思う。

 だから魔理沙はこたつに入る際はいつも大量の魔導書を持参し、ダメ人間(れいむ)ダメ妖怪(すいか)の姿を反面教師としつつ、過ぎゆく一分一秒を決して無駄にせぬよう、こたつの毒牙に喰われぬよう、至極真っ当な勉学に励んで己を研鑽しているのである。

 ――ぐぐぐうううぅぅぅぅぅ。

 

「……なあ、お前ちゃんと昼飯食ったのか?」

 

 霊夢は炬燵に突っ伏した恰好のまま、目も合わせずに答える。

 

「食べてないわ。朝にご飯とお味噌汁かっこんだきりよ」

 

 こいつ、遂にここまで……と魔理沙は末期患者を見た医者の心地で思う。

 

「……なあ霊夢よ、なんで私がこんなこと言わなきゃならんのかわからんけどな。お前、このままじゃ本気でぶっ倒れるぞ? やめてくれよ、炬燵から抜け出せなくて餓死とか同情も――」

「なによそれ」

 

 魔理沙の言葉を遮り、霊夢が横倒しになっていた頭を縦にした。テーブルに顎をつけ、そんな風に思われるのは心外だと言わんばかりの仏頂面で、

 

「あのね、いくら私でもお腹空いたら炬燵から出てご飯の用意くらいするわよ」

「現にしてないじゃないか」

「話は最後まで聞きなさい。今日のお夕飯は、紫とか月見さんと一緒に宴会――ってほどでもないか。ま、ともかく鍋囲むことになってんの。そんとき心の底から思う存分食べるために、わざとお昼は抜いてるってわけ」

「あー?」

 

 宴会って。

 

「なんだそりゃ。なんかめでたいことでもあったのか?」

「めでたいっていうか……」

 

 霊夢は眉を寄せ、

 

「あれ? あんたって知らないんだっけ」

 

 話が見えない。

 

「あーそっか、ここしばらくは紫んトコでやってたしね」

「なんの話だってば」

「毎年やってんのよ。だいたい今くらいの時期に」

「宴会を?」

「そう。紫たちと一緒に」

 

 確かに、初耳だった。魔理沙は好き好んで夜歩きをしない。特になにもなければ、月が出る前には帰宅するようにしている。夜が人間の時間でないのはわかっているし、日が沈んでからは家でやりたいことをやるのが日課だし、実家にいた頃は門限が厳しかったからその名残なのかもしれない。

 しかし、

 

「ふふふ、霊夢よ。その話を聞いた私がどうするか、わからないお前じゃないよな?」

 

 紫と一緒にやる宴会というなら、料理を作るのは藍で間違いないだろう。あの狐の腕前は天下一品だ。タダで味えるチャンスを逃すなんて馬鹿のやることである。

 だが、参加者が増えればその分一人当たりの食い扶持は減るから、お腹ペコペコの霊夢は確実に渋ってくるだろう。はてさてどうやって納得させたものか――。

 

「いいわよ別に。食べたきゃ食べてけばいいわ」

「あれ、」

 

 拍子抜けした。

 

「いいのか? 鍋だってんなら、その分お前の食える量が減るぜ?」

「大丈夫よ、一人増えた程度でどうかなるほどチャチな料理は出てこないわ」

 

 無駄にカッコいい。

 

「それに、余ったら余ったで幽々子のとこに差し入れすればいいだけだってあの狐言ってたし」

「あー……じゃあいくら余しても大丈夫だな」

「そゆこと。食べきれないくらい出てくるんだからいっつも」

 

 だったら話は早い。歯噛みする――ちくしょう、こうなるんだったら私も昼抜きゃあよかった。

 それにしても。

 

「食べきれないくらいねえ。んな豪勢な宴会を毎年やってるなんて、なんでまた? なんかの記念日か?」

「なんでって、そりゃああんた、」

 

 いきなりだった。部屋の隅の、魔理沙がやや見上げるくらいの位置にスキマが開いて、月見がほとんど胸から畳に落下してきた。その背中には笑顔の紫がひっついていて、潰された月見は「ぐえ」と蛙みたいな声をあげた。紫が絡みついてくるせいでバランスを崩してしまい、上手く着地できなかったのだと思う。合掌。

 続いて現れた藍は、まるでお手本のように颯爽と着地した。そして頭上のスキマに両手を伸ばすと、それに抱っこされる恰好で橙まで出てきた。

 

「なんだ、八雲一家勢揃いか」

 

 魔理沙がそう言った瞬間紫が飛び起き、

 

「えっ! 魔理沙、それって私と月見が家族みたいって言ってる!?」

「あ、なんでもないんで黙ってどうぞ」

 

 しまった余計なこと言った、と魔理沙は己の軽率な発言を悔いた。月見と一緒にいるときの紫は年中頭の中がお花畑なのだと、わかっていたはずなのに。

 もちろん紫は聞いちゃいない。

 

「ねえ月見聞いたっ!? 魔理沙には私たちが家族に」

「それより重いからどいてくれ」

「重」

 

 胸を押さえた紫が転げ落ち、月見がやれやれな感じで立ち上がった。さすがこの狐、紫相手にはまるで容赦がない。

 藍が致命傷を負った主人に見向きもせず言う。

 

「霊夢、約束通り夕飯を作りに来たよ」

 

 霊夢は腹の虫で返事をした。

 

「お腹空いた~……」

「……また昼を抜いたのか?」

 

 ぐぐううう、と大変元気な返答に、さしもの藍も苦笑いだった。「また」と言っているあたり、霊夢が昼食を抜いて腹の虫を轟かすのは毎年恒例らしい。

 

「待っててくれ、腕によりをかけて作るからね」

「わ~い……あそうだ、今日は魔理沙も食べてくって」

「ああ、いいよ。材料は使い切れないくらい買ってるからね」

「ごちそうさんだぜ」

 

 萃香が起きた。

 

「ふあ……、……おー、みんな来たかー。あれ、なんで紫はしんでるの?」

 

 乙女の心を抉られた紫は天に召されている。

 月見が答える。

 

「気にしなくていいよ、いつものことだ」

「ふーん。じゃあいいや」

 

 こいつら本当に容赦ないな。

 萃香がよっこらせと体を起こしながら、

 

「ちゃんと酒は買ってきたかー?」

 

 藍が、

 

「呑みきれないくらい買ってきたよ」

「よろしいー。今日は呑むぜ!」

「いつもたらふく呑んでるだろうに」

「……今日も呑むぜ!」

 

 霊夢の、雷鳴の如き腹の音。

 

「……じゃあ大急ぎで作ってくるから。霊夢、土間を借りるよ」

「よろしくぅー……」

「藍、私も手伝うよ」

「私も手伝いますっ」

「え……橙はともかく月見様は」

「人手は多い方がいいだろう。霊夢が死にそうだ」

 

 ぐぐううう。

 

「ですが……」

「藍様、私は賛成です! 家族が増えたみたいできっと楽しいと思いますっ」

 

 橙の純粋無垢な発言に、藍が大きく目を剥いてよろめいた。そうだ、なぜそれに思い至らなかったんだ――と言うように戦慄いた彼女は、打って変わって突き抜ける笑顔で、

 

「わかりましたっ。三人で一緒に作りましょう!」

「ああ」

 

 一瞬かつ軽やかに掌を返し、三人仲良く家族みたいに土間の方へ出て行った――と思ったら少ししてから藍だけ戻ってきて、

 

「紫様っ、いつまで寝てるんですか! さっさとスキマから買ってきた食材出してください!」

「うう、最近みんな私の扱いが雑だよぅ……」

「自業自得ですっ。ほら早くしてください、紫様がシャキっとしないとなにも始められないんですから!」

「うええ……」

 

 いじける紫の襟首を鷲掴みにし、ずりずり引きずってあっという間に立ち去ってしまった。

 小さな嵐が去った空気を感じつつ、魔理沙は改めて思う。

 

「あいつら……なんか賑やかになったよなあ」

 

 八雲紫と八雲藍だ。以前の紫にはどこか得体の知れない雰囲気を醸し出している一面があったし、藍は決して、ああやって橙のように笑う女ではなかった。それが今年になってからめっきり変わった。具体的には春――月見が幻想郷にやってきたあたりから。

 霊夢が言う。

 

「もともとあんな感じではあったわよ。私とか萃香とか幽々子とか、付き合いあるやつの前でしか見せなかったってだけで。……でもそうね、最近ますます拍車が掛かったってのはあるかも」

「月見が出てってから、いろいろ落ち着いちゃってたからねえ」

 

 炬燵の掛け布団に首までくるまりながら、萃香もそう続けた。

 月見がやってきてから――そう記憶を遡ってみると、様々なことを思い出す。

 

「紅魔館に本借りに行くと、たまにフランと会うんだけどさ。あいつ、この頃は至って普通の女の子って感じだよな。狂気に侵されてるとか聞いてたけどなんだったんだろ」

「レミリアのやつも、今までなんだったんだってくらい丸くなったわよねー」

「パチュリーも前は随分根暗っぽくてさ、いかにも本の虫のひきこもりって感じだったんだ。でも、なんかこの頃いつも清潔ってか、香水とかつけてちょっと洒落た雰囲気になってるし」

「咲夜も前は愛想悪いってか、なんか近寄りがたい雰囲気あったけど、今はそんなことないわよね」

「あとはそうだな、この頃輝夜のやつをよく外で見かける。ひきこもりが随分アクティブになったもんだ」

「不老不死っていえば、妹紅って最近なんか楽しそうにしてるわよね。前はいろいろ退屈そうにしてたけど」

「ルーミアが釣りにハマってるらしい。どういうことだ」

「早苗がケモミミとかいうのにハマってるって。でもあのハマり様はちょっと引くわ……」

「この前チルノとフランが一緒に遊んでた。幻想郷でなにが起こってるんだ……」

「いつだったか妖夢と幽香が里でお茶してたわよ。なによあの組み合わせ、妖夢とかまっさきに泣かされそうなもんなのに」

「人里っていやあ、阿求のやつこの頃すげえ元気になったよな。前はなんか悩んでる風だったけど、月見のお陰で吹っ切れたとか」

「そういえば天子も、今の私がいるのは月見のお陰とか言ってたなあ……」

「知ってるか? 里で買い物するとき、『月見のお使いだ』って言うと嘘でも割引してもらえる」

「知ってる? 月見さんがよく買い物で使ってる店、売上が五割増しになったそうよ」

「月見がやってきた瞬間タイムセールを始める店があるというウワサが」

「あ、それマジよ」

「マジなのかよ」

 

 萃香がからからと笑いながら付け加えた。

 

「ぜんぶ月見のせいだったりして」

「「……」」

 

 魔理沙と霊夢は肯定も否定もできなかった。それはさすがに大袈裟でしょ、と笑い飛ばす一方で、ないとも言い切れない気が……と唸る自分も片隅にはいた。

 なんというか、

 

「月見さんが来てほんの半年でこれかあ……来年の今頃にはどうなっちゃってるのかしらね」

「まー、今より更に賑やかにはなってるんだろーなあ……」

 

 魔理沙の知らないうちに、知らない人間や妖怪が我が物顔で増えているのだろう。水月苑の池で生活し出す人魚が現れたくらいだし、来年あたりにはいよいよ屋敷で同棲を始めるやつが出てくるのかもしれない。

 銀毛十一尾。行く先々で知人友人を増やす不思議な狐。幻想郷唯一の温泉宿の若亭主。

 幻想入りしてたった半年ちょっとの新参者が、今やすっかり幻想郷の中心なのだった。

 とそのとき、紫がしょぼくれた顔で戻ってきた。

 

「わ、私も手伝うって言ったのに追い出された……。ねえ霊夢、私の存在意義ってスキマだけなの!? スキマだけの女なの私!?」

 

 あー、と霊夢は面倒くさそうに目を逸らし、

 

「…………………………そんなことないわよ、多分」

「わーいありがとうっ、最初のなっがい間と最後の余計な一言消して、私の目を見ながら言ってくれたら嬉しかったなーっ!」

「紫からスキマ取ったらなにが残るってのさ」

「ちょっとここにトドメ刺しに来る鬼がいるんだけどおおおおおっ!!」

 

 うわあああん!! と泣き崩れた紫に生温かい視線を送りながら、魔理沙は心の底から疑問に思った。

 誰なんだろう。こいつを一番はじめに『妖怪の賢者』とか呼び始めたのって。

 

 

 

 

 

 

 

「――ハッ!?」

 

 そして魔理沙は目を覚ました。

 目の前に広がっているのが知っている天井だとかそうでないとか、そんなことを呑気に考える余裕もなく、飛び起きた魔理沙はキョロキョロと自分の居場所を確認した。

 博麗神社の、母屋の座敷。

 その隅っこに暖かく敷かれた布団で、どうやら自分は眠っていたらしかった。

 

「……んん?」

 

 首を傾げる。しばらく考え、

 

「……あー、呑みすぎて眠っちまったのか」

 

 多分そのはずだ。痛みこそないが頭は重いし、体が半分鉛になったような倦怠感もある。今立ち上がればきっとふらつくだろう。深く息をしてみると、口の中で酒の香りが瞬く間に甦った。

 みんなで炬燵と鍋を囲み、いただきますをしてから一時間分くらいの記憶は残っている。久し振りに食べる藍の手料理はやはり格別だった。お陰で、肉の塊を巡って何度霊夢と争奪戦を繰り広げたかは覚えていない。おまけに酒も、やたら高級そうで旨いものばかりが揃っていたから、食べる手も呑む手もさっぱり休むことを知らなかった。

 だからなのだろう。記憶を失い酔い潰れてしまうほど、羽目を外してしまったのは。

 

「……う~ん、おにく~……」

 

 と、そんな声が聞こえたので魔理沙は横を見た。隣で敷かれた布団にくるまり、幸せな夢を見ているらしい霊夢がだらしなく頬を弛ませていた。彼女は寝言で言う、

 

「えへへぇ……このおにくはだれにもわたさないわよ~……」

 

 あんだけ食っといてまだ夢の中で食ってんのかこいつ。心の中で、明日体重計に乗って絶望する呪いを掛けておく。

 炬燵では萃香が品もなく大の字で、橙が猫らしく丸くなって眠っていた。テーブルの上はすっきり片付いていて、月見と紫と藍の姿はどこにもなかった。

 少し、外の空気を吸いたいなと思った。冬の夜風は刺すように厳しいかもしれないが、酔った体にはかえってちょうどいいだろう。

 廊下に出ると、土間の方から洗い物をする音がするのに気づいた。藍が片付けをしてくれているのだと思う。もしかすると月見も手伝っているのかもしれない。……あれ、だとしたら紫はどこに消えたのだろう。あいつが家事を手伝っている姿は想像ができない。風呂か。

 まあ、いいか。

 玄関から外に出た。外は少し風が吹いていて、やはり刺すような冷たさだった。生き物の声がまるで聞こえない、世界でひとりぼっちになってしまったかのような、暗く寂しい冬の夜だった。

 もっとも皓々と輝く月明かりのお陰で、歩くくらいの光には困らないけれど。酔い覚ましに、このまま境内をぐるりと散歩しようと思う。白い息をくゆらせ、石畳に沿って神社へ歩いてゆく。

 ――拝殿の下に、誰かがいた。

 驚いた魔理沙は咄嗟に神木の裏に隠れた。完全な不意打ちだったせいで心臓がバクバクいっている。こんな夜更けにこんな山奥で参拝なんて、どう考えたって普通じゃない。すわあれが丑の刻参りか、いやいや丑三つ時にはまだ早いだろ、やっべー油断してた見つかったかもしれん私もここまでかと焦りながら顔を出してみると、

 月見と紫だった。

 拝殿の階段に並んで腰掛け、タオルケットを羽織りながら、何事か一緒に話をしている風だった。

 心臓のバクバクが一発で引いた。

 

「……?」

 

 なんだ、あれ。そう思う。月見と紫が話をしている。見ればわかる。だがなぜわざわざ、肌寒い外のあんな場所で。

 普通に考えれば。

 部屋の中で炬燵にでも入りながらすればいいものを、いちいち外に出るのは人目を避けたからに他ならない。つまり月見と紫は今、人に聞かれると困る秘密のオハナシをしている。一気に好奇心が湧き上がり、魔理沙は近年稀に見る集中力で耳をそばだてた。しかし距離が遠く二人の声も小さいため、「なにか喋っている」くらいのことしかわからない。ええい焦れったい、どうにかしてもっと近づけないか、もしくは上手く盗み聞きできないかと考えていると、

 

「――こらぁ、盗み聞きはダメだよ魔理沙」

「――っ!?」

 

 変な声が口から飛び出そうになった。もし足元が玉砂利だったら、じゃらじゃら派手に音が鳴ってしまっておしまいだったはずだ。どうして物音を立てずに済んだのかが自分でもよくわからない、己の無意識が起こした奇跡だった。

 それくらいびっくりした。振り返ると、やはり伊吹萃香がそこにいた。

 

「す、萃香……おま、いつの間に」

 

 萃香はにんまりと笑って言う。

 

「やだなあ、私の能力知らないわけじゃないでしょ?」

 

 ということは、体を霧状にして飛んできやがったのかこいつ。いや、当然だ、そうでなければ体につけた鎖が音を鳴らすはずで、月見と紫にも気づかれてしまう。物音ひとつ立てず背後を取られたのなら、つまりはそういうことだ。

 胸を撫で下ろした魔理沙は深呼吸をして、声をもう一段階小さくした。

 

「……寝てたんじゃなかったのかよ」

「半分ね。でも魔理沙がふらーっと出てったからさ、あーこれもしかしてあれかなーと思って追っかけてみたら案の定」

 

 どこからどう見ても爆睡だったような気がするが……まあ妖怪だし、そのあたりの感覚は人間よりずっと鋭いのだろうと納得しておく。

 

「で、話戻すけど。邪魔はダメだよ、今日の月見と紫は二人にしてやんないと」

「あん?」

 

 魔理沙は眉をひそめて黙考した。それではまるで、今日は特別な日と言っているかのようではないか。

 するとやっぱり、今日の宴会も。

 

「……なあ、萃香」

「うん?」

「霊夢が言ってた。今日の宴会は、毎年決まってやってるんだって。一体なんの記念日だってんだ?」

 

 尋ねた瞬間、え? と萃香が呆気に取られた顔をした。

 

「……もしかして魔理沙、わかってなかったの? わからないで参加してたの?」

「おう。まあ、タダ飯ごちそうさんって感じで」

 

 霊夢に同じ質問をしたときも、紫がいきなり降ってきたせいで答えは教えてもらえなかった。

 萃香は少し考え、やがて腑に落ちた様子で片笑み、

 

「――ま、そっか。あんま気にすることもないよね普通は」

「だからなんの話なんだってば」

「では問題です」

 

 鎖を鳴らさないよう注意しながら人差し指を立て、

 

「今の季節はなんでしょう?」

「は?」

 

 自分はからかわれているのかと思うが、とりあえずは答える。

 

「……冬だろ、んなもん」

「せーかい。では二問目」

 

 萃香は次いで中指を立て、

 

「冬の間の紫は、いつもなにをしているでしょう?」

「なにって……」

 

 いくら魔理沙でもそれくらいは知っている。いかんせんそういう(・・・・)生態らしく、冬が本格的になると紫はいつも決まって、

 

「……ああ」

 

 ようやく、合点が行った。そう考えれば毎年宴会をやっているのも、月見と二人きりにしなければならないのも、ぜんぶ水を吸うように理解することができた。

 

「……そうか」

 

 魔理沙は冬の星空を見上げて、誰に言うでもなくささやいた。

 

「もう、そんな季節なんだな」

「そーゆーこと」

 

 八雲紫は、冬眠をする。

 つまりは、今年みんなと過ごせる最後の時間も、もう残り少ないのだろう。だから、みんなで集まって宴会をして。

 ああして月見と、二人きりで話をしている。

 ぜんぶ、納得が行った。

 

「……確かにそりゃ、邪魔するのは野暮ってもんだな」

「お、魔理沙のくせに空気読むじゃん」

「なんだよそりゃ。私だってそんくらいの気配りは心得てるぜ」

 

 萃香が牙を見せ、いしししと笑った。

 

「えらいっ。じゃーほら戻るよ。私たちがこんなトコにいちゃあ、二人もゆっくり話せないだろうしね」

「おう」

 

 二度も驚いたお陰で、酔いもそこそこ楽になっていた。

 萃香の姿が霧となって消える。魔理沙は神木の陰から体がはみ出ないよう気をつけて、慎重に来た道を引き返していく。

 そして無事玄関まで戻ってきたところで、ふと疑問に思った。

 

「……なあ」

『んー?』

 

 姿は見えないが、萃香の声はしっかり返ってきた。誰もいない宙空に向けて問う。

 

「お前さ、『私たちがこんなトコにいちゃあ二人もゆっくり話せない』って言ったけど」

『うん、言ったー』

「それってまるで、二人が私に気づいてたみたいに聞こえるよな」

『……』

 

 少し呆けるような間を置いてから、萃香は言った。

 

『……えっ、魔理沙気づいてなかったの? バレバレだったよあんた』

「えっ」

『えっ』

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……どうやら行ってくれたみたいだね」

 

 魔理沙の気配がしっかり母屋に消えたのを確認して、月見はため息をつくようにそう言った。

 『素敵なお賽銭箱』の裏から拝殿へ続く、たった数段だけの小さな階段に腰掛けて、月見と紫は冬の夜空の下にいた。あいもかわらず空は高く、月は白く、星は眩しく、そして空気だけが刺すように冷たい夜だった。月見はタオルケットを一枚軽く羽織っているだけだが、寒いのが苦手な紫は三枚も被って、月見に寄り添いながらぎゅーっと縮こまっている。

 紫は白い息を吐きながら、

 

「ふふふ、これはあれかしら。さすがの魔理沙も空気を読まざるを得ないくらい、私たちがいい雰囲気だったってことかしら」

「……どうだろうね」

 

 魔理沙なら、むしろ面白がって積極的にブチ壊してきそうな気がしてならない。そうでなくとも、じっと息をひそめて盗み聞きしまくるとか。ひょっとすると、気配は感じなかったが萃香か藍が気を遣って、魔理沙を戻るよう説得してくれたのかもしれない。

 紫がくしゃみをした。

 

「くちっ」

「寒いか?」

「ちょっと……いや結構……くちっ」

 

 ずずっと鼻をすすり、大袈裟なほど震えながらまた一層縮こまる。紫は昔から、寒いのだけは本当にダメなのだ。この程度の寒さはほんの序の口、まだまだ冬はこれからなのに、まるで北極南極に半袖で放り込まれたような有様である。

 それもまた、彼女が冬になると長い眠りにつく理由のひとつなのだろう。一人一種族の妖怪として、そういう生態に生まれてしまった(さが)とでも言おうか。

 それでも紫がこうして、寒いのを頑張って我慢して、博麗神社の下で、月を見上げて。月見と二人きりで話をしてくれるのは、そうするに足るだけの価値を、この場所と月見に認めてくれているからなのか。

 ……だから、何度も言うが、今日だけは特別なのだ。

 

「紫」

「ぁい……って、え?」

 

 鼻声で変な返事をした、紫の震える体を。

 毛繕いしてもらって間もない十一尾で、ふわりと包み込んでみた。

 

「……へ? え?」

 

 紫が目を白黒させている。月見は言う。

 

「これなら、ちょっとはあったかいだろう?」

「う、うん、すごくもふモコだけど……え?」

「今年、最後くらいはね」

 

 そう。もう来年の春まで、紫とこうして話をすることもないのだ。

 

「いらないならしまうけど」

「ぜ、ぜんぜんいります!? しっしまわないでよ、ほんとにとってもあったかいから!」

 

 紫は慌てながら、月見の尻尾を一本、小さな掌でぎゅっと握り締めた。月見に尻尾を動かす気配がないとわかると、そのままほうと柔らかなため息をついた。

 もう、震えてはいなかった。

 

「……ねえ、月見」

 

 ぽつり、と、

 

「私が寝てる間に、どっか行っちゃったりしないでよ」

「……」

「そんなの、絶対に、ダメなんだから……」

 

 月見は、答える。

 

「行かないさ」

 

 いつか、外の世界が恋しくなるときは来るのだと思う。しかしそれは『いつか』であり、今ではない。個性的で賑やかな住人たちと過ごす日々は本当に有意義だし、月見にはまだ、この世界でやらなければならないこともある。

 それに、幽香に怒られてしまったのだ。勝手に出て行くような真似だけは、絶対にしない。

 だから、

 

「一足先に、春で待ってるよ」

 

 そして紫が見せた表情を、月見はきっと春まで忘れることはないだろう。

 寒さにやられて赤くなった頬で。

 襟巻きのように掛かった月見の尻尾を、胸の前で握り締めて。

 月見の腕に、少し、体重を預けながら。

 

 春まで会えなくなる寂しさにも負けず、にへ、と笑った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「……そう。あのスキマは、眠ったのね」

 

 輝夜の反応はあくまで淡々としていた。喜ぶのでも悲しむのでもなく、今にも大きなため息のひとつでもつきそうな、つまらなそうな口振りだった。月見と目を合わせることもせず、炬燵の掛け布団に肩までくるまって、むすっと愛想のない仏頂面をしている。

 紫が眠ってから、早いものでもう三日が過ぎていた。月見の幻想郷生活における最大のトラブルメーカーが眠りについたことで、この水月苑も少し物静かになったような気がした。もちろん、あいかわらず個性的な少女たちがしばしば遊びに来る場所だし、月見の生活が賑やかなのも変わらないけれど、それでもなにかが物足りないと感じる。目の前で騒がれると頭が痛くなるのに、静かになればなったでなぜか寂しく感じてしまうのは――まあ、きっと、ご愛嬌というやつなのだろう。

 

「あー、なんだか清々したわ。これからはもう、いつここに遊びに来てもあいつに邪魔されることはないのね」

 

 或いは、輝夜も同じだったのかもしれない。

 紫が眠って清々したのだったら、もう少しそれらしい顔をすればいいのに。やっぱり彼女は明後日の方向を向いて、つまらなそうに唇を尖らせている。

 だから、月見は薄い笑みとともに問うた。

 

「本当に、そう思ってるのか?」

 

 こっちを見た輝夜の柳眉が、不快げに歪む。

 

「当たり前でしょ? あいつと会ったって、いっつも喧嘩吹っかけられるだけなんだもの。会わずに済むならそれに越したことはないの」

「その割には、あまり嬉しそうに見えないけど」

「ギンが変なこと訊くからでしょっ」

 

 また、ぷい! とそっぽを向いてしまった。それがおかしかったので声を殺して笑ったら、次の瞬間にはぷくーっと頬を膨らませていた。

 輝夜と紫は、仲が悪いのだろうか。

 水月苑で出会えばいっつも喧嘩ばかりしているし、良いか悪いかでいえば間違いなく悪いのだろう。しかし、ではお互いがお互いを嫌っているのかといえば、それは違うような気がするのだ。

 もしも、本当に嫌いなのだとすれば。

 喧嘩にすらならないのではないかと、月見は思う。生憎ながら誰かを嫌うという感情に縁遠い月見だけれど、もし自分にそういう相手がいれば、きっと喧嘩をすることはないのだろうと思う。喧嘩なぞにかける時間すら勿体なくて、触らぬ神に祟りなしとばかりに極力接触を避けるはずだ。

 けれど輝夜と紫はもう半年以上も、接触を避けるどころかむしろ積極的に突っかかっていって、ぎゃーぎゃーと元気に頭を叩いたりほっぺたを引っ張ったりしている。

 確かに仲は悪い、けれど。

 もしかすると輝夜と紫は、そうやって気兼ねなくぶつかり合える好敵手の存在を、満更でもないと思っているのではないか。

 

「……まあ、でも」

 

 だから。

 強情だった態度を少しだけ崩して、輝夜はこんなことを言ったのではないか。唇をすぼめ、ぽそぽそと気恥ずかしそうに、

 

「早く春になればいいのに、とは、思うわ」

「……」

「べっ、別に! あいつが早く起きればいいとかそんなんじゃなくて、その……私は寒いのが嫌いだから! だから早く春になればいいって、それだけのことよ! あいつがいなくてなんか物足りないとか、そんなのぜんぜん、ちっともさっぱり思ってないしっ!」

 

 いろいろと言うことはできたと思う。下手な言い訳をしているのも照れ隠しをしているのも、慌てるあまり盛大に自爆しているのも明らかだった。けれど月見はなにも余計をことを言わず、ふっと微笑んで、こう返すことを選んだ。

 

「きっと紫も、そう思ってるよ。……早く春になればいいのに、って」

「…………ふんだ」

 

 自分にはあまり、春を待った記憶というのがない。寒さには強い方だし、冬には冬でしか味わえない魅力があるとわかっているから、思う存分堪能するまでは春になってくれるなと考えることすらある。

 少なくとも外で生活していたこの500年の間は、ずっとずっとそうだった。

 

「……そうだね」

 

 けれど、この時ばかりは。

 この時ばかりは、久し振りに──

 

「早く春に、なるといいね」

 

 ──久し振りに、しばし訪れぬ春の時を、待ち遠しいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ① 「想いと嘘で固める指先」

 

 

 

 

 

「――ねえ、ちょっといいかい?」

 

 知らない声だった。振り向いてみると、やはりそこにいたのは知らない少女だった。円の形をした巨大な注連縄を背負った、古めかしい出で立ちをした少女だった。

 疑問符。

 誰だろう。ひと目で地底の住人ではないとわかった。続けざまに地上の妖怪かと考え、首を振り、それにしては嫌に澄んだ少女の気配から、神様なのかもしれないと思った。

 珍しい。神様を見たのなんて何年振りだろう。

 だが、それはいい。それよりも不可解なのは、なにゆえ地上の神様がこんなところで、わざわざ自分に声を掛けてきたのかだ。疑問は静かな警戒に変わる。

 

「……なに?」

 

 露骨に凄んでそう返したが、少女はどこ吹く風と涼しげに、

 

「いや、ちょっと尋ねたいことがあってね」

 

 少し、拍子抜けしたと思う。地上の神様がこんな地底くんだりまで直々にやってきて、尋ね事なんて。普通、そういうのは遣いを立ててやらせるものではないのだろうか。

 変なやつ。

 怪訝は、再び同じ問い掛けの言葉となった。

 

「なに?」

 

 少女は、魔女のように笑った。

 

「なあに、大したことじゃないよ。ねえあんた――」

 

 本当にどうでもいいことだったら、適当に答えてやりすごそう。そう心に決めて、やたら勿体ぶっている少女の言葉を鼻白みながら待っていると、

 

「――ちょいと神様の力に、興味あったりしない?」

「……?」

 

 少女が放った蜘蛛の糸に、心が絡み取られたのを感じた。

 

 今冬はじめての雪が降った、白の地底。

 これが、すべてのきっかけで。

 どんな言葉で己を責めても決して足りることのない、どうしようもない後悔の始まりだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 今年一番の雪が降った。

 随分積もった。月見の腿くらいまでは届くかもしれない。里人や山の妖怪が、今年は雪が少ないと口々に言い合い、このまま過ごしやすい冬になるかと思われた矢先の出来事だった。

 その日簡単な朝食を摂った月見は、和装コートを着込み手袋をつけ、朝の雪掻きをするため玄関の戸を開けた。

 広がるのは、粋な雪化粧を施された日本庭園である。土も石も草も木も、みんな深々と真っ白い雪で着飾って、冬もかくやの幻想的な景色を作り上げている。秋も秋で見事だったが、やはり冬の景色が持つ儚さと寂しさは、えも言われぬ美しさとなって心の奥に染み込んでくる。思わずこぼれたため息が、月見の目の前にふっと白い靄を掛けた。

 玄関の戸を閉めるのに合わせて、池の方でぱしゃんと水の跳ねる音がした。

 

「旦那様~」

 

 わかさぎ姫が、冬の水面から上半身を出して元気に手を振っていた。月見はその場で手を振り返す。

 

「おはよう、ひめ」

「おはようございますー。たくさん積もりましたねぇ」

 

 この屋敷で生活してもう半年以上になる月見だが、此度冬になってはじめて気づかされたことがある。近くで温泉が湧いている恩恵なのか、水月苑の池は冬でもさほど水温が下がらないらしいのだ。なので冬本番に突入しても水面が凍りつく気配はまったくなく、わかさぎ姫も元気にそのへんを泳ぎ回っている。

 わかさぎ姫は、冬になってからは首にマフラーを巻いていた。水の中の生活でどのような意味があるのかはわからないけれど、とてもよく似合っているのは間違いなかった。和服とマフラーは意外と相性がいいのだ。

 月見は立てかけてあった雪掻き用のスコップを手に取り、

 

「どうだい、今日の水温は」

「はぁい、やっぱりあんまり冷たくならないですー。とっても過ごしやすいですよぉ」

「そいつはよかった」

 

 雪掻きを始める。目の前の石畳をまっすぐ、反橋の近くまで。石の凹凸があるので、ざっくりと掬い取ってあとは尻尾でぺしぺし払い飛ばす。

 わかさぎ姫が、畔の岩場にもたれかかって言う。

 

「やっぱり、冬になっても素敵なお庭ですねぇ」

「そうだね。今度、妖夢にも伝えてあげてくれ」

「はぁい」

 

 水月苑正面の反橋は、雪をたっぷりと積みあげて天然の滑り台と化していた。もちろんチルノの仕業である。この前は大妖精やフランやその他妖精たちを連れて来て、みんなでそり滑りをして遊んでいた。

 なので、橋の周辺は雪掻きの対象外とする。どうせ冬の間は、滑って危険だからと言って渡る者もいない。

 庭園の方も、歩く道を確保する程度はやっておかなければならない。大丈夫だとは思うが、雪の下に埋もれた植物をスコップでへし折ってしまったら幽香に怒られるので、念のため、尻尾で優しく雪をどかすだけにしておく。

 もふもふ除雪機を運転する月見に合わせて、わかさぎ姫がちゃぷちゃぷと池を泳いでいる。

 

「その尻尾、とっても便利ですねえ」

「こういうときは重宝するね」

 

 もし月見にこの尻尾がなければ、スコップで雪をすくっては投げ、すくっては投げをこの庭中で繰り返さなければならないわけで、それはとんでもない重労働だと思うし、夏の異変で白玉楼の雪掻きを一人で成し遂げたらしい妖夢が、一体どれほど大変な思いをしたかがよくわかって、月見は少し目頭が熱くなるのを感じた。

 と、

 

「――てやっ」

「!?」

 

 とんでもない勢いでなにかが飛んできたのを察知し、月見は咄嗟に尻尾を振るった。

 それは雪球だった。尻尾で打たれると同時にべしゃりと潰れ、次の瞬間には粉々の欠片となって宙に散る。大小様々な大きさの粉雪が視界を彩る中、月見は半目で、

 

「……いきなりなにするんだい」

 

 わかさぎ姫は残念そうに、

 

「あー、防がれちゃいましたぁ」

「話聞いてるかな」

「私、寒いのは苦手なんですけどぉ、雪合戦は大好きなんですー」

 

 果たして雪合戦とは、プロ野球選手ばりの剛速球で雪球をぶん投げる容赦のない遊びだっただろうか。

 

「こう見えても私、水の中だと強いんですよぉ。ぱわーあっぷするんですー」

 

 わかさぎ姫は水辺の雪でせっせと雪球を作り、それを女の子らしくだいぶ雑な感じで振りかぶって、

 

「せいっ」

 

 140km/hくらいは出てたんじゃなかろうか。月見がまた尻尾で弾き飛ばすと、わかさぎ姫はぱちぱちと拍手をした。

 

「ほーむらぁーん」

「あのさひめ、私はいま雪掻きをしてるんだけど」

「雪合戦はお嫌いですかー?」

「いやだから、」

「むむう。ならば次は、わかさぎ印の魔球をお披露目いたしますよー」

 

 この子は間違いなく赤蛮奇の親友なのだと思う。

 わかさぎ姫がまたせっせと雪球を作り始める。鼻歌交じりで、とてもいきいきとしていて楽しそうである。それ自体はとてもよいことなので、更にもうひとつだけ、人の話を聞いてくれるとすべてが丸く収まると思うのだがどうだろうか。

 

「……?」

 

 そんな中で、月見が『ソレ』に気づいたのは偶然だった。わかさぎ姫の遥か後方――白い化粧をした森の方から、ふよふよとなにかが飛んできている。人の頭くらいの位置を、頭くらいの大きさのなにかが。

 それは一見すると、妖精に見えた。断言できなかったのは、姿がこのあたりの妖精とは大きく違っていたからだ。雪に溶け込む色素の薄い体をして、頭の上には輪っかまで浮かべている。けれど天使のような神々しさはかけらもなく、むしろ「お化けの仮装をした妖精」という表現が似合う出で立ちであった。

 そんな灰色の妖精は池の上を渡り、どんどんわかさぎ姫の背後に近づいてくる。雪球作りに夢中なわかさぎ姫は、「わかさぎ印の魔球は固さが命ですー」とまったく気づいていない。

 

「おいひめ、後ろ」

「え? ……もぉー、そんなお決まりの手には引っ掛かりませんよー?」

 

 なにもこのタイミングで頭がよくならなくても。そんなことをしているうちに、妖精はもうほんの真後ろまで迫ってきていて、

 

「嘘じゃなくてほんとに」

「ばあああああっ!!」

「ふみ゛いいいいいぃぃぃっ!?」

 

 自分のすぐ耳元でシャウトされて、わかさぎ姫はものすごい勢いで水の中に逃げた。

 だから言ったのに。

 

「あははははは!」

 

 いたずら好きな灰色妖精は大声で笑い、水面近くでくるくると喜びの踊りを踊って、そのまま山の上に向かって飛んでいってしまった。

 

「……ふむ?」

 

 なんだったのだろう、今の。いや、「妖精がわかさぎ姫をおどかした」のは見た通りなのだが、それにしてもなんだか腑に落ちない。あれは一体どこの妖精で、なぜわざわざお化けみたいな恰好をしていたのか。

 ……ところで、わかさぎ姫はどこに。

 

「ひめー?」

「ふ、ふあい……」

 

 か細い返事がどこからか返ってきた。池を見回して捜してみると、わかさぎ姫は反橋の下の影に紛れ、いかにも外敵に怯える小動物のような有様で、水面から顔をちょこっとだけ出していた。やはりか細い声で言う、

 

「な、なんだったんですか、今のはぁ……」

「妖精だね。いや、見事な手際だった」

「みいい……」

 

 ここからでは遠くてよくわからないが、きっと今のわかさぎ姫は涙目のはずだ。

 

「も、もういませんよね……? 大丈夫ですよねっ……?」

「ああ、もう飛んでいったから大丈」

 

 いきなり山の上から、

 

「――ぶわあああああっ!!」

「ひぎゃああああああああああ!?」

 

 ……ああ、この悲鳴にはとても聞き覚えがあるような。具体的には過ぎ去りし秋、赤蛮奇の体捜し中に出会った山彦の少女が、ちょうどこんな感じの金切り声を上げていたような。

 わかさぎ姫が、鼻の先まで水につけてぶるぶる震えている。なので月見は緩く息をつき、

 

「……どれ、じゃあちょっとどうにかしてくるよ」

 

 わかさぎ姫が、水面を波立たせながら八回くらい頷いた。

 月見は已むなく雪掻きを中断し、一度屋敷に戻って身支度を整える。そうこうしている間に、また上の方から「ひょおおおおおいっ!?」と悲鳴が聞こえてきた。今度はにとりか。

 寒さが肌を刺す冬だからといって、特に物静かになることもなく。

 今日もあいかわらず元気で、あいかわらず賑やかな一日の始まりである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「温泉だ――――――――――っ!!」

「霊夢のバカ――――――――っ!!」

 

 そして天子は霊夢を羽交い締めにした。正気を疑った。まさかこの世界に、間欠泉に満面の笑顔で飛び込もうとするおバカちゃんがいるなんて。

 この幻想郷において、天子が日頃からよく訪ねる場所といえば三つある。第一が職場(てらこや)のある人里であり、第二が月見の住む水月苑であり、第三が霊夢の住む博麗神社である。そして日頃から多くの時間を共有する人物も三人おり、第一が仕事仲間の上白沢慧音であり、第二が恩人の月見であり、第三が友達の博麗霊夢なのである。

 仕事の都合で慧音の家に泊めてもらったことがある。水月苑にお泊りしてみたこともある。

 だから時には、博麗神社でささやかなお泊り会を催すことだってあるのだ。

 最初は、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。去りし夏の異変で、天子は計算違いから博麗神社を地震で倒壊させてしまい、霊夢に散々な迷惑を掛けた。今ではすっかり新しく建て直されたし、霊夢も「もういいのよ昔の話は」と笑って許してくれたのだが、だからといって自分にできる償いをなにもしないのは甘えだと天子は思っている。

 そんな気持ちからあるとき、天子は霊夢のために夕飯を作ろうとした。霊夢は一人暮らしだからきっと毎日の家事には苦労しているはずで、ちょっとでも力になれればいいなと思って。『元箱入りのお嬢様』というだけでなぜかやたらと勘違いされるのだが、一応はちゃんと料理ができる天子である。

 しかし、人里で食材を集め意気揚々と神社を訪ねた天子は、土間に案内された瞬間愕然と立ち尽くすこととなる。

 詳細は省くが。

 ねえ霊夢。霊夢も一応女の子なんだし、もっとこう、ね。

 なので天子は、子どもたちの勉強の先生に次いで、霊夢の料理の先生になった。

 もちろん霊夢は面倒くさがった。すこぶる面倒くさがったが、普通に料理上手な天子に対抗意識を燃やした部分もあったようで、たまに一緒に作るくらいならまあ、という方向で了承してもらえた。それ以来は週に一度は必ず食材引っ提げ神社を訪ね、霊夢と一緒にお料理教室を開くのが、天子の新しい仕事みたいなものだった。お泊り会は、その延長線上でやったりやらなかったりする。

 話を戻そう。

 そんなこんなで今回、天子は博麗神社に泊まった。そして今朝、神社の掃除を手伝っていたところで森から立ち上がる不審な煙に気づき、様子を見に来てみれば間欠泉が噴き上がっていたというわけなのだ。

 目の前で、何メートルもの高さにまで熱湯が勢いよく噴き上がっている。天子は霊夢を無理くり引きずって、飛沫が掛からない位置まで大急ぎで離れる。霊夢がジタバタと喚く。

 

「放しなさい天子っ、あの漂う湯気が見えないの!? とってもあったかそうじゃない!」

「あれは湯気じゃなくて蒸気っていうんです!? 霊夢、間欠泉の温度って知ってる!? 温泉とはワケが違うんだよ!?」

 

 四十度などという生易しいレベルではない。間欠泉で噴き上がる熱湯は、圧力の関係からときには水の沸点である百度すら軽々と上回ってしまう。目の前で噴き上がる間欠泉が正確に温度かはわからないが、もうもうとばら撒かれる蒸気から、「わ~いあったかそ~」なんて気持ちで飛び込んだら最後、生死の境を彷徨って永遠亭行きになるのだけは間違いない。博麗の巫女、間欠泉に飛び込み全身大火傷、意識不明の重体。まったく笑えない。

 霊夢がピタリと動きを止めた。半信半疑な顔で天子を振り向き、

 

「……そうなの?」

「そ、そうよ。中には温泉くらいの温度のもあるみたいだけど、火傷しちゃうくらいなのがほとんどなの。だからほら、危ないからもうちょっと下がろう?」

「……まあ、天子が言うならそうなんでしょうね。むう、残念だわ」

 

 寺子屋には「なんで勉強なんかしないとダメなの?」と面倒くさがる子どもも少なからずいるが、これがひとつの回答だろう。知識があれば、自分の言葉を信用してもらえる。頭の悪いやつだと見くびられてはこうはいかない。

 間欠泉から充分距離を取ったところで、霊夢を羽交い締めから解放する。霊夢は名残惜しそうに腕を組んで言う。

 

「……しかし間欠泉ねえ。こんなところでなんでまた」

「さあ……」

 

 果たして間欠泉とは、こうもある日突然噴き上がるものだったろうか。元々温泉が湧いている水月苑ならまだしも、こんな山奥の森の中で。原理を説明できるほど専門的な知識はさすがに持っていないので、なんとも言えない。

 

「でも間欠泉って、要は温泉でしょ? めちゃくちゃ熱いって話だけど、なんとかして冷ませば参拝客集めに使えないかしら……」

 

 霊夢が大真面目な顔をして考え込んでいる。恐らく今、彼女の脳内は冬になって以来の目まぐるしい速度で回転しており、「萃香に頼めばいけるか……?」とか絶対考えている。ねえ霊夢、参拝客を集めたいんだったら、温泉より先にやるべきことがあると私は思うな。

 天子はいつも、博麗神社に通う際は空を飛んでいる。理由は二つ。山奥の神社なので単純に飛んだ方が楽だから。そして、参道という名の獣道が怖くて歩けなかったからである。

 あんな道をわざわざ好き好んで歩くのは、筋金入りのハイキング好きで、かつ心臓に毛が生えているやつくらいに違いない。道が木の根でデコボコうねっているためひどく歩きにくいし、植物が鬱蒼と生い茂っているせいで周囲の状況がまるでわからない。あれでは妖怪が隠れていたってそうそう気づけないし、茂みから飛び掛かられたらもうおしまいだ。夜中にあの道を一人で歩けと言われたら、天子は泣きながら命乞いをする自信がある。

 あの参道さえどうにかすれば、里から参拝客も来てくれるかもしれないのに。

 

「……とりあえず、一旦戻ろ? お掃除も途中だし」

 

 どうあれ、着の身着のままな今の天子たちにできることはなにもない。温泉を作るにせよなんにせよ、一度戻って対策を考えなければ。

 天子は、霊夢の手を握って踵を返そうとした。

 

「――霊夢っ!!」

「うひゃい!?」

 

 突然真横に人影が降ってきて、天子は見事尻からひっくり返った。

 死ぬほどびっくりした。というか死んだかと思った。あ、涙が。

 

「ん……ああ、天子」

 

 人影の正体は、もふもふ九尾がチャームポイントな八雲藍だった。う、と天子は内心で尻込みする。夏の異変でいろいろなことあったものだから、天子は八雲紫とその式神である藍が少々苦手なのだ。怖いわけではないし、彼女たちが天子を許してくれたのも知っているが、それでもどんな顔をすればいいのか未だにわからないでいる。

 とりあえず、手を差し伸べてくれたのでそれは素直に受け取っておく。

 

「えっと……ありがとう」

「いや、驚かせてすまなかったね。ちょっと慌ててたから」

「どうかしたの?」

 

 なぜかまったく驚いていない霊夢が問うた。ああ、と藍は振り向き、

 

「ここにいるということは霊夢も気づいてると思うけど、今、このあたりの山で次々間欠泉が噴き上がってる」

「え、」

 

 なにそれ初耳、という顔を霊夢は一瞬して、

 

「……あー、そ、そうね。一体なにが起こってるのかしら」

 

 じとー、と天子は霊夢を半目で見た。霊夢はさっと目を逸らした。

 藍はまったく疑った素振りもなく、ひとつ大きく頷いて続ける。

 

「それだけならまだしも、間欠泉と一緒に地底の妖精まで出てくる始末でね」

 

 ――妖精?

 天子は間欠泉を見た。熱湯が噴き上がり、白い蒸気がもうもうと曇り空に伸びている。少なくとも天子の目には、なんの変哲もない間欠泉のように見える。妖精の姿なんてとりわけどこにも、

 

「あっ」

 

 なんの前触れもなかった。間欠泉の最高到達点より少し上の空で、あぶりだしをするように妖精の姿が浮き上がった。その妖精はまるで熱がった様子もなく、蒸気の中をくるくる回りながら甲高い声で笑って、そのまま妖怪の山の方角へ飛んでいってしまった。

 それが、立て続けに三匹だった。

 藍が軽いため息とともに、

 

「……とまあ、あんな具合でね」

 

 今のが、地底の。

 天子が見慣れている妖精とは随分と雰囲気が違った。地上の妖精といえば明るくてかわいらしい服を着、いつも元気に笑っているのがほとんどだが、さっきのは色の薄い寝間着のようなワンピースで、顔色も死人同然だった。唯一羽が生えているのを除けば、妖精というよりは西洋の少女の亡霊だ。地底といえば地獄がある場所だから、妖精も自然とそういった性質を帯びるのかもしれない。

 霊夢が首を傾げ、

 

「でも、あれって結局ただの妖精よね? なにか問題でもあるの?」

「妖精が出てきたのなら、他の連中まで出てきてしまう可能性がある。……妖精程度なら笑ってられるけど、これでもし地霊でも出てきたら事だよ」

 

 地霊とは確か、地獄の亡者の恨み辛みを凝縮した思念体――要するに悪霊――だったはずだ。地上の生き物には百害あって一利もない。

 藍は目を伏せ、呟くような声音で、

 

「……そういう危険な存在は、藤千代たち鬼が封じてくれてるから大丈夫だと思うけど」

 

 彼女がなにを言おうとしているのか、なんとなくわかった。

 鬼たちがきちんと封じてくれているから、地霊が単なる手違いで出てきてしまう可能性はない。つまり、もし本当に湧き出てきてしまうようなことがあれば――。

 天子でさえここまで気づいたのだから、勘のいい霊夢ならとっくに察していたはずだ。口元に手を当て、少しの間考え込む素振りを見せてから、

 

「……異変、かしらね」

 

 そう、無感動な声でぽつりと言った。

 その、文字にすればたった二つだけの言葉に、天子の心臓は握り潰されるような息苦しさで軋んだ。甦った夏の記憶が一斉に押し寄せる。軽い気持ちが大きな過ちを招き、将棋倒しとなってもはやどうすることもできず、誰も幸せになれない悲劇の争いを生み出してしまう――またあれと同じことが起こるのかと、つい無意識のうちに考えてしまって、しばらくの間呼吸をすることすらできなくなっていた。

 霊夢も藍も、同じ記憶が脳裏を過っていたのだと思う。誰しもが言うべき言葉を見失い、互いの顔を見ることもできず沈黙する。また間欠泉から湧き上がってきた妖精が、ケタケタと気味の悪い声で笑っている。冬の凍える北風が吹き抜けていく。もうこのままどうすることもできなくなってしまうと思われたそのとき、膠着は思わぬ方向から破られた。

 

「――ぅお~い、霊夢~っ!」

「……!」

 

 張り詰めていた緊張がどっと解けた。振り向くと、愛用のほうきにまたがって、ぶんぶんと危なっかしいくらい大きく手を振って、空高くから飛んでくる魔理沙の姿が見えた。

 藍が、救われたようなため息をついた。

 

「……どうやら、相方のご到着みたいだね」

「なによそれ。あんなの、ただ面白半分で毎回くっついてきてるだけでしょ」

 

 口振りこそ素っ気なかったが、霊夢もまた今だけは、魔理沙の乱入を心の底からありがたがっているようだった。

 やってくるのは魔理沙だけではない。後ろで、誰かが一緒にまたがっている。魔理沙の元気な表情がはっきり見て取れるくらいの距離になって、ようやくそれがアリスだとわかった。

 天子はもちろん、霊夢も意外そうに眉を上げた。

 

「あら、アリスじゃない。珍しいわね」

 

 人里で教師をやっている手前、天子も名前くらいは知っている。魔法の森に住んでいる人形師の少女で、しばしば裁縫道具や反物を求めて里で買い物しているのを見かける。ただ極度の人見知りらしく、話ができたことは一度もないし、唯一知っている『魔法の森の人形師のアリス』だって慧音から又聞きしたものなのだけれど。

 これはもしかすると、アリスと話ができる絶好のチャンスかもしれない。見た目が同じ年齢くらいの相手だから、前々から話をしてみたいと思っていたのだ。月見の影響で、今の天子は友達作りに積極的なのである。

 藍が、天子と霊夢と順に見ながら言った。

 

「人数も増えてきたし、一度神社に戻ろう。これからやるべきことについて、少し話をしないとならないだろうしね」

 

 魔理沙たちと合流し、みんなで神社に帰る道すがら、天子は早速アリスに声を掛けてみた。

 その結果、めちゃくちゃ驚いたアリスが魔理沙のほうきから転落しかけた。なんというか、ごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうも間欠泉から湧き出た地底の妖精は、山を下り魔法の森まで飛んでいってしまっているようだった。

 魔理沙曰く。

 見慣れない妖精どもが森のあちこちで好き勝手に暴れ回り、貴重なキノコを踏み潰すわ危険なキノコの胞子をバラまくわ、迷惑極まりないので十匹ほど成敗してきたのだそうだ。そしてその中の一匹を生け捕りにし尋問してみたところ、地底からやってきたなどという興味深い話を聞けたので、霊夢に知らせようと思いほうきをかっ飛ばしてきたらしい。アリスは、特に予定もなく家でのんびりしていたのが災いして、問答無用で連れ出されてしまったとのこと。

 博麗神社へ戻ってきた天子たちが、現状の把握のため魔理沙とアリスから聞き出した情報の要約である。

 ひと通りの話を聞き終わり、頭の中で五秒ほど整理する間を置いてから、霊夢は炬燵を囲む皆を見回しこう言った。

 

「――やっぱりこれは異変よ」

 

 顔はいかにも鹿爪らしく博麗の威厳を漂わせていたが、首から下は背中を丸めて炬燵の中なので、全体的にはカリスマブレイクだった。

 

「今日になって突然あちこちの山で間欠泉が噴き上がって、地底から妖精まで出てきてる。こんな偶然ってないわよ。地底の誰かが悪さしてるんだわ」

 

 天子も概ね同感だった。間欠泉が博麗神社の一ヶ所だけだったなら、単なる偶然で片付けられていたかもしれない。しかし藍の報告によれば、間欠泉はここ以外でも五~六ヶ所は発生しているという。ここまでの規模になってしまえば、やはり地底でなにかがあったのではと疑わずにはいられない。

 藍も頷く。

 

「そうだね。間欠泉を通って地上に出るなんて破天荒な方法を、妖精たちが自分で思いつくとは思えない。恐らく、誰かが手引きをしているんだろうね」

 

 魔理沙の目がきらりと光った。

 

「霊夢、これが異変ってんなら当然調査が必要になるよな? 地底に行くなら私も便乗させてもらうぜ。どんな場所なのか前から気になってたんだ」

「どんな場所って、普通に地下でしょ?」

「バッカお前、それをこの目で確かめたいんだよ。地下に広がる世界とか、ロマンの塊じゃないか」

 

 こいつの趣味はよくわからん、という顔を霊夢はした。天子には少しわかった。未知の世界とは、いつの時代も人の好奇心を惹きつけるものなのである。かつての天子が、月見という妖怪に、引いては彼が幻想郷で描く世界に憧れたように。

 しかし、この事態を異変と見なし霊夢と魔理沙が調査に向かうのであれば、気になることがひとつ。

 

「でも地底って、確か立ち入り禁止じゃなかったっけ」

「知るかんなもん。異変解決がなにより最優先だぜ」

「そんなテキトーな……」

「いや、あながち間違いでもないよ」

 

 藍が言う。

 

「確かに立ち入り禁止ではあるけど、それも『原則は』だ。事故にせよ故意にせよ、地上に地底の住人が出てきてしまっているのは向こうの不手際。こちらから使者を送る権利くらいはあるだろう」

 

 炬燵からむくりと起き上がった霊夢も続く。

 

「掟守るのも大事だけど、それでみんなを危険に晒してもね。異変が起きてるのなら、私は博麗の巫女として動くだけよ」

「霊夢……」

 

 霊夢の立派な物言いに、藍が感極まってウルウルしている。魔理沙も目を丸くし、

 

「なんだお前、今回は随分と頼もしいな」

「そりゃーそうよ、だって妖精が湧く温泉なんかじゃ客取れな」

 

 盛大な咳払い、

 

「ほ、ほらあれよ、夏の異変じゃあ痛い目見たんだし、さすがの私も今回はちゃんと動くわ! ……本当だってば、だからそんな目で私を見るなあっ!」

 

 天子がじとーっと半目を霊夢に突き刺し、藍が「霊夢……」と乾いた笑顔でしょんぼりしている。魔理沙が「やっぱ霊夢は霊夢だったな」と呆れ、アリスは興味もないのか上海人形のお手入れをしている。

 あーもおー! と霊夢がヤケクソで叫んで、

 

「ともかくっ! これが異変だってんなら、地底より先にまず行かなきゃならないとこがあるわ!」

「?」

 

 天子は疑問符を浮かべた。霊夢はテーブルに拳を落とし、毅然とした声音で言い放った。

 

「――月見さんのとこよ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まっさきに疑うべきはあの狐だ。

 あの狐、夏の異変では素知らぬ顔をしていたくせに、裏では黒幕の天子とバリバリつながっていたという言い逃れのできない前科持ちである。しかも彼は、幻想郷の中では極めて数少ない、地底への自由な立ち入りが許されている妖怪でもある。この異変の黒幕が、またもや彼の知人友人であるというオチは否定できない。二度と同じ手は喰うものか。だからまず手始めに水月苑を強襲し、この異変について知っていることを洗いざらい吐かせてやるのだ。

 と勇んで突撃した水月苑で、しかし霊夢は、気勢をすべて挫かれ呆れ果てることになったのだけれど。

 

「……ねえ、月見さん。温泉宿の次は幼稚園でも開業したの?」

「……はっはっは」

 

 月見はただ、悄然と乾いた笑みだけで答えた。

 間欠泉から発生していた、オバケみたいな姿をした地底の妖精。雪の降り積もった水月苑の庭が、すっかりあの妖精たちの遊び場と化していた。

 ざっと見渡しただけでも二十匹近くはいる。わかさぎ姫と雪合戦をしたり、にとりと巨大かまくらを作ったり、響子とかいう山彦と橋を使ってのそり滑りをしたりしている。そしてきゃーきゃーと甲高い歓声で遊ぶ少女たちを、月見が縁側から物静かに見守っている。

 完全に幼稚園、もしくは託児所の類である。

 一応事情を聞いてみれば、彼の言い分はとてもありきたりな一言に集約された。――まさかこんなことになるとは思わなかった。

 発端は、月見が朝の雪掻きをしている最中、どこからともなく飛んできたオバケ妖精がわかさぎ姫をおどかして去っていったことだった。その後、どうも山の方が騒がしいので様子を見に行っていると、あちこちに発生した地底の妖精があれやこれやのいたずらを繰り広げて回っていたのだ。そして、あー月見さんいいところになんとかしてくださいよこれーと天狗や河童から便利屋扱いされ、一匹また一匹と預かっていくうちに、いつしか水月苑が幼稚園代わりになってしまっていた。今でも文やはたてが幻想郷中を飛び回っていて、新しい妖精を発見次第ここへ連れてくる手筈になっている。

 という、なんとも呆れ果てた話だった。

 天子がくすくすと笑った。

 

「なんだか月見らしいなあ」

「同感」

 

 魔理沙が肩を竦め、

 

「なんつーか、こういうちっちゃいやつらの世話が似合うよなお前って」

 

 霊夢もそれには同意する。彼の人間性の為せる業なのか、小さい女の子と一緒にいてもキケンな香りというのがまるでしないのだ。まったく、他の野郎どもに爪の垢を煎じて飲ませてやってほしい。もしも山の変態天狗が月見と同じことをやっていたら、霊夢は脊髄反射で弾幕を叩き込む自信がある。

 月見は息だけの苦笑を応えとして、

 

「いらっしゃい、みんな。アリスははじめてかな」

「そ、そうね……。遠くから見たことは、あったけど」

 

 霊夢は今更ながら、

 

「そういえばアリス、あんた月見さんからは逃げないのね」

「? どういうこと?」

 

 首を傾げた天子に魔理沙が説明する。

 

「こいつが超絶人見知りってのは話したろ? そん中でも男と話すのだけはからっきしでな、大抵は挨拶もできずに逃げ出しちまうんだ」

「へえ……」

「まともに話せるのなんて、香霖くらいだったはずなんだけどなー?」

 

 魔理沙に意味深な横目を向けられ、アリスはぷいとそっぽを向いた。

 

「わ、私だって、なんとか慣れようとしてるのよ」

「ここまで長かったけどねえ。今まで何度逃げられたことか」

「っ……!」

「シャンハーイッ!」

「いでで、こらこら耳はダメだよ」

 

 余計なことを言った月見に上海人形をけしかけ、グイグイと耳を引っ張らせる。……本当に驚いた、こんなアリスを見たのははじめてだった。たとえ上海人形経由とはいえ、操っているのは他でもないアリス自身だから、これはつまりアリスが自分の意思で異性の体を触ったということではないか。明日は大雪が降るのだろうか。いやいっそ槍か。待て待て、今日になっていきなり間欠泉が発生したのってひょっとしてそういう。

 あと天子、羨ましそうな目で上海人形見るのやめろ。

 月見が上海人形を両手で捕まえ、膝の上に置いた。

 

「……で、今日は一体なんの用で? 子守りの手伝いなら大歓迎だよ」

「あ、じゃあ――いだい!?」

 

 コロッと寝返ろうとした天子をチョップで黙らせ、霊夢は本題に入る。

 

「実は今朝から、ウチの神社の周りで突然間欠泉が噴き上がってね」

「間欠泉?」

 

 なんだそりゃ、と言うような反応だった。いかにもシロっぽいリアクションだが、油断はしない。この男は狐なので、何食わぬ顔でさらりと嘘をつく一面があるのを忘れてはならない。

 

「で、ここで遊び呆けてる妖精って、みんなその間欠泉から一緒に湧いてきたやつなのよ」

 

 月見が喉で笑う。

 

「なんだ、そんな危ないことしてやってきたのかこの子たちは」

 

 どんな小さな違和感ひとつも見逃さぬよう、霊夢は月見の隅々にまで目を光らせる。

 

「でね? 普通、間欠泉が何ヶ所も発生して、しかもそこから地底の妖精まで湧いてくるなんて考えにくいでしょ? だから私たち、地底で誰かが悪さしてるんじゃないかと疑ってるんだけど」

 

 月見の目つきが少し遠くなる。何事か考え込んでいる。

 霊夢は一気に切り込む。

 

「もし本当にそうだとしたら、これって立派な異変でしょ。――ねえ、単刀直入に訊くけど」

 

 決して言い逃れなど許さぬよう、月見にぐいと笑顔を近づけて、息がかかるほどの距離から、

 

「――この異変にも、裏で一枚噛んでたりしない?」

 

 月見は二つの反応を見せた。まずぽかんと呆けた顔で霊夢を見返し、それからすべて納得したように薄く微笑んだ。

 

「なるほどね。……夏の異変がああだったものな、疑われるのも当然か」

「そうそう。洗いざらいゲロっちゃった方が楽になるわよー?」

 

 正直なところ自分ではいい線を行っていると思っていたのだが、月見は素気なく首を横に振った。

 

「残念だけど、今回はなにも知らないよ」

 

 本当のことを言っているようにも見えるし、嘘をついているようにも見える。霊夢は目を眇め、

 

「本当かしら。今回も月見さんの知り合いの仕業とかいうオチじゃないの?」

「さあ」

「……ねえ、弾幕ごっこでボコボコにしたら教えてくれる?」

 

 月見は苦笑、

 

「いや、本当に知らないってば。それに私、スペルカードなんて持ってないよ」

 

 むう、と霊夢は唸った。なんとなく、嘘ではないような気がした。あくまで霊夢の勘であり、彼が嘘をついている可能性を少しも減じるものではないけれど。

 というより、これがもし本当に嘘だったら大したものだ。それはつまり、月見が霊夢を騙しているばかりでなく、夏の異変で起こった事件をなにも反省していないということなのだから。あのときの悲劇を少しでも悔いる気持ちがあるなら、この期に及んで嘘をつくなんて芸当は冗談でもできないはず。

 そう考えれば、月見のことだから、本当なのだろう。

 

「誓って?」

「誓って」

 

 ならよし。

 ――いや、よくもないのか。どうせ今回も一枚噛んでいるであろう月見から黒幕の情報を聞き出し、最短距離で異変を解決するという霊夢の完璧なプランが、出だしでいきなり躓いてしまった。こうなると勘と運に任せて地底を手当たり次第に捜索するしかないが、土地勘もない場所だし苦労させられそうだ。ちょっと面倒くさい。

 いっそ月見さんを連れて行こうかしら、と結構真面目に悩んでいたら、

 

「――きゃっ!?」

 

 突然、後頭部に衝撃。次いで、襟巻きの隙間からうなじ全体に広がった、鳥肌が立つほどの冷たさ。――後ろから雪球をぶつけられたのだ。振り返れば、頭が雪まみれになった霊夢を見て、きゃっきゃきゃっきゃと笑っている妖精がいた。

 

「だ、大丈夫か?」

 

 藍が、もふもふの尻尾で頭の雪を払い落としてくれた。魔理沙がぷぷっと吹き出し、

 

「おい霊夢、なに妖精なんかにやられぶわっ」

 

 その側頭部を雪球が襲う。わーい! と妖精たちが歓声をあげる。

 

「「……」」

 

 首周りが冷たい霊夢と魔理沙はしばらくお互いを見つめ合い、やがてどちらからともなくにっこりと微笑んだ。それを見た天子とアリスが、「ひえ」と変な声をあげて仲良く後ずさった。

 

「ねえ、魔理沙」

「なんだ?」

 

 霊夢はとても晴れやかな心地で、

 

「地底に行く前に、ちょっと準備運動が必要だと思わない?」

 

 魔理沙も、とても晴れやかな顔をしていた。

 

「奇遇だな、ちょうど同じこと考えてたぜ」

「あら、そうなの」

 

 また頭部めがけて飛んできた雪球を、霊夢は軽く首をひねって躱し、魔理沙はほうきで叩き落とした。

 間。

 ぐるんと振り向いた。妖精たちが「ぴえ」と悲鳴をあげた。

 

 あとのことは、敢えてまで語るまい。

 でも、なにも泣きながら逃げ惑うことはないんじゃないかと思う。まるで霊夢が鬼みたいじゃないか、失敬な。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 雪遊びを楽しんでいた妖精たちの歓声が、瞬く間に悲鳴に変わる。召喚されてしまった二名の鬼が、八面六臂の機敏な動きで庭中を跳ね回り、イタズラが過ぎる妖精たちを容赦なく懲らしめていく。みぎゃーぴちゅーん、ふぎゃーぴちゅーんと、一匹また一匹と冬の曇り空に消えていく。止めるべきだろうか。いや、いいや。妖精だからすぐ復活するだろうし、これで落ち着いて話ができるようになる。

 月見は宙空に白く薄い吐息の雲を伸ばし、藍を見遣って尋ねた。

 

「それで? 異変だっていうけど、お前たちはどうするんだ?」

「いつも通り、霊夢と魔理沙を向かわせますよ。私は二人を洞穴まで案内してから、そのあとは間欠泉の様子を見ていようかと」

 

 青い顔で避難してきた響子が、縁側に転がり込んで月見の後ろに隠れた。人を盾にするとはいい度胸だ。

 

「そういう月見様こそ、どうされるんですか?」

「私かい?」

「霊夢も言ってましたが、今回の異変の黒幕が、月見様の知り合いという可能性は高いのでは?」

 

 どうなのだろう。間欠泉の発生が本当に人為的なものであるなら、犯人は相当強い力を持つ妖怪だ。まっさきに思い浮かぶのは藤千代だが、あいつはあれでどうして、地底のトップとしての自覚をしっかり持った仕事真面目なやつなので、自らの手で異変を起こすなんて真似をするとは考えにくい。おくうの顔も浮かぶが、あの子はごくごく普通の地獄鴉であり、間欠泉を発生させられるほどの力は持っていない。

 しかし、たとえ黒幕が知り合いであれなんであれ、

 

「……今回は、なにもするつもりはないよ」

 

 それが、月見の嘘偽りのない本心だった。

 正確にいえば、「変なちょっかいを出すつもりはない」だ。夏の異変を思い出す。あれがなぜ紫も天子も涙を流した辛い異変になったかといえば、すべてではないによせ、間違いなく月見の行動にその一端があった。だから心に決めていたのだ――いずれ新しい異変が起こったとき、決して自ら望んで関わる真似はすまいと。

 

「身の程を弁えて、ここで大人しく子守りをしてるよ」

 

 藍が安堵するように息をついた。

 

「そうですか……正直、助かりました。妖精たちに変ないたずらをされても困りますから、ここで月見様が見てくださるなら安心です」

「ああ、任せてくれ。なあ響子」

「えふぇい!?」

 

 ずっと月見の後ろで「人間こわい……」とか呟いていた響子はびっくりして、

 

「な、なんでしょうか!」

「妖精たち、すぐ復活するだろうからさ。そしたらまた遊んであげてくれ」

「うう……でもあの子たち、なんかやることがだんだん過激になってきて怖いんだけど……」

 

 妖精相手にビビる妖怪なんて、月見はちょっとはじめて見た。

 

「ってか、月見さんも手伝ってよ! こんなところで見てばっかないで!」

「いやいや。私なんかより、お前に遊んでもらえた方が妖精たちも楽しいはずだよ」

 

 主にいじり甲斐があるって意味で――という一言は、もちろん口にはしない。

 ジト目で見られた。

 

「なんか今の、ぜんぜん褒めてもらえた気がしない……」

 

 気のせいさ、と微笑んで月見は目を逸らした。

 すると逸らした先では、ちょうど天子が、何事か真剣な面持ちで藍に口を切るところだった。

 

「ね、ねえ、藍」

「うん?」

 

 意を決したように、

 

「私……霊夢たちのお手伝いがしたい」

 

 藍が眉を持ち上げる。天子は続ける、

 

「私が起こした異変のとき、助けてもらったから。だから、今度は私が霊夢たちを助けたいの」

 

 ひたむきな言葉だった。霊夢たちの力になりたいという、嘘偽りない本気の想いがそこにはこめられていた。まさか天子がここまで真摯に霊夢たちを想うとは予想外だったらしく、藍は半分放心状態のまま、

 

「気持ちは嬉しいけど……いや、しかし、さすがにお前まで地底に行かせるわけには」

 

 その途端天子が、なんだかナメクジにでもなってしまいそうな、とてつもなく暗い雰囲気になった。

 

「そ、そうよね……やっぱりダメだよね……」

「え、」

 

 思わぬ落ち込み様に藍がたじろぐ。

 

「それに私、弾幕ごっこ下手だし……行っても足手まといになるだけだよね……」

「あ、えっと」

 

 水月苑の庭を弾幕が飛び交っている。「ごふ!?」「あ、悪いにとり」「ふざけてんのかな!?」とにとりが巻き込まれていて、わかさぎ姫は橋の下に隠れてぷるぷる震えている。

 

「なんでもないです忘れてください……」

「あ、あーっそうだ、私にいい考えがあるぞ!」

 

 藍はだいぶ追い詰められた感じで、

 

「紫様が、冬眠する前にいろいろ改造していったアイテムがあるんだ! それを使えば、ここからでも霊夢たちを助けられるかも!」

 

 天子がぱああっと光を取り戻した。

 

「れ、霊夢が戻ってきたら相談してみよう」

「は、はいっ」

 

 庭の空ではいつの間にか、魔理沙とにとりの激しい弾幕ごっこが始まっている。更に残りの妖精たちが小魚のように群がって徒党を組み、霊夢と果敢な弾幕の応酬を演じている。

 まだしばらく掛かりそうだと月見が思っていると、天子がすぐ隣に腰を下ろしてきた。ついさっき元気になったばかりのはずなのに、彼女はまた物思いな顔で俯いていて、

 

「……ねえ、月見」

 

 小さく掠れた声だった。天子が目を向ける先には、鬼二人が暴れ回る冬の日本庭園がある。けれど天子の遠い瞳は、それとは違うなにか別のものを映しているように見えた。

 なんとなく。

 夏のことを。自分が起こした異変を見ているのだと、月見は思った。

 

「私が言うのも、なんだけどさ」

 

 それは、祈りでもあったのかもしれない。

 

「……今回は、大丈夫だよね。なにも……起こらないよね」

「……」

 

 月見の脳裏にも、同じ記憶が甦る。天子が起こした緋色の異変。最後はみんなで笑うことができたけれど、終わりよければすべてよしとはいうけれど、それでも、あれはやはり辛い異変だったと思う。

 そうならなければいい。

 通例異変は、スペルカードルールに則った勝負の下、霊夢たち人間が黒幕を倒せば恨みっこなしでおしまいだという。だから、そうなればいいと切に思う。

 悲しい涙を流さずに済むのなら、それ以上の幸いなどないのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 少女は、炎の海の中にいた。

 燃えていないものはなにひとつとしてなかった。地が焼け、山が焼け、水が焼け、無数に舞い散る火の粉が空すらをも焼いていた。

 火だけが支配する世界の中で、少女もまた紅蓮の炎に包まれていた。

 でも、熱くはない。これは他でもない、私自身の力だから。

 少し手間取ってしまったけれど、ようやく自分の力になったのだ。

 これなら、

 

「この力があれば――」

 

 ――きっと、私にも。

 そう、祈るように呟いて。

 震える指先を、震えなくなるまで、ぎゅっときつく握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ② 「幻想郷立水月苑幼稚園」

 

 

 

 

 

 意外に思われるかもしれないが、藍は普段からあまり妖怪の山へは立ち入らない。麓の水月苑には足繁く通っているものの、ここまで登ってきたのはもう随分と久し振りの話で、途中すれ違った哨戒天狗からもだいぶ珍しそうな顔をされた。

 なぜと問われても答えに悩むが、強いて言えば「登る理由がないから」なのだと思う。昔は日本中を旅したりもしていた藍だけれど、紫の式となってからは行動範囲がめっきり狭くなってしまって、幻想郷でも日頃から足を運ぶ場所といえば、月見のいる水月苑、霊夢のいる博麗神社、橙のいるマヨヒガ、買い物をする人里の四ヶ所くらいしかない。それ以外の場所は仕事にでもならない限り近づくことすらないのだから、自分も随分とインドアな妖怪になってしまったものだと思う。

 白状する。霊夢の前では年上風を吹かせて「私が案内するよ」なんて威張ったが、実はちょっと自信がなかったのだ。

 道を間違えたり迷ったりすることなく辿り着けて、本当によかった。

 

「……? ねえ、藍。ここの看板、なんかボロボロに焼けちゃってるけど火事でもあったんじゃないの?」

「え? ……さ、さあ、どうだったんだろうね」

 

 言えない。紫様が何回も『あなたのゆかりん』と書き直したせいで、月見様に丸々消し炭にされたなんて。

 そんなことはともかく。妖怪の山を登るのがいつ以来なのかは曖昧だけれど、その洞穴は藍の記憶となんら変わりなく、巨大な魔物が大口を開けて餌を待ち構えるように佇んでいた。分厚い雪化粧のお陰で不気味な雰囲気はいくらか中和されているが、奥の闇は呑み込まれそうになるほど深く暗い。橙なら怖がって入れないだろうな、なんてことを藍はふっと考える。

 

「ふーん。こんなトコにこんなもんがあったんだな」

 

 ほうきに跨ったままの魔理沙が、不気味がる素振りもなく撫でるような目で洞穴を観察した。

 

「これが、ずーっと下の地の底まで続いてるってわけか」

「ああ、そうだよ」

 

 今回の異変に当たって、暫定指揮官の藍は二つのチームを作った。すなわち直接地底に向かって異変を解決する組と、それを地上からサポートする組。前者が霊夢と魔理沙で、後者が天子とアリスである。……なぜアリスの名前があるかといえば、「霊夢のサポートが天子なら私はアリスだな?」と魔理沙に笑顔で振られ、NOと言えない性格のアリスがやはりNOと言えなかったからである。

 して、この場にいない天子とアリスがどうやって霊夢たちをサポートするのかといえば、

 

『――あーあー、てすてすー。霊夢ー、聞こえるー?』

 

 藪から棒に、聞こえるはずのない天子の声が響いた。

 

「はいはい、聞こえるわよ。準備できたの?」

『うん。準備っていっても、月見に炬燵入れてもらったり飲み物用意したりしたくらいだけど』

「あ、ズルい」

 

 声の出処は、霊夢の傍をふよふよと飛んでいるひとつの球体だった。博麗神社に代々伝わる由緒正しいアイテムのひとつで、『陰陽玉』という。遠隔で術を発動させる触媒としたり、そのまま相手にぶつけて攻撃したりと、主に霊夢の攻撃面をサポートするものだが、このたび冬眠前の紫によって通信機能が実装されたのだ。藍も詳しくは知らないが、他にもいろいろと機能が追加されているらしい。

 

『魔理沙、聞こえる?』

「聞こえないぜ」

『ちょっと、真面目にやってよ』

 

 更に、今度はアリスの声。こちらは、魔理沙の右肩にひっついている人形から発せられた。アリス特製の人形で、陰陽玉と同じく通信機能を実装している他、内蔵された数々の魔法をアリスの命令ひとつで発動することができるという。本人は大したものじゃないと言って謙遜したが、藍は正直舌を巻いた。これほどの代物、式神を操る力を持つ藍にだってそう簡単には作れやしない。あの人形遣いは性格が災いして地味で目立たない少女だけれど、魔法使いとしての実力はかなりのハイスペックなのだ。

 天子とアリスは、それぞれ陰陽玉と人形を使い、水月苑から霊夢たちをサポートする。近くには地底の住人と交流のある月見もいるから、困ったときにはなにかと融通が利くだろう。

 陰陽玉が言う。

 

『すごいねこれー、集中するとそっちの景色もぼんやりとだけど見えるよ』

「なに、そんな機能まで付けてたのあいつ? ……他にもいじったりしてないでしょうね」

 

 霊夢にジロリと睨まれて、藍は「あ、あー、大丈夫だと思うぞ? うん」と愛想笑いで誤魔化した。言えない。まだ冬が始まって間もなかった頃、紫が陰陽玉をいじくり回しながら「さっすが私! よーしついでに他にもいっぱい付けちゃお!」と一人ではしゃいでいたなんて。

 藍のあからさまな反応から霊夢はおよそを察したはずだが、特に追及はしなかった。ため息をついて、

 

「……まあいいわ、今回は割と役に立ちそうだし」

『頑張る!』

「……なあアリス、お前もこっちの景色とか見えてるのか?」

『? ええ、じゃなきゃサポートにならないでしょ?』

「マジか……すごいなお前、紫と同じことやってるぞ」

『えっ……い、いえ、こんなのぜんぜん、完全自律の人形を作るのに比べれば、大したこと……』

 

 アリスは、もっと自分に自信を持ってもいいと思う。藍から見たってすごいことをやっているのだから。

 しかし結局、シャイなアリスは最後まで謙遜もできぬままもじもじとフェードアウトしてしまった。肩を竦めた霊夢が藍を見て、

 

「……で? 普通に入っちゃっていいのよね?」

「ああ。天魔様の許可はもらえたからね」

 

 ここまで登ってくる途中で偶然操と出会い、洞穴への立ち入りを正式に許可してもらえたのは運がよかった。……もっともより正確を期すなら、デカいたんこぶを作って椛に引きずられていく操と、だけれど。

 藍は焦点の遠い目をしながら思う。今まではまだかわいい方だったはずなのに、ここ最近になって突如として、椛の中で眠る『犬走』の血が覚醒の時を迎えつつある。幻想郷トップクラスの大妖怪をニコニコ笑顔で引きずっていく椛の姿は、先代譲りで鳥肌が立つほど恐ろしかった。椛の将来を割と本気で心配する藍である。

 霊夢が、洞穴の中を覗き込んで顔をしかめている。

 

「うわー暗っ。こりゃ明かりがないとダメねー」

『あ……あの、明かりならこの子が』

 

 アリスがなんとも自信なさげにそう言うと、魔理沙の肩にひっついている人形の両目が、ぺかーっと懐中電灯みたいに光りだした。

 魔理沙がびくっとした。

 

「うわっ。なんだお前、そんな機能まで付いてんのか」

『な、なにかの役に立つかと思って……』

 

 人形が魔理沙の肩から離れ、ゆっくりと洞穴の目の前まで飛んでいく。小さい人形ながら光はなかなか頼もしく、洞穴が奥の方まで見えるようになる。

 へー、と霊夢が面白そうに、

 

「いいじゃない、せっかくだし照らしてもらいましょ。……ってかなによさっきから眩しいわね、」

 

 霊夢が鬱陶しそうに横を見ると、陰陽玉までぺかーっと光っている。

 霊夢もびくっとして、

 

「……ちょ、ちょっと待ちなさい! なんで私の陰陽玉まで光ってるのよ!」

 

 天子が、

 

『……え、本当に光ってるの? 光ればいいなあって思って念じてたんだけど』

「……あのバカ、さては相当改造してるわね!? 『ちょっと便利にしておいたから☆』なんて次元じゃないわね!? 人の道具になにしてくれてるのよあのバカ賢者――――――――ッ!!」

 

 藍は仏像のような顔をしながら心の中で詫びる。ごめん霊夢。でも悪く思わないでやってくれ、紫様にも悪気があったわけじゃないんだ。ただ、ちょっとおバカなだけだったんだ。

 魔理沙がからからと笑っている。

 

「いいじゃないか、今回は役に立つだろ」

「むう……春になったらとっちめて、洗いざらい吐かせてやる」

 

 ぶつくさ言いながら、霊夢が陰陽玉を洞穴の中に飛ばした。人形の光が狭い範囲でも遠くまで届く懐中電灯なら、こちらは広い範囲で周囲を照らす白熱電球といったところか。人形と陰陽玉、二つの異なる光の組み合わせで、洞穴の中は充分すぎるくらいに明るくなった。

 魔理沙が短く口笛を吹いた。

 

「おー、こりゃあいいや。楽に進めそうだぜ」

「……まあ、今回だけは感謝しといてやるか。……じゃあ藍、私たちは行くわよ?」

「ああ」

 

 そのとき、

 

『――霊夢、魔理沙。聞こえるかな』

 

 陰陽玉から、月見の声が響いた。

 

「あら、月見さんじゃない。どうかした?」

『うん。お前たち、これから洞穴を下りていくんだろう? その前にちょっと助言をと思って』

 

 霊夢が苦笑した。

 

「もう。今回は関わらないとか言ってたのに、なんだかんだで世話焼いてくれるのね」

 

 呆れつつも、それをどことなく好ましく思っているような笑みだった。月見さんらしい――きっと、彼女はそう思っていただろう。

 陰陽玉の向こうで、月見も息だけで笑った。

 

『異変絡みじゃないから、ノーカウントってことにしてくれ。……洞穴を通って地底に下りるとき、もしかすると変な釣瓶落としに出会うかもしれない』

「変な釣瓶落とし?」

「なんだそりゃ」

 

 霊夢と魔理沙が首を傾げ、藍も内心疑問符を浮かべた。『危険な釣瓶落とし』ならまだしも、『変な釣瓶落とし』という言い回しは少し奇妙な感じがした。

 

『疑問はもっともだけど、アレは「変な釣瓶落とし」としか表現の仕様がなくてね。悪い妖怪じゃあないんだ。ただ、ちょっとめんどくさいタイプというか』

 

 紫様みたいな感じかな、と藍は思う。そうかもしれないなあ。月見様はよく変な妖怪に好かれるみたいだしなあ。

 『めんどくさいタイプ』と聞いてまっさきに主人が浮かぶ思考回路を疑問に思うだけの常識と良心は、今の藍にはもう存在しないのだ。

 

『いろいろ、お前たちに変なことを言ってくると思う。でも気にしなくていい。相手にしても疲れるだけだから、無視して先に進んでくれ』

「……月見さんにそこまで言われるって、一体何者なのよそいつ」

『本人曰く、地底世界のアイド――いや、なんでもない。ともかく変な釣瓶落としだよ』

「アイド……なに?」

『なんでもない。忘れてくれ』

「そ、そう」

 

 月見には珍しく、有無を言わさぬ一方的な口調だった。彼自身、余計なことを口走りかけた自分を悔いているようにも感じられた。アイド――なんだったのだろう。アイドル、とかだろうか。地底世界のアイドル。

 ……いや、そんなまさかな。

 

『とにかく、ああいうやつの相手は私みたいなのがやればいいんだ。お前たちが巻き込まれることはない』

「そいつ、名前は?」

『キスメ』

「キスメ……ね。わかったわ。もし出会っちゃったら無視する」

『ああ、そうしてくれ』

 

 そのとき、陰陽玉からほんのかすかに、「ふぎゃああああああ」と情けない女の子の悲鳴が聞こえてきた。聞き慣れない声だったので断言はできないけれど、確か水月苑で妖精の遊び相手をしていた、幽谷響子という山彦がちょうどあんな声だった気がする。一体向こうでなにが起こったのか、あー、と月見が小さくため息をついている。

 

『……引き留めてすまなかったね。それじゃあ二人とも、頑張って』

「はいはい。月見さんも子守り、頑張ってねー」

「宴会の準備でもして待っててくれー」

 

 魔理沙が言い終えた頃には月見は速くも立ち上がっていたようで、「こらこらお前たち、なにやってるんだ」と呆れた声が遠ざかっていき、ほどなくして静かになった。

 魔理沙が肩を竦めた。

 

「……ま、向こうは月見がいりゃあ大丈夫だろ。ああいうの慣れてそうだし」

「実際、あそこは幼稚園でもやってけそうな気がするわ……」

 

 藍も心底そう思う。

 ともあれ話を切り上げ、霊夢と魔理沙が洞穴に踏み込む。入口は決して大きくないが、二人とも背が低い女の子なので、飛びながらでも簡単に入っていけた。

 

「気をつけてね。確か地底へは一本道だったはずだけど、途中に急斜面や崖があるから、ちゃんと飛んでいくんだよ」

「はいはい。んじゃまあ、行ってくるわ」

「健闘を祈ってるよ」

 

 魔物の顎門のような洞穴を、明かりがあるとはいえ二人はなんの物怖じもなく進んでいった。その肝っ玉の太さを頼もしく思いながら、藍は明かりが消えてなくなるまで二人の背中を見送った。

 吐息。

 正直、断じて不安がないわけではなかった。地底は、地上から姿を消した妖怪たちが築いた都。なぜ彼らが地上から姿を消したかといえば、他の種族と上手く折り合いをつけられなかったからであり、なぜ折り合いをつけられなかったかといえば、彼らが特殊な性格をしていたり、特殊な能力を持ったりしていたからである。

 有り体を言ってしまえば、地底には地上よりも面倒な妖怪というのが多い。月見が言っていたキスメとやらも、きっとその類であろう。

 二人とも、面倒が起こった場合にはなにかと喧嘩っ早くなる嫌いがある。何事もなく解決できればよいが。

 そのとき、

 

「らんさまぁ――――――――っ!!」

 

 ああこの、聞いた瞬間すべての不安が根こそぎ浄化される天使の声は。

 

「藍様、ここにいたんですねっ」

 

 所謂親バカというやつなのだろうが、やっぱり橙は世界で一番かわいいよなーと藍は思うのだ。なんといってもとんでもないくらいのいい子である。呼べば嫌な顔ひとつせずマヨヒガから駆けつけてくれるし、藍を見つければこうして眩しい笑顔で駆け寄ってきてくれる。いい子すぎて涙が出てくる。こんなにいい子な式神を持てた藍は、きっと幸せ者に違いない。

 

「橙、来てくれたんだね」

「私は藍様の式ですからっ」

 

 天使。

 

「それで、今日はどのような御用でしょうか?」

「ああ、実はね……」

 

 橙の天使っぷりにトロけてしまわないよう気をつけつつ、藍はいま幻想郷で起こっている騒動のことを説明する。橙はちゃんと藍の目をまっすぐ見て、ふんふん頷きながらとても真面目に耳を傾けてくれた。やはり天使。

 

「なるほど……間欠泉と地底の妖精ですか。そういえば、神社の方角に白い煙がいくつか見えたんですけど、もしかして」

「きっと間欠泉だね。というわけで橙には、間欠泉から変なやつが出てこないか見張るのを手伝ってほしいんだ。それと、もしまだ妖精が出てくるようなら捕まえてほしい」

「わかりました!」

 

 橙がびしっと敬礼をした。紛うことなき天使。

 

「地底の妖精って、どんな感じなんですか?」

「そうだね……私が見た限りだと、みんな灰色っぽい服を着ていたな」

「あんな感じですか?」

 

 橙が指差した方に目を向けると、人の頭くらいの大きさをした灰色の物体が、ふよふよと森の奥へ入り込んでいくのが見える。

 

「そうそう、ちょうどあんな感じで――」

 

 いや待て、

 

「――っていうかあれだ! あれが地底の妖精だ!」

「あれですか!」

「あれを捕まえるんだ!」

「わかりました! ……ふか――――――――っ!!」

(あっかわいい)

 

 ふよふよと宙を飛び回る動きが猫じゃらしに似ていなくもないからか、目の色を変えた橙が元気いっぱいにすっ飛んでいく。

 橙はやっぱり天使だなーと、改めて思い知りながら。

 緩みそうになる頬にぺちぺちと活を入れ、藍は狩猟本能全開な愛娘の背中を追いかけた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そのころ水月苑茶の間の天子とアリスは、こたつでぬくまりながら手に汗握る激しい心理戦を繰り広げていた。具体的には、なんとか話しかけたいけどあと一歩勇気が出ない天子と、話しかけてくるの!? 話しかけてこないの!? どっちのなの!? と戦々恐々するアリスの、なんとももどかしい沈黙の空間だった。先ほどからずっと、愛想笑いばかりを顔面に張りつけている。

 

「……」

「……」

 

 今の自分の姿を、昔の自分に見せてやりたいと天子は思う。きっと、バカみたいに大口を開けて唖然としてくれるに違いない。もしくは、こんなのが私なわけないでしょと怒り狂うかもしれない。「なんと言えばいいかわからず話しかけられない」なんて、当時の自分にとっては天地がひっくり返ってもありえないことだった。

 こういうときに実感する。月見と出会ってからの自分は、本当に弱くなってしまった。夏の異変を通して、幻想郷での生活を通して、天子は本を読むだけではわからなかったたくさんのことを学んだ。その結果、今まで見えていなかったたくさんのことがわかるようになって、だからたくさんのことが怖くなってしまったのだ。

 例えば今のように、「変なこと言ったらドン引きされちゃうかも……!」とか。

 

「…………、」

「…………、」

 

 しかしまさか、このままなにも話さないでいるわけにもゆくまい。もちろん、自己紹介くらいはちゃんとした。逆を言えば、自己紹介以外は特になにもできていない。異変を無事解決して帰ってきた魔理沙に、「お前らちゃんと仲良くしてたかー?」なんて茶々を入れられてみろ。自己紹介しかできませんでしたと答えたら最後、白い目で見られるだけじゃあ済まない。

 魔理沙はいいなあと、つくづく羨ましくなってくる。少し自分勝手で無遠慮なところもあるけれど、それが不思議と愛嬌に思えてしまう魅力が彼女にはある。霊夢だってそうだ。基本的に他人より自分を優先する性格なのに、やっぱり、それが霊夢らしい個性なのだと思わされてしまう。ズルい。羨ましい。天子にもそういう個性が欲しかった。

 

『ちょっと天子ー、さっきから光がぴかぴかして進みづらいんだけどー?』

「ご、ごめん!」

 

 手元に置いた陰陽玉が霊夢の声で不平をもらしたので、天子は慌てて雑念を振り払った。どうやらこの陰陽玉、平常心を失った状態でも扱えるほど簡単な代物ではないらしい。アリスのことは一旦頭の片隅に置いて、霊夢のサポートに意識を集中する。

 

「……ど、どう?」

『はいはい、いい感じよ。その調子でよろしくね』

 

 ほっとため息。

 このまま霊夢のサポートにだけ集中できれば楽ではあるが、やはりそれではダメだ。アリスが、人形の操作に集中するふりをしながらチラチラと天子を窺っている。天子にあと一歩の勇気が出せないでいるせいで、変に意識させてしまっているのだ。このまま逃げるわけにはいかない。ここで逃げたら、「結局なんだったのよこの人……」とそれはそれで引かれてしまう。

 平常心を乱さぬよう気をつけながら、月見ならどうするのだろう、と天子は考えた。天子の憧れであり目標でもある彼なら、アリスとどんな言葉で打ち解けていくのか――。

 月見。

 稲妻が閃いた。

 

「あ、あのっ」

「は、はいっ」

 

 遂に来たか、という顔をアリスはした。大丈夫だ、これならきっと彼女も気軽に話すことができるはず。所謂『共通の話題』というやつだ。

 言った。

 

「アリスって、月見とすごく仲良さそうだったけど」

「……へっ!?」

 

 予想外の一言だったらしく、アリスは強烈に面食らった。

 

「月見とはどこで出会ったのかなー、なんて」

「い、いやあの、仲良いとかぜんぜんそんなんじゃなくて!?」

 

 本人はまったく意識していないし、気づいてもいないはずだ。そうやって慌てて否定すると、反って怪しく見えてしまうのだということに。恥ずかしがり屋で上がり症。とても難儀な性格をしていると思う。

 ……そうだよね? まさかね?

 アリスが三回ほど深呼吸してから、

 

「あ、あの人とは、香霖堂で出会って」

 

 香霖堂――魔法の森の近くにある古道具屋の名だ。店主の名前は森近霖之助で、月見とは気の合う男友達だと聞いている。

 

「私、昔から男の人が苦手で……普通に話せるのなんて、霖之助さんくらいで。だから、さすがにちょっと、なんとかしなきゃって思って……」

「それで月見と?」

「月見、さんは、話してても怖くないから……。はじめのうちは、緊張して逃げちゃってたんだけどね」

 

 月見が余計なことを言って、上海人形に耳を引っ張られていた光景が甦る。あれは羨ましかった。私も引っ張ってみたいなあ。怒られるかなあ。お願いしたらやらせてくれないかなあ。

 

「そ、それに……」

 

 天子が頭の中で盛大に脱線しているとは露も知らず、アリスははにかむように唇を動かして、手元の人形をそっと優しく撫でた。

 

「私の人形のこと、すごいって、言ってくれたから……」

「……そっか」

 

 天子はちょっぴり誇らしくなった。アリスの人形を褒めている月見の姿が、とても自然に想像できた。自分の目標としている人が自分以外からも認められているというのは、やはり何度見ても嬉しいものだ。

 

「だから、なんていうか……こう言っちゃうのもどうかと思うんだけど、男の人と話をする練習相手というか。そ、それだけだから、変に勘繰ったりしないようにっ」

「……」

 

 天子は一拍空けて、

 

「えっと、別に勘繰ったわけじゃないんだけど……ほ、ほら、アリスとなにかお話してみたいなあって思って。月見のことだったら私たち、共通してるし……」

「……、」

 

 アリスはしばらくの間黙り、やがて自分の恥ずかしい誤解だったと理解するなり真っ赤になって、

 

「そ、そういう天子こそどうなの!? つ、月見さんと仲良さそうだったのはそっちの方じゃない!」

「にゃい!?」

 

 いきなりの切り返しに天子は狼狽した。

 

「わたし!? わ、私はその、異変のときにすごく助けてもらって、恩人というか目標というか、とにかくそんなで!」

「なんで赤くなってるのかしら!」

「真っ赤なアリスに言われたくないです!?」

『あんたら真面目にやりなさいよ』『お前ら真面目にやれよ』

「「ごめんなさいっ!!」」

 

 怒られた。

 これが誰も幸せになれない無益な争いだと気づいた天子とアリスは、揃ってお口にチャックをして、逃げるように自分たちの役目に没頭した。

 少し打ち解けられた気がするけれど、なんで話しかける前より一層気まずくなっているのだろう。

 アリスを見た。目が合った。お互いすごい勢いで目を逸らした。

 ああもう、なにやってるんだろう私。

 ぜんぜん月見みたいになれない自分がもどかしくて、天子はさめざめと涙を流した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ひっさぁつ! わかさぎばすたーっ!!」

「グエーッ!」

 

 ぴちゅーん。

 わかさぎ姫渾身のストレートで消し飛ばされた妖精を不憫に思いつつ、月見はだんだん痛くなってきた頭をそっと抱えた。

 もちろん、月見は元気に遊ぶ子どもを見守るのが嫌いではない。それは例えば、寺子屋帰りに遊び回る里の子どもたちであったり、きゃっきゃと歓声を上げてじゃれ合うフランと妖精たちであったり、仲よく談笑しながら釣りを楽しむ橙とルーミアであったりする。満点の笑顔で跳ね回る子どもたちの姿は、大人の疲れた心をいつも優しく癒やしてくれる。

 しかしやはり、何事にも限度というものはあるらしい。

 

「てやーっ!」

「「「うりゃりゃりゃりゃりゃ!」」」

 

 池の畔で、わかさぎ姫とオバケ妖精たちが手に汗握る雪合戦を繰り広げている。みんな熱中しすぎるあまりコントロールがお留守になっていて、決して途切れることのない白の弾幕がめちゃくちゃに飛び交っている。とにかく流れ弾がひどく、こっちの方までぽんぽん吹っ飛んでくる。中には水月苑の壁に直撃し、ボルダリングみたいなデコレーションをつけていくものまである。はじめのうちは頑張って尻尾で弾いていたのだが、途中からなんだかどうでもよくなって、月見は遠い目をしながらぼーっと縁側に腰掛けている。

 

「いい!? あんたたち、絶対崩したりしないでよ! 絶対だからね!」

「「「はーいっ」」」

 

 にとりがかまくらに頭を突っ込み、シャベルを振るって中の空間を作っている。かまくらの上では、オバケ妖精たちがよしきたとばかりにぴょんぴょん飛び跳ねている。

 崩れた。

 

「ぎょあーっ!?」

「「「きゃーっ!」」」

 

 にとりの腰から上をゴツゴツした雪崩が襲う。雪の瓦礫の下に埋もれ、「おのれー謀ったなーっぬおおお」と両脚をバタバタさせるにとりを見て、妖精たちは仲良くハイタッチをしていた。

 

「ちょ、ちょっと待って! そりってのはもっとなだらかなところで遊ぶやつで、こんな急斜面を滑ったりしちゃダメなの! わかる!?」

 

 反橋の上では、その起伏を活かした高さ三メートルほどの雪山が出現している。そして傾斜角六十度近い急斜面の上では、無理やりそりに乗せられた響子が必死の命乞いをしていて、

 

「お、押さないでよ!? 絶対押さないでよ!?」

「「「はーいっ」」」

「み゛いいいいいいいい!?」

 

 妖精たちが満面の笑顔でそりを押し、響子は滑走――いや滑落した。勢いよく滑り落ちたそりは先端から地面に突き刺さり、投げ出された響子は雪のカーペットに顔面からふぐうっと突撃した。雪まみれになった響子を見下ろし、妖精たちがやはり仲良くハイタッチをしていた。

 さっきから、もうずっとこんな感じだった。お陰様で、雪化粧が美しかった水月苑の庭はすっかりめちゃめちゃであり、あちこちの雪が無残に掘り返され、もしくはあちこちに土の混じった雪の塊がぶちまけられている。妖夢と幽香が見たら貧血で卒倒するのではないか。

 現実を直視するのに疲れた月見は、現実逃避も兼ねて背後を振り返ってみた。襖で閉ざされてはいるが、奥の茶の間では天子とアリスが、異変解決に向かった霊夢と魔理沙を一生懸命サポートしているはずだ。

 

「……」

 

 ――異変、か。

 この言葉を聞くと、どうも顔つきが生真面目になっていけない。それはきっと月見の中で、あの夏の異変を完全には吹っ切れていないからなのだろう。

 もう無闇には関わるまいと心に決めたはずなのに、気がつけば深刻なことばかりを考えてしまっている。

 なんだか、霊夢と魔理沙の実力を信用していないみたいで嫌な感じだ。二人とも異変解決のスペシャリストで、スペルカードルールの闘いでは月見なんかよりずっとずっと強いのに。天子とアリスが一生懸命手伝っているのに。

 考えすぎだ。

 少し、体を動かそう。そう思った。

 

「づ、づぐみざぁぁぁん……」

 

 ゾンビみたいな声が聞こえたので見てみると、先ほど顔面から雪に突っ込んだ響子が、妖精たちから袋叩きにされて――わいわいと雪をかけられて――雪まみれになっていた。

 

「……」

 

 月見は周りを見回してみる。崩れたかまくらに上半身を潰されたにとりが、いつの間にかぴくりとも動かなくなっていて、妖精たちに木の棒で尻をつつかれている。わかさぎ姫はあいかわらず、「わかさぎびーむっ!!」「ギエーッ!!」ぴちゅーん! と渾身の剛速球で妖精を粉砕している。

 そのとき風が吹いた。舞い上がった雪が顔に吹きつけてきて、月見は一瞬目を瞑り、

 

「――はい皆さん着きましたよー。ここなら思う存分遊んで大丈夫ですよー」

「「「わーいっ!」」」

 

 目を開けると、オバケ妖精が十匹くらい増えていた。

 雪景色と対照的な真っ黒い羽根と、こんな冬でもあいかわらずな短いスカートは、見紛うことなく射命丸文だった。

 

「……文」

 

 振り向いた文はよそ行きの顔で、

 

「言われた通り、連れてきてあげたわよ」

 

 確かに、山でみんなからオバケ妖精を押しつけられているときに出くわしたので、他にもいたら連れてきてくれと頼んではいた。頼んではいたが、

 

「……これはまた、結構いたね」

 

 新しくやってきたオバケ妖精たちが、歓声をあげながら思い思いの場所に散らばっていく。その場で雪遊びを始める者、他の仲間たちと合流する者。何匹かが雪まみれの響子のところに飛んでいって、「なにしてるのー?」「いぢめてるー」「いじめ!?」「私もいぢめるーっ!」「ひいいいいい」と響子と戦慄させている。

 数も合わせて三十匹ほどになり、いよいよ幼稚園じみてきた。

 文がぼそりと、

 

「……幻想郷立水月苑幼稚園」

「……」

「語呂悪いわね」

 

 うん、そうだね。

 文は、とてもな生暖かい眼差しだった。

 

「ま、頑張ってね。また見かけたら連れてきてあげるわ」

「……ちなみに、ここで子守りの手伝いをしてくれたりは」

 

 にっこりと愛嬌たっぷりに笑って、

 

「いーや♪」

 

 また風が吹いて、舞い上がった粉雪が月見の顔を濡らす。袖で拭って目を開けた頃には、もう文の姿はどこにも見当たらなかった。

 ダメ元だったとはいえ、まさかああもはっきりと嫌がられるとは。あれで意外と、子どもと遊ぶのは苦手だったりするのだろうか。

 ふと、くいくいと袖を引かれた。見下ろせば一匹のオバケ妖精が、死人同然の顔色とは裏腹につぶらな瞳で月見を見上げていて、

 

「ねーねー、あの河童動かなくなっちゃった。しんだ?」

「……」

 

 忘れてた。

 オバケ妖精が指差した先には、崩壊したかまくらの下敷きとなりぴくりともせず、妖精たちに木の棒で尻やら足の裏やらをつんつんされているにとりの哀れな姿。

 この状況では貴重な人手なので、月見は急いで救出に向かった。その途中で、妖精たちの遊び道具と化し涙目な響子が、

 

「づぐみざんだずげでえええええぇぇぇ」

 

 お前は、ひめを見習ってもうちょっと頑張れ。

 

「わかさぎぼんばーっ!!」

「グエーッ!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 不思議なことに、崖を下りていくにつれて段々と周りが明るくなっていった。こんな洞穴の奥深くでどこから光が入ってくるのか不思議だったが、真っ暗よりかは断然よいので深くは考えないでおいた。

 底などないのではないかと思われたその長い崖を下り終えると、突如として空間が広がった。しかし、陰陽玉と人形の光があるとはいえ周囲はなお薄暗く、夜目が利かない人間の霊夢にはどう景色が変わったのかよくわからない。

 

「……ここが地底?」

「いや、まだじゃないか?」

 

 声が反響している。

 

「おーいアリス、ちょっと光強くしてくれ」

『わかった』

 

 目のライトが一層強くなった人形をむんずと掴んで、魔理沙が周りをぐるりと照らした。ゴツゴツと無骨な岩肌はあいかわらずだが、天井は高く、氷柱めいた形をした岩が霊夢めがけて伸びてきている。入ってきたときはなんてことのないただの洞穴だったのに、随分と立派になってしまったものだ。

 前後左右上下と隈なく調べてみるものの、岩以外のものは見えない。

 

「んー。確か地底って、鬼とかなんとかが都つくってんだろ? それらしいのは見当たらないし、やっぱまだ先だろ」

 

 ため息が出た。

 

「……結構遠いのね。もっと簡単に行けるもんだと思ってたわ」

「あんま簡単に行けたら、興味本位で行くやつとか出てくるだろうしな。遠くてかったるいくらいの方がちょうどいいんだろ」

 

 なんかまともに返された。ちょっと悔しい。

 空間が広がり飛びやすくなった洞穴を、障害物に注意しつつ進んでいく。人生ではじめて見る景色を楽しんだりはしない。それよりもちゃっちゃと異変を解決して、家に帰って宴会をしたりこたつでぬくぬくしたりしたいのだ。

 と。

 

「……?」

 

 妙な気配を感じて霊夢は飛ぶ速度を緩めた。魔理沙が一拍遅れてからそれに合わせ、

 

「どうした?」

「いや……」

 

 気のせいだろうか。

 

「なんか、変な声が聞こえたような……」

「声?」

 

 どちらからともなく通じ合い、霊夢と魔理沙は同時に足を止めて耳を澄ませた。するとやはり、前方の彼方から何者かの声が反響してきているのがわかった。

 だが、この声の響き方はまるで、

 

「なんじゃこりゃ。……歌、か?」

「歌……かしら」

 

 普通に喋っているのとは明らかに違う、一定のリズムを刻んで朗々と響く声。遠すぎるためなにを言っているのかまではわからないが、何度考え直しても歌を歌っているとしか思えなかった。

 声からして一人。

 こんな洞穴の奥深くで。

 唐突に思い出した。

 

「そういえば月見さん……変な釣瓶落としがいるって言ってたわよね」

「……」

 

 こんな薄暗くてじめじめした洞穴で、楽しそうに歌を歌う何者か――『キスメ』の可能性は充分にある。正直嫌な予感がビンビンだったのだが、一本道故に進むしかないので、霊夢たちは諦めて飛行を再開した。

 三十秒くらいだったと思う。

 

「――だーれーかとーめてー♪ だーれーかたすーけてー♪ らんららんららー♪」

「「……」」

 

 霊夢と魔理沙は、聞いたこともない謎の歌を歌いながら右へ左へ振り子運動している桶と出くわした。

 見紛うことなく桶である。ボロっちいロープで洞穴の天井とつながれている。歌を歌っているのは微妙に棒読みな少女の声だが、生き物らしい姿はどこにも見当たらないので、ともすれば桶の付喪神のようにも見える。月見から『キスメ』の話を聞かされていなければ、霊夢と魔理沙もそう判断していただろう。

 天井から一本の縄で頼りなく吊るされる様は、まさしく井戸の水汲みで使われる『釣瓶』である。

 それが「たーすけーてくださーい♪ 見捨てなーいでくださーい♪ るーるるーるるー♪」と歌いながら振り子運動しているのだから、まさしく変な釣瓶である。

 すなわちこれは十中八九、『変な釣瓶落とし』のキスメである。

 霊夢と魔理沙は一瞬のアイコンタクトで通じ合った。――よし、これは見なかったことにして先に進もう。

 が、

 

「呪ってーやるー♪ しこたまー呪……ん? なんだか明るい……ハッ!? 何奴!」

「「ちぃ……っ!」」

 

 そりゃあ、陰陽玉と人形をペカペカ光らせていれば気づかれる。桶の中からぴょこりと顔を出したのは、緑のおさげを揺らした小さな小さな女の子だった。

 うわ中にいたのか、と霊夢は少し驚いた。普通の大きさの桶に頭まですっぽりと入れてしまうくらいなので、少女は本当に小さかった。霊夢でも掌に乗せられるかもしれない。人の姿をしていながらここまで小さい生き物なんて、生まれたての赤子か、妖精くらいしかいないものだと思っていた。

 少女がうわっと呻いて、顔を両手で覆った。

 

「あの、まぶしいのでちょっと暗くしてください」

「あ、ごめん。……天子」

『う、うん……』

 

 薄暗い洞穴で、ひとりぼっちで歌を歌うという少女の奇行に困惑しているのか、天子の返事はやや歯切れが悪かった。

 

「アリス、こっちは消しちまっていいや。だいぶ明るくなってきたし」

『わかった』

 

 陰陽玉が豆電球くらいの明るさになり、目の光らなくなった人形が魔理沙の肩に戻る。

 ――いや待て、おかしい。自分たちはこの釣瓶落としを無視して先に進むはずではなかったか。これでは自ら話をしようと言っているようなものではないか。いやいや待て待て、この釣瓶落としが『キスメ』と百パーセント確定したわけではないし、異変について重要な手掛かりを知っている可能性だって否定できない。無視して進むのは、少し話を聞いてみてからでも大丈夫ではないか。

 少女が桶もろともぶらぶらしながら言う。

 

「人間だ。珍しい。食べていい?」

「シバくわよ」

「いきなりの暴力宣言。最近の人間って凶暴なのね」

 

 ……大丈夫よね?

 魔理沙が顔をしかめて、

 

「おい、人と話するときくらい揺れんのやめろよ」

「とーめーてくださーい♪ じぶーんーではー、とまれなーいのー♪」

「魔理沙、待って。まだ殴るのは早いわ」

「最近の人間ってほんと凶暴……」

 

 笑顔で青筋を浮かせている魔理沙を宥めつつ、霊夢は手っ取り早く本題に切り込むことにした。

 すなわち、この少女は『キスメ』か否か。

 

「あんた、何者?」

 

 振り子運動のまま少女はおでこにピースサインを添え、バチンと元気なウインクを炸裂させた。

 

「地底世界のアイドル、キスメちゃんです☆」

「さあ魔理沙、先を急ぐわよ」

「おっけー」

「ちょっと」

 

 そうだよなあ、と霊夢はため息をついた。薄暗い洞穴で独りでぶらぶら揺れて「たーすけーてくださーい♪」とか歌うヤツが、『変な釣瓶落とし』でないわけないじゃないか。どうして自分は、話すだけ話してみようなんて考えてしまったのだろう。三十秒前の自分を猛省する。

 桶を素通りして先に進もうとすると、背後でキスメが喚いた。

 

「こら待ちなさい、説明を要求します。なんでいきなり私のこと視界から抹消してるの」

「そうしろって月見さんが」

「え、月見? ……もう月見ったら、こんな人間にまで私のこと話したのね。これはデレ期の予感。やはり私のかわいさにかかればあのツンデレ狐もイチコロで――待って待って行かないで。無視しないでツッコんでよこのあんぽんたん」

 

 月見さんったら、こんなのとまで知り合いやってるのね――つくづく、あの狐の心の広さには感心を通り越して呆れるばかりだ。何千年もの年月で培われた彼の処世術には、どうやら『関わりたくないタイプ』という線引きが存在しないらしい。もしくは変な妖怪に好かれやすい体質が災いして、問答無用で寄りつかれているのかもしれないが。

 陰陽玉から天子の声が響いた。

 

『ね、ねえ霊夢……いいの? なんかすごく騒いでるけど』

 

 呪ってやるうううううとキスメがぶんぶん揺れまくっている。霊夢は素っ気なく答える。

 

「いいのよいいのよ。あいつは無視して進んだ方がいいって、月見さんが言ってたでしょ」

『……そっか? それもそうだね』

 

 振った霊夢が言うのもなんだか、こいつあっさり納得しやがった。さすが月見依存症。

 

『明かり、要る?』

「あー……大丈夫よ。もう結構明るいし、目も慣れたし。これならいきなり妖怪が出てきても」

「出てきても?」

 

 すぐ横にいきなり妖怪が出てきたので、霊夢は御幣で五回くらいビシバシぶっ叩いた。

 うずくまってぷるぷるしている妖怪を半目で見下ろし、

 

「――ま、こんな感じでへっちゃらよ」

『なるほど』

「こらああああああああっ!!」

 

 妖怪が飛び跳ねるように勢いよく立ち上がった。魔理沙がすかさず、

 

「なんだ妖怪か! 喰らえ『マスター」

「揃いも揃ってなに出会い頭に問答無用で叩きのめそうとしてくれちゃってんの!? 通り魔か!」

「失礼ね。いきなり襲いかかってきたあんたが言えたセリフじゃないでしょ」

「襲いかかってないんだけど! ただ横から声掛けただけなんだけどっ!」

「まあそういう見方もあるわね」

「それ以外の見方なんてないよ!?」

「なんだ、またやかましいやつが出てきたな」

「一体誰のせいだと!」

 

 薄暗い中でもはっきりとわかる金色の髪を、元気よくポニーテールにした少女だった。具体的な種族まではわからないが、怒るあまり妖気がダダ漏れになっているので、やはり妖怪であるのだけは間違いない。

 後ろからキスメが手を振ってきた。

 

「ヤマメだー。おーいヤマメー」

「……あんた、あの釣瓶落としの知り合い?」

 

 ヤマメと呼ばれた少女は「あ、あー」と歯切れの悪い愛想笑いをして、しばらく悩んでから、

 

「う、うん……まあ」

「「……あ、そう」」

「あーっほら出たよ『こいつも頭おかしいやつじゃないだろうな……』って疑り深い目ッ! キスメの友達やってるとほんとこんなんばっかだよ!」

「「友達……」」

「お願い引かないで!?」

「待ってください、全力で抗議します。私は頭おかしくなんかない、ただちょっとお茶目なだけ。てへ」

 

 今ならわかる、なぜ月見が「無視して先に進め」と助言してくれたのか。霊夢もタイムマシンで過去に遡り、二分前の自分にそう警告してやりたい気分だった。月見さん、やっぱりあなたは正しかったわ。ごめんなさい、約束守れなくて。

 だがまあ、目をつけられてしまったからには仕方ない。どうせだったら異変について尋ねて、少しでも情報を得ておこうと思う。

 

「ねえあんたたち、真面目な質問するから真面目に答えてね。いま幻想郷で突然間欠泉が発生して、地底の妖精が湧いて出てきちゃってんのよ。なにか知らない?」

 

 ヤマメはきょとんと首を傾げた。

 

「なにそれ。知らないよ」

「そう……ならいいわ」

 

 キスメが、

 

「そんなどうでもいいことより月見のお話しよ」

 

 よしさっさと先に進もう。

 と見切りをつけて飛ぼうとするのだが、ヤマメが慌てて前に立ち塞がって、

 

「っとと、待った待った。せっかくだしもうちょっとゆっくりしてきなよ」

「なに、お茶でもご馳走してくれるの? 言っとくけど私は日本茶ね」

「私は紅茶で頼むぜ」

「息するみたいに図々しいねアンタら!?」

 

 うるさいわねさっさとどきなさいこっちは急いでるのよ叩きのめすわよ。そんな苛立ちを込めて睨みつけてやるのだが、反って悪手だったらしく、ヤマメは上等だと言うように笑みを返してきた。

 

「お、いい目だね。……ここってこんな場所だしさ、普段から誰も通らなくて結構退屈なんだよ。人間なんて何十年振りかな」

「引っ越せよ」

「ねえ、人が喋ってるトコにいちいち水差さないでくれる?」

 

 魔理沙が渋々と黙る。ヤマメは咳払いをして、

 

「まあそういうわけで――ちょっと、私の退屈しのぎに付き合ってみない?」

 

 スペルカードを、抜いた。

 弾幕ごっこでやり合おうという、意思表示だった。

 霊夢は頭を掻き、ため息をついた。

 

「……まったく。そんなに叩きのめされたいのかしら」

「勇ましいねえ。いいよ、思いっきりかかってきな」

 

 そして、キスメが、

 

「ふふ、ヤマメ楽しそう。ヤマメったら痛いの結構好きだもんね」

「ごめんやっぱ予定変更。まず三人であいつシメない?」

「妙案ね」「妙案だな」

「えっちょ、」

 

 ふと不安になる。まだ旧都にすら辿り着いていないのにいきなりこんなやつと出会ってしまって、ここから先は大丈夫なのだろうか。ひょっとすると地底の住人とは、どこもかしこもこんな感じの曲者揃いだったりするのではないか。そんな世界に体ひとつで足を踏み入れて、自分は無事異変の黒幕を見つけ出すことができるのだろうか。

 なんだか、今までで一番面倒な異変になるような気がしてきた。その予感が、どうか当たってくれるなと神に祈りつつ。

 

「――ふ、ふふふ、どうやら私はここまでみたいね。でも覚えておいて。この私を倒しても、いつか第二第三の私が必」

 

 絶叫。

 静寂。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ③ 「お前のような中ボスがいるか」

 

 

 

 

 

 例によって遅めの、いつもと違って静かな朝だった。例によって誰も起こしに来てくれず遅めの朝を迎えたさとりは、遅めの朝食を一人で片付け、一人でモーニングコーヒーを飲みながら、一人だけのリビングでいつもと違う静かな朝に身を浸していた。

 地底にも雪が積もった冬の朝は、本当に静かだった。周りに誰もいない。

 もちろん、このリビングだけの話ではある。地霊殿では数多くの動物や妖怪がさとりのペットとして暮らしている。起きてからこの部屋に来るまで何匹かのペットと挨拶をしたし、朝食の準備を手伝ってくれた子もいた。一歩リビングの外に出れば、みんな地霊殿のあちこちで仕事をしていたり、気ままに遊んでいたりするはずである。

 それでも今がこんなにも静かだと感じるのは、さとりにとってもっとも身近な二人の少女――こいしとお燐が、いないからなのだろう。

 こいしがいないのはいつものことだとしても、お燐までいないのは珍しかった。三日くらい前に、一枚の書き置きだけを残して突然いなくなってしまったのだ。とっても大事な用ができたので少し留守にします。ちゃんと帰ってくるから心配しないでね――書き置きの終わりには、かわいらしい黒猫のイラストも添えられていた。あれは、間違いなくお燐の字だったと思う。

 当然なにがあったのかすごく気になったし、ペットたちみんなにも聞いて回った。しかし誰も、「大事な用で出て行った」以上のことを知っている者はいなかった。

 書き置きを残す余裕しかないほど、慌てて出て行ったのか。

 それとも、さとりに心を読まれては『大事な用』がなんであるかバレてしまうから、書き置きを残すことでそれを避けたのか。

 どうあれ、今となってはもう知る術もない。

 

「……はあ」

 

 小さく、ため息をつく。このところ、自分の生活が少し味気なくなっているのを感じる。部屋に引きこもって本を読むか、気ままに筆を執ってみるかの毎日である。こいしがいないのはいつものことだし、お燐だって出て行ってしまったし、そういえばおくうの姿もこの頃は妙に見かけない。

 ひょっとすると『大事な用』なんてのは嘘っぱちで、本当は三人一緒に館の外で遊び呆けているのではないか。すごくありえそうだと思った。「ひきこもりのお姉ちゃんなんかほっといて、遊びに行こうよ!」とこいしが誘ったのかもしれない。それで本当のことを言ったらさとりを除け者にしたみたいで決まりが悪いから、『大事な用』と書き置きして嘘をついたのかもしれない。別にどこでどう遊ぼうが彼女たちの自由だけれど、そう考えるとなんとも胸の奥がもやもやした。

 もっとも、誘われたところでさとりは断っていただろう。

 外は、あまり、好きではない。

 元々インドアが好きな性格だし、ほんのごく一部ではあるけれど、それでも間違いなく旧都の住人が、自分を見てはとてもひどいことを考えているのだと――旧都にやってきてまだ間もなかった頃に、この心を読む力で知ってしまったから。

 だから、外には、出たくない。

 

「……」

 

 ふと、月見さんが遊びに来てくれないかなあ、と考えた。いつも月見を独り占めするこいしがいないから、今日来てくれれば心ゆくまで話ができそうなのに。

 月見は、好きだ。

 無論他意などなく、純粋な知人友人の関係としてである。さとりを見ても、ひどいことを考えないから。藤千代のことももちろん好きだが、彼女は能力を使って心を読めなくしているので、「ひょっとして心の中では私を……」と不安になってしまうときもたまにはある。けれど月見の場合は、すべて心を読んだ上でひどいことは考えていないとわかるので、さとりも安心して話ができるのだ。あんなに裏表のない心を持った人が本当にいるだなんて、正直今でも、頭のどこか片隅では不思議に思っている。彼はとても不思議な人だ。

 ……まあその分、しばしばいじわるなことを考えてさとりを慌てさせてくるのは困りものだけれど。あ、やっぱり裏表のない心と言ったのは撤回しよう。彼はとてもいじわるな人だ。

 

「……ふふ」

 

 気がつけば、さとりは小さく笑みをこぼしていた。それから、そんな自分に気づいてもう一度笑った。

 自分がこんな風に、家族以外の誰かのことを考えて、笑ったりするだなんて。

 

「……」

 

 けれど、その小さな笑みもほどなくして鳴りをひそめる。月見のことを考えていたら、引っ張られるようにおくうの姿まで脳裏を過ぎったからだ。

 月見がはじめて地霊殿を訪れてからもう半年近くになるが、未だにおくうは月見を拒絶し続けている。月見が地上の妖怪だから、というのももちろんある。しかしそれ以上に、おくうは月見に対して嫉妬しているのだ。

 藤千代は同じ地底の妖怪だし、同じ女でもあるから、まあいい。

 だが月見は地上の妖怪で、しかも男で、そんなやつがこいしやお燐とどんどん仲良くなっていくのはとんと気に入らない。だから月見が地霊殿を訪れ、こいしたちと仲を深めれば深めるほど、おくうは月見に対し心を閉ざしてしまう。

 この男はいずれ、自分の大切なものをみんなみんな奪っていってしまうのではないか。

 こいしもお燐も、そしてさとりも、いつか自分のことを見てくれなくなってしまうのではないか。

 そう嫉妬し、怯えているのだ。

 そんなことはない、みんなおくうを大切に想っている――口ではそう伝えたが、果たしてどれほど効果があったのか。

 

「…………」

 

 いつか、いいタイミングが巡ってくるものだと月見は言った。

 では逆に、一体どんなタイミングが巡ってくれば、月見がおくうに認めてもらえるというのだろう。半年間変わらずに横たわっている崖のように深い隔たりを、埋められる日がやってくるというのだろう。

 

「まったくもう……まさか、おくうがここまで強情になるなんて」

 

 月見はきっとおくうを気難しい性格だと思っているだろうが、彼女は本当はとても心優しい少女なのだ。さとりやこいしの前ではいつも元気で、笑顔で、ちょっと抜けているところもあるけれど、見ているこっちまで笑顔になるくらいの思いやりにあふれた女の子なのだ。正直、もう何度もこの目で見ているのに、おくうが月見を嫌っているのはなにかの間違いではないかと思ってしまうことがある。あんなに優しい子がどうして、という思いは心の片隅でくすぶり続けている。

 いつか必ず上手く行くようになるはずだと、信じてはいるけれど。

 ならそれは、一体いつ。

 

「……はあ」

 

 ため息、ひとつ。こいしは放浪したまま戻ってこず、お燐は大事な用事で帰ってこず、おくうはこのところ顔を見せてくれない。一人で物思いに耽れば、広がるのはいつも決まって、秋の頃から変わらない悩みの種。

 今日も、退屈な一日になりそうだ。

 ミルクに砂糖まで入れたコーヒーが、やけに苦い。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――いててててて。もぉー、そんなムキになんなくてもいいじゃん。大人げないー」

「なってないわよ。言ったでしょ、叩きのめすって。かかってこいって言ったのもあんたよ」

「そりゃそうだけどさー……」

 

 闘いは、一分十六秒で終わった。

 一分と十六秒でヤマメを下した霊夢は、不完全燃焼の闘気をため息に変えて吐き出した。

 まさかここまで圧勝できるとは、さしもの霊夢自身も思っていなかった。ヤマメが弱かった、わけではない。たぶん、自惚れるようだけれど、霊夢の方が強くなったのだと思う。

 もちろんこれは弾幕ごっこだし、この決闘方式であれば昔から大妖怪にも負けない自信があった。今までの自分であっても、この少女にはなんの問題もなく勝てていただろう。ただそれでも、二分以上の時間は掛かっていたはずだけれど。

 考えるよりも早い反応速度で、体が自然に動いていた。自分の体はここまで効率的に動けたのかと、自分でつい感心してしまったほどに。ヤマメが懸命に放った数々の弾幕は、最初から最後まで、霊夢の服にも髪にも掠ることすらなく消えていった。

 夏以来続けてきた修行の成果を、今日になってようやく目に見える形で実感した。なにか具体的な指導をしてもらったわけではないけれど、月見と何度も何度も手合わせをして、最近では萃香にも相手をしてもらったりして、知らず識らずのうちに体が動き方を覚えていたのだ。それに、大妖怪独特の妖気に触れ慣れたお陰で、ヤマメの弾幕からちっともプレッシャーを感じなかった。恐怖や緊張は筋肉の動きを鈍らせる。ちっとも怖くなかった、から、体がのびのびと動いた。

 うーん、と陰陽玉が小声で唸った。

 

『さすが霊夢だなー。私なんかよりぜんぜん上手……』

 

 天子。

 ふと、考える。これくらいの実力がかつての自分にもあれば、天子の体にあんな大きな傷痕が残ることもなかったのだろうか。

 本人はなんてことのないふりをして笑っているけれど、霊夢は知っている。天子は、自分の肩から腰にかけて走るあの傷痕を、半端ではないくらいに強く気にしている。だから神社でお泊り会をするとき、天子はいつも霊夢と別々で風呂に入るし、霊夢が知る限り水月苑の温泉にだって入っていない。

 当然だと思う。もし同じ傷痕が自分の体にあったなら、やっぱり女としてかなり気になってしまうと思う。だからこそ、あれからもう半年近くが経とうとしている今となっても、「もし」という言葉を繰り返さずにはおれない。それがたとえ、なんの意味もない逃避だとしても。

 

「よう霊夢、随分と絶好調だったじゃないか」

 

 掛けられた魔理沙の声で、霊夢は思考の渦から引き上げられた。じゃんけんに負け、今回は大人しく観戦していた魔理沙が隣に並んでいた。霊夢はそっと笑って返す。

 

「そうね。自分でも上手く行ったと思うわ」

「むう……負けてられないなこりゃ。霊夢、次の敵は私が相手するからな」

「はいはい」

 

 ヤマメが、傷んだ服の見栄えを少しでもよくしようと両手で奮闘している。

 

「うー、まさかここまで力の差があるなんて……。あんた何者? ただの巫女さんじゃないよね」

 

 しかし煤けた服は一向に綺麗にならない。霊夢は緩く息を吐いて答える。

 

「……博麗の巫女よ。地底の妖精が湧いて出てきてるって話はしたでしょ? 今からその原因を調べに行くところ」

「ふーん……間欠泉に妖精ねえ。なにが起こってるんだか」

 

 ヤマメは間違いなく無関係であろう。彼女には、わざわざ博麗神社の周辺で間欠泉を起こす理由がない。間欠泉の原理がどうなっているのかなんてさっぱりだが、もしヤマメが犯人であるなら、距離からいってそれこそ温泉が湧いている水月苑を標的にするのではないか。加えてそもそもの話、彼女に間欠泉を起こせるほどの力があるとも思えない。

 

「誰か、事情を知ってそうなやつに心当たりはない?」

 

 ヤマメはうーんと腕を組み、

 

「地底のことだったら、とりあえず鬼子母神様じゃない? よく知らないけど」

 

 それは、霊夢もなんとなく考えてはいた。鬼子母神は地底の代表的立場で、旧都の四方山話(よもやまばなし)にも通じているだろうから、遅かれ早かれ当たることになるのだろうかと。

 ただ、あまり気乗りはしない。地上で出会うのは主に水月苑だが、実をいえば霊夢は、鬼子母神とも呼ばれるあの鬼の少女がいかんせん苦手だった。なんというか、得体の知れない感じがして気味が悪いのだ。萃香とそう大差ない子どもの姿で、子どもっぽい喋り方をして、子どもみたいに元気いっぱいで、なのにひと目見ただけで一発でヤバいやつだとわかる。紫すら顔面蒼白で白旗を挙げるその狂気じみた実力に、やんわりとした微笑みひとつを被せて蓋をしている。あの鬼ほど、腹の底でなにを考えているのか想像できない妖怪はいないと思う。背丈自体は霊夢よりも下なのに、向かい合って話をするとまるで途方もない巨人に見下ろされているような気がして、自分など指で弾けば消し飛ぶ他愛もない一生命でしかないような気がして、だから霊夢は彼女が苦手なのだ。

 悪い妖怪ではない――どころか、月見と敵対しない限りは優しい妖怪なのだと、わかってはいるけれど。

 

「ちなみに鬼子母神サマって、地底のどのへんにいるのかしら」

「え? そんなの知らない」

 

 役に立たないやつめ。

 魔理沙が横から、

 

「それだったら、月見が知ってるんじゃないか?」

「ああ、それもそうね。天子、ちょっと訊いてきてくれる?」

『うん。ちょっと待ってて』

 

 突然聞こえた姿なき声に、ヤマメが目を丸くした。

 

「え、なに今の声」

「教えない。さて急ぎましょ魔理沙、まだ旧都にすら着いてないもの」

「おー」

 

 ヤマメは「えっ行っちゃうの?」という顔をしたが、弾幕ごっこで完敗した手前、特に霊夢たちを引き止めることもしなかった。ただ、その姿が薄闇の向こうに紛れて見えなくなった頃に、「旧都ならここを出てまっすぐだからねー」と声が反響してきた。

 案外、いい妖怪だったのかもしれない。あんなやつ(キスメ)の友達だという割に。

 

 

 

「……ほ、放置ぷれいは……ひどいと思います……。がくり」

「あんたはいい加減反省しろ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 天子から報告があったのは、ちょうど出口の薄い光を眼前に捉えた頃だった。

 生憎、月見も鬼子母神の居場所は知らなかったようだ。寝床として使っている家は知っているが、文字通りの寝床扱いなので寝るとき以外は帰らず、普段は旧都のあちこちを歩き回っているらしい。なんだか月見みたいなやつである。

 みんなでサバイバル雪合戦してて盛り上がってたよ、と訊いてもいないことまで天子は教えてくれた。雪球を当てれば勝ち、当てられれば負け、それ以外のルールは無用の手に汗握る本格的雪合戦だという。

 だから訊いてないってば――と口を衝いて出そうになって、霊夢はギリギリのところで思い留まった。天子のことだから、そう言われたら最後「そ、そうだよね……ごめん……」とこの世の終わりみたいに落ち込みかねない。比那名居天子は小動物並みに打たれ弱いのだ。

 そうこうしているうちに、洞穴を抜けていた。

 人生初の地底世界がいっぱいに広がる。しかしこれといった感動があるわけでもなく、霊夢は表情を変えず、飛ぶ速度を緩めもせず、ふーんと右から左を見回してまた前を見た。

 その横で魔理沙は、珍しくショックを受けたような顔をしていた。

 

「な、なんか思ってたのと違う……」

「どんなの想像してたの?」

「もっとこう……壮大っていうか荘厳っていうか……石でできたすごい建物とかあって……」

 

 太陽のない世界で、味気のない真っ平らな大地がどこまでも広がっている。ところどころに骸骨めいた細い木が散見されるが、どれも葉を一枚もつけていないのは今が冬だからなのか、それとも枯れてしまっているからなのか。これが緑豊かな幻想郷から多少飛ぶ程度で来られる場所にある世界なのかと、逆に舌を巻かされてしまうくらいの寂しさだった。壮大の「そ」の字も見当たらない。そんな中でもさらさらと響いてくる川の音と、なぜか積もっている真っ白な雪が随分と不釣り合いだった。

 

「こんなもんなんじゃないの。だってここ、もともと地獄だった場所なんでしょ?」

 

 故に別名、旧地獄ともいうらしい。地獄なんて行ったことがないし行く予定もないので知らないが、きっとこんな感じの荒れ果てた世界なのだろうと思う。

 

「それより、地底にも雪が降るのね。そっちの方がびっくりだわ」

「うん……そうだな……」

 

 魔理沙の反応は心ここにあらずである。霊夢は割とすんなり受け入れたが、魔理沙は未だ思い描いていた地底の姿に未練タラタラらしく、「私の浪漫が……本の読みすぎなのか……?」と陰気くさく呟いていた。

 鼻で笑ってふと下を見たところで、気づいた。

 

「あら、誰かいるわ」

 

 洞穴から続く道が小川で寸断されていて、旧都へ至る関所とするかの如く一本の反橋が架けられている。その橋の中ほどで、ヤマメに続いてまたも金髪の少女が欄干に頬杖をついて佇んでいた。

 ようやく正気に返ってきた魔理沙が、

 

「一応、聞き込みするだけしてみるか?」

「そうね」

 

 月見が注意しろと教えてくれたのは、あの釣瓶落としただ一人。すなわちそれ以外は、少なくともちゃんとした会話が成立する妖怪である……はずだ。たぶん。

 こちらに気づいてもらえるよう、わざとわかりやすい音を立てて橋に降り立つ。その瞬間、少女がぱっと振り向いて、

 

「月、――……誰よあなたたち」

「「……」」

 

 なんだか、今の反応でもうだいたいわかってしまった。魔理沙が半目で、

 

「悪かったな、月見じゃなくて」

「は、はあっ!? なんでそうなるのよ! 別に月見が来たとか勘違いしてないし! そろそろあいつが来る頃とか考えてたわけじゃないし! 楽しみになんてしてないしっ!」

 

 陰陽玉から天子が『むむむ……』と唸り声をあげた。それがどういう意味なのかはこの際置いておく。

 少女はのっけからキレ気味である。

 

「ってか、なんで人間がこんなところまで来てるのよ! 立ち入り禁止だって知らないの!? バカなの!? しぬの!?」

「ねえ、ちょっと訊きたいことがあるだけだから落ち着いてくれない?」

 

 地底とは、鬼を筆頭に、地上で住む場所を失った妖怪たちが移り住んだ世界であるという。だから血の気の多い荒くれ者が多かったりするんだろうなあと思っていたのだが、この少女を見ている限り地上とあまり変わらないような気がしてきた。

 少女の暴走がピタリと止まる。

 

「な、なによ……」

「いま地上で間欠泉がいくつも発生して、そこから地底の妖精が湧いて出てきてるのよ。なにか知らない?」

「? ……なにそれ」

 

 まあ、はじめから期待はしていなかった。

 

「知らないならいいのよ。それじゃあね」

「ちょ、ちょっと待ちなさい!」

 

 魔理沙に目配せし飛び立とうとしたところで、また少女が噛みついてきて、

 

「ここは地上の人間立ち入り禁止だって言ってるでしょ!? あとあなたたち月見の知り合いなの!?」

 

 ひとつ目には霊夢が答え、ふたつ目には魔理沙が答えた。

 

「緊急事態だからいいのよ。それに、天魔サマの許可はもらったわ」

「月見とは、まあよく家でお茶をご馳走してもらう仲だな」

 

 それを聞いた少女の顔つきから色が消え、俯くと、人が変わったような低音でぶつぶつと独り言を言い始めた。よく聞こえないし聞こうとも思わないが、「やっぱり私以外にも……友達……家でお茶……妬ましい妬ましいネタマシイ……」とか呟いている。

 あまり近づかない方がよさそうだ。陰陽玉からは最後まで、『むむう……』と複雑そうな天子の声がこぼれていた。

 前を見る。「旧都へはまっすぐ」というヤマメの言葉通り、少し離れたところで朧な街の灯火が揺れている。少女はぶつぶつと呪詛を呟く作業から戻ってこず、一応「それじゃあね」と簡単な挨拶を残してみたものの、特に返事らしい返事も返ってこなかった。

 馬鹿のようにまっすぐ空を飛んで、霊夢と魔理沙はやっとこさ旧都に辿り着いた。地上を出発してからそう時間は経っていないはずなのに、まるで大きな山ひとつを越えてきたような気がしてならないのは、やっぱりあの釣瓶落としのせいなのだろう。

 地底の殺風景な雪景色も、ここまでやってくればだいぶ変わった。思っていたよりもずっと素朴な町並みだった。通りに沿って家屋が並ぶ様は人里に似ているが、活気に満ちているわけではなく、その代わり妖怪の都らしく淡く幽玄な印象を受ける。軒先から下げられた釣行灯が朧な光の行列を織り成しており、まさしく百鬼夜行、もしくは狐の嫁入りの如くである。なかなか嫌いな雰囲気ではなかったので、霊夢はほうと感心の一声をこぼした。

 

「ここだけ見れば、案外悪くない場所じゃない」

「そうだな。……ほぉー、結構好きな雰囲気かも」

 

 魔理沙も、やっとお気に召す景色が見られて上機嫌だった。一方で天子はあまり好みでないらしく、

 

『わ、私はちょっと苦手かも……。なんだかオバケとか出てきそう……』

 

 まあ、妖怪もオバケも似たようなものだ。

 

『アリスは?』

『えっと……私もそんなに、嫌いではない……かな』

『えーっ……』

「仕方ないわねー、天子ってかなりビビリだし。この前私の神社泊まったときも、土間から変な音がするってんで夜中に泣きついてきたわよね。結局タヌキってオチだったけど」

『あ、あれはぁっ! ……ほ、ほら、姿が見えないのってすごく怖いし! そういうところから昔はいろんな妖怪が生まれたんだよ!?」

「そうねー、怖いわねー」

「怖いなー、泣いちゃうなー」

『……ぐすっ』

 

 まあ、天子いじりはこれくらいにして。

 魔理沙が言った。

 

「で?」

「?」

「いや、いつまでもこんなとこに隠れてないで早く行こうぜ」

 

 今更だが霊夢と魔理沙は、通りから離れた民家の物陰にこそこそと身を隠している。なんでこんな真似をしているかといえば、

 

「まあ待ちなさい、なにも考えないで出てって喧嘩売られたらどうすんのよ。要らない面倒は避けるべきだわ」

「返り討ちにしてやればいいじゃんか。おっそうだ、次は私がやる番だからな」

「あっそうじゃあ好きになさい。一応言っとくけど、道歩いてる妖怪みんなから絡まれても私は助けないからー」

 

 魔理沙がキリッとした顔で清々しく掌を返した。

 

「ただ突っ込めばいいってもんじゃないよな。時には無駄な争いを避けるのも大切だ」

「遠慮することないわよほら行ってきなさいほらほら」

「ごめんなさい調子乗りました」

 

 よろしい。

 

「……でも確かに、いつまでもこんなとこにいるわけにはいかないのよね。どうしよっか」

 

 通りを堂々と歩くのは論外としても、かといってこそこそ隠れていたら見つかったとき余計に怪しまれそうだ。第一それじゃあ聞き込みができず、異変の手掛かりも鬼子母神の居場所も掴めない。人に頼らず自力で捜すという選択肢もあるが、そんなことをしていたら日が暮れてしまいそうだし。

 

「月見の知り合いって言えば大丈夫なんじゃないか? どうせこのへん歩いてるやつらとも顔見知りだったりするんだろうし」

「……なんか、困ったらとりあえず月見さんって感じになってきてるわね。天子じゃあるまいし……」

『れーいむー?』

 

 肩を竦めるように、ため息ひとつ。

 

「なんかいい方法ないかしら。正直、あんま月見さんには頼りたくないのよねー」

 

 いきなりだった。

 

「――おっ、なになに? もしかしてあんたたち、月見の知り合いなのかい?」

「「……!」」

 

 上だ。

 霊夢と魔理沙は稲妻のように反応した。声の出処が向かいの家の屋根だと一瞬で弾き出し、片や札を抜き片やミニ八卦炉を構える。

 鬼がいた。

 

「おっ、なかなか悪くない反応だね。ふうん、平和ボケしたただの人間じゃあないのかな?」

 

 屋根の傾斜に胡座をかいて座り込み、巨大な盃で酒を呑んでいた。

 

「「……っ!」」

 

 一発で只者ではないとわかった。そんじょそこらの妖怪とは文字通り桁が違う。恐らくは伊吹萃香とほぼ同格の鬼であり、間違いなく大妖怪と呼ばれるに足る、幻想郷でもほんの一握りだけの強者である。

 来やがった、と思った。そりゃあここは、規模でいえば幻想郷に次ぐ第二の妖怪の楽園なのだ。鬼子母神を抜きにしても大妖怪の一匹や二匹はいるだろうし、異変を解決する中でそういった連中と出会ったり、目をつけられてしまったりしてもおかしくないと警戒していた。

 しかし、まさか、旧都に入っていきなり来るとは。

 額からすらりと鋭利な一本角を生やした鬼である。またもや金髪である。話は逸れるが、幻想郷で自分たち黒髪勢の次に多いのは魔理沙たち金髪勢だと霊夢は思っている。魔理沙に紫に藍と、霊夢の周りの腐れ縁というのは皆おしなべて金髪だ。今回手伝ってくれているアリスだってそうだし、水月苑でちらほら姿を見かけるフランとルーミアもそうだし、秋の豊穣の神様だってそうだし、そういえば守矢神社にも金髪の神様がいる。その次に多いのは、月見たち銀髪勢だろうか。

 閑話休題。

 

「ここで人間を見るのなんて、何年振りだろうねえ」

 

 鬼の浮かべる笑みは好意的に見えるが、霊夢は気を抜かず様子を窺う。

 

「どちらさま?」

「いやそれこっちのセリフ。一体どうしたのさ、人間がこんなところまで」

 

 事の経緯を説明すると、今までと似たような反応が返ってきた。

 

「はあ、間欠泉に妖精? なんだいそりゃ」

「その『なんだいそりゃ』を調べるために来たのよ。……そうだ、藤千代ならなにか知ってるんじゃないかと思ってるんだけど、どこにいるか知らない?」

「藤千代なら、なんかさっきそのへんにいたよ」

「そのへんってどのへんよ」

「そのへん」

 

 役に立たないやつめ。鬼はこういうところでテキトーだから困る。

 

「呼べば来るんじゃないかな。――おーい、藤千代ーっ!!」

 

 鬼が腹いっぱいに息を吸い込み、女の見た目からは想像もできない大声を張り上げた。霊夢と魔理沙が思わず顔をしかめるほどのやかましさだった。旧都中に藤千代の名がわんわんと鳴り響いて、ほどなくして元気な返事が返ってくる。

 

「――はーぁいーっ! 勇儀さんですかー!? どうかしましたかー!?」

 

 声の聞こえ方からして、だいぶ離れたところにいるようだ。少なくとも霊夢の感覚では「そのへん」ではない。

 鬼がまた大声で、

 

「ちょっと来てーっ! あんたに用があるってやつがいるよーっ!!」

「ちょっと待っててくださーいっ!」

 

 静かになった。勇儀と呼ばれた鬼が大皿みたいな盃をゆっくり傾け、遠目でもはっきりわかるほど惜しみなく喉を鳴らし、ぷはーっと一気に呼気を飛ばした。

 

「もうすぐ来ると思うから、そこで待ってな」

「……悪いわね。助かったわ」

 

 どうやら、彼女は話のわかる鬼のようだ。霊夢が構えを解いて札をしまうと、少し遅れてから魔理沙もミニ八卦炉を下ろした。

 鬼がにっと笑い、

 

「あんたら、月見の知り合いなんでしょ? だったら悪いようにはしないさ、特別に目ぇつむったげる」

 

 霊夢は興味本位で、

 

「……ちなみに、私たちが月見さんの知り合いじゃなかったらどうなってたのかしら」

「んー、適当にシメてふんじばっとくかな。だってここ、人間立ち入り禁止だし」

 

 地上で妖精たちの子守りをしているだけの月見が、この場におらずして異変解決の最大の協力者となりつつある。

 

「ねえねえ、ちょっと訊きたいんだけど」

 

 鬼が盃を膝の上に置き、身を乗り出して霊夢たちを覗き込んだ。

 

「月見の屋敷って今どうなってる? かなりでっかく造ったからさあ、庭とかもう荒れ放題になってたりしない?」

 

 そういえば水月苑は、紫が鬼やら天狗やら河童やらの総力を結集させて造らせた力作だったか。萃香の話では、完成記念の宴会が華々しく執り行われ、酒を呑み過ぎて酔った月見が狐の姿で眠ったとか。ちょっと見てみたかった。

 なんて脱線しているうちに、魔理沙が答えていた。

 

「綺麗なもんだぜ? 掃除とか、いろんなやつが手伝ってるみたいだしな」

 

 鬼が大口を開けて豪快に笑った。

 

「あっははは、やっぱりそうなんだ! 手伝ってるのって何人くらいいるの?」

「えっと……」

 

 魔理沙が指を折りながら考え始める。霊夢も頭の中で数えてみる。屋敷の家事は主に藍と咲夜と天子と映姫と藤千代、庭の手入れは妖夢と幽香、たまに手伝っているのが早苗に志弦に橙にわかさぎ姫……、

 

「……十人くらいいる?」

「いるっぽいな」

「あっははは! なるほど、そりゃあ藤千代も大変なわけだ!」

「そうなんですよねー。みんな揃って同じこと考えてるので、私の通い妻作戦が没個性気味といいますかー……」

 

 ビクッとした。

 横に藤千代が立っていた。さもはじめからそこにいたかのように、なんてことのない顔で。

 

「うお!? お、お前、いつの間に」

「え? 普通に走ってきただけですけど……」

 

 その割には足音ひとつしなかったが。普通ってなんだっけ、とこの鬼の少女を見ているといつも思わされる。この少女が言う『普通』は、霊夢たち基準で翻訳すれば『規格外』に相当する。

 

「まあまあ、そんなことは置いておいて。誰かと思えば、霊夢さんと魔理沙さんだったんですね。一体どうしたんですか?」

「実は……」

 

 いちいち事情を話すのがそろそろ面倒になってきたが、霊夢は頑張って説明した。藤千代なら大なり小なりなにかしらの情報は知っているはずだから、これが最後の手間になることを祈って。

 

「――というわけなのよ」

「ほほう、異変ですかー」

 

 藤千代は殊勝に頷いた。それから眉を下げ、

 

「ごめんなさい、地上の皆さんにご迷惑をお掛けしてしまって。旧都の代表として謝罪します」

「え……いや、」

 

 まさかここで謝られるとは思っていなかったので、霊夢は面食らった。

 

「別にいいけど。一番大変なのは、たぶん妖精の子守りしてる月見さんだし」

「これは、あとで月見くんにお詫びとお礼をしなければですねっ」

 

 なぜそこで目をきらきら輝かせるのか、霊夢は敢えて追及しなかった。

 魔理沙が、

 

「ってか、そう言うってことはまさかお前が黒幕なのか?」

「あ、いえ。それは違いますよー」

 

 魔理沙がほっと胸を撫で下ろす。こいつと闘うなんて弾幕ごっこでも御免だ、と顔にはっきり書いてある。

 今度は霊夢が問う。

 

「なら誰が?」

「それは……」

 

 答えようとして、藤千代は咄嗟に口を噤んだ。ほんの束の間なにかを真剣に考え、魔理沙を見て、続けて霊夢を見て、

 

「……ちなみに話は逸れますけど、もし異変解決を邪魔する意地悪な妖怪さんがいたら、お二方はどうするんですか?」

「はあ? そんなの、スペルカードルールに則って叩きのめすに決まって――」

 

 致命的な失言をした直感。

 気づいたときには、完膚なきまでに手遅れだった。

 

「さあ霊夢さんっ魔理沙さんっ! 異変の情報がほしければ、見事私を打ち破ってみせなさい!」

「「……」」

 

 霊夢と魔理沙は沈黙した。お互いを見つめ合い、言葉にならない痛切な心を顔いっぱいに表現しながら、どうしようもないほど沈黙した。藤千代だけが、ふんすっとやる気満々で目を輝かせていた。

 やがて霊夢の方から、

 

「……ほら魔理沙、出番よ? 次は自分がやるんだって意気込んでたわよね? 遠慮することないわ」

「あ、あー、そっそうだったかなー? この頃ちょーっと物忘れが激しくて。そっそれより、今日弾幕ごっこ絶好調な霊夢サンの方が適任じゃないかなー?」

 

 魔理沙が冷や汗をびっしりかいている。自分も笑顔がひきつっているはずだ。霊夢だって、こんな化け物少女と闘うのはたとえ弾幕ごっこでも御免なのである。

 

「いやーほら、私、さっきのでちょっと疲れちゃったし。ここはやっぱり、体力の有り余ってる魔理沙の方が」

「いやいや、やっぱ異変解決は博麗の巫女の役目だしなっ。部外者は身の程弁えて観戦してるぜ」

「あの、面倒なので二人まとめてかかってきていいですよ?」

「「…………」」

 

 やめてくださいしんでしまいます。

 

「で、でもほら? スペルカードルール的に二対一ってのは」

 

 なんとかこの場を切り抜けようと口走ったこれが、またもやどうしようもない命取りになった。

 

「――んじゃあ、私と藤千代が相手ならちょうど二対二で問題ないよね?」

 

 鬼だった。盃の酒をこぼすこともなく颯爽と屋根から跳躍し、霊夢と魔理沙を間に挟んで藤千代と向かい合う形で着地した。

 挟み撃ちである。

 要するに、「逃げられると思ってんの?」という言外の包囲網である。

 霊夢と魔理沙はますます沈黙し、藤千代がぐっと親指を立てた。

 

「さすが勇儀さんです! これならなにも問題ないですね!」

「ふふふ、任せといてよ」

「「………………」」

 

 間違いなく大妖怪と思われる鬼と、鬼子母神が同時に相手。

 ――あれ? これもしかして詰んだ? 私たちここでげーむおーばー?

 

『ひええ……』

 

 陰陽玉の向こうで、天子も震え上がっている。

 

『……これが日頃の行いってやつね。ご愁傷様だわ』

 

 おいアリス。

 もちろん、これからやるのは弾幕ごっこであり、人間と妖怪が対等な立場で闘うための決闘方式である。いくら規格外が標準装備の藤千代であろうとも、弾幕ごっこであれば霊夢でも対等に渡り合えるはずだ。しかし一方で、たとえ弾幕ごっこであっても、彼女が『普通』であるなどありえるのかと疑問に思う自分がいるのも事実だった。同じことを考えているから、魔理沙だってなんだか泣きそうになっているわけで。

 

「大丈夫ですよお二方、ちゃんと加減はしますからっ」

 

 いま霊夢は、この世で最も信用できない言葉を聞いた。

 

「異変の黒幕と闘う前の、まあ中ボスみたいなものだと思って気軽にかかってきてください!」

 

 嗚呼。霊夢はいま、心の底から訴えたい。幻想郷で最も多くの異変を解決に導いた人間として、腹の底から叫びたい。

 今まで数々の『ボス』と闘ってきたが。

 

「――それじゃあ、始めましょうか?」

 

 お前のような中ボスがいてたまるか、ちくしょうめ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見が廊下を歩いていると、茶の間の方から「だっ大丈夫っ、霊夢なら絶対勝てるよ! ……ほ、本当だってば! 諦めちゃダメっ! 心の負けが本当の負けだよ!?」と天子のやけに必死な声援が聞こえた。霊夢の危機を感じさせる緊迫したものではなく、例えば絶対闘いたくないヤツと闘う羽目になってしまって痙攣する霊夢を頑張って元気づけようとするような、そんな一生懸命な応援だった。

 ひょっとすると、藤千代に喧嘩(だんまくごっこ)でもけしかけられたのかもしれない。だったらご愁傷様としか言い様がない。たとえ妖怪と人間の能力差を画一化するスペルカードルールであっても、あいつが『普通』であるなど天地がひっくり返ってもありえないのだから。

 今すぐ助けが必要な緊急事態というわけでもなさそうなので、月見は自分の仕事を優先した。水月苑の広く長い廊下を進み、曲がり、更に進んで、やがて辿り着いた戸をがらりと大きく開け放った。

 

「ほら、ここだよ」

「「「おおーっ!」」」

 

 後ろをちょこちょこくっついてきていた妖精たちが、身を乗り出して一斉にどよめいた。

 ……まあ、別に大それたものを見せたわけでもなく、ただの温泉の脱衣所なのだけれど。壁際に整然と並ぶ棚と脱衣カゴの隊列だけで、彼女たちを楽しませるには充分であったらしい。

 言うまでもなく、水月苑の温泉である。

 なぜここにやってきたか。その理由が、わいわいはしゃいでいる妖精たちの後ろにいる二人の少女であり、

 

「「がたがたがたがたがたがたがたがた……」」

 

 すなわち、雪合戦で何度も雪まみれになったせいで、すっかり凍えてしまった響子とにとりである。

 雪球を当てれば勝ち、当てられれば負け――たったそれだけのルールで行われた雪合戦は熾烈なものだった。徒党を組んだ妖精たちの集中砲火によって、彼女たちは情け容赦なく袋叩きにされてしまったのだ。更に、まるで無慈悲なわかさぎびーむも炸裂した。お陰で服の中にさんざ雪が入ってしまい、一刻も早く温泉に入らねば凍死しそうな有り様なのだった。

 月見も、いくらか雪球をもらって服が濡れてしまった。こいつらを温泉に叩き込んだら乾かそうと思う。

 さっそく突撃しようとした妖精数匹を尻尾で押し潰し、

 

「さてお前たち、よく聞け」

 

 あーずるーい! と他の妖精どもが尻尾に殺到しようとする。

 

「聞け。じゃないと温泉はなしだ」

 

 みんな気をつけをした。別にこいつらに限った話ではなく、妖精という生き物はモノで釣ると総じて扱いやすい。

 

「お前たちが守らないといけないルールは四つだ。一、脱いだ服はちゃんとカゴに入れること。二、みんなで仲良く入浴すること。三、風呂場は汚さないこと。四、あがったらちゃんと体を拭いてから服を着ること。わかったか?」

 

 みんな元気に返事をし、押し潰されている数匹は足をぱたぱたさせた。

 

「「「はーい!」」」

「よーしはいって言ったな。じゃあそこで震えてるお姉さんたちに、ルールを破ったやつがいないかあとで教えてもらうからな。もし嘘ついて好き勝手したやつは――」

 

 月見は一拍置き、

 

「――風呂あがりのおやつは抜きだ」

「「「えーっ!!」」」

 

 途端に噴出したブーイングの嵐を無視し、掃き掃除をする要領で妖精たちを次々脱衣所へ叩き込む。そうしてしまえばあとは純粋で単純な彼女たちのことであり、すぐさま興味の対象をおやつから温泉にシフトして、脱衣所のあちらこちらへ元気に散らばっていった。

 と。

 

「……ん? お前は行かないのか?」

「んー……」

 

 がたがたしている響子とにとりの傍に、一匹だけ大変おとなしい妖精がいた。他の仲間たちのようにはしゃいだり騒いだりせず、なにやら真剣な顔つきで月見を見上げている。

 

「あれー、ひーちゃんどうしたのー?」

 

 脱衣所の方で何匹かの仲間が首を傾げている。それ以外の連中は戸が開きっぱなしなのも構わずさっさと服を脱ぎ始めており、とりあえず月見は、うんうん唸る『ひーちゃん』だけに視線を集中させた。

 

「どうした?」

「うん……」

 

 ひーちゃんは少し考えて、

 

「なんだか……だいじなことわすれてる気がする」

「大事なこと?」

「うん……なんだろ、なにか言わなきゃいけないことがあった……ような。そのためにわたしたちはここに来た……ような」

 

 首を右にひねり左にひねり、頭の上で絶え間なく疑問符を量産する。けれど最終的にはにぱっと笑って、

 

「やっぱりわすれたー」

「はいはい、じゃあとりあえず温泉に入っておいて。そのうち思い出すだろう」

「そうするー」

 

 ひーちゃんがとてとてと脱衣所に走っていく。振り向きはしない。「あー、るーちゃんくまさんぱんつだー」とか言っている。さすがは妖精、恥を知らない。

 吐息。響子とにとりを見て、

 

「お前たちも、ゆっくりしておいで」

「「がたがたがたがた……」」

「……おーい、お前たち?」

「「がたがたがたがたがたがたがたがた……」」

 

 月見は尻尾で二人の頭をぺしぺし叩いた。

 

「ハッ……月見!? ……あれ、ここどこ!?」

「私たち確か、外で雪合戦してて……あれ、なんだか記憶が……」

「うん。お前たち、一刻も早く温まってこい」

 

 結構ヤバい状態だった。やはり、脳天にわかさぎびーむを受けたのがまずかったのだろうか。

 と、

 

「――狐のおにーさ――――――――ん!!」

「うわ――――――――っ!?」

 

 背後からひーちゃんの声が聞こえて、血相を変えた響子がものすごい勢いで脱衣所に吹っ飛んでいった。ひーちゃんにタックルをしたと思しき音、

 

「うぎゅ!? なにするのーっ!?」

「そういう君はなにしてるの!? つつつっ月見さん、絶対に振り返っちゃダメだからね!?」

「……」

 

 なんとなくわかってしまった。にとりがマジな目つきで月見を見上げており、

 

「月見、言う通りにしないとダメだよ。あの妖精、冗談抜きですっぽんぽんで飛び出してきやがった」

「…………」

「たいへんだよ狐のおにーさーんっ!!」

「とりあえず服着てーっ!?」

 

 ひーちゃんは比較的まともな部類かと思ったのだが、やはり妖精。恥を知らぬ。

 月見はぎゃーぎゃー暴れている二人に背を向けたまま、

 

「どうしたんだい。『大事なこと』でも思い出したか?」

「あ、ううん、そっちはまだ……。でもでもっ、みーちゃんとくーちゃんがいないの!」

 

 今はじめて聞いた名だが、それが『二匹の妖精』を指しているくらいは簡単にわかった。

 

「いない? いないって……」

「どこにもいないのっ!」

 

 嫌な予感がした。

 不覚にも月見は、妖精たちの正確な人数を把握していなかった。数える気にもならなかったと言ってしまえばそれまでだが、みんな雪遊びにすっかり夢中な様子だったので、まさか逃げられるとは夢にも思っていなかったのだ。

 甘かった。

 

「きっと、どこかにいたずらしに行ったんだと思う! あのふたり、私たちの中でもとびきりいたずら好きだから! ざゆうのめいは当たってくだけろだよ!」

「座右の銘なんて、難しい言葉を知ってるね」

「えへへ」

 

 さて。

 どうしたもんかと月見は考える。放っておいてもそのうち天狗たちが見つけて連れてきてくれるとは思うが、「いたずらをしに行った」とわかりきった状態で放置するのも据わりが悪い。

 捜しに行こうか、と思った。妖精たちが風呂から上がるまでは、休憩する以外にこれといってやることもない身だ。ただし、どうせ妖精たちは風呂場でも元気に跳ね回るだろうから、水月苑にいる限り必ずしも休める保証はない。

 ならばいっそ捜しに出てしまった方が、散歩がてらの気分転換にもなるのではないか。

 悪くはない案のように思えた。

 

「それじゃあ、ちょっと捜しに行ってくるよ。にとり、響子、温泉は好きに使ってくれていいから、その子たちを頼んだよ」

 

 にとりは愛嬌満点に微笑んで、

 

「お風呂上がりのおやつって、もちろん私たちの分もあるよね?」

「……最大限、おもてなしさせてもらうよ」

 

 成り行きにもかかわらずなんだかんだでしっかり子守りを手伝ってくれている二人には、まるで感謝の言葉もない。

 背中の方でまた、

 

「ひーちゃんどーしたのー?」

「おんせん入らないのー?」

「えー、でもふくぬいでるよー?」

「だからそんな恰好で出てきちゃダメだってば――――――――ッ!?」

 

 月見はさっさとその場から退散した。足早に玄関まで戻ってくると、茶の間の方ではあいかわらず天子が「がんばれがんばれれーむがんばれっ!」と一生懸命な声援を飛ばしている。取り込み中のようなので、行き先を告げることもなかろう。

 玄関を開ける。

 

「……」

 

 そして月見の目の前に飛び込んできたのは、すっかりぐちゃぐちゃに変わり果てた日本庭園だった。無数の足跡でボコボコになった雪景色、崩れたかまくらの残骸、土の混じった雪球、地面と垂直に突き刺さったそり。池にも無数の雪球が浮かび、ついでに妖精たちに逆襲されたわかさぎ姫が「はわぁ~……」と目を回して漂っている。改めて見るとだいぶ酷い。

 ほんの数時間前までは風情あふれる雪景色だったのに、どうしてこんなことに。

 首を振り、とりあえず月見は見なかったことにした。

 だいたいこういうときに限って、妖夢か幽香が庭の手入れにやってくると相場は決まっているのだが――自分はまだ、そこまで運に見放されてはいないと信じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 湯船に浸かる前に体を洗いながら、ひーちゃんは独り言を言う。

 

「うーん……なんだろ……なにをわすれちゃったんだろ……」

 

 忘れてしまっているひーちゃんは、無論気づかない。自分たちが、本来であれば決して忘れてはならない、本当に大事なことを忘れてしまっていて。

 そしてそのせいで、歯車が狂い始めてしまっているのだと。

 今はまだ、ひーちゃんも、誰も、気づいていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ④ 「撤退勧告」

 

 

 

 

 

 それは秋の訪れを間近に控え、地霊殿の中庭を夏の終わりの花々が彩っていた頃である。その日、美味しいお昼ごはんを食べて大変ご満悦なお燐は、廊下でぱったりとおくうに出くわした。

 もっともより正確を期すならば、「窓際でなにかをしているおくうを見かけた」となる。おくうは一体どういうわけか、なんの変哲もない窓際と一進一退で睨み合い、わたわたと忙しなく両手を彷徨わせていた。

 

「こ、こらっ、じっとしてったら……あーっ!」

「?」

 

 なにあれ。そう思ったお燐は、早速おくうの後ろに回ってみた。特に忍び足をしたわけではないけれど、なにかと夢中に格闘しているらしいおくうはちっとも気づく素振りがなかった。

 覗き込んでみる。

 

(……あ)

 

 思わず笑みがこぼれた。おくうがなにを頑張っているのかはもう明らかだったけれど、それでもお燐は敢えて、そしてわざといつもより明るい声で、

 

「おくう! なにしてるのっ?」

「に゛ゃあ!?」

 

 猫顔負けの悲鳴をあげたおくうは前につんのめり、勢い余って窓ガラスに顔面をぶつけた。

 だいぶ痛そうな音がした。

 

「あ、ごめん」

「い、いきなりおどかさないでよっ!?」

 

 しかしおくうとて、伊達に何度も中庭のステンドグラスに激突し気絶を繰り返しているわけではない。振り返ったおくうはケロリとしており、おでこもまったくといっていいほど赤くなっていなかった。石おでこである。

 お燐はぷんすかしているおくうを両手で宥めて、

 

「ごめんごめん。で、なにしてたの?」

 

 おくうはふくれ面のまま、

 

「見ればわかるでしょっ」

「んー、わかんにゃい♪」

「お燐のバカ!」

「おくうにだけは言われたくないんだけど!?」

「なんだとーっ!」

 

 もちろんおくうは、人の姿をして人の言葉を話す分だけ普通の地獄鴉よりずっと頭がいいけれど、決して逃れ得ぬ鳥頭という宿命を抱えてもいる。何回注意しても考え事をしながら空を飛んで、ステンドグラスやら壁やらに激突して気絶している。そんなおくうからおバカ呼ばわりとは甚だ心外であった。

 とはいえ、うにゃー! と愛嬌満点で怒るおくうを見ていたら、そんな気持ちもいつの間にか溶けて消えてしまった。

 

「悪かったよ。……ほら、早く助けてあげないとどっか飛んでっちゃうよ」

「え? ……あっ」

 

 窓際のところで、ひらひらと一匹の蝶が飛んでいる。それが一体どうしたかといえば、おくうが奮闘していたのはこの蝶を逃がしてあげるためだったわけである。

 この地霊殿では様々な妖怪や動物がさとりのペットとして暮らしているが、迷い込んできた虫をわざわざ逃がしてやろうとするのはおくうくらいだろう。他は気にも留めないのが大半で、ひどいやつだと見つけた瞬間ぱくりと食べてしまったりする。お燐はそんな品のない真似はしないけれど、しかし蝶のひらひらと宙を舞う姿は大変蠱惑的でなんか無性にネコパンチしたいああ叩き潰したい

 

「お燐っ、狩っちゃダメだよ!!」

「ハッ。……や、やだなあ、ほんの冗談だよ」

「狩猟本能全開の目だったんだけど……」

 

 お燐はさっと顔を逸らした。

 

「ほら早く逃げてっ、お燐に食べられちゃうよ!」

 

 失敬な、誰も食べようとなんてしていないじゃないか。ただちょっと、狩猟本能に負けてビシバシしたくなっただけだ。

 おくうが両手を一生懸命に動かして、蝶を上手いこと開け放った窓まで誘導していこうとする。しかし蝶はそんなおくうを嘲笑うかのようにひらひら舞い、どんどん窓から遠ざかっていってしまう。

 うー! とおくうが唸る。

 

「なんでそっち行っちゃうの、もおーっ!」

「捕まえちゃえば? ほら、両手をこうして」

 

 お燐は丸めた両手を、球を作るように重ね合わせてみせた。妖怪の身体能力なら大して難しくもないだろうと思ったが、おくうは首を振って、

 

「ダメだよ。もし失敗して、潰しちゃったりしたら可哀想だもん……」

「……そっか」

 

 お燐の口元に、忍ばせるような笑みが浮かんだ。

 

「優しいね、おくうは」

 

 おくうは「う」と「ん」と中間みたいな声を出して、気恥ずかしそうにそっぽを向いた。

 こいつも昔は、日々当然のように死肉漁りをするごくごく普通の地獄鴉だったのに。

 さとりとこいしのペットとなって、『愛される』ということを知ってから、この少女は随分と丸く、優しくなった。死肉漁りなんてとっくの昔にやめたようだし、今はもう虫の一匹も殺せないのではないかと思わされる。自分を愛してくれる主人の姿から、彼女自身もまた愛するという心を学んだのだ。

 おくう以外に、ここまで変わったペットは他にいない。お燐だって、昔と比べれば多少は角が取れたけれど、死体集めはあいかわらず一番の趣味だし、虫どころか人間を殺すのにも抵抗は感じない。精々、自分の趣味が他人からは理解されがたいものなのだと自覚し、人目を避けて楽しむようになった程度だ。

 他のペットたちだって、似たようなもの。主人を困らせない、もしくは主人に嫌われない程度の良識と自律は身につけたが、動物は『動物』だし妖怪は『妖怪』である。

 もしかするとおくうは、ある意味では、この地霊殿で最も賢いペットだったのかもしれない。

 そしてだからこそ、なんとも惜しいと思うのだ。

 

「その優しさを、ほんのちょっとだけでいいからおにーさんにも向けてあげればいいのに」

 

 お燐がそう言った瞬間、おくうが苦虫を百匹噛み潰したように顔をしかめた。声もいきなり冷たく無愛想になって、

 

「……それとこれとは、話が別」

「またそんなこと言ってえ。おくうだってこの前見たでしょ、おにーさんは別に悪い妖怪じゃ」

「わかってる」

 

 お燐の言葉を遮り、俯いて、絞り出すように言った。

 

「わかってるもん。……あいつが、さとり様とこいし様を笑顔にしてくれてることくらい」

「……じゃあ、なにが不満?」

「……」

 

 おくうはしばらく答えなかった。恐らくはおくう自身、自分が抱いている感情をどう言い表せばいいものなのか、この時点ではよくわかっていなかったのだと思う。

 やがて、ぽつりと、

 

「……あいつなんかよりも、私の方が。私の方が、ずっと、ずっと、さとり様たちと仲良しだもん」

 

 だからお燐は、ああそういうことだったんだ、と腑に落ちて理解することができた。

 おくうが月見を嫌う理由。お燐はずっと、月見が地上の妖怪で、おくうが地上の妖怪を嫌っているからなのだと思っていた。もちろん、はじめのうちはそうだったのだろう。しかし今では、それが段々と変わりかけてきている。

 地上の妖怪だから嫌い、ではなく。

 さとりとこいしを笑顔にしてくれるから嫌い、に。

 要するに、

 

(……おくう、妬いてるんだ)

 

 さとりやこいしとどんどん打ち解けていってしまう月見が、ズルくてズルくて仕方ないのだ。さとりたちを笑顔にするのはペットである自分たちの役目なのに、それを地上の妖怪なんかに奪われかけているのが認めがたくてならないのだ。

 そんなの、お燐は考えたこともなかった。お燐に存在するのはさとりたちを『楽しませてくれる人』か『悲しませる人』かの違いだけであり、『楽しませてくれる人』ならいくら増えたって構わないと思っていた。そこでお燐の思考は終わっていたし、他のペットたちも同じだった。けれどおくうだけはその先まで考え、自分の存在意義のひとつが月見によって脅かされているのではないかとを憂いていた。

 やはりおくうは、ある意味では地霊殿で一番頭のいいペットなのかもしれない。

 

「……ねえ、お燐」

「……ん?」

「大丈夫、だよね。……さとり様たち、ちゃんと、これからも、私のこと見ててくれるよね」

 

 この言葉におくうが一体どんな想いを込めていたのか、このときのお燐はまだ気づけないでいた。ただ、今の辛気くさい顔があんまりにも似合わなかったものだから、景気づけにバシバシと肩を叩いてやった。

 

「なに言ってんのさ、さとり様はあたいたちを捨てたりなんかしないよ。考えすぎだって」

「……」

 

 おくうはまるでかたつむりみたいに、ゆっくりとゆっくりと笑った。

 

「……うん、そうだよね」

 

 そのとき、お燐とおくうの間を蝶がひらひらと横切る。

 今までの真面目な雰囲気はどこへやら、おくうが血相を変えて振り向き、

 

「あ、忘れてた! こらーっ待てーっ!」

 

 やはり、おくうは逃れようのない鳥頭である。あっという間にすべての興味関心を横取りされ、自分がなんの話をしていたのかをも綺麗さっぱり忘れて、「うにゃー!」と廊下の向こうに走り去っていってしまった。

 あの蝶、実はおくうをおちょくって遊んでいるのではあるまいか。

 

「……まったくもう」

 

 ため息をつくお燐の口元には、けれどかすかな笑みの色がある。

 ――さて、どうするのおにーさん。こいつは強敵だよ。

 嫌いは嫌いでも、おくうの根底にあるのは月見への嫉妬であり、さとりたちと仲良くしているのが気に入らないときている。つまりはたびたび地霊殿まで遊びに来る今の状況を繰り返している限り、月見がおくうから認められる未来はいつまで経ってもやってこないのだ。

 ――女の嫉妬は、ネチっこくてメンドくさいからねー。

 覚妖怪よりも遥かに曲者な地獄鴉を、はてさてあの狐はどうやって攻略していくのだろう。

 などと考えながら、お燐は。

 とりあえず、遠くでうにゃーうにゃー言っているおくうのために、虫取り網を取ってきてあげることにした。

 

 

 

 

 

 だから、お燐はいま地底で起こっている現実を認めない。

 もちろんはじめは、お燐だって止めようとした。けれど駄目だった。お燐の言葉は『彼女』に届かなかった。故に、誰か他の人の力に縋るしか方法がなかった。

 悩んだ末に、お燐は月見に助けを求める選択をした。選択肢はなにもそれだけではなかったし、鬼子母神に頼めばすぐにでも事態を止めてくれていたと思う。だがそれは、決して根本的な解決ではない。本当の意味でこの現実を止めるには、きっと月見の力が必要なのだと。彼の言葉が一番、彼女に届くのだと。

 だからおにーさん、早く来て。

 この異変は。

 この異変は、本当は――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 闘いは、七分二十秒で終わった。

 言葉にすると大したことのないように聞こえるが、七分間ひらすら動き回って闘い続けるのは人間にとって鬼畜の所業だ。外の世界にはボクシングという格闘技があり、試合では三分おきに必ず休憩時間が挟まれるという。霊夢は体力にあふれる妖怪ではないし、そういうのに分がある男でもないし、ましてや大人でもない。七分間闘い抜いてようやく勝敗が決した頃には、魔理沙共々肩で息をしながら今にもぶっ倒れそうな感じになっていた。こんな空の上でぶっ倒れたらそのまま真っ逆さまなので、必死に酸素を取り込んで強く意識を保つ。

 しかし。

 勝った。

 勝ったのだ。

 七分二十秒の死闘の末、霊夢は遂に、あの鬼子母神を下したのだ。……あとついでに、勇儀とかいう鬼も。

 その証拠に、

 

「いたたぁ……あー、負けちゃいましたぁー……」

「あーん、あのお酒高かったのにぃ……」

 

 ぜんぜん痛くなさそうな藤千代が着物を大きく乱しており、勇儀が地面に落ちた盃を未練がましく見下ろしている。藤千代に対しては、一発有効打を入れればその時点で勝ち。勇儀に対しては、盃から酒をこぼさせれば勝ち。それが霊夢と魔理沙に課せられた、此度の弾幕ごっこの勝利条件だった。

 言っておくが、霊夢が押しつけたのではなく向こうから勝手に提示された条件だ。お互い合意の上で成立したルールに則った結果なのだから、これはもう疑う余地なく霊夢たちの大勝利なのだ。だから、七分もかけてたった一発弾幕を当てるのが精一杯だったとか、そういうのはぜんぶどうでもいいことなのだ。

 とにかく、勝った。

 それが事実だ。

 よって霊夢と魔理沙は思いっきり息を吸って、

 

「「いぃぃぃぃぃやったああああああああああ!?」」

 

 完全におかしなトーンで絶叫し、お互い抱き合ってくるくるとダンスを踊った。魔理沙の両目から涙がちょちょぎれている。

 

「や、やった! やったぜ!? 私たち勝ったんだよな、夢じゃないよな!? 生きてるよな私たち!?」

「ええ勝ったわ! 夢じゃないわ、生きてるのよ私たち! よっしゃあああああっ!!」

「異変解決じゃーっ!!」

「もう帰りましょーっ!!」

 

 アリスの人形にペチッとビンタされて正気に返った。

 

「はっ。私たちなにを……」

『お帰りなさい。さあ仕事の続きよ』

 

 ぐぬう、と霊夢は呻いた。わかるまい、月見の家で炬燵ぬくぬくなこいつに今の霊夢の気持ちなど。中ボスどころか、霊夢の中ではもうラスボスを倒した心地である。おうちかえりたい。

 陰陽玉から天子が誇らしげに、

 

『ほら言ったでしょ、霊夢なら絶対勝てるって』

「そうねー、ぶっちゃけあんたのサポートは役に立たなかったけどね」

『はうっ』

 

 この少女、霊夢が体張って闘っている最中も頑張れ頑張れと言っていただけだった気がする。アリスの人形は、様々な魔法を駆使して頼もしく魔理沙をバックアップしていたというのに。人選を間違えただろうか。いやそもそも紫の改造がぽんこつで、戦闘に役立つ追加機能がなにも実装されていないのではないか。そんな気がしてきた。

 この期に及んでとやかく言っても仕方ない。霊夢は未だ興奮冷めやらぬ魔理沙を引き剥がし、乱れた着物をせっせと整えている藤千代に向けて、

 

「さあ。私たちの勝ちよ。約束通り、この異変について教えて頂戴」

「……あ、そうですねー。実は――」

 

 やれやれ、と霊夢はため息をつく。異変の情報ひとつを得るために、まさかここまで苦労をしなければならないなんて。まったく、異変を起こしてくれやがったのはどこのどいつだ。藤千代から名前と居場所を聞き出し次第、すぐさま突撃してけちょんけちょんに叩きのめして

 

「――実は私、異変のことなんにも知らないんですよ。一体なにが起こってるんでしょうねえ」

「……は?」

 

 こいつ今なんて、

 

「いやー、異変について知ってるふりをすれば、お二方と闘ってもらえるかなーと思いましてー」

 

 藤千代が、てへへーとお茶目に頭を掻いている。

 なにを言っているのか理解できるまで、五秒掛かった。

 五秒掛かってようやく霊夢は、

 

「…………ねえ。それって、つまり」

「はいっ」

 

 藤千代は、とっても可憐な笑顔で答えた。

 

「ごめんなさいっ、嘘つきまし――ふみぇみぇみぇみぇみぇ!?」

「藤千代オオオオオォォォ!!」

 

 霊夢は藤千代との距離を一瞬でゼロに詰め、その和菓子みたいなほっぺたを両側から思いっきり引っ張った。横で勇儀が、「速い……!」と目を剥いた。

 藤千代のほっぺたがみよんみよんと伸びる。霊夢は信じられない気持ちで叫ぶ、

 

「なに!? なんなの!? 嘘ついたって、じゃあ私はなんのために闘ったの!? 無駄!? 無意味!? 徒労!? 無駄骨!? タダ働き!? 骨折り損!? 答えなさいッ!!」

「みょみょみょみょみょ」

「藤千代オオオオオォォォ!!」

「みゅみゅみゅみゅみゅ」

『霊夢落ち着いてー!?』

 

 ハッと我に返った。あまりに衝撃的すぎる告白に、思わず理性が飛んでしまっていた。

 そして、言葉にもならない疲れがどっと押し寄せてきた。藤千代のほっぺたから指を離す。行き場の失った両手を膝についてがっくり項垂れる。藤千代のほっぺたがむゆんと元に戻る。骨折り損のショックに耐えきれなかった魔理沙が、白目を剥いてピクピク痙攣している。

 ため息。

 

「……鬼って、嘘つかないんじゃなかったのかしら」

「それはほら、私は勇儀さんと同じ鬼であり、違う鬼でもありますから。月見くんが、狐なのに十一尾なのと似たようなもんですよ」

 

 もう金輪際、この少女を『鬼』という括りで見るのはやめにする。こいつは種族『藤千代』だ。だから、霊夢の常識も鬼の常識もまったく当てはまらない埒外の存在なのだ。もうやだこいつ。

 またため息。

 

「はあ……これで振り出しかあ。いつになったら前に進めるのかしら」

 

 ――いや。

 そうでもないか、と霊夢は思い直した。藤千代に異変の心当たりがなかったということは、少なくともこの旧都ではなにも怪しい騒動など起こっていないはず。考えてみればそりゃあそうだ。鬼子母神が統治する旧都のど真ん中でわざわざ面倒事を起こすなんて、どうぞおしおきしてくださいと言っているようなものだ。鬼子母神のおしおき、それすなわち霊夢たちの基準でいうところの処刑である。

 つまり黒幕は、異変を起こしても誰にも気づかれないほど旧都から遠く離れた場所にいるのではないか。それこそ地底のはずれのはずれ、博麗神社の真下に当たる空間とか。

 

「……ちなみに、地上でいう博麗神社がある方角ってどっち?」

「んーと、……あっちですね」

 

 藤千代が指差した方を見る。魔理沙が白目のまま口から魂を吐いており、それをアリスの人形が頑張って口の中に押し戻そうとしている。そのコントな光景を遠く遠く越えた地底の遥か彼方は、薄闇に巻かれて地平線がどこにあるのかもわからない。

 やっぱり今日の神様は、霊夢を馬車馬のように働かせたがっているのだ。ここまで来ると、黒幕は実は地上にいましたー、なんてオチも視野に入れなければならない気がする。三度目のため息が込み上がっていて、霊夢は肩を落としながら旧都の町並みを見下ろした。

 屋根の上に、猫がいた。

 瓦の色に溶け込む黒猫だった。それ自体は特に珍しくもなんともないが、しかし、その猫は行儀よくおすわりをしてまっすぐに霊夢を見ていた。まるで、霊夢に用があって順番待ちをしているかのように。

 藤千代も気づいた。

 

「あれ、お燐さんじゃないですかー」

 

 なー、と猫は愛想のいい鳴き声で答えた。右から左へくるりと振られた尻尾は、よく見ると二又に枝分かれしている。ごくごく普通の猫又か、それとも猫の姿をした別の妖怪か、どうあれ、ただのにゃんことは違い言葉が通じるようで、

 

「どうしたんですかー?」

 

 藤千代の問いに今後は二回鳴いて答え、二又の尻尾をそれぞれ霊夢と魔理沙に向ける。

 そして、いきなりくるりと振り返った。屋根をすばしっこく駆け上がり、大棟――屋根の一番上の部分――に前足をかけたところで振り返って、また一度だけ鳴いた。

 やはり、霊夢を見ている。

 だからだろうか、なんとなく、ついてこいと言われているような気がした。藤千代も同じことを感じたようで、

 

「どうやらお燐さん、霊夢さんたちに用があるみたいですねー」

「……なに、あの猫?」

「ほら、あそこに洋館が見えるだろ?」

 

 勇儀が答えた。恐らく、旧都の中心部に近いあたりであろう。瓦屋根が海原の如く広がる景色の中で、ひとつだけぽつんと、純洋風の建物が浮き彫りになっている。遠目でもその大きさがよくわかる、言うなれば『趣味の悪いやつがデザインしなかった紅魔館』みたいな洋館だった。

 

「あそこに住んでるやつが飼ってるペット。っていっても、火車っていう立派な妖怪だけどね」

「ふーん」

 

 確か、人の葬式にやってきてずけずけと死体を盗んでいく妖怪だっただろうか。悪趣味なやつだ。かわいい猫みたいな外見をして、どうせロクでもない妖怪に違いない。

 

「で、そんなロクでもない妖怪がなんで私たちを呼ぶのよ」

「にゃ!?」

 

 猫が飛び跳ね、二又の尻尾を逆立ててにゃんにゃんとやかましい声をあげた。なにを言っているのかさっぱりわからないので無視する。

 藤千代が少し考え、

 

「うーん……もしかしたら、異変についてなにか知ってるのかもしれませんよー。それを霊夢さんに教えに来たとか」

「なんですって?」

 

 霊夢が疑り深い眼差しで見下ろすと、にゃんにゃん騒いでいた猫は渋々引き下がり、代わりにこくりとひとつ頷いてみせた。

 霊夢の全身を稲妻のような衝撃が襲った。ここに来て、まさか異変を知る妖怪が向こうからやってきてくれるなんて。どうやらなかなか話のわかる妖怪のようだ。しょうがないので、ロクでもないやつと言ったのは撤回してやろう。

 

「……でもさー、また藤千代みたいに嘘言ってるパターンじゃないのか?」

 

 いつの間にか復活していた魔理沙が、ふらふらと墜落寸前のセミみたいな感じで隣に並んだ。もう誰も信じられないというペシミストな目をしている。……確かにそうだ、この猫もまた嘘で霊夢たちを陥れようとしている悪い妖怪の可能性は充分にある。おのれ人の心の隙を衝いてくるとは、やっぱりロクでもないやつじゃないか。なかなか話のわかる妖怪といったのは撤回する。

 しかし藤千代が、

 

「んー、それはないと思いますよ、お燐さんはしっかり者ですから。……あ、じゃあ嘘だったら私に教えてくださいっ。嘘をついて人に迷惑を掛けるような妖怪は、私がおしおきしますので!」

「え、それ藤千代が言うの!?」

 

 突然知らない少女の声が聞こえて、霊夢も魔理沙もきょとんと疑問符を浮かべた。声がした方を見てみる。そこにいるのは、「あっやべ」という顔で固まっているあの黒猫である。

 猫はそのまましばらくの間、己の不覚に対する並々ならぬ自責でぷるぷる震え、やがて何事もなかったかのように、

 

「……にゃーん?」

 

 ……まあ、みたいな? ね?

 そんな感じの反応だった。もちろん、霊夢も魔理沙も白い目を返した。

 

「……あんた、普通に喋れんじゃない」

「にゃーん?」

 

 どうやら意地でも、猫だから人の言葉は話せないという設定を通したいらしい。

 

「……まあいいわ。じゃあとりあえず、嘘だったら藤千代に言いつけるってことで」

 

 頷いた猫が霊夢に背を見せ、それから首だけで振り返った。どうも先ほどから、霊夢たちを別の場所に案内したがっている風である。それは人語を話せないという設定を守るためなのか、もしくは藤千代に聞かれると都合の悪い理由があるからなのか。

 とりあえず、ついていってみることにした。瓦屋根が続く景色を魔理沙と飛びながら、霊夢は不安と期待が半々に入り混じったため息をついた。

 もういい加減、手掛かりひとつない真っ暗闇状態から先に進ませてほしいものだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 なかなか骨のある人間だったなあと、久し振りに甦ってきた昔の記憶を懐かしく思いながら、勇儀はこぼれて空になった盃を拾い上げた。

 まだ、闘いの熱で体が少し火照っている。勇儀は弾幕ごっこを詳しくは知らないし、体ひとつでぶつかり合わない決闘方式をあまり快くも思っていなかったが、今回の勝負を通してその考えが少し変わった。実際にやってみると案外面白かった。なにより人間が、高々二十年も生きていないであろう人間の子どもが、逃げも隠れもせず真正面からぶつかってきてくれたのは素晴らしいの一言に尽きた。謀略に頼らねばか弱いばかりの人間が、策を捨て、ああも果敢に立ち向かってきてくれたのは一体何百年振りの話なのか。拳で直接ぶつかり合えなかったことへの不満は残るが、それは単に、自分が昔を懐かしんで粋がっているだけなのかもしれない。

 藤千代も満足そうだった。

 

「いやー、楽しかったですねえ。弾幕ごっこ」

「そうだねえ。……それはそうとさ」

「はい?」

 

 勇儀は拾った盃を指の上で回しながら、弾幕ごっこの最中からずっと引っ掛かっていた疑問を口にした。

 

「藤千代さ、なんで真面目にやらなかったの?」

「?」

 

 藤千代は意味がわからないという顔をしている。

 

「だからさ、さっきの弾幕ごっこだよ。一発当てればあいつらの勝ちだとか言っちゃって、ぜんぜん本気出してなかったでしょ」

「それは、勇儀さんも同じでしょう?」

 

 確かに、勇儀も藤千代の真似をして、『盃の酒をこぼしたら負け』というハンデをつけた。だが、

 

「違うね。あんたはスペルカードを使うどころか、弾幕もロクに撃たないで逃げ回ってばっかだったじゃないか」

 

 もちろん、勇儀は持っているスペルカードをフル稼働して闘った。たとえハンデをつける中でも、真正面から立ち向かってきてくれる人間の心意気に応えるため、極めて真剣に勝負をした。そしてめまぐるしく弾幕が飛び交うそのさなかを、藤千代はきゃーきゃー言いながら逃げ回っているだけだったのだ。

 彼女は『一発当たれば負け』というハンデに、『攻撃をしない』という手抜きまで勝手に加えた。まさか弾幕が撃てないなどとは言わせない。あんなもの、幻想郷では妖精だって遊び半分にやっていることだ。妖精にできて藤千代にできないなんて、そんなアホな話が存在していいはずはない。

 真剣勝負を蔑ろにした彼女を責めているわけではない。ただ、疑問なのだ。だって彼女は、

 

「あんた、月見以外にはもう誰にも負けないって言ってたよね。まさかあれも嘘だったのかい」

「あー、」

 

 話がどうズレているのかわかった、と言うように藤千代が声をあげた。頷く仕草で、藤の髪飾りがしゃらりと揺れた。

 

「それとこれとは話が別ですよ」

「別って?」

 

 首を傾げる勇儀に、藤千代はさらりと言ってのけた。

 

「だってあれって、遊びじゃないですか。遊びで本気を出す必要があります?」

 

 勇儀は思わず真顔になる。藤千代は続ける。

 

「勝ち負けは大したことじゃないですよ。それよりも、楽しむ方が大事です。だって、遊びなんですもの」

 

 染み渡るような納得が勇儀の腹の底に広がる。弾幕ごっこは、今や幻想郷に最も広く普及した決闘方式であり、同時に妖怪も人も妖精も気軽に楽しめる遊びでもある。勇儀は「あれはあれでひとつの立派な真剣勝負」と捉えたが、藤千代にとっては「単なる遊びでありそれ以上でもそれ以下でもない」ものだったわけだ。

 だから、一発当たれば終わりという緊張感の中で、ただ弾幕を躱し続けることだけに徹して、きゃーきゃー言いながら飛んだり跳ねたり、どこまでも遊びとして楽しんだ。

 

「それに私、スペルカード持ってないですし」

「えっ、そうだったの?」

「ええ。操ちゃんに教えてもらって作ろうとしたことはあるんですけど、どうも性に合わなくてやめちゃいました。途中で頭がこんがらがって、なんていうか、もう、ぜんぶまとめてぶっ飛ばしたくなっちゃうんですよね。というか実際、練習で操ちゃんをぶっ飛ばしちゃって」

「……」

 

 あいつはあいかわらずだなあと勇儀は思う。

 しかし、まあ、ともあれ。

 

「なので、今回は躱すだけにしてました。やっぱり勝負は、体ひとつでズドンですよね」

 

 そのなんとも彼女らしい物言いに、勇儀は苦笑し、また共感した。弾幕ごっこが、あれはあれで楽しく奥深い闘いのシステムであるのは認める。けれどやはり、

 

「そうだよね。やっぱ、ウチら鬼は殴り合ってこそだよね」

「そうですとも」

 

 また、昔の記憶が甦ってくる。勇儀たち鬼が、まだ地上で太陽の光を浴びていた頃。思い出補正というやつかもしれないけれど、己の拳だけを武器に人間と渡り合っていたあの頃は本当に楽しかった。

 そう思ったら、なんだか無性にケンカがしたくなってきてしまって、

 

「あーあ、ケンカしたいなあー……」

 

 と、天を仰ぎながら呟いてしまったこれが命取りだった。

 猛烈に嫌な予感がして隣を見た。藤千代の瞳が、きらきらきらきらと、それはもう宝石だって目じゃないくらいにまばゆく光り輝いていた。

 

「勇儀さん、ケンカしたいんですかっ。私もケンカしたいです!」

「あっごめん間違った口が滑った鬼なのに嘘ついちゃったやっぱり平和が一番だよね」

 

 違う。勇儀が言うケンカとは互角の好敵手と(しのぎ)を削り合うことであり、実力のかけ離れた化物に叩きのめされることでは断じてなく、

 藤千代が腕まくり、

 

「よーし、テンション上がってきちゃいましたよー」

「ねえ話聞いて?」

「どっからでもかかってきなさい!」

 

 勇儀は脱兎となって逃げ出した。

 一秒で回り込まれた。藤千代は頬を膨らませてぷんぷんと怒る、

 

「こらあっ勇儀さん、鬼の四天王たるあなたがそんな弱腰でどうしますかっ」

「いやその、……ほら、ねえ? あはは」

 

 勇儀は心の底から訴えたい。藤千代に目をつけられて弱腰にならない生命体なんていない。地獄の獄卒だって泣きながら裸足で逃げ出すし、地底中の鬼が束になったって満場一致で逃走する。

 まあ問題は、鬼ごっこで藤千代から逃げ果せるのは不可能ということなのだけれど。

 試しにまた逃走しようとしてみるのだが、回れ右をした瞬間なぜかそこに藤千代がいたので勇儀は心の中で泣いた。もうヤダこいつ、なんで当たり前みたいに瞬間移動してんの。

 

「ふふふふふ」

「あ、あははははは……」

 

 じりじりと距離を詰められる。それに合わせてじりじりと後退していると、いつの間にか民家の壁に追い詰められた。

 勇儀の脳裏を走馬灯が過ぎった。ああ、最後にもう一回くらい、地上で萃香や月見に会いたかったなあ。水月苑の温泉にも入りたかった。お酒だってもっと呑みたかった。まだまだやりたいことがいっぱいあったのに。

 藤千代の瞳が一瞬足りとも休まず元気に輝き続けている。小さな可愛らしい掌を拳にして、腕ごとぶんぶんと振り回す。

 

「よーし、それじゃあ行きますよーっ」

「……ね、ねえ、ちょっと待ってよ藤千代」

 

 せめてもの抵抗に、勇儀は引きつった唇でまくし立てる。

 

「まあね、確かにケンカしたいっては言ったよ? 言ったけどさ、今すぐ闘いたいとか、あんたと闘いたいとか、そういうのは一言も言ってないじゃん。だからちゃんと人の話は聞くべきだと思うんだよ、なんでもかんでも自分の都合のいいように決めつけちゃダメだよ? なんていうかあれは一種の比喩であって、ほんとにやるってなるとそれはそれで困るっていうか、

 ……。

 あいたたた、なんか右脚が痛くなってきちゃったー。さっきの弾幕ごっこで挫いたのかなあ。困ったなあ、これじゃあケンカしたくてもできないなあー、

 …………。

 そっ、そうだ知ってる? 私がいつも行ってる居酒屋さー、最近自家製のお酒出し始めたんだよ。これがもうめちゃくちゃ美味しくて、ねえ、ケンカはまた今度にして今からちょっと呑みに行」

「そおーい!」

 

 悲鳴。

 静寂。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そのとき地底が、少し揺れた。

 それと同時に霊夢の背中の方から、はぎゃああああああああっと少女の悲鳴が聞こえてすぐ静かになった。思わず振り返る。一瞬の出来事だったので確信はないが、あれは先ほどまで一緒にいた勇儀とかいう鬼の声ではなかったか。

 なにがあったんだろう、と思い、その一秒後にはまあいいかと自己完結した。知らない妖怪がどうなろうと知ったこっちゃない。藤千代だっているのだし大事にはならないだろう。それより優先して知ろうとすべきは、瓦屋根をぴょんぴょん跳んで移動している黒猫の行く先だ。

 てっきり主人がいるという地霊殿に向かうものと思っていたのだが、どうも違う。黒猫は、町の中心に向かうどころかどんどん人気から遠ざかりつつある。やはり異変の黒幕は旧都から離れた場所にいるのか。いやそもそも、この黒猫は霊夢たちを黒幕のところに案内しようとしているのだろうか。どこかおかしな場所に連れて行かれてしまうのではないか。藤千代に盛大な嘘をつかれたあとだからか、やっぱりどうにも信用ならなかった。

 それは隣を飛ぶ魔理沙も同じで、

 

「なあ霊夢、本当に大丈夫なのか? 私は、もうこれ以上余計な手間踏むのは御免だぜ」

「……そんなの私だって同じよ」

 

 嘘をついたら鬼子母神サマ直々のおしおきが待っているのだ、わざわざ命を捨てるような真似はしないはずだが。

 黒猫は、次の瓦屋根からそのまた次の瓦屋根へ、軽いステップで実に楽しそうに跳躍していく。時折くるりと回って霊夢たちがついてきているのを確認する仕草は、まるでダンスでも踊るかのようだ。火車とかいう物騒な妖怪らしいが、こうして眺めている分には人畜無害なただの猫にしか見えない。

 旧都の活気がますます遠ざかっていく。通りを歩く妖怪の数も、殺風景な景色を彩る瓦屋根の数も次第にまばらになってくる。もう間もなく旧都の外に出るだろう。やっぱり変なところに連れて行かれそうな気がして、ここいらで一度どこに向かっているのか問い質した方がいいと、霊夢が心に決めたその矢先だった。

 黒猫が、なんの前触れもなくいきなり屋根から飛び降りた。

 

「「あ」」

 

 と霊夢たちが二人揃って声をあげ、空から黒猫が飛び降りた先を覗き込むまでは、ほんの数秒だった。そしてそのほんの数秒で、黒猫の姿が闇に溶けたように消えてなくなってしまっていた。

 代わりに少女がいて、こちらに向けて手を振っていた。

 

「おねーさんたちー」

 

 誰だこいつ、と霊夢は不審に思う。しかしすぐに、少女の背後で二又に分かれた黒い尻尾が揺れているのに気づいて、あああの黒猫かと納得した。人の言葉を解し人の言葉を話すのだ、人の姿を取れる妖怪でもなんらおかしなことはない。

 赤い髪のおさげで、人懐こそうに笑う少女だった。

 

「ごめんねー、こんなとこまで連れてきちゃって。あんま人に聞かれたくなくてさ。ねえ下りてきて、ここで話しようよ」

 

 突然人の姿になったのは、猫のときは人語を話せないという設定を通すためなのだろう。しょうもないこだわりである。

 魔理沙と短く確認し合い、霊夢は言われた通りにした。そこは生活の気配がしない小さな空き家の裏手で、通りからはまず目に入らない狭い路地裏だった。こそこそと隠れて話をするためにあるかのような場所だ。なにが入っているかもわからない木箱が並んでいたので、その中のひとつを適当に椅子代わりにする。

 

「お前、あの黒猫だよな?」

 

 同じく木箱に腰掛けながら問うた魔理沙に、少女が頷いた。

 

「そうだよ。びっくりした?」

「びっくりしたってか、……そんなに猫の姿で話すの嫌なのか?」

 

 少女が苦笑し、それからふっと遠い目つきをして、

 

「昔さ、町の子どもに『話す猫って意外と気持ち悪いね』って言われて……」

「……あ、うん。なんかごめん」

 

 しょうもないこだわりだと思っていたら、まさかの地雷だった。幼子の純粋無垢な発言は、それ故に時として人の心を容赦なく抉り取る。一応、妖怪の子ども――何年生きたら『大人』になるのかは知らないが――にも純粋という概念があるらしいことを、霊夢は水月苑に集まる少女たちの姿から学んでいる。レミリアの妹なんかが最たる例だろう。

 生暖かい気遣いに満ちていく生暖かい空気を感じ、少女が強めに手を叩いて仕切り直しした。

 

「ま、まあそんな話より、まずは自己紹介しとくね。あたいは火焔猫燐。長ったらしいから『お燐』って呼んでね。一応、火車って妖怪やってるよ」

「……博麗霊夢。人間よ」

「霧雨魔理沙。同じく人間だぜ」

「よろしくね~」

 

 尻尾を振って笑う仕草には裏表がなく、悪巧みの類とは無縁に見えた。藤千代が言っていた通り、まずまずしっかりしていそうな妖怪ではある。

 それから少女――お燐は、霊夢を見てふと、

 

「……ん? おねーさん、『博麗』ってことは……もしかして博麗の巫女?」

「そうだけど……それがどうかした?」

 

 お燐の目つきが変わった。表情から猫らしさが消え、息を呑むほど微動だにしない瞳で霊夢を見据える。けれどどこか、霊夢ではない遠くの誰かを見ているようでもある。途轍もなく居心地が悪くなって、霊夢は逃げるように問うていた。

 

「……なに? どうかしたの?」

 

 お燐がころっと元に戻った。まるでぜんぶ、霊夢の気のせいだったかのように。

 

「あ、ごめんごめん。なんでもないよ~」

 

 なんでもなかったはずがないが、

 

「でね。おねーさんたち、異変を解決しに来たんでしょ? 間欠泉から妖精が湧いて」

「おう。知ってること、洗いざらい教えてもらうぜ」

 

 二人がさっさと話を先に進めてしまったので、霊夢は追及のタイミングを見失った。気にはなったが、今は異変のことを知る方が大事だと思い直す。

 

「うん。でも、その前にいっこだけ教えてほしいんだけど……」

 

 どうせダメだと思うけど、一応訊くだけ訊いておこう――お燐が投げて寄越したのは、そんな感じの投げやりな質問だった。

 

「おにーさん……月見って、やっぱり一緒に来てたりしないよね?」

「「はあ?」」

 

 霊夢と魔理沙は顔を見合わせた。どうしてそんなことを訊かれるのかわからなかった。だって、その訊き方ではまるで、

 

「……なにそれ。まるで、月見さんが私たちと一緒に来てなきゃいけないみたいじゃない」

「月見なら、屋敷で妖精たちの子守りだぜ?」

 

 お燐が頭を抱えてうずくまった。

 

「だよねー、やっぱりそうなっちゃうよねー……。あーもー、みんなに頼んだあたいが間違いだったぁ……」

「おいおい、話が見えないぜ。どういうことだ?」

「うう……」

 

 少し、どこから話すか迷うような間があった。鼻から大きくため息をつき、考えをまとめたお燐は顔を上げた。

 

「えっとね。まず、間欠泉から妖精が湧いて出てきてるのはあたいの仕業なんだけど」

「なるほど、つまりお前を倒せば異変は解決ってことだな」

「よーしさっさとやっちゃいましょ」

「ねえおねーさんたち、話は最後まで聞いてくれるとあたい嬉しいな?」

「やかましいわね、つまりあんたが黒幕ってことでしょ? さあ神妙になさい」

「だーかーらーっ!」

 

 お燐は尻尾を逆立てて言う。

 

「あたいは、間欠泉を使って妖精を地上に送っただけ! 間欠泉はまた別のやつの仕業なのっ!」

 

 霊夢は眉をひそめた。

 

「……つまり、異変の犯人はあんたともう一人いるってこと?」

「あの、だからね、あたいは別に異変を起こしたつもりは」

「うるさいうるさい、それを決めるのは博麗の巫女であるこの私よ。あんたがやったことは異変を起こしたのと同じです。よって有罪。以上」

「わーい横暴だぁー……」

 

 横暴なものか。お前が妖精なんぞ送り込んでくれたせいで、自分たちが一体どれだけ迷惑したか。月見は妖精の子守りに手を焼かされているし、霊夢と魔理沙だって、わざわざこんなところまでやってくる羽目になった上、鬼子母神にケンカを売られるという臨死体験までさせられた。この恨み晴らさでおくべきか。

 霊夢はもういつでも準備OKの臨戦態勢だったのだが、魔理沙は思いの外冷静で、

 

「……こっちも訊きたいことが二つあるぜ。間欠泉を起こしたのがお前じゃないなら、じゃあなんでお前は、間欠泉を利用して地上に妖精を送るなんて真似をしたんだ?」

「おにーさんに伝言を頼んだのさ」

 

 ――伝言?

 はて、と霊夢は首をひねった。そんな重要そうな話、月見からは一言も聞いていないが。

 

「なんだそりゃ。初耳だぜ、月見はなんにも言ってなかった」

「うん……だからその、」

 

 力なく吐息したお燐はまた遠い目をして、自嘲気味にふっと笑った。

 

「生まれてはじめて地上に出た嬉しさで、みんな伝言なんか忘れちゃってるんだろうなあ……綺麗さっぱり」

「「……」」

「あーんもー、みんなのばかぁー……」

 

 『呆れて物も言えない』とは、まさに今の霊夢たちの状態を指す言葉に違いない。

 行き場が見つからず腹の底でぐるぐる回る感情を、魔理沙が大きなため息に変えて吐き出した。

 

「……で? あんな何十匹も妖精を送り込んでまでして、月見になにを伝えようとしたんだよ」

 

 お燐は質問に答えず、

 

「あ、それなんだけどさ。あたいが送り込んだのはほんの三~四匹で、あとはあたいが目を離した隙に勝手に出てっちゃ――うにゃー待って待って、動物虐待はんたーい!! にゃーっ!?」

 

 霊夢は魔理沙と結託し、お燐の猫耳をグイグイ真上に引っ張りあげた。なんだそりゃ。なんじゃそりゃ。なんだ目を離した隙にって。そんな下らないオチが原因で自分はここまで散々苦労してきたのか。これだったらまだ、「地上を混乱させるために送り込んだ」とか黒幕らしい理由の方がマシではないか。この恨み晴らさでおくべきか。

 

「しっ、仕方なかったんだよ! まさかあたいが朝ごはんを食べている間にあんなことになっちゃうなんて――ぎにゃー!?」

 

 必殺脳天幹竹割り。悪は滅びた。

 

『れ、霊夢……』

 

 陰陽玉の向こう側で天子が苦笑している。どうせ、「霊夢は乱暴者だなあ」とか呆れているに違いない。なので毅然と言い返す。

 

「天子、悪い妖怪は倒さなきゃダメよ」

『で、でもほら、その妖怪も悪気があったわけじゃないみたいだし……それにっ、月見となら今この陰陽玉で話できちゃうし!』

「ああ、それもそうね」

「ちょ、ちょっと待って!?」

 

 お燐が跳ね起きた。驚愕の眼差しで陰陽玉を指差し、

 

「それもしかして、地上と連絡できちゃったりするの!?」

「てか、月見さんのお屋敷とつながってるけど」

「お願いっ、おにーさんと代わって!」

『わかった、ちょっと待ってて……あれ? そういえば、月見って今なにしてるんだろ……』

「? 外で妖精の子守りじゃないの?」

 

 茶の間の襖を開ける音、

 

『ん……と、もう遊んでないみたい。どこ行ったのかな……?』

 

 アリスの人形が、

 

『あの、少し前に、みんなで奥の方に歩いて行くのが聞こえたような……』

『そうなの? ぜんぜん気づかなかった……奥ってことは温泉かな?』

「みんなで温泉に入ってるんじゃないの」

『つつつつつっ月見はそんなことしないよ!?』

「慌てすぎだろ」

 

 魔理沙にツッコまれた天子はうぐっと呻き、

 

『と、とにかく温泉だよね!? ちょっと行ってくるねアリス!』

『え、ええ……』

 

 ドタバタバタ、とこっちまで聞こえてくるくらいに激しい駆け足だった。まさか月見が女と一緒に入浴しているはずはあるまいと、一刻も早く確かめようとする気迫を感じる。恐らく脱衣所であろう戸をスパーンと開け放ち、またドタバタバタ、

 

『――月見っ! いないよね!? いないでしょ!? いないって言えぇっ!』

 

 妖精たちのどよめく声と、にとりと思われる少女が驚きつつも答える声。聞こえが悪くていまひとつなにを言っているのかわからない。

 

『そ、そうだよね。あー、よかったあ……。それで、いつ戻ってくるかとか、』

 

 間、

 

『……そ、そうなんだ。わ、わかった。ありがとう』

 

 しかし聞こえる天子の声だけでも、なにがあったのかはなんとなく想像がついた。

 また少しの間沈黙があり、やがて天子が、

 

『あの……妖精が二匹くらい逃げ出しちゃったらしくて、月見が一人で捜しに行ってて……いつ戻ってくるかわからないって……』

 

 霊夢と魔理沙は冷ややかな眼差しでお燐を見た。お燐はしょんぼりした。

 

「……結局これ、あんたのやったことってことごとく裏目に出てない?」

「にゃーん……」

 

 月見への伝言を託して妖精を送り出したのに、その妖精ははじめて地上に出た嬉しさで自らの使命を完全に忘却。そしてこうして直接連絡を取ろうとすれば、妖精のせいで肝心の月見が不在。

 なんだか、この猫耳少女が段々哀れに思えてきた。

 天子がおずおずと、

 

『えっと……月見になんて伝えるはずだったの? 戻ってきたら私が伝えるけど……』

 

 お燐は少し考え、

 

「んとね、……おねーさんたちが言う異変を起こした――というより、異変が起きる原因になった妖怪かな。本人に自覚はないと思うし」

 

 そこで言葉を区切る。猫らしい明るさがすっかり鳴りを潜めた、小さく、縋るような声音で、

 

「……その妖怪を、止めてほしくて」

「あら、だったら別に月見さんは必要ないわね。そいつを止めるつもりで私たちがここに来たんだもの」

 

 てっきり「そうだったんだ! 助かるよー」と返ってくるかと思ったが、お燐の表情は晴れないままだった。

 

「……やっぱりね、そうだよね。……でも、おねーさんたちはダメ」

「はあ? なによそれ。別に退治しようってわけじゃないんだから、」

「ううん、そうじゃなくて。……おねーさんたちが危ないから、ダメ」

 

 お燐の言葉の意味を理解するまで、しばらく時間が掛かった。まさか地底の妖怪が人間の身を案じるとは思ってもいなかったし、なにより、

 

「――ふうん。それってつまり、私たちが負けるってこと?」

 

 今まで数々の異変を解決し、吸血鬼も幻想郷最強格の大妖怪も、地球外生命体も、神様すらも打ち破ってきた霊夢と魔理沙が。

 そりゃあ、地底の妖怪は実力が未知数だし、お燐が同胞を贔屓する気持ちもわからなくはないが、

 

「うん、やめておいた方がいいよ。怪我じゃ済まないかもしれないし」

 

 カチンと来た。先に口を切ったのは魔理沙だった。

 

「よーし上等だ、じゃあそいつのとこまで案内してくれ」

「……おねーさん、話聞いてた? 危ないんだってば」

「聞いてたさ。そこまでコケにされて、はいはいそーですかと背を向けるわけにゃあいかないな」

「いや、別にコケにしたとかじゃないんだけど……」

 

 霊夢も言い返す。

 

「余計なお世話よ。私たちは、あの鬼子母神サマにだって勝った人間よ? あんたがいうその妖怪って、鬼子母神サマより強いのかしら」

 

 まあ、藤千代は本気で闘うどころか終始遊んでいたような気もするが――ともかく。

 狙い通り、お燐が言葉に窮した。

 

「それは……そうだけど」

「ってか、なんで妖怪のお前が人間の私らを心配すんだよ。月見じゃああるまいし」

「……にゃはは。確かにおにーさんは、そういうところがありそうだねえ」

「ありそうってか、事実ありまくりだけどね」

 

 霊夢が月見と初めて出会った春の日、食事事情を心配した彼が夕飯を作ってくれたのは今でもよく覚えている。その数日前には人里で、行方不明となっていた子どもを見つけ出して助けたとも聞いているし、夏の終わりには神古志弦とかいう外来人まで拾ってきていた。霊夢が知っているのなんてこれでもほんの一部で、実際はもっとたくさんの人間を心配し、そのたびにあれこれ世話を焼いてきているのだろう。

 陰陽玉の向こうで、天子が大きく三回くらい頷いたような気がした。そういえば彼女もまた、月見に助けられた人間の一人だった。

 

「……それはさておき、異変が起きたら人間が解決する。それが今の幻想郷の習わしよ。黒幕に会いもしないで逃げるなんて選択肢はないわ」

「……」

 

 お燐は答えない。一心不乱に考えている。霊夢たちを、黒幕のもとへ連れて行くべきなのかどうか。

 天子が言う。

 

『でも霊夢……なんか変だよ。一旦戻って、月見と一緒に出直した方が……』

「あんたまでそんなこと言って。私は戻らないわよ」

『……そんなに月見と協力するのが嫌なの?』

 

 きっぱりと言ってやった。

 

「嫌ね」

 

 天子が絶句した気配。霊夢は腕を組み、鼻から大きく息をついて、

 

「……だってこれじゃあ私たちが、月見さんがいないとなんにもできない子どもみたいじゃない」

 

 月見のことは信頼しているし、常日頃から――主に『ご飯を食べさせてくれる人』という意味で――頼りにもしている。しかしそれは、あくまで日常生活での話であり、こんな異変のさなかでまで頼り切ってしまうのはただの依存でしかないように思うのだ。

 夏の異変では月見頼みだったくせに――そう言われるかもしれない。それは霊夢も認める。月見がいなければ、あの異変を乗り越えることなんてできなかった。天子を助けることなんてできなかった。……そして、認めるからこそ、今回まで月見ばかりを頼ってしまうのが嫌なのだ。自分の、心が、弱くなってしまう気がして。

 天子だって言っていた。月見と出会って、自分は弱くなったと。一人きりでも強く生きていたあの頃に、もう戻ることなんてできないと。それこそが、月見という妖怪が周囲に及ぼす最大の悪影響なのだ。月見は、霊夢たちのことをなんでも笑って受け入れてくれる。受け入れてしまう。だから霊夢たちは変に自分を飾り立てる必要がなくて、一人で生きるために身につけてきた心の鎧をすべて剥がし落とされてしまう。弱かった頃に逆戻りしてしまう。

 でも、それは、月見が悪いわけではない。なんでも受け入れてしまうのは彼の欠点だが、なんでも受け入れてくれるのが彼の美点でもある。むしろ悪いのは、なんでも受け入れてもらえるからと甘えて、自分の弱さを晒すことになんの抵抗も感じなくなりつつある、霊夢たちの方。

 霊夢は、月見がいつまでも幻想郷にいてくれるとは思ってない。たぶん、霊夢がまだ当代の博麗の巫女であるうちに、彼はまた外の世界に出ていく。本人に確かめたわけでもない、なんの確証もないことだけれど、きっとこの勘は当たるのだろうと霊夢は思っている。

 だからいずれそのときが来ても、大丈夫なように。

 

「月見さんに頼らないで、私たちでできるように――ううん。月見さんがいなくてもできていた頃に、戻らなきゃ。違う?」

『……』

 

 天子は答えない。けれどそれは、霊夢の主張が正しいと認めざるを得ないからこその沈黙だった。

 魔理沙が肩を竦めた。

 

「だな。これから起こる異変ぜんぶで月見に助けてもらうのかって話だもんな」

「そういうこと。……だからほら、早く黒幕のとこに案内しなさい。なんだったら弾幕ごっこで無理やり吐かせてやろうかしら」

「……もー、おねーさんたちほんと強引だなー」

 

 一心不乱に考えすぎて疲れた脳へ酸素を送るような、お燐の長い深呼吸だった。

 

「……わかった。そこまで言うんだったら、案内したげるよ。でも、本当に気をつけて。危ないと思ったらすぐに撤退すること。もしおねーさんたちになにかあったら、おにーさんにも申し訳ないしね。おにーさんって、私のご主人様の友達だから」

「……ま、こんなとこの妖怪とまで友達になってるのは月見さんらしいわね」

 

 それはともかく――なぜお燐がここまでこちらの身を案じ撤退を勧めるのか、さすがの霊夢といえども気に掛かった。なにかあったら月見に申し訳ないからと口では言っているが、本当にそれだけか。そして、お燐にここまで言わしめる黒幕の妖怪とは一体何者なのか。

 確かに天子が言った通り、この異変、なにかがおかしい気がする。

 けれど、

 

「じゃ、ついてきて。ちょっと遠いから、飛ばしていくよー」

 

 関係ない。お燐がなにを隠しているとしても、黒幕が誰であるとしても、勝てばいい。勝てばぜんぶが丸く収まる。勝てば霊夢があの夏の異変から前に進んだということであり、勝てなければなにも変わっていなかったということである。

 これは、必要なことなのだ。霊夢が、未だ心の奥底に巣喰うあの夏の記憶を、乗り越えるために。

 この異変にかける想いは、きっと魔理沙と一緒のはずだ。隣を見ると、彼女はすべてわかっているかのように帽子の鍔を握り、ニッと笑った。

 頷き合う。お燐の背を追いかけ、空へ躍る。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もしかすると自分は、人と比べて結構押しが弱い性格だったりするのだろうか。どうも、自分がなにを言ってもわかってくれない頑固な相手を前にすると、引いてはいけないはずなのに気がつけば折れてしまっている自分がいる。

 はじめここに来たときも、そうだった。

 

「……ここだよ」

 

 お燐がやってきたそこは、旧地獄の端の端、遠すぎて普段は寄りつく者すらいない僻地にある巨大な縦穴の真上だった。何度見てもとにかくデカい。穴の周縁を走って回るだけでも数分は掛かるはずだ。おまけに、覗き込んでみればずっと底の方で炎が揺らめいていて、相当な深さを持っていることもわかる。気を緩めればその瞬間に真っ逆様になりそうな心地がする。

 周りの景色も随分と変わっている。旧都があるあたりはなだらかな平地だが、ここまで来ると赤茶けた岩肌があちこちで隆起し山のように連なった、峡谷とも呼べる地形になっている。今はもう見る影もないけれど、昔はそこかしこの岩場に血の池地獄があり、谷の底では血の川が流れていたのだ。そしてこの巨大な穴もまた、あるひとつの地獄へと通じている。

 

「……なによここ」

 

 折りよく霊夢にそう問われたので、お燐は答えた。

 

「灼熱地獄に通じてる穴さ。もっとも、今はもう使われてないけどね」

 

 ただし、この回答には少しばかりの語弊がある。あたかも昔からこの場所に存在している穴であるように聞こえるが、実際はここ最近になってできたばかりのものだ。そう言われなければ気づきもしないだろうが、穴の形は随分といびつで、地獄政策の一環で掘られたというより、なんらかの事故で突如として崩落したもののように見える。

 そして正確に答えるなら、これは与えられた力を上手く扱えなかった『彼女』が、意図せずして崩壊させてしまった穴なのだ。

 魔理沙が、不気味そうに体を抱いて身震いした。

 

「……その割には、案外熱いんだな」

 

 彼女の言う通り、穴の底からは体にまとわりつくような熱気が立ち上がってきている。

 

「この下に、間欠泉の原因になった妖怪がいるよ。……熱を操る力を持っててね。そのせいで、ここいらの灼熱地獄が活性化してるのさ」

「ふうん……じゃあ、そいつを懲らしめれば間欠泉も落ち着くってわけね」

「そういうことになるかな。一応」

 

 ――倒せれば、だけどね。

 二人が強い人間なのは知っている。藤千代と勇儀を同時に相手して勝てるやつなんて、たとえ弾幕ごっこであってもお燐ははじめて見た。

 だがここから先は、ちょっとばかり、そういう次元の話ではなくなってしまう。

 

「……最後の確認だよ、おねーさんたち。あたいは、危ないからやめた方がいいって本気で思ってる。その上で、どうしても行くんだね?」

「……ねえ。あんたさっきからやけに私たちのこと心配してくれてるけど、この先にいるのってそんな危ない妖怪なの?」

 

 まあ、それもあるといえばある。『彼女』は確かに、今は危険極まりない強大な力を持っているけれど。

 でもそれよりも、本当の意味で危険なのは。

 

「危ないのは、むしろこの先の環境かな。この時点でこれだけの熱気が噴き上がってきてる。だから当然、この下はもっと暑い。……人間って、寒いのにも暑いのにも弱いでしょ?」

「ああ、なるほどね」

 

 人間の体は非常に軟弱で、気温がほんの三十度を越えただけでも日頃の生活に大きく支障を来すという。灼熱地獄育ちのお燐からすれば到底信じられない話だ。なので霊夢たちがこの下に下りていったら、黒幕と出くわす前にぶっ倒れるんじゃないかと結構本気で疑っていたりする。

 

「……まあそれは、実際に下りてみてから考えようかしら」

「そうだな。ここであれこれ考えても意味ないし」

 

 そして、もうひとつ。

 この先で霊夢たちを待ち受けている妖怪は、もしかすると――。

 

「……」

 

 いや、言うまい。言ったところでどうにかなる問題ではないし、確証だってない。変に彼女たちを不安がらせるようなことは言わないでおこうと思う。

 だって、もしかすると、この二人は本当に勝ってしまうかもしれないのだから。それは決して根本的な解決にはならないけれど、お燐にとってはそうマズくない展開だった。お燐の理想は、さとりにも、藤千代にも、旧都の誰にも知られぬままこの事態を収束させることだ。月見が行方知れずな今、この人間に懸けてみるのも悪くはないかもしれない。

 

「んじゃ、とりあえず行きましょうか」

「おっけー」

 

 勝ってくれれば御の字。

 もし負けたとしても、そう大した話ではない。

 

「……気をつけてね」

 

 穴の底へ消える二人の姿を見送りながら、お燐は自分にだけ聞こえる声で、ぽつりと言う。

 

 

「――どうなっちゃっても、知らないから」

 

 

 忠告は再三したのだ。だから彼女たちがどうなろうと、ここから先は自己責任。

 火焔猫燐――種族は火車、趣味は死体集め(・・・・)

 生きている人間に、実のところ興味はない。

 人間ひとりふたりがどうなろうと、結局のところ、彼女はなんとも思っていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そしてその頃の月見はといえば、山を下って紅魔館にいた。

 

「――よーし、行くよみーちゃん! おくれないでよねっ」

「それはこっちのセリフだよくーちゃん!」

「うわっ! ま、また来ましたね妖精ども! いい加減ここ襲うのやめてってば!」

「……」

 

 なぜか地上の妖精を率いて紅魔館に襲撃をかける、『みーちゃん』と『くーちゃん』を発見していた。

 

「あたいたちも負けないわよーっ! ついてきなさいフラン!」

「はーいっ」

「ん!? あれっ気のせいですかね、なんか妖精たちの中に妹様の姿が」

「気のせいじゃないよー♪」

「ですよね――――――――ッ!? ちょっと待ってください妹様がそっちつくのは反則だばばばばばばばば」

「…………」

 

 妖精連合+フランの弾幕攻撃で袋叩きにされる門番を、菩薩みたいな目で眺めていた。

 

「つっ、月見さん助けっ……! ほっほら、かわいい門番のピンチですよーっ!? あっ待ってみんなやめぶぶぶぼぼぼぼぼぼぼぼ」

「……はあ」

 

 ――まあ、そんなことだろうとは思っていたが。

 たとえ異変が起きているさなかであっても、幻想郷はやっぱり、本日も極めて自由気ままなのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑤ 「神喰らい」

 

 

 

 

 

 志弦が幻想郷に移り住んでよかったと思うことのひとつに、学校に行かなくてよいというのがある。

 高校がないのだから当たり前だ。それどころか大学だって、専門学校だって中学校だって小学校だってなくて、唯一あるのは寺子屋と呼ばれる私塾の類だけ。更には第二次・第三次産業が未発達なせいか就職活動という概念すら希薄で、若者はみな家業を継ぐのが基本とされている。

 つまりなにが言いたいのかというと、幻想郷の住人となった志弦はもはややりたくない勉強をやる必要などなく、守矢神社という働き口を見つけた以上は就職活動の荒波に身を揉まれることもないのだ。

 外で生活していた頃は、霊感体質もそうだが大学受験や就職活動といった、『将来への漠然とした不安』というやつにいつも心を苛まれていた。しかし、幻想郷にやってきてからそれが綺麗さっぱり解消された。お陰で志弦はもう、将来への不安を割かし感じることなく気ままな幻想郷ライフを満喫しているのだった。

 

「よーし、じゃあ今日のお勉強始めるよー」

「あーい」

 

 とは、いえ。専門の教育機関がないといっても、それがそのまま「なんの勉強もしなくていい」なんて都合のいい事実に直結するわけではない。人生とはすなわち、生涯をかけて学び続けることだ。守矢神社で居候する志弦に目下与えられた仕事は、早苗の諸々のお手伝いと、早く一人前の巫女になるための勉学なのであった。

 神道とはなにか。神とは、そしてその神に仕える巫女とはどういったものか。講師はその日によってまちまちだが、一日でだいたい一~二時間程度はこの座学に当てられる。本日の講師は諏訪子だった。神奈子は留守で、早苗は隣でお茶の準備をしてくれていた。

 秋までは青空教室というのも珍しくなかったが、冬になってからは母屋の炬燵でぬくぬくしながらやるのが常である。志弦の向かい側で、諏訪子が気持ち年上ぶった顔をしながら言う。

 

「じゃあ今日はねー、……あれ? なにやるのか忘れちゃった」

 

 かわいい。

 横から早苗が苦笑混じりで、

 

和御魂(にぎみたま)荒御魂(あらみたま)ですよ、諏訪子様」

「そうそれ! 私たち神の魂は二つの側面を持っています! それが、和御魂の荒御魂なのです!」

「あー、聞いたことある」

 

 具体的には、昔観ていたアニメでそんな言葉が出てきていた。まだ幼かった自分にとっては響きがカッコよかったので、頭の片隅でこっそりと覚えていたのだ。そういえば、和御魂と荒御魂の他にも二つほど種類があった気がする。

 

「もしかして、もう二つくらい似たような言葉があったりしない? なんだっけ……くしみたま? さきみたま? とか」

「へえーすごいね、そこまで知ってるんだ!」

 

 当たっていたらしく、諏訪子が長い袖をこたつの上でぱたぱたさせた。かわいい。

 志弦が幻想郷に移り住んでよかったと思うことのもうひとつに、みんなかわいいというのがある。例えば、目の前の諏訪子という幼女神。もちろん見た目はまんま幼女なのだが、曲がりにもウン千年を生きている由緒ある神様なので、品もなくぎゃーぎゃー騒いだり泣いたりすることのない、『子ども』のいいところばかりを取って集めたような女の子である。言うことやることがいちいちかわいくて和む。こんな幼女に勉強を教えてもらえるなんて、一部の紳士な人たちにとっては喉から手が出るほどのご褒美に違いない。

 他にも、紅魔館のスカーレット姉妹であったり霧の湖の妖精たちであったり、幻想郷にはいい意味で幼い女の子が多い。水月苑で彼女らと出会うたびに、志弦はいつもほっこりとした気持ちにさせられている。彼女ら小さな女の子が、月見のような優しい大人の男性にじゃれたりなんだりしている姿は、思わずため息が出てしまうくらいに微笑ましいのだ。

 かわいいのはなにも小さい子どもだけではない。外の世界でいえば中~高校生くらいの少女たちだって、それ以上の女性たちだって、志弦が笑ってしまうくらいにお顔のレベルが高い。正直、祖父を以てして「生まれる性別を間違えた」と言わしめる志弦だけれど、女でよかったと今では心の底から安堵していた。もし志弦が男だったら、思春期真っ只中の青少年だったら、とてもではないが幻想郷生活を満喫することなんてできなかったと思うのだ。みんなかわいすぎて、いろいろな欲望を抑えられなくなるという意味で。

 外の世界の青少年たちよ、みんなは幻想入りなんてしてはいけない。生きることに絶望したりせず、勇気と希望を持って自分たちの世界を生き抜いてほしい。

 ともあれ。

 

「一霊四魂、ですね」

 

 横から、早苗がお茶を出しながら補足してくれた。ところでこの少女、外の出身なのに幻想郷の女の子たちとタメを張れるほど顔がいい。彼女は神の血を引く『現人神』なる存在らしいので、志弦のような普通の人間とは格が違うのかもしれない。普通って辛いね、じっちゃん。

 ……ともあれ。いい加減授業に集中しよう。

 

「いちれーしこん?」

「元々は和御魂と荒御魂の二種類だったんだけど、江戸時代以降になると、そこに奇御魂(くしみたま)幸御魂(さきみたま)の二つを加えた、『一霊四魂』っていう考え方が広まったの」

「私はあんま好きじゃないけどねーその考え方。なんでも細かく分類しようとするのは人間の悪い癖だよ、まったく覚えにくいしややこしい」

 

 志弦は苦笑した。志弦も今までの学校の授業で、「なんでこんなに種類多いんだよ……」と頭を抱えた覚えは何度もあった。古文の活用形とか、化学の周期表とか。

 

「それに一霊四魂は、どっちかっていうと神よりも人間の魂に焦点を当てた考え方だからね。今回は触れないよ」

「そうなんだ」

「そうなんだよー」

 

 かわいい。

 

「というわけで、まずは和御魂ね。漢字で書くと……こう」

 

 諏訪子が紙に『和御魂』と書いた。小さな外見にとてもよく似合う、勢いがあって元気な字だった。

 

「これは、神が人間に恵みと加護を与える働きのことだよ。要するに『優しい魂』だね」

「ふむふむ」

「で、荒御魂がその逆。神が人間に試練や危害を与える働きのことで、要するに『怖い魂』だね。神の御魂は、みんなこの二つの側面を持っているのです。……あ、漢字はこうね」

 

 なんとなく、頷ける話だった。例えば和御魂。神様は神社に祀られる大変ありがたい存在であり、毎日多くの人々がお参りをし願い事を祈っている。それはまさしく、神様の『優しい魂』にあやかろうとしているわけだ。

 一方で、荒御魂。神様は悪い人間にバチを与える。『神の怒り』や『神の祟り』といえば、小学校くらいの子どもでも、漠然と「なにか恐ろしいことが起こる」程度の認識は持っているはずである。まさしく、神様の『怖い魂』というわけだ。

 

「神様ってことは、諏訪子にも荒御魂はあるんだ」

「あるよー」

 

 炬燵の上に突っ伏しながら、諏訪子はふにゃっと笑った。

 

「私の荒御魂は怖いよぉー」

 

 かわいい。

 そんなかわいい諏訪子の荒御魂を想像してみる。楽しみに取っておいたお菓子を神奈子に食べられてしまい、「神奈子のバカ――――――――ッ!!」と涙目でぷんすかしていた昨日――は、さすがに違うと思うが。

 

「どんな感じなの?」

「んー……」

 

 諏訪子は少し唇をとんがらせて考え、それからまた笑った。ただし今度は、「ほくそ笑んだ」とも表現できそうな得体の知れない笑みだった。

 

「――神の荒御魂ってのはね、要は災害みたいなもんなんだよ」

「さ、災害?」

 

 思いがけず物騒な言葉に志弦は目を丸くした。

 

「そう。人間じゃあどうにもできないもの。風の神なら大嵐、地の神なら地震、海の神なら津波、五穀豊穣の神なら大凶作。もし本当にそんなのが起こったら、人間はただじっとするか逃げるかして、無事に終わってくれるのを待つしかないよね」

 

 志弦は頷くことしかできない。

 

「神奈子は風と雨と山の神だから、大嵐かな。人里の家がことごとく吹っ飛んで、あちこちが水没して、この山では土砂崩れが起こる。きっと何百人も死んじゃうね」

「……、」

「私は山の神だけど、祟り神を使役したりもできるからねえ。地震も凶作も起こせるし、疫病だって蔓延させられるよ。今はもう諏訪から離れちゃったし、昔と比べればだいぶ力も落ちたけど――それでも結構殺せると思うなあ」

「…………、」

 

 沈黙。

 早苗が慌てて、

 

「諏訪子様っ、怖いです怖いです! 志弦が固まっちゃってます!」

「う? あ、ごめん」

 

 改めて思い知る――この少女はかわいらしいナリをしていても、間違いなく怪力乱神の力を持った神様なのだと。「結構殺せると思うなあ」と彼女が言ったとき、蛇に睨まれた蛙のような、背筋どころか心臓まで凍りつく強烈な怖気を感じた。背中に変な汗をかいているし、顔の筋肉がひきつっている。

 諏訪子の笑みが、にぱっとあどけないものに戻る。

 

「大丈夫だよー。荒御魂が暴れるなんて、よっぽどのことがない限りはありえないしね」

 

 その『よっぽど』が今後一切起こらない保証はどこにもないわけで。

 

「だ、大丈夫よ志弦っ! 神様の荒御魂を鎮めて和御魂に変えてあげるのも、私たち巫女の大事な役目だもの!」

「早苗師匠っ……! あっし、一人前の巫女になれる気がせんとです……っ!」

「泣かないで!?」

 

 そういえば、荒ぶる神を鎮めるために巫女がその身を生贄にして――という展開はよく見かける気がする。……あれ? もしかして私、結構ヤバい職場に就職しちゃった?

 ぷるぷる震える志弦の思考を読んだのか、諏訪子が少し心外そうに、

 

「だから大丈夫だってば。災害クラスの荒御魂を持ってるのは、私とか神奈子とか、一部の格の高い神だけさ。ほとんどの神は、今はもう大した力を持ってません。人間一人二人にバチを与えるのが関の山だよ」

「はあ……」

「ほら、人間の信仰離れってのが深刻だからね」

 

 炬燵の上に顎を載せて、しかめっ面をした。

 

「ここはまだマシだけど、外はもうほんとひどいよね。私らなんて、もう半分くらいは人間の奴隷みたいな扱いだもん。祈れば願い事を叶えてくれるとか、そんなわけないじゃん」

 

 ぷくーっと蛙よろしくご立腹する諏訪子に、志弦は曖昧な苦笑いを返した。そのあたりは、始めて間もない頃の授業で耳にタコができるほどみっちり叩き込まれた。神は人の願いを叶える存在では決してない、お賽銭は願い事を叶えてもらうために投げるのでは断じてない、願い事を言うなとは言わないけど日頃の感謝とか神拝詞とかもっとこうさあ、エトセトラエトセトラ。知らないことばかりで申し訳なくなった一方で、大変なのは神様も同じなんだなあと思い、でもそれって授業というより愚痴だよね、とも思ったものだ。

 

「でも安心してよ。志弦もこの頃は、私たちをちゃんと信仰できるようになったからね。この先どっかの妖怪が調子乗って暴れるようなことがあっても、私と神奈子が守って進ぜよー。正しく信仰してくれる正しい人間には、相応の加護を与える。それが和御魂なんだから」

「諏訪子っ……!」

 

 やだ、この幼女カッコいい。

 

「これからも諏訪子と姐御のこと、ちゃんと信仰しまっす!」

「うむ、くるしゅうないぞー」

 

 諏訪子が袖をぱたぱたさせた。かわいい。

 

「……さてと、ちょっと脱線しちゃったね。でも、これで和御魂と荒御魂についてはバッチリだよね?」

「うっす!」

「じゃあ次行くよー! ……あれ、次はなんだっけ? また忘れたー」

 

 ほんとこの幼女かわいい。

 早苗にあれこれ助け舟を出してもらっている様子を、微笑ましく見つめながら――けれど、志弦は心の奥底でふっと考える。

 もしどこかの神が――いや、なにも神だけに限った話ではない。強大な力を持つ人ならざる存在が、なんらかの理由で暴れ回ってしまったとき、この幻想郷ではどのような対処が為されるのだろう。

 スペルカードルールという決まり事があるとはいっても、本当にそれだけで上手く回るものなのか、まだ幻想郷に馴染みきっていない志弦はしばしば疑問に思っている。ルールに従わない悪いやつが相手だったらどうするのだろうか。言葉が通じなかったら。ルールを知らないやつだったら。ルールだとかなんだとか言う暇もない緊急事態だったら。

 外の世界では、日夜様々な事件が起こっている。不慮の事故であれ悪意の事件であれ、志弦の知らない場所でいつも誰かの命が脅かされている。警察があり自衛隊があり、法律と呼ばれるものまで存在するにもかかわらずそうなのだ。

 なら、幻想郷は。

 外と比べればずっとずっと狭い土地だけれど、年中(つつが)なく平和というわけではあるまい。志弦は、幻想郷が決して安全な土地ばかりではないのだと、幻想入りしたばかりの頃に身を以て学んでいる。

 例えばどこかの妖怪が暴れ回り、人の命を脅かすとしたら。スペルカードルールに従わず、暴虐の限りを尽くすとしたら。

 警察も自衛隊もいないこの幻想郷で、そのとき力なき人々を守るのは一体誰で。

 そして徒に命を脅かす悪しき妖怪を、誰が止め、誰が裁くのだろうか。

 

 志弦はまだ、幻想郷のことをなにも知らない。

 幻想郷の地下に、地底と呼ばれるもうひとつの世界が広がっていることも。

 そこで、二人の少女が戦っていることも。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 志弦が神社の炬燵でぬくぬくと暖かい時間を過ごしているとき、霊夢と魔理沙もまた冬の寒さとは無縁の場所にいた。

 ただし、こちらは『ぬくぬく』などという生易しい次元ではない。大きく深い穴を下りきってそこ(・・)に辿り着くや否や、霊夢も魔理沙も近年稀に見る盛大なしかめっ面をして仰け反った。

 灼熱地獄跡――今はもう使われていない場所だと、お燐とかいう黒猫からは聞かされたが。

 

「おいおい、これで使われてないとか嘘っぱちだろ……ガンガン燃えてるじゃんか」

「……このあたりだけ活性化してるっては言ってたけど、これは予想外ね」

 

 予兆はあった。穴を下る間も地下から濛々(もうもう)と熱気が込み上がってきていたし、炎が揺らめく色だって見えていた。しかしこうして穴を抜けきってみれば、広がった光景は霊夢の予想と比べ物にならないほど凄絶なものだった。

 火の海とは、きっとこういう景色のことをいうのだろうと霊夢は思う。

 そもそも、灼熱地獄がここまで広大な空間であることからして予想外だ。旧都へ戻る方角については、地平線の彼方まで延々と炎が広がっている。旧都と逆の方角については、山というよりもはや柱と呼ぶべき険峻な岩群がそこかしこにそびえ、天上の地盤を支えている。その先はやはり、轟々と燃え盛る炎で視界を閉ざされている。

 罪人の魂どころか、地底そのものを焼こうとしているのではないか。珠のような汗が止まらないのは、この火の海に原始的な恐怖を抱いたからではなく、単純に気温が高すぎるせいだ。緋想天の夏だってここまでひどくはなかった。冬用の巫女服を着ているのも災いし、体内の水分がまるで容赦なく吸い取られていく。この凄まじい熱気は紛れもなく灼熱であり、この凄まじい光景は紛れもなく地獄であり、『灼熱地獄』は間違いなく霊夢の眼前に広がっていた。

 

『す、すごい……霊夢、魔理沙、熱くない?』

 

 息を呑んだ様子で、陰陽玉から天子が問うてくる。熱くないもなにもすでに汗だくなのだが、あまりはっきりとこちらの景色が見えるわけではないと言っていたから、そこまではわからないのかもしれない。

 まあ、それはそれで都合がいい。余計なことは知られないままでいた方が、要らない心配をされずに済む。天子のことならすぐきっと、引き返した方がいいとか、月見に助けてもらおうとかうるさいだろうから。

 

「まるで蒸し風呂よ。……こりゃ長居はできないわよ、さっさと黒幕見つけて叩きのめさないと」

 

 こんな灼熱の中に居座ろうものなら、四半刻を待たずにぶっ倒れてしまう。頷く魔理沙もすっかり汗だらけで、顎の先まで滴ってきたそれを荒っぽく拳で拭った。

 

「だな。問題は、黒幕がどこにいるのかだけど……」

 

 霊夢と魔理沙は、どちらからともなく自然と同じ方角を見据えていた。

 剣山刀樹が如く急峻に入り組んだ、岩柱の森――その更に奥。頭上の穴を下ってくる最中から、ずっと不穏な気配は感じ続けていた。

 なにかが、いる。

 

「……なにかしらね」

「……さあ」

 

 普通の気配ではない。妖怪が、己の力を示すために妖気を放っているのとは明らかに違う。心臓が脈打つように、どくんどくんと胎動している。そのたびに霊夢の元まで届くのは、人間離れして異質で、同時に脂汗が浮かぶほど濃密な力と熱の波動だ。

 妙だった。

 

「……これ、もしかすると妖怪じゃないかもしれないわね」

「はあ? じゃあなんだってんだよ」

「神様」

 

 魔理沙が絶句した。

 

「勘だけど、そういう気がするわ。ちょっと神々しい感じがしない?」

「そう言われると……」

 

 しかし、彼女の顔には怪訝の色の方が濃い。

 

「いやでも、おかしいだろ。言われてみればそんな気もするけど、これはむしろ……なんていうか、禍々しいってか」

 

 魔理沙の言う通りではある。神々しいのはほんのわずかで、それ以上にこの気配は下手な妖怪よりも邪だ。八坂神奈子や洩矢諏訪子がまとう清澄な神気に触れ慣れている者であれば、神らしからぬ、と考えたとしても致し方ない。

 しかし、この禍々しさもまた世の神々が持つひとつの側面なのだ。確かに神は人間にとって救いの存在であるべきだが、すべての神がいつ如何なるときもそうであるとは限らない。神は古より多くの人間に恵みを与え救ってきた一方で、多くの災いをも与え命を奪ってきたのだから。

 正解を口にしたのは天子だった。

 

『荒御魂……だね』

「そうそう。さすがにあんたは知ってるのね」

 

 裕福な家の生まれで所謂英才教育を受けてきた天子は、天然そうに見えて実は意外と頭がいい。しかも彼女の生まれである比那名居家は、細かい部分は忘れたが神ともつながりのある一族のようで、神道にまつわる知識量なら霊夢をも凌ぎかねない有様だった。『天界からやってきた』という希少なステータスだけで人里の教師をやっているわけではないのだ。

 次いでアリスの人形が、

 

『一霊四魂、ね』

「あら、アリスも知ってるのね」

『い、一応……言葉だけだけどね』

 

 霊夢は素直に感心した。『一霊四魂』なんて言葉を知っているのは、霊夢のように神道の仕事をしている者か、天子のように優れた教育を受けた者か、もしくは一部の物好きくらいだろうに、それを外人のアリスが知っているのはすごいと思った。ほら見てみろ、魔理沙なんか「なに言ってんだこいつら」みたいな顔をしている。

 

「まあ要するに、神様にも穏やかな心と荒ぶる心があるってことよ」

「ほーん。で、それが荒御魂ってやつで、もしかするとこの気配がそうじゃないかと」

「そ。こういう神様の荒御魂を、祈祷とか祭り事で和御魂――穏やかな心に変えてあげるのが、私たち巫女の役目のひとつなのよ。知らなかったでしょ」

「おう、ぜんぜん」

 

 魔理沙だって幻想郷生まれの幻想郷育ちなのだから、魔術ばかりにハマってないでもっと日本のことを知った方がいいと思う。

 

「そういや、あの猫から黒幕のこと詳しく聞くの忘れたな。男か女かもわからん」

「いいんじゃない今更。これだけわかりやすい気配してるんだもの、行けばわかるわよ」

 

 早速行動を開始した。そびえる岩柱の間を抜け奥へと進む。飛べば少しは風で涼しくなるかと思ったが、打ちつけてくるのは熱風ばかりで余計汗がひどくなった。服の中がぐっしょりべたべたでもう最悪だ。早く水月苑に戻って温泉に入りたいなあ、なんてことをふっと思う。

 脈打つ気配が次第に近くなってくる。ここまで来れば霊夢も魔理沙も、この先で待ち構えているのが普通の妖怪だとは欠片も期待していない。霊夢たちが今まで解決してきた異変の首謀者は、レミリア・スカーレットという五百年を生きる吸血鬼であったり、西行寺幽々子という冥界の姫君であったり、伊吹萃香という伝説に名を残す鬼であったり、八意永琳という地球外生命体であったりと、普通とは言い難い大物ばかりだった。だから、どうせ今回も同じ類であろう。灼熱地獄に巣食う神らしき存在と言われても、霊夢にはさっぱり想像できないけれど。

 

「……近いわね。気をつけなさい魔理沙、そろそろ出てくるわよ」

「おう」

 

 脈打つ気配は目前だ。しかし、気配がデカすぎるせいで逆にはっきりとした位置を掴みづらい。辺り一帯が丸々覆い尽くされてしまっていて、前にも後ろにも、右にも左にもいるように感じられる。もう少し先へ進まなければならないのかもしれないし、ひょっとするとすぐそこの岩陰にひそんでいるのかもしれない。いつ不意打ちが飛んできてもおかしくないので、茹だる体に鞭打ち周囲へ気を配りながら、そびえる岩柱の森を進んでいく。

 事態が動いたのは、目の前の柱を躱そうと大きく左へ弧を描いた瞬間だった。

 少女がいた。

 

「うわ!?」

「うにゃあ!?」

 

 向こうもちょうど同じことをしようとしていたのだ。相手は驚くあまりほとんどなにもできないまま突っ込んできたが、霊夢は天性の反射神経に物を言わせてこれを辛くも躱した。文にも負けない、黒くて立派な翼を持った少女だった。

 しかし霊夢の後ろには魔理沙がついてきているわけで、

 

「おわわわっ!?」

「うにゃにゃにゃ!?」

 

 今度は魔理沙と激突一秒前である。魔理沙はもちろん、今度は少女の方もなんとか回避行動を取った。幸い躱す方向が被ることもなく、魔理沙は上に、少女は右に急激な方向転換をして、

 

「うにゃー!?」

 

 少女は判断を誤った。無数の岩柱が森と化してそびえるこの地帯では、横ではなく縦に回避を行うべきだった。もしくは、回避と同時に減速を行わなければならなかったのだ。だが不意を衝かれて気が動転していた少女にはできなかった。結果として彼女は、方向転換した先で屹立する柱に減速すらできないまま激突し、

 

「う゛み゛ゅっ!!」

 

 霊夢が思わず顔をしかめるくらい、とっても痛くて生々しい音がした。

 

「う゛に゛ゅ~……」

 

 ひとたまりもなかった。目を回した少女の体は自由落下を始め、木の葉のように宙を滑りながら、ほどなく灼熱地獄の火の海に呑まれて消えてしまった。

 

「「……」」

 

 霊夢と魔理沙は気まずくお互いの顔を見合わせ、同時に思う。――あれ? もしかして私たち、やっちゃった?

 少女が一人、火の海に落ちた。人間ならあっという間に焼け死んでしまうであろう、血も涙もない地獄の業火に。黒い翼を持っていたので妖怪と思われるが、ともかくそれが事実である。

 そういえばいつの間にか、あの心臓の脈打つような神の気配が綺麗さっぱり消えている。

 

『――れ、』

 

 誰しもが言うべき言葉を見失って沈黙する中、天子とアリスがようやく、

 

『霊夢、自首しようっ? 今ならまだやり直せるから!』

『魔理沙……いつかやるんじゃないかと思ってたわ。最後くらいは潔くあるべきよ』

「「いやいやいや」」

 

 霊夢と魔理沙はぶんぶん首を振る。灼熱地獄の熱さによる汗と、今の状況に対する冷や汗がふんだんに飛び散る。

 

「……え? ちょっと待って、この異変これで終わり? 冗談でしょ?」

『霊夢……信じたくないのはわかるけど、これが霊夢のやってしまったことなの。でも大丈夫、私は霊夢の味方だからっ。月見もきっとわかってくれるよ……!』

「待て待て待て、ま、まだそうと決めつけるのは早いだろ。こんなあっついとこにいる妖怪なんだし、案外炎に落ちても平気なんじゃ」

『魔理沙、自分の罪は素直に認めなさい。たとえ不幸な事故であっても、現実は覆らないわ』

「「だーかーらーっ!!」」

 

 魔理沙と二人揃って叫んだ、そのとき。

 予兆としてはまず、あの心臓の鼓動にも似た力の波動が復活した。ビリビリと肌が痺れるのを感じた霊夢と魔理沙が下を見た瞬間、たったいま少女を呑み込んだ灼熱地獄の火の海に、ぽっかりと穴が空いた(・・・・・・・・・・)

 

「……!」

 

 一言で穴といっても大小深浅様々だが、これはちょうど博麗神社の境内と同程度の大きさで、炎に包まれ影も見えなかった灼熱地獄の地表が剥き出しになる程度の深さだった。それだけの範囲で燃え盛っていた業火が、ほんの一瞬でちりぢりに消し飛ばされた。もちろん、霊夢と魔理沙に同じ真似は逆立ちしてもできない。

 少女。

 

「……うにゃー、びっくりしたぁ」

 

 面妖な出で立ちをしている。霊夢にも負けない大きなリボンを頭につけて、ぶつけたおでこを左手でさする姿はいかにも普通の少女らしく見える。しかしその右腕には、自分の腕より一回りも二回りも太く長い、神社のみくじ筒(・・・・)を引き伸ばしたかような棒状の木筒を装着している。広げた翼に合わせてマントが大きく広がり、そこには夜空めいた闇色の空間が縫いつけられている。極めつけには胸のところに、ぎょろりと紅い目玉がひとつ浮き出ているときた。

 その頭上では、霊夢の陰陽玉とは明らかに違う、まるで極小の太陽にも似た球体が光と熱を放っている。

 どう見たって普通ではない。

 だからこそ間違いなく、こいつが異変の真の黒幕なのだと確信できた。

 

「……ま、さすがにあれで終わっちゃうような雑魚じゃないわよね」

 

 ほっと胸を撫で下ろす――そのどこか片隅で、あれで終わってしまえばよかったのにと舌打ちしている自分もいた。実際に目の当たりにして痛感したのだ。あの黒猫が「怪我じゃ済まないかもしれない」と忠告したのは、霊夢たちを侮っていたわけでも、身内を贔屓していたわけでもなんでもなかったのだと。

 

「……魔理沙、腹括りなさい」

 

 魔理沙とて、今まで幾度となく異変を戦ってきた立派な実力者である。わざわざ言わずともわかっているだろうが、それでも霊夢は敢えて言った。

 

「――あいつ、普通じゃないわよ」

 

 大妖怪クラス。

 少なくとも対峙して感じる圧力だけなら、鬼子母神より下、されど旧都で出会った勇儀とかいう鬼より上。

 霊夢より一回り大きい程度でしかない体の内側に、なにか途轍もなく巨大な力を内包している。その『巨大』が果たしてどれほどのものかといえば、『あまりに巨大すぎて想像するのも馬鹿らしくなるくらい』だ。心臓の鼓動に合わせて、底なしの妖気がとめどなく外まで噴き出している。放たれた妖気は風となり熱となり、霊夢の肌を痺れさせ、更なる汗を生み体力を奪っていく。あの力は灼熱地獄そのものだ。眼下に広がる火の海すべてがあいつの体の一部であるように思えてきて、霊夢は静かな吐息とともに天を仰いだ。

 

『れ、霊夢……』

 

 この妖気が果たして向こうまで届いているのかはわからないが、天子も間違いなく只ならぬものを感じ取っていた。声がかすかに震えている。

 魔理沙が、口の端を思いっきり曲げて笑った。この力の波濤に呑まれまいと己を奮い立たせる、強がりな笑みだった。

 

「……いやー、どうしようなこれ。逃げちまうか」

「……残念、そうするにはちょっと遅かったわね」

 

 少女と、目が合った。

 

「ちょっと、そこの二人……!」

 

 少女が翼を真上に振り上げ、一気に叩きつけて強く羽ばたいた。日頃の文ほどではないにせよ、それに迫る猛烈な速度で空を躍り、瞬く間に霊夢の正面までやってきた。

 羽ばたくたびに、美しくも(とう)の火の粉が散ってゆく。その恐ろしくも幻想的な姿とは裏腹に、少女はぷんすかと幼らしく頬を膨らませて、

 

「いきなり危ないでしょ、こんなところになんの用――」

 

 その言葉が、最後まで行かぬうちに尻すぼみとなって消える。

 束の間、霊夢たちの姿を改めて見直すような沈黙があった。

 そして、霊夢にははっきりとわかった。

 目の前の少女から、感情と呼べるものがチリひとつ残さず消え失せたのだと。

 

「――人間」

 

 ぞっとするほど心の欠落した無の声音。なにをする暇もなかった。四方八方にただばら撒かれるだけだった少女の妖気が一斉に収束し、逆巻く暴風となって霊夢と魔理沙の全身に襲いかかった。

 

「……っ!」

 

 咄嗟に踏ん張らなければ、背後の柱に叩きつけられてしまいそうなほどだ。衣服が気でも狂ったような勢いではためき、玉の汗が流れた瞬間灼熱の空へさらわれていく。時折肌に当たる橙の火の粉が、刺すように痛い。

 なんて、荒々しい力なのだろう。気品と呼べるようなものはなにひとつとしてなかった。どこまでも苛烈で、底知れず凄絶で、限りなく暴虐な波濤だった。粗暴が服を着て歩いているような伊吹萃香ですら、その力には確かな鬼としての矜持が乗っていたのに、この少女にはそれすらもまるでない。

 あるのはただ、すべてを呑み込み焼き尽くそうとするような、黒い黒い憎悪の炎。

 なんて、凄まじくて。

 そして、哀しい、力なのだろうか。

 

「地上の、人間が」

 

 ぷんすかと可愛らしく頬を膨らませていたはじめの声音は、見る影もない。

 

「さとり様とこいし様の、住む場所を、奪った連中が」

 

 陰陽玉から天子が何事が叫んでいるが、まるで頭に入ってこない。

 

「一体、なんの用で、ここまで来たの」

「……」

 

 今しがた聞こえた二人の名が誰かは知らないが、どうやら少女は霊夢たち人間を恨んでいるらしい。なぜ、とは思わなかった。旧都は、地上で住む場所を失った妖怪たちが築いた都。であれば彼らがまだ地上にいた頃は、当然そういうこと(・・・・・・)もあったのであろう。むしろそう(・・)であったからこそ、決して少なくない数の妖怪が地上を去って地底に下ったのだ。

 少女が霊夢たちにこうして敵意を向ける理由は、まあなんとなく想像がつく。さしずめ、その『さとり』と『こいし』とやらを退治されかけたとか、そういったところだろう。

 だがそれは、霊夢にはまったく与り知らぬ、関係のないことである。

 答えるより先に、霊夢はまず息を吸った。まぶたを下ろし、静かに、深く。

 それから一言、端的に答えた。

 

「――迷惑なのよね」

 

 少女が眉をひそめる。霊夢は続ける。

 

「あんたがここで好き勝手やってるせいで、私たちのとこが結構騒ぎになってるのよ」

 

 少女もまた、端的に答える。

 

「そんなの、知らない」

「でしょうね。だから私たちがここに来たのよ、あんたを止めるために。……じゃあ、今度はこっちの質問に答えて頂戴」

 

 霊夢は一度言葉を区切り、射るように少女を見据えて問うた。

 

「あんた、なにを喰ったの(・・・・・・・)?」

 

 今度は眉をひそめたのは魔理沙で、少女は表情を微動だにもしなかった。

 

「そんじょそこらの神様じゃないわね。……たぶん、神話クラス」

 

 この灼熱地獄に下りたとき、霊夢が感じたのは荒ぶる神の気配だった。しかし蓋を開けてみれば、現れたのは妖怪――恐らくはこの地獄で死肉に群がる鴉の類――であり、感じていた気配も彼女のものだった。

 なぜか。その理由がこれだ。

 この少女は、腹の中に神を飼っている。

 

「……神様を、喰った? そんなことができるのか?」

「できないこともないわよ。普通は無理だけどね」

 

 要は神降ろしのようなもの。霊夢ら人間にもできることなので、妖怪にだってその気になれば可能である。

 だが、そんじょそこらの名もない神ならまだしも、神話クラスは文字通り格の違う存在だ。大妖怪ともなれば多少話は変わるだろうが、少なくとも地獄で罪人の死肉を貪っているような下級の妖怪にできるはずがない。故に少女が自力で神を喰らったとは考えにくいし、ただ喰ったのみならず、その力に呑まれることなく正気を保っているのはなおさら不可解だった。

 なにかカラクリが――或いは少女の面妖な出で立ちこそがその仕掛けなのかもしれないが、

 

「知らない」

 

 少女の答えは素気ない。

 

「そんなの、どうでもいい」

「いやよくないでしょ。ってか、なんの神様かも知らないで喰ったの?」

「この力で、私の願いは叶った」

 

 胸の前で、きつく左の拳を握る。

 

「だから、どんな神様だっていい」

「……そう」

 

 霊夢は肩を竦めた。まともな返事を期待していたわけではないが、ここまでにべもなく言い切られると問い詰める気も湧かなかった。

 

「私を止めにきたって、お前は言ったわね」

「あ、そうそう。というわけで覚悟しなさい、博麗の巫女である私が――と見せかけて、この白黒のお姉さんがお灸を据えてくれるわ」

「うん、ちょっと待って」

「今度はあんたがやるって約束だったわよねー。藤千代と戦ったときは二対二だったからノーカウントだし。さあ遠慮することはないわ思いっきりやってきなさいほらほら」

「いやーそんな約束してたっけかなーあはははは」

「じゃあ私は、ちょっと上に戻って休んでくるわねー。あーもう喉カラカラ」

「わーい私も水飲みたいなー」

「コラ待て逃げるな」

 

 さりげなく引き返そうとした魔理沙の襟首を、させるものかと引っ掴む。魔理沙はジタバタと見苦しく暴れた。

 

「嫌だ! 帰る! もう帰る! ここあっついもん! もうやだっ!」

「敵に背は向けられないとかカッコつけてたのはどこのどいつよ。さあ、思う存分あいつを消耗させて散ってきなさい。美味しいところはぜんぶ私がいただくわ」

「うわあああああん!!」

 

 誰がヤマメと戦うかを決めるじゃんけんで、霊夢のぐーを相手にちょきを出してしまった己が不明を恨むがよい。

 「ここは二人仲良く共闘だろ!? この裏切り者おおおおおっ!!」と涙目で暴れる魔理沙がちょっと面白くて、霊夢はほれほれと嗜虐心満点で彼女を生贄に捧げようとし、

 

『――霊夢、前ッ!!』

 

 気づくべきだった――目の前の少女から、完全に目を離してしまっていたことに。

 天子の怒鳴り声に耳朶を叩かれ、咄嗟に前を見る。少女が、右腕にはめた木筒をまっすぐ天へ掲げている。それ以上でもそれ以下でもなく、なにやってるんだこいつと不審に思った瞬間、

 霊夢の視界が白で潰れた。

 

「……っ!」

 

 少女の掲げた木筒が閃光を放ったのだ。それほど強い光ではなく、視界が潰れたのはほんの束の間だった。光が収まったのを感じた霊夢が再び前を見ると、灼熱の色に燃える光弾がひとつ、打ち上げ花火のように天へ昇っていっている。

 だがもちろん、天で花開くのは断じて火花などではない。

 

 天が、焼けた。

 

 その刹那、少なくとも霊夢は本気でそう思った。天の中ほどで炸裂した光弾は、火花ではなく炎そのもので岩盤だらけの空を包み込んだ。炎はまるで生きているような速度で燃え広がり、霊夢の頭上をあっという間に通過し、しかしやがて弧を描いて大地に向け降下を始める。

 気づいたときには、なにもかもが手遅れだった。

 炎が、消えていく。

 

「……あー、」

 

 霊夢は圧倒されるあまり、それしか言えなかった。――やられた。

 

『霊夢!? 霊夢、なにが起こったの!? 霊夢ッ!?』

 

 陰陽玉の向こうでは、これ(・・)は巨大すぎて視認できないらしい。耳元で、天子が癇癪を起こしたみたいに喚いている。

 霊夢はぽつりと一言、

 

「――結界。閉じ込められちゃった」

『……え!?』

 

 天を覆っていた炎が消えると、その奥から現れたのは白熱する光の膜だった。それが、周囲一帯を一分の隙間もなく完璧に封鎖している。果たしてどれほどの規模の結界になるのか、目測ではまるで想像もできないほど巨大な結界である。

 退路が、完全に断たれていた。

 

「う、嘘だろ、こんな」

 

 凍りついた魔理沙の顔は、「こんなデカい結界なんて見たことない」と震える口よりよっぽど達者に語っていた。

 

「……これが、あいつが喰った神様の力ってことね」

 

 視界を覆う白の結界から、言葉にならない強烈なプレッシャーがのしかかってくるのを感じる。あの結界がそれだけ強固なものであるという証左だ。試してみないことにはわからないが、私じゃあ破るのはキツいだろうなと霊夢は思った。火力自慢の魔理沙ならいけるかもしれないが、そう簡単な話でないのに変わりはなかろう。

 予想外だとは思わない。むしろ、これくらいはやってのけて当然なのだろう。少女が腹の中に飼っているのは、恐らくは神話にその名を残す、伝説級の神様であるはずだから。

 

「――さて。これで、晴れて腹を括るしかないわけだけど」

 

 霊夢は、前を見た。少女は深く俯いており、その表情はここからでは見えない。

 けれど、声は聞こえた。

 

「――博麗の、巫女」

 

 ぶつぶつと呟いている。

 

「さとり様を、退治しようとした」

 

 揺らめく炎のようだと、霊夢は思う。中身のない虚ろな声音には、だからこそ少女の感情が如実にあふれ出していた。

 

「お前なんて」

 

 それはまさしく、少女自身が炎と化して燃え盛る、黒い黒い憎悪の荒御魂。

 断言する。

 

「博麗の巫女なんて、大っ嫌い」

 

 この少女は、間違いなく、

 

「――私はお前を、絶対に許さないッ!!」

 

 今この場で、霊夢たちを排除しようとしている。

 少女が右腕の木筒をこちらに照準した瞬間、霊夢は魔理沙の首根っこを引っ掴んで真上に飛んだ。

 そうしていなければ、おしまいだった。

 

 霊夢の背後にそびえていた岩の柱が、完膚なきまでに砕けて爆ぜ飛んだ。

 

 凄まじいまでの暴風が巻き上がった。夏の台風だってここまでひどくはなかった。目を開けてもいられない衝撃に真下から煽られ、霊夢と魔理沙の体は放り投げられたように宙を待った。

 もちろん、ほんの束の間だ。霊夢も魔理沙も無意識に近い領域で術を制御し、崩れた体勢をあっという間に整える。

 しかしそのさなかで、不幸にも魔理沙の帽子がさらわれた。

 

「あ、」

 

 どうしようもなかった。爆風に乗った帽子はまさに飛ぶような速さで遠ざかっていき、魔理沙が追いかける暇もなく眼下の火の海に呑まれて消えてしまった。

 その突然の別れを惜しむ余裕もない。

 

「ちょっと、いきなりなにすんのよ!?」

「殺す気か!?」

 

 これぞ、人知を超越した神の御業――とでもいうべきなのか。

 神の力を凝縮して作り上げた、掌の上にも載せられようたった一発の光弾。

 それがこの威力だ。完璧に肝が潰れた。見れば天高くそびえていた岩柱の土手っ腹が、まるではじめからなかったかのようにごっそりと抉り取られてしまっている。分厚く巨大な岩の塊でさえあの有様なのだから、人間の霊夢たちに直撃すれば、どう考えたって無事では済まなかった。最低でも意識は持って行かれていた。そして『ここ』で意識を失うことはすなわち、つい今し方の魔理沙の帽子同様、灼熱地獄の業火に呑まれてお陀仏になることを意味している。

 それすらも理解していない、ただのお巫山戯だったとは言わせない。

 

「あんた、ふざけてんじゃないわよ!? スペルカードルール知らないの!?」

 

 スペルカードルールとは今の幻想郷で常識ともいえる決闘方式であり、『決闘』である以上は両者の合意がなければ成立しない。相手の準備が整わないうちに不意打ちを仕掛けるのはマナー違反だし、そもそも今の一撃は弾幕ですらなく、明らかな害意を持った攻撃だった。弾幕の撃ち方がわからないのか、実は呑み込んだ神の力を制御しきれず暴走しかけているのか、それともまさか、本当にスペルカードルールを知らないとでもいうのか。

 答えは、そのどれでもなかった。

 

「うるさいっ、うるさい!!」

 

 少女は耳を塞ぎ、首を振りながら吐き捨て、

 

「お前なんか……!」

 

 右腕を、刺し貫くように霊夢へ向ける、

 

「お前なんか……っ!!」

 

 単純明快な、拒絶だった。

 二度目の砲撃。今度は霊夢も魔理沙も同時に動いた。やはり間違いない――荒ぶる神の御魂に物を言わせ、途方もない力と熱を押し固めて作り上げた、ひと目見ただけで背筋も凍る光弾だ。ただ躱すだけでも相当肝が冷えたし、代わりに攻撃を受けることになった不運な地底の岩柱は、一度目同様粉々に砕けて爆散した。

 

「にょわーっ!?」

 

 再び襲いかかってきた爆風を、霊夢はなんとか踏ん張って耐えたが、魔理沙は耐えきれず素っ頓狂な悲鳴と一緒に飛ばされていった。ほうきから落ちそうになりながらも、なんとか体勢を整えて喚いた。

 

「れっれれれ霊夢サンよ、己の罪を正直に認めて魔理沙ちゃんに懺悔しろおっ! お前、あの鴉になにやったってんだ!?」

「し、知らないわよ!」

 

 霊夢は叫び返した。まるで心当たりがない。そもそも霊夢がこの地底にやってきたのは今日が生まれてはじめてだし、あの鴉と出会ったのだって間違いなく今日がはじめてなのだ。心当たりのある方がおかしい。

 陰陽玉から更に天子が、

 

『霊夢の嘘つきっ! 絶対許さないとか言ってたんだけど!?』

「だから知らないってば! 人違いじゃないの!?」

「はっきり『博麗の巫女』って言ってたんだから、人違いなわけないだろばかあっ!」

「じゃー教えてよ、今日はじめて出会った相手にどうやって恨まれろっての!?」

「やった方が覚えてなくても、やられた方ってのはいつまでも執念深く覚えてるもんなんだよっ!」

「冤罪よーっ!」

 

 少女が無言のまま霊夢たちに照準した。

 

「「ぎゃーっ!!」」

 

 三度目の砲撃。霊夢と魔理沙は逃げる。また岩柱が砕け散る。

 

「おい霊夢っ、土下座! 土下座して許してもらえ!」

「バカじゃないの!? 博麗の巫女が妖怪に土下座なんかできるわけないでしょ!?」

『私は、たぶん霊夢が悪いと思いますっ!』

 

 おのれこいつら。本当に霊夢の味方なのか。

 

『……ねえ、霊夢』

 

 口数少なく思考に耽っている分、見えるものが霊夢たちとは違っていたのだと思う。核心を衝いてきたのはアリスだった。

 

『ひょっとして、霊夢の前の代の巫女を言ってるんじゃないかしら』

「……あー」

 

 すとんと腑に落ちた。

 なるほど確かに、そう考えると筋が通る気がする。少女がいきなり攻撃を仕掛けてきたのは霊夢が博麗の巫女だとわかってからだし、なにより彼女は言っていた。「さとり様を退治しようとした」、「博麗の巫女なんて大っ嫌い」だと。

 博麗霊夢、ではなく。

 ありえない話ではない。霊夢が知らない遠い昔に、博麗の巫女が『さとり様』とやらを退治しようとしたせいで、博麗の巫女という肩書きそのものがこの少女から恨まれている――可能性としては充分ありうる。

 

『で、でも、それじゃあこれってただのとばっちりじゃ……』

「鴉だしな。鳥頭で、巫女はみんな同じに見えてるのかも」

「とりあえずあんたら、向こう戻ったら覚えときなさいよ」

 

 ため息。

 

「……ともかく、やるしかないわね。逃げ場もないし」

「ううっちくしょう、あの攻撃めっちゃ怖いよう……こんなことになるんだったら来るんじゃなかった」

「ここまで来たら一蓮托生よー」

 

 スペルカードルールを無視して、向こうからいきなり襲いかかってきたのだ。だったらこっちは二対一、いや、陰陽玉の天子とアリスの人形も数えて四対一の全力で迎え討つ。

 もはやそうする以外にない。

 結界で逃げ道を塞がれ、眼下が火の海で埋め尽くされた灼熱地獄なのだ。もし、万が一、負けてしまったら――。

 

「……」

 

 ――いや、よそう。

 霊夢はまぶたを下ろし、ゆっくりと大きく息を吸って、吐いた。戦闘のスイッチを入れる。混乱と焦燥で波立っていた心が静まり、感覚が研ぎ澄まされていく。

 

「……話は終わった?」

 

 聞こえた少女の声に、目を開ける、

 

「――?」

 

 気のせい、だろうか。そのとき少女の背後にそびえる岩柱の陰に、ほんの一瞬、なにか人影のようなものが見えた気が。

 しかし目を凝らしてみると、なんてことはない、そこには剥き出しの岩の塊があるだけだった。

 ちくしょーこうなったらやってやるー!! とヤケクソな魔理沙に気づいた様子はない。だから霊夢は、まあ岩の形を見間違えたのだろう、と一人で納得し。

 

 それがそのまま、勝敗を分かつ分水嶺となった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――まったく。どうしておまえたちは、そうじっとしてられないんだろうね」

「ぐおーっはなせーっ」

「はなせえーっ」

 

 失踪していた『くーちゃん』と『みーちゃん』を尻尾でぐるぐる巻きにし、月見はやっとこさ水月苑まで戻ってきた。

 随分と掛かった。この二匹、霧の湖まで飛んでいってそこの妖精たち――及び、ちょうど一緒に遊んでいたらしいフラン――と結託し、紅魔館に総攻撃を仕掛けていたのだ。妖精の大群+フランという圧倒的な戦力差を前に、弾幕ごっこが苦手な門番は為す術もなく殉職した。

 そしていよいよ月見も巻き込まれるかというところで、ニコニコ笑顔の咲夜が出現したため事なきを得た。うふふふふふと微笑みながらナイフを振るい妖精の大群+フランを撃破していく咲夜の姿は、人間にしておくにはもったいないほど逞しかった。その隅でボロ雑巾になっていた美鈴は、妖怪とは思えないほど情けなかった。

 もちろん、水月苑の庭はぐちゃぐちゃに荒れ果てたままだった。

 

「あ、旦那様ー」

「ただいま、ひめ」

 

 庭に降り立つと、すっかり復活したらしいわかさぎ姫が、いつものように池の水面から顔を出した。

 

「おかえりなさいませー。妖精さん、見つかったんですね」

「ああ、ようやくね。……みんな、ちゃんと留守番してただろうな」

 

 妖精たちの子守りはにとりと響子に任せて出たものの、あの二人では少々心許ない。それを補う意味で取りつけた『うるさくしたらおやつはなし』という口約束も、果たしてどれほど効果があったのやら。玄関を開けた瞬間ボロボロの屋敷が飛び込んできたっておかしくないと月見は腹を括る。

 と。

 

「……あの、旦那様」

 

 いつもおっとりなわかさぎ姫にしては珍しく、消えてしまいそうなほどか弱い声だった。事実、今にも不安と恐怖で押し潰さそうな顔の彼女を、月見は今日になってはじめて目の当たりにした。

 

「旦那様が留守の間に、お屋敷の方で……」

 

 妖精が好き勝手に暴れた程度でこうはなるまい。

 

「……ひょっとすると、その……大変なことに、なっているかもしれなくて……」

 

 月見は屋敷を振り向いた。なんの変哲もない、大きな図体の割にひっそりと大自然の中に佇む、いつも通りの水月苑の姿。

 静かだ。

 静かすぎる。

 そんなはずはない。この屋敷には何十匹もの元気いっぱいな妖精たちがいて、彼女らの世話で手を焼かれるにとりと響子がいるはずなのだ。会心のいたずらが成功して沸き立つ歓声。廊下を縦横無尽に走り回る音。必死に言うことを聞かせようとする怒鳴り声。賑やかすぎて目を覆いたくなるほどの喧噪が、外まで響いていたっておかしくないのに。

 なぜ、誰の声も聞こえないのか。

 なぜ、誰の姿も見えないのか。

 

 ――嫌な、予感がした。

 

 幽鬼のように迫り来る寒気。心臓が凍りつき、血の巡りが止まり、背筋が固まり、息が詰まる。月見はこの感覚を知っている。当然だ、前にもまったく同じ感覚に襲われたことがあるのだから。

 すぐ隣にあったはずの大切なものが、手の中から滑り落ちていく感覚。

 それは、あのときの。

 

 天子を失いかけた夏の異変と、同じだった。

 

 玄関の戸が開いた。顔を出したのはにとりで、彼女もまた、不安で押し潰される寸前の真っ白な表情をしていた。月見と目が合い、なにかを言おうと口を動かしかけ、

 

「――月見……ッ!!」

 

 ほとんど悲鳴に近い声だった。にとりを脇に押し飛ばし、薄く雪が積もった石畳で何度も何度も足を滑らせながら、まるでなにか恐ろしい怪物から逃げ惑うように。

 天子が、月見の胸に飛び込み、縋りついてきた。

 

「つくみっ……!! つくみぃ……っ!!」

 

 チリチリと、脳の神経が焼けている。

 天子は、泣いていた。同じだ。紫に斬られ、月見の腕の中で、なにも変われていなかった自分を悔いたあのときと。それは取り返しのつかない現実に打ちのめされ、無力な自分に打ちひしがれ、心を折られた、少女の姿だった。

 なぜ。

 その答えを持ってきたのは、『ひーちゃん』だった。お転婆でいたずら好きな妖精である彼女も、今だけはさすがに沈痛な面持ちをしていた。彼女が両腕で抱えて持ってきた、ただの置物に戻った(・・・・・・・・・)陰陽玉が、月見に否応なく、逃れようのない現実を叩きつけた。

 

「つくみ……!! どうしよう、つくみ……っ!!」

 

 天子は、月見の胸に押しつける顔を上げることすらできない。

 聞きたくなかった。或いは聞きさえしなければ、すべて自分の勝手な勘違いで済むと思っていたのかもしれない。

 

 

「霊夢が……! 魔理沙が……! やられちゃった……っ!!」

 

 

 しかし、やはり、それが現実だったのだ。

 

「もう、なにも、言ってくれないの……!」

 

 陰陽玉からは、もう、誰の霊力も感じない。

 

「も、もしかしたら。もしかしたら……!」

 

 霊夢と、魔理沙の、声は。

 

 

「――灼熱地獄に、落ちちゃったかもしれない……っ!!」

 

 

 二人の声は、もう、聞こえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑥ 「炎に落ちゆく」

 

 

 

 

 

 ただ、繰り返したくなかっただけなのだ。

 なのにどうして、よりにもよってこんな大事な時に限って、自分の行動はことごとく裏目に出てしまうのだろう。

 

 夏の異変がなぜあれほど辛い事件になったかといえば、すべてではないにせよ間違いなく月見の行動にその一端があった。軽い気持ちで異変の片棒を担いだ結果が、博麗神社の倒壊であり、紫の怒りであり、そして天子の涙だった。

 だから、もう無闇には関わるまいと思っていた。自分から興味本位で首を突っ込むようなことはやめて、静かに見守る。月見が妙な真似さえしなければかつての幻想郷がそうであったように、霊夢を始めとする人間たちによって何事もなく解決され、(つつが)なく宴会が催されて、冬の騒がしい一幕として終わっていくのだろうと。

 

 なのに、天が月見に突きつける現実はこれだ。

 

 霊夢と魔理沙が負けた。灼熱地獄に落下した疑いが強く生死不明。陰陽玉は灼熱地獄の業火に呑まれ、アリスの人形は敵の攻撃で完全に破壊された。二人の無事を、もうどうやっても確かめることができない。もう、どうすればいいのかわからない。なにもわからない。

 

「わからないよ、つくみ……! つくみっ……!!」

 

 そう天子は、月見に縋りついて、泣きながら吐露した。

 それを、月見はただ棒立ちで聞くだけだった。泣きじゃくる天子を落ち着かせることも、震える肩に手を置くことすらもできなかった。当たり前だ、そんな馬鹿げた話を信じられるはずがない。信じていいはずがない。

 あの二人が負けて、生死すらわからぬなど。

 弾幕ごっこにかけては月見などとは比べ物にならないほど強い、あの二人が。

 もちろん、そんなものはただの逃避でしかない。玄関から、今にも倒れそうな足取りでアリスが出てくる。元々肌は白い方だったが、今はそこから血の気すら失われ真っ白で、瞳の焦点は虚ろな宙を彷徨っている。その後ろを、にとりと響子が恐る恐るとついてくる。呼吸すら許さぬようなこの沈黙が怖いのか、妖精たちが玄関のところに集まって月見を見つめている。緩んだ月見の尻尾から『くーちゃん』と『みーちゃん』が逃げ出し、仲間たちのところへそそくさと飛んでいく。

 月見はようやく、縋りついて泣く天子の背に片腕を回すことができた。

 自問した。――自分は、ついていくべきだったのだろうか。地底なら土地勘があるし、知り合いもいるからと霊夢を説得して。そうすれば、こんな唾棄すべき現実を少しでも変えることができていたのだろうか。

 沈黙を破ったのは意外にも、陰陽玉を抱えて飛んできた『ひーちゃん』だった。

 

「あの、」

 

 自分で自分の声に驚いて口を噤む。しかし月見と目が合い、やがて意を決して、

 

「――ごめんなさい。わたしたち、遊ぶのに夢中ですっかり忘れてたの。お燐に頼まれて、あなたを呼びにきたんだって。助けてって」

 

 頭の裏で、カチリと歯車の噛み合った音がした。そして知らず識らずのうちに拳を握り、唇を噛んだ。

 はじめからこれは異変などではなく、人間が手に負うべきものでもなかったのだ。いま地底ではなんらかの重大な事件が起こっていて、偶発的かそうでないかはさておき、発生した間欠泉を利用してお燐が月見に助けを求めようとした。しかし不幸にも彼女の意図は実ることなく、地上からやってきたのはたった二人の人間だった。ただ二人とも、人間にしておくには勿体ないくらいの手練れだったから、もしかすると月見を呼ぶまでもないかとお燐は考えたのかもしれない。そして、結局、二人は勝てなかった。

 ようやく、声が出せた。

 

「――私は、地底に行く」

 

 この場にいる全員の視線が、一斉に月見を捉えたのがわかった。天子もむせび泣く声を止め、赤くなった瞳で月見を見上げた。

 今更、なのかもしれない。悪足掻きなのかもしれない。けれど今なら、まだなにかを変えることができるかもしれない。

 あの夏だって、そうだったのだから。

 このままなにもせずに後悔するくらいなら、月見は限界まで足掻く方を選ぶ。

 

「だから、お前たちはここで待」

「――嫌ッ!!」

 

 月見の胸に拳を落とすような、強くまっすぐな天子の声だった。

 

「私も、行く。連れていって」

 

 月見の襟元を握る彼女の掌は、まだ少しだけ震えていたけれど。彼女はもう、泣いてなどいなかった。

 息を呑むほど強い目をしている。この少女にこんな顔ができたのかと、月見は少なからず驚かされた。昔は傲岸不遜な女だったと本人は言うが、幻想郷に受け入れられてからはよく人を思いやり、時に嫌われまいと臆病な一面すらも見せる少女だった。

 その姿とはまるで違う。月見に喰らいついてでもついていく。それすらできないような自分なら死んだ方がマシだ――それほどまでの気迫を感じた。

 

「月見……私も、行くわ」

 

 アリスも同じだった。極度の引っ込み思案を患う彼女が、こんなにもまっすぐな瞳で月見を見るのははじめてだった。月見が胸に抱いている「今ならまだなにかが変わるかもしれない」という、ある種の天に縋るような思いとは訳が違う。

 この二人は、掛け値なしに、本気で霊夢たちが無事あると信じ、本気でその助けになるつもりでいる。霊夢らですら勝てなかった相手なのだ、地底へ向かえば自分だって無事では済まないかもしれない。中途半端な実力では、ミイラ取りがミイラになるだけ。二人だってそんなことはわかっている。わかった上で言っている。今の二人にとってはそんなもの、道端に転がる石程度の障害でしかないのだろう。

 月見はきっと、笑ったと思う。それほどまで霊夢と魔理沙を想う二人が。そして、それほどまで二人から想われる霊夢と魔理沙が。息が詰まるような月見の心に、わずかながらも確かな力を与えてくれた。

 頷いた。

 

「わかった。……ならすぐに支度だ。ひめ、悪いけど留守を任せていいか?」

「は、はいっ。この命に代えましても、お屋敷はお守りします!」

 

 わかさぎ姫は、水月苑を一体なんだと思っているのだろう。

 詳しく訊いてみたい気もしたが、月見はすぐに思考を切り替えた。そんなものは、ぜんぶが無事に終わってからゆっくりとやればいいのだ。作り置きしていた札を取りに、月見が屋敷へ足を向けようとしたその間際、

 

『――もしもーし、聞こえますかー?』

 

 その陽気な声が誰のもので、一体どこから聞こえてきているのか、誰しもが咄嗟には理解できなかった。

 

『……あれ、こうじゃないのかなー? 確かこんな感じで話してたと思ったんだけど……』

 

 ようやく、声の出処に全員の視線が集まる。

 ひーちゃんが抱えている、陰陽玉。

 当然、まっさきに天子が反応した。

 

『もしもーし、誰か聞こえてたら返』

「霊夢ッ!!」

『み゛ゃあ!?』

「ひゃあっ!?」

 

 ほとんど体当たりに近い勢いで陰陽玉まで詰め寄り、怒鳴ったのと大差ない大声で霊夢の名を叫んだ。そのあまりの剣幕にひーちゃんがひっくり返り、陰陽玉の向こうでも誰かが尻餅をついた音がした。

 霊夢の声ではなかった。天子は倒れたひーちゃんには目もくれず、転がった陰陽玉を拾い上げてなおも叫ぶ。

 

「誰!? 答えてッ!!」

『まままっ、待って待って落ち着』

「霊夢は!? 魔理沙はどこっ!? 答えなさいッ!!」

『うみゃー!?』

 

 月見がこの声の持ち主に気づくのと、ひーちゃんがお尻の雪を払いながら「この声って……」と呟いたのは同時だった。月見は後ろから天子の肩に手を置き、

 

「天子、代わってくれ」

「っ……月見」

 

 振り向いた天子は、陰陽玉を手放すのをひどく躊躇った。無理もない、今の彼女にはこれだけが霊夢たちの無事を知る頼りの綱なのだから。結局天子は陰陽玉を手渡すのではなく、月見の口元まで持ち上げるという形を取った。

 月見はそのまま話した。

 

「その声、お燐だな?」

『……あっ、この声はおにーさん! あーよかった、やっと話ができるよー』

 

 与太話に割くような余裕はない。単刀直入に問う。

 

「お燐、悪いけどまず教えてくれないか。霊夢と魔理沙――その玉を持っていた人間の女の子はどうした?」

 

 胃を押し下げるような重苦しい沈黙が満ちた。陰陽玉を持つ天子の指先に祈るような力がこもり、アリスが胸の前でぎゅっと両手を重ねた。

 そして、お燐は答えた。

 

『あ、そうそう。いやー、ほんと間一髪だったよ。私があとちょっと遅れてたら、二人とも灼熱地獄に落ちちゃってたんだから』

「……、」

 

 それは、つまり、

 

『二人とも、気を失ってはいるけど無事だよ。まあ、ちょっと火傷してるくらいかな? あと、軽く熱中症になってるかもしれないから、それはいま手当してるとこー』

「おっと」

 

 安心するあまり腰を抜かした天子が膝から崩れたので、月見は咄嗟に両腕で支えた。陰陽玉が雪の上を転がる。天子は折れた膝を立て直すこともできず、そのまま月見のお腹に顔を押しつけて、

 

「よかった……!」

 

 また押し寄せる感情に負けて、泣いてしまったけれど。

 

「よかったぁ……っ!!」

 

 二度目の涙は、もう、冷たくはなかった。

 

『で、この陰陽玉とかいうのは灼熱地獄に落ちてたのを――ん、どうかしたの?』

「……二人を助けてくれて、ありがとうだって」

 

 アリスも、涙こそ流してはいなかったけれど、憑き物が落ちた様子で胸を撫で下ろしていた。そんな二人を見たにとりと響子が、お互いを見合ってくすぐったそうに笑う。張り詰めていた空気が和らいだのを感じて、妖精たちの間にも安堵の感情が広がり始める。

 その中で陰陽玉の向こう側にいるお燐だけが、わずかな自責と後悔を感じさせる息遣いで笑った。

 

『あはは……どういたしましてって言いたいところだけど、あたいには、そんな風に感謝される資格なんてないよ』

 

 なぜ。

 いや、そもそも。

 なぜお燐は、霊夢と魔理沙を助けたのだろう。もちろんそれ自体は喜ぶべきことだし、お燐は地底の妖怪でもとびきり人懐こいからやりかねないと思う。しかし一方で、いくら人懐こいお燐であっても、知り合いでもなんでもない人間を善意で助けなどするのかという疑問が過ぎった。

 なによりお燐は火車で、人の死体を奪う妖怪。彼女が本当に火車であるなら、霊夢たちを助ける理由などないはずなのに。

 

『だって、この二人を灼熱地獄まで案内したのはあたいだもん』

 

 お燐は、言う。

 

『この二人じゃあ勝てないかもなあって、はじめから予想はしてたんだ。その上で案内した。それって、見殺しにしようとしたのと大差ないよね』

「……でも、あなたは、はじめは二人を止めようとしたわ」

 

 アリスが口を挟み、お燐は「そうだね」と短く答えて、

 

『でも結局は、案内した。それが事実だよ』

「……」

 

 アリスが閉口した。喉元まで出かかる思いはあるが、彼女はそれを上手く言葉にできないでいるようだった。

 実のところお燐と霊夢たちの間で如何なやり取りがあったのかは、月見にはただ推測するしかない。とはいえ、地底へ辿り着いた霊夢たちが偶然お燐と出会い、「異変の犯人を知っているなら教えろ」と強引に詰め寄ったのは間違いなさそうだった。それに半ば押し切られるような形になって、お燐は二人を灼熱地獄まで案内すると決めた。

 その結果として二人が負ける可能性を、充分に承知した上で。

 一方で、もしかすると、二人が勝ってくれるのではないかと期待して。

 

『でもやっぱり、二人ともおにーさんの知り合いだっていうから、なんかあったらやだなあって、どうしても吹っ切れなくて。こっそり後ろ尾けてって、戦ってるとこをずっと隠れて見てて……それで、今に至るってわけ』

 

 お燐が、緩く一息をついた。

 

『というわけで、二人は無事です。……それで本題なんだけどさ。この二人を迎えに来るついででいいから、あたいのお願い、聞いてくれないかなあ』

「ああ、わかった。……止めてほしいやつがいるんだな?」

『……うん。おにーさんも、よく知ってる(・・・・・・)妖怪。だから、おにーさんなら止められると思うんだ』

 

 たぶん、月見の予想は当たっていると思う。

 なぜお燐は、霊夢たちを灼熱地獄跡まで案内したのか。――そこに、止めてほしい異変の黒幕がいるからだ。

 その上で、月見がよく知っている妖怪なんて一人しかいない。

 灼熱地獄跡には、一体誰がいたか。月見はそれをよく知っている。灼熱地獄跡の温度調整を任されているという『彼女』が、地上の者たちに対しどんな感情を抱いているのかだって、身を以てよく知っている。

 彼女なら、異変を起こすだけの理由を持っている。そして黒幕が彼女だからこそ、お燐が(・・・)、月見に助けを求めた。

 導き出せる名など、ひとつしかないと――このとき月見は、なんの疑いを抱くこともなく確信していたのだ。

 

『お願い、おにーさん。――を、止めて』

「……は?」

 

 ――なのに、どうして。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 時をやや遡る。

 月見がまだ屋敷の外で妖精捜しをし、妖精連合の総攻撃で紅美鈴が二階級特進を果たした頃、霊夢は地底の空を見上げながら人生の意味というものについて考えていた。

 生きるとはすなわち、苦しむことだ。そう説いたのは、かの有名な仏教のひとつ、浄土宗である。

 人生はありとあらゆる苦しみで満ちている。それは例えば、死ぬ苦しみであったり、老いる苦しみであったり、病の苦しみであったり、憎み憎まれる苦しみであったりする。だから輪廻転生を繰り返しこの世を生き続ける限り、人は永遠の苦しみから逃れられない運命にある。人が救われる方法はただひとつ。死後に阿弥陀仏様の御力で救い取っていただき、来世で極楽浄土へと至ることだ――という、ある意味で人生全否定のトンデモ思想を炸裂させているのが浄土宗の教えなのである。

 極論ではあるが、的外れだとも言えない。人生は、確かに多くの苦しみで満ち満ちている。生まれた瞬間から死へのカウントダウンが始まっているし、人によってはそれが理不尽なほど速かったりする。病はおろか、ただ転んだだけでもかなりの痛みが伴うようにできている。壁に肘をぶつければ涙が出るほど痛いし、箪笥の角に足の小指をぶつければ死ぬほど痛い。食事を摂らないと餓死する上に、なにもしなくたってお腹が空くし、なにかをしたってお腹が空く。人の心は様々な欲望で満ちあふれていて、それをある程度は満足させてやらないとストレスで心身に異常を来す。本当に、人に課せられた苦しみは挙げ始めればキリがない。しかも浄土宗が興った中世はまだ人々の生活が豊かではなく、苦しみの数も重さも今とは比べ物にならなかっただろうから、人生を全否定し死後の救済に縋る者が現れたっておかしくはなかったはずなのだ。

 人生とはなにか。苦しみながら生きる意味とはなにか。高々十数年しか生きていない霊夢如きが、いくら考えたところでまさか真理を悟れるはずもない。

 もちろん、単なる現実逃避の類である。

 というか、ヤバい。頭がぼーっとしすぎて自分でもなにを考えているのかわからない。どうせ現実逃避するならもっと楽しいことを考えればいいのに、なんだ人生の意味って。なんだ浄土宗って。ウチは神社です。霊夢はぶんぶんと首を振った。

 現実に、帰ってきた。

 そこはやはり灼熱地獄で、隆起した岩肌が無数の柱となってそびえる地底の迷宮で、霊夢は溶けかけの蝋人形になりながら岩の陰に隠れていた。隣には同じような有様の魔理沙がいて、アリスの人形が、魔法で生み出した冷気の風を一生懸命に送ってきてくれていた。

 

『……二人とも、大丈夫?』

「……まあ、なんとかね」

 

 気遣わしげなアリスの声に、霊夢はにじむような苦笑を返した。本当に「なんとか」だった。頭がまだ半分ぼーっとしているし、体も随分と重苦しい。顔中が汗だらけで、巫女服が前も後ろも上も下もぐっしょりで、喉がカラカラに干上がっている。あまりにも多くの汗を掻きすぎたせいで、体中の水分が枯渇しているのだ。アリスの人形が送ってきてくれている冷気の風が、この状況では天使の施しのようにも思えた。

 完全に、甘く見ていた。

 横の魔理沙が、肩で息をしながら冗談めかして言った。

 

「……いやあ、参った参った。私ら人間って、ここまで暑さに弱かったんだな」

「……同感」

 

 人間は、高い気温の中で動き回れば汗を掻く。汗を掻けば当然、体から水分が失われる。それが限界まで近づけば眩暈や虚脱感の原因となり、やがては失神を引き起こす。

 知識としては知っていた。

 だが実際に体感する『高気温と発汗による体力の消耗』は、霊夢たちの想像よりもずっと悪辣で耐えがたいものだった。

 夏の異変だってここまでひどくはなかった。あれも暑い中での戦いではあったが、それなりに爽快な風が吹いていたし、天界は空の高いところにある世界だからか気温があまり高すぎなかった。加えて日頃の生活でも、炎天下でぶっ倒れそうになるほど動き回った経験なんて幼い霊夢と魔理沙にはまだなかった。だから、自分の限界というものを知らなかったのだ。それ故の油断だったと言わざるを得ない。

 灼熱地獄は文字通り非常に暑く、地下のほぼ密閉された空間であるため空気がこもっており、当然風は吹いていない。灼熱の空気が足から頭まで霊夢の全身を這い回り、戦いで動き回ったせいもあって、滝のような汗が片時も止まらない。

 もちろん、襟巻きと手袋なんてとっくの昔に投げ捨てている。

 正直、状況としてはかなりマズい。向こうが神の力を持っているとかそんなのはどうでもよくて、とにかく今の環境自体が霊夢の前に立ちはだかる最大の敵だった。いかに劣悪な環境かは前述の通りで、しかも、炎の結界により脱出は不可能という余計すぎるオマケまでついてきている。戦闘を始めてからまだそう時間は経っていないはずだが、今まで経験したどんな戦いよりも疲れていると感じる。

 まだ体力と精神力が尽きていないうちに、勝負を決めなければならない。

 

『――霊夢っ、来たよ!』

 

 上から天子の声が鋭く降ってくる。頭上遥か高くで周囲を警戒してくれていた陰陽玉が、敵の接近をいち早く察知した。

 

『正面右四十五度!』

 

 あの地獄鴉の気配は、バカでかすぎて逆に居場所を掴みづらいのだ。

 

「やっと、見つけたっ!」

 

 そびえる岩の柱をかいくぐって、地獄鴉の少女が霊夢たちを視界に捉えた。そしてその瞬間には右腕の木筒でこちらに照準し、熱と光のエネルギーを集約させ始めている。霊夢と魔理沙は全身に緊張を呼び戻し、向かってくる少女に真っ向から対峙する。

 アリスが送ってくれた冷気の風のお陰で、気分はだいぶ楽になった。

 

「――さて、んじゃあもうひと踏ん張りしますか」

「おー……」

 

 博麗の巫女の威信に懸けて念のため断っておくが、灼熱地獄の環境に体力と精神力を削られこそすれ、勝負自体は至って霊夢たちの優勢だ。向かってくる少女の衣服には、何発か弾幕が被弾し煤けた跡がはっきりと見て取れる。一方で霊夢と魔理沙は、汗だくであることを除けば無傷といってもいい。

 灼熱地獄そのものともいえる、強大な神の力を有しているのに。

 理由を述べよう。

 まずあの地獄鴉は、戦いに関して一切の議論の余地なくド素人だ。攻めが実に直線的かつ単純であり、戦略と呼べるものがなにひとつとして存在しない。毎回馬鹿正直に真正面から突っ込んでくるし、仕掛けてくる攻撃といえば、あの熱の光弾を馬鹿のひとつ覚えのようにぶっ放す程度でしかない。あいつは鴉だから鳥頭で、あまり複雑なことを考えられないのかもしれない。威力自体は驚異的の一言に尽きるが、決まって真正面から飛んでくるのだとわかっていれば、躱すのは妖精の弾幕よりも簡単だった。

 そして、もうひとつ。

 エネルギーを溜め終えてから砲撃に至るまで、なぜか若干のタイムラグがある。

 

「っ……」

 

 ほら、今だってまた。光弾を発射する直前に、少女がなぜか苦悶とも取れる表情を束の間だけ浮かべる。

 やはり直線で飛んできた光弾を、霊夢と魔理沙は上へ飛んで躱した。目標を外れた光弾は背後へ流れ、そこにそびえていた岩の柱を爆音とともに破壊する。灼熱地獄の天を衝くこの荘厳な形となるまで何千年と掛かっただろうに、それが一瞬で無価値な石塊(いしくれ)に成り果て、根本から呆気なく崩落していく。

 何度見ても、威力だけは驚異的だ。――威力だけは。

 霊夢と魔理沙はすぐに牽制の弾幕を放った。とにかく第一で避けるべくは、あの至極単純な砲撃すら躱せぬほどに距離を詰められてしまうことだ。逆を言えば彼我の距離さえ充分に保っておけば、向こうの攻撃は確実に躱せる。

 しかしいくら素人とはいえ、適当に弾幕を撃っていれば勝てるほど甘い相手でもない。地獄鴉が今度は左手にエネルギーを集中させ、目の前に輝く灼熱の球体を作り出した。はじめ陰陽玉と同程度の大きさしかなかったそれは、凄まじい熱を放ちながら膨張し、あっという間に少女の体を覆い隠す。

 それは言うなれば、触れるものすべてを焼き尽くす炎の障壁。少女に当たる軌道を描いていた弾幕は、すべてその球体に弾かれて消し飛んだ。球体が消えて再び姿を現した少女に、もちろん被弾した様子はまったくない。

 魔理沙が小さく舌打ちした。

 

「むう、向こうもだんだん慣れてきたっぽいな。この距離じゃあもう無理か……」

 

 彼我の距離さえ充分に保っておけば、攻撃は躱せる――それは、向こうにとってもほぼ同じことが言える。鳥頭でも当然学習能力はあるわけで、『目の前に球体を作り出して攻撃を相殺する』動きが、次第に地獄鴉の中で最適化されつつある。魔理沙の言う通り、この距離からでの有効打はもう期待できないだろう。

 だがそれはいい。元々牽制として撃った弾幕だ、足止め以上の効果は期待していない。

 霊夢は相方の名を呼んだ。

 

「魔理沙。次で勝負決めたいから、ちょっと協力して」

「……ん、なんか策でもあんのか?」

「ないんだったら言ってないわ」

 

 少女が木筒を構え、そこから光弾を連射する。霊夢と魔理沙はともに、少女の周囲を旋回する軌道で躱す。

 

「……そうか、わかったぜ。要するに、あの球体でも防げない全身全霊のフルパワーをブチ込めばいいんだな?」

「バカじゃないの?」

「なんでだよ。悪くない作戦だろ?」

 

 連射された光弾が次々と岩柱を粉砕し、灼熱地獄の景観を変貌させていく。

 

「あのねえ。使い手が素人でも相手は神様の力よ。私たちの全力でも打ち破れない可能性は考慮すべきだわ」

『もし全身全霊のフルパワーでダメだったら、あなたに戦い続けるだけの体力は残るのかしら』

 

 アリスの冷ややかな反論に、魔理沙はぐぬうと唸った。

 天子も同意する。

 

『やめた方がいいと思う。敵を倒して終わりじゃないもの。ちゃんと無事にこっちまで帰ってこないとダメだよ』

「ぬぬぬ」

 

 そう、ただ勝てばいいというものではない。戦いに勝つのは当然として、そのあと霊夢たちはこの灼熱地獄から脱出しなければならないのだ。勝負には勝ったが全身全霊を使い果たし、灼熱地獄から脱出できずに力尽きたのでは意味がない。

 大切なのは、できる限り少ない労力で勝つこと。

 そして、そのための糸口はもう見えている。

 

「あいつの土手っ腹に、ぶっ倒れない程度でマスパ撃って。あとは私がなんとかするわ」

 

 魔理沙は少しの間だけ、黙った。

 

「……いいんだな、それで?」

「ええ。思う存分サポートして頂戴」

 

 お互いまだまだ十余年を生きた程度の若い女だけれど、付き合いはもうそれなりに長いし、相手のことだってまあまあよく知っている。

 霊夢は魔理沙が、普段はどうしようもない無法者でも、本当に大事なところではしっかり空気を読む女であることを知っている。

 魔理沙は霊夢が、普段はどうしようもない面倒くさがりでも、自分の意志でやると言い切ったことはやる女だと知っている。

 だから、余計な言葉なんて要らなかった。

 

「んじゃいい。これ以上ないくらい完璧にサポートしてやるから、思いっきりかましてこい」

「はいはい」

 

 少女が光弾の連射を止めて距離を詰めようとしてきたので、霊夢と魔理沙はすぐに足止めの弾幕を放つ。それを、少女はやはりあの球体を展開して相殺する。

 

『……ねえ、霊夢』

 

 そのとき天子が、耳をそばだてなければわからないほど小さく霊夢を呼んだ。意識して口にしたというより、気づいたらこぼれ落ちてしまっていたような声だった。

 

「なに?」

『あ、えっと……その、戦いとはぜんぜん関係ないし、たぶん私の勘違いだと思うんだけど』

 

 飛んできた反撃の光弾を危なげなく躱し、霊夢はもう一度同じ言葉で問うた。

 

「なに?」

『……霊夢たちが戦っている、あの女の子って』

 

 こんなことを口にしてもいいのか――そう躊躇うような間が、少しだけあった。

 

 

『――なんだか、すごく辛そうな顔して戦ってない?』

 

 

 そんなのは、とっくの昔に霊夢だって気づいていた。

 神の力を使うとき、ほんの束の間ではあるけれど、少女の顔が決まって辛そうに歪む。それがわずかなタイムラグとなって攻撃を遅らせ、結果として『充分な距離さえ取っていれば妖精の弾幕より躱しやすい』という稚拙な攻めの原因となっている。強大な神の力は、それだけ体への負担も大きいのだ――その程度にしか考えていなかった。真実がどうであれ、生まれるタイムラグは霊夢にとって都合のいいものだったから。

 けれど、

 

『戦いたくて戦ってるようには、見えなくて……私だけ、かな』

「……」

 

 ――やっぱり、そうなのだろうか。

 一瞬だけ見えるあの辛そうな表情が、神の力による体への負担ではなく。

 望まぬ戦に身を投じる心の悲鳴を、表しているのだとしたら。

 

「ッ……もう降参して!!」

 

 砲撃を止めた少女が、耐え切れぬように叫んだ。

 

「この灼熱地獄で、お前たちに勝ち目なんてない! もう負けを認めて……っ!」

 

 気のせい、なのだろうか。無駄な抵抗はやめろ、などというありふれた降伏勧告ではなく。

 もうこれ以上、私を戦わせないでくれと。戦いたくなんてないのだと。嘆願しているように、聞こえるのは。

 少女は望んで神の力を手にし、望んでそれを振るい、望んで霊夢たちと戦っている――当然霊夢はそう思っていたし、疑いなんて露も抱いてはいなかった。

 それが今ここに来て揺らぐ。彼女はなぜ力を手にしたのか。なぜ戦っているのか。なぜそんな、張り裂けそうになる体を懸命にこらえるような顔で、負けを認めろなどと叫ぶのか。

 これではまるで、天子が起こした異変と同じではないか。

 今までの異変では、異変を起こした黒幕が問答無用で悪だった。だから、スペルカードルールに則った決闘で叩きのめしてやればそれでよかった。難しいことなんて、なにも考える必要はなかった。

 だが、今年の夏の異変は違っていた。天子は悪であり悪でなかった。望んで異変を起こしながらも、彼女は自らが犯してしまった過ちを悔い、その罪の重さに苦しんでいた。天子は決して、『倒すべき敵』ではなかったのだ。

 ひょっとすると、あの地獄鴉も同じなのではないか。

 彼女なりの経緯があって力を手にし、彼女なりの理由があって霊夢たちと戦い――けれど同時に、苦しんでいる。躊躇している。

 その経緯や理由を、霊夢に推し量れる道理などないけれど。

 

「――まあ待てって。その前に、人間様の悪あがきってやつを味わってみろよ」

 

 霊夢がなにかを言おうとする前に、魔理沙がそう啖呵を切っていた。

 

『魔理沙……』

 

 揺れる天子の声音に、振り向きもせずに返した。

 

「……まあ、私だってなんとなくわかってるよ。あいつがワケ有りらしいってことくらい」

『なら』

「だがそいつは、あくまで向こうの都合だろ。私らには私らの都合があるんだから、無理に合わせるこたぁない」

 

 そして、陰陽玉を見遣ってニッと笑った。

 

「天子、お前は月見に影響受けすぎだぜ」

『そっ、……そ、そうかな?』

「はいはいそこ照れるところじゃないわよー」

『て、照れてなんかないっ!?』

 

 嘘つけ。いかにも嬉しそうなテレテレ顔が目の前に見えるわ。

 アリスの人形が、

 

『照れてるわね』

『ち、違うってば! こ、これはその……ひ、光の屈折現象で! 目の錯覚で!』

 

 さて、おバカな天人は置いておいて。

 

「――バカ」

 

 少女の、小さな呟きが聞こえた。

 

「もう、……もう、どうなっても知らないから」

 

 なにかを断ち切るように首を振って、右腕の木筒を照準した。

 もちろん、天子の気持ちがわからないわけではないのだ。もしかすると今の自分たちは、夏の異変と同じで、やる必要のない戦いに身を投じているのかもしれない。仮にもっと、ゆっくりと互いを理解し合うような時間が前もってあれば、こんな争いなんてせずに済んでいたのかもしれない。

 だが、『今更』だ。こうして始まってしまったからには、どんな形であれ決着させなければならない。そして霊夢たちが負けるのは論外だから、やはりここは一度地獄鴉を止めるしかないのだ。

 放たれた光弾を躱し、霊夢と魔理沙はまさに阿吽の呼吸で動いた。霊夢は自分にできる限り、数に物を言わせたありったけの弾幕を展開し、魔理沙はミニ八卦炉に余すことなく魔力を注ぎ込む。豊潤な動力を得たミニ八卦炉が魔理沙の手の中で目まぐるしく回転し、魔力の光を火花のように散らす。

 合図なんて、要らない。

 

「――『マスタースパーク』ッ!!」

 

 弾幕は火力だ――そう謳う魔理沙の、代名詞ともいえるスペルカード。地獄鴉が使う神の力だって目じゃないくらいの極太レーザーが、霊夢の視界を一瞬で埋め尽くした。

 そしてそのときには、霊夢はすでに動き出していた。

 ――あの地獄鴉の少女について、ここでもうひとつ補足しておこう。

 馬鹿のひとつ覚えのように単純明快な攻撃から、少女は戦闘そのものにおいて明らかなド素人である。それは、攻めのみならず守りに関しても同じことが言える。少女はある程度密度の高い弾幕を撃たれると、いつも決まって回避ではなく迎撃を選ぶのだ。それだけ神の力に絶対な信頼を持っているのであり、一方で上手く躱せる自信がないから迎撃を選ばざるを得ないのだともいえる。

 どうあれ、霊夢の数に物を言わせた弾幕が逃げ道を塞ぎ、土手っ腹に魔理沙の強烈なマスタースパークが迫ってくるとなれば、少女に取れる選択肢はひとつしかない。

 

「……!」

 

 案の定、少女はその場に足を止めて迎撃を選んだ。目覚ましい速度でチャージを終え、目の前にあの灼熱の球体を作り出す。球体はあっという間に四倍五倍の大きさに膨れ上がり、霊夢の元まで届く凄まじい熱を放ちながら、迫り来る弾幕すべてを真正面から受け止める。魔理沙必殺のマスタースパークをも軽々相殺するその威力は、さすが神の力だと舌を巻かざるを得ない。幾度も攻防を繰り返して、少女はすでに確信していただろう――あいつらの攻撃は、これさえあればぜんぶ防げるのだと。

 それが隙だ。

 マスタースパークが、消える。

 

「……!?」

 

 いい加減、向こうも気づいたはずだ。霊夢の姿が、あるべき場所から消えていることに。

 そして自分の背後から、致命的な霊力の奔流を感じることに。

 地獄鴉が、驚愕で目を剥きながら振り返った。嘘、という顔をしていた。痛快だった。きっと、夢にも思っていなかったに違いない。

 弾幕がすべて、自分を足止めするためのただの囮だったことも。

 マスタースパークの死角に隠れて、霊夢が背後まで回り込んでくることも。

 霊夢の策は完璧にハマった。あの球体を出す暇は与えないし、この距離なら回避もさせない。そうでなくとも戦闘慣れしていない地獄鴉の少女は、予想外の事態に思考が凍って、振り向いたきり指一本も動かせないでいるようだった。

 あとは、霊夢が『夢想封印』を撃てばそれで終わる。そのための準備はすでに終わっている。

 だから霊夢は、素直に撃った。

 

「これで、終わりよ!!」

「っ……!!」

 

 そう。

 終わる、はずだったのだ。

 

 

「――そうだね」

 

 

 魔理沙でも、天子でも、アリスでも、霊夢自身でも、目の前の地獄鴉でもない。

 知らない声が、聞こえた。

 

「終わりだよ、ニンゲンのお姉ちゃん」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 完璧なタイミングだったはずなのだ。

 魔理沙渾身のマスタースパークと、霊夢の数に物を言わせた弾幕を囮にし、地獄鴉がそれらを頑張って防御している隙に背後へ回り込む――詰まるところ霊夢がやってのけたのはそういうことで、人からよく無鉄砲だと言われる魔理沙も今回ばかりはさすがに呆れた。一発もらったら終わりという桁外れの攻撃力を持つ敵に対して、自分から接近して背後を取りに行くなんて、頭の神経がイカれているとしか思えなかった。

 そして同時に、そんなイカれた作戦を完璧に成功させてしまう相棒を礼賛もした。彼女が勇ましく「これで終わりだ」と宣言したとき、魔理沙もまたこれで終わりだと確信していたのだ。

 そうなるはずだった。そうなるべきだった。

 なのに。

 なのに。

 どうして、

 

「――霊夢ううううううううぅぅぅぅぅ!!」

 

 どうして、墜ちているのが霊夢の方なのだ。

 霊夢の体が灼熱地獄に向けて落下を始めた瞬間、魔理沙の全感覚から、霊夢以外の一切の情報が消失した。この瞬間の魔理沙は、射命丸文すらも寄せつけない一筋の流星と化していた。(おびただ)しい魔力の雲を引きながら灼熱の大気を切り裂き、落下してきた霊夢の体を炎に呑まれるギリギリのところで受け止めた。

 もちろん、受け止めきれず落とすようなヘマだけはしなかった。けれど同年代の少女の体は魔理沙が思っていたよりもずっと重く、受け止めた瞬間ほうきの高度がガクンと落下し、灼熱地獄の燃え盛る炎で脚を焼かれた。

 

「っ゛……!」

 

 魔理沙の脚を、刃物で裂かれたような耐えがたい激痛が襲う。炎に直接体を焼かれると、感じるのは『熱い』ではなく『痛い』なのだと、魔理沙はこのときになってはじめて思い知った。

 気力と根性と意地ですべてを捻じ伏せた。

 

「――づあああっ!!」

 

 魔力を爆発させ、魔理沙は強引に上へと飛翔した。なんの意味もないかもしれないが、せめて少しでも身を守る思いで岩柱の陰に隠れた。幸い脚を焼かれた時間はごくわずかだったので、ブーツやスカートに炎が燃え移った様子はない。ただし、脚はひと目ではっきりとわかるほど赤くなっている。

 どうでもいい。どうせ死にはしない。

 それよりも。

 

「おい! おいっ、霊夢!!」

「っ……」

 

 抱きかかえた霊夢の耳元で叫ぶと、かすかながら反応が返ってきた。霊夢が苦悶に身をよじり、ほんのうっすらとまぶたを上げた。

 

『霊夢、大じょ――ひゃっ』

『霊夢!! 霊夢、しっかりして!?』

 

 肩の人形から一瞬アリスの声が聞こえたかと思うと、それを押しのけて悲鳴にも近い天子の叫びに耳朶を打たれた。そこで魔理沙はようやく、霊夢の傍らにあったはずの陰陽玉が消えていることに気づいた。

 ひょっとすると、術者である霊夢が攻撃を受けた影響で制御を失い、灼熱地獄に落ちてしまったのかもしれない。

 霊夢が消え入る寸前の声で呻いた。

 

「……天子、ありがとうね。あんた、ギリギリで結界張ってくれたでしょ? そうじゃなかったら、完全にやられちゃってたわ」

『そんなのどうだっていいからっ!! 誰!? 誰にやられたの!?』

「……お、おい、ちょっと待てよ」

 

 魔理沙は思わず口を挟んだ。だって、自分はしかとこの目で見ていたのだから。あれは完全に霊夢と地獄鴉の少女の一騎打ちで、不意を衝かれた少女は指一本動かせないでいたはずなのだ。この戦場に、あの少女以外の敵はいない。ならばあのタイミングで霊夢を攻撃できた敵なんて、誰もいなかったはずではないのか。

 だが、霊夢は言う。

 

「もう一人、いたのよ……あのとき私が見たのは、あいつだったんだわ。あいつ、ずっと傍で(・・・・・)、私たちのこと見てたんだ……」

「な、なに言ってんだよ、霊夢」

 

 意味が、わからなかった。

 霊夢の言葉を鵜呑みにするなら、はじめから敵は二人いたということになる。だがそんなわけはないのだ。最初から今までずっと、この灼熱地獄にいるのは魔理沙と霊夢と、あの地獄鴉の三人だけだったはずなのだ。

 

「天子、アリス、なにかわかるか?」

『わからない……! 霊夢、なにを見たの……!? なにがあったの……!?』

 

 天子の声音が悲痛と困惑で掠れている。アリスからの返事はなかったが、この状況でなにも言わないならば、その理由は推して知るべしだろう。

 

「気を、つけて。魔理沙」

 

 霊夢の指が、魔理沙の袖を掴んだ。ロクに開けることもできない瞳で魔理沙を見据え、懸命に言葉を紡ごうとした。

 

「あいつは。あいつの、力は」

「――無意識を操る程度の能力、っていうんだよ」

 

 魔理沙の心臓が、凍りついた。

 知らない少女が、目の前にいた。

 

「――は、」

 

 だれだこいつ、とそんな呑気なことを考えた。キャペリンとも呼ばれる鍔の広い深緑の帽子を被り、不自然なほど鮮やかな翡翠色の髪を揺らして、ニコニコと楽しそうに笑いながら魔理沙を見

 

『――魔理沙ッ!!』

 

 天子から人形を取り戻したアリスが、誰よりも早く反応した。

 そうでなければ、手遅れだったはずだ。

 アリスの人形が障壁を展開するのと、少女が弾幕を放ったのは完全に同時だった。障壁と弾幕が激突し、衝撃の余波で魔理沙の体勢が崩れる。いつもなら軽々と修正しているはずのわずかなズレが、霊夢を抱えたこの状況では命取りにも近かった。

 

「くっ……そおおお!!」

 

 ここまで全身の筋肉を総動員した日は未だかつてあるまい。体を鍛えるようなことは特になにもしていない魔理沙だけれど、『火事場の馬鹿力』というのはしっかり眠っていたようで、気がつけばどうにかこうにかバランスを立て直していた。

 しかし、同時に思い知る。ダメだ。人一人を抱えたこの状態ではまるで動けない。今はアリスが機転を利かせて防いでくれたが、次に弾幕を撃たれたら躱せない。

 思考が白熱する。

 マズい。

 マズすぎる。

 なにがなんだかさっぱりわからないが、霊夢がやられて、敵はもう一人いた。これが事実だ。間違いない。灼熱地獄の熱に浮かされて見た悪夢であればよいと願うが、まさかこのじくじくとした脚の痛みは嘘ではあるまい。

 とにかく、距離を取らなければ。

 

「うわわっ、びっくりしたー」

 

 まさか防御されるとは思っていなかった少女が、驚いて後ろに退がっている。霊夢が足枷となって自分から距離を取ることはできない。なら向こうに退いてもらうしかない。迷っている暇はない。このままなにもしなければ確実に負ける。負けたら終わる。

 弾幕。

 弾幕を。

 

 

「――こいし様に、手を出すなあああああっ!!」

 

 

 失念していた。

 声につられて魔理沙が上を見たとき、飛び込んできたのは、自分に照準を定め終えた地獄鴉の姿で。

 

「――あ」

 

 光。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 直撃を確認するなり、空はすぐさまこいしを抱えて後方に飛んだ。

 

「こいし様っ、なんで出てきた(・・・・)んですか!? 危ないじゃないですか!?」

 

 腕の中のこいしは頬を膨らませて反論する。

 

「あー、ひどいんだおくう。私が出てこなきゃ、おくう、今度こそやられちゃってたよ?」

「それは……そうですけどっ……」

 

 返す言葉もない。あのときこいしが能力を解いて(・・・・・・)出てきてくれていなければ、墜とされていたのは博麗の巫女ではなく自分だった。まんまと背後を取られ、なにもできないままやられそうになっていたのは素直に認める。

 だが、

 

「とにかく危険すぎます! あとは私がやりますから、下がっていてください!」

 

 こいしにこんなことをさせるために、空は力を手にしたのではない。

 

「それはいいんだけど……」

 

 しかしこいしはいまひとつ納得せず、至って純粋な目つきで空を見返した。

 

「ねえおくう、どこか調子悪いの? あんな人間、ほんとだったらすぐ倒せてたはずだよね?」

「っ……」

 

 ギクリ、とした。

 同時に思う。彼女が心を読む能力を捨てていて、本当によかった。

 

「まだ、能力、上手く使いこなせない?」

「……はい。まだ、少し」

 

 上手く笑えたはずだ。

 

「んー、そっかあ。なら仕方ないね」

「すみません。でも、あとは私一人で本当に大丈夫です。あの人間も、きっと今ので――」

 

 そのとき感じた『それ』を、空は的確な言葉で言い表すことができなかった。

 あとになって考えれば、所謂『殺気』というやつだったのだと思う。けれど妖怪の中でも割と平和な毎日を送ってきたと思われる空が、誰かから殺気を浴びせられたのなんてもちろん生まれてはじめてで、気がつけば全身が強張って身動きひとつできなくなっていた。

 わかったのはただ、自分に向けられるこの感情が、とてつもなく恐ろしいものであるということだけ。

 

「っ……!? おくう、後ろ!!」

 

 まだ、振り向けない。

 声が、聞こえた。

 

「――クソったれが」

 

 振り向いた。

 

 

 

 

 

 アリスの人形が身を挺して守ってくれた。魔理沙の代わりに地獄鴉の砲撃を受け止め、布切れのひとつも残さず燃え尽きてしまった。そうでなければ、今頃やられていたのは魔理沙と霊夢の方だった。

 アリスの人形はもういない。霊夢も完全に気を失ってしまったようで、魔理沙が抱くその体にまるで力が巡っていない。術者の霊夢がこうである以上は、制御から手放された陰陽玉が灼熱地獄に落ちたのも間違いないだろう。

 遂に、ひとりぼっちになってしまった。

 もはや歯車は、修復不可能なほどまで破壊されてしまっていた。もう、どう考えたって魔理沙に残された勝ち目はない。霊夢を抱きかかえたこの状態では機動力を大きく削がれるため、敵の攻撃を躱すことができない。かといって自分に張れる障壁程度では、強力すぎる神の力を防ぎきることもできない。加えて突如として現れたあの緑髪の少女は、どうやら姿を消す類の能力を持っていて、いつどこから襲いかかってくるかわからないときた。

 勝てるわけがない。

 

 ――今この瞬間を、除いては。

 

 魔理沙は、全身全霊、ありったけの魔力をミニ八卦炉に注ぎ込んだ。ミニ八卦炉が気でも狂ったような速度で回転を始め、異音を上げながら激しく火花を撒き散らす。このまま魔法を放てば、恐らくその瞬間にミニ八卦炉は負荷限界を超えて大破するだろう。

 製作者の霖之助曰く『山ひとつを焼き払える』という八卦炉の異様すぎる最大火力を、本当に使ってみた試しは実のところ一度もなかった。これが正真正銘のはじめてだ。どうなってしまうのかは、魔理沙本人にもまるで想像がつかない。

 構いやしない。今やらなければどの道同じだ。

 今ここで、敵をすべて薙ぎ払う。

 それができなければ、負ける。負ければ、終わる。

 もう、敵を倒したあとのことなんて考えない。

 いくら未来を心配したところで、『今』を乗り越えられなければなんの意味もないのだから。

 

「―― ファイナル 、」

 

 それは霧雨魔理沙という少女にできる、最大最強のスペルの宣言。

 今の自分に残された、切り札。

 

「 マスター 、」

 

 魔力を注ぎ込む中で苦笑し、先に謝っておいた。

 ――悪いな香霖。せっかく作ってくれた八卦炉、ぶっ壊しちまった。

 撃った。

 

「 ―― スパーク ッ!!」

 

 

 

 

 

 空の視界が、ただ一色の白で染まった。

 

「……!?」

 

 一体なにが起こったのか、空が瞬間的に理解できたのは奇跡に近い。それは視界を容赦なく埋め尽くす馬鹿デカい砲撃であり、回避という選択肢を根こそぎ奪い去る、人のレベルを超越した魔力の激流だった。

 生きた心地がしなかった。

 だってここには、こいし様が。

 

「くっ……!」

 

 考えている暇もなかった。こいしを背後へ突き飛ばし、今の自分にできる限界の速度でチャージ、ロクに照準もせずすぐさま迎撃を放つ。

 おくうの視界が、また別の光で隅々まで埋め尽くされる。

 激突した人の光と神の光は、一瞬の間拮抗した。

 一瞬だけだ。

 次の瞬間に押し込まれ始めたのは、神の光の方だった。

 

「そ、そんな……!?」

 

 目を疑った。ありえない。いくら満足にチャージを行う時間もなかったとはいえ、神の力がこうも安々と凌駕されるなんて。懸命に出力を上げ押し返そうとするも、迫り来る人の光はわずかにもその歩みを緩めはしない。

 神の力をも超える、人の領域を踏み外した一撃。

 直感した。――このままでは、自分も、こいし様も。

 

「おくう!! おくう、頑張って!!」

 

 せめてこの隙にこいしだけでも逃げてくれればと思ったが、最悪なことに、焦った彼女は空の腰にしがみついて応援することを選んでしまった。

 これで晴れて、目の前の砲撃をどんな手を使ってでも打ち破らねばならなくなった。

 

「っ……!!」

 

 だがどれほど空が出力を上げても、上げた分だけ人の光もその勢いを増し、一歩一歩と確実に距離を詰めてくる。信じられない。こんなの人が撃っていい攻撃ではない。まさかあの魔法使い、仲間をやられた怒りで我を忘れ、悪魔に魂を売り渡しでもしたのではないか。そうでもなければ説明がつかなかった。

 

「こいし様っ、逃げてください!!」

「やだ!! 諦めちゃダメ、おくう!!」

 

 本当に、古明地こいしという少女は優しい。そしてその優しさが、歯を砕くほどの焦燥となって空の全身を呑み込んでいく。

 どうすれば。

 どうすればこいし様を守れる。自分はどうなったって構わない。今ここでこいし様を守れるなら死んだっていい。焦燥の熱を燃料にして思考を白熱させる。押し返せるだけの力はもはやなく、回避できるだけの時間ももはやない。せめて我が身をこいしの盾にすることはできるが、そんなものに意味などなく、あの砲撃はきっとすべてを等しく呑み込んで破壊し尽くすだろう。

 光が、もう目の前まで迫ってきている。

 やられる。

 どうすれば、どうすれば、

 どうすれば、

 

 

 ――そのでっかい木筒は、『制御棒』っていってね。

 

 

 思い、出した。

 

 ――まあ簡単にいえば、力が暴走しないようにセーブしてくれるやつさ。

 

 空の右腕にはめられている、この大きくて邪魔ったらしい六角形の木筒。

 

 ――それを付けてれば、あんたでも制御できる程度の出力しか出せなくなる。

 

 これが、今の空の力を抑え込んでいる。

 

 ――力を使うときは、忘れずに付けるようにしてね。

 

 これを、外せば。

 

 ――いい、必ずだよ。ちゃんと頭の中に叩き込んでね。

 

 外、せば。

 

 

 ――じゃないと上手く力を制御できなくて、最悪は暴走しちゃうからね。

 

 

 そんなの、知るものか。

 守りたい人を、守ることもできないような神の力なんて。

 空は、要らない。

 

 

 

 

 

 神の気配が、膨れ上がった。

 あと、少しだった。

 本当に、あと少しだったのだ。

 這い上がるべき頂に、指先をかけていたくらいの。

 

「――あああああああああああああああぁぁぁぁぁっ!!」

 

 だが天を轟かす少女の絶叫とともに、魔理沙は残された希望が完膚なきまでに打ち砕かれたのを知った。

 今までがただのお遊びだったと思えるほどの、あまりに濃密で残酷な力の波濤。魔理沙が死に物狂いで伸ばした指先は何物にも届くことなく、呆気なく虚空へ弾き飛ばされた。

 ミニ八卦炉に亀裂が走り、黒い煙を噴き上げ、それっきり沈黙した。

 それはミニ八卦炉の限界であると同時に、霧雨魔理沙という少女の限界でもあった。

 ファイナルマスタースパークが、消える。

 

「――――……」

 

 すべての魔力が、体力が、精神力が、一滴の雫も残さず枯渇した。

 傾いた体を立て直すのはおろか、目を開け続けていることもできなかった。

 天地が、逆転する。体が重力に支配される。

 そんな、あまりにもわかりやすい、終わりだった。

 神の砲撃に呑まれるのか、灼熱地獄の業火に呑まれるのか――それとも、両方か。

 

「――ちく 、 しょう」

 

 炎に、落ちゆく。

 薄れ行く意識の中で魔理沙が最後にできたことといえば、せめて霊夢の体だけは離さぬように、指先にわずかな力を込めるだけだった。

 

 意識が消えるその間際に、チリン、と小さな鈴の音と。

 猫の鳴き声を、聞いた気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 邪魔者が消えてなくなった灼熱地獄で、こいしは空に手を伸ばす。

 

「……じゃ、行こっか。おくう」

 

 眼下で燃え盛る炎の光に照らされて、こいしの相貌は赤く艶めいて見える。

 だから、空は安心した。これなら自分の、きっと生気を失って真っ白になっているであろう顔色が、こいしに知られる心配もない。

 震える指先を、震えなくなるまで、握り締めて。

 

「――はい、こいし様」

 

 でも、きっと、今度こそ上手く笑えたと思う。

 こいしが――大好きな家族がこうやって、自分の方を見て、手を差し伸べてくれることこそが。

 今の空にとって、これ以上などない幸せなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『お願い、おにーさん。――こいし様を、止めて』

「……は?」

 

 どうして。

 どうして、あの子の名が。

 

 強烈な忌避感とともに脳が理解を拒否する。咄嗟に待てと声をあげることもできない。だからお燐の言葉は途切れずに続く。

 

『こいし様を、止めて――』

 

 誰しもが、固唾を飲んで月見を見つめる先で。

 

 

『――おくうを、助けて』

 

 

 月見はただ、心の臓まで凍りつくことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑦ 「霊知の太陽」

 

 

 

 

 

「――ねえ、ちょっといいかい?」

 

 その神から声を掛けられたとき、古明地こいしはちょうど地霊殿へ戻る道すがらにいた。

 例によって、無意識のうちにあちこちを歩き回ってしまった帰り道だった。今回は旧都を遠く離れ、現在の地獄が置かれる場所の近くにまで行ってしまった。寸前で正気づくことができて本当によかったと思う。あそこには三度の飯よりお説教が好きな傍迷惑な閻魔様がいるし、己の能力に意識を乗っ取られ迷い込んだこいしの存在を知れば、自分の出番だとばかりに千言万語のお説法を説くのだろう。

 

 この、『無意識を操る程度の能力』と付き合うようになってから随分と経つ。第三の目を閉じ、覚妖怪としての読心を捨てた代わりに目覚めた力。随分と哲学的な名前をしたこれが果たしてどんな能力かといえば、主に相手の無意識の領域に入り込み、自分の存在を意識させないようにすることができる。つまりは誰にも気づかれることなく月見のところまで遊びに行ったり、面倒があったときにこっそりとバックレたりできるのだ。とても便利な能力である――ただしその副作用として、時折自分自身が無意識に支配され、知らぬ間に知らぬところを徘徊したりしてしまうのだけれど。

 他人の無意識を掌握する代わりに、自分が無意識に掌握される。これで無意識を『操る』というのもちゃんちゃらおかしな話だと思う。ふと気づいたら目の前の景色がまったく違う場所に変わっている、というのは非常に面倒だし、あの正気づいた瞬間に背筋を襲う、体温がぐっと冷え込むような一瞬の恐怖は、何度経験したところで一向に慣れることはない。

 だがそれに鑑みても、こいしはこの能力が嫌いではなかった。一人の覚妖怪として、望みもせず人の心を読み続ける生活を送るよりかはずっと気楽だったからだ。心、とは、醜いものだ。人畜無害で仏みたいな顔をしたヤツが、心の底では口にするのも反吐が出るようなことを平気で考えている。世の中には知らないでいた方がよいこともある。知らないでいれば、幸せでいられる。事実、不愉快極まりない雑音から解放されたこいしの毎日は、それなりに楽しかったし、充実もしていた。

 ただの建前だ。もちろん嘘ではないけれど、本当の理由はもっと別のところにある。

 自分がこの『無意識を操る程度の能力』を満更でもないと思っているのは、ただ嫌いだったからだ。人の心を読むという、なんのためにあるのかもわからないあの力を切って捨てることさえできれば、代わりに目覚める能力などなんでもよかった。人が覚妖怪の力を忌み嫌うように、覚妖怪であるこいし自身もまた、心を読める己の力を忌み嫌っていた。

 だから、捨てた。

 姉を――古明地さとりを、苦しめ、泣かせる、力なんて。

 こいしは、要らない。

 

 ただ。

 嫌いだとか要らないとか言い切っておいてなんだが、悔しいことに、生きているとふとあの能力を恋しく思ってしまうときがあるのだ。

 特にこういう、見知らぬ相手からいきなり声を掛けられたときなんかは。

 

「……なに?」

 

 心を読む能力があれば、この少女がなんの目的で自分に声を掛けてきたのか一発でわかるのに。今のこいしにわかることをいえば精々、少女が人でも妖怪でも悪霊の類でもなく、どうやら地上の神様らしいというくらいだった。

 だからといって、あの力を取り戻したいとは死んでも思わないけれど。

 

「いや、ちょっと尋ねたいことがあってね」

 

 特別旧都に近いわけでもない、岩と瘴気と枯れた木ばかりの地底くんだりに、神様張本人がわざわざ出向いて。

 変なの。

 

「なに?」

 

 その直感通りに変なやつだったら、能力を使ってさっさと逃げよう。そう思う。そう思って少女の言葉を待つ。

 

「なあに、大したことじゃないよ。ねえあんた――」

 

 そして少女は魔女のような、神らしからぬ顔で笑った。

 

「――ちょいと神様の力に、興味あったりしない?」

「……?」

 

 ――神様の、力?

 今のこいしの心は、覚妖怪でなくたって容易に読めたはずだ。

 

「ちょっと、幻想郷に新技術でも起こしてみようと思って。ほら、ここに灼熱地獄の跡地があるでしょ? そこを利用してみたいんだよね」

 

 話を聞かされてみれば。

 この神様は幻想郷の技術水準が外の世界よりずっと遅れているのを気にしており、ここいらでひとつ、新しい技術を取り込んでみようと企てているらしい。サンギョウカクメイだのカクユウゴウだの、難しい言葉が多くてこいしにはよくわからなかったけれど、要は灼熱地獄の熱をエネルギーとして使いたがっているようだった。

 しかしここの灼熱地獄は今はもう使われていない――実際、精々が地霊殿の床暖房として役立つ程度でしかない――ので、まずはかつての猛々しい姿を取り戻してもらう必要がある。

 そこで登場するのが、神様の力とやらだった。

 

「力は私が与えてあげるから、それを使って灼熱地獄を活性化させてほしいんだけど……ちょいと候補者選びに苦労しててね。ほら、地上と地底って不干渉の決まりだから、旧都で大っぴらに訊くわけにもいかなくてさ。それであんたに声を掛けたってわけ」

 

 つまりは、誰かいい人知らない? という話のようだった。

 そんなこと言われても、とこいしは思う。姉と違って地霊殿の外も活発に動き回って――無意識に彷徨い歩いて――いるこいしだけれど、知り合いはこれといって多くない。聖輦船の妖怪たちと多少面識がある程度で、旧都の連中なんて知ったこっちゃない。悪いが少女の期待には応えられそうもないので、素直にそう口にしようとして、

 

「――地獄鴉ってのがここいらにいるでしょ? そいつらがいいかなあと思ってるんだけど」

 

 危うく表情を変えるところだった。

 

「でもただの地獄鴉じゃダメ。利口で、一番力のあるやつがいいね。あと、神の存在を余すことなく受け入れてくれる純粋な心も必要だ」

 

 脳裏に『彼女』の姿が浮かぶ。ちょっと鳥頭でドジなところもあるけれど、人の言葉を話せる分だけそんじょそこらの鴉よりずっと頭がいい。人型をとることができるので、地獄鴉の中では割かし力が強い。絵に描いたように純粋な性格をしているので、神様の存在もころっと受け入れてしまいそうだ。

 

「あ、そうそう。結構強力で危険な(・・・・・・・・)能力だから、使いこなせるように努力してくれるやつだとなおいいかな」

「……」

 

 ――覚妖怪が、なぜお世辞にも明るくない歴史を歩んできたかといえば。

 結局のところは、弱かったからだ。心を読む以外に、なにも特別なものを持たない種族だったからだ。どうせ大した仕返しもできぬだろうからと一部の連中が軽んじ、弱いくせに生意気だと声をあげる。するとその感情は周囲の妖怪にまで伝播し、具体的な行動はせずともそれとなくこいしたちを避けるようになる。

 みんなが嫌っているやつと仲良くするのは、恰好悪いことだから。

 そしてこいしたちは、それを受け入れるしかなかった。歯向かうだけの力なんてなかったから。

 例えば覚妖怪に鬼と肩を並べる腕っ節の強さがあったなら、未来は大なり小なり変わっていたはずだ。少なくとも、今より悪くなっていたとは思えない。ただ心を読むだけの妖怪ではないと認めさせ、こいつを侮ると痛い目を見るのだと思い知らせ、たとえ畏怖という形であろうとも、妖怪の中に居場所を得ることができていたと思う。

 弱かった、から。

 こいしとさとりが地底に移り住んで、まだ間もなかった頃の話だ。ある日さとりが、泣きながら家に帰ってきたことがあった。転んでひざを擦りむいたとか、お気に入りの服に水溜まりの泥がはねたとか、そんな陳腐な話では断じてない。なにがあったのかはついぞ教えてもらえなかったが、あれは冗談では済まないひどいことをされた者が、本気で流す悲しみの涙だった。

 それを見たこいしは心の底から失望したものだ。――ああ、結局こいつらも同じなのかと。共に地底へ行こうと善人面して手を差し伸べておいて、結局やることは地上の頃と変わらないのかと。

 それっきりさとりは、牢で囚われる罪人が如く地霊殿に引きこもって暮らすようになった。彼女が最後に外へ出たのがいつだったかは、もうこいしもはっきりとは思い出せなくなってしまっている。

 だからこいしは、唯一さとりを笑顔にしてくれる藤千代を除いて、旧都の妖怪たちがみんな嫌いだ。手を差し伸べておきながら、さとりを泣かせた。嘘をついた。やつらを嫌うこれ以上の理由なんてありはしない。

 弱かった、から。

 はじめは、出来心みたいなものだったのだ。別に仕返しや復讐などというつもりはなく、単純に力そのものへの好奇心だった。

 強くなったら一体どうなるのか、興味が疼いた。弱くて困ることはたくさんあるし、できないことだってたくさんある。でも強くて困ることはきっとあんまりないし、できないことだって、弱い場合よりかは確実に少なくなる。

 だから、力を与えてやると、この神様が言うのなら。

 それは、素直に受け取ってしまってもいいんじゃないかしら。だって、神様が声を掛けてくれるなんて、きっと運命に違いないから。

 力があれば、今よりいろんなことができるようになる。自分たちはもう弱くないのだと力を示せる。お姉ちゃんをいじめるとあとが怖いんだぞと旧都のやつらに思い知らせてやるのだって、もはや単なる夢物語ではなくなるのだ。

 なにも求めず、今までと変わらない生活を続けていくのか。

 それとも力を受け入れて、新しい世界へ足を踏み出してみるのか。

 その二者択一なら、こいしは。

 

「――それだったら、心当たりあるよ」

「おっ、ほんとに?」

 

 力が、あれば。

 

「うん。ウチで飼ってるペットなんだけどね――」

 

 ――私たちにも、お姉ちゃんの、力になってあげられるかもしれない。

 

 本当に、ただ、それだけだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 強くなって損なんかしないよ。

 お姉ちゃんを守ったり、助けたり、きっといろんなことができるようになるよ。

 こいしがそう言うだけで、おくうは二つ返事だった。さとり様とこいし様のためならと笑顔で答え、なんの躊躇もなく神様の力を呑み込んでくれた。

 もちろん、はじめはなかなか思うように行かなかった。強大すぎる神様の力をおくうはなかなか上手く扱えず、まずは灼熱地獄跡で特訓するところから始まった。あとでさとりをびっくりさせたかったので、旧都を離れ、灼熱地獄の端の端で。おくうは地霊殿に戻りもしないで不断の努力を重ねたし、こいしも着替えや食べ物を運んだりしてできる限り応援した。このときばかりは、月見の名前なんて綺麗さっぱり忘れていた。毎日毎日、おくうのことばかりを考えていた。

 そして遂におくうは、鬼だって目じゃないほどの強大な力を手にしたのだ。

 その力をはじめておくうから見せてもらったとき、予想を遥かに超える凄まじさにこいしははしゃぎながら喜んだ。おくうが強くなったのが嬉しかった。この力があればきっとたくさんのすごいことができると、そう考えると夢のようだった。

 

 ぜんぶが上手く行くと思っていたのだ――地上から、博麗の巫女がやってくるまでは。

 

 その日、いつものようにおくうのところで食べ物のリクエストを聞いていると、灼熱地獄に誰か二つの気配が入ってくるのを感じた。さとりでもお燐でも、地霊殿のペットたちでもなかった。なのでこいしは念のために能力を使って隠れ、おくうが様子を見に行くことになった。

 そう。

 おくうが巫女たちと出会ったそのはじめから、こいしはずっと傍で見ていた(・・・・・・・・・)のだ。

 こいしが一番、大嫌いな、人間。

 お姉ちゃんを退治しようとした、博麗の巫女を。

 無論あれはもう何百年と昔の話なのだから、当時の巫女はもう生きてなどいまい。だが当代の巫女である霊夢という少女は、こいしの記憶に潜む巫女と憎たらしいほどによく似ていた。もう少し年を取って髪を短くすれば、瓜二つどころの話ではないように思えた。まさかあいつが、不死の外術に手を出して今までずっと生き永らえていたのかと、そんな荒唐無稽な想像までもが頭を過ぎったくらいだった。

 

 だから、こう言ってやったのだ。

 おくう。こいつ、昔お姉ちゃんを退治しようとしたやつと一緒だよ。

 だから――やっちゃえ。

 もちろんおくうは、物にしたばかりの神様の力で応えてくれた。

 

 おくうが灼熱の結界を張って人間二人を閉じ込めたとき、巫女に気づかれかけたのにはひやりとさせられた。ほんの一瞬だったので、向こうは気のせいだと思ったようだったけれど。容姿のみならず、勘が鋭いところまで本当にあの巫女そっくりだった。

 人間とは思えないくらいに、強いところまでも。

 おくうがやられそうになったその瞬間、かつて巫女に退治されかけた姉の姿が重なって、こいしは無意識の塊となって飛び出していた。確かに巫女は強いが、それでも人間は人間であり、そうである以上肉体は脆い。気づかれさえしなければ、こいしでも意識を奪う程度は造作もなかった。

 そのあと魔法使いに予想外の悪足掻きをされたけれど、それもおくうが力尽くで捻じ伏せた。

 こいしたちは、勝ったのだ。――ほら、やっぱり、私たちはもう弱くなんてない。

 かくして、今に至る。

 

「……」

 

 すべてが掃討されていた。おくうが砲撃を放った直線状に、原型を留めているものはなにひとつ存在していなかった。森のように乱立していた岩の柱が根こそぎ掃討され、端の結界すらをもぶち抜いて、どこまでも続く見晴らしのよい一直線を作り出していた。一体どこまで飛んでいったのだろう。もしかすると灼熱地獄の一番端まで届いて、そこに新しい洞穴をこじ開けたりしたのかもしれない。

 ふう、と小さなため息が出た。

 ようやく、邪魔者が消えた。

 

「おくう」

 

 こいしはおくうの名を呼んだ。今や大妖怪にも比肩する力を得た最強の地獄鴉は、振り向くと殊の外怯えた表情をしていた。怒られる、と思ったのかもしれない。確かにやりすぎではあった。ここまで劇的に景色を変える一撃だったのだ、人間など影も残るまい。

 別に、ここまでやるつもりなんてなかった。

 だが仕方がなかった。魔法使いが最後に見せた悪足掻きは当たればこっちだって無事では済まなかったから、やり返したおくうはなにも悪くない。

 だから、こう言っておく。

 

「ありがとう、守ってくれて」

「……」

 

 迷いを振り払おうと苦心するような沈黙があった。おくうは一度深く目を伏せ、呼吸して、ほどなくしてあげた。

 もう、怯えてはいなかった。

 

「――はい」

「うん。……ところでおくう、右手のあれって捨てても大丈夫だったの?」

 

 魔法使いを倒すために、おくうは右腕にはめていた木筒を投げ捨てた。灼熱地獄に落下し、恐らくもう燃え尽きてしまっただろう。あれは確か、神様の力が暴走しないよう抑えるストッパーの役割を果たしていたはずだが、おくうはなんともなさそうにケロリとしている。

 おくうは頷く。

 

「はい。特に問題ないです」

「ふーん……」

 

 ということは、あの注連縄の神様が言っていたのはただの嘘だったのだろうか。百パーセントの力を発揮されてしまうと万一牙を剥かれた場合に面倒だから、「暴走するぞ」と釘を刺して予防線を張ったのかもしれない。まったく余計な真似をする。そのせいでこっちは、危うく魔法使いにやられかけたのだから。

 

「まあいいや。とりあえず、外に出よ」

 

 頷いたおくうが、広がっていた灼熱の結界を消した。

 まずは、旧都へ。地霊殿に戻って、おくうがこんなに強くなったんだとお姉ちゃんに教えよう。この力があればいろんなことができる。いじめられたってやり返せる。また一緒に、昔みたいに、外を歩いたりだってできるんだと。

 おくうが崩落させてしまってできた大穴から、地底へと出る。

 

「ぷはっ。あー、あっつかったー」

 

 こいしは妖怪ではあるけれど、おくうと違ってそれほど熱さに強い体ではない。おくうの前では主人風を吹かせてやせ我慢していたけれど、本当は結構キツかったのだ。すぐに灼熱地獄の熱気が届かない岩陰に隠れて、ハンカチでびっしり浮かんでいた汗を拭った。冬の冷たい空気は、すっかり火照った体には爽快なほど心地よかった。

 

「ごめんなさいこいし様、私のために……」

「もー、そうやってすぐ謝らないのっ。いいんだよ、私がやりたくてやってたんだから」

 

 顔はいくらかさっぱりしたが、やはり服の下もそこそこ汗を掻いていて気持ち悪い。おくうのことをお姉ちゃんに教えたらシャワーだな、と思った。

 

「お待たせ。じゃ、行こっか」

 

 そしておくうの手を、取ろうとした。

 

「っ、く……!?」

 

 それより、ほんの少しだけ早く。

 こいしが取ろうとした手で胸を押さえて、おくうが苦悶に身をよじった。

 

「……おくう?」

 

 肩で息をしている。

 

「おくう!? どうしたの、大丈夫!?」

「っ……は、はい」

 

 どう見ても大丈夫ではなかった。こいしが覗き込む先でみるみる玉の汗が浮かび、呼吸がどんどん荒くなっていく。触れずともわかるほどに体温が上がっている。迂闊に触ったら火傷をしてしまうのではないかと躊躇って、咄嗟におくうを支えることもできなかった。

 

「まさか、暴走……!?」

「違いっ、ます!」

 

 おくうが強く首を振った。途切れ途切れになりながらも言う、

 

「だ、大丈夫、です。思いっきり、力を、使ったから。体に熱、が、溜まってるんです。今、までも、何回かありました」

「そう……なの?」

「は、い。だから、少し、発散すれば。すぐ治ります」

 

 おくうが、こいしの反対方向に向けて腕を振った。神様の力と熱を凝縮した光の波動。炸裂し、岩肌が隆起してできた山を三分の一ほども削り取る。破壊された巨岩が無骨な瓦礫の滝となって、なんとも呆気なく崩落していく。土煙は、こいしたちのところまで届いた。これだけで本当に楽になったらしく、おくうの呼吸が少しだけ落ち着いた。

 

「離れていてください」

「……うん」

 

 翼を打ち鳴らし、土煙を切り裂いておくうは飛んだ。左手を高く掲げる。掌に光と熱が集約し、まるで太陽のような灼熱の球体を作り上げる。明らかに周囲の気温が上がった。太陽のような、ではない――あれはまさしく、神の力によって生み出された霊知の太陽だった。

 ため息が出た。

 

「すごい……」

 

 改めて思い知る、あの神様は本当に凄まじい力をおくうに授けてくれたのだと。古めかしくて胡散くさい感じのする少女だったが、今では素直に感謝していた。

 別に、今まで虐げられた復讐をしようというわけではない。

 ただ、力を示したい。地霊殿には凄まじい力を持った妖怪がいるのだと。古明地さとりを怒らせれば、悲しませれば、これからは相応の仕返しが待っているのだと。

 私たちは、もう、弱くなんてないのだと。

 

「うううううぅぅぅ……っ!!」

 

 おくうが唸り声をあげている。やはり、まだ完全に力を使いこなせているわけではないのかもしれない。苦しいのかもしれない。けれどあんなに頑張って、一生懸命に力を制御しようとしてくれている。だからきっと大丈夫。きっとすぐに、なにもかもが上手く行くようになる。

 本気で、そう信じていた。

 だから、知らなかった。知れるはずもなかったのだ。

 

「うううっ……ああああああああっ……!!」

 

 布を裂くように叫ぶおくうの、本当の心の声を。

 第三の目を閉じた自分に、聞けるはずがなかったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

『――本当はね。おくうって、虫も殺せないくらいに優しいやつなんだよ』

 

 大切な思い出話をするようなお燐の声が、逸る月見の心をそっと宥めた。

 旧都へ向かう洞穴の中だった。明かりを灯してもなお不明瞭な薄闇を、月見は天子とアリスを連れて切り裂いている。二人がついてこられるギリギリの速度だった。視界があまりよくないせいもあって、洞穴特有の起伏に富んだ地形には、もう何度も足を取られかけている。

 だが、月見は片時も飛ぶ速度を緩めない。

 霊夢と魔理沙の無事はすでに確認できているから、こんなにも慌てる必要はないのかもしれない。それでも月見の心が早鐘を打って已まないのは、陰陽玉から響くお燐の言葉がすべてなのだろう。

 

『嘘だって思うでしょ? おくう、おにーさんには相当キツく当たってたからねー』

 

 こいし様を、止めて。

 おくうを、助けて。

 そう、お燐は言ったのだ。

 それが一体どういう意味で、地底で一体なにが起こっているのか。すべてを月見に伝えるため、お燐がまず語ったのはおくうのことだった。

 

『まあ、結構愛想のないこと言ってたかもだけどさ。でも、力尽くでおにーさんを追い払おうとしたりとか、そういうのは一度もなかったでしょ?』

 

 なかった。確かにおくうは口を開けば月見を嫌う言葉ばかりだったけれど、それ以上の具体的な行動を起こしたことも、起こそうとしたこともなかった。月見を、言葉以上の手段で攻撃しようとした試しは一度もなかった。

 なぜ。

 

『結局、おくうに度胸がなかったからなんだよね。たとえ認めたくない相手でも、根が優しすぎるから悪口言う以上の真似ができないの』

 

 おくうは月見に対し今なお心を閉ざし、高く分厚い壁を作って拒絶している。とはいえ、それでおくうが意地の悪い女の子だと誤解するほど月見は馬鹿ではない。おくうはとても優しく、主人のことが大好きで、だからこそそれが裏返しとなって、余所者である月見への敵意となっているのだ。だからお燐の言葉も、実感はあまり持てなかったけれど、嘘だとはちっとも思わなかった。

 

「……あ、月見だ! おーい月――呪ってやるうううううっ」

 

 岩陰の方から自称地底世界のアイドルの声が聞こえたが、無視して素通りする。今は彼女のコントに付き合っている場合ではない。思わず振り返った天子とアリスは、すぐに「ああ、あいつか……」と察した顔で前に向き直った。

 

『ん? いま誰かなにか言った?』

「なんでもない。続けてくれ」

『そう?』

 

 陰陽玉の向こうまでは届いていないようだが、背後からは「しこたま呪ってやるうううううっ」とチープな怨嗟の声がかすかながら響いてきている。今度出会ったときが面倒そうだと億劫になりながらも、月見は進路を妨げる鍾乳石群を注意深く躱し、決して立ち止まらず奥へと進み続ける。

 

『……まあそういうわけで、おくうはとっても優しいやつなわけなんだけど』

 

 そこで、お燐の声音から剽軽の色が消えた。

 

『間欠泉を起こしたのは、間違いなくおくうだよ。……もっとも、本人は気づいてもいないだろうけどね。おくうの力の余波で、偶然間欠泉が発生しちゃったってところかな』

 

 ほんの余波だけで、間欠泉を発生させてしまうほどの力。

 

『あたいもよく知らないんだけど、いつの間にか、どっかの神様の力を呑み込んだらしくてね。その力を制御できるようになろうとして、ここしばらく灼熱地獄で暴れ回ってたのさ』

 

 決して予想外の言葉ではなかった。おくうは地獄鴉であり、地獄鴉は、例えば鬼や天狗のように優れた力を持つ部類の種族ではない。そんな彼女が余波だけで間欠泉を起こすほどの力を発揮するには、それこそ神を呑みでもしない限りは不可能なのだろう。

 だが、己の身に神の力を宿すのはそう簡単ではない。概念としては巫女が行う神降ろしに近いが、あれだって日々の修行と、それ以上に生まれながらの才能で決まる人間離れの業である。鳥頭故に、恐らくは神のなんたるかもロクにわかっていないであろうおくうが、自分の力だけで神を呑み込むのはまず無理だ。

 

『でも優しいおくうが、あんな危ない神様の力に自分から手を出すなんてありえない。じゃあなんでこうなってるのかっていうと……』

 

 おくうが力を得るよう誘導した、第三者がいる。

 つまり、この異変、

 

『……こいし様が噛んでるんだよ。こいし様がおくうのところに地上の神様を連れていって、その神様からおくうが力をもらったらしいんだよね』

 

 本当の黒幕は、おくうではなく、

 

『……間欠泉を起こしたのは、おくうなんだけど。でも、その……そもそもの原因はっていうと……』

「……こいし、なんだな」

 

 経緯は、わかった。

 こいしがおくうのもとにいずこかの神を連れていき、力を与えてもらった。彼女がおくうになにを言ったのかはわからないけれど、おくうは主人想いな性格が災いして、断ろうとも考えられなかったのだろう。そして与えられた神の力を使う中で偶然間欠泉が発生し、それを利用してお燐が月見に助けを求めようとした。

 こいしを止めて、おくうを助けてと。

 

『うん。こいし様、おくうに言ったらしいんだよ。……この力があれば、さとり様を助けられるんだって』

「……それは、どういう」

『ほら。さとり様って、旧都の中でも爪弾き者みたいになっちゃってるじゃない。こいし様、昔からそれをちょっと気にしててね。強い力があれば、なにかを変えられるかもって考えたみたい』

 

 それはこいしらしい、ひどく純粋で単純な行動理念だった。損得勘定などまるで入り込む余地のない、『こうなればいい』という希望的観測だけに従った思考回路。裏表などなく、限りなくまっすぐだ。そしてそれ故に、ふと後ろを振り返ることができない。

 自分の後ろで、おくうが一体どんな表情を浮かべているのか。きっとこいしは、まだ気づけないでいるのだろう。

 

『だからお願い、おにーさん。こいし様を止めて。おくう、絶対苦しんでると思うんだよ。地霊殿に入ってきた虫をさ、なんとか無事に逃がしてあげようとして、何十分も頑張っちゃうようなやつなんだよ?』

「……」

『情けないけど……あたいは、ダメだったんだ。結局あたいは、さとり様とこいし様のペットだから。だからその……こいし様には、あんまり、逆らえないところがあって……』

 

 お燐の声音に、己の力不足を恥じ、悔いる色がにじむ。

 

『……ごめんなさい。こっちでなんとかしないといけないって、わかってはいるんだけど……実は、訳あって、さとり様にはまだこのこと教えてなくて』

「……なぜ?」

『さとり様なら事情をわかってくれるって、思ってはいるよ。でも……でももしこんなことしたおくうが、ちょっとでも、さとり様から嫌われたりしたらって思うと……』

 

 納得が行った。

 さとりは、なぜ旧都の同胞から爪弾きにされているのか理解しがたいほど人畜無害の少女だ。お燐はおくうを『虫も殺せないほど優しい』と例えたが、月見にとってはさとりこそがまさにそうだと思える。心を読む能力を持ってはいるものの、それを悪用して誰かを不快にさせる真似は絶対にしない。だからきっと、こいしとおくうが悪意を持って誰かを傷つけたと知れば、その行いを厳しく叱責しようとするだろう。

 

『おにーさんには、あんまりわかってもらえないかもしれないけどね……? あたいたちにとって、ご主人様のさとり様とこいし様から見放されるのって、ほんとに怖いことで……だから……』

「……」

『だから、おにーさんしか、頼れる人がいなくて……』

 

 お燐の声が、どんどん小さくしぼみ、掠れていく。このとき月見が少し意識を集中すれば、陰陽玉の向こう側で、泣きそうになっているお燐の顔が見えたはずだ。

 だが月見はそうしなかった。代わりに短く、そして真摯に、まっすぐに、

 

「もうすぐ洞穴を抜ける。すぐに行くよ。……待っててくれ」

 

 月見が行ったところでなにができるのかはわからない。なるほど確かに、こいしは月見にとって、フランに次ぐ第二の娘のような存在ではある。こいしも月見によく心を開いてくれている。だがそれは所詮、今年の梅雨に地霊殿ではじめて出会ってからの関係であり、月見はこいしの、引いてはさとりの過去をまったくといっていいほどなにも知らない。二人が地上にいた頃になにがあったのかも、地底に下りてきてからどう生きてきたのかも。そんな自分がなにを言おうとしたところで、それは『知った風な口』でしかないのかもしれない。

 けれど。

 

『……うん。じゃあ、旧都の入口のとこで待ってるから』

 

 少し、間が合って、

 

『……ありがと。おにーさん』

 

 ずっと全身にのしかかっていた重圧から、ようやく解放されたような。そんなくたびれた声で笑んだお燐に、月見は心の底から、応えたいと思った。

 陰陽玉から聞こえる物音がなくなる。それから考えたことは多かった。行って自分はなにをするべきなのか。大切な姉のために力が欲しいと願ったこいしに、なにも知らない自分がどんな言葉を掛ければいいのか。そしてその隣には、未だ月見に心を開かぬおくうがいるはずだ。もしも彼女が月見の言葉に神の力を振るうことで答えたとき、自分は一体どうするべきなのか。

 

「つ、月見……」

 

 聞こえたのは、風を切る音にも掻き消されてしまいそうな、たどたどしい天子の声だった。

 

「そ、その……私、なにが起こってるのかぜんぜんわかんないし、こんなこと言っても、無責任なだけかもしれないけど……」

 

 彼女は浮かんでは消えていくとりとめのない言葉を、一生懸命にひとつにしようとしていた。

 

「だ、大丈夫だよ、きっと。だって、月見は――」

 

 気まずさに負けて何度も目を逸らし、けれど最後だけは切に月見を見つめて、

 

「――私のことだって、助けてくれたんだから」

 

 それはもしかすると、ひどく稚拙で勝手な言葉だったのかもしれない。お前のときとはまるで状況が違う、どうしてそんなことが言えるんだ――そう反論されればその瞬間に崩れ去ってしまう、なんの根拠もない、単に彼女の願望だけによって形作られた、まさしく無責任そのもののような言葉だった。

 けれど。

 根拠はなくても、無責任ではあっても。

 

「……ありがとう」

 

 心は、こもっていた。

 

「シャンハーイ!」

「うわっ」

 

 そして、上海人形が突然頭に飛びついてきた。そのまま、またグイグイと耳を引っ張られる。月見は後頭部のあたりを手探りでまさぐって、いたずらが過ぎる上海人形を強引にひっぺがした。

 

「「……」」

 

 月見も天子も揃って、「で、これはどういう意味?」という目をアリスに向ける。アリスがうっとたじろぐ。月見に襟首を掴まれ宙吊りな上海人形が、風に吹かれてぷらぷらと揺れている。

 

「え、えっと、その」

 

 わたわたしたアリスは持っていた魔導書で顔を隠し、三秒ほどしてから目だけをちょこっと上目遣いで出して、並々ならぬ羞恥に掠れたか細い声で、

 

「が、がんばれー、みたい、な……」

「「…………」」

「…………や、やっぱり私、帰る」

「え? ……ま、待って待って待って!?」

 

 流れるようなUターンで帰ろうとしたアリスを、天子が慌てて捕まえた。月見も立ち止まって振り返る。天子とアリスが、お互いの腕で綱引きならぬ腕引きを繰り広げている。

 

「放してえっ! おうち帰るぅ!」

「なんでどーして!? 一緒に霊夢と魔理沙を助けに行こうよ!?」

「だって、だってさっき、二人とも『なにやってんだこいつ』って目してたし! 頑張って勇気出した結果がこれよ、もうやだぁっ!」

 

 このところ、アリスは少しずつ声が出てくるようになってきたと思う。こんな風にぎゃーぎゃー涙目で暴れるアリスなんて、はじめて出会った頃からはまるで想像ができない。

 帰りたいアリスと帰さない天子の、くんずほぐれつの攻防は続く。

 

「そ、そんな目してないってば! ただちょっと、その……えっと……こ、個性的な応援だったなあって!」

「要するに変だったって言ってるでしょそれえええええ! もうやだおうち帰るのっ、やっぱり私には家で独りでいるのがお似合いなのよおおおおおっ」

 

 ふぎゃー!! と半泣きな主人の後ろ姿を見て、上海人形が「やれやれだぜ」みたいな感じで肩を竦めていた。この人形、本当は完全に自律しているのではなかろうか。

 と、月見の隣で浮かぶ陰陽玉から、

 

『あはは。やっぱり地上でも、おにーさんの周りが賑やかなのは同じなんだねー』

「……聞いてたのか、お燐」

『こっそりバッチリ。……ところで、おにーさん』

 

 お燐はすっかりいつも通りの声音に含みを持たせて、

 

『おにーさんたち、遊んでないですぐ来てくれるんだよね? まさか嘘ついたわけじゃないよね?』

「……すぐ行くよ」

 

 正直すまなかった。

 月見は天子とアリスの攻防に割って入り、アリスの頭の上に上海人形を乗せた。微笑み、

 

「二人とも、応援ありがとう。でも先を急ぐから、時間が掛かるようだったら置いていくよ」

「へ。あっ、月見ー!?」

 

 本当に二人を置き去りにして、月見は速やかに先へ進む。背後から天子の慌てた声、

 

「ほ、ほらアリスっ、置いてかれちゃうからとにかく行くよ! ふんぬーっ!」

「いやああああああああ」

 

 どうやら、腕引き勝負は天子に軍配が上がったようだった。首で後ろを振り向いてみると、やや離れたところでアリスを頑張って引きずる天子の姿が見える。彼女が追いついてこられるよう、少し、飛ぶスピードを緩めておく。

 洞穴の出口が見えてきた。

 

「お燐、いま洞穴を抜けるよ」

『ん。橋姫と立ち話なんてしちゃダメだよ』

 

 月見は苦笑した。それはもちろんわかっているのだが、パルスィの場合はキスメのように素通りすると後が怖そうだ。嫉妬の女神だけあって些細なことで機嫌を崩しやすく、付き合うのにコツがいる少女なのである。

 けれど、決して相手の都合を考えない自分勝手な少女というわけではない。事情を話せばわかってくれるだろうと、そう考えながら洞穴を抜けて、

 

「――……」

 

 足が、止まった。

 気づいた違和感は三つあった。ひとつ、冬のど真ん中であるのにまるで春のように暖かいこと。ふたつ、明らかに異質とわかる禍々しい気配が、旧都を越えた地底の奥深くで蠢いていること。

 そして、みっつ。

 その、旧都を越えた奥深くの空に浮かぶ、まるで太陽のようにも思える光の球体。

 陰陽玉が、言った。

 

『気づいた、おにーさん?』

 

 月見は低く答えた。

 

「……気づかない方が無理だよ、これは」

 

 理屈で考えれば。

 地底の気温が春のように高くなっているのも、人間とも妖怪とも違う異質な気配が肌を刺すのも、おくうが呑み込んだという神の力であり、その顕現がすなわち、地底の空で浮かぶあの光の球体なのだと思う。

 だが、

 

「……随分ととんでもないものを呑み込んだんだね、空は」

 

 霊夢と魔理沙が負けたという事実から、恐らく並の神ではないと漠然ながら想像はしていた。それを遥かに超えていった。

 季節を変え、星を生む。

 そんじょそこらの神ではありえない。

 

「や、やっと追いつい、」

 

 後ろから追いついてきた天子の言葉が半ばで途切れる。そして代わりに出てきたのは、呻くような、怯えるような、短く簡潔な一言だった。

 

「そ……んな、これって」

 

 後を継いだのは、アリスだった。

 

「……魔理沙たちが戦ったやつと、同じ気配」

「で、でも、あのときはこんなんじゃなかった! どうして、こんな」

 

 やや大袈裟な言い方ではあるけれど、そのとき天子の表情ににじんだのは、わかりやすくいって絶望に似た部類の感情であったと思う。季節を変え星を生む、人間では抗いようのない超越的な力の君臨。月見ですら気が遠くなりそうな心地がする。おくうがあの力を、もし誰かを害するために使ったとしたら、止めるのは骨が折れるどころの話ではあるまい。

 

「……お燐。空が呑んだという神、名前は聞いたか?」

『えっと……確か、ヤタガラスとかなんとか』

「ヤっ――!?」

 

 天子が、絶句した。

 そしてそれは、月見とアリスもまた同じだった。

 お燐が不安げに、

 

『……やっぱり、結構すごい神様なの? あたい、灼熱地獄育ちだから、そういうのぜんぜんわかんなくて』

「……すごいどころの話じゃないよ」

 

 八咫烏。かつて天照大神ら天上の神々が、地上へ直に遣わしたという太陽の化身。日本神話に堂々とその名を刻んだ、神の中の神。

 得心が行った。

 あの星は、『太陽のような』ではない。太陽なのだ。八咫烏の力によって生み出された、本物ならざる、しかし紛うことなき。

 だが、同時に新しい疑問も起こる。お燐は、「地上の神様がおくうに力を与えた」と言っていた。だが八咫烏ほどの力を誰かに授けるなんて、これもまたそんじょそこらの神では不可能のはずだ。それこそ神奈子のように、由緒正しい神格を備えた偉大な神でなければ――

 

(……というか、神奈子だったりするんじゃないだろうな。元凶は)

 

 そんな真似ができる神なんて、月見には幻想郷では神奈子しか思いつかない。しかしそれもそれで、なぜ彼女がわざわざ地底の妖怪に力を授けたのかと疑問が連鎖する。

 結局、ここでいくら考えても詮のないことでしかない。首を振り、後ろでなにも言えないでいる天子たちに、

 

「……ともかく、まずは旧都に行くよ。話はそれからだ」

「う、うん……」

 

 今が冬とは思えない暖かな空気を切り裂いて、月見たちは旧都へ向かう。

 地底全体の異常事態ということなのだろう。洞穴と旧都の境界となる反橋に、パルスィの姿はなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 様子がおかしいと気づいたのは、さとりが自室で気の向くままに文字を綴っていた頃だった。

 地霊殿と灼熱地獄跡は空間的につながっている。灼熱地獄へ続く大穴に、ちょうど蓋をする形で覆い被さっているのがここいらの土地なのだ。その証拠が地霊殿中庭にあるステンドグラスの天窓であり、開けて身を躍らせれば誰でも簡単に地獄の底まで落ちてゆけるようになっている。

 そんな土地柄の地霊殿なので、当然ながら灼熱地獄跡がもたらす恩恵を存分に享受している。具体的には、冬の間も灼熱地獄跡の熱で地面が暖められ、天然の床暖房を完備している。更には灼熱地獄跡から届くごく微量の光が床のステンドグラスを照らし、お洒落なインテリアの雰囲気を醸し出したりもしている。

 よって地霊殿は冬でもぽかぽか暖かく、逆に夏はちょっと暑い。

 もちろん、今日も地霊殿の室温は過ごしやすい温度で保たれている。

 しかし、少しばかり暖かすぎるような気がした。

 

「……?」

 

 さとりは小首を傾げる。言われなければ気づかない程度の差かもしれないが、生憎さとりは筋金入りの年中ひきこもりであり、「いつもの地霊殿の室温」が体の芯まで染みついている。やっぱり少し温度が高い。この地霊殿に限っては、自分の体感こそがなによりも信頼できる最高の温度計なのだ。

 無論、だからどうしたという話ではある。いつもより少し室温が高いことのなにが問題かといえば、実のところまったく問題ではないし、気にするのもさとりくらいなものだろう。どころか今が今でなければ、おくうが仕事をサボっているのだろうと決め込んで、さとりだって気にも留めなかったかもしれない。

 

 おくう。

 このところ、ずっと姿を見かけていない。

 

 虫の知らせというやつだったのかもしれない。どうにも落ち着かない感覚が拭い切れず、さとりは筆を置いて部屋を出た。さとりのペット育成論は、基本的に放任主義である。だから今の今まで深刻に考えてこなかったのだが、やはり一週間近くもまったく姿を見かけないのはおかしい。そう考えるとお燐の『大事な用』とやらも、行方知れずとなったおくうを捜しに行ったのではないかと思えてくる。

 まずは、本当に誰も行方を知らないのかペットたちに聞いて回る。それでダメなら、捜し物が得意なペットを集めて捜させる。もしそれでもなおダメだったらなら、心苦しいが藤千代に協力を頼むしかないかもしれない。

 と、

 

「さーとーりさーんっ!!」

 

 いきなり、少女の元気な大声が背後から前に駆け抜けていった。不意を衝かれたさとりはびっくりして振り返る。とんでもない大声なのに決して耳障りではない、どこまでも伸びゆく張りのある声音。さとりの知り合いでは一人しかいない。

 予定を変更し小走りでエントランスに向かうと、やはりそこにいたのは藤千代だった。

 

「こんにちは、さとりさん」

「はい、こんにちは」

 

 ああもうそんな時間なのか、とさとりは思う。筆を握って思いを文字にしていく一時ほど、『光陰矢の如し』という言葉を体で実感する瞬間はない。

 

「どうかされましたか?」

「ええ。外がちょっとおかしなことになってるので、一応お知らせに来てみました」

 

 ――おかしなこと?

 藤千代が腕組みをして、うーむと唸る。

 

「やっぱりさとりさんも知りませんかー。一体誰の仕業なんでしょう……」

「……なにかあったんですか?」

「なにかもなにも、……ああ、そういえばここはいつも暖かでしたね」

 

 話が見えてこない。さとりが小首を傾げて藤千代の言葉を待つと、彼女は指で外を示して、

 

「実は外も、ここと同じくらいの気温なんですよ」

「え? ……いやいや、そんなまさか」

 

 当然、はじめはまったく信じなかった。今の季節を考えれば当然だった。確かにここ地霊殿は冬でも暖かいが、それは前述の通り土地柄によるものと、家内という外から隔たった空間が熱を閉じこめるからであって、一歩外に出ればもうその理屈は通用しない。それにペットたちの報告によれば、今朝は一層と冷え込んで雪まで降ったというではないか。

 藤千代は鬼だが、どうも普通の鬼とは同じでありながら違う存在であるらしく、何食わぬ顔でさらりと嘘をつくのも珍しくない。藤千代相手だとさとりの能力も役に立たないから、しばしばこういった冗談でからかわれるのだ。けれど、今回は明らかに嘘だとわかった。さとりはふふんと胸を反らして、

 

「藤千代さん、今回は騙されませんよっ。だってペットたちから聞きましたもん、今朝は雪が降ったって」

「降りましたねー。もうぜんぶ解けちゃいましたけど」

「は、」

 

 あれ、なんだか思ってた反応と違う。

 

「冗談じゃないですよー。外に出てみればわかります」

「え、ええ……?」

 

 藤千代がドアを大きく開け放って庭に出て、しきりに手招きをする。そしてその時点でもう、さとりは薄々ながら勘づいていた。

 ドアを開けても、外の冷たい空気が入ってこない。

 そんなバカなと思いながら藤千代のあとに続く。しかし、やはりそうだった。ここいらの土地は灼熱地獄跡の熱を存分に享受するが、それでも真冬ともなれば外は当然肌寒い。室内用の薄着などで庭に出れば、すぐさま鳥肌に襲われくしゃみが飛び出すはずなのだ。

 寒くない。

 暖かい。

 藤千代の言葉通り、中とほぼ同じ気温――否、こちらの方がわずかだが高い。地霊殿の室温がなぜいつもより高くなっているのか、その理由がこれではっきりした。外の方が暖かくなったものだから、その熱で室内の温度も上がったのだ。

 だが、到底納得できるようなものではなかった。

 

「え? ……な、なんで。どうして」

 

 藤千代だって、わからないと言っていたのに。

 

「不思議ですよねー。それにほら、見てください」

 

 藤千代が、地霊殿から遠く離れた空の彼方を指差す。普段であれば地底の薄闇にまかれ、なんの景色を見ることのできない空の先。

 そこに、

 

「……星?」

 

 としか思えない、揺らめく炎にも似た光の煌めきがあった。

 

「少し前から突然こんな感じで、旧都の方も結構騒ぎになってるんです。特に子どもたちが、せっかく雪が降ったのにーって」

「は、はあ……不思議なこともあるものですね」

「地上風の言葉でいえば、異変ってやつかもしれませんね」

 

 その言葉がどういう意味を持つものなのかは知らないが、異常事態なのは間違いないと思った。地底に移り住んでもう何百年になるさとりだが、こんな冬は未だかつて体験した覚えがない。

 

「それで、一応私が調べてこようと思って。その前に、ちょっとここに寄ってみたんです」

「……そうですか。すみません、なにも心当たりがなくて……」

 

 灼熱地獄跡の温度調整トラブル、という線はない。それだったら影響は地霊殿一帯に限られるはずであり、旧都中の気温が上がり雪が解けてしまう道理などない。加えて、彼方の空に浮かぶあの星のような光に至っては、もうなにがなんだかさっぱりだった。

 藤千代は朗らかな笑みで、

 

「いえいえ、もーまんたいですよー。ちゃちゃっと調べてきちゃいますので!」

「……ありがとうございます。藤千代さんは、本当に働き者ですよね」

 

 年中ひきこもりで家事も仕事もペット任せなさとりとは違って、藤千代は地底の代表として日頃からよく体を動かし、決して足労を厭わない。月見から聞いた話によれば、当代の天魔はしばしば仕事をサボって部下に折檻されているらしいが、それとはいい意味で対照的だ。お陰でさとりとしても、藤千代に任せておけば大丈夫だろうという安心感がある。

 

「ふふふ。今度月見くんが遊びに来たときに、是非話してくださってもいいんですよ! そうすれば、月見くんからの好感度上昇間違いナシですからね!」

 

 ――大丈夫よね?

 というかこの少女、まさかそのために自ら調べに行こうとしているわけじゃ、

 

「……むむっ!?」

「ど、どうしました?」

 

 突然、藤千代が旧都の町並みの方を振り向いて、ものすごく真剣な顔で、

 

「……月見くんの匂いです!」

「は?」

「間違いありません……! 十一時の方角……どうやら、ちょうど旧都に着いたばかりみたいですねっ!」

 

 藤千代さん。なぜあなたは、そんなに遠くの匂いをさも当然のように察知しているのですか。そして、なぜ匂いだけでそんなことまでわかるのですか。

 あいかわらずこの人は月見さんのことになるとぶっ飛んでるなあと、さとりはちょっと遠い目つきになった。

 藤千代は瞳どころか顔中をきらきらさせて、

 

「待っててください、月見くーん! いま行きますよーっ!」

「あっ、藤千代さん!? ちょっと、あれを調べに行くんじゃ!?」

「そんなのより月見くんの方が大事です!」

 

 訂正。やっぱりダメだこの人。

 つむじ風とともにすっ飛んでいった藤千代を仏像のような心地で見送って、さとりは全身でがっくりとため息をついた。それから小さく、

 

「……それにしても、月見さんですか」

 

 きっと彼も驚いているだろう。今の地底は、夏までとは言わずとも、春だって目じゃないくらいに暖かいのだから。

 本当に、なにが起こっているのだろう――そう、空の彼方で光る星を見晴るかしながら思う。

 

「……まったく。こんなときに、こいしもお燐もおくうも一体なにをして、」

 

 やはり、虫の知らせというやつだったのだろう。

 なんの確証もないことなのに。それでもその瞬間、絞めつけるような不安がさとりの心を絡みとって、途端に苦しく息が詰まった。

 荒唐無稽な妄想も、いいところだったのに。けれどさとりにはどんなに頑張っても、這い寄ってくる嫌な感覚を拭い去ることができなかった。

 もう一週間近くも、地霊殿で姿を見かけていない。

 『大事な用』の書き置きを残して、忽然と行方をくらませた。

 まさか、まさかそれが意味しているのは――この異常事態の中心に、彼女たちが関わっている可能性なのではないか。

 それに、月見も。この異常事態がちょうど起こったばかりのタイミングでやってくるなんて、いくらなんでも話が出来過ぎてはいないか。もしかすると彼はこの異常事態についてなにか知っていて、だから地上からわざわざ駆けつけてきたのではないか。

 本当に、荒唐無稽な妄想だ。

 でも。

 でも、

 

「……っ」

 

 ――なら、私の胸を絞めつけるこの嫌な感覚は、一体なに。

 居ても立ってもいられなくなって、さとりは藤千代を追って駆け出した。それは今や筋金入りのひきこもりとなったさとりが、何十年、いや、ひょっとすると何百年振りに旧都へ飛び出していった瞬間でもあった。

 もちろん、恐怖はあった。かつての記憶が甦ってくる。旧都の住人のごく一部は、さとりを見てとてもひどいことを考えている。それ以外も、少なくともさとりの能力を忌避しているのは間違いなく、好意的な目では見ていない。

 今でもきっと、それは変わっていないだろう。

 だから、呟いた。

 

「……月見さん」

 

 それは、さとりが己を励ます魔法の言葉。

 月見に会うためだと思えば、胸を軋ませるこの辛い痛みも、少しばかりは楽になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑧ 「砕けゆくもの」

 

 

 

 

 

 陰陽玉からの指示に従って月見が旧都の入口付近まで辿り着くと、人気のない小さな民家の屋根で手を振ってくれているお燐を見つけた。早速天子たちを連れて向かえば、お燐は猫らしい愛嬌あふれる笑顔で迎えてくれた。

 

「おにーさん! あーよかった、やっとここまで辿り着いたよ~」

 

 それから、ほんの小さなため息ひとつ。そこにはなかなか思うようにいかない現実への疲弊と、拭い切れない自責の念がにじんでいた。笑顔があっという間に鳴りをひそめ、

 

「ごめんねおにーさん……なんか、あたいのせいですっかりややこしいことになっちゃって……」

 

 妖精に伝言を任せた件を言っているのだろうと月見は思う。確かに、謝罪の意図はわからないでもない。もしお燐がもっと確実な方法で事を知らせていれば、はじめから月見が地底に向かっていただろうし、そうすれば霊夢たちがわざわざ危険を冒す必要もなかっただろう。

 だがそれは、お燐が責め苦に遭うことではない。結果論ではあるけれど、彼女は霊夢と魔理沙を助け、最悪の事態を防いでくれたのだから。

 

「霊夢たちを助けてくれたお前を、どうして責められるんだい」

「……でも、それは」

「あ、あのっ」

 

 食い下がろうとするお燐の言葉を遮って、天子が帽子も落ちかけるくらいに深く頭を下げた。

 

「霊夢たちを助けてくれて、本当にありがとう……!」

「……あの、だからねおねーさん、あたいは」

 

 天子は聞いちゃいない。隣のアリスの肩を叩いて、

 

「ほらアリスもっ」

「わ、わかってるわよ。……えっと、その……あ、ありがとう」

「いや、だから」

「とにかくありがとう!」

 

 問答無用である。お燐が頬を指で掻き、すっかり困り果てた様子で苦笑した。

 

「……おにーさんの知り合いって、結構人の話聞かないよね」

 

 まんざら否定もできない。幻想郷の住人たちは、どいつもこいつも元気いっぱいなのである。

 

「……ありがと、おねーさんたち。ちょっと気持ちが楽になったよ」

 

 お燐は足元の屋根を指差し、

 

「二人はこの中で寝てるよ。ついてきて」

 

 それでも決して「どういたしまして」と言わなかったのは、やはり、自分に感謝される権利はないとかたくなに思っているからなのだろう。

 お燐に連れられ民家に入ると、どうやら空き家らしかった。玄関の戸を開けて正面に茶の間がある簡素な構造で、畳の上には霊夢と魔理沙が寝かされていた。一番早かったのはやはり天子だった。履物も揃えず畳へあがるなり足音を殺して駆け寄り、やがてそっと胸を撫で下ろした。

 投げ出されっ放しな天子の履物を代わりに揃え、月見もあとに続く。

 目立った点といえば魔理沙の両脚に氷嚢が載せられているのと、二人とも水をぶっかけられてびしょ濡れになっていることくらいだろう。お燐がやってくれた応急処置と思われるが、その荒っぽさ満点なところが実に妖怪らしい。空き家だからどうだっていいのか、畳が水浸しになるのもお構いなしである。しかしそれを除けば二人の寝顔は随分と穏やかで、生きるか死ぬかの瀬戸際を切り抜けたばかりだとはとても思えなかった。

 というか、

 

「えへへぇ……これが博麗の巫女の実力よぉ~……この私に歯向かうなんて、百年早いんだからぁ……」

「……」

「あ、だ、だめだ香霖……確かに八卦炉壊しちゃったのは、悪かったけど……だからって、か、体で支払えなんて……」

「…………」

 

 なんというか、とても元気そうだった。

 アリスが極めて遺憾げに、

 

「こんなこと言っちゃうのもどうかと思うんだけど――心配して損したわ」

「ぶ、無事でよかったじゃない! こ、こういうのは損した方がいいんだよきっと!」

 

 頑張って前向きに考えようとしている天子も、やっぱりだいぶ複雑そうな顔をしていた。もちろん霊夢たちが元気そうで安心したのは事実だし、それに文句を感じるのもひどく不謹慎ではあるのだけれど、しかしせめてもう少し空気を読んでほしかったというか、霊夢はさておき魔理沙はなんの夢を見ているのか。白黒の魔法使いは、「で、でも香霖がそこまで言うなら……」と妙に幸せそうなご様子なのだった。

 

「叩き起こす?」

 

 ああアリス、お前はそのゴツいハンマーを構えたおっかない人形をどこから出した。

 月見は頬が引きつるのを感じながら、

 

「いや、二人とも頑張ったんだ。休ませてあげよう」

「……そうね」

 

 アリスは渋々とハンマー人形をどこかにしまった。引っ込み思案な少女が胸に秘めるダークサイドを垣間見て、天子は「ひええ……」と隅っこで震え上がっていた。

 ともかく、これで霊夢と魔理沙の無事は確認できた。この調子なら、放っておいてもそのうち元気に目覚めるだろう。肩の荷がひとつ消えてなくなったのを感じながら、月見はいま地底で起こっている異変へ意識を切り替えようとした。

 いきなり、

 

「月見く――――――――むぎゅ!!」

 

 玄関からものすごい勢いで何者かが飛び込んできたので、驚いた月見は反射的に尻尾で叩き潰してしまった。

 しまったつい――と肝を冷やして尻尾をどかしてみると、藤千代だった。

 月見は安堵した。こいつだったら別に叩き潰してもいいや。

 

「ふふふ、これは月見くんの愛の鞭ですかっ」

 

 ほら、何事もなかったかのように無傷だし。

 突然の闖入者に、少しの間空気が固まった。天子とお燐は揃って目を点にしていて、アリスは天子の後ろに縮こまって隠れていた。そんな中で霊夢と魔理沙が、えへへふへへと幸せな夢を見続けている。

 ようやく天子が、

 

「えっ……ふ、藤千代?」

「あら、天子さんじゃないですかー」

 

 立ち上がった藤千代は着物についた埃を払いながら周りを見て、まるで今はじめて気づいたように、

 

「おや? どうしたんですかアリスさんもお燐さんも、こんなところに集まって」

「そういうお前こそ、よくここに私たちがいるとわかったね」

「月見くんの匂いを察知したので、地霊殿からすっ飛んできましたよっ」

「そうかー、気配じゃなくて匂いと来たかー」

 

 近頃藤千代は、常識という概念をますます見境なく踏み外しつつある。

 お燐が信じられないモノを見る目で、

 

「えっ……藤千代、ここから地霊殿までだいぶ距離あるよね? おにーさん今来たばっかだし、匂いが届くわけないと思うんだけど」

「やーですよお燐さん。月見くんの存在を見逃す。それは、私が私でなくなると言っているようなものです」

 

 こいつが非常識なのは、戦闘能力だけにしてほしかった。

 頬どころか空気そのものまで引きつるような沈黙が広がったところで、外の方から声が聞こえた。

 

「ふ、藤千代さ~ん……ど、どこ行っちゃったんですかぁ……」

「……!?」

 

 驚くあまり、お燐が体ごと外を振り向く。

 

「さ、さとり様!? なんで地霊殿の外に……!?」

「……今の、さとりか?」

 

 捨てられた子犬みたいに哀愁を誘う声だったので、月見にはいまいち判断しがたい。しかしお燐がご主人様の声を聞き間違えるはずもないから、彼女の肝を潰した驚き様にも納得が行った。

 お燐は、こいしとおくうのことをさとりには話していないと言った。だが心を読むさとりの前で隠し事などできるはずもないから、お燐はしばらくの間地霊殿に帰っていなかったのだろう。すべてを知れば、さとりがほんのわずかにでもおくうを嫌ってしまう可能性があったからだ。

 そこまでしてでも、お燐はおくうのことを庇いたかった。そしてこのままさとりとパッタリ出くわしてしまえば、ぜんぶが水の泡になってしまう。

 

「あらさとりさん、追いかけてきてくれたんですね。……さーとーりさーん! こーこでーすよーっ!」

 

 藤千代が手をぶんぶん振り回しながら飛び出していく。それから一瞬遅れて、お燐が真っ青な顔で慌て始める。

 

「どどどっどうしよう、なんでさとり様が外に出てるの!? このままじゃ、心読まれておくうのことが……っ!」

 

 さとりとこいしのペットという立場であるお燐は、主人たちから疎まれることをなによりも恐れている。その気持ちが月見にはよくわからないだろうとお燐は言ったし、実際月見には、推測こそできても共感はしがたいものだった。

 お燐の気持ちが、理解できないのではない。

 そんなことであの子がお前たちを疎むはずもないという、確信ともいえるさとりへの信頼があったからだ。

 

「落ち着け、お燐。ぜんぶ話してしまえばいいじゃないか」

「で、でも……」

「さとりはその程度でお前や空を嫌ったりしない。むしろ、そうやって隠し続けていた方こそを、あの子は責めるんじゃないかな」

 

 お燐が、うっと呻いて答えに窮する。そうしているうちに、ぱたぱたぱたと元気な足音が近づいてきて、

 

「お待たせしましたーっ!」

「……!」

 

 お燐の全身が強張る。藤千代に手を引かれ、転びそうになりながら飛び込んできたのはやはり古明地さとりだった。すっかり息切れし肩で酸素を補給するさとりは、まず月見に気づいて目を見開いた。

 

「ほ、本当に月見さんが……。藤千代さんの気のせいじゃなかったんですね」

「当然ですっ」

 

 そんなことで胸を張られても困る。

 という月見の心の声を聞いて、さとりは乾いた苦笑いだった。

 

「ええと……本当は、奥の方々にご挨拶するのが先だと思うんですけど」

 

 ほんの束の間だ。そこで言葉を切ったさとりは、途端に月見でもあまり見た記憶のないドライな眼差しになって、

 

「お燐」

 

 さりげなく月見の後ろに隠れていたお燐が、ギクリと固まった。

 

「あなた、こんなところにいたのね」

 

 ぷるぷる震え始めた。

 

「とにかく出てきなさい、そんなところで隠れてたら月見さんのご迷惑に」

 

 そのとき、さとりの表情が突然変わった。頭からさっと血の気が引くような、強烈な困惑の色が顔一面に広がった。

 心を読む力を持つさとりの前では、あらゆる隠し事がその意味を成さない。

 

「……ちょ、ちょっと待ちなさい。あれ(・・)がこいしとおくうの仕業ですって? ど、どういうこと……?」

「? ……そうなんですか、お燐さん?」

「う、うう……っ」

 

 事情を知らない二人の視線がお燐を捉える。目の前にさとりがいる以上、黙秘を貫いたところでなんの意味もない――しかしそれでもなお、お燐は口をかたくなに閉ざして真実を話そうとはしなかった。

 否、話せないのだろう。黙ったところでなんの意味もないと頭ではわかっていても、嫌な想像が先行してしまって唇を動かせない。そんな彼女の心すらも読み取って、さとりはひとつのため息をついた。

 

「……なるほど。だからあなたは、あんな書き置きを残して私の前から消えたのね」

 

 呆れるのではなく、慈しむように。

 

「お燐、馬鹿なことを考えないで頂戴。あなたたちを見放したりなんて、するわけがないじゃない」

「……さとり、さま」

「だから怖がらないで、みんなに教えて。あなたが知っていることを」

 

 やはり、月見の思った通りだった。さとりはこの程度で家族を嫌うほど心が狭いやつではない。むしろ、なぜ旧都の妖怪たちから避けられているのか理解し難いほど心優しい少女なのだ。月見の着物の裾をぎゅっと握り締めていたお燐の手から、解けるように震えが消えた。

 そしてさとりがいつの間にか、若干恥ずかしそうなジト目で月見を見ていた。

 

「月見さん、またそういうことをさらりと……私、そういうのってどうかと思いますっ」

「は? ……ああ、どうして他人から避けられてるのかわからないくらい優」

「くくくっ口に出さないでくださいっ!? 恥ずかしいですからっ恥ずかしいですからっ!」

 

 あいもかわらず古明地さとりは、ストレートな誉め言葉に滅法弱い。

 後ろからお燐が小声で、

 

「……おにーさん、なに考えてたの?」

「いやだから、さとりはすごく優し」

「月見さんっ、からかわないでください!!」

「私はただ感じたことを素直に」

「もお――――――っ!!」

 

 今となってはさして珍しくもないこのやり取りが、なぜだか今はとても懐かしく感じられた。そんなわけはないのに、やはり状況が状況だからなのか、強張っていた月見の心を実に心地よく解きほぐしてくれた。

 お陰で、上手く気持ちを切り替えられたと思う。

 

「……それじゃあ、少し話を整理しようか。地底で一体なにが起こっているのか。そして、私たちが一体なにをするべきなのかをね」

「む、むう……」

 

 さとりはなんとも物言いたげだったが、この状況であーだこーだ言うのも大人げないと思ったのか、履物を脱いで素直に座敷にあがった。

 そしてあがった瞬間、「ふわひゃあ!?」と素っ頓狂な悲鳴とともにひっくり返りかけた。藤千代が背中から咄嗟に支えた。

 

「おっと。……どうしたんですか?」

「す、すみませ……でででっでもでもっ、なんて夢を見ているんですかそこの方はぁ!?」

 

 顔面真っ赤なさとりがビシビシ指差した先には、やたら香霖香霖言いながらとても幸せそうに眠っている魔理沙がいる。

 

「……あー、」

 

 なんとなく、わかった。さしずめさとりはその能力で人の心のみならず、人が見ている夢をも読み取ることができるのだろう。その上で魔理沙が一体なんの夢を見ているかといえば、まあ、「体で支払う」とか言っていたからやっぱりそういう夢だったのだ。思春期だなあ、と月見は思う。

 

「……やっぱり叩き起こす?」

 

 ああ、アリスの瞳から光が消えかけている。さとりに至っては「ふけつです……」としゅうしゅう湯気を上げていて、話もできそうにない有様である。ちょうど畳の上が水浸しでもあるので、ひとまずは別の小部屋に場所を移す運びとなった。

 ところが、そこでも問題が発生した。簡単な自己紹介を交え、さとりが心を読む力を持った覚妖怪だと知るや否や、天子とアリスの態度が急変したのだ。

 別にそう悪い意味でではない。ただ、天子は急にそわそわと落ち着かない様子になり、アリスは頭の上に精巧なガラス細工を載せられて身動きひとつ取れないでいるような緊張で石化し、やっぱり話ができない有様になってしまった。しまいにはさとりの方が「あの、落ち着かないのでしたら……」と気を遣い出す始末で、二人ともそそくさと霊夢たちの部屋まで退散していってしまった。

 月見は難しく頭を掻いた。人見知りのアリスは仕方ないにしても、天子なら案外大丈夫なのではないかと思っていたのだが。

 

「なんだか、悪かったね」

「いえ、大丈夫です。むしろ、お二方の方が普通の反応です。おかしいのは月見さんですよ」

 

 妙に棘を感じる口振りだった。さとりはたっぷり微笑んで、

 

「いつもからかってくれるお返しです。……それにお二人とも、なにも悪いことは考えていませんでしたよ。ただ、恥ずかしがっていただけです」

「そうなのか」

「ええ。アリスさんは、特に恥ずかしがり屋なんですね。私なんかの心を読ませてごめんなさいって、すごく謝ってきました。はじめてです、あんな方」

 

 月見は苦笑した。カチンコチンに固まって微動だにもしなかったのは、どうやら心の中でひたすら謝りまくっていたかららしい。なんともアリスらしいと思う一方で、しかしある意味では、心を読む力に対する有効な対処法なのかもしれないとも思った。

 

「天子さんは……ふふ」

 

 さとりは月見を見て、意味深に目を細めると、

 

「こちらは、ちょっとここでは言えませんね。個人情報の保護に抵触するので」

「……お前が言うと、妙に説得力があるね」

 

 どうあれ、ただ恥ずかしがっていただけというのならば、月見も少しばかり肩の力を抜けた。

 

「実を言うと、私も不安でした。でも、お優しい二人でよかったです」

「ああ、私もそう思うよ」

 

 このままずっと長閑な話を続けられればいいのだが、今はそうもいかない。頷いたさとりが笑みを消し、胸の奥でくすぶる痛みをこらえるように眉を歪めた。

 

「……正直、信じられません。あれ(・・)が、こいしとおくうの仕業だなんて」

 

 あいかわらず気温は春みたいに暖かいし、窓から見える地底の端の空には、恒星を思わせる静かな輝きが浮かんでいる。信じたくない心はお燐も同じで、いつもなら元気に尖っているはずの耳が今は力なく垂れている。

 

「……はい。正確に言えば、神様の力を手にしたおくうを、こいし様が……その、扇動、してるんだと思います」

 

 藤千代が端的に問う。

 

「理由は?」

「えっと……」

 

 お燐は言葉を選ぶ間を置いてから、やがて訥々と、

 

「……元々、強い力に興味があったんだと思う。それで、おくうが強くなったらいろいろなことができるようになるって考えて……例えば、さとり様が誰かからなにかをされたときに、守ってあげられるかもしれない、とか……」

 

 さとりが首を振り、俯いた。

 

「こいし……バカなことを」

「さとり様、そう言わないであげてください。こいし様は、」

「いいえ、バカよ」

 

 また首を振った。それは取り返しのつかないところまで進んでしまった現実を嘆き、苦心する、彼女の心の表れだったのだと思う。

 

「たとえ私のためだとしても。私はそんなこと、してほしいなんて思ってなかった。ううん、してほしくなかった。こいしとおくうには、してほしくなかったのよ」

 

 お燐が唇を噛み、握り込んだ拳でスカートの上に皺をつけた。

 それはそうだろう、と思う。もちろんお燐だって予想はしていたはずだ、真実を知ればさとりは必ずこう言うはずだと。だからこそ聞きたくなかった。さとりの口から直接聞きさえしなければ、お燐のただの考えすぎであり、単なる邪推であり、タチの悪い妄想でしかないのだから。

 今こいしとおくうがやっているのは、誰からも望まれてなどいない、なんの意味もないこと(・・・・・・・・・・)なのだと。

 知らないままで、終わらせたかったのだ。

 

「それに……月見さんのご友人を、二人も傷つけてしまった」

「っ、それはあたいが……!」

「お二人をおくうのところへ連れて行ったのが、あなただとしても。お二人と戦うことを選んだのは、他でもないおくうたちのはずよ」

「いや、そうとも限らないだろう」

 

 月見は言う、

 

「霊夢と魔理沙が一方的に仕掛けた可能性だってある」

 

 二人とも、異変の黒幕を見つければ問答無用で突っ込んでいきそうな性格をしている。それではじめはおくうも仕方なく応戦して、しかし二人が予想以上に強い人間だったせいで、いつしか加減が利かなくなってしまったのかもしれない。ああそういえば、そのあたりの経緯を天子たちから聞けていなかったなと、月見は今更のように気づく。

 

「そう……ですね。確かに、そういう可能性もありますね」

 

 だがさとりはかたくなに、

 

「でも、やっぱり、こいしたちが望んで戦ったのは間違いないと思います」

「……?」

 

 ――なぜ、そう断言できるのか。

 無論、月見が一体どれだけこいしという少女を知っているかと問われれば、それはさとりの足元にも及ばない程度でしかないと思う。明確に霊夢と魔理沙を傷つけられてなお、信じられないと見苦しく言い張るつもりはない。だがそれでも、月見が今まで見てきた『こいし』は、

 

「空が虫も殺せないくらいに優しい子なら、空を霊夢たちと戦わせたのはこいしだろう。けど、優しいのはあの子だって同じじゃないか」

 

 ちょっといたずら好きな困った一面はあるものの、それだって人をおどかしたりいつの間にか隣にいたりする程度で、こいしはいつも元気でよく笑う人畜無害な少女だったはずだ。力に憧れて、神の力をおくうに喰わせたのはまだいい。しかし、こいしが自ら望んでおくうを霊夢たちと戦わせ、お燐がいてくれなければあわやというところまで追い詰めたのはなぜなのか。そんな非情な姿など、月見が今まで見てきたこいしからは想像もできない。まさか彼女も、心の中では地上の者たちを憎んでいたのか。なら、月見に見せてきたあの天真爛漫な笑顔は一体なんだったのか。

 月見の嫌な思考を掻き消すように、一転、さとりがきっぱりと首を振った。

 

「いえ、こいしは間違いなく月見さんが好きですよ。私にあの子の心は読めませんが、断言できます」

 

 お燐も、心の声が聞こえないなりに流れを汲んで同意した。

 

「んと、あたいもそう思うよ。嫌な相手にいっつもいっつもべったりするなんて器用な真似、こいし様には絶対できないはずだし」

「それに、地上の方々を憎んでいることもないと思います」

 

 さとりは藤千代を気まずげに一瞥し、

 

「……ときどき、勝手に向こうまで遊びに行っているようですし」

 

 ならばなぜ、霊夢たちだけを。

 さとりの瞳が、迷いに揺れた。

 

「そ、それは……ですね」

 

 確信が持てず悩むのではなく、確信してはいるが口にするのを躊躇っている。

 

「う……ま、まさにその通りなんですけど……ええと、」

「――原因は、霊夢さんより何代も前の博麗の巫女だと思います」

 

 答えは思わぬところからやってきた。今までずっと耳を傾けるだけだった藤千代が、いつもの茶目っ気ある佇まいを消し飛ばし、人が変わったように滔々(とうとう)と口を切っていた。

 『博麗の巫女』と聞いて、さとりの体がわずかに震える。

 

「ふ、藤千代さん……」

「私からは詳しくは話せません。でも、こいしさんが『博麗の巫女』そのものを嫌ってもおかしくないだけのことを、あの頃の巫女はしたのです」

 

 どうやら事実であるらしく、さとりは唇を引き結んだままなにも言わない。

 その反応を見れば、迂闊に踏み込んではならない話なのは容易に察せられた。だがその上で、許されるのならば聞かせてくれないかと月見は願った。今の自分は、あまりにこいしという少女を知らなすぎる。このままでは、彼女を止めるために如何な言葉を重ねたとしても、単なる『知った風な口』を叩くだけで終わってしまう。

 

「……」

 

 さとりが迷いと闘う、片時の間があった。藤千代は、あとはすべてさとりが決めることだと言うように沈黙し、お燐は主人の葛藤を察して悲痛に顔を歪めた。

 旧都の外れの空き家とはいえ、外はやはり騒がしい。地底中を襲うあの異常現象に、気づいていない鈍感な住人は一人もいないはずだ。ただでさえ暖かかった気温が、なおも少しずつ上がってきているように感じられる。

 さとりが、顔を上げた。

 せめぎ合う迷いを生唾とともに呑み込み、大きく長い息をついて、色の失せた白い唇を動かした。

 

「――昔、博麗の巫女に退治されそうになったことがあるんです」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――神霊・『夢想封印』!!」

 

 終わったと、そのときさとりは一切を諦めた。

 それは、しばしばさとりがうなされる悪夢の続きであり、かつて我が身を実際に襲った現実の想起だった。さとりがまだ、地上で生活をしていた頃のこと。どこかの人間の依頼を受けて、博麗の巫女が妖怪退治に動いた。大した戦闘能力も持たないさとりはあっという間に追い詰められ、逃げずに戻ってきてしまった妹とともに、為す術もなく退治されてしまうはずだった。

 だがさとりとこいしが今も生きて地底にいるように、現実はそうならなかった。

 なぜ。

 『彼女』が、来てくれたからだ。

 

「……ッ!?」

 

 巫女が大きく息を呑んだ気配。それと同時に、さとりとこいしを呑み込むはずだった七色の光弾が、すべて呆気なく弾き飛ばされた。

 なにが起こったのかわからなかった――突然目の前に出現した、彼女の背中を見るまでは。

 七色の光が掻き消え森に静寂が戻ると、鉄面皮を崩した巫女が頬を引きつらせて笑ったところだった。

 

「……いや、ちょっと。あんたが出てくるとか冗談でしょ?」

 

 ずっと倦んでいた巫女の声音に、明らかな動揺がにじみ出ていた。

 

「――ねえ、鬼子母神サマ」

 

 さとりもまた、これはなにかの間違いではないかという思いで藤千代の背を見つめていた。

 一般的には『鬼子母神』の二つ名で広く知られる大妖怪――藤千代。『妖怪の賢者』たる八雲紫と並んで最強の双璧をされる片割れが、今さとりの目の前にいた。

 無論、知らぬ相手ではない。だがそれはさとりが一方的に知っているというだけの話であり、向こうはさとりの名前すらも知らぬはずだ。要するに赤の他人である。故になぜ助けられたのかがわからず、ただただ呆然とするばかりのさとりは、藤千代の背中に声を掛けることも忘れていた。

 

「こんにちは」

 

 表情は見えないが、藤千代の声音は穏やかに笑んでいた。博麗の巫女は荒っぽくため息をついて投げやりに、

 

「はいはいこんにちは。……てかね、人の術を埃でも払うみたいに消し飛ばすのやめてくれる? 結構凹むんだけど」

「いえいえ、素晴らしい一撃でしたよ。ほら、右手切っちゃいました」

「たったいま私の目の前で完全に治ったけどねそれ。ああもう、ほんとフザけた治癒速度だわ」

 

 感情などないかのように淡々とさとりを追い詰めた巫女が、今はまるで別人が如く焦燥している。いや、危機感に駆られているとすら言い換えてもいい。ふざけるな、こんなやつと戦うくらいなら報酬なんてもらえなくていいから逃げた方がマシだ――そう、彼女の心は激しく悪態をついていた。

 そこでふと気づく。すぐ目の前にいる藤千代の心がなぜか読めない。さとりの『心を読む程度の能力』は、相手との実力差によって無効化されることのない絶対的な能力である。それが通じないということは、藤千代の方で心を読まれぬなんらかの細工をしている可能性を意味する。

 このときのさとりはまだ、藤千代の能力が『認識されない程度の能力』だとは知らなかった。

 

「……で、あの駄賢者と並んで最強の誉れ高き貴女サマがなんの用かしら。ぶっちゃけ私もう帰りたいんだけど」

「はい。こちらの妖怪さんを退治するのは、見送っていただきたいと思いまして」

「いやまあ、それはあんたがそいつ庇った時点でわかってるけど。でもどうしてよ。友人かなにか?」

「いえ、まだお名前も知らない相手です」

 

 意味がわからん、と巫女の心は言った。

 

「あー、じゃあ前置きはいいから大事なトコだけ教えて頂戴」

「はい。私たち鬼は、近いうちに地底に住処を移そうと考えています。こちらの妖怪さんをはじめ、地上で住む場所に困っている方々を連れて」

「はあ」

「正式な交渉はいま紫さんと行っている最中ですが、結構煮詰まってきてまして、話がなくなること自体はほぼない状態です。どのみち地上から姿を消すなら、退治してもしなくても同じですよね?」

「まあ、そりゃそうね。しかしまた随分と急な話じゃない。なに、地上で生活するのが嫌にでもなった?」

「まあ、そんなところです」

 

 そうなのかよ、と巫女が心の中でツッコむ。

 いやー、と藤千代はバツが悪そうに頭を掻いて、

 

「実はこの頃、私たち鬼の中で人間に対する反発が高まっちゃってまして。もーこんなところで暮らせるかーって感じで」

「なんか聞いたことあるわねそれ。あれでしょ? 私ら人間が真剣勝負してくれないのが不満で愛想尽かしてるとか」

「まったくもってその通りで」

「随分とムシがいい話よね。どう見ても人間の勝ち目が薄い勝負を面白半分でやってたってのもそうだし、私らが頭使って歯向かうようになったら『裏切りだ』とか何様よ。体強くない人間が、頭と数に頼らざるを得ないのは当然でしょ」

 

 この巫女、もう帰りたいとか言っておきながら自ら喧嘩を吹っかけているような気が。

 けれど当の藤千代はまるで気分を害した素振りもなく、それどころか巫女がまったく正しいと認める素直な態度で、

 

「返す言葉もないです。でも、仕方のないことだと思います。人間がそういう種族であるように、鬼もそういう種族なのですから」

「はいはい。……それで地底に住処を移すってわけね。まあこっちとしては、私らに迷惑掛けないようになるならなんだっていいわ」

「お仕事、なくなっちゃいません?」

「あのね、私みたいなやつは暇してる方がいいことなのよ。それに巫女は妖怪退治だけの脳筋じゃありません。祭祀とかお祓いとか、他にも収入源はいろいろあるんだから」

 

 吐息。

 

「じゃあ私は帰るわ。まったく、さんざ鬼ごっこした挙句あんたが出てくるし、きっと報酬ももらえないだろうし、とんだ貧乏くじだったわ」

「私としては、このままお手合わせしてもいいんですけど」

「絶っっっ対イヤよ。命がいくつあったって足りゃしない」

 

 そこまでだった。臨戦態勢を解いた巫女が、あっさりと踵を返してこの場から立ち去る。さとりなどもはや一瞥もしなかったし、心の中でも、その存在にわずかとも思考が割かれることはなかった。

 巫女の姿が完全に見えなくなったところで、張り詰めていた緊張がどっと崩壊した。こいしを抱き締めたままだった両腕が地面に垂れ、ほとんど彼女の背に体重を預ける格好になってしまう。全身が鈍痛に苛まれ、まるで力が入らない。もう、戻ってきた妹を叱りつける気力も、助けてくれた藤千代に礼を言う余裕もありはしなかった。

 と、

 

「よっと」

「っ、」

 

 いきなり藤千代に担ぎ上げられた。完全な不意打ちだったのでかなりびっくりしたが、それよりも口を衝いて出てくるはずだった悲鳴が声にならなかった方への動揺が勝った。いきなりなにするんですか、と言おうとするものの、それもやはり上手く声にならない。だから、こりゃ相当参っちゃってるなあとさとりは今更のように実感した。

 担ぎ上げられたこの体勢では見えないが、自分の右脚には今もなお、あの太すぎる針が突き刺さったままのはずだ。

 

「とりあえず怪我の治療ですね。私はそういうのよくわからないので、わかる方のところに連れていきます。もうちょっと我慢してくださいね」

 

 応急処置の仕方も知らないなんて藤千代らしい。怪我をしてもすぐ治る彼女にとっては、まさに必要のない知識だろうから。

 

「あなたも、いいですか?」

「……うん」

 

 藤千代に腕を引かれて、こいしがふらふらと立ち上がる。目の焦点がどこにも合っておらず、心ここにあらずに見える。人間に退治されかける寸前まで行ったのははじめてだったから、幼い彼女は恐怖で放心してしまったのかもしれない。

 藤千代が腕を引いて何歩か歩いてみると、こいしは転ばないのが不思議なくらいに覚束ない足取りでついてくる。そんな調子でこの森を抜けられるはずもないので、結局藤千代は、こいしも担ぎ上げて飛んで戻ることにしたようだった。

 こいしとどっこいどっこいの体格のくせに、二人を同時に担いでも眉ひとつ動かさないあたりはさすがとしか言葉が出ない。

 なには、ともあれ。

 あちこち走り回ったせいで体力を使い果たし、九死に一生を得たことで気力がごっそりと削られ、体中の怪我で血もだいぶ失って。

 そんな中で空を飛ぶ心地よい風に吹かれていたら、なんだか少し、頭の中が眠気でぼーっとしてきて。

 気づいたときには、もうまぶたも上げられなくなってしまっていた。

 

「――……の、巫女」

(……?)

 

 ただ、気のせいではなかったと思う。

 

「――博麗、の、巫女」

 

 さとりがついぞ聞いた覚えもないほど冷え切った、こいしの氷の呟きは。

 夢と呼ぶにはあまりに生々しく、さとりの記憶に刻みつけられた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 こういう、いかにも憐れで不幸な身の上話を他人に語って聞かせるのは、さとりはあまり好きではない。最たる理由はやはり、さとりが望む望まざるにかかわらず、能力で相手の心が隅々までわかってしまうせいだ。

 この話をはじめて聞かされた相手の反応は、得てして決まっている。どう反応すればいいのか、どんな言葉を掛ければいいのか咄嗟に判断できず、困惑し、困り果てる。そして最終的には、なんともその場凌ぎといった感じで『同情』という行動に落ち着く。

 だから、あまり話したくないのだ。まるで自分が、己の不幸を餌に人から同情されたがっているように見えてしまって。もちろん今の今までは、月見にだって話すつもりは毛頭なかった。状況が状況でさえなければ、これからもずっとそうだっただろう。

 だが話しているうちに、少しずつ考えが変わった。

 

「――そうか」

 

 月見の反応は、静かだった。同情するのでも共感するのでもなく、さとりから聞かされた言葉をそのまま受け止めるような、曇りのない真摯な言葉だった。

 

「そうだな。昔はまだ、そういう時代だったものな」

「……そうですね。あの頃は、大変でした」

 

 月見の心は、困惑も同情もなく静かに凪いでいる。こいしのことを考えている。自分が今まで見てきた『こいし』と、さとりの話から知った『こいし』を、ひとつに集約して受け入れようとしている。

 『同情』と『理解』は、似て非なるものだ。この話を聞いて『同情』した者は数多くいたが、『理解』しようとしてくれたのは彼がはじめてだった。

 妹のことを、ここまで誠実に考えてくれる人がいる。さとりのように、「バカなことを」なんて決めつけて否定したりはしない。それがさとりには、辛い記憶を語った痛みすら忘れるほどに嬉しかった。

 

「……ありがとう。教えてくれて」

 

 そしてさとりには、やはり同情などではなくまっすぐな感謝を示す。だからきっと、彼にはぜんぶお見通しだったのだろう。

 同情されたくて話したわけではない。憐れんでほしいわけではない。ただ、「可哀想」なんて理由で見る目を変えてほしくなかっただけ。

 だから月見の感謝の言葉は、呆気ないほどストンとさとりの胸に落ちてきた。

 月見さんに話して、よかったのかもしれないなと。はじめて、そう思えた。

 

「ひとつ、訊いてもいいだろうか」

「はい」

 

 月見の心は言う。――こいしが今でも博麗の巫女を恨んでいるなら、お前もそうなのか。

 真っ当な疑問だと思い、首を振った。

 

「私は大丈夫ですよ。もう、昔の話ですから」

 

 もちろん、あれだけのことがあったのだ、博麗の巫女にいい印象を抱いているとは世辞でも言えない。霊夢が当代の『博麗』だと知ったとき、腹の底がぐっと冷え込むような感覚を覚えたのは紛れもない事実だ。

 だが、一方で、恨んでいるわけでもない。

 

「誰かを恨んで生きるのは、虚しいですし、疲れますから」

 

 結局さとりは、臆病だったのだ。復讐など、考えはしても、まるで行動に移す度胸がなかった。力がなかったから、ではなく、力があったところできっとさとりはそうだった。恨まれるのも、恨みを晴らすのも怖くて、そんなことを考えてしまう自分自身に疲れていく。そしていつしか、なぜ自分は過去ばかりにしがみついているのかと気づくのだ。

 どうして辛かった頃の記憶をわざわざ掘り返して、自分で自分を痛めつけているのか。

 確かに、住む場所を追われはした。この地底に追いやられた。でも今が不幸かといえばそれはまったく違っていて、むしろ地霊殿でペットたちと過ごす毎日は、さとりの心をそれなりに満たしてくれていた。例えばある日突然、幻想郷中の住人がさとりを受け入れてくれたとして。その上で地上に戻るかと問われれば、きっとさとりは地霊殿に残り続けるだろう。そう思える程度には、今の生活が好きだった。

 なら、もういいじゃないか。昔のことは。

 さとりは引きこもりだけれど、根暗ではない、つもりである。恨みを忍んでうじうじ生きるのは性に合わない。いつまでも過去ばかりを引きずるのはやめて、前を向いてみてもいいんじゃないかと。

 お燐やおくう、藤千代と出会って、そう思えるようになったのだ。

 

「……まったく」

 

 一杯食わされたと天を仰ぐような、月見の一笑だった。

 

「お前がなんで周りから距離を置かれてるのか、皆目見当もつかないよ。みんな見る目がないんだね」

「か、からかわないでくださいってば!」

 

 顔があっさりと熱くなるのを感じた。やはり何度経験しても、月見からしばしば贈られてくる褒め言葉への耐性がまるでつかない。心を読む能力のせいで、からかいなどではない本心からの言葉だとわかってしまうせいだ。

 それでもさとりが「からかうな」と返すのは、そう思うことで、自分の心を守ろうとしているからなのだと思う。

 同じ女性同士ならまだしも、男の人から真っ当な心で褒められてしまうと、なんだかすごくくすぐったい。ほだされてしまいそうになる。これだったら世辞の方がまだマシなくらいで、だからさとりはからかわれているだけだと思い込みたいのだ。

 しかし藤千代がうんうんと二度頷き、お燐までもがまったくだと腕組みをして、

 

「そうですよねー、こんなに優しくて素敵な方なのに」

「さとり様は、心読んでもそれを悪用したりしないのにね。みんなオーバーに考えすぎだと思うよ」

「と、ともかくっ」

 

 変な流れになりそうだったので、さとりは咳払いで強引に軌道修正した。褒められて赤くなっている場合ではない。事態は、さとりが思っているよりもずっと深刻かもしれないのだから。

 そう考えると、頬の熱もあっという間に引いていった。

 

「昔、そういうことがあったので……こいしは、おくうを霊夢さんと戦わせたのかもしれません。仕返しのつもりで」

 

 嘆息し、

 

「もう何百年も昔の話で、霊夢さんは無関係なのに……本当に、バカだわ」

 

 少なからずさとりを想っての行動である点は、言うまでもなく嬉しかった。形式張ったさとりと自由奔放なこいしは前々からなにかと反りが合わず、なかなか上手くコミュニケーションが取れないでいた。さとりがなにかを言うと、こいしはいつも決まってうるさそうな顔をしている――と思う。こいしの心が読めないせいもあって、もしかして嫌われているのではないかと不安を感じたためしは一度や二度ではなかった。

 手段さえ間違っていなければ、さとりは素直にこいしの気持ちを喜んだだろう。

 こいしは、恐らく知らなかったとはいえ月見の友人を傷つけた。お燐が助け出していなければ、死んでしまっていてもおかしくない状況だったと聞く。こいしは霊夢と魔理沙の体を傷つけたのみならず、天子とアリスと月見の心をも傷つけたのだ。

 そして、きっと、おくうのことも。

 心を読む能力を捨て、外をぶらぶらと放浪するばかりなこいしは知るまい――おくうが一体どれほど心優しい少女であるかを。虫の一匹を殺す勇気もなく、地霊殿に虫が入り込んだときはいつも率先して逃がしてあげている。月見の存在に強い嫉妬を見せつつも、優しさが邪魔をしてそれをどこにも吐き出せずにいる。そしてきっと、自分の主人であるこいしのために、誰も傷つけたくないという己を殺して力を貸しているのだろう。それを知らずにこいしは、おくうを霊夢たちと戦わせた。博麗の巫女が嫌いだという、恨みの心に囚われて。

 本当に、バカだ。

 

「……」

 

 言葉が途切れる。腫れ物を触るような沈黙が、この部屋の隅々に重苦しく充満していく――そのとき。

 家が、かすかに音を立てて軋んだ。それは普段であれば誰も気にも留めないような、本当に大したことのない小さな地震だった。けれど今この場に限っては、誰しもが行き過ぎた想像を脳裏に巡らせた。

 まさか今の地震も、こいしとおくうが。

 

「……長話が過ぎましたね。私は、こいしとおくうのところに行きます」

「……!?」

 

 お燐が目を剥き、腰を浮かせた。

 

「さとり様、危険すぎます……! ここはあたいとおにーさんに任せて、」

「これは地霊殿の住人が起こしたこと。主人である私が行かないでどうするの?」

 

 お燐の心配はわかる。妖怪としての力を考えれば、ただ心を読めるだけのさとりにできることなどないのかもしれない。少なくとも、おくうが手にした強大すぎる神の力を止めるのは天地が引っくり返ったって無理だろう。

 月見がどうしてここに来たのか、お燐の心を読んださとりはすでに知っている。月見がここでなにをしようとしているのか、彼の心を読んださとりはすでに知っている。彼がいかに頼もしい力を持った大妖怪であるかだって、藤千代からさんざ自慢話を聞かされた。最古の狐。さとりなどいなくとも、彼があっという間にこいしたちを止めてしまうのかもしれない。

 けれどここで行かなかったら、家族のために動かなかったら、さとりは一生己を恥じることになる。こいしの姉を、おくうの主人を、胸を張って名乗れなくなる。たとえなにもできずとも、『なにもしなかった』にだけはなりたくない。だから行くのだ。

 

「……あ、あのっ」

 

 と、襖の向こうからだいぶ遠慮した感じの声が聞こえた。振り向いてみると、わずかに開けられた襖の間から、天子と名乗った少女がおずおずと顔を覗かせていた――が、さとりと目が合った瞬間、心の中ではにゃあああああと悲鳴をあげて縮こまってしまった。

 心を読まれてアレコレ知られてしまうのを、並々ならぬまでに恥ずかしがっている。

 例えば、自分が月見をどう思っているのか、とか。

 無論、時既に遅しである。さとりはもうバッチリと知ってしまった。天子にとっての月見とは、人生の目標であり、命の恩人であり――それ以上の、特別な存在でもあるのだと。

 今だって、さとりの能力を意識するあまりバリバリ月見のことを考えてしまっている。襖の奥から思考がダダ漏れになるほどである。なにを考えているのかは、個人情報保護の観点から触れないでおくけれど。

 みるみる赤くなっていく天子に、さとりは微笑んだ。こういう、暖かな心を読むのは、好きだ。

 

「大丈夫ですよ、天子さん。誰にも言ったりしませんから」

「あぅ……」

 

 茹でダコみたいになってしゅうしゅう沈んでいく天子を、同性のさとりですら愛くるしいと思った。きっと地上では、さとりなんかとは違って人気者の女の子に違いない。

 赤くなっている理由に敢えて触れない月見の判断は、きっと正しかった。彼にまで言及されてしまったら、もはや彼女は絶叫しながら家を飛び出す以外になかったはずだから。

 

「どうかしたかい、天子」

「あっ、え、えっと、」

 

 天子はわたわたと気を取り直して、

 

「その……私も、一緒に行きたくて。私なんかじゃ、役に立たないかもしれないけど……事情とかも、ぜんぜんわからないし」

 

 そのとき天子の心にあったのは、月見へのひたむきな想いだった。月見の力になりたい。自分の力不足は嫌というほどわかっているが、それでもなにかをしたいという気持ちが止められない。助けてもらった恩を、感謝の言葉だけではなく、少しでも形にして返したい。

 かつて月見と天子の間になにがあったのかも、表層だけではあるが読み取れた。

 だからさとりは、やっぱり月見さんは月見さんだなあと思った。妖怪なのに、体を張って人間を助けたりして。いや、彼にとっては妖怪と人間などという区別はもはや必要ではなく、困っている妖怪や悲しんでいる人間がいれば話を聞かずにはおれないのだろう。

 見て見ぬふりをしたり、見捨てたりすれば、悔いが残るから。

 そしてそれは、今のさとりだって同じだ。

 

「私は構わないけど……霊夢と魔理沙は」

「アリスが看ててくれるって……わっ」

「シャンハーイ!」

 

 天子の帽子の上に人形が飛び乗り、ここは俺に任せとけ! とばかりにえへんと胸を叩いた。

 正直なところ、さとりは少し悩んだ。同行させるべきではない、という思いがないと言えば嘘だ。天子までもが危険な目に遭ってしまうかもしれないし、『見ず知らずの地上の人間』という不確定要素は、とりわけ地上嫌いなおくうを逆上させる原因にもなりかねない。

 けれど、それでも。

 

「……わかりました。力を貸してください、天子さん」

「は、はいっ」

 

 さとりは、断れなかった。月見を想う天子のひたむきな気持ちに、ほだされてしまったともいえよう。天子の心があまりに眩しすぎて、とてもではないけれど、断るなんて血も涙もない真似はできそうもなかった。

 少し、月見のお人好しな性格が感染(うつ)ってしまったのかもしれない。

 藤千代が、

 

「私も、地底の代表として同行します――と言いたいところなんですけど、先に向かっててください。もう少し、旧都の皆さんとお話をしておかないとなりませんから。この騒動の原因がこいしさんとおくうさんだって、知られない方がいいですよね?」

「……ありがとうございます」

 

 この異常現象がこいしとおくうの仕業だと知れ渡れば、旧都の妖怪が彼女たちへ向ける目も――間違いなく悪い意味で――変わるだろう。知られずに終わらせられるのならそれに越したことはない。こいしとおくうまでもがさとりと同じ爪弾き者にされてしまうのは、絶対に嫌だった。

 藤千代は、仕事だけでなくこういう気遣いもできる女なのだ。……本当に、このあたりだけを切り取ってみれば、とても素敵な女に見えるのだけれど。

 月見が立ち上がり、着込んでいた冬用の和装コートを脱いだ。もう、そんなものを着ていては逆に暑いほどまで気温は高くなってきている。

 天子の帽子の上の人形に、

 

「これ、預かっててくれ」

「シャンハーイ!」

 

 さとりも立ち上がる。

 

「お燐、場所はわかるわね? 案内して頂戴」

「……わかりました」

 

 頷いたお燐は、それから躊躇って、泣きそうな顔をして、心の中で切々とした想いをこぼした。

 ――大丈夫ですよね、さとり様。

 無事に終わりますよね。

 また、みんなで、笑えるようになりますよね。

 

「……なるわよ。絶対に」

 

 そう――絶対にだ。

 さとり一人だけでは無理かもしれないが、ここには一番頼れるペットのお燐がいて、地底最強の鬼である藤千代がいて、そんな藤千代が認める男である月見がいて、赤の他人なのに力を貸してくれる天子という少女までいる。まさに百人力だ。だから絶対に上手くいく。してみせる。

 わからずやのこいしに、思い知らせてやるのだ。強大な力なんて、自分たちには必要ない。

 さとりはただ、家族みんなで笑って毎日を過ごせるのなら、それ以上に望むものなどありはしないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 道中の会話はほとんどなかった。交わすのは必要最低限の言葉だけで、あとは皆が皆、今の自分になにができるのかを一心不乱に考え続けていた。

 地底の天に君臨する、あの太陽のような星を目指すにつれ、気温は更に上昇していった。地底の外れとも呼べる場所までやってくると、雪が残らず溶け切っているばかりか、完全に蒸発して影も形もなくなってしまっている。もはや春とすら言い難い。ここら一帯に限り、地底の季節の針は夏まで逆戻りさせられていた。

 天に浮かぶ星が眩しい。直視できないほどではないけれど、肌で感じる光と熱はまさしく太陽を思わせる。ほの暗く沈んでいた地底の大地を容赦なく照らし出し、決して途切れることのないエネルギーを放ち続けている。予想以上の熱気に汗が滴り落ちそうだ。恐らく、ここから先はまた更に気温が上がるだろう。

 やがて、さとりたちは地底の外縁を囲む峡谷地帯に差し掛かる。無骨な岩肌がいくつも山となり連なった土地で、昔はあちらこちらに血の池地獄があり、血の川が流れていたという場所だ。

 見晴らしの悪い地形でも、嫌というほど感じる力の波動と、ひっきりなしに聞こえてくる地響きのお陰で、『その場所』はすぐに見つかった。

 いた。

 

「……こいしっ!」

 

 こいしが、振り向いた。

 

「……あっ、お姉ちゃん!」

「――……、」

 

 そのときさとりは、愕然としたと思う。

 さとりに気づいたこいしが、笑ったからだ。さとりがいつも見慣れているのとなんら変わりない、明るく無邪気な顔で。

 

「あー、本当はこっちからびっくりさせようと思ってたんだけどなー。……まあいいや!」

 

 どうしてそんな顔で笑えるのか、わからなかった。

 

「見て見て、お姉ちゃん! おくうね、すっごく強くなったんだよ!」

「……こ、こいし、あなた」

 

 どうしてそんなことが言えるのか、わからなかった。

 

「? ……ほら、これぜんぶ、おくうがやったんだよ! すごいでしょ!」

 

 こいしが、あどけなく指差した先。

 隆起した岩肌が無数に連なる峡谷地帯に、突如としてぽっかりとした空間が出現している。そう表現すると大したことのないように聞こえるが、実際は広大すぎて目測すら利かない、まるで隕石でも落ちたような途轍もない空白だ。その範囲において原型を留めているものはなにひとつなく、岩の山はすべてが見る影もなく崩壊し、無数のクレーターが大地を穿ち、至るところで炎が濛々(もうもう)と黒煙を上げている。そしてその真上に、数メートルの大きさにまで圧縮された極小の太陽が君臨し、大地の惨状を欠片も余さず浮き上がらせている。確かに凄まじい光景ではある。だがさとりは笑えない。無惨な焦土へと変わり果てた地底の姿を目の当たりにして、笑うなんて真似だけは絶対にできない。

 危険な能力だとお燐や月見から聞かされて、自分なりに想像を働かせてはいた。そんなのなんの意味もなかった。おくうが手にした力はさとりの想像を超えて遥かに強大で、おくうが生み出した光景はさとりの覚悟を超えて遥かに凄惨だった。

 こいし、は。

 こんな恐ろしい力を、月見の友人に向けたのかと。こんな恐ろしい力を、おくうに使わせているのかと――そう思うと、打ちひしがれるあまり目の前が暗くなるような心地がした。

 こいしは、笑っている。

 

「お燐。……あ、月見も来たんだ! そっちの人間はお友達? 私、古明地こいし。よろしくね!」

 

 それは、異様な光景だった。禍々しい太陽と、焼け野原へと変わり果てた(むご)たらしい世界を背に、にっこりと笑って、朗らかな自己紹介をする少女。肌が粟立つほどの力の波動も、足元を小刻みに揺らす大地の鳴動も、彼女はまるでなにも感じていないかのような顔をしていた。

 だからこそ、完膚なきまでにわかった。こいしが間違いなく、自らの意思でこの力を欲したのだと。こいしは、おくうが強くなって嬉しいと本気で思っているのだ。

 誰しもが、絶句していた。この少女に、どんな言葉を掛ければいいのかわからなかった。

 

「? ……みんな、どうしたの?」

「……こいし」

 

 はじめに正気を取り戻したのは、やはり月見だった。一歩前に出た彼は、うっすらとした笑みを浮かべて、

 

「お燐から聞いたよ。空が、神様の力を手に入れたって」

「うん! これがそうだよ! びっくりした?」

「ああ。すごくびっくりした」

 

 ここまで来れば、止まっていたさとりの思考もだんだんと再起動を始める。頭を振って、途切れかけていた気を持ち直す。確かに、さとりにこいしの心は読めない。さとりにとってこいしは、まさに『自分に理解できない埒外の存在』といっても過言ではない近くも遠い妹だった。

 今までは、仕方のないものと思って諦めていた。けれど、もうそれでは駄目なのだ。

 理解するのだ。月見のように。この世でたった一人の、何物にも代えられない妹のことを。

 月見の口調は、まるで世間話をするように優しい。

 

「でも、どうしてこんなことを? 危ないよ。みんな心配してた。私をここに呼んだのだって、お燐だよ」

 

 こいしは、ひどく無防備に答える。

 

「もぉー、お燐はお姉ちゃんに似て心配性なんだからー。猫って飼い主に似るのかな?」

「そうすると、気ままな性格はこいしに似たのかな」

「あはは、そうかも」

 

 自分を話題に出されても、お燐はまだなにも言えず、表情も変えられなかった。胸の中で激しく渦巻いているのは、さとりと同じで、こいしという少女への隠し切れない戸惑いだった。

 

「でも、大丈夫なのか? あんまり騒ぎになるようなことをすると、旧都の妖怪たちに迷」

「そんなの知らない」

 

 人が変わった――そう思わしめるほどの、情け容赦ない即答だった。

 

「だって私、あいつらのことキライだもん」

 

 こいしは、あいかわらずの笑顔だった。その事実が、逆にさとりの身も心をも凍りつかせた。

 

「あいつらひどいんだよ。一緒に地底へ行こうって、善人ぶって手を差し伸べてきたのにさ。蓋を開けてみたら、地上の人たちとぜんぜん同じ。お姉ちゃんのこといじめて、地霊殿に閉じ込めた。お姉ちゃんが泣きながら帰ってきたときのこと、今でも覚えてるもん」

「……!」

 

 さとりは息を呑んだ。そして、よく考えもせず口を挟めば逆効果になりかねないのも忘れて、声をあげていた。

 

「違うのこいし、それは……!」

「旧都のやつらがひどいことを考えて、お姉ちゃんを泣かせた。だからお姉ちゃんは、怖くて外を歩けなくなった。違うの?」

 

 違う。違うのだ。確かに、旧都のごく一部の妖怪がひどいことを考えていて、それでさとりが不覚にも泣いてしまったのは事実だ。怖くて外も歩けなくなった。だがさとりは地霊殿に閉じ込められたのではなく、自らの意思で閉じこもることを選んだのだ。さとりは元から、外界との交流を積極的には望まない内気な性格だったのだから。

 あの出来事が引鉄となったのは間違いないけれど、そうでなくとも遅かれ早かれ、さとりは自然と地霊殿に引きこもり、外との交流を断つようになっていただろう。旧都の妖怪ばかりではなく、さとり自身の性格にも原因はあるのだ。

 だが、その事実をここでどう伝えればいいのかがわからず、言葉に詰まる。

 結局、図星を衝かれて言い返せないと受け取られたようだった。

 

「この力があれば、それも変わるよ。他にもたくさん、今までできなかったいろんなことができるようになる。ねえ、お姉ちゃんはどうしたい? 私たちはもう弱くないんだってみんなに思い知らせてやれるし、いじめられた仕返しだってできるよ」

 

 こいしは笑っていたが、それが楽しさや嬉しさによるものでないのは一目瞭然だった。能力が通じなくたってわかる、今のこいしの奥底ではなにか黒い感情がとぐろを巻いている。昨日今日という次元ではない。きっと、何年も、何十年も、心の中に溜め込み続けてきた負の感情だったのだろう。

 だから。

 

「こいし……っ!」

 

 だから、さとりは。

 心の底から、己の浅慮を悔いた。こいしを理解しようとしてこなかった己を悔いた。こいしが自分をどう思っているのか確かめるのが怖くて、逃げていたのだ。もしかすると、『口うるさいお節介な姉』と嫌われているのではないかと思って。

 こいしは自らの心を自ら封じ、第三の目をも閉ざすことで、いつも笑ってあちこちを放浪するばかりな妖怪と化した。だからきっと、恨みや悲しみといった負の感情とも無縁になったのだろうと、勝手に決めつけてしまっていた。

 心を閉ざしたからこそ、負の感情はどこにも吐き出されず積もり積もっていたというのに。

 さとりは心を読めずとも、心を読めないからこそ、こいしという少女をもっと知ろうとするべきだったのだ。

 

「……」

 

 さとりは一度頭の中を空にし、深呼吸をして、それから考えをまとめた。

 

「――こいし。でも、そんなに慌てなくてもいいんじゃないかしら?」

 

 月見のように、できる限り優しい声音で。こいしの考えを、頭ごなしに否定しない言葉で。

 

「その力はいくらなんでも危ないわ。おくうの体にも、きっと相当な負担が掛かっているでしょう?」

「それは……」

「もう少し、私たちの間で話し合ってからでもいいと思うの。今は、ちょっといきなりすぎるもの。あなたとおくうの考えを、もっと教えて頂戴?」

 

 今からでも遅くはない。今ならまだ間に合う。今こそこいしを正しく理解しなければ、こんな恐ろしいことをやめさせるのは夢のまた夢で終わってしまうだろう。

 こいしは、むうと腕を組んで考え込んだ。悪くはない反応だった。嫌なら、こいしはその場ですぐさま嫌だと否定する。

 まずは、こいしを説得する。力をどう使うかの話は置いておいて、ひとまず地霊殿まで戻るように。この場をやめさせるように。こいしが折れればおくうだって折れざるを得ないはずだから、あとは地霊殿で心ゆくまで言葉を交わし合えばいい。

 言う。

 

「だから、一度地霊殿に戻」

 

 突然だった。

 岩の山がひとつ、木っ端微塵に吹き飛んで崩落した。

 

「……!?」

 

 バランスを失うほどの地響きが大地を襲う。さとりから見て右手前奥の、そう大したことはない小ぶりな岩山だった。だが、たとえ大したことのない岩山であっても、根本から砕け散ってバラバラに崩壊していったのは事実だった。

 おくうが、いた。

 緋色に鈍く輝く不気味なオーラをまとっている。ただ、遠目なせいもあるのだろうが、明らかにおかしいところといえばそれくらいで、他は至っていつも通りのおくうに見えた。――彼女の心の声を、聞くまでは。

 なにかが、いた。

 おくうの心の中に。

 

「――ッ!!」

 

 全身が怖気立った。

 その心の声は、人の言葉をしていなかった。少なくともさとりには、頭の中をごちゃごちゃに掻き回されるようなノイズとして響いた。そんなはずはない。さとりの能力は相手の表層意識を読み取るものであり、種族や言語の違いに囚われたりはしない。妖怪だろうが人間だろうが動物だろうが植物だろうが、意思ある生物すべての思考をさとりは超感覚的に読み取る。意識として成立しない単なるノイズを読み取るなど、到底考えられない現象だった。

 しかし、聞き続けているといくつかわかってくることがあった。

 まず、このノイズにほとんど押し潰される形で、おくうの思考がわずかながらに感じ取れること。

 そして、一見単なるノイズに聞こえるが、これは、

 

(鴉の、啼き声……?)

 

 もしもこのノイズが、おくうが呑み込んだという神――八咫烏の意識であるならば。

 それはすなわち、おくうの意識が、八咫烏の意識に押し潰されかけていることを意味する。

 

「おくう……!?」

 

 おくうが豆粒のように見える距離なのだ、まさかその声が聞こえたはずはなかろう。

 だがそのとき確かに、さとりはおくうと視線が交差したのを感じた。

 

「あ、おくうだ! おくうーっ!」

 

 こいしがぶんぶんと両手を振っておくうを呼ぶ。おくうはこの距離でもはっきりわかるほど大きく翼を打ち鳴らし、燕のような速度で飛んできた。

 ほぼ一週間振りに見る、おくうの顔だった。

 

「……おくう」

「――さとり、さま」

 

 おくうは、やつれた顔をしていた。汗だらけで、肩で息をしていて、瞳にはまるで元気も力もなかった。なのに全身から迸る妖気と熱気だけが凄まじく、さとりの肌をビリビリと痺れさせる。

 ノイズのせいで、おくうがなにを考えているのか上手く読み取れない。

 

「おくう、あなた」

「やっぱり、さとり様はそっち(・・・)なんですね」

 

 おくうが、笑った。

 やつれた顔で。

 

「私を、止めに来たんですよね? そこの狐に、手伝ってくれとでも頼まれたんですか?」

「……おくう、なにを」

なにしに来たんですか(・・・・・・・・・・)

 

 感情の失せた声。

 嫌な、予感がした。

 

「どうせさとり様は、私よりそっちの狐の方が好きなんでしょう? こんなところになんか来ないで、地霊殿で仲良くお話してればいいじゃないですか。いつもみたいに」

「ちょ、ちょっと待って、あなたなにを」

「私のことなんて、放っておいてください」

 

 狼狽えたのは、さとりだけではなかった。ずっとおくうと一緒にいたはずのこいしですら、信じられない顔つきでおくうを見上げていた。

 

「……お、おくう? どうしたの?」

「こいし様は、私の味方ですよね?」

「え? ……えっ?」

 

 自分たちの足場が、突然ボロボロと崩れ落ち始めたような。

 そんな、冷たい錯覚。

 

「ちょ、ちょっと待ってよおくう、さとり様はおくうを心配して」

「うるさい。どうせお燐もそっち(・・・)でしょ」

 

 一体なにが起こっているのか、さとりたちは頭の理解がまるで追いつかない。

 

「どうせ、さとり様も、お燐も、その狐の味方なんだ。みんな私を止めに来たんだ。私を見てくれるのは、こいし様だけなんだ」

 

 おくうが、笑う。歯車の狂った人形のように。

 今度は、泣きそうな顔をして。

 

 

「――もう、放っておいて、くださいよ」

 

 

 おくうの心は、ノイズのせいでほとんど読めない。

 だからさとりには、目の前でなにが起こっていて、なにをするべきなのかがまるでわからない。

 胸元に深紅で炯々(けいけい)と輝く目玉を埋め込んだ、異形の出で立ち。

 ノイズで潰され、読み取れない思考。

 そして、彼女がさとりとペットとなってからはじめて口にする、拒絶の言葉。

 一週間――。

 ほんの一週間見ない間に、おくうはあまりにも変わりすぎていた。

 

「――空」

「黙れッ!!」

 

 月見がおくうの名を呼んだ。その瞬間おくうが、まるで獣のような形相をして、右の掌に凄まじいエネルギーを収束させた。

 月見が飛ぶ。おくうが撃つ。

 的を外れた光弾は遥か後方に転がっていた岩を穿ち、炸裂した。

 

「っ――待てッ!!」

 

 ほんの掌程度の光弾だったのに、吹き荒ぶ爆風はさとりたちが立っていられなくなるほど凄絶だった。そのせいで、月見を追って飛翔したおくうに、誰も手を伸ばすことすらできなかった。

 

「おくう!? おく、」

 

 さとりがようやく叫んだその頃には、もう月見の姿もおくうの姿も見当たらない。ただ、岩山の消し飛ぶ爆音とかすかな地響きが、段々と奥へ遠ざかっていくだけだった。

 

「いっ……たい、」

 

 ――なにが、どうなって。

 ここまで来てもまだ、目の前の現実に頭が追いつけない。わかるのは、たった一分にも満たないわずかな時間で、あってはならない方向に事態が崩壊したということだけ。

 おくうが、月見を攻撃している。

 目の前の焦土を作り出した、恐るべき神の力で。

 おくうが破壊の限りを尽くした空間から、ギリギリのところで難を逃れていた岩山が、今度は二つまとめて消し飛んだ。崩れ落ちていく岩の塊を目覚ましい速度で躱し、おくうと月見が姿を現す。おくうの周りに、灼熱の色で輝く光弾が無数に滞空している。それを次々と撃ち出し、また次々と新たに作り上げ、おくうが絶え間なく月見を攻撃している。

 一発一発が、岩山を瓦礫に変えるほどの威力だった。

 

「……だ、だめ、」

 

 全身が恐怖で粟立った。もし、あれが月見に当たってしまったら。あんなものを喰らってしまったら、いくら大妖怪であっても無事で済むとは思えなかった。

 それ以上はもう、なにも考えられなかった。

 とにかく、止めなければならない。止めなければ、本当に取り返しのつかない、大変なことが起こってしまう。ただその恐怖だけに囚われ、さとりは無意識のまま足を前に、

 

「――うあ゛ッ!?」

「さとり様!?」

「お姉ちゃん!?」

 

 できなかった。突如襲いかかってきた脳を抉られるような激痛に、頭を押さえて膝から崩れ落ちた。

 

「っ、う、ああ゛……っ!?」

「さとり様!? さとり様、どうしたんですか!?」

 

 お燐の声が、遠い。

 脳が、ノイズで蹂躙されている。おくうの中に巣食う八咫烏の意識。だがそれは、もはや『頭の中を掻き回されるような』レベルではなかった。

 脳味噌を、石でゴリゴリとすり潰されているような。

 おくうの感情に共鳴して、暴走の一歩手前まで激昂しているのだ。嫉妬、憎悪、悲傷、孤独、苦悩、自棄、おくうが抱くあらゆる負の感情を貪欲に呑み込み、燃え盛る怒りへと昇華し、それを更に力へと変換して放出している。

 神の、荒御魂。

 その波動が、筆舌に尽くしがたいノイズとなってさとりを襲う。

 

「あ……あああ……!!」

 

 地底が、破壊されていく。

 岩山が次々と消し飛ばされ、大地も岩の塊も区別なく爆炎が呑み込み、焦土がまるで灼熱地獄のように変わり果てていく。

 それだけでも、もう立ち上がれなくなるほど打ちひしがれたのに。

 

「――ダ、メ」

 

 こいし、が、

 

「ダメだよ、こんな」

 

 震えている。瞳孔が開き、まばたきもできなくなった瞳で、月見とおくうの姿を追いかけている。

 

「ち、違う。こんなの、私、望んでなんかない」

 

 足が一歩、前に動いた。

 

「……! こいし!」

 

 さとりは手を伸ばす。だが頭を掻きむしるノイズに邪魔をされ、その動きは拍子抜けするほど緩慢なものでしかなかった。

 さとりの指は、遂にこいしに届かなかった。

 

「ダメええええええええええっ!!」

 

 こいしが、飛んだ。

 戦うおくうと月見を、目がけて。

 飛んでいって、しまった。

 

「こいしっ!? 待っ――づ、う゛……ッ!?」

「さとり様、無茶です!」

 

 咄嗟に立ち上がろうとしたが、さとりの体にはまるで力が入らず、倒れる寸前でお燐に支えられた。頭が割れるようだ。気を強く持っていなければ、気絶しそうになってしまうほどの激痛だった。

 

「私が行く……! あなたたちはここにいて!」

 

 もうほとんど目を開けていることもできなくて、ただ耳朶を打った少女の声から、天子がこいしを追いかけていったのだとわかった。

 お燐に支えられながら、さとりは歯を噛み砕かんまでに軋らせた。

 

 どうして。

 どうして、こんなことになってしまうの。

 なにも傲慢な望みなんて抱いていない。ただ家族たちと、月見と、藤千代と。さとりを受け入れてくれる優しいみんなと、お茶を飲みながら、取るに足らない世間話をして、笑い合うことができればそれで幸せなのに。

 なのにどうして、その通りになってくれないの。

 どうして、私の頭に流れ込むみんなの心は、こんなにも苦しんでいるの。

 

「さとり、さま……っ」

 

 背に回されたお燐の腕は、震えていた。

 ――もう、どうすればいいのかわからない。

 泣きそうになっている、お燐の心の声を聞いて。

 さとりもまた、震える両腕で、お燐に縋りつくことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――なにが、『いいタイミングが巡ってくる』だ。

 そう表現すれば響きはいいが、結局のところそれは、時の流れにすべてを丸投げした現実逃避に他ならなかったのかもしれない。恰好つけた言葉で飾り立てて、彼女と向き合うことから逃げていただけなのかもしれない。

 少なくとも、結果論からいえばそういうことになる。

 なぜならば今まさに、目の前の現実が手遅れになっているのだから。

 

「――あああああっ!!」

「……ッ!」

 

 理性のタガを振り切るように叫び、おくうが灼熱の弾幕を放った。弾幕とはいっても、それはスペルカードルールで使用される生易しいものでは断じてない。銃弾が如き速度と、岩の山を丸々瓦礫に変えるほどの殺傷力を備えている。直撃すれば、月見とて間違いなく無事では済まない。

 そんな冗談の利かない弾幕で、おくうは月見を排除しようとしている。

 理由なんて、わざわざ問うまでもなかった。

 

「ずるいっ、ずるいずるいずるいずるいっ、ずるいよ!!」

 

 おくうは、泣いていた。たとえ涙を流さずとも。その叫びには、月見の想像を絶する深い嫉妬と悲傷がにじみ、滂沱(ぼうだ)の涙となって流れ落ちていた。

 

「私だって、私だってっ、さとり様に見てほしいのに!! なのにさとり様は、お前ばっかり、お前ばっかり、お前ばっかりッ!!」

 

 なにからなにまで、月見の考えが甘かったとしか言えない。

 おくうが月見を嫌う理由の根底に、嫉妬という感情があるのは理解していた。さとりやこいしたちと仲良くなっていく月見が気に食わない。自分の居場所が奪われてしまうような気がして許せない。気づいていた。ああ、気づいていたとも。

 だがまさか、こんなにも自分を追い詰めていただなんて。

 想像すらできていなかった月見を、愚かと言わずしてなんと言えばいいのか。

 

(――くそ)

 

 それしか言葉が出てこない。ここまでの自己嫌悪も久し振りだった。天子が起こした異変のときも大概だったが、もしかするとそれ以上かもしれない。

 なぜなら、おくうが神の力に縋り破壊の限りを尽くす原因は、根本的には自分であるからだ。

 天子の異変のときとはまるで違う。『原因の一端を担った』のとはワケが違う。

 これは、完全に、月見のせいなのだ。

 

「さとり様は、いつも澄ました顔してたけど! でも心の中では、こいし様と同じくらいに、お前が来る日を楽しみにしてた!! お前のことを考えてた!! 見てるだけでわかったもん!! 私のことよりも、ずっとずっと考えてた!! どうして!? 地上の妖怪のくせにっ、男のくせにっ、ずるいよ!!」

 

 おくうの弾幕は途切れない。月見にはただ躱すことしかできない。

 

「こいし様だって、お燐だってそう!! みんながお前のことを考えてた!! みんながお前を受け入れてた!! なんで!? お前は余所者でしょ!? 私たちの場所に入ってこないでよッ!!」

 

 おくうが、滞空させていた光弾をすべて掃射する。だが、まるで照準が月見に定まっていない、明らかに手当たり次第な連射だった。弾幕はほとんど躱す必要がないほど月見を外れ、そびえる山々を二つばかり焦土に変えた。

 砕け散った岩の塊を躱してなお先へ飛びゆくと、不意に視界が開けた。ここは、おくうがなにもかもを破壊し更地に変えてしまった空間だ。躱し続けるうちに飛ぶ方向が狂い、戻ってきてしまった。

 素早く知覚を研ぎ澄ませる。さとりたちのいる場所とはほぼ正反対に位置しており、巻き込む心配がないことを確かめる。

 

「本当は私だって、こんなことしたくないの」

 

 おくうがまた、周囲に無数の光弾を作り出していく。

 

「でも、でもこの力を手にして、こいし様は私を見てくれる(・・・・・・・)ようになった。毎日私のところまでやってきて、食べ物を持ってきたり、着替えを持ってきてくれたりした。私のことを考えてくれてた。――嬉しかった」

 

 泣き笑いの、顔。

 

「最初はこいし様の気持ちに応えようとしただけだったのに、気がついたら私がこの力に依存してた。この力があれば。この力でこいし様の言うことを聞いてれば、こいし様は私を見てくれるんだって。お前なんかよりも、私のことを考えてくれるんだって。こんなことなんてしたくないのに、でも、それよりも、私を見ていてほしかった。苦しくても、辛くても、こいし様が見てくれてるだけで嬉しかった」

「――、」

「バカだよね」

 

 バカなものか、と月見は歯を軋らせた。――バカなのは、お前をそこまで追い詰めてしまった私の方だ。『いいタイミングが巡ってくる』なんて恰好つけた台詞を言って、お前の心から目を逸らしてしまった、私の方なんだ。

 

「……ひょっとしたら、これなら、さとり様も私を見てくれるようになるんじゃないかって、思ってた」

 

 おくうが右手を、月見に向ける。

 

「でも――でも、ダメだった!! やっぱりさとり様は、お前の味方だった!!」

 

 二度目の掃射。だがやはり照準が、もはやわざとやっているのではないかというほど滅茶苦茶だった。月見が身動きひとつする必要もなく、すべてが月見を素通りし、閃光と爆風を上げて大地に無数のクレーターを穿った。月見の着物の裾が、おくうのマントが、狂ったような勢いではためいた。

 おくうが、身をよじった。

 

「やめてよ……! さとり様とお燐を、とらないでよぉ……! 返してよぉ……っ!!」

 

 それは、被害妄想というものだったのかもしれない。さとりだってお燐だって、しっかりとおくうのことを見ている。考えている。だからお燐は「おくうを助けて」と月見に助力を求めたのだし、さとりだって危険を顧みもせずにここまでやってきてくれた。

 だが、おくうが求めているのはそういうことではない。

 月見などではなく。

 自分を見てほしい。自分のことを考えてほしい。想ってほしい。肯定してほしい。

 穿った言い方をしてしまえば、おくうは構ってほしいのだ。さとりたちが月見ばかりに気を取られているものだから、悔しくて、寂しくて、悲しくて、殻に閉じこもっていじけているのだ。

 幼稚だったかもしれない。

 わがままだったかもしれない。

 けれどおくうの言葉は、撃ち出される灼熱の弾幕以上に鋭い刃となって月見に迫った。

 だって、それは。

 

 おくうがはじめて月見に打ち明けてくれた、彼女の本当の気持ちだったのだから。

 

「お前なんて……! お前なんて、キライだもん……!!」

 

 駄々をこねるように叫んだおくうが、両腕を掲げて次の弾幕を作り出す。今後は数が桁違いに多い。月見が見上げる天を、満天の星空もかくやの密度で埋め尽くしていく。これだけの数があれば、いくら照準が滅茶苦茶でも一発くらいは当たるだろうな、と月見は思った。

 他人事のように、危機感などまるでなく。

 それどころか、避けてはいけないのではないかとすら考えていた。今の自分に、逃げていい権利があるのかと。爪が肌を裂くほど拳を握り、唇を噛み締め、月見は言葉にならない感情の激流に立ち竦んでいた。

 答えが、見つからない。

 今の自分になにができるのか。なにかができるものなのか。どんな言葉を掛けるべきなのか。掛けられる言葉などあるものなのか。

 ひょっとして、自分は。

 ここに来ては、いけなかったのではないか。

 

「……ッ!」

 

 おくうが右腕を振ろうとする。そうすれば最後、輝くすべての星々が月見を射抜くために動くだろう。岩の山を瓦礫に変えるほどの威力を持つ弾幕。直撃すれば月見とて無事では済まない。当たる数によっては命の保証もない。

 わかっている。

 だがそれでも、これ以上、避け続けるつもりにはどうしてもなれなかった。

 おくうもきっと、それを感じたのだろう。おくうがきつく目を閉じ、なにかを叫んだ。月見はもはや彼女を見返しもせず、ただ、全身から力を抜いて、

 

「――おくうっ、だめえええええっ!!」

 

 彼我の時が、止まった。おくうは全身が瞬く間に凍りつき、月見は刹那の間、頭の中をぽっかりとした空白に呑み込まれた。

 こいしが、いた。

 月見が手を伸ばせば届くくらいの、ほんの目の前に。

 

「こいし様!?」

 

 おくうの反応はギリギリで間に合った。撃ち出される寸前まで行っていた赤の星々を、すべて強引に消滅させた。

 理解できない目をしていた。

 こいしが自分の前に立って、震えながら精一杯に両腕を広げて、月見を庇っているのだから。

 

「おくう、や、やめて。こ、こんなの、だめ、だめだよ」

「――月見ッ!!」

 

 しかも、こいしだけでは終わらなかった。彼女を追って飛んできた天子が、緋想の剣で、真横からおくうに斬りかかった。

 

「……ッ!?」

 

 おくうが天へ飛んで躱す。天子は叫ぶ、

 

「月見ッ、早くその子を安全なところに!!」

 

 だが月見は、その言葉を半分も聞いてはいなかった。なにが起こったのかをようやく理解した月見は、ただ呆然と一言、

 

「――お前ら、」

 

 ダメだ(・・・)それは(・・・)

 もちろん、二人とも必死の行動だったはずだ。こいしは無我夢中でこの争いを止めようとし、天子は少しでもこいしを危険から遠ざけようとした。その結果としてこいしは月見を庇ったのだし、天子は時間を稼ぐためにおくうへと斬りかかった。

 

 自分たちの行動が、最悪の引鉄を完膚なきまでに引き切ったとも知らずに。

 

「――こいし、さま」

 

 おくうの、虚ろな、声。

 きっと、裏切られた心地だったのだろう。ずっと自分を、自分だけを見てくれていたはずのこいしに、「やめて」と否定される。無論こいしにとっては、月見を、なによりおくうを考えての行動だったはずだが、思考が極限状態にある今のおくうに、そこまで理解できる余裕なんてありはしなかった。

 

「――やめて、」

 

 それは、まるで。

 おくうの心のたったひとつの支えだったこいしまでもが、自分から離れていってしまうような。

 今度こそ、本当に、ひとりぼっちにされてしまうような。

 

「やめてよ、」

 

 きっとおくうには、そう見えたはずだ。

 

「こいし様を、連れてかないで(・・・・・・・)

 

 そして、こいしまでもが自分から離れていってしまうのは、

 ぜんぶぜんぶ、月見という狐のせいなのだと、

 

「こいし、さまを、」

 

 そう考えなければ、おくうはもう、おかしくなって壊れてしまいそうだったのだ。

 

 

「――こいし様を、返せええええええええええええええっ!!」

 

 

 太陽が(・・・)砕けた(・・・)

 

 それがなにを意味していたのか、実のところ月見にはよくわからなかった。少なくとも月見には、眼前で起こった現象を目で認識し、脳で理解するだけの時間が与えられることはなかった。

 ただ、直感でわかった。

 このままでは、こいしも天子も助からない。

 だから己のすべてを、その直感を打ち砕くためだけに捧げた。

 

 間に合え。

 間に合え。

 

 十一尾を全開放、前に飛び出す、天子を抱き寄せ己の体で庇う、妖術で今できる限界まで尾を巨大化、銀の炎をまとわせ扇状に展開、焼け石に水だろうが結界を起動、なにもしないよりはマシだ、少しでもおくうから距離を取る、こいしに手を伸ばす、あと少し、あと少しで届く、こいしはなにが起こっているのかわかっていない、完全に固まっている、もっと速く、もっと速く、指先が触れる、間に合え、間に合え、間

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その刹那になにが起こったのかは、天子の記憶に刻まれることなく遂に欠落してしまった。

 なにが起こったのか最後までひとつとしてわからぬまま、肌を刺す熱と、胸にのしかかる重みだけを感じて天子は目を開けた。

 

「……月、見?」

 

 自分のすぐ胸の上に、見慣れた銀色の髪が広がっていた。尖った獣耳も見えた。間違いなく、月見の頭だった。

 自分が月見に押し倒されているのだと理解するまで、数秒ぼんやりと考え込んでしまった。

 そしてその頃には、いくら天子でもとっくに気がついていた。

 

「……なに、これ」

 

 火の海。

 無骨な岩肌が隆起する峡谷地帯だった場所は、見る影もなく崩落し、片っ端から炎に呑まれ、凄絶な地獄の様相を呈していた。

 そして自分の周囲のごくわずかな範囲だけが、まるで切り取られたように炎の難を逃れている。

 やっと、理解した。

 

「……そっか。月見が、守ってくれたんだね」

 

 また、助けられてしまった。本当は、自分が助けになるつもりだったのに。月見の頼もしさを改めて実感し、己の不甲斐なさを改めて痛感した。

 前からこうだ。自分はいつも月見の足を引っ張ってばかりで、そのたびに助けられて、彼に対する恩ばかりが増えていく。

 胸の上に感じる、少し重いくらいの、この重みを。

 自分はいつか、支えられるようになるのだろうか。

 

「つ、月見、ちょっと重いよ……」

 

 天子は身じろぎをした。天子はほとんど、月見に押し潰されているような有様だった。こんなにも間近で月見を感じるのは、夏の異変で、抱き締めてもらったとき以来で。そんな場合ではないと頭ではわかっているのに、それでもドキドキしてしまう自分がひどく恨めしかった。

 少し冷静になって考えれば、普段の月見なら冗談でもこんな真似はしないとわかったはずなのに。

 

「ん、んんっ……」

 

 力を振り絞って、月見の下から這い出ようとする。今の心音を月見に聞かれてしまうのが嫌だったからだ。けれど、さすが男の人だけあって月見の体はずしりと重く、天子の腕力ではわずかに押し返すのが精一杯だった。

 腹の下までやっとの思いで這い出たところで、一息つく。

 

「もう。月見、重いってば……」

 

 しかしこの重さが、なんだかいいなと天子は思っていた。さとりがこの場にいなくて本当によかった。今考えていることを読まれたら、恥ずかしすぎてちょっと生きていけなくなってしまう。

 重力に引かれた月見の頭が、天子の腿の上に落ちた。

 

「……月見?」

 

 やっと疑問に思った。

 なんで月見は、身動きのひとつもしないのだろう。どうして、なんの返事もしてくれないのだろう。

 

「月見? ねえ、こんなときになにして」

 

 肩を揺すった。

 気づいた。

 見てしまった。

 

「――――――――あ、」

 

 

 月見の背中すべてを覆い尽くす、惨たらしい炎の傷跡。

 そして、一本残らず無残に焼け落ちた、かつて銀色だった十一尾を。

 

 

「……あ、あはは。月見?」

 

 月見は、動かない。

 

「ねえ。ねえ、月見」

 

 ――きっと大丈夫だと、掛け値もなしに信じていたのだ。月見がいれば、絶対に大丈夫なのだと。天子の力ではどうにもならない事態になっても、月見がなんとかしてくれるのだと。

 だって、天子が異変を起こしたときはそうだった。

 月見が、助けてくれた。

 月見が、天子の願いを叶えてくれた。

 月見が、みんな笑える結末を手繰り寄せてくれた。

 だから、月見がいてくれれば、平気だって。

 なにも、なんにも、疑ってはいなかったのだ。

 そんなはずがなかったのに。月見だって天子と同じ、生きとし生ける者の一人でしかなかったのに。どんなに強大な力を持っていても、間違えもするし失敗もする、たった一匹の妖怪でしかなかったのに。

 世界が、焼けている。

 

「月見……! 月見、月見ッ……!!」

 

 返事は、返ってこない。

 

 銀の狐は、動かない。

 いつまで経っても、ピクリとも、動かなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 誰かが泣いているような気がして、こいしはゆっくりとまぶたを上げた。

 そこは、火の海だった。一瞬、灼熱地獄に落ちてしまったのかと本気で思いかけたくらいだった。背中から聞こえる少女の泣き声がなければ、魂を抜かれてしまっていたかもしれない。

 振り向いた。

 そして振り向いてすぐに、こいしは心の底から後悔した。だって、絶対に見たくないと思っていた光景が、血も涙もなく広がっていたのだから。

 

「月見……! 月見っ……! いや、いやだよぉ……っ!!」

 

 少女が、月見を抱いて泣いている。それだけだったなら果たしてどれだけよかっただろう。けれど、けれどこいしは、間違いなく見てしまった。

 

 月見は、誰がどう見たって無事ではなかった。

 

 背中全体を無慈悲に覆い尽くす火傷の跡。

 救いなどなく焼け落ちた、かつて銀だった尻尾。

 月見は、身動きひとつしない。こいしの目には、生きているのかどうかすら判別がつかなかった。

 

「――――――――――――、」

 

 なんの反応も、できなかった。なんの反応もできなかったこいしは、今となっては遠い昔の、姉が人間に退治されかけたときの記憶を思い出していた。

 あのときもし、藤千代が助けてくれていなかったら。自分が間に合っていなかったら。月見のようになっていたのは姉で、少女のように泣いていたのはこいしだった。

 

 自分は一体、なにをしようとしていたのだろう。

 

 夢から覚めたような心地がした。強い力があれば、きっとたくさんの素晴らしいことができるようになると思っていた。さとりが望むのなら、旧都のヤツらに今までの仕返しだってしてやるつもりだった。なんの疑問も抱いていなかった。なにも間違っていないと本気で思っていた。

 なら、目の前の光景は一体なんだ。

 これは、こいしが望んでいた『素晴らしいこと』なのか?

 家族と同じくらいに大好きな月見が、傷ついて。生きているのかどうかもわからなくて。そして、少女が、彼を抱いて泣いている。

 姿が、重なる。

 月見が、さとり。

 少女が、こいし。

 なら、あのときの博麗の巫女は――

 

「こいし、さま」

 

 おくうが、いた。魂が抜けたような顔をして。今にも崩れ落ちそうになりながら、それでも懸命に、一歩ずつゆっくりと歩いてきていた。

 少女が恐怖で全身を強張らせ、月見を抱く腕にあらん限りの力を込めた。震えていた。砕け散りそうな顔をしていた。同じ女に向けるような目では到底なかった。言葉にできずとも心の中では、こないで、もうやめてと必死に祈っていたはずだった。

 おくうの姿に、かつての博麗の巫女が、今度こそ完全に重なった。

 やっと、わかった。

 かつて博麗の巫女は人間たちの願いを受けてその力を振るい、こいしの深い恨みを買った。

 そして今、こいしの願いを受けて力を得たおくうは、この少女から月見を傷つけた敵として恨みを買おうとしている。

 同じだ。

 

 こいしはおくうを、大嫌いな博麗の巫女と同じ存在にしてしまったのだ。

 

 どうして気がつかなかったのだろう。旧都のヤツらに仕返しをしたところで同じことだ。おくうがその力を振るえば、誰かが月見のように怪我をする。そうすれば、誰かが少女のように涙を流す。たとえ姉を悲しませた憎い相手であっても、その人には必ず、こいしにとっての姉のような大切な誰かがいるはずなのだ。そしてその『誰か』はきっと、大切な人を傷つけたおくうを心の底から恨むだろう。

 自分は、月見になにをしてしまったのか。

 家族に、なにをしてしまったのか。

 ようやく、わかってしまったのだ。

 

「――おくう」

 

 こいしの頬を、涙が伝った。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい、私が間違ってた」

 

 おくうの歩みが、止まった。

 

「こんなこと、しちゃいけなかったんだ」

 

 涙が、止まらなかった。

 これで正しいのだと思っていた。力が欲しいと願うのはなにも悪いことではなく、一度得た力を如何ように振るうのも自由だと思っていた。あの注連縄の神様と出会ったのは、運命だったのだとすら感じていた。この力で今までの自分たちから生まれ変われという、神様のお告げだった気がしたのだ。だから、素直にそうしようとした。そうなれると信じていた。

 間違っていた。

 傷ついてほしくない月見が、傷ついた。大切な家族が、博麗の巫女と同じ存在になってしまった。こいしが間違っていないのなら、こんな現実が起こるはずなどない。だからこいしは間違っていて、これは与えられた力を私利私欲に使ってしまった自分へ、神様が与えた罰なのだ。

 言わずにはおれなかった。

 

「そんな力、求めちゃ、いけなかったんだ」

 

 もう、涙で前もロクに見えなかったけれど。

 それでもこいしは、おくうに向けて、精一杯に微笑んだ。

 

「――もうやめよう、おくう……!」

 

 束の間、世界が焼ける音だけで満たされていた。おくうは、呆然としているように見えた。立ち竦んだままなにも言わなかったし、指の一本も動かす気配はなかった。

 

「……おくう?」

 

 こいしはおくうの名を呼んだ。しかしやはり、おくうはなんの反応も見せなかった。おかしい。おくうはどんなときであってもこいしの言葉を無視したりはしない。考え事をしているとも思えない。今のおくうはまさに、吹けばそのまま消えてしまいそうな、消え入る寸前のロウソクのように見えた。

 ざわざわと、胸騒ぎがした。

 そのときようやく、おくうがこいしの言葉に反応した。

 

「――は、は」

 

 おくうは、よろめいた。

 

「なんですか、それ」

 

 肩を震わせて、笑っていた。

 まるで、絡繰人形が壊れる寸前のような動きだった。

 

「なんで、そんなこと、今更(・・)

 

 こいしは、わかっていなかったのだ。今のおくうが、一体どれだけ危うい均衡の上に成立していたものだったのか。自分の言葉が、その崖っぷちの均衡にどんな影響を与えてしまうものだったのか。

 

「じゃあ――じゃあ私は、なんのために、こんな」

 

 この期に及んでも、まだ、なにひとつもわかっていなかったのだ。

 

 

「――――――――――――あ、」

 

 

 おくうが、揺れた。

 ほんの一瞬。

 それが引鉄だった。

 

 

 おくうが、崩壊した。

 

 

「――――――――α荒アァ或Aァa亜或荒呀唖α呀婀ぁ荒亜ァα阿aァあアaぁア阿亜a亜呀Aアあ荒αア唖!?」

 

 それは、おくうの声でありおくうの声ではなかった。おくうの声に、本来ならばありえるはずのない別の音が混ざり込んでいた。

 鴉の、哭き声。

 おくうの全身から、目もくらむ豪炎が噴き上がった。こいしなんて物の数にも入らない、まるで土砂崩れを起こしたような炎だった。

 

「――、」

 

 逃げなきゃとすら、思えなかった。

 炎に呑まれる直前、その狭間に、刹那のおくうの姿を見た。

 血と闇の色で潰れた瞳。

 胸元の目玉から木の根が如く広がる、深紅の文様。

 全身から炎を――破滅を振りまく、異形の外貌。

 悟った。

 

 ――あれは、おくうじゃない。

 

 そこまでだった。

 濁流が如く押し寄せてきた炎に、こいしも、月見も、なにもかも、一呑みで消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑨ 「なんのために」

 

 

 

 

 

 本当は、はじめからずっと辛くて嫌だった。

 

 元々は、灼熱地獄を飛び回って亡者の死肉を啄む、なんの変哲もない地獄鴉の一匹でしかなかった。遠い昔の、おくうが『霊烏路空』という名すら持っていなかった頃で、灼熱地獄跡がまだ『跡』ではなく、地獄の裁きのひとつとして機能していた時代でもあった。お燐とは当時からすでに顔の知れた友人同士だったが、やはり彼女にもまだ『火焔猫燐』という名がなく、「あんた」とか「お前」とか、「猫」とか「鴉」とか、そんな風に呼び合って自由気ままに暮らしていた。

 変わったのは、灼熱地獄が灼熱地獄『跡』になって、何年かした頃。

 地上から突然、妖怪たちが移り住んできて。

 灼熱地獄と地底をつなぐ土地の真上に、地霊殿という建物ができて。

 そしておくうは、運命の出会いをしたのだ。

 

 さとりとこいしがまずしてくれたのは、『霊烏路空』と『おくう』の名を与えてくれたことだった。前者はさとりが、後者はこいしが考えてくれた名前だった。二人の性格がよく表れていると思う。『霊烏路空』という堂に入った名は、いかにもしっかり者で礼儀正しいさとりらしいし、『おくう』というかわいらしい名は、いかにも自由奔放で元気いっぱいなこいしが考えた風である。もちろんどちらも、聞いた瞬間大好きになった名前だった。

 きっと『おくう』は、あのときにはじめて生まれ落ちたのだ。

 お燐にも同じように、『火焔猫燐』と『お燐』の名が与えられた。もっともお燐は、さとりから贈られた『火焔猫燐』の方は、少し仰々しすぎて苦手なようだったけれど。呼ばれると、くすぐったくて尻尾の付け根がモゾモゾするらしい。なのではじめのうちは、たくさん呼んでたくさんからかってあげた。

 

 さとりとこいしのペットになってから、おくうは変わった。

 名前を与えてもらった。

 人の姿を取れるようになった。

 誰かのために働く楽しさを知った。

 誰かを笑顔にする喜びを知った。

 そして、なにより。

 大切な家族ができて、『愛』という感情を知ったのだ。

 

 自覚症状が出てきたのは、さとりたちのペットとして暮らす日常が当たり前のものになってきた頃だった。

 生きた餌を食べられなくなった。ただの鴉だった頃は、そのへんを飛んでいる虫も平気でひょいひょいと食べていたのに、急に『可哀想』という感情が浮かんでくるようになった。中庭を歩いて移動するとき、足元にアリさんがいないか、間違って踏んづけたりはしていないかと不安を感じるようになった。生き物に限らず小さな一本の花であっても、間違って踏んでしまえば後味の悪いものを覚えるようになった。

 なぜ。

 愛されていたからだ。

 鴉だった頃は愛されることなどなく、奪われるものは自分の命以外になにもありはしなかった。仲間はいたが、それは単に似た者同士が群れていただけで、とりわけ好きではなかったし、好かれてもいなかったと思う。

 けれどさとりたちのペットになって、たくさん可愛がってもらえて、大切にしてもらえて。いつしか自分の中にも、『大切にする』という心が生まれていたのだ。傷つけることが、奪うということが、なんだかとても虚しくて悲しいものだと思えてきて、気づけば虫の一匹も殺せない性格になってしまっていた。

 仮にも妖怪として情けないような気もしたが、それほどコンプレックスはなかった。

 おくうは、優しいのね。

 そう言って、自分の大切な人が、笑ってくれるから。

 

 はじめはただ、こいしとさとりの力になりたい一心だった。

 ある日、こいしが地上の神様を連れてきて。

 この力があれば、私たちにもお姉ちゃんを守ったりできるんだよ――そう言われたとき、断るという選択肢なんて頭に浮かびもしなかった。

 おくうは、弱い妖怪であった。

 恐らく、まともに戦えば主人にも勝てない。地獄鴉とは、結局のところ地獄に棲んでいるだけのただの鴉であり、戦うための力なんて皆無にも等しかった。だから、さとりが旧都の連中になにかひどいことをされ、泣きながら帰ってきたときも。過去の記憶に苛まれ、眠れない夜を過ごしているときも。おくうは、ただ見ているだけだった。それしかできなかった。誰かが下手に慰めようとすればするほど、さとりは心配を掛けまいと気丈に振る舞い、自らを追い詰めていく性格だった。だから慰めることもできなかった。

 なにもできない自分は、本当に歯痒かった。

 けれど、力があれば。

 こいしの言う通り、今の自分にはできないもっと別の形で、さとりを助けられるようになるかもしれない。それがどういう形かは想像もできないけれど、ともかく力さえあれば、なにかを変えることができるかもしれない。

 そのためなら。

 さとり様とこいし様の、力になるためなら。

 はじめは、本当に、ただそれだけだったのだ。

 

 

 しかしいざ神の力を手にしてみると、思わぬ形でおくうに幸運が舞い込んでくる。

 こいしが、自分だけを見てくれるようになった。

 

 

 おくうは今となっては虫の一匹も殺せない、妖怪として情けないくらいに気弱な性格をしているし、みんなと平和に暮らしていけるなら他に望むものなんてないとも思っていた。だが近頃は、胸の内で沸々とある不満が募りつつあった。

 月見とかいう、あの狐だ。

 今年の夏より少し前の頃に、あの狐が突然地霊殿を訪ねてきた。そして、さとりやこいしとあっという間に仲良くなってしまった。

 言葉にしてしまえば、たったそれだけだ。

 だがその『たったそれだけ』のことが、おくうには筆舌に尽くし難いほど気に入らなかった。あの狐は、地上の妖怪だ。さとりとこいしを傷つけ、地底まで追いやった連中の仲間なのだ。敵なのだ。そんなやつをみんなが受け入れてしまうだなんて、おくうにとってはまさしく理解不能とも言い切れる出来事だった。

 もちろん、その頃からお節介なお燐にはあれこれ言われていた。あのおにーさんは優しいよとか、さとり様になにもひどいことしないよとか。半信半疑で覗いてみれば、なるほど確かに、あの狐はさとりたちと随分上手く付き合っていた。さとりとこいしをいつも笑顔にしてくれていて、旧都の妖怪たちにも見習わせてやりたいくらいだった。そのうち二人からも説得され、おくうは渋々ながら、あの狐は悪いヤツじゃないと思うようになった。

 しかし、敵じゃないとは思わなかった。

 あの狐は、おくうにとって間違いなく敵だった。さとりたちと上手くやっている――それこそがなによりも問題だったのだ。それはすなわちおくうにとって、自分の日常(テリトリー)に見ず知らずの異物が入り込んできたことを意味していたのだから。

 この地霊殿において、さとりたちを笑顔にするのは一体誰の役目か。もちろん、おくうを始めとしたペットたちである。そこに、あの狐は入り込んできた。

 当然ながら、同じことは藤千代にもいえるだろう。藤千代もまた、地霊殿の外の妖怪でありながら、おくうたちの日常に入り込んできている少女である。しかしおくうは、不思議と藤千代のことはそれほど嫌いではなかった。理由は、なんとなく想像がついている。藤千代が、地上で主人を助けてくれた命の恩人だったから。そして主人と同じ地底へ下った妖怪であり、主人と同じ女だったからなのだろう。

 だがあの狐は、なにもかもが違う。地上の妖怪のくせに。男のくせに。さとり様たちと出会ったばかりで、二人のことなんてなにも知らないくせに。

 何度も思った。言い聞かせた。――お前なんかよりも私の方が、ずっとずっとさとり様たちと仲良しだもん。

 

 そのときになって、はじめて知った。

 ああ、私はこんなにも独占欲が強い妖怪だったのかと。

 

 さとりとこいしは、あの狐と出会ってからというもの、あの狐のことを考えるようになった。特にこいしなんてひどいものだった。早く月見が遊びに来ないかなー、まだかなーと毎日のように言っていた。そんな妹を諌めながらも、さとりだって内心ではその日を楽しみにしていた。月日が重なるに連れて、それは次第に顕著なものとなっていった。

 秋になる、少し前。

 月見に会いたくて会いたくて仕方なかったこいしが、こっそりと地上に出て行って、彼を連れてきて。

 そして、月見を認めようとしないおくうを、怒鳴りつけた。

 たぶん、あの日が分水嶺だった。あの日を境におくうは知ってしまったのだ――自分の主人は、もう、おくうではなく、あの狐の味方になってしまったのだと。

 寂しかった。もちろん少ししてから、ひどいこと言ってごめんね、とこいしから謝られはした。けれど、おくうの心についた傷が癒えることはなかった。

 ――でも、そうやって謝っても、やっぱりこいし様はあの狐の味方なんですよね?

 そんな思考が、いつも頭の片隅でくすぶり続けるようになった。

 寂しかった。

 

 

 

 それが、神の力を手にしてからは劇的に変わった。

 こいしが、自分のことだけを考えてくれるようになった。とりわけ熱さに強いわけでもないのに、毎日灼熱地獄跡まで下りてきて、おくうの特訓を見守ってくれた。毎日着替えを持ってきて、食べ物を運んできてくれた。

 嬉しかった。本当に。どこか遠くに行ってしまっていたこいしが、やっと帰ってきてくれたような心地さえした。

 その実感はやがて、おくうにあるひとつの確信をもたらす。

 

 ああ、そっか。

 この力があれば、この力で言うことを聞いていれば、こいし様は私を見てくれる(・・・・・)んだ。

 

 「さとり様とこいし様の力になりたいから」――おくうが神の力を振るう、その理由が。

 「自分を見ていてほしいから」に、変わった瞬間だったのだと思う。

 

 与えられた神の力をはじめて振るい、岩ひとつを粉々に消し飛ばしたとき、あまりの恐怖に体が竦んだ。

 力を上手く制御しきれず、全身を焼かれるような苦痛に涙を流した。

 眠れない夜だって、何度もあった。

 おくうに力を与えた注連縄の少女曰く、神の力を使いこなすためには、その存在を余さず受け入れる広い心と、己にも神にも固執しない自由な精神が必要であるという。それを考えれば、そもそも力を恐れていて、かつ「自分を見ていてほしい」という欲に囚われていたおくうには、なんの適性もありはしなかったのだと思う。最初から、おくうが手にしていい力ではなかったのだ。

 でも。

 でも。

 おくうは、寂しかった。もはやこの神の力だけが、おくうがこいしとつながれるたったひとつの方法だったのだ。怖くても、辛くても、それ以上に自分を考えてくれるこいしの行動が嬉しかった。幸せだった。そして力を物にすれば、きっとさとりだって自分を見てくれるようになると信じていた。

 この力があれば、きっと、私にも――。

 そう、思っていたのに。

 

 

 

 ねえ、こいし様。

 そんなこと、言わないでくださいよ。もうやめようなんて、私が間違ってたなんて、言わないでくださいよ。

 確かに私は、ひどいことをしました。

 人を、二人、殺しました。

 この狐も、どう見たって無事ではありません。

 本当は、こいつが悪いやつではないのだと、ずっと前からわかっていました。こいし様の言うことが正しいんだと、ずっと前から認めていました。こいつは、優しかった。いつもこいし様たちを笑顔にしてくれていた。でも、それが私には一番辛かったんです。こいし様たちがこいつとどんどん仲良くなって、いつか私なんて見向きもしてくれなくなるんじゃないかって。嫉妬してたんです。だからあのとき、今度こそこいし様を取られてしまうような気がして、どうしても我慢することができなかったんです。

 ごめんなさい。

 でも。

 でも。

 こいし様が望んでいたのは、こういうことじゃなかったんですか。

 こうして、気に入らないやつを倒して、私たちは弱くないのだと、力を示したかったんじゃないんですか。

 なのにどうして、間違いだったなんて言うんですか。

 私の、勘違いだったんですか。

 やっぱりこいし様も、その狐も味方なんですか?

 こいし様。

 教えてください。

 私はなんのために、人を殺したのですか。

 私はなんのために、こんな力を手にしたのですか。

 私はなんのために、今まで頑張ってきたのですか。

 私がやってきたことに、一体なんの意味があったのですか。なんの意味もなかったのですか。

 私は。

 なんのために。

 教えてください。

 こいし様。

 助けてください。

 助けて。

 体が、熱いんです。

 苦しいんです。

 変、なんです。

 熱い。苦しい。痛い。熱い。痛い。痛い。苦しい。熱い。苦しい。苦しい。痛い。痛い。

 いやだ。

 

 いやだ。

 

 助けて。

 誰か、助けて。

 誰か。

 

 

 誰か。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 はじめのうちは、自分が生きているのかどうかもよくわからなかった。

 さとりが最後に見たのは、天で光り輝いていた星が突如として砕け、世界が炎に呑まれていく光景だった。思い出すだけでも体が凍てつく。網膜に焼きついている。世界の終末と呼ばれるものが本当に存在するのなら、きっとあのような地獄であるに違いない。

 あのまま自分も炎に呑まれてしまうはずだったが、どこも痛くないということはどうやら無事らしい。段々と目の焦点が回復してくると、まず見えてきたのはお燐の姿だった。岩壁に背を預け、丸め込んだ両膝に顔を押しつけている。心の中が、真っ黒な暗闇に閉ざされている。

 

「お燐……?」

「……ぁ、」

 

 お燐が顔を上げ、さとりは呼吸が止まった。お燐の瞳が、心と同じように、なんの感情もなく真っ黒に染まっていたからだ。

 

「さとり様。頭、痛くないですか?」

 

 そんな目をして、お燐は笑った。笑うような感情なんて、なにも読み取れないのに。

 

「ごめんなさい。あたい、ここに逃げ込むのに精一杯で。そのときさとり様、頭ぶつけちゃったみたいで」

 

 そう言われてみれば、後頭部が妙に痛い。だがそんなものは敢えて苦言を呈すほどでもないし、今は心底どうだっていい。

 一応、礼は言っておく。

 

「……大丈夫よ。ありがとう、助けてくれて」

 

 お燐はまた笑った。虚ろな心で。いくら感覚を研ぎ澄ませても、彼女はやはり、笑みを浮かべるような感情なんて欠片も抱いてはいなかった。

 

「一体、なにが起こったの……?」

 

 さとりはあたりを見回す。ここはどうやら、岩山の根本が削られてできた天然の壕ともいえる場所のようだった。どうしてこんな場所に逃げ込まなければならなかったのか――さとりはどうか、頭の片隅で蠢く冷たい予感が当たってくれるなと祈っていた。

 外からかすかに聞こえる、炎が燃え盛る音なんて。聞こえないふりをしていた。

 

「わからない……! わからないよ……っ!」

 

 お燐が背を丸めた。現実を受け止めきれない者が殻に閉じこもって自分を守ろうとする、精一杯の防御行動だった。

 咳き込むような、涙声だった。

 

「なんで……!? どうして、どうしてこんなことになるの……ッ!?」

 

 外が、赤い。

 頭の片隅で蠢く気配が、段々と大きくなってくる。意識を侵食される。どこか片隅で冷静な自分がやめろと叫ぶのに、さとりは自分でもよくわからぬうちに壕の縁をよじ登り、外に顔を出していた。

 やめておけばよかったのに。

 

「――――――――な、」

 

 赤しか、なかった。

 すべてが、燃えていた。大地も。山も。撒き散らされる大量の火の粉で、空までもが。

 赤しか――炎しか、ない。

 ここはどこだという、極めて根本的な問いからさとりは考え始めなければならなかった。当たり前といえば当たり前だ、こんな世界をさとりはついぞ知らないのだから。今の灼熱地獄跡とはまるで比べるべくもないし、最盛期の頃だってここまで凄惨ではなかっただろう。だってこれでは、罪人の魂はもちろん、地獄の獄卒たちまで残らず焼かれてしまうはずだから。

 無論、本当はわかっている――最後の記憶から合理的に判断すれば、この炎の海こそが今の地底の姿なのだと。灼熱地獄が如く変わり果てた、現実の姿なのだと。だが、わかったところで認めていいようなものでは断じてなかった。

 

「そん、な」

 

 炎が届いているわけでもないのに、それでもさとりの体は焼けてしまいそうなほどに熱い。灼熱地獄が如き、などという生易しい次元ではない。これは地獄だ。いま自分の目の前に広がっているのは、現実世界に顕現した地獄の姿だ。そう断じ切れるほどまでに、赤だけの世界は血も涙もなく残酷だった。

 そして、気づき、愕然とした。

 

「……ま、待って。おくうは? こいしは? ……月見さんと、天子さんは?」

 

 この壕の中には、さとりとお燐しかいない。つまりおくうは、こいしたちは、外にいる。

 でも今、外は、あんなで。燃えていないものなんてなにひとつもなくて。生命の気配なんて、なにひとつも感じられなくて。

 じゃあ。

 じゃあ、みんなは。

 

「……」

 

 お燐は、答えなかった。

 口でも、心でも、なにも、答えなかった。

 さとりの全身が、虚ろと化した。

 

 ――誰か。

 誰か、助けて。おくうを。こいしを。お燐を。月見さんを。天子さんを。みんなが助かるのなら、私はどうなったって構わない。世界中から虐げられたっていい。命だって要らない。

 だから誰か、こんなの、嘘だと言って。夢だと言って。

 本当は、みんな無事で。争うようなことなんて、なにもなくて。

 すぐにまた、みんなで一緒に、笑い合えるようになるんだって。

 誰か、そう言ってください。

 助けてください。

 誰か――。

 

「誰かっ……!」

 

 ――そのときさとりは、かすかな音を聞いた。

 ただの気のせいだったのかもしれない。炎の弾けた音か、岩が崩れた音の聞き間違い。絶望の淵まで追い詰められ、狂いかけるさとりの意識が生み出した、ありもしない幻聴の類だったのかもしれない。

 なら。

 ならさとりがいま感じているこの妖気も、ただの気のせいに過ぎないのか。

 

「……!」

 

 さとりとお燐は同時に顔を上げ、燃える世界の一点を見つめた。違う。気のせいではない。気のせいであるはずがない。彼女が生み出す途方もない妖気は、地底に棲む妖怪であれば誰しもが骨の髄まで刻み込んでいるのだから。

 自分たちの頂点に君臨する、最強無比の大妖怪として。

 

「……お願いです……っ!」

 

 歯を軋らせ、爪で土を抉り、さとりは懸命に声を上げた。喉が痙攣して上手く言葉にならない。そうでなくとも炎の音だけに包まれた世界で、この声が彼女に届くことはないだろう。

 でも、それでも。

 祈らずには、いられなかったから。

 

「助けてください、藤千代さん……っ!!」

 

 姿は見えないし、無論返事も返ってこない。

 けれど炎を切り裂くように広がる妖気が、さとりとお燐を、そっと優しく包み込んでくれた気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 こいしたちを呑み込むはずだった炎が、すべて散り散りに消し飛んだ。

 

「っ……!?」

 

 目を開けてもいられなくなるほどの突風が駆け抜け、こいしは咄嗟に顔を両腕で庇った。そして風が収まってから恐る恐る腕を下げると、目の前に『彼女』の背中があった。

 ――ああ、そういえばあのときも、こんな風に助けてもらったっけ。

 

「……鬼子母神、様」

 

 彼女――藤千代は、目だけでこいしを振り返り、また目だけで微笑んだ。

 

「はい。間一髪でしたね、こいしさん」

 

 それだけではなかった。すぐ後ろの方からやおら威勢のいい声が、

 

「うぉわ!? 月見、あんたまた随分派手にやられたねこりゃ!」

 

 振り向くと、額からスラリと長い一本角を生やした鬼の少女が、月見の背の傷痕を見て仰天していた。旧都で何度か姿を見かけたことがある。確か、仲間たちから『勇儀姐さん』と呼ばれて慕われている鬼だったはずだ。

 

「ん? あれ、もしかして気絶してる?」

「あ、あのっ……! どうしよう、月見が……!」

 

 天人の少女が、涙を流しながら勇儀を見上げた。勇儀はほんの一瞬「なんで泣いてんのこいつ」と驚いた顔をして、それからまた月見の傷を見るなり納得した素振りで、

 

「――ん、まあ、こんな傷だし無理もないか。あーあ、尻尾なんてもうボロボロじゃんこれ。あんなに綺麗だったのに、勿体ない……」

「……あ、あの、」

 

 なぜお前はそんなに冷静なのか――少女の顔には、そんな愕然とした衝撃がありありと浮き彫りになっていた。こいしも少なからずぞっとしていた。この鬼、どうやら月見の知り合いらしいが、なのにどこからどう見たって無事ではない月見を心配していないのか。なんとも思わないのか。

 対して鬼は、なんとも挑戦的な笑みを返してきた。

 

「なに? もしかして、月見がこんなもんで死んじゃうとでも思ってんの?」

「……、」

「そっかあ。どこの誰かは知らないけど、あんたの中の月見って、随分とひ弱なヤツなんだね」

「――ッ、ち、違う!!」

 

 少女が激昂する。

 

「月見は! ……月見は、優しくて、強くてッ!」

「ん、そだね。私もそう思うよ」

 

 え、と虚を衝かれた少女が接ぎ穂を失う。

 勇儀はまた笑った。けれど今度は、『姐さん』と慕われる所以たる包容力にあふれた、実に爽然とした一笑だった。

 

「ほら、そんな優しくて強い月見の前でみっともない顔してんじゃないよ。その両手離しな、私が運んだげるから」

「そうですね、さっさと逃げちゃいましょー」

 

 藤千代は正面から目を離さず、その声音はいつも通りおっとりとしていて、緊張感などまるでなかった。

 そんな調子で、彼女は言うのだ。

 

「――これ、結構ヤバそうですし」

 

 こいしが今までに見たことも想像したこともない、まさに桁外れの火柱が雄叫びを上げている。それは、形だけならば大樹に似ていた。大地に赤い亀裂を根のように張り巡らせ、両腕を回したってまるで足りない太すぎる幹を天に伸ばし、幾千幾万の枝葉に分かれて空を焼き尽くす炎の大樹。冗談を抜きにして天上の岩盤まで届いているのではないかと思わされるし、周りの景色なんてもはや炎以外になにも見えない。

 そんな中でなぜこいしたちが無事であるかといえば、藤千代が妖気の壁で守ってくれているからだ。指の一本も動かすことなく、単なる気の放出だけで豪炎を退ける――こいしはただ、こんな力が欲しかっただけなのに。

 勇儀が、月見を横抱きにして立ち上がる。さすが剛力自慢の鬼だけあって、自分より大きい男の体をまるで苦にしない。

 

「ほら行くよ、さっさと立つ!」

「っ……」

 

 勇儀に叱咤され、天人の少女が砕けていた腰を押して立ち上がる。だが、こいしは立ち上がれない。

 

「私たちも行きましょう」

「っ……で、でも!」

 

 藤千代から差し伸べられた手を、取ることができない。否、取るわけにはいかなかった。

 

「まだ! まだあそこ(・・・)に、おくうが」

 

 ――そのときこいしは、鴉が低く唸る声を聞いた。

 すべてが一瞬だった。足元の大地に血管が如く赤い亀裂が走り、砕け散って崩壊した。そしてその瞬間にはすでに、こいしは藤千代に抱えられて上空を駆け上がっていくさなかにいた。

 隣には、勇儀と天人の姿もある。勇儀が月見をしっかりと抱え直し、半開きの口から「ひゃー」と気の抜けた声を出す。

 

「うわあ、なにあれ。さすがにちょっとまずいんでない?」

 

 こいしは、下を見た。

 空から見た今だからこそ、その光景がどれほど恐ろしいものなのかよくわかった。

 大樹の根――すなわち大地を走る赤い亀裂は、おくうが能力で破壊した空間のほぼ全域にまで及んでおり、中心から外側に向けて次々と崩壊を始めていた。崩落した大地が落ちゆく先は、当然その下で広がる灼熱地獄以外にない。おくうの力でかつての姿を取り戻した灼熱地獄は、炎に包まれた大地を貪欲に呑み込んでなおもその勢いを増し、地表まで届く壮絶な火柱を上げていた。

 しかも、血の色をした亀裂は決して収まることを知らない。少しずつ、しかし確実にその指先が届く範囲を広げ、みるみるうちに大地の姿を作り変えていく。炎の音。崩落の音。ただそれだけに包まれている。

 呑まれていく。

 こいしたちの地底が、灼熱地獄に呑まれていく。

 

「……ねえ、藤千代。これひょっとしなくても、ちょっとどころかかなりヤバい?」

 

 勇儀の口振りは殊の外冷静だった。――いや、或いは目の前の光景に理解が追いつかず、心の中の動揺を表に出す余裕もなかったのかもしれない。

 もしも――もしもこの崩落が、旧都にまで及んでしまったら。

 それはすなわち、旧都の終わりを意味しているのだから。

 

「うーん、困っちゃいましたねえ。これは私にも止められません。私にできるのは、ぶっ飛ばすことだけですから……」

「……月見なら、なんとかできたかねえ」

「わかりません。……しかしどうあれ、その傷ではもう無理はさせられませんよ」

 

 ――私のせいだ。

 これは、ぜんぶ、私のせいだ。

 私がおくうに、神様の力を使わせたりなんかしたから。

 力というものに憧れていた。強くなったらどう世界が変わるのか興味があって、灼熱地獄を活性化させてほしいというあの神様の要望を逆手に取り、与えられた力を私利私欲に利用した。けれど、決して悪いことを考えていたわけではない。姉を守るために。覚妖怪という種族故に距離を置かれる境遇を変えるために、あの力を役立てたいと思っていた。

 自分にだって、ほんの少しくらいは、お姉ちゃんに家族らしいことをしてあげたい。

 本当に、ただそれだけだったのだ。

 なのにどうして、こんなことになってしまったのだろう。なにがいけなかったのだろう。一体いつから、自分は間違えてしまっていたのだろうか。

 私のせい。

 私の、せいで。

 

「――ごめんなさい……!」

 

 気がついたときには、涙がこぼれていた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

 

 こいしのせいで、月見が傷ついて。

 こいしのせいで、旧都が滅んでしまうかもしれなくて。

 こいしのせいで、おくうが無事なのかも、どうなってしまったのかもわからない。

 こんなはずじゃなかった。

 こんな恐ろしいことを、したかったわけでは断じてなかった。

 こいしは。

 こいしは、ただ。

 ただ。

 

「……とにかく、今はさとりさんと合流しましょう」

 

 涙を止められず、もう目を開けてもいられないこいしの背を、藤千代がそっと抱き締めてくれた。

 

「まだ。まだなにか、手はあるはずです」

 

 こいしと比べても、そう大して変わらない背丈のくせに。

 回された両腕は、まるで母親のように優しくて、温かかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 一体、どれほどの間待ち続けたのだろう。数字にしてみれば高々数分だったはずだが、今のさとりには何日にも何十日にも感じられた。それほど長い数分間を、さとりはただ一心に祈り続けていた。そうでもしなければ、不安と恐怖で押し潰されてしまいそうだった。

 何度も自分に言い聞かせる。――大丈夫だ。大丈夫に決まっている。だって、地底最強の鬼子母神と、彼女が最も信頼を置く妖狐がいるのだから。きっとすぐに帰ってくる。たんこぶこさえて、すっかり反省したこいしとおくうを連れて。心配かけたね、なんて、心配していたこっちが馬鹿らしくなるくらいにあっけらかんと帰ってくるに決まっている。

 声が聞こえた。

 

「……さとりさーん! お~いっ!」

「……!」

 

 心臓が飛び上がり、さとりは壕の縁から転げ落ちそうになった。ひ弱な腕力を総動員してなんとか持ちこたえ、赤黒く染まった空を見上げると、こいしを抱きながらきょろきょろしている藤千代の姿が見えた。

 

「藤千代さん……!」

 

 ずっと岩壁に寄りかかったままだったお燐が、ようやく腰を浮かせた。

 さとりに気づいた藤千代はぱっと笑い、

 

「あっ、さとりさん発見です! 勇儀さーん、こっちですよーっ!」

 

 世界が炎に包まれるこんなときであっても、彼女はいつも通りの藤千代だった。小さな見た目らしからぬ速度であっという間にやってきて、さとりの目の前にこいしを降ろしてくれた。

 限界だった。さとりは壕から一目散に飛び出し、体当たりするのとほとんど大差ない勢いでこいしを抱き締めた。

 

「こいしっ……!!」

 

 トレードマークの帽子がなくなっているが、それ以外に変わったところは見られない。怪我ひとつしていない。心の底から安心した。今だからこそ認めよう、きっと大丈夫だなんて言っておきながらも、こいしが無事ではなかった未来を何度も考えてしまっていたのだ。

 世界が炎に呑まれる――これだけの惨劇をこいしが自力で切り抜けたとは思えないから、きっと藤千代と月見が守ってくれたに違いない。

 

「よかった……! 本当に……!」

「こいし様……! 無事だったんですねっ……!」

 

 お燐も、両の瞳を決壊寸前にまで潤ませて駆け寄ってきた。暗闇で包まれていたお燐の心に、安堵という名の光が差し込んでいる。虚ろではない、心からの笑みが頬ににじんでいる。なんだか、見ているこっちまで泣いてしまいそうだった。

 

「いやー、私のさとりさんセンサーもまだまだですねー。月見くんなら一発で見つけられるんですけど」

 

 こんなときでもいつも通りな藤千代の姿は、さとりの心を不思議な安心感で満たした。

 

「あの……! ありがとうございます、こいしを助けてくれて……!」

「はい。間に合ってよかったです」

「それで……あの、月見さんは……?」

 

 月見さんにも、お礼を言わなきゃ――そればかりを考えていたから、気づかなかったのだ。さとりの腕の中で、こいしがかすかに震えていたのだと。

 

「月見なら、ここにいるよ――っと」

 

 藤千代の背後に降り立つ影がふたつ。ひとつは、藤千代から時折名前を聞くことがある勇儀という鬼で、もうひとつは天子だった。

 月見はいない。だが勇儀は確かに、「ここにいる」と言った。

 なら、彼は一体どこにいたか。

 

「――――……」

 

 気づいてしまったさとりはその瞬間に心音を失い、心に戻りかけていた希望をすべて粉々に破壊された。

 月見は、勇儀に抱かれていた。

 体中に火傷を負った、明らかに無事ではない姿で。

 

「…………そん、な」

 

 腕、脚、首、背中――中でも尻尾が目も当てられない。あんなに綺麗だった銀色が無残に黒ずみ、焼け落ちて、元が何尾の尻尾だったのかもわからなくなってしまっている。衣服はほとんど原型を留めておらず、まるでボロ布を被っているように見える。月見の心の声はなにも聞こえない。それはすなわち、夢を見ることもできぬほど彼の意識が完全に絶たれていることを意味する。

 

「ごめんなさい……!」

 

 こいしが、皺がつくほどきつく、さとりの背に両腕を回した。

 

「私のせいで……! 私のせいで、月見が……っ!」

 

 ――いったい、なにがあったのか。

 天子の心の声で、それがわかった。

 こいしと天子が無闇に飛び込んでしまったせいで、激昂したおくうの力が暴走。月見は、身を挺して二人を守ってくれた。

 そして今も、おくうの力は暴走を続けていて。

 もしかするとこのまま、地底中が灼熱地獄に呑まれてしまうかもしれないのだと。

 言葉の意味はわかった。

 だが、脳がそれ以上の理解を拒否した。

 

「一体、なにが……どう、して」

 

 さとりは、放心していた。月見がひどい怪我を負ってしまっただけでも打ちのめされたのに、その上おくうが暴走し、地底を灼熱地獄に変えてしまうかもしれないなんて。

 崩れ落ちそうなさとりの肩を、藤千代が支えた。

 

「ともかく、今は離れましょう。じきに、ここも崩壊します」

「崩……壊、って」

 

 藤千代はわずかな逡巡で目を逸らし、

 

「……見た方が、早いです」

 

 そこから、自分がどう動いたのかはよく覚えていない。次に意識の焦点が合ったとき、さとりはこいしを抱きかかえながら、お燐に支えられて空を飛んでいて。

 けれどその光景を目の当たりにした瞬間、頭蓋を金槌でぶん殴られたような衝撃とともに、さとりの意識は再度茫洋の海を漂うことになった。

 

「――――……」

 

 なにも、言えなかった。それは藤千代が言った通りの、そして文字通りの『崩壊』だった。さとりの目の前で、地底が崩壊していた。

 まず、大地にぽっかりと穴が空いている。山を三つも四つも呑み込むであろう、単なる『穴』と表現するには決して相応しくない途轍もない空漠が。かつておくうがその力で破壊の限りを尽くし、無数の石塊とクレーターで覆い尽くされていたはずの大地が、ごっそりとどこかに消滅してしまっているのだ。代わりにその空間を、地下から轟々と噴き上がる灼熱地獄の業火が埋め尽くしている。さとりが今まで見てきたどんな炎よりも、凄まじく、恐ろしい形相で燃え上がっている。単なる炎というよりも、それはもはや意思を持った魔物めいて見えた。充分すぎるほど距離は取っているはずなのに、その火の手はすぐさまさとりの足元まで喰らいついてくるような心地がした。

 大地の崩れる音が聞こえる。まるで血管が如き赤い亀裂が中心から外側に向けて根を張り巡らせ、裂けた大地の空隙から炎が噴出し、やがてボロボロと崩れ落ちていく。谷だろうが山だろうが、そこに区別など一切ありはしない。すべてを等しく噛み砕き、破壊し、灼熱地獄へと呑み込んでいく。さとりたちが先ほどまで逃げ込んでいた、壕のように削り取られた岩山の根本も、たったいま目の前で炎の中に消えていった。

 そして、その崩壊の中心では、どれほど巨大なのか想像する気も起こらなくなるほど度を超えた火柱が天を焼いている。撒き散らされた火の粉はやがて流星となってあたりへ降り注ぎ、あるひとつは灼熱地獄に落ちて更なる火種となり、あるひとつは大地に落ちて、地上を焼き尽くす火の海へと姿を変えてゆく。

 

「――こん、なの」

 

 おくうという一人の少女が生み出していい次元を超えている。これはもはや災害だ。善と悪の区別もなく、触れる者すべての命を奪い去っていくことしかできない、人知を超えた天変地異の光景だった。

 さとりはもうそれ以上なにも言えなかったし、お燐は血色のいい肌が真っ白に生気を失っていて、こいしはさとりの肩に顔を埋めてすすり泣くばかりだった。

 藤千代が言う。

 

「おくうさんの力は、完全に暴走しています。……恐らく、力を制御できないほど心が不安定な状態にあるのだとは、思いますが」

 

 もう、『何事もなく無事に終わる未来』を想像できる者など、誰一人としていない。

 これから自分たちが、おくうが、そして地底がどうなってしまうのか、さとりにはもうなにもわからなかった。

 この場所が、旧都から遠く離れた地底の端の端であることだけが、せめてもの救いだった。もしもここが、旧都のど真ん中だったら。旧都のすぐ傍だったら。さとりたちの住む町は、灼熱地獄に呑まれて終わってしまっていただろう。

 そしてそれは、この先に待ち受ける悲劇のひとつかもしれないのだ。大地の崩落は、地底全体の規模から見ればわずかな速度であっても、決して止まることなく進み続けている。このまま崩落が止まらなければ、さながら真綿で首を絞めるように旧都が――引いては、地底そのものが炎の海に呑まれて消えるだろう。

 おくうが。

 さとりとこいしの何物にも代えられない大切なペットが、地底を滅ぼしてしまうかもしれない――。

 

「藤千代、さん。私たちは、一体、どうすれば」

 

 心底情けない話だが、さとりには藤千代に縋るしか選択肢がなかった。地底が崩壊していくこの光景を目の当たりにしてなおも「自分がなんとかする」と自惚れられるほど、さとりは身も心も強くはなかった。ひと目見ただけでわかる。これはもう、さとりにどうこうできる次元を遥か彼方へ置き去りにしている。否、さとりはおろか、並大抵の妖怪でも到底太刀打ちできないはずだ。この災害めいた現実に立ち向かえるのは、同じ災害めいた力を持つ、大妖怪と呼ばれる存在だけなのだと。

 

「皆さんは、ここから遠くに離れてください」

 

 さすがの藤千代といえども今ばかりは、口振りから普段の柔らかさが消えていた。

 

「私はおくうさんのところに行きます。今なら、なんとかなるかもしれませんから」

 

 気づくべきだった。彼女の言葉が同時に、もうどうにもならない可能性を示唆するものであったのだと。そして疑問に思うべきだった。もしもどうにもならなかったとき、彼女は一体、おくうをどうするつもりでいたのかを。

 だがさとりのみならず、皆が藤千代の言葉を信じていた。月見がやられてしまった今、もはや藤千代しか縋れるものがなかったのだ。誰しもが、頭の片隅で蠢く最悪の想像から無意識のうちに目を逸らしていた。

 

「勇儀さんは、旧都に戻って月見くんの手当をしてあげてください」

「あいよ」

 

 もっとも仮に気づけていたとしても、さとりにはどうすることもできなかっただろう。

 頭がまるで働かない。

 もう、さとりにできることなんて。

 なにも、ない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「あちち!」

 

 少し考え事をしながら飛んでいたせいで、噴き上がる火の粉で足首を焼かれてしまった。とはいえ刺すような痛みはほんの一瞬で、赤くなった肌も数秒で元通りになる。並外れた再生能力を持つ藤千代にとっては、ちょうどいい気つけになったと思う程度の出来事でしかなかった。

 さとりたちと別れた藤千代は、灼熱地獄にいた。――今となってはそう呼ぶべきなのだろう。たとえここがほんの数分前までは旧地獄の一部だった土地であろうとも、足をつけるべき大地が根こそぎ崩落し、地の底より噴き上がる炎だけで埋め尽くされている姿は、紛れもなく地獄と呼ぶに相応しい光景だった。

 

「さすがは神話に名を刻んだ神……と言うべきなんでしょうかねえ」

 

 八咫烏。かの日本神話において、天照大神らが遣わした太陽の化身。なるほど、或いはこの地獄めいた光景こそが、八咫烏の力で生み出された太陽そのものを表しているのかもしれない。

 ほどなくして藤千代は、最も激しく炎が噴き上がる中心地に辿り着く。もしくは戻ってきたともいえようか。無論、こいしを助けた時点でまだその姿を留めていた大地や山々は、もう影のひとつも残さず消え去ってしまっている。

 

「……」

 

 藤千代は天を振り仰ぐ。まるで桁外れに巨大な火柱が、見上げる藤千代の視界のことごとくを焼き尽くしている。吹き荒ぶ炎の風は、離れていてもなお藤千代の服を焦がしかねないほど凄まじい。

 ここまで凄絶に燃える炎を目の当たりにするのは、夏の異変で月見が見せた『銀火』以来だろうか。でも月見くんの炎とはぜんぜん違うな、と藤千代は思った。月見の『銀火』は美しく、気高かった。けれどこの炎は、澱んでいるし禍々しい。文字にすればどちらも同じ『炎』なのに、単なる色の違い以上に、目の前の業火は亡霊のようだった。

 

(なんて、悲しい炎)

 

 八咫烏の、荒御魂。だがその暴走の動力となっているのは、憎しみや怒りといった類の感情ではない。

 絶望。

 

(……おくうさん)

 

 藤千代はしばしば地霊殿を訪ねるさとりの友人だが、おくうとはこれといって面識があるわけではなかった。おくうは地霊殿の仲間には明るく気さくな一方で、余所者に対しては警戒心が強く、進んで姿を見せようとしてくれなかったからだ。

 余所者を強く警戒する。それが裏を返して、家族や仲間への依存を表していたのだとすれば。

 恐らくは、それ故の、絶望なのだろう。

 

「おくうさん」

 

 藤千代はおくうの名を呼んだ。答えは返ってこなかったが、その代わりに目の前の光景に変化が起きた。

 天を焼く炎の大樹が、みるみるうちに鎮まっていく。

 そして散りゆく炎の向こうに、おくうの姿があった。

 藤千代が記憶しているおくうとは、ひどく出で立ちが違っていた。翼が一回りも二回りも巨大化し、胸に埋め込まれた真紅の瞳が炯々(けいけい)と煌めき、肌には血管にも似た赤い紋様が生々しく走り、全身からとめどなく火の粉を振り撒いている。

 藤千代の肌が、ビリビリと痺れる。

 藤千代はもう一度、名を呼ぶ。

 

「おくうさん」

 

 おくうが、目を開けた。

 血と闇の色で塗り潰された、この世ならざる異形の瞳。

 唇が、動く。

 

 

「     、  ?」

 

 

 藤千代はまぶたを伏せ、灯っていた一縷の光を吹き消すように、細く長い息を吐いた。

 

「――やっぱり、遅かったですか」

 

 今の、おくうの言葉は。

 人の言葉では、なかった。

 それだけわかれば、もう充分だった。

 

「おくうさん。――いいえ、」

 

 まぶたを上げた。

 そして彼女の名を、今度は正しく呼んだ。

 

 

「八咫烏。……私の声が、わかりますか?」

 

 

 あれ(・・)はもう、おくうではない。

 はじめて話を聞いたときからずっと疑問だったのだ。おくうが――言ってしまえば弱小妖怪の部類である地獄鴉が、どうしてその身に八咫烏の力を宿せたのか。そもそもこの旧地獄に、どうやって八咫烏の御魂を招き寄せたのか。

 もちろん、きちんとした手順を踏めばすべて可能ではある。だがその『きちんとした手順』を、こいしやおくうは本当に知っていたのか。『神降ろし』の方法を知っているのなんて、神々と深い関わりを持つ一部の祭祀者程度に限られるだろうに。

 果たしておくうは、八咫烏の力を手に入れるべくして手に入れたのか。八咫烏の依代となれるだけの資格を、本当に持っていたのか。

 結果論として、答えは否だった。

 だから目の前の少女は、もう、おくうではないのだ。

 神の御魂を制御しきれず、逆に御魂を乗っ取られてしまった哀れな依代の成れの果て。荒御魂が鎮まるまで無差別に暴走を続ける、生きた災害。

 こうなってしまえば、もう藤千代にはどうしてあげることもできない。藤千代にできるのは、ただ、壊すことだけ。だが壊すべき八咫烏の御魂はおくうの体を乗っ取り、その肉体と密接に結びついてしまった。おくうの姿を異質に変容させ、人の言葉すら奪い去ったのがいい証拠だ。

 もはや、意識を奪うなんて甘っちょろい方法は通用しない。なぜならあれは、言ってしまえば荒御魂の災いを顕界にもたらすための単なる『箱』なのだから。いくら暴走しても疲弊することはない。いくら攻撃を受けても気絶することはない。荒御魂が燃え続ける限り、あれ(・・)は決して止まりはしない。

 藤千代にできる方法は、たったひとつ。おくうの体に巣喰う八咫烏の御魂を、力尽くで破壊する。もちろん、やろうと思えばすぐにでもできる。数秒で終わる。

 おくうの肉体が受ける損傷を、度外視するならば。

 ガラス玉の中に入り込んだ異物を、ガラス玉を割らずに取り出すことはできない。

 大妖怪ならばいざ知らず、か弱い地獄鴉にとっての肉体の損壊は、そのまま死に直結するといっても過言ではない。

 

(……月見くんなら、なんとかできたでしょうか)

 

 そう思わずにはおれない。古今東西様々な術式に精通する彼なら、おくうの肉体から八咫烏を切り離す芸当だってできたかもしれない。

 もう、考えても意味のないことだ。月見はやられた。十一尾がすべて焼け落ちてしまうほど悲惨な大火傷を全身に負って。さすがの彼といえども目を覚ますまでは当分掛かるだろうし、仮にすぐ目覚めたとしても到底動けたものではあるまい。

 月見がいれば、なんて。もう、考えるだけ無駄なのだ。

 

(…………)

 

 けれど。

 けれど。

 藤千代の心にはそれでも、月見を信じていたい確かな想いがあった。こいしは、泣いていた。泣きながら己の過ちを悔いていた。さとりだってお燐だって、心の中ではきっと涙を流していただろう。

 泣いている少女が、三人もいる。

 ならば月見が、来ないはずはないのだと。このまま終わってしまうはずがないのだと。

 そう、信じたかった。

 

「   ?     。」

 

 八咫烏の返答は至極単純だった。首を傾げ、大翼を広げ、全身から目も覚める火の粉を撒き散らし、

 言葉とは思えぬ咆吼を上げた。

 藤千代の周囲に、灼熱地獄から次々と野太い火柱が突き上がる。炎はまるで意思を持ったように蠢き、何百何千という烈火の鳥を瞬く間に生み出していく。

 八咫烏の頭上に、凄まじい熱と力を凝縮した無数の光弾が展開される。

 藤千代は、構えた。

 

(……もう少しだけ。あと少しだけ、信じていてもいいですか。月見くん)

 

 本来であれば、藤千代は確証のない希望になど縋っていい立場ではない。今は誰がどう見ても、いつ目覚めるかも知れない月見を悠長に待ち続けられるような状況ではない。地底が、灼熱地獄に呑まれて消えるかもしれないのだ。地底を任されている者として、旧都中の妖怪の命を背負っている者として、藤千代は常に最悪を想定して動かなければならない。

 だから本当なら、その『最悪』を回避するために、敵はすべて排除(・・)しなければならない。たとえそれが、神話に名を刻む偉大な神の御魂であっても。大切な友人の、大切な家族の女の子であろうとも。

 でも、どうか、あともう少しだけ。

 

(信じてます)

 

 藤千代は、知っている。

 

(月見くんは、泣いている誰かを放っておいたりなんて、絶対にしないって)

 

 それが、月見という妖怪だ。

 

 鴉が、哭いた。

 もはや単なる音と表現すべきその叫びに、しかし、なぜだろう、藤千代はかすかなおくうの声を聞いた気がした。

 

 ――もう、楽にして。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして、彼女は旧都を訪れた。

 この町を訪ねるのは、いつも仕事のときばかりだった。地獄のスリム化政策で切り離された土地とはいえ、このあたりにはまだ亡者の魂が数多く彷徨っているから、鬼たちがきちんと管理を行っているか定期的に調査しなければならないのだ。今までなにか問題が起こったことはないけれど、彼女はいつも不安に思っている。鬼はよくいえば豪放磊落、悪くいえば大雑把でずぼらな性格の者が多いので、いつどんな問題が起こされたって不思議ではないのだと。

 とは、いえ。

 今回彼女がわざわざ彼岸から出張ってきたのは、その調査が理由ではない。目的が調査であるのは同じだが、その対象は怨霊の管理体制ではなく、いま旧地獄を取り巻いている異常現象についてである。

 冬にもかかわらず上昇し続ける気温。ひっきりなしに続く地震。そして、正体不明の高エネルギー反応。

 本来であれば調査など部下に任せておくものだが、ちょうど仕事に一区切りがついたところだったので、気分転換も兼ねて彼女自らが様子を見に来た次第なのだった。

 実をいえば、異常の原因が旧都ではなく、旧地獄の端の端――かつて血の池地獄があった方角――にあるらしいのはすでに気づいている。地底の薄闇で巻かれた遥か彼方に、例の高エネルギー反応と、炎が燃えていると思しき赤い煌めきが確認できる。旧都を素通りして直接向かう選択肢もあったが、それでも彼女がここで足を止めたのは、まず詳しく話を聞かなければならない相手がいるからだ。

 

(さて、藤千代はどこにいますか)

 

 当然、旧都の代表を務めるあの鬼の少女には話を聞かなければならない。なにか情報を掴んでいれば聞き出すし、なにも知らなければ代表としての自覚が足りないと説教しなければならない。とりあえず、そのあたりの鬼にでも居場所を訊いてみようと思い、

 

「――しっかし、まさか月見の旦那が来てたなんてなあ。あの人ってほんと、こういう騒ぎをどこからともなく嗅ぎつけてくるよなあ……」

 

 聞き捨てならない名前が聞こえた。

 通りの隅で座り込み、酒を酌み交わしながら世間話に興じている二匹の鬼だった。

 

「地上で夏に起こった異変にも、相当深く関わったって話だ。そういう体質なんだろうね。巻き込まれ体質っていうか」

「旦那、人脈めっちゃ広いからなあ。どこでどんな騒ぎが起こっても、必ず知り合いに当事者がいるんだろうよ」

 

 ――あの狐が、ここに来ている?

 地上の妖怪の立ち入りが禁じられている、ここ旧地獄に?

 

「しかしまあ、旦那と藤千代サンがいりゃあ大丈夫だろ。誰が騒ぎ起こしてんのか知らないけど、同情するぜ。あの二人が組んじまったんだからな」

「しかも、勇儀姐さんまでついてったって話だしな。悪魔も神様も泣いて逃げ出すってもんだ」

「――もし、そこの二人」

 

 声を掛ける。二匹の鬼は揃って酒を傾けながら、んあー? とかなり品のない返事で顔を上げ、

 一斉に噴き出した。

 危うく服にかかるところだった。

 

「きゃ!? ……い、いきなりなにをするんですかっ、はしたない!」

「ゲホゴホガホ!? す、すんませ、いや申し訳ゴホゲホッ」

 

 鬼は二人仲良く咳き込んでいる。人の顔を見るなり酒を噴き出すとは、なんて無礼な鬼なのだろう。自分がまだ地蔵だった頃、あの狐に墨だらけの顔を笑われた記憶が甦ってきて、筆舌に尽くしがたく不愉快な気持ちがむくむくと込み上がってきた。説教してやろうかこいつら。

 

「ゲホゲホ……し、失礼しやした。アナタ様ともあろう方が、一体ワタシらになんの用で?」

 

 しかしながら、本当に無礼を働いてしまったと猛省しているようだったので、その殊勝な心意気に免じて見逃すことにした。それに今は説教よりも、先ほどの話を問い質す方が肝要である。

 

「あなたたち、今、あの狐がここに来ていると言いましたか?」

「あの狐? ……ああ、月見の旦那のことですかい? ワタシらは見てませんが、来ていると藤千代サンが」

「ご覧の通り、なぜか気温が夏みたいに上がって、雪もぜんぶ溶けちまった有様で。そいつを解決してくるってんで、少し前に向こうに飛んでいきましたぜ」

 

 そう言って鬼が指差したのは、この異常現象の原因があると思われる、例の方角だった。

 

「……そうですか。ということは、藤千代も、あの狐も、向こうにいるということですね」

「まあ、そうなりますが……」

「わかりました。ありがとうございます」

 

 自分の次にすべきことが決まった。軽く礼を言って歩き出すと、背中に鬼の声が掛かった。

 

「行かれるんですか? ですがね、なんだか妙に禍々しい気配もしますし、やめといた方がいいと思いますぜ。旦那と藤千代サンに任せておいた方が」

「――あら。やめておいた方がいいって、誰に向かって言っているのですか?」

 

 笑みとともに、振り返る。鬼たちがハッと息を呑み、沈黙する。

 

「どうやら、私が誰なのかよくわかっていないようで」

「い、いえいえ滅相もございません!?」

 

 鬼二匹はぶんぶんとかぶりを振って、

 

「そ、そうでしたね。アナタ様に心配など不要ってもんで」

「な、なんてったって、地獄の頂点におわす御方ですもんね!」

「ええ、そうですよ」

 

 そう――そうなのだ。自分は彼岸のトップに君臨するちょっとした存在なのだ。なのにあの狐は、そんなちょっとした自分をいつも子ども扱いしてからかってくる。幻想郷で再会してからというもの、食事を作ってあげたり掃除を手伝ったりと、大人の女性のなんたるかを繰り返しアピールしてきたので、近頃は少しずつわかってきてもらえるようになった。だがそれだけではまだ足りない。大人の女性と認めさせると同時に、自分の肩書きが如何に畏れ多いものであるかも理解させる必要がある。そのためには、ちょうどいい、自分がデスクワークや家事ばかりの女ではなく、荒事に至っても大変頼りになるのだと思い知らせてやるのはどうか。

 うむ、と頷いた。

 

「では畏れ多くも、この私が手を貸しに参りましょうか」

 

 ――と意気込む彼女を見ていた鬼二匹は、後にこう語る。

 

「まったくもう、これだから大人の女性は大変ですねっ」

 

 あのときの四季映姫・ヤマザナドゥは、なんかもうめちゃくちゃワクワクソワソワしていて、どこからどう見ても立派な子どもだったのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑩ 「『当たり前だ』」

 

 

 

 

 

 一番はじめに気づいたのはお燐だった。その日、おくうの姿を捜して灼熱地獄跡まで下りてみると、いつもならそのへんを飛んでいるはずの彼女が右にも左にも見当たらなかった。

 すぐにおかしいと思った。ここへ下りてくる前に確認している――おくうは、地霊殿にはいなかった。地霊殿にも灼熱地獄跡にもいないというのはありえない。おくうは地上のみならず、旧都の妖怪にも強い警戒心を抱いていて、自分からは絶対に外に出ようとしない。さとりもそんなおくうの心を知っていて、灼熱地獄跡の管理だけを彼女の仕事として与えている。つまりおくうは、主人のさとりに負けず劣らず、筋金入りのひきこもり妖怪なのだ。

 ならおくうは、一体どこにいるのか。

 意識を集中させてみると、ほどなくして気づいた。灼熱地獄跡の外れの方に、かすかではあるが、得体の知れない妙な気配を感じる。

 

「……おくう?」

 

 かどうかはわからないけれど、確かめた方がよさそうだとお燐は判断する。普通の気配ではないから、ひょっとすると外から何者かが忍び込んできたのかもしれない。仮におくう、もしくは他のペットたちの誰かだとしても、あんなに遠くでなにをやっているのかは甚だ疑問だった。

 そしてしばらく空を飛び続けたお燐は、天上の地盤を支える細長い岩が無数にひしめく森の中で、遂におくうの背中を見つけた。

 

「おく、」

 

 名を呼ぼうとして、お燐は咄嗟に口を噤む。改めて疑問に思う。――こいつ、こんなところで一体なにを。

 そう思って注意深く見てみると、なるほどいつもと違っているのは単にその気配だけではない。右の腕に、足元まで届きそうなほど長く大きな木筒をはめている。右脚には、まるでそこだけ西洋の甲冑から盗み出してきたような、鈍色の無骨で重そうな靴。背中を丸々覆い隠す純白のマントを羽織り、翼は一回り大きくなったように見える。

 こんな奇抜なお洒落を楽しむようなやつではない。

 名を呼ぶまで、一分近くは躊躇っていたと思う。お燐はそっと、まるで赤の他人に声を掛けるように、

 

「……おくう?」

 

 おくうが、振り返った。

 

「……ん? あ、お燐」

 

 顔だけ見れば、至っていつも通りのおくうだった――が、そんなものなど目にも入らずお燐はぎょっとした。

 おくうの胸元で、宝石かとも見紛う真紅の瞳がひとつ、じっとお燐を見返している。

 さとりやこいしが持つ『第三の目』とはワケが違った。少なくともお燐の目には、あれはおくうの素肌に直接取りつけられた器官であるように見えた。木筒といい靴といいマントといい、やはり単なるお洒落にしては奇抜で悪趣味すぎる。

 

「……お、おくう? どうしたの、その恰好」

「ああ、これ?」

 

 おくうはゆっくりと翼を羽ばたかせ、少しの間悩んでから、

 

「……んと、私にもよくわかんない。気がついたらこうなってた」

「わかんないって……」

 

 意味がわからなかった。だがお燐は首を振って、

 

「そ、それに、なんだか雰囲気も変だよ。なんか……強そう? ていうか……そんな感じがするんだけど」

 

 こうして目の前にしたからこそよくわかる、おくうの気配は明らかに異質だった。人型を取れる以外はごくごく普通の地獄鴉であるおくうを、何十年も一緒に生きてきた家族同然の親友を、お燐は今、少しだけ怖いと感じていた。まるで旧都で、いかにも柄の悪そうな筋骨隆々の鬼を前にしてしまったときのような。非常にありふれた表現だが、『強そうな気配』とでも呼ぶべきプレッシャーが、おくうの全身から滲み出るように放たれていた。

 おくうは、特に表情を変えなかった。

 

「ふーん……やっぱりそうなんだ」

「やっぱりって……」

「神様の力をもらったの」

「へー、なるほどそれで……ってちょっと待って、」

 

 こいつ今なんて、

 

「だから、神様の力。なんて神様かは……忘れちゃったけど」

「……へ、へー、そうなんだ」

 

 当たり障りのない返事を返しながら、お燐は思考をフル回転させて会話に食らいつこうとした。――神様の力をもらった。それは、文字通りの意味で捉えてしまうべきだろうか。いや、それ以外にあるまい。真意を計る必要があるほど意味深な言い回しなんておくうにはできない。つまりおくうは至ってその言葉通りに、体に神の力を宿しているのだ。

 理解しがたいというのが正直な本音だったが、逆にそう考えてしまえば、おくうの変容にも一貫して説明がつく気がした。神様の力を宿したから外見に変化が起こって、気配も変わった。それでなんだか強そうに見える。

 とにかく、おくうの口振りは嘘や冗談を言っているようにはまるで見えなかった。

 しかし、

 

「な、なんで急にそんな? なにがあったの?」

 

 なにゆえおくうが神の力を宿すに至ったのか、理由が皆目見当もつかない。なぜおくうはそんなことをしているのか。地獄鴉という、言ってしまえば弱小妖怪の部類であるおくうに、なぜそんな芸当ができているのか。まるで動揺と混乱を隠せないお燐に対し、おくうは妙なほどに冷静で、

 

「こいし様が」

「こいし様?」

「そう。こいし様が地上の神様を連れてきて、その神様が、私に力をくれたの」

 

 ますますわけがわからなくなった。

 

「え、こ、こいし様? なにそれ、どういうこと?」

 

 思考をフル回転させても、とんと会話に追いつけなくなった。先ほどと同様に言葉通りで考えれば、やはり、こいしが地上の神様をおくうのところまで連れてきたということになる。しかしなぜこいしがそんな真似をするのか、もうなにがなんだかさっぱりわからなかった。

 答えは、いきなり後ろから飛んできた。

 

「どういうことって、そういうことだよ?」

「み゛ゃ!?」

 

 混乱のあまりすっかりスキだらけだったお燐は、真上に飛び上がってびっくり仰天した。振り返ってみるとまさしく件のこいしが、不思議そうに首を傾げてお燐を見つめていた。

 おくうの顔がぱっと輝いた。

 

「あ、こいし様!」

「やっほーおくう。様子見に来たよ!」

 

 お燐は、バクバク抗議の声を上げる心臓を深呼吸で落ち着かせる。わざとやっているのか無意識がそうさせるのかは知らないが、しばしば音も気配もなく神出鬼没に出現し、いきなり声を掛けて人を驚かしてくるのは、放浪癖に次ぐこいしの困った悪癖のひとつだった。正直、現在に至るまでこれで削られた寿命の長さは、もう結構なものになるんじゃないかとお燐はニラんでいる。

 

「どう、調子は?」

「んと、普通にしてる分には問題ないです。ただ、力の方は、まだ上手く使いこなせませんけど……」

「大丈夫だよ、まだ始めたばっかだもんね。ゆっくりやってこ!」

「は、はい!」

 

 いつまでも心臓をバクバクさせている場合ではない。気を取り直したお燐は速やかに問う、

 

「あ、あの、こいし様」

「ん?」

「おくうのこと、なんですけど」

 

 こいしは「ああ」と相槌を打って、

 

「そういえばお燐には言ってなかったね。おくうは、神様の力を手に入れて強くなりましたっ。ヤタガラスっていうんだって! すごいでしょ!」

 

 得意そうに胸を張ってそう言うのだが、お燐が知りたいのはそこではないし、ヤタガラスという名前も無学故にピンとは来ない。

 

「それは、おくうから聞きました。……こいし様が、地上の神様を連れてきたんだって」

「うん、そうだよ。偶然ね」

「えっと……どうして、そんなことを?」

 

 こいしはきょとんと首を傾げた。

 

「おくうが強くなったらいいなって思ったから」

「……どうして、おくうを強くしようと?」

「? どうしてって……おくうを強くしちゃいけないの?」

 

 お燐は思わず閉口し、少し考え、

 

「んと、つまり、興味本位ってことですか? いや、てっきり、なにかやりたいことがあっておくうを強くしてもらったのかなーって、思ってですね……」

 

 このときのお燐は、とにかく事の因果関係を明らかにしようと躍起になっていた。なにからなにまでわけがわからなすぎて、そうでもしないと気が休まりそうになかったのだ。

 

「あー、やりたいことならあるよ!」

 

 こいしはぱっと笑顔になって、元気よく答えた。

 

「この力で、お姉ちゃんを助ける!」

「……さとり様を?」

 

 ……なんだかさっきから、わけがわからないことばかりだ。

 無論、今回ばかりは言葉の意味自体はわかった。しかし意図がわからない。さとりは今日も本を読んだり文章を書いたりしてのんびり気ままに過ごしており、とりわけ助けが必要な状態にあるわけではない。それに地霊殿には、さとりの身の回りの雑事を手伝うペットが多すぎるほどいるから、これといって日常生活に困ってもいないはずである。

 神様の力を使ってまでさとりのなにを助けるのか、想像がつかなかった。

 

「うん! お燐も覚えてるでしょ?」

 

 こいしは笑顔のままで――しかしそのとき、彼女の声の質が明らかに変わった。

 

「――ずっと前にさ、お姉ちゃんが泣きながら外から帰ってきたの」

「……!」

 

 ――ああそうか、そういう(・・・・)意味か。

 もちろん、覚えている。地霊殿での新生活が始まってから、まだそれほど日が経っていなかった頃だったはずだ。用事で外に出ていたさとりが、突然泣きながら帰ってきた。只ならぬ様子にみんな大層心配したが、さとりは結局、外でなにがあったのかをついぞ打ち明けてはくれなかった。ただ、旧都の妖怪になにか心ないことをされたのは間違いなさそうだった。

 あの日を境にしてさとりは地霊殿に引きこもり、外への用事をすべて遣いで済ませるようになった。

 もしもこいしの言う『助ける』が、さとりをその状況から救うという意味であるならば。

 

「だから私、旧都のヤツらがキライ。それで、あいつらからお姉ちゃんを助けたいなって」

「……でも、助けるって言っても、どうやって」

「んー……それは私も考えてるトコだけど……でも、お姉ちゃんが望むなら、旧都のヤツらに仕返しだってするよ!」

 

 お燐は見逃さなかった。おくうの肩が、ほんのかすかに、けれど間違いなく震えたのを。

 

「お姉ちゃんをいじめるとあとが怖いんだって、適当に痛めつけてみたり! そうすれば、お姉ちゃんがいじめられることもなくなるかも」

「……つまりこいし様は、さとり様のためなんですね」

「そうと言えなくもないよ!」

 

 なるほど。

 事の経緯はだいたいわかったし、納得もした。とはいえやはり、こいしの告白はお燐にとって衝撃的と言わざるを得なかった。

 まさかこいしがあのときのことを覚えていて、その影響で旧都の妖怪たちを嫌っていようとは、夢にも思ってもいなかったからだ。

 いつもにこにこ笑顔で自由奔放な妖怪だから、心の中もきっとそうなのだろうと思い込んでいた。嫌な記憶なんてさっさと忘れて、毎日を明るく楽しく生きているのだと。

 見当外れもいいところだった。こいしは、たとえいつもにこにこと笑っていても、嫌なことをしっかり根深く覚えていた。敢えて美しい言葉で言い換えるなら、お燐の想像を超えて遥かな姉想いだったともいえよう。

 それ自体は、さとりとこいしのペットとして、喜ぶべきことだったのかもしれない。

 しかし、

 

「だ、だめですよ、そんな」

 

 ほとんど無意識の領域で、お燐はそう言っていた。一拍遅れてからそのことに気づいてハッとし、けれど紛れもない本心ではあったので、撤回はしなかった。

 こいしが不思議そうに首を傾げる。

 

「なんで?」

「だって、それじゃあおくうが」

 

 今度は言い直した。こいしではなく、おくうに向けて、

 

「おくうは、いいの?」

 

 おくうは、心優しい妖怪だ。地霊殿に虫が迷い込めば、どんなに小さなやつであってもうにゃーうにゃーと頑張って逃してあげようとするほどに。そんなおくうが、いくらさとりを助けるためであっても、こいしの考えに共感して言うことを聞くとはどうしても思えなかった。

 だってこいしに従えば、おくうはひょっとすると、望まぬ争いに身を投じねばならなくなるかもしれないのだから。

 筋金入りの鳥頭であっても、それがわからないほど馬鹿ではあるまい。

 

「なにがダメなの?」

 

 だがおくうから返ってきたのは、取りつく島もない即答だった。

 

「こいし様とさとり様のためだもん。ダメなわけない」

 

 ――嘘つけ。

 わざと作っているのがひと目でわかる、下手くそなすまし顔だった。

 お燐は、おくうが本当に気持ちを押し殺すのは、そのまま「さとりとこいしのため」なのだと思った。おくうは心優しい妖怪で、それ故に主人のことを第一に考え、己の気持ちに蓋をしているのだと。

 結局それは、ただの勘違いだったのだけれど。

 

「ほら、おくうもこう言ってるよ?」

 

 心を読む能力を捨てたこいしに、おくうの本当の気持ちはわかるまい。

 

「で、でも、マズいですよ。下手に暴れたら、さとり様の立場がますます悪くなっちゃうんじゃ」

「元はと言えば、お姉ちゃんをいじめたアイツらがぜんぶ悪いのに?」

「そ、それはそうです、けど」

 

 お燐は動揺の中で懸命に言葉を探した。おくうは間違いなく、今のこいしに従いたいとは考えていない。ただこいしを想うが故に、嫌と言えないだけで。それにさとりだって、誰かに暴力を振るうような真似をしてほしいとは絶対に思っていないはずだ。

 確かに『力』によって好転する事態はあるかもしれないが、それも時と場合の話。少なくともお燐には、自分たちが力で明るい未来を得られるとは到底思えなかった。むしろ力が新たな争いの火種となって、今の日常が破壊されてしまうだけだと思った。

 さとりだって、おくうだって、きっと苦しむ。だからなんとかしてこいしを説得しようとするのだが、

 

「――それともお燐は、お姉ちゃんよりアイツらの肩を持つの?」

 

 その一言で、お燐の思考は完膚なきまでに捻り潰された。

 こいしが、ぞっとするほど冷めた目でお燐を見ていた。

 

「――え、」

「ふーん。お燐は、お姉ちゃんよりアイツらの方が大事なのかな?」

「ち、違いますっ!?」

 

 あっという間にパニックに陥った。血の気が失せた頭で必死に考え、二人を止めようとする自分の姿が、旧都の妖怪を庇っているように誤解されたのだと気づくまではかなりの時間が掛かった。

 気づいた瞬間、足の底から頭の先まで一気に恐怖が突き上がってきた。

 思った。――このままじゃ、こいし様に嫌われる。

 地霊殿に暮らすペットたちは、みんな思っている。この世界中でただ二人、さとりとこいしにだけは、なにがあっても絶対に嫌われたくないのだと。

 さとりとこいしからしてみれば、嫌いなペットをわざわざ飼い続ける道理などないのだから。二人の不興を買って失望させてしまえば、明日には地霊殿から追い出されたって不思議ではないのだ。

 恐怖のあまり、喘ぐような言葉しか出てこなかった。

 

「そ、それは、誤解で……」

「じゃあいいよね? お姉ちゃんのためだもん」

 

 こいしが、打って変わって可憐に笑った。

 そしてお燐は、己の敗北を悟った。

 

「……そう、ですね」

 

 そうとしか、言えなかった。

 

「で、でも、あんまりやりすぎちゃダメですよ」

 

 そう笑うことしか、できなかった。

 

「えっと、その……鬼子母神様って、怒るとすごく怖いですから」

「うん、わかってるよ」

 

 きっとこいしは、欠片もわかってくれてなどいまい。だがもうこれ以上、お燐には、なにも言えない。

 

「あ、そうだ!」

 

 こいしが突然両手を打って、驚いたお燐の尻尾が垂直に伸びた。

 

「このこと、お姉ちゃんには内緒にしててね。あとでびっくりさせてあげるんだー。だから、お姉ちゃんに心読まれたりしないことっ」

「……え!? む、無理ですよそんなの! さとり様に会っただけでアウトじゃないですか!?」

「根性でなんとかなるよ!」

「なりません!?」

 

 こいしがころころと笑い、お燐は心の底から安堵した。全身を押し潰されるような緊張からどっと解放された。無邪気なこいしの姿から、朗らかな雰囲気が広がっていく――しかしその中でも、おくうだけが微笑みもせず、思い詰めた顔で佇んでいるのをお燐は決して見逃さなかった。

 ふと、目が合った。

 言いたいことは、いろいろあった。だが喉まで出かかってきたすべての言葉が、音にならぬまま次々とどこかへ消えていく。おくうを想う気持ちより、こいしを恐れる心の方が遥かに勝っていた。

 結局、

 

「えっと……おくうも、無茶しないでね」

 

 やっとの思いで音にできたのは、そんな当たり障りのない一言だけ。

 おくうは「う」と「ん」の中間みたいな返事で、小さく頷いた。

 

「じゃ、じゃあ……あたい、戻りますから」

「うん。……お姉ちゃんに黙っててほしいのはほんとだからね! 無理にとは言わないけど、なるべく頑張ること!」

 

 曖昧に笑って頷く。踵を返し、引かれる後ろ髪を強引に振り切って、地霊殿へと空の道を引き返す。

 ――ダメだと、思った。自分では、こいしとおくうを止められない。今のやり取りで痛感した。少なくとも一対一の状況で、自分がこいしを諫めるのは絶対に無理だ。

 だが、このままにしておくわけにはいかない。おくうが手にした神の力は間違いなく強大だ。あんなものをこいしに言われるがまま振るってしまったら、多くの妖怪が傷つくことになりかねないし、そうなれば心優しいおくうだってきっと傷つく。自分の妹とペットが暴力に訴えるような真似をしたと知れば、さとりだって己を責め苛むだろう。場合によっては、さとりが今以上に旧都の妖怪たちから爪弾きにされてしまうかもしれない。

 誰も幸せになんてなれない。

 お燐が深刻に考えすぎているのか。

 それともこいしが、楽観視しすぎているのか。

 しかしどちらであろうとも、未然に防げるならそれに越したことはないはずだ。

 

(……でも、どうやって)

 

 まず浮かんだのは、いっそさとりにすべてを知らせてしまう選択だった。けれど、しばらくして首を振る。目に浮かぶようだ――血相を変えて妹を叱りつけるさとりと、口うるさい姉に反発するこいしの姉妹喧嘩(きょうだいげんか)が。とても解決どころの話ではない。それに、ひょっとすると、おくうがさとりから「そんなことを考える子だとは思わなかった」と失望されてしまうかもしれない。

 もしもわずかとも主人に嫌われるようなことがあれば、恐らくおくうなど生きていけまい。

 さとりに知られぬまま、二人を止められる方法はないか。

 鬼子母神に止めてもらうのはどうか。いくらおくうの手にした力が強大でも鬼子母神には敵うまいから、現状を未然に防ぐ意味では百パーセント確実な手だといえよう。

 だがそれは、決して根本的な解決ではない。鬼子母神は、こいしが言うところの『旧都の妖怪』だ。鬼子母神はさとりの友人だが、ひょっとするとこいしは、内心では鬼子母神の存在を邪魔に思っているのではないか。こいしが『旧都の妖怪』を嫌っていると知った今となっては、どうしてもそう考えてしまって已まない。

 嫌いな『旧都の妖怪』に計画を邪魔されれば、こいしの心の中に巣喰う嫌悪の感情は反って勢いを増すだろう。それでは、今起ころうとしている悲劇を先送りにするだけの、単なる時間稼ぎにしかならない。

 一番理想的なのは、こいしに自らの過ちを気づかせ、自らの意思でやめさせること。

 それができる、最も近い場所にいるのは――。

 呟いていた。

 

「……おにーさん」

 

 こいしは、月見が大好きだ。一体なにがきっかけだったのかは甚だ不明だが、こいしは彼に、或いは地霊殿の誰に対してよりもよく心を開いている。まるで父親に甘える娘みたいだと、地霊殿のペットたちの中では専らの話題である。

 そんな月見の言葉なら、こいしに届くかもしれない。

 問題は、彼にどうやって助けを求めるかだ。自分が地上まで直接出向くのは難しい。万が一誰かに見つかってしまえば、鬼子母神直々のおしおきに掛けられた上、事情をなにからなにまで根こそぎ吐かされるに違いない。第一、道がわからない。そのへんの洞穴から行けると聞いたことはあるが、『そのへん』がどのへんなのかをお燐はさっぱり知らない。

 なら、鬼子母神に頼んで連れてきてもらうのは。頭の中でシミュレートしてみる――「どうして月見くんに会いたいんですかー? え、話せない? あらあら、話せないようなことのために私を使おうなんていい度胸ですねーうふふ」――ちょっと体が震えてきた。

 そこでお燐はふと、自分が本来ここまでやってきた目的を思い出した。地底の端っこで面白いものを見かけたから、おくうに教えてやろうと思って来たのだった。

 間欠泉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――だからこれは、ぜんぶお燐のせいなのだ。

 一番動けたのは自分だった。自分が一番、こいしとおくうを止められる近い場所にいた。だから、あのとき二人を止められなかった自分のせいで、今がこんなことになってしまっているのだと思った。

 月見が倒れ。

 おくうの力が暴走し。

 地底が崩壊し、灼熱地獄へと呑まれていく。

 そして自分たちは、広がっていく火の海に背を向けることしかできない。お燐はもちろん、さとりも、こいしも。天子だって、勇儀だって。この崩壊を前にして自分たちに許されたのは、為す術もなく逃げ続けることだけ。

 ぜんぶ、なにもかも、自分のせいだと思った。

 

「……お燐、違うわ。あなたのせいなんかじゃない」

 

 隣を飛ぶ主人に、感情を殺した声音でそう言われた。彼女は、言葉にはしなかったけれど。お燐はそのあとに、「私のせいよ」と続くかすかな一言を聞いた気がした。

 

「……そう。これは、私のせいだわ。私がもっと、おくうのことを気に掛けていれば」

「違うんです、さとり様。だって、あたいは」

 

 自分は。

 

「……おくうを、こいし様を、本気で止めようとしていなかった」

 

 当時はそんなつもりなど毛頭なかったが、やっぱり、今になって思い返せばそうだった気がするのだ。あのとき、なぜお燐は諦めたのか。――「自分の言葉が二人に届かないと悟ったから」。なるほどそれらしくは聞こえる。だが本当にそうだったのか。本当に、お燐の言葉は二人に届かなかったのか。ひょっとしてお燐は、自分では止められないとそれらしい理由をつけて早々に諦め、自分の言葉が届かない現実に背を向けたのではなかったか。戦う前から負けを認めたのではなかったか。

 こいしに嫌われるのが、怖かったから。

 おくうに誰かを傷つけるような真似をさせてはいけないと、わかりきっていたのに。このままでは絶対によくないことが起こると、確信していたのに。

 

「あたいは、逃げたんです」

 

 お燐は、こいしが怖くて逃げたのだ。

 あのときお燐は、親友を助けるのではなく、自分の身を守る方を取った。そして「月見の言葉ならこいしに届く」と愚かにも考え、逃げた自分自身から目を逸らし、すべてを月見に丸投げした。

 そんな自分が、責められなくてもよい理由なんて。地底が崩壊していくこの期に及んで、あるはずがないのだと。

 

「……違う! 違うよ!」

 

 姉に縋りついて泣くばかりだったこいしが、声を擦り切らせながら顔を上げた。その瞳はすでに泣き腫らしていて、目元にはなおも溢れ出ようとする涙の気配があった。

 

「そんなの! そんなの、お燐の話を聞かなかった私のせいじゃない! お燐は悪くない、私が悪いんだよ! 私が、間違ってたんだ……っ!」

「違うわこいし、私が」

「お姉ちゃんは、なにも知らなかったんでしょ!? お姉ちゃんは関係ない! 悪いのは、私なんだっ……!」

 

 結局、みんな同じだった。お燐もさとりもこいしも、みんなが自分のせいでこうなってしまったと考えていた。或いは、そのすべてが正しかったのかもしれない。誰か一人のせいなどではなく、三人の小さな過ちが少しずつ軋みを生んで、やがて取り返しのつかない崩壊へと至ってしまったのかもしれない。

 どうして、自分たちは。今がこんなになってしまうまで、なにもできなかったのだろう。こんなの、誰一人として、望んでなんていなかったはずなのに。

 それっきりお燐たちは、なにも言えない。骨まで食い込んでくるような沈黙に、ともすれば飛ぶことすらも忘れてしまいそうだった。

 

「――こら。あんたらね、月見の前でそんなみっともない言い争いするんじゃないよ」

 

 口を切ったのは、未だ意識の戻らない月見を抱えて飛ぶ勇儀だった。呆れたような、それでいて叱咤するような鋭い口振りで、

 

「誰が悪いとか悪くないとか、そういう言い合いはぜんぶが終わってから好きなだけやりな。それより今は、これからどうするかを考えた方がいいんじゃないかい」

 

 さとりに抱かれるこいしを顎でしゃくり、

 

「特に、そこのちっこいの。あんた、月見に助けてもらったんでしょ? だったらもう泣くのはおよし。あんたを泣かせるために、月見はこんな傷を負ったわけじゃないはずだよ」

「っ……」

 

 正論ではあった。今ここで、私が悪い、あなたは悪くないと言い合っても、おくうの暴走が収まるわけでは決してないし、地底の崩壊だって止まらないし月見の怪我だって治らない。いくら自分を責めても、人の過ちを否定しても、意味のないこと。わかってはいる。お燐だって、さとりだってこいしだって、頭ではとっくにわかっているのだ。

 けれど、

 

「……じゃあ、どうすればいいんですか」

 

 声を絞り出したのは、さとりだった。

 

「これから、どうすれば、いいですか。あなたと違って、なんの力もない私たちに。これから、なにができるっていうんですか」

 

 取り乱すまいと必死に感情を抑え込む口振りが、反ってさとりの、憤りともいえる無力感を迫るように感じさせた。――これからどうするべきなのか、答えがわかっているならとっくの昔にやっていると。

 おくうを助けることも、地底の崩壊を止めることも、月見の傷を癒やしてあげることもできない。今のお燐たちは、無力としか言いようがない極めて小さな存在だった。できることなんて、もう、なにもありはしないのではないか。そんなやるせない思いで、今にも心を押し潰されそうになっていた。

 だが、勇儀はこれといって表情を変えなかった。

 

「――まあね。藤千代が行ったからね。正直私らがなにもしなくたって、この事態は止まるんだろうって思う」

 

 じゃあ、

 

「でもさ。これって、それで本当にぜんぶ丸く収まるわけ?」

 

 お燐とこいしには、その問いの意図がわからない。

 

「要するに――あの地獄鴉の暴走が止まれば、それでハイめでたしめでたしかい? もう二度と、同じようなことは起こらないって言い切れる?」

 

 お燐たちは、答えに窮した。

 勇儀は、答えを待たずに続けた。

 

「私は正直、藤千代に問答無用で連れてこられた感じで、事情も詳しくは知らないけどさ。でも、これだけはハッキリ言える。――月見が体張って首突っ込んでこんな風に怪我するのは、間違いなく、目先の問題を解決しただけじゃ終わらないしち面倒くさいことが起こってるときだってね」

 

 彼女はなおも言う、

 

「事情なんか知らなくたってわかるさ。肉体に降ろした神様の御魂は、依代の精神状態に大きく影響を受けるからね」

 

 彼女の奥を飛ぶ天子が、重苦しく頷いた。

 

「依代の心が清らかなら和御魂に、荒んでいるなら荒御魂に変わる。私利私欲なく清らかであればあるだけありがたい加護を引き出せるけど、逆もまた然りで、荒めば荒むだけ恐ろしい災いをもたらすことにもなる……」

「そういうこと。つまりね――荒御魂があんな冗談ならない規模に肥大化するって、あの地獄鴉はどんだけ心に深い闇を抱えてたんだって話だよ。ハッキリ言って異常だね」

「……ちょ、ちょっと待って」

 

 お燐は思わず口を挟んだ。だって、もしも勇儀たちの話が真実であるなら、

 

「おくうが暴走したのは、神様の力が強大すぎて制御できなくなったから――じゃ、ないの?」

「それもある……とは、思う。あの地獄鴉に降ろされた神様――八咫烏は、神話に名を刻んだ由緒ある神様だから。でも、その荒御魂を呼び覚ますきっかけになってしまった『闇』があったのも、間違いないと思う」

 

 なるほど確かに、おくうは心にまったく闇を抱えていなかったとは言えない。月見に大好きな人を取られるかもしれない寂しさに怯え、取られたくないと嫉妬していた。それは認めよう。しかし、家族を取られたくないと嫉妬することの、一体どこが異常だというのか。そんな愛らしい心が地底をも滅ぼしかねない暴走の引鉄になったなんて、お燐はどうしても思いたくなかった。

 それともまさか、お燐が気づいていないだけだとでもいうのだろうか。寂寞と嫉妬はほんの氷山の一角でしかなく、その奥には神の荒御魂を暴走させて余りある、深淵が如き闇が広がっているとでも。

 

「なんにせよそういうわけだから、今の暴走を止めればそれでめでたしだとは思えないわけさ。神様の力は、まあこれが終わったら取り上げちまえばいい。でもそれだけじゃあ、あいつの心の闇は消えない」

 

 月見の体を意外と繊細に抱え直し、お燐たちをつと一瞥した勇儀の目は、澄んでいて人情味にあふれた鬼の瞳だった。

 

「それを払えるのは、藤千代でも月見でもない。あんたたち、家族ってやつなんじゃないのかね」

「……」

 

 そこまで言ったところで、彼女はいきなりニカッと笑って、

 

「――って、月見だったら言うだろうさ。これでもまだ、自分たちにはなにもできないって思うかい?」

 

 目の前の霧が、晴れていくような心地がした。

 上手く笑えるほどではなかった。地底の崩壊は今なお止まることなく続いていて、安易な気持ちで笑っていい状況ではないとわかっている。けれど少なくとも、両肩に重くのしかかっていた「もうなにもできない」という無力感は溶けてなくなって、それが小さな、本当に小さな笑みの吐息となってお燐の口からこぼれた。

 まったくもって、勇儀の言う通りだった。自分たちは、なにを勝手に諦めていたのだろう。受け入れがたい過酷な現実ばかりが立て続けに起こったせいで、正常な思考と判断を失っていたのかもしれない。

 ――こんなところになんか来ないで、地霊殿で仲良くお話してればいいじゃないですか。

 ――私を見てくれるのは、こいし様だけなんだ。

 そう、おくうはやつれた顔で言っていた。あのときおくうが一体どんな気持ちでいたのかは想像する他ないが、どうあれ、裏を返せば彼女はこう言ったのだ。

 お燐とさとりは、もう自分を見てはくれないのだと。

 人の気も知らないで。お燐が、さとりが、一体どれほどおくうを心配していたのか知ろうともしないで。なのにおくうは「私を見てくれるのはこいし様だけ」と勝手にも思い込み、いじけて、ヘソを曲げて、お燐はおろかさとりまでをも拒絶した。

 このままでいいはずがない。

 お燐たちは、教えてやらなければならない。自分たちがどれだけおくうのことを考え、心配して、ここまでやってきたのかを。月見の味方だからじゃない。おくうの味方だからこそ、おくうを止めに来たのだということを。

 あの頭でっかちで、わからず屋な地獄鴉に。

 

「……そうね」

 

 さとりが、頷いた。

 

「勇儀さん」

 

 そう言って、彼女はゆっくりと飛行を滞空へ切り替えた。お燐もそれに倣って立ち止まる。勇儀は、まるではじめからわかっていたように悠然と。天子は少し遅れてから気づいて、慌てながら振り返る。

 さとりの瞳に、「おくうを止める」と旧都で誓ったときの光が戻っている。

 

「……私たち、ここに残ります。残って、おくうの帰りを待ちます」

 

 こいしが顔を上げた。

 

「お姉ちゃん……?」

「こいし、お燐。あなたたちに話しておきたいことがあるの。おくうの、こと。ほんの少しだけど……おくうの心を、聞いたから」

 

 八咫烏の荒御魂を抑えきれず、暴走するきっかけとなってしまった、おくうの心の闇。

 答えなど、迷うはずもなかった。

 

「わかりました。教えてください。さとり様」

「ええ。……こいしも、ね?」

 

 こいしはぐじっと鼻をすすり、目元を甲で乱暴に拭って頷いた。涙を懸命にこらえるその顔は、少し不格好だったけれど。彼女の瞳にもまた、姉と同じ色の光が宿っていた。

 勇儀がうむうむと満足げに、

 

「よろしい。ま、月見のことは私に任せといてよ。責任持って旧都まで連れて帰るから」

「はい。どうか、お願いします」

 

 深く頭を下げたさとりは、それから、

 

「天子さんも、ついていってあげてください」

「……でも」

「私たちは、大丈夫です。……大切な方、なんですよね?」

 

 天子は言葉にならない声で呻いて、縮こまり、伏し目がちになりながら、やがて観念したようにこくんと首を動かした。

 もちろんお燐も、なんとなく気づいてはいた。そりゃあ、気を失った月見を見守る視線にただ一人、お燐たちとは明らかに違う感情がこもっているのだから誰だって気づく。旧都でさとりに心を読まれ、ふにゃあああああと顔を真っ赤にして錯乱していたのは、やっぱりそういう意味だったのだろう。

 そんな天子を微笑ましく感じるよりも、人間からそんな風に想われる月見を、月見らしいと思う気持ちの方が勝った。今までも、主にさとりと月見が世間話をするのを横から聞く形で、彼が地上でどんな生活をしているのかは教えられてきた。月見ほど人間妖怪問わず――特に人間と友誼を結ぶ妖怪というのは、恐らく幻想郷でも地底でも二人といるまい。

 たとえ人間でも、さとりやこいしのように厄介な能力を持つ妖怪でも。誰であろうとも受け入れ、また受け入れられてしまうのが、月見という妖怪の持つ不思議な能力なのだ。

 だからきっと、おくうだってわかってくれる。月見は決して、おくうから家族を奪おうとなんてしていない。お燐たちは決して、おくうから離れようとなんてしていない。ぜんぶ、おくうの悪い思い過ごしなのだと。

 この自慢の爪で顔を引っ掻いてでも思い知らせてやるのが、お燐たち家族の果たすべき役目なのだ。

 

「……わかった。その……あ、ありがとう」

「月見さんを、お願いしますね」

 

 だから、おくう。

 早くあたいたちのところまで、帰ってきてよ。

 さとり様とこいし様だって、待ってるよ。

 未だ止まらない崩壊の光景を見据えながら、お燐はそう静かに祈る。

 

「言っとくけど、危ないことしちゃダメだよ。あとで月見に怒られるからね」

「……あはは。そうですね、肝に銘じます」

 

 このときのお燐は、まだ気づいていなかった。

 藤千代がおくうを止めに行ってから、およそ十分。

 それでもなお崩壊が止まっていないという事実が、一体なにを意味していたのか。

 お燐のみならず、この場にいる誰しもが、気づいていなかったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして、勇儀がさとりたちと別れてから一分、

 

「――で、あんたって月見とどういう関係? 月見のこと、どう思ってるの?」

「ぶ!?」

 

 勇儀が満を持してそう問うた瞬間、隣を飛んでいた天子は盛大に吹き出した。

 

「え!? なななななっにゃによ突然!」

「いや、ぜんぜん突然なんかじゃないでしょ。さっきさとりが言ってたじゃん、『大切な方なんですよね?』って。あんたも否定してなかったどころか頷いてたし」

「うぐぅっ……!」

「あ、そうだ。名前、天子で合ってるよね? 私は星熊勇儀ってんだ」

 

 天子はいろいろと物言いたそうな顔をしばらくしたが、やがて咳払いで気を取り直し、

 

「……う、うん。比那名居天子よ。その、よろしく」

「おうさ。で、月見との関係なんだけど」

「げほげほげほ!?」

 

 愉快な人間だなあと勇儀は思う。

 天子は痛快なほどに狼狽えて、

 

「い、いやあのっ! あれは決して、深い意味があったわけではなくて!」

「またまた、隠さなくてもいいって。あんたが月見とただの知り合いじゃないのは、ひと目見た瞬間になんとなくわかったしね」

 

 勇儀が藤千代に連れられるまま、崩壊の中心地まで足を踏み入れたとき。天子は大火傷を負い気絶した月見を、泣きながら抱き締めていた。ただの知り合いなのだったら、抱き締めるのはもちろん涙を流すのだって怪しい。つまりはそれだけ、天子が月見を想う気持ちの表れだったわけだ。

 

「別にからかってるわけじゃないさ。ただ月見って、女の知人友人も多いだろうし、結構大変なんじゃない?」

「それは……まあ……」

「おっ、否定しないんだ」

「げっふげっふ!!」

 

 ほんと愉快なやつだなあ。

 

「こ、こういうときにそんな話するのはどうかと思いますっ!」

「お堅いこと言っちゃってー。いいじゃないか、私は暗い雰囲気ってのがキライなんだ。辛いことがあったからって、それで気持ちまで落ち込んでたら泥沼だよ。笑う門にはなんとやらっていうだろ?」

「笑うのはあなただけだと思うんだけど……」

 

 よくおわかりで。

 

「ほらほら、どうして月見なわけさ? あんた、人間でしょ?」

 

 天子は少しの間答えず、勇儀が抱きかかえる月見を一心に見つめていた。恐らくは、自分が月見と出会った頃を思い返していたはずである。そうに決まっている。だって今まさに勇儀の目の前で、彼女は嘘みたいに柔らかく微笑んでみせたのだから。

 早速笑ってんじゃん、なんて一言は、もちろん心だけに留めておく。

 

「……私は人間でも、普通の人間とはちょっと違くて、天人っていう種族なんだけど」

 

 勇儀は目を丸くした。

 

「天人? 天人って、天界に住んでるっていうあの?」

 

 天子が頷いたので、勇儀ははあ~っと口を半開きにして驚き呆れた。夏の青空みたいに大層な出で立ちから、ただの人間ではないだろうと思ってはいたが、まさか天人だったなんて。俗世を捨て雲の上で享楽的に暮らしているという、勇儀からしてみれば得体の知れない怪しい種族である。

 しかし、目の前の天子という少女はそれとはだいぶ印象が違った。月見とともにこんな地底くんだりまでやってくる時点でさっぱり俗世を捨てられていないし、頬をほのかに染める様はいかにも俗まみれではないか。正直、実は普通の人間ですと言われた方がまだ納得できたくらいだ。

 昔から変わり者な妖怪に好かれやすい月見の体質は、近年その効果範囲を人間にまで広げているらしい。

 

「私は……その、天人の中でもかなり変わり者というか」

 

 それは見ればわかります。

 

「ぜんぜん、修行とかして天人になったわけじゃなくて。昔はかなり自分勝手な性格だったから、他の天人ともさっぱり上手くやれてなくて。……まあ、荒んでた、っていうのかな」

「へー……」

「それで毎日、すごく退屈な生活をしてたんだけど。でもある日、地上で月見を見つけて……ええと、なんというか、月見のすごく賑やかで楽しそうな生き方に、衝撃を受けた次第で」

「ふむふむ」

「それから、いろいろあって……たくさんよくしてもらったり、助けてもらったりして……」

「すっかり骨抜きにされちゃったと」

「げふげほごほ!?」

 

 この人間面白い。

 勇儀はニヤニヤしながら、

 

「いやー、あんた勇気あるねえ。だってつまり、藤千代とライバルだってことだもんね。私ら鬼の中じゃあ、藤千代と勝負するのなんて真っ平御免だってんで、月見を特別好いてるやつなんて一人もいないよ」

「……へえ」

 

 とても重要な情報を聞いた、という顔を天子はした。

 

「一人も? 藤千代以外?」

「おうさ。仮にいたとしても、名乗りを上げる度胸なんて誰にもないだろうね」

 

 それだけ鬼子母神の名は、同族から深く畏怖されているのだ――いろんな意味で。

 だって仮に名乗りを上げたとして、藤千代から「じゃあどっちが月見くんに相応しいか決闘しましょうかーうふふ」なんてなったら地獄を見る羽目になる。恋などという一時の酔狂よりも、自分の命の方がよっぽど大事なのである。

 

「あなたも?」

「いい呑み友達してもらってるよ」

 

 自分は恋をするよりも、人の好いた好かれたの話を肴に酒を呑む方が性に合っているので。地底にやってきた月見が聞かせてくれる地上の暮らし――要するに月見の周りに集まる少女たちの話――は、いつも勇儀の心を楽しませてくれる。

 ふむふむと相槌を打った天子は、そこでいきなりハッとして、

 

「……あっ! でも、萃香っていう鬼はよく月見にひっついてる!」

「ああ、それは大丈夫だよ。妹がお兄ちゃんに甘えてるようなもんさ。あいつは元々、自分が気に入った相手にはスキンシップ激しいからね」

 

 それに萃香は、どちらかといえば紫応援派なのだが――これは、敢えて言う必要もなかろう。

 

「そう……なの?」

「安心した?」

「げっふんげっふん!!」

 

 ほんと面白い。

 

「でもほんとどうするの? 藤千代が『どっちが月見くんに相応しいか決闘ですよ!』なんて言い出したら、あんたに勝ち目なんてないよ?」

「え? ……それは大丈夫だと思うけど」

「おや、どうして?」

 

 まさか人間の彼女が、「藤千代なんかに負けないから!」などと啖呵を切れるはずもあるまい。

 しかして天子はその予想通りに、しかし予想以上の一言を言ってのけたのだった。

 

「だって月見は、そうやってなんでも力で解決しようとする女は選ばないと思うし……」

「…………、」

 

 勇儀ははじめの三秒間をぽかんと呆け、次の三秒間でじわじわと口角を吊り上げ、一秒で大きく息を吸って、合計七秒後に呵々大笑した。

 

「――あっははははは!! そうかそうか、いやー確かにそうだ! あんた、育ちよさそうな顔してなかなか言うねえ!」

「な、なんでそんなに笑うの!? だって……月見はそうでしょ!?」

「そうだけど。そうだけどさあ……」

 

 勇儀はなおも喉でくひひと笑い、

 

「いやー……藤千代に聞かせてやりたいよ。今のセリフ、ぜえったい効くって。もしかしたらあんた、あいつを倒したはじめての人間になれるかもよ」

「わ、私は……別にそんなつもりで言ったんじゃ……」

 

 まったくもって、本当に面白い人間だった。昔は自分勝手な性格だったというものの今は見る影もなく、いかにも育ちがよさそうで、ともすれば気弱そうな女にも見える。けれど先ほどのセリフを聞けばわかる通り、さりげなくしたたかで、実に油断ならない一面も持っている。

 人間相手に興味が湧くのは、一体何百年振りの話なのだろう。

 

「よーし気に入った! 萃香は紫派みたいだけど、私はあんたを応援しようかなーっ」

「えっ……な、なに突然? それに紫派って」

「しょうがないなあ、そんじゃあ月見の手当もあんたに譲ってやろう! 合法的に月見の体触るチャンスだしね!」

「ぶーっ!?」

「まあ嫌ならいいけど」

「いや別に嫌とは一言も――ハッ」

「あひゃひゃひゃひゃひゃ!」

「もお――――――――っ!!」

 

 ――ああやっぱり、人の好いた好かれたの話は面白いなあ。

 顔面真っ赤な天子に追いかけられながら、大笑いする勇儀はぴゅーんと旧都まで飛んでいく。そんな天子いじりが、いかんせんどうも面白かったので。

 月見の眉と指先がほんの一瞬、やかましそうにピクリと震えたのには、まったくもって気がつかなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――おくうは、ずっと寂しかったみたいなの」

 

 さとりから聞かされた、おくうの心は。

 お燐にとって――そしてこいしにとって、血の気が失せるほどの刃となって喉元に迫り来るものだった。

 

「今年の夏頃、地霊殿に月見さんがやってきて」

 

 彼方には、崩壊し、灼熱地獄に呑まれていく地底の姿が見える。なにもない地底の端の端――けれど数分後には炎とともに消えてしまうであろうその場所で、お燐たちはおくうの帰りを待ち続ける。

 

「以来、たびたび地霊殿まで遊びに来てくださるようになって」

 

 さとりは、昔話をするように語っている。

 

「それが、おくうには気に入らなかったみたいなの。私たちを、月見さんに取られちゃうんじゃないかって」

 

 未だにさとりの傍を離れようとしないこいしが、縋りつく両手ににじむような力を込めた。もしかすると、心を読めない彼女ははじめて知ったのかもしれない。だからこそさとりの言葉は、ひどく残酷な響きとなってこいしの心を穿ったはずだ。

 月見を一番受け入れていたのは、他でもないこいしだったのだから。

 次に月見が来てくれる日を待ちきれず、こっそり地上まで迎えに行ってしまうほどに。

 

「おくうは、月見さんに嫉妬していたのよ。地上の妖怪なのに、男なのに。自分の方がずっとずっと、私たちと一緒に暮らしてきたのにって」

 

 こいしがさとりの肩に顔を埋め、何事かか細く声をあげる。泣いていたのだと思う。もうとっくに、涙だって枯れるほど泣いたはずなのに。

 

「お燐は、知っていたのね」

「……はい。おくうから、直接聞きました」

 

 けれどあのときは、こんなことになってしまうだなんて夢にも思っていなかった。

 

「……そうね」

 

 悔いるように、さとりは緩く首を振った。

 おくうは月見に嫉妬していた――それは、お燐も前々からわかっていた。だからお燐は、改めてさとりの口から聞くのは少し辛かったけれど、平静を崩さず耳を傾けることができていた。

 故に血の気を失ったのは、ここから先の方。

 

「おくうは、寂しかった。……だから、神様の力を受け入れると決めたの」

「……え?」

 

 耳を疑った。

 

「私たちの気を、引こうとして」

「ま、待ってください。おくうが神様の力を受け入れたのは、こいし様の力になりたかったからですよね?」

 

 そのはずだ。おくうに直接確かめたわけではない。けれどあの心優しいおくうが、誰も傷つけたくないという己を殺してでも力に縋る理由なんて、それ以外にはないはずなのだ。

 だがさとりは、首を振った。

 

「たぶん、はじめのうちはそうだったんでしょう。でも、おくうは気づいてしまったのよ。――この力があれば、こいしが自分を見てくれる(・・・・・)んだって」

「――、」

 

 こいしの嗚咽が止まり、お燐は時を失った。

 

「毎日食べ物や着替えを運んで、調子はどう? って気に掛けてくれる。それが……それだけのことが、すごく、嬉しかったみたい。だから、こいしの言う通りにしていた」

 

 一体どれほどの間、言葉を失っていたのだろう。そう長い間ではなかったと思うがあまり自信がない。崩れ行く大地の震動、火柱を上げる大気の鳴動、こいしがしゃっくりをする、さとりが顔を俯ける、そしてようやくお燐は、

 

 

「――それだけ(・・・・)の、ために?」

 

 

 こいしに見ていてほしかった――つまり、構ってほしかった。

 それだけ。

 たったそれだけのためにおくうは、欲しくもない神の力を受け入れ、共感できないこいしの理想に賛同し、傷つけたくもない誰かを傷つけようとした。

 それは、一体。

 一体、どんな想いがあれば。

 

「そんな、ことって」

 

 まともな判断だとは到底思えなかった。だって、見てほしかったのなら、構ってほしかったのなら、素直にそう言えばいいだけの話なのだから。おくうが一言そう言えば、こいしだってさとりだって、お燐だってきっと喜んで願いを叶えてあげただろう。

 なのにおくうはなにも言わず、誰も傷つけたくないという己の心を殺して、ただこいしに構ってもらうためだけに力を振るった。

 そして、暴走した。

 一体おくうは、どれほどまでに自分を追い詰めていたというのだろう。

 

「私の、せいだ……!」

 

 いつしかまた、こいしが止められない涙で体を震わせた。

 

「私、あのとき(・・・・)、おくうにひどいこと言っちゃった……! もうやめようって……! そんな力、求めちゃダメだったんだって……っ!」

 

 ――ようやく、ぜんぶ納得が行った。

 おくうは寂しくて、構ってほしくて、お燐たちの気を引くために神の力を手にして。

 けれどお燐とさとりが、月見と一緒に(・・・・・・)、自分のことを止めに来て。

 そしてとどめに、たった一人の味方だったはずのこいしから――否定された。

 神の力に、意味などなかった。

 なら自分は一体なんのために、辛い思いをして、苦しんで、頑張ってきたのか。

 これが、おくうの抱えていた本当の闇。心を折られ、神の荒御魂に押し潰されてしまうには、あまりに充分だったのだろう。

 

「わたし、わたし……っ!」

「こいしは、間違ってないわ」

 

 壊れそうなこいしの背中に、さとりがそっと両手を回した。

 

「こんな力、求めてはいけなかったのよ。仕返しなんて、しなくていいの」

 

 まるで母のように、こいしの背を撫ぜ、

 

「だって、私は。あなたたちとのんびり毎日を過ごせるなら、それだけで充分幸せなんだもの」

 

 ――お燐は本当に、強い主人を持ったと思う。

 こんな妖怪が、世界に果たして二人といるだろうか。地底に下るより昔から、お燐が知らないずっと昔から、心を読む能力のせいで辛い思いをし、悩み、苦しんで。地底に下りてきてからも、仲間であったはずの旧都の妖怪たちから爪弾きにされ、気軽に外を歩くこともできない。そんな中であってもさとりは決して、妹のように第三の目を閉じる真似はしなかった。誰も恨まず、誰も憎まず、言葉を持たぬ者たちと心を通わすために力を役立てようとした。復讐を虚しく疲れることだと考え、常に前を向こうとしていた。

 そしていま彼女は、家族がいればそれだけで幸せなのだと、心からの言葉で言ってのけた。

 本当に、強くて優しい、お燐の自慢の主人だった。

 だからこそ、思う。おくうはひとつ、決定的に誤解をしている。さとりが自分を見てくれていないだなんて、そんな馬鹿げたことがあるわけがない。さとりがおくうへ注ぐ愛情は、はじめからなにも変わってなどいない。月見と知り合う前も、月見と知り合った今も、変わらずにおくうを愛し続けてくれている。

 だがおくうは、恐らくは自分から目を逸らしたのだろう。月見に対する異常なまでの嫉妬心が、おくうから正常な判断を奪ったのだろう。さとりが自分を見てくれているかどうかはその実まったく問題ではなく、さとりと月見が仲良くしているという、その事実自体が憎かったから。

 本当に、バカで、やきもち焼きで、それ故に愛おしい、お燐たちの大切な家族だ。

 

「だから、おくうが戻ってきたら思い知らせてあげましょう。神様の力なんて要らない。そんなものがなくたって、私たちは、みんな。おくうのことが、大好きなんだって」

 

 言われるまでもなかった。だってお燐は、はじめからそのつもりでここに残ったのだから。

 

「そうですね。……絶対に、わからせてやります」

 

 一度は、怖くて、おくうの前から逃げ出してしまった。本当に後悔している。あのときお燐にほんの少しの勇気があれば、こんな惨劇はきっと起こっていないはずだった。目の前の現実を、逃げ出した自分への罰のように感じてしまうほどだった。

 だから、せめて、これ以上は間違ってはならないのだ。

 お燐たちは待ち続ける。だがいくら時を耐え忍んでも、お燐の瞳には同じ光景ばかりが映り続けている。おくうの姿も藤千代の姿も見当たらない。見えるのはただ、鳴動とともに崩れ落ちる大地と、地下深くから噴き上がる深紅の火柱――かつて以上の猛々しさを取り戻した故郷の姿が、今は身も竦むほど恐ろしい世界であるように思える。

 俄に、お燐は不安を覚えた。

 自分たちが、この期に及んでなにかを見落としているような――そんな居心地の悪い感覚に囚われた。

 

「……お燐? どうかしたの?」

「あ……いえ……」

 

 正体を探ろうとしても、霧を掴もうとするようにまるで手応えがない。だから心を読めるさとりにも、お燐が抱く不安の答えを知る術はない。

 お燐は慌てて、

 

「な、なんでもないです。気のせいですよね、きっと……」

 

 そう思おうとした。壮絶な姿へと変わってしまった故郷に対する、戸惑いや恐怖心の類いなのだろうと。主人まで不安がらせるようなことではない。

 

「き、気にしないでください。それより、」

 

 おくうと藤千代、なかなか戻ってこないですね――そう苦し紛れに話を逸らそうとしたとき、

 お燐は、鴉の(つんざ)く声を聞いた。

 

「……!」

 

 弾かれるように前を見た。いつしか、地底の崩壊はもう決して遠くない距離まで迫ってきていた。噴き上がる火柱の熱気が、お燐たちの体まで届き始めつつある。足下を揺らす大地の鳴動が、少しずつ大きくなってきている。

 じきに、ここも危ない。

 そんな思考が脳裏を掠めつつもお燐は、眼前の光景に目を奪われたまま、足を縫われたように身じろぎひとつすることができないでいた。

 灼熱地獄の姿が、変わっていた。

 燃え盛る火が地を走る姿は大蛇が如く。天高く駆け上がる姿は龍が如く。地上を地獄に変える一方で、天へ昇った炎は幾万への火の粉へ姿を変え、空を紅に染め上げる様は群鳥が如く。

 ただ轟々と炎を噴き上げるだけではない、まるで炎そのものが意思を持ったかのような――おぞましくも美しく、破壊的でありながら幻想的なその崩壊に、恐ろしいことだがお燐は心を奪われてしまっていた。

 ほんの一瞬であっても、綺麗だと感じてしまった自分に、ぞっとした。

 流星が煌めいている。舞い散る火の粉とは明らかに違う白い一筋の閃光は、地に落ちた瞬間に激しい光となって炸裂し、大地を容赦なく揺り動かした。そこでようやくお燐は、火の粉で覆われた天にぽつんと、赤めいた色をした星がひとつ浮かんでいるのに気づいた。煌めく流星は、すべてあの星から大地へ向けて放たれている。まるで、獲物を撃ち落とそうとする射手のように。

 近づいてくる。

 正気に返ったお燐は、慌ててさとりの袖を引いた。

 

「さ、さとり様。危ないです、そろそろ離れましょう」

 

 返事はない。

 

「……さとり様?」

 

 さとりは返事をしないどころか、じっと天を見つめたまま微動だにもしない。瞬きを忘れたその瞳には、あの赤い星が炯々と映り込んでいる。

 

「さとり様? ……さとり様っ!」

 

 お燐はさとりを揺すった。だがやはりさとりはお燐を見向きもせず、赤い星から片時も目を離そうとしない。

 異変を感じたこいしもまた、お燐とともにさとりの腕を引いた。

 

「お姉ちゃん、どうしたの? 早く離れないと……!」

「――、」

 

 ようやくさとりが、うわ言を言うように小さく唇を動かした。

 

 

「――おくう?」

 

 

 お燐は天を見上げた。赤い星。今度は気づいた。

 星じゃない。

 全身から緋色の炎を噴き上げる、有翼の少女。胸元で燦然と輝く真紅の瞳。

 

「あ……!」

 

 一瞬は、正気に戻ったおくうが帰ってきてくれたのではないかと期待した。しかしその淡い希望も、次の瞬間には呆気なく打ち砕かれて崩れ去ったのだけれど。

 おくうが、咆吼した。

 そしてそれは、おくうの声ではなかった。

 あの、布を裂くような、鴉の哭き声だった。

 

「……お、くう」

 

 突きつけられた現実に、お燐は足の指先まで為す術もなく凍りついた。

 おくうの周囲に数多の光弾が出現する。おくうは少女とは思えぬほど獰猛に腕を振り抜き、光弾はすべてが流星と変わって火の空を翔け抜ける。

 お燐が立つのとは、九十度以上のまるで見当違いな方向。

 そこに、藤千代がいた。大蛇と化して襲い来る業火を腕一本で払い飛ばし、降り注ぐ光弾を縦横無尽に掻いくぐっていた。

 さとりが、叫んだ。

 

「藤千代さん……!!」

 

 決して、彼女の名を呼ぼうとして呼んだわけではなかったと思う。なぜおくうが藤千代を襲っているのか。おくうはどうなってしまったのか。あれ(・・)は、本当におくうなのか――胸を焼く様々な困惑が、動揺が、『藤千代の名を呼ぶ』という形で吐き出されたに違いない。

 藤千代が、気づいた。

 さしもの彼女も目を剥いた。

 

「――さとりさん!? どうしてここ」

 

 爆発した。

 

「――あ、」

 

 藤千代の小さな体が爆ぜ飛び、立ち上がった黒煙に塗り潰されて消えた。

 鴉が、咆吼する。

 その声に応じるように、天高く鎌首をもたげた二匹の大蛇が黒煙ごと藤千代を喰らい尽くし、灼熱地獄の底へと押し潰した。

 それで、終わりだった。

 

「――……」

 

 さとりが、膝から(くずお)れた。

 たった三秒。あまりに呆気なさすぎて、さとりに気を取られた一瞬が仇になったのだと、お燐はしばらくの間理解できなかった。

 月見のみならず。

 藤千代まで。

 それだけでも目の前が真っ暗になりかけたというのに、更に信じられないことが起きた。

 おくうが目も眩む無数の光弾を再び展開し、そのすべてを、藤千代が消えた灼熱地獄の底めがけて叩き込んだのだ。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 なにが起こっているのかわからなかった。おくうがなにをしているのか、脳が条件反射で理解を拒んだ。そうしなければお燐もまたさとりと同じで、壊れた人形のようになって崩れ落ちてしまっていたはずだ。

 違う。

 あんなのはおくうじゃない。おくうであっていいはずがない。おくうは、まだ暴走しているのだ。

 なぜ。

 おくうを止めに行くと、藤千代は言っていた。今ならまだ、間に合うかもしれないからと。

 間に合ったのなら、おくうの暴走は止まっているはずだ。

 なら、目の前の光景が意味しているのは――。

 

「――おくう!!」

 

 お燐がその恐ろしい結論へ辿り着く寸前に、こいしが身を捩るようにおくうの名を叫んだ。

 おくうが、ぴたりと、砲撃の手を止めた。

 

「おくう、私だよ。こいしだよ。聞こえるっ……?」

 

 こいしの声音は、体は、傍目でもわかるほど明らかに震えていた。きっとこいしも、お燐と同じ結論に辿り着いてしまっていたのだと思う。けれど、それでも、こいしは決して諦めずに呼びかけようとしていた。

 おくうが、振り向く。

 そしてお燐は、それを見た。

 ああ、やっぱりそうだったんだ――お燐の心の中でずっと途切れずに続いていたなにかが、その瞬間にぷつりと途絶した。

 闇と血の色でおぞましく潰れた、異形の瞳。

 胸元の瞳から木の根が這うように全身を蝕む、真紅の紋様。

 おくうが、口を開いた。

 

「 ――   、 ?」

 

 

 

 そして、さとりは聞いた。聞いてしまった。

 荒れ狂う神の御魂が生み出す、灼熱の炎の嵐。

 その奥に紛れて、かすかに、けれど間違いなく聞こえる。

 おくうの。

 助けを求める。

 泣き叫ぶ、心の声を。

 

 

 

「おくう……! おくうっ……! 私のこと、わからないの……!?」

 

 その瞳を涙で潤ませ、こいしは懸命におくうの名を呼び続ける。けれどこいしが何度言葉を振り絞っても、おくうがこいしを呼び返してくれることはない。

 

「 、  。   」

 

 おくうの声ではない。それどころか人の言葉ですらない。

 おくうとしての声を失い、そして、おくうとしての姿すら、失い始めている彼女が。

 もはや『おくう』と呼ぶべき存在でなくなっているのは、お燐たちの目にだって明らかだった。

 だからこそ、

 

「――あ、」

 

 心を読む力を持つさとりがなにを聞いてしまったのか、お燐はすぐにでも思い至るべきだったのだ。

 さとりの肩が揺れた。あまりに小さく一瞬だったので、傍のお燐もはじめは気がつかなかった。しかしその『揺れ』は、次第に、気のせいなどではとても誤魔化しきれない強い『震え』へと変わり始める。

 

「あ、ああ……!!」

「……さ、さとり様? どうし――」

 

 言葉を失った。

 これほどまで生気を失い怯える少女を、お燐は間違いなくはじめて見たからだ。

 混じりけのない純然たる恐怖。焦点の狂った瞳があちこちを彷徨い、痙攣する歯がカチカチと音を鳴らし、青を通し越して真っ白に色褪せた体を、折れてしまいそうな細腕で抱いてさとりは、

 

「――いやあああああああああああああああっ!!」

 

 お燐が生まれてはじめて耳朶を打たれる、さとりの絶叫だった。

 

「さ……とり、様?」

 

 情けない話だが。頭の中が真っ白になってしまって、体を丸め、耳を押さえながら蹲るさとりを、しばらくの間茫然自失となって眺めてしまった。

 

「お、お姉ちゃん!? どうしたの、大丈夫!?」

 

 こいしの反応の方が、よっぽど早くてしっかりしていた。振り返り、蹲るさとりに一目散で駆け寄って、

 

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!?」

「あああ……!! あああああっ……!!」

 

 たとえばお燐とさとりが、この地底の端と呼べる場所へはじめておくうを止めに来たとき。あのときもさとりは、月見へ激昂するおくうの心をダイレクトに聞いてしまい、頭を押さえて苦しんでいた。

 だが、今は程度がまるで違う。今まで何千回何万回と人の心を読み続けてきたさとりが、幼子のように体を丸め、こいしの呼びかけすら届かなくなるほどに怯えている。めちゃくちゃだった。一体どんなに恐ろしい心を聞けばこうなってしまうのか、お燐にはまるで想像もできなかった。

 

「さ、さとり様! しっかりしてくださいっ!」

 

 ようやく我に返ったお燐はさとりの肩を揺すった。だがやはり返事は返ってこず、代わりに掠れた声で、

 

「こ、こんなの……!! いや……いやあああっ……!!」

「お姉ちゃん!! どうしたの!? おくうがなにか言ってるの!?」

 

 少なくとも見た目だけなら、おくうはなにも苦しんでいないように見える。身の丈以上の大翼を悠然と羽ばたかせ、黒と赤で潰れた感情なき瞳で、けれどなにかを訴えるようにお燐たちを見下ろしている。

 

「   。 ――    、」

 

 その言葉なき声を理解できるだけの力が、お燐とこいしには、ない。見上げるだけならなんてことはない距離が、どんなに手を伸ばしても指先すら届かぬほど、遠い。

 そして、

 

「こら――――――――――――ッ!!」

 

 いきなり鼓膜を突き刺す大喝が響いたと思った瞬間、目の前の景色が瞬きも許さぬ勢いで遠ざかっていった。

 いや違う、遠ざかっているのは自分の方だ――と理解した頃には、お燐はさとりとこいし共々、崩壊から遠く離れた大地に呆然とへたり込んでいた。

 目の前で、藤千代がぷんぷんと頬を膨らませていた。

 

「あなたたち、こんなところでなにしてるんですかっ。遠くに離れていてくださいって、私言ったはずなんですけど!」

 

 藤の着物が無残に焼けたボロ布と化している以外は、見紛うことなくいつもの藤千代だった。灼熱地獄の底に叩き込まれたというのに、出血の類はもちろん、火傷の痕だってまるで見当たらない。彼女が最強の妖怪と恐れられる所以を改めて垣間見た思いだったが、彼女の無事に胸を撫で下ろす余裕も、こうして助けられた礼を言う余力も、今のお燐たちには残されていなかった。

 あれ(・・)は、おくうじゃない。

 胸の内に巣喰っていた不安の正体が、ようやくわかった。藤千代が行ったはずなのに、なぜいつまで経っても、大地の崩壊も灼熱地獄の拡大も収まらないのか。

 今ならまだ、間に合うかもしれませんから――そう、藤千代は言っていた。そして間に合ったのなら、おくうの暴走は止まっているはずなのだ。

 目の前の現実が、その答えだった。

 おくうが――否、八咫烏が劈く。翼を叩きつけるように打ち鳴らし、自身が吹き荒ぶ一迅の暴風となって、恐ろしい速度でお燐の下へ迫ってくる。

 その頃にはもう、藤千代の右腕が振り抜かれていた。

 拳から放たれた妖気の波動が、八咫烏を真正面から打ち飛ばした。

 

「 っ   、!?」

 

 八咫烏の体は、単に「打ち飛ばされた」とは表現しがたい非常識な速度で空を舞った。全身から撒き散らされる炎を彗星のように引いて、絶えず火柱が入り乱れる灼熱地獄の彼方に一瞬で消えてしまった。

 

「――少し遠くに飛ばしました。ちょっとは時間を稼げるでしょう」

 

 藤千代の言葉が、まるで頭に入ってこない。

 おくうの帰りを待ち続けていた。そして、お燐たちがどれほどおくうを思っているのか、おくうがどれほど馬鹿な勘違いをしているのか、爪で引っ掻いてでもわからせてやるつもりだった。もう逃げないと、心に強く誓っていたはずだった。

 なのに、なんだ、これは。

 ぜんぜん、それどころの話ではないじゃないか。

 わからせてやるもなにも――おくうが、おくうじゃなくなっているだなんて。藤千代の力でも、止められなくなっているだなんて。

 さとりが深く俯いたまま、掠れた声を絞り出した。

 

「おくう、は」

 

 藤千代は、わずかだけ言いづらそうにして答えた。

 

「……あれはもう、おくうさんではありません」

 

 ――ああ、やっぱり。

 

「八咫烏の荒御魂が、暴走のあまりおくうさんの魂を押し潰してしまったものです。敵味方の区別などなく、その御魂が鎮まるまですべてを炎で塗り潰そうとする、生きた災害です」

 

 そして、お燐たちの心を読んだように、

 

「……私にはもう、おくうさんを助けてあげることはできません。腕っ節の強さだけで、どうにかできる問題ではありませんから」

「なにか、手はないの!?」

 

 こいしが、総身を震わせて叫んだ。

 

「私、手伝うから……! どんなことでも手伝うから……っ!!」

「……」

 

 藤千代は、すぐには答えなかった。真実を告げなければならない胸の痛みに瞑目し、やがて小さく、か細く言った。

 

「……月見くんが、無事だったなら。月見くんなら、なんとかできたかもしれませんが」

「…………!!」

 

 こいしが、絶句した。すべてが自分のせいだと思っているこいしは、間違いなくこう考えてしまったはずだ。

 自分のせいで、おくうが暴走し。

 自分のせいで、月見が傷ついて。

 そして自分のせいで、おくうを助けることができないのだと。

 顔を両手で覆い、背を丸めて、こいしは咳き込むような嗚咽を吐き出した。お燐も、もう限界だった。顔を上げていられなくて俯いた途端、両の目元から小さな雫が二つ、重力に引かれて膝の上に流れ落ちた。

 どうして。

 どうして、おくうは。こいしは、こんなにも理不尽で残酷な罰を受けなければならないのだろう。

 確かに二人は、悪いことをしようとしたのかもしれない。たとえ姉のためであっても、人を傷つけるために力を使おうとしたのかもしれない。「元はと言えば向こうがぜんぶ悪い」であっても、それは、誰かの生活を私利私欲に脅かしていい理由にはならない。

 けれどこいしは己の過ちに気づき、涙だって枯れるほどに後悔している。自分を責めている。たとえ誰かから頼まれたとしても、彼女は絶対に同じことを繰り返そうとは思わないはずなのだ。

 だったら、もう。

 もう、許してあげていいじゃないか。

 なのにどうして、どこにも希望がないのか。時が経てば経つだけ、救いようもなく追い詰められていくだけなのか。

 ひどい。

 ひどすぎる。

 生まれてはじめて、この世の森羅万象を司る神とやらを、憎いと思った。

 

「……藤千代、さん」

 

 いや。

 包み隠さず言ってしまえば、殺してやりたいとすら思った。

 ああ、そうだ。

 本気で、そう思ったのだ。

 

 

「――藤千代さんなら。おくうを、楽にしてあげられますか」

 

 

 さとりにこんなことを言わせる神なんて、この世から消え去ってしまえばいい。

 心の臓まで凍りつくお燐とこいしに対し、藤千代の反応は静かだった。

 

「……やっぱり、それがおくうさんの望みなのですか」

 

 さとりは頷く。こぼれ落ちる涙とともに、

 

「もう……楽にして、あげてください」

 

 その言葉がなにを意味しているのかわからぬほど、お燐とこいしは馬鹿ではない。

 

「……お、お姉ちゃん、なに言ってるの?」

 

 ようやく再起動したこいしは、理解不能ともいえるさとりの嘆願に笑みすら浮かべていた。それはひび割れていくような、崩れていくような、壊れゆく笑みだった。

 

「こ、こんなときに、変な冗談言わないでよ。お姉ちゃんのばか……」

「……」

 

 さとりは、俯いたままなにも言わない。

 

「ね、ねえ、冗談でしょ? そうだよね?」

「……」

「そうだって。そうだって言ってよ、お姉ちゃん」

「…………」

「――なにか言ってよッ!!」

 

 はじめてだった。

 怒声を張り上げ、眦を決し、歯を剥き出しにして、本気で怒るこいしの姿を、この目で見たのは。

 さとりの胸倉を、力任せに掴み上げた。

 

「本気で言ってるの!? 楽にしてってなに!? おくうを、見捨てる気なの!? 馬鹿なこと言わないでよッ!!」

 

 あまりの剣幕に見ているお燐すら呼吸を失ったのに、この期に及んでもさとりはなにも言わない。それどこか、胸倉を揺さぶるこいしにされるがまま、抵抗らしい抵抗もしていない。

 まるで、魂を失った抜け殻のように。

 

「ねえ、……ねえ、なんでなにも言わないの? ふざけないでよ。そんなふざけたこと、嘘でも言わないでよ」

 

 無言、

 

「無視しないでよ。なにか言ってよ」

 

 無言、

 

「ねえ。ねえ、お姉ちゃん」

 

 無言、

 

「――どうしてそんなことが言えるの!? お姉ちゃんは、おくうのことが大事じゃないの!? 大切な家族じゃなかったの!? いなくなったっていいの!? ふざけないでよッ!!」

 

 そのときようやく、さとりが反応らしい反応を見せた。唇がぼそぼそと動き、

 

「……のよ」

「――なに? 聞こえない。もう一回言ってよ」

 

 こいしは毅然と言い返した。面持ちこそ静かだったが、その表面下にはさとりに対する壮絶な怒りがにじんでいた。家族を見捨てようとしているやつなんかに、負けてたまるか。諦めてたまるか、おくうは絶対に助けるのだと――そんな、家族を強く想う気持ちに満ちあふれた怒りだった。

 けれど。

 

「あなた、に」

 

 胸倉を掴むこいしに、さとりは結局最後まで抵抗しなかった。強引に掴み上げられ地に膝をついた、そのなんの意思も力も通っていない体勢のままで。

 さとりが、虚ろに紡いだ言葉は。

 

 

「――誰の心も読めないあなたに、おくうのなにがわかるのよ」

「――――……」

 

 

 こいしの心を、この世のなによりも残酷に、抉っていったはずだ。

 だってお燐の心すら、音を立てて抉られたように感じたのだから。

 

「あなたに、おくうの声が聞こえたの? 聞こえたわけないわよね。だったらそんなに平然としていられるはずがないもの」

 

 こいしは、自ら望んで覚妖怪としての能力を捨てた。人の心なんか読んでもなにもいいことなんてないと、そう言って。こいしにとって、読心の力は不要なものだった。捨ててしまって当然の、なんの意味もないものだったのだ。

 だからこそさとりの言葉は、今のこいしを全否定するにも等しい凶器だった。

 攻勢は、一瞬で逆転していた。

 

「おくうは、苦しんでた」

 

 見開かれていたこいしの瞳が、殴られたように揺れる。

 

「いいえ――今も、苦しんでる。神様の力が、おくうを苦しめてる」

 

 こいしの唇が、喘ぐように震える。

 

「おくうは、泣いていたわ。痛いって。苦しいって。――もういやだって、叫んでいたのよ。聞こえたはずがないわよね、能力を捨てたあなたに」

「――ぅ、あ」

 

 こいしの指先から、一切の力が消滅する。さとりは重力に引かれるまま地面にへたり込んで、顔を両手で覆った。

 

「私は! ……私は、あんなの、耐えられない……っ! ひどすぎる! ひどすぎるわよ……! あんなに苦しむおくうを、もう見ていたくないの!」

 

 それはもはや、慟哭であったのかもしれない。震える指先が覆う顔に爪を立て、隙間からは粒のような涙が嘘みたいに溢れ出てきていた。さとりだって、言いたくてこんなことを言っているわけでは断じてないのだ。だがこの中でただ一人、おくうの本当の声を聞いてしまった彼女は、もうそうするしかないのだと理解せざるを得なかったのだろう。もはや藤千代におくうは救えず、月見だってここにはいない。どう見たって打つ手などない。なのに「まだなにか手があるはずだ」と足掻けば足掻くだけ、おくうの苦しみは長く続くことになる。ならばいっそ楽にしてやることこそが、命は救えずとも、彼女を苦しみから解放してあげられるたったひとつの方法なのではないか。

 それが心を読めてしまうが故に、さとりに叩きつけられた現実だった。

 

「それとも、こいしは。これ以上、おくうのことを苦しめ続けるつもりなの?」

「ち、違……わ、たし……は、」

 

 こいしが、よろめいた。

 こいしにとって、それはなにより恐ろしい言葉だったはずだ。事実彼女の表情は、砕け散ってしまうまでの恐怖で凍りついていた。極寒の中にいるように震え、どう見たって立っているのがやっとの有様だった。

 そしてさとりには、もう立ち上がれるだけの力も気力もない。地に両膝と両手をつき、まるで許しを請うように、

 

「もう……楽にして、あげましょう。こんなの、可哀想よ」

 

 お燐は、もう涙で前に見ることもできなかった。お燐にはおくうを助けたいこいしの気持ちが痛いほどよくわかったし、おくうを救いたいさとりの心だって悲しいほどよくわかった。かけがえのない親友を、家族を、こんな形で失いたくなんて絶対にない。けれどおくうが本当に、痛いと、もういやだと泣いているのなら、これ以上辛い思いはさせたくないと思ってしまうのも事実だった。

 失いたくない。けれど、助けてあげられる方法がない。

 楽にしてあげたい。けれど、やっぱり、失いたくなんてない。

 なにもできない。

 どうして自分は、こんなにも無力なのだろう。泣いている家族の一人すら、助けてあげることができないのだろう。どんなに頭を振り絞っても、どんなに歯を食いしばっても、自分にすべきことがなにひとつとして思い浮かばない自分に反吐が出た。

 もう、みんなが笑える未来なんて、望んではいけないのかと――そう思うと、狂おしいほど悲しくて、悔しくて、頭がどうにかなってしまいそうだったのだ。

 

「ぁ……たし、は」

 

 こいしの声は震えていて、擦り切れていて、ほとんど言葉にもなっていなかった。

 

「わ……わた、し……」

 

 お燐がよく知っている、いつも笑顔で元気なこいしは見る影もない。恐らくは、残酷で理不尽ばかりな現実に襲われたせいで、彼女の心の封印が綻びかけていたのだと思う。怒りも哀しみも、後悔も恐怖も絶望も、封じ込められていたあらゆる負の感情が檻から放たれ、こいしという小さな少女を内側から血も涙もなく破壊していた。

 

「わたし――が」

 

 そう。

 そのことに、もっと早く気がつくべきだったのだ。

 

「わたしが、――きゃ」

 

 けれど目の前の現実に打ちひしがれるお燐は、さとりは、致命的すぎるほどに反応が遅れた。

 

わたしが(・・・・)助けなきゃ(・・・・・)

「――え?」

 

 お燐とさとりは、思わず顔を上げた。

 いま、なんて?

 

「わたしが、おくうを――助けなきゃ」

 

 聞き間違いではない。

 振り返ったこいしが、ふらふらと歩き出した。

 灼熱地獄に向けて。

 

「わたしが――わたしが、」

「……!?」

 

 ぞっとした。こいしがなにをしようとしているのか、ようやくわかった。

 行くつもりだ。灼熱地獄を、燃え盛る業火の世界を越えて。

 おくうの、ところまで。

 その瞬間、お燐は絶望するのも忘れて飛び出していた。今まさに駆け出そうとしたこいしの腕を掴み、強引に振り向かせた。

 

「っ……は、放して! 私がっ! 私が行かなきゃあっ!!」

「だ、だめっ!! 駄目ですよ、そんなの!?」

 

 今なお広がり続ける灼熱地獄では、大蛇の如き業火がそこかしこを蠢き回り地を焼くばかりでなく、噴き上がった火柱が無数の火の粉と散って空をも焼き尽くしているのだ。灼熱地獄育ちのお燐ならまだしも、大妖怪の藤千代ならまだしも、そうでないこいしが飛び込むなんて自殺行為も同然の暴挙に過ぎない。

 彼女の『無意識を操る程度の能力』だって、今ばかりは意味を成さない。向こうは意識も無意識も関係なくすべてを平等に呑み込む、文字通りの災害なのだから。

 しかし、

 

「――放してって、言ってるでしょ!!」

「――!?」

 

 こいしが裂帛した瞬間、お燐は目に見えない衝撃を全身に受けて弾き飛ばされた。あまりに突然だったためか受身らしい受身も取れず、お燐の体は三度ほど地面を打ち転がって、それからようやく止まった。

 

「なっ――」

 

 なにが、という言葉は、上手く呼吸ができなくて音にならない。灼熱地獄の熱が伝わっているのか、嫌に生温かい地面の温度を感じながら体を起こすと、どうやら自分は十メートル近くも転がされたようだった。

 殴られたり、投げ飛ばされたりしたわけではなかった。あれは単に、こいしが身の内で眠る妖力を波動に変えて爆発させただけだった。

 そして、単なる妖力の放出だけでここまで吹き飛ばされた事実に、お燐の思考が凍る。

 立ち上がれない。

 

「だ、だって、みんな……だ、だから、わ、わたし、が」

 

 こいしが肩で息をしている。その言葉はもはや言葉として意味を成さず、ぐらぐらと揺れ動く瞳は散大しきっていて、その焦点はお燐にもさとりにも合っていない。頬の筋肉が痙攣してつり上がり、傍目にはまるで笑っているようにも見える。誰がどう見たって、目の前のこいしが危険な状態にあるのは一目瞭然だった。

 また駆け出そうとしたこいしを、今度はさとりが羽交い締めにした。

 こいしが、叫んだ。

 

「いやあああああっ!! 放して、放してぇっ!! 私が! 私が、行かなきゃあああああッ!!」

「こいし!! 落ち着いて、こいしっ!?」

 

 こいしは、完全に錯乱していた。心の封印が綻びあふれだしてきた、家族を失うかもしれない恐怖と絶望に、彼女の精神は遂に耐え切れなかったのだ。

 

「ご、ごめんなさいこいし!? 私が、私が言い過ぎたわ! だから落ち着いて!?」

「私が、私がなんとかする!! なんとかするからっ!! だからお願い、お願い、おくうを殺さないでええええええええっ!!」

 

 両手両足を振り乱し、こいしは金切り声をあげてめちゃくちゃに暴れていた。あんなに小さな体の一体どこから力を振り絞っているのか、羽交い締めするさとりごと全身を引きずって、一歩、また一歩と確実に灼熱地獄へと近づいていく。

 こいしは、本気だ。ここでお燐たちが止めなければ、こいしは本気で灼熱地獄に飛び込み、本気でおくうをなんとかしようとするに違いない。彼女はもうそれしか考えていない。狂ったように突き動かされている。

 いや。

 

「放して!! 放してよぉっ!! お姉ちゃんのばかッ、ばかああああああああああっ!!」

 

 狂っていたのだろう。こいしは、疾うに。

 悠長に考えている場合ではなかった。とにかく止めなければ、自分はまた取り返しのつかない過ちを繰り返してしまう。大切な家族を、一人のみならず二人も失ってしまうかもしれない。もう、これ以上の悪夢なんて絶対に嫌だった。

 立ち上がり、地を蹴った、

 

「――放せええええええええええッ!!」

 

 その刹那、こいしが絶叫した。

 少し前のお燐がそうだったように、今度はさとりの体が宙へ弾き飛ばされた。

 ――あくまで、目の前の状況から優先順位をつけるなら。

 お燐は、吹き飛ばされたさとりなど無視してこいしを止めに行くべきだった。さとりとて妖怪なのだから、この程度ならいくら打ち所が悪くても深刻な怪我は負わない。さとりを助けるよりも、こいしを止める方が比較にならぬほど重大な問題だったはずなのだ。

 だが、考えるより先に体が反応してしまった。お燐は反射的に駆ける脚を止め、飛んできたさとりを全身を広げて受け止めた。咄嗟の行動だったのが災いし、踏ん張り切れず後ろへ倒れ込んだ。

 その頃にはもう、こいしは灼熱地獄に向けて走り出していた。

 もはや、生きた心地もしなかった。

 

「こいし様!! こいし様ぁっ!?」

「っ……! こいし、やめて!! 戻ってきてッ!!」

 

 さとりとともに叫ぶが、こいしは駆ける脚を一瞬足りとも緩めてくれない。恐ろしい速度で遠ざかっていく。さとりがなおも叫ぶ、

 

「藤千代さん!! こいしを止めてくださいっ!! 藤千代さんッ!!」

 

 最後の望みに縋って藤千代の名を呼ぶ。しかし藤千代は返事をせず、灼熱地獄へ向かっていくこいしを追うどころか振り向きもせず、ただ棒立ちで突っ立っているだけだった。

 目の前の光景に理解が追いつかず動けないでいる――いや、藤千代に限ってそんなのはありえない。ならなぜ、藤千代はなにもしてくれないのか。

 考えている暇はなかった。藤千代が動いてくれないのなら、お燐が行くしかない。さとりでは、まるで矢のように走るこいしには追いつけない。自分が行くしかない。でないとこいしまでもが、お燐の手の届かないところへ遠ざかっていってしまうかもしれない。

 

「こいし様……!」

 

 お燐は走った。脇目も振らず、全力で、ただこいしの背中だけを見て。その中で、すぐに飛ぶための準備を整えた。

 

「こいし様ッ……!!」

 

 藤千代の隣を駆け抜け、お燐は全力で地を蹴り飛ばし、

 空へ、

 

 

「――まったくもう」

 

 

 飛ぶ、その、間際に。

 お燐は、藤千代が微笑む声を聞いた。

 

「随分と、遅かったじゃないですか」

 

 お燐に掛ける言葉ではない。それどころかさとりでもこいしでもない。

 彼女は一体、なにを言っているのか。

 誰に向けて、その言葉を言っているのか。

 

「でも、信じてましたよ」

 

 まさか、

 まさか、

 

「――あなたなら絶対に、戻ってきてくれるって」

 

 そして、お燐はそれを見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぎゅ」

「おっと」

 

 正真正銘の全力でひた走り、地を蹴って灼熱地獄の空を飛び込もうとする刹那、突如目の前に現れた何者かのお腹にぶつかった。

 こいしの顔がすっぽり埋もれてしまう、大きな、大人の人のお腹だった。さとりやお燐ではないし、おくうや藤千代でもありえない。反射的に怪しいやつだと思い、驚いて離れようとして、

 

「――こらこらこいし、どうしたんだい。そんなに慌てて」

「――――……」

 

 ああ。

 この声は。

 この、声は。

 

「こんなところにいちゃあ危ないよ。なにかあったのか?」

 

 こいしの肩を優しく包み込んでくれている、この温かくて優しい、掌は。

 

「っ……!! ぅ、く……っ!!」

 

 その途端こいしの瞳から、どうしようもなく、本当にどうしようもなく涙があふれた。もう散々泣いたはずなのにまだ泣くのかと、自分で自分に呆れてしまった。

 けれど、この涙は決して、嫌な涙じゃない。

 彼の掌がゆっくりと背中に動いて、ぽんぽんと、あやすように柔らかく撫ででくれた。

 

「大丈夫か、こいし?」

「うん……!! うん……っ!!」

 

 こいしは、顔を上げた。

 こうして間近で見てみると、彼の体はこいしが思っていた以上に傷だらけだった。藤千代と同じくらいに服がボロボロで、けれど藤千代とは比べ物にならないくらいに痛々しい姿をしていた。火傷の痕は背中のみならず、両腕の広範囲や肩、顔の一部にまで及んでいて、こいしの目から見たって安静にしていなければならない重傷なのは明らかだった。

 きっと、こいしの想像を絶するくらいに、全身が悲鳴を上げていたはずなのに。

 それなのに彼は、いつもとなんら変わりなく、優しく微笑んでくれていて。

 

「こいし、教えてくれ」

 

 こう、言うのだ。

 

「私は、どうすればいい? 私はお前のために、一体なにができる?」

 

 こいしのせいで、こんなにひどい怪我をしたのに。おくうはずっと、彼に辛く当たり続けてきたのに。これ以上自分を犠牲にしてまで戻ってくる理由なんて、彼にはなかったはずなのに。

 それでも彼は、諦めていない。

 誰よりも怪我をしている彼が、誰よりも諦めていない。

 それが、本当に。

 言葉も出なくなるほどに、嬉しかったのだ。

 

「教えてくれ、こいし。お前の願いを」

 

 もう涙で前も見えなかったので、こいしは彼のお腹に顔を押しつけて、精一杯に絞り出した。

 

「お願い……!! もう二度と、こんなこと、しないからっ! あとで、た、たくさん、謝るからっ……!!」

 

 かっこわるい涙声で、嗚咽で何度も言葉が途切れて。

 それでも、それでも。

 

「お願い、だからっ……!!」

 

 こいしは、吐き出さずにはおれなかった。

 

 

「――おくうを、助けて!! 月見ッ……!!」

 

 

 叫んだ途端、バシバシと、ちょっぴりだけ乱暴に頭を叩かれた。

 それがあまりにもいきなりだったから、驚いて嗚咽も引っ込んでしまったけれど。

 返ってきた言葉を、決して聞き逃したりはしなかった。

 

「ああ。――当たり前だ」

 

 限界だった。頭の中が、心の中が一気にぐしゃぐしゃになって、こいしは少しの間だけ、本気になって泣いてしまった。

 そんなかっこわるい自分を彼はなにも言わず、けれど、今度はそっと抱き締めてくれた。

 

 今にも倒れたっておかしくない、ボロボロで満身創痍の、銀の狐を。

 しかしこいしは、この世のどんなものよりも、頼もしいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑪ 「神を超えろ ①」

 

 

 

 

 

 霊夢が顔に妙な違和感を覚えて目を覚ますと、上海人形にほっぺたをむいーっむいーっと引っ張られていた。

 ブン投げた。

 

「そおーい!」

「シャバッ」

「上海ーッ!?」

 

 むくりと起き上がる。そこは見知らぬ民家の畳の上で、隣で魔理沙が寝ていて、なぜか自分は全身びしょ濡れになっていた。

 んん? と首を傾げる。起きたばかりだからか上手く頭が働かない。一体なにがあったんだっけ。

 

「ちょっと霊夢、いきなりなにするのよ……!」

 

 上海人形を回収したアリスが、服についた埃を指でテシテシと払っている。霊夢はその背中に半目で、

 

「そういうあんたは、寝てる人間に一体なにをしていたのかしら」

 

 アリスの肩がぴくりと震え、

 

「うぐっ……そ、それは、その……早く起きろー、みたいな……」

「ねえあんた、人形使わないと人に触れないの?」

「はう!?」

 

 思わぬクリティカルヒットになった。胸を押さえたアリスはゆるゆると崩れ落ち、「やっぱり私なんて……おうちかえりたい……」とぶつぶつ独り言を言っていた。アリスの頭の上に跳び乗った上海人形が、「やれやれだぜ……」とニヒルに肩を竦めた。

 さて、変なやつはほっといて。

 霊夢は格子窓から外を望む。人里に似た町並みと、太陽も雲もない薄暗い岩盤で覆われた空が見える。なにかが引っ掛かる。なんだっけ、この景色はつい最近も見たばかりのような

 

「――おおおおおもいだしたああああああああああ!!」

 

 そして霊夢は完全に覚醒した。霊夢の突然の咆吼に、「ぴい!?」と悲鳴を上げたアリスが座ったままの姿勢で前につんのめり、魔理沙は何事かむにゃむにゃと寝言を言った。

 

「な、なによ突然!」

「アリスゥ!」

 

 霊夢はアリスに目と鼻の先まで詰め寄って、

 

「教えなさい、なにがどうなったの」

「え? えっと」

「だからっ、私が、その……やられたあと! 今はどういう状況なの!?」

 

 ぼんやりと覚えている。あの地獄鴉を見事打ち倒すはずの寸前で、突如現れた謎の少女に不意打ちを喰らってしまったこと。天子や魔理沙が辛うじて助けてくれたものの、完全に形勢が逆転してしまったこと。

 そして、朦朧とする意識の最後で、天から自分たちへ向けて砲撃を放つ地獄鴉を見たこと。

 気がついたら今の状況だ。結果として霊夢と魔理沙がこうして生きているのなら、どうにかしてあの戦闘を切り抜けたと思われる。だが一体どうやって。まさか、あの状況から魔理沙が奇跡の大逆転を演じてみせたとでもいうのだろうか。

 もし本当にそうだったら、ちょっと魔理沙にまで負けた気がして鼻持ちならない。霊夢はアリスを激しく揺さぶって問い質す。

 

「答えなさいアリスっ、キリキリ答えなさいっ」

「あばばばばば」

「なにがあばばばよ、さっさと答え――あう、」

 

 そのとき、霊夢の視界がぐらりと歪曲した。立ちくらみ――と思ったときには、霊夢は体の姿勢を維持することも敵わず、アリスに半分もたれかかってしまっていた。

 

「……ああもう、起きたばかりで暴れるからよ。ほら、落ち着いてこれでも飲んで」

 

 上海人形が、テーブルの上から大きな湯呑みを抱きかかえて飛んできた。中身は一見するとただの水に見えるが、

 

「相当汗掻いたでしょ? 塩分とか、いろいろ混ぜてあるから」

 

 どうやら、アリス特製のスポーツドリンクの類らしい。随分準備がいいなと思いつつも、ありがたく頂戴する。

 慌てずゆっくり飲んでみると、霊夢が思っていた以上に体は水分を欲していたようで、五臓六腑ことごとくに染み渡る感覚が実に効いた。

 

「くいいっ……はー、生き返るわー。こんなのよく作ったわね」

「ほんと、手間掛けたんだからね。だってこの空き家、塩もなにも置いてないんだもの」

「はあ? それでどうやって、」

「水以外の材料はぜんぶ、一から魔法で作ったの。あなたが目を覚ますまで、結構時間はあったから」

 

 ……もしかしなくてもこの人見知り少女、かなりすごい魔法使いなんじゃなかろうか。調味料類を一からすべて魔法で生成し、一人で配合してスポーツドリンクを作るって、地味ながらもすごい芸当のような気が。

 素直に感心した。

 

「あんたって結構すごいのね。一人で引きこもって本ばっかり読んでるからかしら」

「……ねえ霊夢、それ褒めてるの? 貶してるの?」

 

 アリスと上海人形の、二人分の半目からふいと目を逸らす。特製ドリンク美味しいです。

 というか、

 

「そういえば、なんであんたがここにいるのよ」

「い、今更その質問!? 霊夢、あなた普段からなに考えて生きてるのよ!」

 

 主にお金とご飯のことかしら。

 まったくもう……と悄然とするアリスに、とりあえず状況を聞かされてみれば。

 結局自分たちは、あのあと負けたらしい。けれど霊夢たちが灼熱地獄に焼かれることもなく事なきを得たのは、お燐というあの黒猫が助けてくれたからのようだった。ついでに、全身びしょ濡れなのもお燐の仕業らしい。たぶん、軽い熱中症になってたらしいから応急処置なんだと思う、とアリスは自信なさげに言った。

 

「そう。……それで? あの地獄鴉は? 異変はどうなったの?」

「えっと……」

 

 アリスはなんとも辿々しく、自分が地底にやってくるまでの経緯と、今現在の状況を説明してくれた。短く簡潔にまとめるのが苦手なのか、アリスの話は「そんなことまで聞いてない」と思わず口を挟みたくなるくらい要領が悪かったが、どうあれ最後まで辛抱強く聞いてみれば、霊夢の感想は以下の単純明快な一言に集約された。

 

「……あーあ。結局また、月見さん任せになっちゃったかあ……」

 

 ため息が出た。腹の底から。夏の異変は月見任せになってしまったから、今回こそ自分たちの力で解決するのだと意気込んでいたのに、結局はあの黒猫が心配していた通りのザマになってしまった。霊夢にとっては最悪ともいえる結果だった。

 今までの異変はなんの問題もなく解決できていたし、それが当然だと思っていたのに。なのに夏に続いて今回までも、また上手く行かなかった。

 なんというか。

 当然だと思っていたことが急にできなくなるというのは、こうして直面してみると結構、キツかった。

 

「……私、ぜんぜん成長できてないのかなあ」

 

 夏のような失敗は繰り返したくなくて、月見に修行を手伝ってもらったりして、ちょっとくらいは強くなれたつもりだったのに。けれど結果は、情けなく、虚しいほどにまるで変わらない。

 自分は今まで、一体どうやって異変を解決してきたのだろう。夏の異変に負けずとも劣らぬ自己嫌悪で沈む霊夢に、アリスがわたわた慌てて、

 

「し、仕方ないわよっ。だってあんな、突然出てきて不意打ちなんて卑怯だもの。しかもスペルカードルール無視してるし、普通だったら霊夢たちが圧勝してたはずで」

「――そうよね」

 

 へ? とアリスの目が点になる。霊夢は俯いたまま低い声音で言う、

 

「そうよ、あんなの絶対おかしいわよ。なによあの不意打ち。能力なのか知らないけどぜんぜん気配感じなかったし、あんなのやられたら誰だって勝てないわよ。しかも地獄鴉も地獄鴉で、神様の力をスペルカードルール無視して使うとかバカじゃないの? しぬの?」

「……あ、あの、霊」

「おまけに灼熱地獄は熱すぎて頭は働かないわ体はダルいわ、ふざけんじゃないわよ。反則よ、不公平よ、なにからなにまで向こうに有利すぎよ。いくら私でも勝てるわけないじゃない」

「で、でも、それでも行くって言ったのは霊夢で」

「あんたどっちの味方なのよアリスゥゥゥッ!!」

「ごめんなさい!?」

 

 思い出したら腹の底からムカムカしてきた。なんだあいつら。なんなんだあいつら。地獄鴉はまだいいが、一番許せないのはいきなり不意打ちを仕掛けてきたあの小娘だ。あいつさえいなければ今頃霊夢は無事異変を解決し、月見に褒めてもらえてご馳走をたらふく食べさせてもらえていたはずなのに、あいつのせいでぜんぶが狂ってしまった。どうせあいつは、卑怯極まりない不意打ちで勝った気分になり、今頃はさぞかし有頂天に浸っていることだろう。そう考えると霊夢は、

 

「ふ、ふふふ、くくくくくくくく…………」

 

 俯いたままひくひく笑う霊夢の奇行に、アリスが「ひええ……」と涙目で後ずさっていく。

 霊夢は野獣みたいな勢いでドリンクを飲み干し、湯呑みを畳に叩きつけて吠えた。

 

「ゥアリィィィスッ!!」

「は、はいぃぃっ!? ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」

「あんた言ってたわよね、月見さんが異変を止めに行ったって」

「い、言いました! ごめんなさい!」

「行くわよ」

「はいごめんなさいっ! ……え?」

「あのこむすめぜったいなかす」

 

 幽鬼が如く霊夢は立ち上がる。アリス特製のドリンクが効いたのか、それともあの小娘への胸を焦がす壮絶な想い故か、なんだか異変解決に動く前よりもむしろ体の調子が上がっている気がした。今なら割となんでもできる。神様にだって勝てる。ならばこの果てしなく湧き上がる力を総動員して、あの小娘絶対に泣かす。

 リベンジだ。

 

「ちょ、ちょっと待って!? 行くって、また戦う気なの!? いくらなんでもそれは」

「なぁぁぁにか文句でもあるのかしらあああぁぁ!?」

「なっ、なんでもないですごめんなさぁい!?」

 

 上海人形と一緒に縮こまって震えるアリスを無視し、霊夢はズンズンと魔理沙の枕元に立って、

 

「こら魔理沙っ、起きなさい!! いつまで寝てんのさっさと行くわよッ!!」

 

 魔理沙はむにゃむにゃ寝返りを打って、それから以下のような寝言を言った。

 

「う~ん……こ、香霖のバカっ……もうちょっと優しく」

「魔あああぁぁ理沙アアアアアァァァァァッ!!」

「優しくしてええええええええええ!?」

 

 相棒へ容赦なく、かつ華麗に腕ひしぎ十字固めをキメる阿修羅――その一部始終を目撃していたアリス・マーガトロイドは、後に天狗の取材でこう語っている。

 ――この世で本当に恐ろしいのは、妖怪でも幽霊でも神様でもなく、生きた人間(はくれいのみこ)です。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 時を同じくして。

 

「――降ろせ、勇儀」

「ひょ!?」

 

 腕の中の月見がいきなり口を利いたので、勇儀はらしくもない頓狂な声をあげてびっくりした。

 さとりたちと別れ、天子と愉快な追いかけっこを繰り広げ、間もなく旧都の町並みも見えてこようかという頃合いだった。

 びっくりしすぎて、実は月見を「そおい!?」とぶん投げそうになったのはヒミツだ。

 

「……つ、月見!? 起きてたの!?」

「……ああ、たった今ね」

 

 気だるげな声音で答えて、月見がゆっくりとまぶたを上げた。

 

「どこだ、ここは」

「へ? ……旧都に戻る途中だけど」

 

 口をあんぐり開けて固まっていた天子がようやく再起動した。突進にも近い派手な勢いで寄ってきて勇儀の飛行を妨害すると、月見を真上から覗き込んで、

 

「…………つっ、つつつつつっ月見!? 目が覚めたの!? 大丈夫!?」

 

 月見は口端を曲げて、極めて不自由そうに笑った。

 

「天子、お前の目には私が大丈夫そうに見えるか?」

「見えないから訊いてるのっ!」

「いやまったく大丈夫じゃなくてね」

「大丈夫じゃないの!? どどどどどっどうしようどうしよう!? とりあえずもう一回気絶する!? 気絶すれば痛みなんてわからないし!?」

「落ち着きなよあんた」

 

 やはり愉快な人間である。妖怪はこの程度で死にはしないと説明したはずなのに、あわわわわわとぐるぐるおめめで混乱しまくっている。そんな天子を半分呆れながら落ち着かせつつ、ひとまず地上に下りた勇儀は手頃な岩に月見を座らせる。たったそれだけのことに、月見は隠し切れない苦悶の表情を浮かべた。勇儀がそっと手を離すと、細く長いため息とともに全身から険を抜いて、

 

「ふう……。ありがとう、面倒を掛けたね」

「やあ、いいよ。なかなか貴重な体験もできたしね」

 

 月見を抱いて運ぶなんて役得、もう二度と経験できるかもわからない。月見の男らしく固めな体の感触は、末永くよく覚えておこうと思う。いつか萃香に自慢してやろう。

 と勇儀が脱線している隙に、月見は己らが飛んできた方角を――炎に呑まれ灼熱地獄へと変わりゆく彼方の姿を、睨むような目つきで見晴るかしていた。

 

「……私が寝てる間に、なにがあった」

 

 決して大きくはないが、心の臓までビリビリと響いてくる重苦しい声音。ああこれは月見が機嫌悪いときの声だな、と勇儀は思う。さすがの彼といえども、意識が飛ぶほどの大怪我を負わされれば虫の居所も悪くなるらしい。

 月見のこういう声を聞くのははじめてだったのか、天子が少し萎縮しながら、

 

「えっと、その……月見が気を失ったあとに、おくう――っていうんだよね。その子の力が、暴走しちゃって……」

「八咫烏の荒御魂が荒ぶるまま、地底を灼熱地獄に変えてくれちゃってるってワケさ」

 

 月見は瞑目し、胸の奥でくすぶる感情を耐え忍ぶように、そうか、とだけ言った。

 

「でも心配要らないよ、藤千代が止めに行ったからね。だからほら、あんたは旧都に戻って傷の手当を」

「何分前だ」

 

 は? と声が裏返った。

 月見が、有無を言わさぬ鋭い眼光で勇儀を見据えている。

 

「千代が行ったのは、今から何分前だ」

 

 勇儀は天子と顔を見合わせ、

 

「えーっと……十……いや、二十分? そんくらいだと思うけど」

「っ……」

 

 月見が、眉を歪めた。

 話が見えない。

 

「……ねえ、それが一体どうし」

 

 ――いや、待て。おかしくないか。

 勇儀が違和感に気づいて口を噤むのと同時に、月見が答えた。

 

「あいつが止めに行って、二十分も掛かるわけがあるか」

 

 彼方では未だ巨大な火柱の噴き上がる様がはっきりと見て取れ、かすかな地響きが勇儀の足元を震わせている。

 藤千代があの地獄鴉を止めたのなら、この崩壊はとっくに治まって然るべきのはずだ。だが現実は、およそ二十分が経とうとする今になっても崩壊が止まっていない。すなわち、地獄鴉の暴走が未だに続いているということで――。

 

「……ちょ、ちょっと待ちなよ。まさか、藤千代までやられたとでも言うつもりかい?」

「いや、あいつがやられるのは想像できない」

 

 勇儀も心底同意する。しかしだとすればどうして、

 

「だから、止めたくても止められない状況になってしまったのかもしれない」

「止めたくても止められない……?」

 

 まったくピンと来ない。戦闘、ことに『相手を倒す』という一点に限れば、藤千代にできないことなどないとしか勇儀には思えないからだ。天子も眉根を寄せて考え込んでいる。

 背中の傷が痛むのか、月見がゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、細い声で言う。

 

「例えば――すでに空に自我がなく、八咫烏の力を世に顕現させるためだけの器と化しているか」

「……まさか、あの地獄鴉」

 

 暴走する八咫烏の荒御魂を制御しきれないでいるのではなく、そもそもの話、制御どうこうの問題ですらなく、

 

「――八咫烏の荒御魂に、体を乗っ取られたとでもいうつもりかい?」

「……その表現が正しいのかどうかはわからない。ただ、八咫烏のような神話クラスの神の荒御魂となれば、それはまさに災害だ。疲弊や気絶といった私たちの常識は通用しない。怒りが鎮まるまでひたすら暴れ回る。それが今のおくうを支配しているのだとすれば――」

 

 月見は、唇を噛み、

 

「――物理的に止める手段としては、八咫烏の御魂を直接破壊する他ない。だがそれは当然、依代となっているおくうの体をも破壊することを意味する。だから藤千代には、止めたくても止められない」

 

 ようやく、わかった。

 藤千代には、殴ることしかできない。つまりは信じがたい話だが、妖術や呪術の類を彼女はまったく使えない。まったく使えない以上は必然、なんらかの術でおくうの肉体から八咫烏の御魂を抜いたり、封じたりするような芸当だってできない。

 止めようと思えば止められるのだ。ただしその場合、恐らくはあの地獄鴉を――殺めることになってしまう。

 だから、止められない。

 おくうがまだおくうのままであったなら、力ずくで押さえつけて、意識を奪ってしまえばひとまずは落ち着く話だった。だがおくうが荒御魂に支配されてしまった今の状態では、暴走する力を物理的に封じる手段は皆無に等しい。――勇儀たちこの世の生命体が、体ひとつでは地震や嵐といった災害を抑えられないのと同じように。

 ――今ならまだ、間に合うかもしれませんから。

 藤千代があのとき言った言葉は、こういう意味だったのだ。

 

「……じゃあ、もう、あの地獄鴉を止めることはできないってのかい?」

「いや、あくまで物理的にはという話だ。やりようはあるはずだよ」

 

 そう言って、月見が傷を押して(おもむろ)に立ち上がろうとした。

 もちろん、天子がまっさきに反応した。慌てて月見の肩を押さえつけ、

 

「ちょ、ちょっと待って! まさか戻るつもりじゃないのよね!?」

「いてて。天子、傷に響くからもうちょっと優しく……」

「あ、ごめん……――ってそうじゃなくてっ! ねえ、まさか戻るなんて言うつもりじゃ」

「言うつもりだよ」

 

 絶句、

 

「千代が早まる前に、急がないといけない」

「――だ、ダメに決まってるでしょそんなのッ!?」

 

 月見を怒鳴り飛ばすような大声だった。勇儀も月見も目を丸くしたが、なにより天子本人が一番驚いた顔をしていた。

 意識して出した声ではなかったのだろう。それっきり彼女は急にしどろもどろになって、

 

「あ、ち、違うの。だ、だって月見、そんな、そんなに、傷だらけなのに」

 

 あっという間に目元が潤んで、

 

「わ、私のせいで、そんな大怪我したのに。これ以上なにかあったら、わ、わたし、」

 

 実のところ勇儀は、月見がなぜここまでの大怪我を負うことになったのか詳しくは知らない。ただ月見のことなので、どうせ天子を庇ったとかそんなところに違いない。その瞬間を見てはいないのに、まるで目の前で起こったようにはっきりと想像できる。身を挺して誰かを守るということを、深く考えもしないで反射的にやってしまうやつなのだ。

 一見すれば美談だが、それは時に人の心をひどく傷つける。現に天子は、自分のせいで月見が怪我をしたと思い込み、苦しんでいる。これ以上月見が無理をして、もしも万が一のことが起こってしまえば、きっと彼女の心は粉々に砕け散るだろう。

 月見は、ぜんぶわかっているはずだ。

 

「――いいや、行かせてくれ」

 

 そしてぜんぶわかった上でこう言うのだから、やはりこの狐は根本的には自分勝手なのだ。

 

「だって、わかりきってるからね」

 

 我が身を犠牲にしてでも誰かを助ける。それはまるで、聖人君子のように聞こえるけれど。

 

「――ここで行かなかったら、絶対に後悔するって」

 

 そも、善意とはひどく自分勝手なものだ。助けたいという感情に、実際問題相手が助けを求めているかどうかは関係ない。『誰か』を助けたいという想いは、裏を返せば『誰か』を助けられない己への罪悪感である。助けたいのは『誰か』であり、それ以上に『誰か』の姿を見て苦しむ自分自身でもあるのだ。昔の偉い人だって、『情けは人の為ならず』と――人の為である以上に自分の為であるのだと――言っている。ならば善意とは根本的に利己の行動であり、善意の塊みたいな妖怪である月見は、同時に自分勝手の塊でもあるのだろう。

 自分が、後悔したくないから。自分が、目覚めの悪い思いをするのは嫌だから。だから、助けたいと思ったやつはまず素直に助ける。細かいことや面倒なことは、ぜんぶ助けたあとで考える。

 そういうやつなのだ、こいつは。

 気がつけば、勇儀の口端には笑みの影があった。

 

「止めないよ」

 

 言葉を失っている天子を差し置き、勇儀は言う。

 

「だってそう言うってことは、行けば後悔しないんでしょ?」

 

 腕力バカの藤千代とは違い、月見の実力の源は妖術や呪術の怪力乱神にある。怒れる神を鎮める方法のひとつやふたつ、知らない方がおかしいくらいだ。

 あれを止められるのは、きっと、月見だけ。

 だから彼は、目覚めたのだろう。

 

「ああ。私が、止める」

「なら、いいんじゃない。あれを止めてもらわないと、旧都に住んでるウチらだって困っちゃうしね」

 

 そして、誰の命も奪われずに終わらせられるのなら、それより幸いなことなどない。

 天子はまだ、俯き、唇を引き結んだままなにも言わない。握り込んだ拳が、夏の雲より真っ白な服に深い皺を刻んでいる。

 月見が体の感覚を確かめるように、右手をゆっくり、力いっぱい開いて、閉じる。

 

「……ところで、勇儀」

「うん?」

「ひとつ頼みがあるんだが、」

 

 なんの前触れもなかった。

 

「――やぁぁっと見つけましたよこの狐えええっ!!」

「ひょい!?」

 

 空から突然、本当に突然、そんな怒声とともに少女が降ってきた。しかも、墜落してきたんじゃないかと見紛うほどの勢いで。

 めちゃくちゃびっくりした。勇儀はなんとか変な声をあげてたたらを踏む程度で耐えたが、天子は完全にひっくり返って、今までとはまったく別の感情でじわりと涙目になっていた。いきなり降って出た少女は目が点になっている月見に詰め寄って、

 

「こんなところにいましたか……! さあ今日という今日こそは神妙になさいっ、あなたは地上と地底が不干渉の約定を結んでいると知らないのですかなぜこんなところにいるのですかまったくまた罪を重ねるつもりなんですか本当に呆れた狐でってちょちょちょっ待ちなさいなんですかこの怪我はあっ!?」

 

 また愉快なやつが出てきたなあ。

 

「え? ……う、嘘、なんでこんな」

 

 はじめの勢いはどこへやら、少女はすっかり真っ青になって、

 

「――!?」

 

 月見の背中を見るなり強く息を呑み、そこからまた嵐のように、

 

「……あなたっ、なにをこんなところで突っ立っているのですか!? は、早く応急処置っ! い、急いで旧都に、いえ一度彼岸に来なさい腕のいい医者を知ってますからッ!!」

「いでっ、ま、待て映姫、落ち着け」

 

 そう、勇儀がめちゃくちゃびっくりしたもうひとつの理由なのだが、この少女、見紛うことなき閻魔様――四季映姫・ヤマザナドゥその人なのだ。こいつこんなのとまで知り合いなのか、と勇儀は改めて月見の人脈の広さに舌を巻いた。

 

「これが落ち着いている場合ですかっ! むしろなぜあなたがそんなに落ち着いているのですかっ、自分がどれほどひどい怪我をしているのかわかっていないのですか!? 危機管理がまるでなってないッ!!」

「あだだだだだ」

 

 ともかく。

 このままでは月見が彼岸まで引きずられていきそうだったので、勇儀は急いで助け舟を出した。後ろから映姫を羽交い締めにして、

 

「はいはい、月見がめっちゃ心配なのはわかったから落ち着きなって」

「なななななっなにを馬鹿なことを言っているのですか私がこの狐の心配なんてするわけがないじゃないですかそう論理的結論として怪我人を放っておくわけにはいかないという単なる一般論であり断じて心配などしていませんっ!!」

 

 閻魔様って、こんなに愉快な人だったんだなあ。

 天子がようやっと立ち上がり、

 

「あ、あの、月見の怪我はそうなんだけど、これは事情が事情で」

「むっ……あなたはこの狐の屋敷で会ったことがありますね。確か、比那名居天子でしたか」

「あ、えっと、はい」

「なんであなたまでこんなところにいるのですか! あなたは天人じゃないですかっ! あなたまで約定を破るとは、お説教をお望みなのですか!?」

「ひい!?」

「あーもー落ち着いてってばもぉー」

 

 映姫はなおも暴れる、

 

「そして後ろのあなたっ、放してください放しなさいッ! さては私を子ども扱いしていますね!? 説教しますよ!?」

 

 訂正、やっぱり面倒くさいなこいつ。

 体は大人、でも頭はいかんせん子どもっぽいと鬼たちの間ではもっぱら話題な閻魔様である。勇儀たちが旧地獄の地霊をキチンと管理しているかどうか、日頃からなにかとチェックしてくる仕事真面目なやつである。お陰様で、彼女の顔と名前と面倒くさい性格の三拍子を知らない鬼は一人としていないのである。

 出会えば誰しもが眉根を寄せる相手であり、実際勇儀と天子は渋い顔をしていたが、月見だけは表情が違った。

 

「映姫、いいところに来た」

「なるほど、お説教をしてほしいと!」

 

 面倒くせえ。

 月見はまるで意に介さず、

 

「悪いが差し迫った話だ。――地獄の頂点におわす閻魔殿は、果たして荒事がお得意か?」

 

 映姫のじたばたが、嘘みたいにピタリと収まった。怒るわ喚くわの子どもっぽい表情は跡形もなく消え去り、正真正銘、地獄の頂点に立つ統治者としての顔だった。

 

「放しなさい、星熊勇儀」

 

 逆らおうとも思えなかった。

 

「まあ、荒事がどういった内容かにもよりますが――」

 

 天子なんて、生唾を呑んで完全に固まっている。そんな中で、月見だけがそよ風を思わせる佇まいのまま、

 

「冗談抜きの戦闘だね。油断したら私みたいになる」

 

 映姫は眉を動かしもしない。動かしもしないまままるで事もなげに、至ってありふれた道理を説くような口振りで言ってのけた。

 

「まったく問題ありません。あなた、私を誰だと思っているのですか?」

「――上等だ」

 

 月見が、歯を見せて笑った。

 

「勇儀、さっき言いかけた話と絡むんだけど」

「え? あ、うん」

 

 そういえばそんな話だったなあと勇儀はぼんやり思う。

 

「二人とも、私に力を貸してくれ」

 

 ぼうっとしていた頭の中が、一発でクリアになった。

 

「映姫。詳しい説明は省くが、私はあれ(・・)を止めに行く」

 

 月見が指差した先では、やはり、今なお地底の崩壊が片時も止まらずに続いている。

 

「だがご覧の通り体がこの有様でね、だいぶ思うように動いてくれない。正直言って、自分で自分の身を守れるかどうかも怪しい。突っ込んでもまた墜とされるだけだ。――だから、お前たちの力を借りたい」

「……なるほどね」

 

 考えてみれば、確かに当たり前の話だった。月見は誰がどう見たって満身創痍で、今にもぶっ倒れたっておかしくなくて、いくら大妖怪といえども百パーセントの全力で戦うのは不可能な状態なのだ。きっと八咫烏を鎮めるために力を注ぐのが精一杯で、自分の身を守る余裕なんて皆無に違いない。

 だから、

 

「――私を、守ってくれ」

 

 そのとき勇儀は、不覚にも震えてしまったと思う。武者震いだった。口の端が、糸で引かれるように吊り上がっていくのを感じた。は、と、痙攣した喉から呼気がこぼれた。

 無理もない、――ああ、勇み立つなと言う方が無理な話だ。

 

「ッハハハ。――あんたからそんな風に頼られるなんて、こりゃまた格別だね」

 

 どうにも我慢が利かなくて、奮い立つ全身から妖気がもれてしまった。それくらい興奮していた。

 私を、守ってくれ――そんな真摯な言葉で月見から頼られたことのあるやつが、果たしてこの世に何人いる? それを考えれば、どう足掻いたって興奮するに決まっていた。

 その奮える心のままで、勇儀は高らかに吠えた。

 

「――よっしゃ任せろッ!! 星熊勇儀の名に懸けて、全身全霊で守ってやるよ!!」

 

 一方の映姫は、あくまで莞爾(かんじ)と微笑む。

 

「この私に手伝わせるなんて、高くつきますよ?」

「素直じゃないねえ。誠心誠意守らせてくださいって言えばいいのに」

「だだっだだだ誰がそんなことっ!!」

 

 新発見。閻魔様は月見でからかうと面白い。

 月見が、心の底から安堵したようにため息をついた。

 

「ありがとう。……助かるよ」

 

 勇儀は右の拳を握り、それで左の掌を打った。こんなにも燃えるシチュエーションは久し振りだった。あの地獄鴉を救えるかどうかは月見に懸かっており、同時に月見を守る自分たちにも懸かっているわけだ。しかも自分たちが失敗すれば、あの地獄鴉を救えないばかりではなく、いよいよ月見が命の危険に晒される可能性をも示唆している。背負われた責任の大きさと重さが、このところ平和ボケしていた勇儀の心に燃え盛る火をつけた。

 しかし一人だけ、面持ちの晴れない少女がいた。

 

「……月見」

 

 天子だった。握り込んだ両手が震えている。そこに言葉はなかったけれど、言葉がなくとも、両の目元から抑えられない想いがあふれて顔中ににじんでいた。

 自分だって、ついていきたい。

 だが天子はそれを言葉にできない。八咫烏の暴走がもはや人間に太刀打ちできるものではなく、ついていっても足手まといにしかならないと理解していたからだ。同時に、自責の念というのもあったのだろう。自分は一度月見に守られ、彼にひどい怪我をさせてしまった身で。だからこの期に及んでわがままを言う権利なんて、ありはしないのだと。

 なにもできない己の無力に、引き結んだ彼女の唇は白く色を失っていた。

 

「行かせてやりなよ、天子。たぶん、もう、なんとかできるのは月見だけなんだ」

「……」

 

 握り込めた拳で、天子の服はもはや皺くちゃになっている。月見はなにも言わず、天子からの言葉を待ち続けている。

 天子が、息を吸った。そして吐き出す息遣いとともに、

 

「……ばか」

 

 また、吸って、

 

「私を助けたときも、似たようなこと言ってたよね。自分が嫌な思いをしたくないから、やるんだって」

「……そうだったかな」

「そんなにひどい怪我してるのに、それでも無理して。絶対、すごく痛いはずなのに。もっと怪我するかもしれないのに。それは、『嫌な思い』じゃないの?」

 

 月見には、考えたような素振りもなかった。かすかな笑みすら見せて、

 

「私が体を痛める程度で済むなら、安いものだよ。幸い、妖怪はそういうのに強いからね」

「ぜんぜん安くない。幸いじゃない」

 

 天子が、顔を上げた。その目元は少しの涙で湿っていて、けれど限りなくまっすぐで、強い表情をしていた。

 

「行ってもいいけど、約束して」

「……なにかな」

「私がこんなに心配してるのに、それでも行くって言うんだから、中途半端なんて許さない」

 

 一拍、想いを溜める間があった。

 

「――行くんだったら、ちゃんと戻ってきて!! 助けるんだったら、みんな笑顔になれるように、徹底的に助けてきて!! ――それができるなら行って良しッ!!」

 

 それはなんとも強がりな仁王立ちで、お世辞にも凛とはいえない決壊寸前の声だったけれど。

 でもきっと、月見の心に、これ以上ないくらいの力を分け与えたはずだ。事実月見は痛みから解き放たれたように立ち上がり、大胆不敵に口端を曲げて、

 

「ああ。――承った」

 

 本当に、不思議な話だと勇儀は思う。今の月見は、誰がどう見たってボロボロの満身創痍なのに。今にもぶっ倒れたっておかしくないのに。まともに戦えるのかどうかすら怪しいくらいなのに。

 なのにそれでも、月見ならなんとかしてくれると信じたくなってしまう自分がいる。だから天子だって、本当は心配で心配で胸が張り裂けそうなのに、どうしても「行かないで」の一言を口にすることができないのだ。

 そんな月見のために、自分だってなにかをしたいのに――。

 

「天子。お前にも頼みたいことがある」

 

 その天子の心を読んだように、月見が言った。

 

「緋想の剣を貸してくれ」

「……え?」

 

 天子の面持ちに、疑問と困惑の色が広がる。

 

「で、でも……緋想の剣の力は、私たち天人じゃないと」

「わかってる。けど、妖怪にも持つことくらいはできるだろう?」

「それは、できる……けど」

「それでいい。別に、武器として使うわけじゃない」

 

 天子が、一層強く眉根を寄せて黙り込んだ。月見の意図を理解しようと懸命に考え、けれどまるで見当がつかずに反応を返せないでいた。

 緋想の剣とやらがなんであるかを勇儀は知らないが、『剣』というからにはやはり剣であろう。であれば、それを武器として使わないのは勇儀としても妙な話に思える。第一八咫烏の暴走は、剣が武器として役に立つ次元をとっくに超越してしまっている。なのにわざわざ、天人しか扱えないらしい剣を借り受けようとする意図とはなんなのか。

 

「……詳しいところは飛びながら話すけど、要は神を降ろす媒体として使うだけだ。私が持てるならそれでいい」

 

 月見のこの発言で、それが氷解した。そして月見が、八咫烏の暴走をどうやって止めるつもりでいるのかも。

 なんてことはない。何千年も昔から、人間たちだって使ってきたやり方だ。

 神の怒りを治めるためには、より高位の神を勧請し、その御力を以て鎮めてもらえばいい。高位の神を招き寄せる依代として、なるほど天人が持つ剣ならばまさにうってつけだといえるだろう。

 やっと、わかった。

 

 月見はあの地獄鴉に、更にもう一柱の神を降ろすつもりだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――目の前でなにが起こったのか、しばらくの間理解できなかった。

 もう駄目だと思っていたのだ。さとりがつい口走ってしまった刃の言葉でこいしは錯乱し、無意識の塊と化して灼熱地獄に飛び込もうとした。完全にタガ(・・)が外れてしまっていて、止めようとしたお燐とさとりを、妖気の放出だけで弾き飛ばしてしまうほどだった。お燐とさとりにはもはや止められず、藤千代はどういうわけか止めようともしてくれず、こいしまでもがお燐たちの手の届かないところまで離れていってしまうはずだったのだ。

 だが、現実はそうならなかった。

 こいしが、泣いている。こいしの精神はもうとっくにボロボロで、そのせいか彼女が自らの心に課した封印が壊れかけていて、あんなにも感情を露わにして泣きじゃくるこいしをお燐は生まれてはじめて見た。そしてその涙は、もう、決して冷たく悲しい涙などではなかった。

 救われたからだ。取り返しのつかないところまで行ってしまう、ギリギリの一歩手前で。

 彼に。

 月見という名の、銀の狐に。

 

「――あ、」

 

 お燐は腰が抜けた。すぐ真後ろまで迫ってきていた悪寒が退散するように引いていって、あっという間に足腰が立たなくなった。それから言葉にもならない安堵の感情がめちゃくちゃに押し寄せていて、為す術もなく目の前の景色が潤んだ。

 見間違いなどではなかった。間違いなく月見はそこにいた。尻尾が焼け落ちてしまうほどの大火傷を負い、もう当分は目を覚まさないと思われたのに。いつもとなんら変わりない穏やかな顔をして、泣きじゃくるこいしを優しく慰めてやっていた。

 どうして彼がここにいるのかなんて、問うまでもない。

 だって、こいしは叫んだのだから――おくうを助けて、と。

 そして、月見は答えたのだから――当たり前だ、と。

 彼は、戻ってきたのだ。この悪夢みたいな現実を、変えるために。

 

「――はい、失礼しますねー」

「にゃっ」

 

 いつの間にか真横にいた藤千代が、お燐を抱え上げて跳躍した。次にお燐が降ろされたのはさとりの隣だったが、やっぱり足腰は立たないままだったので、またへなへなと情けなく座り込んでしまった。

 さとりも、お燐とまったく同じ恰好をしていた。

 

「ごめんなさい、さとりさん、お燐さん。怖がらせるようなことをしてしまって」

 

 さとりが、笑った。泣き笑いだった。

 

「もうっ……! 藤千代さんは、はじめからわかってたんですね……!?」

「ええ。私が止めるよりも、これがこいしさんにとって一番だと思いましたから」

「ばかぁ……っ!」

 

 ようやくわかった。藤千代は月見が戻ってきたとはじめから気づいていて、だからこいしを止めようとしなかったのだ。月見が止めると、信じていたから。そうならそうと一言言ってほしかった。お陰でお燐は本当に寿命が縮む思いだったし、冗談抜きでさっぱり立てなくなってしまったのだから。

 完全に、気が抜けてしまっていた。

 こいしが救われたとはいえ、おくうが暴走し続けている事実はなにも変わっていないというのに。

 灼熱地獄が、蠢いた。

 

「……!」

 

 それはもはや、『炎が噴き上がる』などと容易に言い表せる次元を超越していた。少なくともお燐の目には、蠢く炎の海原から突如として蛇が顕現したように見えた。

 炎の、大蛇。

 藤千代を襲っていた大蛇とは更に大きさの桁が違う。この場にいる全員を呑み込んだって、恐らくは呆れるほどのお釣りが来るのだろう。もしかすると、おくうの抱いていたかつての想いが、八咫烏の荒御魂に少なからず作用していたのかもしれない。

 月見を憎み、消してしまいたいと願う、悲しい嫉妬の想いが。

 炎の大蛇は天を喰らうかの如く空を駆け上がり、勢いをそのままに急降下を始める。落ち行く先は月見以外にあるはずもなく、そして月見の腕の中には、まだこいしが、

 

「――刮目なさい」

 

 ――ぱしん、と。

 大地まで喰らい尽くすかと思われた炎の大蛇が、まるで嘘のように、あまりに呆気なく、散り散りの火の粉と化して消し飛んだ。

 蛇の道を遮ったのは、なんてことはない、指で突けば破けそうな薄っぺらい霊力の壁だった。お燐にだって簡単に同じ真似ができる。そしてお燐が同じ真似をすれば、蛇の牙を一瞬足りとも止められずに体ごと喰い破られるだろう。

 要するにいまお燐の目の前で、さらりととんでもないことが起こった。砕けた蛇の残火が花びらのように散る中を、凜と翔け抜けていくひとつの影があった。

 

「――まったく、あなたは一人で先行しすぎです! こういうときばかり無茶が過ぎるっ!」

 

 目を疑った。そりゃあそうだ――灼熱地獄へ背を向ける月見を守るように、四季映姫・ヤマザナドゥが降り立ったのだから。

 もっとも、決してありえない相手ではない。絵に描いたように仕事真面目な閻魔である映姫は、鬼たちがしっかり地霊を管理しているかしばしば旧都まで調査にやってくる。その延長線上で灼熱地獄跡の管理状況もチェックしていくため、地霊殿の住人ともある程度の関わりがあるのだ。

 だがまさか、このタイミングで彼岸から遥々駆けつけてくるとは誰に予想できよう。おにーさんって閻魔様とも知り合いだったんだとか、あれちょっと待ってこれって閻魔様のお説教コース確定の流れ? とかお燐がぼんやり考えている隙に、目の前の状況がまさに急転直下で変化していく。

 映姫に続いて、お燐の真上を更にふたつの人影が翔け抜けていく。片や星熊勇儀、片や比那名居天子、灼熱地獄が再度蠢き次は左右から二匹の蛇、だがこれを、

 

「――せぇいやあああああっ!!」

 

 勇儀が拳に妖力を集中、裂帛の気合ともに衝撃波と変えて放つ。二匹の蛇がまたも呆気なく消し飛び、その頃には比那名居天子が月見の前にいて、

 

「月見! これ、緋想の剣!」

「ああ。……この子を頼む」

「うん!」

 

 手にしていた緋色の剣を地面に突き立て、こいしを抱えてすぐさま飛翔。頭がまるで追いつかないお燐の目の前にこいしを降ろすなり、霊力を開放して叫ぶ、

 

「ここから動かないで! ここは、私が! ……私が、守るから!」

 

 鴉が啼く。大気を振るわす羽音が聞こえる。噴き上がる炎の密林を越え、おくうの――八咫烏の気配が猛烈な勢いで迫ってくる。

 頭の片隅で誰かの声が聞こえる――いつまでぼけっとしているつもりだ、いい加減に正気に返れと。無論、頭ではわかっているのだ。だが、目まぐるしく変化するこの状況を前にして体が完全に硬直している。どうすればいいのかが一向に思い浮かばない。そもそもの話、月見たちがなにをしようとしているのかすらまだほとんど理解できていない。

 闇を払ったのは、お燐の耳朶を凜と打つ天子の声だった。大切な人が傷ついた現実に打ちひしがれていた少女は、もう目の前にはいなかった。

 

「大丈夫。今度こそ――今度こそ、月見が助けてくれるから!!」

 

 ようやく、わかった。遠目でもはっきりと見て取れる、月見はなぜ立っていられるのか不思議なほどの満身創痍だったのに。ただ立っているだけでも、きっと想像を絶するほどの激痛に襲われていたはずなのに。

 それでも彼がここに戻ってきたのは、ただこいしを止めるだけではなく。

 ――あの人は、本当に行くつもりなんだ。すべてを灼熱地獄に呑み込む、途方もない炎の災害を相手に。荒御魂に押し潰され、泣いているおくうを、助けるために。

 神を、超えるために。

 

「……どうして」

 

 はじめは、聞き間違いかと思うほど小さく短い一言だった。お燐が主人に目を向けたとき、さとりはその瞳に涙すらにじませて天子を見上げたところだった。

 

「どうして月見さんは、あそこまでしてくれるんですか……!? 今度こそ! 今度こそ、もう怪我じゃ済まないかもしれないのに……!」

「このままじゃあよくないからよ」

 

 即答、

 

「あなたはこのままでいいの? よくないでしょ? だってこのままじゃあなにひとつもいいことがないし、誰も笑えない。絶対に後悔する。……だから、月見はやるの」

「――、」

 

 それは、なにも特別なものなどないごくごく当たり前の理屈だった。「このままでは後悔するからやる」。月見だけの考え方、月見だけの信念というものではなく、至って誰にでも当てはまるありふれた本能の話だった。

 こいしに助けてと言われたから、ではなく。

 おくうが苦しんでいるから、でもなく。

 そういう義理人情よりひとつ手前の次元で、月見がおくうを助けるのは当たり前の話なのだ。

 藤千代が、ふっと微笑んだ。

 

「やっぱり月見くんは、泣いている誰かを放っておいたりはしないですよね」

「うん。……だから月見は、もう、絶対に負けない」

 

 でも。

 でも、だからって。

 お燐には理解できない。どうしてこの二人は、こうも掛け値なしに月見を信じられるのだろう。どうして満身創痍の彼を、この期に及んで止めないのだろう。

 

「あ……!」

 

 気がつけば、月見はもう行ってしまっていた。勇儀と映姫を連れて、灼熱の火の粉が舞い散る紅蓮の空へ。気づいた瞬間無意識に突き動かされ、お燐はその傷だらけの背中を呼び止めていた。

 

「おにーさんっ!」「月見さんっ!」

 

 奇しくも、それはさとりとまったく同じだった。お燐とさとりは一瞬驚いて顔を見合わせ、けれど構わずにまた月見の背へ向けて叫んだ。

 月見を呼び止める理由なんて。

 彼の背中に掛ける言葉なんて、これ以外にありはしないのだと、確信していたから。

 

「「おくうを、お願いしますっ……!」」

 

 月見は答えなかったし、振り返りもしなかった。

 けれど代わりに、尻尾が動いた。真っ黒に燃え尽き、どうやら一尾ではないらしいが、かといって何尾あるのかもわからない無惨な姿となった尾が。

 炎を、噴き上げた。

 その光景を、きっとお燐は未来永劫忘れることなどないであろう。望む望まざるにかかわらず、あまりにも鮮烈に網膜へと刻み込まれた。

 言葉にすればどちらも同じなのに、彼の炎は、灼熱地獄で荒れ狂う紅蓮の炎とはまるで根底から違っていた。色だってそうだし、なによりちっとも怖くなかった。それどころか、見るだけで心が奮わされるような心地さえした。

 こんな炎が、この世に存在するのだと。そう、心を奪われた。

 

 銀。

 この世のどんな銀よりも美しく、

 この世のどんな炎よりも気高く燃える、

 銀の炎の、十一尾だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 緋想の剣を手に取る。

 広がり続ける灼熱地獄を、迫り来る八咫烏の気配を前にして、月見はひとつ、ゆっくりと長く息を吐く。

 言う。

 

「――三人とも、頼んだよ」

 

 

 

 星熊勇儀は、月見の言葉を思い出す。この灼熱地獄へ戻ってくるまでの空の道で、彼は勇儀にかく語った。

 

『――向こうに着いたら、状況次第だが私はすぐに術の構築を始める。勇儀、お前に頼みたいのは八咫烏の相手だ。

 怒り狂っているとて相手も神。私が術を使おうとすれば、まず迂闊に近づいてきてくれるとは思えない。もしかすると、私たちを無視して旧都に向かっていくとも限らない。いろんな可能性が考えられる――そこでお前だ。

 ただ見ているだけなんて、お前の性に合わないだろう? 私が術を構築するまでの間、存分に戦って八咫烏を足止めしてくれ。ただし、絶対に墜とされるなよ。術の構築が完了したら、私の目の前に八咫烏を引きずり出してもらう――こっちがお前に頼みたい本命だ。依代の命を脅かさない範囲で、手段は問わない』

 

 面白い。

 月見が付け加えた情報によれば、八咫烏は遠距離からの砲撃を攻めの主体とし、かつその威力は岩をも容易く石塊に変えるという。つまりは、肉弾戦を得意とする勇儀にとってお世辞にもやりやすい相手とはいえない。しかも、ただ戦えばいいというものでもない。向こうは強力無比な神の力を操るが、依代となっているのはあくまで、地獄鴉という妖怪の中でも脆弱な肉体でしかないのだ。勇儀ほどの妖怪が迂闊に攻撃すれば、それだけで『依代の命を脅かさない範囲』を容易く外れてしまうかもしれない。

 こちらは依代を必要以上に傷つけぬよう心を砕かねばならない一方で、向こうは容赦なく勇儀を灼熱地獄に取り込まんとするだろう。そんな状況下でひたすら時間を稼ぎ、時が満ちるや否や、打って変わって地獄鴉を月見の前に引きずり出さなければならない――あまりのしち面倒くささに笑いが込み上げてくる。

 しかし、だからこそ滾る。

 

「――来た」

 

 はじめは、炎と同じ色で輝く星のように見えた。

 一瞬だけ。

 もはや鴉とも表現し難い、凶悪な妖魔の如き咆吼。放たれた轟音は衝撃波となり、禍々しい神気は波動となり、勇儀の全身に暴風と化して襲いかかってくる。

 思わず腕で顔を庇い、一歩後ずさった――その一瞬で八咫烏は、もう互いの相貌も容易く見て取れるほどの距離にいた。

 

「  。 、  ―― ?」

 

 己の身の丈すら上回る、巨大すぎる大翼を羽ばたかせ。

 胸元の瞳が、目も眩む深紅で燦然と光り輝き。

 全身を、木の根が這うような赤い紋様で侵食され。

 絶えず炎を噴き。

 その双眸は、血と闇の色で潰れ。

 人の言葉など、疾うの昔に失っている。

 なまじっか依代となった少女の形を留めているからこそ、それはおぞましく、そして哀れな異形の化物の姿だった。

 

「……」

 

 ここまで荒御魂に侵食された依代を見るのは、さしもの勇儀も生まれてはじめてだった。間違いなく、肉体には勇儀の想像も絶する負荷が掛かっていよう。もしも依代となった少女の意識がまだどこかに残っているのなら、きっと地獄へ落とされたような苦しみの渦中にいるに違いない。

 首を振った。

 

「――さて。あんたが用があるのは月見だろうけど、あいつは今ちょっと支度中でね」

「  ?    、」

「準備が整うまで、まずは私に付き合ってもらうよ」

 

 両脚を、肩より少し広く開く。浅く広げた両腕の、爪の先をも突き破って、全身に力が迸るイメージ。武者震いする掌を拳に変え、一息、胸の前で甲を打ち合わせ、

 ――数百年振りに、星熊勇儀は『鬼の四天王』となる。

 地底へ下り、争いの少ない穏やかな日々を過ごすようになってからは、『四天王』という肩書きなどあってないに等しいものだった。とりわけ弾幕ごっこが普及してからは鬼として力を振るう機会すらまるでなくなり、己の中に巡る鬼の血は、このまま次第に錆びついていくのだろうかと思っていた。

 随分と久し振りに、鬼に戻ったような気がした。

 ケンカしたいなあ――あのとき旧都の空を仰いで呟いた一言が、まさかこうも簡単に叶ってしまうだなんて。無論、勇儀の役目は時間稼ぎである。これは倒すためではなく、守るための戦いだ。しかしそれでも、神話クラスの荒御魂と戦える機会なんてもう二度と巡っては来るまい。

 ぜんぶが終わったら、思う存分萃香に自慢しようと思う。いい気味だ、あいつならきっと地団駄を踏んで悔しがるだろう。

 神の荒御魂と拳を交えたのも。

 月見という友から、命を託されたのも。

 そのすべてが、鬼の冥利に尽きる至上至高の誉れだ。

 

「――鬼の四天王が一、星熊勇儀」

 

 故に、勇儀は名乗る。相手へ聞かせるためではなく、自分自身の誇りへ誓うために。

 

「全身全霊、お相手仕る……ッ!!」

 

 その宣言を、八咫烏が理解したのかどうかはわからない。単純に、勇儀が放った桁外れの妖気に反応を返しただけだったのかもしれない。

 しかしどうあれ八咫烏は、咆吼を以て勇儀に応えた。

 噴き上がる火柱の群れが、再びその姿を変えていく。ある炎は大蛇に。ある炎は鳥に。また或いは灼熱地獄から炎を取り込み、巨大化し、まさに際限などなく増殖していく。

 それはさながら、赤い墨で描かれた深遠なる妖怪絵巻。

 炎の大蛇、ざっと数えて十以上。炎の鳥――まさしく無限。

 眼前を埋め尽くす文字通り桁違いの戦力差を前にして、勇儀は笑った。牙を剥いて笑った。

 

「上、等ォ……ッ!!」

 

 鬼が吼え、鴉が啼く。爆ぜるは豪炎、逆巻くは烈風。大妖怪と神の激突が、変わり果てた地底の姿を更に凄絶に変容させていく。

 人智を彼方へ置き去りにした、紅蓮の嵐が吹き荒れる。

 

 

 

 四季映姫は、月見の言葉を思い出す。

 

『――映姫、お前に頼みたいのは防御の方だ。一度術の構築に入ると、なにもできなくなるわけではないが、体がこの有様だからほとんど無防備に近くなる。向こうだって、そんな格好の的をわざわざ放っておいてはくれないだろう。

 勇儀が捌ける量にも限界がある。だから、術を構築し終えるまでの数分間、なにがなんでも私を守ってほしい。――頼めるか?』

 

 愚問だ。実際映姫はそう即答したし、八咫烏の力を目の前にした今でも答えを変えるつもりは毛頭なかった。

 これしきの炎から月見を守る程度、まったくもって造作もない。別に自信過剰なわけでも、八咫烏の力を侮っているわけでもない。ただ厳然たる事実として、四季映姫・ヤマザナドゥにとってはまさしく容易いことなのだ。

 立ち塞がるのは炎の大蛇が十余、炎の鳥が数える気も起きぬほど――なるほど、数と量だけならば一見無茶苦茶に思える。しかし数と量如きに左右されてしまう程度なら、映姫ははじめから閻魔の務めなど任されてはいない。

 

「――あなたには、言っていませんでしたが」

 

 緋想の剣を手に取り、術の構築に向け精神を研ぎ澄ませる月見へ、映姫は矢庭に声を掛ける。本来であれば術の妨げになるので避けるべきだが、まさかこれしきで集中を乱されるほどの愚鈍ではあるまい。

 

「私の能力は、『白黒はっきりつける程度の能力』といいます。これは主に、地獄の裁判で公平無私な判決を下すためのものですが――応用として、結界と非常によい相性を発揮します」

 

 映姫が見上げる先では、八咫烏が炎を生み、星熊勇儀が風を生み、敵味方の区別もない紅蓮の嵐が逆巻いている。この嵐が生み出す雨はすなわち火の粉だ。風に乗って荒れ狂い、吹雪が如き勢いで映姫と月見に肉薄する。

 映姫は、静かに悔悟棒を振った。否、振ったというよりも、ただ単に左から右へ動かしたと表現した方が近い。

 たったそれだけで、幾百の火の粉がすべてふわりと掻き消えた。

 

「外の如何なる危害をも退け、内を守る――結界の外と内で、白黒をはっきりつけるわけです」

 

 これが、映姫が月見を守り切れると自負する理由だ。自身の能力で強化した堅牢無比の防壁。結界という手段で対抗できるものであれば、この霊力の壁はありとあらゆる危害を問答無用で遮断する。

 例外はない。なぜならそれこそが、映姫の持つ能力なのだから。

 

「何人足りとも、私の結界を破ることなどできません。私がつける白黒は絶対です」

 

 はじめ、月見へ襲いかかった炎の大蛇を消し飛ばしたのも映姫の結界である。たとえ神話に名を刻んだ神の力であろうとも、映姫の前では一切が平等に扱われる。

 

「だからあなたはなにも気にせず、術に全神経を注ぎなさい。私がこの場にいる限り。あなたの命は、この私が守ります」

 

 ……とはいえ、まさか思ってもいなかった。半分以上が成り行きとはいえ、自分がこの狐から命を託されたりするなんて。それだけ頼りにされたのだろうかと思うと、映姫はむくむくと嬉しくなった。やはりこれは、日頃から時間を見つけては水月苑へ足を運び、家事の手伝いを通して自分が頼りになるお姉さんだと繰り返しアピールしてきた成果であろう。幻想郷で再会してからおよそ半年、映姫の計画はいよいよ結実の時を迎えつつある。

 しかし、これで早くも満足してしまってはダメだ。映姫が水月苑通いをやめた瞬間、この狐は映姫という存在のありがたみを忘れ、調子に乗って昔の態度に戻ってしまうかもしれない。そうさせないためにも、映姫は今後も水月苑に通い続けなければならない。そう、これは閻魔として重要な責務のひとつなのだ。

 断じて、最近ちょっとお手伝いが楽しくなってきているわけではない。

 八雲藍や十六夜咲夜に対抗意識を燃やしているなんて、ぜんぜんちっともそんなことはない。

 気がついたら今度作ってあげる献立を考えているだなんて、ありえないったらありえないのである。

 ともかく、映姫が言いたいことはただひとつだ。

 

「さっさと終わらせてしまいなさい。……そうしたらちょっぴり、見直してあげますから」

 

 八咫烏の荒御魂の暴走。一体なにがどうなってこれほどの尋常ならざる事態が引き起こされたのか、経緯はさっぱりわからないけれど。

 なんであれ、この男は必ず成し遂げるであろう。だから映姫は、求められた通りに力を貸すだけでいい。

 そう信じられる程度には、一応、映姫だってこの狐を認めているのだから。

 

 

 

 比那名居天子は、月見の言葉を思い出す。

 

『――天子、お前にもうひとつ頼みたい。さとりたちを、守ってやってくれないか』

 

 はじめは戸惑った。どうして自分なんかにそんな話をするのかと思った。自分は弱くて、足手まといで、今回だって月見に守られ、彼にひどい怪我をさせてしまった。なのにこの期に及んで、どうして彼が自分を頼ってくれるのかわからなかった。

 向こうに戻ったら、藤千代だっているのに。

 そう答えたら、彼はそっと薄く笑んで、

 

『じゃあ、このまま、なにもしないのか?』

 

 その言葉で、天子は目を覚ますことができたと思う。

 

『天子、私はね。今のさとりたちは、昔のお前と同じだと思ってる』

 

 この異変は、かつて天子が起こした緋想天の異変と同じだ。天子だって、こいしだって、おくうだって、誰も、なにも悪いことをしたいわけではなかった。なのにどういうわけか歯車が噛み合わなくて、ほんの小さな過ちが取り返しのつかない事態を招いてしまって。自分が間違っていたと身が千切れるほど後悔するのに、呼び覚まされてしまった未曾有の怒りを、どうやっても止めることができなかった。

 

『だから、千代にじゃない。お前に、守ってやってほしいんだ』

 

 そう言われたとき、天子は本当に嬉しかった。もしかすると、単なる詭弁だったのかもしれない。たとえどんな理由があろうとも、さとりたちを守る役目に最適なのは、天子ではなく藤千代だったのかもしれない。でも、詭弁だっていいのだ。

 月見だって、言っていた。

 このままなにもしなかったら、絶対に後悔する。

 だから天子は、戻ってきたのだ。

 迷いなど、もはやあるはずもなかった。今だけは邪魔な長い髪をまくり上げ、膝をつき、天子は両の掌を強く大地に押し当てた。

 傍らから、藤千代の疑問の声が降った。

 

「……なにを?」

「私の能力で、大地の崩壊を止められるかやってみる」

 

 天子が持つ能力は、『大地を操る程度の能力』である。神様のように大地の形を自由に作り替えたりはできないけれど、代わりに地震や土砂崩れなどの自然現象を制御する。地震を起こして大地を崩すことができるし、逆に大地の崩壊を食い止めることもできる。

 天子は、この能力が決して好きではなかった。天人である天子にとっては元々使い道が少なく役に立たないものだったし、なによりこんな力を持っていたせいで、天子は夏の異変で間違えてしまったのだから。天子にとっての『大地を操る程度の能力』とは、力というよりも『罪』と呼ばなければならない、呪いのような能力だった。

 その『罪』を、今度は誰かを傷つけるためではなく、守るために。

 果たして本当にできるのか、天子自身にも確証はない。大地の崩壊はすでに見渡しきれぬほど広大な範囲に及んでいるし、なにより相手は荒ぶる正真正銘の神なのだから。天子如きではまるで歯が立たないかもしれないし、できたところで途轍もない負荷に襲われるのは確実だろう。そもそも、こんなことをしてなんの意味があるのかだってわからない。今更ちょっと崩壊を食い止めたところで、すでに崩れ去ってしまった広大な規模から見れば、あってもなくても同じなのかもしれない。

 ――じゃあ、このまま、なにもしないの?

 否だ。望む先では、勇儀が八咫烏の猛攻を食い止め、映姫が炎から月見を守り、月見が緋想の剣とともに術の構築を始めている。誰しもが、自分にできることに全力を尽くしている。だから天子だってやるのだ。

 

「――」

 

 深く息を吸い、あの夏の異変振りに天子は能力を発動する。己の両腕から注ぎ込む霊力が、大地の隅々まで巡り巡って浸透していくイメージ。崩壊する大地を包み込み、抑制し、そのまま神の領域まで触れる、

 途端、筋肉が裂けたかと思うほどの激痛が両腕を襲った。

 

「っ――!!」

 

 反射的に両手を大地から離す、その寸前で辛うじて天子はこらえた。耐えられたのは、こうなるとあらたかじめわかっていたからだ。やはり、ただの地震を抑え込むのとは次元が違う。

 恐らく、こちらが大地に力を注いで崩壊を止めようとするように、向こうもまた地脈を通じて天子を攻撃してきたのだと思う。次は容赦などしない――そんな警告の意味が込められていたはずだ。

 知ったこっちゃなかった。こんなの、月見が堪え忍ぶ痛みと比べればほんの掠り傷みたいなものだった。月見は尻尾がぜんぶ焼け落ちて、背中を中心とする体中に火傷を負って、立っているのもやっとなはずなのに、それでも諦めずに頑張っている。だから、天子だって頑張るのだ。

 再び大地に力を注ぐ。すぐさま跳ね返ってきた激痛を歯を食い縛って耐え、天子は能力を使い続ける。

 果たして本当に崩壊を抑え込めているのか、天子の場所からでは知りようもない。それでも、それでも。

 

「頑張って、月見……ッ!!」

 

 そうすれば天子だって、たとえ両腕が裂けたって無限に頑張れる。

 更に霊力を開放し、天子は周囲を囲む光の結界を展開する。閻魔様が操る結界とは比べるべくもないけれど、火の粉くらいは防げるはずだ。

 ただし、もしも灼熱地獄の空で荒れ狂う炎の大蛇が一度でも牙を剥けば、そのときはもう藤千代に頼るしかない。これが、今の天子にできる精一杯。まるで途方もない力の違いに、小さな自嘲が口からこぼれた。

 

「……ごめんね、藤千代。私なんかがこんなことしたって、高が知れてると思う。でも」

「――いいですよ」

 

 しかし天子の言葉を遮って、藤千代はそっと、可憐に微笑みかけてくれた。

 

「今の天子さん、すごく、素敵です」

「……、」

「きっと、月見くんにも届いてると思いますよ。……ほら」

 

 藤千代が見遣った先に、天子もつられて目を向けた。映姫の結界に守られる中で、一見すると、月見はただぼけっと突っ立っているように思える――けれど、天子は確かに見た。確かに、聞いた。

 

「 ―― 夫神は 唯一にして 御形なし 虚にして 霊有 」

 

 銀。

 それは、神に捧げるための(うた)。神に捧げるための炎。

 銀毛十一尾。

 銀火の尾を神楽のように棚引かせ、月見は蕩々と(うた)(うた)う。

 毒を以て毒を制す。神を以て神を制す(・・・・・・・・)

 

 日本全国三万二千社、神社の中でも最大勢力を誇る稲荷神社の主祭神。人々から集める信仰の篤さという一点に限れば、天照大神にも大国主命にも決して引けを取らない、まさに日本屈指と呼ぶに相応しい神の中の神。

 

 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――誠に己は、つくづく頼もしい味方に恵まれたものだ。

 心の底から痛感する。生来戦好きの勇儀はもちろん、人間の天子や、成り行きで巻き込まれたも同然の映姫まで快く力を貸してくれるのだから。あいかわらず全身の痛みは最悪の一言だが、一方で心は嘘のように淀みなく静まり返っていた。

 

「 天地開闢て 此方 国常立尊を 拝し奉れば 天に次玉 地に次玉 人に次玉 」

 

 もちろん、月見は十一尾の妖狐という極めて特殊な存在なので、妖怪の賢者や鬼子母神、天魔らと同様に人外の世界では割と名が知れている。妖怪は当然ながら、洩矢諏訪子や八坂神奈子を始めとする神の知人友人というのもそこそこ多い。

 狐を眷属とする稲荷神――宇迦之御魂神とは、まあ、古くからたびたび酒を酌み交わしてきた仲とでも言おうか。だから妖怪の月見でも、即席の儀式ひとつで簡単に呼び出すことができるのだ。

 

「 豊受の神の流れを 宇賀之御魂命と 生出給ふ 」

 

 しかし即席の儀式とはいえ、どうしても数分の時間が掛かるのは事実。その数分を作り出すため力を貸してくれる味方に恵まれたのは、まさに僥倖というものなのだろう。

 己が身ひとつで八咫烏を引きつけてくれている、勇儀も。

 完全無欠の結界で月見を守ってくれている、映姫も。

 地底の崩壊を見事に食い止めてくれている、天子も。

 ここまでしてもらって、「ダメでした」なんてみっともない姿は晒せない。

 

「 永く 神納成就なさしめ給へば 天に次玉 地に次玉 人に次玉 」

 

 灼熱地獄の空では、炎の嵐が逆巻いている。鬼が吼え、鴉が啼く。勇儀と八咫烏が、互いに流星と化して幾重もの交錯を繰り返している。でたらめな速度で飛んできた流れ弾が、映姫の結界に弾かれて虚空へ消える。

 

(……空)

 

 交錯を重ねるたびに、おくうの体が更に異形の姿へと作り変えられていく。翼はなおも巨大化を続け、足が鳥の鉤爪へ歪な変化を遂げ、両腕から黒い羽根が生え始めている。荒御魂の侵食が、精神のみならず肉体にまで進んでいる。恐らくそう遠くないうちに、霊烏路空という少女は身も心も完全に八咫烏へと変わり、消滅するだろう。

 

「 御末を請 信ずれば 天狐 地狐 空狐 赤狐 白狐 」

 

 やらせない。やらせはしない。

 せっかく勢いづいているところ悪いが、八咫烏にはなにがなんでも引っ込んでもらう。宇迦之御魂神の力を借りて荒御魂を鎮め、その上で自力の封印を施し、おくうを式神にして(・・・・・・・・・)完全な制御下に置く。たとえおくうが望んだとしても、こんな暴走はもう二度とできないように。

 

「 稲荷の八霊 五狐の神の 光の玉なれば 誰も信ずべし 心願を以て 空界蓮來 」

 

 妖力の大半を持って行かれるだろうが、構いやしない。強大な妖力など所詮、今の世ではただ持て余すばかりの代物なのだ。半分だろうが全部だろうが、好きなだけ持って行くがいい。

 その代わりに、おくうは返してもらう。

 泣きながら、おくうを助けてと。そう(こいねが)う家族が、彼女にはまだいるのだから。

 

「 高空の玉 神狐の神 鏡位を改め 神賓を於て 七曜九星 二十八宿 當目星 有程の星 ―― 」

 

 緋想の剣に神気が満ちる。緋色の刀身が、少しずつ、少しずつ穢れない白へと染まっていく。

 

 五分。それより長いということは絶対にない。

 

 あと五分で、すべてが決着する。

 己の全を賭して、月見は。月見たちは。

 

 神を、超える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑫ 「神を超えろ ②」

 

 

 

 

 

「――そうか。霊夢と、魔理沙が」

 

 なるべく平静を意識したつもりだったが、その言葉には決して誤魔化しきれない動揺と後悔の色がにじんでいた。恰好つけているのは見た目だけで、内心では完全に取り乱してしまっている自分を未熟だと猛省したが、同時に無理もないと擁護もした。もしも紫が今の藍の立場なら、きっと上を下への大混乱で大暴走するだろうから。

 間欠泉の監視を橙に任せ、異変の様子を窺いに水月苑まで戻ってきた藍が聞かされたのは、霊夢と魔理沙が負け、月見たちが異変を止めに向かったという到底信じがたい事実だった。スペルカードルールならば凄腕の実力を持つ霊夢たちが、一体なぜ、誰に負けたのかについては、この話を聞かせてくれたわかさぎ姫も詳しくは知らなかった。ただ少なくとも、この異変に絡んでいる地底の妖怪は三人――『お燐』と『おくう』と『こいし』であると、わかさぎ姫は言った。

 いずれも、知らない名だ。

 

「……で、でもでも、霊夢さんと魔理沙さんの無事は確認できてるんです。『お燐』という妖怪さんが、助けてくれたみたいで。旦那様のお知り合いみたいだったので、嘘ではないと思うんです。旦那様も、『お燐』さんのことは信じていましたから……だ、だからその、心配は要らないと思うんです」

「……ありがとう」

 

 身振り手振りで一生懸命説明してくれるわかさぎ姫を見るに、だいぶ気を遣われたようだった。どうやら、心の動揺を律しきれないばかりか、顔に出てしまっていたらしい。改めて己の未熟を痛感し――同時に、心優しいわかさぎ姫のお陰でいくらか余裕を取り戻した。

 吐息。

 

「まさか、こんなことになるとは……」

「……はい」

 

 藍は思考を回転させる。真っ先に考えたのは、当然ながら主人を起こすべきかどうかだった。一度冬眠に入った紫は雷が鳴ったって地震が来たっていぎたなく爆睡を続けるが、もちろんそれなりに手を尽くせば起こすのも可能ではある。霊夢と魔理沙が負け、そして大妖怪である月見に助けが求められたとなれば、これはどう考えても普通の異変ではない。主人を涙目にしてでも叩き起こし、対処に当たらせるべきではないか。

 しかし一方で、そこまでする必要はないと考える自分もいる。月見ならなんとかしてくれるはずだという信頼があるし、第一地底には、紫ですら顔面真っ青で白旗を挙げる鬼子母神という化け物がいるのだ。月見と藤千代。この二人が合わさって解決できない事態があるとするならば、それは世界の終焉くらいなのではないか。せっかく叩き起こしたとしても、結局月見たちが解決してくれたので意味ありませんでした、では主人に対して少々立つ瀬がなくなる。

 藍は、視線をわかさぎ姫のいる池から庭へと転じる。目に入ってきたのは、

 

「――というわけでわかった? お庭っていうのはね、やってきたお客さんがはじめに通る、言ってしまえばその家の『顔』なのよ。ここが手入れされてなかったり殺風景だったりすると、ああここに住んでる人はそういうやつなんだなって見くびられることになるの。……まあこれは、あの庭師の受け売りだけどね。ともかくあなたたちがメチャメチャにしたのは水月苑のお庭であり、同時に水月苑の『顔』でもあるの。私の友達が『そういうやつなんだな』ってお客さんから見くびられたら、あなたたちどうやって責任取るつもり? ねえ?」

「「「……ぐすっ」」」

 

 冬の寒さがしんしんと染みる水月苑の縁側に横一列で正座させられているのは、地底からやってきた妖精たちと、彼女らを子守りしていたはずのにとりと響子である。

 そして横一列で正座した彼女たちをくどくどとお説教しているのは、フラワーマスターこと風見幽香である。

 こちらの経緯も、わかさぎ姫が大雑把に説明してくれた。――月見たちが地底に向かってからしばし、とりあえず庭の片づけをしようかという話をしていたところで、突如としてフラワーマスターが襲来した。妖精たちの雪遊びですっかりぐちゃぐちゃになった庭をひと目見るなり彼女は一発でブチ切れ、わかさぎ姫以外を縁側に正座させて説教を始めてしまった。当初はわかさぎ姫も標的に入っていたが、「わ、私は旦那様に留守を任されましたので、ここを動くわけにはいきませんっ!」とダメ元で言ってみたところ、「あらそうなの、お勤めご苦労様。頑張って月見の期待に応えるのよ」とすんなり納得されて事なきを得た。にとりたちから裏切り者を見る目をされた。今では正直ごめんなさいと思っている。

 もうかれこれ、三十分くらいやっているらしい。我慢というものを知らない妖精たちも、幽香の全身から迸る恐ろしい妖気の前には、涙目で縮こまることしかできないのだった。

 藍は、また吐息。

 幽香と目が合った。彼女はにっこりと微笑んで、

 

「あら? あなたも植物とお庭のありがたいお話に興味があるの?」

「い、いや、別にそういうわけじゃ」

「――え? 別にそういうわけじゃない?」

「いっいやいや実に興味はあるけど残念ながらそれどころではなくて」

 

 にっこり笑顔を微動だにもさせないのが逆に恐ろしい。

 幽香はふんと小鼻を鳴らし、

 

「どうせ月見のことでも考えてるんでしょ。バレバレよ」

「ま、まあ……月見様が地底に向かったとはいえ、紫様を叩き起こすべきかどうかとね」

「あなたはあいかわらず真面目ねえ。そんなの、ほっといたって月見がなんとかするわよ」

 

 あまりに当然のように言うので、反ってどうでもよさそうに聞こえた。一応問うてみる、

 

「……根拠は?」

 

 幽香はやはり平然と、

 

「友達を信じるのは当然のことよ」

 

 風見幽香は大変な友達想いである。そして、彼女が心の底から友と認めたのは月見だけであり――いや、そういえば最近、魂魄妖夢が記念すべき友達第二号に名誉認定されたのだったか。ともかく風見幽香の中で友達という概念は半ば神格化されているので、「友達を信じるのは当然」という妖怪らしからぬ発言も平然と飛び出してくるのだ。

 むう、と藍は腕組みをした。ここまではっきり言い返されてしまうと、なんだか自分の方が月見を信用していないみたいで負けた気分になってくる。いやいや、もちろん、当然、信じてはいるのだ。その点は幽香にだって負けるつもりは毛頭ない。しかし今の藍は紫に幻想郷を任されている立場なので、あまり希望的観測で物事を判断するわけにはいかないのである。

 でも、いやしかし、いやいやいや。

 

「……また難しいこと考えてる」

「……むう」

「そういうときはガーデニングに限るわよっ。植物たちと触れ合えば自ずと答えは見えてくるって、相場が決まってるの!」

 

 藍は苦笑した。こいつは毎日が幸せそうだなあ、と思った。幽香ほど単純に、かつ純粋に物事を考えられれば世界も優しかろうが、これが藍の性分なので仕方がない。

 

「いや、悪いけど遠慮する。とりあえず、月見様のところに式神を飛ばしてみるとするよ」

 

 勝手ながら、屋敷にある月見の私物をひとつ拝借する。畳に尻尾の毛が落ちていればそれでもよい。人が身につけていた物を使って、式神に持ち主の居場所まで縁を辿らせる術――式神を操る藍には造作もないことだ。

 幽香が呆れた素振りで肩を竦めた。

 

「あなたって、ほんと真面目」

 

 性分なもので。

 それはそうと、幽香が藍との会話に気を取られている隙に、にとりたちがそろそろと忍び足で逃げ出そうとしているのだが、

 

「――さて、あなたたち?」

 

 幽香が稲妻のように振り向いた。にとりたちが「ぴえ」と変な声をあげて固まった。幽香は、どさくさに紛れて逃げ出そうとしていた彼女らをまるで歯牙にも掛けず、

 

「少し話が逸れちゃったけど、お庭の大切さはこれでわかってくれたわよね? だから、ありがたい話はひとまずおしまい」

 

 にとりたちがぱああっと救われたように明るくなり、

 

「――というわけで次は実践よ。遊ぶ前より綺麗にさせるから、覚悟しなさい」

「「「……ひっく」」」

 

 上げてから叩き落とす。さすがフラワーマスター、植物のことになるとまるで容赦がない。

 にとりたちが救いを求めてこちらを見つめてきたが、こればっかりは藍にだってどうしようもない。というか藍も内心では、ぐちゃぐちゃになった庭があまりにひどいので、できればどうにかしてほしいと思っていたりする。元凶の妖精たちはさておき、にとりと響子にとっては不幸以外の何物でもないが、その分だけあとで月見が労ってくれるであろう。

 なので藍は笑顔で、

 

「頼んだよ、みんな」

 

 途端に噴出したブーイングの嵐を聞き流して、藍はさっさと屋敷の中に退散した。いつまでもあそこにいては、そのうち自分まで巻き込まれるんじゃないかと怖くて怖くて仕方がない。紫の屋敷の家事全般を任される者として、ある程度の庭仕事には覚えがあるものの、それでもフラワーマスターの一方的すぎる情熱についていけるほどではないのだ。

 さて、式神に埋め込んで月見までの縁を辿るなら、やはり髪か尻尾あたりの毛が一番使いやすい。茶の間を探せば一本くらいは見つかるだろうか――いや待て、例えば茶の間に銀色の毛が落ちていたとして、それが月見のものだとは必ずしも断言できない。この屋敷に立ち入る銀髪の何者かといえば、なにも主人の月見だけとは限らないからだ。

 まずは十六夜咲夜、彼女は藍と並んで最も水月苑の家事を手伝っている少女だから、畳の上に髪の毛の一本が落ちていたところでなにもおかしくはない。次に魂魄妖夢、彼女もしばしば水月苑の庭を手入れしに訪れている。更には藤原妹紅だって、時折ふらりとやってきては月見の傍をごろごろして帰っていく。輝夜のお供でやってきた永琳、水月苑に遊びに来た操を監視するためについてきた椛、という可能性だって否定はできない。もしかしたら森近霖之助だって、時には自分の方から友人の家を訪ねたりするのかもしれない。ああそういえば、レミリア・スカーレットの髪も、多少青みがかってはいるが銀髪と呼べる範囲ではないか。

 茶の間ではダメだ。もっと確実に、月見の髪の毛を入手できる場所でなければ。銀色の毛が落ちていれば、間違いなく月見のものだと一発で確定できるところ――そう例えば、日頃から月見以外はまず立ち入らないであろう場所が理想的であり、

 

「……!」

 

 そのとき、八雲藍に電流が走る。

 

「――月見様の、寝室」

 

 より具体的には、月見の寝室の布団。

 あそこなら月見以外の毛が落ちているはずもない。というか、落ちていたら八雲藍の総力を挙げて犯人を暴き出し、誰にも邪魔されない二人きりの空間で心ゆくまで尋問させていただく。拒否権はない。

 ――まさかな?

 

「――そうだな、緊急事態だものな。仕方ない仕方ない」

 

 そう、これは仕方のないことなのだ。今は緊急事態のため地底の月見と一度連絡を取り合う必要があり、そのためには月見の髪なり尻尾なりの毛がなくてはならない。そして茶の間に月見の毛が落ちているとは限らないから、確実を期すために月見の寝室、より具体的には彼の布団を僭越ながら拝借せざるを得ないのだ。至って論理的で合理的な結論である。

 女の毛が落ちてたらどうしよう……! なんて、ぜんぜんちっとも考えていない。

 これは、仕方のないことなのだ。

 

「うん。仕方ない、仕方ない」

 

 自分で自分に四回くらい頷いて、八雲藍は静かに出撃する。

 庭の方で幽香が「そんな乱暴に雪掻きしたら下の植物が可哀想でしょ――――ッ!!」と裂帛し、不幸な妖精が一匹、みぎゃーぴちゅーんと弾けて消えた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 戦いを始めてから、何分が経っただろう。

 そう思考で余所見をした瞬間、大蛇に喰われていた。

 

「――ッ!!」

 

 勇儀は脊髄反射で全身から妖気を発し、迫り来る炎の群れを木っ端微塵に吹き飛ばした。邪魔な思考をコンマ一秒ですべて頭の中から蒸発させる。怪鳥の如き形状に燃え盛る炎が、上空から数十の大群を成して殺到してきている。拳の妖力を衝撃波に変えて撃ち出し、一匹残らず粉砕する。立て続けに正面から飛んでくる超速の光弾に対しては、違う、更に足下から二匹目の大蛇、いや待て空からもまた

 

「っ……!」

 

 しかし勇儀が動き出すより一瞬早く、突如周囲に展開された結界がなにもかもを弾き飛ばした。

 ひゅう、と勇儀は口笛をひとつ、

 

「やるねえ! 助かったよ!」

「礼はいいですから、戦うならもっと集中なさい! 私とて、常に援護できるわけではありませんからね!」

 

 灼熱地獄の外縁に近い空から、閻魔様の鋭い叱咤激励が飛んできた。横目で一瞥すると、術の構築を続ける月見を結界で守りながら、四季映姫がこちらに悔悟棒の先端を向けている。薄々感づいてはいたが、どうやら彼女は、ただ悔悟棒を振る動きだけで自由自在に結界を展開してしまえるらしい。

 閻魔の名は伊達ではないということだ。勇儀は呪術や妖術の類に疎いけれど、札も使わず即席で、しかも複数の空間に同時に結界を展開する技術が、決して並大抵のものでないことくらいは簡単にわかった。

 どんなに少なく見積もっても、戦闘を始めてから一分は経過したはずである。

 勇儀としては、そろそろ二分近くだと思っているが――どうあれその一分か二分で、勇儀は月見や藤千代を笑えないほどボロボロの有様になってしまっていた。幸いまだ外傷こそ少ないものの、服はあちこちが焼け落ちてしまって恥ずかしいくらいだ。

 鬼の四天王の名に懸けて断っておくが、決して相手を侮ってこうなったわけではない。事情があったとはいえ、相手は月見すら墜とした神の荒御魂。もちろん、はじめから油断などなく戦闘に臨んでいる。

 油断などなく戦っても押されるほどの相手、ということだ。

 いくらなんでも反則過ぎる――空からは炎の鳥、灼熱地獄からは炎の大蛇、正面からは超速超熱の光弾と、ほぼ三百六十度縦横無尽に襲い掛かってくるのだから。いくら鬼の四天王と呼ばれる大妖怪とて、目は正面に二つしかついてないし、腕と脚は左右に一本ずつしかない。肉体の構造上決して克服できないその制約がある限り、どうやったって捌ける量には限界が生まれる。そして、向こうの攻撃はその限界を上回っている。つまりは、そういう話なのだった。

 ため息が出た。

 

(……はあ、惜しかったなあ。せっかくこんな強いやつが相手なのに、倒しちゃいけないだなんて)

 

 無論、こうして月見の命を預かって神の荒御魂と相対できることを、勇儀は生涯最高の誉れだと思っている。しかしやはり、戦好きの性と言わなければならないのか、湧き上がってくる『こいつを倒したい』という欲は片時も抑えることができなかった。そして、それが叶わないとわかっているからこそのため息だった。

 勇儀が好きな言葉のひとつに、『やられる前にやる』というものがある。とりわけ拳と拳のケンカにおいて、勇儀はこの言葉のような存在で在りたいと常々思っている。たとえ相手が神だろうが、どんなに強かろうが、やられる前にやってしまえば等しく塵芥の如し。憧れる。めちゃくちゃ恰好いいと思う。――ただし相手が藤千代の場合を除く。

 鬼という種族の戦闘スタイルは、大雑把にいえば二つの系統に大別される。ひとつは藤千代のように、とにかく己の肉体ひとつで相手をねじ伏せることに特化し、呪術や妖術は総じて苦手とするタイプ。もうひとつが萃香のように、己の腕っ節に重きを置くのは同じながらも、同時に妖術をも駆使してみせるタイプ。

 勇儀の戦闘スタイルは圧倒的に前者だ。そして前者のタイプは、この手の遠距離から火力で圧倒してくる輩と相性が悪い。相性が悪いからこそ余計に、『やられる前にやりたい』という欲を抑えられなくなってしまう。

 本来なら、こういう相手の足止めは萃香みたいなやつの方が向いているのだ。

 正真正銘、全力の戦いでこの神を打ち倒せたなら、一体どれほど愉しいだろうか――。

 

「……我慢しなよ、私。月見と約束しただろ」

 

 勇儀は、武者震いが止まらない右腕を左手で押さえる。己の心を律し切れず、本能に負け、友との約束を反故にしたなど鬼の名が泣く。

 

「……でも、ま」

 

 勇儀は、笑う。

 

「足止めっていっても、受け身になってちゃ面白くないしね」

 

 月見も、存分に戦って足止めしろと言っていた。ならばやはり、その通りにしなければ損というもの。

 

「――最後まで楽しませてもらうよ、八咫烏ッ!!」

 

 映姫の結界が消えるのと同時に、勇儀は翔る。足止めという目的を果たす範囲で、しかし、存分にこの戦いを楽しむために。

 ――月見の術が完成するまで、あと一分弱。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「天子さんっ! 天子さん、もうやめてください!?」

「絶ッ対やだ!!」

 

 天子のか細い腕に、次々と裂傷が走っていく。ひとつひとつの傷は極めて小さいけれど、指の先から肩に至るまでを埋め尽くし、天子の両腕を赤く染め上げていく。なのに天子はさとりの言葉にまったく耳を傾けず、能力の使用を片時たりともやめようとしない。

 お燐は、それを傍らからただ見ているだけしかできない。お燐には理解できなかった。後悔したくないから、未来の自分に誇れないから――実にわかりやすくて最もな理由だと思う。でもだからって、どうして天子は、月見は、こんなにも死力を尽くして立ち向かえるのだろう。災害と呼ぶに相応しい神の暴走を前に、どうして折れてしまわないのだろう。諦めたときにやってくる後悔よりも、いま全身を襲っている痛みの方が辛くはないのか。苦しくはないのか。

 どうして、そんなにも。

 さとりも、同じ疑問を抱いていた。

 

「おかしいですよ……!? だって天子さんは、なにもしてない! ううん、大事な人を傷つけられた、被害者じゃないですか! なのにどうして、そんなにも自分を犠牲にできるんですか……!? そこまでしないと、一体なにに後悔するっていうんですか!?」

「っ……」

 

 天子は歯を食いしばって肌を裂かれる痛みに耐え、地底の崩壊を抑え続ける。結界で、飛んでくる火の粉を防ぎ続ける。玉の汗が浮かんでいる。傷は次から次へと天子の肌を侵食し、両腕をいよいよ血まみれ同然に染め上げていく。

 そのとき天子が、表情を変えた。

 笑っていた。

 

「私……私、ね。私も前に、力の使い方を間違って、人を傷つけたの。その人の、大切なものを奪っちゃったの」

「――、」

「自分はとんでもない間違いをしたんだって気づくんだけど、どんどん取り返しのつかないことになっちゃって……自分一人じゃどうしようもなくて」

「……それ、って」

 

 こいしが、静かに息を呑んだ。その理由は、お燐にもさとりにも簡単に見当がついた。

 

「でも、助けてくれた人がいた」

 

 天子は、続ける。

 

「バカな私のために、どうしてそこまでしてくれるのって思っちゃうくらい、力になってくれた人がいたの」

 

 月見を、見ている。

 

「そのお陰で、私、やり直せて。今、とっても幸せで」

 

 両腕の傷がまるで嘘みたいに、脂汗がにじむ顔でも、照れくさそうにはにかんでいる。

 

「だから、なのかな。あなたたちのこと、ぜんぜん、他人事に思えなくて。きっと、今度は自分の番なんだって思うの。一度間違えたこの力で、今度は、奪うんじゃなくて……なにかをつなごうって」

 

 汗だらけなのに。

 傷だらけなのに。

 

「……えっと、つまり、要するに、なんていうのかな」

 

 それでも。

 それでも、

 

「――大丈夫。あなたたちも、絶対にやり直せるから」

 

 そう言って微笑む天子を、お燐は切なくなるほどに綺麗だと思った。霊夢を傷つけられて。魔理沙を傷つけられて。月見を傷つけられて。お燐たちを恨む権利だって彼女にはあったはずなのに、それでも天子は笑いかけてくれる。お燐たちの、力になろうとしてくれている。

 だからこそ、思い知らされる。天子ですら、傷だらけになってまでお燐たちのために動いてくれているのに。

 どうして自分は、なにもしていないのだろう。どうして怪我のひとつもない体で、地べたに座り込んで見ているだけなのだろう。

 本来なら、逆じゃないのか。おくうを助けようと死力を尽くしているのはお燐たちの方で、それを天子から止められているべきではないのか。なのに、そこまでわかっているのに、自分がなにをするべきなのか、自分になにができるのか、お燐の頭はまるで答えを出してくれない。

 

「……バカだよ、おねーさん」

「あはは……月見の変なトコロが伝染(うつ)っちゃったかなあ……」

 

 ――どうしてあたいは、家族一人のためにバカになることすらできないのだろう。

 今なら少しだけ、力に憧れたこいしの気持ちが理解できるような気がした。

 

「えっと……そういうわけなので、好き勝手やらせてください。あとで、いっぱい叱られるから」

「……」

 

 お燐も、さとりも、こいしも、なにも言えない。圧倒されていた。静かな言葉でも、微笑んでいても、天子の姿は強かった。迷いがなくて、まっすぐだった。

 お燐は、人知れず唇を噛み締めた――本当にこのままでいいのだろうか。まっさきに月見を頼ったお前がなにを今更、と言われるかもしれない。けれど月見を抜きにしても、天子に勇儀に映姫――今おくうを助けてくれようとしているのは、みんなおくうと関わりのなかった他人ばかりで。

 なのに昔からずっと友達の、家族同然の自分がなにもしないなんて、それでお燐は、未来の自分に自分を誇れるのだろうか。

 天子はすでに笑みを消し、能力の制御に戻っている。

 

「――ここは、私と藤千代が守る。だからあなたたちは、月見を見ていてあげて。信じてあげて」

 

 見ているだけで。信じているだけで、本当にいいのか。

 

「っ……」

 

 お燐は。

 お燐は――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ありがとう、映姫」

 

 月見が思わずこぼした一言に、目の前の映姫の背がぴくりと震えた。彼女は振り向かぬまま、

 

「……な、なんですか、急に」

「いや。閻魔様のありがたさを、身を以て痛感していたところだ」

 

 まさに、映姫様々というべきなのだろう。月見が術を構築する間、幾度炎が襲い掛かってきても、何度流れ弾が飛んできても、映姫の結界はただの一度も歪むことなく月見を守り続けてくれていた。肌で感じる、この淡い光の中にいる限り自分は絶対に安全なのだと。ひょっとすると映姫は、その気になれば藤千代の攻撃すら何食わぬ顔で防ぎきってしまうのかもしれない。

 映姫が、ぱっと振り向いた。

 

「な、なるほど。ようやくそこに思い至ったのですね」

「ああ、まったく身に沁みたよ」

「そ、そうですか、そうですかっ……」

 

 映姫がふにゃっとだらしない笑顔になる。あいかわらずチョロい閻魔様だが、そんな中でも結界は強固に展開されたままで、逆巻く炎の嵐をまったく寄せつけないのだから末恐ろしい。あんなに小さな地蔵だった少女が、本当に立派に成長したものだと思う。

 映姫はむくむくと湧き上がる達成感を隠し切れない声音で、

 

「わ、わかればよいのです。では、私を子ども扱いするのも金輪際やめにしてくださいよ」

「というか、最近はもうしてないはずだぞ」

 

 性格はいかんせんチョロくて面倒くさいが、掃除は上手だし料理は美味しいしで、小さかった頃とは違うのだととっくの昔に認めている。

 しかし映姫はなにが気に喰わないのやら、

 

「黙りなさい! 私が黒と言えば黒なのですっ!」

 

 と怒鳴るなり吐息して、悔悟棒で口元を隠しながらぽそぽそと、

 

「……しかし、なんでしょう。こんなにあっさり上手く行ってしまうと、それはそれでなんだか……」

「映姫?」

「げふんげふん!?」

 

 盛大な咳払い、

 

「と、ともかくっ! そうやって無駄口を叩くということは、準備は整ったのでしょうね!?」

 

 月見は笑みを返した。

 

「ああ、もちろんだとも」

 

 緋想の剣を、今一度強く握り直す。本来であれば鮮やかな緋色の刀身が、今はがらりと様変わりし、刀身はもちろん柄まで曇りない白銀の剣と化している。術の構築は終わった。あとはこの剣に宿った宇迦之御魂神の力を借りて、八咫烏の怒りを鎮めるだけだ。

 言葉にするのは簡単だが、間違いなく最大の正念場となろう。

 

「体の具合は?」

 

 いいわけがない。怪我に強い妖怪の体とて、痛みは感じる。体の半分近くを焼かれて平気なやつなどいない。ふと気を緩めれば、その瞬間に意識が吹っ飛んでしまいそうだ。

 だがそれでも、決して倒れるわけにはいかない。少なくとも、すべてが終わるまでは。

 

「ぜんぶ終わったらぶっ倒れるかもしれないから、悪いけどよろしく頼むよ」

「……まあ、いいでしょう。そのあとの面倒は私が見ますから、終わらせてきなさい。それが、今のあなたに積める善行です」

「……ああ」

 

 ――だからもってくれよ、私の体。

 これは、月見が自分自身につけるけじめだ。たとえ自己満足でも、独りよがりでも。この異変の根本的な引鉄となってしまった元凶として、それすらもできぬ体たらくでは自分で自分を許せない。

 はっきり言って、月見は怒っているのだ。不甲斐なかった自分自身に。もしも目の前に自分がいるのなら、間違いなく全力で殴り飛ばしているだろうほどに。

 だからおくうは、なにがなんでも助け出す。

 

「――……」

 

 まぶたを下ろし、月見は深く息を吸った。妖力の開放量を少しずつ上げていく。途端に全身が悲鳴を上げるが、知ったこっちゃない。なおも開放を続ける。十一尾を形作る銀の炎が、結界の内部を埋め尽くすほどまで燃え上がっていく。

 全力にはほど遠い。月見の体は、もう到底全力を出せるような状態ではない。されども全開の半分にしか満たない力を極限まで圧縮し、研ぎ澄ませ、月見は自身を一振りの刃と成す。

 神の荒御魂を切り裂く、一振りに。

 

「……私が合図をしたら、結界を解いてくれ」

「わかっています」

 

 燦然たる銀の炎をまとい、曇りない白銀の剣を携えて。

 月見は、吼えた。

 

「――――勇儀ッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 月見に、名を呼ばれた。

 その瞬間勇儀は、ずっと戦っていたい願望と、この神を自分こそが倒したい欲望を、すべて咆吼ひとつで封殺した。

 

「――応ッ!!」

 

 約束を果たすときが来た。

 最高のタイミングだった。服の半分近くが焼かれ、肌に火傷の痕も目立ち始めていた。これ以上事が長引けば、八咫烏だけではなく、暴れ出す寸前の己の本能とすら戦わねばならなくなっていたであろう頃合い。崖下へ吸い込まれそうになる、ほんの一歩手前。

 だからこそこの刹那に、ありったけの全力を注ぎ込める。

 

「――あア゛ッ!!」

 

 その場で振り下ろした拳とともに、勇儀は妖力の枷をすべて解き放った。桁外れの物量で放出された力は、風をまとい色をまとい、可視の波動となって豪火の舞う空を切り裂いていく。

 勇儀の眼の色と同じ、赤い妖力の奔流。地上のさとりたちからすれば、恐らくは勇儀もまた、赤く燃え盛る炎をまとったように見えたであろう。

 どこまでも厚く。

 どこまでも強固に。

 炎が如き、赤い妖気の鎧。

 

「……名残惜しいけど、これで終わりだってさ」

 

 笑む。

 

「観念した方がいいよ。こういうときの月見って、とんでもなく諦めが悪くてしつこいからね」

 

 そのときにはすでに、勇儀の視界は血のような炎一色で埋め尽くされている。灼熱地獄の暴走はいよいよもって極限状態に達し、空を飛び狂う炎の怪鳥が、地を蠢き回る炎の大蛇が、めちゃくちゃに寄り集まって呆れ返るほど巨大な顎門の形を作り上げていく。勇儀はもちろん、遠い背後の月見と映姫はおろか、地上のさとりたちまで呑み込んだって、この魔物にとっては腹の一分目にも届くまい。間近でまざまざと見せつけられる分だけ、月見の銀火に勝るとも劣らない、本能を揺さぶられる強烈な畏れを感じた。

 右腕一本で薙ぎ払った。

 

「  !」

 

 散り散りになって砕けた炎の向こう側に、瞠目する八咫烏の姿が見えた。

 勇儀は、笑みを深めた。

 

「なに驚いてんのさ。力でぜんぶ捻じ伏せるのは、鬼の専売特許だろ」

 

 見た目自体は圧倒的だが、所詮はそのへんで燃えている炎を寄せ集めただけの張り子の虎だ。

 無論、単なる強がりと見る意見もあるだろう。勇儀の一振りは確かに炎の八割近くを薙ぎ払ったが、言ってしまえばただそれだけ。火種を絶たれぬ限り、風に吹かれようが水を巻かれようが、何度でも再生してみせる不死性こそが炎の魔力。灼熱地獄という無限の火種から力を吸収し、炎の魔物は瞬く間に再生を始める。

 その『瞬く間』さえあれば、今の勇儀には充分。

 再生する炎の隙間を翔け抜け、八咫烏を目と鼻の先に捉えている。

 

「 ――  !」

 

 八咫烏が目覚ましい速度で光弾の群れを展開し、それを盾にして背後へ跳躍する。

 

「どこに行こうってのさ――」

 

 遅すぎてあくびが出る。光弾が掃射されたとき、そこにもう勇儀の姿はない。

 

「――鬼ごっこで、鬼に勝つつもりかい?」

 

 八咫烏の、背後。

 ――八咫烏をどうやって月見の前に引きずり出すか、いろいろと方法を考えてはいた。八咫烏は周囲に灼熱の結界を展開し、おまけに体から無尽蔵の炎まで噴いているという有様で、迂闊に触れば勇儀とて只では済まない。かといって妖術の扱いには自信がないし、その場凌ぎ程度の術が八咫烏ほどの神に通用するとも思えない。

 どうしよう。

 悩む勇儀は八咫烏と戦うさなかでうんうんと考え、やがて途轍もない名案を閃いていた。

 

 迂闊に触るのが駄目なら、ちゃんと準備をしてから触ればいいのだ。

 

 そのための、妖気の鎧だ。拳骨一発で灼熱の結界をブチ抜き、八咫烏の手首を掴み取った。

 

「ッ !?」

 

 だが、もちろん、妖気を盾にし体を頑強にした程度で、神が生み出す炎を完全に防げる道理はない。右腕にすぐさま熱い痛みが走る。このまま月見のところまで引きずっていこうとすれば、勇儀の右腕は途中で焼け爛れて使い物にならなくなるだろう。

 だから勇儀は、

 左手で結界をこじ開け、

 腕のみならず全身で内部に突っ込んで、

 八咫烏の体を肩に背負い、月見めがけて一直線に、

 

「そぉ――――――――いっ!!」

 

 ぶん投げた。

 唯一藤千代を除けば、鬼の中でも随一の馬鹿力を持つ勇儀である。八咫烏の体は面白い勢いで吹っ飛び、結果として無事灼熱の結界から脱出した勇儀は、ふいーと息を吐きながら火傷寸前の腕を払った。

 方向、角度、ともに申し分ない。ならばあとは、月見はなんとかしてくれるであろう。

 妖気の鎧を解く。時間にしてみれば、恐らく三分そこら。やや戦い足りない感は残るものの、しかし、それでも、

 

「あー、」

 

 やりきった勇儀は額の汗を拭い、近年稀に覚える充実感に満たされながら、

 

「――ゴリ押し、ちょう楽しい」

 

 そのとき真下から火柱が、

 

「あっヤバこのあとのこと考えてなかったっ! あばばばばば!?」

 

 灼熱地獄の真っ只中、一層激しく襲いかかってくる炎の渦から、わたわた慌てて逃げ惑う鬼がいたが。

 悲しいかな、誰も気づいていなかったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 月見は喉で低く笑った。勇儀のことだからどうせ強引な手段を取るだろうと思ってはいたが、まさか炎の中に突っ込んで直接投げ飛ばしてくるなんて。

 慣性に踊らされる八咫烏の体が、月見めがけてまっすぐに吹っ飛んでくる。身の丈以上に巨大化した双翼が仇となって、完全に制御を失っている。

 充分だ。

 

「……映姫ッ!!」

「言われなくても!」

 

 映姫が悔悟棒を一振りし、結界を解く。遮断されていた灼熱地獄の熱気が、真下から暴風と化して突き上がってくる。しかし月見の精神は、それを単なるそよ風としか感じないまでに研ぎ澄まされている。

 狙うは、おくうの胸元で炯々と輝く赤い瞳。あれが八咫烏の御魂の核であり、底のない力と熱の無限機関。剣を媒介にし、あの瞳へ直接術式を打ち込み、同時に宇迦之御魂神の御魂を送り込んで、八咫烏を封印する。

 映姫が後方へ距離を取り、自身の周囲に再度結界を展開する。月見は静かに、剣を刺突の型で構える。刻一刻と迫ってくる八咫烏を、ただその場で待ち続ける。

 そのとき八咫烏が苦し紛れに体勢を整え、赤と黒の瞳で月見を捉えた。

 

「――――――――!!」

 

 その言葉なき咆吼には、果たしてどのような意味が込められていたのだろう。真実を知る術などないけれど、月見はその叫びの裏に、かすかなおくうの声を聞いたような気がした。

 

 お前なんか。

 お前なんか!!

 

 八咫烏のまとう緋色の結界が数段深みを増し、爆ぜたかの如き勢いで豪炎を噴き上げる。結界の正面に、際限なく湧き上がる力と熱がすべて集約されていく。勇儀に投げ飛ばされた勢いを逆手に取り、空を切り裂く紅蓮の流星となって、今度こそ月見を焼き尽くそうとしている。

 月見は、逃げない。逃げるだけの力なんてとっくに残されていない。今の月見に絞り出せる力はすべて、この剣に乗せたのだから。

 背後から、誰かがなにかを叫んだ声が聞こえた。さとりだったような気がするし、こいしだったとも感じられたし、或いはお燐か天子だったのかもしれない。単なる悲鳴だったのかもしれないし、名前を呼ばれたのかもしれないし、月見に祈る言葉だったのかもしれない。

 

 ――それを最後に、ほんの束の間、世界から音が消えた。

 

 銀と赤が、激突した。世界に再び音が戻ったとき、月見は銀と赤が狂い飛ぶ炎の嵐の中にいた。

 赤の向こうに、八咫烏の姿が見える。咆吼している。太陽の化身。次から次へと瀑布のように無限のエネルギーを放出し、すべてを力に変え、炎に変え、途方もなく膨れあがって銀を根こそぎ呑み込もうとしている。

 そう。

 

 月見が己のすべてを乗せた剣は、結界に阻まれて実に呆気なく止まっていた。

 

「……!!」

 

 噛み締めた歯が、砕けたかと思った。

 無論、全力でなかったからと言ってしまえばそれまでだ。『すべて』を乗せたといってもそれは所詮、体中に怪我を負い、立っているのもやっとな今の状態での『すべて』であり、百パーセント完全な『すべて』に比べれば遥か遠く及ばない。普通に考えれば、文字通り無限の力を持つ八咫烏の荒御魂相手に勝ち目などない。頭ではわかっていた。だから今できる己のすべてを賭して、ほんの一時だけ相手を上回り、ほんの刹那だけの時間で封印を施すつもりだった。

 甘かった。

 まさか今の自分が、こんな結界ひとつ破ることすらできないほど限界だったとは、思ってもいなかったのだ。

 

「ぐっ……!!」

 

 月見がいくら力を振り絞っても、止められた切っ先はまるで先に進んでくれない。それどころか、膨れあがる結界に押し返されて後退していく。刃だけではない。月見の体をまとう銀の炎までもが押し負け、赤の火の粉が頬に、脚に新たな痕を刻み込んでいく。

 

「――……」

 

 月見は瞑目し、敢えてゆっくりと深く、息を吐いた。

 考え得る限り最悪の展開だが、まだ終わりではない。徐々に押し返されてはいるものの、この結界さえ超えれば届くのは事実なのだ。終わらせない。終わっていいはずがない。月見の世界から八咫烏以外の万象一切が消失し、音が途絶え、全身を這いずり回っていた痛みが消し飛ぶ。脳のありとあらゆるリソースを、この刹那のためだけに根こそぎ掻き集める。銀の炎が、赤の炎を押し返す。怪我なんて知ったこっちゃない。『限界』なんてなんの役にも立たないものは、灼熱地獄の底に捨ててしまえばいい。命を燃やせ。燃やし尽くせ。この体を刃と成し、炎と成し、月見は限界を超え、八咫烏を超え、

 そして、

 

「――――――――は、」

 

 なにが起こったのか、わからなかった。

 

 

 両手から剣がすっぽ抜け、天高くへ弾け飛んでいた。

 

 

 そこでようやく、月見は気づいた。

 ――指先の感覚が、ない。

 畢竟、もはや精神論でねじ伏せられる次元ではなかったのだ。本来であれば旧都に運ばれる途中で覚醒し、ここまで戻ってきたことからして奇跡だった。にもかかわらず限界ギリギリの力を開放して神を降ろし、こうして八咫烏と激突した上、限界を超えて更なる力を搾り出そうとした。月見は、あまりに短時間の中で、あまりに己の体を酷使しすぎた。

 奇跡は、二度続けては起きない。月見の想像を超えて、月見の体は遥かに限界だった。

 目の前の結界ひとつすら破れず。

 ただ剣を握り続けることすら、できなくなるほどに。

 

 それが、現実だった。

 銀が、赤に呑まれていく。

 月見の視界がすべて押し潰される、ほんの刹那。

 こぼれ落ちた己の声が、嫌に鮮明に、耳に残った。

 

「――――――――くそ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 赤の炎が銀を呑み込み、爆ぜた。

 

「――――――――!!」

 

 さとりの悲鳴は、もはや言葉にならなかった。爆風を受けた月見の体が、地底の大地めがけて一直線に吹き飛んでいく。映姫が何事か叫び、咄嗟に追い縋ったが間に合わない。すべてを置き去りにし、月見の体は血も涙もなく地面を打ち転がるはずだった。

 すでに、藤千代の姿が消えていた。

 

「んっ……!」

 

 一体いつ、天子の結界を突き破って走り出したのか。月見が地面に激突する一歩手前で、両腕を広げて彼の体を受け止めていた。だがさしもの彼女でも間一髪の差だったのか、明らかに体勢が悪く、衝撃を殺し切れなかった藤千代は結果として月見諸共地面を転がった。水切り石のように、何度も何度も。巻き上がった土煙に巻かれ、二人の姿はそれっきり見えなくなってしまった。

 八咫烏が、咆吼する。月見の追撃に出る――のではない。月見にはもう用などないと言うように、まるで見当違いの方向へ目線を転じ、ほとんど真上に向けて飛翔する。

 その先には、弾き飛ばされ未だ宙を舞う月見の剣がある。頭をすり潰すノイズとなって、さとりの脳内に八咫烏の激情が流れ込んでくる。

 あの剣を、破壊しようとしている。

 あれは、自分の存在を脅かす危険なものだから。

 

「あ……あああっ……!!」

 

 最悪、だった。さとりは妖術の類に決して明るくないが、それでもあの剣が、悲劇の行く末を決める最大の鍵であることくらいはわかっている。あの剣には、月見が死力を尽くして搾り出した、文字通りのすべてが乗っているのだ。

 それを破壊されてしまえば、つまり。

 もう、打つ手がなくなる。少なくともおくうを楽にしてあげる方法以外では、もう彼女を助けられなくなるという明確な終わりを意味している。

 最悪の結末が、さとりの喉元に冷たく両手を掛けようとしていた。

 

 ――ところで、さとりの『心を読む程度の能力』は決して万能ではない。

 格の差や言語の違いに囚われず、妖怪だろうが人間だろうが神だろうが、それどころか言葉を持たない小さな動物や植物であろうとも、あらゆる生物の思考をさとりは超感覚的に読み取る。しかし、当然ながら、状況によってはその能力に制限が掛かることもある。

 耳で音を聞く場合、例えば焦燥や恐怖で精神が極限状態にあると、『聞こえているのに聞こえていない』という状況に陥る。そうでなくともなにかひとつの物事に気を取られているだけで、余所の音が聞き取れなくなったり、意識の外に弾き出されてしまったりする。

 それと同じことがさとりの能力でも起こる。心の声を拾う『第三の目』という器官を持っていても、さとり自身が声を聞き分けられる状態になければ意味がない。目の前の現実に恐怖し、八咫烏のノイズで頭の中を埋め尽くされるさとりには、それ以外の声を悠長に聞く余裕など残されてはいなかった。

 すなわち、その刹那に『彼女』がなにを考えていたのか、さとりは遂に気づかないままだったのだ。

 さとりは――いや、なにもさとりだけに限った話ではなく、こいしも、天子も、とっくに周りなんて見えなくなってしまっていた。

 

 自分たちの傍らから消えたのが、藤千代だけではなかったのだと。

 

 八咫烏が伸ばした手よりほんの一瞬だけ早く、横から剣を掠め取っていったその影を見て、はじめて思い知らされたのだ。

 

「な、」

 

 ようやく、声が出せた。

 

「――お燐ッ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 お燐に、難しいことなんてなにひとつもわからない。さとりたちのペットとなってからある程度の一般常識こそ学んだが、灼熱地獄育ち故に学らしい学などないに等しく、実はおくうを笑えないくらいのバカなのだ。今回の異変でも自分の行動がことごとく裏目に出てしまって、月見たちに申し訳ないほどの迷惑を掛けた。だから、自分もなにか力になりたいと願いつつも、なにもしない方が反って足手まといにならずに済むのではないかと思っていた。

 でも。

 でも、どうしようもないほどバカなお燐にだって、これだけははっきりとわかった。

 月見のピンチだ。

 月見のことは、きっとみんなが助けてくれる。けれどそれだけではダメで、恐らくはあの剣も、絶対に奪われてはならない重要な物のはずだ。月見とあの剣、どちらが欠けたっておくうは助けられないはずなのだ。

 だから、お燐は翔けた。周囲の景色をすべて置き去りにする全力で。自分がどのように翔けたのか、記憶に残らず消えてしまうほど無我夢中で。八咫烏の背に追い縋り、並び、追い越して、わずかな腕一本分の差で落ちてきた剣を掠め取った。

 だが、お燐はそこで止まらずなおも翔け続ける。自分のすぐ後ろで、途轍もなく巨大な神の気配がとぐろを巻いている。月見が飛ばされた方向へ自分も向かえばよかったのに、怖くて頭がそこまで働かなくて、方向転換もできぬままがむしゃらに距離を取っていた。

 八咫烏は、追ってこなかった。

 お燐は、振り返った。

 目が合った。

 

「っ……」

 

 八咫烏が、その場に留まってじぃっとお燐を見つめている。こうして正面から対峙したからこそ、おくうの体がどれほど変わってしまっているのかがまざまざと見て取れた。

 瞳は深い赤と黒の色で沈み、そこに光は一切映っていない。胸元の赤目から木の根が如く這う紋様はいよいよ全身に及び、足は靴を突き破って鳥の鉤爪に変容している。翼は今や倍以上にまで膨れあがり、両腕からはかすかながら黒い羽根が生え始めている。

 人から、獣の姿に戻りかけている。けれどそうして完全な獣へと戻ったとき、そこにおくうという少女はもういないのだろう。

 この剣を一刻も早く月見へ届けなければならないのに、お燐の脚は縫いつけられたように動かない。

 怖い。

 確かめるまでもなく感じる、あれはお燐如きが立ち向かっていい存在ではないのだと。向こうがちょっとその気になれば、お燐なんてただ蹂躙されるだけの矮小な一生命でしかないのだと。

 八咫烏が、低く唸る。大翼を打ち鳴らし、お燐めがけて一直線に飛び込んでくる。お燐の全身から生気が抜け落ちる。

 本当に、怖かった。

 だからこそ一方で、いろいろなものに腹が立った。

 この期に及んでもまだおくうを救ってくれない、森羅万象を司る神とやら。神様なのにおくうを苦しめる、八咫烏の荒御魂。おくうがこんなになってしまうまでなにもできなかった、自分自身。

 そして、なにより。

 寂しかったのに、その気持ちを一言も打ち明けてくれなかったおくうに、はらわたが千切れるほどの悔しさを感じた。

 お燐たちは、家族なのに。寂しいと言ってくれれば、お燐だって、さとりだってこいしだって一緒にいてあげることができたはずなのに。

 なのにおくうはなにも言ってくれず、敢えて危険な力に手を出して、お燐たちの気を引くような真似をして。

 そして、誰も自分を見てくれないと勝手に思い詰め、勝手に暴走した。

 『寂しい』。そのたった一言すら怖くて伝えられなくなるほどに、自分たちはおくうに信じられていなかったのかと――そう思うと、悔しくて悔しくて、お燐の体は張り裂けてしまいそうだった。

 歯が、軋んだ。もう、これ以上は我慢ならなかった。

 息を吸い、突っ込んでくる八咫烏に――いや、おくうに。

 お燐は、叫んだ。

 

 

「――いい加減にしてよッ、おくうのバカああああああああああぁぁぁぁぁッ!!」

 

 

 信じられないことが起こった。

 八咫烏の動きが、ピタリと止まった。お燐に激突する、ほんの二メートルも手前で。

 まるで言い足りない。

 

「おくうのバカッ、分からず屋!! なんなのさッ、一人で勝手に思い詰めて! 一人で勝手に暴走して!!」

 

 叫び出したら、もう止まらなかった。

 

「ねえ、おくう言ってたよね、あたいたちがみんな月見の味方なんだって。それって、あたいたちがおくうの味方じゃないって言ってるの? ……どうしてそんなこと言うの!?」

 

 この言葉がおくうに届いている保証なんて、どこにもありはしないのに。

 

「あたいたちが、どれだけおくうのこと心配したと思ってるの!? おくうを止めに来た? そうだよ止めに来たよ、だってこんなことする必要なんてないでしょ!? あたいたち友達でしょ、家族でしょ、月見の味方だからじゃない、家族だからおくうを止めに来たんだよッ!!」

 

 けれどお燐は、叫ばずにはおれない。吐き出さずにはおれない。

 

そんなに(・・・・)寂しかったなら、言ってよ!! あたいたちのことが信じられなかったのなら、怒ってよ!! そうしないと伝わらないんだよ、自分で伝えないとダメなんだよ!? さとり様が心を読む力を持ってたって、やっぱり最後は、言葉にしないとダメなんだよ……!!」

 

 喉が、震えてきた。

 これは、自分自身への戒めでもある。だって、自分の気持ちを言葉にできなかったのはお燐も同じなのだから。言葉にする勇気がなかったから、こいしとおくうを止められなかった。さとりに相談もできなかった。回りくどい方法で月見に助けを求めようとして、結果としてここまで取り返しのつかない悲劇が引き起こされてしまった。

 

「だ、だから、あたいははっきり言うよ」

 

 これで終わりだ。たとえ、目の前が涙でにじんでいても。声が情けないほど震えていても。

 

「帰ろうよ、おくう……!!」

 

 お燐は。

 もう、逃げない。

 

「一緒に、地霊殿に帰ろう……!? さとり様も、こいし様も! みんな待ってるよ、おくうっ……!!」

 

 言い切った。喉の奥から涙のようにあふれ出てきていた、最後の一言の終わりまで。

 おくうの体が、揺れた。それ以上の、目で見てわかる変化があったわけではない。

 けれどおくうの瞳に、ほんのかすかな光が戻ったような気がした。

 唇が、動いた。

 

「―― ……お、  り」

「……!!」

 

 おくうの、声。

 

「おくう!? おくうなの!?」

「   、 」

 

 なにかを言っている。居ても立ってもいられなくて、お燐はおくうのすぐ目の前まで駆け寄った。

 気づかなかったのだ。

 

「、 ――て」

 

 おくうの体から、赤い光の粒子が再び散り始めていたのだと。

 おくうの奥底で、動きを止めていた荒御魂が再び蠢き出していたのだと。

 だからおくうは、こう言ったのだ。

 

「にげ、て」

「――、」

 

 今更気づいたところで、手遅れだった。

 おくうの全身から炎があふれ、お燐を、

 

 

「――つかまえた」

 

 

 されどお燐の視界を埋め尽くしたのは、すべてを見境なく焼き尽くす赤ではなく。

 銀。

 

 

 

 

 

 

 

 

 おくうを焼く赤い炎の世界が、目も眩む一色の銀で染まった。

 その途端、あれだけ苦しかったのがまるで嘘だったみたいに、おくうの全身が楽になった。

 

「……え?」

 

 そこはおくうの心の中ともいうべき、天地の区別がない、水の中を漂うかのような世界。八咫烏の荒御魂に侵食され、灼熱地獄以上の業火で焼かれていた世界に、突如として銀の色が満ちて。

 あの狐が、目の前にいた。

 

「……え、」

 

 意味が、わからなかった。

 なんでここに、お前が。

 

「――やっと見つけた」

 

 月見は、言う。

 

「お前を、連れ戻しに来たよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやはや……みっともない恰好ばかりを晒してすまないね、お燐」

 

 お燐の肩に、後ろから静かに手を添える者があった。一体誰かなんて、振り向かなくたって、声を聞けば一発だった。

 

「……おにー、さん」

「ありがとう、剣を取ってくれて。それを奪われてたら終わりだったよ」

 

 銀の炎に包まれている。月見が生み出す妖術の炎。けれどぜんぜん熱くなくて、それどころか朽ち果てそうなお燐の心へ寄り添うように暖かい。

 こんなときでも穏やかな月見の声音は、しかしよく注意すると、誤魔化しきれない疲弊と苦痛でわずかに掠れていた。そう思うと改めて、月見の掌はお燐の肩に添えられているというより、半ばもたれかかっている状態に近いと気づいた。

 月見は低く自嘲する。

 

「あれで終わらせるつもりだったんだけど……指の感覚がまるでなくて、剣がすっぽ抜けてしまってね」

「……!」

 

 肩に掛かる月見の指先が目に入り、お燐は呼吸を失う。――もう、彼の体で傷ついていない場所なんて、ないのではないか。いくら怪我に強い妖怪だからって、こんなのは疾うに常軌を逸していた。彼の体が一体どれほどの苦痛に襲われているのか、お燐にはもはや想像すらつかなかった。

 なぜ彼がお燐に半ばもたれかかっているのか、完全に納得が行った。限界なのだ。もう、一人では立つことすらできないほどに。

 けれど、けれど、

 

「お燐、悪いが力を貸してくれ」

 

 彼は、それでも諦めていない。

 

「空は今、私の妖術で押さえ込んでる。……お前の言葉に、少なからず揺さぶられたようだ。簡単に入り込めたよ」

 

 お燐と同じく銀の炎で包まれるおくうは、心ここにあらずに漫然と翼だけを動かしている。恐らくは月見の幻術で、一時的に心を囚われている状態にあるのだと思う。

 とっくに限界なんて超えているはずなのに、これ以上は命だって削りかねないのに、月見はまだ戦っている。

 

「だがご覧の通り、私はもう剣も握れない有様だ」

 

 だから、お燐は。

 

「お燐。――その剣を、お前に託す」

 

 月見が剣を握れないなら、お燐が握ればいい。

 今この場で、自分が月見の腕になろうと思った。

 自分に一体なにができるのか、ずっとずっと考え続けていた。バカな自分にはその答えなんてわからないけれど、もしも誰かがお燐の力を必要としてくれるなら、それがおくうを助けることにつながるのなら、ただ見ているだけではなく、信じているだけではなく、自分だって、自分だってと願い続けていた。

 これが、その、答えなのだろうか。

 

「私が合図を出したら、その剣を空の胸元――あの赤い瞳めがけて、思いっきり突き立ててほしい」

 

 少し、体が強張った。

 けれど、

 

「大丈夫、心配しなくても剣は寸前で勝手に止まる。むしろ下手に躊躇って、その前に止められてしまう方が不味い」

 

 こんな状況で嘘を言う男ではない。

 頷いた。

 

「……わかった」

「術の制御は私がやるから、とにかく力いっぱい頼むよ。間違いなく、相当抵抗されるはずだからね」

 

 それから月見は、全身から力を抜くように長く静かな息を吐いて、

 

「……ありがとう。助かったよ、お燐」

 

 お燐は、首を振った。

 

「ううん。……こっちこそ、ありがとう。おくうのために、そんなに一生懸命になってくれて」

 

 背後に立つ月見の表情は見えないけれど、彼はそっと微笑んでくれたような気がした。

 ほんの束の間だ。肩に掛かる彼の指先へ、弱々しくも迷いない力が巡り、

 

「――空と話をつけてくる。少し、待っていてくれ」

「……うん」

「お前からも、呼んであげてくれ。あの子のことを」

 

 お燐が見つめる先で、おくうは未だ、翼以外になにも動かさず沈黙を続けている。

 だから、お燐は呼んだ。

 

「おくう……! 聞こえる……!? おくうっ……!」

 

 お燐が世界で誰よりも見慣れた、この女の子の体に。

 再びおくうの心が戻ってくる瞬間を、切に、切に祈りながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 灼熱地獄の蠢きが、みるみるうちに治まっていく。

 無論それは、灼熱地獄の完全な沈静化を意味しているわけではない。そこかしこで火柱が雄叫びを上げているのはあいかわらずだし、容赦なく突き上がってくる熱気のせいで、勇儀の肌からは片時も玉の汗が消えない。しかし少なくとも、勇儀らを灼熱地獄へ取り込もうと、大蛇を成して鳥を成して襲い掛かってくることはなくなっていた。

 大地の崩壊も、止まっているようだ。天では、月見の生み出す妖術の炎が燦然と燃えている。煌めき揺れる銀の奥には、月見と八咫烏、そしてお燐の姿がある。その光景を、勇儀は今すぐにでも駆けつけたい気持ちをぐっと耐え忍んで見守っている。

 

「終わった……わけじゃ、まだ、ないよね」

「……そうですね」

 

 傍らの映姫が、険のある面持ちで頷いた。

 

「ですが、恐らくはあともう一歩まで来ています。それにあの狐は今、八咫烏になんらかの術を行使しているようですから……余計なことはせず、信じて待ちましょう」

「……はあ」

 

 勇儀はため息をついた。安堵のため息だった。

 

「もー、さっきはほんとどうなるかと思ったよ。まさか月見が押し負けちゃうなんてなー」

 

 あのときは本当に肝が潰れた。『平静』なんてものは一発で消し飛んだ。映姫が咄嗟に止めてくれていなければ、今頃勇儀は全身全霊で八咫烏を殴り飛ばしてしまっていたはずだ。

 映姫も静かに吐息する。ただしこちらには、安堵ではなく苛立ちの感情が込められている。

 

「……仕方ありません。本来であれば、絶対安静にするべき傷なのです」

「まあ、だよね。あれだけの大火傷じゃあ、さすがにね」

 

 勇儀も体にちらほらと火傷を負ったが、月見の怪我はこんなものとは規模も深さも比べ物にならない。なのに月見は決して倒れず、どんなに傷を負っても不死のように立ち上がり、そして今でも戦い続けている。単なる正義感や同情心では到底成し得ない、今の月見からは、ある種の『執念』とも呼ぶべき泥くさい想いを感じた。

 その想いが、今度こそ届くのか――それとも。

 首を振った。

 

「……ところでさ、閻魔様」

「なんでしょう」

「折れた私の角なんだけど」

 

 映姫がさっと顔を背けた。

 そう――なにを隠そう星熊勇儀、額の角が四分の一ほどポッキリ折れている。爆ぜ飛ばされた月見の姿に平静を失い、流星と化して八咫烏へ肉薄する勇儀を止めるため、ここのエンマサマはあろうことか、勇儀の目の前にいきなり結界の壁を展開してくれやがったのだ。当然勇儀は感動的な勢いで激突し、額からスラリと伸びる自慢の角をポッキリやられる羽目になった。必然、折れた角の先は灼熱地獄に落ちて回収不能である。

 

「まあ、この程度なら三日もあれば治るからいいんだけどさ? でも、ああいうのにはやり方ってもんがあると私は思うわけ」

「うぐっ……し、仕方がなかったのです。あのときは、私も焦っていたものですから……」

「――へえ。やっぱりさすがの閻魔様も、月見のピンチとなれば焦るんだ」

「ばばばっバカなことを言わないでください違います断じて違いますこれは単に不測の事態への動揺という意味であり決してあの狐を心配して慌てたなどということはありません当然じゃないですか私は閻魔なんですからっ!!」

「てかさー、あんたさっきから月見のこと『あの狐』『あの狐』って、まさか名前で呼んでないの? 閻魔様ともあろう方が、そいつはちょいと不公平なんじゃない?」

「ぐ、ぬ、ぬ……! わ、私はまだ、名前で呼ぶほどあの狐を認めたわけではありませんからね!」

 

 そこまで勢いで叫んだ映姫は、急にしおらしくなってぽそぽそと、

 

「ま、まあ……今回の件で、少しは男らしいところもあるのだと見直しましたけど……でも、さすがに名前で呼ぶのは恥ずかし」

「あ、ごめんバッチリ聞こえてる」

「忘れなさあ――――――――いッ!!」

「いったー!?」

 

 映姫に悔悟棒でビシバシぶっ叩かれながら、けれど勇儀は喉を震わせて笑った。閻魔様然り天子然り、月見の周りに集まる少女というのは、やっぱりどいつもこいつも面白い。

 だからこそ勇儀は、今度こそ月見の執念が届いてほしいと切に祈る。この理屈でいけば、古明地さとりを始めとする地霊殿の住人もまた、面白い連中の集まりだと思われるからだ。

 心を読む相手とどう付き合えばいいものなのかよくわからず、今までは特に近づかないでいたけれど。

 この異変を無事に乗り越えれば、案外、いい友達にでもなれそうな気がする。今までまったく関わりのなかった相手でも、たったひとつ、『月見』という要素が加わるだけで仲良くなれると思える。まだ異変はなにも解決していないのに、みんな揃って騒がしく宴会をしている光景が、かつてあったかのようにはっきりと脳裏に思い浮かぶ。

 だから、勇儀は信じる。大丈夫だ。さっきはほんの少し失敗してしまっただけで、今度こそ必ず上手く行く。傷だらけで、血を流して、死力を絞り尽くして、それでも駄目だったなんて結末は、星熊勇儀は絶対に認めない。

 

(もう充分焦らしたろ。だから、今度こそ決めちゃいなよ、月見)

 

 勇儀は、信じる。絶対に疑わない。

 辛い異変だけれど、辛い異変だからこそ。

 脳裏に描かれる宴会の光景が、いつか必ず訪れる、約束された未来の欠片なのだと。

 

 

 

 

 

 

 

「――止めるべきだったと、思いますか?」

 

 帰ってきた藤千代に、天子は言葉を返せなかった。本当に止めるべきだったのかもしれないと考えている自分がいて、どうしたらいいのかわからなくなっていた。

 月見なら、絶対になんとかしてくれる。だから、月見を信じる――その想いが、ここに来て激しく揺らいでいた。

 自分は本当に、月見を信じていたのだろうか。

 自分が信じていたのは、自分の心の中にいる理想像としての月見だったのではないか。かつて自分を助けてくれた、過去の月見の姿だったのではないか。

 月見を信じる。そんな美しい言葉で飾り立てて、自分が理想とする月見を投影していただけではなかったか。傷だらけの月見に、自分の理想を押しつけていたのではなかったか。

 その可能性に気づかされてしまって、天子は己自身に恐怖していた。

 

「私は――止めるべきだったんだと、思ってます」

 

 そう。今の月見は、もはや精神論では覆せない限界の淵まで追い詰められている。月見がすべてを乗せた一撃は、八咫烏の結界の前に呆気なく弾き飛ばされてしまった。月見がすべてを振り絞っても駄目だったのだ、もうどうしようもないではないか。これ以上無理を続ければ、今度こそ取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。もう、藤千代でも助けられないかもしれない。その可能性を考えれば、本当に月見を想うのならば、止めるべきだったというのが当然の結論だと言わざるを得なかった。

 

「でも……止めてはいけなかったのだとも、思ってます」

 

 天子は、顔を上げた。

 天子の目の前で膝を折った藤千代が、ボロ布のように焼けた着物の端を破いて、包帯代わりにして天子の腕に巻き始めた。そこでようやく天子は、自分の両腕に走る決して小さくない痛みの濁流を思い出した。

 

「藤千代……」

「……惚れた弱み、ですかね」

 

 藤千代が、かすかにほころんだ。

 彼女には珍しく、打ち負かされたような、白旗を挙げるような、ほんのひとつまみの辛さと苦さを感じる笑みだった。

 

「あんな目をされたら……行かせてあげなきゃなあ、って」

 

 そのとき藤千代の脳裏に描かれた月見が、一体どんな目をしていたのか――天子には、なんとなくわかるような気がした。

 かつて自分が、紫に斬られてしまったとき。月見の腕の中で、悔しいと、涙を流したとき。

 ――こんな世界、私がどうとだって変えてやる。

 きっと、そう言ってくれたあのときと、同じ目をしていたのだろう。

 

「……そっか」

「……ええ」

 

 藤千代の手当はちょっぴり乱暴で、正直に言うとだいぶ痛かったのだけれど、それでも天子は自然と笑っていた。

 藤千代と同じ顔で。でも、混じっている感情は、藤千代よりもひとつだけ多い。

 なぜ月見が、死力を尽くしてまでおくうを助けようとするのか。その疑問を深読みしたって意味がないのはわかっている。たぶん月見は、面識のある相手なら誰だって同じ目をして助けようとする。相手が天子であろうとおくうであろうと、助けられなかったときに後悔するのは同じなのだから。

 わかっている。

 わかっている、けれど。

 月見があんな目をするのは、自分だけであってほしかった。そう思ってしまうのは――きっと藤千代の言う通り、惚れた弱み、というやつなのだろう。

 

「……藤千代、さん」

 

 ずっと言葉を失ったままだったさとりが、ようやく口を開けた。唇がかすかに震えている。こいしの体を、服が皺くちゃになるほど強く抱き寄せている。こいしが苦しそうに身じろぎしても、まるでお構いなしだった。

 名を呼んだだけの言葉なき問いに、藤千代ははっきりと答えた。

 

「泣いても笑っても、次が最後です」

 

 さとりとこいしの体が、揺れた。

 

「ここまで来たら、こっちだって意地ですよ」

 

 空。銀の炎の奥に見える、三人の人影を見上げて。

 

「最後まで、信じ抜いてやりましょう。――月見くんは、負けません。絶対に」

 

 もしも月見が本当に、天子の思い描く通りの目をしていたのなら。

 天子は、信じたい。それがたとえ、自分の心の中にいる理想像であったとしても。理想を押しつけるような行為であったとしても。

 最悪の結果なんて、絶対に嫌だ。さとりたちは、家族のために泣くことができる少女なのだ。だからかつての自分がそうだったように、もう一度やり直すことができればいいと心から思う。今は泣いていても、どうか未来では笑えるようになればいいと切に願う。

 泣いても笑っても、ではない。

 笑うのだ。

 だから天子は、最後まで信じ抜こうと思う。

 

 月見がまた、みんなが心から笑える未来を、手繰り寄せてくれるのだと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 おくうは、差し伸べられた月見の手を払いのけた。

 言った。

 

「帰って」

 

 紛れもない、本心だった。

 

「帰ってよ。勝手に、人の心に入ってこないで。ほっといてよ」

 

 うんざりした。この期に及んで、まだこいつは私の前に出てくるのかと思った。

 こんなヤツ、嫌いだ。

 もちろん、わかっている、今のおくうに月見を悪く言う権利などない。むしろ礼を言わなければならない。彼は、暴走したおくうの力からこいしを守ってくれた。身を挺して庇ってくれた。目の前の彼は怪我ひとつない綺麗な姿をしているけれど、現実ではもう痛ましいほど傷ついてしまっているのだ。彼がそこまで自分を犠牲にしてくれたお陰で、おくうは主人に大怪我をさせるという最低最悪の過ちを犯さずに済んだ。

 本当に、感謝している。

 けれど今のおくうは、その心すら押し潰されるほどに疲れてしまっていた。

 

「もう、放っておいてっ……」

 

 自分が、なんのために存在しているのかわからなかった。なんのために存在すればいいのかわからなかった。かつて自分の手の中にあった、さとりとこいしの家族としての存在意義は、みんなこの狐に奪われてしまった。今更おくう一人が消えたところで、これからは彼がさとりたちを笑顔にしてくれるだろう。もはやおくうにとっては、「神の力を使ってこいしの願いを叶える」ことだけが、天から与えられたたったひとつの存在意義だったのだ。

 だがそれもとうとう、こいしの口から否定されてしまった。

 おくうには、もうなにも残されていない。神の力に、意味などなかった。力を使いこなせるようになるため、涙を耐え忍んで頑張ったのも。こいしの願いを叶えるために、人を二人、殺めたのも。まったくの無意味だった。

 空っぽだ。

 真っ暗だ。

 もう、どうだっていい。天と地の区別がない世界で、おくうは座り込み、膝を丸めた。そうやってすべてを拒絶した。

 だが、

 

「空、帰るぞ」

 

 月見が、そう繰り返した。当然、おくうは膝に額を押しつけたまま答えない。するとまた、

 

「帰るぞ、立て」

「……うるさい」

「手を出せ。行くぞ」

「ッ――うるさいって、言ってるでしょ!?」

 

 おくうは顔を上げ、目の前にあった彼の掌をもう一度払いのけた。

 叫んだ。

 

「私の言葉、聞いてなかったの!? 帰ってって言」

「ああ、聞いてない」

 

 絶句、

 

「空、どうやら勘違いをされているようだからはっきり言うよ。――お前の意見は聞いてない」

「――、」

「私はお前を説得しに来たんじゃない。引きずってでも連れて帰るために来たんだ」

 

 しばらくの間、なにも言えなかった。しばらくしてからようやくおくうは、痙攣したような乾いた笑みをこぼした。

 

「なに、それ」

 

 俯く。

 

「そんなの、勝手すぎるよ……」

 

 おくうにはもう、向こうに戻ったところで、なにもないのに。それでも帰れと、この狐は言うのか。

 

「ああ、勝手だ。私は、なにより私自身の気を晴らすためにお前を連れ帰るに過ぎない」

 

 彼はそこで一度言葉を区切り、ゆっくりと、ひとつ息を吸った。

 おくうの目の前で、膝を折った。

 

「――故に、すべての責任は私にある」

 

 おくうの胸倉に、拳で掴みかかってくるような。

 おくうが今まで聞いたことのない、強くてまっすぐな、声をしていた。

 

「私はお前を無理やり連れ帰る。だから、もしそれでお前が後悔する羽目になったなら、すべてを私のせいにしろ。思う存分私を詰って、憎んで、蔑んで、そのときこそお前の好きにするといい。

 向こうに戻ったら、さとりたちはお前にいろいろ言うだろう。私のせいだ。

 もしかしたら、怒られるかもしれない。喧嘩になるかもしれない。それも私のせいだ。

 けど、もしそうやって互いの気持ちを打ち明けて、また、やり直すことができたなら――」

 

 そして、最後だけは。

 いつも通りの優しい声音で、こう、言うのだ。

 

「――それは、お前たち家族の絆の賜物だ。私は、関係ない」

「っ……」

 

 わけが、わからなかった。おくうは唇を噛み締めて、よくわからない感情で暴れそうになる心を懸命に抑えつけた。

 どうして、彼は。

 おくうに、こんなにも構おうとするのだろう。おくうはずっと、彼にひどいことをしてきたのに。現実の彼が正視に耐えないひどい怪我をしているのだって、みんなおくうのせいなのに。

 なのにどうして、こいしたちに向けるのと同じ顔で、笑えるのだろう。

 正直、かなり効いた。心を揺さぶられた。さとりが、こいしが、お燐が、笑った顔が、怒った顔が、元気な顔が、いじけた顔が、優しい顔が、次々と脳裏に甦っては消えていく。かつて幸せだったあの場所へ、帰れるのならば、許されるのならば、帰りたくなってくる。しかし、それでも、おくうに月見の手は取れなかった。

 

「今更、どんな顔で帰ればいいのっ……?」

 

 もうたくさんのものを傷つけてしまった、おくうが。

 

「どんな顔だっていいさ」

 

 月見の答えは、迷いない。

 

「さとりたちと会って、そのときお前の心に浮かんだ気持ちでそのままぶつかっていけばいい。けど、『放っておいて』なんて嘘はもうつくなよ」

「でも……! でもっ……!」

 

 さとりたちの元へ戻るのが、怖くないといえば嘘になる。けれどそれ以上に、おくうが怖れているのは、

 

「私は! わた、し、はッ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「わたし、は。ひとを、ふたり、ころして」

「……!!」

 

 ――ああ、そうか。そういうことだったんだ。

 おくうの口から、譫言のように紡がれる言葉。それを聞いてお燐は、頭の裏でなにかがカチリと噛み合ったのを感じた。

 当然、まっさきに声を上げた。

 

「ち、違うよおくう! おくうは、誰も殺してなんかない!」

 

 無論、お燐が姿を隠していたからと言ってしまえばそれまでだ。灼熱地獄へ下りていった霊夢と魔理沙を結局見捨てられず、こっそりと後を()けていって、物陰から戦いの一部始終を窺っていた。そして、おくうの砲撃が当たるより先に灼熱地獄へ落下した二人を、あわやという間一髪のタイミングで助け出した。

 気づかれたかもしれないと、思ってはいた。けれど確かめる勇気はなかった。自分のペットが博麗の巫女を勝手に助けたと知ったとき、果たしてこいしはどう思うのか――そう考えると、どうしても恐怖で足が竦んだ。

 おくうは、気づいていなかったのだ。だから、他でもない自分が、人を二人も殺めてしまったのだと思い込んだ。虫の一匹も殺せなかったおくうなら、襲い掛かってくる恐怖は並大抵のものでは済まなかったはずだ。

 現に今だって、彼女は苦しんでいた。

 

「あそこまで、やるつもりなんて。なかった、のに」

「おくう、違うの! あの人間は、あたいが助けた! だから大丈夫だよ!?」

 

 虚ろなおくうが、口の端をほんのかすかに曲げた気がした。

 

「いい、の。わかってるもん。おぼえてる、もん」

「おくう……!」

 

 お燐は、血が噴き出すほどに己の唇を噛み締めた。どうして、どうして自分は、逃げてばかりで、勇気がなくて。今しか、おくうを助けるにはもう今しかないのに、なのにどうして、自分の言葉を届けてあげることすらできないのだろう。

 

「おくう、聞いてっ……!? おくう……ッ!!」

「おぼえてる、もん。わたし、は――」

 

 お燐の声は、届かない。震えるおくうの唇が、まるで呪いのように、

 

 

「わたしは、あいつらを、殺」

「――あら、誰が誰をどうしたって?」

 

 

 時が、止まった。

 おくうの真横、煌めく銀の炎を威風堂々踏み越えて。

 博麗霊夢が、そこにいた。

 

「――え、」

 

 なにが起きたのかわからず言葉を失うおくうに、霊夢はにっこりと微笑んで、

 三秒、

 

「――こォンのバカ鴉があああああああああぁぁぁぁぁっ!!」

「うみゅみゅみゅみゅみゅみゅみゅみゅ!?」

 

 おくうのほっぺたを両側から、むいーん!! と全力全開で引っ張った。

 おくうのほっぺたが、ちょっと見たことないレベルで伸びた。霊夢はのっけからブチキレモードで、

 

「あんたァ、よくもやってくれたわね!? あんたのせいで私の計画が台無しよ! せっかく華麗に異変解決して、月見さんに褒めてもらって、美味しいご飯たらふく食べて温泉入ってぐっすり寝るハズだったのにいいいいいぃぃぃ!!」

「にゅにゅにゅにゅにゅにゅにゅにゅ」

「しかもなによその恰好、もしかして荒御魂を制御し切れなくなったの!? 修行が足りないのよその程度で神様の力を借りようなんておこがましいわ今すぐ手放しなさいそんで私ともっかい勝負しなさい今度こそ叩きのめして完全勝利してやるんだからあああああぁぁぁ!!」

「にょにょにょにょにょにょにょにょ」

 

 お燐は目が点である。

 そのとき炎の向こうからもう一人の人影が、

 

「霊夢のアホおおおおおおおお!!」

「ガッ」

 

 霧雨魔理沙が怒濤の勢いで霊夢の頭をぶっ叩き、

 

「なにやってんだお前空気読めよ!? 今そういうことやっていい雰囲気じゃなかっただろ!?」

「知るかァ!! 私はいま怒髪天なのよ、あっこらやめなさい放せコンニャロ――――――――ッ!!」

「はいはいれーむちゃんあっち行ってようね――――――――!!」

 

 霊夢を羽交い締めにしてズルズル降下していき、そこに更にもう一人、

 

「霊夢のバカッ! いま絶対、霊夢のせいで空気ブチ壊しだったわよ!?」

「だから知るかって言ってんでしょうがあああああぁぁぁ!! あっそこのちっこいの、あんた私に不意打ちしてくれやがったヤツね!? あんたもあとでギッタンギッタンのケチョンケチョンにしてやるんだからああああああああああッ!!」

「れーむちゃんいい加減にしようね――――――――!!」

 

 アリスと人形たちまで加わって、あんぎゃあ!! と怒り狂う霊夢を岩の陰まで引きずっていき、

 

「さすがの魔理沙ちゃんもびっくり仰天だよ! お前、あそこからなにするつもりだったんだ!?」

「ふくしゅう」

「みんな縄でふん縛って今の霊夢を野に放っちゃダメよ!?」

「放せええええええええ!! 今度こそ私が勝つんだからああああああああ!! コンニャロオオオオオ――あっ叫びすぎて目眩が」

「心の底からバカだろお前!?」

「そうよっ、魔理沙に言われるなんて相当よ!?」

「よし、お前ちょっとそこに直れ」「アリス、ちょっとそこに直りなさい」

「ごめんなさい!?」

「「……」」

 

 お燐はますます目が点であり、おくうは赤くなったほっぺたを涙目で呆然とさすっている。

 

 えっと。

 なんの話だったっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 おくうの心の中の世界で、月見はくつくつと喉を震わせて笑う。今し方現実で起こった小さな嵐に頭が追いつかず、ぽかんと呆けているおくうに向けて、

 

「――それで? お前が、誰をどうしたって? よく聞こえなかったな」

「――――――――ぁ、」

 

 おくうが、揺らめいた。

 それは恐らく、冷たく凍りついてしまっていた彼女の鼓動が、確かな熱とともに動き出した瞬間だったはずだ。

 だから月見は、もう一度手を伸ばした。

 

「ほら。行くよ」

「っ……!」

 

 おくうの瞳に、為す術もなく涙がこみあげる。彼女の心を閉ざしていた最後の蓋が破壊され、ずっとずっと抑えつけられていた本当の想いがあふれだしてきていた。

 

 一体どれだけの間、彼女は独りで耐え続けていたのだろう。

 

 「放っておいて」なんて、嘘っぱち。本当は、ずっとずっと傍にいたい。寂しいと言いたい。一人にしないでと伝えたい。だから、こんな自分だけれど、みんなに迷惑を掛けた自分だけれど、もし許されるなら、許されるのならば、

 

「――私、いいの(・・・)っ……!?」

 

 考えるまでもない。

 月見の答えなんて、ここに来るより前から決まっているのだから。

 

「言ったはずだよ。――引きずってでも連れて帰る、ってね」

「っ……ぅ、ぁ……!!」

 

 決壊した涙は次々と流れ、それでもどんどんあふれ、目を開けているのも辛かったはずだった。

 けれどおくうは、決して俯かないで。震える手でも、それでも、それでも。

 

 月見に、

 手を、

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、お燐は確かに見た。確かに聞いた。見間違いではない。聞き間違いではない。

 血と闇の色で潰れていた瞳に、光が戻り、

 伝う一筋の涙とともに、おくうが、

 

 

「お願い……!! 私を、助けてぇ……っ!!」

 

 

 そのときお燐の中で駆け巡った感情を、どんな言葉で言い表すことができただろう。隅の隅という血液の流れが爆発的に加速し、心臓の鼓動に内側から胸を殴られ、息が詰まる感覚とともに全身に力が満ちる。単なる興奮とはワケが違う。嵐と化す体とは対照的に、頭の中は不可解なまでに澄み切っている。

 助けるさ。

 助けるともさ。

 だって、お燐は独りじゃないから。お燐の背を支えてくれる月見がいて、帰りを待ってくれている家族がいるから。お燐は、おくうは、決して独りなんかじゃない。

 ――だから、一緒に帰ろう。おくう。

 やっと、ふさわしい言葉が見つかった。

 これは、逃げ続けてきた自分自身への『決別』であり。

 計算や理屈を超越した、純然たる『決意』だ。

 月見が、吼えた。

 

「――やれ!! お燐!!」

 

 この瞬間にすべてを捧げるため、自分はずっと間違い続けてきたのだ。

 おくうの胸元めがけて振り下ろした切っ先は、月見の言葉通り、赤い瞳に届く寸前で勝手に止まった。お燐が今まで見たこともない、複雑な幾何学の陣が切っ先から起動し、おくうの体を捕捉する。

 そこから一瞬は、なにも起こらないように見えた。

 一瞬だけ。

 陣に月見の妖力が満ちた瞬間、おくうの全身から再び灼熱の業火が噴き上がった。

 

「 ――――――――   !! 」

 

 けたたましいまでに、おくうの中に宿る鴉が哭いた。翼をめちゃくちゃに打ち鳴らし、お燐の眼前を黒い羽根と深紅の炎で埋め尽くす。月見の銀が守ってくれているにもかかわらず、灼熱地獄育ちのお燐が無意識のうちに手を緩めかねないほどの熱量だった。

 だが、お生憎だ。今更そんな抵抗をしたところでなんの意味もない。

 お燐はおくうを救えるのなら、このまま指が使い物にならなくなったって構わないのだから。

 月見の、声が聞こえた。

 

 ―― 掛巻も 恐き稲荷大神の大前に 恐み恐みも白さく

 

 おくうを捕らえる陣が、銀の光を帯びる。

 

 ―― 祓い給へ

 

 おくうの体を、銀の光が包んでいく。

 

 ―― 清め給へ

 

 赤の炎が、消えていく。

 おくうの体を蝕む紋様が、消えていく。

 おくうの体が、元の形へ戻っていく。

 

 ―― 守り給へ

 

 おくうが、目を開けた。

 血と闇の色ではない。おくう本来の、深く光を映す黒の瞳。

 声が、こぼれた。

 

「――おく、」

 

 銀が、満ちた。

 

 

「 ―― 神ながら 幸い給へ !! 」

 

 

 お燐の視界が、おくうの姿が、すべて銀の光で潰れ、

 

 

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――お燐の手を離れた緋想の剣が、重力に引かれ落ち、大地に刺さる。

 だがそれは、決して最悪の結末を意味しているのではない。

 

「おくう……! おくう……っ!!」

 

 お燐が、傾いたおくうの体を鷲掴みにするように抱き留めたから。

 そしておくうは、その大袈裟すぎる力に、なんとも渋い顔をして。

 

「……ぐるじい、おりん」

「っ……!!」

 

 ――この異変が始まってからというもの、誰かが涙を流すのは何度目になろう。

 けれど、悲しい涙は、もうおしまい。

 

「おぐう゛~~~~っ!! よがっだよおおおおお……!! ふみ゛ゃあああああ~~~~……!!」

「ま、まっておりんいたい、いたっ、……ぐええ」

 

 じょばーっ!! とマンガみたいな涙をまき散らし、お燐がおくうをぎゅうぎゅうと抱き締められる。おくうが背中を叩いても問答無用のお構いなしだ。困り果てたおくうが視線を彷徨わすと、ふと、月見とぱっちり目が合った。

 ボロボロで傷だらけの、本当に恰好悪い、銀の狐。でも、恰好悪くても、恰好悪くなんてない。それどころか、今のおくうの目にはむしろ――。

 その気持ちを認めるのが癪だったので、言ってやった。

 

「……カッコ悪い」

 

 月見は息で笑って、肩を竦めた。

 

「勘弁してくれ」

 

 決して意識したわけではない。けれど、月見のその物悲しそうな仕草が、なんだかとてもおかしかったので。

 おくうは、はじめて――はじめて月見に、自分の方から。

 

「……バカ」

 

 暖かな気持ちで、ほんのちょこっとだけ、笑いかけてみた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「おくう――――――――っ!!」

「うみ゛ゅっ!?」

 

 こいしの砲弾タックルを鳩尾に喰らい、おくうは吹っ飛ばされた。

 こいしもこの技が使えるのかー、と月見は脳裏にフランの姿を描きながら思った。

 ようやく――ようやく、終わった。八咫烏の荒御魂が(つつが)なく鎮まり、おくうは身も心も元の姿を取り戻した。大地の崩壊は完全に治まっていて、灼熱地獄の炎も沈静化を始めている。少しずつ、元の冬が戻ってくるであろう。

 月見は、薄氷の上で立つようにゆっくりと地に足をつけた。たったそれだけのことだが、体はご丁寧に鈍い痛みを訴える。額から流れ落ちる汗を拭い、ようやくそれが汗ではなく血だと気づいた。どうやら、爆発を受けて大地を転がされたときにでも切ったらしい。

 思わず、苦い笑みがこぼれた。ここまで手酷くやられたのは、一体何百年振りなのだろう。ひょっとすると、輝夜とはじめて出会ったあの頃まで遡るかもしれない。いやはや懐かしい――とでも昔を偲んで気を紛らわせておかないと、あっという間に意識が吹っ飛んでいってしまいそうだった。

 両膝に手をついて荒く息をしていると、大地の崩壊は治まったはずなのになぜかズドドドドドと地響きの音、

 

「月見く――――――――んっ!!」

「つーくみ――――――――っ!!」

 

 顔を上げれば満面の笑顔で突撃してくる藤千代と勇儀がいて、おいちょっと待て今お前らの砲弾タックル喰らったら冗談抜きで三途の川が

 

「やめなさいバカ者ッ!!」

「「むぎゅ!!」」

 

 映姫が月見の手前に結界を展開し、鬼二名は大変感動的な勢いで激突した。藤千代は例によって無傷で、勇儀は角が折れた。

 

「なにするんですか――――――――っ!!」

「また私の角―――――――――――っ!?」

 

 ぷんすか怒る藤千代と膝から崩れ落ちる勇儀を完全に無視して、映姫が素早く月見の前に降り立ち、

 

「まったく、随分と無茶をしましたね……! いくら妖怪とて限度というものがありますよ!?」

「……ああ、さすがに疲れたよ」

 

 生返事を返しながら、おや、と月見は眉を上げる。映姫の素振りを見るに、意外にも真っ当な心配をされているらしい。普段の彼女なら、まったく情けない、心のどこかに隙があるから云々と、ここぞとばかりに弁舌を振るいそうなものなのに。

 もっとも、怒られないならそれに越したことはないので、なにも言わないけれど。

 遅れて天子も駆けつけてきた。

 

「月見ッ!! け、怪我、大丈夫なの!?」

「……そういうお前こそ」

 

 天子は両腕に、藤千代の着物の切れ端と思われる布を巻いていた。黒地のためほとんど目立たないけれど、かすかに血の匂いがする。

 

「無理をさせたね」

「月見はもう少し自分の心配してよ!? あ、頭から、血……早く手当しないと!?」

「彼女の言う通りです! あなたはやはり、危機管理がまるでなってないっ!」

 

 否、月見だって、自分の怪我が到底やせ我慢で済ませていい範囲でないのは理解している。それでも月見が根を上げず立ち続けるのは、まだ成し遂げていないことがあるからだ。

 

「もう少しだけ」

 

 こちらを押し倒しかねない勢いでグイグイ来る二人の肩に、手を置いて。

 

「最後だけ、見届けさせてくれ」

 

 月見が見据えた先では、おくうがこいしとお燐に押し倒され、笑ったり泣いたりで揉みくちゃにされている。

 そして古明地さとり一人だけが、ひとつもうれしそうな顔をしないで無言のままに佇んでいる。

 おくうが、気づいた。

 

「――あ、」

「おくう」

 

 おくうの無事を喜ぶのではない。

 それどころか咎めるような、固く鋭い声音。

 

「こっちへ来なさい」

「……、」

「来なさい」

 

 怒っている。

 おくうは従うしかない。ただならぬ空気を感じてか、立ち上がり、さとりの方へ向かったおくうの背に、こいしもお燐も声ひとつ掛けられない。さとりの目の前まで至る頃には、おくうの相貌は恐怖で真っ白に色褪せていた。

 いつしか誰しもが、身じろぎひとつできないでさとりとおくうを見つめていた。

 さとりが俯いたまま、おくうの顔も見ずに口を切った。

 

「体の具合は?」

「え、」

 

 思わぬ問いにおくうは面食らい、

 

「……っと、もう、だ、大丈夫……です」

「……そう」

 

 さとりの声音は変わらない。おくうの答えに喜びも安堵も浮かべず、静かに長く、深呼吸をして。

 少しの間、無音があった。

 

 

 さとりが真後ろまで腕を振りかぶり、おくうの頬を張り飛ばした。

 

 

 たぶん、本気だったと思う。なにかが破裂したような鋭く甲高い音が上がり、おくうの体が真横に崩れ落ちる。こいしとお燐はもちろん、天子すら小さく悲鳴をあげた。おくうはなにが起こったのかわかっていない。さとりが、右腕を振り抜いた恰好のまま肩で荒く息をしている。

 

「許さない」

「……ぇ、あ」

 

 さとりに頬を打たれたとようやく理解したおくうが、信じられない顔つきでゆるゆると体を起こす。

 

「絶対に、許さないから」

 

 なにを許さないのかなど、問うまでもない。

 

こんな馬鹿なこと(・・・・・・・・)、もう二度としないで」

「……、」

 

 だってさとりは、紛れもなく本気で怒っているのだから。

 

「もう、二度と――」

 

 さとりがおくうに手を伸ばす。おくうが体を戦慄かせ、為す術もなくその場に凍りつく。お燐がさとりの名を叫び、こいしが駆け出そうとする。天子が息を呑み、映姫が眉をひそめる。

 その中で、月見は。

 ただ一人すべてを察して、笑みの息をついていた。

 

「――もう二度と!! 勝手に、私たちの傍からいなくなろうとしないでッ!!」

 

 おくうの胸倉を掴み上げ、別人かと思うほど怒鳴り散らして。

 けれどさとりは、泣いていた。

 瞳いっぱいの大粒の涙を、嘘みたいにボロボロ流して、泣いていた。

 古明地さとりは、おくうに本気で怒っている。

 八咫烏の荒御魂に呑まれたおくうが、地底を破壊したからではなく。

 月見たちに、怪我をさせたからでもなく。

 もう、放っておいてと。自分たちの傍から、勝手にいなくなろうとしたから。

 

「絶対に、許さない……!!」

 

 赤い瞳が消えたおくうの胸元に、額を押しつけて。

 

「絶対に、許さないんだからぁ……っ!!」

 

 ずっと、傍にいろと。

 その言葉なき願いは、きっとおくうの心を叩いたであろう。

 

「――ごめんなさい、」

 

 気がつけばおくうもまた、さとりに負けないくらいの涙とともに、

 

「ごめんなさい……!! ごめんなさい、さとりさまぁ……っ!!」

 

 本当は、おくうだってはじめからわかっていたのだ。

 さとりたちが、おくうを見なくなったのではない。

 目を逸らしたのは、おくうの方。月見の存在に怯え、嫉妬し、気に入らない現実を直視できずに背を向けた。

 そして、いじけて、なにかもが嫌になって、殻に閉じこもって。

 そんな自分を、怒鳴ってでも、叱ってでも、振り向かせてほしかったのだ。

 随分と遠回りをして、擦り傷だらけになってしまったけれど。

 

「お姉ちゃんずるい――――――――っ!! 私も泣く――――――――っ!!」

「あたいも泣く――――――――っ!!」

 

 恥も外聞も投げ捨てたこいしとお燐が、いっそ清々しい感じでおくうに突撃していく。四人揃って揉みくちゃになって、生まれた頃へ返ったようにわんわん泣いて。

 その光景を見届けて、ようやく――ようやく月見は、すべての重圧から解放され、楽になれたような気がした。

 崩れ落ちるように、その場にドカリと座り込んだ。

 

「つ、月見!?」

 

 天子が思っていた以上に大きな声を出したせいで、全員が一斉に月見を振り向く。

 しかし、ちょうどいい。せっかくなので、言っておこうと思う。

 

「ああ、まったく――」

 

 これ見よがしにわざとらしいため息をついて、主にこいしとおくうに向けて。

 上手く笑えたであろう。

 

「――こんなしんどいの、もう二度と御免だからな」

 

 およそこのあたりから、月見の記憶は少々曖昧になっている。やることをやって、言うことを言って、心残りなんてまるでないものだから完全に気が抜けてしまった。

 であればあとはもう、眠るだけ。

 天子に肩を揺さぶられた気がするし、映姫が「すぐに医者を……!」とかなんとか言っていた気がする。藤千代の「月見くんは私が運びまーっす!」と元気な声が聞こえたように思うし、勇儀は「私の角ぉ……」と半泣きだったかもしれない。

 

 そして、月見の容態を深読みしすぎて慌てふためく少女の中に――つと、おくうの姿が、見えたのは。

 

 きっとすでに、夢だったのだろうなと。

 そう、月見は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑬ 「変わる想い、変わらない想い」

 

 

 

 

 

 その後月見は、しばらくの間まるで目を覚まさなかった――

 ――ということはまったくなく、次の日の朝には普通に目を覚ましてそのへんを徘徊していた。目を覚ましたばかりの怪我人相手に『徘徊』はひどいんじゃないかと思われるかもしれないが、事実そうだったのだから仕方がない。

 具体的には、以下のような有様だった。

 

「お姉ちゃん……月見、大丈夫だよね。絶対、目を覚ましてくれるよね……?」

「……ええ、大丈夫よ。絶対に」

 

 地霊殿の一室で眠る月見の容態を確認するため、さとりがこいしと一緒に廊下を歩いていた折。

 

「おや。おはようさとり、こいし」

「あ、おはようございます、月見さん」

「おはよーっ」

 

 途中で月見とすれ違い、挨拶をして、

 

「……月見さんのことだもの。さっきの月見さんみたいに、きっとすぐ元気になってくれるわ」

「そうだよね、さっきの月見みたいに――待って待って待って」

「月見さん!?」「月見!?」

「ん?」

 

 いや「ん?」じゃない、

 

「ちょっと待ってください本当に月見さん!? い、いつの間に目を覚まして!?」

「ついさっき」

「なにやってるんですかあなたは!?」

「散歩」

「散歩!?」

「普通に歩いてたから普通にすれ違っちゃったんだけど!? 完全に私たちの無意識に入り込んでたよ!?」

「すごく真剣な顔で歩いてたからじゃないかい」

「月見さんの様子を見に行こうとしてたんです!!」「月見の様子を見に行こうとしてたの!!」

「そ、そうか」

「だ、だいたいどうやって抜け出して! お燐が見ていてくれたはずじゃあ、」

 

 見計らったように廊下の彼方からお燐の声が、

 

「おにーさあああああん!! どこ行っちゃったの――――――――っ!?」

 

 更に霊夢と天子の声まで、

 

「うっさいわねー、なによまったく」

「つ、月見がどうかしたの?」

「おにーさんがいないの! あ、あたいがちょっとお菓子を取りに行った間に、忽然と消えちゃって!」

「え!? どどどっどうして!? まさか誘拐!?」

「わかんないっ! とにかくいないの!」

「……はあ。あんたたちねえ、月見さんのことだからどうせ目を覚ましてそのへんほっつき歩いてるに決まって」

「月見――――――――っ!! どこに行ったの――――――――っ!?」

「おにーさ――――――――ん!!」

「だからうっさいっつーの!?」

 

 そのときにはすでに、さとりとこいしは月見の腕を掴んで引きずる体勢に入っており、

 

「ほら月見さん戻りますよ、みんな心配してるじゃないですか!?」

「おり――――――――んっ!! 月見はここにいるよ――――――――っ!!」

「いででででで」

 

 と。

 恐らくはそれなりに長い地霊殿史の中で、最も騒がしく混沌とした瞬間だったはずである。

 そんなこんなでさとりとこいしは、徘徊する月見を無事元の場所に連れ戻したのである。

 

「なんだろう……いま私、月見が目を覚ましてすごく嬉しいはずなのに……なんか素直に喜べない」

「月見さん、勝手なことして心配掛けないでくださいっ」

「悪かった、悪かったよ」

 

 地霊殿の空き部屋だ。そこは、元々物置同然に使われていたのを急ごしらえした即席の病室で、ベッドと小さな丸テーブルと腰掛け数脚以外にはなにも置かれていない殺風景な空間だった。月見をベッドの方へぐいぐい押し込みながら、さとりは速やかにお燐へ命じる。

 

「お燐、おくうを連れてきて頂戴」

「わっかりました!」

 

 おくうー! おっくうー! とお燐が元気に飛び出していく。

 月見が、よっこらせと難儀そうな声をあげてベッドに腰掛けた。まるでおじいちゃんだが、こればかりは彼の体を考えれば無理もないと言わざるを得ない。

 大部分が焼けて使い物にならなくなった着物の代わりに、藤千代が超特急で調達してきた着流しを一枚だけまとっている。冬の恰好としてはあるまじき薄着だが、地霊殿は床暖房完備なので特に問題ないのだ。しかしそれ故に、月見のほぼ全身を覆う包帯の層がまざまざと目に飛び込んできて、彼の火傷がどれほど凄惨なものだったのかを改めて突きつけられる思いがした。

 体と両腕両脚はもちろん、顔の左半分まで徹底的に巻かれている。助けられた身でありながらこう例えてしまうのもなんだが、これでは墓場から抜け出してきたミイラと比べてもそう大差ない。そして無残な黒へ変わってしまった尻尾は、妖術で影も形もなく隠されている。

 

「私は、どれくらい寝ていた?」

「まだ昨日の今日ですよ。しばらくは目を覚まさないんじゃないかと思っていたので、本当によかったです」

「そうか。……やはり妖怪の体は丈夫だね。てっきり永遠亭に担ぎ込まれるものと思ってたけど」

 

 月見の言う通り、本来であれば、彼は地上に戻って然るべき場所で然るべき処置を受けるべきだったのだろう。地上には『永遠亭』という名の診療所があり、幻想郷最高の医療技術であらゆる病気と怪我に対処してくれるという。それを考えれば、置き薬程度の備えしかない地霊殿で彼を休ませるという選択が、お世辞にも最適解といえないのは誰の目にも明らかだった。

 ならなぜ、月見がここにいるのか。

 みんながそれを望んだからだ。たとえ治療のためであったとしても、月見を目の届かない遠くへ連れて行かれてしまうのが嫌だったからだ。

 さとりもこいしも、お燐も、そう思っていた。

 そして――おくうだって。

 

「とはいっても、起きていきなり歩き回るなんて……月見さん、それじゃあ人里で夜な夜な徘徊してるおじいちゃんと変わりないわよ」

「……まあ、実際歳が歳だけに、なかなか刺さるね」

 

 ところで現在この部屋には、普段の地霊殿ではまず考えられない珍しい来客の姿がある。今し方月見をおじいちゃん扱いした霊夢と、その隣で小さく苦笑いを浮かべた天子である。

 この二人も月見と同様に、冬らしくない涼しげな装いに様変わりしている。霊夢なら赤、天子なら青の木綿着物は、これもまた藤千代が旧都から調達してきたものだ。異変を通してすっかり傷んでしまった元々の服は、裁縫上手なペットたちによって手厚く修繕が行われている。昨日から取り掛からせているから、どんなに遅くとも今日のうちに仕上がるだろう。

 

「ところでお前たち、もしかして昨日から地上に戻ってないのか?」

 

 そう。つまり月見のこの推測はまったくもって大当たりで、彼女らは異変が終わったあとも地上に戻らず、地霊殿でまことしたたかに一夜を明かしてしまったのだ。

 天子はさておき、霊夢の肝っ玉の太さは相当すごい。普通、自分の命すら脅かしたと言っても過言ではない相手と、その日のうちから同じ屋根の下で寝ようなんて考えるだろうか。……もっとも今回の場合に限っては、だからこそというべきなのかもしれないけれど。

 

「まあそうね、ちょっと個人的にやり残してることがあるから。魔理沙とアリスは先に帰ったわ」

「やり残してること……?」

「いいのいいの、ほんと個人的なことだから」

 

 月見がつとさとりに目配せをしてきた。自分が寝ている間に、霊夢とこいしの間で『なにか』がなかったかどうかを心配しているようだった。

 こいしは、かつてさとりを退治しようとした博麗の巫女を恨んでおり、それ故に同じ巫女の血筋である霊夢に強い敵愾心を見せていた(・・・・・)

 過去形だ。そのあたりについてはいま手早く話せるようなことではないので、ひとまずさとりは唇だけで、大丈夫ですよと答えた。

 さとりの唇を読んだ月見は、お前が言うなら信じるよ、と心の声で答えてくれた。霊夢に目を戻し、

 

「でも、戻らないと藍が心配してるだろう」

「あー、それなんだけどね。昨日月見さんが眠ったあとに、藍から式が飛んできたのよ。私の方で適当に返しといたから。それに、一応魔理沙に伝言も頼んだし、たぶん大丈夫でしょ」

「そうか……なら、あとで私からも式を飛ばしておくよ」

「ちなみに天子は、ただ月見さんが心配だから残ってるみたいよ」

「だ!」

 

 いきなり話を振られた天子はびくっとして、

 

「だっ、……だって、ほんとにひどい怪我なんだもん!? なのに月見だけ置いて帰ったら、心配で夜も眠れなくなっちゃうでしょ!?」

「いや、さすがにそこまでではないかな……」

 

 天子は顔を両手で覆ってぷるぷる震えている。

 月見が目尻を緩め、

 

「心配ありがとう。お前の方こそ、怪我の方は大丈夫か?」

「あ……う、うん」

 

 着物の袖に隠れてわかりづらいが、天子もまた両腕に包帯を巻いている。

 

「こんなの、ぜんぜん平気。天人は体だって丈夫なんだから」

 

 月見の前で虚勢を張っている――わけではなかったので、安心した。もちろん、ここで嘘などつこうものならさとりがぜんぶバラしてしまうが。さすがに妖怪並みではないものの、天人は普通の人間と比べれば段違いに怪我の治りが早く、すでに痕が消えるのを待つだけとなっているらしい。

 老婆心ながら、月見のために補足しておく。

 

「本当みたいですよ」

「……そうか。よかった」

 

 小さく安堵の息をついた月見は、それからやにわに、

 

「ところでその着物、随分と似合ってるね。お前の着物姿を見るのははじめてだから、余計目に映えるよ」

「えぅ、」

 

 予想外の一言に天子は思考停止し、五秒くらいしてからゆっくりと再起動して、きゅっと縮こまりながらぽそぽそと、

 

「ぁ、ぁりがとう……」

 

 そのとき天子がなにを考えていたのか、バッチリ読み取ったさとりは愉悦の表情で親指を立てた。

 

「天子さん、素敵な着物が見つかるといいですねっ」

「わー! わーっ! うわあーっ!?」

 

 もちろん天子が考えていたのは、「地上に戻ったら着物買おうかな……」である。

 霊夢がニヨニヨしている。さとりの方を見て、「いやー心を読む能力ってこういうときに便利ねー」と考えている。なのでさとりもニヨニヨしておいた。天子は再び顔を覆ってぷるぷるしていた。

 こいしがなにかを決意した目でさとりを見つめ、

 

「お姉ちゃん……! 私、着物買う!」

「お小遣いを貯めて買いなさいね」

「ケチッ!!」

 

 ウチにそんな贅沢をする余裕はありません。

 

「こいしさん、私の着物でよければお貸ししますよっ。身長がそんなに変わらないので、きっといけると思います!」

「ほんとにっ? わーい!」

「もー藤千代さん、あんまりこいしを甘やかさないでくだ」

 

 強烈な違和感、

 

「……藤千代さん。一応訊きますけど……いつからここに?」

 

 この部屋にいたのは、さとり、こいし、月見、霊夢、天子の五人だけだったはずだ。間違いない。おくうを連れてくるようお燐に頼んだとき、さとりは部屋全体を見回して確認している。

 なのにいつの間にか、藤千代が当たり前みたいに増えていた。

 霊夢と天子はもちろん、こいしすら時間差で驚いた。

 

「わっ! ほんとだ、よく見たら鬼子母神様だ!」

「あんた、ほんとに突拍子もなく湧いてくるわね!?」

 

 月見がげんなりとため息をついている。

 

「ついさっき、普通に入ってきてたよ……」

「月見くんが目を覚ましたと私のゴーストが囁いたので、居ても立ってもいられず駆けつけてしまいましたっ。思わず能力が暴発しちゃうほどでしたよ!」

 

 旧都の皆様、鬼子母神様は本日も快調にぶっ飛んでおられます。

 お燐が戻ってきた。

 

「さとり様っ、おくうを連れてき――あれ、なんだろこの空気。あ、藤千代がいる」

「おはようございます、お燐さんっ」

「うん、おはよう……?」

 

 お燐は少しの間首を傾げて、それから「まあいいか、どうせ藤千代がなんかしたんだろう」と納得したようだった。実際大正解なのがなんとも言えない。

 ともあれさとりは気を取り直し、

 

「お燐、おくうがいないようだけど」

 

 おくうを連れてきたと言う割に、お燐の後ろには誰の姿もない。

 

「え? なに言ってるんですかさとり様、ちゃんとここに」

 

 後ろを振り向いたお燐が真顔で外に飛び出していき、

 

「こらーっおくう!! ちゃんとついてきてって言ったでしょーっ!?」

「だ、だってぇ!!」

 

 おくうの声は、なぜかだいぶ遠いところから聞こえた。なにやってるんだろうあの子、とさとりは思う。

 およそ五秒をかけて、お燐がドタバタと廊下を走っていく。

 

「ほらっ、みんな待ってるから来るのーっ!」

「うにゃー!?」

 

 そこからおくうがやっとこさ姿を現すまでには、更に十秒ほど時間が掛かった。お燐にぐいぐい手を引っ張られ、半分転びかけながら部屋に一歩を踏み入れたおくうは、その瞬間まっさきに月見と目が合って、

 

「っ……!」

「にゃっ」

 

 お燐の手を強引に振り払い、入口の壁の後ろに光の速さで逃げ込んでしまった。

 もー! とお燐が尻尾を逆立てて怒る。

 

「なにしてるのおくうーっ! ちゃんとみんなに顔見せなよぉ!」

 

 おくうは答えず、体隠して翼隠さずの状態で縮こまっている。壁を突き抜けて、おくうの思考がさとりのところまで漂ってくる――やはりおくうは、緊張で月見の顔を真正面から見られないらしい。

 お燐がぷんぷんしている脇で、さとりはそこはかとなく笑顔になった。一見すると今までとなにも変わらず、おくうが月見を避け続けているように見える。しかし避けているのは同じでも、心の中で暴れている感情は――もう決して、彼への嫌悪などではない。

 恥ずかしい。

 なら、なぜ、恥ずかしいのか。

 

「……ごめんなさい、月見さん。おくうったら、まだ心の整理がつけられていないみたいで」

「仕方ないさ。あれだけのことがあったんだから」

「あ、でも、勘違いなさらないでくださいね。月見さんのこと、おくうはもうとっくに」

「うにゃあああああ――――――――ッ!?」

 

 おくうが絶叫しながら部屋に飛び込んできて、さとりの背中に体当たりをした。ぐるぐるおめめで激しく揺さぶる、

 

「さ、さとり様のばかぁっ!! どどどっどうしてそんなこと言うんですか!?」

「あら、『そんなこと』ってどんなことかしら。教えてくれない?」

「うわあああん!!」

 

 なんだか、さとりが覚妖怪らしいところをはじめて見たな――と月見の心が言った。確かにさとりは、己の能力を比較的悪用はせず、『人の思考や行動を逐一先読みし、口に出してからかう妖怪』という世間一般的なイメージとは異なる生き方をしている。だが、それも『比較的』であり、時と場合による話である。

 地霊殿の外の知人――とりわけ月見と話をする際は、悪い思いをさせないようにいい子ぶっているけれど。

 おくうやお燐を始めとするペットたちに対しては、この読心の能力の下、割と容赦なくズバリと接したり、からかったりするのも珍しい話ではないのだ。

 こいしが、嬉しそうに月見のベッドに飛び乗って言った。

 

「要するにっ。これからはおくうも、月見といっぱい仲良くなりたいんだって!」

「だ、誰も『いっぱい』なんて言ってないです!」

「ふふ、『仲良くなりたい』ってところは否定しないのね」

 

 おくうはそろそろ涙目だった。これ以上はやめておこう、おくうが拗ねて灼熱地獄跡に引きこもりかねない。

 話題を替えてあげることにする。

 

「月見さん、お体の具合はどうですか? ……まあ、勝手に歩き回っていたくらいなので、心配はいらないと思いますが」

「ッハハハ、これは手厳しい。だがそうさな、気遣いは不要だよ。歩く程度ならぜんぜん問題ないからね」

「尻尾は? 尻尾は元に戻る……?」

 

 こいしが不安げな上目遣いで月見を覗き込む。その頭の上に、月見はぽんぽんと手を置いて、

 

「大丈夫さ。歳だけは無駄に食ってるからね、尻尾が焼けるのだって別に今回がはじめてじゃない。さすがに十一本ぜんぶとなると時間は掛かるだろうけど、ちゃんと元通りになるよ」

「そっか……よかったぁ……」

 

 こいしが、へたり込むように深く深く胸を撫で下ろした。安堵したのは彼女だけではない。さとりもお燐もおくうも、月見のその言葉だけで随分と救われたような心地がした。

 尻尾が焼けたまま元に戻らない――もしも月見の怪我がなんらかの決定的な形で残り続けたなら、それはさとりたちの心を蝕む呪いとなっていただろう。

 

「ところでこの包帯、随分としっかり処置されてるけど誰が?」

「あ、それは映姫さんが手配してくださったお医者様です。……ちゃんと、男のお医者様でしたよ」

 

 月見の気にしているところはわかる。彼の火傷は背中を中心にして腕や脚まで及んでしまっているので、もしも包帯を巻いたのがさとりたちの中の誰かであるなら、つまりその人は月見の服を脱がして――

 ……これ以上考えるのはやめておこう。なにをとは言わないが、想像してしまって、無性に顔が熱くなってきた。

 そんな小心者なさとりとは対照的に、藤千代は大変たくましく憤慨していた。

 

「本当は私が隅々まで手当するつもりだったのに、映姫さんったら『ここは同じ男性が手当に当たるべきです!』なんて堅っ苦しいこと言って、やらせてくれなかったんです! ひどいと思いません!?」

 

 地団駄を踏む藤千代に月見は笑顔で、

 

「あとで、映姫に礼を言わないとね」

「ぶーっ!」

「――あれちょっと待って」

 

 そのとき、突拍子もなくお燐がぽつりと、

 

「おにーさん……さっき、『十一本ぜんぶ』って言った?」

「「「…………」」」

 

 沈黙。はじめはお燐の質問の意図がわからず、五秒くらいじっくりと反芻させてから、さとりはようやくとんでもない違和感を見逃していたことに気がついた。

 ――さすがに十一本ぜんぶとなると時間は掛かるだろうけど、ちゃんと元通りになるよ。

 十一本。

 なにが。

 

「……そ、そういえば!? 十一本って、まさか月見さんの尻尾の数ですか!?」

「……あ!? ほんとだ! そうなの月見!?」

 

 目を剥いてびっくりする古明地姉妹に、霊夢が「はあ?」と眉をひそめて、

 

「なに、あんたたち知らなかったの? 今の幻想郷じゃあもう割と常識よ?」

 

 以前までは幻想郷でも一部の住人しか知らなかったが、夏の異変を通して大々的に知れ渡るようになっており、いやそんなのはどうだっていい、

 

「そ、そんな常識知りません!? きゅ、九尾ならともかく、十一ってなんですか!? 藤千代さんも、そんなのぜんぜん教えてくださらなかったじゃないですか!」

「それは、私が勝手に話していいことではないので……といいますか、月見くんの心を読んでとっくに知っているものと」

「そんなのちっとも考えてませんでしたよこの人ッ!!」

 

 もちろん、普通の妖狐であるはずがないと前々から確信はしていた。でなければ大昔の話とはいえ藤千代に勝てるわけがないし、他の鬼から一目を置かれる道理もない。けれど、だからといって十一尾なんて、一体誰に想像できるというのだろう。

 

「でもほら……異変で月見くんがやられて勇儀さんに運ばれてるとき、十一尾出してたじゃないですか」

 

 そんなの気づけるわけがない。あのときは状況が状況だったし、月見の尻尾はぜんぶ真っ黒に焼けてしまっていたし、『妖狐の尻尾は最大で九本』という先入観だってあったのだ。月見の尻尾が何本あったかなんて、数えようとも思えなかった。

 

「つ、月見さん! そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったんですか!」

「そうだよ! 隠してたの!?」

 

 詰め寄る古明地姉妹の剣幕に、月見は若干面食らいながら、

 

「あ、いや……とっくに話してるものだと思ってた。そういえば、話してなかったんだったかな」

「えぇ……」

 

 まさかこのおじいちゃん妖怪、ボケの兆候が見られるのでは。

 今のさとりたちの姿に重なるものがあるらしく、天子は乾いた苦笑いだった。

 

「あはは……あいかわらず月見は、自分の尻尾の数に無頓着だよね……」

「十一もあるとさすがに邪魔でね……。昔から隠して生きてきたせいか、時折十一あるって忘れてしまうくらいだよ」

「……」

 

 さとりは手近な腰掛けにゆるゆると崩れ落ち、覚めやらぬ衝撃をぜんぶ深いため息に変えて吐き出した。

 一周回って、安心したというべきなのかもしれない。十一もの尻尾を持つ規格外の妖狐なら、やはりその分妖怪としての力も強いはずだから、多少の怪我なんてあっという間に治ってしまうのだろう。今回の怪我に関して、月見の心配をするのは金輪際やめよう、とさとりは心に誓った。

 おくうに袖を引かれた。おくうはさとりの耳元に顔を近づけて、

 

「さとり様……尻尾が十一本あるのって、なにかすごいんですか?」

「そうね……もしもおくうが、羽が四枚や六枚もある仲間を見たらどう思う?」

「すごい! って思いま――あ、なるほど」

 

 極端な例えではあるが、そういうことだ。

 

「ねえねえ月見、尻尾治ったら触らせてっ! 十一本ぜんぶ!」

「ああ、いいよ」

「わーい!」

「はいはいっ! 月見くん、私も是非触りたいです!」

「お前はダメ」

「いけず!!」

 

 こいしたちがわいわいやっている隙に、さとりもまたおくうに耳打ちを返した。

 

「ところで、おくう。月見さんが目を覚ましたんだから、あの約束、忘れないでちゃんとやるのよ?」

「う、うにゅ……!」

 

 その途端、おくうの顔が明らかに赤くなって、さとりの頭に伝わってくる思考がぐちゃぐちゃに乱れた。羞恥と緊張の感情に基づく典型的な動揺。暴走する思考の渦が、さとりに面白い事実を伝えてくれる。

 鳥頭のおくうには珍しく、忘れないでちゃんと覚えていたとか。

 昨日の夜は、そのせいでなかなか寝付けなかったとか。

 

「あらあら」

「う、ううっ……」

 

 おくうがしおしおと縮こまっていく。素直になりたい自分と、みんなの前では恥ずかしくてとてもできないと逃げ惑う自分。せめぎ合うもどかしさが背中越しでもはっきりと伝わってきて、さとりはますますあらあらうふふと笑顔になる。

 別に、変な約束をしたわけではない。『月見が目を覚ましたら、ちゃんと助けてもらったお礼を言う』だけだ。しかしそのたったそれだけが、今のおくうにとっては並々ならぬほどに恥ずかしいことなのだった。

 月見に気づかれた。

 

「……さとり、なんだかすごく楽しそうだけどどうかしたのか?」

「あ、いえ、なんでもないんです。……ええ、なんでも」

「うわあ、お姉ちゃんがすごくいい笑顔……」

 

 こいしが若干引いているが、だって仕方ないじゃないか、こんなの微笑ましくなるなという方が無理な話だ。かたくなに月見を拒み続けていたおくうが、昨日の異変を通して少しずつ考えを変え始めていて。でも今はまだ、恥ずかしくて素直になれない気持ちの方が勝っていて。

 昨日の異変でさとりも痛感したのだが、おくうはただ優しく思いやりがあるばかりでなく、家族や仲間といった関係に強く執着し、依存する少女だったらしい。それは、『こいしに見てもらうために人を傷つける力を欲した』ことからも明らかだったといえよう。

 だからおくうは、今まで余所者だった月見を拒絶し続けていた。

 そう――今まで余所者だった(・・・・・・・・・)、だ。

 つまり現在は――そういうことである。

 そういうことであるならすなわち、おくうは家族や仲間に依存しがちな少女なので――そういうことなのである。

 あらあらうふふが止められない。ぶっちゃけて言おう――これだけでご飯三杯余裕でイケます。

 

「月見……なんか、お姉ちゃんが気持ち悪い……」

「さとり様、案外妄想豊かなトコがあるから……。普段書いてる小説も結構」

「お燐、一ヶ月おやつ抜きね」

「ぎにゃああああああああああ!?」

 

 お燐が膝から崩れ落ちた。人のヒミツの趣味を暴露しようとする輩に慈悲などない。

 

「へえ、さとりがそんなことを……よかったら今度読ませて」

「月見さん、トラウマ抉り取りますよ?」

「……わかった、触れないよ」

 

 よろしい。

 もー、と藤千代が人差し指を立てて、

 

「ダメですよ月見くんっ。乙女たるもの、男の方には言えないヒミツをいくつも抱えているものなのです。ねえ、天子さん?」

「へいっ!?」

 

 まさかの振りにめちゃくちゃ驚いた天子は、咄嗟に月見を見てしまい、

 

「……そ、そうですね! そうだと思いますっ」

 

 ……天子さん。私、それ(・・)はいつまでもヒミツにしてたらダメだと思いますよ。

 なお『それ』がなにかは、個人情報保護の観点から触れません。

 

「でも私は、月見くんにならなんだって打ち明けますよっ! スリーサイズは最近成長しまして上から」

「よしみんな、話を戻すぞ」

「なんでですかーっ!!」

 

 さとりはある意味、藤千代を心の底から尊敬する。

 緩い吐息ひとつで、月見は表情をフラットに戻した。

 

「私の体ついでで、確認させてくれ。……空、体の具合はどうだ? なにも違和感がなければいいんだけど」

「っ」

 

 びくっと震えたおくうが、さとりの背中に隠れて小さくなった。

 

「ぇと……だ、だいじょうぶ……」

「そうか。ならいいんだが……なにか妙な感覚があったら、どんなに小さなことでもすぐに教えてくれ。必ず、私がなんとかするから」

「……ぅ、うん」

 

 ああもう、背中越しでもじわじわ伝わってくるおくうの気持ちがくすぐったい。恥ずかしさが先立って心の底からは認められずとも、否応なく感じてしまう安心感。ひょっとしたら彼なら、もし自分がまた危険な状態に陥っても、助けに来てくれるのではないか。どんなに怪我をしても絶対に諦めず、自分に手を伸ばしてくれるのではないか。

 ずっと、守ってくれるのではないか。

 さとりがますますあらあらうふふするのをよそに、話は進む。

 

「月見……おくうって、どうなったの? もう、あんな風に暴走しちゃったりしない?」

 

 こいしが表情を曇らせ、月見の袖を小さな指先でつまむ。対して、月見は笑みを以て即答した。

 

「しないよ。させるわけがない」

 

 背中から伝わるおくうの気持ちがあらあらうふふ。

 

「そうだね、少しその話をしようか。今の空は、言葉で説明するとちょっとばかりややこしい状態でね」

 

 月見は少し考える間を置いて、それから言った。

 

「――八咫烏の荒御魂を私が降ろした別の神の御魂で鎮めて、かつ空を強引に式神にすることで、八咫烏の力を無理やり私の力で制御している状態」

「「「…………」」」

 

 約五秒の沈黙を置いてから、代表して霊夢と天子が、

 

「ん!? 待ちなさい、つまりこの鴉にはいま二柱の神様が宿ってるってこと!?」

「しかも月見の式神になってるの!?」

「そういうわけだね」

 

 ――こういうことを考えるのは、なんというか、ひどく不謹慎なのかもしれないけれど。

 面白いことになって参りました。

 

「……さとり様、『シキガミ』ってなんですか?」

 

 後ろからおくうが尋ねてきたので、さとりは満を持して答えた。

 

「つまりこれからは、月見さんがおくうの三人目のご主人様ということよっ」

「!?」

「こらこらさとり、誤解を招くようなことは言わないでくれ」

「でも、式神ってそういうものですよね?」

「……まあ、決して間違いとも言えないけど。しかし断じて、いたずらな目的で式神にしたわけじゃあないよ」

 

 月見は吐息、

 

「現時点で、なにがあってもあんな暴走を繰り返させないための、あくまで暫定的な措置だと思ってくれ」

「暫定、ですか」

「私が空に打ち込んだ式は、主従の契約を結ぶものではなく、空の力を私の力で制御するための(くさび)となるもの。要するに、私の降ろした神の力で内側から。そして私自身の力で外側から、空の力を二重に封じているわけだ。今の空は、力を使おうとしてもまったくできないはずだよ。そもそも力が使えないのなら、暴走する心配もないだろう?」

 

 確かに。

 月見は続ける。

 

「……しかしそれ以前に、私は、八咫烏の力はもはや必要のないものじゃないかと思ってる。あれだけのことがあったわけだしね」

「……」

「もし本当にそうならば、八咫烏の御魂にはお帰り頂けばいい。それで、私が空を式神にする理由もなくなる。……空も嫌だろう、仕方ないとはいえ私の式神なんて」

「えっ……え、と」

 

 おくうが言い淀む。月見はそれを図星を衝かれて答えに窮したと解釈したようだが、しかし待ってほしい、彼を拒絶していた頃のおくうならはっきり嫌だと即答していたはずだ。

 おくうは、図星を衝かれたからではなく、自分の気持ちがわからなかったからこそ答えられなかった。

 つまりは少なくとも、戸惑いこそすれ、はっきりと『嫌だ』とは思わなかったのだ。

 ああ、許されるのならばおくうの気持ちをぜんぶ月見に代弁してやりたい。素直になれるまではもう少し時間が掛かりそうだけれど、おくうはあなたのことを受け入れ始めているのだと。絶対に許してもらえないだろうし、勝手にやろうものなら世を儚んだおくうが家出するかもしれないので、できないけれど。

 

「ともかく、今だけだよ。我慢してくれ」

「……、」

 

 おくうはなにも答えず、さとりの後ろで小さくなったまま動かない。さとりの『月見が三人目のご主人様』発言が、おくうを盛大に困惑させているのは一目瞭然だった。

 霊夢が思案顔で腕を組んだ。

 

「それにしても……この鴉に宿ってるのって、あの(・・)八咫烏なんでしょ? その荒御魂を鎮められる神様って、月見さんなに降ろしたのよ」

「宇迦之御魂」

「う、」

 

 霊夢は束の間石化し、眉間を押さえながら俯いて、それから呻き声とともに天井を仰ぎ、湧き上がってくる感情をすべてため息に変えて吐き出した。

 

「……まあ、月見さんだしね。どうせ昔からの知り合いだとか言うんでしょ」

「まあ、そんなところかな」

「……もうなにも言わないわ」

 

 霊夢はもはや呆れ返っていた。天子もその横で半笑いを浮かべている。生憎神道には明るくないさとりだけれど、二人の心が教えてくれる――宇迦之御魂神。狐を自らの遣いとする天津神で、五穀豊穣や国家安寧を始め、病気平癒や商売繁盛、果ては芸能上達や家内安全などなど、ありとあらゆる災いを退け福と成す万能の守護神である。特筆すべきはなんと言っても人々から集まる信仰の篤さで、彼女を祀る稲荷神社は日本全国で三万社以上にも及び、数だけならば正真正銘の日本一に君臨する。人里では主に商家が、家の敷地内に個人的に稲荷を祀って信仰している場合もあり、博麗神社にとっては守矢神社に次ぐ憎っくき商売敵となっている。ってか最近月見さんの影響で稲荷を信仰し出す人が増えてるのよね、月見さんには世話になってるけどあれだけはほんと困ったもんだわ云々。

 要するに。

 

「……ねえ、そのウカノなんとかってすごい神様なの?」

「日本中の人たちから信仰を集めてる、すごく格の高い神様だよ」

「へえーっ!」

 

 こいしと天子の問答通り、『信仰の強さ』という観点で見れば日本トップクラスといっても過言ではない、大変ありがたい神様であるようだった。

 しかし、それはそれで不安になってくる。ちょうど同じことを考えていたお燐が、

 

「でも……大丈夫なの? 格が高い神様ってことは、それだけ、その……荒御魂ってやつも」

「それだったら心配無用だ」

 

 月見はこれもまた即答する。

 

「宇迦は、空ではなく私と契約を交わした神だ。加えて、契約の上下は私が上で向こうが下。私がわざとそうしない限り、勝手に暴れたりはしないよ」

「ちょっと待ちなさい」

 

 霊夢が割り込む、

 

「普通私たちは、神様に力を『お貸しいただく』立場でしょ。月見さんの方が上って」

「知人友人の(よしみ)というやつさ。……もちろん、それでも、相応の対価を払う条件だけどね」

 

 月見が払う対価――それを彼の心から聞いて、さとりは思わず呼吸を失った。

 莫大な量の妖力。どんなに少なく見積もっても半分、多ければ八割近くまで。

 それはつまり、至極単純に考えて、月見の力が本来の二割にまで削がれることを意味している。

 顔に出ていたらしく、彼に心の声で言われた。――いいんだ。今のご時世、妖力なんてたくさんあっても持て余すだけだからね。こういうときこそ迷わず使っていかないと。

 そして、おくうにはこのことを黙っているように、とも。恩を売ろうとするみたいで、気分が悪いから。

 

「空が力を手放すのかどうかはわからないけど、少なくとも私の式神である限り、八咫烏は私が責任を持って制御する。だから心配は要らないよ」

「そっかあ……っ」

 

 胸を撫で下ろしたこいしが、おくうに無垢な笑顔を向けて言った。

 

「よかったね、おくうっ」

「い、いや……あの、私は、その」

「えーっ? おくうはよくないの?」

「そ、そういうわけではなくて……えっと……」

 

 おくうが頑張って言葉を紡ごうとしたが、その前に月見と目が合ってしまって、

 

「……あぅ」

 

 あらあらうふふ。

 

「お姉ちゃん、さっきからおくうが変だよ!」

「ふふ。やっぱり、月見さんの式神っていうのはいろいろと複雑みたいね」

「う゛ー…………」

「安心してくれ、だからってなにかをするつもりはないさ。形だけだよ」

 

 違うんです月見さん、そうじゃないんです。何度も言うが、おくうの気持ちを代弁できない今の状況がこの上なく歯がゆい。というか月見さんもちょっとは察してください、そりゃあ今までずっと嫌われていたから想像できないかもしれませんけど今のおくうは明らかに

 

「……空については、こんなところかな」

 

 吐息ひとつで、月見が思考を切り替えてしまった。

 

「あとは、私が眠っていた間のことを教えてほしいんだが……」

「……そうですね。お話しします」

 

 さとりは渋々言われた通りにした。しかし、大丈夫だ、まだ慌てるような時間ではない。今後月見には、少なくとも怪我が完全に治るまでの間は地霊殿でゆっくり休んでもらうのだから。頃合いを見計らって、少しずつでもおくうと月見の距離が縮まるようお節介を焼いていけばいい。

 今はそう割り切って、さとりは己の記憶を遡った。

 

「昨日は、あれから……」

 

 月見が眠ったあとに起こった出来事は極めてシンプルだ。そう、こうして軽く思い出すだけで、さとりもこいしもお燐もおくうも霊夢も天子も藤千代も、

 

「「「……………………」」」

「ど、どうした?」

 

 突如として少女たちを支配したお通夜みたいな空気に、月見が珍しくどもる。さとりは中身のない薄っぺらな微笑みで答える。

 

「いえいえ、大したことじゃないんです。大した……ことじゃ…………」

「「「……………………」」」

「……あ、なんだかわかった気がする」

 

 結果だけいえば、月見の想像は大正解である。

 そう。とどのつまりさとりたちは、あのあと、みんな揃って――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 とどのつまり月見が眠ったあとになにがあったのか、単純明快にまとめるならば。

 

 映姫にめちゃくちゃ説教された。

 

「……うん、そうか」

 

 ひと通りの話を聞き終えた月見は、大変微妙な心持ちでそうこぼすことしかできなかった。ある程度賑やかだった部屋の空気は打って変わって、そのまま地の底までズブズブと沈んでいってしまいそうな、憔悴し暗澹(あんたん)とした重苦しさで満たされていた。

 そりゃああれだけのことがあったのだ、閻魔様のお説教はまこと大惨事の一言だったらしい。それは、みんなの表情をひと目見れば嫌というほどよく伝わってくる。まず、さとりとこいしが虚ろな目でひくひくと笑っており、

 

「私、はじめてでしたよ。途中で十分休憩を三回も挟むお説教なんて……」

「何時間やってたんだろー、あれ……」

「……」

 

 藤千代の微笑みは、空っぽで虚しい。

 

「私、途中から月見くんの幻覚が見えたんですよ。幻の月見くんはすごく優しくて、うふ、うふふふふ……」

「…………」

 

 霊夢は目が死んでいる。

 

「ふふふ、聞いてよ月見さん。魔理沙とアリスがね、説教終わったあとに空を見上げて『星が綺麗だ』って笑ってたの。地底じゃ星なんて見えないのに。精神崩壊って、ああいうのを言うのよ。ふふふふふ……」

「………………」

 

 お燐とおくうも目が以下略。

 

「そういえばおくうは、ちょうちょがいっぱい飛んでるって言ってたよねー……」

「うにゃー……」

「……………………」

 

 天子も以下略。

 

「私、最後には悟りが開けそうになって……ああ、本当の天人になるってこういうことだったんだって……」

「…………………………」

 

 ……映姫ィ。

 もちろん、わかっている、本人に悪気は一切ないのだ。神の荒御魂が暴走し、地底の土地を灼熱地獄まで届く大規模な崩壊が襲ったとなれば、彼女はなんとしても原因を明らかにし、断たねばならないと強い使命感に駆られたのだろう。月見と同じで、あの悲劇を二度と繰り返してはならないという想い故の行動だったのだろう。

 

「……いえ、それだけでもなかったようですよ」

 

 いくらか正気を取り戻したさとりが、口元に指を遣って小声で、

 

「……まあ、ちょっとくらいならいいわよね。散々説教されたお返しってことで……」

 

 それから改めて語って曰く、

 

「一番の理由は、月見さんにあとのことを任されたから……だったみたいですよ。もう、本当に一生懸命になってまして」

「……えーと、」

 

 月見は可及的速やかに記憶を遡る。おかしい。自分の記憶に混乱がなければ、『あとのことは任せた』なんて大仰な頼みを映姫にした覚えは一切ない。なにか誤解があったのではないか、あったとすれば一体どこで、

 

(……あ)

 

 気づいた。あのとき、映姫の結界に守られる中で。

 

 ――ぜんぶ終わったらぶっ倒れるかもしれないから、よろしく頼むよ。

 ――まあ、いいでしょう。そのあとの面倒(・・・・・・・)は私が見ますから、終わらせてきなさい。

 

 あれか。まさかあれだったのか。いや違うのだ、月見としては単に「倒れたら手当は頼むよ」くらいの意味合いだったのであり、まさか異変の後始末一切を任せるような意図はこれっぽっちもなかったのだ。しかし、確かに「あとのことは私が引き受けます」だから、映姫は月見の頼みを大変オーバーに解釈してしまったのかもしれない。

 ということは、つまり、

 

「私の……せいか……」

「い、いえいえ決してそういうつもりでは!? 映姫さんの勘違いですし、仮に勘違いじゃなかったとしてもお説教でぜんぶ片付けようとするのがおかしいのであって!」

「すまない……みんな……」

「月見さーん!?」

 

 藤千代がため息をついている。

 

「……やっぱり映姫さんって、月見くんのことすっごくよく考えてあげてますよね……。口ではあれこれ言ってても体は正直です……」

 

 映姫は今でも、閻魔の仕事が忙しい中で水月苑のお手伝いに来てくれている。それ自体は大変助かっているのだけれど、近頃は月見の献立にまで気を配り始める有様で、月見としては「そのうちなにもかもこいつに管理されるのでは……」と若干怖かったりする。咲夜や藍とも火花を散らしているし。

 霊夢が眉間の皺を揉みほぐしながら、

 

「……でもまあ、閻魔サマがなにからなにまで白黒つけたお陰で、いろいろ片付いちゃったのも事実よね。昔の話とか……」

 

 映姫が引き受けてくれたのは、なにも異変を事後処理だけではない。今回の異変よりも過去――博麗の巫女と古明地姉妹の因縁についても、問答無用で聞き出して白黒つけてしまったらしい。本当に、なにからなにまでぜんぶ引き受けてくれたのだ。

 白黒つけたといっても、そう大した話ではない。そもそも今回の異変に関して、こいしとおくうは己の過ちを深く深く反省していたので、

 

「……勝っても負けても恨みっこなしの弾幕ごっこで決着をつけて、ぜんぶを水に流す、か」

「ええ」

 

 霊夢が、そう希望したらしい。自分より何代も前の巫女の話なんて知ったこっちゃない。それよりもなによりも、自分は卑怯な不意打ちで勝負を台無しにされたのが許せないのであり、だからもう一度、正々堂々スペルカードルールに則って闘えと。それ以上に望むものなんてなにもないと。

 口で言うのは簡単だ。だが、

 

「霊夢、お前は――」

 

 そこから先の言葉を、月見は噤んだ。

 勝っても負けても恨みっこなしとはいうけれど、それで本当にすべてを水に流すのは難しいことだ。自分が生まれてもいない大昔の因縁でとばっちりを食った、一方的な被害者といえる立場ならなおさらだろう。

 本当に、それ以上に望むものなんてなにもないのか――そう思わずにはおれない。

 

「……月見さん。私ね、」

 

 月見の言葉なき問いに、霊夢はゆっくりと息を吸って答えた。

 

「正直言うとはじめは、まあ、こっぴどく懲らしめてやろうとか思ってたのよ」

 

 こいしとおくうの体が、わずかに強張る。

 

「でも、閻魔サマに説教されながらいろいろ事情を聞いてたら……なんか、天子のときの異変に似てるなあって、思っちゃって」

 

 そのとき霊夢は、笑っていた。

 呆れ果てて、天を振り仰ぐような笑みだった。

 

「はじめはほんとに小さな願いがきっかけで、根本的な悪人なんて誰もいなくて。でも不思議と、どういうわけか歯車が上手く噛み合わなくて、気がついたら理不尽なくらい取り返しのつかないことになっちゃってて」

 

 こいしとおくうに、順に目を遣って、

 

「こいつらは、あのときの天子と同じ。こんなつもりじゃあぜんぜんなくて、自分が一番、自分がやってしまった過ちの重さをわかってて。……泣いて謝られたわよ。まったく、幻想郷の一体どこに、博麗の巫女に泣いて謝る妖怪がいるんだか」

 

 肩を竦め、ため息をつき、

 

「月見さんは言うまでもなく、天子も怪我までしてこいつらを助けて。……あんた、こいつらが妖怪だってわかってる? しかも、『絶対にやり直せるから』なんてカッコつけたことまで言ったっていうじゃないの」

「あ、あはは……」

 

 バカにつける薬はなしと言わんばかりに首を振り、やれやれ調子で、

 

「そしたらなんか、怒る気持ちも失せちゃって」

 

 腕を組み、小鼻を鳴らして、

 

「……月見さんが、そこまでしてでも助けたかった相手なんでしょ。だったら、天子のときと同じ。悪いやつじゃないってことで、大目に見てあげるわよ」

「……、」

 

 霊夢の言葉がひとしきり心の奥に響いていったのを感じながら、月見は音もなく喉で笑った。

 なんて。

 なんて、強い子なのだろう。まだ年端もいかない人間の少女がどうしてこんな風に言えるのかと、何千年も生きた化石のような妖怪が、たった十数歳の赤子のような人間に、言葉で完全に圧倒されていた。

 

「……魔理沙は、なんて?」

「『いつか私が困ったとき、今度は助けてくれよ。それでチャラにしてやるぜ』」

「……まったく」

 

 本当に、この子たちは。

 

「お前たちは、強いね。私なんかよりもよっぽど」

 

 霊夢は緩いため息で答える。

 

「……別に、はじめから強かったわけじゃないわよ」

 

 ねえ、知ってた? ――そう言って、なんともいじわるに口端を曲げて、

 

「私の目の前にいる、どこかの誰かさんのお人好しってね。見境なく人に伝染する、タチの悪い病気みたいなもんなのよ。そう――名付けるなら月見ウイルス。ちなみに天子は手遅れよ。もうどうしようもないわ」

「!?」

 

 瞠目する天子をさらりと無視し、

 

「昔の私なら、そんなの知ったこっちゃないって言ってこいつらを懲らしめてたかもね。魔理沙も、紅魔館でコソドロ繰り返してた頃のままだったらああは言ってなかったでしょう」

「……」

「月見さん。あなたは自分で思ってる以上に、いろんなやつらに影響を与えてるのよ」

 

 そこで不意に、今までずっとはきはきとしていた霊夢の口調が、突然曇って。

 

「……だから、あー、なんて言うのかしら」

 

 最後だけは、少し気恥ずかしそうにそっぽを向いて。

 

「……そんな気に病んで、一人で背負い込もうとしなくたって。案外、大丈夫だと思うわよ」

「……」

 

 ……そうだったのかもしれない。今回の悲劇の根本的な原因はおくうを苦しめ続けた自分にあるのだと、強い自責と後悔に駆られていたのは事実だ。だから、せめて自らがおくうを連れ戻さなければ自分自身への怒りが収まらなくて、最後はもはや意地だけで己を突き動かしているような状態だった。

 一人で背負い込もうとしていた――そう言われてしまえば、そうだったのかもしれないなと、月見は思う。

 

「……?」

 

 物思いに耽っていたら、いつの間にかこいしに抱きつかれていた。こいしは月見の胸元にぎゅっと顔を埋めて、

 

「月見は、悪くないもん。私たちのこと、助けてくれたから……」

「そうですよ、月見くん。今回の異変、誰か一人だけが悪いというものではないのです。こういうときは、みんなで一緒に背負っちゃえばいいんですよ」

「……そうか」

 

 つくづく己は、強くて頼もしい仲間に恵まれたと痛感せずにはおれない。おくうを助けるのに力を貸してくれたのはもちろんのこと、異変が終わったあとになっても、こうして月見を支えてくれる。

 何千年を生きた大妖怪だろうがなんだろうが、やっぱり、一人は一人なのだ。

 

「……今回の私は本当に、みっともない恰好を晒してばっかりだね」

 

 天子が、微笑んだ。

 

「そんなの、誰も気にしたりしないよ。……いつもは、私たちの方が支えてもらってるんだもん。ぜんぜん、みっともなくなんてない」

「……ありがとう」

 

 情けないけれど、今はどうも、それ以外の言葉は出てきそうにない。そんな自分を誤魔化すように、月見はこいしの背中を静かに撫ぜた。

 救われる、とは。きっと、こういうことを言うのだろう。

 

「――月見さん」

 

 そしてさとりには、月見を翻弄するすべての感情が筒抜けだったはずだ。

 

「おくうと、二人で、話をしてあげてください」

「えっ……さ、さとり様?」

 

 思わぬ提案におくうがたじろぐ。しかし見返すさとりの瞳は真剣そのもので、ただ一言、

 

「お願い、おくう」

「……」

 

 変にからかっているわけではないと、おくうにも一発でわかったのだろう。おくうはほんの束の間月見を見て、すぐに逸らし、せり上がってくる緊張を唾と一緒に飲み込んで、

 

「……わかり、ました」

「ええ。……頑張ってね」

 

 おくうの月見に対する態度が、妙によそよそしくなったのはわかっている。以前は言うこと為すことすべてが月見を拒絶するものだったが、今は「あの」「その」と意味のない言葉ばかりを繰り返すようになった。さとりの口振りからしても、おくうの心境に様々な変化があったのは間違いないのだと思う。

 しかし、それ幸いにと有耶無耶にしていいものではない。

 月見はおくうに、言わなければならないことがある。

 月見の前にたった一人で取り残され、おくうはそのまま消え去ってしまいそうなほど小さくなっていた。ベッドと腰掛けしか置かれていないがらんどうな部屋で、身を隠せる物がなにもなくなってしまって、おろおろと心細く立ち尽くしている。お前なんてキライだと忌憚なく言ってのけた昨日のおくうは、一体どこに消えてしまったのだろう。なんだか、今日になってはじめて霊烏路空という少女と出会ったような、そんな不思議な心地がした。

 

「とりあえず、座らないか?」

「……!」

 

 まるで今はじめてその存在に気づいたように、おくうが小動物顔負けの機敏な動きで腰掛けに座る。それからまた縮こまって、戦々恐々としながら月見の言葉に身構えている。

 月見は苦笑、

 

「そんなに怖がらなくても、なにもしやしないよ。楽にしてくれ」

 

 と言ったところで、まさかおくうが本当に楽にしてくれるはずもなく、已むなく月見はそのまま話し始める。

 

「……お前とこうして話をするのは、昨日、お前の心の中以来か」

 

 けれどあれは、ある意味夢の中の出来事ともいえるものだから、二人で話をするのは今がはじめてというべきなのかもしれない。誰の存在も気にしなくていい二人だけの空間。単純に出会ってからの月日を数えれば、およそ半年。およそ半年が経ってようやくはじめて、月見とおくうは会話らしい会話をしようとしている。

 今まではただ、おくうが一方的に月見を拒絶するだけだった。

 月見の話なんて、一度も聞いてなんかもらえなかった。

 だからだろうか。改めてこうして向かい合うと、なんだかどうにも、上手く言葉が出てこない。

 

「さて、どこから話をしたものか……」

 

 おくうは、なにも言わない。

 強張った体で浅く俯き、緊張と不安が半々に混じった瞳で、じっと月見の言葉を待ち続けている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見の部屋をあとにしたお燐たちは、地霊殿の中庭にいた。

 弾幕ごっこをするには、ここから外に出て地霊殿の上空を使うのが一番の近道だからだ。そしてなぜ弾幕ごっこをするのかといえば、こいしと霊夢が約束していた『勝っても負けても恨みっこなしの一発勝負』のためなのだった。

 

「――言っておくけどね。昨日の異変に負い目があるからって、わざと手加減して負けようなんて考えるんじゃないわよ。そんなナメた真似したらぶっ飛ばすからね」

「……うん」

 

 中庭のステンドグラスを五枚ほど隔てた距離で、こいしと霊夢が向かい合っている。やる気満々で準備体操をする霊夢に対し、こいしは思い詰めた表情で立ち尽くし、腕の一本も動かそうとする気配がない。霊夢が提案しこいしが了承した同意の上での勝負とはいえ、こうしてみると霊夢が強引かつ一方的に闘いを吹っかけたようにも見える。故に見守る方としては気が気でなく、事実お燐は、このまま二人を闘わせていいのかとずっとハラハラおろおろしていた。

 

「さ、さとり様……大丈夫、なんですよね?」

「……少なくとも、霊夢さんの方は大丈夫よ。嘘は、一切言っていないから」

 

 それはお燐にも、なんとなくはわかっている。霊夢は竹を割ったような少女で、嘘をついているのかどうかが言動から判断しやすい。そうでなくとも、まさか月見の前で語った言葉が、彼にいい顔をしたいがための嘘ということはないだろう。

 問題はこいしの方だ。月見の部屋を出た霊夢がさあ決着つけるわよ勝負しなさいと騒ぎ出してから、明らかに様子がおかしくなった。一心不乱になにかを考え続けている。だがこいしの心が一体なにに囚われているのか、お燐にもさとりにも知る術はない。

 屈伸をした霊夢が、判然としないこいしの態度に顔をしかめた。

 

「……さっきからぼけっと突っ立って、あんたやる気あるわけ? なにか言いたいことがあるならはっきり言いなさい」

「……」

 

 こいしは俯いてしばらく考え、やがて顔を上げて答えた。

 

「……あのね。昨日のことは……ごめんなさいって、思ってます。私がおくうにやらせたのは、きっと……あの頃の博麗の巫女が、お姉ちゃんにやったことと同じだから」

 

 でも、と、彼女は続ける。

 

「やっぱり……博麗の巫女がお姉ちゃんにやったことを、なかったことには、できない」

「……つまり、この勝負で水に流すつもりはないってこと?」

 

 低い声音で答えた霊夢が両目を眇めた。ピリピリと肌を刺すような、一触即発の空気が彼女の周囲に充満する。

 血の気が引いていく感覚。

 ――もしかして、せっかく異変が終わったのに、また。

 そんな悪寒がお燐の心を絡め取ろうとしたとき、

 

「ううん、違う……!」

 

 こいしが、強くかぶりを振った。自分の胸の中でくすぶる感情をどう言葉にすればいいのか、少し苦心するような間があった。

 言う。

 

「……勝っても負けても、恨みっこなしなんだよね」

「そうね」

「じゃあ……私が勝っても、恨みっこなしだよね」

 

 霊夢はわずかな間を置いて、

 

「……そうね」

 

 まぶたを下ろしたこいしが、ゆっくりと深呼吸をした。

 そして、改めて霊夢を見据えた彼女は。

 

「じゃあ――本気で行くから」

 

 お燐が思わず息を呑むほど、堅い決意に満ちた、芯のある表情をしていた。

 

「誰かにもらった力じゃない。卑怯な不意打ちも使わない。私自身の力で、ちゃんとした勝負で、あなたに勝つ」

 

 今までの、いつもにこにこと笑っていたこいしとは、まるで違う。

 その瞳に宿る力は、博麗の巫女への復讐心ではない。

 

「そうすれば……あのときの記憶に、終止符を打てる気がするの」

 

 そんなものよりもずっとずっと透明で、綺麗な意志。

 

「そうすれば、みんなと一緒に、前に歩いて行ける気がするの」

 

 見下ろした掌を、拳に変えて。

 彼女は、強く、宣言した。

 

「――だから、絶対に負けないから」

「……はン」

 

 霊夢の返答は、至極単純だった。小鼻を鳴らし、歯を見せる大胆不敵な笑みを以て、こいしの眼差しを真正面から弾き返した。

 

「上等よ。――やれるもんならやってみなさい!」

 

 飛翔する。霊夢が先行し、こいしが一拍遅れてあとに続いて、舞い上がった風がお燐の髪を撫でるように吹き抜けていく。二人の姿はあっという間に地底の薄闇に紛れて、流れ星のような弾幕の応酬が始まる。

 上手く言葉が出てこないお燐の代わりに、藤千代が柔らかな吐息とともに言った。

 

「こいしさんも……こいしさんなりのやり方で、前を向こうとしてるんですね」

「あ……」

 

 ようやく、お燐とさとりの肩からふっと緊張の糸がほどけた。

 

「こいしさん、まっすぐで、素敵な目をしていました。だからきっと、心配は要りませんよ」

「……」

 

 空を見る。わかるのは光を放って飛び交う弾幕の流星群だけで、こいしと霊夢の姿は闇に巻かれ、どちらが優勢なのかも、どちらが勝つのかもまるで想像ができない。

 けれど、空を彩る光の弾幕よりもはっきりわかるものが、ひとつだけある。

 地霊殿が、変わり始めている。昨日の異変で、一度は壊れてしまいそうになった。それでもたくさんの人たちが駆けつけてくれて、助けてくれて、その想いに突き動かされるように、前に一歩を踏み出そうと頑張っている。

 だからきっと、明日は今日よりも素敵な一日になる。そして明後日は、明日よりも素敵な一日になるに決まっている。

 未来で、笑顔であること。

 それが、助けてくれた人たちに――月見にできる、お燐たちの恩返しに違いない。

 

「……?」

 

 そのときふと、さとりに手を握られた。不思議に思って見てみると、さとりは一輪の微笑みを花開かせ、お燐をまっすぐに見つめている。

 ――あ、そっか。

 今まで考えていたことがすべて、さとりには漏れなく筒抜けだったのだと――そう今更ながら気づいて、お燐は。

 尻尾の付け根がムズムズするこそばゆい感覚に、はにかんで。

 重ねられたさとりの掌を、ぎゅっと、少しだけ強く、握り返してみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 ⑭ 「とある幸せな家族の形」

 

 

 

 

 

 逃げたい。

 穴があったら飛び込みたい。大声をあげてそのへんを飛び回りたい。冷たい水を頭から被りたい。適当な枕かぬいぐるみに正拳突きを百発叩き込みたい。あー! あーっ! ああーっ!!

 と。

 月見と二人きりにされてしまったおくうは、心が半狂乱に陥る一方で、体は腰掛けに座ったまま、指の一本も動かせずカチンコチンに固まってしまっていた。

 この男の前で一体どんな顔をすればいいのか、おくうは未だに答えを出せないでいる。昨日の異変で、おくうはこの狐に助けられた。命を救われた、と表現しても、決して大袈裟ではないのだろう。あのとき彼が助けてくれていなければ、恐らくおくうの精神は、荒御魂の炎に焼かれて燃え尽きてしまっていたはずだから。

 

 ――私はお前を無理やり連れ帰る。だから、もしそれでお前が後悔する羽目になったなら、すべてを私のせいにしろ。

 

 あのとき月見から掛けられた言葉は、今でもはっきりと頭の中で反芻できる。

 もちろん、この期に及んで、すべてが彼のせいだったなんて言うつもりはこれっぽっちもない。彼はただ、さとりたちと仲良くしてくれていただけ。それは、地霊殿でともに暮らす家族として喜ぶべきことだったはずなのに、おくうは喜べず、それどころか嫉妬して、いじけて、殻に閉じこもって――そして、昨日の異変へとつながっていった。

 寂しかったのなら、「寂しい」と一言でも言えばよかったのに。

 あの狐だけじゃなくて、私にも構ってくださいと、訴えればよかったのに。

 いじけた自分はそれすらも放棄して、間違ったやり方でみんなを振り向かせようとした。今になって思えば、本当に馬鹿なことをしてしまったと思う。彼がいなければ、今日という日をさとりたちと一緒に迎えることはできなかった。たくさんのひどいことをしてしまったおくうを、彼は最後まで見捨てないでいてくれた。それどころか、おくうの力が二度と暴走したりしないよう、式神

 

「っ……!」

 

 顔面が、火をつけたように一気に熱くなったのを感じた。少し前の会話がありありと甦ってくる。今のおくうは月見の『式神』という立場であるらしく、では式神が一体どういうものなのかといえば、さとり曰く、月見がおくうの新しいご主人様であるらしい。

 ごしゅじんさま。

 だれが。

 つくみが。

 

「さて、空」

「にゅい!?」

 

 いきなり月見に話しかけられたので、おくうは文字通り跳び上がって驚いた。ベッドの上の月見が薄く苦笑し、

 

「本当に、楽にしてくれていいんだよ?」

「う、うん……」

 

 一応頷きはしたものの、さとりのご主人様発言のせいで心臓のバクバクはちっとも収まらない。珍しく覚妖怪らしかった主人をちょっぴり恨む。

 月見はそれっきり笑みを消し、まっすぐな瞳でおくうを見据えた。

 

「――まず、もう一度確認させてくれ。本当に、体になにも違和感はないか? 体の奥の方が勝手に疼いたり、くすぶったりするような感覚は?」

 

 戸惑う。どうして月見は、そんなにも真剣な目でおくうの心配をしてくれるのだろう。

 

「だ、大丈夫。ほんとに、ぜんぜん平気」

 

 本当に本当だ。体の感覚は八咫烏と出会う以前の具合に戻っていて、あの力は実は失われてしまったのではないかと感じるくらいなのだから。胸の位置にあった赤い瞳だって、綺麗さっぱり消えている。

 おくうの答えを聞いた途端、月見の頬がひどく無防備に緩んだ。

 

「そうか。……よかった」

「っ……」

 

 ズルいと、思う。そんな、心の底から安心したみたいに笑うのは。わけもなく、おくうの翼がパタパタと揺れ動く。

 

「お、大袈裟すぎ。お前が、自分でやったことでしょ……」

「それは、そうなんだけどね。さすがにはじめての術だったから、上手く行ってるかどうしても不安で」

 

 どうして不安に思ってくれるのか、とか。

 自分の恥ずかしい勘違いでなければ、月見は今、真剣におくうのことを心配してくれているはずで。それが、つい翼がパタパタ動いてしまうくらいにくすぐったくて。でも、決して、嫌な気分ではなくて。

 などと悶々としているうちに、月見がなぜか、おくうに向けて深く頭を下げていた。

 

「すまなかった、空」

「え、……え?」

 

 予期せぬ月見の行動におくうは面食らう。月見は顔も上げぬまま、

 

「私はお前を、ずっと苦しめていたんだね」

「あ……」

「すまなかった」

 

 ――確かに、そうだ。月見はおくうを苦しめていた。自分の日常になんの前触れもなく入り込んできた月見という異物に、おくうはずっと苦しめられていた。寂しいと、おくうが感じてしまうようになった根本的な元凶。月見さえいなければ、ひょっとすると昨日の悲劇は起こっていなかったのかもしれない。なにも変わることのない、平和な日常が続いていたのかもしれない。

 少し前のおくうなら、心の底からその通りだと考えたはずだ。

 

「――なんで、謝るの?」

 

 そして今のおくうは、なぜ月見が謝るのか理解できないでいる。

 

「なんで、私を責めないの?」

 

 だって、月見に苦しめられたおくうは、もう散々彼を責めたのに。なのに、おくうのせいで体中が包帯まみれになってしまうほどの傷を負い、今だって痛みは続いているであろう彼が、どうしておくうを責めず、それどころか謝罪までするのか、本当にわからなかったのだ。

 

「どうして? どうしてお前は、そんなに、私のこと……」

「自分で自分を許せなくなるからだよ」

 

 月見が、顔を上げた。

 

「本当に馬鹿なことをしたと思ってるよ。時を遡れるなら、お前から目を逸らして、さとりたちと呑気に世間話をしていた過去の自分を殴り飛ばしたいくらいだ」

「……」

「罪滅ぼしなんて、偉そうなことを言えた立場じゃないのはわかってる。でも、だからって、またお前から目を逸らして、なにもしなかったあの頃の自分に戻るわけにはいかない。……それだけだよ」

 

 心が、揺れる。

 それは、極めて危険な感覚だった。月見に対してかたくなにまとい続けていた心の鎧が、ボロボロと剥がれ落ちていくような。昨日の異変はおくうにとってトラウマ以外の何物でもなく、ぜんぶが終わった今でも、ふとした拍子にまた力が暴走してしまうのではないかと恐怖を覚えるときがある。そのせいで、昨夜は一人では寝られなかったくらいだった。

 けれど、月見は言っていた――暴走なんて、させるわけがないと。

 そして、今、こう言ってくれた――また、お前から目を逸らすわけにはいかないと。

 わかっている、おくうの考えすぎだ。この狐はあくまで額面通りの意味でそう言っているだけで、それ以上の深い意図なんて込めていないし、込めようなんて夢にも考えていない。わかっている。わかっているとも。

 でも。

 でも、たとえ額面通りの意味で考えたとしても、だ。

 

 ――この狐の台詞、『これからはずっとお前を守る』と言っているように聞こえないか?

 

(う、うにゅ……)

 

 頭の中がぐーるぐると回る。ばばばっバカじゃないのそんなわけないでしょ!? と否定する自分と、でもでもだったらどういう意味なのどういう風に受け取ればいいの!? と否定できない自分が、おくうの思考世界で血みどろの殴り合いを繰り広げている。ここまで来ると、月見がおくうを式神にしたのだって、なにか意味深な裏があってもおかしくないような気がしてくる。それこそ、暗にお前を守るという一種の――

 

「――お前は、昨日のような暴走は二度と繰り返したくない。それは間違いないな?」

「はっ」

 

 月見の問いに救われた。おくうは慌てて頷き、

 

「う、うん。あんなの、もう二度と嫌」

「そうか。……なら、少なくとも今のうちは、思う存分私を利用するといい。たとえ、誰かが望んだとしても。あんな暴走、もう二度とさせてやらないからね」

「……、」

 

 そのとき胸の奥に感じたものは、きっと、気のせいではないのだろう。

 八咫烏とは明らかに違う、もっと暖かくて優しい力が、おくうの体の奥底に宿っている。おくうの心を、そっと包み込んでくれている。

 月見がおくうに降ろした、もう一柱の神様。おくうは胸を押さえた。余計な言葉がなくともわかった。この力が、おくうを守ってくれているのだと。そしてこれからは、おくうのことを助けてくれるのだと。

 おくうの同意もなく勝手に新しい神様を降ろしたり、あまつさえ勝手におくうを式神にしたり、いくらなんでも勝手過ぎると思う。

 でもその『勝手』が、今のおくうにとって、胸に収まり切らなくなるほど暖かくて。

 

「……ね、ねえ」

「うん?」

「た、例えばの、話なんだけど……」

 

 こんなことを考えてしまう自分の正気を疑った。でも、どうしても気になってしまって、こうして口を切ったらもうおくうの意思では止められなかった。

 

「も、もし、私が。……ヤタガラスの力を、手放したくないって、言ったら。ど、どうするの……?」

 

 月見は言っていた。八咫烏の力がもう必要のないものなら、手放してしまえばいいと。そうすれば、月見がおくうを式神にする理由もなくなるのだと。

 だから、つまり、逆を言えば。

 八咫烏の力を手放さないでいる限り、おくうは、ずっと――。

 

「……それはつまり、八咫烏の力が自分には必要だと?」

「あ……え、えと、そうじゃなくて、その」

 

 まさか正直に言えるはずもない。でも、ちゃんと言わないと変な誤解をされてしまうかもしれない。なんとか上手い言い訳を探そうとするものの、口から出てくるのは「あの、その」と意味のない言葉ばかり。

 結局、そうこうしているうちに月見が一人で納得してしまった。

 

「……そうか。そうだな。昨日はあんな風になってしまったけど、ちゃんと正しく使えば、その力はきっとお前たちを助けてくれると思う。無理に手放す必要は、ないのかもしれないね」

「う、うん」

 

 おくうはほっとした。そういう風に勘違いしてくれるなら、別にそれでいいや。

 

「しかしそうなると、私の式神でい続けてもらうことになるよ。あんな暴走はもう二度と嫌、なんだろう?」

「……う、うん」

「私の式神なんて、嫌じゃないのか?」

 

 答えられるわけがない。

 

「空?」

「……べ、別に、なんでもない! 訊いてみただけっ」

 

 月見に怪訝な顔をされた。当然だと思う。おくう自身、自分でも自分をおかしいと思っている。確かにおくうは、元々身内以外を強く警戒する性格だけれど、かといって決して恥ずかしがりなわけではない。なのに今はどういうわけか、月見の前にいるのが並々ならぬほど恥ずかしくて、さっきからぜんぜん上手く会話ができていない。

 ……いや。『どういうわけか』なんて、嘘っぱちだ。

 本当は、ちゃんとわかっているのだ。

 

「……あ、あの。もうひとつ、だけ」

「うん?」

「私の、こと。『空』じゃ、なくて」

 

 おくうは、少しだけ躊躇った。けれど一度喉でせき止めた言葉は、やがて重力に引かれてこぼれ落ちるように、

 

「その……お、『おくう』で、いい。おくうって、呼んで」

 

 もう後には引けない、と思う。この名を月見に許せば最後、おくうの気持ちはもう誤魔化しの利かないものとなってしまう。きっと、さとりたちにもいっぱい茶化されてしまうだろう。

 

「今まで、ごめんなさい」

 

 迷いがないと言えば、嘘になる。

 恥ずかしい気持ちだって、たっぷりとある。

 

「助けてくれて、ありがとう……」

 

 しかし、やっぱり、今おくうの心を突き動かしているこの感情こそが、嘘偽りのない真実なのだ。

 

「そ、それで、あの……その……」

 

 つまり、おくうは、

 

「――い、異変のとき、お前なんかキライだって言ったけど! あれ、嘘だから! ぜ、ぜんぜん、嘘だからっ!」

 

 おくうは、月見を許したい。

 そして、月見に許されたい。許されるのならば、守られたい。体の奥に宿った暖かな力を、このまま感じていたい。月見の式神になったって、ぜんぜん構わない。

 浅ましいかもしれない。

 愚かかもしれない。

 でも、やっぱり。

 

 やっぱりおくうは、根本的に依存したがりなのだ。

 

 この狐は、全身傷だらけになってまでおくうを助けてくれた。

 そのお陰で、おくうはまた家族たちの中に帰ることができた。

 あんな暴走は二度とさせないと――お前を守ると、本気で約束してくれた。

 おくうは今、守られているのだ。胸の奥に宿った、この暖かな力で。

 ズルい。

 ズルすぎる。

 だって、だってそんなことをされてしまったら、おくうは、

 おくうは、

 

「――ありがとう」

「へぁ、」

 

 そのとき月見が、月明かりのようにそっと柔らかく微笑んで、

 

「お燐が言っていた通りだ。優しいんだね、おくうは」

「――……、」

 

 それはおくうにとって、家族たちからもう何度も掛けられてきた言葉であるはずだった。おくうは、優しいのね。おくうは、優しいね。言われるたびに、ちょっぴり気恥ずかしくて、「う」と「ん」の中間みたいな声でそっぽを向くのが定番の流れだった。

 呻くことすらできない。月見の口からその言葉を聞いた瞬間、おくうは頭の中が真っ白になって、陸に上がった魚も笑えぬ有様でパクパクと唇を痙攣させるだけだった。

 あれ。

 なんだろうこれ。

 なんでこんなに恥ずかしいんだろう。そりゃあさとり様たちに言われるときも恥ずかしいけどそれとはぜんぜん比べ物に、あっなんか一気に沸騰してきたどうしようどうしよう早くなにか言わなきゃってかなんでこんなに恥ずかしがってるのただ「優しいね」って言われただけじゃない落ち着いて霊烏路空よーしまずはシントーメッキャクして深呼吸

 

「――つっくーみさ――――――――ん!!」

「!?」

 

 後ろのドアが突然けたたましく開いたので、おくうは腰掛けから転げ落ちかけた。慌てて踏ん張って振り向くと、駆け足の助走から見事な踏み切りで跳躍した霊夢が、両腕を翼のように広げた人間砲弾と化したところだった。

 月見が伸ばしていた脚を素早く折り畳む。着弾した霊夢はベッドの上でぼふんと弾み、その滞空時間を利用して膝立ちになって、月見の目と鼻の先まで前のめりで爛々と、

 

「やったわ、月見さん! 勝った! 私、今度はちゃんと勝ったわよっ!」

「霊夢、近い近い」

「ふふふ、そんなに褒めないでっ」

 

 褒めてない気がするけど、とおくうは思う。

 

「……うー、負けたー。悔しいよぅ……」

 

 遅れて部屋に入ってきたのは、ボロボロでちょっぴり涙目になっているこいしだった。弾幕ごっこで、ハクレイの巫女にやられたのだ――そう理解した瞬間、おくうの頭の中が条件反射で白熱し、怒りが灼熱地獄が如く炎を噴き上げそうになる。

 

「……、」

 

 しかしおくうはまぶたを下ろし、静かな呼吸でその感情をコントロールした。落ち着いて、と自分に優しく言い聞かせる。昨日の異変でおくうが暴走してしまうひとつのきっかけとなったのは、主人を想うあまりすぐ周りが見えなくなってしまう浅はかな自分だった。だから、おくうは変わらなければならない。

 これは、こいしと霊夢が互いに望んで闘った結果だ。故におくうがすべきなのは、怒りに任せて霊夢に噛みつくことではなく、

 

「こいし様、大丈夫ですかっ……?」

 

 こいしに、駆け寄る。こいしはえへへと頭を掻いて、気が抜けたように相好を崩した。

 

「負けちゃったー。結構自信あったんだけどなー」

「……強かったわね、霊夢さん」

 

 更に遅れる形で、さとりや藤千代たちも続々と部屋に戻ってきた。さとりのまったく感服しきった表情に、こいしはぷっくりふくれ面だ。

 

「今回は、たまたま負けただけだもん」

「こら。勝っても負けても恨みっこなし、でしょう?」

「そうだけどぉー……」

「あっ、こら霊夢ーっ」

 

 部屋に入るなり、天子が月見のベッドに駆け寄っていく。ベッドの方では、エキサイトする霊夢がいよいよ月見を押し倒しそうになっていて、

 

「さあこれではっきりしたと思うのっ、今回の異変も天子のときと同じでちょっとした例外ってやつで、普通だったら私たちの完全勝利だったはずなのよ! だから断じて、月見さんとの修行の成果が出てないとか、そんなのは一切ないの!」

「わかったわかった」

「霊夢、月見が困ってるってば!」

 

 天子にベッドから引きずり下ろされても、霊夢は一向に止まらない。

 

「というわけで、月見さんが地上に戻ってきたらいつも通り宴会よっ。美味しいお料理いっぱい作ってね!」

「私なんかの料理でいいのかい」

「私は月見さんの料理大好きだからいいの! あっ、それと温泉と、あったかお布団もね!」

「はいはい」

「えーっとそれからそれから」

「れーいむー! いい加減にしなさーいっ!」

 

 むぅ……と、おくうはなんとなく面白くない気分になった。改めて見てみると、月見はあのハクレイの巫女や天人と随分仲が良さそうだ。そりゃあ月見は地上の妖怪だから、地上の人間と仲が良かったとしてもそうおかしい話ではないのかもしれない。

 それが、もやもやする。

 おくうは生まれも育ちも生粋の地底っ子で、地上がどんな場所かなんてまるで知らない。月見がさとりたちにたびたび語っていた地上の話だって、今まで一度も聞こうとしてこなかった。だからわからない。月見は、地上で一体どんな生活をしているのだろうか。仲がいいやつらは、他にもいるのだろうか。どれくらいいるのだろう。どれくらい仲がいいのだろう。想像してみる、地上の知人友人に囲まれて、おくうたち地霊殿のみんながいなくてもまるで寂しがった様子もなく、楽しそうに生活している月見の姿を――。

 

(……)

 

 やっぱり、もやもやした。

 迂闊だったとしか言い様がない。

 だってここには、古明地さとりがいるのだから。

 

「――おくう」

 

 肩に手を置かれた。おくうはびくっとして振り向いた。案の定、そこには愉悦の表情を浮かべたさとりがいて、

 

「月見さんはしばらくここにいるんだから、今のうちに仲良くなっちゃえばいいのよ。だから、そんなに嫉妬」

「うに゛ゃあああああぁぁぁぁぁ――――――――ッ!!」

「ガッ」

 

 耐えられるわけがなかった。さとりを体当たりで撥ね飛ばして部屋を出たおくうは、湯気を噴くヤカンみたいになって廊下を手当たり次第に爆走した。一階をほぼ走り尽くし、階段を駆け上がって二階を走り尽くし、一階に降りてきて中庭に飛び出すと、隅っこの植木に隠れて体育座りをしながら半分泣いた。

 わかっている。

 頭では、わかっているのだ。要するに、ついこの間まで、おくうが月見に嫉妬していたのと同じだ。みんなとどんどん打ち解けていってしまう月見の存在にもやもやしたように、月見と仲がいいハクレイの巫女や天人、果ては顔も名前も知らない地上のやつらにももやもやした。それだけのことだ。

 それだけ。

 

「う、う゛ぅ……」

 

 膝を丸めて、顔を押しつけて、ぜんぶあいつのせいだ、とおくうは思う。

 おくうが今ここにいるのは、あの狐のせいだ。すべてを私のせいにしろと、あいつは確かに言ったのだ。つまりは今のおくうがこうも己の感情に翻弄されているのだって、みんなみんなあいつのせいなのだ。

 責任取ってよ、と思う。

 人の話も聞かず勝手におくうを助けたのだから、あいつにはおくうを後悔させないよう尽くさねばならない義務がある。人の許しもなく勝手におくうを式神にしたのだから、あいつにはおくうの理想の『ご主人様』たる義務があるのだ。

 だから。

 もっと。

 私を、

 見て。

 なんて。

 

「う゛う゛う゛う゛う゛~…………!!」

 

 ――霊烏路空。寂しがり屋でヤキモチ焼きで、構ってほしい地獄鴉。

 彼女がこの感情を乗り越えるには、どうやらまだまだ時間が掛かりそうである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……さとり、生きてるか?」

「ゴフッ……え、ええ、なんとか」

 

 突如暴走したおくうに撥ね飛ばされ、さとりは漫画のように宙を舞った。月見の目には、三回くらい激しくひねっていたように映った。壁にぶつかって床に落下し、今は「ふふふ、あの子も強くなったわね……」みたいな訳知り顔でピクピク痙攣していた。

 手を貸す者は誰もいない。霊夢と天子は目をパチクリさせて固まっていて、藤千代はふわふわと意味深な微笑みを浮かべていて、お燐とこいしはじとーっと手厳しい半目で、

 

「さとり様……あたい、今のはさとり様が悪いと思います」

「どうかーん」

「ケホッ……そ、そうね。さすがにいたずらが過ぎたかしら」

 

 目の前で霊夢と天子が騒いでいたせいで、なにがあったのか見逃してしまった月見である。ただ、遠くの方でおくうが「うに゛ゃあああああ……」と叫びながら走り回っているのはわかる。

 

「……お前、なにやったんだ?」

「た、大したことではないので、気にしないでください。ケフ」

 

 ぷるぷるしながら立ち上がるさとりは、生まれたての子鹿みたいだった。

 

「ところで、おくうと話はできましたか? コフ」

「ああ。……お前たちが言った通りだよ。本当に優しい子だね、おくうは」

 

 にゃ? とお燐が目ざとく眉を上げた。

 

「おにーさん、今おくうのこと……」

「『おくう』って呼ぶようになったんだね!」

 

 目を輝かせたこいしは腕を組み、しみじみとした顔つきで大きく三回も頷いて、

 

「そっかー、おくうも遂にかーっ」

「じゃあおにーさんとおくうは、完全に仲直りしたんだねっ」

「仲直りというより、今ようやくスタート地点に立ったようなものだけどね」

 

 おくうははじめて出会った当初からずっとずっと、月見を拒絶し続けてきたのだから。

 

「ふふ。これで月見さんも、立派な地霊殿の一員ですね。エフ」

「ねえねえ、もうここで私たちと一緒に暮らしちゃおうよ!」

 

 天子と霊夢が脊髄反射で反応した。

 

「だだだっダメだよそんなの!?」

「そうよ! 月見さんは怪我が治り次第地上に戻って、私に美味しい料理を振る舞う義務があるのよ!」

「ズルい! 地上の人たちばっかり月見を独り占めして!」

「負け犬は引っ込んでなさい!」

「それとこれとは話が別だもん! さっきはたまたま負けただけだもんっ!」

 

 ぶーぶー唇を尖らすこいしに、霊夢は「はン」と小鼻を鳴らして返し、

 

「じゃあ、月見さんを賭けてもっかい勝負してみる? まあ同じ結果になるに決まってるけどっ」

「むかっ――いいよ、今度こそ絶対勝つもん! 私が勝ったら、月見はここで暮らすんだからね!」

「じょーとーよ小娘がぁっ!! もっかいケチョンケチョンにしてやるわ!!」

「うるさいうるさいっ、そっちだってチンチクリンのくせにーっ!!」

「誰がチンチクリンよよっしゃ表出ろ――――――――ッ!!」

 

 と。

 売り言葉に買い言葉。少し前のおくうに負けず劣らずの勢いで、ドッタンバッタンと騒がしく外に走り出して行

 

「あなたたち、なにを騒いで――ひゃっ!?」

「「うわぁっ!?」」

 

 く、直前。奇しくも廊下側からぬっと現れた少女と、ど派手に正面衝突した。

 三者、尻餅。

 

「いたぁ……っ」

「「ひっ」」

 

 自分が誰にぶつかってしまったのかを理解して、霊夢とこいしが頭の先から首の下まで青ざめた。ついでに、部屋のさとりや天子たちまで「ひいっ」と真っ青になった。

 涙目でお尻のあたりをさすっているのは、見紛うことなく――

 

「なんなんですか、もぉ……」

 

 ――四季映姫・ヤマザナドゥ。

 部屋中に少女たちの、心臓が鼓動を止めたような緊張が駆け抜ける。間違いなく、昨日のお説教地獄の記憶が甦っているはずだ。誰しもが、あの鬼子母神ですら、指の先まで凍りついて微動だにもできないでいた。

 そのとき更に、「あーほら言わんこっちゃないー」と別の少女の声がして、

 

「なにやってるのさまったく。みっともないねえ」

「こ、この二人がいきなり飛び出してくるからですっ!」

「あんただっていきなり飛び込んでったでしょ」

「ぐ、ぐう……っ」

 

 ひょこりと顔を出したのは、トレードマークの角がぽっきり折れている勇儀だ。映姫を片腕で軽々引き起こし、恐れも知らぬ呆れ顔を向けて、

 

「そもそも、勝手に人の家にあがっちゃダメでしょうが」

「なにを言いますか。ちゃんと、お庭にいたペットが案内してくれたでしょう」

「いや、あれは一目散で逃げたっていうんじゃないかな……」

 

 この閻魔、あいかわらずである。

 とはいえ無視するわけにもいかないので、月見は控えめに声を掛けてみる。

 

「映姫」

「!」

 

 そこからの映姫の反応は、まさに百面相の如しだった。

 まず月見の方を見て驚き、

 次にぱっと笑顔になりかけ、

 すぐさま慌てたように首を振って、

 真顔でこほんと咳払い、

 そして最後にはいつもの澄ました雰囲気で、

 

「――目を覚ましたのですね。なによりです」

「……素直に喜べばいいのに」

 

 鋭い空気の破裂音が響き渡り、うずくまってぷるぷる脳天を押さえる星熊勇儀ができあがった。

 映姫はフルスイングした悔悟棒を胸の前の位置に戻して、

 

「ですが、今はそれよりも――博麗霊夢、古明地こいし」

「「は、はひっ」」

 

 氷の眼差しで見下ろされ、霊夢とこいしが尻餅をついた恰好のまま後ずさる。

 映姫は薄い不穏な微笑みで、

 

「なにやら口喧嘩らしきものが聞こえましたが……まさかとは思いますが、昨日の私のお説教、理解してもらえていないのでしょうか」

「そそそっそんなことないわよ! 私たちもぉーメチャクチャ仲良しだしっ!」

「そうだよ、もう友達だよっ」

 

 胸の前で互いの手と手を合わせ、「ねーっ!」とかわいらしく声を揃える二人。笑顔が完璧に引きつっている。

 

「……まあ、いいでしょう。ともかく、昨日の異変を受けてなお争うような真似はこの私が許しませんからね。ゆめゆめ忘れないように」

「頑張った月見のためだもんね」

 

 また破裂音。愚かな勇儀はうずくまるどころか膝を床について、土下座するような恰好でびくんびくんと痙攣していた。

 藤千代が半泣きになっている。四季映姫・ヤマザナドゥ――鬼子母神を本気で泣かす、世界で唯一の生命体である。

 

「月見くん……逃げていいですか?」

「……少し待っててくれ。私がなんとかするから」

 

 あいかわらず、面倒くさい閻魔様である――が、そんな彼女も根は優しく面倒見のいいお姉さんなのだと、月見は或いは幻想郷の誰よりも身を以て知っている。そう、根は優しい少女なのだ。根は。

 

「おはよう、映姫。昨日はすまなかったね、医者まで呼んでもらったとか」

 

 映姫はあくまでフラットな表情のまま、

 

「怪我人への対応として、当然のことをしたまでです。それより、やけにピンピンしていますが体の具合は大丈夫なのですか?」

「ああ、ぜんぶ話すよ」

 

 予想通りの反応だ。ここで月見は冷や汗ダラダラな少女たちを見回し、努めて自然で、さりげない風を装って言った。

 

「というわけで、私は映姫と話をするから。お前たちは、少し席を外してくれないか?」

「「「……っ!!」」」

 

 そのとき少女たちが一様に浮かべた表情を、月見はしばらくの間忘れられそうにない。

 地獄で仏を見たような。

 なので月見は、つくづくこう思う。

 

 ――もしかすると、世界最強は閻魔様なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……まさかとは思いますが、起きていきなり外を歩き回ったりはしていないでしょうね」

「………………ああ、もちろんだとも」

「なんですか今の間は。こら、こっちを見なさい。こら」

 

 しかし、この判断は少々迂闊だったかもしれない。勇儀がいるとはいえ映姫とほぼ一対一の状況になってしまっては、今度は月見がお説教地獄に堕とされてしまうのではないか。月見とて、異変の根本的な引鉄を引いてしまった罪のある身。説教大好きな閻魔様にしてみれば、まさに恰好の獲物というやつだろう。

 ほのかに身構える月見の先で、映姫はやはりいかめしく椅子に腰を下ろした。

 

「まったく……改めて言いますが、あなたは己の危機管理がまるでなっていません。妖怪だから大したことないとでも思っていますか。そもそも、」

「ちょいと閻魔サマー、この期に及んで説教なんてやめとくれよー」

 

 そういえば勇儀は、昨日のお説教地獄に巻き込まれたのだろうか。

 早速くどくど語り始めようとした映姫の腰を折り、勇儀がテーブルの上にどかんと置いたのは、伊吹瓢の三倍くらいはありそうな巨大な瓢箪であり、

 

「月見、お酒持ってきたよっ。さあ一緒に呑もうか!」

「馬鹿者」

 

 映姫が勇儀の頭をぺちんと叩いた。

 

「あいた。……ちょっと、さっきから私ばっかり叩かれすぎじゃない!?」

「自業自得です! 今日目覚めたばかりの大怪我人に、いきなり酒を呑ませる者がありますかっ! 傷に響いたらどうするつもりです!」

「なにをぅ!? 酒は百薬の長っていうじゃないか!」

「適切なときに適度な量で嗜むならばの話です! 起きていきなり鬼のあなたと一緒に呑むなど、適切も適度もあったものではありませんっ!」

「つまんな――――――――いっ!!」

 

 頬を膨らませて激しいブーイングを飛ばす勇儀に、映姫は頭を押さえて重いため息をついた。きっと脳裏では、このお調子者な鬼に某サボり魔の姿が重なっているのだろう。

 半目で月見を睨んで、

 

「……一応言っておきますけど、ダメですからね。許しませんよ」

「わかってるよ。……勇儀。酒は傷が治ってから、ゆっくりとね」

「ぶー!」

 

 あちこち包帯だらけな今の状態で酒なぞ呷ったら、体にどんな悪影響があるかわかったもんじゃない。少なくとも外の人間の世界では、入院患者に飲酒は御法度が常識だ。

 ちょうど話が区切れたので、今のうちに言いたいことを――映姫の気を説教から逸らす意味でも――言ってしまおうと思う。

 

「それより二人とも、礼を言わせてくれ。昨日は助かったよ」

 

 頭を下げ、

 

「特に、映姫。私が倒れたあとのこと、ぜんぶ面倒見てくれたみたいだね。……本当にありがとう」

 

 心の底から、助けられたと言わざるを得ないだろう。みんなが精神崩壊を起こすまでひらすら説教しまくったという、血も涙もなく残忍なやり方はさておき。

 む、と映姫がほんのかすかに肩を揺らした。

 

「……礼には及びません。閻魔としての職務を果たしただけのことです。ここは、元々地獄の一部だった場所なのですから」

「それでもだよ」

 

 月見はまぶたを下ろし、今となっては遠い昔の、かつて幼かった映姫の姿を想起しながら、

 

「……お前と出会えてよかった。心から、そう思うよ」

「へゃ、」

 

 変な声が聞こえた。月見が前を見ると、そこにはちょうど耳の先まで真っ赤になっていく途中の、半分赤で半分白な映姫の顔があった。

 二秒後、耳の先までぜんぶ真っ赤になった彼女は、

 

「え、えっほん!!」

 

 と大きく咳払いとして、それから急にしおらしくなってぽそぽそと、

 

「お、己の過ちを認め、感謝の心を忘れないのは、殊勝なことですね……。で、ですが、私はほんの少し手助けをしただけで……あの異変を終わらせたのは、他でもない、あなた自身の力であって……そこは、私も、まあ……認めてあげないでも、ないといいますか」

「映姫?」

「つまりですね!?」

 

 突然大声で叫び、またぽそぽそぽそぽそ、

 

「あ、あなたは、ちゃんと己の罪を自覚していて……それで、罪を少しでも償おうと、そんな姿になるまで力を尽くしたわけですし……今回は、まあ、その、特別に、特別にっ、大目に見てあげないことも」

「ねーねーさとりー、ちょっとこっち来てくれないかなー! 今ならめっちゃ面白い心が読」

 

 映姫が獣の動きで弾幕を撃った。

 悲鳴すら上がらない。

 

「――ともかく、今は安静にして傷を癒やすことに専念してください。不必要に動き回るなど、怪我人にあるまじき行動をしているようでしたら、そのときこそお説教ですからね」

「……ああ。肝に銘じておくよ」

 

 部屋の隅でぷすぷすと香ばしい煙をあげる勇儀に合掌しながら、月見は改めて、満場一致でしみじみと思うのだった。

 

 やっぱり、世界最強は閻魔様だろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 地霊殿始まって以来最もドタバタだった一日が、ようやく終わりを迎えようとしている。月見以外の客が皆自分たちの場所へと帰り、時間の上では疾うに夜が更けた地霊殿で、さとりは二人分のココアを携えて、ランプとステンドグラスの明かりが照らす廊下をひっそりと歩いていた。

 行き先はもちろん、月見の部屋――正確にいえば、月見に貸して休んでもらっている部屋――だ。こいしがもうここに住んじゃえばいいのにとせがんでいたが、なにがどう転んだとしても、月見は怪我が治り次第地上へ戻るだろう。月見の居場所は地底ではなく、地上には月見の帰りを待っているたくさんの人たちがいるはずだから。

 こうして月見と一緒の賑やかな一日を送れるのは、長くても一週間程度だろうか。それが終われば今までと同じように、月見がやってきてくれる日をただ地霊殿で待つしかない生活に戻るのだ。

 少し、名残惜しい。

 物思いに耽るうちに目的地へ着いたので、控えめにノックをする。

 

「……月見さん、起きてますか?」

『ああ、起きてるよ。どうぞ』

 

 トレーの上のカップを落とさないよう気をつけながら、慎重にドアを開ける。ランプの明かりで朧に照らされた薄暗い部屋。ベッドに座る月見が読んでいた本を畳み、枕元に置いた。

 

「待っていてくれ。今、明かりをつけるよ」

 

 月見が左の掌を軽く開くと、そこに青白く燃える小さな炎が灯った。月見の手を離れた炎は人魂のようにふよふよと宙を漂って、さとりの足下を明るく照らしあげてくれた。

 狐火。ただしこれは熱を持たない陰火であり、火事や火傷の心配はまったくないらしい。

 

「……便利ですね」

 

 そういえばお燐も似た術が使えたっけな、とさとりはふっと思い出した。青白く幻想的に照らし出された部屋の姿は、なんだか地霊殿ではないみたいだ。

 ベッドの傍の丸テーブルに、トレーを置く。

 

「ココアをいれてみました。よければ、どうぞ」

「ありがとう」

 

 今朝目を覚ましたばかりだから当然だが、月見はまだ包帯だらけの痛々しい姿をしている。彼の包帯を誰が取り替えるかで、藤千代を中心として激しい議論が飛び交ったのは数時間前の話だ。結局、月見が自力でできるところは自分でやって、背中や腕の難しい部分だけを藤千代とこいしが手伝う、という形で落ち着いた。おくうも手伝えばよかったのに、とさとりは今でも残念に思っている。月見の怪我が完治するまでの間に、一度でもいいからおくうに手伝わせてやるのがさとりの目標だ。

 傍の椅子に腰を下ろす。こいしたちは? と心の声で訊かれたので、答える。

 

「みんな一緒にお風呂に入ってますよ」

 

 ――おくうも?

 

「ええ」

 

 ――そうか。仲がいいようで、なにより。

 さとりはクスリと片笑む。

 

「月見さんが、助けてくださったお陰ですね」

 

 ――よしてくれ。私が助けたのは私自身だ。諦めの悪い変人、くらいに思ってもらった方が気が楽だよ。

 

「……月見さんらしいですね」

 

 心からそう思う。交友関係の広さ故か、なにかと間接的なトラブルメーカーになりやすく、困っている人がいればつい世話を焼いてしまい、泣いている人はどうも後味が悪くて見過ごせない。それがたとえ月見を嫌う相手でも、助けなんて求めていなくても、勝手に手を差し伸べて、勝手に助けて、しかしその迷いのない姿で、いつしか人間からも妖怪からも認められてしまう。かつてそうやって打ち解けた鴉天狗の少女がいて、そして今回だって、かたくなだったおくうの心に雪解けをもたらそうとしている。

 

「ありがとうございます、月見さん。私、いま、なんだか明日がすごく楽しみなんです。きっと、素敵な一日になるような気がして」

 

 目に浮かぶようだ。こいしが元気に月見のお世話をしていて、おくうが、私だってと思いつつもやっぱり素直になれなくて。そんなおくうを横からお燐がからかっていて、時折やってきた藤千代が、月見のお世話をこいしと取り合って。そしてその喧騒を、さとりは月見と一緒に苦笑いで見守っている。

 悲しんでいる人なんて、一人もいない。みんな、みんな、笑っている。

 そんな日がもうすぐやってくるのだと、本気で信じることができる。

 だからさとりは、言わずにはおれない。

 

「早く傷を治そうなんて、思わないでください。この地霊殿で、ゆっくり傷を癒やしてください。時間が許す限り、ずっとここにいてください」

 

 少し恥ずかしかったけれど、それが、さとりの嘘偽りのない素直な気持ち。

 なので最後は、せめて茶目っ気たっぷりに微笑んで、

 

「……じゃないと、拗ねちゃいますからね?」

 

 よほど予想外の言葉だったのか、月見は目をまん丸にして呆然としていて、心の中もポカンと空白になっていた。沈黙が部屋の隅々まで広がっていく。だからさとりは遅蒔きながら、考えようによってはものすごく恥ずかしいことを言ってしまった気分になってきて、えっと違うんです今のはちょっと言葉不足で拗ねちゃうのはこいしやおくうであって決して私が拗ねるという意味ではいやちょっとは拗ねるかもしれませんけどともかく

 

「――つーくみーっ!!」

「!」

 

 そのとき部屋のドアが勢いよく開いて、不意を衝かれたさとりは心臓が口から飛び出す思いで振り返った。飛び込んできていたのは、パジャマ姿で枕を抱き締めているこいしだ。更に後ろから、マットを抱えたお燐と敷き布団を担いだおくうも続いてくる。二人ともやはりパジャマ姿で、お燐は三つ編みを解いている。

 見ればわかる通り、お風呂上がり――だが、しかし。

 さとりは目をしばたたかせ、

 

「……えっと、あなたたちなにして」

「今日は、ここでみんな一緒に寝るの!」

「は、」

「お布団敷くよ!」

「さとり様、どいてくださーい!」

「うわわっ」

 

 さとりを腰掛けごと脇に押しやって、お燐がテキパキとマットを敷き始めた。月見のベッドにぴったり寄り添うように位置を調整し、続け様におくうが敷き布団を、

 

「……い、言っておくけど、こいし様の命令で仕方なくだからっ。私は、別に、こんなところで寝たいなんて思ってないし……」

 

 もちろんただの照れ隠しであり、ぜんぶわかっているこいしとお燐はにこにこしている。

 さて、いい加減に頭の理解も追いついてきた。どうやらこいしたちは、今晩から(・・・・)ここで月見と一緒に寝るつもりらしい。よって今は、自分の部屋から布団を持ち込んでお引っ越しの最中というわけだ。

 さとりはため息をついた。

 

「こいし、あなたはまた勝手なことを……」

「月見、いいでしょっ? みんなで一緒に寝れば、疲れも消し飛ぶよ!」

 

 月見がこういうお願いは断らないとわかっていて、甘えているのだ。案の定、月見は迷った風もなく朗らかな一笑で、

 

「好きにするといいよ。ただし、夜更かしはさせないからね」

「わーい! というわけでお燐、おくう、じゃんじゃん持ってきて!」

「らじゃー!」

「わ、私は、こいし様たちと一緒に寝たいだけなんだからあっ」

 

 お燐がノリノリで、おくうが捨て台詞を吐いて部屋を飛び出していく。少し経ってからお燐の「おくうはほんっと素直じゃないよねー!」とやけに大きめな声が響いてきて、おくうが「うにゃあああああ!?」と錯乱している。

 こいしが、枕を抱えたまま月見のベッドにダイブした。ごろんと仰向けに寝転がって、なんともあざとい仕草で月見を見上げ、

 

「月見ー、私ここで寝てもいい?」

 

 さとりは速やかにこいしを引きずり下ろした。

 

「お姉ちゃんのいじわる!!」

「こいし、調子に乗るのもいい加減にしなさい」

 

 こいしに甘い月見も、さすがにこればかりは苦笑いだ。

 

「勘弁してくれ、またおくうに嫉妬されちゃうよ」

「……」

 

 こいしは曰くありげな沈黙のあと、「……そっか。それもそうだね」とあっさり引き下がった。たった今、さとりをいじわる呼ばわりしたのが嘘みたいだ。この瞬間だけはさとりの頭の中に、こいしの心の声がはっきりと聞こえたような気がした。

 

 ――確かに、嫉妬しちゃうもんね。……月見じゃなくて、私に。

 

 お燐たちが戻ってきた。おくうは掛け布団で、お燐はまたマットを抱えている。布団一組でみんなが寝るのはさすがに狭いから、二組並べて敷くつもりらしい。

 その後二人が更にもう一往復して、ようやくお引っ越しは完了した。二組ぴっちり並んで敷かれた布団の上を、早速こいしがゴロゴロと転がった。

 

「なんだか、お泊まり会みたいだね!」

「みんなで一緒に寝たりなんて、ほとんどしたことなかったですからねー」

 

 お燐の言う通りかもしれない。お燐はよく猫の姿で誰かのベッドに潜り込んだりしているが、おくうはそこまで甘え上手ではないし、こいしは外を放浪してばかりで地霊殿にいる時間の方が短いくらいだった。こいしたち三人が一緒に寝るなんて、本当に一体いつ以来の話になるのだろう。

 

「まだ寝るにはちょっと早いねー。なにかゲームでもする?」

「……みんな、夜更かししないでちゃんと静かに寝るのよ? 月見さんも、うるさかったら遠慮なく叱ってくれちゃっていいですから」

「ああ、そうさせてもらうよ」

 

 本当かなあ、とさとりは怪しく思う。一応嘘は言っていないようだが、彼の言う『叱る』が果たしてどれほどのものやら。叱ると言いながら甘やかしていたっておかしくない気がする。

 ぶー、とこいしがふくれ面でバタ足をし、

 

「じゃあ早寝するから、お姉ちゃんも早くお風呂入ってきてよー。先に寝ちゃうよー?」

「え?」

「え?」

 

 さとりは首を傾げた。こいしはもちろん、お燐におくう、果ては月見の視線までもが揃ってさとりへ向けられ沈黙している。あれなんだろうこの空気、と思いながら心を読んだところによれば、

 

「……え、私もここで寝るの?」

「え、当たり前でしょ?」

「え?」

「え?」

 

 こいし。私はそんな話、一言も聞いていないのだけれど。

 

「みんな一緒に寝るって言ったでしょ! だからお姉ちゃんも一緒だよ!」

 

 なるほど確かに、こいしの言い分は一応理に適っている。しかし、まさか『みんな』の中に自分まで含まれていようとは予想外だった。このあとゆっくりお風呂に入って、こいしたちがちゃんと寝静まったのを確認してから、自室で本でも読みながら眠りに就くつもりだったのだ。さとりは一人で寝るのが好き――というより、能力が邪魔になってしまって、誰かと一緒に寝るのが難しい身の上なのだから。

 そんなのはこいしだってわかっているだろうに、彼女は一目散で月見に飛びついて、

 

「月見ーっ! お姉ちゃんが、私たちと一緒に寝るのなんて嫌だって! はくじょーものっ!」

「ち、違うわよ!?」

 

 いや安眠の妨げになるという意味ではなかなか否定もしづらいのだけれど、お燐とおくうが並々ならぬ寂しさでしょぼんとしていて、こいしのジト目も近年稀に見る破壊力でさとりの良心に突き刺さってきており、更に月見の前ではなるべくいい女ぶりたい個人的な心情もあって、

 

「わ、わかったわ! 急いで入ってくるから、ちょっと待ってて!?」

 

 と慌てて答えた結果、およそ三十分後には、四人並んで仲良く布団の中に収まってしまっていた。

 

「えへへ。お姉ちゃんと一緒に寝るのなんて、久し振りかもー」

「……そうね」

 

 月見に近い側から、おくう、さとり、こいし、お燐の順番である。おくうとこいしに左右を挟まれながら、私も大概甘いなあとさとりは静かに嘆息した。

 布団二組に四人並んで入り込むと、さすがに狭い。左ではさとりとお燐に挟まれたこいしが嬉しそうにはしゃいでいて、右ではおくうがさとりの腕にぴったりとくっついている。単純に羽が邪魔なせいもあるが、それ以上に月見に一番近いところで寝ているのが恥ずかしくて、さっきからずっと彼に背を向けてばかりなおくうである。

 月見と二人きりで話をして、いろいろと心境の変化もあったようだが、今なお素直になるまでは至れていない。とりあえず明日からは、二人の距離が早く縮まるようにいっぱいちょっかいを出していこうと心に決めるさとりだった。

 

「それじゃあ、明かりを消すよ」

「「はーいっ」」

 

 こいしとお燐が幼さたっぷりに返事をする。宙を漂っていた狐火の明かりが消えて、部屋に夜の闇がやってくる。

 

「おやすみ月見ーっ! 明日もいっぱいお世話するからね!」

 

 やる気満々で言うこいしに、月見はやんわりと笑って、

 

「はっはっは、お手柔らかに頼むよ」

「明日からは、おくうもいろいろとお手伝いするんじゃないかなー? なんたってほら、おにーさんの式神なんだし」

「にゅ!?」

 

 まだ闇に目が慣れていないせいで顔は見えないが、今のお燐はニヨニヨと意地悪に笑っていて、おくうはボフンと一気に赤くなったはずだ。

 

「い、いや……私は、別に、そんな」

「あらおくう、一体なにを考え」

「うにゃあああああ――――――――っ!?」

「ぶっ」

 

 絶叫したおくうに、ビンタをするような勢いで口を塞がれた。彼女がなにを考えていたのかは、例によって個人情報保護というやつだが――敢えて言うなら、この子って意外とオマセさんだったんだなあとだけ。一体どこで覚えてきたのやら。

 突然のおくうの絶叫に、月見がベッドの上で驚いている。

 

「お、おくう?」

「なんでもない! ……ま、まあ、ちょっと飲み物を持ってくるくらいなら、してあげてもいいけどっ」

 

 本当に素直じゃない。

 しかし月見は、優しく息をついた音で、

 

「……そっか。じゃあ、そのときはお願いしようかな。ありがとう」

「……う、うにゅ……」

 

 まさか普通に礼を言われると思っていなかったおくうは、二の句を失ってもじもじと沈黙した。さとりもこいしもお燐も、みんなほっこりした。

 

「さて、騒ぐのはおしまいだ。自分で言うのもなんだが、私は朝が早いからね。朝寝坊はさせてやらないよ」

「はーいっ」

 

 こいしが布団の中をもぞもぞ動いて、さとりの腕に絡みついてくる。

 

「……こいし?」

「えへへー」

 

 暗闇に未だ目が慣れず、こいしが一体どんな顔で笑っているのかさとりにはわからない。それが、なんだか無性に残念だった。きっと、見た目通りの女の子らしく、子どもらしく、ひどく無邪気で幼気な笑顔だったことだろう。

 昨日の異変を通して一番変わったのは、もしかするとおくうよりもこいしなのかもしれないとさとりは思っている。今日一日だけだから、気のせいかもしれないけれど。しかし地底のあちこちを当てもなく彷徨(さまよ)い歩き、なにを考えて生きているのかもよくわからなかった妹に――ひとつの、はっきりとした芯が生まれたような。指の先から足の先の隅々まで、無意識によって作られたものではない、心からの感情が巡り巡っているような。

 勝手に徘徊していた月見を見つけては、びっくりして。

 博麗の巫女と口喧嘩をしては、ぷんすかと怒って。

 閻魔様と遭遇しては、冷や汗ダラダラで慌てたりして。

 いつもにこにこ笑ってばかりいたような少女が、随分と表情豊かになったものだと思うのは、果たしてさとりだけだろうか。もう長らく耳にしていないこいしの心の声が、ふとした拍子に聞こえてくるように感じるのは、さとりの独りよがりな勘違いだろうか。

 そのとき、

 

「……お姉ちゃん。お燐、おくう」

「……?」

 

 一日中あちこち動き回ったせいで早くも睡魔がやってきたらしく、こいしが半分ほど微睡(まどろ)んで。

 しかし、間違いなく、こう言った。

 

 

「ずっと。……ずっと、一緒だよ」

 

 

 ……きっと、気のせいではない。そう思いたい。

 辛い異変だった。さとりたちの心に、永劫消えることのない深い爪痕を残していった。たとえこの先の未来がどんなに平穏無事であろうとも、消せない記憶は呪いが如く甦り、さとりたちを幾度となく苦しめ続けるだろう。

 でも、怖くなんてない。

 そんな記憶に押し潰されてしまうほど、さとりたちは弱くなんてない。

 みんなと一緒なら、何度だって、なんだって乗り越えていけると――本気で、信じることができたから。

 これといって示し合わせたわけではない。明かりひとつない暗闇の中では互いの顔すらほとんど見えないのに、けれど自然と通じ合って、さとりは、お燐は、おくうは、今よりももっと近く、おしくらまんじゅうをするみたいにこいしの方へ体を寄せた。

 いつ眠ってしまったのかは、覚えていない。でも、これだけははっきりと言える。

 悪夢は、見なかった。

 そして、今まで生きてきた中でいちばん、安らかに過ぎていった夜だったのだと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 翌朝、月見は今まで通りの時間に目を覚ました――と、思う。地底には太陽がないので、日差しの角度でおよその時間を見当づけることができない。異変が終わり、元の明るさを取り戻した地底の朝は大層薄暗く、闇の好む妖怪には心地よかろうが、月見にとってはなんとも落ち着かない不慣れな目覚めだった。日の光がないと落ち着かない――改めて、自分が如何に人間としての生活に毒されているのかを実感する。

 ともあれ、起きた。両腕の包帯が緩んでいて、未だ火傷の痕の残る不恰好な肌が目に入った。とはいえ、順調に快方へと向かっているのは一目瞭然で、この程度ならもう包帯は外してしまって大丈夫かもしれない。あまり傷が深くなかった顔や脚を含め、明日にもなればほとんど完治していよう。

 もっとも、傷が一番深い背中は、まだしばらく掛かるだろうが。昨日、包帯の交換を藤千代とこいしに手伝ってもらったときは、傷を見たこいしがその場で泣き出してしまって大変だった。

 ――こいし。

 月見は、床を見下ろした。月見のベッドの脇につける形で、二組の布団が隙間なく敷かれていて、

 

「……ふふ」

 

 思わず、目尻が緩んだ。四人並ぶには少々手狭な布団の中で、ともすれば寝苦しそうにも見えるほどぴったり寄り添って。

 さとりが、こいしが、お燐が、おくうが、眠っている。それはもう、『安眠』のお手本として写真に撮って辞書に載せたくなるほど、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。

 辛い異変ではあった。月見が負った怪我なんてまさに道端の小さな石ころみたいなもので、彼女たちの心は想像も及ばぬほど傷つき、打ちひしがれ、苦しめられたはずだった。

 だが、この、揃いも揃って能天気な寝顔を見て確信した。

 この子たちなら、大丈夫だ。時には異変の記憶が甦り、震えてしまう夜もあるだろう。けれどそのとき、決して独りではない。大丈夫だよと言って、傍にいてくれる家族がいる。

 辛い異変だったけれど、辛い異変だったからこそ。

 また、今度はみんな一緒に、手をつないで歩き出していく。強く、強く、乗り越えていく。

 だから月見はその背中を見守って、時に少し手を添えるだけでいい。

 

「……朝寝坊は、させてやらないって言ったけど」

 

 小声で、呟く。余計な音を立てぬよう細心の注意でベッドから抜け出し、軽く伸びをして、床を見下ろしてはまたほころぶ。

 

「……もう少し、寝かせておいてやるとするか」

 

 ――みんな仲良く、幸せな夢を見ているだろうから。

 散歩でも、してこようと思う。地底の朝は薄暗くて陰気だけれど、きっと快いひとときとなるだろう。

 

 二組並べた布団の上で、四人ぴったり、割り込む隙間もないほど寄り添って。

 すやすやと眠る、それはかけがえのない――とある幸せな、家族の形。

 

 

 

 

 東方地霊殿――了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――月見さんっ、あなたはまた勝手に徘徊してえっ!! そろそろベッドに縛りつけますよ!?」

「つけるよー!?」

「……悪かったよ」

 

 了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方地霊殿 与太話 「とある哀れな神々のカタチ」

 

 

 

 

 

 この幻想郷には、現代社会からは失われてしまった古き佳き日本の原風景がある。

 幻想郷に移り住んで早数ヶ月、神古志弦がその事実を改めて強く噛み締めたのは、幼女を愛でても犯罪者扱いされないと気づいたときだった。

 故に、こう、口が動く。

 

「はあ、幼女最高」

「ぬくー……」

 

 ちなみに真面目な話である。

 過日、地底を未曾有の異変が襲い、月見らが死力を尽くして戦っていたとは――まさか露も知らず。

 志弦は膝の上に諏訪子を乗せ、神社母屋にてこたつでぬくぬくと暖を取っていた。

 

「平和だねえー……」

「ぬくぬくー……」

 

 守矢神社は妖怪の山の頂近くという高所に位置しており、窓からの景色には、遠く人里であがる煙の揺らめきがうっすらと映り込んでいる。今年一番の大雪が積もった幻想郷は白一色だが、だからこそ人里では、今日も子どもたちがあちこちを跳ね回って遊んでいるだろう。冬の寒さも吹き飛ばす持ち前の元気で、大人たちからお菓子をもらったり、遊び相手をしてもらったり、或いははしゃぎすぎて叱られていたりしているであろう。

 それは現代社会から消えようとしている、かつてあった日本の姿なのかもしれない。

 自分も昔――幼すぎてまだ普通の子どもとして生きていた頃――は、里の子どもたちのように、近所のお兄ちゃんやお姉ちゃん、おじさんおばさんに遊んでもらっていた気がする。単車に乗せてもらってそのへんを走り回ったり、お下がりのおもちゃをもらったり、家でご飯をご馳走してもらったり。いま振り返ってみると信じられない。『友達のご両親』ならまだしも、『名前も知らない近所の大人』だったのだから。名前も知らない大人を遊び相手にするなんて図々しいにもほどがあるし、よくわからない子どもの遊び相手をするなんて、大人たちはみんなお人好しだった。

 でもあの頃は、楽しかった、と思う。

 今の外は、道を尋ねようと子どもに声を掛けただけで不審者扱いされた、なんてニュースがまことしやかに囁かれる時代。かつて存在した『大人と子どものつながり』と呼べるものが、外の社会では次第に失われてきているのではないか。未成年を犯罪から守ろうと敏感になるあまり、大人が子どもを信用しない時代になってはいまいか。今の子どもたちは、親戚でもなんでもない近所の人に遊んでもらったりなんて、果たしてするのだろうか。

 人々から忘れられたものが最後に行き着く楽園――幻想郷。

 ならば外で忘れられつつある『人と人のつながり』は幻想入りし、里人たちの中に息づいている――のかも、しれない。

 志弦の目からしてみれば、現代人よりもここの人々の方がよっぽど豊かな生活をしているように見える。ならば、郷に入っては郷に従え。志弦もその豊かさを存分に享受し、存分に幼女を愛でるのである。

 以上、大変大真面目な話である。

 

「諏訪子の髪はサラふわだねー。女として羨ましいぞチクショー」

「あーうー、くすぐったいよー」

「わしゃわしゃ」

「あー」

 

 天使。

 諏訪子のサラサラでふわふわな髪を手櫛で堪能すると、人間離れした極上の手触りに、志弦はだらしのない恍惚の表情になった。そして実際、諏訪子は人間ではない。志弦の膝の上にすっぽりと収まっているこの、外の世界であればピカピカのランドセルを背負って小学校に通っているであろう幼女が、何千年という悠久の時を生きてきた由緒ある神様だというのだから、幻想もここに極まれりである。ねえ志弦、お前は近い将来、神様を膝の上に乗せて一緒にこたつでぬくぬくするんだよ――なんて幻想入りする前の自分に言っても、生暖かい眼差しで頭の神経を疑われるだけだったに違いない。

 幻想郷には、諏訪子のように見た目幼女でも何百歳、何千歳という合法幼女がゴロゴロ転がっている。そして、みんな天使である。というか幼女でなくとも、幻想郷の女は皆一様にかわいらしく、美しく、天使であり、志弦の雀の涙みたいな女のプライドを、もう百回くらいは木っ端微塵に粉砕している。みんなの迸る女子力に比べたら志弦などいっそ男に分類すべき有様であり、しかしそんな志弦の顔を見に参拝客がやってきたりするのだから、幻想郷の男にはつくづく物好きが多いらしい。

 とは、いえ。雪がもりもりと降り積もった銀世界の中、まさか守矢神社まで山登りしてくる奇人変人がいるはずもなく。

 

「平和ですねぇー……」

 

 同じくこたつでぬくぬくしている早苗は、リラックスしすぎて半分溶けた餅みたいになっていた。しかしそんなだらしのない姿がまた志弦の頬を緩ませるのだから、かわいければなんだって許されるのだ。

 

「ほんとにねー……定年退職後は田舎でのんびり暮らしたいって人の気持ち、なんだかわかるような気がするなー」

 

 もちろん、不便といえば不便だ。正直に言えば、ネットも最先端の家電製品もない幻想郷の生活を舐めていた。自分一人だったらご飯も満足に食べられなかった。早苗たちや月見に助けてもらえた自分は、本当に幸運だったのだと思う。

 はじめは知らないことばかりで、大変だった、けれど。

 知らなかったことが少しずつできるようになって、日々の生活に慣れてくると、ここで流れる時間は外よりもずっとゆるやかだった。きっと、学校のテストや大学受験、卒業論文や就職活動といった、人を生き急がせるものが幻想郷にはほとんどないからなのだと思う。将来への漠然とした不安から解き放たれ、天使な女の子たちと一緒にのんびり気ままな田舎暮らし。幻想入りして本当によかった。

 早苗のみならず、諏訪子も段々ととろけてきた。

 

「でもこの前は、ちょっと麓の方が騒がしかったっけねえ……」

「月見さんが、またなんかやってたんじゃなーい?」

 

 本人の前で言うとまこと遺憾な顔をされるだろうが、月見は幻想郷屈指のトラブルメーカーである――月見の周りに集まる少女たちがいつも騒動を巻き起こす、という意味で。八雲紫が春までの長い眠りに就いた分、今は少しだけ落ち着いているけれど。

 

「あっはは、そうかもねー。……月見といえば、尻尾モフりたくなってきたなあ」

 

 諏訪子の呟きに、東風谷早苗という名の半分溶けた餅がぴくりと反応した。

 

「あー、いいですねー。こういう寒い日に、月見さんの尻尾で優しく包んでもらえたら……そのまま死んでもいいですよねぇー……」

「早苗ー、私を置いて逝かないでよーぅ……」

「じゃあ……志弦も一緒に死のう?」

「わーい早苗ったらヤンデレラー」

「そういう志弦はツンデレラー」

「べ、べつにあんたのためじゃないんだからねっ」

 

 ほう、とため息。こたつの恐るべき魔力で神経中枢をやられて、志弦も早苗も諏訪子も次第になにも考えられなくなってくる。確か時間はそろそろお昼時で、お腹もそこそこ空いてきているはずなのに、昼食の準備をしようという気がまったく湧いてこない。動きたくない。諏訪子の頭に顎を載せる。緑豊かな森の香りがする。そのまま誰がなにを言うでもなく、満場一致でお昼寝タイムに、

 襖が開いた。

 

「――うーさむさむ、ただいまー……うわあ、みんな溶けてる」

「こたつの魔力っスよー」

 

 志弦は半分まどろみながら答えた。

 帰ってきたのは、朝からお出掛けしていた八坂神奈子だった。マフラーを巻いて、鼻とほっぺたをほんのりと赤くして、冬の味わいあるなんとも艶めかしい出で立ちをしている。本人は「私にそういうのは似合わないってえ」と自虐しているが、素材の良さはどう足掻いてもわかってしまうものなのだ。

 

「ああ、今日は寒いからねえ。やっぱ日本に生まれたなら、冬はこたつに限るよねえ」

 

 そう言って神奈子は、マフラーも脱がずにこたつにもぞもぞと入り込む。その途端、ほああ……と実に幸せそうなため息が口から広がる。こたつが秘める強大な魔力は、数千年の歴史を背負う偉大な神々をも骨抜きにするのだ。

 諏訪子が半分とろけたまま問うた。

 

「どうだったの、例の話の方はー」

「ん、もうめっちゃいい感じさ」

 

 例の話とは、神奈子が河童たちと共同で進めている新技術の開発計画のことだ。なんでも、とある神様のありがたーい御力を利用して、今の幻想郷にはない新エネルギーを生み出し、技術革命によって生活水準を飛躍的に向上させるのだ――と、やたら壮大なサクセスストーリーを描いているらしい。もちろん、最終学歴が事実上の高校中退な志弦に口を挟める道理もないので、計画が持ち上がった当初からずっと傍観させてもらっているけれど。

 

「河童との話もかなり煮詰まってきたし、地底のあいつも、そろそろいい感じに力に慣れてきただろうし。頃合いは近いよ」

「ふーん。じゃあ、あとは藤千代をどうするかってことか」

「ふふん、ここまで外堀を固めたんだ。さすがのあいつだって、そう簡単に断ったりはできないはずだよ」

「へー。そのお話、是非とも詳しく聞かせてほしいですねー」

 

 神奈子の赤ら顔から、一瞬ですべての血の気が失せた。

 一体いつからだったのか、神奈子のすぐ真横に座って、件の藤千代がこたつでぬくぬくと暖まっていた。

 体の芯まで氷結していた神奈子が、こたつの熱でゆっくりと再起動を始める。青い顔でぷるぷる震え、テーブルに突っ伏し、ぐすっと大きく鼻をすすって、

 

「……死んだかと、思ったっ……!」

「むー、どういう意味ですかあ」

「死ぬほどびっくりしたって意味だよこのバカぁっ!!」

「でも私、神奈子さんが河童の里を出たあたりからずっと後ろにくっついてたんですよ?」

「ひいいいいいっ!?」

 

 あいかわらずだなー、と志弦は苦笑した。巷では鬼子母神の名で――あくまで二つ名であり、本物の鬼子母神様とは一切関係ないらしい――、あらゆる妖怪からいろいろな意味で畏れられている少女、藤千代。神出鬼没が服を着て歩いているような彼女にとって、気がついたら真横にいたなんてのは日常茶飯事である。

 そして涙目で震えあがる神奈子が、この世で最も苦手としている相手でもある。

 

「やっほー、藤千代ー」

「やっほーです、志弦さんっ」

 

 しかし新参者の志弦にとっては、なんてことはない、幻想郷に数多くいるかわいい女の子の一人だった。小柄な体にお淑やかな着物姿と、しゃらしゃら小気味よく揺れる藤の髪飾りという雅な出で立ちの中で、額からすらりと伸びた二本角が胸を射抜くような魅力となって志弦に迫る。加えて誰にでも敬語を欠かさない親しみやすい性格でありながら、ひとたび(かいな)を振るえば幻想郷で比肩する者なしという壮絶なギャップまで兼ね備えている。境界を操る神が如き力を持っていながらも比較的ぽんこつな八雲紫と並んで、幻想郷の深遠を全身で余すことなく体現している少女だと志弦は思っている。

 こたつの魔力で神経を麻痺させられている影響もあってか、早苗も諏訪子もまったく驚いていない。

 

「いやー……藤千代さんはあいかわらず、突然ひょっこりと出てきますねー」

「もう慣れたよね。まあ藤千代だしって感じで」

 

 月見だって言っていた――「あいつは私たちとは生きている世界が違うから、やること為すことをいちいち気にしてたら疲れるよ」と。冬眠前の八雲紫だって言っていた――「あれを幻想郷の基準にしたりしないでね。ぜんぶぶっ飛んでるから」と。天魔様だって言っていた――「どうして天はあのような生命体を創りたもうたのか……」と。

 そういう扱いなのだ、彼女は。頭の先から足の指先まですべてが『非常識』『規格外』『破天荒』という概念で構成され、幻想郷屈指の大妖怪たちから揃って匙を投げられる。それが神も涙目で震えて恐れをなす、鬼子母神こと藤千代という少女なのである。

 

「まあ、私なんかのことは置いておきましてっ。それより神奈子さん、さっきのお話なんですけど」

 

 藤千代に笑顔で覗き込まれて、神奈子が真逆の方向に顔を背けた。当てもなく泳ぐ目線、ダラダラ流れる冷や汗、引きつる頬の筋肉、落ち着きなく揺れ動く体、「え、えーっと、それはね!」とやたら明るくも歯切れの悪い口振り――どこからどう見ても完璧な数え役満だった。

 

「なんというか、その……まだちょっと心の準備ができてないというか! 時期尚早って感じで!」

「ところで私も、今日は神奈子さんに用があってきたんですよ」

 

 藤千代がこたつを出て、小動物みたいなかわいらしい動きで神奈子の目線の先に回り込む。また顔を背けようとした神奈子の肩をぐわしっと掴み、打って変わって、なにかオソロシイ魔物めいた不穏なオーラに神奈子は、

 

「旧都」

 

 ぴく。

 

「地獄鴉」

 

 ビクッ。

 

「八咫烏」

 

 ビクンビクン。

 スリーアウト。

 

「――というわけで、連行しまーっす!」

「ちょっと待ってえええええ!? それであんたがここに来るってことは……まさかっ!?」

「はい、暴走して大変なことになりました」

「んぎゃああああああああああ!?」

「さあさあ、れっつごーっ!」

「ひいいいいいいいいいい!!」

 

 藤千代が片手で、いとも簡単に神奈子をこたつから引きずり出した。なんだかよくわからないが、『旧都』とは確か地底にある妖怪たちの住処だったはずだから、どうやら地底でなんらかのトラブルがあったらしい。

 志弦は、神奈子と藤千代の会話の断片から更に推測する。『地獄鴉』は、文字通りに地獄の鴉という意味であれば、地底は元々地獄の一部だったというから、『地底にいる鴉』くらいの意味だろうか。『八咫烏』は、神奈子が今回の計画で活用しようとしていた神様が、確かそんな名前だった気がする。そして、『暴走』――この言葉を使う以上、どう楽観的に考えても大変な事件があったのは間違いあるまい。

 極めつけに、藤千代が神奈子を重要参考人として連行しようとしていることから――。

 あ、なんとなくわかりました。

 

「姐御……ご愁傷様」

「し、志弦が早くも見捨てる眼差しに!? 幻想郷の生活に慣れてきてるみたいで私は嬉しいよチクショウ!」

 

 あらゆるものを受け入れる幻想郷で大切なのは、あらゆるものを受け入れる広く深い心なのです。

 的外れではあるまい。恐らくは神奈子の進めていた計画が知らず識らずのうちに狂ってしまっていて、地底でなにか事件が起こったのだ。例えば、神奈子が新エネルギーの供給元として活用しようとしていた『なにか』が暴走し、地底に大きな被害を与えたとか。それで地底世界の代表である藤千代が、責任を持って神奈子を連行するため自ら出陣した。たっぷりと雪が降り積もった冬真っ盛りの日に、地底から遥々山登りしてくる理由となればそれくらいしかないはずだ。我ながら名推理な気がする。

 諏訪子が、テーブルの上に伸びたままからからと笑う。

 

「あっははは、だから言ったでしょ神奈子ぉ。もしものことがあっても私知らないよって」

「なに言ってるんですか、諏訪子さんも連行ですよ」

「嘘でしょお!?」

「ガッ」

 

 跳ね起きた諏訪子の脳天に顎をカチ上げられ、志弦は後ろに引っくり返った。

 

「ああっ、ごめん志弦……大丈夫っ?」

「ふ、ふふふ、だいじょーぶだよぜんぜん」

 

 志弦は震える親指をまっすぐに立てて、精一杯の笑顔を返した。なにも問題はない。痛みの代償として志弦は今、幼女に馬乗りで心配されるという大変貴重な経験をしているのだから。お腹のあたりに感じるこの確かな重みとほのかな柔らかさは、そのテの連中を一発で仏に変える驚異の殺戮兵器であろう。

 

「……と、ともかくちょっと待ってよなんで私まで!? 私、無関係だよ! あれこれやってたのはぜんぶ神奈子だよっ!」

 

 藤千代は表情を微動だにもさせない。ただ首を少し横に傾けて、

 

「でも、神奈子さんがやってること、ぜんぶ知ってたんですよね?」

「そ、それは、そうだけど」

「知った上で止めなかったのなら――それはもう、賛同していたのと同じですよね?」

「……あ、あの、」

「そうだよ諏訪子のやつ『へーいいじゃん面白そうだし』って言ってたもん!!」

「ちょっと神奈子おおおおおおおおおお!?」

「はーい連行でーっす!」

「神奈子のバカああああああああっ!?」

「私一人だけ連れ去られて堪るかああああああああっ!!」

 

 神奈子を引きずり諏訪子を志弦の上から引きずり下ろし、藤千代はまるで、仲のいい友達を連れて遊びに行くかのようだった。

 

「それでは、ちょっと二人をお借りしますねっ」

「あはは……ほどほどにしてあげてくださいねー」

 

 早苗はこたつでぬくぬくしながら苦笑いを浮かべるだけで、引き留める素振りはまったくない。『幻想郷では常識に囚われてはいけない』。外来人として一年ばかり先輩である早苗が、かつて志弦に贈った至言である。

 

「心配しないでください、ちゃんと生かして帰しますからっ」

「「そんなの当たり前だよ!?」」

「知ってますか? 旧都って……元々地獄だった場所なんですよね」

「「知ってるけどなんでそれを今言うの!?」」

「ではでは、れっつごーっ!」

「「いやああああああああああ!?」」

 

 あっという間だった。藤千代は少女二人を軽々引きずって外に飛び出し、スキップをするように白い空の向こうへ飛んでいってしまった。フェードアウトで遠ざかっていく神二柱の悲鳴が、冬の木枯らしと一緒に寒々と山に響き渡っていった。

 それが完全に聞こえなくなってから、志弦はむくりと起き上がって、じんじんと痛む顎をさすった。

 

「顎、大丈夫?」

「ん。いやーしかし、あいかわらず藤千代が来るとあれだね。なんかすごいね」

 

 八雲紫とはまた別のベクトルで、嵐みたいな少女だと思う。

 早苗はまったりと頬杖で頷いて、

 

「今日のお夕飯、私と志弦の二人分でいいかもねー」

「あ、やっぱそういう流れだったの?」

「まあ藤千代さんだから、本当にひどいことはしないはずだよ。ただ……」

 

 そこで早苗は遠い目つきになり、ふっと静かな吐息を以て、

 

「トラウマのひとつやふたつくらいは、抱えて戻ってくると思うけど……」

「……そっかー」

 

 それって充分『ひどいこと』な気もするけど――と感じてしまうのはきっと、志弦がまだ幻想郷に馴染みきれていないからなのだろう。私もまだまだ修行が足りないなあ、と思う。

 お腹が鳴った。

 

「……それじゃあ、そろそろお昼にしよっかぁ」

「ういーっす」

 

 諏訪子に顎をカチ上げられた痛みのお陰で、こたつの呪縛から解き放たれていた。また神経を骨抜きにされてしまわないうちに抜け出し、志弦は早苗と一緒に昼食の支度へ向かう。

 ちょっとは心配してよバカああああああああああ!! と。

 そんな神様の悲鳴が、遠い冬の空の彼方で木霊したような気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――みーなさーん! 連れてきましたよーっ!」

「「あばばばばばばばばばば」」

 

 藤千代が稲妻みたいな勢いで帰ってきた。エントランスの扉をブチ抜く音、地霊殿の廊下を駆け抜ける音、両足でブレーキを掛ける音の三段階を華麗に踏んで、月見の部屋の手前で彼女はぴたりと立ち止まった。馬手で神奈子、弓手で諏訪子を引きずっている。兎さながら跳躍し一息で月見の傍までやってきて、着地のさなか床に叩きつけられた二柱の神が、ゴフッと哀れな悲鳴をあげる。そんな彼女たちを、月見は緩いため息ひとつで歓迎する。

 地霊殿の、月見に貸し与えられた空き部屋である。ベッドに腰掛ける月見の他に、面子はさとり、こいし、お燐、おくう、更には映姫までが集まっている。みんな揃って藤千代の帰りを待っていたのだ。

 なぜか。こいしが早速、びくんびくんと痙攣している神奈子を指差して言った。

 

「あ、そうそう! この神様だよ!」

 

 異変が終わり、地底はすっかり冬の気候に戻っていた。窓から望む旧都の町並みは、薄暗い中でもはっきりとわかる純白の雪化粧で染まっている。部屋の窓を開ければ、もしくは地霊殿を一歩外に出れば、厳しい真冬の冷気が肌を刺すだろう。着流し一枚の雑な恰好でも月見が快適な生活を送れているのは、元の落ち着きを取り戻した灼熱地獄跡が、床暖房の役目を果たしてくれているからだ。

 なにもかもが元通りとは、さすがに行かないけれど。

 おくうは再び家族の輪の中へと帰り、こいしと『博麗』の因縁もひとまずの決着を見た。辛い異変だったけれど、だからこそその過去を乗り越えて、地霊殿は新しい日常へと歩み出してゆくだろう。

 たったひとつ、残されたままになっていた最後の問題を除いては。

 その解答を、こいしが口にした。

 

「この神様が、いきなり私に声を掛けてきて……神様の力に興味はないかって!」

 

 そもそもの話、すべての根本的なきっかけ――おくうに八咫烏の力を与えたのが、一体誰だったのか。異変が無事に終わった安堵からか、月見もすっかり忘れてしまっていたのだが、少し前にふと思い出してこいしに尋ねてみたところ、一発で犯人がわかったのだ。

 

 ――えっとね、私も名前は聞いてなかったんだけど……背中におっきな注連縄を背負ってたよ!

 

 そりゃあ、もちろん。というか打ち明けた話、あいつなんじゃないかと月見は薄々感づいていた。

 そんなわけで今、月見の目の前で、おっきな注連縄を背負った神様こと八坂神奈子がびくんびくんと痙攣しているのだった。

 

「おくうは覚えてる?」

 

 こいしに問われたおくうは膝を折り、ぐるぐるおめめな神奈子をじーっと観察した。首をひねり、ほどなくして頷き、

 

「ぼんやりとですけど……確かに、こんな感じの注連縄だったような?」

 

 幻想郷の中でもとりわけ個性的な恰好をしているせいで、神奈子は注連縄でしか他人から識別されていないフシがある。かく言う月見も、頭の中では『神奈子=注連縄』の図式が成立している。だからこそ、こいしの話を聞いて一発で犯人がわかったわけで。

 神奈子は間違いなく黒。では、その横でばたんきゅーな諏訪子はどうだろうか。

 

「こっちの小さい方の神様は知ってるか?」

「んーん、こっちは知らないよ。へー、こういう神様もいるんだー」

 

 こいしが諏訪子の横腹を面白そうに指でつついた。おくうもふるふると首を振っている。二人が諏訪子を知らないのなら、おくうに力を与えたのは神奈子一人の仕業と見るのが妥当だろうか。

 だが、同じ守矢神社で生活していて神奈子の動向を知らなかったはずはあるまい。藤千代も、そう考えたからこそ諏訪子まで漏れなく引きずってきたのだろう。

 諏訪子が起きた。

 

「――はっ!? あれっここどこ!?」

「やあ、諏訪子」

 

 目を白黒させ困惑したのなどほんの一瞬で、彼女は月見に気づくなり太陽の笑顔で、

 

「あっ月見だー! わーい尻尾モフらせグエ」

「ふふふ。諏訪子さんったら、はしゃいじゃダメですよぉ」

 

 藤千代にホールドされた。お腹をミシミシと圧迫する不吉な圧力に、諏訪子はいま自分が置かれている状況を思い出したようだった。顔面蒼白で慌てふためき、

 

「ち、ちちちっ違うんだよ私なにもしてないっ! 確かに神奈子がなにやってるかは知ってたけどそれだけで、ってかそういえばなんで月見がここにいるの!? ぎゃー閻魔様までいるうううううッ!?」

 

 諏訪子の大声で神奈子も起きた。

 

「う~ん……あれ、ここは――ひいいいっ!? 閻魔様あッ!?」

 

 仰け反る二人に映姫は目を眇め、

 

「あなたたち、揃いも揃って人の顔を見るなり悲鳴をあげるとは……失礼極まりますね」

「「ごめんなさいっ!?」」

「まったく……。ですが、まあいいです。今は、それよりも重要な話がありますからね」

 

 咳払いひとつで声の調子を整える。閻魔が故の職業病ともいうべきか、彼女は早くもこの場を執り仕切るつもりらしい。

 

「さて、八坂神奈子、洩矢諏訪子。なぜこの場に連れて来られたか、言われずともわかっていますね?」

「「……、」」

 

 閻魔様の途方もないプレッシャーに、神奈子も諏訪子も為す術なくその場に正座した。二人とも、早くも泣きそうだった。「藤千代だけならまだしも、閻魔様までなんて反則だよおおお……!?」と、彼女たちの表情は震える唇の代わりに甲高く悲鳴をあげていた。

 

「このたび、あなた方が霊烏路空に与えた八咫烏の」

「はい! やったのは神奈子で、私は無関係ですっ!」

「ちょっと諏訪子おおおおお!?」

 

 諏訪子がいきなり保身に走ったが、映姫はまったく取り合わない。

 

「黙りなさい。あなたも八坂神奈子の計画を知った上で、反対しなかったのでしょう。それは賛同と同じです。つまり同罪です」

 

 諏訪子が涙目で閉口し、神奈子は小さくガッツポーズをした。そのやりとりを見て、月見は神奈子と諏訪子のそれぞれの立ち位置を、おぼろげながら理解した。

 こいしの話によれば、おくうに八咫烏の力が与えられたのは、灼熱地獄の熱をエネルギー源として『サンギョウカクメイ』を起こすためだったという。今の灼熱地獄はかつての役目を終えており、精々が地霊殿の床暖房としてひっそりと役立つ程度でしかない。だから手始めに八咫烏の力で、灼熱地獄を本来の猛々しい姿に戻してほしいという話だったわけだ。

 そして、その計画を主導になって進めていたのは神奈子だ。諏訪子は恐らく、守矢神社から動かず机上で計画をサポートしたか、一人であれこれ暗躍する神奈子を傍観しているだけだった。だから諏訪子は己の潔白を切実に訴え、神奈子は死なば諸共で道連れにしようとしているのだろう。

 映姫は話を続ける。

 

「その八咫烏の力が、今回暴走し、地底に大きな被害をもたらしました。地上にもある程度の影響が及び、博麗の巫女がこれを異変と認め、解決に動くほどでした」

「私もその流れで地底に来て、まあいろいろあって今も戻ってないんだよ」

 

 神奈子と諏訪子が同時に目を剥いた。お燐によって送り込まれた妖精たちは妖怪の山を中心に騒ぎを起こしたが、守矢神社はその頂上付近に位置しており、ある意味で下界から切り離された秘境ともいえる場所。二人ともまったく気づいていなかったか、「今日も麓の方が賑やかだなあ」程度にしか考えていなかったのだろう。

 

「つきましてはあなた方から、詳しく話を聞かなければなりません」

「およそのところはこの子から聞いたけどね。灼熱地獄のエネルギーを使って、幻想郷の技術に革命を起こすつもりだったんだって?」

 

 神奈子がカクカクと素早く頷く。

 

「そっそそそ、そうなんだよ。所謂自然エネルギーの有効活用ってやつで、決して悪いことを考えてたわけじゃなくてねっ?」

「ですが、結果としては異変の引鉄となり、大きな被害をもたらしました」

「……ぐ、具体的にはどれくらい?」

 

 諏訪子の質問には、藤千代が答える。

 

「地底の大地が、かなり大規模に崩壊しちゃいましてー。幸い旧都からは離れていたので、私たちの生活に支障は出ていませんが……あ、あとで直してくださいね」

「直ッ……!? ちょっと待って、どんくらい崩壊しちゃったっての!?」

 

 藤千代が両腕をいっぱいに広げ、体ぜんぶを使って大きな円を描いた。それから頬が引きつる諏訪子に笑顔で、

 

「でも、諏訪子さんの能力ならお茶の子サイサイですよね?」

「た、確かに大地を創るのは得意だけどっ……信仰使うから疲労が……それになんで私だけなのさ神奈子もやってよ! むしろ神奈子がやってよ!?」

「無理だよ!? 私、大地創造は専門外だって!」

「神奈子だって由緒正しい神の一柱でしょ! 大地創造くらいちょっとでもできないと恥ずかしいよ!?」

「うるさいですよ。誰が無駄口を叩いていいと言いましたか」

 

 諏訪子は泣く泣く黙った。神奈子はほっと胸を撫で下ろし、

 

「安心なさい。あなた方二人の罪については、私がきっちり裁いてあげますから」

 

 ひっく。

 

「……それに、被害があったのはここの土地ばかりではありません」

 

 映姫はつと月見を一瞥し、

 

「……この狐も、少なからず、傷を負いました。順調に快方へ向かっていますから、心配は要りませんが」

「えっ――月見、怪我したの!?」

 

 神奈子が腰を浮かせた。今の月見は、治りの早かった顔や手足についてはすでに包帯を外していて、着流しである以外は至っていつも通りの恰好に見える。しかし傷の深かった背中にはまだぴっしりと包帯が巻かれているし、尻尾も治りきっていないため妖術で隠したままだ。

 一拍遅れて、諏訪子も膝立ちになって叫んだ。

 

「待って! そういえば月見、尻尾どこ行ったの!? ……まさかっ!?」

 

 月見はとりあえず、尻尾を一本だけ二人の前に出した。半分ほどが元の銀の毛並みを取り戻し、しかしまだ半分が黒く焼けたままとなっている中途半端な尻尾を見て、諏訪子の顔つきから一切の感情が消失した。

 ――ところで諏訪子はあの(・・)早苗以上に月見の尻尾が大好きであり、その度が過ぎた程度たるや、「尻尾がない月見は月見じゃない!」などと大声で宣うほどである。

 諏訪子の小さい体から突如暗黒のオーラが噴き出し、さとりとこいしが「ひっ」と小さく悲鳴をあげて後ずさった。お燐とおくうが、獣の動きで部屋の隅っこまで逃げた。

 たとえこの中で一、二を争うほど幼い見た目をしていても、洩矢諏訪子はかつて土着神の頂点を極めた神の中の神である。ぐゥるり――と、幽鬼、もしくは怨霊が如く神奈子へ振り向いて、月見も未だかつて聞いたことがないドス黒い声音で、

 

「神奈子ォ――第二次諏訪大戦、しようか……」

「まままっ待って待って落ち着いて!? 荒御魂出てる、荒御魂出てるって!?」

「祟り神を統べる私の恨みを買うってこと……思い知らせてあげるよ」

「ひいいい!?」

 

 暗黒のオーラが蛇のようにうねってあたりへ散らばる。洩矢諏訪子が何百、或いは何千年か振りに見せた祟り神としての姿は、映姫ですらわずかに気圧され、咄嗟に口を挟めなくなるほどだった。

 しかし荒ぶる諏訪子の怒りを鎮める方法は、八咫烏とは違って実に簡単だ。

 

「諏訪子。尻尾はもう数日もあれば治るし、治ったら思う存分触っていいから。だから落ち着」

「ほんとに!? わかった落ち着くっ」

 

 月見が言い終えるよりも先に諏訪子はコロッと笑顔になり、暗黒のオーラは露と消え去った。

 空気が一気に弛緩した。

 

「「「…………」」」

「あれ? なんだろこの空気」

「……なんでもないさ」

 

 洩矢諏訪子の御魂を慰める最高の供物は、獣のモフ尻尾なのである。

 軌道修正。

 

「それはそうと、あんまり神奈子ばかりを責めないでやってくれ。今回の異変については、私たちの方にも少なからず原因はあるからね」

 

 そもそもの問として、『神奈子が妙な計画を企てたりしなければ異変は起こらなかったか』といえば、まあその通りではあるのだろう。しかしながら、『では異変が起こったのは神奈子が妙な計画を企てたせいか』と問われれば、それは少しばかり違うと月見は思うのだ。

 なぜなら神奈子は、決して充分とはいえないまでも、八咫烏の力が暴走しないように一定の配慮を見せていたのだから。おくうが、正直に話してくれた。自分には本来、力をセーブするための『制御棒』なる道具が与えられていて、能力を使う際は必ず身につけるよう厳命されていた。しかし霊夢や魔理沙と戦う中で自分は、暴走の危険を承知の上で、自らそれを捨ててしまったのだと。

 たとえその理由が、『こいしを守るため』という已むを得ないものだったとしても。わかった上でやったのなら、責任が問われるべきは約束を破ったおくうの方であり、神奈子ではない。

 更に言えば、制御棒とやらを捨てて間もない時点で、おくうはまだ暴走してはいなかった。ギリギリの一歩手前で耐え忍んでいたのだ。そこから彼女を暴走まで追いやってしまったのは、他でもない自分たちだったのだと月見は思う。

 

「……あ、あのっ」

 

 恐らくは、今までずっとタイミングを見計らっていたはずだ。

 さとりが、神奈子に向けて深く頭を下げていた。

 

「本当に、申し訳ありませんでした……! 月見さんの言う通りで、その……暴走してしまった原因は、私たちにもありまして……!」

「……えーっと、」

 

 いきなりの謝罪に面食らいつつ、神奈子がさとりとこいしを見比べる。こいしを指差し、

 

「……こっちのお姉さんかなんか?」

「はい。古明地さとりといいます……ほら、こいしも謝ってっ」

「う……」

 

 さとりに問答無用で前に出され、こいしは今にも消えてなくなりそうなほど小さくなって、

 

「ご、ごめんなさい……私、神様の力を……その、勝手なことに、使おうとしちゃって。それで……」

 

 見た目が非常に幼いこいしから、よくわからぬまま一方的に謝られて、反って神奈子の方がバツが悪そうにしていた。

 

「いや……別にちょっと好きに使うくらい、よかったんだけど……」

 

 首を振り、

 

「それよりも、なんで暴走なんかしちゃったのさ? まさか、制御棒を外したりしたわけじゃないでしょ? 外しちゃダメだって、ちゃんと言ったもんね、私」

 

 部屋の隅っこで、おくうがびくりと体を震わせた。

 神奈子が気づいた。

 

「……ねえ。いや、まさかね? まさかとは思うんだけど……」

「う、ううっ……」

 

 おくうが、お燐の腕を掴んでその後ろに隠れようとする。しかしさとりに「ちゃんとしなさい」と鋭い目線を刺され、進退窮まったおくうは意を決して、

 

「ご、ごめんなさいっ……実は制御棒、捨てちゃ」

「なあああああんで捨てたのおおおおおおおおおお!?」

「「ごごごっごめんなさいごめんなさいごめんなさい!?」」

 

 神速で詰め寄っていった神奈子の剣幕に、おくうとお燐が揃って腰を抜かした。

 

「捨てた!? 本気で言ってるの!? なんでどーして!? そりゃあ暴走するよ、制御できなくなるよ!! どこに捨てたのッ!?」

「あ、あの……しゃ、灼熱地獄」

「なああああああああんでえええええええええええええええ!?」

「「ごめんなさいいいいいいいいいいい!?」」

 

 ああ、今度は神奈子の荒御魂が。

 血の涙を流して荒ぶる神奈子の鬼神が如き形相に、おくうとお燐はお互いひしっと抱き合って、涙目でガタガタ震えていた。ぶっちゃけお燐はとばっちりだと思う。

 

「神奈子、落ち着いて。そういうわけだから、お前ばかりが悪いわけじゃないって、私はちゃんとわかってるよ」

「つ゛、つ゛ぐみ゛ぃ……!!」

 

 神奈子が感極まって瞳を潤ませる。そう、月見はちゃんとわかっている。おくうをずっと苦しめ続けていた月見に、神奈子を悪し様に言う権利などありはしない。

 神奈子だけが悪いわけではない。

 つまりは――神奈子も、ある程度は悪い。よって月見は笑顔で、

 

「――まあ、千代にすら黙っていろいろ勝手なことやってた点については、フォローしないけどね」

「はう!?」

 

 神奈子が胸を押さえてよろめき、

 

「それに、暴走を危惧して制御棒なる道具を与えておきながらも、その後監視もつけず、霊烏路空らを実質野放しにしていたのは浅慮と言わざるを得ません」

「ふぐうっ」

 

 映姫の追撃で崩れ落ち、

 

「――というわけで、別室でもうちょっとお話しましょうね?」

「……………………ひっく、」

 

 藤千代にガシリと肩を掴まれ、チェックメイトであった。

 同じ神社で祀られる仲間を見向きもせず見捨てて、諏訪子が抜き足差し足忍び足の逃走を開始している。

 

「……じゃ、じゃあ私、とっても忙しいから先に帰るね。お疲れ様でし」

 

 映姫に襟首を掴まれた。

 

「いやだあああああっ放してええええええええええ」

「ふふ、そんなに急ぐことはありません。あなた方には、たっぷりとお話したいことがありますからね」

 

 映姫も藤千代も、身の毛もよだつ魅力あふれる大変ステキな笑顔だった。たぶん子どもが見たら泣くな、と月見は思う。実際神奈子と諏訪子は泣いていたし、おくうとお燐は抱き合ったまま真っ青に震え上がっていた。

 

「ではではさとりさん、ちょっと空き部屋をお借りしますね!」

「……はい。どうぞ」

 

 さとりはもう、真顔でそれしか言えない。

 映姫と藤千代に引きずられ、必死の抵抗空しく部屋から消えていった神々の姿は。

 とにかくただ一言――哀れ、としか、言い様がなかった気がする。

 

「「「…………」」」

 

 なにも言えないでいる少女たちを尻目に、月見は窓から空を見上げ、太陽があるわけでもないのに眩しく目を細めて呟いた。

 

「いやあ……改めて、平和な日常が戻ってきたって感じがするね」

「待ってください、今の光景を見てその感想なんですか!?」

 

 さとりが驚愕している。地上を離れ長年地底暮らしをしている彼女なら、無理もない反応かもしれないけれど。

 

「慣れたもんだよ。地上じゃあ、あれくらいはぜんぜん珍しくないしね」

 

 なんてったって、天狗の長である天魔が常日頃から部下(もみじ)に引きずられていく世界なのである。少女一人二人が涙目で連行されていく光景如きに動揺していては、地上に安息の地など存在しないのだ。

 お燐にこの世ならざるモノを見る目をされた。

 

「おにーさん、地上で一体どんな生活してるの……?」

「普通の生活だとも」

「普通……? 今のが、普通……?」

 

 「普通って……なに……?」と価値観が崩壊していく少女たちに、月見は是非ともこの言葉を贈りたい。

 ――幻想郷じゃあ、細かいことをいちいち気にしちゃいけません。

 月見も幻想郷に戻ってきてからの約半年で、それを心底学んだのだ。

 

「「――たすけてええええええええええっ!!」」

 

 幻想郷は、本日も平和の一言である。

 平和ったら、平和なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第110話 「けだものぶっとばすがーるず」

 

 

 

 

 

 月見が地霊殿で怪我の療養を始めて、三日が経った。

 月見があちこちを勝手に徘徊――本人は散歩だとかたくなに言い張っている――して回ったり、守矢の神々が映姫と藤千代の最恐コンビに油を搾られたりしてバタバタしていた日常も、四日目にもなればもうすっかり落ち着いていた。地霊殿の住人たちは異変が起こる以前の生活へと戻り、各々の仕事を全うしたり、思う存分趣味を満喫したり、なにもせずのんびり羽を伸ばしたりして平和な日々を謳歌している。

 そして今まで通りの日常に戻ったからこそ、地霊殿一地霊殿に詳しいと自負する古明地さとりの目には、異変の前と後で生まれた変化が鮮明に映し出されていた。

 気のせいではない。やっぱり、地霊殿は変わった。さとりがぼんやりと感じていた通り、それぞれにそれぞれの変化が生まれて、地霊殿の日常が鮮やかに彩られ始めていた。

 そんな一日を、地霊殿で過ごした時間なら誰にも負けない、ひきこもりなさとりの目線から見て行こうと思う。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まず、なによりも目に見えて変わった人物としてこいしを挙げるべきだろう。

 今までと違って、外をぶらぶらと放浪しなくなったのだから当然だ。少なくとも異変が終わってからは勝手にいなくなったりせず、地霊殿でお燐やおくうと一緒に遊んだり、怪我が治りきらない月見の手助けをして回ったりしていた。

 本人は、気づいているのだろうか。

 

「お姉ちゃーん」

「なに?」

 

 こうしてこいしの方から、さとりの部屋を訪ねて来ることも多くなった。ノックふたつで部屋に入ってきたこいしは、両手にさとりの本を持っていて、

 

「月見が、本読み終わったってー。新しいのちょうだい」

「え、もう? 昨日貸したばっかりよね?」

「そうだけど……読み終わっちゃったんだって」

 

 早いなあ、とさとりは思う。月見には、簡単な散歩を除いて外出の許可を一切出していない。本人はもう出歩く分には問題ないと言っているし、実際腕や脚の軽い火傷は完治しているが、ともかく一番大きな背中の傷と尻尾が治らぬうちは外出なんて絶対にダメなのだ。月見は、この地霊殿で、最後までしっかり傷を癒やさなければならないのだから。

 そういう次第なので、月見が地霊殿でやることといえば、こいしたちの遊び相手をするか、静かに本を読むかのどちらかくらいなものだった。一日も経たぬうちに本を一冊読み終えたとしても、そう驚いた話ではないのかもしれないけれど。

 

「……この調子じゃあ、私の本はすぐ読破されちゃうわね」

 

 冗談めかして笑う。本当に冗談のつもりであり、さとりの本棚が読破される日はきっと来ないだろう、と思う。月見が本をすべて制覇するのと彼の傷が完治するのとでは、どう考えても後者の方が早い。そして月見は怪我が治り次第、元の地上の生活へ帰っていくだろうから。

 こいしに次の本を手渡し――そのついでで、さとりは問うてみた。

 

「ねえ、こいし」

「んー?」

「あなた最近、前みたいに外へ出て行かなくなったようだけど……」

 

 こいしがくるりと目を丸くした。どうやら自覚はまったくなかったようで、

 

「え、そうかな? ……うーん、そうかも?」

 

 首を右に左に傾げている。

 

「そうよ。……変な意味じゃないのよ。こいしがウチにいてくれて、私は嬉しいもの。お燐やおくうもそう思ってるわ」

「そ、そう?」

 

 えへへ……とこいしはこそばゆそうにうなじを掻いて、

 

「ええと……最近は、心の中がすごく晴れやか……っていうのかな? 無意識になってるときは、ぼやーって靄がかかってるような感じになるんだけど、そういうのはぜんぜんなくて」

 

 やっぱりそうなのか、とさとりは思う。仮面にも似た笑顔を張りつけ、さとりの力を以てしても掴み様のなかったこいしの心に、芯とも呼ぶべき確立した感情が芽生えた予感はしていたのだ。恐らくは、この前の異変が関係しているのだろうとは思うが。

 けれどあいかわらずこいしの心は読めないままだし、彼女の第三の目は深くまぶたを下ろしている。

 

「能力は……今まで通り使えるの?」

「うん、使えると思うよ」

 

 こいしが、さとりの本棚をごそごそと物色している。

 

「たぶんねー、前みたいに能力が暴発? っていうのかな。そういうのがなくなったんだと思うっ」

 

 もしもこいしの言葉が本当なら、彼女の能力はまさしく、『無意識を操る程度の能力』になったのかもしれない。暴発などなく彼女の意のまま、無意識の世界へ自由自在に出入りを行う能力に。

 

「ずっと一緒だって、約束したもんね。だから、もう勝手に出て行ったりしないよ!」

「……そう」

 

 さとりは、思わず小さくほころんだ。今までとは見違えるばかりな妹の言葉が、ついつい心の琴線に触れたのだ。

 或いは異変を乗り越えたこいし自身の心の変化が、能力をよい方向へ導いたのかもしれない。存在の比率が精神に偏っている分だけ、さとりたち妖怪は心の状態に人間よりも大きく影響を受ける。月見の地上の知人にも、心の力で『狂気』に打ち勝ったという吸血鬼の少女がいたはずだ。

 

「あ、でも、月見が地上に帰っちゃったらどうかなー。またこっそり遊びに行っちゃうかも」

 

 打って変わってさとりは嘆息。この自由奔放すぎる妹は今までも何度か、能力を悪用して勝手に地上へ遊びに行っていた。月見の屋敷にお邪魔したのはもちろん、温泉まで堪能したというのは実に羨ま――いや、けしからん話だと思う。

 

「もう……こいし? 映姫さんにバレたらまたお説教されるわよ?」

「ぶーっ!」

 

 唇を尖らせたこいしは走り出し、扉の前でふっとさとりの方を振り返った。やけに神妙な顔つきで、さとりが手渡した本ともう一冊、薄いノートを両腕で抱えていて、

 

「……やっぱり能力、今まで通り使えるみたいだね」

「? どういう――って、」

 

 気づいた。おいちょっと待てあのノートってまさか

 

「――お姉ちゃんの小説、月見と一緒に読もーっと!」

「こいしいいいいいいいいいいっ!!」

 

 古明地さとりは、修羅となった。

 なるほど――思い返してみればなるほど、確かにこいしはさとりの本棚を物色していた。さとりは気づいていながらも、無意識のうちに見逃してしまっていたのだ。それこそが、こいしが今まで通りに能力を使えるこの上ない証明であろう。

 が。

 

「こおおおおおいしいいいいいいいいいいっ!!」

「あははははは♪」

 

 もちろん、楽しそうに逃げるこいしをさとりは全力疾走で追いかけた。これはさとりの持論だが、小説を書いているなんて趣味は、その道を本気で志している者だけが、志を本気で理解してくれる人だけに話すべきものだと思っている。(いたずら)に他言し、させていいようなものでは断じてない。

 あまつさえ作品を読まれるなんて、以ての外である。特に、月見に読まれるようなことだけは絶対にあってはならない。もしも彼に読まれてしまったら、たぶん、さとりは挫けてちょっと生きていけなくなってしまう。

 さて。さとりは、自他ともに認める筋金入りのひきこもりだ。異性の友人なんて、月見を除けばまさに皆無と言って差し支えない。今までは、本の中に登場する『男』だけが、さとりが日頃の生活で触れる異性の姿だった。

 しかしある日、さとりの前に月見が現れた。読心の能力をまるで恐れる素振りもなく、今や地霊殿の一員と呼んだって構わないほどかけがえのない存在となってしまった。それはすなわち、さとりにとって最も身近な異性になったということを意味している。

 であれば当然、参考(・・)にする。目に映る月見の姿から、『男』のなんたるかを読み解こうとする。

 今のさとりにとっては、月見こそが『男』という存在の一般項である。そしてこいしが持って行ったのは、ここ最近のさとりの作品を収めた一番新しいノートである。

 つまるところさとりは、

 最近自分が書いている小説の中で、

 月見をモデルにしたキャラクターを登場

 

「ふにゃあああああああああああああああっ!!」

「えっちょっと待ってお姉ちゃん怖むぎゅっ!?」

 

 半狂乱に陥ったさとりはひきこもりにあるまじき野獣の疾駆でこいしを捕らえ、脳天幹竹割りを叩き込んでノートを奪い返し、部屋に戻るなり鍵を掛けて用意周到に隠し場所を変更した。

 それから、ベッドで丸くなってちょっぴり泣いた。妹の存在を、無意識を操る能力を、今日ほど恐ろしいと感じたのは生まれてはじめてだった。これでは、気がついたときにはこいしにぜんぶバラさせているなんて可能性も大袈裟ではない。

 

「……ぐすっ」

 

 最近書いている作品は誰にも見せていないし、決して見られてはならない。

 ペットたちに頼んで、金庫でも買ってこさせようかと。朝っぱらから悶々と悩む、いろいろとフクザツな趣味の少女なのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 とはいえ、それでいじけて一日を終えるわけにも行かない。気を取り直したさとりはノートの隠し場所を再確認してから部屋を出て、月見のところまで足を運んでみた。ノックで許可をもらってから彼の部屋に入ると、そこではお燐とおくうが、持ち込んだ布団の上にトランプを広げて遊んでいた。

 裏返しで散らばっているところを見るに、神経衰弱でもしていたらしい。二人の真剣勝負を月見がベッドから見守り、更に隣ではこいしが、彼の腕にひっついてなんともご機嫌に座っていた。さとりに気づくなりぱっと顔を上げ、

 

「あ、お姉ちゃん。いいところに来たね!」

「……いいところ?」

「とにかく見てってよ!」

 

 こいしが元気に手招きをしてくる。さとりとしては先ほどの件について心ゆくまで話し合いがしたい気分なのだけれど、月見がいる前でそれはあまりに危険なので、とりあえず素直に招かれておく。

 よほど真剣な勝負をしているようで、お燐もおくうも手元のトランプを見下ろしたまま一心不乱の形相で黙り込んでいる。二十枚程度のトランプが裏返しで無造作に散らばっているから、やはり神経衰弱で間違いはなさそうだが。

 つい、小声ながら口に出してしまっていた。

 

「でもおくう、神経衰弱は……」

 

 大の苦手だったはずではなかったか。おくうは鳥頭で、細かいことを覚えるのがとにかく下手で、つまりはどの数字のカードがどこにあるかなんて覚えられるはずもなく、神経衰弱などもはや勝負にもならないのだ。というか神経衰弱に限らず、ババ抜きや七並べなどトランプを使うゲーム自体が苦手で、大富豪あたりまで行くとそもそもルールを覚えられないという有様だったはず。こいしとお燐にコテンパンにされ、涙目でさとりの部屋に飛び込んできたのは一体いつの話だっただろうか。

 月見が同じく小声で、

 

「私もはじめはそう思ったんだけどね。でも、結構面白いことになってるよ」

「……これっ!」

 

 そのとき、おくうが動いた。残り二十枚程度のカードの中で一枚だけ、『7』のカードが表になっている。これでもう一枚『7』を引き当てられればいいわけだが、まあおくうのことだし十中八九ハズレで

 

「……や、やった! こいし様っ、またやりました!」

「うにゃあああああまたやられたあああああっ!!」

「おくうすごーい!」

 

 ――なん……ですって……?

 おくうが、見事『7』のカードを引き当てていた。おくうが興奮気味に喜んで、お燐が布団をぼふぼふ叩いて悔しがっている。そこでさとりはふと気づく。おくうが取ったカードとお燐が取ったカードの山を見比べると、ほぼ互角――否、おくうの方がわずかだが多い。

 さとりは目の前の光景が信じられない。神経衰弱で、おくうがお燐に勝っている? あのおくうが? 自分が一回前に引いたカードの絵柄すら忘れてしまうようなおくうが? 単なる偶然という言葉で片付けるには、少しばかり出来過ぎてはいないか。

 しかも、これで終わりではなかった。その後おくうは更に三組のカードを連続で引き当て、お燐との差を一気に広げ始めてしまった。おくうは興奮でふんすふんすと鼻息が荒く、お燐はおくうに負けるかもしれない危機感でふぬぬと体を震わせていた。

 さとりは目を丸くするばかりである。

 

「……い、一体、これは?」

「おくうね、すごいんだよ! さっき、ババ抜きでもお燐に勝ったの!」

 

 もうなにがなんだかわからない。ババ抜きなら偶然勝つこともあるかもしれないが、神経衰弱を運ひとつで切り抜けるのはいくらなんでも無理だろう。これではまるで、おくうの頭が突然よくなったみたいではないか。

 

「もしかすると、私がおくうに降ろした神――宇迦之御魂神の影響かもしれないね」

 

 月見が言う。

 

「八咫烏を宿したおくうが、熱を操る力を得たように。これは、宇迦の力なのかもしれない」

「それで、おくうの頭がよくなったということですか?」

「頭がよくなった……とは、少し違うんじゃないかな。宇迦の力は、災いを福に転じる力だ」

 

 さとりはおぼろげに思い出す。宇迦之御魂神は五穀豊穣から家内安全、果ては病気平癒や芸能上達など、非常に幅広いご神徳を持つ神様だと。それはすなわち、他の神には類を見ないほど多くの災いから人々を守る、と言い換えることができる。

 

「簡単にいえば、神通力の類いだね。それを、おくうに少しだけ貸し与えてくれているのかもしれない」

 

 つまりおくうは、決して頭がよくなったわけではなく、

 

「どのカードを引けばいいのか、なんとなくわかっている……ということですか?」

「たぶんね」

 

 本人も無意識のうちに、自分にとって災いとなる――つまりはハズレのカードを直感的に察知している。だからこそ本来対等に闘えるはずのない神経衰弱で、おくうがお燐相手に接戦を繰り広げている。

 月見は、音もなく笑った。

 

「そこまでやってくれなんて頼んじゃいないから……もしかすると宇迦も、おくうのことが気に入ったのかもしれないね」

「勝ったあああああっ!!」

「負けたあああああっ!?」

 

 おくうが歓声を上げて万歳をし、お燐が悲鳴を上げて崩れ落ちた。神経衰弱勝負はまさかまさかの、中盤で差をつけたおくうの大勝利という結果に終わった。

 

「さとり様っ、こいし様! 勝ちました! なんかよくわからないけど勝ちましたあっ!」

 

 いつぞや涙目にされた雪辱を見事果たしたおくうは、それはもう満点の笑顔で大喜びだった。これほど諸手を挙げて喜ぶおくうもそうそう見られたものではない。興奮のあまり顔が赤くなっていて、翼はぴこぴこと忙しなく動いている。「よくわからないけど」と自分で言っているあたり、本当に直感だけで勝ってしまったらしい。

 

「見てたよー! おくうすごーい!」

「ありがとうございますっ」

 

 こいしがすぐさまおくうにジャンプし、お互いの両手を合わせてきゃいきゃいと喜びを分かち合う。そして負け犬ならぬ負け猫なお燐は、えぐえぐと鼻をすすりながらさとりに飛びついた。

 

「さ、さとり様あっ! おくうに負けたってことは、も、もしかしてこれ、あたいがペットの中で一番ばかってことですか!?」

「そ、そんなことないわよ。……たぶん」

「うにゃあああああ――――ん!!」

 

 もしもおくうが本当に神通力に目覚めてしまったのなら、地霊殿ペットにおける知力のヒエラルキーは激動の時代を迎えるのかもしれない。

 

「だ、だいたいなんで、おくうは突然こんなに強くなったの!? 前なんて、自分が一回前に引いたカードすら忘れてたのにっ!」

「それはねー」

 

 かくかくしかじか、こいしが先ほど月見から聞かされた説明を繰り返す。もちろん、真実を知ったお燐は尻尾を針みたいに逆立てた。

 

「ず、ズルい! つまりおくうには、どれを引けばいいかわかってたってこと!?」

「……うーん」

 

 おくうは疑問符とともに首を傾げ、

 

「どれを引けばというか……これは引かない方がいいかな? って、なんとなく……嫌な予感っていうか」

「うにゃーん!!」

「これが、月見の式神になったおくうの新しい力なのですっ」

「おにーさん! あたいもおにーさんの式神になりたいっ!」

 

 月見は苦笑、

 

「よしてくれ。おくうだけでいろいろと手一杯なんだ」

「むぅ……っ」

 

 適当なことを言って受け流したわけではなく、本当に無理なのだ。だって月見は、おくう一人を助けるためだけに、妖力の半分以上を対価として捧げているのだから。

 おくうが、なにかを確かめようとして胸に手を当てている。八咫烏の力が宇迦之御魂神によって鎮められ、胸元の赤い瞳も、無骨に変わっていた脚も、今やすべてが消えて元のおくうの姿に戻っている。見た目はごくごく普通の鴉の少女であり、その身に神を二柱も宿しているようには絶対に見えないし、さとりだって未だ半信半疑に思っている部分がある。けれどどうやらおくうだけは、そうすることで宇迦之御魂神の存在をはっきりと感じ取れるようだった。

 

「そっか……これが……」

「月見っ、おくうすごかったでしょ! 月見も褒めてあげてっ」

「はぇ!?」

 

 突然こいしに月見の前まで押し出されて、おくうはあっという間に平常心を失った。どうすればよいかわからずおろおろするおくうに、月見はやんわりと微笑んで、

 

「私も見ていたよ。すごいじゃないか、おくう」

「う、うにゅ……」

 

 ちなみに月見からの褒め言葉は、いろいろとフクザツな心理状態のおくうにとって、いろいろと効果抜群である。さとりが予想した通り、一歩後ずさったおくうはじわじわと赤くなって、込み上がってくる嬉しさと恥ずかしさをもじもじと耐え忍び、苦し紛れのようにぷいとそっぽを向くと、

 

「お、お前のために勝ったわけじゃ……ないもんっ……」

 

 当然ながら、さとりもこいしもお燐も、みんなにこにこした。

 口ではまだ素っ気ない態度を崩してはいないものの、このところのおくうは少しずつ、少しずつ月見に対して心を開き始めている。はじめは本当に飲み物を運ぶ程度だったが、今はなにかできることがないか自分から訊きに行ったり、なにもなくとも彼が散歩のときなどは後ろをついて行ったりしている。

 そういえば、とさとりはふと考える。月見の怪我は順調に快方へと向かっており、さとりたちがどんなにせがんだとしても、あと数日もすれば月見は地上へ帰っていくだろう。十二月ももう半ば過ぎ、地上で年越しの準備だってしなければならないはずだし。

 そのとき、おくうは一体どうするのだろう。

 打ち明けた話さとりは――月見の式神として地上についていくという選択肢も、あるのではないかと思っている。

 もちろんおくうは、さとりとこいしが地底へ下る原因となった地上の者たちを、今でも快く思っていない。行きたいと、自分から言い出すような真似は絶対にしないだろう。

 そして同時に、なんの未練もなくすんなりと月見を見送る真似だって、絶対にしない。おくうにとっての月見は、さとりとこいしに次ぐ三人目のご主人様なのだから。

 もしもおくうが、ほんの少しでも、彼とともに行きたいと願うなら。

 さすがに来年まで留守にされてしまうと困るが、年の瀬あたりまでなら、行かせてもいいかもなとさとりは思う。なにもおくうだけに限った話ではない。暗く寂れた地底で生まれ育ったペットたちは、太陽の眩しさも緑豊かな自然の美しさも本の中でしか知らない。みんなが一度は地上の世界を経験できたなら、それはどれほど素晴らしいことだろうか。

 今までの地霊殿は、さとりが閉じこもるための箱のようなものだった。月見や藤千代を除いては近づこうとする者もおらず、旧都の中にありながらも、旧都からはどちらからともなく切り離された空間だった。

 それもこれからは、変わっていくかもしれない。

 なぜなら今の地霊殿には、毎日誰かしら必ず、外からお客さんがやってくるのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「うわあああああ――――ん!! 月見ーっ疲れたよおおおおお!!」

「疲れたよおおおおおおおおっ!!」

「ごふっ」

 

 その代表が、洩矢諏訪子と八坂神奈子である。二人は月見の部屋に通されるなり砲弾みたいな勢いで突撃し、勢いそのままで彼をベッドに押し倒した。男相手に恥も外聞もなく全身で覆い被さり、子どもみたいに足をバタバタさせながら叫んだ。

 

「もうやだよおおおおお!! 神社でのんびり暮らしたいよおおおおおっ!!」

「こんなの無理だよおおおおお!! うわあああああ――――ん!!」

「……げっほげっほ」

 

 咳き込む月見が頑張って起き上がろうとする。しかし、諏訪子と神奈子がグイグイのしかかって泣いているせいで上手く行かない。いくらか試行錯誤したのち結局一度諦め、

 

「……諏訪子、神奈子。とりあえず離れてくれ、これじゃあ話も聞いてやれない」

「「……ぐすっ」」

 

 二人が鼻をすすりながら月見から離れる。月見はのそりと起き上がり、気を持ち直すように首の裏を掻いて、そこでどうすればいいかわからず突っ立っているさとりに気づいた。

 

「すまないねさとり、騒がしくして」

「あ、いえ……事情はわかってますから……」

 

 さとりは小さく手を振って返した。諏訪子と神奈子の二人とて、なんの理由もなく嫌がらせで騒いだりしているわけではない。神としての威厳を失いぴーぴー泣き喚いてしまうだけのれっきとした事情が、今の彼女たちには課せられているのだ。

 月見は諏訪子と神奈子に目を戻し、

 

「……それで? どうだい、仕事の方は」

「終わるわけないよあんなの!!」

「絶対無理だよおおおおおお!!」

 

 びえええ!! とまた泣き出す二人に、月見は重く深いため息をつき、さとりは曖昧に口端を歪めて笑った。

 なにが、『終わるわけない』のか。

 過日の異変で崩壊した大地の修復である。

 修復なのである。あの、どれだけの規模が崩壊してしまったのか目測も利かないくらいの。

 さとりだって十二分に承知している、過日の異変は諏訪子と神奈子ばかりが悪いわけではなかった、さとりたちや月見にも原因の一端はあったのだ――が、まあ細かいことはいいのでとりあえず直してくださいね? と藤千代と映姫の最恐コンビに言われてしまえば泣くしかない。以来この神らは毎日地上から地底にやってきて、朝から晩までさめざめと大地の修復に勤しんでいるわけなのである。

 ぶっちゃけ非常に同情している。

 そしてそんな神々唯一の癒やしが、ここで月見に苦労を慰めてもらうことなのだった。今回は二人とも完全に幼児退行しているので、ここに来ていろいろと限界がやってきたのかもしれない。神奈子に至ってはなんだか背が縮んでいるような気さえするし。

 

「泣くなって。外の世界でも人里でも、人間たちはそうやって朝から晩まで働きながら生きてるじゃないか。神様のお前たちがたった二日三日で根を上げてどうするんだい」

「ううっ……それはそうかもだけどぉ……っ!」

「でも、いくらなんでも無茶苦茶すぎるよぉ……!」

 

 神様の奇跡だって万能ではない。彼女らは中でもとりわけ強い力を持つ由緒正しい神様だというが、それでも難しいものは難しいのだ。さとりも、あれだけ大規模に崩壊してしまった大地が易々と修復される光景は逆立ちしたって想像できないわけで。

 諏訪子が涙ながらに訴える。

 

「ただでさえたくさん力を使わなきゃいけなくてキツいのに、神奈子がほとんど役に立たなくてっ……! 私一人でやってるようなもんだよ!」

「し、仕方ないでしょ!? 大地創造は専門外だって何度も言ってるじゃない! それでも、私なりに精一杯やってるんだからね!?」

 

 おくうを暴走させてしまった原因の一端として、諏訪子と神奈子の苦労については責任を感じないわけでもない。さとりはぎこちない愛想笑いを自覚しながら、

 

「え、えっと……とりあえず、休憩も兼ねてなにかお菓子でもいかがですか? お茶もありますから……」

「「さ、さとりっ……!」」

 

 二人から返ってくる視線は、地獄の中で仏を見たかのようだった。

 

「ううっ。さとり、あんた本当にいいやつだねっ……!」

「覚妖怪は性格悪いって言い伝わってるけど……やっぱり噂話なんて当てにならないね……!」

「あ、あははは……」

 

 感涙に咽ぶ二人の顔を、さとりはちょっと直視できなかった。

 ともかくお燐を呼ぼうと、さとりは逃げるように後ろを振り向いて、

 

「――さとり様っ!」

「きゃっ」

「うにゃっ」

 

 ドアが目の前で突然開いた。勢いよく飛び込んでこようとしたのはお燐で、まさか入っていきなりさとりがいるとは思わず仰け反って驚きつつも、

 

「さ、さとり様っ。よかった、ここにいたんですね」

 

 やけに慌てた風である。

 

「……ええと、なにかあったの?」

 

 問いかけた途端、お燐の心に浮かんだ記憶でさとりはすべてを察した。

 

「ああ、映姫さんが来たのね」

「「ひっ」」

 

 諏訪子と神奈子が、哀れなほど青い顔でびくりと縮こまった。

 地獄の閻魔様こと四季映姫も、最近になってよく地霊殿を訪ねてくるお客さんの一人だった。月見から聞いた話によれば、彼女は今までも仕事の合間を縫って、しばしば水月苑まで足を運んでは几帳面に月見の世話を焼いていたという。今は月見が地霊殿で生活しているので、必然、映姫が訪ねる先もここに変わったというわけだ。

 まあそのお陰で、諏訪子と神奈子のみならず地霊殿のペットまでもが、いつ降りかかるとも知れないお説教の恐怖に戦慄していたりするのだけれど。

 

「映姫さん……よっぽど月見さんのことが心配なんですね」

 

 冗談めかして言う。迂闊に失礼な真似さえしなければ、映姫は極めて常識的で話のしやすい少女だった。地霊殿までわざわざ足を運んでくるのも、ひとえに月見の経過を気遣ってのことだとさとりは知っているので、恐れるどころか意外と可愛げのある少女だと思ったりしている。

 月見も、それは重々承知していた。苦笑混じりに、

 

「何回大丈夫だって言っても、ぜんぜん納得してくれないんだから」

 

 やっぱり閻魔様は、説教好きなのが玉に瑕だけれど、それさえ目を瞑れば普通にいい人なのだ。

 とはいえ、説教されるようなやましさを抱えている者にとっては、純粋な恐怖の象徴であるのは変わりない。諏訪子が月見の袖に縋りついて、

 

「ど、どどどっどうしよう月見!? こんなところでサボってるんじゃないかって疑われたら、またお説教!?」

 

 神奈子も涙目でぷるぷるしている。月見はゆるやかな吐息を以て、

 

「ちゃんと訳を話せば大丈夫だよ。あいつもそこまで頭でっかちじゃないさ」

「そ、そうですよ。私からも説明しますから……」

「「月見っ……さとりっ……!」」

 

 ああ、二人からまた仏を見る眼差しが。

 やっぱり私は、人から極端な好意を向けられるのが苦手なんだなあと痛感しながら。

 

「お燐。私はお茶となにかお菓子を用意してくるから、映姫さんをここまで案内してあげて」

「わ、わかりました……」

「ほら、そんなにビクビクしないの。根は面倒見がよくていい人なのよ、映姫さんは」

「そ、それはあたいもわかってますけど……やっぱり、どうしても身構えちゃうというか……」

 

 スリッパをぺたぺたと鳴らして、さとりは小走りでお茶の支度に向かう。こんな具合で今の地霊殿では、突然の来客にばたばたするのも珍しい光景ではなくなった。映姫や諏訪子たち以外にも、藤千代や勇儀、果ては町で有名な居酒屋の看板娘まで。お遣い担当のペットたちによれば、さとりを恐れて地霊殿までは近づかないが、月見の心配をしている妖怪はなかなか多いらしい。鬼の古い知り合いという来歴、そして地底をあわやの危機から救ったという結果で、月見は旧都の妖怪たちからも認められ始めている。

 もしかすると地霊殿のみならず旧都も、これから少しずつ変わっていくのだろうか。

 

 ちなみに映姫だが、はじめは諏訪子と神奈子がいることを大層訝しんだものの、月見が丁寧に説明したところ「あなたがそこまで言うのなら……と、特別ですからねっ」と納得してくれた。

 やっぱり閻魔様は、よく見てみるとちょっぴりかわいい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「さとり様っ! あたい、勉強します!」

「はい?」

 

 閻魔様直々の監視の下、諏訪子と神奈子が泣く泣く仕事に戻ったあとの地霊殿で、お燐が突然そんなことを言った。

 いきなり部屋に飛び込んできて、何事かと思えば。

 さとりはお燐の心の声を聞き、すぐに納得した。お燐は、神経衰弱でおくうに負け、もしかしたらペットの中で一番ばかかもしれない疑惑に並々ならぬ危機感を抱いたのだ。

 さとりは基本的に、放任主義でのびのびとペットを育成している。お燐やおくうをはじめとする妖怪化したペットについては、最低限の一般常識と、地霊殿の仕事をする上で必要な規律程度の教育はするが、それだけ。お燐は生まれも育ちも灼熱地獄な元野生少女なので、当然、『学』と呼べるだけの素養は皆無に等しい。

 それで、勉強、らしい。

 

「そういうわけなので、なにか勉強できるやつを用意してもらいたくてっ」

「勉強できるやつって」

 

 さとりは少し思案して、

 

「……『さんすうドリル』とか?」

「はいっ」

 

 そんなんでいいんだ。

 なにか方向性がズレているように感じつつも、しかしまあ、いいかと思った。お燐がせっかくやる気になっているのだから、いろいろとやってみるといいのだ。さとりとしても、ペットが賢くなって困ることはいないのだし。

 

「……じゃあ、明日までになにか用意しておくわね」

「お願いします!」

 

 やるぞーっ! とお燐が元気いっぱいさとりの部屋を飛び出していく。ぱたぱた遠ざかっていく軽快な足音を聞きながら、さとりはそっと笑みの息をつく。

 勉強をしたいだなんてペットから言われたのは、はじめてだろうか。お燐もまた、今までの自分から一歩前へ進んで、新しい場所に手を伸ばそうとしているのだ。……伸ばす先が決定的にズレているような気がするのはさておいて。

 

「……」

 

 それにしても。

 無事に平和な日常が戻ってきて、こいしにもおくうにもお燐にも、大なり小なりなんらかの心の変化が生まれた。

 では、自分はどうだろう。

 

 さとりはあの異変を経て、なにかが変わったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 というわけで、さとりも新しいなにかに挑戦してみようと思った。

 具体的には――今までずっとペットに任せきりだった買い出しを、自分でやってみようと決意した。

 ちょうどお燐と、勉強道具の用意を約束したからというのもある。押し入れの奥で眠っていたバッグを何十年振りかに引っ張り出し、慣れない手つきで身嗜みを整えて、さとりは地霊殿のエントランスまでやってきていた。

 

「……」

 

 外に出るのは、異変のとき以来だ。とはいえあのときは、幸いにも旧都の妖怪とほとんどすれ違わなかったし、一瞬すれ違った相手もなにより驚きが勝って、それ以上なにかを考える余裕もない有様だった。

 けれど今回、『買い出し』という目的で外に出てしまえば、間違いなく多くの妖怪と顔を合わせることになるだろう。もはや驚かれるだけでは済まない。ひょっとすると、さとりが地霊殿にひきこもるきっかけとなったあのときと、また同じ思いをする羽目になってしまうかもしれない。

 足が、止まった。

 どうしてそんな真似をする必要があるのかと、脳裏から問うてくる自分がいた。外に出なければ、傷つかないで済むのに。『みんなが変わっているから』なんて熱に浮かされたような理由で軽々しく外を歩いて、もしもなにかがあったら、こいしたちだってまた嫌な思いをするだろうに。こいしがなぜ力を願ったのか。それはさとりが、旧都の妖怪たちに遠ざけられた過去があったからだ。

 

「…………」

 

 違う。違うのだ。

 旧都の妖怪が、さとりを遠ざけたのではない。

 遠ざけたのは、むしろ――

 

「――こーんにーちはーっ!」

「……!」

 

 さながらスキップを踏むような挨拶とともに、目の前のドアが高く軋む音をあげて開いた。こうも気さくで元気いっぱいなお客さんは一人しかいない。旧都で最も古いさとりの友人――藤千代は、一歩入ってすぐさとりと鉢合わせしたことに目を丸くした。

 

「おや、さとりさん?」

「あ……いえ、その、これは」

 

 さとりは慌ててバッグを背中に隠した。だが明らかに遅すぎたし、そもそも、大きめのバッグを持ってきたせいでさとりの背中では隠しきれていない。

 

「え? さとりさん、まさかお買い物……」

「あ、あの、」

 

 しかも、悪いタイミングというのは重なるものであるらしい。

 

「あれ、お姉ちゃん?」

「……!?」

 

 さとりが色を失って振り向くと、廊下の方からぴょこりとこいしが出てきたところだった。更に追い打ちを掛けるとするならば、こいしの位置からはちょうど背中に隠したバッグが丸見えであり、

 

「……どうしたのお姉ちゃん、バッグなんか持って」

「こ、これは、その……」

 

 胡乱な視線の挟み撃ちに、さとりは静かなパニックに陥った。いくらなんでもタイミングが悪すぎだった。ああ、どうせ悩むならエントランスではなく自分の部屋で悩むべきだったのだ。行くと決めたはずだったのに、いざ外へ出ようとすると足が止まってしまった意志薄弱な己を恨む。

 そうこう煩悶しているうちに、藤千代がさとりのバッグを指差しながら、

 

「なんだか、お買い物に行こうとしていたように見えましたけど……」

「え!? お姉ちゃん、それ本当なの!?」

「あ、あう……」

 

 白旗をあげる他ない。

 当然、こいしに血相を変えて怒られた。

 

「急になにしてるの!? 外に出てったら、また旧都のヤツらにひどいこと言われちゃうかもしれないんだよ!?」

「そ、その……私もちょっと、新しい自分を探してみようかなって……」

「なにそれ!」

 

 大変もっともなお言葉でございます。

 

「とにかくダメだよっ! 今まで通り、ペットたちにお願いすればいいじゃん!」

「そ、それはそうなんだけど……」

 

 ううっ、とさとりは答えに窮する。やっぱり、少し思いつきで行動しすぎただろうか。一度落ち着いてゆっくり考え直してみろと、遠回しに神様が警告してくれているのかもしれない。

 

「……さとりさん」

 

 一方で、藤千代の表情は静かだった。だがその凪いだ眼差しが反って嵐の前の静けさを彷彿とさせて、さとりの胸の奥から言い知れぬ不安がせり上がってくる。思わず呼吸を止めて身構えるさとりに、藤千代はやはり静かなまま、

 

「無理にとは言いません。……でも、もしも許されるのであれば、教えてほしいんです」

 

 その時点でさとりは、藤千代から投げ掛けられる問いを漠然とながら察したというべきかもしれない。

 

「旧都のみんなは。さとりさんに、どんな『ひどいこと』をしたんですか?」

 

 ――ああ、やっぱり。

 それはさとりが、藤千代はおろか、こいしたち家族にすら隠し続けてきたことだった。大丈夫、大したことじゃないのと強がって。話すべきことではないと思ったのだ。その結果としてこいしは、さとりが旧都の妖怪たちにひどくいじめられたのだと誤解し、やがては過日の異変へとつながっていった。

 もしもさとりが、正直にすべてを打ち明けていたならば。

 そう考えたのが一度や二度でないのは、素直に認めるけれど。

 

「――お姉ちゃん。私も、知りたい。お願い、教えて」

「ぅ……」

 

 こいしのまっすぐな眼差しを、さとりは受け止められない。知りたいと言われて「わかったわ」と教えられるなら、誰もはじめから隠し続けたりなどしない。決して、いじめられたわけではないのだ。むしろあれは、仕方のないことだったのかもしれないと思っている。人気のない地上の山奥を離れ、地底へ下り、旧都という町の中で暮らし始めれば、遅かれ早かれ直面する運命にあった必然だったのかもしれない。

 

「お姉ちゃん」

 

 こいしが、さとりの袖を強く握った。打ち明けてもらえない辛さを、耐え忍ぶ表情で、

 

「もう、そういうの、やめようよ」

 

 きっと――きっと、甦るあの異変の記憶に、脳裏を襲われながら、

 

「話してくれなきゃ。私たち、支えられない。なにも、してあげられないよ……」

「……」

「仕返しとか、そんなの、しないから。だから……」

 

 あの異変は、或いは必要なことだったのかもしれないと考えてしまうときがある。さとりが、こいしが、おくうが、乗り越えなければならないものを乗り越えるための、試練だったのではないかと。

 こいしは、乗り越えた。

 今だって、乗り越えようとしている。

 そしてさとりだけが、逃げ続けている。一人で抱え込まず、打ち明けるということ。その大切さは、さとりだってあの異変で痛感したはずなのに。偉そうな口で、おくうを張り飛ばして、叱りつけたのに。

 

「……」

 

 もしかすると。

 自分も、前に進みたいと。そう願ってさとりがすべきなのは、恐怖を克服して強引にでも外を歩くことではなく。

 勇気を振り絞って、まずは、話すことなのではないか――。

 

「……そうね」

 

 目の前が、豁然(かつぜん)と開けていくような心地だった。

 

「……そうよね。もう、やめなきゃダメよね。こういうのは」

 

 みんな一緒だと。一緒に、乗り越えていくのだと。そう信じようとしていたのは、他でもない自分ではなかったか。

 妹に諭されてようやく気がつくなんて、姉の面目も形無しだ。さとりは静かな吐息とともに心を解し、こいしと藤千代を順番に見遣った。

 

「……お話しします。なにがあったのか、すべて」

「さとりさん……」

「ですが、ひとつだけ。条件、というか、お願いしたいことがあるんです」

 

 この期に及んで女々しいと言われるかもしれない。けれどさとりは、さとりであるが故に、これだけはどんなに頑張っても譲ることができないのだ。

 

「月見さんにだけは、内緒にしていてください。絶対に」

「……どうして?」

「……ど、どうしても」

 

 こいしの疑問はもっともであり、藤千代も口にはしないまでも、眉をひそめて訝しんでいる。

 

「話せばわかる、と思います。だから、お願いします」

 

 月見を仲間はずれにするわけではない。ただ、もしもこの話が月見の耳まで伝われば最悪、彼との関係が根底から破壊されてしまうかもしれないとさとりは恐れている。

 月見なら大丈夫だと、信じたいところなのだけれど――でも、月見だって、男なわけだし(・・・・・・)

 冗談や悪ふざけではないと伝わったのか、こいしも藤千代も半ば流されるように頷いた。お願いしますね、とさとりはもう一度だけ念押しをして。

 

「じゃ、じゃあ……ちょっと、こっちの隅の方で」

「……お姉ちゃん、別にそこまでしなくても」

「い、いいからっ」

 

 実は月見が近くにいて聞かれていた、なんて可能性も否定できない。憂いの芽は徹底的に摘み取るのだ。

 こいしと藤千代をエントランスの隅に集め、三人揃ってこそこそと丸くなって、

 

「……ちょ、ちょっと、誰もいないか確認してくるわね」

「……お姉ちゃーん?」

「い、いいからぁっ」

 

 それでもどうしても不安が拭いきれず、さとりは廊下の方まで走って行って、本当に誰もいないことをじっくり確認してからようやく、

 

「……ふう。そ、それでは……」

「「……」」

 

 こいしも藤千代もだいぶ怪訝な顔をしている。辛い記憶なのはわかっているけれど、そんなに月見に知られたくないのか――そう考えているに違いなかった。

 腹を括るしかない。

 

「じ、実は――」

 

 ぽそぽそぽそ、と。

 今度こそ三人で丸くなり、細心の注意を払った小声でさとりは真実を語って、そして、

 

「……ふふっ」

 

 藤千代が、微笑んだ。

 見る者の背筋も凍る、オソロシイ笑顔だった。

 

「なるほど、なーるほどー。そういうことだったんですねー」

「……あ、あの、」

「――ぶっ飛ばしますか。久し振りに」

 

 うわああああああああ。

 顔で笑い、しかし声で一切笑わぬ鬼子母神の手を、こいしがひしっと握り締めて言った。

 

「鬼子母神様、私の分もお願いしますっ」

「まっかせてください!」

「こいし!?」

 

 こいしはふっと儚く吐息し、

 

「あのね、お姉ちゃん。私は仕返しなんてしないって言ったけど……」

 

 そして、藤千代がやる気満々で腕まくりをしながら、

 

「私もしないとは、一言も言ってないですよねっ」

 

 ああ。

 嗚呼。

 なんだろう。さとりの胸に去来するこの、天地すべてが空白に覆われた世界でぽつんと佇むような虚無の感情は。

 

「それに、これは仕返しじゃないですよ」

 

 藤千代がぶんぶんと腕を振り回す。かわいらしい小さな掌を何度か握って、開いて、最後にかすかな妖気とともに鉄拳へ変え、

 

「――制裁です。安心してください、根絶やしにしてきますから」

「ひ、ひええ……」

 

 助けてもらう立場であるはずのさとりが震え上がるとは、これ如何に。

 

「それでは、行ってきますねっ」

「いってらっしゃーい!」

「あ、あははははは……」

 

 一陣の風となって出撃していく藤千代を、こいしは無邪気に手を振って、さとりはひくひくと乾いた笑顔で見送った。

 思う。――なんかごめんなさい、旧都の皆さん。いや、あなたたちの自業自得なんですけど。

 藤千代を元気に送り終えたこいしが、打って変わって若干グレたような顔つきで床を蹴飛ばした。

 

「あーあ、なんで男ってそうなんだろ。単細胞っていうかさあ」

「し、仕方ないわよ。そういう生き物なんだもの……」

「まあ、納得したけど。そりゃあ、外に出たくもなくなっちゃうよね」

「……こいしも、そういうのはキラい?」

「だいっきらい!!」

 

 さとりはほっと吐息した。こいしも、さとりとはまた別の意味で吐息した。

 

「はあ。月見がそういうオトコじゃなくて、ほんとよかったー」

「……そうね」

 

 まああのお狐さんの場合は、単純に長生きしすぎたというのが一番大きいのだろうが。

 妖怪の中でも最年長クラスなので、周りの少女たちがみんな娘か孫のように見えているのだ。それがさとりにとっての幸運であり、同時に、一部の少女たちにとっての不幸でもあるのだろう。

 こいしが、さとりの腕を勢いよく引っ張った。

 

「みんなのとこに戻ろ! やっぱり、お姉ちゃんは外に出ちゃダメだよ!」

「う……で、でも」

「ぜ――――――――ったいダメッ!!」

 

 問答無用だった。まるで姉妹の立場が逆転したみたいにぴしゃりと叱られ、さとりの一念発起は呆気なく頓挫と相成った。

 今までは自分の意思で閉じこもってきたが、なんだかこれからは、家族たちによって地霊殿から出してもらえなくなるような気がする。

 外に出るのって、こんなに難しいことだったんだなあと。こいしにずりずり引きずられながら、さとりは今更のように実感するのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――すみませーん」

「あれ、藤千代サンじゃないっすか。どうしたんすか?」

「ちょっと訊きたいことがありましてー」

「俺にですか? いいですけど、一体なんで」

「『けしからんことを考えてさとりんにゴミを見る目で見られ隊』」

「……………………………………いやあのっ、そいつはなんというか一時の気の迷いというか若気の至りってやつでそう逆に考えるんですよ、心を読まれるのなら読まれちゃってもいいさって」

「そおーい!」

 

 鬼その一は星になった。

 

「さて、次はー……」

「まままっ待ってください藤千代サン俺は違いますよ俺にはそんなマゾっちくて卑しい嗜好なんて欠片もないってもんで」

「そうですか。じゃあ、『けしからんことを考えてさとりんを涙目にし隊』ですね」

「……………………………………ぶっちゃけ申し訳なかったと」

「そおーいっ!!」

 

 鬼その二は星になった。

 

「お前ら逃げろおおおおお!! つ、遂に藤千代さんにバレたぞおおおおおおおおっ!?」

「「「うわああああああああっ!!」」」

「――おや。あんたたち、そんなに急いでどこに行くんだい?」

「あ、ゆ、勇儀姐さん……。こいつはその、いろいろと緊急事態ってやつで」

「なんだい情けないねえ、こんなに浮き足立ったりして。男なんだからもっとどっしり構えなよ」

「い、いやあ、申し訳ないっス騒がしくって」

「ほんとだよ。――男らしく罪を認めれば、らくーに楽にしてやるよ?」

「」

 

 鬼その三が地面に埋まる。

 過日の異変で、なぜこいしが力を求めたのか。どうしてさとりの力になりたいと願ったのか。なにゆえ、さとりは地霊殿にひきこもってしまったのか――。

 その諸悪の根源ともいうべきものが、かつて地上の天狗たちと仲良く、逞しく、大いに間違った方向へと成長していったケダモノどもであり、

 

「さて――久し振りに、ブチ抜き組手と行きましょうか」

「藤千代ぉ、悪いけど私も交ぜてもらうよぉ」

「いいですよっ。一緒にひねり潰してあげましょう!」

「……あの藤千代サン、勇儀姐さん、マジで謝りますのでどうか御慈悲を」

 

 悪は滅びた。

 後に、この騒動を旧都の外から目撃していたある橋姫は語っている。

 みんながわいわい騒いでいるのを見て、ちっともさっぱり妬ましくなかったのははじめてだった――と。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「? ……なんだか、随分と外が騒がしいね。なにかあったのかな」

「知らなーい。なんだろうね、どうしたのかなっ」

「あは、あははははは……」

 

 月見が「ああ、千代と勇儀が騒いでるのか。じゃあ気にしなくていいね」と納得し、さとりが再び世の常識を問う十秒前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第111話 「いつか陽のあたる場所で ①」

 

 

 

 

 

「つまんなあああああ――――――――いっ!!」

「!?」

 

 フランが突然裂帛の叫び声をあげ、レミリアは椅子から転げ落ちた。

 今年最後の月を飾る十二月も終盤に差し掛かり、間もなくクリスマスがやってこようかという、とある一日。レミリアの部屋で二人きり、姉妹水入らずで楽しむ夜のティータイムにおける珍事であった。

 紅茶をこぼさなかったのは奇跡に近い。レミリアは痛めた腰でゆるゆると立ち上がり、

 

「い、いきなりどうしたの? びっくりするじゃない」

「つまんないの!」

 

 フランは頬を膨らませてぷんすか怒っている。それもそのはず、このところの彼女にはどうもご機嫌ナナメな日ばかりが続いているのだ。昨日まではまだかわいい方だったものの、今日になってあからさまに態度が悪化し、そのうち館中を暴れ回るんじゃないかと危惧されるほどだった。なのでガス抜きとご機嫌取りの意味を込めて、咲夜特製の紅茶とお菓子でお茶会をしていたのだが――。

 

「つまんないって、なにが」

「ぜんぶ!」

 

 レミリアの全身に、椅子から転げ落ちた以上の衝撃が走った。

 

「フ、フラン……! 私とのティータイムがつまんないなんて……や、やっぱり反抗期だというの!?」

「がおーっ!!」

「ひいいい!?」

 

 レミリアは戦慄した。恐れていた悪夢がいよいよ現実となってしまった。フランが、フランが遂に、

 

「さ、咲夜ーっ! さくやーっ! フランがグレちゃったよおおおおお!?」

 

 本で読んだことがある――年頃の少年少女には、得てして家族に反発したがるようになる時期があると。急に言葉遣いが悪くなったり、事あるたびに舌打ちしたり、意味もなく非行を繰り返したり、「私の服、お姉様のと一緒に洗濯しないで!」とか言い出したりするのだ。もうダメだ、紅魔館もおしまいだ。

 助けを求めると、紅魔館のメイド長はいつも通り、どこからともなく一瞬でやってきてくれた。

 

「はいはい、紅茶のおかわりですね?」

「ぜんぜん違う! 大変なのよ、フランが」

「ぎゃおーっ!!」

「いやあああああ!?」

 

 フランはテーブルにバンバン手を叩きつけ、

 

「咲夜! 咲夜にも大事なお話がありますっ」

 

 すっかりご乱心なフランの勢いに、咲夜もくるりと目を丸くした。

 

「どうしたんですか、妹様?」

「どうしたもこうしたもありませんっ」

 

 フランは力を漲らせて言う、

 

「咲夜も、月見に会えなくてつまんないでしょ!? ユーウツでしょ!?」

「はぇ、」

「この前だって、月見がいないって知らないでいつもみたいに作りすぎてたよね! せっかく頑張って作りすぎたのにお料理渡せなくて、結構本気で凹んでたよね!?」

「わ、わあわあ!?」

「ちょ、ちょっと待ちなさい! そういう話!? そういう話なの!?」

「それ以外になにがあるの!?」

 

 レミリアは心の底から安堵した。どうやら反抗期ではなく、最近月見に会えない日が続いているせいで不機嫌だっただけらしい。戦慄して損した。

 月見が幻想郷から姿を消して、早いもので五日が経った。

 と書くとやたら深刻な話に聞こえるが、なんてことはない、月見はいま地底にいるのだ。地底で大規模な異変が発生し、博麗の巫女を始め月見らが解決に尽力した。しかしその中で月見が少々(・・)怪我を負ってしまったため、当面の間は事後処理も含めて地底で静養を取るそうだ――と天狗たちの新聞が一斉に報じたのは、なるほどフランの機嫌が悪くなり始めたタイミングとほぼ一致しているかもしれない。

 どうして教えてくれなかったのか、とレミリアはちょっぴり歯痒く思っている。異変を解決しなければならないのなら、言ってくれれば、力を貸してやらないこともなかったのに。一応――まあ本当に、一応だけれど――月見には、いろいろと借りもあるのだし。

 関係のない人を巻き込むまいとするあたりは月見らしいが、もっと頼ってくれたっていいのだと――口に出して直接伝えるつもりは、絶対にないけれど。

 そんなレミリア個人の話はいいのだ。問題は、異変を解決する中で月見が少し(・・)怪我をしてしまい、しばらく地上に戻ってこないということである。

 その話を聞いて誰もが訝んだのは、それって本当に『少し』なのか、というものだった。強い肉体を持つ妖怪にとって、静養が必要になるほどの怪我となればまず軽傷ではない。軽傷ならば放っておいてもその日のうちに完治するため、体を休める必要なんてないからだ。

 まさか『少々』というのは事を荒立たせないための強がりで、本当は動けなくなるほどの大怪我をしたのではないか――。

 当然、その日のうちに咲夜が出撃した。当事者である霊夢、魔理沙、天子、アリスの四名を紅魔館に拉致して根掘り葉掘り吐かせた結果、「確かに怪我自体は軽くなかったけれど、妖怪だから本当に大丈夫で、一日で目を覚ましてピンピンしていた」ということがわかった。

 考えてみれば、その通りだった。もし月見が危険な状態にあるのなら事態は深刻になっているはずで、八雲藍が普段通り水月苑の掃除に勤しみ、天魔が椛に追い回されて絶叫している以上は、慌てる必要などなにもないということだ。「怪我自体は軽くなかった」の部分が少し気掛かりだったが、レミリアと咲夜はそれで一応納得し、月見が戻ってくる日を地上で大人しく待ち続けている。

 しかしフランに限っては、同じ真似ができるほど一人前なレディではない。ほっぺたぷっくりで不満をアピールする幼子同然の姿は、とても五百年を生きた吸血鬼とは思えないほどだった。

 

「まったく……フラン、あなたはあいかわらずお子ちゃまね」

「むか! お姉様だって、早く月見に帰ってきてほしいって思ってるくせに!」

「おおおっ思ってないわよっ!?」

 

 レミリアはぎくりとしながら否定した。いや、違うのだ。早く帰ってきてほしいと思っているわけではなく、無事ならさっさと戻ってきて周りを安心させてやるのが常識というもので、いや決してレミリアが月見を心配しているわけではなくフランはこの調子だし咲夜もちょっぴり元気がないしで本当に早く帰ってきてくれないと迷惑極まりないのであり、

 とにかくレミリアは咳払いをして、

 

「一人前のレディたるもの、殿方の帰りは信じて待つものよ。そう……この私みたいにね」

「でもお嬢様、この前私に『地底ってどうやったら行けるの?』って訊いてきましたよね」

「ぬわ――――――――っ!?」

「……へー。さすが、一人前のレディはやることが違うねー」

 

 フランの生暖かい半目で、レミリアは胸部に瀕死の大ダメージを負った。

 

「ち、違っ……あっあれはその……要するに、知的好奇心ってやつで! 地底世界への浪漫ってやつで!」

「トノガタの前でいつまで経っても素直になれないレディって、一人前なのかなあー?」

「く、くううっ」

 

 それに関しては言い返せない。レミリアだって、未だ月見に「ありがとう」すら言えていない現状をそこそこ問題視しているのだ。最高の雰囲気とタイミングが巡ってきたと思われたあの秋のひと時も、結局フランの乱入で有耶無耶になってしまって、以来はもうまったくダメダメな日々ばかりが続いている。

 いや、今はそんな話はどうだっていいはずだ。我が身の危険を察したレミリアは即座に軌道修正する。

 

「と、ともかくっ。こればかりは、騒いでどうこうできる問題じゃないわよ。今は待ちましょう」

「むー……」

 

 一応、地上と地底は原則不可侵という決まりがあるわけだし、勝手なことをしてなにかトラブルが起こったり、八雲の連中から目をつけられたりしてもつまらない。これがレミリア一人だけの話なら別にどうなったって構わないのだが、フランもいる以上、取るべき行動は安全策の一択なのだ。

 

「はーあー。月見、早く戻ってこないかなー」

「そうですねー……」

 

 揃ってため息をつくフランと咲夜に、レミリアもまた憂える吐息をそっとひとつだけ落とす。

 本当にあの狐は、レミリアたちをおこがましくも放っておいて、いつまでもなにをしているのやら。

 

 もちろん、レミリアはそこまで気が回っていない。月見の帰りを待ち侘びているのはなにも紅魔館の面々だけではなく、そのせいで明日はちょっとした騒ぎが起きる運命にあるのだ。

 原因は言わずもがな、紅魔館からそこそこ離れた迷いの竹林の奥の奥。

 永遠亭でぐーたらと暮らしている、例のお転婆お姫様である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 というわけで奇しくも同時刻、永遠亭では蓬莱山輝夜が裂帛していた。

 

「つまんな――――――――いっ!!」

「師匠、また姫様の発作が!」

「一発芸でもしときなさい。ほらあなた、耳をプロペラみたいに回して空を」

「飛べませんからね!?」

「そんな一発芸程度で、私の退屈を紛らわせられると思うなー!」

「飛べませんってば!」

 

 座敷をゴロゴロ転げ回って全身で不満を露わにする、なんとも子どもったらしい主人の姿に、鈴仙は頭痛を覚えながら重く深いため息をついた。

 実はこれ、本日はもう十三度目になる光景である。ほぼ一時間に一度発症するといっても過言ではない、輝夜の極めて深刻な発作である。

 永琳がとっくの昔に匙を投げた、といえばそれがどれほどの重症かわかってもらえると思う。今だって永琳は、特に輝夜の相手をすることもなくさっさと座敷を出て行ってしまった。幻想郷には、月最高の頭脳を以てしても手の施しようがない、人知を超えた計り知れない恐怖の病が存在するのだ。

 鈴仙は、適当に『月見さん欠乏症』と呼んでいる。

 月見に会えない日が数日続いただけで禁断症状に陥り、座敷を転げ回る輝夜のように奇行を繰り返してしまうという、まさに悪魔が生み出したかの如き病である。

 もちろん永琳が匙を投げたのは、ただ単にアホらしかったからである。

 

「ギンに会いた――――――――い!!」

「もー姫様ぁ、着物が傷んじゃいますからやめてくださいってばー」

「会いたいぞー!」

「言われなくてもわかってますって」

「じゃあなんとかしろー!」

「無茶言わないでくださいよぉ……」

 

 駄々をこねる子どもの相手をさせられる大人の気持ちが、今の鈴仙には空しいほどよく理解できた。

 

「仕方ないじゃないですか。月見さんは怪我をしてしまって、今は地底でお休みになってるんです。帰ってくるまで待つしかないですよ」

 

 鈴仙だって、先日地底を襲ったという大規模な異変について、大雑把な事の経緯くらいは聞き及んでいる。今の幻想郷の一大ニュースだ。幻想郷の中心人物の一人である月見が帰ってこず、しかもその理由が『怪我をしたから』では致し方もなかろう。

 

「そう、それよ!」

 

 しかしその程度で納得できるなら、輝夜ははじめから座敷をゴロゴロ転げ回っちゃいないのだ。彼女はむくりと起き上がり、畳にバンバン両手を叩きつけて、

 

「怪我をしたんだったら、どうしてウチに来てくれないの!? 私が付きっきりで看病してあげるのに!」

「だからじゃないかなあ……」

 

 一応この少女、大昔に月見の看病をしたことがあるのだが、ご飯を食べさせてあげようとしたところ勢い余って彼の喉を箸で突いたという、なかなか言い逃れのできない前科持ちである。

 

「うぐっ……あ、あのときはぁっ! ちょっと緊張してて、それで……つい……」

「『つい』で二回も突かれたんじゃあ、誰だって入院は遠慮すると思いますよー」

「ふぐぐ」

 

 遺伝子レベルで不器用なんだよなー、と鈴仙は思う。長年なにひとつ不自由のない箱入り生活をしていた影響で、料理をすれば爆発させるし掃除をすれば破壊するし、人付き合いだって猪突猛進ごーいんぐまいうぇい。月見が好きだと公言している影響で、八雲紫とはいつも出会うたびに犬も食わないケンカをしている。紫が冬眠してからはそれも落ち着いたが、なにか物足りないものを感じているのか、代わりに妹紅とケンカする頻度が増えたように思う。

 ともかく長年引きこもりのお姫様だった少女が、今ではすっかり傍迷惑なお転婆娘なのだった。まったくもって収まりを知らない不満と怒りに、輝夜は畳をペチペチと叩き続けている。

 

「なんでよ、なんでよりにもよって地底なのよっ……どうして地上と地底の間に、不可侵の約定なんてものが結ばれてるのよ! あのスキマはいっつもいっつも私の邪魔をしてばっかり!」

「しょうがないですよ……いい機会ですから、ちょっとは月見さん離れして」

「や!」

 

 鈴仙は曖昧に笑った。そこまで強く月見を想う輝夜の姿が微笑ましくもあったし、同時に寂しくもあった。だって、今はまだ遠い未来の話かもしれないけれど、月見だって不死でない以上はいつか必ず、今度こそ輝夜の前から消えてしまうのだから。

 月見はきっと、来るべき時が来たらすんなりと己の運命を受け入れるだろう。もう充分生きたよ、とか笑いながら言って。蓬莱の薬なんて、輝夜がどんなに望んだって絶対に飲んでくれなくて。

 果たしてそのとき、輝夜の心は耐えられるのだろうか。そして、耐えられようが耐えられまいが、ともに逝くこともできず未来永劫生き続けなければならない運命とは、一体どのような地獄なのだろうか。

 やっぱり私は、不老不死なんてならなくていい――鈴仙は、そう強く思う。

 

「じゃあ、頑張ってあの式神を口説き落とすしかないわね」

 

 座敷に戻ってきた永琳のお陰で、鈴仙はほの暗い思考の海から浮かび上がった。

 

「それは……もうやってるけど! でもあいつ、頭でっかちの超絶生真面目で、ぜんぜん許してくれないの!」

 

 当然だと思う。輝夜を一人で地底に行かせでもしたら最後、間違いなくあちこちで騒動を巻き起こして大変なことになる。

 

「安心なさい、そうやってるうちに戻ってくるわよ。私たちほどじゃないけど、妖怪の怪我の治りは充分早いもの」

「むー……」

 

 輝夜が頬を膨らませて黙り込んだ。かつては近づいてくる男を如何に近づけないかで苦悩していた彼女が、今ではなかなか近づいてきてくれない男へ如何に近づくかで苦悩しているのだから、肉体が変わらない不老不死といえど、心は変わるものなのだ。永琳も輝夜を見習って、鈴仙の味噌汁に薬を混ぜたりしない優しい女になってくれればいいのだけれど――それはまあ、置いておいて。

 

「でも、ほんとに早く帰ってくるといいですね。会いたがってるのは、なにも姫様だけじゃないでしょうし」

 

 例えば紅魔館のフランドール・スカーレットは、もはや娘と呼んでも差し支えないほど月見に懐いているから、今頃は輝夜と同じく欠乏症を起こして暴れ回っていそうだ。そしてそんなフランを「わがままはダメですよ」とでも宥めながら、咲夜だって内心ではめちゃくちゃ会いたがっているに違いない。また、妖夢から聞いた話によれば西行寺幽々子も、月見がいない日常の退屈さに機嫌を損ね、日夜やけ食いを繰り返しているという。早く月見さんが帰ってきてくれないとウチの家計が、と妖夢は買い物袋を両手に泣いていた。

 というかそもそも、かたくなに地底行きを認めない八雲藍だって、本当は行きたくて行きたくて仕方ないはずだろうに。

 なので鈴仙は、ほんの冗談のつもりで、

 

「いっそ、行きたい人を集めて数で勝負してみたらどうです? まあ、大勢でぞろぞろ行く方がアレですから無理だと思」

「それだわ」

「え?」

「そうよ、どうして気がつかなかったのかしら」

 

 輝夜がいきなり静かになった。この永遠亭でそこそこ長い間こき使われてきた鈴仙の勘が、条件反射で己の失言を感じ取るがもはや遅い。音もなく不穏に立ち上がった輝夜は、赤く燃える熱意の瞳と堅く握った決意の拳だった。

 

「そうよ、戦いは数だわ……! みんなで寄ってたかって押し倒せば、さすがの藍も断れないはず……!」

「……あー、」

「ありがとう鈴仙、お陰で道が開けたわっ」

 

 いやごめんなさい姫様、私はほんの冗談のつもりで、というかその道の開け方は普通にダメなやつで

 

「そうと決まれば、明日に備えて早く寝なきゃっ。明日は勝つぞー!」

「……」

 

 バタバタとお風呂場の方向に消えていった輝夜を見送りつつ、斜め後ろから突き刺さる永琳の半目で縮こまる鈴仙である。

 ため息の音、

 

「……私、知ーらないっと」

「や、やっぱり師匠もそう思います!? やっちまったと思います!?」

「とりあえず、あとで月見と藍には謝っておきなさいね」

「ですよねー!?」

 

 鈴仙は頭を抱えた。そりゃあそうだ。輝夜が珍しくやる気満々でなにかを決意したとき、その陰では大抵割に合わない目を見る不運な誰かが生まれるのだ。普段であればそれは鈴仙かその他のイナバたちなのだが、今回ばかりは藍であろう。

 

「まあ、いいんじゃない? いつもの感じに戻った気がして」

「自分が関係ないからってーっ!!」

 

 明日、輝夜は鈴仙が言った通りの方法で藍を強襲し、連れてけー連れてけーっとやかましく駄々をこねるに違いない。ああごめんなさい藍さん、今度みすちーの屋台で油揚げ料理をご馳走します。

 そういえばそろそろ冬もたけなわ、鰻が美味い季節である。

 幻想郷苦労人同盟・冬の陣、そろそろ開催かなーと。涎も滴る鰻の蒲焼きを想像しながら、鈴仙は明後日の空へ現実逃避をした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――というわけで、ギンのお見舞いに行きます!!」

「行くーっ!」

「行きましょー!」

「「いえーっ!」」

「待て待て待て」

 

 一瞬で意気投合してクルクル踊り出した輝夜とフランを、藍は努めて冷静に落ち着かせた。私の聞き間違いだよなそうに決まってる、と自分に言い聞かせながら、

 

「お前たち、今なんて?」

「ギンのお見舞いに行くのよ!」

「行きたーい!」

 

 同じ内容を二度聞き間違えるほど藍は間抜けではない。さて面倒なことになったようだ、と幻想郷の管理者代理はずぶずぶ思考の沼に沈む。

 地底の異変が収束してから幾日かが過ぎ、本日も家主が不在のままの水月苑。その、本来であれば人影ひとつないはずの茶の間が、このところはすっかり少女たちの溜まり場と化していた。

 なぜ月見がいない水月苑に堂々と居座るのか、理由は少女によって様々である。今この場にいる面子で例を挙げれば、藍なら水月苑の掃除をし、月見の不在を狙って妙な行為を働く輩がいないか監視するため。輝夜とフランなら、月見に会えない寂しさを少しでも紛らわすため。幽香なら庭の手入れをするためで、天魔なら仕事のストレスを温泉で癒すため。はたまたレミリアならフランの付き添いのため、椛なら天魔の監視のため、といった具合だ。もちろん事前に月見へ式を飛ばして、好きに出入りしていいと一応の許可はもらっている。

 さてそんな少女たちの集会所と化した水月苑で、遂に藍の危惧していた事態が勃発してしまった。

 もちろん、輝夜とフランに関しては前々から似たような訴えをされてはいた。今回もそれと同じ、であったなら、またいつものようにダメだと言って聞かせればいいだけの話だった。

 今回は状況が違った。具体的に言えば、今この場には彼女ら以外にも厄介な少女が集まっているのであり、

 

「あら、なんだか面白そうな話をしてるわね。私も是非ご一緒させてほしいわ」

 

 庭の手入れから戻ってきた幽香が早速食いついたのみならず、襖がずぱーんと勢いよく開いて、

 

「話は聞かせてもらったのじゃっ! 儂も交ぜてほしいんじゃよ!」

「あーもー天魔様、髪がまだ濡れてるんですから動き回らないでくださいよぉ……」

 

 更に操と椛まで集まってきた。椛は物の道理がちゃんとわかる妖怪だから問題ないとして、

 

「操に聞かれたのは面倒だなあ……」

「おい藍、なんか口に出とるんじゃけど!」

「出たんじゃない。出したんだよ」

「むきー!」

 

 本当に、集まっている面子が悪かったとしか言い様がない。なかなか地底から戻ってこない月見に会いたがっている者は数いるものの、この輝夜、フラン、幽香、操の四名はその中でもとりわけ人の話を聞かない。咲夜や天子のように、会いたがってはいるものの、不可侵の約定を理解してなにも言わないでいてくれる常識人ではないのだ。

 女三人寄ればかしましい。ならば志を同じくした幻想郷の少女たちが、仲良く四人も集まってしまったとき――。

 

「……運がなかったわね」

「まったくだよ……しかし、そう言う割に満更でもなさそうだね」

「そそそっそんなことないわよ!?」

 

 などとレミリアと言い合っているうちに、件の四名はやる気満々で円陣を組み始めていた。

 

「どうしよっか、いつ行く?」

「そういえば、もうすぐクリスマスだよね! クリスマスパーティーも一緒にやったら楽しそう!」

「この前異変があったらしいし、解決記念の宴会も必要ね」

「つまり……異変解決記念お見舞い宴会クリスマスパーティーじゃな!? よし儂が許すっ、早速準備に取り掛かおぼふっ!?」

 

 藍は操の頭を尻尾でぶっ叩いた。

 

「なにすんじゃ!?」

「操。紫様がお休みになられている今、お前の発言には普段より一層大きな責任が伴うはずだ。適当なことを言わないでくれ」

「あん? 儂は至って大真面目じゃよ!」

 

 椛が、せっかく温泉あがりでつやつやだった眉間に深い皺を寄せた。

 

「天魔様……地上と地底で不可侵の約定が結ばれてるのはどうしてですか? そんなに軽々しく許可を出していいものでもないでしょう……」

「異変のときはよかったのに、どうして今回はダメなんじゃよ!」

「あの、公私混同って言葉知ってます?」

「型にはまらない自由な天狗に、儂はなりたい」

 

 ダメだこの駄天魔、早くなんとかしないと。

 

「藍……あなたの言いたいことはわかるわ」

 

 円陣を解いた輝夜が、珍しく真面目ぶった顔つきで藍を見据えた。ついさっきまでクルクル踊っていたとは思えないほど静かな足取りで、藍の肩にそっと両手を置いて、

 

「でもね……私、今からとっても大事な話をするわ。よく聞いて」

「な、なんだ?」

「ばか!!」

「!?」

 

 輝夜は着物の裾を激しく振り乱し、

 

「がっかりよ……! あなたは私たちと同じ側だと思ってたのに!」

「ま、待て、一体なんの話だ?」

「この世界に、ギンより優先されるものなんかありませんっ!」

 

 ダメだこの駄姫様、早くなんとかしないと。

 

「私たちはギンに会いたい。でも、目の前に規則という名の大きな壁が立ちはだかってる。……なら、壁を打ち砕くしかないでしょ!?」

「叫んでる内容自体は恰好いいんだけどなあ……」

「ふふふ、そうでしょー」

 

 この少女はきっと毎日が幸せなのだと思う。

 更に、幽香までこっちにやってきた。輝夜の横に並んでにっこり微笑むと、

 

「ねえ。あなたまさか、友達に会いに行っちゃいけないなんて言わないわよね?」

「……月見様のお怪我が大事ないのは、私が式を飛ばして確認」

「そんなのどうだっていいのよ! 友達が怪我をしたのなら、お見舞いに行くのが当然でしょう!?」

 

 あいかわらずこのフラワーマスター、友情が重い。

 そして最後にトドメを刺しに来たのは、フランドール・スカーレットだった。

 

「お願いっ……! 私、月見に会いたいよぉ……」

「ぐっ……!?」

 

 ――バカな。この上目遣い……橙と同等の威力、だと……!?

 藍は戦慄した。まさかフランドール・スカーレットが、橙にも比肩するほどの驚異的な甘やかされスキルを持っていようとは。隅々まで計算し尽くされた完璧な上目遣い。目線の角度、瞳の潤み、頬の色づき、愛くるしい猫撫で声、すべてが創造的であり破壊的。日頃から橙で鍛えられていなかったら、藍は生きていなかったかもしれない。ああレミリア、お前がシスター・コンプレックス気味なのにも納得が行ったよ。

 

「……し、しかしね、この場ですぐ決められるようなことでは」

「お姉様も、澄まし顔してるけど心の中では月見をすっごく心配してるの! だから」

「フラアアアアアァァァンッ!?」

 

 全身に赤い妖気をまとって飛翔したレミリアが、両手でフランの口を塞いだ。

 

「むぐっ」

「ちょっとフランッ、その話は誰にも内緒――じゃなくって、なに意味のわからないこと言ってるのよ! 心配なんてしてないしっ!」

「むぐー!」

 

 バタバタ暴れる吸血鬼姉妹を微笑ましく思いながら、藍はいよいよ本格的に思考を開始する。

 正直なところ、こうなってしまったからにはもう遅い、と半ば諦める自分が過半数を占めている。今更藍がなにを言ったところで、みんなの中で月見のお見舞いはすでに確定事項と化しており、不可侵の約定なぞ道端の石コロ程度の存在でしかないはずだ。それを考えれば、今この場で「行きたい」と相談してもらえた分だけ、よしと前向きに捉えるべきなのだろう。

 

「まさか、行きたくないなんて言わないでしょ?」

「そんなわけないだろう」

 

 輝夜の問いに、少し鼻白みながら即答する。当然藍だって、許されるのならば今すぐにでも地底へ馳せ参じたいと思っている。同時に今の自分は紫から幻想郷を任されている立場なので、個人的な事情で問題を起こすわけにはいかない、とも。特に今は異変が終わってまだ間もない時期だから、迂闊な行動が思わぬ問題の引鉄となる可能性だってある。

 また凝り固まった顔をしてしまっていたのか、幽香に読まれた。

 

「あなたって、ほんと真面目」

「……そういうお前たちは気楽すぎるよ」

 

 日頃から悩みなんてないんだろうなあ、と藍はちょっぴり羨ましく思った。

 とはいえ、許されるのならば藍だって行きたいのは立派な事実である。では具体的に誰の許しがあればいいかといえば、この場合はやはり紫と藤千代であろう。

 紫の方はなんとかなるが、藤千代はこの場にいないことにはどうしようもない。さてどうしようか、あいつのことだからこうやって念じていればそのうちやってきてくれるんじゃ

 

「――呼ばれた気がしてこーんにーちはーっ!!」

 

 ああ藤千代、あいかわらずぶっ飛んでくれていて私は嬉しいよ。

 しぱーん! と襖を撥ね飛ばして現れた藤千代に、水月苑の茶の間がわっと沸き立った。

 

「千代ぉっ! いーところに来てくれたんじゃよお前さんはあっ!」

「わーい!」

 

 操と藤千代がハイタッチをする。そしてぴょんぴょんと一緒に飛び跳ねながら、

 

「ねえねえ千代千代っ、月見のお見舞いに行きたいんじゃけど!」

「いいですよ! みんなで行きましょうっ!」

「「「わーい!」」」

 

 軽いなー、と藍は遠い目つきになった。なんだか、紫様や月見様にご迷惑が、とか考えている自分がバカらしくなってきた。

 うきうきする輝夜の姿は、完全に遠足前の子どものそれだった。

 

「さあ藍、これで文句ないわよねっ」

「……わかった、わかったよ」

 

 もう悩むのも馬鹿馬鹿しいので、藍は流れに身を任せることにした。いいのだ。藍だって、月見のお見舞いに行きたいのは立派な事実だし。

 

「ただ、一応、紫様からの許可も取らせてくれるかい。冬眠明けにあれこれ言われても面倒だしね」

「? でもあいつ、寝てるんじゃないの?」

「そうだけど……まあ、任せておいてくれ。必ず許可は取るから」

「……まあ、許可が取れるならなんだっていいわ」

 

 よぉし! と、輝夜が右腕を意気揚々と掲げ、

 

「決まりね! ギンのお見舞いクリスマスパーティー、決」

「あ、ちょっと待ってください」

「こらーっ!!」

 

 華麗に出鼻を挫かれた輝夜がぷんすか怒る。ごめんなさいー、と藤千代は苦笑で詫びて、

 

「大事なことを忘れていました。月見くんのお見舞いに当たって、ひとつ、避けては通れない試練があるのです」

「……なんですって?」

 

 試練、という大仰な物言いに、輝夜たちの体がかすかに強張る。生唾を呑み込むそこはかとない緊張感。身構える輝夜たちの視線の先で、藤千代はゆっくりと唇を動かした。

 

「――月見くんが今お休みしている場所は、地霊殿というお屋敷です。そこには、古明地さとりさんという『覚妖怪』が住んでいます」

「……!」

 

 輝夜たちが瞠目する。ああそういえばそうだったな、と藍は霊夢や魔理沙から聞かされた話を思い出す。つまり、藤千代が言う試練とは、

 

「月見くんのお見舞いをすれば、当然、さとりさんとお会いすることになります。さとりさんとお会いすれば、必然、心を読まれます」

「……なるほど、そういうことね」

 

 幽香が薄く口端を曲げ、先を引き継いだ。

 

「心を読まれても構わない覚悟と意志がなければ、月見には会えない。そう言いたいんでしょう?」

「……そういうことになります」

 

 沈黙は、それほど長い間ではなかった。輝夜が静かな眼差しで少女たちを見回す。幽香、フラン、操が順に頷き、最後に藍が続く。それを確認して、輝夜もまたひとつの首肯を置いて、

 

「――じゃ、なんの問題もないので決行しまーす」

「「「はーい」」」

「皆さんならそう言ってくれると思ってましたっ」

 

 輝夜はふふんと胸を張った。

 

「藤千代、私たちを甘く見ないで頂戴。私とギンの間に、読まれて恥ずかしいような後ろめたい心なんて存在しないわっ」

 

 幽香が腕を組んで深く頷く。

 

「まったくね。むしろ、私と月見がれっきとした友達だって思い知らせてやるわよ」

 

 フランがレミリアに飛びついて、

 

「お姉様っ、私すごいこと閃いちゃった! 月見の前で素直になれないなら、覚妖怪にぜんぶバラしてもらえばいいんだよ!」

「バカじゃないの!?」

「なんでーっ!? お姉様、私このままじゃダメだと思うっ」

「ぜぜぜっ絶対イヤよお断りよ! ってかフランこそイヤじゃないの!? 昔のこととか、いろいろ知られちゃうかもしれないのよ!?」

「んー……月見のお友達ならきっといい妖怪だよ! だいじょーぶだいじょーぶ! というわけで、お姉様も行こーね!」

「ひいいい!!」

 

 更に操と椛が、

 

「椛は行くんか?」

「あ、いえ、私は恥ずかしいので……」

「ほほーう? つまりお前さんは、普段からハズカシイことを考えてるということじゃな?」

「ええ、実はそうなんですよ。今度天魔様に試そうと思ってる新しいオシオキ方法とか、バラされちゃうと面白くないじゃないですか」

「椛さんその話ちょっと詳しく!?」

「ふふふ、冗談です」

「ひいいい!!」

「というか、天魔様は参加しちゃダメですよ。私言ってましたよね、もうすぐ年末の大仕事があるって」

「え――――――――――――っ!!」

 

 改めて言うが、あれこれ悩んでいた自分が本当にバカらしくて、藍はそっと笑みの息をついていた。かつて誰からも忌み嫌われた覚妖怪と会わなければならないというのに、なんて気楽な連中なのだろう。ひょっとすると、藍の心配はまったくの杞憂なのかもしれない。この面子ならなにか問題が起こるどころか、案外月見のように、地底の妖怪たちとコロッと仲良くなって帰ってきてしまうのかもしれない。

 古明地さとりを受け入れてくれそうなみんなの雰囲気に、藤千代も笑顔だった。

 

「はいっ! おやつはいくらまで大丈夫ですか!」

 

 まるで遠足感覚なフランの質問に、輝夜が答える。

 

「パーティーだもの、いくらだって大丈夫よ! 食べきれないくらい持って行きましょう!」

「わーい! 咲夜にいっぱい作ってもらお!」

「ねえ、友達を誘ってもいいかしら?」

 

 幽香の質問には藤千代が、

 

「いいですよー。でも、今回ははじめてですから、ひとまずあまり多くなりすぎないようにしましょうか。ここの面子も含めて、十人くらいにしておきましょう」

 

 操がギャーギャー騒いでいる。

 

「椛、お願いっ! 今回だけ、今回だけでいいから大目に見て! 後生じゃからぁっ!」

「そんなこと言われても……天魔様が真面目に仕事をしてくれないから、あちこちでいろいろ滞っちゃってるんです。毎日ちょっとずつでもやっていれば、こうはなってなかったと思いますけど」

「わかってないのう、毎日真面目に仕事なんかしたらつまんな――待って、爪はダメ、ダメ」

「とにかく、ダメったらダメです。当日までにぜんぶキッチリ終わらせてくれるなら話は別ですけど、まあ天魔様には無理で」

「――無理だと、誰が決めた?」

「え?」

「終わらせれば、行っていいんだな?」

「え、ええ、それはもちろん――って待ってください天魔様まさか」

「戻るぞ椛。今すぐ取り掛かれば間に合うだろう」

「そ、そこまで!? そっち(・・・)出すほどのことですか!? どんだけ行きたいんですか!」

「久し振りに本気出す」

「……やる気になってくれたのは嬉しいけど、なんか素直に喜べないなあ……」

 

 そんなこんなで、輝夜が話をまとめた。

 

「というわけで、来るクリスマスイブの夕方、ここに集合よ! 藤千代、案内よろしくね!」

「承知しました!」

「それじゃあ、ギンと一緒に楽しいイブにするわよーっ!」

「「「おーっ!」」」

 

 やれやれ、と藍は肩を竦める。

 月見がいなくても――いや、或いは、今が月見のいないときだからこそ。

 幻想郷の少女たちは、本日も元気いっぱいなのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第112話 「いつか陽のあたる場所で ②」

 

 

 

 

 

 稲妻のような勢いで紅魔館に戻ってきたフランは、「ちょっフラン待っ、速、あばばばばば」とぐるぐるおめめな姉を引きずり回して、早速咲夜のところに突撃した。咲夜は大図書館の一角にある読書スペースで、パチュリーと何事か話をしているようだった。

 

「さ――――くや――――――――っ!!」

「わっ、い、妹様っ?」

「フラン、声が大きいわよ。図書館では静かに」

 

 フランは急ブレーキを掛けた。シャーッと床を滑ってちょうど二人の傍で停止し、空いていた椅子にもそもそと座る。「あうあうあ~……」とすっかりノビている姉も、適当に隣の椅子に乗せておく。

 

「ただいまっ。なにお話してたの?」

「あ、いえ、大したことでは……」

 

 少し挙動不審な咲夜に、パチュリーが薄く笑って、

 

「まあ、咲夜のお悩み相談といったところかしら」

「月見のこと? どんなお話?」

「ふえ!?」

「あら、正解よ。なかなか鋭いじゃない」

「だって咲夜が悩むのなんて、月見のことかご飯の献立くらいだもんね!」

「そのご飯の献立も、月見になにを作りすぎるかだしねえ」

「わ、わー! わーっ!」

 

 咲夜が顔を真っ赤にして騒いでいるが、そんなのなんの意味もない。だって、咲夜が月見のことをどう思っているのか、紅魔館の住人には今や一人の例外もなく知れ渡っているのだから。フランの隣でバタンキューなレミリアだって知っている。もっとも彼女は、腹心の従者を月見に取られるんじゃないかと恐れ慄いて、断じて認めるつもりはないようだけれど。

 フランからしてみれば、紅魔館の住人に隅々まで知られた今の状況にもかかわらず、なぜこの期に及んで隠そうとしているのかが不可解である。自分みたいに素直になれば、その分月見との距離も縮まるのに。きっとレミリアと一緒で、『ビミョーなお年頃』というやつに違いない。

 己のピンチを悟った咲夜が、早速話を逸らしに入る。

 

「そ、それよりっ、随分と大急ぎでしたがなにかあったんですか? お嬢様なんてすっかりボロボロで……」

「あ、そうそう!」

 

 フランはテーブルに手を打ち、

 

「咲夜、月見のお見舞いに行くよ!」

「へ、」

「咲夜も月見に会いたいでしょ!? どーせそういうお悩み相談だったんでしょっ!?」

「うわあーっ!?」

「ふふふ」

 

 叫んだ咲夜と微笑んだパチュリーの反応を見るに、大正解らしい。そりゃあそうだ。だって咲夜は数日前、月見に料理の差し入れができなくて真剣にショックを受けていたのだから。そのあとになって月見がしばらく地底から戻らないと知って、冗談抜きで落ち込んでいたのだから。

 ちなみに作りすぎた料理は、美鈴が頑張って処分した。最近、武術の稽古にやけに精を出している。

 

「クリスマスイブに、みんなで月見のトコに行ってパーティーするよ! お菓子作って!」

「ま、待ってください、一体どういうことですか?」

「……なるほどね」

 

 まだ微妙に赤い顔で困惑する咲夜と違って、パチュリーは冷静に察したらしく、

 

「発案者は、さしずめ永遠亭のお姫様ね? さっき水月苑でそういう話になって、それで大急ぎで帰ってきたんでしょう」

「ぴんぽーん!」

「はあ、そういうことですか……」

「というわけで、咲夜ももちろん行くでしょ?」

 

 咲夜は矢庭に居住まいを正し、そわそわしているのを隠そうといかにも努力した感じで咳払いをした。

 

「んんっ……そ、そうですね。月見様のお体の具合が気になりますし、私も是非……」

「なんか覚妖怪がいるらしいけど、ぜんぜん問題ないよねっ」

 

 咲夜が氷結した。立てつけの悪い蝶番みたいな動きでこっちを振り向いて、

 

「……さ、覚妖怪? それって確か、」

「人が心の中で考えてることを読む妖怪ね。伝承では、人が考えてることをいちいち口に出して(・・・・・・・・・)からかったりする妖怪だとか」

「――……、」

 

 パチュリーが、口元になんとも意地悪な笑みを浮かべて補足する。咲夜は死んだように沈黙している。

 

「えーっ。月見のお友達なんだから、きっといい妖怪だよ」

「どうかしら。むしろ彼だからこそ、一癖二癖ある妖怪でもおかしくないと思うけど。そういうの多いじゃない、彼の周り」

「むう……」

 

 そう言われるとなかなか否定できない。いや、しかし、たとえそうだとしても、

 

「でも、なんか変なこと考えたりしなければ大丈夫だよね。つまり、いつも通りにしてれば平気だよ!」

「……だ、そうだけど? 咲夜」

「……………………」

 

 咲夜はキツく目を閉じ、しばらくの間、なにやら尋常ならざる葛藤と闘ってぷるぷる体を震わせていた。そして、やがて悔しさたっぷりでまぶたを上げると、小さい頃からずっと大切にしていた唯一無二の宝物を泣く泣く手放すように、

 

「妹様っ……月見様に、よろしくお伝えしてください……っ」

「えーっ!? 行かないのー!?」

「は、はい……今回は、その……」

 

 フランはとてもびっくりした。信じられなかった。まさか咲夜が、月見に会えるチャンスを自分からフイにしたりするなんて。月見に会いたい想いなら、きっとフランにだって、永遠亭のお姫様にだって負けていないはずなのに。

 パチュリーが肩を竦めて、

 

「そうねえ。私もまだ、咲夜に覚妖怪は早すぎると思うわ」

「なんでーっ? 咲夜、いつも変なこと考えてるの?」

 

 咲夜の姿が消えた。たぶん、時間を止めたのだと思う。席を立った気配などまるでなく、気がついたときには遠くの方から、「妹様のばかあああああぁぁぁ」と泣きながら走り去っていく声が聞こえるだけだった。

 静寂。

 

「……そっかあ。咲夜って、いっつも変なこと考えて生きてるんだ……」

「……幼心って、時になによりも残酷よねえ」

 

 でも、『変なこと』って一体なんだろう。フランにはちょっとよくわからない。

 しかし兎にも角にも、はっきりと言えるのは、

 

「むー、咲夜行かないのかー。残念……」

 

 背もたれに体を預け、フランは両脚をぶらぶらさせた。本当に予想外であり、残念だった。咲夜は当然参加するはずで、そうすればきっとすごく楽しいパーティーになると欠片も疑っていなかったのだ。

 

「レミィと、二人で楽しんでらっしゃいな」

「パチュリーは行く?」

 

 パチュリーはぴくりと震え、やや視線を泳がせつつ、

 

「……い、いえ、私も遠慮しておくわ。行き先は地底でしょう? 私の体には、ちょっとキツいと思うし」

「パチュリー様も、実は普段からいろいろと考えちゃってますしねっ! ごふ!!」

 

 さりげなく背後を取っていた小悪魔の脇腹へ、パチュリーは獣のような反射で魔導書の角を叩き込んだ。もちろん板みたいに分厚く、金具で武装済みの部分である。

 蹲ってぷるぷるする小悪魔を、パチュリーは絶対零度の眼差しで見下ろし、

 

「こぁ……無駄口を叩く余裕があるなら、仕事をなさい?」

「ふ、ふぁい……」

 

 そんな虚弱体質が嘘みたいに動けるのなら、別に大丈夫だと思うのだけれど。しかしそれでも行かないと言うのだから、パチュリーもまた、澄ました顔をして実は変なことを考えているに違いない。

 

 

 

 その後美鈴も誘ってみたが、案の定、「覚妖怪はちょっと……」と苦笑いで遠慮されてしまったので。

 

「みんな、変なこと考えてるんだね」

 

 フランのこの一言は、紅魔館住人の心を割とストレートに抉っていったそうである。

 

 ――フランドール・スカーレット、レミリア・スカーレット、参加決定。

 

「私も行くのおおおおお!?」

「行くのーっ!! もうぜんぶバラしてもらうよ!」

「いやあああああぁぁぁ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 一方、輝夜の方はといえば。

 

「妹紅、ギンのお見舞いに行くわよ」

「なにそれ面白そう連れてけ」

「覚妖怪がいるらしいけど、あんたは別に気にしないわよね?」

「なにそれめちゃくちゃ面白そう連れてけ」

「あんたのそういうところは好きよ」

「キモい」

「ころす」

「スペルカードは」

「四枚」

「「上等ッ!!」」

 

 すんなり話がまとまっていた。

 

 ――蓬莱山輝夜、藤原妹紅、参加決定。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 また一方、幽香の方はといえば。

 

「妖夢ーっ!」

「あ、幽香さん」

 

 幻想郷を離れ、綻びた結界の隙間と長い長い石階段を越えて、冥界の白玉楼までやってきていた。

 今となっては、人里や水月苑に次いで幽香が通い慣れた場所である。水月苑の庭を妖夢と共同管理すると決まってからというもの、日本庭園のいろはを知るため、しばしば白玉楼の庭で勉強させてもらっているからだ。水月苑の庭とはまた趣の違う風光明媚な枯山水を越えていくと、妖夢は鋏を片手に草木の手入れをしていた。

 

「こんにちは。どうかしましたか?」

「月見のお見舞いに行くわよ!」

「はい?」

「決行はクリスマスイブ! いいわね?」

「ちょ、ちょっと待ってください?」

 

 妖夢は庭仕事の手を止めると、道具を置いて、うーん? と深く考え込む素振りをした。

 

「えっと……月見さんのお見舞いといいますと、つまり地底に?」

「そう。今日水月苑に、藍とか操とか藤千代がちょうどよく集まって、そういう話になったの。当然行くでしょ?」

「……あ、すみません。そういう話ならちょっと場所を替えて」

 

 そのとき遠くの方から、白玉楼の廊下をけたたましく疾駆する音、

 

「――話は聞かせてもらったわっ!」

「うわー遅かったー!!」

「私に黙っていい話をしようったって、そうは行かないんだからっ」

 

 亡霊らしからぬ快走ですっ飛んできたのは、西行寺幽々子だった。瞳が死人らしからぬほど爛々と輝いていて、なにをしに出てきたのかなどわざわざ問うまでもなかった。

 

「あら、あなたも行くつもり?」

「もちろんっ。紫は眠っちゃったし月見さんもいなくなっちゃうし、もぉー退屈で退屈で!」

「ああ、余計なのが食いついちゃったなあ……」

 

 妖夢が悄然とため息をついている。主人との付き合いが長い彼女は身を以て学んでいるのだ。主人が今のように生き生きとはしゃいでいるとき、大抵割に合わない目を見るのは自分なのだと。

 幽々子が縁側からふよふよと飛んできて、

 

「ねえねえ、私も行きたい行きたいっ」

「まあ私は、妖夢が来るならどっちでもいいけど」

「な、なんで私なんですか?」

 

 妖夢のあるまじき発言に幽香は憤慨した。

 

「なに言ってるの、私たち友達でしょ!? 一緒に行くのは当然じゃない!」

「ゆ、友情が重いよぅ……」

「なにか言った?」

「なんでもないです」

 

 まったくもう、と幽香は吐息する。まだ仲良くなってから日が浅いせいもあるのだろうが、この少女は友達のなんたるかをあまり理解していないから困り者だ。幽香が誰かを友と認めるのは、月見以来の、この世でまだたった二度しか起こっていない奇跡の出来事だというのに。

 

「ともかく、行くでしょ? 行くわよね?」

「行きましょう? 妖夢が行かなくても私は行くわよっ」

 

 幽香と幽々子に至近距離で迫られ、妖夢はだいぶ追い詰められた感じで、

 

「わ、わかりました! 行きます行きますっ、だから放してくださいってば!」

「ならよし」

 

 静かな達成感とともに頷いて、幽香は早速今後のプランを練りに入る。お見舞いの品として、やはり花束を外してはならないだろう。フラワーマスター特選の、とんでもなく豪奢な花束を持って行ってやろうと思う。今から取り掛かるにはギリギリだが、自分の能力をフル活用し、地底の気候に合わせた品種改良を施して、月見はもちろん古明地さとりとかいうやつにだって喜ばれるよう

 

「――ああ、そうだった。月見のトコに覚妖怪がいるらしいけど、別に問題ないわよね?」

「へー、覚妖怪が……ゑ?」

 

 妖夢が固まった。一方で幽々子は、あらあら~? と途端に面白そうな声を出して、

 

「覚妖怪って、あれよねえ。人の心を読むっていう」

「そうね」

「……、」

 

 沈黙する妖夢を横目でチラチラ見ながら、

 

「じゃあ、変なこと考えてるとぜんぶバレちゃうのね~」

「そうだけど……変なことってなによ。私と月見の間にそんなのは存在しないわよ。なんてったって、友達だもの!」

「…………、」

 

 妖夢がぴくぴく痙攣している。

 

「妖夢、あなただってそうでしょ?」

「へぇあ!? そそそっそうですね、別になにも変なことなんて」

「月見お兄ちゃん」

「んに゛ゃあああああ――――――――ッ!?」

 

 幽々子が何事か耳打ちした瞬間、妖夢は怪鳥の如き絶叫を上げて白玉楼の中に吹っ飛んでいった。そのあまりの勢いに幽香は目が点になり、五秒してからようやく、

 

「ちょっと、いきなりなによ!」

 

 追いかけてみると、妖夢は座敷の隅で座布団を頭に被り、それはそれは見事な『頭隠して尻隠さず』の恰好で、

 

「ゆ、幽香さあん! ごごごっごめんなさい、私やっぱり無理ですぅッ!?」

「はあ!? なんでよ、さっき行くって言ったばっかでしょ!?」

「だだだっだってぇ!?」

 

 なんとけしからん掌返しであろう。まさか、幽香を騙してぬか喜びさせたのか――いや、この少女にそんなあくどい真似ができるとは思えないから、先ほど幽々子の呟いた一言が原因に違いない。しかし、一瞬すぎたせいで聞き逃してしまった。

 ふよふよ追いついてきた幽々子が頬に手を遣り、並々ならぬ愉悦に目を細めて言った。

 

「幽香、つまりこういうことよ。――妖夢は、月見さんに対して変なことを考えてるの」

「妖夢……あなた……」

「うわあああああぁぁぁん!?」

 

 その後、涙目で切腹しようとする妖夢を落ち着かせつつ詳しく聞いてみると、幽香の口から出てきたのはなんとも呆れたため息だった。

 

「……なるほどねえ。あなた、月見のことをそんな風に思ってたワケ」

「ううっ……き、消えてなくなりたいよぅ……」

 

 確かに、まったくもって荒唐無稽な妄想、というわけではないかもしれない。月見と妖夢は同じ銀髪同士だし、見た目の年の差もちょうどいい具合に開いているから、言われてみれば、なるほど兄妹のように見えないこともないだろう。

 

「で、それをみんなにバラされたりするのが嫌だから、行きたくないと」

「はいっ……あの、どうかこの話は私たちだけの秘密に……!」

 

 顔面真っ赤で縮こまる従者の姿が嗜虐心を刺激するのか、幽々子は先ほどからずっと愉悦の表情である。

 

「とは言っても、月見さんにはとっくにバレてるんだけどね~」

「はう!?」

「あらそうなの。じゃあなにも問題ないわね、ほら行くわよほらほら」

「いいいっ嫌です嫌です嫌ですっ! これ以上多くの人に知られるなんて絶対に嫌ですううううう!?」

「そんなこと言わずに」

 

 しばらく粘ってみたものの、最終的に半泣きになった妖夢が土下座で許しを請い出す有様だったので、さすがの幽香も白旗を挙げざるを得なかった。フラワーマスターは、本気で嫌がる友達を面白半分で連れ回すほど鬼ではないのだ。

 

「えー、妖夢行かないのー? せっかく面白いことになりそうだったのにー」

「幽々子様のばかあああああっ!!」

 

 西行寺幽々子は、割と鬼だった。

 

 ――風見幽香、西行寺幽々子、参加決定。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 またまた一方、藍の方はといえば。

 

「――失礼します、紫様」

 

 そこは幾重にも張り巡らされた結界のトンネルを越えた先にある、八雲紫の寝室である。『とーみん中!!』の貼り紙がデカデカと自己主張する襖を開けると、陽光がほのかに差し込む部屋の中心で、膨らんでは萎んでを繰り返しているお布団饅頭が見えた。

 八雲紫は、本日も恙なく爆睡中である。

 結界の効果で紫にとって最適の温度・湿度が保たれた室内を進み、藍は音もなく主人の枕元に立つ。主人は頭の先まですっぽりと布団の下に埋もれており、あちこちからはみ出した長い金の髪は、冬眠前より一段と艶めいて見える。毎日毎日幸せに爆睡しまくって、傷んでいた髪やお肌の具合が回復しているのだ。

 

「紫様ー」

 

 藍は、ゆっくりと布団をめくった。

 紫お気に入りのモコモコお布団の下で、やはり彼女は爆睡していた。これまたお気に入りのもふもふクッションを抱き締め、顔をすぐ真横にはぴったりと『つくみ』を置いて、胎児みたいに丸くなり、すぷー、すぷー、と大変いぎたない爆睡っぷりだった。

 見た目、五歳くらい幼くなったように見える。もちろん、『妖怪の賢者』と呼ばれる大妖怪のカリスマなど、チリも残さずぜんぶ丸めて宇宙の彼方である。

 ちなみに『つくみ』とは、紫が月見と外の世界へ遊びに行ったとき――本人はかたくなにデートだったと言い張っている――、彼にクレーンゲームで取ってもらった銀狐のぬいぐるみだ。はじめは肌身離さず己の半身みたいに持ち歩きしていたが、あの八雲紫がそんな迂闊な真似をすればどうなるかは自明の理。ものの見事に紛失し藍にガチ泣きで助けを求めるという珍事ののち、半日がかりで発見された『つくみ』は紫の寝室に常駐し、彼女を幸せな眠りに導くのが仕事になった。

 寝室を閉ざす結界のトンネルのうち、実に十七枚は『つくみ』を守る防犯用という徹底ぶりだ。別にそこまでしなくても、境界の狭間に存在するこの八雲邸へ入り込める不徳の輩などまずいないので、大丈夫だと藍は思うのだけれど。

 ちなみにちなみに、ここでうっかり『つくみ』に触ると防犯用の弾幕でボコボコにされた挙げ句スキマに喰われ、紫が冬眠から目覚めるその日まで幻想郷には帰ってこられなくなるので注意が必要だ。

 さておき。藍は早速作戦を開始するため、袖の奥からあるアイテムを取り出した。小さくも確かな重量感と存在感を併せ持つメタリックボディ――ボイスレコーダー。一応、こういった機械類についても多少の心得なら持ち合わせている藍である。

 んんっと軽く咳払いをして、電源と録音のスイッチを入れる。レコーダーを紫の口元に近づけ、

 

「紫様。いろいろあって、十名ほどで地底に行きたいのですが……よろしいですか?」

 

 安眠快眠まっしぐらだった紫の健やかな寝顔が崩れた。まるで寝苦しそうにもぞもぞと身じろぎをして、

 

「んんぅ~……、……だめぇ……」

 

 藍は頷き、それから続け様に、

 

「ところで、冬眠明けのおやつは苺ショートでよろしいですか?」

 

 途端、紫はぱああっと嬉しそうに、

 

「ぜんぜんおっけぇ~……」

「……わかりました」

 

 作戦完了である。藍は録音を止め、音量を最小にした上で先頭から再生する。先ほどのやりとりが、一言も漏れなくきちんと録音されているのを確認する。

 完璧だ。あとはこの音源を編集し、『んんぅ~……、……だめぇ……』と『ところで、冬眠明けのおやつは苺ショートでよろしいですか?』の部分を削除すれば、

 

『紫様。いろいろあって、十名ほどで地底に行きたいのですが……よろしいですか?』

『ぜんぜんおっけぇ~……』

 

 という、完全無欠の言質が完成する。機械類に強くない紫なら、「わ、私、寝惚けてなんてことを……!」と真に受けるだろう。

 言質は取った。

 取ったったら取ったのだ。なので藍は小声でぽそりと、

 

「――よし。これで、なにも後ろめたいものなく地底に行けるな」

 

 行けるったら、行けるのである。

 だらしない寝顔の紫が、「わぁ~い月見大好きぃ……」と寝言を言っている。先ほどの会話の影響で、月見が苺ショートを買ってくれた夢でも見ているのだろう。そして恐らく数分後には、体重が増えた夢までバッチリ見てしまってうなされているであろう。八雲紫は、たぶん世界で一番幸せな妖怪に違いない。

 微笑ましい子どもを眺める眼差しで、藍はそっと布団を掛け直した。主人が問題なくお布団饅頭に戻ったのを確認して、寝室を後にする。

 

「……となれば、早く支度をしないと」

 

 まず、お菓子の準備は必須だ。フランが、咲夜にたくさんお菓子を作ってもらうと意気込んでいたのを思い出す。月見のお見舞いも兼ねるパーティーとなれば、間違いなく咲夜は全力で腕を振るってくるはずだから、藍だって遅れを取るわけにはいかない。それに、水月苑からいくらか月見の日用品も持っていった方がいいかもしれないし、ここは藍が率先して動かなければ。

 決して乗り気になっているわけではない。一度走り出してしまった輝夜たちを止めるのは不可能である以上、藍が保護者役としてついていくことでストッパーとなるしかない。約定を無視して地底に赴かねばならないのは非常に心苦しいが、これは事情が事情であり、已むを得ない、仕方のないことなのだ。

 

「うん、仕方ない仕方ない」

 

 自分で自分に四回くらい頷いて、八雲藍は静かに行動を開始する。

 その背後ではトレードマークの金毛九尾が、もっふもっふ、わくわくそわそわと元気いっぱいに揺れていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 最後に、天ツ風操の方はといえば。

 

「――終おおおわったあああああぁぁぁぁぁっ!!」

 

 クリスマスイブをいよいよい明日に控えた昼下がり、遂にすべての仕事をぶっ倒していた。天を衝く万歳とともに絶叫し、びたーん! と執務机に大の字で突っ伏した。

 操が最後に倒した書類を手に取った椛は、速やかに紙面を検めて、満足げに頷きをひとつ。

 

「はい、いいですね。やればできるじゃないですか」

「ふっほっほっほ……ま、まあ、儂にかかればこの程度はね……?」

 

 何百回何千回とペンを走らせたせいで、指先はぴくぴく痙攣していて、なんだか目の前にお花畑が見えそうだった。もう今年は書類なんて絶対に見たくもない。

 しかし、その代償に見合うだけの結果は手に入れたはずだ。

 

「こ、これで、明日行ってもいいじゃろ?」

 

 最近先代に似て鬼より鬼らしくなってきている椛だけれど、そのときの微笑みはさながら天使のようだった。

 

「いいですよ。思う存分楽しんできてください」

「よっしゃああああああああああ!!」

 

 机に突っ伏したまま、操はびたんびたんと全身で喜びを表現した。天魔になってもう随分と長い操だけれど、この歓喜と達成感は過去の何物とも比較できなかった。ちゃんと仕事をしてよかった、と生まれてはじめて思った。苦節数日、操は遂に勝利を勝ち取ったのだ。もうなにも怖くない。

 しかし、これですべてが終わったわけではない。ここまではなんとか操のプラン通り。だから残る最後のピースを上手くはめ込めば、此度の宴会パーティーは非常に有意義で楽しいひと時となるはずなのだ。もうひと踏ん張りだ。あいはぶこんとろーる。

 して、その『最後のピース』が一体なんであるかといえば、

 

「――あのー、天魔様ー」

 

 折よく、向こうの方からやってきてくれたらしい。ノックの音に操は突っ伏したままで、

 

「おー、入っていいぞー」

「失礼しまーす」

 

 一応天狗の長である天魔の執務室にまるで畏まった素振りもなく入ってきたのは、自称清く正しい射命丸文である。彼女こそが、此度の宴会パーティーを最高に盛り上げるために必要な最後のピースなのだ。

 まっすぐ執務机の手前までやってきた文は、その上がほとんどすっきりしているのに気づいて目を丸くした。

 

「あれ? 天魔様、お仕事は終わったんですか?」

 

 操はどやーっと胸を張って、

 

「ふっ……儂が本気を出せば、ざっとこんなもんじゃよ」

「……実際はどうなの、椛?」

「わーいぜんぜん信じてもらえてなーい」

 

 椛は苦笑、

 

「本当にぜんぶ終わったんですよ。ここ数日は、ちゃんと真面目に仕事をしてくれたので」

 

 ようやく信じてくれた文は、へえーと記者の顔つきで手帳とペンを取り出し、

 

「それ、今度の特集記事にしてもいいですか? 『新たな異変の幕開けか!?』って感じのキャッチで」

「儂をなんだと思っとるんじゃ!?」

「天狗一のサボり魔」

「むきーっ!」

「実は近頃鴉天狗の間で、天魔様と小野塚小町はどっちがサボってるか、なーんて議論がアツくてですね」

「嘘じゃろぉ!?」

「まあそれは置いておいて」

「嘘だって言って!?」

 

 このところ椛のみならず、文の態度からも天魔への敬意が薄れている気がする。おかしい、天魔の威信と尊厳は一体どこへ行ってしまったのだろう。

 操の抗議をどこ吹く風と受け流し、文は手帳をしまった。

 

「……それで、私に話があるって聞きましたけど、どうかしたんですか?」

「ぐむっ……そ、それはじゃね」

 

 操は一度言葉を区切って心を落ち着けた。とにかく今は冷静になるのだ。ここから先は慎重に言葉を選ばなければ、操の目論見はあっという間に打ち砕かれてしまうだろう。あいはぶこんとろーる。

 言う。

 

「……月見が今、地底にいるのは知っておるじゃろ?」

「……ええ。それが?」

 

 文からの返答には、やや身構えるような間があった。やはり鋭い。この時点で彼女は、またこちらが妙なことを考えているのではないかと早くも疑いを持ったはずだ。

 ぶっちゃけ言うと大正解なのだが、悟られてはいけない。

 

「明日、藍とか輝夜とかと集まって、月見の見舞いに行くんじゃよ。それで、お前さんも一緒にどうかなーとな」

「……どうして、私なんです?」

 

 もっともな問いであり、そして、予想通りの反応だった。操は机に両肘を立て、いかにもシリアスなオーラを振りまきながら声を澄ませた。

 

「お前さんの、新聞記者としての腕を見込んで」

「……?」

 

 食いついた。

 

「お前さんもわかっとるとは思うが、今の幻想郷には月見の容態を案じとる者が多い。まあ、実際目で確かめることができないから已むなしじゃな。明日の見舞いだって、結局のところ発端はそこじゃ」

「……」

 

 私は心配なんてしてませんけどね、と文が目つきで雄弁に返答してくる。ただしその根底にある感情は、あいつのことだからどうせピンピンしてるに決まってるし、というある種の信頼であるように見受けられる。

 操は改めて強く思う――やはりこの計画、なんとしても成就させねば。

 

「頼みは簡単じゃ。明日、儂らと一緒に地底へ行って、月見の怪我が大事ないことを確かめ、記事にまとめてばらまいてほしい。お前さんが目で見て確かめた事実となれば説得力もあろうから、多くのやつらがこぞって手に取るじゃろう。お前さんの新聞作りに対する熱意は、誰しもが認めるところじゃからの」

「……なるほど」

 

 口元に手を遣って、文が悪くない反応で考え込む。新聞記者としての姿勢を天魔直々に認められて、実に満更でもなさそうである。いま彼女の頭の中では、発行部数の増加見込みについて目まぐるしく予想と計算が繰り広げられているであろう。

 ここでトドメの一押しだ。

 

「なんだったら月見の方はついでで、地底の取材をしてくれたって構わん。……原則立ち入り禁止(・・・・・・・・)の地底について、幻想郷ではじめて(・・・・・・・・)取材した新聞となれば、『文々。新聞』の名は出世街道まっしぐらかもしれんのー」

「…………、」

 

 決まった。

 完璧だ。間違いない。押し黙り、真顔で思考の海に沈んだ文の姿がその証左だ。そう――これがたとえ操の企てた罠であろうとも、地底を実際に取材できるメリットの大きさは計り知れない。出世街道まっしぐらだってまったくの夢物語ではない。ならば疑われるデメリットよりも、保証されたメリットを取る方が明らかに魅力的だと文は考えるはず。

 

「……悪い話では、ないですね」

「じゃろう?」

 

 だからほれ、さっさと行くと言ってしまえ。それで操の計画は成就される。嬉し恥ずかし賑やか楽しい宴会パーティーになる。さあ、さあ、さあ――

 

「そうですね……じゃあ、」

 

 失念していたのだ。横の方でせっせと書類の整理をしていた、犬走椛という名の異物を。

 

「でも文さん、いいんですか? 月見様のところには、覚妖怪がいるっていう話ですよ」

「ちょっ椛おまっ」

 

 ばかあああああ!? と操は心の中で絶叫した。それを言ったら、それを言ってしまったら、

 

「――――へえ」

 

 執務室の空気が、窓を全開にするより効率的にぐっと冷え込んだ。操は恐る恐る正面を見た。とってもステキな笑顔を満面に咲かした、文がいた。

 

「ひっ」

「なるほど、覚妖怪ですか~。それはとっても貴重な情報ですねぇー……」

 

 文はうんうんと二度頷く。そして、あくまで表情はそのままで、しかし声音から一切の優しさが消失し、

 

「――で? 天魔様は、そんな重要な情報をなんで伏せてたんですか?」

「……あああっあのあの実はちょっと忘れちゃってたというかいやー儂ってうっかりさんじゃねーだから決してわざと教えなかったとかそんなんじゃ」

「私の心をその覚妖怪に読ませて、なにをするつもりだったんですか?」

「……あ、あの、文さ」

「ねえ、天魔様? 答えてください」

 

 やばい。

 泣きそう。

 

「天魔様? まさか、私には言えないようなことを企んでたんですか?」

「そ、そんなことないんじゃよ!」

「そうですか、じゃあ一切合切話してください」

「くううっ……!」

 

 操はままらない現実を恨んだ。あと一歩、本当にあと一歩で操の計画は成就していたはずだったのに。これもぜんぶ、余計な口を叩いてくれた椛のせいだ。あのれ椛め、かくなる上は春になるまで一切の仕事をボイコットして泣かせてやる――あれ、それって結局泣くのはおしおきされる儂の方じゃね?

 

「天魔様ぁー?」

「はいぃっ! お前さんが実際月見をどう思っとるのか、ぜんぶ暴いてもらおうと思ってましたぁっ!」

 

 沈黙。十秒ほど首を真綿で絞めるような間があってから、文が更に一層にっこりと笑った。それを見て操も、引きつった頬で精一杯に笑った。

 

 ――天狗の屋敷執務室のみを襲う、極めて局地的なハリケーンが発生した。

 

「失礼しますっ!!」

 

 ぷんすか怒る文が立ち会ったあとの執務室は、そりゃあひどい有様だった。椛の整理した書類がみんな床にぶちまけられ、机の上の小道具があちこちに散乱し、なにか小物が飛んでしまったのか窓は割れ、椛は隅っこで四つん這いになってガタガタ震えていて、操は椅子ごとひっくり返ってひくひく痙攣していた。

 割れた窓から吹き込む冬の風が、冷たい。

 

「……さっ、」

 

 操はひきつけを起こしたみたいに吹き出し、

 

「さすが、文じゃねっ……死ぬかと思った……」

「天魔様のバカぁっ!!」

 

 椛が起き上がって吠えた。涙目だった。

 

「どうしてくれるんですかこの惨状! せっかく整理した書類がめちゃくちゃですし、窓の修理を手配するのは私なんだって何度言えばっ!」

「お、お前さんが余計なこと言うからじゃろ!? じゃなけりゃあ、今頃ぜんぶ上手く行っとったわ!」

「私のせいですか!? 天魔様が、隠し事なんかして文さんに変なことしようとするからでしょう!?」

「お前さんだって、文が実際月見をどう思っとるのか気になるじゃろ!?」

「それは……気になりますけど! でもそういうのは、文さんの方から話してもらえるように信頼を勝ち取るべきでしょう! やり方が悪いんですよっ!」

「いい子ぶってくれちゃってーっ!」

 

 そのとき割れた窓から一段と冷たい風が吹き込んできて、操も椛も無性に虚しくなった。

 

「……とにかく、片付けましょう」

「……うん」

 

 ボサボサの髪を手櫛で整えながら、しゃーない萃香でも誘うかー、と操は思う。月見と一緒に酒が呑めるとなれば諸手を挙げてついてくるだろうし、誰も誘わず独りで行ったら友達がいないと憐れまれそうだし。

 しかし、これで負けを認めるわけでは断じてない。今回はたまたま失敗してしまったが、いつか必ず文の本心を暴いてみせる。なんだったらこれを機に覚妖怪と交流を持って、そのうち地上に招待するのもアリかもしれない。文が行かないというのなら、向こうの方から来てもらえばいい。そして文の心を読んでもらうのだ。ぜんぶ丸裸にしてやるのだ。顔面真っ赤であわあわする文の姿をこの眼で拝むのだ。

 

「むふふふふふ……」

「……」

 

 もちろん今この場に覚妖怪はいないので、半目な椛が一体なにを考えていたのか操は知らないし、想像してもいない。

 ――文さん。今度天魔様に変なことされそうになったら、遠慮なくボコボコにしていいですよ。大丈夫です。この人、そういうの好きなので。

 

 ――天ツ風操、伊吹萃香、参加決定。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ついでに、地底の方はといえば。

 

「――さとりさんっ! 地上から月見くんのお友達を招待して、クリスマスパーティーをします!」

「は?」

「十人くらい来ると思うので、盛り上がって行きましょう!」

「え? ……えっ!?」

「ちなみに千代、……誰が来る?」

「えっと……とりあえず、操ちゃんと輝夜さん、レミリアさんにフランさん、あと幽香さんと藍さんあたりは確定ですね。あ、幽香さんは妖夢さんを誘うと言っていたので、そうなると幽々子さんも来るかもしれませんねー」

「……輝夜と操と、幽香と幽々子ね。そうか。……そうか」

 

 月見が、人知れず混沌を予感していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第113話 「いつか陽のあたる場所で ③」

 

 

 

 

 

「……ふーん。つまり、地上の妖怪がここに遊びに来るってことですか」

「まあ……そういうこと、みたいね」

 

 当然ながら、諸手を挙げて歓迎、というムードにはならなかった。ちょっぴりむすっとするおくうに当たり障りのない返事をしながら、さとりは内心で、ほんとどうしたものかしらと悩めるため息をついた。

 

 地上から月見くんのお友達を招待して、クリスマスパーティーをします! ――と藤千代が突然言い出したのは、つい昼間の話だ。詳しく事情を聞いてみれば、月見が一週間近くも地上に戻ってこないものだからみんなの心配が爆発してしまい、こうなったらお見舞いするしか! となったらしい。それで、クリスマスを間近に控えているのもあって、お見舞い兼異変解決記念宴会兼クリスマスパーティーを突拍子もなく開催する運びとなったのだ。

 ちょっと月見さんを独り占めしすぎたかなあ、とさとりは正直反省している。実際、月見の怪我はもうとっくに完治しており、日常生活への支障はなにひとつなくなったといっていい。それでも、あと一日だけ、あと一日だけとみんなついつい甘えてしまって、気がつけば一週間近くも月見を地霊殿に拘束してしまっていた。さとりがもっと早く月見を帰していれば、こんな悩める話が降って湧いてくることもなかっただろう。

 要するに、身から出た錆、というやつなのだった。

 それでそのあたりの話を、みんなを自室に集めて説明していたのである。

 

「ちょっと、私たちで月見さんを独り占めしすぎたわね」

「なんだかんだで、もう一週間近くですもんねー。あたいもさとり様がそれくらいいなくなったら、地上にだって様子見に行きたくなっちゃいますよ」

 

 まったくもって、お燐の言う通りなのだろう。

 こいしが、全身でぶーぶーと不満をあらわにする。

 

「いつもは地上の人たちが月見を独り占めしてるのに!」

「仕方ないわよ。だって月見さんは、地上の妖怪なんだもの」

「むー!」

 

 もちろん、あと一日だけ一日だけと、一番しつこく月見を引き留めていたのはこいしである。二番目は、ひょっとすると自分だったかもしれない。おくうは例によって口にこそしないが、内心では帰ってほしくないとちゃんと思っている。お燐は、無理にとは言わないけどいてくれた方が楽しいし、と中立寄りだ。

 

「そういうわけで……ごめんなさい、断りきれなくて」

 

 そう言ってから、さとりは慌てて付け加えた。なんだか、月見に悪いような気がしたのだ。

 

「あ、でも、事前に藤千代さんが私のことを話して、心を読まれても構わないっていう人だけ連れてくるみたいよ。むしろ、心を読まれたい人もいるみたいで……」

 

 こいしの目つきが氷点下まで落ち込んだ。

 

「お姉ちゃん……まさかそれ、旧都のアイツらみたいなのじゃ……」

「ち、違うわよ。そうだったら、藤千代さんがぶっ飛ばしちゃってるはずだし」

 

 鬼を中心とする旧都の男性妖怪たちが、藤千代によってぽんぽんぶっ飛ばされ、勇儀によってズガンズガンと地面に埋められたのは、地底の歴史に末永く刻まれる怪事件だったはずである。

 無論こいしの勘繰りはまったくの邪推で、「そっちが心を読んでくるのなら、こっちは月見との切っても切れない仲を思い知らせてやるわ!」というスタンスらしい。読まれてしまうのなら、読まれちゃってもいいさと考えるのだ。

 

「はあ……心を読まれたいって、さすがおにーさんの知り合いは変わり者というか……」

「……前向きな人たちなのよ、きっと」

 

 前向きすぎて、さとりは逆にちょっと怖いくらいだけれど。

 

「ともかく、私の方は心配しなくても大丈夫。だから、あなたたちがどうしたいか、教えて頂戴」

「あたいはいいですよー」

 

 お燐は即答だった。

 

「そういうわけだったら、さとり様にひどいことはしないでしょうし。それにあたい、最近ちょっと地上に興味が出てきてますし」

「私もいいよー!」

 

 こいしもぱっと両手を挙げて、

 

「月見のお友達なら、きっといい人たちだよね! ……あと、そっちばっかり月見を独り占めしないでって直訴するっ」

 

 さとりはほっとした。たとえ月見の友人であっても、地上のやつらを招くなんて絶対に御免だ――もしもそう言われてしまったら月見にどう説明したらいいかと、内心不安に思っていたのだ。

 とはいえ、こいしとお燐に関しては予想通りの回答ともいえる。問題は、

 

「……おくうは、どう?」

「……」

 

 おくうは、やっぱりむすっとしていた。おくうは地上に住む者たちを快く思っておらず、更にはかつての月見に対してがそうだったように、余所者をひどく警戒するフシがある。いくら月見の友人といっても、見ず知らずの他人を地霊殿まで招待するなんて嫌に決まっているのだ。

 否――ある意味では、月見の友人だからこそ、というべきなのかもしれない。

 

 ――だって、そいつらってみんな、あいつと仲がいいんですよね?

 

 おくうの心の声を聞いて、そのかわいらしいヘソの曲げ方に、さとりはどうしても頬が緩むのを抑えられなかった。おくうは大変なヤキモチ焼きで、心を許した人が余所者と仲良くしているのを見ると、とにかく面白くなくて仕方がないのだ。過日の異変を経て、その傾向はますます強くなってしまったように思う。

 世の中には、知らない方が幸せでいられることもある。

 それをさとりは、誰よりも身を以て知っているけれど。

 

「でも、おくう。これは逆に、チャンスかもしれないわよ」

「……?」

「月見さんのお友達みんなと仲良くなれたら。ひょっとしたら、いつでも遊びに来てねって、言ってもらえるかもしれないじゃない」

 

 食いついてきたのは、おくうではなくこいしの方だった。

 

「そっか! そしたら、いつでも堂々と月見に会いに行けるね!」

「ええ。もしかしたら、ね」

 

 今回のお見舞いパーティーが、或いは地底と地上を再びつなぐきっかけになるかもしれないとさとりは思っている。さとりは、さすがに能力の都合で難しいだろうけれど。もしもこいしたちが、地上に来てほしいと誰かから望まれるのなら。太陽の当たる場所に笑顔で出て行けるようになるのなら、それはきっと、素晴らしいことなのだろうと。

 不可侵の約定がどうこうとは言うけれど、結局のところは「行ってもいい」と許され、「来てほしい」と望まれたのなら好きに行き来できるのが実情だ。月見がそうなのだからまず間違いない。というか、地底の代表である藤千代の時点で、むしろ率先して約定を無視しているし。

 

「それなら月見さんが地上に帰っちゃっても、離れ離れというわけではないでしょう?」

「うん! ねえおくう、そしたらみんなで月見に会いに行こうよっ!」

「え、」

 

 おくうがたじろぐ。こいしは眩しいくらいの笑顔で、

 

「あのね、地上ってすごく綺麗な世界なんだよ! 太陽がまぶしくてー、緑がいっぱいでー、空気が美味しくてー、風が気持ちよくてー、空が青くてー」

「あーこいし様っ、あたいも見てみたいです!」

「うん、みんなで行こっ! 月見に案内してもらおうよ!」

「う、うう……っ」

 

 おくうの心が揺れている。お燐はもちろんのこと、おくうだってずっと地底で暮らしてきた妖怪なので、地上に一体どんな景色が広がっているのか少なからず興味はあるのだ。本の中でしか知らない夢の世界を、もしも月見やこいしたちと一緒に、探検することができたなら――。

 こいしに言われてしまえば、おくうに嫌と首を振れるはずもなかった。さとりの前で、誤魔化しは一切通用しない。

 

「じゃあ……おくうも賛成ということで」

「ううっ……こ、こいし様たちと一緒に地上に行くためですからっ。あいつに会いに行けるからとか、そんなの、ぜんぜん楽しみでもなんでもないんですからね!?」

 

 いっそなにも言わなければ、さとりに心を読まれるだけで済むのに。

 もちろん、みんな揃ってにこにこ笑顔を返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幻想郷において、クリスマスとはほんの百年ばかり前まで影も形もない風習だった。

 ある古道具屋の薀蓄曰く、そもそもクリスマスの起源がなにかといえば、キリストの生誕を祝うキリスト教徒の祭日であるとするのが、あくまで一般的な説だという。『あくまで』、という部分をあの薀蓄眼鏡はやけに強調していた気もするが、特に興味もなかったので綺麗さっぱり忘れてしまった。

 だって妹紅は、キリスト教徒でもなんでもないし。

 つまりは、クリスマスが聖人の降誕を記念する祭日である以上、闇の存在である妖怪がそれを祝う道理などあるわけがない。そして幻想郷は、日本においてクリスマスが浸透する前に結界で隔離されてしまった。妖怪はクリスマスを祝わず、人間はそもそもクリスマスを知らず、結果として幻想郷では影も形もない風習だったわけだ。

 ほんの、百年ばかり前までは。

 変わったのは、外来人や、幻想入りした異国の妖怪たちの影響である。彼らがクリスマスという風習を幻想郷に持ち込んだのだ。

 ある外来人曰く、クリスマスとは独り身で寂しい思いをしている老若男女たちが、幸せいっぱいな恋人どもを爆殺して回る狂気の祭りだという。

 ある異国の妖怪曰く、クリスマスとは聖ニコラウスがトナカイを鞭で虐待しながら空を飛び回り、家主が寝ている隙にあちこちの家で不法侵入を繰り返す邪悪の祭りだという。

 もちろんそんなはずはなく、家族や恋人など大切な人と一緒に過ごしたり、いつもより豪華なご飯を食べてみたり、子どもが両親に欲しい物を買ってもらったり――そんな、『ちょっとした贅沢をする日』なのだという。

 ここで重要なのが、『子どもが両親に欲しい物を買ってもらう』の部分である。

 そんな話を外来人から聞かされれば、里の子どもたちはそりゃあもう食いつく。お腹を空かせた野良犬並に食いつく。そうしてクリスマスは爆発的な勢いで里中に広まり、大人たちのお財布事情を涙目にし、やがては妖怪たちにまで波及して、今や『なんかとりあえず羽目を外す日』としてそれなりに浸透しているのだった。

 で、そんな四方山話(よもやまばなし)がどうしたか。

 妹紅たちも、今日はちょっとした贅沢をするのだ。

 

「かーぐやーっ! あ、もこーもいる!」

「やっほーフランちゃーん!」

 

 来るクリスマスイブ当日、水月苑で合流するなり輝夜とフランがきゃいきゃいはしゃいだ。こいついつの間にレミリアの妹と仲良くなったんだ、と妹紅は意外に思った。もっとも、なにがきっかけだったのかは、簡単に想像がついてしまうのだけれど。

 そして座敷の中央に配置されたテーブルでは、レミリアが如何にも「仕方なくついてきただけなんだから!」とアピールしたげな仏頂面で頬杖をついている。妹紅は思わず、

 

「へえ、あんたが出てきたか」

 

 ギロリと睨まれた。

 

「なによ。私がいたらいけないのかしら」

「いやー、そういうわけじゃないけど」

 

 どうやら妹紅たちが二番乗りだったようで、水月苑の茶の間にフランとレミリア以外の先客はいない。玄関に並んでいた二足のかわいらしい靴から考えても、紅魔館からはスカーレット姉妹だけが参加するということなのだろう。

 それが妹紅には心底意外だった。レミリアが出てきたのもそうだが、まっさきに食いつきそうな『あいつ』がいないではないか。

 同じことに気づいたらしい輝夜が、フランとはしゃぐのをやめて首を傾げた。

 

「あら? そういえば、あのメイドはいないのね」

 

 そう、紅魔館のメイドであると同時に水月苑のメイドにもなりつつある、十六夜咲夜の姿がどこにも見当たらないのだ。

 フランが口をへの字に曲げ、あふれる不満を隠しもせずに答えた。

 

「咲夜なら来ないよ。覚妖怪に心を読まれるのが嫌なんだって。つまんないよねっ」

「あー、」

 

 なるほど、あいつはそっち(・・・)のタイプか。

 考えてみれば、当然であった。妹紅たち外の連中に対してはいつも澄まし顔で、ともすれば無愛想な印象すら与える十六夜咲夜も、月見の前でだけは人が変わったように感情豊かな少女なのだ。

 輝夜が玄人顔でため息をついている。

 

「ふう……どうやらあのメイドもまだまだおこちゃまね。ギンを想う気持ちを読まれるのが嫌だなんて……」

「ねっ! なにも恥ずかしがることなんてないのにね!」

「そうよ、むしろ胸を張って語って聞かせるべきだわっ」

「「ねーっ!」」

 

 ほんと仲いいなあんたら。

 少し前の、まだ月見が死んだものと誤解していた頃の輝夜は、どことなく厭世的で人を避けていたような雰囲気があった。フランもフランで以前は狂気とやらに精神を侵されていて、長らく外にすら出してもらえないでいたと聞いている。そんな二人が今や元気に外を歩き、他所の家に集まって、まるでずっと昔から友達だったみたいにはしゃいでいるのだから、きっと先生の存在は大きいんだろうなあと妹紅は思うのだ。

 月見が幻想郷に戻ってきてくれて、本当によかった。そう思う。

 

「……しかしそうだとすると、あんたは心を読まれてもいいってこと?」

 

 レミリアの斜め向かいに腰を下ろしつつ、小声で尋ねてみる。無駄なプライドの高さに定評のあるレミリアまでもが、妹たちと同意見とは思えない。だからこそ、はじめその姿を見たとき妹紅は意外に思ったのだ。

 レミリアは、フランに聞かれないよう声をひそめて答えた。

 

「いいわけないでしょっ。私は、フランにしつこく言われて仕方なく……そう、仕方なく! ついてきてあげただけなのよっ」

 

 その言葉の真偽はさておいて、

 

「じゃあ、いいわけないのに行くってこと?」

「ふん。もちろん、なにも考えずについていくわけじゃあないわよ」

 

 ふふん、とレミリアはこれ見よがしに威張り、

 

「心を読まれないようにする、とっておきの秘策があるのよ。フランの思い通りになってたまるもんですかっ」

「ふーん」

 

 レミリアは果たして、気づいているのだろうか。そうやって秘策まで用意して心を隠そうとすることこそが、なにより彼女の本音を雄弁に語ってしまっているのだと。

 レミリアは、無闇矢鱈にプライドが高い。高潔で誇り高き吸血鬼として、他者へ気を許したり、歩み寄ったりするような心は絶対に見せようとしない。

 つまりは月見へのそんな心を、レミリアは必死に隠そうとしているわけだ。

 そしてそんな心をいい加減に暴いてやりたいと考えたからこそ、フランはこいつを連れてきたんだろうな、と思った。

 テーブルの上に、クッキーやマカロンなど、洋菓子の袋詰めをぎゅうぎゅう乗っけた小さなバスケットが二つ置かれている。その中にひとつだけ、口を縛るリボンに『月見様へ』と書かれた袋があった。中身を覗いてみるに、どうやら手紙まで添えられているらしい。

 あのメイドも参加できないなりに、きっちりポイントを稼ぎに来ているようだ。

 なお、お菓子作りはもちろん普通の料理すら夢物語な輝夜は当然買った物しか持ってきていないし、妹紅に至っては「どうせみんなたくさん持ってくるっしょー」と手ぶらである。

 玄関の開く音が聞こえた。わいのわいのと賑やかな話し声が近づいてきて、

 

「――お、いたいた! メリークリスマーッス! じゃ!」

「「クリスマース!」」

 

 わーい! と輝夜とフランが盛り上がる。やってきたのはハイテンションな天魔を筆頭に、萃香、幽香、幽々子、そして道案内役の藤千代だ。藤千代は手ぶらで、天魔は大きめのバスケット、萃香と幽々子は風呂敷を背負い、幽香は服と同じチェック柄の手提げバッグと、やたら豪華絢爛な花束を持っていた。

 色とりどりの花々がこれでもかと咲き乱れる花束に、フランも笑顔の大輪を咲かせた。

 

「わあ、すごく綺麗!」

「あら、この花の素晴らしさがわかるなんてやるじゃない。私が選びに選び抜いた傑作よっ」

 

 えへんとドヤ顔な幽香を尻目に、幽々子と萃香が妹紅のところまでやってきて、

 

「こんにちは~」

「おんや、冥界のお姫様じゃないか。また随分持ってきたねえ」

 

 幽々子が背負った風呂敷は、実は丸くなった妖夢が入っていたとしてもそう不思議ではないほど見事に膨らんでいる。食いしん坊な幽々子のことなので、中身はすべてお菓子であろう。

 

「そりゃあもう、月見さんとのクリスマスパーティーですもの~」

「全員で分けても食べきれないんじゃないの?」

「え? あ、ごめんなさい、これ私一人分なの……」

 

 うん、知ってた。

 萃香が少し前の妹紅と同じく、レミリアを見て目を丸くする。

 

「あんれ、レミリアがいるよ。へー、あんたが参加するなんて意外だなあ」

「言っておくけど、仕方なくっ、仕方なくよ! ……ってかあんた、背中にしょってるのぜんぶ酒じゃないの!?」

「は? そんなの当たり前じゃん。今日は呑むぜっ」

「すでに呑んでるじゃない……」

 

 いつも通り赤ら顔でふらふらしている酔っ払いの姿に、レミリアは「これだから鬼は……」と顔を覆って呆れ果てていた。

 ともあれ、詳しい参加者は知らないがこれで全員揃ったのではなかろうか。藤千代が指差し確認をしながら、座敷にいる人数を丁寧に数えあげて、

 

「んー、これで全員ですかー?」

「いや、藍のやつがおらんくないか?」

 

 あいつも来るのか、と妹紅はもふもふの九尾を脳裏に描きながら思う。いや、むしろ来るのが当然というべきであろう。月見へ向ける敬愛の念という一点に限れば、同じ妖狐である分だけ、あの九尾の右に出る者は恐らくいるまい。

 とりあえずもう少し待ってみようということになり、みんなでとりとめのない雑談をしたり、持ってきたお菓子を見せ合ったりしながら、およそ五分。

 

「――ああ、すまない。すっかり待たせてしまったかな」

 

 藍は、文句なしで一番のデカさを誇る大風呂敷とともにやってきた。

 

「「「……」」」

「……ん? どうした?」

 

 代表して妹紅が、

 

「えっと、さ。……それなに? なに詰め込んだらそんなになるわけ?」

 

 人が四人は突っ込めそうなほど巨大である。大昔の火事場泥棒だってこうは行かない。爆弾みたいな大風呂敷を背負い、更にそれを九尾で下から支える様はほとんど亀だ。八雲藍は、狐から亀にクラスチェンジした。

 藍は至って事もなげに、

 

「ああ、これかい? 今日のパーティーで作る料理の食材とか、道具とか、あとは月見様への差し入れとかいろいろね。あまり詰め込みすぎると運ぶだけで手一杯になっちゃうから、厳選していたらつい遅くなってしまって」

「あ、それで厳選したんだ……」

 

 妹紅は確信した。今回のお見舞いクリスマスパーティー、一番張り切っているのは間違いなく藍だ。

 

「で、もうみんな揃ってるのかな」

「藍さんにお連れがいなければ全員ですよー」

「よし、じゃあ行こうか。早めに行くに越したことはないからね」

 

 やっぱり一番張り切っている。

 各々荷物をまとめて外に出ると、わかさぎ姫が池の畔まで見送りに来てくれていた。

 

「あー、皆さん。出発されるんですねー」

「ああ。いつもすまないけど、留守番を頼むよ」

「はぁい。旦那様に、よろしくお伝えしてくださいー」

 

 今年の秋頃からここの池に棲みついているわかさぎ姫は、水月苑の番犬みたいな立ち位置を確立しつつある。見た目は如何にもひ弱で頼りないが、水のある場所で力が強化される能力を持っているので、実は見てくれ以上に強い妖怪だったりするのだ。

 もっとも、水月苑で悪事を働くような命知らずなど、そもそも幻想郷にはいないだろうが。わかさぎ姫はもちろん、床下には無縁塚のダウザー率いる妖怪鼠が棲み着いている他、天狗配下の鴉が近くを飛び回っていたりもするので、怪しい真似をしようものなら一発でバレる。バレれば最後、幻想郷トップクラスの大妖怪たち、果ては地獄の閻魔様までみーんな敵に回してジ・エンドだ。水月苑は幻想郷で最も平和な温泉宿であり、同時に幻想郷の最大戦力が常日頃から集中する恐怖の要塞でもあるのだ。

 

(そう考えると先生って、幻想郷で一番怖い妖怪なのかもしれないなー)

 

 敵に回してはいけないという意味で。本人は、大変遺憾な顔をするだろうが。

 交友関係が広すぎるというのも、時には問題なのである。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ばあっ!!」

「ひゃん!?」

「わーいおどろいたおどろいた。ねえねえ、みんな揃ってどこ行くの? あ、もしかして月」

「ふ、ふふフ、アハはハはははハハはははハ!?」

「あれっこれもしかして私しんじゃうやつで」

 

 ぴちゅーん。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 道中、大妖怪のカリスマとプライドを粉々にされた幽香が怒り狂って釣瓶落としを消し飛ばすという珍事があった他は、特に何事もなく。

 妹紅ら一行は、地霊殿正面に到着した。

 

「へえ……悪趣味じゃない紅魔館って感じだね」

 

 少なくとも外見は、海の向こうからそのまま幻想入りしたような純洋館だ。地上で真っ赤っ赤な洋館ばかり見慣れてしまっていた妹紅の目には、逆に新鮮で目新しく映る。そうかこれが普通ってやつなんだよな、と今更のように実感する。

 レミリアに半目で睨まれた。

 

「ねえ、それどういう意味かしら」

 

 天魔が半目で睨んだ。

 

「そのままの意味じゃろ。お前さんまさか、自分の屋敷が普通だと思ってはおらんだろうな?」

「な、なによ! カッコいいでしょアレ!?」

「趣味悪いと思うー。私は水月苑みたいな感じが好き!」

「フラァン!?」

「はーい行きますよー」

「ちょっと!」

 

 味方であるはずの妹に味方してもらえず涙目なレミリアを放置して、藤千代の先導で門をくぐる。庭に入ると、大自然の緑など皆無に等しかった町並みから一変し、折々の植物たちが紅妹らを出迎えた。日本庭園にはない左右対称(シンメトリー)の概念を取り込んだ、格式高く整然としつらえられた洋風庭園。植木はキチンと丁寧に刈り揃えられており、花々の彩りもいっそ地底には場違いなほどで、どうやら優秀な庭師がいると窺える。早速幽香が、仕事人の目つきであちこちを値踏みして回り始める。妹紅は拍子抜けした心地でぽつりと、

 

「へえ、結構ちゃんとしたお庭じゃん」

「そうね。……まっ、ギンのお庭ほどじゃないけどねっ!」

 

 なにゆえお前(かぐや)が偉そうな顔をするのかは謎だが、それ以外の少女たちも、みんな庭の彩りに目を奪われて――

 

「あら、この木の実美味しそうねえ。…………美味しくない!」

「なぜ食った!? なぜ食ったんじゃお前さん!?」

「ちょっと! どうしてあのよさがわからないのよ、赤っていうのは最も誇り高くて美しい色であって」

「その話もう終わったから! あと飛ぶな歩けいま羽がぶつかって枝がポッキリ飛んでったから!」

「ま、待ってくれみんな、風呂敷が植木に引っ掛かって……あっ折れた」

「藍は大丈夫だって信じてたのにっ! ……あっコラ待てフランお前さんも羽が引っ掛かってるいや『うんしょ』とか可愛く言ってもダメだから無理やり抜こうとするなブチブチいってるお花さんがブチブチいっちゃってるってばあああああ!?」

「なにやってるのよそこおおおおおおおおっ!! 乱暴禁止! ここは私に任せなさい、私の能力でこの子を動き回る植物(マンドレイク)に変えれば安全に」

「お願いだから変なことしないでえ!?」

「あ……ごめん操、重りがぶつかって花壇壊れちゃった……」

「もおおおおおおおおおおっ!!」

 

 ――いるはずもなく。天魔がツッコミ役に回っているあたり、早くも混沌として参りました。

 まともなやつは私と輝夜だけか、と妹紅はちょっと遠い目つきになった。

 そして当然、そうやって騒がしくしていれば気づかれるわけで、

 

「おい、なにやってるんだお前ら」

「月見――――――――ッ!!」

「ギ――――――――ンッ!!」

「つーくみ――――――――っ!!」

「月見さ――――――――んっ!!」

「つくみいいいいいいいいいっ!!」

「ぐあー!」

 

 玄関から月見がひょこりと体を出した瞬間、フランと輝夜と萃香と幽々子と天魔が目にも留まらぬ閃光と化して突撃し、扉をブチ抜いて月見諸共屋敷の中に消えた。フランと輝夜と幽々子はタックルだったが、萃香はクロスチョップで天魔は飛び蹴りだった。屋敷の奥から、「ちょっ月見さん大丈夫ですかというかなんですかこれ!?」と誰かの慌てた叫び声が聞こえた。

 妹紅はふっとニヒルな吐息で思う。やっぱりまともなのは私だけだったか。

 さておき、取り残された妹紅らも後を追って屋敷に入る。入ってすぐのエントランスでは、月見がフラン輝夜以下三名に押し潰され、足だけが見える状態でピクピクと痙攣していた。その傍では桃色の髪をした覚妖怪が、どうすればよいかわからずあわあわと右往左往していた。

 彼女こそが件の覚妖怪、古明地さとりだろう。藤千代が元気に挨拶をする、

 

「こんにちはさとりさん、みんなを連れてきましたっ!」

「あ、はい、いや、それはそうなんですけど、その」

 

 さとりが、藤千代と痙攣する月見の足の間で何度も視線を彷徨わせる。間違いなく、「え、なんでこれを見てなにも言わないの? 私がおかしいの?」と狼狽している。その反応を見れば、彼女が極めて常識的でまともな妖怪であるのは容易に知れた。あいつは私と同じ側だな、と妹紅は親近感を抱く。

 広いエントランスだった。天井は首が痛くなるほど背の高い吹き抜けになっており、良く言えば幽玄、悪く言えば少し頼りないランプの明かりの中で、ステンドグラスが一斉に妹紅たちを見下ろしている。正面では腕をいっぱいに広げても足りない幅の広い階段が鎮座していて、赤いカーペットが吸い寄せられるように二階への道筋を作っている。途中で左右に枝分かれし、壁に沿って突き出す形でこしらわれた二階の廊下は、意匠を凝らした白い石柱で荘厳に支えられている。

 そして面白いことに、床にもステンドグラスが張られていて、淡い光でエントランスを照らしあげてくれていた。好奇心から触ってみると、やけに暖かい。そこで妹紅はようやく、着込んできた上着が要らないほど屋敷の中が暖かいことに気づいた。どういう原理かはわからないが、優秀な暖房機能が備わっているらしい。

 レミリアと幽香が背後からすっ飛んできた。

 

「こらフランッ、はしたないわよ離れなさい!」

「そうよ、月見を殺す気!?」

「はいはい、皆さん離れましょうねー。月見くんが青い顔になってますからねー」

 

 藤千代と一緒に、元気すぎる五名を次々と引っぺがしていく。掘り起こされた月見は、だいぶ具合の悪そうな顔だった。人間の輝夜と亡霊の幽々子だけならいざ知らず、吸血鬼のタックルと鬼のクロスチョップと天狗の飛び蹴りを同時に喰らえばそうもなろう。もちろん月見だからこそこの程度で済んだのであり、普通の妖怪だったら三途の川まで下見に行けるし、妹紅だったらたぶんリザレクションが発動する。

 

「み、みんな待ってくれ、また風呂敷が引っ掛かって……ああっ」

 

 そして外では、藍が植物相手に孤独な戦いを続けている。外の空気が寒いのでさっさとしてほしい。

 

「……ああ、変な世界が見えた」

 

 月見が、血の気の戻りきらない顔色でよろよろと起きあがった。まったく、と呆れながら頭を掻いて、それでも最後にはほのかな笑みとともに、

 

「どいつもこいつも、あいかわらず元気そうでなによりだよ」

 

 地上に戻ってこられないほどの怪我をしたという割に、月見の見た目は普段と大して変わっちゃいなかった。強いて言えば服装が簡素な着流し一枚に変わっている程度で、怪我らしい怪我は特に見当たらない。着流しの下に隠されているのか、それとも妖怪の回復力でとっくに完治したのか。

 輝夜が、早速頬を膨らませて袖を振った。

 

「ギンこそっ。怪我をしたって聞いてすごく心配したし、寂しかったんだから! どうして永遠亭に入院してくれなかったの!?」

 

 しかし本気で怒っているわけではなく、妹紅の目にはむしろ嬉しそうにも見えた。こうして月見に会えた喜びが、今までの積もり積もった不平不満を一瞬で消し飛ばしたのだろう。そしてそれはきっと、他の少女たちについても同じに違いない。だってみんなも、嬉しそうに頬が緩んでいるから。

 月見は着流しを整えながら、

 

「そこまでの怪我でもなかったからね。それに、そっちじゃあゆっくり休めそうにもないし」

「なんでー!? 私がバッチリ看病するんだから、ゆっくりできるに決まってるわよ!」

「だからだよ。それで昔なにをされたか、私は今でも忘れていないからね」

「……う、うぐぅ」

 

 確か、月見にご飯を食べさせようとして喉を箸で突いた他、ご飯を作ろうとしてはボヤ騒ぎを起こし、本を持ってこようとしては本棚を倒して押し潰された、という話だったはずだ。絵に描いたような不器用ぶりを、妹紅はある意味で尊敬している。

 ようやく、藍が追いついてきた。

 

「ふう。……月見様、ご無沙汰していました」

「ああ、一週間振りくらいか。……やけに大荷物だね」

「月見様の身の回りの物など、いろいろ持ってきましたので」

「ねーねー月見ー!」

 

 フランが元気に手を挙げ、

 

「フラン、すごく心配したよ! お姉様も心配してたよ!」

「そんなわけないでしょ!?」

 

 脊髄反射で叫ぶ姉を無視し、はっとなにかを思い出した顔で覚妖怪を見た。

 

「そうだっ。えーと、あなたが藤千代が言ってた覚妖怪?」

「えっ……え、ええ、そうだけど……いや、そうですけど」

 

 いきなり気さくに話しかけられるとは思っていなかった覚妖怪が、若干面食らいながらも頷く。するとフランは、笑顔で姉を前に押し出し、

 

「お姉様の心を読んでくださいっ。お姉様は、月見のことをどう思ってますか!」

「フラアアアアアン!?」

「ぐええ」

 

 一瞬で沸騰したレミリアが、フランの胸倉を掴んで激しく前後に揺さぶる。しかしそうこうしている間にも、覚妖怪がその能力でレミリアの秘めた本心を、

 

「……?」

 

 本心を、

 

「……あれ? ご、ごめんなさい。なんだか、この方の心は……読めない……、みたい?」

「えーっ!?」

 

 フランがレミリアの両腕を引っぺがし、逆に胸倉を掴み返した。

 

「なんでどーして!? お姉様、なにしたの!?」

「……ふ、ふふん。どうやら上手く行ったみたいね」

 

 上手く行くかどうかはレミリア本人も半信半疑だったらしく、彼女は心底安堵した様子で、精一杯誇らしげに胸を張った。

 

「なぁに、気にすることはないわ。あなたは私の心を読めない運命(・・・・・・・・・・)だった――そういうことよ」

「お姉様のばかーっ!!」

「ぐえええええ!?」

 

 めちゃくちゃ揺さぶられるレミリアを尻目に、ああそういうことか、と妹紅は納得した。レミリアの持つ能力、『運命を操る程度の能力』――その力で心を読まれない運命に操作することが、彼女の言っていた『秘策』だったわけだ。

 スカーレット姉妹お得意の、姉妹(きょうだい)喧嘩の始まりである。

 

「信じらんないっ、どうしてそこまでして隠そうとするの!? 私、さすがにちょっと異常だと思うよ!」

「う、うるさいわね、自分の能力を自分の好きなように使ってなにが悪いのよっ! ってかおかしいのは、なんでもかんでも読まれても構わないって思ってるそっちの方でしょ!?」

「……むーっ!」

 

 フランがレミリアの胸倉から手を離し、頬をぷっくりと膨らませる。しかし、気にすることはない。そうやってかたくなに本心を隠そうとすることこそが、「月見のことをどう思ってますか!」に対するこの上ない回答なのだから。

 無論おバカなレミリアはまったく想像もしておらず、えへんえへんと更に鼻高々に、

 

「残念だったわね……そう簡単にあなたの思い通りにはならないわよ!」

「……」

 

 フランは冷ややかな半目でレミリアを睨み、それからいきなり笑顔で、

 

「まあ仕方ないよねっ。心読まれたら、月見のことめちゃくちゃ心配してたってバレちゃうもんね!」

「そーよ、まったくそんなの冗談じゃな――フラアアアアアァァァァァンッ!!」

「きゃー♪」

 

 言った傍からフランの思い通りになっているあたり、やはりこの吸血鬼、おバカである。

 盛大に自爆し発狂するレミリアと、してやったりなフランが、吹き抜けになったエントランスの宙でぐるぐると追いかけっこを始める。その騒がしくも微笑ましい喧騒に、覚妖怪が暖かな息をついた。

 

「ふふ、とっても仲良しな姉妹なんですね。月見さんが以前お話ししてくれた……」

「ああ、レミリアとフランだよ。……ついでだし、自己紹介でもしておこうか?」

「あ、そうですね」

 

 はじめはやや緊張した風だった覚妖怪も、おバカなレミリアを見ていたら気が解れたのだと思う。妹紅たちに向けて、ぺこりと行儀よく頭を下げた。

 

「皆さん、はじめまして。ようこそ地霊殿へ。わたくし、主の古明地さとりと申します」

「覚妖怪の力を悪用したりしない、とてもいい子だよ」

「はい、私はとてもいい子で――ちょっと月見さん、そういうのナシでお願いします!?」

「とっても優しい妖怪さんですよー」

「藤千代さんまでやめてくださいってば!」

 

 さとりが赤くなって慌てている。昔から心を読む力を恐れられてきた影響で、ストレートに褒められる耐性がないのかもしれない。もしもそうだとすれば、

 

「大変だねえ。先生って、ああいうことを息するみたいに言うでしょ」

 

 さとりは大きく三回も頷いた。

 

「はい、もうとっても大変で! ちょっとは自重してほしいです!」

「……なんで私が悪いみたいな話に?」

「知りませんっ」

 

 自然と女の子を褒められる性格も、まあそれはそれで問題なのだ。

 さとりは改めて妹紅を見て、

 

「ええと……藤原妹紅さん、ですね? 月見さんから、お話を聞かせてもらったことがあります」

「へえー。先生、私のことなんて思ってた?」

 

 さとりは少し考え、月見を一瞥し、それから微笑んで、

 

「輝夜さんとこれからも仲良くしてほしいと……今だって、輝夜さんと一緒に来たのをすごく嬉しく思ってますよ。……あら、輝夜さんが誘ったんですか」

「ああそうだよ。もおー、お願いだから一緒に行こうってほんっとしつこくってさー」

「妹紅、喧嘩なら買うわよ」

「また私の圧勝でいいわけ?」

「はー? あのときは慈悲深く手加減してあげただけですー」

「あとは、そうですね……釣りバカトリオの一人、と」

「へえーそうなんだ、まあ私も慎み深く手加減しまくってたけどいやちょっと待ってなに釣りバカトリオって」

 

 月見が「やべ」みたいな顔で目を逸らした。

 

「……せーんせえー? 釣りバカトリオって、橙やルーミアと合わせてってこと? ふーんそんな風に思ってたんだー知らなかったなー」

「待て妹紅、落ち着け」

「とりゃあーっ!」

「いででででで」

 

 月見の背中に飛びかかって耳をぐいぐいと引っ張る。ちょうどその上の天井付近では、遂にレミリアに捕まったフランが頭にグリグリ攻撃を喰らって、「ふみ゛ゃあ゛あ゛あ゛……」と潰れた猫みたいな声をあげている。

 はいっ! と輝夜が手を挙げ、

 

「今度は私ね! 蓬莱山輝夜ですっ。ギンは私のことなんて言ってた?」

「ええと……お転婆なお姫様で、でもそんなところをかわいらしく思ってるようでしたよ」

「えっ……そ、そう。もぉーギンったらぁ、普段はそんなことちっとも言わないくせに」

「あと、紫さんとこれからも仲良くしてほしいと」

「ギイイイィィィィィン!?」

「あだだだだだ」

 

 輝夜は月見にぽかぽかと殴りかかった。

 

「なんで!? なんでそんなこと考えてるの!? あいつと仲良くしろとか冗談でしょ!?」

「いや……お前実は、あいつと結構仲良」

「ぜ――――――――ったい違うありえないっ!! あいつは……宿敵だし! 倒すべきライバルだし! 冬眠して清々してるしっ!」

「実際どうなんだい、さとり」

「えーっと、それはですね」

「にゃー! にゃーっ! にゃあぁぁーっ!!」

 

 猫みたいに絶叫して必死に隠そうとするあたり、どうやら満更でもないらしい。輝夜をイジるネタがまたひとつ増えたな、と妹紅は頭の片隅にしっかりとメモを取った。

 はいはーい! と今度は天魔が、

 

「天魔こと天ツ風操ちゃんでーっす! 儂は儂は? 儂のことはなんて言っとった?」

「幻想郷一のサボり魔ですね」

「コンチクショ――――――――ッ!!」

 

 操の悔し涙あふれる突進攻撃を、月見は尻尾でもふんと弾いた。

 次は幽々子である。

 

「はーいっ、西行寺幽々子でーす! 私は私は?」

 

 自己紹介の目的が、『さとりに挨拶すること』から『月見が自分をどう思っているのか聞き出すこと』へとすり替わりつつある。

 さとりは、少しだけ答えを躊躇った。

 

「ええと……従者の方が、すごく大変みたいで……」

「……私のことは?」

「その……従者の方が……」

「私……」

「従者の……方が」

「私のことはなにも言ってないんですか月見さんのいけずーっ!!」

 

 やっぱり幽々子も突撃して、やっぱり尻尾にもふんと弾かれた。

 幽香が、

 

「風見幽香よ。私のことはもちろん聞いてるでしょう?」

「あ、はい。主に友情が重いと」

「重いってなによこれくらい普通でしょ月見のばか――――っ!!」

 

 やっぱり幽香も以下略。

 萃香、

 

「はいっ伊吹萃香です!」

「あ、はい。あなたのことは……特になにも聞いてないです」

「嘘でしょぉ!? なんでどーしてひどいよ月見のいじわる――――――――ッ!!」

 

 以下略。

 そして最後に藍が、

 

「ああもう、お前たち……ここは他所の屋敷なんだからもう少し静かに」

「ちなみに藍さんのことは、世界で一番優秀な式神だと仰ってましたよ。紫さんには勿体ないくらいだと」

「へっ……そ、そうか。そうかそうかっ……」

「「「藍ばっかりズル――――――――いっ!!」」」

「みんななにしてるの――――っ!!」

「あっフラン待ちなさい話は終わってないわよおっ!!」

 

 褒めてもらえなかった少女たちのブーイングが飛び交い、更にフランとレミリアが合流して喧騒はますます加速する。そんな珍妙で愉快な光景を眺めつつ、妹紅は月見の背にぶら下がりながら喉で笑う。

 

「賑やかなパーティーになりそうだねえ」

 

 月見は、肩を竦めるような仕草をした。

 

「本当に、騒がしい子たちだよ」

「……でも先生、楽しそう」

 

 む、と一言唸る。

 そうなのだ、月見というやつは。自分は元気すぎる少女たちに振り回されているのだという(てい)をしてはいるが、そんな境遇を嫌がるどころか内心では楽しんでいて、ある意味で望んで振り回されている。間違いない。妹紅はいつも周りより一歩引いた位置で彼の姿を見てきたから、岡目八目というやつだ。

 さりげなく月見の腕にひっついている輝夜が、むふーっと得意げな鼻息で、

 

「地上に、早く戻りたくなったでしょ。というかもう今年も終わっちゃうんだから、早く戻ってきなさいっ」

「そうだよ。年越しの宴会は水月苑でやるんだって、みんな今から楽しみにしてるんだからね。家主がいないなんてそんなのダメだぞー」

「年越しの宴会って……またお前たちは勝手なことを」

「「でも満更でもない」」

「……」

 

 ……そうなのだ、月見というやつは。

 ほんのちょっぴり――本当にほんのちょっぴり気恥ずかしそうに頬を掻く月見が、なんだかものすごくおかしかったので。

 妹紅と輝夜はにかっと笑い、今よりも少しだけ、強く月見にひっつき直してみた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 淡い森の中を行く。

 今日も今日とて空には厚い雲が層を成し、幻想郷に降り積もったたくさんの雪を太陽の光から守っていた。人の手が入り込んでいないこのあたりの山奥は、雪かきをするような者もおらず地面が白一色に染まっている。天も地も限りなく白で覆われた冬の景色は、新しい季節の訪れがまだまだ遠いことを見る者に物語っている。事実、時折雪を舞いあげながら吹きつけてくる風は目も開けていられないほどで、主人の手作りであるふかふかコートと手袋が命綱みたいに手放せない。

 そんな白の山奥で、橙は動物たちの往来で踏み固められた雪の獣道を、御供の化け猫たちと一緒に進んでいた。

 

「うー、今日も寒いねー」

 

 足元の猫たちが、ふみゃーと半分挫けたような声で鳴いた。本当にその通りだと橙は頷く。猫はこたつでなんとやらの例に漏れず、橙も冬の厳しい寒さが決して得意な方ではない。冬はやはり、火鉢や囲炉裏をみんなで囲んで惰眠を貪ったり、こたつにもぐりこんで溶けた餅みたいになったりするのが一番快適な過ごし方なのだ。

 ではなにゆえ橙が、わざわざマヨヒガを離れてこんな寒い山の中を歩いているかであるが。

 

「でも、藍様に頼まれた大切なお仕事だからね。頑張るよっ」

 

 具体的には、異変の影響で発生してしまったあちこちの間欠泉が、ちゃんと活動を止めているか経過観察するお仕事だ。藍は冬眠した紫の代わりに――否、冬眠関係なく常日頃から――いろんな仕事を担当していて忙しいので、せめて橙がちょっとでもお手伝いをするのである。

 とりわけ今日は、藍がバカみたいにデカい風呂敷をこさえて地底に出掛けていった日。およそ一週間振りに月見に会える今日という日を、藍はずっと楽しみにしていた。鼻歌交じりで支度をするほど楽しみにしていた。藍はいつもお仕事を頑張っているから、せめて今日一日くらいは思う存分羽を伸ばせる日であってほしいと思う。よって橙が式神として果たすべき役目は、任された仕事を抜かりなく成し遂げて、帰ってきた藍に「お前に任せてよかった」と安心してもらうことなのだ。ついでに頭を撫でてもらえるととても嬉しい。

 ふんすっ、と気合を入れた。その瞬間一際冷たい風が木々の間を駆け抜けてきて、ぴいっと縮こまった。

 

「……うう、早く春にならないかなー」

 

 そうすれば紫だって冬眠から目覚めて、また賑やかな毎日を送れるのに。

 今の生活に不満があるわけではないけれど、紫が冬眠していて、月見まで地上を離れていて、やっぱりちょっぴり寂しい。

 

「せめて、お日様が出てくれれば……」

 

 ぶ厚い雲の層を恨めしく睨みつけた、そのとき。

 橙は視界の片隅で、雲の向こうに影を見た。

 

「……?」

 

 しかしその方向へ目を向けたときには、すでになんの変哲もない白が広がっているだけ。

 

「??」

 

 思わず足を止めて見入っていたら、足元で仲間が鳴いた。

 

「あ、ごめん。なにかが飛んでた気がして……」

 

 あまりに一瞬だったので、気のせいだったのかもしれないけれど。

 

「なんだか……すごくおっきかったような……」

 

 鳥や妖怪の類ではなかった、と思う。それよりももっと大きな、ともすれば人工物のような(・・・・・・・・)――。

 仲間の胡乱な声、

 

「……あはは、そうだね。見間違いに決まってるよね」

 

 ここは幻想郷だ。気球や飛行機のように(・・・・・・・・・・)空を飛ぶなにか(・・・・・・・)が、まさか存在するはずもない。

 さしずめ天狗あたりが、群れを作って遊んでいたのだろう。そう自分で自分を納得させた途端、また冷たい風が吹きつけてきて、

 

「さぶゅい! あーっ、早く終わらせてあったまろっ!」

 

 束の間その場で駆け足、橙は仲間たちを引き連れて足早に目的地へ向かう。

 そしてそれっきり、このときのまるで些細な出来事の記憶は、冬の北風に吹かれていずこかへ消えてしまった。

 

 

 考えてみれば、当たり前のことだったのだ。

 今年はまだ、終わってすらいない。

 

 春は、まだまだ遠い。

 冬は、まだまだ続くのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第114話 「いつか陽のあたる場所で ④」

 

 

 

 

 

 もちろん、さとりは今まで一度もクリスマスを祝ったことがない。

 そもそもの話をすれば、ほんの何十年か前までは、そんな風習がこの世に存在することすら知らなかった。旧都に住む妖怪はさとりを含め、この国でクリスマスが広がるより前に太陽の下を去った者たちであり、遠い異国の風習を知る物好きなどまったくの皆無だった。藤千代が地上の新しい文化を伝える風通し役となっていなければ、今でも旧都の妖怪たちはクリスマスを知らずに生きていただろう。

 とはいえ毎日を自由気まま、贅沢も倹約もやりたいように生きている妖怪たちが、「いつもよりちょっと豪華な日」をわざわざ祝おうとするはずもなく。今日がクリスマスだからといっても、窓越しに見える旧都の景色は普段となにも変わらない。寒い分だけ今までの季節と比べても人通りは少なく、疲れを知らない子どもが雪の中を元気に跳ね回り、大人は赤い提灯を垂らした居酒屋に虫のように誘われて、料理と酒で体を温めている。

 何年も窓から眺め続けてきた、いつも通りの冬の景色。

 だから地霊殿のクリスマスも、特に例年と変わらず物静かに終わる――はずだったのだ。ほんの数日前までは。

 

「ねーねー月見ー、この『くりすますつりー』ってなんのために飾るの?」

「元は、樹自体が人間の信仰の対象だったそうだよ。一年中葉を落とさない常緑樹は、永遠の命の象徴だってね」

「へー。人間が好きそうな話だね!」

 

 さとりは今でも半分信じられない。まさか妖怪の自分たちが、ある聖人の生誕を記念するというクリスマスを、聖人の象徴でもあるツリーまで飾って祝おうとしているなんて。

 地霊殿にも、ダイニングルームがある。洋風建築において、会食の目的で設計される広間――早い話が食堂である。食事をするための部屋なので、当然、その目的にそぐわないものは置かれていない簡素な部屋――のはずなのだが、今年はどういうわけかその一角に、天井まで迫る一本の緑が出現していた。

 藤千代が地上からポキッと(・・・・)折って持ってきた、もみの木である。ダイニングに収まるよう形を整え、足場を固定した天然のクリスマスツリーに、こいしたちと月見が和気藹々と飾りつけを行っているのだった。

 どういうわけかといえば、もう間もなく地上から月見の知人友人がやってきて、ここでクリスマスパーティーが催されるからなのだが。

 

「……月見さん」

「うん?」

 

 月見が雑紙をクシャクシャに丸めて玉を作り、淡い妖気の発散とともに術を込める。さとりの目の前で、紙の玉が黄金色に輝くボール――オーナメントボールというらしい――に変化する。狐お得意の幻術で作り出したそれをこいしが受け取り、クリスマスツリーの写真が載った本とにらめっこをしながら、こんな感じかなーと楽しそうに飾りつけていく。さとりはそれを横目に、

 

「妖怪がクリスマスを祝うことについて……その、なにか思うところはないのかな、と」

 

 クリスマスは元を辿れば聖人の生誕を記念する祭りであり、魔の存在である妖怪にしてみれば、聖人とははっきり言って天敵だ。よって妖怪がクリスマスを祝えば、それすなわち、天敵の生誕を喜ぶ裏切り行為であるといえる。さとりは今、とんでもなく歪な光景を目の当たりにしているはずなのだ。

 しかし月見は何食わぬ様子で、

 

「変かな?」

「だって、クリスマスは……」

「元の話をすれば、確かに人間の宗教行為だけどね。それは海の向こうの話。この国じゃあクリスマスは、宗教行為としては定着しなかった」

 

 月見はまた雑紙を丸め、今度はそれを星型の飾りに変えた。お燐がそれを受け取り、こいしと一緒になってどこに飾るか考え始める。おくうはその横で、綿の塊を両手に疑問符を量産している。

 

「日本のクリスマスは、ただのお祭り騒ぎをするための日さ。だったら別に、妖怪が参加したっておかしくはないだろう?」

「それは……そうかもしれませんけど」

 

 なんだか、あの雑紙みたいに丸め込まれているような気がする。

 おくうが、綿の塊を月見のところに持っていって尋ねる。

 

「ねえ、これはどうすればいいの?」

「適当に千切って枝に乗せるんだよ。雪が積もったイメージでね」

「ん」

「……決めた! やっぱり一番天辺につけて、リボンも巻こ!」

「わかりました!」

 

 けれど、月見たちが仲良く飾りつけを進める姿を見ていたら、細かいことはいいか、と思った。あまり細かくはないかもしれないがともかく、こいしたちが楽しくやっているのだから、水を差すのも野暮というものだろう。

 こうやって「みんなで一緒になにかをする」光景も、今の地霊殿では珍しいものではなくなった。思わず笑みがこぼれ――それと同じタイミングでさとりは、ふと庭の方が騒がしくなったのに気づいた。聞き馴染みのない少女たちの元気な声が、遠い距離を物ともせずにこのダイニングまで響いてくる。

 というかこれは、「元気」というよりも、

 

「……どうやら、来たみたいだね」

 

 なんだか、騒々しいというか。

 月見がのっけから目を覆っている。蓬莱山輝夜、フランドール・スカーレット、西行寺幽々子、風見幽香等々――月見の友人でもとりわけ厄介な溌剌(はつらつ)少女たちが、いきなり騒ぎを起こしているらしい。

 耳を澄ませるに、ちょっと庭の具合がよろしくない感じになっていそうである。月見が切り替えるように顔を上げ、

 

「迎えに行こう。こいしたちは、飾りつけを続けててくれ」

「はーい!」

「いってらっしゃーい」

 

 元気に返事をするこいし、手を振るお燐、そしておくうだけが固い表情のままで立ち尽くしている。綿をキツく握る指先ににじんでいるのは、見ず知らずのやつらが一度にたくさん押し寄せてくることへの不安であり、緊張であり、ほんの一摘みの嫉妬でもあった。今回のパーティーでみんなと仲良くなれば、自分たちだって地上へ行けるようになるかもしれない――そうは言っても、やっぱり不安なものは不安なのだ。

 

「もぉーおくう、そんな顔してちゃダメだよ! はい、笑顔の練習!」

「にゅ、……うにゅにゅにゅ!?」

「そうだよほら、リラックスーリラックスー」

「うひゃあ!?」

 

 こいしに頬をむにむに引っ張られ、お燐に脇のあたりをくすぐられて、おくうは翼を打ち鳴らして大暴れした。二人を振り払って逃げ出すものの、こいしとお燐は面白がって追跡し、三人揃ってダイニングをグルグルと回り始める。庭の騒ぎに負けずとも劣らぬ賑やかな光景が、知らず識らずのうちにさとりの頬をそっと緩める。

 

「……じゃあ、ちょっと行ってくるわね」

 

 打ち明けてしまえば、不安なのはさとりだって同じだ。

 願わくはこのまま、みんな笑顔で終われればと思う。しかし、藤千代や月見の友人ならばと信じてはいても、今までの境遇のせいもあって、悪い想像がどうしても片隅から消えてくれない。

 ――まあ、結論を言えば。

 未来のさとりは、このときの自分の想像を、鼻で笑って吹き飛ばすことになるのだけれど。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして出迎えに行った月見とさとりがどうなったかは、ご周知の通りである。

 ただ迎えに行って戻ってくるだけで、どうしてここまで時間が掛かるのか。お陰でこいしたちをすっかり待たせてしまって、ダイニングに入るなり「おっそーい!」と怒られてしまった。

 地霊殿のダイニングは、外見の大きさの割に決して広くはない――と感じてしまうのは、言うまでもなく紅魔館のせいだろう。外見の大きさはどちらも大差ないが、向こうは咲夜の能力で空間が拡張されているため、ダイニングひとつを取ってみてもとにかく広い。一方で地霊殿は、空間を拡張する技術がないのは無論だが、住人の大半がさとりとこいしのペットである。獣の姿をしたペットたちが椅子に座って食事をするわけはないから、席は八つもあれば多いくらいであり、結果としてそれ相応の広さで落ち着くことになるのだ。

 さて。ここで一度、いま現在外からお招きしているお客さんの人数を確認してみよう。

 月見を含めて、蓬莱山輝夜、藤原妹紅、八雲藍、レミリア・スカーレット、フランドール・スカーレット、風見幽香、西行寺幽々子、伊吹萃香、藤千代、天ツ風操。更には今日も今日とて地底の修復作業に勤しんでいる八坂神奈子と洩矢諏訪子を、このあと星熊勇儀が連れてきてくれる手筈になっている。

 つまり十四人であり、さとりたちも入れれば十八人である。

 当然、座れるわけがない。また、某苦労人同盟の夏の陣とは違って、詰めればなんとかなるような人数でもない。

 よって今回はいっそのこと椅子を取っ払い、立食形式でのパーティーであり。

 藍が張り切って料理の支度をしている間に、こいしたちをみんなに紹介していたのであるが、

 

「「「式神――――――――――――――――っ!?」」」

 

 まあ、こうなる。

 砲弾みたいな絶叫が真正面から直撃し、びっくりしたおくうは一目散で月見の背中に隠れた。大袈裟にも背縫いを引っ張ってしがみつかれ、月見はややバランスを崩しながらも、

 

「ああ。ちょっと、訳あってね」

「はいっ、私知ってるよ! シキガミって、私たちで言うところの使い魔みたいなものでしょ?」

「そうだよ、正解だ」

 

 むふー、とフランが小さな鼻から大きく満足げな息をつく。あくまで『みたいなもの』であり、細かい話をすれば違う点は多いし、月見とおくうの関係は『主従』とは違うのだけれど。

 妹紅が、品定めの目つきでおくうを見ている。

 

「へえー、まさか先生が式神をねえ……でも、誰かを束縛するようなのは嫌なんじゃなかったっけ?」

「だから、ちゃんと訳があるんだって」

 

 なぜ月見がおくうを式神としたのか、過日の異変について掻い摘みながら経緯を説明する。もちろん、彼女を従えるような目的で式神にしたわけではないと、念入りに強調してである。四回くらい強調した。

 粗方の話を聞いて、輝夜が難しい顔で腕組みをした。

 

「ふーむ……つまり、その子の力がまた暴走したりしないように、式神にして月見が制御してあげてる……と」

「そんな恩を着せるようなものじゃない。ただの自己満足だとも」

「ふーん。ギンらしい話」

 

 勝手に誤解されて騒がれる事態は、回避できたらしい。輝夜は、ちょっぴり対抗意識を燃やした風で胸を張った。

 

「まっ、私のときも随分と勝手なことして、勝手に私を助けてくれたしね!」

「あら、それだったらこっちも心当たりがあるわよ」

 

 レミリアも、どういうわけか若干得意げに、

 

「あのときあなたがやったこと、私、ちっとも忘れてなんてないんだからね」

「……悪かったよ。でも、お前たちの方だって勝手だったのは同じ」

「聞く耳持ちませーん」「なんのことかしらねえ」

 

 理不尽。

 

「……」

「いて」

 

 おくうが、なにかを訴えるように爪を立ててきた。

 

「というかおくう、いつまで私の後ろに隠れてるんだ」

「う、うにゅ……」

 

 月見がはじめて出会った頃の、烈火のようなおくうとはまるで別人だ。月見の背中に隠れてじっと縮こまっていて、みんなの前に出ようとする気配はない。当時の尖り様を猛禽類に例えるなら、今の彼女はさながら雛鳥である。もっとも、あれだけのことがあったのだから、無理もないのかもしれないけれど。

 

「ごめんねー。おくう、はじめての人はちょっと警戒しちゃって」

 

 こいしがみんなに苦笑で詫びた。

 

「人見知りなの。でも、みんながいい人だってことはちゃんとわかってるはずだから! ね!」

「……うー」

 

 両手でしっかり掴んだ月見の着流しに、おくうは複雑によじれる幾筋もの皺をつけた。

 

「いやー、でもあれだねー」

 

 するとお燐がおくうに意味深な横目を向け、尻尾をくねくねさせながらにやりと、

 

「こいし様じゃなくておにーさんの後ろに隠れるあたり、おくうも案外」

「うにゃああああああああっ!!」

「うみ゛ゃあああああああっ!?」

 

 一発で半狂乱に陥ったおくうが飛び出し、お燐の耳をちょっと冗談にならない具合で引っ張った。同じ獣耳を持つ者として、うっすら鳥肌が立つほどの勢いだった。

 お燐がおくうを振り払って逃走する。しかしおくうは猫顔負けに素早く追いかけ、真っ赤な後頭部にぽかぽかと殴りかかる。

 

「お燐のばかあっ!! ばかあああああ!!」

「ちょ、ちょっと待っておくう痛っ、ぎょあー!?」

「ちょっとおくう、お燐、なにを騒いでるの?」

 

 騒ぎを聞きつけ、キッチンの方からさとりがスリッパを鳴らしてやってきた。向こうでは、今回のパーティーに相応しいケーキを作ると意気込む藍が生クリームと格闘していて、さとりと藤千代がお手伝いをしているのだ。開きっぱなしになったドアの奥から、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。もちろん、鉄板の苺ショートである。苺ショートが嫌いな女の子はいないのだ。

 エプロン姿なさとりは腰に両手を遣り、

 

「もう。ダメよ、お客様の前でうるさくしちゃ」

「だ、だってぇ……!」

「とりあえず叩くのやめてゴメンナサイ!?」

 

 行儀の悪いペットをたしなめる主人の顔など一瞬で、おくうの心を読んだ彼女はすぐ笑顔になった。

 

「あら。……ふふふ」

「う、ううっ……」

「大丈夫よ。みんないい人たちばかりだって、私が保証するわ。それに、こいしやお燐と一緒に(・・・・・・・・・・)、いつか地上に行きたいんでしょ? だったら仲良くなっておかないと」

 

 なにか、妙な含みがあった気もするが。

 どうあれさとりの言葉は、おくうの心に届いたようだった。

 

「……う、うー」

「あっおくう待って耳そんないじらないで、ふ、ふみゃみゃあ……」

 

 もしかするとおくうには、恥ずかしいときや心細いときには、なにかを触って落ち着こうとする癖があるのかもしれない。お燐の耳を両手でいじくり回し、びくんびくんと震える家族に半分隠れながら、おくうは蚊が鳴くよりもか細く勇気を振り絞った。

 

「れいうじ、うにゅ、じゃない、うつほ……です。よ、よろしく……」

 

 やや、間があった。無論それは、おくうの精一杯の挨拶を無視するものではなく。言葉の意味を理解した少女たちへ、じわじわと笑顔が広がっていくまでに掛かった時間だった。

 操が万歳をして吠えた。

 

「よ――――っし!! それじゃあみんなでうにゅほに質問タ――――――――イムッ!!」

「「「いえーっ!!」」

「う、うにゃ!?」

 

 操を筆頭にして、フラン、輝夜、幽々子のお転婆娘たち――及びフランに引っ張られてレミリアまで――が、早速おくうに突撃した。どぎまぎするおくうを五人で取り囲み、

 

「はいはーいっ! 月見のシキガミってどんな感じなの? 守ってもらえてる感じがしたりするのっ?」

「えっ……べ、別に……そんなの、なにも変わらないし……」

「はいダウトー!! うにゅほは嘘が下手っぴじゃあっ!」

「ズル――――――い!! 私も守ってもらいたーい!!」

「フランそれどういう意味!?」

「ち、違うもん違うもん、ほんとになにも変わらないもんっ! っていうかうにゅほじゃないもんうつほだもん!!」

「でも、ギンは『おくう』って呼んでたわよね……あだ名?」

「お、お前たちは絶対にダメだからっ! 『おくう』はダメなの! 特別なのっ!」

「……あらあら~? じゃあ月見さんって」

「にゃああああああああああっ!?」

「だからあたいの耳引っ張るのやめてってばああああああああ!?」

 

 ああ、早くも目も当てられない大騒ぎに。

 矢継ぎ早に質問の雨を降らせる少女たちと、うにゃーうにゃーとすっかりてんやわんやなおくう、そして耳をいじられ過ぎてそろそろ涙目なお燐。かしましく、騒々しく、けれど不思議と心が和らぐその喧騒に、月見は半分呆れつつも半分安堵し、さとりはクスクスと心地よく笑った。

 まるで、ここが地上であるかのような。

 不安がなかったといえば嘘になる。月見自身、はじめて地霊殿を訪れてから半年以上も時間が掛かってしまったのだ。みんなを信じていたとはいえ、地上の人たちを招待なんてしたら一体どうなってしまうのか、悪い想像を拭えなかったのは素直に認める。

 ぜんぶ消し飛んだ。

 おくうの警戒はまだ解れずとも、それも今ばかりだろう。輝夜たちの底なしに明るい人柄は、間違いなくおくうの心の扉に手を掛けている。月見が半年以上掛けてようやく辿り着いた場所に、この少女たちなら、或いは今回のパーティーだけであっという間に追いついてきてしまうかもしれない。

 それが、ただ、嬉しかった。

 

「よかったー。おくう、みんなと仲良くなれそう」

 

 本当に、こいしの言う通りだと思う。

 

「……お前も、交ざってきたらどうだい」

「そうする! ……はいはーい、私にも質問してーっ!」

 

 こいしがぶんぶん両手を振って、かしましい輪の中に全身で飛び込んだ。喧騒が、更に一段とまぶしくなる。特に外見が同い年なフランとは一発で意気投合し、「フランって呼んでね!」「フランちゃん!」「こっちはお姉様のレミリア!」「レミリアちゃーん!」「ちゃん付けはやめなさい!?」と、レミリアを巻き込んで盛り上がっている。

 キッチンの方から、藍と藤千代が顔を覗かせていた。

 

「ああもう、本当に落ち着きがないんだから……」

「いいじゃないですか、すごく楽しそうですもの。……さとりさーん、そろそろ飾りつけしますよー!」

「あ、はーい」

「「「生クリームはたっぷりお願いしま――――――っす!!」」」

「はいはい、わかってるよ。……先に言っておくけど、半端ないので覚悟しておくように」

「「「はーいっ!!」」」

 

 ケーキ大好き少女たちの熱烈な声援を背に受け、藍たちが苺ショートの総仕上げに戻っていく。それをきっかけに、幽々子がみんなとケーキトークを始める。苺ショートの苺は先に食べるか後に食べるかという永遠の命題が、少女たちの議論を瞬く間に白熱させていく。

 なお月見は最後に食べる。好きな物は最後に取っておく――わけではなく、生クリームで甘くなった口の中を、最後に苺の酸味でさっぱりさせるのだ。問題は、苺があまり美味しくなかったときに微妙な気分になることである。

 輪には入らず静観を選んでいた萃香が、くひひとおかしそうに喉を震わせた。

 

「やれやれ。こいつぁ、春になって紫が起きたら大変だね」

 

 その横で幽香も肩を竦め、

 

「同感。あいつなら、まず暴走間違いなしね」

「……やめてくれ。考えないようにしてたんだ」

 

 その可能性にはじめて気づいたときは、割と本気で頭を抱えてしまったものだ。そういう話を具体的に紫としたことはなかったけれど、付き合いの長い月見にはわかる、あいつは絶対に「私が認めないやつが月見の式神なんて認めませんっ!」とか思っている。冬が終わってひとたび目覚めの季節がやってきたら、あいつはある日突然スキマから降ってきて、「月見のバカバカバカバカバカバカッ、なんで私が寝てる間にいいいいい!!」と大騒ぎするのだ。もはや、五分前に起こった出来事を思い出すようにはっきりと想像できる。

 式神にしたのは地獄鴉――その身に神を宿しているとはいえ、大妖怪には程遠いごくごくか弱い女の子。しかも事情が事情もあって、月見の妖力の大半を持っていっているとなれば、どう足掻いたところで波乱は避けられまい。

 

「……まあ、上手い言い訳を考えるさ」

 

 もっとも、春になって紫が目を覚ますそのときまで、おくうが月見の式神でいるかはわからない。八咫烏の力はもう要らない、とそのうちおくうから言われるかもしれない。或いは、使わないのなら力はお返してもらうよ、と突然神奈子が言い出すかもしれない。そうなればもちろん、月見がおくうを縛る理由はなくなる。

 

「冬はまだ長いからねえ。ひょっとしたら、これからまたいろいろとあるかもしれないよ。ま、起きたときの紫が見物になるから私は一向に構わないけどね」

「……さすがに、今年の残りくらいはもうゆっくりさせてほしいなあ」

 

 どうせ、年越しの宴会は馬鹿騒ぎになるのだ。せめて何事もなく、のんびりと来年の準備をさせてほしいものだけれど――。

 

 もちろん月見は、気づいていない。月見も、藤千代も、さとりも、旧都に住まう誰しもが、気に留めてすらいなかった。

 地底の空を飛ぶ船。

 聖輦船が、異変の日を境にして、忽然と姿を消していたのだと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……なあ、藍」

「はい、なんでしょう」

「それはウェディングケーキか?」

「苺ショートですよ?」

 

 月見の常識に従えば、苺ショートはワンホールにはなっても三段重ねにはならないはずだが。

 勇儀と神奈子、諏訪子の三人が合流し、藍力作のお菓子や料理も次々と完成して、いよいよパーティーも始まろうかという頃合い。幽香の特製花束がきらびやかに彩るテーブルの中央では、大中小のホールを三段重ねにしてこれでもかと生クリームを塗りたくり、トドメに苺の大群をゴロゴロと載せまくった、官能的で贅沢極まりない苺ショートが鎮座していた。

 確かに、半端ない。さすが十八人全員を満足させようというだけのことはある。『大』の時点で月見目線ではすでに食べきれないほどなのに、そこから更にダメ押しで『中』『小』だ。どうしてこんなものがここに出てくるのだろう。こいつが鎮座すべきなのはクリスマスのパーティー会場ではなく、幸せが蔓延る結婚式場なのではないか。

 まさにドリームサイズの苺ショートに、ケーキ大好き少女たちの瞳は料理が霞むほどまばゆく光り輝いていた。一方で月見をはじめとし、さとりと勇儀、神奈子あたりの精神的年長組は、あまりのスケールにすっかり腰が引けていた。

 

「こ、これをぜんぶ食ったら、さすがに太りそうだね……」

「なんだ、勇儀もそういうのは気にするのか」

「し、したら悪いってのかい!? これでも、い、一応、お腹とかは……気を遣ってるんだよ!」

「勇儀さんはお体が引き締まってるからいいですよ……。私は運動もしないですし、こういうのはちょっとダイレクトに来ちゃうというか……」

「うわー、食べる前から胸焼けが……」

 

 もちろん、藍がこしらえたのはドリーム苺ショートだけではない。パンケーキ、フルーツタルト、アップルパイ、マカロンクッキーエトセトラ。ある程度地上で下準備はしてきたのだろうが、短い時間でよくもまあここまで作ったものだと月見は心底舌を巻いた。

 しかも輝夜やフランや操たちが、持ってきたお菓子を嬉々としてテーブルにぶちまけるというオマケまでついている。右を見ても左を見ても、甘い物、甘い物、甘い物。光あふれる天国であり、また一方では邪悪に満ちた地獄でもある世界が、地霊殿ダイニングのテーブルにこれでもかと言わんほど凝縮されていた。

 ふと、これを紫が見たらどうなるんだろうな、と思う。恐らく、彼女は泣くだろう。目を輝かせる少女たちの純粋無垢な姿に、嫉妬と絶望と呪詛が入り乱れた血の涙を流して。

 

「あ、普通の料理も少しですけど作ってますので、月見様たちはこちらをどうぞ」

「……ありがとう」

 

 一応気を遣ってくれたらしく、藍がオードブルを持ってきてくれたのがささやかな救いである。

 

「つーくみー!」

「ん?」

 

 と、咲夜のお菓子をテーブルに置き終えたフランが、その中の小袋ひとつを持ってやってきた。曰く、

 

「はいこれ、咲夜から月見に!」

「私に?」

 

 差し出された小袋は丁寧にラッピングされていて、リボンに丸くかわいらしい字で「月見様へ」と書かれていて、中には小さく折り畳まれた手紙まで挟まっていた。どうやら咲夜は、月見のお菓子だけ包装を分けてくれたらしい。

 

「月見に合わせて、甘さ控えめにしたって言ってたよ! あと、お手紙入ってるから読んでね!」

 

 いかにも、律儀で気配り上手な咲夜らしい話だった。月見は微笑み、

 

「ありがとう。これは、私からも返事を書いた方がいいかな?」

「うん、そうして! 咲夜、今日は寝ないで待ってるって言ってたから!」

「……そうか」

 

 気のせいではないプレッシャーをひしひしと感じて、さてどんな返事を書いたものかと、手紙を読む前から悩んでしまう月見であった。

 そうこうしている間に、お菓子のセッティングも終わったらしい。「ギーン始めるわよー!」と輝夜に呼ばれたので、月見は後ろの年長組を振り返って。

 

「さてお前たち、太る覚悟は決まったかい」

「「「ふとっ……」」」

 

 さとりと勇儀と神奈子が一斉に膝を折った。穢れを知らないフランが首を傾げて追い打ちする、

 

「えー? 大丈夫だよ、今日はあれがお夕飯の代わりだもん! ご飯食べるのも、お菓子食べるのもおんなじでしょ?」

「…………そ、そうだね。いやー私ってば気がつかなかったなーすごいなー天才だなー、うん。うん……」

 

 精一杯の笑顔で答える勇儀は、なんだか砂になりそうだった。さとりは「悪意がないってのが一番効きますよね……」と遠い目つきになっていて、神奈子は「今までいっぱい働いてたからプラマイゼロ……プラマイゼロ……」と必死に自己暗示をしていた。女の子がお腹周りを気にするのは、古今東西、人間も妖怪も神様も一緒なのだ。

 

「ギーン!」

「はいはい、今行くよ」

「行こー!」

 

 フランに引っ張られながらみんなのところへ向かう。藍が見るも鮮やかにナイフを振るって、一人ひとりの皿いっぱいにケーキを切り分けて回っている。幽々子が「ワンホールちょうだい!」とリクエストをするも華麗に無視され、ぶーぶーとブーイングを飛ばしている。

 藤千代からなにかを渡された。

 

「はい月見くん、どうぞ」

「うん?」

 

 受け取ってみると、掌サイズの小さなクラッカーだった。一体どこから調達してきたのか、どうやら全員分あるらしく、藤千代はテキパキとみんなに配って回る。

 

「おくうさんと、お燐さんもどうぞー」

 

 クラッカーを目にするのははじめてなのか、おくうもお燐も眉をひそめて覗き込んだ。

 

「? なにこれ」

「花火じゃない? ほら、この紐に火をつけて……」

「いえいえ、その紐を引くんですよ。でも、みんなで一緒にやるので待っててくださいね」

 

 みんながテーブルの周りに集まってくるのと、藤千代がクラッカーを配り終えるのと、藍がケーキを切り終えるのはほぼ同時だった。殺人的な生クリームの香りが鼻腔をくすぐる。いよいよパーティーが始まろうかという空気に、少女たちがそわそわとクラッカーを鳴らす体勢に入る。藤千代はこほんと咳払い、

 

「皆さん、準備はいいですかー?」

 

 はーいっと息の合った元気な返事。

 

「なんやかんやありましたが、異変が無事解決して、月見くんの怪我も治ったということで……今日は盛り上がっていきましょうっ!」

「「「はーい!」」」

「では月見くんから一言!」

 

 月見は少し考え、

 

「お前たち、あんまりはしゃぎすぎないようにするんだよ。さとりたちを困らせないように」

「「「はーいっ!」」」

 

 この一見すると素直な返事が、果たしてどれほど信頼できるやら。はっきり言って、月見はまったく期待していない。

 

「さとりさんからも一言!」

「え? あ、えっと、お手柔らかにお願いします?」

「こいしさん!」

「仲良くしてねー!」

「「「いえーっ!」」」

「おくうさん、お燐さん!」

「……べ、別に私は仲良くするつもりなんて」

「などと供述しておりますが、意訳すると『構ってください!』だよ!」

「「「素直じゃなーい!」」」

「ち、違うもん違うもん!?」

 

 おくうの憎まれ口も、この面子の前では場の雰囲気を盛り上げる起爆剤にしかならない。言い訳するだけみんなを喜ばせるだけだと察したおくうが、悔しさと恥ずかしさで半々に赤くなって閉口する。けれど決して不快になっているわけではなく、月見とまるで性格が違う少女たちの勢いに、圧倒されて戸惑っている方が大きいようだった。

 なんか普通にいい人たちなんだけど、どうしよう――そんな顔をしていた。

 藤千代がクラッカーを構えた。

 

「ではでは、行きますよー」

 

 月見たちも構える。使い方を知らないおくうとお燐が、こいしに教えられながら見様見真似で紐を握る。

 さとりがふとなにかに気づいたのと、藤千代が大きく息を吸い、より一層高らかに声をあげたのは同時だった。

 

「あ、皆さんちょっと待」

「メリークリスマ」

 

 いきなりだった。

 藤千代が言い終わるより先に、萃香のクラッカーがフライングで炸裂した。

 

「「「……」」」

 

 掌サイズに見合う控えめな紙吹雪が散る中、全員の視線が萃香に集中する。おくうやお燐をはじめとする半分は驚いて目を白黒させており、月見やさとりなどもう半分は、やりやがったこいつと冷ややかな眼差しである。

 水を打つように広がっていく、えも言われぬ微妙な空気。

 代表して口を開いたのは、幽香だった。

 

「……いるわよねー。こういう、わざとみんなと足並み揃えない天邪鬼なやつ」

「え、あれ!? こういうのって、なんていうか、こうするのがお約束ってやつじゃないの!?」

 

 小学生かお前は。

 

「間違えたならまだしも、わざと空気読まなかったとかないわー」

「うわあああああよりにもよって操に言われたあああああ!? これやっちゃダメなやつだったんだああああああああ!!」

「判断基準おかしくない!?」

 

 特におかしくはないと思うが、それはさておき。

 月見はため息をついた。今になって思えば、さとりが何事か口を挟もうとしたのも、萃香の悪巧みを読み取ったからだったのだろう。しかし集まっている人数が人数だったせいで、さすがのさとりも気づくのが遅れてしまったのだ。

 

「ご、ごめんなさい皆さん……私がもっと早く気づいていれば……」

「いいんですよ、さとりさん。悪いのは萃香さんです。ぎるてぃです」

「ごめんなさぁい!?」

 

 更に勇儀が、

 

「なにやってんだい、バカなやつだねえ」

「だ、だってえ!」

 

 幽々子と藍が、

 

「びっくりだわ~、まさかそんなことしちゃうなんて」

「そんなやつだとは思わなかったよ」

「ふぐぅっ!?」

 

 フランとレミリアが、

 

「ねー、どうするのこの空気ー?」

「最悪ね」

「う、うううっ……!?」

 

 おくうとお燐とこいしが、

 

「これ引っ張ると、ああなるんだ」

「ちゃんとタイミング合わせないとダメみたいだね。きっと、体を張って教えてくれたんだよ」

「そっかー。優しいんだね!」

「……ひ、」

 

 神奈子と諏訪子が、

 

「……どんまい。そのうちいいことあるよ」

「大丈夫? 神様の加護いる?」

「ひっく、」

 

 トドメに輝夜と妹紅が、

 

「それじゃあ空気が読めないやつはほっといてー」

「仕切り直ししよっかー」

「「「はーいっ」」」

「うええええええええ!!」

 

 みんなから袋叩きにされて、萃香は完全にマジ泣きだった。

 

「つ、づぐみいいいいい……っ!! ごめんなざあぁぁぁい……!!」

「……いや、私に謝られても」

 

 月見は首を振った。さすがに可哀想だったので、せめて自分だけは味方であろうと思い直す。

 

「ほら、私と一緒にやろう」

「……っ!!」

 

 自分のクラッカーを差し出すと、潤んだ萃香の瞳から感動の涙があふれだした。顎の先までボロボロ滴る大洪水である。萃香は月見の腕に飛びつき、よりにもよって着流しの袖で涙を拭いながら、

 

「ありがどう……! ありがどう゛~~~~っ……!」

「はいはい」

 

 なんで私がこんなことをせにゃならんのだ、と月見は内心能面の顔になりながら思う。

 と、またクラッカーが炸裂する音。

 

「「「……」」」

 

 また静寂が広がっていく中、見れば今度は輝夜の目の前で紙吹雪が舞っていて、

 

「――いっけなーい、間違えちゃった♪ というわけでギン、私も交」

「ふか――――――――――ッ!!」

「きゃあ!?」

 

 いけしゃあしゃあと近寄ってきた輝夜を、萃香が猫みたいになって威嚇した。

 

「なにするのよ!」

「白々しいんだよ絶対わざとでしょ!? ダメですーっ私と月見が一緒にやるのー!!」

「ずるい! 独り占めするつもり!?」

「空気が読めない私はほっとくんでしょ!? ほっといてよ!」

 

 こいつら……と月見が呆れるや否や、立て続けで更にぱんぱーんと二発、

 

「月見ー、私も間違えちゃった!」

「一緒にやろーっ!」

「ふしゃあああ――――――――――ッ!?」

 

 フラン、こいし、お前らもか。

 

「来るな! 来るなぁ! 月見は私を誘ってくれたんだいっ!」

 

 萃香がビシビシと猫パンチを繰り出している――と表現するとかわいらしいが、何分鬼の猫パンチなので、拳が振るわれるたびに肝も冷える風圧が襲いかかってくる。フランとこいしの帽子が、風にさらわれて後ろに吹っ飛ばされた。

 だが、当然ながらその程度で怯む少女たちではない。フランとこいしはすぐに帽子を拾うと、輝夜を味方に引き入れて、萃香とぎゃーぎゃー口論を始めた。それをよそにまたもやぱーんと、

 

「……」

「おくう?」

「……ち、違! これはその、間違えたのっ! 違うの!」

 

 今度はおくうの仕業であり、横のお燐から半目で見られて慌てる姿に、さとりがこっそりと愉悦の表情を浮かべている。どいつもこいつもなにをやっているのか。

 呑気に成り行きを見守っている場合ではない。いよいよパーティーを始めようという盛り上がりが台無しで、なんだかグダグダになりつつある。月見と同じ危機感を抱いた操が、藤千代を肘でつついて、

 

「おい千代、早いとこなんとかせんと」

 

 ぱーん、

 

「月見くん私も間違えましたー! 一緒にやりましょうっ!」

「千代おおおおおぉぉぉ」

 

 操が膝から崩れ落ちる。月見は、安易な同情で萃香に手を差し伸べてしまった己を激しく後悔している。事態を面白がった妹紅や勇儀、幽香、諏訪子までもが集まってくる有様で、完全にパーティーを始めるどころではなくなってしまった。

 レミリアが呆れ果て、操が匙を投げ、藍は遠い眼差しで、幽々子はもはや見向きもしていない。

 

「どうするのよこれ」

「どうしようもなくね。クラッカーも要らんじゃろ」

「どうでもいいから早くお菓子食べましょ~♪」

「あははは……ハア……」

 

 驚くことなかれ、これでもパーティーはまだ始まってすらいないのである。始まる前からこれならば、いざ始まったら一体どうなってしまうことやら。

 このあと月見は、数が許す限り希望者と一緒にクラッカーを鳴らして回るという謎の儀式をやらされた。更には残り一個のクラッカーを巡り、早くも手に汗握るじゃんけん大会が繰り広げられ、事態は更なる混迷を極めたりもしたのだが――。

 

 もう、割愛。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第115話 「いつか陽のあたる場所で ⑤」

 

 

 

 

 

 ご想像の通りさとりは、人の多い場所があまり好きではない。

 もちろん、さとり自身の性格と、生まれ持った能力のせいだと断言しておく。『心を読む程度の能力』は、自分の意志でオンオフの切り替えができない厄介者で、そういう意味では能力よりも体質という表現が近い。大勢の人がいる環境に身を置けば、それだけたくさんの心の声が押し寄せてくることになるので、失礼を承知で言うと疲れてしまうのだ。今のパーティーのように、皆が絶えず思考し、賑やかに騒いでいる場所なら尚更である。話し声と心の声は決して途切れることなく、笑い話や思い出話に花を咲かせる者がいるならば、記憶という高密度の情報までもが加わって、頭の中はもはやごちゃごちゃの雑音だらけになってしまう。

 こちとら地上にいた頃は山奥でひっそりと暮らし、地底生活を始めてからも引きこもりライフを送ってきた筋金入りのインドア少女。家族と一緒に外へ出掛けるよりも、一人でひっそり本を読んでいる方が好き。そんなさとりにとって、二十人近い人数の中で行われるパーティーは、ほとんど異世界も同然だったのだ。みんなで乾杯をしてから一時間もする頃には、それとなく周りの目から外れて、部屋の端っこの椅子でひとりため息をついてしまっていた。

 やっぱり自分は、大勢の人と騒ぐのは苦手だと心底実感しつつ。

 しかしその分を鑑みても、素敵なパーティーだなと、さとりは正直に思っていた。たとえ、頭の中がごちゃごちゃの状態でも、一時間そこらで疲れてしまっても。みんなが心からこのパーティーを楽しんでいるのだということだけは、はっきりと伝わってくるから。

 ついさっきはじめて出会ったばかりの少女たちと、ここまで明るい空気を共有できているのは、やはり『彼』の存在が大きいのだと思う。

 

「づぐみ゛~~~~っ! 私は、私は嬉しいよおぅ! 私のせいでいろいろあったってのに、こうしてパーティーに招待してくれるなんてさあっ……! うえええええ……!!」

「尻尾がちゃんともふもふに戻ってよかったよお~! ふえええええ……!!」

「わかった、わかったから離れ……ああもう」

 

 そんな『彼』こと月見は、呑兵衛な神様二柱に全力で絡まれる真っ最中であった。神奈子にガッシリと肩を組まれてはわんわん泣かれ、諏訪子に尻尾をホールドされてはぴーぴー泣かれ、さとり以上の疲れた顔でため息をついている。羽目を外した少女たちに次から次へと押しかけられて、もはや酒も満足に楽しめていない有様だった。

 月見さんは大変だなあと、さとりはほんのり微笑ましい気持ちで思う。気苦労の絶えない彼に同情はしない。だってさとりは、いかにも迷惑そうな顔をしている月見が実は迷惑だとは思っていないことを、ちゃあんと知っているのだから。

 今となっては神奈子や諏訪子とも、それなりに話をする間柄になった。これでも異変が終わった当初は、お互いがお互いに罪悪感を持ってしまってギクシャクしていたのだ。けれど地底の修復に勤しむ彼女らへ差し入れを送ったり、逆に地上の食べ物を差し入れされたりしているうちに、いつの間にかわだかまりは綺麗さっぱり解消され、今やおくうの警戒心もだいぶ薄れるまでになっている。霊験あらたかな由緒正しい神様とは思えないほど気前がよく、親しみやすい少女たちである――さとりのペットたちを、隙あらば守矢神社信仰の道へ引きずり込もうとする以外は。そのうち藤千代にチクろうと思っている。

 さとりは視線を他へ転じる。テーブルに並んで元気よくお菓子を消費しているのは、こいしとおくう、そして妹と一番意気投合してくれた吸血鬼の女の子である。

 

「ねーねー、うにゅほちゃんは月見のことどう思ってるのー?」

「ぼふっ」

 

 フランの単刀直入な質問に、おくうはケーキを吹いた。

 

「げほ!? なななっ、にゃに突然!?」

「えー、突然じゃないよー。月見のシキガミなんでしょ? ってことは、やっぱり月見のことが好きなんだよね!」

「ぼふうっ」

「だって、キライとかフツーとかだったらシキガミになんてならないもんね!」

 

 フランドール・スカーレットは、一周回って恐怖すら覚えるほど純粋無垢な少女だった。以前は精神を狂気に侵されていたらしいが今は見る影もなく、なんの悪意もないどストレートな発言で反って人を困らせて回る上に、本人にはまったくその自覚がない。月見からたびたび苦労話を聞かされてきた通り、彼女は今さとりの目の前で、特大級の爆弾をおくうに笑顔で放り投げてみせた。

 もちろん、おくうに耐えられるはずもない。一発で混乱状態に陥って、

 

「ち、違! ここっ、これは事情で! 好きで式神になったわけじゃなくてっ! ってか私はうにゅほじゃなくてうつほっ!」

「うん、事情があるのはわかってるよ。でもうにゅほちゃん、月見がその説明してたとき、なんか不満そーな顔してなかった?」

「ぼふ!?」

 

 ナイスよフランちゃん、とさとりは内心でサムズアップをした。顔がどんどん赤くなっていくおくうの姿は大変目の保養だし、慌てふためく心の声は甘美な愉悦となってさとりの神経を蕩かしてくる。絶対に月見を認めようとしなかったおくうがこんな風になるなんて、やっぱり何度見ても恍惚以外の言葉が出てこない。ただ、唯一残念な点を挙げるなら、神様二柱に絶賛絡まれ中な月見が気づいていないことだろうか。

 タルトを頬張るこいしが、なんとも嬉しそうに反応した。

 

「あ、やっぱり? 私もそんな気がしてたんだー!」

「だよね、絶対してたよね!」

「してないもん!?」

「してたよね、お姉様!」

「ふえ?」

 

 ケーキの虜になっていたレミリアは我に返り、

 

「そ、そうね。してたといえばしてたし、してなかったといえばしてなかったような……」

「役立たず!」

「ひどくない!?」

 

 レミリア・スカーレットはフランのお姉さんで、誇り高くカリスマあふれる吸血鬼を志し日々邁進しているものの、理想と現実の乖離が激しいせいで周囲からは微笑ましい目をされている。今だって、妹に役立たず扱いされて若干涙目である。私は姉の威厳を失わないように気をつけなきゃ、さとりはレミリアの情けない姿を目に焼きつける。

 しかし一方で、たとえ姉の威厳がなくたって、レミリアはみんなから愛される立派な紅魔館の当主だった。そこは素直にすごいと思ったし、まぶしくて、羨ましかった。

 フランの追及は続く。

 

「で実際どうなの、うにゅほちゃん?」

「うっ……な、なんでお前にそんなこと教えなきゃならないの!? どうだっていいでしょ!」

「ちょっとこのカラス、ウチのフランがせっかく話しかけてやってるのに何様よ! ぶっ飛ばされたいの!?」

「「ばかあっ!!」」

「「むぎゅッ!?」」

 

 こいしがおくうに、フランがレミリアに鋭くチョップをした。おくうはさておき、レミリアの方は実に痛そうな音がした。そういえば吸血鬼の腕力は、鬼にも決して引けを取らないほどなのだったか。

 息がぴったりな妹二人はぷんぷん怒っている。

 

「おくうのばか! どうしてそんな風に言うの!?」

「お姉様のばか! そんな風に言っちゃダメだよ!」

「「だ、だってぇ!」」

 

 おくうもレミリアも、脳天を押さえて涙目である。

 

「おくうだって、月見から同じことされたらすごく悲しいでしょ!? 人にされて嫌なことはやっちゃいけませんっ!」

「う、ううっ……」

「そうやってすぐ怒るとこ、いつになったら直るの!? お姉様自分で言ってたじゃない、月見を見習ってもっと」

「ぎゃああああああああ!?」

「私がなんだって?」

「なんでもないわよバカじゃないのぉッ!?」

 

 自然と、さとりの頬には笑みがこぼれていた。フランはこいしみたいに裏表がなく素直で、レミリアはおくうにだって負けないくらい素直じゃなくて、正反対な姉妹はけれどこんなにも仲がいい。いや、仲が良くなった、のだ。だからこそ二人の姿はさとりに勇気を与えてくれたし、出会ってまだほんの何時間かで、さとりも彼女たちをすっかり好きになっていた。

 ――あの二人がいれば、心配する必要はないだろう。はじめは少し、悪い想像に駆られてしまったりもしたけれど。今はもはや跡形もなく、笑ったり恥ずかしがったりむくれてみたり、いつにも増して色鮮やかなこいしたちの姿がただただまぶしい。

 それに、みんなとすっかり仲良くなったのは、なにもこいしとおくうだけではない。

 

「――そういうわけで月見は私に言ったのさ! 『私を、守ってくれ』……ってねーっ!」

「「「ズル――――――――いっ!!」」」

「いいでしょー!!」

 

 部屋の一角から、さとりの鼓膜を突き抜けていくほどの大声があがる。そこは、鬼の四天王、フラワーマスター、冥界の管理人、天魔と、幻想郷でも錚々(そうそう)たる実力者たちが一堂に(かい)して盛り上がっている場所だ。一体なにがあったというのか、萃香が地団駄を踏んで部屋を揺らし、幽香がワインのグラスをテーブルに叩きつけて、天魔がバッサバッサと文句を言うように翼を鳴らしている。

 

「なにそれズルいズルいっ、私だって月見の命背負って戦ってみたかったーっ!!」

「どうして私を呼んでくれなかったの!? 月見のピンチなら、一瞬で駆けつけていくらだって力を貸したのに!」

「独り占めなんてズルいんじゃよ! せっかくの活躍のチャンスが……幽々子もそう思うじゃろ!?」

「ふふふ。実は私、夏の異変で似たような体験しちゃったの。月見さんの背中を預かるあの高揚感、今でもよく覚えてるわ~」

「「「ズル――――――――いっ!!」」」

 

 さとりは納得した。ドヤ顔で語られる勇儀の武勇伝が、少女たちの心に嫉妬の炎を燃え上がらせたらしい。

 そしてその輪の中で、周囲の勢いに押されて若干尻込みしているのが、お燐だった。

 

「いやー、あれはほんと格別だったねー。鬼の誉れってやつだねー。……そういや、あんたも結構オイシイとこ持ってったよね?」

「え、あ、あたい?」

 

 うわこっち来た、という顔をお燐は一瞬だけして、

 

「ま、まあ……最後の方で、ちょっとだけだけど……」

「なに言ってんのさ、めっちゃオイシイとこだったじゃない。私よりも活躍してたって絶対」

「「「へえ……そうなんだ」」」

「ひっ」

 

 萃香、幽香、操の三人から据わった眼差しを向けられ、窮鼠となったお燐は慌てて、

 

「そ、そんなことないよ。本当、ただちょっと、おにーさんのお手伝いをしただけで」

「月見と一緒に八咫烏を鎮めるのが『ちょっと』だっての? ……月見と力を合わせて荒ぶる神を鎮める! まさに最高の大舞台だったじゃないか!」

 

 三人が音もなくお燐を取り囲んだ。

 

「……あ、あの、いきなりどうし」

「まあまあ。ちょっと私らと話しようよ」

 

 萃香が、やけに年上ぶった顔つきでお燐の肩に手を置く。

 

「最高の大舞台の話、もうちょっと詳しく聞かせてほしいなあ」

「……いや、その、だから別に大舞台だったわけじゃ」

「それは私たちが決めるわ。あなたはただ、あったことを正直に話してくれればそれでいいの」

 

 幽香が、含みのある微笑みをたたえてお燐のグラスにワインを満たす。しかし、不思議だ。彼女の表情はとても静かで穏やかなのに、どうして外から眺めているさとりですら背筋が寒くなるのだろう。

 

「さあ、どうぞ」

「ま、まままっ待ってよ、なんかみんな怖いんだけど」

「んー、なんでじゃ? いや別に、儂らは怒ってるわけじゃないんじゃよ。ここ最近カッコよく活躍できた記憶がないからって、まさかお前さんに嫉妬してるなんてそんなそんな」

 

 いくらか、間があった。操も萃香も幽香も押し黙り、しばし俯いてタメ(・・)を作ってから、火山が噴火したように突然、

 

「――ああああああああ!! 羨ましい! 羨ましすぎるんじゃよ! なんで、なんで儂らじゃなくて新キャラのお前さんがそんなオイシイ活躍できるんじゃ!? そろそろ、儂のカッコよくて華麗な活躍シーンが待ち望まれてるはずじゃろ!? 儂の出番どこ!?」

「あんたに活躍なんて無理だよ駄天魔。……それより私だよ! なんか私、月見が帰ってきてくれてから一度も腕見せる機会すらないんだけど! 鬼なんだよ!? 強いんだよ!? なのにどーして!? 月見と一緒に敵に立ち向かったりしたいよぉ!!」

「ほんっとに羨ましい……! 私なんて、地上で妖精どもの説教して終わったわよ! 月見がピンチだったって知ってさえいれば、一瞬で駆けつけたのに……なんで誰も教えてくれなかったのよぉ……!!」

「あ、あははははは……」

 

 もうついていけません――そんなお燐の頬の痙攣は、さとりにも感染した。活躍できない三人が全身で悶えるように悔しがり、活躍できた勇儀と幽々子が勝者の余裕を見せつけながら酒を注ぎ合う。先日の異変では勇儀や藤千代の他、彼岸からは閻魔様までもが力を貸してくれたりもしたけれど、もしも場所が地上だったら駆けつける少女たちはあの比では済まなかったのだろう。

 月見は本当に、いろんな人たちから認められているのだ。

 視線を月見のところへ戻すと、彼は神奈子と諏訪子のみならず、妹紅と輝夜にまで絡まれていた。だいぶ酒も入ったらしく、二人とも頬がほんのりと赤くなっていて、

 

「せんせー、ケーキ食べさせてよ」

「なあ……お前、私の今の状況わかってるか?」

「あー♪」

「……」

「あーっ♪」

 

 抵抗の無意味を察した月見がケーキにフォークを突き刺し、淡々と妹紅の口へ運ぶ。満足げに咀嚼する彼女の横から続けて輝夜が、

 

「ねえ、ギン」

「輝夜、悪いんだけどこいつら引き剥がすの手伝」

「あー♪」

「……」

「あーっ♪」

 

 月見が能面のような顔で同じ動きを繰り返し――しかし、輝夜が口を閉じようとする間際でフォークを引っ込めた。

 

「あーっ!? ちょっとなんで引っ込めるの、いじわる反対っ!」

「いや、その」

 

 月見はぷんすか怒る輝夜から目を逸らし、心の底から申し訳なさそうに、

 

「すまない……このフォークでお前の喉を突いたら、なんてつい考えてしまった自分がいて……」

「……ねえギン、謝る! ほんと謝るからその話はもうやめてお願い!?」

「あひゃひゃひゃひゃひゃ!!」

「もこおおおおおおおおお!!」

 

 輝夜が、着物の袖を振り乱しながら妹紅に飛び掛かる。さとりはゆっくりと、深呼吸をするように、ひとつ穏やかなため息をつく。

 どこに目を向けても、本当に賑やかの一言だ。インドア派なさとりからしてみれば、よくもそう次から次へと騒げるものだと感心してしまう。今だって、勇儀とお燐への嫉妬に狂った萃香が月見のところへ突撃していったし、それを面白がってかフランも勢いよくすっ飛んでいく。萃香の嫉妬全開タックルを、月見は咄嗟に尻尾でガードする――が、どうやら諏訪子がひっついているのをすっかり失念していたようで、

 

「「ぎょあーっ!?」」

「あ」

 

 盛大にごっちんこした幼女二人がバタバタ床をのた打ち回る。そして、月見がしまったと動きを止めた隙にフランが突撃。隙を生じぬ二段構えを、月見は気合と根性でなんとか受け止める。しかしその衝撃で神奈子がバランスを崩し、輝夜を巻き込んで後ろに転倒、揃って後頭部を強打してはやはりバタバタのた打ち回る。指を差して笑う者、肩を竦めて呆れる者、ため息をついて項垂れる者。キッチンに少し席を外していた藍が戻ってきて、戻ってくるなり「こいつらはほんっとにもう……」と頭を抱えている。

 なんだか、そういうお芝居でも見せられているみたいだ。長年嫌われ者だったさとりにとっては、そう感じてしまうほど目の前の光景は現実離れしていた。

 

「ほら。心配なんて、要らなかったでしょう」

 

 さとりの隣の椅子に座る藤千代が、どこか誇らしげに笑みを作った。さとりはただ、一杯食わされた思いで頷く他ない。

 

「そうですね、不安がって損しました。……地上って、いつもこんな風なんですか?」

「んー、今は皆さん酔ってる分もありますけど……でも、だいたいこんな感じだと思いますよ。特に月見くんの周りは」

「……そうですか」

 

 そうなんだな、とさとりは思う。地上に、あまりいい思い出はないけれど。でもそんなのは、今となっては何百年も昔の終わった話で、地上はもう、さとりがいた頃とは違う世界になっていて。

 変わったのはきっと、自然の姿や建物の形だけではない。

 そこに住む人々の心も、変わったのだ。それは、ここで楽しくパーティーを満喫する少女たちの姿を見ればよくわかる。

 無論、だからといって、例えばさとりが地上に出て行っても大丈夫かどうかはわからない。さとりの力を恐れる誰かはどうしたっているだろうし、逆にさとりを怖がらせてくるやつらだっているだろう――先日藤千代にぶっ飛ばされた、旧都の誰かさんどものように。

 ここに集まった少女たちが、たまたま、さとりを恐れない強く優しい心を持っているだけなのだと。それは、さとりだって重々承知している。

 けれど、いつかは、きっといつかはと願って已まない。地上の風景をもう一度見てみたいし、自分たちの方から月見に会いに行きたい。でも一番大きな理由は、月見を、月見の周りに集まる少女たちを、月見という妖怪が描き出す地上の風景を、一度でもいいからこの目で確かめてみたいからだ。

 きっと、素敵な光景なのだと思う。ここにいる少女たち以外にも、いろんな人間や妖怪が集まって笑っているのだ。妖怪も、人間も、神様だって、種族の、或いは生まれの違いなんてものはそこにはまるでなくて。話したことのない相手でも、出会ったばかりの相手でも、ひとたび水月苑に集まったならばみんなが友達で。

 見てみたい。きっと、いつか。

 

「……行けますよ。必ず」

 

 たぶん、ひと目でわかる顔をしてしまっていたのだと思う。藤千代の柔らかい視線の先では、頭が痛い少女たちを月見が仕方なく抱き起こしていて、それを見たフランが床に座り、いかにも準備万端な顔で両腕を広げている。

 さとりも藤千代も、どちらからともなくクスリと笑った。

 

「私は、ばっちこいですから。案内しますよ。いつだって、どこへだって」

「……ありがとうございます」

 

 なんだか、ここ最近の生活は現実とは思えないことばかりだ。月見という妖怪が現れて、地霊殿の日常が少しずつ変わり始めて、今や日陰者だった自分たちが、こうしてまぶしい光の当たる場所にいる。いつかきっと地上に、なんて話をして、その日の訪れを待ち望んでいる。今までとは違うことばかりで――そう思うと、頭の中に絶えず押し寄せてくる心の波も、なんだか聴き心地のよい音楽のようで。

 そんな中で、おくうが藍に声を掛けられていると気づいたのは偶然だった。

 一体なにを言われているのか、おくうは少し緊張した面持ちをしていた。周囲が賑やかすぎて、声も心もこの距離ではいまいち聞き取ることができない。なにかあったのかしらと首を傾げているうちに、藍がおくうを連れてこちらまでやってきた。

 

「さとり、少し彼女を借りてもいいかな。折り入って話をしたいことがあってね」

「話、ですか」

 

 改めて藍の心を読んで、さとりは理解した。

 八雲藍は、幻想郷の賢者たる八雲紫の式神であり、また自らもが『式神を操る程度の能力』を有している。それはまさしく文字通りの能力であるのだが、副次的な効果として、式神をひと目見ただけで中に打たれた式を理解することができる。

 藍はこの力で、おくうの中に打たれた月見の式を読み取った。

 それはつまり、月見がどのような方法でおくうを式神としたのか理解したということであり、

 

「あ……でも、その話は……ええと、その」

「ああ、わかっているよ」

 

 藍は声をひそめ、

 

「大方、月見様から口止めされてるんだろう?」

 

 いかにも月見様のやりそうなことだ、と藍は口端で笑った。

 

「だから、これは私の独断だ。あとで月見様からなにか言われたら、知らないと答えてくれていい。私が勝手にやったことだとね」

「……」

「ごくごく普通の契約だったなら、私がしゃしゃり出る必要もないんだが……彼女の場合はいささか事情が違う。知っておくべきだと、私は思うんだよ」

 

 ――月見はおくうの力を、今だけはどんなことがあっても絶対に暴走させないため、妖力の大半を対価として捧げている。

 その話を、するつもりなのだ。

 おくうと視線が交わる。不安な眼差しをしている。月見は強い妖怪で、月見の周りにも強い妖怪がたくさんいる。だから、もしかしたら、自分みたいなやつが月見の式神なんて相応しくないと、責められるのではないか――。

 

「……大丈夫よ、おくう。そんなこと、藍さんはしないわ」

 

 さとりは少し迷ってから、藍と同じように声をひそめて、

 

「……ええと、ごめんなさい。月見さんに黙っているように言われて、あなたに隠していたことがあるの。それを、藍さんが教えてくれるだけよ」

「……?」

 

 おくうの眼差しが、不安から疑問に変わる。

 

「それって……私のことで、ですか?」

「うーん……どちらかと言うと、月見さんのことかしら」

「あいつの……」

 

 更に、疑問が興味へと変わった。そして同時に、隠し事をされていた事実に対するほんのわずかな不満も、おくうの瞳には浮かんでいた。

 藍を見て、

 

「わかった。教えて」

「ああ。……まずは場所を替えよう。静かなところの方がいいからね」

 

 月見は涙目な萃香と諏訪子にぽかぽかと叩かれていて、こちらにはまったく気づいていない。その隙に、藍とおくうはこっそりと部屋の外へ出て行った。

 

「……? 今の、藍?」

「あ、輝夜さん」

 

 輝夜と妹紅に見られていた。二人ともほんのり赤ら顔で、今しがた藍とおくうが出て行った扉の先を胡乱げに見つめている。

 

「おくうと、ちょっと話があるみたいで」

「ふーん? ……まあ確かに、藍は気にしそうだしねえ」

 

 そう言う輝夜は、月見の式神となったおくうの存在をさほど大事には考えていなかった。無論はじめは驚いたけれど、事情を聞いて納得したし、そこまでしてでも誰かの力になろうとするところがやっぱり月見なのだと、誇らしくも感じているようだった。

 そして、成り行きで月見の式神となった女程度に、彼を取られるつもりは毛頭ない――とも。

 苦笑した。

 

「月見さんのこと、大切に想ってるんですね」

「――そう。その話をしに来たのよ」

「へ?」

 

 輝夜の声音が変わった、と思ったときには、真正面から痛いくらいにがっしり両肩を掴まれていた。

 じ――――――、と妙に圧力のある視線がさとりを射抜く。

 

「……あ、あの、輝夜さん?」

「私の心を読んで」

「は、」

「読むの」

「あの、」

「じ――――――――……」

「……、」

 

 なんだか逆らえない雰囲気を感じて、さとりは言われた通りにした。まあ、言う通りにするもなにも、こんな真正面に立たれた以上さとりの能力は否応なく発動してしまうのだけれど。

 たくさんの記憶が流れ込んでくる。それは輝夜が、この世界ではじめて月見に出会い、別れ、幻想郷で再会し、今へと至るまでの長い長い記憶だった。どうしてそんなものをさとりに読ませるのかといえば、

 

「……」

 

 輝夜が、なにかを期待するようにふんすふんすと鼻息を大きくしている。いや、なにを期待しているのかはわかっている。わからないはずがない。つまりそういうことだ。なのでさとりは、頬がぎこちなく引きつるのを感じながらも精一杯の笑顔で、

 

「つ、月見さんのこと、本当に大切に想ってるんですねっ」

 

 輝夜はうむうむと満足げに頷き、月見のところへ戻っていった。

 なんだったんですか。ほら、妹紅さんも「まったく輝夜は……」って呆れて

 

「――じゃあ、次は私の番だね」

「あの、妹紅さん?」

「まあまあ、とりあえず聞いてよ」

 

 なんなんですか。

 もはや問答無用だった。妹紅もまた、さとりの肩をぐわしっと掴み、

 

「じ――――――――……」

「…………、」

 

 妹紅が想起するのもまた、月見と出会ってから今に至るまでの記憶である。そしてその上でさとりになにを期待するのかも、やたら自信に満ちた瞳の輝きを見れば明らかであり、

 

「ええと……ま、まさに、人生の先生ってやつですねっ」

 

 妹紅はうむうむと満足げに頷き、やはり月見のところへ戻っていった。

 だからなんなんですか。

 

「はいはーい! 私もやるーっ!」

 

 輝夜から話を聞いたらしく、更にはフランまでもがすっ飛んできた。さとりの前でぺこりと頭を下げ、

 

「よろしくお願いしますっ」

「あ、あの、だから」

「じ――――――――……」

 

 人の話を聞いてくれるとさとりは嬉しい。しかし、きらきらと無垢でまぶしいフランの眼差しに勝てるはずもなく。

 なにを想起していたのか、もはやいちいち言うまでもないだろう。

 

「つ、月見さんも、あなたたち(・・)のことは娘みたいに想ってるわよっ」

 

 フランはむふーっと満足げな鼻息で、やっぱり月見のところへ戻っていった。

 もうさとりはツッコむ気力もない。とにかくこれで一段落だと思っていたら、さとりの死角から四人の人影が、

 

「ふう、どうやら聞かせてやらないとなんないみたいだね。私ら鬼と月見の絆の話を……」

「まあ待ちなさい。ここは一旦落ち着いて、私と月見と向日葵の話から入るべきだわ」

「やれやれ……ここは更に落ち着いて、儂ら天狗の話が先に決まっとろーが。焦るなお前さんら」

「えー、ウチの妖夢の話がいいわ~」

 

 異変の武勇伝で盛り上がっていたはずの、勇儀、幽香、操、幽々子であり、

 

「……あ、あの、皆さん?」

「「「まあまあ、そんなこと言わずに」」」

 

 まだなにも言ってませんが。

 ふふふ……とアヤシイ笑みを張りつけた四人にじわじわ追い詰められ、さとりはあっという間に壁際で包囲された。

 

「……ちょ、ちょっと待ってください。おかしくないですか、自分から心を読まれたがるなんて、知られたくないことまで知られるかもしれないんですよ?」

 

 笑顔、

 

「とにかく落ち着いてください、四人一斉なんてさすがに無理で」

 

 笑顔、

 

「……も、もしかして皆さん、だいぶ酔ってますか?」

 

 笑顔、

 

「た、助けてください藤千代さぁん!?」

「ふふふ、さとりさんったら人気者ですね!」

 

 藤千代がグッとサムズアップしてきた。こういうときだけ無駄に空気読むのやめてください。

 

「お燐、お姉ちゃん楽しそうだねっ」

「そうですねー。いやー、さとり様に矛先が向いて助かっ――げふん」

 

 お燐、明日おやつ抜きね。

 そして最後の希望に縋って月見を見るのだが、彼はヘソを曲げた萃香と諏訪子のご機嫌取りをさせられていたり、輝夜や妹紅に絡まれていたり、近くでスカーレット姉妹が「ちょ、ちょっと待って、あなた『たち』ってどういうこと!?」「よかったね、お姉様っ」「よくなああああああああいっ!?」と騒いでいたりで、まったくこちらに気づいてくれなかったので。

 

「あ、あははははは……」

「「「ふふふふふ……」」」

 

 ――ああ、月見さん。あなたのお友達がみんな逞しすぎて、私、ちょっとめげちゃいそうです。

 このあと、さとりはメチャクチャ心を読まされた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ダイニングを離れたおくうは藍に連れられ、パーティーの喧騒が届かなくなる突き当たりまで廊下を歩いてゆく。

 今日出会ったばかりの地上の妖怪と二人きりというのは不安だったけれど、それ以上に興味が勝っていた。いや、『興味』なんて生易しいものではすでになく、ある種の欲望ともいえる激しい渦が今のおくうを突き動かしていた。

 前を行く九尾の少女――藍は、おくうに月見のことで話があるらしい。

 そしてそれは、月見がさとりに口止めをしてまで、おくうから隠し続けていたことらしい。

 それがおくうには気に喰わない。こうやって場所を替える以上は、ダイニングでは口に出せないくらい重要な話ということなのだろう。そんなにも大事(おおごと)な「なにか」を、月見はおくうに隠していたのだ。仲間外れにされていたみたいで面白くなかった。

 おくうは月見の式神なのに、隠し事なんて――。

 

「……」

 

 おくうはかぶりを振って、心に巣喰いかけた悪い考えを打ち払った。もちろん、その「なにか」を話してもらえなかったのは、正直に言えば悔しかった。教えてほしかった。でも、だからって月見を悪く言ってはいけない。きっと話せないだけの理由があったはずだし、おくうにだって、月見には教えられない秘密のひとつやふたつくらいはある。

 なにより、気に喰わないことを人のせいにする考え方は、心が卑しくなる。

 物事を勝手に悪い方向へ考えて、勝手に人のせいにして、勝手にヘソを曲げて、いじけて。それは、異変のときのバカだった自分へ、逆戻りしてしまうということに違いないから。

 

「……よし、このあたりでいいか」

 

 足を止めた藍がこちらへ振り返る。パーティーの喧騒は遠くからかすかに響いてくるだけで、藍の言葉は声量以上によくおくうの耳に通った。

 聞きやすい声をしてるな、と思う。

 

「さて、こんなところに場所を替えたのは他でもない。月見様が、お前を式神にした件についてだ」

「……うん」

「月見様からどこまで聞いている? どうしてお前を式神にしたかとか、どういう術を使ったとか」

 

 おくうは少し考え、

 

「えと、私のヤタガラスの力を、絶対に暴走させないようにするためだって。そのために、私の中に、……なんだっけ。ウカノなんとかっていう神様がいるんだって」

「……そうだね、おおまかにはその通りだ。厳密にはまず宇迦之御魂が、お前の中にいる八咫烏の御魂を調和させてくれている。そしてその状態でお前を式神にし、勝手に力を使えないよう制約を設けることで、事実上八咫烏を封じているわけだな」

 

 藍はそこまで滔々と語り、息で笑った。

 

「宇迦之御魂まで使役して、かなり大事(おおごと)な術だよ。私も実際に見て驚いた。別に、宇迦之御魂か式神か、どちらか片方だけでもよさそうなものだけど……まあ、本当に、なにがなんでも異変と同じことは繰り返させないつもりなんだろうね」

「……」

「その術は、月見様の執念の塊だ。……月見様は、お前をずっと苦しめてしまっていたんだってね。きっと、今でも強く責任を感じているのだと思う」

 

 なにかを言った方がいいのかもしれないと思うが、なにも言葉が出てこない。

 そうこうしているうちに、藍が相貌から笑みを消した。

 

「――本題だ。お前は、そんな大事な術を、なんの対価もなしに簡単に使えると思うかい?」

「……?」

「そもそも、単に式神を使役するだけでもある程度の妖力を必要とする。必要なときだけ精霊を憑けるタイプならまだしも、妖怪を式神として使役するならその負担は決して小さくない。……とはいえ、お前くらいの妖怪であれば、月見様にとっては微々たるものだろうけどね」

 

 いまいち話が見えてこない。

 

「それより重要なのは、宇迦之御魂という格の高い神を使役している点だ。これははっきり言って普通じゃない。私たちこの世の存在は、祝詞を捧げたり供物を奉じたりして、神に力をお貸しいただく立場だからね。宇迦之御魂ほど名のある神を自分の思い通りに使ってやろうなんて、考えたとしても普通は実行できるものじゃない」

 

 そういえば、とおくうはぼんやり思い出す。月見がまだ目を覚まして間もなかったとき、同じ話を聞いたハクレイの巫女や天人もとても驚いていた――気がする。あのときは、はじめて聞いた「式神」という言葉に気を取られて、深く考えていなかったけれど。

 ここまで来てしまえば、頭が弱いおくうにも段々と話が見えてきた。

 つまり、

 

「月見様は、ご自身の妖力の大半をお前のために割いている」

「……!」

 

 ようやく、わかった。月見がおくうに、一体なにを隠し続けていたのか。

 

「知らなかっただろう?」

「……、……うん」

 

 頷く他ない。考えてみれば、確かに藍の言う通りだった。動くためには体の力を使わなければならないし、考えるためには頭の力を使わなければならない。なにかをするためには、必ずなんらかの力を使わなければならない――それがおくうたちの世界の法則だ。だから、おくうの中にいるヤタガラスの力を制御するのならば、月見だってそれ相応の力を使わなければならない。

 その『力』が尋常ではないほど大きいことを、月見はおくうに隠し続けていたのだ。

 

「きっと、恩着せがましくなってしまうからだろうね。だから、言わないでいたんだと思う」

「……」

 

 なるほど、とおくうは思う。

 これは確かに、「いかにも月見がやりそうなこと」だ。

 笑みがこぼれた。

 

「……そっか。私、あいつの負担になってるんだ」

「……客観的には、そういうことになるね」

 

 正直に言えば、嬉しい気持ちの方が強かった、と思う。自分の力の大半を割いてでも、月見はおくうを守ろうとしてくれている。おくうのことを考えてくれている。それが嬉しかったし、また片隅では、嬉しいと感じてしまう自分自身に嫌気が刺した。

 今なら、おくうがここまで連れて来られた理由にもなんとなく見当がついた。

 

「その上で、私からひとつ頼みたいことがある」

「……うん」

 

 ここからが、本当の本題なのだ。

 今回のパーティーで、おくうは認めざるを得ないほど痛感した。月見は、おくうたちだけが独り占めしていいような妖怪ではなかった。おくうにお菓子をくれたフランやレミリアはもちろん、名前は忘れてしまったけれど他の少女たちだって、おくうにも負けないほど心から月見を慕っている。目の前の藍だって同じ。そんな彼女たちが、月見の大きな負担となるおくうの存在を許す道理なんて、あるわけがないのだ。

 だから、言われる前に言った。

 

「あいつの式神を、やめろって言うんでしょ?」

「ん? いや違うけど」

「え?」

「え?」

 

 間、

 

「……え、違うの?」

「? ああ、まったく違う」

 

 というかなんでそんな誤解してるんだこいつ、みたいな顔を藍はしている。おくうはわけがわからず、

 

「だ、だって……私は、あいつの負担になってて、だから」

「……ああ、なるほど。それを私が不愉快に思っていて、だから式神をやめろと言われるんだろう、ということか」

 

 怖々と頷く。藍もまたひとつ頷き、それからおくうの不安を吹き消すように笑みを作った。

 

「わからなくもないけど……しかしそれだったら、私が呼び出して話をすべきなのは、お前じゃなくて月見様の方じゃないか? お前に言ったところで、お前の意志で式神をやめたりできるわけじゃない」

「そ、それはそうかも、だけど……じゃあ、なんで」

「なに、そんな大それた話じゃないよ。怖がらなくていい」

 

 藍はなんだか、愉快そうだった。

 

「しかし、あれだね。そんなことを怖がって訊いてくるということは、お前は月見様の式神でいたいんだと、そう受け取ってもいいのかな」

「う、うにゅ……!」

 

 不意打ちだった。赤くなったと自分でも思うし、それがなにより雄弁な回答だった。

 

「ふふふ、そうかそうか」

「う、うー!」

 

 違うと言えない自分自身に腹が立った。でもやっぱり、それがどうしようもない事実だったのだ。さとりたちに対して『家族』というつながりがあるように、月見に対しても、自分は『式神』というつながりを欲してしまっているのだ。

 ――だって、ただの知り合いとか顔見知りとかじゃなくて、そういうはっきりした関係の方が、なんかいい(・・・・・)んだもん。

 そんなわけで、完全に油断していた。

 

「お、いたいた。おーい」

「にゅ!?」

 

 急に背後から声が飛んできて、おくうはびっくりして振り返る。すると目に飛び込んできたのは円い大きな注連縄で、その時点でわざわざ顔を見るまでもなく誰だかわかった。藍がつぶやく、

 

「神奈子?」

 

 だった。お酒ですっかりできあがってしまい、月見に泣きながら絡んだり床に頭を打って転げ回ったりと神の威厳を喪失していたはずの彼女が、今は酔いをまったく感じさせない淀みない足取りで、

 

「なんだこっちにいたのかい。一回逆の方向に行っちゃったよ」

「なにかあったのか?」

「んや。私もちょっと、そこの地獄鴉と話したいことがあってさ」

 

 おくうの横を通り過ぎ、藍の隣に立って回れ右をした。

 

「……あ、話途中だった?」

「まあそうなんだけど……話って、なんの話だ?」

「八咫烏の力をさ。これからどうしよっかなって」

 

 肩が、震えたと思う。

 

「あんたも、私がやろうとしてたことは知ってるでしょ? でも、まあいろいろあってあんな風になっちゃって、計画も今となっては白紙でさ。この鴉に八咫烏の力を持たせとく理由もなくなったわけ」

 

 自分の体温が、ぐっと冷え込んでいくのを感じた。それはおくうが、月見の式神となって以来ずっと、心の片隅で不安に思い続けていたことだった。

 月見だって言っていた。彼がおくうを式神にしたのは、あくまでおくうの中にあるヤタガラスの力を制御するためであり。

 そもそもヤタガラスの力がなくなれば、おくうをわざわざ式神にする理由もないのだと。

 

「制御棒なしじゃあちょいと危険な力だし……今は月見が制御してくれてるみたいだけど、それってなんか月見に悪いじゃない。だから、もう返してもらおっかなーと思って」

「っ……」

 

 つまり、裏を返せば。

 ヤタガラスの力がなくなったら、おくうはもう月見の式神ではいられないということで、

 

「というわけで、そっちさえよければこのあとにでも」

「い、いやっ!」

 

 自分で自分にびっくりした。それくらい大きな声が出ていた。藍と神奈子が目を丸くしたが、自分もきっとこんな顔をしているに違いなかった。

 

「――あ。いや、その。えと」

 

 頭の中が真っ白になった。二人の顔を見ることもできず、俯いて忙しなく両手の指を絡める。早くなにかを言わなければと思うが、ぐるぐる渦を巻く頭はなんの言葉も生み出してくれない。

 神奈子が首を傾げる。

 

「……えーと、嫌って、つまり八咫烏の力を返すのが嫌ってこと?」

「う……」

「いや、私が原因でいろいろあったわけだしさ、必要だってんならまあお詫びってことで考えないでもないよ? でもなにに使うのさ? 変なことされると困るよ、また私が藤千代に怒られんだから」

「な、なにもしないもん」

 

 なんとか、それだけ言えた。

 そう、おくうは別に、ヤタガラスの力を使いたいわけではない。そもそも、使おうとしても使えないと思う。今は月見によって封印されているし、そうでなくともあの力は、異変の記憶を呼び覚ます恐怖の引鉄になってしまっているはずだった。

 でも、それでいいのだ。

 

「なにもしないけど……ひ、必要なの!」

 

 ただ、おくうの中に在る(・・)だけでいい。それだけでおくうは満たされる。それだけで、おくうは月見とつながっていられる。

 ああ、もう、私は本当になんて卑しいんだろう。

 自覚はしても、この想いはどうしても抑えられなかった。

 

「はあ……? なにもしないのになんで」

「ひ、必要ならいいんでしょ!? だったら別にいいでしょ!?」

 

 ほんとのことなんて言えるわけないでしょー!? と、おくうは頭の中で神奈子に百烈拳を叩き込んだ。しかし神奈子は納得してくれない、

 

「いや……なんにも使わないんだったら、つまり要らないってことじゃ」

「まあまあ、彼女が必要だと言うのなら必要なんだろう」

 

 すると藍が、自分だけはすべてわかっているような顔をして割って入ってきた。というか、実際彼女はぜんぶわかってしまっていたのだと思う。

 

「本人はなにもしないと言ってるし、そうでなくとも悪用なんて月見様がさせないさ」

「そうだろうけど……でも、さっきも言ったけどそれじゃあ月見に悪いんじゃ」

「鈍いなあ。少しは察したらどうなんだ」

「は? え、なにどういうこと?」

 

 疑問符を量産する神奈子をよそに、藍はおくうに向けて目を細め、

 

「私も、ある御方の式神だからね。そういう気持ちは、それなりに理解できる」

「そ、……そう?」

「ああ」

 

 頷き、それから笑みをたっぷり深めると、

 

「――素直に月見様に伝えればいいような気もするけどね。八咫烏の力なんて関係なしに、これからも月見様の式神でいたいんだって」

「うにゃああああああああああ!?」

 

 ――やっぱりバレてたーっ!?

 神奈子が途端に、微笑ましいものを見る生暖かい目になった。

 

「あー、なるほど。使わないけど必要って、そういう……」

「……ちちちっ違うもん!? なんていうかそのっ……ヤタガラスの力を制御してもらわないといけないから、仕方なくなの! 式神でいたいわけじゃないの! 仕方ないのっ!!」

 

 藍と神奈子は揃って棒読みで、

 

「そうだな、仕方ないな」

「うん、仕方ないねえー」

「……ぐすっ」

 

 恥ずかしすぎて、おくうは灰になって燃え尽きそうだった。全身が、ヤタガラスの力を使ったとき以上の熱に襲われているのを感じる。ひょっとすると、傍目から見れば湯気のひとつでもあがっていたかもしれない。

 

「そういうことなら、あんたと月見の間で決めるべき話だね。私はなにも言わないよ」

「違うもん!」

「紫様、冬眠から起きたらびっくりするだろうなあ」

「違うってばぁ!」

「さて、じゃあ私の話に戻っていいかな」

 

 今おくうは、泣きそうな顔をしていると思う。

 

「これからも月見様の式神でいるつもりなら、頼みたいことがあるという話だ」

 

 けれど、物申したい気持ちを渋々引っ込めて、今は大人しく話を聞くことにした。藍本人は大それた話ではないと言うけれど、それはまったくもって真っ赤な嘘で、彼女はおくうが月見の式神に相応しいかどうか見極めようとしているのだ。今から自分が投げ掛ける言葉におくうがどう答えるのか、一挙手一投足に至るまで試そうとしているのだ。

 おくうは生唾を呑んだ。押し潰されそうな重圧が両肩にのしかかってくる。それは、己が己自身に感じる重圧だった。だって、月見のような強く優しい妖怪に、自分のような弱くて卑しい妖怪なんか相応しくないと、自分が一番よくわかっているのだから。

 自分はただ、月見によって守られる「式神」という関係に、浅ましくも依存したがっているだけで。自分を守ろうとしてくれる月見の気持ちに、卑しくも甘えようとしているだけで。

 そんな自分に、頼まれたところでできるようなことなんて、

 

「月見様に、笑ってあげてほしい。それだけだよ」

「……え?」

 

 意味が、わからなかった。

 てっきり、式神として月見の役に立てとか、助けになれとか、そういうことを言われると思っていたのだ。

 

「お前は……月見様に助けられたこと、感謝してるかい? それとも、余計なことをされたと思ってるかな」

「それは、」

 

 おくうは口を噤み、藍の顔を直視できずに、

 

「……あ、ありがとうって、前に言ったもん」

 

 藍が優しく息をついた音、

 

「そうか。……感謝しているなら、これからの生活を心から謳歌してほしい。そして、月見様に笑顔を見せてやってほしいんだ」

 

 言葉の意味はわかる。

 だが、意図はわからない。どうしてそんなことを頼むのか。おくうが笑顔を見せることに、一体どんな意味があるのか。

 顔を上げると、藍の面持ちにかすかな憂いの影が差したところだった。

 

「さっきも言ったけど……月見様は、お前を苦しめてしまったことに強く責任を感じている。表面ではなんてことのない顔をしているけどね、心の中では結構引きずってると思うんだ。どうもそういうところがあるらしい、あの方は」

「……」

「昔は私たちを置いて外の世界へ出て行ってしまったり、良くも悪くも人に囚われないところがあったんだが……幻想郷に戻ってきてからは、丸くなったというかな。輝夜の一件で、さすがに反省したのかもしれないけど」

 

 これは余計な話だな、と軌道修正し、

 

「ともかく、お前がこれからの生活で笑っていてくれるなら、月見様の心の悔いも、少しずつ軽くなっていくはずなんだ。天子のときがそうだったから。式神として力になってやれなんて言わないし、月見様もそんなのは望んじゃいない。でも、お前に笑っていてほしいとは思っているはずだ」

 

 まるで、(こいねが)うようにまぶたを伏せて、

 

「……だから、ね。これは、お前にしかできないことだ」

「…………」

「今日を見ていた限り、お前はあまり笑っていなかった気がしてね」

 

 もちろん、藍の指摘通りだった。おくうは、余所の誰かがいる前ではなかなか正直に笑うことができない。素直な気持ちを打ち明けられない。さとりたち家族の前ではそんなことないのに、とりわけ月見の前ではいつも怒ったような、そっぽを向いたような、素っ気ない顔をしてばかりだった。

 それではいけないと、藍は言うのだ。月見の式神としてまずおくうに必要なのは、彼の役に立てるような力ではなく、嬉しいときや楽しいときは素直に笑う心なのだと。

 そして、その心さえあれば、弱いおくうにだって月見の支えになれるのだと。

 

「もちろん、無理にでも笑えと言っているわけじゃないよ。もう少しだけ、月見様に素直になってあげてほしいということさ。……頼めるだろうか」

 

 すぐには頷けない自分がいた。月見に対して素直になる――そんな自分がちっとも想像できなかったからだ。

 けれど、もしも自分が笑うことで、月見を支えてあげられるのなら。

 

「……上手くできるか、わからないけど……が、頑張る」

 

 込みあがってくるその気持ちに、決して嘘はなかったので。

 

「ありがとう。お前が優しい妖怪でよかったよ」

 

 眉を開く藍に、神奈子がこれ見よがしに肩を竦めた。

 

「あんたも、大概世話焼きだよねえ」

「私で力になれるのなら、すぐにでもなりたいさ。でも今回の場合、私は部外者でしかないからね。悔しいけれど、月見様を支えられる一番近い場所にいるのは彼女だ」

「……そう、なんだ」

 

 そう言われると、おくうはむくむくと嬉しくなった。月見に一番近い場所――なかなか満更でもない響きだと思った。今日地霊殿に集まった地上の誰よりも、おくうがまだ顔も知らない誰よりも、さとりよりも、こいしよりも、お燐よりも。私が一番。私が一番。繰り返すたびに心が暖かくなって、おくうは知らず識らずのうちにだらしなく笑っ

 

「――とはいえ、気をつけてほしいこともあるけどね」

「へ、」

 

 藍がなにかを言った、と思った瞬間には、目と鼻の先から両肩をぐわしっと鷲掴みにされていた。

 思わずおくうの頬が引きつるほどの、とってもステキな笑顔だった。もふもふであるはずの九尾が、蛇のようにうねうねと不気味に蠢いていた。

 

「わかっているとは思うけど……月見様の式神だからって、調子に乗ってはいけないよ。早まった真似はしないように。もしも万が一のことがあればそのときは、どこか二人きりになれる場所で、式神とは主人にとってどうあるべきかという問題について、じっくりと、たっぷりと、みっちりと話し合いさせてもらうからね。今回ばかりはお前の力を借りる形になってしまったけど、あくまで今回だけだ。これからずっと月見様を支えてくれと言っているわけじゃない。そこだけは履き違えないでくれ。いいね? ――さあはいと言え。首を縦に振れ」

「……は、はひっ」

 

 まさに、問答無用であった。逆らったら閻魔様以上のお説教をぶっ放されそうな圧倒的プレッシャーに、おくうの体はもはや震えることも忘れ、ただただ必死に首を縦に振るだけだった。

 藍はうむうむと満足げに二度頷き、おくうの両肩から手を離して、その頃にはもう元通りの彼女だった。

 

「わかってもらえてなによりだよ」

「……わかってもらったというか、無理やりわからせたというか」

「さあて、話も終わったし戻ろうか」

 

 神奈子の呟きを華麗に無視し、一人颯爽と来た廊下を引き返していく。もふんもふんと弾むように揺れる九尾はなんともご機嫌である。今更になってぷるぷる震え始めるおくうの肩に、神奈子が励ますとも哀れむとも取れない奥ゆかしい微笑みで、ぽんと優しく手を置いた。

 二人の背中が遠ざかっていく。おくうは震える両手でスカートに皺を作り、せめて行き場のない思いを込めて、

 

「う゛~~~~…………っ!」

 

 それしか言えない。

 霊烏路空。過日の異変を乗り越えて、少しずつ、バカだった自分に変化が起きている自覚はあるけれど。

 それでもやっぱり、依存したがりなのはちっとも治らない、なかなかフクザツな女の子である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第116話 「いつか陽のあたる場所で ⑥」

 

 

 

 

 

 お菓子を食べて酒を呑み、お菓子を食べさせ酒を呑まされ、元気すぎる少女たちに右へ左へ引っ張られて、他愛もない四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせては、またあっちへこっちへ引きずられて。

 気がつけばお菓子も酒も尽きており、すっかり宴もたけなわな頃合い。

 なぜか月見は少女たちを横一列に正座させて、お説教をする羽目になっていた。

 

「反省してるかお前ら」

「「「はい! でも後悔はしてませんっ!」」」

 

 反省した素振りもなくいけしゃあしゃあと言ってのけたのは、左から順に藤千代、操、勇儀、萃香、神奈子、諏訪子、幽香、幽々子、フラン、輝夜、妹紅である。或いはさとりたち地霊殿組と、藍とレミリア以外の全員ともいう。

 なにゆえパーティーがこのようなお説教タイムに変貌したかといえば、その理由が月見の斜め後ろにある。

 

「……きゅう」

 

 ぐるぐるおめめで失神したさとりがお燐に膝枕をされていて、こいしに横からほっぺたをつんつんつつかれている。おくうは月見の後ろに半分隠れ、一文字で正座する少女たちへ一生懸命抗議の視線を飛ばしている。

 もちろん、すべて目の前の正座ガールズの仕業である。一体誰がきっかけだったか、酔った勢いで始まった「月見との思い出を一番鮮明に想起した人が優勝だよ選手権!」のせいで――要するにあまりにたくさん、かつ濃密な記憶を一度に流し込まれたせいで、脳の許容限界を超えたさとりがぼふんとパンクしてしまったのだ。

 いやあー、と藤千代が他人事のように頭を掻いている。

 

「皆さんすごいですねえ、まさかさとりさんが目を回してしまうなんて」

「おいトドメ刺した張本人」

「開始五秒でさとりを沈めるとか、やっぱ千代は格が違ったわ」

「濡れ衣です! 私はまだ序盤の『じょ』すら語っていませんでしたっ。つまり、私の前にさとりさんを限界まで追い詰めた黒幕がいます!」

 

 こいつが言い訳すると感動的なくらい説得力がないな、と月見は思う。しかし藤千代以外の連中が流し込んだ記憶もまた、さとりを失神へ追いやった確かな原因なのは間違いないだろう。

 吐息。

 

「お前らがさとりの能力を怖がらないのは嬉しいんだけど、どうしてこう極端なのかなあ」

「まあ、自分から心を読まれたがる時点で大概だしね」

 

 横のレミリアがなぜか勝ち誇ったように肩を竦め、すかさず妹からブーイングが飛ぶ。

 

「またお姉様は、そうやって自分だけマトモみたいにーっ! 能力使ってまで心を隠そうとする方が変だよ!」

「なによ、読まれずに済むんだったら読まれない方がいいに決まってるでしょ!? 藤千代だって、今回心読ませたらこの有様じゃない!」

「ふーん。じゃあ、お姉様も心読ませたら藤千代みたいなことになっちゃうんだ」

「んなわけないでしょ!?」

「レミリア……?」

「あんたも引いてんじゃないわよ!」

「あの月見くん、それってつまり私に引いてるってことですか!?」

 

 月見は有意義に無視した。

 さとりが目を覚ました。

 

「う、うーん……あれ、お燐……?」

「あ、さとり様。気がついたんですね」

「お姉ちゃんおはよー」

「さとり様、大丈夫ですか?」

「ええ……」

 

 駆け寄ったおくうにうんしょと腕を引かれて起き上がる。しかしまだパンクした痛みが尾を引いているらしく、逆の手で二日酔いのように頭を押さえ、

 

「ふああ……ま、まだ頭の中が……」

「お姉ちゃんが心を読んで倒れるなんて、はじめて見たー」

「向こう数年分の記憶を一気に流し込まれた気がするわ……」

 

 嘆息するさとりは、しかしまた一方では、今し方の出来事を反芻させて楽しんでいるようでもあった。自ら進んで心を読まれたがるだけでも珍しいのに、語られる記憶が至って愉快な自慢話ばかりだったものだから、おかしな人たちだと畏れ入る気持ちもあったのだろう。まだ半分ほど夢の中にいるように、

 

「もう……はじめてですよ、心を読んでほしいって言い寄ってこられるなんて。月見さん、あなたのご友人がみんな逞しすぎるんですけど」

「心を読まれて困るような後ろめたい生き方はしてないものっ」

 

 輝夜がえへんと胸を張ったので、さとりはぽそりと、

 

「……月見さんの喉を箸で」

「ねえ、その話いつまで引っ張られるの!? もうやめましょ、誰も幸せになれないから! ね!」

「くひひひひひ」

「もこおおおおおおおおおおっ!!」

 

 妹紅の胸倉を元気に締め上げる輝夜の横で、今度はフランが勝ち誇った顔をしている。

 

「つまりお姉様は、心を読まれると困る後ろめたい生き方をしてるんだね!」

「フラン、あなたには一度姉への態度ってものを教えてあげるべきかしら」

「いーっだ! 素直じゃないお姉様が悪いんだもん! 月見だってそう思うよね!?」

 

 月見はただ、ノーコメント、とだけ返した。月見とて、都合よく耳が遠くなったり女心がまったくわからない唐変木だったりするわけではない。レミリアが、まあ、月見の怪我を心配してくれていたことも、以前から「なにか」を伝えようとしては失敗していることもなんとなく察している。そもそも、何度かは月見の目の前で盛大に自爆しているのだから、それでも察していなかったらただの馬鹿である。自分から言うものではないと思い、知らないふりをしているだけで。

 はじめはいろいろあったけれど、今は受け入れてもらえている。それだけで、月見としては充分なのだ。

 またぎゃーぎゃー口喧嘩を始めたスカーレット姉妹をよそに、幽々子がマイペースに手を挙げ、

 

「ところで、誰が優勝かしら~? やっぱり藤千代?」

「あ、藤千代さんはレッドカードで退場です」

「なんでですか!?」

 

 さとりは無視し、

 

「それ以外の皆さんなんですけど……えっと、すみません。どれもすごくて、途中で頭がごちゃごちゃになっちゃいまして……」

「つまり私は濡れ衣ですね!」

「はーい千代は黙ってようねー」

 

 操が後ろから藤千代の口を塞ぎ、さとりはしばらく悩んでから、

 

「……えーと、判定不能です」

「じゃあ二回戦だね! 今度こそ私ら鬼と月見の絆が一番だってふぎゅん!?」

 

 月見は萃香の頭を尻尾でひっ叩いた。

 

「なにすんの!?」

「はいはい、騒ぐのはおしまいだよ。お菓子も酒もなくなったからね、そろそろ片付けだ」

「えーっ!」

 

 あいかわらず昼夜の区別がない地底ではわかりづらいが、地上はもうとっぷりと夜が更けているはずだ。着替えを持ってきている者が一人もいないということは、みんな今日のうちにちゃんと地上へ戻るのだと思う。明日はそれぞれの家で、それぞれの家族たちと一緒に『ちょっとした贅沢をする日』を祝うのだろう。

 姉との口論をやめたフランが、名残惜しく唇を尖らせた。

 

「むー、もうそんな時間かぁ。あっという間だったなー……」

 

 それは月見も同じだ。本当にこの少女たちは、いつでも月見を退屈させてくれなくて、お陰で時間が経つのもすっかり忘れて楽しんでしまう。

 輝夜が不満げに袖を振る。

 

「ねーギン、ギンはいつこっちに戻ってくるのよー。ギンがいないと暇なのよー。つまんないぞー」

 

 幽香も便乗して、

 

「そうよ、このまま来年まで戻ってこないつもりっ? そんなの許さないわよ!」

「そんなことはないけど……」

 

 そういえば、地霊殿で生活を始めてもう一週間ほどになる。怪我は問題なく完治しているので、戻ろうと思えばいつでも戻れる状態ではある。一週間振りに顔を見に行きたい知り合いは多いし、響子やにとりについては異変で助けてもらった礼すら未だできておらず、なにより年末年始という一大イベントが刻一刻と迫ってきているのだ。さすがにそろそろ戻っておかなければ、一息つく暇もなくドタバタの年越しになってしまう。

 しかし、

 

「「むー……」」

 

 それでも月見が未だ地上に帰れないでいるのは、こいしとおくうがこういう顔をするからである。

 唇をへの字にして、ジト目で、いかにも不満たっぷりな。これでも、フランたちがいる手前かいつもよりは大人しい方だった。特にこいしなんて、普段であれば月見の袖を振り回して大騒ぎする有様で、さとりに怒られたのはもう一度や二度の話ではない。

 そしてそんなさとりもまた、内心では寂しがっているらしい雰囲気が言動の端々から感じられて――というか、「時間が許す限りここにいてくれないと拗ねる」とはっきり言ってのけたのは他でもない彼女で

 

「……んんっ」

 

 さとりに空咳をされた。内心自分でも恥ずかしい発言をしてしまったと自覚していたらしく、じわじわと赤くなって、

 

「ま、まあ、もう年の瀬も近いですから……そろそろ戻らないと、ですよね」

「おにーさんの怪我も治って、引き止める口実もなくなっちゃいましたしねー」

「「うー……」」

 

 こいしとおくうの眼力が、月見の良心に風穴を開けそうだった。

 しかし、さすがの月見もこれ以上なあなあにするつもりはない。こいしたちには悪いが、自分は年末年始を地上で過ごしたい、それが正直な本心だった。挨拶回りをしたり正月の飾りつけをしたり、年越し蕎麦を食べたり初日の出を見たり初詣をしたり餅をついたりお年玉をねだられたりと、年に一度のイベントが目白押しなのだから。幻想郷の元気いっぱいな少女たちと一緒なら、騒がしくもかけがえのない一週間になるであろう。

 

「さすがに、あと二~三日したら帰るからね」

「「……」」

 

 こいしとおくうの表情がますます不機嫌になっていく、ちょうどそのとき。

 しゃらしゃらと、フランの七色の羽が小気味よく鳴った。フランはまさしく名案を閃いた顔で、

 

「じゃあ、今度はこいしちゃんたちの方からこっちに来ればいいんだよ!」

「え、」

「だって私たちだって来たんだもん、こいしちゃんたちが来たってヘーキでしょ?」

 

 それは、月見が漠然と脳裏で思い描きつつも、決して言葉にはできないでいたことだった。今度は、お前たちの方からこっちにおいで――なんて、さとりたちの事情を知っている自分が、軽々しく口にしていいわけはないのだと。

 フランは、知らないから。だからそんな軽はずみなことが言えるのだと評してしまえば、それだけの話ではあった。

 けれど、

 

「次は地上で遊ぼうよ! それに、心を読んでほしい人もいるんだー」

「私は絶対に読ませないからね!?」

「はいはい! それならこっちも、是非とも文の心を読んでほしいんじゃよ! というわけでいつでも遊びに来てね!」

「妖夢の心も読んでみてほしいわ~。地上にやってきたときは教えてくださいな、引きずってでも会いに行くからっ」

「ちょっと、それやったら妖夢が本気で腹切りかねないからやめなさい!」

「私も、ちょっと永琳の心を読んでみてほしいわね……普段なに考えてるのかさっぱりわからないし。意外と変なこと考えてたりして」

「先生の周りには、心読ませたら面白そうなやつがたくさんいるよねえ」

「勇儀もたまにはこっち遊びに来ればいいのに」

「えー、そう? じゃあ遊びに行っちゃおっかなーっ」

 

 ――ああ、そうか。お前たちは、そう言ってくれるのか。

 たとえ事情を知らなくても。軽はずみかもしれなくても。飛び交う言葉は多々あれど、来るなと言う者、嫌な顔をする者は一人もいない。不可侵の約定がどうこう言うけれど、結局は今回のように、行ってもいいと許され、来てほしいと望まれたのならその限りではない。だから今度は、さとりたちが地上に来たって問題はないだろうと。

 事情を知らないからこそ、この少女たちはそう純粋な心で願い、まっすぐに手を差し伸べてくれる。

 

「ね、藤千代。こいしちゃんたちがこっちに来てもいいよね!」

 

 答える藤千代の微笑みは、果たして誰に向けたものだったか。

 

「必要があれば、私はいつでも案内しますよ」

「ほら! というわけで、次はこいしちゃんたちの番ね!」

 

 もちろん、そう簡単には行かないだろう。たとえ来てほしいと望まれたとしても、さとりたちが行こうと決心できるようになるまでは、今はまだ時間が必要になると思う。「じゃあ」という二つ返事であっさり乗り越えてしまえるほど、さとりたちが地霊殿にいる理由は単純ではない。

 けれど、少なくとも。

 行けば、そこには、自分たちを迎えてくれる人がいる。

 さとりが、小さく吹き出した。フランたちの姿に、光を見るように目を細めた。

 

「……もう。皆さん、本当に逞しすぎですよ」

 

 強い少女たちだと、月見も思う。あいつらならもしかしたら、と淡い期待を抱いていた。そして、その通りだった。月見が半年掛かってようやく辿り着いた場所に、この少女たちは、本当にたった一晩のパーティーだけでいとも簡単に追いついてきてしまったのだ。

 そしていま目の前で、月見でもできなかったことをやってのけようとしている。さとりたちを、仲間として、友達として、自分たちの場所に招待しようとしてくれている。

 地底の妖怪を地上へ招くことの是非は、どうだっていいのだ。

 大切なのは、「また会いたい」と願う気持ち。その想いは、きっと間違いなく届いていたであろう。

 こいしが、咲き誇る笑顔の大輪で応えた。

 

「……うん! 必ず、会いに行くね!」

「うん! 待ってるからねっ!」

 

 フランとこいしが、仲良く指切りをする。その光景に誰しもがほころび、みんな揃って同じ反応だったことに気づいて、気恥ずかしそうに苦笑する。

 まぶたを下ろせば、見えるようだ。フランと結託し、水月苑中を元気いっぱい跳ね回るこいし。顔面真っ赤で恥ずかしがる咲夜や妖夢の心を読んで、一人愉悦の表情を浮かべているさとり。橙と一緒にこたつで丸くなって寝ているお燐。はじめて出会うばかりの人たちを、さとりの後ろに隠れて片っ端から「う゛――――――――……」と威嚇しまくるおくう。そう簡単に実現できる未来ではないはずなのに、この少女たちがいてくれるならどうとでもなってしまうような気がしてくる。

 本当に、強い子たちだと。

 月見が内心感嘆する気持ちでいると、指切りを終えたフランがふと、

 

「――そういえば、月見。咲夜の手紙のお返事、書いてくれた?」

 

 あ。

 

 

 

 

 

 フランからぷんすか怒られる月見の、いつもよりちょっぴりだけ情けない横顔に、藍は音もなく静かな笑みの息をつく。

 ――はじめ輝夜がお見舞いをすると言い出したときは、ああもうまたこいつらはと頭を抱えたものだけれど。

 今になって振り返ってみれば、どうしてなかなか悪い時間ではなかった。いや、それどころか、こうなるべきだったのだろうとすら思っていた。不可侵の約定が云々なんて話は、ここまで来てしまえばもうどうだってよかった。

 だって、愛おしかったのだから。悲劇ともいえる異変を乗り越え、お菓子を食べてお酒を呑んで、おもいおもいの顔でみんなと笑い合うさとりたちの姿が、本当にかけがえのないものなのだと藍にだって理解できたから。

 天子のときと同じだ。

 だからみんなが天子のときと同じように、さとりたちを受け入れるのだ。

 

「早く書きなさーい! 書くまで帰らないからねっ!」

「悪かった、悪かった。すぐに書くよ」

 

 もちろん、誰しもがはじめから逞しかったわけではない。恐らくはこの場の誰しもが、地底に行こうなんて今まで一度も考えたことはなかっただろう。なのに覚妖怪の力を恐れもせず、ノリノリで行こう行こうとパーティーの計画を立てたのは、月見がいたからだ。

 そしてさとりたちだって、地上からの客を館に招くと決めたのは、きっと月見がいたからに違いない。

 

「ギン、次は私への手紙も書いてね! じゃないと帰らないからっ」

「おいなんか増えてるぞ」

「「早く書くのーっ!!」」

「……わかった、わかったよ」

 

 きっと地上と地底の関係は、今日を機にして少しずつ変わっていくだろう。新しくつながった縁は自ずと月見の周りに集まって、水月苑の、引いては幻想郷の風景を一層鮮やかに彩るだろう。

 妖怪も人間も、あらゆる種族がその垣根を越えて、本当の意味で共に生きられる場所。

 だから藍は、こう思う。

 

(……早く起きた方がよさそうですよ、紫様)

 

 今日も今日とて大変いぎたなく爆睡しているであろう、幸せな主人の姿を脳裏に描きながら。

 月見が幻想郷に戻ってきて、今で半年とひと月ほど。そして春になるまでは、まだおよそ三ヶ月もある。

 たった半年ちょっとで幻想郷の姿はここまで変わったし、紫が眠ってひと月もしないうちに異変が起き、地霊殿の面々が早くも月見と急接近を果たしたのだ。だから、

 

(もしあと三ヶ月も、呑気に眠ってたりしたら――)

 

 交友関係の広さが災いし、今や間接的なトラブルメーカーと化した月見が、まさかこのまま何事もなく春を迎えるはずはあるまい。暖かくなって紫が起きる頃には、一体どれだけの少女たちが彼の周りに増えていることやら。

 今回の異変で、おくうが月見の式神となった件も含めて。

 

(――紫様の場所、とっくになくなっちゃってるかもしれませんよ?)

 

 春には「ええええええええなになになにがどうなってどういうわけでどういうことぉ!?」と盛大に慌てふためく主人の姿が拝めそうだと、今から待ち遠しい藍なのであった。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 きっと、みんなと一緒ならどんなことでも楽しかったのだと思う。食器洗いや食べこぼしの掃除など、後片付けまで終始賑やかに終わって、明日まで続くかと思われたパーティーにも遂に終わりがやってきてしまった。

 

(やってきてしまった……か)

 

 そう、月見は感慨深く思う。どうやら自分は、みんなとの別れを少なからず惜しんでいるらしい。ほんの一週間振りで、地上に戻ればまたいつだって会える相手であるのに。

 けれど、やはり、それが正直な気持ちだったのだと思う。たった一週間、されど一週間。みんなはあいかわらず元気溌剌の一辺倒で、さとりの能力も、地上と地底の間に横たわるわだかまりもなんのその。持ち前の明るさでさとりたちとあっという間に仲良くなって、その暖かな光景に、月見はひと時、ここが地底であることすらすっかり忘れてしまっていた。

 今だって、そうだ。地霊殿の庭まで出てみんなを見送りする中、冬の寒さも明後日の空まで吹き飛ばすような景色が、月見の目の前には広がっていた。

 

「――紅魔館はねー、洞穴を出てびゅーんって山を下って、おっきな湖があるとこの近くだよ! 真っ赤でアクシュミな見た目だからすぐわかると思う!」

「真っ赤でアクシュミな洋館だね! わかった!」

「フラァ~ン?」

「ふみ゛み゛み゛み゛ぃ……」

 

 例えば本日一番の仲良しさんになったであろうフランとこいしが、早くも地上で再会したときの話をして盛り上がっている。フランが紅魔館の大雑把な場所と率直な特徴をこいしに伝え、レミリアから容赦のないグリグリ攻撃をもらっている。

 

「お燐。ここのお庭をよりよくするためのアドバイスを、私なりにまとめてみたわ。手入れしている子に渡して頂戴」

「あ、うん……ってノート丸々一冊!? いつの間にこんなの書いて、うわー最後まで文字びっしり……」

「風見幽香の千ポイントアドバイスよ」

「ゼロが三つくらい多いなあ……」

「なによその微妙に迷惑そうな顔は! どうやら植物の大切さを理解していないようね、特別授業が必要かしら!?」

「ひいっ!?」

 

 隣では、やること為すことすべて大袈裟な幽香が、お燐を標的にぎゃーぎゃー騒いで勇儀から羽交い絞めを喰らっている。親切なのはとてもよいことなのだが、酔っているせいもあってかいつもより輪をかけて大袈裟である。月見が咲夜への返事を書き忘れてしまうほど賑やかなパーティーだったのに、一体いつアドバイスノートを作るような余裕があったのか。そもそも、余裕があったとしてもどうやったら千個ものアドバイスを捻り出せるものなのか。気にしたら負けなのだろうなと月見は思う。

 横から、萃香が勇儀に声を掛ける。持ってきた酒をぜんぶ呑み干したというのにまだ伊吹瓢で呑み続けていて、顔は真っ赤で、今にもぶっ倒れそうでなぜかぶっ倒れない絶妙なバランス感覚を披露している。

 

「勇儀ぃ、ほんとに今度遊びに来なよー。春からまたいろいろあって、水月苑もかなり賑やかになったんだよぉ」

「おうさ。天子が地上でなにやってるかも気になるし……年越しの宴会するんだったよね。そいつに参加させてもらっちゃおっかなー」

「いえーい! ……てか、天子? なんで天子?」

「んー? ふふふ」

「?」

 

 視線を少し奥へ転じれば、おくうが輝夜と妹紅に左右から包囲されている。

 

「あんたってさあ、先生が地上に帰るってなったらどうするの? 一緒についてきたりするの?」

「な、なんでそんなことしなきゃなんないの!? 私とあいつは別に、」

 

 ふとおくうがこちらを見て、目が合った瞬間高速で逸らし、

 

「……そ、そんなんじゃないし! ぜんぜん違うし!」

「……うにゅほ、今からちょっと大切な話をするわ。よく聞いて」

「だ、だから私はうにゅほじゃ」

「ばかっ!!」

「!?」

「それでも……それでも、うにゅほはギンの式神だって胸を張れるの!? これは遊びなんかじゃないのよ! 聞いてるのかーっ!」

「な、なんなのもぉーっ!?」

 

 輝夜もすっかり酔っ払っており、真面目に不真面目な剣幕でおくうの両肩を鷲掴みにしている。おくうがこちらまで助けを求める眼差しを送ってくるけれど、生憎月見にはなにもできない。

 なぜなら月見も、少女たちに包囲されて身動きが取れないからである。

 

「月見様、本当にお着替えだけで大丈夫ですか? 遠慮なさらないでください、必要な物があれば明日にでも……いえ、今日にでも持ってきますから」

「大丈夫、本当に大丈夫だよ。こんなに置いて行かれたら帰るだけでも大変じゃないか。お前は、私をここに引っ越しさせるつもりなのか?」

「それもそうですね! わかりました、ぜんぶ持って帰りますっ!」

「ほら諏訪子ぉ、いい加減尻尾から離れなって。遅くなる前に神社戻らないと、早苗たち待ってるよ」

「もふうううぅぅぅぅぅ!!」

 

 右は藍、左は神奈子、そしてトドメに後ろから目が血走った諏訪子。尻尾を引き千切ってお持ち帰りしかねない勢いに、先ほどから月見の背筋は凍りっぱなしである。

 そして隣ではさとりもまた、操と幽々子に真正面からグイグイ包囲されているのだった。

 

「さとり……一度地上を追われたお前さんに、地上へ来てくれと願うのはひどく身勝手だと思う。だがそれでも頼みたいんじゃ。つーかマジで文さんの心読んでくださいお願いします」

「私からもお願いっ、妖夢の心を読んで頂戴! 絶対楽しいことになるはずだから!」

「は、はあ……いやあの、お二人の記憶から察するにそれって私の命まで危ない感じじゃ、というかそこまで確信してるなら心なんて読まなくても」

「我ら天狗の悲願なんですっ!!」

「需要はあると思うのっ!!」

「……か、考えておきますね……?」

 

 本当に、みんなみんな元気すぎて手に負えないくらいなのだった。

 

「ほらお前ら、これ以上は無駄話だよ。さとりたちの体が冷えちゃうだろう」

「もふー! もふーっ!」

「あーもう離れろってば」

「いやだあーっ! このもふもふは私の、ああーっ!?」

 

 尻尾をぶんぶん振り回していたら、藤千代が諏訪子を一発で引っぺがしてくれた。

 

「ではでは皆さん、そろそろ行きますよー」

「コンニャロー! 私の尻尾ぉーっ!」

 

 諏訪子はほしいおもちゃを買ってもらえなかった駄々っ子のように暴れている。この少女の基準では、月見の尻尾はいよいよ月見のものですらなくなっているらしい。そのうち寝込みを襲われて引き千切られるんじゃないか、と月見はほんのり恐ろしくなる。「十一本もあるんだから、一本くらいなくなっても別におんなじだよね!」とか、諏訪子なら笑顔で言いかねない。

 さておき、賑やかなパーティーもこれで本当にお開きだ。

 

「さとりさん、今日はとても楽しかったです。ありがとうございました!」

「あ、はい……ってわわっ、み、みんな一斉はやめてください!」

 

 藤千代が頭を下げた途端、さとりが驚いて一歩後ろによろめいた。みんながいたずらな顔をして一心にさとりを見つめているので、心の中でわざとらしくお礼の言葉を繰り返しているのかもしれない。

 

「わ、わかりました、わかりましたからっ! だ、だからやめ、ちょっ、そういうのやめてくださいってば!」

 

 赤くなったさとりはあわあわと右往左往し、なぜか月見の背中に隠れる。しかしもちろんそんなものに意味などなく、月見の後ろで縮こまって、「あー! あーっ!」とぷるぷる煩悶している。

 

「助けてください月見さん、みんなが私を褒めてくるんです!」

「そんな理由で助けを求められたのははじめてだよ」

「だ、だから私、あの、こういうの苦手なんですってばぁ!」

 

 さとりは、四方八方からくすぐられるのを命懸けで耐えているような顔をしていた。羞恥で首からおでこまで真っ赤になり、けれど褒められて不快になるわけはないので、正直者な頬が上に向けてひくひく痙攣する。それを見られるのが嫌なのか、月見の背中におでこを押しつけて、ひえーっと一層小さく縮こまる。

 

「はいはい、さとりが心優しい妖怪なのはわかってるから。みんなそのくらいにしてあげなさい」

「口に出すのはもっとダメですッ!」

「「「さとりかーわいー!」」」

「あー! あーっ! あぁーっ!!」

 

 やっぱりさとりは、誰かをいじるよりも誰かにいじられている方が似合っているのだ。

 さとりがみんなに受け入れてもらえて、こいしも嬉しそうだった。

 

「みんな、お姉ちゃんに優しくしてくれてありがと!」

「どうってことないわよ。月見さんのお友達なら、私たちとも友達だもの!」

「幽々子さんがものすごくいいこと言いました!」

「もっと褒めて! 私、褒められるとぐんぐん伸びちゃうタイプなのっ!」

 

 月見の背に隠れたままのさとりが、声だけで笑った。

 

「……ありがとうございます、皆さん」

「ええ。――というわけで、いつか必ず妖夢の心を読みに来てね!」

「文の心を読みに来てね!」

「……えーっと、はい、その……まあ、そうですね、気が向いたらということで。たぶん、そのうち、きっと」

「「えーっ!!」」

 

 まあ、たとえ一部に露骨な下心があるとしてもだ。

 

「またねー、こいしちゃん! 必ず紅魔館に遊びに来てねー!」

「うん! みんなと一緒に必ず行くねー!」

「いいこと、うにゅほ……式神としての自覚をしっかり持って、ギンの力となるよう励みなさい。いつかあなたが地上に来たとき、抜き打ちテストするんだからね!」

「だ、だからうにゅほじゃないんだってばぁ!?」

「お燐、そのノート必ず渡すのよ!? 捨てたりしたらぶっ飛ばすからね!?」

「わ、わかったから! わかったから妖気出すのやめて!?」

 

 どいつもこいつも最後まで賑やかなこの少女たちを、月見は今だけは誇らしく思おう。本当に、強くて、立派で、かけがえのない大切な仲間だと。

 さとりに、こっそり裾を引っ張られた。

 

「月見さん。そういうのはちゃんと言葉にして言ってあげれば、みんなすごく喜んでくれると思いますよ」

「……さて、なんのことやら」

 

 口に出したらこいつらは揃いも揃って調子に乗るに決まっているので、却下である。

 

「……ふふ。そうですか」

 

 さとりの曰くありげな微笑を、意識しないようにしつつ。

 けれど、これくらいなら、よいであろう。

 

「……お前たち」

 

 酒が入ったせいでつい、ということにしておこうと思う。

 

「今日は、楽しかったよ。ありがとう」

「「「…………」」」

 

 結論を言えば、やっぱりやめておけばよかったなあと若干後悔した。案の定調子に乗った輝夜とフランが歓声を上げて飛びついてきたり、幽々子と操がエキサイトしたり、妹紅がニヤニヤしていたり、諏訪子が再度尻尾をホールドしてきたり、藤千代がトリップしたり、また目も当てられない大騒ぎになってしまったので。

 帰らせるのに大変苦労したとだけ、あとは簡潔に記しておこうと思う。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 屋敷に戻ると、中と外の温度差に尻尾が思わず震える。ほんの見送りのつもりだったけれど、なんだかんだしているうちに時間が経って、着流し一枚の体はすっかり冷えてしまったようだった。藍が水月苑から和服の替えを持ってきてくれたので、あとで着替えようと月見は思う。

 さとりも、両腕を浅く抱いて身震いしている。

 

「悪かったね、最後の最後まで騒がしいやつらで」

「あはは……皆さん、本当に元気でしたね」

 

 気抜けするような微苦笑には、隠し切れない疲労の色があった。寄ってたかって四方八方から心を読まされた挙句、容量オーバーでパンクさせられたのだから無理もない。月見も月見で大変だったけれど、一番はやっぱり彼女だったと思う。

 

「私は、すごぉっく楽しかったよ!」

 

 一方でこいしは、むしろパーティーが始まる前より元気になっていた。

 

「フランちゃんとかレミリアちゃんとか、みんなと仲良くなれたし! これからは、堂々と地上に遊びに行っても大丈夫だよねっ」

 

 月見に向けてビシッと敬礼し、

 

「というわけで月見、そのうちみんなで遊びに行くから!」

「ふふ。これは、また随分と賑やかになりそうだね」

 

 こいしが堂々と水月苑にやってきて、みんなと交流を始める日を想像する。まあ、穿って言ってしまえばフランが二人に増えるようなものだろう。今日のパーティーでも二人は他の誰よりも早く深く意気投合して、周囲に絶えず微笑ましい空気を振りまいて回っていた。

 ……フラン一人でも元気すぎて誰の手にも負えないくらいなのに、二人になったら一体どうなってしまうのかやや不安ではある。月見の平穏は無事だろうか。

 

「おくう、お燐、これからは私たちの方から月見に会いに行けるよ!」

「はいっ。すごく楽しみです!」

 

 もうすっかり行く気満々なお燐の一方で、おくうはびくりと肩を跳ねさせ、

 

「こ、こいし様、私は別にそんなんじゃ、」

 

 と、ここで彼女ははっと言葉を止める。何事か考え、悩み、やがて振り切るようにぶんぶん首を振り、

 

「……そ、そう、ですね。えと……わ、」

 

 一瞬、月見と目が合った。ものすごい勢いで目を逸らしたおくうは、縮こまって、しゅうしゅう赤くなって、けれどほんの少し――本当にほんの少しだけの笑顔と、消え入る寸前の声音で、

 

「…………わたしも、ぃ、いきたい……です」

 

 間があった。月見もこいしもお燐もぽかんとして、ただ一人さとりだけが、すべてわかりきった顔で「あらあらうふふ」と微笑んでいた。

 もちろん、思わず呆けてしまう程度には珍しいことだった。今のおくうは、家族以外の誰かがいる場では警戒心や羞恥心が先に立って、なかなか自分の気持ちを表現できない女の子なのだ。ほとんどささやき声同然だったとはいえ、月見の存在を意識した上でちゃんと口にしてみせたのは極めて珍しい。

 みるみる目を輝かせたこいしが、爆発した。

 

「――そう! そうだよおくう、そうやって自分を誤魔化さないのが大事なの!」

「わ、わわわっ」

 

 おくうの両手を握って、興奮のあまりぶんぶん上下に振り回す。そこにお燐も割って入り、

 

「おくう、どういう風の吹き回し? でもそれでいいと思うよっ」

「う、ううっ」

 

 また、月見とおくうの目が合った。自分の気持ちを誤魔化さなかったのもそうだが、まさかあの(・・)おくうが、地上に行ってみたいと思ってくれていたなんて――まだ頭の半分が追いついておらず、ついまじまじとおくうの瞳を見返してしまう月見である。

 それがいけなかった。

 

「――う、」

 

 精一杯の勇気を振り絞った直後のおくうは、たった一本の糸だけで辛うじてつなぎ留められているような、いろいろといっぱいいっぱいな状態だったのだ。

 

「う、うにゃああああああああああッ!!」

「ふみゃあああああ!? な、なんであたいいいいいい!?」

 

 結果として、限界点を超えたおくうはぐるぐるおめめで錯乱。お燐の猫耳目掛けて襲いかかり、逃げ出した彼女を追いかけ回して廊下の彼方にすっ飛んでいってしまった。やがて遥か遠くの方で、ふみ゛ゃーとお燐の情けない断末魔が聞こえた。

 

「……」

 

 また呆然としている月見の横で、さとりがそよぐ花びらのように言う。

 

「いろいろと、心境の変化があったみたいで」

「……ふむ?」

 

 月見はこいしを見下ろし、二人揃って首を傾げる。

 

「なにかあったのか?」

「ふふ」

 

 さとりはニコニコするばかり。どうやら、「個人情報の保護に抵触する」というやつらしい。

 そういえばパーティーの間、月見ははっちゃける少女たちの相手で忙しくて、あまりおくうの様子を見ていなかったけれど。今になって思えば、藍や神奈子と一緒に、ふと部屋からいなくなったタイミングがあったような――。

 

「まあ、ともかく。これからはもうちょっとだけ、素直になれるように頑張ってみるみたいですよ」

「……そうか」

 

 ――どうあれ、余計な詮索をする必要もないだろう。過程がなんであれ、おくうの心境にそういう変化があったのなら、月見がいちいち口を挟むようなことではない。本当に素直になってもらえたとして、月見が困ることはなにもありはしないのだ。

 遠くの方で、おくうがまだうにゃーうにゃーと錯乱している声を聞きながら。

 

「いつでもおいで」

 

 月見は、淡い月明かりのように言う。

 こいしとフランが交わした指切りは、必ず、叶うはずだから。

 

「私の水月苑は。いつでも、どんなお客だって、受け入れるからね」

 

 ――いつか、陽のあたる場所で。

 水月苑に、新しい賑やかなお客さんが増えるのも――きっと、そう、遠くはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第117話 「縁の糸」

 

 

 

 

 

 きっかけは、おくうから突拍子もなく尋ねられたこんな質問だった。

 

「さとり様……」

「どうしたの?」

 

 ――私って、あいつのこと、なんて呼べばいいんでしょう?

 

「……どういうこと?」

 

 さとりの人生で一番賑やかだったクリスマスが終わり、今年も残すところ数日となったある日の朝だった。神妙な顔でさとりの部屋までやってきて何事かと思えば、月見をなんと呼べばいいのかわからない、などという。質問の意図がわからない。なんと呼ぶもなにも、おくうは普通に彼を「月見」と呼んで

 

「……いえ、待って。そういえばあなた、月見さんのことまだ一度も名前で……」

「ぅ……」

 

 おくうが後ろめたげに肩をすぼめる。さとりは記憶を遡る。おくうが日頃月見をどう呼んでいたかといえば、彼がいる場では「お前」。いない場では「あいつ」とか、「あの狐」。

 得心が行った。

 

「――それはいけないわね、おくう」

 

 やっぱり、とおくうの表情がショックで曇る。

 迂闊だったとしか言い様がない、まさかおくうが未だ月見を名前で呼んだことがなかったとは。月見が彼女を「おくう」と呼ぶようになってしばらく経つが、そっちに気を取られてついうっかりしてしまっていた。

 おくうはもう、月見に対してかつてのような敵意や嫉妬は抱いていない。さとりやこいし、お燐に対して抱くのと同じ想いを芽生えさせてきている。だから、いつまでも「あいつ」だの「あの狐」だの生意気な呼び方でいいのか疑問に思って、こうしてさとりの部屋を訪ねてきたのだろう。

 小さくなりながら、おくうは心で言う。

 

 ――あいつが言ってました。シキガミは、普通は、主人に当たる人のお手伝いとかをするものだって。

 

「そうね」

 

 ――私のご主人様は、さとり様とこいし様ですけど。私はあいつの式神だから、あいつも「主人」になるんですよね。

 

「……そうね」

 

 ――でも私、さとり様やこいし様のこと、「お前」って呼んだりしないです。だから、あいつを「お前」って呼んでるのは、すごく変なことなのかなって……。この前パーティーやったときも、みんな、あいつのこと名前で呼んでて。あいつの式神は私だけなのに、私だけ、名前で呼んでなくて……。

 

「……よくそこに気がついたわね。偉いわ」

 

 さとりは己の表情が和らぐのを感じた。

 

「月見さんのこと、ちゃんと考えてあげてるのね」

「う、うにゅ……」

 

 おくうの羽がそわそわと落ち着きなく揺れ動く。このところ――具体的にはクリスマスのとき、式神の先輩である藍と話をしてから――おくうはおくうなりにたくさんのことを考えて、式神という役目を頑張って果たそうとしている。月見の喉が渇いたときは、飲み物を持って行ってあげる。月見が本を読み終わったときは、新しい本と交換してあげる。困ったことがあったときすぐ助けになれるよう、夜はこいしと一緒に月見の部屋で眠る。今までこいしがやっていたお世話係は、もうすべておくうが引き継いだ。

 もっとも生来ぶきっちょな性格なので、しばしば失敗して苦笑いされているけれど。それも含めて、頑張るおくうを影から応援するのがさとりのささやかな心の保養だった。

 閑話休題。

 

「それじゃあおくうはこれから、月見さんのことを名前で呼ぶのね」

「え?」

「え?」

 

 間、

 

「……えっ、あのっ、な、名前は恥ずかしいので、ちょっと……!」

「……おくう? 名前で呼ばなかったらどうやって呼ぶの?」

「あう……」

 

 さとりは眉間を押さえてため息をついた。逆に訊きたい。おくうは、名前以外にどんな選択肢があると思っているのだろう。

 

「な、名前以外で、なにかいいのありませんかっ?」

「うーん……」

 

 普通、相手のことをちゃんと呼ぼうとするなら名前以外にないだろうに。名前ではなく、かつ「お前」「あいつ」のように生意気ではない呼び方といえば、「あなた」くらいしか思い浮かばない。しかしさとりとしては、せっかくなのだから名前で呼んであげてほしいと思うのだ。今やおくうは月見の式神、月見はおくうのご主人様なのだから、

 

「……」

 

 そのとき、さとりの脳裏に雷撃が走る。

 

「――おくう、いい考えが浮かんだわ」

「ほ、本当ですか?」

「ええ」

 

 さとりは完爾(かんじ)と首肯を返す。名前を呼ばず、今のおくうと月見の関係を表すのにぴったりで、ついでにさとり個人として是非ともやってみてほしい呼び名。あるではないか、あるではないか。

 さとりはおくうの肩に両手を置き、至って大真面目な雰囲気を醸し出して答えた。

 

「それはね――」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――あ、あの……ご、ご主人様っ」

「…………」

 

 式神という存在を極めて客観的に概説するならば、「術者の生活や仕事の助けとなるもの」である。一方で術者の視点から主観的に説明すれば、「お手伝い」「部下」「家来」「従者」などの言葉が当てはまる。事実、幻想郷最高の式神である藍は紫の従者として様々な仕事を任されているし、そんな藍の式神である橙だって、かわいらしいお手伝いさんとして一生懸命サポートに奔走している。

 術者にとっての式神が「従者」であるなら、式神にとっての術者は「主人」だ。そして「主人」という言葉を敢えて仰々しく言い換えるなら、「ご主人様」となる。よって、已むを得ない事情があったとはいえ月見がおくうという少女を式神にした以上、彼女から突然「ご主人様」と呼ばれるのはなんら不思議ではない理に適った現象なわけがあるかおいちょっと待て、

 

「おくう、正直に答えてくれ。――誰の入れ知恵だ?」

「う、うにゅ?」

「その『ご主人様』という呼び方を、お前に教えたやつがいるだろう。誰だ?」

「んと、……さとり様だけど」

 

 さとりィ、と月見は頭を抱えた。今この場にはいない少女へ猛烈な抗議の意を飛ばす――絶対面白がって教えただろお前。

 おくうが妙にそわそわしながら部屋を訪ねてきたものだから、一体どうしたのかと思えば。

 あのさとりという少女、月見たち客人に対しては常識的で礼儀正しいが、ペットたちに対しては意外と容赦がなかったり、いたずら好きであったりする一面がある。とりわけ月見とおくうの関係が改善してからは、事あるたびに茶々を入れて一人愉悦に浸っているのが、不自由のない地霊殿生活で唯一月見の頭を悩ませる種だった。

 この「ご主人様」なんて、まさしくまさしく、である。他に誰もいない二人きりの状況で本当によかったと思う。声なき声で呻く月見に、おくうがぎこちなく首を傾げて、

 

「あ、あの……なにか、変……だった?」

「変もなにも、」

 

 月見は一度口を噤む。あくまで客観的には、決して変とも言い切れないのかもしれない。契約を結んだ目的がなんであれ、月見がおくうという式神の主人に当たるのは事実だ。

 しかし、だからと言ってよしわかったと許容できたものでもない。この地霊殿には、おくうをそういった(・・・・・)方向でそそのかしてニヨニヨしようとしている覚妖怪がいるのだ。

 そう易々と、さとりの術中に嵌まるわけにはいかない。

 言い直す。

 

「ともかく、その呼び方はやめよう」

「え……」

 

 おくうが悲しそうな顔をした。

 

「もしかして……い、嫌、だった?」

「嫌もなにも、」

 

 月見はまた口を噤んだ。――おくうのこの反応、月見は一体どのように捉えるべきなのだろう。

 月見はてっきり、さとりにあれこれ吹き込まれてそそのかされているものと思っていた。だからおくう自身、決して、月見を「ご主人様」と呼びたくて呼んだわけではないのだと。さとりに言われてしまった以上断り切れず、嫌々というか、仕方なくというか、ともかくそれ故の「ご主人様」だったのだと。

 ならばなぜ、おくうは悲しそうな顔をするのだろう。

 さとりからあれこれ吹き込まれたのは、間違いないだろうけれど。

 ただ騙されているのではなく、まるでおくう自身もまた望んで、

 

「……そもそも、どうして急に私の呼び方を変えたりなんて? それもさとりから言われたのか?」

 

 その考えを振り払って、月見はおくうに質問を返した。おくうは月見を名前で呼ばない。面と向かっては「お前」で、それ以外では「あいつ」とか「あの狐」だったりする。いつまでそんな呼び方してるの、もっとちゃんと呼んであげなさい――とでもさとりがおくうを叱ったというのは、いかにもありえそうな話だと思う。その結果が「ご主人様」なのだとしたら、さとりとは少し本腰を入れて話し合わなければならないだろうが。

 けれどおくうは、首を振った。

 

「ち、違う……わ、私が……その」

 

 なにやら恥ずかしいものがあるらしく、おくうの頬がうっすらと赤く染まっていく。伏し目がちになりながら、歯切れの悪い口振りで、

 

「だ、だって、私はお前のシキガミで、お前は私のご主人様なんでしょ? ……お前にそのつもりがなくても、シキガミって、そういうものなんでしょっ? 私、さとり様とこいし様のことは、ちゃんと名前で呼んでて……それで……」

 

 なんとなく、わかった。

 おくうなりに、自分の今の境遇を真摯に考えた結果なのだろう。たとえ事情がどのようなものであろうとも、月見がおくうの主人に当たる立場であるのは先に述べた通り。その前提で考えれば、さとりやこいしのことはちゃんと名前で呼んでいるのに、月見ばかりをいつまでも「お前」呼ばわりするのはおかしいのではないか、とおくうは疑問に思ったわけだ。

 悩んだおくうは、最も信頼できるご主人様であるさとりに相談を持ちかけた。そして結果として、「ご主人様」という呼び方を吹き込まれるに至った――とまあ、そんなところであろう。

 およその経緯を察した月見はひとつ頷き、それから改めて、

 

「しかし、なにも『ご主人様』なんて仰々しい呼び方しなくても。普通に名前でいいじゃないか」

「う……」

 

 おくうがたじろぐ。

 

「な、名前が……いいの?」

「『ご主人様』なんて畏まった呼び方されるよりかは、断然いいね」

「……」

 

 おくうは沈黙し、唇をへの字にして、随分と長い間何事か真剣に考え込んでいた。しかしあるタイミングを迎えると突然、

 

「っ……!」

「あ、おい」

 

 機敏な動きで回れ右をして、一目散に部屋を飛び出していってしまった。

 一人ぽつんと取り残された月見は、宙に伸ばしかけた手をどうするべきかわからぬまま、

 

「……なんだったんだ」

 

 暗に、名前で呼ぶのは嫌、ということだろうか。気難しいおくうなら、まあありえそうな話ではあるけれど。しかし、名前よりも「ご主人様」なんて呼び方をする方がよっぽど恥ずかしいのではなかろうか。それとも、そう考えてしまう月見の心が汚れているのだろうか。なんにせよ、「ご主人様」呼びは是非とも思い留まってほしい。

 心底思う。

 さとり。頼むから、ペットの教育はちゃんと真面目にしてくれ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――さとりさまあっ!!」

「はいはい」

 

 部屋に転がり込んできたおくうを、さとりは眉ひとつ動かさず平常心で迎えた。そろそろ来る頃だろうと思っていたし、バタバタと忙しない足音が近づいてくるのもわかっていた。おくうはブチ抜いたドアを閉めるのも忘れて、全力疾走の赤い顔で叫ぶ、

 

「さとり様っ! 『ご主人様』って呼び方、やめてくれって言われたんですけど! ひょっとしてこれ、変な呼び方なんですか!?」

 

 おくうの記憶を読み取ったさとりは、とても満足しながら親指を立てた。

 

「ナイスよ、おくう」

「うわあああああん!?」

 

 おくうは一発で癇癪を起こし、翼を振り乱しながらさとりにぽかぽか殴りかかった。

 

「やっぱり、やっぱりハズカシイ呼び方だったんですか!? さとりさまのばかあああああっ!!」

「いたた。ま、待っておくう。ごめんなさい、羽根が飛ぶから落ち着いて、あいたたた」

 

 おくうは結構背が高い方なので、錯乱のまま振り下ろされるぽかぽか攻撃はそれなりの威力である。やりすぎたと思う反面、一方ではそんな彼女の包み隠さない反応が嬉しくもあった。異変の前のおくうなら、主人に殴りかかるなんて大胆な真似は冗談でもできなかったはずだ。

 二十秒ほど掛けて、ようやくおくうを落ち着かせる。

 

「ふう。えっと、ごめんなさい。ちょっとした悪ふざけだったのは事実よ」

「う゛――――――――……」

 

 涙目で睨みつけてくるおくうを、かわいいなあと微笑ましく思いながら、 

 

「でもね、おくう。あなたから頼まれたのは、『名前以外の呼び方はないか』だったわよね。私、間違ったことは教えてないわよ」

「そ、そうですけどぉ……っ」

「なんだったら、お燐と同じように『おにーさん』って呼んでみる?」

「……うー」

「月見さんのことをちゃんと呼びたいなら、名前を呼んであげるべきだわ。それをあなたに気づいてほしかったのよ」

「……」

 

 おくうの(うたぐ)り深い半目に、さとりはこほんと咳払いをして、

 

「それに、おくうもわかってるとは思うけど」

 

 敢えて一旦言葉を区切り、声音をフラットに切り替えた。

 

「月見さん、そろそろ――たぶん、明日の朝にでも地上に帰るわよ」

「……!」

 

 クリスマスが過ぎ去り、もう年末といって差し支えない時期だ。さすがに、これ以上彼を地霊殿に引き留めることはできない。地上には、彼の帰りを待ち続けているたくさんの少女たちがいる。それを、さとりたちは先日のパーティーで思い知らされたのだ。

 

「月見さんも、地上に戻ったら年末年始の準備で忙しいでしょうから、次に会えるのはきっと来年だわ。……だから、今年最後くらいは、ね?」

「…………」

 

 おくうの頭の中が、ぐるぐると回転を始める。さとりでも一言では表現しきれないたくさんのことを、彼女は一生懸命に考えていた。異変の前のこと、異変のこと、異変のあとのこと、素直になりたい気持ち、なれない気持ち、名前、置いていかれる寂しさ、地上への嫉妬、お別れしたくない、でも引き留められない、名前で呼ぶ、ついて行きたい、行きたくない、ずっとここにいればいいのに、いなくたって平気だもん、「月見」って呼ぶ、「お前」じゃなくて「月見」って呼ぶ、

 そしてパーティーのとき、八雲藍から掛けられた言葉。

 

「……つくみ」

 

 ぽつり、と、

 

「つくみ……」

 

 舌足らずみたいな拙い声音で、その名を、確かめるように、

 

「つくみ」

「……呼んであげて。月見さんの前で」

 

 さとりは、微笑んで、

 

「おくうも、月見さんにはじめて『おくう』って呼んでもらえたとき、嬉しかったでしょ? 月見さんも、喜んでくれるわよ」

「……」

 

 渦を巻いていたおくうの心が、ゆっくりと透き通っていく。八雲藍から言われた言葉。月見の式神としておくうが果たさなければならない役目は、彼の盾と矛に、或いは手足になって働くことではなく――。

 

「っ……!」

 

 弾かれたように振り返り、おくうが部屋を飛び出していくその直前、垣間見えたのは勇気を振り絞る凛とした顔つきで。

 強く、迷いなく遠ざかっていく足音に耳を傾けながら、さとりは笑みの息とともに独り()つ。

 

「……もうすぐ、暖かくなりそうね」

 

 そのとき、さとりの脳裏に電流走る。

 

「むむ、ビビっと来たかも……今ならいいお話が書けそうっ」

 

 趣味でやっている小説の話である。たまにあるのだ。何気ない日常の風景からふとインスピレーションを刺激されて、どうにも我慢ならない創作意欲に襲われることが。

 おくうが開けっ放しにしていったドアを閉じ、鍵を掛けて、ヒミツの隠し場所からノートを引っ張り出す。机の上に広げて、少し考え、それから一心不乱にペンを走らせ始める。出だしはいい感じだ。水が流れるように書ける。小説というよりは詩に近いかもしれないが、まあたまにはこういうのも悪くはな

 

「お姉ちゃんなにしてるのー♪」

「邪魔しないでこいし、今すごくいいトコでってふわひゃああああああああああ!?」

「!?」

 

 いつの間にか真横に立っていた妹へ、さとりは手当たり次第に机の上の物を投げつけた。筆記用具、ペン立て、コースター、参考書、ぬいぐるみ、お菓子、参考書、辞書、ノート、小物入れ、辞書、辞書、辞書、そして、

 

「……きゅう」

「ふーっ、ふーっ、ふーっ……」

 

 およそ十秒後、さとりは肩で荒く息をしながら、すっかり目を回してノビてしまった妹を見下ろしていた。たぶん、辞書がクリティカルヒットになったのだと思う。ちょっとやりすぎたような気もするが、今はそんなのどうだっていい。

 涙声でぼやく。

 

「いつ入ってきたのよ、もぉ~……っ」

 

 ドアに鍵を掛けるより前なのは、間違いないだろうけど。例によって無意識のせいでまったく気がつかなかったし、もしかしたらいるんじゃないかと疑うこともできなかった。

 これが、無意識を操る程度の能力。

 こいしが外を放浪しなくなったのは嬉しいけれど、いつも屋敷にいる分だけ、なんというか、とても心臓に悪いのだと改めて思い知ったので。さとりはベッドに飛び込み、枕を力いっぱい抱き締めて、

 

「うううぅぅ~……!?」

 

 古明地さとりは最近、妹が怖い。

 

 

 

 

 

 

 

 

「つ!」

「?」

 

 さとりの素っ頓狂な悲鳴が聞こえた。

 ので、様子を見に行こうと廊下を歩いていたところ、おくうの思い切った声に突然背を叩かれた。

 

「つ……つくみっ!」

「ん?」

 

 月見は振り返る。なぜかこちらに背を向け、廊下の彼方に全力疾走で走り去っていくおくうが見える。おくうはそのまま逃げ込むように突き当たりを右に消え、

 

「っ……」

 

 角の向こうから頭とリボンをちょこっとだけ出して、妙な眼力で月見を凝視し始めた。

 さて、何事であろうか。

 今のは間違いなくおくうの声であり、月見を呼び止めたのはおくうであるはずだった。しかし、だとすればなぜ彼女は逃げたのか。何故隠れているのか。なにか用があって声を掛けてきたのではないのだろうか。

 とりあえず、問うてみる。

 

「おくう、どうかしたのか?」

「!」

 

 するとおくうの頭が素早く引っ込み、今度こそバタバタと騒がしく走り去っていってしまった。

 一体なにがなんだったのやら、月見はたくさんの疑問符とともに首をひねる他ない。しかし、しばらく考えてみてふと気づく。

 

「ああ……そういえば、名前で呼んでくれてたな」

 

 ご主人様、ではなく。もしかすると、月見に「ご主人様」が不評だったのを気にして、ちゃんと名前で呼ぶためだけに声を掛けてきてくれたのかもしれない。

 おくうは、本当に優しい女の子なのだ。

 さとりの部屋に着き、ノックをすると、返事が返ってくるまでやや間があった。なぜか恐る恐るとした手つきで鍵が開いて、

 

「……月見さん」

「悲鳴が聞こえたけど。大丈夫か?」

「ああ……すみません。大したことじゃないんです」

 

 そう言う割に、ドアの隙間から見えたさとりの部屋はひどい有様だった。筆記用具やらぬいぐるみやら本やらが床に散乱していて、その中心ではなぜかこいしがぐるぐるおめめで大の字になっている。一体なにがあったのやら。

 

「ええと、その。こいしに、おどかされて……それで、つい」

「……なるほど」

 

 こいしは能力の性質上、月見たちが意識しない場所からしばしば突拍子もなく現れる。異変が終わってからは上手く能力を制御できるようになったらしいが、それでも面白がって人の無意識に入り込んでくるところは変わっていない。

 ひょっとすると、小説を書いているところでも覗かれたのかもしれない。

 

「…………」

 

 上目遣いで睨まれた。あまり触れない方がよさそうだ。

 

「そうしてください。……それで、様子を見に来てくださったんですか?」

 

 それもあるが、もうひとつ。月見の心を読んで、さとりの表情が寂しげに沈んだ。

 

「……そうですか。そうですよね、もう今年も終わりですもの」

「ああ」

 

 要するに、いい加減明日には地上へ帰ろうと思うのである。今年もいよいよ、残すところあと数日しかない。年末には必ず帰ると、この前のパーティーでみんなに約束していた月見であった。

 

「……寂しくなりますね」

「そんなこと言ってもダメだよ」

 

 さとりは苦笑、

 

「ええ、わかってます。……冗談では、ないですけどね」

「……ありがとう」

 

 それは、月見も同じだ。地上へ戻りたい気持ちの方が圧倒的に大きいとはいえ、ここを離れたくない思いだって確かに存在している。幻想郷に戻って以来、誰かの家で一週間以上も世話になったのははじめてだった。今の月見にとって地霊殿は、まさに第二の我が家のような場所だった。

 少し、長居しすぎてしまったのだと。そう思う。

 

「年末年始のゴタゴタが終わったら、必ずまた来るよ。……そのときは、もしかしたら、誰かが一緒についてくるかもしれないね」

 

 パーティーの記憶が甦る。必ず遊びに来てねと、地霊殿のみんなを笑顔で受け入れてくれた少女たち。月見が地霊殿に行くと知れば、とりわけフランあたりなら喜色満面でついてこようとするだろう。幽々子と操なら、今度こそ妖夢と文を無理やりにでも連れてくるかもしれない。

 

「……今でもまだ、夢みたいです。あのときのこと」

「もう一回、パンクさせられてみるかい」

「あはは、それはちょっと勘弁ですねー……」

 

 言葉とは裏腹に、さとりの口振りは焦がれるようで。

 

「……月見さん」

「ん?」

 

 澄んだ目をしていた。視線こそ、まっすぐ月見に向いていたけれど。その瞳に映っているのは月見より彼方の、いつかと願う未来の光景だったのだと思う。

 

「今は、まだちょっとだけ、時間がほしいですけど。……でも、いつか必ず、私たちの方から会いに行きます」

 

 不安だって、恐怖だってある。遠い昔のこととはいえ、一度は自分たちが拒絶された世界。でも、それでもいつかはと願ってしまう。

 だってそこには、必ず会いに来てねと笑顔で言ってくれた、『友達』がいるから。

 

「……会いに行っても、いいですよね?」

 

 言われるまでもない。

 月見はただ、笑みだけを返し。そしてさとりも、珍しく外見相応のあどけなさで頬が和らぎ、

 

「つ、つくみっ」

「ん?」

 

 また、おくうであった。

 月見とさとりが振り向けば、やはりと言うべきなのか、廊下の向こうへ全力疾走で走り去っていくおくうの背中。突き当たりを曲がり、壁に隠れて妙な眼力でこちらを凝視するところまで、完全に先ほどの繰り返し映像だった。

 であれば当然、

 

「おくう、さっきから一体」

「!」

 

 月見が名前を呼べば頭が引っ込み、興奮を隠せない激しい駆け足でまたどこかへ消えてしまうのである。

 肩を竦めた月見が視線を戻すと、さとりは極めてご満悦な様子だった。

 

「名前、呼んでもらえるようになったんですね」

「そうらしいけど」

 

 その代わりご覧の通り逃げられるようになってしまったので、なんだか少し前の距離感に逆戻りしてしまった気もする。

 さとりは、楽しそうな微笑みを崩しもしない。

 

「よかったです。これで、月見さんが帰る前にやっておきたい心残り、ひとつ消えました」

「……なあ、さとり」

「む、失礼ですね。ペットに変な教育なんてしませんよ、私は」

 

 どの口が。

 

「あれだって、おくうに『名前以外でいい呼び方はないか』って訊かれたからですよ」

「いい呼び方、ねえ……」

「素敵じゃないですか。私は別に、そっちでもよかったんですけど。ちょっと残念です」

 

 さとりは目尻にからかうような色をにじませ、

 

「『ご主人様』、嫌でしたか? 男の方は、ああいうのが好きだと思ってたんですけど」

 

 面倒な騒ぎの種は御免である。

 それにしても、能力を悪用せず良識的で礼儀正しかった少女が、今では随分と小悪魔めいた一面を見せるようになったものだ。もっとも、これが古明地さとりという少女の本当の顔なのかもしれない。

 おくうを変な方向でそそのかされるのは困るが、こういうさとりも憎めない愛らしさがあって悪くはない。本当の顔を見せてもらえるほど信頼されているのだとすれば、誠に光栄な話でもあるし。

 ほんのり色づいた半目で睨まれた。

 

「月見さん、あなたはまたそうやって……」

「私の馬鹿な思い込みなら、訂正してくれ」

「……うー」

 

 好意的な心を読むのが苦手なところは、あいかわらずなようだった。

 そこでふと月見は、こいしがいつの間にか目を覚ましているのに気づいた。こいしはあたりに散乱しているあれやこれを物色していて、その中から一冊のノートを手に取ると、

 

「ねー月見ー、これお姉ちゃんの小説ノート」

「うひゃああああああああああ!?」

「むぎゅ!!」

 

 さとりの砲弾タックルが炸裂する。妹をベッドまで吹っ飛ばし、涙目でペチペチ平手を落とすさとりの姿を見て、月見はうむと確信する。

 やはりさとりは、からかうよりも、からかわれる方がよくお似合いだ。

 

「いじわる!!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 さて。その日も地霊殿で夜を明かせば、いよいよ年末もたけなわである。

 なので朝食を終えてすぐ、部屋に戻った月見はぼちぼち帰り支度を始めた。

 当然こいしが、ベッドの上でバウンドしながらぶーたれた。

 

「えーっ。月見、もう帰っちゃうのー……?」

「もうって。一週間以上いたじゃないか」

「もうはもうなの!」

 

 地底生活が長く続いた分、持ち帰らなければならない着替えや日用品も少しばかり増えていた。地霊殿の予備をいただいた物、地底で新しく調達した物、前回のパーティーで藍が持ってきてくれた物。整理していたら風呂敷と袋が出てきたので、これ幸いにちゃっちゃと荷作りを進めていく。

 

「なんだか、あっという間だったわねえ」

「むー……」

「つまんなーい!」

 

 月見の邪魔にならないよう、さとりとおくうは部屋の隅で大人しく椅子に座っている。こいしは月見の背中にひっついて、現在進行形で作業の邪魔をしてばかりいる。

 月見も、あっという間だったと思う。地霊殿での生活ではなく、幻想郷での毎日そのものが。幻想郷に戻ってきてから半年以上が過ぎ去り、今年もあと四日ばかりで終わりなのだ。光陰矢の如しを味わうのは毎年の恒例みたいなものだが、今回は特にあっという間だった気がする。

 一体どうしてなのかは――わざわざ考察するまでもないなと、月見は地上のみんなを脳裏に描きながら思う。

 というか、こいしが本当に邪魔だ。先っぽにかけて広がるお洒落な袖で、月見の目隠しをしてくる有様である。

 

「ええいこいし、邪魔をするな。お前を風呂敷に詰めるぞ」

「いいよ、詰めて! 地上にお持ち帰りしてよ!」

「はいはい、こいしはこっちねー」

「あー!」

 

 調子に乗るこいしを、さとりがすかさず襟首掴んで連行していく。ようやく肩が軽くなった月見は一息つき、

 

「これ以上はさすがに勘弁してくれ。年末年始が落ち着いたらまた来るからさ」

「わかってますよ。……こいしも、本当はわかってるんでしょう? いつまでもわがまま言わないの」

「ぶーぶー」

 

 無理やり椅子に座らされたこいしが、頬を膨らませながら足をバタバタさせている。無論、別れを惜しんでくれる気持ちは素直に嬉しいのだ。しかしそんなこいしを見れば見るほど、地上のみんなのことを考えてしまうとでも言おうか。

 不思議なものだ。ほんの前までは、何百年も外ばかりを歩いていたって平気だったのに。たった一週間そこらで、ホームシックになってしまっているのか。

 

「……ふふふ」

 

 さとりにほんのりと笑われた。月見は頭を振って邪念を払い、作業に集中することにした。

 ドアがノックされたのは、もう少しで荷作りも終わろうという頃合いだった。

 

「おにーさーん」

「どうした?」

 

 入ってきたのは、姿が見えなかったお燐である。猫らしくさっぱりとした性格の彼女は、帰り支度に入った月見を特別惜しむこともなく、屋敷の見回りという名目の散歩をマイペースに楽しんでいたのだ。その中でなにかを見つけて報告に来てくれたらしく、廊下の方をそわそわと気にしながら、

 

「あの、おにーさんの知り合いって妖怪が」

「つううううくみいいいいいいいいいいっ!!」

「ぎょあー!?」

 

 お燐を情け容赦なく吹っ飛ばし、怪鳥の如き咆吼で小柄な人影が飛び込んできた。両足で勢いよく床を踏み切り、猛烈なフライングボディアタックの体勢に入る。幾度となくフランの砲弾タックルを受け止めてきた月見の危険本能が、理解の領域を超えて人影の正体を直感する。

 赤と青の、幾何学模様めいた不思議な形の翼。

 月見は、少女――封獣ぬえのアタックを、一歩右に動いて躱した。

 

「あっ、」

 

 ぬえは月見のすぐ背後、ベッドの上で見事に弾み、しかしそれだけでは止まりきれず、

 

「ふぐうっ」

 

 と、顔面から床に落下した。月見が振り返ると、ベッドの縁に半分引っ掛かったシャチホコみたいな体勢で、ぬえの両脚がピクピクと痙攣しているのが見えた。

 沈黙。

 

「……やあ、ぬえ」

「躱さないでよぉっ!?」

 

 跳ね起きたぬえは涙目で、

 

「いじわる! 月見が私の寂しさを受け止めてくれない!」

「はあ。なんなんだ一体」

 

 こいつをすっかり忘れてたなあ、と月見はしみじみ思うのだ。はじめこそ一悶着あったものの、一度打ち解けてしまえばとても気さくで人懐こい、こんなザマでも一応名の知れた大妖怪少女である。

 さとりもおくうも、突然の闖入者にすっかり目を丸くしている。吹っ飛ばされたお燐は目を回している。唯一こいしだけが、

 

「あ、ぬえだー!」

 

 ぬえもこいしに気づき、指差しで吠えた。

 

「……あ! お前はいつぞやの不法侵入妖怪!」

「はーいっ!」

 

 そういえば、こいしとぬえは知り合いなのだった。月見がこいしとはじめて出会ったのは、地霊殿ではなく聖輦船だったことを思い出す。

 さとりがようやく我に返り、

 

「えっと……こいし、知り合いなの?」

「聖輦船にいた妖怪だよ!」

「私がはじめてここに来た日、聖輦船からこいしを連れ帰ってきたろう。まあ、いろいろイタズラしてたらしいよ」

「おばか!?」

「ふぎゅ!?」

 

 さとりがこいしにチョップをした。

 

「なにするの!?」

「なにしてるの!? そういうことはしちゃダメだって言ってるでしょ!」

「今はもうしてないもん!」

 

 さとりは聞く耳を持たず、ぬえの前に出て頭を下げ、

 

「申し訳ありませんでした、ウチの妹がとんだご迷惑を……」

「へ? あ、いや、もうされてないのはほんとだし別にいいけど……」

 

 気勢を挫かれたぬえは、そこでさとりの胸の前に浮かぶ第三の目に気づいて、素早く月見の後ろへ隠れた。

 

「……覚妖怪」

「はい。……ふふ、もちろんわかりますよ。あなたが考えてること、つまりみんないなくなって寂しかったから月見さんにすごくすごく会」

「言わなくていいからっ!!」

「ごふ」

 

 なぜか月見が背中から殴られた。理不尽。

 ぬえはだいぶテンパった感じで、

 

「そ、それよりっ! あんたいつからこっち来てたの!? 来てたなら教えてよっ!」

 

 さとりの愉悦の眼差しが注ぐ中、月見は背中をさすりながら、

 

「……悪いね。いろいろあって、すっかり忘れてた」

「変な騒ぎは起きるしムラサたちはいなくなっちゃうし、独りぼっちでほんと心細かったんだからね!」

「悪かったって。……ん?」

 

 疑問、

 

「水蜜たちがいなくなった?」

「そうなのよ! 私がちょっと出掛けてる隙に、聖輦船ごといなくなっちゃったの! なにも言わないで! ひどいと思わない!?」

「……、」

 

 そういえば、さとりはついさっきぬえの心を読んでこう言った――「みんないなくなって寂しかった」と。

 みんなが、いなくなった。

 聖輦船ごと、消えた。

 どこに。

 

 ――血の巡りが凍る、強烈に嫌な予感。

 

 もちろん、早合点に過ぎないと頭ではわかっている。水蜜たちはぬえと同じで、人間によって地底に封じられた妖怪なのだ。自力で外に出ることはできないし、だから彼女らは、何百年も地底で退屈な日々を過ごさざるを得なかった。

 だが、

 だがもしなんらかの拍子で、封印を超えて偶然地上に出てしまったら。

 もしなんらかの拍子で、偶然志弦の名を耳にしてしまったら。

 神古を、恨んでいると。月見の前でそう打ち明けた彼女たちが、取るべき行動なんて――。

 

 悪い予感というのは、当たるものなのだ。

 

「……うー、なんなのさもぉー。おにーさんの知り合いってなんでこうみんな」

「――月見ッ!!」

「ぎにゃーっ!?」

 

 目を覚ましたばかりのお燐を血も涙もなく吹き飛ばし、室内だというのに目を覆うほどの旋風が巻き上がる。

 月見は、この風を知っている。

 

「――文、」

「さっさと地上に戻ってきなさい!!」

 

 挨拶もなにもありはしなかった。勝手に地霊殿に侵入し、勝手にこの部屋まで入り込み、さとりたちなど見向きもせず突き進んだ射命丸文は、月見の胸倉を掴み取って声を張った。

 

 

「志弦が、妖怪に攫われたって!! 空飛ぶ船に乗った妖怪たちに!」

 

 

 ――ああ、本当に。

 悪い予感ばかりが、よく当たるのだ。

 

「――わかった。行こう」

 

 水蜜たちがどうやって地上に出たのか、事実として出てしまったのならばもはや問答の意味はない。すべてを了解した月見は余計な思考の一切を蒸発させ、文の手を振り解き、鋭い呼気ひとつで己のスイッチを切り替える。

 

「さとり。悪いけど、荷物は置いていく。取っておいてくれ」

「……わかりました。行ってあげてください」

 

 邪魔な荷物を持っていく余裕はない。

 心は読めずとも、尋常ならざる緊迫を感じてこいしとおくうが言葉を失っている。彼女たちには悪いけれど、変に口を挟まれるよりかはよっぽど都合がよかった。事情の説明は、きっと月見と文の心を読んださとりがしてくれる。文と頷き、動き出そうとするその間際、

 

「ま、待ってよ!」

 

 ぬえの慌てた声に、背を叩かれた。

 

「船に乗った妖怪って……ムラサたちが地上にいるの!?」

 

 月見は首だけで振り向き、手短に頷く。

 

「しかも、厄介な騒ぎを起こしてくれたらしい。私はすぐ地上に行って、」

「私も連れてって!!」

 

 遮る彼女の声音は、縋りつくようでもあった。咄嗟に伸ばされた華奢な指先が、月見の着物に震える力で皺をつける。

 震えているのは、指先だけではない。

 

「つ、連れてってよぅ……独りぼっちは、やだよぅ……」

 

 封獣ぬえは、寂しがり屋だ。

 無理もないのかもしれない。地底に旧都ができるよりずっと昔から、独りぼっちで封印されていた少女だから。マミゾウとはもう何百年も会えておらず、数少ない地底の友人だった水蜜たちとも離ればなれになってしまって、月見が想像する以上に心細い思いをしていたのだ。

 きっと、今までずっと水蜜たちを捜し回っていたのだろう。寂しい思いを我慢して、地底中を一生懸命飛び回って。しかしそれでも聖輦船は見つからず、半分ベソをかきながら途方に暮れていたところで偶然、月見が地霊殿に滞在していることを知った。友達を見つけたその嬉しさ足るや、無我夢中の砲弾となって飛びつこうとしてしまうほどだった――。

 説得するより、いっそ言う通りにしてしまった方が早いと判断した。

 

「ぬえ、少しじっとしてろよ」

「……へ?」

 

 月見は札を抜き、手早い詠唱で術を込めると、それをぬえの額に貼りつけた。

 五秒ほどは、なにも起きなかった。

 

「……ちょっと、いきなりなに」

 

 火花が弾ける音、

 

「みぎゃっ!?」

 

 ぬえの体が飛び跳ね、その拍子に札が剥がれ落ちて、火に包まれ一瞬で燃え尽きた。ぬえは赤くなった額を両手で押さえて涙目で、

 

「なななっなになになに!? 一体なんなのなにをどーしたの!?」

「お前の封印を解いた。もう外に出られるはずだよ」

「え? ……………………え!? なになになにそれどーいうこと!? 今ので解けたの!? あんなあっさり!? なんでどーして!?」

「あとは自分で確かめてくれ」

「まままっ待って待って待ってよぉ!?」

 

 すっかり驚天動地のぬえは月見の前に回り込み、抱きつくように猛烈な勢いで、

 

「ほ、ほんとに!? ほんとにほんとにほんとに!? 嘘じゃないよね、どうしてあんたに解けるの!?」

「ただの年の功だよ。さあどいてくれ、私は行かなきゃならないんだ」

「……私も一緒に行く!」

 

 もうなんだって構いやしない。大人しくなったぬえをひっぺがして、さとりたちに最低限の感謝を告げる。

 

「さとり、こいし、おくう。バタバタしてしまって悪いけど、世話になったね。ありがとう」

「お礼を言うのはこっちの方です。ありがとうございました」

「月見に会えなくなるのは、寂しいけど……月見が置いてく荷物で我慢するね!」

 

 こいしの言葉の真意を確かめる暇すらないのが、心残りでならない。

 

「それじゃあ、またね。お燐によろしく」

 

 部屋の隅っこまで吹っ飛ばされたお燐は、頭の上でお星様を回して完全に気を失っている。このところお燐は、紅魔館の美鈴然り、永遠亭の鈴仙然り、いい子なのにイマイチ恵まれない不憫な立ち位置を確立しつつある。

 後ろ髪を引かれる思いを、月見は呼気ひとつで断ち切る。文に連れられぬえを連れ、月見はただ、一刻も早く地上へ向かうことだけにすべての意識を集中させる。

 部屋から駆け出すその間際、おくうがなにかを言おうとして口を開きかけ、なにかを伝えようとして手を伸ばしたが。

 もはや立ち止まれない月見はまるで気づかぬまま、一陣の風となって地霊殿を飛び立った。

 

 

 ――これが、最後の試練となろう。

 

 

 今となっては、千年以上も昔の話。人を騙って生きたある狐がいて、人のために生きたある陰陽師がいて、妖怪のために生きようとしたある尼僧がいた。

 

 これは、ある(えにし)の話。

 

 妖怪故に人と相容れず、

 人故に妖怪と相容れず、

 人故に人と相容れず、

 一度は途切れ、されど千年の時を超えて、いま再び語られる――

 

 あるときある時代の、妖怪と人間の、(えにし)の話。

 

 

 

 ――東方星蓮船。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ① 「未来と過去の交差点」

 

 

 

 

 

『やあ』

「んぇ」

 

 変な夢を見た。

 神古志弦にとって、夢の中でこれは夢だと認識できたのは人生初の経験である。ひょっとするとすでに何度かはあったかもしれないが、自分は起きるとすぐ夢の内容を忘れてしまうタイプなので、記憶の限りで生涯初の快挙なのは間違いない。

 そこは、天と地の境すら存在しないどこまでも真っ暗な空間だった。いや、「真っ暗」ではなく「真っ黒」と表現するべきなのかもしれない。立っているのか浮いているのかもわからない自分の姿が、志弦の目にははっきりと映っている。これが本当に真っ暗闇の中であるなら、己の体だって闇にまかれて見えないはずだから。

 人らしきなにかに、声を掛けられていた。

 

「……えーと、」

 

 人、と断言しなかったのは、黒っぽいもやが掛かって顔も姿も判別できなかったからだ。胡座でもかいて座っているのだろうか、背丈は極端に低く見える。ただ声の調子から、それがどうやら女らしいということだけはわかった。

 で。

 誰だこいつ。

 

「……どちら様でしょう?」

『どちら様だと思う?』

 

 問うなり問いが返ってきた。わからないから訊いているのですが。

 しかしなんとなく、声が自分と似てるな、と思った。女としては少し低めで、その分張りを感じる声音。自分がもっと年を取って大人になったら、こんな感じの声変わりをしそうだ。

 あてずっぽうで答える。これは夢なのだから、現実ではありえない相手だとしてもなんら不思議ではない。

 

「未来の私」

『ぜんぜん違うねー』

 

 ですよねー。

 

「んん……若い頃のばっちゃん?」

『お、方向性は合ってるかも』

 

 なんですと。

 

「ええと、じゃあ」

『まあそれはどうでもよくってね』

「おい」

『あっははは。でもほら、あんま時間もないからさ』

 

 ――時間?

 なにがなんだかさっぱりわからないが、とりあえず志弦は黙ってみた。黒い人影は頷くような仕草をして、それから少し真面目ぶった声音に切り替えた。

 

『まあ、あれだよ。近いうちになんかいろいろあると思うけど、とりあえず大丈夫なので、安心して巻き込まれちゃってください』

「えっ私の身に一体なにが」

『頑張れ!』

 

 なにそれ怖い。

 

『んじゃーそういうわけで、またね』

「ちょ、ちょっと待って意味わかんないんだけど!?」

 

 志弦は咄嗟に人影へ手を伸ばした。しかしどういうわけか、どんなに前へ進んでも人影との距離が一向に縮まらない。ああマンガとかでよくあるやつだなーチクショウ、と唇を噛む。

 人影が、からからと愉快げに笑う。

 

『ほんと大丈夫だよ。痛い目は……あんま見ないはずだし』

「ちょっとは見るの!?」

『それに言ったでしょ、「またね」って。今度はそっちから会いに来てよ。そしたら、次はぜんぶ話すからさ』

 

 いや夢の中に会いに来てって意味がわからないし、そもそもアナタがどこの誰かもわからないし、もうワケがわからなくてなにがなんだか、

 

『志弦ー?』

 

 そのとき、天から響き渡るように聞き慣れた声が降ってきた。志弦はつられて上を見る。なにかの楽器めいて高く透き通った、志弦とは比べ物にならないほど美しい女の子の声は。

 

「……早苗?」

『志弦ー、そろそろ起きないとダメだよー』

『……ほら、お友達が呼んでるよ』

 

 人影が、微笑んだ、気がした。

 

『もう行きなさい。……心配しなくても、ほんとのほんとに大丈夫さ。君の傍にいる、あの妖怪が、力になってくれるから』

「……それって、」

 

 ――月見さん?

 体を、揺すられる感覚。否応なしに意識が浮上を始める。煙のように黒が晴れ、夢の世界に白が広がっていく。

 人影の姿が、もう少しで見えそうで。

 けれどわかったのは、ほんの一瞬、どうやら和服を着ているということだけ。

 

『志弦ー! 起きてーっ!』

 

 そして目が覚める、その、間際に。

 

『待ってるよ』

 

 人影が、にじむような言葉をこぼした。

 

『――果たさなきゃなんないからね。白蓮との、最初で最後の約束』

 

 暗転。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――志弦ーっ! 起きなさーい!」

「…………んぐぅ……」

 

 人は、目を覚ましてわずか五分で夢の記憶の半分を失うという。

 ちなみに志弦は五秒でほぼすべてを失う。

 

「うぇ」

 

 早苗に揺すられて目を覚ました志弦は、その瞬間にはもうなんの夢を見ていたのかほとんど覚えていなかった。

 

「……ぁぁ゛ー」

 

 呻いた。なんだろう。なんだか、忘れてはいけない大切な夢を見ていた気がするのだけれど。思い出せそうなのに思い出せなくて、ほんの何秒か前の記憶すら煙に巻かれている感覚が、とても気持ち悪かった。

 天井を見上げる視界の端で、早苗の怪訝な表情が見えた。あいかわらずの美少女っぷりである。まだ半分寝ている頭の片隅で、心配する顔まで綺麗って反則だよなー、とそんなことを考える。

 

「志弦? ……もしかして、どこか具合悪いの?」

「あー、違うよー」

 

 さておき。

 まあ、思い出せないものは仕方ない。夢の内容をすぐ忘れるのはいつものことだ。志弦は心のもやもやをなかったことにし、寝惚け眼をこすって早苗に笑みを返した。

 

「早苗みたいな美少女が朝起こしに来てくれるって、ゲームみたいだよなーって」

「またそんなこと言って……。あのね、志弦だって充分」

「はいはい、何度も言ってるけどそれ以上に中身がダメダメなのでーす」

 

 起きた。途端に冬の朝の冷気が肌を刺してくるが、今となっては今年も終わりの終わり、この程度の寒さにもすっかり慣れたものだ。幻想郷で暮らし始めてからというもの、巫女として早寝早起きが絶対条件になったので、志弦の生活リズムは目覚ましく改善された。おまけに神社の手伝いや日頃の家事で適度な運動をし、化学物質とは無縁な大自然の恵みを日々食事として頂けば、若い志弦の体は北風小僧にも負けない健康街道まっしぐらなのだった。

 

「おはよう」

「おはよう。……具合、大丈夫なんだよね? 水月苑のお手伝い、行くんでしょ?」

「おう、もちもち」

 

 そう。普段であればこのあとすぐに着替えて神社の朝の仕事なのだが、本日ばかりは事情が違う。

 ついこの間にクリスマスが終わり、今年も残すところあと五日。

 月見不在のままで迎える、今年最後の温泉開放日である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――お願いします! もう今年も終わりということで、『温泉納め』をさせてくださいっ!

 と、要するにそんな要望が、山の女妖怪を中心に噴出したのである。先週末は、地底で起こった異変が終結して間もないタイミングで、また月見が不在だったため温泉が開放されなかった。そのときは、まあ仕方ないということでみんな渋々納得していたのだ。

 しかし今回ばかりはそうも行かない。なぜなら今年の最後の週末であり、これを逃せばもう来年までは水月苑の温泉に入れなくなってしまうのだから。手足もかじかむ真冬の季節に、そんなご無体を温泉大好き少女たちが許容できるはずもなく。

 そこで已むなく藍が動き、月見に許可を取った上で温泉を代理開放する運びとなった。ただし少しばかり人手が要るので、志弦と早苗がお手伝いに立候補してみた――というのが、現在に至るまでの事の顛末である。

 とは、いえ。

 

「ひめちゃーん、暇になっちゃったー」

「あらー」

 

 温泉宿の準備というからそこそこの重労働を想像していたが、やってみるとそうでもなかった。温泉宿は温泉宿でも日帰り温泉宿であり、加えて月見の私生活を圧迫しないよう、タオル類の入浴道具は持参するのが鉄則だ。なのでやることといえば、浴場を始め屋敷の随所を簡単に掃除し、温泉あがりのお客用に飲み物を準備しておくくらいだった。源泉の温度調整とか、小難しいところはぜんぶ藍がやってくれた。

 よって暇人となった志弦は外に出て、池のへりでわかさぎ姫とのんびりとダベっているのだった。

 水月苑の池は、とかく大きい。諏訪子が「私が頑張って作ったんだよ!」とえばっている通りで、日本庭園とともに屋敷の周囲を囲む壮大な規模は、池というよりもはや堀にも近い。八雲紫によって魚が突っ込まれているので釣りが楽しめる上、深いところはそんじょそこらのプール以上の深さがあり、夏には泳いで遊ぶ河童の姿が見られることもあった。

 更に言えば、水質もバッチリ綺麗に保たれている。その立役者が、いま志弦が見下ろす人魚姫ことわかさぎ姫であった。

 

「お屋敷のお掃除、お疲れ様ですー」

「ひめちゃんも、お掃除お疲れー」

 

 水月苑の池を住処にしている彼女が、「日頃からお世話になっているのでこれくらいは!」と掃除の手を行き届かせているのだ。志弦にはよくわからないけれど、なんでも人魚には水質を綺麗に保つ秘術のようなものが伝わっているらしく、山の清流が絶え間なく流れ込んでいるのも相まって、まるで鏡のように空の景色を映し出している。

 夜にもなれば、そこには朧に輝く幻想郷の月が映り込むのだ。水月苑という名は、本当にこのお屋敷にはぴったりだと思う。

 そして陽光照り返す雪解けの日本庭園を背景に、ちゃぷちゃぷと池の落ち葉集めを頑張っているわかさぎ姫の姿は、もはやため息すら無粋なほどに美しいのだった。

 

「はあ……ひめはほんと綺麗だなー。天使」

「も、もぉー、志弦さんったらぁ」

 

 天使。

 わかさぎ姫のようなふわふわ天然少女が生息しているのも、幻想郷の奥深さのひとつであろう。外の世界にはこんな女なんて存在しない。いや、外の世界に存在しないからこそ、幻想郷に存在するというべきなのだろうか。

 

「それより、お屋敷のお掃除、手伝えなくてごめんなさい」

「ああ、いいよそんなん」

 

 一応わかさぎ姫も、少しくらいなら飛べるらしいが。どうあれ半人半魚な彼女に、地上に足をつけるのが前提の仕事は荷が重い。

 

「それに、ちゃんと池の掃除してるじゃん。庭を綺麗にするのも、立派なお屋敷の掃除のひとつだって」

「そ、そうですか? えへへ、そう言ってもらえると嬉しいですー」

 

 ほんっと天使。

 

「ところで、早苗さんは?」

「早苗なら、藍さんを襲ってるよー」

「えっ」

「藍さんの尻尾を」

 

 あー……という顔をわかさぎ姫はした。耳を澄ませば屋敷の方から、「お願いですっちょっとだけ! ちょっとだけでいいんです!」「ま、待て待て目が怖いぞ、あっちょっそこは、ひゃっ」とかすかな攻防の声が聞こえる。東風谷早苗は、遠く遠く諏訪子の血を引く現人神である。ならば早苗の呆れるほどのケモ好きも、きっと諏訪子のもふもふ好きが遺伝し変異したものなのだろう。

 

「じゃあ、もう温泉の準備はバッチリなんですねー」

「そだよー。あとは、玄関に『ゆ』を掛けるだけだね」

 

 もっとも藍が早苗に襲われているので、開店まではもう少し時間が掛かるかもしれない。

 そのときわかさぎ姫が、不意に端麗な顔立ちを曇らせた。つぶやくように、

 

「……旦那様、結局帰ってきませんでしたね」

「まあ、向こうも大変だったみたいだからねー」

 

 志弦も、過日地底で起こったという異変の真実を知ったときは驚いた。諏訪子と神奈子が藤千代に拉致されたことからなんとなく想像はしていたものの、現実は遥かに上を行った。解決に向かった月見が全身に大火傷を負ったというのだから、そりゃあ諏訪子と神奈子が血も涙もない強制労働を言い渡されたのも納得の大事件だったのだと思う。

 とはいえ、なにも心配は要らない。

 

「でもほら、この前藍さんたちがお見舞い行ったみたいだけど、もうすっかり治って元気だったって話だし」

 

 異変は無事に終結したし、事後処理も(つつが)なく終わった。月見が未だ帰ってこない理由だって、向こうの妖怪少女たちに懐かれてしまってなかなか身動きが取れないでいるからだ。まこと月見らしい、人の心配を返せと蹴っ飛ばしたくなるほどしょうもない理由だと思う。

 

「もう年末だし。さすがに、そろそろ帰ってくるっしょ」

「そう……ですね」

 

 わかさぎ姫の表情は晴れない。志弦はちょっといたずらする気持ちで、

 

「やっぱ、寂しい?」

「はい」

 

 意外にも、即答が返ってきた。

 

「旦那様がいなくなって、わかったんです」

 

 志弦の向こう――水月苑へ視線を転じ、わかさぎ姫はその声音に思慕の情を忍ばせて言う。

 

「私、旦那様がいて。旦那様の周りに、いろんな妖怪さんや人間さんがいて。みんな元気で、仲良しで」

 

 胸を押さえて見つめる水月苑の縁側に、在るべき誰かの姿を思い描くように、

 

「そんな景色をここから見つめるのが。いつの間にか、こんなにも、好きになってたんだって」

「……」

 

 志弦は、わかさぎ姫と同じ方向へ目を向ける。水月苑の縁側をのんびりと歩く月見がいて、彼の背中をちょこちょこ追いかける少女たちがいる。それはぽんこつ気味なスキマ妖怪であったり、月見至上主義なお姫様であったり、乙女なメイドであったり、天使な天人であったり、かわいらしい吸血鬼の姉妹であったり、もふもふ九尾のお狐さんであったり、その式神のにゃん()であったり、青と緑の妖精コンビであったり、ツンデレ風味な鴉天狗であったり、ぽやぽやな亡霊少女であったり、ドジっ娘な庭師であったり、くーるびゅーてぃーなふらわーますたーであったり、説教好きな閻魔様であったり、いつもふらふら酔っ払っている鬼であったり、自称月見の教え子であったり、釣りに目覚めた闇の妖怪であったり、ウチの神社の神様たちであったり、ご飯大好きな巫女さんであったり、盗みから足を洗った魔法使いであったりする。そんな光景を思い描く。

 この場所がなければ、出会うことも話すこともなかった少女だって、きっといただろう。

 緩く息をつき、わかさぎ姫へ視線を戻す。

 

「……そうだね」

 

 志弦だって、好きだ。

 

「月見さん、早く帰ってくるといいね」

「……はい」

 

 まったく、月見という妖怪はひどいやつだ。わかさぎ姫だけに限らず、ここには月見の帰りを今か今かと待ち侘びている少女がたくさんいる。月見だってまさか知らないはずはないのに、未だ地底でぐーたらな生活を送り続けている。向こうの妖怪に懐かれているからとか、そんな理由は言い訳にすらならない。わかさぎ姫たちの気持ちに応えて早く帰ってこようという気概が、ぜんぜんまったく感じられない有様である。

 帰ってきたらこっぴどく文句を言って、自分がどれほど無責任なことをしていたのか思い知らせてやらねばなるまい。味方には、フランや橙などなるべく小さな女の子を集めよう。きっと、大弱りで困り果てる情けない月見の姿が拝めるであろう。

 と、

 

「……?」

 

 そこでふと志弦は、自分の周りに巨大な楕円の影が差していると気づいた。

 もちろん、だからどうしたという話ではある。太陽が雲に隠れただけの、普段であれば間違いなく気にも留めない小さすぎる変化。気づいたのはきっと、今日がたまたま雲のほとんどない快晴日和だったからだろう。

 

「あれ? もしかして曇ってきちゃっ――」

 

 空を見る。

 見て、志弦は呆然とした。

 

「へ、」

 

 志弦から太陽の光を遮っているのは、雲ではなかった。

 船。

 

「……へっ」

 

 本来であれば海に浮かんでいるべき木造の帆船が、あろうことか空に浮かんで、志弦たちの斜め上空に堂々と覆い被さっていた。

 

「…………ぅへー」

 

 志弦はそれしか言えない。

 

「え? な、なんですか、あれ?」

 

 わかさぎ姫も目を白黒させている。いくら非常識が常識の幻想郷といえど、さすがに船が空を飛んでいる光景は珍しいようだ。

 そしてその船から、志弦たちに向かって降りてくるふたつの人影がある。

 二人の少女である。片方は長袖のセーラー服――女子校生が着る制服ではなく、本来の意味での水兵服――にマフラーを巻き、もう片方は素肌をぴっちり覆った尼さんの出で立ちをしている。やはり美人である。幻想郷の少女が美人なのはこの世の理なので、もはや凹む女子のプライドもない。

 

「……早速お客さんかな?」

 

 空飛ぶ船でやってくるなんて、随分と大仰な。

 それにしても、少し妙な感じがする。志弦は、幻想郷に空飛ぶ船が存在するなんてはじめて知った。どうして、はじめてなのだろう。志弦は新参者の外来人だけれど、それでも幻想郷で生活を始めてひとつの季節を越えている。たったひと季節、されどひと季節、天狗たちのゴシップ飛び交う妖怪の山で生活していれば、幻想郷の面白おかしい情報は自然と耳に入ってくる。

 噂くらいは耳にしていたって、然るべきなのに。百歩譲ってそれはいいとしても、幻想郷での暮らしが長いわかさぎ姫まで驚いているのはやっぱり妙だ。まさかあの船、つい最近になって出現したばかりだとでもいうだろうか。一体どこから、どうやって。

 ――でも、まあいいか。

 実際に話を聞いてみればわかることだ。

 

「――あのー、すみませーん」

 

 志弦の目の前に降り立ったセーラー服の少女が、顔見知りみたいに明るく声を掛けてきた。一方で尼さんの方は固く口を閉ざしており、

 

「……えっと、なにか御用ですかー? あ、温泉はもうちょっと待っててくださいね」

 

 答えながら、志弦は内心動揺した。

 なんだろう。尼さんから向けられる視線に、やけに重苦しい圧力を感じる。顔に不自然なほど感情が伴っておらず、まるで能面を被っているように見える。

 尼さんがどうしてそんな顔をしているのかは、当然わからない。

 そしてそんな尼さんの横で、少女がどうしてたんぽぽのように笑っているのかもわからない。

 気のせいでは済まされない隔絶した温度差が、言い知れぬ不安となって志弦を襲った。

 

「へー。温泉に入れるんですか、ここ」

「はい、一応……あれ? ってことは、温泉に入りに来たわけじゃ……」

「あ、はい。ちょっとお尋ねしたいことがありまして」

 

 その時点で、志弦はもっと警戒するべきだった。少なくともわかさぎ姫は異様な空気を機敏に察し、首から下を完全に水の中へ戻して身構えていたのだ。

 それすらも、志弦は気づかなかった。

 

「……えっと、なんでしょ?」

「お名前を訊いてもよろしいですか? ちょっと、あなたが昔の知人にそっくり(・・・・・・・・・)だったもので、懐かしくなっちゃって……」

「はあ」

 

 生返事を置いた志弦は、さほど深くも考えずに答えた。

 答えて、しまった。

 

「神古ですけど。神古志づ」

 

 なにが起こったのか、わからなかった。実際志弦の体を襲った順序としては逆なのだろうが、まず視界全体が気でも違ったような勢いで撥ね跳び、それから肺を叩き潰されたかというほどめちゃくちゃな衝撃を感じた。

 

「……けほっ」

 

 まだ、なにが起こったのかわからない。体が正常な機能を失っている。視界は白く濁ってなんの情報も伝えてくれず、あらゆる音が壁を隔てたように遠い。

 

「し、志づ」

「動かないで。あなた見たところ人魚みたいだけど――水の中の勝負で、船幽霊の私に勝ち目があるなんて思わないでよね」

 

 セーラー服の少女の、声。だが、はじめ志弦に声を掛けてきたときのぬくもりは欠片も存在していない。まるで、暗く冷たい、夜の海のよう。

 

「――そう。神古。神古っていうの」

 

 きっと、あの尼の少女だったのだと思う。体が震え、頬が引きつり、脳髄が哄笑し――そうしてこぼれ落ちた、狂い咲く寸前の、ドス黒い歓喜の声音。

 ようやく、視界が帰ってきた。

 志弦は、宙に浮いていた。より正確に言うなら、尼さんの背後――一体どこにどう隠れていたのか、突如として出現していた煙状の巨人に、たった右手ひとつで鷲掴みにされていた。人が、小さな人形を掴むように。

 

(……うわ)

 

 意識が朦朧としているお陰で、反って冷静に目の前の状況を理解できた。疑問も困惑もすべて一足で飛び越えて、事実は極めて端的に志弦の前に突きつけられていた。

 丸太にも等しい巨人の指先が、苦痛を生むほどではないにせよ、確かな意志を以て志弦の体を圧迫している。それだけでまず、己が体の自由だけでなく、生殺与奪の権利までもこの巨人に鷲掴みにされているのだとわかる。

 身をよじり、志弦は視線を足元へ動かす。セーラー服の少女が背負っていた錨を片手で軽々と持ち上げ、わかさぎ姫の目と鼻の先に突きつけている。わかさぎ姫の、ひび割れていくような、張り詰めた瞳と交差する。志弦と同じく、わかさぎ姫もまた一切の抵抗を許されぬ状況にあるのは論にも及ばず。

 要するに、これはとんでもなく不味い。

 

「まさか――まさか、生きていた(・・・・・)とでもいうの?」

 

 尼の少女が言う。誰かに問うているというよりも、敢えて言葉にして思考することで、決壊する寸前の感情を抑え込もうとしているように見えた。

 

「姐さんと同じ、不老長寿の秘術にでも手を出した? いえ、でも、それにしたって」

「な、に」

 

 ――姐、さん?

 わからない。こいつは一体なにを言っている。志弦を、誰かと勘違いしているのではないか。でも、こいつは間違いなく『神古』の名に反応した。こいつは『神古』の名を知っている。同姓の別人? いやでも、昔の知人にそっくり(・・・・・・・・・)だって。

 わからない。

 一体、

 一体、なにが、

 

「――志弦!? 志弦、どうしたの!?」

「……ッ!」

 

 早苗の声――と志弦が認識するや否や、また視界が目まぐるしく動いた。

 

「一輪!」

「わかってる!」

 

 空に落ちるかの如く、地面が恐ろしい勢いで遠ざかっていく。わかさぎ姫がなにかを叫んでいる。殴りつけられるような風の音だけで耳が満たされている。

 なんとなく――ああこいつらは船に帰る気なんだな、と思った。視界に広がっているのは地上の景色だけだけれど。強盗や人攫いが、人に見つかりそうになって車で逃げようとするのと同じだ。

 人攫い。

 

 要するに、志弦はこれから攫われるらしい。

 

 平和ボケというやつだったのかもしれない。かつて無縁塚に幻想入りした志弦は、この世界には人を襲う危険な妖怪がいると身を以て知ったはずだった。だが月見に助けられ、早苗に受け入れられ、守矢神社の巫女として平和な日々を謳歌する中で、それをすっかり忘れてしまっていた。

 なにも無縁塚だけに限った話ではない。この幻想郷でほぼ百パーセントの安全が保障されているのは、紫や慧音が守る人里か、霊夢が守る博麗神社か、二柱の神々が守る守矢神社か、月見が守る水月苑くらいなもの。

 そして今の水月苑に、月見はいない。

 忘れていた。もちろん――忘れていなかったとしても、なにかができたわけではない。守矢神社で修行を始めて数ヶ月、少しずつ巫女として実力をつけてはいるけれど。

 それでも志弦は未だ、人智を超えた妖怪の力に対して、あまりに無力なのだ。

 

 

 ――少し話を替えよう。

 

 

 志弦は未だ無力な人間だが、かといって妖怪たちにとってみれば、「志弦に危害を加えるのは命知らずのすること」というのがある程度の共通認識だった。

 なぜか。

 志弦を守る存在があるからだ。

 それは例えば、同じ外来人の早苗であったり、或いは友人の月見であったり、その他志弦に友好的な者たちであったりする。しかし一介の人間や妖怪とは比べ物にならない、もっと、遥か超越的な存在の加護を――本人は気づいていないだろうが、志弦は常日頃からその身に与えられているのだ。

 

 神古志弦は、守矢神社の巫女(・・・・・・・)である。

 

 守矢神社には、二柱の神が祀られている。表向きにはかつて軍神として名を馳せた風と雨の神であるが、本当の祭神は、信仰が衰えた現代でもなお強大な祟り神の王である。

 神古志弦に手を出せば、祟り神を敵に回す(・・・・・・・・)

 にもかかわらず敢えて、或いは知らず志弦に危害を加える者があるのなら。それは蛮勇よりも遥かに愚かな、単なる命知らずの所業なのだろう――。

 

 

「――待ちなよ」

 

 

 そのたった一言で、一輪と水蜜は容易く心の臓まで氷結した。

 待てと言われて待つ馬鹿はいない――そのはずだった。なにをされても止まるつもりなどなかった。なのに天から降りてきたたった一言で、一輪と水蜜の意志は呆気なく捻り潰されてしまっていた。

 聖輦船への道を遮る、影があった。

 

「ったく。そろそろ温泉に入れるかなーと思ってやってきてみれば――」

 

 童女、だった。そのあたりの農村から着の身着のまま飛び出してきたような、ナズーリンにも匹敵する小さな女の子だった。しかしその華奢な体から放たれるのは、到底女の子とは――否、人とも(あやかし)とも評することのできない、闇に包まれた深淵が煮え立つかの如き異質な波濤。

 ああこいつはヤバいやつだなと、一輪も水蜜も一発でわかった。

 

「で? あんたら、ウチの大事な巫女で、ウチの早苗の大事な友達に、なーにしてくれちゃってんのかな」

 

 ――そうか。こいつが着ている巫女服は、そういう。

 

「……志弦を、帰してくださいっ!」

 

 足を止められたのが災いして、後ろから人間に追いつかれた。だがそれよりも問題なのは、人間と一緒に駆けつけてきた九尾の狐の方だ。

 一輪と水蜜の額に、同時に焦燥の脂汗が浮かぶ。前門にどこからどう見ても危険な神が一柱、後門に妖獣最強の九尾の狐が一匹。全盛期の状態ならいざ知らず、長年の地底生活ですっかり鈍ってしまった自分たちでは、どう足掻いても間違いなく勝てない。

 

「早苗、下がってなさい。こいつらの相手は私がするよ」

「諏訪子様っ……ですけど、」

「早苗」

 

 諏訪子と呼ばれた神が、強く、言い直した。

 

「下がってな。――これは、弾幕ごっこじゃないんだよ」

 

 それは言外に、弾幕ごっこ程度で済ますつもりなどないという、明らかな宣戦布告だった。

 怯えるように震えた人間を庇い、九尾の狐が一歩前に出た。

 

「――さて。どこの誰かは知らないが、志弦は帰してもらおうか。彼女は、月見様の大切な友人(・・・・・・・・・)だ」

 

 ――ああ、わかっていたさ。わかっていたとも。

 一輪たちだって気づいていた。眼下の屋敷が『水月苑』という名で、月見が暮らしている家だということくらい、はじめて見たその時点で気づいていた。だって一輪たちは、その月見本人と何度も出会い、何度も地上の話を聞かせてもらってきたのだから。早苗という名にも諏訪子という名にも聞き覚えがあるし、九尾の少女はさしずめ八雲藍だろう。

 しかし月見は、いま雲山が捕らえている『神古』の少女については、ただの一言も話してくれていなかった。

 無理もないかもしれない。知らなかったとはいえ、恨んでいると、一輪たちは彼の前ではっきりと口にしたのだ。そう言われてほいほいと友人の情報を売る馬鹿はいない。だから、月見を責めるつもりは毛頭ない。

 だが、ここで『神古』をむざむざ見逃すかどうかは別だ。

 単なる偶然だとは思えない。白蓮を封じた『あいつ』と同じ『神古』の名を持ち、瓜二つの姿(・・・・・)までしているなんて、深読みするなという方が無理な話だ。ひょっとしたら、あいつが白蓮と同じ若返りの秘術に手を出して、現代まで生き永らえていたのではないかと考えたくらいだった。なにがなんだかわからない顔をしているのも、一輪たちのことなどとっくの昔に忘れたからなのだと。

 だがこの少女からは、あいつほど強力な陰陽師の力は感じない。雑魚といってもいい。なんらかの理由で力を失ったのか、それともなんの関係もない赤の他人なのか。なんの関係もない赤の他人が、同じ『神古』の名で瓜二つの姿をしているなどありえるのか。

 知らなければならない。白蓮へとつながる可能性がわずかでも存在するのなら、すべて、根こそぎ、ありとあらゆる真実を一輪らは知り尽くさねばならない。

 そのためには――こいつらは、邪魔だ。

 その結果として、月見に(いと)われてしまうとしても。

 白蓮を助ける――それ以上に、一輪らが望むものなどありはしないのだから。

 

「……ムラサ」

「うん。大丈夫、わかってるよ」

 

 心が、決まった。

 一輪が、答えた。

 

「――それは、できないわね」

「へえ」

 

 諏訪子が、口端をつり上げて笑う。

 

「威勢がいいね。まあ確かに、そっちが三人でこっちは二人だけど? 一人多いからって調子に乗ってるのかな」

 

 一輪も、笑った。

 

「三対二じゃないわ。

 

 

 ――四対二よ」

 

 

 聖輦船から放たれた光の矢が、諏訪子の右肩に直撃した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「にょわっ!?」

「……!?」

 

 突如の悲鳴に藍は目を見張った。右肩を押さえ体勢を崩す諏訪子と、光の粒子となって消えていく矢の残滓を見てはじめて、敵が目の前の三人だけでないのだと気づいた。

 一瞬思考が余所に逸れた、それが隙だった。

 入道を操る尼僧姿の少女が動く。入道の左腕を瞬く間に巨大化させ、藍めがけて神速の薙ぎ払いを掛ける。

 

「っ……!」

 

 藍は早苗を抱えて背後に跳躍し、紙一重で躱す。直後に再度の悲鳴、

 

「むぎゅ!?」

 

 諏訪子が、船幽霊の少女に錨の一撃で叩き落とされた。諏訪子の小さな体は為す術もなく水月苑の池まで落下し、荒々しい水柱とともに藍の視界から消える。

 

「諏訪子様っ!?」

「くっ……!」

 

 藍は強く唇を噛む。――船にまだ仲間がいたのだ。諏訪子が右肩を撃たれるそのときになるまで、まったく気がつかなかった。それが藍の油断だったのか、それとも向こうの穏形(おんぎょう)を見事と褒めるべきだったのか、今となっては確かめる術もない。

 

「皆さん、早くこっちにっ!」

 

 船の手前に、少女の姿があった。金に煌く髪をたなびかせ、肩に羽衣、弓手(ゆんで)に鉾、馬手(めて)に宝塔――

 

「……!?」

 

 まさか、と思う。だが、もし本当にそうだとしたら非常に不味い。

 

「ナイス、星ッ!」

 

 尼僧と船幽霊が船に向けて飛ぶ。入道を操り、志弦を鷲掴みにしたままで。藍は早苗をその場に捨て置き、疾風をまとって全力で(くう)を蹴った。

 

「――毘沙門天様、御力をっ!」

 

 遅かった。

 視界が白い閃光で潰れ、藍は一切の身動きを封じられた。

 

「ぐっ……!」

 

 最悪としか言い様がない。よりにもよって、毘沙門天の力を使う敵がいるなんて。

 毘沙門天が持つ数多くの神徳のひとつに、『破魔』がある。神と呼ばれる存在は概ね魔を退け人々を守護するものであるが、毘沙門天はとりわけその信仰が篤い。古来より武神として崇敬され、四天王として北方の守護を担い、その仏像はしばしば二体の鬼を踏みつけ調伏する姿で描かれる。人の世に伝わる逸話の中には、毘沙門天がその剣で鬼を三つに斬り捨て、信心深い仏僧を守護したのだと説くものもある。要は、妖怪の身としては絶対に敵に回したくない神であり、実際敵として立ちはだかってしまったから最悪としか言い様がないのだ。

 宝塔より放たれた閃光、すなわち毘沙門天の威光――光で視界を奪われ、式神を抜くはずだった腕は凍りつき、脚は宙に縫いつけられ微動だにできない。

 逃げられる。

 

「……そこっ!」

 

 正統な巫女故に毘沙門天の威光を受けない早苗が、なにかをした。式を放ったのかもしれないし、弾幕を撃ったのかもしれない。しかしどうあれ、たとえ視界を奪われる中であっても、毘沙門天という強大な力が反って仇となり、その出処は目で見るより容易に感じ取ることができた。

 

「きゃっ……!?」

 

 力の出処は、少女の右手――すなわち宝塔。向こうも、まさかこの閃光の中で反撃されるとは思わなかったのだろう。藍の感覚から判断しても、手応えはあった。当たったはずだ。

 だが、閃光が消えない。力の核たる宝塔を失ってもなお、毘沙門天の威光はそう易々とは途切れない。

 

「星、早くっ!!」

「ま、待ってください、宝塔が……!」

「星ッ!!」

「っ……!」

 

 ほんの十秒程度のわずかな時間が、三十秒にも一分にも感じられた。

 光が、消えていく。ようやく手足の痺れから解き放たれた藍は、まだ視界が戻りきらない中で、記憶だけを頼りに前へ飛んだ。

 遅すぎた。

 

「――……」

 

 光が完全に消え、色のある世界が戻ってきたとき――そこにもう、船はない。

 ただなにもない、空があるだけ。

 神古志弦の姿は。

 どこにも、なかった。

 

「――そんな、」

 

 早苗が、戦慄いた。力を失い、ふらりと傾いた彼女の体を、藍は咄嗟に戻って支えた。袖に皺をつける早苗の指先は、押し潰されそうなまでに震えていた。

 志弦が、妖怪に攫われた。

 なぜ。なんのために。

 もしもやつらの狙いが、志弦の命であったなら――。

 

「――ぶぱあっ!? ちべたあ――――――――っい!?」

「だ、大丈夫ですか諏訪子さん!?」

 

 眼下に広がる水月苑の池を見た。真冬の寒中水泳でばしゃばしゃのたうち回る諏訪子を、わかさぎ姫が慌てて救助しているところだった。

 

「す、諏訪子、様……っ!」

「……」

 

 早苗が、親を捜す迷子のような声音で身をよじる。藍は首を振り、冷たく押し寄せてくる後悔を一時振り払って、池の畔にゆっくりと早苗を降ろした。

 わかさぎ姫に押されてようやく水から上がった諏訪子が、蛙みたいな座り方で、犬のように体を振って水気を飛ばした。船幽霊の少女から強烈な一撃を喰らったはずだが、見たところ怪我をした様子もなくケロリとしている。四方八方へ散る飛沫にまるで構わず、早苗が諏訪子に縋りつく。

 

「諏訪子様っ……!」

「わっ! そ、そんなくっついちゃダメだよ早苗! あんたまで濡れちゃうよっ」

 

 早苗はまるで聞こうとしない。縋りつく力を一層強め、

 

「諏訪子様っ……! 志弦が! 志弦が……っ!」

「……」

 

 すべてを察した諏訪子は緩く息をつき、真っ白な早苗の甲にそっと己の手を重ねた。

 

「……そっか。連れてかれちゃったか」

「っ……」

「でも、心配は要らないよ」

 

 強く、微笑む。

 だが、その微笑みは。

 

「大丈夫。すぐに、向こうの方から戻ってくることになるさ」

 

 早苗を安心させるためのものではなく、

 

「諏訪子……様?」

こっちの力(・・・・・)を使うのなんて、随分と久し振りだなあ」

 

 胎動を始めた彼女の御魂が生み出した、牙を剥くような、煮えたぎる笑みだった。

 

「これ以上好き勝手な真似なんて、絶対にさせない」

「――、」

「だから、大丈夫だよ」

 

 洩矢諏訪子は大地の神であり、同時にミシャグジという祟り神を統べる存在として祀られている。それはすなわち洩矢諏訪子自身が、祟り神そのものとしての性質を帯び、信仰されていることを意味する。

 そして、己を祀る神社の巫女を奪われ、怒らぬ神などいない。

 そのふたつの事実がなにを意味することとなるのか、早苗だって気づいたはずだ。

 

「へぷちっ!?」

「あ……だ、大丈夫ですか? とにかく着替えないと……」

「う゛ぅっ、温泉入りだいよぉ゛……」

 

 土着神は己の信仰が集まる圏内であれば強大な力を発揮するが、ひとたび外に出てしまうと無力にも等しく弱体化するという。しかし幻想入りを果たした今の諏訪子にとっては、この幻想郷こそが自分を祀ってくれる土地だ。住人たちから集まる信仰は、全盛期と比べれば口を糊するほど少ないけれど。

 それでも、妖怪の一匹や二匹を好きにする程度なら――。

 

「とにかく中に入ろうよ。早苗も風邪引いちゃうよ」

「は、はい……」

 

 従うしかない早苗を連れ、諏訪子が水月苑に引っ込んでいく。その嫌に軽い足取りが地を踏むたび、周囲の草花がざわざわと怯えるように揺れた。すぐ横を通り過ぎていった彼女たちに、藍はなにか声を掛けることすらできなかった。

 きっと諏訪子は、己が持つ力を存分に発揮して志弦を守ってくれるだろう。それは、藍としても願ってもないところであるはずだった。けれど頭のどこか片隅で、本当にこのままやらせてよいのかとせわしく問うてくる自分がいた。

 波紋が鎮まった水面から、目を逸らすことができない。

 

「藍……さん」

 

 わかさぎ姫は、泣きそうな顔をしていた。

 

「ごめんなさい。私、わたし。……なにも、できませんでした」

「……私だって同じだ」

 

 ――留守を任された身であるのに。

 なにもできなかった己が、拳に血がにじむほど恨めしかった。どんな言葉を重ねようがただの言い訳だ。結局のところ藍は油断していたのであり、そこを突かれて無様にも出し抜かれてしまったのだから。

 どうして、どうしてあの夏の異変でも、過日の冬の異変でも。自分たちが守るべきものはいつだってこちらを嘲笑うように、両手の隙間からするりと奈落へ抜け落ちていくのだろう。

 (ほぞ)()む藍の頭の隅を、鴉の羽音が掠めた。

 

「藍さん! 一体なにがあったんですか!?」

「……!」

 

 森をざわめかすつむじ風に乗って、射命丸文が空から急降下してきた。驚いたわかさぎ姫が「ぴっ」と悲鳴をあげて水の中に逃げる。聞屋の血が騒いでいるのか、それともよからぬ空気を敏感に感じ取ったのか、文は彼女には珍しく血相を変えた様子で、

 

「いまさっき、こっちからすごい光が……それに、ここで船が空を飛んでましたよねっ?」

 

 藍は、一秒で決断した。

 

「文。お前の二つ名に縋って頼みがある」

「……え、えっ?」

 

 文の両肩を掴み、(こうべ)を垂れ、文字通り縋るように、

 

「志弦が妖怪に攫われた」

 

 文の表情から、困惑の色が一発で消し飛んだ。

 やつらがなぜ志弦を攫ったのか、理由は定かではない。だが、諏訪子や藍を敵に回してでも強引に攫ってみせたのだから、きっとそうしなければならない重大な理由だったに違いない。

 となれば藍には、月見が関わっているとしか思えない。

 いつもそうなのだ。夏の異変でも、地底の異変でも。月見が幻想郷に戻ってきてからというもの、日常を脅かす騒動があるたびに、いつも根っこの部分では彼が大きく関わっていた。

 だからきっと、今回だって。

 文にも、それがなんとなくわかったのだと思う。余計な問答など、一言も必要ではなかった。

 

「――なにをすればいいんですか? 教えてください」

 

 妖怪としてどれほど強大な力を持っていても、自分一人では太刀打ちできない現実というのは歯がゆくも存在する。月見ですらそうなのだ。藍一人ができることなんて、それこそ高が知れていると言っていい。己の腕が届く範囲は、自分が思っている以上に短くて狭い。

 だからそんなときは、助けてもらえばいい。一人でダメなら二人。二人でもダメなら三人。届かないのなら、届くまで仲間を増やせばいいだけのこと。

 

 だって、この幻想郷には。

 たった一人の人間のためであっても惜しみなく力を貸してくれる、どこかの誰かさんに似た人のいい妖怪が、意外とあちこちに転がっているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 世界がある。

 ただ一色の黒だけで無限の彼方までを塗り潰された、光の差さない世界がある。

 天地の区別もないその空間を、『彼女』は音もなく漂い続けている。

 呟いている。

 

「……ようやく、なんだよね。きっと」

 

 ――夢を見ているだけの自分には、よくわからないけれど。

 自分とよく似た少女と出会った。かねてより夢で見ていた通りの少女だった。時間がなくて具体的な話はなにもできなかったが、きっかけは与えたから、今度はきっと向こうから会いに来てくれるだろう。

 あのとき止まってしまった時間を、もう一度動かすための欠片。

 ようやく、なのだと思う。

 

「待っててね」

 

 それが、夢を漂うだけの存在となってしまった己の、最後の役目だ。

 

「――もうすぐ。もうすぐだよ、白蓮」

 

 未来と過去の交差点。

 決して交わるはずのないその場所で、意識だけの彼女は待ち続ける。

 

 神古志弦を、待ち続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ② 「斬釘截鉄のご意見番」

 

 

 

 

 

 正直に言って、とんでもなく怖かった。

 だって志弦は、見知らぬ妖怪に問答無用で誘拐されたのだ。神様である諏訪子にだって躊躇いなく弓を引くような、凶暴で怖い妖怪たちなのだ。「聖輦船」なる空飛ぶ船の中、薄暗い倉庫のような一室に叩き込まれ、なんの問答もなく無理やり椅子に縛りつけられた時点で、ひょっとしたら自分の人生は終わりかもしれないと冗談抜きで泣きそうになっていた。

 あれから、二分が経った。

 二分が経って志弦の目の前では、自分を誘拐した悪い妖怪たちが、

 

「ムラサと一輪のばかああああああああ――――――――ッ!!」

「「ぎゃん!?」」

 

 志弦を完全放置でケンカしていた。

 具体的には『星』なる金髪の少女が裂帛し、『ムラサ』なる水兵服の少女と『一輪』なる尼さんの少女にチョップをお見舞いしていた。

 頭を押さえてうぐぐと呻くムラサと一輪に、星は顔面真っ青で、

 

「なななっなんてことしてくれたんですか!? なんだか襲われてると思って助けたのに、逆じゃないですか!? むしろムラサたちが襲ってたんじゃないですか!? 私は毘沙門天様の御力を人攫いのために使っちゃったんですか!?」

「ま、まあ……客観的には、そうなるかな……?」

 

 ムラサが涙目を明後日の方向に精一杯泳がせており、一輪も視線を合わせてくれない。すべてを理解した星はふらりと貧血を起こし、

 

「ああっ……毘沙門天様、申し訳ありません……! 私は早速貴方様の教えに背き、人を導くどころか悪へ加担してしまいました……! 絶対なくすなって言われてた宝塔も落としちゃうし、やっぱり私はダメな代理人なんですぅぅぅ……!」

 

 ふえええんと崩れ落ち袖に涙を忍ばせる姿は、壇上でスポットライトを浴びる悲劇のヒロインのようだった。

 そんな珍妙な光景を見せつけられながら、あれなんか思ってた展開と違うな、と志弦は思った。自分を攫った怖い妖怪たちはどこに消えたのだろう。てっきりたくさん痛いことをされると思っていたのに、目の前にいるのは凶暴な妖怪どころか、涙目で頭をさする女の子と、涙目で自己嫌悪している女の子である。

 一輪の背後をふよふよと漂うわたあめ――もとい、煙でできたおじいさんの顔と目が合う。つい先ほどまで巨大化して志弦を鷲掴みにしていた彼は、「やかましくてすまぬ」とでも言うように丁寧な目礼をした。こっちも、今はもうさっぱり怖くなかった。

 蚊帳の外から話を聞いてみれば。

 少なくとも絶賛自己嫌悪中な星という少女は、志弦を攫うつもりはまったくなかったようだ。というかそもそも、志弦の存在に気づいていなかった。船内で一休みしていたところ船がいつの間にか止まっていると気づき、どうしたのかしらと思って甲板に出てみるとムラサたちがいない。なにやら地上の方から口論が聞こえ、見ればムラサたちが見知らぬ幻想郷の住人から挟み撃ちにされている。どこからどう見ても襲われているようにしか見えない。結果、なななっなんということでしょう早く助けなきゃ、と彼女は華麗に早合点し――その後の展開は、志弦の記憶にある通りである。

 打ちひしがれる星に、一輪はだいぶバツが悪そうだった。

 

「た、確かに、その場の勢いでやっちゃった部分はあるけど……でも、それなりに理由はあったのよ。この人間は、」

「ああ人間さん、ムラサと一輪が本当に申し訳ないことをしてしまいました……! お怪我はありませんか? あっこんな風に縛ったりしたら痛いですよねごめんなさい待っていてくださいすぐ縄を解きますから」

「こらあ――――――――っ!!」

「ふぎゅ!?」

 

 一輪が星にチョップをした。

 

「なにするんですか!?」

「こっちのセリフなんだけど!? 人がよすぎるところと早合点しすぎなところはほんと変わらないね!」

「そっちこそ、頭より先に手が動くところはあいかわらずじゃないですか!」

「仕事しかできない女! どうせ修行してる間も修行以外はぜんぜんダメダメだったんでしょ!?」

「仕事ができない女! どうせ地底に封じられてる間も仏の教えなんて忘れてぐーたらな生活だったんでしょう!?」

「「ぐむむむむむっ……!」」

 

 なんだか、あんまり怖がらなくても大丈夫な気がしてきた。

 

「とにかく、この人間さんは元の場所に帰すべきです! そもそも、どうして攫ったりしたんですか!?」

「姐さんにつながる手掛かりかもしれないからだよ!」

 

 しかし一輪がそう叫んだ瞬間、志弦は部屋の空気が根底から一変したのを感じた。

 すっかり蚊帳の外である志弦ですら、胸を締めつけられるのを感じる張り詰めた沈黙。星の体が、耐えようのない困惑でわずかに揺らめく。

 

「――聖、に? どういうこと、ですか」

「……星は、姐さんや私たちを封じた人間のことは」

「……知りません。私はあのとき、なにもできませんでしたから――」

 

 息を呑む。志弦を一瞥する。

 

「――まさか。この人が?」

「……ええ。姐さんを封印したやつにそっくり。それに、『神古』って名も同じ」

 

 ――少しずつ、話が見えてきた。どうして自分が、一輪たちに襲われたのか。

 人間には、神仏の力を借りて人ならざる者を封ずる力があるという。その大部分は()うに現代からは失われてしまったけれど、かつて妖怪が跋扈(ばっこ)していた遠い昔の日本には、怪力乱神の術を駆使して魔を退け、人々の助けとなる者たちがあった。

 その中の一人に、『姐さん』や一輪たちを封じたという人間がいて。

 その人間は志弦と瓜二つの姿をしていて、しかも姓までもが同じ『神古』だった。

 だから、狙われたのだ。自分たちを封じた『あいつ』と、よもや同一人物――そうでなくても、なにか関係があるのではないかと疑われて。

 だが、

 

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 

 志弦は、己の状況も忘れて口を挟まずにおれない。

 

「私、なにも知らない。ほんの二十年も生きてない小娘だし、半年くらい前までは霊一匹祓えない、ほんとに普通の人間で」

 

 星が、未だ動揺を拭えないながらも同調する。

 

「そ、そうですよ。この方からは、特筆するほどの霊力を感じません。聖はともかく、聖を助けようとしたあなたたちまで封じるのは不可能でしょう?」

「……そうね。さすがに同一人物では、ないかもしれないわね」

 

 一輪が緩く首を振り、ムラサがそのあとを引き継ぐ。

 

「でも、こんなのただの偶然とは思えないわ。同一人物じゃなくても、なにか関係くらいはあるかもしれないでしょ?」

 

 そうだと断言できる材料はないし、逆に違うと否定できる根拠もない。ほとんど蚊帳の外で話を聞く志弦ですら、偶然にしては傍迷惑なほどできすぎていると感じる。少なくとも志弦は、他人の口から自分の家族以外の「神古」が出てくるところなどはじめて聞いた。

 ――神古の家系は、かつては霊能力を人々のために役立て、財を成すこともあったという。

 もしもそれが、遥か遠い昔まで遡る話だとすれば。

 

「私たちがずっとバラバラになっちゃってたのって、ぜんぶ『あいつ』のせいじゃない。そう思ったら、許せなくて……絶対逃がしちゃダメだって、頭の中が真っ白になっちゃって」

「……それで、連れ去ってきてしまったということですか」

 

 星が、首を振った。事の顛末を理解し、その上で、嘆くように。

 

「……やっぱり、この方を元の場所へ帰しましょう」

「「……!」」

「元の場所へ帰し、ご家族の方々に謝罪を。それから事情を説明して、協力していただけるよう仰ぎましょう」

 

 ムラサと一輪が、理解不能と目を剥いた。

 

「協力……!? この人間は、『あいつ』と関係あるかもしれないやつなんだよ!? 私たちをバラバラにした『あいつ』と!」

「そうよ! なのに、謝罪……!? 協力……!?」

「ムラサ、一輪。それは、逆恨みです」

 

 腕を振り声を張る二人に、しかし星の返答は淀みなく早い。もしかすると星は、二人が『神古』を恨んでいる可能性を予期して、ずっと以前から答えを見いだしていたのかもしれない。

 

「聖は、なにもしていなかったのですか? なにもしていなかったのに理不尽に人々から恨まれ、不条理に魔界へ封じられたのですか?」

 

 一輪とムラサは、咄嗟に言い返せない。

 

「……人々から信仰を託されるというのは、そういうことです。聖だって、理解していました。だから私は……なにも、できなかった」

 

 二人が拳を震わし、深く目を伏せ、やり場のない思いにきつく口端を噛んだ。志弦はなにも言えない。たぶん、なにも知らない自分は、なにも言ってはならないのだと思う。

 本当に、大切な人だったのだろう。

 いつの時代の話なのかはわからない。けれど妖怪が日本に跋扈していた時代を考えれば間違いなく何百年も昔であり、それほどの星霜をずっと離ればなれにされる苦痛がどれほどのものか、高々百年も生きられないただの人間如きには到底推し量れまい。

 だから、理屈では星の言葉を否定できずとも、感情が否定したいと懸命に叫んでいるのだと、志弦にだって迫るほどよくわかった。

 一輪が、身をよじるような声音で吐露する。

 

「それでも! ……それでも、私は!」

 

 そのとき、

 

「――いっ、」

 

 突拍子もなく顔をしかめたムラサが、羽虫を叩くように左肩を押さえた。

 全員の視線がムラサに引き寄せられる。なにが起こったのか自分でもよくわかっていないらしく、ムラサも不思議そうな顔をしている。

 

「……ムラサ?」

「あ、ごめん。なんだろ、突然肩が痛」

 

 そこまでだった。

 ムラサが、膝から床に崩れ落ちた。

 

「づ……あ゛っ……!?」

「……ムラサ!? どうしたの!?」

 

 一輪と星が血相を変えて駆け寄る。二人の体に遮られ、ムラサの様子が志弦の位置からは見えなくなる。だがその間際に、一瞬ではあるが、確かに視界を掠めていた。

 ムラサの左肩。

 そこになにか、黒くて禍々しい邪気のようなものが、

 

『――あーあー、てすてすー。人攫い妖怪の皆さーん、聞こえるかなぁー?』

 

 諏訪子の、声。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……!」

 

 その声が聞こえるや否や、星は水蜜の襟元に手を突っ込んで、強引に肩をはだけさせた。

 一輪が目を見開いた。

 

「なに、これ……!?」

 

 水蜜の左肩に、蛇がいた。

 より正確に言うなら。蛇にも見える幾本もの黒い紋様が、タチの悪い蚯蚓腫(みみずば)れが如く水蜜の肩に巣喰っていた。

 

(これは……!)

 

 曲がりなりにも毘沙門天の下で一から修行をした神の代理人として、星にはひと目で正体がわかった。

 これは、祟りだ。神の強い怒りを買った者が身に受ける呪い。モノは極めて小さいが、並の呪術とは比べ物にもならない邪気を感じる。

 

『ごめんねえ、なんかお取り込み中のとこに割り込んじゃってさ』

 

 星の耳には、口を利くはずのない蛇の紋様がそう喋っているように聞こえる。あまりに幼く、あまりに気安く、この場には到底不釣合いな童女の声である。

 水蜜が、苦悶の表情のまま肩に爪を立てる。

 

「この声、あのときの……!」

『やあ、その節はどーも。痛かったんだよー、まあ怪我はしてないけどさ』

 

 あの子だ、と星は思った。この底の知れない異質な気配、星ははっきりと記憶している。ムラサたちが襲われていると早合点してしまった己が、牽制に光の矢を撃ち込んだ女の子。

 

「いつの間に、こんなものを……!」

『ん、あんたに錨ブチ込まれたときかな。荒ぶる神に、迂闊に触ったりしちゃダメだよー』

 

 好都合だったけどね、と女の子の声がからからと笑う。一輪がムラサの肩へ掴みかかるように、

 

「ムラサになにをしたの!?」

『え? 祟った』

 

 絶句、

 

『そりゃそうだよ、わたし神だよ? 大切な家族をいきなり連れ去られたら当然怒るし、神の怒りはすなわち祟りでしょ?』

「……あ、あの、あなたは、」

 

 思わず問いがこぼれる。改めて思い知る。祟り越しでも迫るほど感じるこの強大な気配、並大抵の神ではない。あなたは一体、何者なのか――星が最後まで言い切るより先に、蛇の紋様がこちらを向いた気がした。

 

『あんた、毘沙門天の力を使ってたやつ? 毘沙門天の遣いかなんか?』

 

 星は胸騒ぎを精一杯に律し、答える。

 

「び、毘沙門天様の、代理をさせていただいている者です」

『へえー。じゃあ当然、ミシャグジって言われればなんのことだかわかるよね?』

 

 全身から血の気が失せた。

 

「ま、まさか、あなたは――貴女様は、」

『洩矢諏訪子。祟り神のミシャグジを統べる、元は諏訪の土着神だよ。一時期は、土着神の頂点を極めたりもしたかな』

 

 充分だった。

 それだけわかれば、星が取るべき行動などひとつしかなかった。

 

「――洩矢様。この人間の方は、今すぐに貴女様の下へお帰しします」

「星!?」

「一輪は黙っててッ!!」

 

 星の大喝に、一輪が驚愕の表情で怯む。

 

『おお、物分かりがいいねえ。やっぱ私の名前って、今でも結構有名なのかな』

「……神に仕える者で、ミシャグジ様の名を知らぬ者などいません」

『そう? えへへ、嬉しいなー』

 

 敵に回せば、ある意味、毘沙門天どころの話ではない。場合によっては毘沙門天すら凌駕する力を発揮するのが土着神であり、中でもミシャグジは、祟り神という性質を以てかつては強大な信仰の勢力圏を形成した。人々の信心は極めて深く、信仰による国家統一を目指した太古の神々ですら、意のままにはできなかったとささやかれているほどだ。

 もちろん、現代に至るまでの時流で少なからずその信仰は廃れただろう。今の洩矢神にかつてほどの力はない。しかし、それでも、妖怪の一匹や二匹を祟る程度ならば――。

 

『志弦、大丈夫? 痛いことされてないかい?』

「す、諏訪子……?」

 

 志弦と呼ばれた少女は、まだ頭の理解が追いついていない様子だった。なぜ水蜜が突然苦しみ出したのかも、諏訪子の声がどこから聞こえるのかもよくわかっていない。やはり、普通より少しばかり強い霊力を持っているだけの、ごくごく平凡な一般人なのだ。

 

「え? 祟り、って……なにがどうなって」

『うん。言ったことあったよね? ――私の荒御魂は怖いよぉ、って』

 

 しかし一般人とはいっても、人里で農業や商業にのんびり従事して暮らしている人間とはワケが違う。なぜ彼女が巫女の姿をしているのか、今なら完全に納得が行った。彼女は、洩矢諏訪子を祀る神社の巫女なのだ。

 だから、志弦を攫った水蜜が祟られた。自分を祀ってくれる神社の巫女に手を出されたならば、どんなに温厚な神だって怒らずにはおれまい。

 

『安心して、志弦のことはちゃんと私が守るからね!』

「……う、うん」

 

 頷きながらも志弦は、未だ痛みに呻く水蜜を気遣わしげに見下ろしていた。守るって、まさかこの人たちを傷つけるつもりなんじゃ――そう心配しているように、星の目には見えた。優しい人間なのだ、と思う。やっぱり、こんな手荒な方法で無理やり白蓮への情報を聞き出そうなんて、間違っている。そもそも、なにも知らない可能性の方が圧倒的に高いというのに。

 諏訪子の声の向き先が、星たちの方へ返ってくる。

 

『そういうわけだから、とっとと志弦を帰してよね。それが、この船幽霊を祟りから解放する条件だよ』

「……わかりました」

 

 元より星はそのつもりだし、他の選択肢もない。

 

「場所は……先ほどの白いお屋敷でよろしいですか?」

『うん、そうして。いやあ、あんたは話がわかるやつで助かるよ』

 

 諏訪子は安心したように息で笑い、それから、

 

『――でも、あんた以外の二人はどうなのかな』

「……!」

 

 そこでようやく星は、水蜜と一輪が誰からも目を逸らし、貫くような眼差しを床に落として、唇を引き結んだまま固く沈黙しているのに気づいた。

 まさか、と思った。

 

「まさか、二人とも――」

「「っ……」」

 

 そこまでなのか、と星は愕然とした。もちろん、わかっている、水蜜と一輪は白蓮を深く敬愛していた。星だってナズーリンだって、きっと足元にも及ばないほどであるはずだった。白蓮が魔界の一体どこに封印されたのか、どんな小さな情報でもがむしゃらに欲しがっている。そして、星たちの日常を引き裂いたともいえる人間を、何百年が経った今だって憎み続けているのだ。わかっている。わかっているとも。

 しかしまさか、神から祟りを受けてもなお、志弦の解放を拒むほどだなんて。

 諏訪子の声音が、凍てつく。

 

『……言わなくてもわかってると思うけどさ。それでも志弦を帰さなかったり、志弦にこれ以上手を出したりしたら――船幽霊一匹だけで済ますつもりなんてないからね』

 

 ミシャグジを従える諏訪子になら、それが容易にできるだろう。

 だが水蜜と一輪は、なおも口を開けずにいる。ここは志弦を帰すべきだと頭では理解しているが、心がどうしても納得しない。聖の仇である血が流れているかもしれない人間を相手に、謝罪なんて、あまつさえこちらが下手に出て協力を持ちかけるなんて――

 

「――まったく」

 

 呼吸すら困難な沈黙は、第三者のため息によって打開された。

 

「私がちょっと出掛けてる隙に、一体なんだいこの有様は。どうしてここに志弦がいて、しかも椅子に縛られてるんだい」

 

 灰色の丸耳と髪を揺らし、両手にトレードマークのダウジングロッド、くるりと丸めた尻尾の先には仲間(ねずみ)が入ったバスケットを添えて。

 星にとってみれば、まさしく地獄に仏だった。

 童女同然の見た目にそぐわぬ知的な口振りは、事実彼女の広い視野と深い思慮の表れであり、かつてはその頭脳を買われて寺のご意見番を務めることも珍しくなかった。星がこの世で一番頼りにしている、自分には勿体ないくらいの腹心の部下――

 

「――さて。一切合切、説明してもらおうかな」

 

 ある意味で白蓮をも凌ぐ最強少女、ナズーリンのご帰還であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――なるほどね。なるほど、事情は大変よくわかった」

 

 数分後、星たちから事の顛末を聞いたナズーリンは深く頷き、それから笑顔で、

 

「お前たち、やってしまえ」

『チューッ!!』

「「ぎゃにゃにゃにゃにゃにゃ!?」」

 

 ナズーリンのバスケットから飛び出した妖怪鼠たちが、一輪と水蜜の鼻っ面に容赦なくガジガジ噛みついた。ひっくり返ってのた打ち回る二人をナズーリンは冷ややかに見下ろし、

 

「ムラサ、一輪、少し記憶を遡ってみようか。私は出掛ける前に言ったはずだね? 君たちは地上に関しちゃ右も左もわからない赤子も同然なんだから、勝手な真似はしないで大人しくしていろと」

「「にゃにゃにゃにゃにゃにゃ!!」」

「それがどうして、志弦を聖輦船に誘拐するなんて常軌を逸した行動につながるんだろうね? 実に理解に苦しむよ」

「「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!?」」

「あ、あの……ナズ、そのくらいで」

「君もだよご主人」

『チューッ!!』

「ふみぇみぇみぇみぇみぇ!?」

 

 星も床をのた打ち回った。

 

「私はご主人にも言ったはずだね、ムラサと一輪をちゃんと見ているようにって。それがどうして、志弦の誘拐を援護するなんて常軌を逸した行動につながるんだろうね? 実に、まったくもって理解に苦しむよ」

「みゃみゃみゃみゃみゃ!?」

 

 バタバタゴロゴロする星たちを放置して、ナズーリンは志弦のところに向かった。

 

「本当に申し訳ない、志弦。ウチのバカたちが迷惑を掛けてしまったようだ」

「あはは……さすがナズちゅー」

「いま縄を解くよ」

「ふぎゃっ、あだっ、や、やめ――ちょ、ちょっと待ってよナズーリンッ!」

 

 水蜜が、鼻に鼠をぶら下げたまま涙目で起き上がる。一輪も続いて、

 

「あんた、その人間とどういう関係なの!?」

「ん。控えめに言って、命を助けた間柄かな」

『そーそー。その鼠は、無縁塚に迷い込んで死にそうになってた志弦を助けてくれた恩人だよ』

 

 水蜜の左肩から諏訪子の声がする。それから意外そうに、

 

『ってかあんたらこそ、ナズーリンと知り合いだったのかい』

「ふにゅ!!」

 

 星は気合と根性で妖怪鼠を引っぺがし、じわりとあふれた涙を拭って、

 

「え、ええ、昔からの家族のような存在で……まさか、ナズと洩矢様がお知り合いだったとは……」

「世間は狭いということだね。そう広くもない幻想郷ならなおさらだ」

 

 志弦の縄を解きながら、ナズーリンは薄く笑った。

 

「特に今は、水月苑なんて場所があるからね。あそこにいくらか足を運んでいれば、勝手に知り合いも増えるというものだよ」

「……あそこ、ほんといろんな人たちが集まるからねー」

 

 恩人のナズーリンが現れたことで、志弦の面持ちからいくらか緊張と恐怖が中和されている。しかし警戒の色はなおも濃く残っていて、ナズーリンが縄を解いても立ち上がろうとする素振りはない。

 一輪と水蜜も、ようやく鼻っ面から鼠を引っぺがした。目元の水分を払い落とし、

 

「……ナズーリン。あんたは、その人間を」

「当然、元の場所にお帰しするさ。異論は認めないよ」

 

 一輪はそっと口端を噛み、

 

「……その人間が、姐さんを封じたやつと関係あるかもしれないとしても?」

 

 ナズーリンは一秒も考えない。まるで事もなげに、

 

「ああ、その話は実に興味深かったね。私もご主人も、聖を封じた人間についてはなにも知らなかったから。なおさら、世間は狭いと言わざるを得ないね」

 

 引っぺがされた鼠たちが、ナズーリンの体を登ってバスケットに戻っていく。ナズーリンは続ける。

 

「しかし、二人とも。いま一度、頭をリセットして考え直してご覧よ」

 

 解いた縄を部屋の隅に投げ捨て、振り返り、

 

「――『今の自分は、本当に聖のために行動しているのだろうか』」

 

 ひとたびこうなってしまえば、あとはナズーリンの独壇場だった。

 

「聖をどうやって復活させるかは一旦置いて、もう少し先の未来――聖を無事復活させたときのことを考えてみてほしい。この幻想郷がどういう世界かは、もう君たちには説明したね。では聖は、この世界をその目で見たときなにを思うだろう……君たちなら、きっと聖が目の前にいるように想像できるんじゃないかな」

 

 滔々と淀みなく、決して必要以上の感情は込めず、透明な清水が流れゆくように。人の考えを否定し理解を強制するのではなく、あくまできっかけを提示し再考を問い掛ける語りは、自然と聞く者の意識に入り込んでいく。

 

「ここで暮らしたいと、童心に返ったように願うだろうさ。なんてったってここでは、妖怪と人間が共に暮らしているのだから。……そんな聖を、君たちは見てみたくないかい? 私は、ものすごく見てみたいね。きっと大はしゃぎだ。ふふ、想像しただけで楽しくなってくるじゃないか」

 

 幻想郷は、白蓮が焦がれていた夢に限りなく近い世界だといえる。無論すべてがすべてそうではないけれど、妖怪と人間の距離が極めて近く、中には互いを認め合って積極的に交流していたり、同じ屋根の下で暮らしていたりする者たちもいるほどだ。白蓮がまだ封印されていなかった時代からすれば、まさに夢が現実になったような世界だった。

 そんな世界があると白蓮が知ったら、どうなるか――大はしゃぎというのも、あながち大袈裟ではないのかもしれない。

 

「もちろん、私だってわかっているさ、聖の手掛かりを探すのは大切だとも。志弦の存在が重要なファクターなり得る可能性も理解できる。けれど、聖を復活させてめでたしめでたしではない。あとにはここでの生活が待っているんだ。ならばそのとき聖が笑顔で暮らせるかどうかは、今の私たちに懸かっていると言えるんじゃないかな」

 

 もしここで、星たちが諏訪子と――幻想郷の住人と対立してしまえば。敵の味方は敵であり、すなわち星たちの仲間である白蓮もまた敵と見なされるだろう。幾星霜夢見ていた世界が目の前にあるのに、手が届かない。受け入れてもらえない。本当にそうなってしまったとき、白蓮がどれほど心を痛め悲嘆に暮れるか、ただ想像するだけでも星は背筋が凍りつきそうになる。

 

「だから一輪、ムラサ、一度深呼吸してみたまえ。もしものことがあれば、私たちだって、聖だって生きづらくなるし……」

 

 ナズーリンは、敢えて短くはない間を置いて、

 

「……最悪、あのとき(・・・・)と同じことが繰り返されるだけだ。人々の敵と認識された者が討たれ、封じられる――それは、今の幻想郷でも充分に起こりうる」

「「っ……」」

「要するに、上手くやってくれないと困るんだよ」

 

 深く大きなため息をついて、そこからはわざとこれ見よがしに口を尖らせた。

 

「これはまだ言ってなかったと思うけど、私は月見と約束したんだ。いつか必ず聖と会わせるってね。なのにこんなところで揉めてたら約束どころじゃなくなってしまうだろう、まったく」

『なに、まさかあんたら全員月見とまで知り合いなの?』

「ご主人以外は、ね。こっちの妖怪たちは、この間まで地底に封印されていてね」

『……あー、地底ね。あー、そういうこと』

 

 諏訪子の声音が一気に脱力する。またこのパターンか、と天を仰いで呆れているようでもあった。志弦も半笑いで、

 

「さっすが月見さん、交友関係ハンパないなー……」

『なんだい、だったらはじめからそうだって言ってよ。そしたら私らだって普通に協力してたし、こんな状況にもならないで済んだんじゃないの?』

「いやまったくもってその通りだ。返す言葉もない」

「「……」」

 

 ナズーリンが肩を竦め、水蜜と一輪は結局なにも言えぬままあらぬ方向へ視線を逸らした。部屋を満たしていた緊張が少しずつ解けていき、肩から険を抜けるようになっていく。

 ……ええと。

 月見を知らない星はやや置いてけぼり気味である。星は長らく毘沙門天の下で修行をやり直していたので、当然ながら「月見」なる妖怪に会ったことは一度もなく、そういう狐の妖怪がいるとナズーリンたちから聞かされている程度でしかない。銀の毛をした、人のいい妖怪なのだと。

 一輪が、問うた。

 

「……ナズーリン」

「なんだい?」

「どうして月見さんと、そんな約束を……ううん。どうして姐さんを、月見さんに会わせたいと?」

 

 ナズーリンは、少し、考える仕草をした。

 

「……これは少々、身の上話になってしまうけどね。私と月見は、無縁塚ではじめて出会ったんだが」

 

 まだ幻想郷にやってきてから日の浅い星だが、あらかたの地名はナズーリンに教えられて頭に叩き込んだ。無縁塚はナズーリンが掘っ立て小屋を建てて暮らしている場所で――死にたがりの人間が外から迷い込んでは、誰からも知られずこの世から消えていく、幻想郷の闇の部分。そこに迷い込んだ志弦をナズーリンが助けたのだと、先ほど諏訪子も言っていた。

 

「そのときにね。妖怪に喰われた人間の、成れの果てを見たんだ」

 

 志弦が束の間、息を殺した。

 

「そしたら月見が、群がっていた妖怪どもを問答無用で追い払って……喰われた人間を、荼毘(だび)に付したんだよ。遺灰を集めて、簡単な墓まで作って」

 

 そのときナズーリンは、星でもあまり見たことのない顔をしていた。

 ひどく無防備な。

 皮肉屋で大人びた人相の奥から垣間見える、見た目相応の優しさと、柔らかさだった。

 

「面白いと思わないかい? 妖怪なのに、そんじょそこらの人間よりも人間のことを想っていてさ。まるで、人間なのに妖怪よりも妖怪を想っていた、聖みたいじゃないか」

『……月見らしい話だね』

 

 諏訪子が、静かに笑みの息をついた。

 

『人間が、狐の耳と尻尾をつけてるようなやつさ』

「違いない」

 

 口端を曲げて、ナズーリンも笑った。

 

「だから思ったんだよ、聖に彼を会わせたいって。聖なら手を打って大喜びさ。案外、聖がずっと会いたがっていた妖怪も、月見だったりするのかもしれないよ」

「……会いたがってた?」

 

 志弦が首を傾げた。ちょっと口が滑ったな、という顔をナズーリンはして、

 

「……まあ、立ち入った話はあとにしよう。それより志弦の方が先だ」

『そうだねー。でもこれなら、もうあんたを祟っとく必要もなさそうだねえ』

「あ……」

 

 水蜜の左肩に巣喰う紋様から、禍々しい気配が溶けるように消えていく。痣自体は消えていないけれど、水蜜の表情が途端に楽になったから、恐らくは痛みがなくなったのだと思う。

 

『志弦を帰してくれれば、痣も綺麗に消してあげるよ。……ともかくそれでいいよね? そんで詳しく話を聞かせてよ。私らも、もしかしたら力になれるかもしんないしさ』

「寛大な処置、痛み入るよ。……ムラサも一輪も、いいだろう?」

「「……」」

 

 水蜜も一輪も、すぐには答えを返さなかった。だがそれは決して拒絶ではなく、何百年も抱え続けてきた想いにひとつの区切りをつけるための時間であり、やがて一輪は降参するように長く吐息して、水蜜はガシガシと荒く頭を掻いた。

 

「わかったわ。……その、ごめんなさい。少し、感情的になりすぎてたみたい」

「右に同じく……。えと……すみませんでした」

『ん。じゃあ、水月苑で待ってるからね』

「ああ。すぐ船を向かわせるよ」

 

 星は、すっかり舌を巻きながらその光景を見つめていた。やっぱりナズはすごいなあ、と思った。星が説得しようとしてもぜんぜん上手く行かなかったのに、ナズーリンはなにひとつ強引な物言いもせずあっさりとこの場を収めてしまった。まったくもって、いつまで経っても垢抜けない自分には不釣合いなほど優秀な部下だった。

 

「さすがですね、ナズは」

 

 この程度は動作もないと思っているのか、ナズーリンは褒められても嬉しそうな顔ひとつしない。肩を竦め、

 

「まったく、ちょうどいいタイミングで帰ってこられたからよかったものを。もう少ししっかりしてくれないと困るよ、ご主人」

「う……が、頑張ります」

 

 星は、言葉での戦いが苦手である。というか、そも言葉だろうが武力だろうが、誰かと対立すること自体まったくもって好きではない。果たして昔の自分が本当に虎だったのか、本当に人間を食べたりしていたのか、軍神でもある毘沙門天の代理を本当に任されていいのか、自分自身でももうだいぶ自信がない。とはいえ苦手なものはどうやったって苦手なので、事なかれ主義なところはこれからも末永く変わらないのだろう。

 ナズーリンが戻ってきてくれて、本当によかった。

 

「ところで、諏訪子。水月苑で待ってると言っていたけど、まだ月見は地底から帰っていないだろう?」

『うん。でも、もうすぐ戻ってくると思うよー。志弦が悪い妖怪に攫われたーって、天狗が伝えに行ったみたいだからね』

 

 水蜜と一輪の肩がピクリと震える。ナズーリンは冷ややかな半目で、

 

「……月見が戻ってきたら、ちゃんと謝っておきなよ」

「「……はぁい」」

 

 二人ががっくりと項垂れる。星は安堵と同情が半々に混じった微苦笑を忍ばせながら、「月見」という、まだ顔も知らぬ不思議な銀の妖狐へ思いを馳せる。

 ナズーリンが、聖に会わせたいと願う妖怪。

 一体、どんな妖怪なのだろう。もしもナズーリンが言った通りであるならば、彼と白蓮が出会うそのときを、星もこの瞳に焼きつけたいと思う。

 妖怪を想う人間と、人間を想う妖怪。

 それはきっと、素敵な出会いになるはずだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 志弦は胸の奥に詰まっていた悪い空気をすべてため息に変えて吐き出し、椅子の背もたれに全体重でもたれかかった。

 どうやら、助かった、らしい。見知らぬ妖怪に突然襲われ、拉致され、更には椅子に縛りつけられて、一時は本当にどうなることかと思ったけれど。

 

「すまなかったね、志弦。なにか飲み物でも持ってこようか?」

 

 この場で最も幼いナズーリンの姿が、今の志弦には月見と同じくらいに大きく頼もしく見えた。

 

「あー、んー、とりあえずいいよ。水月苑に戻るんでしょ?」

「ああ。責任を持って送り届けるよ」

「ナズちゅーまじイケメン」

 

 本当に、命の恩人だ。一度のみならず二度も救われてしまった。見た目はかわいいし、性格はクールだし、言葉遣いはイケメンだしで、同じ女じゃなかったらコロリとやられていたかもしれない。

 

「な、ナズちゅー? ……ナズは、この方と仲が良いのですね」

「いや、これは彼女の人柄というべきだね。ご主人も、珍妙なあだ名を付けてもらえるかもしれないよ」

 

 どうでもいい話だが、志弦が考えるあだ名は幻想郷の住人からもっぱら不評である。椛なら「もみもみ」、はたてなら「ほたてっち」、阿求なら「きゅんきゅん」、妹紅なら「もこりん」、レミリアなら「れみちー」などなど。もちろんもれなく全員から怒られた。「ナズちゅー」もはじめはいい顔をされなかったので、志弦にネーミングセンスはないのかもしれない。

 確かナズーリンの隣にいる金髪の少女は、「星」と呼ばれていたはずだ。あだ名で呼ぶとすればなんだろう。「しょーちゃん」かなあ。別にあだ名でもなんでもないなあ。

 と盛大に脱線していたらナズーリンが、

 

「志弦、こんな状況ではあるけど紹介しておこう。一応、現在の私の主人に当たる方だ」

「い、一応ってなんですかっ。……ええと、寅丸星と申します。まだまだ未熟者ではありますが、毘沙門天様の代理人などをやらせていただいてまして……」

 

 そう自己紹介されてみるとなるほど、寅丸星はそんじょそこらの少女とは一線を画す姿をしていた。短く揃えた金髪の煌きは俗世離れしており、同じ金と穢れを知らぬ純白、そして突き抜けた真紅を組み合わせた袈裟姿は目も眩むようだ。左手に携えた鉾は、もしかするとあらゆる邪悪を覆滅する神器の類ではあるまいか。毘沙門天は、確か仏教の神様だったと志弦は記憶している。諏訪子や神奈子など、古風で素朴な姿をした日本の神様とは違って、まさに仏の化身もかくやの神々しい出で立ちだった。

 それでありながら、例に漏れず端整な相貌にはどことなく幼さが見え隠れし、矮小な一般人である志弦にも敬語で接する人柄には、優しさと慈悲深さが満ちている。

 とりあえず、手を合わせて拝んでおいた。

 

「わたくしめは神古志弦と申します小娘でございます。かしこみかしこみ……」

「……い、いやあの、楽にしてください、私はあくまで代理人なので……あ、もしかして毘沙門天様を信仰していらっしゃるとか?」

『志弦はウチの巫女だって言ってるでしょ』

「そ、そうですよねっ!?」

 

 背中から飛んできた諏訪子の半畳にびくんと飛び跳ね、「私ったらそんなわかりきったことを……ふわわ……」とほんのり赤くなっているあたり、天然属性も完備しているらしい。あざとい。でも、その方が反って人々の信仰を集められるのかもしれない。特に大きいオトモダチの信仰を。守矢神社に足りないのはあざとさなのか。腋をさらけ出す程度ではダメなのか。

 

「まあこの通り、仕事以外は実に要領が悪い半人前さ。そんな手を合わせたりしないで、気軽に相手をしてくれて構わないよ」

「あのナズ!?」

 

 ナズーリンは無視し、

 

「それで、年端も行かない君をその場の勢いで拉致監禁した、こっちのあくどい妖怪たちが……」

「ふぐっ……む、村紗水蜜よ。船幽霊で、この船の今の主」

 

 水蜜は簡潔な自己紹介をし、それから少しの間言い淀み、

 

「……えーと、その。いきなり攫ったりして、ごめんなさい……」

「あー、いや、その、こっちもなんか紛らわしい人間だったみたいで……」

 

 拙くはあったが、一方で素直な謝罪でもあった。初対面で見せてくれた笑顔の通り、根は気さくな少女なのだと思う。こんな形で出会っていなければ仲良くなれていたかもしれないが、そこまでは高望みになってしまうのだろうか。

 続けて尼さん姿の少女が、

 

「私も……悪かったわね。雲居一輪よ。こっちで小さくなってるのが、入道の雲山」

 

 快活そうな水蜜と違って、こちらは落ち着きがあって大人びた印象を受ける。頭巾の隙間からこぼれる神秘的なまでに蒼い髪と、怜悧な眼差しはいかにも敬虔で物静かな女性を思わせるが、そういえば星が「仕事がダメダメな女」とか「ぐうたら」とか言っていたっけ。

 そして一輪の右肩あたりを漂うわたあめな老翁――雲山が、物言わずペコリと目礼をする。なんとなくこちらも、「手荒な真似をしてすまぬ」と謝ってくれたような気がした。彫が深くて厳つい顔立ちだが、心は思いやりあふれる紳士なのかもしれない。

 

「今回はこんな形になってしまったけど、根は気のいいやつらだよ。まあこの件については、そのうち聖がキチッと灸を据えてくれるだろうさ」

「「うぐっ……」」

「……」

 

 怯む水蜜と一輪を尻目に、志弦はふっと思考の海に落ちる。

 ――聖、か。

 どうなのだろう。聖を封じた「神古」と瓜二つの容姿を持っているという自分は、或いは志弦の中に流れる神古の血筋は、この一件になにか関係があるのだろうか。もしも本当に無関係でなかったとき、志弦は一体どうなってしまうのだろう。そのとき自分は、なにをするべきなのだろう。

 

「……志弦?」

「……あっ、あー、ごめん。ちょっと考え事……」

 

 ナズーリンに空返事を返し、それでも志弦はもやもやした感覚を拭いきれず、

 

「……ねえ、ナズちゅー」

「なんだい」

「その……『聖』ってさ。どんな人? いや、妖怪?」

 

 知ったところでなにかができるわけではないし、知るだけでなにかが変わるとも思えないけれど。でも、それは、知ろうともしないままなにもしないでいていい理由にはならない。

 知りたいと、思う。聖のことを。

 ふむ、とナズーリンは短く思案し、

 

「水月苑に戻ってから詳しく話すつもりだったけど……だが、そうだね。まだ時間も掛かるだろうし、いくらか教えよう」

「……うん。お願い」

「願わくは、なにか心当たりがあることを祈ってるよ」

 

 水蜜と一輪、星の三人が、固唾を呑むように唇を閉ざした。ナズーリンは尻尾をくるくると動かし、どこから話し始めるか決める間を置いてから、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「――聖は、妖怪ではなく人間だよ。まあ、半分以上人間を捨てているが、一応ね。名前は、聖白蓮」

「――びゃくれん」

 

 なにかが映った(・・・・・・・)

 それは、志弦が香霖堂で、はじめて月見と出会ったときに襲われたのと同じ感覚だった。不意に目の焦点が合わなくなり、頭にノイズが走って、ありもしない映像が勝手に再生されるような、

 違う。

 ような(・・・)、ではない。

 

「びゃく、れん」

 

 なにかが、見える。

 なにかが、聞こえる。

 

 ――髪の長い少女。

 ――泣いている。

 ――「待っている」?

 

 だが、わからない。砂嵐のようなノイズに掻き消されて、それ以上は、なにも。

 

「――まさか。まさか本当に、聖を知っているとでも?」

「ッ……!! 本当なの!? 本当にッ……!!」

「一輪、落ち着いてください!?」

『ちょっと、志弦にはもう手を出さない約束でしょ!』

 

 周囲が俄かに騒がしくなる。けれど今の志弦には、随分と遠く離れた場所の出来事のように思える。

 ノイズが、消えない。

 

「……知らない、」

 

 頭を抱え、体を曲げる。

 

「知らない、……」

 

 そう、志弦は知らない。聖白蓮という名に、聞き覚えなんてありはしない。

 でも、なら、これ(・・)は一体なに。

 

『――知りたい?』

 

 声が、聞こえた。

 ノイズを突き抜け、鮮明に脳裏へ響き渡る、女の声だった。

 

『なら今度は、君の方からこっちに来る番だよ』

「……な、に」

「……志弦? 志弦、一体どうしたんだい!」

 

 ナズーリンの声が、まるで遠い。

 志弦とよく似た。自分がもう少し大人になって声変わりすれば、きっとこういう風になるのだろうと思わされる、張りのあるアルトの声音は。

 

『……ってか、一回言ったはずなんだけどなー。忘れちゃった?』

「――、」

 

 思い、出した。

 今朝の夢。

 

『白蓮のこと。自分たちのこと。知りたいんでしょ? だったら、今度は君が動く番だ』

「なん、で」

 

 白蓮の名を、口にするのか。

 お前は、誰なのか。

 まさか。まさか、お前は――。

 

『行こう。すべてを知りに』

 

 どうやって、

 

『できるさ。だって、それが君の能力(・・・・)だからね』

 

 ナズーリンに、名を呼ばれている。

 でも、今はもう、今の志弦にはもう、『彼女』の声しか聞こえない。

 

 

『さあ――おいで』

 

 

 上等だ。

 知ることができるのなら、知りに行ってやる。

 白蓮のこと。白蓮と「神古」の間に起こったこと。お前がそうやって私の邪魔をするのなら、ぜんぶを知りに行ってやる。

 ノイズの中で垣間見た、髪の長い少女。涙とともにこぼれ落ちた、「待っている」という言葉の意味。

 ぜんぶ、ぜんぶ、知ってやる。

 

「……志弦! しっかりしろ! おい、聞いているのかい!?」

 

 不思議と、自分がどうすればいいのかは、頭の中にはっきりと答えが浮かんでいた。

 

「志弦! ……志弦ッ!!」

 

 だから志弦はその通りに――自らの意識を、閉じた。

 

 

 

 意識が黒に潰れる間際、啓示のように、胸の中に浮かぶ言葉があった。

 

 ――過去を夢見る程度の能力。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ③ 「千の星霜の誓い」

 

 

 

 

 

 洞穴を抜ける。

 およそ一週間振りとなる空の下に飛び出すと、記憶とほとんど変わらない銀の世界に月見は思わず目を覆った。空を見ずとも、雲がほとんどない呆れるほどの快晴なのだとわかった。降り注ぐ陽光を雪が鏡のように照り返していて、今までの地底生活が祟ったせいもあって目がすっかり驚いている。切らせた呼吸で大きく息をすると、砕氷を飲むような冬の冷気が肺を満たした。

 まぶたを上げる。降り積もった雪はあいかわらず大地を深く覆い閉ざしていて、あの日以降も手足のかじかむ毎日が続いていたと窺える。きっと、今日が久し振りの快晴なのだろう。木の葉の代わりに雪を乗せた木々の姿も記憶のままで、唯一大きく変わっていたのは、足元に満遍なく散らばった少女たちの足跡くらいなものだった。

 みんながパーティーをしに来たときの足跡だろうな、とうっすら思い、すぐに首を振る。

 一週間振りの地上の景色に、今は見惚れている場合ではない。折良く月見の意識へ活を入れるように、空から降ってくる声があった。

 

「月見様!」

「! ……椛か」

 

 恐らく、近くで月見の到着を待ってくれていたのだろう。翼を打ち鳴らす天狗の姿とは裏腹に、忠犬も尻尾を巻く素早い反応で馳せ参じた椛は、月見の前で両足を揃え行儀よく一礼した。

 

「お帰りなさいませ、月見様」

「ああ、ただいま」

 

 たった一週間――されどそれは、幻想郷の濃密な日々の中での一週間である。冬を迎えて一層ふかふかになった耳と尻尾、そしてその毛並みに決して劣らぬ柔らかな笑顔は、今の月見には間違いなく久し振りだと感じられた。

 

「お怪我をされたと聞いて、ずっと心配していました。ご快癒おめでとうございます」

「心配を掛けたね。ありがとう」

「いいえ、とんでもないです」

 

 両手を振って恐縮した椛が、すぐに表情を改める。無論月見とて、彼女がただ挨拶をしに来てくれたわけではないとわかっている。

 今は、挨拶に費やす時間すら惜しいのだ。

 

「月見様。私の能力で、志弦さんの行方を追っていました」

 

 千里先を見通す程度の能力――要するに千里眼。普段から逃げ出した操を捜すくらいにしか役立っていないという不遇の能力が、今の月見にとってはなによりも心強い味方となる。

 椛の力があれば、すぐにでも志弦を助けに向かうことができると思っていた。

 

「まず……志弦さんは、もう大丈夫です。ご安心ください」

 

 いきなり予想外の言葉が来た。月見は反応するまで大きく一拍掛かり、

 

「……そうなのか?」

「はい。事情はわかりませんが……志弦さんを攫った妖怪たちが、自分から水月苑に戻ってきまして。今は、諏訪子さんや藍さんが対応しています」

「……それで?」

「あとは特に何事も……争う様子もなく、みんなで話をしているようです。なので、もう大丈夫だと思いますよ」

 

 現実的に考えれば。

 一輪たちが、自らの行動を悔いて志弦を解放した線はないと思う。志弦が攫われてから、恐らくはまだ半刻も経っていない。その程度の時間で考えを改めるほど、一輪たちが抱いていた想いは浅くなどなかったはずだ。

 答えを聞いてしまえば、簡単なことだった。

 

「恐らく……ナズーリンさんが、上手く仲裁してくれたんだと思います。どうやら、志弦さんを攫った妖怪と面識があったみたいで」

「――ああ」

 

 そうか、と。月見の心の中に、深く重く、染み入るようなひとつの理解が落ちた。

 脳裏を過ぎるのは、月見が『神古』と白蓮の因縁をはじめて突きつけられたあの秋の日。嫌な思考を止められず不安がる月見に、ナズーリンが、優しく微笑んで掛けてくれた言葉。

 ――私はたぶん、君の味方だ。

 あの言葉を、ナズーリンは守ってくれたのだ。

 

「申し訳ありません、私の能力ではそれくらいしかわからなくて。何分、『見る』だけの能力なので……」

「……いや。充分だよ」

 

 肩が随分と軽くなった、気がした。

 

「ありがとう、助かったよ」

「い、いえいえとんでもないですっ」

 

 月見が心からの礼を言うと、椛は途端に耳と尻尾をパタパタ動かし、それからかわいらしくふんすっと意気込んで、

 

「他にお力になれそうなことがあったら、なんなりと仰ってくださいね。今はもう年末で、天魔様の仕事もほとんどなくて、結構暇してるのでっ」

「いいことじゃないか。いつも頑張ってるんだから、年の終わりくらいゆっくり羽を伸ばすべきだ」

「いやぁ……いざ暇になってみると、なにをしたらいいか結構わからなくって。心のどこかで、天魔様がなにかやらかさないかなーと期待してる自分が……」

 

 椛、お前もか。

 月見の脳裏に、記念すべき人生初の休日を水月苑の庭仕事で潰そうとした、仕事中毒(ワーカホリック)な庭師の姿が浮かんだ。そういえば、椛は日頃から休暇をちゃんともらっているのだろうか。

 

「あ、こんなときで非常に恐縮なんですけど……あとで温泉に入りに行っても……」

「ああ、どうぞ。もてなしはできないだろうから、好きに使ってくれ」

「ありがとうございます!」

 

 地上に戻ってきた実感をしみじみと覚えつつ、しかし月見は呼気ひとつで思考を切り替える。

 たとえば紅魔館と永遠亭、白玉楼や人里や香霖堂、その他異変のときに手伝ってくれた響子とにとり、霊夢に魔理沙に天子にアリスなど、足を運びたい場所や相手はちらほらといるけれど。

 今はすべて後回しだ。どうやら事態はすでに落ち着きつつあるようだが、なんにせよ、このままではおちおち晦日だって迎えられやしない。

 洞穴の暗闇の奥で、長年の封印生活が祟ってすっかり運動不足なぬえが、文にグイグイ引っ張られて情けなく弱音を上げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 文と椛に礼を言って別れ、月見はぬえと二人で妖怪の山を下る。

 封印から解き放たれ、実に千余年振りとなる地上の姿を目の当たりにしたぬえは、すっかり魂を抜かれてあちこちをきょろきょろしてばかりだった。透き通る蒼天、泳ぐ雲、深い大気、一直線に伸びる地平線、しんしんと息づく山の自然、まばゆく輝く雪化粧、瞳に飛び込むありとあらゆる景色が迫るように胸を打ったのだと思う。できるならゆっくり楽しませてやりたかったけれど、状況が状況なので、已むなく水月苑まで腕を引っ張っていくことになった。

 水月苑の上空には、椛の言葉通り空飛ぶ船が止まっていた。間違いなく聖輦船だった。水月苑の屋根に寄り添うその船体を見た途端、正気に返ったぬえが、羽と両手をぶんぶん振り回して暴れ出した。

 

「あっ、ほんとだほんとだほんとに聖輦船があるっ! うわーんムラサも一輪も私を置いてくなんてひどいよーっ!!」

 

 あとはもう、逆に月見を引っ張りかねない勢いだった。転がり込むように庭の上空までやってくると、すぐにわかさぎ姫が気づいてくれた。

 

「あー、旦那様ぁーっ!」

「……なにあれ。ペット?」

 

 さらっと危険なことを言うぬえに月見は苦笑、

 

「ここの池を気に入って、よそから引っ越してきた人魚だよ」

「ペットでしょ。ふ~ん、なるほどねえ~、あんな女の子をペットにするなんてやっぱりあんたも根はケモノ」

「ところで封印を解けるってことは、その気になれば再封印もできるってことでね」

「ごめんなさい!」

 

 わかればよろしい。

 庭に降り立つ。わかさぎ姫はぱしゃぱしゃ波紋を広げながらほとりまでやってきて、変わらない笑顔で迎えてくれた。

 

「旦那様、おかえりなさいませっ」

「ただいま、ひめ。しばらく留守をありがとう」

「いえいえ。こんな素敵な場所に住まわせていただいてるので、お留守番くらいは朝ご飯前ですー」

 

 ふわふわのわたあめみたいな彼女の姿に、月見は心の底からしみじみと、ああ私は家に帰ってきたんだなあと実感した。やはり、今や一番近くで互いの生活を見つめる隣人だからだろうか。己の中で、わかさぎ姫という少女の存在がどんどん大きくなってきているのを感じる。

 吐息がこぼれる。

 

「まったく驚いたよ。志弦が突然さらわれたなんて言うから」

「あ……」

 

 椛に心配は要らないと言われ、ナズーリンが助けてくれたとわかって、そしてわかさぎ姫に笑顔で迎えられて。それ故の油断だったのかもしれない。

 

「あ、あの……旦那様、」

 

 そこにもう、笑顔のわかさぎ姫はいなかった。

 月見が気づいた瞬間水面まで目を伏せて、叱られるのを怖がる子どものように。

 

「志弦、さん……なんですけど……」

 

 不意を衝かれた気がした。どうしてわかさぎ姫がそんな表情をするのかわからなかった。もう大丈夫ですよーと、ふんわり言ってもらえるものと思っていたのだ。そうであって然るべきだった。だって、志弦はもう解放されて水月苑に戻ってきているはずで。水蜜と一輪は、藍たちと争うこともなく話をしているはずで。そこには、ナズーリンがいてくれているはずで。

 わかさぎ姫がきつく胸を押さえる理由なんて、なにひとつとしてないはずなのに。

 

「実は、その……」

 

 指先が、かすかに震えている。

 

「どうしてかは、わからないんです。わからないんですけど――」

 

 わかさぎ姫はかじかむような声を振り絞り、束の間躊躇って。

 或いは縋るように月見を見つめ、そう告げた。

 

「――志弦さん、突然気を失って。目を、覚まさないそうなんです」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 眠り姫は、水月苑の客間にいた。

 手厚く引かれた布団の中で、今が夜のように眠っていた。

 少なくとも、月見の目にはそう見えた。本当に、ただ、眠っているだけなのではないかと。安らかに下ろされたまぶたも、撫でるように優しく続く呼吸も、ちょっと揺すればその途端に目を覚ましそうで、諏訪子がどんなに手を尽くしても、早苗がどんなに呼びかけても、反応ひとつ返ってこなかったとは到底信じられなかった。

 裾の擦れる音とともに、月見は志弦の枕上に腰を下ろす。今は今年最後となる温泉の開放日で、少しずつお客さんの姿も見え始めているが、この客間だけは切り離された静寂で支配されている。なにも言えない早苗がただかたくなに志弦の手を握り、なにも言わない諏訪子が自分自身を抑え込むように瞑目し、部屋の入口では聖輦船の少女たちが、敷居を越えることすらできずに立ち尽くしている。

 志弦のかすかな呼吸すら、耳に届くくらいで。

 

「――本当に、なにもわからないんです」

 

 早苗のよじれた声音が、可哀想なほどよく通った。

 

「怪我をしてるわけじゃないですし、なにか術を掛けられているわけでもない。諏訪子様と何度も何度も確かめたんです。でも、わかったのは、なにもされていないのに、なにをやっても目を覚ましてくれないことだけでした」

「……」

 

 座敷の外の賑わいが、まるで別世界の出来事に感じる。客間を覆う見慣れぬ妖怪たちの姿を見て、なにも知らずやってきたお客さんがふと足を止める。ある者は月見の姿に気づき声をあげようとするが、その前に藍がそっと呼び止め、首を振って、風呂場の方へと誘導していく。

 早苗の横で胡坐を掻く諏訪子が、荒々しく息を吐いた。神の力すら及ばない現実への、憤りがにじんでいた。

 

「呼吸は穏やかなもんだし、別に危険な状態ってわけじゃないから、今は様子を見てるけどさ。場合によっては、永遠亭に担ぎ込んだ方がいいかもしれない。私らの力で原因がわからないんだったら、そいつはもう医学の世界だ」

 

 畳を躊躇いがちに踏んで、ナズーリンが月見の肩の後ろに立った。横に並ばなかったのは、或いは目の前の光景に対する自責めいた後悔があったからかもしれない。

 

「……信じてくれなんて、言えた立場じゃないのはわかってる。けれど誓って言う――ムラサたちはなにもしていない。私が、志弦に聖の話をしようとしたんだ。だが、突然様子がおかしくなって……そのまま……」

「信じるもなにも、はじめからお前たちを疑っちゃいないよ」

 

 しぼんでいくナズーリンの声音へ、月見は努めて穏やかに被せた。顔を見ればひと目でわかる。ナズーリンはもちろん、未だ座敷に一歩も入れないでいる、水蜜も、一輪も、雲山も、まだ自己紹介すらできていない金髪の少女も。

 疑われるのではないかと、怯えるような。

 本当に彼女たちの仕業なら、そういう顔はできないと、月見は思う。

 ナズーリンの、曖昧に笑った息遣いが聞こえた。

 

「……本当に君は、人が良すぎるよ。志弦を攫った相手なんだよ?」

「……それについては、私にだって非があるさ」

 

 半分腰を上げ、裾を擦りながら振り返る。座敷の入口で、水蜜と一輪がびくりと肩を震わせる。

 頭を下げた。

 

「すまなかった、水蜜。一輪。雲山も。……志弦のことを、ずっと隠していて」

 

 まだ聖輦船が地底を飛んでいた頃から、足だけは何度も運んでいたのだ。もしも月見が、前以て志弦の存在を打ち明け、理解を募っていたならば。志弦は怖い思いをしないで済んだかもしれないし、ナズーリンに余計な罪悪感を背負わせることもなかったかもしれない。

 まさか聖輦船が、こんなにも早く地上へ出てしまうとは思っていなかった――そんなものは、単なる言い訳でしかない。告げるタイミングならいくらでもあった。けれど告げなかった。結局はただ、月見に勇気がなかっただけなのだ。

 

「そう……ですね」

 

 一輪の口元が、噛むように動いた。

 

「正直、教えてほしかったとは、思ってます」

 

 だが、口振りに反してそこに月見を責める色はない。あるとすれば、他でもない自分自身への、遣る瀬ない思い。

 

「でも……教えてもらえなくて、当然だったと思います。だって私たちは、月見さんの目の前で。恨んでいると、言ってしまったんですから」

 

 水蜜が、赤子のように拙く頷く。

 

「……だよね。あんな言い方しちゃったら、教えてもらえる方がおかしいもん」

「だから私たちには、月見さんを責められません」

 

 そして一輪は、ほんの少し、唇の端を緩めるだけではあったけれど。

 月見に向けて、微笑んでくれた。

 

「私たちを疑わないでいてくれるあなたを、責めるなんて。きっと、姐さんに怒られちゃいますから」

「だったら君たち、志弦を攫った件について彼に謝罪したまえよ。聖に怒られちゃう(・・・・・・・・)よ?」

「「はうっ」」

 

 ナズーリンの冷ややかな発言に、二人は射抜かれた胸を押さえて縮こまった。

 

「その……も、申し訳ありませんでした……」

「ごめんなさい……」

「……ああ」

 

 雲山も深く目礼をしている。だから月見は心の底から噛み締める。心優しい妖怪たちで、本当によかったと。

 そして、彼女たちをそんなまっすぐな妖怪へ導いたのが、聖白蓮という人間なのだ。

 

(聖白蓮……か)

 

 月見がよく知るどこぞの古馴染のように、人間と妖怪が共存できる世界を夢見た少女。一輪たちは、理由はどうあれこうして地上へ出られた以上、文字通りの血眼になって主人を助け出そうとするのだろう。

 許されるのであれば、月見も力を貸したいと願う。

 志弦が心配だというのも、あるけれど。それ以上に、もっと単純に、聖白蓮という人間へ今まで以上の興味が湧いていた。妖怪からかくも慕われ、きっと昔は荒れていたであろう一輪と水蜜を、かくもまっすぐな存在へと導いた人間。なぜ妖怪へ心を許すのか。なぜ妖怪とともに生きたいと願うのか。この目で会って、一度でもいい、言葉を交わしてみたいと思う。

 いきなりだった。

 

「ぎゃおーっ!」

「!?」

 

 一輪たちの後ろに隠れてずっと黙っていたぬえが、両手を突き上げて怪獣みたいに裂帛した。突然の奇行に一輪も水蜜もつんのめり、

 

「な、なによいきなり!」

「黙らっしゃい!」

 

 ぬえはだいぶヤケクソな感じで、

 

「い、いつまで辛気くさい空気してんのよ! 月見が謝って、ムラサたちも謝って、じゃあこの話はもうおしまいでしょ!? 仲直りでしょ!? はい切り替え切り替えっ! ってか私こういう雰囲気めちゃくちゃ苦手なんだからもっと前向きに行こうよお願いしますっ!」

「……わ、私も同感です!」

 

 自分もなにかを言わなければならないと思ったのだろうか。金髪の少女まで便乗し、こちらも当たって砕けろとばかりに、

 

「こ、このようなことを言える立場でないのは百も承知ですがっ……これからどうするかを考えましょう! 志弦さんのことも、聖のことも、みんなで力を合わせれば必じゅ光が見えるはずでっ、とととっところでナじゅからお話は伺っておりましたちゅく見さんはじめまして私はとりゃ丸」

「噛みすぎだろご主人」

「今のナシでお願いしまああああああああす!?」

 

 顔面真っ赤で絶叫した少女が、涙を振りまきながら床に崩れ落ちた。

 当たって砕けろな勢いの少女は、それはもう木っ端微塵に砕け散った。

 なんとも表現し難い沈黙が座敷中に広がっていく中、ぬえが半目で、

 

「……私がせっかく勇気振り絞ったのに、噛むとかないわー」

「ふええええええええん!!」

 

 なぜだろう。まだ名前すら知らないこの少女と、はじめて会った気がしないのは。

 まぶたを覆ったナズーリンが、首を振って嘆息した。

 

「まったく……月見、私から紹介するよ。以前話だけはしていたと思うがね。普段はいかにも頼りなくて情けなくて、けれど仕事をさせたときだけは不思議と――ほんっとに不思議と優秀な、寅丸星だよ」

「あのナズ、そんな話を月見さんにしてたんですか!?」

「不本意ではあるが今の私のご主人だ」

「ふえええん!!」

 

 一輪と水蜜も、遠い眼差しで明後日の空を仰いでいる。

 

「毘沙門天様のところで修行し直して、力はかなり上がったみたいだけど……やっぱり星は星よね」

「懐かしいなーこの空気……」

「き、消えてなくなりたいよぅぅぅ……!」

 

 恥辱と屈辱で震える星に、ふと妖夢の姿が重なる。そういえば妖夢も、普段はいかにも頼りなくて情けなくて、けれど仕事をさせたときだけは不思議と優秀な庭師だった。ひょっとして、はじめて会った気がしないのはそういうことだからなのだろうか。

 なにはともあれ、名乗る。

 

「よろしく、星。私は月見。ただのしがない狐だよ」

「ううっ……」

 

 体を起こした星は気を取り直し、すんすんと鼻をすすって、

 

「い、いきなり見苦しいところを……。ええと、ナズからお話は聞いておりました。ナズがあんなにも楽しそうに誰かのことを話すのは珍しくて、どんな方だろうってずっと気になってたんです」

「……ご主人、そういうところまで話さなくていいから」

 

 ナズーリンが、ほんのり恥ずかしそうにそっぽを向いた。月見は苦笑、

 

「曰く、けったいな変人らしいからね」

「いえいえ、そんな。月見さんのこと、とっても信頼しているんだなあと」

「こらっ、話さなくていいと言ってるだろうっ」

 

 星を無理やり黙らせ、しかし自分でも予想外の大声が出てしまったらしく、ナズーリンはんんっと誤魔化すような咳払いで、

 

「な、なにか問題でもあるかい。君を聖に会わせたいと、前々から言っていたはずだがね」

「……光栄だよ」

 

 否定はしないでくれるんだな、と思う。もちろん、月見だってナズーリンのことは最大限に信頼している。一度のみならず、二度も志弦を助けてくれた。そして救われたのは、決して志弦だけではないのだから。

 ナズーリンの尻尾がぴこぴこと右へ左へ動き、バスケットの中の妖怪鼠たちが慌てている。水蜜が面白そうな空気を感じてにやつき始めたので、さっさと話を逸らすことにした。

 

「星は、毘沙門天の代理なんだってね」

「あ、はい。まだまだ未熟者ですが……」

「恰好だけは一丁前でね。特に今回なんて、毘沙門天様から宝塔までお借りして、」

 

 そこでナズーリンはふと疑問顔で、

 

「……ところでご主人、宝塔を持っていないようだけど船に置いているのかい? ものすごく大切な物だから、肌身離さず持っているように言っただろう」

「………………………………あ゛」

 

 星の表情に、ピシリとひびが入ったのが見えた。

 充分すぎる反応だった。月見でさえ、星が『宝塔』とやらをどうしてしまったのか一発で悟った。ナズーリンは貧血を起こしたようにふらつき、月見の腕にもたれかかってなんとか耐えて、

 

「……………………いや、いやいやいや。確かにご主人は、仕事以外がてんでダメな女さ。だがしかし、いくらなんでも、大切な物だから絶対なくすなと口酸っぱく言ったのにもうなくすほど度し難いダメっ虎じゃあないだろう? さあご主人、早く宝塔を持ってきて私を安心させてくれないか。じゃないと貧血で気を失ってしまいそうなんだ」

 

 星は唇をきつく結び、泣きそうになりながらぷるぷる震えている。一輪と水蜜は、我関せずとばかりにあらぬ方向へ口笛を飛ばしている。

 ナズーリンは段々痙攣してきた。

 

「は、ははは、ははははは。いや、まさか。まさかね。まさかだろう? いやいや。いやいやいやいや」

 

 さしものナズーリンも脳が爆発の危機を迎えている。毘沙門天の代理だという星が毘沙門天本人からお借りしてきた宝塔となれば、間違いなく文字通り『毘沙門天の宝塔』だろう。人間界で作られる毘沙門天の仏像や書画は、その多くが片手に宝塔を携えた勇壮厳格な姿で描かれる。要するに、毘沙門天の姿を、引いては神を象徴する宝物の類だ。

 それをなくされたとなれば、そりゃあ毘沙門天の遣いであるナズーリンが貧血だって起こすわけで。

 もはや涙目になっている星へ、ナズーリンは一転、嘘みたいに微笑んで、

 

「いま正直に話せば怒らないから。嘘だけど」

「ごごごっごめんなさいなくしましたぁっ!! …………ゑ?」

 

 ブチ、といっそ清々しい音、

 

「こォんのダメっ虎がああああああああああッ!!」

『チュ――――――――――――ッ!!』

「ごめんなさああああああああああいっ!?」

 

 ナズーリンのバスケットに乗っていた妖怪鼠が、水月苑床下に潜んでいた妖怪鼠までもが、一斉に飛び出して星にガジガジと襲い掛かる。

 床をのた打ち回る毘沙門天代理の姿に、月見はやはりはじめて会ったとは思えぬ親近感を覚え、早苗はどう反応すればよいかわからずただ苦笑、諏訪子は自慢するようにえへんと胸を張って、

 

「まったく、神としての自覚と威厳が足りないね。もっと私みたいにならなきゃっ」

 

 いろいろ言いたいことはあったがとりあえず飲み込み、月見は自称威厳ある神様へ生暖かな眼差しだけを送っておいた。

 

「ふみぇみぇみぇみぇみぇみぇみぇ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく、志弦が危険な状態でないことを幸いに、一度腰を据えて情報整理をする運びとなった。

 まず、一輪たちは一体全体どうやって聖輦船ごと地上に出てきたのか。これは、当事者である彼女たちもよくわかっていなかった。いつも通りのんびり地底の空を漂っていたところ、突然聖輦船の軌道が真上に狂って、岩盤にぶつかるわあちこちから熱湯が浸水してくるわ、天と地の区別もないめちゃくちゃの阿鼻叫喚に陥り、気がついたら粉々の船諸共地上で死にかけていたらしい。比喩ではなく、人間だったら間違いなく死んでいたほどだったのだと。

 近くで間欠泉が噴き上がっていたので、たぶんそのせいだろうと彼女たちはニラんでいた。もし本当にそうだとすれば、地底の異変が思わぬところにまで被害を及ぼしていたということになる。

 ひと通り一輪たちの事情を聞いたぬえが、引きつる頬でぶるりと震えた。

 

「……私、留守にしててよかったかも」

「いいよねぬえは、月見さんに封印解いてもらって出てきたんだもん。ほんと死ぬかと思ったんだよこっちは」

「地上に出られたのは嬉しかったけどねえ……あんなの、もう二度と御免だわ」

 

 結果的に封印から解き放たれたのが不幸中の幸いとはいえ、およそ千年振りの地上で右も左もわからぬ上に、誰かに見つかったらまた封じられてしまう可能性も否定はできない。なので一輪らはひとまず山奥に身を隠し、聖輦船の修理に専念。化け猫の女の子がちょくちょく間欠泉の様子を見に来ていたため、気づかれないよう相当神経をすり減らしたという。もしかすると、藍に手伝いを頼まれた橙だったのかもしれない。

 もっとも、一度粉々に砕けてしまった聖輦船である。行方のわからなくなってしまったパーツがいくつもあり、完全な形で修復することはできなかった。月見の目にはいつも通りの聖輦船に見えるが、それはあくまで外面だけで、中はだいぶ残念な有様になっているらしい。

 そして、妖怪鼠のネットワークで事態を知ったナズーリンが合流し、彼女から連絡を受けて星も幻想郷にやってきたのが数日前――だいたい、クリスマスパーティーと称して輝夜たちが地霊殿を強襲したのと同じ頃。以降は雲に紛れて幻想郷を回遊し、船の飛行能力を確かめつつ細々とパーツの捜索を行っていたそうだ。

 ありがたい仏の力を秘めた木の欠片。それを、ナズーリンたちは『飛倉の破片』と呼んでいた。聖輦船は、白蓮の手によって作り変えられるより以前は、飛倉という名の穀倉だったのだ。

 

「つ、つまり変形したということですか……! ゴクリ」

「あー、早苗ってそういうのも結構好きだよねえ」

「ケモ耳は正義、変形は浪漫ですよっ。水月苑にも、はじめは変形機能がつく予定だったらしくて……私、実はちょっぴり残念に思ってるんですよね」

 

 東風谷早苗は、一体どこへ向かおうとしているのだろう。

 志弦を見つけたのはただの偶然だった。瓜二つの出で立ちも、その『神古』の名も、どこからどう見ても白蓮を封じたあの人間と関係があるとしか思えず、ちょうどナズーリンが留守だったのもあって、突発的に志弦を攫ってしまった。そのとき諏訪子や藍と戦闘になり、星が咄嗟に毘沙門天の力で援護したものの、思わぬ反撃に遭って宝塔が弾き飛ばされてしまう。もちろん星はすぐ捜そうとしたが、一輪と水蜜に怒鳴られて、已むなく聖輦船で水月苑から離脱した。

 

「ちょっと、私たちが悪いみたいに言わないでよ!?」

「だ、だって、ムラサたちが急かしたりしなければちゃんと宝塔を捜してましたもん!」

「あ、あの……すみません、それたぶん私が投げたお札のせいで……」

「早苗は悪くないさ、友達を守ろうとしたんだろう? 私の言いつけを忘れて、誘拐の手助けなんかやってたご主人が悪いんだ。自業自得だよ」

「ふえええん!」

「それでご主人、どこに落としたんだい。鼠たちに捜させるから」

「え、あ、えと……ど、どこに飛んでっちゃったんでしょうねっ」

「……………………」

「ごめんなさい許してくださいいいいっ!?」

 

 その後出掛けていたナズーリンが船に戻ってみると、志弦が椅子に縛られているわ水蜜が諏訪子に祟られているわ、呆れ果てる有様になっていたのでとりあえず仲裁。そして水月苑に引き返すさなか、白蓮について少し語って聞かせようとしたところで、志弦の様子が突然おかしくなりそのまま気を失ってしまった。

 かくして、今に至る。

 

「――おおまかには、こんなところかな。……ところで月見、先ほどからずっと黙っているが大丈夫かい?」

「……ん? ああ、すまない。少し考え事をね」

 

 ナズーリンに呼び掛けられて、月見は思考の海から帰ってきた。正直、途中の話があまりに荒唐無稽だったせいで、後半はほとんど耳に入ってこなかった。

 ナズーリンは緩く呼吸し、

 

「……まあ、無理もないね。私もはじめ聞いたときは驚いたよ。まさか志弦が、聖を封じた人間と瓜二つだなんて」

「お前には、なんでもお見通しなんだね」

「ある意味、わかりやすいからね。君は」

 

 月見はただ、喉で笑った。当たり前だ。『神古』の名だけでなく、姿までもというのだから。

 二人の『神古』の間にある同一性を、一体どのように考えればよいのだろう。どこまで本気で受け止めればいいのだろう。一輪と水蜜は瓜二つだと主張しているが、千年以上前の、敵としてほんの一時期出会っただけの相手に対して、記憶がどれほど形を保っているかは微妙なところだ。実は白蓮を封じた『神古』と志弦の容姿はあまり似ておらず、それどころかなんの関係もなく、『神古』という名が都合のいい先入観を生み、一輪たちの記憶を書き換えてしまった可能性は充分にある。

 しかし、

 

「そうだとすると……志弦が目を覚まさないのにも、なにか意味があるんですかね」

「……」

 

 早苗のその呟きを、月見は突飛な妄想だと切って捨てられない。

 ここまで来て、ただの偶然だということがあるのか――そう問いかけてくる自分がいた。根拠はなんだと問われれば、勘だとしか、答えようがないけれど。

 白蓮だけではない。志弦は、月見が知る『神古』とも、きっと――。

 

「……志弦は、私が永遠亭に運ぼう。永琳なら、なにかしら答えを出してくれるだろうからね」

 

 月見は首を振った。この手の話題になるといつもそうだ。自分一人がいくら考えたところで真実がわかるわけではないのに、つい物思いに耽って沈み込んでしまう。

 それよりも、行動することだ。霧が晴れるのを待つのではなく、足を動かして越えていかなければならない。

 

「月見さん、私も連れて行ってください」

 

 まるで、待ち構えていたかのように迷いない言葉だった。こうして月見たちが情報の整理をしている間も、早苗は握った志弦の手を片時も放さないでいた。

 

「行って、なにかができるというわけでもないですけど……離れたく、ないので」

「……ああ。一緒に行こう」

 

 月見は、口元だけに淡い笑みを忍ばせて答えた。家族のような、ではない。早苗にとっての志弦は、もう立派な家族の一人なのだ。天涯孤独だった志弦が幻想郷でそんな誰かに出会えたことを、月見は心から幸いだと思う。

 ナズーリンらに問う。

 

「お前たちはどうする?」

「……目下の課題は、二つだね」

 

 ナズーリンは、人差し指を立てて応じた。

 

「まずは、ご主人が迂闊にも、大変迂闊にもなくしてしまった宝塔を捜さないとね。あれは毘沙門天様の物だし、魔界の結界を越えるために欠かせない道具でもあるから、なんとしても見つけ出す必要がある」

「う、ううっ……」

 

 肩身が狭そうにしている星を無視し、次に中指を立て、

 

「それと、聖輦船。あの船には転移機能が備わっていて、」

「て、転移機能……!?」

 

 そのときナズーリンの説明をいきなりぶった切り、早苗が稲妻のような衝撃を受けてよろめいた。目を皿になるまで見開き、ここではじめて志弦から手を離すと、興奮のあまり逆に血の気を失ってわなわなと戦慄した。

 

「空を飛ぶし変形するし、その上転移――ワープまでできるなんて! な、なんて浪漫の塊なんですかあの船はっ!」

 

 ナズーリンは目をしばたたかせ、

 

「……あ、ああ、気に入ってもらえてなによりだよ?」

「素晴らしいです……! やはり、幻想郷では外の常識なんて通用しないのですね!」

 

 早苗。それは間違っていないし幻想郷の空気に馴染むのも大事だけど、かといって外の常識をポイするような間違った成長はしないでくれよ。

 守矢神社の行く末が、ほんのちょっぴり不安になってくる月見である。

 

「……話を続けていいかな?」

「あ、はい。失礼しました」

 

 ナズーリンは気を取り直し、

 

「で、聖輦船には転移機能が備わっていて、法力を使用して魔界に行くことができる。つまり、聖を救出するためには必要不可欠な力なんだが……」

 

 ナズーリンのあとを、水蜜が引き継ぐ。

 

「説明した通り、今の聖輦船はいろいろパーツが欠けちゃってまして。そのお陰で転移機能がまだ不完全ですし、そもそも魔界へ行くための法力が足りないんです。なので見つかってない破片を早く捜して、船を完全な状態に戻さないとですね」

「あとは、聖の封印を私たちでちゃんと解けるかだね。人間も、ちょっとやそっとで簡単に解けるほどお優しい封印はしていないだろうから。……もっとも、このときのためにご主人は修行をやり直していたわけだから、大いに期待させてもらうけれど」

「が、頑張りますっ」

 

 拳でかわいらしく気合を入れる星に、しかし宝塔を紛失されてご機嫌ナナメなナズーリンは冷ややかに、

 

「というか、汚名返上できなかったそのときは……わかっているね?」

「ふ、ふえええん……」

 

 縮こまりすぎて、星はもうそろそろ消滅しそうだった。この星とナズーリンの場合といい、紫といい輝夜といいレミリアといい幽々子といい操といい、幻想郷の主従はどうしてこうも極端なのだろう。上下関係が割かし正常に機能している地霊殿を見習ってほしい。

 神の代理とは思えぬ哀れな少女の姿に、さすがに一輪と水蜜もバツの悪さを感じたらしく。

 

「……ナズーリン。宝塔捜し、私たちも手伝うわ」

「一応、なくなった責任はこっちにもあるだろうし……なんかごめんね、星」

「ふ、ふたりともぉ……っ!」

 

 星が感極まって潤んでいる。ナズーリンの話を聞く限り、白蓮を救出するに当たってまず必要なのは人手だ。宝塔はさておき問題は飛倉の破片で、あれだけ大きな船のパーツとなれば数は百以上にもなりかねない。二人三人でちまちまと捜していたら、あっという間に年が明けてしまう。

 ナズーリンたちも、来年まで持ち越すつもりなどないはずだ。

 

「ナズーリン。宝塔を捜すなら、私の名を出して天狗に協力を頼むといい。幻想郷中飛び回ってるあいつらならなにか知ってるかもしれないし、すでに拾われている可能性もあるだろう」

「む……それもそうだね。しかし、天狗とはあまり接点が……」

「んじゃあ、そっちは私が行くよ」

 

 諏訪子がぴょこりと立ち上がった。

 

「操に頼めばいいでしょ? 月見がめちゃくちゃ頼りにしてたよーとか言って」

「ああ、そうしてくれ」

 

 あのお調子者なら、「ふっふーんそこまで頼りにされちゃったら仕方ないねー、さすが儂!」とか調子に乗って、天狗はもちろん山の妖怪全体にお触れを出してくれるだろう。捜し物をするなら、人手は多ければ多いほどいい。

 

「あとで尻尾モフらせてね!」

「はいはい」

「……すまないね。私たちは、君たちに大きな迷惑を掛けたというのに」

 

 ナズーリンの窺うような上目遣いを、諏訪子はあっさりと笑い飛ばした。

 

「あんたも固いねー。その話は、さっきみんな謝って終わったはずでしょ」

「そうですよ。困ったときはお互い様です」

「……ありがとう」

 

 嫌味な含みなどまるでなく、わだかまりを感じさせない暖かな言葉だった。元々心優しい早苗は当然としても、諏訪子は志弦が危険な目に遭わされたことをきっと根に持っているだろう。しかし目先の感情に囚われず、人を案じ大局を見据える度量はまさしく神が如き

 

「――ま、白蓮だかが復活したら、あんたらがやったことはぜんぶキッチリ報告させてもらうけどね!」

 

 そんなわけはなかった。やっぱり諏訪子は諏訪子だった。

 とっておきの悪戯を仕掛けるような彼女の宣言に、一輪と水蜜と星が一瞬で青くなる。雲山ですら、彫りの深い面持ちにヒビが入ったような気がする。

 ナズーリンがニヤリとして、

 

「ああ、是非そうしてくれたまえ。聖なら、きっといいように(・・・・・・・・)計らってくれるだろう」

「へえー、そっかあー。どうなるのか楽しみだなーっ!」

「「「…………」」」

 

 ぷるぷる震えている少女たちを尻目に、月見はふと不安になる。

 妖怪を想う人間というナズーリンの言葉から、なんとなく、包容力のある優しい少女を想像していたけれど。

 ――情け容赦ないお説教で泣かせる映姫タイプか、血も涙もない鉄拳で泣かせる藤千代タイプか。それが問題だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その少女は、千年にも及ぶ(とき)を待ち続けていた。

 己の肉体すら映らない虚ろな世界で、眠るように待ち続けていた。

 

 もしかすると、自分は騙されていたのだろうか――そう、何度も何度も考えてきた。考えるたびに怖くなって、けれど今の自分では、涙を流して震えることすらもできなかった。

 そんなときは、いつも決まって昔のことを思い出した。自分を慕ってくれた妖怪たちのこと。自分を封じた少女のこと。そして、生きたくても生きられなかった、病弱で、けれどまっすぐだった弟のこと。

 

 そうすれば、耐えられた。独りではないのだと思った。

 自分はまだ、死ぬわけにはいかない。消えるわけにはいかない。

 生きて、人の道を踏み外してでも生きて、果たさなければならない約束がある。

 

 当時の世界からは理解されなかった、出鱈目で荒唐無稽な夢物語。

 そんな約束を、自分を封じたあの少女は決して嗤わなかった。理解してくれた。私のご先祖様もね、妖怪に助けられたことがあるらしいんだよ――そう言って、自分のことを包み隠さずに打ち明けてくれた。

 

 本当に、楽しかった。

 あのかけがえのないひと時が、少女の楽しそうな語り言葉が、すべて嘘だったとはどうしても思えない。

 だから、信じられた。騙されていたのだろうかと怖くなっても、泣きたくなっても、砕けずに悪夢を振り払うことができた。

 

 ――必ず、迎えに行くよ。

 

 そう言って、笑ってくれた、少女のことを。

 私はどうか、信じていたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ④ 「運命だから」

 

 

 

 

 

 まさしく風のようだった。志弦を永琳に預けるや否や、月見は廊下を滑って疾走してきた輝夜に拉致された。分厚い着物姿でよくそこまで動けるもんだと、つい他人事のように舌を巻いてしまうほどだった。早苗をあっという間に置き去りにし、風と化した少女は問答無用のまま月見を私室まで連れ込むと、誰もついてきていないことを確認してから念入りに襖を閉め切った。

 

「――当然、」

 

 振り向いた輝夜の面持ちは凛と透き通っていて、これが普段のお転婆お姫様と同一人物だとは俄かに信じがたい。

 有無を言わさぬ、強い問いだった。

 

「なにがあったのか、教えてくれるでしょ?」

「……ああ、わかってるよ」

 

 幻想郷で――否、この世界でただ一人。蓬莱山輝夜は、月見と同じ当事者だった。あいつらの名を、声を、姿を、今でも記憶に刻んでいるのは、この世で月見と輝夜だけであるはずだった。

 月見はすべてを打ち明ける。結局このときになるまで隠すような形になってしまった、白蓮という少女のことまで、本当にすべてを。輝夜は小さく優しい相槌だけで耳を傾け、そして月見の語りが終わると、ひとつ、淡雪のような吐息をそっと落とした。

 

「……そっか」

「……ああ」

 

 表情には追懐の笑みがある。かつて月見に秀友という名の友がいたように、輝夜にも雪という名の友がいた。雪を、思い出しているはずだった。秀友の妻であった彼女から、大切なことを教えてもらったのだと。短い間だったけれど、ちょっとした先生みたいなものだったのだと、輝夜は言っていたから。

 

「――ねえ、ギン」

 

 輝夜が、顔を上げる。髪と同じで色濃く艷なその(まなこ)に、深く月見の姿が映り込む。そして月見の心に絡みつく悪いものを吹き飛ばそうと、力強く言うのだ。

 

「私はね。あのときの『神古』も、白蓮ってのを封じた『神古』も、今の『神古』も。ぜんぶ、つながってると思うわ」

 

 それは月見が、この期に及んでも、どうしても心のどこかでは受け入れきれないでいることで。

 

「ってかね、ここまで来たら単なる偶然だって方がおかしいです。ありえません。これはきっと、運命なのよ。ギンと『神古』は、あのときだけで終わるような陳腐な縁じゃなかったってこと」

「……」

「きっとギンが、自分を死んだことにして別れるような真似をしたから。だから、今になって仕返しでギンを困らせてるんだわ。さすがじゃない、どうすればギンを困らせられるかよーくわかってるもの」

 

 少し、笑えたと思う。

 

「やっぱり……そうなのかな」

「もー、まだ悩んでるの?」

 

 輝夜がぱたぱたと袖を振って不満をあらわにする。段々と、いつもの輝夜に戻ってきた。

 

「ギンだって、ぜんぶつながってるって思ってるくせに!」

「ッハハハ、ぜんぶお見通しか」

「もちろん! ギンのことだものっ」

 

 えっへんと胸を張る輝夜は、すっかりいつもの彼女だった。

 もちろん、輝夜の言う通りだった。月見だって、ここまで来た以上ただの偶然で終わるわけがないと予感している。それでも最後の一歩だけどうしても決心がつかないのは、『神古』の名が一輪たちに恨まれているという事実に尽きる。まったく関係のない他人だったとオチがつけば、なんだそうだったのか、と笑い話で済ませることができるのだから。

 それにより踏み込んでしまえば、『神古』を恨んでいるのが一輪と水蜜だけという保証だってない。

 白蓮は。『神古』によって封じられ、千年もの間、絆を、夢を断たれた張本人は。この幻想郷で志弦と出会ったとき、一体なにを思うのか。

 けれど今の輝夜を見ていたら、渦巻く濁った不安をすり抜けて、甦る記憶があった。

 

「……あのときと、逆だな」

「あのとき?」

「月の人間だって。不老不死だって。……月に帰るんだって、お前が、はじめて教えてくれたときだよ」

「あ……」

 

 あのときは、輝夜が月見のようにすべてを打ち明ける側で、月見が輝夜のように耳を傾ける側で、輝夜が月見のように苦悩する側で、月見が輝夜のように手を伸ばす側だった。

 本当に、皮肉なほど真逆だった。どうしようもない事実に悩んで足を止めるのは無意味であり、ありのままを受け止め、前に進み、その中でできる限りの選択をしていくしかないのだと――かつて偉そうな顔をして輝夜へ説いたのは、他でもない自分であったはずなのに。

 輝夜が、小さく吹き出した。

 

「そうかも。そうかもね。本当に、あのときと逆だわ」

「参ったなあ。とうとうお前に教えられる側か」

「わたし一応、ギンよりずっと長生きのお姉さんだからね!」

 

 本日二度目、またえへんと胸を張った輝夜は、それから少し落ち着いて、

 

「……まあ、私には、あのときのギンみたいなことは言えないけど。でもだいじょーぶ、なんだかんだでいい感じに落ち着くわよ。天子の異変のときも、こないだの異変のときもそうだったでしょ。だから今回もへーき」

「なにを根拠に?」

「ギンだから大丈夫なの!」

 

 根拠もへったくれもない、ともすればいい加減にも聞こえる盲目的な応援が、けれど今の月見には不思議なほど頼もしく感じられた。

 だから月見は、心からの笑みで応えた。

 

「ありがとう。肩が軽くなったよ」

「ん。やっぱりギンはそうじゃないとね」

 

 輝夜はうむうむと満足げに頷き、それから、

 

「――というわけで、志弦の診察が終わるまで暇でしょ?」

 

 いきなり空気を変えて両腕を広げ、瞳を輝かせ、むふーっと期待たっぷりの鼻息で、

 

「久し振りにこっちに戻ってきたんだし、遊べ遊べー!」

 

 こんなときでもゴーイングマイウェイなお姫様の姿に、月見はまったくもうと苦笑して。

 けれど、時間になるまでは思う存分付き合っていようと思う。そうすればきっと彼女のように、迷いなく前を向けるはずだから。

 

 ……早苗にふわ尻尾を狙われたイナバたちが半泣きで逃げ込んでくるのは、これより三分後のことである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「結論を言うと――志弦は寝ていないわね。起きてるわあの子」

「……え?」

 

 永遠亭の診察室に、早苗の困惑した声が吸い込まれて消えた。

 それが、永琳から簡潔に告げられた志弦の診察結果だった。鈴仙に呼ばれ、診察室まで戻ってきた月見たちが椅子に座るや否や、お昼の献立を告げるような口振りで永琳はそう言った。カルテと思しき紙を一枚めくり、

 

「外傷はなし、呼吸も血圧も正常。危険な状態ではないから、このまま経過を見るのがいいでしょう」

「そ、そうですか。よかった……」

 

 早苗は胸を撫で下ろし、すぐ首を振って、

 

「い、いえ、待ってください。起きてるって、一体どういうことですか? 志弦は、どこからどう見ても」

 

 早苗の不安定な眼差しが月見たちと交差する。志弦は、どこからどう見ても眠っているはずなのだ。だって、起きていないのだから。意識がないのだから。当たり前のことだ。しかし永琳は間違いなく「起きている」と言った。自分たちの心配が杞憂なら、本当に起きているというのなら、なぜ志弦はなにをやっても目を覚ましてくれないのか。

 

「もぉー永琳、テキトーなこと言っちゃダメよっ」

「ねえ、誰に向かってそんなこと言ってるのかしら」

「……ごめんなさい」

 

 援護射撃をしようとした輝夜が一瞬で撃墜されてしょんぼりする。実際、その通りなのだと思う。こと医学の分野において幻想郷で永琳の右に出る才媛はいないし、そんな彼女が患者の診察で手抜きをするなどありえないし、嘘の診断結果を告げるなどもはや論にも及ばない。志弦は一見眠っているように見えて、実は眠っていない。医学的にはそういう判断が下されたということになる。

 そもそも、「眠る」とはなにか。曖昧な表現をすれば「一時的に意識水準を低下させ脳と体を休めること」だが、科学的にはそれを脳波によって判断する。脳波とは文字通り生物の脳が生み出す電気信号の波であり、精神の状態によってある程度特徴的な波形を示すようになっている。起きているなら起きているなりの、眠っているなら眠っているなりの形が存在するわけだ。

 そう考えれば、永琳の発言の意味も段々と見えてくる。永琳が、底の知れない微笑を静かに深める。

 

「あなたは、なんとなく想像がついたみたいね」

「……なんとなくね」

 

 つまり志弦は、医学的には眠っていると診断できない状態なのであり、

 

「端的に言えば、脳が起きている状態と同じ活動をしているのね。だから、眠っているとはいえないの」

「……夢を見ている、とかではなくてですか?」

 

 早苗の真っ当な疑問に、永琳は微笑を少し難しげに曲げた。

 

「普通の夢ではありえないことだけど、かと言って、志弦がなんの夢も見ていないとは断言できないわね。例えば、そう――現実同然の情報量を持つ夢なら、脳が休む暇もなく覚醒時と同じ活動をすることもあるかもしれない。人の脳は、医学でも未だ解き明かせない人体最後のブラックボックス。私たちでもわからないことなんていくらでもあるわ」

「眠っているのに眠っていない……ですか」

「ところであなたたち、志弦の能力がなんなのか知ってる?」

 

 予想外の問いに皆が目を丸くした。

 

「能力、ですか? いえ、私はなにも……」

 

 当然、月見も輝夜も首を振る。ですよね、と早苗は呟き、

 

「たぶん、なんの能力にも目覚めてないと思いますよ。以前能力について教えたことがあるんですけど、なにそれスゲーって反応でしたし」

「そう。いえ、深い意味はないの。仮に志弦が現実同然の夢を見ているのなら、彼女自身にそういう能力があるんじゃないかって気になっただけ」

「……」

 

 誰も肯定も否定もできず、ただ沈黙した。白蓮を封じた『神古』の子孫かもしれない少女が、白蓮の名を聞いた途端意識を失い、能力に目覚める――なにも知らない人間はきっと、御伽噺だと言って笑うだろう。

 なにも知らない人間ならば。

 なにも知らない人間は、ここにはいない。

 

「あまりこういう考え方は好きではないのだけど……なにか、理屈じゃ太刀打ちできない特別な理由があるのかもしれないわね。いかにも、この幻想郷じゃあありえそうな話じゃない。目を覚まさないのは、まだ目を覚ますべき時ではないからだ……ってね」

 

 これはきっと、運命なのよ――輝夜の言葉が、強く脳裏に甦る。

 志弦が眠り続けている、特別な理由。もしも本当にそんなものがあるというのなら、心当たりなんてひとつしかない。

 ここまで来て、ただの偶然なんてありえるわけがないのだから。

 

「ともかく、志弦は私たちで預かるわ。万が一を考えてもその方がいいでしょうし……また、慌ただしいことになってるんでしょう? 先にそっちを片付けるといいんじゃないかしら」

「……ああ。ありがとう」

 

 永琳の言うことは正しい。志弦が目を覚ますまでじっと待ち続けるだけの時間は、今の月見たちには与えられていない。月見が幻想郷に戻ってきて最初となる一年は、今日を含めてあと五日で終わるのだ。

 それに、これが運命だというのなら。白蓮の封印を解けば、或いは、志弦だって目を覚ますのかもしれないから。

 

「早苗は、どうする?」

「私は……」

 

 ひとつ、未練を振り払う間があった。

 

「……私も、行きます。私も永琳さんと同じで……志弦は、なにか特別な理由があって眠ってるんじゃないかって、思うので」

 

 傍にいたくないはずがなかった。不安でないはずがなかった。志弦がどうなってしまったのか、いつ目を覚ますのか、本当に目を覚ましてくれるのか――己の理解が及ばない現実への悔しさを、呼吸ひとつで断ち切るのは容易でないはずだった。

 なのに、生意気なほど澄んだ瞳をしている。口端の影に笑みすら見せて、一歩、踏み出すように言い切った。

 

「自分にできることをやって、信じて、待っていようと思います」

「……そうか」

 

 ――たった、十とそこらの少女であるはずなのに。

 何千年を生きた大妖怪より、よっぽど強いではないか。輝夜といい早苗といい、こういうところは見習わないとな、と月見は苦笑した。

 竹林の外までの道案内は、今回は輝夜が買って出てくれた。一時期月見は、雪が降ったあとの竹林なら、足跡が目印になって迷わず往来できるのではないかと考えていたことがある。普段永遠亭と外を行き来するイナバの歩いた跡が、獣道のようになるのではないかと。その淡い期待はもちろん、地面を縦横無尽に埋め尽くすぐちゃぐちゃの足跡を前に呆気なく砕け散った。

 よくよく考えてみれば当然のことだった。雪玉に雪うさぎ、雪だるま、かまくらと、妖精にも負けない元気な跳ね回りっぷりだったのが窺える。加えて深い霧と降り積もった雪が重なることで、地面と宙の境界すら曖昧な白一色の世界になっていて、案内がなければ百発百中で迷うだけなのは想像に難くない。

 

「それにしても、今年ももう終わりだってのに、ギンはちっともゆっくりさせてもらえないのね」

「ほんの昨日までは、なにもなくて退屈なくらいだったんですけどねー」

 

 白い竹林を、月見はゆったり空を飛んで移動している。霧が深い竹林では、気をつけていてもふとした拍子にはぐれてしまう危険があるので、ちゃんと手を繋がなければならないのだ――と妙な勢いで力説され、仕方なく輝夜と手を繋ぐというオマケ付きである。一体なにがそこまで楽しいのか、先を進む彼女の背中はスキップを踏むようで、ご機嫌に鼻歌まで口ずさんでいる有様だった。

 一方の早苗は月見の尻尾を、手を繋ぐ代わりとするようにホールドしている。大好きなもふもふを思う存分堪能できるお陰で、こちらも永遠亭を出た直後と比べればすっかり元気になっている。自然と輝夜との会話も弾み、

 

「月見さん、いろんなところにお知り合いがいますから……やっぱりその分、なんというか、巻き込まれやすいんですかね」

「困ったときは、とりあえずギンを頼ればなんとかなる! って感じだしね」

「あー、わかります。なんか、すごくなんとかなりそうな感じしますよね」

「こらこら、人を便利屋扱いしないでくれ」

「でも、頼られたらなんとかしたくなっちゃうんでしょ?」

「……」

 

 まあ、そう言われるとなにも言い返せない。輝夜と早苗の、くすくすと、すべてわかりきったような息遣いがこそばゆい。

 輝夜に、肩を軽やかに叩かれる。

 

「だいじょーぶ、今回だってなんとかなるわよ。年越しは、ギンのとこでみんな集まって宴会って決まってるんだから」

「ああ。そのためにも、早く解決させないとね」

 

 正直、白蓮の復活自体はさほど重く考えていない。ナズーリンが指揮を執る宝塔の捜索はもちろん、飛倉の破片も、山の妖怪たちの力を借りた人海戦術なら簡単に片付くだろう。だから問題は、白蓮ではなく『神古』の方。

 腹は、決まっている。

 

「私はこのあと、人里に行くよ。いくつか済ませたい用事があるからね」

「人里……ですか。なにか、私がお手伝いできることはありますか?」

「ないわけではないけど。野暮用みたいなものだし、先に戻ってもいいぞ?」

 

 早苗は首を振る。

 

「いいえ、お手伝いさせてください。できることからやるって、決めたんです」

「……わかったよ。それじゃあ、手伝ってもらおうかな」

 

 野暮用といっておいてなんだが、人手があると助かるのは事実なので、ありがたく受けることにする。

 

「はいっ。それで、なにをすればいいんでしょう?」

 

 やる気いっぱいな早苗に、月見はずばり端的に告げた。

 

「食材の買い出しを頼む」

「え」

「買い出しを」

「……買い出し?」

「買い出し」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 だから野暮用だと言ったのだ。

 なにせ、一週間以上も家を空けていたのである。置きっぱなしになっていた食材や日持ちのしないお菓子はとっくに藍経由で処分してもらったから、今の水月苑に食べられる物はほとんどなにも蓄えられていない。買う物を買っておかなければ、来客の歓迎はもちろんのこと、本日の昼餉夕餉(ひるげゆうげ)にだってありつけないのだ。

 

「それじゃあ、頼むよ。荷物はあとで私が持つから、気にしないで買ってしまってくれ」

「わかりました」

 

 竹林の入口にて輝夜と別れ、やってきた人里の上空で、月見は早苗に財布を渡した。

 

「月見さんは?」

「慧音にちょっと用があってね。知り合いに顔を見せつつ、そっちを先に済ませてくるよ」

「じゃ、私セレクトで買っちゃいますね!」

 

 この『私セレクト』に後々頭を抱えさせられる羽目になるとは、もちろん月見は夢にも思っていない。

 早苗とも別れ、月見は単身慧音の家に向かう。しかし途中でふと思いつき、通りに降りて里人に確認してみたところ、この時期にもかかわらず寺子屋を開けているらしいとわかったので、そちらに行く先を変更した。また空を飛ぶか若干迷い、せっかくなので一週間振りの人里をのんびり歩いていくと決める。

 それにしても、恐らくは天狗が新聞をバラまいたのだろうが、地底の異変については月見の想像以上に情報が広まっていた。こっちに戻ってきてたんですか、とか、お怪我は大丈夫なんですか、とか、出会った里人のほとんどから心配され、中には祝いだと言って食べ物を投げて寄越す者までいるほどだった。大きい物はさすがに遠慮し、手頃な物はありがたく頂戴して先を急ぐ。

 寺子屋は、こんな時期にもかかわらず本当に開いていた。とはいえ普段通りの授業をやっているわけではないらしく、下駄箱の履物は随分と数が少なく、奥から感じる人の気配もまばらだ。忍び足で廊下を進んでいくと、聞こえてきたのは天子が元気に教鞭を執る声だった。

 年末ということもあってか、この時期の行事や風習について雑学めいた授業をしているようだ。教室の手前までやってきたので、ひとまず襖を叩いてみる。

 

「あ、はーい。慧音? 戻ってきたの?」

(……おや)

 

 ということは、慧音は留守にしているらしい。やっぱり家に向かうべきだったかな、と月見が思っているうちに襖が開いて、

 

「慧、」

「やあ」

「ひにゃああああああああああ!?」

 

 めちゃくちゃびっくりされた。

 人見知りなアリスも苦笑いな反応だった。月見に背を向け脱兎の如く逃げようとしたところで足がもつれ、畳でなければ普通に怪我をしていたと思しき見事な勢いで、へぐぅっと顔面からすっ転ぶ。もはや見慣れた光景である。比那名居天子はどういうわけか、予想外のタイミングで月見に出会うととんでもなくびっくりしてしまうのだ。

 生徒の子どもたちも今となっては、天子がへぐぅした程度では眉ひとつ動かさない。それどころか誰一人として天子を見てすらおらず、

 

「あーっ、おきつねさまだー!」

 

 古き()き畳敷きの教室がわっと沸き立つ。一拍遅れて天子が復活し、

 

「つ、つつつっ月見!? も、戻ってきてたの!?」

「ああ、今朝ね」

「そ、そうだったんだっ……」

 

 立ち上がった彼女はそわそわしながら髪を整え、強張っていた頬を無防備に弛緩させて微笑むと、

 

「えっと、その……お、おかえ」

「「「おきつねさまーっ!!」」」

「うおっと」

 

 しかし年端も行かない人間の子どもたちに、空気を読むなどという大人の概念は通用しない。勉強道具を放り投げて一斉に月見の下へ殺到し、久し振りーと喜んでくれたり、怪我大丈夫なのーと心配してくれたり、本体(つくみ)そっちのけで尻尾をもふもふし始めたりする。

 いろいろと台無しにされた天子が怒った。

 

「こ、こらみんなぁっ! 授業! じゅーぎょーうーっ! 席に戻りなさーい!」

 

 誰も聞いちゃいない。天子はがっくり項垂れて、

 

「もぉー……」

「悪い悪い、授業の邪魔をしに来たわけじゃないんだ。……というか、まだ授業をやってるんだね」

「あ、うん。ほら、今の時期って、今の時期だからこそ忙しいご家庭もあるでしょ。みんなまだ小さくてお手伝いもできないから、昼間のうちはここで預かってるの」

 

 なるほど、そう言われてみれば授業を受けているのは、外の世界でいえばランドセルを背負うかどうかも怪しい子どもたちばかりだ。寺子屋というよりも、この時期限定の託児所だな、と月見は思う。そして、そうやって子守りをする天子の姿がまたよく様になっている。『天使先生』は、今でも変わらず老若男女を問わない里の人気者である。

 

「お疲れ様。もうすっかり一人前の先生だね」

「そ、そう? そうかなっ……」

 

 すっ転ぶ天子には目もくれないくせに、子どもたちはこういうところでやたらと目ざとい。

 

「せんせい嬉しそうー」

「せんせい、狐のお兄さんに会えなくてすごく寂しがってたからねー」

「ちょ」

「あー今おきつねさまのこと考えてるなー、って顔見れば一発でわかるもんねー」

「……じゅ、じゅぎょう! はいっ、授業に戻るよ! 席に着きなさーいっ!」

 

 己のピンチを察した天子が、すぐさま実力行使で月見から子どもたちを引っ剥がしていく。元気なブーイングが飛び交う中、月見はせっせと動き回る天子の背に向けて、

 

「慧音に用があったんだけど、今はいないのか?」

「え、け、慧音? 慧音なら、阿求のとこに行ってるけど……席に戻りなさいってば!」

「ありがとう、行ってみるよ。……ほら、放せお前ら。授業はちゃんと受けるんだよ」

「「「えーっ」」」

「私は忙しいんだ。はい、離れた離れた」

 

 一層激しさを増すかわいらしいブーイングに構わず、尻尾でぺしぺし叩いて追い払う。早く用事を済ませて早苗と合流しなければならないし、あまり授業の邪魔をしては、あとから話を聞きつけた慧音に怒られる可能性だってある。早め早めの行動が肝要なのだ。

 

「年越しの準備?」

「まあ……そんなところかな」

 

 誤魔化しこそすれ、嘘を言ったつもりはない。本当に、年越しの準備みたいなものだ。後腐れなく今年を終え、気持ちよく来年を迎えるために必要なことだから。

 

「それじゃあ、邪魔したね」

 

 すべての子どもを席に戻らせ、回れ右をしようとしたところで、天子に袖をつままれた。彼女自身、無意識の行動だったらしい。月見が振り向くと我に返り、弾かれたように手を離して一歩あとずさると、しおらしく縮こまりながら辛うじて言った。

 

「あ、あの……大変なときはなんでも言ってね。手伝うから……」

 

 ――天子。お前には、異変のときに充分すぎるほど助けてもらっただろう。

 そんなことない、助けられたのは私の方だもん、とはっきり返されるのが目に見えているので、なにも言わないけれど。しかし、普段から月見を世話焼きだのなんだの言って呆れる彼女たちこそ、その実大層なお人好しではないかと思うのだ。

 無論、それで月見がなにかを頼むつもりはないし、天子も本当に頼まれるとは思っていないだろう。言ってしまえば単なる気持ちだけのやりとりで、それ以上の意味があるものではないはずだった。

 でも、なにも悪いことではない。

 月見も微笑み、心を返した。

 

「ああ。どうしても困ったときは、お願いするよ」

「う、うんっ」

 

 月見たち妖怪が時に人間を助け、天子たち人間が時に妖怪を助ける。そういう営みが今の幻想郷にはあるし、そういう世界を白蓮には見せたいと思う。

 月見の昔馴染が創りあげた、この幻想の世界を。

 妖怪を愛する人間は、果たして気に入ってくれるだろうか。

 

 

 

 

 

「――あら御狐様、こっちに戻ってきてたのかい! 怪我をしたって聞いて心配してたけど、すっかり元気になったみたいだねえ、よかったよかった。じゃあはいこれ、お供え物。……え、やだねえ、御狐様が妖怪だってちゃんとみんなわかってるさ。でも、ほら、そんな細かいことどうだっていいでしょ?」

 

 以前月見は藍から、「最近里で、私のことを稲荷だと勘違いしてる人がいるんです……」と神妙な顔で相談されたことがある。

 藍お前もか、と思ったものである。

 そして今、いやぜんぜん細かくないけど、と思っている。というかこいつら、私を妖怪だとわかった上でわざと稲荷扱いしてるのか。

 寺子屋をあとにした月見はすぐ阿求の屋敷に向けて出発したのだが、通りでまた里人たちに捕まってしまっていた。迂闊だったとしか言い様がない。時刻が次第に昼へと近づき、通りの活気は最高潮へと高まりつつあるせいで、先にも進めずすっかり立ち話になってしまっている。そしてそこへ、怪我が治った祝いだとかお供え物だとかこの前世話になったお礼だとか、様々な言い分で次々と食べ物が飛んでくるのである。

 

「待ってくれ、これ以上はさすがにもう持てないから」

「はい袋。次買い物に来たときにでも返しとくれ」

「……うん、ありがとう」

 

 ともかく、こんなところをもし早苗に目撃されたら月見の立つ瀬がない。まるで、少女一人に買い物を押しつけてのうのうと遊んでいるみたいではないか。慧音に用があるんだと繰り返して強引に振り切り、通りを外れて人気が少ない路地まで逃げ込んだ。

 まったく、と月見はようやく一息つく。尻尾の先には、今しがた買い物を終えたばかりのように膨らんだ手提げ袋が引っ掛かっている。一度でこんなにもらってしまったのははじめてだ。一年の終わりということもあって、どいつもこいつも気前が良くなっているのかもしれない。

 気を取り直し、月見は今度こそ阿求の屋敷へ向かう。幸いにも月見以外に人影はなく、開放感からついつい歩みも早足となり、左右確認を怠ったまま角を曲がったその途端、

 

「おっと」

「おうっ」

 

 赤い少女とぶつかりかけた。お互いすんでのところで立ち止まったが、少女の方は雪でバランスを崩してしまい、

 

「あっ」

 

 首が落ちた。

 

「……」

「……」

 

 ちょうど足元から月見を見上げる形となって、今日も今日とて無表情な生首は無造作に一言、

 

「う~ら~め~し――あの待ってください旦那様、無視はいけません、いけません」

 

 立ち去ろうとした月見は足を止め、緩い吐息ひとつで仕方なく振り返る。そういえば彼女はこの里で、人間たちに紛れてひっそりと生活している妖怪の一人なのだった。

 

「……やあ、赤蛮奇」

「はい。おはようございます」

 

 妖怪草の根ネットワークの問題児、赤蛮奇である。月見は生首を拾い上げ、棒立ちになっていた胴体の上にそっと乗せた。周囲に人影がなくて本当によかった。

 

「ふう。さすが旦那様です、眉ひとつ動かすことなくスルーするとは」

「すまなかったね、ちょっと急いでいたものだから」

「そうなのですか。ところで、地上に戻っていらしたのですね。お噂はかねがね聞いております、地底の異変を見事解決に導いたと」

 

 まあ、「お急ぎでしたらどうぞ行ってください」なんて気を遣ってもらえるわけはないとわかっていた。

 

「お怪我をされたと聞いて、みんな心配していました。ひめも影狼も」

「この通り、綺麗さっぱり治ったよ。心配掛けたね」

「安心しました。ところで影狼といえばですね、この前なんとなんと」

 

 一度変な方向へ話題が逸れてしまったら、そこからはもう完全に彼女のペースだ。影狼がなにをやらかしたのかは大変気になるところだが、月見は堅い心で己を律して、

 

「赤蛮奇、悪いけど先を急がせてもらっていいかな。済ませたい用事があるんだ」

「おや……ああ、もう年末も年末の数え日ですからね。ところで大晦日は、旦那様のお屋敷で年越しの宴会をやると聞きました」

 

 まさか赤蛮奇まで知っているとは――いや、知っていて当然だろうか。大方、輝夜か妹紅あたりがわかさぎ姫に話して、わかさぎ姫が更に赤蛮奇へ話したのだろう。わかさぎ姫なら、むしろ水月苑を訪れたお客さんみんなに言い触らしていそうだ。「みんなたくさん集まった方が楽しいですよー」とか言って。

 この前のクリスマスパーティーを遥かに凌ぐ混沌の気配を感じて、月見は頭が痛くなった。

 

「わかったわかった、参加していいから。それじゃあ私は行くよ」

「ありがとうございます。ところで今日は水月苑の温泉に入れる今年最後の日と聞いてますので、あとで影狼と一緒にお伺いしますね」

「わかったわかった」

 

 今度こそ、今度こそ阿求の屋敷に向かうのだ。ざっくばらんと手を振る月見に、赤蛮奇は両手を揃えて礼儀正しく頭を下げ、

 

「あっ」

「……」

 

 落ちた。

 月見は見なかったことにした。

 

「あー旦那様、無視ですか。実は私、旦那様に頭を拾っていただくときのこそばゆい感触が地味に好きでして、あの旦那様ー、おーい……」

 

 月見は聞かなかったことにした。

 阿求の屋敷に行くんだってば。

 

 

 

 

 

 さて月見がやっとこさ人里一の屋敷に辿り着くと、ちょうど門の手前で阿求が慧音を見送りしていた。危ないところだった。もう少しでも赤蛮奇に時間を取られていたら、すれ違いになっていたかもしれない。

 

「慧音」

「ん? ……ああ、月見じゃないか」

「あ! 出やがりましたね月見さん!」

 

 出やがりましたよ。

 月見の姿を見た途端、阿求が喉を唸らせて臨戦態勢に入った。幻想郷縁起の一件を経て彼女とは和解したし、ストーキングされることもなくなったのだが、むやみやたらと目の敵扱いされるところは今でも変わっていないのだった。お淑やかな見た目で奥ゆかしい少女かと思いきや、存外阿求には怖いもの知らずというか、はきはきとして逞しい一面があるのだ。

 阿求は月見に指を突きつけ、

 

「遂に帰ってきましたか! では早速、この間地底で起こったという異変について教えてもらいますよ!」

「あとにしてくれ」

「どーせそう言うと思ってましたよーだ! いじわる!」

 

 べー! と舌を出すじゃじゃ馬に、慧音も呆れて額を覆うばかりである。

 

「まったくお前は……月見、どうか気を悪くしないでくれ。いろいろ生意気言ってるけど、これもお前に心を開いている証拠で」

「なに言ってるんですか慧音さん!」

「阿求がこんなに元気なのも、お前といるときくらいなものでね」

「事実無根ですっ!」

 

 阿求はやや口早になって、

 

「私にとっての月見さんは……そう、いつか倒すべき宿敵。ギャフンと言わせてやるんです!」

「素直じゃないなあ……」

「これ以上ないくらい素直ですっ!」

 

 慧音は吐息し、月見は浅く肩を竦めた。なんだか、気難しい猫を相手にしているような気分だ。

 

「まあいいや。……それで、地底から戻ってきたんだね。おかえり」

「ああ、ただいま。……実は、ひとつ確認したいことがあってね。お前を捜してたんだ」

「……そうか」

 

 具体的な内容に触れずとも、慧音は自ずと察してくれた。

 

「……なら、ちょうどよかった」

 

 慧音の表情が、かすかに――事情を知らない人間が見ても気づかないであろうほど、ほんのかすかに――曇った。

 それだけで、答えとしてはすでに充分だったのかもしれない。

 

「この前の満月で、ようやく情報が集まってね。それで、一度こっちから水月苑を訪ねたんだが……地底で異変があったとかで」

「……ああ。私が地底にいるうちに、満月があったんだね」

 

 地底は空がない世界だったから、月の満ち欠けなんてすっかり忘れてしまっていた。そうか、じゃあ今度満月が見られるのはもう来年なんだな、とズレた思考が頭の片隅を掠めた。

 

「……紙にまとめておいたから、私の家に行こう」

 

 それは立派な事実であり、同時に、場所を変えるための方便でもあったろう。

 阿求が首を傾げ、

 

「なんの話です?」

「なに、ちょっとした調べ物さ」

 

 慧音の切り替えは見事だった。なんてことのないそよ風みたいな口振りで、

 

「というわけで、私は戻るよ。なにか、月見に言っておきたいことは?」

「地底のこと、詳しく教えてもらいますからね! 逃げられると思わないことですっ」

「わかったわかった。今はちょっと忙しいから、あとでゆっくりとね」

「約束ですよ! 嘘ついたら閻魔様に言いつけます! 稗田家は、閻魔様ともこねくしょんがあるんですからねっ!」

 

 それはちょっと勘弁だなあと苦笑しながら、月見はしっかりと記憶のノートにメモを取った。

 阿求と別れ、慧音の家に向かう。月見も慧音も、あまり他人を交えたくない意識が働いたのか、なにを言うでもなく自ずと人気の少ない細道を選んでいた。民家の陰になり、土の混じった雪がわずかに踏み固められただけの路地で、はじめに口を切ったのは慧音の方だった。

 

「もしかして、だいぶ待たせてしまっていたか?」

「いや。……今日になって少し、事情が変わったんだ」

「……?」

 

 隣を歩く慧音が、目だけで続きを促す。

 今のところ周囲に人影はない。お互い、自然と足の運びが遅くなる。

 

「『神古』の名を恨んでいる妖怪が地底にいると、お前には話したね」

「……ああ」

「この前の異変のどさくさで、その妖怪たちが地上に出てきてしまっていたんだ」

 

 慧音が、足を止めた。少し遅れて立ち止まり、半身で振り返る月見の肩に、彼女の固い呼吸が掛かる。

 

「――まさか。それで、志弦が」

「大丈夫。なにもなかったわけではないけど……とにかく今は状況が落ち着いて、志弦の方も心配は要らない」

「……そう、か」

 

 にじむような、ため息だった。

 

「それで……私を捜していたんだな」

「ああ」

「……」

 

 慧音が唇を引き結び、顔を伏せる。それは葛藤であり、同時に月見への謝罪のようでもあった。彼女が一体なにを迷い、なにに責任を感じるというのか、まさか月見が的外れな想像をしているわけではあるまい。

 

「慧音」

 

 だから、言う。

 

「ここに来る前にね、輝夜に活を入れられたんだ。この期に及んで、赤の他人だったなんてしょうもないオチはありえないって」

「……」

「そうだったんだろう?」

 

 離れた通りの喧騒が、屋根の上を飛び越えていった小鳥のさえずりが、今はただの雑音でしかなかった。意味を持たない灰色の音の波が右から左へ抜けていく。なのに、慧音が拳を解き、代わりにスカートを握り締めた衣擦れだけはやたらと鮮明に聞こえる。そう遠くはない店で早苗が声高に油揚げを大量注文したが、今は月見にも慧音にも届かない。

 糸雨(しう)が枝を伝い、一筋の雫となってこぼれ落ちるような。そんな時間だったと、月見は思う。

 

「……ああ」

 

 泣き笑いにも似た、慧音の顔だった。

 わかっていたことだ。

 

「お前の、考えている通りだよ。志弦の中に継がれた血の歴史。つながっていた。ぜんぶ、あのときから、ずっと」

 

 ――ようやく、楽になれた気がした。

 耳に届く雑音が色を取り戻していく。胸の奥の更に奥底、精神の根本まで深く深く染み込んでいく、途方もない理解だった。思いの外、重く両肩にのしかかっていたのだ。そうであればいいと願っていたし、そうでなければいいとも祈っていた。二つの想いの間でせめぎあっていた。けれどやっと、どちらにも歩み寄れない中途半端な自分と、すっぱりと袂を分かつことができた。

 輝夜の言葉と、慧音の存在。

 どちらが欠けてもこの瞬間はありえなかった。彼女たちの力に、月見は救われたのだ。

 

「ありがとう、慧音。これで、完全に腹が決まった」

「……そうか」

 

 もしかすると、憑き物が落ちたような顔でもしていたのかもしれない。慧音の体からも、悪い強張りがふっと解けていって、

 

「よかった。お前を、余計に迷わせてしまうんじゃないかと思ってたんだ」

「……少し前の私なら、そうだったかもね」

「輝夜、か。あの方も、お前を支えられる女になったんだね」

 

 しみじみと二度も三度も頷いている。妹紅経由か、はたまた月見と輝夜の過去を知る数少ない人物の一人だからか、あのお姫様とは決して知らない仲ではないらしい。

 

「一筋縄では行かないかもしれないけど……私は信じてるよ。『神古』を恨んでいるという妖怪たちも、封じられた聖白蓮という僧侶も、そして、志弦も。みんなここで、仲良く暮らしていけるって」

「……ああ」

 

 霧は晴れた。豁然(かつぜん)と開けた視界の先、白蓮の下へと続く道を遮るのは、乗り越えるべき明確な障害物だけ。だからあとは、越えていくだけでいい。

 千年以上の時を超えて再びつながった因果な(えにし)に、思っていたほどの衝撃や感動の類はなかった。そりゃあそうだ、志弦は本当にあいつとよく似ていたのだから。前々からそうなのかもしれないと予感し、もしもそうであればと内心では期待していた。そして、その通りだっただけのこと。だから月見の心にあるのは衝撃でも感動もなく、未だ終わりの見えない懐かしさと、ほんのひとつまみの喜びだけ。

 今年の最後の、大仕事となろう。

 

「と、すっかり立ち話になってしまったな」

 

 慧音はまた歩き出し、

 

「私の能力でわかったことは、ぜんぶ紙にまとめておいたから。なにかの助けになればいいけど」

「なっているさ。もう充分ね」

 

 そのとき。

 慧音と並んで踏み出した、月見の背を、

 

「……?」

 

 ――あふれる懐かしさが勝手に生み出した、独りよがりな錯覚。

 そうに決まっている。振り返ったところで見えるのは人気のない路地の風景であり、それ以上のなにかがあるわけではない。だから、これは立派な気のせいなのだ。

 

「どうした?」

「……いや」

 

 けれど今だけは、そんな気のせいがあってもいいはずだと月見は笑う。

 一人は、ひっ叩くように荒っぽく。また一人は、寄り添うようにそっと優しく。

 

「なんでもないよ。……ああ、なんでも」

 

 どこかの懐かしい鴛鴦(おしどり)夫婦が、進むべき先へ押してくれた気がしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 神古志弦は、夢を見ている。遠い昔の、夢を見ている。

 

 かつて人の姿を騙り、人々の世に交じって生きた狐の妖怪と。

 自分の中に継がれた血が、出会い、別れた、遠い遠い昔の夢。

 

 まるで生まれ変わったみたいに鮮明で、鮮烈で、自分自身が『彼』になったのではないかと錯覚してしまうほどだった。夢と呼ぶにはできすぎた夢。この世界において、志弦は間違いなく『彼』だった。それこそが志弦に与えられた、『過去を夢見る程度の能力』だった。

 ズルいと、思った。だって、だって目の前のこの世界が本当なら、月見が志弦を見て冷静でいられたはずがないのだ。『神古』の名を聞いて、なにも思わなかったはずはないのだ。今になって振り返れば、ちらほらとそれらしい言動が思い当たる。けれど彼は――それどころかあのお姫様だって、結局、志弦にはなにも教えてくれなかった。

 

 一言物申さねばなるまい。この夢から覚めたら。

 思いっきり、ぶん殴ってやるのだ。

 

 あの日、あのとき、あの銀の光に――神古秀友(ごせんぞさま)が、誓った通りに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑤ 「REMINISCENCE ①」

 

 

 

 

 

 幻想郷には、『程度の能力』なるものがある。

 早い話が、その人に備わった性質や技術、ないし物理法則を超えた特殊能力を総称する概念である。志弦の身近で例を挙げれば、早苗は『奇跡を起こす程度の能力』を持っている。神奈子と諏訪子に祈祷を捧げることで摩訶不思議な奇跡を引き起こす能力であり、風祝――すなわち巫女としての技術、ないしは洩矢の血筋に受け継がれた秘術の体現であると言える。また、大地の神である諏訪子なら『坤を創造する程度の能力』、雨風の神である神奈子なら『乾を創造する程度の能力』であり、彼女らの神としての性質が具現化されたものと考えることができる。

 そんな『程度の能力』は、自己申告制であるという――と書くと妙な誤解を招きそうだが、要は自分自身で気づくものなのだと早苗は言っていた。ある日、ふとしたきっかけで。もしくは前触れなどなく、降って湧いたように。「ああそうなんだ」と、神のお告げが如く、理解できるようになるのだと。

 そして、その通りだった。まさしく早苗の言葉通りに志弦は能力に目覚めた。『過去を夢見る程度の能力』――名前はもちろん、どんな能力なのかも、どうやって使うものなのかも、埋もれていた記憶が甦るようにすべてはっきりと理解したし、その事実になんの違和感も抱かなかった。ただ一言、「ああそうなんだ」、と。

 もっとも、よしんば違和感があったとしても、志弦は喜んでこの能力を受け入れていただろう。

 この能力は、夢という媒体を用いて、他人の過去を知る(・・・・・・・・)ことができる。

 いや、「知る」などと行儀のいいものではない。まるで己の魂だけが過去へ飛び、その人へ憑依したかのような、あまりに色鮮やかで強烈な追体験だった。

 まったく都合がよすぎて笑ってしまう、願ったり叶ったりの能力だった。

 

 だから、使った。自分とよく似たあの不思議な声に導かれるまま。もしも白蓮を封じた『神古』が、志弦と同じ『神古』なら、ご先祖様の過去を遡っていけば必ず真実に辿り着けるはずだった。

 そして、やがて志弦は知るのだ。

 そもそもの事の発端として。遥か昔の、人の都で。

 ご先祖様と月見が、唯一無二の親友同士だったのだと。

 

 とにかく志弦としては、月見を一発思いっきりぶん殴りたいのである。

 だって月見は、わかっていたはずなのだ。なんてことのない顔をして。はじめて志弦の名を聞いたときからずっとその可能性(・・・・・)を疑って、大なり小なり困惑していたはずなのだ。

 なのに月見は、なにも言ってくれなかった。なんてことのない顔をして。たまたま『神古』の名を恨む妖怪がいて、たまたま志弦がこの能力に目覚めたからよかったものを、そうでなかったら一生なにも教えてもらえなかったのかもしれない。

 こんな、こんな、大切なことを。

 

 なにも教えてくれないまま、勝手に秀友の前から消える真似をして。

 なにも教えてくれないまま、今までずっと何食わぬ顔をして。

 ぶん殴ってやる。

 秀友だって、同じ気持ちだ。

 

 ……けれどそれは、夢が覚めてからでいい。

 今は、とにかく知ることだ。『神古』と月見。『神古』と白蓮。すべての(えにし)をこの能力で知って、知り尽くして、なにもかもを明らかにして――それから、みんなに会いに行くのだ。

 

 神古志弦は、夢を見ている。

 ご先祖様が月見と出会い、助け、助けられ、笑い、笑われ、感謝し、感謝され、別れた記憶。

 そして、月見ですら知らない記憶。

 すべての発端となった――残されたあとの、神古秀友(ごせんぞさま)の話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その当時、神古志弦は――否。

 神古秀友は、太陽が天高く昇りきらないうちから外で酒を飲んでいた。

 

「「「いえーいっ!!」」」

 

 仕事がないのである。誤解がないよう正確に書けば、今日はたまたま陰陽師絡みの依頼がなくて暇だったので、これ幸いとばかりに朝から酒を呑んでいるのである。

 都の隅の隅、人目を上手く外れた通りの隅っこで、石やら木材やらを寄り集めて即席の座席を作り、都合のついた知人友人を三人ばかり集めてきて。仕事をしなくていい開放感に包まれながら、晴れ渡る大空の下で呑む酒は、なんだか駄目な人間になってしまいそうなほど(うま)かった。

 

「いやー、やっぱり酒は旨いっすねー」

 

 集まった面子の中では一番年下になる丸顔の青年が、ため息をつきながらそう言った。続け様に、秀友とはほぼ同い年になる細顔の男が、

 

「そうですねえ。普通であれば僕たちの手が届くようなものではないからこそ、余計にそう感じます」

「やっぱ、日頃から貴族相手にも仕事してるやつは違うね」

 

 秀友よりひとつ年上になる角顔の大男が、体当たりかと思うほど豪快に肩を組んできた。お陰で貴重な酒が少しこぼれる。

 

「秀友サマがすっかり有名人になったお陰で、俺らはこうしておこぼれに(あずか)って酒が呑める。いや、まったく感謝感謝だな」

「やめろって。そんなつもりでお前ら誘ってんじゃないっつの」

「だが実際、有名人だろうがよ」

 

 まあ、まったくの無名というわけではない、のかもしれない。この都で生活を始めて十年以上、陰陽師の端くれとして今やそこそこ名が通り、こうして仕事のない日が珍しくなる程度には、人々から頼りにされることも多くなった。貴族とも、少なからず縁ができるようになった。同業者の中では、充分に上手くやっている方ではあるのだろうと思う。

 しかしそれでも、自ら有名人だと自惚れるほど秀友は馬鹿ではない。

 記憶の海へ沈みかける秀友をよそに、丸顔が無邪気に笑って賛同する。

 

「そうっすよ。特に町のみんなからの人気じゃ、間違いなく秀友さんが一番ですって!」

 

 胸の奥の方が、じくりと痛んだ。

 秀友の口から、湿った笑みがこぼれた。

 自嘲だったのだと思う。

 

「……オレは、一番じゃねえよ」

 

 言葉はまっすぐ、地面に落ちる。語りかける相手すら、見失っているように。

 

あいつ(・・・)が、一番だったはずなんだ」

「――あ、」

 

 やっちまった――そう丸顔が息を詰めたのが、顔を見ずともこれ以上なくよくわかった。すぐに細顔が躊躇いのない張り手を喰らわせ、角顔が容赦のない裏拳を叩き込んだ。げぼろ、と低く下品な呻き声が聞こえた。

 

「……あ、あー。その、なんだ」

 

 角顔が、腫れ物を怖々指先でつつくように、

 

「わりぃな、あいかわらず気配りってのができねえやつで。こんなだから女の一人もできねえんだ、ハハハ」

 

 丸顔は、地面にひっくり返ってピクピク痙攣している。

 

「まったくですね。……それより、さあ呑んでください。これはあなたの酒なんですから、あなたが呑んでくれないと僕たちだって呑みづらいじゃないですか」

 

 細顔はいつも通り涼しい顔をしていたが、苦し紛れの話題転換だったのは言うまでもない。秀友は肺の空気を悪い思考とまとめてすべて吐き出し、首を振って、一気に吸った。

 

「あー……すまん。悪いのはこっちの方だ」

 

 空を見上げ、肩から力を抜いて、女々しい自分自身へ噛んで含めるように、

 

「……ほんと、いつまで引きずってんだって話だよな」

 

 もう、十年も昔の記憶であるのに。

 秀友には、友がいた。ここに集まっている面子とは比べ物にもならない、唯一無二、至上という賛辞すら惜しみないほどの友がいた。

 今は、もういない。

 人間、いつかは別れが来るものだと頭ではわかっていたけれど。どうしてあいつだけがあんなにも、理不尽なほど早く旅立たなければならなかったのかと、秀友は今でも(ほぞ)を噛み千切るほどの思いに駆られる。

 本当は、あいつが一番だったはずなのだ。あいつが間違いなく、同じ年代の中では並ぶ者のいない陰陽師だった。もしも今でも生きていれば、秀友の師(・・・・)すらも超える都随一の存在となっていたはずだった。

 それが、あの日、あのとき、すべて断たれた。

 

「……無理もねえよ」

 

 角顔が、言葉を探して口端をまごつかせている。

 

「俺だって……未だに、なにかの間違いだったんじゃねえかって思うさ。信じられるわけがねえ」

「……」

 

 あいつと角顔は、大して親交のあった者同士ではなかったけれど。そんな相手であっても未だに惜しんでもらえるあいつが、秀友は誇らしい。

 

「ちょっとは、あいつの背中に近づけてるといいんだけどな」

 

 人を助ける陰陽師になると。消えゆくあいつの前で誓ってからはひたすら研鑽に打ち込み、遠すぎる理想へ少しでも近づこうと足掻いてきた。そのために、自分のような男とは一生相容れないとすら思っていた、あの老人(・・・・)に頭を下げまでした。

 少しくらいは、あいつに胸を張れる男になっただろうか。

 

「……あの人が今のあなたを見たら、きっと誇りに思うはずですよ」

「……そうだといいな」

「そうだろうよ。おめえは本当によくやってるさ。人の努力を認めないような性悪じゃあなかったろ、あいつは」

 

 秀友は、噛むように笑った。独りよがりかもしれないけれど。へえ、お前にしては上出来じゃないか――頭の裏から、あいつがそんな風に声を掛けてくれたような気がしたから。

 

「違いねえ。……うし! とりあえず今日はのんびり英気を養って、明日からまた頑張るとすっか!」

「おうよ! そのために今日はぱーっと酒を呑んで……あっ」

 

 秀友の肩を叩こうとした角顔の動きが、縫いつけられてぴたりと固まった。

 

「? どうしたよ」

「あ……いや、」

 

 先ほどまでの腫れ物を扱う空気とはまた違う。彼の躊躇いがちな目線にこめられているのは同情ではなく、ひとつは憐れみであり、またひとつは諦めであり、死に逝く者を見送る静かな悟りの眼差しだった。細顔とともに面差しを陰らせ、

 

「秀友……お前はいいやつだったよ」

「惜しい人を亡くしましたね」

「は? いやいやお前らいきなりなに言」

「――秀友さぁーん?」

 

 あ、なるほどわかりました。

 背後。

 

「コソコソ出掛けて行ったからなんか怪しいと思えば……そうですか、朝っぱらからお酒ですかあ。ふふふ」

 

 陽光朗らかな過ごしやすい日和のはずなのに、冷や汗と寒気と鳥肌と体の震えが次から次へと止まらない。

 小気味よく砂を踏む音が近づいてくるが、一向に振り向けない。角顔と細顔は打って変わって、秀友の背後へ爽やかな笑顔を向けて、

 

「やあ、雪さん。薄々勘づいてたけど、やっぱりこいつは黙って出てきやがったんだな」

「まったくひどい亭主もいたものですね」

「いやー、そうとわかってれば俺らも注意したんだけどなー」

 

 こいつら。

 

「秀友さぁーん?」

「う、ういっす!?」

 

 振り返った。もちろん間違いなどなく、そこでは我が妻――雪が、とってもステキな微笑みで佇んでいた。

 今となっては彼女も秀友と同じで、人生の折り返し地点を回りきった大人の中の大人である。出会った頃より拳ひとつも背が伸び、髪はそれ以上に長くなって、けれど日差しが照る肌だけは未だ成熟を知らず、身にまとう着物さえ上物ならば貴族も欺く(あで)な女になった。怒らない限りはまさに天女のような、秀友の自慢の妻であった。

 怒らない限りは。

 そして目の前の雪は、明らかに怒っているのだった。秀友は表情筋が震え上がるのを感じながら、

 

「……や、やー、雪さん。これはその、こいつらから誘われて」

「嘘」

 

 泣きそう。

 秀友は助けを求めて首で後ろを振り返る。角顔と細顔が、「我らが友の冥福を祈って……乾杯」とかやっている。丸顔は死んだフリをしている。こいつら絶対あとで殴る。

 響きだけなら至って優しい笑みの声、

 

「まったくもう。どうして秀友さんは、何回言ってもわかってくれないんですかねえ」

「……お、」

 

 頭の中がぐるぐる回っている秀友は、自分でもなにを考えているのかわからなくなりながら、とりあえずなにかを言わねばとつい生き急ぎ、

 

「お、落ちちまったのさ……酒との禁断の恋にな」

「ん、今日の言い訳はつまんないですね」

 

 死刑宣告いただきました。

 

 

 

 

 

 ――笑顔の妻に襟首を掴まれ、ズリズリ引きずられて連行されていく友人のしかばねを、角顔と細顔は酒を呷りながらやれやれ心地で見送る。

 

「あいかわらず、あいかわらずですね。あの二人は」

「あそこまで仲いい夫婦も珍しいよなあ」

 

 今のご時世、女は男に付き従うもの、所謂男尊女卑の考えが一般的であるのに。互いが対等、いやむしろ見事なまで尻に敷かれているのは本当に珍しい。

 そしてだからこそ、神古夫妻は界隈で知らぬ者などいない、お手本のような鴛鴦(おしどり)夫婦なのだった。

 

「おい、もう起きても平気だぞ」

「……ふ、ふぅー。やっぱ、怒ったときの雪さんはめっちゃ怖いっすねえ……」

 

 角顔が爪先で小突くと、死んだフリをしていた丸顔がゆるゆる起き上がった。服についた砂を払い、ついでに額の冷や汗も拭って、

 

「ああでも、そこがまた素敵っすわあ。いいなあ秀友さん」

「そうかお前そういう趣味か」

「近寄らないでくれます?」

「誤解っす! ただこう、俺もいっぺんああやって引きずられてみたいってだけでぼぐろ」

 

 裏拳一発で丸顔を再び沈め、角顔は盃の酒を一息で空にし、

 

「……そういやこの酒、どうするか」

 

 足下には、置きっぱなしになった秀友の酒。

 細顔と顔を見合わせ、無言の議論は三秒で決した。

 

「――ありがたく呑み干しましょう。秀友さんの形見です」

「だなー」

 

 持ち主に返すなんて、勿体ない勿体ない。

 どこからか友人によく似た声で呪詛が響いてきたが、空耳であろう、そうであろう。

 

 

 

 

 

「――秀友さん。私、お酒を呑んではいけないと言ってるわけじゃないんですよ。仕事がないからって朝から呑んだくれて、ぐうたらな一日を過ごすのがいけないと言ってるんです。秀友さん、お酒を呑んだあとはすぐ寝ちゃうじゃないですか。しかもなかなか起きないし」

「うぐー……それは、そうだけどよぅ。でもよぅ……」

「グズグズ言わない。みっともないですよ」

 

 雪に襟首を掴まれ引きずられながら、秀友は雲もまばらな青い空を見上げている。天下の都の往来で、朝っぱらから女が男を引きずって歩いている――普通であれば間違いなく奇異の目を引く光景のはずだが、道行く町人から注がれるのはむしろ秀友への呆れと雪への同情である。「ああまたか」というやつだ。秀友もこうやって引きずられるのにすっかり慣れてしまって、今となっては恥ずかしくもなんともなくなってしまった。

 

「銀山さんに呆れられますよ」

「別にいいよあいつにだったら呆れられても」

「またそんなこと言って」

 

 雪の声音が、少し笑った。

 

「ちょっとは銀山さん離れしなさい」

 

 秀友も口端を曲げて呼気ひとつで笑った。銀山離れ、というと語弊はあるだろうけれど。己の心にまとわりつく呪いのようなあいつの幻影と、折り合いをつけられる時は来るのだろうか。

 お前みたいな立派な陰陽師になると、消え行く銀の光に誓った。あれが呪いだったのだと思う。十年が経っても、どれだけ研鑽を重ねてもなお秀友の心を縛りつける、呪詛のような約束だった。

 けれど、誓ったことを後悔してはいない。なにもできなかった自分にはこれくらいがちょうどいい。それどころか、今の秀友にとっては呪いすらひとつの拠り所なのだ。この呪いがあるお陰で、自分はあいつの背中を追いかけるために、ひたすら前を向けているのだから。

 

「とにかく久し振りの休みなんですから、あの子(・・・)と一緒にいてあげてください」

「うーい」

 

 秀友は気の抜けた返事をした。子どもの相手は嫌いではないのだが、何分年を取ってきたせいか最近体力が右肩下がりで、元気いっぱいなやんちゃ者の面倒を見るのも重労働になってきた。年中無休で日がな一日、疲れた顔ひとつも見せない我が妻は本当にすごいと感服する。

 骨の折れる休みになりそうだと、秀友は脱力し――そのときふと、風が吹いた。

 なんてことのない、普通であれば誰も気にも留めないような、ほんの束の間のそよ風だった。

 

「――、」

 

 しかしこの都に住む人間で、秀友だけがわかった。

 この風は。

 

「――雪さん」

「なんですか?」

「ちょっと急用だわ」

 

 声色が変わった秀友に、雪が足を止めて振り向く。秀友は緩んだ彼女の手から抜け出し、立ち上がって、音もなく流れる風の行き先を目で追いかける。

 間違いない。

 怪訝な雪の瞳に、一言で返した。

 

「師匠が呼んでる」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 銀山が雪たちの前から消えて、数日もしないうちの出来事だったと記憶している。秀友が、大部齋爾(おおべのさいじ)に頭を下げて師事を乞うたのは。

 学のない雪に、秀友の仕事の詳しいところまではわからないけれど。それでも大部齋爾という老翁が、銀山を以てして「半分は人間をやめてる」と言わしめた超人であることは知っていたので、立派な陰陽師になると消え行く友へ誓った秀友が、師事を縋ったのは必然だったのかもしれない。

 意外だったのはただ、齋爾が本当に、乞われるまま秀友を弟子に取ったことだけ。

 

「――どうぞ」

 

 秀友に連れられて雪が訪れたのは、とある貴族の邸宅だった。雪一人であれば、まず立ち入ることも面会すらも許されない高貴な人の住む場所だった。陰陽師はただ妖怪を退けるだけにあらず、しきたりに則った穢れ祓いや吉凶占いも司る。貴族はとりわけそういった縁起担ぎを重要視するので、陰陽師にとっては所謂お得意様であり、故に秀友は貴族相手でもそこそこ顔が利くのだった。

 雪の家を三巻きも四巻きもしそうな長い廊下を越え、呆れるほど広大な庭園を横切って、使用人の案内で通された離れはいっそ不気味なほど静まり返っていた。人の息遣いがまるでなく、雪の家と比べても小さいくらいで、こんなところに本当に人が――あの人がいるのかと、雪は今でも信じがたい思いに駆られる。

 自然と足運びが重くなる。ひび割れた氷の上を、渡るように。

 部屋の中央では梅を描いた屏風がひとつ、心もとなく雪の視界を遮っていた。その向こう側に向けて使用人が、

 

「齋爾様。秀友様がいらっしゃいました」

 

 返事はない。その代わりなのか、部屋の奥から外に向けて少し風が吹いた。あの老翁は、風の術を己が代名詞とする陰陽師だった。

 使用人が屏風の向こうに消える。「さ、ゆっくり、ゆっくり、起き上がってください」と深い気遣いの声音が聞こえ、それからかすかな衣擦れの音。あの人を床から起き上がらせる、たったそれだけの動作に、使用人はたっぷりと十五を数える時間を掛けた。

 

「――お待たせいたしました」

 

 やがて戻ってきた使用人は、雪と秀友に(こうべ)を垂れて、

 

「わたくしは、外におります。御用がありましたら、なんなりと」

 

 雪と秀友は無言の礼を返す。使用人は最後にもう一度だけ会釈して、それ以上は衣を擦る音すら躊躇うように、音もなくそっと離れをあとにした。

 前を見る。屏風の向こうには、無音だけがある。そこに人など、いないのではないか思えるほどに。

 

「雪さん」

 

 秀友が雪の手を取る。雪は唇を結び、頷いて、秀友とともに屏風の裏へ足を踏み入れた。

 朽ち果てた枯れ木のような、老爺がいた。

 

「…………齋爾サン」

 

 名を呼ぶ秀友の声が、わずかに詰まって歪んだ。その横で雪は息を殺し、咄嗟に挨拶をすることもできず呆然と立ち尽くしていた。

 ――老いてなお盛んな女好き。

 そう誰からも評されていた頃の面影は、まるで見る影もない。為す術もなく床に伏し、その大半が抜け落ちた髪に生気はなく、瞳は暗く濁り、肌は血の巡りを失ってひび割れている。かつて『風神』の異名をほしいままにした都随一の陰陽師は、今や無惨とすら思えるまでに痛ましく老いていた。

 以前見舞いをしたときはまだ、こんなにもひどくはなかったはずなのに。

 声を掛けるだけで、崩れ落ちてしまいそうな、朽ち果てた姿。

 齋爾は、今の時代では考えられないほどの長命だった。だから雪は、ここまで長く生きた人間というものを未だかつて見たことがなかった。すでに体は言うことを聞かなくなり、顔見知りにあたる貴族の厚意で居を移してからは、こうして必要な世話を受けなければ一人で起き上がることもままならなくなっていた。人は老いると、こうなってしまうのかと。神と呼ばれた男ですら、こうなってしまうのかと。人である限り決して抗いきれない残酷な運命の姿に、雪の心臓が押し潰されるように軋む。

 齋爾が、顔を上げた。

 かすかに、口端を曲げた。

 

「……おお、雪殿。こんなみすぼらしい姿で申し訳ありませんなあ」

 

 ――もう、目だって見えていないはずなのに。

 ボロボロと崩れる砂のような言葉に、雪はなにも返せず、ただ曖昧な笑みを浮かべるだけで答えとした。

 

「おい、人の嫁に色目使ってんじゃねえよ」

 

 いきなり喧嘩腰を取る秀友に、齋爾もまた笑みを消し、臆面もなく舌打ちをして、

 

「なにをしに来た、小童」

「てめえが呼んだんだろクソジジイ」

 

 秀友が更に舌打ちを返す。だがそれは、目の前の現実を直視しきれずに出る強がりな振る舞いだった。こうやって威勢のいい言葉で話していれば、齋爾にかつての闘志が戻るのではないかと縋るようでもあった。

 男を前にしたときだけは、沸々と(たぎ)(ほむら)の如き老翁であるはずだった。積み重ねすぎた齢でその熱こそ失っても、取りつく島もなく無愛想で偏屈なところだけで変わらない。

 齋爾は、生気あふれる目下の男が嫌いなのだ。昔から。

 

「ふん。あの風が読めたということは、鈍ってはいないようだな」

「……ま、どっかの誰かさんに骨の髄まで叩き込まれましたんでね」

「呆れ果てるほど才のない愚鈍だったからな」

 

 けれど齋爾は事実として秀友を弟子に取ったし、まるで彼を己の跡継ぎとするかのようにすべての技を叩き込み、こうして一人前の陰陽師に育て上げてくれた。今まで数多くの同胞に教えを乞われながら、その一切を素気なく一刀両断してきたはずの男が、一体どういう風の吹き回しだったのか。

 その答えを教えてもらったことはないけれど、もしかすると銀山さんが関係してたのかもな、と雪は思っている。

 

「で、今日は一体どんな御用で?」

 

 秀友の問いに齋爾は即答せず、錆びついた仕草で部屋の片隅に目を遣った。なにも置かれていないがらんどうの空間に、けれど普通では捉えることのできないこの世ならざる影を見るように、

 

「……光を失い、体も動かなくなってからは、夜な夜なやって来おる地獄の遣いを捻り潰すことだけが楽しみだったが」

 

 細い息で、

 

「それも、今宵が最後だろう。――もう、疲れた」

「……!」

 

 秀友は瞠目し、雪は息を呑んだ。それは、つまり、明日の朝を迎える頃には――

 

「ふと、思い出したことがあってな。一応、死ぬ前に、伝えておこうかと思ったまでのことだ」

「……」

 

 齋爾の表情には、なんの感情も浮かんでいない。嘆くのではなく、憤るのでもなく、焦るのでも恐れるのでもなく、ただ透き通る静謐だけが彼の面差しを満たしている。

 己の死を悟り、受け入れた、人間の顔だった。

 信じられないという思いと、そうなのかもしれないという真逆の思いが、半分ずつ雪の心を支配している。あんなにも強かった男が死ぬなど信じられなかったし、けれど今の朽ち果てた齋爾を見れば、確かに、もう最期なのかもしれないと予感する自分がいた。

 秀友も同じだったはずだ。固く握り締めていた拳を、ゆっくりと解く。掛けたい言葉は、きっと違っていただろう。けれど秀友はそれを呑み込み、押さえつけ、静かに先を促すことを選んだ。

 

「……なにを、思い出したんすか?」

「――小童」

 

 齋爾が、秀友を見た。

 濁りきり、もう光が差すこともない瞳に、けれど今だけははっきりと秀友の姿が映り込んでいた。

 

「門倉銀山は生きている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――――――――――――は、」

 

 束の間、意識が飛んでいたようにすら感じた。

 そしてはっきりとした意識が戻ってきても、雪は指の一本も動かすことができなかった。肉体への認識が消失し、精神と思考だけの存在となって、齋爾の言葉の意味をなんとか理解しようと懸命にもがいていた。

 かどくらぎんざんは、いきている。

 それだけ。

 たったそれだけなのに、

 

「――それって、どういう」

 

 ようやく動いた喉は、うわ言にも近かった。

 

「雪殿、そのままの意味で捉えていただければ結構」

 

 翻って齋爾の声音は、枯れ果てていても淀みない。なんてことのない簡単な事実を、告げるだけのように。

 

「門倉銀山は――正確に言えば門倉銀山と名乗っていた男は、今もこの世のどこかで生きている」

「……………………はっ、」

 

 秀友が、一度だけ震えた。

 失笑だった。

 

「……いやいや、齋爾サン。いくらなんでもそんな見え透いた」

あやつが死んだと(・・・・・・・・)都に報告を出したのは(・・・・・・・・・・)儂だったな(・・・・・)

「――!」

 

 確かに、そうだ。奇跡でも起きていない限り生きてはいまいと――すなわち死んだと報告を出したのは、他でもない齋爾だった。都屈指の陰陽師が言うのならばと、当時は誰しもが銀山の死を受け入れるしかなかったのだ。

 しかし齋爾は今になって、銀山は生きていると真逆のことを言う。

 ならば、あの報告は。

 そして、雪と秀友に別れを告げてくれたあれ(・・)は、

 

「――そんなわけあるか!!」

 

 秀友が、力いっぱい振り下ろした拳で板敷きを打った。肩を震わし、歯を剥き出しにして、

 

「あんたは知らねえだろうけどな、あいつは! あいつは、最期に、オレたちに別れを」

あれ(・・)はただの幻術だ」

 

 絶句、

 

「そうして門倉銀山は死に、しかしその名を名乗っていた男は、今もこの世のどこかで生きているわけだ」

 

 なにも、言えなかった。

 なにを言えばいいのかもわからなかった。齋爾の言葉を闇雲に信用するのなら、銀山は今も生きていて、彼が最期の別れを告げに来てくれたはずのあの光景は幻で、彼の名前すらも偽りで――すべて、嘘だったと、いうことだ。

 もしも、もしも本当にそうだというのなら。

 どうして銀山は、そんなことをしたのだろう。どうして彼は、帰ってきてくれなかったのだろう。どうして嘘をついたのだろう。同じ自問の羅列が、雪の頭の中で幾度となく堂々巡りを始める。

 一方で、齋爾の老い故の狂言なのかもしれないと思ったし、そう考えた方が遥かに自然でもあった。信じたくなかったのだ。あの人が、誰からも信じられる存在だったあの人が、雪たちに嘘をついて、勝手に都から消えたなんて。

 だって、だってそうでなければ、

 

「――なんですか、それ」

 

 ――私たちが、捨てられたみたいじゃないか。

 あの人は(・・・・)嘘だったのか(・・・・・・)と。そう、怖くなった。

 

今際(いまわ)(きわ)の狂言と取るかは自由だ。儂はただ、思い出しただけだからな」

 

 齋爾の口振りはどこまでも淡々としていて、信じてもらおうとするでもなく、雪たちを惑わそうとするでもない。だからこそ、この人はただ事実を口にしているだけなのだとわかってしまう。

 雪ですら、そう思ったのだ。ならば、秀友は、

 

「……齋爾サン」

 

 感情を抑えた、静かな問いだった。

 

「齋爾サンは、あいつと、話したんすか」

 

 齋爾は、変わらず淡々と答える。

 

「ああ」

「……なにか、言ってましたか」

「ああ」

「なんて、」

 

 途切れた。そこから先はもう声にならず、秀友は深く俯いて、顔を覆い、容赦なくこみあがってくる熱を必死に制御しようと足掻いていた。

 だから雪は、ああそうか、と思った。

 秀友は、

 

「そう、すか」

 

 掠れた声音で、揺らめく体で、秀友は、

 

 

「――あいつは、無事だったんすね……!」

 

 

 かわいそうなまでに、安堵していた。

 ずっと後悔し続けていたはずだった。雪よりもずっとずっと、深く、重く、最果てなどなく。どうして彼だったのか、どうして自分はなにもできなかったのかと、考えぬ日など、考えずに済む日など一日たりともなかったはずなのだ。

 血がにじむほど背負い続けていた呪いから、解放された瞬間だったのだと思う。

 雪は、一瞬でも銀山を疑った自分が恥ずかしくなった。

 

「……秀友さん」

 

 そっと、心優しい夫の隣へ寄り添う。震える彼の手を取るこの体温が、少しでも伝わればいいと願って。

 どうして銀山が己の死を偽ったのか、都に帰ってきてくれなかったのかは、わからないけれど。でも、あの人のことだ。なにかそうするだけの理由や事情があったはずで、決して雪たちを騙して(わら)っていたわけではないのだと。たとえその名が偽りだったとしても、記憶の中にいる『門倉銀山』は、あのとき、間違いなく雪たちの隣にいたのだと。

 そう、信じたかった。

 

「……でも、齋爾様は、どうして」

 

 ――銀山が生きていると知って、今までずっと隠していたのか。

 そしてどうして、今になって話そうと思ったのか。

 

「――ときに、小童」

 

 齋爾から返ってきたのは雪への回答ではなく、秀友への問いかけだった。

 

「貴様、『銀毛十一尾』という名を聞いたことはあるか」

「……?」

 

 秀友は拳で目元を拭い、堰き止められていた息を大きく吐いて、

 

「……どっかで、聞き覚えは。でも、噂話、御伽噺の妖怪っすよね」

「そうだな」

 

 それで終わりだった。簡潔にそれだけ言って齋爾は瞑目し、あとはなにも言ってくれなくなってしまう。『銀毛十一尾』など聞いたこともない雪は、わけがわからず夫の反応を見つめる他ない。

 秀友もはじめは、理解が及ばず眉をひそめていた。

 はじめは。

 

「……!」

 

 目を、見開いた。

 

「まさか――いや、待ってくださいよ。本気で言ってんすか」

「確かにな。儂とて、直接問い質したわけではない」

 

 秀友がかすかに緩み、

 

「だが、妖怪だったのは間違いない。銀の妖狐だ」

「……!?」

 

 雪には、齋爾がなにを言っているのかわからない。頭が理解を拒否している。耳から入ってきた情報が喉の位置でつかえて、どうしてもそこから先に落ちていってくれない。

 妖怪、は、雪でも知っている。

 人に危害を加える者。人に恐れを抱かせる者。秀友が、人々を守るために必要ならば戦うこともある、文字通りの人間の「敵」。

 ――銀山が、妖怪だった。

 人間のふりをして、名前まで偽って、都にもぐりこんで生活していた。

 雪たちの恩人は、人ではなかった。

 そんなの、一体どうやって理解しろと、

 

「とはいえ、なんということはない。あやつは妖怪であっても、あの通りの男だった。――人とともに、生きてみたかっただけだと。そう、言っていた」

「――……」

「だから、もしも『銀毛十一尾』が本当に存在するのなら。きっとあのような姿で、あのように生きているのだろうと」

 

 一息、区切って、

 

「……儂は、そう、思っているよ」

 

 そう言い切って齋爾は、細くくたびれた息をついた。

 

「……話は終わりだ。これ以上は儂もなにも知らん。寝るから帰れ」

「……、」

 

 言葉では集約できないほど、たくさんのことを考えたと思う。銀山の無事を喜び、しかし銀山が妖怪だった事実に動揺し、言い尽くせない疑問が波濤となって押し寄せて、しばらくの間は呼吸すらままならず床に俯くだけだった。

 

「……ひとつだけ、訊いていいすか」

 

 立ち直りは、秀友の方がよっぽど早かった。不快げに顔をしかめ、けれども決して「断る」とは言わない齋爾に、秀友は正面から、

 

「どうして、話してくれたんすか」

「……」

「あんたのことだ。今までずっと黙ってたのは、話そうとも思わなかったからでしょう。墓場まで持ってくつもりだったはずっすよね」

「さあな……」

 

 齋爾は雪たちから大きく顔を背けて、ぽつりと短く、

 

「……ただの、気まぐれだ」

 

 なんとなく、嘘ではないのだと思った。特別に教えてやろうという気持ちはまったくなくて、本当にただの気まぐれで、でも齋爾自身、どうしてそんな気まぐれを起こしたのかはわかっていない。

 死期を悟った人間の、心の綻びだったのかもしれない。

 

「……言うまでもないだろうが、この話、決して他言はせぬことだな。この都で平穏無事に生きていたいならば」

「わかってますって。……ちゃんとこの部屋に結界張って、声が漏れないようにしてくれてるっすもんね?」

 

 秀友が悪戯っぽく返すや否や、齋爾は隠しもせず露骨な舌打ちをした。

 

「さっさと帰れ」

「はいはい」

 

 秀友があっさり腰を上げたので、雪は驚いた。

 

「いいん……ですか?」

 

 ――これ以上、なにも訊かなくて。

 銀山のことを。「これ以上はなにも知らない」と齋爾は言ったが、でも、それでも――今この時を逃してしまったら、もう訊くことすらもできないはずなのだ。

 だって、齋爾自身が言っていたのだから。今宵が、この時が、最期になると。

 銀山は、どこに消えたのか。

 銀山の本当の名前は、なんなのか。

 どうして雪たちには真実を教えてくれず、死を偽るような真似をしたのか。

 けれど秀友の瞳は、澄んでいた。

 

「おう。もう大丈夫だ」

 

 人間としては少なからずバカな一面があるけれど、陰陽師という仕事を立派に全うしている通り、頭脳の話をすれば彼は雪よりずっと聡明だった。雪では考えも及ばないたくさんのことを考えて、自分なりの答えを見つけ出して、だからこうもまっすぐな目をしているのだと思った。

 ならば雪は、信じるだけだ。

 

「……わかりました」

 

 立ち上がり、齋爾に、深く深く頭を下げた。

 

「齋爾様。長らく、主人がお世話になりました」

「まったくですな。儂でなければ見放しておったでしょう」

「てめえ最期くらい可愛い弟子に花を持たせようとか思わねえのか」

「やかましいわ愚弟子が」

 

 雪は小さく吹き出す。本当にこの二人は、師弟関係のくせして口喧嘩ばかりで。しかしそれこそが信頼の証というように、どちらもなんだか楽しそうな顔もしているのだった。

 

「さっさと帰れと言っているだろう」

「へーへー、帰りますよー」

 

 雪の手を取り、秀友は最期のやり取りにあるまじきほど素っ気なく踵を返す。

 けれど、齋爾の姿が衝立の向こうに消える――その、間際。秀友は突然齋爾へ向き直り、その場に胡座を掻いて座って、深く叩頭しながら両の拳をまっすぐ床に置いた。

 決して、品のいい恰好ではないけれど。それは粗野な育ちの彼が、彼なりに嘘偽りない恩義と敬意を示すときだけ見せる、最上級の感謝の姿だった。

 

「……今まで、お世話ンなりました」

 

 口を開けば、年甲斐のない罵り合いばかりでも。それでも秀友にとって、齋爾は間違いなく立派な師匠だった。要領の悪い自分を、ぶつくさ文句を言いながらも決して見捨てることなく育て上げてくれた。かつて銀山の下で陰陽術の基礎を磨いた秀友は、齋爾の下で才を花開かせ大成した。

 この老翁がいなければ、今の自分はなかったはずだから。

 

「ありがとうございました。――師匠」

 

 光を失った齋爾にも、きっとはっきりと見えていただろう。齋爾は鹿爪らしい顔で秀友を一瞥し、憎々しげに小鼻を鳴らす。肌を撫でる束の間の風が吹く。その流れが運んできたように、遠くから外の賑わいがゆっくりと戻ってくる。

 もう言葉を交わすことはない。けれど、彼らにはそれだけで充分。

 

 別れの挨拶だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 しばらく、帰り道での会話はなかった。十年以上歩き慣れた道を行く道中、秀友はなにも言わず、雪は彼の背になにも声を掛けられないでいた。

 行きと帰りでは、あまりに状況が違いすぎていた。秀友の師に当たる老翁が、自ら今宵で最期の命だと語った。そして、何年も昔に死に別れた雪たちの大切な人が、本当は生きていて、けれど正体は妖怪だったのだと告げた。そうだったのですかとすんなり受け入れられるはずもない。今際の置き土産と呼ぶには大きすぎる真実に、雪は銀山のことで、秀友のことで頭がぎゅうぎゅうになってしまっていた。

 だからだろうか。前を行く秀友が歩き慣れた通りを外れ、人目がつかない狭い路地を進んでいるのだと、しばらくの間本気で気づかなかった。

 

「……秀友さん?」

 

 奥へ進むに連れ、都の喧騒が引くように消えていく。一度気づいてしまえば、理解は早かった。曲がりなりにも陰陽師の妻として、「人払い」なる術が存在することを雪は知っている。

 風以外の音が消え、静まり返った路地の一角で、秀友がようやく足を止めた。胸の中で暴れるばかりだった感情を根こそぎため息に変え、からりと晴れた青い天を仰いだ。

 

「……なんか、上手く言葉が出てこねえや」

「……そう、ですね」

 

 齋爾に先立たれる悲しみ、銀山が生きていた喜び、けれど人ではなかった戸惑い。三種三様の感情がせめぎ合って、今すぐ秀友となにかを話したいと思うのに、なにをどう言葉にすればいいのかいくら考えてもわからない。ひとしきり迷って、悩んで、結局口から出てきたのは、

 

「……びっくり、でしたね。まさか、銀山さんが」

 

 そんな、当たり障りのない一言だった。秀友がこちらを振り返り、

 

「そーだよなー、まさかあれが幻術だったなんてなあ。ハハ、人の涙返せコノヤロウって感じだ」

「……あの。秀友さんは、その」

 

 秀友の口調はあくまで軽い。強がっている、わけではないと思う。だから雪には不思議だった。

 

「銀山さんが。妖怪、だったこと……」

 

 彼は、どう思っているのだろう。妖怪は人間の敵で、陰陽師は、そんな敵から人々を守る役目を持つ者で、決して相容れることのできない対極の存在で。

 かけがえのない友だと思っていた男が。

 敵、だったということ。

 

「……ああ」

 

 ため息をつくような仕草で、秀友は頷いた。

 

「でも今になって思えば、ありえない話でもねーなって思うよ。あいつ、オレと同年代とは思えないくらい……なんてーか、達観してたっていうかさ。オレらより何倍も長生きしてた妖怪だったとしても、そんな不思議じゃねえなって」

「……」

「ぜんぜん気づかなかったけどなー。都のやつら全員騙して何年もちゃっかり生活してたとか、ほんとバカだわあいつ」

 

 雪にはよくわからない。どうして秀友はそうやって、楽しそうに、懐かしそうに、あっけらかんと笑えるのだろう。雪はまだ、銀山が妖怪だった事実を受け止めきれないでいるのに。一体彼は、この短い時間の中でどんな答えを見つけ出したのだろう。

 雪の迷いと葛藤を、秀友は表情から察したようだった。笑みを消し、

 

「……やっぱ雪さんとしちゃ、いろいろ複雑か?」

「……、」

 

 雪は正直に頷くか逡巡し、しかし今更誤魔化したところで意味はないと判断した。

 

「……はい」

「まあ、そりゃあそうだよな。妖怪っていえば、『人間の敵』って認識だもんな」

 

 無論、雪たちを騙していた銀山に失望しているわけではない。銀山は間違いなくあのとき、雪たちの記憶通りの姿で隣にいた。だからこそ、彼が妖怪だった事実とどう向き合えばよいのか迷うのだ。

 秀友が、上手い言葉を探るように頭を掻く。

 

「……齋爾サンが、『銀毛十一尾』って言ってたろ」

 

 雪は頷く。

 

「オレら陰陽師の間で、噂話だけで語られてる妖怪でさ。十一本の尾を持ってる、銀色の妖狐らしい。なんでか不思議と人間に肩入れしてて、人知れず、人の姿で人の世界に紛れて生きてるって。まあほとんどの陰陽師は、そんな妖怪いるわけないだろって笑い飛ばすけどな。オレも御伽噺だと思ってた」

「……それが、銀山さんだった?」

「齋爾サンは、そう思ってるみたいだったな。……そうだったらいいなって、オレも思うよ」

 

 苦笑、

 

「『人とともに生きてみたかっただけ』。あいつは、たったそれだけの理由で本気で都に住んで、本気で人助けしながら暮らしちまう、お人好しでバカな野郎だったって」

「……」

 

 秀友の言葉が、すっと雪の胸の中に落ちてくる。蓋を開けたように思い出が甦る。相手を選ばず仕事を選ばず、貴族相手でも庶民相手でも、妖怪退治でも迷子捜しでも快く引き受けて、老若男女問わず信じられていたあの人。妖怪だったなんて今でもまったく信じられない、下手な人間よりも人間らしかったあの人のこと。

 ――ああ、そっか。

 雪も、自然と笑えていた。

 

「……そう、ですよね。銀山さんならきっと、そうですよね」

「ああ。だろうよ」

 

 特別な理由や目的があったわけではない。それ以上の望みなどまるでなく、ただ人とともに生きてみたかっただけの、心優しい妖怪だったのだと。

 きっと、そうだったのだと、信じたかった。

 

「そうだとすりゃあ、あいつがいなくなったのにも……まあ、ちょっとは納得が行くさ」

 

 秀友は続ける。

 

「あいつは違ったけど、でもやっぱほとんどの妖怪は人間の敵で、人間はみんな妖怪を恐れてる。妖怪の仲間だっつー人間がいるなら、周りのやつらにとっちゃあそいつはもう人じゃなくて、化物とか悪魔とか、そういう類さ」

「……」

「人間と妖怪は、一緒には生きられない。だからあいつは最後まで人のまま、ぜんぶ終止符を打とうとしたんじゃねえかな。自分一人だけが、ここから消えていくように」

 

 今となっては遠い昔、まだ都に銀山とかぐや姫がいた頃。竹取翁から銀山へ仕事の依頼があり、その日の黄昏時に翁の屋敷を何者かが襲った。それは、あやかしに魂を売り渡し人道を捨てた、とある貴族の仕業だったという。

 そして、もちろん。あの貴族の血筋は、今はもう都にはいない。

 いられるはずもなかった。

 

「銀山さんのような優しい妖怪でも……一緒には、暮らせないんですね」

「……ああ」

 

 銀山はみんなから慕われていたが、もしも正体が露見していたら世間からどんな掌返しがあったかわからない。少なくとも彼と縁遠い陰陽師や公家は、人々を騙した悪の妖怪と断じて討滅しようとしたかもしれない。

 そうなれば銀山と特別親しかった雪たちにも、なにもなかったとはいえない。

 だからすべてを知られる前に、彼は消えることを選んだのかもしれなかった。

 

「案外あいつは、あの日、本当に死にかけてたのかもしれない」

 

 かぐや姫がいなくなった日のことを、言っているのだと思った。

 

「なにと戦ったのかは、わからねえけど。怪我してしばらく動けなくなって、なんとかかんとか傷を癒やして戻ってこようとしてみたら、自分がもう死んだ扱いになってて。……だから、引き際だって考えたのかもしれない。あいつにとっちゃあ理想の潮時だったろうさ」

「……」

 

 誰にも疑われず、誰にもあとを追われず、『門倉銀山』に完全な幕を下ろす必然の別れ方。

 

「でもオレらがあんまりにもあんまりな状態だったんで、別れだけは言いに来てくれた。――人を救えよ、って」

 

 秀友が追憶とともに目を細める。よく覚えている。忘れるわけにはいかないことだった。結局は幻術だったとはいえ、当時の雪たちにとっては間違いなく、銀山が最期に遺してくれた言葉だったから。

 ――人を救えよ秀友。人を救って、人に囲まれて、そして幸福に生きろよ。

 いつまでも、人じゃない私にくっついてないで。

 お前が人であるのなら。ここで、人として、人のために生きてみせろ――。

 そういうことなのかも、しれなかった。

 

「いかにも、あいつが望みそうなことじゃねえか」

「……そうですね。本当に」

 

 本当に、そう思う。

 

「笑っちまうよな。妖怪のくせして妖怪退治してたやつが、なーに偉そうなこと言ってんだか」

「ええ、まったくです」

 

 でも雪にも秀友にも、笑いこそすれ銀山をなじる色はない。

 雪たちは、銀山がいなくなって悲しかった。今だって悲しい。そしてたったいま銀山が妖怪だったと知って、戸惑ったし、まったく辛くなかったといえば嘘になろう。

 けれど、雪はこう思うのだ。

 ――こんな思いをするくらいなら、自分たちははじめから出会わない方がよかったか?

 否だ。この答えだけは未来永劫絶対に変わらない。悪魔から何度しつこく問い掛けられても、何度でも、何度でも、雪たちは胸を張って答えよう。

 

 あの人と出会えて、本当によかったと。

 

「っとに、あいつらしいよ」

 

 空を見上げ、陽光に目を細める秀友の面差しに、迷いなどほんの一片足りとも浮かんではいない。

 

「だから、無事だったってんならそれでいいさ。会いたくないかっつえば……嘘にはなるけど」

「いいんですか? 秀友さん、銀山さん離れできてませんよね?」

 

 うぐ、と秀友は呻き、それでもすぐ持ち直して、

 

「今更捜しになんていけねえよ。オレたちの生活がめちゃくちゃになっちまうし……それで仮にあいつを見つけたとしても、ぶん殴られるだけだろうさ。子ども放っといて(・・・・・・・・)捜し回ってたってんなら、尚更な」

 

 光の先に、あの人の姿を見るように。

 

「ここで生きてやるさ。……あいつに約束した通り、立派な陰陽師として」

 

 ――ねえ、銀山さん。

 雪は心の中で、この世界のどこかにいるあの人を想う。

 秀友さんは、立派になりましたよ。まだちょっぴりだけ、銀山さん離れできてませんけど。

 でも、本当に、立派なひとになったんですよ。

 あなたはどこかから、見ていますか――?

 

「……もしかしたら、秀友さんが立派になったら会いに来てくれるかもしれませんね。歳を取ったふりをして」

「いやーどうかなあ。それやったら芝居がばれちまうし。まあもうばれてんだけどさ」

 

 雪も、あの人がもう一度会いに来てくれることはないのだろうと思う。けれど一方で、あの人がどこかで生きているのなら、ある日ひょっこりと何食わぬ顔で雪たちの前に現れそうだとも思うのだ。

 

「……けど、そうだな。もしもそんなことがあったら――」

 

 そのとき、秀友がおもむろに雪へ背を向けた。故に表情は見えないが、背中から感じる雰囲気が傍目でもわかるほど明らかに変質する。

 なんだろう、今までの透明な感じと違って、やや悪どいというか。両手を胸の位置くらいまで上げ、猫が爪を立てるように指を曲げて、ひひひと肩を薄気味悪く震わせながら、

 

「そんときは、一発ぶん殴ってやりたいけどなぁ……! オレだけならまだしも、雪さんまで本気で泣かせてくれやがったわけだしぃ……!」

 

 ひえ、と雪はひきつった。ごめんなさい銀山さん、やっぱりこの人ぜんぜん吹っ切れてません。

 でも、仕方がないのかもしれない。それだけ秀友にとって、あの人はかけがえのない友だったということだ。あの人が行ってしまった理由には納得しているし、捜すつもりがないのも本当だけれど、どこまで突き詰めても悔しいものは悔しい。せめてもう少しだけ、この世界が今よりも違う形であったなら――。

 吐息。

 

「……」

 

 秀友が、懐から一枚の札を取り出す。それはたぶん秀友が、雪の次に大切にしている宝物。十年の歳月でやや擦り切れ、くたびれてしまった古めかしい――けれど今なお、あの人の確かな想いが宿った御札。

 もう、恨み言は終わりだった。

 

「……お前こそ、妖怪らしく生きるなよ」

 

 呟く。

 

「お前が本当に、『銀毛十一尾』だってんなら。人なんか襲わねえで、人に寄り添って生きてみろよ。また好き勝手に余計な世話焼いて、人にも妖怪にも囲まれて、精々幸福に生きやがれってんだ」

 

 空へ、笑う。

 

「なあ、ギンよぉ。――オレがお前に望むのは、そういうことだ」

 

 風が吹く。今日は日の出の頃からずっと穏やかな天気だったのに、雪が思わず髪を押さえるほどのつむじ風は、まるで秀友の言葉を、あの人の下へ届けに行くかのようで。

 だから雪も、風が行く先に想いを乗せる。

 

 ――どうかこの風を、世界の何処かで、あの人も感じていますように。

 

 

 

 

 

 翌朝、雪たちの下に齋爾の訃報が届いた。

 風が止むような、静かな最期だったと。

 そう、聞いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見は、知るまい。

 あの気難しい御老体が、まさか自分たち(・・・・)にそこまで偉大な影響を与えていたとは露も知るまい。

 

 御老体の気まぐれは、良くも悪くも未来の形を大きく変えた。

 秀友に己の術を授けたこと。

 月見の正体を明かしたこと。

 もたらされた二つの置き土産は、神古の血筋だけの秘伝として子から子へと受け継がれ――数百年を下った後の世で、一人の少女と出会うのだ。

 

 月見は、知るまい。

 だから夢から覚めたら、自分がぜんぶを教えに行こう。骨の髄まで、わからせてやろう。

 

(首洗って待ってろよ――ギン(・・)

 

 夢の中の世界で、志弦は。

 首から下げた小さな巾着――その中にしまわれた大切なお守りを、そっと両手で包み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑥ 「公平有私のキュリオストア」

 

 

 

 

 

 慧音の家は、少し、墨と古い紙の香りがする。

 ちょっと、待っていてくれ――慧音は茶の間の座布団を勧めるなり奥の書斎に消え、月見が何気なしに部屋を眺め始めるより早く戻ってきた。几帳面に折り畳まれた書簡紙を、二枚だけ手に持っていた。

 

「本当に、簡単な内容でしかないのだけれど」

 

 そう謙遜して慧音が月見の向かいに座る。紙の裏にうっすらと、しかしそれでも(しか)と見て取れるほど美しい達筆が透けている。ひと目で慧音が書いたとわかる字だった。

 

「あいかわらず、綺麗でいい字を書くね」

「へ? そ、そうか?」

「ああ。字は書く人をよく表す」

 

 紙から筆を離すその最後まで教養が行き渡った、実に慧音らしい字だと思う。例えばこれがフランなら勢いよく元気いっぱいな字になるし、咲夜なら丸みを帯びた小さくてかわいらしい字になるし、萃香は豪快で大雑把、紫は一見綺麗だが妙な癖のある字になるのだ。

 私の字はみんなからはどう見えてるんだろうな、とふと疑問に思う。下手、ではないはずだが。一番最近手紙を宛てたのは咲夜だから、今度会ったときに聞いてみてもいいかもしれない。

 そのとき慧音がぽそぽそと、

 

「そ、それって、つまり私が綺麗って……」

「ん?」

「い、いやいやなんでもないぞ!? なにも言ってないからっ!」

 

 残念ながら聞こえてしまった月見である。

 もちろん慧音は、里のみんなに聞いて回れば満場一致で決まるであろう遜色のなしの美少女だ。その程度足るや、里人男児にとっては慧音で初恋を体験するのが一種の通過儀礼とされるほどで、しかし慧音自身の色恋沙汰をまったく聞かないあたりは相当攻略し難い相手であるらしい。まさか人里の中心人物である彼女が、縁談のひとつも持ちかけられていないはずはなかろうが――。

 口にはしない。こういうところをつつくと即座に頭突きが飛んできかねないのだと、月見は身を以てよく知っている。

 

「そ、それより! ええと、志弦の家系を遡ってみた内容なんだがっ」

 

 慧音があせあせと紙を広げ、そこで一息とともに落ち着いて、

 

「千年以上の血のつながりを遡っていくのは、なかなか骨が折れたよ。いい経験にもなったけど。……何度も言うが、表面の歴史を掬い取っただけでどれも深くは調べていない。故人の歴史を闇雲に掘り返すのは、あまりいいことではないからね」

「わかってるよ」

 

 テーブルの上に差し出された紙を覗き込む。なんてことはない、右から左までただ人の名を書き連ね、それを二段に渡って続けただけの紙だった。一番右上の名が『神古秀友』、一番左下が『神古志弦』。

 つまり、秀友の左隣にある名が、

 

「これが、秀友さんと雪さんの子どもの名だ」

「へえ……」

 

 月見は思わずその名を口ずさみ、頬を緩め、

 

「あいつにしては、いい名をつけたもんだ」

「……そうだね」

 

 連ねられた名を、順にひとつずつ下っていく。

 

「家系という意味では他にもたくさんの名があるんだが、志弦と秀友さんがつながるところを優先したから……希望があれば、改めて調べ直すけど」

「とんでもない。充分すぎるよ」

 

 それ以外に、一体なにを言えというのか。

 秀友と志弦以外ははじめて目にする名前ばかりだし、ましてやどのような生を歩んだ人間なのかなど知る由もない。けれど順々に名を口ずさんでいくだけで、秀友から志弦へ、月見の中で確かな(えにし)の糸がつながっていくのを感じる。

 

「お前との約束を守ったのかどうかはわからないけど、子が秀友さんの跡を継ぎ、その子がまた跡を継ぎ、代々妖怪退治で人々の助けとなっていたようだよ。時代が江戸まで下って妖怪がまやかしの存在となってからは、霊能師として活躍することもあった。もっともそれも、現代になって科学が台頭すると同時に……途切れたようだが」

 

 千年を超える縁の道は、名を口にしながら歩くだけでもちょっとした一苦労だった。上の段を終え、下の段へ入り、ゆっくりと噛み締める時間を掛けてひとつ、またひとつ、やがて月見の指先は志弦の祖父の名へ至り、父の名、そして、

 

「……志弦、か」

「ああ。志弦だ」

 

 長かった。

 本当に、長かった。

 自分は、平気で何千年という時を生きてきた妖怪だから。己の血を次代へつなぐという感覚がわからないから。高々百年も生きられない人間が、何代も、何十代にも渡って紡いできた営みを見せつけられると、いつだって言葉にもならない想いでいっぱいになってしまう。

 あいつの血が、次代へ、次代へとつながれていって。

 そうして千年を超えた先のひとかけらが、今、幻想郷にいて。

 

「……ありがとう、慧音。こういう具体的なものがあると、やっぱり実感が違うね」

「ふふ、そうか。そう言ってもらえると、頑張って調べた甲斐があったよ」

 

 慧音の瞳が優しい。それがなにやら、知人というよりも寺子屋の生徒へ向けるような眼差しだったから、ひょっとすると自分はそういう(・・・・)顔をしてしまっていたのかもしれない。

 むず痒くなってきたので、月見は話を先に進めた。

 

「それで……ここにひとつ、印のついた名があるけど」

 

 連なった何十という神古の名でひとつだけ、頭に印をつけられているものがある。それが意味するところは想像がついたし、事実その通りの答えが慧音からは返ってきた。

 

「ああ。……それが、聖白蓮を魔界に封印した者の名だ」

 

 その、名は、

 

「――神古、しづく……か」

 

 女の名だ。そして、口に出した音の形が志弦とよく似ている。だからだろうか、水蜜と一輪が志弦の姿を見て早合点したのも、もしかするとまったくの勘違いではないのかもしれないと思った。

 慧音が二枚目の紙を広げる。

 

「……聖白蓮についても、少しだけ調べてみたよ。ただ、」

 

 言葉を区切り、やや目線を迷わせて注意深く、

 

「これはあくまで、当時公的に記録された歴史を掘り起こしただけのものだ。お前ならわかると思うけど、過去の日本では政治的な側面から、歴史を意図的に改竄して記録することが日常茶飯事に行われていた」

「……ああ」

 

 妖怪がその最たる例だ。無論正真正銘の妖怪が大半でありながらも、国に従わなかったまつろわぬ民や、世間から排斥された被差別の人々までもが、妖怪と呼ばれ恐れられていた時代だった。伝承される妖怪退治譚の中にも、真実は人間が人間を討伐した話であるものが少なからず存在している。政治的な意味合いもあっただろうし、それが当時の人々の妖怪への対抗手段でもあったのだ。

 

「だから真に受けないで聞いてくれ。聖白蓮はお前が地底の妖怪たちから聞いた通り、魔界に封じられたと考えるべきだろう。その妖怪たちが、正しい歴史を伝える正真正銘の当事者なのだから」

「……」

 

 つまり今から語られるのは、書き換えられた偽りの歴史。慧音の能力で調べた限り、白蓮は魔界に封印されたのではなく、

 

「聖白蓮は、故人だった」

「――、」

そういう名目(・・・・・・)で、彼女の記録を恣意(しい)的に抹消した痕跡があったよ。どうやら当時の人々にとって、聖白蓮は歴史に残すのも憚られるほど都合が悪い存在だったらしい」

 

 確かに。

 人間と妖怪の共存を願った白蓮の思想は、当時の人間が抱くにはあまりに危険であり、異端なものではあっただろう。共存を願っていた点では紫も同じだが、彼女の場合は常識を外れた部類の妖怪で、その思想に説得力を持たせるだけの力があった。一方で白蓮は一介の人間で、尼僧で、総本山の面子を考えても都合の悪い存在だったのは疑いようがないと思う。

 だが、それで存在ごと闇に葬り去るのは大袈裟ではないか。当時は、その思想はさておいて、人外の力に魅入られた人間というのはさして珍しくもなかったはずだ。仏僧だって、常人よりも妖怪との距離が近かった仏僧だからこそ、人の道を踏み外してしまう者は余計多かったはずなのだ。

 なにか、他に理由があったのではないかと思う。その異端な思想のみならず、歴史に残しては甚だ不都合な、総本山にとって耐え難い汚点となるようななにかが。

 

「そういう顔をするということは、地底の妖怪からはなにも聞いていないんだね」

「……ああ」

 

 彼女たちは知らないのかもしれないし、或いは話そうともしていなかったのかもしれない。自分たちの敬愛する主人が、存在ごと闇に消し去られたなんて。口に出すだけでも、思い出すだけでも、彼女たちならきっと反吐が出る心地だろうから。

 

「もう一度満月が来れば、もっと詳しく調べられるけど……一応、私なりの推測はある」

 

 月見は目で先を促す。

 

「聖白蓮には、同じ僧の弟がいたんだ。生まれつき体が弱く夭折(ようせつ)してしまったが、かなり名高い高僧だったらしい」

 

 なるほど、と月見は噛むように頷く。

 総本山にとって大きな栄誉となる若き高僧――その姉が妖怪に味方した不徳の輩だったとなれば、確かに記録など残さぬ方が都合もよいか。

 慧音が紙を繰り、

 

「弟の名は、聖命蓮。稀代の高僧となれば、お前も名前くらいは耳にしていたんじゃないか?」

「……」

 

 月見は腕を組んで記憶を掘り返す。聖命蓮、言われてみればはじめて聞いた気はしないが、果たしてそれはいつどこの話であったか――。

 

「……ああ、なるほど。確かに聞いた覚えはあるよ」

「そうか。……まあそういうわけで、稀代の高僧の、ひいては宗派そのものの面目を保つために、不要な歴史は抹消した……というのは、いかにもありえそうな話ではないかな」

 

 そう締めて、慧音は二枚の紙をそっと畳んだ。

 

「今わかっていることはこれくらいだ。引き続き調べようか?」

「……いいや。充分さ」

 

 次の満月を待つつもりはさらさらない。それに、本当に充分すぎるほどの話を聞けたのだ。神古についても、白蓮についても。

 あとはナズーリンたちに――或いは白蓮本人に、直接訊いて確かめればいい。

 

「ありがとう。本当に助かったよ」

「ああ。役に立ててよかった」

 

 慧音は頬を緩め、

 

「他に力になれそうなことがあったら言ってくれ。お前には里のみんなが世話になってるし……志弦も、この里の大切な仲間だからね」

「ああ。ありがとう」

「この紙はどうする? 持って行くか?」

「……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

 書簡紙を受け取り、懐にしまう。ふと時間が気になった。寺子屋に阿求の屋敷、そして慧音の家。少しばかり、時間を食いすぎてしまっているかもしれない。

 

「それじゃあ、私は行くよ。早苗を待たせていてね」

「なんだ、そうだったのか? じゃあさっさと行け、女を待たせるのは罪だぞ」

「はいはい」

「はいは一回!」

 

 追い出されるように慧音の家を後にし、改めて礼を言ってから、月見は早苗を捜しに通りへ向かった。その道すがらで、今の今まで忘れてしまっていたあのときの記憶に思いを馳せる。

 確証はない。けれど、もしも、もしも月見の予感が当たっているのなら。

 月見と『神古』、『神古』と白蓮、――そして、月見と、白蓮。

 そうだったのかもしれない。そういうことだったのかもしれない。

 もしかすると。

 もしかすると月見は、あのとき――

 

「……あ、月見さん!」

 

 正面から飛んできた少女の声に、月見の思考が水の底から浮かび上がる。月見の方から捜すつもりが、どうやら逆になってしまったらしい。

 東風谷早苗が、道行く人々を軽やかに躱して駆け寄ってきた。

 

「早苗」

「はい。慧音さんには会えましたか? 買い出し、終わってますよ!」

 

 やはり、長話をしすぎたようだ。

 

「すまないね、すっかり長引いてしまって」

「いえいえ。とりあえず、満遍なくいろいろ買っておきましたので!」

「ありがとう。……どれ、荷物は持つよ。任せてくれ」

「えへへ……ありがとうございます」

 

 早苗から両手の袋を受け取り、そこで月見は、片方が妙に重い――というより、片方がやけに軽すぎると気づき、

 

「……早苗」

「はい、なんでしょう」

「なんだこの、常軌を逸した量の油揚げは」

「え?」

 

 早苗は、いかにも「それがどうかしたんですか?」という顔で首を傾げた。

 月見はもう一度袋の中身を確認する。やはり何度見ても、二つの買い物袋のうち、片方の中身が油揚げオンリーである。

 早苗は己の行動を欠片も疑っていない様子で、

 

「だって……藍さん、いつもこれくらい買ってますよ?」

「……」

 

 もちろん月見だって、油揚げは、好きだけれど。

 しかし、どうやら早苗は見落としてしまっているようだ。藍は妖狐の中でもとりわけ油揚げに執着し心酔する、油揚げ狂信者とも呼ぶべき女傑であることを。藍の行動が、妖狐全体の常識だと思われてしまうのはちょっと困る。

 まあ、買ってしまったものは仕方がない。日頃の感謝も込めて、藍に八割くらいは差し入れをしよう。

 きっと、九尾をもっふもっふと躍動させて喜んでくれるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 水月苑に戻ってくると、温泉が大層な賑わいになっていた。

 というよりも、大半は聖輦船目当てに集まった野次馬であった。そりゃあ今日になって突然、水月苑上空に謎の空飛ぶ船が停まっているのだ。天狗や河童を筆頭とする山の妖怪たちに騒ぐなと頼むのも酷な話で、距離を置いた場所から興味深げに眺めている者は多いが、なかんずく聖輦船の周囲はちょっとした暴動の様相を呈し始めていた。

 水蜜たちが四方八方を包囲され、取材させろーだの見学させろーだの、怒号めいた質問攻めの集中砲火を浴びせられている。ナズーリンならすぐにでも一喝してくれるのだろうが、あいにく彼女は月見が水月苑を発つのと同じくして宝塔捜しに出掛けている。まだ戻った様子がないということは、どうやらなかなか苦戦しているらしい。

 早苗が予想通りといったように笑った。

 

「あはは、やっぱりすごい賑わいになってますねえ」

「飛倉の破片捜しを手伝ってもらう話は、どうなったんだか」

 

 そんな喧騒を尻目に、月見はまず水月苑の水際に向かった。帰ってきたら、わかさぎ姫に挨拶をする。もはや体に染みついた立派なひとつの習慣である。

 

「ただいま、ひめ」

「はぁい」

 

 わかさぎ姫はぽよんと返事をして、

 

「おかえりなさいませー。お客さんいっぱいですよー」

 

 果たして客と呼ぶべきかどうか。ぎゃーぎゃー騒いでいる天狗や河童たちを見て、「まったくあいつらは……」と月見は一瞬呆れかけたけれど、自分もまた好奇心に駆られて聖輦船を追いかけた一人だったと思い出し、なにも考えなかったことにする。

 わかさぎ姫に目を戻すと、彼女はもう笑ってはいなかった。水面に波紋を立てることすら躊躇うように、固く、怖々と、

 

「それで……あ、あの。志弦さん、は」

「……」

 

 月見は、静かに首を振った。

 

「永遠亭でも、はっきりとした原因はわからなかった」

「……そう、ですか」

 

 懸命に明るく振る舞っていたわかさぎ姫の心が、そっと冷たくなっていくのを感じた。

 志弦が一輪たちに襲われたとき、わかさぎ姫は戦おうとしてくれたのだと聞いている。自分が一番志弦の傍にいたから、守ろうとして、けれど、なにもできなかったのだと。だから志弦が目を覚まさない原因の一端は、ひょっとしたら自分にもあるのではないかと、自分がもっとしっかりしていればなにかが変わっていたのではないかと、早苗よりも、諏訪子よりも、藍よりも、月見よりも、誰よりも強い後悔で胸を張り裂かれる思いであるはずだった。

 肝心なときばかりにいない月見と比べれば。彼女が己を責めることなんて、なにもありはしないのに。

 本当に、心優しい妖怪なのだ。

 

「……ありがとう、ひめ。志弦のこと、大事に想ってくれて」

「……想ってるだけです。想ってるだけで、私は、なにも」

「ひめさん、なにもできなかったのは私も同じですよ」

 

 わかさぎ姫の懺悔を、早苗が撫でるような言葉で遮る。苦笑し、頬を掻き、

 

「それどころか、宝塔っていう大切な宝物を吹っ飛ばしちゃって、余計に話をめんどくさいことにしちゃってますし……」

「それは、早苗さんが勇敢に戦った証拠です! 藍さんだって、諏訪子さんだって、みんな志弦さんを助けようと動いていました」

 

 水面が揺れる。わかさぎ姫が顔を覆う。髪の先から幾粒の雫が散って、なにもできないままただただ重力に絡み取られて落ちてゆく。

 涙のように。

 

「なのに私だけっ……私だけ、動けも、しなかったんです。なにもできなかったんです。本当に、なにも、」

「ひめ」

 

 今度は、月見が遮った。

 思えば、わかさぎ姫にはいつも世話になってばかりだ。日頃から月見が外出するときは留守を頼まれてくれるし、こまめに池の掃除をしてくれているし、月夜の下で歌っては月見の耳と心を癒やし、なによりふわふわと暖かな人柄でいつでも誰かを笑顔にしてくれている。「いつもよくしていただいているから」と彼女は当然のように言うけれど、逆に、月見がなにかをしたことがあったのかと恥ずかしくなってくるくらいなのだ。

 だから、こんなときくらいは。

 

「私は、お前がここにいてくれてよかったと思うし。これからも、ここにいてほしいと思うよ」

 

 自分の言葉が、少しでも彼女の心に寄り添えられればよいと願いながら。

 月見は、微笑んだ。

 

「いつも、ありがとう」

「――……、」

 

 わかさぎ姫が呆けた顔で、呼吸も瞬きも一切を止めて硬直した。五秒経って動かず、十秒経っても動かず、励ますつもりがなにかとんでもない失言をしてしまったのかと月見が自分を疑い始めたその直後、

 

「…………ふえ、」

 

 わかさぎ姫が、しゃっくりをして、

 

「ふ、ふえええええ……」

 

 泣きおった。

 

「お、おい、ひめ?」

 

 まさか泣かれると思っていなかった月見は困惑する。わかさぎ姫は天色の瞳から真珠みたいな涙をぽろぽろこぼして、何度も拙くしゃっくりをしながら、

 

「ううっ……どうして旦那様は、そんなに、お優しいんですかぁ……! わ、わたし、ふえっ、感動してぇぇぇ……」

「……びっくりさせないでくれ」

 

 月見は脱力した。年端も行かぬ小さな子どもならいざ知らず、わかさぎ姫のような見目好い少女にいきなり泣かれるのは心臓に悪すぎる。ゴシップ好きな鴉天狗たちが近くで大騒ぎしているなら尚更だ。幸いにも、みんな聖輦船に夢中で気づいていないようだけれど。

 吐息。

 

「志弦は、必ず目を覚ますさ。だからほら、そんな顔してたら志弦にあとで笑われるよ」

「ひっく、……そう、ですね」

 

 袖で涙を拭ったわかさぎ姫が、顔を上げた。

 天色の瞳は、まだ少しだけ潤んでいたけれど。悲嘆の色だけは、もう綺麗さっぱり消えていた。

 

「私にお手伝いできることがありましたら、なんなりと仰ってください……! お留守番でもなんでも!」

「ああ。もうちょっとだけ忙しくなりそうだから、屋敷は任せたよ」

「はいっ!」

 

 ひとまず今日一日ほどは、宝塔と飛倉の捜索であちこちを飛び回ることになるだろう。今年最後の温泉開放日は今日と明日であるから、わかさぎ姫や藍を頼る時間はもう少しばかり続きそうだ。

 さて、飛倉の捜索といえば。

 

「お師匠!」

 

 散らばってしまった破片を捜し出す重要な戦力となり得る天狗衆は、さっきから聖輦船見たさにぎゃーぎゃー騒いでばかりである。水蜜も一輪も星も、必死に声を上げて野次馬どもを落ち着かせようとしているのだが、怒涛の勢いに押し返されて未だめぼしい成果は上がっていない。

 

「……あの、お師匠? しーしょーうーっ!」

 

 思えば、天狗を呼べばこうなってしまうのはちょっと考えれば予想できたはずだった。そんな天狗どもに協力を持ちかけるよう提案したのは月見であり、要するに責任の一端は自分にあるのであり、なら私がなんとかするしかないか、と仕方なくため息をつき、

 

「……あの、月見さん?」

「うん?」

 

 早苗に袖を引っ張られた。見ると彼女は己の向かい側、つまり月見の背後を指差して、

 

「呼ばれてるみたいですよ?」

 

 月見はその通り振り向く。そして振り向いた途端、「うわ」と危うく口に出しそうになった。

 

「お師匠、無視しないでください!」

「誰が師匠だ」

「はうぁ!?」

 

 青空の色をした髪に、幻想郷でも珍しいオッドアイと、長いベロ(・・)を出した紫のオバケ傘。月見の中では、キスメ、赤蛮奇に並んでズバ抜けて個性的な少女――多々良小傘に、月見は容赦ないチョップをお見舞いした。

 誰かが呼ばれているとは思っていたが、まさか「師匠」が自分のことだったとは。どうやら温泉に入りに来ていたらしく、つやつやお肌な小傘はおでこを押さえ涙目で、

 

「い、いたた。なにをするのですかお師匠」

「だから、誰が師匠だ誰が。お前を弟子にした覚えはないぞ」

「あ、はい。その節は大変お世話になりました」

 

 いや別に世話してないけど。

 しかし涙を一瞬で引っ込めた小傘は、なんとも憎たらしいほど元気いっぱいに、

 

「自分でいろいろ考えた結果、とりあえず形から入ってみようと思いまして! まずは貴方様をお師匠と呼ぶところからぃたい!?」

 

 あいかわらずこの少女、思考の方角が明後日の空である。

 

「お前を弟子にする気はないってば」

「……はい。『その程度の実力じゃあ俺の弟子なんざ百年早えぜ』ですよね?」

 

 ああ、その誤解まだ生きてたんだ。

 落ち込んだ顔を素早く吹き飛ばし、小傘はアツく拳を震わせ、

 

「ですがっ、あれから私も修行を重ねました……! まだお師匠のお眼鏡には適わないかもしれませんが、満足していただける日はそう遠くないと思っています!」

「修行って、なにをやったんだ?」

「山篭りをして滝に打たれたりしました!」

 

 冬だぞ今。

 

「まさに怒涛ともいえる滝の勢いを、傘一本で凌ぎ切るのはとても過酷でした……傘の骨が折れること数知れず、時には足を滑らせ滝壺に落ち、溺れかけることもありました。えへへ、わたし傘なので泳げなくて」

 

 月見はもうツッコむのをやめた。早苗とわかさぎ姫に順に投げやりな目で、

 

「まあ、こういうやつだから。ほどほどに仲良くしてやってくれ」

「あはは。あいかわらず月見さんは、面白い妖怪を惹きつけますよねー」

「そうですねー、すごいと思いますー」

「いや、お前も充分面白いよ?」「ひめさんも充分面白いと思います」

「え、ええっ!?」

 

 少なくとも、これで「そ、そうなんですかぁ……はわわぁ」などと照れてしまう彼女は、充分個性的で面白い部類なのだと思う。

 さておき。いい加減に天狗と河童の馬鹿どもを鎮めにいかないと、そろそろ星たちが涙目になり始めていて、

 

「あれはお師匠のお船ですか? なるほど、お師匠ほどの大妖怪となればあのように船を飛ばすことも可能なのですね! 感服いたしました!」

 

 ところでこのアッパー少女を黙らせるには、一体どうすればいいのだろう。

 

「いやあのな、だから師匠はやめ」

「お師匠、私の修行の成果を是非一度ご覧になってはくれませんか!」

「人の話を聞」

「まだ……まだ、お師匠の弟子には相応しくないかもしれません。ですが、私の決意が揺るぎないものであることだけでも感じていただきたいのです!」

「おい、」

「あっ! あなたその恰好、さては巫女ですね!? あのコワイ巫女とは違うようですが……まあいいです! 私と勝負してくださいっ!」

 

 ふう、と月見はお茶を飲むように吐息した。雲と雲の切れ目から垣間見える太陽が、今日は一段とまぶしい。この世の喧騒から切り離された山奥で、川のせせらぎでも聞きながらゆったりと露天風呂に浸かりたい気分だ。

 現実逃避終了。

 多々良小傘のペースに呑まれてしまってはいつまで経っても埒が明かないと、月見は今までの経験から学んでいる。押しつけるようで申し訳ないが、せめて聖輦船の騒ぎを片付けるまで子守を頼んでもいいだろうか――そんなアイコンタクトを早苗へ送ってみると、彼女は快く頷いてくれて、

 

「ふっ……いいでしょう。月見さんのお弟子さんになりたければ、私の屍を越えてゆくのです!」

「おい早苗?」

 

 凛と伸ばした指先を眉間に添え、傲岸不遜な笑みをたたえて大物なオーラを醸し出し始めた。いや、それよりも、月見の意見をなかなか無視した聞き捨てならない台詞が聞こえた気が。

 まあまあ、と早苗はこちらに掌を向けて、

 

「ここは私に任せてください。なんていうか……気分転換っていうのも、あれですけど。気持ち、上手く切り替えられるかなあって思うんです」

 

 言っている意味はわかる。幻想郷で一番の友達――否、今や家族と言っても過言ではない志弦が、原因不明で眠ったまま目を覚まさないのだ。一見いつも通りの笑顔が戻っているけれど、それは単なる強がりであり、早苗の心にのしかかっている不安と重圧は決して生半可ではないはずだった。幻想郷にとって大きな意味のある決闘方式が、今の早苗にとっても意味のあるものとなる可能性を否定しようとは思わない。

 でも早苗、私が言いたいのはそういうことじゃなくってね。

 そんな台詞を多々良小傘が聞いたら、どうなってしまうかなど言わずもがな。

 

「な、なるほど……! そういうことだったのですね! 私の修行の成果を試す抜き打ちテスト……まったくお師匠も人が悪いです!」

 

 小傘の言葉が、そろそろ右から左へ素通りしていく月見である。

 

「ふふふ……言っておきますが、私は手強いですよ! 果たしてあなたで相手になるでしょうか……?」

「負けません……! ここで修行の成果を発揮して、名実ともにお師匠の弟子となるのです! とりゃーっ!」

 

 ノリノリな少女二人はノリノリで地面を蹴って飛翔し、やがて水月苑上空でノリノリな弾幕ごっこを開始する。月見は空を見上げることもできずため息をつき、わかさぎ姫は愉快げにクスクスと笑う。

 

「元気いっぱいで、かわいらしい妖怪さんですねー」

「まあ……せめて、あとちょっとだけ人の話を聞いてくれればいいんだけどね」

 

 ともかく、過程はどうあれ結果だけ考えれば、早苗は上手いこと小傘を引きつけてくれた。これでようやく聖輦船の方に集中できるし、早苗が負けさえしなければ小傘もひとまず諦めてくれるはず。

 ――負けないよな?

 さて今度こそ涙目な星たちを助けに、

 

「――おや。戻ってきていたのか、月見」

「……っと。ああ、おかえり」

 

 続け様に、今度はナズーリンであった。小洒落たダウンジングロッドを両手に月見の隣へ降り立った彼女は、すぐさま聖輦船の喧騒を聞きつけて眉をひそめた。

 

「……なにかなあれは」

「……まあ、聞こえる通りだよ」

 

 取材させろー改造させろー、見学させろー分解させろー、うあーもーダメだって言ってるじゃないですか話聞いてくださいよぉー。

 ナズーリンは眉間を押さえてため息、

 

「……まったく。ご主人だけじゃ不安だったから一輪とムラサもつけたが、無駄だったか」

「なんだかすまないね。あいつらを呼んだらこうなってしまう可能性を、もう少し考えるべきだった」

「いや、私もご主人たちには前以て注意するよう言っておいたんだ。だというのに一輪もムラサも、こういうときに限って甘いんだから……」

 

 悪態を尽きつつ空を見るが、早苗と小傘のノリノリな弾幕ごっこについてはなにも触れず、

 

「……志弦はどうだった?」

 

 月見は首を振った。

 

「……そうか。永遠亭の医術でも打つ手なし、か」

「手を打つ必要もないってことだと、私は思うよ」

 

 慧音の能力で、志弦の中にあいつらの血が宿っているとわかった。そして、いつまで悩んでいるんだと輝夜に叱られた。だから、みっともなく思い悩むのはもうやめにしたのだ。

 今の月見の心にあるのは、志弦に継がれた血への信頼。千年以上の時を超えてみせたあいつらの血なら、志弦の眠りだってきっと意味のあることなのだと。

 

「諏訪子の力でも永琳の力でも、悪い異常はなにも見つからなかった。だから心配する要素がない。そのうちひょっこり目を覚まして、何事もなかったように戻ってくるって……私は、そう信じているよ」

「……」

 

 ナズーリンは少しばかり真顔で呆け、それから一杯食わされたようにそっと吹き出した。

 

「……永遠亭に行く前とは目が別人だね。一体なにがあったんだい?」

「輝夜に叱られたんだ。いつまで悩んでるんだってね」

「ああ、君に懇意だというお姫様か。なるほど、君も誰かに諭されることがあるんだね」

「むしろ諭されてばかりだよ」

 

 そして、同時に支えられてもいる。大半の妖怪が争いをやめた幻想郷とて、決して平和な日々ばかりで満たされているわけではない。おくうの異変も、天子の異変も、あのときの紅魔館も、長い目で見れば月見が外を歩いていた間だって、辛い出来事や悲しいすれ違いは数え切れないほどあっただろう。

 だがそれでも今の温かな幻想郷があるのは、住人たちの――少女たちの力があるからなのだ。どんな過去も笑顔で乗り越えてしまう無限のエネルギーに、月見とてどれほど支えてもらっていることか。

 そんな感情を抱いてしまう自分自身に、月見は口端で苦笑し、

 

「それで、お前の方はどうだった?」

「あー……」

 

 珍しく、ナズーリンの視線が気まずく泳いだ。

 

「うん。それなんだが、その。ちょっとばかり、面倒なことになったというか……」

「面倒?」

「見つかったには、見つかったんだけどね」

 

 見る限り、ナズーリンは宝塔を持っていない。つまり見つかりはしたものの、『面倒』な事情のせいで持ち帰ることができなかったらしい。

 まさかすでに拾われてしまっていて、「これは俺のだ。お前のだというなら証拠を出しやがれ、どっかに名前でも書いてあるのか?」などといちゃもんをつけられたとか。いや、しかし、その程度はナズーリンであれば真正面から一刀両断しそうなものだけれど。

 

「まあ……とりあえず、まずは向こうをなんとかしよう。すまないが手伝ってもらっていいかい?」

「わかった。……ああ、ちょっと待ってくれ、いま荷物を……」

「旦那様っ」

 

 両手の買い物袋を思い出し、とりあえずそのへんにでも置いておこうと考える月見に、わかさぎ姫が尾ひれで水を叩いて自己主張した。並々ならぬ気合が宿った力強い瞳で、

 

「お荷物は私にお任せをっ。私がお屋敷まで運びます!」

「ああ、ありがとう。じゃあ、藍に渡しておいてくれるかい」

「はいっ」

 

 わかさぎ姫も、一応はちゃんと空を飛べる妖怪である。ただし人魚の宿命なのか、水場から離れると段々弱体化してしまい、最終的には身動きひとつできなくなってカピカピに干からびてしまうらしい。要するに何度か調子に乗って干からびたことがあるという話なのだが、まあそれは今は置いておく。買い物袋をわかさぎ姫に任せ、月見はナズーリンとともに聖輦船へ向かう。

 

「え、どうして油揚げがこんなにたくさん……」

 

 あまり気にしないでくれると助かる。

 一言で例えるなら、超有名芸能人を前にした烏合の衆とでも言おうか。鴉天狗が「取材させろー!」「見学させろー!」、河童が「分解させろー!」「改造させろー!」と絶えず声を上げ、星と水蜜と一輪を揉みくちゃにしている。雲山は巨大化して大きく両腕を広げ、聖輦船へ押し寄せる馬鹿共を間一髪のところで食い止めている。「やーめーてーくーだーさーいー!?」と星が涙声で訴えても誰も聞く耳を持たない。水蜜がすっかり目を回していても誰も気にしない。一輪が「ちょっと待って誰よいま変なトコ触ったのぉ!?」と叫んでも誰も止まらない。耳を貸さずに勢いのまま押し切って、最後にはなし崩しで諦めさせる魂胆なのだ。

 ナズーリンと月見の姿に気づき、毘沙門天代理はまさに仏に出会った顔をした。仏はお前のはずだが。

 

「な、ナズ……! 月見さん……! た、助けてくださーい!?」

 

 月見の名を聞いて、烏合の衆が一斉に声を失って静まり返った。ぎこちなく振り向くお馬鹿たちに月見はため息、

 

「お前ら、人の屋敷で随分大騒ぎじゃないか」

「「「……あ、あー」」」

 

 あはは、と必死な愛想笑いをする妖怪たちの中には、月見がよく見知った顔もある。姫海棠はたてと河城にとりである。ブン屋の代表ともいえる文はいないようだが、幻想郷最速の彼女のことだ。もうすでにひとしきりの写真を撮り終えて、今頃は家で記事を作っている真っ最中なのかもしれない。

 ようやく解放された星ががっくり脱力した。

 

「ふああ……た、助かりましたぁ……」

「大丈夫かい、みんな」

 

 服も髪も全体的にやつれてしまって、飛んでいるのもやっとな有様だ。その奥でぐるぐるおめめな水蜜が雲山に支えられ、一輪は過剰に乱れた衣服を神速で整えている。まったく嘆かわしいとナズーリンはかぶりを振って、

 

「ご主人、破片捜しを手伝ってもらう話はどうなったんだい」

「え? ……あ、あはは。そのあたりの説明をするつもりだったんですけど、ええと、その」

 

 要するにスタートラインからまだ一歩も進んでいないらしいが、予想通りといえば予想通りなので月見もナズーリンもなにも言わず、

 

「それじゃあ、さっさと進めようか」

「そうだね。日が出ているうちが勝負だから」

「そ、そんな予想通りだったみたいに……ふええん……」

 

 星が本当に「仕事をさせたときだけは優秀」なのか、ちょっと疑わしくなってきた月見である。

 さて集まっている妖怪たちの中で、まず月見は水色のおさげをした顔見知りに目を遣る。

 

「やあ、にとり。この前の異変では世話になったね。お陰で助かったよ」

「あ……そ、そうだよ! フラワーマスターに説教されるし、ほんと大変だったんだからね!?」

 

 河城にとりと山彦の幽谷響子は、地底からやってきたイタズラ妖精たちの遊び相手を務めてくれた、異変のささやかな功労者である。庭をめちゃくちゃにするほど遊び倒し、その後変わり果てた景観を見て一発でブチ切れたフラワーマスターに、共々こってり油を搾られたと聞いている。若干気の毒ではあるものの、庭を元通りにしてもらえたのはありがたかったので、尊い犠牲だったと思っている。

 

「あとで改めて御礼をさせてくれ。今はちょっと忙しいけど」

「ん。きゅうりと言いたいところだけど今は時期じゃないからね、美味しいお菓子で手を打って進ぜよう!」

 

 また白雫の店主に頼むかな、と月見は思う。夏の一件以来店主は物作りの情熱を取り戻し、向こう十年分あった白雫の予約も最近は目覚ましい勢いで()けていっているとか。

 

「あのー、月見様ー」

 

 鴉天狗を代表して、はたてがぴょこぴょこ手を挙げた。

 

「この船、一体なんなんですかー? それと、この間の異変で月見様が大活躍だったと聞いたので、詳しく取材させてほしいでーす」

「はいはーいウチら河童も河童も!」

 

 にとりも負けじと万歳をして、

 

「こんな空飛ぶ船なんて、もぉー職人魂に火が点いて胸がきゅんきゅんトキめいちゃうっていうか! だからちょっと解体していろいろ調べたいんだけど!」

「だ、だからダメですって何度も言ってるじゃないですかぁ!? これは大切な人の大切なものなんですっ!」

 

 星が一生懸命叫ぶものの、その程度で河童が引き下がるならはじめから暴動は起きていないのだ。にとりはグッとサムズアップで、

 

「大丈夫だよ、ちゃんと元に戻すから! まあ、つい我慢できなくなって改造しちゃうかもしれないけどネ!」

「絶対ダメですーっ!!」

 

 ぶーぶーとやかましくブーイングする妖怪たちを、鮮やかに断ち切ったのはやはりナズーリンだった。

 

「そんなにこの船が気になるなら、交換条件だ。ちょっと私たちの手伝いをしてくれないかな」

 

 ピタリと静まり返った。

 

「この船は法力を込めたありがたい木材でできているんだが、いろいろあって一部が幻想郷のどこかに飛び散ってしまってね」

 

 ふむふむと頷く。

 

「私たちも捜してはいるものの人手が足りなくて、可能なら手伝ってもらいたいんだ。……もちろんタダとは言わないよ。力になってもらえたら、まあ解体や改造は論外だが、修理への立ち会いを許可しようじゃないか。中を見学しても構わないし、そこで目を回してる船長に取材してくれてもいい。なんだったら、君たちを乗せてそのあたりを遊覧飛行しようか」

「あ、あのナズ?」

 

 星が思わず口を挟むが、ナズーリンは「ご主人は黙っていたまえ」と取り合わない。

 一呼吸の思考の間を置いて、はたてが静かに食指を動かす。

 

「その木材って、なにか見た目の特徴は?」

「この船のように法力で宙に浮いているから、ひと目見ればわかるはずだよ。そういう意味では、地面ではなく宙を捜してほしい」

 

 そこでナズーリンは、わざとらしくもふとしたように手を打って、

 

「……ああ、そうだ。全員だとさすがに人数が多いから、天狗か河童、より多く破片を集めてくれた方を優先して案内させてもらおう」

 

 そう付け加えた瞬間、天狗と河童の間に確かな緊張が走った。

 やや、間合いを読み合うような沈黙があった。烏合の衆でしかなかった彼女たちの中にはっきりとした一線が引かれ、天狗と河童はお互いゆらりと向かい合うと、

 

「――あらら。これはちょっと、ウチら天狗に有利な話になっちゃったね。私たちなら、得意のスピードであっという間に集めちゃうし。ごめんね河童の皆さん」

 

 はたての薄い挑発の笑みに、にとりが妖力を感じる微笑で返す。

 

「んー、天狗の皆さんはウチらが職人集団だって忘れてるんじゃないかなー。それ、ウチらの技術が誇るレーダーの前でも同じこと言える?」

「へー、そんなのが一体なんの役に立つのやら。ガラクタ見つけておしまいじゃない?」

「とにかく足動かせば勝てるって、いやだよねえ前時代的な考え方しかできない連中は。『効率』って言葉知ってる? 辞書要る?」

「……ふふふっ」

「……あははっ」

 

 不穏に揺らめく妖気がぶつかり、チリ、と火花のように弾けて散った。顔に不気味な能面を貼りつけて睨み合う二勢力に、星が「ひええ……」とナズーリンの後ろで縮こまる。ナズーリンが鬱陶しそうにロッドで星の足を小突く。今度はナズーリンの意図を察した月見が手を叩き、

 

「では、時間は日没までとしよう。日が沈んだら、お互い集めた飛倉の破片をここに持ってきてくれ。充分な数が見つかった時点で、より多くの破片を集めていた方の『勝ち』だ」

「「……ふふっ」」

 

 天狗と河童たちが、黒く笑った。

 間。

 はたてとにとりがぐるんと振り向き、

 

「――安心してください。河童なんかより、私たちの方がより早く、より多く破片を集めてみせますから」

「いーや、ウチらの方が天狗より断然役に立つね。だからウチらが先だよ。絶対だよ」

 

 ナズーリンは涼しい顔で頷いて、

 

「もちろん。では、よろしくお願いするよ」

「見てなさいよ私たちの方がすごいんだからぁ――――――――ッ!!」

「ぜえ――――――――ったい負けないからね――――――――ッ!!」

 

 そこからはまさしく嵐であった。天狗ははたて、河童はにとりを司令塔として十秒で稲雷の作戦会議を終えると、うおおーっと勇ましい吶喊(とっかん)の声を上げながら、軍隊も唸る統率で仲良く幻想郷中に散らばっていった。

 そして水月苑に、早苗と小傘が弾幕ごっこをしている以外は元の平穏が返ってくる。

 

「――まったく、」

 

 つまらない仕事だったとばかりにナズーリンは肩を竦め、

 

「山の妖怪は扱いが簡単で助かるね。餌をぶら下げて適当に競争心を煽れば、あとは勝手に動いてくれる」

「いや、お見事」

 

 この場を収めるという意味でも一刻も早く破片を集めるという意味でも、ナズーリンの提示した条件は最適解であろう。いっそナズーリンが毘沙門天の代理をやった方がいいのではなかろうか。ナズーリンの後ろで縮こまっている代理本人も、部下の仕事ぶりに口を半開きで感心しきっていた。

 

「さ、さすがナズですねえ。あっという間に解決しちゃいました……」

「でも、あれでよかったの?」

 

 しかし一方で、一輪と水蜜はやや不満げに、

 

「私たち、姐さんを復活させないといけないのよ?」

「そ、そうだよ。遊覧飛行とか言ってたけど、余計なことしてる暇は」

「ああ、そうだね。だから私は、『捜し終わったらすぐ案内する』とは一言も言わなかったよ」

 

 へ、と水蜜たちが呆けた顔で停止する。もちろん、そうであった。ナズーリンは「より多く破片を集めた方を優先して案内する」とは言ったが、いつ(・・)案内するかはただの一言も明言しなかった。

 つまり、

 

「手伝わせるだけ作業を手伝わせて、あとは聖を復活させてから、余裕ができた頃にゆっくり案内してやればいいだろう。まあ、来年かな」

「「「……」」」

 

 二の句が継げない星たちに、尻尾をくるりと丸めた怜悧な笑みを以て。

 

「――大丈夫。嘘は言っていないさ」

 

 無縁塚のダウザー、ナズーリン。

 外見相応、或いは外見よりも幼い妖怪が多い幻想郷では、極めて珍しく。

 姿以上に大人びて、生き馬の目を抜くかの如き少女である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 問題は宝塔だ。

 飛倉の破片は人海戦術に物を言わせれば押し切れる。飛び散った破片をひとつ残らず見つけ出すとなれば途方もない大仕事だが、要は聖輦船に、魔界への転移に必要なだけの機能が戻ればよいのだ。水蜜曰く、欠けたパーツの八割も見つけられれば充分と言っていたから、対抗意識を燃やす天狗と河童によって明日中、早ければ今日のうちにでも一定の成果が得られるだろう。

 しかしどうも宝塔の方で、ナズーリンでも手を焼く面倒な問題が発生したらしく。

 

「まあ現場を見てもらった方が早いと思うから、案内するよ」

 

 そう簡潔に説明された月見は、物憂げなダウザーの背を追って星とともに冬の空を飛んでいた。水蜜と一輪及び雲山は、寒いのが嫌いなぬえを引きずって飛倉の捜索に当たっている。こっちについてきても仕方ないから、というナズーリンの判断だった。人数を用意したところで意味はなく、なにより持ち主の星と、なぜか月見の力が必要不可欠であるようだった。

 

「……随分と、遠くなんですね?」

 

 飛び続けていくうち、星の表情が次第に怪訝の色を帯びていく。妖怪の山を離れ、霧の湖を越えて、このまま行けば間もなく魔法の森が見えてくる頃合いだ。水月苑の周囲で落としてしまったという宝塔が、まさかこんなところまで転がってくるとは思えない。

 であればやはり、この方角に居を構える何者かがすでに持ち去ってしまっていた、と考えるのが妥当だろう。ナズーリンですら手を焼くほどの、実に厄介な「何者か」が。

 恐らくは、月見の知り合いであるはずだ。顔馴染みの立場を活かした交渉役を期待されているのなら、月見に助力が乞われるのにも筋が通る。

 

「まさか、魔理沙か?」

「ああ、あの蒐集癖のある白黒か。彼女が取って行ったのだったら、まだ話は単純だっただろうね」

 

 魔理沙ではないらしい。しかしこの方角に住む人物で、人の落とし物を独占する自分勝手なやつなんて――

 

「ここだよ」

「……ああ、なるほどね」

 

 ――と思っていたけれど、現場について納得した。冬でも不気味なほど鬱蒼と緑が生い茂る、魔法の森の入口に当たる場所。行き場を失った数々の道具が外まであふれ出し、ともすればゴミ屋敷のように見えなくもない、あいもかわらず雑多で締まりのない店構え。

 星が不思議そうに上を見て、その看板に書かれた文字をひとつずつ読み上げた。

 

「ええと、――こう、りん、どう?」

 

 確かにこれは、現場を見た方がなによりも早い。

 

「月見。申し訳ないが、君の力を貸してくれないか」

 

 つまりは、そういうことだ。

 ナズーリンは苛立ちを隠せない様子で、恐らくは店の中まで聞こえるようわざと大声で吐き捨てた。

 

「あの店主、人の落とし物を勝手に商品として並べてるんだ!」

「――失敬な。人を盗人みたいに言わないでくれるかな」

 

 どうやら待ち構えていたらしく、いつも腰の重い扉がこの日はすんなりと来客を迎えた。小気味よく鳴るドアベルとともに顔を出したのは、もちろんのこと香霖堂の主人である、

 

「ふむ、やはり月見を連れてきたか。実に予想通りだね。しかし生憎ながら、お得意様相手でも僕の考えは変わらないよ」

「くたばれぬすっとめがね」

「な、ナズ?」

 

 動かない古道具屋こと森近霖之助に、ナズーリンが人の変わったような舌打ちを飛ばした。しかし彼はまるで堪えた素振りもなく、営業スマイルには程遠い片笑みを月見に向けて、

 

「やあ、月見。しばらくだね」

「ああ」

「魔理沙から話は聞いているよ。先日の異変ではなかなか大変だったそうじゃないか」

「まったくね。本当に骨が折れたよ」

 

 平々凡々な挨拶を交わしながら、霖之助が月見らを中へ促す。売れる気配のない商品たちであふれかえる店内を、初の来店である星は興味深げにあちこち見回し、お得意である月見は別の意味で随所へ隈なく目を光らせる。

 見つけたのは、帳場の奥にある棚だった。月見の視線に気づき、霖之助が愛想の悪い片笑みを深めた。

 

「ナズーリンに頼まれて、これを取り戻しに来たんだろう?」

 

 椅子に腰を下ろし帳場に両肘を乗せて、薄暗い店内で主人は眼鏡の縁を光らせる。この香霖堂では客である限り人も妖怪も公平に扱われ、そして森近霖之助は商売に関しては甚だ大人気なく私情を挟む。気に入った道具は非売品として門外不出にし、商品の値段は実際の価値によらず店主の主観で決定される。

 云うなればここは、公平有私の古道具屋(キュリオストア)

 

「さあ――商談を始めようか」

 

 はてさてどういう風の吹き回しかは知らないが、今日の霖之助はいつにも増してやる気らしい。背後の棚には香霖堂では珍しく、ひと目で並ではないとわかる霊験を放つ道具の姿。

 間違いなく毘沙門天の宝塔が、哀れな囚われの身となって鎮座させられていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ひええ。

 それが、今現在のさとりの心境を簡潔かつ的確に表した一言である。蛇と遭遇した蛙。肉食動物と一緒の檻に入れられた小動物。理屈を超えた圧倒的強者を目の前にしたときのみ味わうことのできる、冷や汗すら枯渇する極限の緊張状態。あくまで悪意のない本人には申し訳ないが、生きとし生ける平々凡々な妖怪として、やはり「ひええ」が極めて正直なさとりの感想なのだった。

 具体的には。

 

「……なるほど。それで、荷物も持たずに地上へ戻ったということですか」

「え、ええ。本当に、突然で」

 

 地霊殿の応接間にて、鬼も裸足で逃げ出す――比喩ではなく本当に逃げ出す――閻魔様こと四季映姫と、一対一でお話する羽目になっていた。

 さとりは以前、映姫を怖がるお燐に「そんなにビクビクしないの」と偉そうに言って聞かせたことがあった。説教好きという傍迷惑な性格は困りものだが、悪人ではないのだから怖がる必要などないと思っていたのだ。それが今はこのザマである。とても怖い。大変怖い。情けないったらありゃしない。

 なぜ今更になって怖がっているのか、理由ははっきりとわかっている。

 月見が地上に帰ってしまったからだ。

 今までは地霊殿で映姫が説教を始めそうになると、すかさず月見が助け船を出してくれていた。一方の映姫も、異変を通して月見の評価を大きく改めた影響なのか、彼から言われれば案外あっさり引き下がることが多かった。要するに、説教される心配がないから映姫のことが怖くなかったのだ。

 しかし、月見がいなくなってしまった今の状況では助けなど期待できない。荒ぶる閻魔様を止められる者はもういない。ひとたび彼女のご機嫌を損ねてしまえば、その瞬間にあの日見たお説教地獄の再来である。

 当然、こいしもお燐もおくうも、とっくの昔にさとりを見捨てて逃げ出した。残念だがあとで真心いっぱいおしおきしなければならない。

 ともかく。

 

「そ、そういうわけですので……申し訳ありません。せっかく月見さんに会いに来てくださったのに」

「馬鹿なことを言わないでください。別に、あの狐に会いに来ているわけではありません」

 

 本来であれば閻魔とて例外ではない心の本音にニヨニヨするところなのだが、もちろんそんな度胸はカケラもないので黙っておく。「素直じゃない」という一点に限って言えば、ひょっとすると映姫はおくうをも超える筋金入りの意地っ張りかもしれなかった。

 んん、とそんな意地っ張りは咳払いをし、

 

「しかし、そのような事情であればやむを得ませんね。あの狐の荷物は、私が明日にでも地上へ届けに行きましょう」

「え?」

 

 思わぬ申し出にさとりは目を丸くした。映姫はあくまで涼しい表情のまま、

 

「いつまでも置いておくわけにもいかないでしょう」

「……」

 

 ――本当に素直じゃないなあ。

 そのとき彼女の心が、一体どのようなものであったかといえば。この地球上では日々数多の生命が誕生し、一方ではまるで釣り合いを取るように、多くの命が終わりを迎え彼岸へと旅立っていく。神が定めた輪廻の営みに年の始めや終わりという概念があるはずもなく、であれば当然、輪廻を司る是非曲直庁にも年末年始休暇など存在しないのだ。

 むしろ年の境界だからこそ余計忙しくなる部分もあるのか、もう少しもすると、映姫は当面の間地上に行く時間も作れなくなるらしい。

 なので荷物を届けに行くという名目の下、今年最後の挨拶くらいは――と、考えているのだった。

 別にそんなの、荷物関係なく素直に行けばいいのに。

 

「……」

「……んんっ」

 

 映姫の釘を刺すような眼力に、さとりは咳払いをした。

 

「そ、そうですね。そうしていただけると、とても助かります」

 

 実を言えば、こいしが「私が届けに行く!」と張り切っていたのだが――まあ、仕方あるまい。姉を見捨てて安全地帯に逃げたバチが当たったのだろう。さとりは悪くない。

 映姫は、あくまで表情だけは素っ気なく頷き、

 

「あの狐に、なにか伝えることはありますか? もう今年は会えない可能性もあるでしょう」

「……」

 

 元々、年末になったら帰るという話だった。そこに突如として地上で起きた事件が舞い込み、挨拶らしい挨拶もできぬまま急転直下の別れとなってしまった。あれが今年最後の月見とのやり取りで、あとは来年になるまで顔も会わせられないのだと思うと寂しくてたまらない。今すぐみんなで地上へ行って、今年一年の感謝の気持ちを伝えることができればどれほどよいか。

 けれど友人を誘拐されてしまった今の状況で、そんなことをされても月見も迷惑だろう。映姫と違ってさとりには、彼の助けとなれるような力もないから。

 苦笑した。

 

「……そうですね。お願いできますか?」

「ええ。明日の朝に荷物を取りに来ます。伝言でも手紙でも構いませんので、準備しておくように」

「わかりました。……ありがとうございます」

 

 やはり映姫は、機嫌を損ねない限りは面倒見がよくて優しい人だ。極限の緊張状態がようやく解れていくのを感じながら、さてどうしようかな、とさとりは思案する。感謝の気持ちを伝言にまとめるのは少し難しいし、こいしたちにも伝えたいことはたくさんあるはずだから、それぞれ手紙を書いて託すのが一番だろうか。

 特におくうなんて、なかなか素直になれない小難しい性格が災いして、慌ただしく立ち去る月見となんの言葉も交わせなかった。それをとても後悔しているし、なにより月見の式神として、一緒に行って助けとなることもできない己の無力を本当に歯がゆく思っていた。今すぐにでも地上へ行きたい想いなら、さとりだってこいしだってきっと足下にも及ばないだろう。

 そう――おくうが一番、地上に行って月見の助けとなりたがっている。

 

「……」

 

 なのでさとりは、物は試しにと、

 

「あの、映姫さん」

「なんですか」

 

 お堅い映姫が首を縦に振ってくれる可能性は低いが、かといって口にしなければはじめから可能も不可能もない。

 緊張から解放された反動のようなものも、あったのかもしれない。半分冗談を言うつもりで、さとりは思い切って問うてみた。

 

「ちょっとしたご相談なんですけど――」

 

 そういえばこういう気持ちを、確か人間たちはどんな言葉で表現していたっけ。確か以前、調べ物をしていたときに辞書でふと見かけた覚えがあるのだけれど――。

 ひと通りの相談が終わり映姫の返答を待つ中で、それをようやく思い出した。

 ――可愛い子には、旅をさせよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑦ 「のべつ幕なし、是非もなし」

 

 

 

 

 

「――商談、ねえ」

 

 昼時前の薄暗い香霖堂に、月見の胡乱な声が低く這うように通る。

 商談を始めようか――珍しくやる気に満ちた佇まいで、確かに香霖堂店主・森近霖之助はそう言った。商談とは、お客さんに商品の値段や内容を納得してもらうために行う交渉のことをいう。つまり霖之助は、今から月見たちにひとつの商品を売りつけようと画策しているわけだ。

 それ自体は別にいい。霖之助だって曲がりなりにも商人なのだから、商売に意欲を見せたくなるときだってあるだろう。

 問題は、交渉のテーブルに上げられる『商品』にある。

 

「あ、あのっ」

 

 星が意を決して口を切った。まさか自分の嫌な予感が当たっているはずはあるまい、と笑顔を引きつらせながらも精一杯明るく、

 

「は、はじめまして! ええと、毘沙門天様の代理を務めさせていただいております、寅丸星と申します!」

「ああ、はじめまして。香霖堂の店主、森近霖之助と申します」

 

 毘沙門天様の代理と聞いてか、霖之助があからさまに人のいい態度へ切り替えた。口調も敬語である。ナズーリンが小声で「猿芝居め」と毒づくも、今の霖之助の前では糠に釘であり、

 

「毘沙門天の代理……ということは、貴女がこの宝塔の落とし主でしょうか」

「は、はい。実は、そうでしてっ。……あ、あの、それでですね」

 

 星は両手の人差し指を心細く突き合わせながら、恐る恐ると上目遣いで尋ねた。

 

「毘沙門天様の宝塔を、商品として並べていると伺ったんですけど……さ、さすがにご冗談で」

「ええ、これは立派な店の商品ですよ」

 

 星は笑顔のまま氷結、

 

「そういうわけですので、必要ならば買取をお願いできますか」

「ふざけるんじゃないよッ!!」

 

 ナズーリンが一発でキレた。

 

「無縁塚の、外から流れ着いた道具やガラクタを商品として並べるのはまだわかるさ! だがこの宝塔は毘沙門天様の、霊験あらたかな宝物とも呼ぶべき重大な道具なんだぞ!?」

 

 猿芝居を早々に打ち切って、霖之助はぶっきらぼうに手首を振った。

 

「はいはい、知ってるよそんなの。僕の能力がなんだったか、まさか忘れたわけじゃないだろう?」

「ぬすっとめがね!!」

「ナズーリン、落ち着け」

「ふしゃーっ!!」

 

 ああ、いつも冷静沈着だったナズーリンが壊れた。

 しかし、気持ちはわからないでもない。いくら霖之助が商人といっても、人の道具を勝手に商品として並べた挙句落とし主に金を要求するのは非常識だし、そもそも仏様のありがたい持ち物を金儲けに使うなど言語道断である。この話がもし毘沙門天本人の耳に入れば、その瞬間に霖之助は天罰で消し飛ばされたって文句は言えない。

 とは、いえ。香霖堂ともそれなりの付き合いである月見は、霖之助が幻想郷でも常識人の部類であり、かつ金儲けにさほど頓着していないことを知っている。

 つまりは、然るべき事情故に宝塔を商品として扱っている、と考える方が自然であり。

 

「それで? 一体どういう訳で、宝塔がここの商品になったんだい」

 

 よくぞ訊いてくれたとばかりに霖之助は笑みを浮かべ、また人のいい猿芝居を始めた。

 

「この宝塔は、僕が正当な物々交換で手に入れたものです。この宝塔を買い取ってくれと、店に持ってきた妖怪がいたんですよ。もちろん、これが拾い物、盗品であるとの説明は一切なく、余計な詮索はしないことが条件でした」

「な、」

 

 全身の毛を逆立てて威嚇していたナズーリンが、口をあんぐりと開けて硬直する。

 概ね、月見が予想した通りの事情であった。要するに、

 

「僕もこの道に入ってそれなりに長いですから、すぐにわかりました――言う通りにした方がいい客だと。妖怪相手にも商売をやっていると、そういうのは少なくないのです。まあさすがに、仏様が直接落とされた物を盗んできていたとは思いませんでしたけどね」

 

 黙って買い取るか、なにも見なかったことにするか。その二択を突きつけられ、霖之助はしばし考えた結果、

 

「そういうわけで、物々交換という形で買い取ったんです」

「なぜそこで買い取るかな!?」

「僕は、妖怪にも人間にも分け隔てない商人でありたいと思ってるからね。あとは、仏様の道具を触れる機会なんて滅多にないから、知識人の血が騒いだとでも言おうか」

 

 前半が建前で後半が本音だな、と月見は思う。ナズーリンが宝塔を捜し求めてやってくるまでの間は、きっと少年のような目をして戦利品を弄くり倒していたのだろう。

 まあ、なんにせよ。

 

「よって、宝塔がここに並んでいるのは僕が正当な商売を行った結果。盗っ人呼ばわりは心外ですよ」

「むむ……そ、そうですね。店主さんは事情を知らなかったわけですし、さすがにナズが言い過ぎで」

「丸め込まれちゃダメだご主人ッ!!」

「ひいっ!?」

 

 しかし、だからといってナズーリンの烈火が如き怒りは微塵も治まらない。早くも丸め込まれそうになる星をぴしゃりと黙らせ、地団駄を踏んでいるのと大差ない苛烈な貧乏揺すりで、

 

「なるほど確かに、確かにはじめは事情なんてわからなかったのだろうね。けれど事情を知ったこの期に及んでも、こいつが宝塔を商品として扱い続け、あまつさえ落とし主に金を要求している非常識は揺るがないよ!」

「僕は妖怪にも人間にも、仏様にも分け隔てない商人でありたいと思ってるからね」

 

 立場的には宝塔の今の持ち主である自分が優位と踏んでいるらしく、霖之助は欠片も動じず言い返す。

 

「一応言っておくけどね。宝塔を拾ったのがはじめから僕だったなら、もちろん素直にお返ししていたよ。当然だ、それくらいの常識と礼儀は弁えてるさ」

「だったら!」

「でも言ったろう、僕はこれを物々交換で買い取った(・・・・・)んだ。大切な『非売品』をひとつ、断腸の思いで手放したんだよ。これで君たちに無償で返したりしたら、僕だけが大損じゃないか。それとも天下に名高き毘沙門天殿は、人々が仏のために犠牲を払うのは当然だと仰るのかな?」

「ぐっ……ぐ、ぬ、ぬ……!」

 

 霖之助は商人であると同時に筋金入りの蒐集家でもあり、気に入った道具を見つけると『非売品』の名目で店の奥へしまいこんでしまう。なまじっか、「道具の名前と用途がわかる程度の能力」のお陰で宝塔の価値が理解できてしまったからこそ、『非売品』を引っ張り出さなければ釣り合わないと判断したのだろう。

 これで宝塔をタダで持ち主に返そうものなら、確かに霖之助一人だけが大損で、まさしく「正直者が馬鹿を見る」である。

 

「僕は商人だ。買い取った品を相応の値段で売るのは当然のこと。君が盗っ人と糾弾すべきなのは僕ではなく、宝塔をここに持ってきた妖怪であるはずだよ」

 

 霖之助はただ、商人としてどこまでも正直だったのだ。

 ぐうの音も出ない正論である。まったくもって正論である以上、いくらナズーリンといえども戦闘続行は不可能であり。

 

「……その妖怪はどこのどいつだ! ぎったんぎったんに叩きのめしてやる!」

「それが、用意周到に顔も特徴も隠していてね。余計な詮索はなしが条件だったものだから、はてさて一体誰だったのやら」

「ぐむぅーっ!!」

「ナズ落ち着いてーっ!?」

 

 遂に感情のやり場を失ったナズーリンが、星から羽交い締めにされながら両腕を振り回してジタバタ暴れた。大事な宝塔を売り物にされた怒りも当然ながら、霖之助相手に正論を叩きつけられ言い負かされた屈辱で、もはや普段の怜悧で大人びた佇まいは見る影もない。一方で霖之助は、ナズーリンには日頃からイヤミばかり言われているせいか、この結果にはご満悦で顎を撫でた様子だった。

 ひとしきり事の経緯を理解した月見は腕を組み、細くやるせないため息をついた。これはお手上げだな、と思った。せっかく高い対価を払って買い取った品なのに、「私が落とした物だから返せ」と言われたらどんなお人好しだって面白い顔はしない。それは本当か、嘘をついてタダで手に入れようとしてるんじゃないだろうな、お前の落とした物だという証拠はあるのか、と当然疑うに決まっている。となれば結局は、今の状況のように相応の対価を払って買い戻すという話に行き着くのだ。

 責めるべくは盗品を売り払ったどこぞの妖怪であり、買い取った商人ではない。

 

「……ナズーリン、こればかりは仕方ないよ。霖之助に限らず、誰が買い取っていたとしても話は同じだっただろう」

 

 月見たちの選択肢は二つしかない。潔く金を出して買い取るか、宝塔を売り払ったどこぞの悪い妖怪を捜し出し、霖之助の『非売品』を取り返して、宝塔ともう一度交換してもらうか。要するに、「金を払って楽な方を取るか、金を惜しんで面倒な方に甘んじるか」である。

 星も眉をハの字にして頷く。

 

「そうですよ、ナズ。仕方ないですけど……これは私の落ち度でもありますので、私がお金を出します」

「……ご主人」

 

 怒り続ける気力ももはや尽きたのか、ゆるゆると脱力したナズーリンは、けれど霖之助への恨みがましい視線だけは最後まで忘れることなく、

 

「それは、値段を聞いてから言った方がいいと思うね」

 

 そのときにはすでに、霖之助が弾き終えた算盤を帳場の上に置いていた。

 

「こんなものでどうかな」

「あ、はい。えーと、」

 

 星は算盤を数え、三秒後に「ふえっ」という顔をした。ぶんぶん首を振り、もう一度慎重に、指差し確認をしながら数え直して、

 

「……、」

 

 五秒後、ぷるぷる震える星はぷるぷる涙声で、

 

「…………あ、あのっ。もう少し、いえ、もうだいぶ、その。十分の一くらいに……まけていただけるとっ……」

「だろう!? そう思うだろう!? 非常識だろうこんなの!?」

 

 ナズーリンがまたキレた。

 確かに、算盤の上で堂々と仁王立ちしているのは随分とご大層な金額だった。「給料三ヶ月分」という有名な外の言葉は、まさに今のような状況のためにあるのだと思える。この金額をいきなり出されて「買います」と即決できる者は、余程の金持ちか、金への執着が薄い人間だけに違いない。

 月見も苦笑いせざるを得ない。

 

「これはまた、随分と大きく出たね」

「そうかい? この宝塔は正真正銘仏様の宝具。これでも安い方だと思うけどね」

 

 うんまあそれはそうなんだけど。

 しかし、そんなことをいけしゃあしゃあと言ったらナズーリンが、

 

「人がっ、人が下手に出ていれば足元を見やがってえっ!! この悪徳商人!! 箪笥の角に足の小指をぶつけてくたばれッ!!」

「ナズ、暴力はダーメーでーすーっ!!」

「お前の本をぜんぶ鼠たちが喰い破ってやるんだからなああああああああっ」

 

 ナズーリンはいよいよ涙目だった。元々外見が童女なので、こうなると完全にヒステリーを起こした子どもにしか見えない。普段が英明闊達(えいめいかったつ)である分、一度プッツリ行ってしまうと手がつけられなくなるタイプらしい。恐らく酒癖も相当悪い。

 

「……霖之助。さすがにちょっとはまけた方がいいんじゃないかい」

「生憎ながら、僕は君ほど優しくはないんだ」

「あれは負け惜しみじゃない。ほんとに根こそぎ喰い破られるぞ」

「……まあ、なにか対策を考えるさ」

 

 はて、と月見は疑問に思った。商人であると同時に筋金入りの蒐集家でもある森近霖之助は、月見とは比べ物にならないほどの本の虫でもある。大切な古書を根こそぎ喰い破られるかもしれないリスクを負ってまで、がめつく商品を売ろうとする男ではないように思うが。

 そも金儲けに疎いはずの霖之助が、なぜ今回はこうもやる気満々で商談なぞ持ちかけてくるのか。今までなにかとイヤミを言われ続けてきた仕返しで、ナズーリンに嫌がらせでもしているつもりなのか。それとも今回だけはもっと特別な事情があって、取り急ぎまとまったお金を必要としているのか。しかし、だったら霖之助自身の貯えは――

 

「…………」

 

 ――ああ、なるほど。

 月見は、なんとなく察した。

 

「そういうことか。わかったよ、霖之助」

「……なにがだい?」

「金が尽きたんだな?」

 

 霖之助がさっと顔を背けた。

 

「だから、そうまでして宝塔を売ろうとしてるんだろう」

「……」

 

 霖之助はなにも言わない。

 外の経済社会ほどではないにせよ、幻想郷だって、もちろん生きるためにはなにかと金が先立つ世界である。金がなくとも自給自足で逞しく生きている者だっているが、少なくとも霖之助は違う。金がなければ、食べ物も道具も本も買えない。そして香霖堂は、こういっちゃあなんだがだいたいいつでも閑古鳥が鳴いている。閑古鳥が鳴いているということは、収入がないということである。収入がないということは、生きていればそのうち金が尽きるということである。

 そして、今がまさしく「そのとき」なのだった。

 すっかり冷静を取り戻したナズーリンが斜めに目を伏せ、場の空気を取り繕おうといかにも努力した感じで、

 

「そ、そうだったんだな……。すまなかった、店主。そうとも知らずに私は」

「君、その本気で気の毒そうな顔はやめてくれないかな」

 

 星も、とてつもなく真剣な顔で胸を押さえている。

 

「そ、そうですよね……こんな店構えじゃお客さんなんて来ないでしょうし、お金もなくなっちゃいますよね……」

「ナズーリン、君のご主人様がトドメを刺しに来るんだが」

「いや、うん。事情も知らずに好き勝手言って、本当にすまなかった……」

 

 右手で顔を覆って項垂れる霖之助は、きっと心の中で泣いていたのだと思う。そうとも知らずに星とナズーリンは話を加速させ、

 

「ナズ、やっぱり買いましょうっ。このままでは店主さんが飢えに苦しんで、仏を信じる心を失ってしまいます……!」

「……そうだね。わかった」

 

 むしろたったいま失ったばかりな気もするが。

 

「しかしご主人、持ち合わせはあるかい? 正直、私ははした金程度しか……」

「うっ……わ、私も、今はちょっと……」

「ムラサと一輪にも頼んでみるか……? いや、さすがの二人もここまでのお金は持ってないか……」

「ど、どうしましょう……このままじゃ、店主さんが飢えに苦しんで明日にでもっ……!」

 

 霖之助が声なき声で呻き、

 

「……月見、助けてくれ」

「はっはっは」

 

 計画性のない霖之助が悪い。大方、金がなくなってきているのには前々からちゃんと気づいており、その上でまだ大丈夫だと高を括って趣味ばかりにうつつを抜かしていたのだろう。なまじっか妖怪の性質を併せ持っているせいで、食事は抜くわ睡眠は削るわ、この男は日頃から不養生な生活をしてばかりなのだ。

 

「……二人とも、僕が悪かった。お金は要らないから、もうやめてくれ」

「ダメですっ! 私たちがここで宝塔を買わなかったら、店主さんの生活は一体どうなるんですか!?」

「ご主人の言う通りだ。幻想郷とて、半妖が無一文で生きていけるほど甘い世界じゃない。いくら君でも、知らないうちに野垂れ死んでいたら目覚めが悪いじゃないか」

 

 なぜか星とナズーリンの中で、霖之助が早くも野垂れ死ぬ一歩手前ということになっている。

 当然、面白いので月見はまだなにも言わない。霖之助は段々焦り始め、

 

「い、いや、しかしね」

 

 そう言って手を伸ばしかけるのだが、二人はまったく聞いちゃいない。その瞳は、白蓮の復活を望むのと同じほどの使命感で燃えていた。

 

「一度戻りましょう、ナズ……! ムラサと一輪に協力を頼むんです!」

「そうだね。もしかしたら、事情を話せば他にも手を貸してくれる誰かがいるかもしれない」

 

 霖之助がとうとう本気で助けを求める形相になった。いま月見と霖之助の脳裏では、寸分も違わず同じ未来が広がっているはずである。すなわちこの一件を天狗あたりに聞きつけられ、清々しく脚色された不名誉な噂話が幻想郷中を駆け巡り、最終的に霊夢と魔理沙からとても不憫な眼差しを向けられている未来が。

 これくらいで勘弁してやるとしよう。「どれ」と一声、月見は霖之助と星たちの間に割って入った。

 

「じゃあ、お金は私が出すよ。一度屋敷に戻れば準備できる」

「えっ……よ、よろしいんですか?」

 

 目を丸くする星に頷き、

 

「白蓮に早く会いたい気持ちは私も同じさ」

「つ、月見さんっ……」

 

 星が感動でうるっと震える。霖之助は背もたれに体重を預け脱力し、微苦笑とともに吐息する。

 

「君は、あいかわらずだね……」

「さて、なんのことかな。私はただ、欲しい物を買おうとしているだけだよ」

「……そうか」

 

 商人としてではなく、月見の友人としての顔だった。

 

「――毎度あり。どうもありがとう」

「ああ。これを機に、ちょっとは生活習慣を改めるんだよ」

「……霊夢がちゃんとツケを払ってくれたり、魔理沙が茶菓子を勝手に食べたりしなければ、もう少しマシになるはずなんだよ」

 

 霖之助がせめてもの悪あがきで呻くが、生憎となんの説得力もない。だって、本気で迷惑しているのならキチンと叱ってやめさせればいいのだから。霊夢と魔理沙だって嫌がらせをしているわけではないのだ、冗談抜きで怒られれば素直にやめるだろう。

 にもかかわらず彼女らが香霖堂で好き勝手やっているのは、霖之助への一種の信頼であり、まあ要するに甘えているのであり、霖之助も心の中ではそれをどこか満更でもなく思っているのだ。

 あの紅黒コンビがいる限り、香霖堂の現実が改善される日は未来永劫来ないであろう。

 

「あ、あのっ!」

 

 わたわたと月見の隣に並んだ星が、突然ぶっ倒れたかと見紛う勢いで頭を下げてきた。

 

「ありがとうございます! その、お金を出していただきまして……」

「いいんだよ。それより、もう落とさないようにね」

「は、はいっ。それはもう!」

 

 決して安い出費ではないが、白蓮のため、ひいては友人の明日のご飯のためとなれば迷う道理もない。さてこれで宝塔は一件落着だと、月見がまさに一息ついたその直後、

 

「なに調子のいいことを言ってるんだい、ご主人。この場合、宝塔は月見の物だろう」

「へ?」

 

 ナズーリンがひっくり返した。頭を上げる途中の体勢で時が止まった主人へ、彼女は至って真顔のまま、

 

「当たり前だろう、月見がお金を出して買ったんだから。違うかい?」

「……え、あ、はい、それはそうだと……思います、けど。え? あ、あれ?」

 

 星の心に灯っていた安堵と希望の光が、見る見るうちに困惑と疑惑の闇ですげ替えられていく。疑いの対象には月見も含まれている。

 

「いや待て、私はそんなつもりじゃ」

「月見、ご主人を甘やかさないでくれ。如何な事情があったとはいえ、ご主人には今回の事の重大さを身を以て知ってもらう必要がある」

 

 更には脇から霖之助まで、

 

「そうだね。僕は月見に宝塔を売るわけだから、所有者は彼になると考えるべきだろうね」

「あ、あれー?」

「ご主人……まさか君、月見にお金を出させておきながら自分の物にするつもりだったのかい? 毘沙門天様の名を背負う君が? そんな無責任なことを?」

「そそそっそんなことないですよ!? もちろん宝塔は月見さんの物ですともっ!」

 

 ナズーリンの石ころを見るような目に星は全身全霊で掌を返し、それからしょんぼりと項垂れた。

 

「うう……ほ、ほうとう……」

「なんだか不満そうだね。自分で責任を取るのが嫌なら、毘沙門天様にぜんぶ包み隠さず打ち明けて助けを求めるという手もあるよ?」

「わかりましたっ、私がぜんぶ責任を取ります!!」

 

 ナズーリンは毘沙門天の部下であるから、代理とはいえ毘沙門天の名を背負う星に対しても、同じように部下であるといえる。しかし同時に星の働きを監視するという毘沙門天直々の命を受けたお目付け役でもあるから、ある意味では星の上司だともいえる。現に今、立場が上なのは明らかにナズーリンの方だ。時と場合によって上下が容易く逆転する、なかなか複雑な主従関係であった。

 というか、星がナズーリンより上の立場となる瞬間などあるのだろうか。

 

「よろしい。ならば宝塔の今の持ち主である月見に、一体なにを言わなければならないか。わかっているね?」

「ふええん……」

 

 もしも床が畳であれば、星は土下座をしていたのかもしれない。

 

「月見さん、お願いします……! 今回月見さんが払ってくださった代金は、いつか必ず、必ず私が全額お返しします……! ですから今だけ、聖を助けるまでの間だけ、どうか宝塔を私に貸してくださいませんかっ……!」

 

 いやだから、元よりそういうつもりで宝塔を買ったわけじゃないんだけど。

 しかしナズーリンの「甘やかすな」オーラがビシビシ飛んでくる状況では、敢えて強く言えるはずもなく。

 

「……うん。まあ、なんだ。お前たちの気が済むようにやってくれ」

「はいっ……! ありがとうございます!」

 

 ああ、良心が痛い。

 

「とはいえ、その……私、今はちょっと、大した持ち合わせがなくてですねっ。お時間が掛かってしまうと思うんですけど……」

「いや、別に利子を取ったりはしないから、ゆっくり返してくれればいいよ」

「ああ……月見さんがお優しい方で、本当によかったです!」

 

 良心が痛いってば。月見はなにも悪いことなどしていないはずなのに、なぜだか星を騙しているような気分になってきた。

 今度は月見が声なき声で呻く番である。霖之助が、意味深な笑みをいやらしく口元に貼りつけている。

 

「……なにかな」

「いや。君の周りは、いつもそうなんだろうと思ってね」

「『そう』とは?」

「『そう』は、『そう』だよ」

 

 あまり褒められている気はしないなあと月見は思う。

 吐息、

 

「……とりあえず、屋敷に戻って金を取ってくるよ。霖之助、宝塔はキープで」

「ああ。わかっているよ」

 

 ともかく今は与太話に精を出す暇などなく、宝塔をさっさと買い戻してしまうのが先決だ。幻想郷では、いつどこでなにが起こるか誰にも予測ができない。お金を準備して戻ってきたとき、香霖堂の棚に宝塔が変わらず鎮座している保証はない。

 香霖堂を一旦あとにし、水月苑まで戻ることとする。その空の道を行く間も、星はずっと縮こまってばかりであった。

 

「あの、月見さん……本当にありがとうございます。なんとお礼を申し上げればよいか」

「言ったろう、私だって白蓮に早く会いたいんだ。本当は、お金も返さなくたっていいんだけどね」

「月見、甘やかすなと何度言えばわかるのかな」

 

 まあナズーリンがこの調子なので、もうとやかく言うのはやめるのだ。ナズーリンは月見のついでに星まで半目で睨み、

 

「ご主人も、甘えるんじゃないよ」

「あはは……でも月見さんって、不思議と頼りたくなる雰囲気があるというか」

「やっぱり毘沙門天様に報告か……」

「あーっ違います違いますっ、あくまで月見さんのお人柄というか、決して頼ろうとしているわけではなくってですね!? もちろんお金はお返ししますともっ、だから毘沙門天様には言わないでくださいいいいいっ!」

「星。私はナズーリンから、お前は仕事をさせれば優秀だって聞いてるんだけど……本当なのか?」

「つ、月見さんが不信の眼差しにっ」

 

 いや、不信を抱かない方が無理というか、今のところダメな姿しか見せてもらっていない気がするのだけれど。

 ナズーリンが、凝り固まったこめかみを指で揉みほぐしている。

 

「……まあ、これでも本当に、寺の仕事だけは一人前にこなすのさ。こと信仰集めに関しては見事の一言だよ。ご主人の人柄というか、君とはまた違う意味で、人からよく好かれるんだな」

「ああ……それは、なんとなくわかるね」

 

 底抜けに人がよさそうなところ、とでも言おうか。悪人でないのは一目瞭然で、誰が相手でも決して心の壁を作らず、困っている人がいればどんな些細な悩みにだって快く耳を傾けようとする――そんな少女なのだろうと思う。言うことやることはどこか抜けていて危なっかしいが、そのあからさまな欠点が反って親しみやすさを生み、ないしは庇護欲を刺激し、結果として彼女の周りには自然と人が集まるのだろう。

 一言で言ってしまえば寅丸星は、「なんだか信じたくなる子」なのだ。それは間違いなく、人間の信仰を集める上で極めて秀逸な能力に違いない。

 

「え、えーと、これって褒められてるんでしょうか?」

「ああ、褒めているさ。ある意味では貶してるけど」

「ふえええん!」

 

 そして敢えて裏を返せば、「仕事以外はてんでダメな女」ということでもあるのだった。

 

「ともかく今回の件については、ご主人がキッチリ埋め合わせをするよ。なんだったら、ご主人を君の屋敷に派遣したっていい。ご主人は『財宝が集まる程度の能力』を持っているからね、傍に置いておくだけで儲かるよ」

「へえ……それはまた、すごい能力だね」

 

 しかし、よくよく考えてみれば驚くことでもない。毘沙門天は今でこそ武神として広く崇敬されているものの、古来より福の神としての側面も併せ持っており、別名「多聞天」の名で七福神の一柱として数えられているのだ。神奈子や諏訪子の場合と同じで、神としての特性が具現化した能力だといえるだろう。

 金銀財宝、一攫千金億万長者――いつの世だってあらゆる人間たちを虜にする、永久不変の夢物語である。信仰集めが上手いという彼女の長所は、その能力で拍車を掛けられている部分もあるのかもしれない。

 

「しかし生憎、人手なら充分間に合ってるよ」

「もちろん、ご主人が労働で役に立てるとは思わないさ。言ったろう、『傍に置いておくだけで儲かる』って。珍妙な置物だと思って飾っておけば」

「ナーズー!?」

「招き猫ってことか」

「元々寅の妖怪だしね」

「つーくーみーさーん!?」

 

 もぉー! と頬を膨らませてぷんぷん怒る星に寅らしい野性的な凄みなど欠片もなく、どこからどう見ても可愛らしい小動物にしか見えなかった。

 さて、宝塔の話もいい加減に終わりにして。

 

「ところで二人とも。よければ、今日の夕飯は私の屋敷で食べていかないか?」

「うん? ありがたい話ではあるけど……いいのかい?」

「ああ。早苗が、食べ切れないくらいたくさん買い出しをしてくれてね」

 

 主に油揚げを。今宵は藍渾身の油揚げフルコースが食卓を埋め尽くすはずなので、せっかくだから食べるのを手伝ってくれると助かる。

 とはいえ、それは単なる建前だ。本当は、食事の席でも使って話をしたいことがあるのだ。全員を集めて、ゆっくりと腰を据えて。

 慧音が教えてくれたこと。

 月見が知る『神古』と、ナズーリンたちが知る『神古』と、いま幻想郷にいる『神古』のこと。

 ――そして、月見は白蓮を知っているかもしれないのだということを。

 

「そうか。誘ってもらえるなら、ありがたくご馳走になるよ。……ちなみに藍の料理かい?」

「もちろん」

「ならなおのこと、遠慮しては損というものだね」

 

 ナズーリンの口元に、ほんのかすかではあるが期待の笑みが浮かんだのを月見は見逃さなかった。藍の料理の腕前は、料理上手が多い幻想郷でもとりわけ一、二を争う。和洋中他あらゆる国のレシピと技術を網羅し、店を開けば大繁盛間違いなし、人里では料理教室を請われることも少なくないとか。彼女の料理がタダで食べられると聞いて喜ばない人はいないし、遠慮するなどはっきり言ってただの愚行に他ならないのだ。

 

「藍さんって、お料理がお上手なんですか?」

「上手なんてもんじゃない。幻想郷でも最高レベルの絶品だよ」

「……、」

「ご主人、よだれ」

「垂らしてません!?」

 

 垂らしそうな顔ではあった。

 ナズーリンが肩を竦め、

 

「月見、すまないがご主人は大食いだ。それだけ覚悟しておいてくれないか」

「べ、別に普通ですもん!」

「私の倍以上食べるくせしてなにが普通だい」

「それはナズが小食なんですーっ!」

 

 とりあえず星がよく食べる子なのはわかったので、藍に思いっきり作らせようと思う。きっと、「こんなにいっぱいの油揚げを一度に料理できるなんて……!」と尻尾を震わせながら感動してくれるだろう。

 森の隙間に、水月苑の屋根が見えてきた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「あた――――――――っく!!」

「ごふ」

 

 そして玄関の戸を開けた瞬間、月見は鳩尾に砲弾を叩き込まれて吹っ飛んだ。

 もちろん、フランであった。

 危うく庇の外まで吹っ飛ぶところだったが根性で耐え、尻尾をクッション代わりにして尻餅の衝撃を和らげる。けほけほ咳き込みながら見下ろせば、月見のお腹に顔を埋めてだらしなく伸びたフランが、バタ足をしながらご機嫌に音符を踊らせている。

 

「ひゃっ!? なななっなんですか、敵襲!?」

「大丈夫だご主人、これはよくある光景だ」

「よくあるんですか!?」

 

 まあ割と。

 フランをお腹にくっつけながら、月見は年寄りみたいに立ち上がった。手元の帽子を柔らかく叩き、

 

「ほらフラン、離れてくれ」

「やだーっ」

 

 ぴこぴこと楽しげに揺れるフランの翼が、鈴のように小気味のよい音色を奏でる。月見は仕方なく、甘えん坊な吸血鬼をぶら下げたままよっこらせと玄関に上がる。後ろの方で星とナズーリンが、「もしかしてお子さんとか……?」「当たらずしも遠からず」とひそひそ話をしている。

 広い玄関の先では、姉が腕組みをしながら待っていた。

 

「おや、レミリア」

「おかえり。やっとこっちに戻ってきたのね」

 

 ほう、と月見は意外に思う。ぞんざいな口振りとはいえ、意地っ張りにも近いプライドの高さで定評のある彼女が、自ら足を動かしてお出迎えしてくれるとは珍しい。

 顔に出ていたらしく、半目で睨まれた。

 

「なによ。私が玄関まで迎えに出たらおかしいのかしら」

「そんなことはないさ。ただいま」

「……ふん」

 

 ぷいと素気なくそっぽを向くも、横顔はあながち満更でもなさそうだ。かつて月見をグングニルで脅したこともある傍若無人な吸血鬼は、元気で人懐こい妹をはじめとする様々な人たちの影響を受け、最近は見違えるように灰汁が抜けてきている。後ろの方で星とナズーリンが、「双子のお子さん……?」「当たらずしも遠からず」と以下略。

 フランがようやく離れてくれた。八重歯をお茶目に見せる満面の笑顔は、今回も減点のしようがない眩しさで光り輝いていた。

 

「月見、おかえりなさーいっ!」

「ああ、ただいま」

「月見が帰ってくる日、ずっと待ってたんだよー! お姉様なんか、毎日そわそわしてまだかまだかって」

「わひゃい!?」

 

 レミリアが全身で飛び跳ね、

 

「なななっなに言ってんのよフラン!? んなわけないでしょうが!!」

「えー? お部屋でこっそり日めくりカレンダーめくりながら『いつになったら戻ってくるのよ、もう今年が終わっちゃうじゃない!』って」

「うわああああああああああっ!?」

 

 また始まった。

 本当にこの仲良し姉妹は、隙があればすぐバタバタと追いかけっこを始める。まったくもうと思わずため息が出てくるも、そこに嫌な感情は一切なく、むしろ地上に戻ってきた実感に改めて包まれている自分がいた。

 そして、この二人がいるということは。月見が屋敷の中を見回すと、案の定、壁の向こうから顔を半分だけ出しているメイドな少女がいた。

 

「じー……」

「やあ、咲夜」

「!」

 

 メイドな少女、十六夜咲夜は待ってましたとばかりにそそくさ出てきて、

 

「お久し振りです、月見様」

「ああ」

 

 一週間以上振りに見る彼女は、なにかいいことでもあったのだろうか、なんだか普段にも増して元気そうだった。いつもなら慎みのある瀟洒な微笑みも、今日は少しばかり無邪気で幼らしく見える。彼女自身意識していないほんのわずかな重心の移動で、皺ひとつないスカートがふわふわと踊るようになびいている。

 

「元気そうだね」

「はい、お陰様で」

「……お陰様で?」

 

 咲夜が「しまった」という顔をした。

 飛びかかってくる姉を華麗に躱すフランが、素早く己の出番を察した。

 

「月見がいなくなっちゃって、はじめは元気なかったんだけどねー。でも、月見のお返事もらってからはもうめちゃくちゃ」

「わー!! うわーっ!!」

 

 ドタバタ走り回る三人分の喧騒を聞きながら、月見はああと思い出す。

 

「そういえば、この前はお菓子をありがとう。やっぱり咲夜はなにを作っても上手だね」

「ふえっ……い、いえいえ、私なんて、本当にまだまだで」

「宝物みたいに箱に入れて鍵まで掛」

「わーわーっ!!」

 

 ドタバタバタ。

 本当に賑やかなことだ。傍若無人だったレミリアは丸くなり、精神が不安定だったフランは元気いっぱいになり、そして理知的で上品だった咲夜はなかなかのお茶目さんになった。月見が出会った当時とあとで、ここまで印象が様変わりした勢力も他にはない。もちろんどの変化も、月見にとってはとても喜ばしいものばかりだ。

 星が呆然としながら、走り回るスカーレット姉妹を目で追っている。

 

「吸血鬼……ですよね。排他的な種族で有名な」

 

 ナズーリンが呆れながら補足する。

 

「ここの近くに、やたら赤くて目に悪い洋館があっただろう。あそこに住んでる吸血鬼だよ」

「ちょっとそこのネズミ、いま私の館が悪趣味だって言った!?」

「いやそこまでは言ってないけど」

「つまりちょっとは言ったのね!?」

「実際アクシュミだよねー」

「フラアアアン!!」

 

 また一段と喧騒がやかましくなるが、しかしなにやらそれに混じって、遠くから疾走してくる別の足音が、

 

「「つうううううくみいいいいいいいいいいむぎゅ!!」」

 

 雷鳴みたいに突進してきた萃香と操を、月見はすかさず二尾で跳ね返した。

 着地した二人は揃って頬を膨らませ、

 

「前々から思ってたけど異議あり! フランのはいつもちゃんと受け止めるのに、なんで儂らは雑なんじゃよ!」

「そうだよ! 私たちも受け止めてよぅ!」

「日頃の行いだ」

「「こんにゃろーっ!!」」

 

 近づいてくる足音と気配はそれだけではない。

 

「月見さーん、お帰りなさーい!」

「ようやく戻ってきたのね! まったく、随分とのんびりしてきたじゃないの」

「おやおや」

 

 幽々子と幽香を筆頭として、妖夢、椛、パチュリー、小悪魔、妹紅、橙、ルーミア、更には藍も早苗も諏訪子も神奈子まで、みんな集まって出迎えに来てくれたようだった。中にはすでに、今年最後の温泉を堪能し終えたと見える少女もいた。

 後ろで星とナズーリンがまた、

 

「わわっ……妖怪に人間、神に悪魔、それに幽霊?」

「亡霊と半人半霊だね。ちなみにあの白い髪の人間は、不老不死だよ」

「ふろっ……!? す、すごいです。本当にいろんな種族の方が」

 

 そのとき玄関の戸がいきなり、

 

「――月見さあんっ!!」「月見いっ!!」

「ふゅい!?」

 

 蹴飛ばすような勢いで開いて星が跳びあがる。のっしのっしと強盗みたいに踏み込んできたのは、大変見慣れた紅白と白黒、すなわち霊夢と魔理沙であり、

 

「おはよう! 月見さん、あれって宝船でしょ!?」

「は?」

「ここの屋根ンとこに止まってるだろ! 宝船だろあれ! あとおはよう!」

「ああ、おはよう。ええと、あの船はだね」

「「お宝ちょうだい!!」」

 

 彼女たちともそこそこの付き合いになる月見はすべてを察した――これ話聞いてもらえないやつだ、と。魔理沙の両目が燃え上がる探究心でギラギラに輝き、霊夢に至ってはもはや小判になっている。

 二人のことを知らない星が、大変迂闊にも口を挟んでしまった。

 

「ちょ、ちょっと待ってください。あの船は私たちの」

「なによあんた邪魔するの!? よーしいいわ、そこまで言うなら相手になってやろうじゃない」

「まだなにも言ってませんしなんの話ですか!?」

「今から言うんだから同じようなもんだ。んじゃあこのネズミも入れて二対二だな、ちょうどいいぜ」

「あーもーご主人君ってやつはほんっとにもう」

「私のせいなんですかー!?」

「ど――――――――――――んっ!!」

「ごふ」

 

 気を取られていた月見の背中に萃香のタックルが突き刺さる。

 

「えへへー隙ありー! よーし、月見も帰ってきたし今日はこのまま宴会だ!」

「「「いえーいっ!!」」」

「駄目だよ暇じゃないんだからみんな帰れ」

「「「え――――――――――――ッ!!」」」

 

 そして、そこから先はもう、

 

「ほら離れろ萃香邪魔だよ」

「ひどぉい!? べーだっそんなこと言うんだったら明日までずっと離れてやんな――あーっ待って待って尻尾だめ! 首絞め反対っ反対っぎゃーすごくモフいけどすごく絞まるうううぅぅっ!?」

「そこどけ萃香あああああああああ!! 月見の尻尾は私のだあああああああああああっ!!」

「諏訪子様ー!?」

「月見を独り占めするのダメ――――――――ッ!! 咲夜にもお話させてあげてっ、ずっと寂しがってて毎晩月見の手紙を読み返」

「わー!! わーっ!! ぅわあーっ!!」

 

 もう、

 

「月見さーん、さとりはこっちに来てないんですかー? 早く妖夢の心を読んでほしいんですけどー」

「そうじゃよ! お前さんだって、文から本当はどう思われてるのか知りたいじゃろ!?」

「あとで文さんに報告しよっと……」

「待って椛儂ころころされちゃう」

「お、おおおっ思い出したっ! 月見さん、その覚妖怪さんを地上に呼ぶときは必ず私に教えてください! 必ず! 必ずですよ!? じゃないと魂魄妖夢は世を儚んで失踪するんですからね!?」

「あーもーうるさいのよあんたらそんないっぺんに話しかけるな! 親しき仲にも礼儀ありって言葉を知らないのかしら!」

「「おーたーかーら!! おーたーかーらっ!!」」

「ご主人、私は助けないけど……負けたらどうなるかわかっているね?」

「月見さん助けてえええええ!?」

 

 ああもう。

 もはや誰がなにを言っているのかもロクにわからぬ。この喧騒を遠巻きから眺めている少女たちとふと目が合う。パチュリーはため息、小悪魔は微笑み、妹紅はニヤニヤと笑い、神奈子は肩を竦め、藍は苦笑、橙はにこにこ、ルーミアの唇が「みんな元気だねー」と能天気に動く。

 元気すぎである。人間も妖怪も、神もその他もお構いなしなのはあいかわらずだ。月見が地底にいる間も、ここはきっと来る日も来る日も賑やか極まる毎日が続いていたのだろう。

 もう少し、この心地よい喧騒に身を浸しているのも悪くはなかったが。

 

「――つ、月見さぁん!!」

 

 再び玄関の戸を開け放ち、和気藹々とした空気まで蹴破って、切迫しながら飛び込んでくる小さな人影がひとつ。息つく暇もなく今度は誰がやってきたのかと思えば、

 

「おや、ふみう」

「こんな大勢の前でふみうって呼ばないでくださいッ!!」

「「「……ふみう?」」」

「なんでもないです気にしないでください!!」

 

 大妖精ことふみう、いや、ふみうこと大妖精だった。見る限りあの猪突猛進な相方の姿はなく、霊夢と魔理沙の間を押し通って月見のすぐ傍まで駆け寄ってくると、同時にフランも嬉々とした小走りで、

 

「大ちゃーん! おはよー!」

「あ、フランちゃん。おはよう」

「温泉に入りに来たの? 一緒に入ろうよ! あれーチルノちゃんはー?」

 

 一瞬でそっちのけにされたレミリアが、妹の成長を喜びつつもちょっぴり寂しそうな顔をしている。大妖精はチルノの名を聞くなりハッとして、大慌てで月見の袖を引っ張った。

 

「月見さん、あのっ、た、助けてください!!」

「なんだなんだ、どうした?」

「チルノちゃんが、こうなったら戦争してやるって!」

 

 なにをやっているのかあのおばかは。

 

「と、突然天狗さんと河童さんがやってきて、チルノちゃんの宝物を持って行こうとしてて! チルノちゃんもうカンカンに怒って、戦争だーって!」

「……」

 

 月見の胸に突如として去来する、話がとんでもなく面倒なこじれ方をしている予感。

 当然、ナズーリンも察した。大変言いづらそうに、

 

「……月見。天狗と河童って、まさか」

「……」

 

 そのまさかだろうなあ、と月見は早くも諦めている。

 

「なあ、ふみう。そのチルノの宝物って、一体どんなものかな」

「ふみうって呼ばないでくださいっ。ええと、お空に浮いてる不思議な木の欠片なんです。チルノちゃん最近、みんなと一緒に一生懸命集めて回ってて」

 

 ふう、と月見とナズーリンは同時に吐息した。ささやかな現実逃避というべきか、どうしてこう上手く事が進んでくれないのかなあもう、というやるせない思いを吐き出さずにはいられなかった。

 どうやら幻想郷中に飛び散った飛倉の破片は、すでに好奇心旺盛な妖精たちが目をつけて集めていたらしい。恐らくはかなりの数が揃っていたのだろう、それを知った天狗と河童が、是非自分たちの手柄にすべく我先にとチルノへ譲渡を迫る。一生懸命集めた宝物を根こそぎ奪われそうなチルノは当然怒る。そうして事態は妖精・天狗・河童三つ巴の闘争に陥り、我慢の限界を迎えたチルノがとうとう戦争を宣言した。

 そんなところであろう。

 そんなところなのであろう。

 

「ナズーリン、すまない……。あいつらに手伝いを頼んだのが間違いだったかなあ……」

「いやその、私だって彼女たちを変に焚きつけてしまったし……申し訳ない……」

 

 はあ……と、月見のナズーリンの重いため息は見事にハミングしてしまうのだった。

 

「……月見さん?」

「いや、なんでもない。それで、喧嘩をやめさせればいいのかな」

「は、はいっ。チルノちゃんだけなら私でも大丈夫なんですけど、天狗さんや河童さんはさすがに……」

「わかったよ」

 

 次から次へと慌ただしいが仕方がない。先刻の聖輦船での暴動然り、根本的な責任は天狗との協力を提案してしまった月見にあると言わざるを得ないのだから。

 

「ナズーリン。お金は預けるから、宝塔の方を任せていいかな」

「……ああ、わかったよ」

 

 飛倉の破片だけでこうも話がこじれるのだ、宝塔の方だってなにも起こらないとは限らない。それはナズーリンも漠然と不安を覚えたようで、やや迷いながらも首肯が返ってくる。

 

「つ、月見さぁん!! わ、私! 私を連れて行ってくださいっ! 是非私をっ!」

 

 履物を脱ごうとする月見の背に、星が見捨てられる小動物と化して情けなくしがみついた。その後ろでは霊夢と魔理沙が、口をにんまりと三日月にして妖怪の如く、

 

「なに逃げようとしてんのよあんた。逃がさないわよ」

「そうだぜ。お宝を懸けて正々堂々勝負だ」

「ひいいい!?」

 

 ああもう、と月見は段々投げやりになってきて、

 

「誰か、この子の代わりに二人と闘ってやってくれ」

「「はいはーいっ!! やるやる!!」

「じゃあ萃香と操、頼んだ」

「「はーい!」」

「「ちょっと待ってぇ!?」」

 

 今度は霊夢と魔理沙がしがみついてきた。私はいつになったら屋敷に上がれるんだろう、と月見はぼんやり疑問に思う。

 

「おかしいでしょ!? なんでそういうことになるの!?」

「萃香はまだいいとして天魔様はおかしいだろ! 天狗のトップだろ!? さらっと出てきちゃダメなやつだろうがっ!」

「あーもー放せってば」

 

 血相を変えて慌てふためく二人をよそに、萃香と操はやる気満々で腕まくりをしている。

 

「よーし霊夢、魔理沙、正々堂々勝負だよ!」

「冗談じゃないわよ!? こちとらこないだの異変でも、鬼子母神サマと闘わされたばっかなのよ!? なにが楽しくて天魔サマとまで闘わなきゃなんないのよ!」

「へー、千代と闘ったんか。で、どうだったんじゃ? 勝ったんか?」

「ま、まあ、めちゃくちゃハンデもらったけど……一応勝ったんだぜ。へへ、当然だろ」

「「じゃあ全力で行って大丈夫だね!!」」

「魔理沙アアアアアァァァ!!」

「失言でしたああああああああ!?」

 

 霊夢が魔理沙の胸ぐらを締め上げている隙に、月見はようやく履物を脱いで屋敷に上がった。玄関の戸を開けてからここに至るまでが、なんだかとてつもなく長い道のりだったように感じるのは気のせいか。

 妹紅が早速、さとり顔負けの愉悦の表情で迎えてくれた。

 

「いやー、戻ってきて早々大変だねー先生」

「……まあ、元気なのはいいことだよ」

 

 願わくは、みんなもう少し空気を読んでくれるようになればもっと嬉しい。

 すかさず尻尾に飛びつこうとしてきた諏訪子を、もふんと弾き飛ばしておく。

 

「うあー! なにするのさーっ!」

「だから空気を読んでくれってば。すぐ行かなきゃならないんだ」

「ぶー!」

「はいはい諏訪子様ー、月見さんはまだお忙しいので邪魔しちゃダメですよー」

 

 蛙よろしく膨らむ諏訪子を、早苗が抱き寄せてよしよしと慰める。そこで月見はふと思い出す。

 あの、当たって玉砕なノンストップ少女が見当たらない。

 

「そういえば早苗、小傘はどうなったんだ」

「……あー、」

 

 問われた早苗はふっと遠い目つきになって、

 

「いやー、結構大変でした。倒しても倒しても、もう一回だもう一回だってしつこくって。五回くらい倒したところでやっと諦めて、もっと修行するって叫びながらどっか行っちゃいました」

「……そうか」

 

 また、滝に打たれに行ったのだろうか。こんな身も凍える真冬のさなか。

 悪い妖怪ではないのだ。ただちょっと、いやかなり人の話を聞かなくて、かつ熱意を注ぐ方向を致命的に間違えてしまっているだけであり、むしろ全面的に善良な妖怪といって差し支えない。月見にしつこくつきまとうのだって、とにかく人をおどかす極意を知り、いっぱしの付喪神としてひもじい思いをせず生きたいがためなのだ。ただ教わる相手がいないばかりに真冬の山で滝修行だのなんだの、いくらなんでも不憫が過ぎるのではないかと月見は唐突な罪悪感に駆られる。

 今度からはもう少しちゃんと相手をしようかなあと反省する月見の後ろでは、フランが大妖精を慰めている。

 

「大ちゃんも大変だねー」

「つよくなりたいです……」

 

 藍と妖夢と椛と小悪魔の四名も、同情、もとい大変親近感に満ちた眼差しを大妖精へ向けている。大妖精もすぐに気づいて、感じる暖かな気遣いに頬をほころばせて応える。幻想郷苦労人同盟は、どんなときだって決して独りではないのだ。

 そのとき、フランの顔つきに閃きが走った。

 

「よーし! 咲夜っ、手伝ってあげて!」

「へ?」

 

 思わぬ指名に咲夜が目を丸くする。フランはもう一度、

 

「だから、お手伝いだよ! 月見と一緒に行って(・・・・・・・・・)、助けになってあげて!」

「い、いきなりなに言ってるのよフラン」

 

 レミリアが驚きと戸惑いを以て口を挟むが、フランはまったく聞いちゃいない。とてとてと月見の前に回り込み、

 

「ねえ月見、いいでしょっ?」

 

 フランの考えがいまひとつ読めないが、月見はひとまず答える。

 

「咲夜が手伝ってくれるなら、むしろこっちから頼みたいくらいだねえ」

「え、えっ……」

 

 最近茶目っ気が増しつつあるものの彼女が大変優秀な従者であるのは変わりなく、その括りの中では月見も、藍に勝るとも劣らぬ全幅の信頼を置いている。日々の仕事で鍛えられた能力はもちろんのこと、なにより早まった行動を慎みしっかりと空気を読んでくれる――それだけで幻想郷では貴重な人材なのだ。

 月見と目が合った咲夜はうわわっと狼狽えて、

 

「で、ですけど、それではお嬢様と妹様が」

「咲夜ぁ! ちょっとこっちに来なさいっ!」

「は、はいっ!?」

「あ、ちょっとフラン!?」

 

 突如裂帛したフランが咲夜の手首をむんずと掴み、そのまま廊下の奥へ引っ張って行ってしまう。これ以上ほったらかしにされたくないレミリアが慌ててくっついていく。それから数秒後、かすかながら「咲夜はぜんぜんわかってないっ」とか「ここで行かなくてどーするの!」とフランの激しい叱咤激励の声が聞こえてくる。

 咲夜が叱られるとは珍しい。その理由について月見が思案を巡らせようとしたのも束の間、

 

「あ、あの、月見さん。早くしないとチルノちゃんが……」

「おっと、そうだったね。もうちょっと待っててくれ」

 

 まあ戦争といっても結局はチルノたち妖精のやること、荒事とは程遠い小競り合いの類だ。無理に付き合わせるような真似も忍びないので、本人にその意志があったときは、ありがたく助けてもらうくらいに考えておこう。

 背中から大妖精に急かされ、月見は早歩きでお金の支度に向かう。床板を細かなリズムで静かに鳴らす、その道すがらでふっと思い至る。

 そういえば今の霖之助の状況は、あながち月見がたしなめられるほど他人事でもないかもしれない。幸い今までいろいろあった分貯え自体は潤沢だが、当然ながらそれで死ぬまで遊んで暮らせるわけはない。日帰り温泉宿を経営する名目で入浴料を取ってはいるものの、無銭利用者がいないかどうかいちいち細かにチェックしているわけでもないし、週二日の営業程度では収入も微々たるもの。この調子で今の生活を続ければ、まだ何十年も先の話だとはいえ、いつかは必ずお金が尽きてみんなから呆れられる側に回るだろう。

 ぼちぼち、温泉宿以外の内職も探そうかなと。一足早い新年の抱負を、ほのかに胸に秘める月見であった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――というわけで、咲夜はもっとガンガン行くべきだと思いますっ。輝夜みたいにとは言わないけどさー、でもあれでちょうどいいくらいなんだよ!」

「あ、あの、妹様」

「おだまりっ」

「は、はいっ」

「あそこで『ですけど』なんて言っちゃダメだよ! 私とお姉様なんてどうだっていいの! 月見が戻ってくる日、ずっとずっと楽しみにしてたんでしょ?」

「う、うう……」

「ね、ねえフラン」

「お姉様もおだまり!」

「は、はいっ」

「だいたいお姉様もさあ、ずっと前から思ってたんだけど――」

 

 一方その頃レミリアは、遂に自分や咲夜を説教するまでになった妹の成長を前にして、そのうち当主の座を奪われるのではないかと大いなる危機感で戦慄いていたとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑧ 「日が落ちれば、ひと時の休息と昔話を」

 

 

 

 

 

「――はい、毎度あり。お代は確かにいただきましたよ」

「ああ、宝塔……っ!」

 

 森近霖之助から宝塔を受け取るこの瞬間が、星にはまるで我が子との再会にも等しい尊きものだと感じられた。子どもなんていないくせにいっちょ前にそう思った。未だかつて抱いたことのないえも言われぬ慈愛の感情が萌えあがり、思わず胸の中できつく宝塔を抱き締める。もう絶対になくしたりしないからね、と星は堅く己の心に誓う。

 結局のところ星は、ナズーリンと一緒にもう一度香霖堂を訪れていた。それが叶ったのはひとえに天狗の長である天魔様と、伊吹萃香という名の鬼のお陰であった。もしも彼女たちがいなければ今頃星は、聖輦船の宝を狙うあの強盗みたいな二人組によって袋叩きのボコボコにされ、ナズーリンの大変冷ややかな眼差しでトドメを刺されてしまっていたのだろう。

 幻想郷ではあのようなとき、『スペルカードルール』と呼ばれる決闘方式で雌雄を決するのが習わしであるという。しかし星は幻想郷にやってきて高々数日であり、当然スペルカードルールのなんたるかなどはいろはも知らない。おまけに荒事も得意ではない。よって相手が妖怪であろうが人間であろうが、ひとたび戦いとなれば一方的にボコボコにされる以外はありえないのだ。天魔様、萃香さん、本当にありがとう。

 そして、名前を挙げなければならないのはもう一人いる。

 宝塔を買い戻すための大金を、一体誰が立て替えてくれたのか。

 それらの助けなくして、いま星の両手に宝塔が収まることはありえなかった。みんなの助けあってこそ今の自分があるのだ。辛いことがあっても、悲しいことがあっても、仏様は決して衆生を見捨てずに救ってくださるのだ。仏はお前自身だろうとか、そんな細かい話は今はどうだってよかった。

 

「もう落とすことのないよう、気をつけてください」

「はいっ、もちろんですとも!」

 

 控えめな営業スマイルを浮かべる霖之助へ、星は力いっぱい頷いて己の幸いを噛み締める。それが今の星にできる、力になってくれた人たちへの精一杯の感謝なのだと思った。

 一方でナズーリンは淡々としていた。宝塔が戻ってきたのに喜ぶどころかうんざりした顔をして、毒のある声音でどこかの誰かをじいっと睨んだ。

 

「やれやれ、これで宝塔はやっと解決か。手間取らせてくれたよまったく」

 

 どこかの誰かはナズーリンに目を合わせようとしない。

 

「まあ君にも君なりの事情があったわけだから、毘沙門天様の宝塔を売り物にしたのは水に流すがね。商人としてではなく、幻想郷で生計を立てる一人として、今回の失態はくれぐれも教訓とするべきだよ」

「わかったよ。わかったからもうやめてくれ」

 

 霖之助が頭を掻いて白旗をあげるも、ナズーリンは胡乱な目のままため息を返す。宝塔の云々よりも、金が底をついてしまうほどいい加減な霖之助の私生活に呆れ、また同時に憤っているのだ。それが意外だったので星はくすりと笑い、

 

「ナズは、店主さんが心配なんですね」

 

 む、とナズーリンは尻尾を揺らした。少し言葉を選ぶ間があって、

 

「……まあ、付き合いだけは幻想郷の男じゃ一番長いからね。野垂れ死なれたら目覚めが悪いのは事実さ」

「そんな大袈裟な。僕だって半分は妖怪なんだ、その気になれば」

「自分一人で物事を完結させるのはやめたまえ。君は誰一人近寄る者のいない孤高の半妖かい? 違うだろう。日頃からこの店にやってきて、君の背中を見ながら育っている人間の子どもがいるはずだよ。そのことを肝に銘じろと言ってるんだ」

「……むう」

「まあまあ、そのくらいで。よかったじゃないですか、大変なことになる前になんとかできて。……お金を出したのは、月見さんですけど」

 

 己の失態を正当化するつもりはまったくないが、もしも星が宝塔を落としていなければ、霖之助は今でもお金を得られず貧困に喘いでいたかもしれないのだ。自分にとっては災難であっても、それがきっかけとなって誰かが命拾いをすることもある。幸と不幸は表裏一体、人間万事塞翁が馬、世の流れは仏にも決して掌握しきれぬ複雑怪奇なものなのだと、星は宝塔を見下ろしながらしみじみと感じ入る。

 

「そういえば月見は、また別のところに駆り出されたそうだね」

「ん、ああ。実は、宝塔以外にもうひとつ捜しているものがあってね。そっちの方でまた面倒が起きたらしい」

 

 あいかわらずだというように、霖之助は音もなく肩を震わせた。

 

「地上に戻ってきたばかりだというのに、まったく、彼の周りは次から次へと話題に事欠かないね」

「話題の当事者としては、なかなか心苦しいんだがね……そういう星の下にあるんだろうさ。ある意味で、幻想郷一のトラブルメーカーだよ」

「周りがいつもトラブルを起こしているから、だね。確かに考えようによっては、彼自身がトラブルメーカーと言えなくもないか」

 

 そうなのかもしれないなあと、今日はじめて彼と知り合った星ですら思う。水月苑で見た光景が脳裏に甦る。人間、妖怪、神、果ては魔法使いや悪魔、亡霊、不老不死まで、様々な境遇の少女たちが月見の周りで同じ時間を共有していた。種族の壁などというものはまったく存在せず、ひとつの場所に集うことを誰しもが疑問に思っていなかった。皆がありのままの心で、ありのままに振る舞って、ありのままの笑顔を弾けさせていた。だからこそあの強盗二人組が押しかけてきたように、ちょっとしたトラブルがあとを絶たなくて、でもそれ故に彼の周りはどこまでも賑やかで。

 それは間違いなく、白蓮が夢見ていた世界の体現だった。

 争いを望まないすべての者たちが、争うことなく平和に生きていける場所。

 白蓮に月見を会わせたい――なぜナズーリンがそう願うのかを、心の底から理解し、共感した瞬間だったのだ。

 

「ところで、もうひとつの捜し物ってなんだい?」

「飛倉という、ありがたい法力が込められた穀倉の破片さ。そうだ、君、実は拾ってそのへんにしまっていたりしないかい? 法力の力で宙に浮いている木の欠片なんだが」

「……ああ、なんだ、あれも君たちの物だったのか」

 

 そのとき霖之助の思わぬ反応に、星の思考が一息で香霖堂まで引き戻された。ナズーリンと顔を見合わせ、

 

「……え。店主さん、飛倉の破片をご存知で?」

「ええ、店の近くで漂っていたのをいくつか見つけまして。これは珍しいと思って、はじめは手元に取っておいていたのですが」

「が?」

「待った、話は最後まで聞いてくれ」

 

 早速喧嘩腰になるナズーリンを霖之助は掌で制し、

 

「チルノ――妖精たちが偶然やってきて、なんだかそれを熱心に集めている風だったもので。珍しい物ではありましたが、畢竟(ひっきょう)法力が込められただけの木の欠片でしたから……まあ、乞われるがまま譲ってしまったのです。つい今朝の話ですよ」

「「……」」

 

 星とナズーリンの間に成立する、全身の力ががっくりと抜ける悄然とした空気。

 辟易されたと誤解した霖之助が顔を歪め、

 

「……あまり偉そうに弁解できる立場でないのはわかっていますが、こればっかりは本当に事情を知らなかったわけで」

「いえ、違うんです。なんというか……結局そうなるのかあ、と言いますか」

「月見が別件で駆り出されたと言ったろう。詳しい説明は省くが、その妖精たちが破片を巡って騒ぎを起こしてるんだよ」

 

 霖之助も露骨に脱力した。

 

「……なんだ、そういうことか」

「これも月見の為せる業、とでもいうべきなのか……」

 

 もはや、幻想郷のあらゆる騒動にはすべて月見が間接的に関わっている、という法則が存在していたとしても星はさほど驚かない。

 

「しかし、結果的には好都合かもしれないね。月見ならなんとかしてくれるだろうから、店主が譲ったという破片もこれでまとめて取り戻せるだろう」

「ちょっと前の聖輦船といいこの宝塔といい、月見さんには助けられてばかりですねえ……」

「……言わないでくれ。私もちょっと気にしてるんだ」

 

 これはいよいよ本格的に、自分が水月苑の招き猫となって彼の生活を潤すのも、恩返しの手段としては悪くないのかもしれないと思えてきた。

 

「月見さん、大丈夫でしょうか……」

「紅魔館のメイドまでついていったんだ、首尾よく進んでるとは思うけど……」

 

 人生万事塞翁が馬。ならばいま月見が直面しているのは、なんだよかったと拍子抜けする幸であろうか、それともあーもーと頭を抱える不幸であろうか――。

 星とナズーリンのため息が、なんとも寂しく香霖堂の床に落ちた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 元来、妖精とはか弱い生き物だ。

 背丈は大きい者でも人間の幼子と同程度でしかなく、小さな者は月見が掌にも乗せてしまえるほどちょこんとしている。その可愛らしい外見以上の危険な能力は持っておらず、争い事が嫌い――ただしイタズラは大好き――なため、妖怪はもちろん人間にとってもそうそう脅威となる存在ではない。性格は総じて天衣無縫かつ享楽的、日々をのびのびと気ままに生きる姿は幻想郷の微笑ましい清涼剤だ。自然がある場所ならどこにでも生息しており、水月苑にもしばしばやってきてはわかさぎ姫と遊んだり、或いはわかさぎ姫『で』遊んだりして楽しんでいる。

 そんな陽気な彼女たちは、弾幕ごっこを概ね遊びのひとつとして理解している。夏の水鉄砲選手権、冬の雪合戦大会と似たような認識なわけだ。よって弾幕ごっこを決闘として真剣に考える者たちと比べれば、腕前など言うに及ばず、こと『強さ』という視点から評価すれば、妖精たちが今の幻想郷でもか弱い存在であるのは変わっていない。

 が。

 幻想郷はどこもかしこも自然が豊かな土地である。自然が豊かであるということは、それだけ緑の化身である妖精の数が多く、しかもどいつもこいつも元気いっぱいということである。妖精はか弱い存在だが、それ故に仲間意識が一層堅く、みんな集まって家族同然に仲良く生活しているのだ。

 つまり、どういうことかといえば。

 

「それ行け――――――――――――っ!!」

「「「とりゃあ――――――――――――っ!!」」」

「「ん゛あ゛あ――――――――――――ッ!?」」

 

 星たちが香霖堂で宝塔を買い戻すより、少しばかり遡った頃。チルノ率いるチビ妖精大軍団の圧倒的な数の暴力で、はたてとにとりがボッコボコにやられていた。

 無論はたては天狗、にとりは河童という、幻想界隈で一大勢力を築くいっぱしの有名妖怪である。普通であれば、妖精相手に(おく)れを取る道理などまずありはしない。ということはつまり目の前の光景が普通ではないわけで、何十匹にもなる妖精の大群からドーム状に包囲されて一斉掃射を叩き込まれれば、いくら天狗や河童といえどそりゃあ断末魔を上げる他ないのだ。

 湖に立ち込める霧を掻き分け、月見がようやくチルノたちの姿を捉えた瞬間の出来事だった。大妖精に急かされつつ水月苑からまっすぐ飛んできたのだが、どうやらほんの一足だけ遅かったらしい。

 

「……あー、」

「チ、チルノちゃんのばかぁ……」

 

 月見は間延びした呻きとともに肩を落とし、大妖精は激しい頭痛に頭を抱えた。

 或いは水月苑で少女たちの馬鹿騒ぎに巻き込まれていなければ、間一髪で間に合っていたのかもしれない。しかし彼女たちは単に年末の楽しいひと時を過ごしていただけであり、しかも月見の帰りを心から喜んでくれていたのだから悪くは言えない。畢竟は天狗と河童を焚きつけておきながら、こういった事態をまったく予想できていなかった月見たちの不覚だ。唯一、月見の後ろをついてきていた咲夜だけが、

 

「あいかわらず、妖精は元気ですねえ」

 

 と、日頃からこの湖の畔で生活しているだけあって、随分あっさりとした感想であった。

 結局、咲夜にはお手伝いをお願いした。フランからどんな叱咤激励を受けたのかは不明だが、月見が準備をし終えた頃にやってきて、一緒に行きます、お手伝いさせてくださいと言い出して譲らなかったからだ。咲夜を連れて行って困ることはまずないと断言できるので、そこまで言ってくれるならと月見も二つ返事で了承した。並々ならぬやる気を見せる彼女の後ろで、フランがうむうむと満足げに頷いていたのが印象的だった。

 さて、目下の問題は始まってしまった妖精大戦争――には到底程遠い小競り合い――をどうするかだ。弾幕の炸裂によって立ち込めた煙の中から、はたてとにとりがくゆる尾を引く這々の体で転がり出し、けほけほ咳き込みながら涙目で、

 

「ちょ、ちょっと待って待ってってば! 話聞いてよ、私いい天狗っ!」

「そうだよ、私もいい河童! あと躱せない弾幕撃っちゃいけませんっ」

 

 聞く耳を持たないチルノは怪獣みたいに吠える。

 

「うっさいうっさい、あたいたちの宝物を持ってこうとしてる時点で極悪よ! 悪い妖怪はせーばいよっ! みんなやっちゃえ――――――――ッ!!」

「「「あちょ――――――――ッ!!」」」

 

 再度チビ妖精の群れから放たれるゲリラ豪雨の弾幕に、にとりが叫んだ通り躱せるような隙間は存在しない。

 ほんの一瞬の取捨選択の差が、はたてとにとりの明暗を分けた。

 

「ぎゃあああああ!? に、にとりガードっ!」

「ちょってめ」

 

 すぐ隣の競争相手をはたては脊髄反射で切り捨て、にとりは二階級特進を果たし英霊となった。要するにはたての盾にされたにとりが犠牲となり、悲鳴もないまま落下して美しい水柱を上げた。亀みたいに巨大なリュックサックを背負っていたせいか、ぶくぶくと沈んで浮かび上がってくる気配もない。

 

「あっ! 仲間を盾にするなんてひどいやつだわ!」

「別に仲間じゃないしむしろ今はライバルだし!」

「そうなの? ライバルを盾に使うなんてズルいやつだわ!」

 

 大妖精と一緒に月見も頭を抱えている。

 

「でも、これでもう盾にできるものはないわよ! 覚悟しなさい!」

「話聞いてってばー!?」

 

 今日も今日とてあたり一面に霧が掛かっているせいで、チルノもはたてもこちらの存在にまったく気がついていない。大妖精が「つつつっ月見さん早くなんとかしないと!」と月見の袖をぐいぐい引っ張り、チビ妖精たちがみるみる数多の弾幕を作り上げ、はたてが「ひいーっ!?」と悲鳴を上げて、咲夜はなぜか身動きひとつせずじーっと月見の横顔を見つめるばかりで、

 そして月見は妖気を飛ばした。

 相手を威嚇するのではなく、己の存在を知らしめるためのごく微小な力の波動である。突然の気配に不意を衝かれたチビ妖精たちが、一匹残らず目を丸くしてぽかんと動きを止めた。まさに引鉄を引かれる寸前だった弾幕が、一気呵成の空気と併せて風船みたいにしぼんで消えていく。新しい敵がやってきたとでも早合点したか、もう勘弁してくださいとばかりの涙目ではたてが振り向き、その先にいるのが月見だと気づいた途端別の意味で半泣きになった。

 

「……あっ! つ、月見様ぁ!」

「はいはい、邪魔するよ」

 

 月見が緩く飛行して彼女たちの間に割って入ると、チビ妖精たちはあーおきつねさまだーと一瞬で(はたて)の存在を忘れ、チルノは水を得た魚よろしく勢いづいて、

 

「あ、つくみだ! よーし、一緒にこの天狗をぶっ飛ばすわよ!」

「チルノちゃんのばかあっ!!」

「むぎゅん!?」

 

 全速力でかっ飛んできた大妖精が、チルノの脳天に鋭いチョップを炸裂させた。いや、それはもはや『チョップ』ではなく『手刀』という字が相応しい、まさに真剣で一刀両断するかの如き閃きである。唸りを上げる職人技に、チビ妖精の誰か一匹が「撲殺よーせー大ちゃんっ」と小声で戦慄(わなな)く。今回はラリアットじゃないんだな、などと月見は大いに余計なことを考えている。

 

「もぉー、どうしてチルノちゃんはそうやってすぐケンカするの!? 乱暴はダメでしょっ!」

「だ、だってこいつらが、あたいたちの宝物をよこせって!」

「月見さんを呼んでくるから待っててって言ったでしょー!?」

 

 どうあれひとたびこの形に持ち込んでしまえば、大妖精ほどチルノを上手く押さえ込んでくれる者もいない。チルノの手綱を大妖精に任せ、月見はやおらはたてを真正面に捉える。はたての視線は明後日の方向を向いていて、ひきつった愛想笑いを一生懸命顔中に貼りつけている。なにもやましいことがなければ、月見の目をまっすぐに見返せるはずだ。それができないということは、残念ながら月見の邪推は的中しているということだ。

 

「まったく……お前たちは次から次へと」

「ぎく。い、いやいやなにも悪いことしてないですよっ? 私は至って友好的に、あなたたちが集めてた物を譲ってほしいのよーって穏やかなコミュニケーションを」

 

 月見の背中から、チルノがはたてを射るように指差し異議を叫ぶ。

 

「うそつき!! あの河童と二人でいきなり迫ってきて、みんなを怖がらせてたでしょ! 泣いてるやつもいたんだからね!」

「ううっ」

 

 周囲のチビ妖精のうち何匹かが、「こわかったー」「顔がこわかったー」と訴えながら月見の背中にひっついてきた。月見の肩にも乗るくらい小さな彼女たちは心もまた幼く、こういうときに嘘は言わないし、言っていたとしても顔にすぐ出るからひと目でわかる。はたてに他意があったかどうかは別としても、妖怪の一大勢力である天狗と河童から突然同時に詰め寄られたのが、か弱い妖精たちにとってちょっとした恐怖体験だったのは間違いなさそうだ。

 これ以上の言い逃れは不可能と察したはたてが、しおしおと縮って降参した。

 

「ご、ごめんなさい……にとりに負けたくなくて、つい……」

「やる気充分で捜してくれてるのは嬉しいけど、一旦ストップだ。これじゃあ争っているうちに日が暮れてしまうよ」

「はぁい……」

 

 月見は大きめに二度両手を叩く。

 

「さあ、弾幕ごっこはおしまいだ。みんな、最近熱心に集めてるっていう宝物について聞かせてくれないか」

「なに、あんたもあたいたちの宝物を狙ってるの!? よーしみんな、こうなったら天狗もこいつもみんなまとめて」

「チ ル ノ ちゃ ん ?」

「な、なんでもないです……」

 

 幻想郷の妖精最強は間違いなく大妖精なのだと思う。

 いつの間にか月見の肩の後ろで、咲夜が影のように控えていた。メイドとして全身に刻み込まれた職業意識がそうさせるのか、自分はなにをすればいいのかと月見の指示を待ちわびている風に見える。なにかあったかなと月見が考えると、すかさず咲夜の方から先んじて、

 

「ところで月見様、湖に落ちた河童はどうされますか?」

「……」

 

 忘れてた。

 月見は眼下を確認するも、当然ながら水面ににとりの姿はなく、ぷくぷくと物寂しいあぶくが波紋を広げるのみである。水とともに生きる河童なら放置していても命の危険こそなかろうが、かといって本当にほったらかしにするのもどうなのかと良心がそっと疑問を投げかけてくる。

 引き上げるべきではある。引き上げるべきではあるのだ。それは月見もわかっているのだ。

 仕事を見つけた咲夜が嬉しそうに、

 

「では、あの河童は私が介抱いたしますね」

「……どうやって?」

「え?」

「介抱するのはいいんだが……どうやって湖から引き上げるんだ?」

「どうといっても、」

 

 月見の問いがいまひとつ理解できない咲夜は湖面を見て、何事か答えようとした瞬間口を噤んで沈黙した。月見に問われてはじめて、介抱する以前の大問題に思い至ったようだった。

 目を回したにとりは湖の底に沈んでいる。だから普通に考えれば、誰かが寒中水泳を敢行して直接引き上げる以外に助ける方法はない。

 肌も震える真冬のさなか、恐らくは死ぬほど冷たいであろう水の中で。

 そんな、某当たって玉砕な付喪神じゃああるまいし。

 

「……」

 

 しばし黙考した咲夜は小さく首を傾げて、うっかりしていた自分を誤魔化すように、

 

「えーと……根性?」

「いやいや、それだったら私がやるよ」

「で、ですが、それでは私のやることがありません」

 

 でも根性はないだろう、と月見は思うのだ。心頭滅却すればなんとやらと言葉にするのは簡単だが、人が人である以上、生きとし生けるひとつの生命である以上、根性などではどうやっても克服できない限界というものが存在する。燃え盛る火に触れば当然火傷をするし、冷水に浸かって体温が下がれば当然心身に異常を来す。咲夜は普通の人間らしからぬほど優秀な少女だが、それでも体はあくまで普通の人間なのだ。ましてや、今の月見はレミリアたちから咲夜を預かっている身。もしこれで風邪でも引かせたら、特にレミリアからは一体どれほど激しい叱責を喰らうことか。

 せめてにとり以外にも、河童の誰かがいてくれればよかったのだけれど。

 はたてが精一杯知らん顔をしている。

 

「……はたて」

「ぎくっ。あ、あの、確かに私のせいではあるんですけど、でも寒中水泳は勘弁してくださいお願いします死んじゃいます!」

 

 まあ、そりゃあそうだ。

 もしかするとチルノなら大丈夫ではないかと閃くも、小さく非力な彼女に河童一匹を湖の底から引っ張りあげろと頼むのも酷な話だし、そもそも「なんであたいがそんなことしなきゃなんないのよ!」と憤慨されるに決まっている。咲夜はダメ、はたては断固拒否、チルノは論外、大妖精も言わずもがなとなれば。

 

「……よし」

 

 あぶくを見れば、にとりがどこに沈んでいるかは容易に見当がつく。

 月見は妖術で尻尾を伸ばし、腹を括って湖の中に突っ込んだ。

 

「つ、月見様?」

「つ」

 

 死ぬというのは大袈裟にせよ、毛が一本残らずチリチリになって消し飛びそうな冷たさに思わず固い声がこぼれる。咲夜に任せなくて正解だった。人間がこの水で寒中水泳などしようものなら、次の日は間違いなく熱を出してベッドの上だろう。

 岩とも水底とも違う固形物を見つけたので、尻尾を絡めて引き上げてみると、

 

「……うぎゅぅ」

 

 ぐるぐるおめめで気絶したにとりの、見るも哀れな一本釣りであった。

 そのまま尻尾を更に伸ばして、畔の草の上に寝かせてやる。妖術を解き、びしょ濡れの尻尾を元の長さに戻す。

 

「ふう。じゃあ咲夜、あとは頼んだよ」

「……」

 

 しかし咲夜はまったく反応せず、何事か真剣な形相で月見の尻尾を睨みつけている。

 

「……咲夜? どうかしたかい」

「……」

 

 やはり返事はない。月見は首を傾げつつも、ひとまずびしょびしょな尻尾の水気を三度ほど振って払い、

 

「月見様」

「ん?」

 

 目を戻すと、咲夜が両腕にタオルの山を抱えていた。彼女とも半年以上の付き合いになるので、一瞬の出来事にこれといって驚くこともなく、ああ時間を止めて紅魔館から取ってきたんだな、と月見は自然と納得した。

 

「ありがとう。じゃあそれでにとりを、」

 

 とんでもない、と咲夜は血相を変えて月見の言葉を遮る。

 

「月見様の尻尾を拭くのが先です! びしょ濡れではないですかっ」

「ん? それはそうだけど、まずはにとりを」

「彼女は別に河童なので平気でしょう。それより月見様です、体調を崩されたらどうするのですか!」

「いや、私も妖怪だからこのくらい」

「どうするのですかっ」

 

 梃子でも動かない本気(マジ)の目をしている。謎の勢いに月見はやや面食らいつつ、

 

「……尻尾は自分で拭けるから、とにかくにとりを」

「ねえ、天狗さん」

「はひっ!?」

 

 すると咲夜が戦法を変えた。説得のターゲットをいきなりはたてに変え、月見と話をするときとは明らかに違う低い声音で微笑むと、

 

「あの河童はあなたの身代わりになって沈んだんだから、あなたが介抱するべきよね? はいタオル」

「……、」

「ね?」

 

 はたては青い顔で震え上がっている。そういえば彼女は、かつて月見の命を狙う刺客だと珍妙な勘違いをされていた頃、咲夜と妖夢と鈴仙の三人組に追いかけられてひどい目を見たのだったか。曰く、中でも咲夜が一番しつこく冗談抜きだったらしい。

 咲夜は氷の微笑を楚々と深め、

 

「ねえ、天狗さん。あなたもそう思うでしょう?」

「は、はいっ! わかりました、私が介抱してきます!」

 

 問答無用であった。軍隊顔負けの鋭い敬礼を決め、タオルを受け取ったはたてが逃げるようににとりの方へすっ飛んでいく。大慌ての背中をひとしきり見送って、咲夜はなんともわざとらしく困った顔でため息をつく。

 

「ああ、なんということでしょう。私の仕事がなくなってしまいました……」

「……」

 

 月見へ振り向き、心躍るように言葉尻を弾ませ、

 

「というわけで月見様、尻尾をお拭きしますねっ」

「……わかった。頼んだよ」

 

 咲夜がなぜそこまでやる気満々なのかはさておき、月見としても意地を張るようなところではないし、今はそっちに時間を取られている場合でもないので、いっそ好きにさせた方がよいと判断する。

 

「じゃあ、そのへんに座って話をしようか」

 

 チルノがぷんぷん怒り出し、

 

「なに勝手に話を進めてるのよ! どうせあたいの宝物を持ってくつもりなんでしょ、話なんて聞いてやらないんだから!」

「ところで今日は金平糖を持ってきていてね」

「仕方ないわね、話くらいは聞いてやろうじゃない!」

 

 屋敷に金平糖が残っていてよかった。昔から抜群に日持ちがするお菓子として知られている七色の欠片は、月見が妖精を手懐ける際の必須アイテムである。瞬く間に熱狂したチビ妖精たちが、こんぺーとー!と歓声を上げながら、月見の背中やら腰やら頭やらに全身で飛びついてくる。

 

「ああもうひっつくな。ええい顔はやめろ顔は」

 

 耳元でチビ妖精たちがきゃーきゃー騒ぐせいで、月見はまったく気づかなかった。畔へ下りる己に向けて、はたての携帯がさりげなくシャッターを切っていたのだと。

 このときちゃっかり撮られた一枚の写真は、「今週の月見様」と題して花果子念報の片隅を飾ることになるのであるが。

 もちろん月見は、最近の花果子念報がそんな怪しいコーナーが始めていることすら、知らないのである。

 

 

 

 

 

 月見がチルノたちに飛倉の破片について説明している間、咲夜はなんかもうめちゃくちゃ楽しそうだった。ただ月見の尻尾をタオルで拭くだけのことが、一体どうしてそんなにも心躍るものなのか、小さな鼻歌すら口ずさみながら終始ご機嫌にわしゃわしゃしまくっていた。

 

「……なあ、咲夜。もうそろそろ」

「だめですっ」

「いや、もう充分乾」

「だーめーでーすー」

 

 ……本当に楽しそうで、なによりである。ふにふにと緩んだ年相応の笑顔はいっそだらしないくらいで、月見はなお一層、十六夜咲夜という少女の印象を新たな方向へと修正するのだった。

 それにしても、身動きが取れない。尻尾は咲夜に捕まっているし、胡座の上は金平糖を堪能するチビ妖精ズに占領されている。加えて肩にも背中にもこびりつかれているせいで、不自由なく動かせるのは口と両腕くらいしかない。それがあまりに珍妙な光景だったということなのか、ついさっきはたてがやってきて何枚か写真を撮っていった。一体なにに使おうとしているのやら。

 とはいえ、口さえ動かせれば経緯の説明に苦労はないので。

 

「――まあそういうわけで、その木の破片を落とし主が捜していてね」

「なるほど……宙に浮いてるなんて不思議だと思ってましたが、そういうことだったんですね」

「むー」

 

 教えられた事のあらましに、女の子座りの大妖精はしずしずと頷いたが、チルノは唇を尖らせて大いに不満げだった。湖に向けてまっすぐ伸ばした両脚をバタつかせ、

 

「なによぅ、せっかく頑張って集めてたのにー」

「うん。熱心に集めてたお前たちには悪いんだけど、持ち主に返してやってくれないかな。あれはどうしても必要なものなんだ」

「むぅー……」

 

 チルノの反応は芳しくない。もちろん月見も、事情を説明しただけですんなり譲ってもらえるとは思っていない。

 

「タダとは言わないさ。今度、また金平糖でも持ってこよう」

「あたいはお菓子で釣られる安い女じゃないわよ!」

「おや、じゃあ要らないのか」

「要らないとは一言も言ってないわ!」

 

 チビ妖精たちが目を輝かせ、

 

「またこんぺーとーくれるの? じゃあいいよ、あげる!」

「あれ食べられないし、いらない!」

「裏切り者ぉー!!」

 

 チビ妖精たちはみんな単純明快で助かる。一瞬で仲間たちから見放され尚更不機嫌になるチルノを、大妖精が肩に手を添えて宥める。

 

「でもチルノちゃん、返さないとダメだよ。だってこれじゃあ、チルノちゃんが泥棒さんだよ?」

「それは、わかってるけどぉ……」

 

 チルノの葛藤は理解できる。要は霖之助の場合と同じだ。物々交換で手に入れた宝塔を彼がタダでは手放そうとしなかったように、前々から頑張って集めていた宝物を突然すべて譲ってくれと持ちかけられたら、誰だっていい顔なんてできないに決まっている。

 もう少し、カードを切る必要がある。

 

「だいたい、あんたの話もいまいち信用できないわ。空を飛ぶ船ってなによ。あたい知ってるわよ、船は水の上に浮かべるもので、空を飛んだりするものじゃないって」

「うん? なんだ、気づいてなかったのか」

「? なにが」

 

 行動的な彼女のことだから、水月苑に停泊する聖輦船なんてとっくに把握しているものだと思っていた。

 しかし、だとすればちょうどいい。

 

「私の屋敷が見えるところまで行ってご覧。ちょうど、その船が見えるはずだよ」

「ほんとーかしら」

 

 胡乱なチルノに大妖精が口添えする。

 

「本当だよ。月見さんを呼んでくるとき、私も見てきたもん。すごかったよ」

「ふーん?」

 

 チルノが片方の眉を上げた。興味を惹かれたらしくすっくと立ち上がり、

 

「じゃあちょっと見てくるわ! 逃げるんじゃないわよ!」

「ああ、行ってらっしゃい」

 

 右腕を前に突き出しスーパーマンみたいにすっ飛んでいって、それから彼女は一分ほどで、興奮状態になりながら鼻息荒く戻ってきた。

 

「ちょっと、なによあれ! ほんとに船が空を飛んでるじゃない!」

「だから言ってるだろう。お前たちが集めてたのは、あの船の大事なパーツなんだ」

「なるほど、道理で宙に浮いてたわけね! ねえ、あたいにもあの船見せてよ! 独り占めはズルいわよっ」

 

 悪くない反応だった。実際に空飛ぶ船を目の当たりにしたことで、興味の対象が飛倉の破片から聖輦船に一発変更となったのだ。

 そうだとすれば、こちらとしても切れるカードが増える。

 

「あの船に、乗ってみたいか?」

「乗っていいの!?」

「私は持ち主じゃないからなんとも。でも破片を返してくれたら、持ち主も感謝して、お前たちを船に乗せるくらいはしてくれるかもしれないぞ」

 

 船長の水蜜抜きで勝手に話を進めるのは気が引けるが、背に腹は代えられまい。白蓮の封印を解いたあと、天狗や河童とまとめて適当にそのへんを遊覧飛行してもらえばいいだけだ。たぶん。

 むむっとチルノは思案して、

 

「なるほど、こーかん条件ってことね」

「もぉーチルノちゃん、そもそも落とし物なんだからちゃんと返さなきゃでしょ」

「わ、わかってるわよ」

 

 大妖精の正論にたじろぐもすぐ立ち直り、腕を組んで、えへんと大変偉そうにふんぞり返った。

 

「ま、そういうことなら返してやらないでもないわ! まったく、このチルノ様に感謝するのよっ」

 

 大妖精の虚ろな眼差しが、「ごめんなさいごめんなさいチルノちゃんがおばかでほんっとごめんなさい」と言葉なき謝罪を繰り返している。わんぱく少女の保護者は大変だなあと月見は思う。

 しかし実際、偶然とはいえ、チルノが破片を集めてくれていて助かったのは事実だ。まだ実物を確認したわけではないのでそれ次第だが、ひょっとすると天狗と河童に協力を頼むまでのなかったのかもしれない。

 で、妖精にすっかり出番を奪われそうな天狗と河童であるが。

 

「う、うーん……」

 

 チルノを挟んだ向こう側で、ずっと気絶していたにとりがようやく目を覚ました。両腕を支えにして、のそりと二日酔いの中年みたいな腹這いで起き上がり、

 

「あれ、月見だ……」

「やあ。具合はどうだい」

「具合……?」

 

 妖精の小さな弾幕とはいえ、全身隈なく被弾したせいで記憶が飛んでいるらしい。顔を歪め、こめかみを押さえながら周囲を見回し、そこで彼女は大量の脂汗を浮かべながら後ずさりしているはたてに気づいた。

 

「……なにやってんのあんた」

「え? い、いやー、ええと、にとりが無事でよかったなーもう心配いらないなーって……」

「はあ……? うーん、なにがあったんだっけ……なんか記憶が……」

 

 真実を教えるべきか月見は迷う。或いは、このまま忘れていた方が彼女にとって幸せなのではないか。なにがあったのか思い出したところで、怒り狂ってはたてと弾幕ごっこを始めるだけだろうし、さすがに月見もそこまでは面倒を見切れない。

 もしかしたらこのまま誤魔化せるかも、とはたてが淡い希望を抱き始めたその直後、にとりに気づいたチルノが、

 

「あ、天狗の盾にされたカワイソーな河童じゃん」

「「「……」」」

 

 完璧な説明どうもありがとう。

 真顔になったにとりの体から、ぶわっと暗黒のオーラが噴き出した。

 

「……おーもーいーだーしーたーぞぉー」

 

 幼い少女の外見には到底あるまじき、地獄の底を魔物が這い回るような低音だった。己のさだめを理解したはたてはさめざめ涙を流す。大妖精が「ひえっ」と青くなり、恐れをなしたチビ妖精たちが月見のあちこちに抱きついてくる。咲夜はまったく意に介さず尻尾をわしゃわしゃし、チルノはきょとんと首を傾げている。

 月見は迷いなく決断した。

 

「よし。それじゃあチルノ、お前が集めた破片を一度見せてくれるかな」

「む、しょうがないわね! 言っておくけど、船に乗せてくれるのが条件だからね!」

「あ、あー、じゃあ私も一緒に」

 

 はたての肩をにとりは鷲掴みにし、

 

「はたて? その前にちょっと、私の新しい発明品の実験台になってくれないかなー」

「……きょ、拒否権を」

「へー、あると思ってんだ」

 

 はたてはぷるぷる震えながら月見を見た。月見は気づかないふりをした。

 

「ほら咲夜、もう本当に大丈夫だよ。どうもありがとう」

「え?」

 

 顔を上げた咲夜は、話を聞いていなかったのかぽかんとして周りを見回したが、それでも黒い笑顔のにとりと青い笑顔のはたてからなんとなく察して、

 

「……もうよろしいのですか? まだぜんぜん乾いてないのに……」

「水気は充分取れたし、あとは自然に乾くさ」

「そうですか……」

 

 お気に入りのおもちゃで遊ぶ時間が終わってしまった子どもみたいに、しょんぼり肩を落としながら立ち上がった。

 

「……本当に大丈夫ですか? 紅魔館で暖炉に当たられてはいかがですか? 実は今なら、毛繕いとかもついてきたりするかもしれないんですけど……」

 

 未練たらったらである。まるで最後の抵抗をするように、生乾きな月見の毛並みを両手の手櫛で整えていく。彼女に毛繕いをやらせるとどんなことが起こるのか、まったく好奇心をそそられないわけではないし、状況が状況でなければ頷いていたかもしれないけれど。

 

「時間があるとき、また今度ね」

「わかりました……」

 

 咲夜は大変未練たらったらなまま、大変名残惜しそうに月見の尻尾から手を離した。見るからにしょんぼりしていて月見を良心の呵責が襲う。心の中で首を振ってその罪悪感を追い払い、

 

「じゃあチルノ、案内よろしく」

「じょーとーよ! あたいの動きについてこれるかしらっ」

「素直に『ついてきて』って言えばいいのに……もぉ~……」

 

 元気いっぱい駆け出したチルノの背を、月見はチビ妖精たちをぶら下げたままのんべんだらりと追いかける。「見捨てないでください月見様あああああ」と背後からはたての悲痛な叫びが聞こえたが、月見は有意義に見捨てた。

 

「まあまあはたて。そんな慌てないでさ、ゆっくり私に付き合ってってよ」

「と、とととっところでにとり、今まさにリュックサックから取り出しておられますその発明品って一体なにかなあ! 私すっごく気になるっ!」

「あ、やっぱりー? やっぱり気になっちゃうー?」

「うんうんすごく気になっちゃうー! み、水鉄砲かなにかだよね! そうだよねっ!」

「うん、火炎放射器だよ」

「焼き鳥はいやああああああああああ!?」

 

 それにしてもあの娘、だんだんと操に似てきたのではないか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幸せな時間というのは無情に過ぎ去るものだ。

 実際は五分ほど続いていたはずなのだが、咲夜の体感ではほんの一分にも満たない光陰でしかなかった。濡れた月見の尻尾をタオルでわしゃわしゃ拭いてあげるひとときは、それくらい無情に、まさしく光のような速さであっという間に過ぎ去っていってしまった。満ち足りた時間ほど体感が短くなる――そんな不条理な世界を創造した神様が咲夜はとっても憎い。

 けれど、だったらはじめからなにもしない方がよかったかといえば、ぜんぜんそんなことはない。こうしてお手伝いについてきて本当によかった。だって、たとえ体感時間一分未満とはいえ、月見の尻尾を合理的にわしゃわしゃできたのだから。

 仕方がなかったのだ。湖に落ちた河童を助けるため、月見は尻尾を水で濡らしてしまった。であればタオルを持ってきて拭いてやるのがメイドとして当然の務めであり、すなわち咲夜はメイドとして当たり前の職務を全うしたのであり、決して、断じて、月見の尻尾を触ってみたかったなんてちっともさっぱり考えちゃいなかったのである。結果的にはわしゃわしゃせざるを得なかったというだけのことで、決して、断じて、はじめからそれが目的だったわけではないのである。

 うん、仕方ない、仕方ない。

 

 しかしそうはいっても、なかなかもどかしいものではあった。地上へ帰ってきたばかりなのに息つく暇もなく方々(ほうぼう)へ飛び回る月見を、後ろから見つめるだけしかできないというのは。

 水月苑に停泊している空飛ぶ船含め、なにが起こっているのかおおまかな経緯は教えてもらったので、月見が身を粉にするのも仕方のないことだとは思うけれど。地底から息を切らせて戻ってくるなり、まだ日が低いうちから永遠亭を往復し、香霖堂を往復し、今度は霧の湖までやってきては、真冬の凍てつく水に尻尾を濡らして。咲夜が最低限タオルで拭いたとはいえ、そのあともお構いなしに仕事を続け、妖精たちが集めた『飛倉の破片』とやらを確認し、想像以上に数が多いと見るや十一尾を広げ、妖術で風呂敷のような形に変えて破片をすべて包み込み、一人で水月苑まで担ぎ出す有様だった。

 そりゃあ咲夜は、時を止めたり空を飛んだりできるものの、体はあくまで非力な普通の人間でしかないから。片手で持てそうなものから身の丈より大きなものまで、大小様々なパーツの山を運ぶとなれば、役に立てないのはわかっているけれど。無論月見がそう判断したのではなく、人間で女の咲夜よりも妖怪で男の自分がやるべきだという、適材適所の考えなのだってわかっているけれど。

 

「咲夜、あまりむくれないでくれ」

「むくれてなんかないです」

 

 ぷー、とむくれながら咲夜はそう返した。水月苑へ戻る空の道中、咲夜よりやや前を行く月見の横顔は、こんもり膨れたあがった尻尾に隠れてほとんど見えない。地上から見上げれば、人々の目には巨大な風船が空を滑っているように映るだろう。

 尻尾がこんなになるほどの数を妖精が集めていたとは予想外だったらしく、月見はチルノたちを手放しで褒めていた。本当に大助かりだと言っていた。チルノはえへんえへんとふんぞり返って、大妖精はてれてれして、チビ妖精たちはきゃーきゃー月見にひっついたりあちこちを躍り回ったりしていた。

 咲夜がむくれだしたのは、だいたいこのあたりからである。

 だって、ズルいではないか。妖精たちは、あの破片が月見にとって大事なものだと知らなかった。それどころか、なんの破片であるのかすらわかっていなかったのだ。好奇心の赴くまま暇つぶしで集めていただけであり、なのに月見から手放しで感謝され、褒めてもらえる結果となった。まさに棚からぼた餅、濡れ手で粟、海老で鯛を釣るというやつではないか。

 前以てわかっていれば、咲夜だって頑張って集めていたのに。

 いや、別に、褒めてもらえた妖精たちを羨ましく思っているわけではない。今の咲夜は、フランから「ちゃんとお手伝いしてきなさいっ」と送り出された身である。だからちゃんと月見の役に立たなければならないのであり、すなわち妖精たちに活躍の場を奪われてしまったのであり、よってむくれているのは単にそういう意味なのだ。

 断じて、褒めてもらえた妖精たちを羨ましく思っているわけではないのだ。

 

(……はあ)

 

 ……役に立ちたかったなあ。

 ぶんぶん首を振った。

 終わってしまったことは仕方がない。今回はちょっと運が悪かった。だから、不甲斐なかった分はこれから挽回できるように努めればいい。

 具体的には大晦日の夜、水月苑では年越しのスーパー大宴会――命名は伊吹萃香――が予定されている。ここが第一の挽回ポイントだ。当然紅魔館の面々も参加する予定だし、宴会となればメイドの出番である。実はもうすでに八雲藍と手を結び、宴会料理のメニュー開発を着々と進めている咲夜である。

 加えて、己の予想が正しければ。

 

「月見様」

「なんだい」

「もうすぐ大晦日ですが……その、どうでしょう。年越しや新年のご準備などは」

 

 月見は肩の荷が増したようなため息で、

 

「それがぜんぜん。今年は最後の最後で大忙しになりそうだよ」

 

 よし、と咲夜は内心ぐっと拳を握った。やはり予想通りだった。月見は今日やっと地上に戻ってきたばかりなのだから、年越しと新年の準備まではとても手が回っていない。そして、今も手を回す余裕がない。そんなときこそ咲夜の出番である。

 

「では、そのときはお手伝いいたしますね」

「ありがたいけど……いいのか? 自分の屋敷の方だって忙しいだろう」

「大丈夫です。こんなこともあろうかと、余裕を持って進めておりましたので」

 

 月見がいない日々は、例えるなら咲夜の世界からひとつ色が失われたようなものだったが、一方で与えられるものもあった。寂しさを紛らわすため仕事に打ち込んだ結果、紅魔館の年越し、及び新年の準備はもうほとんど終わってしまったのだ。

 きっと、月見の手伝いをしろと神様が言っているのだろう。

 月見は苦笑、

 

「私の手が回らないのはお見通しだったってことか。いやはや、助けてもらってばかりですまないねえ」

「とんでもないです! 月見様は異変を解決したり、お怪我をされてしまったり、大変だったではないですか」

 

 それに、こう言っちゃあなんだが月見一人では手が回らないくらいでちょうどいいのだ。咲夜にとって、水月苑のお手伝いは好きでやっている趣味みたいなものなのだから。咲夜だけでなく、藍も天子も妖夢も幽香もわかさぎ姫も藤千代もその他諸々、水月苑のお手伝いをしている少女はみんなそう思っている。月見が一人でやるなんて言い出したら、絶対に大ブーイングが飛び交うだろう。

 

「月見様が負い目を感じることはありません。みんな好きでやっているのですから」

「……ふふ。本当に、ありがたいことだよ」

 

 息で笑む月見に同じく微笑み、咲夜は年末の水月苑を脳裏に思い描く。年末の大掃除は、咲夜のみならずみんなを巻き込んだ大仕事になるだろう。新年に向けた買い出しや餅つきだって、ひょっとするといろんな少女たちが手伝いに名乗りを上げるかもしれない。咲夜としては、是非ともおせち作りも手伝いたいと思っている。実は少し前から、里で本を集めてこっそり勉強しているのだ。

 

「咲夜」

「はい」

 

 月見に声を掛けられたので、咲夜は素早く思考を切り替える。変わらず咲夜の斜め前を行く月見は、ふっと思ったんだけどね、と前置きをして、

 

「私の字ってどう思う?」

「へ? ……字、ですか」

 

 予想外の問いに咲夜は目を丸くした。

 

「ああ。今日里で、慧音の字を見る機会があってね。教養がにじんだ本当に綺麗な字を書くから、やっぱり字は人を表すんだなあと思って。それでふと、私の字は周りからどう見えてるんだろうとね」

「はあ……」

「ちょうどこのまえ、お前に手紙の返事を書いただろう」

 

 少し、どきりとした。同時に、返事が嬉しすぎてベッドでパタパタしていたところをフランにばっちり見られてしまったという、十六夜咲夜史上最大級の大失態がまざまざと脳裏に甦り、不覚ながら顔が赤くなったのを感じた。

 月見が前を飛んでいるお陰で、命拾いした。

 

「私は、どんな字を書くのかな。下手ではないはずだけど」

「そ、そうですね……」

 

 手で風を送って熱を静めながら、咲夜は少しの間悩んだ。記憶を遡るまでもない。毎晩毎晩宝物のような気持ちで読み返しているのだから、書かれていた文字はもちろん、その文面までしっかりと頭に焼きついている。

 だから悩んだのは、月見の文字をどんな言葉で表現するかということ。

 

「……月見様らしい字だと、思いますよ」

 

 字は人を表す。きっとそうなのだろうと、咲夜も思う。

 

「おおらかな字……というんでしょうか。読んでいて穏やかな心地になれる、素敵な字だと思います」

 

 古くから生きている妖怪の中にはしばしば、漢字なのか平仮名なのか、それどころかどこまでがひとつの文字なのかすらも判別できない、ニョロニョロしたミミズみたいな文字を書く者たちがいる。無論、それがこの国で太古から育まれてきた由緒ある書体なのはわかっているし、書きこなせば立派なステータスになりうるのも承知しているけれど、はっきり言って読めないからやめてほしいと咲夜は常々思っている。

 その点月見の筆は、そんな連中に爪の垢を煎じて飲ませたいくらい洗練されていて達者だ。妙な癖もなくのびやかに、そして優しく穏やかな筆遣いで書かれた文字は、まさに彼という妖怪を的確に表現しているのではなかろうか。

 

「私は、好きですよ。月見様の字」

「おや……なら少なくとも、下手くそではないと安心していいのかな」

「もちろんです。他の妖怪たちにも見習ってほしいくらいですよ。昔ながらの書き方は、私にはちょっと読みづらくて」

「ああ、昔はそうやって書くのが普通だったからね。外の世界でももうすっかり廃れて、特別勉強を積んだ人以外、日本人でも読めないし書けないようになってきているね」

「そうなんですか……」

 

 早く妖怪たちもそうなればいいのに、と相槌を打ちつつ咲夜はふと気になって、

 

「月見様。では私の字は、月見様から見るとどうなのですか?」

 

 字が、人を表すのならば。幻想郷の妖怪で一番おおらかな月見が、同じように優しい字を書くのならば。それは自分の字の印象がそのまま、自分自身の評価につながるということではないか。

 そう考えた途端どうしようもなく不安になってきて、咲夜は今しがたの問いを早速後悔した。紅魔館を縁の下で執り仕切る者として、見苦しい字を書くなどあってはならないと自負してはいるけれど、それでも月見の達者な字と比べてしまえば自信なんて根こそぎ消し飛んでしまう。もし、汚い字だ、なんて思われていたらどうしよう。見苦しい、読み辛いと思われていたら。それがそのまま咲夜自身の評価だ。月見からそんな風に思われているのかもしれないと想像しただけで、もう挫けて立ち直れなくなってしまいそうだったし、目の前が暗くなって真っ逆さまに墜落してしまいそうだった。レミリアに辞表を出して部屋にひきこもりたくなってくる。

 

「咲夜の字か……」

「ぅ……」

 

 まるで、地獄で閻魔様の裁きを待つような時間だった。

 

「そうだね。もちろん綺麗で読み易いけど、意外とかわいらしい字だとも思うよ」

「……そ、そうですか」

 

 下手、汚い、といった言葉が出てこなかったことに、砕けるように安堵して、

 

「って、『意外と』ってなんですかっ」

 

 余計な一言が付け加えられていると気づいて憤慨して、

 

「……か、かわいらしいってなんですか!?」

 

 阿呆みたいな三段階のリアクションになってしまった。

 いや、しかし、想定外すぎる評価だったのだから仕方がない。

 かわいい。

 かわいいって。

 

「初対面の印象があったから、大人びた字を書くんだろうと思ってたんだけどね。小さくて丸っこい、年頃らしい字だったな」

「そ、そそそそそっ、そうですか」

 

 挙動不審な返事をしながら、いやいや落ち着きなさい十六夜咲夜、と咲夜は心の中でぶんぶん首を振った。あくまで字、かわいらしいのは字の話だ。咲夜は未成年なのだから、女の子らしい字を書いたってなにもおかしいことはないしむしろそれが普通であり、よって月見の評価も至って普通であり、そういうわけだからなにを動揺しているのゆっくり落ち着いて深呼吸深呼吸深

 

「私も、咲夜の字は好きだよ」

「…………」

 

 いや、しかし。

 なんというか。

 あくまで字の話、とはいっても。

 字は、人を表すわけで。

 そんな字を、かわいいと、

 好きだと言われたら、

 ちょっと、勘違いしそうになっちゃうわけで。

 

 というか、

 私もさっき、

 月見様の字を、好きだと言ってしまったわけなのですが、

 

「……………………」

 

 全身が、ほっこほこに火照っていく感覚。

 

「――あ、」

 

 頭の中が、ぐるぐると底なしの渦を巻き始める。

 

「あ、ありがとう、ございます……」

「ふふ、お前も字によく人柄が表れてるね。最近は特に」

 

 …………………………………………。

 それは一体、どういう意味で受け取ればいいのかとか、

 

「つ、月見様ぁっ!!」

「うお。なんだどうした」

 

 月見が驚いて振り返ろうとする。咲夜はこんもり膨らんだ彼の尻尾の後ろへ機敏な動きで隠れ、

 

「わ、私、紅魔館に戻りますね! タオルを洗濯しないといけませんのでっ」

「咲夜? どこに隠れて」

「それでは、失礼しますっ!」

 

 月見の返事など聞きもせず、咲夜は全力疾走で逃げた。兎にも角にも、月見に今の顔を見られるのだけは絶対避けねばならなかった。

 まあ鏡があるわけでもなし、どんな表情をしているのかは自分でもよくわからないのだが。

 ほっこほこになった頬から推測するに、どうせロクな顔ではないだろう。

 

「あ、咲夜さんお帰りなさ――って速っ!?」

 

 門番の頭上を高速で通過し、エントランスの扉を撥ね飛ばし、長い長い廊下を音速で駆け抜け、自室の扉をブチ抜き、タオルをそこらへんにぶん投げて咲夜はベッドにダイブした。

 枕に顔を埋め、ばたばたばたばたバタ足をした。そうしてベッドに理不尽な打撃をお見舞いすること二十発、

 

「はあ……」

 

 ぷしー、と熱を蒸気に変えて排出しながら、脱力してベッドに全身を預ける。とろけるようなため息をつく。なにも考えられず十秒ほどぽけーっとする。

 

「はあ…………」

 

 とにかく、忘れよう。お互い発言に深い意味はなかった。咲夜は月見を紅魔館の恩人だと思っているし、月見も何分あの性格であるわけだから、その延長線上の出来事だったのだ。そもそも、あくまで字の話をしていただけであり、字が人を表すとか表さないとかは別の話なのだ。

 そう考えるべきだ。

 わかっている。

 わかって、いる、けれど――。

 

 ――幸せな時間は、あっという間に過ぎ去るものである。

 

 この日の咲夜のゴロゴロタイムは、月見に手紙の返事をもらったときを二十分以上上回る、文句なしの過去最高記録だった。

 

 

 

 

 

 

 

 消し飛ぶような全力疾走で遠ざかっていく咲夜の背を、月見はぽつんと棒立ちで見送る他ない。射命丸文をも唸らせかねないケタ外れの猛スピードを前に、咄嗟に手を伸ばして呼び止めることもできなかった。

 なんだったんだろう。

 タオルを洗濯すると彼女は言っていたが、それでああも派手に吹っ飛ばなければならない道理はない。あの勢いは、恥ずかしい目に遭って耐えきれず逃走するときの妖夢に似ていた気がする。咲夜も意外と年頃らしい一面があるので、決してありえないとは言い切れない。

 もしもあれが咲夜ではなく、妖夢だったとしたら。そう仮定して己の行動を振り返ってみると、

 

「……」

 

 いや、まさか。

 確かに異性への免疫が低い妖夢だったら、たとえ字の話であろうとも「かわいらしい」だの「好きだよ」だの言われたら大ダメージを受けそうだが、まさか咲夜に限ってそんなそんな。

 ……そうだよな?

 そうに決まっている。近頃の咲夜は年相応のお茶目な一面も垣間見えるようになったが、基本的には大人びた少女であり、一人前の従者であり、まだまだ未成熟で半人前な妖夢とは違うのだ。「あくまで字の話なのになんだか自分自身を褒められた気がしてしまい恥ずかしくて逃げた」なんて、まさかまさか。

 そう己を説得して、月見は水月苑への道を再開する。

 ――月見はまだ、十六夜咲夜という少女の評価を修正しきれていない。

 

 

 

 ちなみに月見が水月苑まで戻ってくると、庭の片隅で操がかぐわしい焼き鳥になっていた。

 わかさぎ姫曰く、弾幕ごっこにエキサイトしすぎた結果庭のど真ん中で竜巻を起こしかけてしまい、ブチ切れた幽香と妖夢の阿吽のコンビネーションでボコボコにされたらしい。日本庭園警察の怒りの集中砲火は霊夢や魔理沙をも震え上がらせるほどで、結局勝負自体うやむやになり、操だけが哀れな犠牲となって終結したそうだ。

 椛曰く、あのときの操はめちゃくちゃ恰好悪かったとか。

 

「しくしくしく、なして儂ばっかりこんな……ひどいんじゃよぉ……神様のいじわるぅ……」

「なんというか、お前はほんとに……ダメなやつだよなあ」

「しくしくしく!!」

 

 一応はこいつも、一切おふざけ抜きの本気であれば、ちゃんと天魔の座にふさわしい女傑のはずなのだが――まあ、それをやろうとしないからこその彼女なのであって。

 この駄天魔がカリスマたっぷりに活躍できる日は、未来永劫やってこないに違いない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――藍。今日の夕飯なんだけど、聖輦船のみんなを呼ぼうと思ってね」

「あ、わかりました。大丈夫ですよ、材料はたくさん買っていただきましたので」

「よろしく頼むよ。油揚げ、ぜんぶ使ってくれてもいいから」

「!? い、いいんですか!? ぜんぶ使っていいんですか!?」

「ああ」

「……!!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――もうぜんぶ、月見さんとナズだけでいいんじゃないかな。

 などと冗談でも口にしようものなら、その瞬間ナズーリンから氷河期の眼差しを送られるだろうが。しかし今日という長い長い一日を乗り越えた所感として、「あれ私ってみんなの足引っ張ってただけじゃ……」とか考えてしまって、寅丸星はどんより雲をまといながらこたつでぬくぬくしているのだった。

 今日一日の自分を、ひとつずつ思い返してみる。

 早とちりとはいえ志弦の誘拐に思いっきり加担し、毘沙門天の力を悪用してしまったのみならず、かの洩矢神から壮絶な怒りを買った。

 宝塔を落とした。重大なことなのでもう一度言うが、宝塔を落とした。

 天狗と河童に破片捜しを手伝ってもらうはずが、「取材させろー!」「改造させろー!」と揉みくちゃにされて事情の説明すらできなかった。

 宝塔を買い戻そうとするもお金がなく、月見に代金を立て替えてもらった。

 宝塔を取り戻したあとは破片捜しに合流するも、山犬の尻尾を踏んでは追いかけ回され、足を滑らせては崖から転げ落ちた。しかも、星だけが破片をひとつも見つけられなかった。

 そんな感じで、本当に散々な一日だったのだ。

 というか、

 

「――ふうん。私がいない間に志弦をねえ……」

「は、はい。本当に、も、申し訳ありませんでした……」

 

 そんな散々な一日は、最後の最後にトドメの一撃が待っていたのだが。

 八坂神奈子である。

 守矢神社の、もう一柱の祭神である。

 洩矢諏訪子とはまた違う意味で、神に関わる身分ならば知らぬ者のいない神である。

 わーい今日一日で洩矢様と八坂様両方からお叱りいただけるなんてすごいことだなーと、星は段々白目を剥き始めている。横の一輪と水蜜も相手の神格にすっかり気圧され、私たちが一から十までぜんぶ悪かったですごめんなさいの完全降伏状態になっている。雲山は綿毛をつけたたんぽぽみたいに小さくなり、ナズーリンは素知らぬ顔をしてお茶をすすっており、ぬえはこたつで丸くなって惰眠を貪っている。

 水月苑の茶の間にて、みんなで八雲藍特製の夕飯を待つ頃合い。遅れて合流した神奈子から、諸々の事情を根掘り葉掘り訊かれている最中であった。

 

「まあ諏訪子も早苗も許してるみたいだから、今更私がとやかくは言わないけどさ」

 

 神奈子は、その神格にふさわしい清澄な神気をまといながら緩く息をつく。その小さな息遣いが星の耳にはよく通る。宵闇の水月苑は昼間とは見違えるほど静かで、時折思い出したように玄関が開いては、温泉を求める少女たちがぱたぱたと風呂場の方へと進んでいく。かすかながら、少女たちの湯を楽しむ笑い声が聞こえる。

 昼間に集まっていたあの元気すぎる少女たちは、一人残らず月見が追い返した。なんでも夕食の席を使って話をしたいことがあり、余計な邪魔はされたくないらしい。宴会をしたい少女たちはみんなぶーぶー言っていたが、それでもちゃんと言われた通りに帰るあたり、幻想郷における月見の立ち位置がよく表れていた気がする。

 

「それで、その聖白蓮とかいうやつは復活させられそうなのかい?」

「は、はい。月見さんをはじめとするたくさんの妖怪方のご協力もあって、問題なく船の修理を進められるまでになりました。ですので、明日には間違いなく」

 

 飛倉の破片は、月見が妖精から取り戻してくれたもの、そして天狗と河童含めみんなで新しく見つけ出したものを合わせ、今日一日だけで充分すぎる数が集まった。あとは修理さえ終わらせてしまえば、聖輦船の機能が完全に復活し、破片に宿る法力を使って魔界へ転移できるようになる。

 やっとこのときがやってきたんだなと、星は筆舌に尽くしがたい感情に駆られる。

 白蓮が『悪魔』と呼ばれたあの日から、後悔しない日は一日だってありはしなかった。白蓮を助けたいと、身がよじれるほど強く強く想っていたのに、すでに神となってしまった己にはそれができなかった。同じ毘沙門天の信徒であるなら、裏切ったたった一人の人間ではなく、裏切られた大勢の人々の味方でなければならなかった。

 白蓮もまた、裏切られた人間の一人だったはずなのに。

 だから、このときのためにずっと修行をやり直していたのだ。もう充分すぎる罰を受けた白蓮が、もう一度太陽の下で笑えるように。みんなでもう一度、笑って暮らしていけるように。

 膝の上の宝塔を、両手できつく握り締める。

 それとほぼタイミングを同じくして、月見が部屋に戻ってきた。途端に諏訪子が飛び跳ね、畳を一生懸命てしてしと叩いた。

 

「あ、月見ーっ! 月見はここ、ここ! 私の隣だよ! ここーっ!」

「はいはい」

 

 言われるがまま月見が諏訪子の隣に腰を下ろすと、彼女はすかさず月見の尻尾を全身で抱き締め、こたつをお布団代わりにしてもそもそと丸くなってしまった。同じく丸くなっているぬえと大変いい勝負だ。早苗が苦笑し、

 

「諏訪子様は、月見さんの尻尾が本当に大好きなんです」

「もふー……」

「そ、そうなんですか」

 

 諏訪子がとろけている。そういえば香霖堂から帰ってきた月見をみんながお出迎えしていたとき、尻尾で締められる萃香を見てなぜか諏訪子がブチ切れていた気がする。紅黒コンビに絡まれていた最中の出来事だったのでうろ覚えだが、あれはひょっとするとこういうことだったのかもしれない。

 星はややコメントに困りながら、

 

「ええと、洩矢様をも虜にする触り心地ということなんですね」

「あげないよ!」

「そもそもお前のじゃないよな?」

「え? なんで?」

「え?」

「え?」

 

 あまり触れない方が月見さんのためかも、と星は悟った。

 

「そ、それで月見さん! なにか、お話したいことがあると仰っていたと思いますがっ」

 

 我ながら、なかなか上手い話題逸らしだったのではなかろうか。途端に月見の表情が神妙なものとなり、頷いたようにもただ吐息しただけのようにも見える、小さく中途半端な返事が返ってきた。

 やや出だしを迷うような間があり、

 

「……志弦のことは、どこまで聞いた?」

 

 その問いが神奈子に向けたものだったのだと、星は実際に神奈子が答えるまでわからなかった。

 

「永遠亭で眠ってるってのは聞いたよ。あとは、そう……こいつらの主人だっていう聖白蓮とかいうのが、志弦の先祖に封印されたかもしれないってこととか」

「……そうか」

 

 今度は、腹を括るような間があった。

 

「――話はふたつある」

 

 神奈子が身にまとっていた神気を解いていく。初対面の星たちに己の神格を誇示するより、皆が月見の話へまっすぐ耳を傾けられるように。夕食の席を使うくらいだからあまり畏まった話ではないのだろうと軽く構えていたが、どうやらとんだ思い違いだったらしい。

 月見の表情は、そんじょそこらの世間話をする顔とは明らかに違う。

 

「確証を取ってきた」

 

 一枚の書簡紙を、テーブルの上に広げる。

 たくさんの名が書かれている。上下段に分かれ、右上の名が『神古秀友』、左下の名が『神古志弦』。それだけで星は、ここに書かれている名が志弦のご先祖様たちなのだと理解した。

 そして月見がこんなものを広げる理由が、たったひとつしかないことも。

 

「――志弦は間違いなく、白蓮を封じた『神古』の子孫だ」

 

 予想できていてなお、己の呼吸が止まったのをはっきりと感じた。

 一輪と水蜜も、ナズーリンと雲山だって、それはきっと同じだっただろう。

 

「人里に、上白沢慧音という半妖がいてね。闇に埋もれた過去を発掘し、また逆に過去を闇に消し去ることもできる、幻想郷の歴史の編纂者だ」

「……なるほど。そういうことか」

 

 ナズーリンが、止まっていた呼気を静かに吐き出した。

 

「調べてくれたわけか。志弦の家系を」

「ああ。ぜんぶつながっていたって、言っていたよ」

 

 上白沢慧音とやらは知らないが、どうやら月見の言葉とナズーリンの反応を見る限り、ここに書かれた名は間違いなく信頼に値するものらしい。

 ならばこの中のどれかが、そうなのだろう。星の考えを肯定するように、月見が連ねられた名のひとつを指差した。

 

「これが、白蓮を封じた『神古』の名」

「……」

 

 ナズーリンが、その名をゆっくりと口ずさむ。

 

「――神古、……しづく、か」

 

 星は、横目で一輪と水蜜を盗み見る。唇どころか指の一本も動かせず、『神古しづく』の名を貫くように見つめている。だが、不穏な気配の乱れは感じない。この期に及んで当時の恨みに囚われるようなわからず屋ではないと、星は水蜜たちを信じている。

 

「そして、もうひとつ」

 

 続けて、月見が指先を紙の右上へ滑らせる。『神古秀友』――並びからして神古しづくより何代も前であろうその名が、一体どうしたのかと思えば。

 

「これが、私の」

 

 誰も、予想なんかしていなかった。

 

「私の。――古い、友人の名だ」

 

 どうして月見が星たちにここまで力を貸してくれるのか、完全な形で理解できた気がした。

 無論、元より月見という妖怪の性格がそうなのだろうし、「白蓮に早く会いたい気持ちは同じ」という言葉も本心だろう。けれど彼が本当に見据えていたのは、星たちでも白蓮でも、それどころか志弦でもなく、この『神古秀友』という遠い遠い友人の名だったのだ。

 特別、驚くような反応があったわけではない。ただ、早苗が咄嗟に顔を上げたくらいで。一輪と水蜜はなにも言えず、ナズーリンと神奈子はなにも言わず、しばし部屋を透明な静謐だけが満たしていた。

 

「……不思議な話だね」

 

 ナズーリンが、紙面に目を落としたままほんのわずかに口端をよじった。

 

「誰かが裏で手を引いたわけじゃない。志弦が幻想入りしたのはただの偶然で、無縁塚で消えかけていた彼女を私が助けたのもただの気まぐれなんだ。こんな……こんなことが、普通ありえるかい?」

 

 ありえない。だからきっと、ただの偶然でも神の気まぐれでもないのだ。

 星たちがこうして、幻想郷という場所で出会ったのは。意味のない偶然ではなく、意味のある必然なのかもしれないと。

 

「そうか。はじめ志弦を見殺しにしようとしたとき、君の顔が浮かんだのは。もしかしたら、そういうことだったのかもしれないね。ああもう、まったくなんて運命の悪戯だ」

 

 千年――妖怪にとっても決して短くはなく、人間にとってはまさに久遠にも等しい時間であるはずだった。何億という生命であふれかえるこの世界の、いつ途切れたっておかしくないか細い糸が、ずっとずっとつながって、久遠の時を超えて、こうしていま星たちの目の前で交わっている。それが一体どれほどの奇跡であるのか、星には形容の言葉すら出すことができない。

 

「なるほどねえ、そういうことか」

 

 神奈子が愉快げに喉を鳴らし、

 

「ただの外来人にしちゃあ、やけに気にかけてるなーって思ってたんだよ。……だからだったんだね」

「……ああ」

「そう……だったん、ですね」

 

 早苗がそう呟いたきり、部屋に沈黙が広がっていく。聞こえるのはただ、温泉客のかすかな笑い声と、ぬえの呑気な寝息だけ。

 苦しい静寂ではない。

 千年の時を超えて再びつながろうとしている(えにし)に、誰もが心を馳せていたのだと思う。

 

「……それで、慧音から話を聞いたとき、ふと思い出したことがあってね。今回の件に関係があるかもしれないから、夕飯を待つ片手間に聞いてもらいたいんだ」

 

 ああそうだった、と星は思い出す。そういえば、月見の話はふたつあるのだった。ひとつ目から大層衝撃的な話をされたお陰で、すっかり忘れてしまっていた。

 しかし、月見の話しぶりからするとどうやらこちらの方が本題らしい。これ以上、一体なにがあるというのだろう。いま語られた『神古』のあとに取っておくほど、重大な話なんて――

 

「なに、大したことじゃないさ。ほんの思い出話だよ」

 

 思わず身構える星にそう微笑んで、月見は優しく語り出す。

 

「不思議な髪の色をした、若い僧侶と出会った話だ」

「――え、」

 

 それって、

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――誰かの悲鳴が聞こえた気がした。

 

 篠突(しのつ)く雨があがったあとの、夏も近づく湿った山の中だった。月見は笠を被り、蓑をまとって、枝葉から落ちてくる雫を防ぎながら、拾った木の棒を杖代わりにしてぬかるんだ山道を登っていた。

 簡単な変化の術で尻尾と耳を隠し、髪の色を変えている。傍目からには、どこでも見かける平凡な旅人のように映るだろう。

 今はもう、山を歩くのにも人目を気にしなければならない時代となった。昔は、山といえば人が無闇に立ち入ることを許さない、神々や妖怪たちの世界だったのだ。それが、大陸の向こうから仏教――とりわけ密教が伝わってからはやや事情が変わり、山は修行僧が己を鍛えるための霊場として捉えられるようになった。山を神聖視し、その懐の中で研鑽することによって超自然的な力が会得できると考え、危険も顧みず足を踏み入れる者が次々と現れた。やがて人間たちは山間に寺院を建てるようになり、ひとつ、またひとつと開山が行われていく中で、いつしか山は人間の生活圏の一部へと変わり始めていった。

 まったくもって、人間の進化は留まるところを知らない。

 山は、人間にとっては間違いなく異界である。如何な理由があれ立ち入る人間が増えれば増えるだけ、その恐ろしさを身を以て知る数も増えていく。ひとたび日が落ちれば一寸先も見えぬ闇の世界、妖怪ないしは獣に襲われる者、滑落する者、遭難する者。命を落とす者だって決して少なくないのに、人間たちは片時もその歩みを止めようとしない。

 

「――おっと」

 

 思考に耽っていたら、ぬかるみに踏み込みかけた。月見は一歩後ろに下がり、なるべく落ち葉が積もった脇の方へと軌道修正する。

 やけに整備された獣道だった。人の目線から見て、邪魔になる草や木の枝がちょうどよく取り払われている。恐らく何人かの修行僧、山伏たちが、往来する中で手を入れていったものなのだろう。ここは人間たちの中では霊山という位置づけで、行脚のため入山する者も少なくないと聞く。

 麓からどれほど歩いたかも曖昧になる山奥なのに。こうやって人間たちはどんどん深山幽谷に入り込み、開拓して、活動範囲をみるみると広げてきている。そう遠くない未来、山はすでに妖怪の世界ではなく、人間の住処の一部になってしまっているのかもしれない。

 一息ついた。

 

「ふう。いっそ、ひと思いに飛んでいければいいんだけど」

 

 しかし、人に見つかって騒がれてもつまらない。この山のどこかでひっそりと暮らしている、他の妖怪たちにも迷惑が掛かろう。

 まだ朝日が低いうちから歩き詰めだったので、休憩しようと思った。獣道の左手に目を向けると、木々が茂る緩い傾斜を下った先に川辺が広がっている。石とは呼び難い無骨な岩が一面に散らばり、向かいには剥き出しの高い岩場がそそり立つ風流な川辺である。もっともそこを流れる川は先の大雨で水嵩が増し、清流から濁流へと姿を変えて暴れ狂っていたけれど。

 滝を横倒しで見ているような、ほとんど鉄砲水と大差ない勢いだった。汗も掻いているので少し涼みたいところなのだが、さすがに近寄らない方がよさそうで――

 

「――は、」

 

 気づいた。

 人が、倒れていた。

 岩と流れの狭間に引っかかり、濁流の体半分を突っ込んだ――すなわち、濁流の中から命からがら這い出した恰好で。

 

「……おいおい」

 

 はじめて見る光景では、ない。

 山が人間たちの修行の場となってからは、目にする折も増えた。川に落ちて流された修行僧。緩んだ地面にやられて滑落したのか、それとも足場ごと崩落に巻き込まれたのか。

 体の半分が濁流に呑まれているにもかかわらず、倒れた僧はぴくりとも動かない。気を失っているのか、或いはもう手遅れなのか。

 どうあれ、見過ごせまい。誰にも見られていないことを祈りつつ、月見は一息で跳躍した。木々を飛び越え、術で勢いを制御しながら慎重に岸へ降り立つ。

 若い僧だった。恐らくはまだ成人していない。子どもの背丈は月見より頭ふたつ分ほど低く、水を吸ったまま広がった裳付衣(もつけごろも)のせいでわかりづらいが、肉付きも山修行には早すぎるほど華奢だ。まるで女のようだったし、女なのかもしれないと月見は思った。

 そして、なにより目を惹かれて已まないのは、髪の色。根元の周りは紫だが、先にかけて茶とも金とも取れる色へと階調的に変化してゆくという、なんとも不可思議な色合いをしている。元々髪を染めていたものが、濁流に身を揉まれる中で一部流れ落ちたのか。或いは、若くして非常に強い法力を備えた僧侶なのかもしれない。人並み外れて高い能力を持つ人間は、それを証明するように、体のどこかに常人ならざる特徴が表れることもあると聞く。

 だが、この僧が男なのか女なのかも、髪が地毛なのかどうかも今はどうだっていいことだ。

 息がある。

 まだ間に合う。

 月見は一秒で決断した。僧を水から引っ張り出し、体をもぐりこませて抱えあげる。思っていたよりも随分と軽い、本当にまだ成人にも満たない子どもだった。

 立ち上がろうとしたとき、僧の衣から巾着が落ちたのに気づいた。

 この僧の、名前だろうか。紺の生地の片隅には、手作りの流麗な刺繍で。

 

 ――「命蓮」と、刻まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑨ 「REMINISCENCE ②」

 

 

 

 

 

 しばらくの間は、自分が目を覚ましているのだということすら気づかなかった。

 このとき己はまだ、目の前の景色を現実とも夢とも認識していなかった。形と色がある、という理解すらなかった。脳が眠りから覚めておらず、意識などあってないようなもので、単に「目を開ける」という動作だけを行っていた状態に過ぎなかったのだと思う。

 少しずつ、水が染み込むように、脳が己の状況を認識し始める。

 木、だった。目の前にあったもの。目の前といっても、手を伸ばしても到底届かない高い位置。枝葉はなく、切り落とされ、削られ、組み合わされて骨組みとなって、視界を覆う木目の格子を成している。

 木の天井。

 ようやく、自分が仰向けに倒れていると気づいた。とはいえ、気づいたところでどうという話でもない。氷が溶けていくような思考は、体を動かすという選択肢までは未だ到達できていない。ただ、意識したわけではないけれど、胸元が浅く動いて、音もなくそっと空気を取り込んだ。

 なんだか眠かった――し、眠気に抗おうという気も、起きなかった。

 いつの間にか、まぶたが下りていた。目覚めかけていた頭がまた動きを止めていく。意識が水底に沈んでいく。自分という存在が崩れ落ちていくような感覚の中、もう一度ゆっくりと、息を吸おうとした。

 

 ――ぎ、

 

 と。軋む物音が聞こえて、視界に再び光が戻ってきた。

 今度は、体を動かすという選択肢まで奇跡的に思考が到達した。それで動かせたのは、首だけだったけれど。立ち上がるのと大差ないほどの労力でようやく首を横に傾け、音の出所に目を凝らした。

 夕日。

 人影。

 声が出た。

 

「――誰?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――誰?」

「……!」

 

 月見の反応は早かった。小屋の整理整頓(・・・・・・・)の手を止め、思考を一足飛びで省略し、振り向く頃には完全に人への変化を完了させていた。

 ということはつまり、月見は妖怪の姿だったのだ。術を行使する(・・・・・・)なら元の姿でいた方がやりやすいし、どうせまだ目を覚ましはしないだろうと高を括ってしまっていた。

 己の油断も無理からぬものだと言い訳をしたい。

 まさか、拾ったその日の夕方にもう目を覚ますなんて。

 

「……やあ。目が覚めたかい」

 

 平静は、問題なく装えたと思う。向こうから見れば、月見の位置はちょうど逆光だ。燃える夕日にやられてそう細かな姿まではわからなかったはずだし、最悪は目覚めたばかりの夢現(ゆめうつつ)で押し通せる。

 小屋の隅に、寝転がる小さな人影がひとつある。

 少年である。恐らく成人は迎えておらず、けれど着々と近づいてくる親離れの時に備え、少しずつ独り立ちを覚え始める齢だろう。若さが抜け切らないせいで中性的な顔立ちに見えるが、男で間違いはない。怪我の手当てをする中で、月見は実際に確認している。衣を着られたままでは満足に手当てできないし、そもそも怪我人をずぶ濡れのままにしておく道理もないので、人命救助のための不可抗力だったと釈明しておく。

 今は、ひと回り以上身の丈に合っていない直垂(ひたたれ)を着ている。衣が乾くまでの間、まさかなにも着せないで放置するわけにはいかないから、ひとまず月見の予備を充てたのだ。無論、大人と子どもの身長差である。袖も裾もあちこちがブカブカなせいで、ともすれば布団を被って寝ているようにも見える。

 板敷きを軋ませ少年の枕元に座り、足元へ問う。

 

「喋れそうか?」

「……」

 

 まだ、意識がはっきりしていないのだろう。瞳の焦点は定まりきっておらず、意識して月見を見ているというより、動くものをただ無意識に追っているだけにも思える。

 少年の口が緩慢に動き、うわ言のような言葉をこぼした。

 

「ここ、は……?」

「山小屋だよ」

「や、ま……?」

 

 掠れた声音でも、そこには強い困惑の色が浮かんでいた。

 月見は少し考え、

 

「自分のことは? なにがあったか、覚えているか?」

「……、」

 

 少年が答えるまでには、長い間があった。ひと呼吸が過ぎ、ふた呼吸が過ぎ、もしもこれ以上沈黙が長ければ、月見は聞こえなかったのだと思って問い直していただろう。

 

「……わから、ないです」

 

 虚ろに天井を見上げ、少年はもう一度、

 

「……思い、出せません」

「……そうか」

 

 怪我による一時的な記憶の混乱か、或いは事故の記憶そのものが抜け落ちてしまったのかもしれない。もし山の斜面から滑落し、濁流に流され、あわや死にかけたのだとすれば。まだ若い彼は相当な恐怖に襲われたはずだし、脳が本能で記憶を閉ざしてしまった可能性も否定はできない。

 

「まあ、無理に思い出そうとすることもないさ。今は体を休」

「思い、出せないんです」

 

 月見の言葉を遮り、少年が繰り返した。今度は、少しだけ強く。

 

「ここ、は、どこですか」

 

 縋るように、月見へ。

 

「ぼく、は」

 

 或いは自分自身へ、彼はこう問いかけた。

 

 

「――ぼくの名は、なんですか」

 

 

 ――もしかするとこれは、思っていたより事かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局少年は、名前を含め、自分自身に関する一切の記憶を思い出せなかった。

 人間には、ごくまれにそういうことがあるのだ。脳への物理的な衝撃や外傷が原因となって、一時的ないし恒久的に記憶の欠落を起こす場合がある。知識としては知っていたが、目の前でまさにその瞬間を目撃したのはさしもの月見もはじめてだった。

 

「……そうですか。ぼくは、川辺に倒れていたんですね」

「ああ」

 

 月見が今に至るまでの経緯を説明しても、少年は赤の他人の話を聞くようだった。月見が急拵え(・・・)で用意したござを背に引き、仰向けで眠る体勢のまま、彼はゆっくりと首を振った。

 

「やっぱり、なにも思い出せません」

「無理もない。よく、その程度の怪我で済んだものだ」

 

 右脚は恐らく折れており、大事をとって月見お手製の添え木で固定している。ひと目ではっきりとわかる外傷はそれくらいだが、服を脱げば体の至る箇所に打撲や擦り傷の跡が刻まれており、少年を襲った不運が如何なものであったかを物語るのだ。

 少年が、目の前に掲げた右手をそっと閉じ、開く。

 

「……助けていただき、ありがとうございます。このような手当てまで」

「付け焼刃の応急処置だけれどね。右脚はできるだけ動かさないように」

「……」

 

 月見の言葉を、果たしてどこまで聞いているのか。少年はもやのかかった眼差しで横の月見を見上げ、ひとつ、息をする間を置いてから、

 

「ところで、あなたは……?」

「ん?」

「あなたは、何者で……いえ、その。ええと」

 

 ああ、と月見は察し、

 

「ただのしがない、まあ、世捨て人みたいなものさ。お前とは、今日はじめて出会ったばかりだ」

「……そうですか。申し訳ありません、名前も思い出せず」

「いいんだよ。……ああ、名前といえば」

 

 月見は立ち上がり、部屋のもう片方の隅にまとめていた荷物から巾着を手に取った。差し出されたそれを、少年は未知の物体に触るような手つきで受け取った。

 

「お前の持ち物だよ。他の物はみんな流されてしまったんだろうけど、それだけ辛うじて残ってた。名前が書いてあるだろう」

「なまえ……」

「お前の名前かどうかはわからないし、それどころか人の名前でもないかもしれないけど。呼び名がないのも不便だから、記憶が戻るまでの間、それをお前の仮の名前としよう」

 

 これで「思い出しました、これはぼくの名前です」となれば楽だったろうが、そんな都合のよい話もなく、少年は刺繍された文字を見つめてきょとんとしている。

 記憶が戻るまでか、怪我が治るまでか。どちらにせよ、この子とは少しばかりの付き合いになるのかもしれないなと思いながら。

 

「――『命蓮』。私はお前を、そう呼ぶよ」

 

 ここから、始まったのだ。人を偽った月見と、記憶を失った「命蓮」の、ほんの六日間だけの山小屋生活。

 もちろん当時の月見は、命蓮に姉がいて、その名が「白蓮」であることも。

 その姉に、千年以上経った後の世で出会う運命にあることも。

 どれもこれも、知る由もなかったのである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 今度は、目を覚ました瞬間にそうだとわかった。

 赤く薄暗かった一度目とは違って、屋根の骨組みに走る木目もはっきり判別できるほど明るかった。視界の根元にある突き上げの窓が開いており、背の低い朝日が枠の形に切り取られて存分に差し込んできている。葉擦れとともに流れる爽涼とした空気は肌寒いくらいで、深く取り込むと体が澄み渡るように目覚めていくのを感じた。

 どこか近くの木で、鳥が鳴いていた。

 

「……」

 

 目覚めてみるとすべて元通りだった、なんて都合のいい話はもちろんなく、やはり己の過去の記憶は黒に潰され途絶していた。どうして川辺に倒れていたのか、なぜ山を歩いていたのか、それより以前はどこでなにをしていたのか、そして己の名前も、掻き消せない闇の奥に沈んで輪郭すら掴めない。

 唯一記憶にあるのは、昨晩のこと。

 

「……命蓮」

 

 己の右手首に紐を通して巾着が掛かっており、素人仕事とは思えない流麗な刺繍でその名が刻まれている。

 流されず残った数少ない自分の持ち物らしいが、これが本当に自身の名前なのかはわからない。或いは、人の名前ですらないのかもしれない。しかしなんにせよ、記憶を失った自分にとっては考えたところで詮のないことだった。

 瞳の焦点を手元から奥へ伸ばし、命蓮は小屋の風景を意識に取り込む。昨晩はとてもそこまで気が回らなかったが、こうして澄んだ朝日が差し込んでみると、山の中とは思えぬほど人の息遣いがある空間だった。出入り口となる引き戸は年季が入った歴戦のツワモノで、入って横手にはかまどや水甕(みずがめ)が置かれている他、桶や薪を無造作に積んだ山があるから、土間になっていると窺える。そこで履物を脱いで床に上がれば、中心には囲炉裏が鎮座し、四辺の壁には縄や竿、魚籠(びく)、鎌、鉈などの生活の道具が引っ掛けられている。或いは木材を組んで作った簡素な棚があり、漆器や焼き物、布の類が統一感もなく収められている。正面の壁は一部が引き戸となっていて、どうやら奥にはまた別の部屋が続いているらしい。

 ほんの羽休めや雨風凌ぎ、もしくは一晩を明かすためにこしらえられた休憩所とは明らかに違う。

 そんな大層立派な小屋の片隅に、自分は寝かされているようだった。

 

(……あの人は)

 

 自分以外に、人の姿はない。すなわち、命蓮を助けてくれたあの男が見当たらない。

 外に出ているのだろう、と思ったが、少ししたところでふと、あれ(・・)は本当に現実だったのかという疑念に囚われた。昨日の記憶はすべて怪我にうなされて見た幻で、あの人は、はじめからいなかったのではないかと。

 そう考えた途端、怖くなった。自分の記憶がどこまで正確かはわからないけれど、少なくとも昨晩の出来事すら曖昧な手負いであり、そしてここがどこか見知らぬ場所であることだけは間違いない。

 もしも自分が、本当に独りだったら。

 まこと情けない話ではあったけれど、このときの己はまだ、成人すら迎えていない一介の子どもだったのだ。

 

「っ……」

 

 咄嗟に起き上がろうとし、その瞬間駆け抜けた想像以上の痛みに命蓮は呼吸を見失った。だが、安静にして寝ているべきだとは思わなかった。歯を食いしばって痛みを押し殺し、腕を杖にして懸命の力で、

 

「――こらこら、なにやってるんだ。安静にしてろと言っただろう」

 

 脱力した。視界が一気に下へずり落ち、床に這いつくばった恰好で命蓮は頭上の方向を見遣った。戸が開いていて、部屋の中により充分な朝日が差し込んでいる。

 あの男だった。

 

「あ、」

「やあ。起きたかい」

 

 昨晩の曖昧な記憶に、一気に色が甦った。改めて見てもそう年を取った男ではない。外見の印象なら、命蓮よりひと回り半程度の差であろう。場違いなほど暖かい顔立ちである。確か昨晩、彼は己を世捨て人だと言っていたはずだが、これが山にこもって体ひとつで命をつないでいる猛者の顔とは到底思えなかった。しかし一方で、仙人のようといえば語弊はあるが、柔和な面持ちと耳に優しい声音が反って妙な説得力となって己の胸に落ちてくる。

 樹のような人だ、と思った。深く根を張り長い時代を見つめ続けてきた、大きな樹のよう。年齢ひと回り程度とは思えない自分との差が、世を捨てた人間の風格なのだと言われれば、そうなのかもしれないなと命蓮は漠然と思う。

 至ってありふれた若葉色の直垂を身にまとい、脚に脛巾(はばき)を当てた姿で戻ってきた彼は、右手に杖を携え背に背負籠(しょいこ)を載せていた。

 

「気分はどうだい」

「あ、ええと……気分は、悪くないです」

「そうか。『百病生於気(ひゃくびょうはきよりしょうず)』。気分が悪くないのはいいことだ」

 

 どこかで聞いた覚えのある言葉だが、それがどこだったかは思い出せない。

 男が背負籠を床に置き、脛巾を解き始める。

 

「それで、どうかしたのか?」

「え?」

「さっき、無理に立ち上がろうとしてただろう。なにをしようとしてたんだ? 水でもほしいか」

 

 命蓮は言葉に窮した。昨晩の記憶が本当だったのか怖くなって、あなたを捜そうとしていた――正直に答えるには大変情けなくて恥ずかしい。

 束の間だけ上手い言い訳を考え、結局なにも思い浮かばなかったので、

 

「――ええと、そんなところです、ね」

 

 まあ、言われてみれば喉が渇いているのは事実だ。

 了解、と男は棚に手を伸ばして手頃な器を取り、水甕の蓋を開けて水を汲んだ。履物を脱いで命蓮の傍までやってくると、一度器を置いて、

 

「どれ、手を貸すよ」

「へ、」

 

 いきなり手を回されたので、命蓮は面食らった。

 

「あ、いや、いいですよそんな」

「起き上がれもしなかったのによく言う」

 

 うぐ、と呻く。しかも気が動転したせいか体が固まって、結果として命蓮はされるがまま男に抱き起こされる羽目となってしまった。自分一人で起き上がろうとしたときはあれだけ大変だったのに、痛みをほとんど感じさせない、母も白旗を揚げるほど繊細で優しい手つきだった。

 

「ほら」

「……ありがとうございます」

 

 面目ない思いだったが、終わってしまったことは仕方がない。命蓮は潔く諦めて器を受け取り、胃を驚かせないようゆっくりと口へ傾ける。常温の水が、起き抜けの身にとっては反ってちょうどよく喉に馴染む。

 

「なにか、思い出したことはあるかい」

「……いえ。特には、ないです」

 

 男はこれといって表情を変えず、

 

「そうか。……これは気休めだが、体の方は心配しなくていい。少なくとも歩けるようになるまでは、ここでゆっくり休んでいくといいさ」

「……」

 

 命蓮は男を見る。世捨て人みたいなものだ、という言葉。しかし俗世を断つ年齢にはいくらなんでも早すぎるし、昨日の話では、ここは山をそれなりに登った奥地だという。加えて、僧が日頃から修行のため足を踏み入れる霊山でもある――事実として、己がその最中に怪我をしたのだろうし。そんな場所にわざわざ居を構えているのも妙だと思ってしまうのは、命蓮が世を知らない若造だからなのか。

 なにより、「みたいなもの」とは一体どういう意味なのか。

 

「訊いても、いいですか」

「うん?」

「あなたはどうして、このような場所で……」

 

 男はやはり表情を変えず、ただ視線を横にずらし、やや黙考する素振りを見せた。腕を組み、

 

「どうして、ねえ……どうしてだろうね。なんとなく?」

「……はあ」

「こういう暮らしも、面白いかと思ってね。飽きたら麓に降りるさ」

 

 変なの。ってか、「みたいなもの」ってそういう意味か。要するに興味本位の遊びみたいなものか。

 ひどい肩透かしを食らった気分だが、けれどそういう奇妙な感性の持ち主こそが、老いてから本当に世捨て人となったりするのかもしれないと思った。

 

「では、お名前はなんというのです?」

「ああ、好きに呼んでくれていいよ」

「は、」

「世を捨てた人間に名前なんてないさ。好きに呼んでくれ、もちろん常識の範囲内でね」

 

 三拍掛けて男の言葉の意図を察した命蓮は、巾着の刺繍を掲げて叩くように指差し、眼前の自称名無しの世捨て人を半目で睨みつけた。

 

「ぼくの記憶が正しければ、『呼び名がないのは不便だ』とは、あなたの言葉でしたよね」

「さて、そんなことも言ったかな」

「世を捨てたのも、ただの興味本位ですよね。飽きたら麓に戻るって。戻ったとき名前がないのでは、それはさぞかし不便でしょうね」

「さぁてね」

 

 男は喉でくつくつと笑い、やおら立ち上がると、置きっぱなしにしていた背負籠の方へ行ってしまった。中を覗き込み、この話は終わりだと言わんばかりに、

 

「食欲はあるか? 食べられる物、いろいろ取ってきたよ」

「……」

 

 ――本当に、変な人だ。

 もう少し食い下がるかどうか悩んだが、なにをどう訊いてもはぐらかされるだけに思えたので命蓮は諦めた。人には言えない後ろめたい事情があるわけではなく、単に素性を明かさない状況を楽しんでいるような、そんなある種の子どもらしさが彼からは感じられた。

 奇妙で、不思議で、謎めいていて――でも、悪い人では、ないのだと思う。

 吐息。

 

「……食欲は、あります」

「そうか、それもいいことだ。じゃあ今から囲炉裏で、」

「ですが」

 

 男の言葉を、はっきりと遮る。

 尖らせた目つきを、緩めはしない。命蓮は見たのだ。つい今しがた、背負籠が内側から小さく揺さぶられたのを。

 なにか、生き物が入っている。

 

「ぼくは、仏僧です」

「? そうだね、裳付衣(もつけごろも)を着ていたから。ああ、衣は外に干してるから乾いたら」

「仏教では、戒律で肉食(にくじき)を禁じています」

 

 今の命蓮は『思い出』をほぼすべて失ってしまったが、『知識』だけは残されている。特に己が信仰していたと思われる、仏教に関する知識が。

 振り向いた男は一瞬、「なんだそりゃ」みたいな顔をした。一瞬だ。次の瞬間には腑に落ちた様子で頷き、

 

「ああ、そういえばそんなものもあったね」

「なにを取ってきたんですか?」

 

 男は、笑顔で答えた。

 

「魚だよ」

「そうですか」

 

 命蓮も、笑顔で答えた。

 

「なら、いいです」

 

 命蓮の知識にある戒律で日頃から禁じられている肉食は、牛や鶏など、主に地上に足をつけて生きる動物たち。

 魚は、禁じられていない。

 

 

 

 

 

「――ところで仏教は、元々は肉食を禁じていなかったそうだね」

「?」

 

 囲炉裏で魚が焼けるのを待つ間、男が出し抜けにそんなことを言った。

 命蓮は首を傾げるように、頭を男の方へ傾けた。

 

「なんですか、突然」

「おや、違ったかな。元々の比丘(びく)は食べ物をすべて托鉢(たくはつ)で得ていたから、肉でもなんでも、いただいた物はありがたく食べていたって」

「いえ、違っては……」

 

 命蓮は眉間にやや皺を寄せ、頭の中をひっくり返す。

 

「違っては、いないです。『三種浄肉(さんしゅのじょうにく)』、ですよね」

「ああ、そんな名前だったかな」

 

 そう教えられたはずだ。もちろん、いつどこで誰から教わった知識なのかは、まったく思い出せないけれど。

 三種浄肉とは、果てしない大海原を越えて長い長い大地を踏破した遥か彼方、仏教という教えが興った国に伝わる『食べてもよい肉』の条件だったはずだ。見・聞・疑――すなわち「殺されるところを見ていない」、「自分が食べるために殺されたと聞いていない」、「自分のために殺された疑いがない」。この三つを満たす肉を托鉢で受けたならば、不殺生には当たらないから食べてよいと考えたのである。その国では僧侶が托鉢によって日々の食べ物を得るのはごく自然な風習で、仏教の創始者である釈迦も例外ではなかったらしい。

 ということを素直に答えたところ、

 

「へえ……小さいのによく知ってるね」

 

 命蓮はむっとした。

 

「子ども扱いしないでください。これでも真面目に修行して……たのかは、わかりませんけど」

 

 笑われるかと思ったが男は真っ当に頷き、

 

「きっとそうだと思うよ。お前くらいの子どもが山修行なんて普通はしない。案外、将来を期待されてる天才児だったりするんじゃないかい」

「はあ……そうなんですかね」

 

 実感と呼べるものはさっぱりなくて、なんだか見ず知らずの他人の話を聞いているみたいだった。むしろ天才児どころか不信心な問題児で、見かねた仏様がバチをお与えになったのでこんな怪我をしたのだ、と考えた方がしっくり来る気がする。

 自分は、一体どんな人間だったのだろう。

 

「……それで、三種浄肉がどうかしましたか?」

「ああ。その考え方だと、この魚は食べられないと思ってね。私がお前のために捕ってきたものだから」

「……確かに、そうですね」

 

 頷きつつも、じゃあ食べるのやめます、とは思わなかった。だってそれは遥か遠くの異国の話で、この国では違うのだし。兎は鳥の仲間だから大丈夫だ、と屁理屈をこねて肉食している僧侶だっているのだし。第一少し前からだんだんといい匂いが漂い始めてきており、命蓮の腹の虫は居ても立ってもいられなくなりつつあるのだ。

 やっぱり自分は、不信心な問題児だったのかもしれない。しかし男は、むしろ命蓮を褒めるように笑みを返してきた。

 

「それでいいのさ。どこの寺院にも、より厳しい戒律を課してこそ徳が高まる風に考えるやつがいるだろう。信仰心を見失わないために戒律を課すはずが、いつの間にか厳しい戒律を課すこと自体が目的になってるんだな。仏様もそこまでしなくていいのにって呆れているから、お前もほどほどにね」

 

 命蓮は目を丸くした。

 

「……詳しいの、ですね。仏道を学んだ経験があるのですか?」

「いいや。なに、これでも結構長生――」

 

 一瞬の間、

 

「――いや、なんでもない。多少書物を読んだり、説法を聞いたりした程度だよ」

「……そうですか」

 

 当然、納得はしなかった。今のはまるで、実際に仏と話したことがあるかのような口振りだった。もちろん偶々そういう言い方になってしまっただけなのだろうが、それにしたって、多少説法を聞いただけの人間がここまでの話をできるようになるものなのだろうか。

 本当に、一体何者なんだろう。

 

「あなたはここで暮らし始めるより前、一体なにを……?」

「旅人、かな。多少陰陽術をかじっただけの。だから仏教は本当に門外漢だよ」

 

 ――陰陽術。

 それは貴族を中心として、仏教に勝るとも劣らぬ隆盛を極める呪術体系の名。日常のしがない占いから火難水難に始まる数多の厄除け、果ては妖怪への対抗術や『式神』と呼ばれる超常的な使役術まで、広大に構築された知識の網は仏教にも通ずるものがあるといわれる。

 心を叩かれた、気がした。ここは人の足もほとんど入り込まない山の奥地で、おまけに命蓮は荷物のほとんどを川に流され、怪我で起き上がるのもままならない。よって傷が癒えるまでひたすら安静にする他ないが、座禅も組めず読む書物もなく握る数珠もなく、できることといえばひたすら瞑想に耽って、知識として頭に残っている経を口ずさむくらいだろう。

 さぞかし退屈な療養生活になる、はずだったのだ。

 

「でも、多少話し相手くらいにはなれるだろうからね。怪我が治るまでは退屈だろうし、要望があればなんでも言ってご覧」

「じゃあ」

 

 願ってもないことだった。

 自力で起き上がれもしなかった体の具合から考えるに、怪我が充分なまで癒えるのは当分先の話になるだろう。瞑想と読経だけで過ごすのはいくらなんでも味気ないし、そんなものは体が動くようになってから思う存分座禅を組んでやればいい。

 今は、今しかできないことをやる。

 そう考えると、目の前の男に頼む要望も自然と見えてくる。つい今しがた彼が言った通り、とことん話し相手になってもらえばいいのだ。それは、彼に面倒を見てもらう今しかできないことだから。

 もっとも話をするのは、命蓮の方ではなく。

 

「――ぼくを、教育してくれませんか」

「……うん?」

 

 ここから、始まったのだ。記憶を失った自分と、名前すら知れない謎めいた男の、ほんの六日間の山小屋生活。

 命蓮の、たった六日間だけの――『父』の、話。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 初日は、陰陽術のいろはを教わるだけであっという間に終わった。

 正直なところ、ちょっとした話だけでも聞ければ御の字だと思っていたのだが、男の執る教鞭は一周回って拍子抜けするほどまともだった。熱心とは言わないまでも、命蓮としっかり向き合って真摯に語ってくれるものだから、こちらもついついのめり込んですっかり時間を忘れてしまっていた。

 途中、昼前と夕暮れ前、彼が食料を取りに外へ出て行ってしまう半刻程度の時間が、なんとももどかしくなってしまうくらいには楽しかった。待っている間は瞑想や読経をして過ごしたが、早く続きを教わりたい気持ちの方が強いせいでほとんど身が入らなかった。記憶が戻るきっかけにも、これといってならなかった。

 とはいえ、悲嘆はない。むしろ明日を迎えるのが楽しみだとすら思う。もしかすると自分は仏僧ではなく、陰陽師の方が向いているのかもしれないと感じるくらいだった。

 

「命蓮、こいつを飲んでおけ」

「……?」

 

 夕飯を終え、もうほどなくして日が尾根に沈み切る頃合い。薄暗くなりつつある夕暮れの小屋で、命蓮は男から一枚の葉と水を差し出された。葉の上では、飲もうと思えばほんの一口で飲める量の粉末が、指先大の小さな山を築いていた。

 

「薬だよ。脚の怪我にも効くだろう」

「これは、あなたが?」

 

 こんなものまで出てくるとは思っていなかった命蓮は目を丸くする。とはいえ、彼が薬草の類を煎じて作り置きしていたものだとしても、そう突飛な話ではないなとも思う。この男なら、やりかねない。

 男は首を振り、

 

「いや、これは貰い物だよ。まあ割となんにでもよく効く薬、らしい」

「……大丈夫なんでしょうね、それ」

「効き目のほどはさておき、毒でないことだけは保証しよう」

 

 それからふと、口端を曲げてクスリと笑い、

 

「ああでも、かなり苦いからな。そういうのが嫌いなら、無理にとは言わないよ」

「……むっ」

 

 命蓮は口をへの字にした。目の前の男と背丈で比べてしまえば、確かに自分が子どもみたいなものなのは否定できない。一人では満足に動くこともできず、なにからなにまで手を貸してもらいっぱなしなところも、この人からすればまさしく子ども同然なのだろう。

 故に、面白くなかった。

 

「子ども扱いしないでください。薬程度、飲めます」

「ふふ、そうか」

 

 仮に子どもだとしても、苦い薬を嫌がるほど情けない幼子ではない、はずだ。怪我の経緯からして、自分が山を行脚していた修行僧なのは間違いないのだ。僧が薬如きに負けてなるものか。

 木の葉を傾けて薬を含み、余裕の澄まし顔をしながら水で一気に流し込む、

 

「――げほ!? うえ、げほ、げほごほっ!?」

 

 むせた。自分でびっくりするほど盛大にむせた。間一髪で飲み込んだので、幸い場を汚すことこそなかったが、

 

「に、苦!? こ、これ、なん、げほ!?」

「だから言っただろう、苦いって」

「い、いや、苦すぎっ……!? み、水をもう一杯……!」

 

 舌がのたうち回ってひん曲がるような、七転八倒のとんでもない苦さだった。苦すぎて、こいつ本当は毒盛ったんじゃないか、と一瞬本気で信じられなくなった。

 男が水甕から汲んできた二杯目で、口内を念入りに洗浄する。しかしそれでも、舌の上に強烈な邪悪が残り続けている。舌が馬鹿になった。

 

「うえええ……」

「そんなに苦かったか」

「苦すぎですよ!?」

 

 命蓮は椀を床に叩きつける。乱暴な扱いをされた体が抗議の痛みを上げるが、そんなの知ったことではない。

 

「ど、毒じゃないでしょうねほんとに!?」

「大丈夫だって。苦いだけで、それ以上はなんともないだろう? 『良薬は口に苦し』だよ」

「……これで効かなかったらもう二度と飲みませんから」

 

 命蓮の抗議の半目を躱すように、男はくつくつと笑って立ち上がり、

 

「さて、もうすぐ日も落ちる。今のうちに湯を沸かすから、体でも拭いておけ」

「……はぁい」

 

 部屋を満たす夕日の色が、徐々に暗く黒く淀んできている。もう少しもすれば完全に日が落ち、この山すべてを等しく底知れぬ闇が包むだろう。火を灯せば光はできるが、貴重な燃料を使ってまで夜を更かすくらいなら、潔く早寝してその分早起きするのが常識だ。

 沸いた湯で体を拭き、寝支度を整え終わる頃には、ちょうど日も落ちて互いの顔も見づらいほどになった。囲炉裏の明かりはあるものの、やはり闇の中では足元をほのかに照らす程度で、あってもなくても大差ないような心もとない光だった。

 

「命蓮、これ」

「?」

 

 体を拭き終えた命蓮が悪戦苦闘しながら直垂を着込んでいると、男が外からなにかを持って戻ってきた。薄暗くてよく見えないが、受け取ってみると自分が元々来ていた裳付衣らしかった。

 そういえば、外で乾かしてるって言ってたっけ。

 

「忘れるところだった。乾いたみたいだから返すよ」

「……ぼくもすっかり忘れてました。すみません、すぐ着替えますから、」

「そんなのは明日でいいさ。今だって、着るのも一苦労だっただろう?」

 

 ぐうの音も出ず命蓮は舌を巻いた。この宵闇の中、つい先ほどまで外で衣を取り込んでいたというのに、どうしてそんなことまでぴたりと言い当てられるのだろう。山で自然に囲まれ生活していると、そういう感覚も自ずと磨かれるものなのだろうか。

 

「その直垂も、ここにいる間は貸すよ。下に引くなり上に掛けるなり、好きに使ってくれ」

「……なにからなにまで、本当にありがとうございます」

 

 今の自分では居住まいを正すこともできないけれど、命蓮は男に向けて精一杯頭を下げた。

 もしも、この人に助けられていなかったら。人を拒む山でたった一人、身動きを取ることもできず、なにもできないまま野垂れ死んでいたかもしれない。山で修行をする僧の中には、命蓮のように怪我をし、しかし命蓮とは違って誰の助けも得られず、そのまま死出の旅に逝く者もいると。知識としては、残されている。

 男はまるで事もなげだった。

 

「なあに。ゆっくり休んで、でも早く怪我を治すこと。それが私にとって一番の礼だよ」

「……はい」

 

 命蓮の口元に、為す術もなくよじれた笑みがにじむ。

 ――本当に、この人は。

 

「さあ、さっさと寝た寝た」

「わかりました」

 

 体に痛みが走らないよう、命蓮は両腕を使って慎重に横になる。思っていたほど苦労しなかったのでほっとした一方、ふと疑問にも思った。

 なんだか、痛みが軽くなっている気がする。

 ただの偶然か、それとも命蓮の体が痛みに慣れたのか、或いは少し前に飲んだあの劇物が――。

 ――まさか、ね。

 いくらなんでも早すぎる。これが本当に薬の効き目だというのなら、まさに仙人の秘薬みたいな話だ。たまたまだろうと自己完結し、命蓮はゆっくりとまぶたを、

 

「――って、あなたは寝ないんですか?」

「ん?」

 

 気づいた。男が、囲炉裏の手前に陣取ったまま動く気配がない。囲炉裏の心もとない火で、男の輪郭だけがちょっぴり不気味に浮かび上がっている。顔はもはや見えないが、代わりに一笑の息遣いが返ってきた。

 

「私は、お前が寝たら寝るよ」

「……そうですか」

 

 本当に、不思議な人だ。そう年を取った見た目でもないのに、こんな山の中で一人で生活していて、まるで何十年も生きてきたような佇まいで、一方ではわざと名前を隠す子どもらしさも併せ持ち、陰陽術に精通し、海の向こうの仏教のことだって知っている。普通の人間のようであり、仙人といえば仙人のようでもある。

 けれど命蓮は、もう彼の素性をさほど疑ってはいなかった。

 今日一日の生活を通して、呆れるほどよくわかった。

 この人は、悪人ではない。

 この人といるのは、嫌ではない。

 だから、いいのだ。彼が本当は、何者であったとしても。

 揺れる囲炉裏の火に誘われたか、命蓮のまぶたが次第に重くなっていく。

 命蓮は最後まで、彼を見ていた。闇の中で浮かび上がる、不思議な男の輪郭を見つめていた。

 表情は、見えないけれど。その場を動かず、そっと自分を見守ってくれている男の姿を。

 

 父のようだと、命蓮は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 命蓮よりあとに寝たくせして、翌朝命蓮が目を覚ますとすでに男はいなかった。起き上がり、床を這ってどうにかこうにか突き上げの窓を開けてみると、朝日はまだ昇りきっておらず、繁る枝葉の狭間で空がぼんやりと白んでいる程度の時間帯だった。こんなうちからもう食べ物を取りに出ているなんて、まるで貴族みたいな早起きだな、と命蓮は思う。

 そこではっとした。

 

「あれ? 体……」

 

 違和感を覚え、命蓮は己の体を見下ろす。そういえば昨日の自分は、確か一人で体を起こすのもままならない有様ではなかったか。それなのに自力で起き上がったのみならず、壁にもたれかかって外を眺めている今の状況は一体どうしたことか。

 

「まさか……」

 

 窓の格子を支えにして、命蓮は物は試しに立ち上がろうとしてみる。本当にできると踏んだわけではない。どうせすぐに体のあちこちから抗議の叫びが上がって、為す術もなく尻餅をつくのだろうと思っていた。

 痛めた右脚を庇いながらふんっと両腕に力を込めて、ああ片脚が動かせないだけでただ立つのもここまで重労働なのかと、

 歯を食いしばっているうちに、いつの間にか立ち上がってしまっていた。

 

「……、」

 

 これは本当にぼくの体かと、命蓮は他人の手足を動かしているような錯覚に囚われた。起き上がれもしなかった昨日の状態から、いくらなんでも治りが早すぎる。ひょっとすると右脚の傷もすでに癒えていて、実は庇う必要などまったくなくて、このまま普通に歩けてしまうのではないか――

 

「いっ」

 

 とは、さすがにいかなかった。右脚を恐る恐る前に出して体重を預けた瞬間、鈍い痛みが駆け抜ける直前の、全身の産毛が逆立つような寒気が頭の先へ駆け抜けて、命蓮は今度こそ尻餅でへたりこんだ。

 

「はは、やっぱりまだ無理か……」

 

 そりゃあそうだよなと肩を落とし、同時にちゃんと自分の体だとわかって安心もした。ともかく命蓮の体は、自分の想像よりも段違いの速さで回復を始めているらしい。

 どうしてだろうと考え、すぐに、昨日の殺人的に苦い薬が脳裏を過ぎった。

 まさか本当に、あの憎っくき劇物の効き目だとでもいうのだろうか。本当に秘薬の類だったとでもいうのだろうか。今の命蓮に残されている知識だけでは、どうすればここまでの薬が作れるのかまるで想像ができない。ただのしがない世捨て人が、どうしてそんな貴重なものを持っているのか。

 貰い物だと言っていたけれど、一体、誰から。

 

「……おや。なにやってるんだお前。また無理に動こうとしてたんじゃないだろうね」

 

 昨日と同じく背負籠を背負った恰好で戻ってきた男に、命蓮は目を眇めて、

 

「あなたは、本当に何者なんですか?」

 

 男は束の間虚を衝かれた顔をして、それから面白がるように微笑んで答えた。

 

「ただのしがない世捨て人だよ」

 

 もちろん、命蓮はため息を返した。

 

 

 

 

 

 この日も昨日と同じく陰陽術について講義してもらい、ついででもうひとつ、男が旅人だった頃の話も聞かせてもらった。陰陽術に詳しい点から予想はしていたが、当時はやはり妖怪退治で路銀を稼ぐこともあったらしい。もしかすると己の素性をポロッとこぼしてくれるのではないかと期待したものの、結局期待しただけで終わり、この日も気がつけば夕暮れになってしまった。

 

「苦ああああ」

「ははははは」

 

 夕食後、また例の劇物を飲まされながら命蓮は堅く心に誓う。

 この男、いつか一杯食わせてやるコンニャロウ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 三日目は、これを抜きにして陰陽術を語ることはできぬといっても過言ではない、『式神』について教えてもらえることになった。主人の手足となって働く下級の精霊のことであり、密教でいう『護法童子』と似たようなものである。

 実演として男は桶と柄杓に式神を憑け、命蓮の目の前に座ったまま手も足も使わず水甕から水を汲んでみせた。決して飛ぶはずのない道具たちが宙を舞う摩訶不思議な光景に、命蓮はいとも容易く心を奪われた。

 

「へえ……! すごいですね。ぼくにもできるでしょうか」

「できないことはないさ。やってごらん」

 

 男の手解きを受けながら、命蓮は同じように桶と柄杓を動かしてみようとする。もちろん最初はまったく上手く行かず、陰陽術自体昨一昨日からはじめて触れ始めたばかりというのもあって、午前中のうちはロクに式神を降ろすことすらできなかった。

 

「くうう……っ」

「最初はそんなものだよ」

 

 男が昼の食料を取りに行っている間は例によって瞑想と読経で精神統一を図り、食事を摂ってから再度挑戦する。上手く行かないたび男は「失敗は成功のもとだよ」とか「はじめから上手くできたらただの天才だ」とか声を掛けてくれるのだが、その気遣いが逆に命蓮には癪だった。どうやら自分には、少なからず負けず嫌いな一面というものがあるらしい。

 なにくそ精神でがむしゃらに打ち込み、日も暮れ始める頃になってようやく、

 

「……や、やった! 見てください、やりましたよ!」

 

 男が手本で見せてくれた通り、桶と柄杓に式神を降ろして宙に浮かべることに成功した。

 命蓮は思わず両手を拳にして喜んだ。本来であれば手に持たなければ使えないはずの道具を、触れることもなく意のままに制御する――なんだか役小角みたいな超人になれた気がして、率直に言ってむくむくと興奮した。もしも体が動く状態なら、そのへんを走り回って雀よろしく小躍りしていたかもしれない。

 

「どれ、あそこの甕から水を汲んでご覧」

「任せてくださいっ」

 

 命蓮はやや鼻息を荒くしながら、水甕のところまで飛んでいくよう式神に命じる。命蓮の命に応え、桶と柄杓がふよふよと宙を横切っていく。すごい。何度見ても感動的である。これはもしかして、自分にはちょっとばかし陰陽術の才能があるのではなかろうか。僧よりも陰陽師になった方がいいのではなかろうか。ふんかふんか。

 恥ずかしながら、このときの自分はもう完全完璧に舞い上がってしまっていたのだ。

 なので桶と柄杓が途中で方向を変え、向かいの窓から外へ飛び出してそのまま戻ってこなくなったとき、なにが起こったのかしばらくの間本気でわからなかった。

 

「…………え、」

「あー……」

 

 男は途端に、慈しみで満ちた嫌に暖かな目をして、

 

「まあ、はじめのうちはね。式が甘いと精霊を制御しきれなくて、今みたいに逃げられちゃうことも、ままあるよ」

「え。じゃあ、あの柄杓と桶は」

「戻ってこないだろうから、あとで捜しに行かないとねえ」

「……、」

 

 最高の気分で天を舞っていたのが、地面にべしゃっと叩きつけられた気分だった。命蓮は恥ずかしさと申し訳なさで体がぷるぷるするのを感じながら、

 

「ご、ごめんなさい、せっかくの道具が……」

 

 大したことじゃないさ、とでも言いたげな男の穏やかな表情が、反って容赦なく心に刺さった。

 

「とりあえず、なくなっても大丈夫なやつで練習するとしようか」

「……はい」

 

 その後枝と葉っぱでしばらく練習を重ねるも、片っ端から逃げられたので。

 

「むうー!」

「はいはい、落ち着いて。苛立って上手く行くんだったら誰も苦労しないよ」

「ぐむうーっ!!」

 

 いかにも子供を宥めるかの扱いが気に入らず、命蓮は途中から完全にヘソを曲げた。自分が負けず嫌いで意地っ張り人間なのはもはや疑いようもない。男に鋭く何度も指を突きつけ、

 

「一日です! 絶ッ対、一日でできるようになってみせますからね!!」

「ふふ、そうか。頑張るんだよ」

「ぐむうううううっ!!」

 

 両腕を振り回しながら、男の肩をゲシゲシと叩く。まだ自由に歩くまでは至らないが、上半身だけならもうすっかり元気いっぱいなのだった。

 そして夕食を終えれば、今日も今日とてあの劇物が出てきやがるのである。

 

「はい、今日の分」

「……」

 

 憎っくき宿敵から命蓮はさっと目を逸らし、

 

「……いや、その。段々と体の具合もよくなってきましたし、もうそろそろ」

「そうか。まあ苦いからな、やっぱり子どもには無理」

「もうそろそろ慣れてきましたよ楽勝ですねこれくらい!!」

 

 なんだか次第に、自分の扱い方を把握されてきてしまっている気がする。

 

「あががががが」

「はっはっは」

 

 このおとこぜったいゆるさない。

 ……ああ、でも。

 

「偉い偉い。よく飲んだね」

「……子ども扱いしないでください」

 

 口振りに反して、内心そこまで嫌ではない自分がいた。

 自分は、記憶を失っている。父の顔も母の名も、それ以外の家族がいたのかどうかも今はまだ思い出せない。どこで生活していたのかも、どこからやってきたのかも、どうやってこの歳まで生きてきたのかもまるでわからない。

 思い出せない記憶は、存在していないのと同じだ。たとえ本当は違っているとしても、帰るべき家も会うべき家族も、「今」の自分にとっては存在しないも同然だった。

 だからそんな自分にとっては、この手狭な山小屋こそが「家」であり。

 そして素性の知れない、けれど世話焼きで心優しいこの男こそが――。

 

「さあ、今日はもうおしまいだ。子どもはさっさと寝る準備だよ」

「子ども扱いしないでくださいってば!」

 

 ああ、でもやっぱり、あんまり子ども扱いはしないでほしいと思う。

 ――こういうのも、まあ、悪くないかもしれないと。

 そう焦がれてしまう自分を今はまだ、首を振って誤魔化しておいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 四日目ともなれば、朝起きたときに男がいないのにもすっかり慣れてしまった。どうせ食料を取りに行っているに決まっているので、構うことなく昨日の続きを始めることとする。枝や葉っぱの余りを引っ張り出し、式を降ろしては逃げられ、降ろしては逃げられを朝っぱらから繰り返す。ここまで来ればもはや意地のヤケクソだった。お陰様で、戻ってきた男からは負けず嫌いなことだと笑われた。誰のせいだと思ってるんですか、と睨みつけておいた。

 そして男に微笑ましく見守られながら、段々と昼も近くなった頃。

 

「できた――――――――っ!!」

 

 遂に、命蓮は歓喜の絶叫を上げた。

 命蓮の手の中に、水を半分ほどまで満たした木製の椀がひとつある。つい今しがた命蓮が、手足を使わず、式神だけを遣って水甕から汲ませてきた水である。

 要するに、昨日の汚名をとうとう返上してみせたのである。命蓮は今度こそ心の底から舞い上がり、

 

「どうですか! やりました、やりましたよ!」

「ああ、見ていたよ。すごいじゃないか」

 

 はじめこそ苦戦してしまったがそれでも宣言通り一日でできるようになったわけで、男からは素直に感心した様子で称賛と拍手が飛んできた。それがますます命蓮の有頂天に拍車を掛ける。

 

「お前、僧侶より陰陽師の方が向いてるんじゃないか?」

「ふふん、もっと褒めてくれてもいいんですよ!」

「偉い偉い」

「ふふふん!」

 

 これが若さということか。まったくもって恥ずかしながらこのときの自分は、褒められればぐんぐんと鼻を伸ばしてしまうお年頃だったのだ。

 命蓮の天狗具体は遂に頂点へ到達し、仕方ないからこの人のこともちょっとは(ねぎら)ってあげようと考えてついうっかり、

 

「まあ、父上の指導も悪くはなかったですよ! 一番はぼくの才能でしょうけどっ!」

「父上?」

 

 全身の血の気が落ちた。

 

「――あ。いや、今のは、その」

 

 とんでもないドジを踏んだ。頭の中がぐるんぐるんと気でも狂ったような暴走を始める。いや違うのだ、今のはなんというか完全な無意識であり確かに記憶のない今の命蓮にとっては父親めいた存在ではあるけれど本当に父だと思っているわけではないしそういう関係も悪くないかもと考えたことがあるのは否定しないがもちろん単なる冗談だしそうこれはただのうっかりでいやいや自分でも気づかないうちに無意識でそんな関係を望んでいたなんてまさかまさか

 

「おい命蓮、今」

「――――……、」

 

 しかして、暴走に暴走を極めてぼふんと爆発した命蓮は、

 

「な、」

 

 もはや自分でもさっぱりわけがわからなくなりながら、

 

「……な、なにか問題でもありましたか!?」

 

 開き直った。

 もうめちゃくちゃ開き直った。

 

「好きなように呼べと言ったのはあなたですよね!? 散々ぼくのことを子ども扱いして、そんな大人には『父上』とでも呼ばれるのがお似合いだと思いますよ! はははははざまあみろですっ!」

 

 頭の片隅の片隅で塵ひとつ分ほど残っていた命蓮の理性が、あれぼくなんかすごく馬鹿なこと言ってない? と首を傾げる。しかし今更止まれるはずもなく、

 

「仕方ないですよね、名前を教えてくれない方が悪いんですから! どんな風に呼ばれても文句は言えませんね! 自業自得ですね! ほらなにも問題ないじゃないですか文句ありますか!?」

 

 静寂。

 目を白黒させてぽかんとしている男のあほ面が見える。いつか一杯食わせてやりたいと思っていた命蓮としては実に痛快である。やったやった、本当にざまあみろだ。それみたことか。あはは。

 しにたい。

 

「――ふふ」

 

 命蓮が興奮やら恥ずかしさやらで顔面真っ赤だったというのに、男の反応は穏やかなものだった。ただ優しく一笑し、

 

「確かにそうだな。好きに呼べと言ったのは私だし、いいんじゃないか」

「……、」

 

 ――嫌じゃ、ないんですか。

 常識の範囲内で好きに呼べ、と男は言った。そして世紀の大失言をやらかしてしまった命蓮に、いいんじゃないか、とも。ではまだ出会って日が浅い、なんの血縁もない、名前すら知らない他人を「父上」と呼ぶのは、果たして常識の範囲内なのだろうか。

 どうして、嫌ではないのか。

 まさかこの男も、命蓮のことを――。

 

「さて、午前はここまでだ。私は食べ物を取りに行ってくるよ」

「……、……はい」

 

 手早く支度を済ませ出掛けていく男の背に、結局命蓮はなにも問いかけられなかった。

 本人が「父上」と、呼んでもいいと言うのなら。問わなくてもいいのではないかと、思ってしまった。

 

(……「父上」)

 

 記憶が戻ったとき、本当の父には誠心誠意謝らねばならないかもしれない。

 でも、どうか。

 どうか記憶が戻らない、今だけは――。

 

 

 

 

 

「――ところでお前、麓に戻りたいか?」

「え?」

 

 午後。陰陽術の授業は一旦お休みし、添え木を外して壁伝いに歩く練習をしていたところ、男から出し抜けにそんなことを訊かれた。

 この頃にはもう、ゆっくりと歩くだけならほぼ問題ないほどまで怪我が回復していた。

 

「歩けもしないうちは無理だと思ってたけど、だいぶよくなったようだ。私が先導すれば問題なく麓に戻れるだろう」

「――、」

 

 命蓮は返す言葉に詰まった。

 胸を突かれた、気がした。無論、この生活がいつまでも続くものではないと頭ではわかっていた。男はこの山で生活している世捨て人であり、自分は恐らく、こことは違う遠い場所から行脚の一環でやってきただけの修行僧。いつかは必ず別れるときがやってきてしまうのだろうと、ぼんやりとした予感だけは抱いていた。

 でもまさか、こんなにも早く話を振られるなんて。

 

「お前のような子どもが一人でやってきたとは思えない。きっと仲間が麓に宿を取って、お前のことを捜し回っているはずだ」

「……」

「戻りたいのなら、案内はするよ」

 

 命蓮は開かれた窓枠に体重を掛けたまま立ち尽くす。ということはつまり、命蓮は戻りたいとは思わなかったのだ。

 はっきり言って、ここは貧相な生活である。道具はみんな古ぼけているし、書物の類はひとつもないし、食べ物は毎回いちいち取りに行かなければならない。魚にもいい加減飽き始めており、なんとも米が食べたくて仕方がない。

 しかしそれでも、麓に戻りたいとは思わないのだ。

 だってそれは、この場所から――この人の傍から、去るということなのだから。

 男の言う通り、怪我の具合だけを見るなら手を貸してもらえれば戻れるだろう。だから命蓮は、まだ戻れない理由を探した。

 

「ええと……ですけど、まだ記憶が戻りませんし、こんな状態で仲間に会うのも」

「仲間に会えば、記憶が戻るきっかけになるかもしれないだろう?」

 

 言い返せない。

 

「ま、まだ怪我が治りきっていませんし、あまりご迷惑をお掛けするのも」

「完治しようがしまいが、お前を麓まで案内するのは一緒だ。そう大した違いはないよ」

 

 ……言い返せない。

 しかし、まさか「ここにいたい」と正直に言えるはずはない。結局、上手い言い訳なんてなにも思い浮かばないまま、

 

「……ぼくがここにいると、迷惑ですか?」

 

 自分はきっと、卑怯者だ。

 だって、こういう言い方をすれば。

 

「いいや? 戻ったら戻ったで面倒もあるだろうし、もう少しのんびりしていきたいならここにいるといい」

 

 この男は優しく否定してくれると、わかっているのだから。

 けれど、

 

「でも、ほどほどにね」

 

 男は少し、吐息ほどの間を空けて。

 

「……お前を捜している人たちは、必ずいるはずだよ」

「……」

 

 ――運動のあとはまた陰陽術について教えてもらったが、あまり身が入らなかった。

 岐路に立たされたのだと、感じた。

 ぼくはいつまで、この場所に、この人と一緒にいられるのだろう。

 記憶が戻ったら。いまぼくの心にあるこの感情は、すべて塗り潰されてしまうのだろうか。

 

 四日目の夜は、長かった。

 命蓮が眠りに就いたのは、男よりもあとのことだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 言うまでもなく、月見は命蓮を騙している。妖怪であることを隠し世捨て人を名乗っているのみならず、他にも、もっとたくさん、命蓮という少年を騙してしまっている。あまり深入りすべきではないとわかっているのに、ついつい気になって仕方がないのは――あいつ(・・・)の友人をやる中ですっかり染みついてしまった悪癖みたいなものだった。

 お陰様で、食料の確保に掛ける時間も随分と短くなった。命蓮に陰陽術を教え始めてから五日目――すなわち彼を拾ってから六日目の、朝日が顔を出してまだ間もなく、今となっては見慣れてしまった山道を登って月見は仮初の我が家まで登ってきた。

 戸を出てすぐの場所に、命蓮が立っていた。

 

「おや? 命蓮」

「……、」

 

 焦点の合っていない目をしていた。目線と唇だけを動かし、幽霊のように、

 

「――父上」

 

 月見は喉で苦笑した。その呼び名は昨日、彼がつい勢い余って口走ってしまった失言の類ではなかったか。

 

「どうした。歩く練習か?」

「……」

 

 目の前までやってきた月見を、命蓮はやはりぼんやりとした瞳で見返した。けれど一方で、瞳の奥では様々な感情が激しく渦を巻いているようにも見えた。うわ言めいて唇が動く。

 

「父上、」

 

 もう一度、今度は少しだけ強く、

 

「――父上」

「……どうした?」

 

 具合が悪いのかとも思ったが、毎晩河童の秘薬(・・・・・)を飲んでいる彼が風邪など引くだろうかと疑問が浮かぶ。確かあれは、体の内外問わず怪我にも病に効果を示す万能薬だったはずだ。

 命蓮が、ゆっくりと首を振った。

 

「……すみません。ちょっと寝呆けていたみたいです」

 

 下手くそに微笑み、

 

「今日も陰陽術のこと、教えてください」

 

 また、己の心へ刻むように、

 

「お願いします、――父上」

「……」

 

 もちろん、確証はない。それなりに長い時を生きてきた年寄りの、或いは人ならざる物の怪特有の、虫の知らせというやつだったのだろう。

 

「ああ。もちろん」

 

 笑みを以て応えながら、月見は。

 今日が、最後になるのかもしれないと。そう、静かに直感した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――じゃあ、私はまた食べ物を取ってくるから。適当に待っていてくれ」

「はい。わかりました」

 

 脚の怪我は、もうほとんど完治していた。恐らく走るのはまだ辛いだろうが、一人で歩き、山を下りる程度なら、きっとなんの問題もないのだろうと思えるほどになった。

 だが命蓮は、山を下りなかった。

 陰陽術を、教えてくださいと。そう無理に頼み込んで、日が昇り続ける間はずっと教鞭を振るってもらっていた。男から知らない知識を教わるそのひとときが、本当に楽しくて――だからこそ、寂しかった。

 

「歩く練習をしておけよ。体力が戻らないと、山を下りるのは辛いぞ」

「……そうですね」

 

 脚に脛巾を当て、背負籠を背負って立ち上がった男の背に、命蓮は堪らず、

 

「いってらっしゃい、――父上」

 

 つい昨日は、顔から火が出るほど恥ずかしかったはずなのに。

 なにも言わず一笑した男が、背中越しに手を振って山を下っていく。後ろ姿が斜面に隠れて消えるまで見送り、それから命蓮は、深い迷いに満ちたため息をこぼした。

 

「……僕は」

 

 一体、どうするべきなのだろう。

 懐から巾着を取り出す。今となっては命蓮の唯一の持ち物である、流麗な刺繍で己の名が刻まれたそれを一心に見下ろす。

 

「……」

 

 握る指先に、知らず識らずのうちに力がこもった。

 一体、どれほどの間立ち尽くしていただろう。顔を上げ、

 

「……少し、歩いてこようかな」

 

 思考が泥沼の渦に沈んでいる。幸い、今日も呆れるほど天気がいい。陽光が満ちる澄んだ森の中を歩けば、なにか見えてくることもあるかもしれない。

 

「迷わないようにだけ、気をつけないと……」

 

 口にはしたが、その実頭はほとんどまともに動いていない。進むべき先に見当をつけたわけでもなく、命蓮はただ足が赴くままに歩き始める。彷徨う己の心そのまま、行く当てのない迷子のように。

 

 ――この選択は、正しかったのだろうか。

 

 はじめは、小鳥のさえずりかなにかと勘違いするほどかすかな声だった。さして気にも留めないまま歩き続け、やがてそれが自分の名を呼ぶ声だと気づいた。

 

「……!」

 

 ――お前を捜している仲間は、必ずいるはずだよ。

 男の言葉が瞬く間に甦り、稲雷が如く痛烈に命蓮の脳裏を打った。足が地面に縫いつけられ、為す術もなくその場で動きを奪われる。思考を叩き起こされ、目の前の景色が急に意識の隅々まで飛び込んできて、道なき斜面を蛇行していった先の獣道を、亀のように登る禿頭(とくとう)があることに気づく。

 

「――あ、」

 

 人。

 心臓が凍るほど驚き――いつの間にかこの山には自分と父上しかいないのだと思い込んでいた――わずかに体の重心がずれた瞬間、足を滑らせた。

 

「うわ!」

 

 みっともなく尻餅をついてはじめて、自分の立っていた場所が地面ではなく、いびつに隆起した太い木の根の真上だったと知る。いや、そんなのはどうだっていい。それよりもいま口を衝いて出てしまった声、

 

「……命蓮、殿?」

 

 目が合った。

 斜面の下から命蓮を見上げるのは、剃髪していなければ頭に霜を置くであろう齢の老僧であり。

 命蓮とともに各地で修行を重ねていた、同じ寺の仲間の一人だった。

 

「――命蓮殿! 命蓮殿か!?」

 

 全身を緊張させた老僧が獣道を外れ、杖を地面に容赦なく突き刺して支えとし、木の根がうねる道なき斜面を凄まじい剣幕で突撃してくる。命蓮は思わず悲鳴を上げかけた。老人故に決して速くはないが、顔が怖すぎてまるで熊にでも見つかった気分だった。

 

「命蓮殿ぉ!!」

「ひえっ」

 

 食べられる、と一瞬本気で思った。

 だがもちろん食べられるはずもなく、息を切らせて命蓮の目の前まで駆け上がってきた老僧は、

 

「おお、命蓮殿……! 命蓮殿……!!」

 

 途端に喉を震わせ、命蓮の想像を絶するであろう計り知れない安堵に打ちひしがれ、その場でほろほろと崩れ落ちてしまった。

 

「よくぞ……よくぞ、ご無事で……っ!!」

「……、」

 

 その光景に命蓮はしばし呆気に取られ、ゆっくりと己の状況を咀嚼し――緩く首を振って、心を切り替えた。

 時が来たのだと、思った。

 言う。

 

「……お久し振りですね」

「はい……! 取り返しのつかぬことが起こってしまったと身も心も擦り切れ果て、まさに無間地獄の責め苦を味わうが如しでありました……!」

 

 命蓮が、崖から落ちて流されたときのことを言っているのだろう。

 

「心配を掛けてすみません。……実は、この先で暮らしている隠者の方に助けてもらいまして。ここ数日で怪我もよくなり、こうして体を慣らしていたところです」

「おお……そうでございましたか……」

 

 老僧はしきりに頷きを落として感嘆し、また一方で過去の暗い記憶に眉を曇らせた。

 

「……儂も仏道に入って長くなりますが、山修行の途中で怪我を負い、仲間とはぐれ、自分一人ではどうすることもできず、そのまま不帰の客となった仏を数多く見てきました。人の訪れを拒むこの深山で、人の助けに行き逢えるのはまさしく僥倖。信心深い命蓮殿に、天が加護を与えてくださったに違いありませぬ」

 

 命蓮は苦笑する。仲間たちの中でも最年長に近い齢でありながら、この老僧は誰にでもこういう口の利き方をする。決して他者を見下さず、孫ほど歳が離れた命蓮にすら敬意を払い礼を欠かさない。はらはらとこぼれ落ちる男涙も嘘ではあるまい。きっと仲間の中で一番、命蓮を心配して来る日も来る日も捜し続けてくれていたのだろう。

 手を合わせ深く祈る老僧に、命蓮も合掌を返した。

 

「ありがとうございます……」

姉君様(・・・)を悲しませることにならず、本当によかった……!」

 

 懐にしまったあの巾着が、少しだけ熱を持ったような気がした。

 老僧が袖でしつこく目元を拭い、それっきり柔和な好々爺の顔に切り替えた。

 

「命蓮殿。差し支えなければ、この先に住むという隠者の下へ案内してはくれませぬか。同胞として、儂からも礼を伝えたく思います」

「大丈夫ですよ。ただ、ち――その方は、食料を探しに出ているので、少し待っていただくことになりますが」

「構いませぬ。むしろ、好都合ですな」

 

 老僧は噛むように苦笑し、

 

「朝日が顔を出す頃より歩きづめで、そろそろ小休止を入れたいと思っていたところです。儂も、もう老いました」

「本当に、ありがとうございます。僕のために……」

「なぁに、よい修行になりました」

 

 老僧を案内し、獣道同然の山道を登っていく。幸い、来た道はぼんやりとだが覚えていた。記憶を辿って歩くその傍らで、命蓮は老僧と話をするのも忘れて一心に思考を巡らせる。

 打ち明けてしまえば、まだ戻りたくはなかった。もう少しだけで構わないから、あの人と一緒に不自由な生活を続けていたかった。もっとたくさんのことを教わりたかった。だが、こうして仲間と再会してしまったからには叶わぬ夢だろう。

 だから小屋に戻って、ちゃんと話をしようと思う。助けてもらったことに感謝し、ここまで世話をしてくれたことに頭を下げ、己の正直な気持ちを伝えよう。もう嘘をつく(・・・・)のはやめて、ぜんぶを正直に打ち明けよう。

 そして、もし、もしも願いが叶うのならば。

 山を下りたあとも、命蓮と一緒に――

 

「あれです」

 

 命蓮は思考を中断して正面を指差す。耽っているうちに山道を登りきっており、木々の間からくぐり抜けてくるように、今となっては見慣れた小さな山小屋が見えた。

 

「おお、あれが、」

 

 背後の老僧が、斜面を登りきる最後の一歩を踏み出したところで突然動きを止めた。

 

「……どうされました?」

「……いや、」

 

 どこか戸惑った横目で命蓮を見て、何事か言い淀み、

 

「……なんでもありませぬ」

「?」

 

 一体なにがあったのかわからないが、話は小屋に戻ってからすればいいと命蓮は判断した。命蓮が改めて小屋に向かうと、老僧も今度こそ斜面を登りきって後ろについてくる。

 けれど、気のせいだろうか。

 その足取りが、まるでなにかを警戒しているような。

 

「……本当に、この小屋なのですか。ここで本当に命蓮殿は、その隠者とかいう者に助けられて、今まで傷を癒やしていたのですか」

「そうですけど……」

 

 いや、気のせいではないはずだ。老僧の問い詰めるような低い口振りに、命蓮は胸の奥がざわつき始めるのを感じた。

 老僧の言わんとしているところがわからない。彼がなにを警戒しているのかわからない。別に、古めかしい以外はなんてことはない普通の山小屋だ。黒ずみが目立ち始めたくたびれた戸口、骨組みの上から木の皮を引いた簡素な屋根、開けっ放しになっている突き上げ窓。確かに小屋というには少々贅沢な大きさだが、だからこそ、人が住居として使ってもなんらおかしいことはないはずだった。

 小屋の戸口まで、あと十歩も歩こうという距離だった。

 

「――お待ちくだされ」

 

 老僧に手首を掴まれた。振り返ると、彼は眉間に険しい皺を刻み込み、唸るような目つきで正面の小屋を睨みつけていた。

 

「命蓮殿には、わかりませぬか」

「……ええと、なにがですか?」

「この山小屋を見て、なにか思うことはありませぬか」

 

 それは、問いでありながら問いではなかった。はじめから答えありきの問いであり、要するにこの小屋は明らかにおかしいのであり、命蓮が「ない」と答えればその瞬間に老僧はひとつの決断を下すだろう。

 しかしそこまでわかっていながらも、命蓮には「ない」以外の答えがなかった。本当に、この小屋のどこがおかしいのか欠片もわからなかった。老僧がなぜそうも差し迫った表情で命蓮を引き留めるのか、まったく想像ができなかった。

 結局、己の困惑と沈黙が言い逃れのない回答となった。

 

「……そうですか。わからぬのですな」

 

 諦念の吐息。それから老僧はいきなり両手でこちらの肩を掴み、逃げなど断じて許さない、静かながら強い声音で、命蓮にその現実を突きつけた。

 

「命蓮殿は、妖怪に(たぶら)かされています」

「――は、」

「妖怪の術に掛かり、ありもしない幻を見ているのです」

 

 幻、という言葉の意味を、数拍の間真剣に考えた。

 その上で、意味がわからなかった。

 

「命蓮殿を助けたという隠者も、恐らくは妖怪が化けたものでありましょう」

「――なにを、」

 

 正直、先に立ったのは困惑よりも苛立ちの方だった。さっきからなにを言っているのかさっぱりわからないし、なにより命蓮を助けてくれたあの人を、会いもしないうちから妖怪――化物扱いするなんて、非常識にも程があるではないか。

 掴まれた肩を、振り払った。

 

「なにを、言っているんですか。意味がわかりません」

「――そうですか」

 

 そうでありましょうな、と老僧は呟く。沈黙が広がる。そよ風が吹き抜ける長閑(のどか)な昼の山の音色が、時間とともに命蓮の心を侵食してくる。

 ダメだ。疑うな。毅然として()ね退けろ。

 この老僧は決して他者を見下さず、孫ほど歳が離れた命蓮にすら敬意を払い礼を欠かさない。仲間の命を救ってくれた恩人を、会いもしないうちから化物と断ずるなどありえない。ありえないことが起こっている。

 その理由を、これ以上疑っては絶対にいけない。

 対峙は、さほど長くは続かなかった。

 

「命蓮殿、これを」

「っ――?」

 

 いきなり手渡されたのは、老僧の杖だった。なんてことはない樫を使ったわさ角で、唯一奇異なところがあるとすれば、一面にびっしりと経文が書かれているくらい。

 ますますわけがわからない命蓮へ、老僧は静かに告げる。

 

「尊勝陀羅尼の真言を刻んであります。あやかしの術を払う力がある」

 

 大きく深い、吐息を以て、

 

「さあ、今一度、その(まなこ)を開いてご覧になってください」

 

 小屋を指差し、こう、声を張った。

 

 

 

「――このような朽ち果てた廃屋で、人が生活などできるものか!!」

 

 

 

 そこに、命蓮の知っている山小屋はなかった。

 戸口が外れ、壁は朽ち、屋根には穴が空き、茂った草花にまみれて自然の一部へと回帰した――文字通りの、『廃屋』があった。

 

「…………………………………………え?」

 

 その一言をこぼすのに、気が遠くなるほど時間が掛かった。

 目の前の光景が信じられなくて目をこするということを、生まれてはじめてやった。そうしたところで、このありもしない幻は少しも消えてくれなかったけれど。

 何度見ても、幾度頭で拒絶しても、目の前にあるのは、人の息遣いなどとうの昔に途絶えた廃屋で。

 命蓮が今まで寝泊りしてきた小屋は。

 あの人がいた場所は。

 どこにもなかった。

 

「…………なん、で」

「……これでおわかりでしょう。今一度申します――命蓮殿は、妖怪に誑かされていたのです。妖しい術に掛かり、ありもしない幻を見ていたのです」

 

 老僧の言う意味はわかる。妖怪はしばしば僧や陰陽師も(あざむ)く高等な術を駆使し、人間に幻を見せては誑かす。同じ道を堂々巡りさせる者、恐ろしい化物を見せる者、ガラクタの山を金銀財宝に化かす者――そして、人の姿を偽りありもしない家を構えることで、旅人を誘い込もうとする者。

 己の心臓の鼓動だけが、意識の奥から命蓮の耳を満たしている。

 目の前が暗くなることこそ、なかったけれど。己の思考が自分自身にも知覚できなくなり、しばらくの間はちゃんと立てているのかどうかもわからなかった。

 正気に返ったのは、老僧に手首を掴まれたからだった。

 

「さあ、一刻も早くここを離れましょう」

「え、」

 

 なぜと命蓮が問うより先に、老僧は声をひそめて口早に、

 

「命蓮殿を助けたという隠者です。もはや命蓮殿を狙う妖怪であることに疑いようはありませぬ」

「……!」

「儂の力で命蓮殿をお守りできるかはわかりませぬ。逃げるなら今しか」

 

 問答無用だった。老僧は立ちすくむ命蓮を力ずくで引っ張り、足元の草花を蹴り飛ばしながら山道を下り始める。命蓮の病み上がりの脚が痛むほどの勢いだった。

 本気なのだと、思った。

 この老僧は、本気であの人を妖怪だと判断していて、

 本気で、命蓮を連れて逃げようとしていて、

 

 それはつまり、このまま老僧に連れて行かれたら、もう二度とあの人に会えないということで

 

「――っ!」

 

 老僧の腕を、振り払った。刀で斬り捨てるように。

 たたらを踏んだ老僧が、信じがたい形相で振り返る。

 

「っ……どうされました! 一体なにを迷うことが!?」

「――そんなわけ、ないじゃないですかっ!!」

 

 濁るほどの声量で、命蓮は怒鳴った。

 そう――自分は、怒っていたのだと思う。心も、体も、煮え立っていた。

 

「僕は――僕は、あの人に助けられたんです! 命を救われたんです! 僕を狙う妖怪が、どうして僕の命を救うのですか!?」

 

 老僧は怯むこともなく、首を振って嘆いた。

 

「命蓮殿を狙うからこそ救ったのです。喰らうのならば傷を負い衰弱した人間よりも、心身ともに健康な人間。……儂ら人間が、傷んで質の落ちた食べ物より、取られて間もない新鮮なものを選ぶのと同じです」

「……!」

「同時に、命蓮殿を手元に留めておくためでもあったことでしょう。命蓮殿は今まで、そやつの下を離れようと思ったことが一度でもありましたか? ……獲物を絶対に逃がさぬためにはどうすればよいか。簡単なことです。信頼を騙し取り、そもそも獲物に逃げようと思わせなければよい」

 

 なるほど。なるほど、腹立たしいが荒唐無稽なこじつけではない。事実、歴史を遡ればそういった手口で人間を喰らった妖怪もいるのだろう。高々十余年生きただけの命蓮が、知識と思惟(しゆい)でこの老僧に勝てるとは思わない。

 けれど、そんな命蓮でも自信を持って負けないと断言できるものがひとつだけある。

 命蓮は、ずっとあの人を見てきた。

 たとえほんのいっときだけでも、名前すら知らない相手であっても、この六日間だけはずっと傍であの人を見てきたのだ。

 だから、命蓮は知っている。

 あの人は、人間だ。

 それでも妖怪だというのなら、人間のような妖怪だ。

 老僧にはわかるまい。

 会ったことすらないこの男には、天地がひっくり返ったところでわかるまい。

 命蓮は杖を投げ捨て、老僧に背を向けて駆け出した。

 

「……! お待ちくだされ、どこに行くつもりですか!?」

 

 決まっている。あの人に、もう一度。もう一度会う以外に、なにがあるというのか。

 あの人は人間なのか、妖怪なのか。妖怪だというのなら、どうして命蓮を助けたのか。どうして命蓮を、六日間も世話し続けたのか。

 ――あなたは、一体何者なのか。

 何度もはぐらかされてきたその答えを、もう一度あの人に会って問わねばならない。そして老僧の馬鹿げた妄想を、違うと否定してほしかった。喰らうためではなく、救うために救ったのだと言ってほしかった。命蓮の見てきたあの人が、嘘ではなかったのだと証明してほしかった。

 

「なりませぬ……! 妖の道に堕ちるつもりなのですか……!?」

 

 老僧が追いかけてくる。だがたとえ病み上がりであっても、決して体が本調子ではなくとも、若い命蓮が脚で老人に負ける道理はない。

 

(父上……ッ!)

 

 叫び出したい心を懸命に抑え、命蓮はただ駆けることだけにすべてを注ぎ込む。右脚で前へ踏み込むたび、頭の裏まで誤魔化せない痛みが突き上がってくる。だがそんなものなど、命蓮が足を止める理由をチリのひとつ分も満たしはしない。

 朽ちて砕けた扉から廃屋の中を覗き込む。あの人の姿がないことを一瞬で確認し、命蓮は老僧から逃げる方向へ再び駆け出す。地面を這う木の根に足をとられて転ぶ。すぐに立ち上がってまた走り出す。止まってしまえば、そのときが、すべての終わりであるかのように。

 

(父上っ……!!)

 

 喉が焼ける。呼吸をするたび肺が裂けていく。どれほどの距離をどう走ったのかなど疾うにわかるはずもなく、草花を踏み躙り、枝をへし折り、木の根を蹴り飛ばし、命蓮は意識の限りに走り続けた。それしか、もう今の自分には残されていなかった。

 この六日間が。あの人のぬくもりが。本当にすべて、ありもしない夢だったと言うのなら。

 ――僕は夢から、覚めたくはなかった。

 

「父上……!」

 

 こぼれた言葉もまた、焼けていた。

 頭の中が熱で白く染まっていく。父を捜すために走っているのかも、老僧から逃げるために走っているのかもわからなくなっていく。限界を超えた両脚が硬直を始め、もはや歩くのと大差ない無様な有様と化し、それでも命蓮は少しでも前に、前に、

 

 踏み外した。

 

「、」

 

 もうなにもかもわからなくて、足を踏み出した先が道でないことすら気づかなかったのだ。

 涸れ果てた喉では声も上がらない。硬直した両脚が遂に一切の動きを放棄した。肩から落下する衝撃、落ち葉で滑って体が転がる、かなり急な斜面、咄嗟に両腕で頭を守る、投げ出された足が木の幹を叩く、突き出した岩に脇腹を打たれ呼吸が死ぬ、それでも回転は止まらずむしろ加速する、首筋が凍りつく、滑落する斜面の先がぽっかりと途切れている、水の音、誰かが言う、これは自分が記憶を失う原因になったのと同じ、

 

 崖、

 

 

 

 

 

 

 

 

「――まったく。せっかく怪我が治ったのになにをやってるんだお前は」

 

 捜し求めていた声が、聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 命蓮はゆっくりとまぶたを上げた。目の前の視界いっぱいに見覚えのある直垂が映り、ふっとあの人の匂いが広がった。

 足が地面についていない。かといって、落ちているわけでもない。

 命蓮はあの人の腕の中に抱えられ、空を、飛んでいた。

 

(――ああ)

 

 命蓮の心に、染みのようにひとつの理解が落ちる。結局、老僧が言っていた通りだった。

 父上は、人ではなかった。

 なのに彼は、命蓮の記憶にあるままいつも通りの彼だった。自分の正体が妖怪だと露見したのに、なんてことのない穏やかな顔をして。老僧に見つかればその場で滅せられるかもしれないのに、まるで大したことのない風をして。まったく動じるつもりもないその姿が恨めしくて、命蓮は彼の胸元へ手を伸ばし、その襟元に怒りとも悲しみともつかない真新しい皺を刻んだ。

 笑みの息遣いが、そっと命蓮の前髪に掛かる。

 

「ごめんな、騙してて」

 

 謝る気などさらさらないのがひと目でわかる声色だった。そこに宿っているのは命蓮への罪悪感などではなく、正体を知られ、別れることもまた、ひとつの世の一興なのだと受け入れた諦観だった。

 きっとこの人は、ぜんぶわかっていたのだ。

 

「――父、上」

 

 涸れ果てた喉では、か細く掠れた声でそう呼ぶのが精一杯で。

 山と山を断つ急峻な渓谷だ。崖はほぼ垂直に近くそそり立ち、落ちた先には巨大な岩の群れを懐に抱く渓流がある。一度目も、自分はきっとこういう場所から滑落したのだろう。

 二度も、命を助けられた。一度目は人として、二度目は妖怪として。それがすべて、命蓮の信頼を騙し取り、喰らうためだったというのなら。

 正体が露見した今でもなお、命蓮を優しく抱き締めてくれるのは、一体なぜ。

 

「……まだ私を、そう呼んでくれるのか」

 

 男は笑みの表情を崩さずに吐息し、渓流が流れ行く先に目を細めた。渓谷で断ち切られた山と山が、彼方で緑の稜線を重ねるあわいの景色。空を飛べぬ限り決して知ることのできない、これが妖怪の見ている世界なのだと思った。

 

「――本当はね。仲間がお前を捜しているって、私は知っていたんだよ」

 

 ほんの思い出話でもするような、小気味よい口振りだった。

 

「だからお前に、麓に戻りたいかと訊いたんだ。はっきり『仲間が捜している』と言わなかったのは、ふふ、どうしてかな。思いの外私も、あの生活が楽しかったのかもしれない。お前がここにいたいと望むのなら、もう少しだけ嘘のままでいようって」

 

 一息、

 

「――そしてお前が仲間たちに見つけてもらえたときは、終わりにしなければならないんだろうって」

 

 腕の中の命蓮を、男はまっすぐに見下ろす。

 

「さあ。お互い、嘘をつくのはおしまいだ」

 

 鹿爪らしい顔をして。

 男が命蓮に嘘をついたように、命蓮が男についた嘘を、彼ははっきりと見破った。

 

 

「――お前、本当はもう記憶が戻ってるんだろう?」

 

 

 今朝のことだ。眠りから覚めたら、闇に潰れていたはずの記憶がいつの間にか甦っていると気づいた。己がここから遠い山村の出身であることも、高僧としての将来を期待される雛僧(すうそう)であることも、寺の仲間と山々を行脚する修行の途中であったことも、その中で雨後のぬかるみに足を取られて滑落したことも、巾着に刺繍された名が己のものであることも――その巾着が、旅のお守りとして大切な姉が持たせてくれたものであることも。

 一刻も早く麓へ戻り、仲間たちと合流せねばならないともわかっていた。

 わかった上で命蓮は、陰陽術を教えてくださいとこの男に請うたのだ。まだ、記憶が戻っていないふりをして。

 こんなことになってさえいなければ、今日も夜まで相手をしてもらっていただろう。次の日も、そのまた次の日も嘘をつき続けて――いつか勇気を振り絞って、彼を故郷に誘えるその日まで。

 命蓮は、親を知らない。

 物心がつく頃には、父も母もすでにこの世にいなかった。特に父は母以上の早世だったらしく、姉も名前以外はほとんどなにも覚えていないと言っていた。だからだろうか、記憶が甦り、しかしこの男を父と想う感情が消えないと気づいたとき、ともに故郷へ戻り、姉と三人で暮らす世界を思い描いてしまった自分がいたのだ。

 姉だってきっと、そういう存在を欲しているはずだった。昔から、自分が命蓮の姉であり母たらんと健気に振る舞い、誰かに甘えることなど露も知らぬ少女だった。この男は姉とも相性のよさそうな性格をしているから、自分たちは案外いい家族になれるのではないかと、まったく期待しなかったといえば嘘になるのだ。

 

「父、上、」

 

 突き動かされ、唇が動いていた。焦がれるように、縋るように、

 

「僕、と。僕と、一緒に、」

「命蓮」

 

 その先を、父は言わせてはくれなかった。

 

「お前は、まだ小さいからね。これからたくさん勉強して、たくさんの人と出会って、たくさんの世界を知るだろう。そうすればいずれ気づくはずだ」

 

 命蓮とは桁違いにたくさんの世界を見てきたであろう彼の、余計な感情など塵ひとつも挟まない真摯な言葉だった。

 

「――人と妖怪は、ともには暮らせない。私がそうしたように、どちらかが嘘をついた偽りの世界でしか」

 

 それのなにが悪い、と思った。嘘でなにが悪いのか。望み望まれて成立した嘘の世界ならば、それは真実といえるのではないか。

 父は、まるで命蓮の憤りを読んだように続ける。

 

「私たちがよかったとしても、周りがそれを許さない。人は、自分たちの価値観にそぐわないものを排斥したがるから。『あの寺の僧は妖怪と通じているらしい。妖怪の仲間なんだ』とでも噂が立とうものなら、もうお前たち僧は生きていけない」

 

 ――なりませぬ……! 妖の道に堕ちるつもりなのですか……!?

 老僧の叫びが耳朶の裏に甦る。老僧は、父を悪と決めつけて疑わなかった。本当に優しい老人であるはずなのに、まだ会いもしていないのに、すべて命蓮を喰らうためだったのだと、それ以外の可能性など微塵も考えてはくれなかった。

 人でありながら、望んで妖の道に堕ちるのなら。それはもう、人ではないのだと。

 

今はまだ(・・・・)、そういう時代なんだ。だから、一緒には行けない。行ってはいけないんだ」

 

 命蓮が滑落した山の斜面を、父は空を飛んでゆっくりと登っていく。

 

「本当は、こうなる前に別れてしまうべきだったんだろうけどね。尊勝陀羅尼の杖なんか持ってるとはなあ……あれを出されると妖怪はちとキツい」

 

 苦笑いをしながら斜面を登りきり、命蓮をそっと地面に降ろす。命蓮を包み込んでくれていたほのかなぬくもりが、すべての終わりを告げるように消えていく。

 

「さあ、ここでさよならだ」

「……!!」

 

 命蓮は、男の襟元から手を離さない。指が千切れても、腕を斬り落とされても、離すわけにはいかなかった。

 

「名、を。あなたの、名前を、」

「教えないよ」

 

 けれど父は、震える命蓮の手を決して取ろうとはしなくて。

 

「教えない。だって教えたら、お前は私を捜すだろう? お前が手を伸ばさなければならないのは、妖怪ではなく人だ。そのために、お前は仏の道に入ったはずだよ」

 

 それはつまり、もう二度と命蓮に会うつもりはないという宣告。

 

「だから、私のことは誰にも言わないように。忘れてしまうんだ。そうすればみんな勝手に、妖怪に誑かされていただけだと納得してくれる。なにも変わらず、今まで通りの生活に戻っていける」

「変わらないわけ、ないじゃないですか……!」

 

 もう、限界だった。これ以上、彼の言葉を聞きたくはなかった。

 拳にありったけの力を込めて、離れていこうとする彼へ全身で食らいつくように。

 

あなたがいない(・・・・・・・)! あなたが、いないのに。なにが、今まで通りなんですか……っ!!」

 

 なぜだろう、なぜかはわからないが命蓮はたまらないほど悔しかった。悲しみとも怒りとも違う、形のない、途方もなく巨大で漠然としたなにかを前にして、どうしようもなく立ち竦み、感情が行き場を失って氾濫していた。

 もっとたくさんのことを、ぼくは伝えなければならないはずなのに。

 なのにどうして、どうして、こんなにも言葉が出ないのだろう。

 命蓮一人だけが、ロクになにも言えなくて。だというのに彼だけが、静かで優しい表情を揺らがせもしないで。

 

「ちゃんと修業して、一人前のお坊さんになるんだぞ」

 

 指先の感覚なんて、とっくにわからなくなっていたはずなのに。それでも彼がそっと手を重ねてくれたのだけは、残酷なほどはっきりと感じて。

 

「それじゃあ、元気でな」

「……!」

 

 彼を掴んでいた命蓮の指が、不可解なくらいあっさりと解かれる。あらん限りの力を込めていたはずなのにどうしてと、疑問に思う余地もなかった。

 いけない。

 言わせてはいけない。

 終わってしまう。本当に、ぜんぶ終わってしまう。解かれてしまった指を、もう一度、もう一度父へ伸ばして、

 

 

「――さよなら。命蓮」

「命蓮殿ッ!!」

 

 

 夢の終わりを告げる、大喝だった。

 背中から老僧の大喝が轟いた瞬間、風が吹いた。目を開けてもいられない、体ごと後ろに吹き飛ばされそうになるほど強烈な疾風だった。

 ほんの、五つを数えるほどの時間だったはずである。そのわずかな時間で、次に命蓮が目を開けたとき。

 もう、父の姿は、どこにもなくなってしまっていた。

 自分が掴んでいるものは、父ではなく、なにもない、

 

「――――――――ああ…………」

 

 終わった。

 終わってしまったのだ。

 それが一体なんだったのか、明確な言葉で自覚はできなかったけれど。ただ、もう二度と巡ってくることのないなにか大切なものが、この瞬間に終わってしまったのだと思った。

 喪失感はなかったが、涙雨のような寂しさが残った。

 

「……」

 

 なにも掴むことのできなかった手には、なんのぬくもりも残っていなくて。指先が地に落ち、とても抉るとまではいえない力で浅く土を掻いた。

 

「命蓮殿、ご無事ですか!?」

 

 背後から駆け寄ってくる老僧の声を、認識はしたが、応えようとは思わなかった。

 

「命蓮殿!」

「っ……」

 

 爪を立てるように肩を揺すられても、命蓮は振り向かなかった。

 ただ、父の行ってしまった、森の彼方を見つめて。

 

「行って、しまいました」

 

 自然とこぼれ落ちていたその言葉に、老僧が眉間の皺をかすかに深める。

 

「命蓮殿、どうか正気に戻ってくだされ。己が妖怪に誑かされていたと、ご自分でももうわかっておられるはず」

 

 喉に物を詰まらせたように命蓮は笑う。父が言っていた通りだ。命蓮がなにも言わなければ、周りの人たちは勝手に妖怪のせいだと納得してくれる。

 

「さあ、一刻も早く皆と合流しましょう。いつまた、命蓮殿を狙って戻ってくるかも知れませぬ故」

 

 ――父が悪の妖怪なのだと、決めつけて疑わない。

 いくら話したところで、わかってもらえはすまい。命蓮が必死になって話せば話すだけ、妖怪に気を狂わされてしまったのだと嘆かれるだけなのだろう。妖怪に心を奪われた気狂いとされれば今までの平穏は間違いなく壊れるし、故郷の姉にも迷惑が掛かる。だから父は最後に、誰にも言うなと、忘れてしまえと言ったのだ。

 己ではなく、命蓮のために。

 それがわかってしまうのが、たまらなく悔しい。

 

「……っ」

 

 忘れてたまるか、と命蓮は思う。地に爪を立て、歯を軋らせる痛みとともに命蓮は刻み込む。

 優しいひとだった。

 妖怪だったのが今でも半信半疑なくらい、人間みたいに優しいひとだった。

 だから、魂に刻んで覚えていよう。そしていつの日か里帰りをしたとき、たとえ理解されないとしても、姉にだけはきっと包み隠さずすべてを話そう。

 命蓮の、大切な『思い出』。

 

(――さようなら。父上)

 

 命蓮の、たった六日間だけの――父のことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑩ 「風の目覚め」

 

 

 

 

 

「よぉし月見、歯を食いしばれ」

「待った、暴力はやめよう」

 

 ひと通りの話を聞き終わったところで、ナズーリンは満を持して月見の胸倉に掴みかかった。月見が両手でどうどうと宥めてくるがそんなのは無視だ。大変ステキでカンドウテキな話を聞かせてくれた狐野郎の顔面へ、下から抉り込ませるように、

 

「君は。君は、君はバカか。バカなのか。なんでそんなとんでもなく重要な話を、今になって話すんだ。なんで今になって思い出すんだ。このバカ。バッカ」

「ナズ、落ち着いてくださいーっ!」

 

 星が後ろから尻尾を引っ張ってくる。ええい鬱陶しい。ナズーリンの感情を的確に読み取ったバスケットの仲間たちが、すかさず星の顔面に体当たりを仕掛ける。「はわあーっ!?」と珍妙な悲鳴を上げて星が後ろにひっくり返る。

 落ち着けという方が無理な話だ。というか月見が話をしている間は、むしろ星の方が落ち着いていなかったはずだ。ムラサや一輪と一緒になって大騒ぎして、諏訪子に「うるさぁい!!」と怒られたのを忘れたとは言わせない。

 ナズーリンは標的を目の前の狐に戻す。

 

「言い訳は」

「千年以上昔の、ほんの数日だけの出来事だったからね。お前だって、同じくらい昔に何日か知り合っただけの人間を思い出せなんて言われたら、難しいだろう?」

 

 もっともだ。月見の当時の生き方から考えて、人間と出会い、助け、助けられ、そして別れていくのはごくごくありふれた日常のひとつだったのだろう。記憶を失った命蓮はこの狐を父と呼んだが、月見にとっては所詮『人間の子どもを助けた数日間』であり、それ以上でもそれ以下でもなかった――いや、決して「それ以上」にはしないよう割り切っていたのかもしれない。

 月見という妖怪が歩んできた生涯からすれば、ほんの指先ひとつ分にも満たない小さな記憶の破片に過ぎない。千年の時を刻む中ですっかり泥の下に埋もれてしまっていたのだとしても、仕方のないことだとはナズーリンも思う。

 しかし、

 

「忘れていたのは仕方がないが、聖輦船に乗って気づかなかったのか。あの船を動かしているのは、正真正銘、弟殿の法力なんだぞ」

「……、」

 

 月見が、虚を衝かれてわずかに目を見開く。だからナズーリンはムラサに吠える。

 

「ムラサァ!」

「ふえいっ!?」

「弟殿のこと、聖輦船のこと、月見に話していなかったのか! 地底で何度か会っていたんだろう!?」

「あ、あー」

 

 痛いところを突かれたムラサは精一杯に目を逸らし、

 

「わ、忘れてたわけじゃないよっ? ただ、なんていうか……こう言っちゃなんだけど、弟さんって、私たちにとっては赤の他人だし……別に思い入れとかもなかったし……」

 

 月見の顔色を窺いながら、一輪が訥々(とつとつ)と付け加える。

 

「私たちが姐さんと出会った頃には、その、弟さんはすでに亡くなられていまして……。本当に大切な家族だったみたいで、結構引きずってたんです。だから……すみません。そもそも、話そうとも、思っていなかったというか……」

 

 ナズーリンは鼻から唸るようなため息をつく。確かに、二人の言うことに間違いはない。聖命蓮は、ナズーリンたちにとって赤の他人も同然だ。白蓮が時たまに話してくれる思い出話の中だけの存在であり、どんな顔なのかも、どんな性格なのかも、どんな言葉遣いをするのかもまるで知らない。はっきりとわかるのは、白蓮の大切な家族だったということくらい。

 月見は、ナズーリンたちの立派な知り合いだ。

 だが一方で、まだまだ出会って数ヶ月しか経っておらず、決して『深い間柄』といえるほどではない。

 そんな相手に、白蓮が最もその死を嘆き悲しんでいた大切な人の話まで、わざわざ語ろうなんて思わなかった。ムラサも一輪も明るい少女だから、不必要に暗い話題は無意識のうちに遠ざけてた――きっと、そんなところなのだろう。

 月見が、なにかを探すように曖昧にまなこを細めた。

 

「……参ったな、ぜんぜん気づかなかったよ。てっきり、毘沙門天の法力なんだろうと思ってた」

 

 ナズーリンに襟元を掴まれるまま、背を小さく曲げて深い吐息のように、

 

「そうか。あの小僧が……あの小僧がなあ……」

 

 あれほど巨大な船に千年以上も力を与え続ける法力など、到底尋常な人間業ではない。それこそ、毘沙門天の法力だと早合点してしまうもの仕方がないくらいに。……記憶に宿る少年の見違えるような大成に、月見はそれ以上言葉にもならない様子だった。

 

「まったく……」

 

 ナズーリンはようやく月見の胸倉から手を離し、そのまま正座で座り込む。多少頭も落ち着いてきたので、もうこれ以上しつこく問い質す真似はすまい。仮に彼がもっと早い段階で思い出していたとしても、それでなにかが変わっていたわけではないだろう。

 むしろ、忘れ去られたままにならなくて本当によかった。

 

「……月見。君は、大したことをしたわけじゃないと思ってるだろう?」

 

 それが月見という妖怪だと、ナズーリンは思う。命蓮を助けたのも無縁塚で少女の亡骸を荼毘(だび)に付したのも、彼にとっては里で人々の相談役となりつつあるのと同じ延長線上で、こんなことを言われたところで困り顔を浮かべるだけだろう。

 だが、だからこそ月見は知っておくべきだ。彼が命蓮という少年を助けた結果、とある少女の人生が大きく大きく変わることになったのだと。

 

「聖は、物心がついた当初から差別なき平和主義者だったわけじゃない。生まれも育ちもごくごく普通の里娘らしくてね、妖怪への認識は当時の世間一般とそう変わらなかったそうだ」

 

 妖怪は人間を誑かすもの、脅かすもの、襲うものであり、恐ろしい存在に他ならないのだと。幼い頃の白蓮はそう教えられ、そしてそう信じて疑っていなかったと聞いている。それが、当時の人々の妖怪に対する認識としてごくごく自然なものだったし、事実凶暴な妖怪が今よりも随分と多い時代だった。

 つまりは妖怪への認識が変わり、共存を夢見るようになっていくきっかけがあったのだ。

 

「弟殿から、ある日突然言われたそうだよ。妖怪に命を救われたと。ほんの数日だけだったけれど、なんだか父親ができたみたいだったと。そして……たとえ互いが争いを望んでいなくとも、人間と妖怪という種族の違いだけで、別れなければならないこともあるんだとね」

 

 まるで、ついさっき誰かさんから聞いた話と同じではないか。

 

「それが、聖が妖怪と向かい合うようになるきっかけだった。その妖怪がいなければ弟はもっと早くに命を落としていたかもしれないし、自分の人生だってきっと今とは違っていただろうと――聖は言っていた」

 

 だから。

 ナズーリンは手を伸ばし、もう一度、月見の服の心臓をつまんで。

 逃さぬように、強く笑みを剥いて。

 

「月見。――君のことだよ」

 

 妖怪を想う人間と、人間を想う妖怪、なんだか似た者同士だとは思っていたがそれどころではなかった。むしろ、似ているのが至極当然の話だったのだ。だって聖白蓮という少女を形作ったのは、ある意味で月見だったと言えなくもないのだから。

 ナズーリンは寺のご意見番めいた立場だったから、ムラサたちよりもほんの少しだけ白蓮の本心に触れる機会が多かった。たとえ顔も名前も知らない相手だって、白蓮の思想の根底には必ずその妖怪の存在があった。白蓮と月見は、聖命蓮という少年を隔ててとっくの昔に出会っていたのだ。

 無論白蓮が人間と妖怪の共存を理想としたのは、ただ弟を月見に救われたからではない。弟の言葉をきっかけに妖怪たちと向き合っていく中で、そういう世界が必要なのだと本気で考えるようになったからだ。

 でもいつか、本当にそんな世界を創れた暁には。

 弟の出会った妖怪が、遊びに来てくれたら嬉しいと――そう、言っていた。

 

「……まったく」

 

 月見が、噛むように呟いた。

 

「誰にも言わない方がいいって。忘れてしまえって、言ったのにね。……馬鹿なやつだよ」

 

 口振りには、一言などでは到底語り尽くせない複雑な感情がにじんでいた。聖白蓮という少女を形作ったのが、ある意味で月見だと言えなくもないのなら。それは言い方を変えれば、白蓮の運命を本来ありえない形に曲げたのもまた月見だと言えるだろう。

 曲がった結果として在る今が、白蓮にとって幸いだったのか、不幸だったのか。

 どちらかで答えろと言うならば、不幸だったのかもしれないとナズーリンは思う。人と妖怪の共存を夢見さえしなければ、白蓮は人々から拒絶されることも、千年以上も独りで封印されることもなかっただろう。彼女が歩こうと決めた道は、当時では険峻にそびえ立つ茨の道だったのだ。

 だからナズーリンは、なんとしてでも彼女を月見に会わせたい。今までの話を聞いて、会わせたがるなという方が無理な話だ。

 

「なるほどねえ。つまりその白蓮ってやつにとって、月見はちょっとばかり特別な妖怪になるってわけだ」

 

 神奈子が愉快げに喉を震わせた通り。人も妖怪も分け隔てなく、争いを望まないすべての者たちの橋渡しとなれる――そんな存在に、白蓮はずっと憧れ続けていたのだから。

 白蓮がこの幻想郷で、月見とともに歩んでいく光景を。

 望むなという方が、無理な話なのだ。

 

「ムラサ。今夜はきっちり早寝して、船の修理なんて朝のうちに終わらせてくれたまえよ」

「らじゃーっ!」

 

 ムラサは元気に敬礼を決め、

 

「なんだか上手く言えないけど、これってすごくすごいことだよね! 私、なんだかわくわくしてきたよっ」

 

 テーブルをビシビシ叩くそのやかましさに引っ張られて、静まっていた部屋に段々と賑やかな空気が戻ってくる。

 

「一輪、船の修理手伝ってね! 星も……まあできれば手伝ってね!」

「はいはい」

「な、なんで私だけ条件付きなんですかあっ」

 

 早苗は両手を合わせてうっとりと感慨に耽り、寝ていると見せかけてしっかり話を聞いていた諏訪子は意地の悪い笑みで月見を茶化している。

 

「こんなことってあるんですねえ……なんだか素敵です」

「月見ったら、また新しい女増やそうとして。紫に怒られても知らないんだー」

「……人聞きの悪いことを言わないでくれ」

 

 さてそうこうしているうちに、油揚げをメインに据えた八雲藍特製のお夕飯が完成し、ぬえを起こしてみんなでわいわいと舌鼓を打つことになるのであるが。

 そんな中でナズーリンはひとり、今なお眠る白蓮へそっと思いを馳せる。

 ――もうすぐだよ、聖。

 当時の人間たちは皆その生命を全うし、今や白蓮を悪魔と呼ぶ者は誰一人としていない。自分たちはまたはじめから歩み始めるのだ。すべての種族が同じ時間を笑いながら共有できる、この幻想郷という名の世界で。そんな世界を優しく見守る、月見という名の妖怪とともに。

 決して、楽なことばかりではなかったけれど。辛いこともあったけれど。それを考えれば神古しづくが白蓮を封じたのも、ひょっとすると運命だったのではないかと思えてくるのだ。

 神古しづくに封じられていなければ、白蓮は生きてこの時代を迎えられていたかもわからなかった。妖怪に(くみ)する人間の敵として、討伐されていたっておかしくはなかった。だからあたかも神古しづくが、白蓮と月見を導き合わせてくれたかのようで――。

 

「あれナズ、箸が進んでないですね。あ、もしかしてもうお腹いっぱいなんですかっ? じゃあ勿体ないのでナズの分は私が」

「しゃ――――――――っ!!」

「ぅひいいいっ!?」

 

 まあそんな思考はあいもかわらずあいかわらずなご主人サマのせいで、ぷっつりと打ち切りになったのである。

 うん、うまー。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 翌朝、月見と藍に次いで三番目の早起きはナズーリンだった。彼女は朝も早いしっかり者なのだろうという月見の勝手な想像を寸分も裏切らず、身繕いを整え、顔もすっきりさせて、まったくお手本のように礼儀正しい起き抜けの姿だった。

 

「おはよう」

「おはよう。……なんだ、すでにおくつろぎじゃないか。これでも早起きしたつもりなんだが」

「年寄りの朝は早いんだ」

 

 月見は彼女より一時間ほど早く起床し、霜の降りる庭を散歩したり、同じく早起きな藍と一緒に朝食の支度をしたりしていた。今はそれもあらかた済んだので、こたつで二人ぬくまってお茶を飲みつつ、「文々。新聞」を広げて、不在にしていた一週間の出来事を教えてもらっていたところだ。

 話を聞く限りでは、特筆することもなく平和な日々だったようである。月見がいるときと同じように、輝夜がなにをするでもなくゴロゴロしていったり、咲夜が掃除をしていったり、妖夢と幽香が庭の手入れをしていったり、レミリアとフランがなにをするでもなくゴロゴロしていったり、橙とルーミアが釣りで遊んだり、わかさぎ姫が釣られたり、妹紅がなにをするでもなくゴロゴロしていったり、操が椛から逃げてきたり、草の根妖怪ネットワークが集会を開いたり、天子がなにをするでもなくゴロゴロしていったり、チルノたち妖精が遊びに来たり、小町がサボって温泉に入りに来たり、萃香がなにをするでもなくゴロゴロしていったり、幽々子がなにをするでもなくゴロゴロしていったり。たとえ家主がいなくても、この屋敷が少女たちの集会所扱いなのは変わらないのだ。

 ナズーリンは、月見と藍をしばし見つめてふっと笑った。

 

「そうしていると、まるで夫婦だね」

 

 ありふれたお決まりの冗談を、藍は眉ひとつ動かさず冷静に受け流す。

 

「からかうんじゃないよ」

「その割には尻尾が満更でもなさそうだが」

 

 湯呑みを倒してお茶をこぼした。文の新聞が犠牲になった。

 

「あー、」

「もももっ申し訳ありません!?」

 

 目にも留まらぬ早業で布巾を走らせ、藍は犬歯を剥いてナズーリンを睨みつける。ナズーリンは尻尾をくるくる回しながらどこ吹く風で、

 

「はっはっは、やはり尻尾は嘘をつけないね」

「ぐっ……そ、そんなはずは……!」

「もちろん嘘だよ」

 

 藍の瞳が暗黒で潰れた。

 

「月見様……このあたりの鼠を一匹残らず捕まえて、橙のおもちゃにしましょう」

「待った、それは本気で勘弁してくれすまなかっ……待て待て式を飛ばすな、悪かったって後生だからぁ!」

 

 このあたりを住処にしている妖怪鼠が、ときたま橙に見つかってハンティングされているのは余談である。やはり弱肉強食のヒエラルキーを覆すことはできないということか、狐と鼠の勝負は藍の逆転勝利で収束した。

 落ち着いたところで、今度は水蜜が起きてきた。

 

「あー、おはようございまーふ」

「ああ、おはよう」

 

 水蜜についても、寝起きの姿はおよそ月見が思い描いていた通りだった。髪はボサボサとはいわないまでも少し寝癖で飛び跳ね、寝惚け眼をこすって半分あくびをし、服はよれよれになった寝間着のまま。まこと、気さくで砕けた性格の水蜜らしい。

 ナズーリンががっくり項垂れて呆れた。

 

「ムラサ……一応私たちは客の立場なんだから、もう少ししゃんとしたらどうなんだい」

「えー、月見さんはそんなの気にしないよぉ。ねー月見さん」

「ああ。楽な恰好でいいんだよ」

「ほらー」

 

 水蜜がにへーと締まりなく笑い、ナズーリンは今度は月見に呆れる。

 

「まったく、本当に君は甘やかしてばかり……」

「甘やかしちゃいないさ。本当にそう思ってるだけだ」

「君らしいが、度し難いね」

「私は、いちいち口うるさいよりぜんぜんステキだと思いまーす」

 

 そそくさとこたつに入るなり、水蜜はテーブルに顎を乗せただらしのない恰好でふにゃふにゃにとろける。そのままあっという間に二度寝を始めそうだったので、

 

「よく眠れたかい」

「もうバッチリですよー。よく眠れすぎて、逆にまだスイッチ入ってないでーす。このままいつでも二度寝できまーす」

「さすがに二度寝はダメだよ」

「ふあーい」

 

 ナズーリンはもはや呆れ果てて、小言を言うのも諦めたようだった。

 

「地底にいる頃から話には聞いてましたが、月見さんのお屋敷がここまで素敵だとは思いませんでしたー」

「ありがとう。……他のみんなは?」

「よだれ垂らして爆睡してまーす」

 

 よだれ。

 

「一輪も星もぬえも、基本的にだらしがないのでー」

 

 布団を顎の先まで被って丸くなり、すやすやと幸せいっぱいに爆睡している三人の姿を想像する。一輪は髪が寝癖だらけで、星は枕によだれを垂らしていて、ぬえは寝相が悪すぎて頭と足の位置が逆転している。

 とてもしっくり来た。

 

「あいつららしいね」

「……片棒担いでおいてなんだが、自分の主人が一日でこんな扱いになってるのはちょっと複雑だね」

「いいじゃないか。どこもかしこも非の打ち所がないと反って窮屈なものだよ」

 

 そう感じてしまうのは、昔からなにかと非の打ち所ばかりな少女たちと縁があるからなのだろう。

 

「まったく君は……」

 

 途中まで言いかけたナズーリンは口を噤み、肩を竦めて、

 

「……まあ、しかし、だからこそ君と聖を会わせたいと思うんだけどね」

「……私も、早く会ってみたいよ」

 

 昨夜は寝付くまでの間、布団の中でたくさんのことを考えていた。それは挨拶らしい挨拶もできないまま別れてしまった地霊殿のみんなであったり、眠ってしまった志弦であったり、『神古』であったり、もしくは霖之助はちゃんとご飯を食べたかなとか、はたてはあのあとどうなったんだろうとか、或いは命蓮との思い出や、未だ顔を知らないそのお姉さんのことであったりした。

 慧音の「歴史を創る程度の能力」は、埋もれてしまった過去に再び光を当てる力だが、逆を言えば、そもそも埋もれてすらいない――歴史になっていない過去はどうやっても解き明かすことができない。

 一輪と水蜜は、白蓮を封じた『神古』を恨んでいた。

 なら、白蓮は――。

 彼女は、自分たちの生活をめちゃくちゃにした『神古』を恨んでいるのだろうか。封印から解かれ、その子孫である志弦と出会ったとき、彼女は一体どんな感情を心に刻むのだろう。

 それだけが、眠りに落ちる最後まで気掛かりだった。

 

「……お互い、昨夜はいろいろと考えていたみたいだね」

「ということは、ナズーリンも?」

「まあ……ちょっと、ね」

 

 いつも快刀乱麻を断つナズーリンにしては、珍しく要領を得ない返事だった。話だけでもしてみるつもりだったが、本当にいいのだろうか、もしかすると大変なわがままなのではないか――そう決めあぐねているように見えた。

 

「言い辛いことかい?」

「いや……」

 

 無理に聞くつもりはなかったが、ナズーリンは腹を括ったようだった。

 

「魔界へ行く方法についてだ。聖輦船には法力を消費して転移を行う機能があって、そして昨日も言った通り、船に宿っているのは弟殿の法力だ。つまり、魔界へ転移する際にはその法力を使うことになるんだが……」

「……んー?」

 

 水蜜が気の抜けた声で、

 

「……うん。えっと、それがどうかしたの?」

 

 月見にも話が見えない。元より聖輦船の転移機能を完全に復活させ、かつ必要な法力を確保するために昨日一日掛けて破片を捜し回ったのだ。当然、修理が完了次第命蓮の法力を使って魔界へ行くのだと思っていたし、昨夜の時点ではナズーリンもそのつもりだったはず。

 ナズーリンは、まだ若干歯切れが悪い。

 

「……一度転移してしまったら、弟殿の法力が尽きてしまうんじゃないかと思ってね。こことは違う世界に転移するわけだし」

「法力が尽きたらこっちに帰ってこれなくなるってこと? 聖を復活させるんだから、聖に込め直してもらえばいいじゃん。私はそのつもりだったけど」

「まあ、そうなんだが……」

 

 月見も水蜜も、余計な口は挟まずナズーリンの考えがまとまるのを待つ。

 ナズーリンは一度無理に話すのをやめ、ゆっくりと息を吸って、吐いた。

 

「私もそう考えていた。……だが昨晩、月見と弟殿の話を聞いて、少し考えが変わったんだ」

 

 そこまで口にしてしまえば迷いも晴れたのか、目線を上げたときにはいつも通りの彼女が戻ってきていた。

 

「可能であれば、弟殿の法力を使わずに魔界へ行けないかと思うんだ。……上手くは、言えないけれど。月見――君の存在と、弟殿の力を遺した聖輦船。この二つがあれば、本当の意味で聖を救うことができるような気がしてね」

「……あー、」

 

 まだ眠気が残っていた水蜜の面持ちに、急速に理解の色が広がった。ゆるゆる脱力し、またテーブルの上にだらしなく伸びて、肺の空気を静かに入れ替えるため息をついた。

 

「あー、そっかー……。それは、んー……言われてみれば、そうかもなー……」

 

 月見にも、わかった。

 聖輦船は、それ自体がひとつの巨大な忘れ形見なのだ。世にも珍しい空飛ぶ船であると同時に、そこには命蓮の法力が、すなわち彼の生きた証が、千年以上経った今でもなお色濃く遺されている。だからもしも、あの船の立派な姿を白蓮に見せてやれたなら。

 

「弟さんの恩人が、弟さんの船で迎えに――か。そうだね。私も上手く言えないけど……もし本当にそうなったら、聖、すごく嬉しいだろうね」

「……ああ。だから、どうにか弟殿の法力を使わない方法はないかとね。ちょっとだけ気になったんだ」

 

 月見は口元だけでふっと笑った。人を散々甘いだのお人好しだのたしなめるくせに、ナズーリンだって大概世話焼きではあるまいか。それは、白蓮を想う真摯な心がなければ思いつきもしない考えだろう。「ちょっとだけ」なんて澄ました顔で言っているが、昨夜は寝付くまでずっと頭を悩ませていたに違いない。

 ジト目で睨まれた。

 

「……なにか言いたげだね、月見」

「いや、なんでも」

 

 しかし、なにもおかしいことはない。だってナズーリンは人々を加護する毘沙門天の遣いであり、志弦という人間を二度に渡って助けてくれた、素っ気ないふりをしていても心優しい妖怪なのだから。

 確かに、ナズーリンの言う通りだった。月見も、できることなら今の聖輦船を白蓮に見せてやりたいと思う。お前の弟が生きた証は、千年以上が経った今もなお立派に刻まれ続けているのだと。

 だがそのためには、別の新たな問題が浮上する。

 

「でも……そしたら、弟さんの代わりになる法力をどっかから持ってこないとだよ。別世界に行くんだから半端な量じゃないし……そんな当てあるの? 星に頼むとか?」

 

 ナズーリンは苦々しく首肯する。

 

「現状、それしかないね。ただ毘沙門天様には、宝塔含めてすでにいろいろと力を貸していただいているから、これ以上は……心苦しいけれど」

「……」

 

 言っていることはわかる――そんな顔をしつつも、水蜜の反応は芳しくない。

 

「……できるなら、もちろん私も賛成だよ」

 

 横目でナズーリンを見遣って、そっと釘を刺すように、

 

「でも……聖を一日でも早く助け出したい。その気持ちは、私たち、おんなじでしょ?」

「……ああ。わかっているさ」

 

 結局のところ水蜜にとって、命蓮は白蓮の大切な家族でありつつも、同時に顔も知らない他人でしかないのだ。彼女が敬い慕う相手は白蓮であり、決して命蓮ではない。

 代わりとなる法力が見つからず、そもそも魔界に行くこともできなくなるくらいなら。

 

「もちろん、代わりの法力が確保できるまで待ってくれなんて言わないよ。船を修理している間に、毘沙門天様に話だけでもしてみるつもりさ。どの道、当ては毘沙門天様以外にない。駄目だったら、そのときはすっぱり諦めるよ」

 

 月見を見て苦笑し、

 

「……というわけで、今日は一度毘沙門天様のところに戻ろうと思う。その間……申し訳ないんだが、ご主人の面倒を見てもらって構わないかな」

 

 幻想郷ではだいたい部下の方が優秀なので、そんな彼女たちから主人の世話を頼まれるのも珍しくないのだ。特に紫とか輝夜とか。

 わざとらしく微笑んで答える。

 

「星がいつ優秀な姿を見せてくれるのか、私は楽しみだよ」

「……うん。まあ、その、あまり期待しないで気長に待ってくれると嬉しいかな」

 

 果たして、星が毘沙門天の代理として名誉挽回できる日はやってくるのだろうか。彼女のことだから、やっとの思いで挽回してもすぐまた汚名まで挽回してしまうのかもしれない。月見はちょっと楽しみになってきた。

 吐息。

 

「……さて。じゃあそろそろ、ご主人たちを起こすとするか……」

 

 でもご主人のことだからどうせ、とぶつぶつ言いながらナズーリンがのっそり立ち上がる。早くも頭痛に呻くような足取りで茶の間を出ていく彼女の背には、言葉にならない滋味あふれる哀愁が漂っている気がした。

 襖が閉まり、藍がぽつりと、

 

「……彼女とは、なんだか気が合いそうです」

「……うん。だろうね」

 

 主人に手を焼かされる苦労人同士、酒でも入れば夜を日に継ぐ勢いで語り合えることだろう。ナズーリンが幻想郷苦労人同盟の会合に招かれる日は、もしかするとそう遠くはないのかもしれない。

 藍も腰を上げた。

 

「では、みんな起きてくるでしょうから朝食にしましょう」

「ああ。手伝うよ」

「ごちそうになりまーす」

 

 藍とともに台所へ向かう途中の廊下で、三階から予想通り怒声と悲鳴が響く。

 

『――なァにが「あと五十分~」ださっさと起きろッ!!』

『ふみゅ――――――――っ!?』

 

 星がバタバタのたうち回る喧騒を聞きながら、月見は天井を見上げて苦笑し、藍は心の底からしみじみと頷く。

 

「もはや他人とは思えません」

「紫も『あと五時間~』って言うもんなあ……」

「冬眠から起きるときは『あと五日~』になりますよ。そこを問答無用で叩き起こすのがまた楽しいんです」

 

 頭を使わせれば非の打ち所のないナズーリンに、唯一足りないものを挙げるならば。永遠亭の胃薬の常連客となってしまう前に、彼女は一刻も早く藍と同じ境地へ辿り着く必要があるだろう。

 幻想郷の従者に必要なのは主人の欠点を矯正しようという気概ではなく、ダメなところもぜんぶまとめて可愛がる悟りの精神なのである。

 

 ――あとになってナズーリンからこっそり謝罪されて曰く、星は本当によだれを垂らして爆睡だったらしい。

 そして一輪は髪がイソギンチャクになっていて、ぬえは枕に足を乗せて寝ていたとか。まったく、つくづく月見の期待を裏切らない少女たちである。

 

「ふみゃみゃみゃみゃみゃみゃ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 すっかり失念していたが、今日も今日とて温泉を開けなければならないのだった。正真正銘、今年最後の日帰り温泉『水月苑』の営業日である。

 状況が状況なので、はじめは臨時休業も考えた。また藍を頼りきってしまうのは心苦しいし、今日の相手はどうせ野郎どもなのでそこまで優先してやることもない。間違いなく多くの男衆が温泉納めを狙っているはずで、一度店を開けてしまえば、奴らは夜が更けるまで宴会気分で騒ぎ散らすだろう。

 しかし月見がなにかを言う前に、目を輝かせてやる気満々張り切った藍が、

 

「月見様、お屋敷の方は今日も私にお任せください!」

「いや、しかし」

「お任せください!」

「藍、」

「お任せを!」

 

 断ったらめちゃくちゃしょんぼりされるやつだな、と思ったので好きにやらせることにした。まったく藍をはじめ、好きでお手伝いをしてくれる少女たちには頭が上がらない。

 もふんもふんと弾む金毛九尾を見送って、月見は外に出た。お日柄は昨日に続いての快晴だが、ほどよく降り注ぐ陽の光があっても肌寒い朝に変わりはなく、大きく息を吐くと視界が束の間真っ白に染まる。一方で雪は少しずつ解け始めているようで、一面銀世界だった庭の景観には木々の緑が戻りつつある。耳を澄ませば山がしんしんと呼吸する静寂と、そして、どこかから小さな水の雫の音がした。

 聖輦船の修理はすでに始まっている。内部の作業なので地上からは見えないが、水蜜と一輪が役割分担して指示を出す声と、河童たちの掛け声のように威勢のよい返事が聞こえてくる。船の周りではそんな賑やかな修理の風景を天狗たちが写真に収め、或いはメモ帳にペンを走らせ書き残したりしている。

 月見たちが朝食を終えて間もないあたりで勝手に集まってきて、修理を手伝わせてほしい、見学させてほしいと志願してきたのだ。元々は飛倉の破片をより多く集めるのが条件という話だったが、あんなのは所詮彼女たちを焚きつけるための方便に過ぎなかったわけなので、そこまで言うならと意気を買わせてもらうことにした。水蜜たちの今後の生活を見据えて、こういうところから交流を始めていければと期待もしている。

 もちろん、変な真似をしないできちんと手伝うことと、作業の邪魔にならないよう気をつけることの二つが絶対厳守だ。もし破ればそのときは、雲山のいかつい拳骨か妖怪鼠たちのガジガジ攻撃が待っている。面子が面子なので若干不安だが、率先して手伝いを申し出てくれる気持ち自体はありがたいものなので、まったく朝っぱらからこたつむりなぬえに爪の垢を煎じてやりたくなってくるのだった。

 池のほとりでは星が、わかさぎ姫や早苗と集まって井戸端会議を開いている。月見の記憶が正しければ、当初は彼女も修理のお手伝いをしようとしていたはずだが――まあ、あまり触れない方が星のためであろう。

 ところで、早苗は一体いつの間にやってきていたのだろうか。少女たちからおおむね集会所扱いされている水月苑において、気がつけば一人二人が増えている程度は日常茶飯事である。

 わかさぎ姫と早苗が手を振ってきたので、月見はひとまずそちらへ向かった。

 

「あー、旦那様ー」

「おはようございまーす」

「おはよう。……いつの間に来たんだ?」

「ついさっきですよ。志弦の様子を見に行こうと思いまして、ついででご挨拶に」

 

 志弦が謎の眠りに落ちてから、もうすぐ丸一日が経とうとしている。今のところ永遠亭から、彼女の目覚めを知らせる遣いは一人も来ていない。

 

「まだ朝早いので、向こうもご迷惑かもですけど……でも、やっぱりどうしても心配なので」

「大丈夫だろう。輝夜のやつも、いつでも様子を見に来ていいって言ってたし」

 

 不便がないよう、竹林の入口付近に道案内のイナバチームを増員してくれると聞いている。ついでに、てゐが傍迷惑な悪戯を働かないよう言い含めてくれる、とも。

 

「なにかあったら、すぐお知らせしますね」

「ありがとう。今の時期、神社は大忙しだろうに」

 

 神職にとって、年末年始は一年最大の書き入れ時だ。この時期ほど神社の存在が人々から意識される日は他にない。正月事始め、煤払い、歳の市などお決まりの行事も、月見たち一般人とはその重要性がまるで違う。本当なら、月見たちの方が手助けをしなければならないくらいなのだ。

 けれど、早苗はあっさりと首を振った。

 

「実は去年、幻想郷に来てはじめての年だったので勝手がわからなくて、いろいろ失敗しちゃいまして。今年はその反省を活かして、志弦にも手伝ってもらいながら早めに作業を進めてたんです。去年と違って人脈も増えましたしね。なので問題ありません」

「それは大したものだ。こっちはまだなにも終わってないから、大変な年末になりそうだよ」

「あー。でも、月見さんの事情はみんな知ってますからね。藍さんとか咲夜さんとか輝夜さんとか、たくさん集まって手伝ってくれるんじゃないですか?」

 

 むしろ、だからこそ大変な年末になりそうだとも言う。

 

「あ、正月飾りのお求めは是非守矢神社で! 注連縄とか破魔矢とか御神酒とか、諏訪子様と神奈子様の御加護がバッチリなので縁起がいいですよっ!」

「そうだね。そうさせてもらうよ」

「お願いしますねっ。『あの月見さんも買った!』って箔がつけば、人里に持ってったときも売れると思うんです! 月見さん、あそこだとお稲荷様に勘違いされてますからねー」

 

 自分は妖怪だと何度説明しても聞く耳を持ってもらえないので、たぶん連中はわざとやっている。

 

「それじゃあ、行ってきますね!」

「ああ。いってらっしゃい」

「「いってらっしゃーい」」

 

 わかさぎ姫と星の二人に仲良く手を振って見送られ、早苗は冬の寒空をまっすぐ南へ飛び立っていった。月見が知らないうちに、この三人はすっかり打ち解けて仲良くなったようだ。

 月見の視線に気づいて、星はなぜか慌てて両手を振った。

 

「あ、月見さん……いえあのっ、これは決してサボっていたわけではなく! 船の修理を手伝おうとしたけど足手まといで追い払われたわけではなくってですね! ええとその、幻想郷についてひめさんや早苗さんに教えていただいてましてっ。私、ここにはまだ来たばかりなので……」

 

 盛大に自爆しているが、月見は聞き流してやることにした。昨日一日と今日の朝で散々醜態を晒したせいで、星はすっかり肩身を狭くしてしまっている。

 

「星、そんなにビクビクすることはないよ。私はナズーリンじゃないんだ」

「うう……月見さんには、ご迷惑ばかりお掛けしています……」

「大袈裟だねえ。ここが普段からどれだけ騒がしい屋敷だと思う?」

 

 星の失態程度で迷惑になるのなら、輝夜やフランをはじめとするはっちゃけ少女たちが日頃から跳ね回る水月苑は、まさしく幻想郷の混沌を煮詰めた伏魔殿であろう。

 星の表情が和らぐ。

 

「ああ、お話はひめさんから伺いました。昨日もたくさんの方が息抜きにいらしてましたし……ここは、本当に素晴らしい場所なのですね」

 

 水月苑を見上げ、雪も欺くその真っ白い外壁に目を細め、

 

「聖に、早く教えてあげたいです」

「もうすぐ、助けに行けるさ」

「ええ、船の修理も順調そうですし……あとは、私がしっかり聖の封印を解かないとですよね。うう、緊張します……」

 

 また縮こまり、

 

「これでもしダメだったら、ナズからなんと言われることか……宝塔をなくした件も含めてぜんぶ毘沙門天様に報告されて、代理人失格になっちゃうかも……いや、私なんてはじめから相応しくないんですけど……ああ、やっぱり私はダメっ虎なんですー……」

 

 はっきり具現化したどんより雲を背中にまとって、一人で勝手にズブズブ沈んでいってしまった。いい加減哀れなのでなんとか慰めたいと思うのだが、今のところ星のダメな姿しか知らない月見には如何せんフォローが難しい。本当にこの子は仕事をさせると優秀なのか、と疑問に思うのも果たしてこれで何度目になるのか。

 

「星さん、ねがてぃぶになってはいけませんっ」

 

 悩む月見の代わりに、力強く口を切ったのはわかさぎ姫だった。両手で拳を作って前のめりになると、

 

「ナズーリンさんがとても要領の良い方なので、そーたい的に自分のことが悪く見えてしまうのだと思います……! ですが大丈夫です! ここから毎日水月苑を見ている私が保証します――」

 

 息を吸い、

 

「――星さんは普通ですっ!」

 

 普通。

 

「星さんで毘沙門天様の代理人失格になってしまうのだったら……ええと、ここに普段から集まってらっしゃるだいたいの大妖怪さんが大妖怪失格ですっ!」

「ひめ。そんな大妖怪が誰も来てなくてよかったね」

「…………と、とにかくっ!」

 

 もしかすると、なんとか星を慰めようとして自分でもよくわからないことを口走っているのではないか。

 

「でも、水月苑を見ていて気づきました。そんな方々は、嫌なことがあっても決してへこたれないんです。いつも前向きで、明るくて元気なんです。だからきっと、楽しく毎日を生きていれば、大抵のことはなんとかなってしまうんだと思うんです」

「ひめさん……」

「落ち込みそうになったときは、水月苑にいらしてください! 旦那様はいつでも優しく歓迎してくれます、私も愚痴くらいはお聞きします! それに、ここで元気いっぱいな皆さんの笑顔を見れば、こっちまで元気になれちゃうんですからっ。笑う門には福来る、ですよ!」

 

 しかし、最後まで聞いてみれば、まあ。

 そうなのだ。月見の周りで日頃から跳ね回っているあの少女たちと比べれば、星の欠点などまさに特筆することもなく普通なのだ。大切な物をなくしてしまった? 普通。よだれを垂らして爆睡してしまった? 普通普通。月見もそんな環境に今となっては慣れているので、ちょっとやそっと情けない姿を見せられた程度で目くじらは立てないし、むしろそれくらいの方がかわいげがあってちょうどよいのだとすら感じてしまう。繰り返すが、個性的な少女たちであふれる幻想郷ライフに必要なのは、相手のダメなところもぜんぶまとめてかわいがる悟りの精神なのだ。

 そして、そんなときどき情けないこともある少女たちは、とかく元気いっぱいでへこたれない。出処不明な無限のエネルギーに満ち満ちて、いつでも月見に笑顔を見せてくれる。我が道突き進む彼女たちの天真爛漫な姿は、いつでも月見に元気を与えてくれる。

 笑顔、は、力だ。

 笑う門には福来る。

 きっと、そうなのだろう。

 星の頬が、緩んだ。

 

「……ひめさんはそれを、この場所から学んだんですね」

「はいっ。今日も温泉の日ですから、これからどんどん人が集まって賑やかになるはずです。あ、ほら、早速お客さん……が…………」

 

 空を指差したわかさぎ姫が、そのまま尻すぼみで沈黙した。頬が笑みの形を描いたままみるみる引きつり、走り抜けた緊張で綺麗に石化する。

 その反応だけで、月見は指先の方向を見ずとも誰がやってきたのか理解した。あのわかさぎ姫が思わず笑顔を引きつらせる相手となれば、該当者は月見が知る限り一人しかいない。

 わかさぎ姫の反応を訝しんだ星が空を見上げる。月見もまた同じ方向を追うと、そこにはやはり思った通りの少女の姿が

 

「……、」

 

 月見は目を丸くして沈黙した。降りてくる人影はふたつあり、ひとつは月見が予想した通りの少女であり、しかしもう片方はまったく夢にも思っていない相手だった。

 大きな鳥の、羽音が聞こえる。

 

「……少し見ない間に、ここはまた様変わりしましたね。あの船は一体なんですか?」

 

 まず降り立ったのは、わかさぎ姫の頬を引きつらせる張本人である映姫だ。それはいい。彼女は元より、遠路はるばる水月苑を訪れる馴染みの客の一人である。月見が地霊殿から地上へ帰ったのを、その地獄耳で早速聞きつけてきたらしい。

 それより問題は、映姫に一拍遅れてやってきた少女の方。見覚えのある風呂敷を両手で危なっかしく抱えている。背負えば運ぶのも楽だろうに、そうしないのは羽ばたく邪魔になるからだろうか。月見と目が合った途端縮こまり、あいもかわらず小動物のように、遮蔽物を求めて映姫の背中にちょっぴりだけ隠れる。

 どうやら、月見が置きっぱなしにした荷物を持ってきてくれたらしいけれど。

 

「……お前、どうして」

 

 ようやく、声が出た。少女は伏し目がちになってもじもじしながら、月見を見ては逸らし、見ては逸らし、三回目にしてようやく、

 

「…………お、おはよう……」

 

 ややツンとした意地っ張りな挨拶は、やはり間違いなく。

 霊烏路空が、そこにいた。

 

 

 

 ○

 

「ぶー、私も月見のとこに行きたかったー。お姉ちゃんのいじわるぅー」

「わがまま言わないの。おくうは遊びに行ったんじゃないのよ。式神として月見さんのお手伝いをする、大切なお仕事をしに行ったの」

「私も行っちゃおっかなー。能力使えば誰にもバレないしなぁー」

「閻魔様に言いつけるわよ」

「きちく!」

 

 

 

 ○

 

 予想外だった理由はふたつある。ひとつはおくうが、地霊殿から一人で地上までやってきたこと。おくうは地上に対し未だ強い警戒心や恐怖心があり、ここは謂わば怖いやつらだらけの魔窟にも等しい。妖夢が独りぼっちでお化け屋敷に入ろうとするようなものだ。依存したがりなおくうの性格を考えれば、せめてこいしやお燐と一緒でなければ絶対に行きたがらないはずではないか。

 もうひとつが、おくうを案内してきたのが映姫であること。不可侵の約定は一応今でも有効であり、地上と地底の行き来は原則として御法度のままだ。そして閻魔の四季映姫は、ご想像の通りそういった決まり事に大変敏感で口うるさい。規律と秩序を重んじる彼女の性格を考えれば、地底の妖怪を地上まで案内するなど言語道断のはずではないか。

 しかし事実としておくうは月見の目の前にいるし、彼女を連れてきたのは映姫である。だから夢にも思わぬ予想外中の予想外で、月見は返事も忘れてぼけっと突っ立ってしまっているのだ。

 映姫に悔悟棒で小突かれた。

 

「こら、なにをぼーっとしているのですか。挨拶されたのだから無視はダメでしょう?」

「……ああ、悪い。おはよう、おくう」

「ん……」

 

 鼻から出したような素っ気ない返事だが、おくうの翼が二回、満更でもなさそうにぱたぱたと動いた。

 さて、これはどこからどう話を切り出したものか。悩んでいたら池のほとりからわかさぎ姫が、

 

「お、おおおっおはようございますっ!」

 

 水面にヘッドバットをかますような勢いで、映姫に向けてものすごく頭を下げた。いきなりの大声にびっくりしたおくうが、映姫の後ろから飛び出して今度は月見の後ろに隠れた。

 お説教大好きな閻魔様が幻想郷中の住人から恐れられているのは世の常で、それはわかさぎ姫も例外ではない。彼女がこの池に引っ越してきて間もなかった頃、映姫から同棲だのなんだのといろいろ勘違いされて理不尽なお説教を叩き込まれて以来、わかさぎ姫はすっかり厳しい先輩に怯える下級生の有様であり、映姫もどことなく年上風を吹かせているのだった。

 

「ええ、おはようございます。この狐が留守にしていた間、変わりはありませんでしたか?」

「はひ!」

 

 教科書に載せたくなるような見事な敬礼が炸裂する。

 

「頑張ってお留守番してましたし、お池のお掃除も毎日やっていました! ちゃんといい子にしてましたっ!」

「うむ、よいですね」

 

 わかさぎ姫の突然の豹変に、星が目を白黒させてきょろきょろしている。映姫が気づく。

 

「おや……? あなたは妖怪ではありませんね」

「あ、ええと、毘沙門天の代理を務めさせていただいております、寅丸星と申します」

「……なるほど、毘沙門天。そういうことですか」

 

 静かに納得する映姫へ星はおずおずと、

 

「あ、あの、貴女は……」

「ああ、失礼。私は四季映姫、是非曲直庁の閻魔です」

「閻」

 

 一秒、

 

「魔」

「……なにか?」

「い、いえいえなんでもありませんっ!?」

 

 星が目を剥き出しにして月見を見る。月見は黙ってひとつ頷く。わかさぎ姫も五回くらい必死に頷いている。

 星の顔中にぶわっと冷や汗が吹き出し、

 

「……あ、あのっ、わたし悪い妖怪じゃありません!」

「はあ、それはわかっていますが。毘沙門天の代理なのでしょう?」

「なにも悪いことしてません!」

「……自分から言うとは少々怪しいですね」

「みいっ!?」

 

 あいかわらずこの毘沙門天代理、月見もびっくりの速度で自爆していくスタイルである。仏様の宝物を紛失しただけでなく、誤解とはいえ人攫いの片棒まで担いでしまった上、それらを隠して「悪いことはしていない」と虚偽の申告まで――閻魔様にとって、ここまで説教し甲斐のある逸材もなかなか巡り会えないだろう。

 しかし星はすでにナズーリンから嫌というほど怒られ、反省を通り越して自己嫌悪の世界に飛んでいってしまった身。閻魔様のお説教という血も涙もない追い打ちまで炸裂したら、彼女はいよいよもって砂と化して消滅を始めてしまう。

 さすがに可哀想なので、ここは話を逸らしてあげる――というより、もっと大事な確認事項があるわけで。

 

「映姫、それより教えてくれないか。お前がおくうを連れてきたように見えたんだけど」

「む……そうでした。その話をしなければなりませんね」

 

 星が阿弥陀の来迎を目の当たりにしたように月見を見つめる。だから仏は他でもないお前のはずだろうに。

 さておき。

 

「ほらおくう、隠れてないで顔を見せてくれないか」

「う、うー……」

 

 背中に隠れるおくうを尻尾で叩くが、彼女は抱えた風呂敷もろとも密着して一センチも離れようとしない。見知らぬ赤の他人であるわかさぎ姫と星に、おくうの警戒心は早くも最大レベルで警報を鳴らしている。

 一方でわかさぎ姫は、新しいお友達を見つけて嬉しそうだった。おくうの無言の威嚇を物ともせず、わざとらしさのない自然な笑顔で、

 

「はじめましてー。旦那様のお友達ですか?」

「……」

「怖くないですよー、食べたりしないですよー。むしろ私が食べられちゃう側ですよー、なんちゃって」

「……あなた、その冗談はあまり笑えませんよ」

「そ、そんなあっ」

 

 自信あったのに……としょんぼりするわかさぎ姫に、なんだか変なやつだと好奇心を惹かれたか、おくうがそろりそろりと顔を出そうとする。その隙を逃さず、月見は尻尾で彼女を前に押し出した。

 

「うにゅっ……!」

 

 びっくりしてまた隠れようとするおくうの肩に手を置き、

 

「逃げない逃げない。大丈夫、この間パーティーに来た連中と同じでいい妖怪だよ」

「う、うー」

 

 映姫からも、叱責めいた激励が飛んでくる。

 

「なにを恥ずかしがっているのですか、霊烏路空。あなたの緊張は察しますが、それを覚悟でここまでやってきたのでしょう。己の務めを果たしなさい」

 

 ――己の務め?

 荷物を届けに来てくれたことだろうか。しかし、高々忘れ物を届けるためだけにおくうを遣わせるのは大袈裟ではないか、と思う。藤千代に頼めばわざわざ映姫が案内をする手間も掛からないし、余計な問題が起こる心配だってないのに。

 わかさぎ姫が「私、怖いんでしょうか……笑顔が不気味とか……」と落ち込んでいて、星が「だ、大丈夫ですよ、私なんて元虎ですもん。がおー」と微笑ましいことをやっている。そしておくうが、意を決したように鋭く月見へ振り向いた。抱えた風呂敷をずいと差し出し、

 

「こ、これっ……置いてった荷物、持ってきたっ」

 

 疑問はあるが、事実こうして持ってきてくれたのならきちんと受け取るべきだろう。今はじめてわかったふりをして微笑み、

 

「ありがとう。助かったよ」

 

 おくうは鼻から「う」と「ん」の中間の音を出し、ふんふんと二回興奮の鼻息を吐いた。

 

「役に立てたっ?」

「ああ、もちろんだとも。本当に大助かりさ」

 

 ふんかふんか。

 折り畳まれた翼が犬の尻尾みたいに揺れている。どうやら、月見の役に立てたのが嬉しいらしい。

 本当に、最初の頃からは想像もできないくらいいじらしい子になったものだ。思えば先ほどのわかさぎ姫への反応も、おくうにしては随分と物腰が柔らかくなった方だった。月見が出会った当時のおくうなら、人の後ろに隠れてうーうー威嚇するどころか、「なにわけわかんないこと言ってるの?」と絶対零度の目をして喧嘩腰だったろう。

 先日のパーティーで、フランたちと仲良くなった影響なのだろうか。筋金入りだったおくうの地上アレルギーは、ほんのちょっとずつではあるが克服されつつあるらしい。

 

「でも、まさかこれだけのために来てくれたのか?」

「もちろん違います。本来、荷物は私が届けるつもりだったのですが、」

 

 そこまで素早く答えたところで映姫はハッとし、そっぽを向くとますます口早に、

 

「い、いえ、別に他意はありません。そもそも、事情があったとはいえ、人の家に荷物を置きっぱなしで帰るなどあるまじきことなのです。なので閻魔としてあなたに一言物申さねばならないと思った次第で、荷物の方はついで、あくまでついでであってですねっ」

「? でも閻魔様、今年最後につくみの顔を見に行くんだって」

「ひゃあぅっ!?」

 

 流れるような暴露に、映姫は素っ頓狂な悲鳴でおくうを黙らせる。

 

「あ、あなた、なにを言って……! ど、どこでそれを!」

「さとり様……」

「あ、あの覚妖怪ぃ……ッ!!」

 

 月見は地霊殿の愉悦妖怪にそっと念を飛ばす――さとり。このあとお前のところに怒りの閻魔様が突撃するだろうから、これを機に少し反省してくれ。

 しかし、今年最後に、ということは。

 

「やっぱり、彼岸はこれから忙しくなるのか」

「ぅ……え、ええ、まあ……」

 

 映姫が苦々しくも肯定する。神が定めた輪廻転生の営みに年末年始休暇があるわけはないから、当然といえば当然なのかもしれない。むしろ、年の変わり目という特別な時期だからこそ余計に忙しくなる部分もあるのだろう。本当に大変な仕事だ。月見だったら間違いなく、一週間を待たずに辞表だけを残して失踪する。

 映姫が、悔悟棒の持ち手を両手でそわそわといじっている。

 

「年が替わって、少しして落ち着くまでは……ここには来られないと、思います、ので……」

「それで、挨拶に来てくれたんだね」

「……いや、あの、ええと、…………そうついで! ついでです! ついでだと言っているでしょう!」

 

 さんざ考え通してやっと逃げ道を見つけたか、勢いを取り戻した映姫はんんっと咳払いをし、いかにも努力して作った澄まし顔で、

 

「いいですか。以前のいじわるなあなたと比べれば、最近は少しずつ、善行を積むようにもなってきているようですが。しかしまだまだ足りません。よって、来年も監視は続けますからね」

「まだそんなこと言ってるのか」

「黙りなさい! 監視といったら監視なのです!」

 

 月見の脳天へ連打を叩き込むように、悔悟棒を何度も何度も突きつけて、

 

「言っておきますが、年末年始だからといって自堕落な生活を送ることなどないように! 浄玻璃の鏡でぜんぶわかるんですからね! 怠けていたらお説教ですからね!?」

「わかったわかった」

 

 両手でどうどうと映姫を宥めつつ、思いの外、「来年も監視」と言われて嫌ではない自分がいた。というか、監視なんてもうほとんど名ばかりなのだ。はじめこそ月見の私生活隅々にまで目を光らせる勢いだったが、今となっては時折小言が飛んでくる程度で、そういえば説教らしい説教はしばらく喰らった記憶がない。四季映姫は、間違いなく丸くなってきている。

 出会った頃こそ、再会したときこそ、いろいろあったけれど。

 

「ありがとう、映姫。今年は本当に世話になったよ」

 

 家事の手伝いはもちろん、地底の異変では閻魔の実力を存分に発揮してくれただけでなく、厄介な後始末までぜんぶすっかり引き受けてもらったことを思い出す。そのあとだって、あれやこれやとそれらしい理由をつけて地霊殿までやってきて、月見の怪我の経過を、そして異変のあとの地霊殿を常に気に掛けてくれていた――と、思う。本人は全力で否定するだろうが。

 説教癖のせいでみんなから怖がられているものの、なんだかんだで面倒見がよくて、優しくて、でもちょっぴり意地っ張りなごくごく普通の女の子――今や彼女も、月見の賑やかな日々を彩ってくれる大切な友人なのだ。

 だから、月見は。

 

「来年もよろしくね」

「むっ……」

 

 映姫はわずかによろめくと、むくむくとつり上がってきた口端を悔悟棒で素早く隠し、あとはもう年上ぶっておくうを叱れないような有様で、

 

「ま、まあ……そこまで言うのなら、仕方ないですねっ。仕方がないので、よろしくされないことも、まあありません。まったく、これだから大人の女性は大変ですっ」

 

 星とわかさぎ姫が「閻魔様まで訪ねてこられるなんて……ほ、本当にすごい場所ですね、ここは」「うう、来年もちゃんといい子にしてないと……」と震え上がっているが、ルンルン鼻歌状態へ突入した映姫にはちっともさっぱり聞こえていないのだった。

 そのときおくうが月見の横に来て、指先でちょこっとだけ着物の袖を引っ張った。「私にも訊くことあるでしょ」とでも言いたげに頬を膨らませているのを見て、月見はすっかり話が逸れてしまっていたのを思い出す。

 

「で、挨拶が先になってしまったけど……ええと、結局私の荷物を届けるために来てくれたのか?」

「ち、違う。それもあるけど、それだけじゃないもん」

 

 なら、一体なんのために。

 

「ええと……その……」

 

 恐らくおくうの心象世界では、緊張という名の宿敵と激しい肉弾戦が繰り広げられていたことだろう。しばし落ち着きなく葛藤し、やがて意を決して顔を上げた彼女は、邪魔なものをすべて空の彼方まで殴り飛ばすように答えた。

 

「て、手伝いに来たっ」

「ん?」

「手伝いに、来たの!」

「……手伝い?」

「だ、だから……お手伝いなのっ!」

 

 なんの。

 反射的に年末年始の準備が脳裏を過ぎるも、それもさすがに大袈裟すぎるだろうと否定した。だって、おくうをここまで案内してきたのは映姫なのだ。藤千代ではない。恐らくは映姫とさとりの間でそれなりの話し合いがあって、映姫が半ば妥協するような形で、おくうの地上行きを例外的に許可したはずである。高々年末年始の手伝いごときで、大切なペットにたった一人で地上までお遣いさせる――そんな軽率な判断をさとりがするとは思えないし、映姫だって断固として許可などしないだろう。

 おくうが、頑張って答えてくれた。

 

「だ、だって……私、よくわかんないけど、なにか大変なことがあったんでしょ? 私、お前の式神だから……さとり様も、お手伝いしてこいって……」

「……なるほど、そういうことか」

 

 おくうからしてみれば。

 文が地霊殿に駆け込んできたあの出来事は、見知らぬ妖怪がいきなり家に侵入してきて、問答無用で月見を連れ去っていってしまったに等しい。どこからどう見ても尋常な雰囲気ではなく、挨拶らしい挨拶もしてもらえず、なにがなんだかわからないおくうは大層困惑したことだろう。

 さとりがどんな説明をしてくれたのかは、わからないけれど。それを聞いておくうは、見向きもされず置いていかれてしまったことを複雑に思ったのかもしれない。まるで、はじめから式神として期待されていないみたいで。そしてその心を読んださとりが、またお節介を焼こうと決めたのかもしれない。

 

「ああ、そうでした。地霊殿の方々から手紙を預かっていますよ」

 

 いつの間にか正気に返っていた映姫が、月見に三枚の便箋を差し出した。名前はそれぞれ、さとり、こいし、お燐とある。順番に、止めと払いがしっかり利いた行儀のよい字、丸く崩れたかわいらしい字、ちょっと読みづらい金釘文字である。

 

「ロクに挨拶もしないで慌しく出て行ったと聞いていますよ。今年は本当にお世話になりましたと、古明地さとりからの伝言です」

「ああ……そうか」

 

 どうやら、満足にできなかった挨拶を手紙という形に変えてくれたらしい。こぼれる微笑とともに、心が温かくなるのを感じつつ。

 

「ありがとう。大切に読ませてもらうよ」

「まったく。この間異変があったばかりだというのに、年の最後まで落ち着きがないんですから」

 

 まさしく映姫の言う通りになるんだろうな、と月見は思う。年越しの宴会をこの屋敷で大々的にやろうと目論んでいる連中がいるから、まさしく年が替わる最後の一瞬まで馬鹿騒ぎをすることになるのだろう。

 

「手紙を読めばわかると思いますが、みな心配していましたよ。なので今回、古明地さとりから相談があって、例外的に、例外的にっ、霊烏路空の地上行きを許可したのです。余計な心配事を抱えたままの年越しも、どうかと思いましたから」

 

 月見は内心腕組みをして唸った。今の発言から考えると映姫は、個人の感情を優先して規律に目を瞑ったということではないか。白黒をはっきりつけなかったということだ。この閻魔様、やはり間違いなく丸くなってきている。

 

「よって霊烏路空の役目は、あなたのサポートを務め、事態が解決次第地底に戻って、主人にきちんと報告を……なんですかその顔は」

 

 睨まれた。

 

「いや、お前も丸くなったなと思って。もちろん、いい意味でだよ」

「む……」

 

 映姫はまたわずかによろめき、

 

「い、言っておきますが、あくまで例外! 例外ですからね! 大人な私の大海原が如く寛大な処置です! あなたのように甘やかしているわけではありませんからっ!」

 

 勢いでそこまでまくし立てると、急に大人しくなって吐息し、

 

「……もちろん不可侵の約定がある以上、地底の妖怪が地上に出るのは問題です。ですが、」

 

 そっぽを向き、ほんの少し――本当にほんの少しだけ、歩み寄るような声音だった。

 

「……問題など、あなたが起こさせないのでしょう?」

「……、」

 

 月見が呆気に取られてなにも言えないでいるうちに、また勢いを取り戻して悔悟棒を振り回し、

 

「要するに、なにか問題が起こったらお説教ですからね!! 絶対に許しませんから!! くれぐれも肝に銘じておくようにっ!」

 

 ようやく、反応を返せた。笑みという形で。

 

「ああ、わかったよ」

「まったくもうっ、手間が掛かるんですから……」

 

 地底の異変を経て上方修正した映姫の評価を、月見は更に一段階引き上げる。

 四季映姫は、本当に心優しい閻魔様である。

 

「――しかし、そうか。実を言えば、だいたいのところは昨日のうちに解決してしまってね」

「えっ……」

 

 おくうがショックを受けた。

 

「じゃ、じゃあ、手伝うこと……ないの?」

「……まあ、そうなるね」

 

 宝塔は取り戻し破片はほとんど集め終わり、聖輦船の修理もこの調子なら直に終わる。正直、月見だって手持ち無沙汰なくらいなのだ。あとは温泉宿の方だが、やる気満々の藍一人がいれば充分だろうし、地上の連中相手に接客なんておくうでは天地がひっくり返っても無理だろう。

 要するに、

 

「おや、そうなのですか。……であれば、霊烏路空。地底に戻りましょうか」

「!?」

 

 おくうが脱兎の如く月見の後ろに逃げ込んだ。

 

「な、なんで!?」

「なんでもなにも、あなたの役目はこの狐の助けとなること。私も、それを条件に特例としてあなたを案内したのです。この狐が助けを必要としていないのならば、大人しく地底へ戻るのが筋でしょう?」

「う……うーっ!」

 

 おくうは駄々をこねるようにいやいやする。背中から月見を揺さぶり、

 

「ほ、ほんとになにもないの!? なにかひとつくらいあるでしょ!?」

「うーん……」

「往生際が悪いですね。私との約束を破るのですか?」

「う、ううう~っ……!?」

 

 背中越しでも、おくうがぷるぷる震えて半泣きになっているのがわかった。手伝おうとしてくれる気持ちはありがたいのだが、本当になにもないのだ。さてどうしたものか、なんでもいいから適当に仕事をでっちあげるべきか――。

 

「――月見? 取り込み中かい?」

 

 ナズーリンだった。玄関の方から歩いてくる彼女を見て、おくうが素早く警戒モードに入る。ナズーリンは自分を威嚇する見知らぬ妖怪に気づいて立ち止まると、次の瞬間にはすべてを悟ったように吐息した。

 

「やれやれ、また新しい妖怪を増やしたのか。この屋敷はどこまで賑やかになるのかな」

「お前なら、耳にはしてるんじゃないか? この前の異変で、いろいろあって私の式神になった」

「あぁーっ!!」

 

 わかさぎ姫がいきなり大声を出した。尾ひれと両手で水面をばしゃばしゃ波立たせ、

 

「わたし知ってます! 輝夜さんから聞きましたっ! 旦那様の式神になった――霊烏路うにゅほさん!」

「れーうじうつほっ!!」

 

 おくうが同じくらいの大声で叫ぶが、わかさぎ姫は聞いちゃいない。

 

「なるほど、どこかで聞いたことのあるお名前だと思ってましたがようやくわかりましたっ!! だから旦那様のお手伝いに来たんですね!」

「うつほだってば!」

「地底から遥々お手伝いなんて、ご主人様想いなんですねっ」

「うにゃあああああぁぁぁーっ!?」

「ひいいい!?」

 

 迂闊なことを。

 一発で暴走したおくうが翼をけたたましく鳴らし、弾幕とともにわかさぎ姫へ襲いかかる。わかさぎ姫は水の中に逃げ、おくうは空から追跡し、そのまま池のあっちこっちで水飛沫を上げながら追いかけっこを始める。

 

「な、なんでー!? なんで怒るんですかあーっ!?」

「うるさいうるさいうるさい! ばかばかばかばかばかあああああっ!!」

「ひえええ!? ふわ、ひゃっ、はえ、……や、やややっやっぱり私って食べられちゃう側なんですねー、なんちゃって! へぐ」

 

 わかさぎ姫の顔面に弾幕が直撃し、一際大きい水柱が上がって静かになった。おくうが肩で大きく息をしている。水面がある程度静まった頃になって、物言わぬわかさぎ姫がうつ伏せでぷかぷか浮かんでくる。月見もナズーリンも映姫も能面の眼差しをする中、星だけが「ひめさーん!?」と悲鳴をあげる。

 ナズーリンと映姫の吐息。

 

「本当に、どこまで賑やかになるのやら」

「あなたも見てばかりではなく、時にはきちんと叱るんですよ。優しくすることと甘やかすことはまるで違います」

「……善処はするよ」

 

 だが今の騒動を見ても「二人が仲良くなれそうでよかった」としか思わないあたり、幻想郷の日常で神経が麻痺してきているのを感じる。

 

「――それで? なにかあったか?」

「ああ、そうだった。準備ができたから、そろそろ毘沙門天様のところに戻ろうと思って。悪いけど、ご主人をよろしく頼むよ」

「あの皆さん、どうしてあれを見て無反応なんですか!?」

 

 ナズーリンは事もなげに、

 

「大丈夫、ご主人もすぐに見慣れるさ」

「げ、幻想郷って一体……」

 

 弾幕ごっこで少女一人二人が池に浮かぶ程度、幻想郷では日常茶飯事なのである。

 

「そういうわけだからご主人、あまり月見に迷惑を掛けるんじゃないよ」

「ど、どうして私だけ名指しなんですかっ」

「……説明が必要かい?」

「……ぐす」

 

 涙目な星を見て、映姫が月見に小声でささやく。

 

「……彼女、一体なにをしたんです?」

「いろいろあったんだ。すごく反省してるから、説教は勘弁してやってくれ」

「そうですか……」

 

 映姫はやや肩透かしな様子だったが、「反省しているなら大丈夫ですね」と呟いてあっさり引き下がった。なにかいいことでもあったのか、今日の閻魔様は一段と丸いようだ。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

「ああ。上手く行くといいね」

 

 ナズーリンは苦笑、

 

「正直ダメ元だよ。毘沙門天様は厳格な御方だからね、部下だからといって特別扱いはしない。……まあ他に当てもないし、こればかりは仕方ないさ」

「他の当てねえ……」

 

 例えば月見の知人に、頼れる相手はいるだろうか。少なくとも、命蓮のような高僧の心当たりはないけれど。

 

「ああいや、君の力を借りたいと言っているわけじゃないんだ。こんなの、本当に私の自己満足みたいなものだから」

 

 しかし月見だって、可能ならば叶えたいと思うのだ。自分で代わりができるならいくらでも協力しようものだが、神聖な仏の力で動く船なら妖怪では駄目だろうし、そうでなくとも今の月見は力の大部分を

 

「……ナズーリン」

「なんだい?」

「例えばの話だけど。神様の力だったら、仏様じゃなくても代わりになるか?」

 

 ナズーリンが眉をひそめる。

 

「仏じゃない神って……神道の神ということかい? 一時期は本地垂迹(ほんじすいじゃく)なんて信仰が隆盛したし、大丈夫だとはと思うけど」

「……そうか」

「まさかとは思うが、諏訪子に頼むつもりかい? 毘沙門天様以上に高くつきそうだよ、彼女は」

 

 月見もそう思う。だから、諏訪子を頼るのではない。それどころか神奈子でもないし、ましてや幻想郷に住まうどの神でもなく、巫女である霊夢や早苗でもない。

 項垂れながらとぼとぼと戻ってきた彼女(・・)に、月見は言う。

 

「どうやらお前にも、できることがありそうだぞ」

 

 その身に八咫烏の――太陽の化身の御魂を宿す少女は、話がわからずただ一言、

 

「……うにゅ?」

 

 と、首を傾げていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「おはよう、早苗」

「あ、輝夜さん。おはようございます」

 

 イナバの案内でやってきた早苗を、輝夜は直々に玄関まで出向いてお迎えした。

 自分で言うのもなんだが、これは非常に珍しい出来事である。この世で輝夜が直々に来訪を迎える相手といえば、他でもない月見と、あとはまあ時々妹紅くらいなもので、他の来客はみんな鈴仙に任せて顔も見せやしない。一昔前はほとんど毎日貴族の相手をしていた頃もあったが、それだって渋々であり、蓬莱山輝夜は基本的に――月見が絡まない限りは――自他共に認める出不精で面倒くさがりな女なのだ。こうして早苗をお迎えしたのだって、たぶん今日がはじめてではなかろうか。

 つまりは今の早苗には、月見が大きく絡んでいるということ。加えて志弦にとっては家族のような存在でもあるから、輝夜としても無下にできる相手ではないのだ。

 輝夜の気まぐれな行動に、早苗はすっかり目を丸くしていた。

 

「いやー、まさかかぐや姫様直々にお出迎えしてもらえるなんて」

「私だってやるときはやるの。……志弦の様子を見に来たんでしょ?」

「はい。朝早くからお騒がせします」

 

 式台で脱いだ履物を揃える早苗の背へ、輝夜は単刀直入に言う。

 

「志弦は、まだ寝たままよ」

 

 早苗の指先が束の間止まる。すぐにまた動き出し、履物を寸分の乱れもなく整えると、緩慢に立ち上がって輝夜へ振り向く。

 無理に作った笑みだった。

 

「……そうですか。やっぱり」

「顔、見ていくでしょ?」

「はい」

 

 早苗を案内し、永遠亭の廊下を進む。患者用の寝室は離れにあるので、ここからは少し歩かなければならない。竹林を全面に臨む縁側は内も外もすべて戸を閉じきっているが、迫り来る冬の冷気を完全に防げるわけではなく、床板は雪が降ったように冷え込んでいて、ついつい足取りも急ぎがちになる。

 最初の突き当たりを曲がったところで、背中に迷いのある声が来た。

 

「……月見さんから、教えてもらいました。志弦は、月見さんの古いご友人の、子孫なんだって」

 

 足が止まった。一拍遅れて、早苗も静かに足を止めた。

 振り返る。早苗はガラス戸を通して、雪のかかる竹林を見ている。

 

「それに月見さん、白蓮さんの弟さんを知っていたみたいなんです。昔、山で怪我しているところを助けて、少しだけ一緒に生活したことがあったって。結局、妖怪だってバレちゃって、離ればなれになったみたいですけど……」

「ギンが、」

 

 早鐘を打つ心の臓に押されて、半ば早苗の言葉を遮るようになってしまった。

 

「ギンが、そう言ったの? 志弦が、子孫だって」

「はい。慧音さんの能力で、調べてもらったみたいです」

 

 ――ああ、そうか。

 そのとき輝夜は、笑ったと思う。志弦が、本当に雪たちの子孫だった――そんなのはまったくもって重要ではない。だって、輝夜はずっと信じていたのだから。わかりきっていたことを今更改めて聞かされたところで、驚くにも慌てるにも値しない。

 それよりも大事なのは、月見が、告げたということ。ずっと決心をつけられず、輝夜以外の誰にも打ち明けられないまま彷徨い続けていたはずの彼が。

 ――やっと、前に進めたのね。ギン。

 それがわかって、嬉しかった。

 

「……輝夜さんは、どこまで知ってるんですか?」

「ん?」

 

 早苗が竹林の景色から目を離し、輝夜を見つめた。

 

「志弦のこと。驚かないってことは、前から知っていたんですよね」

「まあ、そんな気はしてたって程度だけどね。本当にそうだったって話は、今はじめて聞いたわ」

「どうして、」

 

 口を噤み、言い換える。

 

「――輝夜さんは。『神古秀友』さんを、知っているんですか」

 

 おや、と輝夜は内心首を傾げた。ギンは、早苗に一体どこまで話したのだろう。そう尋ねてくるということは、早苗はそこまで(・・・・)はまだ聞かされていないらしい。

 まったくもう、と輝夜は思う。どうせ話すのなら、ぜんぶ包み隠さず打ち明けてしまえばいいのに。

 さてどう話したものかと、腕を組んで考え始めたときだった。

 

「――あ! ひ、姫様! 早苗もちょうどよ、ひゃわっ!?」

 

 廊下の奥から、鈴仙が居ても立ってもいられないような小走りでやってきた。慌てる余り、床板で足を滑らせかけている。なにやってるのよ、と輝夜はため息をついて呆れかけ、

 

 

「志弦が目を覚ましました! で、でも、なんだか様子が変なんです!」

 

 

 一発で覚醒した。駆けてくる鈴仙に、逆にこちら側から詰め寄った。

 

「なにがあったの!?」

「ふわっ、ええとその、」

 

 鈴仙はたたらを踏み、両手を振り回してなんとか立て直すと、

 

「す、すみません、なにか危ない状況になったとかじゃないんです。ただ、なんと言うか」

 

 どんな言葉で説明するべきか、鈴仙自身も迷うような間があった。

 

「雰囲気、が、すっかり変わってて。波長も、別人みたいで」

「……!?」

「ど、どういうことですか!?」

 

 鈴仙には、生物や事物が持つ固有の波長を認識し、操作する能力がある。彼女曰く、人の波長には性格や感情によって特徴的な長さと揺れ幅があり、基本的には「この人はだいたいこういう形」とおおまかな分類ができるものらしい。

 その波長が、別人のように変わるということ。

 つまり、それは、

 

「――鈴仙、志弦はまだ部屋にいるわね!?」

「は、はい! 私は師匠を呼んできますので、お願いします!」

 

 すべてを了解して輝夜は駆け出す。早苗がついてきているかなどお構いなしだ。あとになってから思えば、一度外に飛び出し、最短距離で空を翔け抜けた方がよっぽど早かっただろうに。体に染みつくほど歩き慣れたはずの廊下で、角を迎えるたびに何度も足を滑らせかけた。

 それでも、一分は掛からなかったと思う。

 

「――志弦っ!!」

「うーい」

 

 襖をブチ抜いて飛び込むなり、場違い極まる呑気な返事が返ってきた。

 輝夜たちに背を向け、志弦はちょうど巫女服に着替え終えたところだった。早苗とも霊夢とも違う、小袖に袴の伝統的な巫女の出で立ち。布団の上に放り投げていたヘアゴムへ手を伸ばし、長い黒髪を大雑把な手つきでまとめ始める。

 

「おはよう、姫様。早苗も、そんな走ると危ないよ」

 

 こちらを振り向きもせず志弦はそんなことを言った。そのとき遅れていた早苗が、ちょうど息を切らせながら駆け込んできた。

 まるですべて、見ていたかのような。

 早苗が、名を呼ぶ。

 

「し、志弦?」

「うん」

 

 まとめ終えた髪を一度大きく払い、志弦が振り返る。

 そして輝夜は、息を呑んだ。

 

「……!」

 

 鈴仙が言っていた言葉を、ようやく本当の意味で理解した。

 志弦は、もちろん間違いなく志弦だった。そりゃあそうだ。別人みたいに変わったといっても、まさか本当に顔が別人になるわけはない。目にせよ鼻にせよ口にせよひとつひとつのパーツが大きめで、輝夜や早苗とはまた違うベクトルで充分魅力的な女の顔。ただ、髪のまとめ方が呆れるほど雑だったり、巫女服の着方が下手くそだったりするせいで全体的にはだらしなく、結果として女子力が低めのズボラに見えてしまう。間違いなく、出で立ちは輝夜が知る通りの志弦である。

 出で立ちは。

 変わっていたのは、瞳だ。

 深い(・・)。二十にも届かぬ人間の小娘にできる瞳ではない。月見や永琳と同じ――常人の枠を外れ、悠久の記憶を積み重ねてきた者だけに宿る、落ちゆくような深さがそこにはあった。

 故に、まとう雰囲気がまるで別人ほどに違う。か細い若木が、大樹となったように。

 なにも言えないでいる早苗は、一体どこまで気づいたのだろう。

 

「ごめんね、突然寝ちゃったりして。でも、もう大丈夫だよ」

 

 笑顔ひとつを取ってみても、高々十数年しか生きていない人間のものだとは到底思えなかった。

 

「ってか、月見さんもそうだけど姫様もひどいよね。はじめっからわかってたんでしょ? だったら教えてくれてもよかったのにさ」

「……志弦? あなた、一体」

「んー……詳しいとこは歩きながら話すよ。それより、ちょっと教えてくんないかな」

 

 風が、吹いている。

 

「月見さん――いや、」

 

 志弦の目の色が、変わった。

 

 

ギンはどこだ(・・・・・・)

 

 

 声音こそ、志弦のままでも。その口振りは、まるであの男(・・・)のようで。

 

「一発。思いっきり、ぶん殴ってやる」

 

 風が吹いている。どこの窓も開いていないはずなのに、志弦を取り巻くようにかすかな風が流れている。

 早苗は、気づかなかった。

 輝夜だけが、気づいた。

 輝夜は、この風を知っている。

 

 自分がまだ、「かぐや姫」と呼ばれていた頃。

 女にはだらしなく、男には無愛想で、なのに腕前だけは不思議と天下一品だった、いま思い出してもまったくもっていけ好かないクソ陰陽師。

 

 月見が「御老体」と呼んでいた、あの老翁がまとうのと、同じ風だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑪ 「拝啓、大馬鹿野郎へ」

 

 

 

 

 

「し、失礼しまぁーす……」

 

 さながら虎穴に足を踏み入れる思いで、おくうは恐る恐ると琥珀色のドアノブを回した。

 昨日まで遡る話である。無論本当に虎穴であるはずはなく、それどころか何度も足を運び慣れた地霊殿の応接間である。しかし今このときのおくうに限っては間違いなく、びくびくしながら足を踏み入れるに足る緊張の空間なのである。

 部屋の中央、絨毯の上、向かい合わせに置かれたソファの片方からご主人様がちょいちょいと手招きをしている。これはまったくもって問題ではない。問題なのは、主人の向かい側でたったいま紅茶を一口啜った、

 

「……来ましたか、霊烏路空」

「は、はひっ……」

 

 地獄の鬼も裸足で逃げ出す閻魔様――四季映姫・ヤマザナドゥ。

 今ではすっかり地霊殿の常連客だった。過日の異変が終わった当初から、月見の怪我の具合を心配してしばしば様子を見にやってくるのだ。本人はかたくなに否定しているが、なにがなんでも絶対に首を縦に振ろうとはしないが、さとりがバッチリ心を読んでいるのでまず間違いない。それで、今日も月見に会いにきたというわけだ。

 しかし月見はもういない。何時間か前に地上の見知らぬ妖怪が突然押しかけてきて、ぎゃーぎゃー騒ぎながら慌ただしく月見を連れて行ってしまった。だから事情を知らない映姫に、事情を知っているさとりが説明をしてくれていたのだ。それでなにも問題なんかないじゃないか。なのになんで自分が呼ばれるのか。お説教なのか。泣きたい。

 閻魔様が、おくうに話があるってよ。

 そう仲間のペットに伝言を持ってこられたとき、おくうは静かに己の最期を悟った――というのはもちろん大袈裟だが、まあ目の前がふっと暗くなる程度はした。こいしとお燐にも、戦友を死地へ見送るような目をされた。ご主人様であるこいしに手を上げることはできないけれど、お燐はあとで引っ掻いてやろうと思っている。

 

「座ってください」

「はひっ」

 

 なんでお前が仕切ってるの、とまさか口答えできるはずもなく、おくうは潔く言われた通りにした。脇目も振らずさとりの隣へ座り、反り返るくらいに背筋をピッシリ伸ばす。もちろん両手は膝の上だ。

 別に、映姫が嫌いというわけではないのだ。でも、苦手ではある。十分休憩を三回も挟む延べ数時間のお説教三昧を味わわされれば、天邪鬼だって心の底から素直になるだろう。

 おくうは心の中で涙目になりつつ、横の主人に目線で訴える。――さとり様、私なにか悪いことしましたか? ダメなペットですか?

 心を読んださとりは苦笑し、

 

「大丈夫よ、そういう話じゃないわ。ちょっと、あなたに訊きたいことがあって」

「……?」

「地上に行ってみたくない?」

 

 脊髄反射で月見の顔が浮かんだ。慌てて掻き消すも時すでに遅し、さとりが大変微笑ましいものを見る眼差しで、

 

「ふふ、そうよね。やっぱり行きたいわよね」

「うっ……ち、違います違います! 今のはその、」

「霊烏路空」

「はひぃっ!」

 

 えんまさまにはさからえない。

 映姫は、いつにも増してよそいきのすまし顔だった。

 

「あなたは、事情がどうあれ今はあの狐の式神です。それを理解していますか?」

「は、はい」

 

 当然、理解している。言われるまでもなく、おくう自身が他の誰よりも身を以て理解しているという絶対的な自負がある。だが、それが一体なんだというのか。

 映姫はひとつ頷き続ける。

 

「あの狐が、落ち着きもなくまたなんらかの騒動に巻き込まれたことは?」

「し、知ってます」

 

 そんなのとっくの昔にさとりから教えてもらった。月見の友人が悪い妖怪に攫われてしまったらしく、だから一刻も早く地上に戻らねばならなかったのだ。だがだが、それが一体なんだというのか。

 映姫はまたひとつ頷き、

 

「ではあなたは、式神としてあの狐の力になりたいと願いますか?」

「え、」

「願うのならば、今回は特例として……特例としてですよ。地上へ行って彼の力となることを、許可しないこともありません」

 

 不意打ちだったのもあって、言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。えーっと、「しないこともない」はつまり「する」だから「許可する」ってことで、あれなにを許可するんだっけうーんとええと

 

「要するに、月見さんに会いに行っていいってことよ」

「……!」

「その表現は適切ではありません。あくまで、式神の務めを果たすことが前提です。会うだけを目的にされては困りますよ」

 

 その頃にはもうおくうは映姫の話を半分も聞いちゃおらず、月見に会いに行ける、という言葉を何度も頭の中で反芻させている。というか、頭の中ではもう月見に会いに行っている。

 押っ取り刀で飛び立つ月見になんの言葉も掛けられなかった自分を、おくうは心の底から後悔している。自分は彼の式神なのに、どうしてなにも言えなかったのか。どうして手を伸ばせなかったのか。言ったところで、手を伸ばしたところで、それ以上なにかができたわけではないけれど。

 でも、なにもしなければなにも伝わらない。ただ気持ちを示すだけでもそれは意味のある行動なのだと学んだはずだったのに、藍と約束したはずだったのに、結局自分は、今でもほとんどの気持ちを言葉にも行動にも表せないままでいる。

 

「私は明日、あの狐が置いていった荷物を地上まで届けに行きます。そのときに、あなたの同行を許可します。あの狐のところまで案内しましょう」

 

 もちろん、諸手を挙げて二つ返事できるような話でもない。おくうは月見には会いたいけれど、決して地上に行きたいわけではないからだ。かつてご主人様たちをいじめたやつらが、集まっている場所だから。中にはさとりを受け入れてくれるやつらもいるのだとこの前のパーティーでわかったとはいえ、「明日行くぞ」はいくらなんでも急すぎる。

 ……でも行くならさとり様もこいし様もお燐もみんな一緒だろうし、だったらお留守番するのも寂しいから私も

 

「なお、同行を認めるのはあなた一人です」

 

 現実に引き戻された。

 

「え……」

「これはあなたが、あの狐の式神であるが故の特例なのです。あの狐にも、あなたを式神にした責任というものが伴いますからね。それ以外の者の地上行きはさすがに賛成しかねます。よって行けるのはあなた一人です」

「そ、そんなあっ」

 

 おくうは絶望した。さとりともこいしともお燐ともみんなと別れて、たった独りだけで地上に行くなんて、想像しただけでも心細くて死んでしまいそうだった。

 だが映姫は最後まで淡々と、

 

「それでもあなたがあの狐の助けになりたいと願うなら、私は今回だけ、なにも言いません」

「ううっ……」

 

 心の中で、月見のお手伝いをしたい自分と地上怖いな自分が大喧嘩を始めた。くんずほぐれつの熾烈な殴り合いである。さとりが頬に手を遣って、あらあらうふふとにこにこし始める。

 

「さ、さとりさまぁ……っ!」

「さあ、どうするおくう。これは究極の選択ね」

 

 おくうは孤立無援を悟った。

 さとりは微笑んだまま、

 

「おくうって、地霊殿の外に出たこともほとんどなかったでしょ。だから私、あなたが外の世界を知るいい機会になるんじゃないかと思ってるの。月見さんになら、安心してあなたを預けられるし」

「……む、むう」

「それにここからだと、月見さんの様子がわからないから。あなたが月見さんの手助けをして、ちゃんとできたら私たちにそう報告してほしいの。そうすれば、私もこいしもお燐もみんな安心できるでしょ?」

 

 むうう、とおくうは唸った。つまりさとりはおくうに、月見の式神として、ひいては地霊殿のペットとしての立派なお仕事を頼もうとしているわけだ。おくうは言わずもがな、さとりもこいしもお燐もみんなが月見のことを心配している。だから映姫に特例として許可された自分が代表で地上に行って、月見の助けとなり、すべてが終わったらここに戻ってきて「もう大丈夫です」と報告する。そうすれば、みんなで安心して年越しを迎えることができる。そして一連の経験は、地霊殿からほとんど出たことのないおくうにとって大きな社会勉強になるだろう、と。

 月見に会えるし、式神の務めを果たすこともできるし、さとりたちの役にだって立てるし、知らない世界を通して貴重な経験も積める。なるほど、そう考えるとまさにいいこと尽くしである。

 

「可愛い子には旅をさせよ、って言うしね。いい機会だから、お勉強してきなさい」

「……うー」

 

 しかし、だからといってそう易々と首は縦に振れない。やっぱり、どうしようもなく不安で不安で仕方がなかった。自分みたいな寂しがりのぶきっちょ妖怪が、たった一人で地上に行って上手くやれるのだろうか。なんの力も取り柄もない自分が、本当に月見の役に立てるのだろうか。日頃のちょっとしたお手伝いなんかとは訳が違う。中途半端に首を突っ込めば反って月見の迷惑になる。でも心のどこかで、なにもできないままは嫌だと正直な自分が声をあげる。

 そのとき、映姫が、

 

「無論、無理にとは言いません。あなたが行かずとも、あの狐なら心配など無用でしょうから」

「……」

 

 少し、むっとした。なんだか遠回しに、『月見のことをよくわかっている自分』みたいなものを見せつけられた気がした。

 ――やっぱり閻魔様、口では素直じゃないけどなんだかんだでつくみを信頼してる。

 おくうの心の中に、ドヤ顔の四季映姫が出現する。反り立った崖の上からおくうを見下ろし、「あなたが入ってくる余地なんてありませんよ。残念でしたねほほほほほ」と高笑いをしている。いや、よく見ると映姫だけではない。この前パーティーにやってきた地上の連中が、「あんたなんか来なくてもいいのよー、だって私たちがいるんだものほほほほほほほほ」とやっぱりドヤ顔で高笑いしている。

 大変むかむかした。

 横でさとりがすっかり愉悦の表情になっているが、おくうはさっぱり気づかなかった。

 

「――わかった。行く」

 

 おくうは、言った。

 誰かの意見に左右されたわけではなく、他でもない己の意思で言った。それは閻魔様に敬語を使うのも忘れてしまうくらい、激しい烈火の如き感情だった。

 おくうの燃える瞳を見て、映姫は薄く微笑んだ。

 

「……いいでしょう。どうやら心が決まったようですね」

 

 頷く。

 

「では明日の朝に迎えに来ますので、しっかり準備を済ませておくように」

 

 力強く頷く。

 

「よい眼です。その想いがあれば、自ずと結果もついてくるでしょう」

 

 超頷く。

 負けるもんか、と思う。絶対役に立ってやる。絶対月見の役に立って、崖の上で高笑いしているあいつらを見返してやる。引きずり下ろしてやる。今度はおくうが崖の上に立つ番だ。どやーっと見下ろしてやるのだ。ぜーったい負けない。

 ふんかふんかと息巻くおくうに背を向け、さとりが必死に笑いを噛み殺していたが。

 もちろんのことおくうは、ぜんぜんまったく気がつかないのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――へー、月見さんの式神なんですか。なるほど、神を降ろしているんですね」

「しかし、一体どんな神だい? 言っておくけど、そんじょそこらじゃ毘沙門天様の代わりは」

「八咫烏」

「「や」」

「と、宇迦之御魂(うかのみたま)

「「う、」」

 

 寒い中での長話もなんだったので、場所は水月苑の茶の間に変わる。

 ぽかぽか暖まった悩殺的なこたつに両脚を突っ込み、月見は並べた小さな湯呑みにお茶を注いだ。真っ白な湯気が立ち上がり、それと一緒にほのかな渋みのある香りが鼻腔を満たす。月見の隣にはおくう、向かって正面にはナズーリンと星、右にはわかさぎ姫がいて、左ではこたつむりと化したぬえが幸せそうに惰眠を貪っている。映姫は、すぐ仕事が始まるからと彼岸に戻っていってしまった。そのお陰かおくうも星もわかさぎ姫も、少しばかり重圧から解放された顔をしている気がした。

 大きめの急須を二つめいっぱいに使って、五つ分の湯呑みに茶を注ぎ終える。ぬえの分はない。残念ながら、ぐーたらなこたつむりに出すようなお茶は水月苑には用意されていないのだ。

 急須を置く。正面のナズーリンから、ようやくといった具合で辛辣なお言葉が飛んでくる。

 

「月見……君はバカか?」

「失敬な」

 

 しかしおくうの場合確かに普通の式神とは事情が違うので、ナズーリンが頬を引きつらせるのも、星が口をあんぐりとしたまま固まっているのも、わかさぎ姫が「はえー」と能天気な声をあげるのも、まあそういう反応にはなるのだろう、と思う。霊夢と天子にも、はじめ言ったときは大層呆れられたのだし。

 おくう一人だけが周りの反応を理解できず、きょとんと首を傾げて月見を見たりナズーリンを見たりしている。

 

「はい、お茶」

「ああ、ありがとう。……いやいや、おかしいだろう。八咫烏に宇迦之御魂神、どちらも神話に名だたる崇高な天津神(あまつかみ)じゃないか。その御魂がまとめて彼女の中に宿っているだって? おかしいだろう。式神どころの話じゃないだろうもはや」

「いろいろあったんだよ」

「いやだから、」

 

 ナズーリンは天井を振り仰いで言葉なき言葉で呻き、

 

「……わかった。今後一切、君のやることにツッコむのはやめよう」

 

 なにやら心外な評価を下された気がする。

 一方でわかさぎ姫はほんわかとしたものだった。二柱とも高名な神様なのはなんとなく知っているが、具体的にどれほど格が高いのかはさっぱりわかっていない顔だった。

 

「八咫烏と宇迦之御魂神って、確かすごい神様ですよねえ。ということはうにゅほさんは、すごい式神さんなんですねー」

「『すごい』なんて一言で総括してしまうのも躊躇われるくらいだがね」

「……??」

 

 そうなの? という感じでおくうが疑問符を量産する。星が震え上がりながらナズーリンに耳打ちする。

 

「ナズ……あれ絶対、自分のことがよくわかってないやつですよ。わからないまま八咫烏様と宇迦之御魂神様の御力を宿しているなんて……あわ、あわわわわ」

「ご主人、あれだ。気にしたら負けなんだきっと」

 

 そのあたりの経緯まできちんと話すべきかどうか月見は迷ったが、やめた。長くなりそうだし、おくうとしてもあまりおいそれと言い触らされたくはないだろう。

 

「ともかく、二柱……というより、八咫烏の方だね。そっちの力なら、聖輦船の動力にも充分なるんじゃないか?」

「……太陽の化身の力、か。確かに、充分すぎるくらいだと思うけど」

 

 ナズーリンがおくうを見遣る。ぴくりと震えたおくうはすぐさま警戒モードに入り、半分隠れるように月見の袖をつまんで、

 

「……ねえ、なんの話? 私がどうかしたの?」

 

 月見は一息で説明の手順をまとめる。

 

「外に、空を飛んでる船が止まってただろう。聖輦船っていうんだけど」

「ん、こいし様から聞いたことある」

「いま私たちは、あの船の力で魔界に行こうとしていてね。魔界は……まあ、こことは少し違う別の世界だと思ってくれればいい」

 

 おくうは目で続きを促す。

 

「けど、そのために必要なエネルギーにちょっと問題があってね」

 

 手伝いにきた、とおくうは言った。それは彼女本人の意思であり、ご主人様から命じられた立派な使命でもある。不器用で若干おばかなおくうに実際できるかどうかは別として、月見が頼めば頼まれたまま頑張って手伝おうとしてくれるのだろう。

 だが当然、それにも限度というものがある。おくうは間違いなく夢にも思っていないだろう。自分はきっと、今からおくうにとってとても辛いことを言うのだろう。

 でも、だからこそ。

 

「お前の八咫烏の力を、代わりに使えないかと思ってるんだ」

「え……」

 

 おくうが、凍った。

 おくうにとって、八咫烏の力はトラウマだ。あれだけ辛い目に遭ったのだから当然だし、そもそも彼女は虫の一匹も殺せないくらい優しくて、力というものに強烈な忌避感を抱いている。あれほどの異変の引鉄となった力を再び使ってくれと頼むのは、きっと裏切りにも近い残酷な行為なのだと思う。

 案の定、おくうの表情を真っ白な恐怖が歪めた。

 

「で、でも……ぁ、あのちから、は」

 

 わかっている。

 そしてわかっているからこそ、月見は言うのだ。

 

「おくう、聞いてくれないか。お前はあの力を、ただ恐ろしいものだと思っているだろう?」

 

 おくうが、震えながら頷く。

 

「それは違う」

 

 月見は、否定する。

 おくうがなぜトラウマであるはずの力を今なお手放そうとしないのか、理由はこの際置いておく。だが理由がなんであれ、己の中にある力をこれからもずっと恐怖しながら生きていくつもりなのか、月見は以前から頭の片隅で疑問に思い続けていた。

 

「確かに、神様の力にそういう一面があるのは事実だ。けど、あくまでひとつの側面に過ぎない。あの異変は、誰も望んでいなかったたくさんのすれ違いが、誰も望んでいなかったタイミングで重なってしまったから起こったもので。決して、八咫烏の力が、はじめから恐ろしいものだったわけではないんだ」

「……」

 

 月見ははじめ、おくうは当然八咫烏の力を手放すだろうと思っていた。手放さない理由などないはずだった。故にどうせ一時的なものだからと、力任せにいささか強引な封印を施した。それが今では、反っておくうの枷になってしまっていると月見は思うのだ。

 おくうが八咫烏の力と、どう向き合っていくのか。

 今はまだ、その問題から目を逸らし続けているだけなのだ。

 

「大丈夫、お前が嫌いなことをさせるわけじゃない。ただ、聖輦船を動かすためのエネルギーを作り出すだけ。誰とも戦わないし、誰も傷つけない」

 

 月見の袖をつまむおくうの指先が、少しだけ強くなる。

 

「だから私は、これがひとつのきっかけになるんじゃないかと思ってる」

 

 月見は、言う。

 

「神様の力は、決して恐ろしいものなんかじゃない。八咫烏だって同じさ。本当は、私たちを優しく守ってくれる力なんだ」

「……、」

 

 おくうののたうつような葛藤が、瞳を覗くだけで容易に知れた。おくうの気持ちはわかっているつもりだけれど、でも、結局のところ月見は他人なのだ。どんなに理解しようとしてもそれは所詮想像の域を出ないものだし、口下手な彼女がどれほど怖がっているのか、どれほど躊躇っているのかは、実際のところ彼女自身にしかわかりようがない。

 だから彼女がひとたび「いやだ」と拒絶したとき、それ以上説得を続けるつもりは微塵もない。

 それでも、もしもおくうが勇気を振り絞って、八咫烏の力と向き合おうとしたときは。

 

「……つくみ」

「ん?」

 

 おくうは、月見の袖から指先を放そうとしない。俯き、まるでそれだけが、己のよりどころであるように。

 

「私も……つくみの、役に立てる?」

「ああ、もちろん。でもね、無理に」

「じゃあ」

 

 月見の言葉を遮り、顔を上げる。

 その、瞳は。

 

「もし――それでもし、また、変なことに、なりそうになったら」

 

 月見が触れた先から呑み込み、絡みとろうとするような、色をしていた。

 

 

「――守って、くれる?」

 

 

 ――少しだけ。

 少しだけ、わかった気がする。どうしておくうが、トラウマであるはずの八咫烏の力を手放そうとしなかったのか。

 もしかすると自分たちは、思っていた以上にいびつな関係なのかもしれないと――そんな思いが頭を掠めたが、月見の答えまでが変わることはない。

 おくうの頭を、叱咤するように優しく叩いた。

 

「下らないことを訊くな」

 

 だって月見は、約束したのだから。

 

「伊達に何年も大妖怪をやってるわけじゃない」

 

 笑みを以て、

 

「――自分の式神に勝手な真似をさせるような腑抜けじゃないぞ、私は」

「  、」

 

 おくうが、なにかを言った。なんらかの意味を持った言葉ではなく、ほんの一音、吐息するような、身悶えするような、彼女自身無意識にこぼしてしまった声だったのだと思う。

 月見が手を離すと、おくうはすっかりアドレナリン状態になっていた。頬が紅潮し、体がそわそわ揺れ、翼はぴこぴこ震えて、ふんかふんかと鼻息荒く、

 

「わ、わかった。やる。やるっ」

「……一応確認するけど、決して無理にとは」

「やるって言ってるのっ!!」

「そ、そうか」

 

 まあ、元が自分の撒いた種だから仕方がないとはいえ――やはりこの少女は、随分と厄介な一物を腹に抱えてしまっているようだ。

 などと考えていたところでふと周りの空気が柔らかくなり、正面を見れば星とナズーリンがなにもかも腑に落ちた顔をしていて、

 

「ナズ……わたし今ので、月見さんのことがとてもよくわかったような気がします」

「恐らくその認識は間違ってないね。ああいうやつだよ月見は」

「そうですよー、旦那様ですよー」

「ふふ、本当に聖みたいでした。ナズの言った通りですね」

「……そうかい」

 

 三方より注がれる微笑ましい眼差しから顔を逸らすように、月見は熱いお茶を一口喉に通した。

 うまい。

 

「じゃあ、これで心置きなく白蓮を助けに行ける……ということでいいかな」

「ああ。……結局、また君に助けられてしまうわけだね」

 

 ナズーリンは吐息とともに脱力し、

 

「宝塔も飛倉も、ぜんぶ君がやってくれたようなものだし」

「お前たちには、志弦を助けてもらったからね。少しくらいは恩返しになればいいけど」

「じゅ、充分すぎるくらいですよ。むしろ、こっちが恩返ししないといけないくらいで……」

「やはりご主人を貸し出すしかないか。住み込みで一ヶ月くらい働けばいいんじゃないかい、財宝も集まるし」

「うええっ!? い、いやあの、さすがに男の方のお屋敷に住み込みはちょっと飛躍しすぎというかいえいえ月見さんを信用していないわけではないのですがこういうのってちゃんとした段階があるよなあって」

 

 そのとき、襖が開いた。

 全員の視線がその方向に集中する。半開きとなった襖の向こうに、仮面のように無機質な微笑みを貼りつけた藍がいて、

 

「――月見様。人手は今でも充分すぎるくらいですので、そういうのはいいです」

「……あ、ああ。わかった」

 

 藍がニコリと氷の笑みを深める。襖が閉まる。足音が静かに遠ざかっていく。

 月見が思わずどもるほどの迫力だった。星とおくうとわかさぎ姫が、すっかり恐れをなしてぷるぷると縮こまっている。「あのときと同じ顔だぁ……」とおくうが独り言を言っているのは、一体なんのことなのか。

 ナズーリンが肩を竦め、

 

「どうやらご主人じゃあ、招き猫が関の山みたいだね」

「み、道は険しいです……」

「だから、そんな無理にやろうとしなくても」

「月見、君は私に何度同じことを言わせるつもりかな」

 

 月見も肩を竦めた。

 

「あとは、聖輦船の修理が終わるのを待つだけだね」

「ああ。もうしばらく掛かるだろうから、適当に暇でも潰して待っていてくれるかな」

 

 ふむ、と月見は考える。そう言われて月見が取れる選択肢といえば、志弦の様子を見に行くか、藍の手伝いをするか、なにもせずここでのんびり時間を潰すか――いや。

 

「……」

 

 横から飛んでくるおくうの凝視を、無視するわけにもいくまい。

 腰を上げた。

 

「じゃあ、そのへんを散歩してくるよ」

「ぁ……」

 

 捨てられる子犬みたいな声を出したおくうに、手を伸ばし、

 

「行くよ、おくう」

「……!」

 

 捨てられる子犬が、散歩に連れて行ってもらえる子犬になった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「たのもぷっ」

「おっと」

 

 鳩尾めがけて襲いかかってきた二本の凶器を、月見は間一髪のところで受け止めた。

 角である。ということはつまり鬼の角であり、月見が玄関の戸に指を掛けようとしたタイミングで勢いよく飛び込んできたのは藤千代だった。彼女の角は額からやや上に反り上がる形で伸びており、身長差もあってちょうど心臓を狙いかねないので肝が冷える。映姫の結界に正面衝突しても傷ひとつつかなかった鬼子母神の角となれば、きっと月見の胸板など豆腐のように貫くだろう。

 

「おはよう、千代」

「おはようございます!」

 

 元気よく挨拶をした彼女はそのまま月見の背中に両腕を回し、

 

「いやでもちょっとこれ困っちゃいますよ普通こういうのって男の人の方が女の胸に飛び込んじゃうものだと思いますし私は月見くんならいつでも大ウェルカムなんですけどしかし逆もなかなか悪くないですねというかむしろ非常に推奨されるべきかもしれませんこうやって不可抗力的な事故を装うことで合法的に月見くん成分を補給できるわけでむむっまさかフランさんが毎回月見くんに突撃するのはこの狙いもあったのですかなんてこったい策士ですねではこれからは私も見習って」

「むー! むぅーっ!!」

 

 おくうが渾身の全力で藤千代を引っ剥がした。幸い藤千代はすぐに桃色の世界から帰ってきて、

 

「あ、おくうさん。おくうさんが月見くんのお手伝いをしに行ったと聞いたので、様子を見に来ましたよ!」

「へ? あ、はい?」

 

 あれさっきのなに? とおくうは目を白黒させている。そういえば、おくうが藤千代のアレを直接見るのははじめてだったのかもしれない。まあすぐに慣れて、月見同様「あっ始まった」と思った瞬間菩薩の領域へすっ飛び半分以上の言葉を聞き流せるようになるだろう。

 

「それと月見くん、志弦さんを攫った悪い妖怪さんはどこですか! ついででぶっ飛ばしに来ました!」

 

 そのとき茶の間では、「ご主人……君のことは忘れないよ……」「へ?」「星さん……これからいっぱい仲良くなっていけると思ったのにっ……」「え、私しぬんです?」というやり取りがあったらしいが、もちろん月見が知る由もなく。

 

「それならもう大丈夫だよ。志弦も無事だ」

「ふふ、月見くんならきっとそうだと信じてましたよ」

「私はなにもやっちゃいないさ」

 

 藤千代は眉ひとつ動かさずにこにこしている。志弦を助けてくれたのはナズーリンなので月見は本当になにもやっていないのだが、ありがちな謙遜だと思われたらしい。

 

「ところで聖輦船が止まってますけど、どうしちゃったんですか? ひょっとしてあれも関係してるとか?」

「ああ、話はナズーリンから聞いてくれ。茶の間にいるよ」

「ナズーリンさんですか。わかりました」

 

 藤千代は早速茶の間にすっ飛んでいくかと思われたが、その前に目を細めてもう一度おくうを見遣った。藤千代の方がずっと小柄だし性格も特別大人びているわけではないのに、こうして比べてみると不思議と藤千代が母らしく見える。

 

「おくうさん、はじめての地上はどうですか? 気に入りました?」

「……え、ええっと」

 

 答えに窮したおくうがちらちらと月見に助けを求める。ちょっと前にやってきたばかりで右も左もわからない彼女では、まだ気に入ったも気に入らないもあるまい。

 

「まだ来たばかりだからね。これから庭を散歩してくるよ」

「ここのお庭は素敵ですよ! 楽しんできてくださいねっ」

「あ、ありがとうございます……」

 

 今度こそ茶の間へ突撃していった藤千代を見送り、おくうを連れて外に出る。

 

「足元、滑らないように気をつけてね」

「う、うん……」

 

 灼熱地獄跡の真上にある地霊殿は床暖房完備であり、おくうはそんな屋敷の外にもほとんど出たことがないというから、もしかすると雪の上を歩くのもはじめてだったのかもしれない。雪掻きの手がそれなりに行き届いているとはいえ、庭のあちこちでは踏み固められた雪が白い光を放ちながら待ち構えていて、油断しているとあっという間にすってんころりんとやられてしまうのだ。おくうなどまさしくいいカモだろう。

 

「手、つなぐか?」

「へ、へーきだもんっ」

 

 まったく予想通りな反応に、月見は喉で笑って前を向いた。

 まだ朝方のため客足はなく、自然のままの静かな山と庭の姿である。真っ白い冬の花を咲かせた木々に囲まれ、池は光る水をなみなみとたたえて広がっている。肌を刺すような風はなく、昨日と変わらず降り注ぐ陽光がほのかに暖かい。耳を撫でるのは雪解けの雫の音と、月見たちが規則的に雪を踏み締める音。中途半端に地へ落ちた雪化粧が、反って庭の景観に艶な風情を添えている気がした。

 この庭を見慣れているはずの月見すらそう感じるのだ。おくうなんて、月見の後ろにくっつきながらあちこちをキョロキョロしたり、ため息をついたりしてばかりだった。

 おくうに合わせて歩幅を緩めると、意外にも彼女の方から話しかけてきた。

 

「これぜんぶ、ここのお庭なの?」

「そうだよ。地霊殿の庭とは随分違うだろう」

 

 おくうはうんうんと興味津々で頷き、

 

「お庭も綺麗だけど……なんだか、お庭だけじゃなくて、みんなすごく綺麗。まぶしくて、明るくて、空が青くて……」

 

 おくうは本当に、生まれてはじめて地上の景色を見たのだ。

 いま彼女の心にある感情は、一体どのようなものなのだろう。生まれてはじめての景色を見たら月見だって胸は躍るが、おくうの場合は自分を包み込む世界のすべてがそうなのだ。一言で「感動」や「驚嘆」といっても、それははじめから空の下で生きてきた月見では到底想像も及ばない、光り輝く宝石箱みたいな感情なのだろうと思う。

 

「夜になったらもっと綺麗だぞ。空に星が輝くんだ」

「星! 本の中でしか見たことないっ」

「それに、池の中にも星が浮かぶんだよ」

「え? な、なんで? どういうこと?」

「それは実際に見てからのお楽しみだ。今日の夜にでも、ゆっくりとね」

「見るっ」

 

 おくうの瞳も星空みたいに輝いている。彼女は鴉だが、今だけはお尻あたりでぶんぶんぶんぶんぶんぶんと猛烈な勢いで動く尻尾を幻視できる気がした。

 そのとき、池で魚がぴちょんと跳ねた。

 

「魚だよ」

「魚!」

 

 おくうが小走りで池の畔に向かう。ちょうど雪が解けている場所だったため転ぶこともなく、畔の石の上に立ったおくうは水面を覗き込み、

 

「ほんとだ! 魚! 魚がいる! 動いてる魚なんてはじめて見たっ」

「今日ははじめてがいっぱいだな」

「ん!」

 

 悠然と泳ぐ魚たちの動きに合わせて、おくうは体を左に傾けたり、右に傾けたり、背伸びをしたり、翼を羽ばたかせたり。まるで水族館にやってきた子どもみたいな反応に、月見もひと時憂いを忘れて頬を緩めてしまう。

 その後もおくうは、巨大な氷柱(つらら)を発見しては大喜びで観察し、凍った水溜まりを踏んでは氷の割れる音にびっくりして、雪だるまを見つけて自分も作ろうとしてはあまりの冷たさに断念し、小鳥を見つけて友達になろうとしては逃げられ、その途中で見事にすっ転んで尻餅をついたりしていた。

 さすがに転んだときは、だいぶ恥ずかしそうだったが。でも、それでもおくうは本当に楽しそうで、ただ傍で見守っているだけでも、気がつけばあっという間に庭を一周してしまっていた。

 

「そろそろ一周だよ」

「うん」

 

 正面の空にはちょうど聖輦船が止まっている。まだ修理は続いているらしく、河童たちがどさくさに紛れて妙な真似をしないよう、巨大化した雲山が隅々まで油断なく目を光らせている。筋骨隆々の大男に睨まれてはさすがの河童たちもふざける余裕などなく、どうやら真面目に作業は進んでいるようである。

 

「まだ掛かりそうだね。もう少し歩こうか? それとも、寒いから戻ろうか」

「ん……つくみが決めて」

 

 予想外の答えに虚を衝かれた月見が振り向くと、おくうは慌てて俯いて、上目遣いになりながらぽそぽそと、

 

「つ、つくみと、一緒なら……どこでも、いい……」

「……おや」

 

 けれど彼女の性格を考えれば、むしろこれが当然の回答だったのかもしれない。今のおくうは大切な家族から離れて独りぼっちで、頼れる相手なんて月見くらいしかいないから。「月見と一緒なら」とはすなわち、裏を返せば月見と一緒でなければ、今すぐにでも不安と寂しさに押し潰されてしまうということなのだろう。

 ではどうしようか、と月見が歩みを再開しながら考えていると、いきなり、

 

「ぅぉししょおおおぉぉ――――――――っ!!」

「うにゅ!?」

 

 おくうがびっくり仰天して月見の背中に飛びつくほどの大声だった。月見は鼻から呻くように長いため息をつき、眉間に渋い渋い皺を寄せながら虚無の感情でその場に立ち尽くした。

 なんで、よりにもよってこのタイミングで。

 木々の向こうから弾丸みたいな勢いで吹っ飛んできたのはもちろん多々良小傘であり、月見の手前に両脚で着弾するなり元気な敬礼をして、

 

「お師匠、おはようございます!」

「誰が師匠だって言ってるだろ」

「あうっ」

 

 月見は今回も容赦なくチョップをお見舞いするが、当然この程度でへこたれる小傘ではない。それどころかおでこを押さえて嬉しそうに、

 

「えへへ。なんだかこういうやり取りも、師弟の関係って感じがしますね!」

 

 意味がわかりません。

 背中からおくうが、

 

「……誰?」

「おや?」

 

 小傘も気づいた。さていよいよ面倒なことになった、と月見は困り果てて内心ため息をついた。

 簡単な話だ。月見の弟子になりたい小傘が、月見の式神であるおくうを知ったらどうなるか。また月見の式神であるおくうが、月見の弟子になりたがっている小傘を知ったらどうなるか。

 断じてロクなことにはなるまい――と考えているうちに小傘が早速、

 

「はじめまして、私は多々良小傘です! お師匠――月見さんの弟子ですっ!」

「!?」

「はぐうっ!?」

 

 おくうの全身を稲妻が駆け抜け、月見は嘘つき少女に拳骨を叩き込んだ。さすがの小傘もこればかりは涙目で、

 

「い、いたいですおししょう……」

「嘘つきにはおしおきだ」

「ううっ……でもやはり、私の熱意をお伝えするにはこれしかないと」

 

 おくうがいきなり吠えた。

 

「れいうじうつほ!! つくみの、式神!!」

 

 始まった。

 錆びた歯車みたいに後ろを振り向けば、やはりおくうは完全な興奮状態に陥っていた。頬は赤く鼻息は荒く、鋭い睨みを利かせて一心不乱に小傘を威嚇している。ガルルルルルと今にも唸りだしそうだ。鴉だが。

 

「なっ――」

 

 目を見開いた小傘は一歩後ろによろめき、しかし次の瞬間、獣の速度で月見の襟元に掴みかかった。

 

「お、おししょうっ……! 私という弟子がありながら、一体どういうことなのですか!?」

 

 「一体どういうことなのか」はこっちの台詞である。やはりこの少女、一度永遠亭で頭を診てもらった方がよいのではないか。でもなんだか、生暖かい微笑みで匙を投げられるだけな気がする。

 

「つ、つくみから離れてっ!」

 

 おくうが決死の形相で月見と小傘の間に割って入る。噛みつくような剣幕に小傘は堪らず後退し、

 

「くっ……あなた、一体何者なのですか!? お師匠に式神がいたなんて……ま、まさか、式神を自称してお師匠につきまとっているのですか!?」

「ところで小傘、ここに私の弟子を自称してつきまとってくる妖怪がいるんだけど」

「えっ……どこですか!? 私以外にもお師匠の弟子を狙っている者が!?」

 

 もういいです。

 おくうは声を張り上げて反論する。

 

「違うもん、ちゃんとした式神だもん! 嘘ついてるのはそっちでしょ! さっきつくみが、お前なんか弟子じゃないって言ってた!」

「これからなるのでなにも問題はありませんっ! 時代の先取りというか、ちょっとした誤差というやつですね!」

「なに言ってるの……!?」

 

 おくう。その気持ち、私もものすごーくよくわかるよ。

 多々良小傘は止まらない。

 

「お師匠! 私もお師匠の式神にしてください!」

「っ……!?」

「お役に立ちます! そして私に、人間をおどかす極意を授けてはくださいませんかっ!」

 

 月見は降り注ぐ太陽のまぶしさに目を細めている。やはりこれ、いっそ彼女を本当に弟子にしてしまって、人をおどかす極意でもコツでもなんでもいいから適当に教えて、免許皆伝を言い渡して野に放つのが一番楽なのではないか。いや、だがしかし、一度でも弟子にしてしまったらもう後には引けぬ。この少女に一日中つきまとわれる生活に、果たして自分は耐えられるのだろうか。

 そのときおくうが、

 

「だ、――だめだめだめ、ぜえええええったいだめ――――――――っ!!」

 

 もはや絶叫であった。体をくの字に折り、肺の中が空になるまで裂帛したおくうは、なおも弾ける火花が如く、

 

「つくみの式神は私っ!! 勝手なこと言わないで!!」

「私とあなた、二人でお師匠の式神になれば解決します!」

「しない!! つくみの式神は、私だけなのっ!! 他の式神なんて絶対ダメなのっ!!」

「おくう、ちょっと落ち着いてくれ。声が大きいよ」

「あっ……」

 

 空を見れば聖輦船の陰に隠れ、鴉天狗たちが興味津々でメモ帳にペンを走らせている。正気に返ったおくうはすっかり勢いを失い、それでも一歩も引くことはなく小傘と至近距離で睨み合いを始める。

 さてどう上手く話をつけたものかと月見が途方に暮れていると、玄関の戸がカラカラと乾いた音を立て、

 

「月見さん、騒がしいですけどどうかしましたか?」

「あー、昨日の……ええと確か、小傘さーん」

 

 わかさぎ姫を横抱きで抱え上げて、星が外に出てきた。長い尾ひれを含めればかなり長身の部類に入るわかさぎ姫だが、星は至って涼しい顔をしている。元妖怪だけあって、見た目に反して筋力はまずまず達者らしい。

 

「なんでもないよ。気にしないで」

「そうですか?」

 

 しかし、たとえ筋力が達者であっても寅丸星である。池の畔へ向かう一直線上では、踏み固められた雪たちが虎視眈々と活躍の時を待ち構えている。なので月見は念のため、

 

「星、転ばないようにね」

「あはは、さすがにそこまでのおっちょこちょいじゃへうっ!?」

 

 星は早速コケた。まるで台本がそうなっていたかのように雪で足を滑らせ、よりにもよって前方方向にコケた。

 笑顔のまま空中に放り出されたわかさぎ姫の姿が、とても印象的だった。

 

「ひでぶ」

 

 放物線を描いて飛んだわかさぎ姫は池の縁で胸を打ち、勢い止まらず顔面から水の中に突っ込んだ。

 静寂。

 

「い、いたた……ひ、ひめさん大丈――ひめさあああああん!?」

 

 起き上がった星が顔面蒼白で絶叫する。わかさぎ姫は尾ひれを縁に引っ掛けたまま、上半身だけ水に沈んだとてもシュールな恰好でぶくぶくとあぶくを上げている。胸を打った衝撃で目を回したか、波紋で髪が揺れる以外はぴくりとも動かない。

 月見はしみじみと、木の枝に引っ掛かって逆さ吊りになっていた赤蛮奇と、落とし穴に落ちて全身泥だらけになっていた影狼の勇姿を思い出す。さすがは『妖怪草の根ネットワーク』、やはり類は友を呼ぶのだ。

 そしておっちょこちょいが限界突破している星へは、この言葉を送ろう。

 

「星……幻想郷に馴染んできたね」

「こんなので馴染んできたと思われるなんていやですうううううっ!? ひめさんしっかりしてください、ひめさあああああぁぁぁん!!」

 

 星が半泣きになりながらわかさぎ姫を引っ張りあげる。更にはおくうと小傘が、睨み合いの沈黙を破って再びぎゃーぎゃー騒ぎ始め、

 

「とにかくぜったいぜったいぜったいダメっ!! 人間をおどかす方法が知りたいだけなら、式神なんてなる必要ないでしょ!? ううん、つくみを師匠にする必要だってないじゃない!」

「どうしてダメなのですか!? あっわかりました、さてはお師匠を独り占めするつもりなんですね!」

「……………………そ、そんなこと、ないもんっ!!」

「今の間と歯切れの悪さっ! おししょう、しーしょうーっ! この人、お師匠の式神という立場を悪用して」

「うにゅああああああああああっ!?」

 

 そのまま頭をぺしぺし、ほっぺたをむいむい引っ張って喧嘩を始めた。月見は抜けるように澄んだ青空を見上げ、ふうと現実逃避のため息をついた。

 玄関からナズーリンが顔を出して、奥ゆかしい眼差しでこちらを見つめてた。

 

「まったく君の周りは、本当に落ち着きというものを知らないね」

「……面目ないね」

「さて、悪いことではないんじゃないかい。少なくとも君は満更でもないんだろう?」

 

 確かに退屈するくらいなら賑やかすぎる方がいいとは思うけれど、それも時と場合によると言うべきか、こんな有様では船の修理が終わっても魔界に行けるかどうかわかったもんじゃ

 

 

「――ギン」

 

 

 声。

 次に月見が感じたのは風だった。南の方角からさわさわと森のなびく足音が近づいてきて、やがてそよ風が月見の頬をくすぐった。どこにでもあるような、池の水面が揺らぎもしないほんのささやかな風で、事実月見以外に気づいた者は誰一人としていなかった。

 けれど月見だけは、たとえ嵐の中であったとしてもきっとこの風を感じただろう。

 だって、ひどく――ひどく懐かしい、匂いがしたから。

 

「――志弦、」

 

 神古志弦が、そこにいた。月見がやや見上げるほどの中空で、風をまとい、凪いだ瞳でまっすぐに月見を見下ろしていた。月見以外の誰の視線も奪うことなく――まるで彼女自身が、風と一体であるかのように。

 おくうと小傘はまだ小競り合いをしているし、星は目を回したわかさぎ姫を必死に揺さぶっているし、ナズーリンはそんな主人に呆れ果てているし、水蜜たちは聖輦船の修理を続けている。変わらない喧騒がそこにはある。

 なのに月見の耳を満たすのは、風の音だ。

 

「お前、」

 

 心の中に、問いが生まれる。

 お前は今、私をなんと呼んだ?

 その風の術を、一体誰から教わった?

 だって、その名は、

 だって、その術は、

 

「……ああ。やっぱり、月見さんだったんだ(・・・・・・・・・)

 

 志弦が吐息を落とすと、風が流れを変えた。目には見えない足場が消え、志弦が月見の眼前に舞い降りる。ほんの小さな段差から飛び降りるように軽やかな身のこなしだった。

 今となっては、彼女があいつの子孫だとわかったからだろうか。目の前の志弦は、今までよりも一層あいつに似ている気がした。性別が女である以上、顔つきと背恰好こそまるで異なるけれど、細かなところから感じる漠然とした印象とでも言おうか。大股でズンズンこちらに近づき、ふんと小鼻を鳴らすような目つきで月見を睨みつけるその一挙手一投足は、機嫌が悪かったときのあいつとやっぱりよく似ていると思う。

 

「おはよう、月見さん」

 

 挨拶こそ朗らかだったが、さてこのバカを一体どうしてやろうか――そんな物騒な顔をしていた。

 ようやく、ナズーリンが気づいた。

 

「……し、志弦? 君、いつの間に」

 

 志弦はナズーリンを一瞥もせず、ただ掌を見せて黙らせる。いつしか誰もが志弦の存在に気づき、喧嘩の手を、作業の手を止めて呆然と沈黙している。

 志弦が、強く破顔する。

 

「ねえ、月見さん。私さ、ぜんぜん知らなかった。ぜんぜん知らなかったよ」

 

 なにを、と問う隙すらない。

 月見と志弦の名を呼ぶ声が聞こえる。南の空から、輝夜と早苗がこちらに向かって飛んできている。志弦はやはり振り向きもしない。

 

「ったくひどいよね。姫様もそうだけど、あんな大切なこと、ぜんぜん、ちっとも教えてくれないなんてさ」

「――志弦、」

 

 ようやく、こぼすようにそれだけ言えた。風の音に、己の心臓の早鐘が混じり始めていた。

 月見と輝夜が知っている、大切なこと。

 志弦がまとう、ひどく懐かしい匂いのする風。

 ギン、という呼び名。

 ――志弦が眠り続けていた、特別な理由。

 まさか、

 

「月見さんは、私の名前を聞いたときからぜんぶ気づいてたんでしょ?」

 

 まさか、

 

「私のご先祖様と友達だったなら、はじめから、そう言ってほしかったなぁ……」

 

 今の志弦は、

 目の前の彼女は、

 

 

「――なあ、ギン(・・)。そうは思わねえかよ」

 

 

 そこまでだった。気がついたときには鈍重な衝撃とともに視界が撥ね飛び、体が真後ろに投げ出されていた。

 

「つくみ!?」「お師匠!?」

 

 両脚が無意識にたたらを踏み、おくうと小傘が二人がかりで支えてくれたのもあって、なんとか月見はひっくり返らずに済んだ。

 左の頬に、殴られた痛み。

 

「……ねえ月見さん、覚えてる?」

 

 華奢な女の拳を、しかし男顔負けの荒々しい霊力で振り抜いた志弦は言う。

 

「ご先祖様は。神古秀友はあのとき、確かにこう言ったよ」

 

 前のめりになっていた体を起こし、しかし、拳にはなおも震えるほどの力を込めて。

 

「『いつか絶対、お前をぶん殴りに行ってやるからな。覚悟しとけよ』――って」

 

 覚えている。

 覚えているとも。それはかつて『門倉銀山』の物語に終止符を打つとき、あいつから受け取った最後の言葉。いつか自分がこの世界を去ったとき、もしかしたら冥界でぶん殴られることもあるのかもしれないなと、冗談めかして心に刻んでいた思い出のひとつ。

 志弦は知らないはずだ。だって月見は、なにも話していないのだから。

 知らないはずなのだ。

 なのに志弦は、痛快痛快、と喉を震わせて笑う。

 前髪をかき上げ、育ちの悪い、獣のように。

 

「いくらてめえでも、子孫にぶん殴られるとは思ってなかっただろ」

 

 なにが起こっているのか理解が追いつかず、文字通り馬鹿のように呆けるしかない月見の先で。

 

 

「なあ、ギンよぉ。――この、大馬鹿野郎が」

 

 

 神古秀友の記憶を持ち、『御老体』の風をまとう少女が、威風堂々と仁王立ちしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑫ 「神の銀の方舟」

 

 

 

 

 

 実のところ志弦は、このお守りがいつ祖母から贈られた物なのかもう正確には覚えていない。

 なにかのプレゼントと一緒だったのは間違いないはずだが、果たしてそれがいつだったか。誕生日かもしれないしクリスマスかもしれないし、或いはなんの記念日でもない普通の日だったかもしれない。小学校に入って間もなくの頃だったかもしれないし、入学前だったかもしれない。一緒に贈られたプレゼントの中身がなんだったかも、今となっては記憶の闇に巻かれてしまった。

 けれどはっきりと覚えているのは、このお守りがはじめて首に掛けられて以来ずっと自分の一部だったことだ。

 先祖代々伝わるというありがたいお札の切れ端を手製の巾着に入れ、チェーンで首から掛けられるようにした、なんのセンスもないチャチで野暮ったいお守り。昔から霊媒体質だった志弦のために、祖母が得意のお裁縫で手作りしてくれたもの。

 普通に考えれば、小学生かそれ以前か、ともかくそれほど幼い子どもがお守りなんぞもらったところで、よくわからないうちになくしてしまうのがオチのはずだ。或いは思春期を迎えて、手作りのお守りとか恥ずかしいしーと押入れに突っ込んでしまうとか。しかし不思議なことに、小学校も中学校も高校に入ってからも、このお守りとは常に一心同体だった記憶しかないのだ。

 確かはじめはチェーンではなく紐で首に掛けていて、長さも短かったせいでいかにも手作り感満載だった。それが中学生にもなればダサくて気に入らなくなったから、ちょっとはマシになるよう自分でチェーンに付け替え、長さも伸ばしていくらかアクセサリーらしく改造した。そんな手間を掛けてまで身につけ続けた。お守り自体を外そうと思ったことはなく、首から下がっているのが志弦にとってごくごく当たり前のことだった。

 なぜか。

 お守りとして著しい効果があったわけではない。今となっては早苗から、ありがたい力はとっくに失われているとお墨付きももらっている。思い返せば多少なりとも守ってもらえていた気はするが、そんなものは所詮記憶の美化であり、霊媒体質は何歳になっても志弦を困らせたし、そのせいで人間関係が上手くいかないのもあいかわらずだった。

 でも、それでも、精神的には何度も何度も助けてもらっていたと思うのだ。このお守りの存在を意識するだけで、苦しいときは不思議と気持ちが落ち着くし、挫けそうなときはどういうわけか元気が湧いてくる。なにかと厄介者だった志弦が性格まで問題児に育たなかったのは、このお守りのお陰という部分もあるのではないかと感じるほどだった。

 なんの力もないお札の切れ端なのに。

 

 今だから言える。

 カッコつけた言い方をすれば、運命というやつなのだろう。理屈ではない。幼い自分が不思議となくさなかったのも、思春期真っ只中の自分がどういうわけか肌身離さず身につけ続けたのも。無意識や本能よりももっともっと深いところにある、それこそ『運命』としか表現の仕様がない心の奥底で、志弦はこの札のことを理解していたのかもしれない。

 このお札に、一体、誰の、どんな想いが込められているのか。

 きっとおばあちゃんもおじいちゃんも、ひいおばあちゃんもひいおじいちゃんも、そのまたご先祖様たちも同じだったのではあるまいか。そうでなければ、誰がこんな札の切れ端をわざわざ受け継ぎなどするものか。普通ならばどう見たってただのゴミであり、なんじゃこりゃとそのへんに捨てられ、風でどこかに飛ばされてしまって終わりだ。

 しかし、現実はそうならなかった。単なる偶然ではなく、神古の家系にとってありがたいものとして、確かに親から子へと受け継がれ続けてきた。

 だから『運命』という言葉くらい、使ったっていいんじゃないか。

 

 ――ねえ、月見さん。そう思わない?

 

 今だからこそ、言えるのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――どこから話そっかな。

 うんと、まずは今まで寝ててごめんね。でもこの通り、もうなんともないしピンピンしてるから心配要らないよ。どうもご迷惑お掛けしました。

 それで、寝てた間のことなんだけど。

 船で意識飛んだあとに、どーも私、「程度の能力」ってやつに目覚めたみたいで。……うん。早苗が教えてくれた通り、「ああ、そうなんだ」って感じだったよ。「過去を夢見る程度の能力」とかいうらしくてさ……言葉の通り過去を夢で知る力なんだけど、これがただ『知る』ってだけじゃなくてね。

 なんだっけ。『追体験』っていうんだっけ? 誰かの体験を、自分の体験として取り込むこと。上手く言えないんだけど……過去にタイムスリップして、魂だけ誰かに宿って、その人のことを自分のこととして知るっていうか……うーん、表現難しいなあ。

 まあとにかく、昔の人のことを知る力ってわけ。いやー、ほんと都合がいい能力だよね。願ったり叶ったりっていうか。

 

 ……で、ここからがすごく大切なんだけど。

 ねえ、月見さん。

 ――私が誰の過去を見てきたか、なんとなく想像できるでしょ?

 

 

 

 秀友はね。

 立派に、月見さんとの約束を果たしたよ。

 あの都で、最期まで、人のために生きた。頑張って修行して、ああそうそう、大部齋爾(おおべのさいじ)っていたでしょ。月見さんが「御老体」って呼んでた。その人に弟子入りまでして、ほんとに頑張ってたんだよ。

 お前に胸を張れるように、なりたかったからね。

 ほんとほんと。ほんとに弟子入りしたの。ってか、弟子入りさせてもらえたのよ。駄目で元々と思ってたけど、いやー頭は下げてみるもんだね。

 ……うーん、どうだろう。私が見てきたのは秀友の記憶だから、齋爾サンがなに考えてたのかはね。わからないけど。どうして弟子に取ってくれたのか、結局最期まで教えてくれなかったし。

 でも、月見さんが思ってるほど、あの人は、月見さんのことを悪く思ってなかったんじゃないかな。そんな気がするよ。

 んでいろいろ頑張って、才能も無事開花して、秀友は都でも有名な陰陽師になったわけ。雪さんとの間に子どももできてねー。お前にゃちょっとは胸を張れるようになったかなって、実感を持ち始めてきた頃かな。

 齋爾サンが、死んだ。

 月見さんがいなくなって、十年くらいかな。あの時代じゃ馬鹿みたいに長生きでさ。すっかり老いぼれになって目は見えないわ自分一人じゃ立てもしないわだったのに、暇潰しだって言って、地獄の遣いを何回も何回も追い返したりしてた。でも最期は、やっぱり、疲れたって。

 ……でね。齋爾サン、そのときに、月見さんが妖怪だってことを秀友と雪に教えたんだ。

 そう。月見さんが最期に秀友たちにやった『アレ』が、完全に芝居だったって種明かししたの。ったくほんと一杯食わされたよ。つーか人の涙返せよ。思い出したらだんだん腹立ってきたんだけど、もう一発殴っていいかな?

 あ、ごめん。えーっと、うつほちゃんだよね。月見さんの式神になったっていう。うん、もう殴らない殴らない。あはは、ご主人様想いだねいだだだだだだだだ

 

 ……ふう、助かった。ごめんごめん、からかったわけじゃないって。

 どこまで話したっけ。

 ああそうそう、月見さんが妖怪だったってとこだね。

 うん。

 秀友はね。月見さんが妖怪だって知っても、なんていうかな。悪い感情は、持たなかったよ。

 ただ、安心した。無事でよかったって。生きててよかったって。ずっと、ずっと、なにもできなかったことを、後悔してたから。

 そりゃあ、また会いたいとか、捜してやろうとか、そういう気持ちがまったくなかったわけじゃない。でも、まあまあの付き合いだったしさ。月見さんがわざわざあんなことをしていなくなった理由も、想像できたんだ。

 秀友と雪が、人の中で、人として生きていくようにでしょ。

 そういう風に、生きてってほしかったんでしょ。

 本当、お前らしいよ。

 

 私? 私は、志弦だよ。……あ、そっか。うーん、ちょっと前まで夢の中で秀友やってたから、まだごっちゃになってるのかも。いやいや、別に生まれ変わりとか、そんな大それたもんじゃないって。

 でも秀友の記憶は、ちゃあんと頭の中に入ってる。

 だからほら、これ。月見さんはわかると思うけど、この風、齋爾サンの術でしょ。秀友が齋爾サンから教わって血肉にした、あの人の風。秀友の記憶を継いだから、秀友の術だって使えるのさ。ま、さすがに師匠ほどじゃあねえけどな。

 覚醒イベントってやつだねえ。

 

 そんなこんなで神古の血はしぶとく千年以上の時を超えて、その中のひとつが、こうしていま月見さんの目の前にいるのです。

 そして私は「過去を夢見る程度の能力」で、秀友の記憶を『継承』したのです。

 うん。

 こんなとこかな。

 

 ……なにか、他に質問ある?

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……なにか、他に質問ある?」

 

 志弦の静かな問いを受けながら、月見は。

 こんなことが。

 こんなことが、起こりえるものなのかと。目まぐるしく暴れ狂う想いの渦に絡み捕られて、指一本動かすこともできずに立ち尽くしていた。

 だって、そうだろう。

 なにかを言えという方が無理な話だろう。

 こんな――本当に、こんなことが。

 月見だけではない。ナズーリンも星も、志弦を追いかけてきた輝夜と早苗も、いつの間にか集まってきていた水蜜も、一輪も、雲山も、そしてわかさぎ姫も、おくうも、小傘すらも。誰も彼も呻くこともできぬまま、水月苑の真冬の庭には、河童たちが聖輦船の修理を進める音だけが響いている。

 志弦だけが、あっけらかんと笑っている。

 

「やだなあ、そんなお固い空気になることないって。もっとこう、心配かけやがってコンニャローって感じでさ……あ、そもそも心配なんてしてなかったパターン? そっかーちくしょー凹むなー、ショックだなー」

 

 目の前の志弦は、間違いなく志弦だ。今時の若者らしい剽軽な口振りも、明るく変化に富んだ顔つきも、ちょっぴりズボラな巫女服姿も。けれどその瞳は眠る前と見違えるほど深みを増し、少女らしからぬ達観した風格を宿しつつある。それだけで、今しがた志弦の語った話が決して出鱈目ではないのだと理解させられる。

 そして志弦を中心にゆっくりと巡っている、ひどく懐かしい匂いのする風。

 

「……志弦、」

 

 はじめに束縛から開放されたのは、輝夜だった。

 

「あなた、本当に……秀友のこと」

「うんうん。えっと、秀友は姫様とあんま接点なかったからなあ……あっでも、雪さんからいろいろ話は聞いてたよ。今日は姫様がこんなに可愛かったんだって、もー夫として嫉妬しちまうくらいでー」

 

 うははと男みたいに笑った志弦は、それからすぐはっとして、

 

「あ、また秀友の気分になってた。いやほら、夢の中で私、ほんと完全に秀友になってたからさ。そういう能力みたいなんだよね。だから、感覚がちょっとごっちゃになってるっぽい」

「……そう、なのね」

 

 むしろ納得したと言うように、輝夜は静かに吐息した。きっと、月見も同じ反応をしただろう。月見だってわかっている。認めざるを得ないと理解している。「ギン」という呼び名が、単なる輝夜の物真似ではないことくらい。

 だがそれでも、すべてを受け入れるあとほんの一歩手前で、自分でもよくわからないなにかが歯止めとなって抗っている。

 

「やっぱ、そう簡単には信じられないよねえ」

 

 月見が考えていることなど、ぜんぶ見透かしているような口振りだった。志弦は顎を撫でながらしかめっ面で考え、ほどなくいきなり両手を打って、

 

「そうだ、これならどうかな」

 

 襟元に手を突っ込み、巫女服の下からなにかを掴んで引っ張り出す。チェーンを通して首に掛けられた、お守りのように小さな巾着。彼女が肌身離さずいつも身につけているもので、月見は思い入れのあるアクセサリーかなにかだろうと思っていたけれど。

 巾着の口を解き、四苦八苦しながらやっとのことで取り出したのは。

 

「ウチの家に代々伝わってた、ありがたーいお札……の、切れ端なんだけど」

 

 月見の目の前にずいと差し出し、

 

「これ、見覚えあるでしょ。わからないとは言わせないよ」

「……、」

 

 正直、ひと目ではまったくわからなかった。切手ほどの大きさしかない、風で飛ばされればその瞬間消えてなくなりそうな小さな紙片を受け取って、ほんのかすかな、本当にかすかな術の残滓があると気づいてようやくわかった。

 呑まれるような思いがした。

 

「…………ああ――」

 

 この術を、月見は知っている。誰よりも一番よく知っている。

 そうに決まっていた。

 だってこの札を作ったのは、他でもない自分なのだから。

 

 こんな小さな小さな切れ端になって、術などとうの昔に力を失って、それでも。

 これは、間違いなどない。

 月見が最後に、形見代わりのつもりで秀友に贈った――

 

「今なら、わかる。ここにやってきたとき、どうして月見さんと、はじめて会った気がしなかったのか」

 

 切れ端をつまむ月見の指先を、志弦が両側からそっと包み込む。

 

「ありがとう、月見さん」

 

 息もかかるほどの距離。思えば志弦の顔を、こんな近くで見つめたのははじめてだったかもしれない。

 にへら、と。

 あいつそっくりの、人懐こい笑顔だった。

 

 

「月見さんはずっと、私たちの傍にいたんだね」

 

 

 ――きっと、正しくはなかったのだろうと思っていた。

 妖怪の身でありながら興味本位で人となり、人々を騙しながら都で何年も生活をした。そして神古秀友という人間の生に深く干渉しておきながら、最後は勝手に目の前から消えるという選択をした。

 あいつらに、人の中で人として生きてほしかった。それは紛れもない本心だし、当時の自分も間違いなくそう願っていて――けれど実際は、己の中にあった恐怖の裏返しでもあったのだと思う。

 秀友たちの世界を、いつかは壊してしまうかもしれないという恐怖の。

 だから最後まで妖怪であることをひた隠し、人のまま終わらせた。結局月見はただ自分勝手な理由で都に入り込んで、自分勝手な理由で消えただけだった。お前に胸を張れるようになりたかったと秀友は言うが、月見はなにも、秀友に胸を張れることをしたわけではなかったのだ。騙していた。悲しませた。背負わずともよい罪の意識を背負わせた。自分がやっていたことはきっと、正しくなんてなかった。

 でも、それでも。

 

「――ッハハハハハハハハハハ!!」

 

 笑い飛ばそう。こうして天を仰いで、腹の底から大きな声で、心から。

 騙していても。

 正しくなんてなくても。

 ――私たちは、最上の友だった。

 目の前の少女が、その証明だ。

 

「いやあ、やられた。本当にやられた。参ったよ、降参だ」

 

 未だ笑いが尾を引く中で、ふと輝夜と目が合った。輝夜はこれ見よがしに腕を組み、「だから言ったでしょ」と鼻から抜くようなため息をついた。

 ――ギンと「神古」は、あのときだけで終わるような陳腐な縁じゃなかったってこと。

 結局なにもかも、輝夜の言う通りだったのだ。

 

「こんなになっても、まだ持っていてくれたんだね」

 

 札の切れ端を志弦へ返す。もうなんの効力も価値も持っていない正真正銘ただの紙切れで、肌身離さず持っていたところでなにひとつ意味はない。流れた時の長さを考えれば、とっくの昔に捨てられていて然るべきはずだった。

 なのに志弦は、胸を張って答えてくれる。

 

「私の、大切なお守りだよ」

「……ふふ。ありがとう」

 

 今はどうにも、それくらいしか言葉が出てきそうにない。無理に虚勢を張ろうとすれば、その瞬間に剥がれ落ちてボロが出てきてしまいそうだった。それなりに長いこと生きてきた身であるが、この感情を明確な言葉で言い表す術を、自分はどうやらまだ手に入れていないらしい。

 志弦が札の切れ端を受け取る。それを巾着へ注意深くしまい、ニッと歯を見せながら首に掛け直そうとして、

 ぐぐううう。

 

「……」

 

 なかなかに盛大な腹の音だった。

 うなじに両手を回した恰好で硬直した志弦は、ほどなく再起動して苦笑しながら腹をさすり、

 

「たはは……ごめん月見さん。なんかかるーくでも食事をいただけますと、恐悦至極でござる……」

 

 そういえば志弦は昨日の朝からずっと眠り続けていて、要するに丸一日なにも腹に入れていないのだった。

 

「わかった。藍になにか用意してもらおう」

「いやーあんがとお。腹ごしらえしたら、ちゃんと白蓮のとこまで案内するからさ」

「……っ?」

 

 ナズーリンの耳がぴくりと跳ねる。

 

「志弦、今……聖のところまで案内すると言ったかい?」

「うん。あれ、もしかして案内要らない?」

「いや、そんなことは……ないが」

 

 横目で、意見を求めるように月見を一瞥する。なぜなにも知らないはずの志弦が、白蓮の封印場所まで案内すると言い出すのか。

 いや、そもそも。志弦は本当に、今でもなにも知らないままの彼女なのか。

 

「聖が封じられた場所を、知っているのか?」

「うん。だって、見てきた(・・・・)から」

 

 そんなはずはなかった。

 志弦が額面通りの力を手にしたというのなら、秀友一人の記憶を知っただけで満足して戻ってくるはずはない。むしろ秀友など単なるついでにしか過ぎず、彼女が手を伸ばすべき記憶はもっと他にあるはずだった。

 すなわち白蓮を封じた張本人であり、この千年に渡る(えにし)の発端――

 

「――神古、しづくか」

「えっ……あれ、知ってたの?」

 

 驚いて月見を見た志弦は、途端に胡乱げな目つきで下から覗き込み、

 

「……まさか、それも知っててずっと黙ってたんじゃ……」

「い、いや、私もお前が寝ている間に知ったばかりだよ」

 

 正確には、白蓮を封じたのが『神古』であること自体は、およそ半年も前から知っていて黙っていたのだが――また殴られそうなので、これからも黙ったままでいようと思う。

 志弦は疑り深い半目を緩めず顔を引き、

 

「ふーん……まーいいけどさ」

 

 ゆっくりと深く瞬きをして、表情をフラットに戻すと、

 

「んじゃ、説明は要らないよね。神古しづくの記憶も、私の頭に入ってる。だから白蓮のとこまで案内できるし、封印の解き方だって知ってる」

 

 中空を見上げ、ここにはいない誰かへ語りかけるように、優しく静かな言葉だった。

 

「――約束したからね。必ず、迎えに行くって」

 

 水蜜と一輪が、咄嗟に喉を動かした。なにかを言おうとしたわけではないのに脊髄反射で体が動き、しかし当然言葉が出てくるはずもなくそこで硬直する。月見やナズーリンさえこの場にいなければ、志弦の胸倉に掴みかかるくらいはしていたかもしれなかった。

 神古しづくは、聖白蓮を封印した。

 至極単純に考えれば、それは白蓮としづくが敵同士だったことを意味している。しづくが先祖より陰陽師の術と役目を受け継いでいたならば、人々の願いに応えて妖怪を退けるのが仕事のひとつであり、妖怪こそを救おうとする白蓮とは相容れなかったはず――事実、封印は成されたのだから。白蓮がその理想を周囲に知られ、『悪魔』と呼ばれてしまったことを踏まえても、恐らくは人々からしづくへ依頼が行ったのではないかと月見は思う。あの『悪魔』を、なんとかしてくれと。

 しかしだとすれば、「迎えに行く」という約束は、一体。

 

「なるほど。これはつまり――」

 

 ナズーリンが、厳かに首を振った。聡明な彼女は、志弦の言葉に早くもひとつの答えを見出した――のかと思いきや、

 

「――つまり、ご主人の汚名返上の出番が消滅したということか……」

「ちょちょちょっ待ってくださいナズ、いま大事な雰囲気! とっても大事な雰囲気ですよっ!?」

 

 ……まあ確かに、「白蓮の封印を解いて汚名返上する」という星の大変重要な出番が、綺麗さっぱりなくなってしまったということでもあった。

 

「いや、でもそうだろう。聖の封印を志弦が解いたら、ご主人はどうやって汚名返上するんだい」

「……ほ、宝塔! 宝塔がないと魔界の結界を越えられませんし、瘴気も危険ですから、私の力が必要ですよねっ!」

「それは宝塔の力であってご主人の力じゃないしなあ……」

「……ぐすっ」

 

 しょんぼり項垂れる星をナズーリンは放置し、

 

「しかし、志弦。君は……聖のために力を貸してくれるのかい?」

「うん。言ったでしょ、迎えに行くって約束したんだ」

「なら、」

 

 踏み留まるように、言葉を区切る。水蜜と一輪の方をつと窺い、わずかに逡巡する間があった。

 

「……なら、なぜ。神古しづくと聖は、その。敵、だったんじゃ」

 

 少なくとも、白蓮の夢に共感する味方ではなかった。だから神古しづくは彼女を封印したはずなのだ。

 敵同士だったのなら、なぜ「迎えに行く」と約束を交わす真似をしたのか。

 敵同士でなかったのなら、なぜ封印したのか。

 いや、そもそも。「迎えに行く」とは、一体どういう意味なのか。神古しづくが果たせなかった約束を、志弦が代わりに叶えようとしているだけなのか。だが志弦の口振りは、まるで今こそが約束の時なのだと言っているようで――。

 そのとき、また志弦の腹が鳴った。

 

「……ええと、うん。とりあえず、腹ごしらえだけ先にさせてもらっていいかな。あとでちゃんと話すからさ」

「……私はもちろん、構わないが」

 

 ナズーリンが再び横を窺う。口を閉ざしたままの水蜜と一輪が、瞬きすら忘れて険しく志弦を見据えている。志弦は、神古しづくの記憶もまた頭に入っていると言った。つまり二人にとってみれば、自分たちの平穏をめちゃくちゃにした怨敵が目の前にいるのも同然なのだ。突き上がってくる感情は理性だけでは歯止めが利かず、爪が食い込む拳からはかすかに妖気がこぼれ落ちている。

 だが、志弦は凪いだ表情を微塵も崩さない。今までの彼女なら、あふれ出す妖気に怯むくらいはしていたはずなのに。まるでこのまま襲いかかられても、自分で身を守るくらいはできると言うように。

 もしも志弦が、秀友の記憶を通して御老体の風をも『継承』しているのなら。確かにこの程度は、怯むうちにも入らないのかもしれないが。

 

「……ひとつだけ、答えて」

 

 一輪が、煮えたぎる声音のままで問うた。

 

「お前は、姐さんの封印を解いて。それから、一体どうするつもりなの?」

 

 敵ではないと言うのなら、約束をしたと言うのなら。この答えでどうか私たちを怒らせないでくれと、(こいねが)うようでもあった。

 志弦は少し、考えて。

 

「そうだね……まずは、ずっとずっと待たせちゃったことを謝って」

 

 嘘を口にしながらでは決してできない、柔らかいそよ風の顔だった。

 

「今の時代のこと、幻想郷のこと、月見さんのこと。たくさん、教えてやりたいかな」

「……」

 

 一輪は志弦の言葉を反芻させるように瞑目し、ゆっくりと大きく息を吸って、そのすべてをため息に変えた。

 

「……お前も他の人間たちと同じで、姐さんを悪魔扱いしてて。だから封印したんだって、ずっと思ってた」

 

 志弦はカラカラと笑い、

 

「いやいや、あんな底抜けにいい人が悪魔とかありえないでしょ。白蓮が悪魔だったら、この世の人間はみんな地獄の獄卒だね」

 

 吐息、

 

「しづくだって、白蓮を封印なんてしたかったわけじゃない。でも、しづくなりの考えがあって……そうするって、決めたんだ」

「…………」

「ちゃんと、ぜんぶ話すよ」

 

 だから、と一度言葉を区切って、掛ける問いは切々と。

 

「お願いなんで、腹ごしらえ、させてください……」

 

 ぐぐぐううううう、と。肝心なところで締まりきらないのは、どうやらあいつの頃からさっぱり変わっていないようだ。

 とりあえず一旦言う通りにしてあげない? と不憫な空気が広がっていく中で、一輪と水蜜が些か気不味そうに拳を解いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――おししょおおおおお!! どうしてその式神は一緒で弟子の私はダメなんですかあああああ!! 私という者がありながらああああああああっ!!」

「はいはい落ち着いてくださいねー。月見くんたちは、白蓮さんっていう人間さんを復活させに行くんです。私たちまでついていったらお邪魔虫ですよー」

「すぃしょおおおおおおおおおお!!」

 

 志弦が簡単な腹ごしらえを済ます頃には修理も終わり、月見はどことなく勝ち誇った顔なおくうを連れて聖輦船に乗り込む。元の完全な姿を取り戻した船には力が満ち、ほのかながら法力の燐光を帯びて輝いているようにすら見える。

 今こうして身を以て感じても、これが命蓮の法力だなんてさっぱり信じられなかった。毘沙門天の御業なのだと説明された方がよっぽど納得できる。桶と柄杓を式神で浮かして大喜びしていた小僧が、こんなにも巨大な木造船を、千年もの間――。

 

(……まったく)

 

 どうして今の今まで、忘れてしまっていたのだろう。船にはもう何度も乗ってきたのに、どうして夢に思いもしなかったのだろう。笑みがこぼれる月見へどんなもんだと胸を張るように、その法力は誇らしく聖輦船を包み込んでいた。

 そして甲板では、チーム河童を率いるにとりがえへんと胸を張っていた。

 

「どう? 河童の技術はねー、金属とか機械とかだけじゃないんだよ!」

「いやいや、ほんと助かっちゃいましたよ。ありがとうございます!」

 

 現場監督の水蜜が両手でぶんぶん感謝の握手をしている。水月苑に変形機能をつけようとしたおバカたちとはいえ、さすがに今回ばかりはちゃんと空気を読んでくれたようだ。雲山が隈なく監視してくれたお陰なのかもしれないが、とにかく疑って悪かったな、と月見は河童たちへの評価を改める。

 

「これは、またお礼をしないといけないね」

「いやーいいよ、私らも楽しかったからさ」

 

 頭を掻いたにとりは、それからバチコンとお茶目なウインクを決めて、

 

「こっそり自爆装置も取り付けたしね☆」

「今日の昼飯は河童の丸焼きか……」

「雲山、GO」

「うそうそうそうそっ、冗談! ちょっとお茶目なじょーくだってば! それにほらー私って体小さいし肉付きだってすごく貧相でって誰がペタンコだゴルァ!」

「「「…………」」」

「あ、ごめん普通に心折れそう……」

 

 月見たちのみならず仲間からも白い目で見られ、にとりは甲板の隅っこで体育座りをしながらいじけモードに入った。

 満場一致で放置した。

 

「星、ちゃんと宝塔は持ったかい」

「あ、はい持ちました。バッチリですっ」

 

 力強く頷く星の両手には、昨日買い戻したばかりの宝塔がしっかりと握られている。毘沙門天のもうひとつの象徴である鉾は持っていない。そんなもんは一足早く船の中で置物だ。そんなもんより今はとにかく宝塔なのだ。もしも、万が一、一朝有事のことがあれば星は今度こそタダでは済まない。

 その証拠に、

 

「これでもし、またなくすようなことがあったら……ねえ、ご主人、わかっているよね?」

「……くすん」

 

 横のナズーリンは言葉も表情も優しく穏やかだったが、目だけが欠片も笑っていないのだった。

 よーし、と水蜜が指差し確認で、

 

「聖輦船よし、宝塔よし、月見さんたちよし! いよいよ聖を解放させられますね!」

「すぅぅぅいいいしょおおおおおおおおおおっ!!」

「はいはいダメですってばー」

「……えーっと、あれは無視でいいんですか?」

「うん」

 

 月見は躊躇いなく即答した。先ほどから大声でぎゃーぎゃー騒いでいるのは、一緒に連れて行ってもらえず不満爆発な小傘である。藤千代に後ろから首根っこを掴まれ、両手を振り回して大暴れしている。あんなはっちゃけ少女を連れて行ったら最後、水蜜たちと聖の感動的再会が根元から台無しにされかねない。

 元気すぎる小傘に藤千代もやれやれ気味で、

 

「むー、仕方ないですねえ。じゃあ、私に勝てたら月見くんを追いかけていいですよ。私の屍を越えていけです」

 

 あ、

 

「……なるほど、そういうことですか! これもまたひとつの試練というわけですね……! わかりましたっ。あなたの屍、越えていきます!」

 

 嗚呼。

 思っていたほどざわめきはなかった。小傘がやる気満々で答えた瞬間、周囲から捧げられたのは黙祷のように悲愴な沈黙だった。

 おくうがぽつりと、

 

「くるってる……」

 

 その言葉を向けた先は藤千代だったのか、それとも小傘だったのか。

 

「というわけで、月見くんたちをお見送りしたら勝負しましょうね」

「わかりましたっ。……というわけでお師匠、いってらっしゃいませー!」

 

 小傘。お前は私たちを見送ったあと、一体どうやって魔界まで追いかけてくるつもりなんだい。

 まあそもそも、「ちぇいっ」と藤千代にチョップされて一撃KOだろうが。周囲から注がれる生暖かい眼差しにまったく気づかず、小傘は元気いっぱいに手を振ってお見送りしてくれるのだった。

 

「じゃあ藍、すまないけど屋敷を頼むよ」

「はい。お食事の用意をして、待ってますね」

「ああ。……一人分、多めにね」

 

 それが一体誰の分なのかは、わざわざ言葉にするまでもなかろう。ほんの一瞬だけ思考して、藍はすぐに微笑んでくれた。

 

「ふふ、そうですね。そうですよね。お任せください、よりをかけて作りますから」

「ずっと封印されてた人間だからね。今の時代の料理を見たらきっと驚くだろう」

「腕が鳴るというものです」

 

 甲板から身を乗り出し、わかさぎ姫に手を振る。

 

「ひめも、留守番よろしくね」

「はいっ。行ってらっしゃいませー!」

 

 背後では早苗が志弦に、輝夜がおくうに激励を贈っている。

 

「気をつけてね。戻ってきたら、ちゃんとぜーんぶ説明してもらうんだから」

「ういうい。まーのんびり待っててよ」

「いいこと、うにゅほ……これがあなたの、ギンの式神としての初の大仕事よ。ちゃんとギンの役に立てるよう全力を尽くしなさい。なによりまずは気持ちよ!」

「だ、だから『うにゅほ』じゃないって言ってるのにぃ……」

「聞いてるのかーっ!!」

「わっ、わかってるってばぁ!」

 

 チーム河童が、いじけるにとりをお神輿にして船から離れていく。輝夜と早苗がそのあとに続く。なにかが始まる空気を嗅ぎつけたのか、いつの間にか天狗の野次馬がちらほらと増え始めている。

 志弦が、そっと呟いた。

 

「もうすぐだよ……白蓮」

 

 そう――いよいよ、なのだ。志弦にとっては千年間置き去りになっていた約束を果たす時であり、水蜜や一輪たちにとっては千年振りの再会の時であり。

 そして月見にとっても、これはきっと大きな意味を持つ出会いとなろう。せり上がってくる高揚を抑え切れず、水蜜の音頭は空高くまで朗々と。

 

「それじゃあ、行っきますよおーっ!! 星、宝塔の準備!」

「はいっ!」

「月見さんっ、お願いします!」

「ああ」

 

 勝負所だった。

 元より月見と彼女(・・)の主従関係は、異変を収束させる中で生じたやむを得ない手段のひとつでしかなく、それ以上の深い意味合いを持つものではなかったし、月見としても持たせるつもりなんて毛頭なかった。

 けれどこのところどうにも彼女から、責任とってよ、という無言の圧力を感じるので。

 

「っ……」

 

 今だって、なにかを訴える強烈な視線が横から頬に突き刺さってくる。

 怖くないはずがないのだ。あの異変で叩きつけられた彼女の苦痛を思えば、怖くないなど絶対にありえることではない。彼女を見る。強がった顔をしているが全身が強張り、握り締めた拳は誤魔化せない震えを帯びている。呼吸は細く早く、引き結んだ唇はみるみる色を失っていく。

 でも、それでも彼女は月見の言葉を信じて、もう一度あの力と向き合おうとしてくれている。

 だから月見も、今は主人として応えようと強く思う。

 

「おくう」

 

 名を呼び、

 

「心配するな」

 

 手を伸ばし、

 

「私は、ここにいるよ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 はっきり言ってロクでもないご主人様である。おくうを勝手に式神にするし、おくうをほったらかしにして勝手に地上へ戻るし、たくさん知り合いがいるし、たくさん友達がいるし、弟子を自称してまとわりついてくるようなやつだっているし、その上みんなと仲がいいし、仲がいいし、仲がいいし、いいし。あまつさえヤタガラスの力をもう一度使えというのだから本当にどうかしている。しかもしかも、十割おくうを想っての発言だったのならまだしも、半分くらいは『びゃくれん』とかいう人間のことを考えている始末なのだから、まったくもってこの狐はロクでもないやつなのだ。

 

「――私は、ここにいるよ」

 

 と悶々としていたのが、一発で消し飛んだ。

 ズルい、と思った。この狐は、ロクでもないやつで。おくうをほったらかしにして、仲のいい知り合いがたくさんいて、今だって『びゃくれん』のことで頭がいっぱいになっていて。

 でも、おくうが本当に見てほしいと思っているときは、こうしてちゃんと必ず気づいてくれるのだ。

 

「おくう」

「う、うにゅ……」

 

 名前を呼ばれ、反射的に伸ばされた手を取る。その途端思いがけない力で握り返されて、「みぅっ」と変な声がこぼれた。

 地霊殿よりもずっと寒い場所で、でも月見の大きな手はじんわりと温かかった。

 

「今から半分の半分くらい、お前の封印を緩める。準備はいいか?」

 

 心の準備という意味であれば、正直まったくよくない。月見の力にはなりたいけれど、こうして再びヤタガラスの力を使う日がやってくるなんて夢にも思っていなかったから、迷いも緊張も恐怖もちっとも払拭できていない。

 けれど、

 

「――うん」

 

 頷いた。だっておくうは、独りじゃないから。

 危なくなったときは、月見が守ってくれる。また、助けてくれる。手から伝わる月見の体温が、内側から感じるもう一柱の神の力が、優しくおくうを包み込んでくれている。だから迷っていても、躊躇っていても、怖くても、月見のために頑張ろうと思える。

 

「……いくよ」

 

 握り合わせた掌を通して、月見の力がゆっくりと流れ込んでくる。頭の中でひとつ、金属の鍵を外すような音が響く。体の中に熱が生まれ、立ち上がる熱風とともに己の姿が変わっていく。

 胸元に宝石めいた赤い瞳、右足は鉄を象った融合の足、左足は電子が絡みつく分解の足。制御棒がない以外は見間違いようもなく、ヤタガラスの力を得たあのときの姿。

 

「――っ」

 

 途端に異変の記憶がフラッシュバックする。生き物の命を容易く奪いかねない殺傷力と、体の奥底から際限なく湧き上がる灼熱を制御し切れず、荒御魂に呑まれ、精神を焼かれる痛みの中で自分自身が崩壊していく記憶。体は熱を帯びているのに呼吸も心臓も一瞬で凍りつき、押し寄せる怖気に視界が強烈な渦を巻く。無意識のうちに、口の端からか細い悲鳴がこぼれる。目の前が真っ暗に閉ざされる。内側に宿るこの熱が、今すぐにでもおくうを呑み込んでしまいそうな気がして、

 

「おくう」

「、」

 

 優しく名を呼ばれておくうは目を開けた。決して大きくはなかったのに、その声はおくうの耳朶をまっすぐに叩き、心の凍てつく闇を瞬く間にかき消した。はっきり見えるようになった視界の先で、月見がおくうの掌をそっと両手で包み込んでいた。

 

「落ち着いて、よく見つめてご覧。ほら、なにも怖いことはないよ」

「……、」

 

 気づいた。

 体に宿る力の感覚が、記憶に刻まれているものと違う。異変のときは、業火が燃え(たぎ)るような、溶岩が煮え立つような、ひと目で危険だとわかる禍々しい力だった。

 でも今は、暖かい。禍々しくなんてない。

 その熱は天で輝く、あの綺麗な太陽みたいで。

 

「ああ――」

 

 ――どうして、忘れてしまっていたのだろう。

 注連縄の神様から、一番はじめにヤタガラスの力を授かったとき。そのときおくうの体に宿っていたのは恐ろしい灼熱などではなく、まさにこの暖かさではなかったか。

 そうであるはずだった。だがあの頃は、そもそも神様の力を理解していなかった上に、こいしの期待に応えたい一心で戦うため――誰かを傷つけるために使ってしまった。そして桁外れの破壊力を前にして勝手に恐怖を抱き、この力は恐ろしいものなのだと誤解した。誤った認識は神の力の在り方を捻じ曲げ、おくう自身の心の歪みも拍車を掛けて、やがては荒御魂へと変わり果てていってしまった。

 月見の言っていた通りだ。

 ヤタガラスの力が、はじめから恐ろしいものだったわけではなかった。

 月見が、微笑んだ。

 

「さあ、願ってご覧。今度はちゃんと、お前の嘘偽りない言葉でね」

 

 前以てなにか言葉を考えていたわけではない。けれど願いは決まっていたし、そのための言葉も自然と心に浮かんだ。

 おくうの右手を包んでくれる月見の両手に、そっと左手を重ねておくうは祈る。

 

(――ごめんなさい)

 

 ごめんなさい。私は、間違っていました。自分のせいであんなことになったのに、あなたはなにも悪くなかったのに、私はあなたを怖い神様だと思っていました。

 本当は、こんなに優しい力の神様だったのに。太陽みたいな神様だったのに。私のせいであんなことをさせてしまって、本当にごめんなさい。

 私に、あなたの力を使う資格なんてないのかもしれません。こんなお願いをする権利なんて、ないのかもしれません。でも、でもどうか聞いてください。

 

 私を、助けてくれたひとがいました。

 たくさん怪我をして、ボロボロになって、すごく痛かったはずなのに、それでも私を助けてくれたひとがいました。

 そのひとは今、あなたの力を必要としています。この船を遠くまで動かす力が必要なんです。だから、助けてあげてほしいんです。

 私に力を貸して、なんて言いません。

 私を、使ってください。

 私を使って、あなたの力で、このひとを助けてあげてください。

 

 私を助けてくれた、バカで、ロクでもなくて、でも優しいごしゅじんさまを。

 どうか、どうか、助けてあげてください――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もちろんナズーリンは、過日地底で起こったという異変について詳しいことはなにも知らない。ただ人づての伝聞と妖怪鼠のネットワークで、世間一般に知れ渡っている情報――すなわち危機的被害こそなかったものの相当な大事(おおごと)であったこと、助太刀へ向かった月見が大怪我を負ったこと、守矢神社の神々がエネルギー革命だかを目論んで一枚噛んでいたこと――を、同じように知っているのみである。

 だが目の前の光景を見て、ナズーリンは己の中の仮説を確信に変えた。

 その異変は恐らく、この霊烏路空という少女が原因で起こったものだったのだろう。結果ありきで筋の通る推測をすれば、まず守矢神社の神が霊烏路空に八咫烏を与えた。八咫烏は太陽の神であるから、その力を利用すればエネルギー革命を起こすことも可能だろう。しかし太陽の力は大いなる恵みをもたらす一方で危険でもあり、空は制御を失って暴走してしまう。これが過日の「異変」であり、月見が取った解決は、空を無理やり式神として制御する方法だった――。

 元々妙に思っていたのだ、月見が妖怪を式神にして従えるなんて。そんなことをしたがる性格でないのは明白だし、おまけに式神の少女は二柱の神を同時に宿すというオーバースペックぶりだ。月見がそこまでして霊烏路空を式神に選んだ理由が、すべて八咫烏を鎮めるためだったとするならば、この大仰な話にもひとつの理屈が通るとナズーリンは思う。

 笑った。

 

(まったく……本当に、君というやつは)

 

 霊烏路空は妖怪だが、別に人間だったところで月見は同じことをしただろう。幻想郷でも指折りの大妖怪が、高が一介の鴉如きになにをそこまで――と考えて、やめた。この狐のやること為すことに、いちいちツッコむのはもうやめたのだ。だからナズーリンは月見を信じ、過去と闘う霊烏路空を静かに見守り続けた。

 一分は、待たなかったと思う。

 来た。

 

「……!」

 

 八咫烏が、霊烏路空の祈りに応えた。

 彼女の内側に留まるのみだった太陽の力が膨張し、ほんの一息で聖輦船全体を呑み込んだ。

 

「うわわっ!? な、なんてすごい力……!」

 

 予想外の出力にムラサたちが目を見開き、ナズーリンも内心舌を巻く。魔界へ行くどころか往復したって呆れるほどのお釣りが来るような、まさに桁外れの力の奔流である。際限なく湧きあがって迸る流れは疾風を生み、熱を孕んで烈火が如くナズーリンの全身に打ちつける。しかしその風がナズーリンの肌に刻み込むのは、痛みには程遠い果てしない畏怖の感情だ。無意識に口端がつり上がる。長年神に仕えてきたナズーリンとしては、これだけで片膝をついてしまいかねないまでに気高く、神々しい。

 半分の半分、要するに十のうちの三にも満たない出力でこれなのだから、さすがは神話に名を刻んだ太陽の化身であり――

 

(いや――)

 

 或いは――八咫烏がここまでの力をお貸しになるほど、霊烏路空の祈りが清らかだったのか。

 声を張った。

 

「ムラサ、早く魔界に跳びたまえ! このままじゃあ船が耐え切れないよ!」

 

 本来であれば空に放散していくはずの力の波濤が、しかしそうはならず船の周囲に留まり続けている。聖輦船全体を膜のように覆って包み込む、八咫烏とは違う別の神の力がある。

 宇迦之御魂神。

 霊烏路空の清廉な祈りを、八咫烏のみならず彼女まで聞き届けたのだ。確かにこれなら、ただ放出されるだけのエネルギーをより効率的に取り込める。しかし一方で、充満する超高密度のエネルギーに圧迫されて船が嫌な音で軋み始めている。一刻も早く動力に変換しなければ、圧倒的な神の力に圧し負けてバラバラの粉々に弾け飛ぶだろう。

 ムラサが我に返った。

 

「そ、そうだったっ! それでは皆さん、出航しますよおー!」

「ご主人、もうすぐ出番だ! 宝塔を落とすんじゃないよ!」

「わ、わかってますってばぁ!」

 

 最高級のエネルギーを貪欲に取り込んで、聖輦船を形作る木という木から煌く光の粒子が散り始める。足元から極光にも似た輝きが立ち上がり、ナズーリンの視界を幻想的に染め上げていく。

 すべてが光で埋め尽くされる、その間際。

 

(それにしても――)

 

 神の力に満ちる船を見ながら、ナズーリンは思う。

 

(どうしてなかなか、お似合いじゃないか)

 

 或いは八咫烏のみならず、宇迦之御魂神をも宿している影響なのだろうか。

 聖輦船を包み込む、霊烏路空の神の力は。

 

 ――どこかの狐にとてもよく似た、美しい銀の色をしていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 人間ないし妖怪としてごくごく平凡な生を歩む限り、この魔界と呼ばれる世界に縁を持つ者はまずいないと断言して差し支えない。魔法の森と比較にもならない濃密な瘴気は人間のみならず並の妖怪にすら有毒で、オマケに魔界育ちの強力な魔物がそこかしこを跋扈しているという、あらゆる生物の訪れを拒む過酷な世界である。危険度だけなら無縁塚だって目ではないそんな世界に近づくのは、瘴気を利用して力を高めようとする魔法使いや妖怪か、かつての月見のようにどんな世界かひと目知ろうとする物好きか、ナズーリンたちのように大切な使命を背負った者たちくらいなのだろう。

 しかし光が晴れたあとに広がった景色は、月見の記憶にある魔界とは少しばかり違っていた。

 静かだ。それに生物の姿と人工物もない。赤黒い血の色をした太陽が不気味に見下ろし、唯一変わらない濃密な瘴気に覆い尽くされ、昼とも夜ともつかぬ彼誰(かはたれ)の闇の中、化物のような巨岩が広がる限りに隆起を成している。ただそれだけの世界である。動くものは聖輦船と、船上で周囲を見渡す月見たち以外にない。

 

「……ここは、魔界のどのあたりだ?」

「無限の空間を持つ魔界の端の端、仏界と呼ばれる区域です」

 

 星が答える。両手でしっかり握り締めた宝塔が、神々しい金の光を放っている。

 

「魔界の文明から遠く離れた辺境であり、同時に争いのない平和な場所でもあります」

「景色は地獄みたいだけどねー」

 

 志弦が手を庇にして遠くを眺め、うひゃーこわーと興奮半分逃げ腰半分な声をあげている。お化け屋敷にやってきた女子高生みたいな反応である。実際女子高生だが。

 

「宝塔の力で、船の周りに結界を張っています。外は瘴気が濃いですから、結界からは出ないでくださいね」

「おっと」

 

 そのとき急に腕が下に引っ張られたので見てみると、おくうが甲板にへたり込んでいた。すべての緊張から一気に解放されたせいで、体にはまったく力が入らず、口から何度も酸素を取り込んで、月見の掌に縋りつく指先は今にも力を失って落ちてしまいそうだった。

 

「大丈夫か?」

 

 膝を折り、おくうと目線を合わせる。ゆるゆると顔を上げたおくうは目をしばたたかせ、ここが現実か夢かもわからぬ様子で、

 

「こ」

「こ?」

「こし、ぬけた……」

 

 月見は苦笑し、おくうの頭を励ますように三度、優しく叩いた。

 

「よく頑張った。ありがとう、おくう」

 

 願わくはこれが、彼女の八咫烏への認識を変えるきっかけになればと思う。一歩間違えれば多くの命を危険に晒す力であるのは、決して否定しようがなく――けれど清らかな心で祈る限り、神とはこんなにも優しく暖かな存在なのだと。

 なにかを傷つけるのではなく、なにかを助く力であるのだと。

 

「……、」

 

 おくうはしばし、ぽかんと目を丸くして。

 

「……ん」

 

 翼をそわそわさせながら満更でもなさそうに、へにゃ、と笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな二人をこっそり観察しながら志弦は、

 

(紫さあ――――んまずいよ――――冬眠してる場合じゃないかもよこれえ――――――)

 

 と内心盛大にニヨニヨしているのである。改めて冷静に考えてみれば、霊烏路空は月見の式神なのだ。式神の主人には大きく分けて二種類あり、式を己の手足としてこき使う者か、大切な仲間や家族として思いやる者であるが、月見はどう考えたって後者なのだ。つまり霊烏路空は紫よりも輝夜よりも他の誰よりも、月見に一番近い場所にいると言えないこともないのだ。

 これで霊烏路空が、たとえばフランのような意味で懐いているのであれば話は違ったろうが。

 どうも今までの一部始終を見る限り、腹になかなか厄介な一物を抱えていそうなのである。

 

(んー、ほんと寝てる場合じゃないかもですぞー。だってこれ、白蓮もどうなるかわかんない(・・・・・・・・・・)もん)

 

 弟を助けてくれた恩人という意味でもそうだし、なにより妖怪とも人間とも変わらぬ友誼を結ぶ月見の在り方は、たぶん、白蓮が目指していた理想そのものだ。白蓮にとっての月見とは、自分の目指す先が向こうから服を着てやってきたようなものなのだ。そんじょそこらの妖怪とはワケが違う。そんな相手に対して白蓮が、はてさて当たり障りのない知人程度の関係で満足などするかどうか――。

 

「志弦」

「うい」

 

 ナズーリンに名を呼ばれたので、志弦はやや桃色な妄想を打ち切った。

 

「息苦しくはないかい? 君は人間だから、魔界の瘴気は一番有毒だ」

「ん、大丈夫だよ。もぉー深呼吸だってできちゃうぜ」

 

 ナズーリンの後ろで、星がほっと胸を撫で下ろした。

 

「それはなにより。……では早速ですまないが、聖の場所まで案内してもらっても?」

「おうさ。えーと、」

 

 志弦は空に意識を澄ませ、風の流れから現在地と方角を確認し、

 

「船長さーん」

「……なんでしょう」

 

 指を振り、御老体譲り、ひいては秀友譲りの術で風を生み出す。

 

「この風が吹く方向に向かう感じで」

「……わかりました」

 

 船長の名前は確か村紗水蜜だったはずだが、志弦に応じる声音には未だ消えきらない距離感がある。そうだろうなあ、と思う。どんな理由があれ志弦は、しづくは、彼女たちの生活を引き裂いた張本人なのだから。

 それがたとえ、白蓮を守るためであったとしても。

 

(白蓮も、怒ってるかなあ)

 

 千年も待たせてしまったから、ちょっとくらいは、怒られそうだ。

 船が、風の流れる先へ向けて動き出す。

 

「……志弦」

「うん」

 

 ナズーリンの問いなき問いに、志弦は頷き、全員へと振り返る。

 

「ぜんぶ話すよ。私たちのこと。白蓮のこと」

 

 あの頃は時代が、互いの信念がそれを許さなかった。けれど幻想郷では違う。きっと今度こそ、自分たちは共に手を取って歩めるはずだと信じている。

 だって、私たちは。

 同じ妖怪(つくみさん)を、恩人に持つ者同士なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ん? なあ、水蜜」

「はいはい、どうかしましたか?」

「ふと気になったんだけど……ぬえはどこに行った? 乗ってないのかあいつ」

「え? なに言ってるんですか月見さん、ぬえなら私たちと一緒に………………あれ?」

 

 

「みんな私を置いてくなんてひどいよおおおおおおおおおおっ!! うわあああああん仲間外れにされたああああああああああ」

「こたつで怠けてなんかいるからだ。さあさあ私たちの手伝いをしておくれ、そろそろお客を入れるからね」

「うええええええええええ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑬ 「REMINISCENCE ③」

 

 

 

 

 

(――?)

 

 鼓動のような揺らぎを感じて白蓮は目を開けた。無論、開けたと言っても所詮は感覚的な話であり、目の前に広がるのはなにひとつ変わらない無量無辺の闇である。封印された己の前に差し込む光などなく、凍てつくほどの無音だけが耳を満たしている。

 なにも見えないし、なにも聞こえない。いつものこと。けれど、確かに感じたのだ。

 この闇の向こう側から、まるで誰かに名を呼ばれたような。

 

(……あの人が、来てくれたのかな)

 

 そんなことを、冗談めかして考えた。あわいの空間に封じられてどれだけの時が過ぎ去ったかはとうに感覚がなく、そんな期待をしたところで辛くなるだけなのはわかっているけれど。

 それでも、思い出さずにはおれない。

 

(……しづく)

 

 神古しづく――白蓮をこの闇の中に封じた、陰陽師の少女。

 白蓮としづくは、似た者同士だった。白蓮は弟を妖怪に救われ、しづくはご先祖様を妖怪に救われた。白蓮は弟の遺した言葉を胸に秘めながら生き、しづくはご先祖様の遺した言葉を胸に秘めながら生きていた。

 そしてだからこそ、相容れなかった。

 人も妖怪もともに生きられればと願う白蓮の夢を、しづくは決して(わら)わず、親身になって理解してくれて――だからこそ最後には拒絶し、白蓮を封印した。

 しづくへの恨みはない。自分がそんなに虫のいいことを言える立場でないのはわかっている。人と妖怪の共存という夢に囚われるあまり、進むべき道を見誤って、無関係な人々を傷つけてしまったのだから。信じてくれていた人たちを裏切ってしまったのだから。今となっては、元より己の力では叶えようのない大言壮語だったのかもしれないとも思うのだ。かつてしづくが宣告した通り、なんの変哲もない小娘ひとりが志したところで、悲しい目に遭う誰かを(いたずら)に増やしてしまっていただけだったのかもしれない。

 

 白蓮には、人を導く才能がない。

 人には、よく信頼してもらえる。だがそれは、人の上に立つ才があるかどうかとはまったく別の話。平和主義が災いしていつも優柔不断で、昔からナズーリンや星には助けられてばかりだった。人と妖怪の共存を理想に掲げ、けれどそんな世界を創るためにどうすればよいのかなどまるでわかっていなかった。わかりもしないまま見境なく手を差し伸べ、救った気になって、人と妖怪の溝をより深いものにして、その期に及んでも夢を諦めきれなくて――。

 悪魔。そう呼ばれるようになったのは、当然だったのだと思う。

 

(本当に、バカだったなあ……)

 

 そう考えればむしろしづくは、敢えて封じることで白蓮を助けてくれたのかもしれなかった。少なくとも、あのときの彼女の口振りはそういう意味で取れたと思う。人に害を為す悪魔を本気で裁くなら、他に取るべき選択などいくらでもあったはずだから。

 でも、そうではなかったのかもしれない。

 白蓮を大人しく封印させるための、嘘だったのかもしれない。無意味な期待を抱きながら、来るはずもない解放の時を未来永劫待ち続ける――それこそが、己に課せられた本当の罰なのかもしれない。

 闇の奥底が囁きかけてくる声を、どうしても掻き消せない。

 

(しづく……)

 

 怖い。

 怖いよ。

 自分は、一体いつまでこの闇の中にいるのだろう。ずっとこのままなのだろうか。このままいつか、心すら擦り切れて完全に消えてしまうそのときまで、ずっと。しづくは白蓮を助けてくれたのだろうか。それとも助けてくれなかったのだろうか。

 この無間の闇で、罪の意識とともに最期まで苦しみ続けろと。それが悪魔と呼ばれた自分の末路なのだと言われてしまえば、白蓮にはなにも言い返すことができない。

 でも、それでも、

 

(やり直したい……)

 

 もしも、もしもこの眠りから覚めるのなら、

 

(もう一度、やり直したいよっ……!)

 

 覚めた先にある世界が、本当にしづくの教えてくれた通りであるのなら、

 

(もう一度、生きたいよ……! 命蓮を助けてくれた、『あのひと』と一緒に……っ!)

 

 生きたくても生きられなかった弟との『約束』を、今度こそ。

 今度こそ――。

 

(…………)

 

 涙は、流れなかったと思う。泣き方なんて、もうとっくの昔に忘れてしまったから。

 

(しづく――……)

 

 だからまた、白蓮はあのときのことを思い出す。闇の囁きがすぐそこまで迫ってきたときは、過去の記憶に縋るのが己にできる唯一の抵抗だった。

 弟が生きていたときのこと。みんなと一緒だったときのこと。そして、しづくと出会ったときのこと。

 何度呼び起こしたかもわからぬあの頃の記憶を抱いて、白蓮はそっとまぶたを下ろす。

 

 そしてそれが、この封じられた空間で過ごす最後の眠りになるのだと。

 今はまだなにも、知らぬままで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もちろん白蓮は、物心を得た当初から妖怪に好意的だったわけではない。はじめは世間一般の常識同様、妖怪は人間を脅かす恐ろしい敵なのだと思っていたし、仏の教えに身近だった分だけむしろその認識は強かったかもしれない。両親が早世した以外はなにも特殊な境遇などない、どこにでもいるようなごくごく普通の里娘だった。

 白蓮には、命蓮という名の弟がいた。自慢の弟だった。生まれつき体は強くなかったが、その代わり人並み外れた高い法力を持ち、将来を高僧として誰からも期待されていた。そしてその期待通りの立派な僧となり、多くの人々を救って――病を患い、白蓮を置いて夭折(ようせつ)した。

 白蓮の人生に最も大きな影響を与えたのは、間違いなく弟だった。

 弟がいなければ、白蓮が仏門に入ることはなかった。

 弟がいなければ、妖怪に恐怖以外の感情を抱くことはなかった。

 弟がいなければ、妖怪を救おうと考えることはなかった。

 弟なくして、己の人生は存在し得なかった――それくらいに自慢の弟だった。

 

 そんな弟には幼い頃、山で怪我をしたところを助けてくれた妖怪がいた。

 怪我が治るまでの間をともに暮らし、陰陽術の手解きを授けてくれた妖怪がいた。

 

 人間のように、やさしかったひと。

 

 その妖怪を、弟は「父上」と呼んでいた。

 白蓮の知らない、命蓮だけの父だった。

 

 

 

 

 

 人に言うと大抵意外な顔をされるのだが、幼い頃の白蓮は家で人形遊びをするよりも、外で虫取りや魚釣りをするのが好きな女だった。成人してからはさすがに鳴りを潜めたものの、外の空気が好きであるのは代わりなく、修行の合間を見つけてはしばしば散歩や買い物に出掛ける日々を送っていた。

 土の匂いは、好きだ。何年何十年と経った今でも、弟を振り回し野原を駆け巡っていた頃が鮮明に甦る。枝葉の隙間から降り注ぐまばらな日差しは、遊び疲れて木陰でお昼寝をした記憶。陽気な小鳥のさえずりは木の実拾いと山菜取りで、涼しげな川のせせらぎは水遊びと魚釣り。白蓮にとっての散歩とは、懐かしい頃の自分を追いかける思い出旅みたいなものだった。

 命蓮を(うしな)ってから、早いもので十年以上の歳月が過ぎていた。人と妖怪の共存を夢見て生きる中で仲間にも恵まれ、次第に前へ進めている実感が得られ始めてきた頃だった。

 散歩も兼ねて山の恵みを少しばかりいただいた、その帰り道だった。

 

「いい天気……」

 

 適度に広がる木陰の下でなお、見上げればそのまばゆさに思わず目を細めるほどだ。穏やかな陽気と心地よい森の声は、自然と白蓮の心を上向きにしてくれる。足取りは軽く、しゃらしゃらと鳴る錫杖とともにいつの間にか鼻歌を口ずさんでいた気づき、「私ったら……」とちょっぴり恥ずかしくなる。

 

 この頃の白蓮は故郷を遠く離れ、山奥の廃寺に新しくやってきた尼僧という立場を名乗り、夢を目指して精力的に――しかし一方では必要以上の素性を隠して慎重に――活動していた。不老長寿の秘術と若返りの禁術に手を出しているのもあるし、まさか妖怪との共存を声高々と謳うわけにもいかないから、表向きには「仏を信ずる心があれば善人も悪人も、妖怪すらもみな等しく救われる」という無難な文句で、こつこつと思想を広める毎日である。

 千里の道も一歩からで始まったこの歩みも、今となっては妖怪の門下を抱えるまでになった。船幽霊の村紗水蜜、入道の雲山、その雲山を使役する雲居一輪、白蓮の推薦を受け毘沙門天の代理となってくれた寅丸星。それと門下ではないけれど、星のお目付け役として毘沙門天から派遣され、寺のご意見番も務めてくれているナズーリン。白蓮の思想に共感し帰依してくれる、或いは理解して応援してくれる、心優しく、白蓮にとっては新しい家族ともいえるかけがえのない少女たちだった。

 まだまだ歩き始めたばかりで、夢は遥か彼方だけれど。

 

(少しずつ……前に進めてるはずだよね)

 

 白蓮の昔からの夢であり、同時に死に逝く弟と交わした最後の約束。

 古来より妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を恐れている。妖怪は敵であるという意識が人々の間では根深く、それ故争いを好まない無害な妖怪たちまでが不当な迫害を受け、時には人間以上に苦しめられてしまっている。

 忌憚ない言葉で表現すれば、今の世は間違っていると白蓮は思う。

 人と争わず、むしろ人の命を救ってくれた妖怪がいる。

 その恩人を父と慕いながらも、正体が妖怪だったというだけで理不尽に別れなければならなかった人間がいる。

 優しい妖怪は、確かに存在している。

 だから種族の違いに囚われず、皆がともに手を取り合える場所が必要なのだ。この世界すべてを変えられるとは思わないが、せめて国のどこか片隅にでも、そういった場所が存在しなければならないはずなのだ。

 襲い、襲われ、恐れ、恐れられるだけの関係を強いる世界なんて、白蓮は絶対に認めたくない。

 

「……」

 

 しかし今の活動を今のまま続けたとして、それで夢を叶えられる日は一体いつになるのだろう。急いては事を仕損じるだけだとご意見番の少女は言ってくれるし、白蓮も、自分の活動が常に危険な綱渡りなのはわかっているけれど――目指す世界は未だ、あまりにも遠い。

 ついため息が出そうになって、首を振った。

 

「……だめだめ。自分だけは、自分を信じなきゃ」

 

 駆け出しの尼として、言われるがまま修行を繰り返すだけでよかった頃とは違う。今の白蓮は人からも妖怪からも帰依を受ける身で、彼女らを導いていかなければならない立場なのだ。昔はいくらでも弟を振り回していたのに、成人し女らしい自制を得た代わりに主体性を失い、人の上に立つのがすっかり苦手な白蓮であった。だからこそ、自分で自分を信じられない有様では門下たちに示しがつかない。

 前を向き、ふんす、と気合を入れて、

 

 真横に人が落ちてきた。

 

「ほわあああああああああああああげふ!!」

「ふひゃああああああああああああああ!?」

 

 本気で悲鳴を上げた。

 道端の木の真上からだった。その人影は枝が重なってできた層を真上からベキバキ突き破り、一番太い枝でしたたかに腹を打って止まりかけ、しかしあと一歩及ばず「あーれー」とずり落ちながら茂みに消えた。

 

「!? !?」

 

 死ぬほどびっくりした白蓮はじわりと涙目で、右を見て、左を見て、上を見て、ここが崖沿いの山道であることを思い出し、

 

「は、え!? ひ、ひと、落ち!? だだだっ大丈夫ですかしっかりしてくださいっ!?」

 

 白蓮が指導者に向かない理由のもうひとつに、予想外のことが起こるといとも簡単に平常心を失ってしまう点が挙げられる。

 どうすればよいかわからずその場でわたわたしていると、茂みから飛び出た足がかすかに動いて、

 

「し、しくじった……まさかここまで高い崖だとは思わなかったぜちくしょう」

「あ、い、生きてる……」

「殺さないでおくれやすー」

「ごっごめんなさい!」

 

 崖の上で、何匹かの獣の吠える声が聞こえる。

 

「えっと……野犬に、追いかけられたんですか?」

 

 足が答える。

 

「うむ。それで逃げようと思って飛び降りたんだけど、意外と高くて死ぬかと思ったよね」

「確かめないで飛んだんですか……?」

「だって止まった瞬間ガブリな状況だったし」

「追い払えばよかったんじゃ……」

「ふっ。血気盛んな野生とはいえ、わんこに手を上げるのは私の流儀に反するんだぜ」

 

 変な人なんだなあ。ピクピク動く足を眺めながら、白蓮はそう納得した。

 

「おっと、こうしてる場合じゃないや。そこにいると思われるお姉さーん、ちょっと手を貸してくれると嬉しいなー」

「あ、はい」

 

 茂みから右手が伸びてきたので、白蓮は一旦錫杖を置き、両手で握り返してめいっぱいに踏ん張る。意外と軽い相手だったこともあり、魔力なしでも手間取らずあっさり引っ張り出せた。

 

「ぷはー。いやーごめんごめん。お陰で助かっちった」

「お、お怪我はありませんか?」

「大丈夫だよー。丈夫なのだけが取り柄なもんで」

 

 全身に葉っぱやら毛虫やらをくっつけたみっともない恰好で、にへらと女は笑った。

 野暮ったい女だった。さっきまで茂みと一体化していたからではない。もとから長い髪を雑にまとめていて、もとからがさつな着飾りなのだ。上は庶民の女性が一般的に着ている小袖で、下は動きやすいように袴を履いているが、紐の締めが甘くぶかぶかの皺だらけで、折目も薄くなっているせいで見るからにだらしない。しかしくっきりとした二重の瞳は大きく丸く、笑顔には生命力が満ちているお陰で不思議と嫌な印象は受けない。野山を元気に駆け巡る子どもがそのまま大人になったような、どことなく純朴な人懐こさを感じる。

 巫女らしい出で立ちをしているが、まさか本当に巫女ではあるまい。葉っぱと毛虫を払った少女が立ち上がる。白蓮よりほんの少しだけ、背が高かった。

 

「あんれ、尼さんだ」

「あ、はい。尼さんです」

「こんな山の中を一人歩きなんて……さしずめなかなかの手練れと見た」

 

 見よ、私の名推理……みたいな顔を少女はしていた。楽しそうな人だなあと白蓮は思う。

 

「私は、この山にあるお寺の住職です。……あなたこそ、こんなところで一体なにを? 私が言うのもなんですけど、ここは女の方が一人で歩くような場所じゃ……」

 

 んー、と少女は白蓮を見ながら少し考え、

 

「……まあ、探し者(・・・)かな。もう用は済んだから、日が沈む前にそろそろ麓に下りようかなって」

「はあ」

 

 少女は荷物らしい荷物も持たず手ぶらである。そんな山歩きらしからぬ恰好で、一体なにを探していたのやら。

 それにしても、不思議だ。崖の高さを見る限り彼女はそこそこ高いところから落ちてきたはずだが、本当に怪我ひとつ負っていないし、それどころか服もまったく傷んでいない。髪をちゃんと結んで服の紐をしっかり締めれば、誰も彼女が崖から落ちてきたなんて信じないだろう。

 もちろん、怪我もなく済んだのはよいことだけれど。

 

「……ちなみに、町がある麓ってどっち? 追いかけられてるうちにわかんなくなっちった」

「それでしたら、この山道に沿って下っていけば、」

 

 そこで白蓮は口を噤んだ。

 白蓮の正面――すなわち山を登る方向から、恐らくは崖を迂回してきたのだろう、怒涛の勢いで疾走してくる野犬の群れが、

 

「……あー、」

 

 少女は、振り返ることもなく察した。きつくまぶたを閉じ、声なき声で呻き、ぷるぷる震えながらお天道様へ呪詛を飛ばすように空を仰いで、

 一秒、

 

「上等じゃあああああっ捕まえられるもんなら捕まえてみやがれええええええええ!?」

『『『ガウウウウウッ!!』』』

 

 白蓮が教えた方角をまるっきり無視し、山道を外れ急な斜面を猿みたいに駆け下りていく。そしてそんな死に物狂いの少女を、野犬たちは一匹残らずご丁寧に猛追していく。白蓮なんてはじめから眼中になしである。

 

「へ、」

「助けてくれてあんがとねええええええええええっ」

 

 少女も野犬の群れもあっという間に斜面の底へ消え、あとには山彦のような少女の叫びが響くのみ。

 頭が追いつくまで、たっぷりと五拍ほど掛かった。

 

「……はっ!? へ、あ!? あ、あのーっ!?」

 

 慌てて斜面を覗き込むと、辛うじて木々の彼方で点になりかけている少女の背が見えた。なにゆえ野犬から世紀の大泥棒みたいに追いかけられているのか、いやそれよりもなにぼけっと突っ立ってるの聖白蓮危険な目に遭ってる人を見過ごすつもりなの今すぐ追いかけなきゃ、

 

「ま、待ってくださ――うひゃあ!?」

 

 そして斜面に一歩足を踏み出した瞬間、落ち葉で滑ってものの見事にすっ転んだ。昔から運動神経は自信があるのに、しょうもないところでしょうもない鈍くささを発揮してしまう白蓮であった。

 

「ふわっ――うわわわわわっ、へぶぅ!?」

 

 勢いよく尻餅をついた瞬間取り返しのつかないところまで体勢が崩れ、顔面から落ち葉のそりに乗せられていっそ滑稽なくらいに滑り落ちた。

 はてさてどれほど滑ってしまったか、斜面が緩やかになった場所でようやく止まる。

 

「い、いたたた……もうっ、私ってどうしてこう……」

 

 誰にも見られてはいなかったはずだが、マヌケすぎて勝手に顔が熱くなってくる。聖は住職としては優秀だけど、そそっかしくて危なっかしいところがあるからねえ――ご意見番の少女にそう辛辣に評価されてしまった記憶が甦って更に熱くなる。そういえば昔も、野原を走っては転んで釣りに行っては川に落ちて、いつも命蓮から生暖かい目で見られてたっけなあ。

 

「うう……」

 

 しゅうしゅう湯気を上げながら体を起こす。山の恵みを入れた籠が壊れなかったのは幸いだが、当然少女の姿などもう影も見えない。白蓮はため息をつき、地面にしっかり両手をついて、また足を滑らせないよう慎重に、

 

「――え、」

 

 血。

 手をついた先の落ち葉が、ひと目でぞっとする量の血で赤黒く汚れていた。

 

「……え、や、やだ、どこか怪我したかな」

 

 咄嗟に慌てることもできなかった。まざまざと血の気が落ちていく感覚の中で白蓮は体を確かめる。腕、胸、お腹、脚、最後に頭。しかしどこを触っても血が流れている様子はなく、斜面を滑り落ちた鈍い痛みこそあるが、意識ははっきりしているし体も問題なく動かせる。

 つまり、

 

「……私の血じゃ、ない?」

 

 落ち着いて考えてみれば当然のことだった。白蓮の手は汚れていない。この血はすでに固まっているのだ。つまりは白蓮よりも先にここを通りかかった何者かの血痕であり、なんだよかったと思わず胸を撫で下ろしたその直後、

 

「た、大変……!?」

 

 心臓をぎょっと鷲掴みにされた。なにがよかったものかと自分で自分を叱責し、立ち上がる間も惜しんで懸命の形相で血の跡を探した。落ち葉の汚れ方からして、誰がどう見たってちょっとやそっとの怪我ではない。そしてこの山に土地勘のある白蓮は、ここより周囲に存在するものが手つかずの自然ただひとつであることを知っている。寺にだってまだまだ歩かなければならない。もしもこれが必要な手当てを受けることもできず、当てもなく山を彷徨い歩いた何者かの痕跡であるのなら。

 人であろうと妖怪であろうと、白蓮の答えは決定した。

 

「……ごめんなさい」

 

 秤にかけるまでもなかった。今やもう声も聞こえないあの少女へ小さく詫びを入れ、白蓮は余計な思考をすべて意識の外へ弾き出す。

 何度も足を滑らせかけながら探し回ってようやく、落ち葉と土に紛れた血痕の道を見つけた。

 

 

 ――人のみならず、理不尽に虐げられる妖怪こそが救われるべき命なのだと思っていた。争いを望まない心優しい者たちが、その望みのまま暮らしていける場所を創りたいだけだった。遠すぎる理想を目指して歩き続け、少しずつ仲間に恵まれて、私たちはきっと手を取り合って生きていけるはずだと確かな実感が得られ始めていた。

 

 それ故の、油断だったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 血の跡を追いかけ山を下り、或いは登り、山修行で鍛えた土地勘も失いかけるほど奥へ分け入って、白蓮はようやくその場所まで辿り着いた。

 わざわざ崖と呼ぶほどでもない、山を歩けばどこでも見かけるような、人ふたり分ほどの高さで剥き出しになった粒の粗い地層。苔むし木の根が這うその根元の部分が崩れ、白蓮でも屈まなければ進めない程度の小さな洞穴となっている。そう大した深さがあるとは思えないが、光が上手く差し込まないせいなのか、入口は不気味な闇一色で遮られている。

 奥。

 

「っ……」

 

 知らず識らず、胸の前で己が両手を握り締める。もはや血の跡を探さずともわかる。他者を寄せつけまいとする針のような気配を感じるし、この奥に身を隠しているのが人ではないことも白蓮はすでに察していた。

 そして、向こうも白蓮に気づいていた。

 人間に友好的な妖怪とは限らない。これ以上近づくのは危険かもしれない。けれどここまで追えてしまうほどの血を大地に流した何者かは、間違いなくあの闇の奥にひそんでいる。もしも白蓮の悪い想像が当たっているのなら、確かめもしないで恐怖に屈してしまうのは絶対に嫌だった。

 妖怪というだけで人間から理不尽に襲われ、怪我を負い、誰の助けにも縋れぬまま独りで耐えるしかない者だって、この世界には確かに存在しているのだ。

 

「毘沙門天様……どうか、御加護を」

 

 祈り、白蓮は一歩を踏み出す。途端に洞穴の奥から剣呑な妖気があふれ、壁となり立ち塞がって白蓮の歩みを拒む。けれどそれは、強がりな妖気だった。これ以上近づかれればもう為す術がない自分を、喉を唸らせ、牙を剥き出しにして懸命に覆い隠そうとしていた。

 普通の人や獣なら、それでも充分追い払えただろう。

 白蓮は止まらない。だからこそ、止まるわけにはいかない。この先にいるのはきっと、自分が手を差し伸べるべき妖怪であるはずだから。

 洞穴の入口を、目の前に捉えた。

 

『――止まれ』

「……!」

 

 地の底が冷たく唸りをあげたような、老婆とも老爺ともつかぬしわがれた声だった。人の声にはありえない振動で肌が引きつり、白蓮は咄嗟に呼吸を止めた。

 

『……人間が。儂の首を取りに来たか』

 

 深い嫌悪と、怨嗟と――空虚の、声。

 やはり深い洞穴ではない。薄闇の奥にかすかながら、横たわった獣の四つ足と尾の輪郭が見える。大きくはない。あの少女を追い回していた野犬と同じか、むしろ少しばかり小さい程度。

 

()ね。その首喰い破られたくなければ』

「……」

 

 恐ろしい言葉とは裏腹に、声に浮かぶ感情は深い失意だった。上っ面だけの警告だった。敵を喰い破るだけの力なんてとっくに残っていない。この人間がもしも妖気に臆せず踏み込んでくるなら、結末はひとつ以外にありえないと――そう、己の命を諦めてしまっていた。

 やはり、逃げるわけにはいかない。白蓮は静かに息を吸い、止めて、強く言った。

 

「――あなたを、助けに来ました」

 

 己が使命を、己自身へ告げるように。

 

「傷を見せてください。私が、手当てをします」

 

 しばし、反応はなかった。やがて沈黙こそが答えだと白蓮が受け取ろうとする頃になって、薄闇の奥から不自由そうに喉を震わす音が響いた。

 

『――ふ、は、は。人間が、儂を助ける?』

 

 嘲笑だった。

 

『我が里を襲い、同胞の命を奪った人間が。儂を、この儂を、助けるだと?』

「ッ……」

 

 ――ああ、まただ。

 妖怪は人間を襲い、時に血肉をも喰らう。それ故に人々の恐怖はやがて、妖怪が人間を襲うのなら、我々人間は襲われる前に打ち倒してしまえばよいのだという思想を生み出した。妖怪が人間を襲う一方で、いつしか人間もまた妖怪を襲い、互いが互いを傷つけ合うようになってしまっていた。

 争いを望まぬ心優しい者たちまで巻き込んで、それに一体、なんの意味があるというのか。私たちは一体、なんのために心を持って生まれてきたのかと、白蓮は本当に口惜しい思いに駆られる。

 だから白蓮は、妖怪を救うのだ。負の感情をぶつけ合う無意味で空虚な負の連鎖は、必ずどこかで、誰かが正の感情で断たねばならないから。

 

「助けます」

 

 答えた。

 

「人を襲う妖怪がいます。妖怪を襲う人もいます。……でも、人の命を助けてくれるような、優しい妖怪だっていますし、」

 

 弟は、妖怪に命を救われた。

 優しいひとだったと、弟は言っていた。

 ただ襲い襲われるだけが、人と妖怪のつながりではないと。そう弟が、白蓮に言い遺してくれたから。人も妖怪も救ってみせることが、弟と最後に交わした約束だったから。

 だから、

 

「――傷ついた妖怪の力になりたいと願う人間だって、ここにいます。だから助けます」

 

 からみつく妖気を振り解き、再び一歩を踏み出す。妖怪が喉を唸らせ白蓮を睥睨(へいげい)するが、もう怖いとは思わなかった。助けがなければ衰弱し死ぬだけだとわかっているはずなのに、それでも助けを拒絶しようとする拙い矜持が哀れですらあった。

 膝を曲げ、洞穴を進む。

 (てん)――或いは、鼬か。まず目に飛び込んできたのはその毛並みだった。恐らく元は白に近い色だったのだろうが、こびりついた血が黒く変色し、土と泥で汚れ、打ち捨てられた布切れよりも遥かに無残で痛々しい姿だった。毛先は艶を失い濁りきり、生気の巡りがほとんどなにも感じられず、もしも前以て威嚇を受けていなければ、白蓮とて死んでいるものと早合点してしまっていただろう。

 半死半生。

 

「ひどい……」

『……人間が、妖怪を憐れむか』

 

 獣が、まぶたを上げた。貂や鼬は一見丸く愛らしい顔つきをしているものだが、この獣には愛嬌と呼べる類などひと欠片も存在していない。生気を失ってなお炯々(けいけい)と赤い(まなこ)は鋭く切り立ち、黄ばんだ牙を隠そうともせず根元から剥き出しにする。けれどやっぱり、それは、なんの力もない自分をせめて妖怪らしくあろうとする強がりな示威に過ぎなかった。

 深呼吸をした。

 なにもはじめてのことではない。厭世に呑まれた妖怪へ、手を差し伸べるのは。

 

『……無様だろう。どうだ、妖怪を見下し、その生殺与奪を握った気分は』

「助けると、言ったはずです」

 

 獣の自嘲と嘲笑を一声の下で断ち、白蓮は膝をついて手を伸ばした。

 

「傷を、見せてもらいます」

 

 獣の瞳に、苦々しい不可解と警戒の色が混じる。

 

『なにを考えている』

「言った通りです。あなたを助けます」

『戯れ言を。そんな真似をして貴様になんの得がある?』

「あなたの命を見捨てずに済みます」

 

 強く顔をしかめるような、低く短い唸り声だった。きっと、人間から悪意以外の感情を向けられることすらはじめてだったのだろう。それは白蓮という人間への猜疑(さいぎ)ではなく、はじめて出会う正体不明の生物に対する動揺ですらあった。

 心の中では、白蓮の想像も遥かに及ばぬ激しい自問が繰り返されていたと思う。だが最終的に獣は、それすらもはや無為なものでしかないのだと切って捨てた。

 

『……好きにしろ』

 

 体から一切の力を抜き、空虚に、

 

『なにをされようと儂には、もう抗う力もない』

「ええ、好きにさせてもらいます」

 

 生を諦めた思考の放棄を、白蓮は肯定と受け取った。逡巡は須臾の間だけ。血まみれの体へ手を伸ばし、痛みを与えぬよう細心の注意で傷の所在を確かめる。

 その如何によっては、寺へ運んで手当することも覚悟したが。

 

「……よかった、傷自体はもう塞がってますね。さすが妖怪です」

 

 妖怪は総じて外傷に強く、その治りも人間と比べていっそ不平等なほど早い。見る限り手当を受けた痕跡はないから、毛の色が変わり果てるまでの血を流しながらも、己の潜在能力だけで事なきを得たということだ。

 白蓮はひとつ胸を撫で下ろす。しかし気は緩めない。

 

「なにか……術を、掛けられていますね」

 

 獣の体の中で、なにか邪な力が絶えず渦を巻いているのがわかる。具体的な見当はつかないけれど、獣を襲った人間が掛けた呪術の類なのは疑いようがない。

 獣がわずかに首を上げ、喉で笑った。

 

『ほう、わかるのか』

「助けると言ったはずです」

 

 即答する白蓮を、心底おかしそうに、

 

『妖怪の力を封じ衰弱させる、忌々しい(まじな)いだよ。これのお陰で一向に回復の兆しがない。なんとか傷だけは塞いだが、これ以上は儂にはどうにもできん』

「……解きます」

 

 傷自体がすでに癒えているのなら、この邪法さえ解いてしまえば助けられる。尼僧として、どんなときも最低限の道具だけは携帯するようにしていて正解だった。火種がないから護摩は焚けないが、おびただしい量の経を写した巻物、法力を込めた念珠、そして錫杖さえ揃っているならなんとかなる。呪いを祓う――つまり邪なモノを退けるのは、白蓮たち仏僧が最も得意とする独擅場だ。

 静かな問いだった。

 

『……本気か。貴様、本気で儂を助けるつもりなのか』

 

 今度は、白蓮がおかしそうに笑ってやった。

 

「はじめから、そう言ってるじゃないですか」

『……』

 

 獣が持ち上げていた首を地面に下ろし、また、長い吐息とともに全身の力を放棄していく。けれど此度のそれは、己の最期を悟り諦めるものではなく。

 

『……奇妙な人間だ』

「よく言われます」

 

 少しだけ。

 抵抗が無意味なのではなく、不要なのだと理解し、白蓮を受け入れるような。

 思わず頬が緩み、すぐに首を振って白蓮は心を切り替える。獣の体に巣喰う呪術を白蓮は知らないし、罪もない妖怪を死に至らしめる術など知りたいとも思わない。

 だがたとえ知らずとも、邪悪を祓う毘沙門天の力さえあれば。

 

「動かないでくださいね」

『……安心しろ。動く気力もない』

 

 そうですか、と短く答えて。

 念珠を握り締め、白蓮は祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 四半刻は掛からなかったと思う。

 

「……どうですか?」

 

 今の自分にできる限りの祈祷を終え、白蓮は固唾を呑む思いで獣を見下ろした。上手く行った、はずだった。自分にはもう、この獣を蝕んでいた邪法の痕跡は影も形も感じられない。

 獣が病み上がりの体を押して立ち上がろうとする。白蓮は咄嗟に手を伸ばそうとし、しかし赤黒く固まった毛先に指が触れる直前で思い留まった。白蓮の予想に反して、獣が拍子抜けするほどあっさりと立ち上がったからだった。

 獣自身、些か驚いた口振りだった。

 

『……よもや、本当に助けられるとは思わなんだ。貴様は人間ではないのか』

「……人間ですよ」

 

 眉を開きながら白蓮は答える。――少なくとも、今はまだ。妖怪から力を分けてもらい、不老長寿の秘術と若返りの禁術に手を出している。存在が人間とは呼べなくなっても、心は人のままでありたいと願ってはいるけれど。

 でも、と続け、

 

「この世には様々な人たちがいて、十人十色です。妖怪に敵意を持っている人もいるでしょうし……逆に、どうか互いに争うことなく、平和に生きていたいと願う人だっています。それは、妖怪も同じでしょう?」

『……』

「私は、そんな人と妖怪の橋渡しになりたいだけなんです」

 

 祈るように、

 

「争いを望まない者たちが、争わずともに暮らしていける。そんな場所がこの世のどこかにひとつくらいあったって、いいじゃないですか」

『…………』

 

 獣はなにも言わず、探るような目つきで微動だもせず白蓮を見ている。だから白蓮もそれ以上はなにも語らず、毅然と相手の瞳を見返した。たとえ一生を懸けるに値する譲れない夢であっても、他人からすればなんの価値もない荒唐無稽な絵空事でしかないのはわかっている。だからこそ、ここで逃げてしまってはいけないのだと思った。

 先に目を逸らしたのは、獣の方だった。

 

『……貴様は、妖怪の味方なのか』

「敵とか、味方とか。そういう線引きをしなければならないこと自体、悲しいことではありませんか」

 

 口端を曲げた。

 

『まこと、奇々怪々な人間よ』

「……そうかもしれませんね」

 

 妖怪との共存を願う自分の思想が、世の流れに逆らうものであるのは事実だろう。荒唐無稽と笑われるだけならまだマシであり、人の目によっては狂気の沙汰にも映りかねないものなのかもしれない。今はそれだけ、人と妖怪の距離が深く隔たれてしまっている時代だった。

 だが結局白蓮は、時代にそぐわないという理由だけで夢を捨てられるほど利口ではなかった。人に理解されないものだからと恐れをなして、声を上げることすらできぬ人間にはなりたくなかったのだ。

 声を上げなければ、なにかを変えることすらできないのだから。

 だから白蓮は、こう問い掛けるのだ。

 

「私のお寺に、来てみませんか?」

『……寺だと?』

「はい。あなたのような、行き場を失った妖怪にも開かれたお寺です」

 

 二つ目の問いを、白蓮はややの間躊躇った。

 だが、言った。

 

「今のあなたには……人を恨む心が、ないわけでは、ないと思います」

『……それは』

「でもっ、」

 

 言い淀む獣に、強く言葉を被せて、

 

「恨みに囚われる心ほど悲しいものはありません。恨みに生きて、恨みに滅びて、地獄で永遠の責め苦を味わうだけ――その先に一体なんの救いがありますか」

『……』

「私たちはなんのために、心を持って生まれてきたのですか。同じ命同士で争い、憎み、苦しむためですか? 私は違うと思います。違うはずです。……そんなことのために心が存在しているなんて、悲しいじゃ、ありませんか」

 

 姿は若い少女であっても、白蓮は今や老齢にも差し掛かった人間である。長く生きた分だけ様々な世界を見てきた。平和な世界も――そしてそれ以上に、悲しい世界も。

 心なんてものがあるから争いや苦しみが生まれる。それは悔しいが否定できない。だからこそ否定できると示したい。人と妖怪は、きっとともに暮らしていけるのだと。

 こうして行き場のない妖怪たちに、手を差し伸べ続けることで。

 

「どうですか? お寺には妖怪の門徒もいるんです。あなたにとって、なにか新しいきっかけになると思いますよ」

『……』

 

 獣はしばし黙考していた。顔つきは至って真剣で、少なくとも当初の、妖怪を救おうとする白蓮を嘲っていた姿ではなかった。

 もしかしたらと、一瞬は期待してしまったけれど。

 

『……いや。やめておこう』

 

 獣は、ゆっくりとかぶりを振った。

 

『やらねばならぬことがある。腹が減ったし……他に生き延びた同胞がいないか、捜さなければ』

「私たちなら、お手伝いできます」

『これ以上人間の世話にはならん』

 

 苦笑し、

 

『儂にも妖怪としての矜持がある。……助けられたことは礼を言おう。世話になったな』

「……」

 

 白蓮の脇を通り過ぎ、虚ろな歩みで洞穴から出て行こうとする、その小さな体に。

 

「迷ったときはいつでも、いらしてくださいね」

『……』

 

 答えはなかった。洞穴から出た途端、太陽の光に目をくらまされてややふらつき、しかし決して歩みは止めぬまま、壁伝いの方向へ影のように消えてゆく。

 やっぱり心配になって、追いかけてみたが。

 

「あ……」

 

 外に出てあたりを見回すも、獣の後ろ姿はどこにも見当たらない。

 すべてが白昼夢であったように。しんしんとした昼下がりの森だけが、素知らぬ顔をして白蓮一人を包み込んでいる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 珍しくないことだった。

 ほんの一地方での地味で地道な活動とはいえ、始めて今や何年にもなる。傷ついた者、行き場を失った者、生まれたときから独りだった者、それなりにいろいろな妖怪たちへ手を差し伸べてきた。寺の仲間以外にも、白蓮の思想に一定の理解を示してくれる妖怪はいた。しかしそこに理解はあっても共感はなく、わざわざ白蓮の手を取って仏門に下るまでは至らなかった。

 妖怪にとって出家とは、どうやら人間ほど簡単にできる行いではないらしいのだ。

 

「星やナズーリンなら、上手くお話できたのかなあ……」

 

 ナズーリンは言わずもがな、星も信仰を集める一点に関してはとても優秀で頼りになる仲間だった。もしも白蓮ではなく彼女たちであれば、今頃はあの妖怪を寺に招く程度はできていたような気がしてならない。

 

「はあ……」

 

 どうして自分はこう、上手く人を導けないのだろう。押しが弱いのだろうか。それとも、自分の意見に説得力を持たせて伝えるのが下手なのだろうか。ちょっぴりナズーリンに弟子入りしたい気分になってくる。

 うじうじ煩悶しているうちにだいぶ歩いたらしく、いつの間にか寺が見えてきていた。正確には寺へ続く長い石畳の階段と、それを登りきった先にある古ぼけた山門が、であり、階段の中腹では門下の少女がのんびりと竹ほうきを動かしていた。

 白蓮は頭を振ってひとまず煩悩を退散させる。悩むのはおしまいだ。彼女たちの前で、住職としてみっともない姿は晒せない。

 白蓮が階段の一段目に足を掛けたところで、少女が気づいた。

 

「あ、聖様。おかえりなさい」

「ただいま、一輪」

 

 更に少女の左肩あたりでは、雲でできた拳大の老爺の顔が浮かんでいる。

 

「雲山も、ただいま」

 

 老爺は凝り固まった眉間の皺を少し解き、ぺこりと丁寧な目礼をした。

 入道使いと雲居一輪と、彼女が使役する入道の雲山である。片や元は普通の人間の少女、片や元は普通の野良妖怪であった二人だが、白蓮と出会ったのちは仏門に下り、見習い僧侶として平和な修行の毎日を送っている。雲山が寡黙ながら礼儀正しい一人前の男である一方、一輪は怠け癖が抜けきらない半人前で、朝はなかなか起きないし修行からは逃げようとするし、本当に仏を信仰してくれているのかと白蓮は最近疑問に思っている。

 とはいえ、見る限り今はちゃんと掃除をしてくれていたようだ。単なる寺の掃除も、僧侶にとっては立派な修行のひとつである。

 

「今日のお散歩は長かったですね」

「途中で、ちょっと寄り道しちゃって」

 

 あの妖怪のことは、あとでみんなが集まったときに話そうと思う。

 一輪は白蓮の出で立ちを上から下まで観察し、なるほど読めたとばかりの顔をして、

 

「もしかして、またやんちゃしてきたんですか?」

「や、やんちゃ?」

「だってほら、服に微妙に土がついてますし。羽目を外しすぎて、また山道から転げ落ちたんでしょう?」

「べ、別に羽目を外してたわけじゃないのよっ?」

「転げ落ちたのは否定しないんですね、ぎゃん!?」

 

 白蓮は鋭い手刀をお見舞いした。確かに転げ落ちはした。転げ落ちはしたけれど。

 

「目上の相手をからかっちゃいけませんっ」

「からかったわけではなく事実……」

「ねえ一輪、あとで一緒にお稽古(・・・)しよっか」

「大変申し訳ありませんでした」

 

 わかればよろしい。

 

「なにか変わりはあった?」

「いえ、なにも。ムラサは庭の水遣り、星はナズーリンに座禅を見てもらってますよ」

「そう、ありがとう。終わったら、そろそろお夕飯の準備にしましょうね」

「はーい」

 

 一輪と別れ、石畳を登る。

 そう大した寺ではない。境内は山門の位置からでも見渡せる程度の広さしかなく、正面には一層古ぼけた風格漂う本堂があり、横にこぢんまりとした僧堂が隣接している。向かって右手にあるのが白蓮たちの住居となる庫裏(くり)で、左手がいっちょまえの鐘楼と、これだけですでに境内の充分すぎる面積を占めているが、そこに弟の遺した飛倉まで無理やり置いたものだから余計手狭になっており、庭の手入れが行き届いていないのもあってなんとも垢抜けない景観だった。ちょっと気を抜いた隙に植木たちがまた茂ってきたようなので、そろそろ町からお手入れの人を呼ばないとなあと白蓮は思う。基本的な掃除はすべて白蓮たちでこなしているが、本格的な庭仕事は、交流も兼ねて町から職人を招くことが多い。

 さてそんな庭では一輪の言葉通り、植木へ水遣りをしている少女がいた。底が抜けていない柄杓を軽やかに振り回し、「とりゃーっばしゃー!」と大変楽しげな様子である。

 

「ムラサ」

「ばしゃーっ、……あ、聖! おかえりなさいでーす!」

 

 彼女、船幽霊の村紗水蜜は、一輪の場合とは少々事情が違い、元は多くの人間に害を為す荒れくれ者の妖怪だった。しかし白蓮との出会いを経て心を入れ替え、今ではすっかり大人しくなって、この寺で居候としてのんびり気ままな生活を謳歌している。一輪同様やや怠け癖があるものの、不思議とそれが欠点に感じられない人懐こさが魅力の少女だ。

 

「今日はちょっと長めでしたね。なにかあったんですか?」

「う、うん、ちょっと寄り道しちゃって」

 

 また気づかれるかと身構えたが、ムラサにそれらしい素振りはなく、

 

「いやー、今日は朝からすごく天気がよかったですからねえ。寄り道もしたくなっちゃいますよ。ほら、みんなもきらきら輝いてますしー」

 

 見ればなるほど庭の草花たちが、ムラサの撒いた水で陽の光を受けて宝石みたいに着飾っている。こういうところで心から楽しそうな顔ができるのも、彼女の大きな魅力のひとつであろう。

 

「ムラサは本当に変わったね」

「?」

「ほら、はじめて会った頃と比べると」

 

 ムラサが、とても苦い薬を水なしで放り込まれたようなしかめ面をした。

 

「あの頃の話はやめてくださいよー……。あれはちょっとやさぐれてたっていうか、本来の私じゃなかったんですっ」

 

 当時の記憶は、今のムラサからするとあまり振り返りたくないらしい。人間の中にもしばしば、幼い頃やんちゃだった――いろいろな意味でやんちゃだった――自分を思い出しては、闇より深い自己嫌悪で頭を掻き毟る者がいるという。

 こうして見ると妖怪といえど、なんてことはない、人間みたいにかわいらしい立派な一人の女の子なのだ。

 

「水遣り、ありがとう。そろそろお夕飯の準備にするから、終わったら手伝ってくれる?」

「あ、はーい。じゃあぱぱっと終わらせちゃいますね!」

 

 ばばば!と柄杓で元気いっぱい水を振りまくムラサに微笑み、白蓮は更に先へと進む。

 履物を脱いで上がるのは、寺の僧堂である。僧堂とは文字通り僧侶のための空間で、つまりは日々の修行を積む場所である。といっても山奥の小さな寺なので、多くの門徒を抱える立派な寺院とは比ぶべくもなく、要は普通より多少広い程度のお座敷だ。座禅や写経の他、滅多にあることではないけれど、町から人々を招いて白蓮が説法を開くのにも使われる。

 座敷の中央に、座禅を組んで精神統一に耽る星がいた。背後にはナズーリンが立ち、いつでも警策(きょうさく)――僧の座禅が乱れたとき、肩を叩いて励ますための細長い棒――を振り下ろせるよう準備万端で身構えている。抜き足忍び足のこちらに気づき、ナズーリンの小さな唇が「おかえり」と動いたので、白蓮も同じく「ただいま」と返した。

 寅丸星は毘沙門天の代理人にして、この寺の本尊を務める少女である。生来は山を駆け巡る一介の獣であったが、白蓮との出会いを通して仏心に目覚め、紆余曲折を経つつも今の立ち位置に落ち着いた。元が妖怪とは思えぬほど心優しく、人々の信仰をとても上手に集めてくれるのだ――白蓮以上のお人好しで、ちょっと間抜けなところがあるのが玉に瑕だが。

 そしてナズーリンは、星が代理人としての務めをきちんと果たしているか監視するため、毘沙門天の元から派遣された客分にあたる。この寺では唯一、白蓮の思想に帰依しない中立の存在であり、その立場を活かしてしばしばご意見番の役目を買って出てくれている。日和主義が過ぎる白蓮に、いつも的確で忌憚ない助言を与えてくれる、寺一番の縁の下の力持ちだ。

 星は忍び足の白蓮に気づくことなく、まぶたを下ろして一心に心を澄ませている。彼女は毘沙門天の代理人になって――すなわち仏門に入ってまだ日が浅いので、仏という立ち位置ではあるものの、仕事の合間を縫ってはこうして修行に勤しんでいるのだ。

 感心感心、と白蓮が頷いたところでいきなり、

 ぐぐうううううぅぅぅ。

 

「「「……」」」

 

 腹の音だった。

 星の、それはそれは盛大な腹の音だった。

 

「「「…………」」」

 

 静謐に澄んでいた星の表情が次第に崩れ、じわじわと赤くなり、体はぷるぷると痙攣を始める。対してナズーリンは人差し指でこめかみを掻き、大きく息を吸い、吐いて、

 

「ふんッ!!」

「いだぁい!?」

 

 警策で星の頭をぶっ叩いた。

 とても見事な快音が響いた。

 

「なななっなにするんですかナズ!? 違いますっ、叩くのは肩! 頭じゃなくてかーたーっ!」

「うるさいよ」

 

 涙目で頭を押さえる星をナズーリンはばっさり切り捨て、

 

「まったく……今の今までちゃんとやっていたのに、どうして聖が戻ってきた途端そうなるかな」

「だ、だって、そろそろお夕飯の時間ですし……え、聖?」

 

 星がようやく白蓮に気づいて、顔からぼふんと盛大な湯気を噴いた。

 

「ひ、ひひひっ聖!? い、いつからそこに……!」

「えーっと……星のお腹が鳴るちょっと前から」

「き、聞かれっ……ふえええん……」

 

 とまあこんな感じで、仏様とは思えないくらい間抜けであり、そこがとてもかわいらしい少女なのである。

 蹲ってぷるぷる羞恥を耐え忍んでいる星に、白蓮は微笑んで。

 

「じゃあ、そろそろ支度しましょっか」

 

 ムラサに一輪、雲山、星、そしてナズーリン。

 弟を喪った白蓮の、今はこの妖怪たちこそが、かけがえのない大切な家族だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 この山は、麓に町を抱いている。

 都から離れた地方の町なので決して大きくはないが、一方で街道に近い分だけあながち小さくもない。主に街道を行き交う商人や旅人が一休みのため立ち寄る、所謂宿駅に近い形で発展しつつある町だった。

 そんな町へもう間もなく辿り着こうという麓の道にて、神古しづくはボロ雑巾になっていた。

 

「つ」

 

 品もなく地面で大の字になって、青空を見上げてぜーぜー息をしながら、

 

「つ、つかれた」

「なにをやっているのだ貴様は」

「わんこから逃げてた!」

 

 神古しづく至上最速の下山記録であろう。山の中にいる間はしつこく追いかけ回してきた山犬たちも、人間の領域が近いとわかると口惜しげに退散していった。

 さて傍らでは天を衝く山伏姿の大男が一人、大変冷ややかな眼差しでしづくを見下ろしている。

 旅の仲間、みたいなものである。その割には疲れ果てた仲間への労わりなど微塵も感じられないのだが、まあ仲間みたいなものである。

 やはり気遣いの欠片もない冷徹なため息、

 

「馬鹿か」

「ひどくねー?」

「なぜ追い払わなかった」

「ふっ。血気盛んな野生とはいえ、わんこに手を上げるのは私の流儀に反」

「やはり馬鹿だな」

「ねえ、私たちってほんとに仲間?」

「さあどうだったか」

 

 クソ坊主が。

 

「こないだの仕事で命を救ってやった恩を忘れたか」

「なんの手柄も上げていない貴様が哀れだったのでな、見せ場を作ってやっただけだ。貴様こそ儂が助けてやったのを忘れたか」

「いやーちっとも活躍できてない君が可哀想でさー。優しいよねー、感謝してほしいなー」

 

 とまあ、昔からなにかと一緒に仕事をやってきた腐れ縁だ。先日もとある依頼でとある山の凶悪妖怪たちを退治してきたばかりであり、今はちょうど帰り道でこの先の町に宿を取っている。ただしづくだけちょっとばかし別の用事があったので、山伏含めた仲間たちを町に残して、一人で山をうろついていたわけである。

 他の仲間たちの姿は見えない。大方しづくのことなど綺麗さっぱり忘れて、町の美味しい食事に舌鼓を打っているのであろう。私たちってほんとに仲間なのかなー。

 

「そも、なにゆえ山犬などに追いかけられていたのだ」

「さあ……。やっぱあれかなー、獣にもわかっちゃう女の魅力っていうか」

「鳥か野兎の匂いでもするのではないかな」

「ぶっ飛ばす」

「面白い」

 

 しづくは立ち上がって札を抜き、山伏は錫杖の形をした仕込み刀の鯉口を切り、一触即発で数拍の間睨み合う。やがてどちらからともなく構えを解き、

 

「立てる威勢があるなら戻るぞ。腹が減った」

「そだねー」

 

 この程度の小競り合いは、自分たちの間ではいつものことだった。仲が悪いというわけではなく、これはこれでひとつの理解の形なのだとしづくは思っている。

 身の丈が高い分歩幅も広い山伏の背に続いて、町へ戻る道をせかせかと歩く。彼の杖代わりの錫杖がしゃらしゃらと鳴る。

 問い。

 

「それで、探し人には会えたのか」

「うん。同じ顔、同じ恰好だったし、まず間違いないと思う」

 

 無論山犬に追いかけられたいがために、わざわざ一人で山へ立ち入っていたわけではない。

 しづくは元々、この山を辛抱強く登った先にあるという寺院を訪ねるつもりだった。その途中でなぜか山犬から目をつけられ、追いかけられるがまま道なき道を登ったり下ったりしているうちに崖から落ち、結果的には無事目的の人物を拝むことができた。

 長らく近づく者のいなかった廃寺を瞬く間に立て直した、見目麗しき女住職。

 確かに町で耳に挟んだ評判通り、人柄も容姿も申し分ない才色兼備だったけれど。

 

「あれが、『悪魔』なんて呼ばれるようになっちゃうわけかー……」

 

 どこからどう見ても、天女という言葉の方が相応しい少女なのに。

 

「実際悪人なのではないか? 僧侶だからといってみな善人というわけではないぞ」

「そうだねー、倒れてる仲間に手も貸してもくれない冷酷無慈悲なお坊さんがいるしねー」

 

 無視された。クソ坊主め。

 とはいえ確かに、山伏が言う可能性も考えてはいた。一見すると善人に見えても実は救いようのない悪人で、彼女は呼ばれるべくして『悪魔』と呼ばれるようになるのではないかと。しかしその疑いも、ああして実際に顔を合わせてみたことでほぼ完全に消えた。

 断言する、あの少女は善人だ。不器用なまでに善人だ。表向きは人のいい住職を演じ、裏では人道を外れ悪に手を染めている――あれはそんな器用な生き方ができるような人間ではない。つまりはここから先の未来、あの少女はどこかでドジを踏むのだ。人々の信頼を裏切ってしまうにも等しい、なにか致命的で最悪なドジを。

 そして人々から希代の悪僧、或いは悪魔と罵られ、最後には理性の(たが)を失った暴徒によって――。

 

「ああもう、それ以上はわからないのがもどかしいよ。私の能力はいつだってそうだ。ほんといい加減にしてほしいっての」

 

 あの少女の悲惨な最期だけは、何度も何度もしつこく見せてくるくせに。ならば助けるために一体どうすればよいのか、どうすれば誰も苦しまずに済むのか、あの光景(・・・・)はいつ、どこで、なにが引鉄になって現実となるのか――そういう肝心なことはなにひとつ教えてはくれない。

 だが、

 

「こうして、手遅れになる前に会うことができた。ならばあとは、貴様次第だろうさ」

「……そだね」

 

 こちらを振り返りもしない、山伏の励ましかどうかも怪しい励ましに苦笑して、

 

「……人を救って生きよ」

 

 そっと呟くのは、しづくの家に家訓のように代々伝えられている言葉。

 嘘か真かしづくのご先祖様には、妖怪の友がいたという。まるで眉唾もいいところだが、唯一無二の友であったという。しかしご先祖様が紛れもない人であった以上、昔も今と変わらず人と妖怪の溝が深い時代であった以上、別れの時が訪れるのは必然だった。

 その友が、去り行くときに、遺していった言葉なのだと。

 そう、聞いている。

 

「なにもかもを助けるなんて、できっこないけど」

 

 正直なところ、名前しかわからぬご先祖様の、名前すらわからぬ友人のことなんてあまり知ったこっちゃない。その友が妖怪だったという話も心からは信じていない。けれど先祖代々妖怪退治の職を生業としてきて、受け継いできた技術があり、積み上げてきた信頼があり、故に『神古』の存在を必要としてくれる誰かがいるという事実は、両親の背を見て育った自分の中にいつしか深く根を下ろしていたのだ。

 どんなに研鑽を積もうと人は小さく、その手が届く範囲など呆れるほどに狭い。でも、だからこそ。

 

「目が届く範囲くらいは、見て見ぬふりなんてしたくないよね」

 

 悲劇が起こるとわかっているのなら、なおのこと。

 それすらできぬというのなら、自分が生まれ持ったこの異端の能力に、一体なんの意味があるというのか。

 きっかけは作った。だから明日また山を登って、今度こそ寺を訪ねてみようと思う。それでなにができるのかはわからないけれど。なにをすべきなのかもわからないけれど。それでも動けば、なにかを変えられるかもしれないから。

 

「……」

 

 振り返る。

 沈みゆく夕日を冠に戴き、山は変わらずそこにある。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 考えてみれば食事をしながらする話ではなかったので、白蓮が口を切ったのは食後の片付けが済んでからだった。

 

「……帰り道で、人に襲われて怪我をした妖怪に会ったの」

 

 それだけで、白蓮の言わんとすることは全員に通じた。星が菓子に伸ばしかけていた手を止め、ぎこちなく膝の上に戻して眉を下げた。

 

「……そうですか。お疲れ様でした」

「突然襲われて……仲間を喪って、住む場所も追われたって」

 

 ムラサが口端を噛み、

 

「元はと言えば妖怪が人間を襲うからだって、わかってはいますけど……やっぱり、やるせないですね」

 

 星もムラサも一輪も、今の場所に落ち着くまではそれぞれがそれなりの事情を抱えた迷える妖怪の一人だった。もしも運命がほんの少しでも違う形だったなら、彼女たちだって人間に退治されていたかもしれないと白蓮は思う。

 たとえ人を襲うことのない無害な妖怪だったとしても、妖怪であるというだけで時には退治の矛先とされうるのだから。

 

「それで、その妖怪はどこに?」

 

 一輪の問いに白蓮は首を振り、

 

「ここに来るようには言ったんだけど、もう大丈夫だからって……」

「そうですか……でもそう言うってことは、動けるくらいは回復したんですよね。よかったです」

「……」

 

 ナズーリンが、眉根に皺を寄せて何事か難しく考え込んでいる。

 

「ナズーリン、どうかした?」

「……ん? いや、鼠たちからなにも報告がなかったものだからね」

 

 ナズーリンは毘沙門天の遣いを務める妖怪鼠であり、自らも仲間の鼠を使役することでこの山、ひいては麓の町にまで広大な情報網を展開している。にもかかわらずまったく連絡がなかったことを、訝しんでいるようだった。

 ムラサが笑い、

 

「いくらナズーリンの情報網でも、この山をなにからなにまで把握するなんて無理でしょ。逆に怖いよそれ」

「……まあ、そうだがね」

 

 歯切れが悪いのは自分の腕に自信を持ってるからなんだろうな、私もそれくらい自分を信じられるようになりたいなあと、このとき白蓮はナズーリンの表情の意味をまったく深く考えていなかった。

 笑顔の戻った星が、改めて菓子に手を伸ばした。

 

「なんにせよ、助けられてよかったですね」

「……ええ」

 

 本当にそう思う。もしも白蓮が血の跡に気づいていなかったら、あの妖怪はあのまま衰弱して最悪消滅してしまっていたかもしれない。仲間を喪い、住む場所を追われ、見ず知らずの場所で誰の助けも得られぬまま、耐え難い苦痛と深い失望の中でたった独り――想像しただけでもぞっとする。

 そのようなことが人間にあってはならぬと、訴えれば賛同の声は数多く上がるだろう。

 だが妖怪にだってあってはならぬのだと考える人間は、未だやるせないほどに少ない。もしあの妖怪を見つけたのが、自分ではなかったら。助けの手を差し伸べる者などほんの一握りで、大半が見て見ぬふりを決め込むか、或いはとどめを刺してしまえと冷酷に武器を振り上げるだろう。

 けれど、誰とも争わず平和に生きたいと願う者は確かに存在する。それは人間だって、妖怪だって同じなのだ。だから自分が、皆が平穏に生きられる場所を創る先駆者になりたかった。

 

 それだけ。

 本当に、それだけだったのだ。

 

「――なにも、なければいいんだが……」

 

 ナズーリンの苦い呟きが、白蓮には聞こえなかった。

 

 

 己の思想は常に危険な綱渡りなのだと、わかっていたつもりだった。

 所詮は、「つもり」でしかなかったのだ。なにもわかってなんかいなかった。

 大きな失敗を犯すこともなく、地道に活動を続ける中で素敵な仲間に恵まれたが故の油断か。

 才能のない自分でも、頑張ってみんなを導いていかなければならないのだという過信か。

 死んだ弟との約束という重圧か。

 それとも、なかなか手が届かない遠すぎる理想への焦燥だったのか。

 

 

 ほんの、夜更のことだった。

 

 

「――ふざけるなッ!!」

 

 

 ふっと偶然目を覚まし、偶然喉の渇きを感じて部屋を出ていた白蓮は、僧堂の方から星の抑え切れない怒号が上がるのを聞いた。なまじっか声を殺し切れていなかったからこそ、理性ではどうにもならない激情に駆られた叫びなのだとわかった。

 星が悲鳴以外で大声を出すなんて、そうそうあることではない。

 只事ではないと感じた。白蓮は本来の用事も忘れて脇目も振らず駆け出し、履物を投げ捨てて僧堂に飛び込んだ。

 

「しょ、星!? どうかしたの!?」

「……!!」

 

 僧堂の座敷には、星とナズーリンがいた。ナズーリンは駆け込んできた白蓮に眉ひとつ動かさず座し、一方で星は畳を踏みにじるように立ち上がって、牙を剥き、今にもナズーリンへ飛びかかろうとしているかのように見えた。

 

「あ、ひ、聖」

 

 星が落ち着きなくナズーリンから距離を取る。その表情は、見られたくないものを見られ、聞かれたくないものを聞かれてしまった焦りと動揺で支配されている。

 ケンカをしていた――などという陳腐な話ではない。

 

「一体、なにが……」

「……えっと、その。いえ、すみません、大したことじゃ――」

 

 星が下手くそな愛想笑いで誤魔化そうとしたその間際、

 

「――聖」

 

 ナズーリンが、静かに切り込んできた。

 

「悪い――あまりにも悪い報せだ」

「ッ、ナズ!!」

「誤魔化してどうにかなるものじゃない。話すなら、ムラサと一輪がいない今の方がいい。聖、二人は起きていないね?」

 

 わけがわからないまま頷く。星を説き伏せるナズーリンの口調がいつもより早い。ナズーリンも、顔ではおくびにも出さないが焦っているのだ。

 星が、揺らいだ。泣き出しそうなほどに。

 

「で、でも……! こんなの……! こんなのって……っ!!」

 

 なにも言えないでいる白蓮に、ナズーリンはあくまで滔々(とうとう)と。

 

「聖。君は昨日、怪我で動けなくなっていた妖怪の手当てをしたと言ったね」

「え、ええ……」

 

 一刻を争う悪い報せ。昨日の妖怪。二つの言葉を白蓮は懸命に結びつけようとする。きっとなにかがあったのだ。その『なにか』をナズーリンが妖怪鼠の情報網で掴み、ここで星に話していた。あの妖怪の身になにかが起こったのかもしれない。まさか仲間を捜す途中で人間に見つかってしまい、また悪い妖怪だと決めつけられて襲

 

 

その妖怪に(・・・・・)麓の町が襲われた(・・・・・・・・)

 

 

「――――――――ぇ、」

「確かだ。私の鼠が教えてくれた。妖怪はすでに討伐されたが、どうやら小さくない被害が出たらしい」

 

 世界から色が消え、音が失われた。

 ナズーリンの言葉を飲み込むより先に、そのとき白蓮の頭を過ったのは昨日一日の記憶だった。朝日に負けないくらい早起きをして、みんなで寺の掃除をし、読経をして、朝ごはんを食べて。そうやっていつも通りの時間が過ぎていった、いつも通りの一日なはずだった。

 唯一変わったことがあったといえば、散歩の帰りに怪我をした妖怪の手当てをしたくらい。人間に棲家を終われ、仲間も喪い深い失意に呑まれていたが、白蓮の救いの手を受け入れて、生き延びた仲間を捜すために再び歩き出していった小さな後ろ姿、

 

「ご丁寧にも、君に助けられたことを言い触らしてくれたようだ。君が話した、君の思想も。この寺のことも」

 

 音のない世界で、ナズーリンの声だけが鮮明に耳を叩く。

 聞きたくない、聞いてはいけないと、脳が必死に叫び声をあげるのに。

 

「凶悪な妖怪の復讐に加担したのみならず、人ではなく妖怪に味方する希代の悪僧」

 

 ――ただ、不幸になってほしくないだけだった。

 人間であろうと妖怪であろうと、平和を願う心優しい誰かが、理不尽に平穏を奪われるなどあってはならないと思っていた。だからこの世に争いを望まない妖怪がいるのなら、私たち人間と手を取り合って、ともに前を向いて生きていければよいと願った。

 この世界のどこか片隅にでも、そんな場所を創りたかった。

 悪いことをするつもりなんてなかった。

 誰かを傷つけるつもりなんてなかった。

 ただ、せめて自分の目が届く限りでは、誰も不幸になってほしくなかっただけ。

 本当に、ただそれだけだったのに。

 

「聖」

 

 為す術もない白蓮に告げる、あまりに簡潔なその一言で。

 すべてが、破壊された。

 

 

「――人間たちが、君を捕らえにやってくるぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑭ 「REMINISCENCE ④」

 

 

 

 

 

 長閑な山であるはずだった。

 少なくとも、今この瞬間まではそうだった。山中には寺院があり麓では町も栄えているが、人に荒らされることはなく、また恐ろしい妖怪が根城としていることもなく、草食の動物たちがのびのびと草を食んでは、肉食の動物たちが奔放に狩りをする、手つかずの自然をありのままに映し出した山のはずだった。

 

 血が飛んだ。

 

 なにか薄気味の悪い風を感じ、野生の直感が静かに警鐘を発そうとする寸前のことだった。

 自らの身になにが起こったのか、知る由もなく。

 無辜(むこ)な山の命が、ひとつ、消えた。

 

 

 

 

 

 愚かな人間に出会った。

 妖怪と人間が争うことなく、ともに暮らしていける世界を願う少女だった。

 無論、人間の小娘如きがどのような思想を抱こうと己には到底(あずか)り知らぬことだ。しかし人間によって里を失い仲間も喪った己に、よもや曇りのない(まなこ)でそんな絵空事を語って聞かせる小娘がいようとは、甚だ予想外で、話をしている最中はとかく沸き立つ感情を抑え込むので必死だった。

 すべてを奪った人間どもと、ともに暮らすなど。想像するだけでも寒気がする。

 何度その喉笛を掻き切ってやりたいと思ったことか、記憶はどうも曖昧だ。そうしなかったのは己の肉体が衰弱しきっており、かつあの小娘が毘沙門天の法力を使っていたからだった。歯向かったところで今の己に勝ち目はないとわかっていた。

 だが結果的に、己はあの小娘に感謝していた。本当によくやってくれたと哄笑(こうしょう)していた。

 どういう思考をしたのかは不明だが、あの小娘が勝手に、争いを望まぬ妖怪だと(・・・・・・・・・・)勘違いしてくれた(・・・・・・・・)お陰で。

 忌々しい(まじな)いから解き放たれ、再び自由を手にしたのだから。

 

『ああ――』

 

 血肉を喰らうと、失われていた熱が体の中で胎動を始めるのがわかった。

 元より強靭な妖の体である。ひとたび呪いさえ解けてしまえば、己を縛りつけるものなどなにもありはしない。

 元の姿に(・・・・)戻っていく(・・・・・)

 踏めば潰れるような矮小な姿ではなく。逆に矮小な存在を踏み潰して闊歩するに相応しい、紛れもなき強者の姿――己は、そう心から自負している。

 もはや(てん)や鼬の類にはあらず、獅子や寅すら生温く。その(かいな)はただの一振りで大木を薙ぎ、その爪の前には肉も骨もみな等しく、その牙に裂けぬ物などありはしない。

 力が満ちてゆくと同時に、己の中でくすぶり続けてた憎悪が火柱を上げた。

 

(……恨みに滅ぶ、か)

 

 恨みに囚われる心ほど悲しいものはないと、あの少女は言っていた。

 なんのことだかさっぱりだ。恨みに生きて、恨みに滅びて、それの一体なにが問題だというのか、なにが悲しいというのか己にはさっぱりわからない。

 所詮は部外者、熱くもない対岸の火事だから好き勝手な綺麗事がいえるのだ。奪われた者の心を、よりにもよって「悲しいものだ」と憐れまれるなど。これ以上の屈辱が、果たしてこの世に存在するものなのだろうか。

 ……だが、あの少女のことはもういい。どうあれ忌々しい呪いを解いてくれた相手に違いはないから、まあ、敢えて捜し出してまで襲うような真似はすまい。

 己が探すべき相手は別にいる。そのためにも今は腹を満たし、体を休め、完全な力を取り戻すことだけを考える。

 

 ――しかし次の獲物を求めて山を進む中で、予想だにもしていなかったものを見つけてしまった。

 

 見つけたといっても、目に見える類のものではない。こうして元の姿を取り戻したからこそ感じ取ることのできる、ほんのかすかな『臭い』だった。

 人間の、臭い。人が歩く道とは到底思えぬ山の斜面を、複数の獣の臭いに紛れて、脇目も振らず駆け下りていくように。

 あの尼僧ではない。とはいえ、確かここは麓に町を抱くそれなりに豊かな山である。町の人間が山の幸を目当てに分け入って、こういった道なき斜面を無理に進むこともあるだろう。獣に追われていたのか、あとになって獣が上を通ったのかは定かでないが、どうあれ己にはなんの関係もない些末なことだった。

 特に興味も引かれず忘れ去られるはずだった――その臭いに、唾棄すべき記憶を想起させられなければ。

 

『――……』

 

 立ち去ろうとしかけた足を止める。臭いを追って山を下る。よほど慌てて駆け下りたのか、人間の臭い自体はどうにも点々としておりわかりづらかったが、獣の方が道標となったのでさして追うのに苦労はなかった。やがて麓近くの山道まで辿り着き、人の姿がないことを確かめながら更に追えば、獣の臭いが途切れてなおその先に、人間のそれが特別濃く残された一ヶ所を見つけた。

 やはり、獣に追われていたのだろう。人間の領域が近くなったことで獣は山へ引き返し、追われていた何者かは思わずここで一休みした。もしかすると、どっと緊張から解放されて寝転がりでもしたのかもしれない。それほど充分すぎる残り香だった。

 今の今まで確信は持てなかったが、これで完全に己の記憶と符合した。

 

『――そうか』

 

 なぜこんな場所にこの臭いが残されているのかは知る由もない。知る必要もない。これがほんの一刻も前につけられたばかりの真新しい臭いであること。そして臭いの主が、どうやらこの先にある町へ向かったこと――それさえわかれば己には充分。

 為すべきことが決まった。

 

『そうか。そうなのか……!』

 

 湧き立つ(ほむら)が如き衝動を一心に抑え込む。まだ力が完全に戻っていないし、ほとんど彼誰時(かはたれどき)とはいえ今はまだ人間どもの時間である。夜を迎え、闇が己に力をもたらしてくれるまで待つべきだと、なけなしの理性が訴える。

 (わら)う。今この瞬間だけは、人間どもがいう神とやらの存在を信じてやってもいいと思う。まるでそうしろ(・・・・)と、己にゆくべき道を示してくれているようではないか。

 躊躇いはない。たとえ夜を待ち完全な力を取り戻したとしても、恐らく生きて帰れることはないだろう。だがそもそもすべてを喪った己に、帰る場所すらもはやない己に、生きて戻る必要などはじめからありはしないのだ。

 このまま先のない生を空虚に歩み続けるくらいなら、答えなど簡単だ。

 

『そこにいるのだな、陰陽師……ッ!!』

 

 ――燃えたぎる憎悪のままに、この身を最期まで焦がし尽くせばいい。

 

 

 

 

 

 起源を辿れば、元は大陸に伝わる妖獣の名へ行き着く。知識人によってこの島国へと持ち込まれ、伝承だけが恐怖の中を独り歩きし、遂には国古来の妖怪と習合されることで新しい形の怪物を生み出した。

 

 名を、窮奇(きゅうき)

 

 ごく最近の話だ。獅子の体躯に蝙蝠(こうもり)の翼、そして風を操り獲物を仕留めるその禍々しい出で立ちは、妖怪退治を生業とする者たちの間でもまだ広くは認知されていない。ましてや京から程遠い地方ともなれば、単に名が伝わっているだけでも上出来だといえる。

 白蓮が知らなかったのも無理はない。

 だが()の妖怪を知る者たちは、口を揃えてこう断じるだろう。

 

 情けなど決してかけてはならない、まこと凶悪無比な妖怪だと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 実は私、未来が見えるんだよねえ。

 などと人前で公言すれば、まあほぼ間違いなく生暖かい反応をされるか、阿呆を見る目をされるかのどちらかである。人知を超えた魑魅魍魎が跋扈(ばっこ)し、人間だって陰陽術や法術を駆使して摩訶不思議を操る時代であるにもかかわらず、そのあたりで決まって胡散くさい扱いをされるのはいまいち解せないとしづくは常々思っている。

 もっとも昔の話であり、今はもう己の能力を進んで他人に話すことはしない。

 別にありがたい力でもなんでもない。『未来を夢見る程度の能力』とでも呼べば神様のように聞こえるが、その実自分の意思ではまったく制御することができない不自由な能力だ。自分が見たいと思う未来を見ることはできず、いつも突拍子もない夢ばかりを見せられる。しかもそれが誰の、どれだけ先の未来なのかも予測不能で、すぐ近所の知人友人であったり、顔も知らない他人であったり、ほんの数時間後の出来事であったり、何年も先の未来であったりする。

 

 とはいえ、これはまだいい。もしも無差別に未来を夢見るだけの単純明快な力だったなら、しづくがわざわざ嫌うようになることもなかっただろう。

 見せられる夢の十中八九が、誰かが不幸になる未来なのだ。

 不鮮明で断片的で、なにがどうなっているのかもロクにわからないまま、その人が不幸に落ちていく瞬間だけを――問答無用で見せられて、終わってしまう夢なのだ。

 先祖代々陰陽師を生業とする家系に生まれた身としては、ありがたいどころか最悪もいいところな能力だった。だってそれはすなわち、「その人に不幸が起こるのはわかっているのに、どうすれば助けられるのかがまるでわからない」ということになるのだから。

 どうして不幸になるのかが判然としないのでは、助けたくとも対策のしようがない。奇跡的に運良く助けることができても、それはたまたまそのとき上手く行っただけで、いずれはまた同じことが繰り返され今度こそ不幸になってしまうのかもしれない。そもそも、どこの誰かすらわからない赤の他人ではどうしようもない。今までそれなりに多くの人々の未来を見てきたが、実際に助けられた者などほんの一握り以下だった。

 だからしづくは、この能力が嫌いなのだ。己の無力を思い知らされる気がして。己の存在意義を崩される気がして。けれど自分の意思で制御できない以上、嫌ったところで夢を見ずに済むわけでもない。しづくにできるのはどうかなんの夢も見ないよう祈る以外になく、お陰で一時期は眠ることすら嫌になっていたくらいだった。

 

 そしてしづくは、また夢を見た。

 だいたい、ふた月くらい前からだろうか。

 見知らぬ少女の夢だった。縄で縛られ、地べたに転がされて。

 物騒な出で立ちの人々に囲まれ、裏切り者と、悪魔と立て続けに罵られて。

 懸命の訴えも空しく、激昂した暴徒によって――非業の最期を遂げてしまう夢だった。

 

 一度だけではなかった。何度も同じ夢を見た。場所や状況は少しずつ違っていたが、悲惨な結末だけは何度見ても絶対に変わってくれなかった。その光景はまるで現実同然にまざまざとしていて、人々の罵声だって耳にこびりついて離れないほどで。

 例によって原因は判然としない。夢はいつも少女が捕らえられた瞬間から始まり、捕らえられるに至った経緯は一切不明で、人々の言葉も肝心なところだけ音が消えてしまう。しづくにわかるのは、少女がなんらかの過ちを犯した罪人であることと、己の罪を心から謝罪していたこと。

 そして、その想いが決して届きはしないこと。

 怖かった。

 只ならぬ予感に駆られて、しづくは少女を探した。この夢だけは、見て見ぬふりをしてはいけない――そんな気がしたのだ。まったく見ず知らずの他人だが、知らないだけで身近にいる可能性は充分にあった。動いたところでなにかが変わるとは限らないけれど、動かなければ絶対になにも変えられない。

 無論、少女を助けようとする選択が正しいのかどうかはわからない。少女は本当に許しがたい大罪を犯した悪人で、人々の怒りは至って正当なものなのかもしれない。しづくが見た夢は、起こるべくして起こる未来なのかもしれない。

 でも、だからって、あんな悲しい結末が正しいものだとは思えない。思いたくもない。

 ――人を、救って生きろ。

 それが、しづくが親から継いだ言葉だからだ。

 

 だが、国のどこに住んでいるのかも、なんという名なのかもわからない相手を探し出すなんて、あくまで一般人でしかないしづくには無理難題が過ぎた。そも、赤の他人に気を取られて周りの人々を蔑ろにしてしまっては本末転倒だ。日々の仕事に追われる中でできる限り尽力はしたが、ひと月でなんの成果も得られず、いつしか悪夢も見なくなり、もう手遅れになってしまったのかもしれないと、しづくは心のどこかで諦めかけていた。

 

 妖怪退治の依頼で、たまたまこの地方にやってきた最初の夜。

 山の中で少女と出会う夢を見なければ、きっと悪夢のことすら忘れてしまっていただろう。

 

 つまり、探し人とはそういうことだ。

 依頼を終えてこの町に立ち寄った際、山の廃寺に近年新しくやってきた美しい住職がいると小耳に挟んだ。それで一縷の望みを抱きながら山へ分け入り、まあ、まさか野犬に追いかけ回されるとはまったくの予想外だったが。

 どうあれしづくは、遂に少女を見つけたのである。

 

 心優しい少女だった。実際に言葉を交わしたのはほんの束の間だったが、それでも彼女が悪事と無縁の善人であるのは容易にわかった。『裏切り者』や『悪魔』などという罵りとは、生涯無縁に生きていくはずだったに違いない。

 なにかが起こるのだ。ここから先、しづくも知らない最悪のなにかが。

 能力が役に立たないのなら、自分の足と目で確かめるしかない。だから、明日はお寺まで訪ねてもっとたくさん話をしてみようと。

 

 ――それくらいの時間はまだ残されているのだと、欠片も疑っていなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 床の軋む音を感じて山伏は目を開けた。

 この町では最も安価で質素な宿の一室だった。ひと二人がある程度余裕を持って寝られるだけの空間で、山伏は壁を背にしながら座り込んでいる。ただ寝るためだけにあるような粗末極まる部屋だが、仕事柄外で夜を明かすのも珍しくない身としては、風を防げる壁と雨を凌げる屋根があるだけで充分上等だった。

 閉め切った突上窓は所々板が割れて壊れ、差し込む白い月明かりが部屋を朧に照らしている。自分のござと山伏の分を重ねて横たわり、布切れにくるまって眠っていたしづくが、不意にのそりと起き上がったところだった。

 

「……どうした。また妙な夢でも見たか」

 

 表情は夜に紛れていまひとつわからないが、なんとなく浮かない空気を感じて山伏はそう問うた。一応はそれなりに付き合いの長い腐れ縁なので、彼女が持つ特殊な能力については知っているし、一定の信頼に値する力だと認めてもいる。――当人にとっては、まったくもって不本意な評価ではあろうが。

 白い闇の向こうで、緩い吐息の音が返ってくる。

 

「うん……まあね」

「例の尼僧絡みか」

「……うん」

 

 ふた月ほど前からしづくを苛んでいる悪夢についても、大まかなところは知っている。

 

「また同じ夢か」

「……ううん」

 

 どうも心ここにあらずな返事だ。寝惚けているのではなく、今しがた見た夢の意味を一心不乱に考え込んでいるらしい。

 人知の及ばぬ深遠な(えにし)というやつなのだろうと山伏は思っている。己の記憶が正しければ、しづくの能力は見る未来を選べるものではなかったはずだ。誰の、いつの未来を夢見るかは完全な神の気まぐれで、にもかかわらず件の尼僧の未来だけはしつこいほど何度も見せられている。

 だからしづくも運命めいたなにかを感じて、行動を起こさずにはいられなくなっている。元より神古しづくとはそういう人間だ。山伏が剣を握る理由は己の修練と妖怪への嫌悪だが、彼女が札を握る理由は、ただ人の助けと成らんが為なのだから。

 しづくが夢の整理を終えた。

 

「ずっと」

 

 一旦それだけ言い、ゆっくりと深く、息を吸って、

 

「ずっと先の、未来だった気がする」

「先?」

「今まで見てた夢よりも、先の未来」

 

 山伏は一拍考え、

 

「その尼僧が死んだ先の未来か」

「違う」

 

 しづくは強く首を振る。強く否定する。

 

「死んでない。生きてる……あの人を、生かせられる(・・・・・・)未来だった」

「ほう?」

 

 山伏は口端を曲げた。しづくの能力は、見る夢を選べるものではないはずなのだ。

 

「随分と都合がよいな。なら、その夢の通りに動けば尼僧を助けられるのではないか?」

「……たぶん、そうだと思う。でも……」

 

 少しずつ闇に目が慣れてくる。細々とは言い難く差し込む月明かりの中で、しづくの冴えない横顔がぼうと浮き上がっている。せっかく尼僧を救える未来が見えたというのに、その姿は月光よりも薄弱として見える。

 迷っている――いや、戸惑っているという方が近いか。

 ふむ、と山伏は片眉を上げる。果たしてしづくがどんな夢を見てきたのかは知らないが、あまり容易に受け入れられる類の未来ではなかったらしい。まあ、経緯はどうあれいずれ人々から悪魔と罵られるほどの人間なのだから、生き永らえたところで救いがあるのは限らないということか。

 

「なんにせよ、好きにするといい。知らん女がどうなろうと儂には関係ない。貴様が助けるなら協力はするし、見捨てるならなにもしないだけだ」

「……ほんっと、山伏サンって淡々としてるよねー。本当は女好きのくせに。白蓮、めちゃくちゃ美人だったぜ?」

 

 小指が跳ねた己を全力で斬り殺したかった。

 

「……色欲は剣を曇らせる」

「カッコつけてら」

「ぶっ叩かれたくなければさっさと寝ろ」

「カッコつけてらー」

 

 いいだろうぶっ叩いてやる、と山伏が腰を浮かしかけたときだった。

 外で、風が吹いた。物静かな夜を破る突風で、壊れかけた窓から吹き込む隙間風が騒々しく山伏の足元を撫ぜた。

 だからどうした、という話ではある。急に強い風が吹く程度、多少珍しくはあるが、かといって特別異常を疑うようなものでもない。実際この部屋にいるのが山伏だけだったなら、大して気に留めることもなくすぐに意識から外していただろう。

 

「――山伏サン」

 

 山伏だけだったなら。

 しづくは違った。瞬く間に声を緊張させ、布切れから転がり出ると手探りで仕事道具を探して、

 

「すぐに準備して」

「む?」

「嫌な風だ。――なにか来る」

 

 およそ五拍の間があって、しづくの断言通りにそれ(・・)は来た。

 

 

 破砕の音だった。

 

 

 そう遠くはなかったはずだ。空を裂き地を揺らすかの如き轟音からして、人家一軒が丸々破壊されたのだと山伏は判断する。そして、判断したときにはとうに突上窓から外へ身を躍らせていた。

 皓々とした月以外に明かりのない、未だ眠りの中に沈んだ丑三つ時の町だった。昼間は活気であふれていた通りもここまで闇が深まれば人影ひとつなく、また人ならざる異物も視認できる範囲では見当たらない。まるでなにかの間違いであったように轟音は消え去り、町に変わらぬ夜の静寂が戻ろうとしている。

 だが二度目の圧壊とともに、とうとう人の悲鳴が聞こえた。

 

「昼間の山の方! 先行くからよろしく!」

「っ、おい!」

 

 遅れて窓から身を翻したしづくが、着地と同時に風をまとい、地を蹴って文字通りの疾風(はやて)と化す。迷惑極まりない土煙を置き土産にして、彼女の姿は瞬く間に夜の闇の彼方へと消える。

 山伏は袖で砂塵を払いながら舌打ちする。緊急事態なのは理解するが、ロクな連携もなしにすぐ独断専行する癖はいい加減なんとかしてくれないものか。義心の強さもここまで来れば立派な悪点だ。

 幸いなのは、勝手に行動して勝手に危機に陥るほどの間抜けではないことか。

 

「棟梁!」

 

 ちょうど、宿の戸を蹴破るように開け放って、山伏と同じ出で立ちをした青年が転がり出てきた。更にその背を追って、二十以上になる頭襟(ときん)の集団が次々と続く。すべて、此度の遠征で山伏が従える部下である。

 

「何事ですか」

女童(めらわ)曰く、嫌な風だそうだ。十中八九妖怪だろう」

 

 青年は眉ひとつ動かさず、

 

「神古殿は?」

「先に行った。半分続け。残りは町人の救援だ。人選は任せる」

「はっ」

 

 安眠から叩き起こされた町人たちが、戸から窓から揃って顔を覗かせて不安げに声をあげている。しかし妖怪退治を生業とする山伏たちにとって、この程度の火急で平常心を乱していては命がいくつあっても足りない。疑問の声などなにひとつなく全員が真言を唱えて加持仏より加護を賜り、五つ呼吸する時間ですべての準備を整える。

 

『みんな』

 

 そのとき誰もいないはずの闇の向こうから、風がしづくの固い声を運んできた。勝手に一人で戦い始めるかと思ったが、どうやら『遠鳴り』を使って連携する程度の判断力は残っていたらしい。

 

『敵は妖怪一匹。だから前に出るのは私と山伏さんだけでいい。他は「陣」の準備をして』

「……ふむ」

 

 しづくが一匹というなら、一匹なのだろう。(ひな)びているとはいえ街道近くの町へ単身乗り込んでくるとは、よほど血気盛んなのか、或いは腕に自信があるのか、それともただの向こう見ずなのか。

 なんにせよ、こちらに戦力があると知られれば反って面倒なのは山伏も同意見だった。たかが人間二人と侮らせておいて、その隙を衝いて始末してしまう方がやりやすい。相手が大妖怪となれば話は別だが――もしもそんな実力者が攻めてきたのなら、この町はとっくに荒野へと変わり果てているだろう。

 

「いいだろう。全員、隠形の法を忘れるなよ」

「御意」

 

 夜闇の奥から、着の身着のままの町人たちが何人も押し寄せてきた。皆一様にその相貌から血の気を失い、正常な呼吸すら満足にできなくなりながら、ある者は家々の戸をけたたましく叩いて回り、ある者は力の限り叫び声を上げる。

 妖怪が出たと。外れの商家が襲われて、みんなやられちまったと。

 町が叫喚の坩堝(るつぼ)と化していく。人外たちの時間である丑三つ時とはいえ、妖怪がこうも堂々と町を襲うなどそうそうある話ではない。山伏の目に映る範囲でも、蹴飛ばすように家を飛び出し何処(いずこ)かへ逃げ惑う者、逆に家の中へ匿われる者、せめてもの護身に農具を手に取る者、なけなしの理性でなんとか周りを落ち着かせようとする者と、まさに蜂の巣を叩き壊した有様だった。男の怒声が響き、女の悲鳴が走り抜け、眠りを妨げられた赤子がどこかで泣き出し、独りはぐれた子どもが懸命に母を呼んでいる。

 構っている暇はない。妖怪が一匹なら、こちらから攻めることが最大の防御につながる。

 すべて置き去りにして、山伏たちは動き出した。もしもこの場にあと少しだけ冷静な者がいたならば、人々が滅茶苦茶に逃げ惑う中を衣すら掠めることなく掻い潜り、誰も触れられないかのように逆走していくその影の集団こそを、闇から襲い来た妖怪なのだと恐れ(おのの)いていたかもしれない。

 道を違えることはない。ただ、風が流れていく先を追えばよいだけのことだから。

 人々の叫喚が完全に背後の騒ぎとなり、やがて行く手に火が見えた。

 

「あの先だ。『陣』の準備に入れ」

「御意」

 

 山伏の背に従っていた部下たちが、一斉に左右へ散った。両手の指では足りぬほど繰り返してきた勝利のための布石だ。家屋と家屋の隙間の狭い路地へ、壁を駆け上がって屋根の上へ、各々の判断で配置に向かい闇の中へ身を潜める。

 山伏は足を止めない。火の正体は、逃げるのではなく立ち向かうことを選んだ人々が掲げる松明の明かりだった。農具を構える町人から刀を抜いた武士まで、皆集まって通りの端から端へ決死の防壁を築いているが、妖怪と戦った経験など皆無なのだろう、どいつもこいつも腰を抜かす寸前で到底役には立たないとわかる。とはいえ、元より自分たち以外の戦力など当てにしていないのでなんの問題もない。

 跳躍し邪魔な人垣を越えた先に、しづくはいた。突如現れた山伏の姿に人々がどよめくも、それ以上の行動を起こせる者は一人もいない。眼前の『それ』から注意を逸らす真似をすれば、その瞬間に喰いかかられるかもしれないという強い恐怖があったからだ。

 すなわち、妖怪はそこにいた。しづくが微動だにせず睨む先――倒壊し木屑の山と化した商家を後塵とし、白い獅子の身体に、大斧が如き一対の翼を揺らめかすその妖怪は、

 

『くは。貴様の顔も、覚えがあるぞ』

「――こやつ、」

 

 そう――覚えがあった。

 ほんの二日前の話だ。山伏たちが拠点を遠く離れてわざわざこんな辺境を訪ねたのは、元は依頼で妖怪退治をするため。昨今このあたりに見たこともない恐ろしい妖怪が現れたので、一匹残らず退治してほしいという依頼だった。

 詳しくは知らないが、しづくによれば元は大陸で語られる、獅子の体に蝙蝠の翼を備えた怪物だという。交易によってその名が国へ持ち込まれ、漠然とした存在だけが恐怖とともに語られてゆく中で、やがては国古来の妖怪『鎌鼬』と習合されて、とうとう現実の妖怪として生まれてしまったのだと彼女は言っていた。

 曰く混沌を好み平穏を害し、曰く風を操り人を喰らう。名を、

 

「――窮奇」

 

 そのはずだ。

 一匹、討ち損ねていたのだ。山伏にもしづくにも油断はなかったし、仲間の包囲網も充分だったはずだが、そこは経験のない妖怪と戦うが故の不測だったとでも言おうか。追いかけ始末するという選択肢もあったが、結論として山伏たちは見逃した。戦闘のさなかでしづくが強力な(まじな)いを打ち込んでおり、逃げたところで長くは持たないと確信があったからだった。

 そして目の前の窮奇は、少なくとも山伏の目にはその逃がした一匹であるように見えた。

 呪いが、解かれている。

 

「――どうしてかな」

 

 しづくが、冷え切った声音で静かに問う。

 

「お前のことは覚えてる。私が退治し損ねて逃げられたやつだ。結構強い呪いを打ってたから、どうせ持たないと思って追いもしなかった」

『ああ、そうだとも。まこと忌々しい呪いだったよ』

「そう。――で、」

 

 しづくは明らかに、虫の居所が悪かった。心を律しきれず無意識に霊力が漏れ、生ぬるい風となって山伏の頬を撫ぜてくる。腕前は申し分ないが、若い分だけ精神的にはまだまだ未熟な女だった。

 だがそれは窮奇への敵意以上に、自責とも呼ぶべき感情だったのかもしれない。長くは持つまいと高を括って見逃す真似をしたから。自分があのとききちんと退治していれば、今こうして町が襲われることはなかったはずだから。つまりはこの事態、原因の一端は自分たちの誤算にあったのだとも言えるのだ。

 窮奇の背後で残骸と化した商家。そしてやつの牙から滴る血の意味を、わざわざ問う真似は山伏もしづくもしなかった。

 しかし懐疑はある。

 

「誰が助けた?」

 

 そもそも窮奇が、打ち込まれた呪いをどうやって解いたのか。

 

「お前じゃどうにもできなかったはずだ」

 

 自力でどうにかされてしまう可能性があるのなら、はじめから見逃してなどいない。

 すなわち、

 

「誰か、手を貸してくれたやつがいたってことだよね」

 

 呪いを解いてくれる協力者が窮奇にはいた。かねてよりの仲間だったのか、偶然出会った相手だったのかはわからないが、しづくの呪いを解けるということはそれなりに腕が立つのは間違いない。

 窮奇を解き放てば果たしてどうなるか、わかった上で助けたのか。

 それともわからぬまま、善意に付け込まれて手を貸してしまったのか。

 答え次第では、自分たちの『仕事』がもうひとつばかり増えるかもしれない――。

 

『ふ、は、は』

 

 窮奇が、低く小刻みに身を震わせた。よくぞ訊いてくれたと言うかのようだった。

 

『気になるか』

「勿体ぶるような相手ってことかな」

『ああ、そうよな。まったく、これほど愉快な話もそうそうなかろう』

 

 ――妙な物言いだ。

 勿体ぶるということは、答えを言えば山伏たちにその意味が余さず通じるということだ。まさか山伏が直接知っている相手か、知らずとも名を聞けば一発でそれとわかる人物とでも言うつもりか。ほんの数日前に一度、敵として邂逅しただけの妖怪風情が。

 嫌な予感がする。脳の裏側で粘ついた液体が絡みつくような。答えを聞けば、その瞬間にすべて取り返しがつかなくなるような。

 

『ときに儂の後ろの山には、寺院があるそうだな』

「それがどうし――」

 

 しづくの言葉が、止まった。

 山伏にも、わかった。『愉快な話』の、その意味が。

 窮奇が笑みの牙を剥いて吼える。その事実を町の隅々まで、轟かすように。

 

『儂を助けたのは、その寺の尼僧――人間だよ!!』

 

 しづくの全身が、ざわついたのがわかった。

 そういうことか、と山伏は静かに俯瞰する。窮奇の背後には昼間にしづくが登り、野犬から追い回される無様を晒した山がある。しかししづくとてわざわざ野犬と競争をするために足を伸ばしたのではなく、目的はある一人の女を捜すためだった。

 

『奇怪な髪の色をした女だったぞ』

 

 あの山には長年廃れていた寺があり、近年どこからともなく、不思議な髪の色をした見目麗しい尼僧がやってきたという。

 しづくの夢でやがて人々から『悪魔』と呼ばれる、その女の名は、

 

「――白蓮様?」

 

 山伏の背後で、誰かがそう呆然とこぼした。

 それ以外になかった。少なくともこの町においては、尼僧といえば彼女のことを指す言葉だった。誠実な人柄で町人からの信頼篤く、寺があまりに山奥だから、もっと町の近くに移したらどうか、白蓮様のためならみんな喜んで協力しますよ――そう言わしめるほどの尼僧。

 

「う、嘘だ、白蓮様がそんな」

 

 窮奇は薄気味の悪い笑みを止めない。

 

『儂も人間の助けなど受けんと言ったのだがな、問答無用だった。まあ、お陰で命拾いしたしこうして貴様らにも復讐ができるわけだから、それなりに感謝はしておるよ』

「……なんだそれは!」

 

 今度は別の男が声を荒らげる。旅の途中で偶然この町に宿を取っただけの、まったくの部外者だったはずである。

 

「この町には、妖怪を助けてその復讐に加担する女がいるのか!?」

 

 部外者からすれば、それが当然の理解だった。

 もしかすると、それは本来なら美談と呼ぶべきものだったのかもしれない。傷つき命の危機に瀕した者があるならば、たとえ妖怪であろうとも手を差し伸べる。今の時代、妖怪を助けるなど並の胆力でできる行動ではない。仏の教えに元来人も妖怪もありはしないから、聖白蓮は真の意味で誠実であり、平等で慈悲深い心を持った人間だったのかもしれない。

 手を差し伸べた妖怪が、窮奇でさえなかったならば。

 そうではなかったのかもしれない。温厚篤実を絵に描いた姿は、彼女の本性を隠す都合のいい仮面に過ぎなかったのかもしれない。一見善人らしく見えても、心の奥底ではどんな邪念を抱えているのかなどわからないのが人間だ。それがどこからともなくやってきた、ロクな素性すら謎めいた女なら尚の事。

 人々の心に、いびつな亀裂が走っていく。

 

「ち、違う! 白蓮様がそんなことをするはずがないっ!」

「ならあの妖怪はなんだ!? そこの陰陽師だって、自分が呪いをかけたはずだと言っていただろう!!」

「り、利用されたんだ! 白蓮様なら、傷ついた者はきっと妖怪であってもお助けになる……! その妖怪が、白蓮様に助けられた恩を仇で……!」

「なるほど! つまりその女があの妖怪を助けなどしたせいで、この町が襲われたのは事実なわけだな!?」

 

 入った亀裂を人々が自らの手で広げ、ひとりでに疑心暗鬼の泥沼へ沈んでいく。誰かが声を発するたびに言い争いは激しさを増し、人から人へ次々と伝播していく。完全に窮奇の思う壺だった。言葉ひとつで人間の心に容易く不信を植えつけてしまう力――云うなれば、『混沌を生む程度の能力』。

 これこそが、白蓮が『悪魔』と呼ばれるようになる火種だったのだ。

 あなたは人間であるはずなのに。私たちを救おうとしてくれていたはずなのに。味方だったはずなのに、信じていたのに、

 

『本当に、奇妙な尼僧だった――』

 

 とどめの一撃だった。

 

『――妖怪とともに生きるのが願いだと言って、儂を寺に誘ってきたぞ。他にも妖怪がいるんだと言ってな』

「――、」

『貴様らの中に、寺に行ったことがある者はいるか? だとすれば哀れと言う他ない! 或いは知らぬうちに、儂のような妖怪に目をつけられているかもしれんのだからな!!』

 

 窮奇が、嗤った。総身を震わせ、大気を揺るがし、この町すべてを混沌の底へ呑み込むように。事実、人々の心はもはや完全に呑まれていた。窮奇ではない別の誰かへ向けた敵意で刀を軋ます者、魂が抜けた顔で農具を取り落とす者、全身の力を失い為す術もなく地に膝をつく者、そして、

 

「――そう」

 

 どうしようもなく――本当にどうしようもなく凍てついた、しづくの声だった。

 風が吹いた。

 

『――!!』

 

 一瞬早く勘づいた窮奇が横に跳んだ直後、左の翼が根本から切断されて吹き飛んだ。

 

『ッ……!?』

「貴重な話、どうもありがとう」

 

 ――妖怪と比べて、人間とは非力な生き物である。

 だから二つの種族が戦いに身を投じたとき、常に不利なのは人間の方だ。妖怪も玉石混交なので一概には言い切れないが、剣の道をそれなりに高い場所まで登り詰めた自負のある山伏すら、純粋な身体能力だけでは人外に並ぶことも敵わない。故に人々は神仏に祈りを捧げてその加護を得、或いは術を駆使して怪力乱神を物とすることで、古来よりひたすら魔の存在に抗い続けてきた。

 しかしまこと憎々しいことに、それでも力及ばないなお強大な妖怪というのは少なからず存在する。その事実に対し、人間が築き上げた対抗手段は主に二つ。数を以て叩き潰すか、自分たちに有利な土俵へ妖怪を引きずり込むか。

 しづくの戦いは、後者だ。

 しづくを中心とし、部下たちが準備を整えた半径およそ二十間――そのすべての空が『風姫』の名の下に付き従う、結界とも呼ぶべき絶対的領域である。

 だがこれは、山伏が知るいつもの『陣』よりも――

 

「――もう、喋らなくていいよ」

 

 山伏は緩く吐息して三歩後ろへ下がった。今のしづくの横顔を見れば、余計な真似はせず後ろで黙っているのが正解なのだとひと目でわかった。

 窮奇が全身の毛を逆立て妖力を開放するが、もう遅い。

 窮奇とてしづくの術は理解していたはずだが、それでも風を操る妖怪である己が、人間の小娘如きに真正面から凌駕されるとは思ってもいなかっただろう。

 いや――今でも思っていないに違いない。一応、背後の人々に一声は掛けておく。

 

「前に出るなよ。巻き込まれたら怪我では済まんぞ」

 

 窮奇が咆吼する。風の妖怪の為せる業か、文字通り大気を震撼させるその轟きをまともに喰らって、山伏が忠告するまでもなくほぼ全員がその場に竦んだ。残りは情けなく腰を抜かすか、みっともなく逃げ出そうとして転倒するかだった。

 しづくは、眉ひとつ動かさない。

 風向きが変わる。風の支配権をしづくから奪い取り、窮奇がその身に逆巻く烈風をまとう。あとは地を蹴りただ駆け抜けるだけで、その直線状にあるものをすべて根こそぎ破壊し尽くしていたに違いない。

 相手が悪かった。それだけだ。

 

『――!!』

 

 再度の咆吼とともに窮奇が動く。自身を一陣の暴風に変え、触れた大地を巻き上げ粉砕しながら突き進み、回避など許さないまったく無慈悲な速度でしづくの首を噛

 

「五月蝿い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――地に落ちた窮奇の首を、不動明王の加護を賜った愛刀で刺し貫く。首はしづくに喰らいつく鬼が如き形相のまま石化し、程なくして砂へと変わって崩れ落ちる。脳を失った胴体は血に沈み、二度と動き出すことのない骸と化す。

 終幕だった。

 

「……あいかわらず、憎たらしいほど見事な術よな」

 

 胴体の方へも刀を突き立てながら、山伏は口端を曲げて小鼻を鳴らした。実際、ここまでの手際を見せつけられると感服を通り越して憎たらしい感情が先に立った。

 風の支配権を奪い返し、窮奇の突撃を弾き飛ばして首を落とす。

 言葉にすればそれだけだが、それをしづくは指一本動かさず、風だけで、すべて一瞬でやった。背後の人間たちには、窮奇が突然首と胴体に分かれながら吹っ飛んだようにしか見えなかっただろう。

 しづくとも長い腐れ縁になる山伏だが、あの次元の技はそう何度も見たことがあるものではない。あれが『風姫』が先代より受け継いだ奥義であり、山伏が知る限りほぼ無敵の化身と化す一方で、極限の集中を必要とするし消耗も馬鹿げているほど激しい諸刃の剣だ。遡ること数百年、彼女の血筋に陰陽師の技を刻み込んだ大元の師は、あの次元の秘術をまるで呼吸に等しく使いこなし、人の身でありながら『神』の名を賜っていたというのだから本当に馬鹿げていると思う。

 そこでふと山伏は、袖をはためかす風が未だ治まっていないと気づく。

 しづくが風をまとったまま、砂と化していく窮奇の胴体を瞬きひとつせず見下ろしている。

 

「……おい、もう片付いたのだから術を解け。明日一日寝込むつもりか」

「――」

「おい」

 

 鞘の先で脇腹を小突く。しづくは驚いて顔を上げ、

 

「へっ、……あ、な、なに?」

「……術を解け。もう終わっただろう」

「……あ、ごめん。そだね」

 

 ――やはり、脆い。

 心中は察する。この状況は間違いなく、しづくを苦しめ続けてきた悪夢へとつながっていく最悪の筋書きだろう。しかしそれでも、山伏の声も届かなくなるほど正気を失って、感情が振り切れるまま断罪するように窮奇を捻じ伏せて――どれほど人間離れした力を持っていても、中身はなんの変哲もない女なのだ。

 風が止み、窮奇が完全に砂と変わっても、しづくの思い詰めた表情は欠片も晴れなかった。

 

「……お、終わったんで……?」

 

 人垣の中から首を伸ばし、町の住人と思しき男が竦んだ足腰で問うてくる。しづくは受け答えができる状態ではなく、山伏が代わりに、

 

「ああ。もう心配は要らん」

 

 剣先の砂を払い鞘に収めると、人々の恐怖と緊張が一斉に弛緩した。しかし戻る笑顔はどこにもなかった。笑って一件落着にできる有様でないのは、目の前の惨状を見れば一目瞭然だった。

 かつての姿を見る影もなく粉砕され、木屑の山と化した人家が少なくとも二軒。

 誰もが寝静まる真夜中に、突然家ごと襲われたのだ。窮奇という妖怪の性格を考えても、無事に逃げ延びられたとははじめから考えていない。人々もそれをなんとなく感じてしまうのだろう、木屑の山に駆け寄れる者は誰一人としておらず、ただ唇を噛んで立ち尽くすのが精一杯だった。

 故に、その叫びが上がったのは必然だったと言えよう。

 

「これで終わりではないぞ……!!」

 

 窮奇の前では怯えるしかできなかった割に、その侍が腹から発する声音は勇ましかった。

 

「寺の尼僧だ! そやつがいる限り安心などできるものかッ!」

 

 誰かが、続いた。

 

「そ、そうだ! そいつが妖怪なんか助けたからこんなことになったんだろ!? なに考えてんのか知らねえけど、このまま放っとくのはまずいんじゃねえのか!?」

「いや、なにを考えているのかはわかりきっている。あの妖怪めが言っていただろう――妖怪とともに生きるのが願いだと!!」

 

 繰り返すが、大声で喚いているのは聖白蓮をよく知りもしない部外者だったはずなのだ。

 悪魔だと、誰かが言った。妖怪に魂を売り払い、人を弄んだ希代の悪僧だと。

 肉を裂く音すら生むかというほど、しづくが痛々しく拳を震わせた。それは一体、誰に向けた感情だったのだろうか。窮奇を一度見逃すという根本的な過ちを犯してしまった己なのか、最悪の形でしづくの悪夢を現実にしてしまった窮奇なのか、理由はどうあれ妖怪に加担し人々を裏切ってしまった白蓮なのか、或いはこのような唾棄すべき現実を突きつける世界そのものか。

 こんなのは間違いだと、きっと誰よりも叫びたかったはずだった。だができなかった。自分一人が否定したところでもはや人々は止まらないし、こちらまで疑われては白蓮を救うことだってできなくなる。けれどそれは白蓮が善人であり、妖怪に裏切られた哀れな被害者だったならの話。

 言葉ひとつで人間の心に不信を植えつける力。『混沌を生む程度の能力』。

 もしかすると白蓮は、紛れもなく魔に魅入られてしまった悪人かもしれないのだ。

 

「――私たちが行く」

 

 故に、それがしづくに残された最後の選択だった。なぜ窮奇を助けたのか。妖怪とともに生きたいという願いは本当なのか。一体どうして、なんのためにそんな世界を望んでいるのか。

 自分は君を、助けてもいいのか。

 

「あの妖怪は、元々私たちが退治し損ねてたやつだから。責任は取る」

 

 確かめなければならない。白蓮は善人なのか、悪人なのか。自分はできることをすべきなのか、すべきことをしなければならないのかを。

 その背中だけでも、今のしづくには問答無用で見る者を竦ませる凄みがあった。

 

「そ、そりゃあ……あんたほどの術者がやってくれるなら、ありがたいけど」

「うん。約束する。どっちだったとしても(・・・・・・・・・・)ちゃんと終わらせる(・・・・・・・・・)って」

 

 ――できるのか。貴様に。

 聖白蓮は十中八九善人だろうが、それでももうひとつの可能性が決してありえないとは言い切れない。もしも白蓮が本当に黒だったとき、この脆い心の少女がなにをしでかすかは山伏にも想像ができない。

 

「……みんな、家を調べて。もしかしたら、まだ無事な人がいるかも」

 

 しづくの『声』を聞いて、人家と人家の隙間から、或いは見上げる屋根の上から、次々と頭襟の集団が現れて木屑の山を調べ始める。そのときになってようやく、人々の中にも束縛を破って駆け出す者が現れた。その中の一人――なんの武器も持っていない、妖怪だって今日生まれてはじめて見たような若い男の背に、山伏は問うた。

 

「よいのか。……見れば、後悔するかもしれんぞ」

「……」

 

 足を止めた男は振り向かぬまま、束の間呼吸を止め、全身を軋ませるようにして答えた。

 

「……ガキの頃からの、友達だったんです」

「……そうか」

 

 それ以上は山伏も、男も、なにも言わなかった。再び駆け出し、固い声音で山伏の部下へ言葉を掛ける。何事か会話を経て、やがて自分の身の丈以上もある残骸を震える手つきでどかし始める。

 一人、また一人と山伏の脇を通って、手を貸す人々は徐々に数を増やしていく。

 

「山伏さん……」

 

 しづくが、怖がる赤子のような手つきで山伏の袖をつまんだ。

 自分の力ではどうにもできない、泣き笑いの顔だった。

 

「なんで……どうして、こんなことになるのかな。もう、やんなっちゃう」

「……」

 

 いつも剽軽で、お調子者で、へらへら笑ってばかりいるしづくの、年相応に弱くて小さな姿だった。

 しづくが夢で繰り返し見てきたのは、悪魔と呼ばれた尼僧が迎える結末だけ。どうして悪魔と呼ばれることになるのか、どうしてその結末を迎えることになるのかはなにもわからなかった。わからなかったものはどうしようもない。放っておくべきだった手負いの窮奇を、まさか白蓮本人が直接助けてしまうなど予想できるはずがない。助けられた窮奇がよりにもよって今日この町を襲って、白蓮の思想を吹聴するなど予期できる方がおかしい。

 結果的に見れば窮奇を一度見逃した自分たちの不覚だったが、それだって当時の判断としては間違いだったわけではないと山伏は思う。

 だから、しづくが自分を責めたところで詮なきことなのに。

 

「――私、なんのために、こんな力持って生まれてきたの?」

 

 そう割り切れないのが、神古しづくという人間だ。

 答えを持っているのは山伏ではないし、自分はこういうときに気の利いた慰めを言える人間でもない。きつく強張るしづくの指先を取ることもできず、山伏はままならぬため息をついて夜空を見上げる。

 

 月が白い。

 なにがどうなろうと知ったことではないという、無感情で無機質が光だけがそこにはある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑮ 「REMINISCENCE ⑤」

 

 

 

 

 

 今でこそ半ば人外の領域に足を踏み入れた尼僧だが、白蓮は、元々はなんの変哲もない一介の里娘だった。

 寺の生まれでないのはもちろん、身の回りに僧侶がいたわけでもなかったし、里には寺なんて一軒もなかったのを覚えている。ただ仏教が国を形作っている時代であったから、里の大人たちからごく簡単な教義や作法については教えられ、まあ至って平均的な知識と信仰心は持った子どもだったのだと思う。

 恥ずかしい限りだが、「里一番のやんちゃ娘」などと呼ばれていた。弟の命蓮を連れ回し、いつも里のあちこちを冒険して遊んでいた。生まれつき運動が得意だったのも手伝って、そんじょそこらの男の子よりも外で体を動かすのが大好きだった。好きな天気は、外で遊べるから晴れ。嫌いな天気は、外で遊べなくなるから雨。そんなことを真顔で言う女だった気がする。

 それが今ではこうなのだから、まこと人生とはどうなるかわからないものだ。

 

 第一のきっかけは、母の死だった。

 病死だった。流行り病だった、とは聞いている。母も父と同じで体が強い方ではなく、白蓮が覚えている限り、元気に歩く姿よりも床に伏す横顔ばかりが記憶に残っている。どういうわけか白蓮だけは熱すら滅多に出さない風の子だったが、病がちな体質は弟にも遺伝していた。白蓮とは似ても似つかぬほど気弱で大人しく、ちょっと目を離したらどこかにふっと消えてしまいそうな弟だった。

 だからだろうか。母がいなくなったことすらよく理解できず、しばしば熱を出しては苦しそうに咳き込んでいる弟を見て。

 自分が、命蓮を守らないといけないと、そう強く思った。姉としてだけではなく母としても命蓮を支えられるように、外で遊ぶのをやめ、家のことを教わり、一人前の女となるべく教養を積み始めた。我ながらよほど堅い決心だったらしく、そのあたりから自分勝手なわがままを言わなくなり、近所の子どもとケンカもしなくなった。周りの大人たちから痛く感心され、また微笑ましげに応援してもらえたのをなんとなく覚えている。

 

 第二のきっかけは、行脚の途中で里を訪れた僧侶たちだった。決して裕福な里ではなかったが、大人たちはみな気前がいい善人ばかりだったから、一休みでも一泊でもどうぞどうぞと歓迎したのだと思う。そんな中で、僧侶たちに――正確には僧侶たちが探究する仏の教えに、興味を示したのが命蓮だった。

 元より家の中で書を読むのが好きな弟だった。貧しい里でも手に入る貧相なものなど弟はとっくに読み尽くしており、それはきっと、書よりも遥かに優れた知識を持つ神様と出会えた心地だったに違いない。

 二~三日滞在する間、僧侶たちは快く命蓮に仏の教えを授けた。命蓮の貪欲な姿勢にすっかり心を打たれたのか、お前はいい坊主になれるぞと褒めそやし、里を去る際には、世話になった礼だと言っていくつか使い古した経典を置いていく有様だった。

 当然、命蓮はすっかり仏教の世界にのめり込んだ。誰に教えられるでもなく――教えられる大人もいなかった――経典を次々解読してしまい、大人たちが命蓮のとんでもない才能に気づくまでさほど時間は掛からなかった。

 

 第三のきっかけは、それから数年後、またしても里を訪れた旅の僧侶たちだった。

 命蓮が彼らを唸らせるには、ほんの数分の会話だけで充分だった。翌朝、旅路を急ぐ僧侶たちは命蓮にこう告げた。

 

 ――およそひと月ほど先、我々は復路で再びこのあたりを通る。そのとき、もう一度この里に立ち寄ろう。だからもし、そなたにその意志があれば。

 ――我々と共に行き、そなたの才、人々を救うために活かしてはみないか。

 

 命蓮の答えは、問われる前から決まっていたのかもしれない。

 その夜、まだ子どもなのに危険すぎると反対する白蓮に、命蓮は生まれてはじめて真っ向から逆らって、己の意志を真摯な言葉で伝えてくれた。

 止めるなんて、できるわけがなかった。

 

 そうして命蓮の旅立ちを境に、白蓮の中にもひとつの大きな変化が起こった。

 己の才と向き合い、人々を救うため、まだ子どもでありながら修行の旅へ出たあまりに立派すぎる弟。

 その家族として恥ずかしくないよう、自分も立派な姉になろうと思ったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ただいま」

「おかえりなさい」

 

 およそ十年振りに里帰りした弟は、別人のように大きく逞しくなっていた。

 姉の白蓮でさえ、ひと目見ただけでは自信を持って判断できないほどだった。変わらない髪の色を見れば疑う余地なんてなかったはずなのに、それでも一瞬は、命蓮の付き添いでやってきた仲間の僧ではないかと思ってしまったのだ。生意気にも白蓮より頭ひとつ背が高くなり、いっちょまえにも体の線だって鋭くなって、かつて女よりも小さく華奢だった弟は、今やどこに出しても恥ずかしくない立派な『男』になっていた。

 白蓮は言うまでもなく、里の人たちも随分と驚いていた。

 

「あーあ、疲れた……」

 

 家に戻ってくるなり、命蓮は天井を仰ぎながらどかりと座り込んだ。こういう粗忽な仕草も昔の繊細だった弟からは想像ができなくて、やっぱり男の人になったんだなあと白蓮はしみじみ感じ入る。声変わりもすっかり終わって、肝が据わった精悍な響きだ。

 里のみんなに里帰りの挨拶をしてきた、その戻りだった。

 

「どうだった、久々に会うみんなは」

「みんな変わらないね。昔のまんま元気すぎ。こちとら何日も歩きづめでクタクタなのに、もうそんなのお構いなしだもん」

「命蓮に会えて、みんな嬉しいのよ。……そういう命蓮は、昔と随分と印象が変わったわよねえ」

 

 耳にタコができたみたいな目つきを命蓮はした。

 

「それ、みんなからも言われたよ。そんなに変わったのかな」

「もうぜんぜん。すっかり男の人みたい」

「いや、正真正銘男なんだけど」

「昔は女の子みたいだったのにねえ……」

 

 幼少期のひ弱だった自分にはあまりいい思い出がないのか、命蓮は苦虫を噛み潰した顔をしている。……まあ、変わったという点では白蓮も同じだが。幼少期の白蓮は女なのに外で遊んでばかりで、よその子と喧嘩すれば決まってボコボコにして泣かせることから、一時期は『山姥』などと不名誉極まるあだ名を頂戴していたりした。まったくもって恥ずかしい。

 命蓮が覚えていないくらい昔のことで、本当によかった。

 

「でも、変わったっていったら姉さんだってそうだよ。髪だってだいぶ伸ばして、随分大人っぽくなっちゃってさ。尼寺に通い始めたっていってたから、はじめはその仲間の人かと思った」

「もう子どもじゃないもの。こっちだって、はじめは命蓮の付き添いで来たお坊さんじゃないかって思ったわ」

 

 士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし。ましてや十年振りともなれば、見違えるあまり本人かどうか咄嗟に疑ってしまったとしても、無理もないことなのかもしれない。

 どちらからともなく、微笑が浮かんだ。

 

「……向こうは、どう? 修業は辛くない?」

「辛いよ。修業自体キツいし、自分で言うのもなんだけど……いろいろ、期待とかされてるし。でも平気さ。自分の力で誰かの助けになれるのは、嬉しいから」

「そう……。あなたは生まれつき体が強くないから、それだけが心配だわ。もう随分前の手紙だけど、山で修業してたときに怪我をしたって、書いてきたことがあったでしょう?」

「……ああ。うん、そうだね」

 

 命蓮の瞳の焦点がふっと遠くなる。

 命蓮が旅に出て何年かした頃の手紙だ。山での修業中に足を滑らせてしまい、怪我をしてしまったと書かれていた。もう治ったから、心配は要らないとも。当然そんなことを書かれて心配しない姉はいないので、今すぐ命蓮の下へ飛んでいきたい衝動に駆られたのをよく覚えている。

 それが呼び水となって、白蓮は思い出す。

 

「そういえば、いつか里帰りしたときに話したいことがあるって書いてあったけど……」

 

 手紙に書いてくれればよかろうものを、命蓮はかたくなにそうしなかった。直接話したいから、と恰好つけたことを言って。要は手紙には書けないような内容だったのであり、白蓮が覚えている限り、弟との間でそんな隠し事をした記憶は他にない。

 

「……ちょっと待ってて」

 

 命蓮はやにわに立ち上がり、そう言うとなぜか外へ出て行ってしまった。家の周りを周到に歩く音がして、一周し終えるなりあっさりと戻ってくる。白蓮にはなにがなんだかさっぱりわからない。

 

「ええと、命蓮?」

「誰かいないか見てきたんだ。……姉さん以外には、ちょっと聞かせられないから」

 

 白蓮は思わず身構えた。

 

「まさか……す、好きな人ができたのっ?」

 

 白い目が返ってきた。

 

「……あ、あれ? 違うの?」

「むしろよくそれが正解だと思ったよね」

「そ、そう」

 

 昔からの付き合いである里のみんなにも聞かれたくないとなれば、てっきりそういう色恋の話なのかと思った。もしも自分に恋人ができたら、恥ずかしすぎて命蓮にだってなかなか話せないだろう。

 ため息をついた命蓮が、白蓮の傍に腰を下ろす。さっきよりも距離が近い。呆れの表情はすでに露と消え、語り出す言葉を一心に見つけようとしている。

 白蓮は改めて身構えた。きっとこれは、真剣になって耳を傾けなければいけない話だ。

 命蓮が一度、大きく息を吸い込み、

 

「……その手紙に、大した怪我じゃなかったからすぐ治った、みたいなことを書いたよね」

「……ええ」

「あれ、嘘。大雨が降ったあとの山で足滑らせて、崖から落ちちゃって。増水した川に思いっきり流された」

 

 白蓮は、咄嗟に言葉を出せない。

 

「運よくぼくを見つけてくれた人がいて、助けてくれたんだけど。体中痛くて立ち上がれもしないし、おまけに記憶までなくなっちゃうしで、ほんと散々だったんだ」

「……ま、待って。お願い、ちょっと……」

 

 ようやく、それだけ言えた。左手で命蓮の語りを遮り、右手で頭を抱えて必死に話へ食らいつこうとした。

 当然、冗談を言っているんじゃないかとまず疑った。およそ十年振りに会う弟は体も心もすっかり成長して、タチの悪い冗談で人をからかうようになってしまったのではないかと。

 でも、からかう方法なんて考えれば他にいくつもあるはずで、ほんの冗談で言っているのならいくらなんでもタチが悪すぎる。家族相手とはいえ、家族だからこそ、からかうというよりもはや人を騙す行いに近い。今や一人前の僧侶として修業を重ねる命蓮が、仏の教えに反する真似をするとは思えない。

 つまり、命蓮は。

 本当に。

 

「……本当のこと、なのよね」

「うん。ああ、ちゃんと生きてるし記憶も戻ってるのでご安心を。別に幽霊とかじゃないよ」

「それくらいわかるわ。まだ駆け出しだけど、私だって尼僧なんだもの」

 

 つまりあの手紙では、余計な心配をさせないためにわざと大したことがないように書いたわけだ。包み隠さず本当のことを書くと、白蓮に大変な心配を掛けてしまうから。いくら大丈夫だと書いても文字だけでは信じてもらえないと踏んだから、こうして実際に里帰りを果たすまで伏せていた。たとえ過去になにがあったとしても、目の前に壮健な姿があるのだからこれ以上の証拠もないだろう。

 まったく白蓮という人間をよく理解した、的確極まる判断だったと言わざるを得ない。

 とはいえ、疑問は残る。話がもしこれで終わりなら、わざわざ外に出てまで人払いをする必要などなかったはずだ。別に、白蓮以外には絶対に聞かれたくない話、というわけではなかった気がする。

 すなわちこれはまだ前置きに過ぎないのだと、そう確信して白蓮はじっと弟の言葉を待つ。

 

「それで、ぼくを助けてくれたひとがさ」

 

 しかし身構える白蓮とは対照的に、弟の口振りは拍子抜けするほど朗らかだった。まるで、面白おかしい思い出話をするように、

 

「ただのしがない世捨て人だーとか言ってたんだけど、実は妖怪だったんだよね」

「へ、」

「妖怪に助けられて、ちょっとの間一緒に生活してたんだよ、ぼく」

 

 ……。

 ええと。

 

「妖怪のくせに死にかけのぼくを助けて、手当てして、毎日食べ物を取ってきて、薬まで出してくれてさ」

「みょ、命蓮? あの、」

「怪我が治って、記憶が戻るまで面倒を見てくれて、おまけに最後に、またぼくを助けてくれて――本当に、」

 

 戸惑う白蓮に構わず、そこまでほとんど一息で言って。

 それから、途方に暮れたように項垂れた。

 

「本当に……人間みたいな、ひとだった。ちょっと恥ずかしいけど、父さんができたみたいだって思ってた」

「……、」

「姉さんは」

 

 吹き消えそうな瞳で白蓮を見つめる、弟は。

 迷子のような、顔をしていた。

 

 

「――姉さんも(・・・・)、妖怪に誑かされたんだって。そう思う?」

 

 

 きっと、誰にも理解なんてしてもらえなかったのだろう。

 世の子どもは人と会話することを覚えると、ほどなく妖怪と呼ばれる存在について親から教わる。ときに幻で人を誑かし、ときに強靭な肉体で人を攫い、ときに恐ろしい呪術で病を蔓延させ、ときにその牙で人の命を奪う。言うことを聞かない子どもがいれば大人は決まって、天狗にさらわれるぞ、鬼に食べられちゃうぞと言って叱りつける。そして、それは決して根も葉もない出まかせではないのだ。妖怪が悪しき存在であるのは歴史を(ひもと)けば疑いようがなく、だから世の人々はみな妖怪を恐怖している。日々厳しい修業を積む命蓮の仲間たちともなれば、きっと敵意すら抱いている者だっているだろう。

 姉さんも、と命蓮は言った。

 つまり寺の仲間たちは皆、お前は妖怪に誑かされたのだと冷酷に断じ、誰一人として弟の気持ちを理解しようとはしなかったのだ。

 

「優しいひとだったって、一緒にいたぼくが誰よりもわかってる。わかってるはずだったんだ。……なのにみんなから、誑かされていたんだ、忘れた方がいいって毎日毎日言われてるうちに、だんだんとわからなくなっていった。本当に、夢だったんじゃないかって。あのひとは、いなかったんじゃないかって」

「…………」

「それが、すごく、すごく、悔しいんだ。……ぼくが、ぼくこそが、この目で見て、記憶に刻んだことなのに」

 

 命蓮の言葉は、懺悔のようでもあった。信じてくれない仲間たちではなく、他人の言葉で簡単に揺らいでしまう己こそを命蓮は責めていた。自分を救ってくれたあのひとに、面目ないと。父のようだとすら思ったこの感情を、他人に言われるがまま忘れてしまうつもりなのかと。

 白蓮だって、妖怪は怖い。

 平凡な人里で、両親が早世だった以外は平凡な里娘として育ち、弟の影響を受けて近年尼寺にも通い始めた。妖怪という存在に対して、世間一般と同程度の認識と恐怖を抱いている自覚はある。だから命蓮が誑かされていた可能性だって、決して皆無ではないのかもしれないと思う。

 けれど命蓮が、それでも、優しいひとだったというのなら。

 

「……素敵なひと、だったのね」

 

 白蓮もまた、その妖怪を『ひと』と呼ぼう。

 妖怪は、怖い。けれど、それだけが妖怪だという証拠なんて考えてみればどこにもありはしないのだ。人間には、様々な人間がいる。人々の助けとなろうと尽力する善人もいるし、誰かを傷つけて悦に浸る悪人だっている。

 なら、妖怪だって。人に害を与える、悪い妖怪がいて。人に力を貸してくれる、いい妖怪だっていて。

 命蓮が出会ったのはきっと、そんな優しい妖怪だったのだと、信じたいと思った。

 ぽかんと顔を上げた命蓮に、微笑んで。

 

「聞かせて。そのひとのこと」

「……!」

 

 これが、すべてのきっかけだったのだと思う。命蓮からこのときこの話を聞くことがなければ、白蓮は他の人々同様妖怪を恐れ、近づこうとしないままで一生を終えていただろう。

 命蓮が、まるで童心へ返ったように生き生きとした目で、『父上』のことを話してくれたから。

 妖怪と呼ばれる者たちを、いま一度見つめ直してみようと思えたのだ。

 

 

 

 

 

 ――所詮、叶うはずもない幻想だったのだろうか。

 人が妖怪に手を差し伸べるのは、それだけで悪で。人と妖怪がともに生きる世界など、夢見てはいけない禁忌だったのか。

 白蓮が、人を超えてでも手を伸ばした果てにあったものは。

 人の道を外れた、悪魔の指先だったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いつかはこうなってしまうのではないかと、前々から、臓器が体にきちんと収まっていないような居心地の悪い不安を覚え続けていた。だから仲間の鼠が麓の町で起こった事件を大慌てで報告してくれたとき、ナズーリンの心に落ちたのは驚愕でも動揺でも焦燥でもなく、ああそうか、とため息をつくような静かな諦念だけだった。

 前途多難な茨の道だなと、白蓮の思想をはじめて聞いたときはそう思った。世界そのものに真正面から一石を投じるにも等しい願いだった。人間も妖怪も分け隔てなく、ともに手を取り合って生きていける場所を創りたい――普通の人生を歩む普通の人間であれば、天地がひっくり返ったって考えないようなことだった。

 正直なところ、叶うも叶うまいも、最初はあまり関心を持たなかったというのが正しい。所詮は世に数多くいる毘沙門天の信徒のうちの、たった一個人が自由に抱く思想である。叶おうが叶うまいが、正しかろうが正しくなかろうが、仏に背かぬ限りナズーリンがいちいち口を挟むものではない。毘沙門天様が代理人として黙認された、寅丸星という少女を監視する――己の役目はそれ以上でもそれ以下でもなく、白蓮に救われたわけでもなければ共感したわけでもない、あくまで一介の客分という立場に徹するつもりでいたのだ。

 ――果たしていつからだったか。年の割にそそっかしい白蓮をどうにも放っておけず、ささやかな助言や忠言を繰り返すうちにやけに頼られてしまい、すっかり寺の相談役となってしまったのは。

 大して興味もなかったはずの、白蓮の願いを。

 いつか本当に叶うことがあればと、心のどこかで望むようになっていたのは。

 

「――聖。入るよ」

 

 今にも崩れ落ちそうな星を連れ、ナズーリンは白蓮の寝室まで戻ってきた。襖を開けると、まだ夜は明けていないのに寝具を片付け、行灯の心もとない光の中、座敷の中央で瞑想に沈んでいる白蓮の背が見えた。

 夜の寺は、風の音も響かずしんと静まり返っている。星が怖々と、蚊の鳴いたような声を掛ける。

 

「ひ、聖。水を、持ってきましたよ……」

「ありがとう。こっちに持ってきてくれる?」

 

 答えの声は、一見すると落ち着いていたが。

 どうあれ、気持ちを整理する時間は終わりだ。立ち竦んでいる星の袖をわざと強く引っ張り、ナズーリンは白蓮の背後へ腰を下ろす。白蓮がゆっくりとこちらへ向き直り、星に向けて両手を伸ばす。はじめの一呼吸、星はその手の意味が咄嗟にわからず硬直し、二呼吸目でようやく、自分がここまで運んできた物の存在を思い出した。

 

「ど、どうぞ」

「ありがとう」

 

 冷たい水で満たした小さな椀を、白蓮は受け取りこそしたが、口はつけずに己の膝元に置いた。

 

「……気持ちの整理はついたかい?」

「ええ。もう、大丈夫」

 

 嘘つけ、とナズーリンは思う。朧な行灯の明りの中でも、その微笑みが青白く生気を失っているとはっきりわかる。

 だが、震えていないだけマシでもあった。

 

「では、単刀直入に問おう。――どうするつもりだい、聖?」

 

 日が昇り切り、魑魅魍魎の力が最も弱まる頃合いを狙って、人間たちがこの寺まで攻め込んでくる。他でもない、聖白蓮を捕らえるために。

 白蓮の助けた妖怪が、町に被害をもたらした――人間たちにとってはそれがすべてだ。たとえ白蓮に悪意は一切なかったとしても、具体的な犠牲が出てしまった以上和解の道は極めて厳しいと見るべきだろう。

 答えが返ってくるまで、思っていたほどの間はなかった。

 

「私が、町のみんなと話をします」

 

 まぶたを下ろし、その裏側で自分自身の姿と対峙しているような言葉だった。ああ、やはりあなたはそう言うんだなと、ナズーリンもまた瞑目した。

 

「ムラサと一輪には、夜が明けてすぐ遠くへ用事を与えます。……私を守ろうとして、町のみんなと戦おうとするはずだから」

「……待ってください。聖、あなたなにをするつもりなんですか?」

 

 星が、頬をひきつらせて白蓮の決意を遮ろうとする。星とてこうなることはわずかなりとも予想できていたはずだが、実際直面すると理屈より認めたくない感情が先に立ったらしい。辛うじて声だけは抑えながらも、言葉は決して歯止めが利かない。

 

「話をするって、そんな場合じゃないでしょう!? 人間たちは、聖を捕らえようとしてるんですよ!? 早く逃げないと……!」

「いや、聖は間違っていない」

 

 ナズーリンはまぶたを上げ、

 

「ご主人。人間たちは聖を、悪しき妖怪に加担する悪僧だと認識している。聖が逃げれば、己の悪事が露見したから逃げたんだと都合よく取られてしまうだけだ。そうなれば然るべき場所に報告が行って、本格的に聖の捜索が始まるだろう」

「……!」

「噂はあっという間に広まって……もはや、理想を果たすどころの話ではなくなるだろうね。生涯追われる身だ」

 

 もっともそれは、この寺に残ったところで同じこと。逃げれば追われ、残れば捕らえられ、どちらにしたって今まで通りの生活を続けることは敵わない。

 星が小さな、牙を見せた。たとえ姿形が神となっても、こうしてみると彼女がかつては獣の妖怪だったのだとよくわかった。

 

「そんなのっ……! じゃあそんなの、どうしようもないじゃないですか!?」

「そうだね」

 

 中途半端に言葉を濁す真似はしない。

 たとえ冷酷であろうとも、失望されるとしても。それが、寺のご意見番である己の役割なのだと思うから。

 

「それだけのことが、起こってしまったんだよ。ご主人」

「……なっ、」

 

 早鐘を打つ心臓でふたつ呼吸するだけの間、星は怯んだ。

 そして、叫ぶことでその束縛を強引に引き千切った。

 

「なんで、なんでですか!? 悪いのは、町を襲った妖怪じゃないですか!? なのに、なのにどうして聖が!」

「星、いいの」

 

 白蓮の声が通る。決して強くはなかったが、まるで事態がまったくわかっていないかのような穏やかな言葉に、星が再び動きを止める。

 白蓮の唇には、かすかな笑みの影があったが。それが底知れぬ自責の表れなのは、星の目にもはっきりとわかっただろう。

 

「……私が間違っていたの。あの妖怪が、人間を憎んでいるのはわかっていたのに。町が襲われるなんて考えてもいなかった。後先も考えないで助けてしまった。私が、」

 

 息を止める、短い沈黙があって、

 

「……私が、助けなければ。町のみんなが襲われることはなかったでしょう」

「そんなこと、言わないでください……!」

 

 堰を切るように星は喉を震わせ、首を振る。

 

「そんなこと、聖が言っちゃダメです! そんなことっ……!」

 

 それは、あなたが今まで歩んできた道を否定してしまう言葉だから。

 星は、涙すら流そうとしていた。これ以上白蓮と向き合うこともできず、耳を塞ぎながらいびつに身をよじり、何度も首を振ってただひたすらに拒絶し続けた。白蓮が間違っていたなんて、もうどうしようもないなんて、助けなければよかったなんて、共に歩んできた仲間として、家族として、絶対に認めたくはなかったのだ。

 

「こんなの、おかしいですよ……!! なんで、どうしてこんなっ……!!」

「……」

 

 悲しかったし、悔しくもあったのだろう。なにより、本当は一番辛いはずなのにそんな素振りなど欠片も見せず、笑顔すら浮かべてしまう白蓮に耐えがたいほどの悔しさを覚えたのだと思う。すべて自分の責任なのだと一人で抱え込み、一人で勝手に答えを決めてしまって。怖くて怖くて仕方ないはずなのに、たった一人で人々の怒りを受け止めようとしていて。

 じゃあ私たちは、一体なんのための仲間なんですかと。きっと心の中では、そう何度も何度も白蓮を問い詰めただろう。

 ナズーリンは静かに吐息する。酷い話だ、と思った。白蓮の覚悟は至極理解できるし、星の悔しさは至極当然だと思うし、人々の怒りは至極已むなしと思う。だからナズーリンは白蓮に考え直せと言えないし、星に聞き分けろと諭せないし、人々にやめてくれと訴えることもできない。

 本当に、酷い話だ。

 

「……聖、ご主人、今のうちに言っておく」

 

 その上でナズーリンは、こう告げなければならないのだから。

 

「今回の件に関して、私とご主人は一切関与できない」

「――ぇ、」

 

 星は息を失い、白蓮はそっと、微笑むように眉を下げた。

 

「不干渉――それが、毘沙門天様のご判断だ。なれば私もご主人も、従う他ない」

「…………あ、あはは。なに言ってるんですか、ナズ」

 

 星の口端が、望まぬ弓の形に引きつり歪む。

 

「じょ、冗談ですよね? だって、そんなの、」

「ご主人」

 

 冗談と思いたい気持ちはわかる。ナズーリンだって、はじめ聞いたときは己が耳を疑った。だがそうする他ないのだ。

 繰り返す形になるが――もうどうしようもないことが、起こってしまったのだから。

 

「聖と一緒にこの寺に残って、それで人間たちになんと言葉を掛けるつもりだい? 聖に悪気はなかったんだから許してくれ、とでも?」

「そ、それはっ……」

「人間たちにとっては、受けた被害こそがすべてだ。聖が妖怪を助け、その妖怪が町を襲った。そこに誤解は一切ない。彼らはなんの罪もない被害者なんだ」

「ひ、聖にだって罪は」

「わかってる。本当の悪は町を襲った妖怪で、聖だって、むしろ恩を仇で返された被害者だろう」

 

 たとえ浅慮だったとしても、善意につけ込まれ利用されてしまったのだとしても、目の前で危機に瀕した命を救おうとした彼女の心までは、決して否定されるべきではないとナズーリンだって思う。

 しかし、

 

「だが言ったろう、聖の本当の思想はもはや人々に知られてしまった。町を襲った妖怪のみならず、他にも多くの妖怪に手を差し伸べている。こうなってしまった以上、聖がやっていることは人々にとって裏切りも同然なんだ」

 

 なのに星が――毘沙門天が聖に味方すれば、それがどんな理由であれ、更なる怒りを買い深い失望を与えることになるだろう。もしくは白蓮が己の行いを正当化するために、仏の言葉をでっちあげているのだと取られるかもしれない。実際、神意を騙って人を陥れようとする大馬鹿者がこの世にはたびたびいるのだ。

 そうなれば、もはや白蓮は『罪人』だ。

 一度氾濫してしまった人々の心に、人の言葉も仏の言葉もありはしない。ナズーリンたちが関われば、白蓮を助けるどころか余計に危機へ追いやってしまうかもしれない。

 それがわかっているから白蓮も、たった一人で人々と向かい合おうとしているのだ。

 

「聖にも人々にも罪はなく、どちらにもどちらの苦しみがある」

 

 仏も神も、人の祈りがあってはじめてそこに加護を施すものであり、人の罪があってはじめてそれを裁くもの。

 白蓮が仏に縋る危険を理解し、故に己の力で乗り越えるというのなら。

 

「人の世の秩序に従って、人の手によって為されるべきだと。それが、毘沙門天様のご判断なのだと思うよ」

「……」

「私たちが迂闊に立ち入るようなものじゃない。仏が関わるということは、それだけで非常に大きな意味を持ってしまうのだから」

 

 星が唇を限界まで引き結び、唸るように重苦しく歯を軋らせた。

 ナズーリンは元より理詰めな性格だし、白蓮に特別恩義があるわけではないし、いつかこうなる覚悟だけはしていたから仕方ないことだと割り切れる。形こそ最悪になってしまったが、人と妖怪がともに暮らせる場所を築くために、これは彼女が自分で乗り越えなければならない試練なのだとすら思っている。信徒の人々との衝突は、その道を歩み続ける限りいつかは必ずぶつかってしまう壁なのだ。

 しかし寅丸星は感情に逆らえない少女で、白蓮を心から強く慕っていて、こんなことが起こるなんてきっと夢にも思っていなかったはずだった。

 納得なんてできまい。

 

「――いやです」

 

 そう言うに決まっていた。

 

「いろいろそれらしい理由をつけてますけど、結局、それって聖を見捨てるってことじゃないですか。私は、そんなの絶対にいやです」

 

 敢えて、ナズーリンは問うた。

 

「……毘沙門天様に逆らうとしてもかい?」

「毘沙門天様にご迷惑は掛けません」

「ご主人には無理だ。目付け役として、それは見過ごせない」

「ナズに私の気持ちはわかりません」

 

 ついさっきまで、打ちひしがれてロクに喋れもしない有様だったのに。

 ナズーリンを真正面から迎え撃つその瞳には、太刀を構えるにも似た徹底的なまでの反抗の意志がひそんでいる。事なかれ主義の彼女がここまで毅然と言い返してくるとは予想外で、ナズーリンは思わず返す言葉に詰まる。

 だが、

 

「私はここに残ります。ここに残って、聖を    」

 

 続くはずだった星の宣言が、そこで唐突に途絶した。

 言葉を切ったというより、その部分だけがなぜか意志に反して音にならなかったような不自然な空白だった。事実、星は目を丸くして喉を押さえ、

 

「あ、あれ? ええと、……あー、あー」

 

 ちゃんと声が出るのを確認してからもう一度、今度はひとつひとつはっきりと区切りながら、

 

「私は、ここで、聖と、    」

 

 やはり途切れる。唇は最後までその通りに動くのに、なぜか声だけが途中で出なくなる。

 星の相貌が不可解な困惑で歪む。

 

「あ、あはは、どうしたんですかね。変ですね、私はただ、聖を    」

 

 何度やっても結果は変わらない。

 星の唇の動きを読んで、ナズーリンはすべてを理解した。同時に、これは酷だな、と小さく小さくため息をついた。

 

「……ご主人」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね。私はちゃんと」

「わかっている。……わかっているよ」

 

 それが御仏の意思なのだと理解はできても、真実を告げるべきかどうか無意識に躊躇った。

 言った。

 

「ご主人は、毘沙門天様の代理人だ。……だから、毘沙門天様のご意思に明確に背く言動はできない……ということだと思う」

「――……、」

 

 毘沙門天に仕えてそれなりに長いナズーリンとしても、はじめて見る光景ではあったが。恐らくはこれが、代理とはいえ神の名を背負うということなのだろうと思った。

 毘沙門天は白蓮を救わない。だから星にも白蓮は救えない。助けたいと、口にすることすら許されないのだ。

 星の表情が凍りつき、そこから砕けるまでは、さほど時間は掛からなかった。

 彼女の瞳の奥で、決意と呼べる感情が為す術もなく破壊されていくのが見えた。

 

「…………そん、な」

 

 飛びかかるように白蓮へ振り向く。

 

「聖ッ!!」

 

 納得など、できるはずがなかった。

 

「私は、聖を    !!」

 

 牙を剥き、爪を立て、喉を震わせ、

 

「私は、聖を    ……っ!!」

 

 振り払うように、打ち砕くように、なげうつように、

 

「わたし、は……    ッ!!」

 

 何度も、何度も、何度も、

 

「……わたし、は。わた、し、は、………………」

 

 だが、ダメだった。どんなに叫んでも、どんなに繰り返しても、どんなに想いを吐き出しても。

 あなたを助けたいとすら、守りたいとすら――今の星には、ただの一言も言えなかったのだ。

 

「……ご主人」

 

 星は、泣いていた。声を上げることこそ、嗚咽に身を震わすことこそなかったけれど。畳を爪で抉るその手の甲に、音もなくそっとひとつの雫が落ちたのがわかった。

 

「――私は」

 

 星が吐き出す言葉に、もはや力も覇気もありはしない。

 元は野山を駆け巡る一介の妖怪で、仏の教えになんてなんの興味も持っていなかった。そんな彼女が毘沙門天の代理となったのは白蓮に推薦を受けたからで、ただ白蓮の力になりたかったからだった。

 毘沙門天に敬服していたわけではない。人々を救いたかったわけではない。白蓮のために頑張ってこの寺の本尊となり、白蓮のために頑張って人々の信仰を集め続けた。星にとっては白蓮が――この寺でみんなと一緒に送る生活こそがすべてだったのだ。

 だから今だって、白蓮のために、みんなのために、頑張って助けとなるのが当然のことなのに。

 また雫が、落ちる。

 

「私は、なんのために、神になったんですか――」

 

 悔しかっただろう。本当に、本当に、もう想いの遣り場すらわからなくなってしまうほどに。それだけはナズーリンも理解しているつもりだった。そして、理解してなお詮無きことだと割り切ってしまおうとしている自分に、少しだけ嫌気が差した。

 

「星」

 

 白蓮が、星の名を呼んだ。

 

「星、ありがとう。星……」

 

 (くずお)れる星の両肩に手を伸ばして、そっと抱き締めるように、

 

「本当に、立派な神様になって。それでも、そんなに私のことを考えてくれて……」

 

 優しい顔をしていた。それはさっきまでの拙い強がりではなく、彼女の心からの表情であるように見えた。

 皮肉なことだが、畳すら抉って涙を流す星の姿が、反って白蓮の決意を固めてしまったのだと思った。

 

「ありがとう、星。本当に……」

「っ……」

 

 そんな優しい言葉を、星は掛けてほしくなんてなかっただろう。怖いと、助けてと、たったそれだけの言葉さえあれば、その瞬間に己のすべてを白蓮のためになげうっていただろう。

 だが白蓮は、最後まで決して泣かなかった。

 それどころか、茶化すような笑みすら見せるのだ。

 

「でも、ひとつだけ不満だわ。星は、これで私たちの生活がなにもかも終わりになっちゃうと思ってるの?」

「……、」

「私だって、ただ捕まるためにここに残ろうとしてるわけじゃないのよ?」

 

 ――それは、そうだ。それは確かに、そうだろう。

 だが、しかし、

 

「ひょっとして、私じゃムリだって思われてるのかしら」

「そ、そんなことっ……」

 

 顔を上げた星の顔へ、指を伸ばす。

 

「星、私はね」

 

 驚いて動きを止めた星の目元を、指先で優しく拭う。

 

「これは、ちゃんと私の力で乗り越えなきゃいけないことだと思うの。これくらい自分で乗り越えられないで、人と妖怪が一緒に暮らせる場所なんか創れないんだって。遅かれ早かれ、いつかは必ず向かい合わなきゃいけないことだったんだって」

 

 眉を下げ、

 

「きっと私、みんなに甘えちゃってたんだと思う。みんなと出会えて、毎日がほんとに充実してて……もしかしたら、このまま上手くやっていけるんじゃないかって。……バカよね」

「聖、」

「だから」

 

 星の言葉を遮り、

 

「だから、これは私がやらなきゃいけない。町のみんなとちゃんと話をして、謝って、ぜんぶを許してもらえるはずはないし、そんなつもりもないけど。……罪を償って、またみんなと一緒にやり直していくわ」

 

 それが、白蓮の選ぶ道だった。

 白蓮は夢を捨てない。夢のために自分を偽ることはできない。誰かに犠牲を強いることもできない。彼女にできるのは、ただひたすらに、その体ひとつで道を歩き続けることだけだった。たとえ道の先に待つのが針のむしろだとしても、彼女はそれすらも乗り越えようとして歩き続けるのだ。

 

「――こんなところで、つまずいてなんかられないもの」

 

 こうやって、なんてことのない顔をして。

 だからナズーリンは、今になってようやく、染み渡るような理解を覚えた。

 

(……聖。君は、もしかしてずっと――)

 

 言うまい。喉まで出かかっていた言葉を吐息に変えて吐き出し、遣る瀬のない胸の痛みに煤けた天井を仰いだ。

 どうして彼女がこんな目に遭わねばならないのだろう、という答えなき問いが頭を埋め尽くした。人も妖怪も等しく安らげる場所を心から願い、傷ついた命を放っておけず危険も顧みず助けて、その結果裏切られても、自分が間違っていたのだと恨み言のひとつだってこぼしやしない。人と妖怪の共存を目指す人間として、涙も流さぬまま立ち向かおうとしている。こんなにも不器用で痛々しいまでの善人が、どうして人間から『悪魔』などと呼ばれてしまうのだろう。そういう運命だったという言葉で割り切るには、あまりに道理が合わないのではないか。

 この世には、他に報いを受けるべき罪人や悪人がごまんといるはずなのに。どうしてそんな人間たちを差し置いて、白蓮という少女だけが矢面に立たされてしまうのだろう。

 

「――約束、してください」

 

 言いたいことは、決してそれではないはずだった。心の中で暴れ狂うたくさんの想いを噛み千切り、星がそう声を絞り出した。

 

「私たちは、待っています。聖を信じて、待っています。ですから――」

 

 せっかく目元を拭ってもらったばかりなのに。泣けない白蓮の分まで、涙を流そうとするように。

 

「必ず、帰ってきてください」

 

 答える白蓮は、最後まで笑顔だった。

 

「――うん。頑張る」

 

 ナズーリンは、まるで正反対の表情で向き合ういびつな二人から、片時も目を離せないでいた。今まで感じたことのない言い知れぬ感情で、己の心が息もできぬほど張り詰めてゆくのがわかった。

 ――そうか。

 本当に、今更だった。

 今更になってようやく、人と妖怪の共存を願う白蓮の想いが。彼女に夢を託したという弟の想いが。肌を切るような悲愴とともに、理解できた気がしたのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 別に、自暴自棄になって一人で背負い込もうとしているわけではない。たとえ悪意などなかったとしても、これが己の過ちで起こった悲劇なのはなんの弁解の余地もない。なのに都合よく仏の助けに縋るのは筋違いだし、町の人々だって怒りの行き場をなくして底知れぬ失意に呑まれてしまうだろう。

 自分が助かるためだけに、町のみんなを犠牲にしようなんて思わない。

 そして、人々の怒りのまま自分のすべてを差し出すつもりもない。

 こんなところで終わるわけにはいかない。諦めるわけにはいかない。突きつけられた気がしたのだ。お前は本当に、夢を成し遂げるつもりがあるのかと。このまま歩き続けたところで、本当に約束を果たせる日がやってくると思うのかと。今の生活に心のどこかで満足し、甘えてしまっていたのではないかと。

 自分の進もうとしているのが、一体どういう道だったのか。

 今の世が今の世で、白蓮が白蓮である限り、いつかは必ず人々と衝突してしまう日がやってくるのだ。妖怪を恐れる人々に、それだけが妖怪ではないと説かねばならない時がやってくるのだ。そんなことすら自分は都合よく忘れようとしていた。だから人間の自分が、一人で人々と向き合って、乗り越えていかなければならないのだと感じていた。

 それすらできずして、どうして人と妖怪の共存を成し遂げられるというのか。

 

「――ムラサ、一輪、おつかいを頼みたいんだけどいいかしら? ちょっと遠くまでだから、遅くまで掛かっちゃうかもしれないけど……」

「いいですよ! 任せてくださいっ」

「聖様のためなら、海の向こうにだって行ってきますよ!」

 

 夜が明けてすぐ、白蓮は予定通りにムラサと一輪へ遣いを頼んだ。なにも知らない二人の笑顔に胸が痛んだけれど、きつく耐え忍んで白蓮もまた笑顔で送り出した。本当のことを知れば彼女たちは、白蓮に逆らってでも人々を迎え討つ道を選ぶだろう。

 町の人々だって、妖怪がいるとわかっている寺に無策で踏み込んでくるとは思えない。腕利きの退治屋を雇ってくるかもしれない。自分が撒いた種で人々を傷つけてしまったのに、その上家族まで危険に晒すなんて絶対に嫌だった。

 

 ――どうして白蓮が、こうにも己の夢に固執するのかといえば。

 そういう場所が必要なのだと本気で考えているのに嘘はない。かつて妖怪に命を救われた弟は、その妖怪をまるで人間のようだったと言っていた。父ができたみたいだったと言っていた。だから妖怪はただ恐ろしいだけの存在ではないのかもしれないと思い、今までとは違う目線で彼らの姿を見つめたとき、たとえ争いを望まない優しい心を持っていても、妖怪であるというだけで理不尽に恐怖され迫害される者たちがいると知ったのだ。

 そして、そのことを誰よりも知っていたのは弟だった。弟は、その短い生涯の中でたくさんの人々を救った高僧だった。たくさんの人々を救ったということは、それだけ多くの妖怪を調伏したということだ。けれど壮年の弟は、妖怪をひたすら退け続けることで成される平和に小さな疑問と葛藤を抱いていた。

 無論、なんの罪もない人々を徒に脅かす悪しき妖怪がいるのは事実である。

 しかしその陰に隠れて、ときには依頼だから、人々の生活を守らなければならないからという大義名分で、無辜の妖怪と対峙せねばならないことがあった。人間の側にだって省みるべき非はあるのに、守るために見て見ぬふりをしなければならないこともあった。

 自分が作り上げてきたものは、本当に平和と呼べるものだったのだろうか。

 果たして今の自分は、心から『父』に胸を張れるのだろうかと――そう苦心していた。

 弟は病で命を落とすその最期に、人だけを救い、妖怪を救おうとしなかった己を悔いていた。人と妖怪が、ともに暮らしていける場所があればよかったのにと嘆いていた。だから、白蓮が叶えようと決めたのだ。自分が願う世界を、弟が願った世界を。

 自分の夢は、決して自分だけの夢ではない。

 もう手の届かない場所へ逝ってしまった弟との、最後の約束なのだから。

 

「……静かだなあ」

 

 一人だけで佇む寺は、まるで生まれてはじめてやってきた場所みたいに静かだった。白蓮が外から戻ってくるとき、この寺ではいつも仲間たちが待ってくれていた。一輪が掃除をし、ムラサが水をまき、星が座禅を組んでナズーリンが警策を構えていた昨日の光景が、胸を締めつけられるくらい昔のように甦ってくる。何度も何度も見慣れたはずの本堂が、今はひどくがらんどうになって見える。

 こんなときでも、山が大きく呼吸をする音色は穏やかで。もうすぐ自分の人生で最大の分水嶺がやってくるなんて、なんだか嘘みたいだった。

 

「……」

 

 目の前の文机には、広げられた真っ白い書簡が一枚だけ乗っている。もしものときを考えて、みんなに手紙を残すかどうか考えていた。けれどはじめから諦めてしまっているみたいで嫌だったし、そもそもどれだけ文机に向かっても、思考がぐちゃぐちゃで文字のひとつを書くこともできないでいた。

 

 怖かった。

 本当は、泣きたいくらいに怖かった。

 

 星の前でいっちょまえな顔をして言ったことはぜんぶ強がりだ。私の力で乗り越えるなどと言っておいて、自分一人でなにができるのかなんてまるでわからない。ちゃんと人々と話をするなどと言っておいて、どんな言葉で向き合えばいいのかなんてさっぱりわかっちゃいない。

 またみんなと一緒にやり直していくなどと、恰好つけて言っておいて。

 これで終わってしまうかもしれないという恐怖を、どうしても、どうやっても拭うことができなかったのだ。

 

「っ……!」

 

 心の奥底に押しやっていた感情が、わずかな綻びから白蓮の意識を侵食する。

 どうして。

 どうして、こんなことになってしまうのだろう。私は、なにも悪いことをしようとしているわけじゃない。誰かを傷つけようとしているわけじゃない。人も妖怪もみんな平和に暮らすべきだなんて、時代を知らない大言壮語を語っているわけでもない。

 この世には、自ら争いを望んで戦いに身を投じる者たちがいる。この国には、戦場と呼ばれる場所がいくつもいくつも存在している。妖怪は人を襲い、人は妖怪に抗い、しかしその陰では望まぬ戦火に怯えている者たちが確かにいるのだ。

 だったら、争いを望まない者たちが平和に生きていける場所だって、あっていいじゃないか。在らねばならないはずじゃないか。

 それだけなのだ。

 悪いことをしようとしているわけじゃない。傷つけようとしているわけじゃない。本当に、ただそれだけなのに。

 なのに、どうして。

 どうして、どうして、こんな、

 

「どうしてっ……!」

 

 堰からあふれるように言葉がこぼれ、はっと口を覆う。いつの間にか目のすぐ真下まで熱い痛みが迫ってきていて、慌てて拭った。

 

「……だめ。だめよ、泣いちゃ」

 

 泣いて己の理想が叶うのなら、いくらでも憚らずに泣き喚こう。

 涙を流す余裕があるのなら、顔を上げろ。俯くな、背を見せるな、前を向け。私が、みんなを導いていかなければならないのだから。

 言っただろうと、自分で自分の胸を叩いて刻み込む。星たちの前で偉そうに語った強がりの中で、これだけは絶対と断言できる決意がひとつだけあっただろう。

 弟と交わした、最後の約束を。

 ――こんな形で終わらせてなど、たまるものか。

 

「……命蓮」

 

 神に祈ることはできないけれど、弟の名を呼ぶと少しずつ指の震えも止まっていった。

 大丈夫だ。

 わたしは、闘える。

 だから、待とう。

 

「……」

 

 白蓮は、待ち続けた。誰もいなくなった寺で一人、山の静かな呼吸に抱かれながらただただ待ち続けてた。そしてあるとき――本堂の中へ、音もなく柔らかな風が吹き込んできた。

 外から本堂に続く古びた木の階段が、確かな重みを受けて軋んだ。

 

「……!!」

 

 心臓が一気に暴れ出した。来た。この状況で参拝客がやってくるはずはない。間違いなく、白蓮を捕らえに来た人間たちだ。階段を軋ませる足音はひとつだが、振り向けば外では大勢の人々が白蓮を待ち構えているだろう。もしかすると見知った顔だってあるかもしれない。白蓮を憎悪に焼けた(まなこ)で睨んでいるかもしれない。そう考えるだけで怖くて、呼吸がおかしくなりそうで、手足は完全に竦んで欠片も動かせず、白蓮はただぎゅっと目を、

 

 

「――ごめんくださいなあー、っと」

「……え?」

 

 

 掛けられたのは、場違いに呑気で明るい少女の声だった。

 

「だー、やっと着いたよ疲れたあ。話には聞いてたけどこんな山奥とはねー。これって買い出しのたびに登り下りでしょ、大変じゃない?」

 

 わけがわからず、振り向いた。

 本堂の薄暗い日陰に慣れてしまっていたせいで、はじめは誰だかまったくわからなかったが。

 

「や。また会ったねえ」

「――あ、」

 

 皺だらけでだらしのない小袖と袴。後ろで雑にまとめた長い黒髪。そして野山を元気に駆け巡る子どもがそのまま大人になったような、素朴な生命力を感じさせる姿は、

 

「あなた、は」

 

 昨日、どこからともなくいきなり白蓮の真横に落ちてきて、野犬に追いかけられるがまま騒々しく走り去っていった、

 

「ん。……やっぱり、君が聖白蓮だったんだね」

 

 あのときの少女だった。

 彼女の姿を通して本堂の外を見る。彼女以外に人っ子ひとりの影もない。一人でやってきた。こんな山奥のお寺まで。なんのために。

 

 ――この状況で、参拝客がやってくるはずはない。

 

 少し前の、自分自身の思考が反響する。

 

 ――妖怪がいるとわかっている寺に、町のみんなが無策で踏み込んでくるとは思えない。

 ――腕利きの退治屋を、雇ってくるかもしれない。

 

 まさか、

 まさか、

 彼女が、

 

「――もっと、違う形で会えればよかったのに」

 

 あのときの少女は、けれどあのときと同じ表情ではなかった。

 己とは決して交わることのない彼方を見つめる、寂しく儚い笑顔だけがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑯ 「REMINISCENCE ⑥」

 

 

 

 

 

 弟が突然里に帰ってきたのは、白蓮がもう若いとは世辞でも胸を張れなくなった頃だった。

 弟は生まれつき体が強い方ではなく、体格なんて女か小鹿みたいに細くて貧弱だった。白蓮の方が背が高く腕っぷしも強かったくらいで、近所のみんなからはどっちが男だかわからないとよくからかわれていた。それでも仏僧として日々濃密な修業を積む中で随分と成長し、いつの間にか背もすっかり抜かされて、一人前の大人ともなる頃には、ああこの子も立派な男の子だったんだなとひどく感心させられたのを覚えている。

 

 そんな弟は、ほんの数年見ぬ間に枯れ木のようになっていた。

 突然里へ戻ってきた理由を、静養と表現すれば当たり障りもなく聞こえるが。

 弟は病魔に蝕まれ、満足に動くことも難しい体となってしまっていた。

 

 生き急ぎすぎたかなと、弟は笑って言う。

 なまじっか名が通ったばかりに弟の元へは日夜様々な依頼が舞い込み、休息などないに等しい生活だったという。無理をしている自覚はあったし、仲間からたびたび休養も勧められていた。しかし弟は、己に人を救える力があるとわかっているからこそ、助けを必要としている人々を放っておくことができなかった。それが弟の道だった。救うことだけが己の存在意義だった。軋む体から目を逸らし、呻く心を抑え込み、あと一人、どうかもう一人だけと自分を騙し続けて――。

 そして、倒れた。

 風邪みたいなものだと思っていたがいくら休んでも良くならず、詳しく調べてはじめてそれが深刻な病だと知った。

 そこから体調が回復することは、結局最期までなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 弟の様子を見に行ってみると部屋に姿がなく、慌てて捜せば彼は裏の濡れ縁でひなたぼっこをしていた。

 がっくり肩が落ちた。

 

「もうっ……命蓮? 勝手にいなくなったりしないでちょうだい」

 

 振り返った弟は姉の気も知らず、大袈裟すぎると朗らかに一笑に付した。

 

「姉さん、家の外に出てるわけじゃないんだから」

 

 弟は、今日は少し気分がよさそうだった。体はすっかり痩せ細って骨に辛うじて皮が付いているような有様だが、笑みにはいつもより明るい生気がにじんでいた。

 お陰で、喉元で準備していたお小言がぜんぶ引っ込んでいってしまった。鼻から小さくため息をつき、弟の隣に腰を下ろす。隣同士で座ると、弟は白蓮より拳ひとつ分も目線が高い。

 

「今日は顔色がいいわね」

「うん、体も随分と楽だよ。このまま散歩に行ってこようかな」

「もう……」

 

 本当にそんな真似をしたら白蓮が右往左往の大騒ぎをすると、わかっていてこの男は言っているのだ。体が弱っても、今や精神が成熟しきる壮年の年頃であっても、こうやってすぐ姉をからかおうとする子どもっぽいところはあいかわらずだった。

 尋ねる。

 

「なにをしてたの?」

「んー……考え事。いろいろと」

 

 命蓮は両手を後ろにつき、空へ向けてゆっくりと胸を逸らす。

 

「最近よく、昔のことを思い出すんだよね……」

 

 目線が単に空を見上げるよりもずっと遠く凪いでいる。今や己の記憶だけに残された光景を偲び、そして悼むような一抹の寂しさを感じている。そんな瞳だった。

 

「……姉さんは、さ」

 

 口の端からこぼれるような、ひどく弱々しい声だった。

 

「覚えてる? ずっと昔、ぼくを助けてくれた妖怪がいたって話」

「……ええ、もちろん」

 

 白蓮がその話を聞かされたのは十年ほど前だから、弟にとってはもう二十年以上も遡るだろうか。

 山修行の途中で死にかけた弟を、助けて世話してくれた妖怪のこと。

 弟が出会った、ほんの数日間だけの『父上』のこと。

 あのとき弟が語ってくれた話は、今でもはっきりと白蓮の記憶に刻まれている。忘れられるわけがなかった。なぜならあれが、白蓮の見える世界を変えてくれたきっかけだったのだから。

 世の中にはたくさんの恐ろしい妖怪がおり――けれど怪我した子どもを助けてくれるような、争いを嫌う心優しい妖怪だっているのだと。

 

「正直、ちょっぴり羨ましいわ。……私、お父様のことはもうなにも覚えてないもの」

 

 母が命蓮を身籠って少し、自分はまだほとんど物心もついていない頃で、父はそれほどまでの早世だった。昔はおぼろげながら覚えていることもあったが、今ではすべて色褪せ、正直なところ父などはじめからいなかった感覚の方が強くなってしまっている。

 だからほんの数日だけであっても、父と呼べる誰かと出会い、話をして、世話をしてもらえた弟が羨ましく思えてしまうのだ。日頃からよくしてくれる近所の人たちは多くいるけれど、父親代わりというほどの誰かはいないし、そんなものを望めるような歳でももうなくなった。

 父、とは、一体どんなものなのだろう。

 

「……」

 

 弟が、錆ついた動きで背を丸めて俯いた。白蓮は首を傾げる。記憶にある限り、『あのひと』の話をするとき弟はいつも楽しそうにしていたはずだった。まるで子どもの頃へ返ったみたいに、白蓮が羨ましく思うくらいに。だが今の弟からはむしろ、唇の端をきつく噛むような慚愧(ざんき)に近い空気を感じた。

 予想外の言葉だった。

 

「……僕も、さ。あのひとのこと、もう覚えてないんだ」

「え、」

「いや、完全に忘れたわけじゃないよ。……でも、顔とか、声とか、言葉遣いとか。どんなに思い出そうとしても、影みたいになっちゃうんだ」

 

 はじめこそ胸を突かれた思いだったが、ほどなく白蓮の全身に急速な理解が広がった。

 そういうひとがいた、ということははっきりと覚えている。でも、どんなひとだったか、が段々と思い出せなくなってきている。

 白蓮が、そうやって父のことを忘れていってしまったように。

 

「いつからだったのかわからない。気がついたら思い出せなくなってた。思い出せないことにすら気づかなかった」

 

 膝に爪を立てながら吐露する、弟のその言葉は。

 

 

「――絶対に忘れたりしないって、心に誓ったはずだったのに」

 

 

 自分自身への、深い深い失望だった。

 

「自分で自分が許せないんだ。ぼくが忘れたら、あのひとは本当に(・・・・・・・・)いなくなってしまう(・・・・・・・・・)のに。なのにどうして、どうしてこんなことも覚えてられなかったんだろうって」

 

 あのひとを知っているのは弟だけで、弟の記憶こそが唯一あのひとが存在したことの証明だった。だから自分が忘れてしまったら、あのひとを覚えているのはもう誰もいない。それはもう、そんなひとなどいなかったということと、同義になってしまうのではないか。

 自分で自分に刻んだ誓いすら守れず、こうも呆気なく忘れてしまうというのなら。妖怪に誑かされていただけだという、仲間たちの心ない言葉を。

 認めてしまうことと、同じなのではないか――。

 

「考えすぎよ。顔が思い出せなくなっても、あのひとが命蓮を助けてくれたのは変わらないわ」

「……」

 

 枯れ枝のような弟の指先に、白蓮はそっと自分の手を重ねる。

 

「私はあなたから話を聞いただけで、あのひとに会ったことはないけど。でも、あのひとはそんなのきっと気にしないと思うわ。こんな体になるまで、あなたはずっとずっと頑張ってきたんだもの」

 

 人を救うために、仏の道に入ったのだろうと。

 あのひとはそう言って、名前も正体も告げず弟の前から消えたという。人のために生きろということだった。それが、あのひとが弟に願ったたったひとつのことだった。夢を後押しされた弟は一層ひたむきに修業へ打ち込み、名実ともに高僧たる地位まで登り詰めて、病に倒れるまでただただ人を救い続けた。

 最後まで自分を子ども扱いしていたあの父へ、どんなもんだと胸を張れるように。

 命すら燃やしたその生き様を理解しないようなひとなら、弟ははじめから『父上』なんて呼んだりはしない。

 

「……そうだといいけどね」

 

 だが弟は、力なく苦笑するだけだった。

 

「でもさ。本当にこれでよかったのかって、ときどき考えることがあるんだよ。というか、さっきまでまさに考えてた」

「よくないわけがないでしょう? たくさんの人たちの力になって、すごく立派なことじゃない」

「まあ、それはそれ、っていうかさ」

 

 また、遠い目をして空を見上げる。

 

「いろんな人たちの依頼を受けてきたから、その分いろんな妖怪を見てきたんだ。もちろん、人を困らせる悪いやつが大半だったけど」

 

 肩を落とし、

 

「……でも今になって思えば、なんの悪さもしてないのに、人の方が勝手に気味悪がって悪者扱いしてる妖怪もいた気がするんだ。そんな妖怪までぼくらは調伏した。それが依頼だったから。もしかしたら、ただ平和に生きたいだけの妖怪だったかもしれないのに――きっと、あのひとみたいに」

 

 妖怪は妖怪であるだけで人々にとって恐怖の対象だ。妖怪とはそういう存在なのだと子は大人たちから教えられ、故にそう信じて疑わずに育ってゆく。人は様々な(まじな)いを使って妖怪を退け、必要に迫られれば調伏だってする。妖怪は危険な存在で、生きるためには身を守らなければならない。だから弟のような才ある人間が、神仏の加護を得て力なき人々を守るのだ。

 しかし、

 

「誰かを助けることばかり躍起になって、大事なことを見落としてたんじゃないかって。そんなぼくを見たらあのひとはどう思うのかなって、考えてたんだ」

「……」

「実際悪い妖怪がいる以上、世界平和なんて無理だけど」

 

 その眼差しを細め、「もしも」の未来を思い描くように、

 

「でも、人だけじゃない。平和に生きたいと願っている妖怪だって、助けるべきだったんじゃないかってさ」

 

 どうしてぼくは、あのひとと出会ったのか。あのひとに命を救われた意味はなんだったのか。あのひとを知っているただ一人の人間だったぼくは、本当はどうやって生きるべきだったのか。どうしてあのひとは、最後の最後にぼくの背中を押したりなんてしたのか。

 問うたところで、答えはどこからも返ってこないけれど。

 

「――人と妖怪が、一緒に暮らせる場所があればよかったのに」

「……!」

 

 弟の小さな呟きは、どんなに大きな叫びよりも鮮烈に白蓮の胸を打った。それは白蓮が、何年も前から胸の奥でくすぶらせていた葛藤と同じだったからだ。

 弟の命を救ってくれた妖怪がいた。だから妖怪といってもただ恐ろしいだけの存在ではないのかもしれないと思い、今までとは違う目線で世界を見つめ直してみた。そして罪のない人々が妖怪によって襲われるように、罪のない妖怪が人間によって襲われることもあるのだと知った。

 おかしいと思った。人も妖怪もみながみな争いを望んでいるわけではないのに、どうして私たちは傷つけ合ってばかりなのかと。

 人も妖怪も関係ない。争いを望む者たちが、欲望のまま戦いに身を投じる場所があるのなら。

 争いを望まない者たちが、その願いのまま平和に生きていける場所だって、あっていいのではないか。

 そういう場所があれば、弟と『あのひと』だって一緒に暮らしていけたのではないかと。

 しかし、その想いを誰かに語る勇気はなかった。周りの人たちが妖怪をどういう存在と見なしているかは知っていたので、語ったところで理解などされないとわかっていた。夢として抱くにも理想として掲げるにも程遠い、夜の中を彷徨うような漠然とした感情でしかなかった。こんなことを考えるのはおかしいのかもしれないと自分でも思っていたし、だから弟にも話したことはなかった。

 

「命蓮」

 

 闇が晴れ、豁然と道が開けたのを感じた。

 

「だったら、私たちが創ればいいんじゃないかしら。人と妖怪が一緒に暮らせる場所を」

「……へ?」

 

 命蓮が目を白黒させた。

 

「私もおかしいって思ってたの。『あのひと』みたいに、人を助けてくれるような優しい妖怪だっているのに。なんで人と妖怪は、こんなにも相容れられないんだろうって」

 

 今でこそ白蓮と命蓮は一緒の家で暮らしているが、これまでは長らく離ればなれで、顔を合わせられるのは何年かに一度、弟が修行先から里帰りしたときだけだった。にもかかわらずこうして同じ想いを抱いていたのは、果たして単なる偶然に過ぎないのだろうか。

 なにか運命めいた不思議な力で導かれたように感じてしまうのは、自意識過剰というやつなのだろうか。

 

「ねえ、いいと思わない? きっと、そういう場所を願っている人は他にもいるはずだわ。だから創りましょう、私たちで。みんな平和に暮らせる場所を」

「……、」

 

 命蓮は何事か言いかけたが口を噤み、声を失ったように黙り込んでから、

 

「……それ、本気で言ってる?」

 

 茶化しているわけではなく、あくまで真剣な問い掛けだった。

 

「普通の考えじゃないのはわかってる。でも、それはあなたも一緒でしょう?」

「そういう場所があればいいとは、思ってるよ。でも、創ろうなんて考えたことはなかった」

「ほら、一緒。私だって、さっきあなたの言葉を聞くまではずっと迷ってた」

「落ち着いてよ。たまたま同じ意見だったからって、つい嬉しくなってるだけじゃないの? 口で言うのは簡単だけど、どれだけ途方もないことかわかってる?」

「国を変えようなんてつもりはないわ。ただ、この世界のどこか片隅にだけでも、そういう場所があったっていいと思わない?」

「……思うけど。思うけど、じゃあどうやってそんな場所創るつもりなのさ」

「わかんない」

「あのさあ……」

 

 命蓮はこめかみを押さえ、項垂れるほど大きなため息をついて、

 

「姉さんって馬鹿だよね」

「ば!?」

「一見利発そうに見えるのに、そういうとこは昔からぜんぜん変わってない」

「ど、どういう意味ーっ!?」

 

 暗に頭が幼稚だと言われた気がして白蓮は憤慨した。確かに、この歳になっても頭を使うのは得意じゃないけど。体を動かす方が好きだけど。でも昔みたいなはっちゃけ娘ではないし、女性らしい嗜みだって身につけたし、そもそも毎日ごはんを食べさせて看病してあげてるのは一体誰だと思っているのか。さては姉のありがたみがわかっていないのか、舐めているのか。

 これは姉の威厳を守るため一発拳骨かしら、うーんでも一応病人だしなあなどと悩んでいると、

 

「……でも、そんな風にまっすぐ物を言えるのは、ちょっとだけ羨ましいよ」

 

 弟は、再度のため息とともに白蓮から顔を背けた。

 白蓮の目を見返せなかった己に、自嘲するような口振りだった。

 

「ぼくは考えもしなかった――ううん、違うな。はじめから無理だって思って、考えることも諦めてたのかもしれない」

「……」

「人も妖怪も平和に暮らせる場所を、ぼくたちが創る……か」

 

 眦を細め、

 

「……どうやったら、そんな場所なんか創れるんだろうね」

「わからない。でも、手を伸ばすことはできるわ。一人じゃ無理でも、二人なら届くかもしれないでしょ?」

 

 白蓮はこっそり準備していた拳骨を解き、弟の弱々しい背を優しく撫ぜて。

 

「……だから体、早く治さないとね」

 

 勘弁してよ、と弟はようやく笑った。

 

「姉さんみたいな体力おばけじゃないんだから、ゆっくり休ませてってヴァッ」

 

 白蓮もまた笑い、今度こそゴチンと拳骨をかました。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――でも結局、そこから弟の体がよくなることはありませんでした」

 

 こんなにもたくさんのことを、誰かの前で切々と語ったのははじめてだった。自分のこと。弟のこと。そして『あのひと』のこと。一番本音を打ち明けやすかったナズーリンにも話していない、自分のすべてといっても過言ではないくらいたくさんのことを、白蓮はほんの昨日出会ったばかりの人間を相手にただただ語り続けた。

 頭上に古ぼけて黒ずんだ天蓋を戴き、寺の本堂で白蓮と一人の女が向かい合って座っている。固い正座で背筋を伸ばす白蓮とは対照的に、胡坐を掻いて背を曲げて、男みたいに座って耳を傾ける女がいる。長い黒髪を雑にまとめて、小袖に袴の巫女のような出で立ちをしている。

 本当に巫女というわけではない。しかし一方で、白蓮の説法を聞くためわざわざ山を登ってきた参拝客でもない。

 

 名は、神古しづく。

 町の人々から(こいねが)われ、白蓮を捕らえに来た――陰陽師。

 

 君のことを教えてと、彼女は言った。

 どうして、妖怪を助けるのか。

 どうして、あの妖怪を助けたのか。

 麓の町が襲われたのは、本意だったのか。

 これから一体、どうするつもりなのか。

 ぜんぶ、教えてと。

 だから、白蓮は語った。

 

「病は弟を蝕み続け、どんな薬も祈祷も甲斐がなく、どんどん衰弱していくばかりで。死んでしまっては元も子もないと、妖怪の力を借りて不老長寿の秘術に縋りました」

 

 もはやなにも隠さなかったし、なんの嘘もつかなかった。人を救い魔の脅威を説くはずの仏僧でありながら、人の理を外れ、人外の領域へ手を伸ばしたことも。

 妖怪の力を取り込むことで、人ならざる生命力を得る禁術――これならばきっと、弟を助けられると思っていた。

 

「……ですがそれすらも、弟を救うことはできなかった。術が、体に合わなかったんです」

 

 結局、弟の残された時間を更に削り取るという残酷な結果になってしまった。神仏の存在意義を疑わずにおれぬほど世の無情を恨んだのは、後にも先にもあのときだけだ。

 

「弟は、強く生まれることができなかった己を悔やみながら逝きました」

 

 体が弱い自分に、泣き言なんて一度も言ったことがなかったのに。

 もっともっと、生きたかったと。最後の最後であんな風に涙を流すなんて、卑怯にもほどがあると今でも心の底から思う。

 

「だから私は決めたんです。弟がいなくなっても、私が私たちの夢を叶えようって。それが、遠くへ逝ってしまった弟との最後の約束なんです」

 

 夢を抱いたのは、弟がいたから。

 そして夢を捨てられないのは、弟がいなくなってしまったからだ。

 

「私は故郷を捨て、若返りの術と、弟と同じ不老長寿の術へ手を伸ばしました。体がすでに衰え始めていて、このままでは約束を果たすまで持たないとわかっていましたから。どうしても死ぬわけにはいなかなかったんです」

 

 ある意味、弟と自分は似ているのかもしれない。人の力になりたいと願い仏門を叩いた弟は、『あのひと』の言葉に背を押されて己が理想を追い続けた。そして人も妖怪も平和に暮らせる場所が必要だと願う白蓮は、弟との約束に背を支えられて己が夢を追い続けてきた。

 一蹴されるかとも思ったが、しづくは穏やかな顔をして白蓮の吐露に耳を傾けてくれていた。少なくとも、白蓮がすべてを語り尽くすまではなにも言わず聞き続けるつもりのようだった。

 白蓮は深く、一度呼吸の間を置いた。

 

「……あの妖怪は、その身に(まじな)いを受けて痛ましいほどに衰弱していました。人間に襲われ、棲家を追われ、仲間も喪ったと。そういう妖怪を救うのが私の願いです。だから呪いを解きました。……復讐の悲しさも、説いた、つもりでした」

 

 膝へ、食い込むほどに爪を立て、

 

「ですが、私の判断は間違っていたのでしょう。あの妖怪を助けたのは私で、私が助けさえしなければ町が襲われることはなかった。そこに申し開きは一切ありません。……お前のせいだと、言われたとしても。私は、なにも言い返せません」

 

 肩を震わせ、眉間を歪め、歯を軋らせて、堰を切る言葉で、それでも、

 

「でも、それでも……! 私は、夢を捨てたくないっ……!!」

 

 それでも、どうしても、その想いを吐き出さずにはおれなかった。

 結局白蓮には、論理的な説得で理解を求めるなど無理な話だったのだ。自分にできるのはただ、感情のまま吐き出すことだけで。でも今の自分では、感情のまま叫んだところでロクな言葉は出てこなくて。

 誰かを恨みたいわけではない。自分が被害者だとは思わない。こんなの理不尽だと無責任に嘆くつもりもない。白蓮の心を埋め尽くすのは、どこまでも、どこまでも、『どうして』というそのたった一言だった。

 

「どうしてなんですか……!? 人と妖怪は、どうして……ッ!」

 

 こんなことを、彼女に問うたところで意味がないのはわかっている。しかし彼女が人を救い妖を退ける陰陽師だというのなら、この夢は抱いてはいけないものなのかと問いたかった。

 

 これからどうするつもりかなんて、そんなのこっちが教えてほしい。

 

 私は、どうすればいいんですか。

 一体どうすれば、夢を叶えられるんですか。

 一体どうすれば、命蓮との約束を果たせるんですか。

 無理なんですか。

 こんなのはじめから、願っちゃダメだったんですか。

 どうして、

 

「どうして……!!」

 

 ダメだ、と思った。これ以上感情を暴れさせては、きっと白蓮は押し潰されておかしくなってしまう。唇を噛んでそこから先の「どうして」を抑え込み、目の前の少女――神古しづくの言葉を一心に待った。

 

「……なるほどねえ」

 

 答えを乞われたしづくは胡坐の足首を両手で掴み、体を前後へ揺すった。

 

「そういうことだったんだね」

「……はい」

 

 白蓮は強く唇を引いたまま頷く。しづくもまたひとつ頷き、至極真面目らしい顔つきをすると、唸るように腕組みをして言った。

 

「――てっきり同い年くらいかと思ってたけど、私らって下手すりゃ孫くらい歳離れてたんだね。やべーぞこれは」

「へ、」

「なるほどなー、不老長寿の術かー。それ使えば生涯現役じゃん、おばあちゃんになってもつるつるぴちぴちじゃん。いいなあ、私もかじってみよっかなー」

「……え、えっと、」

「……まあ、ってのはさすがに冗談だけどさ」

 

 反応が追いつかない白蓮へ愛嬌のある苦笑を向け、

 

「死んだ弟との約束、か。薄々予想はしてたけど、こりゃ相当なワケありだねえ。参ったなあ」

「……」

 

 君がある種の邪な思想を以て妖怪に加担するのなら、なにも迷うことはなかったのに――きっと、そういう意味なのだと思った。

 

「ほんと、参ったなあ……」

 

 しづくは顔をしかめ、うなじのあたりを荒っぽく掻くと、いきなり白蓮に向けて深く頭を下げた。

 

「ごめんなさい。元はといえばこれ、完全に私のせいだ」

「え……」

「あの妖怪、私が退治し損ねたやつなんだ。一匹だけ逃がしちゃって……でもあの呪いなら永くは持たないから、まあ大丈夫だろうって」

 

 白蓮は無理に反応しようとせず、しづくの言葉を理解することに全神経を注ぐ。

 

「あの妖怪、窮奇っていってね。最近この国に入ってきたばっかだからほとんど名は知られてないんだけど、一言で言っちゃえば悪い妖怪ってやつで、あれこれやらかしてくれちゃってるわけ。だから……そういう(・・・・)依頼が私たちのとこにも来て、それで、ね」

 

 ――あの妖怪は元々、私が依頼で退治するはずの相手だった。でも逃げられてしまって、それを偶然君が助けてしまった。だから私がちゃんと一匹残らず退治していれば、そもそも君があの妖怪と出会うことはなくなって、今まで通りのなにも変わらない日常が続いていたはずなのに。

 そう言っていた。

 ……それは白蓮も、可能性としてはそうなのかもしれないと思った。けれど頷くことはできなかった。あの妖怪が、はじめから彼女に退治されているべきだったのか。こうして裏切られてもなお、白蓮には咄嗟に答えが出せなかった。

 

「……でも、考えようによっちゃこれでよかったのかな。知らない場所で知らないまま終わっちゃうよりは、ずっと」

「え?」

「んにゃ、こっちの話」

 

 しづくの鹿爪らしい佇まいは、すぐに鳴りを潜めた。

 

「でも、白蓮はすごいねえ。確かにみんな平和に暮らせればそれが一番だけど、そういう場所を創ってやろうって実際に行動できる人なんていやしないよ。普通はみんな口だけさ」

 

 予想外の称賛に一瞬面食らったが、自分は褒められるに値する人間ではないとすぐさま思い直す。

 

「……口先だけなのは私も一緒です。このような取り返しのつかない結果になってしまうんですから」

「それは仕方ないよ。さっきも言ったけど、あの妖怪はこの国じゃまだほとんど名が知られてない。どうせ君の前じゃ一見物分わりがいいようなふりしてて、悪い妖怪には見えなかったでしょ。そういうことを平気でやるやつなんだ」

「仕方ない、では町のみんなは納得しません」

 

 しづくが、見定めるような(まなこ)で白蓮を捉えた。

 

「納得してもらう、つもりなんだね」

 

 あくまで純粋な問い掛けを、白蓮は肯定も否定もできない。しかし言葉は続ける。

 

「納得してもらえるなんて、虫のいいことを考えているわけじゃありません。普通に考えれば、この期に及んでは無理なのだとも思います。でも、」

 

 教えてほしかった。

 

「……それでも、夢を捨てたくないと思ってしまう私は。愚か、なのでしょうか」

 

 この夢は、抱いてはいけないものだったのか。叶えられるはずのない絵空事だったのか。人と妖怪はいがみ合いながら生きていく他なく、負の連鎖を断ち切ることなどできないのか。

 そして、

 

「弟が出会った妖怪は。弟が過ごしたあの数日は。……幻想、だったのでしょうか」

 

 決して忘れないと己に誓ったはずの弟は、しかし周りの仲間たちからことごとく否定され続けたせいで、最後は自分でも自分の記憶を信じられなくなってしまった。『あのひと』は本当に、『あのひと』だったのだろうかと。

 白蓮の世界を変えるきっかけとなってくれたあの出会いに、一体なんの意味があったのだろう。

 あれが幻想だったというのなら、死に逝く弟と交わした最後の約束に、一体なんの意味があるというのだろう。

 私はなんのために今まで歩いてきて、なんのために今ここに立っているのですか。

 その答えを、誰でもいいから教えてほしかった。

 

「……」

 

 こんなことを訊かれても迷惑なだけだったろうに、しづくは不快そうな素振りひとつ見せず、長閑な日差しが注ぐ本堂の外へゆっくりと目を配った。

 遠い遠い記憶を(ひもと)くような、凪いだ眼差しをしていた。

 

「……ねえ。弟さんを助けてくれたその妖怪って、どんなひと?」

「……詳しくはなにもわかりません。最後まで、弟には名前も教えなかったそうですから」

 

 名前はもちろん、鬼なのか天狗なのか、はたまた狸なのか狐なのかそれ以外なのかもわからない。霊山の奥地を住処にする妖怪ならば、天狗に違いあるまいと弟の仲間たちは口を揃えていたようだが。

 

「子どもだった弟が『父親ができたみたいだった』と感じたそうなので、人間に姿が近い男の方だと思います。それと陰陽術に精通していて、弟にいくらか手解きをしてくれました。あとは、元はあちこちを旅していたとか……ただ、それは人間のふりをするための嘘かもしれませんけど」

「ふうん……」

 

 一見気のない相槌のあとに、なにか心を固めるような余韻があった。

 

「――やっぱりこれって、運命ってやつなのかもね」

「……え?」

「ね。今度は私の話を聞いてくれる?」

 

 はあ、と白蓮は生返事をする。いや、それよりも、直前に口ずさんだ「運命」って一体なんのことで

 

 

「私のご先祖様って、妖怪の友達だったらしいんだ」

 

 

 世界が止まった、気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まるで弟から、はじめて『あのひと』の話を聞かされたときのような。

 そんな時間だった。かつてある妖怪が、人に化けて弟の父親代わりとなったように。それはある妖怪が、人に化けて人の京に紛れ、しづくのご先祖様とかけがえのない――最後には人と妖怪故の別れが訪れたけれど、それでも決して色褪せることのなかった――友誼を結んだ話だった。

 何百年も昔である分、話はどうしても断片的ではあったが。それでも彼女のご先祖様が、その妖怪と本当に良き関係を築いていたのだけははっきりと伝わってきた。

 陰陽術のいろはを教わったこと。

 そいつが仲を取り持ったのもあって、この上ない良妻に恵まれたこと。

 なにからなにまで世話になったこと。

 恩人であったこと。

 最後は人間として、死という形を持ってご先祖様の前から消えていったこと。

 そして、何年も後にひょんなことからそれが芝居だったと知ったが、ご先祖様はその妖怪を決して恨まず、最後まで人々のために生き抜いたこと。

 

「その妖怪が、『人を救って生きろ』って言い遺したらしくてさ。それが今でもウチの家訓というか、この仕事やる上での信念みたいなもんになってるわけ」

「そうなんですね……」

 

 己の立場も時間の経過もすっかり忘れ、白蓮はあの頃に時が戻った思いでのめり込むように耳を傾けた。楽しかった。胸が躍った。片や弟、片や遠い遠いご先祖様という違いはあれど、自分と似たような身内を持つ人間とこうやって話ができたのなんてはじめてで、なんだか夢を見ているみたいだった。

 

「人間に相当上手く化けられるし、陰陽術にも詳しいし、ご先祖様と友達だったくらいなら、怪我した子どもを助けるくらいはしそうだよね。……ひょっとしたら、君の弟さんを助けたのと同じ妖怪だったりするのかも」

「ええ……本当に……」

 

 なんの確証もないけれど、そうだったらいいなと白蓮は思った。だってそれなら『あのひと』は確かにいたのだと、弟に証明できるような気がしたから。

 

「――とそんな感じで、ウチの家系で代々語り継がれてる秘伝のお話さ。話すのは君が二人目だけど」

「……貴重なお話、本当にありがとうございました」

 

 頭を下げる白蓮にしづくは笑い、

 

「そう考えると私らって案外似た者同士らしいし、これも運命の巡り合わせってやつなのかなあと考えなくもないわけですよ。……だから余計に思うのさ。もっと違う形で会えればよかったのにって」

「……」

 

 もしも、自分たちの出会いがもっと違っていたら。

 どうなっていたのだろう。しづくは人間を救う陰陽師で、白蓮は妖怪こそを救いたいと願う尼僧だけれど。あまりに違いすぎる生き方だけれど。それでも同じ妖怪に身内を助けられた者同士、ひょっとすると手を取り合って歩んでゆくこともできたのだろうか。

 しづくのどこか締まり切らない佇まいが、波が引くように消えていく。白蓮の背後に向かって流れる風が、そよ風と呼ぶには冷たすぎる圧を帯びたのがわかった。

 最後の問いだった。

 

「――さて、確認だ。君はこれからどうするつもりなのか。今の生き方を、変えるつもりはないんだね?」

「……はい」

 

 しづくの透明な瞳を、白蓮は逃げずに見返した。

 

「しづくさん、私を町に行かせてください。隙を見て逃げたりはしません、なんだったら私を縛ってくれても構いません。どうか、町のみんなと話をさせてください」

 

 わずかに――本当にわずかに、しづくがこらえるように眉を歪めたのだと、そのとき白蓮は気づかなかった。

 

「……今のみんなが、君のことをなんて呼んでるか知ってる?」

「はい。『悪魔』、ですよね」

「そう。……それでも?」

「はい」

 

 逃げてはいけない道だ。

 

「元々そのつもりでしたけど、あなたとお話できて心が決まりました。私……私、やっぱり諦めたくありません」

「……」

 

 この期に及んで浅ましいかもしれない。愚かかもしれない。けれど白蓮は、生きられなかった弟のためにもどうしても夢を捨てたくない。星、ナズーリン、ムラサ、一輪、雲山――待ってくれているみんなのためにもどうしても終わりたくない。自分から諦めるのは絶対に嫌だ。だからこうして最後の問いを突きつけられるのなら、もう足掻けるだけ足掻くしかないのだ。

 それだけで、あとはみんながすべてを決めてくれる。

 なんだか不思議だ。あれだけ巣食っていた恐怖や後悔は露と消え、今はただただ心が澄んでいくのだけを感じる。たとえ町のみんなを前にしても、悪魔と罵られたとしても、伝えたいことを伝えたいままに伝えられる気がする。

 もしかすると、一種の悟りみたいなものだったのかもしれない。

 

「しづくさんは、私を捕らえて町に引き出すために来たんですよね? だから、行きましょう」

「…………」

 

 しづくは要領の得ない吐息とともに目を伏せ、口の端を捻じ曲げるようにして笑った。

 

「参ったなあ。そんな、憑き物が落ちたみたいな顔して言うかいね」

「そんな顔してます?」

「うん。……やっぱり、君はそうするんだね」

 

 それから、小さく、

 

「……私も、心が決まったよ」

「……?」

 

 袖の奥に手を入れ、なにかを取り出した。

 札だった。

 あれで私を捕まえるのかしら、陰陽師ってそんなこともできるんだなあと白蓮は呑気にその様子を見つめ、

 

「――ほんと、私たちだけで来て正解だった」

 

 しづくが札から手を離す。そしてひらひらと舞い落ちた紙片が床に降りた瞬間、光と風が生まれた。光は視界が潰れるほど強く、風は髪がはためくほど強く、どちらも足元から天へ流れゆくように。ほんの数拍程度の時間であり、治まったとき白蓮が目を開けると、本堂全域を掌握する淡い光の陣が顕現していた。

 光の中、しづくが立ち上がっていた。

 

「しづく、さん?」

「ごめんね、白蓮」

 

 謝罪の言葉こそ穏やかだったが、白蓮を見下ろす眼差しにはどこか俯瞰的な寂しさがあった。

 

「今までの話、ぜんぶ時間稼ぎなんだ」

「え、」

「お寺の周りに私たちの仲間がいて、この陣の仕込みをしてた。結構大掛かりなやつだからすぐにはできなくてね。そのための時間稼ぎ」

 

 なんで、という問いが頭に浮かぶ。なんで、そんなことをするのか。しづくは人々に依頼され白蓮を捕らえに来て、白蓮はしづくに従って町まで行くつもりなのだ。逃げるつもりはない。心配なら両腕を縄かなにかで縛りでもすればいい。だから、こんな大仰な陣なんて必要ないはずなのに。

 どうして、時間稼ぎが必要だったのか。

 どうして、こんなものが必要なのか。

 まさか、彼女は、

 

「白蓮。勝手で、悪いけど」

 

 まさか、

 

 

「私はここで、君を封印する」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……動いたか」

 

 本堂の外まで立ち上がる黄金色の光に、山伏は厳つい面構えのまますっと目を細めた。

 寺の敷地の外で屹立する、呆れるほど背の高い大樹の上だった。本堂の屋根より更に高いその位置で、人間の胴体みたいな枝を足場にして立つ男の姿は、人が見ればすわ物の怪の類と戦慄するだろうほどまさしく天狗めいていた。

 山伏はふむとひとつ鼻息をつく。陣の仕込みが整ってからやや待たされはしたが、とうとう動き出したようだ。見下ろせば山伏の部下が寺を包囲し、光り輝く陣へ力を供給する姿も見て取れる。

 

「ようやく腹が決まったらしいな」

 

 それしか聖白蓮を救う方法がないのだから、迷う道理などないだろうに。

 まあ、無理もないのかもしれない。たとえ救うためとはいえ、人を、己と同年代くらいの女を封印するなんて。神古しづくにとっては。

 

 しづくの未来を見る能力によれば、聖白蓮はそう遠くないうちに志半ばで非業の死を遂げるらしい。

 

 聖白蓮が命を落とす瞬間を、いっそ見慣れてしまうほど繰り返し夢に見たのだ。具体的な死期や死因はまちまちだったが、何度夢を見てもそれだけは決して変わらない未来だった。人を救え、という家訓のもとで生きるしづくにとって反吐が出るほどの悪夢だったろう。

 だからこそ昨晩見た『聖白蓮を生かすことのできる未来』は、しづくにとって仏の導きにも等しい救いだったはず。

 迷いこそすれ、最後には必ず縋る。

 そして縋ったにもかかわらず、恐らくは最期までその選択を悔やみ続ける。

 そういう人間なのだ、神古しづくは。未来が見えるといえば聖人めいて聞こえるが、だからこそ彼女は人並みに迷い、人並みに苦しんで生きている。

 

「まこと、難儀な女童(めらわ)よ」

 

 喉で震えるように低く笑い、山伏は枝にのそりと腰を下ろす。

 首を突っ込む真似はしない。聖白蓮とやらがどうなろうと、山伏にはまったく与り知らぬこと。己が待つのはただ、山を登る途中でしづくから聞かされた未来。

 ――夕暮れ頃に仲間の妖怪が戻ってくるから、そいつらもまとめて封印する。そんときはヨロシクね。

 望むところだ。

 神古しづくが人を救い、聖白蓮が妖怪を救うように。妖怪を斬り伏せ、剣の道をより高みへ登り詰めることこそが、己の生きる道なのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 しづくが思っていたほど、聖白蓮は取り乱さなかった。だが冷静だったわけではなかった。耳を澄ませば彼女の心臓の音だって聞こえてきそうで、それほどの焦燥と惑乱の渦中であってもなお、頭の中が真っ白でなにも反応できないでいるのだと思った。

 見ず知らずの異国に、突然独りぼっちで放り出されたような。

 そんな顔をしていた。

 

「白蓮」

 

 しづくがそっと呼びかけると、白蓮は幼すぎるほど肩を震わせて、まるでしゃっくりみたいに拙く息を吸った。

 無理もない。なんの脈絡もなくいきなり、お前を封印するなどと言われれば。

 聖白蓮は、善人だった。

 そして、ただの善人に過ぎなかった。

 不老長寿の術の力で見た目以上に長生きしていても、彼女はなんの特別な力も持たない少女だったのだ。夢を手繰り寄せるだけの並外れた辣腕を持つわけでもなく、その背中で妖怪すらも畏怖させる大器というわけでもない。最大限の誇張を交えて表現したとしても、聖白蓮は「聖人のように心優しい善人」であり、しかし決して聖人ではなく、だからこそ人間と妖怪の共存を望む夢は紛れもない本物だった。

 白蓮を助ける方法は二つあって、そのうちのひとつが彼女に夢を諦めさせることだった。結局のところ彼女が志半ばで命を落とすのは、夢を追いかけてしまうからだ。種族によらない平和を願うその夢はとても優しく、けれど彼女は夢を叶えるにはあまりに優しすぎた。彼女の進む道はいつか必ずどこかで破綻し、人間たちに決して望まない形で露見して、裏切りという感情を以て為す術もなく排斥されるようになる。事実今がそうなってしまった――が、すべてが手遅れになってしまったわけではない。

 夢を捨て、今後一切妖怪には関わらないと誓えば、多少の罰はあれど余生を穏やかに過ごす程度はできるだろう。自分の立場と人脈を使えば、それくらいの手助けは充分にしてやれるはずだった。

 だというのに、ああ、こんなの卑怯すぎるよとしづくは思う。

 白蓮の夢はただの理想ではなく、死に別れた弟との最後の最後の約束で。それを捨てるのは、きっと自分が築き上げてきたものをすべて破壊し、自ら命を絶つのと同じことで。

 

 ――私を、町のみんなに会わせてください。

 

 あんなに澄み渡った顔をしてそんなことを言うなんて、本当に卑怯すぎると思う。

 ご先祖様が妖怪の親友だった自分。弟が妖怪を父と慕っていた白蓮。お互い、なんだか似た者同士だからこそ。

 言えない。

 そんな夢捨てちゃえなんて、しづくには言えない。

 だから白蓮が、最悪の結果を覚悟してなお夢を追い続けるというのなら。

 

「――白蓮はさ、未来が見える力って信じる?」

「……、」

「私が実はそんな力を持ってて、結構前から君が死んじゃう未来を見ていたとしたら。このまま君を行かせても、最悪の結果になるだけだとしたら。その未来を唯一変えられるのが、ここで君を封印することだとしたら――信じる?」

 

 答えはなく、白蓮の瞳だけがぐらぐらとあてどなく揺れている。

 信じられまい。しづくが白蓮の立場だったらまず信じない。だが、信じてもらえなくたって構いやしない。

 

「夢を見たんだ。つい昨日の夜。君を封印する夢。そして君を封印したあとの、どれくらい先かもわからない未来の夢」

 

 しづくが能力で見る夢は十中八九悪い未来だが、まれに、本当にごくまれに、そう悪くはない未来を見せてもらえるときがある。

 それが、昨夜の夢だった。例によって断片的で不鮮明な夢ではあったが、それは確かに白蓮が救われる未来だった。

 

「――あれは、人と妖怪が一緒に暮らす世界だった」

 

 見えたのは、どこかの大きなお屋敷だった。雪化粧のように白い壁で、三階建てで、庭だって呆れるほどに広いそれはそれは大層な豪邸だった。

 人が訪れ、妖怪が訪れ、争うことなく同じ時間を共有している場所だった。

 

「人と妖怪が、同じ場所で笑ってた」

 

 たとえ不鮮明な夢でも、そこにある暖かな感情は充分すぎるほどに伝わってきた。

 

「そこの人たちと協力して、君の仲間が封印を解きに来てくれる夢だったんだ」

 

 人と妖怪が力を合わせて、たった一人の人間のために。今の世が今の世である限り、あんな世界を創ることができるなんて到底思えない。だからきっと、何年も何十年も、ひょっとしたら何百年も先の、世界のあり方が変わってしまうくらいの遠い未来の光景だったのかもしれない。

 でも、それでも、白蓮が死して救われぬ未来と、生きて救われる未来があるというのなら――。

 

 

「――封印から解かれた君も、その世界で笑ってたよ」

 

 

 白蓮が、揺らいだ。

 それはきっと、白蓮の心の一番深いところが鼓動を打つ、揺らぎだったのだと思う。

 

「人にも、妖怪にも囲まれて。これって、君の願いが叶うってことだよね」

 

 この選択が正しいのかどうかはわからない。しづくの未来視は今まで外れたことがないけれど、それはあくまで今までの話であり、今回も絶対に外れないという保証はどこにもない。白蓮が死ぬ未来だって、生きる未来だって、どちらを選んでも外れる可能性は等しく存在すると言わざるを得ない。

 

 しづくが余計な真似をしなくても、白蓮は自分の力で未来を切り拓いてしまうのかもしれない。

 でも、夢の通りになってしまうかもしれない。

 

 ここでしづくが封印を選んだところで、白蓮が本当に未来で幸せになれるとは限らない。

 でも、夢の通りになってくれるかもしれない。

 

 なにが正しいのかなんて、もう誰にもわからない。

 だからあとは、お互いの想いのぶつかり合いなのだ。

 

「だから私は、君を封印する」

 

 白蓮の夢は理解できるし、共感だってしたい。けれど応援はできない。自分はきっと、白蓮よりも少しだけ、悪意ある妖怪たちを数多く見てきてしまったから。人と妖怪の共存は、それこそ、その気になれば世界の理すら捻じ曲げてしまう強大な力がなければ成し遂げられないことなのだ。自分たちのようなただの小娘が目指したところで、悲しい目に遭う誰かを徒に増やしてしまうだけなのだ。

 

「このまま君を行かせても、私は、君の夢が叶う時が来るとは思えない」

「っ……」

「でもそれは、白蓮が悪いわけじゃない。今の時代が、夢を追うには悪すぎるんだよ。君だって薄々わかってるはずだ」

 

 答えは返ってこない。白蓮が俯き歯を食いしばる沈黙を、しづくは肯定と受け取った。

 

「それでも君が、同じ道を貫くつもりだっていうなら。私個人として君を止めたいし、みんなから依頼を受けた陰陽師として、君を止めないといけない」

 

 だからひとつ、息を以て、

 

「……私が君を封印する理由は、これでぜんぶ」

 

 しづくが語りを止めれば、本堂には風の流れる音だけが満ちていく。白蓮は長い間、俯き口を閉ざし続けていた。こんな荒唐無稽な話を、彼女は一生懸命に信じようとしてくれていた。しづくが見た未来をなにひとつ疑わず、真剣に受け止めようとして迷い苦しむ人なんて、この少女が生まれてはじめてであるはずだった。

 本当に、優しい人なのだ。

 

「……ズルいです」

 

 はじめは風の音にも負け、聞き間違いかと思うくらい小さな声だった。

 

「ズルいですよ」

 

 今度は、聞き取れた。

 震えていた。

 

「そんなの、ズルすぎます」

 

 こぼれる声も、張り詰めた肩も、膝の上に皺を刻む拳も。ずっと頑張って支え続けてきたものが、どうしようもない限界まで崩れかけているように。

 叫んだ。

 

「そんな、そんな優しい顔して言わないでください!! だって、私、そんなの……!! そんなこと言われたら、もう、もう……! どうすればいいのか、わからないじゃないですか……ッ!!」

 

 悲鳴のような言葉でも、それでも白蓮は泣いていなかった。今にも泣きそうな顔をしているのに、心の奥では泣いていたはずなのに、涙だけがいつまで経っても流れなくて、まるで泣けない(のろ)いにかかっているみたいだった。

 しづくは、微笑んで答えた。

 

「そうだね。どうすればいいのかなんて、私もわかんない。だから私は、私がやりたいようにやるよ」

 

 正直な気持ちだ。

 

「私は、未来で白蓮が、あんな風に笑えるんだったら。君に恨まれるくらい、ぜんぜん屁でもないって思うから」

 

 白蓮が、顔を両手で覆った。

 いっそ理不尽ですらあっただろう。悔しいわけではない、悲しいわけでもない、辛いわけでもない、なのにどうしようもなく大声で泣いてしまいたいような、言葉にならない感情で埋め尽くされ、ただただ胸が苦しくて、どうしたらいいのかなんてもうなにもわからなくて。

 だから、しづくがこの手で終わらせるのだ。

 そうすれば、ぜんぶ「しづくのせい」で済むのだから。

 

「……じゃあ、始めるよ」

 

 白蓮は答えなかったが、代わりに抵抗もしなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、彼女はもはや抵抗という選択ができるほど正常な状態ではなかったのだ。

 両手を解き、縋りつくように顔を上げて。

 泣きそうなまま、声をよじった。

 

「――少しだけ、時間をください」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もうなにもわからなかった。どうしたらいいのかも、どうするべきなのかも、もうなにも。思考回路の水底でとめどない自問の渦に絡み取られ、いつまで経ってもまともな意識を取り戻せぬまま、気がつけば白蓮はひとつの桐箱を抱えて陣の中央に座り込んでいた。だから、あああなた(わたし)はそうするのね、と白蓮はぼんやり思った。

 出会ったのはつい昨日の話で、今日このときになってようやく名前を知ったばかり。そんな人間に今、白蓮は言われるがまま大人しく封印されようとしている。自分の未来をすべて委ねてしまおうとしている。本当に信頼できる相手なのかもわからないのに。必ず帰ると約束したのに。

 人と妖怪の共存が叶った世界。ここで封印され、いつか訪れるその未来まで生き延びることで白蓮の願いは叶う――そんなの、白蓮を都合よく言いくるめるための嘘かもしれない。否、普通なら嘘と考えるのが当然のはずだった。

 荒唐無稽すぎて、信じる方がどうかしている。

 なのに白蓮は、信じようとしている。

 

(命蓮――……)

 

 背を曲げ、包み込むように桐箱を抱き締める。すっかり小さく軽く変わり果てて、今はもうその存在を感じることはできないけれど。

 命蓮、わたし、どうすればいいのかな。

 どうすればよかったのかな。

 命蓮だったら、私よりもっともっと上手くやれたのかな。

 なんでわたしって、こんなに上手くやれないのかな。

 きっと、みんなに怒られちゃうよね――。

 

「――白蓮? 白蓮、大丈夫? ……って、そんなわけないか」

 

 顔を上げる。しづくが目の前で膝を折り、こちらに目線を合わせている。

 やっぱり、穏やかな顔をしている。

 

「恨んでいいよ。私のこと」

 

 ぐちゃぐちゃになって悲鳴を上げる頭では、頷くことも首を振ることもできない。

 しづくが立ち上がり、床をなぞるような足取りで静かに陣の中央から離れていく。小袖に覆われた彼女の背はとても年下とは思えぬほど大きく、そして随分と擦り切れて見えた。それは、彼女のような若者にできる背ではなかった。数え切れないほどの傷が刻まれ、癒えきらず固く強張ってしまったような風格――人並みどころかそれ以上に迷い、苦しみ、土を爪で抉りながら生きてきた人間の背中だった。

 だから白蓮はふと、この人は今までどんな人生を歩んできたんだろう、と考えた。未来を夢見る力。彼女は今まで、一体どんな未来を見ながら生きてきたのだろう。字面だけだと神様のような力に思えるけれど、本当にそうなのだろうか。

 もしかして彼女は今までも、誰かが死ぬ未来を夢見てきたのではないか。

 夢見てしまった未来をなんとかして覆そうと、足掻きながら生きてきたたった一人の少女なのではないか。

 白蓮なんかよりもよっぽど辛い思いをして、だからこそこんなにも擦り切れた背中をしているのではないか――。

 

「っ…………! ぅ、ッ……!」

 

 言葉が、答えが、出ない。心の中はこんなにも、痛くて苦しい想いであふれているのに。もうなんだって構わないから、身が切れるほどどうしようもなく叫んでしまいたいのに。今まで生きてきた人生で一番、白蓮は大声で泣きたかったはずなのに。

 わたしは。

 わたしは、

 

「――白蓮」

 

 しづくが、振り返る。

 

「必ず、迎えに行くよ。そのときに私が生きてても、生きてなくても。約束する」

 

 だから、と続ける。

 

「私は、信じてる。次に目が覚めたら、あの世界できっと君が救われるって」

 

 陣に再び光が満ち、白蓮の世界を天へ真っ白く染め上げていく。立ち上がる風がそっと、白蓮の頬を慈しむように撫ぜていく。誰かが抱き締めてくれるような優しい熱が、白蓮の体を包み込んでいく。

 私は、信じてる――そう、繰り返す。

 

「君を救ってくれる、あの妖怪が」

 

 しづくの姿は、もうほとんどが光に遮られて消えてしまっていたけれど。

 ああ、それでも、わたしにははっきりと見えたのだ。

 はじめて出会ったときと同じ――にへら、と、人懐こい笑顔が。

 

 

「――きっと、君の弟さんを助けてくれた、『あのひと』なんだって」

 

 

 ほんの、ひとしずくだけ。

 やっと、涙を流せた、気がした。

 

「――待ってます」

 

 上手く笑えたはずはなかったけれど、それでも白蓮は精一杯に笑おうとした。

 笑おうと、したのだ。

 

「待ってます、から……!! きっと……!! きっと……っ!!」

 

 叫んだときにはもう、なにも見えない。なにも聞こえない。

 

 白。

 それがこの世界で白蓮に刻まれている、最後の景色だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今となっては遠い遠い昔――弟がまだ生きていて、けれど病が取り返しのつかないところまで進行し、もはや最期の時を静かに待つしかなくなった頃。

 

『ねえ、姉さん。ひとつ頼んで……いや。託しても、いいかな』

 

 弟は、すっかりくたびれて掠れた声になってしまっていた。修行で鍛えた体もまた弱りきり、自分で起き上がるのも思うようにできなくなっていた。

 

『姉さん一人で上手くやってけるかどうか、ぼくは実に、ひっじょーに、ものすごーく不安で仕方ないわけだけどさ』

 

 それでも最後の最後まで、減らず口だけはちっとも直らない弟だった。

 そんな弟は、旅立つ前に白蓮へひとつの願いを託した。

 白蓮が不老長寿と若返りに手を出してまで生に縋りつき、夢を追い続けるようになった最期の――もうひとつの、約束。

 

『もし、本当に夢が叶って。もし、本当に、あのひとが来てくれたら――』

 

 解けそうな白蓮の心をつなぎとめる、大切な誓い。

 

『――あのひとの傍に、ぼくを埋めて』

 

 白蓮でもこうして簡単に抱えてしまえるくらい、今はもう小さな姿になってしまったけれど。

 命蓮はまだ、ここ(・・)で眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――名前を呼ばれた気がした。

 この闇の中に封印されてからは、数え切れないほど繰り返してきた幻聴だった。声の主はそのときによって様々で、大半はしづくや星やナズーリンであり、ときにはムラサや一輪であったり、ひどいときには弟であったりすることもあった。

 

『聖! 聖っ!』

 

 今回は、どうやら星の声みたいだ。

 星はあのあとどうしたのかな、と白蓮は思う。白蓮を信じて待ち続けて、けれどその想いがすべて無駄に終わったことを知ったとき、彼女の心は一体どれほどの失意に呑まれただろう。それは悲しみかもしれないし、或いは約束を果たさなかった白蓮への怒りだったかもしれない。ムラサたちだってそうだ。なにも言わないまま目の前から消えてしまった白蓮を、もしかすると彼女たちは恨んだのだろうか。

 何度も考えてきたことだ。

 自分は今でも、彼女たちに名を呼んでもらえるほどの存在なのだろうか。とっくの昔に見切りをつけられ、もう忘れられてしまっているのではないか。白蓮よりずっとずっと頼りになる新しい主人を見つけて、自分が戻る場所なんてもうなくなってしまったのではないか。

 だから、またみんなでやり直していきたいと願ってしまうのは。彼女たちを裏切った身の程を弁えない、傲慢な望みなのかもしれないと。

 

『聖っ! 起きてください、聖ッ!』

 

 なのに白蓮を呼ぶ星の声はちっとも消えないし、それどころかどんどん強くなって耳朶を打ってくる。まるで、本当に目と鼻の先で呼ばれているみたいだった。そうならどれほどよかっただろうと思った。けれど己の意識を満たすのは変わらない闇であり、要するに封印は未だ解かれていないのであり、目覚めはまだ先だと、この孤独な贖いはまだまだ続くのだと深淵の底から白蓮に告げるのだ。

 首を振った。

 眠ろう。期待を抱いて待てば待つほど、辛くなるだけなのだから。

 そして白蓮はゆっくりと、身を委ねて水の中へ沈んでいくように、意識を闇の底まで手放

 

「ひじりいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃッ!!」

「ふみゃみゃみゃみゃみゃ!?」

 

 激痛。

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「いひゃぁい!? ……………………はえ?」

 

 頬をこっ酷く抓られて(・・・・・・・・・・)白蓮は飛び起きていた(・・・・・・・・・・)

 その事実がどういう意味なのか咄嗟に理解できず、魂が抜けたみたいに呆けた。闇の中ではない、そこは光と色がある世界だった。いの一番に認識できたのは、整然と敷かれたどこか飴色の床板の上に、封印されたときそのままの恰好で座り込んでいる自分だった。

 まだ、なにがなんだかわからない。

 

「ひ、ひじり、」

 

 振り向いた。名を呼ばれたからという意識はなく、単に音が聞こえた方を向いただけの無意識の反応だった。まるでついさっきまで白蓮を膝枕していたみたいに、畏まった正座で座っている少女がいた。

 星。

 視界が一気に覚醒した。一足飛びで再起動した脳が五感から一斉に情報を取り込み始める。星の肩越しにもう一人――ナズーリン。向かい合うようにもう二人――ムラサと一輪。そして一輪の肩のあたりには雲山の顔。なんだかみんな、眠る白蓮を囲んで必死に呼びかけてくれていたみたいで――

 違う。「みたい」ではない。右の頬に残るじんじんとした痛みと熱さは、決して勘違いなどではない。

 つまり、これは、

 本当に、

 

「……みん、な?」

「ひじり゛いいいいいぃぃぃぃぃっ!!」

「うひゃ!?」

 

 瞬間、顔中完膚なきまでぼろぼろになったムラサが両脚をバネにして突進してきた。あまりの勢いに押し倒されかけるが根性で耐え、

 

「ム、ムラサ? ちょ、落ち着いて」

「うるさい!!」

 

 予想外の大喝に思わず怯む。昔のままのムラサなら、白蓮に対しては絶対に使わなかったであろう乱暴な言葉は。

 

「うるさいですっ!! ひじりは、ばかです!!」

 

 白蓮の息が苦しくなるくらい、きつくきつく両腕を回して、

 

「本当に、大ばか者ですっ……!! ひじりの、ばかぁ……ッ!!」

「……、」

 

 ――ああ、そうか。

 押し殺された嗚咽が、抑えられない肩の震えが、変わらない匂いが、預けられた重さが、伝わる体温が、呼吸が、鼓動が、色が、風が、光が、世界が、

 すべて、教えてくれた。

 ムラサの背を、そっと抱き返した。

 

「……ただいま」

 

 そんな言葉が自然とこぼれた。勝手なことをしてごめんなさいでもなく、迎えに来てくれてありがとうでもなく。ずっとずっと待たせてしまったけれど、それでもずっとずっと待っていてくれたみんなへ。

 ただいま。

 

「おかえりなさい、聖様……っ」

 

 白蓮の肩に顔を押しつけう゛う゛う゛う゛う゛と会話不能なムラサほどではないにせよ、一輪が目元の涙を指で拭って微笑んだ。

 

「長かった……とても、長かったです」

「……うん。ありがとう、ずっと待っててくれて」

 

 ちょっと髪を伸ばしたかしら、と白蓮は思う。頭巾からこぼれる水色の髪がおしゃれに様変わりしていて、顔立ちも少しばかり大人びたようだ。きっとそれだけ、自分の眠っていた時が本当に長かったということだった。

 

「雲山も、よかったと言っています」

 

 一方で一輪の肩を漂う雲山は、笑ってしまうほどちっとも変わっていなかった。なにかをこらえるようなしかめ面で口ひとつ利かず、一輪が言うからには喜んでくれているのだろうが、厳つい雰囲気のせいでなんだか虫の居所が悪そうに見える。

 隣では、ムラサと同じく感極まった星がなぜかナズーリンに抱きついている。

 

「こらご主人、なんで私にくっつくんだっ」

「なぢゅはうれじぐな゛いんでずがあああっ」

「それとこれとは話が別だっ、ええいやめろ鼻水がつく!」

「なぢゅのばがああああああああ」

 

 体の芯からこみあがってくるじわりとした熱を、ああ、と吐息に変えて白蓮は吐き出す。ムラサがいて、一輪がいて、雲山がいて、星がいて、ナズーリンがいて。封印される前となにも変わらない光景が、反ってまだ夢の中にいるみたいだった。

 

「ここは……?」

 

 白蓮は目の前の景色をゆっくりと見遣る。空は見たことがないくらい赤黒い霧で覆われ、中心では太陽がぽっかりと穴を空けている。そんなおどろおどろしい世界から白蓮たちを守るように、淡い光の結界が周囲に清浄な気を満たしている。そして白蓮が座る飴色の床板は、どうやら建物ではなくなにか乗り物の上らしい。

 ようやくナズーリンから離れた星が、えぐえぐと何度も鼻をすすりながら、

 

「あ、ええどでずね、えぐ、こごはまがいの゛、ずび」

「あーもう、ご主人はまず泣きやみたまえよ」

「ふぐぅ」

 

 見かねたナズーリンが星の顔面にちり紙を押しつけ、話を代わる。

 

「ここは魔界だよ。君が封印されていた場所だ」

「まかい」

「まあそれはいいさ。それより、横を見てごらん」

 

 横。

 人がいた。

 

「や」

「ひゃっ」

 

 膝を折って白蓮に目線を合わせる、巫女服姿の少女だった。

 まさか他に人がいるとは思っておらず体勢を崩しかけてしまうほど動揺したが、少女の顔立ちはすぐに己の記憶と符合した。

 

「しづく……さん?」

 

 しかし、断言はできなかった。白蓮の記憶に残る彼女よりも、間違いなく目の前の少女が若返っていたからだ。そういえばしづくは、白蓮が使う若返りと不老長寿の秘術に興味を示していた気がする。まさか、同じ術に手を伸ばして今までずっと――と白蓮が早合点をするより先に、少女がやんわりと首を振った。

 

「んにゃ。えーと、一応『はじめまして』って言うべきだよね。神古志弦です」

「しづる」

「わかりやすくいうと、神古しづくの子孫ってやつです。しづくはとっくの昔に死んじゃったので。でも、あなたとしづくの間にあったことは、ぜんぶ知ってます。実際に見てきた(・・・・・・・)から。なんで、ある意味では久し振りというか」

「……え、えーと」

 

 いきなりついていけなくなった白蓮に、志弦は表情を変えず、

 

「このへんはあとでゆっくり話します。ともかく、しづくに代わって私があなたの封印を解いて、あなたはこうして目を覚ました……ってところまでは、いいですか?」

「……は、はい」

 

 とりあえず、頷く。うむ、と志弦もまたひとつ頷き、

 

「会わせたい妖怪がいます」

 

 心の臓に、胸を叩かれた。封印の間際しづくの語った言葉が、なによりも鮮明に脳裏へ甦った。

 

 ――君を救ってくれる、あの妖怪が。

 ――きっと、君の弟を助けてくれた、『あのひと』なんだって。

 

「……本当に、長かったよ」

 

 そう吐息し、志弦が目線で指を差した先。

 白蓮たちの再会を邪魔すまいとするように、そっと距離を置いたその場所で。

 

 

「――あ、」

 

 

 銀を、見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 ⑰ 「雫」

 

 

 

 

 

 どうやって外に出たのかはよく覚えていない。ふと気がつけばしづくは境内のど真ん中で突っ立っていて、目の前には山伏のくそ真面目な無表情があった。

 

「終わったようだな」

「……、」

 

 くそ真面目に問われ、なにがだっけ、とそんな頓狂なことをしづくは考えた。なにが終わったのかなんて、自分がなにを終わらせたのかなんて、答えはひとつしかありえなかったのに。

 なんの変哲もない昼日中の境内だった。山門をくぐると継ぎはぎだらけの石畳が伸び、小ぢんまりとした庫裏(くり)があって、思いのほか立派な鐘楼があって、不自然なくらい堂に入った穀倉があって、やや枝葉が伸び形の崩れた庭木があって。風は涼しく、空は眩しく、鳥と葉擦れが一緒になって歌を歌い、背後にはもぬけの殻になったこの寺の本堂。

 白蓮が、いた場所。

 

「……そだね」

 

 すべて見渡し、ようやく答えを返せた。

 

「終わったよ」

 

 心のどこかでこれを現実と受け入れようとしない己へ、突きつけるように言った。

 

「――聖白蓮は、私が封印した」

 

 そう――白蓮は、もういない。

 しづくが、封印したから。彼女もまた被害者だったのに、本当は裏切られただけだったのに、心から平穏を願う優しい人だったのに、それでも、

 私が、

 

「そうか。ならあとは、寺の妖怪どもが戻ってくるまで待機だな」

「……」

 

 妖怪に裏切られたなんの罪もない女が一人消えたというのに、山伏はあいかわらず淡々としていた。だがそれは決して冷酷なわけではなく、自分なりの見解で目の前の事実を受け入れ、心を上手く律しているように見えた。大人だからなのかな、としづくは思う。昔からの腐れ縁だとつい忘れがちだが、山伏はしづくよりもひと回り程度年上なのだ。

 だからだろうか。気がつけば、乞うように問うていた。

 

「……ねえ、山伏サン。山伏サンは、もっといいやり方があったと思う?」

 

 しづくは、己の選択が最善だったとは思っていない。たとえ封印という形であったとしても、一人の少女をこの世界から消し去った選択が最善だったとは思いたくない。いくら彼女が救われる夢を見たからといって、それで本当に封印してすべてを未来に託してしまうなんて、他人から見ればきっと狂気の沙汰みたいなものなのではないか。

 あの夢が現実になる絶対の保証なんてどこにもない。

 そしてそれは、白蓮が非業の最期を遂げる未来にしたって同じこと。とどのつまり、

 

「私、……私は、たぶん、逃げたんだと思う」

 

 白蓮を助けたいと思いながらも、助けられる自信がなかったから。ここで封印する未来を選ばなければ、たとえしづくが全力を尽くして守ったとしても、いつかはあの夢の通りの最期がやってきてしまうと怖かったから。

 白蓮の前でカッコつけて抜かしたのはぜんぶ綺麗事だ。

 ただ、怖かっただけ。それで白蓮を封印するという一番楽な方法に逃げて、助けた気になろうとしている自分に反吐が出た。

 

「結局、今までと同じだよ。私はまた、なにもできなかった」

「……」

 

 こんなもの、なにもできていないのと同じだ。いや、あの窮奇を見逃してしまったのが自分であった分、むしろ余計な真似をしただけだった。自分が窮奇を確実に退治していれば、白蓮の運命はまた違う形を描いていたかもしれない。世の摂理を捻じ曲げるほどの力がなければ成し遂げられない夢も、もしかしたらそんな力を持った同志に恵まれて日の目を見ていたかもしれない。白蓮は悪魔ではなく、人と妖怪の共存を為した聖人と呼ばれていたかもしれない。

 その未来を破壊したのは、自分なのかもしれないと。

 考えれば考えるほど思考が神経に焼きついて、いっそひと思いに泣いてしまいたいと、

 

「未来が見えない儂に、貴様の苦悩や恐怖はわからん」

 

 顔を上げた。

 そこにはあいかわらず、堅苦しい山伏の無表情があった。

 

「だが僧の端くれとして、ひとつだけ断言はできる」

「……なに?」

 

 慰めを期待したわけではない。山伏はともすれば冷淡にも見えるくらいの朴念仁で、こんなときに気遣いができる人間でないのはしづくが一番承知している。しかし一方で、僧なんてものをやっているのだから決して冷血なわけでもないのだ。この反吐が出るような現実を前にして、山伏がなにを考えているのか知りたかった。

 

「貴様の夢は今まで散々現実になって、嫌というほど貴様を苦しめてきたのだろう? ――なら、」

 

 山伏は例によって、顔中の筋肉が凝り固まったような面構えだったが。

 だからこそ不要な感情を一切挟まない、心ある言葉だった。

 

「――ならば、今更になって夢で終わるなどありえんよ。それでは事の道理が合わん」

「……、」

 

 その意味を、しづくはしばらくの間呆けながら考えて。

 やがて、小さく吹き出した。

 

「そっか。山伏サンは、私の力を信じてくれるんだ」

 

 山伏は途端にしかめ面で、

 

「その言い方は語弊がある。ただ道理を考えればだな、」

「カッコつけてら」

「たたっ斬るぞ」

「カッコつけてらー」

 

 山伏の仕込み刀が鯉口を切ったので、これ以上は大人しくやめておく。

 けれど、頬に戻った小さな笑みは残り続けた。

 

「ありがと、山伏サン。ちょっと楽になった」

「……まったく」

 

 山伏は鼻から深いため息をつき、

 

「ならば下を向くのはやめて、精々最後までやりきることだな」

「……そだね」

 

 なにが最善だったのかなんて、今となってはもうわからない。

 だから、これが少しでも最善に近づくよう尽くすしかないのだ。いつか白蓮が、夢見た世界でまた一からやり直していけるように。心から笑えるように。それが白蓮を封印してしまった己の、せめて果たすべき責任と贖罪に違いないから。

 

「……悪いけど山伏サンには、もうしばらく付き合ってもらうよ。やんなきゃなんないことがいっぱいあるんだ」

「ああ」

 

 やはり素っ気ない返事だが、それでも決して嫌だとは言わないこの男の無愛想な優しさを、いつもより何倍も嬉しく思いながら。

 

(――信じてるよ。白蓮)

 

 拳を握る。

 聖白蓮は、救われなければならない人間だ。誰よりも優しくて、まっすぐで、ひたむきで、不器用で、だからこそたくさんの重圧で己を押し潰し、たくさんの後悔で己を締め殺し、それでも前へ前へと歩き続けようとする姿が痛々しくて。

 どうか、救われてほしい。

 解放されてほしい。

 そんなに、頑張らなくていいんだって。泣いてもいいんだって。

 そのために必要なことなら、私はなんだってやってみせるから。

 

(どうか――)

 

 遠い遠い未来でも構わない。しづくの夢に描かれたあの光景が、いつか必ずやってきますように。

 どうか、どうか――。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――そう、彼女はずっと祈り続けてきたのだ。

 無論、しづくの選択が最善だったのかは志弦にも知りようがない。ただ少なくとも、それがどうか最善となるようにしづくはできる限りの手を尽くしてきた。すべての封印を終わらせ、町に虚偽の報告をして、白蓮にまつわる記録と痕跡を改竄し、故人として過去の闇へしまいこんだ。万にひとつも白蓮の悪名が、後の世まで残されてしまうことのないように。目覚めた世界で二度と『悪魔』と呼ばれることなく、最初からやり直していけるように。そしてすべてが終わったあとも仏に祈り、神に祈り、命の灯火が役目を終えてなお、想いだけの存在となって夢の中を漂い続けてきた。

 

『――おかえり』

「……ただいま」

 

 志弦が夢から目覚める、ほんの直前の話だ。長くも短い夢の旅を終えた志弦は、終着駅として再び『彼女』の前に戻ってきた。

 ここから始まり、ここで終わろうとしていた。はじめて夢に見たときと同じ、見果てぬ闇だけで満たされた空間。けれど目の前に佇む彼女は、もはや黒いだけの人影ではなかった。

 

「……なんて呼べばいいのかな。とりあえず、『ばっちゃん』でいい?」

『うむ。苦しゅうないぞー』

 

 志弦は苦笑する。こうして向かい合って話してみると彼女は本当に瓜二つで、間違って拉致監禁されたのもこりゃあ無理ないな、と思った。

 神古、しづく。

 今となっては、大昔に死んだはずの彼女と向かい合うこの状況に疑問もない。己の死に際にしづくがなにをしたかはわかっている。目の前の彼女がどういう存在なのかも理解している。ここは、志弦が見る(かこ)としづくが見る(みらい)の交差点なのだ。

 

「ぜんぶ、見てきました。ばっちゃんと、白蓮の間にあったこと」

『……うん』

 

 しづくは眉尻を下げ、口元にほんの小さな笑みを含ませた。

 

『ごめんね、巻き込んじゃって。てめーがこの時代まで生き延びて、最後まで責任持てやコンニャローって話だよね』

「いや……まあ、巻き込まれて迷惑かっていえばそうでもないんで、いいよ」

 

 むしろ、運命めいて納得している部分すらあった。自分がどうして幻想入りしたのか。どうして月見という妖怪に惹かれたのか。どうして幻想郷で生きていくことを選んだのか。すべてを知った今になって思えば、ああこれは運命だったのかもしれないな、と。

 視界が果てしなく開けて澄み渡っていくような、言い知れぬ爽涼だけが志弦の胸にはある。

 

「私がなにをすればいいのかはわかってる」

 

 志弦はしづくの過去を知った。それはつまり、しづくが当時見ていた夢の景色を通して、未来のあるべき形を知ったということでもあった。しづくが祈ったこと。白蓮が願ったこと。己の血の中に継がれたもの。だからあとは、志弦が(みらい)を現実に変えてしまえばいい。

 そのための、『過去を夢見る程度の能力』なのだ。

 

「ばっちゃんが遂げられなかったこと、私が継ぐよ」

 

 白蓮がこの世界で、救われるように。笑えるように。

 不思議なものだ。本来であれば志弦にとって白蓮は赤の他人なのに、どうやら自分は、夢の旅を通して本当にいろいろなものを継いでしまったらしかった。

 でも、悪くない。

 

『……参ったな』

 

 しづくが口端を曲げ、頭を掻いた。

 

『ほんとは、私が頭下げて頼まなきゃなんないことなのに。頼もしい子孫が持ててわたしゃ誇らしいぜ』

「私こそ、立派なご先祖様で……すごいなって、思うよ」

 

 為したことが最善だったかはわからないけれど、ひょっとしたら正しくはなかったのかもしれないけれど、それでも彼女が心から白蓮の笑顔を望んでいたのは間違いない。だからしづくは今でもこうして目の前に存在している。その想いだけは肯定してあげたいと志弦は思う。

 だから、もう行かなきゃ。

 

「……そんじゃま、そろそろ行くね。あんま寝てるわけにもいかないし」

『……うん。ありがとね』

 

 なにもわからなかった一度目とは違い、今は自分の意思でこの夢に落ち、自分の意思でここへやってきた。目覚めるときも、自分がそう願うだけでいい。

 

『そだ。ひとつ、訊いていい?』

「ん?」

『「あのひと」のこと』

 

 それが誰を示す言葉なのか、迷うことはなかった。

 しづくは中空を見上げ、

 

『私のご先祖様って、妖怪と友達だったんだよね。……それって、「あのひと」のこと?』

「うん」

 

 志弦は、迷わず頷いた。

 だって、秀友(ごせんぞさま)の思い出だって、ここにあるから。

 

「月見さんっていうんだ。人間が狐の耳と尻尾つけてるような妖怪。でも本人はそんなの一言も話してくれてなかったので、起きたらそっこーでぜんぶ吐かせに行きますっ」

『……そっか。そうだね』

 

 目を伏せ、呟く。

 

『……つくみさん、か』

 

 肩の荷がひとつ、下りたような。

 そんな顔をしていた。

 

『月見さんに、よろしくね』

「うん」

 

 志弦は力強く答え、拳を握って、

 

「任せてよ。一発ぶん殴ってくるから」

『は?』

「へへ、うでがなるぜ」

『待ってなんで!? なんで殴んの!? そういう話じゃなかったよねどう考えても!?』

「そんじゃねーっ!」

『ちょっとー!?』

 

 しづくが伸ばしてきた手を、軽く後ろに跳んで躱す。こちとら一度目は、さんざ意味深なことを言われて混乱させられたのだ。これくらいの意趣返しは、当然の権利として許されるであろう。

 いいように狼狽するしづくの顔がなんだか痛快で、志弦は思いっきり歯を見せて笑った。

 

『こんにゃろー!』

「あっはははは!」

 

 一生懸命飛び跳ねて憤慨するしづくの姿が、ふっとぼやけ、薄れてそのまま消えていく。

 目覚めの時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――――――――ぁ、」

 

 声がこぼれた。ナズーリンたちの存在が一瞬で意識の外に弾き出され、白蓮はしばしの間呼吸も忘れて、その妖怪の姿で為す術もなく頭の中を埋め尽くされた。

 しづくの最後の言葉が、脳裏で鮮明に反響した。

 

『――私は、信じてる。君を救ってくれるあの妖怪が、きっと、君の弟さんを助けてくれた「あのひと」なんだって』

 

 ナズーリンでも星でも、ムラサでも一輪でも雲山でもない。みんなと出会うよりもずっと昔から、ずっとずっと白蓮の心の中にいた妖怪。

 命蓮だけの、お父さん。

 顔も名前も、種族すらも知らない相手だった。彼が本当にそう(・・)なのかどうか、目に映る景色だけで咄嗟に判断なんてできるわけがなかった。

 でも、ああ、でもどうしてなんだろう。

 彼の姿を見た途端、どうしようもなく――本当にどうしようもなく、心が切々と詰まったのだ。

 

「っ……」

 

 起き上がる。どれほど長く眠っていたせいなのか、手足がまったく思うように動かせず他人の体みたいだった。それでも、寝そべってなんていられるはずもなかった。星と一輪に両脇から支えられてやっとの思いで立ち上がり、震える脚で一歩、また一歩と懸命に前へ進んだ。

 

 おつきさまの、いろ。

 

 志弦が、ナズーリンが、ムラサが、静かにその行く先を開けた。

 命蓮を助けてくれたのは一体どんな妖怪だったんだろうと、心の中で何度も何度も思いを馳せてきた。鬼かもしれないと思い、天狗かもしれないと思い、細身の優しげな男かもしれないと思い、しっかりした体格の逞しい男かもしれないと思い、たくさんの妖怪を思い浮かべ、たくさんの姿を思い描いてきた。

 だというのに、己の想像力のなんと貧弱であったことか。

 銀の狐、なんて。そんな妖怪の存在を、白蓮は生まれてこの方一度たりとも考えたことはなかった。

 

「…………、」

 

 なにかを言おうとして唇が動き、けれど出てくるのは拙い呼吸の音だけだった。自分自身なにを言うのかまるで考えていなくて、でもなにかを言いたくて仕方がなくて。込み上がってくる感情はもはや胸の中だけでは収まりが利かず、息が苦しくて、目元が痛くて、破裂しそうで、自分はこのままおかしくなってしまうのではないかと思った。

 あなたが。あなたがそう(・・)なのかと、今すぐ自分の言葉で確かめたいのに。

 これじゃあまるで、私ったら、声を失ってしまったみたい。

 

「月見さん」

 

 志弦が、名を呼んだ。

 銀の狐の、名であるはずだった。

 呼ばれた彼は、静かにひとつ、息をついて。

 

「――髪の色」

「え?」

 

 咄嗟に意味が掴めぬ白蓮へ、彼は淡く微笑んでみせる。

 だから白蓮は、ああ、と思った。いま志弦が呼んだ「つくみ」という名は、きっと漢字で書くと「月見」なのではないかと。

 まるでお月様を見るような、ぎんの、きつね。

 

 ――白蓮には、命蓮という名の弟がいた。

 生まれつき体が弱く、けれど生まれ持った高い法力を活かして高僧となり、短い人生の中で多くの人々を救った弟がいた。

 白蓮の人生に最も大きな影響を与えたのは、間違いなく弟だった。

 弟がいなければ、白蓮が仏門に入ることはなかった。

 弟がいなければ、妖怪に恐怖以外の感情を抱くことはなかった。

 弟がいなければ、妖怪を救おうと考えることはなかった。

 弟なくして、己の人生は存在し得なかった――それくらいに自慢の弟だった。

 

 そんな弟には幼い頃、山で怪我をしたところを助けてくれた妖怪がいた。

 怪我が治るまでの間を共に暮らし、陰陽術の手解きを授けてくれた妖怪がいた。

 

 人間のように、やさしかったひと。

 

 その妖怪を、弟は「父上」と呼んでいた。

 白蓮の知らない、命蓮だけの――

 

 否。

 白蓮が今の今まで知らなかった、このひとこそが命蓮の――

 

 

 

「――髪の色が、あの子と本当にそっくりだね」

 

 

 

 もう、我慢しなくていいのだと思った。

 己の中であふれにあふれ続けていた感情が、とうとう完膚なきまでに決壊した。抑えを失った感情が根元から白蓮を呑み込み、為す術もなく涙が込み上げて、ぐしゃぐしゃに歪んだ世界を両手で必死に覆い隠した。でもそれだけではぜんぜん足りなくて、みっともなく嗚咽がこぼれて、もう立ってもいられなくて膝からその場に座り込んだ。

 人の前では決して泣かぬと、幼い頃から固く心に誓っていた。両親が早世して、自分が弟を支えていかねばならない道にあったから。人と妖怪の共存を目指して、自分がみんなを導いていかねばならない道を選んだから。

 泣くときは、いつも独りだった。

 だから、大したことじゃなかったと。そう言って、笑ってやろうと思っていたのに。

 

「ぅ、く……!! う、ううぅぅぅ~……っ!!」

 

 ダメだった。

 大したことのないわけがなかった。嫌だった。寂しかった。辛かった。悲しかった。苦しかった。怖かった。悔やんでいた。打ちひしがれていた。諦めかけていた。馬鹿な自分を、ずっとずっと責め続けていた。

 

「ほら」

 

 優しい声が聞こえる。涙も止められぬまま顔を上げる。いつの間にか目の前で、あのひとが膝を折って、白蓮にひとつの桐箱を差し出している。

 

「お前と一緒に、封印されていたものだよ」

 

 彼がそれを持っていたことすら、白蓮はまったく見えていなかった。

 力が上手く入らない両手で、やっとの思いで桐箱を受け取る。そう大したことのない大きさ、そう大したことのない重さ。なにがあっても決して手離すわけにはいかなかった、白蓮の一番大切なもの。

 命蓮の、骨壷。

 

「ところで、この船、わかるかい?」

「ふ、ね」

 

 彼に問われ、ぐしゃぐしゃな頭で一生懸命考えて、ようやく――情けないほどようやく、白蓮は気づくのだ。

 船を形作る美しい飴色の木肌、その奥に宿った神とも見紛う高潔な法力――。

 

「ぁ………………っ!!」

 

 覚えている。

 覚えているに、決まってるじゃないか。

 忘れてしまうわけが、ないじゃないか。

 

「恥ずかしながら、私はまったくわからなかった。こんなものを造ってしまうなんて、この子(・・・)は本当に立派なお坊さんになったんだね」

 

 そうです。

 そうなんです。

 この子(・・・)は本当に、本当に、立派になって。倒れて体が動かなくなるまで、たくさんの人を助け続けて。最後はちょっとだけ後悔してましたけど、それでも短い命を立派に生き抜いたんです。

 あなたに胸を、張れるように。

 この子は私の、立派な、自慢の、弟なんです。

 今すぐそう答えたいのに、想いのまま叫びたいのに、白蓮の喉からは拙い嗚咽しか出てきてくれない。強く在ろうとする今までの自分はもうぼろぼろに砕け散っていて、泣くことしかできない小さな子どもへ戻ってしまったみたいで。

 

「白蓮」

 

 名前を呼ばれるのははじめてなのに、なんだかずっと昔から一緒だったような気がして。

 

「話は聞いたよ。お前がどうしてその道を選んだのか。この子が、最期になにを願ったのか」

 

 弟はなんのために、この人に命を救われたのだろう。弟がこのひとと過ごした数日の出会いに、一体なんの意味があったのだろう。

 あのとき白蓮は、この問いになんの光も見出せなかった。そして、今でもはっきりとした答えはわからない。そも物事の意味とは人間が勝手に後付けするものでしかないのだから、絶対の答えが見つかる日なんて未来永劫やってこないのだ。

 でも、でも、きっとすぐに胸を張って言えるようになるだろう。

 あなた(この子)がいたから、今の私が在る。

 辛いことだって、悲しいことだってあったけれど。

 あなた(この子)を信じて、よかったと。

 

「……よく、ここまで……」

 

 ――ああ、このひとはこんな目をする人なんだ。

 何年も何百年もこの世界を見つめ続けてきた、人ならざる存在だからできるのだろうか。憐憫を向けるのではなく、慰めるのでもなく、ただそっと、なにも言わず白蓮のすべてを包み込んでくれるような。

 おつきさまの、瞳だった。

 

 

「よく、ここまで。歩いてきたね――」

 

 

 もうなにも、考えられなかった。

 恥ずかしながら、そこから先の記憶はどうも曖昧だ。あとでナズーリンから聞いたところによれば、彼の手を取るどころか胸に飛び込んでわんわん大泣きだったらしい。泣きたくても泣けなかった今までの分も、幼い頃へ返ったように。

 ただ、ひとつだけやたら鮮明に覚えていることがある。それは、やがてそっと自分の背へ回された両手が、とても大きくて優しかったこと。

 だから、ああ、きっとこの暖かさを、命蓮も感じていたのかなと。

 溺れるようにそう考えたことだけは、覚えているのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 はじめて、白蓮が泣くところを見た。

 ナズーリンが知る限り、彼女は涙を見せない女だった。助けたはずの妖怪に裏切られ、人々から悪魔と呼ばれたあのときも、打ちひしがれこそすれ涙だけは決して見せようとしなかった。大丈夫よ、とひたむきに笑って。

 それが白蓮の強さであり、しかし一方ではひとつの呪いでもあった。

 白蓮は決して、どんな困難にも一人で立ち向かえる気高い女ではなかった。不老長寿と若返りの秘術で見た目より長生きしている以外は、本当にごくごく普通の人間の女でしかなかったのだ。それでも自分がみんなを導かなければならない立場だから、みっともない姿なんて晒せないから、命蓮と約束したんだから、私がやらなきゃ、私が頑張らなきゃ――そう言い聞かせ、せめて涙を見せないことで、弱い自分を必死に見せまいとしていただけだったのだ。

 人と妖怪の共存を目指す先駆者としての重圧と、弟との約束に込めたあまりに強すぎる想い。白蓮が知らず識らずのうちに自分自身へ課してしまっていた、泣けない呪い。

 泣くつもりなんて欠片もなかったのだろう。この場に銀の狐さえいなければ、感極まる星やムラサたちを逆に慰めすらして、大したことじゃあなかったわ、と笑ってみせるつもりだったのだろう。

 

「……終わった、ね」

「……そうだね」

 

 小さく呟くと、隣の志弦からふわりと首肯が返ってきた。

 ナズーリンが見つめる先で、白蓮が幼い頃へ返ったように大声で泣いている。月見がなにも言わずそっと胸を貸し、一輪が瞳を潤ませながら白蓮の背をさすって、星とムラサに至ってはもうボロボロとマンガみたいなもらい泣きをしている。ナズーリンが思い描いていた通り――いや、それ以上のなんの文句のつけようもない結末が目の前にはあった。

 或いは、これは始まりともいうべきなのかもしれない。ただ単に封印から解放されただけとは違う。白蓮はきっと、ナズーリンたちが知らない頃からずっとずっと背負い続けてきた不安、責任、苦悩、迷い、重圧、そういったすべての枷から完全に解き放たれたのだろう。ナズーリンたちの目の前ではじめて流す大粒の涙には、きっとそれほど大きな意味があるのだと思った。白蓮はこの瞬間に生まれ変わって、ここから新たな命を歩んでゆくのだ。

 

「……彼には、これからくれぐれもよろしくしてもらわないとね」

「そだねー。最後まで責任取ってもらわなきゃ」

 

 白蓮を宥める月見の瞳は、ただただ優しい。そこに彼女への同情や憐憫の色はなく、こうして巡り合った己の数奇な運命を笑みとともに受け入れていた。まったくもって、妖怪らしくない目をする妖怪だと思った。

 

「むー……」

 

 となれば当然、霊烏路空にとっては面白くない。素っ気ないふりを装ってはいるが、彼女が良い意味でも悪い意味でも大変なご主人様想いなのはとっくにわかりきっている。月見を思って頑張ってトラウマを乗り越えたのに、それがぜんぶ聖白蓮というよその女のためだったとなれば、気が気でなくて嫉妬のひとつにも駆られよう。

 

「申し訳ないが、今は好きにさせてやってほしい。心配しなくても、横取りはしないさ」

「……むぅ」

 

 それでもナズーリンの言うことを聞いてじっとしているのは、もしかすると今の白蓮に、どこかかつての自分が重なっていたからなのだろうか。

 白蓮は当分泣きやみそうにない。だがそれでいいのだ。思いっきり泣けるときがようやくやってきたのだから、いっそくたびれるまで泣き腫らしてしまえばいい。みんなの前でだけ強くあろうとするこじれたプライドは、ここでひとつ残らず吐き出して捨ててしまえばいい。

 これからは、銀の風変わりな妖怪が傍にいる。

 なればきっと、心配なんてなにひとつもいらないのだから。

 

 

 

 

 

 白蓮の嗚咽が次第に治まっていく。自然と泣き止んだというより、疲れ果ててそれ以上はもう泣けなかったというべきなのかもしれない。本当に泣ける限り泣き尽くし、月見の胸からようやく顔を上げて、ぐしゃぐしゃな目元を何度も拭いながら精一杯の笑顔を作った。

 

「ご、ごめんなさい、こんなみっともないっ……」

「楽になったかい」

 

 しかし一笑とともにあっさりと返されてしまい、うう、と小声で呻く。

 

「……はい。お恥ずかしながら、とても……」

「それはよかった」

 

 裏表のない月見の言葉に、白蓮は一層胸をすかれたようだった。両手の平を合わせ、少しだけ互いの指を絡めながら吐息して。

 

「……なにから話せばいいのかな。話したいことが、たくさん……本当にたくさん、たくさんあるんです」

「慌てなくていいですよ、聖」

 

 星がそっと自分の両手を重ねる。いつもは頼りなくて情けない代理人が、今はちょっぴりだけ仏様らしく見えた。

 

「時間はいくらでもあります。これからは、いくらだってあるんです。だから、行きましょう」

 

 私たちが元いた場所は、もうなくなってしまったけれど。

 

「幻想郷っていう、妖怪と人間が一緒に暮らす世界なんです。月見さんのお屋敷は、妖怪も人間も集まる温泉宿なんですよ。聖も絶対に気に入るはずです」

「おんせん……」

 

 白蓮は、なんだか知らない世界の話を聞かされているみたいだった。何年も何十年も一途に願い続けてきた夢のはずなのに、こうしていざ言われてみると想像もできなかったに違いない。

 

「みんなで、一緒に入りましょうね」

 

 さあ、白蓮が泣き止んだなら長居は無用だ。今すぐ帰って、新しい世界を心ゆくまで見せてあげよう。

 

「月見。帰りもまたお願いできるかい?」

 

 ナズーリンは月見にそう尋ねる。白蓮の法力を使って帰ることもできるが、思う存分泣き腫らしたばかりの彼女にはいささか負担になるだろう。それに先ほどから霊烏路空が、自分の存在をアピールしたくてしたくて仕方がない様子なのである。

 

「おくう、できそうかい?」

「や、やるっ」

 

 問われた彼女は即答だった。ようやく自分を見てもらえた嬉しさで翼をぴこぴこさせ、しかし確かな眼力で白蓮を威嚇もしながら、

 

「私は、つくみの式神だからっ!」

 

 ナズーリンはくつくつと喉で笑う。「つくみの」の部分に大変力強いアクセントがあった。つまりこれは彼女なりのアピールと牽制であり、白蓮が自分にとって厄介な存在になりうると目聡くも直感しているわけだ。

 もっとも白蓮はその真意をまったく読み取れず、あらまあみたいな顔をして神妙に頷いている。

 もちろんこの少女、男と女の四方山話(よもやまばなし)に関しては、筋金入りの鈍感である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 神の銀の光が消えれば上空には再び青が広がり、地上から一斉のどよめきが聖輦船を出迎える。

 ナズーリンは甲板から身を乗り出して地上を見た。入浴道具を持参した客と思しき妖怪たちが、水月苑の庭から揃って船を見上げてざわついている。男の入浴日なので大半の目はそれだが、手伝いに来ているのか或いは遊びに来ているのか、見覚えのある少女たちの姿もちらほらと窺える。その喧騒を通り抜けて、わかさぎ姫の竪琴の声音が響いてくる。

 

「あーっ、みなさーん! おかえりなさーい!」

「あ……」

 

 ナズーリンの隣から地上を見下ろした白蓮が、言葉にもならない感銘の吐息をこぼした。澄んだ池が広大に広がる日本庭園、風流に鎮座する三階建ての温泉宿、そしてざっと見渡すだけでも、天狗と河童と人魚と少女とエトセトラ。生まれてはじめて目にする鮮烈な光景に、白蓮はそれ以上呻き声ひとつ出せず心を奪われる。昔はどちらかといえば種族ごとの縄張り意識が強く、こうしてたくさんの妖怪が集う場所からして存在しなかった。湿っぽく鼻をすすり、指先でそっと目元を撫でる。その横顔はなにより嬉しそうであり、そして少しだけ悔しそうにも見える。

 ナズーリンは茶化すように言う。

 

「驚くのはまだ早いよ。人間はもちろん、鬼、神、吸血鬼、亡霊、蓬莱人、妖精、本当にいろんな種族が集まるんだから」

「ええ。ええ、本当に……」

 

 白蓮は後ろを振り向く。見つめるその先では月見が、またへなへなになってしまった空をよいしょと引っ張り起こそうとしている。白蓮の瞳の奥で、単なる憧憬でしかなかった漠然とした感情が、みるみる深みを増し煮詰められていくのを感じた。

 ナズーリンが聞き取れたのは奇跡に近い。それほどまでに小さい、吐息のような言葉だった。

 

「…………お、『お父様』……な、なんちゃって…………」

「……」

 

 聞こえたのはナズーリンだけだったし、まあ今はなにも言わぬが華だろう、と思った。一方で心の片隅の悪魔的な自分が、こいつは面白くなってきやがった、ともほくそ笑んだ。

 なにも知らないムラサが、元気よく月見の背の裾を引いた。

 

「月見さん、行きましょ! みんな待ってますよっ!」

「ああ、そうだね」

 

 庭の騒ぎを聞きつけて、屋敷の中から更に少女たちが顔を出し始めている。輝夜と早苗、いつの間にやら萃香、それから仲間外れにされてしまった哀れなぬえまで。甲板から身を乗り出した志弦がぶんぶん両腕を振り、「いま行くよー!」と返事をしている。

 聖輦船を水月苑の屋根へ添えるように停めて、全員で船から下りる。そして雪が解けきらない庭に降り立つなり、

 

「月見いいいいいいいいいいっ!!」

「げふ」

 

 ぬえが月見の鳩尾に突撃した。傍目からは相当な威力に見えたが、日頃から吸血鬼(フラン)のタックルで鍛えられている月見は難なく踏ん張り、

 

「こら、なにをする」

「うるさいうるさいうるさい!! みんなして私を仲間外れにして、寂しかったんだからね!?」

「いつまでもこたつでだらけたりしてるからだろう。自業自得だよ」

「なんだとぉー!?」

 

 ナズーリンはぬえという少女を詳しく知らないものの、『鵺』といえば、それがかつて人間の都を恐怖に陥れた大妖怪の名である程度はわかる。人間はもちろん妖怪や神にも名が通ったその肩書きとは裏腹に、見ての通り大層寂しがりで甘えん坊な一面があるようだった。早速おくうに引き剥がされ「なんだこいつ」という顔をしつつも、ほったらかしにされた怒りは一向に治まりがつかず、特徴的な翼をぜんぶ使って月見の背中をチクチクしている。

 無論、騒ぎがそれだけで終わるわけはない。

 

「ギ――――――ン!! おかえりなさぶぎゅ!?」

「つ――――くみ――――――――ッ!!」

「ぶ」

 

 猛然と突撃する輝夜を颯爽と踏み台にして、萃香が全身で月見の顔面に飛びつく。そのままもそもそと肩車の体勢に移行し、

 

「おっかえりぃー! いまみんなで宴会の準備してるからねー、もうちっと待っててね!」

「は? おい待て、なんでそんな」

「え、だってこいつが例のビャクレンでしょ? 新入りが来たらとりあえず宴会! 幻想郷の常識だよっ!」

 

 踏み台にされた輝夜は転倒し、雪解けの地面と冷たい抱擁を交わしている。ああ、ものすごく高そうな着物が。

 

「おいおい、大晦日だって宴会するだろう?」

「それはそれ、これはこれ! 宴会は毎日やったっていいくらいなんだから!」

「志弦おかえりー」

「萃香ああああああああああッ!!」

 

 早苗が志弦に駆け寄り、輝夜が般若と化して跳ね起きて、「今、藍さんと藤千代さんがご飯作ってくれてるから。もう少し我慢しててね」「いえーいさっすがさなぽん!」「さなぽん!?」「私を踏み台にするなんていい度胸ねこの鬼!!」「へへーん、自分ばっかいい思いできると思ったら大間違いですぅー」「豆撒くわよ!?」「くぉら月見っ、私の話はまだ終わってないわよ! ってかこの鴉はさっきからなんなのよ邪魔なんだけど!」「つ、つくみをいじめるなあっ」「あーみなさーん、私も交ぜてくださーいっ!」

 賑やかになって参りました。

 

「まったく、この連中は本当に……」

 

 ナズーリンはやれやれと首を振って呆れた。月見が地に足をつけてからほんのわずかな時間で、よくもまあここまでわちゃわちゃと盛り上がるものである。お陰でナズーリンたちはすっかり蚊帳の外であり、星も一輪も上手いコメントが見つからず苦笑している。

 

「あはは、皆さんやっぱり元気ですねえ……」

「改めて見ると、何気にすごい光景よねこれ……」

 

 人間(かぐや)(すいか)をポカポカ叩き、ただの鴉(おくう)大妖怪(ぬえ)のケンカを人間(さなえ)が宥め、人間(しづる)が池のほとりで人魚(わかさぎひめ)と談笑を始める。千年前の常識では考えられない、かつて存在したはずの種族の垣根などそこにはチリひとつもない。みんな好き勝手に跳ね回って、本当に騒がしくて、見ていて呆れ果てるばかりで、でも、

 

「いいんじゃない? だって、見てるだけでこっちまで楽しくなっちゃうもん」

 

 ムラサの言う通り。どんなに騒がしくても、それは決して耳障りな騒音ではない。見ていて呆れ果てるばかりでも、それは決して不愉快な光景ではない。

 唯一無二の、噛み締めるような、幸いの姿。

 

「あーもう、わかったわかった。ともかく、白蓮たちを歓迎するのは賛成だ」

 

 そしてその中心にいる銀の狐は、尻尾をぶんぶん振って周りを黙らせると。

 

「白蓮」

「――あ、」

 

 魂を抜かれたように突っ立っていた白蓮へ、手を伸ばし、

 

「行こうか。こいつらが、お前の歓迎の席を準備してくれてるそうだ」

「……、」

「威勢がよくてうるさい連中ばかりだけど、そう悪い場所じゃあないから、よろしく頼むよ」

 

 うるさいとはなんだうるさいとはーと萃香が月見の耳を引っ張り、素敵な場所って言いなさいよ素直じゃないんだからーと輝夜が脇腹を小突く。差し出された彼の手を、白蓮ははじめて物を見る赤子のように見返している。

 

「ほら。行こーよ、白蓮」

「っ、」

 

 志弦からも言われて、白蓮はようやく正気を取り戻した。無意識で手を伸ばしかけ、しかし寸前で躊躇うと、

 

「で、でも私、皆さんとはなんの面識も……それに、その、今までずっと封印されてたような人間なんです。それなのに……」

 

 何度も何度も夢見てきた世界がすぐ目の前にあるのに、それでもこうして躊躇ってしまうのは、なにも成し遂げられなかった己への後悔と呵責なのだろうか。しかしそんな葛藤など、このゴーイングマイウェイな少女たちの前ではまったく問題ではなかった。

 萃香が小首を傾げ、なに悩んでんだこいつ、といった真顔で、

 

「? それがどうかしたの?」

「え、」

「あ、もしかして尼さんだからお酒はーってこと? 大丈夫大丈夫、あれだよほら……般若湯だから! めちゃくちゃ美味しいよ、呑まなきゃ損だよ! ねーねーみんなで呑もーよぉーっ!」

「こら、暴れるなって」

 

 萃香が両腕を振り回してぐずると、月見の体に鎖と錘がじゃらじゃらとぶつかる。三角の錘の角まで直撃してかなり痛そうだったが、どうやら『密と疎を操る程度の能力』で重さが調節されているらしく、月見はしきりに鬱陶しく眉をひそめている。

 あまりにも即答だったせいで、白蓮はまた数秒呆けていた。

 

「……い、いいん、ですか?」

「……まったく、随分と疑り深いのねえ」

 

 輝夜が静かに吐息し、やおら大真面目な面構えで白蓮の肩に両手を置き、

 

「あなた、今から大切な話をするからよく聞きなさい」

「は、はい?」

「ばか!!」

「!?」

「ダメなら最初っから誰も誘わないの! 誘われたってことは、みんな参加してほしいって思ってるのよ! そういうことでしょ!?」

「で、でも」

「あとあなたなんかギンとワケありなんですってねそこのぬえから聞いたわさー拒否権はないわよぜんぶ洗いざらい吐いてもらうから覚悟なさい!」

「い、いや、ですから」

「おだまり!」

「うひゃ!?」

 

 素早く回り込んだ輝夜に背を押され、バランスを崩した白蓮は思わず月見の手に掴まる。たったそれだけのことで彼女は面白いほど慌てふためき、

 

「も、もももっ申し訳ありませんっ!?」

 

 この少女、老人を除く「年上の男性」との肉体的接触に情けないほど耐性がないのだ。この一点のみに限れば間違いなく星よりひどい。初心で奥手すぎるあまり恋愛など考えられず、見ての通り手と手が触れ合うだけで右往左往の大騒ぎである。地底に住んでいるという覚妖怪がもしこの場にいれば、それはそれは愉快痛快な心が読めたであろう。

 ところで彼女はちょっと前まで、手のひとつどころか彼の胸に飛びついて泣いたりしていたわけなのだが――それを指摘すると恐らくぶっ倒れてしまうので、今は黙っておくこととする。

 白蓮はすぐさま飛び退こうとするものの、手が離れない。月見にがっしりと握られてしまっている。その事実に気づくとますます真っ赤になって、

 

「つつつっつくみひゃん!?」

「観念した方がいいよ、白蓮」

 

 しかししどろもどろな白蓮とは対照的に、月見はふっと微笑んで言うのだ。

 

「こいつらは、一度走り出したらもう止まらないからね。諦めて歓迎されてやってくれ」

「……、」

 

 萃香が勢いのよい万歳とともに裂帛する。

 

「そんじゃー皆の衆ーっ、宴会じゃあーっ!!」

「「「いえーっ!!」」」

 

 少女たちが快哉を叫び、ついでに野次馬の男衆まで巻き込んで大いに盛り上がり始める。

 

「萃香さあああんっ、俺らも参加していいですかあああああ!!」

「えー? まあいいけど、邪魔しないでよねー」

「わあい露骨に歓迎されてないし信用もされてない」

「つらい」

「かなしい」

「これが日頃の行いか」

「「「だが参加するッ!!」」」

「その大変お美しい尼さんを紹介してくださあああああい!!」

「僕はそちらの金髪の御方がいいでえええええす!!」

「皆さん、変な真似したらぶっ飛ばしますからねー?」

「…………あの藤千代サン、気がついたら背後にいるのマジで心臓止まるんでやめてくださいッス」

 

 ――見届けよう、とナズーリンは思う。幻想郷というこの底抜けに愉快な世界が、白蓮に一体なにを与えてくれるのか。かつて夢破れ人々から忘れ去られた少女が、この世界でどんな道を歩き直していくのか。

 白蓮と、月見と、志弦。

 数奇な運命でいま巡り合った三人の行く先に、一体どんな世界が広がるものなのか、この目でしかと見届けてやろう。

 

 だから、ほら。

 聖、泣くのはもう終わりだよ。

 

「――さあ、白蓮」

「っ……」

 

 月見に手を引かれ、みっともなく顔を歪めるのはほんの一瞬。

 大きくあたたかな彼の手を、強く、強く握り返して。

 

「はいっ……」

 

 ここから始めるのだ。辛かったことも、悔しかったことも、悲しかったことも、怖かったことも、きっといつかは思い出となるように。

 どうか、どうか、今の彼女にできる最高の笑顔で。

 

 

「――よろしくお願いします、皆さん……!」

 

 

 きっと、忘れはしまい。

 白蓮がいま再び歩み出したその一歩を、その瞬間を。ナズーリンは深く、深く、己の記憶と魂に刻み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

(ああ――)

 

 ようやく、終わったと思った。

 その光景を見届けた『彼女』はとうとう、自分の中からすべての重圧がほどけて消えていくのを感じた。

 

(終わった、なあ……)

 

 万感、というやつなのだろう。夢を漂う存在である己に時間の感覚はもはやないけれど、気が遠くなるほどの幾星霜を待ち続けていた気がするし、実際それだけの年月を白蓮には待たせてしまったはずだった。ほんと、これじゃあ胸を張って「助けた」なんて言えないよなと、『彼女』は自分で自分に苦笑する。

 でも、夢で見た通りの結末だった。

 自分が選んだ未来は、決して無駄ではなかった。

 それだけが、本当に――本当に、よかったと。どこまでも、どこまでも、そう思った。

 

(……どうか、幸せになってね。白蓮)

 

 ここから先の未来がどうなるのかは、自分では遂にわからなかった。妖怪に裏切られ、人々から悪魔と呼ばれ、魔界に封じられて人生をめちゃくちゃにされた――その悲劇に見合うだけの幸福が白蓮を待ってくれているのかどうかは、無責任だが自分では保証できないのが本当のところだった。

 もう少しだけ先を見ていたい思いが、ないと言えば嘘になるが。

 

(ん……やっぱり、だめかあ)

 

 自分の存在がほどけていくのを感じる。元よりこの瞬間を見届けるためだけに、肉体が役目を終えてからも意識だけの存在となって夢の中を漂っていた。そして今、夢見ていた通りの申し分ない結末を無事見届けることができた。

 謂わば幽霊にとって、生前の心残りが綺麗さっぱり果たされたも同じだった。だからいつまでも未練がましく駄々をこねず、本来あるべき眠りに就くのが運命(さだめ)なのだろう。

 

 人と妖怪が傷つけ合うばかりの時代は終わった。もちろん昔ながらの関係がまったく消えたわけではないけれど、あの世界には人と妖怪の新しいつながりの形がある。人と妖怪は、同じ場所でともに笑い合える時代になったのだ。

 それにこれからは、白蓮を支えてくれる心強い味方だっている。

 銀の狐が、傍にいる。

 心配は要らない。

 心置きなく、眠りに就こう。

 

(さよなら――白蓮、志弦)

 

 自分の能力は一体なんのためにあるのか、自分がこの能力を生まれ持った意味はなんなのか――己の中には常にその疑問があった。昔はいつも不鮮明で、断片的で、人が不幸に落ちる未来ばかりを見せられるひどく意地悪な能力だった。

 助けようとして、助けられなかった。助けようともできず、なにもできなかった。そんなのは、嫌になるほどたくさんあって。白蓮のときだって、結局は本当の意味で助けることはできなくて。

 でも、ようやく。

 

(ありがとう――月見さん)

 

 私の能力にも、まあ、ちょっとくらいは意味があったのかなと。

 消えゆく最後の意識の中で、そう、満更でもなく思うことができた。

 

 

 

 

 

 

 

「――ん」

 

 風が吹いた。

 天へ向けて船の帆を押しゆくような、爽涼と澄み切った旅立ちの風だった。

 志弦は背後を振り返る。なにも変わらない庭の景色がそこにはある。けれど、志弦は確かに感じていた。

 

「志弦? どうかしたか?」

「志弦さん?」

 

 前を見る。一足早く玄関にあがった月見と白蓮が、不思議そうな顔をして志弦を待ってくれている。

 

「……」

 

 きっと、『彼女』も見届けたのだろう。月見と白蓮がともに一歩を踏み出した、夢の通りのこの光景を。

 見届けて、ようやく、眠ることができたのだろう。

 だから志弦は、もう後ろを振り向くことはなく。

 

 

「――なんでもないよ」

 

 

 この血に託された想いの分まで、強く、強く、笑い返してみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東方星蓮船――了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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東方星蓮船 余話 「聖白蓮は押しかけたい」

 

 

 

 

 

 大晦日にも宴会するんだから、今日はほどほどにしておこう。

 と訴える月見の孤軍奮闘も空しく、白蓮たちの歓迎会という名目の宴会は、結局大晦日のリハーサルのような馬鹿騒ぎになってしまった。とりわけ天狗や河童の男衆が発信源となり、べらぼうに美人な尼さんたちがやってきたとの情報は瞬く間に山中を駆け抜け、男も女も次々押し寄せては頭数を増やし、そこに酒が入ったならばあとはもう言わずもがな。この上大晦日には更なる馬鹿騒ぎをしようというのだから、幻想郷の住人が放つ際限なしのエネルギーは老骨にこたえるばかりである。

 

 後片付けがすっかり終わり、一息ついて落ち着く頃にはもう宵の口だった。

 宴が終われば人も去る。早苗たち守矢組は神社へ帰り、呑み足りない萃香は二次会を求めて博麗神社の方角へ飛んでいった。酔っ払った輝夜はまるで予知したように鈴仙がやってきて回収、その他酔い潰れた屍も動ける面々が順次連行して、結局客としては白蓮たちとおくう、藍、そして藤千代だけが残るのだった。

 白蓮たちは、ほどなく一足早めの温泉に向かった。今日はこのまま水月苑で一泊し、明日になったら朝のうちから人里を訪問して、新しい生活の本格的な第一歩を踏み出すことになる。水蜜と星が左右から白蓮の腕を引っ張り、一輪とナズーリンが呆れながらついてゆく――幾星霜を超え再びひとつとなったその後ろ姿に、雲山は万感をこらえる渋い老爺の顔をしていた。

 さてその間、月見はといえば。

 

「わあ……!」

「今日は一段と綺麗だね。運がいい」

 

 昼間約束していた星空を見せるため、おくうを連れて外に出ていた。幸い天気が崩れることもなく、しんしんと澄み切った冬の冷気の先では、両手いっぱいぶちまけたような星屑が端から端まで夜を埋め尽くしていた。

 生まれてはじめて星空を見るおくうのために、どうやら星々も一段とめかしこんでくれたらしい。夜の向こうでぽっかりと開いた青白い月を中心に、まるで七色に光り輝いているようでもある。この国で見られる星空として文句なしの最高級であり、見る者の魂を吸い込む神々しくも魅惑の煌めきだった。

 

「すごい…………」

 

 空を見上げた恰好のまま寒さも忘れ、本当に魂を吸い込まれたみたいに立ち尽くすおくうを、月見は玄関の灯りの下からそっと見守る。その横を通って、わかさぎ姫を抱えた藤千代が池の畔へ歩いていく。すっとこどっこいの星とは違って、小柄ながらも大きな安心感あふれる背中である。

 

「どうですかおくうさん、すごく綺麗でしょう」

「ほんと、に、すごいです……」

 

 おくうは頭の天辺から足の先まで圧倒され尽くし、もはやそれ以外の言葉も出てこない。するとずっと上ばかり見たまま突っ立っていたせいで、バランスを崩して尻餅をついた。慌てて立ち上がるも月見にバッチリ見られてしまったと気づき、宵闇でもわかるほど真っ赤になってそっぽを向く。

 畔に下ろしてもらったわかさぎ姫が、近場の石に腰掛けておくうを手招きしている。

 

「うにゅほさん、是非こっちも見てくださいっ。綺麗なのは空だけじゃないですよ!」

 

 空がこれだけ綺麗なのだから、水月苑の池に至ってはもはや論に及ばずである。『水月苑』の名の由来――わかさぎ姫が日々丹精込めて手入れする水面は天然の鏡となり、別世界へつながる扉のように夜空の姿を映し出していた。風がないのも手伝って、一瞬はそこに池があるのかもわからなくなるほどだ。おくうは興奮を隠し切れない小走りで畔へ駆け寄り、

 

「ほんとだ、水の中に空があるっ! なんでなんで!?」

「えへへ、綺麗でしょー」

 

 身を乗り出しすぎて今にも落っこちそうなおくうを、わかさぎ姫が後ろから優しく引っ張る。わかさぎ姫は宴会の間、地上の妖怪ばかりで竦みあがるおくうに最初から最期まで声を掛け続けてくれた唯一の少女だった。そのほんわかとした人柄で相手の警戒心を、相手にも気づかせないまま和らげてしまうのは彼女の得意技だ。今ではおくうもある程度心を開き、こうして月見の傍を離れても大丈夫になっていた。

 

「月見様。布団の支度、終わりました」

 

 後ろから名を呼ばれたので振り向くと、いつの間にか藍が戻ってきていた。三階へ白蓮たちの布団を準備しにいったはずなのだが、得意の早業でもう終わらせてしまったらしい。

 

「ありがとう。なにからなにまで本当に助かるよ」

「いえ、そんな。大したことではありません」

 

 大したことではない、わけはない。近頃ちゃっかりと水月苑で寝泊りしている彼女は、今日も温泉客の相手から宴会の支度まで至れり尽くせりの大活躍だった。すべては一番手の掛かるご主人様が冬眠しているからこそといえど、月見が地底にいた間も含めて本当に助けられっぱなしで、今の水月苑はまさしく藍一人によって支えられているといっても過言ではない。

 なので月見はぽつりと、

 

「お前がいなくなったら生きていけなくなりそうだなあ」

「へ、」

 

 というのはさすがに大袈裟にせよ、もしも藍の手伝いがなければ水月苑は存亡の危機を迎えるのだろう。せめて明日からはちゃんと働こう、と月見は固く心に誓った。

 ところで先ほどから、金毛九尾のもふもふ饅頭が興奮状態でバウンドしまくっているのだが、

 

「――さて。星空も見ましたし、あまり遅くならないうちに帰りましょうか」

「あ……」

「月見くーん! そろそろ帰りますねーっ!」

 

 そのとき池の畔から藤千代が、抜けるようによく通る声で手を振ってきた。おくうは月見の式神であるがゆえ例外的に地上行きを許可された身で、やることが終わったならば寄り道せず地霊殿に帰り、ご主人様へちゃんと無事を報告しなければならない。それが閻魔様との約束だ。だんだんと夜も更けてきており、帰りが遅い家族をさとりたちも心配しているだろう。

 

「二人とも、今日はありがとうね。おくうは、さとりに胸を張って報告しておいで」

「……んむぅ」

 

 肯定したのかなんなのか、よくわからない返事をしたおくうはたどたどしく月見の傍までやってきて、

 

「今年は、もう、会えないん……だよね」

「そうなるね。……だからこれ、さとりたちに届けてくれるかい」

 

 月見は懐から三通の手紙を取り出す。おくうが届けてくれたさとりたちの手紙に、簡単ながら返事をしたためたものだ。

 

「はい。よろしく頼むよ」

「ん……」

 

 手紙を受け取ったおくうは、そのまま浮かない様子で黙り込む。少しだけそわそわしている。伝えたいことがあるものの、なかなか言葉がまとまらなくて葛藤しているときのおくうだった。

 

「その……ら、らいねん……」

 

 顔を半分も上げられず、もじもじとした上目遣いで、声なんて今にも掠れて消えてしまいそうだったけれど。

 

「こ、今度は、みんなで……遊びに来ても、いい?」

 

 問われるまでもなかった。

 

「もちろんだとも」

 

 絶対的な自負を以て月見は答える。ある日突然地底から覚妖怪がやってきたら、そりゃあ一部の恥ずかしがりな少女たちは大いに慌てふためくだろう。しかし生憎ながら、さとりたちがかつてのように拒絶されてしまう未来はどうやっても想像ができないのだ。

 あの少女たちなら、強くそう思わせてくれる。

 妖怪も人間も、地上も地底も関係ない。水月苑は良くも悪くも、すべての住人に等しく開かれた憩いの場所。

 だから今度は、さとりも、こいしも、お燐も、みんな一緒に。

 

「いつでもおいで。待ってるからね」

 

 おくうは例によって、「う」と「ん」の中間のような鼻声で短く返事をして。

 唇の端をほんのちょこっとだけ上げて、ぶきっちょに笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 幸いその後は追加で客が訪ねてくることもなく、夜は至って穏やかに更けていった。おくうと藤千代が地底へ帰り、白蓮たちも明日に備えて早めに就寝したことで、やがて屋敷で起きているのは月見と藍だけになっていた。

 

「――では月見様、先にお湯をいただきます」

「ああ。ゆっくりしておいで」

 

 藍は、今日もこのまま水月苑に泊まっていくつもりのようだった。主人が冬眠して以降、彼女はその埋め合わせとするように日々屋敷の家事を手伝ってくれているが、ここに来てそれがとうとう日常の風景と化しつつある。月見は特になにも言わないし、それどころかなんの疑問にも思っていない。その事実こそがいみじくも藍の狙い通りであるのだと、今のところまったく気づいてすらいない。

 藍が温泉へ向かい、茶の間には月見だけが残った。テーブルの片隅に置かれた文々。新聞を取る気にもなれず、なんの目的があるでもなくぼうっと物思いに耽っている。地上へ戻ってきたのはつい昨日のはずなのに、この二日間で数えきれないほどたくさんのことがあった気がした。地底の異変で包帯まみれになるまで無茶をしたのが、なんだかずっと遠い昔の出来事にも思えた。

 しかし、あまり安閑と余韻に浸ってもいられない。白蓮たちの新しい暮らしをなるべく早く立てなければならないし、今年も残すところあと三日という状況にありながら、大掃除と新年の準備はほとんどまったく手が付けられていない。しかも大晦日には、年越しのスーパー大宴会がラスボスのような仁王立ちで月見を待ち構えているのだ。この十二月が『師走』という異名を取る通り、今年は最後まで慌ただしく方々(ほうぼう)を駆け回ることとなりそうだった。

 どのくらいぼんやりとしていただろう。やがて月見は、廊下から足音を盗んで近づいてくるひとつの気配に気づいた。藍はついさっき風呂へ行ったばかりだし、白蓮たちもとっくに寝静まっているはずだし、はて誰だろうかと首を傾げながら待っていると、

 

「あ、月見さん……」

「おや」

 

 ほどなくして恐る恐る襖を滑らせたのは、すでに床に就いたはずの白蓮だった。広い茶の間で月見と目が合うや、不安げだった面持ちがほっと和らぐ。

 

「どうかしたかい?」

「……」

 

 白蓮は襖に指を掛けた恰好のまま、かすかな緊張で唾を呑んでから、

 

「あの、なんだか寝付けなくて……もしよろしければ、少し、お話できたらなあ……なんて」

 

 わたわた手を振って取り繕い、

 

「いえその、もうすぐお休みになるのでしたら、ぜんぜんお構いなくっ。ただ、その……」

 

 見る見るうちに小さくなって、あとはもう声というより単なる音のような有様で、

 

「……あんまり、お話できてなかったので……」

 

 確かに、その通りではあった。およそ千年振りに甦った尼僧ともなれば、その申し分ない器量とあいまって否が応でも周囲の興味を引く。宴会の間は男も女も大勢から声を掛けられ口と耳が足りないくらいだったので、月見としても無理はさせまいと遠慮していたのだ。

 

「藍がちょうど風呂に行ったからね。あがってくるまででいいなら」

「あ、はいっ」

 

 今の今までおっかなびっくりだったのに、一度許しがもらえると白蓮ははしゃぐように茶の間の敷居をまたいだ。嘘か真か、小さい頃は今の雰囲気からは想像もできないほどのやんちゃ娘だったという。今でも時折はこんな風に、大人びた佇まいにそぐわぬ無邪気さというか、無防備な一面が垣間見えることもあるようだ。

 座敷へ入ってきた白蓮は、両手で持てる程度のそう大きくはない桐箱を持っていた。長きに渡る封印を解かれた彼女がそのときから、まるで我が身の一部とするように抱き締めていた物だった。

 中身を見たわけではないが、命蓮の骨壷を納めた箱なのだと、聞いている。

 

「失礼します……」

 

 そう言って腰を下ろす頃には、白蓮はまた最初の凝り固まった顔つきに戻っている。なんとも仰々しい正座で背筋を伸ばし、目の前のこたつに足を入れようとする素振りもない。思い返せばこの少女、宴会の間もまったく居住まいを崩さずじっとしていた気がする。

 

「楽にしてくれていいんだよ。自分の家だと思って」

「へっ、」

 

 変なことを言ったつもりはないのだが、なぜか白蓮は見るからに動揺して、

 

「あ、じ、自分の家、ですか」

「ああ。……どうかしたか?」

「い、いえいえなんでもっ!」

 

 慌てて首を振ったあとも、桐箱を抱き締めて「じぶんのいえ……じぶんのいえ……」とぶつぶつ呟いている。なんだか変な人間に見える。

 

「とりあえず、こたつに入ったらどうだい。あったかいよ」

「は、はいっ。そうします……」

 

 そう答えつつも、白蓮はやはり正座を崩そうともしない。桐箱を一旦横に置き、こたつの掛け布団をちょこっと膝の上に乗せただけである。これではまるで、客の立場を弁えて遠慮しているというよりも、

 

「なあ、白蓮。私のこと、怖いか?」

「え? い、いえ、そんなことはありませんが……?」

「そうかい? すごく緊張してるみたいだから、怖がられてるのかなって」

 

 近寄りがたい相手を前にして、萎縮しているように見えるのだ。「話をしたい」と言ってわざわざ来てくれたのだから杞憂なのだとわかってはいるものの、やはり不自然でどうしても気になってしまう。

 白蓮はますます縮こまった。

 

「も、申し訳ありませんっ……私ったら、反って失礼なことを……」

「うん、まさにそういうところかな」

「あうっ……」

 

 もはや消滅しそうになりながら、

 

「その、決して怖がっているわけではないんです。でも、緊張しているのは事実といいますか……」

 

 それでも少しだけ、はにかむように、

 

「月見さんは、命蓮を救ってくださいましたし……私にとっても、世の見え方が変わるきっかけになった方、ですから……」

 

 ――私にとってあなたはなかなか大物な妖怪なので、いざ話をするとなるとどうしても緊張してしまうのです。

 そう言っているのだと思った。なんとなく予感できていたこととはいえ、実際にそういう目で見られてしまうと少々据わりが悪い。

 

「大袈裟だなあ。ほんの数日面倒を見ただけだよ」

「でも、命蓮は本当に感謝していました。……父親が、できたみたいだったって」

「……」

 

 月見は、『命蓮』の名を再び耳にするまで忘れてしまっていたのに。

 

「……あの子も小さかったからね。あれくらいの子どもが山の中でひとり放り出されれば、赤の他人でもそういう錯覚を起こすだろうさ」

 

 せめて抵抗のようにそう言うものの、白蓮には微笑みひとつであっさりと躱される。

 

「そうでしょうか。私は、錯覚ではなかったと思います。命蓮を、この目で見てきましたもの」

「……本当に大袈裟なんだ。お前に命蓮という弟がいたと知るまで、私はあの子を忘れていたんだから」

「……でも、思い出してくださったんですよね? もう、ずっとずっと昔のことなのに」

 

 白蓮の面差しにふっと影が差し、膝の上の桐箱を慰めのように優しく撫でる。

 

「命蓮は……大きくなるにつれて、月見さんのことを、思い出したくても思い出せなくなっていきました」

「……」

「仲間たちから、だいぶしつこく言われたようなんです。お前は妖怪に誑かされていたんだ、もう忘れてしまえって」

 

 それは、そうなのだろうな、と月見は思う。あくまで事実だけを考えれば、私はあの子を誑かしていたのかもしれない、とも。正体を知られぬまま終わらせることはできたはずだった。しなかったのは自分だった。あのとき命蓮の記憶がすでに戻っていると気づきながらも、希われるまま偽りの生活を続けようとして、結局あの子の仲間に幻術を暴かれ破綻した。

 最後には正体を見破られて終わる。そこだけ見れば人を誑す妖怪話の結末として、至ってありふれて伝承されていることではないか。

 時代など関係ない。詰まるところ原因は情に駆られた月見の甘さであり、だから命蓮はそうやって迷うことになったのであり、故に「恩人」という言葉など自分には相応しくないのだと月見は思っている。

 けれど、

 

「命蓮は、忘れてしまった自分を本当に悔いていました。月見さんの顔も声も忘れてしまって……でも、まるで父親ができたみたいだった――それだけは、最期まで命蓮の大切な思い出でした」

 

 白蓮は、掛け値なしの信頼を花開かせて言うのだ。

 

「だから、命蓮の分まで言わせてください。――ありがとうございました、月見さん」

「……まったく」

 

 ――どうしてこう、月見が出会う少女というのは、どいつもこいつも。

 フランにしたって輝夜にしたって、天子にしたってさとりにしたってそうだ。辛かったはずなのに、苦しかったはずなのに、月見を責めることだってできるのに、彼女たちは恨み言のひとつだってこぼしやしない。大したことじゃあなかったと言うように前を向く強い姿は、こうしていつだって月見の心を救ってくれる。

 脱力して、笑みを返した。

 

「礼を言うのはこっちの方だよ。ありがとう、白蓮」

「へ? い、いえ、私は別になにも……?」

「ふふ、そんなことはないさ」

 

 妖怪すら心服させる並外れた大器、というわけではない。恐らくは、弟と違って才能に恵まれているわけでもないのだろう。あくまで人よりちょっと長生きし、普通よりちょっと人外の領域へ踏み込んだ程度の人間の子。そんな彼女がなぜ今でも星たちから慕われ続けるのか、その一端がなんとなくではあるけれど理解できた気がした。

 

「そ、そうですか……?」

 

 まさか礼を返されるとは予想外だったか、白蓮は束の間むずがゆそうに目線を彷徨わせて、やがて自分の膝の上に乗っているものを思い出した。

 

「そ、そういえばですねっ。ひとつ……いえ、ふたつ、お願いしたいことがありまして……」

「ああ、聞こうか」

 

 ひとつはおよそ目星がついている。膝の上の桐箱を、まさかなんの目的もなくただ持ってきただけということはないだろう。

 こたつを抜け出した白蓮は月見の真横に座り直し、その箱を畳の上に差し出した。

 今までの引っ込み思案な少女は露と消え、揺らぎのない瞳が月見を捉えた。

 

「これを、」

 

 言い直す。

 

「……命蓮を、どうかあなたの傍に納めてはいただけませんか」

「……」

「どんな形でも構いません。……命蓮の、遺言みたいなものです」

 

 それが、彼女がこの桐箱を決して手放さなかった理由だった。

 少なからず、意外な頼みではあった。てっきり、命蓮の墓をどこかに作りたいと相談されるものと思っていたのだ。まさか遺灰そのものを託されるとは――そして、命蓮が最期にそれを望んだとは想像ができず、やや答えに詰まってしまったけれど。

 

「……わかった。私でよければ、納めよう」

 

 何百年も昔のほんの数日、偽りのいっときの出会いとはいえ、月見を父と呼んだ息子の最後の頼みだ。こうして受け取ることがせめてもの供養になるのなら、喜んで託されようと思った。

 

「はい。ありがとうございます……」

 

 白蓮は祈るような一呼吸、静かに、深く頭を下げた。

 

「それで……もうひとつ、お願いしてもいいでしょうか」

「ああ。なんだい?」

 

 月見は桐箱を持ち上げてみる。月見なら片手でも持てる程度の、本当に大したことのない重さでしかなかった。限られた生を力の限り全うして、今はもうこんな小さな姿になってしまったけれど。

 庭に墓でも作ろうか、と思う。妖夢や幽香にお願いして、どこかよさそうな場所を見繕ってもらって。この水月苑の姿を、人と妖怪がともに暮らす幻想郷を、いつだってあらん限り見せつけてやるように。

 明日は白蓮の住む場所を決めなければならないし、年越しの準備だって始めなければならないしで、やらなきゃならないことが山積みだなと小さく笑い、

 

「『お父様』とお呼びしていいですか?」

「ハハハ、それくらいお安い御――なんだって?」

 

 月見はいっそ芸術的な真顔で白蓮を見た。白蓮は途端にびくりと縮こまり、緊張と恥じらいを絶妙にブレンドした上目遣いで、とても心細げに人差し指同士を合わせながら、

 

「で、ですから……お、『お父様』と、お呼びしても、いいかなー、なんて……」

「……」

 

 ――ええと、なんの話だっけ。

 月見は冷静に今までの会話を遡る。なにがどこでどう間違って『お父様』などと飛躍したのか原因を探ろうとするのだが、何度思考を巡らせても「白蓮がなんの脈絡もなく変なことを言い出した」という結論に落ち着く。なにゆえ命蓮の遺灰の話からそこまですっ飛んでしまったのか、残念ながら月見の実力では即座に答えを弾き出せない。

 月見が困惑しまくっていることを、白蓮は雰囲気から察したようだった。ますます小さくなって、蚊が鳴くごとくぽそぽそ声で、

 

「だ、だって……月見さんは、命蓮にとって、お父さんみたいだったわけで……それって、私にとっても、お父さんみたいってことですよねー、とか……?」

「…………」

 

 いや、その理屈はおかしい。

 

「……よし、あれだ。今日はゆっくり休んで、この話は明日にしよう。一旦落ち着いてから。な?」

 

 きっと疲れてるんだろうな、と月見は結論した。封印から目覚めていきなりの宴会で疲れが溜まっただろうし、見知らぬ時代、見知らぬ土地での再スタートに不安や戸惑いを感じてもいるだろう。するとそれらが密接かつ複雑な相互作用を引き起こし、白蓮から正常な思考を奪い去った挙句『お父様』発言へと至らせてしまった、という可能性をどうして否定することができようか。初日から負担を掛けてしまって申し訳ない。

 そういうことにしておこう。

 

「……むー」

 

 なぜ不満げな顔をするのか。

 

「命蓮はよかったのに、私はダメなんですか……」

「……いや、それとこれとは話が別でな?」

 

 確かに命蓮からは『父上』と呼ばれたりもしたが、あれは事実彼がそれくらいの子どもだったし、月見が名乗りもせず「好きに呼んでくれ」なんて言っていたせいでもある。素性を隠さなければならない手前、余計な詮索をされないなら『父上』でも構わないという打算があったのだ。しかし白蓮の場合は違う。なにからなにまで違う。若々しい少女の姿をしていても中身は立派な大人だし、素性も知れているからわざわざ『お父様』と呼ばせる理由がないというか、むしろ呼ばせてはいけない理由がゴロゴロ思い浮かぶというか。

 冷や汗が浮かびそうな月見の心境など露も知らず、白蓮は寂しげに目を伏せる。

 

「……私たちは、両親を早くに亡くしているんです。特に父は早世でした。私はもう名前しか覚えていませんし、命蓮に至っては会ったこともなかったはずです。ですから、命蓮が月見さんを父と呼んだのは、きっと心のどこかでそういう存在に焦がれていたからなのだと思います」

「……、」

 

 指先で髪を一房、くしくしといじくり、

 

「わ、私も……ま、まあ、そのあたりは……少し、命蓮が羨ましいなーと。思っていた、次第でして……」

「…………、」

「つきましては私も、命蓮と同じ気持ちを、味わってみたいなー、とか……?」

 

 ――さて。

 どうしよう。

 もちろん、どうやって諦めさせようか、という意味である。なにやら込み入った思いがあるようなのは伝わってきたものの、こればかりは何卒思い留まっていただきたい。周りから大変な勘違いをされる未来しか見えないのは、果たして月見だけなのであろうか。

 

「あ、あの、さすがに皆さんがいる前でお呼びするつもりはないですよっ? 今みたいに、二人だけのときなら、ちょっとくらいはだめかなーと……」

 

 ――それなら、いいか……?

 いやいや、と首を振る。早速折衷されかけてどうする。ちょっとくらいなら、そう思って折れてしまった時が月見の負けだ。

 

「やっぱり、ご迷惑でしょうか……」

「待て待て、そもそもお前はそれでいいのか? 私とお前は、今日はじめて会ったばかりなんだぞ? お前の思い描いている通りの男だとは限らないよ」

「それは心配していません」

 

 白蓮は途端にまばゆい自信で満ちあふれて、

 

「今日の宴会の席を見ていれば、月見さんが誰からも慕われていらっしゃるのは大変よくわかりました。ムラサたちも心を開いていましたし、ナズーリンだってすごく太鼓判を押していたんです」

 

 あのネズミ。

 

「月見さんの在り方は、私の理想であり目標です。これから、たくさんのことを教えていただきたいのです。ですから……」

「……それで、『お父様』と?」

「命蓮が、そうだったんですよね?」

 

 いやまあそうかもしれないけれど。そうかもしれないのだけれども。

 

「……拒否権はあるのかな」

「どうしてもご迷惑であれば、仕方ないですけど……」

 

 一見理解のある素振りを見せつつも、白蓮はちょこっとだけ口を尖らせて、年頃の娘が拗ねるように言うのだった。

 

「……でも、命蓮だけズルいと思います」

「……」

 

 ――妙な子だ。

 その姿は、ナズーリンたちが話す人物像とは少しばかり違っていた。他人想いに振り切れている分押しが弱く、人の意見に左右されやすくて、自分の言動が周りの和を乱さないよういつも気を遣っている。しかしいま目の前にいる白蓮は、月見が困っているのを承知で我を曲げず、遠回しに断られても食い下がる程度には押しが強かった。ひょっとするとこれもまた、かつて彼女がやんちゃ娘だった頃の名残なのだろうか。

 ふいに、命蓮のことを思い出した。あれから千年近くが経っていても、子どもの頃とは見違える性格になっているとしても、やっぱりこの子は命蓮のお姉さんなのだと。

 

「……まあまあ、そんなに焦る話でもないだろう。それが本当にお前の本心なのか、もう一度よく考えてみてくれ。命蓮だって、私をそう呼び始めたのは出会って何日かしてからだったしね」

「それは……」

「それでお前の気持ちが変わらなかったなら、私も真剣に考えるよ」

 

 思えば、なぜこのときはっきりと断ってしまわなかったのだろう。これはいっときの気の迷いというやつで、時間さえ置いてしまえば自然と消滅する――なぜかそんな風に考えてしまったのだ。本当の意味で正常な思考を失っていたのは、もしかすると月見の方だったのかもしれない。

 

「さあ、今日はもうおやすみ。明日からたくさんやることがあるから、朝寝坊はさせないよ」

 

 これに対し、白蓮はなんとも不可解な反応を見せた。話を無理やり切り上げられるのが不満だったか、まず隠そうともせずむっと唇をへの字にして、しかしすぐに、まるでこの言葉を望んでいたように破顔したのだ。

 

「わかりました。今日は休みます」

 

 突然やけに聞きわけがよい。白蓮はこれはこれで満足した様子で立ち上がり、いっそ拍子抜けするほどあっさりと部屋を後にする。

 まあ見逃してもらえたならよかったと、月見がつい油断していると。

 

「それでは、おやすみなさい。『お父様』」

 

 月見が部屋の入口に顔を向けたのと、襖が逃げるように閉まったのは同時だった。能面みたいな無表情で固まる月見を置いて、白蓮の小走りが夜の静けさに消えてゆく。

 

「……、」

 

 月見はやがて、天井を仰いで崩れるごとく吐息して。

 

「……参ったな」

 

 こめかみを指で掻きながら、白蓮という少女への評価を確信とともに改める。たとえ柔らかく大人びた物腰でも、底抜けの善人であっても、人間妖怪問わない平和主義者であろうとも、彼女は決して聖人君子というわけではない。

 人並みの俗っぽさも年頃らしい茶目っ気も、しっかり併せ持った紛れもない人の子なのだ。

 

「お前のお姉さんには、なんだかこれから手を焼かされそうだよ」

 

 傍らに置かれた桐箱を、ぽんぽんと撫でるように二度叩く。

 当然、返事など返ってくるはずもないが。

 

 ――そうなんですよ。ぼくも本当に手を焼かされて、困った姉なんです。

 

 そう肩を竦める命蓮の姿が、まぶたの裏に見えた気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 火照った体を風で冷まそうとするような小走りで、白蓮はやっとの思いで三階まで戻ってくる。階段を登りきったところで限界になって、壁に両手をついてもたれかかり、そのままずりずりと情けなく膝からへたり込む。呼吸をほとんど忘れていたせいで完全に息切れしている。肩を上下させて何度も息を吸い、乱痴気騒ぎな頭の中を精一杯落ち着かせようとする。

 緊張した。

 もうめちゃくちゃ緊張した。恥ずかしすぎて爆発しそうだった。途中ですっ転ばなかったのが不思議なくらいだ。よく生きて帰ってきた、偉いぞわたし。

 

「はあ……」

 

 胸いっぱいに吸った息を、ぜんぶため息に変えて最後まで吐き出す。まだ心臓が大暴れしているのがわかる。どうにもすぐには立ち上がれそうもなくて、壁に背を預けてしばらくの間ぼーっとする。鼓動の音だけが白蓮の耳を奥底から満たしている。

 なにが緊張したかって、そりゃあ月見が白蓮にとって特別な意味を持つ妖怪だからだ。宴会の間は自分から話しかけることもできなくて、ただただ平常心を装うのが精一杯なくらいだった。

 なにが恥ずかしかったかって、そりゃあそんな月見を『お父様』なんて呼んだりしたからだ。いくら弟がそうだったからといっても、今日はじめて出会ったばかりの男のひとを。

 

「…………はあ」

 

 今度は、最初と比べればずっと小さく力ないため息。

 弟を助けてくれたひと。自分たちの生き方が変わるきっかけになったひと。人間も妖怪も、皆等しく受け入れてその架け橋となる――白蓮が理想とし志す生き方を、体現するひと。

 そしてここは、人間と妖怪が一緒に集まって宴会をして、笑ったり騒いだり、友達みたいにふざけ合ったりできる世界。

 

「……なんだか、夢みたい」

 

 夢を絶たれて何百年も封印され、ある日目が覚めたら夢が叶っていた。頬をつねったり毘沙門天様に祈りを捧げたり、思いつく限りの方法でこれが幻でないのは確かめたのだが、正直今でも夢現で迷うような思いに駆られる。

 今なら、自分を封印すると決めたしづくの気持ちが理解できる気がする。もしも自分が、しづくと同じ立場だったら。もしも同じ能力を持っていて、同じ夢を見ていたとしたら。躊躇って、悩んで、迷って、苦しんで、けれど最後には同じ選択をするのだと思う。

 だから、白蓮はしづくを恨まない。まあ随分と待たされたわけだし、感謝しているとも言いづらいけれど。彼女の記憶を継いでいるという神古志弦とは、今度こそよい関係を築いていきたいと思っている。

 笑みがこぼれた。自分は今、明日が楽しみだと感じている。『明日』なんてもう二度とやってこないかもしれないと、闇の中で幾度も恐怖していた自分が。

 呟く。

 

「『お父様』……」

 

 ほんのりと、心が暖かくなるのを感じた。ちょっぴり気恥ずかしいけれど、それ以上にこそばゆくて、頬が勝手にむにむにと変な感じになるのがわかった。

 月見が「朝寝坊はさせないよ」と言ってくれたとき、自分でもびっくりするくらいに嬉しかったのを思い出す。なんだか本当に、父親ができてしまったような気がしたのだ。明日は「早起きだね」って言ってもらえるのかなと考えると、それだけで胸が躍った。

 命蓮も、こんな気持ちだったのだろうか。そう思いながら白蓮はもう一度だけ、

 

「……『お父」

「聖」

「ひゅいっ!?」

 

 尻上がりで変な声が出た。びっくりして振り向くといつの間にかナズーリンがいて、大変不審なモノを見る半目で白蓮を見下ろしていた。

 ――今の、聞かれなかっただろうか。いや、聞かれなかったはずだ。いくら耳がいいナズーリンでも、はっきり音になってもいない一瞬のささやきを聞き取るなんて、そんなそんな。

 

「なにをしてるんだいこんなところで。まさかとは思うが、部屋に戻る途中で眠くなったからってここで寝ようとしていたわけじゃあないだろうね?」

「そ、そんなわけないでしょっ。これはそのっ……ちょっと、一人で考え事というか……」

「わざわざ温かい布団から抜け出して、こんな寒くて中途半端なところでかい」

 

 あう、と白蓮は凹む。わかっている。こうして現場を見られてしまった以上、自分如きの機転で上手くやり過ごすのは到底無理な話なのだ。

 これ以上変な目で見られないためにも、ある程度正直に言うしかあるまい。

 

「じ、実は、月見さんとお話してきて……すごく緊張したから、ここでちょっと休んでたの」

 

 まさか、「命蓮みたいに月見さんを『お父様』って呼んでみたら恥ずかしすぎたのでここでへたり込んでました」なんて言えるはずもない。

 

「ああ、そういえば弟殿の骨壷がなくなっていたね。よかったじゃないか、託されてもらえて」

「……盗み聞きしてたわけじゃないわよね?」

 

 まるであの場に居合わせていたかのような発言に、白蓮の背筋がうっすらと寒くなる。いや待て、そういえばナズーリンはなぜここにいるのか。白蓮が部屋を抜け出すとき、みんながぐっすりと寝静まっていたのはしっかり確認している。まさかこの少女は狸寝入りをしていて、あろうことか仲間の鼠を使って今まで盗み聞きまでしていて、白蓮の『お父様』発言をバッチリ把握してしまっているのではないか――。

 

「まさか。月見の性格を考えれば、これくらいは簡単に推測できるよ」

 

 内心盛大にほっとしたのを、破顔することで誤魔化した。

 

「ナズーリンは、月見さんのことをよくわかってるのね」

 

 む、とナズーリンは一瞬言葉に詰まり、

 

「……その表現が妥当かどうかは大いに疑問だがね。彼は裏表がないから、考えそうなことを読みやすいのさ」

 

 白蓮が今日一日見ていた限りの印象ではあるけれど、ナズーリンは意外にも月見へ大幅の信頼を寄せているようだった。宴会の間も、彼がいかに人畜無害でお人好しな妖怪なのかを、悪酔いしているのかと思うくらいしつこく言って聞かされた。この水月苑で普段から繰り広げられる賑やかな日常、彼の行く先々で巻き起こる屈託のない喧騒、そしてナズーリンが彼と出会うことになった、無縁塚と呼ばれる場所での出来事。――だからね聖、君はくれぐれも彼とよろしくやっていくべきだよ。そうすれば君の理想も自ずと叶うことになるだろうさ、と云々。

 白蓮も、そう思う。

 彼という妖怪がいるこの場所でなら、自分たちはきっと上手くやり直していけると思う。こんなことを言ってもあのひとは困ってしまうだろうけど、白蓮は彼の在り方からたくさんのことを教わっていきたい。それこそ、子が親の背を見て学ぶように。

 命蓮もきっと、こんな気持ちだったのだろう。

 

「それじゃあ、ちゃんと部屋に戻ってから寝るんだよ」

「だ、だから寝ようとしてたわけじゃないってばっ」

 

 軽く欠伸をしたナズーリンが、白蓮の横を通り過ぎて階下へ下りていく。なにをしにいくんだろう、と一瞬疑問に思ったが、お酒を呑んだあとの夜だし勘繰らぬが礼儀と思い直した。きっと白蓮と同じで、月見となにか話しておきたいことがあるのだろう。

 部屋に戻ろうと思い、前を向いて、

 

「聖」

「はいっ!?」

 

 振り返る。ナズーリンが、階段の中腹あたりからニヤリとこちらを見上げていて、

 

「言い忘れていたよ。君の気持ちは察するが、迂闊な独り言はやめておいた方がいい。壁に耳あり障子に目ありというだろう?」

「へ、え?」

 

 咄嗟になんの話かわからず首を傾げる。独り言って、別に私は変な独り言なんてなにもいやちょっと待って、

 

「私は、胸の中にしまっておくけどね。人によっては、面白がって言い触らすかもしれないし」

「……、」

 

 猛烈に嫌な予感、思えばナズーリンはいつから白蓮の隣にいたのか、いつから白蓮の独り言を聞いていたのか、自分はそのときなにをつぶやいていたのか、ぐるぐる回転し出す思考を見透かしたようにナズーリンはふてぶてしい笑みを深め、

 

「月見に娘みたいに懐いているやつはいるけど、まさか本当にそう(・・)呼び始める人が出てくるなんて」

「――――――――」

 

 真っ白になった。

 ああ、やっぱり。白蓮が思わずあれ(・・)を呟いたとき、ナズーリンはすでに射程圏内で――。

 

「いやあ予想外、予想外。あっはっは」

 

 左で団扇をあおぐようにナズーリンが階下へ消える。静寂が返ってくる。白蓮は誰もいなくなった廊下でただ一人、魂を抜かれたごとくぼけっと突っ立っている。頭の中が大嵐に見舞われて、反って指の一本も動かせなくなっていた。

 いや、違うのだ。確かに、月見を『お父様』と呼んだのは他でもない白蓮の意思である。けれど同時に、あの場に月見以外の誰もいなかったからできたことでもあるのだ。人前でなんか恥ずかしすぎてできるわけがない。故に独り言をうっかり聞かれてバレるなど、絶対にあってはならないことなのだ。

 あってはならない、はずなのだが。

 そのとき、いろいろ限界状態なせいで余計に研ぎ澄まされた白蓮の聴覚が、階下からかすかな話し声を、

 

「……おや、ナズーリン?」

「ああ、月見。いや君、君ね、聖のことをよろしく頼むよ。『お父様』として、くれぐれもね。あっはっはっは」

「…………ナ、ナズウウウウウウウゥゥゥッ!!」

 

 白蓮は階段を真っ逆さまに駆け下り、その猛烈な勢いを維持したままナズーリンに南無三した。

 お陰で星たちがすわ何事かとみんな飛び起きてしまって、誤魔化すのに大変な労力を使う羽目になったのである。

 

「ナズのばかばかばかばかばかばかばかばかああああああああああっ!!」

「おぶぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ」

「ひ、聖なにやってるんですかナズがっ、ナズが白目剥いて!? ナズ――――――――――ッ!?」

 

 その後、やっぱりやんちゃなところもあるんだねえと月見に笑われてしまい、白蓮は恥ずかしさのあまり布団でお団子になってふて寝したそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第136話 「受け継がれるもの」

 

 

 

 

 

 月見の朝は少々早い。

 今の季節なら、まず朝日相手に後れを取ることはない。よほど夜遅くまで酒に付き合わされでもしない限り、この目覚めの時間は季節を問わずほとんど一定だ。元より睡眠を人間ほど必要としない妖怪だし、長年の歳月で体内時計が凝り固まったのか、昨今は惰眠を貪れば反って調子が狂うくらいだった。

 歳というやつなのか。

 どうあれこの日も月見は、まだ部屋が薄暗いうちに自然と目を覚ます――はずだった。

 

「……お父様ー。あのー、そろそろ起きますかー……? それとも、起きませんかー……?」

 

 目覚めを間近に控えた半覚醒の意識が、馴染みの薄い少女のささやき声を聞いた。これは非常に不可解な出来事である。水月苑は月見の屋敷であり、池にわかさぎ姫が住みついている他は同居人などいないし、ましてや比較的早起きな月見を寝室まで起こしにくる少女となれば、名前を挙げる方が難しいくらいだ。今の時期に限っては藍が居座っているけれど、しかし半覚醒の意識でも、この声の主が彼女でないとだけははっきりとわかった。

 では、何者か。

 

「あのー、よければ朝ご飯の支度をお手伝いなどしてみたいと思いまして……さすがに、まだ早いでしょうかー……?」

 

 誰だっけ。

 普通に考えれば、この時間の水月苑で少女の声を聞くなどありえない。とはいえそう考えてみると、ありえないことが起こってもおかしくないほど劇的な変化が、つい最近身の回りで起こったばかりのような気もしてくる。

 なんだったっけ。

 

「…………そういえば命蓮も、こうしてお父様を起こしたりしたのかしら……」

 

 まだ頭の中が微睡んでいるし、まぶたも上げられない。

 しかし放っておいても害はなさそうだし、自然と目が覚めるまでもう少しゆっくりしていようかと思ったら、

 

「じ――――……」

 

 妙な視線を感じたので月見は目を開けた。

 目の前――およそ手を軽く掲げる程度の位置で、少女が月見をじーっと覗き込んでいた。

 

「……」

「……あ」

 

 咄嗟に少女の名が出てこない。月見は片目をこすり、

 

「んん……なんだ……?」

「ふわっ――ごごごっ、ごめんなさい!?」

 

 少女の顔が、月見の視界の外へ素早く消えた。月見はしばし、白々明けの薄暗い天井を見上げたまましかめっ面で考え込む。まだ名前が出てこない。視界の外から声、

 

「いえいえ、違うんですよっ? 今のはその、起きてるのかなーとちょっと気になって覗いてみただけで、決してお父様の寝顔を盗み見る真似をしていたわけではなくてですねっ。軽い気持ちのつもりが思いのほか見入ってしまったなんて、まさかそんなそんな」

 

 首を横に転がす。月見の枕元でガチガチに正座をして、息つく暇もない早口言葉を大量生産している少女がいる。根元の紫から先の金色にかけて、グラデーションで変化していく特徴的な髪の色。

 思い出した。

 

「ああ、白蓮か……」

「お、おはようございます……」

 

 月見は再度天井を見上げ、手の甲を額に乗せて吐息した。だんだん頭がはっきりしてきた。そういえばそうだった。今年も残すところあと数日となった幻想郷で、つい昨日新しい人間が一人ばかり増えたのだ。

 ――命蓮があなたを『父上』と呼んでいたんですもの、私も『お父様』とお呼びしていいですよね?

 そんな超理論を引っ提げてやってきた、押しかけ女房ならぬ押しかけ義娘(むすめ)――聖白蓮が。

 そういえば、そうだった。

 

「あ、あの……も、申し訳ありません、起こしてしまって……ご迷惑、でしたよね……」

「いや、違うよ。そういえばそうだったなあと、思ってね」

 

 疑問符を浮かべる白蓮に月見は一言、

 

「『お父様』」

 

 白蓮がほんのりと紅葉を散らした。

 

「ええと、その……今は一応、ふたりきり、ですのでっ……」

「……昨日、早速ナズーリンにバレたけどね」

「……うぅ」

 

 昨夜晒してしまった醜態を思い出し、白蓮の両耳が茹でダコになった。

 まさか『お父様』と呼び始めたその日のうちにいきなりバレるなんて、いくらなんでも早すぎではないかと月見は思う。今後ナズーリンからなにかにつけからかわれるかと思うと若干気が重い。ナズーリンの節度と良識を信じて、最低限言い触らされないことを祈る他ない。

 

「以後、本当に気をつけます……」

 

 ――考え直す、という選択肢はないんだな。

 姉弟揃って、本当に妙なところが似通っている――そう内心苦笑しながら、月見は起き上がった。

 

「しかし、早起きだねえ。まさか起こされるとは思わなかったよ」

「あ……」

 

 やや妙な間があったが、寝起きの月見はそこまで気が回らなかった。

 

「ええ、その、これでも尼だからでしょうか……今でも、体に染みついてるみたいなんです。それにお寝坊すると、反って調子が悪くなってしまうので……」

「そうか。調子が狂うのは私も同じだ」

「あら……そうなんですね。ふふっ」

 

 白蓮は、なんだかとても満ち足りているように見えた。野郎なんかの寝起きに立ち会ってなにが楽しいのやら、月見にはいまひとつよくわからなかったが、今は彼女がこうして笑えているだけでよしとしよう。

 

「それで、朝食の支度だったかな。藍がそろそろ起きてくると思うから、いろいろ教えてもらってくれ」

「そうですね……早く今の時代に追いつかないと、ですよね」

 

 なにせ、およそ千年分の時差ボケである。一日でも早く今の時代に馴染むため、これからたくさんの勉強と経験の日々が白蓮を待っているのだ。そのためにも、幻想郷で生活してゆく基盤はちゃっちゃと整えてしまうのが望ましい。

 

「それじゃあ一段落したら、人里を案内するからね」

「はい。お願いします」

 

 白蓮が幻想郷でも尼僧として生きる道を選ぶなら、無論第一候補は人里以外にない。当てはある。殊更その分野において白蓮たち僧侶はまさに専門家集団だから、慧音も助かったとばかりに歓迎してくれるだろう。

 外の世界でも幻想郷でも、死者の弔いはもっぱら仏式が主流。

 すなわち現在専任が不在となっている、里の墓地の管理職である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ところでナズーリンは、昨夜の騒動をあまりよく覚えていなかった。一階に下りてきて月見と鉢合わせしたところまでは覚えているが、そこから先が頭をシェイクされたようにおぼろげだと。実際白蓮にシェイクされたんだよと月見が伝えると、むしろ納得が行った様子で眉間の皺を揉みほぐしていた。

 ナズーリン曰く。

 白蓮には昔から、口では挽回できないほど追い詰められると武力行使に出てしまう一面がある。法力や魔力による身体強化を得意とする上、長年武芸もかじっていたのであれで筋金入りの武闘派なのだ。かつて寺にいた頃は、『お稽古』と称してムラサや一輪を泣かせたり、修行といって薪を素手で割ったりしていた。

 人は見かけによらないとはこのことか。

 しかしそれでも、人の記憶を抹消するほどの暴走はさすがにはじめてだったようで。一体なにが原因だったんだろうねえと絶妙な愉悦顔で絡んでくるナズーリンは、どこかの覚妖怪とアツく酒を酌み交わせるに違いなかった。

 朝食を片付けたあと、一番はじめに支度が整ったのは月見だった。みんなの準備ができるまでの間、わかさぎ姫に挨拶でもしようと思って玄関の戸を開ける。

 と、

 

「月見はっけん! とつげき――――っ!!」

「「「たあ――――――――――っ!!」」」

「ぶっ」

 

 どうやら、息をひそめて今か今かと待ち伏せされていたらしい。月見が玄関の戸を開けた瞬間、元気はつらつな掛け声とともにフランからタックルを叩き込まれ、オマケでチビ妖精たちが顔やら腕にべたべたとくっついてきた。一瞬で妖精まみれと化した月見が呆然としていると、背後から小走りの足音と白蓮の声が、

 

「月見さん、今なにか大声が――へ!? あ、あの、大丈夫ですか!?」

「……なぁに、これくらいいつものことだよ」

「……そ、そうなんですか?」

 

 つい一昨日もあったばかりです。

 このチビ妖精たちも、毎回月見なんかにくっついてなにが楽しいのやら。月見が顔面のチビ妖精をひっぺがすと、まず見えたのは玄関先でえへんと仁王立ちするチルノだった。

 

「ふっふっふ……さー月見、大人しく観念しなさいっ!」

 

 その隣では大妖精が、フランが放り投げたと思しき日傘を丁寧に畳んでいる。右腕にバスケットを提げた姿がなかなか様になっていて、わんぱく少女たちを引率する年長のお姉さんらしく見える。

 

「もー、チルノちゃんってばまたそんなのばっかり……。ちゃんと挨拶しなきゃダメでしょー?」

「これがあたい流の挨拶よ!」

「もぉー……」

 

 ここに来るまでの間もいろいろあったのか、まだ朝っぱらだというのに大妖精はもう疲れた顔をしていた。

 

「おはようございます、月見さん。朝からお騒がせします……」

「ああ、おはよう」

「つくみおはよー!」

 

 フランの虹色の翼が、今日も今日とて元気いっぱいご機嫌に揺れている。

 

「チルノちゃんたちに誘われてー、お船に乗せてもらいに来ましたっ」

「ん? ……ああ、破片を返してもらったときの」

「そーよ! まさか忘れたとは言わせないわ!」

 

 そういえばそんな約束もしてたかなあと月見は思い出す。昨日までの二日間、いろいろなことがあったせいですっかり記憶に埋もれてしまっていた。

 尻尾を使ってチビ妖精を払い落とすと、あちこちからきゃーきゃーと楽しげな歓声があがる。後ろを振り向き、話しかけてよいのかどうかわからず棒立ちしている白蓮へ、

 

「この妖精たちが、聖輦船の破片を面白半分に集めててくれたんだよ」

「ああ、みんなから話は聞きました。そうですか、この子たちが……」

「あ、さてはあんたがあの船の持ち主ね!」

 

 チルノに威勢よく指差され、むしろ話しかけてもらえて嬉しそうに白蓮は膝を折った。

 

「はじめまして。聖白蓮です」

「ヒジリビャクレン? あははへんてこな名前ね! ぎゃん!」

 

 大妖精の鮮やかな手刀がチルノの脳天を一閃し、

 

「ごめんなさいごめんなさい! ち、チルノちゃんはただのバカなのでっ!」

 

 しかし白蓮に気を害した様子は欠片もなく、ただただ微笑ましそうに目元を緩めている。きっと、小さい子どもの相手をするのは好きなのだろう。

 

「私たちの船に乗りたいの?」

「そーよ! あの船のぱーつ?をあたいたちが集めてやったんだから、こーかんじょーけんよっ」

「ええ、いいわよ。いっぱい楽しんできてね」

「へー、なかなか話がわかるやつじゃない! むにゅにゅにゅにゅ」

「そこはありがとうって言わなきゃダメでしょー! もおー!!」

 

 よく伸びるチルノのほっぺたを尻目にフランが手を挙げ、

 

「はいっ、フランドール・スカーレットです! フランって呼んでね!」

「はい。よろしくね、フランちゃん」

「お船に乗せてくれてありがとうございますっ。お菓子もいっぱい作ってもらったからすごく楽しみ!」

 

 なるほど、大妖精が腕から提げているバスケットはそういうことらしい。そこまで準備万端でやってきてしまったのなら、これから用事があるからと言って今更断るのも気が引ける。

 

「月見」

 

 折よく、ナズーリンが様子を見にきてくれた。チビ妖精たちが月見の尻尾で無邪気に遊んでいるのを見て、ふっと鼻息で笑い、

 

「あいかわらずだねえ、君は」

 

 喋る珍妙なおもちゃに思われてるんだろうよ、と月見は半分諦めながら思う。

 さておき、事情を説明して作戦会議を始める。妖精たちが押しかけてきたのは想定外だったが、考えようによってはかえって好都合かもしれない。それはナズーリンも同意見だったようで、

 

「なるほど。ならいっそ、天狗と河童も一緒に乗せて遊覧飛行した方が早いかもしれないね。どうせならまとめて片付けてしまった方が……」

「できるかな」

「大丈夫だろう。ムラサと一輪、あとは私も船に残ろう。考えてみれば、最初から私たち妖怪までぞろぞろ付いていく必要はないだろうしね」

 

 つまり里へは月見と白蓮、そして星の三人で向かうということだ。面倒事はこっちで引き受けるから、君たちは里でさっさと住む場所を見つけてこいと言っているわけである。

 

「ありがとう。助かるよ」

「礼には及ばないさ。元々、破片探しで助けてもらったのはこっちなんだから」

 

 痺れを切らしたチルノが両足で飛び跳ねている。

 

「なんでもいいから早くしなさいよぅ! 急がば急げって言葉を知らないの!?」

 

 『善は急げ』なら知ってるよ、と月見は心の中で答えながら。

 

「もうすぐみんな下りてくるだろうから、先に船で待っててくれるかい」

「だそうだ。ほら、行った行った」

「「「はーい!」」」

 

 月見に背を押され、妖精軍団+フランが各々好き勝手に庭へ散らばっていく。チルノは大妖精を引きずって早速甲板へ乗り込み、フランはわかさぎ姫を誘いに行って、一部のチビ妖精は暇潰しに弾幕ごっこで遊び始める。水月苑の庭で、あっという間に少女たちの途方もない歓声がこだまする。

 

「ふふ。みんな元気いっぱいですね」

「……本当にね」

 

 ひっきりなしに飛び回るわんぱく少女たちを眺めていると、なんだか遠足の引率者のような気分になってきた。

 幻想郷は、本日も平和です。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 聖輦船が里の外縁部に停まる。月見の後ろに続いて白蓮と地上へ降りると、甲板から「いってらっしゃーい!」と大きな見送りの声が聞こえた。振り向くと吸血鬼や人魚の子を先頭に、妖精たちが可愛らしく手を振ってくれている。なんだか家族が増えたような暖かい心地になりながら、星も頭の上で大きく手を振り返す。

 正直なところ星は、少しだけ怖かった。このまま月見と一緒に、里の中へ入っていくのが。

 昔のことを、思い出してしまうから。

 聖が夢見ていた世界だとナズーリンは言う。星も、概ねはきっとそうなのだろうと思っている。しかし「概ね」という評価に留めるのは、幻想郷のすべてをこの目で見たわけではないからだ。水月苑に集まる少女たちは、確かに種族の垣根というものを知らなかった。けれどそれは、水月苑が――星の見た場所が例外だっただけではないか。たまたま月見の周りに特別な少女たちが集まっているだけで、ひとたび水月苑を遠く離れてしまえば、そこに広がっているのは昔と変わらない確執の光景なのではないのか。そんな思いが、星の心の片隅に絶えず不安の影を落とし続けていた。

 白蓮はかつて、助けた妖怪から裏切られ、親しかった人々から見放され、尽くしていた世界から追放された。

 星はあの瞬間に、憎しみ以外の感情は一片たりとも持ち合わせていない。もはや後悔という言葉すら生温かった。こんな感情を奥底に抱えるなんて白蓮は望んでいないし、仏の代理人としても正真正銘失格だろう。けれどあのときの星が、己すら含めた世のすべてを、(はらわた)が捻じ切れるほど憎しんだのは紛れもない事実だった。今になって振り返れば、気狂いにならなかったのが不思議なくらいだったと思う。

 千年の時が過ぎ去り、毘沙門天の下で一から修行を積み直して、今でこそあの記憶と正面から向かい合えるようになったけれど。

 だからといってあのとき抱いた感情をすべて、綺麗さっぱり忘却したわけでは決してないのだ。

 だから、星は怖い。この幻想郷で――妖怪に残された最後の楽園でも同じことが繰り返されたらと思うと、今すぐ白蓮の手を取って逃げ出したい衝動に駆られる。人里の外縁。目の前から始まる古風な町並み。足が震えて前に進むのを拒否し、呼吸だっておかしくなりそうだった。

 風が吹いた。

 振り向くと、聖輦船がいよいよ遊覧飛行に出掛けようとしている。少女たちの期待いっぱい胸いっぱいなお祭り騒ぎが聞こえ、ナズーリンがもう少し落ち着けと叱りつけている。お陰で体を侵食しつつあった冷たさが紛れて、楽に呼吸できるようになった。

 隣の白蓮を見る。できることならみんなと一緒についていって、あの微笑ましい喧騒にもっと浸れればよかった――そんな安らいだ表情で聖輦船を見送っている。風でなびく髪を押さえながらの横顔は、一見すると緊張や不安なんて欠片も感じていないように見えるけれど。

 

「……聖、大丈夫ですか?」

「え? ……えっと、なにが?」

 

 とぼけているのか、それとも本当にわかっていないのか。

 自覚があるのか否かは別としても、なにも感じていないはずはないと星は思う。

 

「……よくわからないけど、私は平気よ?」

「……そうですか」

 

 二度と忘れてはならない――目の前の尼僧は人の領域を超えた魔法使いであり、それでも心は、なんの変哲もない人間の少女のままなのだと。なんてことのない顔をしていても、不安を感じれば人並みに迷い、恐怖を感じれば人並みに怯え、重圧を感じれば人並みに呻き苦しむのだと。

 その重みを、私は、少しでも軽くしてあげることができるのだろうか。

 白蓮と月見がなにか雑談をしていた気もするが、星の記憶には残らなかった。

 

「では、行くとしようか」

 

 聖輦船が空高くまで充分小さくなると、月見が人里に向けて歩き出す。古式ゆかしいひなびた町並み。まだ白蓮が封印されていなかった頃と比べても、そう革新的な技術の発達は見られない原風景。自然だけから作られた家屋の群衆、その並びによって生まれる境界のない往来、どこか近くを流れている川のせせらぎ、

 

「え? あ、あの、待ってくださいっ」

 

 白蓮が慌てて月見の背を呼び止めた。

 

「だ、大丈夫なんですか? その……妖怪の恰好の、ままで」

 

 月見があまりに自然と歩き出したものだから、星もうっかりしてしまっていた。

 かつての時代を考えれば。

 妖怪が妖怪の姿のままで里に入り込めば、見つかった途端間違いなく大騒ぎになる。もしも妖怪を危険視する人間がいれば、その場で武器を抜かれたとしても仕方ない時代だった。だからあの頃は、ナズーリンにせよムラサにせよ一輪にせよ、人と接触するときは細心の注意で正体を隠さなければならなかった。

 白蓮がそっと、しかし震える力を拳に込めたのは、なにを思い出していたからなのか。

 だが月見は、なんてことはない、ふっと一笑して至極平然と答えるのだ。

 

「心配要らないよ。ここには、もう何回もこの恰好で来てるんだ」

 

 星たちに手を伸ばし、

 

「見ればわかるさ。ついておいで」

 

 そのとき通りの向こうから、「あーっ!」と威勢のよい大声が届く。

 

「きつねのおにーちゃんだーっ!」

 

 月見の姿に気づいた子どもたちが、ぶんぶんと両腕いっぱいに手を振っている。

 

 

 

 

 

「――ちょいとお狐様、聞いとくれよぉ。ウチの亭主ったら、もう今年も終わりだからって屁理屈こねて、家の手伝いもしないで呑んだくれてばっかりでさあ」

「この前は『師走になったら忙しくなるから今のうちなんだぁ』じゃなかったかな」

「そうそう、そうなんだよ。口で言ってもぜんぜん効き目がないもんで、なんかいい方法はないかねえ」

「そうさな……アマメハギっていう妖怪がいてね。囲炉裏に当たってぐうだらしてばかりいる人間を懲らしめてくれるんだけど」

「あらまあ。アマなんとかはよくわかんないけど……お狐様が言うなら危ない妖怪じゃないだろうし、いっぺんキツく灸を据えてもらえないかねえ」

「ああ、話をしておこう」

「やーありがとう、助かっちゃうわぁ。……あ、これお供え物の油揚げ」

「……一応訊くけど、私が妖怪だってちゃんとわかってるんだよな?」

「でもさあ、あたし最近こう思うのよ。お狐様の正体がなんであろうと、里にとってはもうお稲荷様みたいなもんじゃない? って」

「……」

「このまえ阿求様が言ってたっすよ、『信仰される妖怪が神様になり、信仰されない神様が妖怪になる』って。というわけで、ウチの悩みも聞いてほしいっすー」

「あのね、私はなんでも屋じゃ……ええい、毛を引っ張るのはやめろ。私の尻尾はおもちゃじゃないぞ」

「「「もふー! もふーっ!」」」

「ちょっとあんたら、なに月見を困らせてんのよ! 離れなさいってば!」

「あら、幽香ちゃん。いつの間に」

「ちゃん付けやめろって何度も言ってんでしょ!? しまいにゃシバくわよ!?」

「またまた。幽香ちゃんは花を愛する心優しい女の子だって、みんな知ってるよ?」

「ぐむっ……ま、まあ、心優しいってのは間違いじゃないけどー? 私は寛容で慎み深い淑女だけどー? でもいくらなんでも最低限の礼儀」

「ゆーかおねーちゃん! このまえもらったたね、花がさいたよ!」

「あら本当っ? すごいじゃない。将来は花屋なんてどうかしら、素敵だと思うわよ」

「えへへー」

「ところで旦那、さっき船みたいなのが空飛んでたように見えましたが、なんだったんで?」

「ああ、あれは……そのうちわかるよ。危険なものじゃないから安心してくれ」

「そうですかい? まあ、旦那がそう言うなら」

「旦那様旦那様、ぜひとも私の悩みも聞いてください」

「おい待てお前は人ごみにいちゃ一番ダメ――うおっと!?」

「え? いまなんか首が……」

「なんでもありません、光の屈折現象です」

「今すぐ帰れ」

「しょぼん……」

 

 一体どれほどの間、言葉を失っていただろう。

 星の視線の先で、里人たちにまとわりつかれた月見が行動不能に陥っている。前門はおしゃべり好きな奥様方、後門は尻尾に群がって遊ぶちびっこたちである。わいのわいのと賑やかな空気を聞きつけて、彼の周りに一人また一人と里人の姿が増えていく。そんなたくさんの人間たちに交じって、妖怪と思しき少女の姿もちらほらと見え始めている。決して暴れたりすることなく、まるで人間同士みたいに自然と輪に加わっている。だから里人たちは恐れるどころか、気さくに話しかけてからかったり、世間話をして談笑したり。

 星は、まだ動けないでいた。

 本当に。

 これが本当に、今の世界なんだなと、ただひたすらそれだけを噛み締めていた。人間が住む里のど真ん中でこんな光景を見られる日がやってくるなんて、星たちにとってはまさに夢のようで――けれど、これからはもう決して夢ではないのだ。

 水月苑だけではない。争いを望まぬ者たちが、その願いのまま平和に生きてゆける世界。

 

「……ぜんぜん、杞憂だったみたいですね」

 

 解けるような吐息とともに、言葉がこぼれていた。

 

「よかったですね、聖」

 

 横で一緒に立ち尽くしている白蓮へ、目を向けて、

 

 

 ――白蓮の頬を伝う、一筋の雫に気づいた。

 

 

「え、」

「あ――」

 

 白蓮が慌てて頬と目元を払う。

 

「や、やだ。な、涙もろくなっちゃったのかしらっ……」

「……、」

 

 声を掛けられるまで完全な無自覚だったらしく、白蓮は自分で自分に動揺していた。それがあまりに突然だったから、星は口を半開きにして呆然としてしまったけれど。

 すぐに、元の笑みが戻ってきた。

 

「……そうですよね。ずっと、ずっと、夢見てきたんですものね」

 

 きっと、何百回、何千回、何万回とも思い描いてきた光景であるはずだった。一度はあんな形で途切れてしまったけれど、だからこそ、白蓮の想いは星が知る頃よりずっとずっと強くなっていて。月見とともに花開く人間たちの笑顔を見て、一体どれほど心が震えたのか、星の想像なんてまるで足元にも及ばないのだと思った。

 なかなか治まってくれない雫を、白蓮はもう一度指先で拭う。

 

「嬉しいし、でも……ちょっとだけ悔しいの。私、ほんとに、なにもできなかったんだなあって」

「……」

 

 幻想郷を創り上げたのは、八雲紫という名の大妖怪だという。

 無論そこに、白蓮や星たちの存在はなにひとつとして関与していない。今になってしまえば、あの頃の星たちの活動に意味なんてものはなかったのかもしれない。お前たちでもこんな世界を創れたかと問われれば――悔しいけれど、きっと返す言葉もないのだろうと星は思う。

 世の理すら変革してこの幻想郷を創り上げた、途方もなく勇敢で聡明な大妖怪――。

 

「八雲紫さん……早く会ってみたいですね」

「ええ、そうね……」

 

 なおこのときの八雲紫への期待と畏敬は、春になってから「ええー……?」という感じで崩れ落ちることとなるのだが――それはまだ先の話である。

 と、

 

「あ、あのー……」

 

 白蓮を挟んだ星の向かい側から、道行く一人の少女が気遣わしげに声を掛けてきた。ひと目で普通の人間ではないとわかる少女だった。だって空から生まれ落ちてきたような、嘘みたいに美しい青の髪を揺らしていたから。

 彼女が人間なのか人外なのか、星は咄嗟に判断できなかった。

 

「大丈夫? どこか具合が悪いとか……」

「あ……い、いえ、そうではないんです」

 

 まだ瞳が潤んでいる白蓮は両手を振り、

 

「ただ……ここはなんて素敵な場所なんだろうって、思って」

「……」

 

 月見がいたずら小僧に背をよじ登られ、「おいこら耳引っ張るな、いでででで」と呻いている。その後ろ姿を見つめる白蓮の表情から、少女はすぐさまなにかを感じ取ったようだった。これは実に心当たりがあるやつだぞ、という目つきで、

 

「ひょっとして、あそこの――月見になにか、助けられたとか?」

「ええと、直接助けていただいたわけではないんですけど……」

 

 白蓮は肩を縮め、少し照れくさそうに俯きながら、

 

「でも、あのひとがいなかったら、今の私はなかったんだろうと思います」

 

 途端に少女が苦笑した。

 

「やっぱり」

「そ、そんなにわかりやすかったですか?」

「まあ、私にはすごく」

 

 彼女もまた月見の背を見つめる。その瞳は白蓮とよく似ていて――けれど奥の奥では、なにか決定的に違う深い感情が宿っていた。

 

「私もたぶん、あなたとおんなじだから。月見のお陰で変われたの。……だから、ああまたかぁ、って」

 

 また、と彼女は言った。

 なんの根拠もないけれど、きっと二度や三度じゃないんだろうな、と星は思った。それこそ、「ああまたか」と笑ってしまうくらいに。たくさんの場所に足を運んで、たくさんの人や妖怪と出会って、話をして、力になって、友誼を結んで――そうやって、月見という狐は存在してきたのだろうと。

 

「……と、ところでっ」

 

 とても恥ずかしいことを言ってしまったと思ったようで、少女は声が半分裏返りかけていた。

 

「えっと、私、比那名居天子です。一応天人で、この里で教師なんかやってます」

「へ? て、天人様ですか?」

 

 星は目を丸くした。天人といえば、地上で高い徳を積んだのち天界へ昇り、俗世を捨てた快楽の日々を享受することが許された神にも近い人々ではないか。こうして地上に姿を見せるだけでも天変地異の前触れみたいなものであり、もちろん、人間の里で教師など以ての外のはずなのだが、

 

「でもぜんぜん、修行とかして天人になったわけじゃなくて、ただの親の七光りで。天界のみんなから不良扱いされてるし、実際ちょっと前まで……その、結構荒れてたし……」

 

 重ね重ね目を丸くする。涙ぐむ白蓮を心配して話しかけてくれる優しさ、そして里で子どもたちの先生を務める人望と、どこからどう見ても清廉潔白のお手本みたいな少女が不良とはなんの冗談だろうか。

 

「ま、まあそんな感じで、月見がいなかったら今の私はなかったなーって、私も思うわけで。あはは、ごめんね、いきなりこんな話……」

「いえ、そんな」

 

 白蓮は首を振り、

 

「私は聖白蓮と申します。こちらは寅丸星」

「はじめまして」

 

 星が頭を下げると、子どもたちの一際大きな歓声があがった。みんなにまとわりつかれて月見の背中がそろそろ見えなくなりつつあり、緑髪の妖怪少女が「くぉらあんたらっ、月見は遊び道具じゃないのよ!」と憤激して引っぺがしにかかっている。しかし妖怪の腕力を理不尽に振るうことは決してなく、子どもたちはうきゃーうきゃーと楽しそうに笑っている。そんなまぶしい風景を、大人たちは誰しもが微笑ましい眼差しで見守っている。

 あの妖怪少女がひとたびその気になれば、人間の子どもなんてあっという間に無意味な存在となってしまうはずなのに。

 

「私……つい昨日、はじめてこの幻想郷にやってきたんです」

「あ、やっぱり。はじめて見る人だから、そうなんじゃないかって思った」

「ここは、いつもあんな風なのでしょうか」

 

 白蓮の問いに天子は微笑み、

 

「うん。月見がいるときは、いっつもあんな感じ」

「そうですか……」

 

 この光景はきっと、白蓮の背を大きく大きく押してくれたはずだ。

 

「――ああ、天子。おはよう」

 

 緑髪の少女の助けもあって、月見がようやく子どもたちから解放された。緑髪の少女に両腕を広げて通せんぼされ、遊び足りない子どもたちがみんな揃ってブーイングを飛ばしている。天子が慣れた様子で月見の労をねぎらう。

 

「おはよう。お疲れ様でした」

「まったくだよ。子どもってのはどうしてああも元気なのか……」

 

 口ではそう言っているものの、月見はまったくもって迷惑したように見えない。星たちを案内する優先事項がなければ、大人たちとのんびり話に花を咲かせながら、ひとしきり遊び相手を務めてやっていたに違いない。

 月見は白蓮と天子を交互に見て、

 

「ひょっとして、もう仲良くなったのかい」

「え、ど、どうかな。自己紹介はしたけど……私たち、似た者同士かもしれないなあって……」

 

 天子が引っ込み思案な横目でちらちらと白蓮を窺う。その視線に込められた気持ちを察して、白蓮は肩をきゅっと小さくした。

 

「あ、えと、その……天子さんさえよければ、仲良くしていただければと、思いますっ」

「う、うん、よろしくっ……」

 

 なぜか揃って恥ずかしがっている初々しい二人を見ると、確かに似た者同士なのかもしれないなあと星は微笑ましく思った。月見も表情を和らげ、

 

「ならちょうどいい。慧音を捜してるんだけど」

「慧音なら、寺子屋にいるけど」

「そこまで、二人を案内してやってくれないかい。ゆっくり里の紹介でもしながら」

 

 天子はやや面食らった。

 

「え、私でいいなら、いいけど……月見は?」

「私は後ろからついていくよ。なんだか、あそこの子たちもみんなついてきそうだしね」

 

 そこで星は、子どもたちが一様に物珍しそうな目でこちらを凝視していると気づいた。はじめはみんな白蓮を見ているのだと思ったが、どうやら星に向けられる比率がだいぶ多いようで、

 

「きつねのおにーちゃん、この人たちだれー?」

「頭からお花生えてる」

「変なの」

「頭がお花畑」

 

 ちょっと待って、

 

「お、お花畑!? ……あっちょっと月見さん、いま吹き出しました!? 吹き出しませんでした!?」

「いや、そんなことは……くくく」

「ふえええん!!」

 

 もうそれなりに長いこと生きてきた星だが、初対面でいきなり「頭がお花畑」なんてさすがにはじめてで結構凹んだ。いや、蓮華を模した飾り物だから花が生えてるというのもあながち間違いではないのだけれど、ともかく「頭がお花畑」では違う意味になってしまうというか、「おや、なかなかわかってるじゃないか」と頷くナズーリンの幻聴が聞こえてきてより一層凹むというか。

 緑髪の少女がむっとする。

 

「こらあなたたち、変ってことはないでしょう。とっても素敵な飾り物じゃない」

「ゆーかおねーちゃんは花ならなんでもいいからなー」

「心がお花畑」

「喧嘩売ってんのかしら」

 

 子どもたちがきゃーきゃーと一斉に散らばり、吸い寄せられるように月見や天子の後ろへ隠れる。ともかく星は、頭の飾り物は蓮華を模したもので仏教においてとても重要な意味を持つ花でありすなわち星が代理人とはいえ仏の末席で云々、ということを懇切丁寧に説明しようと、

 

「さあさあ、お前たちもこの二人に里を案内しておくれ。まだ幻想郷にやってきたばかりなんだ」

「えーそうなの!?」

「案内するー!」

「こっちがやおやさん!」

「あっちがおそばやさん!」

「そっちがどーぐやさん!」

「もー、みんなであちこち指差したらわかんないでしょー?」

「この人がてんしせんせえ!」

「きつねのにーちゃんが大好」

「ぬわっひゃああああああああああっ!?」

 

 ――したのだが、まあいっか、と思った。

 だって人々の姿が、こんなにもまぶしいのだから。この陽だまりが、こんなにも暖かいのだから。

 だから、まあ、いっか。

 

「ほほほっほらもう行くよ、行くよっ! れっつごーれっつごー!!」

「「「はーい!」」」

「行くよー、お花畑のおねーちゃん!」

「いやちょっと待ってください私の呼ばれ方それ!? それで決まっちゃった感じですか!? もう頭お花畑確定なんですかあああっ!?」

「かわいい呼び名じゃない。私は素敵だと思うわよ」

「はじめまして寅丸星ですお花畑じゃないですうううううっ」

「風見幽香よ。よろしくね、お花畑さん」

「ふえええええん!!」

 

 あっという間に星まで飲み込み、ブレーキ不可能のちびっこ軍団が里を行く。通りに並ぶお店を次々指差し、大人たちが威勢よく手を振ってそれに応え、元々の活気も併さってまるでお祭りの中に放り込まれたような騒ぎと化す。

 実際輪の中に入ってみると、それは本当に賑やかで、心地よくて、楽しくて――だから、星は気づかなかった。

 

「あははははっ――」

 

 背後からふっと聞こえたその笑い声が、一体誰のものだったのか。

 月見と並んで歩く白蓮が、手のひらで隠すこともせず、口を開けて、声をあげて。

 星が今まで見たこともないくらい、天真爛漫に、笑っていたのだと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 墓地の管理までしてもらえるならこっちから頼みたいくらいだと、慧音はほとんど二つ返事だった。ちびっこ軍団を『天使』先生に任せ、月見は白蓮と星を連れて墓地近辺の土地を見繕いに向かう。その後ほどよい場所が見つかる頃には聖輦船の遊覧飛行も終わりに近づいていたため、一度水月苑に戻ってナズーリンたちと合流する。地ならし要員として諏訪子を尻尾で一本釣りするのも忘れない。再度人里に向かって土地を整え、降ろした船を仏の御業で荘厳なお寺へと変形させる。

 と、特に邪魔も入らずとんとん拍子で事は進んで、正午を迎える頃には幻想郷に待望の寺院が開山されたのだった。

 天より舞い降りた仏様の船がその姿を変えたお寺、ということで話題は瞬く間に里中を駆け抜け、まだ参拝客を受け入れる準備もできていないうちからあたりは人々でごった返していた。寺の本堂としてはごくごく平凡な大きさだし、意匠も控えめの域を出ないものだが、命蓮の法力によってありがたい後光を帯びているようにも見えるため、早くも里人たちの信仰心を掴んだのが窺える。星が即興で語る説法に大人たちはみな聞き入り、子どもたちは雲山のモコモコボディを揉みくちゃにして遊んでいる。

 なぜ雲山がちびっこたちの標的になったかといえば、月見の尻尾を諏訪子が独り占めにしているからだった。両腕に不機嫌な力を込め、跡がつきそうなくらいぎゅうぎゅう力任せに抱き締めてくる。

 

「ちぇー。月見がモフらせれくれるって言うから手伝ったのに、これじゃあ敵に塩を送ったみたいじゃーん」

「まあまあ。お前が地ならししてくれたお陰で、守矢神社に関心を持った人もいただろうさ」

「ぶーぶー」

 

 守矢神社は妖怪の山の頂上付近という特殊な立地のお陰で、人里での知名度がお世辞にも高いとは言えない。最近は志弦の活動もあって少しずつ名が知られ始めているようだが、それでも信仰の大部分を山の妖怪たちに依存していて、ある意味では博麗神社以上の妖怪神社と化している。妖怪の山自体人間が迂闊に入れる場所でないのもあって、必然、人間の参拝客など皆無ともいえてしまえるほどだった。

 

「こりゃあ私たちも、もっと真面目に里で布教した方がよさそうだねえ……。里の信仰ぜんぶ持ってかれちゃいそうだよ」

 

 しかし諏訪子は大地の神、そして神奈子は雨風の神である。信仰が得られていないのはひとえにその無名故であり、農耕において大変ありがたい神様が鎮まる神社と知られるようになれば、家の神棚に祀りたいと言い出す人はいくらでも出てくるだろう。

 代々人々に密着し信頼と実績を築いてきた博麗神社、ありがたいご神徳を備える守矢神社、寺院開山と同時に信仰をかっさらった白蓮のお寺――これはいよいよ本格的な宗教争いが始まるのかもな、と月見は思った。

 

「それに里でじわじわ稲荷信仰を広めてる、どっかの狐さんもいることだしぃー」

「……」

 

 広めているのではない。勝手に広まっていくのである。

 憎っくき商売敵を粉砕するため水月苑にカチコミしてくる霊夢の姿を幻視していると、人々の間を縫って白蓮がやってきた。

 

「おと、」

 

 しまったという顔をして、

 

「……つ、月見さん」

「おと?」

「なななっなんでもありません!?」

 

 二日連続は勘弁してくれ、と月見は眼力で切実に訴える。

 首を傾げる諏訪子に白蓮はぶんぶん両手を振り、

 

「え、ええとその! 洩矢様、この度はお力添え、まことにありがとうございました……」

「月見の頼みだったから特別だよー。ほんとだったら、私とあんたは信仰を奪い合う商売敵なんだから」

「い、いえそんな、私にそのようなつもりは……」

「あーあ、里の信仰が奪われたぁー」

 

 月見は諏訪子の両腕から尻尾を引き抜く。

 

「あー!? なにするのさぁ!」

「いじわる言うやつには触らせないよ」

「ご、ごめんなさいごめんなさい冗談だよぉ!? あーうー!!」

 

 すぐさま飛びついてくる諏訪子を巧みにかわし、右へ左へ、はたまた上へと尻尾を動かす。はじめは子どもみたいにぴょこぴょこ追いかけていた諏訪子だったが、段々と冗談抜きの目つきになってきて、やがて神の力を開放した瞬間移動で尻尾を確保、全身でホールドしてそのままびたーんと地べたに伸びた。

 まるでおもちゃにじゃれつく猫である。服が汚れるのも構わずふにゃふにゃに緩んでいくこの少女を、誰も霊験あらたかな神様の中の神様とは信じまい。

 白蓮がクスクスと笑った。

 

「月見さんは本当に、人間も妖怪も神様も、たくさんの方々と親しいんですね……」

「長生きすれば、その分知り合いは増えるものだよ。……ところで、向こうは大丈夫なのか?」

 

 里の人たちはなおも続々と集まってきているが、見ればナズーリンがテキパキ挨拶をして案内しているようだ。

 

「あ、はい。ナズーリンが代わってくれて。よくわからないんですけど、月見さんと一緒にいろと……」

 

 ナズーリンと目が合う。グッと真顔で親指を立ててくる。その真意は定かでないが、恐らく余計なお世話の類なのはなんとなく想像がついた。

 月見は首の後ろを掻いて、

 

「……山門とか庫裏(くり)とか、他に必要なものは鬼や天狗たちに頼もう。大工仕事が得意な連中だからね」

 

 寺院が開山されたといっても本堂が無造作に置かれているだけで、この殺風景な土地には人々を迎える山門も、白蓮たちの住居となる庫裏も、境内の境界線を示す塀もまだなにもできていない。このあたりはいつもの男妖怪衆に頼めば、「女の子のためなら喜んでぇ!」と狂喜乱舞しながらやってくれるだろう。総じて女にだらしない連中だが、こういうときは途轍もなく頼りになるのだ。

 

「なにからなにまで、本当にありがとうございます……」

「私はなにもしちゃいないさ。ただ間を取り持ってるだけだよ」

「いいえ。それだけのことが、一体どれだけ難しいか……」

 

 白蓮は苦笑し、

 

「……私には、上手くできませんでしたから」

「……」

 

 白蓮が封印された本当の経緯は、志弦から聞いた。

 それは決して、白蓮の未熟が原因というわけではなかったと思う。もちろん、白蓮自身どこか油断のようなものがあったのは事実なのだろう。けれどそれ以上に、時代と、運が悪かった。もしあの場にいたのが白蓮ではなく月見だったとしても、結果が変わっていたかどうかはわからないのだ。

 白蓮もそれは承知していた。承知した上で、他でもない自分の過ちだったと受け止めていた。あれは白蓮のせいじゃないと、仲間たちからもう何度も慰めの言葉を受けたはずだった。それでも考えを変えようとはしないのだから、月見がいくら同情を並べたところで彼女の心には届くまい。

 故に、こう返した。

 

「できるさ。これからは。この世界でなら、いくらだって」

 

 過去は変えられないけれど、未来はどうにだって歩いていけるのだから。

 そういう世界が、ここにはあるのだから。

 

「なにかあれば、いつでも力を貸すよ」

 

 白蓮の笑顔から、暗い影が消えた。

 

「……はい。ありがとうございます……」

 

 感情がにじむような言葉だった。白蓮はそのまましばらく月見を見つめ続け、やがてはっと我に返ると、

 

「そ、それでですねっ。早速ですがひとつ、お願いしたいことが……」

「いいよ。なんだい?」

 

 振り向き目を向けた先には、里人たちが集まる寺の本堂がある。

 

「もし、よろしければなんですけど……あのお寺の、名付け親になっていただけないかなー、なんて……」

「私にかい?」

「はい。月見さんに……」

 

 自分でいいのであれば、構わないけれど。

 

「私もいろいろ考えてはみたんですけど……その、あまりこういうのは自信がなくて」

「そうだねえ……」

 

 月見も自信があるとは言い難いのだが、力を貸すと言った舌の根も乾いていない手前真面目に考える。『名付ける』とは単純ながら非常に重要な意味を持つ行為で、不確かな存在に形を与え、確かなものとして固定することでもある。良く言えば個の確立であり、敢えて後ろめたく言えば個の束縛である。月見がひとたび名付け親となれば、あの寺はその名に一生を縛られることになるのだ。間違っても珍妙な名前であってはいけない。

 ……月見の屋敷に『水月苑』という素晴らしい名を与えてくれた文の閃きを、少しばかり拝借したい気分になってきた。

 

「……ふむ」

 

 やはり『水月苑』をお手本にして、あの寺をシンプルに言い表す名がよいだろうか。あの寺がなにかといえば、元は聖輦船であり、命蓮が白蓮に遺した飛倉であり、命蓮の法力を今なお宿すありがたい穀倉である。そのあたりを鍵にして考えてみると――

 自然と、唇が名を紡いでいた。

 

「――命蓮寺」

「……え?」

「命蓮寺、なんてどうだろう」

 

 そのまま、あの子の名前を持ってきただけではあるけれど。

 悪くないのではなかろうか。あの子の名をこういう形で残し、継いでいくというのも。

 

「命蓮、寺……」

 

 その名をつぶやいた白蓮はしばらくの間、瞳の焦点も曖昧なまま呆然と立ち尽くしていた。そしてあまりに反応が薄かったので月見が不安になりかけた途端、なんの前触れもなく、真珠みたいな涙がぼろぼろと彼女の頬を伝った。

 

「は。びゃ、白蓮?」

「あ……ご、ごめんなさいっ……」

 

 白蓮はすぐさま涙を払い、

 

「ええと、その。な、なんだか、命蓮もこの幻想郷に受け入れてもらえたみたいで、つい、嬉しくて……」

「……なんだ、そういうことか」

 

 びっくりした。月見はてっきり、死んだ弟の名をそのまま残すのはさすがに不謹慎に思われたかと。

 白蓮は自分でも己の涙に驚き、狼狽えているように見えた。

 

「うう……なんだか私、急に涙もろくなっちゃったみたいでして……」

「……なにも悪いことじゃないさ」

 

 少なくとも、泣きたくても泣けなかったらしい今までよりは、ずっと。

 とりあえず月見は、変な名を口走らなかった己の閃きに胸を撫で下ろしながら。

 

「命蓮寺……本当に素敵な名だと思います。ありがとうございました、月見さん」

「ああ。気に入ってもらえてよかったよ」

 

 ――かくして、幻想郷初の本格仏教寺院『命蓮寺』は開山へ至る。月見の目論見通り、白蓮たちの美貌に惹かれた山の男妖怪ども、そして分け隔てない心に惹かれた里の人々が次から次へと協力を申し出て、すぐに立派な寺院へと発展していくこととなる。

 さて、これにより幻想郷の信仰争いは一層激化し、やがては博麗神社、守矢神社、命蓮寺、お稲荷様(・・・・)の四勢力がしのぎを削る宗教戦争時代へ突入するのであるが。

 言うまでもなくこの狐、里に稲荷信仰を広めた元凶として否応なく巻き込まれる模様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第137話 「年越しは水月苑で ①」

 

 

 

 

 

「――はーい、それじゃあ作業割りを説明しまーす! 皆さん、今日はよろしくお願いしますねーっ!」

「「「は――――いっ!!」」」

 

 藤千代が高らかに音頭を取ると、少女たちの大砲のような返事がそれに応える。月見一人では広すぎる水月苑の茶の間に、一体どこでどう声を掛け合ったのか、この日はいつにも増してたくさんの少女の姿。

 まるでこれから、季節外れの運動会でも始めるような。

 普通なら、誰もが顔をしかめて面倒くさがるはずなのに。今日も今日とて元気はつらつな少女たちにとっては、よその大掃除のお手伝いすら、みんなでわいわい騒げる楽しいイベントにしか過ぎないようだった。

 

 

 

 

 

 確かに、ちょっと手伝いがほしいとは思っていた。

 今日が十二月の何日かといえば、大晦日の前日であり、古風な呼び方をするところの小晦日(こつごもり)である。命蓮寺の開山がつい昨日の話であるから、水月苑では今日からようやく本格的な新年の準備が始まるわけだ。

 しかし、なんと言っても小晦日なのである。年末の大掃除や正月の飾りつけを大晦日にやる行為は、古くから『一夜飾り』といって嫌われている。つまり歳神様に無礼を働くことのないよう、今日一日で大掃除も飾りつけもすべて終わらせなければならないのだ。

 月見一人では絶対に間に合わない。

 なので何人かに手伝いを頼んで、どうにか必要最低限だけでも終わらせよう――そう思って藍や咲夜に頼み込んだのが、昨日の午後であり。

 そして今日、どういうわけか声を掛けた記憶のない少女たちまで次々と集まって、これからいざ肉体労働とは思えぬ賑わいになっているのだった。

 

「……お前たち、本当にいいのかい? 今日中に終わらせようとしたら、この人数でも日が暮れるまで掛かるかもしれないぞ」

「もぉーギンったら、まだそんなこと言ってるの?」

 

 最終確認のつもりで月見が問うと、すぐに輝夜からお叱りの言葉が返ってくる。

 

「明日は宴会なんだから、みんなでやらなきゃ終わらないでしょっ」

「それはそうだけど……お前たちだって自分の家の準備が」

「月見様、事始めは十三日からですよ。もう、どの家もちゃんと終わっています」

 

 藍に苦笑交じりで言われてしまい、月見は沈黙した。ああわかっていたとも、よその家は新年の準備なんてとっくの昔に終わっていて、水月苑だけがスタートラインにひとり取り残されている状態なのだと。

 輝夜が励ますように月見の肩を叩き、

 

「仕方ないわよ、ギンは異変を解決したりなんだり忙しかったんだもの。だから、ここは私たちの出番ってわけ!」

「ま、あんたがなんの戦力になんのって話だけどねー」

「ぶっ飛ばすわよ妹紅」

 

 月見は胸がすく心地に駆られながら思う――今年は本当に最後まで、みんなに助けられてばかりな一年だったと。

 そしていつでも快く助けになってくれる彼女たちが、ただ心から、ありがたいと。

 

「わかった。それじゃあ今日一日、ありがたく助けてもらうよ」

「任せてくださいなっ。……では改めまして、作業割り行きまーす!」

 

 打ち合わせのメモを片手に、藤千代が朗々と割り振りを説明し始める。月見はとりあえず、こたつでぐーすかしている伝説の封獣を尻尾で叩き起こしておく。

 

「まずはお料理チームです! 今日のところは藍さん、咲夜さん、ミスティアさんの三人にお願いしますね! 明日になったらもっと人数を増やしますので」

「ああ、任されたよ」

 

 藍が気負った風もなく静かに頷く。今日と明日の二日間、水月苑の台所は彼女たちの完全な指揮下に置かれる。本日の最優先事項はあくまで掃除と飾りつけなので、幻想郷屈指の料理人のみを選び抜いた少数精鋭だ。たった三人と侮ることなかれ、いずれの少女も包丁を振るえば十人分の活躍は手堅い。

 それにしても、まさかミスティアが来てくれるとは思っていなかった。普段は屋台でごく少人数を相手にしているからか、一度くらいは大きな宴会で腕を振るってみたかったのだという。

 

「ミスティア、今日はありがとう」

「いえいえー。料理人の端くれとして、是非是非一品出してみたいと思いまして。温泉宿の女将ってのも、実は結構憧れるんですよねえー……はーい別にここの女将になりたいって意味じゃないですよー、だから献立に焼き鳥追加しないでくださいねそこのお二人ー」

 

 焼き鳥と聞いた幽々子がうきうきと手を挙げ、

 

「はいはーい、私は味見チームやりまーっす!」

「じゃあ次行きますねー」

「藤千代のいけず!!」

 

 台所に幽霊避けの御札を貼っておこう、と月見は思った。

 

「次は飾りつけチームです! 門松は材料集めからやりますよっ。萃香さん、輝夜さん、妹紅さんは迷いの竹林から竹を取ってきてください! 食器にも使えますから本数は多めで。あとは、目につけば筍もお願いします!」

「あいよー」

「はいはーい。竹林の道案内は私がいればいいとして、輝夜は足手まといだと思いまーす」

「黙ってなさい妹紅口縫うわよ」

 

 正直、月見も少しだけ不安だった。鉈を構えて竹取りに挑む輝夜と聞くと、両手からすっぽ抜けてあらぬ方向にふっ飛ばしている姿しか想像できない。「見ててねギン、立派な竹を取ってくるからっ」という意気込みは立派だが、料理をすれば爆発させ、掃除をすれば粉砕するのがなよ竹のかぐや姫なのである。

 しかしだからこそ、屋敷の掃除をさせるよりかは外に放ってしまった方がいい、という藤千代の判断は一理ある。こう言ってしまってはなんだけれど、鬼の萃香と不老不死の妹紅が一緒なら、なにかあっても大事にはならないだろうし。

 今度は赤蛮奇が手を挙げ、

 

「鬼子母神様。影狼の姿がまだ見えないので、申し訳ありませんが私も竹林へ行ってよろしいでしょうか」

「あ、わかりました。では、赤蛮奇さんも入れた四人でお願いしますね」

 

 ……本当に大丈夫かなあ。

 赤蛮奇が加わった途端どうしようもなく不安になってきたが、月見はなにも言わないでおいた。

 

「文さん、はたてさん、椛さんは、同じく門松用の松や南天、熊笹なんかを山から取ってきてくださいねー」

「わかりました」

「……そういえば文、あんた普通に手伝うのね。やっぱあんたって月見様のこといだいいだいだいいだいぃぃぃ!?」

「新聞のネタになるからに決まってんでしょ」

 

 一言余計なはたてが文にアイアンクローされる。それを見た椛がハッとして、

 

「そういえば……アイアンクローは試したことなかったですね」

「椛、なんの話か儂敢えて訊かんからね?」

「ええ、その方がいいと思いますよ」

 

 操がぷるぷる震えながら助けを求めてきたが、月見は無視した。

 

「魔理沙さんは、魔法の森からキノコを取ってきてくれるそうで」

「おう、任せとけだぜ」

「一応言っておきますけど、変なの取ってきたらお星様ですからね?」

「そそそっそんなことするわけないだろやだなあもう」

 

 はて、かつて霖之助に喜々として毒キノコを差し入れしたというのは、一体どこの白黒魔法使いだったか。

 しかしいくら星の魔法を得意とする彼女であっても、自分自身が煌めくお星様になるのは嫌だろう。ちょうどいいので、ひとつ言伝をお願いする。

 

「魔理沙。森に行くなら、ついでで霖之助に一声掛けてきてくれないかい」

 

 古道具屋『香霖堂』の店主であり月見の友人でもある森近霖之助は、酒は気が置けない知人と静かに楽しんでこそ風流との信条を持ち、誰彼構わず集まってどんちゃん騒ぎするのを快く思っていない。日頃魔理沙から誘われても徹底して辞退を貫いており、彼女はどうしていつも僕を誘ってくるのやら、と本人が聞いたら泣き出しそうなことをぼやいていたのは――果たしていつだったか。

 今回も、誘ったところで断られるのはわかりきっている。

 しかし一応友人として、声を掛けすらしないのもどうかと思う。もっとも霖之助であれば、誘われなかったところで気を悪くする性格でもないだろうけど。

 

「ふーん……いいぜ、任された」

「本当に声を掛けるだけでいいよ。断られるのはわかってるからね」

「おう」

 

 気のない返事をしつつ、魔理沙は「月見達ての頼みってことにすれば……」と一人で作戦会議を始めている。月見はそっと微笑み、恋する魔法使いの健闘を祈った。

 では、次。

 

「その他破魔矢や輪締めなどは、早苗さんと志弦さんにお願いします」

「任せてください! ウチのは神奈子様と諏訪子様のご加護バッチリで縁起がいいですよっ」

 

 藤千代の指名に、早苗が一際やる気満々で握り拳を作った。その理由は至ってシンプルで、

 

「月見さんが守矢神社の授与品を選んでくれたとなれば、里での大きな宣伝効果も見込めますから!」

「さっすがさなぽん、下心丸出しー」

「宗教はビジネスでもあるものっ」

 

 ライバルの博麗神社を一歩出し抜ける、絶好のビジネスチャンスと考えているのだ。命蓮寺の出現も意識する部分があるのか、巡ってきたチャンスは逃さず活かしていこうという今まで以上の気概が窺える。

 下心丸出しといえば響きは悪いが、建前抜きで言い切られると反って清々しくて、月見としても協力は吝かではなかった。ついでに、里の稲荷信仰拡大に待ったを掛ける救世主となってくれれば嬉しい。

 次。

 

「命蓮寺の皆さんについては、今日のところは里に行ってくださいねー。土木に強い山の妖怪を集めて、命蓮寺の工事をお願いしていますので」

「い、いいんでしょうか? 私たちも、なにかお手伝いを……」

「……まったく、あなたもまだそんなこと言ってるのね」

 

 恐縮する白蓮に、輝夜は首を振って嘆きながら吐息して、

 

「自分たちのお寺の方が何倍も重要でしょう? ちゃんと見といた方がいいわよ、じゃないとあいつら張り切りすぎて五重塔とか建てちゃうかも」

「ご、」

「あと大仏とか」

「さ、さすがに冗談ですよ……ね?」

 

 輝夜も藤千代も月見も、みんな曖昧に笑って沈黙した。

 あいつらなら、やりかねない。

 

「わ、わかりました。では、お言葉に甘えたいと思います」

「よろしい。ぶっちゃけ、いつまでもギンのとこで寝泊りなんてすごく羨ま――んんっ」

 

 輝夜の下心丸出しな本音が聞けたところで、次。

 

「幽香さんと妖夢さん、わかさぎ姫さんはお庭の掃除をお願いします! 人手がほしいときは私に相談してくださいねー。……以上!」

 

 そこで藤千代は一発、小気味よく手を叩き、

 

「これ以外の方々はみんなでお屋敷の掃除です! 詳しい割り振りを説明しますので、私と月見くんのところに集合してくださいねー。……では、早速行動開始してくださーい!」

「「「はーいっ!」」」

 

 藤千代が仕切ると、とんとん拍子で話が進んで楽である。ぞろぞろと出発してゆく飾りつけチームを、フランやわかさぎ姫が「いってらっしゃーい!」と手を振って見送る。

 

「では、私たちも始めましょう」

「ああ、そうだね」

 

 もう何千という年越しを経験してきた月見だが、ここまで明るくて賑やかなのははじめてかもしれないなと、ぬえをこたつから引きずり出しながら思った。

 

「あーっ! さむいー!!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 因幡てゐにとって、月見という妖狐はなんとも扱いに困るヤツである。

 誤解を恐れずに言えば、少々目の上のたんこぶである。

 理由を述べよう。てゐにとって、幻想郷の住人というのは総じて三つのカテゴリに分類できる。すなわち悪戯しようとも思わない相手、悪戯すべきでない相手、遠慮なく悪戯できる相手の三つであり、ひとつ目ならば閻魔様や鬼子母神様、二つ目ならば八意永琳や蓬莱山輝夜、三つ目ならば鈴仙・優曇華院・イナバといった具合だ。

 しかしあの狐は、このカテゴリのどれにも属さない新たな勢力としててゐの前に出現した。

 言うなれば、『思う存分悪戯してやりたいのに周りの空気的に手を出せない相手』である。

 あの狐本人は大したヤツではない。銀毛十一尾だかなんだか知らないが、怒りの感情が欠如しているのかと思うくらいのお人好しなので、てゐがその気になればいくらでも騙せる。だが実際それをやってしまうと、てゐを捕まえて笑顔で兎鍋を作り始めそうな連中がヤツの周りにはゴロゴロいるのだ。

 妖怪の賢者である八雲紫とか、その式神である八雲藍とか、紅魔館のスカーレット姉妹とか、あとは鬼子母神様とか天魔様とか以下省略。

 そもそもてゐの主人の一人である蓬莱山輝夜からして相当ご執心で、「変なことして迷惑掛けないようにっ」と耳にタコができるほど厳命されている。お陰様でヤツが竹林の道案内を頼んできたとしても、今のところいい顔をしながらヘコヘコと従い、あまつさえ罠に引っ掛からないよう配慮してあげなければならない始末なのだった。

 もどかしいったらありゃしない。頭の上のルーガルーみたいに、思いっきり罠に引っ掛けて遊べればいいのに。

 

「こらぁ――――――――!!」

「にょほほほほほ」

 

 そんなわけでてゐの頭の上では、両足を縄で一本釣りされ、宙ぶらりんになった少女がじたばたしているのだった。

 この竹林を住処にしている自称誇り高きルーガルー、今泉影狼だった。

 

「いやー、あいかわらず感動的な引っ掛かりっぷりで。製作者として冥利に尽きるよー」

「がうううううううううう!!」

 

 てゐお気に入りの遊び道具でもある。

 彼女はいい。てゐが丹精込めて用意した自慢のトラップに、いつも惚れ惚れするくらい見事に引っ掛かってくれる。さっきだって足を引っ張りあげられた瞬間すっ転び、「へぶうっ」と盛大に地面とキスする有様だった。写真に撮って永久保存したいくらいだった。ああ、叶うのならばもう一度三十秒前に戻りたい。

 鼻っ面に土をつけた影狼は暴れに暴れている。

 

「もぉーっ、またこんなしょうもない罠作ってえ! いい加減にしなさいよぉ!」

「そんな暴れるとスカートひっくり返るよー、……あっ見えた」

「ぎゃあああああ!?」

 

 とまあこんな感じで、とってもイジり甲斐のあるステキな少女なのだった。

 真っ赤っ赤でスカートを押さえる影狼に、てゐはうっとりとしながら、

 

「ねえ……あんたのそういうとこ、わたしゃあすごく好きだよ」

「ぜんッッぜん嬉しくないなああああああああ!?」

「もうそろそろ今年もおしまいだけどさ、来年のそのままのあんたでいてね」

「うがああああああああっ!!」

 

 あの狐も、こんな感じで弄んでやれればどんなに気持ちいいことか。

 

「ちょっと、ほんとに下ろしてってばあ! これから水月苑に行かなきゃなんないのっ!」

 

 と思った矢先、一気に脱力した。

 

「……ああなに、あんたもあの狐の手伝い? はあ、どいつもこいつも健気だねえ」

 

 一刻ほど前に、輝夜も妹紅を連れて元気いっぱい出撃していったところだ。てゐからしてみれば、賃金のような報酬があるわけでもないのによくやる気になれるよな、と心底思う。なんのメリットもなしに自分の時間を相手に捧げるなんて理解しがたい限りだが、あのお姫様はどうせ、「なに言ってるの、ギンと一緒にいられるならそれだけで報酬でしょ!」とか宣うのだろう。恋をすると頭がお花畑になるのだ。

 影狼は右へ左へぷらぷら揺れながら、

 

「ま、まあ、私の友達が手伝うって言うから仕方なくね……仲間はずれもいやだし……」

「ふーん」

 

 まあそれはそれとして、目の前のおもちゃをむざむざ手放す道理はない。てゐはふてぶてしい笑みを顔中に広げて、

 

「んんー、どおしよっかなぁー。まああんたがどうしてもって言うならー? 助けてあげなくもないけどぉー?」

「は、はあ!? この罠仕掛けたのあんたでしょ、なのに『助けてあげる』って何様よ!?」

「でも、引っ掛かったのはあんたの不注意が原因なわけだしぃー? だったらなにか言うべき一言があるんじゃないのー?」

「く、くううっ」

 

 ぷるぷる震える影狼の姿がてゐの嗜虐心を心地よくくすぐる。ああ楽しいなあとほくそ笑みながらくるりと後ろを向いて、「なにやってんのあんた」とそこに鉈を持った鬼がいた。

 死んだと思った。

 

「うっぎょあああああああああああああっ!?」

 

 死ぬほど驚いたてゐは殴り飛ばされたみたいに後方へ転倒し、隙を生じぬ二段構えのつもりで仕掛けていたもうひとつの罠に引っ掛かって、影狼をまったく笑えない宙ぶらりんになった。

 

「……ほんとなにやってんのあんた」

「な、なっ、なああっ」

 

 天地が逆転し、頭上の地面で逆さまに立っているのは伊吹萃香――てゐと同じくらいのナリをした童女でも、それはそれはめちゃくちゃ強くて恐ろしい鬼の四天王の一角であった。

 肩に担いだ鉈のせいで、お昼ご飯の食材(うさぎ)を調達しにきた狩人にしか見えなかった。

 

「び、びびびっびっくりしたぁ!? なになにどっから出てきていつからそこにいたのさあんた!?」

「にゃっははは。自分が獲物を狩る側だと思ってるやつは、自分が狩られるなんて夢にも思ってないってね。頭の天辺から足の裏まで隙だらけだったよ」

「狩っ……さ、さては私を兎鍋にする気だな!? ねーねーそれよりこっちの狼の方がでっかいし肉付きもよくてボリューム満点だと思うなーっ!」

「ふえあ!? なななっなに言ってんのよこの変態ッ!」

 

 影狼がなぜか真っ赤になって狼狽えているが、一体ナニを想像しているのだろうこの駄犬は。

 萃香は鉈の峰で肩を叩きながら、

 

「んー、そっちの狼は月見の知り合いだから手は出せないよー。でもあんたはそんなでもなさそうだし、お望みなら食べてあげよっか」

「そそそっそんなことないよ私だって月見様とは超知り合いでさーっ!!」

 

 月見の知り合いか否かというだけでこの扱いの差。おのれあの狐許すまじ、とてゐは心に誓った。

 

「とまあそれは冗談で、ほんとはここの竹を取りに来たんだよ。正月飾りの材料になるし、宴会の食器代わりにも使えるから。あとは食材として筍もねー」

「……は? それって、」

 

 てゐが口を開きかけたところで、霧の向こうから萃香の名を呼びながら近づいてくる足音が聞こえた。一人ではない。というかこの大変聞き馴染みのある声ってもしかしなくても、

 

「萃香ー、……あら、てゐ。なにしてるのそんな恰好で?」

「……あー、」

 

 そういうことか、とてゐはまた脱力した。霧の奥からやってきたのは輝夜と妹紅で、ついでに影狼の友達という抜け首までいて、要するに水月苑に集まって月見のお手伝いをしている連中だった。

 ということはつまり、萃香もそんなお花畑のうちの一人なのだろう。まあこの鬼なら、「なに言ってるの、みんなで宴会できんだからそれだけで報酬でしょ!」とか言うに決まっているが。きっとこいつらは毎日が楽しいんだろうな、とてゐは思う。

 輝夜は宙吊りになったてゐを見てのほほんと、

 

「影狼と新しい遊び? 仲がいいのねえ」

「へー、そう見えるんだ……」

「今更お姫様らしい反応したところで手遅れってやつだよねえ」

「あんたさっきから喧嘩売ってんのかしら」

「え、もしかして自分ではお姫様らしく振る舞ってるつもりだったの? 冗談でしょ?」

「喧嘩売ってんのね?」

 

 早速メンチを切り合う仲良し蓬莱人コンビを尻目に、赤蛮奇がてゐたちの傍までやってくる。はじめて竹林で姿を見かけたとき、おどかしてやろうとして逆に生首モードで尻餅をつかされたという、てゐにとっては憎っくき仇敵みたいなものである。

 

「おお影狼、変わり果てた姿になって。あいかわらずドジねえ」

「木に引っ掛かって逆さ吊りになったやつに言われたくないなあ!?」

 

 影狼はまたじたばたと暴れ出し、

 

「とにかく下ろしてよお! こんなとこ男の人に見られたら……ってそうだ、月見さんは!? 月見さんは来てないわよね!?」

「ええ、旦那様はお屋敷の大掃除だけど」

「よ、よかったあ……」

 

 ほろほろに安堵しつつも、ぴっちり押さえたスカートからは決して手を離そうとしない。たとえ同性しかいない場であっても、外で下着を晒すなんて絶対に嫌だという生娘みたいな執念を感じた。なおその横で、てゐは重力に身を任せて万歳している。当然スカートも万歳しているが、元々ドロワ派だし、こんなナリでもそこそこ長生きしている妖怪なので、下着程度を恥ずかしいと思う心などとっくの昔に忘れてしまった。

 

「旦那様に見られたくない……なるほど、わかったわ」

 

 束の間首を落ちない程度に傾けた赤蛮奇は、自信満々に頷いてこう言った。

 

「影狼ったら、履いてないのね。ぶっちゃけさすがの私もどうかと思うわ」

「ん な わ け ないでしょおおおおおおおおっ!?」

 

 萃香が冷ややかな半目で、

 

「なんだいそりゃ、露出狂? ちょっと、狼だからって躾がなってないんじゃないの?」

「申し訳ないです、よく言って聞かせます」

「がうああああああああああッ!!」

 

 今泉影狼、いつでもどこでも永久不変のいじられポジションである。

 

「とりあえず待ってなさい、いま下ろしてあげるわ」

「ううっ……お願いだから早くしてえ……」

 

 そうして赤蛮奇は影狼の真下まで移動して、隙などありえぬ三段構えのつもりで仕掛けていたてゐの罠に掛かって宙ぶらりんになった。

 首は地面に落ちた。

 

「まいぼでぃいいいいいっ」

「「「……」」」

 

 自分で自分の罠に引っ掛かったてゐが言うのもなんだが、なにやってんだこいつ。

 生首モードになった赤蛮奇はぷらぷら揺れる己の胴体を見上げ、ふう、とアンニュイな感じでため息をついた。

 

「やれやれ……まさかもうひとつ罠があったなんて」

「ばんきのバカ!」

「ふっ、大丈夫よ影狼。なにも問題はないわ」

 

 生首が颯爽と飛翔し、胴体が眉間に指を当てるようなポーズを決める。ちゃんと首がはまっている状態なら多少は様になったのだろうが、胴体だけがぶらりんしている現状ではただのマヌケであった。

 

「なぜなら私もドロワだから。パンツじゃないので恥ずかしくありません」

「ばんきのバカあああああっ!!」

 

 ――さて、おバカたちは放っておいて。

 一方の仲良し蓬莱人コンビはといえば、てゐたちを完全放置で竹取りを始めようとしている。

 

「よーし、それじゃあやりましょうか。ギンのために! ギンのためにっ!」

「ちょっと大丈夫? 間違って自分の脚斬り落としたりしない? ちゃんと一人でできる?」

「まずあんたの脚から斬り落とすわよ。まあ見てなさい、私だってやればできるんだから!」

 

 ふんす! と腕まくりをした輝夜は、箱入りのお姫様らしくとても危なっかしい両手持ちで鉈を構える。ところで永遠亭には『輝夜に刃物を持たすべからず』という暗黙の掟があるのだが、まーここはお屋敷じゃないしいいかとてゐは思う。

 せーの、と餅つきでもするみたいにかわいらしく振りかぶって、

 

「それっ。……抜けなくなったわ!」

 

 さてはこっちもおバカか。

 

「んー、んーっ……ちょっと、なんで抜けないのよっ。この鉈粗悪品じゃないかしら!」

「ねえ本当に大丈夫?? 本当に一人でできる?? 助けてあげよっか??」

 

 一応安全な場所まで距離を取った妹紅が、てゐの目から見てもウザいと断言できる愉悦の表情で輝夜を煽っている。それを知ってか知らでか、輝夜は鉈を力任せにぐいぐい引っ張って、

 

「んーっ、んー……! ……きゃあ!?」

 

 すっぽ抜けた。竹からも、輝夜の両手からも。

 勢いよく吹っ飛んだ鉈は目まぐるしく回転しながら妹紅の側頭部ギリギリを通過し、真後ろの竹にだいぶえげつない音を立てて突き刺さった。

 静寂。

 

「いたたた……むう、なかなか難しいわねえ」

「殺す気か」

 

 顔面蒼白になった妹紅が輝夜の胸倉を締めあげる。遠目でも体がぷるぷる震え、じわりと涙目になっているのがよくわかった。

 

「いたっ。ちょっと、なにするのっ」

「それこっちのセリフ!! 一歩間違ったら! ウチが! ああなってたんじゃぞ!?」

 

 よほど生きた心地がしなかったのか、妹紅は言葉遣いまでなんだかおかしくなっている。輝夜は妹紅が指差した先に目を遣り、根元近くまで竹に貫通した鉈を見て、すぐ戻し、

 

「妹紅、取ってきて」

「ざけんなてめー金輪際一切刃物禁止じゃ!!」

「はぁー!? それじゃあ竹が取れないじゃない! 私が取ってきたのよー♪ってギンに自慢できないじゃないの!」

「どおおおおおでもいいわそんなん!! 竹は私が取るからそのへんで草むしりでもしてろ蓬莱山ダメ夜!!」

「もこおおおおおおおおっ!!」

 

 もうダメだ。

 ぎゃーぎゃー乱闘を始めた二人から、てゐは最後の希望に縋って萃香へ目を移すが、

 

「あー、なんでもいいけどちゃんとやっといてよねー。じゃあ私は筍取りに行くからー」

 

 匙を投げるように言うなり鉈もろともその姿が薄れ、竹林の霧に紛れてどこかへ消えてしまった。自分の体を霧状にして、竹林のあちこちに飛んでいったのだと思う。確かそういうことができる妖怪だったはずだ。

 さて。

 どうしよう。

 

「影狼、ちょっとその両手を離しなさい。友達として、あなたが本当に露出狂じゃないか確」

「がうううううううう!!」

「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛」

「もこおおおおおおおおっ!!」

「かぐやああああああああっ!!」

 

 影狼はロープのしなりを利用して赤蛮奇をバリバリ引っ掻き、輝夜と妹紅は服が汚れるのも構わずくんずほぐれつの激闘を繰り広げる。とりあえず、てゐを真面目に助けようとしてくれる心優しい救世主はどこにもいない。

 ため息が出た。

 

「元気なのは結構だけどさー……」

 

 でもなんていうか、もうちょっとこう、その。

 これもぜんぶあの狐のせいに違いない。なぜならあの狐と仲良くなった少女は周囲の空気に毒され、漏れなくお花畑になってしまうのだから。だから宙吊りになっている哀れなてゐなどそっちのけで、各々元気いっぱい好き勝手に跳ね回っては、ケンカを始めたり筍を取りに消えたりしてしまうのだ。

 来年もこんな感じなんだろうなー、と思う。あの狐が間接的ないしは直接的な原因となって、いつもどこかで少女たちのかしましい喧騒が巻き起こる――それは、やつが幻想郷で生活する限りは何年経とうと変わらないのだろう。

 結局このあと、偶然鈴仙が通りかかってくれるまで騒ぎは続いたので。

 

「ちょっこら、やめなさい私の首はおもちゃじゃ――なんだ、ちゃんと履いてるじゃない。私は信じてたわよ、影狼」

「うがああああああああああっ!!」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 

 おのれ月見、許すまじ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――こおおおぉぉりいいいいいんっ!!」

 

 ばごん。

 と扉をブチ抜く勢いでやってきたのは、霖之助にとっては妹のような腐れ縁、普通の魔法使いこと霧雨魔理沙であった。

 ドアベルの甲高い悲鳴が店中に鳴り響く中、霖之助は読んでいた新聞からのそりと顔を上げた。

 

「魔理沙、店に入るときは静かに」

「まあそう言うな、私と香霖の仲じゃないか」

 

 それは僕が君を許すときに使う言葉であって、君が許してもらうために使っていいものじゃないんだよ――という正論を、声にはせず吐息の形で吐き出す。この程度のお小言が通用するような相手でないのは、霖之助が一番よく身を以て知っている。

 新聞を畳んで帳場の片隅に置く。「いらっしゃいませ」とは言わない。この少女がどうせ今日も客じゃないのは、やっぱり霖之助が一番よく身を以て知っているのだ。

 

「随分元気そうだね。なにかあったのかい?」

「そうかそうか、そう見えるか」

 

 魔理沙が腕組みをして、ふふんと得意げな鼻息を飛ばす。こういうときの魔理沙はだいたい、霖之助にとって好ましくない話を持ってきたときの魔理沙と相場が決まっている。気づかないふりをしていると不機嫌になるので、さっさと喋らせてはっきり断ってしまうのが一番だった。

 小走りで駆け寄ってきた魔理沙が、帳場に勢いよく両手を叩きつけて、

 

「香霖っ。明日、水月苑で年越しの宴会があるのは知ってるな!」

「もちろん。この新聞にも告知が出ていたよ」

 

 曰く、八雲藍や十六夜咲夜、ミスティア・ローレライなど、名立たる料理自慢たちがこぞって腕を振るう幻想郷最大規模の大宴会。水月苑の年越し準備を手伝うか、当日お酒を持参するかなどしてくれれば、誰でも無料で参加可能な無礼講だと宣伝されていた。

 ――なるほど、そういうことか。

 

「というわけで、香霖も参加するんだぜっ!」

 

 まったく予想通りなお誘いに霖之助は苦笑した。魔理沙をはじめ、顔馴染からたびたび酒の誘いを受けることはあるのだが、特別左利きでもないし気の利いた話ができるわけでもない、こんなつまらない男を招いて一体なにが楽しいのだろうか。

 

「悪いけど遠慮するよ」

「まあまあ待て待て、今回は私が個人的に誘いに来てるわけじゃないんだ」

 

 しかしなにやら勝算があるらしく、魔理沙はそこはかとない余裕の笑みを崩さない。まあどうせ月見の名前を出すんだろうと霖之助は思うし、再度帳場を叩いて彼女が高らかに述べたのはまさにその通りの内容だった。

 

「私は月見の遣いでここに来たんだ! 月見が、香霖にも参加してほしいって言ってるんだぜ! こりゃあ受けるのが男の友情だろっ!」

「うん、お断りするよ」

「お、お前に友情ってもんはないのかぁ!?」

 

 魔理沙は帳場の向こうから愕然と身を乗り出し、

 

「つ、月見はどうしても参加してほしいって言ってたんだぜ! それを無下にするってのか!?」

「……ふむ。魔理沙、嘘はよくないね。彼はそんなことは言わない」

 

 なんだかんだで、月に何度かは二人で酒を呑み交わす仲なのだ。月見という妖怪に関しては、少なくとも目の前の少女よりかは理解できているはずだと霖之助は自負している。霖之助が知る月見の性格を考えれば、魔理沙がただのでまかせを言っているのは一目瞭然だった。

 

「月見は、僕が酒で騒ぐのは苦手だとをわかってくれてる。なのに強引に誘ってくるとは思えないし、本当にどうしてもというのなら、魔理沙、君に頼んだりしないで自分が直接出向くんじゃないかな」

「ぐむっ……」

 

 恐らく月見は、軽く一声掛けておく程度しか彼女に頼んでいない。誘ったところで断られるのは目に見えているし、別に一言なんてなくとも霖之助は気にしないと承知してもいるが、友人として一応義理は立てておこうということなのだろう。

 魔理沙から不服げな半目が返ってくる。

 

「……月見のこと、やけによくわかってるじゃないか」

「まあ、友人だしね」

「私のことはぜんぜんわかってくれてないのに」

 

 はあ、と霖之助は生返事をする。なぜそこで魔理沙の話になるのだろう。

 

「前々から気になっていたんだが、君はやけに僕を宴会に誘いたがるよね。君だって、僕がそういうのは苦手だってわかってるはずだろう?」

「……………………」

 

 気のせいだろうか、魔理沙の目つきがどんどん不穏になって今にも爆発しそうで、

 

「うっさいうっさい! 香霖のばーかばーか! もう知らんっ!!」

 

 と思った途端、本当に爆発した。魔理沙は帳場の脚を爪先で蹴っ飛ばし、猪みたいにのしのしと踵を返してしまった。

 むう、と霖之助は内心で腕組みする。どうして機嫌を損ねてしまったのかは不明だが、とりあえず自分は失言をしてしまったらしい。どこに非があったのか筋道立てて考え直す暇もないので、霖之助は店から飛び出していこうとする魔理沙の背に、

 

「ここで二人で呑む分には構わないから、それで勘弁してくれ」

「……へ?」

 

 魔理沙が身動きを止めた。

 たっぷり五秒近く間があって、彼女は目を白黒させながら振り向くと、

 

「……ふ、二人で? 二人でなら、いいの?」

「? うん。何度も言うが、騒がしいのは苦手だからね」

「で、でも私、あんまり静かに呑める自信、ないけど……」

「……まあ、君だけなら構わないさ。特別ね」

「と、とくべつ」

 

 霖之助の顔を見つめ、心ここにあらずな様子でぽけーっとしている。

 

「……魔理沙?」

「……ハッ。いいいっいやいやなんでもないっ。じゃあ、その……正月になったら、二人で…………」

 

 なにやら赤くなってもじもじしているのが気にはなったが、ひとまず霖之助は頷いた。

 

「ああ、わかったよ」

「! そ、そうかそうか! じゃあ正月の夜になったら来るからな! 言っとくけど、霊夢とか呼ぶんじゃないぞ!」

「呼ばないよ。言ったろう、騒がしいのは苦手なんだ」

「そ、そうかそうかっ……」

 

 魔理沙はむふーっと鼻から浮ついたため息をつくと、ほんの二十秒前とは打って変わって、ご機嫌に鼻歌を口ずさみながら店から出ていくのだった。

 とりあえず失言は帳消しにできたらしいと判断し、霖之助は一息。

 

「……ふむ。年頃の娘が考えることはよくわからないね」

 

 いやお前、普段は頭回るくせにどうして女相手だとそうなんだ――と、月見がこの場にいれば眉間に皺寄せして呻いたであろうが。

 小晦日(こつごもり)の香霖堂。今日も今日とて店に客の姿はなく、よって誰もツッコむ者はおらず、閑古鳥だけがこの日もひっそりと鳴き続けている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「「「たりゃあああああ――――っ!!」」」

「うひゃっ!? あっこらちょ待、ぎゃあああああっ!?」

「お嬢様ー!?」

 

 肉体ぶつかり合う熾烈なコーナー争いに敗北し、レミリアは縁側の戸をブチ抜いて外に転げ落ちた。

 所は一度水月苑へ戻る。門前雀羅を張るどこかの古道具屋とはまさしく対照――幻想郷のあちこちから多くの少女たちが集結し、わいわいと賑やかに大掃除が進められていく中で、誇り高き吸血鬼ことレミリア・スカーレットは縁側の雑巾掛けをしていた。

 より具体的に言えば、レミリア、フラン、チルノ、橙、ルーミアの五名で開催された雑巾掛けレースにて、無念のコースアウトでリタイアとなったところだった。

 

「お嬢様、大丈夫ですかっ?」

「いたたぁ……ああもう、服が汚れちゃったじゃないの」

 

 すぐに咲夜が持ってきてくれた日傘の下で、レミリアは土を払いながら縁側によじ登る。レミリアを突き落としてくれたお転婆軍団の姿はすでになく、遠くからずどどどどどとアツいレースの物音だけが響いてくる。

 ぐぬぬと唸る。

 

「雑巾掛けって、こんなに過酷なものだったのね……知らなかったわ」

「いや、さすがに水月苑特有な気がしますけど……」

 

 幸いどこも壊れていなかったようで、雨戸は咲夜が敷居にはめ直すだけで簡単に直った。そのことにちょっとだけ安堵しつつ、レミリアは両脚を投げ出して床に座り込む。今更追いかけてもビリケツで笑われるのが目に見えているし、もしもその現場を月見に目撃されようものなら一生の恥だった。

 ため息。

 

「まったくもう。フランったら、あんなに張り切っちゃって」

 

 咲夜がくすりと笑う。

 

「そうですね。本当に」

 

 いや、なにもフランに限った話ではない。お料理チームだって今日と明日のメニューをあっという間に決定させ、藍は独自ルートで外界から食材を調達しに行き、ミスティアは家に戻って鰻料理の試作を始めたと聞く。咲夜だって少し前まで里へ買い出しに出ていたし、戻ってきたら戻ってきたで、昼食の支度を始めるまでまだ時間があるからと言って、こうしてお掃除チームの手伝いまで買って出る始末だった。ひょっとすると、本日一番張り切っているのは咲夜なのかもしれない。

 なお、レミリアが今ここにいるのはフランからしつこくせっつかれたからである。「一緒にお手伝いしに行こうよおーっ!!」と昨日から騒ぎ散らす有様で、あまりのやかましさに白旗を挙げる他なかったのだ。――そう、すべては可愛い妹の願いを姉として叶えてあげるため。実はレミリア自身もなにか協力したいと悩んでおり、しかし自分から言い出すのも恥ずかしくて悶々としていた、なんてことは断じてありえない。それでちょうどフランの方から誘ってきてくれたので、いかにも仕方ないふりをしながらやる気満々で参加した――とか、そんなのは絶対にあるわけがないのだ。

 またため息。

 

「……あの子も随分と変わったわよね。あんな風になるなんて思ってもいなかったわ」

 

 レミリア以上に外と積極的な交流を持ち、今ではすっかり紅魔館の新しい顔だ。一年前の自分が今のフランを見たら、間違いなく口をあんぐり開けて思考停止に陥るだろう。

 月見との出会いは、紅魔館に本当にたくさんの変化をもたらした。

 フランはもちろん、パチュリーだって毎日欠かさずシャワーを浴びて、身嗜みにちゃんと気を遣うようになった。咲夜だっていい意味で肩の力が抜けて、年頃らしくお茶目な一面が目立ってきたように思う。そういった周囲の変化が影響を与えているのか、美鈴や小悪魔も前より笑顔が増えたかもしれない。

 ぜんぶひっくるめて言えば、紅魔館は明るくなった、と思う。

 

「変わったといえば、お嬢様だってそうですよ。私から見れば、妹様と同じくらいに変わったと思います」

「……そうかしら?」

「そうですとも。月見様と出会う前のお嬢様なら、こうしてよその家のお手伝いなんて絶対にやらなかったはずですから」

 

 むう、と唸る。それは確かに、自分でもそうかもしれないとは思うけれど。

 

「一応言っとくけど、これは例外中の例外よ」

「ええ。お嬢様にとって、月見様は特別な方ですものね」

「げっふごほがほ!?」

 

 平常心が一発で吹っ飛んだ。全身がほっこほこになるのを感じながらレミリアはわけもなく立ち上がり、

 

「なななななっにゃに言ってるのよぉ!?」

「大丈夫です、わかっています。普段はなかなか素直になれませんが、お嬢様が月見様には心から感謝」

「あ――――っ!! あ――――――――――っ!!」

 

 絶叫とともに己の身体能力を最大出力で発揮し、一刹那で咲夜の口を塞いだ。

 違う。

 違うのだ。確かに月見には、フランの一件含めて大きな借りがあるとは思っている。しかしそれは誇り高き吸血鬼にとってむしろ汚点であり、レミリアの心にあるのは馬鹿だった己への戒めだけであり、まさかあの狐に感謝するなんてそんなのはこれっぽっちも、

 とぐるぐる考えているうちに、咲夜は一瞬でレミリアの手を逃れて真横にいた。こいつ、時間止めやがった。

 

「来年は、月見様にちゃんと『ありがとう』って伝えられるといいですねえ」

「ぐっ……そ、それはあっ! ほんとは、とっくの昔に言えてるはずで……!」

 

 いけない、とレミリアは焦る。このまま咲夜のペースに呑まれては、そのうち突き当たりからひょっこり現れた月見にすべて聞かれてしまうかもしれない。もしそうなればレミリアはもう生きていけない。なんとか主導権を奪わなきゃ、と慌てに慌てたレミリアは勢いに任せて、

 

「そ、そーいう咲夜だってどうなのかしら!? 特別でもなんでもない男の家事を、毎回毎回手伝ったりするものかしらねぇ!?」

「ふえ、」

 

 咲夜の表情が崩れる。すんでのところで咳払いに変えて繕うが、唇の端が不自然にひくついている。明らかに動揺している。

 我、勝機を見たり。

 

「……それは、ええ、月見様にはいつもよくしていただいていますから。そういった日頃の感謝を込めてですね」

「そういえばフランが言ってたわねー。あなた、月見からもらった物ならなんでも箱に詰めてぜんぶ大切に保管」

「わ、わあわあっ!?」

 

 口を塞ごうとしてきた咲夜の両腕を掴み取り、手に汗握る鍔迫り合いが始まる。

 

「ふ、ふふふっ……ほら見なさい、あなたにだって踏み込まれたくない領域はあるでしょう? 安心なさい、私はこれ以上触れないわ。だからあなたも余計な口は出さないこと。いいわね?」

「で、ですがっ……素直にお伝えすれば、きっと月見様も喜んでくださるはずで……!」

「あらあら、まるで素直になれてないのが私だけみたいな言いぶりじゃないの。そういうあなたはどうなのかしらねえー?」

「む、むう……!」

 

 レミリアも咲夜も一歩だって退こうとせず、「ぐむむむむむっ……!」と口をへの字にして睨み合う。そしてレミリアのどこか頭の片隅で、そういえば咲夜とこんなケンカみたいなことするのもはじめてかしら、と冷静な自分がぼんやり感慨に耽ったその直後、

 

「おねえ――――さまあ――――――っ!!」

「「!」」

 

 すっ飛んできたフランが突如突き当たりから姿を現し、咲夜はもちろん、レミリアもまた時を操ったかのような超反応で互いに距離を取った。のみならずレミリアは浅く両腕を組み、咲夜はスカートの前でゆったりと両手を合わせ、どこからどう見ても「ちょっと立ち話をしていただけ」としか思えないカモフラージュまで完璧にキメた。

 雑巾片手に駆け寄ってきたフランが、頬を膨らませてぷんぷんと怒った。

 

「こんなとこにいた! もぉーなにやってるの、みんなゴールしちゃったよー!?」

 

 レミリアは近年稀に見る努力で何食わぬ顔を装いながら、

 

「ちょ、ちょっと思い出したことがあってね。なに大したことじゃないわ、もう済んだから」

 

 そういうことでいいわね異論は認めないわよ、と横の咲夜に眼力で訴える。咲夜もこれ以上の言い争いは危険と察し、静かに目で肯定を返してきた。

 しかし、フランはなんとも疑り深い顔つきをしている。この少女、人が聞かれたくない話をしていたときに限ってやたらと勘が利くのだ。

 

「あー、さてはまた月見の話してたなー」

「あ、あのねえ。別にそうとは限らないでしょ」

「どーだかぁー。お姉様も咲夜も、口を開けばいっつも月見のことばっかだし」

 

 あんたにゃ言われたくないわよ、とレミリアは心の底から思った。

 

「まあいいや。じゃ、お姉様がビリケツだから罰ゲームね」

「……は!? ちょっと待ちなさいなによそれ! 聞いてないわよ!?」

「しかもこんなとこでサボってるんだもん。私、そーいうのはいけないと思いますっ」

 

 私あんたらに突き落とされた被害者なんだけど、とレミリアは再び心の底から思った。

 だがそんな瑣末なことなど、この砲弾少女の前では無意味である。フランはあっという間に踵を返し、ドタドタとやかましく廊下を疾走しながら、

 

「月見ー!! つーくみーっ!! お姉様が、とぉーっても大事で大切な話があるってーっ!! 聞いてあげて――――っ!!」

「あんたさては聞いてたわねええええええええ!? 待てええええええええええッ!!」

 

 レミリアは、修羅と化した。

 きゃーきゃー逃げるフランを追って屋敷中を走り回り、途中でチルノらしき妖精をぴちゅーんと弾き飛ばし、最終的には見かねた藤千代によって共々捕縛、そのまま無様にも正座でお説教される羽目となったのだった。

 

「レミリアさーん? フランさーん? ひょっとしてお二人は遊びに来たんですかー?」

「「ごめんなさぁい!!」」

 

 来年の目標。

 最近冬眠気味になっている紅魔館当主の威厳、及び姉としての尊厳を、一刻も早く取り戻せますように。

 

 

 

 

 

 ――水月苑の茶の間を覗き込んでみると、にこにこ笑顔な藤千代の前でレミリアとフランが正座させられている。二人とも『反省中。』と書かれた紙を胸に貼りつけられ、フランが悪いお姉様が悪いとぶーぶー文句を言ってケンカしている。

 本当に夢みたい、と咲夜は噛み締めるように思うのだ。片や他者と交わらず、片や他者と交われなかった少女が、今ではこうしてみんなと一緒に大掃除を手伝って、はしゃぎすぎてお説教されて。紅魔館がほんの半年ちょっとでここまで変わってしまうなんて、去年までの咲夜は夢にも思っていなかった。

 そして、変わったのはきっと咲夜も同じだ。半年前の自分はただ事務的にメイドの仕事を繰り返すだけだった気がするけれど、今では世界のあらゆるものが色鮮やかに映っているし、毎日を生きるのがずっとずっと楽しい。

 来年は、今年よりももっと素敵な一年になると思う。

 月見という妖怪が幻想郷にいる限り、掛け値なくそう信じることができる。

 

(……本当に、ありがとうございます。月見様)

 

 藤千代に喧嘩両成敗のデコピンをもらい、まったく同じ恰好で畳を転げ回る仲良し姉妹がなんだかおかしくて、咲夜は襖の陰からくすりと笑った。

 もちろん、レミリアに気づかれて怒られた。涙目で。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 一階の方でお馴染み吸血鬼姉妹がまたドタバタとはっちゃけていたが、どうやら静かになったようだ。藤千代が気を利かせてとっ捕まえてくれたのかもしれない。元気はつらつなのは大変結構なので、せめて他の少女たちの邪魔はしないでやってほしいと月見は切に願う。

 水月苑は基本的に、一階だけで衣食住が完結する屋敷である。茶の間や水回りはもちろん、月見の寝室や書斎、客間や納戸等必要な間取りはひと通りが揃っている。すると必然、二階以上まで上がる機会というのはなかなかなく、使われるのは精々客を泊めるときか、宴会をするときか、今のように掃除をするときくらいなものだった。

 少し勿体ないよな、と思わなくもないのだ。せっかく広いスペースがあるのにほとんど誰にも使ってもらえず、ただしずしずと埃を被っていくばかりというのは。一応、温泉を開放する日は二階の大広間も休憩場所として開け放ってはいるのだが、わざわざ休んでいく客などごく少数だし。三階に至っては、恐らく今まで一度も使われたことのない部屋だってあると思われるし。

 どうせ月見一人では使い切れないのだから、いっそ使いたい人に貸してしまうのもありかもしれない――

 

「――そうか。それもいいかもな」

「んー?」

 

 二階の大広間にて、障子の枠に積もった埃を拭き取りながら月見は独りごちた。横で同じ作業をするぬえが、

 

「なんの話?」

「ここの広間と三階は、普段からあまり使ってなくてね」

「まあ、こんだけ広かったらねえ」

「それだったら、使いたい人に貸し出すのもいいかもしれないと思って」

 

 例えばこの大広間なら、どこかの楽団の小さな演奏会に使えるし、簡単な舞台を作って舞や能を披露することもできるだろう。三階の小部屋は――なにか趣味を同じくする者たちが、集会の場として使うとか。要は、外の世界でいうところの公民館のような使い方だ。

 そもそも需要があるのかもわからないので、完全な思いつきだけれど。一応、ちょっとばかし部屋代を取れば懐の足しになるかな、なんて下心もあったりする。月見の来年の目標は、霖之助の二の舞を演じないよう内職を探すことなのだから。

 ぬえは、やけに真っ当な顔をして話を聞いていた。

 

「ふーん……いいんじゃない。じゃあ私、一部屋借りよっかな」

「? なにに使うんだ?」

「住む」

 

 は、

 

「だって私、地上に出たばっかでおうちないもん。だから、ここに居候しようかなって思ってるのよね」

 

 初耳だが。

 

「……てっきり、白蓮のところに行くと思ってたけど」

「んー、でもあそこお寺じゃん? なんか私まで戒律守らされそうで嫌なのよねえ。ほら、私ってこれでも京を震え上がらせた大妖怪だし。仏様と一緒に生活ってのはどうかと思うわけ」

 

 言っていることはわかる。わかるが、

 

「それに比べるとここは温泉あるし、ふかふかのお布団あるし、こたつもあるし、面倒な戒律はないし、どう考えても私にはここの方が合ってるって思うの」

「……」

「あの人魚だってここに棲んでるんでしょ? もう一人くらい増えたって別に一緒よ」

 

 それとこれとは話が違う。わかさぎ姫が棲んでいるのは庭の池であり、月見が住んでいる屋敷とはきちんと空間が分かれている。しかしぬえがやろうとしているのは要するに月見と同居するという意味であり、どこかの押しかけ義娘に続いてまたもや一騒動起こしてくれそうな話ではないか。

 しかし当のぬえは、月見の頭痛をよそにころころと笑い、

 

「お金くらいなんとかして、お家賃はちゃんと払うからさ。よろしくねっ」

 

 いや、そういう問題ではないが。

 ふと思い出す。そういえば彼女の友人である二ッ岩マミゾウは、そう遠くないうちに幻想郷への移住を考えているのだったか。

 もしそのときマミゾウが、男の、しかも狐の家で寝泊りしている旧友の姿を目撃しようものならば――。

 

「言っとくけど、ここ以外の場所は考えてないからー」

「……気に入ってもらえてよかったよ」

「うむ。光栄に思うがよいー」

 

 ぬえの中では、どうやら居候はすでに決定事項となっているらしい。唇が『ω』になっているご機嫌な彼女を横目に見つつ、月見は内心で呻くようにため息をついた。

 来年も、それはそれは大変賑やかな一年になりそうだと思った。

 

 そんな来年に向けた水月苑の大掃除は、もう少しばかり続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第138話 「年越しは水月苑で ②」

 

 

 

 

 

 しょぼおおおおおぉぉぉん、と。

 人間ってここまであからさまに落ち込めるんだな、と霊夢はいっそ感心すらしている。タチの悪い悪霊みたいにじめじめしたしょんぼりオーラをまとって、地の底まで沈んでいくような体育座りで、今にも口から魂を吐きそうで。世界の終わりに直面した人間だってもうちょっとマシな顔をしていそうなくらい、比那名居天子はそりゃあもう落ち込みに落ち込みまくっていた。

 

「こら、いつまでうじうじしてんのよ。参加できないもんはできないんだから仕方ないでしょ」

「ぅぅ……」

 

 いつもの元気な笑顔はどこへやら、霊夢がぴしゃりと言っても蚊の鳴くような反応しか返ってこない。ほんと大丈夫かこいつ。

 所は博麗神社である。年末の大掃除で綺麗にしたばかりの納戸を早速ひっくり返し、霊夢は作り置きしていた神社の授与品を片っ端から風呂敷に詰め込む最中だった。天子は廊下で座り込んでいじいじしている。暗黒空間が壁越しにこちらまで侵食してきていて、そのうち壁が腐って崩れ落ちるんじゃないかと霊夢はやや心配になる。

 普段の天子を知る人物であれば、彼女がここまで落ち込むなんて一体何事だと驚くかもしれない。

 しかし、話は呆れるほど単純だから安心してほしい。寺子屋で楽しそうに教師をしたり、水月苑で嬉しそうに月見のお手伝いをする姿ばかり見ているとつい忘れがちだが、一応この少女、天界ではそれなりに歴史ある家柄のお嬢様だったりする。だからなのか、年末年始くらいは家にいて行事に参加しろと言われたそうなのだ。

 行事が始まるのは今日の夜から。

 すなわち水月苑で盛大に開催される予定の、年越しの宴会に参加できないということであり。

 要するに、月見と一緒に年越しできないということであり。

 そんなわけで、すべての希望が潰えたとばかりの絶望ムードになっているのだった。

 

「……ねえ、あんたほんとに大丈夫? そのうち事切れて成仏したりしない?」

「だ、だいじょうぶ。だいじょぶ、だよ、うん…………」

 

 ダメっぽいなあ、と霊夢は思う。

 

「そんなにあの人と一緒がいいか」

「……ひゅえっ!?」

 

 しょんぼりオーラが吹っ飛んだ。壁の向こう側で、天子の顔が一瞬で沸騰したのが手に取るようにわかった。

 

「い、いいいっいやあのあの、別に月見と一緒にいたかったとかじゃなくて、霊夢とか魔理沙とかみんなで年越しできないのがちょっと寂しいなあってそういう意味で」

「あら、別に月見さんとは一言も言ってないけど」

「……………………ぬわぁ」

 

 静かになった。すぐ自爆するのはあいかわらずねーと生暖かく吐息し、霊夢は作業を再開する。

 なにをしているかといえば、博麗神社のありがたい授与品を水月苑まで押しつけ、ゲフン、授けに行こうというのだ。守矢神社が月見に授与品を売りつけ、あまつさえ「月見さんも買った!」という文句で里でも売り捌こうとしているらしいとの情報を得たのである。

 おのれ守矢神社、月見をダシに使うとは卑劣な連中め。

 つい先日になって里に『命蓮寺』なる寺ができ、人々の信仰を瞬く間に獲得してしまったのもある。このまま例年通りのんびりと構えていては、恐らく守矢神社にも命蓮寺にも出し抜かれてしまう。よって今すぐ霊夢も月見を利用、ゲフンゲフン、月見に協力してもらって、積極的なアピールを展開していかなければならないのだ。

 

「はーあ。月見さん、いっそウチの神社の神使になってくれないかしら。そうすれば信仰も鰻登りなのに……」

 

 ううん、と首をひねる。しかし、月見がどこの神使になろうがお稲荷様として信仰されるのは変わらないわけで、結局得をするのは宇迦之御魂神になる気がする。ではそれで集まった信仰を、手数料としてある程度博麗神社に横流ししてもらうのはどうか。お稲荷様は日本中で盛んな信仰なんだし、ほんのちょっとくらいであれば大して変わらないだろうから別に

 

「霊夢……冗談抜きでバチ当たるよそれ」

 

 ということを独り言でぶつぶつ言っていたら、戸の横から天子が顔を出して睨んできた。

 

「日本の信仰でも五本指に入るような神様相手に、よくそんなことしようと思うよね……」

「月見さんに交渉してもらえばいいんじゃないかしら。ほら、古馴染だって言ってたし」

「信仰は自分の力で集めないとダメでしょーっ、もう!」

 

 そんなのは霊夢も心得ている。が、今や幻想郷では命蓮寺含め四つの信仰が激しく渦を巻いており、商売敵すらほとんどいなかった昔とはもう状況が違うのだ。これからは幻想郷の変化に柔軟な適応を行い、利用できるものを貪欲に利用し、あらゆる方向から信仰獲得へアプローチする姿勢が求められてくるだろう。

 

「……」

 

 ――変化、か。

 授与品の支度を終え、霊夢は風呂敷の口を縛った。

 

「なんか、今年は本当にいろんなことがあったわよねえ」

 

 より正確には、春に月見がやってきてから、である。大きなところでは夏に天子の異変があり、ついこのあいだには地底の異変があった。それ以外にも、小さいながら記憶に残る出来事が今年は本当に多かったと思う。

 そしてその出来事のほとんどで、だいたいぜんぶ月見が絡んでいるのだ。天子も頬を緩め、

 

「……そうだね。私にとっても、今までの人生で一番大切な一年だった気がする」

「月見さんと出会えたものね」

「…………い、いや、別にそれだけじゃなくて、他にもいろいろよかったことがあってえっ」

「でも、順番つけるとしたらそれが一番でしょ?」

「う、うー……」

 

 恨みがましい上目遣いでしおしおと縮こまっていく。別に恥ずかしがることではないと思うけれど。良きにつけ悪きにつけ、霊夢にとっても月見との出会いが一番大きかった気がするし。

 

「来年は、あんたももう少し押しが強くなれるといいわねえ。たぶん月見さんは、紫とか輝夜くらいぐいぐい行かないとビクともしないわよ」

「だ、だーかーらぁー!」

「さーて準備もできたし行きましょっか。あんたは宴会に参加できないんだし、今のうちにべたべたしときなさいよー」

「もおおおおおっ!!」

 

 飛びかかってきた天子をスウェーでかわし、霊夢は水月苑めがけて廊下を逃走する。天子が真っ赤になって追いかけてくる。今日も今日とて参拝客がいない博麗神社で、ドタバタと賑やかな喧騒が駆け巡っていく。風呂敷片手なので玄関前であっさり追いつかれるが、そのときにはどちらにも心からの笑顔がある。

 月見がいなければ、この日常はきっとなくなってしまっていたのだと思う。あの狐は今や霊夢の商売敵だし、異変絡みで散々面倒な目に遭わされもしたけれど。

 しかしまあ、それを鑑みても、感謝してあげるのは吝かではなかった。

 

 博麗霊夢は今、人生が割と楽しい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ねえ、椛。椛ってさ、文と月見さんのことどう思う?」

「え?」

 

 正月飾りの材料を求めて山のあちこちを飛び回る中、椛ははたてから突然そう尋ねられた。不意打ちだったせいで質問の意図が読めず、首を傾げて問い返す。

 

「……ええと、どう、と言いますと?」

「んー……文と月見さんって、実際どういう関係なのかなあって」

 

 まだよくわからない。

 とりあえず、椛の認識をそのまま正直に答えてみる。

 

「今は、普通のご友人のように見えますけど」

「あれが普通なものか」

 

 恐らく、椛がこう答えるのをはじめから予測していたのだろう。はたては途端に前のめりになって、

 

「ただの友人相手に、あんな大真面目になって材料集めなんて普通する?」

 

 はたてがこっそりと指差した先――椛たちの会話が辛うじて届かない程度の場所で、文がとてつもなく難しい顔で松の枝を吟味している。『文々。新聞』の〆切間近になっても原稿が難産から抜け出せないときのような、そんな顔だった。水月苑の正月飾りに使う松の採取は、椛の想定を遥かに超えて難航していた。

 深刻な問題が発生したわけではない。

 文がなかなか納得しないのだ。椛もはたてもそのへんに生えている松を取ればよいのだと思っていたのだが、文がやれ「枝の形が悪い」、やれ「葉の色が悪い」と妙な審美眼を発揮し始め、結果山中のあちらこちらを探し回っている有様だった。たぶん、あの松が百本目くらいだと思う。

 元々文には、一家言持ちの分野ではいわゆる我の強さというか、職人気質を垣間見せる一面がある――とは、いえ。

 

「確かに、だいぶこだわってますよねえ」

「いや、『だいぶ』どころじゃないでしょ。私にはぜんぶ同じ松にしか見えないわ」

 

 正直、椛もあまりよくわかっていない。

 

「わかる人にはわかる違いってやつなんですかね」

「でも、文にそういう趣味なんてあったっけ? 私は聞いたこともないけど……」

「私もないですけど、天狗の中でも結構古株ですから、意外といろんな教養があったりするんですよ」

 

 或いは新聞記者として、こういう風習についてはどこかの古道具屋にも負けない薀蓄を持っているとか。

 はたては眉間の皺を解かない。

 

「もしそうだとしても、人の家の正月飾りにそこまでこだわるかなあ……やっぱ文って、なんだかんだで月見さんと相当仲いいと思うのよね」

 

 それは、白狼天狗の間でも時折話題になることだった。文が月見と仲直りして以来、いかにも当たり障りのない知人らしく付き合っているように見えるけれど、本当にそれだけの間柄なのか?――と。

 つまり、ただの知人で済ますには疑わしい行動がいくつかあるのだ。このところ文は記者活動にますますの精を出しており、そのきっかけが月見に新聞を購読してもらえたことだったとか。新聞の感想や改善点を求め、水月苑で夜更けまで話し込んでいるとか。いま椛たちの目の前で、正月飾りの材料をやたらこだわり抜いて集めているのだってそうだろう。

 そもそも『水月苑』からして、彼女が何度も書き直しながら至って真剣に考えた名前なのだ。椛もまあ、まったく気になっていないかといえば嘘になる。

 

「でも、そっとしておいた方がいいですよ。あんまり踏み込むと天魔様みたいな目に遭いますから」

 

 触らぬ神に祟りなし――操がしょーもない策を弄して文を地底まで連れて行こうとしたばかりに、一体どれほどの災難が降りかかったことか。あれを繰り返すくらいなら、椛は満場一致でなにも言わず見守る方を選ぶ。

 しかしはたては食い下がる。

 

「そう、それもおかしいと思うのよ。普通の知人友人だっていうなら、堂々とそうしてればいいじゃない。いちいち怒ったりするのが余計怪しいわ」

「いや、そうやってみんなして勘繰るからウザったく思われてるんじゃ」

「――ええ、そうよ」

 

 うぴ、とはたてが変な声を出した。

 いつの間にか松の枝を花束のように取り終えた文が、はたてのすぐ真後ろに立っていた。はたての顔中に玉の汗が浮かび、

 

「あ、あー、文? お気に召すのは見つかった?」

「ええ、この通り」

「そ、そう。じゃあ次行きましょ、他にも集めないとなんないのはいっぱいあるしー」

 

 逃げようとしたはたての肩に文の手が伸び、みしりと食い込む。はたてが泣きそうな顔をする。

 

「それより今の話、詳しく教えてくれない? 私とあいつの関係がなんだって?」

「い、いや、その」

 

 この人だんだん天魔様に似てきたよな、と今のはたてを見ていると思わないこともない。つついたところで出てくるのは獰猛な大蛇だけだとわかっているはずなのに、それでもつついて結局涙目になっているところなんてまさにそうだ。どうして鴉天狗ってこうなんだろう。比較的まともで仕事真面目な白狼天狗を見習ってほしい。

 

「前々からはっきりさせようとは思ってたのよね。あんた、私とあいつをどう勘繰ってるのかしら」

「……、」

 

 はたては顔中を皺くちゃにしながらひとしきり恐怖と葛藤で震え、やがて力強く開眼すると覚悟を決めたように、

 

「――ねえ、文。月見さんの周りってかわいい女がたくさんいるしさ、もっと日頃から積極的にアビュ」

 

 文が松の束の先端――すなわち葉がチクチクしてとても痛い部分――をはたての顔面に突き刺した。

 はたてが悲鳴も上げられず地面をのた打ち回る頃には、文の標的は椛に移っている。

 

「あんたは、まさかはたてと同じこと言わないわよねえ……?」

「も、もちろんです。私を一緒にしないでください」

 

 殺気が嘘のように霧散し、

 

「そう、ならいいわ」

「あはは……大変ですね、文さん」

「まったくよ。はあ、疲れる……」

 

 鬱々とため息をつく文への同情と、殺気から解放された反動によるちょっとした油断だったのだと思う。あくまでささやかなフォローをするつもりで、椛もまた、つつく必要のない藪をつついてしまった。

 

「私はちゃんとわかってますから。文さんが月見様のことを、友人としてとても大切に想っ――いたたたたた!? な、なんでですかー!?」

「もう放っておいてってばああああああああっ!!」

 

 松の束で椛の頭をべしべし叩く文は、ちょっぴりだけ涙目だった。

 結局、それでせっかく取った松がみんなダメになってしまい、また山中をあっちこっちへ飛び回る羽目となるわけで。

 ヘソを曲げた文にはたて共々こき使われながら、もうほんとにそっとしといてあげよう、と椛はしんみり心に誓うのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「おー、やってるやってるー」

 

 志弦がちょっとした野暮用ついでに立ち寄ってみると、命蓮寺の工事は想像以上の順風満帆で進められているようだった。日曜大工なんてやったこともない小娘の目線では、整然と組み上げられた足場の内側で、庫裏らしき建物がもう概ねできあがっているのではないかと思える。塀は骨組みだけならすでに境内を一周しており、さながら絵の具を使うような速さで土壁が塗られていっている。その他規模の小さい足場が二ヶ所組まれているのは、手水舎と鐘楼を造るためなのだろうか。

 早苗から話には聞いていたが、やはり妖怪は土木工事の技術にも秀でているのだ。あの水月苑ですら一日で造られた代物だというのだから、まさしく人外ってやつだよなあと志弦は改めて舌を巻く。

 人間妖怪問わず幻想郷中の話題を掻っ攫う、時の人ならぬ時の場所である。

 そりゃあ、ある日突然幻想郷にやってきた謎めく尼さんが、空飛ぶ船を仏パワーでお寺に変形させてしまったのだからそうもなろう。しかもその尼さんは見目麗しい聖母の化身が如き御方であり、更には門下の妖怪たちまで美少女揃いとまさしく破格の戦力を誇っている。お陰で信心深い里人たちも、美人に弱い山の男衆もがっちりハートを鷲掴みにされ、幻想郷の信仰勢力図が目覚ましい速度で書き換わっていっているのだ。

 目の前でやる気満々仕事に勤しんでいるのも、そんな山の男妖怪たちだった。

 

「おう、志弦ちゃんじゃねえか」

「おつかれっすー」

 

 棟梁と思しき壮年の天狗に挨拶をする。中心から離れているとはいえここは里の中なので、翼は隠して人間のふりをしている。神社で何度か見たことのある顔だが、名前は知らない相手だった。

 

「もうかなり進んでるっぽいねー。さっすがぁ」

「いやあ、こんなのはまだ外側だけよ。本腰入れなきゃなんねえのはこれからさ。地底から鬼のやつら(ほんしょく)が来てくれりゃあ、今日一日でも終わるんだろうけどなあ」

「確か、それで水月苑は一日で造ったんだよね」

「ああ、まあ、人手もこれより何倍も多かったしな。……しかし白蓮様のため、なにがなんでも明日で完成させてみせるぜ。宴会もあるしなー」

「そだねー」

 

 と他愛もない話題でダベりつつ、志弦は未完成の塀で囲まれた境内を見回す。白蓮たちの姿がどこにも見えない。

 

「あれ、みんなは?」

「里の方に行ってるはずだぜ。たぶん、道具とかいろいろ買い出ししてんじゃねえかな」

「そっか」

「捜してたのかい?」

「んにゃ。なにしてるかなーって思ってちょっと寄ってみただけだから、大丈夫さ」

 

 みんなで買い出しに行くということは、もうすっかり里の一員として受け入れてもらえたのだろう。よかったよかった、と志弦はうむうむ頷く。

 

「ところで、志弦ちゃんよ」

「んー?」

「まあ、なんだ。こいつぁ、あくまで俺の所感ってやつなんだが……」

 

 棟梁がやにわに畏まった顔つきをして、腕組みしながらまじまじと志弦を見据えた。志弦は本日も、いつも通り守矢カラーの巫女服を着用している。着心地にはもうすっかり慣れたし、いちいち着る物に悩まなくて楽だからというズボラな理由で、神社の中でも外でもこの恰好で過ごしてばかりな志弦である。

 今は冬の真っ只中なので下に充分重ね着しているし、マフラーを巻いて手袋だってつけて完全防備している。が、幻想郷では特別奇抜な恰好というわけでもない。疑問符を浮かべながら棟梁の言葉を待っていると、

 

「なんか、雰囲気がちっとばかし変わった気がしてな。大人っぽくなった……ってのは違うか。なんてーか、肝が据わった感じっつーか……」

「……そかな」

 

 自分では、今まで通りに振る舞っているつもりだけれど。

 もしかすると、あの夢が影響してるのかもな、と思う。あれは志弦にとって単なる『記憶』である以上に、紛れもなく立派な『経験』でもあったから。大雑把に言ってしまえば今の志弦は、自分含め三人分の人生を積み重ねてきたようなものだった。

 

「正直、『志弦ちゃん』って呼んでるのも違和感があるくらいでよ」

「あー、それ私が今までより老けて見えるってことかー?」

「い、いやいやとんでもねえ。いい意味でだよ、いい意味」

「ウチから白蓮のトコに鞍替えしたやつの言うことを信じろと申すか」

「……守矢神社もちゃんと信仰するんで勘弁してくだせえ」

 

 これがおっぱいの力か、と思わなくもない。白蓮、めっちゃたゆんたゆんだしなあ。なに食ったらあんな大変なことになっちゃうんだろ。

 

「……あれ、志弦さん?」

 

 と噂をすれば、振り返ると白蓮たちが戻ってきたようだった。買い出しへ行ってきたという割にみな手荷物は少なく、女性陣は布を被せてこんもり山型になった竹ざるを抱え、雲山はなぜか鍋を持っている。蓋の隙間から、ほんのりと立ち上がる温かそうな湯気が見える。

 志弦は片手を上げ、

 

「や。どうしてるかなーって思って寄ってたんだけど……なにそれ?」

「あ、これですか? なにからなにまで手伝ってもらっちゃって、申し訳なかったので……」

 

 白蓮が竹ざるの布を取り払うと、その下から現れたのは、

 

「里で台所を借りて、みんなでおむすびとお味噌汁を作ってきたんです」

 

 足場の上で作業していた男たちがべしゃべしゃ地面に落ちた。

 

「へ!? あああっあの、大丈夫ですか!?」

「お、おむすび……? 味噌汁…………?」

 

 うわ言のようにつぶやき、地面にぶっ倒れてゾンビみたいにぴくぴくしている。棟梁も、痙攣する片膝をついて息も絶え絶えになっている。

 

「あ、あっしらの聞き間違いじゃなければ……白蓮様たちの手作りと、聞こえましたが」

「え、は、はい、そうですけど」

「ゴハアッ!!」

「ひいっ!?」

 

 棟梁が喀血する。咄嗟に口を押さえたが止めきれず、指の隙間から飛び散った鮮血が地面に赤い染みを作る。

 これには白蓮だけでなく星も慌てふためき、

 

「なななっナズ大変ですっ、血が! 血がっ!」

「し、しっかりしてくださいっ! 大丈夫ですか!?」

 

 さてどのあたりで止めようかな、と志弦は冷静に思案した。幻想郷にやってきたばかりの白蓮と星は、山の男妖怪が得てしてどういう連中なのかまだわかっていないのだ。一昨日の歓迎会で大騒ぎだったのも、酒でみんな酔っていたからだと信じて疑っていないに違いない。

 そしてわたわたする二人の横で、ナズーリン、一輪、水蜜の三名はすっかり凍てついた半目になっている。彼女らは理解しているのだ――お人好しで騙されやすい主人を悪い虫から守れるのは、自分たち以外にいないのだと。

 白蓮が背をさすろうとする前に、棟梁は根性で立ち上がった。

 

「お、お気遣いなく。ご心配には及びやせん」

「で、ですけど」

「これ以上貴女様のお優しさに触れたら、さすがに身が持たないってもんで」

「は、はあ……?」

 

 後ろの方では地面に落ちた天狗と河童が、「お前らしっかりしろっ……! 女の子の手作りおむすびを食う前に死んでいいのか……!」「夢にまで見たエルドラドが目に前にあるぞ……!」と互いを激励し合っている。ナズーリンたちはもう氷点下になっている。

 説明してあげることにした。

 

「白蓮、白蓮。みんな、白蓮たちの手作りご飯に感極まってるんだよ」

「は?」

「なかなか食えるもんじゃないからねえ」

 

 宴会で出てくる料理なんかとはワケが違う。このおむすびとお味噌汁は、白蓮たちが他でもない彼らのことを想って作った、彼らのためだけのご飯なのだ。力仕事を快く引き受けてくれたことへの感謝と、その労をちょっとでも労ってあげたいという優しさがこれでもかと詰め込まれている。つまりはこの世界、この場所で、彼らだけに許された唯一無二のご飯であり、しかも白蓮たちのような美少女が作ってくれたとなれば、その価値はもはや金塊を積んだところで到底及ばない。

 と、彼らは考えているのだろう。星がたっぷりと五秒考え、

 

「……えっと、あの。よ、要するに、ご迷惑だったわけじゃないんですよねっ」

「も、もちろんです。紛らわしくてすいやせん、何分こういうのは慣れていないもんで」

 

 白蓮がほっと胸を撫で下ろし、

 

「ちょっとでもお礼になれば、私も嬉しいです……」

「うう、白蓮様が尊くて辛い……」

「……えーと、よくわかりませんけど、皆さんどうぞ召し上がってください。冷めてしまう前に」

「「「いただきますゥッ!!」」」

 

 ゾンビが一斉に生まれ変わった。みんな行儀よく二列に並び、きらきらした少年みたいな目でおむすびと味噌汁を受け取ると、庫裏の周りに組んだ足場、または積み重ねられた木材の上、或いは手近な木の太い枝と、各々が好き勝手な場所を腰掛け代わりして、

 

「うう、うめえ……うめえよお……」

「これが……女の子の手作りおむすびの味……!」

「あれ、おかしいな……へへ、なんで俺泣いてんだろ……っ」

「俺、命蓮寺信仰する」

 

 おむすびにかぶりついては涙を流し、味噌汁を掻きこんでは嗚咽をこぼすという、この世で最もしょーもない男泣きの食事風景が広がるのだった。

 

「お口に合いますか?」

「「「最高でえええっす!!」」」

「ふふ、よかったです。まだどっちも余ってますので、足りない方は仰ってくださいね」

「「「はあああああい!!」」」

 

 男衆の野太い大合唱にも顔色ひとつ変えず、白蓮はのほほんと楽しそうにしている。きっと、こうして妖怪たちの役に立てるのが嬉しくて仕方ないのだろう。白蓮はほんと優しいなあと志弦はうんうん頷き、それから大真面目になってナズーリンへ耳打ちした。

 

「ねえ、ナズちゅー。白蓮ってさ、絶対男の人から勘違いされるタイプでしょ」

「……そうだね。なにも言い返せない」

 

 老若男女問わず――つまり年頃の男であっても迂闊なほど優しくしてしまう性格故に、「もしかしてこの人、俺に気があるんじゃね?」と儚い幻想を抱かせてしまう罪な女に違いなかった。ナズーリンは複雑そうに、

 

「昔――封印される前から聖はこんな調子でね。お陰で、聖をそういう(・・・・)意味で慕う男も少なからずいた。まあ戒律に縛られる尼僧だから、具体的な行動に出る輩こそいなかったんだが」

「勘違いするなって方が無理だよねえ……ちょー綺麗だし、スタイルいいし」

 

 たゆんだし。

 

「加えて言えば、ご主人にも多少この傾向がある。聖ほど無警戒ではないけど」

「あー、うん」

 

 星は白蓮と二人して、おかわりを求める男衆におむすびを配って回っている。一人ひとり笑顔で丁寧に手渡ししていくあたり、彼らにとってはもはや一種の凶器だった。何人か、おかわりを受け取ったまま笑顔で燃え尽きているやつもいた。

 

「この調子だと、明日も嬉々としておむすびを作るだろうね……。上手くやっていけそうなのは結構だが、先行きがいかんせん不安だよ」

 

 ナズーリンは吐息、

 

「そういうわけでムラサ、一輪。君たちが頼みの綱だ。くれぐれもよろしく頼むよ」

「わかってるよ。聖を守るのが私の役目だもん」

「姐さんに色目使う男なんて、門前払いにしてやるわ」

 

 この二人ならがボディーガードなら安心かなーと志弦は思う。神古しづくの記憶を継いだ志弦は、水蜜と一輪がどれほど強力な妖怪かを身を以て知っている。雲山はあいかわらず厳つい顔のまま無言だったが、「儂の目に適わん軟弱者など断じて認めん」と不動の構えであるように見えた。

 と、今しがたおかわりを手渡しされた天狗が迂闊にも、

 

「ところで白蓮様は、将来的にご結婚などどのように考えてらっしゃるので?」

「へ?」

「特にご予定がなければどうです、あっしとまずはお友達から」

「あ、ならわたくしめはぜひ星様と」

「はーいじゃあ早速行ってきますねー」

「雲山、GO」

 

 途端に巨大な錨を担いだ物騒な船幽霊と、拳をバキバキ鳴らす入道オヤジが血も涙もなく出撃していく。その頼もしすぎる後ろ姿を見送りながら、志弦は唇を引いて笑みを作った。

 

「いやあ、こりゃますます賑やかになりそうだねー」

「こういうのは、月見の周りだけで充分なんだがね……」

 

 この調子ならきっとすぐに、まるで何年も昔から幻想郷の一員だったように馴染んでいけるだろう。なんだったら、『天子ちゃんマジ天使!クラブ』に続くファンクラブだって結成される可能性がある。このお寺を橋渡しにして、妖怪と里人の交流だって少しずつ始まっていくかもしれない。

 ずっと、ずっと、白蓮が願い続けてきたように。

 改めて、肩の力を抜ける気がした。

 

(どーやら心配は要らなそうだぜー、ばっちゃん)

 

 これから一層賑やかさを増すであろう幻想郷の日々が、今まで以上に楽しみだったので。男衆の野太い悲鳴を適度に聞き流しつつ、志弦は天に向かって晴れやかな伸びをした。

 その先から、きっとばっちゃんも見ているのだろうと、思いながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無論、輝夜と妹紅が土だらけになって帰ってきたり、椛とはたてがボロボロの涙目で戻ってきたり、霊夢が博麗神社の授与品を押しつけに来て早苗とケンカしたりなどほんの序の口で、その後も水月苑ではなにかと賑やかな騒動が絶えなかった。

 月見が把握しているだけでも、弾幕ごっこが始まること二回、藤千代が『反省中。』の紙を張りつけ説教すること三回、えいやっとおしおきすること四回、フラワーマスターの必殺ビームが飛ぶこと二回、撲殺妖精大ちゃんが降臨すること一回、わかさぎ姫がぐるぐるおめめで池を漂うこと一回、妖精たちがピチューンと消し飛ぶこと十あまり。お前たちはどうしてそうも元気に跳ね回れるのかと、全員一列に並べて問い詰めたくなってくる一日だった。

 水月苑の納戸は、どちらかといえば『蔵』という文字を使う方が適切かもしれない。屋敷の裏手が一部出っ張る形で造られていて、ここだけで充分寝泊りができるほどの広さと、二階からも出入りができるだけの高さを兼ね備えている。もっとも使い始めてたった半年少々の収納は、まだまだ半分以上が手持ち無沙汰だ。そんながらんどうなくらいの納戸なので、掃除も藤千代と操を入れた三人だけで進めていた。

 じきに太陽が、小晦日の仕事を(つつが)なく終えようとする頃合い。なんだかんだで、この大掃除にもゴールが見え始めてきていた。

 

「月見くーん、これはどこに置きますかー?」

「これは……たまに使うやつだから、なるべく手前の棚に」

「はーい」

 

 中の掃除を手早く終え、外に待避させていた荷物をひとつひとつ確認しながら戻していく。鬼子母神の面目躍如であり、上半身がすっぽり隠れるくらいのダンボールを、彼女はまるで中身が入っていないように次から次へと運んでいく。操がひとつ運ぶ間に三つは片付ける勢いだった。月見など完全に出る幕もなく、もはや外から収納場所を指示するだけの存在と化している。

 掃除をしているのか遊んでいるのか、屋敷の方から少女たちの歓声が聞こえてくる。藍と咲夜とミスティアが、労いの夕食を支度してくれているかぐわしい香り。つまみ食いに行こうとする幽々子を、妖夢が必死に叫んで引き止めている。

 笑みがこぼれた。

 

「……本当に、ありがたいことだね」

「んー? なにがじゃー?」

「こうやって、なにからなにまで手伝ってもらえることがだよ」

 

 戻ってきた操に軽めのダンボールを選んで渡し、置き場所を指示する。次いで藤千代には重めの物を。

 

「普通、人の家の大掃除を一日中手伝ったりなんてしないだろう。なんの礼もできないのに」

「月見くんのためなら、地の果てからでも駆けつけますとも!」

 

 藤千代にせよ操にせよ気心の知れた付き合いだし、こういうときは持ちつ持たれつな関係なのだと理解している。だが、それは一部の古馴染だけだ。

 今日集まってくれた少女の中には、月見が幻想郷に戻ってきてから知り合った相手も多い。つまりはまだ半年程度の付き合いということであり、とりわけ草の根妖怪ネットワークの三人組などは、ほとんど知り合ったばかりといっても過言ではない。

 それなのに彼女たちは、みんなが自分のことのように快く月見を助けてくれる。

 納戸の中から操が答える。

 

「それだけ、みんなお前さんに感謝しとるってことじゃよ」

「それだけのことを、私はお前たちにできているのかい?」

「そりゃあもう」

 

 当然とばかりに即答されたが、心当たりはほとんどなかった。それこそ草の根妖怪ネットワークなんて、日頃から水月苑で駄弁(だべ)っているだけではないかと思う。

 

「まーお前さんが儂らにしてくれとるのは、あんまし目に見えるもんじゃないからのー」

「月見くんにとっては、ごくごく当たり前のことでしょうしねー」

 

 二人が納戸から一緒に出てきて、目を弓に細めた。

 

「月見くんはこの水月苑で、天気がいい日も悪い日も、いつでも私たちをお迎えしてくれます。笑顔で『いらっしゃい』と言ってくれます。お茶を淹れてくれます。お菓子を出してくれます。温泉に入らせてくれます。話し相手になってくれます。……それが、月見くんが私たちにしてくれている一番のことなんですよ」

 

 藤千代にまんまと見透かされた形となるが、そんなの当たり前のことだろう、と月見は思った。だって、月見はこの屋敷の主人で、彼女たちはお客さんなのだから。そんなものは、ありがたがられるうちにも入らないのではないかと。

 操が代わる。

 

「元々根無し草のお前さんからすれば、よくわからんじゃろうけど。気分転換したいとき、疲れたとき、嬉しいことがあったとき、ちょっと嫌なことがあったとき、なんとなく人恋しいとき。いつでも軽い気持ちで行ける場所があって、誰でも快く迎えてもらえる空気があって、なんでもどんと受け入れてくれる人がいるってのは、ありがたいことだと思うんじゃよ」

「……」

「月見くんがいなかった間、幻想郷にそんな場所はありませんでした。みんなありのままで、なにも着飾る必要なんてなくて、水月苑に来れば私たちはただの女。ただの女であることを肯定してもらえるんです」

「女ってーのは、とにかく肯定してもらいたい生き物じゃからねー」

 

 ――それが、この水月苑だと。

 

「月見くんが月見くんであるだけで、この場所がこの場所であるだけで、私たちはいつも支えてもらってるんです。元気をもらってるんです。ですから、これくらいのお手伝いはぜんぜんなんてことないんですよ」

「そーそー。まあこういうとこまで考えとるのは儂らくらいじゃろうけど、みんなも漠然とは感じとるはずじゃよ。お前さんも水月苑も、儂らにとってはすごぉっく大切なもんなのさ」

「……そんなもんかね」

 

 当たり障りのない返事をしながら月見は、本当にありがたいことだと、もう一度染みゆくような心地で感じていた。まったく、ありのままを肯定してくれているのはどっちの方だと思う。支えてくれているのはどっちの方だと思う。こんな形で感謝を示されるまでもなく、月見はたくさんのものを彼女たちからもらっているのだ。

 

「ありがとう」

 

 微笑み、

 

「お前たちのお陰で、退屈しない一年だったよ」

 

 むしろ賑やかすぎて、一人でひっそりと過ごす時間を模索する必要まであるくらいだった。お陰様で来年も、これからも、変わらない日々が続いていくのだろうと、掛け値なく信じることができたので。

 

「来年もよろしくね」

「はい」

「うむ」

 

 返ってくるのは月見と同じ、心からの言葉だった、

 

「来年も、素敵な一年にしましょうね」

「未来永劫退屈なんてさせんから、覚悟するんじゃよ」

 

 ――月見が幻想郷に戻ってきて、最初の一年がもうすぐ終わる。

 しかし、だからといってなにかが変わるわけでもない。あいかわらず朝には日が昇るし、夜には月が天へ架かるし、少女たちは元気いっぱい暴れ回るし、ここにはいつでも誰かの笑顔がある。

 太陽が今年最後の役目を終えて尾根に消えたとしても、水月苑はまだまだ眠らない。

 

「――宴会じゃああああああああああ!!」

「「「いえ――――――――――!!」」」

 

 そんなわけで遂に来る大晦日、年越しのスーパー大宴会が幕を開けるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第139話 「年越しは水月苑で ③」

 

 

 

 

 

 今年という一年も、あと六時間そこらで終わりを迎えようとしている。

 あっという間だった気もするし、そんな一言で済ますのが勿体ないくらい濃密な毎日だったとも月見は思う。或いはあとほんの数時間で終わってしまうのが惜しいと感じ、また一方では、来年からの新しい日々が楽しみだとも思える。ただひとつだけ間違いなくいえるのは、今年一年をしみじみと振り返る空気などこの水月苑には存在せず、少女たちは今宵も元気に満ち満ちているということだった。

 

「――妖夢ーっ、おかわり!」

「ちょ、またですか!? さっきおかわりしたばっかりじゃないですか! ちゃんと味わって食べてくださいよっ!」

 

 年越しのスーパー大宴会が始まってから、そろそろ一時間ほどの頃合いだろうか。幽々子が二回目のおかわりを所望している声を聞きながら、月見は残り少なくなった自分の膳に最後の舌鼓を打っていた。

 季節野菜と大和芋、そして冬筍を色とりどりにあしらった前菜から始まり、鮪、鯛、甘海老の刺身、飛龍頭と鯛の子と(フキ)の煮物、山菜天麩羅、桜煮、酒蒸しに八目鰻のひつまぶしとエトセトラ。ひとつひとつ書きあげていたらキリがない豪華絢爛の会席料理は、藍や咲夜たち料理自慢の叡智と技術の結晶であり、乾杯をしてから最初のうちは誰もが会話よりも食事に没頭していたほどだった。

 しかしそれも、次第に腹が満たされ酒も入れば過去の話。見回せばすでに箸を置いている少女も多く、手よりも口を賑やかに動かすいつも通りの宴会が花開きつつある。気が短い者はそろそろ盃や猪口を片手に席を立ち、あちこちで好き勝手な相手と好き勝手に深酒を始めるだろう。

 月見も箸を置き、胸の前で両手を合わせた。

 

「……ごちそうさま。一年の締めにふさわしい料理だったよ、藍」

「ありがとうございます。腕によりをかけた甲斐がありました」

 

 隣の藍が涼しげな笑みで答えると、背中の九尾がもっふもっふと感情豊かに波打った。

 人間妖怪入り混じった数多の客で賑わう水月苑大広間、その最南にして最奥、上座付近の席に月見はいた。そんじょそこらの妖怪とは一線を画す幻想郷の実力者、ないしは権力者が集まって最も賑やかなエリアである。月見の左には月の姫君である輝夜、右には金毛九尾の藍、向かいには鬼子母神の藤千代と天魔の操が座っており、少し離れれば吸血鬼のスカーレット姉妹、フラワーマスターの異名を取る幽香、冥界の最高責任者である幽々子、鬼の四天王に数えられる萃香と勇儀、神話にその名を刻んだ諏訪子と神奈子など、気の弱い妖怪が放り込まれたら泡を吹いて失神しかねないそうそうたる面子が一堂に会している。もしもなにかの手違いが起これば、水月苑どころかあたり一帯がたちどころに焦土と化すだろう。

 月見が盃を手に取ると、すかさず藍が徳利を構えた。せっかくの宴会なのだから掛け構いなくしてくれてよいのに、藍はこれこそ己の存在意義と言わんばかりの目をしている。

 

「今年は、お前には本当に助けられてばかりだったねえ……」

「いえ、むしろ私の方がお手伝いさせてほしいくらいで」

「いま、ちゃっかりここで寝泊りしてますもんねー。紫さんほったらかしで」

 

 藤千代からジト目を向けられ、藍は危うく酒をこぼすところだった。

 

「ま、まあ、今は紫様が冬眠中で向こうの家事をする必要がないから」

 

 長年紫の式神として尽くしている影響で、どんなことでもいいから毎日働かなければ満足できない体質になってしまっているのだ。こんなときくらいゆっくり休んでいいんだよと言葉を掛けたい――が、悲しいかな、現在進行形で彼女に生活を支えられている月見が言えた義理ではないのだった。

 では来年からは藍に面倒を掛けないよう努力すべきかといえば、これが一概にもそうとは言えない。月見が水月苑の家事をなるべく一人で済まそうとすると、決まって少女たちからブーイングが飛んでくるのは知っている。彼女たちが水月苑の手伝いに一定以上の意義を見いだし、自ら望んで縁の下を支えてくれているのも理解している。みんなの厚意に甘えるような言い方かもしれないけれど、恐らくはそれ自体が水月苑におけるひとつの交流として成立しているのだ。

 月見が月見であるだけで、この場所がこの場所であるだけで、私たちはいつも支えられていると――藤千代と操から贈られたばかりの言葉が、ふと脳裏に甦った。

 

「うん……不甲斐ない狐だけど、来年もどうかよろしく頼むよ」

「そんな。こちらこそよろしくお願いいたします」

「はいはいはいはい! ギン、私も手伝うわよ!」

「お前は座っててくれ」

「なんでよぉ!?」

 

 左隣から挙手とともに割り込んできた輝夜をそっと押し戻す。もうひとつ隣に座る妹紅がこれみよがしに肩を竦めて、

 

「あんた、今回の大掃除でどんだけやらかしたかわかってんの?」

「ぐっ……そ、それはあ! ちょっと調子が悪かっただけで……!」

 

 竹取りに行って泥だらけで帰ってきただけではない。あのあと輝夜は周囲の制止を振り切って大掃除に参加し、ほうきを持っては壁を凹ませ、雑巾掛けをしては障子を突き破り、風呂掃除に挑んでは背中からすっ転んで、せめて庭の落ち葉集めだけでもと思えば池に落ちるなどしていた。世の中には「右に出る者がいない」という表現があるけれど、彼女の場合家事ではまさしく右に出る者しかいない、一周回って天賦の才ともいえるぶきっちょお姫様なのだった。

 

「あんたは遺伝子レベルで、毎日ごろごろ暮らすために生まれてきたようなやつなんだから。身の程弁えて縁側で大人しくひなたぼっこしてればいいのよ」

「ひどい! 妹紅のゲス! 藤原妹ゲス!!」

「藤原妹ゲス!? い、言ってくれたな蓬莱山ダメ夜あああああっ!!」

 

 今宵も始まりました。

 本当にこの二人は、ちょっとした隙さえあればレミリアとフランよりあっという間にケンカを始める。二人の向かい側の席で、永琳が静かに嘆息しながら食事の手を止めた。隣の鈴仙も苦笑いを浮かべる。

 

「まったく、あいかわらずなんだから……」

「あはは……いやー、昔から仲直りしてほしいとは思ってましたけど、まさかここまで仲良くなっちゃうなんて予想外でしたよー」

「「仲良くないっ!!」」

「めちゃくちゃ息ぴったりですけど」

「「きーっ!!」」

 

 ますます激しさを増す仲良し蓬莱人の取っ組み合いに、周りがちらほらと野次馬をし始める。いいぞいいぞと持て囃す河童、カメラのシャッターを切る鴉天狗、美少女二人のかしましいケンカを目の保養にする男衆。「なになにケンカ!? 私も交ぜてっ!」と立ち上がった萃香に、月見は座ってなさいとジェスチャーを送る。

 しかし実際、輝夜と妹紅は本当に仲良くなった。月見が幻想郷に戻ってきた時点で、妹紅はすでに輝夜を恨んではいなかった。殺し合いという手段でお互いの命を確かめ合う、仲がいいとも悪いとも表現しづらい関係だった。それが夏の半ばあたりからどうも様子が変わって、最近は二人で行動を共にすることが多いようだし、気が置けない腐れ縁としていい付き合いをしているようにも見える。

 今だって、なんだかんだ隣同士の席に座って宴会を楽しんでいる。本当に仲良くないのならこうはいかない。

 特に輝夜は紫が冬眠してから少し寂しそうにしていたから、こうして思うまま感じるままぶつかれる友達がいるのは月見としても嬉しかった。――まあ、本人は血相を変えて否定するだろうが。

 永琳と目が合った。彼女は小さく頭を下げる仕草をして、

 

「こんな姫様だけど……来年も、よろしくお願いしてもらえると助かるわ」

「ああ。こちらこそ」

 

 むしろ、こんな姫様だからこそ。来年も好き勝手に水月苑まで押しかけてきて、満点の笑顔でお転婆に跳ね回る姿を見られればと思った。

 

「はいはいお前たち、ほどほどにするんだよ」

 

 輝夜と妹紅の頭をそれぞれ尻尾で軽く叩き、月見は盃を持って席を立った。どうやら、もうどの少女も料理を食べ終え四方山話に花を咲かせているようだ。せっかく幻想郷中の住人が集まる今年最後の宴会、ずっと同じ席に座ってばかりではもったいない。

 

「どれ。じゃあ私は、みんなのところに挨拶回りでも行ってくるよ」

 

 月見がそう言った瞬間、視界の端でぱっと飛び跳ねる影があった。

 フランドール・スカーレットが膝立ちになって、きらきらした瞳で月見に両腕を広げている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 というわけで、まず月見は紅魔館の少女たちが集まっている席へ向かった。

 

「つくみーっ!」

「はいはい」

 

 輝く笑顔のフランにぐいぐい裾を引っ張られ、彼女とレミリアが並んで座るそのすぐ傍に腰を下ろす。レミリアが一瞬、休ませていた羽のやり場に迷うような素振りを見せたが、これといって文句は飛んでこなかった。

 

「お邪魔するよ」

「……別に邪魔なんかじゃないわよ」

 

 努めて感情を抑えた声音で、レミリアはぶっきらぼうにそれだけ言った。しかしそのたった一言が返ってくるだけでも、月見は今年育んだ紅魔館との友誼を実感せずにはおれなかった。出会って間もなかった頃のレミリアなら「ふん」で終わっていただろうし、ともすれば月見が傍に座るのを嫌がっていたかもしれない。

 

「楽しんでもらえてるかな」

 

 フランが元気に手を挙げて答える。

 

「はーい! お料理、すっごく美味しかったよー!」

 

 フランもレミリアも、慣れないはずの会席料理をほとんど綺麗に食べきっている。スプーンとフォークは使われた様子もなく置かれたままになっているから、どうやら二人とも箸だけで完食してしまったらしい。

 

「おや、上手に食べたじゃないか」

「えへへー」

 

 フランは胡座を掻いた月見の膝に両手を乗せながら、

 

「お姉様が、最近和食にすっかりハマっててー。毎日食べてるからオハシの使い方も覚えちゃった」

「は、ハマってるのはフランの方でしょ。今日は月見があれ食べてたから私も食べたいーって、そればっかりじゃない」

「それはお姉様の方でしょ!」

「違うわよ!?」

「お姉様ー!」

「フランーッ!」

 

 仲良く押し付け合いをしているところ生憎だが、実際は二人とも五十歩百歩で和食の虜になっており、咲夜が毎日の献立に頭をひねっていると月見は知っている。そして最近は二人の興味が日本文化そのものにまで拡大し、空き部屋をひとつ改造して和室にしようとか、庭の一部を日本風にしてみようとか、新年は日本式でお祝いしてみましょうとか、紅魔館で軽い和風ブームが巻き起ころうとしている――と、大掃除のときに咲夜がこっそり教えてくれた。

 館を日本風に改造するとなれば、外部から萃香や妖夢など専門家を招くこともあるだろう。来年からは、紅魔館と幻想郷の交流もますます活発なものとなっていきそうだった。

 

「つくみさぁーん!」

「うおっと」

 

 などと考えていたら、突然美鈴が後ろからのしかかってきた。どうやら早くも酔いが回っているらしく、月見の肩に両手を置いてなれなれしく体重を押しつけてくる。酔っ払った紅美鈴がだらしないほど陽気な絡み上戸になるのは、幻想郷苦労人同盟の宴会で包み隠さず証明されていることだった。

 

「いらっしゃいませぇー。月見さんもぉ、一緒に呑みましょおー!」

「お前はあいかわらずペース速いなあ」

「うへへー。さあさ、私がお酌して――グェ」

 

 潰れたカエルに似た悲鳴がして背中が軽くなる。振り向けば襟首を引っ張られた美鈴が背中からひっくり返ったところで、引っ張ったのはいつの間にか出現していた咲夜だった。冷たい微笑みで美鈴を一瞥し、

 

「申し訳ありません月見様、ウチの門番がご迷惑を」

「うう、もう月見さんに迷惑掛けた前提になってる……咲夜さんのいじわるぅ……」

「どこからどう見ても迷惑だったでしょ」

「そんなこと言ってえ、咲夜さんだってほんとはこういうことやってみ――あっちょっと待ってくださいマウントはダメですってば、あばばばばば!?」

 

 赤くなった頬をまるまると膨らませ、咲夜が美鈴に渾身の張り手をビシバシ振り下ろす。向かいの席からパチュリーがやれやれ吐息で呆れる。

 

「まったく、月見が来ただけではしゃぎすぎよ。みっともない……」

「まあ、パチュリー様も負けてませんけどねー。今日も出掛ける前にきっちりシャワー浴びて、鏡の前で一時間くらいずっゴフ」

 

 隣で迂闊なことを言った小悪魔が、獣のように機敏な魔導書の一撃で粉砕された。このところ、パチュリーが虚弱体質というのは嘘ではないかと月見は疑っている。

 そろそろ、涙目の美鈴に助け舟を出しておく。

 

「ところで咲夜、料理美味しかったよ。いつもありがとう」

「、」

 

 美鈴にマウントを取っていた咲夜が動きを止めた――と思ったときには、彼女は一瞬で月見の目の前に正座していた。少しばかり狼狽えながら背筋と両腕をぴんと張って、

 

「い、いえ、そんな。料理は、好きですから……」

 

 妹様ぁ~咲夜さんがひどいんですよお~、と泣きつく美鈴をフランがよしよし慰めている。

 

「来年も、たくさん作りすぎてしまうと思いますのでっ。そのときは、よろしければ……」

「ああ。楽しみにしてるよ」

 

 後ろの方で、「いつまでそんなこと言ってるのよ」とパチュリーが小声でぼやいた。月見も咲夜の言う「作りすぎ」がただの建前で、本当ははじめから差し入れするつもりで作ってくれているとはなんとなく気づいている。咲夜はあれで意外と恥ずかしがり屋な一面があるから、はっきりとした理由もなく差し入れするのは変なことだと思っているのかもしれない。

 きっと、日頃から持ちつ持たれつしている彼女なりの礼ではあるのだろうが。

 

「はいはーい、私もオシャクしてみたーい! 咲夜、やり方教えてっ」

「あ、はい。いいですよ」

「もう、あなたはほんと落ち着きがないんだから……。吸血鬼のレディたるもの、もっとお淑やかに」

「お姉様は興味ないって! ほっとこ!」

「誰もそこまでは言ってないでしょお!?」

「月見さぁーん、私にもお酌してくだ――まままっ待ってください咲夜さんこれくらいいいでしょ!? みんな仲良く、仲良くですよおっ」

 

 ――この一年、月見の生活を一番賑やかに彩ってくれたのは間違いなく紅魔館だ。

 家が近所だからよく遊びに来てくれるし、月見もまた向こうをしばしば訪ねては、フランの遊び相手をしたり、お茶をご馳走してもらったり図書館から本を借りたりしている。周囲との交流も近頃は非常に良好であり、フランに至ってはみんなの妹のようなポジションで紅魔館の新しい顔となり始めている。行く先々で騒ぎを起こすとトラブルメーカーのように評されることもある月見だけれど、紅魔館の方がよっぽどそうに違いないと思うのだ。

 来年の彼女たちは、果たしてどんな喧騒を月見のもとまで運んできてくれるのだろう。

 フランのお酌で表面張力ギリギリまで満杯になってしまった自分の盃を見ると、月見はそう予感せずにはおれなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見が次に向かったのは、萃香と勇儀と霊夢が一緒に座っている席だった。少し前のフランと同じく、萃香がぱっと膝立ちになって歓迎してくれた。

 

「おー、月見ー! よっしゃ一緒に呑むよっ!」

「他のところも回るんだから、ちょっとだけだよ」

「ぶーぶー」

 

 勇儀が愛用の大盃をなみなみ満杯にして、まさしく酒の方から吸い込まれていくがごとき馬鹿げた呑みっぷりを披露している。あの体のどこにそれだけの量が入っていくものなのか、隣の霊夢が猪口をちょびちょび傾けながら半目で呆れ果てている。

 

「――ぷは。やっほぉ月見。楽しませてもらってるよ」

「それはなにより」

 

 今年最後のめでたい宴会ということで、勇儀は目に映える空色の着物を着ていた。普段の豪快な振る舞いばかり見ているとつい忘れがちだが、彼女も幻想少女の例に漏れず相当なべっぴんさんなのだ。元々体型がよいのもあり、夏場に胸元を緩くはだけさせる艶な姿は、しばしば同胞の男衆を血の海に沈めている。

 もっとも今は真冬であり、下に襦袢を着込んでしっかり防寒しているため素肌はほとんど見えない。宴会が始まる前には、露骨に残念がる男衆を萃香がはっ倒して回る一幕もあった。

 

「でも残念だよ。まさか天子がいないなんてさあー」

「ほんとにねえ。本人もこの世の終わりみたいに残念がってたわ」

 

 勇儀と霊夢が揃ってため息をつく。

 

「天子って、あれで結構いいとこのお嬢様なわけだし……そんな設定完全に忘れてたわよ」

「ぜんぜんお嬢様らしくない、てかそもそも天人らしくないしね。あんな天人、他にいやしないよ」

 

 比那名居天子の不参加は、『天子ちゃんマジ天使!クラブ』の面々にも甚大な衝撃と絶望をもたらした。つい先日、白蓮の登場に際して何人か裏切り者が粛清されたらしいが、今でも幻想郷屈指の会員数を誇る一大ファンクラブなのは変わっていないそうな。

 それにしても。

 

「勇儀は、天子といつの間に仲良くなったんだ? このあいだの異変のときか?」

「んー、まあね。いろいろあったのさ」

 

 二人の接点といえばそれくらいしかなかったはずだが、勇儀の口振りからは単なる知り合い以上に友好的な響きが感じられた。にやりと唇を曲げ、

 

「これといって進展もないみたいだし、ほんとやる気あるのかねえ」

「今が幸せの絶頂ってやつなのよ。見ててもどかしいったらこの上ないわー」

「あー? 霊夢はあいつのこと応援してんのー? 裏切りだぞ裏切りー」

「……なんの話だ?」

 

 霊夢も、なにやら意味深な笑みを顔中に張りつけている。

 

「なんでもないわ。女の話よ。さ、呑みましょ呑みましょ」

「そうか?」

 

 結局なんの話だったのかは教えてもらえず、天子はなんだかんだ教養があるからいいお嫁さんになれるとか、紫は家事こそ苦手だけど夫には心から尽くすタイプだとか、妙に二人の褒め言葉ばかり振られるものだから相槌を打つのが大変だった。このままだとどんどん答えづらい方向に行ってしまいそうだったので、月見は頃合いを見計らって話題を入れ替える。

 

「ところで、霊夢。今年はいろいろ厄介を掛けたね」

「んー? ……なにかあったっけ?」

 

 ほろ酔いの霊夢がこてんと首を傾げる。楽園の巫女はいつだって過去に縛らせず自由奔放だから、終わりよければすべてよしの精神の下、一件落着に終わった事件のことなんてもう気にしていないのかもしれないけれど。

 

「それはほら、異変絡みで」

「……あー。確かに、月見さんはいろいろやってくれたわよねえ」

 

 天子の異変にしてもおくうの異変にしても、根本的な原因は月見にあった。どちらの異変も月見の行動がことごとく裏目に出た結果、恐らくは本来『異変』と呼ばれる騒動の範疇を遥かに逸脱した大事件となって、霊夢と魔理沙には本当に危ない思いをさせてしまったはずだった。

 萃香が暢気に酒を呑みながら言う。

 

「顔が広すぎるのも考えものだよねー。なんかあったときすぐ一枚噛んでるんじゃないかって疑われるし」

「次異変が起こったら、もう月見さんが黒幕の前提で洗いざらい吐かせるわ」

「うん……そうしてくれ。できる限り協力するよ」

 

 あら、と霊夢は可憐に破顔一笑し、

 

「ふふ、じゃあ今度は月見さんを一緒に連れてくってのもありかもね。永夜異変じゃ紫に協力してもらったわけだし、大妖怪を味方にしちゃいけないなんてルールはないし」

「弾幕ごっこまでは役に立てないかなあ」

「でも月見さんがいれば、めんどくさい妖怪が寄ってきてもスルーできるかもしれないわ。どいつもこいつも人の話を聞かないから困るのよね」

「霊夢も大概人の話聞かないけどねー、ぶぎゅ!」

 

 余計なことを言う萃香をチョップで黙らせ、

 

「ま、異変自体はすごく大変だったけど……その分、いろいろ経験になってるし。天子とか、いい方向に変われた人も多いわけだし。どさくさで神社も新しくできたし。そんな悪いことばっかでもなかったんじゃない?」

「……そうか」

 

 月見はにじむような感情とともに思う――誰よりも面倒くさがりで、お調子者で、なによりお金とご飯に目がない筋金入りのぐうたら少女に見えるけれど。

 博麗霊夢は間違いなく、この幻想郷という楽園の素敵な巫女さんなのだ。

 

「不甲斐ない狐だけど、来年もよろしく頼むよ」

「月見さんが不甲斐なかったら幻想郷の男妖怪はみんな腑抜けかしら……」

「勇儀がちょっと着物着ただけで鼻の下伸ばすやつらばっかだしね」

「あっはっは、萃香はいつまで経ってもちびっこいからねえ」

「ぶーっだ!! いーもんいーもん月見一緒に呑み比べしよ!」

「あ、ちょっとズルい! 私も交ぜてよおっ!」

 

 冗談ではない。幻想郷屈指のうわばみ二人と呑み比べなど、さして左利きでもない月見ごときでは命がいくつあっても足りない。

 片手が盃で塞がっているので、暑苦しく迫ってくる鬼二人をもう片手と尻尾でべしべし押し返す。もちろん霊夢はまったく助けてくれる素振りもなく、口の端をほんのわずかな笑みで曲げながら、素知らぬ顔で新しい酒瓶の封を解いている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見が次に向かったのは、幽々子と妖夢と幽香が一緒に座っている席だった。呑兵衛の鬼二人が際限なく酒を呑ませようとして聞かないので、早歩きで逃げるようにやってきたのであるが。

 

「……あいかわらず食べてるねえ」

「堪能してまーすっ!」

 

 月見が仏像の眼差しを向ける先で、幽々子は未だにぱくぱく食っていた。箸も喉も一秒たりとも止まることなく動き続ける、見ていて痛快なほどの食いっぷりである。彼女が二回目のおかわりを所望していたところまでは把握しているが、それにしても膳の上で山を築いている皿は五枚や六枚どころの話ではなかった。

 一体何回おかわりしてるんだこいつは、と月見があいかわらずに思っていると、

 

「あのー……私、もうお腹いっぱいになっちゃって。これ、余ったんですけど」

 

 とある河童の少女が、食べ残したらしい小皿一枚を手に持ってやってくる。幽々子は瞳を爛々とさせて答える。

 

「ここに置いていってっ。他にもあったら遠慮なく持ってきていいわよ!」

「わかりましたー」

 

 なるほど、と月見は納得した。つまり幽々子は藍たちが用意していたおかわりなんてとっくにすべて片付け、みんなが食べきれなかった分まで根こそぎ平らげるフェーズへ突入しているのだ。道理で皿の山ができるわけである。『冥界の掃除屋』の面目躍如で、此度の宴会も無事残飯ゼロを達成しそうだった。

 誰にも真似できないその活躍を褒めればいいのか、白玉楼の日頃の苦労を憂うべきか。

 

「月見さん、ありがとうございます」

 

 妖夢に突然礼を言われた。疑問符を浮かべる月見に彼女は笑顔で、

 

「幽々子様、この宴会でお腹いっぱい食べるからって、今日はお昼もおやつも抜いてまして。お陰で食費が浮きました」

「……そうか」

 

 たった昼夕二食分、されど昼夕二食分、幽々子の場合ともなれば私とは量も食費も桁が違うんだろうな、と月見は菩薩の心地で思う。

 向かいの席で幽香が顔をしかめている。

 

「見てるこっちが胸焼けしてくるわ……」

「私も、ここまでの食べっぷりを見るのは久し振りです……ほんとどこに入ってってるんですかね……」

 

 いっぺん永遠亭で、幽々子の腹を検査してみてはどうだろうか。割と冗談抜きで、この世ならざる暗黒空間につながっていたりするかもしれない。

 

「来年も、疲れたと思ったときは気軽においで。温泉くらいいつでも貸し切りにするよ」

「あはは、ありがとうございます。皆さんのお陰で、この頃はちょっとずつ羽の伸ばし方もわかってきたといいますか」

「ロクに休みももらったことなかったって、はじめ聞いたときびっくりしたわよ」

 

 妖夢は、最近ちゃんと定期的な休暇を幽々子から言い渡されている。月見はまったく与り知らなかったのだが、友達の過酷な労働状況をひょんなことから知った幽香が、その身ひとつで白玉楼に殴り込みをしたらしい。妖夢をそこまで大切に思ってくれる友達がいると知っては、さしもの幽々子も無下に扱うことはできなかったようだ。

 はじめはなにをすればいいのか悩んでいた妖夢も、今はもっぱら太陽の畑まで足を伸ばして、幽香と仲良くガーデニングトークを楽しんでいる。そして一方の幽々子はといえば、従者がいない生活もそれはそれで楽しいと気づいてしまったらしく、幻想郷をあちこち放浪して友人と酒を呑んだり、宴会に飛び入り参加して料理を食べ尽くしたりしている。水月苑にもしばしばやってきて、来客用の菓子をやっぱり根こそぎ食べ尽くしていく。

 

「まだまだ半人前の私ですが、来年もご指導ご鞭撻いただければ嬉しいです」

「そんな大袈裟な。気軽によろしくしてくれると助かるよ。幽香もね」

「もちろん。なんてったって、私たち友達だものねっ」

 

 そこで月見は、いつの間にか幽々子の姿が席から消えていると気づく。

 見回してみると、「ごはん残しちゃった人ー!」とあちこち呼びかけながらずうずうしく広間を徘徊している。いつ如何なるときも決して自重することのない食い意地には呆れるばかりだが、己の幸せにどこまでも従順な彼女の生き方は、ある意味私たちも見習うべきなのかもしれないなと月見は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見が次に向かったのは、文と椛とはたてが一緒に座っている席だった。

 周りの友人とそれなりに親しく話をしていた文が、月見の姿に気づくなりすっと一切の感情を消し、いかにもよそ行きらしい澄まし顔で口を閉ざした。『清く正しい射命丸』が、『射命丸文』に切り替わった瞬間だった。

 

「あ、月見様」

「いらっしゃいですー」

「お邪魔するよ」

「……」

 

 椛とはたては快く歓迎してくれるものの、文は無言のまま眉ひとつ動かさず酒を傾けている。すっからかんになった一升瓶が早くも三本ほど転がっている。日頃から萃香の酒に付き合うことも多い彼女は、天狗の中でも折り紙付きの酒豪としてその名を知られている。

 

「そんなペースで呑んでると、また悪酔いするぞ」

 

 少しからかうつもりで月見が言うと、文は酒の手を止め露骨に顔をしかめた。

 

「これくらい普通よ普通。あんなヘマはもう二度としないわ」

「……月見様、文が酔い潰れるの見たことあるんですか? ザルみたいなやつですよこいつ」

「まあ、一度だけね」

 

 文の方から「話したらコロス」と凄まじい威圧が飛んできたので、月見ははたての質問を適当にはぐらかしておく。はじめは食い下がろうとしたはたても、文の形相に気づくと顔を真っ青にして諦めた。

 文の隣が空席になっているので、そこに腰を下ろす。すぐに文が、酒瓶を片手で掴んでぶっきらぼうに持ち上げてくる。月見は盃を差し出して応える。文は片手のまま瓶の口をガサツに傾け、いつこぼしてもおかしくないくらいいい加減に酒を注いでいく。最後に、お互い目も合わせず軽く乾杯。

 

「あ、あのー……」

 

 月見が酒を一口味わったところで、はたてが恐る恐ると尋ねてきた。

 

「改めてお尋ねしたいんですけど、月見様と文って一体どういう関ひいっ!?」

 

 文がドスで突き刺すようなひと睨みで黙らせる。それから派手なため息、

 

「ちょっと、あんたからもなんか言ってくれない? 私とあんたがやけに仲いいとかなんとか、変な詮索してきていい迷惑なのよ」

「私とお前が?」

 

 月見は束の間虚を衝かれ、すぐに軽く吹き出した。

 

「まさか、そんなバカな」

「ねえ。ほんと下らないわ」

 

 まさかはたては、月見と文がただの知人友人とは違う男女の仲にでも見えていると言うのだろうか。将来有望な新聞記者として、この程度は容易く見抜ける眼識を身につけてもらいたいものだ。

 

「えー……?」

 

 はたては釈然としない。

 

「でもでも、いま一言も喋らないでお酌受けて乾杯して、完全に通じ合ってたじゃないですか!」

「別に普通じゃないかい。場の流れというやつだよ」

「空気が読めないはたてにはわからないかもねえ」

 

 こうして隣同士で座っている以上、相手がお酌の素振りを見せればそれとなくわかる。人に無言でお酌をする者なんて滅多にいないから物珍しく見えただけで、相手が文でなかったとしても月見は同じように反応できただろう。文だから特別だったということはまったくないのだ。

 

「えぇー……?」

 

 はたてはまだ納得しきっていない。月見はふむと少し考え、

 

「……しかし、そうだね。ならどんな関係なのかと言われても、表現が難しい部分はあるよな」

 

 とはいえ、はたてがかくのような疑問を抱くのも一理あるのかもしれない。なぜなら月見自身も、文との関係をどう言い表せばよいのかはいまひとつわかっていないのだから。

 つい最近まで険悪だったとはいえ、500年以上昔からの仲なのだから、ただの知人というほど薄っぺらくはない。しかし今となっては、ごく普通に友人という言葉を使うのもしっくり来ない。古馴染にしてもそうだし、腐れ縁では少し含みがありすぎる。

 椛が言う、

 

「でも、気が置けない関係みたいには見えますよ。お互い遠慮してないというか」

「まあお前相手に遠慮はいらんさな」

「こっちのセリフよ」

 

 文は毒づくように言って、

 

「まあそう言われてみれば、しっくり来るのはないかもねえ……」

 

 ぼんやりと酒を呑もうとして、そこではじめて自分の盃が空になっていると気づく。月見はすでに近く酒瓶を手に取っている。文が盃を突き出すのとほとんど同時に、こちらも遠慮なく片手で注ぎ返してやる。

 

「……ねえ椛、絶対おかしくない? なにも言わないどころか目配せすらないのよ? 完全に以心伝心じゃない」

 

 暗に同意を求められた椛は数拍考え、月見と文の仲をこう一言で結論した。

 

「つまり月見様と文さんは、一言では言い表せないとても深い関係ということですね」

「はっ倒すわよ」

「なななっなんでですか!? 間違ってないですよね、そういう話ですよねいたたたたた!?」

「いちいち語弊があんのよ放っといてってばもぉーっ!!」

「うわちょっなんで私まで、ん゛あ――――――――っ!?」

 

 少女の姿をした局地的な台風が椛を強襲し、案の定というべきかはたてがついでで巻き込まれて絶叫する。周りの天狗たちが呆れた様子で避難を始め、そのとき誰かが迂闊にも、「ほんと素直じゃないんだから」「ねー」などとこぼしたばかりに暴風域はますます拡大してゆく。

 天狗が総じてゴシップ好きなのは充分承知しているが、それにしたってなぜ、よりにもよって月見と文の関係を疑ったりするのだろう。

 色恋の沙汰からこれほど程遠い相手も他にはいないというのに、不思議なものだ。

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見が次に向かったのは、白蓮たち命蓮寺の面々が集まる席だった。

 そこにはすでに先客がおり、藤千代が白蓮の隣に座って何事か話をしている最中だった。

 

「おや、千代」

「あ、月見くん! いいところに来てくれましたっ」

 

 立ち上がった藤千代が早速月見の手を取り、二人の間に問答無用で座らせてくる。ともすれば肩が触れ合うほどの近距離に、白蓮がうわわっと慌てて身を引いた。

 

「月見くんと白蓮さんの、ふかーい関係について聞こうとしていたところです。月見くんも聞かせてくださいな!」

「それは一昨日話したろう?」

「一昨日よりも根掘り葉掘り、なにからなにまでぜーんぶぜーんぶ聞かせていただきます。月見くんの未来の妻として、知らぬわけにはいきませんからっ」

 

 仏に帰依する少女たちなので宴会も節度を持って楽しんでいるかと思いきや、ちゃんと戒律を守っているのは白蓮だけである。水蜜と一輪は周りの少女たちと朗らかに酒を楽しんでいるし、ナズーリンに至ってはもうすっかりできあがって、酔っ払い独特の不発弾のような目つきになりつつある。星もケロリとしてはいるがだいぶ呑んでいるようだし、少し前までは幽々子に引けを取らない有様で肉料理にかぶりついていた。

 戒律とは、仏の教えをより深く理解したいと願う者が己の意思に従って順ずる道であり、決して人を無理やり縛る枷ではないと白蓮は言う。昔は厳しい戒律に耐え抜くことこそが僧侶のステータスであるように言う者もいたけれど、彼女は柔軟な思考で清濁併せ呑む尼僧だった。仲間の飲酒や肉食も、常識的な度を越えて乱れない限りたしなめるつもりはないようだった。

 そんな白蓮は、藤千代の『妻』発言にあっさりと耳まで赤くなる。

 

「つ、妻、ですかぁ……」

「白蓮さんは、そういうの考えたことは?」

「い、いえいえそんな!? けけけっ結婚だなんて!?」

 

 遠くの席で山の男衆が腰を浮かしかけるも、すぐさま水蜜と一輪の妖気が飛んで全員座った。ナズーリンがにやりとして、

 

「これはあれだねえ。もし月見が誰かと結婚したら、聖にとってはお母ぶぎょ」

「ナズー!?」

 

 白蓮の恐ろしく速い手刀がナズーリンの首筋を刈り取った。ナズーリンの意識は一発で闇の底に沈み、正座したまま顔面から畳に崩れ落ちる。星が血相を変えて揺するが反応はない。ナズーリンが悪いので月見はなにも言わない。

 

「な、なんでもありません、あは、あはははは」

「むむ? ……これはどうやら、詳しく話を聞かせていただく必要がありそうですねえ」

「そそそっそれより、私もお聞きしたいことがありましてぇっ!!」

 

 ナズーリン一人にバレただけでも布団にくるまって不貞寝する有様だったのだ、こんな大勢が集まる中でバレてしまったら白蓮はもう生きていけない。窮地に追い込まれた彼女は面白いほどてんてこ舞いに慌てふためきながら、もはや自分でも制御が利かない大声で叫ぶのだった。

 

「ふ、藤千代さんと月見さんこそ深い間柄のようですし、そちらのお話も聞いてみたいです!!」

 

 座敷中が静まり返った。あっこの人やっちゃった――という、全員が心ひとつに黙祷を捧げるような沈黙だった。

 月見もまた、後悔してもしきれない痛恨の表情で俯いた。

 

「……へ? あ、あれ? 私なにか変なこと」

「あー、白蓮、その話はまた今度」

 

 なんとか再起動して話を逸らそうとしたが、もちろん、どうしようもなく手遅れだった。

 

「――よくぞ聞いてくれましたっ!!」

「ふや!?」

 

 喜色満面欣喜雀躍(きんきじゃくやく)とはまさにこのことか、藤千代がその顔どころか全身を輝かせて白蓮の手を取ると、

 一息、

 

「そうですよねそうですよね気になりますよねわかりました私と月見くんの馴れ初めですねあっ『馴れ初め』は恋人同士に使う言葉でしたねえへへちょっと気が早かったですもちろん私は今から恋人同士ってことでもぜんぜん構いませんし将来的にはその先まで行く所存ですが今は置いておきましょうそれより本題ですねいやー最近誰も語らせてくれなくて寂しかったんですよ素晴らしいご質問ありがとうございます任せてください一から十から百から千までなにからなにまでぜーんぶぜーんぶ語って差し上げます語らせていただきます覚悟してくださいねわたし月見くんのことだったら丸一日休まず語り尽くせますから今夜は眠らせませんよ朝まで行きましょうではそうですね最初はやはり諏訪大戦ですねあそこからすべてが始まったんですもう何千年も昔のことなんですけど今でもはっきりくっきり覚えてますよあんな素敵な戦い忘れるなんて不可能です私と月見くんがはじめて出会ったのは戦場だったんですそのときはなんと敵同士だったんですよ運命的ですよねあそこに座ってる神奈子さんと諏訪子さんの戦いだったんです私が諏訪子さんの軍月見くんが神奈子さんの軍で戦」

「ちちちっ千代おおおおおっ!! 待って待ってストッ――ぶぎゃ!?」

 

 始まってしまった暴走(トリップ)を止めるべく操が遥々すっ飛んでくるも、藤千代は振り向きもせず一瞬で組み伏せ、

 

「どうしたんですか操ちゃん邪魔しないでくださいいくら操ちゃんでも私ちょっと怒っちゃいますよあっもしかして操ちゃんも聞きに来てくれたんですかそうですよねやっぱり操ちゃんも交ざりたいですよねいいですよ一緒に語りましょうでもまずは私の番なので大人しく聞いててくださいね大丈夫です朝までには終わらせますからでは続きですけど神奈子さんの軍にいた月見くんが私」

「お願い待ってえ!! 話を聞いてえっ!? ほっほらみんなそろそろ食べ終わってきたみたいじゃしアレ始めるのにちょうどいい頃合いだと思わんか思うよねねえねえ千代もそう思うじゃろぉ!?」

 

 操がビチビチ暴れながら命乞いするように叫んだそのとき、誰も予想だにしなかった出来事が起こった。

 

「――あ、そうですね。私ったらすっかり忘れてました」

 

 藤千代が、拍子抜けするほどあっさりと正気に戻ったのだ。名残惜しそうに操から両手を離すと、昂ぶるあまり漏れ出ていた妖気が霧散する。

 

「せっかく準備したからには、やらないのももったいないですし……ごめんなさい白蓮さん、この話はまた今度ということで」

「――はっ。あ、いえ、お気になさらず……?」

 

 放心していた白蓮も戻ってきた。今し方目の前で起こったのが一体なんだったのか、あまりよく理解できていない顔をしていた。わからなくていいと月見は思う。幻想郷にやってきてまだ日が浅い白蓮に、藤千代という少女を一から十まで受け止めるのは荷が重い。

 月見は、未だ起き上がれないでぷるぷる震えている操の背を優しく撫でた。

 

「操……よくやった」

「ふ、ふふふ、儂だってやるときゃあやるんじゃよ……投げられたとき死んだと思ったけど」

「それじゃあ操ちゃん、早速始めましょー」

「あーい……」

 

 どこか離れた席で、「おれ、天魔様のことちょっと見直したわ……」と誰かが呟いている。藤千代は操の襟首をずりずり引きずり、上座の片隅に置いてある荷物から何事か準備を始めた。今年最後の宴会ということで、どうやらなにか出し物を企画していたようだ。

 ――出し物。

 なにやらカオスの予感、

 

「それでは皆さん、ちゅうもぉーくっ!!」

 

 藤千代の威勢のよい掛け声が、座敷の隅から隅まで朗々と響き渡る。取り出したのは片手で持てる程度の、白い小さな玉がたくさん入った回転式のカゴ。そして、二十四のランダムな数字が印刷された厚紙の束。

 その二つを両手に、彼女の宣言はかくのごとく。

 

「ビンゴ大会始めますよ――――――っ!!」

 

 そりゃあもちろん、これは幻想郷屈指の愉快痛快な住人たちが集結する今年最後の宴会なのである。料理に舌鼓を打つ時間が終わり、酒もほどよく回ってきたならば、あとは新年がやってくるその瞬間までわちゃわちゃ騒ぎ散らすのみ。

 はぁ――――――い!! とみんな仲良く盛り上がる大砲のような喧騒が、夜はまだまだこれからとばかりに水月苑を沸き立たせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第140話 「年越しは水月苑で ④」

 

 

 

 

 

「――はい、月見くんもどうぞー」

「ありがとう」

 

 藤千代からビンゴゲームのカードを受け取る。月見の掌よりやや小さい程度の厚紙に大小二十四の数字が印刷され、それぞれ指で押し開けるための切り目が入っている。なんてことはない、外の世界で一般的に普及しているごくごく平凡なビンゴカードである。しかしなんの変哲もない二十四の数字も、幻想郷という世界で目にしてみるとほんの少しばかり新鮮だった。

 

「どこから手に入れてきたんだい。香霖堂か?」

「いえ、早苗さんが持ってきてくれたんです」

 

 早苗と志弦が、カード配りを一緒に手伝っている。

 

「大掃除のときに、押入の奥から出てきたんです。持っててもしょうがないですし、どうせだったらみんなでやれたらいいなあと思って」

「いやーなっつかしいねーこれ。小学校以来かなー」

 

 ビンゴゲームがどういうルールで行われるかは月見も知っているし、外の世界をひとりでほっつき歩いていた頃は、どこかのイベントで人々が興じている姿も目にしたことがある。しかし、こうして実際に体験するのははじめてかもしれなかった。もう何千年も生きてきた老いぼれの狐だけれど、知らないこと、はじめて経験することはいつだって世にあふれ続けている。

 さて、ビンゴゲームといえば最大の肝はやはり景品である。此度のゲームでもいくつか用意がされており、カードを配り始める前にはいろんな意味で大変な盛り上がりを提供してくれた。

 順に挙げていこう。

 

 まず、人里の飲食店で使える無料お食事券。

 月見が地底にいる間に開催された里の福引で、藍が見事当ててきたものだという。賑やか好きの里では、商店飲食店その他諸々を巻き込んだ福引が季節に一度開催されるのだ。しかし藍本人が外食をしない生粋の料理人であるため、誰かほしい人に渡ればと今回の景品に寄付された。

 その名の通り一定金額までのごはんが無料となる上、それ以上の金額の場合は割引券として使用することもできる。霊夢や星など、ごはん大好きな少女たちが狙っている。

 

 次が、酒虫(しゅちゅう)

 酒虫とは水から無限の酒を生み出す摩訶不思議な虫のことであり、この虫によって作られた酒は大変な絶品と古来より大層な語り草になっている。天然ものは極めて珍しい生き物のはずだが、藤千代がちょろっと捕まえてきたらしい。

 勇儀や文など、お酒大好きな少女たちが狙っている。

 

 次が、『咲夜が好きなお菓子を作ってくれる券』。

 文字通り、その券を使えば咲夜がご希望のお菓子を手作りしてプレゼントしてくれる。

 あの意味で最も夢のような景品であり、言うまでもなく山の男衆が本気(マジ)の目つきで狙っている。

 

 次が、伝説のお饅頭『白雫』。

 人間はもちろん妖怪の間でもまことしやかに囁かれるその伝説を、今更語り直すような真似はしない。

 幽々子や妖夢をはじめ、その至高の味わいに魅せられた少女たちが狙っている。

 

 そして最後が、『月見のもふもふ十一尾に全身包まれながらぐっすりお昼寝できる券』。

 もちろん前もって断っておく、月見はまったく許可した覚えもない。が、『月見のもふもふ十一尾に全身包まれながらぐっすりお昼寝できる券』なのである。

 一応需要はあるらしく、輝夜やフランあたりから狙われている。

 そんなこんなで、期待いっぱい夢いっぱいのビンゴ大会が始まろうとしているのだった。

 

「それでは、ルールを説明しますねー!」

 

 カード配りを終え、司会の藤千代が高らかに声をあげる。

 

「これから操ちゃんが、このガラガラを回して数字が書かれた玉を引きます! 皆さんは、その数字が書かれたマスを指で押して開けてください! それを繰り返して、縦横斜めのどれか一列が揃ったら『あがり』です!」

「『ビンゴー!』って言って、手を挙げて儂らに教えとくれー。豪華景品ゲットじゃよ!」

 

 即席で作った台の上には定番のビンゴマシーンが置かれていて、操が早く回したそうにうずうずしている。

 

「ちなみに、あとひとつで一列揃うところまで行った方は、『リーチ!』って言って立ち上がってくださいねー」

「ま、要は一足早い新年の運試しじゃね。これなら、酒呑みながらでも片手間でできるじゃろ?」

 

 操が言う通り、ビンゴとは畢竟ただの運試しなので、ゲーム自体を楽しむものとは少し違うのかもしれない。ゲームによってイベントに一味変わった風味を添え、もしかしたら景品が当たるかもしれないという期待をみんなで共有し、その空気感を楽しむものとでもいおうか。

 まさに、ここの住人たちにはぴったりなゲームなのかもしれない。なぜなら幻想郷の宴会で一番大切なのは、美味しい食事よりも芳醇なお酒よりも、みんなで楽しく盛り上がれる『賑やかな空気』なのだから。

 隣の白蓮が、ビンゴカードを不思議そうな顔でしきりに覗き込んでいる。

 

「そういえば白蓮は、数字は読めるかい?」

「あ、はい。昨日、里で少しだけ教わりました」

 

 現在一般的に使われているアラビア数字が日本の人々の間で広まったのは、確か幕末頃だったと記憶している。日本の長い歴史でもかなり近世の出来事だが、外来人、もしくは知識ある妖怪の手引きで、幻想郷でも日頃から読み書きされる程度には普及していた。

 なので白蓮が目を引かれているのは、数字ではなくカードの印刷の方なのかもしれない。水蜜が後ろから白蓮の両肩に手を置き、

 

「ひじりひじりっ、聖はどの景品狙います? やっぱり月見さんのお昼寝券?」

 

 白蓮は見るからに狼狽えた。月見の尻尾をチラチラ横目で盗み見ながら、

 

「な、なんでやっぱりなのっ?」

「えー、でも気になりません? だって十一尾ですよ? 月見さんがそんなすごい狐だったなんて、びっくりじゃないですかー」

「それは……そうだけど……」

 

 月見は生まれたときからの狐なので、自分の尻尾を特別なものだと思ったためしはこれといってない。だが一方では、人間にせよ妖怪にせよ、動物の毛並みというものに心を魅了される人種が一定数いる事実も理解していた。触られるのが好きとまでは言わぬも、誰かに楽しんでもらえるのなら少しのあいだ辛抱する程度は造作もないことなのだ。里の子どもたちから遊び道具にされているし、諏訪子に至っては抱き枕扱いだし。

 なので、わざわざあんな珍妙な券を用意しなくともよいのだけれど――そんなことを言っては景品の意味がなくなってしまうから、なにも言わず付き合ってやるのが花なのだろう。

 

「はーい、では始めますよー! 操ちゃん、お願いします!」

「らじゃー!」

 

 藤千代から合図をもらって、操が嬉々としてビンゴマシーンを回し始めた。カランと小気味よい音とともに玉が転がり出て、

 

「それじゃあいくんじゃよー! ……じゅういちーっ!」

 

 直後、座布団を撥ね飛ばす猛烈な勢いで立ち上がる影があった。月見がざっと認識できただけでも輝夜、萃香、フラン、幽々子――そして、半分以上の山の男衆だった。

 一斉に叫んだ。

 

「「「はいはいはーいっ!! ビンゴビンゴビンゴォ!!」」」

「はいやると思った!! 絶対やると思ったんじゃよこのバカチンどもがっ!!」

「「「じゃあリーチ!!」」」

「ぶっ飛ばしますよー?」

 

 藤千代に笑顔で言われてしまえばどうしようもない。全員神妙な顔でしずしずと着席し、操が眉間を押さえながら派手にため息、

 

「ったく、ほんとにこやつらは……景品がほしいのはわかるけどなあ、嘘つくならせめてもうちょっとマシな」

 

 チルノがいきなり、

 

「はいはーい、ビンゴビンゴ! 見なさい、ぜんぶ穴開けたわよ! この勝負あたいの勝ちね!」

「なにやってるのチルノちゃん!? なんでぜんぶ穴開けちゃったの!?」

「え? 一番先にぜんぶ穴開けたやつが勝ちでしょ? だからあたいの勝ち!」

「お前さんなにと闘っとるわけ?」

「チ、チルノちゃんのばかぁ……」

 

 さすがは幻想郷式ビンゴ大会。一発目からこの自由奔放ぶり、なんとも先が思いやられるではないか。

 

「はーいチルノさん、余ってるカードがありますから。今度はちゃんとやってくださいねー?」

「えーっなんでよ! どう見てもあたいが一番じゃない!」

「チルノちゃんは黙っててッ!! ごめんなさいごめんなさい、今度は私がちゃんと見ますので!」

「よろしくお願いしますねー。……じゃあ操ちゃん、どんどん行きましょう!」

「おうさ!」

 

 操が再びうきうきとビンゴマシーンを回す。そこで月見はよっこらせと腰を上げ、

 

「それじゃあ私は、またみんなのところを回ってくるよ」

「あ、はい。わかりました」

 

 今年最後の挨拶回りはまだ途中だ。尻尾が周りに当たらないよう気をつけながら白蓮と別れ、月見は並びに沿って次の席へ向かってゆく。

 ごじゅうななー!! と操の元気な声が響く。手元のカードを確認したが、そんな数字はどこにも書かれていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、月見だ! さてはあたいとビンゴ勝負しに来たのね! よーしいいわよ、あたいの早業でぜんぶ一瞬でビンゴ」

「だからねチルノちゃん、それは遊び方違うんだってば!? 天魔様が言った数字しか開けちゃダメなのー!」

「なんでよ!」

「なんでも!」

 

 大妖精が相方の子守りに奮闘している。席の並びに沿って回っていくと、今度はチルノたち妖精をはじめ、主に幻想郷のちびっこ妖怪が集まっているエリアだった。ルーミアと橙とミスティアの他、なにか昆虫の妖怪と思われる少女たちや、『光の三妖精』なる妖精トリオの姿も見えた。

 月見に気づいたルーミアが、女の子座りを正座に正して背筋を伸ばした。

 

「お狐様! 今日はおいしいごはん、本当にありがとうございますっ」

「あ、ああ」

 

 まじりけのない尊敬の眼差しで見上げられて、月見は早速口の端がひきつるのを感じる。違うんだルーミア、私はお前から様付けされる資格のある男じゃないんだ――そう思うが、真実を告げて彼女の笑顔を壊すような勇気も月見にはない。せめてもの罪滅ぼしに、彼女の末長い幸せを心から願う他ないのだ。

 

「でも、料理人は私じゃなくてこっちのミスティアだよ」

「いえ、ミスティアもお狐様のお陰だと言っていたので!」

 

 針でちくちく突かれるような月見の胃痛をよそに、ミスティアが酒を傾けながら朗らかに笑う。

 

「ルーミアったら、最近すっかりグルメに目覚めちゃったんですよ。ちょっと前まで、魚も頭からむしゃむしゃ食ってたようなやつだったんですけどねー」

「お狐様と出会って、見える世界が変わったのよっ」

 

 胃が。

 ろくー!! と操の声がして、一度みんなで手元のカードを確認する。橙が尋ねる、

 

「月見様は、どの景品を狙ってるんですか?」

「私は酒虫かなあ。一匹飼っておくとなにかと役立つだろうし」

 

 平素から来客の多い水月苑である。水に浸しておくだけで旨い酒ができるなら、少女たちがノリと勢いで始める突発的な宴会を心配する必要もなくなる。

 あー、とミスティアがいくらか気落ちした声をあげ、

 

「やっぱり、酒虫は狙ってる人多いですよねー……旦那様ぁ、もし旦那様が酒虫ゲットしたら、私にお酒を仕入れさせてくれませんか? 屋台で出したらウケると思うんですよねー」

「もし本当に当たったら、いいけども」

 

 月見は苦笑し、未だ真ん中以外のマスが開いていない綺麗なビンゴカードを差し出した。

 

「こんな調子だから、あんまり期待しないでくれ」

「あー。私もまだですよ。結構当たらないもんですねー」

 

 さんじゅうはちー!! とまた操の声。ミスティアと揃って自分のカードを確認し、やがてどちらからともなく小さく肩を落とした。

 操が数字を告げるたび、広間にがやがやと浮ついたざわめきが広がる。嬉々としてカードのマス目を開ける者、カードを睨みつけてぐぬぬと悔しがる者、ちょっとぜんぜん当たらないんだけどー真面目にやってよーと操にぶーぶー文句を言う者。「おっあとふたつでリーチ! こりゃー咲夜さんのお菓子券は俺様のモンかなーっ!」と調子に乗った鴉天狗が、周囲の男衆から容赦なく袋叩きにされている。また関係ない数字を開けようとしたチルノが、大妖精にほっぺたを引っ張られて怒られている。

 橙とルーミアはといえば、どうやら順調にマスが開いているようだ。

 

「お前たちはなににするんだ?」

「ルーミアと一緒に白雫を狙ってます!」

「もしゲットできたら、お狐様にもお供えしますね!」

「……うん。ありがとう」

 

 だから胃が。

 ルーミアは言わずもがな、橙も橙で藍からなにを吹き込まれているのか、月見のことをとんでもなく偉い妖怪だと勘違いしているフシがある。来年もこの二人は、持ち前の純粋さで月見の胃を適度に刺激してくれそうだった。

 

「それじゃあ、今年一年世話になったね。来年もよろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします!」

「しまーす!」

「来年も、ウチの屋台をどうぞよしなにー」

「チルノとふみうも、よろしくね」

「しょーがないわね、よろしくしてあげないこともないわ!」

「ふ、ふみうって呼ばないでくださいってばあっ」

 

 今度は四番だった。

 ようやく月見のカードに、真ん中以外の穴が開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、お師匠! お世話になってますっ!」

 

 だから世話してないってば。

 というわけで、遂にこの席へやってきた。目下月見の頭を悩ませる最大の問題児である多々良小傘と、草の根妖怪ネットワークの三人組が一緒に座っている場所だった。小傘のお転婆な敬礼がきらりと光る。

 ほんのり酔いの回ったわかさぎ姫が、いつも以上にぽよぽよの笑顔で歓迎してくれる。

 

「あー、旦那様~。いらっしゃいませえ」

「やあ。楽しんでるかい」

「それはもう~」

 

 口振りも普段より一層穏やかで、半分寝てるんじゃないかと思うほど間延びしている。わかさぎ姫は酒に酔うと、ただでさえ気の長い性格がますます輪を掛けておっとりになるのだ。

 小傘がお膳を引っくり返しそうな勢いで膝立ちになり、

 

「お料理も大変美味しゅうございました! 不肖小傘、感服しております!」

「それはよかった」

 

 今日も今日とて我が道突き進む彼女はその顔をほどよい桃色にして、あいかわらずの情熱とエネルギーを全身にみなぎらせている。そこそこ酔っているのかもしれないが、元々の性格が性格だけにあまり違いはわからなかった。

 隣には赤蛮奇が座っており、こちらも普段と変わらぬジト目気味の無表情を貫いている。

 

「ええ、本当に。旦那様、今日はお招きいただき本当にありがとうございます。こんなに素敵な年越しははじめてです」

「でも影ちゃんは、もっとお肉食べたかったのよね~。いやしんぼー」

「そ、そんなことないってば!」

 

 影狼は四人の中で一番顔が赤くなっていて、耳や尻尾が魂を得たように主の感情を表現している。どうやら食べ足りなかったのは本当のようだが、冥界の掃除屋こと幽々子が徘徊を終えた今となっては一品残らず品切れだ。

 操の声。六十四。

 

「すっかり仲良くなったみたいだね」

「はぁい。小傘さんったらすごく面白くて、ぜんぜん退屈しないんですよぉー」

 

 小傘と草の根三人組は、宴会の当初から知り合いだったわけではない。一昨々日(さきおととい)に小傘をわかさぎ姫に軽く紹介したきりで、赤蛮奇や影狼とは今日が完全に初対面のはずだった。

 しかしそこは、誰とでもすぐ打ち解けてしまうわかさぎ姫の力と言おうか。どこに座ればよいのか迷う小傘を気さくに誘い、こうして一飯を共にしたならばもう立派なお友達なのだ。そのお陰か小傘も、弟子にしろなんだのと月見に迫ってくることなく行儀よく宴会を楽しんでいる。ひょっとするとわかさぎ姫は、目を見張るべき素晴らしい才能を持った妖怪なのかもしれなかった。

 ――そう、月見は完全に油断しきっていたのだ。

 月見の頭を悩ます問題児である小傘と、草の根妖怪ネットワークの問題児である赤蛮奇。この二人が酒の席で邂逅して、なんの化学反応も起こさないはずがなかったのに。

 

「ところで旦那様、小傘から話は聞きました。なにやら彼女、旦那様のお弟子さんを志願しているようで」

「……ああ、まあ、そんな話もあったかな」

 

 ――ちょっと待ってほしい。赤蛮奇の口からその話題を振られると、途轍もなく、どうしようもなく嫌な予感が、

 

「……はい。私の実力が至らぬばかりに、今年はお師匠を頷かせることができませんでした。ですが来年こそ、来年こそは必ずや……!」

「そこで私は考えたのです。彼女が旦那様のお弟子さんにふさわしい妖怪となるため、まずはこの私が、人をおどかすちょっとしたコツを伝授してみようかと」

 

 よんじゅうよんー!! という操の声が、なんだかとても遠くに聞こえた。

 

「えっ……よ、よろしいのですか!?」

「ええ。これでも私、人をおどかすことにかけてはちょっと自信があるの」

 

 月見は自分のカードから四十四を探して現実逃避している。

 

「な、なんと……! それは一体どのような奥義なので……!?」

「そうね……じゃあ、ちょっと私の頭を小突いてみてくれないかしら」

 

 どうやら最初のリーチが出たらしい。手を挙げて立ち上がったのは霊夢だ。輝夜と萃香が早速カードの交換を提案するも、即刻却下されてぶーたれている。レミリアだけがなぜか未だひとつもマスを開けられていないらしく、「こんなの絶対おかしいでしょお!?」と涙目で喚いている。

 

「で、では失礼して……えいっ」

 

 小傘が軽く拳を握り、こつんと赤蛮奇のこめかみあたりを小突いた。

 赤蛮奇の首が畳に落ち、胴体も倒れて恒例の殺人現場ができあがった。

 小傘、顔面蒼白で石化。

 

「――……」

 

 二十三。月見のカードにようやく三つ目の穴が開き、

 

「……ひっく」

 

 オッドアイの瞳にたっぷり涙を溜めた小傘が、ぶるぶる震えながら月見の裾に縋りついてきた。

 

「お、おじじょうっ……わ、わだじは、なんど取り返じのづかないごとをぉぉぉっ……!」

「あー、大丈夫だから。ほら赤蛮奇、悪ふざけはそのくらいにしなさい」

「ふふふ。どう、驚いたでしょう?」

 

 赤蛮奇の胴体が何事もなく起き上がる。転がっていた首を両手で抱えて膝の上に置くと、その表情は薄くしてやったりの笑みを含んでいる。小傘が呆気にとられながらぐずっと鼻をすする。

 

「自己紹介したでしょう、私は抜け首。首を外すのは基本スキルよ」

 

 およそ三秒の間があって、小傘はようやく自分がまんまとおどかされたのだと気づいた。

 

「……も、もおおおっ! びっくりしました! ほ、ほんとに、私もうダメかとっ」

 

 しかし、ヘコたれてもあっという間に立ち直るのが多々良小傘の強さであり恐ろしさでもある。ふくれ面と涙目を一瞬で吹っ飛ばし、

 

「ですが、それなら確かに人間をびっくりさせられそうです!」

「ええ。この奥義、伝授しましょう」

「はい! よろしくお願いしますっ!」

「まずはこんな風に首を外せるようになるのよ」

「わかりましたっ! うぐぐぐぐぐっ……外せません!」

 

 もうそっとしておこう、と月見は満場一致で匙を投げた。

 

「ひめ、影狼。とりあえず、来年もよろしくね」

「はぁい。来年は影ちゃんもー、もっとこっちに遊びに来て旦那様と仲良くしなきゃダメよー?」

「い、いや、私、こういうのはちゃんと節度のある関係が大事だと思うわけでしてっ」

 

 尻尾ぱたぱたと挙動不審になって、一体ナニを考えているのだろうこのわんこは。

 三十。操が告げる数字もそっちのけで、問題児二人は白熱したおどかしトークに没頭している。この邂逅が生み出すものは一体なんだろう。人間を真っ当な手段でおどかす純然たる妖怪か、それとも明後日の空を全力疾走で駆け抜けていく更なる問題児か。

 小傘と赤蛮奇の新年がどこへ向かっているのか、知っている者はまだ一人もいない。

 

 

 

 

 

 

 

「――さあさあ、そろそろリーチもいっぱい出始めるんじゃないかー? ろくじゅうきゅー!」

「よっしゃ来たあああああ!! リーチ、ルゥィィィィィチ!! ふははははどうだ見やがれやはり咲夜さんのお菓子券は俺様のも」

「殺せ」

「「「ラジャー」」」

「危ねえ!? ……させるものか、させるものかよぉ!! 俺はあの景品で、咲夜さんから二月十四日にチョコレートを手作りしてもらうんだ!! させるものかよおおおおおッ!!」

「「「殺せエエエェェ!!」」」

 

 山の男(バカやろう)共の乱闘が始まる。少女たちがみんなで冷ややかな視線を注ぐ中、月見が次にやってきたのは魔理沙とアリスの席だった。魔理沙は「ちくしょーぜんぜん開かないぜー」と自分のビンゴカードに文句を言っていて、アリスは死んだ魚の笑みを浮かべながら、掌に乗せた上海人形へ幽霊みたいにぶつぶつぶつぶつ話しかけていた。

 

「やあ」

「ん、おう月見か。楽しませてもらってるぜー」

「帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りた――あ、こ、こんばんは」

 

 正気に返ったアリスが慌てて両手を膝に戻す。掌の上海人形が真上に射出され、「シャバッ」とくるくる宙を舞う。

 なぜアリスがこんな大人数の宴会に参加しているかと問えば、もちろん魔理沙によって無理やり連れ出されたからだった。本当に、魔理沙と同じ魔法の森に居を構えてしまったのが運の尽きとしか言い様がない。こうやってあちこち連れ回せばそのぶん人見知りも早く克服できると、魔理沙当人は至って本気で思っているのだから尚更だ。

 

「大丈夫かい? この宴会は誰でも参加自由、帰るタイミングも自由だ。気にすることはないよ」

「え、ええ……景品でほしいのがあるから、これが終わったら帰るつもり……」

 

 空中で体勢を立て直した上海人形が、アリスのビンゴカードを月見の目の前まで持ってくる。中央含め三つまで穴の空いた列が二列あり、あと一歩でリーチといったところだった。

 

「酒虫かい?」

 

 上海人形が首を振り、

 

「白雫。前々から噂は聞いて気になってたんだけど、ほら……私、お店で予約してまで買う勇気とかないし……」

 

 なるほど、確かに。アリスがお菓子ほしさに里のど真ん中まで出掛けていって、お店の人に物怖じせず注文する姿は想像できない。

 魔理沙が自分の猪口に酒を注ぎながら、

 

「でも、お前の人見知りもだいぶマシになったよな。ちょっと前だったら、こんなトコ来たら目ェ回してぶっ倒れてたんじゃないか?」

「ま、まあ……自分でも、少しは慣れてきたと思ってるけど……。っていうか、あんたが無理やり連れてきたんでしょっ」

「うははは。来年もあちこち連れ回してやるから、楽しみにしてろよー」

「や、やめてよぉ!?」

 

 魔理沙は、酒が入っているにしても今日は随分機嫌がよさそうだった。それが宴会を楽しんでいるというよりも、宴会を終えたあとに待っている『なにか』が、心から楽しみで仕方ない風に見えたので。

 

「魔理沙は、なにかいいことでもあったのかい」

「ん? ……ま、まあな。へへ、日頃の行いがいいからかもなっ」

 

 アリスの瞳が目聡い光を放った。

 

「魔理沙ったら、お正月に霖之助さんと二人きりで宴会するらしくって。ここに来るまではもうこっちが恥ずかしくなるくらいデレデレ」

「ひょああああああああああっ!?」

 

 恐らく、叫んだ魔理沙本人も想定外な大声だったはずである。

 いつの間にか、男衆の乱闘がすっかり静かになっている。ゲーム進行の妨げになるおバカたちを、藤千代がうりゃっと拳骨で粉砕したのだ。お陰で魔理沙の絶叫は痛恨と言う他ないほど座敷中に響き渡り、結果あたり一面水を打ったように静まり返り、ほぼ全員分の視線が魔理沙たった一人に注がれるという絶体絶命の状況ができあがった。

 魔理沙の顔面にボッと火が点く。私知ーらない、とアリスが上海人形と一緒にあっちを向く。

 

「あ、あはは。も、もう、変なこと言うなよアリス。びっくりしたじゃないか、あは、アハハハ」

 

 霊夢がひどく眉根を寄せている。

 

「いきなりなによあんた」

「な、なんでもない! なんでもないってば! だ、だからほらビンゴ再開しようぜ! な? な!?」

 

 魔理沙が必死に両手を振って訴えるも、残念ながら痛恨の悪手だったと言わざるを得ない。

 なぜならこの場には、スキを見せればすぐさま満面の笑顔で切り込んでくるような少女が何人も、

 

「魔・理・沙・さーん♪ 清く正しい射命丸です! ちょっと詳しくお話」

「あーあー来るな寄るなあっち行けばーか!! ばーかばーか!!」

「やや、これはあからさまに怪しいですねえ!」

 

 自分が散々いじられたいいウサ晴らしになると感じ取ったのだろう、文が籠から解放された渡り鳥のごとくいきいきと魔理沙に肩を組んだ。顔面をべしべし叩かれてもまるで怯まず、

 

「アリスさん、一体なんの話です?」

「……えっと、魔理沙が正月に霖」

「言うなばかああああああああああッ!!」

「私にだけでいいのでこっそり教えてくださいよぉ。大丈夫です、プライベートに関わることは記事にしませんから。ただ、私のゴシップセンサーがビンビンに反応してましてですね」

「ぜぜぜっ絶対に言わないからな!? お前だけは絶対に信用ならんッ!!」

「あやや、ひどいですねえ。――で、森近さんがどうかしたんですか?」

「ぶふぉあ!?」

「さあさあひと思いにゲロっちゃいましょー!」

 

 文はとても楽しそうである。それ自体は大変結構なのだが、いよいよもって追い詰められた魔理沙が涙目で震え始めていて、

 

「う、ううう、うううううっ……!!」

「おや、どうしたんですか八卦炉なんて出して。あっはっはこんなところでマスタースパークなんて撃ったらお屋敷が壊れちゃいますよだから落ち着きましょうねえちょっと!? ごめんなさいごめんなさい言い過ぎました、だからスト――――――ップ!?」

 

 つい今し方男衆が沈められたばかりだというのに、そんなに大声で騒ぎ散らしたら、

 

「――魔理沙さーん? 文さーん?」

「「ひっ」」

 

 鬼。

 

「てりゃあっ」

 

 

 

 

 

 

 

「――はーい、みなさんお待たせしましたー! 操ちゃん!」

「あたぼーよ! なのじゃ!」

 

 藤千代の司会でビンゴ大会が再開される。あれだれ大騒ぎだった座敷が今は適度な賑わいで落ち着いており、ゲームの進行を妨げ藤千代におしおきされた者たちが、みんな隅っこに集められて仲良く畳と抱擁を交わしている。魔理沙と文も、頭にたんこぶを作って転がっている。文は完全に自業自得だからいいとして、魔理沙は若干不憫な旅立ちだった。

 しかし考えようによっては、気絶したお陰で反ってこれ以上の追及から逃れられたともいえる。せめて正月は、彼女が霖之助とよい思い出を作れればと祈る月見だった。

 

「まったく、あんたはほんと行く先々で騒ぎを起こすねえ」

「私がやってるんじゃないぞ」

 

 さて所は変わり、月見は隣から神奈子の酌を受けている。ということはつまり尻尾が諏訪子の抱き枕にされているのであり、向かいでは早苗がオレンジジュースを、志弦がリンゴジュースをコップでちびちびと傾けている。

 守矢神社の席である。

 

「でも、わたしゃあ月見さんの人柄もあると思うなあ」

 

 十八。志弦が自分のビンゴカードに穴を開けながら、

 

「月見さんが来ると、空気がはなやぐっていうかさ。周りを開放的にするもんがあるんじゃないかと思うわけ」

「みんながはじめから元気だからじゃないかい」

「その元気も、やっぱこう、開放する相手ってもんがあってこそでしょ? そう考えるとちょうど、なんでも受け止めちゃうお狐さんがここに一人いるんだよねえ」

 

 受け止めているというか、向こうから問答無用で突撃してくるため受け止めざるを得ないというか。

 早苗が二度頷き、

 

「わかるわかる。月見さんがいると、なんかついつい素の自分が出ちゃうというか」

「お陰でここに遊びに来れば、いつでもかわいい子がいっぱいってなわけさ。いやー眼福眼福」

「そんなおじさんみたいな……」

「あー。まあ一応、おじさんも経験済みってことで」

 

 志弦はあの日以降も、夢の中で『神古』の歩いてきた道を辿る旅を続けている。

 ただ、能力が目覚めた当初と比べると、どういうわけかあまり上手く行かなくなってしまった気がするという。途中でふっと目が覚めてしまったり、違うご先祖様の夢だったりが今のところ続いていて、あのときのように思い通りの旅はなかなかできていないと。きっとあのときが特別だったんだろうね、と志弦は笑って言う。秀友にせよしづくにせよ、代々どんな夢を見るかまでは制御できない能力だったから。

 

「ご先祖様の人生を、夢で経験する能力かあ……」

 

 早苗が指先ひとつまみ分の苦みで肩を落とし、

 

「志弦、術の扱いとか私よりすっかり上手くなっちゃって……先輩巫女として複雑です……」

「いやー、私のはほら、神道由来の術じゃないから。巫女としては早苗のがぜんぜん上だし、奇跡なんて起こせないし」

「修行頑張りまーす……」

 

 一方で、神奈子は歯が覗く不敵な笑みを光らせる。

 

「こないだちょっと見せてもらったけど、ありゃあそのへんの天狗よりよっぽど達者に風を使うね。雨風の神として嬉しい限りだよ」

「……」

 

 秀友があの御老体から継いだという風を、志弦は一体どこまで呼び覚ましているのだろう。今でも感覚を澄ませれば、志弦の周りでごく微小な風がゆるりと巡っているのを感じる。意識しているわけではなく、彼女という陰陽師(・・・)の在り方が自然と風を生んでいるのだ。

 あの御老体と同格の術師なんて、歴史を(ひもと)いたところでそう何人と名が挙がるものではない。

 まさかあの秀友が、御老体からすべての奥義を授かったとも、授けることを許されたとも考えづらいけれど。

 

「……志弦は、幻想郷に来てよかったかい」

「……うん」

 

 問えば、すぐに笑顔が返ってきた。

 

「文句なんて、ひとつもないよ」

 

 そうして彼女は顔のパーツをすべて線にして、どこか垢抜けなくも人懐こい、野山を駆け巡る子どもがそのまま大人になったような純朴さで言うのだ。

 月見の記憶に決して色褪せず刻まれた、あの男のように。

 

「――ま、これからも末永くよろしく頼むわ。ギン(・・)よ」

「……からかうんじゃないよ」

「うへへ」

 

 ご先祖様の記憶を、継いだからなのだろうか。今の志弦がこうして時折は、あの男の手酷い生き写しに見えてしまってハッとさせられる。たとえ姿と年齢が変わらずとも、彼女はもうなにも知らなかった頃の人間の少女ではないのだ。なんとか表情を変えずそう返したけれど、志弦には完全に見透かされてしまっていた。

 操の威勢のよい大声に救われた。

 

「よっしゃー、つぎいくぞぉーっ!」

 

 ふと見回せば、いつの間にかビンゴにあと一歩と迫った少女がちらほらと増えていた。一番乗りの霊夢をはじめ、パチュリー、はたて、ぬえ、大妖精、ルーミアが立ち上がっている。月見のカードはリーチになる気配すらないけれど、もうそろそろビンゴが出るかもしれないなと思ったまさにその直後、

 

「ごじゅうにーっ!!」

「――あ、ビンゴ」

 

 その一言で、座敷がなにか想定外の事件でも起こったようにどよめき立つ。リーチで立ち上がっている者がまだそう多くない以上、声の出処はすぐに知れた。さして嬉しそうな素振りも見せず淡々と手を挙げたのは、

 

「悪いわねみんな、どうやら私がイチ抜けみたい」

「霊夢カード交換しよ――――――ッ!!」

「却下ァ!!」

「ぶ――――――――ッ!!」

 

 座敷を揺るがす萃香の地団駄もどこ吹く風、博麗霊夢が席と席の合間を縫って悠々と前に歩み出た。藤千代にカードを渡し、

 

「はい。こういうことでいいんでしょ」

「……はい、確かに! 霊夢さんが一番乗りですねー、おめでとうございます!」

「好きな景品を選んでよいぞー」

 

 霊夢を祝福する拍手はまばらで、それ以上に狙っている景品を取られてしまうかもしれないと固唾を呑んでいる少女が大半だった。萃香が節操なく体を揺らして悔しがっている。

 

「うー、霊夢いいなあー……」

「でもまあ、あいつならお食事券とか白雫だろうし大丈夫じゃない? まだまだこれからだよ」

「……そっか! それもそうだね!」

 

 勇儀の言う通り、食べ物第一主義な霊夢なら少なくとも月見のお昼寝券は選ばないだろう。最も確率の高いのがお食事券、次点が白雫、次いで咲夜のお菓子券か酒虫といったところか。月見と同じ推測に至ってほっと安堵する少女、もしくは両手を合わせて神に祈り出す少女、たかがゲームになにをそこまでと肩を竦める少女、座敷が三つの反応に分かれる中で霊夢は口を切る、

 

「んじゃ、私は当然――」

 

 と、そこまで言いかけたところでふとその先を噤む。急に大真面目な顔をして何事か考え込み、探るような口調で藤千代へ尋ねる。

 

「……ちなみに、訊くんだけど。景品って、どう使うかは取った人の自由よね?」

「? ええ……でも、悪いことしちゃダメですよー?」

「そんなことはしないわ。ただ、」

 

 また口を噤む。霊夢はひと呼吸、喉まで出かかっていた言葉を緩いため息に変えて吐き出して、

 

「――じゃ、ここは月見さんのお昼寝券にするわ」

「「「うええぇ――――――――――ッ!?」」」

 

 とんでもない大騒ぎになった。お昼寝券を狙っていた萃香や輝夜、フランといった面々が一斉に雪崩と化して霊夢に押し寄せ、

 

「ちょっとなんで!? なんで霊夢がお昼寝券なの!? なんでぇ!?」

「そうよ、それ食べ物じゃないのよ!? 正気なの!?」

「れーむズル――――――い!!」

 

 月見も、まさか霊夢がお昼寝券を選ぶとは予想外で驚いている。もちろん霊夢だからといってなにか問題があるわけではないけれど、特別もふもふ好きという話を聞いた覚えもなし、白雫や酒虫などの魅力的すぎる景品を捨てるほどだとは考えづらかった。

 

「へー、霊夢が月見さんのお昼寝券……? 意外だねえ」

 

 志弦も寝耳に水な様子だ。隣の早苗の姿がいつの間にか消えており、どうやら前線で霊夢を詰問する雪崩に加わっているらしい。四方八方から詰め寄られすぎて、月見の位置からは霊夢の姿がほとんど見えない。

 

「あーもーうるさいってば!?」

 

 霊夢がお祓い棒を振り回して烏合の衆を蹴散らし、

 

「別に嫌がらせしてるわけじゃないわよ! これはこれで私なりの使い道があるってだけ!」

「なにに使うってのさ!? ……まさかっ!?」

「はいはいなにに使おうが私の勝手でしょ! ほら散った散った、御札貼っつけるわよ!?」

 

 これがビンゴゲームである以上、霊夢より早くビンゴになれなかった己が不明を悔いる他ない。

 蹴散らされた烏合の衆が未練タラタラで解散し、藤千代の苦笑交じりの司会でゲームが再開される。太陽はとうに今年最後の役目を終え、外はただ一色の夜の帳で満たされている。すでにトリを迎えたような大騒ぎだったが、あと四人のビンゴが出るまでゲームはまだまだ終わらない。

 なお席に戻った霊夢であるが、月見に聞こえぬよう勇儀とこんなひそひそ話をしていたそうな。

 

「……で、実際なにに使うわけ? ああ言うってことは、まさか自分で使うわけじゃないんでしょ?」

「まあね。……この宴会にめちゃくちゃ参加したがってた可哀想なやつが一人いるから、お土産も必要かなって思っただけ」

「……なーるほど、なるほどねー。あっはっは、そりゃあいいや。いや、あんたもなかなかやるねえ――」

 

 ――その後のゲームについて言えば。

 二番目でビンゴになったぬえが白雫、三番目のルーミアが酒虫、四番目の大妖精が咲夜のお菓子券、五番目の水蜜がお食事券という結果だった。

 ぬえは早速幽々子に笑顔で肩を叩かれ、水蜜は命蓮寺のみんなを食事に誘い、大妖精についてはフランの提案もあってか、紅魔館で咲夜特製のお菓子パーティーを開くということで落ち着いて。

 そしてルーミアについては、せっかく貴重な酒虫を「わたし飼い方とかよくわからないので、お狐様にお譲りしますっ」とつぶらな瞳で差し出してきて、これから水月苑で毎日宴会ができるなどと、一部の少女たちを大層沸き上がらせての終幕となるのである。

 無論山の男衆は、畳に拳を落としながら血の涙を流していた。

 

 

 

 

 ○

 

 

 夜はどれほど更けただろう。ビンゴ大会が終わったあとも幻想郷の住人たちはどんちゃん騒ぎを続け、星空の下で弾幕ごっこに興じる者、温泉を堪能する者、笛を吹く者と三味線を弾く者、その音色に合わせて朗々歌う者と優雅に舞う者、呑みすぎて眠ってしまう者、酔った勢いで服を脱ぎだし藤千代に捻り潰される者と、呆れるほどの喧騒はいつまで経っても途切れることを知らなかった。輝夜はあいかわらず妹紅にいじられてあんぎゃあ!と憤慨しているし、レミリアとフランはまたケンカして天井近くをぐるぐる飛翔、べろんべろんに酔っ払った美鈴はミスティアと変な歌を歌い、萃香と勇儀は未だ衰え知らずの呑み比べ、ぬえは白雫を幽々子に狙われあちこち逃げ惑い、雲山は妖精たちに頭をよじ登られて遊具化、おバカな相方についていけずやさぐれた大妖精を白蓮が必死に慰めて、星はなぜかナズーリンに説教されて涙目、わかさぎ姫はたんこぶ作って気絶、赤蛮奇の生首は影狼のおもちゃ等々――幻想郷ではどれもありふれた光景なので、騒ぎを止めようとする者は誰一人としていない。

 とはいえ一方で、夜が更けるにつれだんだんとお開きの空気が漂い始めてもいた。その最たる理由が、ちらほらと御暇する者たちが出てきたことだった。たとえばビンゴ大会終了直後、精魂疲れ果てたアリスが魔理沙のほうきで運ばれていった他、霊夢は初日の出とともに行う大切な神事のため一時間ほど前に帰宅、守矢神社の面々も似たような理由ですでに姿はない。それ以外にも年明けから用事のある者たちが、頃合いを見計らってぽつぽつと宴を後にしている。

 

「いやー、今年もいよいよおしまいじゃねー」

 

 挨拶回りを終えた月見も、今は自分の席に戻ってのんびり酒を傾けている。正面の操が、勇儀にも負けない大盃をあっという間に呑み干している。さすがは鬼とタメを張るうわばみの一族だけあって、この少女が酔い潰れてダウンする姿を、月見は未だかつて一度も目にした覚えがない。

 

「そうですねー。なんだかあっという間でした」

 

 隣の藤千代に至っては、どれだけ呑んでも頬に染みひとつの赤すら差す気配がない。品よく着込んだ着物姿もあって、どこかのお茶会に参加した雅なお嬢様らしく見えないこともない。

 

「もうすぐ年も替わるでしょうし、そうしたらぼちぼちお開きですねー」

「そういえば今って何時じゃー? 新年はやっぱみんなで盛大に迎えなきゃねっ」

「ああ、すまん、時計が要るね……」

 

 日頃からあまり使われないこの部屋に、わざわざ時計なんて置いていないのだった。下から持ってこようと月見が腰を上げかけると、折りよく咲夜が一階から戻ってきた。

 

「咲夜!」

「あ、はい。どうかされましたか?」

 

 呼ぶと、咲夜は小走りで素早く反応してくれる。今日は昼間のうちから百人分以上の料理の支度、そして今は百人分以上の後片付けとまさに一日中働き詰めのはずなのだが、彼女は瀟洒な微笑みを欠片も崩さずケロリとしている。

 呼んだ理由は他でもない。咲夜はいつも、アンティークな銀の懐中時計を携帯している。

 

「そろそろ年明けだと思うんだけど、いま何時かな」

「あ、そうですね。ええと……」

 

 咲夜はポケットから懐中時計を取り出し、蓋を開けて、

 

「……あ」

「ん?」

「…………あの、ですね。その」

 

 咲夜の瀟洒が、若干気まずく引きつった。

 そういうことだった。藤千代と操も即座にその意味を理解し、名状しがたい真顔で口を一文字に結び閉ざす。なにか空気が変わったのを感じたのか、周りの少女たちも一人また一人と騒ぐのをやめ、やがて座敷中の視線が怪訝のもと咲夜へ注がれるようになる。

 言ってくれ、と月見は目で促した。たとえそれが、新年早々(・・・・)少女たちに痛恨という感情を突きつけてしまうとしても。咲夜は頷き、歯切れ悪くもみんなへ届くよう声量を上げて、

 

「……零時十三分……もう、新年になってます……」

「「「……………………」」」

 

 沈黙した。

 どうしようもないほど沈黙した。身じろぎひとつできないような無音が座敷中を支配した。みんなでわいわい騒いでいるうちに人知れず最高の瞬間を逃していたという、酔いも一発で消し飛ぶ大変間抜けな有様であった。

 操が葬式みたいにしょんぼりしている。いま彼女の脳みそは、時間を十四分ばかり巻き戻す方法を一生懸命創造しようとしているに違いない。だが、過ぎ去った時は二度と戻ってこないのが世の定めである。時を操る能力を持つ咲夜ですら、時間の流れを止め、緩急を自在に制御できても、巻き戻すことだけは決して許されていないのだから。

 誰しもが操の決断を待っている。せっかくめでたい新年を迎えたのだ、この沈痛な空気だけはなんとしても打破せねばならぬ。操はぷるぷる震えながら必死に考えて、考えに考え抜いて、いきなり立ち上がるとヤケクソな万歳とともに叫ぶのだった。

 

「はっぴーにゅういやああああああああああっ!!」

「「「い、いえ――――――――っ!!」」」

 

 ぐだっぐだであった。

 そんなこんなで有終の美を無理やり飾り、水月苑にめでたい新年がやってきたのだった。

 十三分遅れで。

 

「じ、じじじっ時間の流れなんて所詮相対的なもんじゃしー!! いまこの瞬間が儂らの零時零分零秒じゃしーっ!! あははははははっぴーにゅーいやあああああっ!! いえーいいえーい! オラそこの野郎ども声出せ声ぇ!!」

「お、おぉー……」

「ゴリ押しじゃねーか」

「やっぱ天魔様は天魔様ですわ」

「むしろ安心した件」

「コンチクショ――――――ッ!!」

 

 とりもなおさず台無しである――が、これはこれで、否、これだからこそ幻想郷らしいのかもしれないなと月見は思った。肝心なところで抜けていて、締まらなくて、なんとも呆れるばかりで――故にかけがえなく愛おしい、これが今の幻想郷の姿なのだろうと。

 

「ギ――――――ン!!」

「つくみ――――――っ!!」

「うおっと」

 

 両脇から輝夜とフランが体当たりしてくる。ほどよく酔いが回りますますお転婆になった二人は、新年一発目から百点満点文句なしの笑顔で、

 

「「今年も、よろしくねっ!」」

「……ああ」

 

 これからの日常も、こうして花開いていけばと思う。無論、春夏秋冬よいことづくめとはいくはずもないけれど。去年という年がそうだったように、時には躓いて転んでしまったり、高い壁にぶつかってしまうときもあるけれど。

 それでもこうしてみんなの笑顔を前にすると、月見は掛け値なしに信じられるのだ。

 

「今年もよろしくね、みんな」

 

 つられてにじんでしまう、どうしようもない笑みとともに。

 

 

 ――新しい一年が、幻想郷にとって佳きものとなりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第141話 「進撃のお年玉戦線」

 

 

 

 

 

「――月見様。こちらは終わりました」

 

 まだ夜が明けて間もない幻想郷の曙――とある屋敷の広々とした茶の間にて、ふいに少女の透き通った声が通る。

 人間ではなかった。合計九本もの見事な黄金色の尻尾をたなびかせ、頭には獣耳の形に尖った帽子を被っている。狐である。今しがたまで作業していた『それ』をテーブルの上に置くと、向かいから別の声が答えた。

 

「ああ、ありがとう。こっちももうすぐだよ」

 

 そこには男の姿があり、彼もまた人間ではなかった。こちらの尻尾はくすみのない銀色一本のみで、頭はなにも被っておらず獣耳があらわになっている。やはり狐である。手元でぱっくりと口を開けた『それ』に、軽く丸めた紙らしきものを突っ込んでいっている。奥まで入ったのを確認して口を閉じ、少女と同じようにテーブルへ置く。

 テーブルの上では、多種多様な色と柄であしらわれた『それ』が所狭しと並べられている。正確な数はいまひとつ不明だが、どうやら十や二十という話ではないらしい。

 

「これだけあると、壮観ですね」

「まさか、『これ』をこんなにも用意しなきゃいけない日が来るとはね……よし、これで終わりだ」

 

 男が最後の『それ』へ同じように紙を詰め、すべての作業は完了した。

 

「手伝ってくれてありがとう」

「いえ、とんでもないです」

 

 すると男はこしらえ終えたばかりの『それ』をひとつ手に取り、少女に向けてまっすぐ差し出した。

 

「それじゃあまずは、お前に」

「へっ、」

 

 今までのやや低く落ち着いた印象とは違い、裏返りかけたようなあどけない少女の声だった。少女はまず三秒呆け、それからわたわたと両手を振って、

 

「い、いえいえそんなっ、私はそんな歳では」

「受け取ってくれ。お前にはいつも世話になってばかりだから、私もちょっとくらいなにかしないと据わりが悪いんだ」

「で、ですが」

「要らないと言っても、これが別の物に替わるだけだよ」

 

 男からやや強引な口調で言われ、押し切られた少女はまるで分不相応な栄誉を(たまわ)るように、『それ』をしずしずと両手で受け取った。小さく微笑み、

 

「……では、これは記念として末永く納めておきますね」

「いや、普通に使っていいんだぞ?」

「そんなそんな。勿体なくてとてもできません」

「私の知ってるお年玉と違うなあ……」

 

 ともあれ、そういうことであった。

 

「さて、何人来るかね」

「来るでしょう。みんな楽しみにしてましたから」

 

 テーブルの上にずらりと並べられているのは、外の世界の俗称でいう『ポチ袋』――つまり男と少女が詰め込んでいた紙とはお札であり、お金を入れている以上これはすなわちお年玉である。

 めでたい新年を迎えたのも束の間、子どもたちの期待いっぱい夢いっぱいな眼差しが次々と迫り来て、大人の財布を軽くしていってしまう恐怖のイベント。

 

 進撃のお年玉戦線が、この水月苑で幕を開けようとしていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 まず言い出しっぺとしては、博麗霊夢の名を挙げておく。

 時は遡ること大晦日の大宴会、ビンゴ大会を終えて夜も一層深まった頃。酔いもそこそこ回ってきたらしい霊夢が、後ろから月見の背中に覆い被さってこう言ったのだ。

 

「月見さぁーん。月見さんはぁ、当然準備してくれてるわよねえー」

「? なんの話だい」

「そりゃーもちろん、あれですよぉー」

 

 うっすら赤みの差した顔を月見の肩の上に乗せ、霊夢はえへへぇーと年相応にだらしなく笑んでいる。

 

「ギーン、私も酔っ払っちゃったー♪ むぎゅ」

 

 ちゃっかり便乗してこようとする輝夜を月見は尻尾で押し返し、

 

「それだけじゃさすがにわからないなあ。ヒントをくれ」

「お正月に欠かせないもの!」

 

 ふむ、と顎をさすりながら思考を始める。お正月に関係があり、霊夢がこうしてせがんでくるほど楽しみにしているもの。まっさきに思い浮かんだのは、おせちやおもちなどの正月料理だった。正月に欠かすことのできない伝統料理の数々を、藍たちが張り切って支度してくれているのは霊夢も気づいていよう。なればこそ食い意地の張った彼女は、正月もめざとく相伴に(あずか)ろうと考えているのではないか。

 とりあえず候補に挙げておくと、霊夢が二つ目のヒントを口にしてくれる。

 

「月見さんみたいな大人がぁ、私たちにあげなきゃいけないものよー」

「……ああ、なるほどね」

 

 答えを確信すると同時に、あまりに霊夢らしくて苦笑した。

 

「お年玉か」

「せいかぁーい!」

 

 霊夢が元気に万歳をした。

 なるほど、お年玉。もはや説明不要なほど定番中の定番、子どもたちにとっては最果てのない夢と希望に満ちあふれた、初詣よりも正月料理よりも大切な正月イベントである。

 少し離れたところで、「あーっ!」とフランが大声で反応した。

 

「私知ってるよ! 大人の人たちからお金もらえるんだよねっ! 私も月見のオトシダマほしいー!」

 

 さてこれを皮切りにして、月見の全身にそこら中から期待の視線が刺さり始める。魔理沙や早苗などれっきとした未成年から、幽々子や操などやや疑わしい者まで、どうやら興味のある少女はなかなか多いと見受けられる。とりあえず輝夜、お前は私より年上なんだからそんなきらきらしてもダメだ。

 霊夢がまた月見の背に被さって、

 

「というわけで、よろしくねっ」

「……わかったよ」

 

 人数が人数だけにどれほどの出費になるか気掛かりではあるが、幸い貯え自体はまだまだ余裕がある。幻想郷に戻ってきてはじめての正月なことだし、ここはみんなの期待に応えるのも一興だろう。

 

「明日は宴会明けだし、そうだね……二日の朝からここにおいで。ある程度数を用意しておくから、なくなったらその時点で終了としようか」

「余ったら私にぜんぶくれる!?」

「そんなわけないだろう。一人ひとつだよ」

「ぶーぶー」

 

 ぶーたれてもダメなものはダメだ。それを認めたら最後、霊夢なら夜が明ける前から水月苑で仁王立ちし、やってきた相手を片っ端から撃退して「わーいこんなに余っちゃったわね!」なんて真似をやりかねない。

 はい、と赤蛮奇が静かに手を挙げ、

 

「旦那様、妖怪はどこまでが子どもでしょうか。私もぜひ頂戴したいです」

「自分が子どもだと思うのなら、いいんじゃないかい」

「なるほど、では私はぴちぴちの子どもなので大丈夫ですね」

 

 ノーコメント。

 レミリアや幽香や影狼など、オトナを志す一部の少女たちが怯んだが、どうするかはすべてみんなに委ねようと思う。自分を子どもと思っていようがいまいが、水月苑までやってくれば平等にあげるし、来なければ無理に押しつけはしない。ただし輝夜、お前は以下略。

 霊夢はもはや、うきうきしすぎて小躍りしそうなくらいだった。

 

「じゃあ、二日の朝になったらすぐ来るから! いの一番に来るから! 楽しみにしてるわねっ」

「はいはい」

 

 そんなわけで、お年玉戦線の火蓋が切って落とされたのである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「月見さ――――――――ん!!」

 

 そういうわけであるので、この日最初に突撃してきたのはやはり霊夢だった。

 

「いらっしゃい」

「いらっしゃったわ!」

 

 月見が玄関まで出迎えに行くと、霊夢は顔中が初日の出みたいに光り輝いていた。こうもはちきれんばかりの希望に満ちあふれた彼女を見るのは、神社の賽銭箱にお札を入れたあのとき以来だろうか。霊夢の背後で、ぶんぶんぶんぶんと猛烈に振り回される獣の尻尾が見えた気がした。

 

「ちゃんと準備しておいたよ」

「月見さん好き!」

 

 霊夢が好きなのはお金をくれる人、もしくはご飯を食べさせてくれる人であり、それ以外はみな有象無象の生命体である。

 ポチ袋を受け取った霊夢は、もうこれ以上は我慢しきれず爆発しそうになりながら、

 

「あ、開けてみていいっ?」

「どうぞ」

 

 袋の口を開けて中身を確認し、一度数えて真顔になり、二度数えて口元がにやつき、三度数えればもう満開御礼の大輪を咲かせて、

 

「月見さん大好きっ!!」

「お気に召してもらえてなにより」

「困ったことがあったらなんでも言って! 一回くらいなら力になってあげるからっ!」

 

 あいかわらず現金だなあと月見は思う。そのうちお金に目がくらんで、「こうすれば参拝客がいっぱいでうっはうはですよ」みたいな詐欺に引っ掛かって大損するのではなかろうか。

 次のお年玉を求めてすっ飛んでいった霊夢の背を見送りながら、博麗神社の行く末がやや心配になる月見であった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「月見ぃ――――ッ!!」

 

 それから三十分ほど後、今度は魔理沙が玄関をブチ抜く勢いでやってきた。

 

「いらっしゃい」

「いらっしゃったぜ!」

 

 エネルギッシュに腕を組んだ仁王立ちで、どこかのお金大好き巫女と同じことを言う。後ろには、今日も今日とて無理やり連れてこられたとみえるアリスの姿もある。

 

「アリスもいらっしゃい」

「え、ええ……」

 

 まだ宴会の疲れが抜けきっていないのか、アリスはあまり元気がなかった。呑兵衛たちの大騒ぎに巻き込まれたせいで精魂枯れ果て、きっと二週間くらいは家でひっそりするつもりだっただろうに。挨拶もままならない主人の代わりに、肩の上海人形が仁王立ちで魔理沙の真似をしていた。

 

「さっき香霖堂の近くで霊夢に会ってな。お年玉がもらえるって聞いてやってきたぜ!」

 

 あの紅白お年玉ハンターは、どうやら香霖堂にも目をつけたらしい。「ほらほら月見さんはこれだけくれたのよ、当然霖之助さんだってくれるでしょ?」と詰め寄られる店主の姿が脳裏に浮かんで、月見は若干申し訳ない気分になった。

 さておき。

 

「お年玉だね。はい、用意してあるよ」

「おう、ありがたくいただくぜ!」

 

 魔理沙にポチ袋を渡すと、彼女は当たり前のようにいきなり中を覗き、

 

「おっ。ほほー、なかなか太っ腹じゃないか。さすが月見だ」

「あのねえ魔理沙……せめて開けていいか断りなさいよ」

 

 アリスがため息をついて呆れるがまるで歯牙にも掛けない。ここだけ切り取ると無遠慮で礼儀知らずな少女に見えるけれど、ポチ袋をしまった魔理沙は人懐こく笑って、

 

「へへー、ありがとなっ。有効活用させてもらうぜ」

 

 ――まあ、決して悪い子というわけではないのだ。

 この笑顔に霖之助も毎年やられてるんだろうなと思いながら、月見はアリスにもポチ袋を差し出した。

 

「はい、アリスも」

「ふえっ」

 

 アリスは月見の接近に驚いて二歩後ずさる。しどろもどろになりながら両手を振り、

 

「い、いえ、私はいいわよ。なんだか悪いし、お金も特に困ってないし……」

「そうかい? まあ、無理にとは言わないけど」

 

 そのとき、魔理沙が待ってましたと言わんばかりに金の瞳を光らせ、

 

「なんだアリスいらないのか? よーし、それじゃあそいつも魔理沙ちゃんがもらって有効活用」

「アリス、使わなくてもいいからもらってくれ。このままだと魔理沙の思う壺だ」

「上海!」

「シャンハーイ!」

「あー!?」

 

 アリスの指示を受けた上海人形が、月見と手から素早くポチ袋を確保した。魔理沙は両足で地団駄を踏み、

 

「なんでだよぉ! 必要ないんだったら、必要としてるやつに渡すのが合理的ってもんだろ!?」

「あなた、さてはこれが目的で私を連れ出したわね?」

「うん。……あっ待った待ったこれはちょっとしたジョークってやつで、だからその物騒なハンマー持った人形はしまってくれると嬉しいなー!?」

 

 アリス謹製の武装人形軍団が、不届き者を追いかけ回して庭でぐるぐる弾幕ごっこを始める。早速わかさぎ姫が巻き込まれて悲鳴を上げているが、とうに神経が麻痺した月見は今日も賑やかだなあとしか思わない。

 アリスは軽く咳払い、

 

「……と、とりあえずありがとう。大切に使わせてもらうわ」

「ああ。魔理沙に盗られないようにね」

「それはもちろん」

 

 破顔一笑で即答してくるあたり、アリスもだんだんと幻想郷らしいしたたかさを身につけ始めているようだった。

 なお弾幕ごっこはほどなくして決着し、敗れた魔理沙は糸でぐるぐる巻きのサナギみたいになって連行されていった。逞しい成長を遂げたアリスの背にとある白狼天狗の少女が重なったが、まあ気のせいだろうな、と月見は深く考えないことにした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ギ――――――ン!! 私もお年玉」

「お前はダメだ」

「なんでぇ!?」

 

 次に天真爛漫やってきたのは、今日もお転婆街道まっしぐらの蓬莱山輝夜だった。だんだんリアクションが紫に似てきた彼女は月見の胸元をぺちぺち叩き、

 

「な、なんでどーして!? ここに来たらあげるって言ってたじゃない! すっごく楽しみにしてたのにぃ!」

「だってお前、私より年上だろう。むしろみんなに配らないといけない立場じゃないか?」

 

 普段の姿ばかり見ているとつい忘れがちだが、輝夜は元より不老長寿の月の民であり、確か永琳共々、幻想郷の妖怪など足元にも及ばないぶっちぎりの年長者だったはずだ。年齢だけ見ればむしろ月見がもらう側である。

 うぐ、と輝夜はたじろぎ、

 

「……こ、心はまだまだ子どもだもん! こういうのは実際の歳じゃなくて、」

「せんせー、お年玉ちょうだいなーっ」

「ああ、いいよ。はい」

「!?」

 

 一緒にやってきた妹紅には、快くお年玉を渡す。輝夜が頬を膨らませてぷるぷる震え始める。それを見て月見ははたと思い出す、

 

「ああ、そうだ」

 

 ポチ袋をもうひとつ、今度は輝夜へ差し出す。輝夜の顔がぱああっと光り輝いて、

 

「これは鈴仙の分だよ。悪いけど渡してやってくれ」

「あ、はい。……なんで!? 私の分は!? 私の分はーっ!?」

 

 ううううう!! と癇癪(かんしゃく)を起こして月見の背中に飛びついてきた。肩のあたりをぽかぽか叩かれるほどよい振動が背を包み、思わず「もうちょっと上……」とこぼれそうになる。

 さて、そろそろ真面目に考えてみるとしよう。

 輝夜はなぜ、こうも必死になってまでお年玉をほしがっているのだろう。元が高貴で裕福なお姫様だし、今でも金銭にはまったく困らない生活をしているはずだから、駄々をこねてまで執着するとはどうしても考えにくいのだ。

 お金が目当てなわけではない。

 すると彼女はひょっとして、月見のお年玉に実利以上の別の価値を見出しているのではないか――。

 

「先生、これはあれだよ」

 

 やれやれ調子で肩を竦めながら、妹紅が答えを教えてくれた。

 

「これってお金だけどさ、それでも先生からもらえる立派なプレゼントでしょ。私とか鈴仙とか、他のやつらはもらえたのに自分だけもらえない。するとだんだん、なんだか自分が見てもらえてないような気分になってきて――」

 

 輝夜にふてぶてしい流し目を向け、ほくそ笑むような愉悦の表情で、

 

「――ま、ぶっちゃけ寂しくて悔しくて嫉妬しちゃうってわけ」

 

 輝夜の連打がぴたりと止まった。月見が後ろを振り向くと、彼女はズバリ言い当てられた気まずさでやや赤くなり、挽回の術を見つけられずただ上目遣いで、

 

「う゛ー……」

「……まったく」

 

 もちろん輝夜のその感情は、まったくもって的外れな誤解なのだけれど。

 そういう話であれば、月見が意固地になる理由はなかった。

 

「わかった。それじゃあ、これはお前の分だ」

「!」

 

 月見が袖からポチ袋を出すなり、輝夜は小動物さながらの素早さで反応した。袋の端を両手の指でつまみ、まばたきひとつせずじ――――っと無言で月見を見つめる。月見がポチ袋から手を離す。輝夜はそのままの体勢で指だけを動かし、ポチ袋がちゃんと自分の手に収まっていることを存分に確かめてから、

 

「……ん」

 

 そっと胸に引き寄せて、夢の中をたゆたうようにほころぶのだった。

 なんだか輝夜の周りで、ぽこぽことお花が咲いていくエフェクトまで見えるようだった。幸せのマイナスイオンを振りまくお姫様は妹紅のからかいにもまったく動じず、鼻歌を口ずさみながら竹林へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ごめんくださーい」

「やっほー」

 

 もらえるもんはもらっておこうという山の妖怪を数人挟んだのち、今度は早苗と志弦がやってきた。月見が玄関まで向かうと、気心の知れた友人の家まで遊びに来たような、締まりのない顔をしながら志弦が緩く片手をあげた。

 

「お年玉もらいに来たぜー」

「ちょっ志弦、そんないきなり……」

「構わないさ。ほら、どうぞ」

 

 月見が差し出した二つのポチ袋を、志弦はなんの遠慮もなく気軽に、早苗は一拍遅れてからやや申し訳なさそうにしながら受け取った。

 

「あんがとー」

「すみません、こんなお年玉目当てで来たみたいに……」

「いいんだよ、私が自分で言ったんだから」

「月見さーん、開けてみておっけー?」

「し、志弦……」

「いいさいいさ。若いうちの特権だ」

 

 月見がそう言い終える頃には、志弦はすでにポチ袋から中のお札を引っ張り出している。志弦より先に早苗が声をあげた。

 

「わっ……こ、こんなに……!」

「金額は二人とも同じだよ。大したものでもないけど、もらってくれ」

「と、とんでもないですっ。私、こんなにいただいちゃうのなんてはじめてですよ!」

 

 普段から世話になっている子たちのポチ袋には、気持ちも込めて少しばかり色をつけている。あくまで『少しばかり』であり、月見の見聞に基づいても決して大袈裟な額は入れていないはずだが、早苗にとっては充分な大金だったらしい。すっかり感激して自分のポチ袋を見つめている。

 

「……これとお小遣いを合わせれば、いけるかも……?」

「好きな物を買うといいよ」

「は、はいっ。ありがとうございます!」

 

 大喜びな早苗とは対照的に、志弦は笑顔ひとつなく考え込んだ風だった。顎に手を遣りながら腕組みし、

 

「んー……私は特にほしいもんもないし、半分くらい神社に入れよっかな」

「……え゛っ」

 

 早苗が石化する。ピシピシと体の随所にひびを入れながら志弦へ振り向き、

 

「……じ、神社に?」

「うん。あー、姐御と諏訪子になにか買うってのもいいかな。いつも面倒見てくれてありがとうございますーって感じで」

 

 月見はちょっと感心した。自分のお年玉を、自分のためではなく家族のために使おうとする子を見たのははじめてかもしれない。秀友、お前の子孫は立派に成長しているみたいだぞ。

 しかし、こう言われてしまうと立つ瀬がないのは早苗である。案の定、彼女は腹を下したような青白い笑顔でカタカタ震え出し、

 

「あ、あはは。じゃっじゃあ、私も神奈子様と諏訪子様に、なにかプレゼント買おっかなー……?」

「ん? ほしいもんがあるなら別にいいんでない?」

「でででっでも、志弦が二人のことをそんなに考えてるのに、私だけ好きな物買うなんて、ね?」

 

 膝から崩れ落ちた。

 

「ああああああああ神奈子様諏訪子様ごめんなさい、私はお二人への感謝の心を忘れて身勝手にお金を使おうとしました、志弦にそれを気づかされました。風祝失格です、もう先輩風なんて吹かせられないですうううううぅぅぅ」

「おーい、大袈裟だぞさなぽーん」

 

 まあ、当然こうなる。特に早苗の場合、覚醒した志弦に術の腕前を抜かれてしまっているのもある。先輩風を吹かすといえば言葉は悪いが、守矢神社の風祝として、ひいては現人神(あらひとがみ)として、相応の自覚と責任を持って志弦の家族たらんとする一面が早苗にはあるのだ。

 なのに術の腕前はおろか、家族を想う心でもいつの間にか差をつけられてしまっていたとなっては、

 

「うえええええ私はダメな巫女です、月見さん尻尾モフらせてくださいいいいいいっ」

「さっすがさなぽんちゃっかりしてるー」

 

 早苗を慰めながらの話し合いの末、二人が少しずつお金を出し合い、神奈子と諏訪子へプレゼントを買うということで落ち着いた。

 もちろんそれから数日後、感動の涙を流す二柱の神が水月苑に突撃し、せっかく溜めていた酒虫の酒を一滴残らず呑み尽くしていったのは完全な余談である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「どか――――――――ん!!」

「ごふ」

 

 早苗と志弦を見送ってから一時間ほどした頃、月見は毎度おなじみフランの砲弾タックルを根性で受け止めていた。

 レミリアとフラン、そして咲夜のご来訪だった。

 

「おはよう。早起きだね」

「えへへー」

 

 だいたい彼女が、チルノたち妖精と友達になった頃だったと記憶している。外のみんなともっと仲良くなりたいからと生活サイクルを切り替え始め、今ではこうして朝早くから遊びにやってくることも珍しくないフランだった。

 吸血鬼にとっては過ごしづらい時間帯のはずだが、毎日が楽しいお転婆娘にはまったく大したことではないらしい。そんな笑顔がまぶしい妹の後ろで、お姉さんはいつものすまし顔をしていた。

 

「レミリアもおはよう」

 

 レミリアはふんと小鼻を鳴らし、

 

「言っておくけど、私はただのついでよ。フランがお年玉もらいに行くってうるさいせいで、目が覚めちゃっただけ」

「私が起こしに行く前からちゃんと一人で起きて、お着替えも済ませてたもんねー」

「ぎゃにゃあああ!?」

 

 早速仲良し姉妹の追いかけっこが始まる。今日も元気いっぱいで大変よろしい。

 

「咲夜もおはよう」

「はい、おはようございます」

 

 咲夜も、月見が見る限りはいつも通りの咲夜だった。大晦日は夜明け近くまで宴会の雑事を手伝ってくれて、紅魔館に戻ってからも休んでばかりとはいられなかっただろうに、彼女はこんなときでも疲れた顔ひとつ覗かせやしない。能力を活用して、上手いこと休息を取っていると思いたいが。

 

「昨日は最後までありがとう。ちゃんと休めたか?」

「大丈夫です。この程度でへこたれていてはメイド失格ですから」

 

 彼女はあくまで紅魔館のメイドであって、決して水月苑のメイドではないはずなのだが、

 

「つくみー、お年玉くださいなっ!」

 

 どうやら追いかけっこは終わったようで、フランが光り輝く宝石の瞳で月見に両腕を伸ばしてきた。月見はポチ袋を取り出し、

 

「いいとも。はい」

「わーい! ありがとー!」

 

 フランはきちんとお礼を言い、きちんと両手を伸ばして行儀よく受け取る。一方でレミリアは顔をしかめる、

 

「あ、あのねえ、私はもう子どもじゃ」

「お姉様はオトナだからいらないって!」

「!?」

「そうか。わかったよ」

「ちょちょちょっちょっと待ちなさい!?」

 

 月見がポチ袋を引っ込めようとしたら、信じられない形相で腕に掴みかかってきた。よほど慌てたせいか力加減をする余裕はなかったらしく、月見の手首がミシミシと苦悶の声をあげる。男一匹月見、我慢の時。

 

「なんでしまおうとするのよ!? いらないなんて一言も言ってないでしょ!?」

「いや、子どもじゃないっていま自分で」

「子どもじゃないけどまあもらってあげるわよ感謝しなさいって言おうとしたの決まってるでしょ!?」

「月見ダメ――――――ッ!!」

 

 更には横からフランまで飛びついてきて、

 

「だめだめこんなずーずーしいお姉様に渡しちゃダメ! ちゃんと『お年玉ください』って言えたら渡してあげてっ!」

「なに勝手に決めてんのよ関係ないでしょ引っ込んでなさいっ!」

「関係ありますーっ!! お姉様の新年の抱負はなんだったっけかなー!?」

 

 また始まった。

 とりあえず、手首は放してもらえたので助かった。玄関をあちこち跳ね回ってケンカする姉妹は一旦置いておき、月見は咲夜の方へ視線を転じる。三つ目のポチ袋を取り出して、

 

「はい、これは咲夜に」

「へ?」

 

 咲夜の目が点になった。彼女はまず目の前のポチ袋を見て、次に月見を見て、続けてもう一度ポチ袋を見て、最後になぜか右と左と後ろまで見てから、

 

「……わ、私の分……ですか?」

「そうだよ。いらないかい?」

「…………」

 

 しばらくぽけーっとしてからふと正気を取り戻し、カチューシャが吹っ飛んでいきそうなくらい猛烈に首を振った。

 

「いっ、いえいえいえそんな! あ、ありがとうございますっ!?」

 

 レミリアとフランが口喧嘩しながら走り回っている。「ほら、咲夜はくださいって言ってないのにもらってるじゃない!」「咲夜はいいの! お姉様はダメ!」「なんでよいじわる!」「だーかーらー、新年の抱負で自分で言ったでしょ!? 今年はもっと月見に素直」「にゃああああああああああ!?」

 咲夜はおっかなびっくりポチ袋を受け取って、まだ半分以上信じられない面持ちで、

 

「ほ、本当に、いただいてよろしいのですか?」

「もちろん。お前にはいつも助けられてばかりだからね」

 

 藍にも言ったことではあるが、水月苑の縁の下はその大半が咲夜と藍の二人によって支えられているといっても過言ではない。しかも咲夜は人間の少女で、紅魔館の膨大な家事を一手に任されるそのわずかな間を縫って水月苑まで手伝ってくれている身なのだ。本当は、こんなお年玉程度ではまったく釣り合わないくらいなのだけれど。

 咲夜はポチ袋の(うし)のプリントをしばらく眺め、指で撫でたり押したりしたのちようやく微笑んでくれた。

 

「……ありがとうございます。大切にしますね」

「……いや、お金なんだから好きな物を買うんだよ?」

「いえいえそんな。月見様のお年玉を使うなんて」

 

 お年玉とは一体なんであったか。

 

「……あ、あのー、月見ー……?」

 

 と、二度目の追いかけっこは落ち着いたらしく、レミリアが一生懸命さりげない雰囲気を装いながら月見の隣に並んだ。

 

「なんていうのかしらね、その。あなたの左手に残ってる、お年玉の、処遇についてなんだけれども」

 

 別に恥ずかしがることでもなかろうに、レミリアは緊張で頬に赤みが差し、翼はピクピク忙しなく動いて、横目で月見を見たり見なかったりとまったくさりげなくできていない。高潔と尊厳の塊である吸血鬼にとっては、お年玉がほしいと伝えるのも立派なプライドとの戦いなのだ。

 むしろ、なんの抵抗もなく「くださいなっ」とおねだりできるフランが変わり者なのである。そんなフランは後ろで「お姉様ふぁいとっ」と可愛らしいエールを送っていて、なんだかとある地獄鴉の少女を見守るときの心地になってきた月見である。

 

「あ、あー、つまりあれよ。『二』ってなんだか中途半端で、やっぱり『三』の方がきれいじゃない? だからその残りひとつも、誰かに渡す方がキリがいいというか」

「……お姉様ぁー?」

「こ、ここから! ここから逆転するからっ!」

 

 フランの冷めた半目が突き刺さり、いよいよもって追い詰められたレミリアは、

 

「わ、わ、わっ……」

 

 首の下から頭の上まで沸騰寸前のやかんになって、決死の覚悟で息を吸ってこう叫ぶのだった。

 

 

「――わ、私もお年玉ほしいにょっ!!」

 

 

 ………………。

 沈黙した。

 どうしようもないほど沈黙した。なんかもう月見の方が謝りそうになるくらい沈黙した。

 間。

 

「お姉様……」

「お嬢様……」

「……………………」

 

 フランから可哀想なモノを見る眼差しで、そして咲夜からは微笑ましい小動物を愛でる眼差しで見つめられ、レミリアはいろいろと限界な感じになっていた。顔は全身の血液が集結したように真っ赤っ赤で、瞳には決壊一歩手前の涙がたっぷりと溜まり、両手はスカートを握り締めながらぷるぷる震えて、唇は彼女の意思に反して三日月につりあがっていく。

 目が合った。あらどうしたのなにか言うことがあるのかしら言ってごらんなさい言えるもんなら言ってみなさいよ、という無言の圧力だった。ひと呼吸のあいだ己の選択を真剣に考えた月見は、水月苑がグングニルで半壊することも覚悟しながら、

 

「……はい、お年玉」

 

 なにも聞かなかったし、見なかったことにした。

 ポチ袋を前にしたレミリアは、今の自分に残されたなけなしの威厳を振り絞ってふんぞり返った。

 

「ふ、ふふ、ふふふふふ。う、受け取ってあげようじゃないの。かかかっ感謝することね、あは、あははははは」

 

 本来であれば傲慢でありつつも優雅なセリフだったのだろうが、声は無惨にもガッタガタだった。彼女はもう泣きそうだった。吸血鬼の矜持(きょうじ)と根性で瞳の涙を落とすことこそなかったが、心の中ではたぶんとっくに大泣きだった。

 指先が震えすぎていて、ポチ袋を上手く受け取るのにも時間が掛かるくらいだった。

 

「……それとこれも、美鈴とパチュリーと小悪魔に」

「え、ええ、渡しておいてあげましょう」

 

 続けて三つのポチ袋を受け取ろうとして、今度は落とした。

 

「お姉様……」

「お嬢様……」

「…………………………………………」

 

 レミリアが散らばったポチ袋を拾う。ぐず、と小さく鼻をすする音が聞こえる。

 

「……さ、さて、用事も済んだしかか、帰りましょうか。いいわねフラン?」

「……うん」

 

 さすがのフランも、いたたまれなさのあまりそれしか言えなかった。

 従者に慰められ妹に励まされ、ぷるぷるしながら帰ってゆく孤高の吸血鬼の背は、小さかった。

 

 後にフランから聞いた話では、このあとレミリアは夜になるまで部屋から出てこなかったという。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ごっめんくださーいっ!」

 

 晴天のもと吹き抜ける海風にも似た、爽涼とした少女の声が屋敷に心地よく響く。月見が玄関まで出迎えに行ってみると、今にも履物を脱いで転がり込みそうになっている水蜜と、両手を膝で合わせて楚々と佇む白蓮がいた。

 こうして見ると、一足先に大人びた姉が未だやんちゃな妹を連れてきたかのようだった。

 

「いらっしゃい。よく来たね」

「おはようございまーす!」

「おはようございます、お――つ、月見さん」

 

 初っ端からやらかしかけた白蓮の微笑がひきつる。幸い水蜜は気づかなかったらしく、いつにも増してうきうきと弾む様子を見ても、頭の中がお年玉でいっぱいになっているのは明らかだった。

 

「お年玉だね」

「はいっ! いやー、なにやらそういう風習があるらしいのは知ってましたが、もらうのははじめてなので昨日からずっと楽しみでした!」

「ほらムラサ、そんなにはしゃがないで……」

 

 今でいうお年玉の風習が一般的に広まったのは、白蓮たちが封印された時代をもう少しばかり下ってからだっただろうか。元は老若男女問わず目上が目下へ贈り物をする行事で、子ども相手にお金を与えるよう変わったのは本当にごく最近の話なのだ。

 

「一輪たちは?」

「お寺で里の人たちの相手をしてますよー。結構お参りに来る人が多くて、新年早々いい感じです! ナズーリンは、今の家から荷物を移すってどっか行っちゃいました」

「そうか。じゃあ、みんなの分も持っていってくれるかい」

 

 老爺である雲山は除いて、ポチ袋を五つ差し出す。水蜜はくりくりとした大きな瞳で覗き込み、

 

「わわ、すごいきらきらしてるじゃないですか。え、これって金箔ですか?」

「まさか。金よりもっと安くて身近な材料を使って、金に似せて作ったものだよ。外の世界で売ってるんだ」

「へー、外の技術ってこんなに進んでるんですねー」

 

 一方で白蓮は、生まれてはじめて見る芸術品を前にしたように興味深げだ。およそ千年も眠り続けていた白蓮にとっては、単なるポチ袋も摩訶不思議の技術の結晶だった。

 

「綺麗な絵……それに、ぜんぶぴったり同じに描かれてる……」

「これは印刷ですねー。でも、色つきなのは私もはじめて見ました」

「インサツ」

 

 異国の言葉のようにオウム返しして、首を傾げる。月見はふっと一笑、

 

「今の時代のこと、これからどんどん学んでいかないとね」

「あ……はい。そうですね」

 

 白蓮は束の間顔を上げ、月見に向けて気恥ずかしげな笑みを見せた。

 それはさながら、子が親からの教えを心待ちにする姿だった。

 

「月見さんが知っていること、たくさん教えてくださいね」

「……ああ。いいともさ」

 

 白蓮がこの世界で――この世界でこそ、どうか笑って生きていけるように。それが或いはすべての発端となってしまった妖怪として、彼女の幸福を願って逝った二人(・・)にできる手向けなのだと思うから。

 

「……さあ、取った取った。一人ひとつだよ」

「あ、星とナズーリンは遠慮するって言ってました。宝塔の一件があるからお金なんてもらえないって」

「固いなあ」

 

 ポチ袋をふたつ引っ込め、一輪の分を含めた三つを手渡す。水蜜はもちろん、人間としては立派な老齢に当たる白蓮も、遠慮する素振りはなく喜びながら受け取った。

 

「……ありがとうございます、月見さん。いい思い出になりました」

 

 ――今の時代のお年玉は、大人が子どもに(・・・・・・・)あげるものである。

 ポチ袋でそっと口元を隠しながら微笑む白蓮の頬は、単にお金をもらえただけとは違う感情で、ほんのり淡く染まっているように見えたが――。

 その理由を今更深く考えることはせず、どういたしまして、と月見は返した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ごめんくださーい♪」

「おはようございます、月見さん」

「ああ、いらっしゃい」

 

 次にやってきた幽々子と妖夢は、月見が渡したポチ袋をどちらも素直に受け取ってくれた。

 これが月見には少々意外だった。幽々子は幽々子だからよいとして、妖夢は間違いなく遠慮してくるだろうと思っていたからだ。受け取ってもらうために渡したのだからなにも問題はないものの、遠慮される前提で彼女を丸め込む説法まで準備していただけに、若干肩透かしを食らった感覚は否定できなかった。

 

「好きな物を買ってくれ」

「はいっ。普段は買えないお菓子を買いたいと思います!」

「私は、家計費が(かさ)んだときのために貯金を……」

 

 きっと去年の様々な経験を活かして、自分のためにお金を使うことも覚え始めたのだろう。いい傾向だと月見はしみじみと頷きいやちょっと待て、

 

「妖夢、今なんて言った」

「え? 家計費が嵩んだときのために貯金をしようと……」

 

 待て。

 

「妖夢、大事な話をするからよく聞け」

「は、ひゃいっ?」

 

 月見は妖夢の両肩に手を置き、

 

「そのお年玉は、お前がお前のために、ほしい物を買うために使うんだ」

「はあ……」

 

 妖夢はいまいちピンと来ない顔をしている。

 

「でも、特にほしい物はありませんので。それより、もしも家計費が嵩んだときのために取っておきたいんです」

 

 月見は内心頭を抱えて呻いた。この少女、やっぱり去年からあんまり変わっていなかった。

 言葉を見失う月見に妖夢ははっとして、

 

「あ……やっぱり、せっかくいただいたお金をそんな風に使うのは失礼でしょうか……。すみません、でも毎月ほんとにギリギリで……」

「……幽々子」

 

 幽々子は一生懸命明後日の空を眺めている。

 

「幽々子。年端も行かない従者にここまで言わせることについて、主人としてなにか思うところはないか」

「うっ……で、でも、妖夢のごはんはとても美味しいのでー……」

 

 都合が悪いときだけ妖夢を持ち上げてもダメである。月見は妖夢へ視線を戻し、

 

「家計費に使うのが失礼ってわけじゃない。でも、家計が厳しくなったときは私や藍に相談するといい。そのお金は、お前が自分だけのために使っていいものなんだ」

 

 一息、

 

「お前だって、そういうお金の使い方をしていいんだよ。去年里で言われたろう? 遊ぶことだって、立派な人生経験のひとつさ」

「むむっ……」

 

 用意しておいた説法の一部が結局役に立ってしまった。早速真に受けた妖夢が揺らぎ始めているのを確認し、月見はトドメの一撃を放った。

 

「それに、家計費の足しなら幽々子のお年玉でいいだろう。どうせお菓子になるんだから」

「あ、それもそうですね」

「え? ……い、異議あり! 異議ありーっ!」

 

 幽々子が月見の腕に飛びついてきた。二の腕あたりをぺちぺち叩き、

 

「月見さん、さっきと言ってることが違いますわ! お年玉は、自分がほしい物を買うために使うんでしょう!?」

「うん。お菓子だろう? お前がいつも妖夢に買わせてる」

「そ、そうですけど。そうですけどおっ」

「お前が食べたいお菓子を、お前のお年玉で買うといい。その分家計費が浮くんだから、妖夢のお年玉まで足しにすることはないはずだ」

 

 幽々子のぺちぺちが止まった。

 

「……あ、あー、そういうことですか。びっくりしましたわ。てっきり、私のお年玉を妖夢が家計費として管理するのかと……」

「妖夢は、自分のお年玉を自分から家計費にしようとしてたんだよ」

「……う、うー」

 

 妖夢がなにぶん健気な頑張り屋さんだから、幽々子にもすっかり甘え癖がついてしまっているのだ。あまり他所の家庭の事情に口を出すものではないかもしれないが、妖夢の労働環境改善は幻想郷苦労人同盟みんなの願いでもある。せめてお年玉くらいは本人の好きに使わせてやってほしい。

 あとはまあ、月見の少々個人的な感情もあるのだけれど。この小さな従者がいかんせん放っておけなくなっている気がするのは、恥ずかしい手違いとはいえ『お兄ちゃん』なんて呼ばれてしまった影響なのだろうか。

 妖夢が感動に打ち震えている。

 

「つ、月見さん……そんなに私のことを考えてくれていたなんてっ……」

 

 お年玉を自由に使うよう説くだけでなぜ涙ながらに感謝されるのか、月見にはよくわからない。

 

「難しく考えることはないさ。自分がほしいと思えるものを、ゆっくり探してごらん。これもまた勉強だ」

「はいっ……わかりました!」

「幽々子も。元は私のお金ってことで、この子の好きに使わせてやってくれ」

「はあい」

 

 お年玉の使い道ひとつでどうしてここまで講釈を垂れる羽目になるのか、やはり月見にはまったくわからない。

 いっぺん妖夢を、八雲邸か天狗の本山などに修行へ出してみてはどうだろうか。幻想郷で最もたくましい従者たちから主人のしつけ方を学び取り、きっとひと回りもふた回りも大きくなって帰ってくるだろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「おはようございます、旦那様」

「お、おはよう……」

 

 月見がなんとなしに外へ出て、池の畔でわかさぎ姫と四方山話(よもやまばなし)をしていると、次にやってきたのは赤蛮奇と影狼だった。「あー、ばんきちゃんかげちゃーん」とわかさぎ姫がぽやぽや笑顔でお迎えする。赤蛮奇はいつも通りジト目風味の無表情だが、彼女に手を引かれる影狼はやや顔の様子がぎこちなく見えた。

 もっとも、影狼もこれはこれである意味いつも通りであるといえる。初対面のときにいろいろとあったせいなのか、彼女は月見に対して少しばかり距離を置いているようなのだ。わかさぎ姫曰く、目上の男とどう接すればいいのかわからず恥ずかしがっているだけらしいけれど。

 

「おはよう。お年玉なら準備できてるよ」

「今日は朝早くから、たーっくさんの人たちがもらいに来てたのよー」

「分け隔てなくお年玉を配る旦那様のその度量、赤蛮奇は胸がきゅんきゅんしています」

 

 月見は有意義に無視し、二人にポチ袋を渡した。

 

「はい、二人とも」

「ありがとうございます。きゅんきゅん」

 

 しかし、赤蛮奇が受け取った一方で影狼はその場から動く気配がなく、なぜか宿敵を前にしたような目つきでポチ袋を睨んでいる。赤蛮奇が素早く補足説明する、

 

「お年玉は子どもがもらうもの。なのでこれを受け取れば自らを子どもと認めてしまうことになると、影狼は葛藤しているのです」

「ああ、そういう……」

「ここに来る途中でもそれで二十分ほど立ち止まり、私がいくら引っ張っても進んでくれませんでした」

 

 犬の散歩か。

 さておき、影狼がなんだか気乗りしていない風なのも納得した。

 

「わかったよ。そういうことなら無理にとは言わないさ」

「ぁ……」

 

 なので月見はポチ袋を引っ込めようとしたのだが、そのとき影狼が一転、ショックを受けた子犬みたいなか細い声をあげた。

 三人全員からまじまじとした目で見られ、己の失態に気づいた影狼は一瞬で赤くなり、

 

「ち、違っ! い、今のはなんていうかその、違くて!」

「かげちゃん、ほしいならちゃんとほしいって言いなさいっ」

「う、ううううう~……!!」

 

 別に受け取ったところで子ども扱いされるわけではないし、受け取らなかったところでオトナと認めてもらえるわけでもないのに――少し前のレミリア然り、レディの心というのはなかなかにフクザツなのだ。

 仕方がないので、丸め込んでその気にさせてしまうこととする。

 

「影狼、そんなに気にすることはないよ。今でこそお年玉は、子どもが大人からお金をもらうものだけどね。元々は大人子ども問わず、新年に贈り物をする風習のことだったんだ」

「え? ……そ、そうなの?」

「ああ。もちろん、大人が大人に物を贈るのも珍しくなかった。こんな風に変わったのはごくごく最近なんだよ」

「へ、へぇー」

 

 影狼の尻尾がくねくねとおもむろに動き始める。こちらの話に興味を持ち、だんだん満更でもない気分になってきたときの合図である。影狼もまた妖夢と同じで、人の方便をコロッと真に受けてしまうタイプの少女なのだ。

 無論、方便とはいえまったくの嘘を吹き込むつもりはない。

 

「藍とか幽々子とか、もう千年以上生きてる子たちも受け取ってくれてる。歳なんて関係なく、世話になってるお前たちへの贈り物だよ」

「ふ、ふぅーん」

 

 このお年玉は、月見の生活を賑やかに彩ってくれる少女たちへのささやかな感謝の気持ちでもあるのだから。

 尻尾を大変満更でもなさそうにくねらせながら考え、影狼はおほんと咳払いをした。獣耳をぴこぴこと動かし、ポチ袋をしきりに横目で盗み見ながら、

 

「な、なるほどね。じゃあ、そういうことなら……」

「ああ、どうぞ」

 

 改めて差し出されたポチ袋に、あくまで「贈り物っていうなら受け取るのが礼儀だしね!」というすまし顔で手を伸ばそうとし、

 

「影狼、『待て』」

「っ……!」

 

 赤蛮奇がそう横槍を入れた途端、影狼の動きが素早く止まった。ほどなく再起動した彼女はゆっくり手を引っ込め、ポチ袋に視線を固定したままその場でじっと沈黙する。

 更に、

 

「お手」

「ん」

 

 赤蛮奇の掌に右手を乗せ、

 

「おかわり」

「ん!」

 

 左手を乗せ、

 

「待てよ待て。ステイステイ……」

 

 このあたりで影狼はだんだんと正気を取り戻し、頬を膨らませて涙目で震え始めると、

 

「まだよ、まだ。……よしっ!」

「がうああああああああああッ!!」

「ぎゃああああああああ」

 

 その合図とともに脇目も振らず飛びかかるのは、当然ながらポチ袋ではなく赤蛮奇の顔面だった。

 そして今日も今日とて、赤蛮奇の生首がおもちゃにされるいつもの光景が始まる。月見は緩く吐息しながら肩を落とし、わかさぎ姫はにこにこと楽しそうに笑う。

 

「あいかわらずだねえ」

「だって、かわいいですもの」

 

 新しい年を迎えたからといって、それでなにかが突然変わるわけでもない。妖怪草の根ネットワークは今年も平常運転であり、今泉影狼はこれからもいじられ愛されてゆくのだった。

 

「がうがうがうがうがうっ!!」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 

 

 

 

 

 ルーミアが偶然やってきたのでお年玉をあげようとしたら、「お狐様からお金なんていただけませんっ。私はお狐様のお陰で、今でも充分幸せです!」と一切汚れのない瞳で断られた。胃が。

 せめてもの抵抗に、酒虫のお酒をご馳走した。

 

 

 

 

 

「ご、ごめんくださーい……」

「ん?」

 

 さてかような具合でお年玉戦線は続き、太陽がある程度傾いてポチ袋も残り少なくなってきた頃、水月苑に見慣れぬ風体の客がやってきた。

 元々「水月苑まで来れば誰でもお年玉をあげる」という話だったので、月見とさほど面識があるわけではない妖怪も、欲に負けてちらほらと訪ねてくることはあった。しかし月見の記憶が正しければ、今しがたおそるおそる玄関を開けたこの少女とは、顔を合わせたこともどこかですれ違ったこともない完全な初対面と思われた。

 足元まで届くくらいの長い青髪を、同じ色の大きなリボンを使って後頭部で結わえている。正月だというのにその身なりはみすぼらしく、くすんだボロ布を浮浪者のように体へ巻きつけていて、髪はあちこちが飛び跳ねてロクに手入れされた様子もない。中になにも着ていないということはなかろうが、少なくとも膝から下は完全に裸足だった。

 わずかにふよふよと宙を漂っていることから人間ではないものの、かといってこの風体では妖怪らしくもない。やはりはじめて見る相手で間違いない。幻想郷でここまで吹けば飛ぶような身なりをした少女なんて、どこかで出会っているなら必ず記憶に残っているはずだから。

 とりあえず、挨拶する。

 

「いらっしゃい。水月苑になにか用かな」

 

 寒いから入ってこればよいのに、少女はなぜか玄関の敷居をまたごうとはせず、まるで住む世界が違う相手と出会ってしまったように萎縮していた。

 

「あ、あの……こ、ここで、お年玉がもらえるって、天狗が話してるのを聞いて……わ、私みたいなのでも、もらっていいのかなって……」

「? ああ、いいけど」

「そっそうですよねごめんなさいなんでもないです私みたいなのが話しかけてごめんなさいごめんなさい今すぐ消えます消え失せます失礼しま――え?」

「はい」

 

 少女が玄関に入ってこないので、月見の方から近寄ってポチ袋を差し出す。近づいてみてわかったが、少女のリボンはあちこちが継切れだらけのボロボロで、しかも普通の布ではなく『差し押さえ』『請求書』など物騒な文字がデカデカと書かれている始末だった。ファッションとしてはいささか奇抜すぎるので、みすぼらしい恰好から考えてもなんらかの事情がある子なのかもしれない。声もあまり元気がなく掠れていて、なんとも不健康な感じがする。

 そんな少女は差し出されたポチ袋を、わけがわからない様子でぽかんと見下ろしていた。まさか自分からお年玉をもらいに来ておいて、これがなんだかわからないということはなかろうが、

 

「お年玉だよ。この中にお金が入ってるから」

「――――――――、」

 

 少女の体が鼓動を打つように一度だけ震えて、再び沈黙する。またもや長めな空白があたりを包み、月見がこの子大丈夫かなとほんのり心配になってきた頃、

 

「ひっく」

 

 泣きおった。

 

「お、おい?」

「ひっく、ひぐ」

 

 少女は目尻にじわりと涙を溜めて、何度もみっともなく鼻をすすりながら、

 

「ご、ごめんなさいっ……まさか、ひぐ、ほんどに、もらえるなんて、えぐ、思っでなくてっ……」

「……はあ」

 

 ポチ袋ひとつで大袈裟な、と思いながら一方で月見はほぼ確信した。この少女はだいぶ粗末な身なりをしている通り、金銭的に不自由な境遇にある子なのだろう。それで月見がお年玉を配っていると偶然聞きつけ、明日のご飯のためにダメ元で水月苑までやってきた――と考えれば、まあ泣き出すのも納得できないことではないと思う。

 ならば月見にお年玉を渡さない理由はない。このポチ袋ひとつで誰かがほんの束の間でも幸せになれるなら、早起きしてせっせと準備した意義もあるというものだった。

 

「ほ、本当に、いいのっ……?」

「ああ、もちろん」

 

 少女が震える両手でポチ袋を受け取る。藍とはまた違った意味で、自分には到底分不釣合いな宝物を賜るように。指先で丑のプリントを撫でながらまたしゃっくりし、感極まった様子でそっと胸に抱き締めると、

 

「女苑、やったよっ……今日はちゃんとごはん食べれるよ……っ」

 

 じょおん、とは身内の名前だろうか。そして「今日は」ということは少なくとも昨日はダメだったわけで、やはり彼女は日頃から裕福とはいえない身の上なのだ。

 月見の視線に気づいた少女は途端に縮こまり、

 

「あ……ご、ごめんなさい、その、妹がいて、あんまりごはん食べれてなくて。うう、ごめんなさいごめんなさいやっぱりこんなのダメですよねはいわかりましたこれはお返しします差し出がましい真似をしてごめんなさい失礼しました申し訳ありませんでした今すぐ消えます消え失せます消滅させていただきま」

「なんだ、そうなのか。じゃあこれ、妹の分も持っていくといい」

「うぴぇえええっ!?」

 

 月見が取り出したもうひとつのポチ袋に、驚いた少女は飛び跳ねながら――比喩ではなく、本当に後ろへ飛び跳ねながら――盛大な尻餅をついた。

 

「ど、どうした?」

 

 少女は元々血の巡りが悪そうな顔面を更に蒼白にし、いっそ幽霊を見たようにわなわな震え、

 

「だ、だだだっだって、それ、なんで」

「妹がいるんだろう? だから二人分だよ」

 

 月見は敷居をまたいで膝を折り、ひっくり返った少女の目の前にポチ袋を差し出す。少女はなにがなんだかわからないまま心ここにあらずと受け取り、二つに増えた両手のポチ袋を長い間唖然と見つめると、

 

「……ひっぐ」

 

 やはり泣きおった。

 

「ううっ……ふぐうううううぅぅぅ~……!」

「……」

 

 真珠の涙が絶え間もなくボロボロとこぼれ落ちていく。お年玉のひとつふたつでこんなにも――ここまで来ると、だんだんと彼女のことが心配になってくる月見である。この少女、普段からどれだけ爪に火を灯した生活を余儀なくされているのだろうか。

 

「ぐず、あ、ありがとうございまず。この御恩は一生忘れまぜん、えぐ」

「……そうか」

 

 思わず真顔で頷いてしまう。ワケありなのはまず間違いないが、少し踏み込んで事情を聞いてみるべきかどうか決めあぐねている。老いぼれの勘というべきか、藪から大きな蛇が出てきそうな予感が途轍もなくするのだ。

 そうこうしているうちに、少女が涙を拭いながらに立ち上がる。

 

「ひょ、ひょっとして貴方様は、神様か仏様……?」

「……いや、ごく普通の妖怪だよ」

 

 お年玉を振舞うだけで仏様なら、人里が極楽浄土になるではないか。

 ええいと月見は腹を括り、せめてどこの誰かくらいは訊いておこうと、

 

「月見様? なんだか泣き声が聞こえましたけど」

「うぴい!?」

 

 したところで、藍が廊下からひょこりと顔を出した。まさか他に誰かいるとは思ってもいなかったのか、少女は哀れなほどに慌てふためき、

 

「ごごごっごめんなさいごめんなさいありがとうございました助かりましたそれでは失礼しまぁす!!」

「あ、おい」

 

 壊れた絡繰人形みたいに何度も頭を下げ、月見の制止も聞かずあっという間に飛び去っていってしまった。

 静寂。月見の後ろに立った藍が首を傾げ、

 

「月見様、今のは?」

「……私にもわからん。お年玉がほしいというからやったら泣いて感謝された」

「はあ……? お知り合いではなかったのですか」

「ああ、はじめて見る子だった」

 

 辛うじてわかったのは人間ではないこと、露命をつなぐような毎日を送っているらしいこと、そして『じょおん』という妹がいることくらい。少女自身の名も、どこに住んでいる子なのかもほとんど謎のまま終わってしまった。

 すっきりしない月見に対し、藍はむしろ納得の笑みを浮かべた。

 

「なるほど。月見様らしいですね」

「……どういう意味かな」

「月見様は本当に、いろんな女と縁を作られて困ります」

 

 ……なにやら言外に、「また女を引っ掛けやがったな」と遺憾な評価を下された気がする。

 

「ただお年玉をあげただけだよ」

「どうでしょう。もしかしたら、ここの得意客がまた増えることになるかもしれませんよ」

「……」

 

 すべてお見通しのようにそう言う藍を、月見は咄嗟に否定できなかった。

 はてさてこれが藍の考えすぎだったのか、それとも本当にすべてお見通しだったのか――答えがわかるのは、今はもう少しばかり先の話である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――じょおん、じょおんっ。やったよ、私もお金もらえたよっ」

「なん……ですって……? え、姉さんが? 冗談でしょ?」

「ほんとだもん。ほら、女苑の分ももらったよ」

「!? あ、あはは、どーせほんの小銭でしょ? まったく、姉さんったらそんなので大喜びしてみっともな――お札、だと……?」

「ね? ねっ? すごいでしょ! 今月はごはんちゃんと食べられるよっ」

「……マジ? え、私の分も合わせたらまあまあなお金なんだけど。一体どうやったの?」

「お年玉。みんなに配ってる妖怪がいて、私にもくれたの」

「…………それってどこのどいつ?」

「教えなーい」

「は、」

「だって教えたら取り憑きにいくでしょ。すごく優しい人だったからそんなことしちゃダメ」

「ぐっ、あいかわらず姉さんは甘っちょろいことを……! 貧乏神の姉さんにお年玉なんてバカの所業じゃない、これはカモよ! 搾りとらなきゃ!」

「だめー。女苑なんかにあげない」

「え? ……待って姉さん、ところでこれほんとにお年玉? なんていうか、その、考えすぎだと思うけど、実は変な方法でもらったとか言わないわよね? 姉さん? 姉さああああああああん!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第142話 「新年明けまして信仰戦争」

 

 

 

 

 

「おーっす霊夢ー、今日も元気に参拝客ゼロで暇してるかー? ……ん?」

 

 その日魔理沙がいつもの暇潰しで博麗神社を訪ねると、家主の霊夢がなにやら卓袱台と一生懸命にらめっこをしていた。

 

「なにやってんだ」

「ああ、魔理沙……」

 

 束の間顔をあげた霊夢は、隠しもせず憂鬱なため息をついてまた卓袱台に目を落とす。そう大した枚数でもない小銭が無造作に散らばっている。ぜんぶ集めたところで里の饅頭ひとつ買えるかも怪しい、雀の涙同然のはした金に見える。

 

「なんだそりゃ」

「こないだ、月見さんとこに(・・・・・・・)ウチのお社造った(・・・・・・・・・)でしょ。一週間経ったから、どれくらいお賽銭入ったかなって集めてきたんだけど」

「ああ……つまり、一週間で入ってた賽銭がたったそれだけだった、と」

「……うん」

 

 魔理沙としてはむしろ、雀の涙とはいえ賽銭を入れてもらえただけ意外なのだが。

 

「私のとこが一番少なくて、次が守矢神社。その次が命蓮寺で、一番多かったのは稲荷神社(・・・・)よ」

「まあ、順当だな」

「順当なもんですかっ。ウチは幻想郷最古の由緒正しい神社なのよ? なのに一番下なんておかしいでしょうにっ」

 

 卓袱台をべしべし叩く霊夢を尻目にしつつ、水月苑に四つのお社が建てられたというこの件について補足しておこう。

 事の発端は大晦日の宴会に遡る。月見が萃香や幽香といった面々を集めて、庭のどこかに祠のようなものを造れないかと切り出したのだ。

 空飛ぶ船とともにやってきた美人女僧侶・聖白蓮の、遠い昔亡くなった弟を祀るために。

 なぜ月見が自分の庭で人間を祀ろうというのか、経緯と事情はここでは省略する。ともかく月見たっての願いとなれば少女たちが渋るはずもなく、むしろ面白い話だとばかりにとんとん拍子で計画が立てられ、せっかくだから毘沙門天も祀って命蓮寺の祠とすれば、山の妖怪たちも気軽に参拝できるだろうという話まで発展する。

 これを聞き逃さないのが、博麗霊夢と東風谷早苗である。

 

『ねえ月見さん。小さい祠なら、もうひとつくらいついでで造ったってそんなに大差ないわよね?』

『はいはい、ウチの神社もお願いします! みんなでお手伝いしますのでっ』

 

 是非もなし。

 それで正月がやってきて早々、興味を持った少女たちが水月苑に集まり、日曜大工感覚でわいわいと作業していたのを魔理沙は目撃している。これによって、水月苑の庭から小さな橋を渡った先――池の上で島となったその雅な場所に、命蓮寺、博麗神社、守矢神社の三つの祠が造られたわけだ。

 しかし、話はこれだけでは終わらなかった。

 この出来事を一体どこでどう知ったのか、月見の夢枕に突然宇迦之御魂神が立ち、うちのお社も造ってほしいんよぉーとおねだりしてきたというのだ。なんでも、月見と宇迦之御魂神は古馴染らしい。日本屈指の神様とさらっと友人である点について、まあ月見だしな、と魔理沙はあまり深く考えないことにしている。

 そんなわけで、追加で稲荷神社の祠まで建てられた。

 里でお稲荷様ブームが起こっているのを受けて、本格的に幻想郷での信仰獲得へ乗り出したのかも、と月見は言っていた。外の世界ですでに日本最大級の信仰を獲得しているのに、宇迦之御魂神とはなかなか抜け目ない性格をした女神のようだ。

 以上で話が冒頭へ戻る。

 稲荷神社も含めた計四つの祠が水月苑に建てられてからおよそ一週間、霊夢は期待に胸を高鳴らせながらお賽銭の回収に向かったが――見ての通り散々な結果に終わった、というのが目の前の状況のようだった。

 霊夢がぐぬぬと歯軋りをしている。

 

「稲荷神社はしょうがないとしても、守矢神社にも命蓮寺にも負けるなんて……こんなの絶対おかしいわよっ」

「そうかぁー?」

 

 一応魔理沙の見解を述べれば、守矢神社はその立地もあって山の妖怪からの信仰を中心としている。わざわざ山頂まで登らなければならない本社より、小さいとはいえ麓の祠に賽銭が集まるのは道理だと思う。

 更に命蓮寺は、年の暮れに突然現れてから人気急上昇中の風雲児。今まで幻想郷に本格的な仏教寺院がなかった点、そして住職の聖白蓮をはじめ面子が美少女揃いという点から、人間妖怪問わず早くも強大な信仰圏を形成し始めている。当面の間は賽銭の絶えない日々が続くだろう。

 それに引き換え、博麗神社はといえば。

 

「はーあ……ちょっと前まで幻想郷の信仰はウチの天下だったのに、嫌な時代になったもんだわー……」

「そんときから参拝客はほとんどいなかったけどな」

「うっさいわね」

 

 霊夢が苛立たしげに頬杖をつく。この博麗神社は里から歩くにはやや面倒なほど山奥な上、途中の参道――とは世辞でも呼びがたい獣道――は緑豊かなあまり見通しが悪く、妖怪や獣と出くわす危険性がある。そんな立地なので客は大半が人外であり、一部の人間からは『妖怪神社』なる呼び名で参拝を敬遠される始末である。

 

「でも、仕事はあるんだろ?」

「……まあ、そうだけど」

 

 とはいえ妖怪退治の専門家、ないしは各種お祓いの第一人者といえば今でも博麗の巫女を指す言葉なのは変わっていない。あくまで参拝客が少ないというだけで、巫女としての霊夢は一応ちゃんと人々から信用されているのだ。

 だが、霊夢の顔色はいまひとつ晴れない。

 

「でも、そっちもちょっと怪しいのよねー」

「ほーん? というと?」

「そういう仕事が、最近やけに月見さんから回ってくるようになったのよ。どうも里の人たち、今までみたいに私に直接依頼するんじゃなくて、一回月見さんのとこに持ってってるらしいのよね」

 

 魔理沙は少し考え、

 

「あー。お前が神社にひきこもってばっかだから、身近な月見に依頼が流れてるってことか」

「別にひきこもってないけど。ともかく、私の仕事が月見さんにとられてるかもしれないってわけね」

「っていっても、月見ならそのへん弁えてそうだけどな」

 

 月見とて、里からの依頼が博麗神社の大切な収入源なのは理解していようから、隠れて仕事を奪う真似はしないと思うが。むしろ里の困り事を上手く聞き出して、積極的に霊夢へ回してくれそうですらある。

 霊夢はなおも険しい面構えのまま、

 

「私もそう信じてはいるわ。……けど、月見さんは幻想郷に稲荷信仰を広めた張本人。もはや立派な商売敵でもあるのよ」

「まあ、そりゃそうだ」

 

 稲荷信仰は、表立ってこそいないものの里で着実に勢力を広げている。商売繁盛および五穀豊穣という大変ありがたい神徳を中心に、病気平癒、芸能上達、安産、家内安全、厄除け、火防(ひぶせ)と、要するに開運招福の類ならなんでもござれという有様なのだから、なんの神様かもわからない博麗神社より百万倍は魅力的だろう。今のところは家の神棚で個人的にお祀りする場合がほとんどのようだが、そのうち里を挙げて神社の建設が始まってもおかしくはないと魔理沙はニラんでいる。

 と、そこでふと己の思考が片隅に引っ掛かった。

 

「……しかし、考えてみると妙な話だよな」

「なにが?」

「月見が妖怪なのはみんな知ってるだろ。んで、あいつも別にお稲荷さんを広めようとしてるわけじゃない。ごくごく普通に生活してるだけだ。参拝できる神社だってない。……なのに、なんでお稲荷さんは広がる一方なんだ?」

 

 霊夢が、まったく考えたこともない死角を衝かれたように目を見開いた。

 月見が稲荷信仰を積極的に流布していて、故にお稲荷様ブームが起こっているのなら話はわかる。しかし実際は、月見がなにもせずとも勝手に信仰だけが広まっている状態なのだ。そんなことが本当にありえるのだろうか。ありえるのなら博麗神社は信仰獲得に喘いでいないし、守矢神社も幻想入りすることはなかったのではないか。

 霊夢が表情を変えた。機嫌の悪い頬杖を解き、急に真面目くさった目つきで、

 

「なるほど、つまりあんたはこう言いたいのね。裏で稲荷信仰を扇動している黒幕がいると」

「……別にそこまでは言わんけど、なにか理由はありそうだよな」

 

 霊夢が卓袱台を打っていきなり立ち上がる。

 

「うお。なんだどうした」

「こうしちゃいられないわ! これ以上ウチの信仰が奪われる前に、黒幕を見つけ出して成敗しなきゃ!」

 

 あっ始まった、と魔理沙は思った。この霊夢という少女、普段はものぐさなくせして信仰が絡むと突然やる気を発揮するときがあるのだ。人が変わったように、そして一回転半くらいへんてこな方向に。

 

「そんで扇動する方法を洗いざらい吐かせれば、ウチの信仰もがっぽがっぽよ!」

「あ、はい」

「行くわよ魔理沙! まずは人里で情報を集めるのっ!」

 

 どうやら、魔理沙がついていくのは決定事項らしい。まあ暇だったから付き合うのは構わないのだが、畳をずりずり引きずられながら魔理沙はなにもない空にため息を飛ばす。

 そのやる気をもっとちゃんとした方向に発揮すれば、地道ながら確実に信仰も獲得できていくはずなのに。

 でもそれだからこその霊夢なんだよな、と魔理沙は満更でもなく思うのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――はあ。それで、とりあえず私に話を聞きに来たと」

「ええ、そんなところね」

 

 所は里の甘味処に変わる。まだ昼前にもかかわらずそこそこ賑わった店内の一角で、まずは稗田阿求を捕まえて事情聴取が始まった。木目が艶かしいテーブルの上には、この店特製のあんみつが三つ並んでいる。代金は阿求が持つということで、魔理沙も霊夢も遠慮なく大盛りにしている。

 

「というわけで、なにか心当たりはない? 実際、月見さんに稲荷信仰を広める気はないわけでしょ。なのにどうしてここまでブームになったりするのかしら」

「そうですねえ……」

 

 阿求が口元に人差し指を添えて思案する。とりあえず自分が喋ることはなさそうなので、聞くだけ聞きながら魔理沙は目の前のあんみつを堪能する。普段の魔理沙なら、値段に尻込みしてまず頼むことはない一品だ。これがタダで食べられるだけでも、半強制的に引きずられてきた元は取れたようなものだった。

 たっぷり二十秒ほど考えて、阿求は見切ったように口を開いた。

 

「……ふむ、特に心当たりはないですね。誰かが扇動しているわけではなく、あくまで自然と広まっているだけでは?」

「なにもしてないのに勝手に広まる信仰なんて、あってたまるもんですか」

「あら、月見さんはなにもしてないわけじゃないと思いますよ」

 

 阿求は微笑み、教養の染みついた上品な手つきであんみつを一口運んだ。勿体ぶるようにゆっくりと味わい、

 

「月見さんは里を訪れるたび、みんなのちょっとした悩み事や相談事を聞いてくれるんです。最近はもう、なんでも相談窓口みたいになっていますね」

「まあ、それでいくつかが私のとこに回ってくるわけよね」

「里だけで解決できることにも限界がありますから。そこから霊夢さんのような外部の専門家に取り次いでくれたり、上手く間を取り持ってくれたり、月見さんに相談すれば間違いない、ととても評判がよいようで」

 

 そりゃあそうだよな、と魔理沙は思う。月見は幻想郷の中はもちろん、天界だって地底だって、更には冥界だって彼岸だって、なんだったら神話に名だたる神々にだって顔が利く社交おばけだ。そもそも本人からして、長い時を生きる中で様々な術や知識に精通した大妖怪である。つまりは揉め事の解決能力がべらぼうに高いのである。困ったときの月見、という考え方は魔理沙としてもまったく異論なしだった。

 

「信仰とは、大雑把に言ってしまえば感謝の心だといえます。神の恵みに感謝する心、仏の導きに感謝する心、そして人の厚意に感謝する心。どれも本質的に違いはないでしょう。日頃からたくさんの悩みを聞いてくれる月見さんへの感謝が、より具体的な形となって、今の稲荷信仰と結びついたのではないでしょうか」

「……は、はあ」

 

 思いがけず真っ当な理屈に霊夢は面食らった。そのまま丸め込まれそうになったが慌てて首を振り、

 

「いやいや、騙されないわよ。その理屈だと感謝されるのはあくまで月見さんであって、お稲荷様じゃないでしょ。里でお稲荷様が祀られる理由にはならないわ」

「そうでしょうか? 狐に助けられた者が、狐を眷属とする神に感謝する……日照りが続いたあとに雨が降れば、人々は雨を司る龍神に感謝するでしょう。それと同じではありませんか?」

「月見さんは妖怪でしょうが!」

「みんなわかっていますよ。でも、神か妖怪かなんて些細なことです。重要なのは月見さんが、私たちにとって『よいひと』だということなのです」

「……」

「ところで霊夢さん、『マレビト信仰』というものをご存知ですか?」

 

 出し抜けに問われて霊夢はやや二の足を踏んだ。

 

「……まれびと?」

「はい。来訪神ともいいます。里の外からやってきて福をもたらしてくれる不思議な存在を、人々は古くから信仰の対象としてきた記録があります。男鹿地方のナマハゲといえば、霊夢さんも名前くらいはご存知では?」

「あー、なんか早苗が言ってたわね。鬼みたいな見た目してて、悪い子どもを懲らしめるんだとか」

 

 魔理沙も聞いたことがある。凶悪な見た目をしているので子どもたちからは怖がられるが、悪を正し福をもたらすとてもありがたい神様なのだと言っていた。

 阿求が懐から取り出した伊達眼鏡をおもむろに掛ける。ああ教師モードのスイッチが入ったな、と魔理沙は思う。この少女は歴史のみならず学問に滅法強いので、ときおりはこんな具合で寺子屋の教鞭を執ることもあるのだ。

 

「ある日突然やってくるそういった存在を、人々は常世(とこよ)――つまり人ならざる世界から来訪した神、ないしはご先祖様の霊と同一視して歓迎しました。それはときに本当の神様であったり、様々な知識を携えた遊行者であったり、はたまた単なる旅人であったりしたでしょう。もしかすると、妖怪も交じっていたかもしれませんね」

「……はあ」

「霊夢さんも、たとえばどこからともなく神社にやってきて、お供えを寄せてくれる不思議な人がいたら。それが何回も何回も続いたら、あの人はもしかするとありがたい存在かもしれない、と考えそうになりませんか?」

 

 霊夢は答えない。言い返せない自分を悔しがるように、とても渋そうな顔であんみつを頬張っている。

 

「たとえ妖怪であっても、月見さんが里の外からやってくる、里にとってありがたい存在なのは疑いようがありません。加えて、普通とは明らかに違う銀の狐というのもあるでしょう。私たち人間は、生物無機物問わず、なにか通常ならざる特徴があるものを特別視してしまう傾向にありますから」

「……」

「私の見解としては、月見さんが里の外からやってくる『よいひと』であること、そして不思議な銀の狐であることの二つが根底にあると思います。前者がマレビト信仰につながり、後者が稲荷信仰と結びつく。二つの信仰が複合された興味深い結果と言えます。そして月見さんが月見さんである限り、それはごくごく自然な流れだったのではないかと思いますよ」

「…………」

 

 なんとも理路整然とした解説をされてしまい、霊夢はもはやあんみつをもぐもぐするだけの物体と化している。なので魔理沙が軽い半畳ついでで相槌を打つ、

 

「月見のこと、なかなかよく見てるみたいじゃないか」

「へ? え、ええ、そのあたりは仕事柄といいますか」

「いつかぎゃふんと言わせる宿敵だとか聞いてたんだけどなあ」

 

 珍しいものを見た。阿求がその色白な頬にさっと紅葉を散らし、二の句を継げなくなって明らかに狼狽したのだ。何度か口をまごつかせてからようやく、

 

「じ、事実です。宿敵だからこそ、私は月見さんを常に分析しているわけで」

「その割には、幻想郷縁起なんかも普通に高評価だったが」

「私の縁起はひとつの歴史書です。主観に囚われず、厳密な取材のもと客観的な記述を心懸けています」

 

 客観的ねえ、と魔理沙はニヤつきながら思う。阿求が逃げるようにぷいとそっぽを向く。そのとき暖簾を掻き分けややお年を召した団体客がやってきて、店主と知り合いなのか大声で挨拶するわ、どっと笑い出すわで店が俄かに騒がしくなる。

 そのせいで、阿求のつぶやきは魔理沙には聞こえなかった。

 

「……私の縁起を、好きだって言ってくれたんですもん。変なことなんて書けるわけないじゃない……」

「ん?」

「と、ともかくっ」

 

 阿求は大きめの咳払いをして、

 

「話を戻しますよ。稲荷信仰については述べた通りです。なので霊夢さんももう少しここへ足を運んで、人々と利害によらないよき関係を築くよう努力すれば、自然と信仰も集まるかもしれませんよ」

「お、霊夢が一番苦手なやつだな」

「……うっさいわね」

 

 霊夢が欲しているのは、なるべく自分が動くことなく楽に参拝客を集める方法だ。先を見据えた地道で遠回りな布教活動より、一発逆転値千金のホームラン狙いなのである。

 

「あとは参道をきちんと整備して、安全に歩きやすくすることですかねえ……」

「お、霊夢が最も苦手なやつだな」

「ばーかばーか」

 

 霊夢が自棄になって団子を追加注文する。ますます客が増えつつある店内に、店主夫婦の以心伝心な応の声が威勢よく響く。

 

 

 

 

 

「――さて、どうする。阿求の分析では、今のお稲荷さんブームにはなんのインチキもないそうだぜ?」

「一人だけの話で判断するのは早計よね。もう少しいろんな人にも訊いてみないと」

 

 甘味をたっぷり堪能したのち阿求と別れると、霊夢は里の通りを大股で徘徊し始めた。里の風景からも情報を集めようとしているのか、いきなり食べ過ぎたのでちょっと運動しようとしているのかは不明だが、どうあれこの程度で諦めるつもりは毛頭ないらしい。今日一日特に予定もない魔理沙は、とりあえず彼女の後ろにくっついてゆく。

 

「お前は一発屋気質が過ぎるんだよ。別に狙うのが悪いとは言わんが、もうちょっと安定した信仰の地盤作りもだな」

「仕方ないでしょ、そういうの性に合わないんだもの。私は私のやり方で成功してみせるわよ。私は巫女であって、里のなんでも相談窓口なんかじゃないんだから」

「とはいっても、なんのご利益があるかもわからない神社じゃなあ」

 

 八百屋さんの前を通り過ぎる。店の奥の天井近くに、真新しいお手製の神棚らしき物が鎮座しているのが見える。遠目なのではっきりとはわからないが、両脇に飾られた白い小さな置物は、ひょっとすると白狐のそれではなかったか。さすがは商売繁盛の神様だと思いながら、

 

「得体の知れない神様じゃあ、なんか祟りがあるかもとか思われそうだし」

「――そうよ。それだわ」

「んあ?」

 

 霊夢が突然足を止めた。素早く、そして大真面目な形相で魔理沙へ振り向き、

 

「ねえ魔理沙、こんな話を聞いたことない? ――お稲荷様は、信仰をやめたら祟られるって」

「……んー? あー、そう言われてみれば、そんな話もあったような……?」

「絶対にあったわ。そんな神様を迂闊に信仰するなんて、ちょっと危ないんじゃないかしら」

「……あー、」

 

 話の意図を察して魔理沙はため息をついた。どうやらこの少女、自分がのし上がるのではなくライバルを蹴落とす方に方向転換したらしい。どうしてそういう悪知恵ばかりがテキパキ働くのか、さすがの魔理沙も頭痛を禁じえなかった。

 

「あのなー霊夢、そんなことしたってお前の神社が信仰されるわけじゃないだろ」

「私は博麗の巫女として、真っ当に里の現状を憂いてるだけよ」

「もしそうだとしても、月見ならちゃんと事前に説明してるって」

「いーやわからないわ。水月苑のお社だってほいほい建ててたし、きっと宇迦之御魂神と結託して」

「――あ、霊夢。魔理沙」

 

 里の賑わいを通り抜け、はっきりと耳の奥まで届く綺麗な呼び声だった。一歩横にずれて霊夢の後ろを見てみると、近づいてくるのは買い物袋を抱えた『天使先生』だった。

 

「おはよう、二人とも」

「あら、おはよう。……ちょうどよかったわ、あんた神道に詳しかったわよね」

 

 へ? と『天使先生』――比那名居天子は目を丸くし、

 

「ええと、一応、ちょっとくらいなら……? でも、神道だったら霊夢が専門じゃ」

「まあまあ、とりあえず聞いてよ」

 

 霊夢がかくかくしかじかとここまでの経緯を説明する。最初はちゃんと耳を傾けていた天子だったが、『信仰獲得』という単語が出たあたりから一気に白け始め、最後には魔理沙と同じく頭痛に呻きながら、

 

「霊夢……それってつまり、自分が信仰を得るために他の神様を蹴落とそうとしてるってこと……?」

「ち、違うわよ。里のみんながお稲荷様をよく知らないまま軽い気持ちで信仰してるんじゃないかって、真っ当に心配しているの」

 

 天子はしばらく疑いたっぷりの半目で霊夢を睨み、やがて諦めるように吐息した。

 

「……去年、月見が寺子屋で授業したときのことなんだけど」

「は? あいつ、寺子屋で授業なんかしてるのか?」

「先生たちがたまたま急用で都合つかなくなったときとか、臨時でね」

 

 遂に妖怪が人間の学校で授業する時代か――と魔理沙は震えたが、まあ月見だしな、と深く考えないことにする。

 

「そのとき子どもたちが同じ質問して、月見が答えてたよ。……お稲荷様がすぐ人間を祟るなんてのは、まったくの迷信だって」

「……そうなの? まったく?」

「まったく。宇迦之御魂神はすごく気が長いのんびり屋で、むしろ滅多なことじゃ人間を祟ったりしないそうです」

「なんだ、残ね――い、いや、危なくなくてよかったわね。うん」

 

 天子は霊夢をひと睨みで黙らせ、

 

「稲荷神社の総本社、伏見稲荷神社は日本有数の神社で、毎日たくさんの参拝客が来るんだけど、どれくらいの人が日頃からちゃんとお稲荷様を信仰してると思う? 一回お参りしてそれっきり、行楽気分で手を合わせていくだけの人がいくらでもいる。……もしお稲荷様が本当にすぐ人間を祟るんだったら、もう日本中が祟りまみれになってるはずなの」

「ははあ。つまり、一回しかお参りしないようなチンケなやつをいちいち相手するほど小さい器じゃないってか」

「そうじゃなかったら、開運招福の神様として有名になるはずがないでしょ?」

 

 確かに、理屈で考えてみればそうだ。稲荷神社は日本全国におよそ三万の数があり、それだけなら天照大神や素戔嗚尊すら差し置いて日本一に君臨するという。ということは人々にとって、お稲荷様はそれだけ親しみやすい身近な神様だったと考えられるわけだ。すぐに祟られてしまうような恐ろしい神様ではこうはいかない。

 しかし霊夢は釈然としない。

 

「でも、だったらなんでそんな迷信が生まれたわけ? 火のないところに煙は立たないっていうと思うけど」

「それも月見が言ってたけど、理由として大きいのは二つ――荼枳尼天(だきにてん)飯綱(いづな)権現だろうって」

 

 話を小耳に挟んだ里人が一人また一人と足を止め、魔理沙たちの周りで興味深げな人だかりを作り始める。するとその集まりが更に次々と人を呼び、『天使先生』の青空教室となるまでさほど時間は掛からなかった。聴衆が増えた天子はこほんと喉の調子を整えて、

 

「えーと……荼枳尼天はインドの仏様で、白狐にまたがり空を駆けることから、日本で神仏習合が興ったときにお稲荷様と同一視されました。これが、元々は人間を食べるなどした羅刹の一人で、強い御利益をもたらす代わりに相応の対価も求める、祟り神としての側面を持つ厄介な仏様だったのです。当然、信仰を途中で勝手にやめたりすれば怒りを買います。はじめのうちはちゃんと修行を積んだ僧侶だけが使う呪法の類だったのですが、時代が下るに連れて民間でも知られるようになって、お稲荷様と概念がごちゃごちゃになってしまいました。

 そして飯綱権現は天狗姿の神様で、人間に『飯綱法』という呪術を授けました。『管狐』という狐を使役して家を繁栄させたり、人を呪ったりする強力な憑き物の一種です。ですが飯綱権現が厳格な神様であるためか、扱いが難しく、一歩間違えれば自らを滅ぼすことになるともいいます。これも時代とともに荼枳尼天やお稲荷様とごちゃごちゃになってしまって、いつしかお稲荷様までもが、『信仰をやめたら祟られる』と噂されるようになってしまったのです。

 ……こういうことがあって、宇迦之御魂神と荼枳尼天と飯綱権現は、仲があまりよくありません。稲荷信仰に余計な傷をつけたと、宇迦之御魂神が今でもしっかり根に持っているそうです」

 

 要するに、『狐』という共通項があったばかりに宇迦之御魂神が大変迷惑しているという話のようだった。

 似た話は魔理沙にも覚えがある。魔法の勉強をしていると、ちょっとした類似点から異なる二つの概念をこじつけようとする本と出くわすのがそれだ。なにからなにまでいちいち区別しようとするのはよくないが、なんでもかんでもひと括りにしてしまうのも考えものなのである。

 最後に天子はやや声量を強め、

 

「そういうわけで、お稲荷様はとても優しい神様ですので、神棚を作って普通にお祀りするのはなにも問題ありません。本人に確認したのでまず間違いない――と、月見が言ってました」

 

 そう、即席の青空教室を締め括った。

 納得とも感嘆とも取れる、低い唸り声めいた理解の声が人々からあがった。「お狐様も大変なんだなあ」と若い男性、「ウチもお祀りしてみようかしら」と壮年の女性、「ウチはおまつりしてるよね!」と肩車された子ども、「ありがたやありがたや」と杖をついた老人、総じて良好な反応が行き交っている。ただ一人、霊夢だけがぶるぶると拳を震わせ、

 

「天子ぃぃぃ!! あんたどっちの味方なのよおっ!?」

「うひぇ!? なななっなにが!?」

「さてはあんたが稲荷ブームの黒幕なのね!? ほんっと隙があれば月見さんのことしか考えてないんだからあんたはあッ!!」

「へっ……い、いや、ええとその、わたし別にそんなんじゃ」

「なぁに赤くなってんのよ幸せいっぱいですってかコンニャロ――――――ッ!!」

「ひにゃあああああ!?」

 

 霊夢が怪鳥の如き裂帛で天子に飛びかかり、キャットファイトとは世辞でも呼びがたい一方的な暴走劇が始まる。途端に周囲の人々が、「おお、博麗様が荒ぶっておられる……」「恐ろしや恐ろしや」「ほら、見ちゃダメよ」と慣れた様子で解散していく。

 なんとなく、博麗神社に信仰が集まらない理由の一端を垣間見た気がする魔理沙であった。

 

 

 

 ○

 

「――あー、ところで天子。話は変わるんだけど」

「うう、まだなにかあるのぉ……??」

「いや、もう叩かないから。こないだのおみやげ(・・・・・・・・・)、恥ずかしがってないでちゃんと使うのよ。それだけ」

「……、」

「早く勇気出さないと、月見さんも忘れちゃうかもしれないしねー」

「……………………」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 天子がとばっちりでボコられたあとも、魔理沙は引き続き霊夢の後ろにくっついて回った。寺子屋では上白沢慧音、商店が並ぶ通りでは十六夜咲夜と魂魄妖夢、たい焼き屋の前では風見幽香、偶然開かれていた古物市ではとある本好きの少女と、目についた知り合いにはひと通り聞き込みをしてみたものの、霊夢が望む情報はこれといって得られぬまま時間だけが過ぎ去っていった。

 いつの間にか太陽もそこそこ高くなり、人々が昼餉の献立を考え始める頃合いである。魔理沙は頭の後ろでのんべんだらりと両手を組みながら、

 

「――で、どうするんだぜ。まだやるのかー?」

「……むう」

 

 前を歩く霊夢の足取りは、もうだいぶやる気のない感じになっていた。元々飽きっぽいし、大して我慢強くもないやつである。午前中いっぱい費やしてなんの成果も得られなかったのだから、霊夢の中ではこれ以上は無駄と結論されつつあるだろう。彼女は足を止めて荒っぽく頭を掻き、

 

「おっかしいわねえ。絶対に黒幕がいると思ったんだけど」

「結局、稲荷信仰は極めてまともな理屈で広まってるってこったな。いいお手本じゃないか」

「……」

 

 霊夢はとても渋い顔をしている。あんなのお手本にしたくないわよ、とほっぺたにでかでかと書いてある。

 

「でも、長い目で見ればそれが一番なんだと思うぜー。感謝というか信頼というか、ともかくそういうので成り立った信仰ってのは長続きもするだろうしな。信仰は一日にしてならずってわけだ」

「……ぶー」

 

 ぶーたれてもなにも出ません。

 

「はあ……信仰を集めるって、なんていうか、案外地味なもんなのねえ」

「お前、よくそんなんで今まで巫女やってこれたよな」

「うっさいわね」

 

 妖怪退治や各種祭祀の方面ではせっかく憎たらしいほどの才能と腕前があるのに、どうしてそれを信仰獲得に欠片も活かせないのか。『天は二物を与えず』という格言を、ここまで余すことなく体現する少女も他にはいるまい。

 

「んで、これからどうすんだ? もう諦めるなら、私はさっきの古物市にでも」

「――あ、霊夢さーん! 魔理沙さーん!」

 

 背後から声。振り返ってみると、今度は東風谷早苗の姿があった。駆け寄ってくる彼女はやけに嬉しそうな様子で、

 

「こんにちは! ひょっとして、お二人もこれから命蓮寺に?」

「……命蓮寺ぃ?」

 

 憎っくき商売敵の名に霊夢がひどく眉根を寄せる。魔理沙はいま歩いている通りを頭の地図と照らし合わせ、そういやここをまっすぐ行くと命蓮寺だったか、と遅まきに気づく。早苗は小首を傾げ、

 

「あれ、違うんですか? てっきり、お二人も命蓮寺の修行体験に行くのかと」

「なによそれ」

「ですから、修行体験ですよ。日帰りでお寺の生活を体験できるっていう」

 

 魔理沙は霊夢と顔を見合わせた。そんな催しがあることも、命蓮寺がそんな活動を始めていることもまったくの初耳だった。

 

「じゃあ、よければちょっと一緒に行ってみません? 申込制ですけど、一人二人くらいなら飛び込みできると思いますよ」

「いやいや、なんで巫女の私がそんなことしなきゃなんないのよ。ってか、なんであんたは行こうとしてるわけ。まさか仏様に鞍替えする気?」

「あはは、まさか。でも、いろいろ勉強になるところもあるかなーと」

 

 意味がわからん、という顔を霊夢はしている。

 

「仏教なんて私たちの敵じゃない」

「まあまあ。確かに私たちは信仰を獲得し合うライバルですけど、一方ではともに神の膝下にある同胞、仲間でもあると思うんです。いがみ合ってるだけじゃ始まりませんよ」

「……なーるほど? つまりお前は敢えて異なる宗教に触れることで、切磋琢磨の材料にしようとしてるのか」

 

 早苗は気恥ずかしげに頬を掻き、

 

「まあ、そうなればいいなー、って漠然と思ってる程度ですけど……」

「いやいや、それで実際に行動できるのは立派なもんだぜ」

 

 魔理沙は腕を組んで二度大きく頷き、それから慈しみの眼差しで霊夢を見つめた。

 

「同じ巫女なのに、どうしてこうも違うんだろうなあ……」

「どういう意味よ」

「そういう意味だぜ」

 

 確かに東風谷早苗は、巫女としての実力こそ未だ霊夢には及ばない。しかしそれは比較対象の問題であって、早苗の実力自体が未熟というわけでは決してない。内に秘めたポテンシャル、異宗教を理解し柔軟に受け入れる懐の広さ、そして今なお霊験あらたかな二柱の後ろ盾。知名度の低い神社の巫女だからとみくびっていると、そのうちぎゃふんと尻餅をつかされそうだ。

 

「とにかく、のんびりなんてしてられないですよっ。志弦から聞いた話だと、命蓮寺には月見さんもいろいろ協力してるようで」

「――それだわ!!」

 

 霊夢がいきなり血圧を上げて吠えた。目を白黒させて固まる早苗に、まるで名探偵さながら人差し指を突きつけ、

 

「命蓮寺とお稲荷様は、裏で結託しているっ!!」

 

 周りの里人たちから不審者を見る眼差しが集中し、魔理沙はどうしようもなく他人のフリをしたくなった。

 

 

 

 

 

 命蓮寺は、なかなか堂々としたお寺である。開山されたばかりなので当然といえば当然だが、傷ひとつない真っ白な漆喰壁に敷地を囲まれ、漆が艶めく小さくも荘厳とした山門が来客を歓迎する。門をくぐると完成されて間もない若々しい庭が広がり、本堂への道筋を整然とした石畳が貫いている。左に手水舎があり、右には幻想郷唯一の鐘楼が建っている。本堂の脇にもいくらか建物が隣接しており、反対の隅を通るとそのまま奥の墓地へ行けるようになっている。

 修行体験でそこそこの大人数が集まっているにもかかわらず、境内は波紋ひとつない水面の如く静まり返っている。単に物静かなだけなら博麗神社も同じだが、こちらは無意識のうちに背筋が引き締まるような侵しがたい清澄だった。嫌いとは言わぬまでも、どうも長居はしたくない場所だな、と魔理沙は思った。

 

「――以上のように、今回は多くの方々からご関心をいただきましたので、三つの組に分けて進めさせていただいています」

 

 案内してくれているのは、住職の聖白蓮だった。正面の本堂ではナズーリンが座禅を、その脇の建物――僧堂といい、お坊さんが日頃の修行を行う場所らしい――では星が法話、一輪が写経を担当している。更にその奥の建物――庫裏(くり)といい、お坊さんの住居にあたるとか――では、ムラサ船長が昼食の準備を進めているそうだ。本堂に目を遣ると、薄暗がりの奥で精神統一している早苗の背中が見えた。

 

「今回は本当に簡単な体験ですので、このあと三十分ほどで組を入れ替えます。正午になったら精進料理で昼食を摂り、午後にもう一度だけ組を入れ替えて、三つの修行すべてを体験したところで終了となります」

「ほーん……二時間ちょっとってとこか? 確かにこれなら、興味本位でも参加しやすそうだな」

 

 仏教の修行といえば魔理沙はてっきり、俗世を断ち切って寺に住み込み、厳しい戒律の下で粛々と行うイメージだったが。体験なのだから当然とはいえ、これなら老若男女問わず、一人でも親子でも気軽に足を運べそうだった。

 

「はい。月見さんに、いろいろ相談に乗ってもらったんです」

 

 霊夢があからさまに目を眇めたが、白蓮は気づかぬまま、

 

「今の時代は、仏教の修行と聞くと戒律に縛られた厳しいものを想像してしまい、敬遠する方が多いと聞きます。なのでまずは、こういった場からその先入観を払拭できればと思いまして。俗世を断つ必要も、戒律を守る必要もありません。今まで通りの生活のまま、日々のほんの少しの時間、仏の教えに思いを馳せてみるだけでも充分なんです」

「ふーん。そんなので信仰してることになるわけ?」

 

 霊夢の歯に衣着せぬ質問を物ともせず、くすくすと微笑んで、

 

「あなたは、神社を信仰してくれる方に日頃から精進潔斎を求めますか?」

「……」

「信仰とは心。仏の教えに思いを馳せ、己を律し人道に生きる心があれば、仏の下ではすべて平等ですよ。それは神道も同じではありませんか?」

 

 むう、と霊夢は唸る。

 

「俗世を断つことも、戒律を課すことも、究極的には己の心を磨く手段に過ぎません。信心に芽生えた者が、仏の教えを一層理解したいと願い己の意思で課すのであり、修行を積むこと自体が目的ではないのです」

「そういやお前、宴会で弟子が酒呑んでても止めなかったな」

「まあ、仏門へ入った以上なるべく意識してほしいとは思うのですが……無理やり押しつけたところで信心は生まれませんから。もちろん、だからといって堕落したり、酔い潰れて不徳を晒すようなら拳骨ですけどね」

 

 一輪はぐうたらですし、星は食いしん坊ですし……と白蓮は小さく吐息して、

 

「ええと、それでどうされますか? お二人も体験してみます? 二人くらいなら飛び込みでも大丈夫ですよ」

「いいえ、それには及ばないわ」

 

 霊夢ははっきりと首を振り、大股で一歩白蓮へ踏み込み問うた。

 

「単刀直入に訊くわ」

「は、はい?」

「あんた、月見さんとどういう関係?」

 

 白蓮が、七秒ほど石化した。それから全身を緩やかに緊張させ、恐る恐ると薄氷へ足を伸ばすように、

 

「…………ど、どう、と言いますと?」

「そのままの意味よ」

「……ええと、その、いえ、特には、普通のお知り合いというか、」

 

 霊夢は更に一歩踏み込み、白蓮の胸倉に掴みかかる勢いで吠える。

 

「とぼけるんじゃないわよ! もう事実はあがってるのよっ!」

「は、ええっ!? そ、それって、まさか……!?」

「そういうこと。ほらほら、潔く白状した方が楽になるわよ?」

 

 白蓮がじわじわと赤くなって狼狽えている。岡目八目というべきか、魔理沙はこの時点で両者の認識に齟齬(そご)があるのを素早く察したが、面白くなりそうなので黙って成り行きを見守る。

 

「い、一体どこから……! まさか、ナズーリンですか……!?」

「はあ? あんた自分で言ってたじゃない」

「じ、自分でっ!?」

 

 半分以上裏返った素っ頓狂な大声、

 

「……い、いつですか! 私が一体いつ……!」

「ついさっき」

「ついさっ……!?」

 

 白蓮はもう為す術もなく真っ赤になって、湯気が噴き出しそうな頬を両手で覆うと、

 

「そんな、私は確かに『月見さん』って……ま、まさか無意識のうちに……ひょっとして、他の人の前でも……」

 

 何事かぶつぶつ呟きながら、疑心暗鬼の泥沼に沈んでいってしまった。もちろん霊夢が問い質しているのは、白蓮と月見――すなわち命蓮寺と稲荷信仰の関係である。事実があがっているというのも、白蓮が言った「月見さんに、いろいろ相談に乗ってもらったんです」を指している。あんたと月見さんが結託してるのはわかりきってるのよ、と言っているのだ。しかし白蓮はなぜか盛大な勘違いをしているらしく、見るからに心臓バックバクで風船がしぼむように縮こまっている。

 魔理沙の女の勘が告げる。

 これは、絶対に面白いやつである。

 なので、白蓮が白状する瞬間を今か今かと期待したのだが、

 

「……よくわからないけど、あんたと月見さんは裏でつながってて、お互いの信仰を広めようとしてるんでしょ。そんなのこの私が許さないわよ」

「うう、違うんですっ、それには深い訳が――え?」

 

 痺れを切らした霊夢が、答えを言ってしまった。

 顔をあげた白蓮は、滑稽なほど鳩が豆鉄砲を食った様子で、

 

「……え、信仰?」

「? あんた自分で言ったでしょ、月見さんにいろいろ相談に乗ってもらったって」

 

 まばたきもせずしばらく呆けて、ようやく自分が恥ずかしすぎる勘違いをしていたと気づいたようだった。

 

「あ、そ、そっちですかっ……ついてっきり……」

「……なんだと思ってたわけ?」

「いいいっいえいえなんでもっ! どうか、お気になさらず……」

 

 白蓮は腰が砕けるような安堵のため息をついている。ちくしょうあとちょっとだったのに、と魔理沙は心底口惜しく思った。この巫女はもう少し視野を広く持ち、ときには待ちの戦法で駆け引きする冷静さを身につけるべきである。普段は無駄に勘が鋭いくせして、どうしてこういう大事な場面では空気が読めないのか。

 白蓮はひと呼吸で気を取り直し、

 

「ええと、確かにいろいろと相談に乗っていただいてますが……幻想郷のこと、この時代のこと、まだまだたくさん学ばねばなりませんから」

「御託はいいわよ。つまりは里でブームになってる稲荷信仰に、あんたたち命蓮寺も加担してる。そういうことでしょ? ダキニテンとかいう仏教の神様がお稲荷さんと同一視されてるって聞いたわ」

「はあ……?」

 

 明らかに話がわかっていない様子だったので、仕方なく魔理沙が補足してやる。

 

「このところ、月見の影響で稲荷を信仰するやつが増えてるんだよ。でも月見は妖怪だし、別に信仰を広めようとしてるわけでもないだろ? だから他に黒幕がいるんじゃないかって疑ってんのさこいつは」

「まあ……」

 

 少なくとも、演技をしたようには見えなかった。口元に手を添え控えめに驚いた白蓮は、ギクリとするどころか楽しげな笑みを咲かせ、

 

「ええ、里で稲荷の信仰が見直されているのはナズーリンから聞きましたけど……ふふ、そんなにたくさんの方が信仰しているんですか?」

「……とぼけてるの?」

「本当に、月見さんには驚かされてばかりです……」

 

 その表情に広がっていくのが月見への敬意と、そしてそれ以上のまぶしい憧憬だったので。

 

「……あー霊夢、たぶんこいつは白だぜ。お前が考えてるような悪知恵を動かせるやつじゃない」

「……そうね。私もそんな気がしたわ」

 

 まさしく仏というのもなんだが、損得勘定に支配されない掛け値なしの善人なのだと思った。お互いのため善意から協力することはあっても、誰かとグルになって美味い蜜を吸おうなんて天地がひっくり返っても考えられない。そんな、恐らく自分たちとは根本的につくりが違う人間なのだと。

 

「これも、月見さんの人徳なのでしょう。ふふ、本職の私たちも負けてられませんね」

「……あっ、はい。うん、まあ、そうね。頑張りましょっか」

 

 霊夢は完全に毒気を抜かれ、喧嘩を吹っかける気満々だった自分を誤魔化しながらぎこちなく頷いている。今まで出会ったことのないタイプの善人相手に、すっかり出鼻を挫かれてしまったようだった。

 霊夢がやる気をなくしたので、魔理沙が勝手にバトンを受け取る。

 

「……んじゃあ、私からもひとつ質問していいか?」

「あ、はい。なんですか?」

 

 魔理沙は抜けるような笑顔で、

 

「最初、なんの話と勘違いしてたんだ?」

 

 白蓮がまた七秒石化した。

 もちろん、あれだけ面白い反応を見せられて黙って見逃すはずはなかった。白蓮と月見の間には、決して他言してはならないなにか壮大なヒミツが隠されている。先ほどから魔理沙の帽子の下で、乙女のセンサーがビンビン反応しっぱなしなのでまず間違いない。

 

「…………い、いやっ、それは至って個人的な話というか、ぜんぜんまったく大したことではないので、」

「別に大したことじゃないなら、教えてくれてもいいよな?」

 

 白蓮の目線が泳ぎまくっている。笑顔もだいぶ余裕がなく引きつっている。土を鳴らしてじりりと一歩後ずさりしたので、間髪容れずに一歩前へ詰める。

 横に霊夢が並んだ。

 

「まさかとは思うけど、やっぱりあんたなにか隠してるんじゃ……」

「ち、違うんです、確かに隠してることはあるんですけど、それは今回のお話とはなにも関係なくて、私の恥ずかしい勘違いで、あの、その、」

 

 魔理沙と霊夢は、一秒で以心伝心した。

 

「「とりゃああああああああっ!!」」

「ふひゃあああああ!?」

 

 阿吽の呼吸で白蓮へ飛びかかり、左右から包囲して脇腹をつんつん攻撃した。

 

「きゃあっ!?」

「あっはっは、そんなこと言われたら気になってしょうがないだろ! なんだか面白そうな話に聞こえるなー!?」

「さーさー、さっさと吐いて楽になっちゃいなさいっ!」

「いいいっいやですいやです言えるわけな、にゃぁう!? あっ、待っ、ふあっ、んんっ、ひぅ――い、いやー!?」

 

 逃げ出した白蓮を追いかけ、寺の庭を目まぐるしく走り回る。

 

「うーん、あんな必死になって逃げるなんて怪しいな! これは相当クサいぜ霊夢!」

「私の勘も怪しいって言ってるわ! これはなんとしても聞き出さないとならないわねー!」

「違うんですってばああああああああ」

 

 何気に白蓮の足が速くて手間取ったが、所詮は二対一。霊夢が進行方向に両腕を広げて立ち塞がり、白蓮が一瞬躊躇した隙に後ろから魔理沙が確保

 

「違うって、言ってるのにいっ!!」

「ぶぎゃっ!?」

 

 しようと伸ばした手首を掴み取られ、なにやら合気めいた技でたちどころに組み伏せられてしまった。

 手首がアカン方向にねじれた。気がした。

 

「い、いい加減にしてください! さすがの私も怒りますよ!?」

「いだだだだだだだだ!? あっちょっ手首、主に手首がアカン感じになってるううううう!?」

「とにかくやめてください! じゃないとポキっていきますからね!?」

「ポキっていくの!? そそそっそれ絶対いっちゃダメなやつだろおっ!! れ、霊夢助けてえええ!!」

「あの一瞬で完璧に関節を極めてる……尋常な技じゃないわ。なるほど接近戦は危険ってわけね」

「冷静に分析してんじゃねええええええええ!! んがががががががが」

「もう忘れてえええ――――――っ!!」

「さっきからうるさいよ君たち!! 修行の邪魔だ!!」

 

 そんな感じでぎゃーぎゃー騒いでいたら本堂からナズーリンがすっ飛んできて、座禅で使う棒――あとで知ったが警策(きょうさく)という名前らしい――で揃って頭をぶっ叩かれた。更には修行が足りない、まったく煩悩にまみれている云々と説教された挙句、問答無用で座禅に強制参加させられる羽目になったのだった。

 

「くっ、なんで私がこんなこと……魔理沙、あんたのせいよ」

「お前だってノリノリだったろうが。同罪だぜ」

「あ、あの、ほんとに忘れてくださいねっ? それが一番お互いのためで」

「ふんッ!!」

「「「いだぁい!?」」」

 

 ナズーリンのうなる神速の警策は、とても痛かった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「はあ……まったく酷い目に遭ったわ……」

「うー、頭がまだヒリヒリしてるぜ……」

 

 命蓮寺からの帰り道を、魔理沙と霊夢は浮浪者みたいにとぼとぼと力なく歩いている。ようやく座禅から解放された頃にはとっくに正午を回りきっており、里の通りはそこかしこが反則的な誘惑の香りで満たされていた。

 腹が鳴った。

 

「腹減った……どっかでメシ食っちまおうぜ……」

「そーねー……」

 

 家に戻って一から支度する気力もない。寺から逃げ出す間際、ムラサ船長特製の本格精進料理とやらを見てしまったせいだろうか。多少お金を使ってでも、お腹いっぱいたらふく食べて幸せになりたい気分だった。

 ため息。

 

「結局、収穫らしい収穫はなかったなー……」

「そーねー……お稲荷さんも早苗も命蓮寺も、今は地道に信仰を広げてるって感じね……」

 

 少なくとも、妙な方法で信仰を一挙獲得しようとしている様子はなかった。というより、神や仏に誠意を持って仕えるならばそれが当たり前のことなのだ。信仰は一日にしてならず。博麗神社だって幻想郷最古の由緒ある神社なのだから、ちゃんと頑張れば信仰に喘ぐ生活なんて無縁になるはず。

 さすがの霊夢も、ライバルたちの真っ当な姿から刺激を受けただろう――と、魔理沙はなんの疑いもなく思っていたのだが、

 

「でもまあ、安心したわ」

「そうだな。今が出遅れてるってだけで、まだまだ逆転は可能だぜ」

「ええ。同じこと考えてるやつもいないし、あとからでもいくらだって逆転できるわよね」

「そうそう、あとからでもいくらだって――は?」

 

 お前いまなんて、

 

「卑怯な手で一気に信仰奪われたら大変だと思ってたけど、これは焦る必要もなさそうねー。いやーよかったよかった」

「……」

 

 ……。

 ……霊夢ゥ。

 

「うん。これからのことはこれからの私に任せるとして、今日は帰ってのんびりしてましょ」

「もうダメだこいつ」

「なんか言った?」

「いやなんにも」

 

 霧雨魔理沙の脳内会議にて、満場一致で匙を投げる結論が可決した。そもそも自分は最初から宗教に関係のない部外者なのだから、こうして首を突っ込んでいるのが間違いだったのだ。うん、もうやめようそうしよう。

 

「……あ、月見さん!」

 

 魔理沙が遠い目線で明後日の空を眺めていると、前方の人ごみに銀の狐耳を見つけた霊夢が、フランさながらの猛ダッシュですっ飛んでいった。魔理沙もため息をついて小走りで追いかける。

 

「月見さん!」

「おや、霊夢。魔理沙も一緒か」

「月見さん、ちょっと相談に乗ってよ。月見さんって、ここでなんでも相談窓口やってるんでしょ」

「……まあ、いつの間にかそういうことになってるみたいだね」

「なにが『いつの間にか』よとぼけちゃって。それで、ウチの神社の信仰なんだけどさ――」

 

 そのとき霊夢の腹がそこそこ大きく鳴って、

 

「……どうやら昼がまだみたいだね。どこか店に入るかい? お代は出すよ」

「月見さん好きっ!」

 

 やれやれ、と魔理沙はもはや呆れて物も言えない。稲荷神社はなにか卑怯な手で信仰を広めているのではないか、命蓮寺とお稲荷さんは裏でつながっているのではないか、などと散々人を疑っていたくせにこの掌返しだ。あいかわらず気分屋というか調子がよすぎるというか、まあそれでこそ魔理沙の知る博麗霊夢ではあるのだけれど。

 昨年の夏に起こった天子の異変を経て、霊夢は己の未熟を正面から受け止めるようになった。さすがに当時と比べれば密度は減ったものの、今でも合間合間でちゃんと稽古は続けているようである。あれだけの事件があったのだから当然といえば当然であり、しかし逆をいえば、あのレベルの経験がなければ博麗霊夢は変わらないのだとも魔理沙は思うのだ。

 月見とはまた別の意味で自由奔放であり、良くも悪くも己の感じるままに生きる楽園の素敵な巫女さん。

 はてさて、彼女が神社の信仰と真摯に向き合う日はやってくるのか――まあ詰まるところ、なにが言いたいのかといえば。

 

「魔理沙もどうだい?」

「おう、ありがたく同席するぜ!」

 

 ――他人の金で食うメシは美味い。

 霊夢には悪いが、今度水月苑の稲荷神社に賽銭でも入れよう、と魔理沙は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第143話 「蠱惑と陰謀のもふもふ券」

 

 

 

 

 

「――では、これより緊急会議を執り行います」

 

 今日も今日とて参拝客など一人もいない博麗神社で、霊夢の珍しく厳かな声音が低く通る。

 母屋の戸はすべて徹底的に閉じられ、茶の間の襖も一分の隙間なく外の光を拒んでいる。お陰でまだ昼前だというのに部屋はかすかに薄暗く、霊夢の物々しい表情をそこはかとなく後押ししているように見える。卓袱台の上に両肘をついて、顎の手前で静かに互いの指を組ませている。

 いきなり連れ込まれた天子としては、まるで寝耳に水である。

 とりあえず言われるがまま霊夢と向かい合って正座しているが、なにが『緊急』なのかは皆目見当もつかず困惑してばかりいる。幻想郷で一番古くから存在する石階段、昨年生まれ変わって間もない真新しい社殿、そして微妙に端々まで掃除が行き届いていない境内と、少なくとも天子の目にはいつもと変わらない神社に見えていたのだが、

 

「ど、どうしたの? 一体なにが」

「どうしたもこうしたもないわよ」

 

 ピシャリと一刀両断するが早いか、霊夢が卓袱台に怒りの孕んだ拳を落とした。たったそれだけのことで天子の肩がびくりと飛び跳ねる。矢じりのような眼光が天子を真正面から射貫いている。

 

「言い訳なんて許さないわ。さあ天子、観念なさい」

 

 名を呼ばれた途端、天子の全身と心臓が一気に萎縮した。そこでようやく天子は思い知る――霊夢は自分を相談相手としてではなく、弾劾すべき被疑者としてこの場に連れ込んだのだと。天子の肌をひりつかせる霊夢の確かな怒気は、他でもない自分に向けられているものなのだと。

 そう思い知った途端、怖くなった。霊夢を怒らせてしまったのもそうだし、なにより原因にまったく心当たりがなかったからだ。

 自分でも動揺するほど他愛なく声が震えた。

 

「え、わ、私、なにかしちゃった……?」

「……まあ、あんたはそう言うでしょうね。わかってたわ」

 

 失望のため息を吐かれる。それがますます天子の動揺に拍車を掛ける。今日に至るまでの自分の行動を一生懸命思い出すが、何度頭を搾っても余計に糸が絡まるばかりだった。昨日だってお互い笑顔で別れたはずなのに、どうして今日になって突然。

 

「愚鈍なあんたのために、きっぱり言ってやりましょう」

 

 愚鈍、という霊夢の言葉が想像以上に胸の深くまで食い込んだのを感じる。もうなにも考えられなくて、目の前がどんどん真っ暗になっていく感覚に囚われる。

 比那名居天子は、臆病者だ。

 かつての自分は、怖い物知らずを地で行く傲岸不遜(ごうがんふそん)なお嬢様だった。他人からどれほど疎まれようと知ったことではなく、独りでもある意味では強く生きていられた。しかし月見と出会って、こうして幻想郷に受け入れられて、天子は人を好きになる幸福を知り、また人から好かれる幸福を知った。だからこそ、そんな人たちから嫌われる可能性がなによりも怖くなった。もしも霊夢に嫌われたらと思うと今すぐにでも謝りたくて、しかし彼女の有無を言わさぬ眼光がそれを許さない。

 

「いいこと、天子――」

「っ、」

 

 霊夢がゆっくりと息を吸う。言われる、と思う。覚悟を決めて正面から受け止めるだけの勇気が天子にはない。恐怖のあまり霊夢の顔を見返すこともできず、天子はただ全身をわななかせてぎゅっと目を、

 

 

「――あんたいつになったら月見さんのもふもふ券使うのよ!! せっかく私が気を遣ってやったのに、この腰抜けっ!!」

「…………………………………………、」

 

 

 なにを言われたのか、十秒くらい本気でわからなかった。

 わかった瞬間、顔中が真っ赤に噴火したのを感じた。

 

「……れ、霊夢ーっ!? 私、その、すごく真面目な話されると思って怖かったんだけど!?」

「なに言ってんの大真面目な話でしょこれは!! あれから二週間以上経ってもう小正月も終わってんのよ!? あんたほんとにやる気あるわけ!?」

「なんのやる気よそれぇ!?」

「月見さんと距離縮めるやる気に決まってんでしょうが!!」

「ちょわ――――――っ!?」

 

 一体いつからだっただろうか。博麗霊夢がこうして、天子と月見の関係をやたらと気にしてお節介を焼きたがるようになったのは。応援してくれるのは嬉しいといえば嬉しいのだが、最近はやり口が露骨すぎてちょっぴり困っている天子であった。

 生唾を呑むような物々しい空気も一転、霊夢とぎゃーぎゃーかしましく口喧嘩をしながら。

 この突拍子もない話の流れを整理するため、天子はひとまず、事の発端となった正月の記憶を掘り起こし始めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 今になってみれば、どうして天人なんかになっちゃったんだろうと思わなくもないのだ。

 無論、天子が天人であったからこそ今の日常があるのは否定しようがない。比那名居天子がもし『地子』のままであったなら、こうして幻想郷と関わることはなかったかもしれないし、月見とは出会えなかったかもしれないし、そもそもとっくの昔に天寿を全うして彼岸の住人になっていたかもしれない。でもひょっとすると幻想郷と関わることができて、月見とも出会えて、地上の住人としてなにひとつ文句のない日々を謳歌できていたかもしれない。

 まあ、比那名居の一族が天人になったのは天子の意思ではないので、所詮は考えたところで詮のない空想に過ぎないのだが。

 でも天人の、しかもそこそこ由緒あるお家柄の一人娘であったばっかりに、平凡退屈な天界の祭事に社交辞令で参加させられて、お陰様で地上の楽しい年越しも、お正月の行事もみんなみんな逃してしまって。この年末年始で天子が得たものはといえば、上品な微笑みを張りつけながら退屈な祭事に付き合うストレスと、地上のみんなに会えない心細さくらいなものだった。

 故に天人やめちゃいたいなあという気持ちが片隅に生まれてしまうとしても、まったくもって致し方ないことなのだった。

 

 と、憂鬱な気分でため息をついていたのも過去の話である。

 

 ようやく天界の祭事から解放され、新年になってはじめて水月苑を訪ねた途端、天子の憂鬱は木っ端微塵の塵芥となって宇宙の果てまで吹っ飛んだ。

 ――あけましておめでとう、天子。

 そう月見に声を掛けてもらえただけで、なんだかもう、全身がふにゃふにゃ溶けてしまいそうなくらいにあたたかくなるのだから。

 本当にやられちゃってるよなあと、天子は時折自分で自分に呆れてしまうのだ。

 

「――ほんっとあんたは、月見さんさえいればそれだけで幸せの絶頂なのね」

「……いやっ、だから、月見だけじゃなくて霊夢も魔理沙も」

「はいはい、誤魔化さなくて結構。あんたの場合はもう誤魔化せる領域とっくに超えてんだから」

「…………」

 

 はずかしすぎてしにそう。

 遡ること約二週間前――天子が今年はじめて水月苑を訪ねて、その後博麗神社まで足を伸ばしたときの話である。境内の掃き掃除をしていた霊夢は新年の挨拶もそこそこに、天子の顔をひと目見ただけでにやりとして言ったのだ。

 ――よかったわね、やっと月見さんに会えて。

 水月苑に寄ってきたなんて、まだ一言も喋っていないのに。

 

「……わ、私、そんなにわかりやすい?」

「『今日は月見に会えたから最高の日!』って顔にデカデカと書いてあるわね」

「わー! わーっ!」

 

 年が明けても誰一人参拝客のいない神社で助かった。手水舎の水に顔を映してむにむに揉み解していると、後ろから更に霊夢が続けて、

 

「ああそうだ、あんたに渡したいものがあるんだった。ちょっと待ってて」

「?」

 

 振り向いたときには、彼女はすでにほうきを置いて母屋へ回れ右をしている。渡したいものってなんだろうと束の間疑問に思ったが、それよりも天子は再び水面の自分とにらめっこをする。

 むむむと唸る。天子としては至っていつも通りに振舞っているつもりなのだが、本当にああまで言われるほどわかりやすい顔をしているのだろうか。

 だとすればひょっとして、なんというか――天子が胸でほのかに秘めているこの感情は、思いっきりみんなにバレバレだったりするのだろうか。昨年の異変で、星熊勇儀にもあっさりと見破られてしまったのを思い出す。どうして自分はこうも未熟なのだろう、もう少し月見みたいな大人になりたいなあ、いや「月見みたいな」ってのは変な意味じゃなくてただ単に年長者らしい落ち着きというか余裕というかともかく

 

「天子」

「はいっ!?」

 

 声が裏返った。びっくりして振り返ると、生温かい慈愛の眼差しでこれ見よがしな腕組みをしている霊夢がそこにいた。

 

「今、月見さんのこと考えてたでしょ」

「……」

 

 くやしい。

 こんなに早く戻ってくるなんて予想外だった。いや、或いは天子がそう思っているだけで、自分は思考に没頭するあまり時間の感覚を失っていたのかもしれない。霊夢が玉砂利を鳴らしながら戻ってきてもさっぱり気づかず、水面とにらめっこしながら黙々と頬をむにむにしていたのかもしれない。ちょっとマヌケすぎて涙が出てくる。

 またしつこく茶化されるかと覚悟したが、幸いそれ以上の追いうちはなかった。霊夢はこちらに向けて右手を差し出し、

 

「はいこれ」

「……えっと、なにこれ?」

 

 霊夢が指先でつまんでいるのは、ちょうど掌と同じくらいの長方形の紙切れだった。なぜか鬼子母神と天魔の朱印が二つ並んで押されており、綺麗な達筆で『もふもふ券』と書かれている。脊髄反射で月見の姿が浮かんだ自分に頭の中で平手打ちする。

 尋ねる。

 

「えーと、なにこれ?」

「『月見さんのもふもふ十一尾に全身包まれながらぐっすりお昼寝できる券』」

 

 は、

 

「大晦日の宴会でビンゴゲームやってね。その景品でもらったんだけど、私いらないからあんたにあげるわ」

「……あの、」

「この世で一枚しかない超希少品よー。ありがたく使っちゃいなさい」

 

 当然ながら。

 第一に、天子は呼吸を落ち着かせて全力で警戒した。こんなの霊夢のイタズラに決まってる、と思った。このもふもふ券は霊夢が誰の許可もなく勝手に作ったなんの効力もない紙切れで、『月見のもふもふ十一尾に全身包まれながらぐっすりお昼寝できる』など完全なでっちあげ。天子が騙される様を、そして騙されたと気づいて悶絶躄地(もんぜつびゃくじ)する様を観察して笑いものにしようとしているのだと。

 しかし、だとすれば二つ並んだ鬼子母神と天魔の押印はなにか。これすらも霊夢のでっちあげだというのなら、それすなわち鬼子母神と天魔の名を騙ったということで、妖怪ならば一発でとっ捕まえられて山中引きずり回しの刑ではないか。

 いくら霊夢だって、単なるイタズラのためにそこまで命知らずな真似をするとは思えない。

 ということはつまり、

 これは鬼子母神と天魔公認の、

 本物、

 

「……あはは、もー霊夢ってば。いくらなんでもこんなのに騙されるほどバカじゃないよ?」

「あら、いらないの? ならしょうがないわね、代わりに紫にでもあげようかしら」

「……」

 

 もう一度冷静に考えてみよう。

 もふもふ券の真贋は一旦置いておいて、ここで天子が避けるべき行動とはなにか。

 それはもふもふ券をただのイタズラと早合点し、こんなのいらないと霊夢に突き返すことだ。だってもしも、万が一、億が一もふもふ券が本物だったとしてみろ。それはすなわち千載一遇のチャンスを自ら放棄し、自分以外の誰かへもふもふを譲渡する行為に他ならないのだ。

 例えば霊夢の言う通り、代わりに紫がこの券を受け取ったとしよう。彼女は大喜びでその日のうちに水月苑まで突撃し、券が本物だろうが偽物だろうが構わず月見の尻尾でお昼寝を始めるだろう。そして月見もなんだかんだ、仕方のないやつだという顔をしながら好きなだけ付き合ってあげるのだろう。

 それはもやもやする。

 とてももやもやする。

 むざむざライバルに甘い蜜を譲ってしまうのは、あまり利口とはいえない。

 故に天子が取るべき行動はただひとつ、

 

「……怪しいので、これは私が没収します」

 

 この場はひとまず、もふもふ券を受け取ること。

 

「月見に確認するから。そうすれば、ぜんぶ嘘だってわかるんだからね」

 

 とりあえず天子が手中に収めておけば、誰か他の人へ渡ってしまう心配はなくなる。それからゆっくりと真実を確かめればよい。霊夢のイタズラならなーんだやっぱりねと笑って捨てればよいし、もし本物だったら、

 

(……………………)

 

 本物だったら、そのときは――

 

「そう。没収、没収ね。ええ、没収しちゃってちょうだいな」

 

 霊夢がくくくと喉をひくつかせて笑っている。心の中を完璧に見透かされている気がして、天子は頬がじわじわと熱っぽくなってくるのを感じる。

 

「月見さんには私からもらったって言いなさい。そうすればわかってもらえるわ」

「……騙されないから。絶対騙されないからね」

 

 せめて一矢報いる思いで睨みつけるのだが、残念ながら霊夢相手ではなんの効果もなかった。

 

「こんなの、紫が寝てる今のうちなんだから。あんたも今年はちょっとくらい勇気出すのよー」

 

 老婆心たっぷりにそう言って、霊夢がなんとも機嫌よさそうに掃き掃除へ戻っていく。

 天子はしばらくの間棒立ちでもふもふ券を見つめ、それからふと手水舎の水面に視線を移した。

 なにかを心待ちにしているような、大変満更でもなさそうなだらしない天人の顔が見えて、天子はものすごく穴を掘って隠れたい気分になった。

 

 

 

 

 

 里で恙無(つつがな)く仕事始めを終えたその日の夕暮れ、天子は駆け足ならぬ駆け飛びでもう一度水月苑に向かう。

 月見は庭にいた。ほとりから短い石橋を渡り、池の上で島のようになった場所で、できあがって間もない祠のひとつに白狐の置物を飾り立てている最中だった。彼は天子が声を掛けるより早くこちらに気づき、

 

「いらっしゃい。どうだった、新年初仕事は」

「う、うん。特に何事もなく」

 

 あいかわらず声を掛けてもらえるだけで心がぽわぽわしてしまって、天子は表情がだらしなく緩まないよう頑張ってこらえた。

 

「できたんだ、稲荷神社」

「ああ。宇迦のやつから調度品も届いたよ」

 

 端から端まで十歩もあれば歩けてしまう程度の島に、去年まではなかった祠がぜんぶで四つ建てられている。いずれも真新しい石台に足元を支えられた、月見なら両手で持ち上げてしまいそうなくらいこぢんまりとした祠だ。注連縄と紙垂を渡らせ、石台の上に小さな鳥居まで添えているものがみっつ。注連縄も紙垂も鳥居もなく、代わりに傍でお地蔵様が見守っているのがひとつ。

 博麗神社、守矢神社、稲荷神社、そして命蓮寺の祠である。

 どうして突然そんなものを造ることになったのか、経緯はすでに聞き及んでいる。水月苑がどんどん賑やかになっていくなあと、まるで自分のことのように嬉しく思う天子だった。

 

「なにか手伝おっか?」

「あとはこれを飾るだけだから大丈夫だよ、すぐ終わるさ。……少し休んでいくかい? ぬえに茶を淹れさせよう。あいつは今日も食っちゃ寝してばかりでね」

 

 封獣ぬえ――昨年聖輦船とほぼ同時期に地底の封印から解き放たれ、その後ちゃっかりと水月苑で居候を始めた少女である。かつては伝説にその名を刻んだこともある大妖怪らしいが、今となってはこたつで丸くなるばかりのぐうたら娘に成り下がっているとか。

 天子は少し考え、

 

「じゃあ、ちょっとお邪魔しようかな」

 

 今朝一度ここを訪ねたときに、ぬえと簡単な自己紹介は交わしている。居候先として水月苑を選んだ理由も教えてもらった。温泉こたつにふかふかお布団、そしてあたたかいご飯にもありつけて気ままに暮らせそうだからと。或いは長年封印されていた自分にとって、地上で頼れる相手が月見しかいなかったから、とも。

 だいぶ、月見に懐いているようではあった。それが具体的にどのような感情によるものなのか、もう少し調査を行う必要はあるだろう。

 が、その前に。

 

「……ところで、月見」

 

 まずは、本来の目的を達成する方が先である。霊夢から渡されたこのもふもふ券が紛れもない本物なのか、それともただのイタズラなのか。大したことのないちょっとした質問をするように、さりげなく、フランクに。間違っても、この券をいま天子が所持していることは悟られないように。

 

「今日、博麗神社に行ってきたんだけど」

 

 別に告白をするわけでもあるまいに、なぜか天子は生唾を呑み込みたくなるほど緊張している。うん、と短く相槌を打ちながら、月見が稲荷神社に白狐の置物を飾っていく。

 

「霊夢が、その……大晦日の宴会で手に入れたって、月見の尻尾でお昼寝できる券? みたいなのを見せてきて……」

「ああ」

 

 月見の尻尾がゆらりと動いた。喉で苦笑した気配、

 

「確かに。ビンゴゲームをやってね。その景品用に、私が与り知らぬところでいつの間にかあんなものを作っていたようだ」

「……やっぱり、月見の許可をもらったわけじゃないんだ」

 

 偽物とわかって安心したような、或いは偽物とわかってしまってがっかりしたような、どちらとも言いがたい吐息を天子はそっとこぼした。なんにせよ、これではっきりした。このもふもふ券はやはり非公認の代物であり、天子に対しても月見に対してもなにひとつ効力のない紙切れであり、霊夢が天子をからかうために押しつけたトラップカードだったということだ。

 と、思っていたのだが、

 

「じゃあ、仮にあれを霊夢が使おうとしても無効ってことだよね」

「いや、そのときは付き合うつもりだよ」

 

 へ、

 

「一応、あれでも景品ってことになってるからね。尻尾を枕にされるのは諏訪子で慣れてるし」

「……」

 

 一気に風向きが変わった。とりあえず、天子は今すぐ理解できる事実からひとつずつ確実に整理してみる。

 はっきりと言えるのは、やはりもふもふ券を没収しておいたのは正解だったということだ。もしもこれが天子以外の誰かの手に渡っていたら、どんなに後悔してもしきれないほど羨ましい思いを味わうところだった。霊夢、疑ってごめんね。でも、完全に日頃の行いなのでちょっとは反省してください。

 それで。

 ええと。

 このもふもふ券を、私はどうするべきかという問題なのですが、

 

「もっとも、霊夢があれをあのまま使うとは思えないが。妙なことを企んでなければいいけど……お前はなにか聞いてないかい?」

「えっ、あ、えと、」

 

 まさか、私が譲ってもらっちゃいましたと正直に言えるはずもない。

 しかし一方で、仮に霊夢以外の誰かが使ったとしても、この券が有効なのかどうかは確かめておかねばならないと思い、

 

「聞いてないけど、その、もしかしたら、誰かほしい人に売ったりしてるかも……?」

「ああ、霊夢ならやりそうだなあ。あんな券なんて使わなくても、言ってくれれば触るくらいは誰だって構わないのに」

 

 それはつまり、もふもふ券を誰が使ったとしても付き合ってあげるという意味で、

 

「よし、終わりだ。……で、少し休んでいくんだったね。ゆっくりしていくといい」

「は、はいっ」

 

 白狐の置物を飾り終えた月見が、天子のすぐ横を通って屋敷へ引き上げていく。そのとき狭い島の上だったせいもあり、なびく月見の尻尾がほんの少しだけ天子の手の甲を掠めた。

 情けない声を上げかけるもすんででこらえた。

 怪しまれないよう、天子は努めて平常心を意識しながら月見の後ろについていく。心臓が天子の代わりに大声で狼狽していて、胸がきゅっと詰まるように少しだけ苦しい。

 じろじろ見ちゃダメだとわかっているのに、視線は揺れる月見の尻尾を追いかけてしまって。

 わけもなくポケットに指先を入れて、そこにもふもふ券があることも何度もなぞって確かめた。

 

 

 なお、繰り返すが二週間前の話である。

 小正月が終わり、今年最初の月もいよいよ下旬へと差し掛かり――天子は未だ、もふもふ券を月見に打ち明けることすらできていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 つまりは、そんな現状に霊夢は腹を立てているわけである。

 だいだい、この比那名居天子という少女は小心者すぎるのだ。ノミの心臓にもほどがある。昨年の夏、幻想郷全土の規模で異変を起こすという大胆極まりない真似をしたのはどこのどいつだ。霊夢にひと睨みされただけの小動物みたいに縮こまっている彼女が、実は何百年もの時を生きた高貴なる天人だと一体誰が信じるというのか。

 傍にいられるだけで幸せなんて意気地のない考えでは、天地がひっくり返ったって月見を射止められるわけがないのに。

 あの狐は、あまりに長生きしすぎてしまったせいで色恋沙汰では完璧に枯れている。周りの少女たちがみんな年下の娘のように見えていて、自分はその成長を見守っていく立場だと無意識のうちに考えてしまっている。要するに、精神的には隠居した年寄り妖怪そのものなのだ。

 並みの方法では攻略できない。それは、紫や輝夜や藤千代が日頃から突撃しては玉砕している有様を見ても間違いない。なのに、霊夢ですらそこまで理解できているというのにこの天人様は、

 

「使うなら早くしなさいってこないだ里でも言ったでしょ!? ただ尻尾モフらせてもらうだけじゃない、なにそんなに恥ずかしがってるわけ!?」

「れ、霊夢には私の気持ちなんてわかりませんー! 月見の尻尾でお昼寝なんて、あ、ある意味下手な告白とかより恥ずかしいんだからね!?」

「じゃー今すぐ告白してきなさいよもぉー!!」

「そういう問題じゃないのぉー!!」

 

 卓袱台をベシバシ叩き合い、霊夢と天子は言葉による壮絶な弾幕ごっこを繰り広げている。おでことおでこを突き合わせて、鍔迫り合いのように一歩も引かず睨み合う。

 

「私は今のままで充分幸せなの! 無理やり近づこうとして引かれたらどう責任取ってくれるの!?」

「甘い、甘すぎるわよ天子ぃっ!! そんな弱腰で月見さんを攻略できるものかっ!!」

「別に攻略したいわけじゃないもん!!」

「こォんの意気地なしが――――――ッ!!」

「うるさいうるさい霊夢のばか――――――っ!!」

 

 叫びすぎたせいでお互い息が切れ、同時に息継ぎ。それからどちらからともなく、浮かせていた腰を座布団に落としてクールダウンし、

 

「……ったく、じゃあこのまま宝の持ち腐れにする気なの? 私はね、ずりずり先送りにしてたらいつの間にかもふもふ券なくしちゃって、本気で凹んでるあんたの姿しか想像できないんだけど」

「うぐっ……」

 

 そこは嘘でも否定しなさいよ、と心底呆れながら、

 

「自分がどうしたいかはわかってるはずなのに、難儀よねえ……」

「……うー」

 

 天子の言い分もわからないわけではない。月見との距離を縮めるということは、穿って言えば今の関係を変えることにつながる。そして、それが必ずしもよい方向の変化になるとは誰にも保証できない。一層親密になれるかもしれないし、下手を踏んだ結果反ってギクシャクしてしまって、今までの関係に戻ることもできなくなってしまう可能性だってありえるだろう。それは否定しない。

 しかし、断じて明言しておくが、霊夢は天子と月見を強引にくっつけようとしているわけではないのだ。

 ただ、月見のもふもふでお昼寝できる券があるから使ってみろ、と勧めているだけなのである。想いを伝える必要はないし、なんだったら距離を縮めようとアピールする必要だってない。月見のもふもふを枕代わりにお昼寝するなど、彼の周りでは洩矢諏訪子だってフランドール・スカーレットだってやっている日常の風景なのだ。

 しかし今となってはノミの心臓の天子に、触らせてと自分からおねだりするのは高い壁だろう。

 だからもふもふ券を使えばいい。難しいことはなにも言わなくていい。なんか霊夢からもらっちゃって、せっかくだしちょっと使ってみようかなって――それだけ言えば、あのお人好し妖怪ならすんなり納得して頷いてくれるだろう。

 もふもふ券を口実にして、今よりもほんのちょっぴりだけ自分の気持ちに耳を傾けてみる。そのささやかなきっかけにできるよいプレゼントだと思うのだが、どうもこの少女はオーバーに考えたくて仕方がないらしい。

 霊夢はなにも言わず、天子はなにも言えず、母屋の茶の間をしばしの間沈黙が支配しようとした――そのとき。

 

「――霊夢、いるかい?」

 

 玄関の戸が開いた。

 誰がやってきたかなんて、わざわざ考えるまでもなかった。

 里から依頼を持ってきたよ――月見がそう玄関で声をあげるわずかな間、霊夢と天子は互いの顔を見合わせて、次に自分が起こすべき行動を目まぐるしく思考していた。

 しかして、差はほんの一瞬だった。まず霊夢が座布団を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、続けざまに天子が、

 

「月見さーん♪ 天子がなんか大切な話」

「させるかああああああああっ!!」

「へぶ!?」

 

 足首を掴まれた霊夢はびたーんと転倒し、

 

「なにすんのよ危ないじゃないの!?」

「言わせないから!! 言わせないからね!? 言ったらもうご飯作ってあげないんだからね!?」

「くっ、胃袋を人質に取るなんて卑怯な……! 見損なったわよ比那名居天子ィ!!」

「れ・い・む・がっ、悪いでしょもおおおおおおおおっ!!」

 

 あんぎゃあ! と畳を転げ回ってケンカしていたら、騒ぎを聞いてあがってきた月見にとても変な目で見られた。

 そこからまたひと悶着起こるわけだが、最終的には天子が涙目で緋想の剣を抜くところまでいってしまい、さすがの霊夢も断念せざるを得なかったのである。

 まったくもって、この少女が一歩前へ進めるのはいつになることやら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……はあ。疲れた……」

 

 その日の昼下がり。天子は元気のかけらもない重苦しいため息を吐き出しながら、ふよふよと力なく幻想郷の空を飛んでいた。

 あれですっかり調子が狂ってしまったのか、今日は寺子屋に向かってからもまさしく散々の一言だった。恥ずかしい失敗の繰り返しで生徒からは笑われ慧音からは呆れられ、挙句変に気を遣われて、いつもよりだいぶ早めに仕事を切り上げさせられてしまう始末であった。だめだめすぎる自分にさっきから憂鬱なため息が止まらない。

 つぶやく。

 

「私も、わかってはいるんだけどなあ……」

 

 もちろん、もふもふ券のことである。

 ここ二週間、天子とてあの券からかたくなに目を背けていたわけでは決してない。本音で言えば使ってみたいと思っているのは事実なので、一応、ちょくちょく水月苑を訪ねてチャンス自体は窺っていた。

 しかしまあ、そこは水月苑であり月見とでも言おうか。時期が正月というのもあって来客がいる、もしくは留守にしている場合がほとんどで、誰にも邪魔されず二人きりになれる時間など皆無に等しかった。それを抜きにしても、封獣ぬえという居候が出現してしまったのだからどうしようもない。

 だったら前もって相談して都合をつけてもらえばいいじゃない、と恐らく霊夢なら言うだろう。

 お説ごもっとも。

 そこであと一歩勇気が出ず先送りにしてしまうのが、自分でも自分を情けないと思うところなのだった。

 

「はじめの頃は、普通に触らせてもらったりしてたのに……」

 

 天界ではじめて月見と知り合った頃、弾幕ごっこの修行をつけてもらいながらたびたび尻尾を触らせてもらっていたのを思い出す。あの頃は尻尾とはいえ、月見の体へ触れることに恥ずかしさなんて感じてはいなかったと思う。けれど幻想郷での日々を過ごし、胸の奥の感情を一日また一日と募らせていくうちに、気がつけば『下手な告白より恥ずかしい』と考えるほどの軟弱者になってしまっていた。

 昔の自分に戻りたいとは思わないが、当時の怖いもの知らずだった度胸が今は少しだけ羨ましい。

 

「はあ……」

 

 しかしそうやってため息をつく中でも、天子は気がつけば水月苑の近くまで漂ってきていた。天界から地上にやってきたとき、そして地上から天界へ帰るときに水月苑で月見に挨拶するのは、もはや天子の体と精神に染みついた習慣みたいなものだった。

 月見に会えば元気になれるかなと考えてしまう自分に、少しだけ笑みがこぼれた。

 

「こんにちは、ひめ」

「あ、天子さん。こんにちはー」

 

 池のほとりでわかさぎ姫に挨拶をする。はじめは来客みんなから物珍しい目で見られていた彼女も、今となってはすっかり水月苑の看板娘だった。彼女としても、水月苑では月見よりもまず自分が来客と顔を合わせる立場だと自覚するところはあるらしく、いついかなるときもあたたかな挨拶と笑顔を欠かさないでいる。

 

「今日はお仕事、早く終わったんですか?」

「うん、なんか調子が悪くって。早退しちゃった」

「えっ……だ、大丈夫ですかー?」

 

 まるで自分のことのように心配してくれるわかさぎ姫を、『天使先生』なんて呼ばれる私よりよっぽど天使だよなあと思いながら、

 

「大丈夫。具合が悪いんじゃなくて、なんていうか……気持ちの方だから。なんだか今日は空回り気味で、疲れちゃって」

「まあ、そうなんですか……」

 

 わかさぎ姫は気遣わしく相槌を打ってから、励ますように尾ひれで水面をぱしゃぱしゃと叩いた。

 

「それなら、お屋敷で休憩なさっていってくださいな! ちょうど旦那様も、少し前に戻ってこられたばかりですのでっ」

「うん。そうするね」

 

 月見は昼間出掛けている場合も多いので、この時間帯に屋敷で会えるのは運がいい。それだけで、あんなにも憂鬱だった気持ちが回復し始めたのを感じてしまう天子であった。

 わかさぎ姫と別れ、屋敷の戸を開ける。

 

「月見ー、入るねー」

 

 かすかに返事が返ってきたのを確認し、きちんと揃えて履物を脱ぐ。どうやら本当に戻ってきたばかりだったようで、茶の間に向かうと月見はこたつで冷えた体を温めている最中だった。

 

「いらっしゃい、天子」

 

 月見は壁に掛けられた時計を一瞥し、

 

「今日は早いじゃないか。なにか用事かい?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」

 

 手でこたつに入るよう促されたので、天子はそそくさとお邪魔させていただく。下半身にじんわりと心地よさが広がるも、天子がほっとため息をついたのは、体ではなく心を温めてくれる別のぬくもりに対してだった。

 と、そこでふと気づく。

 

「……あれ、そういえばぬえは?」

 

 いつもこたつで惰眠を貪っているはずのぐうたら娘が今はいない。月見は「ああ」と短く声をあげ、

 

「あいつなら、今は命蓮寺に行ってるよ」

「ふーん……」

 

 この二週間ほどで、ぬえともだいぶ親しくなれた。地底で封印されている間は、命蓮寺にいる村紗水蜜や雲居一輪と一緒に生活していたらしく、そのつながりで時折は寺の手伝いに連れ出されることがあるようだ。タイミングが重なったのは今回がはじめてである。

 ということはつまり、今の自分は正真正銘月見と二人きりになるわけで、

 

「それで?」

「へ? あ、ご、ごめん」

 

 天子は心の中で頭を振り、降って湧いた思考を強引に打ち切った。

 

「具合が悪いわけじゃないんだけど、今日はちょっと調子が出なくて。早く帰って休むように言われちゃった」

「おや、お疲れかい」

「あはは……まあ、それもちょっとあるかなあ……」

 

 主に霊夢のせいで。霊夢のせいで。今朝は本当に、あと一歩のところでもふもふ券のことをバラされてしまうところだったのだ。なんとか月見には気づかれずやり過ごせたものの、かなり変な目で見られてしまってとんでもなく恥ずかしかった。

 しかし、こうして思い出したらだんだんと腹が立ってきた。もふもふ券は霊夢が天子に譲渡したものであり、現在の所有者は他でもない天子だ。だったら券をいつどう使うかは天子の自由であるはずで、さっさと使えだの、やる気あるのかだのと文句を言われる筋合いなんてないじゃないか。

 

「そうか。なら、少し昼寝でもしていくかい? ご希望なら尻尾を貸すよ」

「そうだねえ、それもいいかなあ……」

 

 背を押そうとしてくれる気持ち自体はありがたいが、やっぱり霊夢は気が短くて強引すぎる。確かに、こちらから近づこうとしなければ月見との距離を縮められないのは天子も認める。しかし、後先考えずグイグイ行くのが正解かなんて誰にもわからないではないか。もし本当に正解ならば、紫か藤千代がとっくの昔に月見を射止めているはずではないのか。

 近すぎず遠すぎない距離から互いの理解を深める時間だって、この手の問題にはまた必要不可欠なもののはずだ。霊夢もちょっとは月見から影響を受けた方がいい。例えば今のように、相手のペースに合わせて昼寝を勧め、なんだったら尻尾だって貸してやるくらいの広い度量を持って待って待って待って待って、

 

「私の尻尾程度で気が休まるならいくらでも貸すよ。なんなら十一本ぜんぶ出してもいいぞ」

「…………………………………………」

 

 天子は急激な真顔になって月見を見た。

 月見は、微笑んでいた。

 一見するといつも通りの月見だが、今だけはなぜか意味深長に見えて仕方がなかった。

 だから、天子は、

 

「…………つ、月見。もしかして、あの、ええと、」

 

 壊れる寸前の硝子細工のように、全身にヒビが入っていくのを感じながら、

 

「ま、まさか、気づいて(・・・・)

「さて、なんのことだい?」

 

 絶対気づいてる。

 理解した途端、耳の先までぼふんと真っ赤になったのがわかった。

 

「……つ、月見ー!? いつから!? 一体いつから気づいてたのお!?」

「なんの話だかわからないなあ」

「嘘つきいいいいいいいいっ!?」

 

 ふにゃー!! と、天子は今すぐこたつに飛び込んで丸くなりたい衝動に駆られる。さすがにそこまではしなかったが、月見から離れる方向の畳にお腹からダイブして、腕を枕にして突っ伏しながらああああああああと煩悶した。

 なんというか、頭の中の神経がぷちぷち音を立てて千切れ飛んでいくような。

 天子の人生を振り返ってもなかなか身に覚えのない、空前絶後の恥ずかしさだった。

 全身の高熱はあっという間に許容限界を超えて、天子は蒸気をもくもく噴出しながら畳でノビるだけの物体と化した。

 

「…………もうころしてくださいぃぃ……」

「大袈裟な。でも、そういう反応をするってことはやっぱり当たりだったかい」

 

 一撃必殺です。

 

「……参考までに、どこで気づいたか教えていただけると……」

「このところお前が妙に私の尻尾を見ているのは、だいぶ前から気づいていたよ」

 

 しんでいいですか。

 

「で、今朝の神社のあれだろう? だから、霊夢があの券を選んだのはそういう狙いだったのかって」

「……」

 

 よくよく考えてみれば、そりゃあ気づかれるよなあと天子は思うのだ。だって月見は特別鈍感ではないし、里で相談役として人気を獲得している通りむしろ気配り上手な方である。自分に突如今までと違う視線を向けてくる知人がいれば、たとえなんとなくであってもやっぱり彼は気づいてしまうのだ。

 むしろ鈍感だったのは、気づかれているなんて夢にも思っていなかった天子の方だったわけで。

 月見のことを最近やたらジロジロと見て、しかも気づかれていると気づいていない。なんだかそれって、言葉だけだとそこはかとなく変態っぽく聞こえるわけで。

 

「ところで天子、生きてるかい?」

「あい……」

 

 死にかけの返事をして、天子はなんとか腕で上体を起こした。月見に振り向く精神力はない。蒸気の噴出は落ち着いたが、まだ湯気くらいはあがっている気がする。

 どうしよう、ここから自分が生き延びられる選択肢がまったく見えない。明日からどんな顔をして月見に会えばいいのか。否、今日はどんな顔をして月見と別れればいいのか。目下最大の問題は、そもそも今の自分がどんな顔をしているのかまったくわからないことである。

 

「どうする? 繰り返しになるけど、私の尻尾程度で休めるなら十一本ぜんぶでも貸すよ」

「……」

 

 しかしながら、天子はふっと思考してみる。

 ここまでこっぴどく恥ずかしい思いをしたのなら、もはや開き直ってもいいのではないか。今更羞恥をひとつふたつ上塗りしたところで失うものはなにもない。月見はもふもふ券を天子が持っていると知り、その上で快く尻尾を貸すと言ってくれている。そして、今は月見と天子以外水月苑には誰もいない。ここで天子がヤケクソになってもふもふ券を使ったとしても、それを目撃して茶化したり言い触らしたりする輩はどこにもいないのだ。

 なにより天子自身、いろいろ限界すぎていっそひと思いに甘えてしまいたいというか。

 幸か不幸かは定かでないが、恐らくこんなチャンスはもう二度と巡ってこない。

 

「……つくみ」

 

 あいかわらず、心臓はバクバクでおかしくなってしまいそうなくらいだったけれど。月見へ振り向いた自分がどんな顔をしているのかは、最後までわからなかったけれど。

 あとはもう、野となれ山となれだった。

 

「――誰にも、言わないでくれる……?」

 

 天子がこんなにも決死の思いで搾り出したのに、月見はいつもの優しい微笑みで、答えを考えた素振りもなく。

 

「ああ。御安い御用だとも」

 

 月見が妖術を使う気配。隠されていた十本の尻尾が畳に広がり、みるみる膨らんでもふもふを超越したもっこもこの即席ベッドを作りあげる。あああれは人類をダメにするやつだな、と天子はひと目で確信する。あれに全身で飛び込めば最後、天子の意識はあっという間に極楽まで吹っ飛んで帰ってこられなくなるだろう。

 でも、もう、帰ってこられなくてもいいや。

 

「つくみ」

 

 目の前の一本に手を埋めてみると、説明不能の柔らかさで心地よく押し返される。

 

「なんていうか、その」

 

 こんな反則的なベッドでお昼寝しようものなら、もう、いろいろとだらしないことになるのは見えきっていたので。

 

「うしろ、あんまり、見ないでね…………?」

 

 絶対に見ないで、と言わなかったのは――恥ずかしいけれど、月見になら、だらしないところを見られたとしても、まあいいかなと。心のどこかでは、そんな風に考えていたからなのかもしれない。

 

「わかったよ。一時間くらいで起こすから、ゆっくりおやすみ」

「……うん」

 

 月見の言葉が、それだけで優しい子守唄のようで。

 ぜんぶ吹っ切れたとはいえやっぱり恥ずかしかったし、心臓なんていよいよ限界だったけれど。

 それで眠れなかったのははじめの数分。沈みゆく天子の意識が最後に見ていたのは、なんだかいつもよりも大きくてあたたかい、銀の狐の背中だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――あ、霊夢さん霊夢さんっ」

「ん?」

 

 なんとなしに水月苑までやってきた霊夢が玄関へ向かおうとすると、池のほとりからわかさぎ姫に呼び止められる。

 

「旦那様がお取り込み中なので、いまお屋敷へは入れませんよー」

「取り込み中?」

 

 眉をひそめながら改めて玄関を見たところ、確かに『所用のため施錠中』と札が掛かっている。冬なので当たり前といえば当たり前だが、縁側の雨戸もすべてぴっちりと閉められていて中の様子はわからない。

 

「一時間ほどで終わると仰ってましたが、お急ぎでなければまた明日いらしてくださいな」

「ふうん……」

 

 月見の就寝時を除いては基本的にいつでも誰でも入れる水月苑が、戸をすべて閉ざして来客をお断りしているのは珍しい。

 

「誰か面倒なお客さんでも来てるの? 閻魔様とか」

「いえ、確か天子さんだけだったと思いますけど」

 

 その名を聞いた瞬間、霊夢は回れ右をしてわかさぎ姫の目の前まで詰め寄っていた。

 

「――確認させてちょうだい。いま水月苑にいるお客さんは、天子一人。間違いないわね?」

「え、は、はい、そのはずだと思います」

 

 なるほど。

 なぁるほど。

 霊夢は推理小説に登場する名探偵ばりで思考を回転させる。いま現在のお客さんは天子だけ、これはすなわち天子と月見が二人っきりということだ。そして表に掛かった『所用のため施錠中』の札。これだけ見ると重要な用事で手が離せないのだろうと受け取りがちだが、果たして本当にそうか。これは例えば、屋敷で広がるなにか途轍もなく微笑ましい光景を、余所者に目撃されないよう配慮するカモフラージュではないのか。

 無論、以上は霊夢の勝手な想像であり確証なんてなにもない。

 しかしそう考えた場合、霊夢の中ですべての線が見事一本につながるのだ。

 つぶやいた。

 

「……やれやれ、あいつもやっと観念したってことね」

「え?」

「いえ、なんでもないわ。それじゃあ、今日のところはまた出直すとしましょうか」

 

 所詮は、午後のおやつでも食べさせてもらおうと思って本当になんとなく立ち寄っただけの身だ。実際にこの目で見られないのは残念だが、だからといって玄関の錠を蹴破るのはさすがにぶしつけが過ぎるだろう。

 こんなときくらいは、霊夢も黙って空気を読むのである。

 振り返って、茶の間がある方向に目を遣って。

 

(それでいいのよ、天子。あんただってたまにはいい思いする権利くらいあるんだから、遠慮するこたないわ)

 

 まったくあいつの応援も楽じゃないわねー、と心の中で大仰に肩を竦め、霊夢は代わりのおやつを求めて香霖堂へターゲットを切り替えた。

 

 この日、このとき、水月苑の茶の間でなにが起こっていたのか。

 知っているのは幻想郷でただ二人、銀の狐と楽園の巫女さんだけである。

 

 

 

 ――無論、後日霊夢が天子に「月見さんのもふもふはどうだったかしらぁー?」とニヤニヤ尋ねた結果、博麗神社ではちゃめちゃな弾幕ごっこが巻き起こったのはまったくの余談。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第144話 「鬼を想わば豆をまけ」

 

 

 

 

 

「――月見、私に豆ぶつけてえっ!!」

 

 外の世界であればランドセルを背負っていたとしてもなんらおかしくない女の子が、突然水月苑に突撃してくるなり半泣きでそう叫ぶという有様を、月見は一体どんな顔で受け止めてあげればよいのか。

 

「お願いだよぅ、ぶつけてよぅ。月見ならわかってくれるよねっ……?」

「……」

 

 聞き様によってはなにやらアブナい台詞をひとまず置いておき、月見は努めて冷静に目の前の状況を分析してみる。

 駆け込んできた少女は、伊吹萃香である。

 鬼である。

 涙目の理由はさておいて、豆をぶつけてほしいそうである。

 しかしていま現在は一月の終わり、暦の上ではもう間もなく春の到来であるからして――

 

「……もしかして、節分かい?」

「そう! 節分といえば豆まき、豆まきといえば鬼、そして鬼といえばこの伊吹萃香さっ!」

 

 一際大声で言い放った萃香は、それから両足で畳を粉砕しそうなほど激しい地団駄を踏んだ。今日も今日とてこたつを根城にするぬえが「うるさいなぁ~もぉー……」と抗議の声をあげるも、萃香はまるで聞く耳持たず更に叫ぶ、

 

「ねえ聞いてよっ! 今まではね、博麗神社で毎年節分祭やってたの! 里の人間も呼んでみんなで豆まきして、もちろん私が鬼役でさ! ……なのに霊夢のやつ、今年は豆まきしないっていきなり言い出したんだよ!? こんなひどい話ってある!?」

 

 ふむ、と月見はもう少しばかり事の経緯を推測する。

 まずは幻想郷屈指の大妖怪が、しばらく見ぬ間に豆をぶつけられて快感を覚える被虐趣味に目覚めていたわけではないと確認しておく。あくまで豆まきをやりたいという訴えであり、「豆をぶつけて」は単なる言葉の綾のようだ――たぶん。

 で、その豆まきであるが。

 言うまでもなく来る立春の前日、子どもたちが豆で鬼という名の邪気を祓い、一年の無病息災を祈願するあの豆まきであろう。豆――とりわけ炒った豆には、実際に鬼を退散させる神聖な力が宿るのだ。萃香や勇儀は「我慢すれば平気」程度で済むようだが、たとえば月見が知るもう一人の四天王は、水ぶくれを起こして肌が荒れちゃうからと昔から大の豆嫌いだった。

 そんな鬼にとっては忌々しいはずの豆まきで、萃香がいつも鬼役を買って出ていたというのは純粋な一驚に値した。本物の鬼が豆まきで鬼役を務める――それはそのまま、芝居とはいえ人間に退治されるのをよしとする行為に他ならないのだから。

 確かにかつての鬼は、人間と勝負をするのが好きだった。されども、決して人間に敗北するのが目的だったわけではない。節分は鬼が人間に追い払われると約束された行事であり、はじめから勝負事としては成立し得ない。

 なのに、萃香が泣いてまで悔しがっているのはなぜなのか。なぜ、人間に追い払われることを心から楽しみにしていたのか。節分が現在の形に近づいたのは江戸時代頃と言われており、それより前からずっと外をほっつき歩いてばかりいた月見は、彼女がここまで豆まきにこだわろうとしている理由を知らない。

 だが、想像はできた。

 

「……そうか。節分は、鬼が人間から必要としてもらえる瞬間なんだね」

 

 萃香が、こくんと小さく頷いた。

 人間が節分に豆をまいて追い払うのは、鬼である。豆を構えた子どもたちの前で、大人がお面を被って扮装するのは鬼である。天狗でも河童でも狐でも狸でも、吸血鬼でも幽霊でも妖精でもない。他の妖怪では決して代理が利かず、『鬼』という存在こそ人々から必要とされるのが節分なのだ。

 それは鬼にとってみれば、いまや御伽噺の存在となってしまった自分たちが、他でもない『鬼』として人々と在ることを許される瞬間だったのではないか。

 だから萃香は、本当に心の底から楽しみにしていたのだ。だって彼女は、仲間たちと別れたった独りになってしまっても、それでも地上に残り続けることを選んだ最後の鬼なのだから。

 

「しかし、どうしてまた豆まきをやめるなんて話に?」

 

 萃香はぐすっと鼻をすすり、

 

「最近外の世界じゃ、豆まきじゃなくて恵方巻きとかいうのが流行ってるらしいね」

「ああ……そう言われてみれば、いつの間にかよく見かけるようになったね」

 

 確か、ここ十数年程度の話ではないかと思う。元々関西地方で親しまれていた巻き寿司が、気がつけば『恵方巻き』と名前を変えて全国に広まっていたのは。

 

「恵方を向いて、一言も喋らず一気に食べ切ると願い事が叶うんだって? 霊夢が、早苗とか志弦とかから聞いたみたい。そしたらね、まいた豆を拾う面倒がなくなっていいとか、ただの邪気払いより縁起がいいとか、美味しい物を食べる方が人もいっぱい集まりそうとか、そんなことばっかり言ってさぁ……っ!」

「……それで豆まきはやめて、恵方巻きを食べることにしたと」

「うううぅぅ~……!!」

 

 まこと現金な霊夢らしい。おおかた一人でも多くの人間で神社が賑わいさえすれば、祭りの中身なんて大して問題ではないのだろう。

 しかし、萃香にとってはまったく笑い事ではない。だって豆まきが中止されてしまったら、今の自分に残された鬼としての大切な存在意義が、足元から無残に崩壊してしまうにも等しいのだから。

 どうして萃香が突然半泣きで駆け込んできたのか、完全に納得が行った。

 

「霊夢なんてもう知らないっ!! ねえ月見、お願いだよ。ほんの何人かでいいからさ、なんとかして豆まきできないかなあっ……!」

 

 涙目で頼み込んでくる萃香を、大袈裟だとは思わない。むしろ誰かに泣きついてでも人間と交流したがるその姿には、なかなか感じさせられるものもあったので。

 

「わかった。私がなんとかしよう」

 

 博麗神社で節分祭があるからといって、里の人間がみんないなくなってしまうわけではない。幸い節分まではまだ数日あるから、今から里で知り合いに相談すれば豆まきくらいはなんとでもなるはずだ。

 集まる人数次第では、祭の邪魔をするなと霊夢に怒られるかもしれないけれど。

 まあ、それはそれ。目先の損得にとらわれ友人を悲しませた、ひとつの因果応報と思ってもらうとしよう。

 

「ほ、ほんと!? ほんとにいいの!?」

「ああ。こういうことじゃ嘘は言わんよ」

「そ、そうだよねっ……うう、ありがどうづぐみ゛ぃ~……!」

 

 感極まってずびずび泣きついてくる萃香の背を、そっと撫でてあやしながら。

 

「よしぬえ、お前も手伝え」

「うえーっ!? なんでよめんどくさーい!」

「お前もいい加減、食べて寝る以外になにかしろ」

 

 時折命蓮寺の手伝いに連れ出される以外、ぬえの生活は食べるかゴロゴロするか温泉に入るかのどれかしかない。どこから調達してきたのか今月分の家賃は約束通り払ってくれたが、だからといって好き勝手怠惰の限りを尽くしていい理由にはならないのだ。

 

「ぶーぶー、横暴だぁー。強制労働はんたぁーい」

「……」

 

 畳を両手でペチペチ叩いて不満をあらわにするかたつむり、もといこたつむりを見下ろしながら。

 いっぺん豆をまかれて成敗されるべきは、鬼ではなくこのぐうたら娘ではなかろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 打ち合わせはとんとん拍子で進んだ。元々里でも豆まきをやる計画はあったようで、お前が主催してくれるならとても助かる、と慧音もあっさり二つ返事だった。

 会場をどこにするかもすでに決めていた。里との交流もかねてどうだいと今回の話を持ちかけてみれば、『彼女』は月見が予想していた通り、迷った素振りもなく笑顔ひとつで快諾してくれた。

 

「――白蓮、今日はよろしく」

「はい。こちらこそよろしくお願いします」

 

 というわけでいよいよ節分当日、月見たちは命蓮寺の境内に集合していた。

 命蓮寺には、僧が日頃の修行を行う場所とされる僧堂がある。修行の場所と書けば神聖で近寄りがたい印象を受けるが、実際のところはいくつかの座敷で仕切られたごく一般的な平屋の建物だ。毎日の修行はもちろん、里人を集めて法話を行ったり、来客の応対をしたりと普段から概ね多目的に使われている。広い上掃除が行き届いていて清潔なので、豆まきの会場としてはまさしくうってつけなのだ。

 白蓮の隣には、正月になってこの寺へ居を移したばかりのナズーリンがいた。元々無縁塚から引っ越しするつもりはなかったようだが、白蓮と星にしつこく手招きされて折れざるを得なかったらしい。まったくいい加減楽をさせてほしいんだがね、と迷惑げに小言を言うナズーリンは――なかなか満更でもなさそうだったと月見は思っている。

 

「ナズーリンも、今日はよろしく」

「こっちのセリフだよ。私は厨房担当だからね、ストッパーは君に任せた」

 

 ナズーリンは月見の背後を一瞥し、

 

「……どうやら、また随分と賑やかになりそうだからね」

 

 さむーい帰りたーいこたつ入りたーいと月見の袖を引きながらぼやくぐうたら娘の、その更に後ろから。

 

「びゃくれんさまー、おじゃましまーす!」

「「「しまーすっ!」」」

「いらっしゃい。みんな、今日は楽しんで行ってね」

 

 博麗神社で節分祭が行われ、本日限りで参道が安全に警備されるといっても、それで実際に山奥の神社まで行けるのは体力豊かな若者や大人たちだけだ。よって今回メインで参加してくれたのは、里の外を歩くにはまだ幼すぎるわんぱくちびっこ軍団だった。

 またお手伝いとして保護者の方々や、何人か年長組に当たる子たちも集まってくれている。これだけ頭数が揃えば豆まきとしては充分すぎるくらいだろう。ふと見てみれば、萃香が僧堂の戸の隙間からこちらを覗いており、その瞳は豆をいっぱいぶつけてもらえる喜びできらきらと輝いていた。

 庫裏(くり)の方から、炒った豆の香りがほのかに漂ってきている。

 

「それじゃあ、中に入って準備しようか」

 

 はーい! と元気いっぱいな子どもたちを引き連れ、ぞろぞろと僧堂に向かう。保護者の方々とはここで別れ、ナズーリンが厨房のある庫裏へと案内してゆく。

 本日のプログラムは至ってシンプルだ。子どもたちが豆まきをしている間に、保護者の方々が伝統的な節分料理を準備。そしてお昼になったらみんなで昼食を取り、一年の無病息災を願っておひらきである。

 僧堂の戸を開けると、すでに萃香の姿はなかった。

 

「星たちはどこかな。ちょっと挨拶してくるよ」

「あ、みんなはこっちの奥の座敷です。……では、私は子どもたちを見ておきますね」

「ああ、頼む」

 

 子どもたちの面倒を白蓮に任せ、月見はぬえを引っ張りながら廊下を進む。ほどなくすると、ひとつだけぴっちりと襖の閉められた座敷があったのですぐにわかった。

 

「入っていいよー」

 

 月見がなにかを言うより先に、中から萃香の声が飛んでくる。おおかた体の一部を霧状にして、今もどこからか月見とぬえを見ているのだろう。

 月見が襖を開けると、

 

「とぉーうっ!」

「ぶ」

 

 萃香の腹がいきなり顔面に飛びついてきた。萃香はそのままもそもそと肩車の体勢に移行し、

 

「いやー、月見ありがとうっ! あんなにいっぱい集めてもらえるなんて嬉しいよ!」

「そりゃあよかった」

 

 座敷では鬼の扮装をした水蜜と一輪、そしていつもより一段とおめかしした星がお茶を飲みながら出番に備えていた。水蜜がゆるく手を挙げ、

 

「おはようございまーす月見さん。今日はよろしくお願いしまーす」

「お願いするのはこっちだよ。今日はよろしくね」

 

 水蜜はこめかみのやや上からちょこんと二本の角を、一輪は額から勇儀のような一本角をつけている。妖怪として人間と交流できるまたとない機会なので、彼女たちにも鬼役として手伝ってもらう予定なのだ。

 一方、星が普段通りの恰好なのは福の神役だからで、一層おめかししているのはこれを機に仏様アピールしたいからである。命蓮寺が開山してから約一ヶ月、彼女は天然だったりドジだったりなにかと頼りないせいで、里人からあまり仏様だと信じてもらえていない。

 して、月見がここまで引きずってきたぬえはといえば。

 

「よーし、四天王最後の一人も揃ったねー。ほら、早く角つけな角」

「なんで私がこんなことしなきゃなんないのよー」

 

 萃香の言う通り、四人目の鬼役として問答無用で働いてもらう。結局豆まきの話が持ち上がってから今日まで、ぬえは変わらぬぐうたら生活を貫いてばかりだった。寝正月はとっくの昔に終わったのだから、月見も少しは心を鬼にするのだ。

 

「ほら、ここまで来たんだから文句言わずにやる。じゃないと今日のおやつは抜きだよ」

「横暴だー! ぶーぶーっ!」

 

 かつて京で伝説となった大妖怪が、どうしてこうも腑抜けになってしまったのか。この少女、やっぱり命蓮寺で居候しながら修行を積む方がよいのではあるまいか。今からでも白蓮に頼み込むべきか月見はだいぶ悩む。

 その場から動こうとしないぬえの腕を掴み、水蜜と一輪が呆れながら引っ張っていく。

 

「あんた、さすがにちょっとぐうたらが過ぎるんじゃないの? 同じ妖怪として情けないわよ」

「そーよ、一輪に言われるって相当よ? こないだだって修行中に居眠ぶぎょ」

「拳骨がほしいの?」

「し、してから言わないでくださいぃ……」

 

 一輪がぬえの頭に角の飾りをつけ始める。しかしぬえはこの期に及んでも自分ではまったく動こうとせず、一輪にされるがままぼーっと姿見の自分を見つめている。星が苦笑し、

 

「ぬえさん、きっと月見さんのお屋敷がすごく居心地がいいんでしょうね」

「……やっぱり、私のせいかな」

「い、いえいえ決してそう言っているわけではなくっ。むしろ大妖怪の心も穏やかにしてしまう素敵なお屋敷だなあと!」

 

 なんにせよ、水月苑での生活が影響しているのは事実なわけで。なんだか居候の娘というより、呑気でふてぶてしい野良猫に居座られているような気分になってきた。

 肩の上の萃香が、指先で月見の耳を弾くように小突いた。

 

「月見ー、向こうはもうすぐ準備できるみたいだよっ」

「了解。じゃあ、私は先に向こうで待ってるよ」

 

 萃香を降ろし、月見はこの僧堂で最も大きな座敷がある方へ向かう。豆まきはそこで行う流れになっている。

 廊下を歩きながら、それにしても、と月見は唸るようなため息をつく。脳裏に浮かんでいるのは、もちろんあのぐうたら娘だった。いい加減彼女のダメ妖怪化に矯正を掛けなければ、いずれ幻想郷にやってくるであろうマミゾウに少々申し訳が立たない。

 余談ながらぬえは、自分がようやく封印から解放されたこと、その後幻想郷で暮らし始めたことを手紙でマミゾウに宛てて出している。無論、幻想郷に月見がおり、自分がその屋敷で居候しているとは伏せたままで。あの手紙を藍が無事届けられるかはわからないが――マミゾウが「狐が持ってきた手紙なんぞ受け取る筋合いもないわ!」と門前払いしかねないという意味で――、受け取ったならば近いうちに幻想郷へ顔を見に来ようとするだろう。

 千年以上の時を経て再会した友人が狐の屋敷で堕落しきっていたとなれば、まあ間違いなく怒りの矛先が向くのは月見のはずだ。マミゾウは人の社会に溶け込んで生きる数少ない妖怪である一方、根本的にはあやかしはあやかしたらんと誇りを秘めた大妖怪でもあるのだから。

 そのときのことを考えれば、いっそぬえを追い出してしまうのが一番安全なのかもしれないが――。

 

「……まあ、しょうがないか」

 

 そこまで鬼になろうとは思わないあたり、私も私なのかもしれないなと、月見は一度だけ尻尾を左右に揺らした。

 

 

 

 

 

「「「鬼はそとーっ!!」」」

「うわっ」

 

 そして月見は豆まみれになった。

 さっきは萃香の腹だったが、今度はちびっこ軍団による豆の集中砲火だった。月見は襖を開けたばかりの恰好で固まり、炒った豆が景気よく床一面に散らばった。

 

「こ、こらっ、月見さんに投げちゃダメでしょ!? 月見さんは鬼じゃないんだから!」

 

 白蓮が慌てて叱りつけるも子どもたちはまったく聞いておらず、「うちとったりー!」と仲良くハイタッチをして喜びあっている。楽しそうでなにより。

 

「申し訳ありません月見さん、私がついていながら……!」

「ああなに、これくらい平気さ。……ほらお前たち、豆まきはこれからなんだから豆を拾って。もうすぐこわーい鬼がやってくるぞ」

 

 こわーい鬼と聞いて、子どもたちはきゃーきゃー歓声をあげながら豆を拾い始めた。

 この僧堂では、間仕切りを取り払うことで最も広い座敷となる部屋だった。どうやら準備はすでに万端のようで、集結したちびっこと年長組はみんな豆がたっぷりと入った枡を持っている。どうやら一部気の早い子たちがいるらしく、月見の足元以外でもちらほらと豆が散らばっているのが見えた。

 このはしゃぎ様を見ればわかる通り、彼女らは今回の豆まきで一人本物の鬼がやってくることを知らない。命蓮寺の面々は正体を明かした上で受け入れられているから例外として、萃香についてはただ月見の友人とだけ説明し、妖怪とも人間とも明言しないようにしている。鬼は今や御伽噺の中だけの存在であり、だからこそ史実の妖怪像が根強く人々に浸透しており、正体を明かせば悪い意味で怖がらせてしまう可能性がないとも言い切れないのだ。

 もっともみんな、まさか鬼とまでは予想せぬも、なんとなく人間ではないのだろうとは感じているのかもしれないが。

 

「さあ、そろそろやってくるよ」

 

 子どもたちが豆を拾い終えたのを、恐らく萃香は部屋のどこかから見ているだろう。案の定ほどなくすると、廊下の向こうからバタバタと元気な駆け足が近づいてきて、襖を開け放った萃香は万歳とともに意気揚々と、

 

「がおーっ!! さあさあ恐れ震」

「「「とりゃ――――――――っ!!」」」

「にょわあああああ――――ッ!?」

 

 始まりの口上を述べるより先に、子どもたちの豆マシンガンが火を噴いた。豆まみれになってひっくり返った萃香は、すぐ起き上がってぷんすか両腕を振り回し、

 

「こらぁ!! 名乗る途中でいきなり攻撃なんてひきょーだぞーっ!!」

「えー」

「なさけむよう」

「けんてきひっさつ」

「あくそくざん」

「どこで覚えてきたのそんな言葉!? ……あっちょっと待って待って、少しくらいいーじゃん一生懸命考えてきたんだからーっ!?」

 

 さすがは幻想郷式豆まき、初っ端からアクセル全開である。

 登場するタイミングを完全に見失った水蜜たちが、襖の向こうから顔を覗かせちらちらと月見へ目配せしてきている。なので月見は子どもたちの前に割って入り、

 

「ほらほら、せっかくだから言わせてあげようじゃないか。一生懸命考えてきたんだってさ」

「「「はーい」」」

「……なんで月見の言うことはあっさり聞くかなあ?」

 

 萃香は服の中まで入った豆を不服げにしながら取り除き、しかしすぐに明るく表情を切り替えて、

 

「じゃあ、登場するとこからやり直すから!」

「そこからか」

「そこからだよもちろんっ。今度は終わるまで投げないでよ!」

 

 襖が閉まる。こほんと咳払いする音が聞こえる。それから再び襖がすぱーんと飛び、

 

「がおーっ!! さあさあ恐れ震えて我が名を聞けえ! 泣く子も黙る鬼の四天王が一、伊吹萃香ここに推参っ!」

 

 萃香は、傍目で見ていてもものすごく楽しそうだった。こうして人間の前で堂々と口上を述べる機会も、今となっては年に一度の節分だけなのだろう。楽しさのあまりぴょんぴょん飛び跳ねながら、

 

「今日は私の仲間も来ているぞっ。お前たち、出てこーい!」

 

 萃香の合図を受け、水蜜たちがようやく襖の陰から飛び出す。

 

「はーい、村紗水蜜でーす! 悪い子は食べちゃいますよーっ!」

「く、雲居一輪……えーと、お手柔らかにお願いね」

「正体不明の大妖怪、封獣ぬえ様とは私のことだぁー! ぅがおー!」

 

 水蜜は萃香に負けず劣らずノリノリで、一輪はこの手の演技に慣れていないのかやや恥ずかしそうで、ぬえは多少はやる気が出てきたらしくなかなか悪くない口上だった。最後に、三人が名乗り終えたところを萃香が締める。

 

「我ら鬼の四天王が、お前たちの相手をしてやろう! 勝負だあっ!」

 

 一生懸命考えた口上が無事終わり、五秒ほど間があって、

 

「あ、もう豆投げていいよ」

「「「とりゃあ――――――――っ!!」」」

「「「んあ゛ぁ――――――――ッ!?」」」

 

 一気に大騒ぎになった。解き放たれたちびっこ軍団は狼のごとく機敏な動きで四天王に襲いかかり、豆で山盛りになった枡から怒涛の一斉攻撃を開始する。

 

「なさけむよう!」

「けんてきひっさつ!」

「あくそくざん!」

「「「鬼はそと――――っ!!」」」

 

 これに対し、四天王の反応は二つに分かれた。すなわち片や真正面から受けて立つ萃香と水蜜、片や予想外の勢いに狼狽する一輪とぬえであり、

 

「まだまだー!! そんなんじゃ鬼は退治できないぞおーっ!!」

「そうですよそうですよ、もっとぶつけてこおーい!!」

「いたたた!? ちょっと、お手柔らかにって言ったたたたたぁっ!?」

「あっちょ、か、顔はダメだって! 顔狙うのはやめろおーっ!?」

 

 狂瀾怒濤(きょうらんどとう)阿鼻叫喚(あびきょうかん)とはまさにこのことか。

 とはいえ、はじめから予想できていたことなので特に驚きも戸惑いもない。それどころか、今日もみんな元気でなによりだと安心している自分すらいた。幻想郷ではこれがいつもの光景です。

 やや遅れて、年長組の少女たちも豆を投げ始めたので。

 

「ほら、白蓮も一緒にまいたらどうだい」

 

 怒涛の勢いでエキサイトする子どもたちについていけず、白蓮が早速蚊帳の外になってしまっておろおろしていた。子どもたちと同じ枡を持っている通り、彼女も人生初の豆まきを体験しようとしていたのだが、

 

「ま、豆まきって……なんていうか、こういうものなんですか?」

 

 言いたいことはなんとなくわかる。けれど月見は頷き、

 

「幻想郷ではこういうものさ。さあ、思いっきりやってごらん」

「……わ、わかりましたっ」

 

 白蓮が枡から豆をひと掴み握る。さすがに萃香をいきなり狙うのは気が引けたか、まずは一番近くの水蜜を相手にやってみるようだ。後ろに振り被って、ふんすっと気合一発、

 

「鬼は……そとおっ!」

「ぶ」

 

 放たれた豆は空を切り裂く幾筋もの剛速球と化し、水蜜の体にやや情け容赦なくめり込んだ。気がした。

 ぎょわはー!? と水蜜が変な悲鳴を上げてひっくり返る。すかさず周りの子どもたちが水蜜を取り囲み、

 

「びゃくれんさますごい!」

「今がチャンス!」

「たたみかけろーっ!」

「「「あちょ――――――――っ!!」」」

 

 ふぎゃああああああああああああああああああ。

 濃厚な豆のシャワーを浴びせられ、ムラサ船長は英霊となった。

 

「ちいっ、一人やられたか! だがやつは鬼の四天王の中でも最弱! 迎え撃てーっ!」

「これ私が知ってる豆まきじゃないんだけどおおおおお!?」

「だから顔はやめっうひゃあああああめっちゃ服の中入ってくるううううう!?」

 

 結果、カオスが二割増しくらいになった。

 白蓮が気まずさと恥ずかしさを半々織り交ぜた表情で、一生懸命月見を見たり見なかったりしている。なにかコメントを求められている気がした月見は一言、

 

「さすが白蓮」

「お、お父――月見さんが思いっきりやれって言ったんじゃないですか!? 『さすが』ってどういう意味ですか!?」

「豆は『魔』を『滅』するという語呂合わせで鬼を祓うものであって、物理的な威力で倒してしまうのはお前くらいだろうと」

「わ、私は普通に投げただけですもんっ!!」

 

 この少女、昔から身体強化の魔法を得意とする上に、長年魔界に封印されていた影響なのか、魔力の純度が高まって身体能力を大きく向上させているのだ。現在は素の状態ですら平均的な男性以上だし、身体強化を遺憾なく発動すれば拳骨一発で妖怪をも仕留める。そのため命蓮寺では、白蓮の怒りを買うのが最も恐ろしい愚行であるとされている。

 嘘か真か、お寺の鐘を素手で叩いて鳴らせたとか。

 さて、水蜜が英霊となったことでちびっこたちの驀進(ばくしん)はますますヒートアップしている。一輪もぬえも座敷の隅っこまで追い詰められ、ビシビシと絶え間なく豆をぶつけられて涙目になっている。萃香ただ一人だけが、「うーん、やっぱりこの痛痒さがなんとも……さーどんどんぶつけてこーい!」と少々おかしな方向に悦びを爆発させている。あまり深く考えないでおこうと月見は思う。

 

「――皆さん、お待たせしましたっ!」

 

 そのとき、高らかに声をあげ星が座敷へ飛び込んできた。錫杖を片手にした彼女はその場でむふーっと得意げに胸を反らし、

 

「私が福の神ですよっ。さあ皆さん、『福は内』って言いながら私を部屋の中に」

「「「鬼はそとお――――っ!!」」」

「ひええええええええええ!?」

 

 もちろん、次なる獲物を見つけたちびっこ砲が即座に襲いかかった。

 

「ちちちっ違いますわたし福の神、福の神ですってば!? 『鬼は外』じゃなくて『福は内』ですーっ!!」

「えーそうなのー?」

「てかお花畑のおねえちゃんって、ほんとに神様なのー?」

「あやしい」

「神様はもっとかりすまがあるとおもう」

「ふえええん!!」

 

 豆まきといえばとかく鬼というイメージばかりが強く語り継がれているけれど、実はその陰に隠れて毘沙門天と深い関わりがある行事ともされている。豆まき発祥の地とされる京都は鞍馬にて、毘沙門天のお告げにより豆で鬼を追い払ったという伝説が残されているのだ。なので代理とはえい毘沙門天たる星こそが福の神にふさわしかろうとなったのだが――まあ、こういう扱いになってしまうあたりはさすがというべきなのだろうか。

 と、

 

「……ふ、ふくはうちー」

「ん?」

 

 白蓮が豆を四粒ほど、打って変わってとてもしおらしく月見の袖にぶつけてきた。いきなりどうしたのかと月見が疑問符を浮かべていると、白蓮は三拍ほど置いてから一気に湯気を噴いて、

 

「な、なななっなんでもないです!? では私、もう少しまいてきますねっ!」

「あ、おい」

 

 あっという間に踵を返し、萃香のところへ残りの豆をぶつけに行ってしまった。早速剛速球を食らった萃香が「いだぁい!?」と悲鳴をあげるも、

 

「あっ、でもこんくらい強めも結構悪くないかも……」

 

 月見は聞こえなかったことにした。

 かくして、豆まきは制御不能の乱痴気騒ぎへと発展していく。止まらないちびっこ軍団、暴走気味で剛速球を投げまくる白蓮、だんだん変な方向に悦び始めている萃香、袋叩きにされている一輪とぬえ、英霊となった水蜜、「わたし福の神なのにいいいいい」と涙目な星、飛び散る豆、豆、豆。

 一輪のところから雲山がふよふよと避難してくる。そんな彼はわたあめサイズより更にひと回り小さくなり、「老骨には少々沁みるわい……」と言うが如く渋みのある顔をしていたので。

 

「……とりあえず、豆を掃除しようか」

 

 壁に立てかけてあったほうきを二本、月見は手に取る。

 妖怪であっても人間であっても、子どもが放つ無限のエネルギーとはかくも最強なのである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 山門をくぐる前から、ドタバタぎゃーぎゃーと大変賑やかな喧騒が聞こえてくる。あいかわらずだと思いながら命蓮寺の境内へ足を踏み入れると、子どもたちの元気すぎる跳ね回り様とは対照的に、見物に来ている大人は皆が穏やかな様子ではちゃめちゃな豆まきを見守っていた。

 これも月見の人徳なんだろうな、と慧音は考える。命蓮寺は人間のみならず妖怪へも平等に開かれたお寺であり、門下の少女たちはみな人間ではない。住職の聖白蓮をはじめ、全員が心優しき少女なのはすでに知れ渡っているが、それでも妖怪がいる寺に安心して我が子を預けられるのは、やはり月見という男の存在が大きいからなのだろう。

 月見もまた、紛れもない妖怪の一匹であるのに。

 慧音自身、今回の豆まきに関しては、向こうから相談されたのをいいことにぜんぶ彼へ丸投げしてしまった身だ。お陰で今度のテストづくりに終始集中できたので、近いうちに礼をしなければならないと思っている。

 そこで慧音はふと、

 

「……おや、阿求?」

 

 見物人の中に、よく見知った着物姿があった。こちらを振り向いた少女――稗田阿求は、口元に小さな微笑みを浮かべて会釈した。

 

「お前が来ているとは思わなかったよ」

「ええ、まあ、友人がこちらの方に参加すると言っていたもので。一応様子を見に来たんです」

 

 言われて僧堂へ目を向ければ確かに、年下の子どもたちに交じってえいえいと豆を投げている鈴奈庵の娘がいる。阿求はため息、

 

「普段から妖怪は怖いとか言ってるくせに、現金なもんだわ……」

「あの子、月見が妖怪だと信じてないみたいだからなあ」

 

 え、あんなにいい人が妖怪なわけないじゃないですか。お稲荷様でしょう、みんなもそう言ってますよ?――と、いつだったか真顔で言っていたのを思い出す。月見がそこらの人間よりも人間らしいせいで、彼が妖怪だと未だに信じていない里人はちらほらといるのだ。

 それにしても、豆まきの会場はまこと縦横無尽の大騒ぎである。節分大好き伊吹萃香を筆頭に、鬼の扮装をした少女たちが子どもたちに猛烈な勢いで追い回され、割かし冗談抜きの悲鳴をあげながら逃げ惑っている。寅丸星に至っては鬼の恰好をしていないのになぜか畳へ転がされており、四方八方から豆をぶつけられ哀れな涙目で助けを求めている。白蓮が星を助けるべきかどうか判断できずにおろおろし、月見と雲山はほうきで黙々と畳を掃除している。

 深い感慨とともに目を細めながら、阿求は正面の喧騒をまっすぐに見つめている。

 

「……まさか里でこんな光景が見られるようになるなんて、思ってもいませんでした」

「……同感だ」

 

 指先ひとつで簡単に人の命を奪ってしまえる妖怪と、魔に抗う術などなにも持たないか弱い人間の子ども。この二つが同じ空間で同じ時間を共有し、しかも妖怪の側が子どもたちに振り回されるという形で、まるでお祭り騒ぎのごとくはちゃめちゃに盛り上がっている。ここに集まっている人間たちは知るまい――ちびっこ軍団の集中攻撃を全身で受け止めている少女が、実は正真正銘本物の鬼であり、その気になれば里を一瞬で滅ぼすこともできる大妖怪中の大妖怪であると。

 

「すっかり、月見さんがいてくれるのが当たり前になっちゃいましたね」

「そうだなあ」

 

 はじめは「しばしば里にやってくる不思議な狐」だった月見も、今では里のなんでも相談役として盤石な地位を固めつつある。過ぎし正月には里で毎年恒例の豊作祈願祭が行われたが、そのとき彼はまさかの稲荷神役で参加させられてとても微妙な表情をしていた。

 月見は慧音と違って純粋な妖怪で、里に住んでいるわけでもないけれど、それでもここの立派な一員として受け入れられているのだ。

 

「この様子なら、特に心配は要らなそうだな。私は仕事に戻るよ」

「あ、はい。わかりました」

 

 進撃のちびっこ軍団は留まることを知らない。慧音が山門をくぐって外へ出ようとすると、はてさて一体誰に向けたものだったのか、少女たちの人外とは思えぬ情けない悲鳴が慧音の背を叩いた。

 

「「「たすけてええええええええっ!!」」」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 豆まきは、子どもたちのKO勝利で幕を下ろした。

 豆まきでKO勝利というのもなかなかおかしな話だが、鬼三名及び福の神がみんな豆だらけになって降参する光景は、間違いなくKOと表現する他なかったと月見は思っている。

 その後は全員で畳を綺麗に掃除し、節分料理をいただいて此度の豆まきは終了と相成ったのだった。

 

「おきつねさまー、びゃくれんさまー、すいかおねーちゃーん、ばいばーい!」

「ああ。またね」

「気をつけて帰ってね」

「来年もちゃんと豆まきするんだぞー!」

 

 保護者の方々に手を引かれ帰ってゆく子どもたちを、月見は少女二人と一緒に山門から見送る。見送りに出てこられたのは白蓮と萃香だけだ。鬼三名及び福の神はすっかりくたくたになってしまって、ナズーリンと雲山にマッサージで労をねぎらってもらっている。

 そんな中で萃香はといえば、最も多くの豆をその小さな体で受け止めたにもかかわらず、むしろ豆まきが始まる前より元気が弾けているように見えた。最後の子どもを見送り終えると上に伸びをして、

 

「いやー楽しかった! 神社じゃあんな風に大暴れしたことなかったからねー、もー最高だったよっ!」

「そうか。それはよかった」

 

 この少女がどういう意味で此度の豆まきを楽しんだのかは、もはや触れまいと月見は思う。

 

「えへへ……月見、今日はありがと! 来年もまたやろーねっ!」

 

 そう――彼女がこうして百点満点の笑顔で喜んでくれたなら、真実なんてどうだっていいのだ。

 萃香のご機嫌な頭の上に、掌を置いて。

 

「そうだね。来年もまた」

「約束だよっ。……あんたも、今日は協力してくれてありがとね!」

「いえ、そんな。こちらこそ、素敵な時間を過ごすことができました」

 

 門下の仲間がみなコテンパンにされたというのに、白蓮はとても満ち足りた微笑みで深く頭を下げた。

 

「人間と妖怪が、同じ場所で同じ時間を共有する……その夢が私の寺で叶いました。月見さん、萃香さん、本当にありがとうございました」

 

 年末の開山からまだ一ヶ月という手前、命蓮寺と人里の関わりといえば、仏教を通した儀礼的な交流がほとんどだった。空飛ぶ船をお寺に変形させるという御業を目の前で披露したせいもあるのか、里人たちは命蓮寺をやや神聖視しすぎているフシがあるのだ。ありがたい方々なのだから里の低俗な話題に関わらせては失礼だ、という遠慮の空気を月見は前々から感じていた。

 それもあって、月見は今回のイベントを命蓮寺に持ちかけたのだ。これで里の人たちにも、「こういう庶民的な行事も快く引き受けてくれるお寺」という親しみやすい認識が広まっただろう。今日という日をきっかけにして、白蓮が理想として思い描くような、種族も宗教も取っ払った飾らぬ交流が始まってゆくはずだ。

 

「では、中に戻りましょうか。大したお礼もできませんけど……」

「おー! お酒呑もーよお酒っ!」

「……ええと、まだお昼ですけど……?」

「え? それがどうかしたの?」

「え?」

「え?」

 

 さて、豆まきが終わったので萃香もいつも通りの萃香に戻ったらしい。あとは相手を取っ替えながら明日まで呑み続けるんだろうなと、月見が呆れながら踵を返そうとしたときだった。

 

「あ。あのー、月見さん」

「ん?」

 

 どうやら月見たちの話が終わるのを待っていたらしく、豆まきに年長組で参加していた一人の少女が駆け寄ってきた。栗色の髪を鈴の髪留めでおさげにして、市松模様の着物に道行(みちゆき)――和服用のコート――を被った姿は、月見とここ何ヶ月かで親しくなった顔見知りのもので。

 

「どうかしたかい?」

「えっと、月見さん、このあとお暇かなーと思って」

「特に予定はないよ」

 

 月見が答えると、少女は可憐に頬をほころばせた。

 

「ああ、よかったです。実はこのあいだ、新しい外の世界の新聞が手に入って」

 

 人里の一角に、『鈴奈庵』と書かれた年季ある看板を構えた店がある。

 彼女はそこの一人娘であり、本業を忘れ本の虫と成り果ててしまった親に代わって、日々健気に店を執り仕切っている看板娘でもあり。

 

「よかったら、またウチのお店に来ませんか?」

 

 名を、本居小鈴。

 物珍しい外の本が手に入ると本業そっちのけで月見を店に招く、あの親にしてこの子ありなビブロフィリアであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第145話 「やがては来る春を待つ」

 

 

 

 

 

 鈴奈庵とは、人里で唯一の木版印刷を専門に取り扱う店のことをいう。

 要は、規模の大きい版画だと思ってもらえばよい。印刷したい本の内容を木の板へ左右反転して彫り込み、そこに塗料を塗って、紙に押しつけることで複製していく手法である。外の世界では機械の発達に伴って廃れてしまったが、古くは仏教の経典や浮世絵などの大量生産で活躍し、長きに渡って日本の出版界を支えてくれた技術でもある。

 その技を幻想郷で受け継ぐのが鈴奈庵であり、一人娘兼看板娘の名を本居小鈴という。

 月見とは、互いの名を覚えてから日は浅いが顔見知りに当たる。自他ともに認めるビブロフィリア(ほんのむし)であり、親譲りの好奇心と蒐集癖を持つ少女であり、こうして時折月見を店まで招いては、

 

「――なるほど、『ベルリンの壁崩壊』ってそういうことだったんですねー。てっきりただの手抜き工事の記事だと思ってましたよぉ」

 

 集めた外の本やら新聞記事やらを持ってきて、お茶をすすりながら雑談に耽る程度の仲であった。

 命蓮寺での豆まきを終えた午後、古ぼけた紙と墨の匂いで満ちた鈴奈庵にて、この日小鈴が持ってきたのは外の擦り切れた週刊誌だった。外国のものだが、小鈴はまるで日本語のように難なく読むことができる。どのような言語であっても自然とその意味が理解できてしまう――『あらゆる文字を読める程度の能力』のお陰だという。

 あくまで読解のみであり、会話や筆記にはほとんど応用できないそうだが、どんな書物でも楽しむことのできるその能力を小鈴はいたく気に入っていた。手元の新聞をふんふんと何度も読み返しながら、

 

「いやーさすが月見さん、物知りですねえ」

「たまたま知ってただけさ。外でも有名な出来事だったからね」

「いえいえそんな。私みたいな能力もないのに、この記事だってさらさら読んじゃいますし……やっぱり長生きなお稲荷様なんだなあって実感します」

 

 ところでこの少女、月見のことをお稲荷様だと勘違いしている里人の筆頭であったりする。

 里の人間というのは、月見を妖怪と見ているか稲荷と見ているかで三つのパターンに分類できる。

 まずは月見を正しく妖怪と認識した上で、善良な存在として受け入れてくれている者。慧音や阿求がこれに当たる。次が月見を妖怪と理解しつつも、面白がって稲荷扱いしてくる者。日頃から月見に悩み相談を持ちこんでくるのが概ねこの類である。

 そして最後が小鈴のように、みんな稲荷だって言ってるし妖怪なわけないよね! と、そもそも妖怪だと信じてくれていない人たちなのだった。どうしてこんなことになってしまったのか月見にはさっぱりわからない。

 

「こうしてお稲荷様と本でお話するようになるなんて、夢にも思ってませんでした」

「……はっはっは」

 

 笑顔が乾いているのを感じる。

 とはいえ小鈴の場合は、その誤解がよい方向に働いて巡り合えた仲でもあった。なんでも彼女、元々は月見をちゃんと妖怪だと思っており、そのせいで怖くて近寄れないでいたのだという。だがあるとき周りの大人たちが「お稲荷様」と呼んでいることに気づき、ああきっとあの人はよんどころない事情があって妖怪と名乗ってるんだな、本当はお稲荷様だったんだなと納得したそうだ。

 幼い頃からたくさんの本に囲まれて育ったせいか、この少女、ちょっとばかり想像力が豊かだった。

 私は本当に妖怪なんだよとか、そもそもお稲荷様は狐じゃないんだよとか、喉から出そうになる言葉は多々あるものの、怖がられるよりはマシかと月見はプラス思考するようにしている。最近宇迦之御魂神から、「うちの神使にならへん?」と勧誘されているのも忘れることにする。

 

「それにしても……」

 

 さて小鈴の話がひと区切りしたので、月見は鈴奈庵の店内を見回して一言。

 

「また、いくらか本が増えたみたいだね」

 

 正直この装いを見て、鈴奈庵が木版印刷の専門店だとすんなり見抜ける者はいないだろう。

 本、である。壁にずらりと並んだ本棚、元々は来客用だったと思われる机、椅子、果てはそのへんの床の上にまで。物を置ける場所にはすべて本を置いたといっても大袈裟ではない、この本の巣窟こそが鈴奈庵の店構えだった。

 さほど広い店内ではないが、それでも冊数は五百やそこらを下るまい。本が大変貴重な人里で、すべて本居一家が個人的に蒐集してきたコレクションだというのだから恐れ入る。

 

「ええ、このあいだの古物市でだいぶ買っちゃいました。あとは、知り合いの旦那様が亡くなられて……そこでご遺族から引き取ったり、ですね」

 

 本居一家の蒐集癖は里でも知れ渡っている。なので一部の裕福な家では、扱いに困った本を寄贈という形で処分できる場所、とも認識されているようだった。

 

「最近、いよいよ置き場がなくなってきちゃって……あのへんも床に積んじゃってますし、本棚増やさないとですねえ」

 

 小鈴は頬を掻きながら苦笑、

 

「整理してる途中にちょっとのつもりで読み始めたら、いつの間にか日が暮れてたとか……そんなのばっかりで、ぜんぜん整理が追いついてなくて」

「ああ、それはわかるなあ。ほんの休憩のつもりなんだけどね」

「そう、そうなんですよっ。不思議ですよね、それもまた本の魅力なんですけど日が暮れちゃうと明かりをつけなきゃ読みづらくなっちゃうからもう一日中太陽が出てればいいのにって、」

 

 椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、うっとりと陶酔しかけたところで正気に返った。縮こまりながらいそいそと腰を降ろし、

 

「ご、ごめんなさい。こんな風にお話できるのも今までは阿求くらいだったので、つい楽しくて……」

「光栄だよ」

 

 里で唯一本の印刷・製本を専門としていることから、本居家は稗田家とも関わりが深く、小鈴と阿求は親友同士である。阿求が編纂している歴史書の中にも、ここで命を吹き込まれたものは少なくないと聞いている。

 小鈴は気を取り直し、

 

「えっと、私が訊きたかったのはこれで終わりです。どうもありがとうございました。このあとはどうしますか?」

 

 どうするかとは、鈴奈庵の蔵書を見ていくか、という意味だ。こうして外の世界の話を聞き終えると、小鈴はお礼代わりに店の本を好きなだけ見せてくれる。そして、そのとき月見がリクエストするのはいつも決まっていた。

 

「じゃあ、今日も例のものをお願いしようか」

「わかりました」

 

 小鈴は週刊誌を丁寧に畳み、破顔一笑を以て答えた。

 

「私の自慢のコレクション――妖魔本ですね」

 

 

 

 

 

 〇

 

 

 この世界で『妖魔本』と呼ばれる書物には、主だって二つの種類が存在する。

 ひとつが、人外の著した本のこと。妖怪が書いた歴史書も魔法使いが作った魔導書も、とにかく人外が書いたものであれば、ただの日記や手紙の一枚までここに分類される。それ以外はなんの変哲もない『ただの書物』であり、鈴奈庵が蒐集する妖魔本も大半はこれである。

 そしてもうひとつが、極端な例を挙げれば読むだけで呪われる等、なんらかのオカルト的な力を宿していて『ただの書物』とは呼べない場合。

 制作者が人間であれ妖怪であれ、読み手にささやかな恩恵をもたらす有益なものから、周囲の命すら脅かしかねない危険なものまで様々であり。

 まこと危なっかしいことながら、この後者の妖魔本まで鈴奈庵には所蔵されているのだ。

 

「――お待たせしました。これが去年月見さんに(・・・・・)直していただいた(・・・・・・・・)、『今昔百鬼拾遺稗田写本』ですね」

「ありがとう」

 

 小鈴が持ってきた妖魔本は十数点。人間が複数冊所持しているだけでも珍しいのに、すべて小鈴が両親にも内緒で集めたコレクションだというのだからそら恐ろしい。きっかけは「両親も持っていないようなすごい本がほしかったから」だったというが、卓越した蒐集能力と褒めるべきか、異様なまでの蒐集癖と呆れるべきか。

 さて、『今昔百鬼拾遺稗田写本』である。

 鈴奈庵における後者の妖魔本の一冊であり、妖怪の存在を記録した図鑑という体で、実は何匹か本物の妖怪が封印されているというシロモノだ。当然ながら封印を解けば妖怪が復活し、人々の平穏が脅かされることになる危険な一冊でもある。

 こいつを小鈴にはじめて見せてもらったときは、長い年月を経たせいか術が綻んでおり、ロクな知識がなくとも簡単に封印を解いてしまえる状態になっていた。この本を読んでいるとき、もしくは手入れしているとき、ふとした拍子に意図せず妖怪を解き放ってしまう危険性があったということだ。なので月見が事情を説明し、小鈴の了承を得た上で封印の修復を施したのである。

 似たような理由で、他の妖魔本にも何冊か月見が手を入れている。云うなれば、妖魔本専門の検査人、というのが月見の立ち位置なのだった。

 

「……うん、特に問題なさそうだね」

「そうですか。よかったですー」

 

 小鈴が小さく胸を撫で下ろす。万が一誤って妖怪を復活させてしまったら、店にどんな被害があるかわからないし、両親からも大目玉を食らうし、たぶん慧音もすっ飛んでくる。妖魔本を集めるという変わった趣味を持っているが、おばけと妖怪、そして大人から怒られるのが年相応に怖い――本居小鈴は、そんなどこにでもいるようなごくごく普通の少女だった。

 

「まさかいつ封印が解けてもおかしくない状態だったなんて……はじめ聞いたときはびっくりしました」

「私も、お前がこういう本を集めてると知ったときは驚いたよ」

 

 そもそも月見と小鈴が知り合ったきっかけは、阿求だった。私の友人が熱心に妖魔本を集めていて、そのうちなにかやらかすんじゃないかと心配だから一度見てやってほしい、と頼まれたのだ。

 結果、阿求の不安は見事的中だったというべきか。もし小鈴を――否、彼女の持つ妖魔本をそのままにしていたら、きっとそう遠くないうちに面倒な事件を巻き起こしていただろうから。

 

「危ないものもあるとはわかってるんですけど、やっぱり愛書家の血が騒いじゃうというか」

「止めやしないさ、そこまでは阿求に頼まれてないし。お前も、危ないとわかった上で悪用したりはしないだろう?」

「もちろんですよっ。お店の売り上げを勝手に使ってこんなの集めてるってバレたら、拳骨一発じゃ……あわわわわ」

 

 ふと、この子は霖之助と気が合いそうだなと思った。自分の首を自分で絞めていると自覚しているのに、それでもお金を趣味に使うのがやめられない――年の瀬に金欠を起こしていたあの蒐集家とまさしく瓜二つではないか。香霖堂にもたくさんの外来本が所蔵されているから、いつか二人を引き合わせてみるのも面白いかもしれない。

 それに考え方次第では、人里のどこにどれだけ存在しているのかもわからない妖魔本を、彼女が片っ端から集めてくれるなら反って対処がしやすくなるといえる。危なっかしいものはみんなまとめて、目が届く場所で管理しておくに限るのだ。

 その後も小鈴が持ってきた妖魔本を、一冊ずつ目と手で確認して。

 

「よし、ぜんぶ大丈夫だね」

「ありがとうございます。いやー、やっぱりお稲荷様に見てもらえると安心感が違いますねー」

 

 アア、ソウダネ。

 

「また新しい妖魔本が手に入ったら、まっさきに月見さんにお見せしますのでっ」

「そうしてくれ。お前が安全に趣味を続けられるようにね」

「えへへ、ありがとうございます」

 

 最初は怖がられていたという割に、いつの間にか随分と信頼されてしまったものである。小鈴が妖魔本の蒐集を続ける限り、この店とは今後末永い付き合いになりそうだった。

 

「今の時期は寒くて大変だけど、換気はこまめにね。陰気が溜まらないように」

「はーい。湿気は本の敵ですからね、毎日忘れずやってますよ!」

 

 鈴奈庵はあくまで木版印刷の専門店であるが、一家の蒐集癖は里でも広く知られるところであり、数多の本を並べるこの店構えも同じくらいに有名である。

 しかし小鈴の妖魔本は、両親の外来本とは違って、彼女が心を許した相手にしか教えないヒミツのコレクション。

 その実ここが、里でも指折り妖怪と近い『陰』の場所であることを、知っている者はほとんどいない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――『アフリカでエボラが猛威を振るう』……うーん、アフリカは地名っぽいけど、エボラは……妖怪かしら?」

 

 月見に妖魔本を確認してもらってから数日、充分高い月が外に静寂の帳を下ろした時刻。小鈴は鈴奈庵の屋根裏部屋で布団にもぐりこみつつ、寝る前には欠かせない静かな夜の読書を楽しんでいた。

 この日読んでいるのは、つい今日手に入れたばかりの外の週刊誌だった。

 元々読書は大好きだが、月見と知り合ってからは外来本を読むのがますます楽しくなった。外来本は幻想郷の住人にとって馴染みのない用語や固有名詞が多く、文字を読むことはできてもその意味までは理解できないものが珍しくない。しかし今の小鈴には、わからない言葉があったときに優しく手解きしてくれる先生がいる。単純な言葉の意味はもちろん、説明が難しいものなら幻術で図を示したり、おおまかな見た目を再現してくれたりすることもある。彼にも説明できない言葉が出てきたときだって、必ずどこかで調べてきて答えを教えてくれる。穏やかな口調で語られる遠い世界のお話は、昔受けていた寺子屋の授業より何百倍も心が躍るものだった。

 そして教えてもらった知識を駆使し、今までわからなかった文章を自力で読み解けるようになったときの快感といったらもう言葉にも代えられない。

 お陰で最近は、とっくの昔に見飽きた外来本まで一から読み返すこともある始末だった。

 

(これも、今度月見さんに教えてもらおっかな)

 

 はじめは怪しい妖怪だと怖がっていた自分を、今では心底恥じるばかりである。こんなビブロフィリアなオタクの話に快く付き合ってくれるばかりか、危険が及ばないよう妖魔本の修復まで任されてくれている。お陰で小鈴も安心して妖魔本を集められるし、外の世界について教えてもらうという建前で、趣味を同じくする仲間と心ゆくまで楽しい時間を過ごすことができる。

 親友の阿求相手では、仲がよくなりすぎた弊害なのか、なかなかこうはいかないのだ。そういう意味で、年の離れた近所のお兄さんのような、近すぎず遠すぎもしない距離感が小鈴には不思議と心地よかった。

 次に月見と話せるときが楽しみで仕方がない。まさか自分にこんな同好の士ができるとは思っていなくて、小鈴は読書をするのも忘れてだらしのない笑顔をこぼした。

 

 物音がした。

 

「――?」

 

 一階からだった。最初は、両親だろうかと思った。いつもなら二人とも寝静まっている時間だが、ふっと目が覚めて布団から抜け出し、薄暗い視界でうっかり物音を立ててしまうこともあるだろう。この鈴奈庵は小鈴と両親の三人暮らしであるから、それ以外の可能性などありえないはずだった。

 けれど今しがた聞こえたのがなんの音だったかに気づいた途端、言い知れぬ不安が小鈴の足元からせり上がってきた。

 あれは、店の本が落ちた音ではなかったか。

 しかも一冊や二冊ではなく、恐らくは机の上で重ねたままになっていた本の山が、まとめて崩れて床に散らばった音。

 頬がひきつった。

 

「……ま、まさか、」

 

 ――泥棒、じゃないよね。

 いやいやそんなはずはない、お父さんかお母さんに決まってると自分に言い聞かせる。しかし、一度絡みついてしまった不安はその程度の自己暗示では誤魔化せなかった。いくら視界の悪い夜中だからといって、目を瞑っていても歩ける自分の家でそんなうっかりをするものなのか。普段なら寝ているはずの時間に一体なにをやっているのか。本当に、お父さんかお母さんなのか。

 

「……、」

 

 小鈴は、身動きひとつできずか細く息を殺していた。

 ――人里において、本は貴重品であり金銭的な価値も決して低くない。

 もしも。

 もしも泥棒が、鈴奈庵の本を盗もうとしているとしたら。

 両親が長年掛けて集めてきた外来本はもちろん、もしかしたら小鈴の大切な大切な妖魔本まで――

 

「――……」

 

 断崖絶壁の上で綱渡りをするように、小鈴は髪の毛の先まで神経を尖らせながら布団から抜け出した。やめておけ、なにかあったらどうするつもりだ――頭の裏からそう警告してくる自分がいる。しかし己の身に危険が及ぶかもしれないと理解しても、小鈴にはじっとしているなんてできなかった。もしも物音の正体が本当に泥棒で、もしも本当に妖魔本を盗まれてしまったら、小鈴は布団の中で怯えていた自分を一生後悔し続けるだろう。

 一方で、泥棒なんてとっ捕まえてやると熱に浮かされているわけでもない。鈴奈庵の本の価値を理解し盗もうとするなら、間違いなく犯人は大人であり、護身術の心得もない小娘一人が立ち向かったところで勝ち目はない。だから犯人の顔でもなんでも、せめて盗みの証拠だけは掴むべきだと思ったのだ。

 

 思えばこの時点で『両親を起こす』という選択肢が過ぎりもしなかったのは、ひりつくような焦燥を前に合理的な判断を失い、自分一人だけが冷静なつもりでいた証拠だったのだろう。

 

 鈴奈庵は、本居家家屋の一部を改装して店舗としている。屋根裏から一階へ下りれば、店のスペースと住居のスペースを仕切るのは廊下一本と暖簾ひとつだけである。凍える忍び足で廊下を越え、震える四つん這いになって暖簾をくぐり、今にも心臓が止まるような思いで怖々と店を覗き込んだ。

 闇、である。

 暗闇にまだ目が慣れきっていないものの、不審な物音はこれといって聞こえないし、人影も見当たらないように見える。気のせいだったのか両親だったのか、それともすでに盗みを終えて退散してしまったのか、小鈴の緊張の糸がほんの一瞬緩みかけたその直後、

 

 音。

 

「……!」

 

 小鈴の全身が再び電流とともに緊張する。今度こそ間違いなかった。ここからは死角となった本棚の陰で、何者かが店の本を物色している。棚から本を抜く音と、手元でページを繰る紙の音が確かに聞こえる。

 生唾を呑んだ。心臓と胃がよじれによじれて、夜に食べた物を戻してしまいそうなくらいだった。

 だが、逃げようとは思わなかった。普段勘定台として使っている机の陰まで移動し、首を亀みたいに突き出してなんとか物音の正体を探ろうとした。

 だんだんと、闇に目が慣れてきていた。

 その人影はあまりに小さく、最初は床とほとんど同化しているように見えた。

 

(――え、)

 

 それだけで本を物色しているのが両親ではなく、ひいては小鈴が想像していたような泥棒でもないと必然的にわかった。

 いくらなんでも小さすぎる。あれではまるで、文字を覚えて間もない子どもが床に本を広げ、ぺたりと座りながら読書に耽っているときのような、

 

「……こ、子ども……?」

 

 虚を衝かれるあまり、無意識のうちに声がこぼれてしまっていた。

 それが命取りだった。

 

「――あ、」

 

 夜が深く、物の輪郭くらいしかわからない闇の中でも――目が合ったのだと、はっきりと感じた。

 人影が飛び跳ね、そのとき小鈴は、なにか動物めいた高い鳴き声を聞いた気がした。

 それがなにを意味していたのかは、小鈴にはとうとうわからなかった。目の前で影が歪に揺らめき、突然形が崩れるや上から引っ張られるように巨大化して、気がつけば見上げる天井からぎょろりと目玉が、

 

「――うぎゃああああああああああ!?」

 

 一つ目お化け。

 妖怪やお化けが普通に怖い普通な少女である小鈴は、為す術もなくひっくり返って意識を手放した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――月見さん。あの、いまお時間はありますか?」

 

 散歩や買い物がてらで人里を歩いているとき、道行く人々から相談事を持ちかけられるのにもすっかり慣れてしまった。

 暦の上では立春が過ぎ去り、冬のかじかむ寒さも多少和らぎを感じられるようになってきたその日、月見を呼び止めたのは九代目御阿礼の子だった。月見の前ではなにかと気丈夫に振る舞うことの多い彼女だが、今日は普段の元気が少しばかり鳴りを潜めていた。

 

「実は、小鈴のことなんですけど……」

「どうかしたのかい?」

 

 あまり声を大きくはできない厄介事らしい。阿求は神経質な様子で傍に人がいないのを確認すると、月見にもう一歩だけ近づいてトーンを落とした。

 

「……昨日の晩、小鈴の家に妖怪が出たらしいんです」

「……妖怪か」

 

 少し、答えを返すのに間が空いてしまった。そのとき月見の脳裏を真っ先によぎったのは、言うまでもなく小鈴が蒐集している数々の妖魔本だった。

 

「幸い、危ない目には遭わなかったそうですけど……念のため、これから様子を見に行こうと思ってまして」

 

 ――妖魔本から、妖怪が出てきてしまった?

 考えにくいことではある。鈴奈庵の妖魔本にはすべて月見が目を通しており、綻んでいた封印の修復もひとつ残らず終わっている。妖怪が勝手に出てきてしまう危険性はないはずだし、かつては月見すら怖がっていた小鈴が自分から封印を解くとも思えない。

 ならば妖魔本に惹かれて、外から妖怪が入り込んだのか。

 

「もしよろしければ、月見さんもご一緒いただけませんか?」

「……わかった。行ってみよう」

 

 一も二もなかった。これがもし妖魔本に起因するトラブルであれば、月見のミスという可能性も決してありえない話ではなくなる。そのときは、妖魔本の修復を申し出た身として責任を果たさなければならないだろう。

 阿求の隣に並び、行く先を鈴奈庵へ切り替える。阿求はため息をつくように、

 

「……妖魔本、でしょうか。もしかして封印されていた妖怪が――」

 

 はたと口を噤み、

 

「あ、ごめんなさい、月見さんの腕を疑っているわけではっ……」

「いや、それは私も考えていたよ」

 

 月見の修復にミスがあったのか、偶然なんらかの外的な要因があったのか、どちらにせよ事が起こったのなら可能性としては否定できない。

 

「小鈴の見間違いでないのなら、あそこで妖怪が出る可能性は二つしかない。本から出てきたか、外から入り込んだかだ」

「小鈴の妖魔本を狙って入り込んだ可能性も……」

「ありえるだろうね」

 

 阿求は眉間を押さえ、今度こそ項垂れるようにため息をついた。

 

「もう、だから興味本位で集めるのは危ないって言ってるのに……」

「まあ、妖魔本が原因と決まったわけじゃない。なんにせよ話を聞いてみないとね」

 

 鈴奈庵は、今日も表に暖簾を提げて普段通り営業していた。戸を開けるとカウンター代わりの机で本を読んでいた小鈴が、「いらっしゃいませーっ」と思いのほか元気に顔を上げた。

 

「あ、月見さん! ……と、なんだ阿求(あんた)か」

「なんだとはなによ」

 

 育ちのよい深窓のお嬢様である阿求も、親友の小鈴に対しては口がざっくばらんと軽くなる。

 

「心配して様子を見に来たのに。妖怪が出たんだって?」

「そう、そうなんですよっ」

 

 小鈴が椅子を蹴飛ばして立ち上がる。阿求をそっちのけで月見の目の前まで駆け寄ってきて、

 

「月見さん、こ、ここに妖怪が出たんですっ。暗くてよく見えなかったんですけど、最初は子どもみたいに小さくて、でもいきなりぶわーって天井くらいまで大きくなってぎょろぎょろーって目玉が!」

 

 怖がっているのか興奮しているのか、とりあえず『天井くらいまで大きくて、目玉がぎょろぎょろと特徴的な妖怪』を見たらしいのはわかった。

 天井にはこれといって目玉と勘違いしそうなものは見当たらず、小鈴の見間違いという線は低そうだった。

 

「寝ぼけてたわけじゃないのよね?」

「そりゃもちろん。泥棒かもしれないってすごく怖かったんだから、眠気なんて吹っ飛んでたわよ」

 

 もう少し詳しく話を聞いてみれば。

 昨日の夜中、屋根裏部屋にある自分の部屋で読書をしている最中に、一階から本の落ちる音が聞こえた。もしかしたら泥棒かもしれないと恐る恐る様子を見に行ったところ、子どもくらいの小さな人影が床で本を読んでいた――と思ったのも束の間、小鈴に気づいた影はみるみるうちに巨大化し、天井近くまである恐ろしい一つ目お化けになった。そこで小鈴は恐怖のあまり気を失い、悲鳴を聞いて飛び起きた両親に介抱されたのだという。

 ほどなく目を覚ました小鈴は大慌てで本を確認したが、物色された痕跡もなく盗まれたものもなく、一つ目お化けも綺麗さっぱり消え去ってしまっていた。両親はお化けなんて見なかったと口を揃えており、寝ぼけていたんだろう、遅くまで夜更ししているからだとまったく信じてくれていない。

 おおまかには、そういう顛末のようだった。

 

「妖怪、だったんでしょうか……」

「人ではないだろうねえ」

 

 人影が本を物色していたという棚のあたりを調べてみる。

 

「妖魔本は確認してみたかい? もし妖怪が抜け出したのなら、本からは姿がなくなってるはずだ」

「あ、はい。妖怪が封印されてるのはぜんぶ見てみましたが、みんな大丈夫でした」

 

 少し肩の力を抜けた。小鈴の答え次第では、彼女に対して合わせる顔がなくなっていたところだ。

 

「となれば、外から入ってきたか……」

「や、やっぱりそうなりますか!?」

 

 小鈴がいきなり血相を変え、目を皿のようにして月見の袖に縋りついてくる。

 

「ま、まさか、うちの本を狙ってきたとか……!」

「ありえないとは言えないね」

「どどどっどうしましょうどうしましょう!? もしかして、そのうちまた盗みにやってきたり!?」

「……するかもしれないね」

「ぎゃー!?」

 

 筋金入りのビブロフィリアである小鈴は、本に注ぐ愛情もまた人より二倍も三倍も強い。彼女の大切なコレクションである妖魔本はもちろん、親の代から集めているたくさんの外来本だって、一冊でも盗まれれば自分の体が欠けるような思いに違いなかった。

 しかも相手は、見るも恐ろしい一つ目の大入道である。真っ青になってバタバタ跳ね回る小鈴を、阿求がむんずと襟首掴んで押さえつけ、

 

「落ち着きなさいな。霊夢さんに退治を依頼してみたら?」

「ぎくり」

 

 身動きを止めた小鈴は視線を明後日の空に泳がせながら、親指と人差し指でぎこちない○印を作った。

 

「その、今はちょっと……これが、厳しくてですねえ……」

「……今『も』、でしょ」

「し、仕方ないでしょ!? 本を集めるのって、結構お金が掛かるもんなのっ!」

 

 この少女、実は霖之助の親戚なのではあるまいか。

 

「あいかわらずあんたは、本のことしか考えないで生きてるんだから……」

「ふーんだ、私は本に囲まれてれば幸せですもーん」

「厄介なものを集めてるって自覚をもうちょっと持ちなさいよ。今回だって一歩間違ってたら――」

「それを言ったら阿求だって――」

 

 そうこうしているうちに、阿求と小鈴が親友らしい歯に衣着せぬ言い合いを始めてしまった。あまりケンカをしている場合ではないのだが、月見は止めなかった。阿求は『御阿礼の子』と呼ばれる生粋のお嬢様で、人里でも相当位の高い貴族みたいなものだから、小鈴という同年代の友人がいると知ったときはやけに嬉しい気持ちになったのを覚えている。

 仲のいい少女二人を微笑ましく思いながら、月見はなんとなしに店の片隅へ目を遣って、

 

「……ん?」

 

 小さな緑の葉が一枚、本棚の陰に落ちていた。

 鈴奈庵の店内に観葉植物は置かれていない。故に外から吹き込んできた落ち葉かと思い、これといって深い考えもないまま手に取って――そして月見は口元に薄い笑みを浮かべた。

 

「小鈴」

「あ、はい?」

「確認なんだが……昨日見た妖怪、はじめは小さい子どもくらいだったんだよな? それから突然大きくなって一つ目のお化けになったと」

「はい、そうですけど」

 

 なるほど、なんとなく想像がついた。

 

「どうやら、そこまで不安がることじゃあなさそうだよ」

「え……なにかわかったんですか?」

「ああ。とりあえずまた近いうちに顔を見せるだろうから、本人に訊いてしまうのが早いんだが……」

 

 月見の推測が当たっていれば、件の妖怪は盗みが目的で鈴奈庵に侵入したわけではないし、人に害を与える危険なやつというわけでもない。だからここの本はすべて無事だったし、小鈴もいっぺんおどかされただけで事なきを得た。

 小鈴と一緒に阿求も首を傾げている。

 

「本人に訊くって……話が通じる妖怪ということですか?」

「通じるだろうさ」

 

 ――なんせ、夜な夜なこんなところまで本を読みにやってくるやつなのだから。

 そのとき鈴奈庵の戸が、ひどく控えめな音を立てながら四分の一ほど光を迎え入れて。

 

「あ、いらっしゃいませー……あら?」

 

 小鈴の営業スマイルが尻すぼみで消えていき、やがて小さな疑問符に変わる。ちらりと開いた戸から顔を覗かせているのは、木版印刷の専門店を訪ねてくるには到底似つかわしくない、小鈴と比べてもまだ頭ひとつは小さな男の子であり。

 

「――!?」

 

 月見の姿に気づいた途端、少年は泡を噴くように尻餅をついた。

 噂をすればなんとやら、というべきか。

 

「ちょうどよかった、いまお前の話をしていてね。昨晩どうしてこの店に忍び込んだのか、少し聞かせてくれないかい」

 

 この葉っぱはただの落ち葉ではなく、まだ幼い狐や狸(・・・・・・・)が妖術の練習用に使う、例えるならば自転車の補助輪のようなサポートアイテム。

 驚くあまり術の制御が疎かになったのだろう。尻餅をついた少年の後ろから、冬毛でこんもり膨らんだ金色の尻尾が飛び出していた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 犯人は、まだ人の言葉を話すのもままならない小さな小さな妖狐だった。

 人間でいうなら、寺子屋に一番年少組として通い始めるくらいだろうか。頭にちょこんとかわいらしい狐耳をつけ、小さくも毛並み豊かな尻尾を生やしたその子どもは、阿求が勧めた椅子の上で石像みたいに全身を強張らせていた。

 無理もないと阿求は思う。なんせいま少年の隣には妖狐の中の妖狐、銀毛十一尾の大妖怪たる月見がいるのだ。天狗たちの長が天魔、鬼たちのとりまとめが鬼子母神であるように、幻想郷に住む妖狐の一番高いところにいるのがこの男なのである。

 長になんてなった覚えはないぞと本人は否定するだろうが、周りの狐たちはほとんどみんなそう思っている。金毛九尾の八雲藍が太鼓判を押すのだから間違いない。大昔から世界中を気ままにほっつき歩き、妖怪の権力闘争にはまるで興味を示さなかったせいか、かつては妖狐の中ですら伝説めいた存在として語られていた時期があったという。

 子狐の少年にとってみれば、まさしく天の上で輝くお月様といったところか。月見と同じ空間で息ができるだけでも恐縮そうで、少年はなにもしていないのに顔がすっかり真っ赤になっていた。

 小鈴の、いささか拍子抜けした声だった。

 

「――えーと、つまり……本当に、ただうちの本を読みたかっただけ……?」

「そういうことだね」

 

 月見が通訳したところによれば。

 少年は本が大好きで、ひょんなことから鈴奈庵が誇る外来本コレクションの噂を耳にした。そこで一度店を訪ねて読んでみたいと思い立つも、自分は変化がヘタで人の言葉も話せないし、そもそも鈴奈庵の本は個人の所有物であって、売り物でも貸し物でもない。でも本は読みたい、とても読んでみたい。そうしてあれこれ頭をひねった結果、夜にこっそり忍び込んでこっそり読んでしまえばいいのではないかと考えついた。

 さて実際に忍び込んでみると、予想以上の本の数に少年は興奮した。興奮しすぎてうっかり本の山を崩してしまった。それが原因で小鈴に見つかってしまってさあ大変、わけもわからずお化けっぽいモノに変化して、小鈴がひっくり返ったスキに這う這うの体で退散したそうだ。

 幸い、慌てる中でも本をちゃんと片付けるのは忘れなかった。故にきっと見間違いで終わってくれるだろうと、少年はほっと胸を撫で下ろし――それから重大なミスを犯してしまったと気づいた。

 変化のときに使う木の葉を、店に落としてきてしまったのである。

 あれが見つかれば妖狐の仕業とバレてしまい、里の人間総出で狐狩りが行われるかもしれない。そう恐れ慄いた少年は、里の子どもに化けて木の葉を回収すると一大決心し。

 かくして、今に至るのだった。

 

「そんなに怖がらなくても、獲って食いやしないよ」

 

 少年がぶんぶんと物凄い勢いで首を横に振る。違います違います怖がってなんてないです、と言ったのだろうと阿求は推測する。同時に、こんな形で月見の目に触れてしまったことを強く恥じ入る気持ちも混じっているように見えた。

 

「……! ……!」

 

 狐の言葉を知らない阿求には、少年の言葉は甲高い動物の鳴き真似にしか聞こえないけれど。

 

「あんなことしてごめんなさい、どんな罰も受けます……だって」

「え、い、いや、罰なんてそんな」

 

 見た目だけなら自分より年下の子どもが相手とあっては、小鈴もいかんせん分が悪かった。

 

「確かにおどかされはしましたけど、特に怪我とかしてないですし、本も盗まれてないですし……」

 

 浅く膝を折り、椅子の少年と目線を合わせて、

 

「……本、好き?」

「……!」

 

 少年が、首が落ちそうになるくらい何度も大きく頷いてみせる。言葉によるコミュニケーションが取れないので、身振り手振りで一生懸命自分の気持ちを伝えようとしているのだろう。将来有望な回答が聞けて小鈴は満足げに、

 

「悪いことをしたってちゃんと自覚してますし、反省もしてるみたいですし……お咎めなしじゃだめですかね?」

 

 月見は薄く微笑み、阿求は肩を竦めて即答した。

 

「お前がそれでいいなら、異論はないよ」

「右に同じ」

 

 本好き仲間を見つけて嬉しいだけでしょ、と思ったが口にはしない。数多の妖怪を記録してきた阿礼乙女の勘が、この少年は見た目通りの無害な妖怪だと直感している。幸い人騒がせな悪戯程度で済んだのもあって、わざわざ口を酸っぱくするほどではないと思った。

 それに少年も、本好きというからにはそれ相応の頭脳で理解したはずだ――鈴奈庵に対してなんらかの悪さを働けば、銀毛十一尾に見咎められるのだと。幼いとはいえ妖狐の端くれなら、彼に対して無礼になる真似をしようとは思うまい。

 

「それでどうする? 本、この子に読ませてあげるかい?」

「あー、そうですねえ……」

 

 小鈴は腕を組んで難しく思案する。

 

「私も読ませてはあげたいですけど、ここの外来本ってほとんどが両親のですし、どう説明したものか……」

 

 鈴奈庵は、希望者に対しては本の貸し出しも行っている。ただしあくまで信頼できる相手との個人的なやり取りに過ぎないため、両親の同意なく知らない相手に貸すことを小鈴は許されていない。

 

「里の子だって言っても、たぶんどこの子か訊かれると思いますし……まさか妖怪とは言えませんし」

「……ふむ」

 

 月見の、よく考えず出た独り言のような言葉だった。

 

「ここが貸本屋だったら、話も変わるんだろうけどねえ」

「……貸本屋?」

「ああ、まあ、商売として本の貸し出しをする店のことだよ」

「……貸本屋」

 

 阿求は他愛もないたとえ話としか思わなかったのだが、なにやら小鈴が真に受けた顔で月見の言葉を反芻させており、いやちょっと待てこの本の虫まさか、

 

「……へー、面白そうですねそれ! 素敵なアイデアだと思いますっ」

「ちょ、ちょっと小鈴? あんたまさかやる気になってるんじゃ」

「え、だって素敵じゃない。お父さんとお母さんに相談してみよーっと」

 

 ……。

 ……小鈴ぅ。

 この少女は本当に、なんというか。まったく物怖じしない行動力があると褒めればよいのか、興味本位でいい加減すぎると嘆けばよいのか。阿求はなんだか頭が痛くなってきたのだが、小鈴は唇を尖らせて反論してくる。

 

「別に考えなしで言ってるわけじゃないわよ。元々、新しい副業でも始めようかって漠然とは考えてたの」

「そうだったのかい?」

「うちのお店、なかなか収入が不安定でして……木版印刷は手間と時間が掛かる分費用も高くなっちゃうので、仕事があるときは一気に儲かるんですけど、ないときは何ヶ月も収入なしだったり……」

 

 まあ、言っていることはわかる。小鈴の店は基本的に里の裕福層にしか需要のない商売であり、その中でも本の印刷や製本を必要としているのは更にひと握りであり、顧客の母数が少ない以上収入はどうしても安定しない。一応チラシの一枚からでも受け付けは可能だが、人から人の言葉による情報伝達が主な里では活躍の場も多くない。そうでなくとも大抵の人は、安くないお金が掛かるくらいなら面倒でもすべて手書きする方を選ぶだろう。

 そしてその安定しない収入を、この一家は次から次へと本の蒐集に当ててしまうのだから、金を貸してくれと未だ誰にも泣きついていないのが不思議なくらいだった。

 

「考えたことはあるんです。こうやって本をたくさん集めて、たくさん読んで……それから、どうするんだろうって。読み飽きた本は高閣(こうかく)(つか)ねて、掃除のときに手に取るくらいで」

 

 そうやって本に囲まれた生活を続けていると、それはそれで生まれる悩みもあるらしかった。概して能天気でお調子者な困った娘だが、本に注ぐ想いの強さだけは阿求も一目置くほどだった。

 

「でも月見さんの言葉を聞いて、この子たち(・・・・・)とお店を開いてみるのも、いいのかもしれないなって。……そう考えるのは、おかしなこと?」

「……」

 

 まったく、嫌らしい訊き方をしてくれるものだ。阿求と小鈴、互いに担う作業は違えど、本を作り本を愛する親友同士なのだから。

 吐息した。

 

「……ちゃんとご両親と話し合うんなら、止めやしないわよ。それで里のみんなが気軽に本を読めるようになったら、悪くないとは思うし」

「さっすが阿求!」

 

 なにが『さすが』なのか、あいかわらず調子がいい親友に阿求はそれ以上の小言を諦めた。まさか自分の呟きで鈴奈庵が生まれ変わることになろうとは、月見も小鈴のフットワークにすっかり目を丸くしていた。

 

「……まさかそうも乗り気になってもらえるとは。これは、実現したら私も借りに来ないとね」

「月見さんなら特別価格でご案内しますよっ。……なーんて、まだ両親に相談もしてないのに気が早いですよね」

 

 小鈴はてへへと頭を掻いて、話がよくわからずぽかんと呆けていた少年へ、

 

「というわけで、ここの本はもう少し我慢してくれる? その間、私の本でよかったら貸してあげるから……大した外来本は持ってないけど」

「……! ……!」

 

 少年が尻尾を振り回して全身で頷くと、最後に可憐な一笑を咲かせてこう付け加えた。

 

「わかってると思うけど、ちゃんと丁寧に扱って読み終わったら返してね。汚したりいつまでも返さなかったりしたら、月見さんに言いつけちゃうから」

「……!?」

 

 はっはっは、と月見もわざとらしく笑った。

 

「そうだなあ。人間から借りた物をちゃんと返さない悪い狐がいたら、とっ捕まえて叱らないといけないかもしれないね」

「~……! ~……!」

「誰かからなにかを借りるのは責任が伴うものだよ。なに、これも社会勉強さ」

「そうそう、決まりを守るのは大事ですよー」

 

 ――鈴奈庵に妖怪が出たらしいと聞いたときは、一体どうなることかと思ったが。

 終わってみれば、少年が若干涙目になっている以外は朗らかな幕引きで、阿求も気がつけば笑みをこぼしてしまっていた。小鈴の見間違いではなかった、本当に妖怪が忍び込んで小さいながら悪さを働いたのだ。本来であれば里のあちこちで薄気味の悪い噂話になって、博麗の巫女へ退治の依頼が投げられていただろう。

 ところがどっこい今回の話を要約してみれば、「妖怪が本目当てて忍び込んできたので貸本屋を始めましょう」である。冷静に考えていろいろおかしいと思うのは阿求だけなのだろうか。

 少し前の里ならありえなかったであろう、拍子抜けするほど平和的な解決。

 

(……これもあなたの力ですか。月見さん)

 

 考えてみれば、阿求は意図して月見をこの場に呼んだわけではなかった。道中で偶然鉢合わせしたとき、彼なら相談相手にちょうどいいと思ってごく自然に声を掛けていた。そうしてごくごく自然に二人で鈴奈庵を訪ね、彼が自然と犯人を突き止め、彼のひょんな呟きで自然と事が解決した。

 本人にそのつもりがなくとも、気がつけば異なる種族――人間と妖怪の間で、不思議と上手く橋渡しをする緩衝材となっている。

 どうもこの幻想郷において、月見という男はどこまでもそういう星の下にあるらしかったので。

 

「それにしても月見さん、こうしてるとお父さんみたいですよねー。小さい子の相手をするのが結構サマになってるっていうか」

「……そうかい」

 

 ――いっそ幻想郷縁起に、「みんなのお父さん」とでも書いてやろうか。

 阿求はそう、冗談めかしながら考えるのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 さて鈴奈庵の小さな騒動から一週間ほど、月見が散歩のついでで里に立ち寄ってみると。

 

「……あ、月見さん! おはようございまーす!」

「おや?」

 

 鈴奈庵がその年季の入った戸を広々開け放ち、本やら棚やら仕事道具やらを根こそぎ店先に運び出して、まるで年末の煤払いのような賑わいになっていた。どこからどう見ても店の客ではない、額に手拭いを巻いたガタイのいい男衆が集まっていて、小鈴は着物をたすき掛けしていつも以上の元気をみなぎらせていた。

 

「何事だいこれは」

「なにって、貸本屋の件ですよ! 今のままだと店内が窮屈なので、絶賛改装中です!」

 

 ということは、両親から見事承諾をもらえたらしい。なるほど言われてみれば、集まっている男衆は里の腕自慢な大工さんたちである。

 

「貸し出しの決まりとかいろいろ考えてたら遅くなっちゃいましたけど、ようやく目途がつきました!」

「それはまた」

 

 正直なところ、月見の呟きでまさか本当に貸本屋を始めてしまうとはまったくの予想外だった。妖魔本の蒐集についても言えることだが、この子の磁石のような好奇心と、竹を割ったような行動力がつくづく恐ろしくなってくる。読書を愛するインドア派な少女かと思いきや、実はとんでもない活動家の素質があるのかもしれない。

 

「今更言うのもなんだけど、本当によかったのかい?」

「確かに月見さんの言葉がきっかけでしたけど、ほんとにやってみたいって思うんです。普段本なんて読めない人たちにも、魅力とか楽しさとかが伝わったらいいなあって。ついでに収入の足しにもなって一石二鳥っ!」

 

 そこで小鈴は照れくさそうに、

 

「まあ、改装に掛かるお金は、ほとんど阿求から借りちゃいましたケド……」

「なんだ。じゃあ私も少し出資しようか」

「いえいえそんなそんなっ。月見さんには妖ま――ゴホン、本の手入れで助けてもらってますし、これ以上はバチが当たっちゃいますよ」

「……うん、そうか」

 

 宇迦のはんなりしたと笑顔が脳裏にチラつく。今日の夜あたり夢枕に立たれて、「つきちゃん、ほんまうちの神使やらへんのぉー?」とか言われるだろう。たまには妖怪らしいこともしないとダメなんだろうか、と少々早まった悩みを片隅に抱いていると。

 

「今春、新装開店予定ですよっ。新しい季節の始まりに新しい門出って、なんか素敵じゃありません?」

「……そうだね」

 

 ふと月見は、そうなんだよな、と思った。立春が過ぎ去り、いつまでも続くようだった冬の寒さも和らぎ、幻想郷にもうすぐ新しい季節がやってくるのだ。

 そして春になるということは、今日もふかふかお布団の中で幸せいっぱい爆睡しているであろう、月見のよく知るあの少女が――

 

「月見さんも、ぜひぜひ気軽に利用してくださいね!」

「ああ、楽しみにしてるよ」

 

 これからの日常が、また一段と賑やかになる気配を感じながら。

 なんにせよ小鈴がとても生き生きとしているので、ひとまずはよしとする月見だった。

 

 

 

 かくして春に鈴奈庵が新装開店すると、月見はしばしば紅魔館よりもそちらから本を借りるようになり、フランが怒ったり咲夜がヘソを曲げたりとまたひと悶着起こるわけだが。

 今はまだ先の話――と書くのは、もはや正確ではあるまい。

 月見が幻想郷に戻ってきて、もう間もなくぐるっと一年。

 

 春はもう、遠くない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 〇

 

 

 幻想郷のとある境界の狭間、とあるお屋敷のとある寝室で。

 

「……んみぃ………………」

 

 と、とある少女がカリスマ皆無な寝言を言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第146話 「去りゆく冬の季節の終わりに」

 

 

 

 

 

 春乞いと呼ばれる儀式がある。

 儀式と表現すれば物々しく聞こえるが、要は一種の験担ぎと思ってもらってよい。たとえば先月にひと騒動起こしてくれた節分が、擬似的な鬼退治で無病息災を願う行事であるように、擬似的な春で新しい季節の訪れを祝福するのが春乞いなのだ。

 ではその『擬似的な春』がどのようなものかといえば、これが儀式のやり手次第で往々に変わる。

 最も一般的なのが、早咲きの梅などで『花見』をすること。或いは雪や氷など『冬の象徴』を、溶かしたり壊したりして生活から形式的に排除する方法もあるようだが。

 

「……霊夢、私ははじめて見たよ。春乞いの儀式で雪女を退治する人間なんて」

「そう?」

 

 欠片も悪びれず平然と小首を傾げたのは、ご存知楽園の素敵な巫女さんであり。

 月見の尻尾にくるまれぐるぐると気絶しているのは、冬になってからこのあたりで姿を見かけるようになった雪女の少女だった。

 霊夢は毅然として言う。

 

「もう三月になったってのに、まだ肌寒い日が多いでしょ? それはね、こいつら冬の妖怪とか精霊が未だにそのへんを飛び回ってるから。だからこうやってとっちめて、あんたらの季節はもう終わったんだって教えてあげてるのよ」

 

 言葉ではなく物理で一方的に語りかけるあたりが、とても霊夢だなあと月見は思う。

 確かに冬の寒さがなかなか抜けきらず、厚着をやめがたい毎日がこのところ続いている。真冬と比べれば随分と過ごしやすくなっており、春がもうすぐそばまでやってきているのに変わりはないのだが、堪忍袋の緒が紙でできている霊夢にとっては我慢ならなかったようだ。この日月見が屋敷から買い出しに出かけると、どこからともなくすっ飛んできた霊夢が突如上空で弾幕ごっこを始め、やがてコテンパンにされて落ちてきたのが雪女だった。

 率直に言って通り魔である。

 

「ちょっと、そんな目で見ないでよ」

 

 楽園のステキな通り魔は大変不服げに、

 

「悪いのは、いつまでも好き勝手飛び回ってるそいつらだわ。ちゃんと春が来てくれないと、寒い寒いって震えるだけじゃ済まなくなるんだから」

「うん、言っていることはわかるよ」

 

 かつて春雪異変なんてものが幻想郷を騒がせた手前、霊夢が冬から春への移り変わりに注意を払っているのは想像できる。できるが、だから雪女を問答無用でボコボコにすればいいよね、と考えるあたりが霊夢なのである。

 

「そいつが目を覚ましたら月見さんからも言っといてよ。甘やかしちゃダメだからね」

「……善処しよう」

「じゃ、私は次行ってくるわ」

 

 まだやるのか。

 

「これも幻想郷の平和のためだもの」

 

 我が道突き進む爆裂巫女が、次の憂さ晴らし相手を求めていずこかへ飛び去っていく。月見は心の中でそっと、冬の最後を楽しむ罪なき妖怪たちに黙祷を捧げた。

 雪女を捨てていくわけにもいかないので、ひとまず散歩は中止して屋敷に戻った。戸を開けると、藍が玄関の靴箱を雑巾で掃除していた。

 

「あ、月見様。なにかお忘れ物で――」

 

 月見の尻尾でくるまれた雪女に気づいて、苦笑。

 

「またですか、月見様」

「またとはなんだい」

「少し目を離すと、月見様はすぐ女を拾って帰ってくるので困ります」

 

 人を誘拐犯のように言うのはやめていただきたい。かくかくしかじかと事情を説明する。

 

「ああなるほど、霊夢の春乞いですか。確かに、もうそんな時期ですね」

「霊夢は毎年ああなのかい?」

「ええ。風物詩みたいなものです」

 

 いやな風物詩だなあと月見は思う。

 

「とりあえず、目を覚ますまで寝かせておくよ」

「わかりました。布団を出しましょう」

 

 掃除を中断した藍とともに客間へ向かい、寝床の支度をする。敷布団を引き、藍が整えている間に掛布団と枕も引っ張り出す。

 

「ところで、」

 

 尋ねる。

 

「そろそろ、紫が目を覚ます頃かい?」

 

 春がやってくる、ということは。幻想郷に戻ってきた今の月見にとっては、単なる季節の節目以上に大きな意味を持つものでもあった。

 すなわちあのお転婆賢者が目を覚まし、みなぎるエネルギーで幻想郷に春の嵐を巻き起こすということだ。言うなれば、春告精ならぬ春告賢者である。藍は作業の手を止めず、

 

「ええ、そうですね。特に今年は月見様がいますから、例年より頑張って早起きされるでしょう……たぶん」

 

 手早くシーツを引き終えたところで顔を上げ、どこか淋しさの染み出た笑みを覗かせた。

 

「私も、そろそろ向こうに戻らなければなりません。ちょっぴり残念です」

「ああ。冬の間、本当に世話になったね」

 

 主人の世話が不要なのをいいことに、藍は結局冬のほとんどを水月苑で寝泊まりしていた。月見としてもまあ、なにをやらせても非の打ち所がない仕事ぶりについ甘えてしまったというか。しかし彼女は他でもない紫の式神なのだから、月見がいいように頼り切っていい道理などありはしないのだ。

 

「いえ、こちらこそ。なんだか夫、」

 

 藍はんんっと咳払い、

 

「ええとその、ここはいつも賑やかですから、毎日が楽しかったです」

「……ふふ、そうだね」

 

 紫が冬眠したときは、これではちゃめちゃな日々も少し落ち着くことになるのだろうかと思ったけれど。蓋を開けてみればなにかが大きく変わるでもなく、水月苑はあいもかわらず賑やかで、少女たちがわちゃわちゃと笑う声やら、ぶーぶー怒る声やら、ぴーぴー泣く声やらが絶えない場所だった。

 

「冬の間にあったこと、紫様に説明するのが大変ですね」

 

 地底で起こった異変のこと、命蓮寺のこと、年越しの宴会のこと、水月苑の庭にできた四つの社のこと、節分のこと、鈴奈庵のこと、それ以外にもキリがないほどたくさんのこと。紫はきっと眠っていた時間をすべて取り戻そうとするように、冬の出来事を一から十まで月見や藍から聞き出そうとするだろう。

 

「まったくだ」

 

 尻尾の雪女を、降って間もない雪のような布団にそっと寝かせながら。

 今のうちによく思い出しておかないといけないなと、月見は少しだけ、今日までの記憶を沈んだ水底から掬いあげてみた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば、幻想郷が正月を迎えて間もなく。進撃のお年玉戦線が過ぎ去り、ぬえと橙がこたつで仲良く丸くなるその日、『文々。新聞』の新年第一号を配達に来た文へ月見は言った。

 

「お前の新聞で、ひとつ広告を出してもらえないかな」

「?」

 

 まこと律儀な話ながら、文は『文々。新聞』を毎度手渡しで配達してくれる。月見が留守なら時間を改めて出直してくれるし、取り込み中なら庭でわかさぎ姫に取材して暇を潰している。郵便受けに突っ込んで構わないと勧めてはいるのだが、近所なんだから別に手間でもなんでもない、このへんはいつも取材で通りがかるし、というのが彼女の弁である。幻想郷の清く正しいブン屋にとっては、きちんと相手の顔を見て配達するのがこだわりポイントらしいのだ。

 そうやって受け渡しのたびに顔を合わせていれば、茶話のひとつやふたつは自然と花を咲かすようになる。

 記事の感想を聞かせろとせっつかされるのは毎度のことで、他にも紙面に載せきれなかったこぼれ話や、出所のよくわからない怪しい噂を教えてくれたりする。このとき逆に月見の方から頼み事をする場合もあって、今回のように広告の掲載を依頼するのがそのひとつだった。

 

「なんの広告? また桃が食べきれなくなったので譲ります、とか?」

「……それはもう大丈夫だよ」

 

 桃について補足する。水月苑の桃といえば言うまでもなく、天子が毎度手土産として配達してくれる天界産の桃を指している。今や水月苑の名物スイーツとして定着し、茶と合わせて来客に振る舞う機会も増えているのだが、それで天子がすっかり張りきりすぎてしまって、一度だけ消費が追いつかず山積みにしてしまったことがあったのだ。そのとき文の新聞で広告を出してもらい、知人友人みんなにお裾分けすることでなんとか危機を脱した、という笑い話である。

 以来は天子も反省し、桃の在庫をチェックしながら適度な量を配達してくれるようになっている。

 本題。

 

「この屋敷の三階の部屋、普段はほとんど使われてないだろう。埃を被せておくくらいなら、使いたい人に使ってもらうのもいいかと思ってね」

 

 大掃除をしているときに降って湧いたアイデアを、試しに実行してみようというわけだ。文は胡乱げに片眉をひそめ、

 

「そういえば、なんか居候始めたやつがいたわよね。……なに、まさか下宿でも始める気?」

「まさか。部屋を時間制で貸すだけだよ。宿泊は不可」

 

 ぬえは封印から解かれたばかりで地上に帰る家がなく、路頭に迷いかねないから仕方なくここで面倒を見ているだけだ。月見としては命蓮寺で世話になればよいと思うのだが、本人が嫌だと言っているのだからどうしようもない。

 文が眉間の皴を解いた。

 

「ふうん」

 

 なんとも気のない空返事だったが、決して無関心な反応でもないと月見にはわかった。文はまた数拍の思考を置いてから、

 

「……ちなみにそれって、私が借りてもいいのかしら」

「それはもちろん、構わないけど」

 

 一体なにに? という月見の疑問を視線から読み取り、

 

「記事の執筆をするときはね、いつもと違った環境に身を置いてみるのも結構集中できるもんなの」

「……ああ、なるほどね」

 

 外の世界でいうところの、学生が図書館で勉強したり、社会人が喫茶店で仕事を進めたりするのと同じ類の話らしい。なるほど情報の鮮度を命とするブン屋にとって、執筆に集中できる環境づくりは極めて重要な問題であろう。

 しかし、

 

「借りるのはいいけど、そういう作業に向いてるかどうかはわからないぞ? 何分客が多い屋敷だ」

 

 日頃から元気いっぱいな少女たちが、気ままに集まってはあれやこれやと跳ね回っている屋敷である。せっかくひと部屋借りたところで、周りがうるさくて作業にならなかったのでは元も子もないが、

 

「わかってるわよ。物は試し」

「そうか」

 

 まあ、そのあたりが予測できていない文でもあるまい。彼女ならば部屋を汚される心配もないので、月見もそれ以上はなにも言わずに了承した。

 

「じゃ、戻ってすぐ準備してくるから」

「今から借りるのか?」

「そ。さっきの広告の話もあるんだし、どうせだったらここでやった方が早いでしょ」

 

 うべなるかな。

 

「わかった。部屋を開けて待ってるよ」

「ん」

 

 どこかの地獄鴉を彷彿とさせる素っ気ない返事を置いて、文が風とともに空高く飛翔する。月見は『文々。新聞』の一面記事に目を落とし、それにしても、とふと片腕を組んで考える。

 確かに文の言う通り、時には作業する環境を変えてみるのも集中力を保つ上ではよい手段である。しかしそれは、新しい環境が自分にとって集中できそうだ、という期待がなければ成り立たない話でもある。物は試しとはいえ、はじめからダメだと感じているなら作業場所に選ぼうとはしないわけで。

 つまり文は、水月苑が自分にとって集中できそうな場所であると――。

 

「……まあ、いいか」

 

 突っついたところで実りはあるまい。彼女も日頃から同僚にからかわれて参っているそうだから、月見まで余計なことを言う真似はしないのだ。

 

 そうして始まった水月苑のレンタルルームであるが、文からの評価は上々、『文々。新聞』を通して天狗や河童の各種同好会からの申し込みもそこそこ集まるのだった。

 利用者曰く、「いつ月見さんに見られるかわからないからものすごく集中する気になれる」らしい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば、正月の賑わいが少しばかり落ち着きを見せ始めてきた頃。月見は朝一番の客がやってくる前にこっそりと水月苑を離れ、地下深い旧地獄は地霊殿まで新年の挨拶にやってきていた。

 

「つくみーっ!」

「おっと」

 

 月見がエントランスにお邪魔するなり、疾走してきたこいしが軽やかな跳躍で胸に飛び込んできた。そのまま首にぶら下がるお転婆娘を月見は両手で支え、

 

「やあ、こいし。あけましておめでとう」

「あけましておめでとー!」

 

 胸元から月見を見上げる笑顔は、フランに負けずとも劣らぬ文句なしの百点満点だ。去年は最後の最後で慌ただしい別れになってしまったからか、こうして再び歓迎してもらえるとひどく心が和らぐのを感じた。ほどなく廊下を小走りする二人分の足音が聞こえて、さとりとお燐が追いついてきた。

 

「もうっ……こいし、いきなりなにしてるの!」

「あはは。こいし様、あいかわらずおにーさんが大好きですねえ」

 

 こいしは聞いちゃいない。月見の首にぶら下がったままご機嫌にバタ足をしている。さとりは眉間に皴寄せてため息をつき、お燐はチャームポイントの八重歯が覗く苦笑をにじませた。

 

「さとり、お燐、あけましておめでとう」

「はい。あけましておめでとうございます、月見さん」

「おめでとー。今年もよろしくねおにーさん」

 

 どうあれ二人も昨年から変わりなく、こいし共々壮健な正月を迎えたようだ――と思ったところでさとりがすかさず、

 

「壮健なものですか。寂しかったですし、心配したんですからね。おくうから報告をもらうまでは本当に……」

「ああ、その節はすまなかった」

「お話、たくさん聞かせてもらいますからね」

 

 少しだけ、寂しがらせた分だけ埋め合わせをしろと――わがままを言うような、声音だった。どうやら、今日は帰りが遅くなるのを覚悟する必要がありそうだ。月見のそんな心の声を読んで、さとりはわずかに赤を散らした頬でぷいとそっぽを向いた。

 ところでおくうといえば、姿が見当たらない。

 てっきりまた壁に隠れてうーうー言っているのかと見回すも、どこからも視線は感じないし気配もない。今は灼熱地獄にいるのだろうか。月見としては出迎えをしてもらえる程度には打ち解けたと思っているので、もし無視されているなら、改めて彼女との付き合い方を見つめ直す必要がありそうだ。

 

「ああ……おくうったら、昨晩はちょっと夜更かしをしていたみたいで。まだ寝てるんです」

「おや」

 

 月見は眉をあげた。月見が水月苑を出たのは朝早くで、途中でパルスィや勇儀など知人のところに寄り道してきたから、今はもう太陽が充分顔を出した頃だろうか。この時間になってもまだ寝ているのならだいぶお寝坊さんである。

 こいしの頭の上で、ぴこんと閃きの電球が光った。

 

「そうだ! ねえ月見、一緒におくうを起こしに行こうよ!」

 

 月見の首から降りると、袖をつまんでおくうの部屋がある方向を指差し、

 

「おくう、びっくりしてきっと飛び起きるよ! 行こ行こ!」

 

 前にも似たようなことがあったな、と月見は記憶を掘り返す。紅魔館での出来事だった。フランに腕を引かれてお寝坊なお嬢様を起こしに行ったのだが、そのとき月見を歓迎してくれたのは豪速球で飛んでくる枕やら本やら弾幕やらだった。

 少女にとって自分の部屋とは一種の聖域であり、許可なく立ち入ったり覗いたりする不徳の輩には天罰が下るのだ。そしておくうは、地霊殿の家族以外が部屋に入ってくるのをいかにも嫌がりそうである。このままこいしについていってよいかどうか判断に悩む。異変を通してようやく打ち解けてきたのに、つまらないドジを踏んで振り出しに戻されるのはなんとしても避けたい。

 一方で、さとりには考えた素振りもなかった。

 

「あら、面白そう。それじゃあみんなで起こしに行きましょうか」

 

 いいのかい、私が行っても。

 

「んー……確かに、勝手に中まで入るのはちょっと可哀想ですね。おくうも女の子(・・・・・・・)ですから」

 

 なにやら妙な含みを感じる言い方だった。他人の心を読めるさとりが、月見のこの疑問を聞き逃したとは考えづらいが、

 

「部屋には入らないで、外から起こせば大丈夫ですよ。せっかくいらっしゃったんですから、顔を見せてあげてください」

「ごーごーっ!」

 

 その上でこう勧めてくるということは、月見が生真面目に考えすぎているだけなのだろう。こいしにぐいぐい腕を引っ張られておくうの部屋へ向かう。目的地に到着すると、まずさとりが品よく控えめなノックをした。

 

「おくう、月見さんが来てくれたわよ。そろそろ起きなさい」

 

 続けてこいしが殴るように元気よく、

 

「おくうー! おーくうー! 早く起きないと月見が帰っちゃうよーっ!」

「おくうー! もうとっくに朝だよー!」

 

 お燐も声を掛けるが返事は返ってこない。いや、辛うじて「ふみゅう……」と気の抜けた寝言が聞こえた。家族三人総出で呼ばれても起きる気配がないあたり、どうやら相当幸せな夢を見ているようだ。

 

「さ、月見さんもどうぞ」

 

 少々ふてぶてしい笑みを浮かべたさとりが、待ちに待ったと言わんばかりに月見へそう促してくる。なんだかいいように使われている感じはするものの、断る理由もなかったので月見はドアをノックし、

 

「おくう、」

「……!?」

 

 名前を呼んだ瞬間、扉の向こうでおくうが慌ただしく跳ね起きたのを感じた。予想外の反応にこちらまで驚いてしまって、喉元で準備していた言葉が思わず引っ込む。

 

「!? !? つ、つくみ!?」

「あ、ああ。そうだよ」

 

 おくうはびっくりするあまり声がおかしな音程になっており、尻にいきなり火でもつけられたかのような狼狽えぶりだった。なにをやっているのかベッドが軋むくらい大暴れして、

 

「うみ゛ゅっ!?」

 

 ベッドから落ちた音。おくうが声もあげられずバタバタ悶えている。さとりが口を両手で覆って、ぷるぷる震えながら必死に愉悦顔をこらえている。

 しばらく、無音があった。

 やがて怖々とノブが動いて、指先も差し込めないくらいほんの少しだけドアが開いた。

 おくうの濡羽色の瞳と、目が合った。

 

「やあ」

 

 ものすごい勢いでドアが閉まった。

 

「……ちょ、ちょっと待ってて! すぐ着替えるから! すぐ着替えて行くからあっ!?」

「……慌てなくていいから、ゆっくりね」

 

 もはや月見の声など届いてはいまい。おくうが部屋中走り回っておめかししている喧騒を聞きながら、月見は隣のさとりを見下ろした。

 古来よりの伝承と寸分違わぬ、人の心を読んで愉しむ覚妖怪がそこにいた。

 

「……満足かい、さとり」

「ええ、とっても」

「うに゛ゃー!?」

 

 部屋の向こう側から、小物類を盛大にぶちまけた絶望的な音。

 

「もうおくうったら、あんなに慌てちゃって……ふふふっ」

 

 言葉とは裏腹に、さとりはもはやほくほくとご満悦な表情を隠そうともしない。出会った頃は深窓の令嬢らしく儚げだった少女が、いつの間にかすっかり逞しくなったものである。皮肉は込めたつもりだがさとりは涼しげに、

 

「あら、そうですか? きっと月見さんのせいですね」

「こらこら、人のせいにしない」

「そんなことないですよ。月見さんと出会ってからはみんな本当に、」

「おくう大丈夫ー? なんか手伝うー?」

「あっ待って待って待ってください今は開けないで、に゛ゃああああああああ!?」

 

 ――なんにせよ、またこのドタバタを肌で感じられて安心した。

 最初は必ずしも歓迎されていたとはいえなかったし、すれ違いもあったけれど、今では紅魔館にも負けないくらい元気で賑やかな場所。

 中に入りたいこいしと絶対に入らせたくないおくうの、ドア一枚挟んだ熾烈な格闘を見守りながら。

 今年も佳き縁があればよいと、月見は小さく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば、命蓮寺ではちゃめちゃな節分が執り行われるより数日前。月見が買い物ついでで人里をほっつき歩いていると、ある顔見知りのご婦人が少々神経質な様子で声を掛けてきた。

 

「お狐様お狐様、ちょいと聞いとくれよ……」

「? どうかしたかい」

 

 ナズーリンが幻想郷の至るところで鼠ネットワークを張り巡らせているように、この里にも人間たちによる情報ネットワークが構築されている。おしゃべり大好きなご婦人たちが日頃から「ちょっと奥さん聞きまして?」「あらあらまあまあ」と情報共有し合うことで、実質里のありとあらゆる現象を網羅するという、人呼んで驚異のご婦人ネットワークである。

 そんな情報網の中枢を担うのが、いま月見に声を掛けてきた女性――皺の深くなる齢ながら、未だ瞳にぎらつくような生気を宿す江戸っ子気質のご婦人だった。このあたりでは面倒見のいいみんなの奥さんとして名が通っており、月見ともこうして気軽に相談事を持ち込む仲である。昨年妖夢が生まれてはじめて休暇をもらったときは、一日くらい仕事を忘れて遊ぶべきだといろいろ説得してくれた他、月見の「お狐様」呼びを里に広めた張本人でもあったりする。

 で、今回はどんな困り事を持ってきたのかと思えば。

 

「実はこのところ、里の外れの方で妖怪が出ててねえ」

「ふむ」

 

 里の相談役として様々な悩みを聞いていると、こういった妖怪絡みの話も時折は持ち込まれる。どんな妖怪が出たのか少しばかり調べて、大抵の場合は霊夢のもとに取り次ぎする案件だ。参拝客がほとんどやってこない博麗神社にとって、妖怪退治をはじめとする里からの依頼は貴重な収入源であり、その仕事を勝手に奪えば調伏されるのは月見の方なのだから。

 

「何度か通りがかった人が襲われ――ってほどでもないんだけど、まあ、おどかされたらしくって」

「襲われた人に怪我は?」

「特には。強いて言えば、びっくりして転んで膝を擦りむいたとかかねえ」

 

 となれば人間に危害を加えるほどの悪意を持たないいたずら好きな妖怪か、茶目っ気の強い妖精の仕業だろう。楽しく遊んでいるところ大変申し訳ないが、霊夢にちゃっちゃと懲らしめてもらうのがよろしい。

 

「わかった。博麗の巫女に頼んでおこう」

「よろしくねえ。……あ、これお供え物」

「……うん」

 

 食べ物を押しつけられた。気持ちはありがたいのだけれど、『お供え物』と言いながら渡されるお陰で素直に喜べない。半分は霊夢にあげて、もう半分は水月苑の稲荷神社に供えておこうと決める。

 

(……それにしても、人間をおどかす妖怪か)

 

 危険な妖怪というわけでもなさそうだし、このまま霊夢のところまで持っていってもよさそうではあるが。

 

「ところで、その妖怪が出るのはどっちかな」

「確か……あっちの方だったかねえ」

「ありがとう」

 

 婦人に礼を言って別れ、月見は教えてもらった方角へ足を向けた。大したことではない。最近里人をおどかしているという妖怪が、よもやあの子(・・・)ではあるまいと一応確かめておくだけだ。

 件の里の外れは、人々の気配から少なからず離れ、建物らしい建物も途絶えた無造作な風景だった。ただ緑が近いのと、かすかながら川のせせらぎが聞こえてくることから、自然の幸を採りにやってきた里人が狙われたのだろうと思われた。木々でほどよく視界が遮られていて、妖怪が隠れて人間をおどろかすのにはちょうどよさそうだ。

 そのままもう少しまっすぐ進んでみると、山の正面で声が聞こえた。

 

「ふんふふんふふーん♪」

 

 この閑静な場所とは不釣り合いな、陽気で朗々とした少女の歌声だった。よっぽど嬉しい出来事があったらしく、月見が近づいているのにまったく気づいていない様子で、

 

「きょーおーも人間ーをおどかーすぞー♪ おなーかいっぱーい、しーあわーせぶーとりー♪」

「……」

 

 月見は天を仰ぎ、ふうとため息をひとつ空に溶かした。それからただ一言思う。

 やっぱりこいつか。

 

「えへへ、こうやって人間をおどかしてればそのうち噂がお師匠にも届いて……『さすがだ小傘、お前こそ私の弟子にふさわしい』ってなるかも! かもーっ!」

「…………」

 

 向こうから勝手に正体を明かしてくれたが、やたらめったらハイテンションな歌声の少女は案の定多々良小傘だった。声を頼りに向かってみれば、山道を入って少ししたところの木の上で、枝に跨りながらなにやら怪しい作業をしている小傘がいる。ここまで近づかれてもまだ月見に気づいていない。

 

「小傘」

「ぴひゃああああああああぎゃぶ!?」

 

 声を掛けると、小傘はびっくり仰天してあっさりと地面に落ちた。だいぶ痛そうな音がしたものの、彼女はそのまま頭を抱えて亀になって、

 

「ごごごっごめんなさいごめんなさいなんでもないですなにもしてないです怪しくないですごめんなさいいぢめないてくださいさでずむはやめてえええええっ」

「小傘。私だよ、私」

 

 ぴたりと静かになって顔を上げる。絶望一色だった小傘の表情が、ほろほろと崩れるような安堵で弛緩した。

 

「あ、お、お師匠……! び、びっくりしましたよぉ~……!」

「うん……悪かったね、いきなり声を掛けて」

 

 人間をおどかして生きる妖怪なのに、小心者というか、自分がおどかされるのにはとことん弱いというか。しかしどんなに凹んでも挫けても、一瞬で立ち直ってみせるのがこの少女だ――と月見が考える頃にはとっくに涙を引っ込め、立ち上がった彼女は今日も腹式呼吸で元気いっぱい、

 

「お師匠、弟子にしてください!!」

「いや、その話はいい」

「よ、よくないですよおっ!? 私、あれからばんきさんにいろいろ教わって、最近はそれなりに人間をおどかせてるんです!」

「……ああ、やっぱり」

 

 そういうことだろうと思っていたのだ。年越しの宴会の席で、人をおどかすちょっとしたコツを伝授しましょう、と赤蛮奇が自信満々に言っていたのを思い出す。あれからひと月ほどが経っている。今ここにいるのは赤蛮奇から免許皆伝を言い渡され、独り立ちを認められた多々良小傘なのだろう。

 あのときは、問題児同士がどんな化学反応を起こすか不安しかなかったが――里の噂を踏まえると、存外上手い具合に噛み合っているのだろうか。

 

「今日も通りがかった人間をおどかしてやろうと、仕掛けをしていたところです!」

 

 小傘が樹上を指差し、つられて月見も上を見た。小傘が先ほどまでまたがっていた木の枝に、闇夜に紛れる濃い色のロープで括りつけられているのは、

 

「あれぞばんきさんが授けてくださった奥義――こんにゃくです!」

 

 こんにゃく。

 

「ここを人間が通りかかりましたら、あのこんにゃくを釣瓶落としのように放っておどろかすのです!」

「……」

 

 月見が想像していたよりもだいぶ古典的なトラップだった。確かに木の上から突然物が降ってくれば、大抵の人間は大なり小なりびっくりするかもしれない。しかしそれだけではすぐにイタズラと見破られるのがオチだし、里で「妖怪が出た」なんて噂も立たないのではないか、と疑問が浮かぶ。そしてこれが本当に赤蛮奇の授けた奥義なら、たぶんからかわれているだけだとも。

 幸いにも、小傘の熱弁は続いた。

 

「もちろん、これだけで終わりではありません! 人間がこんにゃくだと気づき、なんだただのイタズラかと気を緩めたところで、私が木の枝を思いっきり揺らしてから飛び降りるのです! 女だとバレないようにボロをまとって、声は出さないで、飛び降りるときの風を使って体を大きく見せるのがコツらしいです!」

「へえ……」

 

 ここまで聞き終えてみれば、月見は真っ当に感心した。一度目の仕掛けをデコイにして、二度目の仕掛けでトドメを刺すというその作戦は、ホラー演出の常套手段とも呼ぶべきものだ。加えて、女であることをバレないようにボロをまとうのも悪くない。なぜ小傘が今まで失敗してばかりだったかといえば、見てくれが満場一致で可愛らしい少女であり、そんな彼女が「うらめしや~!」と凄んでもさっぱり怖くなかったからであり、すなわち正体を隠すだけでも話はまったく違ってくる。

 人間は本能的に、正体がわからない存在や得体の知れない現象を恐怖する。ただのイタズラだとほっと一息つくや否や、木々を派手に揺らして正体不明の生物が無言で飛び降りてくる――人間はもちろん、闇の存在である妖怪にだって通用しそうだ。

 

「なるほどねえ。それなら確かに、妖怪が出たって里でも噂になるか」

「どうですかお師匠! 私、一人前に人間をおどかせるようになりました! 改めて弟子にしてくださいっ!」

「まあまあ、落ち着きなさい」

 

 もちろん、小傘を弟子にするかどうかとはまったく関係のない話だ。月見はそれらしい手振りで小傘を制しつつ、

 

「言ったろう、里で噂になってるって。ひょっとすると明日にでも、博麗の巫女がお前を懲らしめに来るかもしれないよ」

「えっ……」

 

 夢想封印で粉砕された苦々しい記憶を思い出し、小傘の表情がさっと青ざめたかに見えた。

 ほんの一瞬だった。小傘はなにかに気づいて目を見開くと、浅く俯いて、やたら大真面目な形相でしばらくの間思考を巡らせていた。この子ならどうせロクなことではないのだろうなと月見は思ったが、大正解だった。

 

「ま、まさかお師匠……! 私にいま一度テストを受けろというのですね!? 一人前の妖怪になったというのなら、あの巫女に力を示してみろと!」

「……あのな小傘、」

「いえ、なにも仰らないでください。わかっていますとも」

 

 月見は菩薩の心地になりながら小傘の言う通りにした。そう、なにも言うなと言われてしまったのだから仕方ないのであって、決して口を挟むのが面倒になって思考放棄しているわけではないのだ。これは仕方のないことなのだ。

 

「そうですね、お師匠に与えられた最初にして最大の試練……これを乗り越えないまま弟子など名乗れるはずもありませんでした! 私、やりますっ!」

「アア、ガンバッテ」

「はいっ!」

 

 小傘が望んで博麗の巫女を迎え討つというのなら、もういちいち止めはしまい。小傘は霊夢との再戦に意欲的であり、霊夢は小傘をボコって里から報酬ももらえる。謂わばこの二人はWin-Winの関係であり、これ以上月見が関わる余地などありはしないのだ。

 そういうことなのだ。

 一方的に納得したところで、月見はふと、

 

「なあ、小傘」

「はい、なんでしょう?」

「赤蛮奇のアドバイスで、普通に人間をおどかせるようになったんだよな? なら、私に弟子入りしなくてももう大丈夫なんじゃないか?」

「え? ……? ……………………」

 

 問われた小傘は十秒近くもぽかんと沈黙して、それからようやく「あっ」という顔をした。

 おもむろに月見を見た。月見も、小傘のまんまるな瞳をなにも言わずに見返した。

 

「……」

「……」

 

 やや離れた森の向こうで、小川が耳によい澄んだせせらぎを奏でている。小鳥が一羽、枝から枝へ飛び移りながらご機嫌に山の方向へ姿を消す。風はなく、頭上の枝に括りつけられたこんにゃくが侘しげに灰色の体をたるませている。

 そんな長閑な森の中でたっぷりと考え、しかして小傘が弾き出した答えは、

 

「見ていてくださいお師匠! わたし、頑張りますっ!」

「なあ小が」

「やるぞーっ! おぉーっ!」

 

 全身全霊で、気づかなかったふりをすることだった。

 月見はもはや仏の微笑みを浮かべ、仏の微笑みのまま匙をポイした。

 

「待っていてください、必ずやよい報告をお持ちいたしますから!」

「……うん」

 

 嗚呼、月見にとって『よい報告』とは一体なんなのだろうか。

 弾丸のように純粋無垢なまっすぐさで、日夜あっちへこっちへすっ飛び続ける問題児――多々良小傘の進撃的迷走は、今年もまったく勢力を弱めることなく続くようだ。

 

 もちろん後日、コテンパンにやられた小傘がぴーぴー泣きながら水月苑に突撃してきたのは完全な余談である。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば、鈴奈庵が春の新装開店を決めてから何日かした頃。もう間もなく目覚めを迎える月見の夢枕に、突如として宇迦之御魂神が立った。

 

「あんなーつきちゃん、うちの神使やろー?」

「……」

 

 宇迦之御魂神がどんな神かといえば、あのわかさぎ姫すらしっかり者に見えるくらいの超絶的なおっとりさんであり、ある意味ではズバ抜けた自己中心主義者である。彼女の人生ならぬ神生の辞書には、「周りに合わせて生きる」という概念が一切記載されていない。わがままなわけではなく、面倒くさがりというわけでもなく、自分と他人は違う命に生きるものなのだから、それぞれ違うペースで自由に生きるのが自然なことだと考えている。他人に合わせず、他人が自分に合わせるのも求めず、自分だけの世界をのんびり漂っている綿雲みたいな少女こそがこの神だった。

 水月苑だった。もう何度も生活をともにしてきただだっ広い茶の間に、しかしお茶を淹れてくれる藍の姿はなく、こたつで丸くなるぬえもおらず、庭にはわかさぎ姫の気配もない。現実とは対照的な染み入る静謐が満ちた水月苑で、白い少女がたった一人だけ、はんなりとした微笑みを浮かべて月見の正面に座っている。

 

「つきちゃん、聞いてはる?」

「聞いてるよ」

「そやったら、うちの神使。やらへん?」

 

 宇迦之御魂神、その本人。

 上から下まで純白壮麗な衣と()をまとい、そこには稲荷の神紋である金の稲紋が織り込まれている。頭には小さな金の短冊をいくつも連ねた髪飾りを載せ、肩では羽衣をたなびかせ、首からは翡翠や瑪瑙の勾玉でこしらえた、それぞれ長さの異なる三重の首飾りを下げている。ここまで書くと一見堂に入った神様ぶりだが、衣が手の先まで隠れるほどぶかぶかなせいなのか、背丈は平均的な少女よりやや低めに見える。嘘みたいに真っ白い髪を肩口で切り揃え、垂れ目気味で、さながら半分とろけたお餅のような、良く言えば柔和で達観し、悪く言えば締まりなくスキだらけな雰囲気に包まれている。

 月見は答える。

 

「お断りするよ」

「えー、なんでぇー? ……あー、うんとねー、三食お昼寝おやつ付きやぇ?」

 

 そして主に関西あたりの方言をふわふわと崩したような、なんとも独特の言葉遣いをするのが特徴の女神なのだった。宇迦がこてんと首を横に傾けると、稲穂をかたどった耳飾りがしゃらりと小気味のよい音を奏でた。

 

「そういう話ではなく。宇迦、私は妖怪だよ」

「うちの神使になったら神の仲間入りやからー、関係あらへんよ?」

「大有りだ。私は妖怪なんだってば」

「うんとー、じゃあ妖怪のままでええよ?」

 

 宇迦があまりに底抜けのマイペースなせいで、こうして会話が噛み合わなくなるのも珍しくなかった。月見は一度話題を切り替えて仕切り直しする。

 

「そもそも、どうして私を神使にしようなんて思うんだい」

「んー? あんねー、だってつきちゃん、幻想郷でうちの信仰広めてくれとるやろ? ここにうちのお社も作ってくれたもんなぁ。そやけー、つきちゃんがうちの神使になったら、きっと幻想郷の信仰がっぽがっぽやーって」

 

 両腕で大きな円を描きながら、がっぽがっぽーと宇迦はとても能天気に言う。月見は目頭を押さえて声なき声で唸っている。

 

「……お前にはほら、おくうの件で借りがあるからね」

「えへへ。つきちゃんだって妖力ぎょーさんうちにくれてはるのに、やっぱ優しいなあ」

 

 なお『つきちゃん』とは、名前が『月』見だからである。宇迦は月見に限らず、相手の名前から二文字を取ってちゃん付けする呼び方をする。たとえば藤千代なら『ふじちゃん』、操なら『みさちゃん』となる。

 

「けど神使はさすがにお断りだ。私は今の生き方を変えるつもりはないよ」

「えー。ぶーぶーやぁ。絶対向いてる思うんにぃ」

「勘弁してくれ」

 

 現状でも、月見は里人からそれなりに稲荷扱いをされてはいる。けれどそれは、月見が妖怪という前提あっての所謂親愛の表現と呼ぶべきものであり、本当に稲荷だと勘違いしているのはごく一部なのだ――たぶん。

 もしも名実ともに稲荷の使いとして、里人みんなから相応の『信仰』を受けるようになったとしたら。それは、月見が思い描いている友誼の形とは少なからず違ってしまうだろう。

 

「いけずぅ」

 

 宇迦は束の間頬をぷっくり膨らませるも、すぐに破顔した。

 

「なんて、冗談。言うてみただけ。でも、気ぃ変わったらうちはいつだって大歓迎やぇー?」

「……うん。まあ、もしそんな日が来たらよろしくね」

「はいな」

 

 ぶかぶかの袖で口元を隠し、くすくす肩を揺らして、

 

「つきちゃんやったらこれからも、自然とうちの信仰広めてくれはるやろしなぁ」

「……普通に生活してるだけなんだが、どうしてこうなるんだろうねえ」

「うんとー、妖怪らしくないからやない?」

 

 さいですか。

 

「あー、そやったそやった。つきちゃんにいっこ教えたげようと思とったんよ」

「なんだい?」

「あんねー、まみちゃんがもうすぐそっちに行こうとしてはるよ」

「……」

 

 思わぬ名前が出てきて月見は沈黙した。

 まみちゃんとは、なにを隠そう妖怪狸の総大将・二ツ岩マミゾウのことである。

 

「最近ねぇ、えらい身の回りのもんなおしよってなぁ。きっと春頃になるやろねぇ」

「……そうか」

 

 やっぱりこうなったか、と月見は思う。マミゾウは顔見知り相手であれば、それがたとえ人間であっても大変面倒見がよくて義理堅い。古くからの友人が封印から解き放たれ幻想郷で暮らしていると知れば、いい機会だと言いながら引っ越してくるとしてもおかしいことはないのだ。

 

「うち上手く言えへんけど、頑張ってなぁ」

 

 宇迦は清々しいまでの他人事だった。これは月見と幻想郷の問題であり、高天原に住まう神たる自分にはこれっぽっちも関係ない。助けを求められるならば考えるが、月見がそうする性格でないのはよく知っているので、自分がこれ以上口を挟むことはないと完全に見切った上での「頑張ってなぁ」だった。本当に、ただ空を流れるだけの雲みたいな少女だった。

 ある意味では、彼女が一番神様らしい神様だといえるのかもしれない。

 

「ほんじゃー、またなんかあったら会いにくるから」

「ああ。またね」

「えへへ。さいならなぁ」

 

 夢の記憶が終わる。そろそろ目覚める時間だと体が告げている。水月苑の景色が消え、意識が束の間白くなって、今日もまた新しい一日が始まる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 たとえば二月の下旬、肌寒くも日差し柔らかく長閑な冬の朝。月見がなんとなしに庭先まで出てみると、命蓮寺の祠の前に白蓮の姿を見つけた。

 膝を折り、両手を合わせて、そこに眠る弟へ真っ白な祈りを捧げていた。月見の気配はもちろん、月見が玄関を開けた音も彼女の意識には届いていないようだった。口元に優しい笑みがにじんでいた。彼女が弟の墓前で微笑む理由を知っているからだろうか、月見は今より近づこうとも声を掛けようとも思うことなく、ただあいかわらずの寒さに手がかじかみそうだったから、両腕を交互の袖に入れてそっと温めた。

 白い呼吸がひとつ空に溶けて、それから白蓮はまぶたを上げた。

 

「おはよう、白蓮」

「……あ、おはようございます」

 

 声を掛けると白蓮は立ち上がり、周りに月見以外誰もいないのを念入りに確かめてから、

 

「……お、お父様っ」

 

 他人に聞かれれば一巻の終わりというように、ぽそりと早口でそう付け加えるのだった。

 

「そこまでして言わなくても」

「い、いいんですっ。これは私が、その……自己満足でやってるだけというか……」

 

 赤くなってきた頬を両手で押さえ、白蓮が白い吐息を空に散らす。月見は小さな石の反橋で、白蓮がいる四つの社の島に渡る。途端に博麗神社の社からお賽銭ちょうだいオーラを感じたが、気のせいに決まっているので颯爽と無視した。

 

「なにを話してたんだい」

「いろいろです。……ここに来てからは、毎日いろんなことがあるので」

 

 雑に答えたわけではなく、本当にそうとしか表現できない色濃い日々の連続だったのだろう。

 白蓮が幻想郷にやってきて、もう間もなくふた月になる。早いものである。紫が冬眠したときはまだまだ遠いと思っていた春が、気がつけば足音も聞こえそうなくらいに近づいてきている。

 月見が幻想郷に戻ってきてから、ぐるっと季節が一周しようとしているわけだ。

 久方振りに幻想郷の土を踏んで、妖夢や雛と出会い、紫に拉致されて――あの日がなんだか随分と昔らしく思えてしまうのは、ここで過ごす日々がそれだけ濃密だからなのか、単に月見が歳だからなのか。

 白蓮が小さく笑った。

 

「なんだか今、似たようなことを考えてる気がします」

「……そうかもしれないね」

「命蓮も、見ていると思います。私たちを。この幻想郷を、きっと」

「ああ」

 

 そう願う。それがたとえ、月見たちの独りよがりな考えだとしても。

 だから月見もいっとき、祠の前で命蓮に手を合わせた。

 

「……さて、今日はどんな用かな。寺のみんなは?」

「あ、えっと……今日は、お寺の方を星たちに任せてきまして……」

 

 そこまで答えた白蓮は伏し目がちになって、身を縮め、指先で髪をくしくしといじくりながら、

 

「今日は、その……お父様と、一緒に、いようかなー……とか……」

「……」

「な、なーんて……」

 

 封印されていた年月を除いたとしても、もうそれなりに齢を重ねた立派な大人のはずなのだが。

 月見は白蓮の背後に、恥じらいつつもほのかな期待が隠しきれていない、幼らしい獣の尻尾めいたものを幻視した。

 ふっと、一笑。

 

「じゃあ、いろいろ手伝ってもらおうかな。今日は藍が留守にする予定でね」

「!」

 

 白蓮の尻尾がピンと立った。気がした。

 

「お掃除でもお料理でも、なんでも大丈夫です!」

「それは頼もしい。よろしく頼むよ」

「はいっ」

 

 輝夜やフランを筆頭とする少女がそうであるように、白蓮もまたこのふた月ほどですっかり水月苑の常連客になった。近頃はとりわけ、屋敷の手伝いにやたらと高い意欲を見せている。今の時代のことを学ぶためであり、宝塔の一件のお礼でもあるというのが本人の弁であるが、どうもそれだけが理由ではなさそうである。

 とはいえ、本人が言わぬ以上わざわざ月見の方から触れはしない。持ち前の性格で水月苑古参組とも問題なく打ち解け、実際、勉強という面では大いに役立っているようだし。妖怪と人間が気兼ねなく集うこの水月苑は、白蓮にとってはなんの理由がなくとも訪れたい場所なのだろうから。

 

 まあその結果、冬眠明けの紫と盛大にひと騒動起こすわけなのだが。

 それはそれとして、時が来たら話すとしよう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ギーン!」

「つくみーっ!」

「居候するー♪」「イソーローするー♪」

 

 たとえば三月のはじめ、今年に入って一番気温が高くなった穏やかな昼下がり。輝夜とフランが、夢と希望のロケット噴射で水月苑の茶の間に突撃してきた。

 輝夜は竹で編んだ大きな手提げバッグを持ち、フランは背中がすっぽり隠れるベージュ色のリュックサックを背負っていた。そんな大荷物で一体なにをしにやってきたのかといえば、まあ二人が鼻歌らしく口ずさんでいる言葉が答えであって。

 月見は本を畳んで笑みとともに答える。

 

「やあ。ちゃんと夜には帰るんだよ」

「差別はんたーい!」

「われわれは断固抗議しまーすっ!」

 

 畳に仲良く女の子座りして、二人はBooBoo!と徹底抗戦の構えである。輝夜が袖を振ってこたつを指差し、

 

「この妖怪はいいのに、なんで私たちはダメなの!?」

 

 こたつではあいかわらず、ぐーすかと惰眠をむさぼっている(ぬえ)がいる。つまりこの二人はぬえに便乗して居候しようとしており、バッグの中身は着替えや小物類のお泊まりセットというわけだ。

 ぬえの居候を許可した時点でこうなるだろうとは思っていたが、まさか三月になっても二人が諦めないとは予想外で月見もすっかり手を焼いていた。

 

「ぬえはずっと長い間地底に封印されてて、幻想郷じゃ住む場所がないから仕方ないんだってば」

 

 と、今日になるまでもう何度説明してきたやら。

 

「お前たちは帰れる家があるんだから、ちゃんと帰ってあげなさい」

「永琳は好きにしたらいいって言ってたわ!」

「咲夜があとでお手伝いに行くって張り切ってたよ! お姉様も支度が終わったらすぐ来るって!」

 

 ……永琳、レミリア、咲夜。

 今は折悪しく藍も出掛けているので味方がいない。さて今日はどうやって諦めさせようかと月見が頭を悩ませていると、

 

「つ――――くみ――――――――!!」

 

 立ち塞がるものすべてをブチ抜く勢いで、今度は萃香が突撃してきた。こちらの笑顔もはちきれんばかりの夢と希望で満ちあふれており、輝夜の頭上を飛び越えて月見の目の前に着地すると、

 

「月見、お酒呑ませてっ!」

「……この間呑んだばかりだろう」

「だってだってぇ! やっぱり酒虫のお酒ってめちゃくちゃ美味しいんだもん!」

 

 年越しの宴会でルーミアから譲り受けた酒虫は、台所に置いた樽の中で日夜気ままにお酒を作り出してくれている。しかし萃香や幽々子など一部の呑兵衛が頻繁に酒をたかりに来るせいで、できあがった端からあっという間に呑み干されるサイクルの繰り返しだった。特に萃香が呑む量といったら――言うまい。

 後ろから輝夜とフランが噛みつく。

 

「ちょっと、いきなりなによ! 今は私たちがギンと話してるの!」

「そうだよ! 横入りだめーっ!」

「んあー? ……なんだあんたらか。なに、今日も居候させろーって騒いでるの? 懲りないねえ」

 

 酒虫の酒を求めて足繁くここに通っているからか、萃香は輝夜たちのデモ現場を何回か目撃している。

 

「あんたらは帰る家があるじゃない。こういうのはね、ちゃんとした理由がないと月見は納得しないよ」

 

 むぅ、と輝夜とフランが口をへの字にする。まさか萃香に味方してもらえるとは思っていなかった。仕方ない、今回は酒虫の酒を好きなだけ呑ませてやろうと月見が感心したまさにその直後、

 

「――というわけで、根無し草の私なら問題ないよねっ! 今日はここに泊まるー!」

「「ずる――――――――いっ!!」」

「いったあ!? なにすんだコンニャロ――――――ッ!!」

 

 月見は上方修正した萃香の評価を元の位置に下方修正した。やっぱり萃香は萃香だった。

 始まった三人娘のケンカに安眠を妨害され、ぬえがまぶたをこすりながらこたつから起き上がる。

 

「もー、うるさいなー……静かにしてよー」

「元はといえばあんたのせいよぉ!!」

「うえあ!? なななっなになになんの話!? ぎゃー!?」

 

 ぬえを巻き込み、喧騒はますます加速していく。

 ところで月見は水月苑において、顔馴染に対しては鍵が開いていれば好きにあがっていいと許可している場合がある。何分来客が多い屋敷なので、毎回毎回玄関まで出迎えに行くのは少々骨が折れるし、それでなにか悪いことをするような子たちでもないという信頼の証でもあった。このためたまたま少女たちのタイミングが重なったときは、ふと気がつけばこたつに入りきらないくらいの賑わいになっているということが起こる。

 それが今日だった。

 まずやってきたのはレミリアだった。輝夜と一緒にぎゃーぎゃー暴れるフランを見て最初こそ呆れていたものの、事情を聞くや「なら私も泊まるわ」とクールに着席した。

 次にやってきたのは早苗と志弦だった。早苗は目を輝かせ、「お泊まり会ですか! いいですねえ!」とすぐ乗り気になった。このあたりから、少女たちの話がみんなでお泊まり会をする方向にズレ始めていく。志弦はニヤニヤ笑っているだけでさっぱり助けてくれない。

 次は幽々子と妖夢だった。幽々子は「私も泊まりまーす!」と一秒で参加表明し、妖夢は少し迷っていたが、幽々子様が泊まるならと付和雷同した。

 幽香も来た。もちろん、参加者が一名追加になった。

 霊夢と魔理沙まで来た。食い扶持が増えた。

 天子もやってきた。しかし今日は夜から天界で用事があるらしく、「なんでこういう日に限ってぇ……」と可哀想なくらいに落ち込んでいた。

 その後も藤千代と操、赤蛮奇と影狼、紅魔館の家事を片付けた咲夜が集まり、更にはフランがチルノと大妖精を誘いに行き、早苗が庭の分社から諏訪子と神奈子を呼んで、ダメ押しとばかりに妹紅やはたてまで野次馬にやってきて。

 

「月見様、ええと……これは一体?」

「……なんだろうね」

 

 用事を済ませた藍が戻ってくる頃には、茶の間が二十人以上の少女たちで大所帯と化しているのだった。

 

「――では、以上の分担でお願いしますねー。日が暮れる頃にまた集合してください!」

 

 いつの間にか藤千代の指揮で、食材の持ち寄り分担までちゃっかりと会議されている始末である。月見はまだ一言も許可を出していないのだが、そんなのは一致団結した少女たちにとってはまるで些末なことだった。

 

「というわけで月見くん、いいですよねっ」

 

 この状況でこう問われた月見がなんと答えるのかなんて。彼女たちならば、とっくの昔にぜんぶお見通しなのだろうから。

 月見はひとつ、吐息とともに肩を下げて。

 

「……まったく。今日だけだからね」

 

 はーい!! と元気に返事をして、少女たちがやる気いっぱい行動を開始する。食材の調達に行く者、お泊まりセットを準備しに一旦帰る者、こたつに入ってぬくぬくし始めるレミリアとフランと駄娘ぬえ。隣の藍が、無邪気な子どもたちを微笑ましく見守る保母さんみたいな顔になっている。

 

「すまないね、藍。また面倒を掛けるよ」

「いえいえ。いいじゃないですか、こういうの」

 

 ひょっとすると自分も、似たような表情をしていたのだろうか。

 

「きっと紫様も、話を聞いたら泊まりたがるでしょうね」

「まあ、そのときは付き合うさ。数ヶ月振りなんだし」

 

 藍が、少し意外そうに目を丸くした。

 

「どうした?」

「いえ、」

 

 一瞬だった。月見が問うたときにはいつも通りの怜悧な微笑に戻っており、

 

「……そのときは私と橙もご一緒させていただいて、四人がいいですね」

「……そうだね。そうしようか」

 

 冬の有終たる締め括りに、水入らずで鍋を囲むなどしてもよいかもしれない。目に浮かぶようだ。お肉を探して鍋をかき回す橙、ちゃんと野菜も食べなさいとやんわり叱る藍、豆腐で舌を火傷し涙目で痙攣する紫、そんな三人を眺めながら、自分は。

 自分は、きっと――。

 

「――さて、じゃあ私たちも準備しないとね」

「ですね。行きましょう」

 

 今宵の喧騒が、境界を超えて紫のもとまで届くように。去りゆく季節を万雷の呵呵(かか)で見送り、新しい季節の来訪を嵐の喝采で祝うとしよう。

 

 春よ、来いと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 冬が終わる。

 よもや、霊夢の春乞いに効果があったわけではあるまいが。目を覚ました雪女は霊夢の蛮行に文句を言うでもなく、「もう冬も終わりということですね。仕方ないです」と神妙な理解を示すと、月見に礼を言っていずこかへ姿を消した。すると翌日から階段を上がるように気候が和らぎ、長らく水月苑を飾ってくれた雪化粧も完全に空へ帰って、そこにはまだ月見の指先よりも小さな、新しい緑の芽生えがあった。

 もうすぐ自分たちの出番だとばかりに、春告精が準備運動を始めそうな三月の半ば。

 

「ぢゅ、ぢゅぐみ゛いいいぃぃ……」

「……やあ、紫」

 

 ――なんというか、ああやっぱりこいつはいつでもいつも通りのこいつなんだなと。

 月見が数ヶ月ぶりに見た妖怪の賢者は、ずびずびえぐえぐのみっともないガチ泣きの顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第147話 「春風駘蕩春告賢者」

 

 

 

 

 

「――ふぎゃあああああああああああああああっ!!」

 

 その日、月見は少女の珍妙な悲鳴で目を覚ました。

 常識的に考えれば、緊急事態というやつだった。いくら日頃から少女たちの集会所と化している水月苑とて、こんな朝っぱらから悲鳴が轟くなどそうそうある話ではない。水月苑の家主としては今すぐ布団を蹴飛ばして跳ね起き、部屋から飛び出しては悲鳴の出所を突き止め、その原因を可及的速やかに解決すべき場面だった。

 本来ならば。

 月見はのそりと老人みたいに起き上がり、寝ぼけ眼で欠伸をひとつ噛み殺した。

 一応、それなりに切迫した悲鳴だったと思える――のに、なぜだろう。目を覚ましたばかりで半覚醒である以上に、慌てて駆けつける必要はないと、どこか本能で察知している自分がいるというか。悲鳴を聞いて慌てるどころか、ほのかな安心感すら覚えている自分がいるというか。

 それはあたかも、しばらくご無沙汰だった日常のひと欠片がようやく戻ってきたかのような。

 廊下の彼方から、ドタドタと慌ただしい駆け足が近づいてくる。

 

「月見いいいいい!! つくみいいいいいいいいぃぃぃぃぃっ!!」

 

 そして月見は、ああ、と静かな笑みとともに納得した。

 このマジ泣き一歩手前の涙声を、月見は大変よく知っている。『彼女』ならわざわざ馬鹿正直に走らずとも一瞬で移動できるはずなのだが、はてさて気が動転してすっかり冷静さを失っているらしい。てんやわんやの駆け足がどんどん襖の向こうに近づいてきて、

 

「ぶぎゃっ!?」

 

 コケた。

 顔面から床に突撃する比較的悲惨な物音が響き、束の間痛々しい沈黙があって、やがて『彼女』は小さく小さく、ひぐっと情けなく鼻をすすった。

 とんでもない安心感が月見の体と心を包み込んでいる。襖の向こうに広がっているであろう光景――床にぶっ倒れてぷるぷる震えている『彼女』の姿――を、さながら透視の能力でも得たようにはっきりと思い描くことができる。月見はよっこらせと布団から抜け出し、深い慈悲の微笑みをたたえながら襖を開けた。

 月見が想像していた通り、床に這いつくばって痙攣している少女が一人。

 

「ぢゅ、ぢゅぐみ゛いいいぃぃ……」

「……やあ、紫」

 

 幻想郷の賢者、八雲紫。

 冬が終わってひと季節振り――すなわち今年はじめて見る彼女の顔は、ずびずびえぐえぐのみっともないガチ泣きの顔だった。

 当然、賢者のカリスマなどのっけから完全に行方不明である。月見はその場に膝を折り、しみじみとひとつ頷いて、

 

「春だねえ」

「どういう意味よおおおおおっ」

 

 月見のばかあああああっ床をビシビシ叩いて暴れるこの少女が、幻想郷を創りあげた偉大な賢者なのだと言って誰が信じるだろうか。

 かくして、冬眠明けの紫であった。冬の間幸せいっぱい爆睡しまくったことで、身も心も生まれ変わって心機一転、髪はつやつやに甦りお肌はもっちりと若返り、身長も五センチくらい縮んでいる――というのは、さすがに気のせいだろうが。どうあれ外見も精神も妖力も完全回復し、あふれ出んばかりのエネルギーで早くも暴走状態に陥りかけている様子だった。

 

「せっかく起きたのに、いきなりどうしたんだい」

「どうしたもこうしたもないわよぉ!」

 

 ご乱心な紫は再び床に両手を叩きつけ、

 

「なんなの!? 私がちょっと寝てる間になにがあったの!? 泥棒猫は誰!? ねえわたし二十年くらい寝ちゃってたわけじゃないわよね!?」

「……?」

 

 なんの話だ、と月見は思う。話をひとつずつ整理していこうにも、これではどこからどう手をつけたらよいか、

 

「お、お父様っ! いま、台所に突然変な妖怪が……!」

 

 そのとき廊下を曲がってもう一人の少女が走ってきて、月見はおよその事の次第を推察した。

 金と紫のグラデーションがかかった髪を後ろで結わい、エプロン姿で走ってきたのは聖白蓮――ちょうど昨日の夕方あたりから屋敷を訪ねてきて、そのままちゃっかりと泊まっていったのだ。恰好を見るに朝食の支度をしてくれていたようだが、

 

「誰が変な妖怪よぉ!!」

「ひいっ!?」

 

 途端に紫に威嚇され、白蓮はうわわっとたたらを踏む。四つん這いで唸り声をあげる紫と、その隣で膝を折る月見を交互に見遣り、

 

「……ええと、お父様のお知り合いですか?」

「づぐみ゛いいいいいいいいいいッ!!」

 

 紫が絶望の形相で月見の胸倉に掴みかかった。決壊寸前大洪水秒読みの涙目で、

 

「こ、こここっこの人間、つつっつつつくみのっの、ここ、こどここっここもど」

「落ち着け」

 

 察するに。

 遡ること約一分前、白蓮が台所で朝食の支度をしていると、入口のあたりにふとした気配を感じた。これが冬眠から目覚めたばかりの紫だった。ところが白蓮はてっきり月見が起きてきたのだと思って、「おはようございます、お父様」とでも声を掛けてしまったのだろう。

 紫にとっては、まあよほどの一大事だったのだと思われる。

 友人の台所に見知らぬ女が立っていて、挙句自分を誰か(・・)と勘違いして『お父様』と呼んでくるなどしたら、想像力を逞しくするなという方が理不尽かもしれない。ともかく今は紫を落ち着かせ、事情をひとつひとつ丁寧に説明

 

「もぉー、うるさいなあー……朝っぱらから一体なによぅ……」

 

 ――やあぬえ、今日はちゃんと早起きできて偉いじゃあないか。

 よりにもよってこんなときに、よりにもよってこんなタイミングで。だらしなく着崩れしたパジャマ姿と、寝癖がぴょんぴょん飛び跳ねた無防備な寝惚け眼。どこからどう見ても勘違いを加速させるとしか思えない恰好で登場したのは、水月苑の怠惰な居候こと封獣ぬえであり、

 

「――――――――――」

 

 八雲紫、真っ白に石化。

 

「……あー、紫。おーい」

「」

 

 天に召された妖怪の賢者が、サラサラと儚く風化を始めていく。

 

「月見様っ、ここに紫様が来て――ああ、遅かったか……」

 

 本日四人目の足音が聞こえ、主人を追いかけてきたらしい藍がひょこりと顔を出す頃には、紫はもう半分くらい砂になってしまっていた。

 嘆かわしいため息とともに、藍の九尾が床に力なく垂れた。

 

「申し訳ありません、月見様……朝食の支度をしてる間に、勝手にいなくなってて」

「だろうね。お疲れ様」

 

 まったくこの人はどうして静かに食事も待てないのか、とぶつぶつぼやいている。しかし一方では、手のかかる主人の完全復活にある種の喜びというか、なんだかんだで満更でもない気分でいるのが伝わってくる。かくいう月見も、朝っぱらからやかましいこの少女に不愉快な感情は欠片も抱いていないのだ。

 あるのはただ――ああこの日常が戻ってきたかという、懐かしさだろうか。

 ほんの冬の間、会わないでいただけのはずなのだが。

 

「……あのー、こちらの妖怪って……もしかして」

 

 さておき、紫が起きたのなら説明の場を開かねばならない。白蓮やぬえの存在に限らず、紫の暴走を防ぐためにきちんと話しておかなければならないことはたくさんあるのだから。

 というわけで。

 

「あとで説明するよ。朝食の支度に区切りをつけてきてくれるかい」

 

 まずは、砂になった紫を蘇生させるところから始まるのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 実のところぬえは、『妖怪の賢者』と呼ばれる大妖怪について、その名前以上の素性をほとんどなにも知らない。

 自分は長年地底に封じられていた身なので、話をしたことも会ったこともなかった。その名と存在をはじめて知ったのも、地底に地上の妖怪たちが移り住んできてからの話で、極めて漠然と、幻想郷を創りあげた神の如き妖怪だと聞き及んでいるだけだった。

 聖輦船で寝泊まりしていた頃は月見から話を聞く機会もあったが、正直あまり覚えていない。自分と縁もゆかりもない他人の話なんてすぐ忘れてしまうし、今後関わり合いになるとも当時はまったく考えていなかったので、まあとりあえずすごい妖怪なんだろうと勝手に想像し、勝手に自己完結していた。

 

「――なるほど、話はわかったわっ。白蓮ちゃん、あなたはこれから私のことをお母様とモガガガガ」

 

 しかしこうして、藍の九尾に頭から呑み込まれる姿を見ていると。

 意外と、普段からこの屋敷に集まっている他の少女と変わらないというか。こういっちゃあなんだが、ぜんぜんすごい妖怪に見えないというか。

 

「モガーッ!!」

「紫様、さすがにその発言はいただけません。黙っててください」

 

 むしろ従者の藍にしつけされているあたり、なんかダメっぽそうというか。

 水月苑の茶の間である。お役御免の時も近いこたつをみんなで囲みながら、八雲紫との顔合わせが行われていたのだが――現場の空気は、さながら聖白蓮の公開処刑の様相を呈していた。

 どういうことか。

 白蓮が、月見のことをこっそり『お父様』呼びしていると判明したからだ。

 だからじたばた暴れる紫の向かいで、白蓮がテーブルに突っ伏してひたすらぷるぷると身悶えしているわけなのだ。

 ぬえも、今はじめて知った。

 それで紫がいろいろ想像力逞しく勘違いしてしまって、火をつけられたねずみ花火みたいに暴走していた――というのが早朝の顛末だったらしく。

 

「白蓮……あんたそんなことしてたのね」

 

 白蓮がぐすっと鼻をすすった。バレてそこまで恥ずかしがるならはじめからやんなきゃいいのに、人間の考えることはぬえにはよくわからない。

 藍も、どうやってフォローしたものか頭を悩ませている風だった。

 

「確か、お前の弟が……そうなんだったね。月見様を困らせなければ、呼ぶだけなら自由だと思うけど」

 

 月見と白蓮の弟――命蓮にまつわる話は、さすがのぬえもまだ覚えている。それで弟の真似っこをしているということなのだろうか。血のつながった家族を遠い昔に亡くした人間としては、そういうのが心の拠り所になるものなのだろうか。やっぱり人間の考えはよくわからない。

 月見も言わんこっちゃないと苦笑気味だ。

 

「人に知られて困るような呼び方して、本当にいいのかいとは訊いたんだけどねえ」

 

 すなわち完全な合意の上だったとは言い難く、白蓮の方が半ば強引に『お父様』呼びしていたとのことで。

 とりあえず、白蓮にとって相当ハズカシイ状況なのはよくわかった。白蓮が突っ伏したまま、あうううううっとくぐもった涙声をあげた。

 紫が藍の九尾から脱出する。

 

「ぷは! ……もぉーなにするのよ、髪の毛もじゃもじゃになっちゃったじゃない!」

「ちょうどいいです、整えるついでに落ち着いてください。紫様が初対面の相手に賢者の威厳を見せつけられるとは欠片も思っていませんので、せめて虚言だけ申されませんように」

「ひどぉい!?」

 

 ここまで見た限りで、八雲紫という賢者の印象をいえば。

 前述の通り、日頃から水月苑に集まっている連中となんら変わらないごくごく元気な女に見える。賢者だからといって特別理知的なわけでも、大妖怪だからといって居丈高なわけでもなく、ひどく等身大で、喜怒哀楽の起伏豊かで、一喜一憂するごとに表情や言動が踊るように変わる。とても幻想郷最強格の妖怪とは思えないが、それを言ったらぬえが普段ここで出会う少女たちだって大概そうなので、まあ今更かという感じもする。鬼子母神に天魔、金毛九尾に吸血鬼に伊吹童子にフラワーマスターと、名前を挙げ始めればそりゃあもうキリがない。

 そして八雲紫の場合、月見に対してかなり高いレベルでご執心の様子だ。ぬえの推測では、蓬莱山輝夜や鬼子母神といい勝負。月見と白蓮がどんな関係なのか必死に問い質す様を見ていれば、もはやこれ以上の観察など不要なほどに明白だった。そんな彼女は両手でくしくしと髪を整え、

 

「えほん。……じゃあ話を戻すと、この件については私の杞憂ということね」

「はい……お、お騒がせしました…………」

 

 白蓮がようやく体を起こしたが、顔中からほっこほこの湯気を上げて今にも涅槃へ到達しそうになっている。顔がここまで真っ赤になっている人間を、ぬえはちょっとばかりはじめて見た。

 彼女は生まれたての子鹿みたいな声で言う。

 

「あ、あの、このことはどうか内密に……」

「まあ、わざわざ言い触らしはしないけど……私をお母様だと思ってくれるなら冗談です待って藍やめてごめんなさい食べないで」

 

 それにしても八雲紫は、本当に八雲藍の主人なのだろうか。主従が逆ではあるまいか。従者にしつけされる主人とはどうなのかと一瞬思うも、天ツ風操と犬走椛、西行寺幽々子と魂魄妖夢など、幻想郷では比較的よくある光景な気がして考えるのをやめた。

 

「え、えっと……じゃあ次は封獣ぬえ! あなたね!」

 

 藍のうごめく九尾から逃れるため、紫が突拍子もなく矛先を変えてきた。うわこっち来た、とぬえは内心面倒くさく思う。紫の陶磁器のような人差し指が突き立てられ、

 

「あなたはなんでここで居候してるわけ!? 変な理由だったら許しませんからねっ」

「そんなんじゃないってば」

 

 ぬえは頭を掻き、

 

「私はずっと地底に封印されてて、地上に出てきたばっかだから住む場所がなかったの。それで知り合いの月見のとこに転がり込んだだけ」

 

 ぬえとしては貴重な友人のつもりだが、ここは知り合いと言っておくのが無難であろう。筋が通った真っ当な理屈だろうに、紫は胡乱げな目つきを解かない。

 

「あなた、この白蓮がやってるお寺の妖怪と友達らしいじゃない。どうしてそっちにしなかったの? 敢えて男の人の家を選んだ理由はなに?」

 

 めんどくせえ。

 

「別に仏を信仰してるわけじゃないし。なのに私みたいな大妖怪がお寺で生活とか、ちゃんちゃらおかしいでしょうに」

「ほんとにそれだけ?」

「あとはまあ、温泉あるし、お布団ふかふかだし、こたつあったかいし、一日三食おやつ付きだし」

 

 紫の半目が月見にターゲットを変えた。

 

「随分甘やかしてるみたいじゃないの」

「ロクに手伝いもしない怠け者で困ってるよ」

 

 だったら怒るなり追い出すなりすればいいのにそうしないあたりはいかにも甘やかしているし、自分で言うのもなんだがぬえは独りぼっちが大嫌いだから、甘やかしてもらえるのが嬉しくてここで居候しているのもある。言えば絶対面倒なことになるので、この場では黙っておくけれど。

 月見は薄い笑みを見せて続ける。

 

「しかし、それももうすぐ終わりだ。マミゾウが近々こっちにやってくるらしいからね。そのときは、ぬえを襟首掴んででも連れていってくれるだろうさ」

「……は!? えっ、あのたぬきが幻想郷に来るの!? なにそれ初耳なんだけど!?」

 

 紫が腰を浮かせて目を剥いた。きめ細かく小さな手でテーブルをバシバシ叩く、

 

「つ、月見ーっ! またっ、また女を増やそうとしてるの!?」

「人聞きの悪いことを言うな」

 

 月見は眉をひそめ、

 

「ぬえとマミゾウは古馴染らしくてね。旧友が幻想郷で暮らし始めたと聞いて、マミゾウもこっちに住まいを移そうということだろう。私は無関係だよ」

 

 まあぬえの封印を解いたのは月見であり、ぬえがいま幻想郷で生活できているのは彼のお陰なので、無関係どころか思いっきり当事者なのだけれど――これもまた敢えては言うまい。

 マミゾウがもうすぐ幻想郷にやってくると思うと、ぬえは嬉しさ半分不安半分のやや複雑な気持ちになる。

 無論、またマミゾウに会えるのは嬉しい。それは間違いない。しかし彼女は他に類を見ない筋金入りの狐嫌いで、その点月見は銀毛十一尾の大妖狐であり、まさしく狐の中の狐というべき男である。この二人が出会ってなにも起こらないはずはないし、実際浅からぬ因縁もあるとうっすらとは聞かされている。

 十中八九マミゾウが一方的に突っかかっているだけだろうが、それでも友人二人が争うのを見るのは忍びない――そういう意味での不安だ。かといって自分が間で緩衝材になろうとすれば、マミゾウに「おぬしはこやつの肩を持つのか」と誤解されそうだし……なんとも悩ましい。

 紫はこれまた納得しない。

 

「わからないわよっ。そうやって嫌い嫌い言ってるやつに限って、内心ではなんだかんだ相手を認めてたり、実は意外と気を許してたりするの! そういうのが『てんぷれ』なんだって外の本で読んだもの!」

「はあ」

「紫様、また変な本読んだんですか?」

「ちゃんとした本を読まないみたいに言うのやめてくださる!?」

 

 賢者って一体なんだろう、とぬえは思う。ここまでの印象ではどうにも彼女、『賢い』という概念とはあまり縁がなさそうな少女に見えてしまうのだけれど。冬眠から目覚めたばかりでボケているのだろうか。

 

「……あ、あとは!? あとはなにもなかったでしょうね!?」

 

 これ以上なにかあるなら私そろそろ泣くわよ!? と紫が眼力で一生懸命アピールしている。しかし彼女の訴えも空しく、月見と藍は互いに目配せしてからこう答えるのだった。

 

「去年の終わり頃に、実はひとつ異変があってね」

「はい。今までの異変と比べても、なかなか事の大きいものが」

 

 紫が口を「い」の形にして固まる。

 

「無事に解決しましたので心配は無用ですが、その異変で月見様が成り行き上、式神を作ることになりまして」

「し、」

「地底に住んでいる地獄鴉なのですが」

 

 ほんの数ヶ月前の出来事のはずだが、そういえばそんなのもあったなあとぬえは遠い記憶のように思い出した。ちょっと出掛けている間に聖輦船がどこかに消えるわ、地底の様子がおかしくなって不穏な空気になるわ、独りぼっちでとても寂しい思いをしたのを覚えている。月見が地底にいてくれて本当によかった。そうでなかったらぬえは独り寂しく地底を彷徨うだけの妖怪と化し、そのまま独り虚しく新しい一年を迎えていたのだろう。

 再起動した紫が笑顔で問う。

 

「ねえ、藍。その式神って、女?」

 

 藍は、にっこり微笑んで答えた。

 

「女です」

 

 頬をリスみたいに膨らませ、涙目で月見を睨みつける賢者ができあがった。

 

「……まあ待て。これにはちゃんとした事情があってだね」

「月見はいっつもそうよ! 庭にあの人魚が住みついただけでもアレなのに、その上義娘(むすめ)と居候と式神ですって!? どーせ私は忘れられていくだけの古い女ですよぉーだ!」

 

 幻想郷を司る賢者にとっては、異変の詳細よりもそっちの方が遥かに重要な話らしい。今度は紫がテーブルに突っ伏してうえええええと泣き始め、月見は鼻からため息をつき、藍はどこか楽しげな微笑を眉ひとつ動かしもしない。

 

「……なあ、藍。紫って、冬眠明けはこんな感じだったか?」

「多少精神面が後退するのはいつものことですが、今年は例年より顕著ですね。やはり月見様がいらっしゃるからでしょうか」

 

 八雲紫という妖怪が、ぬえにはよくわからない。

 

「では、私たちはそろそろ戻りますね。朝食を片付けないとなりませんし……ほら紫様、一旦帰りますよ」

「うう、ぐすっ……なんで藍はそんなに冷静なのよ。これは私たち古参妖怪のピンチよ、もっと危機感を」

「冬眠明けですから、食後は特別にケーキを」

「はいはい食べる食べるぅ! なにしてるの藍はやく帰りましょっ!」

 

 よくわからない。

 なにもなかったはずの空間に突如『スキマ』とやらが開き、まるで妖怪の目々連(もくもくれん)が棲んでいるかのような、無数の瞳で埋め尽くされた赤黒い空間が垣間見える。なんでも紫の『境界を操る程度の能力』の一端であり、離れた場所と場所をつなぐ異次元の扉とすべき空間であり、故に紫は一部からは「スキマ妖怪」なんて呼ばれているそうな。

 正体不明を愛するぬえとしてはなかなか好みなデザインだったが、横で白蓮は口の端を引きつらせていた。

 

「じゃあ月見! 一旦帰るけど、あとでもっと詳しく聞かせてもらうんですからねっ」

「はいはい、ゆっくり食べておいで」

 

 紫と藍がスキマの向こうに消え、そしてスキマもまた(くう)に溶けて、水月苑に本来あるべき朝の静けさが戻ってくる。

 しばしの無音をしみじみと感じながら、ぬえはひとつ、呼吸を置いて。

 

「なんていうか……春一番みたいな妖怪だったわね」

 

 まさしく、暖かくなってきた頃に突然やってくる小さな嵐のような。どこからともなく到来しては世間を騒がせ、かと思いきやあっという間にどこかへ消えてしまうあたりがなんともそれらしい。

 違いない、と月見もおもむろに頷く。

 

「一応、あれでも幻想郷を創りあげた妖怪だよ。よろしく頼む」

「お、思っていたより個性豊かな方で……ええと、」

 

 白蓮が頭を精一杯ひねって、ひとつひとつ言葉を選び抜きながら、

 

「私ったら、勝手に……その、聖哲というか、厳格な方なのだとばかり」

 

 なるべく当たり障りのなさそうな表現をしてはいるが、要するに「賢者らしい威厳がなかった」と言っているのと同じだったし、実際ぬえもそう思ったし、月見も否定はしなかった。

 

「オンとオフの差が激しいというか。やるときはきちっとできるやつなんだが、何分普段はあんな具合さ」

「いかにもあんたの古馴染らしいじゃない。そういうやつらばっかでしょ、あんたの周りって」

 

 ここで居候を始めてもう三ヶ月程度だが、ぬえは月見に対して完全な『オン』で接している少女を未だかつて見たことがない。月見の前ではよそいきの仮面を外し、一人の女としてのびのびと自由に振る舞う。もしくはオンで接そうとはするものの、上手く行かずボロだらけの姿を晒してしまうかのどちらかだ。

 

「それを言ったらお前だってそうだろう。毎日惰眠を貪ってばかりで、とても伝説の大妖怪とは思えないぞ」

「そうですよね……ぬえさんも、実はすごい妖怪なんですよね」

「あんたも、実は妖怪と素手で殴り合いできるとんでもない人間だけどね」

「そ、そんな野蛮なことしませんよっ?」

「うん? 確かお前、『お稽古』とやらでいつも水蜜と一輪をボコ」

「あ、朝ごはん! 私たちも朝ごはんにしましょうかっ!」

 

 露骨に逃げやがった。もっとも逃げたところで、ぬえも月見も当事者である二人からバッチリ愚痴を聞かされているので無意味なのだが。

 白蓮に続いて、月見ものんびりと腰を上げた。

 

「どれ、私も手伝うよ」

「あ……ありがとうございます。助かります」

「……」

 

 それにしても、まあ。

 月見に手伝うと言ってもらえた白蓮のこの満ち足りた笑顔といい、二人並んで台所へ向かう後ろ姿といい。

 他人に知られたら解脱昇天しかけるほど恥ずかしがる有様だったのに、それでも白蓮は月見を「お父様」と呼んでいた。やや天然で抜けている一面こそあれ、白蓮は決して愚鈍な人間ではない。人間はよくわからないという言葉で片付けるのは簡単だけれど、ひょっとすると彼女は、バレたときの赤っ恥などはじめから覚悟の上だったのではあるまいか。

 たとえいつかバレてしまうとしても、今はそう呼んでいたいと。

 白蓮にとって月見とは、それほどまでの妖怪なのではあるまいかと。

 そんなことを考えながら、ぬえはふてぶてしく頬杖をついてぼそりと、

 

「……親子仲がよろしいことで」

「きゃふ!?」

 

 廊下に一歩出るなり白蓮が滑ってコケた。

 なるほどこれは、からかいネタとしてはなかなか優秀そうだ。

 

「……ぬ、ぬーえーさーんーっ!?」

「あはははちょっとした冗談だよ冗だ――ちょっと待ったストップストップいやいやいやいやいくら妖怪でも関節極められたら痛い痛い痛いってば待ってやめてごめんなさいすみませんでした調子乗りましん゛に゛ゃ――――――――ッ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……さて、今日は一日なにをしようかしら」

 

 自分でいうのもなんだが、古明地さとりは仕事(デスクワーク)がデキる女である。

 元々筋金入りのインドア派だし、趣味が高じてか何時間机に向かっても苦痛を感じない体質だ。おまけに字は上手い方だと自負しているし、一般常識は問題なし、計算能力だってそうマズくはない。豪放磊落(ごうほうらいらく)とした鬼たちがまとめ役の中心となっている旧都では、この手のデスクワークに向いた几帳面な人材というのがなかなか多くないらしい。なので藤千代経由で雑多な書類を回してもらい、旧都の経済を陰ながら支えるのがさとりの昔からの仕事であった。

 そんなデキるキャリアウーマンこと古明地さとりは、期限間近の書類を昨日の時点で完璧に片付け、今日は丸々一日フリーである。

 妹やペットたちと穏やかな朝食を終え、一度自室まで戻る廊下の途中で、今日という休日をどうやって過ごそうかと黙々思案に耽っていた。

 とは、いえ。

 

(まあ、選択肢なんて多くないんだけど)

 

 引きこもりのさとりにできる休日の過ごし方なんて、趣味の執筆に没頭するか、手当たり次第に本を読むか、汚いわけでもない部屋を掃除するか、のんびりとペットたちの世話をするかのどれかくらいなものだ。今までのさとりであれば、そんな休日を物足りないと感じることもなかったけれど。

 

(……どうせなら、月見さんが遊びに来てくれればいいのに)

 

 そうもどかしい気持ちに駆られてしまって、建設的な思考ができなくなっている自分がいた。こういうときはつくづく、月見という存在が地霊殿にとってどれほど大きいかを再認識させられてしまう。地霊殿の主として年長者ぶってはいるが、本当はこいしやおくうを見て笑える立場ではないのだ。

 せっかくの休日なのに、なんとも悩ましい一日になりそうだ――小さくため息をついて、自室のノブに手を掛けようとした。

 

「ごめんあそばせ」

「え、」

 

 声がした。真後ろから。

 あまりに不意打ちすぎたせいで、脳が『驚く』という反応にも至らなかった。

 なにもないはずの空中から、突拍子もなく女の体が生えていた。

 

「――、」

「はあい。お久し振りですわね」

 

 人間も妖怪も、本当に予想外のことが起こると声ひとつ上げられず凍りつくものなのだ。

 

「覚えていらっしゃるかしら。八雲紫ですわ」

「……え、あ」

 

 幸いにも向こうが名乗ってくれたことで、さとりの脳が慌ただしく再起動を始める。可及的速やかに記憶をひっくり返す。それは月見が時折口にしていた古馴染の名前であり、名乗られてみれば顔にはぼんやりと見覚えがあり、確かさとりたちが地底へ移り住んで間もなかった頃の、

 

「思い出してくださいました?」

「……はい。ええと、お久し振りです」

 

 妖怪最強とも噂される強大無比な能力で、幻想郷という世界を創りあげた賢者――八雲紫。

 スキマと呼ばれる異空の扉から上半身を覗かせ、どこか底の見えない妖艶な笑みでさとりを見下ろしていた。……こうして面と向かって会話をしたのは、この地霊殿が完成して、さとりたちが灼熱地獄跡の管理をすると決まったとき以来になるはずだ。数百年の歳月は妖怪にとっても短くはなく、お陰で名乗られるまでどこの誰だか完全に忘れていた。そういえば冬の終わり、すなわち春の始まりは、彼女が冬眠から目を覚ます時期だったか。

 それにしても、とさとりは身構える。さとりは別に名のある妖怪というわけではなく、八雲紫とは知り合いとすら言い難い。本当に、仕事の都合上で顔を合わせたことがあるだけだ。故に、恐らくは冬眠から目覚めてまだ間もないであろう彼女が、わざわざ地霊殿までなんの目的でやってくるのか心当たりが

 

(――あ)

 

 ない、とまで考えかけたところではっと気づき、それからさとりは全身の血の気が緩やかに落ちていくのを感じた。

 八雲紫は、幻想郷の管理者である。

 

「突然の訪問、大変失礼いたしますわ。実は私の式神から、少々気になる報告を受けたもので」

 

 冬、彼女はその任を離れて深い眠りに就いていた。その間に幻想郷で事件があったとなれば、たとえそれが無事に終わったものだとしても、事の次第を(つまび)らかにしてひとつの判断を下す立場にある。

 そう考えたときさとりたち地霊殿の住人は、八雲紫から決して看過してはもらえない大事件を起こしているのだ。

 

「なんでもここの妖怪が、冬の間に異変を起こしたとか」

「……、」

 

 八雲紫はあくまで、妖艶な笑みを崩さなかったが。

 それが反って言葉以上の重圧を持って、さとりの両肩に天高くからのしかかってきた。

 

「なかなか、大変な異変だったそうで。危うく、旧都が灼熱地獄に呑み込まれるところだったそうですわね」

「…………、」

「もしそうなれば、地上――幻想郷もどうなっていたか」

 

 ――さとりに、八雲紫の心は読めない。

 森羅万象の境界を操るという規格外の能力で、そういう風(・・・・・)に操作しているのだという。故にさとりには、紫が言わんとしていることを精一杯推測するしかない。そして、推測した先に行き着く答えはひとつしかない。

 

「結果的に事なきを得たとはいえ、幻想郷の賢者として見過ごせません。古明地さとり、真摯に答えなさい」

 

 地霊殿の主であるさとりの責任追及、ないしは異変を起こしたこいしやおくうの処罰のため――。

 さとりの背筋を、気のせいではないうっすらと冷たい汗が伝って、

 

「――月見の式神になったっていう霊烏路空ちゃんはどこ!? 月見の式神なんてズル、んっん、ともかく私の目に適う妖怪じゃないと認めませんからねっ!」

 

 …………は?

 気のせいだろうか。八雲紫のまとっていた賢者としての重圧が一瞬で吹っ飛んで、なんかぷりぷりと怒り出したのだけれど。

 

「月見が進んで誰かを式神にするなんて思えないから、きっと事情があるのでしょう。でもね、理由がなんであれ、月見の式神という立場は大きな責任と相応の自覚が伴うの! 今日はそのあたりのお話をしに参りましたわっ」

 

 ……………………ええと。

 まずは、目の前の少女は本当に八雲紫なのか、というところから始まった。冷静に考えて別人に入れ替わったはずもないのだが、思わずそう考えてしまうくらいの落差だったのだと理解してもらいたい。

 まだ頭が追いついていない中で、一応尋ねてみる。

 

「あの……異変の責任とか、そういうのを追及しにいらっしゃったのでは」

「異変はちゃんと解決したんでしょ? ならいいの!」

 

 いいんだ。

 スキマの奥から見覚えのある金毛九尾が湧き出し、あたかも紫を捕食するように一瞬で引きずり込んだ。

 声、

 

「もがーっ!!」

「紫様……あなたはなんでそこでスイッチを切っちゃうんですか? どうして最後まで真面目にできないんですか。やればできると感心した私が馬鹿だったんですか」

「私は至って大真面目よっ! これは今後の幻想郷にも関わる重大な話、そうでしょう!?」

「なんでこんなに自信満々かなこの人……」

 

 そこで思考が目の前の状況に追いついたさとりは、ああ、と静かな理解の吐息をこぼした。

 月見の心を読んだときに時折現れていた、これが『少女』としての八雲紫の姿なのだ。賢者の二つ名からは想像もできないくらい茶目っ気たっぷりで、弾け飛ぶように天衣無縫で、少々ドジでぽんこつ気味で、けれどそれ故に誰からも憎からず思われるけんじゃさま。ひとたび理解できれば意外だとは思わなかった。なぜならば、月見の周りに集まる妖怪の少女とはみんなそういうものなのだから。

 本当は幻想郷指折りの実力者なのに、さとりなんて道端の石ころ同然の強大な力を持っているのに、だからといってなにも特別なものはなく、どこにでもいる普通の少女となんら変わらない。

 八雲紫もまた、そんな少女の一人だったのだ。

 

「藍はちっともわかってないわっ。いいこと? 月見の周りに新しい女が増えれば増えるだけ、私たち古い女っていうのは忘れられていくのよ! これは私たちの存在を懸けた闘いなのっ!」

「まあなにを言いたいのかはなんとなくわかりますけど、いいから落ち着いてください。常に賢者モードでいろとは言いませんが、ここは水月苑じゃないんですから。最低限の品位は持ってください」

「最低限の品位すらないって言ってる!?」

「……あのー、」

 

 それで彼女は幻想郷を管理する大妖怪としてではなく、あくまで月見の友人として地霊殿を訪ねてきた、ということでいいのだろうか。気を抜けばあっという間についていけなくなるこのはちゃめちゃ感、いかにも月見の友人らしくて大変結構なのだけれど、さとりは一体どうすればいいのか。

 スキマから藍が顔を出した。

 

「やあ。朝から騒がせてしまって申し訳ない」

「あ、いえ……」

「何分冬眠から起きたばかりで、元気が有り余ってるらしくてね。人様を訪ねるときくらいはちゃんとしてほしいんだけど……」

 

 藍のため息は、何百年と紫の従者を務める中でもはや逃れ得ないと悟った諦めのため息だった。苦労してるんだなあと、さとりは妹の姿を思い浮かべながら親近感を抱く。

 スキマの奥から声、

 

「ちょっと藍、放してよぉ!」

「ちゃんと品よくやってくださいよ?」

「ええ、任せてちょうだいなっ」

「だからなんで自信満々かなこの人」

 

 藍の上半身が引っ込み、上向きに開いていたスキマが一旦閉じて、すぐに天井近くから下向きに口を開ける。そこから八雲紫がふわりと飛び降りてくる。あたかも一枚の花びらか羽毛が舞うような、体重を感じさせない不可思議な着地だった。

 重圧は感じないが、自分とは違う次元の存在だと直感で理解できる、近づきがたい怜悧な佇まいだった。なるほど賢者としての顔と少女としての顔、ここまで変わるのなら『賢者モード』という表現も言い得て妙かもしれない。

 

「こほん。……というわけで、霊烏路空という妖怪に会わせていただけないかしら。私、気になるの」

「それは、構いませんが……」

 

 続けて藍が紫の背後に降り立ったのを見つつ、さとりは眉を下げ、

 

「ただ、おくうはだいぶ人見知りが激しくて……特に初対面の方にはすごく警戒して、会話も上手くできないくらいなんです」

「お気遣いなく」

 

 八雲紫は右手の扇を開き、そこに描かれた銀の月夜の景色とともに淡く微笑む。

 

「霊烏路空が、式神として優秀か未熟かは関係ありません。ただ、彼女という妖怪のありのままを見定めたいのですわ」

「変なことはしないから安心してくれ。もし紫様が勝手をするようなら私がぶっ叩いて止めるよ。いつものことだからね」

「ねえ藍、私がちゃんと真面目にやってるんだからあなたも真面目にやりましょ? ね? それだと私がいつもぶっ叩かれてるみたいに聞こえちゃうでしょ?」

「実際そうかと」

「そんなわけ、……ない、ともっ、言い切れないけどお!」

 

 藍のいじわる! とまた賢者モードが吹っ飛んだ紫を見ていると、さとりもなんだか肩の力を抜けた気がした。

 藍の心を通して、紫がどうしておくうの存在を気にしているのか伝わってくる。……なるほどこれはひょっとすると、ある意味では(・・・・・・)紫のお眼鏡に適わないなんて話になってくるかもしれない。さあ、どうするおくう。これまたなかなかの強敵よ。

 

 というわけで、所は地霊殿の応接室に移る。片方のソファにさとりとこいしとおくう、向かいのソファに紫と藍が座り、簡単な自己紹介やおくうが式神になった経緯などを説明する。そのあいだ紫は口数少なく、好意的とも否定的とも取れない寡黙な瞳でおくうを見つめ続けていた。

 

「う、うにゅ……」

 

 案の定おくうは控えめな警戒心を露わに、指先でさとりの袖をつまんだまま離そうとしない。幻想郷で一番偉い大妖怪の訪問とあって緊張も並々ではなく、自己紹介のときは物の見事に噛み噛みなおくうであった。名前が「霊烏路うにゅほ」だった。一方でこいしは今日も今日とて失礼なくらい元気はつらつで、さとりが話している間も両足をぶらぶらさせてまったく落ち着きがないし、なにが楽しいのか小さく鼻歌まで歌っている。今だけでも二人を足して二で割れたらちょうどいいのだけれど、とそんな考えがさとりの頭をちらりと掠める。

 そんなこんなでさとりの話もひと通り片付き、膝の上でのんびり丸くなっているお燐を撫でながら、十秒少々。必要最低限の相槌以外は沈黙を保っていた紫が、ようやく口を開く。

 

「なるほど……神様の御霊が宿っている以外は、本当に普通の妖怪ね。普通すぎるくらい」

「はい。戦いはできませんし、人間を食べることもない優しい子です」

 

 妖怪として強いかどうかをいえば、下から数えた方が圧倒的に早いだろう。ひょっとするとさとりでも勝てるかもしれない。今でこそ大妖怪をも凌駕し得るだけの力を宿しているけれど、本来のおくうはどこまでいっても『ただの鴉』に過ぎない少女なのだ。

 なにも特別な能力なんて持っていないし、性格ひとつ見てもなにかと欠点が多く目立つ。人見知りで不器用で口下手でヤキモチ焼きで、平常心に欠けるし頭もいいとはいえない。銀毛十一尾たる月見の式神としてふさわしいかなど、論じる以前の問題――それが、極めて客観的におくうへ下される評価だろう。

 しかし紫の頬には、「まったくもう」と白旗を上げるような微笑があった。

 

「こんな子のためにあれこれして、しょうがないんだから」

 

 彼女の心の声は、あいもかわらず聞こえないままだけれど。

 曲がりなりにも女の直感とでもいおうか――ああこの人は本当に月見さんのことを好きなんだなと、さとりは腑に物が落ちたように理解した。さとりの話を聞いている間、頭を過ぎった言葉は他にたくさんあったはずなのに。考えているうちにそれがぜんぶ引っ込んで、気がつけば「まったくもう」に変わってしまった。そんな自分に思わず気が抜けたような笑顔だった。

 女ながら、不覚にもどきりとしてしまった。

 

「……ふたつ、聞かせてくれないかしら」

 

 紫にまっすぐ柔らかな瞳で見据えられ、おくうの肩がかすかに震えた。

 

「話を聞く限り、こうして八咫烏の力を鎮めることができたなら、あなたが月見の式神でい続ける理由はなさそうに見えるわ。それはどうして?」

「っ、」

 

 続けざまに今度は大きく震える。それは昨年のクリスマスパーティーで、神奈子がおくうに尋ねたのとほぼ同じ疑問だった。そしておくうにとっては答えるのが恥ずかしすぎて、早くもこの場から逃げ出したくなる禁忌の質問でもあった。

 一瞬で赤くなって固まったおくうを、さとりと藍はにこにこしながら微笑ましく見守る。おくうが心の中で、なんだかよくわからない奇声をあげながらあっちにこっちに走り回っている。沈黙のまま五秒が過ぎ、十秒が過ぎ、やがて十五を数えたところでこいしが元気よく手を挙げて答えた。

 

「はい! 八咫烏の力とか関係なく、おくうが月見の式神でいたいからですっ」

「にゃあああああ――――――――っ!?」

 

 おくうがこいしを全身で押し潰した。それがなによりも雄弁な回答となった。紫があくまで穏やかな表情のまま、音もなく扇を開いてそっと口元を隠した。

 

「……なるほど、やっぱりそういうこと……」

「ううっ……」

 

 おくうがじわりと涙目になる――が、決してこいしの発言を否定まではしない。咄嗟に違うと叫ぼうとするおくうを、もっと素直な女になると決めたもう一人のおくうが止めた結果だ。他でもない賢者様の前なので、さとりは顔が失礼な具合にならないよう全身全霊で我慢した。

 

「おくう、重いよー」

「こ、こいし様が勝手に答えたりするからじゃないですかっ」

「賢者様はおくうのことを聞きに来たんだから、ちゃんと答えなきゃダメだよー」

「う、うー……!」

 

 果たしておくうは気づいているのだろうか。せめてそこだけでも否定しなければ、こいしの回答が他でもない『ちゃんとした答え』だったと完璧に認めてしまうことになるのだが。

 おくうとこいしが体を起こすと、紫が小気味よい音とともに扇を閉じた。

 

「じゃあ、ふたつ目の質問です。――あなたにとって、月見はどんな存在?」

「――、」

 

 予想では。

 この質問を聞いた時点でさとりは、これまたおくうにとっては触れられたくない禁忌の問いだと思った。月見をどう思っているかなんて、あのおくうが冷静かつ素直に答えられるはずもない。だから彼女は次の瞬間またあわあわと取り乱して、さとりに大変甘美な心の声を流し込んでくれる。そう信じて疑わず、さとりは口の端がつりあがらないように改めて頬の筋肉を締め直した。

 しかし。

 

「……、えっと」

 

 おくうは狼狽えるどころか、きょとんと小首を傾げて。

 それがどうかしたのかと問い返すように、すんなりこう答えてみせたのだった。

 

「ご、ごしゅじんさま…………?」

 

 ――なるほど、そう来たか。

 よもや、ほぼ即答。わずかに言い淀む間こそあったが、それは答えを躊躇ったからではなく、純粋に質問の意図がわからなかったからだ。どうしてそんなわかりきったことを訊くんだろう、普通に答えていいのだろうか、なにか裏があるのではないのか、と。

 これは、さとりを以てしても読みきれなかった想定外の結果だった。

 無論、おくうの答えは紛れもない本心だ。本気でそう思っている。おくうは月見の式神なのだから、その認識自体に間違いや問題はなにもない。おくうはただ事実を口にしただけだ。

 けれどおくうが、その事実を口にすることをなにひとつ躊躇わなかった点は注目に値する。今のおくうは、月見が自分のご主人様であると心から認めている。至極当たり前のことだと思っている。はてさて口の端がつりあがるのをどうにも抑えられないのは、果たしてさとりだけであろうか。

 間があった。紫が再度開いた扇で口元を隠し、さとりとこいしと藍は一層にこにこして、膝の上のお燐が肩を竦めるように大きくあくびをした。そこでおくうはようやく、自分がみんなの予想と異なるなにかをしてしまったと気づいたようだった。

 

「え、な、なにか変ですか!? だってそうですよね!?」

「ええ、そうね。なにも間違ってないわ。なにも間違ってないのよ、おくう」

「そうそう! おくうは月見の式神だもんね!」

「もう月見ったら。月見ったらもう。ふふふふふ……」

「いいのではないですか。式神になりたてだった頃の橙みたいで、微笑ましいです」

「ふにゃー」

 

 よくわからないおくうは頭の上で大量の疑問符を量産している。紫が両手で丁寧に扇を閉じ、緩く吐息しながらそれを膝の上に置いた。

 

「……わかりました。あなたが式神として月見の害になることはなさそうだし、とりあえずはよしとしますわ」

「だって。よかったわね、おくう」

「?? ???」

「けどね、」

 

 ぽつりと付け加える。それと同時にさとりは、紫がここまで維持し続けてきた賢者オーラに亀裂が入っていくのを感じた。そして向かいの藍が心の中で、ああまた始まったと天井を振り仰いだその直後、

 

「――これだけは言わせていただくわ! 私と月見はあなたたちよりずっとずーっと、ずうーっと昔からの仲なの! 新参者に割って入る余地なんてありませんからねっ」

「はいは――――――い!! 異議あり異議あり――――――っ!!」

 

 少女モードに戻った紫がぷりぷり怒り出す、こいしがすかさず立ち上がって挙手する、

 

「地上の人たちばっかり月見を独り占めしてズルいです! 私たちも地上に行きたーいっ!!」

「ダメですーっ! 不可侵の約定を知らないなんて言わせないわよ!」

「月見とか鬼子母神様とか無視してるじゃん!」

「あ、……えっと、あれは二人が例外なの! 二人は幻想郷でも重要な妖怪だから、そういう枠組みに囚われず」

「去年のクリスマスに、地上の人たちがたくさんここに来てパーティーしたよ! そこの藍も来た!」

「藍?」

 

 藍はさっと視線を逸らした。

 

「月見と鬼子母神様も、いつか地上においでって言ってくれてるもん!」

「…………ま、まあ、そのあたりは後ほど確認させていただくわ。ともかく、私は冬の間ずっと寝ていたの! だからしばらくは私が独り占めしますわ!」

「ズル――――――いっ!! おくうもそう思うでしょ!?」

「うにゅ!?」

「はい二対一! 私たちの勝ちー!」

「ふーんだ、私は大妖怪で賢者だから一人で三票分ですー! 三対二で私の勝ちですーっ!」

「なにそれーっ!!」

 

 紫には大変申し訳ないのだが、さとりは若干遠い目をして思う。賢者って、一体なんだろう。

 藍も、瞳の焦点が遠い青空だった。

 

「こんな感じの御方だけど、よろしく頼むよ……」

「……藍さんも、大変なんですね」

 

 こいしと苛烈な月見争奪戦を繰り広げるこの姿が、もしも八雲紫の平常運転であるならば。自由奔放すぎる妹に日々振り回されている身として、藍とは互いに有意義な酒が呑めそうだった。

 

「でも、なんていうんでしょう、ちょっとほっとしました。やっぱりこの方も、月見さんのご友人なんだなって」

「そう前向きに考えてもらえると助かるよ。でも力だけは本当に凄まじい方だから、困ったときは」

「独り占め反たぁ――――――いッ!!」

「なによちょっとくらいいいでしょずっと出番なかったんだから――――――っ!!」

 

 二人の裂帛に耳を貫かれ、さとりと藍はすっと黙る。

 それから、どちらともなく破顔一笑する。その瞬間、さとりと藍は完全に以心伝心した。今だけはさとりの心も、一から十まで余すことなく藍に伝わっているはずだった。

 鏡合わせでゆっくりと腰を上げて、たっぷりと大きく息を吸って。

 

「――こいし、いい加減にしなさい!!」「紫様、いい加減にしてください!!」

「「ぎゃんっ!?」」

 

 さとりは平手で、藍は尻尾で。

 いかんせん女らしいお淑やかさに欠ける妹の、ないしは主人の脳天を、すぱぁん! とお互い鮮やかに一閃した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――遂に起きたのねスキマアアアァァ!! ここで会ったが百年目よおおおおおっ!!」

「えーえー起きたわよ起きましたよ出たわねこの駄姫様ぁ!! いい加減に引導を渡してあげるわ覚悟しなさあああああい!!」

 

 はてなにかを忘れている気がすると、喉に小骨が引っかかったような感覚は覚えていた。

 紫が目覚めたことで幻想郷に本来の日常が戻ってきたのは周知の通りであるが、その割にはまだなにかが足りないと感じる。さながら瞳の欠けた竜の絵画を見ているかのごとき違和感は、その日の昼下がりになるまで月見の胸の中にわだかまっていた。

 そして輝夜が本日も元気はつらつとやってきたことで、すべての疑問は氷解したのである。

 

「そうかそうか、これを忘れてたんだな」

「ですね」

 

 すなわち、紫と輝夜のキャットファイト。因縁の二人は数ヶ月振りに出くわすなり闘争心をむき出しにし、早速茶の間の隅っこでとっくみあいのケンカを始めた。二人の言い争う声やら頭をぺちぺち叩き合う音やらを聞きながら、月見と藍は胸中のもやが晴れた心地でお茶をすすった。

 

「……いや、止めなくていいのあれ?」

 

 ぬえが半目になりながらもっともなことを言う。しかしながら今日という日に限っては、思う存分ケンカさせてやるのが正解なのだ。

 

「いいんだよ。ケンカするほどなんとやらだ。ほら、二人ともいきいきとした顔をしてるだろう?」

「……まあ、生命力は感じるけど」

「あの二人は前々からああさ。冬の間ずっとご無沙汰だったから、久し振りにぶつかれて嬉しいんだろう」

「「嬉しくないッ!!」」

 

 口ではなんとでも言えるのである。

 朝こそ騒々しい始まりだったものの、あのあと紫はすぐに挨拶回りや結界の調整など、冬の間溜まった諸々の用事を済ませに出掛けたので、水月苑はといえば今までとなんら変わらない穏やかな一日であった。屋敷の家事をある程度片付け、文々。新聞で情報収集をし、春に変わりゆく庭を散歩しては、その間に公園感覚でやってくる少女たちを出迎えしていた。用事にひと区切りをつけた紫が、藍とともに戻ってきたのが三十分ほど前。今はちょうど輝夜以外の客足も途切れ、みんなで昼下がりの一服を楽しんでいたところだった。

 

「そういえば、月見様」

「うん?」

「あ、ほんとに放っとくんだ……」

 

 もう少ししたら、仲良く外に飛び出して弾幕ごっこを始めるだろう。藍はもはやケンカする二人に一瞥もせず、

 

「紫様と方々(ほうぼう)を回るついでで、佐渡にも立ち寄ったのですが」

「ほう。というと、マミゾウか」

 

 藍が首肯し、ぬえが丸めていた背中をぴんと伸ばした。声があからさまに明るくなり、

 

「マミゾウと会ってきたの?」

「ああ。紫様がね、いつこっちにやってくるのか直接話を聞きたがって」

「いつって言ってた?」

 

 やや前のめりになって、矢継ぎ早に尋ねる。旧友と数百年振りの再会が近いとあって、さすがに目に見えて浮ついた様子だ。

 

「予定では、明々後日だそうだ」

「へー……!」

 

 明々後日かあ、とぬえが小躍りするように桃を口に運ぶ。明々後日か、と月見はいわく言い難い心境で茶を口に運ぶ。無論マミゾウを嫌っているわけではないが、あの超絶狐嫌いがいよいよ幻想郷にやってくるとなればどうしても身構えてしまう。年を食って角が取れる程度なら、ぬえへの手紙に『戦支度』なんて物騒な単語は並べないだろう。

 藍は続ける、

 

「それで紫様が、月見様のことをお話になりまして。そうしたらあの女狸、戦の支度をするなどと言い出したので、紫様と適当にのしておきました」

 

 今なんと?

 

「月見様に戦を仕掛けるなんて二度と考えられないように。もしかすると、こっちに来るのが少し遅れるかもしれませんね」

「「……」」

 

 ……マミゾウの狐嫌いに、拍車が掛かっていなければよいのだが。

 

「……うん、まあ、元気そうでよかったわ。今が元気かは知らないけど」

 

 ぬえが、上手く言葉が出てこないけどとりあえず、と書かれた表情でそれだけ言った。月見も言葉が見つからない。マミゾウの迂闊な発言が招いた結果とはいえ、さすがに少々不憫であった。

 紫が裂帛した。

 

「あーもーしつこいわね!! わかったわ表に出なさい弾幕ごっこでコテンパンにしてあげる!!」

「上等よ!! 冬眠ボケしてるあんたで勝負になるのかしらねー!?」

「なりますー!! むしろ今の私はぐっすり休んでベストコンディションなんだから! 遠吠えしながら永遠亭に帰るがいいわっ!」

 

 月見の予想通り、とっくみあいだけでは満足できず外で弾幕ごっこを始めるようだ。畳をまったく同じリズムで踏み鳴らしながら出て行った二人を、目で追ったのはぬえだけだった。月見と藍はただ瞑目し、二人が玄関から外に飛び出したのを音で確認してから、

 

「――では、そろそろ夕飯の仕込みを始めましょうか。橙を呼びます」

「ああ。ほらぬえ、お前も手伝え。みんなでやるぞ」

「……うん。もうなにも言わないわ」

 

 少女たちの仲睦まじいケンカなど、水月苑では極めて日常茶飯事なのである。

 

「あ、あのお二人とも、ケンカはダメで――ひええええーっ!?」

 

 ……そして、わかさぎ姫がなぜかピンポイントで巻き込まれるのも。

 盛大に水柱の上がる音が聞こえ、それっきりわかさぎ姫の叫びが途切れる。ぬえをこたつから引っ張り出しながら、夕飯にはひめも呼んであげようと月見は思った。

 

 

 

 

 

 弾幕ごっこは、宣言通り紫の快勝だった。

 ぐっすり休んでベストコンディションというのはあながち伊達でもなかったらしく、輝夜にスペルカードを一枚も破らせない完璧な試合内容だった。輝夜は大変納得がいかない様子だったが、「ま、あんたにとっちゃ久し振りなんだし、今日くらいは引いたげるわよ」とすんなり諦め、月見の背中にくっついて一度たっぷり深呼吸をしてから、ほくほくした様子で竹林に帰ってゆくのだった。

 その後は橙も交えて夕食の卓を囲み、冬の思い出話に大きな花を咲かれば、いつしかとっぷりと夜だった。

 当初は酒も入れつつ遅くまでの宴になるかと思われたが、紫がうつらうつらと睡魔に襲われ出したことでお開きの雰囲気になりつつあった。朝のうちからスキマであちこちを回って、マミゾウをのしたり輝夜と弾幕ごっこをしたりと散々運動をしたのだから無理もない。眠気はほどなく橙にまで伝染し、よい子はもう寝る時間なのだと月見たちに教えてくれた。

 交代で入浴を済ませ、月見が座敷に戻る頃には、紫と橙がテーブルに頭を乗せて仲良く舟を漕いでいた。

 苦笑。

 

「ほら、こんなところで寝ると逆に疲れるぞ」

「んむぅ……」

「んみゅぅ……」

 

 紫も橙も、すでに半分夢の世界へ旅立っていて会話もままならない有様だった。藍の姿が見えないのは、二人のために急いで布団を支度してくれているからだろう。ぬえは月見が入浴する前に、妖怪らしく夜遊びへと出掛けていった。

 紫の向かいに座り、頬杖をつく。この世に悩みなどなにひとつ存在していないかのような、紫の大層スキだらけな寝顔が見える。

 

「……これで、この世で一二を争うくらいの大妖怪だっていうんだからねえ」

 

 どこからどう見ても、よく笑ってよく怒ってよく泣いてはよく眠る、普通の年頃の少女としか思えないのに。

 妖怪の月見が言うのもなんではあるが、妖怪とはつくづく摩訶不思議な生き物だ。

 藍が戻ってきた。

 

「あ、月見様」

 

 月見は軽く手を挙げ、

 

「二人とも、もうだいぶ眠そうだ」

「はい。いま、布団を敷いてきました」

 

 少し声量を抑えて言うと、藍も同じく控えめに応えた。月見は二人の手前でテーブルを軽く指で叩き、

 

「紫、橙。歩けるかい?」

「「……むぅ~……」」

 

 ダメそうである。両腕を枕にしたまま顔を上げられそうにない。

 

「布団まで運びましょう。月見様は、」

 

 そこで藍は己の主人と式神を交互に見比べ、束の間考えてから、

 

「そうですね、紫様をお願いします」

「……了解」

 

 間を置いた理由については、まあ訊くまい。

 藍は橙を、そして月見は紫を抱えて立ち上がる。紫は状況を理解できているのかいないのか、月見にされるがままふわふわと微睡み続けている。こうして無抵抗なまま抱き上げてみれば、大して重くもない華奢な体だった。

 思考。

 

「……なあ、藍。こいつやっぱり、冬眠して背が縮んだんじゃないか?」

「ふふ、そうかもしれませんね」

 

 なんだか、だんだん冗談とも思えなくなってきた。妖怪は精神生命体だから、幸せいっぱい爆睡して若返った心が肉体に影響を及ぼしたのだろうか。ひょっとすると明日の八雲紫は、今日よりまた身長が縮んでいるのではないか。そんな突飛な想像を月見はふとしてみる。

 紫を寝室まで運ぶ。月見の歩みによるわずかな揺れがちょうどよかったのか、部屋へ着く頃には紫はすよすよと寝息を立て始めていた。心地よさそうでなにより。

 藍が丁寧に引いてくれた布団へ、起こさないようそっと寝かせる。

 

「んみぃ……」

 

 なにが「んみぃ」か。

 藍も橙を寝かし終えたようだ。二人並んで気持ちよさそうに眠る姿を見ると、なんだか主人と式神というよりも歳が少し離れた姉妹みたいで、月見と藍はどちらからともなくふっと一笑した。

 幸せな夢の世界を邪魔しないよう、より一層声をひそめて。

 

「藍は、まだ起きてられるかい?」

「ええ、大丈夫ですが……」

「なら一献、付き合ってくれないかい」

 

 紫を見下ろし、

 

「……もう少し、話がしたい気分だ」

 

 藍は月見の視線の先を追って、やがて柔らかく頷いた。

 

「ふふ、わかりました。お付き合いしますよ」

 

 肴はそう、ひとつ例えを挙げるなら。

 お調子者でそそっかしくて、大妖怪の威厳なんてちっともなくて――けれどそれ故に愛らしい、とある小さなけんじゃさまについてだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第148話 「幻想郷狐狸草子ぽんぽこ ①」

 

 

 

 

 

 冬の凍える寒さはすっかり過去のものとなり、厚着の要らない朗らかな春の陽気と、少し肌寒い花冷えの涼気が立ち替わるように続いている。

 この日は前者で、また胸がすくほどの快晴だった。縁側で日向ぼっこをして過ごすだけではあまりにもったいなかったので、月見は朝そこそこから風の向くまま気の向くままの散歩に出かけ、正午をやや過ぎる頃にはぶらりと人里まで流れ着いていた。

 暖かくなれば、里の活気も自然と上向きになる。子どもは外で遊びやすくなり、大人は道端で井戸端会議がしやすくなり、茶屋は店先に大きく真っ赤な野点傘(のだてがさ)を立て、青空の下に雅な客席をこしらえる。季節を問わずいつでも賑やかな里だと思っていたけれど、こうして春の活気を目の当たりにしてみれば、冬の間はわずかとも鳴りをひそめるものがあったのだとよくわかった。

 

「あらお狐様。こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 

 すれ違う里人と挨拶を交わしつつ、目的らしい目的もなくぶらぶらと歩く。里一番背高のっぽな桜の木が、枝の先に薄い紅色のつぼみをつけている。もうしばらくして桃色の花弁が開けば、幻想郷が最も華やぐ花見の季節の始まりだ。三日ほど前から酒虫の酒を客に振る舞うのもやめ、来るべき時のためにこつこつ貯蔵をしているけれど、幻想郷の呑兵衛たち相手に果たして何日持つのやら。

 ふと、ほのかな甘い香りが月見の鼻孔をくすぐった。

 茶屋だった。店先で一本の木のように広げた野点傘と、目が覚める真紅の毛氈(もうせん)を引いた縁台が目を引く。古き佳き茶屋には欠かせない伝統の小道具であり、どちらも冬の間は、雪が積もる、わざわざ外で食べる客もいない、などの理由でしまわれていたものだ。けれど太陽が大変心地よいこの日は、店内の席よりむしろ外の方が賑わっているようだった。

 里でも有数の歴史ある老舗だ。老若男女問わず団子に舌鼓を打つ姿を見ていると、月見もにわかに食欲を刺激された。ここいらで、休憩がてら小腹を満たすのもよいだろうか。

 

「どれ」

 

 茶屋に足を向けながら、ざっと見回して空いている席を探す。店先には緋色の縁台がいくつか並べられており、その中で少女が一人だけ座っている席を見つけた。他に空きはなさそうなので、恐縮ではあるが隣に座らせてもらうとしようか。

 と、

 

「……ん?」

 

 あの少女の横顔。

 腰まで隠れる長い茶色の髪をゆったりと結わい、人里では珍しくこぶりで洒落た眼鏡を掛けている。満足そうに団子を頬張る笑顔は一見年若い娘ながら、草色の羽織を悠然とまとい、人目を気にせず無造作に脚を組む姿はどうもそれらしくない。人里ではまだ昔ながらの風習や価値観が強く残っているので、年頃の女性はおおむね服を丁寧に着込むし、人前で足を組む行為も失礼とされる場合が多い。

 顔かたちと佇まいが噛み合っていない。

 なにより月見の妖怪の勘が、彼女は人間ではないとはっきり告げている。

 

「……」

 

 そう思って改めて見てみれば、すぐに気づいた。月見は口元に笑みがにじむのを感じながら、少女の横に立って声を掛けた。

 

「隣、いいかい」

「ん? ああ、構わんぞ。どこも満席じゃからなあ」

 

 若い娘に似つかわしくない古風な返事を聞きながら、隣に座る。少女は美味しそうに頬張った団子を飲み込み、茶をすすって、それから「茶を噴く」のお手本として後世に語り継ぎたくなるくらい美しく噴き出した。

 前に誰もいなくて助かった。

 

「ぶ、げほごほうぇっほ!? ぬ、ぬし!? げっほ!」

「やあ。久し振りだね」

 

 佐渡より来たれり化け狸の総大将――二ッ岩マミゾウ。

 長い茶髪を緩く結わった眼鏡の少女は、彼女が人間に化けたときの姿だ。マミゾウは思わず立ち上がり、見ていて痛快なほど慌てふためいて、

 

「ごふ、は!? ぬし、いや待て、なぜ妖怪の」

 

 月見は口の前で人差し指を立て、しー、と息をひそめた。そこでマミゾウは正気に返り、自分が周囲の視線をひとつ残らず独り占めしていると気づいた。

 

「……んんっ」

 

 気恥ずかしそうに、咳払い。

 

「し、失礼しましたー……」

 

 肩を縮めてそそくさと座る。里人たちはしばし疑問符を浮かべていたが、横の月見に気づくなり「なんだ、お狐様の知り合いか」と合点がいった様子で解散した――なぜそれで納得するのかは敢えて問わないでおく――。ついででちらほらと挨拶が飛んできたので、返しておく。

 店主夫妻の娘が、お盆に茶を載せてやってくる。

 

「お狐様、いらっしゃいませー」

「お邪魔するよ。団子を一皿」

「はーい。お待ちくださいねー」

 

 娘に注文する間、マミゾウは信じられないモノを見る形相で一切の身動きを止めていた。愛想のよい返事で娘が引っ込み、月見が受け取った茶で喉を潤したところで、

 

「――ぬし」

 

 周囲の里人には決して聞こえず、されど妖怪同士の会話には差し支えない絶妙な声量だった。頭の切り替えは完了したようで、鹿爪らしい表情で湯呑みの茶を睨む横顔が見えた。

 

「一応、久し振りと言っておこうか」

「ああ」

「その姿のまま人間の里をうろつくとは、あいかわらず非常識なやつじゃな」

「おや、お前だってこっち側のはずだが」

「ぬしと一緒にするでないわ。ちゃんと人間に化けておるだろうに」

 

 マミゾウは、外の世界で長年人間に寄り添って生きてきた妖怪だ。やってきたばかりの幻想郷ならなおのこと、人間たちの目がある場所でいきなり騒ぎを起こすほど考えなしではない。人里で偶然出会えたのは僥倖だった。もしも人目のない場所で出くわしていたら、代わりに飛んできたのはひっかき攻撃と蹴り攻撃だったかもしれない。

 

「こんなところで会うとは思わなかった。いつこっちに来たんだ?」

「今日の朝じゃ」

「引っ越しは終わったのかい」

「休憩中じゃ」

 

 愛想のあの字もないつっけんどんな返事だったし、こちらに目を合わせてくれる気配もないけれど、一応、会話はしてもらえるようだ。

 

「賢者殿から聞いたわ。よもや本当にここで暮らしておるとはの」

「ああ。今はそういう気分でね」

「そういう気分、のお……」

 

 煙草の煙を(くう)に溶かすような、緩いため息が返ってきた。

 

「新天地に来て最初に会う顔馴染がぬしとは、先行きが不安じゃて……」

「これからは幻想郷の住人同士ということで、よろしく頼むよ」

 

 苦虫百匹噛み潰した顔、

 

「ぬし、因縁の宿敵相手によくそんなことを言えたもんじゃな」

「私は、お前を敵だと思っちゃいないよ」

「はー、聖人君子気取りか。そういうとこじゃぞぬしは」

 

 舌を出すように冷たく言われ、ぷいとそっぽを向かれてしまう。まったくもって取りつく島もない反応に、しかし月見はほのかな楽しさすら感じていた。ケンカをけしかけられることも立ち去られることもなく、マミゾウとありふれた会話ができているだけで随分と久し振りな気がした。

 マミゾウの団子の皿は、すでに竹串が載るだけになっている。追加を頼む素振りもない。だから月見の存在が不愉快なら、さっさと支払いを済ませて立ち去ることもできるはずなのに。

 

「……まあよいわ。よろしくされるつもりなど毛頭ないが、儂も進んで事を荒立てたりはせん。余計な争いは起こすなと、賢者殿から釘を刺されてしもうたからのう」

 

 のされたんだってね、と言おうものならその瞬間マミゾウは進んで事を荒立てる存在と化すだろうからやめておく。マミゾウは小さく頭を掻き、

 

「あー、それでじゃがな。どうせ会ってしまったのなら、ぬしに訊きたいことがある」

「なんだい?」

「封獣ぬえという妖怪がどこにいるか、知ってはおらんか?」

 

 辛うじて、表情には出なかったと思う。

 マミゾウと会話が成り立つ事実に気を取られてすっかり失念していた。マミゾウが幻想郷に移住を決めたのはぬえに会うためで、そうである以上、彼女の居場所を尋ねられるのは想定して然るべきだった。月見は平常心を装いながら大急ぎで思考する。

 ぬえが今でも居候を続けている以上、時が来たら包み隠さず話すしかないとは思っていたが、果たして本当にそれでよいのか。いや、妖怪が暴れるわけにはいかない白昼の往来だからこそ、今のうちに話してしまった方がよいのだろうか。遅かれ早かれどうせバレるのを考えれば、後回しにすればするほど厄介な誤解を生むだけかもしれない。

 と、ここまで月見は一秒で結論し、

 

「ああ。今日は、私の家に居座ってるよ」

 

 ――居候している、とはっきり言えなかったあたりに己の不甲斐なさを感じないでもない。

 しかし、結果的にはこの言い方で正解だったのかもしれない。ほんの一瞬、ではあったけれど。変化を解いて妖怪に戻ったかと見紛うほど、マミゾウの気配がそれはそれは剣呑に膨れあがったのだから。

 

「――な、」

 

 そうマミゾウが声を絞り出す頃には、なんの変哲もない人間の少女に戻っている。あまりに一瞬だったため周りの客はなにが起こったのかわからず、目を丸くして不思議そうにあたりを見回している。

 マミゾウが、ようやく正面から月見と顔を合わせてくれた。

 建てつけの悪い引き戸を無理やり開けるように。火山のごとき感情の噴火を、崩壊寸前の笑顔でギリギリ覆い隠しながら。

 

「な。な、ぜ。ぬえが。ぬしの家に、おるんかのう」

「待った待った。ちゃんと理由があるから」

 

 地底へ足を運んでいるうちに面識ができたこと、ぬえの封印を解いたのが自分であること、長年地底暮らしだった彼女にとって地上の知り合いは自分くらいしかいなかったこと、この三点を月見はきちんと説明する。すなわち、ぬえが月見の家に居座るのには相応の事情があるのだと。その甲斐あってかひと通りの説明が終わる頃には、マミゾウもある程度の落ち着きを取り戻していた。

 吐息。

 

「……まあ、あやつは昔から独りを嫌っておったからのう。じゃがなぜよりにもよって……」

「私の家ではだらだらしてばかりのぐうたら娘でね。お前から活を入れてやってくれないかい」

 

 小鼻を鳴らし、

 

「言われるまでもないわ。友人が狐の家に入り浸るなんぞ、儂は断じて認めんからな」

 

 好き勝手にゴロゴロするぬえの存在が迷惑だったかといえば、実のところそうでもない。惰眠を貪ってばかりといえば響きは悪いが、裏を返せばおおむね静かで月見の生活を邪魔しないということだし、最近は少しずつ家事の手伝いもしてくれるようになっているし、なにより彼女は居候するに相応の家賃をしっかりと払っている。なのに無理やり追い出す真似をするのは酷な話であり、そうするつもりも毛頭ない。

 しかしマミゾウが幻想郷にやってきた以上、今の居候生活を続けようとするならば、彼女を説得するのがぬえにとって避けて通れない道だ。マミゾウは筋金入りの狐嫌いであり、なにより妖怪は妖怪らしくあらんとする思想の持ち主でもある。伝説にその名を残した大妖怪『鵺』が、このまま狐の屋敷で堕落していくのをよしとはすまい。

 

「じゃがそれはそれで都合がよいわ。ぬし、このあと家まで案内してもらうぞ。探す手間が省けたというもんじゃ」

「……ああ。わかったよ」

 

 月見にとっても、避けては通れない道である。

 必要な話は一切済んだとばかりにマミゾウが黙り込む。とはいえ立ち上がる様子はなく、どうやら月見の腹ごしらえが終わるまで待っていてくれるらしい。昔と比べるとだいぶとっつきやすい印象だが、年を重ねて本当に角が取れたのか、人間たちの手前無難に取り繕っているだけなのか。

 

「お狐様、お待たせしましたー」

「ありがとう」

 

 娘が持ってきた団子を受け取り、あまりマミゾウを待たすまいと手早く口に運びながら。

 月見は少しばかり、この狸な少女と出会ったときのことを思い出していた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無論、あの出会いが百パーセントすべての原因というわけではない。あれ以外にも様々な要因が長い年月をかけて蓄積され続けた結果として、二ッ岩マミゾウは狸でも類稀な超絶狐嫌いへと成長したのだ。故に、月見一人ばかりを責めるのもちょっとばかり酷といえよう。

 ただ少なくとも、あれがひとつの大きなきっかけだったのは間違いない。あれがマミゾウのプライドに確かな傷をつけた。もしもあれがなかったならば、マミゾウの狐嫌いだってひょっとすると多少は違う形を見せていたかもしれない。

 遡ること千年以上、彼女がまだ小さな子狸だった頃。

 二ッ岩マミゾウは、化かし合いで月見に泣かされたのだ。

 

 

 

 

 

 今が化け狸の頭領である通り、二ッ岩マミゾウは生来才能豊かな妖怪だった。神童というやつである。『天賦の才』という言葉を天より賜るべく生まれた娘であると評され、とりわけ変化の術をはじめとする妖術においては、数百歳の人生差がある大人すらまるで物ともしなかった。師事した相手から次々と白旗を上げられ、やがて己が知る限りで並び立つ同胞もいなくなって、マミゾウが一流の化け狸として独り立ちするまでさほど歳月はかからなかった。

 この時代、独り立ちした化け狸が日々果たすべき役目といえば、おおむね人間を化かすことである。それはもちろん娯楽という意味合いもあるけれど、ときには生きるための食料を確保し、ときには人の世に紛れるための金銭を掠め取り、なにより人間どもから『畏れ』を獲得する最重要の手段でもあった。狐だの(むじな)だの(かわうそ)だの、同じく変化を得意とする妖怪に遅れを取るなどあってはならない。変化を使う妖怪は数いれど、最も恐ろしいのは化け狸である――そう世を戦慄せしめねばならないのだ。

 持論である。狸といえば総じて狐や狢に競争意識は持つものだが、ここまで極端な思想を持ち合わせているのも稀だろう。

 己の実力に確固たる自信を持っているからこそ、化け狸としての矜持も一倍強いマミゾウであった。

 

「――お、今日の獲物が来たようじゃの」

 

 ある地方を穿って伸びるある街道、その山間の道である。マミゾウは木深い斜面に紛れながら虎視眈々と口端をつり上げ、眼前を歩く一人の男に狙いを定めた。護身用の武器も()かない無警戒で無用心な一人歩き。化かしてくれと、馬鹿でかい看板を自らぶら下げて歩いているにも等しいうつけ者。

 マミゾウが独り立ちして間もなく、まだ充分に子狸と呼べる齢の頃である。

 当時のマミゾウはこの近辺を縄張りと定め、人間と極めて近い距離で暮らしを立てていた。道行く旅人を化かすのはもちろん、時には人間に化けて近くの町へ紛れ込んだりしていた。正体が明るみに出ればその場で退治される危険もあるが、才能豊かなマミゾウにとってはまるで造作もないことだった。

 こと人間を化かすにおいて、マミゾウは未だかつて失敗というものを経験したためしがなかった。故に自分はどんな人間でも騙しおおせると思っていたし、そうである以上獲物の実力をあらかじめ見極める必要も感じていなかった。

 敢えて忌憚ない言葉で表現すれば、当時のマミゾウは自信過剰だったのだ。

 

「どぉれ、ひとつ騙くらかしてやるとするか」

 

 もっとも、前もって獲物の実力を見極める用心深さがあったとしても、恐らく結果は変わっていなかっただろう。男はどこまでもただの男で、武器はなにひとつ持っておらず、化かしてくれと馬鹿でかい看板をぶら下げながら歩いている。その認識に誤りはなかった。それが紛れもない事実である以上、見極めもなにもあったものではなかった。

 マミゾウが男の姿を目撃し『獲物』という思考を巡らせた時点で、もはや術中に嵌っていたのだ。

 

 

 

 

 

 男とは月見である。

 近頃町の外で、道行く人を化かす物怪(もののけ)が出て困っている。少し調べてもらえないだろうか――流れ着いた町でそんな相談を受け、とりあえず問題の道を歩いている最中だった。このあたりは山間になっているため緑が濃く、せっかくの夕暮れが木々に遮られてしまっているせいで、なるほど妖怪の一匹や二匹はいつでも飛び出てきそうな薄暗さがあった。

 まあ、そもそも月見が妖怪なのだが。『人化の法』を使っているので、見た目は紛うことなきただの男だ。おまけに武器は佩いていないしお供も連れていないしなので、件のいたずら妖怪ならしめしめと化かしにやってくるだろう。

 

「さて、どれほどの手練れなのかな」

 

 月見の口元には薄い笑みの色がある。話を聞くに物怪はなかなか狡猾で、成敗しようとした侍などもみんな苦杯を舐めさせられるだけで終わったという。退治するつもりはない。物怪がどんな策を仕掛けてくるのか今から楽しみなのは、月見もまた幻術を扱う妖物の末席だからなのかもしれない。

 すぐに変化はあった。月見が向かう先の道端で、女らしき人影が座り込んで途方に暮れていた。月見が気づくと同時に向こうも気づき、

 

「ああ、もし。もし、そこの御方……」

 

 うら若い女の声だったし、見えてきた顔かたちもまさにその通りの娘だった。紋様のないやや使い古した土色の小袖姿で、傍らにやはり使い古した笠と背負子を置いている。一見すると近くの村里から山菜などを採りにやってきた娘が、道端でちょっと休憩しているかのようだったが。

 

「どうかしたかい?」

「わたくし、この先にある村の者です。山菜や薬草を摂りにここまでやってきたのですが、不注意から足を挫いてしまい、どうにも身動きが取れなくなってしまって……」

 

 女が地べたへ投げ出した右の足首は、確かに赤く腫れあがって見える。

 

「あの、無礼を承知でお願い申し上げます。わたくしを、この先の村まで負ぶってはくださいませんでしょうか」

 

 女が顔を上げ、袖縋るような強い眼差しで月見を捉える。

 

「病に侵された祖母がいるのです。一刻も早く戻って、薬を煎じて飲ませなければ……」

「それは大変だ」

 

 月見は欠片も疑っていない素振りで娘の傍に寄り、膝を折って背を向けた。

 

「さあ、どうぞ」

「ああ、ありがとうございます……」

 

 娘の指先が、己の肩にそっと掛かったのを感じながら。

 ――では、お手並み拝見といこうか。

 

 

 

 

 

 楽勝である。

 あまりに楽勝すぎて、つり上がりそうな頬の筋肉を抑えるのにだいぶ苦労している。心の中では腹を抱えて大笑いしている。男の背の上で優しく揺られながら、マミゾウはすでに己の勝利を確信しきっていた。

 

(はあ……我ながら自分が恐ろしい)

 

 人間に化けるというのは、言葉にすれば簡単だが実はあながち容易な術というわけでもない。むしろ立派な高等技術といってもいい。中途半端な腕の者が変化しようとしても、たとえば尻尾を隠しきれなかったり、ふとした拍子に獣耳が出てしまったり、体の一部に狸の毛が残ってしまったりする。或いは外見が完璧でも、些細な立ち振る舞いでボロが出てしまう場合もある。人間に化けて人間を化かすとは、それだけで一流の化け狸の証明なのだ。

 そして、化けることさえできてしまえばこれほど簡単なものも他にない。

 

(まこと、男というのは単純な生き物じゃわい。生娘に化けてしまえば面白いように騙されてくれる)

 

 女の前では一肌脱いで、頼れる自分を見せつけたがる顕示欲というべきか。男が女にだらしないのは狸も人間も同じで、妙な親近感が湧いてこないこともなかった。

 さて、内心ほくそ笑むのもこれくらいにしておこう。村娘に扮したマミゾウは男の耳元に顔を寄せ、いかにも相応の羞恥心を持った生娘らしく、

 

「重くはございませんか?」

「なあに、このくらいは平気だよ」

「そうですか……」

 

 ――その余裕がいつまで持つか、楽しみじゃのう。

 マミゾウは音もなく舌なめずりをして、妖力を殺し、気取られぬようにゆっくりと変化を開始した。

 マミゾウの能力は、『化けさせる程度の能力』である。木の葉をお金に変えたり枯れ尾花を幽霊に見せたりと、基本はモノを幻術で変化させる能力であるが、応用すれば『自分自身を化けさせる』という使い方ができる。しかも、その変化は決して見た目だけに留まらない。質感や重さといった目には見えぬ部分すらも、変幻自在に錯覚させてしまうことが可能なのだ。

 問題。

 ここでマミゾウが少しずつ石に化けていくとすると、この男はどうなるであろうか。

 

「……あの、大丈夫ですか?」

「……い、いや、なんでもないよ」

 

 男の息が次第に乱れ、足の進みがどんどん重くなっていく。

 男もいい加減、気のせいではないと気づいたであろう。マミゾウの体がみるみる重くなっていくことに。そしてマミゾウを背負う己の手が、どういうわけかまったく離れなくなってしまっていることに。このままいけば男はあまりの重さに地べたで這い蹲り、背をへし折られる恐怖に情けない叫び声を上げるだろう。

 もちろん、本当にへし折ってやるほどマミゾウは残虐ではない。

 マミゾウの筋書きはこうだ。娘はどんどん石のように重くなっていき、これ以上は一歩も動けずもう駄目だと思った瞬間、ふっと背中が軽くなる。驚いて振り向くと娘の姿が忽然と消えており、嘘だったように背負子ひとつだけが残されている。一体なんだったんだと思いながら中身を覗くと、なんと蜂の巣を叩くごとく無数の虫が飛び出してきた! ……そして尻餅をつき呆然とする男の耳に、どこからともなく不気味な笑い声が響くのだった――。

 これは仕留めたじゃろう。内心ふんかふんかと鼻息が荒いマミゾウである。

 そうマミゾウが己の勝利を思い描いているうちに、いよいよ男も苦しげだった。もはや一歩足を動かすのも一苦労の有様で、口から絶えず喘ぐように呼吸している。意外と頑張るじゃあないか、とマミゾウは感心する。普通ならマミゾウがただの村娘ではないと気づいて、恐怖で足が凍りついてしまう頃合いだ。

 

「ふふ、ほら、村までもう少しでございますよ……」

「っ……」

 

 とはいえ、受け答えする余裕も完全に失われている。マミゾウは勝利に指先が掛かったのを感じながら、あと少し、いま少しばかり自身の重さを増して――

 

「――?」

 

 と。

 ふいに男が道を外れ、(あし)の群がる茂みの方向に進み始めた。

 

(なんと、もはやどちらが前かもわかっておらなんだか)

 

 マミゾウを背負うのに必死になりすぎて、自分が道を外れたと気づいていないのだ。正気を失ってなお諦めない男の意地を剛毅と褒め称えるべきか、向こう見ずと呆れ返るべきか。血を吐いても進み続けるような鬼気を背中から感じ、こりゃあさっさとやめさせた方がよさそうかとマミゾウは吐息して

 

「――っておい待て、こっちは!」

 

 はっとした。葦は、池や沼の周囲(・・・・・・)に茂る植物である。

 すなわち、

 

「この先は底なし沼じゃ、馬鹿者!」

 

 マミゾウが化けるのも忘れて叫んだときには、男の足はすでに水底へ沈み始めていた。マミゾウは舌打ちし、

 

「なにを考えておるんじゃ! こら、戻れ! 戻らんかっ!」

 

 男の後頭部をべしべし叩くも反応がない。マミゾウの叫びもまるで届いていないらしく、男は悪霊に取り憑かれたごとく沼の中心へ進み続ける。

 なにがどうなっているのか咄嗟に理解できない。焦ったせいで変化が中途半端に解けてしまい、被っていた笠が木の葉に戻って舞い落ちる。おまけに獣耳が見え隠れしているし、男へ呼びかける口調も完全に素へ戻っているが、マミゾウはとてもそこまで気が回っていない。

 男は早くも膝の位置まで沈んでしまっており、間もなくマミゾウの足先が泥水に浸かろうとしている。

 

「まったく、世話の焼ける……!」

 

 ともかく、まずは自分だけでもここから脱出することだった。このままでは二人仲良く心中する羽目になってしまう。一方で自分さえ脱出できれば、男一人を助け出すくらいはどうとでもできる。

 わけがわからないのはあいかわらずだが、どうあれ自分の悪戯で死人を出すのは目覚めが悪い。マミゾウは男の腕から両脚を引き抜こうとし、

 

「――は? お、おい、こら、」

 

 抜けない。

 掴まれている。

 

「……いや、いやいやいや、なにをやっておるんじゃおぬしは!?」

 

 本格的に血の気が失せた。一体いつから、いつの間に掴まれていたのかまったくわからなかった。逃げられぬようマミゾウの足首を掴んだ上で沼に入るなんて、まるではじめから心中が目的と言わんばかりではないか。

 マミゾウがすべての変化を解いて妖怪として力を振り絞っても、絡みついた男の指はビクともしない。

 足の指先に、せりあがるような水の冷たさを感じた。

 いよいよもってマミゾウは取り乱した。

 

「ま、待った待った待った! 儂は狸じゃ! ええとその、ちょっと化かしてやろうと思うてじゃな……! よ、妖怪なんぞと心中しても致し方ないぞ!? ほら、助けてやるから手を離さんか!」

 

 無言、

 

「あ、あのなあ、あまり儂を焦らせん方がよいぞ? このままだと少々強引な手を使わざるを得んが、そのとき人間のおぬしが無事でいられる保証はできん。いま一度考え直してみてはどうじゃ、悩みがあるなら相談に乗らんでもないぞ?」

 

 無言、

 

「あのー」

 

 無言、

 

「もしもーし。聞いとるー? おーい、」

 

 ひたすら無言、

 

「いやじゃあああああこんなところで溺れてたまるかああああああああっ」

「――おや、これは異なことを」

 

 背に腹は代えられなくなったマミゾウが妖力を全開放しようとしたそのとき、男がようやく口を利いた。

 

「先に仕掛けてきたのはそっちだろう。もう少し楽しんでいったらどうだい」

「は、え?」

 

 男の背が、ざわつく。男の肩を掴んだマミゾウの掌から、侵食するように一斉に鳥肌がせりあがってくる。

 慌てて手を離した。

 

「お、おぬし、」

 

 嫌な予感がした。

 まさかこいつ、人間じゃ――

 

 

 ――ゴキリ

 

 

 目が合った。

 前を向いているはずの男と、真正面から(・・・・・)目が合った。

 

「……あ?」

 

 その意味がわかるまで、数秒呆ける時間が必要だった。

 理解した途端、全身が悲鳴をあげた。

 

 耳元、

 

 

「逃がすかよ」

 

 

 絶叫。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……やりすぎたかな」

 

 という幻を見せたのだが、子狸にはいかんせん刺激が強すぎたかもしれない。

 当初歩いていた街道を脇に外れ、広がる沼の外縁、鬱然としたぶ厚い葦の壁に身を隠しながら月見は座っていた。乾いた草原の上で胡坐をかいて、すでに人化を解き妖怪の姿に戻っている。そして隣では幼子のなりをした子狸が、

 

「……うぎゅぅ」

 

 と、ぐるぐる目を回して大の字で失神しているのだった。

 まだ若い狸らしいと途中で気づいてはいた。いたのだが、化かし合いなんて久し振りだったのでつい興が乗ってやりすぎてしまった。お陰でひしひしとした罪悪感から立ち去ることもできず、彼女が目を覚ますまでこうして無聊を持て余している次第だった。

 変化の腕前を見ても、この子が件のいたずら妖怪で間違いないだろうと月見は思う。月見は声を掛けられた時点ですでに正体を見抜いていたけれど、それは単なる年の功みたいなものであって、普通の人間ならばなんの疑問もなく化かされてしまっていただろう。まだ子どもでありながら大人顔負けの実力――このまま成長すれば、将来は数多の子分を率いる立派な大妖怪へ大成してもおかしくはない。それほどまでの子狸だった。

 なんにせよ、これに懲りて悪戯から足を洗うか、他の土地へ流れるかしてくれればよいのだが。町の人々が大層気味悪がっていて、このままでは本格的な妖怪退治の矛先を向けられてしまいそうなのだ。月見が依頼されたのはあくまで調査だが、可能ならば退治を望むような言い回しもある程度は感じられた。

 

「う、うぅーん……」

 

 ほどなくして、少女が寝返りを打ちながら目を覚ました。月見が隣を見下ろすと、横倒しになった焦げ茶色の瞳とぱったり目が合って、

 

「――ぎゃあ!?」

 

 少女が全身の毛を逆立てて飛び起きた。バタバタ転げ回って月見から距離を取る。お陰で草色の羽織が実際草まみれになったが少女に気にする余裕はなく、頭を腰より低くして威嚇の構えを取り、

 

「ででっ、でででっでおったな化け物め! よっよかろうこの儂が成敗して、くれ……る……」

 

 牙を剥き出しにした精一杯の喧嘩腰は、しかし尻すぼみになって呆気なく消えていった。少女がぽかんと見つめているのは、月見の腰の後ろあたり――そこから地べたに伸びた銀色の尻尾で。

 三拍ほどの間、

 

「……狐?」

「ああ。さっきはすまなかったね、怖かったろう」

「さっき」

 

 威嚇の構えが解け、少女は気の抜けた四つんばいになって呆然としている。自分が化かそうとした男と目の前の月見の姿が、まだ脳裏で完全に符合していないらしい。

 

「狸との化かし合いなんて久し振りだったから、ついやりすぎてしまってね」

「……」

「沼に入ったのも、私の首が回ったのもぜんぶ幻だよ。安心してくれ」

 

 しばらくの間、まるで反応はなかった。

 その後月見が最初に認識したのは、少女の体がかすかに震え始めたことだった。それはやがてわなわなと大きな痙攣のようになり、彼女の唇から茫然自失としたつぶやきがこぼれ落ちる。

 

「ま、まさか……儂、化かそうとして、逆に化かされ……」

「……」

 

 いかんせん月見からはなんとも言い難く、とりあえず無言のまま見守ってみる。

 

「儂、はじめて、ま、ま、負けっ……しかも、き、きつねえっ」

 

 震えが止まった。

 少女は四つんばいのまま深くこうべを垂れ、糸を切られたごとくぴくりとも動かなくなった。それからゆっくりと五を数え、十を数え、月見が声を掛けるべきかとだんだん心配になってきたそのとき、

 

「……ひっく」

「は、」

 

 泣き出した。

 

「ひっく、うええ……」

 

 泣くほど月見の幻術が怖かった、というわけでは恐らくない。化かそうと思った相手から逆に化かされたこと。頸木(くびき)を争う好敵手ともいえる狐にまんまとしてやられたこと。この二つの事実が、幼くも立派な化け狸の矜持を木っ端微塵に粉砕してしまったのだと思われた。さすがに泣かれるとまでは思っていなかった月見は狼狽し、

 

「悪かった、悪かったよ。この通りだか」

「ふしゃ――――――――ッ!!」

「いだだだだだ!? ぐっ」

 

 猫よろしく顔面をバリバリ引っかかれ、おまけに足裏で盛大な蹴りまでご馳走された。引っくり返った月見の耳に、茂みを掻き分け一目散に走り去っていった音だけが届く。

 起き上がるとすでに少女の姿は影もなく、背高のっぽな葦が呆れながら月見を見下ろしているだけだった。

 顔が、痛かった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 調査のみで退治までは至らなかったということになるので、報酬はほんの少しだけ受け取った。しかしながら正体が退治も躊躇われるほんの子狸だったと聞いて、人々の恐怖もだいぶ和らいだようだった。仮にあの少女が今後悪戯に失敗してとっ捕まえられたとしても、まあ念入りな折檻くらいで勘弁してもらえるだろう。

 翌朝である。月見は町を離れ、例によって山間の細道をひとりのんびりそぞろ歩いていた。最後に人とすれ違ってからしばらく経ち、見渡す限りは前も後ろも、剥き身の自然が心地よく揺れ動くだけとなっていた。

 と――。

 

「……ん」

 

 月見の行く手、緩やかに弧を描く曲がり道の先から、立ち並ぶ木々に紛れて一人の男が歩いてきた。網代笠(あじろがさ)に袈裟姿のお坊さん。これといって怪しい人物でもないので、簡単に挨拶をしてそのまますれ違うことになるかと思われた。

 しかし、すぐに違和感に気づく。まだ遠目なので断言はできないものの、男の背丈が月見より随分と高く見える。

 否。こうして一歩一歩互いの距離が近づくにつれ、向こうがむくむくと大きくなっているのであり――

 

「……おやおや」

 

 やがて月見の目の前には、見上げる山の木々より更に頭ひとつ高い、まさしく天を衝くかのごときひとつ目の大入道が立ち塞がっていた。身にまとっていた袈裟は不気味なボロ切れに変わり、肌は赤黒く、瞳は炯々(けいけい)、ぼうぼうに伸びたひげがへその近くまで届いている。この道を歩いているのが月見だけでよかった。もしも他に人間がいれば、こうして見下ろされるだけで泡を吹いてひっくり返っていただろう。

 

『おう、人間じゃ。人間が我の道を塞いでおるわ』

 

 雷鳴を聞くような、ひどく耳に障る声だった。

 

『どかぬなら、蟻のように踏み潰してくれようぞ』

 

 大入道が月見に向けて片足を持ち上げてくる。天と地もあろうかという身長差で踏み潰されれば、さしもの月見も無事では済まない。

 月見は札を一枚取り出し、大入道の足元に向けて飛ばした。

 

「みぎゃっ!?」

 

 すると素っ頓狂な子どもの悲鳴が響くや、眼前の大入道が煙となって呆気なく掻き消え、あとには地べたでひっくり返る一匹の子狸だけが残った。

 あの子狸だった。昨日の結果が悔しくて悔しくて仕方なかったのか、もう一度月見を化かしにやってきてくれたようだ。

 

「やあ。また会ったねえ」

「な、な、なああっ」

 

 おでこに札を貼っつけた子狸は、ひっくり返ったまま開いた口も塞げぬ様子で、

 

「き、貴様、一体何者なのじゃ。狐のくせに、こんな人間の真似事を」

「これでも、結構長生きしてるもんでね」

「なぜ儂の変化をこうもあっさり! 儂の変化は、齢八百の長老ですら見破れなんだぞ!?」

「へえ、すごいじゃないか」

 

 月見が素直に感心すると、子狸は寝そべりつつもえへんと胸を張る。

 

「ふふん、そうじゃそうじゃ。儂はこの通りまだ子狸じゃが、変化の腕にかけては大妖怪相手にも負けはせん。才気煥発とはまさにこのことじゃと思わんか」

「そうだね」

「そうじゃろう、そうじゃろう。――だというになにゆえ貴様は昨日のみならず今日までも!! こんな、こんな屈辱はじめてじゃコンチクショ――――――ッ!!」

 

 あんぎゃー!! と両腕両脚を振り回して大暴れする。(おうな)めいた話し言葉もあって一見大人びて見えるものの、こうして癇癪を起こす姿はやはり少女そのものだった。

 

「こらこら、そんなに暴れたら服が傷んじゃうよ」

「くううっ……! 貴様、早くこの札を剥がさんか! 今ならまだ大目に見てやらんでもないぞ!?」

 

 昨日にせよ今日にせよ、仕掛けてきたのはそっちだろうに。

 どうあれ、札を剥がすことに異論はなかったので。

 

「わかったから。はい、暴れない」

「……」

 

 大人しくなった少女のおでこから札を剥がした――瞬間、

 

「しゃあっ!!」

 

 少女が突如野太い大蛇に変化し、その凶悪な牙で月見の喉笛を、

 

「むぎゅ」

 

 噛み千切る前に、月見は剥がしたばかりの札を元の位置に戻した。大蛇は少女に戻って地面を転がった。

 うぐううううう!! と少女は地面をべしべし叩いて暴れる。

 

「なぜ、なぜまったく驚かんのじゃ!? 人形か貴様はっ!」

「言ったろう、長生きしてるって。馬齢を重ねると、ちょっとやそっとじゃ驚かなくなるのさ」

「長老は泡を吹いて失神したのに!」

 

 ご老体になんてことを。

 

「剥がせぇ! 剥-がーさーんーかーっ!!」

「剥がすのはいいけど」

 

 じたばたする少女を、釘を刺すようにすぐ傍から見下ろす。額の札を剥がしたらまた、彼女はあの手この手で執念深く月見に襲いかかろうとするのだろう。このままでは、いつまで経っても延々同じことの繰り返しになりそうなので。

 

「今度また私を化かそうとしたら、もっと強い札を貼りつけるよ」

「んなっ」

「ひと月くらいは取れないようなやつを。もちろん、その間妖術は封印だ」

 

 少女は束の間硬直し、それから屈辱の歯軋りとともにぷるぷる震え出した。

 

「貴様っ、どこまで儂をコケにすれば気が済むんじゃ……!」

「……あのね、昨日も今日も元はといえばお前が」

「化かし返されたまま泣き寝入りなぞできるわけないじゃろがあっ!?」

 

 少女はそろそろ涙目だった。化け狸は概ね温厚で臆病な者たちが多い種族なので、まだ幼い分が大きいとしてもここまで扱いづらいのは珍しい。彼女を懲らしめる依頼を受けていた身とはいえ、大人げなく化かし返してしまったのは失敗だったかもしれない。

 ええいままよと思いながら札をひっぺがす。また間髪容れずに襲いかかってくるものと、月見は内心身構えたが。

 

「う、うぐぐ……うぐぐぐぐぐぅ……っ!」

 

 今すぐ目に物見せてやりたい思いは多分にある。しかしそれでもし本当に強めの札をもらってしまったら、力を封じられたままひと月を過ごす羽目になる。それほどの期間を仲間の狸はもちろん、他の妖怪たちに知られずやり過ごすのは至難の業。知られてしまえば一生の恥。荒れ狂う本能と崖っぷちの理性が、少女の中で目まぐるしい鍔迫り合いを繰り広げている。

 結局、辛うじて理性が勝利を収めたようだった。しかし煮え立つ怒りが消えてなくなるわけでもなく、

 

「ばーかばーか、おたんこなす!! 人間に捕まって生き皮剥がされてしまえへちゃむくれーっ!!」

「……」

「狐なんか大っ嫌いじゃああああああああああっ」

 

 精一杯の捨て台詞を残し、半泣きのままいずこかへ走り去ってゆくのだった。

 

 

 

 繰り返すが、こればかりが百パーセントすべての原因というわけではない。しかし、まあ、あのとき月見がもう少しでも上手くやれていたのなら、マミゾウがここまで狐嫌いになることもなかったかもしれないのは否定できないので。

 同族の狐たちには、今でもだいぶ申し訳なく思っている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ねえ、マミゾウ」

「……ぬえや、そんな目で儂を見るな。言っておくが、儂は絶対、ぜえええったいに謝らんぞ」

 

 事のあらましを聞き終えたぬえが、呆れているような逆に感心しているような、曰く言い難い表情で旧友の横顔を見遣る。旧友はその視線をバツが悪そうに躱しつつ、何年経っても変わらない眼力でこちらを睨みつけてくる。

 睨まれるのは当然、月見である。

 里の茶屋で腹ごしらえを終え、水月苑に場所を移している。ここへ至るまではまたひと悶着もふた悶着もあった――というわけでは意外となく、里を出てからもマミゾウは聞き分けよく月見の後ろにくっついてきてくれた。人気がなくなった瞬間背中から闇討ちされるのではないかと思っていたが、どうやら月見の杞憂だったらしい。強いて言えば大きすぎる屋敷に些細な嫌味を言われ、わかさぎ姫との関係を大いに疑われ、縁側でぐうたら昼寝をしていたぬえが一喝のもと叩き起こされたくらいだろうか。

 まあ、かといって月見に気を許してくれたというわけでもなく、茶を出されても「狐の茶なんぞ飲まん」の一点張りなのだけれど。

 理解できん、という顔をぬえはしている。

 

「それで千年以上根に持って未だに狐を毛嫌いしてるって、一周回って感心するわ。どっから湧いてくるのそのエネルギー」

「なにを言うておる。我々狸とこやつら狐は、幻術使いの双璧であり永久不変のライバル。エネルギーを失ったとき、それすなわち狸の誇りを失ったときと同義じゃ」

「よーやるわ……」

 

 ぬえは、あまり旧友に味方するつもりはないようだった。同じことを感じたマミゾウが口を尖らせ、

 

「ぬえ、おぬしはこやつの肩を持つのか?」

 

 ぬえは頬杖をついて投げやりに、

 

「一応、封印解いてもらった恩があるもの。それに居候もさせてもらってるし。どっちの味方とか選べるわけないでしょー?」

「……むう。まあおぬしの封印を解いてくれた点については、儂も百歩譲って感謝せんでもないが――いやちょっと待て」

 

 マミゾウが表情を変えた。途轍もなく真剣な形相、そして物騒な目つきでぬえの肩に手を置いて、

 

「おぬし、今なんと言った」

「んー? だから、どっちの味方とか選べるわけないじゃないって」

「違う、その前じゃ。儂の気のせいでなければ――」

 

 一息、

 

「――ここで居候していると言わなんだか?」

「? うん。だってここ気に入ってんだもの」

「気っ、」

 

 あまりに屈託のない即答に、マミゾウは貧血を起こしてふらりとよろめいた。口の端を釣り針で引っ張りあげられているような、不気味な作り笑顔でテーブルに爪を立てる。両肩がひくついている。

 

「ぬ、ぬし、こんなこと、一言も言っておらんかったよなあ?」

「……直接ぬえの口から聞いた方がいいと思ったんだよ」

「よもや妙な真似はしておらんじゃろうな。さ、さすがにそこまで外道じゃなかろう? なあ?」

「あー、マミゾウ、そういうのは一切ないから安心して。信用できなかったら私も居候してないから。そんくらいの常識はあるから」

 

 さほど長いわけでもないスカートで畳をゴロゴロしたり、寝起きのだらしない恰好のまま一階まで下りてきたり、無警戒すぎて逆に月見の方が心配しているくらいだ。冬の間は、それで藍に見咎められるのも一度や二度ではなかった。

 マミゾウは大きく吐息し、何事か呻き声をあげながら眉間の皺を揉み解した。

 

「……まあ考えようによっては、どこの馬の骨かわからん男よりむしろマシか……」

 

 そう前向きに考えてもらえると助かる。

 旧友の断言もあり、一応は無罪ということで結論が出たらしい。顔を上げたマミゾウは今度は爽やかな笑顔で、

 

「じゃが、儂が来たからにはもうそんなのは許さんぞ。ぬえ、おぬしのぐうたら生活も今日でしまいじゃ」

「ぅえーっ!?」

 

 ぬえが割と冗談抜きの悲鳴をあげた。

 

「な、なんでなんでー!? ここ、部屋は広いし温泉はあったかいしごはんは美味しいしお布団はふかふかだしほんといい場所なのよ!?」

「では訊くが、おぬしは普段なにをして生活しておるのかな?」

 

 ぬえがさっと目を逸らしたので、代わりに月見が答える。

 

「冬の間は、こたつに入り浸って怠けてばかりだったねえ。春になってからは縁側で昼寝の毎日か」

「ほうほうそうか、こたつと昼寝か。そうかそうか」

 

 マミゾウは満足げにうむうむと頷き、一拍の間を空けて、いきなり烈火のごとくぬえの耳をつねりあげた。

 

「いったたたただだだ!?」

「おぬし、それでもかつて人間の都を震撼させた大妖怪か!? 長年の封印ですっかり腑抜けてしまいおったんか!」

 

 始まった、と月見は思う。マミゾウは持ち前の柔軟さで長らく人間社会に溶け込みつつも、一方では根本的に、我々は畏れの存在であれという昔ながらの思想を重んじる妖怪でもある。良きにつけ悪きにつけ、妖怪として極めて実直なプライドを持っているということだ。こういう一面もまた、月見となかなか肌が合わない原因のひとつというべきだろう。

 マミゾウは嘆かわしくかぶりを振り、

 

「ああ、やはりこんなところで居候させるわけにはいかん。こやつから変な影響を受けてどんどんなまくらになってしまうわ。これは修行のし直しじゃな」

「や、やーだーっ!! 今更修行なんて面倒く」

「おぬし太ったじゃろう」

 

 ぬえが石化した。

 

「腕回り脚回り、どちらもふくよかになったものじゃ。さて、手足でこれなら腹の方はどうなっておるのか……」

「……、」

「このままでは伝説の大妖怪鵺が、寝肥(ねぶとり)に名を変えてしまうかもしれんのう」

 

 寝肥とはぐうたら生活を送る女に取り憑き、ぶくぶくとふやけた餅みたいに太らせて乙女の尊厳を木っ端微塵にしてしまう凶悪な妖怪である。端的に、取り憑かれた女本人を指して寝肥と呼ぶ場合もある。余談だが、かつて食っちゃ寝ばかりでなかなか働こうとしなかった紫に、藍が寝肥の浮世絵を見せてマジ泣きさせたことがある。

 そして今、ぬえも涙目になっていた。実は内心気にしていたのか、咄嗟に誤魔化そうとする余裕すら失って、

 

「そ、そんなに……? そんなにはっきりわかっちゃう……?」

「そりゃあもう」

 

 マミゾウはぬえのお腹をさすり、老獪な笑みとともにトドメを刺した。

 

「おお、こりゃあ立派な腹太鼓ができそうじゃて」

「うええええええええええ!!」

 

 もちろん、ぬえを改心させるためある程度盛った言い方をしたのだと思う。月見の目には、ぬえが太ったかどうかなんてまったく判別がつかないのだから。しかし女にとってはたった一キロの増加が死活問題であり、女だからこそ見えてしまう闇の世界がある。なまじっか本人に自覚があっただけ、マミゾウの言葉は一切慈悲なしの致命傷であった。

 ぬえはずびずび鼻をすすり、

 

「うう、ぐずっ……修行、じまぁず……!」

「うむうむ。なぁに、おぬしは元々優秀な妖怪じゃ。心さえ入れ替えれば、すぐに昔の牙が戻るじゃろうて」

 

 それで人間たちに危害が及ぶのも心配だが――もっとも、そこは長年人間社会を生き抜いてきたマミゾウだ。幻想郷で許容されるラインを柔軟に見極め、清く正しく人々から恐怖を摂取してゆくだろう。

 それもまた、幻想郷に必要な妖怪の在り方だ。

 

「住む場所の当てはあるのかい?」

「ないが、ぬしの手は借りんぞ。儂を誰じゃと思うておる」

「ふふ、それもそうだね」

「うう、私の夢の生活がぁ……」

 

 かくしてぬえのぐうたら居候生活は終わりを迎え、名だたる化け狸の総大将が幻想郷で居を構えることとなる。これは後ほど知る話になるが、結局のところ二人の行先は命蓮寺で落ち着くようだ。ぬえの修行もできて一石二鳥じゃわい、とマミゾウは大層喜んでいた。ぬえは泣いていた。

 

 

 そうこう、マミゾウが幻想郷の同胞となって一週間。

 意外にも未だ、狐とマミゾウの間でこれという悶着は起こっていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――おや、マミゾウ。どうしたんだいこんなところで」

「む……なんじゃぬしか。見聞を広げる散歩じゃよ。この竹林には永遠亭とかいう、月からやってきた人間の屋敷があると聞くではないか」

「気になるなら一緒に行くかい? 私もちょうど用があるんだ」

「あー? ぬし、月人とも知り合いなのか。あいかわらず見境のないやつじゃな」

「たまにはこっちからも顔を出さないと、そこのお姫様がへそを曲げるんでね」

「あーあー、一人で行っちまえ。ぬしに借りを作るなんぞ寒気がするわい」

「はいはい」

「……ところで訊くが、戻りは遅いのか? 住職殿が、午後になったらぬしの屋敷に行こうとしておったぞ」

「おや……うーん、あいつはなかなか帰らせてくれないからなあ。戻りは夕暮れになるかもねえ」

「そうか。では、儂から伝えておこう」

「ありがとう、助かるよ。それじゃあ」

 

 

 

 

 

「……なぁるほど、あやつは夜まで永遠亭か。これはいいことを聞いたわい」

 

 月見が霧の向こうに消えたあとの竹林前で、マミゾウはひとり怪しげにほくそ笑む。

 

「この一週間ばかしで、あやつの交友関係もほとんど把握できたことじゃし」

 

 さしずめあの狐は、マミゾウの狐嫌いがひょっとすると改善されたのだろうかと淡い期待を抱いているだろう。残念ながらこの一週間大人しくしていたのは、月見の油断を誘うための罠であり、また充分な情報を収集するための演技である。日が暮れるまで帰ってこないというならそれはそれは都合がいい。

 あのとき泣かされた積年の恨み、晴らすは今。

 

「――ちょっとばかし、イタズラしてやるとするかのう。ふおっほっほ」

 

 冗談でも誇張でもなく、本気で絶好のチャンスだと思っていた。実際、その認識に間違いはなかったはずなのだ。あいつは日が暮れるまで帰ってこない。行先が竹林の奥深くにある永遠亭なら、騒ぎを聞きつけられる心配もない。本当に、千載一遇の大チャンスだったのだ。

 

 誤算だったのは、ただひとつ。

 幻想郷の少女たちを、いささか甘く見過ぎていたことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第149話 「幻想郷狐狸草子ぽんぽこ ②」

 

 

 

 

 

 二ッ岩マミゾウは古来より、妖怪の顔と人間の顔のふたつを使い分けながら生きてきた。

 と書けばやたら物々しい出だしに聞こえるが、まあなんてことはない、人の世に紛れて生きる妖怪なら誰もがやっている当たり前の処世術だ。妖怪が妖怪のまま人の領域に踏み込むのは、いつの時代もそれなりの面倒と危険が伴うものだから、事を荒立てぬために人間としての顔を前もって用意しておくのである。狸や狐など人間におおむね友好的な種族は、昔からそうやって人の世と極めて近い距離で生きてきた。人間たちの記した歴史では、妖怪が人間として名を残している例というのも挙げればひとつやふたつではない。

 基本は、まず妖怪の場合と人間の場合で姿を変える。獣耳と尻尾を隠すのは常識として、必要に応じて服装を人間に合わせたり髪型を変えたりする。念を入れるなら認識阻害の妖術も併用するが、加減を間違えると逆効果になるためこちらはやや上級者向きといえる。

 また、人間用の来歴も考えておく。人の世に紛れるのが目的なら、その時代でなるべく一般的であり、なおかつ偽装するのが難しくない職を選ぶのがよい。昔であれば位の低い町人やお坊さんに化けるのがセオリーで、ただ姿形を漫然と真似るだけではなく、そういった『設定』を添えることで自然と変化にも説得力が加わるのだ。なおマミゾウのとある宿敵のように、陰陽師に化けて都の深いところまで入り込むのはバカのやることなので例外とする。

 そして、マミゾウについていえばもうひとつ。

 妖怪のときと人間のときで、それぞれ別々の拠点を確保しておくことだ。

 

「――というわけで、あやつの屋敷に行くなら明日の方がよいぞ。では、儂はまた散歩に行ってくるわい」

「はい、わざわざありがとうございました」

 

 幻想郷において、マミゾウがその片方に選んだのは命蓮寺という名の寺院だった。

 妖怪にも人間にも門戸を開き架け橋となることを信念とした、ひと昔前であれば考えられないなんとも風変わりな寺だった。元々はぬえの新しい友人がいると聞いて訪ねた場所で、人里に紛れる隠れ蓑としてはちょうどよく、かつぬえの叩き直しもできて一石二鳥だったためそのままご厄介になっている。こちらの正体を知った上で受け入れてくれる人間とひとり出会えれば、人の世に紛れるのはずっとやりやすくなるのだ。

 この寺の住職でもあるそんな人間の名を、聖白蓮という。その昔、ほんの一時期だけ高名な僧侶として名を馳せた、とある上人の姉君にあたる女性だった。

 白蓮に育ちのよい会釈で見送られながら、マミゾウは山門から外に出た。

 門の隅で一服の支度をしながら、呟く。

 

「……ううむ。なぜこの儂が、あやつのことでわざわざ言伝(ことづて)なんぞ」

 

 立派な人間、だとは思う。来歴は聞いた。過去にあれだけ己の無力を突きつけられながら、今もなお託された夢を目指し続けるなど並の胆力でできるものではない。好感が持てるし、人として純粋に敬意を払える。しかし唯一想定外だったのは、その生き様にあの憎っくき狐が大きく関わっている点だった。

 もちろん、それ自体あの狐を責めることではないとわかってはいる。

 けれどいかんせん、彼女の生活を傍で観察していると、どれだけあの狐の存在を意識しているのかありありとわかって面白くないというか。マミゾウと月見の仲をどう勘違いしたのか、事あるたびに話を聞きたがって若干耳にタコというか。

 煙管(キセル)を深く吸い、空へ薄い雲を伸ばす。

 

「……まったく、あやつは昔から変わらんのう」

 

 ほんの一年前に移住したばかりというが、月見はすでに幻想郷の端から端まで広くその名を知られている。彼は昔からそうだ。移り住んだ先で水が流れ行くように縁を築き、人間からも妖怪からも隔てなく受け入れられる。裏表のないはっきりとした善人気質のせいなのか、相手の悪意や猜疑を上手いこと挫いてしまう星の下にあるらしいのだ。狐をライバル視する狸の中でも彼だけは好意的に見る者が少なくないというのは、まこと面白くない話である。

 

「いや、そうでもないか。そういえば、若干丸くなった気がせんでもないな」

 

 たとえば500年ほど昔、周囲の説得を振りきって幻想郷から外へ飛び出したように。当時見られた悪い意味での気ままさ、奔放さというべきものが、今では心なしか薄れたのではないかと感じないでもない。温泉宿の主人という役回りをなんだかんだ受け入れ、毎日押しかけてくる少女たちの面倒をあれこれ見てやっているあたりがいい例だ。

 無論マミゾウにとっては、だからどうという話でもないけれど。

 

「……よし、そろそろ行くか」

 

 やがて一服を終えたマミゾウは、里の外へ出る方向へ歩き始める。周りに誰もいないのを確認してからしめしめと笑いを噛み殺す。さてこれからどうしてやろうか、と考えると胸が高鳴って仕方がなかった。

 月見は永遠亭に向かった。少なくとも夕方になるまでは戻ってこないらしい。つまるところ、たとえばの話、月見に化けてイタズラをする何者かがいたとしても、怪しまれる可能性は最小限ということだ。

 月見に直接イタズラを仕掛けたところで、やつはどうも物腰柔らかく受け流すばかりで張り合いがない。

 あのとき化かし返された屈辱を晴らすなら、月見の周りにいる少女たちを狙って間接的にやつを困らせる。これしかない。

 

「ふっふっふ……今日という日に家を留守にしたこと、後悔させてやるぞい」

 

 自分はもうあの頃の子狸ではないのだと、今度こそ思い知らせてやるのだ。

 里を出て、ひと目につかない茂みの奥へ隠れること、十秒ばかり。次にマミゾウが姿を現したとき、そこに立っているのは『人間に化けた二ッ岩マミゾウ』ではなく。

 

「――では、行こうか」

 

 『月見に化けた二ッ岩マミゾウ』が、人知れず行動を開始した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 手始めに向かったのは、霧の湖の紅魔館だった。

 この姿で誰かを化かすなら、月見と大して親しくもない相手では意味がない。かといって八雲紫を始めとする、月見を古くから知る大妖怪の面々ではさしものマミゾウも分が悪い。そう考えたとき、まっさきに候補として浮上するのがこの真っ赤で悪趣味な洋館だった。月見の幻想郷における交友関係は、ざっくりとした範囲であればこの一週間でリサーチ済みである。狸の情報収集能力をナメてはならない。

 最初に魔の手を伸ばす標的としてはちょうどいい。

 首が痛くなるような馬鹿デカい鉄門の前では、この国では珍しい中華服姿で着飾った少女が一人、腰を深く落とし、固い拳とともに荘厳な舞踊を舞っていた。もっともマミゾウの目からすればそう見えるというだけで、まさか本当に踊っているわけではない。紅魔館の門番は中国拳法の達人――さてはこれがくんふーというやつか、とマミゾウは少し物珍しく思う。

 

「あ、月見さん」

 

 門番――紅美鈴はこちらに気づくと、気恥ずかしそうにしながら素早く構えを解いた。

 

「あはは、拙いものをお見せしました」

 

 マミゾウは月見の口調を思い出しながら、答える。

 

「そんなことはないさ。もっと見ていたいくらいだった」

「え、そ、そうですか? えへへ……」

 

 ――掴みは完璧である。見よ、紅美鈴のこのだらしない顔を。目の前の月見が本物と信じきり、疑うという発想を持つことすら夢にも思っていないのが一目瞭然だった。

 子分の狸たちが評するところによると、マミゾウが変化したものは本物より年を経た雰囲気が出るらしい。断じて年寄りくさく見えるわけではなく、大妖怪特有の円熟したオーラが否応なく放たれてしまうのだとマミゾウは前向きに考えている。つまりマミゾウ以上の齢を重ね、まあ一応は永遠のライバルにふさわしいだけの格も備えている月見は、性別が違えどかなり化け易い部類に入るのだ。

 ひとしきり照れた美鈴が、ハッと正気に戻って頭を下げた。

 

「いらっしゃいませ。紅魔館に御用ですか?」

「用というわけではないんだけど、今日はなにをしようか考えててね。散歩しながら」

「あら、でしたらあがっていかれます? お嬢様も妹様も起きてますよ」

「そうだねえ……」

 

 マミゾウは己の取るべき行動を思考する。どうせだったらここで早速仕掛けたいところだが、そういえばどんなイタズラをするかまったく考えていなかった。――たとえば、「とても大切な話があるから、夜に一人で水月苑に来てくれ……」なんて甘く囁いてみるのはどうか。見るからに人がよさそうな美鈴なら一発で深読みしてくれそうだし、それでやたらおめかしした彼女が突然訪ねてきたら、あの狐も相当困惑するのではないか。

 なかなかいいかもしれない。

 と、そこまで考えたところで、「あれ?」と美鈴がふと小首を傾げた。

 

「月見さん、なんかちょっと雰囲気変わりました?」

「んっ、」

 

 どきりとした。喉までせりあがってきた息の塊を咄嗟に飲み下し、

 

「……ええと、どこか変かい?」

「あ、いえいえそういうわけでは。本当になんとなく、いつもとなにか違うかなー? と思っただけで。……髪を切った、わけじゃないですよね」

 

 マミゾウは内心目を見張った。確かにマミゾウがマミゾウである以上、百パーセントすべて月見という妖怪に変化するのは不可能だ。外見自体が完璧でも、ふとしたときの立ち振る舞い、ものの考え方、話をしたときの印象などなど、大雑把にまとめて『その人らしさ』と呼ぶべき個性まではどうしても真似しきれない。マミゾウの記憶を遡っても、ほんのわずかな『らしさ』の違いから正体を見破られた経験は何度かある。

 しかしそれは鋭敏な感性と、なにより相手への深い理解がなければできない芸当だ。これが八雲紫や鬼子母神であれば納得もできようものだが、よもや紅魔館の門番ごときがその領域に至っているとは、事前のリサーチからはまったく想定できていなかった。

 あるいは、これもくんふーの為せる業なのか――どうあれマミゾウは美鈴への警戒を大きく引き上げ、

 

「つ――――くみ――――――――っ!!」

 

 鉄門の向こう、紅魔館の玄関がいきなり撥ね飛ぶように開かれた。驚いて見れば、猪も真っ青の勢いでこちらへ突撃してくる少女がいやちょっと待て、

 

「ずど――――――――――――ん!!」

「ずどん!?」

 

 熱烈な砲弾タックルを腹に食らい、マミゾウは吹っ飛ばされた。

 背中にも衝撃。

 

「……げほげほ」

 

 数秒意識の混濁があって、気づけばマミゾウは地べたで大の字になって天を見上げていた。けれど視界に映っているのは青空ではない。いつの間にかすぐ傍にメイド服の少女が立っていて、慌てながら広げられた大きな日傘が光と景色を遮っている。

 

「妹様、いきなり出て行かないでくださいっ。びっくりするじゃないですか……」

「えへへ、ごめんごめん」

 

 マミゾウは鈍痛をこらえながらなんとか状況に追いつこうとする。確か、日傘を広げているメイドな少女は十六夜咲夜。そして『妹様』という呼び名から、マミゾウの腹にくっついて一緒に寝転がっているのはフランドール・スカーレットだろう。

 なるほど、把握した。フランドール・スカーレットは月見に大変よく懐いていて、出会うたびにお腹めがけて勢いよく飛びついたりする。そして自分は今まさに、その元気いっぱいな吸血鬼タックルを食らわされたというわけだ。

 それにしても、

 

(ま、まさかここまでの威力じゃったとは……あやつ、いつもこんなものを受け止めて平気な顔をしておるのか……)

 

 今更のように、吸血鬼は鬼にも並ぶ破格の身体能力を持っている、という言い伝えを思い出した。

 腹の上から気遣わしげな声が聞こえる。

 

「月見ー、大丈夫? いつもはちゃんと受け止めてくれるのに……どこか調子悪いの?」

 

 心配するくらいなら、はじめからタックルせんでくれんかのう。

 という気持ちを押し殺しつつ、マミゾウはフランを抱えてよろよろ立ち上がる。

 

「そ、そんなことはないよ。今日はちょっと油断してしまったかな」

「そう……?」

 

 フランは首を傾げ、腑に落ちない様子でマミゾウから離れようとし、

 

「……?」

 

 寸前で止まった。着物の裾をつかんだまま不思議そうに目の前の腹を凝視し、あたかも声を奪われたごとく一切沈黙する。妙な空気を感じてマミゾウが身構えようとしたそのとき、彼女は唐突におかしな行動を始めた。

 マミゾウの腹にもう一度抱きつく。

 なにかを確かめるようにもぞもぞ両腕を動かす。

 ほっぺたをすりすりとこすりつける。

 離れる。

 首を傾げる。

 また抱きつく。

 

「妹様?」

「んー……」

 

 従者の疑問の声にも答えず、フランは最後にマミゾウの腹へ力強く顔を埋めて、そのまますんすんと匂いを、

 

「……っ!」

 

 弾かれたように離れた。

 叫ぶ。

 

「咲夜、美鈴、気をつけて! こいつ月見じゃないッ!」

「は、」

 

 ――見破られたじゃと!?

 なにが起こったのか咄嗟に理解できなかった。なぜバレたのか今までの流れを反芻するが、フランが抱きつくことでマミゾウの正体を見破ったとしか思えない。抱きついて正体を見分けるとは一体なにか。まさかこの少女、月見に抱きついたときの感触を体で完璧に把握しているとでもいうのだろうか。さすがにそれはちょっとヤバいのではなかろうか。

 これにはマミゾウだけでなく咲夜まで困惑し、

 

「い、妹様? 突然なにを」

「そ、そういうことだったんですね!?」

 

 横から美鈴が割り込む、

 

「まさか偽者だなんて……でも、それならこの違和感も合点が行きます!」

「美鈴もわかる!?」

「はい! なんていうか……雰囲気がいつもと違うんです! 『気』が使える私にはわかりますっ!」

「え? え?」

 

 咲夜だけが話についていけず、右へ左へおろおろしている。

 ともかく、この流れは非常によくない。

 

「フ、フラン? いきなりなにを言うんだい?」

「うるさいニセモノ! 私たちを騙そうったってそうは行かないから!」

「な、なんで私が偽者なんて」

「わかるもん! だって、抱きついた感じが月見じゃなかった!」

 

 抱きついた感じ。

 

「あと匂いも違う! いつもみたいにほっこりしなくて、ちょっとタバコくさい!」

 

 ――しまった。里を出るとき一服したのが仇になったか。

 

「ああ、里で朝一買い物をしてきたんだけど、店主が煙草を吸う店に寄ってね。そのせいかな」

「騙されないもん!」

 

 それらしい理由をでっちあげてみるも、フランはまるで聞く耳を持ってくれる様子がない。ならばとマミゾウは素早く狙いを変更し、未だ困惑している咲夜を味方へ取り込もうと切り替える。

 

「困ったなあ。咲夜、ちょっと助けてくれないかい?」

「え、」

 

 名を呼ばれた咲夜がたじろぐ。――彼女には判別できまい。我々妖怪の幻術は、人間に対してとりわけ強い効力を発揮する。存在の比率が精神に偏る妖怪と違って、精神的な抵抗力を持たないため惑わされやすいのだ。

 フランがぷんぷん怒っている。

 

「もぉー咲夜っ、わかんないの!?」

「え、えっと、」

「そうですよ! 私なんかよりいつも月見さんを傍で見てるでしょう!? なんの違和感もないんですか!?」

「う、ううっ」

 

 門番にまで詰め寄られ、咲夜がいよいよもって右往左往し始める。

 

「ほら、咲夜も月見に抱きついて匂い嗅ぐの! そうすればわかるから!」

「ふえっ!? い、いいいっいやあのそれはさすがにその、あの」

 

 咲夜の混乱っぷりが愉快なせいで、これはこれで少し楽しくなってきた。嗜虐心をくすぐられたマミゾウは己の立場もすっかり失念し、もうひと押しだけ困らせてやろうと、

 

「咲夜……咲夜は、私を信じてくれるだろう?」

「…………、」

 

 決定打だった。咲夜の両目がぐるぐると渦を巻き始め、にっちもさっちもいかなくなった脳がオーバーロードを起こし、茹であがった顔がとうとうぼふんと蒸気を噴きあげる――

 かに思われた。

 

「――咲夜、迷いを捨てなさいっ!」

 

 幼いながらも、凜と耳朶(じだ)を打つ少女の声だった。

 広大な庭を抜けた紅魔館の玄関に、もう一人の吸血鬼――レミリア・スカーレットが立っていた。

 まだ昼間であるにもかかわらず、その双眸が苛烈な紅の光を宿すのがわかった。

 

「スカーレットの名に於いて断言するわ! その男は月見ではないと!」

「……!」

 

 ――あ、こりゃいかん。

 刹那に訪れる思考の世界、すべての動きが緩慢となったその狭間で、マミゾウは己の敗北を素直に直感した。当主の一声に心の迷いを打ち払われ、もう間もなく十六夜咲夜が正気を取り戻そうとしている。月見に化けた下手人を捕縛するため動き出そうとしている。十六夜咲夜は確か時を操る能力の持ち主だったはずだから、鬼ごっことなれば一縷(いちる)の望みもなく勝ち目はない。

 レミリア・スカーレットがなぜあれほどの距離から一発でマミゾウの正体を見抜いたのか、もはや気にしている場合ではなかった。

 逃げるなら、今しかない。

 

「咲夜、美鈴、こいつ捕」

「とりゃっ」

「わぷ!?」

 

 フランが従者に命じるより一呼吸早く、マミゾウはあたり一面に過剰気味の煙幕を張った。吸血鬼の前では児戯のようなものだろうが、要は十六夜咲夜の動きを数秒でも封じることができればいい。その数秒さえあれば、化け狸の頭領たるマミゾウが逃げ(おお)せるにはあまりに充分。

 

「――あー!! いなーいっ!!」

 

 フランドール・スカーレットの叫び声を遠くに聞きながら、マミゾウはひやひやと胸を撫で下ろす。

 少し紅魔館を甘く見過ぎていた。尻尾を巻いて逃げるのは口惜しかったが、今日のところはもう近づくまいと、マミゾウは固く己の心に誓った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「逃げられた!! むむむむむっ……!!」

 

 咲夜が棒立ちのまま広げる日傘の下で、フランがゲシゲシ地団駄を踏み悔しがっている。爆発が起きたかのように派手な煙幕は、フランがすぐさま魔術で風を起こして吹き飛ばした。しかしそのほんのわずかな隙に、ニセ月見の姿が目の前から忽然と消えてしまっていた。

 即座に周囲の気配を探るがなにも感じない。

 完全に、逃げられた。

 

「……っ」

 

 美鈴は、一歩も動けなかった己の不甲斐なさを歯噛みして恥じた。あの状況、満足に動けるのは美鈴ただ一人だったのだ。咲夜はニセ月見の混乱から完全には抜け出せていなかったし、フランも日傘の下から出れば太陽の光で焼かれてしまう。咲夜が動けなかった以上、フランだって動けなかった。だから、動けるのは門番である自分しかいなかったはずなのに。

 はじめニセ月見に挨拶された時点で、なにかが違うと違和感を覚えてはいた。どうしてそのときに正体を見破れなかったのだろう。本当に月見さんだろうか、という疑問がどうして頭を過りもしなかったのだろう。フランが見破ってくれていなければ、美鈴は得体の知れない妖怪を館の中に案内していたかもしれないのだ。

 拳が震えた。こんな体たらくでは門番失格だと思った。せめて今からでも、あの下手人を追いかけて捕まえなければならないのだと。

 

「申し訳ありません妹様っ、すぐ追いに――」

「落ち着きなさいな」

 

 答えも聞かず駆け出そうとした美鈴の背を、当主の静かな声音が制した。

 日傘を差したレミリアが、清楚な歩みで鉄門をくぐってきたところだった。

 

「お嬢様……」

「まったく、とんだ命知らずもいたものね。まさか月見に化けるだなんて」

 

 レミリアの表情には動揺ひとつなく、むしろつまらないものを見せられたと興醒めしているようでもあった。

 

「お姉様、落ち着いてる場合じゃないわよ! 月見のニセモノなんて大変よ、早くみんなに教えて捕まえなきゃ!」

「だから落ち着きなさいってば」

 

 フランをぴしゃりとたしなめ、考えてみなさい、とレミリアは言う。

 

「月見のニセモノがいるなんて騒ぎになったら、本物の月見までニセモノ扱いされてしまうかもしれないでしょ。みんなに知らせればいいというものではないわ」

「あ、そっか……」

 

 そこでフランはふと疑問符を浮かべ、

 

「そういえばお姉様、抱きつきもしないでどうしてニセモノってわかったの?」

「……なんで抱きつく必要があるのかわからないけど、姿形だけ化けても運命は変わらない。つまり、私の能力でちょっと見ればわかるのよ」

「なーんだ。つまんないの」

 

 期待外れというように吐息され、レミリアは眉をひそめて、

 

「なによつまんないって」

「すぐニセモノだってわかっちゃうくらい、普段から月見のこといっぱい見てるんだーって思ったのに」

「あら、残念だったわね。だいたい、それだったら咲夜が一番、」

 

 口を噤む。全員が同時に咲夜を見る。己の痛恨の失言を悟り、レミリアの口端が引きつった。ここまでずっとぼんやり立ち尽くすばかりだった咲夜が、お腹を壊したような顔でぷるぷると震え始めていた。

 決壊寸前の涙声、

 

「…………ぜんぜん、わかりませんでした……………………」

「しょしょしょっしょうがないわよほらあなた人間だもの! 妖怪の幻術って、人間には一番よく効いちゃうって話だし!?」

「そ、そうですよ! たぶんそのへんの妖怪じゃなかったですよ、見た目はすごくそっくりだったですし!?」

 

 そういえば私も勢いで偉そうなこと言っちゃったっけなー、と思い出して美鈴も全力でフォローに回る。けれど咲夜の凹みオーラはあっという間に全身へ広がって、

 

「わたしは、ダメなメイドです…………月見様ぁ……………………」

「咲夜ー!?」「咲夜さーん!?」

 

 結局このあとはガチ凹みする咲夜をみんなで慰める会が発足し、ニセ月見のことはすっかり頭から抜け落ちてしまうのであった。

 もっともニセ月見に関しては、美鈴たちが手を下すまでもなかったのだけれど。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 確かに妖怪は、人間と比べれば多少なりとも幻術の影響を受けにくい。

 しかし、あくまで『多少』である。妖怪だろうが化かし果せる自信がマミゾウにはあったし、事実、昔から種族問わず誰だろうと術中に嵌めてきたマミゾウだった。故に紅魔館でああもあっさり正体を見破られてしまったのは、化け狸の頭領として屈辱ともいえる不甲斐のない結果というやつだった。

 

(むう、少々みくびっておったか……)

 

 どうやら紅魔館の住人は、そこらの古参妖怪組にも負けない縁を月見と育んでいるようだ。特に抱きついた感触と匂いだけでニセモノと判別したフランドール・スカーレット、あやつはちょっとヤバいなとマミゾウは思った。

 とはいえ、たった一度しくじった程度で諦めては化け狸の名が廃るというもの。そういうわけで汚名返上を堅く心に誓ったマミゾウは、妖怪の山の森をふよふよ漂うように飛んでいるのだった。

 天狗や河童をはじめ、幻想郷で最も多くの妖怪が暮らす霊峰だ。長らく佐渡で島暮らししていたマミゾウにとって、ここまで大きな山に登るのも随分と久し振りで、ともすれば当初の目的を忘れてハイキング気分になってしまいそうだった。やがて行く手に一人の天狗が降り立たなければ、今の自分が月見の姿であることも失念していたかもしれない。

 

「ねえ」

「おお、……文か」

 

 不意を衝かれたが、なんとか言い淀まずに名を出せた。

 射命丸文――なんてことはない鴉天狗のナリをしているが、同族の中でもかなりの古株であり、天魔と並んで月見と交流が多い少女でもある。彼女が発行する『文々。新聞』という新聞を、月見が熱心に購読しているらしいのだ。マミゾウも一部読んでみたが、女一人が趣味で作っている割には本格的なものだった。

 

「なにしてんの、こんなとこで」

「ああ、いや、少し暇していてね。なにか面白いものはないかと思って」

「なにそれ」

 

 文が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。こやつ本当に射命丸文か、とマミゾウは内心首をひねる。先日マミゾウがマミゾウの姿で会ったときは、常に裏のありそうな笑顔を絶やさず、明るくも馴れ馴れしい敬語を使うインチキくさい女という印象だったが、どういうわけか月見の前ではその猫かぶりをせず、一見すると嫌っているようにも見えるほど淡泊な態度を取るのだ。実際目の前にしてみると別人同然でなかなか戸惑う。

 

「これが老人の徘徊ってやつ?」

「手厳しいなあ」

 

 通りすがりの天狗から聞いたところによれば、新聞を毎回手渡しで届けに行き、感想や改善点を聞かせてもらっているともいう。あながち仲が悪いわけでもないらしいが、これが外の世界で昨今話題な『つんでれ』というやつなのか。

 まあなんにせよ、こやつにもちょいと仕掛けてみるか、とマミゾウは頭の中でここからの策を考えようとし、

 

「ところでこないだの寄稿、なかなか評判よかったわよ。次もお願いね」

「ん? ああ、お安い御用だよ」

「嘘」

 

 死刑宣告だった。

 ほんの一瞬、髪が後ろになびく程度の風が吹いて、気づけばマミゾウの喉仏に紅葉扇が突きつけられていた。

 思考停止するマミゾウのすぐ目の前で、文が見覚えのあるインチキくさい笑顔を咲かせた。

 

「怪しいと思って声を掛けてみれば、やっぱりですか。誰ですかあなた?」

「は。あ、文? なにを言って」

「私の新聞に寄稿なんて、一度もしてもらったことないんですよね」

 

 ……おぉう。

 やられた。そういうことかと舌を巻いた。あまりに自然と振ってくるものだからなんの疑問にも思わなかったし、あの狐ならいかにもやっていそうだったのでつい頷いてしまった。

 もはや敗色濃厚と言わざるを得ないが、一応抵抗してみる。

 

「そ、そうだったかな。いやすまない、最近物覚えが」

「まあ、最初見たときからほぼわかってましたけどね。随分お粗末な変化じゃないですか」

 

 冗談じゃろ!?

 と、危うく本気で叫ぶところだった。化け狸の頭領となって以来、自分の変化を「お粗末」と評されるなど間違いなくはじめてだった。予想外すぎて気分を害す余裕もない。

 いや、お粗末なはずはないのだ。だって紅美鈴は無論のこと、フランドール・スカーレットだってひと目見ただけではニセモノと見破れなかったのだから。そしてニセモノとわかってもなお、十六夜咲夜は本物との違いをまったく判別できなかったのだから。

 なのにこの少女は、最初見た時点ですでにニセモノとほぼ確信していたという。

 マミゾウは生唾を呑みこみながら抵抗をやめた。それよりも問わねばならないことがあった。

 

「……後学のために聞かせてはくれんか。見た目だけなら完璧なつもりなんじゃが、どのあたりがお粗末なんじゃ?」

 

 文は事もなげに答える。

 

「どこがというわけではなく、こう、全体的に違和感があるんですよ。あいつじゃないやつがあいつの皮を被ってるんだって、もうパッと見でわかります」

 

 外見だけでは誤魔化せない内面の違いを、パッと見の印象として直感しているとでもいうのだろうか。

 ぐぬぬ、とマミゾウは唇を噛んだ。よもや射命丸文が、ここまで研ぎ澄まされた観察眼を持っていようとは。新聞記者の肩書きは伊達ではないと脱帽するべきか、こやつ普段からどんだけあやつのこと見ておるんじゃ、と呆れるべきか。

 

「……参った。どうやらおぬしを見くびっておったようじゃな」

 

 両手を頭の高さまで上げ、吐息し、

 

「外見だけでは惑わせぬほど、おぬしとあやつが親密な間柄じゃったとは」

「は、はあっ!? なに言ってるんですか、私は別に」

「隙ありィ!!」

「きゃあ!?」

 

 天狗の中でも指折りの大妖怪に正体を見抜かれては致し方ない。文が動揺した隙を逃さずまた煙幕を放ち、マミゾウはすたこらさっさとその場から退散した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 随分と舐められたもんだと思う。速さだけなら天魔にだって負けない自分から、こんな子供騙しの煙幕ひとつで逃げ果せようとするやつがいるなんて。多少不意を衝かれこそしたが、その気にさえなれば、ニセ月見が踵を返した瞬間電光石火でひねり潰す程度は造作もないことだった。

 ということはつまり、文はわざとニセ月見を見逃したのだ。

 追う必要性を感じなかった。

 

「……ま、あんなのに騙されるやつなんていないでしょ」

 

 だって、もう見るからにニセモノとわかるし。文ですらほとんどひと目でおかしいと気づいたのだ、他の少女たちなら当然一発で見抜くに決まっている。

 わざわざ文が世話を焼いてやるほどでもない。

 故に、追わない。

 別に慈悲を掛けているつもりはない。あのニセ月見にとっては、ここで捕まって天狗裁判にかけられる方がまだ幸せだったはずだろうから。

 

「どこのどいつかは知らないけど、命知らずなやつもいたもんだわ」

 

 このあとニセ月見に待ち受ける運命を想像すると、むしろ憐憫の情が湧いた。この幻想郷で月見の姿を騙ることがなにを意味するのか、やつは直に身を以て理解するだろう。

 文は、知っている。

 

 つい先ほど、水月苑に藤千代がやってきたのだと。

 

 

 

 

 ○

 

 

「――なぜじゃ。なぜバレる」

 

 森の中をすたこらさっさと飛んで逃げながら、マミゾウはそこそこ深刻に独りごちる。

 イタズラする間もなくニセモノと見破られ、尻尾を巻いておめおめと逃走する――化け狸の頭領としてあってはならないことが、立て続けに二度も起こってしまった。しかも、射命丸文からは「お粗末な変化」とまで言われてしまう始末だった。化け狸の名誉と誇りを揺るがす非常事態に、マミゾウはずぶずぶと思考の沼底へ沈んでいく。

 いっときは、まさか本当に自分の腕が鈍ったのかと疑った。

 しかし、冷静に考え直してマミゾウはその可能性を打ち消した。繰り返すが、紅美鈴もフランドール・スカーレットも見た目だけではニセモノと見抜けず、十六夜咲夜に至ってはまったく判別できなかった。見てくれだけなら充分上手く化けているはずなのだ。

 なのに、なぜバレるのか。

 外見が充分でも、立ち振る舞いや言動があまりにお粗末なのか。

 それとも、たまたま相手が悪かっただけなのか。

 マミゾウが知らぬうちに、幻想郷の妖怪が幻術に対する耐性を身につけたのか。

 確かめる必要がある。もはや、ちょっとイタズラして月見を困らせてやろうとか言っている場合ではない。万一本当に幻術が通じにくくなっているのなら、今後のマミゾウの活動にも甚大な影響が及ぶと言わざるを得ないのだから。

 

「……む」

 

 思考の沼底から浮き上がると、マミゾウは森の空気がにわかに変わったのを感じた。

 そこかしこに漂っていた妖気が薄れ、代わりに侵しがたいしんしんとした清澄が満ちてゆく。それでふっと思い出す。

 

「そういえば、このあたりには神社があるんじゃったか」

 

 どうやら物思いに耽って空を飛ぶうちに、山の頂上近くまでやってきてしまったらしい。

 再び思考。

 

「……確か、人間の巫女がおったはずじゃな」

 

 どうせここまで来てしまったのだ。いま一度人間相手に、己の変化が間違いなく通じることを確かめてみるべきかもしれない。

 そう判断し、やがて行く手に現れた石階段をひとっ跳びで登ると、博麗神社より少々広く見渡せる程度の神社がマミゾウを出迎えた。鳥居をくぐった先の境内では、若葉色の髪をした巫女がひとりぽつんと参道の掃き掃除をしていた。

 巫女――東風谷早苗がこちらに気づく。

 

「あ、月見さん! こんにちはー」

「ああ、こんにちは」

 

 自信と不安が相半ばし、緊張という名の重圧となってマミゾウの心にのしかかってくる。これで万が一早苗にまで見破られることがあれば、マミゾウはいよいよもってぬえの腑抜けっぷりを笑えなくなってしまう。ぬえに笑われる側になってしまう。そうなれば、きっと月見にだって呆れられるだろう。

 それは、いやだ。

 絶対に。

 果たして、マミゾウの願いが天に届いたのであろうか。

 

「ようこそお参りくださいました! お賽銭箱は準備万端大ウェルカムですよっ」

「……」

 

 ……バレてない?

 

「? 月見さん、どうかしましたか?」

「ああ、いや、」

 

 マミゾウは冷静に己を律する。まだだ、まだ安心するには早すぎる。東風谷早苗は人間なのだ、それとなくほのめかしても最後まで気づかれないのが当然と思わねばならない。

 少し勝負に出てみる。

 

「実はここに来る途中で、何人かから雰囲気が変わったって言われてね。早苗からも言われるんじゃないかって、ちょっと身構えてたんだ」

「え? ……うーん、私はいつも通りの月見さんだと思いますけど……?」

 

 ――よし。

 マミゾウは早苗に気取られぬよう、ゆっくりと細長い安堵のため息をついた。やはりマミゾウの変化は、人間相手ならばなんの問題もなく通じるのだ。少し気弱になりすぎていたと思う。杞憂だったと断言するにはまだ早すぎるけれど、多少は肩の荷が下りたような気がした。

 

「そうか、じゃあ気にしすぎかな。……賽銭、入れていくよ」

「どうぞどうぞっ」

 

 ささやかな感謝の気持ちを込めて、木の葉ではないちゃんとしたお賽銭を入れよう、とマミゾウは財布を取り出す。もはや、『月見の姿でイタズラして回る』という当初の目的を完全に忘却しているマミゾウである。

 掃除されたばかりの石畳を早苗に案内されながら進み、拝殿の前へ、

 

「――つうううううくみいいいいいいいいいいっ!!」

 

 尻尾の毛が逆立つ感覚。見れば母屋から飛び出し猛烈な勢いで突進してくる少女の姿、これはまさかフランドール・スカーレットの再来では、

 

「もふ――――――ッ!!」

 

 と思わず身構えたが、少女が全身で飛び込んだのはマミゾウの腹ではなく尻尾の方だった。

 この神社に祀られる神の一柱、洩矢諏訪子だった。

 

「あー、諏訪子様。ご参拝の邪魔しちゃダメですよぉ」

「えへへー」

 

 マミゾウは記憶の中から彼女に関する情報を引っ張り出す。マミゾウが生まれるより遥か太古から強大な信仰を司ってきた偉大なる神様だと、外の世界にいた頃から存在自体は聞き及んでいた。しかしその栄光も今は昔、現在は筋金入りのもふもふ愛好家で、とりわけ月見の尻尾が大好きで、月見と出会えば尻尾に抱きつくしか能がない末期な少女になっているとか。

 全身の緊張を解いた。マミゾウは眉間に皺を寄せ、

 

「諏訪子、お前は本当にそればっかりだね」

「月見が悪いんだよぉ。こんなもふもふが目の前にあったらね、そりゃあもう全身全霊でモフるしか――」

 

 蛙みたいに座って尻尾をぎゅうぎゅうしていた諏訪子が、ふと真顔になって沈黙した。目の前の尻尾を睨むように見つめ、両手でやたら撫で回して感触を確かめると、顔を埋めてそのまま数度呼吸する。

 おや? とマミゾウは思う。この流れ、なんだか少し前にも覚えがあるような。

 具体的にはどうしようもない嫌な予感が、尻尾からぞわぞわと背筋を這い上がってきたような、

 

「……違う」

 

 諏訪子が、尻尾から両手を離して立ち上がった。

 幽鬼がごとく。そうして紡ぐ言葉は、骨髄まで徹する呪詛がごとく。

 

「――お前、月見じゃないな」

 

 またこのパターンか、とマミゾウは現実逃避したくなった。

 

「え? す、諏訪子様、いきなりどうしたんです?」

「早苗、離れてなさい」

 

 諏訪子は戸惑う早苗にきっぱり言い切り、紛い物を鋭く見抜いた敏腕鑑定士のような顔つきで、

 

「モフみがね、違うんだよ。これは月見のモフみじゃない。どっかの誰かが月見に化けてるんだ」

 

 モフみとは一体なにか。

 

「決定的な違いさ。――月見の尻尾に枝毛はないんだよ」

「失敬なっ、儂だって毎日丹念に手入れ――あ」

 

 失言に気づいたときにはもう遅い。諏訪子の全身から壮絶な神気が迸る。隣の早苗が、「ぴいっ!?」と悲鳴をあげて腰を抜かすほどの波動だった。

 

「あっはっはっは。まさかこの私の前で、月見のモフみを騙ろうとするやつがいるなんてなあ――」

 

 どこか陶然とした甘い声音に鼓膜を撫でられ、マミゾウの尻尾の毛が一本残らず総毛立ってタワシと化す。

 たとえ愛らしい童女にしか見えずとも、それは紛れもなく、かつて土着神の頂点を極めた偉大なる大神の姿だった。

 

「よし祟る」

「す、すまんかったあああああっ!!」

 

 本日三度目となる煙幕を力いっぱい炸裂させ、マミゾウは一目散で逃走を開始した。

 しかし、それをみすみす見逃す洩矢神ではなかった。

 

「逃がすか」

「は? ……ぎゃあああああっ!?」

 

 放たれた諏訪子の神力が形を成し、バケモノとしか呼び様がない白い大蛇の群れとなって追いかけてくる。

 一匹一匹が、マミゾウを頭から丸呑みにできる巨大さだった。

 

「ちょ、そいつはさすがに冗談ならんぞ!? うっひょい!?」

 

 普通に命の危険すら感じて、マミゾウ、声がすっかり地声に戻っている。

 大蛇のまるで容赦ないひと噛みを思いきり躱し、そのままマミゾウの体は石階段をひとっ跳びして、そびえ立つ大自然の迷宮へと落ちてゆく。

 

「な、なぜこうなるんじゃああああああああッ!!」

 

 マミゾウの心からの叫びが響き渡り、麓の方から山彦が「なぜこうなるんじゃーっ!」と元気に返事をしたが。

 悲しいかな、どこかの誰かと口調が似ていたせいで、山の妖怪たちは誰ひとりとして気にしなかったらしい。

 

 

 

「か、神奈子様ー! 神奈子っ、助けてくださあああああい!?」

「ちょ、ちょっと諏訪子あんたなにやってんの!? 早苗が、早苗が腰抜かしてるって!」

「祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る祟る」

「……いやほんとなにやってんの!? 諏訪子、ちょっと聞こえてる!? 諏訪子ーッ!!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「く、くそう。なぜこんな目に遭わねばならんのじゃ」

 

 茂みと茂みの隙間にうずくまって身を寄せながら、マミゾウは心底理不尽な思いで唇を噛む。化け狸流逃走術でなんとか隠れることに成功したものの、一息つくのも許されない緊迫の状況なのは変わっていなかった。

 神経を尖らせれば、未だしつこくマミゾウを捜し回っている大蛇の気配。離れてはいるようだが油断は禁物だ。こちらの居所を気取られれば、あの大蛇なら地を滑るようにして一瞬で殺到してくるだろう。突如出現した神々しくも禍々しい大蛇の群れに、山の妖怪たちが混乱に陥ってあちこちを騒がしく飛び回っている。

 この隙に、早いこと山を下りなければならない。

 

「……よし」

 

 大蛇たちの気配がマミゾウから逸れた、そのわずかな隙を突いて茂みから飛び出し、慌てず素早く緑に紛れながら山を滑り降りていく。

 結局三度目の敗北を喫し、己の変化を検証するどころではなくなってしまった。今日のところはもうやめた方がいいのかもしれない。しかし図らずもここまで騒ぎになってしまったのなら、月見を困らせるという当初の目的は一応達成させるのだろうかと、

 

「――ぅおししょおおおおおおおおっ!!」

「げぼっふぉ!?」

 

 ぼんやり考えていたところを、痛烈なタックルで真横から刈り取られた。

 転倒。乾いた落ち葉と土の匂い、横倒しになった山の景色。

 

「……げふ」

「捕まえましたぁっ!」

 

 元気はつらつな声が真上から鼓膜に突き刺さる。なんとか首を動かして見てみれば、青と赤のオッドアイをまばゆいほど輝かせ、恥じらいもなく全身でぎゅうぎゅうのしかかってくる妖怪少女がいる。

 はて誰だったか、子分が集めた情報でこんな出で立ちの少女について聞いた気もするが、脇腹の痛みのせいで名前が思い出せない。少女はそんなマミゾウの心など露も知らず、夢と期待で胸がはちきれんばかりに言う。

 

「さあ、お師匠! 今日こそは、この小傘を弟子にしてくださいませっ!」

 

 それで思い出した。人間をおどかす極意とやらを究めるため、なぜか月見に弟子入りしようとしている付喪神のことを。

 そういえば、こんな子だった。

 

「……いきなり突進はやめてくれ。びっくりするじゃないか」

「あ、申し訳ありません……お師匠の姿を見た途端、いかんせんこの熱意を抑えることができず……」

 

 とりあえず、小傘に助けられながら起き上がる。そして服にくっついた落ち葉を払おうとするのだが、小傘にすかさず手首を掴まれ、

 

「今日こそは、今日こそはお師匠をご納得させてみせます! どのような試練でも必ず乗り越えてみせますとも!」

「お、おう」

 

 子分の情報にあった通りの、異様ともいえる並外れた熱意を感じてマミゾウは仰け反った。この少女、なぜここまで月見の弟子にこだわっているのか。すでに再三断られているらしいのに、どうして他の妖怪を頼ろうと思わないのか。というかどうして狐なのか。狸では駄目なのか。化かしにかけては狐より狸が上ぞ、師事を請うなら狸じゃろうが! と内心ぷんぷんと怒る。

 せっかくなので、それとなく誘導してみる。

 

「どうして私にこだわるんだい。……そういえば最近、化け狸の頭領が外からやってきたのは聞いたか? 狸も人を化かすのが得意な種族だから、私なんかよりよっぽど上手く教えてくれると思うよ」

「はあ、狸ですか? いえ、私の心は変わりませんとも!」

 

 ちょっとは興味持ってくれてもよいじゃろうがあっ! と吠えたくなるのを我慢しながら、やはり狐許すまじとマミゾウは改めて心に誓った。

 それにしても、なんだろう。脇腹を刈り取られた痛みのせいか、どうも先ほどから、なにか大切なことを忘れてしまっている気がするのだけれど――

 

「――!」

 

 そのとき、マミゾウの尻尾の毛が静電気みたいに逆立つ。

 まずい。

 見つかった。諏訪子の放った大蛇の群れが、恐ろしい速度で地を這いマミゾウめがけて殺到してきている。そういえば今の自分は、こんなところでこんな少女に付き合っている場合ではないのだった。どうしようもない後悔で天を振り仰ぐ時間もない。

 

「わ、悪い、そういえば急ぎの用があるんだった。また今度にしてくれ」

「え? ……まままっ待ってください待ってくださいっ!?」

 

 当然すぐさま逃げようとするのだが、小傘に綱引きよろしく腕を引っ張られた。それからマミゾウの背中に全身で飛びつき、なにがなんでも放さない不退転の力を両腕に込めて、

 

「そ、そうやってまた有耶無耶にするおつもりですね!? もうその手は食いません、ここで私の実力をお確かめください!」

「い、いや、本当に大急ぎなんだ! 放してくれ!」

「いーやーでーすーっ!」

 

 大蛇の気配が、全身に鳥肌の立つ勢いで迫ってきている。マミゾウは血の気が落ちるのを感じながらなんとか小傘を引き剥がそうとするものの、彼女は「いやですいやですいやですいやですいやですいやです」と人の背中に頭をぐりぐり押しつけ、全力全開のフルパワーで肋骨をへし折ろうとしてくる。別の意味で命の危機を感じたマミゾウはたまらず、

 

「わ、わかった! 弟子に取ろう! だから放してくれ!」

「っ……!! ほ、本当ですか!? 本当に……!」

「ああ、男に二言はない!」

「ほんとにほんとにほんとのほんとでほんとですね!?」

「本当じゃて!」

 

 小傘がようやく両腕を離した。マミゾウは額の冷や汗をぬぐいながら早口で、

 

「ただ、今は本当に忙しいんだ。日を改めて水月苑に来てくれ。な?」

「わ、わかりましたっ!」

 

 小傘は長い長い苦節がとうとう日の目を見たような、涙すらにじむ万感の笑顔だった。

 

「あ、あの! 私……私、すごく嬉しいです! ありがとうございますっ!」

「あ、ああ」

 

 目の前の自分を月見と信じてなにひとつ疑っていないそのまばゆさが、マミゾウの良心にぐさりと呵責の刃を立てる。なんだか百年振りくらいに、人を騙して罪悪感を抱かされた気がする。

 心の中で首を振る。

 まあ、あとは月見が上手いように取り計らってくれるだろう。弟子に取る気がないならきっぱり諦めさせればよかろうものを、あいかわらず甘っちょろいあやつの身から出た錆じゃ――そう思っておくことにする。

 

「それじゃあ、私は行くからね」

「はい! また明日、よろしくお願いしますっ!」

 

 もちろん、マミゾウはまったく夢にも思っていない。

 奇しくもこの口約束が、月見に心底頭を抱えさせる最大のイタズラとして成功を収めるのだと。

 

 

 

 

 

「や、やったっ、やったっ。遂に、遂にお師匠の弟子に……!」

 

 さて、マミゾウ扮する月見が去ったあと。

 小傘はその場でぴょんぴょん飛び跳ね、大声で叫びたい衝動を懸命に抑えながら喜んでいた。お百度参りで心願が成就したとき、或いは苦行を耐え忍んだ果てに仏の来迎を見たとき、きっと人間はこんな気持ちになるんだろうなと思っていた。

 月見が小傘に一体なにを求めているのか、自分で考えて修行に励む日々は決して楽ではなかったけれど。この感無量としか言い様がない達成感の前では、今までの苦悩もぜんぜん大したことではなかったと思えた。

 だからふっと、頭をよぎることがあった。

 

「そっか。もしかしたらお師匠は、とっくに私を弟子にしてくれていたのかも……」

 

 思考を止めて人ばかり当てにするのではない。己になにが必要か常に考え、行動を起こし、掴み取ろうとすることの大切さ――きっと月見は、それを小傘に教えようとしてくれていたのではなかったか。たとえ人をおどかす極意を知ったところで、自ら考え実践する能力がなければ宝の持ち腐れなのだから。

 小傘はすでに、月見から教えを授けられていたのだ。

 

「もー、お師匠ったら素直じゃないなあー」

 

 月見が聞いたら白目を剥いて現実逃避しそうなことを言いながら、小傘はえへえへととてもだらしなく笑った。

 

「よぉし。じゃあ明日早速、お師匠のお屋敷に行って――」

 

 背後で物音。小傘が夢見心地の世界から帰ってきて振り向くと、真っ白い木の幹が目の前にあった。

 疑問符とともに首を傾げる。こんな雪みたいに真っ白い木なんて、さっきまでなかったはずだけれど。

 上を見た。

 鎌首をもたげた蛇だった。

 

「へ、」

 

 小傘を頭からぺろりと丸呑みにしてしまいそうな、それはそれは巨大で凶悪な白い蛇だった。

 生きた心地がしないとはまさにこのことか。状況を理解した小傘の息がヒュッと詰まり、じわりと涙目になって、ぷるぷる震え出すこと五秒あまり、

 

「ぴぃやああああああああああッ!?」

 

 絶叫とともに脱兎のごとく逃げ出して、しかしその先が急な斜面になっているとまったく気づいておらず、

 

「ぎょああああああああ」

 

 足を滑らせ見事なヒネリを演出しながら、ごろごろと転げ落ちていくのだった。

 ついさっきまで幸せの絶頂だったのに、それがこのザマである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 大蛇はもちろんあちこち飛び回っていた天狗たちの目すらかいくぐり、マミゾウは奇跡的に山の麓近くまで生還した。青々とした春の森林が開け、視界に飛び込んできたのは白い壁が特徴的な背の高い温泉宿だった。

 

「む、あやつの屋敷か……」

 

 ふとマミゾウの脳裏に、ここに隠れれば安全ではなかろうかと妙案が閃く。さすがの洩矢神も、贔屓にしている月見の屋敷なら手は出しづらいだろう。

 表の庭園に回ると、広い池のほとりで少女が三人、うららかな日差しの下で日光浴しながら談笑している。一人は、この池に住みついているという人魚のわかさぎ姫。

 そしてもう二人は、あろうことか鬼子母神と天魔であった。

 これ以上近づいてはいけないと全神経が大音量の警報を発して、踏みとどまったマミゾウの足がほんのわずかに土を鳴らした。

 こんな場所になど目もくれず、人里あたりまでまっすぐ逃げるべきだったのだ。

 

「……あ、マミゾウさんじゃないですかー!」

 

 佐渡に帰ろうかなあ。

 一応確認するが、今のマミゾウは月見に化けている。月見に化けているのだ。この際一万歩くらい譲って、ニセモノと見抜かれてしまうのはもはやいい。もうなにも言わない。だというのにこの鬼子母神は、ニセモノどうこうをすっ飛ばして初手一発目から「マミゾウさん」である。これはもはや、変化を見破った、という次元の話ですらない。はじめから変化とすら認識されていない。この少女にとって、化け狸の頭領たるマミゾウの変化などその程度のものでしかなかったのだ。

 

「こんにちは、マミゾウさん」

 

 マミゾウが世の不条理を嘆いているうちに、鬼子母神――藤千代が、いつの間にかはんなり笑顔で目の前にいた。もうやだこの鬼子母神。マミゾウは泣き出したい気持ちをこらえながら尋ねる。

 

「……なぜ、儂とわかった?」

「ふふ、やーですよマミゾウさんったら。私が月見くんを間違えるわけないじゃないですか」

 

 ハイ、ソウデスネ。

 

「それでマミゾウさん、どうして月見くんの恰好を? まさかとは思いますけど――」

 

 この屋敷に隠れれば安全じゃろうなどと考えた数十秒前の自分を、マミゾウは全身全霊でバリバリ引っ掻いてやりたい。

 

「――月見くんの恰好で、なにか悪いことをしようとしてるわけじゃないですよね?」

「も、もう堪忍してくれえええええ!!」

 

 本日もう四度目になる煙幕を炸裂させ、マミゾウは泣きたい気持ちをすべて飛翔する力に変えようとした。

 

「はぁい、じゃあちょっとお話聞かせてもらいますねー。逃げようとするなんてますます怪しいです」

「……ぅえ?」

 

 気がついたときには、藤千代に襟首を掴まれズリズリと引きずられていた。

 驚くことは、なかった。いつなにがどうなったのかなんて、考えるだけ無駄だと悟った。ただ、ああ儂もこれで終わりか、という静かな諦めだけが己の心に生まれた。

 佐渡に帰ろう、と思う。緑と青と人情豊かなあの島で、子分たちと健やかに暮らしていこうと。妖怪同士のいざこざもなく平穏無事に暮らしていたあの頃が、なんだか走馬灯みたいに懐かしかった。

 

「マミゾウさん」

 

 藤千代が転がす言葉は、花がほころぶように可憐で優しかったけれど。

 心の中でさめざめ涙を流すマミゾウにとっては、地獄の裁判よりも無慈悲な有罪判決に他ならなかった。

 

「――正直に、話してくださいますよね?」

「………………はい」

 

 抵抗など、しようとも思えなかった。

 玄関のあたりまで引きずられたところで、視界の端に天魔の姿が割り込んでくる。マミゾウのすぐ傍で膝を折り、その上に頬杖をついてけらけら笑うと、

 

「なにやっとるんじゃお前さんは。バカなやっちゃのう」

 

 おぬしにだけは言われとうないわと、マミゾウは心の底から思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やっとのこと輝夜から解放され、月見が水月苑に戻ってきた頃にはもう日も沈んでいた。

 庭でわかさぎ姫にただいまを言おうとしたのだが姿が見えず、屋敷の方から笑い声やら怒号やらの騒ぎが聞こえてくる。どこかの少女たちがまた勝手に集まって、宴会を開いては騒ぎ散らしているらしい。

 人の留守に勝手なことを、と嘆くだけの常識はとうに麻痺している。むしろこうなることを歓迎するように、月見はわざと錠を下ろさず出掛けていたのだから。

 さて今日は誰が集まっているやらと思いながら、履物を脱いで茶の間の襖を開けると、

 

「――何度でも言ってやるわ、儂はぜえええったいにお前さんなんぞ認めんからな!! 儂のアイデンティティは儂だけのもんじゃあああああっ!!」

「知ったことかそんなものおおお!! 儂は生まれたときからこの喋り方じゃぞ、おぬしにどうこう言われる筋合いなどないわぁ!!」

「……」

 

 なぜか操とマミゾウがお互いマウントを取り合いながらぎゃーぎゃーケンカしており、それを放置して中央のテーブルでは、藍、わかさぎ姫、藤千代が和気藹々と酒を傾けていて、更には紫が藍の九尾に頭から食われていた。

 ある意味、日常の光景であった。

 

「あ、旦那様ー」

「おかえりなさいませ、月見様」

「おかえりなさーい」

「ただいま」

 

 日が落ちる前から呑み始めていたのだろう。わかさぎ姫と藍は頬がほんのり色づいていて――藤千代はいつも通りケロリとしている――、空になった酒瓶が畳で何本も並んでいた。「月見!? 月見帰ってきたの!?」と紫の下半身が見苦しく暴れ出す。

 月見は操とマミゾウのキャットファイトを一瞥し、

 

「で、なんだいこの騒ぎは」

「アイデンティティの闘争らしいですよー」

 

 よくわからない。藤千代が止めないということは、大した争いではないのだろうが。

 月見が腰を下ろそうとする前に、操とマミゾウがこちらに気づいた。ケンカなんかしているせいで変に酔いが回ったようで、二人ともかなり顔が赤くなっていた。

 

「あ、月見! よーし月見が戻ってくればこっちのもんじゃ、お前さんからもなんか言ってやって!」

「ええい卑怯な! おい、ぬしはこやつと違って事の道理がわかる男よな!?」

「あ? 遠回しに儂のことバカって言ってる? おぉん?」

「はいはい、一体なんの話をしてるんだい」

 

 操がマミゾウの上から離れる。よれた着物を整えながら正座して、マミゾウを横目で睨みつけながら口を尖らせる。

 

「儂はな、前々からこの化け狸が気に入らなかったんじゃ」

 

 思わぬ告白に月見は目を丸くした。

 

「そうなのか? 初耳だが」

「今まではお互いテリトリーが離れていたからの、儂もわざわざ言いはせんかったのじゃ。しかし、同じ幻想郷の住人となってしまってはそうもいかん」

 

 操は憤懣(ふんまん)遣る方なく己の膝を叩き、その手でマミゾウを槍のごとく指差すと、

 

「儂とこやつは――キャラが被っとる!!」

「は?」

「儂のこの喋り方! 口調ってやつ! 被っとるんじゃよ! こいつは儂だけのアイデンティティだったのにぃっ!」

「だから、仕方なかろうと何度も言うておるじゃろうに! 儂は生まれてこの方この口調なんじゃ、今更文句なぞつけられたとてどうしようもなかろう!?」

「儂の方が昔からこの喋り方じゃも――――――ん!!」

 

 想像以上に下らなくて、月見は反って安心した。

 操とマミゾウが使う、古風で年老いた印象を与えさせる言葉遣い――(おうな)言葉とでも呼ぼうか。確かに今までは、月見の友人の中でもそんな喋り方をする少女は操だけだった。口調自体が、操ならではの個性(アイデンティティ)として成立していたわけだ。

 しかしマミゾウがやってきたことで、嫗言葉を使う友人が二人に増えた。

 それでアイデンティティ崩壊を危ぶんだ操が食って掛かり、現在のキャットファイトへ発展した、という話のようだった。

 

「藍、私の分は残ってるかい」

「はい。取ってありますので、持ってきますね」

「ありがとう」

「あれ月見、こっちは!? こっちの話がまだ途中じゃよー!?」

 

 勝手にやってなさい。

 

「月見いいいいいっ!!」

 

 藍が席を立つと、その九尾から紫がすっぽ抜けた。散々に乱れた髪も整えぬまま、すぐさま畳を滑って月見の肩に掴みかかってくる。なぜかのっけから頬を膨らませてご乱心の様子で、

 

「月見、ねえ聞いてちょうだいなっ。あの狸、今日一体なにをやってたと思う!?」

「お、おいスキマの、その話は!」

「おりゃあっ!!」

「ぬわー!?」

 

 操がマミゾウの背中に馬乗りになって押し倒し、

 

「聞け月見! こやつ昼間、お前さんに化けてあちこち歩き回っとったんじゃ!」

「私に?」

 

 月見は片眉をあげた。一瞬、どうしてマミゾウがそんな真似をするのかと疑問が浮かび、

 

「月見の恰好でイタズラして回って、あなたを困らせようとしてたのよっ。藤千代が捕まえてくれてなかったら、今頃どうなってたか!」

「ま、結局ほとんどみんなにニセモノだって見破られて、散々な目に遭っただけだったらしいがのー」

「……おぬしらの尋問が一番散々じゃったわ」

 

 なるほど、だいたいわかった。あのとき月見が遅くまで戻ってこないと知ったマミゾウは、月見に化けてイタズラして回ることで嫌がらせをしてやろうと思い立つ。しかし恐らくは、マミゾウの変化になにか不手際があって、次々正体を見破られて思わぬ騒ぎになってしまったのだろう。そしてたまたま地上にやってきていた藤千代に捕縛され、紫や操も交えて事情聴取が行われたのち、いつしか酒が入って宴会になっていたと。

 

「ほら、月見からもなにか言ってやって!」

 

 紫に促されて月見は考える。勝手に名前と姿を使われたのは確かに複雑だし、それでもし月見の世間体が傷つけられる事態になっていたならば、一言物申したい気持ちにも駆られるだろうが。

 

「でも、みんな引っ掛からなかったんだろう?」

「え? ……うん、私がちゃんと説明しに行ったし、大丈夫だと思うけど」

「ならいいさ。二度は勘弁してほしいけどね」

 

 結局のところマミゾウの計画は散々な結果で終わったらしいし、紫や藤千代がこってり油を搾ってくれたともわかる。それに月見が意見したところで、相手がマミゾウでは反って反感を持たれるだけだ。何事もなく終わった話なら、水に流してしまうのが一番いいかと思った。

 紫が嘆息した。

 

「もー、あいかわらず甘いんだから……」

「今日は輝夜に散々付き合わされて疲れた。怒る気力もないよ」

 

 だが、腸に据えかねるように歯軋りしたのが一人だけいた。

 

「……ぬしは、」

 

 マミゾウだった。

 背にまたがる操が、驚いてよろめくほどの大声だった。

 

「――ぬしはまた、またそうやって儂をコケにするつもりかっ!!」

 

 月見は目を白黒させる。マミゾウはなおも声を張る、

 

「ぬしはいつもそうじゃ!! 儂がなにをやってもまるで歯牙にもかけん!! ぬしにとって、儂はそこまで相手にする価値もないつまらん妖怪なのか!?」

 

 話が見えず月見は口を挟もうとする――が、操にそっと視線で制された。いいから聞いてやれ、と言われた気がした。

 

「ぬしは、儂が生まれてはじめて負けた男なのじゃぞ!? あのときの屈辱は未だに覚えておる、じゃから、いつか必ず追いついて、その涼しい顔に一泡吹かせて……! 儂が、もうあのときの子狸とは違うと、そう、思い知らせてくれようと、ずっと、ずっと、思うておるのにぃ……!!」

 

 マミゾウは、酔っていたのだと思う。酔って、いつもならきつく締められているはずの理性のタガが緩んで、ずっと奥底で煮え続けていた本心が垣間見えていたのだと。

 月見はずっと、思い違いをしていたのかもしれない。

 どうしてマミゾウが月見を目の敵にし、出会うたびに突っかかってくる真似をしてきたのか。

 あの日受けた屈辱を晴らすため。狐が嫌いだから。もちろん、どちらも事実ではあったのだろう。

 しかしそれ以上に、マミゾウは、

 

「ぬしにとって、儂は。儂は今でも、あの日の子狸のままなのかぁ……っ!!」

「……」

 

 マミゾウは、認めてほしかったのだろうか。

 そう考えると自分の今までの行動が、マミゾウにとってどう映ってきたのか理解できた気がした。突っかかられるたびにできる限り穏便にやり過ごし、どれだけ敵意を向けられようと同じ妖怪として接し続けてきた。けれどマミゾウにとってみればそれは、本気で戦うにも値しない、応えるだけの価値もないと小馬鹿にされているようなものだったのかもしれない。

 なんともまあ、小さく笑みの吐息がこぼれた。ひどいすれ違いもあったものだと思った。

 マミゾウと出会ったあの日から、今日まで遥か千年以上。彼女を取るに足らない子狸と見下げたことなんて、月見はただの一度だってありはしないのだから。

 マミゾウの目の前に、胡坐をかいて座った。操がマミゾウの背から静かに離れる。

 

「もうあのときの子狸とは違う、か。わかっているよ。……ずっと昔から、わかっていたさ」

「っ、」

 

 マミゾウが起き上がる。小さく鼻をすすり、

 

「……嘘つけ。儂がなにをやってもぬらりくらりとしてちっとも動じんくせに。内心では儂を小馬鹿にしておるんじゃろ」

「見えるかい、そんな風に」

 

 無言、

 

「はじめお前と会ったとき、将来はきっと名のある大妖怪になると思った。そして事実、お前は化け狸の総大将になった。風の便りでその話を聞いたときは嬉しくなったものだ。それで祝いに佐渡まで行ったら、飛び蹴りで盛大に歓迎されたね。あのときはさすがに少し慌てたっけ」

「……」

 

 操が猪口に酒を注ぎ、そっとマミゾウの膝元へ置く。マミゾウはそれを一息で喉に流し込む。操に猪口を突き返し、

 

「……儂がもうあの頃の子狸ではないと、本当に認めておるのか」

「ああ」

「ならなぜ、儂がなにをやってもまるでどこ吹く風なんじゃ。あの頃とまったく変わらんではないか」

「それとこれとは違う話だ。争い事が好きじゃないのは知ってるだろう? お前が名のある大妖怪になったならなおさら、いちいちケンカするのは御免なんだ」

 

 マミゾウは、目が完全に据わっていた。腹の底まで見透かそうとするように月見を睨みつけ、操が猪口にもう一度酒を注ぐや否や、なんの迷いもなくまた一瞬で呑みほした。

 空になった猪口ごと、畳に拳を叩きつけ、

 

「――ああもう、本当に骨のないやつじゃな!! ぬしにプライドというもんはないのか!? ぬしは儂が唯一ライバルと認めた男なんだから、たまにはちぃとでも妖怪らしいところを見せたらどうなんじゃ!! 儂を一人前と認めるならやり返してこんか!!」

「……いやお前、私がやり返すとますますうるさく」

「売り言葉ってやつじゃ察しろばかぁっ!!」

 

 ただでさえ操とケンカして変に酔いが回っている上、追加の酒まで一気に呑むものだからマミゾウは完全に酩酊(めいてい)していた。長年胸に堅く秘められていた本心が、いよいよ堰を切ったごとく次々と吐き出されていく。

 マミゾウは、自分がもうあの頃の子狸ではないと、一人前の妖怪なのだと月見に認めてほしかった。

 しかしそれも、ただ単に認められたかっただけではない。月見になにかと食ってかかる真似を繰り返してきたのは、自分が狸であり、月見が狐であったが故に、

 

「つまりお前さん、月見にやり返してほしかったんか? えっもしかしてそういう趣味? さすがにちょっと引くわー」

「おぬしにだけは言われとうないわ!!」

「はー!? まるで儂までそういう趣味があるみたいに聞こえるんですけどー!?」

「おーおー違うんかのう部下に毎日追いかけ回されとる駄天魔様がァ!!」

 

 ふしゃー!! と目を鼻の距離で威嚇し合う二人はさておいて――自分が生まれてはじめて敗北を喫し、かつ一応はライバルとして認めている唯一の男が、ちっとも張り合いのない昼行灯な生き方ばかりしていて気に入らない。

 マミゾウは人間の世と積極的に交わる革新派であり、一方で妖怪は妖怪らしくあるべしという昔ながらの思想を重んじる保守派でもある。現に旧友のぬえが水月苑で堕落しきっていくのをよしとせず、妖怪らしい牙を取り戻させようと半ば強制的に外へ連れ出した。それはそっくりそのまま、月見にも当てはめられる話だったというわけだ。

 もっともわかったところで、これはいかんともしがたい問題である。月見は今の生活が気に入っているし、骨がないと言われて反抗心を燃やす若さもとうに失ってしまった。マミゾウが思い描いているであろう、互いに勝負を繰り返し(しのぎ)を削っていくような関係はまったく想像ができなかった。

 スキマから取り出した櫛で髪を整えながら、紫がため息をついているのが見えた。

 

「はあ、やっぱりなんだかんだ言ってそこまで嫌ってないパターンじゃない……。外の本で読んだことは間違ってなかったんだわ。ぜんぶ憎からず思う気持ちの裏返しなのよ」

「でも紫さん、月見くんに骨がないなんて……まだまだ月見くんのことがわかってないと言わざるを得ません。私たちの敵ではないですよっ」

「……それもそうねっ。いざというときは火傷しちゃうくらいまっすぐな男だって、私たちは知ってるものね!」

 

 ねーっ! となにやら藤千代と意気投合しているが、もちろんのこと、聞き流しておいた。

 

「ひめ、私にも酒をもらえるかい」

「あ、はいっ。ええと、こちらにどうぞ!」

 

 藍が肴の支度で席を外している今、月見の心を癒してくれるのはわかさぎ姫だけである。立ち上がると、マミゾウが操をビンタで張り倒してまっしぐらに裾を掴んできた。

 

「おいこら待て、まだ儂の話は終わっておらんぞ! この期に及んでまた逃げるつもりかっ!」

「逃げないって、私も酒を呑むだけだよ。聞いてやるからお前もこっちにおいで」

「なんじゃその態度はぁ!! ぬし、絶対儂をまだ小娘だと思うとるじゃろ!? 確かにぬしほど長生きはしておらんがな、背は伸びたし体つきだっておい待て話を聞け――――――ッ!!」

「オルァさらっとなにしてくれとんじゃこのタヌキ――――――ッ!!」

 

 マミゾウが酒に弱いという話は聞いたことがないし、実際妖怪の中でも強い方だと思うのだが、ひとたび酔っ払ってしまえばなかなか面倒くさい愚痴上戸になるらしく。その後は隣の席を陣取られ、美味しい酒と肴をつまみながら、耳が痛くなるまでひたすら愚痴に付き合う羽目になるのだった。

 けれど、まあ。

 

「よいか、ぬしは狐の中でも一番長く生きておる実質的な頭領みたいなもんじゃろうが! 毎日毎日太平楽を並べてばかりおらんで、ちっとはその立場に見合った生き方をしたらどうなんじゃ! そうすれば儂も……まあちょっとくらいは見直さんでもないというかなぁ! おい聞いておるのか! こっち見んか!」

「はいはい」

 

 マミゾウがこちらをどんな風に見ているのか、その本心をなにからなにまで赤裸々にしてもらえたのは、悪くなかったかもしれないと月見は思う。

 これからはこの少女とも、もう少しばかり上手く付き合えるようになれそうだった。

 

 

 

 

 

 ちなみに宴は夜がとっぷり更けるまで続き、この日一番酒を呑んだマミゾウがすっかりぐでんぐでんになって眠ってしまったため、空いている部屋で寝かせてやったのであるが。

 太陽が丸く顔を出した次の日の朝、目を覚ましたマミゾウはとてつもなく神妙な様子で、

 

「……のう、ぬしよ。昨晩のこと、覚えておるか?」

「昨晩というと?」

「じゃ、じゃから、その……儂が、酔って、なにを言ったか、とか」

「ああ、そりゃもちろん」

「しゃ――――――――ッ!!」

「いだだだだだ!? ぐっ」

 

 酔っ払ってからの記憶がぽっかり抜け落ちているなんて、そんな都合のいい話はなかったようで。

 はじめて出会ったときよろしく月見の顔面を引っかき、足裏で蹴りまでお見舞いして、マミゾウは半泣きで水月苑から走り去っていくのだった。

 

「ぬしなんかだいっきらいじゃあああああああああっ」

「……」

 

 酔っ払って自滅という恥辱にまみれたその背中は、あの日見た子狸と同じ背中だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第150話 「十六夜咲夜は進めない ①」

 

 

 

 

 

「月見――――――――――――ッ!!」

 

 ばごん、と。

 月見の名を呼ぶ裂帛とともにけたたましく玄関がブチ抜かれたならば、それは水月苑においては概ね、フランドール・スカーレットの来襲を告げる合図である。ずどどどどどと長い廊下を爆走し、茶の間の襖を片手で軽々と吹っ飛ばして、月見に天真爛漫な砲弾タックルを叩き込むのが彼女お決まりの挨拶だった。

 

「月見、大変! 大変なのっ!」

 

 けれどこの日、飛び込んできたフランの様子はなんだかいつもと違っていた。

 彼女の象徴ともいうべき無垢な笑顔が根元から崩れ去り、血の気を失って真っ白に張り詰めている。毎度恒例のタックルをぶちかますこともなく、まるでなにかから追われているように大急ぎで月見の腕を取って叫ぶ。

 

「早く来て! 早くッ!」

 

 マミゾウが幻想郷にやってきて二日ばかりした頃――あのニセモノ騒動が起こる数日前にあたる――、朝食の片づけがすっかり終わり、さて茶でも飲みながら今日の予定を考えようかという、本来であれば長閑に過ぎゆくはずの朝だった。ただならぬ様子に月見は目を丸くして、

 

「な、なんだなんだ? 一体何事だい」

「とにかく大変なのっ!」

 

 フランの返答はまるで要領を得ない。彼女が慌てふためく様子から、辛うじてなにか事件があったらしいのは伝わってくるけれど。

 

「フラン、まずはなにがあったのか教え」

「もぉーっ、いいからとにかく来てってば!!」

 

 問答無用とはまさにこのことか。どうにもこうにも、一旦言う通りにしなければ吸血鬼のフルパワーで引きずられてしまいそうだったので、月見はやむなくお茶を諦めて立ち上がり、

 

「――やめなさい、フラン」

 

 凛、と。響いた第三者の声が、鈴を打ち鳴らすごとくフランを制した。

 大きく開け放たれた敷居を静かに跨ぎ、レミリア・スカーレットがそこにいた。

 

「お姉様……」

「フラン、焦る気持ちはわかるけどまずはきちんと説明しなきゃ。じゃないと、月見だってどうしたらいいのかわからないでしょう?」

 

 妹とは対照的に、レミリアの佇まいは落ち着いていた。けれどそれは、せめて己だけは冷静であらねばならぬと強い責任感に駆られたものであるように見えた。言葉こそ静かでも表情は固く、フラン共々よほど急いで飛んできたのか、帽子の位置がずれて前髪が乱れている。

 この姉妹が慌ただしいのはいつものことだ。

 だが今回ばかりは、のんびりと二人を歓迎している場合ではないのだとわかった。

 

「……レミリア」

 

 名を呼び、目線で問う。レミリアは無言で頷き、それから重苦しく口を開く。

 

「緊急事態よ。紅魔館始まって以来の未曾有の危機だわ」

「まさか──」

「ええ。……不甲斐ない話だけど、私たちに頼れるのはもはやあなただけ。どうか冷静に聞いてちょうだい」

 

 レミリアがここまで言い切るなど、どう考えても尋常ではない。

 その事実を口にすることすら忌避するような沈黙。レミリアが束の間瞑目し、やがて覚悟を決めて顔を上げる。月見の友人としてではなく、紅魔館当主としての真紅の瞳が月見をとらえる。空気が張り詰めている。まさか春がやってきて早々、異変でも起ころうとしているのではないかと嫌な思考が月見を絡め取り――

 

「咲夜が風邪を引いたの」

「……ん?」

「紅魔館の……大ピンチよ」

 

 かぜ。

 ……風邪?

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 フランに引っ張られながら紅魔館へ向かう道中、もう少し詳しいところを聞いてみれば。

 紅魔館を襲った未曽有の危機とは、やはり咲夜が風邪を引いたという話で間違いないらしい。事態が発覚したのはまだほんの三十分ほど前で、二人を起こしにやってきた咲夜の様子が明らかにおかしかったそうだ。声に張りがなく顔は赤く、布団を畳む手捌きにいつものキレがない。瞳の焦点がなんだかふわふわしていて、歩く姿は半分寝ぼけているように危なっかしい。

 調子が悪いのかと尋ねてみるも素知らぬふりでかわされるので、フランが部屋の隅っこまで追い詰めて問い質し、起きたときから熱っぽいのだとようやく白状させた。

 体温計で計らせてみると、37.6℃だった。

 それで姉妹揃っててんやわんやの大慌て、咲夜をベッドに叩き込んで月見のところまで助けを求めにやってきたというわけだ。

 

「油断していたわ。まさかこんなことになってしまうなんてっ……」

「……」

 

 ちょっとばかし大袈裟ではあるまいか。月見はついてっきり、紅魔館が崩壊しかねないような大事件でも起こったのかと。

 しかし一方で、姉妹の心境も察せないではなかった。確かに十六夜咲夜は、妖精メイドを率いて紅魔館の雑事を執り仕切る司令塔であり、館にとって欠けてはならない重要な存在だろう。けれど二人が言いたいのはそんなことではない。咲夜は二人の、他では絶対に代えが利かない唯一無二の家族なのだ。

 人間の体は、妖怪とは比べ物にならないほど脆弱で儚い。たかが風邪と侮って万が一のことがあれば、あっという間に取り返しがつかなくなってしまう。そうなってからいくら大慌てしたって遅いのだ。

 そう考えれば、家族の身を本気で案じる二人にどうして呆れることができようか。

 

「咲夜、これくらい平気だって働こうとして……月見からも言ってあげて、たぶん月見の言うことなら聞くから!」

 

 月見の腕を一生懸命引っ張って先導するフランは、今にも日傘を投げ捨てんばかりの勢いだった。長閑な春の空を突風のように駆け抜けて、月見は息つく暇もなく紅魔館に到着した。

 門のところでは、いつもと変わりなく美鈴が番をしていた――のだが、そんなのお構いなしにフランは月見を引きずっていき、

 

「おはよう美鈴、お邪魔するよ」

「あはは、頑張ってくださーい」

 

 と、手短にそれだけ挨拶するのが精一杯だった。苦笑混じりの美鈴に手を振って見送られながら館へ突撃し、掃除に勤しみ始めた妖精メイドたちを蹴散らすようにして走る走る。年寄りの月見には、フランの脇目も振らない爆走についていくのが少しばかりキツい。

 このまま咲夜の部屋に辿り着くまで、ひたすら老骨に鞭を打たねばならぬかと思われた。

 

「……あーっ!?」

 

 床を踏み鳴らして角を曲がった瞬間、フランが突然の大声とともにブレーキをかけた。ようやく一息つけた月見が前をよく見ると、見慣れた少女が緩慢な動きでこちらを振り返ったところだった。

 

「咲夜!? なにしてるのーっ!?」

 

 ベッドに叩き込まれていたはずの咲夜が、普段と同じメイド服姿で、さも当たり前のように廊下を歩いていた。

 これには後ろのレミリアも目を剥いた。

 

「あ……お嬢様、妹様。月見様も……」

「咲夜、あなたなにしてるのよ!? 寝てなさいって言ったでしょう!?」

「そうだよ! なんでじっとできないの!?」

 

 妹と一丸になって強い剣幕で詰め寄るのだが、咲夜はまるで表情を変えない。……というよりも、表情を動かす、という脳の信号が体まで行き届いていないように見えた。

 率直にいえば、ぼうっとしている。

 

「あの、本当に、大したことではないんです。なので今日の仕事を……」

「ダメに決まってるでしょ!?」

「そうだよ! 大人しくして寝てなさーいっ!」

「で、ですけど……」

 

 遠目で見ても明らかに顔色がよくないし、いつもの瀟洒とした佇まいだって見る影もない。頭が働いていない状態で無理に立ち上がっているのだと、ひと目で読み取れてしまう有様だった。風に吹かれるだけで倒れそうだ。

 

「咲夜」

 

 月見が名を呼ぶと、咲夜の肩が少しだけ跳ねた。

 

「つ、月見様……ええと、あの、本当に大丈夫なんです。心なしか、本調子ではない気がするだけで」

「咲夜、私はまだなにも言っていないよ」

 

 あぅ、と咲夜が痛恨の表情で俯く。そこまで必死になって否定されてしまったら、疑うなという方が無理な話だった。

 

「熱があるんだろう? 永遠亭の風邪薬を持ってきたから、これを飲んで今日は休んで」

「あ……じゃあ、それを飲めば仕事をしても大丈夫でしょうか?」

 

 笑顔でなにを言っているのかこの娘は。

 当然、レミリアもフランも翼を逆立てながら怒った。

 

「だから、今日はゆっくり休んでなさいって何度も言ってるでしょ!? 私の命令が聞けないの!?」

「そうだよ! おくすりはね、具合悪いの誤魔化して仕事するためにあるんじゃないんだよー!?」

「う、ううっ」

 

 ぐうの音も出ない正論であり、咲夜は肩を縮めて小さくなるばかりである。しかし、この期に及んでもかたくなに首を縦には振ろうとしない。なんとかして月見たちを説得して仕事をする方法はないかと、動きの悪い頭であれこれ考えているのが丸わかりだった。

 具合が悪いのになぜ無理をしてでも働こうとするのか、理由はなんとなく想像ができる。咲夜はレミリアの従者、ひいては紅魔館のメイド長という立場に強い誇りと責任を持っている。そしてこの時期に風邪で体調を崩すというのは、日頃の自己管理がなっていなかった未熟の証左といえないこともない。そんな初歩的なミスで主人たちに迷惑を掛けるなど、完全かつ瀟洒を志す従者としてあってはならないと考えているのだろう。

 気持ちはわかる――が、事実風邪を引いてしまっているのならば、はいそうですかと引き下がるわけにもいかない。

 

「無理をして万が一があったらどうするんだい。今のうちにしっかり休んで治すのが一番だろう?」

「……い、いえ、本当に大丈夫なんです。ほら、この通りで、」

 

 恐らくその場で一度ふわりと回って、ちゃんと動ける姿を見せようとしたのだと思う。

 

「……ふあ、」

「おっと」

 

 しかしあっさりとめまいを起こしてよろめき、月見が咄嗟に両手を伸ばすと、ちょうど胸のあたりで抱きとめる形になった。

 みぅ、と咲夜が変な声を出した。

 

「ほら、ちっとも動けないじゃないか。とにかく一度ベッドに戻って。朝食は食べたかい?」

「……、」

 

 返事がない。月見の胸元にもたれかかった恰好のまま、身動きどころか呼吸すら失って石化している。

 

「咲夜?」

「………………、」

 

 やはり返事はない。横から咲夜の顔を覗き込んだフランが、あーあーとにんまり笑って意味深に肩を竦める。レミリアが小さくため息をつき、「みんなに咲夜は今日一日休みって伝えてくるわ。あとはよろしく」といずこかへ歩き去っていく。よろしくと言われても、なんでいきなり「はい解散ー」みたいな空気になっているのか、

 

「ぷしう」

 

 と。咲夜が突然気の抜けた蒸気を噴いて、それっきり体から一切の力が抜けた。

 慌てて抱き支えながら見てみれば、彼女はただでさえ熱っぽかった頬をより一層真っ赤にし、両目をぐるぐると回して気絶していた。それがあんまりにも唐突だったから、一瞬は気を失うほど具合が悪いのかと勘ぐってしまったけれど。

 隣でフランがころころと笑い、

 

「あーあー、月見と突然密着しちゃったからぁー」

「……私のせいじゃないだろう?」

「うん、むしろグッジョブっ」

 

 今の今まで大慌てしていたのに、なんだか打って変わって楽しそうなフランである。彼女のお茶目なサムズアップがどういう意味なのかはさておき、咲夜が大人しくなってくれたのなら今のうちだった。

 

「じゃあ月見、お部屋まで運んであげて」

「そうだね」

 

 月見は咲夜の体を横抱きで抱えあげ、フランの背中に続いて歩みを再開する。

 ……きっと、レミリアが立ち去った理由もフランと同じなのだろう。

 

「まったく咲夜ったら、気を失ってなければいい思いできたのにー」

 

 なんとも聞こえよがしな彼女のつぶやきは、一応、聞こえなかったということにしておいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 なんだか、ものすごく幸せな夢を見ていた気がする。

 夢の中で夢見心地になってしまうような、心臓が破裂寸前で、でもそれ以上に心地よくて安心できる夢だった気がする。目が覚めた直後も、心にじんわりとした温かさが残っているほどの。しかし悔しいことに、では具体的にどんな夢だったのかをちっとも覚えていなくて、目を覚ました咲夜を急速に襲ったのは言葉にもならない虚無感だった。

 

「……」

 

 残っていた温かさがあっという間に冷めてしまって、とてもがっかりした。どうしていま目を覚ましてしまったのか、なんで夢の内容をまったく覚えていないのか、咲夜は布団の中で丸くなりながら不甲斐ない己をひとしきり責める。

 それからはっとした。――いや待て、そもそも私はどうして布団で眠っているのか。

 咲夜の記憶が正しければ、今日の自分はすでに一度目覚めているはずだ。起きたときから全身が砂を詰められたように重く、明らかに風邪を引いてしまっていたからよく覚えている。紅魔館のメイド長である自分が朝から仕事を休むわけにはいかないと思い、根性で着替えて朝食の支度をして、レミリアとフランを起こしにいった。けれど二人に様子がおかしいと気づかれてしまって、仕方なく具合が少しだけ悪いのだと告げたところ、どたんばたんの大騒ぎで問答無用のままベッドに担ぎ込まれた。

 そこまでは覚えている。

 ということはまさか、自分はそのままうっかり眠ってしまったとでもいうのだろうか。熱っぽい頭からさっと血の気が下がるのを感じて、咲夜は慌てて枕元の時計を

 

「――咲夜さん、気がつきました?」

「え、」

 

 確認しようとして布団から顔を出すと、傍に小悪魔が立っていた。

 完璧に虚を衝かれた。咲夜は時計に手を伸ばしかけた恰好のまま周囲を見回し、ここが間違いなく自分の部屋であることを確かめてから、

 

「えっと、……どうしてあなたがここに?」

 

 小悪魔はパチュリーの使い魔なので、これという用がなければ大図書館から出てくることも少ない。

 

「咲夜さんが風邪を引いたって聞いて、パチュリー様が行ってあげなさいって。図書館のことは、今日はぜんぶパチュリー様が一人でやるそうです」

「……そう」

 

 納得し、同時に咲夜はこの上なく申し訳ない気持ちに駆られた。――だから、ちょっと体調が悪い程度で仕事を休むなんて嫌なのだ。

 咲夜は紅魔館のメイド長であり、料理洗濯掃除全般様々な雑事を引き受けみんなの生活をサポートする立場にある。そんな自分が風邪という初歩的なミスで仕事を滞らせ、挙句の果てにはサポートしなければならない相手を逆にわずらわせてしまうなんて、これを主客転倒といわずしてなんとするのか。

 このままみんなに迷惑を掛けるわけにはいかない。咲夜は砂が詰まった体で重苦しく起き上がり、

 

「ごめんなさい、すぐに着替え」

「はいはいそう言うと思ってましたダメですよー。咲夜さんは今日一日安静です」

 

 小悪魔に軽く肩を押され、それだけで咲夜の体は呆気なく布団に戻されてしまった。小悪魔とて大した力を込めたわけではなかろうに、自分の体がそれだけ弱ってしまっているのだと認めざるを得ない。

 しかしそれでも、咲夜は寝てなんかいられないのだ。

 

「今日の仕事が、まだぜんぜん」

「妖精メイドだってなにもできないわけじゃないんですから、一日くらい大丈夫ですよ。ここで無理して、明日になっても明後日になっても治らない方が大変です」

「それは……」

 

 小悪魔は間違っていない。所詮ただの風邪ではあるものの、いつも通り動けるくらい症状が軽いかと問われれば実のところそうではない。重いというほどではないにせよ、頭痛に寒気に倦怠感と、風邪としてはそれなりに症状が出てしまっている。体温計で計ったときは熱もあった。もしこれが自分以外の誰かだったなら、咲夜だって間違いなく一日安静を言い渡すだろう。

 無理に仕事をしてこじらせようものなら、それこそ目も当てられない。

 そんなのは、わかっているのだ。

 

「でも……っ」

 

 咲夜の葛藤を知ってか知らでか、小悪魔は気楽に笑って、

 

「まあまあ。気にしちゃうのはわかりますけど、今日のところは休んでた方がオイシイと思いますよ」

「? どういう……」

 

 咲夜の耳元に顔を寄せ、その笑みをちょっぴり意地悪に歪めると、

 

「月見さんに看病、してもらいたくないんですか?」

「!?」

 

 顔中から湯気を噴いたかと思った。

 

「な、なんでそこで月見様が」

「え? だって月見さん……」

 

 小悪魔は首を傾げ、少し考えてから、

 

「……もしかして咲夜さん、覚えてないんですか?」

「な、なにを?」

「動けなくなった咲夜さんをここまで運んだの、月見さんらしいですよ」

「――」

 

 ――すでに一度起きたはずの自分がどうしてまた寝ていたのか、やっとわかった。

 というより、思い出した。

 レミリアとフランによって一度ベッドに叩き込まれたあと、咲夜は二人がどこかへ行った隙にこっそりと抜け出したのだ。なんとなく体調が悪いのにも慣れて、案外いつも通り仕事ができるんじゃないかと思ったから。それで廊下を歩いていたら、月見を連れて戻ってきた二人に見つかってしまったのだった。

 進退窮まった自分がなにをしたかといえば、ちゃんと動けるのだとアピールするためにふわりと回ってみせようとして、

 あっさりバランスを崩して、

 月見に抱きとめられて、

 月見の固い胸元に、真正面から顔を埋めてしまった感覚、

 

「……………………」

 

 記憶はそこで終わっている。

 

「思い出しました?」

「……えっと、その……私、たぶん、気を失っちゃってたから……」

「えー、じゃあなにも覚えてないんです? せっかくお姫様だっこだったのに?」

 

 ――ひょっとして、ものすごく幸せな夢を見ていた気がするのって。

 体の温度が、ぐぐっと2℃くらい急上昇した。気がした。

 気を失っていたのが残念でならないような、気を失っていて逆に助かったと安堵するような。自分がどんな表情をしているのかわからなくなって、咲夜は小悪魔の問いに返事も返せぬまま、布団を目元まで引き上げて隠れる他なかった。

 しょーがないんですからー、と小悪魔は小さく吐息し、

 

「じゃあなおさら、今日のところは休まないとダメですね! 月見さんが優しく看病してくれますよっ」

「い、いえ、月見様にそんなことさせるわけには」

「いいから休んどけって言ってるんですよこのニブチン!!」

「!?」

 

 小悪魔がいきなりブチ切れた。鋭い人差し指で咲夜を射抜き、尻尾を逆立てながら雷のような剣幕で、

 

「咲夜さん、あなたほんとに月見さんと距離縮める気あるんですか!? どっかの妖怪とか蓬莱人は風邪なんか引かないんですから、月見さんに看病してもらえるなんて咲夜さんの特権じゃないですか!! 黙って看病されときゃあいいんです!!」

「あ、あの、」

「前々から思ってましたが咲夜さんはぬるすぎですっ! いい子ぶるのはいいですけど、それだけだと本当にただの『いい子』で終わっちゃうんですからね!? ただでさえ奥手なんですから、こういう降って湧いたチャンスくらいちゃんと活かすんですっ! おーけー!?」

「……えっと、その、はい?」

 

 小悪魔の頭からにょきにょき生えていた悪魔の角が、ふっと消えた。そんなイメージが見えた。

 

「わかればよろしい。それじゃあ、月見さんを呼んできますね」

「は、はい……」

 

 たおやかに回れ右した小悪魔が部屋から出ていく。ちょっとした嵐が去ったごとく静かになる。小悪魔からあんな風に大声で叱られるなんて――よくわからないがたぶん叱られたのだと思う――、果たして今までに一度でもあったかどうか。咲夜は未だ呆気に取られ放心しているのを感じつつ、見慣れた天井を仰いで緩く吐息した。

 

「……本当に、休まなきゃダメなのかしら」

 

 もちろん、自分の体調は自分が一番よくわかっている、客観的に見れば一も二もなく休むべきなのだろう。歩くのも辛いとまでは言わないけれど、歩くのを考えるだけで気が重くなる程度には具合が悪い。普段通りの手際で普段通りの仕事をこなすのは、さすがに不可能と言わざるを得ない。

 しかし、まったく仕事ができそうにないかといえばそうでもない。

 ならば、無理をしない範囲で少しくらいはやるべきではないか。だって自分は、紅魔館のメイド長で。みんなの生活をサポートしなければいけない立場で。誇り高き吸血鬼の従者として、完全かつ瀟洒でいなければならないのだから。

 冬の真っ只中ならまだしも、春になっていまさら季節外れの風邪を引くなんて、どう見ても初歩的な体調管理のミスだ。そんなつまらない理由でみんなに迷惑を掛けるなど、許されることなのだろうか。

 

「しかも、月見様に看病してもらうなんて……」

 

 のみならず紅魔館にとって恩人ともいえる人の手までわずらわせようものなら、咲夜はもう申し訳なさすぎて――

 

「――て、え? 月見様が、看病?」

 

 ふと。

 今更ながら。

 ひょっとして今の状況、とんでもなく大変なことが始まろうとしてやいないか。『月見に看病される』という事の重大さが、ひと足遅れてようやく咲夜の目の前に立ち塞がってきた。

 看病とは、要するに、あれだろうか。

 相手が心細くないようなるべく傍にいてあげたり、消化のよいものを作って食べさせてあげたり、汗を拭いてあげたり着替えを手伝ってあげたりする――

 

「――……」

 

 そういえば。

 記憶が途切れる前の自分はメイド服を着ていたはずなのに、どうして目が覚めてみればパジャマ姿になっているのか、とか。

 一体誰が着替えさせてくれたんだろう、とか。

 いやいや普通に考えて小悪魔とか美鈴とかに決まってるでしょ月見様がそんなことするわけないでしょー!? と断固否定するのだが、頭はここぞと言わんばかりに勝手な妄想を繰り広げていく。ダメだダメだとわかっていても思い描くだけならタダというやつで、咲夜はその抗いがたい魔力に引き込まれてあっという間に

 

『咲夜』

「ふえぁい!?」

 

 ドアのすぐ向こうから月見の声がして、咲夜はベッドから転げ落ちるかと思うほどびっくりした。

 

『……大丈夫かい?』

「だ、だいじょうぶですっ!!」

 

 反射的に大丈夫と答えるがまったく大丈夫ではない。月見様が来たなら寝てるわけにはいかないから起きなさいと言う自分と、起きたら礼儀もへったくれもないパジャマ姿を晒して逆に失礼だから寝てなさいと言う自分と、いいから部屋に見られて困るものがないか一秒で確認しなさいと言う自分が三つ巴の大乱闘を始める。

 すっかり気が動転して、時間を止めるなんて思いつきもしなかった。 

 

『入ってもいいかな』

「……ど、どうぞ!」

 

 しかも三人の咲夜の大乱闘を無視して、第四の咲夜が勝手に返事をしてしまった。なにやってるの私ー!? と心の中で絶叫するも時すでに遅し。

 

「やあ。具合はどうだい」

「は、はひ」

 

 月見が部屋に入ってくる。他でもない、咲夜の部屋に入ってくる。心臓が大音量で暴走を始めて、頭の中はぐるぐるのぐちゃぐちゃになって、咲夜は布団を顔半分まで被った恰好のまま微動だにもできなくなってしまった。

 首から上が煮え立っているかというほど熱い。緊張しすぎて呼吸もロクにできない。なにかの拍子に意識がふっと遠くなりそうだ。

 少し前の自分も、きっとこんな風に倒れて月見に運ばれたのだろう。なんとも情けない限りではあるが、今は自己嫌悪に陥る時間も余裕もない。

 

「えっと、その、お世話になってます」

「うん?」

 

 頭の中が大火事なせいで、よくわからない返事をしてしまった。会話すら成立させられない有様にさすがに危機感を覚える。

 幸い、月見は上手い具合に解釈をしてくれたようで、

 

「ああ、私はお前をここまで運んだだけだよ。着替えさせたり汗を拭いたりしたのはぜんぶこぁだ」

「そ、そうですか」

 

 やっぱり、月見が勝手にそんなことをするはずがなかったのだ。思っていた以上にほっとしたお陰で、少しずつ思考回路が復旧を始める。全身がほっこほこなのはあいかわらずだったけれど、どっちが上でどっちが下かもわからなかった状況はとりあえず脱出した。

 

「申し訳ありません、こんな恰好で」

「いいんだよ。しっかり休んでしっかり治さないとね」

 

 月見がベッドのすぐ傍から咲夜を見下ろす。たったそれだけのことが、どういうわけか咲夜には身悶えしたくなるほど恥ずかしかった。風邪を引いているから仕方ないとはいえ、今の咲夜はメイド服ではないし髪だって解いている完全オフの姿で、しかも月見を――もとい男の人を――私室に入れるなんて生まれてはじめてなのである。今という状況の一から百まですべてが落ち着かなくて、お陰様で顔半分まで持ち上げた布団を一ミリも下げられそうにない。

 私の部屋は、月見様から見るとどうなんだろう、と考える。

 年頃の女らしくないつまらない部屋だと思う。咲夜は寒色系の落ち着いた色合いが好みなので、たとえばフランの部屋に散りばめられているような、ピンクやら黄色やらの可愛らしいアイテムはひとつも置かれていない。こういう味気のない女の部屋は、男の人にとってどう映るものなのだろう。

 がっかりされたり、するものなのだろうか。

 いまさら悶々としたところで、月見を部屋に招く日が来ると想像もしていなかった己が不明を恥じる他ない。

 

「ご、ご迷惑をお掛けしました……」

「なあに。二時間くらいは寝たと思うけど、体調は変わらないかい」

「はい……」

 

 強いて言えば、月見が部屋に入ってきてから熱がひどい。おでこにやかんを置いたら沸騰させられる自信がある。

 

「そうか……。永遠亭の風邪薬があるから、なにか腹に入れられるといいんだけど。食欲はあるか?」

「……少しなら、食べられるかと」

「ならお粥でも作ろうか。それとも、なにか食べたい物はあるかな」

 

 咲夜はごくりと緊張の生唾を呑み込む。――えっと、これ、本当に月見様に看病されちゃうのかしら。

 もちろん、嫌というわけではないのだ。頭の片隅でほわんほわんと広がる都合のいい妄想がその証左である。とはいえもしこの妄想が現実になってしまったら、いかんせん今の咲夜にはハードルが高すぎるというか、精神的にぜんぜん休める気がしないというか、今度から月見様にどんな顔をして会えばいいんだろうとか。

 

「つ、月見様」

「うん?」

 

 思いきって訊いてみた。

 

「あの、その。月見様が、看病……してくださるんでしょうか……?」

「そういうことになってるみたいだね。ちゃんと看病するまで帰らせないってフランが」

 

 妹様ぁ。

 

「でも着替えとかはこぁにやらせるし、部屋も必要なとき以外は入らないから安心してくれ。男に入り浸られたら、お前も落ち着いて休めないだろう?」

 

 そんなことないです、ひとりは心細いので一緒にいてください――嘘でもそう言えない自分が恨めしい。情けない話だが確かに、月見がずっと部屋にいたら咲夜は落ち着いて休めない。たぶんずっとどきどきしてずっと起きている。そんな状態で寝るのは、マラソンしながら寝ようとするようなものだと思う。

 

「それで、お粥でいいかな」

「あ、はい」

「了解。お昼になったら作って持ってくるよ。他にほしいものはあるかい?」

 

 いきなり訊かれても思い浮かばなかった。特にないです、と小さく首を振る。

 

「そうか。それじゃあ、お昼にまた来るから」

「あっ……月見様」

 

 踵を返そうとした月見を呼び止め、尋ねる。

 

「あの……お嬢様と妹様は、どうしていますか?」

 

 いろいろと頭の整理が追いついていない状態でもそう質問できたのは、長年掛けて刻み込まれた従者としての精神故か。

 あの二人には自分がついていなければならない、というほど自惚れてはいない。けれど咲夜は紅魔館のメイド長として、普段から二人の身の回りの世話を幅広く受け持っているから、今頃は自分の不在を迷惑に思っているのではないかと不安だった。

 返ってきたのは、微笑ましい光景を思い出すような優しい一笑だった。

 

「二人なら、妖精メイドたちと一緒に掃除を始めたよ」

「え、」

「お前の代わりに今日は自分がメイド長をやるんだって、フランが張り切ってね。レミリアも巻き込んで、二人でメイド服まで着て跳ね回ってるよ」

 

 予想外ではあったが、驚きはしなかった。月見やチルノなど紅魔館の外に友達ができてからというもの、フランは興味を持った物事になんでも挑戦できる度胸と活発さを手に入れた。レミリアもそんな妹に影響を受けてか、以前なら断固拒否していたようなことにも少しずつ理解を示し始めている。昨年の年末に、みんなで水月苑の大掃除を手伝ったのはまだ記憶に新しい。

 

「不安といえば不安だけど、一日くらいならなんとかなるさ。だから、お前はゆっくりお休み」

「……はい」

 

 どうやら咲夜が気に病む必要はなさそうで、安心して。

 それ以上に、複雑だった。

 風邪なんか引いてみんなに迷惑を掛けるのは嫌だと思っていた。烏滸がましいかもしれないけれど、紅魔館の雑事を執り仕切る自分がダウンするのはそれだけ影響の大きいことだと思っていたのだ。けれどもしも、咲夜一人が休んだところで誰も迷惑に思わず、何事もなかったように紅魔館が回るのだとしたら。

 迷惑を掛けたくないと思っていたのに。

 そもそも誰も迷惑に思っていないのかもしれないと考えたら、部屋を後にする月見の背中を、礼も言えないまま見送るしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「さくや――――――――っ!!」

 

 ばごん、と。

 月見が出ていってからほどなく、咲夜がため息ばかりの悶々とした時間を過ごしていると、今度はフランが元気はつらつな大声とともに突撃してきた。その後ろにはレミリアの姿もあって、月見が言っていた通り、二人とも妖精メイドと同じメイド服を着ていた。

 お揃いの帽子も今日は休暇を言い渡され、代わりにカチューシャが姉妹の髪を愛らしく引き立てている。二人が着ているというだけで、見慣れたメイド服も技術の粋を尽くした特注品のように見えてくるから不思議なものだ。似合っている、というべきなのかはわからないが、記念として写真を撮っておきたくなるくらいにとても可愛らしかった。

 とてとてと傍までやってきたフランは、ベッドに両手をついて咲夜を覗き込み、

 

「咲夜ー、具合はどう?」

「ええと、あいかわらずです。申し訳ありません、こんな恰好で」

「風邪なんだから仕方ないわ。気にせず養生なさいな」

 

 主人の気遣いにどう応えればいいのかわからず、咲夜は曖昧に片笑むだけで言葉を濁した。

 

「……月見様から聞きました。私の代わりに、館の掃除をしてくださってるって」

「うん! 今日はフランがメイド長ですっ」

 

 むふーっとフランが得意げに胸を張る。その隣でレミリアは首を振って呆れ、

 

「なにがメイド長よ。みんなを振り回して混乱させてるだけじゃない」

「うるさいバケツの水ぶちまけたくせに!」

「あ、あれはフランがあっちこっち走り回るからでしょうがっ!」

「ぼけっと突っ立ってるお姉様が悪いんですーっ!」

「ま、まあまあ」

 

 すでに何度か経験を積んでいるとはいえ、二人とも掃除に関してはまだまだ素人である。時たま紅魔館でお手伝いをしてくれるときも、あっちへ行けば床に物をブチまけ、そっちへ行けば妖精メイドが悲鳴をあげというのが珍しくない。

 もっとも、掃除という名目の破壊活動を繰り広げるどこかのお姫様と比べれば、二人とも充分上手な方だった。さすがに掃除する前より汚されることはないはずなので、一日任せるくらいなら問題ない――と思う。たぶん。きっと。月見や小悪魔もいるし。

 

「お手間をお掛けして申し訳ありません」

「いーのいーの、たまにはこういうのも楽しいし! でも、早く治さなきゃダメだからね!」

「そうね。このままフランがメイド長やってたら、それこそ紅魔館が崩壊してしまうわ」

「むかーっ!」

 

 月見が駆けつけてくれて心底安心したのか、レミリアにもフランにももう不安がる様子はない。いつも通り元気に口喧嘩するそんな姉妹を見つめながら、咲夜は。

 ――私が風邪を引いて、迷惑でしょうか。

 そう問えば、二人ともそんなことはないと即答するだろう。けれどそれは、咲夜を気遣っての優しい嘘なのか、紛れもない本心なのかどちらになるのだろう。もしも前者であれば、二人に迷惑を掛けてしまって従者として本当に申し訳ない。もしも後者であれば、体調を崩したところで主人になんとも思われないような自分に、果たして従者としてどんな価値があるのかと考えてしまう。

 私はなんて卑しいんだろう、と思う。迷惑になるのは嫌だし、迷惑にならないのも嫌だと思っている。なんて不完全で、なんて浅はかな従者なのだろうか。『完全で瀟洒』な理想の姿からかけ離れた自分を突きつけられて、思考が泥沼に沈んでいくのを感じる。

 気がつけば、二人の口喧嘩が終わっていた。

 

「じゃあ、お昼は月見がお粥作るからね! 楽しみにしているようにっ」

「っ、」

 

 いきなり現実に引き戻された。泥沼に沈んで風邪特有の寒気に包まれていた体が、変な汗を噴きそうになるくらい熱くなった。

 

「……や、やっぱり、月見様が作ってくださるんですか」

「うん。だって咲夜、月見の手作りがいいでしょ?」

「げほげほ!?」

 

 なにもしていないのに咽る。フランはうむうむと意味深に頷き、

 

「月見が咲夜のためだけ(・・)に作るお粥だからねー。水月苑でみんな一緒に食べるご飯とはワケが違うのよ」

「あ、あの、その」

 

 薄々頭の中で思い描いていた妄想のひとつが、現実となって迫ってこようとしているのを感じる。月見の手料理自体は、もう何度も食べたことがある。レミリアやフランと一緒に水月苑へ行ったとき、昼食や夕食として出される料理がそれだ。

 しかしながらあれは月見自身も含めたみんなのために作られた食事であるし、ほとんどの場合は咲夜もお手伝いしている。今回はそれとはワケが違う。月見が咲夜のためだけに誰の手も借りず一人で作り、かつこの世で咲夜だけが食べることを許された唯一無二の料理なのである。

 たかがお粥と侮るなかれ。ぶっちゃけ言って、どんな料理かはまったくもって問題ではないのだ。

 たった一杯のお粥だろうが豪華絢爛な懐石料理だろうが、月見がただ一人のためだけに作った手料理という、その意味。もしかすると、八雲紫や蓬莱山輝夜だってまだ味わったことがないかもしれない。

 レミリアがゆっくりと息を吐いて、

 

「……ま、それが咲夜にとって一番なのはわかるし、なにも言わないわよ」

「あ、あうあう……」

 

 なにも言えない咲夜の反応がよほど満足だったのか、フランは歯を見せて思いっきり笑った。

 

「せっかくなんだし、月見にあーんで食べさせてもらえばいいと思うよっ!」

「!?」

「また来るねーっ!」

 

 レミリアの手を引っ張って、ドタドタとあっという間にいずこかへすっ飛んでいく。そのときにはすでに、咲夜の意識は爆発するがごとく広がる妄想の世界に絡み取られてしまっている。

 やっぱり、そうなのだろうか。

 そういう風に、なってしまうのだろうか。

 ベッドの傍に月見の幻影が出現する。机から持ってきた椅子に腰かけ、膝の上には銀のトレーと柔らかい湯気をあげる丼がひとつ。和風にハマる姉妹のため最近買った漆塗りのスプーンで、そっと優しく一杯をすくう。ふう、ふう、と何回か息で冷まし、静かに運んでくれる先は咲夜の口元で。咲夜は胸の奥がむず痒い熱で疼くのを感じながら、躊躇いがちに口を小さく開けてあああああいけませんわ月見様そういうのはまだ私には早すぎるといいますかいえいえ決して嫌なわけではなくわたくしめにはちょっと幸せすぎるなあと思うんですほっほら私はいつも自分のことは自分でしているのでこんな風に誰かにしてもらうのがすごく、なんといいますか、

 え、ならいいじゃないかって……。

 ……。

 た、食べます。

 …………。

 では。

 あ、

 あーん、

 

『咲夜』

「ふひゃあああああああああ!?」

 

 ドアのすぐ向こうから月見の声がして、やっぱり咲夜はベッドから転げ落ちるくらいびっくりした。

 

『ど、どうした?』

「なななっなんでもないですなんでもないですなんでもないですっ!?」

 

 月見が目の前にいるわけでもないのに、必死に両手を振ってピンク色な妄想を頭の中から叩き出す。本日二度目。風邪を引いているせいなのかなんなのか、今日の咲夜はいささかスキだらけである。

 

『……ええと、お粥ができたよ。入って大丈夫かな』

「えっ――お、お早いんですね!?」

 

 ついさっき、レミリアとフランが部屋を出ていったばかりである。お昼にしてはまだ少々早すぎるのではないか。

 

『うん、そうかい? もうお昼は過ぎてるけど』

「……えっ」

 

 咲夜は枕元の時計で時間を確認した。

 正午を二十分ばかり過ぎていた。

 レミリアとフランが部屋を出ていってから、四十分くらい経っていた。

 理解した瞬間、心臓がきゅっと小さくなったのを感じた。

 

「――あ、も、申し訳ありません、少し微睡んでいたみたいで。も、もうこんな時間だったんですね、あは、あはははは」

 

 変な汗が噴き出た。――うそでしょ? 私、時間忘れて四十分近くもあんな妄想してたの?

 それはひょっとして、どこかの鬼子母神様を笑えないなかなか気持ち悪いやつなのでは、

 

『なるほど。……それで、入っていいかい?』

「ど、どうぞ」

 

 とにかく、咲夜は首を振って気を入れ直す。ドアが開き、銀のトレーに丼を載せた妄想通りの月見が入ってくる。ベッドの対面に置かれた咲夜の机を見て、

 

「椅子、借りていいかな」

「は、はひ」

 

 いけない――なんというか、完全に妄想通りの流れになっている。咲夜の心臓が本格的に早鐘を打ち始める。操り人形が糸で引っ張られるように、よく考えもしないまま無意識に体を起こす。パジャマ姿を見られるなんて羞恥心は、それ以上の緊張で跡形もなく空の彼方に吹っ飛んでいた。

 ベッドのすぐ脇にある、咲夜が普段小物置きとして使っているナイトテーブルを小気味よくトレーが鳴らす。月見が机から椅子を持ってきて、ゆったりと傍に腰掛ける。咲夜の心臓の鼓動が、また少しだけ強くなる。

 

「だいぶ久し振りに作ったけど、まあ、不味くはないだろうさ」

 

 たまご粥だった。生まれてはじめて、たかがお粥に心の底から目を奪われた。

 

「それと、少し果物も。食べられそうだったら食べてくれ」

 

 トレーの片隅にある果物を盛り合わせた小皿も、なんだか宝石箱みたいに美しく光り輝いて見える。

 

「さて、自分で食べられそうかい? 辛いようなら、スプーンは私が持ってもいいよ」

「……!」

 

 肩が跳ねる。頭の中が自分の心臓の音だけで征服される。一世一代の究極の選択。七転八倒がごとき緊張を乗り越えて月見にお願いすることができるのか、咲夜の度胸と欲望への忠実さが試されている。

 お願いしますと、ただ一言そう言うだけでいい。そうすれば夢が現実になる。きっと自分はそのために風邪を引く運命だったのだと、欲望の咲夜が声高に主張する。

 でもまさかまさか月見に「あーん」なんてされようものなら、咲夜はよくわからない感情に全身を叩きのめされて死ぬかもしれない。そんなのは無理だと理性の咲夜が涙目で叫ぶ。

 ここまでの思考時間はコンマ一秒、票数一対一の鍔迫り合い――すべての選択権はいまここにいる己へ委ねられる。

 欲望が理性を背負い投げする。

 理性が欲望に腕ひしぎ十字固めで反撃する。

 十秒にもなろうかという短くも長い戦いの末、咲夜は大声ではっきりと答えた。

 

 

「――ひ、ひとりで食べられますっ!!」

「そうか。わかった」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――咲夜さん、あなたどんだけヘタレなんですか? 月見さんに看病してもらう意味が半分くらいパーになっちゃったじゃないですか。ほんとやる気あるんですか?」

「ねえ咲夜ー、そんなんじゃいつまで経ってもなにも変わらないよー?」

「…………くすん」

 

 その後自室にて、悪魔と吸血鬼にお説教されるメイドの姿があったとかなんとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第151話 「十六夜咲夜は進めない ②」

 

 

 

 

 

 咲夜が風邪で体調を崩し、スカーレット姉妹が大慌てで月見を呼びに行ったと聞いたときは、これは千載一遇のチャンスが巡ってきたと思ったものだ。

 すなわち、月見に咲夜の看病をしてもらう。いくら咲夜が恋愛完全初心者の生娘だからって、まさかその意味がわからないほど鈍感ということはあるまい。紅魔館の恩人に手間を掛けさせてしまう形にはなるが、こと咲夜への対症療法としては間違いなく最適解である。せっかくだからご飯を食べさせてもらうなりずっと傍にいてもらうなり、月見成分の過剰摂取(オーバードース)を起こすくらい幸せな思いをしてしまえばよいのだ。

 と、柄にもなくわくわくしていたのであるが。

 

「――とまあ、こんな具合でして」

「……はあ」

 

 その日のお昼時、昼食を持ってきた従者からついでで報告を聞いてみれば、パチュリーの口から出てきたのは崩れ落ちるようなため息だった。

 大図書館の片隅にある読書用のスペースにて、たまらずテーブルに肘をつき目頭を押さえる。咲夜が恋愛の「れ」の字も知らず育ったド素人なのはわかっていた。月見と今まで通りの日々を送れればそれだけで幸せになってしまい、いつまで経っても大きく一歩を踏み出すことができない。ともすれば踏み出そうとも考えていない。わかっていた。ええわかっていましたとも。

 けれどまさか、落ちてきた牡丹餅をそのまま棚に戻してしまうほどだったとは。

 

「妹様がそれとなく前フリはしたみたいなんですけど、それでもダメでした……」

 

 小悪魔の報告をまとめれば、せっかく月見に「あーん」してもらえるチャンスだったのに、ひとりで大丈夫だとはっきり断って本当にひとりで食べてしまったらしい。恥ずかしがり屋もここまでいくと逆に感心してしまう。

 

「薄々思ってましたけど咲夜さん、ヘタレすぎませんか」

「……」

 

 小悪魔の口振りは、ほのかな危機感すら覚えているようでもあった。いつまで経っても進展らしい進展がない咲夜の現状は、曲がりなりにも悪魔な彼女からすればもどかしくて歯痒くて仕方がないらしい。

 

「月見さんが部屋にいると落ち着かないからって、傍にいてほしいとも言えてないです。月見さんも月見さんで無駄に空気読んじゃって、必要なときしか様子見に行かないですし。絶望的に噛み合ってないですよ」

「……本当に何事もなく終わりそうね」

「いいのかなあこんなんで……」

 

 月見が咲夜の看病をしてくれるこのイベントを、一番真剣に考えているのは小悪魔だった。以前まではあまり口を挟まず物陰から見守るだけだったものの、最近ではとうとう我慢ならなくなったのか、フランと結託して咲夜に発破をかけようとする頻度が増えてきている。彼女が午前中、図書館を離れて館の方に行っていたのもそのあたりが一番の理由だ。

 

「仕方がないわ、あくまで踏み出すのは咲夜自身だもの。あとは見守りましょう」

「ぬるい、ぬるいですよパチュリー様……! こっちから仕掛けないとなにも変わりません……! 人の言葉を借りちゃいますけど、弾幕も恋も火力なんですっ!」

「それ、どっかの古道具屋に惨敗し続けてるやつの言葉じゃない?」

 

 パチュリーも小悪魔も、咲夜のことは心から応援している。ただそのスタンスでひとつだけ明確な違いを挙げるなら、小悪魔はとにかくこちらから行動を起こす攻撃重視で、パチュリーは咲夜の意思を念頭に置くバランス重視という点だ。つまりは多少咲夜の気持ちを無視してでも強引に背中を押すか、あくまで咲夜が自分の意思で踏み出せるよう促すに努めるか、である。今回の看病だけ見ても、小悪魔は一気に距離を詰められる外面的なチャンスと捉えており、パチュリーは引っ込み思案な咲夜の心に変化を起こす内面的なチャンスと捉えている。

 

「それは香霖堂さんが絶食唐変木のド変人道具マニアなだけです!」

 

 バッサリ切り捨てられた古道具屋店主はさておき、

 

「私が思うに、月見さんはすごく長生きしてきたせいで、私たちがみんな年の離れた娘みたいにしか見えなくなってるんです。……まあ実際そうなんでしょうけども。だから積極的に行動して、ちゃんと一人の女なんだって意識させなきゃなんですよっ!」

「行動するだけで彼をモノにできるなら、八雲紫や鬼子母神がとっくにそうしてるわ。動かなければスタートラインにも立てないのは同意するけど、そこから先はどうするの? 毎回毎回無理やり焚きつけるのはナンセンスでしょう。長い目で見れば、咲夜の意識を変えさせる方が大切じゃないかしら」

「そんなのは、行動すればあとから自然とついてくるものです!」

 

 せっかく美鈴が作ってくれたできたて炒飯をそっちのけにして、だんだんと会話のボルテージが上がっていく。恋愛事に関する考え方が違えば、咲夜をどう応援するべきかで意見の食い違いもたびたび起こる。

 

「パチュリー様っていかにも経験者な顔して咲夜さんにアドバイスしてますけど、思いっきり未経験ですしぜんぶ本の中の知識じゃないですか! 現実の恋愛は物語みたいに甘くないんですよっ!」

「未経験なのはあなたも同じじゃないの! どうせ今だって、先輩悪魔から聞いた知識を偉そうに語ってるだけでしょう!?」

「こっちは実際の体験談に基づいてますもん!」

「先輩風を吹かせたくて、あることないこと盛っただけよ。とにかく行動すればいいなんて前時代的だわ」

 

 むむむむむ……! とお互い譲らず睨み合いに入ったところで、ふと炒飯の香りが鼻孔をついた。

 小悪魔のお腹が、小さく鳴った。

 

「「……」」

 

 なんだか唐突に虚しくなってきた。具体的にはパチュリーも小悪魔も、なにをどう言ったところで所詮は一寸法師の背比べ、恋愛経験皆無のド素人なのだというあたりが。

 

「……とりあえず、冷める前に食べましょうか」

「……そうですね」

 

 大図書館にこもってばかりで月見以外の異性とも縁がないのに、どうして人の恋路の道案内ができようか。

 久し振りに味わう美鈴の炒飯は、咲夜の一品に負けず劣らずの美味だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……はあ」

 

 パチュリーと小悪魔が大図書館で揃ってため息をついた頃、咲夜もまたベッドの上で悩みの多いため息をついていた。

 今日だけで、もうそろそろ百回目くらいになったのではあるまいか。左に寝返りを打ってまたため息をつき、右に寝返りを打って更にため息をつく。太陽が南中を越え西に傾き始めてからというもの、咲夜はひたすらため息のオンパレードである。あいかわらず体調がよくないままなのもあるけれど、本当の原因はもっと別のことだった。

 

「暇」

 

 つぶやく。

 

「……暇だわ」

 

 月見のお粥で胃を適度に満たし、果物で糖分とビタミンを摂って、ドリンクで水分も補給した。そして、月見が屋敷から持ってきてくれた永遠亭の風邪薬も飲んだ。風邪薬といえばあくまで体調不良を和らげるだけというのが通説だが、永遠亭のそれはウイルスに直接作用できるスグレモノらしい。水月苑には人間の子ども用から妖怪用まで、ウサギ印の常備薬が豊富に揃えられているのだ。

 あとは体を冷やしすぎず温めすぎず休んでいれば、今日のうちにきっとよくなるだろうと月見は言っていた。

 しかし、ここである問題が起こる。

 午前中すでにひと眠りしてしまったせいで、いくら目を閉じても一向に眠気がやってこないのだ。眠ろうとしても眠れないまま無為に流れ去っていく時間というのは、一度自覚してしまうと存外ストレスが溜まるものである。そうなると紅魔館のメイド長として、ついつい、本来ならこの時間でどれだけ仕事を片付けられていたのかを考えてしまって、

 

「仕事したぁい……」

 

 と、ある種の禁断症状を起こし始めてしまうのであった。

 さてこうなると、月見の看病に気を取られすっかり忘れていたあの葛藤が息を吹き返す。すなわち「紅魔館のメイド長である自分が、多少の風邪ごときで仕事を休んでいいのか」であり、そうやって悶々としていればひと眠りするなど夢のまた夢、どこまでも儘ならぬ感情に絡み取られていく負のスパイラルのできあがりだった。そこに体調不良も合わされば、もはや気分は最悪の一言に尽きた。

 せっかくだから月見に看病してもらえ、とフランや小悪魔は言う。咲夜もまあ、二人が言いたいことはわかっている、と思う。月見が様子を見に来てくれるだけでほかほかと嬉しかったし、さすがに「あーん」は無理だったけれど、彼が咲夜のためだけに作ってくれた手料理は文句なしで幸せだった。きっと予定だってあっただろうに、わざわざ駆けつけてくれた月見の優しさにはいくら感謝しても足りない。

 だからこそ、もう充分だった。

 幸せである一方で、こんな風に思い煩う羽目になるくらいなら。

 最初から、いつも通りの日常を送る方が何倍もよかった。

 

「はあ…………」

 

 いつもなら心地よいはずのベッドの中が、まるで生温かく不快な泥の塊のようだ。なのに気がつけば自分は、布団を頭まで被って塞ぎこむように体を丸めている。

 風邪なんか引いてしまった自分が、ただひたすらに情けなかったのだ。

 

『咲夜』

 

 ノックの音が、聞こえた。

 

『入っていいかい』

「……あ、」

 

 月見の、声。

 けれどもう、午前中のように胸が高鳴ることはない。

 

「……どうぞ」

 

 よく考えもせず返事をしてから、自分が月見に背を向ける恰好で丸くなっていると気づいてはっとする。目上の相手を部屋へ入れるのに、背中を向けたままなんて――そう慌てて入口の方へ向き直るも、ちょうど入ってきた月見に一部始終を見られてしまった。

 

「ああ、ごめん。もしかして、起こしちゃったかな」

「い、いえ、違うんです。その、なかなか眠れなくて」

 

 余計な気を遣わせてしまった。本当になにやってるんだろう私、とますます自分が不甲斐なくなる。

 

「なに、眠れなくてもいいのさ。安静にして、体が風邪とじっくり戦えるようにするのが大事だから」

「……はい」

 

 言外に、薬を飲んだからといって仕事をするのは論外だと言い含められた気がした。もちろん月見にそんなつもりはちっともなくて、悪いのは咲夜の心を苛むこの後ろめたさなのだろう。もしも誰かから一言だけでも「いい」と言われれば、自分はすぐさまメイド服を着て働き始めるのだろうから。

 

「飲み物、ここに置いておくよ」

「はい……」

 

 ナイトテーブルにコトリと小さめの魔法瓶が置かれるのを、ぼんやりと目で追う。

 

「他には大丈夫かい。汗をかいたならこぁを呼ぶよ」

「いえ、大丈夫です……」

 

 月見がせっかく様子を見に来てくれたのに、心ここにあらずな返事ばかりをしていたせいだろうか。

 

「ふむ……」

「……?」

 

 月見が上からこちらを覗き込んで、

 

「午前中より具合が悪いかい?」

「いえ、特に悪化は……していませんが」

「そうか。なんだか、午前中より元気が……というのも変だけど。落ち込んでるように見えたものだから」

 

 ――正鵠を射る、とはまさかにこのことか。

 喉に詰まるものを感じ、気まずさに負けて視線を逸らす。誤魔化そうという気は起こらず、ただ、やっぱりわかるんだと諦めめいた感覚が胸に広がった。

 

「……」

 

 今からでも遅くはない。なんでもない、大丈夫だとはっきり言い切れば、月見ならひとまず察して引き下がってくれるだろう。

 けれどそうしてまで、また最悪な気分の中でうじうじと思い煩うくらいなら。

 

「……月見様」

「うん?」

「もし、ご迷惑でなければ……」

 

 この本音を打ち明けられるのは、たぶん、自分には月見しかいないのだと思った。

 

「悩み相談……していただいても、いいですか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 正直に話した。風邪なんて引いてしまった不甲斐ない自分と、迷惑を掛けたくない自分、そして迷惑にも思われないのは嫌だと思ってしまう自分。躊躇したのは最初だけで、一言話し出してしまえば言葉は次々とこぼれ落ちていった。

 自分のみっともない心をさらけ出すのは、緊張したけれど。月見ならちゃんと聞いてちゃんと答えてくれると信じられたから、怖くはなかった。

 

「――なので、私は、なんて卑しくて不完全な従者なんだろうと。考え出したら、止まらなくなってしまって……」

 

 月見は、見ているこちらがどきりとするくらい優しい表情をしていた。彼には咲夜の言葉ひとつひとつが目に見えていて、そのすべてを慈しみながら眺めているかのようだった。高々数十年ぽっちしか生きられない人間にはあまりできない表情だと思った。だからだろうか、知り合いに悩み相談をしているというより、静かな森の中で大樹に向けて話しかけているような感覚が咲夜にはあった。

 

「体を休ませるのは、こうして横になっていればいいから簡単ですけど。心も一緒に休ませるのは、少し難しいものですね」

「そうだなあ。なにか気晴らしができればいいんだろうけど、風邪で動けないとね。確かに難しい」

 

 月見が口元に明確な笑みを浮かべ、心当たりがあるとばかりに二度頷く。

 

「私は妖怪だから風邪は引かないけど、怪我で動けなくなったことなら何度かあってね。一日中寝転がってるだけってのは本当に退屈で、ちょっとくらいいいだろうと思って散歩に行こうとするんだけど、なにやってるんだと怒られてすぐ連れ戻されたり」

「まあ、月見様もですか」

 

 咲夜もつられてくすりとしてしまう。なんだか今日はじめて自然と笑えた気がして、それだけで少し心が軽くなった。

 

「私もそういうとき、してもらってばかりだと据わりが悪くなることはあるよ」

「……そういうとき、月見様はどうしてるんですか?」

 

 月見はしばし考え、やがて浮かべた笑みに、一抹の気恥ずかしさらしきものを織り交ぜた。

 

「今の私なら……負い目を感じても、それ以上にありがたく思うかもしれないね」

「ありがたく……ですか?」

「……そうだね。たとえば、お前の友人が風邪で寝込んだとして考えてごらん」

 

 とりあえず言う通りにしてみる。風邪を引きそうな人間の友人ということで、仮に霊夢の姿を想像する。

 

「すると都合がつけば見舞いに行くし、動くのが辛いようだったら、少し身の回りのことを手伝おうと思うだろう?」

「はい」

「そのときお前は、面倒くさいやつだな、迷惑だな、なんて考えるかい」

「……、」

「もしそうなら、最初から見舞いにも行かないだろう」

 

 頷く。こちらからお見舞いに行って、それでもしも霊夢が「迷惑掛けてごめんなさい」なんて謝ろう日には、咲夜はなにバカなことを言っているんだと一笑に付すだろう。いまさら他人行儀な関係でもないのだ。本当に迷惑だと思っているのなら、わざわざお見舞いなんて行かず魔理沙あたりにでも任せるに決まっている。

 月見の考え方が、少しずつわかってきた。

 

「動けなくなったときにそうやって助けてもらえるのは、ありがたいことだよ。だから私は、申し訳なく思う以上に感謝するのだろうね」

 

 そして、ちょっぴり気恥ずかしそうにしている理由も。

 

「もちろん、なにからなにまでしてもらってばかりじゃないぞ。自分でできることは自分でするし、怪我をいいことに怠けるわけではなく」

「ふふ、わかってますよ」

 

 月見がそんな妖怪でないのはわかっている。彼らしい考え方だった。人生経験の差というやつなのか、彼はいつだって余計なものに心を縛られず、自分の中に自分が納得できる大抵の答えを持っている。自分だけでは答えが出せないとわかっているのに、延々とうじうじ悩んでため息ばかりついている咲夜とは大違いだった。

 月見には、果たしてどこまで見透かされただろうか。

 

「……まあ、そう考えると案外、お前が悩んでいるのも的外れなのかもしれないよ」

「……?」

「レミリアとフランは言うまでもないし、こぁも今日はこっちに出てきてる。お前は寝ていたけど、パチュリーと美鈴も一度様子を見に来てくれた。できることがあれば遠慮なく言ってくれってね」

 

 そこでようやく気づいた。さっきの月見のたとえはそのまま、今の自分にも当てはめられる話なのだと。

 レミリアとフランは、妖精メイドたちと一緒に不慣れな掃除を頑張ってくれている。

 小悪魔は図書館の仕事を休み、咲夜と似た立場で働く経験を活かしてみんなのサポートに奔走してくれている。

 パチュリーは小悪魔をこちらに送った分、図書館の雑事はすべて自分で片付けると言ってくれた。

 美鈴はいつも通り門番の仕事に励む傍ら、咲夜に代わってみんなの昼食を作ってくれた。

 咲夜がひととき仕事を忘れてゆっくり休めるように、みんなが自分にできることを考えている。

 

「だからお前の悩みにひとつ答えると、お前は誰にも迷惑を掛けていない」

 

 それは、迷惑だからなんて理由でできることではない。

 

「向こうから顔を見に来てくれて、助けてくれる。――それは『迷惑』じゃなくて、『心配』っていうのさ」

「――……」

 

 今まで散々思い悩んでいたのに、月見の言葉は呆気ないほどすとんと胸に落ちてきて。

 みんながこんなにも咲夜のことを考えてくれているのに、咲夜は誰とも目を合わせず自分しか見ていなかったのだと気づかされた。迷惑を掛けたくないと苦しんでいたのも、結局は自分だけの考えに過ぎなかった。自分からわざわざ泥沼に入って、自分で勝手にもがき苦しんでいただけだったのだ。

 咲夜を『心配』して差し伸べられたみんなの手が、はじめからすぐそこにあったというのに。

 

「私もそうだよ。お前を心配しているからここにいる。早くよくなってほしいからね」

 

 ……本当に、自分は不完全な従者だと思う。けれど不思議と、もう嫌な気分にはならなかった。

 思わず笑ってしまった。こんなにもあっさりと諭されてしまって、あれだけ憂鬱だった自分は一体なんだったんだとおかしかった。

 

「……月見様。私、意外と単純だったみたいです」

「なにか気づけたかな」

「はい」

 

 もちろん、体調管理のミスで風邪を引いてしまった事実は消えない。消していいわけがないし、それ自体の反省は充分にしなければならない。けれどそれで負い目を感じるなら自らを責め抜くのではなく、少しでも早く風邪を治して、心配し助けてくれたみんなへ『ありがとう』を返す――その方が、ずっといい生き方だなと思った。

 

「ありがとうございました、月見様」

「なに、これくらいはお安い御用さ」

 

 それだけで気分が随分と軽くなって、今はしっかり休もうと思えるようになった。とはいえ、午前中に一度ぐっすり眠ってしまったのは事実。このままでは、またベッドで寝返りを打つだけの時間を過ごしてしまいそうだったので。

 

「……月見様」

「うん?」

「その……意外と単純だったみたいなので、わがままを言ってもいいですか」

 

 本音をさらけ出して相談したせいか、その勢いのままもう少しだけ素直になれそうだったから。

 目で促す月見へ、思いきって一歩近づくように言った。

 

「私が、眠れるまで。ここに、いてくれませんか……?」

「それは構わないけど……私がいたら落ち着かないんじゃないかい?」

「ええと、もう慣れました」

 

 だいぶ嘘だ。慣れたわけがない。咲夜の心を覆っていた霧が晴れた今、自分の部屋で月見とふたりきりという状況に、また心臓の音がばくばくと大きくなってきたのを感じる。こんな有様では、落ち着いて眠るなんて十中八九不可能だろう。

 けれど、それでもいいのだ。月見だって言っていた。安静にさえしていれば、必ずしも眠らなければいけないわけではない。だってこうしてお悩み相談をして、咲夜はどうしようもなく理解してしまったのだから。

 今の自分にとっては、こうして月見と一緒にいるのが一番の休息で。

 わかったよ、とそう言って返ってくる彼の微笑みが、それだけで一番の栄養なのだと。

 

「じゃあ、なにか適当に話でもしようか。退屈な話を聞かされれば眠くなるかもしれないし」

「ふふ、そうですね。お願いします」

 

 断っておくが、月見の話が本当に退屈だったわけではない。

 でも悩みが吹っ切れて、ひととき仕事から解放され、心ゆくまで彼と一緒にいられるこの時間が、風邪を引いているのも忘れてしまうくらい心地よくて。

 月見の声に優しく耳を撫でられ、ふわふわと眠りに落ちる最後の一瞬まで。きっと自分は笑っていたのだと、そう思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ん、ぅ……」

 

 感じたのは、暑苦しさとまぶしさだった。

 目を開けると窓から西日が差し込み、部屋が薄い朱色で染まっていた。布団の中に熱がこもっている。押し退けるように半分めくって空気を取り込むと、パジャマの下がうっすらと湿っているのがわかった。眠っている間に体温があがって、ほどよく汗をかいたようだった。

 咲夜は束の間、ぼんやりと天井を見つめて頭を整理する。日が暮れ始めているということは、どうやら自分は恥ずかしいほどぐっすりと寝落ちてしまったらしい。月見の声に耳を傾けながら微睡むあの心地よさを思い出して、せっかく涼しくなりかけていた体がまた熱を持った。

 

「っ、はあ……」

 

 汗をかきながら眠ったお陰で、喉が渇いていた。咲夜は脇のナイトテーブルへ手を伸ばし、月見が持ってきてくれた魔法瓶を、

 取ろうとしたところで、そこに月見がいた。

 

「…………………………」

 

 椅子に腰かけ、浅く腕組みをして、下を向いたままぴくりとも動かないでいる。

 眠っている。

 

「……へ、あっ……」

 

 魔法瓶に手を伸ばした体勢のまま、咲夜はつい間抜けみたいになって呆けてしまう。だってそうだろう。「咲夜が寝るまで一緒にいる」という約束だったのだから、月見がここにいるはずはないのだ。咲夜が眠ったのを確認してとっくの昔に部屋から出ていき、今頃はメイド長フランの爆走を、レミリアや小悪魔と一緒にほどよく見守っているはずなのだ。

 はずなのだが。

 

「…………えーっと、月見様……?」

 

 ささやくように声を掛けてみるが、返事はない。静かで規則的な呼吸とともに、組んだ腕がゆっくり上下を繰り返している。間違いなく眠っている。

 

「…………………………………………」

 

 えっと。

 どうしましょう。

 とりあえず、窓から差し込む春の陽気が気持ちよくて、彼もうっかり眠ってしまったのだと思われる。それ自体特になにも言うつもりはなく、問題は月見を起こすべきかどうかという話であって。

 いや、別に変な意味ではないのだ。月見だって少し疲れていたのかもしれないから、無理に起こす必要はないかなと思うだけで。

 決して、断じて、「これひょっとしてチャンスでは?」とプチ悪魔な咲夜がささやき始めているわけではないのだ。

 そんなわけないのだ。

 

「つ、月見様ー……」

 

 ベッドの上でもぞもぞと動き、咲夜は月見の寝顔を覗き込んでみる。

 

「ね、寝てますよねー…………?」

 

 まぶたは動いていない。それだけで本当に寝ているとは断言できないけれど、彼ならわざわざ寝たふりをする理由もないように思う。

 

「……」

 

 まつげがきれいだなあ。

 って、そうじゃなくて。

 

「…………」

 

 咲夜はむくりと体を起こし、自分の部屋を隅々まで用意周到に見回す。

 誰もいない。

 絶対に誰もいない。

 魂を懸けてもいい。部屋の隅に羽虫がいたって見逃さない全身全霊の集中力で確認して、咲夜はゆっくりと深呼吸をした。

 深呼吸をして、月見を見た。

 

「……今の私は、ちょっぴり、わがままです」

 

 胸に手を当てつぶやく言葉は、半分以上が自分に向けた指差し確認のようなもの。――そう、今の咲夜はわがままなのだ。だから自分の感情に従って、やりたいと思ったことを素直にやってしまったりするのだ。

 本当にやる気があるのか、と小悪魔に言われた。

 そんなんじゃいつまで経ってもなにも変わらない、とフランにも言われた。

 別に変えたいと思っているわけではない。咲夜は今まで通り、月見が紅魔館の隣人として傍にいてくれればそれだけで満ち足りる。だから、自分が前に進みたいと願っているのかどうかも自分ではわからない。

 でも、今日は。お姫様だっこでベッドまで運んでもらったらしいけれど、気を失っていたせいでぜんぜん覚えていないし。せっかく「あーん」してもらえるチャンスだったのに、勇気が出なくてひとりで食べてしまったし。結局月見に看病してもらえたといっても、なんだか普段とあんまり変わっていない気がして。

 だからちょっとくらいは、いいんじゃないか。いつもとは違う、なにかがあったって。

 だって、仕方ないのだ。

 今の咲夜は、風邪を引いているのだから。

 

「……」

 

 ――ちなみに今は体のダルさが綺麗さっぱりなくなって、熱も下がっている――つまり風邪が治っている――のだが、咲夜がこれに気づくのはもう少しあとの話である。

 月見と向かい合って座る。待てやめろ早まるな、と心臓がばくばく大声をあげて咲夜を止めようとしている。けれどそんな雑音は、もう咲夜の耳には届かない。

 

「…………っ、」

 

 月見に向けて、両手を伸ばして、

 体の重心を、彼の方へ傾けて、

 

 顔を。

 近づけて。

 

 そして、

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――ん」

 

 誰かに触れられた気がして月見は目を覚ました。

 顔を上げれば目に入ってくるのは咲夜のベッドで、そこには半分背を向ける恰好で眠っている彼女がいる。窓際がほのかな茜色で染まっている。ナイトテーブルの時計で時間を見てみれば、自分がなにをしてしまっていたのかは一目瞭然だった。

 

「……ああ、私も寝てしまったのか」

 

 咲夜が眠ったのを確認して席を立とうとしたものの、窓から注ぐ春の陽気があんまりにも心地よかったからついぼーっとして、そのまま……という間抜けなオチがついてしまったようだ。日はすでに西の尾根近くまで傾いていて、「少し微睡んでしまった」なんて言い逃れはできそうにもなかった。

 椅子に座ったまま寝たせいで、体のあちこちが凝り固まってしまっていた。月見は欠伸を噛み殺しながら、すっかり老朽化した絡繰人形みたいに重ったるく伸びをして、

 

「……あの、月見様」

「ん……おや咲夜、起きてたのか」

「は、はい」

 

 眠っていると思っていた咲夜が実は起きていた。ということは、だらしなく居眠りする姿をばっちりと目撃されてしまったらしい。

 

「申し訳ありません。起こしてよいかどうか、わからなくて……」

「ああ、すまないね。私まで眠っちゃって」

「い、いえ、そんな」

 

 咲夜がぎこちなくこちらへ体を倒す。熱が下がりきっていないのか、その顔はまだほのかな赤みが差して見える。

 

「具合はどうだい?」

「はい、もうほとんどよくなりました。熱も下がったと思います」

 

 それにしては妙に熱っぽそうだったが、きっと夕焼けのせいかもしれないなと月見は納得した。

 部屋を見回す。自分と咲夜以外には誰もいないし、今まで誰かがいた感じもしない。よって誰かに触られていたようなあの感覚が事実であるならば、犯人は咲夜しかいないということになるが。

 

「……どうされましたか?」

「いや……なんだか寝てる間に、誰かに触られたような気がしてね」

 

 間。「あ、あー」と咲夜はわざとらしい動きで天井に目を逸らし、

 

「そ、そうなんですか。なんでしょうね、あは、あはは」

「咲夜かい?」

「えほん!? い、いえ、なにも見てませんなにもしてませんなにもわかりませんっ!?」

 

 どうやら本当に咲夜だったらしい。はぐらかそうとしているようだがバレバレである。一瞬で布団を頭まで被って丸くなり、「なんでもありませんなんでもありませんなんでもありませんなんでも」と一生懸命に早口言葉を量産している。

 一体なにをされたのやら。

 どこかを触られたのは間違いないけれど、それがどこだったのかも、どんな風に触られたのかもまったく不明の状態だ。もしかすると変なことをされていた可能性もありうる。もしもこれが紫か輝夜あたりの犯行であれば、とりあえず脳天に手刀を一発叩き込んでいたかもしれない。

 しかし咲夜なら、そのあたりの良識は心配無用だろうと信頼できたので。

 

「……まあいいや。別に変なことをしていたわけじゃないだろう?」

「……………………は、はい」

 

 その、思いっきり気まずそうに視線を逸らすのは一体なにか。

 

「じゃあ、一度熱を測ってみてくれるかい。私はその間にこぁを呼んでくるから」

「は、はひ……」

 

 心なしか冷や汗びっしりに見える咲夜へ体温計を渡し、部屋を後にする。ドアを閉め、歩き出そうとしたところでふと思い留まり、壁一枚隔てた向こう側へ耳を澄ましてみる。

 ベッドの上で、咲夜がばたばた身悶えしているらしい物音が聞こえた。

 

「……」

 

 本当にあの娘、一体なにをしてくれたのだろうか。

 

 

 なお体温計の結果であるが、ウサギ印の風邪薬が効いたようですっかり平熱に戻っていた。となれば咲夜はすぐにでも仕事へ復帰し、みんなから受けた『心配』を感謝の形で返そうとする。まだ少し不安そうにしていたレミリアとフランだったが、熱が下がり顔色もよくなったのは事実なので、万が一また具合が悪くなったら隠さないことを条件に了承した。

 かくして紅魔館崩壊の大ピンチは無事収束し、今までと変わらない日常が戻ってきたのだった。

 月見が帰るとき見送りに来てくれた咲夜が、やっぱりそわそわと落ち着かない様子だったのを除いて。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――どうも、ご心配をお掛けしました」

「いいえ。こんなに早く治ってよかったわ」

 

 九割本音である。残りの一割ほどはあともう一日だけ寝込んで、今度こそ月見につきっきりで看病してもらうべきではないかと思っている。何事もなく終わったのを喜ぶ気持ちと、何事もなく終わってしまったのをちょっぴり口惜しく思う気持ちの板挟みになりながら、パチュリーは表面上笑顔で咲夜の復帰を祝福した。

 役目を終えた月見が水月苑に帰ったあとの、黄昏時の紅魔館だった。

 

「もうすっかりよくなりましたので、これよりは今まで通り、なんなりとお申し付けくださいませ。……そちらの本、片付けましょうか?」

「ああ……いいのよ、これは。私の落ち度みたいなものだから」

 

 パチュリーは己の現状を見回してため息をつく。大図書館の一角にある本棚と本棚の間で、何冊もの本が散乱し無造作な山々を形成している。これが、小悪魔に頼らず自分で本の整理をしようとした今日一日の成果であった。

 一応、午前中はそれなりに上手くやっていたのだ。しかし午後に入って、何気なく目に入った一冊の本を読み始めてしまったのが運の尽きだった。読書エンジンに火がついてしまったパチュリーは、本をしまうどころか逆に次々と引っ張り出し、結果として整理を始める前よりも散らかしてしまうというご覧の有様なのだった。

 お陰で、戻ってきた小悪魔にも大層呆れられてしまった。彼女は迷いのない手つきで本の山を崩しながら、

 

「こっちは私がやるので大丈夫ですよ。咲夜さんは、お嬢様たちのところに行ってあげてください」

「……そう。わかったわ」

 

 大図書館の本の整理という一点だけならば、さしもの咲夜であっても小悪魔に一日の長がある。咲夜もそれがわかっているので潔く引き下がり、

 

「では、お夕飯は腕によりをかけてお作りしますね」

「ええ、楽しみにしておくわ」

 

 ――咲夜ならてっきり、風邪で休んでしまったことを気に病んでいるのではないかと思ったが。

 意外にも責任を感じている風はなく、むしろ心配をかけた分だけみんなにお返ししようと意気込んでいるらしかった。ひょっとすると、月見がなにか言ってくれたのかもしれない。本当にもう心配はいらなそうだったので安心した。

 一礼した咲夜が踵を返そうとしたところで、尋ねる。

 

「ところで、咲夜」

「はい?」

「あなた、月見に今日一日看病してもらったわけだけど……本当に何事もなく終わっちゃったの?」

 

 パチュリー自身、色よい反応を期待しての問いではなかった。とりあえず、訊くだけは訊いておこうというくらいで。なので咲夜がさっと頬を赤らめて固まったのを見たとき、パチュリーもまた意表を突かれて思考が停止してしまった。

 まっさきに反応したのは小悪魔だった。たぶん、彼女の恋愛センサーが針を振り切る勢いでビンビンに反応したのだと思う。

 

「咲夜さん。――やっぱりなにかあったんですね? 最後の方、なんだか月見さんの顔をまっすぐ見れてませんでしたもんね? なにがあったんですか?」

 

 咲夜は小悪魔と目も合わせられず、

 

「……い、いえ、別に大したことじゃ」

「へえそうなんですか、大したことないなら話しても大丈夫ですよねさあ教えてくださいなにがあったんですか」

 

 小悪魔の声音が完全に据わっている。両手で抱えていた本を一発で棚に叩き込み、時間を止める隙も与えず急速接近する。その頃にはパチュリーの頭も再起動し、

 

「あら、一体なにがあったのかしら。これは気になるわねえ……」

 

 月見の顔をまっすぐ見れていなかった、というあたりも大変気に掛かる。口元で三日月の笑みを描きながら、小悪魔と一緒に咲夜を左右から包囲する。咲夜はじりじりと後ずさり、

 

「い、言わなきゃだめですか……」

「ダメです。今日一日、私たちがどんな気持ちで咲夜さんを見守ってたと思ってるんですか」

 

 まったくである。決して下心があったわけではなく、至って純粋潔白な気持ちで、せっかくだから咲夜にちょっとでもいいことがあればいいなあと願っていたのだ。それ故、なにかがあったというならパチュリーには当然詳しく聞く義務が発生するのだ。

 逃げ切れない――時間を止めて逃げたところで意味がない――と察して、咲夜はたどたどしく白状する。

 

「じ、実は、その……」

 

 要約すると、午後になってなかなか思うように休めないでいた彼女は、眠くなるまで月見に話相手をしてもらった。

 そのうちいつの間にかひと眠りして目を覚ますと、なんと月見が椅子に座ったまま舟を漕いでいた。

 

「そ、それで、なんといいますか……魔が差した、というかですね……」

 

 このあたりでパチュリーも小悪魔も、自分たちの想像を遥かに超えるとんでもないことが起こったのかもしれないと気づき始める。

 

「その……私、つい、我慢できなくてっ…………」

 

 ――ちょっと待って、これってもしかしてもしかしなくても!?

 ――まさか咲夜さん、アレですか!? アレやっちゃったんですか!?

 そんな感じで、パチュリーも小悪魔も心の中で驚天動地の大混乱に陥る。淡い恋心を胸に秘める乙女が、眠る意中の相手にこっそりとやってしまうこと――そんなの、答えはひとつだけといっても過言じゃあないではあるまいか。

 つまり咲夜が、あんなに無自覚で恥ずかしがりで引っ込み思案で生娘だった咲夜が、

 まさかまさかまさか、寝ているとはいえ月見にキ

 

 

「――月見様のお耳を、くしゃくしゃーって触っちゃったんですっ!!」

「「は?」」

 

 

 おいちょっと待て。

 待て。

 

「――耳?」

「は、はい。前々から触ってみたいと思ってて……」

 

 みみ。

 

「や、やっぱり、寝ているからってこんなのはしたないですよね……ああ私ったら、なんてことをっ……」

「「………………」」

 

 なんでいやんいやん恥ずかしがってんだこいつ、とパチュリーは急激に冷却されていく頭の中で思う。小悪魔が、期待の絶頂から真っ逆さまに墜落していくひきつった笑顔で、

 

「え、えーっとですね、咲夜さん。……他には?」

「他、ですか? ……あ、そういえばまつげが長くて綺麗で」

 

 ……………………………………。

 パチュリーと小悪魔は、すべてを察した。お通夜みたいな空気でお互いの顔を見合い、黙祷を捧げるように力なくため息をついた。

 

「パチュリー様……私、もうずっとこのままな気がしてきました」

「……私もよ」

 

 十六夜咲夜が月見と今以上の関係になる未来を、もはや二人は逆立ちしても想像できなくなってきたのだった。

 月見様のお耳、先の方は毛が短いんですけど根元の方はふさふさだったんですよ……! あと触るとぴくぴく動くのがかわいくて……! とわけのわからないトリップをしている咲夜の姿が、どこかの鬼子母神様と重なって見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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リハビリ 「おままごとをしたいフランが紅魔館を壊滅させる話。」

 リハビリなので初投稿です。
 個人サイトの方で公開していた小話を少し校正したものです。


 

「月見ーっ、おままごとしよ!」

 

 その日のフランは、とてもおままごとがしたいようだった。

 日課の散歩で紅魔館に立ち寄ると、大抵、フランがすごい勢いでやってきて一緒に遊ぼうと誘ってくる。お人形遊びやかくれんぼなど子どもらしいものから、チェスやカードゲームといった本格的なものまで様々だが、本日の彼女はとてつもなくおままごとな気分らしい。大きなお道具箱の中からままごとセットを引っ張り出し、きらきら輝く目で月見の目の前に置いた。

 

「月見がお父さん役ね!」

「ああ、いいよ」

 

 フランはとかく、やりたいと思ったことを躊躇わない。思い立ったら即行動。それは本人も自覚していて、『ザユーのメイ』なんだと日頃からえばっている。チルノたち妖精と友達になれた経験が転機となったのか、あるいは今までやりたいことも満足にでなかった反動なのか、どうあれフランは今や、紫や輝夜に並んで幻想郷を代表するお転婆少女なのだった。

 今日も元気で大変よろしい。

 

「二人でやるのか?」

「んーん!」

 

 フランは首を振り、

 

「みんな誘ってくるよ! お姉様にはー、私の妹になってもらうの。あとはお母さん役も要るよねっ!」

 

 月見は苦笑した。レミリアがフランを「お姉様」と呼ぶのは、ちょっと面白そうだった。姉の威厳にこだわるレミリアは嫌がるかもしれないが、「嫌ならやらなくていいんだよ」とでも言えば涙目で参加表明するに違いない。

 フランが準備運動をしている。

 

「よーし! それじゃあ、月見はちょっと待っててね!」

「ああ」

 

 いちにーさんしー、よーいどかん。

 と、微笑ましく見送るには少々強烈な風を巻き起こして、一発の砲弾と化したフランが元気いっぱい出撃していく。可愛らしい子どもと侮るなかれ、妖怪でも最上級の身体能力を持つ吸血鬼がちょっとやる気を出して走れば、ずどどどどどと館中に響くくらいのエネルギーを発揮する。真面目に掃除をやっていたのであろう妖精メイドたちが、次々撥ね飛ばされててんやわんやの阿鼻叫喚に陥っている。これを「みんな元気だなあ」とのんびり聞き流せる月見は、やはり幻想郷の常識で感覚が麻痺してきているのだろう。

 ――などと呑気に座っていないで、月見もついていくべきだったのかもしれない。

 このなんてことのないやりとりが、まさかあんな惨劇を招いてしまうだなんて。

 

『さーくやーっ!!』

 

 フランはまず、咲夜を誘いに行ったようだった。月見の獣の聴覚が、遠くながらフランの元気ハツラツな声を拾い、

 

『咲夜、月見のお嫁さんになって!!』

 

 どぉんがらがっしゃん。

 

『咲夜ー!?』

 

 月見は頭を抱えている。ああ、ああフラン、どうしてよりにもよってそんな誤解を招く言い方を。

 フランはすぐに戻ってきた。

 

「咲夜が気絶しちゃった! 悪いけど看ててあげて!」

 

 吸血鬼パワーで担いできた咲夜をベッドの上に乗せる。完全で瀟洒なメイドこと咲夜は、両目をぐるぐる巻きにしてすっかり気を失っていた。メイド服のあちこちがヨレヨレになっているが、なにか幸せな夢でも見ているのか、その表情はどことなく安らいでいるように見えないこともない。

 フランは息つく暇も見せない。

 

「しょうがないから、他のみんなにも声掛けてくるね!」

「あ、おい」

 

 ずどどどどど、みぎゃーぴちゅーんふぎゃーぴちゅーん。哀れな妖精メイドたちがまた撥ね飛ばされて犠牲になる。月見は宙に伸ばしかけた腕を、唸り声とともに空しく引っ込める。

 

「大丈夫かなあ……」

 

 しかしすぐに、まあいいか、と思い直した。この紅魔館が騒がしいくらい賑やかなのはいつものことだ。そして月見は、そんな元気いっぱいな紅魔館が好きなのだ。ならば今回も、少女たちが愉快痛快に騒ぐ様を見守っていよう。

 はてさてあの小さな砲弾少女は、今度は誰のところへ向かったのだろうか。

 

 

 ○

 

 フランは素早く日傘を装備し、颯爽と紅魔館の庭に飛び出した。

 

「めえーりぃーん!!」

「はいはーい? どうかしましたかー?」

 

 次のターゲットである美鈴は門を少し離れ、花壇で花の水遣りをしていた。じょうろ片手に振り返った彼女へ、フランは先ほど同様息を吸って元気よく、

 

「美鈴、月見のお嫁さんになって!!」

 

 どこからともなく飛来したナイフが、美鈴の帽子を斜め上から地面に縫いつけた。

 

「待ってください咲夜さん私まだなにも言ってないです! っていうか今どこから!?」

「ねーねー、月見のお嫁さんになってよ」

「妹様、いま私の命の危機! 命の危機ですよっ!」

 

 美鈴はびくびくとしゃがみガードをし、じょうろで頭を守りながら、

 

「い、いきなりなんの冗談ですか?」

「? 冗談じゃないよー。月見のお嫁さんになってほしいの」

「冗談じゃない!? ……え、冗談じゃないんですか!?」

「当たり前じゃん」

「当たり前っ!?」

「いやなのー?」

「いえ、いやっていうか……その、あの」

「?」

 

 美鈴はなんだか赤くなって、一生懸命右を見たり左を見たりしていた。なんでそんなにびっくりしてるんだろう、とフランは疑問に思う。ただのおままごとなのに。

 ――その「ただのおままごと」の部分がとんでもなく重要だし今すぐ口にするべきなのだが、フランはさっぱり気づいていない。それどころか更に誤解を加速させる、

 

「早くー。月見も待ってるよ?」

「ふえぁっ!? ちょちょっちょっと待ってくださいそんなのいきなりすぎて心の整理が、ああでもでも他でもない月見さんが言うならこれはきっと」

「『殺人ドール』」

「そんなわけないですよねごめんなさ――――――――――――いっ!!」

 

 空から凍てつく銀の閃光が降り注ぎ、美鈴は脱兎となって逃げ出した。じょうろを明後日へ投げ捨て、門をブチ抜いて外まで逃亡したが、銀の弾幕はやたら反則的な追尾性能を発揮し、

 

「ん゛ああ゛ぁーッ!?」

 

 塀の向こう側で美鈴の断末魔がこだまして、それっきり静かになった。

 フランは上を見る。フランの部屋の窓から落ちそうなくらい身を乗り出して、威嚇するように肩で息をしている咲夜がいる。どうやら目を覚ましたらしいが、

 

「もぉー咲夜ったら、なんで美鈴をいじめるのっ?」

「申し訳ありません妹様、こればかりは譲れなくて……ひゃっ」

 

 そのとき、咲夜が窓の縁に掛けていた左手を滑らせた。バランスを崩した咲夜の体は重力のままがくんと傾き、大きく身を乗り出していたのが災いして、あっという間に両足が床から浮きあがる。

 

「おっと」

 

 しかし、迅速な対応だった。後ろからすかさず駆けつけた月見が両腕を回し、あわやのところで咲夜の体を抱えあげた。

 ぴゃい、と咲夜がちょっと変な声を出した。

 

「ふう。なにやってるんだい、まったく」

「……、……、」

 

 おそらく咲夜の脳内では、大音量の緊急アラートとともに非常事態宣言が発令されたはずだ。

 咲夜は『ビミョーなお年頃』というやつなので、月見との急接近に情けないほど耐性がないのだ。事情がなんであれ突然後ろから抱き締められ、割とすぐ耳元で心配の言葉を囁かれるなど驚天動地の大事件である。フランから見上げる咲夜の顔面が、みるみると湯気を噴く直前のやかんみたいになっていく。

 ところで、フランはもう一度訊いてみた。

 

「咲夜ー、月見のお嫁さんになる?」

「およ」

 

 ぼふん。

 一撃だった。顔面から本当に湯気を噴いて、咲夜の全身から一切の力が抜けた。突然無抵抗になった咲夜に月見が驚き、

 

「うおっ……咲夜? おい?」

「……きゅう」

 

 せっかく目を覚ましたのに、咲夜はまたぐるぐると目を回して失神してしまっていた。思いがけず月見と密着しすぎたせいで、頭の中が限界を超えてしまったらしい。その程度で失神しちゃうなんて情けないなあ、とフランは呆れる。『ビミョーなお年頃』はこれだから大変だ。

 ――なおトドメを刺したのは他でもないフラン自身なのだが、もちろんフランはちっとも気がついていない。

 小さくため息をついた月見が、改めて咲夜を抱えあげて奥に引っ込む。きっと咲夜を寝かせに行ってくれたのだろう。咲夜はなんだかダメそうだし、美鈴も塀の向こうで殉職してしまった。なのでフランは、次は大図書館に行ってパチュリーと小悪魔を誘ってみると決める。こうなったら手当たり次第だ。

 

「フラン、頼むからひとつだけ言わせ」

「次はパチュリーのとこ行ってくるね!」

「おい!」

 

 窓から顔を出した月見に手を振って、フランは再び出撃する。思い立ったら即行動の吸血鬼型台風が、紅魔館に更なる騒動を巻き起こしにいく。

 

 

 ○

 

「パーチュリーッ!!」

 

 パチュリーは、大図書館の奥の部屋で魔法の実験をしていた。ノックもせず勢いよく突撃したフランに、七曜の魔女は眉ひとつ動かさず、実験の手をほんの一瞬も止めはしなかった。大図書館一帯に簡易的な結界を張って、誰かがやってくるとすぐわかるようにしているのだ。実験でひきこもっているときの彼女は大抵こうしている。

 アヤシイ色の試験管を机の上にいくつも並べて、魔法薬の調合をしているようだった。

 

「はいはい、どうしたの?」

 

 手に持った試験管の薬剤を、別の試験管へ慎重に注いでいる。そんなパチュリーのクールな横顔に、フランはまたしても元気よく、

 

「パチュリー、月見のお嫁さんになって!!」

 

 爆発した。比喩ではなく本当に。試験管が。

 

「うひゃあ!?」

 

 鼓膜を打つ爆音、体が浮くほどの爆風が吹き荒れ、部屋中が嫌な臭いの煙であっという間に塗り潰された。微妙に紫色っぽい、十中八九吸っちゃダメなタイプの煙だった。フランは大急ぎで部屋から転がり出て、安全な場所まで避難して頭を低くする。部屋からあふれ出た煙が天井伝いに広がり、大図書館の方までもくもくと流れていく。

 

「うわあ」

 

 なんだかすごいことになっちゃったなあ。

 かがんだ姿勢のまま部屋を覗き込んでみる。しばらく煙ばかりでなにも見えなかったが、やがて奥の方からゾンビみたいなほふく前進で、

 

「……ご、ごふ」

 

 全身煤だらけの黒ずんだパチュリーが出てきた。

 

「パチュリー、生きてるー?」

「けふ。な、なんとか……」

 

 ぷるぷる震えて新種の妖怪みたいになっている。特に怪我らしい怪我はなさそうだったので、フランはとりあえず安心し、それから頬を膨らませて、

 

「もー、なにしてるのっ? びっくりしたんだけど!」

「あ、あなたがいきなり変なこと言うからでしょう!?」

「? 変なこと?」

 

 パチュリーの顔が、煤けていてもわかる程度に赤くなっている。変なことってなんだろう、とフランは首を傾げた。フランはただ、パチュリーにやってほしいことを素直に言っただけなのだけれど。

 大図書館の方から、小悪魔が血相を変えて駆けつけてきた。

 

「パチュリー様、なにがあったんですか!? 大丈夫ですか!?」

「ああ、こぁ……」

 

 パチュリーは震える両腕でなんとか起き上がり、

 

「ごめんなさい、ちょっと失敗してしまって……」

「実験ですか? 珍しいですね、こんなすごい爆発が起こるなんて……」

「この子がいきなり変なこと言わなければ、成功してたはずなのよ」

 

 自分のせいにされたフランはむっとする。

 

「変なことなんか言ってないよ! 月見のお嫁さんになってって訊いただけじゃない!」

「充分変なことでしょうが!?」

「なんでー!? パチュリーは月見のお嫁さんになってくれないの!?」

「そういうのは咲夜に訊きなさい!?」

「訊いたよ! そしたらひっくりかえって気絶しちゃった!」

 

 咲夜ぁ、とパチュリーががっくり肩を落としている。どうやら魔法一筋の七曜の魔女は、お母さん役にあまり乗り気でないらしい。そう判断したフランは仕方なく、

 

「じゃあ、こぁは月見のお嫁さんになってくれる?」

「は、はあ!?」

 

 パチュリーが目を剥いて、

 

「ちょっと、なんでこぁにも訊くの!?」

「だって、咲夜も美鈴もパチュリーもなってくれないんだもん!」

「だから今度はこぁってこと!? おかしいでしょそんなの!」

「なんで-!?」

 

 フランはだんだん虫の居所が悪くなってきた。フランはただおままごとがしたくて、お母さん役になってくれる人を探しているだけなのに、どうして怒られなければならないのだろう。悪いことや間違ったことなんてなにもやっていないではないか。

 そんな思いを込めて、両足でげしげし地団駄を踏みながら大声で叫ぶ。

 

「もぉーっ!! 誰でもいいから月見のお嫁さんになってよ!!」

「だ、誰でもいい!? そういうのは普通、心に決めた一人がなるものでしょう!? ……こぁもなにか言いなさい!」

 

 一方で、小悪魔の反応は冷静だった。口元に指を当てて少し考えてから、ああなるほど、と思い当たった様子で頷きこう言った。

 

「えーっと、それっておままごとの話ですよね? 月見さんがお父さん役だから、お母さん役を探してるんでしょう?」

「そうだよ!」

「そうよ、いくらおままごとだからって――ゑ?」

 

 パチュリーの目が点になった。錆びついたブリキ人形みたいな動きでフランを見て、

 

「……お、おままごと? そうなの?」

「うん。なんだと思ってたの?」

「へ!? い、いや、その……えっと、それはね!?」

 

 珍しいことに、パチュリーまで湯気をあげるように狼狽え始めた。ビミョーなお年頃の咲夜はまだしも、パチュリーまでこんな風に慌てるなんてなんだかおかしい。きっと変なことを考えていたに違いない。でも、変なことって一体なんだろう。

 小悪魔はビビッと来たらしい。嗜虐心たっぷりな悪魔の笑みを開かせて、斜め下からイヤらしく主人を覗き込むと、

 

「んんー? パチュリー様、一体なにを想像してたんですかぁー? おままごとに決まってるはずですけどねぇー、まさかほんとにお嫁さ――待ってください待ってくださいロイヤルフレアは洒落になりませんって!?」

 

 オチが読めたフランはさっさと安全地帯へ避難を始める。そうしてフランが爆心地から離れるなり、大図書館にけたたましい猛ダッシュが飛び込んできて、

 

「あっここにいた! ちょっとフラン!? 妖精メイドは半分くらい消し飛んじゃってるし咲夜と美鈴は気絶してるし、あなた一体なにやって」

「日符・『ロイヤルフレア』アアアァァッ!!」

「「ん゛ああ゛あ゛ぁーッ!?」」

 

 合掌。

 まばゆい真紅の閃光が炸裂し、物陰に隠れたフランの頭上を強烈な熱波が駆け抜けていく。心の中で十を数え、あたりが静かになったのを確認してから顔を出してみると、哀れな犠牲となったレミリアと小悪魔がぷすぷすと床に転がっていた。

 二人とも、ほどよく焦げてだいぶ香ばしい感じだった。レミリアの蚊が鳴くような声、

 

「ぁぅぁぅぁ~……」

 

 登場するなり退場した変わり果てた(カリスマ皆無な)紅魔館当主を見ながら、お姉様はあいかわらずだなーとフランは思う。これで誇り高き吸血鬼を自称しているのだから、妹として恥ずかしいやら情けないやらである。

 まあそんなダメなレミリアも、フランの大好きなレミリアなのだけれど。

 

「……むきゅう」

 

 そして最後に、すべての気力を使い果たしたパチュリーが目を回して崩れ落ちる。レミリアもパチュリーも小悪魔もみんな気を失って、大図書館に完全な静寂が戻ってくる。

 ただ一人生き残ったフランは、とりあえず、ぽつりと一言。

 

「……どうしよう、これ」

 

 爆発とロイヤルフレアのせいで床も壁もあちこち煤だらけ、足元には物言わぬ三人のしかばね。どうもこうも、どうしようもない。

 フランはただ、月見のお嫁さんを探していただけなのに。

 

「もぉー、これじゃあおままごとできないじゃん」

 

 もう少しお淑やかさを身につけたらどうなのか、とフランは憤慨する。フランとてしばしば子どもだのお転婆だの言われる身だが、みんなだって人のことは言えないと思う。少なくとも今このときに限っては、自分が紅魔館で一番お淑やかなレディのはずだ。

 

「しょうがないんだからあー」

 

 三人の襟首をまとめて引っ掴み、フランはぶーぶー言いながら自分の部屋まで引きずっていく。

 もちろん、みんな気を失ってさえいなければ、文句を言いたいのはこっちだと首を揃えて叫んだだろうが。

 それができる人物は、もう紅魔館には残っていないのだった。

 

 

 ○

 

 紅魔館が壊滅した。

 軍事的には、人員の半数を失った部隊は壊滅と見なされるという。そう考えれば、当主が倒れ、門番が殉職し、メイド長が気を失い、大図書館の管理人が力尽き、その司書がいい感じにコゲて、更には妖精メイドの半数が一回休みとなった今の紅魔館は、間違いなく壊滅状態と表現できるのだと思う。

 まさか、こんなことになってしまうとは――それ以外の言葉で、果たして目の前の惨状をどうやって表現すればよいのだろう。

 

「つまんなあーい!」

「はいはい、暴れない暴れない」

 

 しかも壊滅させたのはたった一人の小さな女の子で、内部犯で、トドメに原因は「おままごとがしたかったから」である。個性豊かな妖怪が世界中から集まる幻想郷といえど、おままごとの準備で家を壊滅させるトンデモ少女は彼女をおいて他にいないだろう。

 すっかりご機嫌ナナメなフランを宥めつつ、月見はベッドに新たな犠牲者三人を追加で寝かせる。

 フランの部屋にも、姉に負けない大きな天蓋付きのベッドがある。広々とした贅沢なベッドを横に使うと、辛うじて少女五人を全員寝かせてやることができた。さすがに美鈴は足がはみ出してしまうが、床を使うよりはいいだろうと判断する。

 それにしても本当にひどいものである。咲夜は未だ目覚める様子がなく、美鈴は全身ボロボロ、パチュリーは煤だらけでレミリアと小悪魔に至ってはぷすぷす黒コゲだ。紅魔館が賑やかなのはいつものことだけれど、今日はさすがにどうしてこうなったと思わずにおれない。

 家族たちの情けない姿に、フランの荒ぶる怒りは収まるところを知らない。

 

「なんなの、みんな勝手に気絶してぇー。レディの自覚が足りないんじゃないかしら!」

 

 レミリアたちが気を失っていなかったら、即座に大ブーイングが飛びそうなことを言っている。月見はやんわりとため息、

 

「お前の言い方も言い方だったと思うよ。あれじゃあ、みんな誤解しちゃうだろう?」

「えー? 私、別に嘘なんてついてないよ! なのになんで誤解されるの?」

 

 フランの純粋すぎる眼差しが辛い。なんだか、自分がひどく汚れているような気分になってくる。

 

「……まあ、ともかく、これじゃあままごとはできないね。それとも二人だけでやるかい?」

「むー、二人だけでやってもなあ……」

 

 フランは口をへの字にして考え込む。うんうんうなされている家族たちをしばし眺め、突然閃いたように両手を打つと、

 

「じゃあ、おままごとはやめてお医者さんごっこにする!」

「うん?」

「私と月見がお医者さんね! お姉様たちはきゅーびょーにん!」

 

 ぎゅうぎゅう詰めのベッドに意気揚々飛び乗ると、レミリアの服をむんずと掴んで、

 

「じゃあ、さっそく診察するので服を脱ぎましょー!」

「おいやめろフラン。やめてくれ頼むから」

 

 当然、月見は本気で止めた。こんな形で死ぬのは御免である。このままフランと一緒にお医者さんごっこなどしようものなら、グングニルとロイヤルフレアとナイフ千本と中国四千年の歴史と悪魔の魔法がひとつ残らず月見に叩き込まれて、間違いなく肉体的にも社会的にも終焉を迎える。

 結局そのあと、すぐにレミリアが目を覚ましてくれたので事なきを得たが。

 

「フランッ、あなたはどうしてそう品位に欠けるのよ!? もっと私の妹である自覚を持ちなさいッ!」

「なにそれ、自分が品位のある女だって言ってるの!? そんな黒コゲのみっともない恰好でー!?」

「誰のせいだと思ってるのよ!」

「人のせいにするのが品位のある女なんですかーっ!」

 

 またぎゃーぎゃー元気にケンカし出した仲良し姉妹を眺めつつ。フランの遊びに身も心もついていけなくなってきている自分を感じて、なにやら無性に、積み重ねてきた年を実感してしまう月見であった。

 

 

 




 ご無沙汰しておりました。
 個人的な事情で、長らく創作およびネットから距離を置いていました。以前ほど創作に打ち込むのが難しくなっており、不定期更新になるかとは思いますが、またぽつぽつ書いていけたらなあと考えられるようになりましたので、生存報告もかねて簡単なお話を投稿しました。

 さしあたって。
 今後、個人サイトおよびなろう版は更新を休止し、ここハーメルンのみに絞るつもりです。向こうが更新されないことで困る方もいないと思います。
 また当面の間、感想やメッセージ等の返信は緊急性がない限りお休みさせていただきます。

 しばらくはリハビリということで、個人サイトのみ公開になっているいくつかのお話を引き続き投げていく予定です。


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リハビリ 「お疲れな閻魔様に温泉を勧める話。」

 前回同様リハビリなので、本編の時間軸とは関係ない読み切りSSです。


 

 書類の山を抱えて上司の執務室まで向かう中、忙しそうに早歩きする同僚とちらほらすれ違う。気づけば小町も少し早足になっていた。

 ここ彼岸――是非曲直庁が慌ただしくなるタイミングは、一年に何度か必ず存在する。中でも典型的な例として挙げられるのが、先祖の霊が此岸へ里帰りするお盆や正月だろう。数え切れないほどの先祖霊を逐一管理し、此岸へ送るための手続きをして、船に乗せて、時期が済んだらちゃんと彼岸に戻ってきているか確認して――等々、普段の仕事に上乗せする形で様々な作業が増える時期なのだ。

 とりわけ、正月の忙しさをいえばなかなかにエグい。ひとたびこの時期に突入すれば、仕事の量が右肩上がりで増えていく地獄の日々の始まりである。昔と比べれば業務の効率化が進んで多少楽にはなったものの、それでも正月の後半戦ともなれば、デスクワーク組は概ね目が死んでいるのが毎年の風物詩になっていた。

 というわけで、正月の後半戦なのである。

 小町は持ち場である三途の川を離れ、閻魔様こと四季映姫の補佐として書類運びを手伝う真っ最中だった。三途の川の船頭が忙しいのは霊を送るときと戻すときなので、それ以外ではデスクワーク組のサポートに駆り出されるのも珍しくない。小町は映姫との個人的な付き合いもあり、この時期最も多忙な彼女の雑用係を任されているのだ。

 

「ほんと、四季様もよくやってるよなあ……」

 

 廊下を進みながらぽつりとつぶやく。雑用係といえば響きは悪いが、要は映姫が手を回すまでもない単純作業を手伝うだけの簡単なお仕事だ。難しいものはすべて映姫が引き受けてくれるし、そもそも彼女は部下ばかり扱き使って自分が楽するような真似をよしとしない。

 閻魔である彼女の激務を思うと、サボり大好きな小町はそれだけで気が遠くなってしまいそうになる。

 勤務時間の半分は裁判で霊魂の罪を裁き、もう半分は執務室でデスクワーク、その他必要あらば地獄の視察をしたり世の情勢を学んだり部下の教育をしたり説教したりとエトセトラ。そこに加えて正月のあれこれまでとなれば、さしもの閻魔様とて一筋縄ではいかず、小町が把握している限り食事のとき、シャワーのとき、そして寝るとき以外はほとんど仕事しかしていない有様だった。

 もしも小町が向こうの立場だったら、間違いなく「捜さないでください」の書き置きを残して失踪する。

 そんな正月をもう何百年もやり抜いてきているのだから、あの人は本当にすごいと思うのだ。

 

「四季様ー、入りますよー」

 

 そうこう思い耽っているうちに、小町は上司の執務室まで戻ってきた。余計な説教をされてもつまらないので、書類の山を片腕で支え、ちゃんと丁寧にノックをしてから部屋に入る。

 書類の山脈に囲まれてもまったく動じず、黙々机と向き合う映姫がいた。

 

「追加の書類ですよー。今日はこれで最後です」

「そこに置いてください」

 

 紙まみれの机の上では『そこ』がどこかわからず、ひとまず小町は目についた空きスペースへ書類を置いた。このえげつない山々を間近から見ただけで、小町は無性に青い空の下で昼寝をしたくなってきた。

 

「いやー、なんというか……もう言葉も出てこないですね」

「この時期は仕方ありません。これでも随分と楽になった方です」

 

 機械のような速さで書類を片付けながら、映姫は疲れた様子もなく涼しい口調で答えてみせる。彼女が机に向かい始めてもう三時間ほどになるが、正確無比な手捌きは未だ寸分も乱れることを知らない。本当に機械の動きを見ているみたいだ。

 

「ほんとすごいですねー四季様。あたいだったら一日で発狂しますよこんなの」

「それはあなたが軟弱すぎるだけです。この程度で音を上げていては閻魔など務まりません」

 

 小町が軟弱かどうかはさておいて、これくらい当然にこなせなければ閻魔として話にならないのは事実なのだろう。これでもう少し説教を控えめにしてくれれば、心から尊敬できる敏腕上司なのだけれど。

 そんな小町の視線を物ともせず、映姫はあっという間に山をひとつ片付けてしまった。

 

「こちらは終わりました。持っていってください」

「はーい」

 

 小町はデスクワークが大嫌いの書類アレルギーである。書面の内容など目を通したところで理解できないとわかっているし、映姫が仕事でミスをするとも思っていない――のだが。

 

「――あれ? 四季様、これ承認印の場所間違えてません?」

「え?」

「ほら、これ」

 

 なにをバカな、私がそんなミスするわけないじゃないですか、という目つきを映姫はしている。小町もそう思う。しかし、事実閻魔様の承認印がおかしな場所に押されているのだからどうしようもない。

 山の上から一枚を取って手渡すと、映姫は半信半疑――否、ゼロ信十疑で眉をひそめながら目を通し、

 

「……!」

 

 ここまで一分の隙もなかった『閻魔』としての顔が、はじめて崩れた。映姫は前のめりになって何度も確認を繰り返すも、やがてその指先がぷるぷる震え出し、恥ずかしさと悔しさをごちゃまぜにしながら唇を噛んだ。

 

「こ、こんな初歩的なミス、なんたる不覚……しかも小町に指摘されるなんて……」

「……あの、大変申し上げにくいんですけど、こっちの書類も間違ってます」

「!?」

 

 書類の山をふんだくられた。血相を変えながら一枚取り、また一枚取り、そのまま凄まじい速度で十枚ほどを確認して、

 

「――…………」

 

 ゆるゆると脱力し背もたれに崩れ落ちた映姫へ、小町は苦笑して。

 

「ちょっと休憩にしましょうか。お茶を淹れますよ」

 

 天井を仰ぐ映姫は声なき声でひとしきり呻き、やがて観念するように力なく答えた。

 

「……はい」

 

 珍しい閻魔の失敗をからかうつもりはない。世の中時には弘法だって筆を誤るし、猿だって木から落ちるし、河童だって川を流れる。

 繰り返される連日の激務に、さすがの閻魔様もお疲れのようだ。

 

 

 ○

 

「やっぱり、自覚はなくてもストレス溜まってるんじゃないですかー?」

 

 茶葉がいいお陰なのか、お茶は小町が適当に淹れてもなかなか上品な出来だった。味はもちろん香りもしっかりと立っていて、なんだか自分がお茶淹れ名人になったような気分になる。

 ストレス、と聞いて映姫は露骨に眉をひそめた。

 

「そんなことはありません。睡眠もちゃんと取っていますし」

「寝るだけでストレスがぜんぶ吹き飛ぶなら楽なもんですよ。普段の四季様ならあんなミス絶対にしないですし、体が大丈夫でも心が疲れ気味なのかも」

 

 むう、と映姫は納得しない。認めればまるで仕事が苦痛と言っているかのようで、閻魔として示しがつかないと考えているのだろう。

 なるほど一理はあるものの、さすがに今の状況は例外だと思うのだ。

 

「無理もないですよ、このところ朝から夜までずっと働き詰めですもん。向こうの部屋なんてみんな目が死んでますし」

 

 小町は書類仕事ができるほど几帳面でも我慢強くもないので、映姫からは筆の要らない雑事を任されている。労働時間も、まあ、なんだかんだ度が過ぎたところまではいかないよう配慮してもらえていると思う。そうやって小町の荷が軽くなれば、なった分だけ誰かの負担が大きくなっていくわけで。

 この場合それが誰なのかを考えると、小町としても負い目を感じずにはおれないのであって。

 

「今日でも明日でも、一度早めに切り上げて気分転換してみたらどうです?」

 

 映姫とて、日頃からやりたい趣味のひとつやふたつはあるだろう。『仕事ばかりでやりたいことがちっともできない』のは、小町の経験上かなりストレスが溜まるものだ。そうしてストレスに苛まれれば仕事で本来の力も発揮できなくなり、それが更なるストレスを引き起こし――という悪循環の泥沼に陥ってゆく。小町がよく仕事を抜け出して散歩なり昼寝なりに励むのも、ストレスを解消して常に精神的余裕を保ち、ここぞというときに百パーセントの力を発揮できるよう備える自助努力なのである。ただのサボりと侮ってはならない。

 映姫はあいかわらず小難しい顔を解かない。

 

「そんなわけにはいかないでしょう。私が抜けては業務が回らなくなります」

「一日定時帰りするくらいならリカバリできますよ、私も頑張りますし。それより、このまま無理してさっきみたいなミスを繰り返しちゃう方が問題じゃないですかねえ」

「むっ……」

 

 答えに詰まるあたり、やはりあのミスは映姫にとっても相当ショックだったようだ。目を細めて不服げに、

 

「つまり小町は、私がさっきのようなミスを繰り返すと?」

「あたいは四季様のことすごい閻魔様だと思ってますけど、あたいと同じ女だとも思ってるので」

「むむっ……」

 

 映姫も内心危機感は覚えているし、可能ならば休息を取るべきとも感じているはずだ。ならば小町も、こんなときくらいはその背中をそっと押してあげるのである。

 本当に、それくらいの気持ちから出た何気ない発言だったのだ。

 

「せっかくですし、水月苑にでも行ってきたらどうですか?」

「ごぶっ……」

 

 映姫がお茶を噴き出しかけた。慌てて湯飲みを机に置き、口を押さえて何度か咳き込んでから、

 

「な、なぜここでその名が出てくるのですか!」

「え……でも、あそこなら四季様もストレス解消になるんじゃ?」

「げふごほ!?」

 

 小町は首を傾げる。別に変なことは言っていないはずだが、どうして映姫は顔を赤くして取り乱しているのだろう。

 

「す、ストレス解消になんてなるわけないでしょう!」

「えー? いやいや、別に恥ずかしがることじゃないですよ。四季様も好きでしょう?」

 

 あそこの温泉。

 彼岸にも大衆向けの入浴施設はいくつかあるものの、風雅な日本屋敷に迎えられ、幻想郷の雄大な自然に抱かれながら心ゆくまでリラックスできる水月苑は格別の一言に尽きる。おまけに、あそこでご馳走してもらえる桃がまた憎たらしいほど美味しいのだ。まさしくストレス解消にもってこいのオススメスポットなのだが、映姫はどういうわけか怒りで肩を震わせており、

 

「好っ……こ、小町ぃ……! 私をからかうとはいい度胸ですねっ……!」

「いやいやなんでですか!? あたい変なこと言ってます!?」

「言ってます!!」

 

 執務室の外まで響くくらいの大声で断じる。小町は混乱した。映姫が話を振られただけで怒るほどの温泉嫌いという噂は聞いた覚えがない。なにかの間違いじゃないかと思いながら、

 

「ひょっとして四季様、嫌いだったんですか?」

「え、い、いや、なにも嫌いとまでは言いませんけど……っ」

「あたい、てっきり四季様も大好きなもんだと思ってました」

「大っ……あ、ありえません!! ええと、その……あの……ふ、普通です、普通っ!!」

 

 普通かあ。でも、どうしてそんな大声で必死に否定するんだろう。温泉の話なのに。

 

「んー、でもまあ、嫌じゃないなら行ってきてもいいんじゃないですか? なんだかんだ疲れ取れますよ、絶対」

「だからなんでですかっ! いい加減にしないと怒りますよ!?」

 

 すでに怒っている気もするが。小町はもうわけがわからず、

 

「なんでですかはこっちのセリフですよ。四季様、どうしちゃったんですか?」

「とぼけるのもいい加減になさいっ! これ以上は本気で説教しますよ!?」

「ええー……?」

 

 なぜ、ストレス解消を勧めただけで説教されなければならないのか。仕事中に余計な話をするなということだろうか。そもそもミスをやらかしたのはそっちなのに、いくらなんでも横暴がすぎると思う。やっぱりストレスが溜まっているのかもしれない。

 

「四季様、絶対ストレス溜まってますって。休みましょう。ね?」

「っ、百歩譲って、休むのは、確かに必要かもしれませんが」

 

 百歩も譲るんかいと小町が内心でツッコんでいる間に、映姫はもじもじと伏し目がちになって、白黒はっきりつかぬ葛藤とともにこう叫ぶのだった。

 

「そ、それでどうして、あの狐に会うなんて話になるんですかっ! まるで私が、あの狐に会いたがってるみたいじゃないですかッ!!」

「…………あー、」

 

 そして小町は、ぜんぶ、すべて、なにもかも納得した。

 確かに小町、温泉のことだとはっきり言っていなかった。言っていなかったが、一方で、月見のことだとも一言も言っていないわけで。

 そうか。

 なるほど。

 ――「水月苑に行ったらどうです?」を、そういう風に受け取っちゃうのかこの人。

 

「……えーと、四季様」

「な、なんですか」

 

 まあ小町も百歩譲って、映姫が乙女みたいな微笑ましい勘違いをしているのはいい。女の子してますねゴチソウサマです。しかし問題は、状況的にその勘違いを指摘しないわけにもいかず、かつ指摘すればデカい雷が落ちるとわかりきっている点であって。

 温泉の話だと明言しなかった己が不明を悔いる他ない。小町は覚悟を決めて、

 

「あのですよ。あたいはですね、水月苑で温泉に入ってきたらいい息抜きになるんじゃないかと、そういう意味で言ったのであって。月見の名前は、一言も出していないといいますか……」

「――……、」

 

 やっぱり映姫は、疲れていたのだろう。

 世にも珍しい、閻魔様のなんとも間抜けでかわいらしい表情を見られたのが、せめてもの収穫だと思いながら。

 

「……小町」

「……はい」

「言い遺すことはありませんね」

「まままっ待ってくださいありますありますめっちゃありますっ!! あたい悪くないでしょう!? 四季様が一人で勝手に勘違いして自爆しただけでいやいやほんとにそうじゃないですかだからちょ待っ」

 

 小町がその日最後に見たのは途方もない弾幕の光と、そんな中でもくっきりと網膜に焼きつく、閻魔様の極めて貴重な赤面涙目だった。

 

 

 



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第152話 「才華爛発のホラーテラー ①」

 

「――すまない。もう一回言ってくれるかい」

 

 たとえ日本指折りの年寄り妖怪といえども妖獣である、決して耳は悪くない。聞こえなかったわけではない。聞こえた上で月見ははっきりとそう訊き返した。

 聞こえた上で訊き返すのは、相手の言った意味が理解できなかったからだ。

 

「はい! 昨日お約束いただいた通り……このたび多々良小傘、お師匠の正式な弟子として推参いたしましたっ!」

「……」

 

 まったく意味がわからない。

 水月苑の玄関口で、元気ハツラツな敬礼をしながら立っているのは多々良小傘である。月見の弟子になることを夢見てしっちゃかめっちゃか東奔西走、どんな困難があっても諦めない情熱あふれる少女の名だ。今となっては日頃から水月苑に押しかけてくる常連客の一人――なのだが、今日はどうもその攻め口を変えてきたらしい。

 弟子にしてください、ではなく、弟子として参りました、ときた。

 

「えへへ……私、今日が楽しみであんまり眠れませんでしたっ。弟子にとってくださってありがとうございます!」

「…………」

 

 これは、問答無用で弟子として振る舞うことで、なし崩し的に諦めさせる魂胆か――そう考えた。しかし、そんなやり方をこの少女が思いつくものかと疑問が浮かぶ。多々良小傘は、いい意味でも悪い意味でもまっすぐで純真な少女だ。こんな強引なやり方を閃くとは思えないし、仮に閃いたとしても、良心が邪魔してとても実行などできないのではないか。

 なにかがおかしい。

 そこでふと引っかかる。先ほど小傘が言った、「昨日お約束いただいた」という部分。

 昨日といえば、マミゾウが月見に化けてこの近辺をうろついていたという話ではないか。ちょうど今日の朝、宴会から一夜明けた彼女が半ベソをかきながら走り去っていったばかりである。月見はとてつもなく嫌な予感がしながら、

 

「なあ、小傘」

「はい、なんでしょうっ」

「おまえは昨日、私と会ったんだね」

 

 その問いを小傘はなんら不思議に思うことなく、はきはきと元気よく答えてくれる。

 

「はい! お会いしました!」

「いつ頃、どこで会ったんだったかな」

「えっと……お昼頃、この山をもう少し登っていったところです!」

 

 ――あの狸、やってくれたな。

 昨日の月見は朝から日が暮れるまで永遠亭にいたので、昼頃にこの山をうろついていたわけがない。ならば月見以外の何者かが、月見の恰好をして小傘を(たばか)ったとしか考えられない。ならばならば、タイミングを考えても犯人はマミゾウで確定だろう。

 月見は緩くため息をついた。被害に遭った者たちへは紫が事情を説明してくれたはずなのだが、悲しいかなこの少女は忘れられてしまったらしい。小傘らしいといえば、小傘らしい。

 

「……あー、小傘」

「はいっ」

 

 月見の弟子になれたとなにひとつ疑っていない、感謝と尊敬の眼差しが月見の良心に刺さる。

 月見は少し、考えて。

 

「……ええとね、ひとまず案内したいところがあるんだ。ついてきてくれないかな」

「わかりましたっ。どこへでもお供いたしますとも!」

 

 ここで月見があれこれ言うより、犯人(マミゾウ)に吐かせる方が一番わかりやすいだろう。月見は手っ取りばやく支度を整え、小傘を引き連れて命蓮寺に向かう。小傘は刷り込みされた雛鳥みたいにぴたりとくっついてくる。

 多々良小傘は大変思い込みが激しく、一度走り出すと止まらない。

 とうとう月見の弟子になれたと信じて疑わない彼女を、はてさてどうやって諦めさせたものか。天を振り仰ぐ月見の心中など露も知らず、小傘は「早速修行でしょうかっ。あっいえいえ行く先は教えてくださらずとも大丈夫です、どこであろうとついてゆくのが弟子の務めですから!」と終始うきうきしていた。

 頭が、痛かった。

 

 

 ○

 

 なにもない土地に本堂ひとつから始まった命蓮寺だが、冬から春へひとつ季節が巡ると、誰がやってきても恥ずかしくないいっぱしの寺院として完成した。

 白蓮を慕う妖怪たちが技術の粋を尽くして築きあげた山門はもちろん、そこへ至るまでの道では、お地蔵様たちが参詣客を見守るようにもなった。一人ひとりに季節の花々が供えられ、ほのかに線香の香りが漂うのは里からの信仰が篤い証拠だ。このまえ水月苑に来た映姫が、あそこはよい場所ですね、誰かとは違って地蔵を丁重に扱っています、とイヤミを言ってきたのを思い出す。

 そんな身なりのいいお地蔵様たちに見送られながら山門をくぐると、ちょうど白蓮が境内を歩いていた。これ幸いに月見は声を掛ける。

 

「白蓮」

「あ、月見さん。こんにちは」

「ああ、こんにちは」

 

 白蓮は全身をゆったりと覆う法衣姿で、首からは玉の大きな深緑色の数珠を提げていた。寺院として必要な服や仏具もひと通り揃って、すっかり住職らしい恰好ができるようになった白蓮だった。そのためか命蓮寺の住職として活動するときは、おおむねこうして正装をする場合が多くなっていた。

 なお余談ではあるが、法衣を着ると体の起伏が全体的に隠れてしまうため、一部の信者からは非常に残念がられているらしい。煩悩まみれな話である。

 

「小傘さんも、こんにちは」

「こんにちはですっ!」

 

 月見と交流のある妖怪は、今やそのほとんどが白蓮にとっても顔見知りだ。敬礼する小傘と親しげに挨拶を交わし、

 

「聞いてください白蓮さんっ。私、ついにお師匠の弟子になれたんです!」

「え……まあ、そうなんですか?」

 

 まったくもって違うと断固否定したい。しかしここで否定すれば騒がれるだけとわかりきっているので、今は適当に言葉を濁す他ない。

 

「ちょっとその件でね、マミゾウを捜してるんだ。今はいるかな」

「あ、はい。いらっしゃいますよ。どうぞこちらへ」

 

 白蓮に案内されながら、ついでではあるが命蓮寺の住人たちと挨拶をする。一輪と雲山は庭の水遣り、星は本堂の掃除をしていて、水蜜は買い出し、ナズーリンは無縁塚に行っており留守だった。ぬえが星に引っ張られて、本堂の掃除を渋々と手伝わされている。果たして彼女は、修行を通して妖怪の威厳を取り戻すことができるのだろうが。

 そうして僧堂の一室で待たせてもらうこと数分、マミゾウがのしのしと機嫌の悪い足音でやってきた。部屋に入ってくるなり不愛想に顔をしかめて、

 

「なんの用じゃ。昨日の今日で、早速儂の傷口に塩を塗りに来おったんか」

「ちゃんと用があってきたんだよ」

 

 妖怪寺とはいえ一応は里の中だからか、マミゾウは腰まで届く髪をゆるく結わえて人間に化けている。月見を見て、それから小傘を見て少し黙ってから、気乗り薄に月見の向かいで胡坐をかく。不愛想な目線で「さっさと話せ」と月見に言う。逆らう理由もないので単刀直入に問う、

 

「おまえ、昨日この子に会わなかったかい」

「むぁ?」

 

 マミゾウが眉をひそめ、状況がよく読み込めずきょとんとしている小傘に目を向ける。眇めるように無言で考え込んでいる。すぐに思い出してもらえないあたりがまた小傘らしい。

 結局、マミゾウがぽんと手を打つまでは十秒ほどかかった。

 

「おお、この娘は確か……ということは、さてはぬし」

「たぶん、おまえが考えてる通りだよ。やってくれたね」

「ほ、ほう。ほうほうほう」

 

 つい先ほどまでの仏頂面が綺麗さっぱり吹っ飛び、マミゾウの口元がちょっぴり意地悪につりあがった。

 そも昨日、マミゾウがどうして月見に化けてあちこちうろつく真似をしたかといえば、幼き日に味わわされた屈辱を(すす)ぐべく仕返しをしようとしたからだ。結局は散々な目に遭っただけだったと聞くが、実は知らずしらずのうちに一矢報いていたのである。

 これで小傘が嘘をついているわけではなく、むしろ彼女もマミゾウに騙されている被害者なのだとはっきりした。

 

「ひょっとしてぬし、困っておるか? 困っておるのか?」

「ああ、非常に困っているとも」

「そ、そうか。そうかそうかーっ。ふふふ、ふふふふふふ」

 

 というわけでマミゾウにとっては願ったり叶ったり、鬼の首を取ったがごとく嫌味ったらしくふんぞり返る――と思いきや。

 

「ま、まあ儂にかかれば、この程度どうってことないというかの。化け狸の総大将であるからしてっ。どうじゃどうじゃ、儂もなかなかやるもんじゃろう? なあ? すごいじゃろうっ?」

 

 ――なんだか、純粋に嬉しそうというか。

 嫌なヤツに仕返しができて清々した、というより、自分の実力を示せて得意がるような。大きな尻尾を胸の前で抱き締めて、出会った頃の子狸みたいにえへえへと喜んでいる。変化が緩んでつい尻尾が出てしまっているあたり、どうやら相当舞いあがっているらしい。それがあんまりにも嬉しそうだったから、一瞬は、ここまで喜んでもらえるなら悪くないのだろうかと毒気を抜かれそうになった。

 少なくとも、文句を言う気は完全に消えてなくなった。隣で小傘が疑問符を傾け、

 

「……ええと、なんのお話でしょう? それにこの方って、確か最近外から……」

「ほっほっほ、わからずとも仕方ない。あのときの儂は……こういう恰好をしておったからのう」

 

 すっかり上機嫌になったマミゾウが小さく妖力を巡らせると、ぽん、とその足元から白い煙幕が立ち上がる。マミゾウの姿が見えなくなったのはほんの一瞬。煙が晴れると、そこには鏡を置いたように瓜二つの月見が座っている。

 

「!?」

 

 小傘が両の目を皿にしてのけぞる。月見に変化したマミゾウが、くつくつと喉を震わせ老獪に笑う。

 

「……お、お師匠になりました!?」

「そういうことじゃ。昨日おぬしが会ったのはこっちの狐ではなく、こやつに化けた儂だったわけじゃな」

 

 脳天から足の指の先まで、驚天動地という名の雷が小傘の全身を貫いたのが見えた。

 

「ど、どういうことですか!? どうしてあなたがそんなことを……!」

「んー、まあ、宿命のライバルであるこやつをちと困らせてやろうと思うてのう。おおそうじゃそうじゃ、そういえばおぬしを弟子にするという話じゃったか」

 

 さてここまで来れば小傘にも、自分がどうして命蓮寺に連れてこられたのか理解できたようだった。わなわな震える指先で月見の袖をつまみ、

 

「じゃ、じゃああの、私を弟子にしてくれるというお話は……!」

「……うん、こいつが私に化けて勝手にやったことでね。はっきり言ってしまうと、私はそんなのは知らないという話なんだ」

「がーんっ!?」

 

 勇往邁進(ゆうおうまいしん)という言葉が人の形で生を受けたような小傘といえど、さすがにこればかりは本気でショックだったらしい。そんなー!?と哀れなほど打ちひしがれて畳に崩れ落ち、涙目でがっくりと項垂れる。月見のせい、ということはないはずだが、なんだか悪者のような気分になってきた。

 ぽんと軽い音を立て、マミゾウが元の妖怪の姿に戻る。

 

「では名乗っておこうかのう。儂は二ッ岩マミゾウ。最近外からこっちにやってきた、化け狸の総大将じゃ。この里では、もっぱらこっちの人間の恰好でいることが多いが」

 

 また、ぽんと一瞬で人間の姿になる。総大将の名に恥じない見事な変化の連続に、小傘は背を震わせながらぐぬぬと唇を噛む。

 

「私は、あなたに化かされたということですかぁ……!」

「すまんかったすまんかった、そんな目で見んでおくれ。事情はどうあれ騙した詫びじゃ、なんなら儂が本当に弟子に取らんでもないぞ?」

 

 出し抜けな提案に月見は目を丸くした。ライバルへ助け舟を出すにも等しい彼女らしからぬ行動、いったいどういう風の吹き回しかと思いきや、

 

「おぬし、人間を上手く化かす秘訣を知りたがっておるそうじゃが、もうこやつには何度も素気なくされておるのじゃろう? こんな薄情なやつより、化け狸の総大将たる儂の方が何百倍、いや何千倍も頼りになるというもんじゃぞ? 時代は狐より狸じゃて」

 

 なんてことはない、ここで面倒見がよく頼り甲斐もある総大将の器を見せつけて、小傘を狸派に取り込んでしまおうという魂胆だった。月見を困らせたいのは事実だが、それはそれとして、自分たち狸を差し置いて狐が頼りにされるのも気に入らないらしい。

 正直、この提案は月見も全面的に支持したい。

 もちろん、マミゾウが小傘の師匠になれば自分は解放されるかもしれない、と身勝手な考えがあるのは否定しない。けれど小傘のためを考えても、弟子を取る気がない月見より、取ってもいいと迎えてくれるマミゾウの方が適任なのは明白だ。化け狸の総大将をやっている通り実力は申し分ないし、親分気質で手下思いな一面もある。人間たちに寄り添って生きてきた経験を活かして、幻想郷の秩序を乱さない絶妙なおどかし方を伝授してくれるだろう。

 仮に月見が教えを請う立場なら、断る理由が見つからないほど魅力的な話だ。しかし小傘の表情は芳しくなく、

 

「で、ですけど、私にはお師匠という心に決めた御方が……!」

「……なあ小傘、どうしてそこまで私にこだわるんだ? 弟子を取る気はないと何度も言ってるし、何度も断ってきた。それでも諦めないだけの理由が私にあるのかい?」

「いえいえ、私は気づいておりますとも。お師匠はすでに、多くのことを私に教え授けてくださいました」

 

 嫌な予感、

 

「確かにお師匠の言う通り、断られた回数はもはや十や二十を下りません。ですがそれは、ただ漫然と誰かを頼るのではなく、自分になにが足りないのか自ら考え、行動につなげる大切さを教えるためだったのですよね? 人間をおどかす極意を知ったところで、わたしにそれを活かす力量がなければ宝の持ち腐れですから。さすがはお師匠です」

「…………」

「私がお師匠にこだわる理由……それはお師匠が、私にとってすでに素晴らしいお師匠だからなのです」

「……………………」

 

 頭が、痛かった。

 どうしてこの少女は、天賦の才能ともいうべきそのポジティブさをもっと正しい方向に活かせないのだろうか。眉間の皺を揉み解しながら呻く月見に、マミゾウは今度こそ溜飲が下がったようにほくそ笑んで、

 

「あー、やっぱり弟子の話はやめじゃやめじゃ。このまま困り果てるぬしを眺めておった方が愉快じゃわい」

「……今回ばかりはなにも言い返せないね」

「ふふふん、そうじゃろうそうじゃろう? これに懲りたらいい加減儂のことを認めるのじゃぞ。えへへ」

 

 それに、仮に言い返す言葉があったとしても、ここで文句を垂れていいほど月見は偉ぶれる立場でもない。弟子に取る気がないならはじめからきっちり諦めさせるべきだったのに、口先だけの返事でなあなあにし続けてきたツケが回ってきたのだ。むしろ、マミゾウがちょうどよい発破をかけてくれたと考えるべきなのだろう。

 とは、いえ。

 

「しかしおまえ、最近は赤蛮奇が教えてくれたやり方で上手くやれてるんだろう? それで充分なんじゃないかい?」

「あー……実は、それなのですが……」

 

 小傘がにわかに表情を曇らせ、厄介事を思い出した様子で目線を伏せた。

 

「確かに赤蛮奇さんから教わった方法で、人間をまずまずおどかせるようになりました。ですが、近頃はひとつ困った問題が……」

「というと?」

「危害を加えないとはいえ人間を襲っていることに変わりはないので……里から少々目をつけられるようになってしまいまして」

 

 ああ、と月見は得心した。里の人間たちとて、毎度お約束のごとく妖怪におどかされるばかりではない。一度や二度ならいざ知らず、何度も繰り返し襲われればその情報は里全体で共有され、やがて相応の対策が練られるようになっていく。具体的にはとっ捕まえて懲らしめようとしたり、博麗の巫女へ懲罰の依頼が投げられたりする。というかこの少女、すでに何度か霊夢からとっちめられているはずである。

 そして小傘は、そういった人間たちの目をかいくぐりながら今の活動を続けられるほど、妖怪らしい妖怪ではない。

 

「さでずむはいやですし、人間の皆様とこれ以上対立するのも望むところではなく……」

 

 妖怪化したとはいえ、元は傘という人間のために作られた道具。小傘は妖怪の中で見ても、人間に対して極めて友好的な少女であり、

 

「お師匠、お願いします……! 人間を襲わずにおどかす方法を、私に伝授してはくださいませんかっ……!」

 

 改めて叩きつけられた小傘の嘆願は、ある意味で、『人をおどかす極意を授ける』以上の難題だった。

 

 

 




 試験的に、一話の文字数を短めに区切ってみようと思います。


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第153話 「才華爛発のホラーテラー ②」

 

 一見、矛盾しているようにも思える。

 人をおどかすとは、普通に考えれば、こちらからなんらかの行動を起こして相手を怖がらせたり、びっくりさせたりすることだ。明確な危害を加えるにせよ、いたずら程度で済ますにせよ、相手からしてみれば好ましくない真似をされる点は同じだろう。極めて乱暴な言い方をしてしまえば、『おどかす』とはすなわち相手を襲う行為である、とも考えられるわけで。

 命蓮寺の縁側で春の陽気に浸りながら、しかし、月見の顔には晴れ空にそぐわない懊悩(おうのう)の色があった。

 

「――とまあ、こんな具合でね。どうしたものかと困っているわけさ」

「人を襲わずにおどかす方法、ですか……」

 

 あれから少し時は進んで、月見の隣には白蓮ひとりが座っている。あの場ですぐさま答えを閃くものではなかったので、とりあえず小傘には帰ってもらった。タイムリミットは今日一日。明日小傘がやってくるまでに答えを用意できなければ、月見が完璧な解答を導き出してくれるとなにひとつ疑っていない、彼女のはちきれんばかりの期待と信頼を裏切ることになってしまう。

 マミゾウもとうの昔に出掛けている。あるいは知恵を貸してくれるのではないかと思ったがまあそんなはずもなく、彼女は終始、これが儂の実力じゃーと言わんばかりのほくほく顔だった。すべては小傘を今日まで放置し続けた月見の身から出た錆ゆえ、甘んじて白旗をあげる他ない。

 矛盾とも取れる小傘の難題に、白蓮も首をひねっていた。

 

「ただびっくりさせるだけじゃなくて、ちゃんと怖がってもらわないといけないんですよね……」

「そうだね」

 

 そこが輪を掛けて難しい。妖怪である小傘のお腹を満たすためには、未知の存在、人ならざるもの、妖怪に対する恐怖の感情が伴わなければならない。単にあっと言わせるだけではダメなのだ。

 しかし恐怖という感情は、得てして我が身の危険を感じたときに湧き起こるもの。するとやはりなんらかの形では人間を襲う必要がある気がして、ううむと月見は腕を組んで唸る。

 本当に、マミゾウにはしてやられてしまった――そう昨日の記憶を反芻させる中で、ふと思い出す。

 

「そういえば昨日、私の屋敷に来ようとしてたってマミゾウから聞いたけど。なにか用があったかい?」

「ああ……いえ、その、用というほどの用ではなかったんですけど……」

 

 白蓮は首を振り、少しだけ上目遣いをするようにはにかんで、

 

「お父様と命蓮に、会いに行こうかなあと……」

「……そうか」

 

 月見も微笑み、

 

「なら、今日は夕方あたりにしてくれるかい。その頃には戻ってると思うから」

「はい。わかりました」

 

 立ち上がり、体の中にある余計な雑念もろとも大きく息を吐く。こういうときは一度気分を入れ替えて散歩でもすると、思わぬ解決の糸口が舞い込んできたりするものである。そうでなくとも、座ったままうんうん頭を悩ますばかりは性に合わなかったので。

 

「里でも歩きながら考えるかね。白蓮も、もしいい案が浮かんだら教えてくれ」

「が、がんばりますっ」

 

 今日も天気がいい。古来より、笑うところに福が来るというのは有名な話だ。春という季節を楽しみながら歩いていれば、きっと自ずと閃くものもあるだろう。

 

 

 

 そんなわけで、月見は今日も今日とて活気あふれる里の通りをそぞろ歩く。すれ違う里人と世間話をしたり、子どもたちに尻尾で遊ばれたり、客引きの声に引っかかって少し買い食いしてみたり。お陰で通りを端から端までざっと歩いた頃には、悩ましい心のもやが綺麗さっぱり吹き飛んで、今にもいい感じの閃きが舞い降りそうな気分になっていた。

 まあ、あくまで気分だけだが。遊び歩いているだけで悩みが解決するのなら誰も苦労はしない。気分転換もできたので、そろそろ落ち着ける場所で本腰を入れる頃合いだろう。

 と。

 

「おきつねさまこんにちはー!」

「こんにちはー!」

 

 そう元気に挨拶しながら、数人の子どもたちが月見の脇を走り抜けていった。月見の返事を聞いているのかいないのか、すばしっこい動きで器用に大人たちをかいくぐり、あっという間に角を曲がって見えなくなってしまう。

 確か、あの先にあるのは――。

 少し気になったので、月見も足を向けてみることにした。角を曲がってしばらく進むと、とある家の前で賑やかに集まる子どもたちが見えてくる。その家屋は一見するとなんの変哲もない平屋だが、普通と違うのは店先に提げられた菫色の暖簾と、軒下から客を見下ろす三枚組の看板。

 新装開店を間近に控えた、活版印刷屋の鈴奈庵だった。店先には年少の子どもたちに交じって、ここの一人娘である本居小鈴の姿もあった。

 

「やあ、小鈴」

「あ、月見さん! こんにちはー」

 

 小鈴は看板娘として培った、花が開くような笑顔で月見を迎えて、

 

「いらっしゃいませ。なにか御用ですか?」

「いや、子どもたちが走っていくのが見えたものだから。みんな集まってどうしたんだい?」

 

 子どもたちが歓声をあげ、月見の尻尾でわーわーきゃーきゃー好き勝手に遊び始める。右へ左へ振って適当に相手をしておく。

 

「今から、本の読み聞かせをしようとしてまして」

「ああ、なるほど」

 

 人里において、本とは誰もが気軽に楽しめる娯楽というわけではない。里で一般向けに流通している本というのはかなり希少で、大部分は鈴奈庵や稗田家などの富裕層が私的に所有しているものだ。出版自体は鈴奈庵に依頼すれば可能なものの、値が張るので実際に依頼できるのはやはり一部の富裕層のみ。一般向けの大量印刷は、小鈴も数えられる程度しか経験がないという。

 そういった次第なので、里には昔話や御伽話に興味があっても本を買えない、もしくは買えたとしても学力面で読めない子どもというのがちらほらといる。

 そこで里一番の本の蒐集家である鈴奈庵が、子どもたちにたびたび読み聞かせを行っているのだった。

 小鈴はぱんぱんと両手を叩き、

 

「ほらみんな、月見さんを困らせないの。読んでほしい本を選んできて」

「「「はーいっ」」」

 

 半開きだった戸を大きく開け放つと、みんな一斉に鈴奈庵の新しい店内へ散らばっていく。

 一歩足を踏み入れた感想をいえば、街角の小さくひなびた古本屋さんだろうか。改装といってもなにか特別な工事をしたわけではなく、活版印刷に関わる道具をすべて奥へしまい込み、棚のスペースを拡張して、店と呼ぶには散らかりすぎていた本の山をきちんと整理したのがほとんどだ。しかしそれだけでも印象は大きく変わるもので、どこか鬱然と薄暗かった本の溜まり場が、紙の呼吸する音を聞くような心地よさのある空間に様変わりしていた。

 

「いい雰囲気になったじゃないか」

「やっぱり月見さんもそう思いますっ? 散らかった本の山に囲まれるのもいいですけど、こういう整理整頓された本棚を並べるのもステキですよねえ……」

 

 小鈴が両頬を押さえてうっとりしている。そういう意味で言ったわけではない。

 前もって目星をつけていたのか、すぐに一人の少年が本を抱えて戻ってきた。

 

「小鈴おねーちゃん、これがいい!」

「……あー、」

 

 現実に戻ってきた小鈴は表紙をひと目見て、少し困ったように頬を人差し指で掻いた。

 

「ごめんね。私、怪談の朗読って苦手で……」

「えーっ!」

 

 少年が掲げて見せたのは、子どもが朗読をせがむには少々ませた怪談本だった。表紙の筆跡が阿求の字に似ている。ひょっとすると妖怪の怖さを人々に教えるため、御阿礼の子が代々編纂(へんさん)してきた一冊なのかもしれない。

 

「おねーちゃん、こわいのー?」

 

 月見も最初はそう思った。小鈴は妖怪やお化けといった存在をごくごく普通に怖がる普通の少女であり、以前ここに忍び込んだ子狐が大入道に化けたときは、恐ろしさのあまり目を回してひっくり返ってしまったという。しからばいくら本の虫(ビブロフィリア)の彼女といえど、怪談も大の苦手なのではないか。

 けれど小鈴は首を振って、

 

「んーん、そういうわけじゃないんだけど……私の怪談の朗読って、なんだかぜんぜん怖くなくて面白くないらしいのよねえ」

 

 近くの本棚を眺めていた少女が、そうそうと横から相槌を打つ。

 

「前に一度読んでもらったことあるけど、なんていうかなあ。こっちを怖がらせようとしてるのが丸わかりで、かえって怖くなくなっちゃうんだよー。わざとらしいっていうか」

「い、一応私なりに頑張ってるのよ?」

 

 なるほど、と月見は納得した。確かに、普通の朗読と怪談の朗読では勝手が違ってくるように思う。相応の読み方をしなければ怪談のおどろおどろしさは演出できないだろうし、中途半端な芝居ではかえって滑稽に見えてしまうかもしれない。それに、この中では年長組とはいえ小鈴もまだまだ子ども。幼い可憐な少女の声では、怪談のドロドロした雰囲気とも相性が悪いのだろう。

 

「てっきり怪談も苦手なのかと」

「むー月見さん、私もそこまで怖がりじゃないですよぉ。本の中の話ってわかってるので平気です」

 

 むくれる小鈴に、ごめんごめんと謝りながら。

 

「……、」

 

 ここでふと、月見は。

 もしかしてこれが使えるのではないか、と唐突に閃いた。

 

「えっと、それでもよければ読んだげるけど。どうする?」

「こっちの方がいいよー。小鈴おねーちゃん、怪談以外は上手だから」

「えー。あーあ、ぼくにもこういう本が読めたらなー」

「小鈴」

 

 子どもたちが揉めている隙に、脇から小鈴へ耳打ちして、

 

「ひとつ、相談させてもらっていいかな」

 

 

 ○

 

 一見するとそうは見えないのに、意外なところで目覚ましい才覚を発揮する手合いというのは時たまにいる。

 月見のもっとも身近な人物でいえば、八雲紫がまさにそうだ。普段の彼女はいかんせんお転婆すぎて賢者の名に恥じるような言動ばかりだが、実際は月見など足元にも及ばぬ英知を持った賢人である。深遠なまでの思考力と、他の追随を許さぬ決断力と、いかな困難にも決して折れることのないしたたかさを兼ね備えている。火のないところに煙は立たないのであり、伊達や酔狂で賢者の二つ名を背負っているわけではないのだ。

 なんの話か。

 要するに、多々良小傘もそういう手合いだったのである。

 

「……そこで部屋は行き止まり。目の前の壁には、赤い文字でこう書かれていたのです。――『うしろから わたしの くびがきてるよ』」

 

 戸をすべて閉じ切り薄暗さを演出した鈴奈庵に、小傘の語りが低く、冷たく、這う蛇がごとく通る。それ以外は呼吸の音すら聞こえない。全員が呻き声ひとつ漏らすことも許されず、まばたきすら忘れて小傘の語りに聞き入っている。

 抜け首の怪談。

 たった十人程度の子どもが相手といってしまえばそれまで――しかしどうあれ、多々良小傘という少女がこの空間を完全に掌握しているのは事実だった。

 

「そしてすぐ真後ろの、耳元から。こう、声が、聞こえました」

 

 年頃の少女が喉から出しているとは俄かに信じがたい、一切の生気を伴わぬ得体の知れない声音。

 絶妙な間だったと言わざるを得ない。

 

「 うしろ み ないでね ―― 」

 

 子どもたち全員が、声のない悲鳴をあげたのだとわかった。

 無音、

 

「……私は屋敷を飛び出し、無我夢中で逃げました。以来、あの場所には一度も近づいていません――」

 

 語りが終わる。けれど、物陰でじっと息を殺すかのような緊張は緩まない。緩められない。子どもたちはもはや、底冷えしたこの空気を自分の意思で打開することもできないでいた。結局そこから更に何秒もの沈黙があり、

 

「――はい、このお話はこれで終わりです。ご清聴ありがとうございました」

 

 小傘がそう笑顔で頭を下げてようやく、どっと崩壊するように空気が弛緩した。

 

「こ、こわかったー!」

「小傘おねえちゃんすごーい! じょうずーっ!」

「きょ、今日ひとりでおふろに入れないかも……」

「へ、へへんおまえらだらしないなーっ。おれなんてぜぜぜっぜんぜんこわくなかったぜっぜぜ!」

「うしろ み ないでね」

「「「うぎゃあーっ!?」」」

 

 今まで一言も喋れなかった反動か、子どもたちが一斉に大騒ぎを始める。後引く恐怖の余韻に興奮する者、小傘に尊敬の眼差しを向ける者、やたら一生懸命周りに怖くなかったとアピールする者。気の早い者は本棚から新しい本を引っ張り出し、こっちも読んで読んでと小傘を取り囲みにいっている。

 あれから三日ばかり――『人間を襲わずにおどかす』という難題に対する、これが月見の提示した解答だった。

 

「いやー、すごかったですね小傘さん。私よりずっと上手でした。創作だってわかってても背筋が寒くなっちゃいましたもん」

 

 本の中の話なら平気と豪語していた小鈴すら、両腕を抱いて浅く身震いしているほどだ。こうして実際にやらせてみれば、小傘は怪談の読み聞かせが極めて上手かった。

 いや、なにも読み聞かせひとつに限った話ではなく、『子どもの相手をすること』自体が達者だというべきなのかもしれない。やんちゃ盛りな小さい子どもの相手となれば、どう接すればいいのかわからず戸惑う者も珍しくないけれど、彼女にはまったくそれがない。仲がいい友達同士のように自然と意気投合し、また一方では熟練の保育士がごとく、しっかりと手綱を締めてコントロールする。まったくもって意外や意外、小傘は年下に対してちゃんとお姉さんらしく振る舞える一面があったのだ。

 元より彼女は人見知りしない性格だし、はきはきと話すから読み聞かせに向いていると思った。怪談の朗読という形でなら、人間を襲わずにおどかすことも可能かもしれない――そう思って一計案じてみたのだが、月見の予想を遥かに超える成果といっていいだろう。

 どこまで意識してやっているのか、それとも天性の才覚なのか。

 

「小傘おねーちゃん、次! 次のお話読んでっ!」

「な、なー、こっちの本も面白いんじゃないかー……?」

「えー、ひょっとしてこわいのー? 男の子なのにー?」

「べべべっ別にぜんぜんこわくねーけどぉ!?」

 

 子どもたちに囲まれる小傘と、ふと目が合う。ここまで反響がもらえるとは彼女にとっても予想外だったようで、言われるまま続けてよいのか戸惑った様子だった。月見は笑みを返し、

 

「続けてやってくれ。みんな喜んでるしね」

「わ、わかりましたっ」

 

 じゃあ次のお話読むよー!と号令し、小傘が子どもたちをテキパキと元の場所に座らせていく。心底思う、子どもに対してこうもお姉さんらしく振る舞えるなら、普段の彼女はなぜああも明後日な方向に暴走してばかりなのか。ひょっとして月見が今まで見てきた小傘は、瓜二つな双子の姉妹かなにかだったのではないか。そんな突飛な疑問が頭を過ぎらないこともない。

 隣で小鈴が、ささやくように言った。

 

「……ああいう妖怪も、いるんですね」

 

 小鈴には小傘が妖怪であることや、わざわざ怪談の読み聞かせをやらせる目的も前もって教えている。人間をおどかさなければ生きていけないが、それで人間と対立してしまうのも望むところではなく、なんとか平和的にお腹を満たせる方法はないかと模索していた――人並みに妖怪を恐れる小鈴にとって、この出会いは少なからず考えさせられるものがあるようだった。

 

「人間だって、いいやつもいるし悪いやつもいる。それと同じだよ。人それぞれ、妖怪それぞれさ」

「……そうですよね。怖くない妖怪だって、世の中いますよね」

「というか、私もれっきとした妖怪なんだがね」

「え? またまたー、月見さんはお稲荷様でしょう? 隠さなくたってわかってますよー」

 

 徹頭徹尾わかってもらえてないんだよなあ、と月見は心の中で吐息する。この尻尾の色が悪いのだろうか。白い狐は稲荷の遣いと相場が決まっているから、余計に信じてもらえないのだろうか。月見の脳裏で宇迦が、「やっぱうちの神使になれば解決やぁー」とくすくす笑っている。

 小傘の読み聞かせが再び始まる。月見と小鈴は無駄話をやめ、いっとき彼女が紡ぐ物語に耳を傾ける。

 保護者役をして見守る必要はもはやない。それでも子どもたちに聞かせるだけではもったいないこの語り、今しばらく楽しませてもらうのも乙な気分だった。

 

 

 〇

 

 朗読会は終始好評で、小傘がようやく解放された頃には夕暮れも近くなっていた。

 ただ本を読み聞かせるだけのシンプルな催しとしては、大盛況といえるくらいだったのではないかと思う。途中で子どもたちが友達を呼びに行ったり、通りがかった大人が足を止めて聞き入ったりなどあって、終盤は鈴奈庵にちょっとした人だかりができるほどだった。次の朗読会を楽しみにする声も多く、もし二回目が開催できたときは、会場が鈴奈庵では少々手狭になるのかもしれない。

 なお、小傘の隠れた才能が怪談のみならず御伽噺や民話にも発揮されたため、本職の小鈴が若干ジェラシーを感じていたのは余談である。「私も負けてられません……!」と彼女は燃えていた。

 

「どうだった、今日は」

「はいっ! 最高でした!」

 

 水月苑に戻る途中の空の道で、小傘から弾けんばかりの笑顔が返ってくる。二時間近くいろんな話を読みっぱなしで疲れているだろうに、彼女はむしろ朗読会の前よりも輝く生気に満ちあふれて見えた。

 

「こんな風に人間をおどかす方法があったなんて、びっくりです! 人間を怖がらせるのがダメなら、怖いという感情を楽しんでもらえばいい……なんて素晴らしい発想でしょうか!」

 

 所謂エンターテインメントとしての『恐怖』でも、小傘のお腹は問題なく満たせる――その発見が今回の一番の収穫だろう。また意外にも天性の演技力があり、意外にも子守りの才能まであるともわかった。もし小傘がこのまま里に受け入れられれば、人間を楽しく恐怖させる新しい形の妖怪が誕生する……のかも、しれない。

 

「お師匠、ありがとうございました! こんなの、私一人だけだったら絶対に無理でした……!」

「役に立てたようでなにより」

 

 今まで素っ気なく扱ってしまった罪滅ぼしも、これで少しくらいはできただろうか。

 

「……さて、人間を襲わずにおどかす方法は伝授した」

 

 別に伝授したというほどでもないが、小傘はそう思っているだろうからそういう話にしておく。

 

「これで、もう私につきまとう必要もないだろう。子どもたちも喜んでたし、これからは里で頑張ってごらん」

「はいっ! お師匠が与えてくださったこのチャンス、決して無駄にはしませんとも!」

 

 是非とも無駄にしないでほしい。そしてこれ以上、月見をお師匠お師匠呼びながらつきまとってくるのは終わりにしてほしい。普通に客として遊びにくるのは構わないから。普通にしてくれれば普通にいい子なんだから。悪い子じゃないのはわかっているから。そう願ってやまない。

 

「――お師匠」

「うん?」

 

 月見の前に出た小傘が、立ち止まってこちらを振り向く。後頭部まで見えそうになるくらい、大きく丁寧に頭を下げて。

 

「このたびは、本当にありがとうございました!」

 

 顔を上げ、夕暮れ空も恥じらうほど強く強く笑って、

 

「えへへ、お師匠だいすきですっ!」

「……」

 

 ――そう。一度走り出したら止まらなくて、変な思い込みをしては空回ってばかりで、人の話を聞かなくて、騒々しくて、はちゃめちゃで……でも、決して悪い子じゃあないのだ。

 月見も吐息するように、笑みを返して。

 

「せっかくだ、今日は私の屋敷で夕飯を食べていくといい。少し豪華に作るよ」

「本当ですか!? 食べます食べますご馳走になりますっ! さすがはお師匠です!」

「はいはい」

「あ、置いてかないでくださーい!?」

 

 月見が前を飛び、小傘が追う。

 顔を合わせれば刷り込みされた雛鳥みたいにつきまとわれるこのへんてこな関係、これからも少しばかり続くのかもしれないなと、月見は思った。

 

 

 




 お休みしている間に寄せられておりました数々の誤字報告、ありがとうございました。


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第154話 「貧して鈍してハルジオン ①」

 

 雪解けが終わり次第に春の訪れを感じ始める頃、まるで忘れ物をしたようにふと寒さがぶり返すことを『寒の戻り』というけれど、同じくこの時期、季節外れに天気が荒れることを『春の嵐』という。

 強風はもちろん篠突(しのつ)く大雨まで伴う場合もあり、さながらひと季節早くやってくる台風みたいなものだ。この日は朝から雲模様が芳しくなく、午後に入っていよいよ天気が崩れ出した。窓を叩く突風、バケツを引っくり返したような大雨、遂にはゴロゴロと不穏な雷まで。誰がどう見たって外に出られた有様ではなく、お陰で月見も水月苑にこもってじっとせざるを得なくなっていた。

 

「春の嵐ってやつかねえ」

「ここまで荒れるのは珍しいですねー」

 

 突風が激しく吹きつけるたび、念入りに閉め切った雨戸がガタガタと揺れている。鬼たちの建築技術で造られたばかりの水月苑さえこうならば、もしかすると他の場所ではなんらかの被害が出るかもしれない。みんな何事もなければよいが。

 

「この天気じゃあ、帰るのはやめておいた方がいいね。外に出た途端あっという間に濡れ鼠だ」

「そうですね……致し方ないですが、今日はここでお泊りかもしれないですね! まったく困りましたっ」

 

 さて、まったく困った様子もなくうきうきしているのは藤千代である。今日は昼頃から水月苑の手伝いに来てくれていたのだが、いくら神出鬼没の彼女といえども、この大荒れの中を帰るのは無茶というものだった。

 

「うう、雷まで鳴ってて怖いです……早くよくなってくれるといいんですけど」

「いやー、これじゃあ永遠亭に戻れないわねえー。そろそろ帰ろうかと思ってたんだけどなー、あー残念だなあー」

 

 茶の間にはもう二人、池から避難してきたわかさぎ姫と、やはりまったく残念がっていない輝夜の姿もある。わかさぎ姫は行儀よく座りながら外を心配し、輝夜は畳でごろごろ寝そべって、弾力満点のお餅みたいにだらけまくっている。果たしてどちらがお姫様なのやら。

 それにしても、桜が咲ききる前の嵐で本当によかった。これがもし満開を迎えたあとだったなら、花見どころではなくなってしまって幻想郷中の怒りが爆発していただろう。花見はここの住人にとって必要不可欠な一大イベントであり、悪天候で中止されるなどあってはならないことなのだ。

 

「まあ、しょうがない。今日のところは泊まっていきなさい」

「お手伝いは任せてくださいなっ。お夕飯も作りますよ!」

「あ、私もできることはお手伝いしますので、遠慮なく仰ってくださいな!」

「うあー、私もちょっとくらいは手伝うわよー」

 

 だらけた餅がもちもちしている。あらゆる家事で天才(かいめつ)的な才能を発揮する駄姫様でも、さすがに食器運びくらいはできるだろうか。

 

「――す、すみませーん! ごめんくださーいっ!」

 

 風雨と雷鳴に囲まれ落ち着かない昼下がりを過ごし、そろそろ夕暮れも近くなってきた頃、うら若い少女の声が前触れなく玄関の戸を叩いた。聞き馴染みのない声だったし、玄関の前でちゃんと立ち止まって挨拶するのは常連ではない証拠でもある。文目も分かぬこの大雨の中を、傘も差さずに走ってきたらしく――もっとも差したところで意味もなかろうが――、肩で忙しなく息をしながら、

 

「突然すみませーん! あ、雨宿りさせてほしいんですけどー!」

「おや。千代、タオルを何枚か」

「はーい」

 

 藤千代に声掛けし、月見はすぐさま玄関へ向かった。妖怪の山の麓にあたる水月苑で、馴染みのない客となればまず人間ではあるまい。かといって天狗や河童など近所の妖怪なら、雨宿りでわざわざここに逃げ込む必要もない。はてさて一体誰がやってきたのやら、訝しみながら玄関の戸を開けてみると、

 

「あっ……よかったぁ。あの、雨宿りさせてほしいんですけどー」

 

 月見は思わず眉をあげた。玄関先にびしょ濡れの少女が立っているところは想像通りだったが、その出で立ちが一見すると外の人間にしか見えなかったからだ。

 はじめて見る少女だった。まず目に入ったのは前髪に辛うじて引っ掛けられている大きめのサングラスで、この時点ですでに幻想郷の住人らしくない。元々ロールが利いていたと思われるツインテールは雨でくたびれており、紫色のストールもぐっしょり重くなって水滴を落としている。右手には外の世界の物としか思えないおしゃれなポーチ、左手には小さなシルクハットを抱えて、金色の指輪がいくつも光り、おまけにブレスレットやネックレスまで着飾っているときた。

 まるでセレブのお嬢様である。お陰で一瞬は、まさか外来人でもやってきたのかと疑った。しかし少女の奥から感じる気配は、紛れもなく人間ならざるものだった。

 

「見ない顔だね。人間ではないようだが」

 

 雨に濡れたせいで陰りはあったが、壁を感じない社交的な笑顔だった。

 

「ええと、まあ、神の端くれみたいなものというか。幻想郷(ここ)には最近やってきたばかりでー」

「へえ……」

 

 おしゃれに疎い神奈子や諏訪子とは正反対の、なかなかシティ派な神様のようだ。守矢神社と同じで、外での信仰獲得が難しくなって引っ越ししてきたクチなのだろうか。

 さておき。

 

「入るといい。いまタオルを出すよ」

「ありがとうございますっ。いやー、実は姉さんが一度助けてもらっちゃったらしくて。その節は大変お世話になりましたぁ」

「……ん?」

 

 なんの話だろう、と月見は疑問符を浮かべる。幻想郷に戻ってきてから今まで、セレブな妹がいる神様を助けた記憶はないのだが。

 

「覚えてません? まあ、こんなみすぼらしい姉さんじゃ覚えてもらえなくて当然で――あれ?」

 

 後ろを振り向いた少女が動きを止めた。てっきり『姉さん』が一緒にいるものと思っていたらしく、

 

「ちょ、姉さんどこ行ったの!? ……まさか、またそのへんで草食べてんじゃないでしょうね!?」

「草?」

「あ、姉さんの主食なので……」

 

 そのお姉さんは、人の姿をしているのだろうか。

 

「じょおーん、私はここにいるよー」

 

 と、視界を遮る大雨と薄く立ち込めた霧の向こうから、どこかで聞き覚えのある少女の声が返ってきた。同時に、「じょおん」という呼び名が月見の記憶に引っ掛かる。

 声がした方へ目を凝らして、気づいた。

 反橋の(たもと)あたりで空に向けて万歳をし、現在進行形でびしょ濡れになっている少女がいた。

 

「なにしてんの姉さん!?」

「みずあび」

「ちょっとやめてよ人ん家よここぉ!? 姉さあああああん!!」

 

 絶叫してすっ飛んでいく妹の背を見送りながら、ああ、と月見は完全に思い出した。お年玉戦線のときだ。月見がこしらえたポチ袋を受け取って、これでごはんが食べられると泣きながら喜んでいた少女がいた。

 そういえばあのとき彼女は、「じょおん」という妹がいると言っていたっけ。

 

「あ、あはは。失礼しました、ウチの愚姉が……」

「あー、せっかく気持ちよかったのに……」

「人ん家だって言ってんでしょ!?」

 

 妹にずりずり腕を引っ張られてきたのは、やはりあのときの貧困少女だった。長い青髪と大きなリボン、そして『請求書』『督促状』『差し押さえ』などべたべた貼りつけられた特徴的すぎるパーカー姿は見間違いようがない。

 

「なるほど、おまえだったんだね」

「あ、妖狐様……覚えててくれたんですか? やっぱり優しい……」

 

 なにやらねっとりとした目で見つめられた。少女は全身からぽたぽた水を垂らしながら、

 

「あのときは本当にありがとうございました。私、依神紫苑っていいます。こっちは妹の女苑」

「……姉さんが自分から自己紹介してる、ですって……?」

「あの、いろいろあって雨に降られちゃって……妖狐様なら雨宿りさせてくれるんじゃないかと思って、また来ちゃいました。えへへ……」

 

 妹の女苑が、信じられないものを見る目つきで姉の横顔を凝視している。

 

「クソザココミュ障の姉さんに、他人とまともな会話をする能力があったなんて……」

「むぅ、失礼……」

「まあいいわ。とにかくほら、服絞ったげるからちょっと端っこ行って。こんなびしょびしょじゃあがれないでしょ……すみませーん、あんまり濡らさないようにするのでー」

 

 一見すると不思議ちゃんの姉としっかり者の妹といった体ではあるが、それにしたってまた随分とちぐはぐな姉妹だった。性格の違いはもちろん、姉がボロボロのみすぼらしい恰好をしている一方で、妹はたくさんの貴金属で贅沢に着飾っている。月見の記憶が定かであれば、確かこの姉妹は毎日のごはんもままならないほど生活に困っていたはずではなかったか。姉のパーカーを甲斐甲斐しく絞っているあたり、姉妹仲が悪いわけではないようだが。

 

「月見くーん」

 

 振り向くと、上がり(かまち)に藤千代がいた。あいかわらず気がつくとそこにいるやつである。脱衣所の竹編みカゴを両手で抱え、中には何枚かのタオルが入れられている。

 

「お二人ですか? 大きいのと小さいの、四枚ほど持ってきましたけど」

「ああ、充分だよ。ありがとう」

「未来の妻として当然ですともっ」

 

 はいはいと生返事をしながらカゴを受け取り、玄関先へ戻る。女苑が紫苑のスカートの裾を握り、ふんぬぬぬぬぬと一生懸命絞っている。

 

「はい、タオルだよ。ポーチや小物はこのカゴに入れるといい」

「あっ、ありがとうございまーす! ほら、姉さんも髪拭きなさい」

「あ、うん……」

 

 月見の手からタオルを受け取ろうとした紫苑は、しかし寸前で「!?」と大股で仰け反った。雷が落ちたような驚愕で目玉を剥き出しにして、

 

「こここっ、こんなおっきくて真っ白で新品でふわふわな高級タオル、使えないです! これで体を拭くなんて、もったいない……!」

「……普通のタオルだぞ?」

 

 紫曰く外のホームセンターで安売りされていたらしい、どこにでもある庶民的なタオルだ。温泉客に何度も貸し出しているので新品ではないし、肌触りも高級というほどふわふわなわけではない。そもそもタオルとは体を拭くものである。

 けれど紫苑はぶんぶん首を振り、

 

「あ、あの! 私はその、使いかけの雑巾とかで充分なので!」

「いやいや、客にそんなもの出すやつがあるかい」

 

 いくらなんでも雑巾はないだろう、と月見は呆れた。ここで月見が本当に薄汚れた雑巾を出したら、彼女はそれで髪や顔を拭くのだろうか。雨宿りでやってきた女の子にそんな真似をさせようものなら、後ろの藤千代から張り手が飛んできて月見の意識も彼岸に吹っ飛んでいく。

 紫苑は尻込みしすぎて変な恰好になっている。

 

「で、でもぉ……」

「姉さんはあいかわらず貧乏性ねえ」

 

 一方で女苑はといえば、特に遠慮した様子もなくタオルで髪を拭いていて、

 

「んじゃほら、私が使ったやつなら大丈夫でしょ」

「あ、うん、それなら……。うう、やっぱり妖狐様はお優しいです……」

「……」

 

 妹から半分湿ったタオルを受け取って、それでようやく紫苑も髪を拭き始めた。しかしその手つきはだいぶ遠慮がちで、「な、なんという肌触り……ふあああ……!」と謎の痙攣を起こしている。

 貧乏性といえばありふれた風に聞こえるが、いくらなんでも貧乏をこじらせすぎではあるまいか。そしてタオル一枚貸しただけでこれなら、このあと温泉に入らせて浴衣を貸して、お茶と軽い食事まで出そうとしている月見の考えはどうなってしまうのか。

 しかしだからといって、雨がやむまで玄関に突っ立たせておくわけにもいかないのであり。

 

「……あー、ところでね。ここには温泉があるから、濡れたままもなんだしゆっくりしていったらどうだい。服が乾くまで浴衣も貸すよ」

「えっ、ほんとですか!? ありがとうございます! ご迷惑でなければ是非っ」

 

 女苑の食いつきのよさは予想通りとして、問題は姉の方だ。案の定彼女はタオルを頭に被ったまま、コンセントをいきなり引っこ抜かれたような顔で動かなくなっていて、

 

「…………………………………………おんせん?」

「うん。温泉は、わかるかい?」

「え、あ、はい。あの伝説の……ですよね?」

 

 伝説とは。

 

「浸かるだけで病気が治ったり、憑き物が落ちたり、死人が甦ったりするっていう……」

「……肩こりや冷え性程度になら効くよ。温泉に入ったことは?」

「あ、あるわけないですっ。お湯で体を洗うなんて、そんな贅沢な……!」

 

 ちょっと待て。

 

「言い方を変えよう。――風呂に入ったことは?」

「えと……こっちに来てからは、いつも近くの川でみずあび」

「千代、二名様ご案内だ」

「はいはーい」

「うぴぇ!?」

 

 玄関から藤千代がひょこりと顔を出し、紫苑は飛びあがって妹の後ろに隠れた。

 

「つ、つの!! じょじょじょっ女苑どうしよう鬼だよ食べられちゃうよお!?」

「あー、私はそういうのしないので大丈夫ですよー」

「姉さんは皮と骨だけで食べる肉なんてないじゃない。……それより温泉よ温泉! 体もすっかり冷えちゃったし、ここは甘えましょ!」

「で、でもぉ……」

 

 紫苑がまたもや大袈裟に尻込みしているが、生憎と月見はもはやテコでも動かぬ決意に満ちている。なにがなんでもゆっくりしていってもらう。拒否権はない。なぜなら今までのやり取りを総合して考えると、とてつもなく恐ろしい事実に辿りついてしまうからだ。

 紫苑と最初出会ったのは年明けのお年玉戦線だから、当時この姉妹はすでに幻想郷で暮らし始めてしばらく経っていたと考えられる。加えて紫苑の、こっちに来てからは風呂ではなく、いつも近くの川で水浴びしていたという発言。

 つまりこの少女たち、肌が震え水が凍てつく真冬の間も、貧困のあまり温かいお湯を用意することすらできず――。

 やめよう。これ以上考えてはいけない。

 

「さあさあ、入った入った」

「あ、あのあの、わたし汚いですし、お金も持ってないですよっ……?」

 

 月見は聞く耳持たない。こうして水月苑の戸を叩いたからには、濡れたまま汚いままなんて許しません。

 

「お金はいいから。私の屋敷を雨宿りに選んだ運の尽きと思って、諦めてくれ」

「う、うう……」

「お邪魔しまーす!」

 

 困惑する紫苑の背をぐいぐい押して、有無を言わさず藤千代に引き継ぐ。一度敷居を跨いでしまえば観念したらしく、紫苑はおそるおそるとしながら屋敷にあがる。常にふよふよ浮いているからか、靴すら履いておらず裸足だった。

 

「ゆっくりしておいで」

「はーい! 堪能させてもらいまーす!」

「こ、こんな立派なお屋敷……妖狐様すごいよぅ、優しいよぅ……」

 

 明るい女苑と暗い紫苑の、姉妹とは思えぬほど正反対な背中をひとしきり見送って、それから月見は腕組みをした。

 詳しい素性も聞かぬままあげてしまったが、そういえばあの二人、いったいなんの神様なのだろうか。

 

 

 ○

 

 茶の間に戻ると、わかさぎ姫が趣味の小石磨きをしていて、輝夜はあいかわらず畳に寝っ転がってもちもちしていた。

 

「おかえりなさいませー」

「おかえりー。誰だったのー?」

「はじめての客だよ。雨宿りに来たみたいで、びしょ濡れだったから風呂に行ってもらった」

 

 月見が座布団に腰を下ろすと、すぐに輝夜が転がってきて膝をべしべし叩く。

 

「ひーまー。つまんなーい。あそべあそべー」

「こら、客が来てるんだからちゃんとしてくれ。それでも元お姫様かい」

「ぐぅー」

 

 尻尾でべしべし叩き返すが、輝夜は大変満更でもなさそうに余計だらけるばかりである。この少女は本当に月の高貴なお姫様だったのだろうか。実は地球外からやってきた新種の猫ではあるまいか。豊姫や依姫が今の輝夜を見たら、あまりの堕落ぶりにはらはらと涙を流すのかもしれない。

 

「輝夜さん、私と一緒に小石磨きはどうですか?」

「えー。地味」

「そ、そんなあっ。こうやって石を磨くことは、自分自身を磨くことでもあるんですよ!」

 

 とはいえ、手持ち無沙汰なのは月見も同じだ。女の子らしく長風呂になるだろうから、依神姉妹が戻ってくるのも当分先になるだろう。さてなにをして待ってるかな、と月見はテーブルに片肘をついて考え、

 

『――ふああああああああああっ!?』

 

 どたーん、

 

『姉さんしっかりして!! 姉さあああああん!!』

「……」

 

 なにをやっているのかあの姉妹は。

 助けを求める悲痛な叫びというより、予想だにしない出来事が起こったときの素っ頓狂な悲鳴だった。輝夜もわかさぎ姫もぽかんと目を丸くして、

 

「なに今の」

「なにかあったんでしょうかー……?」

「……ちょっと見てくるよ」

 

 月見はよっこらせと腰を上げる。スカーレット姉妹と古明地姉妹の姿が脳裏に浮かぶ。幻想郷の姉妹とは、どうしてあっちもこっちも騒ぎに事欠かないのだろうか。

 まあ姉妹に限った話でも、ないのだけれど。

 

 

 ○

 

「千代、どうした? 入って大丈夫かい」

「あ、大丈夫ですよー」

 

 脱衣所の戸を開けると、紫苑が床にぶっ倒れてぐるぐるおめめで気絶していた。

 まだ服を脱ぐ前だったようで、依神姉妹は玄関で見送ったときのままの恰好だった。紫苑が倒れているのは、ちょうど脱衣所から浴場へつながる扉の手前だ。女苑が姉のほっぺたをつんつん突っつき、藤千代は困りげに腕で頬杖をついている。

 

「……なにがあった」

「姉さんが、温泉を見て気絶しちゃって」

 

 は、

 

「すごく広くて綺麗だったので、姉さんの貧相な脳は衝撃に耐えられなかったんです。たぶん、赤錆びた五右衛門風呂みたいなのしか想像できてなかったんでしょうねー」

「……そうか」

 

 つまり、温泉をただ視界に入れただけで天へ旅立ったということらしい。改めて心の底から言う、この少女、貧乏をこじらせすぎである。

 

「どうしましょうねえ。このまま寝かせておくわけにも……」

「あー、このままひん剥いて突っ込んどきゃいいですよ。起きたところでお湯に浸かったらどうせまたこうなりますから、そんな気を遣ってもらわなくて平気です」

 

 ともかくびしょ濡れで放置するわけにもいかないので、藤千代が手伝いながら気絶したまま入浴させることになった。

 貧乏って大変なんだなあ、と月見は思った。

 

 

 

 月見が茶の間に戻って十分ほど経った頃、また「はにゃああああああああああ!?」と紫苑の悲鳴が聞こえて静かになった。

 あの少女は、今までどうやって生きてきたのだろうか。

 

 

 



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第155話 「貧して鈍してハルジオン ②」

 

 藤千代にえいやっさと担がれて、ぐるぐる目を回した紫苑が茶の間に運ばれてくる。結局この少女、温泉の気持ちよさをほとんど体験することなく終始気絶しっ放しだったようだ。体を拭くのは雑巾で充分、お湯で体を洗うなんてもったいない、と相当貧乏をこじらせている彼女にとって、水月苑の風光明媚な温泉はいささか刺激が強すぎたのかもしれない。

 

「月見くーん、あがりましたよー」

「ああ、お疲れ様」

 

 月見は座布団を並べて即席のベッドを作り、とりあえず紫苑をそこに寝かせてもらう。水月苑備えつけの浴衣に着替えさせられ、くたびれていた長い髪も今はさっぱりと結いあげている。こうして綺麗な恰好をさせてみると、彼女も幻想少女の例にもれない器量よしなのだとよくわかる。温泉の効能で血色もよくなり、生気の薄かった不幸顔が今はそれなりに幸せそうだった。

 続けて女苑が爽快な笑顔で、

 

「いやー、気持ちよかったです! どうもありがとうございましたあ」

「どういたしまして」

 

 こちらも姉と同じく浴衣で身を包み、また同じように髪を涼しく結いあげている。最初は外見から性格まで姉妹らしくない姉妹だと思ったけれど、こうして同じ恰好をしてみるとなるほど二人は顔立ちがよく似ていた。

 女苑はわかさぎ姫に気づいて目を丸くし、

 

「……え、もしかして人魚ですか?」

「はぁい。はじめまして、人魚のわかさぎ姫と申しますー」

「あ、どうも。依神女苑です。そっちで目を回してるのは姉の紫苑」

 

 次に輝夜を見て、

 

「こちらの方も、普通の人間じゃ……」

「蓬莱山輝夜よ。月人――月の世界から来たお姫様ねっ。まあ元、だけど」

「……はあー」

 

 すっかり呆気に取られて、女苑は一周回ってリアクションが冷静になっていた。

 

「なんだかすごいお屋敷ですね、ここ」

「都合のいい溜まり場にされてるだけさ。お茶でも飲むかい? あと桃を切っておいたから、嫌いじゃなければ」

「桃ですか!? 是非いただきたいですっ」

 

 女苑は目を輝かせて即答する。この少女、謙虚を通り越して卑屈な姉とは違って、人の厚意にはとことん甘えるタイプらしい。それでいて図々しい印象はまったくなく、むしろ気さくな愛嬌が感じられるのだからお得な性格をしている。

 やっぱり、似ても似つかない姉妹だと思う。

 

「月見くん、お茶は私が」

「ありがとう」

 

 みんなでテーブルを囲んで座る。藤千代が魔法瓶から麦茶を注ぎ、月見は切っておいた桃の皿を女苑の手前に置く。

 

「わー、すごく美味しそうですねえ」

「天界の桃だよ。地上で何日か置いておくと、神気が落ちて普通の桃になるんだ」

「へ、へー?」

「おまえたちは神様らしいから、元の神聖な桃の方がよかっただろうけど」

「……あー、えっと、そう言われてみるとそうですかね。でもでも、私はぜんぜん気にしませんのでっ」

 

 女苑の視線が一瞬不自然に宙を泳ぐ。その咄嗟の反応を誤魔化そうとするように、彼女はそそくさとフォークで桃を頬張った。

 

「……!」

 

 笑顔が弾け、

 

「うわっ、ほんとにめっちゃ美味しいです! こんな美味しい桃なんてはじめてかも……!」

 

 神気が落ちて普通の桃になったとはいえ、噛んだ瞬間口の中で暴れ回る圧倒的な瑞々しさと、ぎゅっと甘味が凝縮された段違いの食べ応えは変わらない。甘いものに目がない少女たちからも大好評で、今や水月苑の名物グルメとして不動の地位を確立している。

 輝夜が月見の二の腕あたりをぺちぺち叩いて、

 

「ギーン、私も食べたーい」

「もう充分食べただろうに。剥いてやるから自分で取っておいで」

 

 はーい、と輝夜が台所へ出撃していく。女苑は桃を次々と頬張りながら、

 

「これ、姉さんには食べさせない方がいいかもしれませんねー。美味しすぎてまた失神するかも」

「……おまえのお姉さん、いつもどんな生活をしてるんだ?」

「まあ、いろいろワケありで」

 

 一体どんなワケがあれば、温泉を見ただけでぶっ倒れるような子が育つのやら。そして姉がそうも極端な性格をしている一方で、妹がごくごく良識的な普通の少女らしいのはなぜなのか。

 そういえば、あの質問をすっかり忘れていた。

 

「おまえたちは、一体なんの神様なんだ?」

「……あー。そういえば、その話がまだでしたね」

 

 月見が問うなり、女苑の雰囲気がどことなく変わった。自分の中で、なにかのスイッチを音もなく切り替えたような。改まった仕草でフォークを置き、月見にまっすぐ笑顔を向けて尋ねる。

 

「月見さん、ちょっと手を出してもらってもいいですか?」

「? こうかい?」

 

 月見が出した右手を、ちょっと失礼しますねーと愛想よく両手で握って。

 ――その笑みに、明確な悪意が発露した。

 

「――もーらい」

「……!」

 

 強いて言えば――陽炎のごとく揺らめいた女苑の体が、月見の中を通り過ぎていった。そんな不可解な感覚だった。

 違和感が消える頃には、目の前から女苑の姿が忽然と消えている。代わりに、声は月見の頭上から降ってきた。

 

「あっははははは! まさかこんなにあっさり行くとは思わなかったわ! あんたチョロすぎでしょ!」

「おや」

 

 見上げると、依神女苑はそこにいた。ふんぞり返るように宙で足を組み、可憐というにはほど遠い悪意のあるせせら笑いを花開かせている。女苑の髪が(とう)の光を帯び、霊魂めいた揺らめきとなって月見の頬を撫ぜてくる。

 この現象には、覚えがあった。

 

「――憑依か」

「へえ、わかるんだ」

「まあ、多少は」

 

 愛嬌のある言葉遣いが綺麗さっぱりと消え失せ、その声音は月見を皮肉るかのごとく冷たい。憑依と書けばどこか神秘的に聞こえるが、つまるところ月見は女苑に取り憑かれたということだ。しかもそのせせら笑いが証明する通り、少々よろしくないタチの神様だったらしく。

 

「それじゃあ、改めて自己紹介しましょうか」

 

 獲物の喉笛を捕らえた妖艶な舌なめずりとともに、彼女はこう名乗るのだった。

 

「私は依神女苑。――あなたに不幸をもたらす疫病神よ」

「ほほう?」

「待って、なんでいきなり興味深そうな顔すんの。そこはもっと驚いて絶望するとこでしょ疫病神よ」

 

 まあそれはそうなのだが、

 

「長いこと生きてきたけど、疫病神に取り憑かれたのははじめてだなあ。なるほどこういう風になるのか。はっはっは」

「もぉー、月見くんったら。あっでもでも、もし月見くんが不幸になっても、そのぶん私が幸せをあげるので大丈夫ですよっ!」

「あ、あーっ、私も! えっと、その、がんばります!」

「なに? なんでこいつら和気藹々としてんの? バカなの?」

「う、うーん……」

 

 そのとき、紫苑が目を覚ました。起きあがった彼女はしばしぽけーっとあたりを見回し、それから月見に――正確にはその頭上の女苑に――気づくなり一発で血相を変えた。

 

「……!? 女苑ッ、なんで妖狐様に取り憑いてるの!?」

「なんでって、いいカモだったからに決まってんでしょ。警戒心ゼロのチョロ甘だったから簡単に取り憑けたわ」

「と、取り憑いちゃだめって何回も言ったのに……! 今すぐ離れてっ!」

「いやですー」

 

 女苑を引き剥がそうとして飛びかかるも、その両手はことごとく彼女の体をすり抜ける。憑依状態となった女苑は霊魂同然の存在で、どうやら物理的な干渉が不可能になってしまうようだ。

 せっかく温泉で血色がよくなったのに、紫苑は顔が青ざめていた。

 

「よ、妖狐様……! 女苑は、その、実は疫病神なんですっ! このままじゃ妖狐様が不幸になっちゃう……!」

「うん、そうらしいね」

「妖狐様に取り憑かないって約束したから連れてきたのにっ……! 女苑のばか!!」

 

 女苑はけらけら笑ってまったく動じていない。今までの明るい姿はただの猫かぶりで、これが彼女の本性ということなのだろう。

 そして妹が疫病神ならば、姉の紫苑もそういった類の神様としか思えないわけで。

 月見の心を読んだように、女苑が答える。

 

「ちなみに姉さんは貧乏神だから。自分がいるところになんでも不幸を呼び込むの。私よりよっぽどタチ悪いわよ」

「っ……」

 

 なるほど、貧乏神と疫病神の姉妹――仏滅と不成就日(ふじょうじゅび)が一緒にやってくるような強烈な組み合わせだ。同時に紫苑が痩せてみすぼらしい恰好をしているのも、日頃の生活に大変困窮しているのも合点がいった。

 

「ま、姉さんにお年玉なんか渡しちゃったのが運の尽きってことね。ご愁傷様」

「ち、違っ……私は、そんなつもりじゃ……」

 

 紫苑の顔色は、もはや青すら通り越して真っ白になっていた。いきなり正体をバラされてしまって狼狽えているというより、なにか思い出したくない記憶が甦っているようでもあった。貧乏神にせよ疫病神にせよ人々からは歓迎されない存在だから、今まで味わってきた苦労も決して並々ではないのだろう。

 翻って、女苑はどこまでもあっけらかんとしている。

 

「そんで、私の力は財産を消費させる力。私に取り憑かれると、自分でも気づかないうちに散財して最終的には無一文になるの」

 

 単に「不幸になる」より具体的な分、こちらの方が随分といやらしい気がした。

 

「それは困るなあ」

「ふふん。しかも『財産』ってのは、なにもお金だけとは限らないわよ。あんたの大切な宝物かもしれないし、土地っていう可能性もあるわね。ひょっとすると明日にはこの屋敷を手放して、私たちに譲ってるかもしれ」

「――ふふっ」

 

 ………………あー、

 と間延びした感情が胸に広がっていくのを感じながら、月見はすべてが決着するのを察した。

 藤千代である。鈴を転がすようなたおやかな微笑とともに、女苑の浴衣の帯をちょこんとつまんでいる。一体いつ立ち上がったのか、この場の誰にも認識されぬまま彼女は唐突にそこにいた。

 

「へ、」

「女苑さん、今のはちょっと聞き捨てならないです。ここは月見くんのおうちであり、私たちの大切な憩いの場所。月見くんのいるこのお屋敷が、幻想郷にとってなくてはならないものなんです。そこに踏み入ろうとするなんて――とっても困っちゃいます」

 

 触れられないはずの女苑になぜ当然とばかりに触れているのか、そんなことは問うだけ無駄である。

 笑みは柔らかく、言葉は優しく、発する妖気もごくかすかではあったが、それが途方もない氷山のほんのひとかけらでしかないのは明らかだった。わかさぎ姫が顔を青くして部屋の隅まで逃げようとする。藤千代を知る幻想郷の妖怪ならば、畳に額をこすりつけて全面降伏する場面だ。

 しかし女苑は幻想郷にやってきたばかりの若い神様で、藤千代という少女を知らなかった。だからその異質な気配に気圧されつつも、ついムキになって言い返してしまった。

 

「ふ、ふん、言っとくけど私を引き剥がそうったって無駄よ。私が私の意思で離れるしか方法はないんだから。ってか訊きたいんだけどあんたなんで私に触」

「そいや」

「ぶぎょっ!?」

 

 帯を引っ張られて華麗な弧を描き、女苑は背中から床に叩きつけられた。

 月見の背中から、なにかがべりっと剥がれ落ちる感覚がした。

 

「げほっ……ちょっと、いきなりなにすんのよ!? おかしいでしょ憑依した今の私には触れないはずで、」

 

 起きあがりかけた女苑の目が点になり、

 

「……は? え、憑依が解けてる? なんで? ま、待ちなさいあんた一体なにしたの!?」

「引き剥がしました」

「いやいやいやバカ言わないでよ素手で憑依を引き剥がすなんてできるわけ――え? できるわけないわよね? え?」

 

 月見はノーコメントである。藤千代がやることなすことに、いちいち疑問を挟んでいてはキリがないのだ。

 柔道ならば満場一致で一本になるであろう鮮やかな投げ技に、紫苑はすっかりほれぼれとしている。

 

「す、素手で憑依を解くなんてはじめて見た……鬼様すごい……」

「こ、このっ……だったらあんたに取り憑いてやるわ!」

「おっと」

 

 女苑が再び陽炎のごとく揺らめき、橙の光を散らしながら藤千代の体を通り抜け、

 

「おりゃーっ!」

「げぼっふぅ!?」

 

 一本。

 

「ごふっ……ぜ、絶対おかしいわよこんなの……あんた一体何者……!?」

「ふふ、腕にちょっと覚えがあるだけの鬼の女です」

 

 腕にちょっと覚えがあるだけの女は、拳ひと振りで神々の戦場を更地にしたり、月人最強の剣士と一緒になって月を破壊したりしません。

 

「憑依を素手でひっぺがすやつがちょっとなわけないでしょ!?」

「まあまあ、愛の力というやつです。それより、これで諦めてもらえませんかー? 神様も、痛いのは嫌ですよね?」

 

 暗に、これで諦めなかったら次はもっと痛いことをしますよという笑顔の脅迫に、なぜか紫苑の方がひええと月見の背中に隠れる。女苑もさすがに相手が悪すぎると悟ったらしく、畳でぐったり大の字になって脱力した。

 

「あー、わかったわよ。なんかどう足掻いても勝ち目なさそうだからやめとくわ……」

「そうですか」

 

 月見の後ろで、今度は紫苑がくすくすとせせら笑う。

 

「女苑のばーか。妖狐様に迷惑掛けようとするから。自業自得だわ」

「この世で姉さんにだけは言われたくないのよねえ……」

 

 女苑はのそりと起きあがり、意地の悪い横目を月見に向けて、

 

「さっきも言ったけど、姉さんはただそこにいるだけで不幸を呼び込む貧乏神。私が取り憑かなくたって、このままじゃあんたも周りも間違いなく不幸な目に遭うでしょうね」

「……う、」

 

 紫苑がこらえるような声をもらして後ずさる。

 

「具体的にはどうなるんだい?」

「さあ。私は『財』を消費させるだけだけど、姉さんは『不幸』と呼べるものならなんでも呼び寄せるわ。たとえば……外がこの嵐だし、風で窓が割れるとか、屋根が吹っ飛ぶとか、ひょっとしたら雷が落ちるなんてのもあるかもね」

 

 女苑は肩を竦め、

 

「ってか私たちが住んでた空き家も、雨で浸水するわ風で壁が壊れるわ雷で天井が裂けるわ、あっという間に住める状態じゃなくなっちゃってさ。それでここまで雨宿りに来たわけで」

「ふむ……」

 

 そうすると、紫苑のみすぼらしい身なりだけでなく、その卑屈ともいえるほど暗い性格にも筋が通ってくる。女苑がはじめサングラスやら貴金属やらで贅沢に着飾っていたのは、疫病神として人々から巻き上げた財があったから。一方で紫苑は貧乏神として常に不運を呼び寄せてしまうため、妹のおこぼれにも与ることができないでいるのだ。

 貧すれば鈍する、という言葉がある。昔から不幸ばかりを積み重ねて貧乏をこじらせれば、性格だって否応なくひん曲がって卑屈にもなろう。

 

「ギーン、持ってきたわよー! 剥いて剥いてーっ」

 

 そのとき、両腕いっぱいに桃を抱えて輝夜が戻ってきた。一体いくつ食べるつもりなのか、鼻歌を刻みながらご機嫌に襖を通ろうとし、

 めきょ、とフチに足の小指をぶつけた。

 

「ふぬ゛ぅ!!」

 

 痛恨の一撃だった。一瞬で体の自由を失った輝夜は為す術もなく転倒し、桃をそこらじゅうにまき散らし、地獄の亡者のようなよくわからない言語で呻き苦しみながら、右へ左へバタバタゴロゴロとのた打ち回った。

 

「か、輝夜さん、大丈夫で――へぐ」

 

 それを見たわかさぎ姫が慌てて駆け寄ろうとするが、彼女は人魚なので、地上では大抵尾ひれを引きずりながら這って移動する必要がある。するとうっかり者な彼女はついつんのめって転倒してしまい、そこにちょうど転がってきた輝夜と思いっきりごっちんこするわけだ。

 

「……」

 

 つくづく予想通りな少女たちを月見は生暖かい目で眺める。一層激しくのた打ち回る哀れな少女二人に、紫苑がみるみる血の気を失って、

 

「あ、ああ……また私のせいで、不幸が……」

 

 いつも通りの光景な気がしないでもない。

 さておき。

 

「ご、ごめんなさい……や、やっぱり、私なんて、ご迷惑ですよねっ……」

 

 月見の背中から離れた紫苑は、今にもこの世から消滅してしまいそうなほど萎縮していた。

 

「ち、違うんです、あの、び、貧乏神だってバレたら、また嫌われると思って、妖狐様を騙してたわけじゃ……ごめんなさいごめんなさいこんなの言い訳ですよねわかりました今すぐ出て行きます消えます消え失せます消滅させていただきますごめんなさい」

 

 ただ財を巻きあげるだけの妹より、あらゆる不幸を呼び寄せてしまう彼女の方が苦労も多かったのだろう。そのせいで自己評価が極端に低く、指先でつつけば崩れ落ちるくらい意志薄弱で、常に相手の顔色を窺ってビクついている。けれど一方ではあのときのお年玉を今でも感謝していて、月見に取り憑こうとする素振りはまったくなくて、むしろ取り憑いた女苑を必死に引き離そうとしてくれた。気が小さくて暗くて卑屈で、おどおどしてばかりで、それでも心根は貧乏神と思えぬほど優しい少女なのだ。

 今だって、月見に嫌われると思って泣き出しそうな顔をしている。

 そんな子を大雨のなか外に放り出すほど、月見は鬼ではないのである。

 

「――まあ、そのあたりは実際に事が起こってから考えればいいさ。一日くらいなら、案外なにも起こらないかもしれないし」

「で、でも、あの人たちがもう不幸に」

 

 輝夜とわかさぎ姫はまだうねうねと呻き苦しんでいる。なんだか変な生命体に見える。

 

「あれはいつも通りだから気にしなくていいよ」

「え、えぇー……?」

「ともかく、こんな大雨なのに追い出すのも気が引けるからね。ほら、桃でも食べて落ち着くといい」

 

 テーブルに用意していた紫苑の分の皿を差し出す。ブロック状にカットされた艶めく桃を見て、紫苑ははじめそれがなんだかわからず首を傾げ、やがて頭をぶっ叩かれたように大きく仰け反った。

 

「も、桃っ!? 桃って、まさかあの伝説の!?」

 

 温泉といい桃といい、この少女の中には伝説がいっぱいなのだ。

 

「桃ってすごく高級品で、特別なときしか食べちゃいけないんじゃ」

「そんなことないさ。知り合いから、食べきれない分をいっぱい分けてもらっててね。こうしてお客さんにも食べてもらってるんだ」

「で、でも……」

「いらないなら、女苑にぜんぶあげてしまうけど」

「え、いいの? やったぁ」

 

 紫苑の目の色が変わった。

 

「た、食べるっ。食べさせてください!」

「はい、どうぞ」

「お茶もありますよー」

 

 紫苑をテーブルへ促すと、藤千代がすぐに麦茶を添える。悪天候の中でも光り輝く美しい果肉、そして食欲を刺激する甘く澄んだ香りに、紫苑は早くも感極まって鼻をすすった。

 

「なんだか、夢みたいっ……」

 

 おぼつかない手つきでフォークを取り、いま自分のいるここが夢なのか現実なのか、期待と緊張で震えながら慎重にひと口――

 

「――姉さん、ストップ」

 

 頬張ろうとする寸前、女苑が待ったを唱えた。紫苑は見るからに警戒し、桃の皿を両腕で抱きかかえるようにして、

 

「な、なに? 女苑にはあげないよ」

「私の分はこっちにあるからいいわよ。……それより、先に食べた私から言わせてもらうわ」

 

 女苑はあくまで大真面目な口振りで、

 

「その桃、めちゃくちゃ美味しかった。……美味しすぎて、姉さんなら食べた瞬間ショック死する可能性があるわ」

「……!」

「姉さん、炊き立てのごはんでもいっつも死にかけるでしょ? そんなクソザコ姉さんにこの桃は危険すぎる」

「そ、そんな……っ!」

 

 月見はとりあえず沈黙しておく。

 

「いきなり果肉を直接味わうなんて自殺行為よ。はじめはもっと刺激が少ないように……たとえば、搾ってジュースにするとか」

「――私、食べるよ」

 

 いつしか、フォークを握る紫苑の指から震えが消えていた。生気が薄くどこか沈んでいた彼女の瞳に、今ははっきりとした意志の輝きが宿っている。真正面から力強く見つめ返され、女苑は驚愕に顔を歪めた。

 

「正気なの、姉さん……!?」

「うん。これは、妖狐様が私のために用意してくれたんだもの。だから、このまま食べるわ」

「それが、姉さんが食べる最後の食べ物になるかもしれないのよ!? いつか料亭の懐石料理とか、A5肉のステーキとか、回らないお寿司とか、フランス料理のフルコースとか食べてみたいって言ってたじゃない! その前に死んでいいの!?」

「出された物を食べないなんて、貧乏神の名折れ……!」

 

 紫苑の全身から清澄な神気があふれ出す。力の波濤に乗って髪が持ち上がり、蒼い魂の光となって幻想的な煌めきを描き始める。

 

「こ、これは……!? 違う、いつもの不幸オーラじゃない。嘘でしょ、姉さんにこんな力があったなんて……!?」

 

 月見は涙目な輝夜とわかさぎ姫をよしよしと慰めている。

 

「姉さんやめて! 早まらないで! 姉さあああああん!!」

「――いただきますっ!!」

 

 そして紫苑は、桃を食べた。

 途端、紫苑の神気がぴたりと止まった。霊魂のように変化していた髪が元へ戻り、重力に引かれて畳の上へ広がる。紫苑は意を決した形相のまま桃を咀嚼(そしゃく)し、あるタイミングでふっと無表情になった。それから口角がつりあがり、瞳が限界まで見開かれ、全身がぷるぷる震え始めて、無数の花が咲き乱れるように、この世のすべての幸福を凝縮したように絶頂へ向かい、そのまま臨界点をブチ抜いて、

 

「……………………ふぎゅぅ」

 

 天に召された。

 

「姉さんしっかりして!! 姉さあああああんッ!!」

「……」

 

 妹に抱かれる紫苑の死に顔はとても穏やかで、安らかな幸せに満たされていた。

 

 

 〇

 

 貧乏をこじらせすぎた貧乏神は、ちょっとした『贅沢』を味わうだけですぐ天に召されてしまうとても繊細な生き物だった。その後も紫苑は、夕食で天麩羅を食べたときに一回、水月苑大宴会場のあまりの広さに驚いて一回、お布団がふかふかすぎて一回、妹ともう一度温泉に行って一回と、事あるたび昇天しては生き返ってを繰り返した。

 今まで一体どんな生活を送ってきたのか、彼女の並々ならぬ苦労が察せられる。さすがに翌朝となれば多少落ち着いたものの、それでも朝食の席ではあいかわらずえぐえぐと感動の涙を流していた。

 かくして一夜明けて嵐が去り、姉妹の服も乾いたので。

 

「妖狐様、本当にお世話になりましたっ……」

「あーあ、取り憑けないのがほんと残念だわ。こんなお人好し」

 

 晴天が広がる玄関先で、月見は依神姉妹を見送りする。このあと姉妹は人里へ向かい、ボロボロになってしまった空き家の代わりに、とりあえず破滅して当然な悪徳商人でも見繕って取り憑くという。わざわざ悪人を標的にするあたり、女苑も案外心根は真っ当なのかもしれない。

 

「気をつけてね」

「はいっ」

「あんたに心配される筋合いなんかないわよ。……あ、そうだ」

 

 素っ気なく片手をひらひらとさせた女苑は、それからふと些細な言い忘れをしたように、

 

「ねえ、これからは私もここに遊びに来ていいかしら? いいでしょ?」

「えっ……女苑!?」

 

 まさかこいつ、まだ妖狐様に取り憑くのを諦めてないのか――と、紫苑の表情に深い失望と怒りが走る。女苑はすぐ首を振り、

 

「あー、違うってば。ここ、日帰り温泉宿みたいなのやってるんでしょ? だから、私も客として入りに来よっかなって。すごく綺麗で気持ちよかったし」

「あ、そ、そういうこと……でも、妖狐様にこれ以上ご迷惑は……」

「私がいるときなら構わないよ。もういろんなやつらの休憩所にされてるんだ、今更ひとりふたり増えても同じさ」

 

 二人が温かいお湯を用意するのも難しい生活を送っているのなら、ここの温泉くらい使わせてもいいだろうと月見は思う。風呂は命の洗濯だ。お金や食材は使えば減るのでときには困ってしまう場合もあるけれど、温泉は使った端から湧いてくるのだからなんの問題もない。

 

「えっと、その、私が言ってるのは、そういうことじゃなくて……」

 

 紫苑が不安げな上目遣いで体を縮めている。これ以上自分たちが関われば、いつ妖狐様に不幸が降りかかるかわからないのに――そう考えている顔だった。

 こういう話をしていると、月見は雛と出会ったときを思い出す。

 手っ取り早く紫苑の不安を取り除くなら、あのときと同じで彼女にも能力を使ってしまえばいい。しかし紫苑は貧乏神であり、厄神とは違って不幸を呼び寄せることこそが彼女の本質だ。それを月見の能力で無理やり捻じ曲げたとき、依神紫苑という神になにが起こってしまうのかは想像ができない。

 故に、月見は言葉を重ねる。

 

「結局、不幸らしい不幸も起こらなかったしね。ひょっとしたら……ここには風水的ななにかがあって、少し遊びに来るくらいなら平気なのかもしれないよ」

 

 こちとら、厄神の少女とのんびりお茶を楽しむ仲である。それにあまり一般的な信仰とはいえないが、貧乏を司る貧乏神は転じて福の神であるともいわれている。紫苑によって運ばれてくる『不幸』が本当に不幸なのかは、月見が自分の目を以て確かめることだ。

 今まで何千年と生きてきて、貧乏神や疫病神と知り合ったためしはまだ一度もない。なればこそ、ここらで縁を持ってみるのもまた人生の一興。

 だから少し意地悪な顔をして、こう言ってやるのだ。

 

「気が進まないなら無理にとはいわないけど、そうしたらおまえの桃は女苑が独り占めだね」

「え、いいの? やったぁ」

 

 紫苑の目の色が変わった。

 

「ま、また来ます!! 来させてくださいっ!!」

 

 思いっきり叫んでから、あう、と頬を赤らめまた縮こまる。おどおどしてばかりで卑屈な彼女の本心を聞くには、どうやら食べ物で釣るのが一番のようだった。

 隣の女苑が、やれやれと言いたげに大きく息をついた。

 

「答えが出たことだし、ほら行きましょ。とにかく住むとこ見つけないと、野宿なんて絶対に嫌だからね」

「え、あ、待ってよ女苑!」

 

 さっさと歩き出してしまった妹の後ろを、紫苑は慌てながらふよふよとくっついていく。その途中で何度も月見の方を振り返る。なにかを言いたい、言わなければならないとはっきり感じているけれど、考えがまとまらなくて、これっぽっちも言葉が出てこなくて、開いていく月見との距離にただただもどかしさを感じている。焦れれば焦れるほど頭の中がこんがらがって、しかも女苑はわざとらしいほどまったく足を緩めてくれない。

 結局このまま、迷いと沈黙を残しての別れになるかと思われたが。

 

「……あ、あのっ!!」

 

 反橋を渡り始めたあたりで、紫苑が意を決してこちらに振り向いた。やや躊躇ってから大きく息を吸い、月見に向けてなにかを叫ぼうとした。

 したのだが。

 月見は完全に見落としていたのだ。紫苑は不幸を呼び寄せる貧乏神。その能力によって災難な目に遭うのは、月見たち周りの生き物だけでなく、彼女自身においても例外ではないのだと。

 つまるところ、そのときなにが起こったのかといえば、

 

「へぶぎゅっ!?」

 

 紫苑の脳天めがけて、空からタライが降ってきた。

 タライ、

 

「ね、姉さーん!?」

「……」

 

 紫苑が一撃で昏倒する。月見が空を見ると、「ごめんなさーい!?」と平謝りしている哨戒天狗たちがいる。どうやら本山に荷物を運ぶ途中で落としてしまったらしいが、よりにもよってこのタイミングで、よりにもよってこの少女に、

 

「姉さんしっかりして!! 姉さあああああんッ!!」

「…………」

 

 妹に抱かれる紫苑の死に顔はとても哀れで、理不尽な不幸にさめざめ涙を流しているように見えた。

 

 

 

 それから水月苑では、片やみすぼらしく片やセレブな姉妹が時たま目撃されるようになる。風情ある日本庭園を散歩し、温泉に入って桃を食べ、畳でのびのびと体を伸ばして、これ以上の贅沢はないとばかりに満足して帰ってゆく。

 そのとき常連客の少女たちはといえば、なにもない場所ですっ転んだり、足の小指をぶつけたり、お茶で舌をやけどしたり、曲がり角でぶつかったり、池に落ちたり、おやつを落としてダメにしたり、弾幕ごっこに巻き込まれたり、ぎゃーぎゃー元気にケンカしたりと、涙目になる頻度が普段より若干増えるようだが――。

 それはそれ、水月苑ではいつものありふれた風景なので、特に誰も気にしていないそうな。

 

 

 




 返信はおやすみしていますが、いただいた感想はすべてありがたく目を通しております。ありがとうございます。


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第156話 「面霊気でもわかるもふもふ感情講座 ①」

 一年ぶりなので初投稿です。
 試験的に行間を多めに空けています。


 

「――ん」

「つきちゃん、おはようさぁん」

 

 気がつくと月見は、水月苑の縁側に腰かけて五分咲きの桜を見上げていた。

 

 一体いつ目覚め、いつ着替え、いつここまでやってきたのかまるで記憶になかった。すぐ隣から見知った少女の声が聞こえなければ、よもや寝ながら徘徊するようになってしまったのかと冷や汗をかいていたかもしれない。

 

 隣に、真っ白い少女が座っている。

 彼女は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であり、つまりこれは「夢枕に立つ」というやつであり、月見がいるのは現実ではない夢の中の水月苑だった。状況が把握できた月見は表情を崩し、

 

「やあ。どうかしたかい」

「あんなー、つきちゃんとお話したくて」

 

 宇迦がこてんと首を傾けると、黄金色の髪飾りがしゃらしゃら小気味のよい音を奏でた。

 

 月見と宇迦以外に誰もいないのを除けば、現実通りの水月苑の庭だ。幸い過日の大雨による被害もなく、もう間もなく庭中に春の息吹が満ちようとしている。

 

 水月苑には、縁側から眺める景色の片隅を淡く染めあげるように、桜の木が一本だけ奥ゆかしく配置されている。博麗神社や白玉楼のような絢爛たる桜並木ではないので、花見のスポットとしてはいささか見劣りするけれど、その主張しすぎない美しさが月見はまずまず気に入っていた。もう間もなく満開を迎えれば、新しい季節の訪れを慎ましくも華やかに彩ってくれるだろう。

 

 さて、宇迦がなんの用で夢枕に立ったかといえば。

 

「うんとなー、つきちゃん、こないだからうちに妖力くれてはるやろ? あれ、もうええかなー思て」

「ふむ?」

 

 どうやら、おくうの話らしい。

 

 月見が宇迦の力を借り、荒御魂と化した八咫烏を鎮めたのは去年の冬の出来事である。

 月見たち俗世の存在が神の力を借りるためには、往々にして『供物』が必要不可欠であり、あのときは状況が状況だったため、手っ取り早く月見の妖力そのものを差し出していた。つまりおくうは今でも、八咫烏と宇迦之御魂神という二柱の力を内包した状態であり、そうである以上月見も妖力のいくらかを『供物』として宇迦に捧げ続けているわけだ。

 

 今の時代、大きな妖力を持っていたところで使い道もないので、特に不自由とも思っていなかったけれど。

 

「それはまた、どうして」

「あれ」

 

 宇迦が指差した先には、今年になって新しくこしらえた稲荷神社の小社がある。

 

「うちが思うとったより、お賽銭入れはる人がぎょーさんおってなぁ。人里でも、お稲荷様はええ神様やーってどんどん信仰が広がっとって、うちびっくりやわぁ」

 

 大して驚いているとも思えない口振りで宇迦はそう言った。

 

 宇迦が前回夢枕に立ったのは冬の終わり頃だったが、改めてこんな話をするということは、稲荷信仰の勢力拡大は現在も変わらず続いているらしい。あまり素直に喜べないのはなぜだろうか。

 

「そんでなー、うち考えたんよぉ。うちの信仰こぉんなに広めてくれはって、なのに妖力までぎょーさんもらってばっかやったら、なんやえらいもらいすぎであかんわぁって」

 

 月見としては稲荷信仰を広めているつもりは一切ないのだけれど、それはひとまず置いておき、

 

「八咫烏を鎮めてもらってるんだから、私ばっかりってことはないと思うけど」

 

 宇迦は少し困った風に微笑んで、

 

「あれなぁ、やたちゃんとっくに鎮まっとるもん、うちほとんどなにもしてへんえ?」

 

 ……まあ、それはそうである。

 

「つきちゃんが広めてくれはった信仰でもう充分。そないなわけで、妖力もらうんはおしまいにしましょ」

「そうか。おまえがいいなら、お言葉に甘えようかな」

 

 宇迦は長い袖で口元を隠してくすくす笑い、

 

「つきちゃんの妖力なぁ、すごぉく綺麗やから、うちお肌めっちゃつるすべになってん」

「……そうか」

「妖怪でこない綺麗な妖力持ってはるんは、つきちゃん以外におらへんわぁ。な、やっぱうちの神使やらへん?」

 

 月見も笑顔で、

 

「お断りするよ」

「あーいけずやぁー」

 

「もったないわぁ、ぜったいぴったりやと思うんになぁ」とちっとも残念そうではなく残念がる宇迦を尻目にしながら、それにしてもと月見は考える。

 

 宇迦之御魂神が直々に「充分」と認めるほど、幻想郷の稲荷信仰が本格化している事実。

 

 人里を席捲する稲荷ブームについて、霊夢からジト目で睨まれたのはまだ記憶に新しい。そのうち冗談抜きで、憎っくき商売敵として闇討ちされるのではなかろうか。

 

 

 ○

 

「あら、お狐様。ちょうどよかった、ちょいと話を聞いとくれよぉ。実はねえ――」

 

 と頭を悩ませながらも、声を掛けられれば立ち止まってしまうのが月見であって。

 

 桜が五分咲きとなり、早くも花見に興じる人が目立ち始めた春の人里で、月見は例の江戸っ子ご婦人からまた相談事を持ち込まれていた。眉をハの字にし、あまり目立たぬよう気を遣って話そうとする様子を見れば、どんな困り事なのかはなんとなく想像がついた。

 

「――ふむ、また妖怪か」

「そうなのよ」

 

 赤蛮奇からこんにゃく作戦を伝授された小傘が、外れで里人をおどかしては騒がせていたのが少し前のこと。この時代、人間が里でおおっぴらに襲われる事件はもうほとんど聞かないが、夜な夜なおどかされる程度の騒動ならしばしば起こる。

 

 人間の恐怖は多くの妖怪にとって必要なものだし、博麗の巫女など力ある存在がこれに対処する『妖怪退治』のプロセスは、幻想郷の均衡を保つ上で重要な歯車でもあるのだ。よっていつも通りであれば、話を聞いて適切な人材に引き継ぐのが月見の役割なのであるが。

 

「どうも、今回は少し変な妖怪みたいでねえ」

 

 なんでも里の外れで黄昏時、妙な妖怪が現れて里人に声を掛ける事案が続いているという。遭遇した人々の証言はピタリと一致しており、その妖怪は長い桃色の髪、チェックのシャツ、三日月の穴が開いた奇抜なスカートをまとい、なぜか顔には能面を張りつけているとか。

 してなんと声を掛けてくるかといえば、これもピタリと、

 

「私に『心』を教えてください……ね」

「そうそう。気味が悪いでしょ」

 

 出で立ち自体は少女のようだが、薄闇の夕暮れ時にわざわざ能面で顔を隠し、『心』を教えろなどと奇怪な問いかけをしてくるのはいかにも怪しい。声を掛けられた里人はみな薄気味悪さから一旦その場を離れ、仲間を連れて戻ったときには、少女はすでにどこかへ消えてしまっていたそうだ。

 

「ただ、声を掛ける以上のことはなにも……それこそ襲われたりとかはまったくないみたいだから、悪い妖怪かもわからなくてねえ」

「なるほど」

 

 確かに話を聞く限り、人間に害を為そうとしているわけではなさそうに思う。

 しかし、だからといって油断はできない。妖怪の中には人間に対し特定の質問をしたあと、回答次第ではなんらかの危害を加えるという厄介な性質を持った手合いもいる。妖怪への恐怖が消失した外の世界で、なお日本中を震えあがらせた『口裂け女』がいい例だろう。

 

 少し考える。

 この話を博麗神社へ持っていけば、霊夢は人里の平和を守るため――もといお駄賃を稼ぐためにやる気満々で出撃するだろう。だが件の妖怪が、それこそかつての小傘のように、ただ困って助けを求めているだけだとしたら少々可哀想だ。幻想郷の気ままな巫女さんは里からの依頼となれば、実際悪い妖怪だろうとなかろうと、とりあえず感覚でとっちめてしまうに違いない。

 ご婦人も同じことを考えているようで、

 

「お狐様の方で、一回見てやってもらえないかねえ」

「そうだね。では、今日の夕方にでも行ってみようか」

「よろしくお願いねえ。……あ、これちょっとだけどお供え物」

「だから私は稲荷じゃないって」

「いいじゃないかいそんな細かいこと」

 

 いや細かくないけど。

 

 こういう安請け合いばかりしているから、お稲荷様だと勘違いされたり稲荷ブームの立役者などと言われてしまったりするのだろうか。

 しかしまあ、それが月見の性分なのでいかんともし難い。半ば強引に押しつけられたお供え物は、屋敷の稲荷神社にお供えしようと思った。

 

 

 ○

 

 夕日があと少しで尾根へと消える黄昏時、いつまでも続くようだった里の活気も次第に鳴りをひそめていく。

 

 人間たちの時間が終わり、幻想郷がもう間もなく妖怪の世界へ切り替わろうとしている。店は暖簾をしまい子どもは家へ帰り、花見に興じていた人々は名残惜しげに片付けを始める。月見の行く手を横切り家の陰へ消えたのは、正真正銘里の子どもだったのか、それとも子どもに化けて花見を楽しんでいた人ならざる者だったのか。

 

 ご婦人ネットワークの情報に従って、月見は里の中心からやや離れた並木道を歩いている。一人ではない。抜かりない目つきで周囲を見回しながらついてくるのは、

 

「『心』を教えてほしい、ですかー。一体どういう意味なんでしょうねえ」

 

 守矢神社の風祝、東風谷早苗である。

 一応明記しておくが、件の妖怪を退治させようと連れてきたわけでは断じてない。仮に退治が目的だったとしても、それならばきちんと専門家(霊夢)に任せる。早苗は最近まで外の世界の女学生だったから、妖怪退治のキャリアでは霊夢が圧倒的に先輩だ。

 

 なんでも、月見が妖怪絡みの事件にどう対処するのか見学したいのだという。

 

 今の幻想郷は博麗神社と守矢神社、それに命蓮寺とお稲荷様まで加えた四つの寺社が信仰を獲得し合う宗教戦争時代。今後は人里でも積極的に活動せねば生き残れないと判断し、布教の機会を虎視眈々と狙っているらしい。博麗神社の商売敵として、本格的に名乗りをあげようとしているわけだ。

 

「戦うつもりはないけど、気をつけてね。妖怪の中には、『問いに答える』行為自体が危険なやつもいるから」

「なるほど……わかりました! 月見さんの背中を目に焼きつけたいと思いますっ」

 

 件の妖怪も、よほど世間知らずでなければ早苗を襲う真似はしないだろう。守矢神社の名は、妖怪たちの中ではそれなりに有名だ。祀られる神の一柱が祟り神であることも、巫女に手を出せば恐ろしい祟りが降りかかることも。

 

 雑談しながらしばし並木道を歩き続け、ほどなく里の端っこが近づいてくる頃だった。

 

「――あのう、そこの道行くお二方」

 

 物静かで、そして平坦な少女の声だった。月見が声の方へ振り向くと、桜の木の後ろから斜めに顔を出し、じいっとこちらを見つめている能面が見えた。

 小面(こおもて)の面。

 

「……う、うわぁ」

 

 早苗の腰が引けた。小面は様々な種類がある能面の中でも代表的な、若く可憐な女性を表した面である――のだが、

 

「……ああいう能面って、なんだか不気味で怖いですよね……」

「あれでも、可憐な女性を表現した面なんだよ」

「昔の人の感性はわからないです……」

 

 小面の面が趣深く映えるのも、風雅に演じられる能を通して見ればの話。本来なら舞台でしか見る機会のない道具だからこそ、日常の中で出くわせばそこには異質な空気が生まれる。黄昏時の闇の向こうから微動だにせずこちらを凝視してくる様は、いかんせん『可憐な女性』からはあまりに大きくかけ離れていた。

 なるほど、里人たちが気味悪がって逃げ出すわけである。

 

「あのうー」

 

 件の妖怪だった。

 

 もちろん能面が宙に浮いて喋っているわけはなく、面で素顔を隠した女の子の妖怪だ。腰まで隠れる長い桃色の髪、鮮やかな浅葱色をしたチェックのブラウス、三日月の穴がいくつも空いたバルーンスカートと、ご婦人から聞いた情報と出で立ちはぴったり一致している。ひとつ予想外な点を挙げるなら、噂の割に随分と大人しそうに見えるところだろうか。妖怪の月見を警戒しているのか、はたまた巫女の早苗の方か、木の後ろに隠れたまま出てこようとする気配はなく、

 

「突然お声掛けして申し訳ありません。私に、『心』を教えてはいただけませんでしょうか……」

 

 妙に抑揚を欠きながらも丁寧な言葉遣いで、情報通りの謎めいた質問を彼女は口にした。月見はひとまず問いには答えず、

 

「おまえが、里で噂になってる妖怪かな」

 

 少女の肩がぴくりと震える。

 

「うむむっ……やはり、噂になっているのですか」

「それはもう。ここ最近、なんだか気味の悪い妖怪が出るんだって」

「……」

 

 能面が木の後ろに引っ込む。ほんの三秒ほど短い間があって、ひょこりと出てきたのは小面ではなく姥の面だった。

 

「気味が悪いって言われた。なにも悪いことしてないのにひどいわ、しくしく……」

 

 感情のこもっていない平坦な声で、よよよ、と姥の少女は悲しむような仕草をする。それからまた引っ込み、

 

「まさか、私を退治しにやってきたのですかっ。そんな相手に声を掛けてしまうとはなんたる不覚! あわあわ!」

 

 今度は大飛出(おおとびで)の面に替わる。これは神の猛々しい形相を表現する一方で、あっと驚くようなひょうきんな顔にも見える面だ。声はあいかわらず無感情の棒読みだが、一応驚いているらしいのは伝わってくる。

 

 月見がそうこう観察しているうちに、大飛出は般若の面に替わっている。少女は木の後ろから勇ましい構えで飛び出して、

 

「おのれ人間、ただ声を掛けただけの妖怪を退治するとはなんたる暴虐! 私は怒ったぞ! ぷんぷん!」

「いや、退治しにきたわけじゃないから安心してくれ。ほら、私も妖怪だしね」

 

 月見が尻尾を軽く揺らすと、少女はぴたりと静かになった。回れ右をしてもそもそと面を付け替える。いつの間にか少女の周りに、青白い鬼火めいた光に包まれながら複数の能面が浮かび上がっている。小面、姥、大飛出、翁、猿――そして少女がこたび手に取ったのは、火男(ひょっとこ)の面だった。

 

「これは失礼いたしました……。私としたことが、妖狐の方だとは露も気づかず。てれてれ」

 

 お面の妖怪。

 となれば、月見の心に浮かぶ名はひとつだけだ。

 

「おまえは、面霊気かな」

 

 すなわち、お面の付喪神である。少女は火男の面のまま頷いて、

 

「左様です。わたくし、面霊気の秦こころと申します」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「あ、東風谷早苗です。神社で巫女みたいなものをやってます」

「なるほどなるほど」

 

 二度頷いた少女――こころはまた後ろを向いて、もそもそと小面の面に付け替えた。

 

 単にお面を付け替えて遊んでいるわけではないらしい。理由はさておいて、どうやら彼女は自分の感情に合わせて付けるお面を替えているようだ。姥の面は悲しいとき、大飛出は驚いたとき、般若は怒っているとき、火男は恥ずかしいとき。そして小面の面は、なんでもない普通のときという風に。

 

「それで、『心を教えてほしい』とはどういう意味だい? さっきも言った通り里のみんなが気味悪がっててね、悪い妖怪じゃないか確かめてくれって頼まれたんだ」

「むう……噂になりたくなかったのでここで声を掛けていましたが、逆効果だったのでしょうか」

「悪い妖怪じゃないなら、私がちゃんとみんなに説明するさ」

 

 わかりました、とこころは頷き、

 

「心を教えてほしいとは、そのままの意味です。私に、あなたたちが持つ『心』――より具体的には、『感情』というものを教えていただきたいのです」

「ふむ?」

「私は、感情というものを知らないのです」

 

 すぐに早苗が疑問の声をあげる。

 

「え? でもさっき、普通に悲しんだり怒ったりしてたような……」

 

 こころは首を振り、

 

「あれは演技です」

「演技……ですか」

「こういうときはこういう感情を抱くのだと判断し、それを面や身振り手振りで表現しているだけのこと。私は本気で笑ったことも、本気で悲しんだことも、本気で怒ったことも、本気で驚いたこともないのです。私の顔はいつどんなときであっても、なんの感情も浮かべてはくれないのです」

 

 俯き、静かな呼吸ひとつ分の間があり、

 

「……この幻想郷に住んでいる者たちは、人間も妖怪もみな感情豊かです。特に笑顔が素敵です。遠くから見ているだけでも、みんな心から笑っているのだとよくわかります。……なのに私は、私だけが、笑いたいのに、どうやっても笑うことができないのです」

 

 その表情は小面の面に遮られ、口振りだってあいかわらず平坦で、確かに彼女から感情らしい感情を読み取るのは難しい。

 けれどそこには紛れもなく、月見たちへの羨望がにじんでいた。

 

「ずっと、ずっと、それはおかしなことなのだと思ってきました。だから私に、本気で笑ったりできる本物の感情――本物の『心』を、教えていただきたいのです」

「……なるほどね」

 

 月見が思わず笑みをこぼしてしまうくらい、それは切実で愛らしい願いだった。もちろん、彼女はすでに感情というものを知っているはずだった。人々の笑顔を素敵だと感じる心、自分も笑ってみたいと思う心、なのに笑えない自分をおかしいと考える心、だから本物の感情を知りたいと願う心、それらはすべて正真正銘の『心』であるはずなのだ。

 

 しかし彼女は、生来感情が表に出にくい妖怪だという。そのせいで自分の中にある心が本物だと実感できず、自分は感情を持たないおかしな妖怪だと勘違いしてしまっている。「『心』を教えてほしい」といえば意味深に聞こえるが、要は簡単だ。

 

 ――私もみんなと同じ風に、笑ったり驚いたりしてみたい。

 

 たったそれだけの、なんとも愛らしい願いなのだ。

 

「ふぐうっ」

 

 変な声が聞こえた。振り向くと、すっかり感極まった早苗がマンガみたいにえぐえぐ鼻をすすっていて、

 

「ううっ、なんて純粋な願いなんですかあ……! 月見さんっ、私たちが力を貸してあげましょう! こころさんに笑顔をプレゼントするんですっ!」

「ああ、それは構わないけど」

 

 こころの純粋無垢な願いが、早苗の現人神エンジンをフルスロットルで点火させてしまったらしい。能面を気味悪がっていたのはどこの誰だったのか、堂々と一歩踏み出してこころの手を取ると、

 

「こころさんっ、私たちが力になります! 本当の笑顔を手に入れるため、一緒に頑張りましょうっ!」

「本当ですかっ。よろしくお願いいたします。わくわく」

 

 と、月見の意見も聞かず勝手に話を決めてしまった。

 まあ手助けするのは一向に構わないので、さてどうやったものかと月見は考える。こういった心にまつわる悩み事は、医学というか臨床心理学というか、永遠亭向きの問題になるのだろうか。

 

「じゃあとりあえず、能面は外してみませんか? 一緒に笑顔の練習です!」

「わかりました」

 

 これといって、素顔を隠しているわけではなかったらしい。こころが言われた通り能面を外し、途端に早苗は「わあ……」と感嘆の声をあげた。

 

「お人形さんみたい……」

 

 志弦を以てして『クラス一どころか学校一も狙えるレベル』と言わしめる早苗が息を呑むほど、こころの素顔は浮世離れしていた。ほのかな色を帯びたきめ細かな肌は上等の織物を思わせ、柳眉はさながら一級の絵付師が全身全霊を込めて綴ったかのよう。薄闇にもかかわらず一本一本がきらびやかな前髪と、わずかな起伏に至るまで完璧に形作られた鼻と頬の造形、乾きを知らない果実の唇、そしてまるで画竜点睛を欠いたような、生気を宿らせぬまま仕上げられた淡い色の瞳が、反って不完全な魅力となって月見たちの目を惹きつける。

 

 もしも彼女がはじめから能面をつけていなかったら、別の意味で里中の噂になっていたかもしれない。

 

「すごくかわいいじゃないですかっ。月見さんもそう思いますよね?」

「ああ、そうだね」

「ありがとうございます。てれてれ……」

 

 こころは肩をすぼめてくすぐったそうな仕草をするものの、声はやはり棒読みのまま、表情も眉ひとつ動く気配がない。

 これはどうも、「感情が顔に出にくい」なんて単純な話ではない気がする。

 

「それじゃあ楽しいことを思い浮かべて、一回ためしに笑ってみましょう! きっと素敵ですよ!」

「楽しいこと……」

 

 そのとき、なぜかこころはチラと月見の尻尾を一瞥してから、

 

「では、行きます。……にこにこ」

「……」

 

 にこにこの「に」の字すら見当たらない、まさしくお手本のような無表情だった。

 さすがに冗談だと思ったらしく、早苗はあははと一笑して、

 

「こころさんったら、ぜんぜん顔が変わってませんよ? ほら、にこーって」

「にこー」

 

 ぴくりとも動かない。

 

「えっと、口の両端を上にくいっと上げる感じで」

「くいっ」

 

 ぴくりとも、

 

「ていっ」

「わぷ。な、なにをするーっ」

 

 早苗がこころの顔に掴みかかり、指で無理やり口の端を押しあげて、

 

「はいこの感じ! この感じですよ! 今いい感じでにこーってしてます! じゃあ指を離すので、そのままキープですからね!」

 

 そして早苗が手を離した瞬間、こころのほっぺたはぷるるんと元の位置に戻った。

 

「……にこー」

「……」

 

 早苗も無表情になった。

 

「早苗、ちょっと」

 

 月見は早苗を手招きして、小声で作戦会議を開始する。

 

「月見さん、これってもしかして……」

「ああ。おそらく、彼女自身の妖怪の性質がそうなんじゃないかな」

 

 鬼がみな怪力であるように、天狗が翼で空を飛ぶように、河童が泳ぎの達人であるように。秦こころという一妖怪、或いは面霊気という種族の性質として、お面さながら表情が動かないという特徴があるのだと月見は考える。つまりこころの無表情は決しておかしいのではなく、彼女という妖怪において極めて正常な状態にあるといえるのだ。

 

「なるほど……。それじゃあ、どうすればこころさんに笑顔をプレゼントできるんでしょう」

「感情が顔に出ないだけで、心ではちゃんと喜んだり怒ったりしてる気がしないかい? だから、それに気づかせてやれればいいんだけど」

 

 そのときこころがふと、

 

「あのう、妖狐のお方。失礼とは存じますが……尻尾を触ってみてもよろしいでしょうか」

「ん? ああ、どうぞ」

 

 月見はよく考えもせず尻尾を差し出す。もはやお馴染みの条件反射である。

 

「おおー……もふもふ……」

「――で、どうするかだけど。とりあえず、一度私の屋敷に戻らないかい。ずっと立ち話もなんだし、もうだいぶ暗いしね」

「そうですね。諏訪子様と神奈子様にも相談してみましょう」

「もふもふ……ふふっ」

 

 月見と早苗は同時にこころを見た。こころは顔を俯かせ、ちょうどお腹あたりで月見の尻尾をいじくっている。

 今この少女、

 

「こころ」

「もふ……あ、なんでしょう」

 

 顔をあげたこころは、例によってなんの表情も浮かべていない。いや、しかし、断じて聞き間違いではなかったはずだ。

 

「おまえ、いま笑わなかったか?」

「?」

「ふふって笑った声が聞こえたんですけど……」

 

 早苗も同意する。まったく自覚していなかったらしく、こころはきょとんとしている。

 

「左様ですか?」

「左様です左様です。もしかして、月見さんの尻尾を触るのが楽しかったとか?」

「楽しい……というのは、よくわかりませんが」

 

 両腕でゆっくり、月見の尻尾を抱き締めるようにして、

 

「このもふもふは、もっと触っていたい……かも、です」

「……そうか」

 

 月見は推測を確信に変える。やはりこの少女、自覚していないだけで喜怒哀楽を感じる心はしっかりと持っている。なんとなく演技をしているだけだと彼女は言うけれど、本当は最初から自分の感情に従って行動できているのだ。

 だからなんとか、その事実に気づかせてやることさえできれば。

 

「――閃きましたあっ!!」

 

 そして、現人神に天啓が舞い降りた。

 それは正真正銘の神のお告げだったのか、それとも神を騙った悪魔のささやきだったのか。

 

「月見さん、アニマルセラピーです! アニマルセラピーを使いましょう!」

「うん?」

 

 アニマルセラピーとは動物介在療法とも呼ばれ、動物との触れ合いが人の病や心を癒すという考えに基づく医学用語だがそれが一体どうしたってちょっと待て、

 

「もふもふです! もふもふなら、きっとこころさんの願いだって叶えられるはずですっ!」

 

 瞳を爛々と輝かせ、すっかり興奮状態になって鼻息を荒くしながら、エンジンフルスロットルの現人神はこう宣うのだった。

 

「名付けて――もふもふセラピー大作戦です!!」

 

 ああ、そういえば。普段は諏訪子の勢いに隠れて目立たないが、この子も筋金入りの動物(もふもふ)好きだったなと。

 

 まこと今更のように、月見はしみじみと思うのだった。

 

 

 



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