新米提督苦労譚~艦娘たちに嫌われながらも元気に提督してます~ (ぬえぬえ)
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episode1 着任
唐突な言葉


「明原くん、君には明日から提督をやってもらうよ」

 

「はぁ」

 

 埃一つ見受けられない部屋で、冗談の通じない厳格な上官が言い放った冗談みたいな言葉に、思わず変な声が出てしまった。

 

 館内放送による名指しの呼び出しを喰らい、何かしでかしたか? と首を捻りながら上官の部屋へ駆け付けたらこの言葉だ。こんな反応になるのも許してほしい。

 

「……聞いているのか?」

 

 状況が理解できていないのが顔に出ていたのか、煙草を吹かした上官が不機嫌そうに睨んでくる。

 

「は、はっ。しかと聞いておりましたが、何分内容が理解しがたきこと故、頭が追い付きませんでした」

 

「まぁ、無理もない。つい先日卒業したばかりのひよっこが最前線を指揮する提督に抜擢されたんだ。驚くのも無理はないだろ」

 

 そう吐き捨てた上官は不服そうに手元の資料に目をやっている。ひよっこ呼ばわりされて少しいらっときたが、ここは我慢するしかないな。

 

「何故、私のような若輩がいきなり提督等という重要な役職に配属されたのでしょうか?」

 

「詳しくは教えられん。まぁ、君の類稀なる器量と采配を大いに振るうには、提督しかないだろう、という大本営(うえ)の見解と受け取ればいい」

 

 またとんでもない理由付けしてきたな。類稀なる器量と采配って、それ確実に嘘だろ。なぜなら、俺は卒業ギリギリの成績だったんだからな。

 

「自慢できることでもないだろ」

 

 心を見透かしたらしき上官のごもっともな言葉にぐうの音も出ない。そんな俺を見てか、上官は呆れて溜め息をこぼした。まぁ、そこまで俺を買ってくれるのは正直嬉しいけどよ。ここまで過大評価されると見る目がないんじゃね? って思えてくるよな。理由もアホだし。

 

 まぁ、本当の理由は大体分かってるんだけどな。

 

「その采配、朽木中将が言い出したのですか?」

 

 俺の言葉に、上官はビクッと身を震わして睨んでくる。ビンゴか。

 

「……なるほど、朽木の野郎が裏で手回しをしたと」

 

「朽木中将のご子息を愚弄するとは何事だ!!」

 

 吐き捨てた言葉に上官は顔を真っ赤にさせて殴り飛ばしてきた。それを避けることなく真正面から受け、吹き飛ぶ。

 

 吹き飛ばされてドア近くのクローゼットに背中から突っ込んだ。肺を圧迫されて、空気が無理矢理吐き出される。衝撃と痛みにしばし咳き込みたいのだが、早く立たないと更に拳が飛んでくるので無理して立ち上がる。

 

「ともかく、君は明日よりこの鎮守府に向かってもらう。とっとと荷物をまとめて準備してこい!! 以上だ!!」

 

 上官はそう吐き捨てると、即刻俺を部屋から叩き出した。叩き出した後に、ご丁寧に配属される鎮守府の資料を投げつけてくれたのはせめてもの温情なのかもな。

 

「何で俺みたいなのが提督なのかね……」

 

 痛む背中を擦りながら資料に目を通す。資料の枚数は少ないながらも、そこには配属される鎮守府の戦果や所属する戦闘員、その規模などびっしりと鎮守府の詳細が書かれていた。

 

「ほぉ……わりと戦果を出している鎮守府だな」

 

 廊下を歩きながらそこが出した戦果を見ていると、裏面に赤で強調された一文があるのに気付いた。

 

「えっと、何々……」

 

 その文を見るため裏返し、赤い文を読んだ。

 

 

「『なお、この鎮守府は過去に何人もの提督が失踪しているとの報告がある。心して任務にあたられよ』」



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待ち構える者

 最初に深海棲艦が現れたのは、今から4年前だ。

 

 その年、人類は突如として襲ってきた深海棲艦に対処すべく前線基地である鎮守府を建て、最新鋭の兵器を配備して奴等の侵攻に対抗した。しかし軍は深海棲艦に大敗、全ての制海権を奪われ、更には陸の侵攻をも許した。

 

 兵器が充実しているこの時代に何故ここまで壊滅的な大敗を喫したか、最新鋭の兵器を配備した軍は何をやっていたのか、と言われるかもしれない。が、奴等に人類の兵器が一切効かなかったのだ。こればかりは許してほしい。

 

 まぁ、そんなわけで人類は一時、滅亡の危機に陥った。しかし、突然うちの国のとある鎮守府から深海棲艦撃滅という報が軍部に伝わった。

 

 

 一人の少女が何処からともなく砲門を具現化し、最新鋭の兵器で傷一つ付かなかった深海棲艦を撃滅した、と。

 

 当時の軍部はこの報を戦意向上のデマだと処理したが、それから次々と砲門を具現化した少女たちによる深海棲艦撃滅の報が至るところから上がり始める。これら全てをデマと処理していた軍部も、深海棲艦を撃滅したとされる少女が面会を求めてきたことによって、それを認識することとなった。

 

 軍部を訪れた少女は自身を太平洋戦争で沈没した戦艦の生まれ代わりであると発言。その発言に難色を示した軍部であったが、彼女が具現化した砲門が生まれ変わりだと称した戦艦に搭載されていた砲門そのものであったことによって、否が応でも認めざるを得なくなったとか。

 

 少女の出生を調べると、深海棲艦に襲われるまでは何のへんてつもないただの少女であったが、彼女の街が襲われた際に突然砲門を具現化してこれを撃破。戦闘後から彼女は人が変わったように言動や振る舞いが古風化、自身を戦艦だと言うようになったのだとか。その後、彼女は周りの反対を振り切って鎮守府へ戦闘員として志願し、襲ってきた深海棲艦を撃破、更には陸に駐屯していた敵を撃滅してしまったのだ。

 

 兵士のような振る舞いと気迫、そして深海棲艦を撃滅する火砲と戦闘力を持つ少女たち。軍部は、深海棲艦を退けるには彼女たちの力を使うしかないと言う意見に満場一致し、彼女たちに協力を仰いだ。

 

 その後、軍部は彼女たちを戦艦の生まれ変わりの娘―――――艦娘と名付け、深海棲艦との戦闘における主力として各鎮守府に配備、その侵攻に備えた。また、艦娘の素質を持つ少女たちを厚待遇で召集し、戦力強化に心血を注ぐこととなる。

 

 

「っと、それから4年も過ぎたんだよな……」

 

 一人しか客がいないバスの中、そんなぼやきをこぼしながら艦娘の戦果がデカデカと載せられた雑誌を閉じた。

 

 俺は今、配属された鎮守府へと向かっている。

 

 上官から配属通知を受け取ったその日。部屋に押し寄せた憲兵から即刻配属される鎮守府へと移動せよとの旨を受け、そのまま吐き出されるように寮を追い出されたのは記憶に新しい。

 

 寮を追い出された俺は最低限の荷物を持ってそのまま軍が用意したホテルに一泊、今こうして鎮守府へと向かっているわけだ。因みに、手持ちで持っていけないものは宅配で送ってくれるとのこと。

 

 とまぁ、割と長い時間の暇潰しに購入した雑誌を読んだのが、殆ど学校で教えられた事ばかりだから暇潰しにもならなかったな。戦果報告も、侵攻してきた敵艦隊を撃滅したって記事ばかりで、制海権を奪い返したって言うのは何処にもない。

 

 まぁ、奪ったところですぐさま奪い返されるのが関の山と言うものか。と言うのも、深海棲艦はその強さは去ることながら、もっとも驚異なのはその物量にあるからだ。

 

 全ての源である海を支配するんだ。海には人類が手を付けていない豊富な地下資源を有しているのは明白。それを使い放題なのだから、あちら側が圧倒的物量を誇るのは想像するに易い。やろうと思えば、奴らはいつでも人類を滅ぼせる、と言うのは分かり切っている。

 

 では、何故深海棲艦が大挙として襲ってこないのかと言えば、数年前に艦娘という天敵が突如出現したためだ。

 

 突如現れ、多くの仲間が彼女たちによって撃破されたのだ。あちらも慎重にならざるをえないのであろう。無駄に侵攻したら彼女たちに返り討ちに遭う、最悪捕まりでもしたら俺たちによって研究されてしまう恐れもある。深海棲艦がどんな弱点を有しているかは知らんが、それが俺達に知られたらあちら側としては致命的だろうな。

 

 まぁ、人類もやつらにとって脅威みたいに言っているけど、実際は艦娘さえいなけりゃ今ごろ人類は全滅していると言っても過言じゃねぇけど。

 

「お客さん、着きましたぜ」

 

 そんなことを考えている間に、目的地に着いた。結局、雑誌の内容を思案している内に時間を潰してしまった。暇潰しになったお礼に購読でもしてやろうかな。

 

「ありがと」

 

「あいよ」

 

 運転手に料金を渡してお礼を告げると、運転手は被っていた帽子を胸に当てて頭を下げてきた。昔、紳士のお礼の仕方だって何かで見たな。

 

 まぁ、帽子の下に隠れていたサバンナが御開帳されて雰囲気も全部ぶっ壊しだったけどよ。

 

 俺を下ろしたバスは茶色い煙を上げながら走り去っていく。それを見送りながら、上官から投げつけられた地図を広げて現在位置を確認した。

 

 今いるのは、配属された鎮守府から数㎞程離れた丘だ。ここから海沿いに山道を下っていくと鎮守府に1番近い街があって、その先に目的の鎮守府があるみたいだな。

 

 時間は午後3時を回っている。この分なら、今日は鎮守府に着いて軽く挨拶回りをして終わりそうか。

 

 とにかく、善は急げだ。左遷に近い着任だし、赤字で書かれたあの文の真相を知るのも早いに越したことはない。

 

 そう思い、荷物を肩にかけて気持ち早足で山道へと足を踏み入れた。

 

 

◇◇◇

 

 

 

「旗艦吹雪、及び第3艦隊、無事帰投しました」

 

 資料の山の隙間から見える場所で、自身を吹雪と名乗るセーラー服に身を包んだ中学生ぐらいの少女が軍人顔負けの綺麗な動作で敬礼した。

 

 それを敬礼を返し、戦果の報告を促す。

 

「第3艦隊はバシー沖海域で発見した補給艦3隻を含む敵艦隊と交戦、これを全て撃沈しました。被害は敵護衛艦の砲撃により、駆逐艦曙が中破、並びに潮が小破。他の艦は多少の損傷を受けるも大事には至らず、です。補給艦から奪取した資材は、鈴谷によって倉庫に運び込まれております」

 

 まずまずの戦果、と言ったところか。しかし、資材が枯渇気味のうちにとっては補給艦の物資を手に入れたことは大きい。

 

 取り敢えず、損傷の激しい者をドックに、そうでない者は応急措置を受けてそのまま補給に行くよう指示を出した。

 

「はっ。では、失礼します」

 

 そう言って再び敬礼をして出ていく吹雪を敬礼で見送る。彼女が出ていくのを確認してから、思わず溜め息をこぼして椅子に座った。

 

「少しは休んだらどうですか?」

 

 座ったとき、そんな声と共に横から湯気を上げるティーカップが差し出される。声の方を見ると、先程とまた違ったセーラー服に身を包み、利発的な眼鏡をかける高校生ぐらいの少女が心配そうな表情を向けていた。

 

 それに大丈夫だ、と言いながら差し出されたティーカップを傾ける。

 

 最初は紅茶の入れかたさえも分からなかった彼女が、今では誰もが旨いと言わせるほどの腕前になってくれてうれしいことだ。まぁ、しつこく美味しい紅茶が飲みたいとせがんだおかげかもしれない。

 

「まぁ、貴女が大丈夫と言うのであれば止めはしません。でも、こちらに関してはそうも言ってられないですよ 」

 

 諦めたような口ぶりの彼女であったが、すぐさま目つきを鋭くさせて分厚い茶封筒を差し出してきた。

 

 差出人は大本営。またいつもの招集命令か、と思いながら茶封筒を開ける。中には写真が貼り付けられた履歴書と、当鎮守府に新たな提督が着任するという報告書が入っていた。

 

 それを見た瞬間思わず立ち上がってしまい、その拍子に資料の山を崩してしまった。辺り一面に資料が飛び散るも、そんなことなど眼中にない。

 

「……また、やるんですか?」

 

 飛び散った資料をかき集めながら、少女―――――――大淀は悲しげな目を向けてくる。その視線を真っ正面から受け止め、にっこりと笑顔を返す。そして、履歴書に貼られている写真を剥がし、そこに写っている男をじっくりと眺める。

 

 

「もちろんデース」

 

 不意に自らの口から言葉が漏れ、それと同時に写真をグシャリと躊躇なく握り潰した。

 

 

「彼には、早々に退場してもらいマース」



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言動の不一致

 大分傾いている夕日をバックに、ほぉーっと口を開ける俺の前には古ぼけた門が鎮座していた。

 

 俺は今、鎮守府の門の前に立っている。

 

 上が寄こした地図が何分曖昧だったために道に迷ってしまい、日が暮れる前に何とか鎮守府に着くことが出来た。左遷と言ってもこれは酷いぞ。軍部にはこれを餌に揺さぶりでもかけてやろうか。

 

 と、馬鹿なことは置いておいて、目の前にある門を見て思ったんだが、随分年期の入った鎮守府だな~。

 

 鎮守府の名前が書かれているであろう鉄のプレートは、長年海風に晒されてか錆び付いてよく読めない。その向こうには雑木林が広がっている。軍事機密故、人工的に植えられたのかもしれない。

 

 しかし、鎮守府の看板とも言える門をここまで蔑ろにしてる辺り、問題と言われる臭いを感じるな。

 

 まぁ、それもここの艦娘に聞けば分かるか。そんなことを思いながら古ぼけた門をくぐり、雑木林の中をのんびり歩く。少し歩くと、開けた場所が見える。

 

 それを目指して雑木林を抜けると、古ぼけながらも重厚感溢れるレンガ造りの建物、懐かしい暖かみを感じる木造の建物などが悠然と佇んでいる鎮守府が広がっていた。

 

 海に近いこともあり、空気には磯の香りが混じっている。田舎の鎮守府だからか、敷地内に探検するには持ってこいの森が広がっており、建物の近くには人工的ではない小川が流れている。普通の鎮守府は入り口から閉塞感が漂ってくるものだと言われるが、ここはそのようなものが一切感じられない。

 

 ここが前線なのかと疑問に思うほど、粛々とした雰囲気が辺りを包んでいた。

 

「―――は、―――――せよ」

 

 遠くの方から人の声が聞こえる。一人の声と後に続く複数の声から察するに、今艦娘たちは訓練中なのかもしれない。レンガ造りの建物からは金属音が絶え間なく聞こえているし、あそこは工厰なのかもしれないな。

 

 何だろ、軍内では黒い噂が絶えない鎮守府と聞いていたせいか、ここまで戦争を感じさせない空気に拍子抜け、と言うのが正直な感想だ。

 

 まぁ、俺自身かたっくるしいのは嫌いだし、ちょうどいいか。っと、こんなところで呆けてる場合じゃねぇ。早く荷物を執務室に持っていかないと。

 

 そう頭の中を切り替えて中へ足を踏み入れた。

 

 門を抜けて一番近くにあった工厰らしき建物の脇を通り、学校のグラウンドのような広場を横目に本部らしき木造の建物へと向かう。

 

 途中、遠目に艦娘らしき少女たちを見つけたが、訓練中に話しかけるのも邪魔だと思い遠巻きに見るだけで留めた。その中に、小学生ぐらいの少女たちが隊列を組んでランニングしているのを目にすると、一瞬ここが学校なのかと錯覚しちまったけど。

 

 別に他意があって見ていた訳じゃないからな。俺はノーマルだ。

 

 しかし、本当に小学生ぐらいの子まで軍人として配属されているんだな。しかも、俺より年下の子でも実際に戦場に出て命のやり取りをしていると考えると、年上として、男として申し訳なくなる。

 

「あっ」

 

 そんな艦娘たちの訓練を眺めながら歩いていると、目的の建物から良く在りそうなセーラー服に身を包み、長い髪を花の形をした髪留めで横に垂らした一人の少女が出てきた。彼女は俺に気づいたのか、信じられないようなものを見る目て、固まってしまった。

 

「こんにちは。執務室はこの建物にあるかな?」

 

 なるべく怖がられないよう、柔らかい物腰で話し掛ける。しかし、声をかけられた少女はビクッと身を震わして後退りする。怯えているのがまる分かりだな。

 

「……俺、今日から――」

 

「ち、近寄んな!! このクソ提督!!」

 

 再度話し掛けようと目線を同じぐらいにした瞬間、少女の口からとんでもない言葉が飛び出してきた。

 

「へっ?」

 

「に、二度と近づくなァァァ!!」

 

 突然の言葉に反応できないでいると、少女は鬼の形相で更なる暴言を叫びながら 一目散に何処かへ走り去ってしまった。

 

 ……あ、ありのまま今起こったことを話すぜ。

 

 鎮守府に到着して、その戦争を感じさせない空気に驚きを隠せないでいたら艦娘らしき少女と遭遇。

 

 彼女に執務室の場所を聞いたらいきなり罵倒され、突然のことに固まっていたら更なる罵倒を喰らって逃げられたんだぜ。

 

 ……うん、突然のことに気が動転しちまったな。取り敢えず落ち着こう、俺。

 

 少女が出てきた建物の前で軽く深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。よし、だいぶ落ち着いたか。

 

 にしても、開口一番に罵倒されるとは思わなかった。

 

 まぁ問題ありと聞いているし、他の鎮守府ではこれが日常茶飯事かもしれないしな。一々小学生に罵倒されたくらいで騒いでも大人げないだけだな。

 

 そう割りきって、地面に落とした荷物を拾い上げる。あの子が出てきたってことは、他の艦娘もここにいるということだよな。

 

 そう頭で結論付け、目の前の本部らしき建物に入っていった。

 

 中は、随分年季が入っているものの掃除が行き届いているせいか埃っぽさは一切感じなかった。軍学校は掃除なんて概念がなかったようなモノなので、わりと驚いていたりする。まぁここに配属された人員の殆どが女性だし、当たり前と言えば当たり前か。

 

 そんな若干失礼なことを思いながら、執務室を探して建物内をうろつく。途中、艦娘らしき少女たちに出会うも、話し掛ける前に脱兎のごとく逃げられてしまうので、見つけても気付かないフリに徹した。

 

 いや、目があった瞬間逃げられるってけっこう心にくるんだぜ。そんなことを繰り返されたらこっちのメンタルが持ったものじゃない。

 

 そんなことを繰り返しながら建物内をうろついていると、ようやく執務室と書かれた部屋にたどり着いた。

 

 しかし、その部屋に続く扉のノブが、所々凹んでいるのが気になる。

 

 相当な握力で掴まれたのか? 人間じゃねぇな。多分艦娘だろう。

 

 あれか? 他の鎮守府では、艦娘に好意を持たれたせいで日々襲われる恐怖と戦っていると聞く。前任もそれに耐え兼ねて逃げ出した、なんて感じか。

 

 そんな風にならないよう、気を付けないとな。そう心の中で決意しながら、凹んだドアノブを回して執務室に入った。

 

 

 

 

「はぁ?」

 

 執務室を見回した感想がこれだ。

 

 というのも、そこは執務室と呼ぶには難色を示すほど荒れに荒れていたのだ。

 

 重要な書物が収まっていたであろう本棚は全て倒れており、床一面に書物がぶちまけられている。その中には、焼け焦げたものまである始末。砲撃でも行ったのか?

 

 提督が常に座っていただろう机は乱暴に押し倒され、その上にまとまって置かれていた羽ペンやこの地域の海図、コンパス等は本棚に押し潰されて粉々になっていた。インクが辺りに飛び散っているのが、その壮絶さを物語っている。

 

 窓も全て割れており、カーテンも引き裂かれているものや焼け焦げているものが痛々しく残されている。

 

 取り敢えずまとめると、到底執務室とは呼べない状況であった。

 

「んだよ、この有り様は……」

 

 部屋に入ると、埃っぽい匂いが鼻をくすぐる。この状況で大分放置されてるな。飛び散った書類やインクも変色している辺り、数ヶ月じゃ短すぎるか。

 

 そんな中、ぶちまけられた書類の中に写真が貼り付けられたモノがあるのを見つけた。

 

 周りのガラクタを崩さないよう、その書類だけを引き抜いて読みやすいよう皺を伸ばした。

 

「駆逐艦、電……?」

 

 どうやら配属された艦娘の資料みたいだな。写真は緊張で顔がカチコチの少女が写っている。この子が電か。

 

 お、戦果も書いてあるじゃん。どれどれ……。

 

「fire!!」

 

 突如、後ろから怒号が聞こえてきた。思わず振り返ろうとした瞬間、埃の中に微かに混じる火薬の匂いを感じた。それを感知したら、軍学校時代に鍛え上げられた身体が反射的に横に飛んでいた。

 

 ドゴン!! と言う腹の底から響く音と、つま先の近くを熱いものが通りすぎるのを感じた。次の瞬間、後ろの机が爆発。その破片が咄嗟に頭を庇った俺の身体を容赦なく叩く。

 

「んだ!? 敵襲か!?」

 

 突然のことにパニックになるが、危機察知に特化した身体は身を守ろうと、埃で視界が塞がれた場所から這い出し、近くにあった本棚の後ろに転がり込んだ。

 

「そこにいるのは分かってマース。出てこなければ、執務室ごと粉々に吹き飛ばしますヨ?」

 

 扉の方からドスの効いた声が聞こえてきた。声色と先ほどの凄い音から察するに、俺を不審者と勘違いした艦娘が砲撃してきたってことだよな。

 

 ……って、冷静に分析してるけどここ建物内だぞ!! 何砲撃してんだよ!!

 

「たた、建物内で砲撃してくるんじゃねぇ!!」

 

「shut up!! 駆逐艦の子から怪しい人物が居るとの報告があるネ!! 機密保護により排除しマース!!」

 

 敵国のスパイとでも思われてんのか!? 不審者を即刻排除しようと言うその姿勢は認めるが、勘違いだった場合にどうすんだよ!!

 

「お、俺は本日付けでこの鎮守府に着任した明原だ!! ほ、ほら!! 証拠もあるぞ!!」

 

 そう叫びながら鞄の中を引っ掻き回し、上官から貰った報告書と資料を扉の方に投げつける。本当は姿を見せて手で渡したかったんだが、見せた瞬間砲撃されるなんてまっぴらごめんだ!!

 

「……そうでしたカ」

 

 声色が若干和らいだ。どうやら勘違いだと分かってくれたようだ。とはいってもまだ怖いから、警戒を解く気はない。本棚の陰からソロリソロリと立ち上がり、声の主を見据えた。

 

 声の主は和服姿の女性であった。

 

 頭に特殊な形のカチューシャらしきものを付け、和服としては少々露出度の高い服を着ている。その隙間から見える脇や妙に短いスカートなどが、割と出るとこ出た彼女の姿は魅力的だなと思う。

 

 ただ、こちらを見つめる目に一切の感情が籠っていないのと、頑なに向けられる砲門が無ければ……な。

 

 そんな歓迎ムードを一切感じられない彼女は、砲門を向けたまま口角だけを上げてこう言った。

 

 

「Hey、テートク。ワタシ、この鎮守府でテートク代理をしている金剛デース。よろしくお願いしマース」



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不安の始まり

「……歓迎しているのか?」

 

「ハイ、もちろんデース」

 

 俺の問いに金剛は朗らかな笑顔で返すも、砲門はしっかり俺に向けたままだ。いや、明らかに歓迎してないだろ。

 

「あいさつ代わりに砲撃とは、随分過激な歓迎方法だこと」

 

「それはテートクが紛らわしかっただけデース」

 

 正論過ぎて何も言えないぜ。まぁ、今まで提督が居なかった鎮守府に見知らぬ男が歩き回っていたら不審にもなるか。

 

 それに、問題ありと聞いていたんだ。これもまた許容範囲と言うものだ。

 

「まぁいい。じゃあ、今後ともよろしく頼む」

 

 そう言いながら手を差し出す。先程の少女のことも考えてこちらから友好的に接しない方がいいかもしれないけど今後世話になってくるんだし、そんなことも言ってられなくなるなら早めに打ち解けた方がいい。

 

「では、部屋に案内しマース」

 

 しかし、金剛は俺が差し出した手を見向きもせずにくるりと背を向け、先に執務室を出ていってしまった。

 

 無視デスカ。スガスガシクテ逆二怒ル気モ失セマシタヨ……。

 

 一人残された俺は差し出した手を引っ込め、熱くなる目頭を押さえて彼女の後を追った。

 

 振り向きもしない金剛の1歩後ろ。その距離を保ちながら黙って後を追う中、様々な艦娘たちを目にした。

 

 入った当初も何人か見たが、その時よりも人数が増えているな。不審者が現れたって騒いでたし、それを聞き付けて集まったってのが妥当か。

 

 にしても、学生服っぽいのから女性用海兵服、OLような制服、割烹着、海軍のお偉いさんが着ているような服、弓道の道着に胴当て、某時空警察っぽい戦闘員服、本当にいろんな艦娘たちがいるんだな。

 

 まぁ、彼女達が向ける目に友好的な雰囲気はないのが玉にキズか。多分失踪する原因はここに配属する艦娘たちの提督に対する態度かもな。

 

 鎮守府の問題点を垣間見ていると前方の金剛が立ち止まり、こちらを振り向きながら横の扉を指差した。

 

「ここがテートクの部屋デース。必要なモノや本部からの荷物は昨日のうちに届いてるので、確認お願いしマース」

 

「おっ、ちょ、待って!!」

 

 金剛はそれだけ言うとさっさと帰ろうとする。それに思わず引き留めると、明らかに嫌そうな顔をこちらに向けてきた。少しは隠そうとしろよ。

 

「こ、ここの説明とかそう言うのは無いのか? 何分、初めてで左も右も分からないんだが……」

 

「その資料も中にありマスので読んでくださいネ。では、ワタシは用があるので失礼しマース」

 

 俺の問いに金剛はそれだけ言うと俺の手を振り払って行ってしまった。冷たすぎやしませんか? 軽く泣きそうなんだけど……。

 

 ……まぁいいや、新任で頼りにならないって思われているのは事実だし。取り敢えず今日は出来ることをやるだけやっておこう。

 

 そんな風に自らを落ち着けながら、俺は自室のドアを開けた。

 

 その瞬間、俺の身体は一人でに部屋に走り込んでいた。

 

 

「んだよこれ!!」

 

 部屋に入った俺は真っ先に中央へと走って座り込んだ。

 

 

 その前には泥や土、木葉などでぐちゃぐちゃになった茶色い塊――――俺が本部に届けさせた荷物が散在していたからだ。

 

 近くにあった本を手に取り汚れを落とすも、中のページまで泥水が染み込んでいて使い物にならない。俺が持ってきた本全てがそんな状態だ。

 

 本を放り出し側にあった茶色い塊――衣類が入っている鞄を開けると、そこには大量の泥が詰まっていた。しかも、ご丁寧に下着に至るまで泥を塗り付けてある。

 

 鞄の表面や本の表紙に靴底の跡痕が残っているのを見るに、人為的にやられたものと見て間違いないだろう。

 

「っ!! 金剛!!」

 

 俺は真っ先に頭に浮かんだ人物の名前を叫びながら荷物を引っ付かんで外に飛び出す。

 

 

 

「待てよ」

 

 しかし、出ていこうとした扉には二人の艦娘が立ち塞がっていた。

 

「誰だ」

 

「天龍型軽巡洋艦、一番艦の天龍」

 

「同じく、二番艦の龍田でーすぅ」

 

 自分なりに低い声で脅すように問い掛けたが、天龍はびくともせずに冷たい目を向けてくる。傍らの龍田は笑顔を浮かべているものの、その目は笑っていなかった。

 

「退いてくれないか?」

 

「今から金剛の所に行くなら尚更退けねぇな」

 

「はぁ?」

 

 天龍の目が冷めたものから刃物のような鋭いものに変わる。なんだ。俺の荷物があんな状態にしてあるのに、提督代理のアイツが気付かないハズないだろ。

 

 平然と案内してた辺り、アイツも一枚噛んでいるのは分かってんだよ。

 

「提督命令だ、そこを退いてくれ」

 

「俺らはあんたを提督なんぞと思っちゃいねぇ。だから、その懇願(・・)を受ける気はねぇ」

 

 命令って言ったハズだが。提督と思っていないヤツに従う義理は無いってか。

 

「お前がそう思わなくても、俺がお前の上司であることは事実だ。従ってもら――」

 

「てーとくぅ」

 

 俺の言葉は、龍田の甘ったるい声によって掻き消された。いや、正確には目の前に鋏の刃が掠めたからだ。

 

「あんまり我が儘言ってると、その舌切り落としますよぉ?」

 

 先程の笑顔から考えられないほど冷えきった表情の龍田が低い声で囁いてきた。その低さに、口からこぼれる息が白く見えたのは見間違いだと思いたい。

 

「……ね?」

 

 最後にそう言い残した龍田は壁に突き刺さる鋏を更に捩じ込みながら笑顔を向けてくる。先程の表情からコロッと変えれる辺り、慣れている。

 

 だが、

 

「……我が儘言ってるのはどっちだ? もう一度言う、そこを退け」

 

 壁に突き刺さる鋏を掴みながらそう凄む。伊達に軍学校で叩き上げられた訳じゃねぇ。その手(・・・)の脅しには慣れてんだよ。

 

「っ!? てめぇ龍田を――――」

 

「やめるんだ」

 

 俺の言葉に激昂した天龍が胸ぐらを掴んでくるが、その後ろから鋭い声が飛んできた。

 

 天龍は胸ぐらを掴みながらゆっくりと振り返る。そこには、白いベレー帽を深々と被った白髪の駆逐艦が立っていた。

 

「響、何のようだ?」

 

 天龍は舌打ちをしながら響に問う。天龍の向ける剣幕に同じ年頃の子なら泣いてそうだが、響は臆することなく無言のまま俺たちの元に近付き、一枚の写真を見せてきた。

 

 響が見せた写真には、天龍と龍田、そして名前が分からない駆逐艦らしき少女が俺の鞄に泥水をぶっかけている姿が写されていた。

 

「響っ!!」

 

「これをやったのは天龍たちだ。金剛は関係ないよ」

 

 天龍が写真を奪おうと手を伸ばすも、響はスルリと避ける。そのまま彼女は俺の手に写真を握らせると、風のように去っていった。

 

「……で、これをお前らがやったと言う証拠だが?」

 

「行くぞ、龍田」

 

 俺が写真を見せながら再度問おうとするが、それよりも前に天龍が俺の胸ぐらを離し、背を向け歩き始める。それを追おうとするも鋏を向けてくる龍田によって防がれてしまう。

 

 そのまま、二人は廊下の向こうに消えてしまった。消えた瞬間、安堵にも似た溜め息がこぼれたのは言うまでもない。

 

 

 ……なかなか壮絶な対応だったこと。これを着任初日にやられたら、そりゃ逃げ出したくなるわけか。上が左遷場所として選ぶのも頷けるな。

 

 取り敢えず、この事は上に報告しとこう。ついでに、とんでもない場所に飛ばしたってことで融通の利くよう揺さぶりかけておくのもいいな。

 

 そんなことを考えながら部屋のベットに腰を落ち着ける。しかし、次の瞬間身体の力が一気に抜けてベットに倒れ込んでしまう。

 

 流石に疲れが溜まってたか? 少し寝てから飯食う………………かぁ……………。

 

 なんて思案する暇もなく、俺の意識は深い眠りへと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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episode2 把握
些細なモノ


「うぁ……」

 

 顔に降りかかる窓から陽射しに、俺は目を覚ました。

 

 まだぼーっとしている頭のまま起き上がり、はっきりしない視界のまま自分が寝ていた部屋を見回す。

 

 机に椅子、分厚い本が綺麗に並べられている本棚、そして、部屋の中央で散在している俺の私物たち。

 

 そう言えば、天龍達が行っちまった後に一息つこうとベットに座ったら力が抜けて倒れ込んだっけ。んで、風呂も入ず飯も喰わずにそのまま眠っちまったんだな。

 

 そう理解が追い付いた瞬間、急に腹の虫が大きな音を上げた。昨日の朝にホテルの飯を食って以来何も食ってなかったし、当たり前か。

 

「取り敢えず飯を……の前に、まずは風呂か」

 

 服は天龍達によって泥だらけになっちまったから、今日はこの服で過ごすしかないな。風呂入るついでに手洗いで泥を落とせば一石二鳥だな。

 

 そうと決まれば善は急げだ。泥だらけの鞄を引っ提げ、風呂場を目指す。

 

 昨日金剛が用意してくれた地図によれば、風呂場は大体執務室の反対側に位置している。ここからならそう遠くないな。

 

 しっかし、地図を見た限りだけどここは俺がいた軍学校並みに広いな。

 

 執務室がある本館を中心に艦娘の宿舎が4つ、その近くに大きな食堂、さらに風呂場は1つの独立した建物の中に4つもある。宿舎から離れた場所に射撃演習場、トレーニング室、温水プール、巨大な工厰、更に複数の甘味処を完備している等々。

 

 軍学校時代には考えられないほど異常な厚待遇だと言えるが、艦娘達の戦意向上のためと言われれば納得だわ。こんな好条件下の職場に周りは女性ばかりなら、仕官先で鎮守府が人気だったのかも何となく分かるな。

 

 そんなことを思いながら歩いていると、バケツのような模様の暖簾の架かった部屋にたどり着いた。

 

「ここか」

 

 地図で確認したら、ここが風呂場みたいだ。風呂場って言ったらおなじみのあのマークだが、ここはちがうのか。まぁいいや、とにかく入ろう。

 

 暖簾をくぐると、高級な旅館の脱衣場と見間違うほど立派な脱衣所が広がっていた。

 

 艦娘の要望か、バスタオルや普通のタオル、ウォーターサーバー、ドライヤーやヘアアイロンまで完備してある。軍学校のカビが生えた風呂場で過ごしていたせいか、何となく気が引けてしまう。

 

 まぁ、どうせこの環境に慣れてしまうのだ、遠慮する必要もない。ともあれ、早速入らせてもらおう。

 

「ん?」

 

 服を脱ごうとしたとき、ズボンの裾を引っ張られるのを感じた。反射的に下を見ると、足首ぐらいの背丈の小人みたいなのが必死の形相でズボンの裾を引っ張っていた。

 

「確か……『妖精』だっけか」

 

 『妖精』――――艦娘の登場と同時期に各地で現れるようになった小さな小人のような生き物だ。艦娘の資質を持つ人間の周りに現れて身の回りの世話をする習性があり、資質を持つ人間の選考基準として公式に認められている。

 

 彼らは、艦娘の身の回りの世話に加え、装備の生産、改修、空母の放つ艦載機の搭乗員、主砲などの指揮官、見張り員など、艦娘の補助として幅広い分野で活躍しており、艦娘の所に妖精ありと言われるほど、その関係性は色濃いものだと教わったっけ。

 

「―――! ―――――!」

 

 妖精は良く分からない言葉を叫びながら裾を力一杯引っ張るも、人間と妖精の大きさになすすべもないという感じ。力で勝てないと分かったのか、妖精は引っ張る代わりに殴ったり蹴飛ばしたりし始めた。

 

「どうしたよ?」

 

 そんな妖精をひょいっとつまみ上げ、同じ目線で問いかけてみる。しかし、妖精は尚も訳の分からない言葉を叫びながら足をジタバタさせるだけであった。

 

「なぁ? どうし―――」

 

「うるさいわね……どうしたのよ?」

 

 何処かで聞いたことのある声が聞こえ、後ろの扉――浴槽へと続く扉が開いた。それに反応して俺も振り返る。

 

 そこには、昨日出会った花の髪留めの艦娘が、タオル1枚の姿で固まっていた。

 

 一応タオルで身体をかくしているものの、水を吸ったタオルが身体に張り付いてそのラインが浮き出ているのであまり意味をなしていない。むしろ、タオル越しに見える金剛程ではない無いが程よく引き締まった身体のラインが妙に艶かしく見えた。

 

「何してんだこのクソ提督ゥゥゥウウウウウウウ!!!!」

 

 しかし、それを見た瞬間俺の顔面にプラスチックの風呂桶が突き刺さったのは言うまでもない。

 

 

◇◇◇

 

 

 軍学校で習った艦娘の整備方法――――深海棲艦との戦闘で傷付いた艦娘は、傷を癒すためにドックに入渠しなければならない、だったか。

 

 ただ、戦艦なら工厰のようなドックでいいのだが、艦娘は人間の姿であるため従来の形では修復が不可能であったため、艦娘用のドックは俺たち人間と何ら変わらない浴槽の形を模したものをしていた。

 

 しかも、修復する際には特殊な薬を溶かしたお湯で浴槽を満たせばいいだけで、本来の入浴にも使用できると言うことだから、入浴専用の施設を併設する必要はない。

 

 つまり、必然的に風呂場とドックは同一と言うのが当たり前になるんだよな。

 

 そんなことを考える俺の視線には、古ぼけた床に仁王立ちで立っている金剛らしき脚、その奥にドッグで鉢合わせした艦娘とそれを庇うように囲んでいる他の艦娘達がいた。

 

 顔面に風呂桶がクリティカルヒットした俺は気絶したらしく、騒ぎを聞き付けた艦娘達によって縛り上げられ金剛の前に差し出された、と言う感じか。

 

「まさか早くも本性を現すとは……呆れを通り越して幻滅しましたヨ」

 

 頭上から金剛の呆れたような声が聞こえ、それと同時に腹の辺りに鈍い衝撃が突き刺さる。腹の空気が無理吐き出され、思わず咳き込む。

 

「まさか着任2日目で艦娘に、しかも駆逐艦に手を出す……。テートク、いえ、大人としてあるまじき行為デース」

 

 低い声の金剛の言葉とともに腹や背中に突き刺さる鈍い衝撃。それに俺は反抗することなくされるがままだ。

 

「……どうしたんデス? 何か弁免があれば聞きマスガ?」

 

「ねぇよ、そんなもん」

 

 素直に蹴られることに疑問に思った金剛の言葉に、俺は床を見ながら吐き捨てるようにそう言ってやる。その瞬間、今までで一番重い衝撃が突き刺さった。

 

「自分の(シン)を素直に認める、と言うことデスカ?」

 

「あれは事故だ。他意があって入渠のドックに入ったわけじゃねぇよ。ただ俺に非がある、それだけだ」

 

 よく考えれば、艦娘しかいない鎮守府で風呂場と言えばドックだ。それを軍学校で習いながらも頭から抜け落ちていたのは俺の落ち度だ。ドックに掛かっていた暖簾の模様も、あれは艦娘を修復する際にお湯に溶かす薬を表していたんだろう。それを見ていたのだから、多少は察することも出来たはずだ。

 

 極め付きは脱衣所にいた妖精。彼らは艦娘の周りに現れる習性があり、そんな妖精が脱衣所に居ればそこに艦娘が居る、と言うことでもある。

 

 つまり、俺は自身が今いる鎮守府の常識を考えられなかったんだ。

 

「……だから、(ペナルティー)を受けるのは道理だ、と言うことデスカ?」

 

「そういうことだ。それに……」

 

 金剛の言葉を肯定しながら、俺は床からドッグで鉢合わせした駆逐艦に目を向ける。俺の視線に気づいたその子は、睨み返すこともなくぷいっと顔を背けた。

 

 でも、一瞬だけ見えた彼女の目には、『恐怖』と言う感情が浮かんでいた。

 

「あの子に怖い思いをさせてしまったことが、一番の俺の非だ。それに関しては本当にすまないと思っている」

 

 それだけ言ってその子に頭を下げた。まぁ、下げたと言っても床のせいでそこまで下げれなかったんだけど。頭を下げた瞬間、上から息を呑む音が聞こえた気がした。

 

 

「……なるほど、分かりマーシタ。曙」

 

「っ!?」

 

 金剛があの子に声をかけると、鉢合わせした駆逐艦である曙が小さく声を上げる。自身に振られることを予想していなかったのだろう。てか、当たり前だが俺に対する低い声から何処か柔らかい感じになっているな。

 

「今回の件、貴女に一任しマース」

 

「はぁ!? な、何であたしが!!」

 

 金剛の言葉に曙はすっとんきょな声を上げ、抗議するように金剛に詰め寄る。

 

「今回の件は許しがたいこと、しかし、テートクも他意があったわけでもないみたいデース。それに、テートクは貴女に謝罪していマース。貴女に判断を委ねるのは道理だと思うのデスガ?」

 

「そ、そんな……あたしは……」

 

「駄目だよ、曙ちゃん!!」

 

 金剛の言葉に口ごもる曙に、先ほど彼女の隣に立っていた艦娘がいきなり叫ぶ。

 

 背丈や顔だち、曙と同じ制服を身にまっていることから恐らく駆逐艦だと思うが、金剛に引けを取らないレベルの胸部装甲がその判断に待ったをかけた。

 

 そんな駆逐艦らしき艦娘は、曙に詰め寄ってその肩を掴み、必死の形相を向ける。

 

「アイツはあんなこと言ってたけど、どうせ全部嘘!! 初めから曙ちゃんの身体目当てに決まっている!! 男の人なんて所詮そのことしか頭にないの!! 本能の赴くままに女の子を襲う醜い獣なんだからぁ!!」

 

「潮、落ち着くデース」

 

 金剛がそう言いながら曙に詰め寄る艦娘を引き剥がす。潮と呼ばれた子は金剛に引き剥がされても、なお口々に男性に対する暴言を吐き続けた。そのため、金剛は曙を囲んでいた艦娘に潮を落ち着かせるよう言い、彼女たちを部屋から退出させた。

 

「さて、曙。どうしマスカ?」

 

 俺と金剛、曙の3人となった部屋で、金剛は改めて曙に問いかける。その言葉を恐れる様に曙はビクッと身を震わせ、俺と金剛を交互に見ながら俯いてしまった。

 

「……曙?」

 

「……ク、クソ提督!!」

 

 金剛はそう問いかけると、曙はそう声を荒げながらキィッと俺を睨み付けてくる。そして、大股で近づいてきて、手を振り上げた。

 

 

 

 パァン―――と、乾いた音が部屋に響く。

 

 それと同時に俺の頬に鋭い痛みが走り、頬は熱を帯び始める。曙は痛みに顔をしかめたが、すぐさま顔を戻し、赤くなった手で俺を指さしてきた。

 

「今後、こんなことをしたら容赦なく砲撃するから覚悟しなさい!!」

 

 それだけ吐き捨てると、曙は逃げる様に部屋を飛び出した。彼女の足音らしき音が聞こえ、それが段々と遠退いていく。やがて聞こえなくなった時、俺は無意識のうちに安堵の息を零していた。

 

 

「……曙に感謝することデース」

 

 金剛はそれだけ言うと、俺を縛っていた縄を解いて部屋を出て行った。一人残された俺は縛られていた身体を伸ばし、服に着いた埃を叩きながら立ち上がる。

 

 

「……さっさと風呂入って飯にしよう」

 

 人知れずそれだけ零すと、俺は荷物を回収しにドックへと向かった。



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過去の歪み

「申し訳ないですが、貴方にお出し出来るモノはありません」

 

 言葉自体はへりくだっているが、頭を一切下げずにブスッとした顔のままそう言ってのける割烹着姿の女性。割烹着の胸の辺りに『間宮』と刺繍が施されているのを見るに、彼女の名前だろうか。

 

 そんな一向に態度を変えない間宮を前に、俺は頭を掻きながら溜め息をこぼすしかなかった。

 

 ドックにある荷物を回収しがてら風呂に入ると同時に洗濯もすませて適当に干した後、いい加減何か食わせろとうるさい腹の虫を落ち着かせるために食堂に足を運んだ。

 

 ちなみに地図を見た限り提督用の風呂場がなかったので、仕方がなくドックで入浴を済ませておいた。

 

 もちろん、艦娘がいないことを確認して、なおかつ間違って誰も入ってこないよう貼り紙をするなどの対策をしておいた。そのため、今朝みたいな事はなく終わったのはどうでもいい話か。

 

 しかし、まさかの食堂で門前払いを喰らうとは思わなかった。

 

「あ……食材とかもないのか?」

 

「はい、貴方のような方が食べられるものは何1つ取り揃えていません」

 

 食材さえあれば何か作ろうと思ったのだが、それすらも無いとは。艦娘たちは一体何を食べてんだよ。

 

「あの子達は燃料や弾薬等が食事と同じですから、食事を用意せずとも何も問題ないです」

 

 そう聞いたら、ものすごい剣幕で間宮に睨み返された。言葉の節々に若干怒気が感じられる。地雷でも踏んだか。

 

「そんなにご飯が食べたければ街にでも繰り出したらどうですか? 少なくとも、ここよりも美味しいものが食べられますよ」

 

 怒気が籠った声でそう言い放ち、間宮は奥へと引っ込んでいった。それに声をかけようとしたが、忘れるなよとでも言いたげに腹の虫が唸り声をあげる。

 

 ……こんな状態じゃ説得するのも難しいな。今は腹を満たすことを考えよう。

 

 そう思って食堂の扉へと歩き出す。

 

 

「……どうせ、鎮守府のお金でしょうね」

 

 出ていく寸前に奥から間宮の小さな声が聞こえたが、騒ぎ出す腹の虫に気がとられて反応することが出来なかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 と、言うわけで飯を食うために街に繰り出した。

 

 昨日訪れたときにも思ったが、この街は海に面しているにも関わらず割と活気に溢れている方だな。

 

 深海棲艦が出現したことにより海はおろか陸にも侵攻を許したために、海に近かった街などが襲われて甚大な被害を被ったと聞く。なので、艦娘の登場した今でも海辺から内陸の方に居住を変える人々が後をたたないのだ。

 

 その現象に大本営は頭を抱えるどころか守る対象が減るので好都合だ、と言う見解で人々の引っ越しを奨励、それにより住民流失に拍車をかけたのだ。

 

 しかし、そんな中でも生まれ育った土地を捨てきれずに留まることを選択した人々も居た。

 

 だが、その生活振りはお世辞にもいいとは言えず、戦闘地帯と言うことで生活の糧を手に入れるのは難しいために殆どは留まることを良しとしない軍が支給する限りある物資に頼らざるを得えない。また、深海棲艦に襲われる恐怖が常に付きまとっているなど、心身ともに休まれない場所であった。

 

 これらから見るに、海辺の街は寂れたモノとイメージしていた。

 

 しかし、この街はそこまで物資に困っている様子はなく、深海棲艦の驚異も感じられない。そして驚くのが、そこに住む人々の殆どがうちの鎮守府に所属する艦娘たちに友好的な態度だったことだ。

 

 鎮守府でのあの対応から見るに、地域の人々とは険悪な関係だと思っていたので少し拍子抜けだったが、貴重な鎮守府の情報なので敢えて身分を偽って情報を収集に徹した。

 

 話を聞く限り、一番上げられる理由としては鎮守府の近くに住むことによってそこに配属している艦娘に守ってもらえると言うことだった。

 

 確かに、戦場でもここは鎮守府という本陣に近い場所。本陣を守るために戦う艦娘達に、間接的にも守ってもらえるのだとか。

 

 戦場であるという欠点を逆手にとった発想だ。まさに、灯台もと暗しって訳だ。

 

 あとは、頼りになる、格好いい、強い、可愛い、結婚してほしい等と言う意見がちらほら上がっていた。最後のやつ、後に絶対後悔するからな。

 

 そして次に驚いたのは、提督の方が蔑まれていたことだ。

 

 というのも、とある民家で話していた際、艦娘が疎まれていないのを良いことに思わず自らの身分を明かしてしまったことが失敗だった。

 

 明かした瞬間、今まで温厚な対応をしていたのが嘘のように変わってしまい、それを弁明する暇もなく追い出されてしまったのだ。

 

 幸いその時に周りに人が居なかったので俺が提督だと言うことがバレずに済んだが、いずれ広まることになるだろうな。今後は街に来ない方がいいかも。

 

 と、そんなことを経験したので今度は身分を明かさずに過去の提督が何をしでかしたのかを聞いてみたら、尽きることがないの? と言うほどその悪行がさらけ出された。

 

 恫喝、搾取、権力をかさにきた横暴な態度、等々の中で特に多かったのが、酒癖の悪さだ。

 

 毎日のように街に現れては、提督と言う身分を良いことに好き勝手に酒を飲んでは店内で暴れる、他の客との喧嘩、店内の破壊を繰り返し、止めようと近付くものには軍学校で習った武術を駆使してボコボコにしていたらしい。

 

 悪いときには、止めに入った人の骨を折るなどの重傷を負わせたりもしたようだ。

 

 この横暴な行為に人々は反感を募らせたが、暴れるのを諌める度に『鎮守府ごと内地に引き上げる』『艦娘を率いて街を襲う』等と脅されたために強く言い出せなかったとか。

 

 また、泥酔の提督を迎えに来た艦娘が謝罪をして回っていたそうだが、彼女の姿が気に入らなかったのか、人々の目の前で提督による艦娘の暴行が行われることも少なくなかったようで。

 

 しかも、その際暴行を加えられる艦娘は決まって小学生ぐらいの少女だったとか。

 

 提督が脅す際の道具に艦娘を用いているせいで、人々は艦娘と言う存在を脅威として恐れていただろう。しかし、そんな横暴な提督のふるまいの尻拭いに奔走する艦娘の姿を見たら、友好的になってもおかしくはないか。

 

「……っと、悪いな兄ちゃん。こんな話に付き合わせちまってよ」

 

「いえ、貴重な話が聞けて良かったです。ありがとうございました」

 

 過去の提督の話をしてくれたオッサンに頭を下げ、早々とその場を後にする。語る口調も、怒気を孕んだものが多かったな。もし俺が提督だって知ったら、どんな顔をするだろうか。

 

 とまぁ、そんな感じで話を聞きながら飯を済ませたが、やはり活気があるとは言っても戦場だと言うことで物価が異様に高い。鎮守府の外で食事を続けたら俺の財布が空っぽになっちまうし、何より人々の対応を予想すると余計行きたくないな。

 

 ならば、何とか食い扶持を捜さなければいけない。

 

 間宮の食堂には一応コンロや冷蔵庫があったはずだ。艦娘の食事は燃料や弾丸だって言ってたから調理せずにそのまま出しているだろう。なら、器具はないモノと見ていいな。食材は論外だ。

 

 取り敢えず、調理器具と食器、そして買える分だけの食材を買っておこう。食材に関しては軍に要請して提供させればいい。どうせ大量に備蓄してるし、問題はないだろう。

 

 そうと決まれば早速大本営に要請しなければ。そんな事を思いながら購入したモノを引っ提げて鎮守府へと戻った。

 

 

◇◇◇

 

 

「その前に、まずは執務室の掃除からか」

 

 モップを担いで水の入ったバケツを持った俺は、執務室の前で溜め息をこぼした。

 

 早速大本営に書類を飛ばそうと意気込んだのだが、それが置いてある執務室が荒廃状態なのを思い出したので、買ってきたものを食堂の厨房に放り込んで急遽、執務室の掃除に切り替えたのだ。

 

 とは言っても、何ヵ月――いや、1年近く放置された無駄に広い場所の掃除だ。物置小屋を掃除するものと同レベルと見ていい。それを一人でやるのだから、骨が折れると言うものだ。

 

「まぁ、四の五の言ってる場合じゃねぇな」

 

 ここを掃除しないと、大本営に送る書類を見つけることも提督として任務にあたることも出来ない。どんな理由をつけるにしろ、やらなければならないことなのだ。

 

 そんな訳で、掃除開始だ。

 

「おい」

 

 意気揚々と執務室に入っていこうとしたとき、横から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「何のようだ? 天龍」

 

 俺は声の方を振り向かずにそう吐き捨てる。俺の言葉に天龍は「んだと」と俺に詰め寄ろうとするも、後ろに控えていた龍田によって引き留められる。

 

「金剛から、てめぇの手伝いをしろって命令を受けた」

 

「はぁ?」

 

 天龍の口から出た言葉に思わず耳を疑った。お前が俺の手伝いをする? しかも金剛がそう命令したって?

 

「昨日のことがアイツにバレたんだよ。それで、そのお詫びとしててめぇの手伝いをしてこいって言われたんだよ」

 

「はぁ……」

 

 昨日のことってのは、恐らく天龍達が俺の荷物をメチャクチャにしたことか。あの後、響って駆逐艦が金剛に報告したんだろう。しかし、上の命令とは言えお詫びに来るような玉じゃないだろお前。

 

「まぁ、今朝の事件のことを考えると、悪いことしちまったしな……」

 

 そう言いながらも何処か不服そうにそう説明する天龍と、その後ろでつまらなさそうに外へ目を向けている龍田。てか、それって俺よりも曙の方が大きくない? まぁ予想はしてたけども。

 

 まぁ、いいや。この執務室の掃除を手伝ってくれるのはありがたい。しかし、何分今までのことがあるのでマジで信じられない自分がいるのも事実だ。

 

「今から執務室を掃除するんだが、邪魔しにきたんじゃないよな?」

 

「手伝いに来たって言ってんだろが!!」

 

「事故に見せかけて俺を消すとか、そんな命令じゃないよな?」

 

「だから手伝えって命令されたんだよ!!」

 

「そんなこと言って、俺が背中を見せた瞬間砲撃とかしないよな?」

 

「そんなことしなくても正面から砲撃してやるよ!!」

 

 おい、最後否定するのはそこじゃねぇよ。と、言ってやりたかったが、それは天龍の後ろで鋏を構えている龍田によって黙らされた。

 

「それに、執務室(ここ)を消せるいい機会だしな……」

 

 執務室を眺めながらそう呟く天龍。その顔には、一言では表しきれない表情が浮かんでいた。

 

 様々な感情が混ざりあったそれを敢えて一言で言うなら、『哀愁』だと思う。

 

「何ボケッとしてるんですぅ? さっさと終わらせましょ~」

 

 天龍の表情をボケッと見ていた俺に、背後から龍田が声をかける。何故か、背中に鋏を当ててだが。

 

「何でもない。じゃあ、やるぞ」

 

 俺はそれだけ言うと、軍服の袖を捲ってモップを掴んだ。



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今の差異

「まぁ、こんなものか」

 

 額に浮かぶ汗を拭い、俺はあらかた片付いた執務室を見回しながら一息ついた。金剛の命令によりしぶしぶ手伝いに来た天龍達と共に掃除を始めて大体3時間ぐらいか。

 

 壊れた家具の撤去から始まった掃除は、俺の部屋から必要な家具の持ってくることでなんとか部屋と呼べるまでにはこぎつけるとこまで来た。執務室に机や椅子、本棚を持って行ってしまったから俺の部屋はベットのみと言う寂しい状態だ。もういっそのことここにベットも持ってきちゃったほうがいいかもしれんな。

 

 でもまぁ、ガラスが用意できないために窓は割れたガラスを取り除くだけにとどめたり、カーペットに付いた汚れは拭き取れるものは拭き取るだけと割と簡易に済ませているところもある。吹きさらしの部屋で寝るのは避けたいな。

 

「天龍、龍田。読めなさそうな本や資料も念のため残しておいてくれ」

 

「うぃ~す」

 

 執務室に散在していたモノを取り敢えずまとめておいた場所に居座っている二人のそう声をかける。天龍は気の抜けた声で応え、龍田は声を出す代わりに手をヒラヒラさせる。金剛の命令や曙のためとか言って理由付けていたけど、ちゃんと手伝ってくれるのはうれしいな。

 

「ん?」

 

 と、資料を片付けていたら細長い紙の束が出てきた。見た感じ、何かの引換券か? 色あせとシミで文字が読めない。軽く見まわしてみるが、有効期限は何処にもない。つまり無しか、あるいは読めなくなったか……。

 

 

「天龍」

 

「あ? っと」

 

 天龍に声をかけながらその束を投げる。天龍は振り向きざまに投げつけた束をキャッチ。キャッチしたものを訝し気に眺めてると、急に血相を変えて束を握りしめた。

 

「お、おい!! ここ、これって……」

 

「何か出てきた。掃除終わったらそれ持って行っていいぞ」

 

「マジかよ!?」

 

「まぁ……」

 

 俺の言葉に天龍は吠える様に叫び、龍田は柄にもなく目を見開いて驚いている。そんなにスゴいものか? 俺にはゴミにしか見えないんだが。まぁ、取り敢えず終わらせるぞ。

 

「…………………」

 

「天龍ちゃん……」

 

 尚も天龍たちは握り締めた束を穴が空くほど見つめている。固まっている暇があるなら手を動かせよ、って言いたかったけど、二人の究極の選択みたいな表情を見たらかける言葉も無くなっちまうよ。

 

「……い、嫌なら別に――」

 

「ほ、ほらよ!!」

 

 そんなに考え込む代物なら返してもらおうと手の伸ばすと、それよりも先に天龍が束から2枚ほど引き抜いて俺に押し付けてくる。押し付けた束を握りながら、天龍は鬼のような形相を向けてきた。

 

「いいか!! それはメチャクチャ大事なものだ!! 絶対になくすんじゃねぇぞ!! あと、そんな軽々しく束で寄越すな!! もっと丁重に扱いやがれ!!」

 

 状況が読めないけど非難されたのは理解できた。天龍は其だけ言うと引き抜いた紙を大事そうにポケットにしまい、執務室に放置されていたガラクタの入っていた袋を引っ付かんで勢いよく立ち上がる。

 

「おい!! あとはこれを持っていけばいいんだな!!」

 

「お、おう」

 

 食いかかる勢いで聞いてくる天龍に生返事を返すと、ヤツは袋を肩にかけて勢いよく執務室を飛び出しいった。飛び出す際に一瞬だけ見えた天龍の顔が、何故か満面の笑みだったのは気のせいか。

 

「何だ? アイツ」

 

「何でしょうねぇ~」

 

 俺の呟きにとぼけるような声色で答えた龍田はクスクスと笑いながら同じように袋を持って執務室を出ていった。心なしか、この足取りが軽いのは気のせいか。

 

 

「一体何なんだよ……」

 

 そんな二人の姿にため息を漏らして、あの束を引っ張り出してよく見てみる。端の方に小さな文字が書かれているな。何々……。

 

 

 

 

 

『間宮アイス引換券』

 

 ……ガキか、アイツ。と心の中で呟いて、さっさと掃除を終わらせるために側にあった袋を引っ付かんだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 ガラクタが詰め込まれた袋を全てゴミ捨て場に運び、掃除は完了となった。俺が最後の1つを置いた瞬間、天龍は風のように走り去っていった。どれだけアイスが食いたいんだよ。

 

 残された龍田は俺に手を振ってその跡を追っていった。その時浮かべていた笑みから何か黒いものが見えた気がしたけどまぁいいか。

 

 さて、掃除も終わって時間も6時か。そろそろ飯の時間だな。

 

 昼買ってきたやつは厨房に放り込んでおいたんだが、間宮が居なかったからアイツに聞かずにやっちゃったんだよな。小言とか言われそう。

 

 そんなことを思いながら、ゴミ捨て場から食堂へと足を運ぶ。てか時間帯的に他の艦娘も食べてる頃か。鉢合わせするのは気まずいな。

 

 まぁ、これからのことを考えるとそんなこと言ってられないか。支障をきたしたら上に何言われるか分かんないしな。

 

 お、食堂が見えてきた。常に戦場にいてピリピリしてるんだから、食事時ぐらいはみんな楽しそうにしてるんだろうな。俺が入ってきたら静まり返るんだろうけど。

 

 自分で言ってて悲しくなってきた。取り敢えず、俺が居ない時の艦娘たちの空気はどんなものだろうか、気になるな。そうとなれば、食堂の入り口壁に沿って少し迂回。近くにあった窓に近づき、中を覗き込んだ。

 

 そこには、大勢の艦娘たちが各々に別れてスペースを作り、グループで固まって食事をしていると言う普通の風景だった。

 

 

 

 

 食事をする全員が無表情なのを除けば、だが。

 

「えっ……」

 

 想像とあまりに違いすぎて、思わず声が出てしまう。

 

 厨房からトレイを持ってくるのも、机について手を合わせるのも、食べ終わって手を合わせるのも、空の食器を持っていくのも、その全てにおいて彼女たちが浮かべる表情には感情がなかった。

 

 しかも、よく見たら器に乗せられているのは光沢のある茶色い固まりと、同じく光沢のある鉄のようなモノ、そして、明らかに食卓の場には相応しくない重々しい雰囲気を醸し出す黄土色の細長く先が尖ったモノ。

 

 ボーキサイトと鋼材、そして弾薬だ。

 

 それら乗せられている皿の横に、到底食べ物とは思えない色をしたスープのようなものが深めの皿を満たしている。

 

 あれは恐らく、燃料だ。

 

 それらの味は俺には分からん。もしかしたら旨いかもしれないが、その考えだけは艦娘たちの表情から見てあり得ないだろう。

 

 そんな旨くもないモノを、艦娘たちは箸やスプーン、中には手掴みで口に運んでいるヤツもいる。食べ方は人によって様々だが、共通して言えることは誰一人として無表情を崩さず、かつ一言も喋ることなく食べていることだ。

 

 これは食事じゃない。ただの『作業』だ。

 

 確かに、昼に間宮から艦娘たちは燃料や弾薬等を食事の代わりとしているとは聞いていた。しかし、改めて現実を目の当たりにして、しかも和気あいあいとしている様子を想像していたために精神に来るダメージがデカイ。

 

 その時、駆逐艦の一団が食堂に入ってきた。厨房に近づく彼女たちも、例外なく無表情を浮かべていた。

 

「間宮さん、『補給』お願いします」

 

「あたしも『補給』お願いします」

 

「こっちも『補給』頼みまーす」

 

 厨房に近付いた彼女たちは口々にそう告げ、厨房から出されたトレイを受け取って無表情のまま席へとつく。そんな光景が何回も繰り返される。

 

 そうか、彼女たちにとってこれは食事じゃない。出撃する際に必要とする燃料や弾薬を取り入れる『補給』なんだ。

 

 

 それが、この鎮守府の食堂の光景だった。

 

 

「……ひでぇ」

 

 俺は無意識のうちにそう溢していた。何故その言葉が出たから分からない。しかし、無表情のまま黙々と『補給』を続ける艦娘たちを見ていたら、自然とそんなことを思っちまった。

 

 そして、次に浮かんだのは俺が今からしようとしていることだ。それをすることが、どれだけ酷いことか理解するのにそう時間が掛からなかった。

 

 俺は今、食事をしようとしている。旨くもないモノを事務的に取り入れる『補給』しか出来ない彼女たちの前で、味もあって温かい『食事』をしようとしているのだ。

 

「……誰もいなくなってからにするか」

 

 そう呟いて、逃げるように食堂を後にしようとする。

 

 

「しれぇ、そこで何してるですか?」

 

 不意に後ろから声をかけられ反射的に振り向くと、一人の駆逐艦らしき女の子が首をかしげていた。

 

 黄色いスカーフを揺らし、肩からお尻までスッポリ入るワンピース型のセーラー服。頭には測量計とその両脇に髪留めのようなパーツが付いている。

 

「だ、誰だ」

 

 俺が聞こえるか聞こえないかの小さな声で問う。それに駆逐艦らしき少女は一瞬驚いた顔をするも、すぐに笑顔を浮かべて背筋を伸ばし、ビシッと敬礼して見せた。

 

「陽炎型8番艦の雪風です!! どうぞよろしくお願いします!!」



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一抹の油断(挿絵アリ)

3/20 記
今回、ものもの様から挿し絵を頂きました。
本当にありがとうございます!!

ものもの様のユーザーページ↓
http://touch.pixiv.net/member.php?id=10591772


「雪風……か」

 

「はい!! 雪風ですよ!!」

 

 俺が名前を繰り返しと、雪風は嬉しそうに笑顔を浮かべる。その顔には、他の艦娘が醸し出す嫌悪感は一切感じなかった。

 

 が、俺はそこに言い知れぬ不信感を覚えた。

 

 何せ、俺はこの鎮守府の艦娘に嫌われている。今まで出会った艦娘たちから避けられ、その殆どから敵対する目を向けられていたのだ。中には金剛や天龍、そして曙を庇った潮って言う駆逐艦みたいな過激なヤツもいる。

 

 特筆すべき対象を上げただけで全ての艦娘に会ったこともないが、少なくとも友好的ではないのは確かだ。そんなやつらしか居ない中で、初対面でいきなりフレンドリーに話しかけられれば否が応にも警戒しちまうってものだ。

 

「しれぇ? どうしたんですか?」

 

 雪風は何も言わずにただ己を見つめる俺を見て、不思議そうに首をかしげている。これが天龍なら「何見てんだ!!」って言いながら胸元を鷲掴みしてくるだろうな。

 

「―――!」

 

 黙って雪風の様子をうかがっていたら、彼女の髪から妖精が這い出してきた。妖精は肩に移動すると俺の方を向いて笑顔でビシッと敬礼をしてきた。艦娘の態度が違えばその周りの妖精も変わってくるのか。

 

「しれぇ?」

 

「……いや、気にするな。それよりもお前は何してたんだ?」

 

 いつまでも黙っている俺に心配になった雪風が問いかけてくるので、何とか誤魔化しながら話を変える。俺の質問に、一瞬キョトンとした雪風であったが、それはすぐさま笑顔に変わった。

 

「はい!! 食堂に行く途中にしれぇの姿が見えたので、声をかけました!!」

 

 どうやら興味本意で声をかけたみたいだな。てか、割りと声が大きい。これじゃあ食堂の中にまで聞こえちまう。

 

「そうか、じゃあな」

 

「待ってください!!」

 

 それだけ言ってさっさと逃げようとするも、雪風に手をガッチリ掴まれて逃れられない。そんな俺の手を掴む雪風はキラキラした目を向けて顔をずいっと近付けてきた。

 

「もしかして、ご飯を食べに来たんですか!!」

 

 いや、確かにそうだけども。でもあの空気を更に悪くしたくないから帰ろうとしてたんだよ。何でそんな嬉しそうな顔を向けてくるんですかね。

 

「そういうつも――」

 

「では早速行きましょう!!」

 

 俺の言葉を掻き消すように大声を出した雪風は、掴んだ手をグイグイ引っ張りながら食堂に向かって歩いていく。それに抵抗しようとするも、ちょうど足元に小石や木の根で転ぶのを恐れたりでタイミングを逃し、そのままズルズル引きずられていってしまう。

 

 雪風は躊躇なく食堂のドアを勢いよく開けた。その音は食堂に響き、中にいた艦娘たちの視線が一気に集まる。その中に、友好的なモノは1つもなくむしろ殺気みたいなのもある。

 

 これはマズイ、と本能的に悟った。

 

「お、おい!! 雪か――」

 

「こっちですよ!!」

 

 悲痛の叫びも虚しく、雪風はその場の空気お構い無しにズルズルと厨房へと進んでいく。何とか手を振りほどこうとするも、何故か運悪く(・・・)机や椅子の脚に引っ掛かりそうになって振りほどくタイミングが掴めず、雪風の為すがままに引きずられていくことしか出来ない。

 

 厨房へ向かう道中、数多の艦娘の横を通ったが、予想通り俺の登場で表情を曇らせている者が殆んどだ。中には俺を見た瞬間、食べるスピードを早めるヤツもいる。どれだけ俺と同じ空間に居たくないのか、と悲しくなる。

 

「間宮さん!! ご飯お願いします!!」

 

 俺を引きずりながら厨房に到着した雪風は、手を振り上げて元気よく厨房に呼び掛ける。それに答えるように、トレイを持った間宮がやれやれと言いたげな表情を浮かべながら出てきた。

 

 しかし、それも俺を見た瞬間憤怒に満ちたモノに変わったがな。

 

「提督!! 貴方は本当に――」

 

「間宮さん? 何怒ってるですか?」

 

 間宮が厨房と食堂を繋ぐ机に身を乗り出さんばかりに俺に詰め寄ろうとするのを、横の雪風が首をかしげて問いかける。それに間宮はピタッと動きを止めて表情を歪ませた。

 

 恐らく俺が無断で食材や調理器具を放り込んだことを問い詰めようとしたが、雪風が居る手前分が悪いと判断したのだろう。確かに、艦娘の前で食材の話をするのは酷と言うものだ。

 

「すまん、俺が軽率だった」

 

 これ以上間宮に迷惑をかけるのも申し訳ないので、何か言われる前に先に頭を下げる。これなら、俺と彼女以外事情が察せないから大丈夫だろう。俺が頭を下げると目の前で息を呑むのが聞こえ、次に唸るような声が聞こえる。

 

「……以後、気を付けてください」

 

 しばらく続いたうなり声が小さくなり、何か諦めたような声色の間宮の声が聞こえた。それを受けて顔を上げると、甚だ遺憾である、と言いたげな間宮がいたので、改めて頭を下げておいた。

 

「それと、すまんが厨房を貸してくれないか? もちろん、ここに居る艦娘が帰った後だが」

 

 そう言いながら間宮にもう一度頭を下げる。理由は簡単、俺が食べる飯を作るためだ。

 

 しかし、間宮の対応を見る限り、『補給』しか出来ない艦娘の前でこの話はタブーに近い。故に敢えて伏せておいたが、昼間放り込んだモノを知っている間宮なら察しがつくだろう。

 

「…………分かりました。では、中にどうぞ」

 

 俺の隠語を察してくれたらしく、間宮はそう言うと蝶番が付いた机を上げて厨房と食堂を繋ぐ通路を作ってくれる。間宮に促されてそこから厨房に入り、早足に奥へと引っ込んだ。

 

「しれぇは何してるんです?」

 

「雪風ちゃんには関係ないことよ。ほら、早く食べちゃいなさい」

 

 後ろで不思議そうな雪風の声とそれをかわす間宮の声が聞こえたが、周りの艦娘たちの視線が怖くてそれを振り返ってみることは出来なかった。

 

 

◇◇◇

 

 

 厨房に引っ込んでから一時間ほど。夕食のピークは大体過ぎたみたいで、食堂にいる艦娘たちは殆どいなくなっいた。これなら調理を始めてもいいかもな。

 

「んで、何でお前はそこにいるんだよ?」

 

「どうぞお構いなくです!!」

 

 俺が包丁片手にそう問いかけると、笑顔で答えになってないことをのたまう雪風。彼女は厨房と食堂を繋ぐ机に身を乗り出してこちらを覗き込んでいる。お前もう『補給』済ませただろう、なんてこと言えるはずもない。

 

 そして、先ほど現れた妖精も興味津々と言った感じで俺を見てくる。

 

「そいつ、いつも一緒なのか?」

 

「はい!! この子は雪風がここに来た時からずっと一緒にいますよ!! 鎮守府で一番の仲良しちゃんです!!」

 

 俺の問いに雪風はパァッと顔を綻ばせながら妖精を掴んで頬ずりを始めた。いきなり掴まれて驚くかと思われたが、妖精は動揺することなくキャーと言いたげな顔で雪風のほっぺに抱き付いている。いつもやられているのかもな。

 

 仲がよろしいことで……。てか、あんな光景を見た後だ、あまり艦娘に料理してることを見せたくないんだよな。なんとか帰ってくれないか……。

 

「今からすることはべつに面白いことでもないぞ? それに演習で疲れてるなら早めに休んだ方がいい」

 

「雪風は丈夫ですから問題ないです!! それに、しれぇが何食べるのか気になります!!」

 

 そんなキラキラした目で興味津々!! って言われたら無理に追い返せないじゃねぇか。まぁ、これで明日寝坊でもしても責任取らないからな。

 

「明日寝坊しても知らないからな?」

 

「雪風は雪風ですから、大丈夫です!!」

 

 いや、理由になってないからな。ともあれ、さっさと作って食って帰らせればいいか。

 

「じゃあ、そこで大人しくしてろ」

 

 俺の言葉に雪風と妖精は揃ってビシッと敬礼をしてくる。……さっさとやってしまおう。

 

 

 その後、厨房は包丁の音、肉の焼ける音、ぐつぐつ煮える音だけが響くだけの空間となった。

 

 俺が淡々と調理を進めていくのを、雪風は黙って見つめている。その眼差しは、先ほど天然そうな笑顔を浮かべていたとは思えないほど、鋭いものがあった。

 

 そんな眼差しをさらされながら、俺は調理を進めて行ってあとは鍋で煮込む段階となった。

 

「よし、あとは待つだけか」

 

「しれぇ、随分手慣れてますね? ここに来る前はお店みたいなものはやってたんですか?」

 

 グツグツと煮える鍋の火を弱火にしてタイマーをセット。あとは任せるだけとなったので一息つくと、今まで黙っていた雪風がそんなことを聞いてくる。

 

「やってねぇよ。軍学校時代、なし崩しにうまくなっただけだ」

 

 俺が所属していた軍学校は食事を作るのも士官の役目、って名目で全生徒を10人1班に分け、三つの班をその日の飯を作る当番制だった。だが、今まで包丁すら握ってこなかった奴らが集まる学校だ、そこの飯のレベルなんて「悲惨」だ。

 

 そんな悲惨な食事状況の中で、数人のまともなものを作れる奴が重宝されるのは当然と言うか。その数人にいた俺は、その日の当番の奴に飯を作るのを頼まれることが多かった。しかも、軍学校全員と言う大量のモノを時間までに作らないといけないから、否が応でも慣れるしかなかった。

 

「ま、そのせいで成績がギリギリになったんだけど」

 

「なるほど!! しれぇは料理の腕はピカイチだけど頭はバカだったんですね!!」

 

 ハッキリ言うなハッキリ。面と向かって言われると割とくるんだぞ。しかも、いい笑顔で言い切ったのを見るに、コイツ悪びれもなく言ってやがるな。

 

「しれぇ!! 鍋から白い煙が噴き出してます!!」

 

 少しは自重するよう雪風に言おうとしたら、それを遮る様な雪風の声、そしてタイミングよく(・・・・・・・)タイマーが鳴る。……示し合わせてない?

 

「しれぇ!! しれぇ!! 遂にできたんですか!! 完成ですか!!」

 

 タイマーが鳴って完成した、と言うのを察した雪風が顔を綻ばせながら机の上でバタバタ騒ぎ出す。危ないから少し黙ってろ、と言って大人しくさせ、白い煙――――湯気を噴き出す鍋の蓋を取る。

 

 

 今回作ったのは、ぐつぐつと煮える茶色いルーとその中に大きめの具材がゴロゴロとしているカレーだ。

 

「うわぁ……」

 

 机の上から鍋の中身が見えたのか、雪風が感嘆を漏らす。それが聞こえると同時に湯気が顔にぶつかり、スパイシーな香りが鼻をくすぐった。香りから見るに、完成とみていいだろう。

 

 ジャガイモの具合を確認するために傍のお玉を手に取って鍋に入れ、茶色いルーを纏ったジャガイモをとりだして箸で刺してみる。手ごたえなく入っていくから、火は十分通っているな。

 

「しれぇ!! しれぇ!! すごいです!! すごく美味しそうです!! 見てるだけでお腹が減っちゃいます!!」

 

 カレーを見た雪風が先ほどよりも大げさに騒ぎ出す。宥めようにも興奮していて無理だな。取り敢えず、先に炊いておいたご飯を器によそってそこにカレーを流し込む。……カレー食わせれば落ち着くか?

 

 そう思って余分に買っておいた食器を出して、同じようにご飯とカレーをよそう。2人分のカレーライスを食堂の方に持っていくと、待ってましたと言わんばかりに雪風が近づいてきた。しかし、2人分のカレーライスを見て眉を潜める。

 

「しれぇ、何で2人分もあるんですか?」

 

「お前の分だ。別にいらないなら戻すが」

 

「いえ下さい!! むしろ食べさせてくださいお願いします!!」

 

 俺の言葉に雪風は必死の形相で詰め寄ってくるので、言葉で返す代わりにカレーライスを渡してやる。カレーライスを笑顔で受け取った雪風は小躍りしながら近くの机に持っていき、何故か戻ってきて俺の袖を引っ張ってきた。

 

「しれぇも一緒に食べましょ!!」

 

 笑顔でそう言いながら袖を引っ張ってくる雪風。周りには俺と雪風以外は食堂を後にしている。これなら食堂で食べても問題ないか。

 

「分かったから引っ張るな」

 

 そう言ってやると雪風は更に顔を綻ばせ、先にカレーライスのもとに走っていった。その後ろ姿を見ながら、俺は自分のカレーライスをもって彼女の向かい側に座った。

 

「では、さっそくいただきます!!」

 

 俺が座ると同時に雪風はスプーンを握りしめてカレーをすくい、すぐに口に運ぶ。

 

「あふぃれふぅ!?」

 

 カレーを口に入れた瞬間飛び上がった雪風は、水を求めて厨房に走りこんでいった。熱々のカレーを冷まさずに口に含めばそりゃ熱いわ。そんなことを思いながらちゃんと冷まして口に運ぶ。

 

 うん、自分で言うのも何だが旨い。最後に煮込んだおかげで水分が飛んでトロッとしたルーに、口の中で解ける玉ねぎ、噛むとほろほろと解けていくジャガイモとニンジンが絡み合っていい感じだ。米もなるべく研ぐ回数を減らし研ぐときも優しくしたため、米本来の甘さが感じれる。トロッとしたカレーとの互いの良いところを引き出しているな。

 

「いや~、まさかあれ程熱いとは思いませんでしたよ。」

 

 水で冷ましてきたらしき雪風が、舌を出してもうこりごりと言いたげな顔で席に着く。その時、俺の分の水も持ってきてくれた。

 

「では、もう一度いきますよ!!」

 

 水を飲んで落ち着いた雪風は仕切り直し!! と言いたげにスプーンを取ってカレーに挑む。今度はちゃんと冷ましてから口に運んだ。

 

「んん~!!」

 

 口に含んだ瞬間、雪風は恍惚の表情を浮かべる。しかし、すぐさまスプーンを動かして第2、第3とどんどん口に運んでいく。その度に、彼女は同じような表情を浮かべた。ちょっとリアクションがオーバー過ぎないか。

 

「たかが市販のルーを使ったカレーだぞ。大げさすぎないか?」

 

「いえ、すごく美味しいですよ!! これなら何杯でも食べちゃいます!!」

 

 俺の言葉に雪風は嬉しそうな顔を向けてくる。しかしそれはちょっと驚いた顔に変わり、そして子供を見るような優しい笑顔になった。

 

 

 

「しれぇも、スゴイ嬉しそうですしね!!」

 

 雪風の言葉に、俺は思わずそっぽを向いて手で顔を確認する。……いつの間にそんな顔していたのか。失敗だ。以後、気を付けないと。てか、そんな面と向かって言われると恥ずかしいわ。

 

「さぁしれぇ!! お代わりお願いします!!」

 

 そんな俺をお構いなしに、雪風は空っぽになった器を差し出してくる。これ、俺の飯なんだけどな。まぁ、そんな笑顔を向けられたら断れるはずもないか。

 

 

 その日、2日間に分けて食べようと作ったカレーの殆どは雪風の胃袋に収まることとなった。

 

 

 

―――『とある駆逐艦の自室より』―――

 

      

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深淵との対峙

「ではしれぇ!! おやすみなさいです!!」

 

 扉の前でクルリとこちらを振り向いた雪風が、元気よく敬礼をするとそれに合わせて頭の上の妖精も敬礼する。何か仲の良い姉妹みたいで面白いな。

 

「おう、じゃあな」

 

 俺が軽く手を振ると、雪風は笑顔のまま扉に向き直って小走りで中に入っていく。それを見送りながらドアを閉めると、全身にドッと疲れが込み上げてきた。

 

 ここは艦娘たちの宿舎の1つ、主に駆逐艦たちの建物だ。駆逐艦の宿舎なので当然雪風の部屋があるわけで、食堂を出た時に雪風が部屋まで送れと駄々を捏ねたので、仕方がなく送ってやったところだ。

 

 無論、他の駆逐艦たちもいるので、道中名前の知らない艦娘に出くわしてはすぐに逃げられると言うのを繰り返す嵌めになった。お陰で俺のメンタルは割りとボロボロだ。まぁ、雪風に引っ張られながら宿舎を歩く俺を見た駆逐艦たちの方が戦々恐々しているかもしれないがな。

 

 取り敢えず、これ以上互いに精神をすり減らす必要はない。早く出てしまおう。

 

「このっ!!」

 

 ふと、いきなり後ろから怒声を浴びせられる。振り返ると、見たことのある女の子がこちらに向かって拳を振りかぶっていた。

 

「うおっ!?」

 

「獣め!!」

 

 咄嗟の判断で横に飛んで拳を避ける。拳を避けられたその子は勢いで壁に激突しかけるも寸でのところで踏みとどまり、体勢を立て直すとすぐさまこちらに向き直った。

 

「潮……だっけ?」

 

「気安く呼ばないで!!」

 

 殴りかかってきた女の子―――昨日、曙を庇っていた潮だったか。彼女は俺の言葉を掻き消すようにヒステリックな声を上げ、まるで穢らわしいものでも見るような目を向けてくる。

 

「雪風ちゃんに一体何をした!!」

 

「へ? カレーを食べさせただけだ――」

 

「嘘をつくな!!」

 

 俺の言葉を怒号で遮った潮は、犬歯剥き出しで血が出るかと思うほどの深いシワを眉間に浮かべながら指差してくる。

 

「そんな嘘、絶対に騙されない!! どうせ雪風ちゃんの弱味でも握って無理矢理従わせているんでしょ!! そうに違いないわ!!」

 

「はぁ?」

 

 俺はただカレーを食べさせただけで雪風の弱味なんか握ってねぇわ。むしろ、アイツの態度からして食事の度にやって来て飯をたかる勢いだぞ。

 

「おい、弱味なんか―――」

 

「黙れ獣!! 今さら嘘をついたって私には全部お見通しなんだから!! これ以上、あんたの好きになんか絶対にさせない!! 雪風ちゃんや曙ちゃん、そして他の子には手出しさせないんだから!!」

 

 だめだ、潮のやつ頭に血が上ってやがる。血気盛んで喧嘩の耐えなかった軍学校時代の経験上、この場合何言っても無駄だ。

 

 それに駆逐艦たちの年齢的にもう就寝時間に近い。こんなところで騒いだら周りの部屋の子達に迷惑だ。眠れなくて明日の出撃や演習に支障が出るのは避けたいところ。

 

「なぁ潮、一旦落ち着け?」

 

「ここにきて罪を認めるのね!! やっぱり雪風ちゃんを無理矢理従わせてたんだわ!!」

 

 少しでもいいから話を聞いてくれよ言いたいが、この際どっちでもいい。とにかく落ち着いてくれ。にしても、この頃の女の子って思い込みが激しいとはよく聞くがここまで激しいものなのか? トラウマでもあるかのような勢いだぞ。

 

「最っ低よ!! あんたなんかこんご―――」

 

「何を騒いでいるんですか?」

 

 なおも喚き散らず潮の言葉と重なるように、俺の後ろから声が聞こえる。それにいち早く反応した潮は俺の後ろに目を向け、パアッと顔を綻ばせた。

 

 

「榛名さん!!」

 

 俺の横を通りすぎてそう言った潮は声の主らしき艦娘に勢いよく抱き着く。潮をしっかり抱き止めた艦娘は、潮をぎゅっと抱き締めながらその頭を撫でて落ち着かせ始めた。

 

 服装は金剛と同じ露出度の高い和服だか、黒のスカートではなく赤のもっと丈の短いスカートを穿いている。黒髪ロングに穏やかそうな顔、それと裏腹に出るとこでた身体。服装と顔立ちから、金剛に通ずるものがあるな。

 

「榛名さん!! また獣が本性を現しました!! 早く鎮守府(ここ)から追い出しましょう!!」

 

「潮ちゃん、分かっているから少し落ち着いてください。他の駆逐艦()たちが起きちゃいますよ?」

 

 スカートを掴みながら叫ぶ潮に榛名と呼ばれた艦娘は潮と同じ目線になって、優しく語りかけながらその頭を撫でる。榛名の言葉に潮は周りの状況を悟り、ようやく大人しくなった。

 

 それを確認した榛名は一瞬こちらを見て、すぐに潮に向き直りニッコリと笑いかける。

 

「提督に関しては私から金剛お姉様に伝えますから、もう寝てくださいね?」

 

 榛名がそう優しく語りかけると、潮は心配そうに榛名を、そしてゴミでも見るような眼で俺を睨み付けた後、ゆっくりと頷く。そして榛名のもとを離れて俺の横を素通り、そのまま廊下の方に消えていった。

 

「……さて、提督」

 

「俺はなにもしてないぞ」

 

 榛名の言葉にそう返すと、榛名は何故か苦笑いを浮かべてきた。

 

「雪風ちゃんをここまで送ってきただけなんですよね? 食堂でお見かけしたので分かっていますよ」

 

 予想外の反応に狼狽えてしまった。予想だと潮の言葉を鵜呑みにして責めてくると思っていたんだがどうやら榛名は俺のことを信じてくれるみたいだ。

 

 榛名の対応に反応できないでいると、彼女は何故か背筋を伸ばして改まった様子で頭を下げてきた。

 

「改めまして、金剛型戦艦3番艦の榛名です。今後とも、よろしくお願いします」

 

 金剛をお姉様と呼んでる辺り、妹と見ていいだろう。しかし、金剛の態度からは想像もできないほど礼儀正しい子、というのが第一印象だ。

 

「そして先ほどの潮ちゃんの無礼、代わりに謝罪しますので許してくれませんか?」

 

「別に気にしてないからいい」

 

 俺の言葉に榛名は深々と頭を下げてくる。曙の件で見てたし、初めてじゃないからそこまで気にしてない。むしろ、あそこまで潮が俺を毛嫌いする理由が知りたい。まぁ、それはおいおい聞いていくか。

 

「それよりも、俺がここにいることで駆逐艦の子達が落ち着かないみたいだし。早めに部屋に戻らせてもらうわ」

 

「そうですか。では、お供させていただきますね」

 

 俺の言葉に榛名はそう言いながら先導をかって出てくる。潮の件でも引きずっているのか? 別に部屋に帰るだけだから付いてこなくてもいいんだが。

 

「ここからご自身のお部屋まで、迷わずに行けますか?」

 

 俺の問いに榛名はどこか試す様な表情でそう聞いてくる。それに、俺はすぐに反応できなかった。

 

 確かに、まだ鎮守府に来て日も浅く鎮守府の地図も把握しているわけではない。更に、食堂から雪風に引っ張ってこられたためここが鎮守府のどこなのか知らない。

 

 それに駆逐艦のみならず他の艦娘の気分を害すかもしれないしな。ここは、大人しく榛名の言葉に甘えさせてもらうのが一番か。

 

「……なら、よろしく頼む」

 

「分かりました。では、ついてきてくださいね」

 

 俺の言葉に榛名は微笑むとクルリと後ろを向いて歩きはじめる。その後を追って、俺も同じように歩きはじめた。

 

 榛名の案内で宿舎を後にした俺たちは、月明かりで照らされた夜道を並んで歩く。道中艦娘に会わない辺り、俺の意図を汲んでくれたのかもな。

 

 そんな榛名は、時折こちらをうかがう様に覗き込んできて、ふと目が合うと必ず微笑みかけてくる。無言の中でこれをされたらむずがゆいな。

 

「榛名、聞いていいか?」

 

「何でしょう?」

 

 むずがゆさに耐えかねた俺はそんなことを榛名に振ると、彼女はそう答えながらこちらを覗き込んできる。むずがゆいのを悟られなくないので、なるべく目を合わせないように帽子を深くかぶって誤魔化した。

 

「潮もだが、ここの艦娘は明らかに俺のことを嫌っているよな?」

 

「……提督自身がそう感じるのならそうかもしれませんね」

 

 俺の問いに、榛名は歯切れの悪い答えを返す。まぁ、あれだけ分かりやすいのを見れば嫌でも分かるわな。それに、理由も大体予想はついているし。

 

 

「俺が来る前は、一体どんな提督(やつ)だったんだ?」

 

「それは……」

 

 俺の言葉に榛名はそうこぼすと、今まで覗き込んできた顔をぷいっと背けて黙り込んでしまう。ビンゴか。いや、むしろそれ以外ないわな。

 

 金剛や潮、天龍等を筆頭とした艦娘たちの態度、そして街で聞いた前任の悪行の数々……それを加味してもこの状況を作り出したのは前任のクズだとみて間違いないだろう。

 

「食堂のあれも、ソイツが考えたのか?」

 

 俺の問いに、榛名は何も言わずに頷いた。出撃に必要な資材のみを摂取させる体制を敷いたのもソイツがどういう思惑で考案したか知らんが、艦娘たちのあんな光景をよく平気で見れたものだな。

 

 だって、艦娘って―――。

 

「提督? こちらですよ?」

 

 不意に榛名に呼び掛けられて我に帰る。周りを見ると、俺が3つに別れた道の1つに立っていて、榛名は別の道の中腹にてこちらを心配そうに眺めている。

 

 どうやら、考えすぎて違った道に行きそうになったみたいだ。それに気づいてすぐに榛名の元に走り、俺が追い付くと彼女は再び歩き出した。しかし、歩き出したことにと寄って俺はまた思考の海に沈んでいった。

 

 ん? 待てよ? 食堂の件はソイツが考えたんだよな? なら、居なくなった後なのに何で同じ体制を敷いてるんだ?あの表情から見るに、艦娘たちもあれに満足してるはずはないし。雪風の反応を見るに俺たちが普通に食う物を食ってもなんら問題はないはずなのに……。

 

 艦娘たちが文句も言わずに従っている辺り、今でも誰かがそれを強制しているってことだよな?

 

「榛名、何でソイツが居なくなっても何も変わ――」

 

「提督、こちらです」

 

 いつの間にか俺のそばを離れていた榛名は部屋がある建物を指差してそう言い、そのまま入っていってしまった。慌ててその後を追うも、明らかに先程より歩くスピードが上がっていてなかなか追い付けない。

 

 地雷でも踏んだのか? でも、それならなんでこの話題が地雷なんだ? 

 

「提督、着きましたよ」

 

 沸き上がる疑問を整理していたら、とうとう俺の部屋までついてしまった。榛名はドアを開けて、中へどうぞ、とでも言いたげに手を向けてくる。その顔には、先ほどの柔らかい微笑みではなく、何処か悲し気な、悲痛に満ちた表情があった。

 

 

 これ以上、聞くな―――と言うことか。

 

 俺はまだ着任して2日目。ここの空気になじんだとは言えない。俺よりも前からここにいる榛名たちにとっては新参者もいいとこだ。そんな新参者、ましてや今日顔を合わせたばかりの奴に色々と話せるわけないか。

 

 それに、この件に関しては艦娘たちのデリケートな部分も含む。もうちょっと、互いに落ち着いてから聞くことにした方がいいな。

 

「分かった、送ってくれてありがとうな」

 

 俺の言葉に、榛名は深々とお辞儀をしてくる。無理に声をかける必要もないか。なら、ここは早めにお暇させてもらおう。そう思って、ねぎらいの意味も込めて榛名の肩をポンと叩く。

 

「ッ!?」

 

 叩いた瞬間榛名がいきなりビクッと身を震わせる。その反応に思わず彼女を見るも、それ以降一言も発せずにただ頭を下げるだけだ。肩を叩いたのはちょっといきなり過ぎたか。今後は自重しよう。

 

 これ以上声をかけるのも気を使わせることになりそうだし、さっさと部屋に入ってしまおう。頭を下げ続ける榛名の脇を通り、部屋に入る。脇を通る際も、榛名は頑なに頭を上げようとはしなかった。

 

 肩を触ったことを金剛に報告されかねないかな。また曙みたいな目に遭うのは懲り懲りだぞ。と言うか、そうならないためにも一応謝っておこう。

 

「榛名、さっきはすま―――」

 

 そこで、俺の言葉は途切れた。振り返った瞬間、光に照らされてキラキラ光る美しい黒髪が目の前にあったからだ。

 

 次に、胸の辺りに強い衝撃を受ける。不意打ち気味の衝撃になすすべもなく、俺は簡単に押し倒されてしまった。その際、後頭部を強打した。

 

 鈍い痛みに耐えながら胸のあたりを見ると、榛名が俺の背中に手を回し、胸に顔を埋める様に抱き付いている。たぶん、先ほどの衝撃は榛名が抱き付いてきたのだろう。

 

「榛名!! どういう―――」

 

「提督」

 

 俺の言葉を榛名の声が遮る。その声は先ほどの柔らかな物腰とは比べ物にならないほど低い。鎮守府の件を聞いてた時の声よりも更に低く、憤怒や悲痛などの感情が全て欠落してしまったような。

 

 まさに『無』感情―――そんな声だ。

 

 先ほどとの変わりように反応出来ないでいると、俺の胸から顔を上げた榛名はゆっくりと上体を起こす。そして、いきなり和服を襟に手をかけ、ゆっくりとはだけさせ始めた。

 

「ちょ!?」

 

「金剛型戦艦三番艦、榛名」

 

 感情が一切感じられない声でそう零した榛名は、ハイライトが消えた目を俺に向けてこう言った。

 

 

 

「今宵の伽、務めさせていただきます」



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決して埋まることない溝

「提督は、何もなさらないでくださいね?」

 

 榛名が抑揚のない声でそう言う。その言葉は確実の俺の鼓膜を揺らし、彼女がなんと発したのかまでは分かった。しかし、俺は何も発せない。

 

 頭で理解できていなかったからだ。

 

 榛名にいきなり抱きつかれ、押し倒された。そして、馬乗りの状態の榛名がいきなり服を脱ぎ始め、こう言った。

 

 

『今宵の伽、務めさせていただきます』

 

 伽――随分昔の言い方だが、要するに夜の営みをすること。正確に言えば、女が男に奉仕することだ。

 

 そして、榛名はこう言った。

 

『今宵の伽』と。

 

 

 

「提督、何がご所望でしょうか?」

 

 不意に榛名の声が間近で聞こえ、それと同時に胸の辺りに柔らかくて暖かいものがあたる。声の方を見ると、上半身を露にした榛名が俺の身体にピッタリと寄り添いながら、見上げるように覗き込んでいた。

 

 黒髪と対称的な白く透き通った肌、そんな白い肌の中で映える赤く控えめな唇。白く透き通った肌に、深海棲艦を一撃で沈めると言われる戦艦なのかと疑問に思うほど細く華奢な肩や腕。

 

 そして華奢な肩や腕と対称的な、俺の彼女の身体の間でふっくらと盛り上がる2つの胸部装甲。

 

 どれをとっても、女性として非常に魅力的な姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その目に、涙さえ浮かんでいなければ。

 

 

 

「提督?」

 

 俺が何も言わないことを不審に思ったのか、榛名は小さく呟く。先程の抑揚のない声ではなく、少し震えた、明らかに恐怖を孕む声だ。

 

 その様子に、俺は無意識のうちに榛名の手をとった。その瞬間、榛名はビクッと身を震わせてからギュッと目を閉じる。

 

 とった手は震えている。手だけでなく、彼女の身体全体が震えていた。あれほど艶っぽく見えた唇や白く透き通った肌に、若干青みがかかる。

 

 言葉の意味を履き違えない。まさに『伽』がそこにあった。

 

 

「誰の命令だ?」

 

 無意識のうちに、そう声が漏れていた。それに、榛名はビクッと反応し、恐る恐る目を開けて俺を凝視する。

 

「誰だ?」

 

 再度、同じ質問を投げ掛ける。たいして、榛名は俺の顔を凝視しながら呆けた顔を向けている。言っている意味が分からない、といった感じだ。

 

 その姿を見ていると、不意に胸の中から何かたぎるものが込み上げてくる。この感覚を、俺は知っている。前に、天龍に荷物をめちゃくちゃにされたときに近い。

 

 しかし、それはあのときと比べ物にならないほど熱く、今にも噴き出しそうなほど煮えたぎったどす黒い感情であった。

 

 それはどんどん大きくなっていき、手、足、頭を満たしていく。同時に身体全体が熱を帯び始めた。いつ暴発しても可笑しくないそれは、やがて噴き出される先を探せと叫ぶように頭の中でぐるぐると回り始める。

 

「これを指示したのは誰だ」

 

 もう一度、榛名に問い掛ける。頭の中で徐々に増えながら回るそれを向ける先を。恐らく、一度暴発すれば人を殺しかねないほど溜まりに溜まったそれを向ける先を。

 

 榛名は俺を凝視しながら、フルフルと顔を横に振った。その際、涙が四方に飛び散り、俺の服を濡らす。しかし、今の俺にはなおも増え続けるそれの望むことに従うしか出来ない。

 

「前任か?」

 

 俺の問いに、榛名の目に更に恐怖が映る。ビンゴと見ていいだろう。しかし、そいつは今ここにいない。つまり、今現在鎮守府に所属している誰かが彼女に命令したことになる。

 

「お前に命令したのは誰だ?」

 

 再度、同じ質問を投げ掛ける。しかし、榛名はまたもや首を横に振るだけであった。このままでは埒があかない、そう判断した。

 

 その瞬間、1つの仮説が頭の中に浮かんできた。

 

 榛名の様子を見るに、伽の件や食堂の件は前任が強いた体制である。それを強いた前任はとうの昔に消え去っているのに、今現在でもそれが続けられている。つまり、前任と同じ権力をもった人間がこの体制を強いているのだ。

 

 では、今現在前任ほどの権力をもった人間は誰か。いや、人間ではない何か。ましてや、ここにいるのは艦娘ばかり。つまり、艦娘の中にいる。

 

 

『Hey、テートク。ワタシ、この鎮守府でテートク代理をしている金剛デース。よろしくお願いしマース』

 

 ふと、頭の中に過った言葉。その瞬間、回り続けていたそれが爆発的に膨れ上がった。

 

 

 

「金剛ォォォォォオオオオオオ!!」

 

 俺の部屋に、俺自身の絶叫がこだまする。榛名はそれに驚いて俺の身体から離れた。動けるようになった俺はすぐさま飛び起きて廊下へ続くドアに近づき、勢いよく足を振り上げる。

 

「ざっけんなァ!!」

 

 怒号と共にドアを蹴破る。固定するものを失ったドアは吸い込まれるように反対側の壁に叩きつけられ、盛大な音をあげながら廊下に弾けとんだ。

 

 それに見向きもせず、俺は廊下に飛び出して目的の者を探して歩き出す。

 

 頭に浮かぶのは金剛の顔。その瞬間、それは噴火した火山のように噴き出し、その熱が俺の身体、脳、思考回路を蝕み始める。

 

「て、提督!!」

 

 後ろから榛名の声が聞こえ、右腕に抱き着かれる。しかし、今そんなことに気を配っている暇はない。そう判断し、無意識のうちに榛名を振り払った。

 

「金剛ォ!! 何処にいる!!」

 

 夜がふけた鎮守府、寝静まっている艦娘もいるだろう。しかし、それに気を配っている余裕はない。早く、煮えたぎるこれをぶつけなければ。

 

 

「静かにするネ!!」

 

 不意に横から怒号が聞こえ、振り返るとそこに目的の人物が立っていた。

 

 朝見た時と変わらず、露出の激しい和服にカチューシャ、丈の短いスカート。榛名と肩を並べられるほど透き通った白い肌に浮かぶ目に深い隈が刻まれていること以外、全て同じだった。

 

「もう就寝している子たちの迷惑を考えてくだサイ!!」

 

 顔に深いシワを刻み込みながら、金剛は凄味を効かせてくる。今まで見せてきたことのないその顔に、大概の人なら怖気づいてしまうだろう。

 

 でも―――――

 

 

「金剛ォォォォ!!」

 

 今の俺にそんなものは通用しない。噴き出したそれをぶつけるためなら、砲門で腹をぶち抜かれるぐらい造作のないことのように思えた。そう叫びながら金剛に詰め寄る。

 

 金剛は近づいてくる俺を見て顔を引きつらせ、一歩ずつ後退りを始めた。遠い昔、世界が大規模な戦乱に見舞われた際に、最古参のブランクをものとのしない怒涛の活躍で名を馳せた戦艦、あの金剛を後退りさせる。そんなことが自分にできるなんて思いもしなかった。だが、今回はこれに便乗させてもらう。

 

 金剛は一歩後ずさるのを、俺は二歩歩いて距離を詰めていく。俺が近づくのに対して、金剛は引きつらせた顔を何とか持ち直し、戦艦金剛の名にふさわしい殺気染みた視線を向けてくる。それにさらされても、俺は止まることはなかった。

 

 どんどん距離を詰めていく。後退りしていた金剛はやがて顔を背けた。それにより、彼女の殺気染みた視線が消え、ここぞとばかりに一気に距離を詰める。

 

 そして、金剛の腕を捉えた。

 

「ッ」

 

 金剛の小さな声が聞こえるのも構わず、捉えた腕を力任せにこちらに引っ張る。金剛は引っ張られる腕に抵抗することはなくこちらに引き寄せられ、俺は俯いたまま沈黙しているその襟首を掴んで捻り上げた。

 

 捻り上げると同時に片手は拳を握りしめ、金剛の顔があらわになったらそこに叩き込む準備を整えた。捻り上げて顔を上げさせ、その表情を見るためにズイッと顔を近づける。

 

 そして、握りしめた拳を勢いよく振り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 捻り上げた手の甲に、ポトリ、と何かが落ちてきた。

 

 それを感じた瞬間、俺の振り上げた拳は止まる。いや、正確には目の前にある金剛を見たからだ。

 

 

 

「ひぐッ……うッ……うぅ……」

 

 

 金剛は泣いていた。

 

 固く目を瞑り、血が出るほど唇を噛み締め、これから来るであろう激痛に耐えるかのように、彼女は泣いていた。そこに、さっきまで俺を睨み付けてきた、数々の戦いを切り抜け、帝国史上最も活躍した戦艦『金剛』の姿ではなかった。

 

 ただの、一人の少女がいた。

 

 

「ていとくぅ……」

 

 榛名の声が聞こえ、足に抱き付かれる。足元を見下ろすと、涙でぐちゃぐちゃになった顔の榛名が必死に俺の足に縋り付いていた。

 

「こんごうおねぇさまはかんけぃありません……すべて、はるながわるいんですぅ……ゆるしてくださぃ……」

 

 嗚咽交じりのか細い声でそう懇願する榛名。捻り上げられて何も抵抗することなく込み上げる嗚咽をかみ殺す金剛。

 

 そこに、金剛型戦艦姉妹、いや、深海棲艦を一撃で沈める戦艦の姿を、微塵も感じることはできなかった。

 

「……すまん」

 

 俺は無意識のうちにそう零し、金剛の襟首を離した。解放された金剛はそのまま床にへたり込み、涙にぬれた顔を必死に拭う。それを確認した榛名は小さな鳴き声を漏らしながら俺の足を離れ、金剛に近付いた。

 

 肩に手を置かれた金剛は拭っていた手を止め、いきなり立ち上がる。それに一瞬驚いた榛名であったが、すぐに顔を曇らせて俯いた。

 

「……榛名、『伽』はするなとあれ程言ったはずネ。これに関しての処遇を決めますカラ、この後すぐにワタシの部屋に来てくだサイ」

 

「……はい」

 

「では、これにて失礼しマース」

 

 先ほどよりも低い金剛の言葉に榛名は小さく呟く。それを確認した金剛は、何事もなかったかのようにそう言って歩き出す。って待てよ!! 勝手に帰ろうとするんじゃねぇよ!!

 

「待てよ金剛!!」

 

「何ですカ」

 

 俺の言葉に、金剛は立ち止まるもこちらを一切振り向かずに答えた。横に付き添う榛名は俯きながらも金剛と俺を交互に見ている。

 

「『伽』ってのは、お前が命令したことか?」

 

「……違いマース。榛名が勝手にしでかしたことデース。まったく、困ったものですヨ」

 

 金剛はこちらを振り返ることもなく砕けた口調でそう言い、肩をすくめるジェスチャーをする。榛名に目を向けると、俺を見て申し訳なさそうに頭を下げてきた。

 

 どちらの言葉を信じるのかは難しい。だが、先ほどの反応から榛名が独断で行ったと言う線が濃厚か。

 

「もう一つ、食堂のあれはお前が指示したことか?」

 

「ハイ、そうですヨ」

 

 その答えに、一気に頭に血が上るのを感じた。

 

「何でだ!! あれは前任の奴が考えた体制だろ!! そいつが居なくなった後も何で続けてるんだよ!!」

 

「簡単デース。ワタシたちは、『兵器』だからデース」

 

 激昂した俺の言葉に、金剛は全く動じることもそうのたまいやがる。それを聞いた瞬間、頭の血管が弾け飛ぶ音がした。

 

「ふざけんな!! あんな地獄みたいな状況を強いる必要あるのかよ!! 戦場の食事によって自軍の士気を容易く変えられる!! それがどれほど重要なことか分かってるのか!!」

 

 俺の怒号に、金剛は一切反応しない。一切微動だにせず、彼女は俺の言葉を背中で受け止めるだけであった。

 

「大体、お前らはただの兵器じゃねぇ!! 元は人間の、ちゃんと意思を持って動く人間と同じ『艦娘』なんだよ!! だから――――」

 

「テートク」

 

 俺の怒号は、金剛がこちらを振り返った際に発した一言によって掻き消された。正確には振り返り様に具現化した砲門を俺に向けてきたかもしれない。

 

 

 いや、俺を見つめる目に一切の生気が感じられなかったからだ。 

 

 

「ッ」

 

 その冷たい氷のような目つきに、黒く光る砲門を前に、俺は動けなくなった。先ほどは腹をぶち抜かれようが造作もない、などとのたまった。しかし、いざ冷静になると人間とは臆病なもので、身の危険を感じると動けなくなってしまうとよく聞くが、まさかここまでとは……。

 

 

「貴方たちは、このように手から砲門を出せますカ?」

 

 砲門をむけられたことによって動けない俺に、金剛は抑揚のない声でそう問いかけてきた。それに反応できずにいる俺を、金剛は更に冷たい目で見据えてくる。

 

「貴方たちは、艤装を付けることが出来ますカ? 海の上を自由に走れますカ? 深海棲艦に傷を付けられますカ? 奴らの攻撃を喰らっても生きていられますカ? 手足を吹き飛ばされても砲撃を続けられますカ? 手足を吹き飛ばされるなどの大怪我をしても入渠すれば傷は癒えますカ? 燃料や弾薬を補給出来ますカ? それさえ摂取すれば普通に食事をしなくても生きていけますカ?」

 

 立て続けに放たれた質問。

 

 俺は艤装を付けることも出来ないし、船に乗らなければ海の上を自由に走れない。

 

 深海棲艦に傷も付けられないし、奴らの攻撃を喰らったら死ぬ自信しかない。

 

 手足を吹き飛ばされても砲撃できる気はしないし、第一に砲撃する砲門を出せない。

 

 入渠してもかすり傷すら治らないし、燃料や弾薬も喰えない。また、普通の食事をしなければ生きていけない。

 

 どれもこれも、俺には『不可能』と答えるしかできなかった。

 

「……ホラ、ワタシたちと貴方はこれだけ違うんですヨ」

 

 そう呟いた金剛は向けてきた砲門を下げ、小さく息を吐く。そして、生気の感じられなかった目を再び俺に向け、こう呟いた。

 

 

 

 

 

「たかが『人間』風情と、艦娘(ワタシ)たちを一緒にするんじゃねぇヨ」

 

 

 その言葉に、俺は背筋に凄まじい寒気を感じた。蛇に睨まれた蛙、と言うのか。喉元にナイフを突きつけられた、銃を突き付けられたような。そんな寒気だ。

 

「あ、テートク。明日、合同演習を行うから、工廠近くの港に来てくださいネー。では、失礼しマース」

 

 何も言わない俺に、思い出したかのようにそう言った金剛は、クルリとあちらを振り向いて速足に去っていった。その後を追う榛名は俺と金剛を交互に見ながら、俺に一礼だけして廊下の向こうに消えていった。

 

 

 一人残された俺はしばらくそこで立ち尽く、ようやく思い出したように重い足を引きずって自分の部屋に戻り始める。

 

 部屋に着いてベットに身を預けるその瞬間まで、先ほど感じた寒気が消えることはなかった。



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『兵器』の喜怒哀楽

「たかが『人間』風情と、艦娘(ワタシ)たちを一緒にするんじゃねぇヨ」

 

 フワフワと身体が漂うような真っ暗な空間の中、俺の目の前に金剛の言葉が現れてはすぐに消えていくのを幾度となく繰り返した。それに、あのときの金剛の顔も浮かんでくる。

 

 しかし、どれだけ頭を捻ろうが前任が強いた所業、食堂の件を彼女が引き継いでいるのかが一向に分からない。あれを敷く上で、彼女にメリットがあるとは到底思えないからだ。

 

 しかし、彼女は現にそれを強いている。その理由に、俺が見つけてないようなメリットがあるのか、それともメリットよりも優先すべき事柄を孕んでいるのか。いくら考えても、俺の矮小な頭では何一つ捻り出せずにいた。

 

 そして、あの言葉を言った瞬間の彼女の顔。それは、今まで向けられたことのないような、純粋な殺意に満ち溢れた代物だった。まるで親の仇を見るような、そんな風に思えた。

 

「しれぇ!! 起きてください!!」

 

 フワフワと身体が漂う空間に、突然怒号が飛び込んできて、その後身体を思いっきり揺らされる。突然のことに俺は何がなんだか分からないままに真っ暗な空間に光が差し込み、それに引っ張られるように真っ暗な空間が後ろに過ぎ去っていく。

 

 

「うぁ……」

 

 

 ゆっくり目を開けると、俺の部屋の天井が見える。夢……だったのか。何と言うか、まるで示し合わせたようなタイミングだこと。

 

「しれぇ!! ようやく起きましたね!!」

 

 まだ完全に起きていない脳をぶん殴られるように大声が鼓膜に突き刺さる。思わず耳を押さえて声を方を見ると、目をキラキラさせた雪風が俺の顔を覗き込んでいた。

 

「雪風……」

 

「おはようございます!!」

 

 寝惚けて若干霞む視界の中で、雪風は素早く笑顔で敬礼する。その肩にはいつもの妖精が、彼女と同じように敬礼していた。何時なんどき見ても、本当に姉妹みたいだな……。

 

「あぁ、おは……って、お前どうやって入ってきた?」

 

「普通に入り口からですよ? ドアが吹き飛んでて有りませんでしたし。何かあったんですか?」

 

 首をかしげる雪風の言葉に、俺は昨晩勢いでドアを蹴破ったことを思い出した。こりゃ、修理しないとな……。

 

「いや、大したことじゃねぇよ。それより、お前は何でここにいるんだ?」

 

「はい!! しれぇの朝食に同席させていただきたく、馳せ参じました!!」

 

 俺の問いに清々しい笑顔でそうのたまう雪風。うん、完全に朝飯タカる気満々じゃねぇかこのやろう。あれ俺の実費なんだけど。

 

 なんて、面と向かって言える言葉さえ、俺は喉に詰まらせた。

 

 

 こいつも、金剛のように思っているのか……。そう、頭の中に過ったからだ。

 

「しれぇ?」

 

 黙って見つめられたためか、雪風は首をかしげて覗き込んでくる。その透き通った目には、金剛が浮かべていたあの色はなかった。しかし、何時なんどきその目にあの色が浮かぶのか、と考えてしまう。

 

 あの目をした雪風が、無表情のまま俺に砲門を向けてくる。そんな光景が頭を過った。

 

 

 

「しーれーぇー!! 何ボケッとしてるんですか!!」

 

 そんな薄暗い思考は、目の前から飛んでくる雪風の大声と、いきなり腕を掴まれる感覚によって断ち切られる。声の方には、ご立腹と言いたげに頬を膨らませる雪風。

 

「行きましょーよぉー!!」

 

「うぉ!? ちょっ!?」

 

 いつまでも動かない俺に痺れを切らした雪風に腕をグイッと引かれ、俺は無理矢理ベットから引きずり下ろされる。素早く足を出しすことで体勢を保ち、何とか転ばずに済んだ。もし勢いに負けていたら顔面から床に落ちていただろう。

 

「……雪風、あぶね――」

 

「さぁしれぇ!! 張り切って行きましょう!!」

 

 転びそうになったことを咎めようとするも、先程よりも大きな声を上げた雪風によって防がれ、引っ張られる形で廊下に引きずり出される。おい、人の話を聞けよ。そう言おうとした。

 

 しかし、歩きながら何かを思案し、その度に笑みを浮かべる雪風の姿を見て、その言葉は引っ込んでしまった。

 

 朝、俺が目覚めたことで目を輝かせる顔、名前を呼ばれて嬉しそうに敬礼する顔。

 

 俺の言葉に不思議そうに首をかしげる顔、ボケッとしている俺をベットから引きずり下ろそうと頬を膨らませる顔。

 

 そして、今目の前にある、どんなものが食べれるのかと期待に胸を膨らませる顔。

 

 それは全て、目の前にいる艦娘と言う『兵器』が見せたものだ。そしてその全てに作り物感は一切感じず、人間が浮かべる『喜』と『楽』そのものであった。

 

 

 

 やっぱり、『兵器』には思えないんだよな。

 

 目の前で俺の腕を引く小さな女の子を見て、何となく思ってしまった。

 

 そうこうしている内に、食堂に辿り着いた。

 

 時間帯的にピークは過ぎ去ったみたいだが、まだ割りと残っているな。早すぎたか。相変わらず俺を見るとほぼ全員の食べるスピードが上がるのは結構メンタルに来るからやめてもらいたい。

 

 ん? あれは確か……。

 

「曙さん!! 潮さん!! おはようございます!!」

 

 食堂に入って早々、雪風がとあるテーブルに近付きながらそう声を張り上げる。彼女が近付くテーブルには、弾薬を口に運んでいる曙と潮が座っていた。

 

 名前を呼ばれた曙と潮は顔を上げて雪風を、そして俺を見た。無論、俺を見た瞬間二人の表情が歪んだのは言うまでもないか。

 

「獣!! また雪風ちゃんを!!」

 

「潮、他の子に迷惑よ」

 

 早速俺に突っかかろうとする潮を、横の曙が冷静に嗜める。曙の言葉に潮は開きかけた口をぐぐっと押さえ込み、目だけで俺を睨み付けながらゆっくりと席に座る。

 

「……何であんたがここに居るのよ?」

 

「……飯を食いに来た」

 

 そんな潮を尻目に、曙は心底嫌そうな顔で問い掛けてくる。俺はなるべく顔を見ないよう背けながら答えた。背けた後に息を呑む声と、小さな嘲笑が聞こえてくる。

 

「あんたが? ここで? なに? 弾薬でも食べるつもり?」

 

「違いますよ? しれぇは自分でご飯を作るんです」

 

「はぁ!?」

 

 嘲るような曙の言葉に雪風が応えると、曙はそう叫びながら机を叩く。その勢いで立ち上がり、深いシワを刻んだ顔で俺に詰め寄ってきた。

 

「なに!? 艦娘(あたし)たちへの当て付け!? 自分だけ美味しいもの食べて、それをわざわざ見せつけに来たの!? 最っ低!! ふざけんじゃないわよこのクソ提督!!」

 

 先程潮に回りに迷惑だから落ち着け、と言ったヤツとは思えないほど声を張り上げて突っかかってくる。まぁ、これに関しては弁論の余地もないな。

 

「まったく何考えてるの!? 少しはあたしたちのこと考えて行動しなさいよね!! 大体――」

 

「曙ちゃん」

 

 顔を真っ赤にしながら俺に詰め寄る曙に、いつのまにか立ち上がっていた潮がそう言いながら肩を置く。それに曙は歯向かおうと顔を向けると、何故か顔を強張らせて押し黙ってしまった。

 

「行こう」

 

 潮はそう言いながら大人しくなった曙の手をとり、俺の横を抜けて食堂の入り口へと歩き出してしまう。彼女が俺の横を通る瞬間、背筋に寒気を感じた。

 

「お、おい!!」

 

 突然のことに思わず潮に声をかける。声をかけられた潮はピタリと立ち止まり、首だけを動かして俺を見てきた。

 

「何ですか?」

 

 そう問いかけた潮の目には、あの色が浮かんでいた。昨日襲われた際には浮かべていなかった、昨日金剛が向けてきた生気を感じられないあの目。

 

 何の感情も持たない『兵器』の目だ。

 

 

「……何でもない」

 

 潮の問いに、俺はそう答えるしかなかった。そんな俺を言葉を受け、潮は曙を引き連れて食堂を出ていった。彼女たちが出ていった後、俺は金縛りにあったように身体が硬直し、その周りは沈黙が支配した。

 

「……残念でしたね」

 

 それを破ったのは、そう声を漏らしながら肩を落とした雪風であった。その言葉と共に動けるようになり、肩を落とす傍らの雪風と、そして彼女が溢した言葉の意味を考える。

 

 こいつ、もしかしたら俺が他の艦娘たちと打ち解ける場を作ろうとしていたのか?

 

 ただ飯を食いに来たのなら、真っ先に厨房の間宮に声をかけるハズだ。しかし、彼女は厨房に行かずに近くのテーブルに居た曙たちに声をかけた。何故、飯を食うのに厨房に行く前に他の艦娘に声をかける必要がある? 何かしらの意図があったと見ていいだろう。

 

 

 恐らく、俺と自分以外の艦娘と話せる場を作るっていう意図があって声をかけたんだろう。俺が勝手に思い込んでいるだけともとれるが、さっきの言動から見ても多分あってると思う。まぁ、半分ぐらいは俺の思い込みでもあるがな。

 

「まぁその、なんだ。ありがとな」

 

 そう言いながら、雪風の頭を撫でる。突然頭を撫でられた雪風は驚いた顔を俺に向け、すぐに悪戯っぽい笑顔に変わった。

 

「しれぇの初デレ、雪風が頂きました!!」

 

 おい、誰が初デレじゃ。そんなつもりは毛頭ないぞこの野郎。てか、上司に向かって言う言葉か。

 

「バカなこと言ってないで、とっとと飯食うぞ」

 

「あうっ」

 

 そんなことをのたまう雪風に軽くチョップを入れ、それを喰らって頭を押さえる雪風を置いて先に厨房へと向かう。突然のチョップに驚いた雪風であったが、すぐさま我に返ると、曙たちが残していったトレイを引っ付かんで小走りで追ってきた。

 

 追い付いてきた雪風からトレイを受け取り、彼女と一緒に厨房に近付くと、案の定渋い顔をした間宮が出迎えてくれた。

 

「提督……もう少し時間を考えてくれませんか?」

 

「文句ならそこの雪風(ちっこいの)に言ってくれ。俺は無理矢理引っ張られただけだ」

 

「ちっこいのじゃありません!! 雪風ですよ!!」

 

 返却口にトレイを置きながら間宮の言葉にそう返すと、傍らの雪風が頬を膨らませて抗議してくる。初デレとか大声で叫んだ罰だ。

 

「さっきチョップしたじゃないですか!!」

 

「あれは『指導』だ。ノーカンだよノーカン」

 

 「おーぼーですよ!!」と憤慨する雪風を片手であしらいながら、間宮に視線を飛ばす。それを受けた間宮は盛大な溜め息をこぼして、厨房へと続く道を開けてくれる。

 

「すまん」

 

 そう間宮に頭を下げて、素早く厨房に滑り込んだ。標的が自分が立ち入れない範囲に逃げられた雪風は、厨房と食堂を繋ぐ机に乗り出し、今まで見たことないほど大きく頬を膨らませて睨み付けてくる。まるで、ヒマワリの種を頬張ったハムスターみたいだな。

 

「雪風ちゃん、今日は演習だったわよね?」

 

「……そーですよ」

 

 間宮の問いに、雪風は俺を睨み付けながら不貞腐れ気味にそう答える。演習がどういうものかは知らないが、艦娘同士の模擬戦と考えればいいか。でも、演習に実弾を使っていいのか? 演習で大破とか洒落にならないぞ。

 

「演習で使うのは実弾ではなく、被弾した箇所によって色が変わる特殊なペイント弾です。被弾したペイント弾の色によって、小破、中破、大破の3段階で判定するんですよーだ」

 

 俺の疑問に答えながらも机に頬っぺたを着けて拗ねる雪風。割りとご立腹なご様子で。からかい過ぎたか。

 

 しかし、演習とは言えどもなるべくベストコンディションで挑んでもらいたいってのは俺の我が儘かな。このまま演習に行って実力を出し切らずに終わっちゃいそうだし、艦娘のコンディションも保つのも提督の仕事って言うし。

 

 ここは、この手がいくか。

 

「雪風、今日の演習で活躍したら美味いもん食わせてやるよ」

 

「本当ですか!!」

 

 俺の言葉に、雪風はガバッと飛び起き、机の上で声を張り上げる。飯1つでここまで変わるのか。もうちょっと良い条件でやる気を出してほしいものだ。まぁ、単純なのかバカなのか、扱いやすいことには変わりないから良いけど。

 

「こうしちゃいれません!! 間宮さん!! 早くご飯お願いします!!」

 

 俄然やる気を出した雪風は机から飛び降りて、間宮にキラキラとした目を向ける。その姿に苦笑いを浮かべた間宮は奥に引っ込み、燃料と先端が丸い弾薬――恐らくペイント弾であろうものをトレイに乗せて持ってきた。

 

「しれぇ!! 必ずですよ!!」

 

 間宮からトレイを受け取った雪風は念を押すようにそう言うと、すぐさま近くのテーブルに飛んでいった。手早く補給を済ませて艤装の手入れでもする気か。

 

 まぁ、やる気を出したんだから気にすることねぇか。取り敢えず、自分の飯を作ろう。

 

 その後、俺が作った朝食たちを前に手を合わせる横に、同じように手を合わせる雪風が居たのは言うまでもない。



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『兵器』への試み

 今日行われる演習は、海上に設置されたコースを艦娘たち疾走し途中に設けられた深海棲艦を模した的を狙撃、その際のタイムと命中率を競うスコアアタックと、艦隊同士の模擬戦闘の二つが行われる。

 

 スコアアタックのコースは海上に浮きと浮きをロープを括り付けて作られた簡易なものだが、幾重にも張り巡らせたロープ、そして緩急を考えられたコースの幅を見るに、小回りの利く艦娘ではないと完走すら難しそうなコースだ。

 

 ロープに触れたり、転倒した場合に応じてタイムを加算されると考えると、高度な旋回技術とバランス感覚を要求される。そこに射撃技術も要求される、か。過酷なスコアアタックだこと。

 

 模擬戦闘に関しては文字通り、艦隊同士の砲雷撃戦だ。実際の戦闘に少しでも近づけるため、また様々な戦略を各艦隊が研究するために参加する艦娘は回によって多種多様を極め、演習において同じ艦隊が出てきたことは少ないらしい。その数少ない艦隊たちは、現在の主力に抜擢されているのだけど。

 

 また、その際使われる弾薬は先端が丸くなっており、そこに被弾した時の衝撃に応じて変色する特殊な塗料が練りこまれているらしい。色に応じて判定が決まっており、黄色は小破、オレンジは中破、赤は大破だ。大破判定を受けた艦娘は戦闘続行不可能となり、即座に砲撃を中止して陸に帰投、戦闘が終わるのを待っているらしい。

 

 勝敗は両艦隊の被害で決まる。僚艦よりも旗艦が大破するとほぼ負け確定らしいので、旗艦となる艦娘はスコアアタックに要求される技術の他に、目まぐるしく変わる戦況と僚艦の状態を掌握する広い視野と即決能力、卓越した指揮能力が要求される。

 

 勿論、旗艦の被害を最小限に抑えるために僚艦たちにも同じ能力を要求されるわけだから、僚艦と言えども簡単なわけじゃない。それをそこまで歳のいっていない女の子たちがやる、と。本当に艦娘ってのはハイスペックなんだな。

 

 まぁ、これが演習の主な流れだ。これの他に、上空に浮かぶ気球を打ったり、水面に浮かぶ的に魚雷を放つ射撃訓練や、その時の波や潮の流れを利用した操舵訓練もあるとか。演習の内容は日によって変わるようで、四季によって様々な戦況を疑似出来る日本ならではの方法ってか。

 

 てか、スコアアタックの方はいいが、後者の模擬戦闘に関しては普通他の鎮守府とやるものだろ。大方、金剛が良しとしなかったんだろうけど。

 

「提督、こちらになります」

 

 ボケっと眼下に広がる海を眺めていると、後ろから声を掛けられた。振り返ると、眼鏡をかけたセーラー服姿の艦娘が書類の束をこちらに差し出していた。

 

「お、ありがと。えっと、大淀だっけ?」

 

 お礼を述べながら書類を受け取ると、彼女は無言のまま一歩下がり、軽く頭を下げた。その際、胸元の花をあしらった厨子飾りがその動きの合わせてゆっくりと垂れる。

 

「はい、大淀型軽巡洋艦1番艦、大淀です」 

 

「俺は先日着任したばかりの明原だ。よろしく」

 

 頭を上げながら自己紹介をした大淀に、俺も軽く頭を下げて自己紹介をする。頭を上げた際、大淀と目が合ったが、彼女がすぐさま逸らして手に持つ資料に目を落とした。やっぱり、そう簡単に距離を詰められないか。

 

 まぁそんなわけで、俺は今、演習が行われる工廠近くの海岸にある見張り台にいる。雪風と別れた後フラっと横に彼女が現れてここに案内され、演習の内容を彼女の説明と手元の資料で教わったわけだ。演習を教わってから居座っているこの見張り台は、眼下に広がる広大な海を一望でき、艦娘たちが行う演習を隅々まで見渡すことが出来る場所だ。まぁ、見張り台だから当たり前だけど。

 

 ちなみに雪風とは海に着いたときに艤装の最終点検をしてくるとのこのことで別れた際、朝の約束を念押しされたのはどうでもいいことか。これから事あるごとに飯を要求してくると考えると、割とめんどくさいな。まぁ、それでモチベーションを上がってくれるなら安いものか。

 

 そんなことを考えながら、眼下で行われている駆逐艦たちのスコアアタックを見つめる。

 

 今まで挑戦した駆逐艦の殆どは複雑に入り組むコースを難なく突破、道中にある的にもほぼ全て当たっている。勿論複雑なコースに悪戦苦闘したり射撃が得意でない子もいるが、そういう子に限って最速のタイムを叩きだしたりすべての的を当てるなど、得意不得意に関わらずなかなかの練度を誇っている。

 

 しかし、ゴールした駆逐艦たちの顔には嬉しそうな顔が一切浮かんでいないのが玉に瑕か。こんなもん、朝飯前ってか。

 

「大淀、この演習で優秀な成績だった奴に何かあげるとかしているのか?」

 

「私たちは戦うために生まれた『兵器』です。褒美(そんなもの)、いりませんよ」

 

 俺の問いに、大淀は俺を見ることすら億劫なのか、資料から一切目を離さずにそう言ってくる。そんなさらっと『兵器』とか言わないでくれよ。昨日のことで軽く意識しちまう言葉なんだからさ。

 

 しかし、あれだけの練度から、彼女たちが積み上げてきた努力は並大抵の事じゃないだろう。それをさも当たり前の様に扱うのは、少々気が引けると言うもの。また、その驕り高ぶったものがいつ慢心に変わるかもしれない。それだけは避けなければならない。

 

 常に高いパフォーマンスとモチベーションを維持するためにも、何かしら考えた方がよさそうだ。

 

 そんなことを考えていると、次は駆逐艦よりも少し背の高い艦娘がスタートラインに立った。駆逐艦以外なら、軽巡洋艦か。こちらも駆逐艦ほどではないが割と若いな。

 

 黒髪のおさげが海風で軽く揺れ、腰に大きなポケットの付いた濃い目の緑色のセーラー服を着ている。両腕には主砲と副砲がそれぞれ、日差しを浴びて黒く光っていた。そんな海の上に佇む姿は、先ほどまでの駆逐艦と比べると幾分か様になっているといえよう。

 

 しかし、彼女も駆逐艦たちと同じように無表情のまま前方を向き、スタートの合図を待っているのが残念なところか。やがてスタートの合図が放たれ、彼女は勢いよくスタートを切る。

 

 最初の難関である縦に並んだ浮きの間をジグザグに進むのを難なく突破し、最後の浮き近くにある的を通り過ぎ様に副砲で当てた。そのままスピードを上げ、次の急カーブに差し掛かる。彼女は身体の重心移動を利用してほぼスピードを落とさずにカーブを突破、的も副砲で難なく当てる。しかし、彼女は無表情のまま更にスピードを上げ、コースを疾走していく。

 

 今まで見てきた駆逐艦とは一線を引く、極限に無駄を省いたその速さと的を射抜く正確さ。これが、旗艦を担う軽巡洋艦か。演習といえども、やっぱりその練度の高さを垣間見えることが出来る。

 

 しかし、逆に極限に無駄を省いた旋回技術とどんな体勢からも正確に射貫く射撃技術からは人間味が一切感じられない。やはり、『兵器』として生きてきた賜物なのか、と思うと寂しくなる。

 

 そんな恐ろしいほど正確にコースを走り抜けた彼女は、ゴールした後も何事もなかったかのように陸へと向かう。それとすれ違うように、次の軽巡洋艦がスタートラインに向かっていた。

 

「あれ、天龍じゃん」

 

 そう言葉を漏らす俺の視線には、先ほどの少女とすれ違ってスタートラインに向かう天龍が写っていた。砲門を引っ提げていく彼女の腕には、何故か独特の形をした刀のようなものが握られている。これって砲撃で的を射抜くんだよな。あれで切っても加算されるんだろうか……。

 

 ん? あれが使えるかもしれんな……。

 

「どうしました?」

 

 ふいに声をかけられ、横を見るといぶかしげな顔の大淀が覗き込んでいた。ふいに頭の中に浮かんだ考えに、無意識のうちに声を出していたようだ。しかし、これは使えるぞ。

 

「大淀、今から演習場まで連れて行ってくれないか?」

 

 

◇◇◇

 

 

「こちらです」

 

 なおも訝しげな顔の大淀に案内され、見張り台からスコアアタックが行われている艦娘が待機している簡易テントにたどり着いた。中には演習が終わったもの、これからのものでごった返している。そんな中を入っていくのは割と度胸がいるな。

 

「よぉ、天龍」

 

 その中で、唯一顔見知りである天龍と龍田を見つけ、さっそく声をかける。今まで楽しそうに会話をしていた二人は俺のほうを振り向くと、同時にその表情をしかめっ面に変えた。相変わらず歓迎されてないな。

 

「……なんでここにいるんだ? 金剛の話では見張り台から見てるんじゃなかったのかよ」

 

 金剛のやつ、そんなこと言いふらしているのかよ。てか、それって俺が見張り台にいることを演習に参加している艦娘たちは知ってるってことだよな。仮にとある艦娘の手元がくるって見張り台を砲撃しちまう、ってことになったかもしれないのか? んなことありえないわ、って断言できないのが地味に辛い。

 

「まぁ、こうして自分からノコノコ来てくれたからいいか。見張り台を砲撃する手間も省けたってわけだし」

 

 そんなことを言いながら、天龍は薄笑いを浮かべて近づいてくる。っておい、今ボソっとやばいこと言わなかったか? 早めにこっち来て正解だったわ。なんて呑気な考えは、突然手を振り上げてきた天龍によって断ち切られた。

 

 ダァン!! と、俺の顔のすぐ横の壁に彼女の腕がたたきつけられる。割と強かったためか、発せられた音によって周りで騒いでいた艦娘たちの視線が集まる。

 

「んで? なんでてめぇはわざわざこんなところに来やがった? (これ)の錆にでもなりに来たのか?」

 

 凄みを聞かせた声と鋭い目つきを向け、携える刀を口元に持っていってその先をペロリと舐める。厨二病全開のしぐさが、その表情、短い黒髪に武骨な眼帯、切れ長の目つきなど、本来彼女が持つ容姿も合い余ってなかなかに様になっているのがなんか癪だ。しかし、こうして周りの目を集められたのはありがたい。

 

「そんなんじゃねぇよ。ちょいと、思いついたことがあって来ただけだ」

 

 そう言って、天龍の腕をスルリと抜けて他の艦娘たちの視線の中を歩く。俺の反応が面白くなかったのか、天龍はつまらなさそうに頭を掻き、近づいてきた龍田ともども俺を訝しげな目で見てくる。

 

 そんな友好的ではない視線にさらされながら歩き、ステージのような場所を見つけてそこに上がる。上がって改めて艦娘たちを見回すと、予想通りといっていいか見渡す限りの彼女たちの顔には訝しげな表情が浮かんでいた。いきなり俺が現れて、勝手に注目を集めているんだ、仕方がないか。

 

 

「えぇ、あぁ……先ほどまでの演習、遠くからだが見させてもらった。着任したばかりでほとんど目の肥えていない俺が言うのもなんだが、素人の俺から見ても素晴らしい練度だと思う」

 

 ……ヤバい、こうも友好的でない視線に晒されながらしゃべるのがここまでつらいモノとは思わなかった。俺が発するごとに、艦娘たちの顔に不満の色が募っていくのが怖い。ビビりまくりの俺を見てか、天龍がニヤニヤ笑っていやがる。でも、今はそんなこと気にしている暇じゃねぇ。

 

「しかし、練度が高いからと言って日々の訓練や出撃で気の抜くのは絶対にダメだ。それが慢心を生み、自分たちを傷付ける、最悪の場合轟沈しちまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならない。これは、常に肝に銘じてほしい」

 

 言葉の一つ一つを言うたびに艦娘たちの顔に皺が刻み込まれていく。そんなことお前に言われなくても分かってるわ、とでも言いたげだな。しかし、本題はここからだ。

 

「……なんて、俺が言ったところであんまり意味がないのは分かってる。そんなこたぁお前らが一番分かってることだ。でもな? 今日の演習を見る限り、誰一人としてそんなことを念頭に置いてやっている奴は一人も見受けられなかったんだよ。だから、俺が改めて言っているわけ。お分かり?」

 

 突然砕けた口調になったせいか、殆どの艦娘が驚いている。しかし、それは次第に先ほどよりも敵意がにじみ出ているものに変わっていく。ちょっと砕け過ぎたか。まぁ、反応としては上々だろ。

 

「まぁ、常にそんなことを考えるなんて難しいわな。偉そうに言っている俺だってずっと続けられる自信はねぇよ。そんなの続けたら肩凝っちまうしな。見返りでもあれば別だけどよ」

 

 言葉と共に肩をぐるぐる回してめんどくさいアピールを加える。それに、何人かの艦娘が同感するように頷き始めた。これはいけそうか。

 

「んで、ここで1つ提案だ」

 

 そこで言葉を切って、目の前にいる艦娘一人一人の表情を見る。全員、俺が次に続ける言葉に興味津々のようだな。さっきまで敵意がにじみ出ていた視線も少なくなってる。

 

 

 

「今日の演習から、各艦種で一番の成績を残した奴に間宮アイス券を進呈する」

 

 そう言い放った瞬間、艦娘たちの顔から表情が消えた。おそらく、俺が発した言葉の意味を理解しているんだろう。そして、言葉の意味を理解した各所から驚きの声が上がり始める。

 

「もちろん、これは演習に限らずこの鎮守府で行われる戦果に応じて進呈するつもりだ。しかし、何分思いつきだから今すぐ全てのことに反映させるのは難しい。取り敢えず、まずは演習の最優秀者にアイス券を進呈する。演習が終わり次第、成績を確認してそいつを何らかの方法で呼び出すから来るよ―――」

 

「ま、待ってよ!!」

 

 俺の声を遮ったのは天龍であった。先ほどの涼しげな顔から一変、真っ赤になりながら噛み付かんばかりに睨み付けてくる。

 

「え、演習は各艦娘の正確な練度を確かめて向上させていくものだ!! さっきの演習、あれは本気の半分も出してねぇから正確な成績じゃねぇ!! 俺の練度ならもっとすげぇ成績を叩きだしてやる!! だから……だからもう一回演習をさせろ!! な!! 良いだろ!!」

 

 真っ赤な顔を上げながらそんなことをのたまう天龍。大方、さっきの成績で一番になるのは不可能と判断して、もう一回演習をして一番を狙いに行く算段だろう。

 

「それに関しては、手を抜いた(・・・・・)お前が悪い。今後の教訓にするんだな」

 

「で、でも!!」

 

「それに、お前には昨日渡したばかりだろうが。少しは自重しろ」

 

 最後の一言が効いたのか、天龍は押し黙る―――――いや、その言葉に周りの艦娘がどういうことなのかと天龍を問い詰めてくるから突っかかれなくなっているだけか。まぁ、自業自得と言うものか。

 

「提督ぅ。昨日食べたアイスでお腹を壊したから部屋に帰るわねぇ~」

 

「おう、気を付けてな」

 

「なぁ、龍田てめぇ!? 一人だけ逃げんな―――」

 

「逃がしませんよ天龍さん!! 先ほどの提督の言葉はどういうことですか!!」

 

 クスクスと笑いながら龍田がそう言ってきて、俺の横をスルリと抜ける。裏切られた天龍は龍田の後を追おうとするが、周りを他の艦娘たちにがっちり固められているため動けず、一人走り去っていく相方を恨みがまし気に見つめることしか出来ないようだな。

 

 さて、俺もここに居たら天龍の二の舞になりそうだし。今のうちにずらかるか。

 

「提督……」

 

 天龍と他の艦娘がギャーギャーと騒ぐテントを抜け出すと、訝し気な顔をした大淀が迎えてくれた。

 

「悪い大淀、次は模擬戦闘組の待機所まで案内してもらえるか?」

 

 苦笑いを浮かべながらそう言うと、大淀は訝しげな顔のまま溜め息をついてクルリとあちらを向いて歩き出す。連れて行ってくれるんだろうか。ならいいや。

 

「……貴方が最初だったら良かったのに」

 

「ん? 何か言ったか?」

 

「何でもありませんよ」

 

 ボソリと聞こえた大淀の言葉がよく聞き取れなかったので問いかけてみるも、その答えが返ってくることはなかった。



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『兵器』の心情

 スコアアタック組の怒号にも似たばか騒ぎを背に受けながら大淀の後を追い、そこから数分ほど歩いたところにある模擬戦闘組の簡易テントにたどり着いた。

 

 しっかし、見つけたときに思ったが、スコアアタック組のテントよりも一回り大きなテントだ。手元の資料を見る限りここには12人の艦娘しか居ない筈だが、戦艦や空母とか艤装の大きな艦種が揃っている、また最終メンテナンスを行うために広く作られているわけか。

 

「こちらです」

 

 模擬戦闘組のテントをボケッと眺めていたら、入り口に立っていた大淀が声をかけてくる。それに手を上げ、彼女に従ってテントに入った。

 

 中は、正面に工厰前の海の地図が貼られた大きな黒板がある広間、そして各艦隊毎に区切られた広いスペースがあり、そこで模擬戦闘を行う艦娘達が艤装のメンテナンスを行っていた。

 

 俺たちが入ってきた瞬間、その場にいた全ての艦娘がこちらを向き、一様に呆けた顔になる。こんなところに俺が来るなんて思ってもみなかったんだろうな。普通、演習前の控え室に提督来ないし。

 

「しれぇじゃないですか!!」

 

 そんな呆けた顔の艦娘の中で黒板と向かい合って海図を睨んでいた雪風がこちらを振り向き、パアッと顔を綻ばせて歩み寄ってきた。そう言えばこいつ今日の演習に参加するんだったな。

 

「どうされたんです? こんなところに」

 

「いや、演習前に様子が見たくなってな。んで……」

 

 近付いてきた雪風の頭を撫でながら固まっている艦娘たちを見回し、手元の資料で名前と顔を当て嵌めていく。……確認のために名前を呼んでいけばいいか。

 

「えっと……まず長門は?」

 

「……私だ」

 

 俺の言葉に、一番手前で腕を組んでブスッとした顔で佇んでいた艦娘――――長門が声を出す。某時空警察みたいな格好が長門か。うん、失礼な覚え方だと自負はしてる。

 

「次、扶桑」

 

「……はい」

 

 次に声を出したのは、長門の後ろで椅子に腰掛けていた艦娘――――扶桑だ。見た目は大和撫子と言われそうな肌の白さに端正な顔立ちをしているが、どうも彼女がまとっている空気に薄暗さを感じるのが勿体無い。俺に名前を呼ばれた後、「不幸だわ」って聞こえた気がするけど気のせいだよな。

 

「えー、日向」

 

 今度は声ではなく、扶桑の反対側で艤装のメンテナンスをしているおかっぱヘアーの艦娘―――日向が軽く手を上げる。彼女は上げた手をすぐ下ろし、目の前に置かれた偵察機のメンテナンスにをし始める。……一機一機愛おしそうに眺めながら丁寧にメンテナンスするその姿に危険な臭いがしたのは気のせいでありたい。

 

「次は、龍驤」

 

「はいよ~」

 

 今度は日向の横から演習前とは思えない間の抜けた声が上がった。そこには陰陽師のような紅と黒の和洋折衷衣装を身にまとい、頭にはサンバイザーを着けた小柄な少女が手をヒラヒラとさせていた。

 

 ……『軽』とはいえ本当に空母か? 見るからに駆逐か―――

 

「何考えとるか知らんけど、モノによっては爆撃するで?」

 

 自分を見て黙りこんだ俺に不適な笑みを浮かべてそう言ってくる龍驤。その手には艦載機の形を模したお札が握られている。左手に持つ飛行甲板が書き込まれた巻物を見るに、巻物が飛行甲板でお札が艦載機ってわけか。てか、これ以上黙ると勘違いされかねないから次にいこう。

 

「次は……隼鷹」

 

「はい」

 

 不敵な笑みを向けてくる龍驤の後ろ、何故か畳が敷かれている上で正座している艦娘――――隼鷹が静かに声を上げる。演習前の精神統一かな。薄紫色の奇抜な髪形に龍驤と同じ陰陽師のような紅と白の和洋折衷衣装を身にまとい、それを押し上げる金剛にも引けを取らない立派な胸部装甲を有している。

 

 やっぱりさっきの子は駆逐か―――――

 

「どうやら爆撃をご所望らしいなぁ? いてこましたろか?」

 

 いつの間にか真横に来ていた龍驤がすがすがしい笑みを浮かべて俺の袖口を握ってくる。自重した方がよさそうだな。てか、何でお前俺の考えてること分かるんだよ。

 

「ただの勘や」

 

「あっそ」

 

 何故か自慢げに胸を張る龍驤は置いといて、手元の資料に目を落とす。えっと、次は――――

 

 

「司令官」

 

 不意に横から声を掛けられて振り向くと、黒髪セミショートに何処にでもありそうなセーラー服を身にまとった艦娘が立っていた。顔は俯いているため見えないが、腰のあたりで固く握りしめられた拳がブルブルと震えている。

 

「どうした? ええっと……」

 

「特Ⅰ型駆逐艦……吹雪型、1番艦の吹雪です」

 

 手元の資料と照らし合わせようとしたらその艦娘――――――吹雪が絞り出すような声で自らの名前を告げる。彼女はなおも俯き続け、握りしめる拳は血がめぐっていないのか白くなっている。

 

「昨晩、司令官が部屋のドアを蹴破って出て行くところをお見掛けしました。……その後出てきた半裸の榛名さんも」

 

 吹雪の言葉に、テント内の空気が一瞬で凍り付く。周りの艦娘達の顔から表情が消えさり、ゆっくりとこちらに視線が集まる。視線の中の一つであった長門と目が合った瞬間、全身の血の気が引くのが分かった。

 

 金剛や潮が向けてきたものとは違う、純粋な『殺意』の目だ。

 

「ま、待ってくれ!! それは誤解だ!!」

 

「分かっています、榛名さんに迫られたんですよね? それが金剛さんの命令だと勘違いされたのも知っています。全部分かってます。怒りに任せて金剛さんを問い詰めたことも……分かっています。分かっています……」

 

 俺に、と言うより自分に言い聞かせているようにつぶやき続ける吹雪は、あれだけ固く握りしめていた拳を解いた。一気に血がめぐってきた手は赤く紅潮し、所々血管が浮き出ている。

 

 

「ただ、一つお願いがあります」

 

 消え入りそうな声でそう言った吹雪。不意に、その身体が上下に揺れた。彼女の身体は先ほどよりも半分程度の高さになり、やがてその頭が重力に従う様にゆっくりと前に倒れる。下がり切った頭の前に、未だに赤い両手が添えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 早い話、土下座されたのだ。

 

 

「吹雪!! 何をやって―――」

 

「お願いです!! どうか……どうか金剛さんを責めないでください!! これ以上!! あの人を追い込まないでください!!」

 

 長門の声をかき消すように発せられた吹雪の悲痛な叫びに、俺を含めた周りの艦娘たちの動きが止まる。遠い昔、連合艦隊の旗艦を務め、世界にその名を知らしめた戦艦長門を、火力、装甲共に足元にも及ばない駆逐艦吹雪が、言葉(・・)で抑え込んだのだ。

 

「枯渇した資材は私が死に物狂いで働いて貯めます!! どんな危険な偵察も私が必ず成し遂げてみせます!! 弾や燃料が尽きようが補給はいりません!! どれだけ傷つこうが入渠もいりません!! ずっと……ずっと最前線で戦い続けます!! あの人の足りないところは全て私が補います!! ご希望なら伽のお相手も致します!! どのような命令にも必ず従います!! ……どうか、どうかあの人を責めないでくださいぃ……」

 

 怒号にも似た吹雪の言葉は、やがて嗚咽交じりの泣き声に変わった。必死に床に頭をこすりつける吹雪。その顔がどのようになってるか、見るまでもないだろう。

 

「お願いします……お願いします……どうか、どうかあの人を……。そのためなら……そのためならご――」

 

「吹雪ッ!!」

 

 吹雪が言いかけた言葉を、今まで聞いたことのないような怒号が掻き消す。それは、先ほど吹雪に遮られた長門が発したものであった。怒号によって吹雪の言葉が断ち切られるとすぐさま長門が彼女に歩み寄り、その襟を掴んで無理やり立たせ、ズイッと顔を近づける。

 

 

 

「その言葉、二度と言うな」

 

 横顔だけで背筋が冷たくなる剣幕と、腹の底にズシリと響く長門の低い声。それを目前で受けた吹雪は、小さな嗚咽を漏らしながら頷いた。それに長門は掴んでいた襟を離し、子供をあやす様に吹雪の身体を抱きしめる。

 

 しばらく、テント内は吹雪の漏らす嗚咽とそれに優しい言葉を掛ける長門の声が響くだけであった。

 

 

 

 

「提督よ」

 

 その沈黙を破ったのは、吹雪を抱きしめる長門だった。

 

「もうすぐ演習が始まる時間だ。私たちも準備があるから、そろそろ出て行ってもらえないだろうか?」

 

「や、でもよ……」

 

 長門の言葉に反論を述べながら、俺の視線は彼女の胸の中にいる吹雪に注がれる。そんな状態で、演習なんか出来るのか。へんに怪我されたら元も子もないし。

 

「安心しろ、この子には(ビック7)がついている。僚艦に下手な被害を被らせないよう動くことなど、造作もないことだ」

 

「だ、だけど……」

 

「話の通じない人やな~」

 

 長門の言葉に渋る俺に呆れた表情で肩をすくめる龍驤が間に入ってきた。そして、その表情が解ける様に消え去る。

 

 

「要するに、『今ここできみが出来ることなんて一つもあらへん。だからとっとと失せろ』ってことや」

 

 抑揚のない声でそう言われ、同時に氷のような冷え切った視線を向けられる。……確かに、今ここで俺が渋ったところで出来ることなんてないし、そのせいで演習開始時間が遅れるのは避けたい。ここは、長門達に任せた方がいいか。

 

「……分かった。頼んだぞ」

 

「話の分かる人で助かるわぁ~」

 

 俺の言葉に、龍驤はそう言いながら表情を緩めた。そして、少し移動してテントの出口を指さす。早く出て行けってことだな。これ以上ここにいても意味はないし、行かせてもらおう。

 

「しれぇ……」

 

 出口へと向かう途中、心配そうな表情の雪風が声をかけてきた。……そう言えば、ここに来た目的を言い忘れていたな。

 

「雪風、出来たらでいいから演習で成績が良かった奴に間宮アイス引換券を渡す、ってのを伝えておいてくれないか?」

 

「……了解しました」

 

 俺の言葉に、雪風は渋い顔で承諾してくれた。いつもなら手を叩いて喜びそうな雪風だが、やはり周りの空気を察したのか。取り敢えず、これでここに来た目的は果たしたな。

 

「じゃあ、また」

 

 俺はそう言い残してテントを出た。それに今まで黙っていた大淀が慌ててテントから出てきて、俺に追いつくと並ぶように歩き始める。

 

「提督……」

 

「そろそろ演習が始まる。見張り台へ戻るぞ」

 

 何か言いたげな表情の大淀にそれだけ言うと、歩くスピードを上げた。悪いが、今誰かと話をする気はない。俺の心情を読み取ったらしき大淀は小さくため息を零し、それに追いつこうと大淀もスピードを上げた。

 

 そのまま、俺たちは一言もしゃべることはなく見張り台へと向かう。その道中、多くの艦娘たちが海岸へと向かって歩いていく姿を見た。模擬戦闘の観戦でも行くのであろう。普段、訓練ばかりの艦娘たちにとっては一種の娯楽なのかもしれないな。

 

 その中に曙と潮の姿を見かけたが、彼女たちは俺に気付くとすぐさま走り去って行ってしまった。割とメンタルに響くからやめてもらいたい。

 

 そんな艦娘たちを尻目に見張り台に辿り付いたとき、ちょうど演習が始まる直前だったらしく、模擬戦闘組が海を移動している姿が見える。

 

 先ほど顔を合わせたメンツが海面を滑る様に移動している中、主砲である連装砲を携えた吹雪が見えた。時折袖で顔を拭っている辺り、まだ万全と言った感じではないみたい。時折、長門が近づいては離れてを繰り返しているし。

 

 そこに、今まで傍に控えていた雪風が吹雪ではなく長門に近づいていき、何か耳打ちした。それを受けた長門はすぐさま吹雪に近付き、同じように耳打ちする。その瞬間、吹雪の顔が目に見えて明るくなった。

 

 アイスの件を伝えたのか? それ以降、長門も近づかなくなったし、袖で顔を拭うこともなくなった……何とか演習は大丈夫そうだな。

 

 そして、海上を移動していた艦娘たちはやがて6人に分かれ、それぞれ対峙するように陣形を整えていく。模擬戦闘とは言えども、いよいよ艦娘たちの戦闘が見られるのか。

 

 深海棲艦に唯一対抗できる存在―――――『艦娘』。先の大戦で沈んだ戦艦たちの魂が乗り移ったと言われている彼女たちであるが、その姿形は俺たち人間とそこまで変わらない。しかし金剛が言ってたように、彼女たちには深海棲艦を屠り去る砲門があり、海の上を滑る様に走る艤装がある。それは、深海棲艦に歯が立たない俺たち人類の最後の希望と言ってもいいだろう。

 

 そんな彼女たちがどのように戦場を駆け巡るのか、誰しもが一度は見てみたいと思うモノだろう。

 

 

 やがて、隊列が整った艦娘たちは海の上で静かに佇む。もうすぐされるであろう、演習の合図を待っているのだ。

 

「そろそろですかね」

 

 海上に揃った艦隊を見て、大淀がそう声を漏らす。そして、手に持っていた書類を足元に置き、砲門を具現化させて頭上に向けた。どうやら、彼女の砲撃が開始の合図のようだ。てか、こんな近くで砲撃されたら俺危なくね?

 

「提督、危ないですから少し離れていてください」

 

 俺の心を読んだ大淀にそう諭され、彼女から一定の距離を開ける。それを確認した大淀は俺から頭上に向ける砲門に視線を移し、空いた手で砲門を具現化する腕を押さえる。そして、大淀は力むように一瞬顔をしかめた。

 

 次の瞬間、ズドン!! と腹の底に響き渡る音が聞こえた。しかし、音とは裏腹に砲撃の衝撃は一向に俺に襲ってこない。衝撃が襲ってこない理由は簡単だ。

 

 

 

 

 

 すぐそばで、砲撃がされていない(・・・・・・)からだ。

 

 何事かと目を向けると、そこには飛び降りんばかりに見張り台から身を乗り出している大淀。身を乗り出している彼女は顔を真っ青にさせながら倒れるのかと思うほど勢いよく仰け反り、次の瞬間耳をつんざくような声を上げた。

 

 

 

 

 

「て、敵機襲来!! 総員、建物内に避難してくださぁぁぁぁいっ!!!!」



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『提督』としての采配

「キャ!?」

 

 大淀の悲痛の叫びは、無数の爆発によって掻き消され、同時に突風が襲ってくる。それに押された大淀はよろめきながら後ろに倒れた。

 

「大淀!」

 

 すぐさま倒れた大淀に駆け寄り助け起こす。痛みに顔をしかめているものの、動けないほどではないようだ。手を貸して大淀を立ち上がらせ、俺は見張り台から身を乗り出して眼下を見る。

 

 

 そこには、恐怖の色を浮かべて逃げ惑う駆逐艦、軽巡洋艦たちの頭上を無数の黒くいびつな形をした飛行物体――――深海艦載機がハエの様に飛び回っていた。

 

 見渡す限り、艦載機以外に敵の姿は確認できない。おそらく襲ってきたのは艦載機のみか。だが、海上に浮かぶ駆逐艦や演習の的と違って、空を自由に飛び回る艦載機を狙撃するのは難しい。駆逐艦や軽巡洋艦には不得手な相手だ。

 

 しかも、今眼下の艦娘たちは実弾ではなくペイント弾しか撃つことが出来ない。飛び回る艦載機の機体が赤や黄色に染まっているのを見る限り、ペイント弾では艦載機を打ち落とせず、彼女たちは逃げ回ることしか出来ないみたいだ。大淀が総員避難を呼びかけたのも頷ける。

 

 しかし、深海艦載機は眼下を逃げ惑う艦娘たちをあざ笑うかのように機銃の一斉掃射を浴びせ掛ける。それに被弾して倒れる者、何とか掻い潜り被弾した艦娘を担いで引きずりながら逃げる者、被弾した者を目の前にして腰が抜けている者、歯を食いしばりながら砲門を艦載機に向けて砲撃する者など、時間稼ぎのために砲撃をしながら逃げ回る者の姿が見えた。

 

 そんな三者三様の反応を見せる艦娘たちに、今までいたずらに弾をばら撒いていた艦載機は一人一人を集中的に狙うことに切り替え、狙った艦娘を確実に無力化させていく。まるで、蟻を踏み潰す子供の様に、だ。艦載機に集中的に狙われた艦娘は呻き声を上げながら地面に這いつくばる。その身体からは少なからず赤い液体が流れ出していた。

 

 ……考えろ、今ここで最優先にすべきことは何だ? 

 

 まず、負傷した艦娘の保護だろ? そして艦娘たちの早期避難か。そのためには敵艦載機の目を艦娘から遠ざけねぇと……。

 

 同じような艦載機がいれば多少目を引きつけられるか? 今、ここに艦載機を発艦できるヤツは龍驤や隼鷹ぐらいしか知らねぇし……鎮守府内にいる空母たちから艦載機を発艦させればいけるか? 

 

 時間がかかるがこれしかない。

 

「大淀!! 今すぐ鎮守府にいる艦娘に応援要請を!! 特に空母だ、奴らの艦載機をすぐさまここに向かわせろ!!」

 

 横にいる大淀に怒号を飛ばすと、彼女は一瞬呆けた顔になるもすぐさま顔を引き締め耳に手を当てる。たぶん、無線機か何かで応援要請をしているのだろう。

 

 これで逃げ惑う艦娘たちの援護は出来る。あとは応援が来るまで眼下で反抗している奴らに持ちこたえてもらうしかないか。早くしなければ。

 

 ……ん? まてよ。襲ってきたのが艦載機なら、発艦した空母が近くにいるはずだ。これだけの艦載機だ、今ここにいるのが全てと考えにくい。艦載機を全て叩き落すよりも母艦である空母を叩いた方が後顧の憂いを絶てる。

 

「何処かに敵空母が潜んでいるはずだ!! 別動隊を組織し、鎮守府近海付近の哨戒にあたらせろ!!」

 

「すでに要請しました!! 提督も早く避難の方を!!」

 

 俺の言葉に大淀は力強く答え、同時に俺の腕を掴んでくる。一瞬その言葉の意味が分からなかったが、血相を変えて「早く!!」と叫ぶ大淀の顔を見てようやく理解できた。

 

 眼下の艦娘たちを見て分かる様に、彼女たちは被弾してもそこまで大きな外傷を負うこともなく、仮に大破などの大怪我をしようともドックに入れば時間はかかるも確実に治る。しかし、人間の俺は一発でも被弾すれば死ぬかもしれないし、ドックに放り込まれても彼女たちの様に治らない。

 

 この中で、一番死のリスクが高いのは提督である俺だ。

 

 本来、指揮を取る奴は身の安全が確保されたところで的確な指示を飛ばすものである。卒業直後のひよっこで的確な指示を飛ばす自信がないが、曲がりなりにも提督と言う立場だ。真っ先に避難するのが道理だ。

 

 でもな――――。

 

 

 

「悪い、敵前逃亡は性に合わないんでな」

 

 俺はそう言うと腕を掴む大淀の手を振り払う。再び腕を掴もうとする大淀の手を逃れ、俺は階段へと走り出した。

 

「ちょ!?」

 

「小言は後で聞くから許してくれ!! んで、大淀は応援の指揮と避難してくる艦娘の誘導を頼む!!」

 

 それだけ言い残し、俺は見張り台を飛び出して演習場へと走り出した。

 

 

◇◇◇

 

 

 

 見張り台を飛び出して演習場へと走る道中、避難してくる艦娘たちの一団と遭遇する。声をかける間もなくその横を走り去ったが、パッと見ただけでほとんどの艦娘が負傷していた。それだけ、演習場での戦闘が激しかったのだろう。

 

 艦娘ですら逃げる場所に向かっているんだ、傍から見たらただの自殺行為だよな。まぁ、俺みたいなのが一人消えたところで何の支障もないだろうよ。

 

 そんな感想を抱きながら走り続け、遂に演習所へとたどり着く。

 

 目の前には、爆撃や掃射によって破壊されたテントや物資が詰まった木箱が散乱しており、今だに火を燻らせる残骸や硝煙で見えないが、何処からともなく被弾した艦娘たちの呻き声が聞こえてくる。否が応にも漂ってくる硝煙の匂いと、そこに微かに混ざる鉄の匂い。それが、ここが戦場であることを物語っていた。

 

「てめぇ!? 何でこんなところにいやがる!!」

 

 そんな光景に言葉を失っていると、横から怒号が飛んできた。振り向くと、ボロボロの服を纏って鬼のような形相を浮かべた天龍が刀を携えて近づいてきていた。艦載機の掃射で被弾したのか、その肩と足は真っ赤に染まり足は引きずっている。

 

「天龍!! 無事だったか」

 

「んなことはどうでもいい!! 何でこんなところに居やがんだよ!! 死にてぇのか!!」

 

 近づいてきた天龍に肩を貸そうと駆け寄ったら、胸倉を掴まれて顔をズイッと近づけられる。顔を近づけられる際に肩の傷口が見え、割と激しい出血をしているのを確認できた。

 

「天龍、その傷じゃ満足に動けねぇだろ。動けるやつ連れて早く避難しろ」

 

「はぁ!? てめぇが言えることかよ!!」

 

 天龍にそう言ったら、当然のツッコミが返ってきた。まぁ、この中で一番死ぬリスクが大きい俺がそんなこと言っても説得力皆無だわな。

 

「てめぇが深海棲艦(やつら)に歯が立つかよ!! 人間風情が調子に乗ってんじゃねぇ!! 深海棲艦を殺るの『兵器』である俺の役目だ!! 人間(てめぇ)は動けるやつ集めて動けないやつに肩貸して避難してろ!!」

 

「なら、避難途中に敵に襲われたら誰がそいつらを守る? 人間(おれ)じゃあ歯が立たねぇから無理だぞ?」

 

 俺の言葉に天龍は顔を歪ませながら言いよどんだ。たった今、自分が言い放ったことをそのまま返されたんだ。こんな顔になるのも無理はない。

 

「なら、俺一人だけ逃げろってか? 艦娘の一人や二人運べる奴がいるのに一人も被弾した奴を助けずに逃げろって言うのかよ? それこそ助かるもんも助からねぇよ!!」

 

「だったら何で来やがった!! 足手まといにしかならねぇだろ!!」

 

 更なる追い打ちにかけると天龍は胸倉をつかむ力を強めながらそう吐き捨ててきた。確かに、俺が今ここで出来ることなんて何もないに等しい。だが、そんな俺でも出来ることはある。

 

 

「もうすぐ、うちの空母が出した艦載機が到着する。そうすれば、敵はそっちに気を取られてこっちの攻撃が緩くなるはずだ。その隙を狙って随時、避難だ。だから、それまで何とか耐えてくれ」

 

 俺がそう言うと、天龍は呆けた顔になる。言葉の意味が理解できない、とでも言いたげだ。俺の胸倉を掴む力が段々抜けていき、俺はそれを見計らって奴の手から逃れる。俺が自分の手から逃れたことでようやく気付いた天龍は、呆けた顔を俺に向け、次の瞬間噴き出した。

 

「っ……つまり、お前はそれだけを言うためにここに来たってことか?」

 

「ああ、その通りだ」

 

 そう言った瞬間、天龍は先ほどよりも盛大に噴き出し、腹を抱えて笑い始めた。んだよ、俺に艦娘たちと連絡を取る手段がねぇからこうして現場まで走って来たのに。それを笑うとはどういうことだ。

 

「何笑ってんだ。窮地にいる今なら士気うなぎ上り間違いなしの情報だぞ?」

 

「……っ、は……そ、それ、さっき大淀が無線で言ってたぞ?」

 

 え、マジで? 伝わってたの?

 

「大淀が全艦娘共有の無線で応援要請を飛ばしていたからな。残念だが、今ここにいる艦娘は全員知ってるだろうよ」

 

 嘘だろ……俺がここに来た意味よ。って、それなら俺ただの足手まといじゃん!! どうしよ、自ら死地に飛び込んじまったよ!!

 

「っ!? 退いてろ!!」

 

 不意に天龍が鋭い声を上げて俺を横に蹴飛ばし、それと同時に天龍自身も真横に飛ぶ。次の瞬間、機銃の発砲音が聞こえ、今まで俺たちが立っていた場所に無数の弾痕が穿たれる。

 

 敵艦載機に見つかっちまった!!

 

「天龍!! 大丈―――」

 

「頭下げてろ!!」

 

 俺の言葉は天竜の怒号で掻き消され、視界も天龍に頭を踏み付けられたことで塞がれてしまう。しかし、頭にのせられた彼女の足はすぐに離れ、同時に地面を蹴る音が聞こえた。

 

 顔を上げると、天龍が傍にあったテントの残骸を踏み台に大きく跳躍し刀を振り上げていた。その先に方向転換を行う艦載機の姿がある。

 

「おらァ!!」

 

 腹の底から吠える様に声を出し、天龍は艦載機目掛けて刀を振り下ろす。刀を振り下ろされた艦載機は綺麗に真っ二つに割れ、次の瞬間爆発を起こした。

 

「天龍!!」

 

 空中で爆風を諸に喰らった天龍は勢いよく吹き飛ばされる。空中を飛ぶ彼女を追いかけ、何とか地面に叩き付けられる瞬間に飛び出してその身体を抱きとめた。

 

「天龍!! 大丈夫か!!」

 

「っ……し、心配ねぇよ……」

 

 俺の言葉に天龍は強がってみせるがその言葉とは裏腹に両腕は爆風による火傷が痛々しく刻まれ、肩口の傷は先ほどよりも出血量が増したように見える。このまま放置すれば命の危険に関わるのは明白であった。

 

 抱き留めた天龍を地面に横たえた俺はすぐさま服の裾を破り、肩と足の傷口よりも心臓に近いところに固く結びつけて止血を行う。辺りを見回した際に水が漏れていたタンクを見つけ、それを持ってきて火傷の箇所にゆっくりとかける。大方かけ終わったら、服から破った布きれに水を含ませて患部に優しく巻き付ける。

 

「随分……手慣れてやがる……」

 

「喧嘩の絶えない学校時代だったから、応急処置はお手の物だ。だが、本当に応急処置だから早くちゃんとした治療をしてもらえよ」

 

 取り敢えず応急処置は済んだ。あとは、コイツを鎮守府まで運ばなくちゃいけねぇんだが……。

 

「天龍ちゃん!!」

 

 そんなことを思案していたら後ろから天龍の名前を呼ぶ声が聞こえ、振り向くと複数の駆逐艦を連れた龍田がこちらに走ってきているのが見えた。それと同時に、頭上からブーンと言う羽音が聞こえ始めた。

 

 

 ようやく艦載機が到着したようだ。これで、動きやすくなったな。

 

「提督、何でこんなところに……」

 

「話は後だ。龍田、天龍を任せてもいいか? 俺は他に動けるやつを集めて避難を呼びかけてくる」

 

 俺の言葉に龍田は一瞬驚いた顔をするも、すぐさま顔を引き締めて力強く頷いてくれた。それを見た周りの駆逐艦は天龍に駆け寄り、肩を回して何とか立ち上がらせる。任せても大丈夫そうだな。

 

「すまん、よろしく頼んだぞ」

 

「ま、まてよ……」

 

 そう言って駆け出そうとした時、天龍が声をかけてきた。振り返ると黒っぽい何かを投げ渡される。小さい割にズッシリと重いそれから、微かに人の声のようなものが聞こえてくる。

 

 

「俺の……無線機だ。そいつを使えば……指示が出せる……」

 

 天龍がか細い声でそう言うと、周りの艦娘たちは驚いたような顔になる。天龍が俺に無線を渡したのがそんなに驚くことなのか。

 

「いいのか?」

 

「むしろ……てめぇが欲しいだろ? 俺が持っててもしょうがねぇし……役立ててくれ。だからよ……」

 

 そう声を漏らした天龍は痛々しいやけどが刻まれた腕をあげ、握りしめた拳を向けてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「頼むぜ……『提督』……よ……」

 

「天龍!!」

 

 それだけ零すと、天龍の腕が糸が切れた人形のようにダランと垂れる。それに思わず駆け寄ろうとしたら、龍田に遮られた。俺を止めた龍田は天龍に近付いて様子を確かめ、やがて安心した様に一息ついてこちらを振り返った。

 

「気を失っただけみたいですから、安心してください」

 

「そ、そうか……」

 

 龍田の言葉に安堵の息を漏らす。いかにもな発言だったからまさか、って身構えた俺が馬鹿だったよ。艦娘の生命力を舐めてたわ。

 

「では、提督。よろしくお願いしますね」

 

 龍田はそれだけ言うと、天龍を抱えた艦娘たちを引き連れ足早に去っていった。さて、こっちもやることやらねぇとな。そう頭を切り替えながら、天龍から預かった無線機を耳に付ける。

 

『敵艦載機が予想以上に多く、海上に回せる数が足りません!! 更に増援をお願いします!!』

 

『無茶言わないで。主力が出撃していてただでさえ数が足りないのよ? こっちの守りも考えると、これ以上数を割けれないわ。それに避難している子がいる以上下手に攻撃も出来ない。だから、早く避難を終わらせてちょうだい』

 

 無線では悲痛な声の大淀と淡々とした口調の艦娘が言い争いをしているのが聞こえる。主力が出払っていて艦載機の数が足りないのか。まぁ、取り残された艦娘たちが居る以上、普通に戦えば誤って被弾するかもしれないから攻勢に出れない状況ってか。とにかく、艦娘が避難出来てないから自由に動けずに戦況が膠着しているわけか。

 

 なら、することは一つ。

 

「あーあ、言い争いに割り込んですまん。提督の明原だ」

 

 無線に割り込んで声を出すと、二つの息を呑む声が聞こえた。たぶん、大淀と先ほどの艦娘だろうな。

 

「返答を待ってる暇はねぇから手短に言うわ。艦娘の避難は俺が引き受ける。今、この無線を聞いていて演習場にいる奴は自分の居場所を伝えろ。そして、動けるやつはその情報を元に探し出してくれ。見つけ次第、または避難が完了したら無線で報告、大淀は避難してきた奴の確認を頼む。全員避難が完了したら改めて教えてくれ」

 

『情報量が多すぎるわ。発見、避難完了の報告は大淀か私への個人無線に回しなさい。その情報が入り次第、逐一報告すれば情報を整理しやすいでしょ。提督たちは場所の情報だけ頭に叩き込んでちょうだい』

 

 俺の言葉に、名前の知らない艦娘が助言を加えてくれる。確かに、場所の情報と発見、避難完了の報告を同じ回線でやったらパンクしそうだ。それなら、彼女が提案した案に沿った方が情報の錯綜は防げるな。

 

「よし、その案で頼む」

 

『……貴方を信じていいのね?』

 

 無線の先から、先ほどよりも温度の低い声が聞こえる。まぁ、いきなり無線に割り込んできた奴が勝手に指示を出しまくったら不審に思うか。しかも、彼女たちが嫌っている提督その人なら尚更だな。

 

「信じるか信じないかはこの際どうでもいい。今はこの状況を打破するのが先決だと思うが?」

 

『……そうね、この采配は良い判断ね』

 

 俺の言葉に、名も知らない艦娘はそうこぼした。先ほどの低い声より幾分か高い、そして安堵の息のような、そんな声色だった。

 

「と、いうわけだ。皆、頼むぞ」

 

『了解しました。提督もご武運を』

 

『それなりに期待してるわ』

 

 2つの返答を受け、俺は傷ついている艦娘たちを探すために硝煙が立ち込める演習場へと走り出した。



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『艦娘』と言う存在

『こちら大淀。負傷した駆逐艦の初雪、深雪、白雪3名の避難が完了しました』

 

「了解、あと何人残っているか報告を頼む」

 

 無線から聞こえてくる大淀の言葉にそう返しながら、俺は手元にある救助すべき艦娘の名前が書かれたメモから彼女らの名前にバツ印を付ける。今把握している限りの艦娘は救助できたみたいだな。そう思ったら、人知れず安堵の息を漏れた。

 

 そんな俺の傍らでは、倒れている駆逐艦を手早く介抱する数人の艦娘たち。介抱する彼女たちの身体には少なからず傷が目立つが痛みに顔をしかめることはなく、真剣な顔つきでてきぱきと応急処置を行っていた。

 

 俺が演習場を駆けずり回る間に遭遇した比較的傷が浅い艦娘は、俺の指揮下で艦娘たちの救助に一役買ってもらっている。勿論彼女たちも救助対象なのだが状況が状況な故、動けない艦娘を出来うる限り伴って避難することを強いているわけだ。立案したのが俺が言うのもなんだが、それによる彼女たちの負担が計り知れないほど大きいだろう。

 

 しかし、そんな過酷な状況下で介抱を続ける彼女たちの誰一人として弱音を吐くことはなかった。被弾して動けない艦娘を安全な場所に移動させ、手早く応急措置を済ませる。痛みに呻く艦娘の手を握り、やさしい言葉をかけて安心させる。自らの身体に近い、またはそれ以上の艦娘を背負って避難する。その際に彼女たちが浮かべる表情に、苦悶の色は無い。

 

 そこには、痛みや精神的重圧に押しつぶされそうなか弱い少女たちの姿はなく、過酷な状況下でも負傷した仲間を助けることに全力を尽くす一人の軍人の姿があった。

 

「司令、応急処置が終わりました」

 

 辺りを警戒しながら大淀の報告を待っていると、横の艦娘達から力強い声が上がる。救助した艦娘は駆逐艦1人と軽巡洋艦1人、対して彼女たちは駆逐艦3人。軽巡洋艦の体躯が割と大きいのを考えると、ここで避難させた方がいいな。

 

「よし、ならそいつらを連れて避難してくれ。報告に関しては俺からやっておく」

 

「了解しました!!」

 

 俺の言葉に駆逐艦たちは力強く応え、すぐさま動けない艦娘たちに肩を貸したり背負ったりと移動する準備を始める。こっちも報告しないと。

 

「こちら明原。駆逐艦、軽巡洋艦それぞれ1人ずつ確保した。名前は知らんが、場所は前の報告から少し北上した辺りだ」

 

『提督、その報告は大淀か私に個人でお願いって言ったわよね?』

 

 俺が無線に吠えると、無線の回線について進言した艦娘の若干イラついた声が返ってきた。

 

 確かに、彼女は情報の錯綜を防ぐために発見、避難の報告は自分か大淀の個人に報告しろと進言していた。しかし、今の報告は個人ではなく全体向けて発したものだ。彼女の進言が無碍にしているようなものだから、そんな反応が返ってきても無理はないか。

 

 

「悪いな加賀。回線の変え方が分かんねぇから全体で言うことしか出来ないんだよ。諦めてくれや」

 

『なら貴方に随伴する子たちに任せればいいでしょう。その子達の報告なら保護した子の名前や正確な座標が把握出来て、こちらとしてはものすごくやりやすいんだけど?』

 

 俺の言葉に、進言した艦娘―――――加賀が呆れた様な声を上げる。切り替え方を教えるって言う選択肢はないのね。まぁ、教えられたところでやるかどうかは分かんないけどよ。てか、他の艦娘達は座標で場所を報告しているのか。だが、この辺の地理を把握してねぇからそれは無理だ、諦めてくれ。

 

「着任したての新米提督だ。至らない点があるのは当然だろ? それに、提督の声を聞いて安心するってこともあるかもしれないし」

 

『貴方にまともな会話を求めた私が馬鹿だったわ。大淀、避難ルートに変更はないわ。護衛部隊をお願い』

 

『了解しました』

 

 おい、まともな会話出来てたろうが。そう文句を言おうとした、一方的に話を断ち切られてしまった。別に文句を言おうと思えば言えるが、それで情報の更新が遅れたら厄介だ。取り敢えず、避難に関しては大丈夫そうかな。

 

 俺が無線で指示を飛ばしてから、まだ1時間も経ってないか。今までの報告を聞く通り、逃げ遅れた艦娘たちの避難はあらかた終わったとみていいだろう。

 

 しかし、こうも短時間で避難が終わるとは思わなかったな。ぶっちゃけ、あの時勢いで言っちまったから後々穴が出てきた訳で、恐らく俺の立案だけではここまで事がトントン拍子で運ばなかっただろうな。

 

 俺の作戦は、被弾して動けない艦娘の早期発見を第一としたものであった。そのため、発見後の避難における対応が当事者任せという欠点があった。しかも、当事者自身も少なからず被弾した身だったため、避難における安全性がほぼ皆無という最大の痛手に繋がることとなり、早急にその対応を迫られた。

 

 しかし、その穴を埋めてくれたのが、加賀による艦載機を用いた避難ルートの確保、そして大淀による護衛部隊の組織である。

 

 加賀の進言は、敵艦載機を迎撃している艦載機に敵機がいないルートを割り出してもらい、または無理やりルートをこじ開けてもらうことで、安全な避難ルートを確保すると言うものだ。無論、同じルートばかりを使っていては敵機が狙ってくるので、艦載機部隊を統括する加賀の采配で頻繁にルートを変えて対応をしていた。これにより、襲われるリスクが低い避難が可能となった。

 

 それを補強する形をとる大淀の進言は、加賀によって確保された避難ルートを通る際のリスクを下げるために護衛部隊を組織、避難する艦娘を護衛させることで安全に避難できる体制を作り上げた。

 

 これにより、俺が立案した避難作戦は確実に機能することとなった。しかし、この作戦では膨大な情報量を扱うため、それを捌く役への負担が尋常じゃないぐらい大きいものとなる。が、加賀及び大淀の卓越した情報処理能力と指揮能力によってカバーするという荒業で何とか機能しているという状況だ。

 

 計画性がないと言われればそうだ。でも、これで回っている以上今はこれでやるしかない。破綻したらその時また考えればいいさ。馬鹿だけどよ。

 

 まぁ、加賀があれだけ軽口が叩けるし、大淀の声色に焦りは感じられなかったから問題ないっぽいし。大丈夫だろ。

 

『避難していないのは、軽巡洋艦の北上、そして駆逐艦の曙と潮です。なお、曙と潮に関しては海岸の方に走っていくのを目撃したとの報告がありました』

 

『それだけ避難できれば十分かしら。艦載機達には敵機撃破を命じます。全て撃破次第、海上に向かわせるわ』

 

 残り3人か。演習前に見た一団から考えると、割りとスムーズに避難できた方だろう。しかしまだ3人、しかも顔見知りの曙や潮も残ってるならなおさら急がないと。

 

「了解、俺は3人の捜索にあたるわ」

 

 俺の言葉に2つの『了解しました』という報告を受け、取り敢えず曙と潮が目撃された海岸に向かう。

 

 頭上ではうちの艦載機による本気の掃討が始まっているためか、艦載機の羽音や機銃による発砲音、そして天龍が艦載機をぶった切った時の同じような爆発音があちこちから聞こえ始めた。

 

 ……流れ弾に当たらないようにしないとな。味方の流れ弾に当たって行動不能とか洒落にならないぞ。

 

 そんなことを思いながら走っていると、倒壊したテントの隙間から一人の少女がこちらに背を向けて立っているのが見えた。すぐさま立ち止まって彼女の方に向かう。

 

 テントの残骸の脇を抜けて彼女に近付くと、そこは一直線に海岸に面しており、そこから工厰近くの海が一望出来る小高い丘であった。しかし、一望出来るゆえに敵から狙われやすい場所でもある。

 

 そんな見晴らしの良すぎる場所で、演習の時に見た腰に大きなポケットの付いた濃い目の緑色のセーラー服を着た黒髪おさげの艦娘がボケッと海を眺めていた。おそらく彼女が北上だろう。

 

「お前、北上か?」

 

「おっ、提督じゃん。やっほ~」

 

 俺の問いに艦娘――――北上は呑気な声色で手をヒラヒラとさせる。緊張感がまるで感じられないな。今がどういう状況が分かってんのか? まぁいい、さっさと避難させよう。

 

「取り敢えず、俺が今からいうルートを使って避難しろ。分かったな?」

 

「えっ? やだよそんなの~。今良いところなんだからさぁ~」

 

 ……おい、本気で分かってんのか? 今敵艦載機に襲撃受けてんだぞ? 流石に危機感足りなさすぎだろ。

 

「ふざけたことぬかしてんじゃねぇ。ほら、さっさと―――」

 

「提督も見たら? あんまり見れるもんじゃないよ?」

 

 さっさと避難させようとした俺の手をすり抜け、北上は意地悪っぽく笑みを浮かべながら海を指差した。それにつられて俺も海に視線を向ける。

 

 

 

「『死神』の本気(マジ)戦闘」

 

 そう漏らす北上が指さす先、広大な海の上を疾走する駆逐艦――――雪風が、そしてそれを追尾する無数の敵艦載機の姿があった。

 

「雪風!?」

 

「ここからじゃ聞こえないよ?」

 

 俺の悲痛の叫びに、北上は一寸も同情の色を見せることなく冷静なツッコミを入れてくる。なに呑気なこと言ってんだ。駆逐艦が艦載機相手じゃ不得手なのは知ってるだろ。そんな駆逐艦にあれだけの艦載機が襲ってきたらひとたまりもねぇだろうが!! とにかく無線で呼びかけを……。

 

「今、『死神』に無線を飛ばしちゃだめだよ。それに気を取られて集中放火されちゃひとたまりもないからね」

 

 北上の鋭い言葉に、口元に近付けていた無線が止まる。確かに、今の雪風は敵の弾を回避することで手いっぱいのハズ。ここで無線を飛ばして変に動揺させちまったら、それだけ被弾のリスクが高くなる。それに海上だ、被弾した後すぐさま助けに行ける人員もいない。

 

 

 

 いや待てよ。アイツらは何処に行った?

 

「長門……長門たちはどこに行った!?」

 

「最初にあった爆撃、それを受けたのが長門。敵艦載機の爆弾から駆逐艦を守って大破さ。その後、追い打ち気味に現れる艦載機に迎撃を行うも、長門以下模擬戦闘組も中破以上に追い込まれたんだよ。そして、唯一無傷の『死神』を殿に撤退ってわけさ。まぁ、『死神』自身撤退する気はないみたいだけどね」

 

 旗艦大破及び僚艦に深刻な損害で戦闘続行不可能、唯一無傷の雪風を殿に撤退か。駆逐艦1人を残して撤退って何考えてやがる。いくら援軍が来るとは言っても雪風に艦載機の餌食に成れと言っているようなものだ。

 

「いやー……だって『死神』だよ? 心配をする必要ないよ~」

 

「……さっきから『死神』『死神』って言うのは雪風で合ってるか?」

 

 俺の問いに北上は少しも悪びれもなく頷く。仲間のことを『死神』なんてあだ名で呼ぶのはどういうことだよ。仲間意識の欠片も感じられないし。そう漏らすと、何故か北上はため息をつき、再び海上を指さす。

 

 北上の指の先に視線を向けると、敵の掃射を紙一重で躱す雪風の姿。避けた弾が無数の水柱を上げて彼女の視界を遮り、そこに無慈悲と言える機銃の掃射、及び爆撃が行われる。しかし、そんな回避不可能といえる弾幕の中を雪風は踊る様に身を翻し、それを避けていく。よく見ると、彼女の服には一つの弾痕も、汚れもついていない。

 

 あれだけの艦載機を相手にして、一発も被弾していない。対空特化でもないただの駆逐艦が、だ。

 

 そんな異常と言える回避で敵の攻撃を全て避け切った雪風は、上空の敵目掛けて砲門を向ける。しかし、彼女は演習用のペイント弾しか撃てない筈。おそらく牽制のための射撃だろう。そう思っていると、雪風の砲門からペイント弾が放たれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間、彼女の頭上に飛んでいた敵艦載機の一つが爆散した。

 

 

「はぁ!?」

 

 予想外のことに思わず叫んでしまい、横の北上はうるさそうに耳に栓をしながら顔をしかめる。しかし、そんなことなど気にも止められない。

 

 なにせ、雪風の砲門が火を噴くたびに敵艦載機が一つ一つと爆散して墜落していくのだからだ。

 

 軽巡洋艦でさえ敵機をカラフルに染め上げることしか出来なかったペイント弾で、それよりも火力が劣る駆逐艦が敵機を撃墜しているなど、想像できるだろうか。いや、出来るわけがない。

 

「あれ、単純に敵の爆弾に当ててるだけだよ」 

 

「て、敵の爆弾?」

 

 自らの言葉に俺が首をかしげるのを見て、北上はまたもや溜め息を漏らした。

 

「さっき、長門が爆撃で大破って言ったでしょ? その爆撃に使われた爆弾が艦載機の両脇にあって、『死神』はそれを狙って狙撃、ペイント弾が被弾する衝撃で爆発させてるんだよ。例えば……」

 

 そう説明しながら不意に北上が片腕を上げ砲門を具現化、そして俺の後方に向けた。それと一緒に後ろを振り向くと、ちょうどこちらに向かって機銃を向ける敵艦載機が迫ってきていた。

 

「ちょ!?」

 

「ほッ!!」

 

 目の前に敵が迫っているにしては気の抜けた声と共に彼女の砲門が火を噴き、同時に迫ってくる艦載機の左脇に一瞬火花が見えたかと思うと次の瞬間艦載機は跡形もなく爆散した。

 

 爆散によって突風が俺の顔を叩く。突風によりおさげが激しく揺れる北上はそんなもの慣れた、と言いたげに溜め息を漏らしながら砲門を下げる。そして、にへらっとした顔を向けてきた。

 

「ねぇ? 出来たでしょ?」

 

 軽い口調でそんなことをのたまってくる北上。いや、確かに装甲を貫けないなら敵が持つ爆弾を誘爆させて撃破するのは分かった。でも、動く艦載機を打ち落とすのも難しいのになんでそれよりも小さい爆弾をやすやすと打ち抜けるんだよ。雪風もそうだが、精密射撃が得意にしても限度があるだろ。

 

「まぁ『艦娘』だからね~」

 

「その一言で済ますな!!」

 

 そう突っ込んだら、遠くの方からブーンと言う音が聞こえてくる。音の方を見ると、海上にいた敵艦載機たちが何故かこっちを近づいてくる……へぇ?

 

「ありゃりゃ、バレちったか~」

 

 目の前の光景に、北上はなおも緊張感のない声を上げる。って、ふざけんな!! さっきの爆発で敵に気付かれたんだぞ!! 何のほほんとしてやがる!!

 

「北上!! さっきみたいに狙撃できるか!?」

 

「さっきのはまぐれだよ? そんな何発も出来るわけないじゃ~ん」

 

 ふっざけんな!! ここまできてその発言はねぇだろ!! もういい!! こいつを背負って早く避難しねぇと本当に手遅れになる!!

 

「すまん!!」

 

「へぇ? ふわわぁ~」

 

 間抜けな声を上げる北上を抱き上げ、演習場の方に向き直って急いで駆け出そうとする。しかし、一歩踏みだそうとした瞬間、発砲音と共に目の前に弾痕が穿たれる。

 

 

 咄嗟に顔を上げると、演習場への道をふさぐように敵艦載機が漂っていた。その黒く光る機体に取り付けられた機銃が、次は確実に俺を仕留めようと照準を俺に向けてきた。

 

「万事休すだね~」

 

「呑気な事言ってる場合か!!」

 

 肩の上でのほほんとのたまう北上を叱責する。しかし、敵艦載機はその暇すら与えてくれないのか、機銃は無慈悲にも俺に標準を合わせ、次の瞬間無数の発砲音が鳴り響く。

 

 しかし、俺の元に一発も銃弾は飛んでこなかった。

 

 

 

 

 俺に標準を向けていた敵艦載機の装甲を、無数の銃弾が貫いたからだ。

 

 装甲を貫かれた敵艦載機は火花を散らしながら俺の頭上を越えて海上に踊り出て、次の瞬間爆散した。またもや俺の顔を突風が叩くも、それと同時に力強い風が後方から吹き初め、同時に羽音が聞こえた。

 

 

『こちら加賀、演習場上空の艦載機を撃滅。すぐさま海上に向かわせるわ』

 

『こちら大淀、哨戒隊から入電。鎮守府近海で艦載機を発艦する空母を発見、これを撃沈しました』

 

 耳の無線から聞こえてくる加賀と大淀の声。それとと同時に後方から無数の艦載機が現れ、海上へと殺到していく。やがて、海上は逃げ回る敵艦載機と。それを追い詰めて確実に撃墜していく味方の艦載機たちで溢れかえった。

 

「間一髪だったねぇ~提督ぅ~」

 

「もう少し緊張感ってものを持ってくれ……」

 

 ついさきほどまで命の危機に瀕した状況に立たされた者とは思えない発言に、怒りを通り越して呆れ声を上げてしまう。海上の敵は加賀達の艦載機で一掃されるか。取り敢えず、残っている艦娘の保護をしねぇと。

 

 

「しれぇ!!」

 

 そんなことを考えていると、遠くの方から声が聞こえる。振り向くと、こちらに近付きながら手を振る雪風の姿があった。味方の艦載機が到着したことで避難してきたのだろう。

 

「雪風頑張りましたよー!! ご褒美くださーい!!」

 

 両手をメガホンの様にして大声を出す笑顔の雪風。何だろう……ついさっきまで無数の艦載機を相手取っていた奴とは思えない発言だな。北上と言い雪風と言い、手練れほど緊張感のないヤツばかりなのかね。

 

「アホなこと言ってないで早く帰って来ーい。さっさと避難――――」

 

 そこで、俺の言葉は途切れた。笑顔の雪風の後方、ちょうど味方の艦載機が敵を爆散させて黒い煙が上がる中。そこから一機の艦載機が飛び出し、雪風目掛けて猛スピードで突っ込んでくるのが見えたからだ。

 

「雪風!! 後ろ!!」

 

 咄嗟に声を上げると、その声に雪風は弾ける様に後ろを振り向いて突っ込んでくる艦載機に砲門を向けた。しかし、次に聞こえたのは砲撃音ではなく、カチッと言う軽い音。それを聞いた瞬間、雪風は砲門を見つめながら驚愕の表情を浮かべる。それを見て、すぐさま悟った。

 

 

 

 放てる弾薬が尽きているのだ、と。

 

 

 

 

「雪風ェェェェ!!」

 

 そう悟った瞬間、俺は絶叫しながら雪風目掛けて走りだしていた。



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『提督』としての判断

後半に人体破損描写があります、ご注意ください。


『帰還する母艦を失った艦載機程、怖いモノは無い』

 

 走り出した瞬間、俺の頭には軍学校で教えられていた言葉が浮かんでいた。

 

 先の大戦は今までの常識をひっくり返す特別な戦争であった。当時、海戦は戦艦同士の砲雷撃戦が主流であり、砲門の大きさ、射程、威力が勝敗の行方を左右する大鑑巨砲主義であったが、その大戦では戦艦同士の砲雷撃戦よりも艦載機による戦艦への爆撃、艦載機同士の航空戦を主流とする航空主兵主義へと切り替わった時代でもあった。つまり砲門の大きさや威力ではなく、どれだけ多くの艦載機を保有、運用できるかによってその国の戦力が計られることとなったのだ。

 

 そんな艦載機としては華々しい時代において、海戦の勝敗を決する要となった艦載機の横には必ず自身を発艦する母艦の存在がある。艦載機を搭載して海戦においてそれらを発艦させる母艦は主に空母であり、艦載機にとって出撃するためのモノでありながら、生きて帰るには必要不可欠なモノでもあった。

 

 

 それはつまり、母艦の撃沈=自身の死を意味する。

 

 

 その言葉通り、先の大戦で母艦が敵によって沈められた際、帰る場所を失った多くの艦載機が敵戦艦に突っ込んで果てることが多々あった。それは、生きて帰れないのならせめて敵に一矢報いてやる、と言う艦載機乗りの執念の行動であったと言えよう。その執念によって少なからず戦艦が沈められ、それによって多くの命が失われることとなった。

 

 そして今、その執念にも似た何かが再び牙を剥いた。それは、雪風に迫る敵艦載機。

 

 母艦であった空母を撃沈され、味方は次々と敵の攻撃によって撃墜されていく。雪風や艦載機たちの攻撃を掻い潜ったのだ、あの艦載機も弾薬すら残ってはいまい。あるのは己の身と、両脇に吊るされた爆弾のみ。それを放ったところで、雪風の類稀なる回避術の前では当てるは愚か掠ることさえ難しいだろう。

 

 そして、目の前にはその類稀なる回避術ではなく砲撃によって自らを落とそうとした彼女が、弾切れによってその場で硬直している。今なら、爆弾を落とせば当たるであろう。しかし、どうせ爆弾を落としたところで自らは打ち抜かれて果てるのみ。

 

 ならば、目の前にいる艦娘を道連れにして果てようではないか―――敵艦載機の動きから、そんな執念にも似たものを感じた。その執念に、俺はただ歯を食いしばって走ることしか出来ない。弾切れを起こして砲撃出来ない雪風と、執念の塊となって迫る艦載機の間に割って入るために走るしかないのだ。

 

 今から走ったところで間に合わないのは分かっている。仮に間に合ったとしても、人間の俺じゃ艦載機の突撃から雪風を守ることさえ出来ない。よくて、直撃を避ける程度だ。しかし、それも爆風によって帳消しにされる。俺が今ここで走ったところで、何もかも無駄なのは分かっている。

 

 

 でも、もう見たくないのだ。目の前で誰かが傷つくのを。

 

 

 もう目の前にいたくないのだ。傷つく人に手を差し伸べられず、ただ茫然とすることしか出来ない自分を。

 

 

 もうやめたいのだ。目の前で消えゆく命すら救えなかった、あの時の弱い自分を。

 

 

 だから俺は間に合わなくても、勝算が無くても、死ぬかもしれなくても、ただ走り、助けたいと思う人の名前、喉を震わせて、心臓を潰してでも叫ぶしかないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「雪か――――」

 

「らぁァァァアアア!!」

 

 突然、何処からともなく聞こえてくる絶叫と、腹の底に響き渡る鈍い砲撃の音が俺の鼓膜を叩く。それと同時に、雪風に迫る敵艦載機に横なぐりに黒いモノが、その装甲ごと機体の半分を食い破る。

 

 機体の半分を失った艦載機はそのまま雪風から軌道を逸れて進んだ瞬間、轟音を立てて爆散していった。

 

 突風が俺の顔を叩く。倒れないよう無意識のうちに踏ん張ったことで足が止まるも、目だけは閉じることなく、縫い付けられたように艦載機が飛んでいた場所を凝視していた。その視線には、同じように砲門を向けたまま雪風が固まっている。

 

 そして、俺の視線の中で砲門を下ろした雪風が艦載機を食い破った黒いモノが飛んできた方向に目を向ける。それにつられて、俺の視線もそちらに注がれた。

 

 

 雪風が立っている場所から十数m先、波打ち際で砲門を頭上に向けている艦娘が立っていた。

 

 

 その艦娘の身体は敵の攻撃を喰らったのか、服は焼け焦げを残してボロボロで腕や足には火傷の痕が見受けられる。砲門を掲げる腕、及びその身体を支える足は小刻みに震えており、触れただけで壊れてしまいそうなほど実に弱弱しい。

 

 トレードマークでもあったピンクの髪留めは爆風によって吹き飛ばされ、無造作に解き放たれた薄紫色の長髪が海風に揺れる。その隙間から覗く、苦痛に歪む顔。やがて、その艦娘は掲げていた砲門を下げ、糸が切れた人形の様に後ろに倒れた。

 

 

「曙!?」

 

 咄嗟にその名を呼ぶと、すぐさま曙の後ろから同じ柄のセーラー服を纏った駆逐艦が飛び出してきて後ろに倒れる曙の身体を抱き留めた。倒れなかったことに安堵の息を漏らしていると、雪風が弾ける様に飛び上がって曙に駆け寄っていくのが見える。取り敢えず、まずは彼女の容体を見ないと。

 

「潮ちゃん!! 曙ちゃんは大丈夫ですか!?」

 

「先ほど敵の爆撃を喰らっていますが……い、命に別状はないですぅ」 

 

 先に駆け寄った雪風が曙の容体を尋ねると、彼女を抱き留めた艦娘――――潮が弱弱しい声で応えた。潮自身、今にも泣きそうなほど顔をグシャグシャにするも、俺が近づいてくるとその顔から目つきを鋭くさせ、曙をぎゅっと抱きしめながら俺から少し離す。俺に触らせたくない感じだ。

 

「潮、曙を診せてくれ。容態によっては応急処置をしなくちゃいけない」

 

「貴方に診てもらわなくても曙ちゃんは大丈夫です。私たち艦娘はドックに入りさえすれば怪我なんて治りますから」

 

 俺の言葉に潮は目も合わさずにそう応えた。その腕の中で曙は痛みに呻き声を上げている。怪我が治ると言ってもドックに入るまでは痛みと戦わなくちゃいけないわけだし、それを少しでも軽減するために応急処置があるんじゃねぇか。そう言っても、潮は頑なに首を縦に振らない。そうしている間にも、彼女の腕の中では曙の呻き声が聞こえる。

 

 ……もう見てられるか。

 

「雪風、手伝え」

 

「いやぁ!! 曙ちゃんに触れるなぁ!!」

 

 俺の言葉に雪風は無言で後ろから潮を羽交い絞めし、その手から解放された曙を抱き寄せて怪我の具合を確かめる。横で曙を奪われたことに暴れる潮であったが、やがて暴れるのをやめて嗚咽を漏らし始めた。その目だけは、曙の身体を触れる俺を睨み続けていたが。

 

 そんな視線に晒されながら曙の怪我を診ていく。殆どは爆撃による火傷、そして腕や足に浮かぶ青あざは激しく身体を叩きつけられたみたいだな。天龍の肩や足のように被弾したような痕は見られない。取り敢えず、火傷の患部を水で冷やして、濡らした布を当てればいけそうか。

 

「北上、演習場から給水タンクを持ってきてくれ。あと、大淀に連絡を」

 

「あいよー」

 

 いつの間にか傍にいた北上にそう指示を出すと、彼女は軽いノリで快諾して演習場へと消えていった。それを見送った後、不意に大淀の言葉を思い出した。

 

「曙、何で避難しろって言われていたのにわざわざ海岸に行ったんだ? 敵の懐に飛び込むようなもんじゃねぇか」

 

 俺は当初、演習場にいる艦娘全員に鎮守府内に避難するよう指示を飛ばした。勿論、彼女たちも演習場にいたため、避難の対象になっていた。しかし大淀の報告によれば曙たちは鎮守府内ではなく、敵艦載機が飛び交っている海岸に向かって走って行ったのだ。そして、今こうしてボロボロになりながらも海岸にいたことを見るに、彼女たちは自らの意思でここに移動したということになる。

 

「あ、あたしたちは実弾を撃てるから……少しでも敵機を落として安全を確保しようとしたの……」

 

 俺の問いに、曙は苦しそうに息を吐きながらそう応える。その言葉に、彼女たちと出会った食堂での光景を思い出した。

 

 

 朝食堂にいた時、曙たちは演習用のペイント弾ではなく実戦用の実弾を補給していた。おそらく、彼女たちは演習ではなく他の任務に就いていて、それが終わって物見がてらに演習を観戦しに来ていたのだろう。そして敵襲が起こり、演習場にいる艦娘の殆どはペイント弾しか撃つことが出来ずに逃げる中、実弾を撃てる曙たちは避難する艦娘たちの安全を確保しようと敵艦載機迎撃に向かった、と言ったところか。

 

「曙、それはめい――――」

 

「ほい、提督。これでいい?」

 

 俺の言葉を遮るように、北上が間の抜けた声を上げて給水タンクを見せてきた。今はそんなことを言ってる場合じゃない。曙の応急処置が最優先だ。

 

「助かる」

 

 そう言って北上から給水タンクを受け取り、火傷の患部に水をかけて冷やす。痛みに呻き声を上げる曙であったが、濡れた布を患部に巻き付けた時にはその顔から苦痛の色が薄まったような気がした。

 

「雪風、北上、曙を背負うから手伝ってくれ」

 

「ほいさー」

 

「了解しました!!」

 

 俺の言葉に北上と雪風が元気良く応え、雪風が羽交い絞めしていた潮の身体を離す。二人の手を借りて曙を慎重に俺の背中に乗せ、動けるようになるまで、潮は足元を見つめたまま動こうとはしなかった。

 

「んじゃ、とっとと鎮守府に帰るぞ」

 

 そう号令をかけて歩を進める。後ろから同じように海岸を踏みしめる音が聞こえるも、明らかに1人の足音が足りない。それが誰だかは、想像するに易い。

 

「潮、突っ立ってないでさっさと……」

 

 振り返りながらそう声をかける。しかし、その言葉も最後まで続かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 潮が、こちらに砲門を向けていたからだ。

 

「……どういうつもりですか」

 

 突然の光景に何も言えないでいると、傍らの雪風が低い声を漏らしながら俺の前に立ち塞がる。その声色に俺の背筋に寒気が走る。いつもの明るい雪風しか見てこなかったためか、その雰囲気の落差にすぐ身体が順応しなかったのだ。

 

「あんまりやんちゃするもんじゃないよ?」

 

 同じく北上も低い声で潮に語り掛ける。そんな二人の言葉を受けてか、潮は今まで下げていた顔を上げた。その瞬間、今まで感じたことのないような寒気が体中を駆け巡った。

 

 

 そこに、今朝彼女に向けられた『あの目』があったからだ。

 

 

「……あんたなんでしょ?」

 

 その目を向けながら、潮は雪風や北上よりも低い声でそう語り掛けてきた。

 

「……な、何が」

 

「あんたが深海棲艦を招き入れたんでしょ!!」

 

 俺の言葉をかき消すように潮が絶叫染みた声を上げる。その言葉の意味を理解する前に、潮は怒りくるった顔のまま犬歯をむき出しに吠える。

 

「あんたがこの演習場にいるって聞いたときからおかしいと思ってた!! 着任してから一回も出撃時や遠征部隊の出航時に顔を見せなかったあんたが、何故か演習にひょっこり顔を出した!! ……おかしいとは思わない? 今まで提督業務を放棄していた奴がいきなり顔を出して、そして待ってましたと言わんばかりに深海棲艦が襲ってきて、たくさんの艦娘が……曙ちゃんが大怪我を負った!! どう見ても、深海棲艦と示し合わせていたとしか考えられない!!」

 

 潮は一言一言恨みをぶつける様に叫んでくる。それを受ける俺は、ただただこの場の状況が分からなかった。いきなり砲門を向けられ、そして深海棲艦と繋がっていると叫ばれる。砲門を向けられる筋合いもないし、ましてその理由にある深海棲艦と繋がっているなんて身に覚えがない。

 

 どこをどのように繋げれば俺が深海棲艦と手を結んでいた、なんて発想に至るのかがまるで分らない。

 

「……潮さん、冷静に考えてください。仮にしれぇが深海棲艦と繋がっていたとしましょう。では、何故しれぇは私たちを避難させるよう指示を出したのですか? 深海棲艦側なら、指示を出さずに放っておくか、もしくは支離滅裂な指示を連発して私たちの指揮系統を混乱させるでしょ? その方が被害は甚大になりますし、当時演習場にいた艦娘は実弾を撃てないのですから容易く制圧できるでしょうし」

 

「でも、そいつが出した指示は穴だらけだったじゃない!! きっと私たちを貶めるための罠だったのよ!!」

 

 雪風は淡々とした言葉に、潮は噛み付く勢いで叫ぶ。その姿に北上ははぁっと溜め息を漏らした。

 

「それも、加賀や大淀の進言を採用して通用するものになったじゃん。もし敵さん側なら、穴を埋めるような進言は退けるはずだよ?」

 

「っ……じ、じゃあそいつは深海棲艦が襲撃した時、異常なぐらい冷静だった!! 実戦経験のない新任が不意打ち気味に攻めてきた敵をそんな冷静に迎撃するなんて不可能よ!! 奴らが攻めてくることを事前に知っていたに違いないわ!!」

 

「それこそ、しれぇが優秀だったってことじゃないですか。雪風はそんなしれぇがここに着任してくれてうれしいですよぉ」

 

 潮の言葉を切り返す形でそう言った雪風は、俺の腰のあたりに抱き付いてくる。あまりベタベタくっつかないでもらいたい。こういう状況で、それは火に油を注ぐことにしかならないから。

 

「っ!! ならそいつは深海棲艦側の斥候よ!! この襲撃で私たちの信頼を得るために深海棲艦と示し合わせて的確な指示を出した!! 信頼を得てからゆっくりと深海棲艦側に情報を流す算段なんだわ!!」

 

「……いい加減にしなさいよ」

 

 ああ言えばこう言う、を体現させながらのたまってくる潮に、俺の後ろからそんな言葉が飛んでくる。そう言ったのは曙。彼女が発した言葉は雪風や北上が発したものとは比べ物にならないほど低く、口答えを許さないという裏の意味を孕んでいるように思えた。

 

「……曙?」

 

「……降ろしなさい」

 

 背中の曙にそう問いかけると、同じような声色でそう返って来た。それを受けて、俺は口答えすることもなくゆっくりとしゃがみ、曙を降ろした。地面に足を付けた曙は痛みに顔をしかめるも、すぐさま目つきを鋭くさせて潮を睨み付けた。

 

 

「潮、あんた自分が今言ったこと覚えてる? あたしの耳には、ただガキが我が儘を言ってるだけにしか聞こえなかったわ」

 

「っ」

 

 曙の挑発的な態度に潮の顔が歪む。そんな表情を向けられた曙は、少しも動じることなく真っ直ぐ見つめ返した。

 

「あんたがクソ提督を毛嫌いしている理由は分かってるわ。でも、コイツはあんたに何かしたの? コイツのせいであんたは何か被害を被ったの? 違うでしょ? コイツはあんたに何もやっていない。なのに、あんたはありもしない理由を付けて糾弾している。お門違いだとは思わない?」

 

「でも!! そいつは曙ちゃんの入渠するドックに押し入ろうとしたじゃない!!」

 

 潮の言葉に、俺の傍らに控える雪風と北上が一斉にこっちを振り向く。目を合わせないよう視線を外したが、明らかに友好的な視線ではないのは分かった。

 

「あれに関しては、あたしの平手打ちで済ませたわ。てか、当事者でもないあんたがそれを理由にあげるのはおかしいわよ」

 

 曙の言葉に潮は言い返せないのか、俺に向けた砲門を下げて不満ありげの顔のままぐぐっと口を噤んでしまった。たぶん、曙からあの件について片がついたことを知らされていなかったのだろうな。まぁ、曙自身思い出したくもない記憶を周りに言うとは思えないし。

 

「……あんた、あたしがこの手のことが大っ嫌いなのは知っているわよね? ありもしない罪を擦り付けて、それで責められるのを見るのが死ぬほど嫌いなのをあんたは知っているわよね? それを知ってる上で、見せているわけ?」

 

 急に、曙の声色が変わった。今まで言い聞かせるようなものだったのが、導火線に火が付いた爆弾の様にどんどん語気が荒くなっていく。その顔も、無表情からだんだんと怒気が滲み始めていた。

 

「ようするに、今回のことはあたしへの当てつけ? そうなんでしょ? 大っ嫌いなことをわざわざ見せるためにクソ提督を陥れようとしたの? あたしを苦しめるためにそう仕向けたんでしょ?」

 

「ち、違うよ!!」

 

 曙の言葉に潮が弾かれた様に顔を上げてそう叫ぶ。その顔には『あの目』は浮かんでおらず、代わりに大粒の涙が浮かんでいた。

 

「今更弁面しよったってそうはいかないわ。分かってるわよ、あたしはあんたの身代わりだったもんね。いつもあんたばっか褒められて、チヤホヤされて、優越感に浸っていたんでしょうね。その陰で尻拭いをするのがあたしの役目だったもんね」

 

 曙の言葉に、潮は何も言い返せずに俯いて唇を噛み締める。その目から大粒の涙をこぼしながら、噛み締めた唇から血を流しながら。そして、その口が小さく動き始める。

 

「……のせいだ」

 

「はぁ? 何て言ったの? 全然聞こえないわよ?」

 

 潮の呟きに曙がわざとらしく大声を出す。それを聞いた瞬間、潮は顔を上げると同時に砲門を俺に向ける。その行動にすぐに反応出来なかった俺に向けて、潮は血が流れる唇も構わず大きく口を開いた。

 

 

 

「お前のせいだァァァァアアアア!!!!」

 

 その言葉と共に、腹の底に響く鈍い砲撃の音。それを聞いた瞬間、俺は傍らの二人を抱きかかえて地面に倒れ伏す。そして、襲ってくるだろう砲弾から守るために二人の上に覆いかぶさった。凄まじい突風が俺の顔を叩き、次に来るであろう衝撃と爆風に備える。

 

 

 

 

 

 しかし、それ以降何もやってくることはなかった。何も来ないことに不思議に思い、俺は思わず顔を上げて前方を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこには、黒い煙を上げながら後方に吹き飛ぶ潮の姿があった。

 

 

「潮!?」

 

 当然のことに一瞬固まるも、すぐさま飛び起きて吹き飛ぶ潮目掛けて走り出す。そして、地面に激突する擦れ擦れでその身体をキャッチした。しかし、キャッチした後に俺の目にとんでもないモノが映る

 

 

 

 先ほど彼女が砲門を向けていた腕、その手首から先が無い(・・)のだ。

 

 余りにも酷い光景に目を背けたくなるも、身体に鞭打って彼女の身体を地面に横たえてすぐに服を破り、それで手首より少し上の方を力の限り締め付ける。しかし、それをしても手首からは血がにじみ出てくる。次に上着を脱いでそれを彼女の手首に巻き付け、傷口からの止血を施した。

 

「しれぇ!!」

 

 潮の止血を施した後に切羽詰まった雪風の声が聞こえ、振り返ると担架を携えた複数の艦娘を伴った雪風が近づいてきていた。彼女たちは潮の腕を見て一瞬目を見開くも、すぐさま表情を戻して担架を広げ始める。

 

「雪風は潮さんをドックに入渠してきます!! 皆さん、行きますよ!!」

 

 雪風の怒号に似た言葉に無言で頷く。それを受けた雪風は潮を担架に横たえて、風の様に鎮守府へと走っていった。潮が運ばれていく後ろ姿を見ていると、ふと周りにたくさんの艦娘達が居ることに気付いた。

 

 そして、彼女たちの視線はとある艦娘に注がれていた。

 

「……曙」

 

「ク、クソ提督……」

 

 そう声を掛けながらその艦娘―――――曙に近付くと、彼女は今にも泣きそうな顔を向けてきた。しかし、彼女の腕には砲門があり、砲口からは微かに煙が立ち上っていた。

 

 

 

 そう、彼女が潮を砲撃したのだ。

 

 

「あたし……あたし……」

 

「曙」

 

 俺は助けを請う様に手を伸ばしてくる曙の手を払いのけ(・・・・)、冷たい視線を向けてこう言い放った。

 

 

 

 

 

 

 

「上官の命令違反、及び味方を砲撃し甚大な被害を与えたとして、1週間の営倉行きを命ずる」



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『人』としての行動

 営倉――――現在の刑務所でいうところの懲罰房だ。そこには、軍規を犯した者や敵に内通していた者、捕虜などを逃げられないよう閉じ込めておく場所。また、場合によっては内通者、捕虜から情報を聞き出すための拷問に使われることもある。

 

 営倉は軍事施設なら必ずあると言ってよく、この鎮守府も例外に漏れない。しかし、人間の軍隊と違って拷問等に用いられることはなく、主に軍規を犯した艦娘を一時的に隔離する場所と言う意味合いの方が強い。故に、軍独特の血なまぐさい匂いがしないのが唯一の救いだ、と感じた。

 

 そんな営倉へと続く階段を、俺は下りている。

 

 コンクリート製の階段を踏み締める毎にカツーンと言う乾いた音が鳴り、それは波紋のようにゆっくりと反響を繰り返す。壁にかかる電灯がか細い光を放つだけで、それ以外の光源が存在しない。罰を犯した者を収容する場所故、そこに温かみと言うものは一切感じなかった。

 

 不意に足元に違和感を覚えた。すぐに見下ろして目を凝らすと、靴と階段の間に血で汚れた布切れが挟まっていた。屈んでそれを摘まみ、じっくりと眺めてみる。まだ血が乾ききっていないのを見るに、つい先ほど引き剥がされて捨てられたものとみていいだろう。よく見ると、血で黒く染まった皮膚のようなものまでこびり付いている。傷口に構わず思いっきり掴んで、無理やり引き剥がしたのだろうか。

 

「おっと……」

 

 手の布きれ―――とある艦娘の応急処置に使ったそれに気を取られていて、脇に抱えるモノを取り落しそうになった。ここでこれを落とせば中身がぶちまけられて拾うのが面倒になる。その一心で何とか抱えなおし、そして人知れず安堵の息を漏らした。

 

 

 『持ってきてよかった』――――思わず漏れた息には、落とさずに済んだと言うことよりもその想いの方が強かったような気がする。まぁいいだろ、と気を取り直して再び階段を下り始める。

 

 

 何故、提督とあろう俺が営倉なんぞに向かっているのかと言われれば、そこに目的の人物がいるから、と答える。

 

 つい先程、上官である俺の命令を無視して単独行動を行い、味方の艦娘を砲撃して甚大な被害を引き起こした艦娘――――――曙に会いに来たのだ。

 

 階段がようやく終わり少々低い通路を通り抜けると、そこには無骨な鉄格子が壁に取り付けられた、営倉と言うよりは牢屋と言うべき空間が広がっていた。

 

 営倉は分厚いコンクリートの壁を挟んで2部屋に分かれており、どちらも頑丈な鉄格子と大きな錠前が取り付けられている。鉄格子の隙間から見える中は打ちっぱなしのコンクリートの床が広がっており、簡素なベッドと机、椅子、本棚、洗面台、その奥には個室トイレがあった。

 

 

 そんな冷たい牢屋の主は、簡素なベッドの上で頭から毛布を被って寝ころんでいた。心なしか、その身体が微か震えている。毛布の隙間から見える白かったであろうシーツはうっすらと赤みを帯びており、時折血だまりのような赤いシミが見受けられた。

 

 なによりも、毛布の隙間から微かに聞こえるすすり泣く声。本人は必死に堪えているのだろうが、それが止むことはない。そう確信が持てた。

 

 

「曙」

 

 静まり返る営倉で、その名を呼んだ。俺の声に震えていた毛布の塊がビクッと大きく動いてそのまま固まる。次の瞬間、その毛布は宙を舞っていた。

 

 

 

「潮は!? あの子は大丈夫なの!?」

 

 毛布がフワリと床に落ちた時、俺の目の前には鉄格子に食いつかんばかりに顔を近づけてそう吠える曙の姿があった。

 

 営倉行きを言い渡したときと同じボロボロのセーラー服のまま。その間から見える火傷の傷口からは血がにじみ、青アザが痛々しく刻まれた腕。その腕で鉄格子を掴み、今にも飛び掛かろうとしているのではないかと錯覚しそうなほど気迫のこもった視線を向けてきた。

 

「……命に別状はない。ただ、腕を再生させるには時間がかかるそうだ」

 

「今後の生活に支障は!? 不自由になるとかは無いのね!?」

 

「再生後に少しリハビリが必要らしいが、それが終わればいつもの生活に戻れる」

 

「……そう、そっか……」

 

 俺の言葉に、今にも飛び掛かる勢いだった曙の表情が緩む。彼女は小さく呟きながら鉄格子から手を離し、足元に落ちた毛布を掴んでベットに向けて歩を進める。

 

「…あけ――」

 

「帰って」

 

 その後ろ姿に思わず声を掛けようとしたが、それは抑揚のない彼女の言葉によって掻き消される。一切こちらを見ずにそう言い放った曙は何事もなかったかのようにベッドに戻り、再び毛布に包まった。

 

 

「あんたに話すことなんてない、帰って」

 

 またもや、こちらを見ずにそう言い放つ曙。その言葉に先ほどの弱弱しさはなくむしろ人を寄せ付けない刺々しさがあった。

 

 

「お前になくても、俺にはあるんだよ」

 

 その言葉にそう返しながら、俺はポケットから鍵を取り出した。それはここに来る前に大淀から拝借した営倉の鍵。それを、先ほど彼女が掴んでいた鉄格子の扉を施錠する錠前に突っ込む。

 

 カチリ、と言う音と共に錠前が外れ、キィーッと言う金属音を発しながら扉が開かれる。その音に曙は微かに反応するも、その顔がこちらに向けられることはない。明らかに歓迎されていないムードの中、鉄格子の向こう側に足を踏み入れる。

 

 

「入ってこないで」

 

 一歩、中に踏み入れた時に曙からそう声が飛んでくる。しかしそれに俺の足が止まるわけもなく、再びもう一歩、もう一歩と踏み出す。その一言以降曙が声を発することはなかったが、代わりに自身を包む毛布を掴む手に力が込められたのが見えた。

 

 カツカツ、と言う軽い音が営倉に響く。それを響かせながら俺は曙が寝ころぶベットの脇に近付き、そこに腰を下ろした。同時に、固い金属音と複数の物がぶつかる音が聞こえる。その音を聞いても、曙は振り返ることはなかった。

 

 

「……謝りに来たの?」

 

「……い―――」

 

「いいのよ、別に」

 

 俺が腰を落ち着けて一息ついたとき、曙が小さな声で問いかけてきた。その言葉にどう答えようか考えていたら、曙自身がその問いに答えを返してしまう。

 

 

「大方、あの時周りにいた艦娘たちの信頼を得ようとしたんでしょ? あたしが潮の言動を糾弾している辺りから艦娘たち、北上が呼んだ護衛部隊が集まっていたのに気付いたわ。あの時の場面だけ見れば、あたしが潮を罵っているようにしか見えなかったでしょうね。そして、そのままあたしがあの子を砲撃した。どこからどう見ても、悪者はあたしよね?」

 

 そうつらつらと語られる曙の声は抑揚のない平坦なものであった。しかし、先ほど俺に向けられた刺々しさの代わりに、自嘲を含んだ暗さがあった。

 

「あの場面であの子への応急処置して、そしてあたしを糾弾すればさぞ周りからの評価はうなぎ上りでしょうね? 大怪我を負った潮を助けて、そしてあの子を罵った挙句砲撃したあたしを罰したんだから。あんたの判断は正しいって、素晴らしい提督様が来てくれたって思われるでしょうね……成り上がるには最高の舞台だと思わない?」

 

 曙は最後に俺に問いかけてくる。その問い、いやそこに至るまでの間に、彼女の声色は自嘲から震え声へと変わっていた。そして、ここまで自身を蔑み、糾弾されること望んでいるのかと、自らが言った言葉を肯定してほしいのかと言う思いを感じ取れた。

 

 そうでなくては、彼女自身が納得できない、と言うように。

 

 

 

 

「思わねぇよ、んなこと」

 

 だからこそ、その言葉を否定した。それが、彼女の琴線に触れることだとを分かっていながらだ。

 

 

 

「……なんでよ」

 

 俺の言葉に、曙が呟く。先ほどと同じ震え声ではあるが、明らかに怒気が孕んでいるのが分かった。

 

「……そうなんでしょ? 自分を持ち上げるためにあたしを利用したんでしょ? だからあの時あたしを糾弾したんでしょ? そうでしょ!! 違うの!? そうだって言いなさいよ!! 認めなさいよ!!」

 

 曙の呟きが、叫び声へと変わっていく。いや、叫び声と言うか、悲鳴と言った方が正しいかもしれない。自らが納得した理由を否定され、それにより今まで堪っていたモノが溢れ出してきたのだろう。

 

「……取り敢えず―――」

 

「今更綺麗事を言いに来たの!? 言い訳を並べに来たの!? そんな言葉なんかいらない!! いいから早くかえ……」

 

 俺の言葉をかき消すように叫びながら曙は飛び起きて俺に掴みかかる。しかし、その勢いは俺の横に鎮座しているモノを目にすることで急速に弱まった。

 

 

 

 

「……救急箱?」

 

「ほら、とっとと患部を診せろ」

 

 傍らの救急箱を見つめながら小さな声で呟く曙、俺は掴みかかってきた彼女の腕を取る。

 

 先ほどの布きれを引き剥がした際に水ぶくれが破れたのか、傷口は赤い皮膚が見えていて血がにじんでいる箇所も見受けられる。青アザは前よりも青みが広がっている。そして、新たに切り傷や擦り傷が至る所に刻まれている。それらを確認して、傍らの救急箱を引き寄せる。

 

 まず、火傷部分を水分を含ませたガーゼで血を、それ以外を消毒液を含ませたガーゼで血や汚れを拭きとる。その後、火傷部分には水分の蒸発を防ぐ特殊なフィルムを優しく貼り付ける。次に切り傷や擦り傷には絆創膏を、青アザにはちょうどいい大きさに切った湿布を貼る。最後に包帯を使って全体を覆い、包帯が取れないようにテープで止めた。

 

 片腕の治療が終わったので今度はもう片方の腕を取り上げて、同じような処置を施す。その間、曙は呆けた顔のまま俺が進める治療を眺めていた。

 

 

「なんで……」

 

 片腕が終わり、次に両脚に処置を施している最中、曙が口を開いた。それに、俺は手を休めることなく耳を傾ける。

 

「なんで治療しているのよ……? こんな傷、ドックに入れば治るわよ……」

 

「そのドックに入れてやれないから、代わりに出来ることとして治療してるんだよ」

 

 曙の言葉に、俺は包帯を巻きながらそう返してやる。その言葉に曙はまたもや呆けた顔を向けてくるだけだった。まぁ、腕が吹き飛ぼうがドックに入ってしまえば治るんだ。彼女の傷ぐらい、どうってことないだろうよ。

 

 でも、俺は曙に一週間の営倉行きを命じた。その際、ドックに入ってからと言いたかったのだが、あいにく今は深海棲艦の襲撃により怪我人で溢れかえり、ドックもフル稼働している状態だ。そこに懲罰を受けた曙が優先的にドックに入れるとなると、少なからず他の艦娘から不満が出るかもしれない。それに曙に腕を吹き飛ばされた潮がドックに入っていることも考えると、あまり一緒にさせるのは良くないだろう。

 

 足の包帯を結び終え、取り敢えず一息つく。本来なら全ての傷を診たいのだが、見知らぬ男に体の隅々まで見られるのは嫌だろうから止めておいた。あとで大淀辺りに頼んでおくか。

 

「申し訳ないが、ドックが空くまでは応急処置(これ)で我慢してくれ。他の傷は大淀辺りに頼んでおくわ。んで、たぶん色々と貼ったから傷口周りが痒くなると思うが、あまり掻き毟るなよ。特に火傷の部分は絶対だ。服は後で雪風辺りに持ってこさせるとして……そんな汚れたシーツじゃ嫌だろ。毛布と一緒に新しいのを持ってくるわ。それと……」

 

「ねぇ……」

 

 救急箱を片付けながら次にすることを考えていると曙から声がかかる。先ほどの呆けた顔から、何故か不安げな顔に変わっていた。

 

 

「何で……あたしを営倉送りにしたの?」

 

「逆に聞くぞ。お前は今、他の奴らと一緒に居たいか?」

 

 俺の切り返しに、曙は俺から目を逸らして床を見る。その横顔に、ありありとした恐怖が浮かんでいるのを見逃さなかった。

 

「さっき、お前自身が言ったよな? 自分は周りから見たら潮を罵った上に砲撃した“悪役”だって。でも、何で潮が運ばれていった時、縋る様な目で俺を見た? か細い声で『クソ提督』って言いながら手を伸ばしてきた? あれ、誤って引き金を引いちまっただけで本当は撃つ気なんて更々なかったんだろ。それとも撃つつもりだったか?」

 

 俺の言葉に曙は弾けたように顔を上げ、すぐさまブンブンと首を横に振った。

 

「撃つ気が無かったのに誤って撃っちまった。でもそれが周りにどんな風に映ったかは、さっきお前が言った通りかもしれねぇ。そんな風に勘違いされた奴らと一緒に居れるか? どうせ、居た堪れなくなるのがオチだ。それに、あの時のお前の立ち位置も悪かったしな」

 

 その言葉に、曙は一瞬呆けた顔をして、すぐに理由が分からないと眉を潜めて首をかしげる。

 

「あの時、お前は俺の前に、潮からしたら俺を狙おうとするのを遮る様に立っていた。ここの艦娘だ、潮みたいに的確な指示を出せたのが深海棲艦と繋がっていた、なんてとんでもない発想に至る奴もいる。そういう偏見を持った奴の目から見たら、お前は潮から俺を守ろうとしているように見えただろうよ。するとどうだ? 偏見によってどんどん話が膨らんでいくのは目に見えてるだろ。たぶん、お前まで深海棲艦側の斥候だ!! なんて根も葉もない噂を流されるかもしれない。だから―――」

 

「少なくともクソ提督側ではない、って印象付けるためにわざと……?」

 

 俺の言葉が終わる前に、曙が問いかける様に声を漏らした。本当は『深海棲艦側ではない』って言おうとしたんだが……まぁいいや。

 

「まぁ、そんなところだ。本当ならもっといい方法があったと思うんだが、馬鹿だから咄嗟にこれしか思いつかなかった。それでお前をそこまで追い込んじまうとは……本当にすまないと思ってる」

 

 そう言って、曙に頭を下げる。彼女のことを助けようとしてやったことが、逆に自暴自棄に追い込んでしまうこととなった。新任とは言え一軍を預かる身として部下の気持ちをくみ取ることが出来なかったのは、単に俺の力不足による部分が大きい。上官……と言うか人として、至らない点で負担を掛けたことを謝るのは当然だろう。

 

 深海棲艦との戦闘を艦娘たちに依存している提督(おれ)からすれば、尚更のことだ。

 

「……あんたはそれでいいの? その話が本当だとしたら……」

 

「元々、俺への信頼なんて底辺みたいなもんだろ? 今更下がったところで変わらんさ。むしろ、曙の信頼が下がって深海棲艦との戦闘で支障が出る方が避けたい。それに――――」

 

 俺はそこで言葉を切って背筋を伸ばして曙に向き直り、その目を見据えた。突然態度が変わったことに、曙はキョトンとした顔になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「雪風を救ってくれて、本当にありがとう」

 

 そう言って、俺は先ほどよりも深く曙に頭を下げた。下げてから大体3秒ほど、曙からの反応がない。不思議に思って頭を上げると、今日一番の呆けた顔で固まっている曙。その顔に、思わず吹き出してしまった。

 

「な、なに笑ってるのよ!!」

 

「す、すまんすまん。曙が見たことない顔してたから……つい」

 

 そう言ったら、曙は不満げに頬を膨らませて横を向いてしまった。そんな子供っぽい姿に苦笑しながら、改めて表情を正して曙に向き直る。

 

「あの時、俺の足では絶対に間に合わなかった。仮に間に合ったとしても人間の俺だ、雪風を守り切ることはできなかった。最悪沈んでしまう可能性もあった。でも、あの場にお前がいて、砲撃してくれたことで雪風は被害を受けずに、まぁ仮に間に合っていたら確実に死んでいた俺も無事にここにいる。恩着せがましいかもしれないが、曙は雪風と俺の二人を救ってくれた。だから、本当に感謝している」

 

「べ、別に感謝されるようなことでも……」

 

 もう一度、深々と頭を下げる。すると、目の前にいるであろう曙から焦ったような声が聞こえ、それはブツブツと言う呟きに変わる。頭を上げると、そっぽを向きながら顔を赤くさせている曙の姿があった。

 

 

 

 

 

 その姿に、もう一度噴き出してしまったのは許してほしい。

 

「一度ならず二度も噴き出すとはどういうことよ!!」

 

「悪い……悪いって……」

 

「仲がよろしいようですねぇ」

 

「「いッ!?」」

 

 いきなり横から声がして俺と曙はその場で飛び上がる。すぐさま声の方を見ると、ニヤニヤと笑っている雪風が立っていた。

 

「おまっ!? いつの間に!!」

 

「しれぇの信頼が底辺だ……のところからです。しかし、しれぇがそんなにも雪風のことを想っていてくれたとは知りませんでしたよぉ~」

 

 俺の問いにそう応えながらニヤニヤとした顔を向けてくる雪風。めっちゃ前じゃん!! しかも一番こいつに聞かれたくなかったところをバッチリ聞いてるじゃねぇかぁ!! 

 

「てててて、てかあんたは何しに来たのよ!?」

 

「まぁまぁ曙さん、落ち着いてくださいよぉ。雪風はしれぇを探していたんですから」

 

 雪風の言葉に悶絶していた俺であったが、俺を探していたと言う彼女の発言に応えるために何とか気持ちを落ち着かせて雪風に目を向ける。

 

 ん? よく見たら何か持って…………鍋?

 

「先日、しれぇが作った『かれぇ』を雪風なりに作ってみました!! 味見をお願いします!!」

 

 そう言って、雪風は鍋を置くと何処からか食器を取り出して見せてくる。てか、『かれぇ』ってカレーのことか? 確かに雪風に作っているところを見られたが、まさかあれだけで作り方を覚えたわけじゃねぇよな。

 

 と言うか、何で雪風はわざわざ鍋を持ってきたんだ? 俺を探すのに鍋を持ち歩く必要はないし、ご丁寧に食器を3人分(・・・)も…………。

 

「おっと、雪風としたことがスプーンを忘れてしまいました!! しれぇ、大至急取ってきます!!」

 

「ちょっと待て! ちょうど雪風に頼もうとしていた所だ。スプーンのついででいいから曙の部屋に行って服を持ってきてくれ」

 

「そんなのお安い御用ですよ!! では、しれぇはシーツと毛布ですか?」

 

「…………ああ、そんなところだ。何処にあるか分かるか?」

 

「ドックの横に新しいシーツと毛布が置いてある部屋があります。そこに行けばもらえますよ!!」

 

「ドック横だな、分かった。曙、悪いが少し待っていてくれ」

 

「え、あ、わ、分かった!」

 

 突然振られて驚きのあまり言葉足らずになる曙を置いて、俺と雪風は営倉を後にする。階段を上りきって廊下に出た時、俺は雪風に問いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前、本当はもっと前から居たんじゃねぇ?」

 

「さぁ? どうでしょうねぇ?」

 

 俺の問いに、雪風はイタズラっぽい笑みを浮かべてそう答えた。



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『提督』のやり方

「ふぅ……」

 

 ガス灯の柔らかな光が優しく照らす執務室。そこで、俺は椅子に腰かけて一息ついた。

 

 今日は色々とあったために瞼は重く腕や足は棒のよう。こんな日は湯船に浸かってゆっくりしたいのだが、ドックはフル稼働中のため今日は湯船に浸かれそうにない。後でタオルでも持ってきて身体を拭くとしよう。

 

「で? 何でお前がここにいるんだよ」

 

「良いじゃないですかぁ~。減るものでもありませんしぃ~」

 

 椅子に腰掛ける俺の足の間にスッポリハマるように腰掛け、そんな言葉を返すのは雪風。

 

 営倉でカレー試食会を終わらせて後片付けをした後、何故かこいつは自室に帰らずに此処に屯している。こちとら色々と走り回って疲れていたのだが、鼻歌まじりに足をブラブラさせている雪風を見るに、簡単には帰ってくれなさそうだ。

 

 因みに、自信満々に持ってきた雪風のカレーは不味くはなかったが、火が通りきっていない野菜と変に水っぽいルーと言う少々残念なモノだった。雪風自身、俺の作ったやつとの余りの違いに「雪風でも再現できないのですかっ……」って項垂れていたし、本人的にはもうちょっと美味しいはずだったんだろう。

 

 でも、そんな中で1人貪るように食べていた曙には好評だったことが唯一の救いだったみたいで、ちょっとは機嫌が良くなったんだがな。まぁ、曙もこれより美味しいと雪風が太鼓判を押した俺のカレーを言葉では軽んじていたけど、期待に膨らむ目を俺に向けていたことはどうでもいい話か。そう遠くない未来、もう1人分の飯を作ることが確定したようです。

 

 まぁいい、今さら1人2人増えたところで手間は変わらん。食材についても大本営に手紙を出して回してもらうよう手配すればいいか。

 

「雪風、手紙書くから退いてくれ」

 

「まさか昔のガールフレンド!? しれぇにもそんな時期が!?」

 

「アホ」

 

 期待の眼差しを向けてくる雪風の頭を軽くチョップし、痛みに頭を抱える雪風の脇に手を入れ持ち上げて立たせる。無理矢理立たされた雪風が不満げな顔で睨み付けてくるのを見ないフリして、机の引き出しから便箋とペンを取り出した。

 

「誰に書くんですかぁ?」

 

「大本営だよ。色々な物資をあっちから手配してもらえるよう交渉する」

 

 そう言いながらペンを走らせる俺を雪風は何故か不思議そうに見つめてきたが、すぐさま走らせるペンに意識を集中させた。

 

 今日の吹雪の言葉から見るに、この鎮守府は慢性的な資材不足に陥っている。まぁ、出撃や演習で燃料や弾薬を使うし、更には食事にも使うんだから相当量の資材が要るわけだしな。そして、今回の件で入渠で更に資材が飛ぶとなると運営すら危うくなるかもしれないし。大本営から最低限の資材を支給されるのが普通って学校で習ったから、今回のような緊急時におけるフォローもやってくれるだろう。

 

 もし首を縦に振らなかったら、何の説明もなしにこんなところに左遷(とば)したことを餌にパワハラだって揺さぶってやろうか? 軍にパワハラが使えるか知らんが。

 

 まぁ、他に手紙を書く目的はある。それは、今回の襲撃事件の処理だ。

 

 今回の件で轟沈、死亡者は出なかったものの、各艦隊所属と鎮守府防衛戦力以外に出撃不可能な負傷者が多数、という甚大な被害をもたらしたことへの責任を取らされるのは目に見えているからだ。

 

 更には、鎮守府内に深海棲艦を侵入させたこと、今回は鎮守府のみだったが近隣の住民にも被害が及ぶ可能性もあったわけでそのリスクを回避できなかったこと等、呼び出される理由には十分すぎる材料が揃っている。そこをつつかれることは間違いないだろう。

 

 新米だってことと着任して間もないことを全面に押し出せば見逃してもらえねぇかな。……下手したら責任をとらされて腹切らさせられるんじゃねぇだろうな? 頭の固い奴等だ、そんなことを言ってきそうな節もある。それに、その件を罰として資材の追加提供を拒否されたらどうするか……。

 

 それを考え出すと、まだそうなると決まった訳じゃねぇのに胃の辺りがキリキリしてくる。あぁ、しんどいなぁ……。

 

 そんなことを思いながら腹をさすっていると、コンコン、とドアがノックされた。

 

「どーぞー」

 

「お前が答えるのかよ」

 

 部屋の主である俺を差し置いて返事する雪風にそう突っ込みを入れるが、返事は開かれたドアから入ってきた人物によって返ってこなかった。

 

 

「榛名さん!!」

 

「失礼します」

 

 雪風の声に入ってきた艦娘――――榛名は手を振りながら笑いかけ、すぐさま顔を引き締めると俺に向かって頭を下げる。しかし、俺はすぐに反応できなかった。

 

「榛名……無事だったのか」

 

「榛名は昨日の件で罰として資材を集める艦隊に配属されて鎮守府に居なかったために被害を受けることはありませんでしたので……そして、これは金剛お姉さまからです」

 

 俺の問いに申し訳なさそうに頭を下げる榛名。まぁ、あの件で出撃組に入っていたために難を逃れたのはこっちとしても万々歳だが……なんか複雑だわ。そんなことを思っていると、軽く頭を下げた榛名は脇に挟んでいたファイルを差し出してきた。

 

「今回の件の被害状況と消費した資材、その残量です」

 

 一番考えたくない話題がやってきやがったか。思わず顔を覆いたくなるのを堪えて差し出されたファイルを受け取り、中を見る。

 

「やっぱりか……」

 

 予想通り、そこに書かれていた数字はお世辞にも良いとは言えないモノばかり。所属する艦娘たちの大半は負傷、出撃不可能な者には赤字でチェックが付けられ、それがページの大半を占めるところも見受けられる。負傷者の治療についてはドックをフル稼働すれば1週間程度で何とかできるっぽいのが救いか。しかし、それに対して消費する資材が備蓄の殆どを喰い破っており、残りの燃料や弾薬は8000、鋼材やボーキサイトも5000を下回っている有り様だ。

 

 消費した資材の大半は入渠によるモノで、他には出撃に遠征、演習、食事である補給か。入渠分を除いた消費量は約2000ほど。残量と見比べても確実に2、3日で資材が枯渇するのは目に見えているな。首がどうとか言ってられない状況だ。

 

「すぐに金剛お姉さまの指示で遠征部隊を複数編成させ、出てもらいました。また、潜水艦隊をオリョール海に出撃、資材の確保に向かわせました。あとは、しばらくの間補給を切り詰めれば、何とか凌げるかと思います。しかし、入渠する艦娘たちの治療が……」

 

 鎮守府における全ての行動に資材が必要となれば、今は遠征部を駆使して資材をかき集めるしかないか。しかし、同じ人員がずっと遠征に行くのもしんどいだろう。まずは、動ける人員の確保だな。

 

「榛名、動ける人員を確保するために入渠は軽傷者を最優先に、命に関わるほどの重傷者は例外で先に入渠させるようにしてほしい。入渠出来ない奴は応急処置で何とか凌ぎきってもらうが、その代わり自然治癒力を高めるために『補給』を最優先。入渠し終えた者から遠征部隊を組み、帰ってくる部隊と入れ替わりに出てもらうのを繰り返す。ローテーションは任せていいか?」

 

 艦娘に自然治癒力が備わっているかは知らないが、入渠の際にそれなりの資材を消費する。だから、その資材を食べれば多少なりとも自然治癒力が促進するんじゃないか、と言う淡い期待に賭けたわけだ。もし違っていたら全員に土下座でもするか。

 

 それに、遠征部隊に関しても艦娘たちの特徴は榛名や金剛の方がより理解しているし、俺が指示出すよりも言うことを聞いてくれるだろう。最高指揮官なんて肩書きを持っているわけだが、ここは現場監督である彼女たちの采配に任せた方が上手くいくはずだ。仕事をぶん投げている訳じゃねぇ、適材適所だよ。

 

「今日の哨戒は潜水艦隊でしたよねぇ? 鎮守府近海の哨戒は大丈夫なんですかぁ?」

 

 そこまで指示を終えると、間で黙り込んでいた雪風がそんな質問を榛名にぶつけた。って、今日の哨戒が潜水艦隊ってことは、ある意味今日の襲撃事件を引き起こした奴等ってことじゃねえか。

 

「現在、鎮守府防衛戦力から割いて充てていますが、何分艦娘が足りずに少々穴があります。警備する場所を変えながらそれを補っている状況です」

 

 穴がある時点で哨戒とは言えんだろ。しかし、人員ばかりはどうにもならんか。なら、今鎮守府を離れている艦娘たちに頼むのはどうか。

 

「入渠が終わった奴等は遠征部隊よりも哨戒隊に向かわせることを優先的にしてくれ。んで、哨戒隊の人員が集まるまでは遠征部隊に索敵範囲を拡大させることで対応出来ないか? そうすれば哨戒の穴も小さくなると思うんだが」

 

「無理に索敵を広げると遠征部隊の負担が増しますよぉ? 夜間は駆逐艦や軽巡洋艦等の夜間に強く且つ入渠が早く済む艦娘を多めに配置して、昼間はいつも通りの人員に加賀さんたちの艦載機と連携させて哨戒を行ってもらえれば良いと思います」

 

 俺の発言に雪風がそんな提案をしてくる。確かに、最優先に確保すべき資材を集める遠征部隊に索敵範囲を無理に広げさせて負担が増し、失敗でもしたら元も子もないか。夜は多数の夜間哨戒、昼は艦載機を交えた哨戒……上空からの方が見えやすいし雲などに隠れれば見つかる心配はない。明日の昼はこれでいくか。

 

 今日の夜に哨戒に出る奴等には負担をかけて申し訳ないが、それは間宮アイス券を進呈することで対応しよう。演習の時あれだけ騒いでたんだし、飛び付いてくるだろう。

 

「雪風は今日の夜間哨戒に参加する奴には特別手当てとして間宮アイス券を進呈するよう伝えてきてくれるか? あと、言い出しっぺだからそのまま哨戒部隊を率いてくれ」

 

「りょーかいしましたぁ」

 

 そう言って雪風は椅子から立ち上がると、入り口のところでビシッと敬礼し、小走りに執務室を出ていった。それを見送り、俺は再度ファイルに目を移して不足している資材量をみる。どれだけの資材があれば安心するのかな?

 

「榛名、資材ってどのぐらい備蓄しておけば安心できるんだ?」

 

 ファイルから視線を外さずにそう問いかける。しかし、すぐに返答がこない。ファイルから視線を外して榛名を見ると、何故か肩をすくめて縮こまっていた。その視線は空中を忙しなく右往左往し、時おり目がこちらを向いてはすぐさま視線を外すことを繰り返した。

 

「……榛名?」

 

「提督は……榛名を罰しないんですか?」

 

 俺の問いに、榛名は答えではなく質問をぶつけてきた。彼女が発した言葉の意味が分からず、首をかしげると、榛名は視線を下に向けながら拳を固く握った。

 

「榛名は『戦艦』です。戦艦は敵を倒すことが役目であり、存在意義であり、それが出来なければただの役立たずです。そして、その敵が鎮守府を襲撃していた時、榛名は遠い海の向こうで資材を集めていました。金剛お姉さまの命令とはいえ、榛名は自身の役目を全う出来ませんでした……だから……」

 

 最後の言葉を発すると同時に、榛名は握りしめた拳を自らの太ももに振り下ろした。それは、震える身体に活を入れるためのものだったのかもしれない。しかし、身体の震えは止まらず、何度も何度も振り下ろされる拳の音が響くだけで何も変わらない。まして、彼女の目から涙が滲んでいた。

 

 

「……前任か?」

 

 俺がそう問いかけるも、榛名はただ震えを止めるために拳を振り下ろすだけであった。しかし、それが答えだと言うのは嫌でも分かる。

 

「ふざけたことを……」

 

 無意識のうちに、俺はそうこぼしていた。それに身体を震わせる榛名は拳を振り下ろすのをやめ、固く目を瞑った。まるで、次に来るであろう激痛に耐えるかのように。

 

 その姿に、俺は椅子から立ち上がってゆっくりと榛名に近付くために歩を進めた。絨毯を踏みしめる音が微かに響き、その足音が鳴る度に榛名の目尻に力が入り、歯を食い縛り始める。

 

 やがて、彼女の前で立ち止まる。その時、榛名が目を瞑り歯を食い縛りながら顔を上げ、頬を差し出してきた。叩いてください、と言わんばかりに。

 

「榛名……」

 

 そう声をかけると彼女の身体はビクッと揺れ、やがてそれは凄まじい震えとなる。それを前にして、俺は手を上げた。

 

 その手が、彼女の頬に触れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やわらかいなぁ」

 

「ふぇ?」

 

 思わず率直な感想を述べると、榛名がそんな声を上げながら目を開き、自らの頬を触る俺を凝視してくる。

 

「はい、罰終わり」

 

 それを受けて、俺はそう言いながら彼女の頬から手を離し、その頭に手を強めに置いて下を向かせてクシャリと撫でた。

 

 急に頭を撫でられた榛名は「わわっ」と小さな声を上げながらも抵抗することなく、撫でられるがままに。やがて撫でる手を離すと、榛名は不思議そうな目を向けてきた。

 

「……何ですか? 今の……」

 

「罰」

 

 榛名の問いに素っ気なく返し、俺は椅子に座ってペンを握る。そのまま便箋にペンを走らせる俺を、榛名は穴が開くほど見つめてきた。

 

「……罰? あれがですか?」

 

「男に頬を撫でられるの嫌だろ? 罰って嫌なことをするもんだし、それでいいだろよ。それに――――」

 

 そこで言葉を切って、俺はペンを止めて傍らのファイルを取り上げる。そこに書かれている金剛と榛名が指示した遠征部隊の名簿と潜水艦隊の名簿を指差す。

 

「榛名たちは資材を集めるために遠征部隊と潜水艦隊を出した、今出来ることをやってるんだからそれで十分さ」

 

 俺の言葉に、なおも分からないと言いたげに首をかしげる榛名。失敗したときは罰を受けるのが当たり前、って思っている感じか。まぁ間違ってないけどさ。

 

「過ぎたことを今さらグダグダ言ってその結果が変わるか? 変わらねぇだろ。どうせ変わらねぇんだ、その時間を今出来ることを考えることに回せ。時間は有限なんだ、もっと効率よく使えよ。そしてこの報告を見るに、榛名たちは今の状況を打開するために遠征部隊、潜水艦隊、更には哨戒部隊を編成して、資材の確保と鎮守府の安全を図っている。今、お前らが出来る最善策をやってるってことだろ? それで十分じゃねぇか」

 

 出来ないことを無理にする必要はない。出来ることをやればいい。余裕があれば出来ることを増やしていけばいい。

 

 それが俺のやり方であり、生き方だ。

 

「……提督は優しいのですね」

 

「受け売りだけどな。さぁ榛名、大体どのくらい備蓄があれば安心できる?」

 

 優しげな笑みを浮かべる榛名の言葉にそう返しながら問い掛けると、榛名は顎に手を当てて考え始める。その姿を見ながら、俺は内心冷や汗をかいていた。

 

 

 

 言えない……頬を撫でた時に向けられた視線に耐えきれなくなって、視線を外すために頭に変えたなんて……恥ずかしすぎて言えない。

 

 

 軍学校と言う男ばかりのところで数年生活してきたんだ、女と言うものに触れ合う機会なんて皆無に等しかったわ。それが、まだ会って2回目ぐらいの子にあんな顔で見つめられたらむず痒くなるのは当然だろ? 頭に変えて撫でた後にすぐに机に座ったのも、あの視線を見ないようにするためだし。

 

 俺のやり方で言うなら、頬と頭を撫でて(出来ることを増やそうとして)手紙を書いた(出来ることをやった)わけ。

 

 要するに、自他共に認める『ヘタレ』ですわ。

 

「大体、全20000ほどあれば有事の際でも安心できますね」

 

「20000……ね、了解」

 

 榛名の言葉を手紙とはまた違う紙にメモとして書いておく。大体、各資材が10000ほどもらえばいい感じか。遠征部隊や資材集めの分を考慮すれば8000ぐらいでもいい感じだが、多めに貰えるに越したことはない。出来る限り搾り取らせていただきましょう。

 

「さて、後はこれを大本営に送ればいいか」

 

「榛名がお出ししておきますよ」

 

 書き終えた手紙を封筒にしまうと、榛名が柔らかな笑顔を向けて手を差し出してくる。たかだか手紙を出すだけにそんな気遣い必要はないのにな……。

 

「じゃあ、頼めるか」

 

「お任せください」

 

 差し出した手紙を受け取った榛名は頭を軽く下げ、小走りでドアへと向かう。が、途中で何かを思い出したようにこちらを振りむいて微笑みかけてきた。

 

 

 

「私、『月次(つきなみ) 遥南(はるな)』って言います」

 

 

 へ? 『月次 遥南』? 誰の名前? 『榛名』は『榛名』だろ?

 

「私の『真名』ですよ。艦娘になる前の―――人間の頃の名前です」

 

 『真名』って、艦娘になる前の名前……要するに榛名の本名ってところか。でも、何でこのタイミングでそれを教えたんだ? そっちで呼んでほしいってことか?

 

「えっと……これからは『月次』って呼べばいいのか?」

 

「いえ、普通に自己紹介をしてもらえれば結構です」

 

 尚も柔らかな笑顔を浮かべる榛名。ま、まぁ本名を名乗られたら名乗るのが礼儀ってものか。

 

「改めまして、明原 楓と言います。よろしくお願いします」

 

「よろしくお願いいたします。では、榛名は失礼しますね」

 

 俺の自己紹介に満足げな顔のまま、榛名はそれだけ言うと執務室を出ていった。結局、何故急に『真名』を名乗ったのかは分からないままだが、そう気にするものでもないだろう。

 

 そう頭を切り替え、俺も自室へ戻るために執務室を後にした。

 

 

 

 その後、大本営から召集令状が届いたのは数日後のことであった。



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提督の『お守り』

「……で、ありますから、テートクは大本営まで行ってもらいマース。すぐに出立するので、準備を整えておいてくださいネ」

 

 夥しい書類の山で埋まる机。その書類の間から伸びる白い腕から召集令状を受け取り、軽く目を通してから書類の山―――の隙間から見えるブラウン色のお団子に特殊な形のカチューシャに視線を向ける。

 

「……何ですカ?」

 

「え、いや……」

 

 俺の視線に気付いたのか、カチューシャとブラウン色のお団子がゆっくりと持ち上げられ、その下から青みがかった白い肌にくすんだ灰色の瞳の下には濃い隈が刻まれる顔を上げた艦娘―――金剛が抑揚のない声で問いかけてきた。

 

 その言葉に慌てて金剛から視線を外しながら頬を掻く。行き場を失った視線を彼女の傍らに佇む大淀に向け、あまり出来の良くない頭は胸中に秘めた言葉を言おうか言うまいかを思案するために回転させる。

 

 その間、俺から目を離した金剛は擦りきれた羽ペンを掴んで手元の資料に走らせる。書き終えた資料が彼女の脇の山に積まれ、その反対側に積まれた山から新たな資料を引っ張りだす金剛を見て、改めて大きく息を吸った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何か……場所違うくね?」

 

「ハァ?」

 

「いや、その……金剛と俺の立ち位置が反対じゃないか~、って思って……」

 

 喉の奥から絞り出した俺の言葉に金剛は走らせていた羽ペンを止め、訝しげな表情を向けてくる。青白い肌に濃い隈が刻まれた顔を向けられ思わず顔を背けるも 、何とか言いたいことを言えたことに安堵の息を漏らす。

 

 と、言うのも、今現在の俺は金剛の部屋にいる。そこで、大本営からの召集令状を金剛(・・)から受け取ったのだ。

 

 ……いや、俺提督よ? 普通、大本営からの手紙とかって第一に俺の手元に来るはずよ。それが、何故1艦娘である金剛の元に届けられるんですかね? 大淀さん、そこで目線を反らさないで下さいよ。

 

 それに次はこの部屋だ。

 

 金剛の私室であるここは何故か俺の自室よりも広く、かつ扉から入ってすぐの大きな机―――執務室にあるであろう机が鎮座しており、その脇には来客用のソファーが2組、机と一緒に置いてある。ここは執務室ですか? と言いたくなるほどの家具の充実度よ。大淀さん、思い出したように眼鏡を拭き始めるのやめてください。

 

 そして極め付きはその机に積まれた夥しい量の書類だ。

 

 横目でチラッと見えた限り、どれもこれも入渠に関するモノばかり。恐らく、入渠する艦娘の名前と所要時間、そして消費する資材の量等が書かれているのだろう。そして、後は備蓄資材の量や遠征、出撃、哨戒部隊の詳細、ローテ表など、様々な資料が見受けられた。こういう資料って、提督である俺が捌くもんじゃないのか? ねぇ?

 

「大淀さ―――」

 

「大淀に何かしたら吹き飛ばしますヨ?」

 

 わざとらしく靴紐を結び直す大淀にジト目を向けたら、資料の隙間から金剛から低い声が飛んでくる。その声と共に深海棲艦を殺せそうなほど鋭い視線に晒され、大淀への追求をやめた俺は標的を金剛に変える。

 

「何でお前が書類捌いているんだ? それは提督(おれ)の役割だろ。それにこの部屋の設備はなんだ? まるで執務室じゃねぇか」

 

「その執務室がつい最近まで使えなかったから、ワタシの自室(ここ)を執務室代わりにしてるだけネ。テートクに関しても、つい先日まで居られなかったからデース」

 

 俺の問いに、金剛はペンを走らせる書類から一切目を外さずにそう言ってのける。いや、提督に関しては仕方がないにしても、執務室ぐらいは片付けておけよ。あそこには貴重な資料とかあるんだからさぁ。

 

「それも、全て(ここ)に入っているのでno problemネ。と言うよりむしろ、これだけの量を新任の(・・・)貴方が捌けますカ?」

 

 指で頭をトントン叩く仕草をした金剛、今度は表情を軽く歪ませながらそう問いかけてくる。その表情と言葉に腹の虫が騒ぎかけたが、その問いに真っ向から肯定できる程の器量も無いのは俺自身が一番知っているため、何も言わずに押し黙った。

 

「こちらとしても、テートクに書類整理を教えながらワタシの分も捌ける自信はないネ。なおかつ、深海棲艦の襲撃によってドックの状況から資材の備蓄、遠征、出撃、哨戒部隊の詳細やテートクが命じた(・・・・・・・・)ローテ表の更新等々、見ての通り尋常じゃない書類デース。それを処理するには、テートクよりもワタシの方がスムーズに終わると思いますが……違いますカ?」

 

 さりげに俺の指示が負担になりました、ってアピールしてきやがったな。しかし、今まで書類整理なんかせずに生きてきたのは事実。金剛の言葉通り、今ここで俺が入っても彼女の負担になるだけか。なら、無理して入る必要はない。

 

 ならば、今出来ることをやるしかないか。

 

「分かった、悪いが俺が留守の間のことは全て任せる……っても、元々丸投げしてたモンか。なら、無理しない程度に頼む」

 

「『兵器』に無理もくそもありませんヨ。それに、ワタシを心配する前にまず自身の心配をしたらどうですカ?」

 

 そう素直に頼むも、金剛は一切顔を上げずにペンを走らせながら皮肉を浴びせてくる。今から大本営に頭を下げに行くんだ。それ相応の覚悟は出来ているさ。しかし、一々癪に障ることばかり言ってきやがるな……。

 

 何か言い返したい衝動に駆られて辺りを見回したら、山積みの資料の脇に置かれているティーカップが目についた。ほほう、これは見過ごせないな。

 

 

 

「んだよ。他の奴等には資材を食わせて、自分は紅茶なんか飲んでやがるのか」

 

 

「ッ!?」

 

 そう皮肉を言った瞬間、今まで静かに控えていた大淀が突然顔を真っ赤に染めて俺の胸ぐらを掴んできた。突然のことに反応できないのを他所に、大淀は力任せに俺を引き寄せ、今まで見たことのないような形相を近付けてくる。

 

「提督!! 貴方は――!!」

 

「大淀」

 

 噛み付かんばかりに吠える大淀を、金剛の静かな声が止める。その物静かな声には、相手を従わせるのに必要な重みが備わっていた。その言葉に吠えるのをやめた大淀であったが、俺を引き寄せたままその形相を金剛に向ける。

 

「で、でも金剛―――」

 

「いいんデース」

 

 なおも食い下がろうとする大淀に、金剛は再度同じ重みの言葉を投げ掛ける。それに大淀は牙を抜かれたのか、渋々と言った表情のまま俺の胸ぐらを離した。その瞬間、欲した空気を一気に吸い込んだために激しく咳き込む。

 

 

「テートク」

 

 咳で回りの音があまり聞こえない中、金剛の囁くような声だけが異様に響いてくる。それは、先ほど大淀を止めた声色よりも幾分か軽い、しかし遮るのを躊躇させるほどの十分な重みを孕んでいた。

 

「紅茶はワタシにとって燃料と同じデース。ワタシ(兵器)紅茶(燃料)飲む(補給する)のは当たり前だと思いマース。それにこれは大淀が淹れてくれたモノ、人間(テートク)たちが触れたモノでもありませんシ……」

 

 そうのたまう金剛は羽ペンを置いてティーカップを手に取りゆっくりと傾ける。……どう考えても屁理屈にしか聞こえないが、それはつまりこういうことだよな?

 

「それって――――」

 

「提督、大本営からの車が着いたようです。すぐに支度をお願いします」

 

 金剛に問いかけようとした瞬間、無線を受けたらしき大淀が俺たちの間に割り込むようにそう言ってきた。金剛は話は終わりだと言いたげに再びペンを掴んで書類と格闘し始め、割り込んできた大淀は鋭い目付きのまま早く準備してこいと背中を押してくる。

 

 結局、そのまま部屋から摘まみ出されてしまった。

 

「聞きそびれちまったな……」

 

「しれぇ」

 

 金剛の部屋のドアの前で溜め息交じりにそう言うと、不意に横から声をかけられる。振り返ると、不安そうな表情の雪風が近付いてきていた。

 

「どうした?」

 

「先ほど到着した車、しれぇを大本営まで連れていくんですよね?」

 

 そんな言葉を呟きながら、雪風はゆっくりと近付いてきて、着ている制服の裾を掴んでくる。いつもの明るい様子からは想像も出来ないほどの意気消沈っぷりに、俺は膝を折って雪風と同じ目線になり、少しでも安心させようとその頭をクシャリと撫でた。

 

「前に大本営に手紙出しただろ? その返答で召集されただけだ。何、数日もすれば帰ってこれるし、お土産にたんまり資材を持って帰ってくるさ」

 

「……ホントですか? 必ず帰ってきてくださいよぉ……?」

 

 俺の言葉に尚も不安げな声を上げる雪風。その表情は不安と悲壮、そして恐怖がありありと浮かんでいる。頭を撫でただけでは決して拭いきれない、そう確信するのに時間はかからなかった。

 

 それを例えるなら、戦地に向かう父親を引き留める幼子のような、親との決別を前にした子供のような小さく弱々しい、触れただけで崩れてしまいそうと思ってしまうほど、脆いもののように見えた。

 

 

 

 

 

 

『俺も、こんな風だったのかな』―――――ふと、そんなことを思った。しかし、その思考は彼女の頭を撫でていた腕を掴まれ、ぐいっと引き寄せられたことによって停止する。

 

 

「では、しれぇが無事帰ってこれるように――」

 

 そう近くで聞こえた雪風の声。視線の横を雪風の横顔が通りすぎ、そして頬に感じる小さくも暖かな感触。

 

 それは一瞬にして現れ、一瞬にして消え去った。それと同時に、離れていく雪風の横顔。

 

 瞳を閉じられたそれは離れていくと同時に開かれ、やがて柔らかな笑顔に変わった。そして、その口がゆっくりと動き出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「幸運の女神ではないですが…………『幸運艦のキス』です」

 

 それだけ言うと、雪風はクルリと向きを変えて走っていってしまう。廊下の突き当たりにある階段の前で再度こちらを向き、ペコリと頭を下げた雪風はすぐさま階段を降りていってしまった。

 

 一人呆然と立ち尽くす俺。

 

 雪風の頭を撫でていた手は、先ほど小さな温もりを感じた頬に触れていた。雪風が残した言葉、そして頬に微かに残るしっとりとした感触。それらが意味することを理解するのにそう時間はかからなかった。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 鎮守府から大本営に向かう車に乗って、指定されたホテルで一泊を挟んで、俺は大本営へと到着した。

 

 到着早々、黒塗りの軍服に凝った装飾が施された刀を引っ提げた青年が現れ、俺の案内役であることを伝えてきた。こちらも簡単な自己紹介をした後、彼に連れられて本館内を歩いていく。

 

 時おり、すれ違う黒塗りの軍服、俺と同じ提督用の白い制服を身にまとう奴らから、あまり友好的ではない視線を向けられた。どうやら、着任早々鎮守府に敵を侵入させたと言うことが本営内で広まっているようで、近隣住民を危険に晒したと言うことで白い目で見られているようだ。

 

 新米なんだから&着任した鎮守府があんな状態、ってことで少しは多目に見てほしいもんだな。まぁ、そこまで期待してないけどよ。

 

「こちらになります」

 

 そんな視線を掻い潜りながら青年の後をついていき、とある扉の前で立ち止まった彼がそう言いながら扉を開けてくる。ここまで案内してくれた彼にお礼を言い、中に入って近くにあったソファーに身を預けて一息ついた。

 

 

 先ほどの青年――――憲兵の話を聞くに、うちの鎮守府での襲撃事件は起きたその日に大本営の耳に入っていたようで、それが入った瞬間俺の召集が決められたらしい。まるで、始めから(・・・・)召集するようであったかのようにトントン拍子で話は進み、今に至るのだとか。

 

 しかも、ちょうどお偉いさん方が本営におり、そいつらから会議に出席したいとの旨を送ってきたのだとか。そんなアホみたいな早さで行われる俺の尋問会は現在、出席するお偉いさん方の到着を待つだけとか。

 

 ほんと、示し合わしてるんじゃねぇか? って思うほど事が上手く運びすぎな感じはあるが、たかだか一人の提督が口を出して良いもんじゃない。ここは大人しく従うしかないか。

 

 そんなことを思っていると、不意にドアをノックされる。そして、ドアは返事を待たずに勢い良く開かれた。

 

「よぉ、明原。久しぶりだなぁ」

 

 入ってきたのは、先ほどの憲兵と同じ制服を身にまとった男。しかし、その制服は所々おかしな刺繍や明らかに規定にそぐわない着崩れ方が目立つ。上官に出会えば怒鳴られることは必至であるのに、その男は何故か平然としていた。

 

 己の階級が高いことを鼻にかけているのか――――いや、そうじゃない。

 

 

 

 

「朽木……お前、憲兵隊に入ったのか」

 

「あぁ、父上(・・)の熱烈な要望を受けて、だ。お前がなにかやらかしたら真っ先に確保してやるから覚悟しとけよ」

 

 俺の言葉に、憲兵の男――――朽木はニヤニヤとした笑いを浮かべながらそう言ってきた。

 

 朽木(くちき) 林道(りんどう)――――俺がまだ軍学校に居たときの同じ期生だ。いつも自分の親父の事を自慢げに語り、その息子である自分は特別な存在なのだと日々のたまりながら粗暴な振る舞いを起こす迷惑なヤツ。そんな虎の威を借る狐状態のヤツは何故か俺に突っ掛かってきて、その度に衝突を繰り返した。

 

 そして、こいつの親父は朽木(くちき) 昌弘(まさひろ)中将。

 

 深海棲艦が現れて人類を攻撃し始めた4年前、まだ艦娘の存在が発覚していないために最新鋭の兵器を引っ提げた軍がなすすべもなく大敗していく中、唯一最後まで崩されなかった師団隊を指揮した名将だ。また、いち早く艦娘の存在を見つけ、上層部に艦娘を軍に組み込むよう進言したのも彼であり、現在の軍の体制を作り上げた一人と言える。

 

 現在は第一線を退き、辺境の鎮守府に赴任して新人艦娘たちの訓練を行っていると聞いているが、時おり大本営にも顔を出しているらしい。

 

「しっかし、まさか着任早々深海棲艦の襲撃を受けるとは不運だったなぁ。ま、沈んだ者が居なかったのは幸いと言えるが、周りにいた艦娘たちが何とかしてくれたんだろ? どうせ、お前はそんな艦娘たちに守られただけなんだろうがな」

 

 俺を見下すような視線でそう挑発してくる朽木。色々と言い返したい事はあったが、それを始めると終わりが見えないことは昔から知っているわけで。大人しくした方が余計な体力を使わなくて済む。

 

「まぁ、やはり無理があったんだな。お前みたいなヤツがいきなり提督になるなんて……全く、父上も何処で見間違えられたのやら」

 

 今の発言で、こいつの親父が俺を提督にさせたことが判明した。たぶん、こいつから俺の事をさんざん聞かされたんだろうな。んで、それに腹を立ててか俺をあんな所に着任させた、って訳だろ。

 

 大事な息子に楯突くヤツがいる、そう聞いたら親と言うものは盲目になるわけで。それが歴戦の猛者であろうと、そんなアホみたいな事を考えちまうのか。ホント、子煩悩って恐ろしいわぁ。

 

「てか、なんで憲兵隊にいるんだ? お前、提督志望だっただろ?」

 

「父上に憲兵隊に志願するよう言われたのだ。海は父上が守られる、ならその息子である俺は内地(りく)を守るのが当然だろ?」

 

 俺の言葉に自信たっぷりに胸を張る朽木。それは在学時代に自分の親父を語る際の仕草にそっくりだ。こういうところは、変わらないんだな。

 

 しかし、何で提督志望だった息子を憲兵隊なんかに志願させたんだろうな。ただ単純に自分の苦労を息子にしてほしくなかったためか、それとも自分の息子を憲兵隊に送り影響力を増やしたかったのか。色々と理由はあるだろうが、俺には関係のないことか。

 

「そんなことよりも、もうすぐ会議が始まる。さっさと準備しろ」

 

 そう言って、朽木は早く動けとばかりに俺が身を預けていたソファーを蹴飛ばしてくる。それに反論するよりも、会議と言う名の尋問会に放り込まれるという現実を突き付けられた衝撃の方が強かった。

 

 あぁ、雪風の前では大見得きったけど、いざ目の前にすると怖じけづいてしまう。小心者の証拠か。

 

 

 

 

 

『幸運の女神ではないですが……『幸運艦のキス』です』

 

 

 ふと、いきなり頭の中に蘇った雪風の言葉。

 

 その言葉を思い出したとき、自らの頬――――雪風にキスをされた頬に仄かな暖かみ感じた。そして、無意識のうちに手がその暖かみを確かめるように頬に触れる。

 

 

 

 

 

「『幸運艦のキス』……か」

 

「何をしてる? 早く来い」

 

 ぼそりと呟くと、既にドアノブを掴んでいる朽木の言葉が飛んでくる。それを受けて、俺は頬から手を離してヤツの後を追った。

 



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『大本営』のやり方

「ここだ」

 

 朽木に案内されて辿り着いたのは、年期を感じさせる黒く変色した樫に扉。その前で道を開けた朽木は、目で中には入れと合図を送ってくる。

 

 それに従い、樫の扉を軽くノックした。

 

「……入りなさい」

 

 ノックのすぐ後に聞こえてきたのは、もの静かな男の声。しかし、それは異様に良く通り、なおかつ口を挟んではいけない、と思わせる重圧があった。

 

「失礼します」

 

 それを受け、俺は扉のドアノブをゆっくりと回す。うちの鎮守府の扉よりも重厚な音をたてながら扉を開き、空いた隙間に滑り込むように中に入った。

 

 そこは会議室、と言うよりも応接間と言った方が良いのではないか、と思うほど立派な部屋だった。

 

 大理石に細やかな装飾が施された壁のガス灯が暖かな光を放ち、それに照らされた床は赤の絨毯が敷き詰められている。入ってきた入り口の前に一脚の椅子があり、それを取り囲むように漆塗りの立派な机が『コ』の字型で置かれていた。

 

 その机に、胸の辺りにきらびやかな勲章を着けた白い軍服の4人の男たちが座り、その脇に物静かに佇む女性――――艦娘が立っていた。

 

 ピンクのセミロングを後ろで束ね、鼠色のブレザーベストに赤い紐リボンの駆逐艦らしき少女。

 

 膝まであろう長い黒髪を後ろで束ねて垂らし、肩だしセーラー服に紅のスカートを履いた少女。軽巡洋艦だろうか。

 

 短い黒髪の上に特殊なカチューシャを付け、金剛や榛名と同じ露出度の高い服の眼鏡をかけた少女。服装的に、二人の姉妹艦だろう。

 

 そして、一際目を引く高身長の女性。膝まである栗色の長髪を艤装のような髪留めで束ね、先程の軽巡洋艦らしき艦娘のセーラー服をより一層身体にフィットさせたモノに、首には桜の形を模した絞章が刻まれた太い金属輪が光っている。

 

 

「座りなさい」

 

 見たこともない艦娘たちに釘付けになっている俺を、一番近くに座っていた男が淡々とした口調で促してきた。先程の声よりは幾分か軽いが、それでもなかなかの重圧感を孕む声色だ。

 

「君は、ここに呼ばれた理由が分かるかね?」

 

「はっ。深海棲艦による当鎮守府の襲撃について、と把握しております」

 

 促されて着席した早々、そんな質問が投げ掛けられる。相手は上官なので失礼のないように返すと、質問した男は満足げに頷いた。あれだけ大本営内で噂になってたんだ、分からないわけがない。

 

「では、襲撃による被害は?」

 

 やはり、今回の襲撃による責任を取らせにきてるな。ここは、新米ってことを強調しないと……。

 

「はっ。まず、私が新任であった故、突然の来襲に満足な対応が出来ず、貴重な艦娘たちに重軽傷者、中には出撃困難な者を多く出してしまいましたこと、お詫び申し上げます。そして―――」

 

「言い訳はいい、被害を報告しなさい」

 

 言い訳をして不利な状況から少しでも軌道修正しようと思ったが、流石に無理だったか。これで、あとは淡々と被害だけ報告して、監督不行き届き及び、貴重な戦力を失うリスクを犯したとかで厳罰にでもされるんだろうか。むしろ、着任早々の襲撃で轟沈者を出さなかったことを評価してもらいたい。

 

「失礼しました。では、報告させていただきます。まず、負傷者が当鎮守府に所属する艦娘の6割。内、2割が出撃困難な者です。また、被害による艦娘たちの入渠により全ての資材が既に底をつきかけています。更に――」

 

「轟沈は……轟沈者はいるのか!」

 

 淡々と報告していく俺の言葉を、質問してきた男の隣に座る黒ひげを蓄えたふくよかな男の大声が遮った。いきなりのことに咄嗟に周りを見回すも、誰一人として彼の行動を咎める者はいない。つまり、周りも男と同じ想いなのであろう。

 

 最後の切り札として残していた轟沈者なし(カード)を台無しにされたことに思わずその男を睨むも、男は下官である俺の視線を気にする様子はなく、むしろ何故か期待に満ちた(・・・・・・)目を向けてきていた。何だよ、轟沈者が居たら厳罰にでもするつもりか?

 

「……失礼しました。当鎮守府では負傷者多数でありますが、幸いなことに轟沈者は1人も出していません」

 

 俺がそういった瞬間、部屋の空気が一変した。それは今まで流れていたモノとは比べ物にならないほど重く、息苦しく、そして冷たい。

 

 しかも、その空気は一人の男、俺が居るところの反対側に座る深く帽子を被り顔が見えない男から、そしてその横に佇む高身長の艦娘から感じられた。

 

「そうか……轟沈者はなしか」

 

 質問してきた男をはじめ、殆どは皆一様に頭を抱えて溜め息をついていた。何だよ、俺を断罪出来る口実が減ったのがそんなに残念かよ。

 

 

「……よろしい、この件は不問とする」

 

「はぁ!? やっ……す、すみません」

 

 今まで質問してきた男の言葉に思わず声を上げてしまった。突然声を上げたことに男たちの視線が一斉に集まるので、すぐに謝罪をいれて頭を下げた。

 

 おいおいどうなってやがる。これは襲撃についての尋問だろ? 何で被害を聞いて、しかも轟沈者なしの報告だけで不問になるんだ? いや、別に俺としては願ったり叶ったりなんだけどさ。駄目だ、あっち側の考えが全く読めん。

 

「では、本題(・・)に入ろう。君は、あそこをどう思った?」

 

「は?」

 

 今度の質問には、本気で素の声が出てしまった。俺の反応に殆どの男たちの顔が歪むも、それに反応する余裕なんてない。

 

「聞いているのか?」

 

「はっ、やっ、その……き、聞いていました」

 

「なら、早く言いなさい」

 

 男は少しイラついた声色を上げる。しまった、相手は上官。ここで機嫌を損ねさせたらせっかく不問になった責任を改めて持ち出されるかもしれない。早く答えないと……。

 

 とは言っても、うちの鎮守府の状況か……。まだ、着任して1週間位しか経ってないから何とも言えないけど。

 

 

 えっと……まず着任早々砲撃される。次に私物を滅茶苦茶にされる、ドックを覗いた罰で吊し上げられる、飯の提供を拒否される、一方的に殴りかけられる、伽をやられかける(榛名の誤解であるが)、刃物を喉元に押し付けられて脅迫される、深海棲艦のスパイと言われ砲撃される……。

 

 あれ? 何この豊富なネタ。まだ着任して1週間だよな?  てか、むしろよく俺生きていたわ。

 

「自分が無知なのかもしれませんが、想像とは逸脱した鎮守府であると感じております。特に、所属する艦娘たちの態度が著しく悪いかと。着任初日の砲撃から始まり、暴言、暴行、私物棄損、脅迫、食事提供の拒否、言いがかりなど、様々な扱いを受けました」

 

「そうかそうか。では――――」

 

「でも」

 

 何故か嬉しそうに頷く男の話を、無意識の内に飛び出した言葉が遮った。遮ってしまったことに気付いて周りを見回すと、男たちの顔に深いシワが刻まれている。不満と言う感情がありありと伝わってきた。

 

「す、すみません。何でもな――」

 

「続けたまえ」

 

 即座に謝罪をした俺に質問した男の隣、金剛の姉妹艦が側に控える老練な男が遮った。思わずその男を見ると、彼は柔らかい笑みを浮かべて手で続きをと促してくる。そのしぐさに、質問してきた男も不服そうな顔で促してくる。

 

「し、失礼します……しかし、彼女たちにはそうなってしまった『理由』がある、とも感じました。彼女たちが過去に――私の前任の者から暴行や粗暴な扱いを受けたことを、内容は分かりませんがその事実は把握しています。ですから、私はその『理由』を知らなければなりませんし、それを知らない状態で彼女たちを糾弾するのはお門違いかと。そして、それを知るためにはまず彼女たちの信頼を得なければならない、と考えます」

 

 俺はまだ着任して1週間。うちの鎮守府の艦娘からしたらまだまだ余所者も良いところ、それに前任がやらかしたことで『提督』と言う者を嫌悪、場合によっては殺意を向けてくる者もいる。

 

 そんな状況で、彼女たちが受けたモノを聞けると思うか?

 

 ただでさえ思い出したくない出来事、モノによってはトラウマを、何処ぞの馬の骨とも分からないヤツに話と思うか?

 

 前任の代わりに新しく着任してきた俺を、艦娘たちはどうせ前任と同じような振る舞いをすると考えるだろう。俺ならそう考える。そして、前任とは違う、ちゃんと信頼できるかを見極めてから、初めて声をかける。そして、話していく内にソイツの人柄を知っていき、信頼できる、と太鼓判を押してからじゃないとトラウマなんか話さない。

 

 提督である俺でさえこんなに用心するんだ。常に深海棲艦と命の駆け引きをする艦娘なら尚更だろう…… そう考えると、雪風はよく俺に話しかけれたものだな。

 

「そして、彼女たちは――――」

 

「もうよい」

 

 更に続けようとした俺の言葉を、入ってきたときに聞こえたあの声が――――高身長の艦娘の側にいる深く帽子を被った男が遮った。入ってきたときと同じ口を挟ませない重圧。それによって、次に言おうとした言葉が奥に引っ込んでしまった。

 

「ワシは夢見心地で語る若造の妄言(・・)を聞くためにここに来たわけじゃない。君に任務を授けるためにはるばるここまで来たのだ」

 

 そう溜め息漏らしながら首を振ったその男は、ゆっくりとした動作で俺を指差し、口を開いた。

 

「君の鎮守府の艦娘を、全員沈めてほしい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっ?」

 

「おっと、もちろん『全員』とは言わない。出来うる限りでいい。その数に合わせて報酬も弾もう」

 

 理解し切れていない俺を他所に、老練な男は軽い口調でそんなことを言ってくる。いや、そんなことはどうでもいい。俺は今、なんて言われた? 艦娘たち(あいつら)を、『沈めろ』?

 

「お、おっしゃっている意味が分かりません」

 

「言葉通りだ、君の部下を沈めろ(ころせ)と言っている」

 

 聞き違いであってほしかった。深海棲艦を全て沈めろとでも言われていたらよかった。しかし、その幻想は脆くも崩れ去った。

 

「……何故、艦娘たちを沈めるんですか? 彼女たちは深海棲艦に対抗できる唯一の存在、彼女たちを沈める意味が分からない。その行為は俺たちにとって貴重な戦力が減るだけ、それに喜ぶのは深海棲艦だ!! 自分がやろうとしてる意味が分かってんのか!?」

 

「貴様!! 照嶺元帥に何と言う口を!?」

 

 淡々としていた口調が、内から沸々と沸き上がってくる感情に押し流されて素に戻る。俺の暴言に先程質問してきた男が顔を真っ赤にして叫ぶのを、老練な男が手で遮る。てか、照嶺元帥って。

 

 

 

「『隻眼の照嶺』……」

 

「ほう、その名で呼ばれるのも久しいな」

 

 俺の言葉に、照嶺と呼ばれた老練な男はカラカラと笑い声を上げ、被っていた帽子をとった。

 

 白髪混じりの短い黒髪に年相応のシワと歴戦を匂わせる傷跡が刻まれた顔、白髪混じりの髭。そこに、左目を覆う黒い眼帯とそれと対をなす刃物のように鋭い右目が獰猛さを醸し出しながら光っていた。

 

 照嶺元帥――本名、照嶺(てるみね) (はじめ)

 

 深海棲艦が現れた際、朽木中将が取り入れた艦娘を率いて地上を侵していた深海棲艦を尽く撃滅させた名司令官だ。深海棲艦との戦闘では常に前線に立って艦娘たちを指揮、鼓舞を行い数々の戦いで勝利を納め、深海棲艦に襲われて左目を失いながらも決して後方に退かずに前線に立ち続けた叩き上げの軍人である。現在は大本営のトップとして軍人への教育をメインに行っていると言われていたが……。

 

 そんな稀代の名司令官、亡国の危機を救った英雄が、今目の前に立ち、俺に艦娘を沈めろと言ってきた。

 

 

「……元帥、先程のご無礼をお許しください。しかし、私には彼女たちを沈める理由が分かりません。詳しく、教えていただけませんか?」

 

「……よかろう」

 

 俺の言葉に、照嶺元帥は軽く笑いながらもたれ掛かっていた身体を起こし、手を組んでその上に顎をのせる。

 

「まず、君が言っていた前任――――正確には一番初めに着任させた者だな。彼は優秀な男であった。着任後は逐一戦況報告を大本営に飛ばしてきてな、報告される戦果も目まぐるしいものがあり、期待の新人として注目されていたのだ。大本営としては、彼のような人材が増えることを願っていたよ」

 

 どうやら、前任――一番最初に着任した提督だから初代提督でいいか。ソイツは鎮守府内ではクソみたいなことをやりつつも大本営側には良い面をしてた訳か。当たり前か、艦娘への仕打ちを馬鹿正直に報告したら批判殺到で下手したら軍法会議モノだ。

 

「しかし、沖ノ島海域を牛耳る深海棲艦を撃破する、と言う報告を境に、彼からの連絡が途絶えてしまったのだ。我々も連絡を試みるも繋がらず、部下を派遣させて様子を見に行かせた。そしたら、派遣させた部下が深海棲艦に襲撃されたようなボロボロの身体で帰ってきたのだ。そして、彼の口からとんでもない言葉が飛び出した」

 

 そこで言葉を切った元帥は一呼吸おいて、口を開いた。

 

 

 

「『艦娘たちから砲撃を受けた』と」

 

 その瞬間、俺の頭の中で着任した初日のことが過った。あのとき、金剛に砲撃されたのは単に勘違いではなく、俺を殺そうとしていたのかもしれない。そんな考えが浮かんでくるも、頭を振ってそれを消し去る。

 

「彼を砲撃した中から一人の艦娘が近付いてきて、『自分たちは人間(あなた)たちに協力する気も関わる気もない。鎮守府は自分たちだけで運営するから、必要以上に手を出すな。また、少しでも不穏な動きを見せたらどうなるか、分かるよな?』と、言われたそうだ。確か、カタコトを使う艦娘だったと聞いている」

 

「あいつ……」

 

 うちの鎮守府でカタコトを言う艦娘ときたら、アイツしか思い浮かばない。

 

「深海棲艦に唯一対抗できる存在である艦娘の人間に向けた宣戦布告、笑える話であろう? もちろん、我々もすぐさま対策会議を開き此度の件に関して協議を重ね、まとまった案を艦娘達に提案して和睦を求めたが、奴等は頑として首を縦に振らなかったのだ。そのまま状況は平行の一途をたどり、我々の中にも奴等への不満が高まってきてな。なかなかに過激な案を上げる者も出てきたが、それで奴等が反旗を翻す、またはそれによって他の艦娘も同調する可能性も加味して動くに動けなかったのだ。しかし、1つの策が上がる」

 

 そこで、照嶺元帥は俺を指差す。そして、不気味な笑みを浮かべた。

 

「新米の軍人を提督として着任させ、ソイツに艦娘達を轟沈させるよう仕向けさせる」

 

 その言葉を聞いた瞬間、体温が急激に下がるのを感じた。同時に、目の前にいる全ての男達に強烈な嫌悪感を抱いた。

 

「幸い、艦娘達は鎮守府と言う運営体型を持続させており、奴等が居る海域は最前線に近く、熟練の司令官ではなければ苦しいところがあった。更に、鎮守府には司令官となる提督が必要であるため、こちらとしても鎮守府の運営、本土防衛のために着任させるのは造作もない。あとは、着任させた新任が采配を振るえば自ずと轟沈者が出る。新たに艦娘を着任させるのを控えれば、そのまま反乱分子だけを減らしていけると言う寸法だ」

 

 照嶺元帥は終わりとばかりに長い溜め息を吐いた。あの量を話したのだ、ご老体には些か堪えただろう。しかし、そんなことを気にしている余裕はない。

 

 

「つまり……俺はアイツらを守るのではなく、沈めるために着任したのですか?」

 

「そうだ。そして、君が守るべきモノは国民だ。『兵器』ではない」

 

「アイツらは人間です!!」

 

 照嶺元帥の言葉に思わず声を荒げながら立ち上がる。その際、座っていた椅子を蹴倒しまったがそんなことなど気にならない。

 

「艦娘たちはそう成りうる素質を持った人間――――我々が『守るべき国民』ではありませんか!! そして、現状唯一の深海棲艦に対抗できる存在です!! 我々は彼女たちの力無くしては深海棲艦を倒すどころか、既に滅亡していたかもしれません!! なのに――――」

 

「君は、1丁の『銃』にそこまで情を移せるか?」

 

 俺の言葉を遮るように照嶺元帥が質問を投げ掛けてくる。その言葉に、更に俺の中で血が沸騰するのを感じた。

 

「だから!! 彼女たちは『兵器』じゃねぇ!!」

 

「では、奴等の手から具現化される砲門はなんだ? あれが、人間の行える所業かね?」

 

 照嶺元帥の言葉と共に、あの日に金剛に言われた言葉が、そしてあの時向けられた『目』を――――『兵器の目』を思い出す。

 

「ワシらは艦娘のように艤装を付けることが出来るか? 海の上を自由に走れるか? 深海棲艦に傷を付けられるか? 奴らの攻撃を喰らっても生きていられるか? 手足を吹き飛ばされるなどの大怪我をしても艦娘のように風呂に入れば完治するか? 燃料や弾薬を食べれるか? 普通の食事をしなくても生きていけるか? どれか1つでも出来ると言うのなら、今ここで見せてほしいものだのぅ」

 

 そこまで言うと、照嶺元帥は何処か試すような視線を向けてくる。まるで、自身の言っていることが正しいとでも言うように。

 

 その姿が、あのときの金剛と重なった。

 

 

 

 

 

「『兵器』は泣くのか?」

 

「……何だと」

 

 俺の突然の問いに、照嶺元帥を含めた男たちの顔が歪むが、そんなことなどどうでもいいように思えた。何故なら、先程あれほど上っていた血が一気に下がり、頭が異様に冴えている。

 

 そして、何故こんな状況でこうも落ち着いていられるのかが分かるからだ。

 

 

「『兵器』は泣くことが出来る(・・・)か? 恐怖で身体を震わせることが出来る(・・・)か? 嬉しそうな、悲しそうな、不満そうな、心配そうな、楽しそうな表情を浮かべることが出来る(・・・)か? 旨そうに飯を食うことが出来る(・・・)か? 他人を気遣うことが出来る(・・・)か? 他人のために怒ることが出来る(・・・)か? 他人のために動くことが出来る(・・・)か? 他人のために頭を下げることが出来る(・・・)か? 他人のために懇願することが出来る(・・・)か? 他人のために身を挺して守ることが出来る(・・・)か? 他人のために自身を追い込むことが出来る(・・・)か? そして――――」

 

 そこで言葉を切り、真っ直ぐ元帥を―――その後ろに映るあのときの金剛を見据える。そして、頬に手を当てる。

 

 

 

「たかが『兵器』が、人間の幸運を願うことが出来る(・・・)か?」

 

 そこまで言い終えた時、目の前に座る照嶺元帥の顔を改めて見据える。彼は何事もなかったかのように座っているも、その目からは明らかな敵意を感じた。

 

 そして、微かにその口許が緩む。

 

 

「君は、どうやら奴等に懐柔されたようだな。そんな盲目な君に『感情を持つ兵器』とはなんなのか教えてやろう」

 

 そこで言葉を切った照嶺元帥は、緩めた口許を更に歪ませ、不気味な笑みを作り上げた。

 

 

 

「ただの『化け物』だ」

 

 照嶺元帥の口からそれが発せられた瞬間、俺の身体は既に動いていた。倒れていた椅子を蹴飛ばし、全力で照嶺元帥に詰める。その襟首を掴むで引き寄せ、片方の拳を大きく振り上げた。

 

 

 

「やめろ」

 

 照嶺元帥の一言に、俺の身体は一瞬で硬直した。それは彼の言葉ではなく、目の前に黒く光る筒上のモノを突き付けられた――――いや。

 

 

 純粋な殺意でもなく、嫌悪でもない。全くの無表情で、感情のない目を――――本当の『兵器』の目を向けられたからだ。

 

 

 

「砲門を下げろ、大和」

 

 照嶺元帥は静かな声で呟き、手を横に立つ高身長の艦娘――――大和の前に翳す。それを受けた大和は無言のまま俺に向けた砲門を下げ、何事もなかったかのように静かになった。

 

 しかし、俺の身体はまだあの目に見られた感覚が残っている。

 

「分かっただろう。感情がなく、ただ淡々と上官の命令に従い、我々のために使われる。これが『兵器』だ。しかし、奴等は感情があり、上官である君を筵に扱い、ただ自分達のために勝手に動く……どこが『兵器』と言えるか? ましてや、我々に宣戦布告をしている()だ。和解の余地がないのなら、殲滅するしかあるまい」

 

 そこまで言った照嶺元帥は溜め息をついて背もたれに身体を預け、内面まで透けて見ているかのような目を向けてくる。

 

 何か言いたいことがあるのか、と。

 

「さっき、艦娘たちが初期の提督から様々な虐待を受けたと言ったよな。それはどうな……どうなんですか?」

 

「『兵器』の所有者は上官である提督だ。その扱い方にとやかく文句を言うつもりはない。また、大本営としては戦果さえ上げればそれでいい」

 

「なら――――」

 

 その考えに至ったとき、今まで固まっていた身体が動けるようになっていた。俺はゆっくりと胸に手を当て、真っ直ぐ元帥を見据えた。

 

 

 

「『艦娘たちを沈めず』に戦果を上げれば、文句はねぇってことだよな?」

 

 俺の言葉に、周りから息を飲むのが聞こえる。そして、今まで動揺の色さえ見せなかった元帥の顔に、それが現れた。

 

 

「最前線に近いところの艦娘だ。練度は高く、大本営としても失いたくない戦力だろ? しかも、同時に反旗を翻すような厄介者でもある。なら、アイツらをまとめれば貴重な戦力を失うこともなく、かつ反乱分子を潰せる、まさに一石二鳥で済む話じゃねぇか」

 

「そんなこと、出来るわけがないだろう!!」

 

 俺の提案に、一番最初に質問してきた男が立ち上がったが、俺の一睨みで黙らせる。

 

 

「あんたらがアイツらをどう言おうがなんかどうでもいい。そんなクソみたいな策とは言え、俺がアイツらの提督だ。アイツらの『所有権』は俺にある。なら、アイツらをどうしようが俺の勝手だろ?」

 

「そんな大口、戦果の1つも上げてから叩け若造が!! そのような無謀なことを我々が許可すると――――」

 

 はち切れんばかりに血管を浮き出して怒鳴り散らす男の言葉を、隣に座っていた老練な男が手で遮る。先程、鎮守府の様子を聞かれたさいに続けて言うよう促した人だ。

 

「彼の言葉、私は面白いと思いますよ」

 

「なあっ!?」

 

「ほぉう、彼の肩を持つ気か?」

 

 老練な男の口から飛び出した言葉に、隣の男は驚愕の声を、照嶺元帥は薄く笑いながら彼に鋭い目を向ける。しかし、老練な男はその視線に怖じ気づく様子はない。

 

「確かに彼の言葉は危険極まりない無謀なことです。しかし、それがもし上手くいったら我々は主力級の艦娘を一人も損なうことがないので、得るモノは非常に大きなものとなりましょう。仮に失敗したとしても当初の予定通りですし、何ら支障はないかと思います。彼がどっちに転ぼうが我々にかかるデメリットに大差はありませんし、逆にメリットを優先するなら彼の言葉を飲んだ方がいいと、私は思いますよ」

 

 そこで言葉を切った老練な男は、柔和な笑みを浮かべたまま静まり返った周りを見渡す。

 

「もし、彼の意見に賛同できないならばそれはそれで構いません。彼の支援は私が行いますので、皆さんに支障をきたすことはありませんからね」

 

 再び、老練な男が周りを見渡し始める。ふと、その目があったとき、一瞬だけだが悲しそうな色が見えたような気がした。

 

 

「同族擁護か?」

 

 静まり返った部屋の中で、照嶺元帥の言葉が響く、それを受けた老練な男は、ゆっくりと彼の方を向いた。

 

「いえいえ、そのようなことは。私が彼を推薦した理由は、学校で矯正できなかった軍人としてあるまじき思想、行動を叩き直すためでもあり、成績がすこぶる悪かった彼なら我々の思惑を遂行してくれるだろう、と言う期待ですよ。私はただ軍人として、大本営を担う柱として、少しでも結果が良いものを選びたいだけです」

 

「ふん……まぁ、今回はお前の顔に免じてやるか」

 

「元帥まで!?」

 

 老練な男の言葉に照嶺元帥は鼻で笑いながらそんなことを言うと、残り二人が驚いて立ち上がる。

 

「ワシは戦果さえ上げれば良いと言った、そして彼は戦果を上げると豪語したのだ。最近の若造は何も考えなしに口走ることもある、いいお灸を据えるチャンスではないか。それに、仮に失敗した時にこれを公表すれば周りの奴等にもいい刺激になる。違うかね?」

 

 照嶺元帥の言葉、そしてその鋭い目によって二人は黙ってしまった。それを見た照嶺元帥は満足げに笑うと、改めて俺に向き直る。

 

「では、君の言葉に乗せてもらうことになった。後のことは支援を一手に引き受けた者とよく相談の上、決めるように。あまり期待はしていないが、吉報を待っている」

 

 それだけ告げた照嶺元帥は席を立ち、側に控えていた大和を引き連れて部屋を出ていく。それに固まっていた二人の男は慌てるように席を立ち、嶺元帥の後を追っていった。

 

 そして、部屋は俺と老練な男だけが残された。

 

「さて、我々だけになってしまったか」

 

 老練な男はそう言いながら頬を掻く。その姿を一瞥して、俺は慌てて頭を下げた。

 

「あ、ありがとうございます!! 俺の無謀とも言える言葉を信じていただいて……本当に感謝しております!!」

 

「いやいい、元々(・・)こうするつもりだったしな」

 

「はっ? 元々?」

 

「それも、場所を変えてからで良いだろう」

 

 男の言葉に顔を上げて問い掛けるも、男は答えになっていないような事を言ってきた。てか、場所を変えるのか? 他の男たちが席を外したからここで相談すればいいのに。

 

「こんな硬っ苦しいところでは話も進まない。自室に案内しよう。ついてきたまえ」

 

「あの!? そ、その前にお名前を聞かせてもらってもよろしいでしょうか?」

 

 部屋を出ていこうとする男を引き留める。経緯はどうあれ、これからうちの鎮守府を支援してくださる人の名前を知らないのはどうかと思うし、早めに知っておくのに越したことはない。

 

「あ、私、明原 楓と申します」

 

「おや、息子(・・)から聞いていると思っていたが、そうではなかったか」

 

 ん? 今『息子』って言った? え、俺の知っているヤツを『息子』って言うことは……。

 

 

 

 

 

「初めまして、朽木昌弘だ。林道がお世話になったようで」

 

 老練な男――――朽木中将はそう言いながら笑みを溢した。



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『中将』のやり方

「さぁ、遠慮せず座りたまえ。飲み物は紅茶でいいかね?」

 

「い、いえ……大丈夫です」

 

 俺が待つように言いつけられた部屋よりも一回り広い部屋。そんなVIP御用達の部屋で柔和な笑みを浮かべてマグカップを差し出す朽木中将。それをやんわり断りつつ、俺はソファーに腰を下ろした。無論、その間彼からは目を離さないわけだが。

 

 

 上層部との衝突の後、俺は朽木中将と今後のことを話し合うために彼の自室に案内されていた。

 

 『勢い』とは言いたくないが、まぁそれで上層部に盾突いたことで俺が予定していた支援の取り付けは絶望的になるかと思われた。が、今俺の目の前で艦娘に紅茶を淹れさせる男の発言によって彼からの支援だけではあるが取り付け自体はなんとかこぎ着ける。それに関しては、非常に感謝している。

 

 だが、着任を言い渡してきた上官や林道の発言から、彼があの鎮守府に俺を寄越したのは事実だ。それが後ろ髪を引っ張り、なかなか彼を信頼することが出来ない。それに元帥らと同じ軍上層部があのような考えなら、彼も少なからずそれに染まっていると見た方がいい。この支援を取り付けたのも、裏があるとみていいだろう。

 

 しかし、あの部屋で元帥たちから聞かされた自身が提督に抜擢された本当の理由、そして彼らとの艦娘の価値観の違い等々。本当、軍部はどうなっていやがるんだ。

 

 あっちの言い分も分からないわけではない。反乱分子がいるのなら、それを早めに潰すのは国民を守る軍として当然のことだ。まして、艦娘たちが反乱分子でうかつに手を出せないのであれば、非常にムカつくが俺みたいな新米を着任させて内部から戦力を削ぐのは理に適っている。

 

 しかし、それは初代提督がしでかしたこと、つまり軍部の人間が金剛たちに非道な行いをしたせいであって、彼女たちはいわば被害者だ。それを『反旗を翻す兵器』だから、という理由だけで潰すのはおかしい。

 

 それに、艦娘はたまたまその素質を持って生まれてきた人。それを軍部が召集令状で集めて訓練により艦娘としての意識が開花し、身体から砲門を具現化したり艤装を身に着けられるようになっただけで、姿かたちは人であったころと一切変わっていない。それを、もう『人』ではなく『兵器』となるのはあまりにも横暴過ぎないか。

 

 更に、彼女たちが居なければ人類は今頃滅んでいるのは確実、俺たちは艦娘に生かされていると言っても過言ではない。なのに、そんな彼女たちにあのような仕打ちをするのは戦略的にも道徳的にも間違っている。それこそ、金剛たちの様に他の艦娘たちが大本営に反旗を翻すリスクを生んでいるようなもの。

 

 上層部がやっていることは、ただ自らの首を絞めているだけだ。

 

「林道、これから彼と今後について話し合う必要があるから、すまんが席を外してくれないか?」

 

「父上……」

 

 紅茶が入ったマグカップを持ちながら、中将は扉の横に佇む憲兵――――自身の息子である林道にそう声をかける。その言葉を受けた林道は中将の名を零すも、口から出る言葉を堪えるように口元を引き締め、何故か恨みがまし気に俺を睨んできた。

 

 あの部屋からここまで移動する中で林道は一言も発せずについてきたが、代わりにずっと俺のことを睨んでくるんだよな。中将を護衛するから同伴するのは分かるが、俺を睨んでくる理由がまったく分からない。一つ分かるとすれば、軍学校時代に向けられていた視線と同じものだってことぐらいか。ホント、良く分からないところで突っかかってくるのは昔も変わらないのか。

 

「……失礼します」

 

 暫し俺を睨み付けてきた林道はそれだけ言うと、そそくさと部屋を出て行った。奴によって閉められた扉の音が異様に大きかったのは怒っていたからだろうか。こう、感情が行動に出やすいところも昔と変わらんな。

 

「聞いていた通り、君とはウマが合わないみたいだな……さて、そろそろ本題に入ろう」

 

 出て行った息子を姿に苦笑いを浮かべた中将はそう言いながらソファーに腰を下ろして、マグカップを机に置いて俺に向き直る。

 

「まずは資材に関してだ。襲撃で資材は枯渇気味であろう? どのくらい用意すればいいかね?」

 

「で、出来れば各10000ほど」

 

「10000だな。すぐに手配しよう」

 

 各資材10000がそうやすやすと用意できるものではないのは新米の俺でも分かる。それをポケットマネー感覚で用意する辺り、流石歴戦の名将と言うところか。

 

 その後、彼から次々と飛んでくる質問に俺は四苦八苦しながらも答えていった。各資材の状況から高速修復材―――所謂『バケツ』の数、襲撃を受けた敵、被害を受けた艦娘などの鎮守府のことから、着任から今までどんなことがあったか、艦娘の様子、自らに対する対応など、俺自身が実際に経験してきたものなど多岐に渡る。

 

 ……肉体関係を持ったか、と言う質問には思わず「なわけあるか!?」叫んだけどよ。それに詫びを入れているのだが、それを聞くと言うことはそれを艦娘に強要した初代提督がやらかしたことを把握しているってことだよな。

 

 

「中将は……初代が行った所業は把握しているのですか?」

 

「……ああ、彼女から少々聞いた」

 

 俺の質問に渋い顔で応えた中将は、自らの傍に佇む艦娘に目を向ける。視線を感じた彼女は中将を、そして俺を見つめて何も言わずに顔を背けた。

 

「彼女は金剛型戦艦4番艦の霧島――――君の知っている艦娘の姉妹艦だ」

 

 中将の言葉に、俺は改めて俯く艦娘――――金剛の姉妹艦である霧島を見つめる。彼女は俺と視線を交えることなく無言のまま俯くだけであった。

 

「先ほど、派遣した者が砲撃を受けて帰って来たと聞いたと思う。その後、鎮守府(あちら)から一人の艦娘がやってきた。それが彼女だ」

 

 決別した大本営に鎮守府から艦娘がやってきただと? 大本営とは敵対関係だろ? そこに艦娘を、まして金剛の姉妹艦である霧島がやってくるとはどういう了見だ? あの金剛なら確実に阻止するだろう。

 

「何でも、引き留める鎮守府の仲間を振り切ってやってきたらしく、大本営の近くで倒れていたのを憲兵が発見した次第だ。当時、彼女はかなり衰弱していたためすぐさま医務室に運び込まれ、何とか一命は取り留めることができた。その時に世話を受け持った流れで私の秘書官をしてもらっているわけだ。彼女が淹れる紅茶は格別でな、おかげで私は紅茶を飲まないと仕事が進まない身体になってしまったよ」

 

 そこで言葉を切った中将はカラカラと笑いながらマグカップの紅茶を飲み干し、それを霧島に差し出す。すると、霧島は無言のままポットを手に取って紅茶を注ぐ。紅茶が美味しいのは、金剛の影響か。

 

「まぁ、そんなことはどうでもいい。彼女が大本営に来た理由は、君の鎮守府の状況と初代が彼女たちに課した数々の蛮行を我々に伝えるためだった。それで、少なからず霧島を含めあの鎮守府の艦娘たちが受けた蛮行は知っている。しかし、それもあちらが一切の介入を拒否したことで手が出せず、状況が好転することはなかった。むしろ、目上である我々を格下である彼女たちの頑なに受け入れない姿勢と『兵器』として有るまじき理由によって反感を買う者も現れ、殲滅させると言う意見が出始めたのもその時期だ」

 

 そうこぼす中将の顔は苦渋に満ちていた。彼自身も、この判断に思うところもあるのだろうか。少なくとも、他の上層部とは違った見解であることは分かった。

 

「初代が行った蛮行は食事と『伽』の件、と把握しておりますが、現在でもそれを続けている理由は把握しておりません。何かご存知でしょうか?」

 

「いや、すまんがそこまでは分からない。前者の詳細なことは分かるが……聞くか?」

 

 中将の言葉に、俺は暫し考えた。個人としては、それを金剛や榛名たちの口から聞くのが普通だと思っている。しかしそれを聞き出せるほどの信頼を築けているとは言えないし、何よりアレ(・・)を頼む手前、その辺は把握しておかないと不味い。

 

「差し支えなければ、お願いします」

 

 俺の言葉に中将は一つ息を吐き、ゆっくりと語りだす。彼の口から紡がれた初代提督の所業は、耳を覆いたくなるものであった。

 

 初代が行った蛮行は主に食事と『伽』の2つだ。

 

 食事に関しては鎮守府で見た通り、艦娘たちに燃料や弾薬等の資材以外の食事を禁止したことである。その理由は、彼女たちが『兵器』であると言う意識を統一し、劣勢に立たされた時や味方が沈むなどで影響を受けない屈強な士気を得るため、なんて言う言葉は仰々しいモノだ。

 

 そして、食事として出されていた資材の殆どは出撃や遠征でかき集めた資材だったようで、艦娘たちは戦果の他に自身の食い扶持を得るために幾度となく出撃や遠征を繰り返した。しかし、何故か大本営からの支援の中には、ちゃんと艦娘たちの食事も予算の中に組み込まれていたのだ。

 

 では、艦娘の食事として割り振られた予算は何処にいったかは…………想像するに易いだろう。事実、街の人から毎夜のように街へ繰り出しては豪遊の限りを尽くしていたって聞いた手前、確実だと言える。

 

 間宮のあの態度もこれが理由だろう。まぁ、彼女は駆逐艦や戦艦のように海上に繰り出して戦わず、艦娘たちの食事面でサポートを主する給糧艦だ。食事面でしか艦娘たちをサポート出来ない手前、この待遇でそれすらも出来なくなってしまえば、あんな態度をとるのも頷けるか。

 

 そして、次は『伽』だ。

 

 この理由は艦娘の細部に渡るメンテナンス……とは言ったものの、蓋を開ければ只の娼婦制度だ。初代は日によって相手を取っ替え引っ替えしており、戦艦、空母から軽視巡洋艦、駆逐艦までと多岐に渡り、時には複数で相手をさせる事もあったとか。

 

 また、『伽』は暴力ありきが前提で、それによってトラウマを植え付けられる駆逐艦や軽巡洋艦が続出することを見かねた戦艦や空母が嘆願し、『伽』の対象から駆逐艦、軽巡洋艦、一部の重巡洋艦を外すこととなった。その中心となったのが金剛を筆頭とした金剛型戦艦姉妹であり、文字通り身を削る(・・・・)交渉の末だったらしい。

 

 今、金剛が鎮守府を回しているのはそれが理由だと思う。 いくら自身を兵器と呼んでいても、初代の魔の手から身を削ってまで逃がしてくれた金剛を悪く言えるはずはない。少なくと感謝の心はあるだろう。吹雪みたいなヤツも他にいるかもしれないと考えると、案外潮もその部類に入るのかもな。

 

 そしてそれらの前提にあって最も許しがたいのが、金剛ら艦娘たちへの『兵器』としての対応だ。

 

 休息無しの出撃は当たり前。出撃によって艦娘が傷ついても、資材がもったいないと言う理由で中破までは入渠もさせずに出撃に駆り出していた。酷い時には戦果優先で無理な進撃を行い艦娘を轟沈させることもしばしばあり、少なくはない数の艦娘が沈んでいったらしい。

 

 そして無事に帰ってきても、待っているのは満足のいく戦果を挙げられなかった、敵の討ち漏らした、資材を無駄に消費した等の理不尽な理由による罵声と暴力。酷い時には『海軍魂を叩き込む』との名目で営倉に叩き込まれ、身をもって(・・・・・)責任を取らされることもあったのだとか。

 

 『兵器』としての艦娘たちへの非人道的行為、食事とは名だけの『補給』の強制と毎夜の豪遊、そして全艦娘への『伽』―――。

 

 よくもまぁそれだけのことを出来たのだと感心してしまうほどの蛮行っぷりに、聞いてるこっちが耳をふさぎたくなった。それを語る中将の横に佇む霧島は微動だにしないながらもその顔には苦渋の色、唇は血が出るほど噛み締めており、下に向けられた拳は固く握りしめられていた。

 

 今でもそんな表情になってしまうのだ。保護された時はもっと酷かったのだろう。

 

 それに、彼女たちは訓練を受ける前までは普通の人間だった。それが、艦娘として配属された瞬間『兵器』と言うレッテルを押し付けられ、レッテル通りに扱われたのだ。その衝撃と心に受けた傷は尋常じゃなく深く、完全に癒えるとは言い難いモノだろう。

 

 しかし、やはり次は何故その体制を続けているのか、と言う疑問が沸き上がってくる。そして、『伽』の相手を買って出るなどの身を削りながら艦娘たちを守った金剛がそれを受け継いでいるのか、だ。その体制だと鎮守府経営が上手く言っていたのか? それともそれをしなくてはならない理由があるのか? 考えれば考えるほど分からなくなってくる。

 

 

 まぁ、それについては金剛自身から聞かなくちゃダメだな。

 

「……さて、この話は終わって支援に戻ろうか。資材についてはこれでいいとして、新たな戦力として艦娘を手配した方がいいかね?」

 

 初代の蛮行によって重くなった空気を払拭するために中将が話題を変えてくれた。新たな戦力か……負傷者の治療が完治していない今、襲撃を受けた時のリスクを考えると触れることは喜ばしいな。

 

 でも―――――。

 

 

「いえ、大丈夫です」

 

「本当かね? 鎮守府の状況を考えると戦力増強はメリットしかないと思うが?」

 

 俺の返答に、中将は目を丸くしながらそう問いかけてくる。それは分かっているんだ。でも、それを上回ることがあった。

 

 

「新たに配属された艦娘とうちの艦娘たちが、衝突もせずに上手くやっていける自信がありません。配属された艦娘に心労を負わせるわけにもいきませんし、出来れば……彼女たちと、真正面から向き合って話したいんです」

 

 軍から配属される艦娘は、恐らく大本営への忠誠心に満ち溢れている。それが、大本営と手切れを言い渡したうちの艦娘と上手く折り合いをつけてやっていけるはずがない。配属された方が心労でぶっ倒れるかこちら側に染まるか、下手したら金剛たちの蜂起に繋がるかもしれない。それほどのリスクを背負ってまで戦力増強を進めたいとは思わない。

 

 それに大本営の駒として送り込まれた俺だが、一応金剛たちの提督だ。彼女たちをまとめ上げ、出来うる限り守る責任、そして彼女たちと向き合う義務がある。と言うか、まとめ上げることも守ることも出来ない今の俺が出来ることは、彼女たちと向き合うことぐらいしかない。

 

「……やはり、君を選んで正解だった」

 

 俺の言葉に中将は満足げに鼻を鳴らし、その傍らに立つ霧島は顔を上げて驚いた表情を向けてくる。まぁ、彼らからすれば『兵器』にそこまで感情を傾けることが出来ること自体がおかしいのかもしれない。

 

 だが生憎、俺は『兵器』なんてこれっぽっちも思ってないわけで。そんな目を向けられるのは昔から慣れているさ。

 

 

 

「さて、では本題(・・)に行こうか」

 

 不意にソファーから立ち上がってそう呟く中将。その言葉に思わず身構えた。あの部屋で飛び出した言葉が脳裏に過る。そうだ、この人も軍の上層部。先ほどの表情で惑わされかけたが、あの集団に居ると言うことはその考え方も持っていることになる。

 

 次に飛び出す言葉に期待なんかしない。もう挙げられてから落とされるのはコリゴリだ。

 

 全神経を集中させて睨み付ける中将は制服のポケットに手を入れ、しばしガサゴソした後に一枚の紙――――いや、写真を取り出して机に置いた。

 

 

 

 

 そこに写っていたのは年端も行かない少女。

 

 茶色い長髪に青い水玉ワンピースを翻し、水が迸るホースを手に取って年相応の満面の笑みを浮かべてはしゃいでいる。水遊び真っ最中の一幕、と言った感じか。そして、肩のところに小さな小人――――妖精が立っていた。

 

 妖精が写真に写ることが出来たのかと感心したが、それよりも胸の中に燻るものがある。何だろう……。

 

「どっかで見たことあるよ―――」

 

「本当か!?」

 

 無意識のうちに呟いた言葉に中将が大声をあげ、いきなり大声を出したせいか激しく咳き込み始めた。それに慌てた霧島が近づき、その背中を優しくさする。その間、部屋は中将の咳だけが響き渡った。

 

 咳き込む中将の背中を見つめていた俺の脳裏には、彼が大声を上げた時に一瞬見えた表情が焼き付いていた。先ほどの飄々とした貫禄はなく、顔を真っ赤に紅潮させ、目には『獲物』を見つけた獣のような鋭い眼光が光っていたからだ。

 

「……すまん、取り乱してしまったな。」

 

 咳が落ち着いた中将はそう言いながら、先ほど机に置いた写真を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この子は、私の娘だ。そして大日本帝国海軍に所属する艦娘であり、君の鎮守府の初代提督の初期艦だ。そして――――」

 

 中将の口から零れた言葉。彼の言葉に反応しようと口を開くも、重々しい空気を孕んで吐き出されたそれが俺の身体にすぅっと入り込み、かかってきた重みが黙らせてきた。

 

「君をあそこに送り込んだのは、娘の安否を確かめてもらいたいからだ」

 

 その言葉を吐き出す中将に先ほどの飄々とした顔でもなく、獣のような荒々しさもなく、場の空気を一瞬で張りつめさせることの出来る空気を纏った、歴戦の軍人の顔であった。

 

 

「うちの家系は、代々軍に属する者が当主を務める風習でね。それに応じて、一族も軍事に就く者も多い。そして4年前、深海棲艦が現れて全ての制空権や制海権を奪われて領土まで侵攻を許すこととなる。それは、既存する軍隊の全滅を意味しており、一族の中にも少なからず犠牲者を出した。そのことに、娘は人一倍涙を流していたよ」

 

 不意に語り出した中将。それを語る表情と感情の読めない目に、その話を制することは憚られた。

 

「そして、妖精と艦娘の登場で陸より深海棲艦を駆逐することができ、唯一対抗出来る戦力として艦娘を軍に組み込むことが決定された。それに伴い、軍部は全国から艦娘の素質を持つ者を集め始めた。そして、うちの娘に召集令状が届いた。娘には艦娘になる素質―――妖精を目視でき、言葉を交わすことが出来た…………君も、写真の妖精が見えただろう?」

 

 不意に問いかけられた言葉に、声を出すことが出来ずに頷くことで返答した。

 

「深海棲艦に対抗できる艦娘に娘が選ばれたことに、一族は諸手を上げて喜んだ。代々恩を受けた軍に報いることが出来る、そして深海棲艦との戦闘で散っていった一族の仇討ちが出来る、とね。ただ、私はそれを年端も行かない娘に背負わせるのは大きすぎだと思った。が、娘は泣き言1つ吐かずに務めを果たすと笑顔を浮かべて行った。出征した後も、他の艦娘の様子や訓練の内容、友達が出来たこと、喧嘩をしたこと、演習中に他の子とぶつかってしまったことなどを手紙で欠かさず送って来たよ。そこに、弱音の1つも書かずにね。本当に、私には出来過ぎた娘だ、そう思った。そして艦娘としての訓練を終え、君の鎮守府―――――初代の初期艦として配属された。その日以降、手紙が途切れた」

 

 そこで言葉を切った中将は写真をしまい、窓に近付いて煙草を取り出して火をつけた。

 

「心配になって何度も手紙を送ったが、それが返ってくることはなかった。一度は視察と評して鎮守府に向かおうとしたが、深海棲艦の目と鼻の先に私が赴くことを上層部が良しとしなかった。だから、初代が提出してくる報告書と、たまに大本営にやってくる彼に娘の安否を聞くことしか出来なかった。彼は、すこぶる元気でやっている、先日大戦果を挙げた、などと笑顔で言ってくれた。それがお世辞だとは分かっていたが、それでも娘のことを聞けるだけで胸のつっかえが消える。愚かな私はそれに甘んじて詳しいことは聞かなかった。だが、ほどなくして彼との連絡が途絶え、大本営から派遣した者の報告、そして霧島による鎮守府の本当の実態を知ることになる」

 

 その言葉を聞いたとき、霧島の肩がビクッと震える。自分の存在が彼を茨の道に突き落としてしまった、そんな想いが伝わって来た。

 

「至急、娘と連絡を取ろうとしても艦娘たちはこちら側の干渉を拒否されたために叶わなかった。また、新たに着任させる提督に聞こうも君が受けた様な扱いのために長く続く者はおらず、況してや先ほどの会議で提案された条件を呑む者も居た。艦娘を沈めようとする者に、艦娘の安否を確かめるよう頼むわけにもいかない。そんな状況で娘の安否を模索していた時、息子から君のことを聞いた」

 

 なおも、中将は窓の外を見つめて煙草を吹かす。

 

「軍学校は上層部の思想に則って教育を行っているため、艦娘を『兵器』として扱っている。勿論、息子もその考え方はおかしいと言っていたが、軍の考え方だと言って納得はしていた。しかし、そこに真っ向から噛み付く君がいて、いつも上官と口論になると聞かされれば興味が湧いてくるのは必然であろう? それを聞いてすぐに君の経歴を調べさせてもらった。更に君は軍学校の成績も悪く、軍人としては半人前とすら言えないという烙印を押されていた。それは上層部が求める、そして私が(・・)求める人材としてはこれ以上適任の者が居ないとなり、君を推薦したのだ」

 

 そこで話が終わったのか、中将は長いため息と共に白い煙を吐いた。その姿を、そして今までの話を聞く限り、彼が俺を推薦した理由、俺が大本営に召集されるところから今こうして俺に頼み事をしている状況と、全て読み切った上で動いていたのだ。

 

 

「中将は俺のことを調べたと言っていましたよね? 何処まで調べたんですか?」

 

「君の出自から軍学校に入る経緯や成績、そして軍学校内での評判などとほぼ全てだ。そして―――――」

 

 そこで言葉を切った中将は煙草を口から離し、遠くを見つめながらポツリと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君が私と同じ道を――――いや、君が通った道(・・・・)を私が通るかもしれない、と言ったところまでだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、全身の体温が一気に下がるのを感じた。そして、元帥を含めた上層部に抱いたものより遥かに大きくどす黒い嫌悪感を抱いた。

 

 

「妖精が見えるのは何も艦娘だけではない。その周辺の人にも意思疎通は出来ないが見えることがある。私と君(・・・)のようにな」

 

 そこで言葉を切った中将は窓から離れ、近くにあった灰皿に煙草を押し付けて消す。それを灰皿に投げ捨てると、真っ直ぐ俺の元に近付いてきて勢いよく頭を下げた。

 

 

 

「どうか娘の様子を……安否だけでもいいから確かめてきてくれ。頼む」

 

 上官である、それも名将と謳われる歴戦の猛者であるあの朽木中将が、ひよっこもひよっこの俺に対して頭を下げている。いや、上官だとかそんなものは関係ないのだろう。彼は軍人としてではなく、一人の父親として頭を下げている。

 

 そして、先ほど彼が言った『君が通った道を私が通るかもしれない』と言う言葉。それはつまり、彼の娘がどのような状況であっても受け入れると言う覚悟。一人の軍人としての覚悟を持っているということだ。

 

 

 つまり、彼は軍人として覚悟し、一人の父親として俺に頭を下げているのだ。それも、たちの悪いことに俺が承諾する(・・・・)ところまでを見越して、だ。

 

 

 

「……最初から、俺が断るなんて考えていませんよね?」

 

「あぁ、だから君を選んだんだ。貴い君なら、境遇が酷似している私の頼みを断れないだろ?」

 

 俺の言葉に、中将は頭を上げてそう応える。その言葉に、自嘲が含まれてるのは言うまでもないだろう。

 

「私は名将などど謳われるが、たまたま運良く(・・・)戦場で生き残って、運良く(・・・)艦娘を見つけ、運良く(・・・)彼女たちが深海棲艦を駆逐した現場で一番高い地位だっただけだ。本来の私は君の様に貴くもない、自身の欲に忠実で、そのためならどんなことでもやる汚い人間だ。そんな汚い人間であるからこそ、敢えて貴い君に頼んだのだ。そして、今回は君が承諾してくれた。私は本当に運が良い(・・・・)よ」

 

 どの口が言っているんだ、そう言ってやりたかった。しかし、ここで彼を突き放したら支援自体が立ち消えになるかもしれない。それは、うちの鎮守府を潰すも同然だ。それが分かった上で、どうしてそれを拒否できようか。こんなもん、出来レース以外の何物でもない。

 

 現在の俺を、そして過去の俺も利用する――――文字通り利用できるものは全て利用する、確かに名将らしいクソみたいな考え方だ。

 

「もちろん、ただでとは言わない。君が望むものは出来うる限り用意しよう。資材に戦力、情報、人員、資金は難しいかもしれないが出来うる限り融通は利かせよう。悪くはない話だとは思うが?」

 

 そこで言葉を切った中将は柔和な笑みを向けてくる。これで逃げ道は全て塞いだぞ、とでも言いたげな表情に吐き気を催した。だが、利用されるだけでは癪に障る。そんな反骨精神のようなものが沸き上がるのも、全て彼の手の上で踊らされているのだろうか。

 

「……分かりました。では、先ほどの支援の他に2つほどお願いがあります」

 

 俺の言葉に中将は予想通りと言いたげに頷く。その一挙手一投足に激しい嫌悪感が沸き上がるが、何とか表に出さずに抑え込む。

 

「まず、これに書かれているモノを鎮守府に送ってください」

 

 そう言って俺はポケットからメモ帳を取り出して1枚千切り、そこに必要なものと量、送ってくる周期を書いて中将に手渡す。それを受け取った彼はメモに目を通し、何故か満足げに頷いた。

 

「なるほど、まずはここから変えていくと言うわけか。まぁ、ゆくゆくは君にも返ってくるものだし妥当と言える。あい分かった、すぐに手配しよう」

 

「ありがとうございます。では次に、先ほど新たな艦娘を着任させると言っていましたよね? それについてです」

 

 俺の言葉に中将は少し驚いた顔をした。まぁ、さっき新しい艦娘はいらないと言っていたから当たり前か。でも、その言葉を撤回する気はない。

 

 

 

 

 

 

 

「うちの鎮守府に、軽空母『鳳翔』を絶対に配属させないでください」

 

 その言葉に、余裕を浮かべていた中将の表情が凍った。予想外だ、と言ったところか。それを見た瞬間、うれしさが込み上げてきた。

 

 ようやく彼の手の上から逃れ、その横顔に渾身の一撃を喰らわせた、そんな爽快感があったからだ。

 

「こりゃ一本取られたな…………あい分かったよ」

 

「ありがとうございます」

 

 乾いた笑いを上げる朽木中将に俺はお礼を述べる。そして、中将が手を差し出してきた。しばしそれを見た後、ゆっくりとした動作でその手を掴んだ。

 

「では、よろしく頼むよ」

 

 

 

 こうして、俺は当初の目的であった支援の取り付けに成功した。



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episode3 開始
提督の『隠し事』


 青々とした空が広がる鎮守府への道を、黒塗りの車がひた走る。その中で、俺はボケっと外を眺めていた。

 

 そんな俺を載せて走る運転手は軍から派遣された憲兵。その表情には早く帰りたい、と言う思いがヒシヒシと伝わってくる。まぁ、噂の鎮守府へと近づいているわけだから当たり前か。だが、仕事だからあきらめてくれ。

 

 とまぁ、そんなこんなで朽木中将の支援を取り付けた俺は彼が用意したホテルで一泊した後、この車で鎮守府へと向かっているところだ。本来、召集された提督は上層部の指令を受けるまで滞在しないといけないのだが、あの時に言い渡されたもんだ。居ようが居まいが関係ない。

 

 それに、中将に頼んだ資材が翌日辺りに鎮守府に届けられるそうだからその受け取りもしないといけない。下手に金剛に受け取らせようとして拒否でもされたら面倒だし、俺が頼んだモノも同じぐらいに届くらしいからなお俺が受け取らないと不味いことになる。

 

 更に、中将は資材の輸送と俺との連絡役として憲兵を一人派遣してくるらしい。個人的にはそれで更に金剛たちとこじれそうで怖いが、いざと言うときに素早く中将と連絡できるパイプ役が来るのはデカい。

 

 しかし、大本営と言い中将と言い召集や支援の準備など異様に早い。どちらも確実に準備していたとみていいだろうな。そんなことを中将に言ったら、「伊達に軍部の上層部に居座ってないからね」と鼻で笑われた。

 

 どうせ、提督志望だった林道を憲兵として配属させた裏にも一枚噛んでいるんだろうな。まぁ、それは別の理由だったけど。

 

 

 

 

『君は、自分の息子に同じ苦痛を味わってほしいかね?』

 

 林道の件について聞いたときに、中将の口から飛び出した言葉。それを吐いたときに浮かんでいた表情は、完全に「父親」だった。

 

 

 つまり林道を憲兵にさせたのは、内地へ配属させてこちら側の情報を、特に妹のことを把握できない状況にさせるため、自らと同じ道を辿らせないため、だ。

 

 ホント、つくづくあの人は『汚い』人間だよ。

 

 

「つ、着きましたよ!」

 

 そんなことを考えていたら運転手の上擦った声と共に車が止まる。外を見ると、数日前に見た錆びた門があった。考え事をしている間に着いたみたいだ。

 

「ありがとう」

 

 それだけ言ってさっさと車から降りる。運転手はトランクから俺の荷物を引っ張り出すとぶっきらぼうに俺の手に押し付けて車に乗り込み、逃げる様に走り去った。どんだけ怖いんだよ、いや砲撃されたって聞いてりゃ普通逃げるか。俺なんか、砲門を何度も向けられたからあんまり動揺しなくなっちまったよ。慣れって怖い。

 

 とまぁ、そんなことをぼやきながら門を潜り抜ける。

 

 初めて来たときと同じような光景を眺めながら歩いていき、やがて執務室がある建物の前にやって来た。

 

「しれぇ!!」

 

 その時、横から数日ぶりに聞いた声と駆け寄ってくる足音が聞こえる。声の方を振り向くと、ワンピース調のセーラー服と黒い物体を翻し、とびっきりの笑顔を浮かべた一人の駆逐艦が俺目掛けて手を広げて宙を舞っていた。

 

「雪かぶっ!?」

 

「おかえりなさいですぅ!!」

 

 俺の胸に抱き付く駆逐艦―――――――――雪風。彼女は笑顔で俺の背中に手を回してぎゅっと抱き締めてくる。一通り頬ずりした彼女は俺を見上げ、そして不思議そうに首を傾げた。

 

「しれぇ、なんで顔を押さえているんですか?」

 

「……いや、何でもない」

 

 雪風の言葉に、俺は顔を手で押さえながらそう返す。いや、顔を手で押さえているのは目の前にパンツだとかそんな理由ではない。まぁ鼻血は垂れているけども邪な感情は無い。断じてない。って、んなことはどうでもいい。

 

「……それよりも、俺が居ない間何か変わったことあったか?」

 

「特にはありません!! 潜水艦組が金剛さんに待遇改善を訴えて、つい先ほどオリョール海に放り込まれたぐらいです!!」

 

 俺から離れて敬礼をしながらそう応える雪風。いや、それ深刻な問題が起きているように見えるんですがそれは。潜水艦とは会ったことは無いが不憫すぎるだろ。まぁ哨戒を怠った責任もあるし、資材集めに潜水艦組を出撃させたみたいだから止むを得ない状況なんだろう。まだ見ぬ彼女たちに合掌を送ろう。

 

「そうか。負傷者や資材は?」

 

「怪我をしていた人たちの大半は入渠を終えて復帰していますが、やはり資材のやりくりに頭を悩ませているところです。金剛さんの手配で補給は切り詰められていますので、雪風もここ数日満足にご飯も食べれていないですし……」

 

 そう言いながら雪風は自らのお腹を摩る。厨房の食材を使って何か作ればよかったのに、と言おうとしたが、周りが切り詰められた『補給』で凌いでいる中で雪風だけ食事を作って食べる、なんてことは出来ないか。

 

 まぁ、明日には資材や頼んでおいたモノが届くからこれから食事に心配することもない。ただ、これを定着させるのに骨が折れそうかな。まぁ、どうせ俺に返ってくるもんだし手を抜くつもりは無いさ。

 

 

「しれぇは大丈夫でしたか?」

 

 ふと、俺の袖を掴みながらそんなことを聞いてくる雪風。その表情に先ほどの明るさはなく、不安と悲壮で覆われていた。それに、俺は言葉に詰まってしまう。

 

 俺が大本営に召集されることを一番心配してくれたのが雪風。それに、いつからかは分からないが彼女もこの鎮守府に居る、つまり金剛が大本営から決別しているのは知っているはずだ。そんなところに一人だけ放り込まれたら心配にもなるか。今、俺はこうして何事もなく振る舞っているわけだが、やはり何かあったのかもしれないと思うのも無理はない。

 

 ……まぁ実際あったわけだが、絶対に言えない。俺も『隠し事』が出来ちまったか。

 

 

 さて、どんな言葉を掛けよう……違う。どう誤魔化そう(・・・・・)か、か。存外、俺も中将と変わらない、所詮同じ人間ってか。

 

 それに苦笑しつつも思案していると、一つの言葉が浮かんできた。俺は見上げてくる雪風に笑い掛けながら片手を彼女の頭を、もう片方は自身の頬を触れる。

 

 

「おうよ。何せ、俺には『幸運艦のキス』があったからな」

 

 そう言って、雪風の頭に置いた手で彼女を撫でる。撫でられた雪風は驚いたように俺の顔を見て下を向いた。次に聞こえてきたのは、ホッ、と言う安堵の息。

 

「なら、良かったです……」

 

 そう零す雪風の頭を撫でる。その資格があるのかすら分からないが、多分ないんだろうな。

 

 

 今は誤魔化すしかない。でも、いつかこの『隠し事』を言えるようになりたい。それが、俺と上層部との違いを決定付けるからだ。

 

 でも、これを言った時、そしてこれを隠してきた俺を彼女たちはどう見るのか。怒るだろうか、悲しむだろうか、軽蔑するだろうか……最悪、殺そうとするかもな。まぁ、それに関しては今とあんまり変わらないだろうけどよ。

 

 

 ―――――雪風も、『あの目』を向けてくるのかな。

 

 

 

 

 

「しれぇ!!」

 

 突然の大声といきなり手を掴まれたことに無理やり思考が断ち切られた。突然のことに目を白黒させている俺を尻目に、俺の手を掴んだ雪風はいつもの笑顔を向けてくる。

 

「雪風、まだあの時の約束忘れていませんからね? さぁさぁ、早く荷物を置いてきちゃいましょう!!」

 

 俺の手をグイグイ引っ張りながら元気よく声を張り上げる雪風。約束って、演習で活躍したらうまいもん食わしてやるってやつか? 資材が届くのが明日だからその日以降になっちまうが……どうせ今日の俺の飯も半分ぐらい食われるから変わらんか。

 

「まぁ、いいか」

 

「何か言いましたかぁ?」

 

「なんでもねぇよ」

 

 不思議そうな表情の雪風が首をかしげてくるので、そう答えながらその頭を撫でる。撫でられた雪風は首を傾げながらも、すぐにいつもの笑顔を浮かべて歩き出した。

 

 

 

 

 『いつもの笑顔(それ)』が見れるなら―――――なんて、馬鹿らしいな。

 

 

「そう言えば雪風、昨日出撃した時に補給艦を沈めましたよ!! この双眼鏡で発見したのも雪風です!! 褒めてください!!」

 

 そう言いながら雪風は自らの首にかかる双眼鏡を手に取り見せつけてくる。ほぉ、その双眼鏡が役立ったのか。しかも補給艦を沈めたってことは資材も確保したってことだよな。

 

 雪風の言葉に俺は「よくやった」と言いながらその頭を撫で、雪風は更に顔を綻ばせて嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねる。

 

 

 

 まぁ、その双眼鏡がさっき顔面にクリティカルヒットしたんだがな……なんて、口が裂けても言えなかった。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「……と、こんな感じだ」

 

「……ありがとうございマース」

 

 雪風に引き連れられて部屋に荷物を放り込んだ後、雪風を残して俺は支援の詳細について金剛に報告しに行った。立場が逆じゃね? とか言われてもスルーするのであしからず。

 

「これで、資材については何とかなりそうデスネ」

 

 俺の報告を聞きながら書き終えた書類を山に戻し、金剛はそう言いつつ伸びをする。それの呼応するように、パキポキと軽快な音が彼女の腰や背中から聞こえた。相当に腰や背中がまいっているみたいだな。提督代理としてずっと書類とにらめっこしていたのだから無理もないか。

 

 

 ……まぁ、(ていとく)いるんだけどね。

 

「その…………少しくらい俺に回してもいいんだぞ?」

 

「捌き方も知らないあなたが何言ってるんですカ」

 

 あ、はい、すいませんでした。正論過ぎて何も言い返せねぇ……でも、どうせ捌ける様にならなくちゃいけないんだし、少しくらい回してくれてもよくない?

 

「そう言って資材をちょろまかされたら堪ったもんじゃありませんから大丈夫デース」

 

 金剛からの信頼度が0だった模様。ひでぇな、おい。少しは信頼してくださいよ。

 

 ……まぁ、初代が彼女たちの食費をちょろまかしていたのだから無理もないか。それにあの話に乗った奴らが同じようなことをしでかしたのかもしれないし。

 

 って、そう考えると俺ってもの凄い微妙な位置に居ない?

 

 中将の話を信じるなら、少なくとも一人は上層部の提案を呑んだ奴もいるわけで。そいつが同じように帰って来て何事もなかったように振る舞いながら、提案を実行に移していったのなら……考えたくないな。

 

 そいつがいた手前、俺も同じではないかと警戒されるのは必至だろう。更に肩身が狭くなるのか……まぁ、警戒されているのは今更か。

 

 

 

「そう言えばテートク、霧島には会いましたカ?」

 

 そんなことを考えていると、不意に金剛からそんな問いが飛んでくる。思わず彼女の方を振り向くもその視線はペンを走らせる書類に注がれており、俺の様子までは見ていなかった。

 

 

「いや、知らない」

 

 咄嗟に答えると金剛はペンを走らせていた手を止め、ゆっくりと顔を上げて俺を見つめてくる。その目には、明らかに友好的ではない色が浮かんでいた。

 

「本当ですカ?」

 

「あぁ」

 

 金剛の念押しに、俺は向けられた目をまっすぐ見ながらそう言った。目を逸らしたら嘘であることがバレてしまう。ここが正念場であることは、バカな俺でも分かった。

 

 中将の物言いから察するに、恐らく彼はあの話を俺以外にはしていないだろう。あの会議が終わったらそのまま鎮守府に帰されるか、はたまた上層部との今後の話し合いが行われるだけで、そこにあの中将(タヌキ)が積極的に口を出す筈もない。それはつまり、提督と霧島の接触が不可能であることを示していた。過去の奴らも、同じ質問をされたなら間違いなく『会っていない』と答えただろう。

 

 それに、俺が金剛の立場だったら霧島をこちらの情報を売った裏切り者ととらえる。俺が彼女と接触したのなら何らかの不都合な情報を得ているかもしれない、と考えても不思議ではない。もし、霧島に会ったことを認めたら、更に警戒されるのは目に見えている。これからいろいろとしようと言う矢先に警戒を強められて動ける範囲を制限されたくなかった。

 

 

 故に、『嘘』をついた。

 

 

「なら、別にいいデース」

 

 しばらく見つめあった俺たちであったが、そう声を上げた金剛が目線を逸らして再び手元の書類に目を落とす。何とか誤魔化せたか? でも、何だろう。心なしか、書類にペンを走らせる金剛の表情に暗い影が落ちた様に見えた。

 

 

 ―――――金剛は、霧島のことをどう思っているんだ?

 

 

「霧島って誰だ?」

 

「どうでもいいことですから忘れてくだサーイ」

 

 ふと浮かんだ疑問を口にするも、金剛はまるで興味などないかのようにペンを止めずに応える。これ以上の追及を拒む、と見た。口を割らせるのは無理だな。このまま押し通して無駄に警戒されるのは勘弁だし、大人しく引き下がるか。

 

「分かった。なら、ちょっくら鎮守府を見回ってくるわ」

 

「了解デース」

 

 それだけ言って俺はクルリと振り返って廊下へと続く扉に近付く。彼女自身も、これ以上俺と話す必要もないと判断したんのだろう。

 

 

「まぁ」

 

 扉のノブを回しながら、俺は独り言のように呟いた。それに応える声はなく、代わりにカリカリと言う音だけが絶え間なく聞こえるだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうでもいいことなんて、普通気にしないんだけどな」

 

 

 それだけ言って、俺は扉を開ける。廊下へ出て扉を閉めると、人知れずため息が零れた。呟きから廊下に出て扉を閉めるまで、金剛は一言も声を上げなかった。

 

 

 しかし、代わりに俺の呟きと同時にカリカリと言う音が途絶えたのは分かった。

 

 

「警戒されないように、って言ったのはどこの誰だったかねぇ……?」

 

 廊下を歩きながらそんなことを呟いて苦笑いを浮かべる。俺ってこんなにも反骨精神剥き出しだったっけ? 割と頭に血が上りやすい方だとは思うが……なぁ?

 

 これも中将(タヌキ親父)のせい……なわけないか、自重しよう。

 

 

「クソ提督」

 

 そんなことを考えていたら、横から声を掛けられる。振り向くと、いつものセーラー服を纏って神妙な顔つきをした曙が立っていた。あの襲撃事件から一週間営倉で謹慎していたハズだったが、よく考えると昨日で解かれたんだな。最後に見た数多あった傷も癒えてるのを見るに、入渠も済ませたのか。

 

 

「おぉ曙、久しぶり。しかし、本当に傷跡が無いなぁ……これも入渠のおか―――」

 

「そんなことはどうでもいい。あんたに話があるからついてきて」

 

 久しぶりに顔を合わせたことで思わず話し込もうとしたが、曙はその空気を撥ね退けてそう言い放つ。途中で話を断ち切られたことで何も言い出せない俺を尻目に、曙はそれだけ言うと俺の手を取り、反対側に向き直って歩き出した。

 

 誰もいない廊下を歩く無言のまま引っ張る曙と、無言のまま引っ張られる俺。引っ張られる時にたまに見える曙の横顔に俺は既視感を覚えた。しかし、それがどこであったかが思い出せない。

 

 

「着いた」

 

 何処で見たのかを考えている間に、曙の声と共に手が離れた。それを受けて、俺は彼女が連れてきた場所を見回す。

 

 

 そこは執務室だった。

 

「曙? いったいどうい―――」

 

「入って」

 

 執務室に引っ張ってきた理由を聞こうとするもそれを遮る様に曙が声を出て、執務室への扉を開ける。状況が読めず扉を見て固まっていると再び手を握られ、思わず振り向くと彼女と目が合う。そこで、既視感の正体が分かった。

 

 

 

 

 営倉だ。応急処置を施しているときに向けられた、自身が営倉に送られた理由を問いかけたときに浮かべていた表情だ。

 

 それが分かった瞬間、俺は彼女の言葉に従わなければいけないと思った。再度、手を引っ張る曙に従い中に入る。曙は執務室の机まで俺を引っ張っていきそこに俺を座らせ、自身は机の反対側に移動して俺と対峙した。

 

 

 しばし、沈黙が流れる。

 

 俺は無言のまま曙を見つめ、対する曙は無言のままあちこちへと視線を飛ばしながら時折こちらに向けて目が合うとすぐさま逸らす、のを繰り返していた。彼女が俺をここに引っ張ってきた意味は分からない。しかし、あちこちに視線を飛ばす曙は、あと一歩を踏み出せずに足踏みしているように見えた。

 

「曙?」

 

 そう声をかけた。その言葉に、曙はあちこちに飛ばしていた視線を俺に向ける。しばし目が合うも、それが逸らされることはなかった。

 

 

「よし」

 

 ふと、何かを決した様に曙が呟き、スカートのポケットから封筒を取り出して机の上に置いた。俺は差し出された封筒を手に取り、そこに書かれていた文字に目を通す。

 

 そこには、こう書かれていた。

 

 

 

 

 

 

『解体申請書 駆逐艦 曙』



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『艦娘(仮)』の出来ること

「解体……申請書……?」

 

 無意識のうちにそう零した俺は机に置かれたそれを手に取り、穴が開くほど見つめた。何度も何度も読み直しても、書かれている文字が変わることはない。俺の目が狂ったのか? いや、むしろそれならどんなに良かったことか。

 

 『解体』―――――それは軍規を犯した艦娘に言い渡される極刑、『艦娘』と言う存在の剥奪だ。無論、兵士の自決のように命を差し出すモノではなく、ただ単に艤装の所有権を破棄することを指すのだが。

 

 しかし、艦娘にとって艤装は海上へ出るための装備であると同時に自己の存在を示すモノだ。故に、所有権を破棄した場合は妖精と意思疎通や砲門の具現化などの『艦娘』としての能力を、そして『艦娘』であったことの記憶を全て失ってしまうのだ。それはつまり、艦娘としての『死』を意味している。因みに破棄された艤装は次の適合者が現れるまで厳重に保管されることとなるらしいから、艤装自体が失われるわけではないらしい。

 

 傍から見れば『兵器』として海上に出る必要がなくなり、一般人として世間に戻れることだから喜ばしいことと思うだろう。しかし、実際は軍の機密漏えいを防ぐために解体された者は一生軍の管理下に置かれることとなる。勿論、管理下に置かれるだけで何不自由なく暮らせると言うわけではなく、多くは鎮守府に派遣されて艦娘や提督たちの食事や身の回りの世話をすることとなると言われている。中には黒い噂もあるが、当の本人たちも分からないために確かめようがない。

 

 まぁ端的に言うと、『艦娘』として召集されたら最後、艦娘だろうが()艦娘だろうが軍と切り離されることはなく、その一生を軍のために捧げることを強いられるわけだ。

 

 その事実を、提督の俺ですら習った。当事者である曙がこれを知らない筈はない。しかも、大本営に対して決別した彼女たちが、唯一の武器である『艦娘』の能力を失ってまで軍の管理下に収まるわけがない。

 

 金剛の差し金……いや、艤装の所有権を破棄する時点で記憶を失うからそれはない。じゃあ何だ? 艦娘として生きるのに嫌気がさしたのか? まさか俺がいない間に他の奴らに嫌がらせでもされたのか?

 

「クソ提督?」

 

 頭の中でことの原因を考えていると、曙の不安そうな声が聞こえる。ふと視線を上げると、こちらを覗き込む曙と目が合う。その瞬間、バッと目を逸らされたのは言うまでもない。

 

 逸らされた視線は忙しなく動き、何かを我慢するようにキュッと下唇を噛み締めている。その表情のまま、曙は片腕を忙しなくさすっていて、その腕や肩、身体全体が小刻みに震えていた。

 

 あの攻撃的な視線と歯に衣着せぬ物言いからは想像も出来ないほど挙動不審な曙。ここまで委縮しているのは営倉以来か。取り敢えず、何故解体を申し出た理由を聞かないとな。

 

 

「……何でこれを?」

 

「それは……」

 

 なるべく警戒されないように、苦笑いを浮かべて曙に問いかける。それに曙は逸らしていた視線を上げ、俺を見据える。そして、自嘲染みた笑みを浮かべてそう零し、視線を下げる。

 

 

 

 と同時に、片腕を上げて俺に向けてきた。

 

「ッ!?」

 

 すぐさまで机の裏に身を隠し、条件反射で頭と耳を覆った。固く目を瞑って迫りくる爆風を……って、この反応も板についてきたな。案の定、爆風も轟音も来ない。曙にしてやられたか。

 

「い、いきなり砲門を向けてくるなよ」

 

 そう愚痴をこぼしながら机の裏から這い出して曙を見て、思わず眉を潜めた。

 

 

「……何してるんだ?」

 

 そう声を零す俺の目の前には俯きながら俺に腕を向ける曙、その腕に艦娘の代名詞とも言える砲門が無いのだ。俺の問いに、曙は何も答えずただ腕を向けるだけであった。

 

 

「……ないの」

 

 不意に、曙が口を開いた。あまりに小さな声で、初めの方が良く聞こえなかった。

 

「曙?」

 

「出せないの」

 

 再び問いかけた時、今度ははっきりとそう言いながら曙は顔を上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「砲門が……出せないの」

 

 笑みを浮かべてそう言い切った曙。それと同時にその目から一筋の涙がこぼれた。その言葉の意味をすぐには理解できなかったが、理解した意味の重みを知るのにそう時間はかからなかった。

 

 

 砲門を出せない―――それはつまり『艦娘としての能力を失った』と言うことだ。

 

 

「……出せないのか? 砲門が……艤装は!! 他の艤装は大丈夫なのか!?」 

 

 食いつく勢いで発してしまった俺の言葉に曙は何も言わず、上げていた腕が糸が切れる様にダラリと垂れた。それは、『肯定』を表しているように見えた。

 

「……無理なのか?」

 

「他の艤装は大丈夫よ」

 

 曙の言葉に、俺は安堵の息を漏らした。艤装を付けられると言うことは艦娘そのものの能力を失ったわけではない。ただ、攻撃手段である砲門の具現化が出来なくなっただけ。

 

 では、何故砲門を出せなくなったのか。思い当たる節と言えばあの件――――――潮を砲撃して営倉に叩き込んだ件か。

 

「俺のせい……か」

 

 潮を砲撃した時、俺は曙を守るためとは言え自身を助けてくれた艦娘を営倉に叩き込んだ。勿論、命令違反と仲間への砲撃っていう罪状はあったが、俺や彼女たちの命と天秤にかけたらどっちが重いかなんて決まっている。それを分かっていながら、それを自身の浅はかな考えで捻じ曲げた。

 

 曙はあの状況下で被害を最小限に抑えた。それは褒められるべきことだが、俺はそれを評価することなく切り捨てた。営倉で色々と言ったが、結局は自身の行動を正当化するだけの言い訳。そこに、曙の気持ちを汲み取ってやることが出来なった。それが彼女のトラウマになる可能性も加味せずに。

 

 提督である俺が、唯一の戦力である艦娘の砲門(きば)を抜いてしまったのだ。まとめ上げる、なんて言った矢先にこれだよ。提督失格だな。

 

 

 

「それはないわ」

 

 不意に飛んできた言葉に、俺は思わず頭を上げた。そこには、涙の痕を残しつつも真顔でこちらを見つめる曙の姿。彼女はその顔で俺を一瞥し、一つ溜め息を零して肩をすくめた。

 

「あの時、あんたが叩き込んでくれたおかげで今は他の子とも普通に喋れるし、目の敵にされるようなことはないわ。上司としては私情挟みまくりのクソ采配だけど、少なくともあたしは周りから浮くことはなかった。結果が目論見通りになったからそれでいいじゃない。あと、仮にそうなら今ここで大人しくしていると思う?」

 

「……確かに、お前なら問答無用で殴りかかってきそうだ」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべた曙のたしなめるような言い草に、場違いだとは思いつつも俺は軽口を返す。それは、思わず出そうになった安堵の息を隠すためだ。

 

 人間とは現金なもので、責任を被ることを恐れ、逃げようとし、逃げ切ったり、第一にそれがないと分かると、真っ先に安心してしまう生き物だ。俺も例外に漏れず、俺が原因と言うことを真っ向から否定してくれて安心してしまった。それを隠そうとするのも、俺が汚い人間なのだと言う証拠だろうな。

 

 そんな俺の軽口を受けた曙は意地悪っぽい笑みを浮かべたまま「お望み通りにしてあげようか?」なんて言って指を鳴らし始める。自分から振っておいて、なんてことは流石に言えなかった。

 

 話を戻そう。営倉に叩き込まれたことが原因ではない、他にあるとすれば……。

 

 

 

「潮か?」

 

「……さぁね」

 

 俺の問いに、曙は笑みを崩さないまま顔を逸らしてそう答える。しかし、『潮』と言う言葉を聞いたとき、その顔に一瞬深いシワが刻まれるのを見逃さなかった。

 

「大丈夫、あの子の吹き飛んだ手も綺麗に治ったわ。とはいっても、新しい手に慣れるまで出撃に出ずにリハビリに専念してるみたいだけどね」

 

 俺から視線を外し何処か遠くを、正確には遠くでリハビリに励む妹を見るような目をする曙。リハビリについて断言していないのを見るに、あれ以降顔を合わせてないのだろう。

 

 まぁ……当たり前か。リハビリが必要なほどの重傷を、自らが負わせてしまったのだから。

 

「あんたを助けるため……じゃなくて、あたしの危険を回避するためって言う理由はどうあれ、あたしは潮を――――自分の姉妹を撃った。それは、どれだけ理屈や屁理屈を並べようと決して覆ることは無い。勿論、あんたを助けることや危険を回避するためにあの子を撃ったことが間違いなんて思ってないわ。でも、『正しいことをした』と言う理由で頭が正当化しても、『姉妹を殺しかけた』と言う理由で心が正当化しないの……何でかしらね?」

 

 そう語る曙の肩は小刻みに震えている。その一言一言を吐き出す際に、どんな心情であるのかは分からない。しかし、それは彼女の苦渋に満ちた表情が物語っているような気がした。

 

 頭が正当化しても、心が正当化しない、か。今考えると、艦娘としての素質は妖精と言葉を交わすことが、つまり妖精と心を通わせることが出来ること、そして訓練を受けることで艦娘としての意識が開花する、これもつまりは艦と心を通わすことだ。

 

 それって、艦娘の素質は能力とか思想とかじゃなくて『心』が一番重要であることを示しているのかもしれない。故に、姉妹を殺しかけたって言う罪悪感が『心』に響き、砲門が具現化できなくなった。

 

 

 ……何だよ。艦娘って、人間(おれら)よりもよっぽど『心』を持っているじゃねぇか。

 

 

「……話が逸れたわ」

 

 呟くように零した曙は机の上に置かれている解体申請書を掴み、俺に見せびらかす様にヒラヒラさせる。

 

「私たち、艦娘は深海棲艦から海を奪還し最終的には全て駆逐することが役目。そのためには、奴らを砲撃する砲門が必要不可欠。でも、あたしはそれを出せなくなった、『艦娘』としての存在意義を失ったの。砲撃も出来ない艦娘なんかただの穀潰し、うちの場合はその重さもデカいわ。なら使えない艦娘は解体する、これが相応の対応でしょ?」

 

 そこで曙は言葉を切り、真っ直ぐ俺を見つめてくる。その目は、俺の腹の中まで見透かされているようだった。

 

「もちろん、解体された後に何が待っているのか理解しているわ。何処かの鎮守府で家政婦みたいなことをしているのかもしれないし、大本営で秘書艦みたいなことをしているのかもしれない。最悪の場合も覚悟の上よ。まぁ、あんたが艦娘(あたしたち)をどう思っているかなんて分からないわ。でも、艦娘(じぶん)のことは一番分かっている。使えない道具はさっさと処理するのが一番だってこともね。それが何よりも正しいことだって、思っていたわ」

 

 曙の言葉に、俺は言い返す言葉が思い浮かばなかった。砲撃の出来ない艦娘、それは艦娘としての意味を失った存在。そんな彼女に、このまま艦娘として鎮守府で過ごしていくのを強要できるのか?

 

 周りからはどんな目で見られると思う? 周りは轟沈と隣り合わせの戦場で戦っているのに、彼女はのほほんと鎮守府で暮らしている。その罪悪感と艦娘であるがゆえに仲間と同じ土俵で戦えない劣等感に押しつぶされてしまうのではないか?

 

 それなら、このまま解体して軍の管理下の中で暮らしていく方が幸せなのかもしれない。周りは同じような境遇ばかりだし、何より記憶が消されることで罪悪感から逃れられる。そう考えると、解体が一番いいのかもしれない。

 

 

 ……いや、待て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思っていた(・・・・・)?」

 

 曙の言葉の中で引っかかった一言。それを口にした時、曙の顔が不敵な笑み(・・・・・)に変わる。

 

「ええ、そう思っていた(・・・・・)わ。あの時――――営倉に叩き込まれる前までは、ね」

 

 その言葉に意味を、俺は一切理解できなかった。そんな顔をしていたのか、曙は呆れた顔で肩をすくめる。

 

「あの時、あんたは敵の攻撃で傷だらけだったあたしを治療したわよね。入渠すればすぐに治るからそんなもの必要ないって言ったのに。その時、あんたなんて言ったか覚えている?」

 

 突然の曙の問いに、俺は暫し考え込んだ。

 

 

「……入渠するまで痛むから?」

 

「……そこは当てるところじゃないの?」

 

 絞り出した答えに曙は低い声でそう言いながら睨み付けてくる。いや、何かすいません。

 

 

「あの時、あんたは『そのドックに入れてやれないから、代わりに出来ることとして治療してるんだよ』って言ったのよ。思い出した?」

 

 曙の言葉に俺はあの時のことを思い出す。確か曙を営倉送りにしてしまった手前入渠させられなかったから、せめて傷の痛みを少しでも抑えるために治療しに行ったんだっけ。案の上、曙は応急処置で使った布を剥いでいたからちょうどいいみたいなことを思ってたな。

 

「そして、営倉にカレーを持ってきた雪風が言っていた『あんたがカレーを作った』ってのも。あれってつまり、あの子にカレーを食べさせていたのよね? 傷ついた艦娘の治療にお腹を空かせた艦娘にご飯を作るとか、提督とは思えない行動よね」

 

「仕方ないだろ、あの時はあれしか出来なかったんだし……」

 

「そう、それよそれ」

 

 曙の小馬鹿にするような言葉に、俺は思わず口をとがらせてそう返す。その言葉に曙は俺を指さしながらそう言ってくる。

 

「『あれしか出来なかった』――――それってつまり、出来ることをしたってことよね? それがたまたまご飯を作ったり治療をすることだったってだけで、他にもたくさんあるんでしょ? そして、それはあんたじゃなくて他の人でも出来ること。つまり、砲門を出せない艦娘(・・・・・・・・)でも出来るわよね?」

 

 その言葉に俺は思わず曙の顔を見る。そこには、金剛に決断を迫られて困惑した顔でも、潮を砲撃してしまった時の助けを乞う顔でも、営倉で理不尽を押し付けられた理由を問う顔でもない。

 

 

 

「だから、あんたに……いえ、提督(・・)に質問させていただきます」

 

 そう言った曙はピシッと姿勢を正し、申請書を持つ手を後ろにして片手を額の前に持って行って敬礼のポーズをとる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今、自分に出来ることは何なのでしょうか? お手数ですが教えていただきたいです」

 

 そう宣言する曙の顔には、一片の曇りもない。表情から迷いを感じさせない、己の行動が正しいと確信している、立派な軍人の顔だった。

 

 

「自分は、『敵を倒す』と言う艦娘の役割以外のことは何も分かりません。しかしそれが出来なくなった今、自分は仲間や鎮守府のために出来ることを少しでもやりたいのです。そんな望みを持つ、敵を倒せない自分でも出来ることがあるのでしょうか? あるのであれば、僭越ながら教えていただきたいです。仮にないのであれば、ここで解体の旨を。貴方は提督、我らの提督です。この艦娘――――いえ、『艦娘だった』自分に何が出来るのか、教えていただきたいのです」

 

 そう言いながら、彼女は後ろに隠していた解体申請書を前に掲げ、その両端を掴む。その行動が、曙の力強い言葉が、決意の炎に燃える目が。そのすべてが、彼女の覚悟を表していた。

 

 ここで解体を申し付ければ、彼女は進んで解体されるだろう。恐らく、笑顔を浮かべて解体される。それで終わりだ。尾を引くものもない。しかし、曙はここまで覚悟を見せてくれた。それに応えない、と言う選択肢を選べるのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

「結構しんどいが、それでもいいのなら」

 

「望むところよ」

 

 俺の言葉に、すぐさま曙の声と紙が引き裂かれる音が同時に響いた。幾重にも響く紙を引き裂く音。やがてそれは鳴り止み、曙の足元には無数の紙きれがヒラヒラと舞い落ちた。そこに外から風が舞い込み、紙切れは舞い上がる。

 

 舞い上がった紙から曙へと視線を戻す。決意に満ちた顔を向けてくる曙は、次にかけられるであろう言葉を今か今かと待ち構えているようであった。それを察して、俺は初めて指示を出す――――

 

 

 

 

 

 

 

「前に、まずは破り捨てた紙を片付けないとな」

 

「締まり悪いわぁ……」

 

 俺の言葉に、そう愚痴をこぼしながら執務室を箒で掃く曙。いや、破り捨てたのお前だから。それが風に乗って執務室中に散らばったわけだし。

 

「と言うか、曙ってどういう立ち位置なんだ? 『艦娘』なのか?」

 

「あぁ……どうなんだろ。解体されてないから一応『艦娘』なのかしら? でも、砲撃も出来ないから『艦娘』とは言い難いし……面倒くさいから『艦娘(仮)』でいいんじゃない?」

 

 いや、そっちの方がよっぽど面倒くさいわ。なんだよ『艦娘(仮)』って。正規版とは違います、ってか? いや、待てよ? 『艦娘』ではないのなら、『曙』って名前ではなくなるんだよな? だったら、他の名前を考えた方がいいよな。

 

 

 

「曙、お前の真名ってなんだ?」

 

「へ?」

 

 俺の問いに、曙はそんな声を上げながら固まってしまった。

 

「いや、艦娘って真名っていう名前があるんだろ? 『艦娘(仮)』なんだし、艦名以外で呼んだ方が区別がつくかなって思ったんだけど……」

 

 そう言葉をつづけるも、曙は一切反応せずに固まったまま微動だにしない。あれ、どうしたの? てか、心なしか身体中が赤くなっていくような……。

 

 

「い、いきなり何言ってんのよォォォォ!!!!」

 

「うおっ!?」

 

 突然叫び声を上げた曙は顔を真っ赤にしながら手にした箒を俺目掛けて振り下ろしてくる。それを間一髪のところで避ける。目標を逃した箒は床に叩き付けられた。凄まじい音と共にバキッと言う音が。それに背筋に寒気が走る。

 

「ストップ!! 曙さんストップ!! い、一旦落ち着こうぜ?」

 

「うっさい!! このクソ提督がァァァ!!!!」

 

 俺の言葉に耳を貸さない曙は先が折れた箒、要するにただの棒を振り回して俺に迫ってくる。いや、いくら女の子でもそんな物騒なもん振り回されちゃ逃げるしかないでしょ!! 誰か、助け―――。

 

 

 

「しーれーぇ!!」

 

 そう叫ぼうとしたら、元気な声と共に突然ドアから雪風が飛び込んでくる。突然のことに俺と曙は固まり、飛び込んできた雪風はすぐさま起き上がると俺に近寄ってきて袖を掴んできた。

 

「やっと見つけましたよぉ。しれぇ、金剛さんに報告しに行ってからいつまで経っても帰ってこないんですもん。雪風、待ちきれなくなって探したんですよぉ? さぁ、早く食堂に行きましょう!!」

 

 袖を引っ張りながらそう言ってくる雪風。いや、どんだけ食い意地張ってるんですかねこの子。そんなことを考えていると、雪風は俺や曙、そして暴れたせいで荒れ放題の執務室を見回して首を傾げた。

 

「と言うか、お二人は何をしてるんですか?」

 

「え、いや、その」

 

「くくく、クソ提督ぅ!! おおおおお、覚えてらっしゃい!!!!」

 

 俺が言い淀んでいると、顔を真っ赤にした曙がそう叫びながら逃げる様に執務室を出て行った。ご丁寧に箒の残骸を残してだ。おい、片付けていけよ。

 

「しれぇ?」

 

「何でもない、ちょっと話をしていただけだ」

 

 更に問いかけてくる雪風にそう言って、俺は放置された箒の残骸を回収する。こりゃ、新しく買わないとな。

 

 

「痛ぇ!?」

 

 そんなことを考えていると、不意に足を蹴りつけられた。割と強めに蹴られて痛むも、すぐさま蹴りの犯人の方を振り向いて睨み付ける。

 

 

「雪風!! いきなり何するんだ!!」

 

「さて、何のことですかぁ? 雪風は知りませんよぉ?」

 

 俺の言葉に雪風は頭の後ろで腕を組みながらそんなことを言ってきやがる。何だ? 反抗期かこの野郎?

 

「では、雪風は先に食堂に行って席を取ってきます。しれぇも早く来てくださいねぇ」

 

 そう言って、雪風は風の様に執務室から出て行ってしまった。いや、片付けるの手伝ってくださいよ。何で逃げるんですか? 

 

 そんなことを零しながら、一人残された俺は寂しく執務室を片付けるのであった。



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『兵器』の定義

「あぁ~疲れた……」

 

 そんな溜め息とも似つかない声を漏らしながら、俺は袋を携えて廊下を歩いている。

 

 曙の『艦娘(仮)』宣言からその暴走、雪風の足蹴を喰らった後、俺は一人いそいそと散らかった執務室の掃除をすること少し。部屋の片づけは大方終わり、後は肩に担いでいるゴミ袋を廃棄場に放り込めば掃除完了だ。

 

 まぁその後(雪風の)飯を作りにいくんだがな。帰ってきて早々この扱いとは泣けるねぇ。今の姿を見てここの最高権力者だ、なんて微塵も思われないよな。

 

 しかし、真名を聞いただけで殴りかかられるとは思わなかったな。まぁ、いきなり聞いた俺も悪かったんだろうし、真名は艦娘になる前の名前だ。それを教えたり聞いたりすることには何か大きな意味があるのかもな。

 

 まぁ、それもおいおい聞いていこう。

 

 

「お、いたいた~」

 

 そんなことを考えていると、後ろから声をかけられた。声の方を見ると、ダルそうに手を振る北上が近づいてくる。なんだ、北上から声をかけてくるとは珍しいな。

 

「なんか用か?」

 

「なんの用って、もしかして忘れちゃったの? 提督、前に約束してたじゃーん」

 

 俺の問いに北上はそう言いながらわざとらしく頬を膨らませる。はて、北上と約束した覚えはないぞ? 他に約束事言えば……。

 

 

「この前の演習だよー。1番になったら間宮アイス券くれるって話だったでしょ?」

 

 あぁ、あの襲撃された日に艦娘たちの控え室で言ってたことか。あれ、敵襲でうやむやになったと思ったんだが、正式な結果が出せたんだ。たぶん、大淀辺りの采配かね。

 

「ほらっ、これ証拠ー」

 

 そう言いながら1枚の紙を取り出す北上。その紙にはこの前の演習の結果が書かれており、北上は軽巡洋艦のグループで各項目の評価では常に上位に食い込み、総合評価は堂々の1位だった。正式な書類を表す印が押されているから、本物だろうな。

 

「ほぉー、ほとんど上位かぁ。スゲェな」

 

「へへ~ん、スーパー北上様を舐めないでよねぇー?」

 

 成績表に目を通しながら感嘆すると、北上は満足そうに胸を張る。本人は軽い口調だが、演習での無駄のない動きからまぐれ当たり(自称)で敵機の爆弾を狙撃するその腕前は確かなものだ。うちの主力と言っても過言ではないだろうな。

 

「渡したいのは山々なんだが、あれ執務室にあるんだよなぁ」

 

「えぇ~なんでよー。あの時の采配が出来たのなら北上様と廊下で出くわすかも、って分かるでしょー?」

 

「いや、無理言うなよ」

 

 ジト目を向ける俺を他所に、北上は頬を膨らませながら俺の足を小突いてくる。あの、俺ここの最高権力者なんだけど。なんで部下である北上に足蹴されているんでしょうね。

 

 しかし、雪風を待たせている食堂と執務室だと食堂の方が近いから1回戻るのが面ど……ん? ならこうすればいいじゃん。

 

 

「北上、今回は俺の飯で我慢してくれないか?」

 

「提督のご飯ー?」

 

 俺の提案に、北上は間の抜けた声を上げながら首をかしげる。反応的に悪くはない、か。このまま押し通せるか?

 

「百歩譲って俺が券を持ち合わせてなかったのが悪いとしよう。確か、あの券って間宮に渡すんだろ? ここから執務室に戻って券を取ってきて食堂に行くのと、このまま食堂に行って飯を食うのと、どっちがいい?」

 

 うちの執務室は誰の采配か分からないがこの建物の末端にあり、ドックや食堂などの艦娘が集う場所からは離れている。ここから食堂と執務室のどちらが近いと言われれば確実に食堂と言える。わざわざ遠い執務室に戻ってまた食堂に行くのははっきり言って手間だ。それなら後日渡した方がまだいい。

 

 だが、ここから食堂に真っ直ぐ行けば執務室に行くと言う手間が省け、更に雪風の飯と一緒に作ればいいと言う一石二鳥状態。ほぼ俺が得をしているのだが、北上も補給ばかりで食事に飽き飽きしてるだろうから悪くはないはずだ。それに、今後のために味を知ってもらうのもいい。

 

 まぁ、アイスが俺の飯に変わるからそれが彼女にとってメリットかデメリットかは分からないが。

 

「んー別にいいけどー何作るのぉ?」

 

 ぁー……そう言えば何作るか考えてなかったな。パッと思い付いたのがカレーなんだが、流石にそればかりだと雪風も飽きてくるよな。かといって他に作れるものは……。

 

「んー……カレーは雪風がなんて言うか……」

 

「あ、ならパスで」

 

 あ、やっぱりカレーはいやか。だよな~何度も食ってるもんな~…………へ?

 

 

 突然言い渡された拒否にすぐに北上を見る。当の北上は興味を失ったように頭を掻きながらさっさとあっちへ行こうとするので、思わずその腕を掴んだ。

 

「ちょ、何でパスするんだよ!! 悪くは無いだろ?」

 

「まぁ~悪くはないけどさぁ……」

 

 引き留めた北上にそう問いかけながら詰め寄る。北上はそう呟きながら面倒くさそうに頭を掻く。悪くないなら何で断るんだよ!! 理由を教えろ!!

 

 

 

 しかし、その言葉は北上の感情のない表情を向けられて即座に引っ込んだ。

 

「『死神』と一緒なんて御免だね」

 

 

 無表情のままに吐き出された言葉。その返答として一番適切なものが瞬時に浮かばない。故に、俺は何も言えなかった。

 

 当の北上はすました顔で俺と反対側の方を向き、何も言わずに歩き出した。しかしすぐにその足は止まり、そして何処か不満げな顔をこちらに向けてきた。

 

 

「……離してくれない?」

 

 北上はそう言いながら腕を―――――俺に掴まれた腕を見せる。

 

 

 北上の腕を掴む手の甲には筋や血管が浮き出ている。恐らく、彼女に少なくない痛みを与えているだろう。しかし、当の本人はそんなものなどみじんも感じていない。いや、感じていないフリをしているのかもしれない。

 

 いつまでも黙っている俺を見ながら、北上は掴まれた手を振りほどこうと力を入れる。それに呼応するように俺の手にも力が加わる。そのため、俺の手が彼女の腕を離れることは無い。

 

 暫し、互いの離す離されまいの駆け引きが続くも、それはため息を零した北上によって終止符を打つこととなった。

 

 

「……何? 何が言いたいのさ?」

 

 やれやれと肩をすくめながらそう問いかけてくる北上。その声色に敵意は無く、まるで駄々をこねる子供をあやす母親の様な温かさがあった。その温かみに触れ、今まで動かなかった俺の口が動いた。

 

 

 

 

「何で、『雪風』って呼ばない?」

 

「『死神』だから」

 

 恐る恐ると言った俺の問いに、北上は即答する。無表情のまま、俺の目をまっすぐ見据えて。一遍も迷いもなく、確信をもって、そう言ってのけた。

 

 

 

 

 それが、何故かむしゃくしゃした。

 

 

「……何でだよ? お前ら、初代の所業を、クソみたいな状況下を乗り越えてきた……仲間だろ?」

 

「残念、あたしは『死神』を仲間なんて思ってないよ」

 

「何でだよ!!」

 

 思わず怒鳴った。北上の襟を掴んで、壁に無理やり押し付ける。今まで飄々としていた北上の顔が歪む。しかし、それも一瞬で無表情に戻った。

 

「何で仲間じゃないんだよ!! アイツはあの時の襲撃で艦載機の群れを海上にくぎ付けにした!! たった一人(・・・・・)でだ!! アイツがいなかったら更に被害が出ていたかもしれねぇ!! あの時近くにいたお前も無事じゃ済まなかったかもしれねぇんだぞ!! アイツはお前を、俺たちを、お前たちの鎮守府を救った!! なのに……なのにお前はなんてこと言いやがる!!」

 

 雪風はあの襲撃の際、大破した長門を始め戦闘続行が不可能になった艦娘たちの殿として海上に残り、空を飛び交う無数の艦載機を海上にくぎ付けにした。勿論全ての艦載機をくぎ付けにしたわけではないし、少なくはない人数の艦娘がその凶刃に倒れたのは事実だ。

 

 しかし、仮に雪風があの場に残らずに長門と共に撤退していたら―――――それは海上の艦載機も演習場に向かっており、今以上の被害を被ったのは想像するに易い。恐らく、何人かの死者を出していたかもしれない。それが、彼女が海上で奮戦したことによって死者が出ることは無かった。

 

 もっと言えば、あの時あんなところで呑気に見物していた目の前の艦娘も艦載機の凶刃に倒れていたのかもしれない。勿論、あんな状況下で人間のくせに走り回っていた俺も含めてだ。直接的ではないにしろ、雪風のお蔭で俺たちは傷つくことは無かった。

 

 

 

 なのに、何で北上(おまえ)はそんな言葉を吐けるんだよ。

 

 

「……じゃあ、仮にあの時あたしが負傷したとして。『死神』は泣いたと思う?」

 

 いきなり怒鳴った俺を冷めた目(・・・・)で見つめてきた北上は、ため息と共に呟くような声でそんなことを問いかけてくる。その問いに、俺は更に頭に血が上るのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「んなこと当た――――」

 

 

「ありえない!!」

 

 俺の言葉は、北上の怒号にかき消された。突然のことに固まる俺を他所に、北上は怒鳴ったことで乱れた呼吸を整えている。俯きながら肩で息をする北上の表情は見えない。しかしさっきまでの飄々とした雰囲気は消え去り、代わりに煮えたぎるマグマのような熱気を感じた。

 

 

 

 己の考えが正しい――――とでも言うような、そんな熱気だ。

 

「……提督の言う通り、あたしはここに配属されてから――――初代の頃からずっと『死神』と一緒だよ。一緒に出撃や演習、遠征も行った。罵声を浴びせ掛けられたり、殴られたりした時もあった。つい先日やってきたばかりの提督と比べ物にならないほど、あたしは『死神』と時間を共にしてきた。だからこそ、断言できる。『死神』は泣かないって」

 

 北上はそこで言葉を切ると、ゆっくりと顔を上げて俺を見据えてくる。その顔はいつもの飄々とした雰囲気であったが、言い知れぬ違和感があったのは言うまでもない。

 

「『死神』はどんな時でも泣かないよ。単艦で敵の砲撃に晒されても、それによって中破や大破しても、轟沈しかけても、帰還してから初代提督に叱責されても、理不尽な理由で殴られても、存在そのものを否定されるほどの罵詈雑言を浴びせ掛けられても、罰として営倉に引っ張っていかれても、他の艦娘が同じような目に遭っても、そして……」

 

 その言葉と共に俺の袖を掴み、あらん限りの力で握りしめる北上。その表情は袖を掴むと同時に下を向き、次に聞こえたのは腹の底から絞り出すような声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自分のせいで他の艦娘が沈んでも、さ」

 

 

 

 それを発した時、北上の身体が一瞬震えた。その理由は分からない。しかし、俺の袖を掴む手に加わる力が、それが悲壮感から来るものではない、と言うことを物語っていた。

 

「……提督はさぁ? 仲間が沈んだのに……それを悲しまない奴を『仲間』って呼べる?」

 

 最後の追い打ちとばかりに投げかけられた問いに、俺は答えることが出来なかった。俺の返答を待っていたのか、北上は自らを落ち着ける様に肩で大きく息をした。

 

 

「……だから、断言できるんだよ」

 

 それだけ言った北上は掴んでいた袖を離すとすぐさま俺から離れる。その顔は、違和感を感じないいつもののんびりとした表情が浮かんでいた。

 

 

 

 その表情を見て、俺は背筋に寒気が走るのを感じた。

 

 

 

「と、言うわけで。ご褒美はまた今度貰いに行くねぇ~」

 

 何も言わない俺を尻目に、北上はそう言ってクルリとあちらを向いて歩き出した。今度は途中で止まることなく、彼女との距離がどんどん広がっていく。どんどん小さくなっていく後ろ姿を、俺はただ黙って見つめるしかなかった。

 

 

「あぁ、そうそう」

 

 思いついたようにそう声を漏らした北上はクルリとこちらを振り返る。その姿を穴が開くほど見つめる俺に、北上は特に気にする様子もなく口を開いた。

 

 

「多分、この鎮守府内で一番『兵器』なのは『死神(アイツ)』だから、提督も気を付けてねぇ~」

 

 それだけ言うと北上は前に向き直って歩き出し、こちらを一切見ることなく廊下の向こうに消えて行った。その後も、俺は廊下の向こうを見つめることしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「しれぇ!!」

 

 不意に後ろから声を掛けられる。振り返ると、腰に手を当てて仁王立ちする雪風が。その表情はご立腹と言いたげだ。

 

「遅いですよしれぇ!! いつまで待たせるんですか!! ほらほら、早くしないと他の人たちが来ちゃいますよ!!」

 

 そう言って雪風は俺の腕に絡みつき、グイグイと引っ張ってくる。しかし彼女は引っ張るのを止め、腕に絡みついた状態で俺を見上げてくる。

 

「しれぇ? どうしました?」

 

 不思議そうに首をかしげる雪風。いつもなら大人しく引っ張られる俺が、地面にくっついているかのように動かないからだ。

 

 

「雪風」

 

「なんでしょ?」

 

 不思議そうに見つめてくる雪風に、俺は問いかけていた。雪風は俺の言葉に絡みついていた腕から離れ、俺の正面に立ちながらそう答える。その姿を前にして、俺は喉の手前まで込み上げてきた言葉を吐きだす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いや、何でもない。大丈夫だ」

 

「そーですか? なら早く行きましょう!!」

 

 俺の言葉に雪風は再度首をかしげるも、すぐさまいつもの笑顔に戻って俺の腕を引っ張り始める。今度は抵抗することなく俺の身体は引っ張られるので、彼女がこちらを振り向くことは無かった。

 

 その後ろ姿を見つめながら、俺はつい先ほど喉まで出掛かった言葉を思い浮かべる。

 

 

 雪風と初めて出会った時、彼女は他の艦娘たちと違って俺に敵意を向けてくることはなく、むしろ友好的に接してきた。北上と同じ、初代提督の時代から居るのにも関わらずだ。それは、俺が上官である『提督』だからそう接してきたのだろう。

 

 また、襲撃の際、自らの危険を顧みずに艦載機を相手取り、無傷で生還。更には敵機の爆弾を誘爆させると言う離れ業で何機かを撃墜した。それほどまでに『人間』離れした戦闘力だ。

 

 そして、砲門を向けてきた潮に向けた低い声と物言い。あれは潮を『敵』と認識していたのだろう。一歩間違えれば、雪風が潮を砲撃していたのかもしれない。いや、確実に砲撃していただろう。

 

 

 最後に北上が語った、どんな状況でも雪風は泣かないと言うこと。榛名や吹雪、曙、そして自らを『兵器』と豪語する金剛でさえも涙を流した。なのに、雪風は涙を流したことが無い。それが彼女の称した、一番『兵器』に近い存在、と言う言葉を嫌でも引き立ててきた。

 

 

 今まで上げたそれらは俺の中で一つの問いかけを生み出し、それは危うく喉元まで出掛かった。引っ込められた理由は簡単、その返答が怖かったからだ。

 

 

 

 

 

 「お前は『兵器』なのか?」――――なんて、そんな問いかけだったのだから。



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提督の『計画』

「さぁしれぇ!! 着きましたよ!!」

 

 そう言いながら元気よく食堂の扉を開け放つ雪風に引っ張られ、俺は食堂に入った。

 

 時間も昼を大分回っているためか、中にいる艦娘たちはまばらだった。まぁ、そのまばらな彼女たちも俺の姿を見つめた瞬間帰り支度を始めたんだがな。もう少しで俺たち以外いなくなるだろうよ。

 

 そんな周りの空気をモノともせず、雪風はズンズンと厨房の方へと進んでいく。その後ろ姿を、俺は複雑な思いで見つめていた。

 

 

 北上の話を聞いて、俺の中で雪風と言う存在がフワフワとしたモノになった。

 

 それは、いつもの笑顔や今までの言動、そして今こうして俺の手を引っ張る彼女が、全て取り繕われたものではないだろうか、と言う不安からだ。

 

 雪風はどんな時でも笑顔を絶やさない。聞こえはいいが、裏を返せばどんな辛い状況でも同じように笑顔を浮かべていると言うことだ。仲間が轟沈した時も笑顔を浮かべている訳ではないが、自身に降りかかる理不尽な罵声や暴力、そして仲間か傷付き、轟沈していく姿を見ても、涙1つ流さないのは異常だ。

 

 

 それはまるで、感情を持たない『兵器』そのものではないか。

 

 

 しかし、その思考に待ったをかけてくるのが今まで彼女と接してきた経験だ。

 

 俺は、雪風が笑ったり、怒ったり、しょんぼりしたり、不安げに見つめたり、優しく微笑んだりする姿を見てきた。それが、取り繕っているようにはどうも思えないんだ。あれは、紛れもなく人間(おれたち)と同じものだった。そう断言していい。

 

 しかし、それも全て取り繕っているものであるかもしれない、と言う考えも無きにしもあらずな訳で。その悶々としたモノが不安となっているのだ。

 

 

 まぁ、その不安の根元である雪風は俺に屈託のない笑顔を向けてくるんだがな。

 

 

「……ご無事で何よりです」

 

 そんな俺たちを出迎えてくれたのが、低い声でそう言いながら頭を下げる間宮。彼女の纏う空気は相変わらず刺々しい。いつかその空気も変わってくれませんかねぇ。

 

「どうぞ」

 

 そんなことを考えていると、頭を上げた間宮が呟くようにそう言ってカウンターの端を上げて厨房へと続く通路を作ってくれる。まだ何も言ってないんだが、雪風を連れている時点で分かり切ってるか。

 

「サンキューな」

 

 短くそう言ってすぐさま通路から厨房に入ろうとするが、何故か間宮が素早く机を下げて通路を塞いでしまった。

 

 いや、俺の前に雪風が何食わぬ顔で厨房に入ろうとしたことが原因なのだろうが。

 

「なんで雪風はダメなんですか!! しれぇに幸運艦の実力を見せつけるチャンスなんですよ!!」

 

「そう意気込んで、この前に汚れ一つない真っ白な厨房を黄色に染め上げたのは誰だったかしら? それも後片付けもせずにどこかに行っちゃうし……あれ、私一人で掃除したんですよ? ただでさえ落ちにくいあの色をシミ一つなく落とすの本当に大変だったんですからね。そんな雪風ちゃんは当分厨房に出入り禁止です」

 

「そ、そんなぁ……」

 

 おい、聞き捨てならないことが聞こえたぞ。あの日、妙に食材が減っているような気がしたんだが、雪風のせいだったか……てか、この真っ白な厨房を黄色に染め上げたって何をどうしたらそうなるんだよ。カレーでも壁にぶちまけでもしない限りそんな状況に出来ないぞこれ。

 

 つうか、そんな奴に飯を作ってもいいのか……?

 

 しかもカレーのあの色は落ちにくいことで有名だし……いや、むしろそれをここまで綺麗にした間宮さんすげぇな。流石、補給艦。家事スキルの高さは伊達じゃないってか。

 

 そんな思考をしている俺の目の前では、間宮の出禁令を喰らった雪風がカウンターをよじ登って厨房へと侵入を図っている。無論、間宮がそれを見逃すはずはなく、呆れ顔で雪風を撃退する光景が目の前で繰り広げられるわけだが。

 

 しかし、それも不意に投げかけられた言葉によって終わりを告げる。

 

 

 

「……『補給』、お願いしてもいいかしら?」

 

 何処か疲れた声色に俺たちはその方を振り向く。そこには、膝まである赤い髪をポニーテールを憂鬱そうに揺らし、疲れが見え隠れする表情の少女が立っていた。

 

 

 ポニーテールと同じ色のアホ毛に半目開きの緋色の瞳。その瞳から――――いや、ダランと垂れた両腕やちょっと前のめりの姿勢から疲労の匂いを漂わせている。そんな彼女の服装は異様で、上は他の艦娘たちが着ているようなセーラー服の上着。なのだが、下はゴム製の黒スパッツのような……いや、これ明らかにスクール水着だよな?

 

 

 まぁ簡単に言うと、スクール水着の上にセーラー服の上着だけを着ているのだ。

 

 何? これも初代の趣味なの? 初代ってやっぱり変態だったの?

 

 

「イムヤちゃん、オリョクルお疲れさまね。この後はお休み?」

 

「残念だけど今はゴーヤの入渠待ちよ。ゴーヤの入渠と『補給』を終わらせたらまた出撃するわ。だから、4人分(・・・)お願いね」

 

 間宮の問いにイムヤと呼ばれた艦娘はため息交じりにそう応えながら後ろに目を向ける。その視線の先には、イムヤよりも疲れ切った顔で椅子に座っている少女が二人。

 

 一人は金髪碧眼、頭に水兵帽、顔に赤渕の眼鏡をかけておりその奥の瞳には疲労の色が見える。もう一人は青紫色の髪を何か説明できないような結び方でまとめており、金髪の艦娘同様その赤い瞳には疲労の色が浮かんでいる。

 

 

 そして、その二人はイムヤのスクール水着にセーラー服ではなくただのスクール水着だ。因みに金髪の子に関しては白いニーソックスを履いているし。なんだこの男の欲望をこれでもかって詰め込んだトンデモ衣装。

 

 

 やはり初代は変態だったんだな。

 

 

「潜水艦隊さん、お疲れ様です!!」

 

 今までカウンターによじ登っていた雪風は手早く降り、イムヤの元に駆け寄って満面の笑みを浮かべて敬礼する。それを受けたイムヤは疲れた苦笑を返す。何か姉妹みたいに見えなくもないな。

 

 

 ん? 潜水艦隊って確か……。

 

 

 

「襲撃の時、哨戒を怠った奴らか?」

 

 

 それが思いついたようにそう言った瞬間、その場の空気が凍る。いや、正確にはイムヤが俺に視線を向けた。

 

 

 先ほどの疲労を感じさせない、殺気に満ち満ちたを視線を。

 

 

「……あんた、新しい司令官?」

 

 先ほど話していた人と同一人物とは思えないほど冷え切った声色で、イムヤは俺に問いかけてくる。それと共に向けられる視線に、背中に冷たいモノを入れられたような寒気を感じる。そのせいで言葉を発せずに、俺はただ頷くしかなかった。

 

 

「……そう」

 

 それだけ呟いたイムヤはそれ以降黙り込んでしまう。ただ、その視線は俺に向けられたままだった。そのため、思わずイムヤから視線を外す。

 

 

 その視線は、イムヤの向こう側に座っていた青紫色の髪の艦娘の目と合った。

 

 

 

 

「ごごごご、ごめんなさいなのね!!」

 

 

 その瞬間、彼女はそう叫びながら椅子から転げ落ち、俺に向かって土下座した。突然のことに目を丸くする一同―――いや、その中でイムヤはその姿を悲し気な目で見つめていた。

 

 

「イク達が哨戒を怠ったのは事実なの!! で、でもあの時は連日のオリョクルだったの!! 寝不足で仕方がなかったの!! だから今回は許してほしいの!! お願い……お願いしますなの!! 今後、こんなことが無いようにするの!! だ、だから今回は……今回だけは許してなのぉ!!!!」

 

 そう言って何度も何度も土下座を繰り返す青紫色の艦娘――――イク。彼女が頭を下げる度にゴンッ、と言う鈍い音が響き、その度に彼女の額は赤く染まっていく。

 

「ハチからも……お願いします」

 

 そう声を漏らしたのはいつの間にかイクの隣でへたり込んでいる金髪の艦娘―――ハチだ。彼女は土下座をしない。その代わり、その顔には彼女ぐらいの年頃の子が絶対に浮かべることが出来ない悲痛に満ちた表情を浮かべている。

 

 

「こんなことをお願いするのはお門違いだって分かってます。他の皆からすれば都合が良すぎることも、無責任であることも重々分かってます。……でも、でも今回だけは……今回だけは見逃してもらえませんかぁ? ハチ達はもう……」

 

 

 そこで言葉を切ったハチの瞳から、大粒の涙が零れた。

 

 

 

「痛いのはもう……嫌なんです……」

 

 

 その次に聞こえたのは小さな嗚咽だった。ハチは顔を下に向け、必死に手の甲で涙を拭い始める。横のイクもいつの間にか額を床に着け、小さな嗚咽と共に身体を震わせていた。

 

 彼女たちが今までどのような()を受けたのか想像するに易い。ましてや、それが彼女たちに深い傷を負わせたと言うことも痛いほど分かった。しかし、これから更に彼女達を傷付けることになるかもしれない、と言う不安もあった。

 

 だがしなければならない、と決意し声を掛けようとした時、俺の視線にフワリと揺れる赤い髪が映った。

 

 

 

「……罰ならイムヤが受ける。だから、この子達には手を出さないで」

 

 

 そう言って、床に崩れる二人を守る様に立ちはだかるイムヤ。その顔には他の二人のような悲痛の色は浮かんでいない。

 

 

 ただ、純粋な殺気を、俺に向けてくるだけであった。

 

 

 

「残念だが、それは出来ない」

 

 

 そんな三人の様子に、俺はそう言葉を吐きだした。その瞬間、イムヤ達の動きが一瞬止まる。そして、次に聞こえたのは2つの泣き声。

 

 

「……二人に手を出さないで」

 

 

 唯一、言葉を発したのはイムヤ。その目には先ほどよりも強い殺気が窺える。

 

 

「確かにお前たちは連日の……オリョクル? まぁ、たぶん出撃で疲労が溜まっていたのは分かる。それで敵空母を見逃してしまったのも仕方がないと言える。が、そのせいでうちの鎮守府は甚大な被害を受けた。その大きさはこの後も駆り出されるお前らが一番分かっているはずだよな? それに曲がりなりにも俺はここの提督。俺はこの鎮守府とここに所属する艦娘、及び周辺住民の安全を確保する義務がある。だから、今回他の艦娘や周辺住民を危険に晒したお前らを罰しなくちゃならない。そうしないと俺も納得しないし、周りも納得しない。分かるな?」

 

 

 そこで言葉を切って問いかけるも、それに応える者はいなかった。相変わらず殺気を惜しげもなく向けてくるイムヤを尻目に、俺は更に口を開いた。

 

 

「それに、今回お前らは潜水艦隊として動いていた上で敵を見逃した。これは一人の責任ではなく、艦隊全員の責任だ。一人安全地帯でのほほんとしている俺が言うのも何だが、お前たちは命を張り合う戦闘を主にしている、そこで1人のミスが艦隊全体に影響を及ぼすほどの甚大な被害に繋がるか分かるな? 些細なミスが艦隊の全滅をも引き起こす、それを心得させるために連帯責任だ。だから、お前だけ罰を受けるのは無しだ。お前ら全員、同等の罰を受けてもらう。そして―――」

 

 

「そんなことは分かっているわ!! さっさと……さっさと言いなさいよ!! 今度は何をさせるつもり!? モノによっては容赦しないわよ!!」

 

 俺の言葉を遮ったのは犬歯を剥き出しにして吠えるイムヤ。しかし、その言葉とは裏腹にその目から先ほどの殺気は消え失せ、代わりにイクやハチよりも悲痛に満ちた表情を浮かべていた。唇から血が流れているのは、歯を食いしばった際に噛み破ったのだろうか。それほど、彼女にのしかかってくるものだったのだろう。

 

 その姿を前にして、俺は大きく息を吸った。

 

 

 

 

 

 

「明日の朝、食堂に集合してくれ」

 

 

 

 俺の言葉にイムヤの表情が崩れる。目尻に刻まれたしわ、固く結ばれた口許が僅かに緩み、悲痛に満ちた表情から鳩が豆鉄砲を食らったような顔に変わる。

 

 

「は?」

 

「聞こえなかったか? 明日の朝、食堂に集合だ」

 

 何秒か遅れたイムヤの呆けた声。その様子に改めて同じこと告げるも反応はさほど変わらない。ただ呆けた表情のまま首をかしげるぐらいだ。

 

「お前らは哨戒任務を怠り大勢を危険に晒した。その罰として、明日の朝食堂に集合するように」

 

「……何するの?」

 

 俺の言葉にイムヤが声を漏らす。先程までの呆けた表情から不安げに上目遣いで見つめてくる。

 

「悪いんだが、秘密事項だから詳細までは言えない。取り敢えず、今言えるのは人手が欲しいって事だけだ。詳細は明日の朝、集合したときに必ず話す」

 

 そう言うと今まで上目遣いだったイムヤの目から光が消え、疑心に満ちたモノに変わる。信用できない、と言う気持ちが痛いほど分かった。

 

「ただ1つ、言えることがある」

 

 その視線を受けた俺はそう言って膝を折り、イムヤと同じ目線になる。突然のことに動揺する彼女を真っ直ぐ見つめ、口を開いた。

 

 

 

「初代がお前らに課したことは、絶対にしない」

 

 

 俺の言葉を聞いたイムヤの目が大きく見開いた。そして、彼女の口許が微かに緩む。

 

 

 しかし、次の瞬間イムヤは弾かれたように立ち上がる。いきなりのことに驚いて何も言えなかったが、立ち上がった時に彼女の緩んでいたその口許が固く結ばれたのは見えた。

 

「間宮さん、『補給』を」

 

 俺を一瞥することもなくそう言ったイムヤは後ろで泣き崩れているイクとハチに駆け寄り、二人を立たせたる。イムヤによって何とか立てた二人だったが、嗚咽を漏らしながら手の甲で何度も顔を擦っている。

 

「ほら、もうすぐゴーヤの入渠が終わるわ。3人で出迎えてあげましょ? ね?」

 

 子供をあやすような優しい声色のイムヤに背中を押され、二人は間宮が用意したトレイを受け取る。それを見届けてイムヤは残った二人分のトレイを受け取り、間宮に頭を下げて食堂の出口に向けて歩き出した。

 

「お、おい」

 

「大丈夫」

 

 思わず声をかけると、有無も言わさないと言いたげな声色のイムヤが遮ってくる。その言葉と共に、彼女は初めて見たときの疲れた表情を向けてきた。

 

 

「明日の朝、食堂に集合でしょ? 分かってるわ。命令だし、すっぽかすようなことはしないわ」

 

 それだけ言うと、イムヤはイクとハチを引き連れ食堂を後にした。その姿が見えなくなったから、俺は思わず大きな溜め息をこぼした。

 

「ちゃんと来てくれるかね……」

 

「大丈夫です!! イムヤさんは来てくれますよ!!」

 

 独り言に元気よく答えてくれる雪風。その頭を軽く撫でる。ふとその視線の先に、机を上げて厨房へと続く通路を作って待っている間宮が見えた。

 

「ナイス!!」

 

「えっ!? ああっ!!」

 

 そう言いながら雪風の頭から手を離した俺は素早く厨房へと続く通路に滑り込む。数秒遅れて雪風が走り込んでくるも、間宮によって既に通路は塞がれてしまっていた。

 

「酷いですよしれぇ!! 雪風を一人除け者にして!! 入れてください!! 雪風もそっちでお手伝いしたいですぅ!!」

 

「恨むんなら、あの時後片付けをしなかった自分を恨むんだな。あと、それ以上ごねると飯無しにするぞ?」

 

 その言葉を言った瞬間、あれだけ騒いでいた雪風の叫び声がピタリと止んだ。その代わり、雪風はカウンターに顎をついて頬を盛大に膨らませていた。

 

 

「しれぇのために作ったカレーだったんですよ……」

 

「なら、作ってやるから大人しく待ってろ」

 

 雪風の言葉にそう軽口を叩く。それに雪風は益々ご立腹の表情を向けてきたが、知らないフリ知らないフリ。

 

 

「では、あとはお願いします」

 

「あ、ちょっと待ってくれ」

 

 それを見届けた間宮がそう言ってそそくさと奥に引っ込もうとするのを呼び止める。間宮は俺の言葉に足を止め、クルリと振り向いて不機嫌な顔を向けてきた。

 

「何ですか?」

 

「悪いんだけど、ちょいと知恵を貸してほしい」

 

 不機嫌な顔の間宮にそう言いながら、俺はポケットから封筒を取り出して彼女に差し出す。それを受け取った間宮はブスッとした顔で封筒を開け、中の資料を取り出して目を通し始めた。

 

 無言のまま目を通す間宮。しかし、目が進むごとに彼女の表情が不機嫌から驚愕へと変わっていく。

 

「て、提督!! こ、これは!!」

 

「すまんな、俺の頭じゃ良い案が浮かばなくてよ……それ(・・)の扱いなら間宮の方が慣れているからな。頼めるか?」

 

 資料を手にそう声を漏らす間宮。その顔には驚愕の表情を浮かべており、資料を掴む手は心なしか震えている。まぁ、今まで微塵も考えていなかったことをいきなり頼まれちゃ驚くのも無理ないか。下手したら拒否されるかもしれないし。まぁ、もし断られても土下座して頼み込むつもりだから彼女に拒否権はほぼ無い。

 

 理不尽だと罵られても仕方がないだろう。だが、今回の件はどうしても彼女の手が、この鎮守府で食事の一切を任された彼女だからこそ必要なのだ。そのためなら多少の条件なら何でも呑むつもりだし、最悪俺も手伝うつもりだ。

 

 

 

 あれ、提督の仕事って飯作ることだっけ?

 

 ってか間宮からの反応が一切無いんだけど。そんな衝撃的でした? それとも不本意過ぎて言葉が出ないとか? どちらにしても土下座かな。

 

「あの、間宮……」

 

 恐る恐る間宮の方を振り向いた俺はそこで言葉を失った。

 

 

 

 間宮の目から涙がこぼれていたからだ。

 

 

「ちょっ、間宮さん!?」

 

「提督……」

 

 予想外のことに慌てて駆け寄ろうとするも、間宮の絞る出すような声と、その姿に足が止まってしまった。

 

 目の前の間宮は資料に顔を埋めており、隙間から見える口元は歯を血が出るのではないかと心配になるほど食い縛っている。顔を埋める資料は有らん限りの力で握り締められためにクシャクシャになっており、それを握り締める手や肩、身体全体が時おり聞こえる嗚咽と共に震えているのだ。

 

 先程までのふてぶてしい態度からの変わりように何も言えないでいると、資料から顔を上げた間宮がいつになく真剣な顔つきで見つめてくる。その頬には筋のようなものが幾つも刻まれていた。

 

「これはいつまでにお渡しすればよいのでしょうか?」

 

「え、あ、き、今日中に頼めるか?」

 

 淡々とした口調で投げ掛けられた質問にたどたどしく答えると、間宮は「分かりました」と短く呟くとすぐさま踵を返して歩き出してしまった。

 

 あまりの変わりようにボケッとその姿を見つめる俺を尻目に、間宮は時おり袖で顔を拭う仕草をしながら進んでいく。しかし、奥の部屋へと続くドアの前で立ち止まる。

 

 何事かと思って身構える俺に、間宮はクルリとこちらを振り向いて姿勢を正した。

 

 

 

 

「ありがとうございます」

 

 そう言って、間宮は満面の笑みを浮かべながら頭を下げる。彼女はすぐさま顔を上げ、ドアに向き直ってその奥に消えていく。

 

 

 頭を上げてから消えていくまで、その顔に浮かんでいた満面の笑みが崩れることはなかった。

 

 

「……作るか」

 

 そう言って、俺は包丁を握った。



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提督代理の『矛盾』

「やっぱりしれぇのカレーが1番です!!」

 

「そいつはどうも」

 

 スプーンを握りながらにこやかな笑顔を向けてくる雪風。真っ正面から称賛の言葉を聞かされるのはむず痒いものなんだが……そんなカレーまみれの顔を向けられてもねぇ。

 

「ほれ」

 

 溜め息を付きながら紙ナプキンを雪風に投げ渡す。紙ナプキンを受け取った雪風は不思議そうな目を向けてきたので、俺は無言のまま自分の口許を差した。

 

 ジェスチャーから惨状に気づき、彼女は急いで口許を拭うも広範囲だったためにナプキンはすぐさま黄色に染まってしまう。その様子にすぐさま追加の紙ナプキンを手に取った。

 

「ここに……いらしたんですねぇ……」

 

 一生懸命拭う雪風に残りのナプキンを押し付けた時に後ろから声を掛けられた。振り返ると、膝に手を置いて肩で息をする和服姿の艦娘が一人。

 

 

「榛名か、どうした?」

 

「……お久しぶりです」

 

 俺の言葉に榛名は大きく数回深呼吸をして乱れた息を整えながら笑顔を向けてきた。しかし、その額に汗が浮かんでおり、まだ肩で息をしている。緊急の用か?

 

「先ほど、吹雪ちゃんが提督を探していましたよ」

 

「吹雪が?」

 

 吹雪って、あの演習の時に土下座して懇願してきた艦娘だよな。

 

 初対面の上にいきなり土下座をされたからよく覚えているが、まともに言葉を交わせずにそのまま別れてそれ以降顔を合わせたことは無い。まともに会話したとは言い難く、ハッキリ言ってしまえばそこまで接点は無いのだ。そんな接点のない俺を走り回って探しているってのは、一体何事か?

 

 

「何でも、急ぎの用でお話したいことがあるらしいですよ。提督がお帰りになったと聞いて真っ先に執務室に向かったらしいですが、ちょうどいらっしゃらなかったようで……その後、ずっと鎮守府内を探し回っていたみたいです。先ほど会った時に提督の自室に行くよう勧めたので、恐らく今はそこに居ると思います」

 

 俺が帰ってきてからずっと探し回っていたとは……吹雪には悪いことをしちまったなぁ。しっかし、鎮守府内を探し回るほどの火急の用ってなんだ? まぁ、ともかく今は彼女と話をすることが先決だな。

 

「雪風ちゃんにも言伝を預かっていますよ。工廠の妖精から『艤装ノ整備デ相談アリ。至急、工廠二参ラレタシ』、です」

 

「艤装の整備ですかぁ? 雪風はいつも通りでいいんですがねぇ……?」

 

 榛名が受け取った工廠の妖精からの言伝に雪風は若干面倒くさそうな顔になる。いや、面倒くさがっちゃいけないだろ。そんな理由で整備を怠って、いざ戦場で不調起こして大破、なんて目も当てられない。装備の手入れは自身の身を守ることだ、絶対に手を抜くもんじゃねえだろう。

 

「艤装はお前の身を守るもんだろ? 馬鹿なこと言ってないでさっさと行ってこい」

 

「……しれぇに言われちゃ行くしかないですねぇ……では、行ってきまーす」

 

 雪風の手から汚れたナプキンを受け取り工厰に行くよう促す。それに雪風はばつの悪そうな顔を浮かべるも、そう言いながら敬礼をして食堂を出ていった。

 

 ……ちゃんと工厰行くかねぇ? 後でちゃんと行ったか確かめておこう。

 

「では、早く行きましょうか」

 

「そうだな……ん? 榛名もついてくるのか?」

 

 いつの間にか腕を掴んでグイクイ引っ張ってくる榛名の言葉に、俺は流されそうになりながら問いかけた。初めて会った時はまだ鎮守府内を把握してなかったし、初めて来た駆逐艦の宿舎だったからお願いしたが、流石にもう食堂から自室までなら一人で行けるぞ。ここで榛名がついてくる理由が分からん。

 

「実は、私も提督にお話があって探していたんです。そしたら吹雪ちゃんも探していたので出直そうかと思ったのですが、このまま提督のお部屋で二人まとめてお話すればそこまでお時間も取られないかと思いまして……駄目でしょうか?」

 

 何故か上目遣いで首をかしげてくる榛名から俺は思わず視線を外す。そんな間近で見つめられると気恥ずかしくなるから仕方がないだろう。

 

 しかも榛名は顔が整っている分その振る舞いも絵になるわけで、ついこの間まで男ばかりの軍学校に居た手前そう言うのには慣れていないんだよ。

 

 って、そんなことはどうでもいい。榛名も用があるのなら後でまた時間を見つけて話すよりもこのまま部屋に行って二人の話を聞いた方が良いな。

 

「では、早速行きましょう!!」

 

 俺が納得するのを見届けた榛名は顔を綻ばせて元気な声を上げる。やけにテンションが高いな、なんて感想を抱きながら俺は彼女に引っ張られながら食堂を後にした。

 

 

 自室に向かう途中、榛名は俺が大本営に出頭している間の鎮守府の出来事を話してくれた。

 

 襲撃による資材確保で奔走したこと、傷付いて動けない艦娘の世話をしたこと、『補給』される資材が切り詰められて満腹にならなかったこと、それによって空腹で眠れない駆逐艦を寝かしつけたこと、時には自分の『補給』分を分け与えたりしたことなどなど、聞いていて心が痛むものばかり。

 

 

 そんな胃がキリキリする話の中で特に驚いたのが、吹雪が金剛に噛み付いたことだ。

 

 

 俺の記憶が正しければ、あの時の吹雪は金剛を責めないようにと懇願してきた。そのためならどんな無茶なことでもすると豪語したあの吹雪が、自らの身を削ってまで守ろうとした金剛に噛み付いたのだ。これは驚かずにはいられないだろう。

 

 主に遠征と哨戒組の吹雪と別だった榛名はそこまで詳しいことは分からないのが、遠征組や哨戒組の艦娘の伝聞、そして先程本人に出会った際に聞いたらしいから信憑性は高い。

 

 そんな信じられないような話の発端は、金剛が組んだ遠征や出撃、哨戒のローテから始まる。

 

 当時、金剛が組んだローテーションは鎮守府に所属している全艦娘が1日2回ほど何らかの任務を行うように、任務の合間には十分な休息を取れるように出来るだけ時間を離すなどの配慮がされていた。更には、バケツなどの資材以外のモノを見つけてきた者には次の日のローテーションに口を挟めるなどの優遇処置をしたそうだ。その分『補給』は切り詰められていたが、報酬などで艦娘たちの中から不満の声を上げる者はいなかった。

 

 しかし、その中で吹雪は、無断でローテーション以上の出撃や遠征、哨戒を行っていたらしいのだ。しかし無断で任務をこなすのはまだ可愛い方で、時には無理言ってローテーションを変えてもらうことすらあったのだとか。そして、遠征に行ってバケツを持ち帰る度に金剛に出撃回数を増やすように進言していたらしい。

 

 更に、彼女は『補給』や休息すらも必要最低限をギリギリ超えるか超えないかのラインまで削っており、時には『補給』せずに任務にあたることもあったそうだ。只でさえ少ない『補給』を更に減らし、『補給』が少ない分重要になる休息を十分に取らず遠征や哨戒を行っていたのだ。そんな無茶をしても倒れなかったのは艦娘であるが故か。しかし、それを何日も続けるといくら艦娘と言えども倒れるのは必須だ。

 

 事実、吹雪はここ何日もの凄く疲れ切った顔だったようで、それを見た他の艦娘たちが休息をするよう促すも彼女はそれを聞き入れることはなかった。

 

 

 

 その時、口にした言葉が、「私は『兵器』だから」―――だとか。

 

 

 勿論、そんな疲れ切った吹雪の姿を黙っているわけもなくすぐさま金剛に報告。報告を受けた金剛によって、今日のローテーションから吹雪を外されることとなった。それに憤慨した吹雪は自ら金剛に直談判し、そこで口論になったらしい。

 

 まぁ、結局は金剛に言い含められて鎮守府待機を受け入れたようで。納得の行かない様子だった吹雪は俺が帰って来たことを知り、現在に至るのだとか。

 

 

「そんなことがねぇ……」

 

「まぁ、吹雪ちゃんが遠征の度に見つけてきてくれたバケツのお蔭で、傷付いた子達の入渠が予定より早く済んで本当に助かったんですけどね」

 

 吹雪の話を聞き終え俺はため息をつく。横の榛名も内容が内容だった手前、苦虫を噛み潰したような顔になっている。吹雪の言動には賛同出来ないが、そのお陰で入渠のスピードが上がったのだから一概に吹雪を責められない、ってことか。

 

 

 だけど、一つ気になるのが、吹雪と口論になった金剛の方だ。

 

 

 金剛は自らを含め、艦娘を『兵器』だと言い張っている。その根底にあるのは、入渠無しの連続出撃、『補給』と言う名の食事制限、難癖による暴行や伽、そして過度な進撃による轟沈などの初代が彼女や他の艦娘に行った蛮行だ。そんな扱いしか受けていないために、彼女はそれが当たり前だと思っているのかもしれない。むしろ、潜水艦の出撃を見るに、根底には初代の扱いが少なからず染み付いているのだろう。

 

 そして、吹雪は出撃ローテから外されたことに、自分の疲労なんか考えずに出撃させろと抗議した。それはつまり、自らを『兵器』として扱うよう金剛に言ったのだ。『兵器』の扱いが初代のモノと近い金剛からすれば、その発言は非常に都合がよかっただろう。何せ、疲労や損傷を考えずに出撃させてもいい、自らをこき使えと言っているのだから。

 

 

 しかし、金剛はそれを拒否した。『兵器』としての扱いを望まれたのに、だ。

 

 

 何故、彼女が拒否したのかは分からない。彼女の『兵器』の考え方が、吹雪の望んだことと違っていたのは十分あり得る。それにあれだけの扱いを受けてきたのだから、彼女の『兵器』の考え方は初代の扱いを真っ向から否定しているのかもしれない。しかし、なら何故初代が強制した『補給』を続けているのか、と言う疑問が出てくる。

 

 金剛が飲んでいた紅茶に関してもそうだ。他の艦娘は弾薬や鋼材などの資材の食事を強制しているのに、彼女だけは紅茶を飲んでいる。それはつまり、資材の食事を強制されて自らは夜な夜な街へ繰り出して豪遊の限りを尽くした初代と同じことをしていると言える。それならば初代のやり方を継承しているとしよう。しかし、今度は疲労や損傷を考慮したローテーション組み、そして伽の廃止などが上がってくるのだ。これをどう説明しよう。

 

 

 つまるところ、金剛の言動には一貫性がなく、矛盾が多いのだ。

 

 

 今の体制は、初代が敷いたものから必要ないモノを選んで廃止にしただけであろう。つまり、今も続けられている物は何らかの理由があるものと言える。その理由は運営する上で必要不可欠なモノ、『補給』に関しては大本営との交流が途絶えているために資材以外の食い扶持が無いためと考えられる。疲労や損傷を考慮したローテーションも貴重な資材をおさえるためと言えよう。運営的な面から見れば少なからず矛盾の説明がつこう。

 

 しかし、それでも説明できない矛盾もあるわけで、それについては金剛や他の艦娘たちの個人的な見解が根底にあるのだと思う。それがどれだけ重要なモノなのかは分からない。まぁ、傍から見ればどんなに理不尽な我が儘であっても、当人にとっては非常に重要なことであるのは違いない。

 

 こればっかりは、本人たちと話さなければならない。差し詰め、今回はその第一回目と言えるか。

 

 そんなことを考えていたら自室へと続く廊下に差し掛かる。ここからならもう部屋の扉を目視出来る距離だ。そうして自室の方に目を向けるも、そこに吹雪の姿は無かった。

 

「あれ、吹雪は?」

 

「おかしいですね……また探しに行ったのでしょうか?」

 

 部屋へと近づいていく中で榛名に問いかけるも、彼女も不思議そうに首をかしげるだけであった。まぁ、いないのなら仕方がないか。先に榛名の方を済ませてしまおう。

 

 そう結論付けた俺は部屋の鍵を開ける。因みにこのドアはあの時に蹴り破ったモノだが、次の日の内に元通りに直っていたっけ。雪風曰く、『うちの妖精さんは優秀なんです!!』とか。

 

「さ、入ってくれ」

 

「いえいえ、提督より先に入るなんて出来ませんよ!! ドアは榛名が閉めますから先に入ってください!!」

 

 ドアを開けて中に入るように促すも、何故か慌てたように榛名がそう言って逆に促してきた。いやいや、普通上官に入るよう促されたら従うもんだろよ。そう諭しても頑なに入ろうとしない榛名。

 

 いい加減に……って、なんか部屋の中が散らかってるな。いや、俺の部屋は執務室に家具を回したせいでベッドしかないんだけど、そのベッドが何かすごいことになってるんだよ。

 

 シーツはベッドの上で盛大にめくれ上がっており、枕はカバーを剥がされてベッドの下に転がっている。毛布に至っては、粗大ごみにでも出すかのように丸められてフローリングの上に転がっている始末。何これ新手の嫌がらせですか? 『お前のベッドねぇから!!』とでも言いたいの?

 

 

「……榛名、ベッドがすごいことになっているから掃除してもいいか?」

 

「え? ……あ、はい!! 榛名は大丈夫です!! おおおお、お手伝いします!!」

 

 俺の言葉に榛名は部屋の中を見ると何故か小さく息を呑み、そう言いながら慌てて部屋に走りこんだ。頑なに拒んでいたのにどうしたんだ? まぁいい、早くやっちまおう。

 

 

 

「忘れてたぁ……」

 

 ん? 何か今スゴイ不穏な言葉が聞こえてきたんだけど気のせい?

 

 

「榛名、『忘れてた』ってどういうことだ?」

 

「へ!? なななな何でもありませんよぉ!!」

 

 シーツを直しながら俺が問いかけると、何故か引くほど狼狽える榛名。視線は宙を右往左往しており、額からは大量の汗が滲んできている。明らかに何かを隠している……って言うか、もうこの時点でビンゴだろ。

 

 

「ここで何をしていた?」

 

「それは……その……」

 

 再び問いかけると言葉を濁しながら視線を逸らす榛名。否定しないってことは、この惨状を作り出したのは榛名とみていいだろう。一体何が理由だ?

 

「理由は何だ? 金剛にでもそそのかされたか? それともまた―――――」

 

 そこで、俺の言葉は途切れた。

 

 

 

 後ろから強烈な衝撃を受けたからだ。

 

 

 いきなりのことに対応できず頭からベッドに倒れこみ、ベッドの縁に額をぶつけた。脳に直接響く衝撃と激痛、そして背中から軽快な音が聞こえ、一瞬意識が飛びかけるのを何とか堪える。そして、片手で額を押さえながらもう片方の手を背中に伸ばす。

 

 背後からの衝撃、そして今なお背中にかかる重み。明らかに何者かがぶつかり、そのまま倒れこんできたのだ。そんなことが出来るのは現状、一人しか居ない。

 

 

 

 

「榛名……何のつもりだ?」

 

 首を限界まで背中の方に回しながら低い声を出す。その言葉を投げかけた当の本人は、俺の背中に身を預けながら顔を埋めるだけでうんともすんとも言わない。むしろ、何故か背中に顔を摺り寄せてくる。

 

「おい! はる――」

 

「ようやく二人っきりになれましたね……楓さん(・・・)

 

 俺の言葉は呟くような榛名の言葉に遮られた。いや、正確には彼女がいきなり下の名前で呼んできたのに驚いたのだ。

 

「榛名は……榛名はこの時をずっと待っていました……」

 

 そんな言葉と共にもたれ掛かっていた榛名の身体が背中から離れた。しかし、腰の辺りで馬乗りされているため、動くに動けない。

 

 次に聞こえたのはスルスルと布が擦れ合う音。それと共に背中に軽い布のようなものが触れる感触が。

 

 

 

 

 

 

 それらから連想されるもの――――『伽』。

 

 

 

 

「え!? ちょっ、ま!? まままま、また金剛にどやされるぞ!!」

 

「別に構いませんよ? お姉様も、きっと分かってもらえますから」

 

 『伽』と認識した俺は力任せに身体を動かして背中に乗る榛名から逃げようとする。しかし、腰に体重を乗せられている、且つ絶妙な体重移動でことごとく俺の動きを抑制する榛名によってその拘束から逃れられない。

 

 焦る俺の耳にそんな涼し気な榛名の声が、そして布がこすれる音が聞こえる。それを聞くたびに、下手に後ろを振り返れなくなって俺の可動範囲(主に首の)が制限されていく。そんな俺も思いも裏腹に、積み重なる布のような感触は重量を増していた。

 

 

 てか、このままいったらまた変な誤解を生むじゃねぇか!! これ以上、死亡フラグを立てるのは御免だぞ!!

 

 

「待って榛名!! 待ってくれ!! お、俺は『伽』なんか望んじゃいねぇんだよ!!」

 

「……何を言っているのですか? これは『伽』ではありませんよ?」

 

「押し倒されて服を肌蹴させ始めている時点で『伽』以外に何があるんだよぉ!!」

 

 榛名の疑問に叫ぶようにそう応えた。すると、後ろから息を呑むような声が聞こえ、同時に背中にのしかかっていた重みが消える。これぞ好機、ととらえた俺はガバっとベッドから飛び退いてドアへと走り出す。

 

 

 

 しかし、その瞬間、首根っこを掴まれて襟が勢いよく喉仏に食い込んだ。一種の呼吸困難に陥り、激しくせき込む。その余波で全身の力が抜けた俺の身体は真後ろに引っ張られ、背中から勢いよく柔らかいモノに突っ込む。

 

 それが毛布、先ほど紐で縛られていた毛布だと理解する前に、前方に黒い影が掛かる。それが何かと認識する前に、俺は本能的に顔を手で覆った。

 

 

「『伽』と勘違いするなんて、楓さんは酷い人ですね」

 

 次に聞こえたのは榛名の声。気のせいか、いつもより上擦っているような、そして荒い息遣いが微かに聞こえてくる。

 

 

「金剛型戦艦三番艦、榛名」

 

 その言葉に俺は背筋に寒気が走った。その言葉は、前に榛名に『伽』を迫られた時の言葉と同じだったからだ。思わず起き上がって彼女を止めようとした時、その顔が目に入った。

 

 

 

 目を半開きにさせて顔を上気させた彼女が、目の前に放り込まれた餌を見つめる獣のような表情をしている。色々と突っ込みたいところはあったのだが、そこに悲壮感はない。あの時とは比べ物にならないほど魅力的な表情の榛名がそこにいた。

 

 

 思わず見惚れていると、彼女はその表情のまま口をゆっくり動かした。

 

 

 

 

 

「提督との『初夜』、参ります」



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艦娘たちの『お願い』

「しょ……や?」

 

「あ、初夜の場合は『遥南(はるな)』でしたね。間違えてしまいました」

 

 俺の呟きに、榛名……いや、遥南? どっちだ? ……もうどっちでもいいや。ともかく彼女は申し訳なさそうに肩をすくめながらそう言ってくる。しかしそんな言葉と裏腹に彼女は既に上着を脱ぎ終え、その豊かな胸部装甲を覆うサラシへと手が掛かっていた。

 

 これをどう表現していいのか。取り敢えず、思い浮かんだのが『やる気満々』だ。

 

 

 ……ウン、待ッテ。ヨーク考エルンダ。『初夜』ノ意味ヲ、モウ一度考エテミヨウ。

 

 

 「初夜」―――――夫婦となった男女が過ごす初めての夜。或るいは戌の刻。現在の午後8時ごろ。宵の口。また、その時刻に行う読経、等々。

 

 その中でこの状況に合う意味は何だろう。いや、間違いなく一番初めのヤツだ。それしか考えられない。では、今度はそれについて考えてみよう。

 

 「夫婦となった男女が過ごす初めての夜」――――

 

 まず、親類に8帖間ぐらいのダブルサイズの布団と2組の枕、そしてティッシュが置かれた部屋に肌着で放り込まれる。放り込まれた二人はしばらく布団の上で向かい合って正座し、視線を逸らしながらしばらく無言でいるしかない。

 

 長くはない時間が経つと、やがてどちらかが意を決した様に己の肌着を肌蹴させて生まれたままの姿となり、いそいそと布団に入る。片方は相方の行動、そして生まれたままの姿を前に頬を赤らめて視線を逸らすも恥じらいながらも同じような姿になって布団に入り込む。

 

 

 そして、そのまま……

 

 

 

 

 

 

 

「二人仲良く寝落ちするんですね、分かります」

 

「私は昨日たっぷり寝たので大丈夫です!!」

 

 必死の現実逃避の末導き出した答えは、目を輝かせた遥南(そう名乗っているから)の力強い一言によって粉砕されてしまう。いや、むしろそんな時間からことに及ぼうとしていること自体がおかしいんですがそれは。

 

 しかも時間帯的に誰かが通るかもしれないじゃん!! この光景見られたら俺の提督人生は愚か社会的生命が絶たれる!!

 

「たとえ楓さんが社会的に落ちぶれようとも、この私が御支さえするので安心してください!!」

 

「いやそう言う問題じゃないからこれ!!」

 

 俺の言葉に遥南は更に目を輝かせてそんなことをのたまってくる。いや、何でさっきよりも目の輝きが増してるんだよ!! あとその発言やめて!! 何か怖いからやめて!!

 

「てか、まず何で俺とお前が夫婦になってんだよ!! そんなこと決めた身に覚えはねぇぞ!!」

 

「何言ってるんですか? つい先日、契りを交わしたばかりではないですかぁ」

 

 俺の疑問に遥南はおかしそうに笑う。そして、彼女はその笑顔のまま自らの胸部装甲を守っていたサラシを一気に解き放った。その瞬間、俺の目の前に彼女の豊かな胸部装甲が――――――

 

 

 

「見てない!! 俺は何も見てないぞォォ!!」

 

 とっさに両手で顔を覆い、目を固く瞑ることで何とか直視を避けることに成功した。よし、このまま何も見ずに説得すれば切り抜けられるぞ!!

 

「楓さん」

 

 しかし、次に聞こえたのは冷え切った遥南の声。その瞬間、両手首を掴まれて力任せに横にずらされる。突然のことに思わず目を開くと、目の前には無表情で見つめ返してくる彼女の顔があった。

 

 

 

 

 

 

 

「女性の身体を目の前にして、顔を覆うのは失礼じゃありませんか?」

 

 囁くように吐き出された言葉。その言葉と感情が読めない表情に背筋に寒気が走るのを感じた。このまま反抗したらただでは済まない、そう本能が察知した。

 

「流石の私でも傷付きますよ?」

 

「あ、はい。すみません」

 

 念を押す様な彼女の言葉に、俺はそう言いながら素直に頷く。それに遥南は満足そうに笑みを浮かべて頷いた。

 

「ようやく、ちゃんと目を見て話してくれましたね」

 

 俺が真正面に向き合ったことがそんなに嬉しいのか、先ほどよりも遥南の声色が若干高い。いや、真正面に向き合ったと言うか、そこしか見れないと言うか……もし視線を外せば俺の中で何かが壊れる気がして視線を外せないだけなんだが。

 

 

「では、まず定番の口づけですね」

 

 そう呟いた遥南は目を閉じた。そして、少し唇を尖らせて、ゆっくりと近づいてくる。抵抗しようにも先ほどの視線で牙を抜かれて出来ず、尚且つ視線が彼女の顔以外に向けられない俺はだんだん近づいてくる彼女の顔を見ることしか出来ない。ヤバい……このままじゃ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あの~」

 

 そんな危機的状況の中で、か細い声が聞こえた。俺と遥南は咄嗟に声の聞こえた方―――扉の方に目を向ける。

 

 

 そこにはドアの陰から半身を出してこちらを覗き込む割烹着姿の艦娘―――――間宮だ。

 

 

 その顔やドアを掴む手は真っ赤に染まり、直視できないとばかりに半分だけ開いた目をあちらこちらに飛び交わせている。ドアの陰から紙の束が入ったファイルが見える。多分、さっき頼んだモノを渡しに来たのだろう。そして、この光景に遭遇してしまったのだ。

 

 

 

 同時に、俺の社会的生命が失われた瞬間でもあった。

 

 

 

「な、何をして……いるの?」

 

「見ての通り、楓さんとの『初夜』ですよ」

 

「ま、まだお昼間なんだけど……」

 

 精一杯絞り出した間宮の言葉に、遥南は何故か自慢げにそう応える。そして、若干論点が外れたツッコミをかます間宮。違う間宮、そこじゃないんだツッコむのは。

 

「楓さんとの私の間に、時間など関係ないのです!!」

 

「せ、せめてドアに鍵ぐらい閉めてやってくださいよぉ……」

 

「むしろ間宮さんはノックをして開けて下さいよ」

 

「そ、それは……」

 

 遥南の鋭いツッコミに、更に顔を赤らめて口ごもる間宮。あぁ、そう言えば鍵閉めてなかったわ。でも当然だよ、だってこんなことになるなんて思わなかったんだからな!!

 

 

「と、ともかく!! そ、その……提督と榛名さんは……『そう言う関係』?」

 

「はい、私と楓さんは『真名を交わし合った仲』です」

 

 間宮の問いに、遥南は自信たっぷりと言った表情でそう返す。てか、『真名を交換し合った仲』? それに一体何の関係が?

 

 

「そ、そうなの……なら、し、仕方がないわね……」

 

 遥南の言葉に間宮は手に持ったファイルで顔を覆い、そのまま俺の方を向き直った。と言うか仕方がないって何? この状況を容認しちゃったの?

 

「そ、その……頼まれていたモノが出来たので持ってきたのですが……で、出直してきますね……ご、ごゆっくり!!」

 

 叫ぶようにそう言い放った間宮はドアの陰に引っ込む。そのまま廊下を走る音が聞こえ、やがて消えてしまった。残された俺と遥南はしばし間宮が消えて行ったドアに視線を注ぐ。

 

 

 と言うか、ようやくこの状況に至った経緯が分かった。

 

 

 

 

 

「『真名を伝える』ことに、『夫婦になる』って意味があるのか」

 

「本当に知らなかったんですか? これ、必須な知識ですよ?」

 

 俺の問いに、遥南は少し残念そうに呟く。うん、本当に知らなかった。でも必須ってことは学校で教えられたのかもしれない。そんな記憶、これっぽっちもないけどな。

 

「私でよろしければお教えしましょうか?」

 

 ようやく頭が追い付いたことに若干の達成感を感じていると、残念そうな表情の遥南がそう問いかけてきた。このまま『真名』の持つ意味を知らずに艦娘たちと接していくのは危険だ。まして、今回みたいなことがあるかもしれないし、そのリスクを摘み取れるのであればここで聞いた方がいいな。

 

「頼む」

 

「……分かりました」

 

 俺の言葉に遥南は拘束していた俺の両手首を開放し、溜め息をこぼしながら語り出した。

 

 

 『真名』とは、遥南たちが艦娘になる前の名前、つまり人間時代の名前のことを指す。そして、この真名は艦艇時代の記憶を受け継いだ度合いに限らず、艦娘全員が覚えており、そして共通の認識を持っているのが特徴だ。その理由は確かではないが、解体された際に後の生活に支障が起きないように覚えているのではないか、と言う見解が通説となっている。

 

 その中で一番重要なのが、真名を口にするケースだ。普段俺が見ているように、艦娘たちは真名ではなく艦艇の名前で呼び合っている。つまり、普段は艦艇の名前で呼び合い、真名を呼ぶのは極めて特別な事でない限りは呼ぶことはないのだ。そのため、姉妹艦ですら互いの真名を知っているのは珍しいことだとか。それほど、真名は他者に認知されることがないらしい。

 

 しかし、それは裏を返せば真名を知ることや聞くこと、教えることには多大なる意味があることを示している。

 

 真名を知ることはその艦娘の全てを知っていると言っても過言ではないらしく、艦娘にとって自身が特別な存在であると言う証になるのだとか。そして、聞くこと、教えることは相手に対して絶対的な信頼、または忠誠を寄せていることを伝えることであり、更にはこんな意味も含まれている。

 

 

 

「プロポーズ?」

 

「はい、『ケッコンカッコカリ』のです」

 

 俺が首をかしげるのを見て、遥南は頭を抱えながら話を続けた。

 

 

 『ケッコンカッコカリ』とは、提督と練度が最大までなった艦娘との間に交わす特別な契約みたいなモノで、そこで固く結ばれた絆が艦娘に更なる力を与えるのだとか。その効果は艦娘の更なる練度や火力や回避などなど身体能力の著しい向上、そして何よりも艦娘自身のモチベーションの向上が期待できる。

 

 しかし、やはり一番はカッコカリと謂えども提督と言う大切な人と結ばれたと言う事実であろうか。

 

 

 そんな艦娘にとって己の力、そして大切な人と絆を示す『ケッコンカッコカリ』の条件が、提督が大本営から送られてくる指輪を送ること、そして提督との間に絶対の信頼を向けることを示す『真名』を交わすことなのだ。

 

 つまり、艦娘に『真名』を聞いたり教えたりすることは、その子にプロポーズをしていることと同義なのだとか。そして、そこで『真名』を、提督の場合は本名を伝えるのは、プロポーズを受ける事になるらしい。

 

 

 ……いや、何でこんなこと知らなかったの俺。めちゃくちゃ重要事項じゃねぇか。

 

 

「因みに、『ケッコン』後は互いを『真名』、もしくは本名で呼び合うのが普通だったりします。これは他の艦娘に『ケッコン』していると言う事実をそれとなく伝えるためです」

 

 最後にサラリとすごいことを囁いた遥南。さっき、間宮が狼狽えていたのはこれが原因だったって訳か。

 

「そっか、ありがとう」

 

「いえ……大丈夫です」

 

 長々と説明してくれた遥南――いや、榛名か。ともかく彼女にお礼を述べると、彼女は苦笑いを浮かべていた。肩を竦めている辺り、よほど俺が『真名』の意味を知らなかったことがショックだったのだろう。

 

 当たり前か、俺は『真名』の意味を知らずに本名を伝える、つまり榛名のプロポーズを受けちまったわけだ。これは互いのすれ違いが産み出した状況であり、俺にその意志が無かったことを表している。ある意味、この状況を抜け出せる糸口を見つけたことになるからなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

「まぁ、別に良いんですけどね」

 

 え、なんて? って問い掛ける前に榛名が再び両手首を拘束して顔を近づけてくる。待て!! この話は互いのすれ違いで終わったハズだろ!!

 

「うぉい!! 今回はお前の勘違いだって分かっただろうが!!」

 

「そんなもの、後回しで構いません!! 楓さんとの絆を育めばどうとでもなりますから!! 今は『絆』と言う種を芽吹かせることが大事なんです!!」

 

 艦娘にとって『真名』の重要性を話した後になんてこと言いやがる!! さっきまでのしんみりとした雰囲気を返せ!!

 

 

 榛名の暴挙に抵抗しようといた時、何かを思いっきり叩き付けた様な凄まじい音が鼓膜を叩いた。突然のことに俺や榛名は動きを止め、同時に音の方を向く。

 

 

 

 

「お楽しみ中のところ悪いんだけど、ちょ~っといいかしらぁ?」

 

 そんな甘ったるい声色で問いかけてきたのは、完璧な笑顔を浮かべて扉の前で仁王立ちしている曙。いや、完璧な笑顔なんだけど、その後ろに般若っぽいモノが見えたのは気のせいかな?

 

 そしてよく見ると、彼女の足元のカーペットに靴底の痕がくっきりと見える。恐らく、曙がその場で足を振り下ろした際に出来た痕だろう。さっきの音もその時のものと思われる。そんな明らかにご機嫌斜めな曙に、榛名は何事もなかったかのように涼しい顔を向けた。

 

 

「曙ちゃん、どうかしたの?」

 

「いやぁね? 吹雪にそこのクソ提督を探してほしいって頼まれたのよ。何処かの誰かさんに執務室(・・・)に行くよう言われたらしいけど、一向に来ないからってね。そして見つけたらこの光景よ。地団太も踏みたくなるわよね?」

 

 榛名の問いに曙は柔和な口調で応えるも、やはり言葉の節々に棘、と言うか黒い何かを感じる。てか、何処かの誰かさんに執務室に行くよう言われたってのは……。

 

 

「榛名―――」

 

「今日は来客が多くて大変ですね~。『初夜』はまた今度にしましょうか」

 

 俺がジト目を向けるよりも前に立ち上がった榛名は散らばっていた衣類を素早く回収して、そそくさと出て行こうとする。しかし、その前に曙が立ち塞がった。

 

「待ちなさい、『初夜』ってどういう意味よ」

 

「文字通りの意味ですよ? 榛名と提督はそう言う関係です」

 

「違う!!」

 

 榛名の爆弾発言にすぐさま反論するも、当の曙は般若を従えた視線を榛名から俺へと移す。明らかに疑っているな。でも、俺と榛名には何もないぞ!! それを証明する何かを見せないと……。と、そんなことを考えていると、不意に榛名が曙にズイッと近づき、その耳元で何かを囁いた。

 

 

 

「ッ!? ば、バカなこ―――」

 

「では、失礼しますね~」

 

 榛名が囁いた瞬間、曙が弾かれた様に後ろに飛び退き、悪態をつこうとする。そこに出来た一瞬の隙を突いて、榛名は曙の脇をすり抜けて廊下に躍り出た。彼女はすぐさま捕まえようとする曙の手を余裕の笑みで躱すと、手をヒラヒラとさせながら歩いて行ってしまった。

 

 残されたのは突然のことについていけてない俺と、真っ赤な顔で榛名が消えた廊下を睨み付ける曙。やがて、廊下に向けられていた視線が動き、俺に注がれる。

 

 

「違う!!」

 

「まだ何も言ってないんだけど」

 

 向けられた視線の鋭さに思わず叫んでしまった。いや、確かに何も言ってないけど目が語ってるんだもの。『本当に榛名とは何もないんだろうね?』って。取り敢えずここで変に目を逸らすと疑われかねないから逸らさないでおく。

 

 

「……まぁいいわ」

 

 俺と曙の無言の見つめ合いは、そう言って視線を逸らした曙によって終わりを告げた。何とか、信じてもらったみたいだな。

 

 

「で、榛名さんとは本当にそう言う仲じゃないのね?」

 

 と思ったら払拭できていなかったようだ。くそ、榛名のヤツ……とんでもない爆弾を投下していきやがって。

 

「あれは榛名の勘違いだ。そんな仲じゃねぇよ」

 

「そ、そう……」

 

 改めて否定すると、曙はそう呟いてプイッと視線を逸らしてしまう。あれ、さっきまで背後に般若を従えていたあの勢いは何処に行ったんだ? それに心なしか顔が赤い気が。

 

「顔赤いぞ? どうした?」

 

「え!? い、いや、その……さ、さっきのことなんだけど……」

 

 俺の問いに明らかに狼狽える曙。さっきのこと? はて、何かあった……。

 

 

 

 

 

 

 ―――――「曙、お前の真名ってなんだ?」――――――

 

 

 頭の中にこの言葉が浮かんだ瞬間、俺の前身と言う全身から血の気が引いた。

 

 そう言えばついさっき曙に『真名』を聞いたんだった。それってつまり曙にプロポーズしたってことじゃねぇか!! ヤベェよ!! 色々とヤバい!! 何んとなく思い付きで聞いちまったからそんな深いことまで考えてねぇよ!!

 

 てか、これって倫理的にもヤバい!! 曙みたいな子供にプロポーズとかヤバいだろ!! 確実に憲兵にしょっ引かれる!! 俺はロリコンじゃねぇ!!

 

「え、えっと……その……」

 

 頭の中で憲兵の魔の手から逃れる方法を模索している前で、曙は身体をモジモジトさせながら視線を泳がせている。

 

 てか、これって曙さんに素直に言えばいいのか? 俺が無知でした、そう言う意味で言ったわけではありません、って。そうすれば曙に他意が無くて純粋に名前を聞いただけだってことも伝わるし、曙の証言で憲兵にしょっ引かれることもない。これだ、これしかねぇ!!

 

 

 

「わ、私の真―――」

 

「すいませんでしたァァァァ!!!!!」

 

 

 意を決した様な曙の言葉を遮るために吠える様に声を上げ、その場に土下座する。

 

 

「あの時調子乗って真名を聞いたんだけど、実はその意味を知らなかったんだ!! ただ、純粋に『曙』以外の名前が無いのかって思っただけで、決してプロポーズとかが目的で聞いたわけじゃないから!! 曙をからかおうなんてことも考えてない!! でも、今回の行動は軽率、お前の提督として有るまじき行動だった。本当に申し訳ない!! もし、これで嫌な想いをしたなら謝る、提督とかそんなの関係なしに全力で謝る!! 今、俺はどんな暴言だって受け入れる覚悟だ!! 今ここで気の済むまで暴言や罵倒を吐いてくれてもいい!! だから、本当に何も他意はなかったんだ!! 信じてくれ!!」

 

 

 口に任せてそこまで言い切って、俺は額をカーペットにこれでもかと擦り付けながら曙に頭を下げる。頭を下げる俺の頭上では息を呑むのが聞こえ、しばし無言が続いた。

 

 そして、次に聞こえたのは呆れた様な溜め息であった。

 

 

「……分かった、信じる」

 

「ほ、本と―――」

 

「顔上げたら許さないわよ」

 

 曙の言葉思わず顔を上げそうになるも、次に降り注いだ冷え切った言葉にすぐさま額を床に擦り付ける作業に戻る。そんな俺の姿を見てか、またもや頭上からため息が聞こえた。

 

 

「一つ、約束よ。今後、こういう軽はずみな言動はしないこと。分かった?」

 

 何処か疲れた様な声色の曙。今回の件で、大分考えさせてしまったか。今後、気を付けないと。

 

 

「あぁ、分かった……ありがとうな」

 

「べ、別に良いわよ……たいしたことでもないし。私が出るまで顔上げちゃダメだからね」

 

 俺の言葉に口ごもった曙の声が聞こえ、それはカーペットを踏みしめる足音に変わる。多分曙が部屋から出て行こうとしているのだろうが、出るまで顔を上げるなって言われている手前それを確認することはできない。

 

 

「あ、曙ちゃん?」

 

「ふ、吹雪!?」

 

 突然聞こえた第三者、と言うか吹雪の登場に思わず顔を上げそうになるも、曙の言葉を思い出して何とか堪える。吹雪の声色から察するに、ドアの陰にでも隠れていたのだろうか?

 

「い、いつからそこに……」

 

「えっと、曙ちゃんが顔を上げるなって言ったところから……と言うか大丈夫? 顔、耳まで真っ赤だよ?」

 

「ッ!? だ、大丈夫よ!!」

 

 吹雪の指摘に曙の叫び声、そしてドタドタと走っていく足音。それはどんどん遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 

「あの、司令官?」

 

「曙は行ったか?」

 

「あ、はい。大丈夫ですよ」

 

 吹雪の言葉を受けて、俺はようやく顔を上げる。そこには苦笑いを浮かべている吹雪だけで、曙の姿は何処にもなかった。やはり走っていったのは曙だったか。

 

「えっと、何があったんですか?」

 

「俺の軽率な行動で曙に迷惑をかけちまってな。頭下げてたんだよ」

 

「……司令官が艦娘相手に頭を下げるなんて聞いたことないですよ」

 

 俺の言葉に苦笑いを浮かべながらそう呟く吹雪。いや、上官だろうとも非があることは謝るのが筋だろう。まぁ、目的は曙の誤解を解くためと憲兵にしょっ引かれた時の対策だけどよ。

 

「それよりも、俺を探して走り回っていたんだっけ? 手間かけさせて悪かったな」

 

「いえ、いきなり訪ねたのは私の方ですし」

 

 苦笑いを浮かべてそう言った吹雪は、すぐさま表情を引き締めて背筋を伸ばし、足を揃えて直立して軍人らしくビシッとした敬礼をする。

 

「特Ⅰ型駆逐艦、吹雪型1番艦の吹雪です。今回、司令官にお話があり、訪ねさせていただきました」

 

「あぁ、榛名と曙から聞いている。まぁ、その内の一人にかどわかされたけどな」

 

 俺の言葉に敬礼しながらも表情を崩す吹雪。しかし、すぐさま表情を引き締めて俺を見つめ返した。冗談を言ってる余裕はないってことか。

 

「で、話ってなんだ?」

 

 そんなピリッとした空気を感じて表情を引き締めた俺が問いかける。吹雪は俺の問いを受けて一つ深呼吸し、意を決した様に口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「現在、秘書艦兼提督代理を務めている金剛型戦艦1番艦、金剛。彼女を、その座から引きずり降ろしていただきたいのです」

 



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旗艦の『苦悩』

「ん……」

 

 目に強い光が照らす不愉快さを覚え、私はゆっくりと目を開いた。

 

 強い光の中にボンヤリと見えたのは少し染みが付いた布で覆われた四角いモノ――――2段ベッドの上段にあるマットレスだ。未だ冴えてない頭を振って、窓から降り注ぐ朝日に目を向ける。

 

 まだ太陽が山裾にある。夜が明けて間もないのか、小鳥のさえずりもそこまで聞こえてこない。それ以外に音は無く、まだみんな寝静まった時間帯だ。なんでこんな時間に起きちゃったのかな。

 

 そんなことを思いながら、私――――伊168、イムヤは上体を起こし、両手をゆっくり上げて伸びをする。ボサボサの赤髪が顔にかかるが、未だにぼーっとしている頭には括ろうと言う選択肢は浮かんでこなかった。

 

 

 ようやく血が巡ってきたことで徐々に覚醒していく脳に、真っ先に浮かんだのは昨日の一幕だ。

 

 

 昨日、資材確保のために幾度となく駆り出されたオリョクル――――オリョールクルージングの合間、食堂で『補給』を受けた時に出会った新しい提督。大本営から新たに提督が着任したのは聞いていたが、実際に会って話すのは初めてだ。しかも、開口一番に言われたのが『あの日』のことだったから、思わず睨み付けたんだっけ。

 

 

 あの日―――鎮守府に敵艦載機が襲撃して甚大な被害を被った時、私たちは鎮守府近海の哨戒任務に就いていた。

 

 

 私たち潜水艦は、常に水中に留まる且つそのまま移動できることで敵の索敵に引っかかりにくい、戦闘時に水中に潜ることで戦艦や空母の攻撃を受けない、『補給』や入渠時の燃料や弾薬の消費が著しく少ない等の特性を持つ艦娘。故に、私たちはその特性を生かした偵察や奇襲、製油所地帯沿岸やバシー島沖、東部オリョール海などの資材が手に入る海域での資材確保が主な役割だ。特にうちの鎮守府は資材が食料になるためにその重要性は高く、1日に幾度となく駆り出されている。

 

 ともかく、これだけのことを私と伊19、伊8、伊58―――イク、ハチ、ゴーヤの4人でほぼ毎日回してきたのだ。それがどれほどの負担になるのかは、簡単に想像できるわよね。まぁ、初代(あいつ)が居た頃はこれに罵声や暴力もあったから、それに比べれば幾分かはマシだと言えるか。笑えないけど。

 

 そんな激務の中の哨戒任務―――これは私たちに金剛さんが配慮してくれたモノで、午前中に哨戒任務があってそれが終わればその日の任務は終了、つまり午後は非番となる。これは鎮守府に所属する艦娘たちの中で唯一の非番を与えられたことになり、少なからず反感を買うかと思っていたのだがその声は聞いたことはなかった。

 

 まあ、どうせ陰で言われていたんだろうけどさ……。

 

 そんな貴重な休みがもらえる日。その日に、私たちは近海に侵入した敵空母を見落とすと言う失態をやらかし、それが甚大な被害を引き起こしたのだ。いや、正確には様々な要因が重なってこれほどの被害を出したって言えるかな。

 

 連日のオリョクルで疲労が溜まっていた、普段目撃されるはずのない敵空母がその日に限って鎮守府近海に入り込んでいた、練度向上のために主力艦隊が遠洋海域に出撃していた、合同演習の開催によって鎮守府にいる実質的な戦力が低下していた等々、ここまでの被害が出た要因はいくらでも挙げられる。

 

 それがただの言い訳(・・・)だってのは分かってる。一番初めのヤツなんて、まさに言い訳だ。

 

 それに、他の艦娘()たちからすればここまでの被害を出したのは『潜水艦たちが哨戒を怠った』ことが原因だって思うだろう。勿論、私たちが哨戒を怠ったことは事実で、ここまでの被害を出したのは他にも要因があったのも事実だ。でも、どれだけ理由を並べようが『私たちが哨戒を怠らなければ被害は無かった』って言われたらそれで終わりだもん。

 

 

 反論する余地もない。だって、それが『正解』なのだから。

 

 

 別にこのことを直接言われたわけではない。あの日以降、出会った子たちからは「お疲れさま」や「大変だったね」等の労いの言葉が殆どで、非難を受けたことは一度も無い。でも、昨日出撃の回数を減らそうとゴーヤが金剛さんに直談判したのを聞き入られなかったのを見るに、陰で色々と言われていることは間違いない。金剛さんは気を使って教えてくれなかったのかもしれないけど、隠さなくちゃいけないほどたくさん言われているのかなって思っちゃった。捻くれているのは自負してる。

 

 

 そんな心境の中で、司令官が言い渡してきた『罰』

 

 

 『明日の朝、食堂に集合』なんて良く分かんない内容ではあるけど、彼は『私たちに責任がある』とハッキリ言った、いや言ってくれた。責任があるって言う現実を突き付けられたことは辛かったけど、それが分かっている上で周りから何も言われない方が余計辛かったから、逆に有り難かった。

 

 

 それにこうも言った。『初代がお前らに課したことは、絶対にしない』と。

 

 

 その言葉が真実かどうかは分からない。もしかしたら人目もつかない食堂で伽を要求されるかもしれない、それよりももっと酷いことをやらされるかもしれない。でもあの時、司令官は私の目を真っ直ぐ見てそう言ってきた。その真っ直ぐさに気圧され、承諾してしまったのだ。

 

 今思っても、大分軽率だったと思う。食堂に集合する理由も濁されて教えてもらってないし、何より初めて出会ったのに開口一番でトラウマを抉ってくる男だ。艦隊の指揮を執る提督としては些か配慮に欠けてるし、話によるとあんまり優秀な人じゃないみたいだし。

 

 

 でも、あの時向けられた目は嘘をついているようには見えなかった。それにあんなに真っ直ぐ目を見て話してくれる人はそういない。だから、深く考えずに承諾してしまったのかもしれない。

 

 

 それに他の子達と違ってまだ眼中にないと言うか、思うところも無いし気を遣うこともないから楽ではあるか。特に他の潜水艦たちには……――――。

 

 

 

 

 

 

 その瞬間、言い知れぬ違和感を覚えた。

 

 先ほど、鳥のさえずり以外の音は無いと言った。しかし、ここには私の他にイク、ハチ、ゴーヤの3人が居る。つまり鳥のさえずりと共に3人の寝息、もしくはそれに近い音がする筈だ。

 

 もう一度耳を澄ましてみるも、やはり鳥のさえずり以外に音は無い。すぐさまベットから飛び出し、3人が寝ている筈であろうベットを確認する。

 

 

 しかし、どのベットももぬけの殻であった。

 

 それを見た瞬間、心臓が一際大きくドクンと音を立てる。同時に、あらん限りの力で拳を握りしめ、折れんばかりの力で歯を食いしばっていた。

 

「クソッ!!」

 

 そう吐き捨てた私は自分のベットに潜りこみ、いつもの水着を引っ張り出して手早く着替える。それが終わると髪を纏めるリボンを手にして部屋を飛び出した。

 

 誰も居ない薄暗く静かな廊下を全力で走る。同時にボサボサの髪を無理やりまとめてリボンで括った。微かに痛みを感じ、ブツブツと言う音が聞こえたが気にしない。

 

 明け方であるため周りは寝ている中でドタドタと大きな音を出して走るのは迷惑であることは分かっている。しかし、それに気を使っている余裕はない。今は、目的の場所に一秒でも早くたどり着くことしか考えられなかった。

 

 

 しずかな廊下を全力疾走で駆け抜けていると、目的の場所へと続く扉が見える。それを捉えた私は更にスピードを上げて扉に向かい、そのスピードのまま扉に手を掛けた。

 

 

 

 ダァン!! と言う大きな音がその場所――――食堂に響き渡る。

 

 

 扉の先にいた3人は揃ってこちらを振り向き、そしてその顔に影を落とした。

 

 

 1人は不服そうに、1人は申し訳なさそうに、1人は焦りながら他の2人を交互に目を向けている。反応は三者三様であったが、強いて言えば誰も私に目を向けようともしない。

 

 

 それが、無性に腹立たしかった。

 

 

「イムヤ?」

 

 そんな3人の中の2人を交互に見ていた1人―――――――ハチが苦笑いを浮かべてそう声をかけてくる。しかし、私はそれに応えることなくズンズンと歩を進め、申し訳なさそうに立っている1人――――――イクの目の前に立ち塞がった。

 

 

「何で起こしてくれなかったの?」

 

 怒気を孕んでいるのが自分でも分かった。顔に感じる熱の量、荒くなる息、固く握りしめた拳の震え。全てが全て、私の怒りをこれでもかと表していた。なのに、目の前のイクはこちらを一瞥もせず、何も言葉を発せず、ただ力なく笑みを零した。

 

 

 その瞬間、私の手は彼女のスク水の襟を握りしめていた。

 

 

それ(・・)が、寝坊した奴の態度でちか?」

 

 イクを引き寄せて怒鳴ろうとした時、横から冷たい声が聞こえる。イクからその声の方に目を向けると、先ほど不服そうな顔をしていた一人―――――ゴーヤが冷ややかな視線を向けてきていた。

 

「もう一度言う、『寝坊した』奴が取る態度でちか? あと、先に行ったのはゴーヤの判断でち。イクやハチを責めるのは筋違いでちよ」

 

 

 淡々とした口調で言葉を零すゴーヤ。『寝坊した』……ですって? 『寝坊させた』の間違いじゃないの?

 

 

 同じ部屋に居て、あんたたちは寝ていた私を置いて先に食堂に行った。一言も断りすら入れず、起こそうともせずに黙って行ったのだ。なのに『寝坊した』なんて……あんたたちが『寝坊』させたのと同じじゃないの。

 

 

「何で起こさなかったの?」

 

 そんな不満を胸に募らせ、イクの襟から手を離した私は鋭い視線をゴーヤに向ける。一瞬だけ目が合ったが、すぐさまゴーヤが視線を逸らして小馬鹿にするような笑みを浮かべて肩をすくめた。

 

「そりゃあ、気持ち良さそうに寝息を立てていたからでち」

 

「理由になってない!!」

 

 ゴーヤの発言に思わず怒鳴り声を上げる。しかし、ゴーヤはどこ吹く風と言った感じで聞き耳を持っていない。その態度にますます頭に血が昇った。

 

「私は潜水艦隊の旗艦、あんたたちのリーダーなのよ!! 私の指示の元に動く、何かあれば相談するのが普通でしょうが!? 何でそれが出来ないの!?」

 

「じゃあ、今日の件はゴーヤたちの誰かに相談して決めたことでちか?」

 

 喉を潰さんばかりに絞り出した私の言葉に、ゴーヤは呟くような大きさの声でそう言って私に鋭い視線を向けてくる。その言葉とその視線に思わず言い淀んででしまったが、頭の中ではそれに対する反論が浮かんでいた。

 

 確かに今日の件は私が返事をした。その場にいたイクやハチに相談もせず、だ。しかし、あれは『命令』、私たちは従う義務がある。他の艦娘からの『お願い』ならまだしも、上司である司令官からの『命令』を受けないわけにはいかない。

 

 それも、私は旗艦、そしてゴーヤたちは旗艦下にある部下だ。上司である司令官からの命令を受け、それを部下であるゴーヤに伝えて実行させる。何処に矛盾があるの?

 

「今日の件は『命令』よ。拒否権なんてないし、私たちはそれに従う義務がある。相談するまでもないわ。それに、それは私を『寝坊させる』理由にはならない」

 

「話をしようとしたゴーヤが馬鹿だったでち」

 

 私の言葉を遮る様にそう吐き捨てたゴーヤは私に向けていた身体を横に逸らし、わざとらしくため息を溢す。その後ろ姿を見て、私は腹の底で煮えたぎる怒りを抑え込むのに必死だった。

 

 

 ゴーヤはうちの艦隊でも問題児だ。常に私の指示を聞かず、独断で行動することが多い。昨日は特に酷く、オリョクルから帰投すると有無の言わせず金剛さんの元に向かい、オリョクルの負担軽減を訴えた。そしてそれが叶わぬと、今度はオリョクルで敵に無理な特攻をしかけ、自身を大破に追い込む被害を出したのだ。

 

 ハッキリ言って、ゴーヤが私に周りと相談云々を言う資格は無い。旗艦である私の指示に従わず、それを問いただしても自分に都合が悪くなると今の様に話を中断させるのだからなお性質が悪い。旗艦と言う立場でなければ、取っ組み合いの喧嘩をしているところだ。

 

 それほどまで、自分勝手で自己中心的な考えで、不満アリアリの態度を示すもそれを口に出すことはない。旗艦の立場から言わせてもらうと、本当に扱いにくいったらありゃしない。そんな艦娘だ。それはつまり、私を旗艦にしたくない、認めたくないってことよね?

 

 

 

 

「……じゃあ何? あんたは私を旗艦から引きずり下ろしたいわけね」

 

 

 そんな感情と葛藤していると、ポツリと私の口からそんな言葉が漏れた。その瞬間、視界の端で振り返るゴーヤが見えた

 

 

「そうなんでしょ? あたしが旗艦にいるのが不満なんでしょ? だから問題を起こして私を引きずり降ろそうって魂胆なんでしょ? 引きずり降ろしてその座に居座る、もしくは自分の都合のいいのに挿げ替えるってことね。なるほど、それならあんたの思い通りになるし、私なんかよりももっと都合のいいリーダーになるってわけか」

 

「止めるでち」

 

 私の言葉を遮る様に、今まで聞いたことのない低いゴーヤの声。その温度は冷ややかで、それは私の言葉を断ち切らせようとしている意図を感じた。しかし、それで立ち止まるほど私の感情は穏やかではなかった。

 

 

「元々、私を旗艦なんて認めてないんでしょ? そうよね、そりゃそうだわ。だって、私はあんたたちの苦しみを味わってないんだもん。この艦隊の中で一人だけそれを経験してないんだもん。そりゃ、その時からずっと旗艦を務める私を恨まないわけないもんね。むしろ、私の存在自体(・・・・)が負担や妬み、苦しみになっていたんでしょうね。そうなんでしょ? 私の身代わりにされ―――」

 

 

「止めるでち!!」

 

 

 私に言葉をかき消す様な怒号を発したゴーヤはいつの間に私の前に居て、スク水の襟を掴んで締め上げてきた。喉を締め付けられ顔をしかめると同時にゴーヤは限界まで目を見開き、血が出るのではないかと思うほど唇を噛み締めた――――憤怒の表情をした顔をズイッと近づけてくる。それを見て、私は思わず目を見開いた。

 

 

 限界まで見開かれたゴーヤに瞳が、何故か潤んでいたからだ。

 

 

 

「お前は―――」

 

「何してる?」

 

 

 不意に飛んできた声。それに私とゴーヤは同時に声の方を向いた。

 

 

 そこには、昨日初めて出会い、トラウマを抉り、そして今日ここに来るように命令した司令官が居た。

 

 

 しかしその風貌は異様で、白い軍服の上着を脱いで腰の辺りに巻き付け、シャツの襟を肘の上あたりまで捲り上げている。そして何より、自身の視界を塞ぐほどに積み上がった段ボールを抱えていたのだ。

 

 

「何でもないでち」

 

 そんな異様な風貌の司令官にゴーヤはそれだけ言うと振り払う様に私の襟を離して彼に近付き、積み上がった段ボールの1つを抱える。そのままこちらを一瞥することなく小走りで食堂の奥にある厨房へと走っていった。

 

「イクも行くのー」

 

「ハチも」

 

 その姿を一言も発せずに見つめていると、そんな声と共にいつの間にか横に居たイクやハチが司令官に近付き、同じように段ボールを抱えて厨房へと走っていった。その姿を見つめていると、ふとこちらを一瞥したイクと目が合う。

 

 

 イクは私と目が合うとあの笑みを溢し、すぐさま踵を返して逃げる様に厨房へと消えて行った。

 

 

「どうした?」

 

 再び聞こえた司令官の声、彼はいつの間にか近づいて段ボールを抱えてこちらを覗き込んでいた。その真っ直ぐな視線に、私は思わず視線を逸らした。

 

 

 彼はこの問題に関係ない。これは私たちの問題だ、ここで彼を巻き込んで下手に話を拗れさせるのは後々面倒になる。ゴーヤやイクたちも、そう読んだに違いない。なら、私もそれに続くしかないわ。

 

 

「ごめんなさい、集合時間に間に合わなくて……」

 

 ゴーヤにハメられたとしても、私が寝坊で遅れてきたのは事実。そして話を逸らすことも出来る。自分から傷を抉るようなものだけど、命令違反は命令違反だ。罰を受ける義務はある。故に自分から謝った。

 

 

「そこまで遅くないから気にしねぇよ。それに、俺も『朝、集合』とは言ったけど具体的な時間を言い忘れてたし、それで何時に集まればいいか分からないって言われたしな。ここはお互い様ってことで、な?」

 

 私の言葉に苦笑いを浮かべ司令官は頭を下げた。その言葉に、私は思わず彼を凝視してしまった。

 

 

 今まで何かしらにつけて罵声や暴力を浴びせられていた。それが、気にしていないと言ってからむしろ自分が悪かったと頭を下げられたのだ。同じ立場の人間から受けたモノとの天と地ほどの違いに、反応出来なかった。

 

 

「大丈夫か?」

 

 再び覗き込みながら、今度は心配そうな表情を浮かべている。その表情もまた、今まで向けられたことのないモノだった。

 

「あ、え、う――」

 

「ならいいけど……とりあえずこれ運んでくれ」

 

 その言葉に数秒遅れて言葉にならない声を上げる。それを受けた司令官は心配そうな表情のままそう言い、抱えていた段ボールの1つを渡してくる。

 

 それを受け取った瞬間、ズシリした重みが身体にかかり、同時に鼻をくすぐる土の香り。匂いや味がしない資材ばかりの生活ではまず感じられないそれに、思わず眉を潜めた。

 

 

 抱えた段ボールの蓋を顎で開けて中を確認する。そこには土にまみれた握り拳大のゴツゴツした黄土色の塊がギッシリ詰まっていた。

 

 その物体は何なのか……いや、知っている。知識としても頭にあるし、何よりだいぶ昔―――艦艇になる前の頃からよく知っていたからだ。

 

 

「これ、ジャガイモ?」

 

「そう、こっちはタマネギだ」

 

 ポツリと呟いた言葉に司令官は自慢げにそう言って自分が抱えている段ボールの中身を見せる。そこには、ジャガイモ同様土にまみれた赤茶色の球根の形をしたモノ、タマネギがギッシリ詰まっていた。

 

 でも、何で野菜がここにあるの? 私たち艦娘は資材があればそんなもの必要ないし、人間である司令官だけのものと考えても手に余るだろう。

 

 明らかに、一人ではない大多数を対象とした量だ。しかし、司令官以外にこれを必要とするモノが思い浮かばなかった。

 

 

「これだけの量、司令官が食べるの?」

 

「いや無理言うなよ。一応俺の分も入ってはいるが、ほとんどはお前たちの分だ」

 

 

 

 今、何て言った? 『お前たち』の分? それってつまり……。

 

 

「そうだ。これは、お前たちの『食事』だよ」 



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司令官の『口車』

「私たちの食事って、一体どういう……」

 

「ほら、さっさと行くぞ」

 

 そう言葉を漏らすのは私を他所に、司令官はそう言って厨房へと歩き出した。数秒遅れて、私も手に持つ段ボールを抱えて彼の後を追った。

 

 司令官の背中にくっついて厨房に進んでいると、ふと視界の端に机に身を預けている艦娘が見えた。顔を反対側に向けているためその表情は見えないが、握り拳で軽く机を叩きながらブツブツと小さな声で呟いているのを見るに、ご機嫌斜め、と言ったところか。

 

「ねぇ、司令官」

 

「ほっといて大丈夫だ。それにアイツには他にやってもらいたいことがある」 

 

 私の言葉に司令官は疲れた様な声で返してきた。すると、その言葉を聞いた件の艦娘は顔をこちらに向け、不満そうに顔を歪めながら司令官を見つめ始める。しかし、それに彼は特に反応することなくまた歩き出したので、私も彼と彼を睨み付ける艦娘を交互に見ながらその後を追った。

 

 

 司令官の後に続いて足を踏み入れた厨房には、数人の先客が慌ただしく走り回っていた。

 

 

「吹雪ちゃん、その段ボールはそっちに……曙ちゃんのはあっちに置いておいて。イクちゃんたちはそっちの段ボールの中にあるお野菜を洗ってちょうだい。榛名さん、イクちゃんたちの近くにざるとボウルを。それから――――」

 

 そう早口に指示を飛ばすのはいつもの割烹着を翻す間宮さん。

 

 その指示に従って、山の様に積まれた段ボールを慌ただしくあちこちに運ぶセーラー服の艦娘――――吹雪と曙。

 

 大きめのボウルやざる、食器類を抱えてイクの周りや吹雪ちゃんたちが運んだ段ボールの横に置いていく露出度の高い和服に独特のカチューシャを付けた艦娘―――榛名さん。

 

 吹雪ちゃんたちが運んだ段ボールから中身を取り出して水で土汚れを落とす潜水艦――――イクにハチ、そしてゴーヤ。

 

 

 いつも『補給』を――――燃料で満たされた深めの皿と、弾薬、ボーキサイトが乗った皿をもらうだけだった厨房。それだけの場所だったのが、今では大量の段ボールやざるやボウル、包丁やまな板などの調理器具、そしてそれらの間を縫う様に走り回る間宮たち。

 

 

 私が見てきた中で、これほどまでに厨房が慌ただしかったのは初めてだった。

 

 

「間宮ー、これ何処に置けばいい?」

 

「あ、提督さんのはこちらに、イムヤちゃんのはイクちゃんたちの近くです。そしてイムヤちゃんは榛名さんのお手伝いをお願い。提督、少々お話がありますのでこちらに……」

 

「OK、分かった」

 

 司令官の声に間宮さんは迅速に指示を出す。それに従って私たちは段ボールを置き、司令官は間宮さんの元に、私は榛名さんの後を追って厨房の奥に向かう。

 

 調理器具がある奥の部屋、そこでこれでもかと言うほど大量のざるとボウル、まな板を両手いっぱいに抱える榛名さんがいた。彼女は私の顔を見て、ニッコリと微笑んでくる。あれだけのモノを抱えながら顔色一つ変えないとは流石戦艦、と言いたいところだけど無理をさせるわけにはいかないよね。

 

「榛名さん、手伝いますから半分ください」

 

「いえ、榛名は大丈夫です。イムヤちゃんはそっちの箱に入っている刃物系を、危険ですからそれだけ持っていって下さい」

 

 そう言われて榛名さんは視線で傍の机に置かれた箱を指す。そこには様々な大きさの包丁、皮むき器、おろし金などが入っている。量としては大したことは無いが、万が一取り落した場合が怖い。

 

「分かりました」

 

 そう言って箱を持って厨房に向かう。間宮さんは司令官と話し込んでいるため何処に置くかの指示をもらえなかったから、近くの机にそれを置いて素早く榛名さんの元に走った。

 

 そこには決して広くはない道を通ろうと苦戦している榛名さんが。その姿を見て、彼女の脇に近付いてその脇に抱えられたボウルたちを掴み、彼女の手からゆっくりと引っ張った。彼女は一瞬驚いた顔をしたもののすぐに苦笑いを浮かべて頭を下げ、抱えていたボウルを渡してくれた。

 

 手渡されたボウルを抱え直す。それと一緒に反対側に抱えていたまな板を抱え直した榛名さんを待って、二人一緒に厨房へと向かい、各所にボウルとざる、まな板を一セットずつ置いていく。

 

 と言うか、何で榛名さんがここにいるのかしら? 吹雪や曙、さっき机で不貞腐れていたあの子もそうだけど。呼ばれたのは私たちだけじゃないのかしら。

 

 

「そう言えば、何で榛名さんたちはここにいるんですか? 司令官からは私たち潜水艦しか呼ばれてないと思うんですけど」

 

「昨日、部屋に来た吹雪ちゃんに頼まれたんですよ。曙ちゃんも同じだと思います。雪風ちゃんに関しては……まぁいつも提督と一緒に居ますからねぇ」

 

 私の問いにそう答えながら、榛名さんは厨房と食堂とを繋ぐカウンターに、その先で不貞腐れている艦娘――――雪風に目を向けた。目を向けられている雪風は机に身を預けてピクリとも動かない。多分、さっきみたいにブツブツと何かつぶやいているのだろう。

 

 いつもの天真爛漫な笑顔と元気ハツラツとした物腰からは想像出来ないほどの意気消沈っぷりである。

 

 雪風とは長い付き合いだけど、いつもニコニコ笑っていて何を考えているか分からないから割と苦手な部類でもある。そんな子が、ここまで感情を露わにするのも珍しいことだ。まぁ、さっきのやり取りからして、この原因は司令官で間違いないと思うんだけど。

 

 

「あの子があんな状態なのは?」

 

「何でも、厨房を黄色に染めたとか何とかで出入りを禁止されたらしいです。それでもお手伝いがしたい、と言うことで昨日の夜に厨房に入れるよう提督と間宮さんに直談判したんですけど、二人……と言うか提督が頑なに突っぱねたらしくて。それで夜遅くまで議論を交わしていたようです。そして今日の朝、無理矢理厨房に押し入ろうとしたところを提督に見つかって長いお説教を受けたとか。それからずっとあの状態ですね」

 

「押し入ろうとしたって……」

 

 苦笑いを浮かべながらご立腹状態の原因を離してくれる榛名さん。と言うか、押し入ろうとしたって物騒な物言いだけど、あの子ならやりかねないって思ったら負けかな。

 

 

「皆、一旦手を止めてくれ」

 

 そんなことを思っていると、横からそんな言葉と共に手を叩く音が聞こえ、その方を見ると間宮さんを従えた司令官が立っていた。その言葉に、私を含めてその場にいた殆どの艦娘は手の止めて彼に視線を向ける。

 

 

 一人を除いて。

 

 

「……おーい、雪風ぇー?」

 

 遠くを見る様に手の平を目の上にかざして、司令官は声をかける。その視線の先で尚も机に身を預けている雪風は、その声に反応することは無い。顔をこちらに向けず、ただ黙っているだけであった。その姿に、司令官はため息を漏らしてその場から動こうとする。

 

 

「あ、私が見てきます」

 

 そう名乗りを上げたのは先ほどまで段ボールを運んでいた吹雪だ。吹雪は司令官の返答を聞く前に動き出しており、彼が手を伸ばしたときには厨房から食堂へと続く道を抜けていた。もう、彼女に任せた方がいいと判断した提督は「すまない」と小さく言葉を零した。

 

 そんな吹雪が近づいていくが、雪風はピクリとも動かない。司令官の言葉に反応せず、頑なにこちらに顔を向けようとしない。相当にご機嫌斜めらしい。そんなに厨房に入れないのが悔しいのかしら?

 

「雪風ちゃん? そろそろ機嫌直し……」

 

 そう呟きながら雪風に近づく吹雪。しかし、その顔は雪風が顔を向ける方に回り込んだ瞬間、呆けた表情に変わった。その様子に何事かとみんなが身構える。当然その中に私も入っているわけで、目を鋭くさせて雪風を凝視した。

 

 頑なにこちらに向けられない顔はなおも動かず、机に預けられた上体はピクリとも動かな……あれ、何か背中の辺りが僅かに上下しているような。

 

 

 

 

 

「……寝ちゃってます」

 

「ゆきかぜはぁ……だいじょ~ぶ、れふぅ……」

 

 そう苦笑いを溢しながら、吹雪は人差し指を立てて口に当てる。それと同時に雪風が寝言を呟きながらもぞもぞと動きだし、やがて止まった。

 

 

 その結果、彼女は幸せそうな顔で涎を垂らしながら眠る寝顔を曝け出されることとなった。

 

 

「……寝かしとけ」

 

 そんな寝顔を見た司令官は今日一番のため息を吐いてそう言う。その言葉に吹雪は音を立てない様慎重に雪風の傍を離れ、ある程度距離を取ってから小走りで戻ってくる。そして、吹雪が戻って来たのを確認した司令官はコホン、と小さく咳ばらいをした。

 

「一人眠りこけちまってるが、まぁいいや。今日は陽の昇る前に集まってくれて本当にありがとう」

 

 その言葉に私を含め艦娘たちは即座に背筋を伸ばし、敬礼をする。その姿に彼は何故か苦笑いを溢すも、すぐに表情を引き締めて言葉を続けた。

 

 

「既に察している奴もいると思うが改めて……今日お前たちを呼んだのは、この鎮守府に所属する艦娘たちの『食事』を作るのを手伝って欲しいからだ」

 

 何処か上擦った声色の彼の言葉に艦娘たちがザワザワと騒ぐことは無かった。全員、察していたのだろう。しかし、その表情は各々違っていた。

 

 訝し気に顔を歪める者、心配そうに目を視線を他の艦娘に向ける者、無表情でただ司令官を見つめる者、満面の笑みを浮かべて小さく頷く者、口に手を当てて何か思案に明け暮れる者等。因みに、私は訝し気に顔を歪めていた。

 

「まぁ、食事を作るって言っても飲食店よろしく艦娘たちの注文を受けて作るわけじゃない。今回は彼女たちに今後の食堂のメニューとして扱うための試作品を食べてもらって、それを今後の食堂のメニューとして採用するかどうかを判断してもらう。所謂、メニュー開発のための試食会ってヤツだな」

 

 そこで言葉を切った司令官は傍の机に置かれた分厚い封筒からホッチキスで留められた複数枚の紙の束を取り出し、各自に手渡していく。それに目を通してみると、事細かに記された料理のレシピだった。

 

「これが、今から作ってもらう料理だ。作るのは全部間宮と俺で考えたから味は保証するし、比較的簡単なモノばかりだから誰でも作れる。調理で心配する必要はないハズだ。今日はこのレシピを使って調理を進める」

 

「ちょっ、ちょっと……いい?」

 

 司令官の言葉を遮ったのは、レシピを凝視して困惑した表情の曙であった。彼女はレシピから視線を外して司令官に向け、指でレシピの下の方を指さしながらこう言った。

 

 

「これ……本当に出来るの?」

 

「あぁ、問題ないのは確認済みだ」

 

 曙の問いに司令官は素っ気無く応えた。それを受けた曙は首を傾げながらも、自分に言い聞かせるように何度も頷いて引き下がった。何をそんなに気になったのか、私も曙が指した場所に目を向ける。

 

 

 

 そこは今から作るであろう料理で用いる材料が羅列しており、その一番下に普通の料理なら絶対に存在しない言葉―――――『ボーキサイト』が書かれていた。

 

 その言葉を見た瞬間、すぐさま別のレシピを見る。次のレシピには、『弾薬』が、次には『燃料』が、次の奴には『ボーキサイト』が。手早く確認しただけでも、全てのレシピに何らかの資材が材料として書かれていた。

 

 

「すまん、それに関しては間宮にも突っ込まれたが、改めて弁解させてくれ。お前たちは今まで、長い奴は着任してから昨日まで資材だけを口にしてきた。そこに、いきなり普通の食事を食べてみろ。軽自動車にガソリンではなく軽油を入れたら壊れる、それと同じでお前たちに何か体調に変化が起きるかも、最悪倒れるかもしれない。それを防ぐために、いつも口にしている資材を料理に入れて、少しでもそのリスクを抑えようと思ったんだ」

 

 司令官は何故か早口でそう説明してきた。何故早口なのかは引っかかるが、まぁ確かに言われてしまえばそうかもしれないかな。

 

 

 先の大戦よりも更に昔、まだこの国が一つにまとまっていない時代。

 

 

 かつての勢いを失い敵方の攻勢に圧されていたある勢力が、堪らず味方の城に逃げ込んで守りを固めて籠城戦を仕掛けた時のことだ。

 

 敵方は勢いに乗って城へ攻め寄せるが、城を攻め落とすには相手の3倍の兵力が必要であるとされる攻城戦で思う様に攻め切れずに悪戯に被害を出す。そこで、敵方は一寸の隙間もないほどの堅固な包囲陣を敷き城内から外へと続く全ての道を閉ざした。城内へ運び込まれる物資を止め、城内方の士気低下を狙ったのだ。

 

 所謂、兵糧攻めと言うヤツだ。

 

 敵の徹底した兵糧攻めに城方は日を追うごとに士気が低下していき、やがて城内で暴動が起き始める様になると堪らず敵方に降伏、開城に至った。

 

 敵方は降伏した城方の人間に食べ物を振る舞った。その心遣いに城方は感激、または極限の飢餓状態のために形振り構わずそれを大量に食べた。しかし、食べた殆どの人間が食べている途中で死んでしまったのだ。

 

 死因は大量の食べ物を体内に入れたことで身体に過剰反応が起き、それに耐えきれずに死んでしまったのだとか。つまるところ、極限の飢餓状態で大量の食べ物を食べるとショック死してしまうと言うことだ。

 

 そして、私たち艦娘たちはここに着任してから今まで資材しか口にしてこなかった。それは今の今まで食べ物を一切口にしていないということ、つまり普通の食べ物に関してだけ言えば極限の飢餓状態と言える。そんな中で食べ物を食べた際、身体にどんな悪影響が起こるか分からない。

 

 だから、今まで口にしてきた資材を料理に加え、少しでもそのリスクを下げようと言うことか。

 

 

 

「私が食べたカレー、あれ資材なんか入ってないでしょ? それで私は何も起きなかったわよ?」

 

 しかし、それに切り返したのは先ほど自ら納得させようとした曙であった。

 

「そ、それはあれだ。偶々、曙に異常が起きなかっただけかもしれないだろ。俺は、少しでもそれが起きるリスクを減らしたいんだよ」

 

「私よりも遥かに食べている雪風はどうなるの? そんな様子、見たことないわよ?」

 

「それこそ、幸運の女神の加護ってヤツじゃないのか?」

 

 曙の切り返しに司令官はそう返す。しかし、その口調は先ほどよりもハキハキとしておらず、視線も何処かあらぬ方向を向いてる。

 

 

 何か隠している――――そんな印象を抱いた。

 

 

「クソ提督、あんた何隠し――――」

 

「まぁまぁ曙ちゃん。落ち着いてよ」

 

 その様子を見て更に目つきを鋭くさせた曙が司令官に詰め寄るよりも先に、その間に入って曙を制止させたのは吹雪で合った。突然間に割り込まれ、そして自分の行動を制止させようとする吹雪に鋭い視線を投げかける曙。しかし、それを受けても一向に満面の笑みを崩さない吹雪は、曙でも司令官でもない方向に指を向ける。

 

 

 その先には時計があり、時間は午前6時に差し掛かろうとしていた。

 

 

「みんなが集まってくるのは大体8時。それまでにこれだけのモノを作らないといけないんだよ? もう時間が無いから、早く始めちゃいましょう」

 

 吹雪はそう言い、曙の手首を掴んでグイグイと引っ張っていく。曙はその手から逃れようと足掻くも、ガッチリと掴まれているためかその手が離れることはなく、彼女は吹雪に無理やり引っ張っていかれた。

 

 

「よし、じゃあ始めよう。潜水艦たちは洗った野菜の皮むきを、榛名は吹雪たちと一緒に野菜を切ってくれ。間宮は各種鍋の準備を、俺は肉の下ごしらえだ」

 

 そんな二人の様子を見ていた一同に、司令官は手を叩きながらそう言った。その様子に殆どの艦娘たちは一瞬彼を見つめたが、吹雪の言葉通り時間がないことを念頭に置いて各々の持ち場へと向かった。

 

 

 私たち潜水艦は、先ほど途中で止まっていた汚れ落としと皮むきを二人ずつで分かれて作業することとなり、私とハチは皮むきを担当することとなった。

 

「ハチ、皮むきなんて初めてだよ……」

 

 大きなボウルの前に立って皮むき器を手にしたハチがそう呟く。その意味が、生まれて初めてなのか、艦娘になってからなのかは分からないが、まぁ、長い間やってこなかったことに代わりは無いわけだ。かく言う私だって艦娘となってからは初めてだし、まさかこの鎮守府で料理をするなんて思ってもみなかったな。

 

 

 でも、これから私たちが食べる料理に資材が含まれているってことは、結局は司令官も私たちのことを……。

 

 

 いつの間にか浮かんでいた言葉を振り払う様に頭を振る。そして、気を引き締めるために頬を強めに叩いた。

 

 考えるな、私たちは艦娘であり、これは司令官が下した私たちへの『罰』だ。上官である彼からの『命令』だ。それにいくら疑問を抱こうとも、私たちはそれを遂行させる義務がある。

 

 その言葉を噛み締め、私は手に持ったジャガイモに皮むき器を押し当てた。



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司令官の『我が儘』

「これで終わりっと」

 

 そう言って、私は一息つくために手首を掴んで左右に揺れるように大きく伸びをする。肩や背中周りの筋肉を十分に伸ばし、ポキポキと言う軽快な音が鳴らなくなるまでそれを続け、一気に脱力する。

 

 こうすると使う使わないに限らず肩や背中周り全ての筋肉や関節を解すことが出来る。毎日のように資材取集で身体を酷使しているため、こういう体操やストレッチは慣れたモノだ。まぁ、今回はオリョクルでも出撃でもないんだけどさ。

 

 

 そんなことをぼやく私の前には、ボウルの中で小山のように鎮座している粗めに潰れたジャガイモ。大体10分ぐらい、ひたすらゆで上がったジャガイモをマッシャーで潰した成果だ。

 

 

 司令官の号令によって始まった試食会に向けての調理。

 

 

 私たち潜水艦は、二手に分かれて野菜の水洗いとジャガイモの皮むきに始まり、人参、玉ねぎ、茄子、蓮根、牛蒡、アスパラガス等の皮をひたすら剥き、或る程度溜まったらそれを切る担当である吹雪たちの元に持っていく、これを野菜がなくなるまで何度も繰り返した。

 

 それが終わると、次は間宮さんから受け取った茹でたジャガイモをひたすらマッシャーで潰す作業、そして切る担当への応援を申し付けられた。私とハチはジャガイモを潰す作業を担当し、今の今までひたすらジャガイモを潰していたわけだ。量が量だったため、ここまでで大体一時間ぐらいかかったかしら。

 

 

「さ~て、続けますよぉ」

 

 同じように伸びをしていたハチは何処か気の抜けた声色でそう言い、再びマッシャーを手に取りジャガイモを潰し始めた。彼女も私と同じぐらい潰し終えているが、それでも作業を続けるには理由がある。

 

 潰す作業を申し付けられた際、司令官にジャガイモの形が残るモノと残らないモノの2種類を作って自分の所に持ってくるように言われた。それを受けて私たちは分担して作ることにしたのだが、彼女が形が残らない方をやると言いだしたのだ。私もそこまで拘りもなかったので了承し、私は形が残る方を、彼女は形が残らない方をやることとなった。

 

 しかし、やはり残らない分時間も労力も必要になるわけで、彼女よりも先に作業を終えてしまうと何処か申し訳ない気持ちが芽生えてくる。

 

「手伝おうか?」

 

「ううん、大丈夫」

 

 そんな罪悪感からハチに手助けを申し出るも、笑顔で断られてしまった。その言葉に何も言えない私を尻目に、ハチは鼻歌を歌いながらそれに合わせてジャガイモを潰していく。リズミカルにジャガイモを潰していくハチを見て、私は思わず口を開いた。

 

 

 

 

 

「楽しいの?」

 

「うん、と~っても」

 

 訝し気な私の言葉に、ハチは気の抜けた声で答えた。その際に向けられた顔には、ここ最近見られなかった満面の笑みが浮かんでいた。

 

 

「ここ最近……と言うか、配属されてから殆どオリョクル漬けの毎日だったからさ。金剛さんのおかげで非番を貰ってはいるけど、寝る以外に何をしたらいいのか分からなくて正直若干持て余していた所なんだよね。だから、久しぶりにいつもと違うことが出来て、ハチは楽しんだよぉ」

 

 笑顔でそう応えるハチの言葉に、私はボウル一杯のジャガイモ、そして所々潰れたジャガイモが付いているマッシャーに目を落とした。

 

 

 金剛さんから貰った非番の日、私はその時間を自室で休むか工廠に赴いて艤装の整備に費やしていた。最も、整備をするのは出撃の際に不具合を感じた時ぐらいで、殆どは自室で休んでいたんだけど。しかし寝付けない時もあるわけで、私の場合は外に出れば出撃を控えている艦娘に嫌味を言われるかもしれないと思いひたすらベットに寝転がってボーっとしていた。

 

 確かにあの眠るに眠れない時間は案外と辛い。贅沢な悩みだとは思うが必要ないと言うわけでもなく、一度眠ったら朝までなんてザラだ。何より他の艦娘は出撃していると考える分、罪悪感がのしかかってくる。私以外は部屋で休む他は外に出るのだが、やはり感じることは同じだったようで。そう言う時間をどう過ごすか苦心していたのだ。

 

 それにハチは無類の読書家である。ここに配属された時も両手いっぱいに本を抱えていたし、時間があれば何処からともなく本を取り出して読みふける、何処でも読書をする姿を指摘された際に「読書は大人の嗜みだよ?」と満面の笑みで相手を嗜めたほどだ。本の虫なんて可愛いもので、活字中毒ならぬ読書中毒と言っても良いだろう。

 

 しかし、それが初代に見つかった際『兵器が読書とは生意気だ』なんて理由で殴られて、持っていた本を全て没収されてしまったのだ。

 

 大好きな読書を、そして鎮守府に持ち込むほど大好きな本を奪われ、取り返そうとすれば怒鳴られ、殴られる。営倉に引っ張っていかれそうになったのを必死に止めた時の表情は忘れたくても忘れられない。初代が居なくなってから没収された本を探したのだけど処分されていたようで、その日以降彼女が本を手にすることは無かった。同時に彼女の笑顔も減った。

 

 そしてようやく手に入れた時間も、本が無ければ意味がない。これは彼女にとって死活問題だっただろう。

 

 

 そんなハチが『楽しい』と言って、笑顔を浮かべた。読書以外で、ここまでの笑顔を見せたのは少なくとも私の記憶にはない。むしろ、読書よりもいい笑顔かもしれない。

 

 

 

 

 

「イムヤも、楽しいでしょ?」

 

 その笑顔のまま、ハチはそう問いかけてくる。首を傾げて覗き込むように見つめてくるその顔に、私の口許は自然と綻んでいた。

 

「ま、暇つぶしにはちょうどいいかもね。じゃ、これ持っていくわ」

 

 そう言ってハチに笑いかけ、私はボウルを手に取って彼女の横を離れる。そして、私たちから少し離れた流し台に立つ司令官に目を向けた。

 

 

 司令官は額に汗を浮かべながらも真剣な顔つきで、胴体はあるであろう大きな肉の塊に包丁を入れている最中だ。その周りには大小様々な肉の塊、薄切りやブロック状などのカットされた精肉、そして所どころ肉片が残る骨が転がっている。肉の下ごしらえと言っていたが、傍から見れば肉の解体、成形に近い。そして彼がどれだけ肉を捌いたのか、付けている白い手袋やエプロンの染まり具合が物語っていた。

 

 そんな汗みずくになりながら作業をする司令官の元に、粗目に潰したジャガイモを持っていこうと足を踏み出した。

 

 

 

「イムヤさ~ん」

 

 その瞬間、背後から名前を呼ばれる。振り返ると、厨房と食堂を繋ぐカウンターに身を乗り出している雪風。先ほど涎を垂らしながら眠りこけていた駆逐艦様は、今度は性懲りもなく厨房にでも入り込もうとしているのかしら。

 

 

 

 なんて、冗談めいた言葉は口に出ることなく引っ込んだ。

 

「ちょっと、しれぇの様子を見てきてくれませんかぁ?」

 

 普段の彼女の口調とそう変わらない。だが、その表情は違う。いつも能天気にニコニコ浮かべている笑顔でも、不満げに眉を潜めて頬を膨らませる顔でも、涎を垂らしながら幸せそうに寝息を立てる寝顔でもない。

 

 

 

 

 

 

 真顔――――――何の感情も感じない、完璧な真顔。『無』表情と言ってもいいかもしれない。その顔で、じっと司令官を見つめているのだ。

 

 

 喜怒哀楽を感じない、まるでそれらの感情を欠落してしまったかのような表情。それでじっと司令官を、釘を刺されたかのように視線を動かさず、ただただ司令官を見続けてる。

 

 その表情を見た瞬間、私の背筋に冷たいモノが走った。

 

 

「雪風の勘違いかもしれないのですが、朝お説教を受けた時と今のしれぇの顔が違うんですよねぇ」

 

 固まっている私を尻目に、雪風はその表情のまま首を捻る。無表情のまま首をかしげるその姿は違和感しか感じられなかった。

 

 

「朝はスゴい自信満々だったのに、今は何処か思い詰めているような……迷っているような……そんな気がします。本当は雪風が行きたいのですが出入り禁止を言い渡されているので、代わりに行ってきてもらえませんか?」

 

「わ、分かったわ」

 

 雪風の言葉に、私は自分でも驚くほど上擦った声で了承した。背筋の冷たいモノはすでに消えたのだが、その感覚がいつまで経っても消えずに私の精神を締め付けてくる。それほどまでに、彼女の表情は異常だった。

 

 

 そんな雪風から逃げるように急ぎ足で司令官の元に向かう。その途中、雪風から少し離れた瞬間に両手に鋭い痛みを感じた。

 

 見ると、異様に紅潮した手とそこに深々と刻まれたボウルの淵の痕。恐らく、無意識のうちにボウルを握りしめてしまったのだろう。痛みを伴うほど握りしめたのに、それを忘れるほど雪風の表情が衝撃だったのだろうか。それを悟った時、無意識のうちに震えた。

 

 

 

「大丈夫か?」

 

 ふと、前から声が聞こえ、反射的に頭を上げると心配そうにこちらを覗き込んでくる司令官。彼と目が合った瞬間、一瞬頭の中が真っ白になった。しかし、すぐさま記憶の中から彼への用事を掘り起こす。

 

 

「何でもない。それより、潰し終わったから確認お願い」

 

 勘付かれないようなるべく平静を装ってそう言い、顔を隠す様に手に持ったボウルを司令官に突き付ける。いきなり突き付けられた司令官は「うぉ」っと声を出すも、何も言わずにボウルの中身をチェックし始めた。

 

 チェックしている司令官になるべく気付かれない様、ボウルの端から見えるその顔を観察してみる。

 

 目を細めてボウルの中身に目を走らせる司令官。そこに先ほど雪風が言っていた、思い詰めているような、迷っているような感じは無い。至って普通の表情だ。彼女の言葉通り、勘違いだろう。

 

 

「……俺の顔を見つめてどうした?」

 

 そんなことを思いながら見ていると、司令官がそう言って困惑した顔になる。って言うか、バレた!? あんなに視界に注意したのに……。ともかく何とか誤魔化さなくっちゃ。

 

「え、あ、その、な、何か司令官の顔がおかしいなぁって思って……」

 

 咄嗟に頭に浮かんだ言葉をよく考えもせずに口に出す。今、勘違いだろうと結論付けた言葉を思わず吐きだしてしまい、しまった、と心の中で舌打ちをする。しかし、その感情はすぐさま消え去った。

 

 

 

 目の前にある司令官の顔がガラリと変わったからだ。

 

 

 普通の表情が一瞬強張り、すぐさま取り繕ろう(・・・・・)と引きつったような笑みに変わり、やがてその笑みも消えて疲れたような表情になる。そして、その表情のまま力ない目を私に向けてきたのだ。そこで、私は感じた。

 

 

 

 

 『思い詰めているような』、『迷っているような』表情だ、と。

 

 

「聞いていいか?」

 

 ふと、呟くように発せられた司令官の声。私は目の前の人物の変わりように状況が掴み切れず、考える間もなく首を縦に振った。

 

 

「資材以外の食事を禁止された時、なんて言われたんだ?」

 

 司令官の口から発せられた言葉。一瞬、私はその言葉の意味が理解できなかった。しかし聞こえてはいたので、聞き取れたその言葉を自分の中で咀嚼していく。その意味を理解出来た時、私の胸は腹の底から湧き出てくる嫌悪感で一杯だった。

 

 

 彼……いや、司令官はまたもやトラウマを抉ってきたのだ。それも潜水艦だけでなく、鎮守府に居る全ての艦娘がトラウマであると答えるであろうその質問を。

 

 

「……何で教えなきゃいけないの?」

 

「教えたくないのは重々承知している。でも、どうしても聞いておきたいんだ」

 

 嫌悪感を微塵も隠さない私の問いかけに、司令官は申し訳なさそうに肩を竦めるも引き下がる様子はない。むしろ、言い終わるとこれが誠意だと言いたげに頭を下げてきた。下げる際に見えた彼の表情は、『不安』そのものだ。

 

 

 彼は分かった上で聞いているのか。その言葉の意味を、重みを、そして私たちが抱えている問題を。いや、分かっていない(・・・・・・・)からこそ、聞いているのか。

 

 

 今の私のように、ここの艦娘は初代の蛮行を話すことを嫌う。そして今までの噂や昨今の行動を見る限り、彼はこの鎮守府のことをそこまで把握していないだろう。せいぜいこんなことがあったようだ、みたいなことぐらいしか知らず、その時一体どんな言葉を投げつけられ、どんな仕打ちを受け、それで私たちがどんな感情を持った、なんてことまでは知らない筈だ。

 

 

 当たり前だ。それを知ってるのは艦娘(わたし)たちだけであり、それをつい先日着任したばかりの彼に話す筈がない。まして、トラウマを植え付けた初代、そしてその後着任する度に雲隠れした今までの司令官たちの後続なんかに、だ。

 

 

 しかも、司令官は着任翌日に入渠ドックに押し入ったと聞いた。それ以降も、雪風の弱みを握った、榛名さんに伽を強要した、そして金剛さんを脅迫した等々と、彼がここに着任してから様々な事件を起こしたことが、そこからあの男は大本営の命令で私たちを沈めに来た、大本営ではなく深海棲艦からのスパイだ、なんて根も葉もない噂が、そしてそれを鵜呑みにした潮が彼を砲撃し、曙の誤射で傷ついたことも聞いていた。

 

 それに、私たちは落ち込みも怒りもしなかった。どうせ今までと同様すぐに雲隠れするだろう、そう結論付けていた。期待なんて以ての外、落胆も絶望も、彼に噛み付いた潮のように憤怒するのも無駄。

 

 

 ただ新しい『人間』がやってきて、同じように勝手に消えるのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。

 

 

 しかし、彼は今、目の前で料理を――――艦娘たちの『食事』を作っている。いや、今目の前にある食材は全て彼が大本営に召集された際に取り付けた支援によるもの。更に、あまり思い出したくはないが演習時に襲撃された時も生身のまま戦場に飛び込み、文字通り最前線で負傷した艦娘たちの避難を買って出たらしい。

 

 そして何よりも、昨日初めて会った私の目を真っ直ぐ見て、初代が行った蛮行は絶対にしないと言い切ったこと。

 

 

 今まで周りから協力もされず、慣れ合いすらなく、むしろ今までの後続と言うだけの理由で目の敵にされながらも、彼はここまでのことをしたのだ。

 

 

 着任して間もない、更にどの艦娘からも歓迎されない。むしろ潮のように噛み付かれた、敵意を向けられたこともあるだろう。その理由を聞こうにも、ここの艦娘は誰も教えてくれない。ここがどのような状況であったのかを把握しても、彼が向き合わなければならないのはその状況の中で傷つき、心身ともにボロボロにされた艦娘たち。いくら状況を知ってもそれは外聞なわけで、そんな前提条件(・・・・)だけではあまり意味を成さない。

 

 

 彼が必要としているのは、その状況を過ごし、傷付き、打ちのめされ、絶望する気力すら失った艦娘たちの感情だ。

 

 

 それを手に入れるために、彼はこうして料理をしているのだろうか。いや、そうなのだろう。そうでなければ、誰一人協力者がいない状況でここまでのことをするハズがない。むしろ、ここまでやっている彼を見て見ぬフリをしている私たちは何なのだろか。

 

 今までの後続だから、なんて理由で彼を今までと同じだと勝手に決めつけ、協力は疎かロクに会話すらせず、同じ空間に居ることさえ避け続けている。彼の悪い話だけに焦点を当てて、彼がやってきてくれたことには目も暮れず、挙句の果てには根も葉もない噂を立て、それを理由に砲門を向ける始末。

 

 彼は司令官であり、艦娘を束ねる存在だ。私たちは彼に従う義務があるのに、私たちは従わない。明確な理由があるわけでもなく、ただ今までの奴らと同じだろう、と言う推測だけで従わないのだ。明確な理由もない理不尽を強いられながらもこちらを理解しようと手を伸ばす彼を、私たちは掴める距離にあるのにも関わらず掴もうとしない。

 

 そんなの、ただの我が儘だ。そして、そんな我が儘に振り回され、それを一人で耐えている司令官。彼は簡単には掴まれないと分かっていながらも、今も必死に手を伸ばし続けている。昨日会った私に限らず、1mmでも掴んでくれる可能性があるのなら、彼は全力で手を伸ばすだろう。

 

 

 そんなの、まるで私…………いや、私以上(・・)じゃないか。

 

 

 

「今後、こういうことは私以外の子に聞かないで。それが守れるのなら教える」

 

 絞り出すようにそう言葉を吐き出す。それに司令官はパッと顔を上げ、マジマジと私の顔を見つめてくる。

 

 見つめてくるその表情は歓喜でも悲壮でも困惑でも驚愕でもない、言ってしまえば今まであげた感情全てが混ざり合った、とでも言えよう。それほどまでに、彼は複雑な表情をしていた。その表情から目を逸らし、私は目を閉じて記憶を掘り起こしにかかる。

 

 司令官が求めた記憶は大分昔、ここに配属された当初の頃だ。しかし、記憶と言うモノは強い印象を受ける以外は段々と遡っていくことでしか思い出すことはなく、從って配属されてから今までの出来事を総ざらいしなくてはならない。故に、配属された頃にたどり着くまで思い出したくもない過去を見続けることになるのだ。まぁ、ぼやけている記憶もあるから全てを見ずに済むのは有り難いことかもしれない。

 

 

 そんなことを考えながら、記憶を遡り続けること少し。ようやく目的の記憶にたどり着いた。昔だったせいでぼんやりしているところがあるから、一つ一つゆっくり確認していこう。

 

 

「えっと、禁止された時……と言うか、私が配属された時は既に禁止されていたわね。確か、教えられたのは執務室で初めて司令官に挨拶をした時……だったかしら」

 

 頭の中で整理された記憶を繋ぎ合わせるように言葉を紡ぐ。朧げなところは前後の会話を元に再現しているため状況がちょっと違うかもしれないが、そこは気にしない。そして、初代が言い放った言葉を一つ一つ繋ぎ合わせていく。

 

 

「確か、初めは歓迎するみたいなことを言われて、その後は鎮守府の説明と担当する任務の大まかな内容を教えられて……鎮守府の説明の中に『補給』以外を食事を禁止することを言われたわ。そして、粗方の説明が終わってから質問があるか聞かれて、食事の禁止について理由を聞いたら初代は高笑いしながら答えたの。確か……」

 

 そこで言葉を切った。頭の中でその言葉を思い出した際に激しい嫌悪感を覚えたからだ。それを、1、2回深呼吸をすることで何とか沈める。そして、目を開いて司令官を真っ直ぐ見据え、口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『兵器が生きる(・・・)必要はない。ただ、俺の命令に従って動けば(・・・)それでいい』」

 

 

 兵器は生きているのではない。ただ『動いている』、何の感情も思考も持たず、ただ敵である深海棲艦を撃滅する兵器。使い手(・・・)である俺の命令を忠実に守り、死ね(すてる)と言われればその場で果てるのみ。ただそれだけの存在。

 

 そして、艦娘は資材を食べれば生きられる……いや、それを『生きられる』なんて言えるのか?

 

 燃料や弾薬だけを補給すれば、それで『動ける』のだ。致命傷を負おうが、手足をもがれようが、入渠ドックに入ってしまえば以前と変わりなく『動ける』のだ。そんなお前たちが『生きている』、なんて言えるのか?

 

 

 

 ―――ただの『兵器』が、軽々しく『生きる』と言う言葉を使うな。―――

 

 

 

「『故に、資材以外の食事を禁止する』……って」

 

 

 そう言い切った時、私は目の前にある司令官の表情が一気に変わるのを見た。

 

 

 不安げだった表情は解けるように消え去った。そして一瞬だけ現れた憤怒。それ以降は司令官が顔を背けたことで見ることは叶わなかった。

 

「そっか、ありがとう」

 

 それだけ言うと司令官は軽く頭を下げ、踵を返して離れて行ってしまう。って言うか……それだけ? こっちはトラウマを抉り倒したと言うのに、それを「ありがとう」の一言で済ますの?

 

 あまりにも素っ気無い反応に、私は呆けた顔でその後ろ姿を眺めることしか出来ない。そんな私を尻目に、彼は今まで作業をしていた流し台を離れ、同じように作業をしている他の艦娘たちに近付いていった。それに気付いた彼女たちはやっている作業を中止して司令官に向き直る。

 

 

 そして、皆一様に顔を強張らせた。

 

 

「あの……どうされました?」

 

 顔を強張らせた一人――――吹雪がおずおずと言った感じで司令官に問いかけた。しかし、彼はそれに応えることはなく、その場で大きく深呼吸をし始める。1回、2回と、回数はどんどん続き、比例するようにその音が大きくなる。吸い込み、吐き出す空気の量が増えていってるのだろうか。その様子に吹雪は疎か他の艦娘たちも何も言えずにただその様子を見守っていた。

 

 

 やがて、呼吸が段々と小さくなっていき、微かに聞こえるまでの大きさになる。その時、司令官はゆっくりと顔を上げ、目の前で固まっている吹雪たちを見回す。

 

 

 

 

「すまないが、今からレシピを変更する」

 

「はぁ!?」

 

 司令官の一言。それにいち早く反応したのは曙であった。

 

「く、クソ提督!! ここまで作っておいて今更レシピを変えるなんてどういうつもり!? まさか一から作り直しとか言わないわよね!?」

 

「大丈夫。変えるのはこれからの工程だから、安心してくれ」

 

 血相変えて詰め寄る曙を司令官は宥めるようにそう言う。しかしこれからの工程と言っても、何処を変えるのだろうか。そう思って、私は近くにあった司令官のレシピと今現在の進み具合を比べてみる。

 

 ほとんどの料理は既に下ごしらえが済んでおり、あとは鍋やフライパンで火を通すために焼くか煮込むか、火を通さないものは盛り付けるところまできている。ここから変えることが出来るのって、せいぜい火を通す具材ぐらいだけど。

 

 

 

「レシピに書かれている資材だが、全て無しにする」

 

 

 そう、司令官が言葉を発した。同時に、その場にいた全ての艦娘たちの目が彼に注がれる。その視線を受けても、彼は微動だにしなかった。

 

 

「ちょっと待ちなさいよ」

 

 次に声を出したのは曙。彼女は、訳が分からないと言いたげな顔で司令官を見つめていた。

 

「さっき、あんたはいきなり食事が変わることで起こる身体への影響を考慮して資材を入れるって言ったわよね? なのに、なんで土壇場になって入れないなんて言い出すの? その言葉、言い換えれば私たちの身体への影響なんてどうでもよくなったって、ことになるわよ? そうなの?」

 

「違う」

 

 曙の言葉に、司令官は低い声で即答する。それを受けた曙の眉が若干緩み、何処か心配そうな表情へと変わった。

 

「じゃあ、何でいきなり変えるの? それを教えてくれないと、私たちは分からないわ」

 

 子供に話しかけるような優しい声色で、曙は問いかける。それに、先ほどは即答した司令官であったが今度は何も言わずに顔を背けた。彼女たちから顔を背けることは彼の後ろに立つ私の方に顔を向けるのと同じことで、私からは苦渋に満ちた表情が見えた。

 

「言えないようなこと?」

 

 その様子に、曙は先ほどよりも優しい声色で再度問いかける。それに司令官はビクッと身体を震わせ、そして目線を下に向ける。その顔にはあの『迷っているような』表情が浮かんでいた。

 

 

提督(・・)?」

 

 再び、曙が口を開いた。今度は声色だけでなく、言葉さえも変えている。そして、声色は微かにだが震えているような気がした。

 

 

「俺の……」

 

 司令官が小さく声を発した。か細く、今にも消え入りそうな声。それと同時に彼はゆっくりと顔を曙たちに向ける。あの表情のままだ。

 

 

 

 

 

 

 

「我が儘だ」

 

 

 喉から絞り出すように、司令官がその言葉を吐いた。先ほどよりもさらにか細く、一つでも音を立てればそれで掻き消されそうなほど、小さな言葉。その声色は、今まで聞いたことのないほど弱弱しく、少しでも反論すれば泣き出してしまいそうなほど弱く、そして脆い。

 

 

 それを聞いた誰もが何も言わないでおこう、そう思ったに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 一人を除いて。

 

 

「我が儘……ですか?」

 

 そう声を発したのは、先ほどからずっと黙っていた吹雪であった。その言葉は何故か重く、そして明らかな怒気を孕んでいた。

 

 

「今まで一緒に(・・・)決めてきたことを、ここで引っくり返しちゃうんですか? それも貴方の『我が儘』で、いともたやすく白紙に戻しちゃうんですか? その程度のことだったんですか? 提督、言ってましたよねぇ? これしか方法がないって、言ってましたよねぇ? やるしかないって、言ってましたよねぇ!!」

 

 語気がどんどん荒くなっていき、最後にそう叫んだ吹雪は突然走り出した。向かうは司令官、彼に向ける顔には明らかな憤怒が、そして後ろに振り上げられた手は拳を作っている。

 

 吹雪の行動に数秒遅れて曙や榛名さんたちが吹雪の取り押さえようと手を伸ばすも、数秒のブランクは吹雪と彼女たちに手を伸ばすだけでは間に合わない距離を生み、吹雪を取り押さえることは出来ない。その手を振り切った吹雪は司令官目掛けて拳を振り上げ、そのまま突進する。

 

 

 猛然と距離を詰める吹雪に、司令官は石のようにその場から動かない。殴られることを覚悟したのか、はたまた目の前に向けられた憤怒で足が竦み上がているのか分からない。ただ、このままでは確実に吹雪の拳を受けるだろう、と言うことは確信できた。

 

 

 

 

 

「止めてください」

 

 司令官に拳が届く寸前、今まで聞いたことのないような冷え切った声が聞こえてきた。同時に今まさに拳を振り下ろそうとしていた吹雪の動きが止まる。そして、またもや私の背筋に冷たいモノが走った。

 

 

「雪風……ちゃん」

 

「それ以上近づくと、身の保証(・・・・)はありません」

 

 憤怒の表情のまま、吹雪は忌々し気に言葉を零す。すると、今度は名前を呼ばれた雪風の声が聞こえ、同時に司令官の陰から飛び出て、吹雪に向けられる黒い砲身が見えた。司令官と吹雪の間に雪風が割り込んで、そして吹雪に砲門を向けているのだろう。

 

 

「そこ、退いてくれない? これは、私と提督の問題なの」

 

「お二人の問題を雪風は知りません。でも、しれぇに危害を加えようとするなら別です」

 

 言葉の節々に棘を抱えた吹雪の言葉に、雪風は一切動じずに返事をする。いや、動じていないのだろうか? そして、今あの子はどんな表情をしているのだろうか?

 

 声色だけを聞くと、『感情』が一切感じられない。そして憤怒の表情で若干尻込みしている吹雪の顔を見るに、恐らく『あの表情』なのかもしれない。

 

 

「それに雪風は言いましたよ? 『それ以上近づくと、身の保証はありません』、と」

 

「語尾が疑問形でない辺り、本気なんだろうね……」

 

 雪風の『最後通告』とでもいう言葉に、吹雪は顔を引きつらせながらも軽口を叩く。そして、彼女は今まで浮かべていた憤怒の表情を消し、握っていた拳はゆっくり解けてダラリと力なく垂れた。

 

 

「提督、一つ聞いてもいいですか?」

 

 不意に吹雪がそう言って、司令官に顔を向ける。そこには先ほどの憤怒の表情は無く、真面目な話をする際に彼女が浮かべる真剣な表情であった。

 

 

 

 

「その判断は、私のお願い(・・・)を叶えてくれますか?」

 

 そう、吹雪は司令官に問いかける。その言葉の意味を理解できた者はいない。ただ、吹雪は今回の試食会に一枚噛んでいると言うことは分かった。そして、何かとても大事なお願いを司令官に頼んでいるのだろう、と言うことも。

 

 

「あぁ、大丈夫だ」

 

 その言葉に数秒遅れて、司令官は声を漏らした。まだ弱弱しくはあるが、それでも先ほどとは比べ物にならないほど芯の通った言葉だった。それを受けた、吹雪は苦笑いを浮かべた。

 

 

「そうですか」

 

 それだけ言って吹雪は司令官に頭を下げると、クルリと踵を返して他の艦娘たちの方を向き直る。そして、手を上げてパンパン、と軽く叩いた。

 

 

「はい、皆さん動いてくださいねー!! もう時間もありませんから、ほら早く早く!! ラストスパートですよー!!」

 

 先ほどとは打って変わって明るい声でそう呼びかける。その変わりように目を丸くする一同であったが、時間がないと執拗に急かしてくる吹雪に圧し負けて、それぞれ自分の作業に戻っていった。

 

「イムヤ」

 

「ひゃい!?」

 

 突然名前を呼ばれて飛び上がる。急いで声の方に顔を向けると、驚いた顔の司令官が立っていた。私が顔を向けたのを見て、その顔を苦笑に変えて小さなザルを手渡してきた。そのザルの中には、均一の大きさに切られた細かいハム。

 

「それと輪切りにして水気を切った胡瓜をボウルに入れてあえてくれ。味付けはマヨネーズと塩コショウで量はレシピに書いてあるが、お前の好みで調整してくれ」

 

「あ、はい」

 

 いきなり手渡されたハムを受け取り、上の空で聞いていた司令官の指示に反射的に答える。それを受けた司令官はすぐに踵を返し、自身の作業に戻っていく。その後ろ姿、そしてついさっき誰にも見せようとしなかったあの表情が頭に浮かび、思わず駆け寄ろうとした。

 

 

「待ってください」

 

 そんな私を止めたのは、そう言って私の肩を掴んだ雪風だ。また無表情かと思って恐る恐る顔を向けるも、その予想に反して彼女は苦笑いを浮かべた。

 

 

「今は、そっとしておいてもらえませんか?」

 

 その表情とは裏腹に、その言葉には重みがあった。理由もない者を文句も言わせずに従わせるほどの、重みを。その表情、そしてその重みに私は声を出せずにただ頷いた。それを見た雪風は肩から手を離し、苦笑いのまま頭を下げた。

 

 

「さて、では雪風もそろそろ他の艦娘(みなさん)を起こさないと行けませんね。しれぇに断りもなく厨房に入ってしまいましたし、これは是が非でも全員引っ張ってこなくてはいけませんよ!!」

 

 そう言って、雪風はいつもの笑顔(・・・・・・)を浮かべて食堂へと続く道へと向かって歩き始めた。その後ろ姿に、私は思わず手を伸ばした。

 

 

 しかし、その手は雪風に届かなかった。後ろで私が手を伸ばしたことに彼女が気付く様子はなく、そのまま鼻歌交じりで食堂へと続く通路に消えて行った。

 

 段々と小さくなっていくその姿を見て、いつの間にか口が動いていた。

 

 

 

「雪風にとって、司令官ってどんな存在なのかしら?」

 

「イムヤー」

 

 そう呟いた時に後ろから名前を呼ばれ、振り返るとボウルを抱えてこちらに手を振るハチ。彼女の抱えるボウルには潰したジャガイモとあめ色になるまで炒めた玉ねぎとひき肉。かく言う私も、司令官から頼まれたモノがある。時間的にも余裕はない。このことは、聞こうと思えばいつでも聞けるから今はいいか。

 

「時間ないよー? 早くやろー」

 

「分かったわー」

 

 声を上げるハチにそう返し、私もボウルを手に取って彼女の元に向かった。



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艦娘たちの『当たり前』

「これで……」

 

 囁くような声と共にフワリと立ち上った白い湯気が視界一杯に広がる。それと同時に傍らから生唾を飲み込む音が。先ほどの言葉は、そして生唾を飲み込んだのかは分からない。

 

 

「ついに……出来たのね」

 

 今度は先ほどよりも若干大きな声。声からして曙だろうか。いや、今そんなことを気にしている暇などない。司令官を含めた殆どの艦娘が固唾を飲み、厨房で一番大きな机、正確にはその上に置かれた大皿に向けているからだ。

 

 そこには、濃い黄色とオレンジ色になったジャガイモと人参、側面から肉汁が溢れ出ている角切りの牛肉、そしてそれらを包み込むトロリとした黄金色の出汁。白い湯気からは、しっかりした鰹出汁とそれを引き締める醤油の香ばしい香りが「美味しい」と言う事実を訴えかけてくる。

 

 

 そんな、ジャガイモと人参と牛肉の煮物―――――肉じゃがが鎮座している。私たちは、肉じゃがの大皿を囲むように立ち、その殺人染みた姿と香りを感じ、一言も発することもなく見つめているのだ。

 

 

 ふと肉じゃがから視線を外すと、肉じゃがの横にある大皿に山のように積み上がった小判型の揚げ物が目に入る。表面からはうっすらと湯気が立ち上っており、綺麗なきつね色をした衣は見ただけで噛めばサクッと軽快な音がしそうなカリカリ感とパン粉の香ばしい香りが鼻をくすぐる――――コロッケ。

 

 

 その横には、ゴロゴロとした形を残しながらも適度に潰されたジャガイモと薄切りのハムと胡瓜、それらが薄黄色いマヨネーズと粗目に削られた黒コショウを纏う――――ポテトサラダ。

 

 

 コロッケ同様山盛りに積まれた鶏のから揚げ、油をたっぷりと吸った茄子とひき肉の味噌炒め、トロリとした出し汁の牛蒡と蓮根のごった煮、茶色く煮込まれた大根とホロホロに溶ける豚バラの煮物、その中で一際存在感を表す葉野菜とトマトの色鮮やかなサラダ等々。

 

 

 大小様々な皿に盛りつけられた数々の一品たち。全て、私たちが作り上げたモノだ。

 

 

 

「こっちも完成ですよー」

 

 

 不意に飛んできたのは間宮さんの声。振り向いた先には味見用の小皿を手に満面の笑みを浮かべている間宮さん。そんな彼女の前には、いくつかの巨大な寸胴鍋が火にかかっており、その一つにはスパイシーな香りを放つカレーがグツグツと音を立てている。

 

 

 私たちの視線が集まる中、間宮さんは思い出したように手にしていた小皿を傍に置いて寸胴鍋の火を止め、別のコンロにある巨大な羽釜に近付いた。これまたグツグツと音を立てる羽釜。中から込み上げる湯気に押されて微かに揺れる木蓋が、間宮さんの手によって開かれる。

 

 

 その瞬間、巨大な湯気の波が彼女の上半身を包み込み、同時に今までの香ばしい香りを押しのけてふんわりとしたお米の強い香りが鼻の中一杯に広がる。遠目から見える羽釜の中は、もうもうと湯気を立ち上らせる純白のお米がギッシリと詰まっていた。

 

 

「蒸らしも問題ないですね」

 

 そう呟いた間宮さんは自らの腕はあろう大きなしゃもじで羽釜の中のご飯を解していく。彼女の腕が羽釜の中を掻きまわすごとにお米の香りは強くなっていき、それを眺める何人かが生唾を呑むのが聞こえる。

 

 

 香ばしい、甘い、油っぽい等の様々な匂いをこれでもかと凝縮したような香りに私たちの意識はノックアウトされ、しゃもじを振るう間宮さん以外、金縛りにあっているが如く誰も微動だにしなかった。

 

 

 

「さぁ皆さん!! もうすぐ出てきますよー!!」

 

 そんな金縛りは厨房の向こう、食堂から聞こえる雪風の声によって解かれた。声の方を振り向くと、雪風に連れられた艦娘たちが入ってきている。その殆どは怪訝な表情をしているが、中には厨房から漂ってくる香りを感じ取って鼻をヒクヒクさせている者もいた。

 

 

 

「いよいよだ」

 

 そう声を漏らしたのは私たちと同じように食堂に目を向けている司令官。これからが勝負だと言わんばかりに笑っているが、若干引きつった笑いに見えるのは気のせいだろうか。

 

 

 

「じゃあ、これをあっちに持っていきましょう!」

 

 次に声を上げたのは吹雪。彼女はそう言って近くにあった大皿の一つを手に持つと、溢さない様小走りで食堂へと続く通路に向かって行ってしまう。その姿を呆けた顔で見ていた一同であったが、一人また一人と手近な大皿に手を伸ばし、彼女の後を追って動き出した。

 

 そんな中、私は榛名さんと一緒に取り皿や箸、フォークなどの食器を取りに奥に引っ込んだ。目的のモノ、私は箸やフォークなどが入ったケース、榛名さんは取り皿を抱えて、食堂へと向かっていく。そんな中、ふと横を司令官が通り過ぎた。恐らくは残っているモノを取りに帰って来たのだろう。

 

 

 

 しかし、何故かその顔に明らかな恐怖の色が浮かんでいた。

 

 

 彼の後に同じように帰ってくる艦娘たちが横を通り過ぎて行ったが、彼と同じ表情をしている子はいない。彼だけが何かに怯えていた。他の子には見えないモノが見えているのか、それとも彼以外気にも留めていないのか。そのどちらかに気付くよりも前に、私は食堂へと足を踏み入れてしまう。

 

 

 

 しかし皮肉にも、踏み入れた瞬間に彼が何に怯えているのかが理解出来た。

 

 

 

 

 

 それは視線―――――雪風に連れられてやって来た、大勢の艦娘たちの視線。先ほど、厨房から遠目に見えた表情は何処にも見えない。代わりにあったのは、惜しげもなく向けられる強烈な『殺気』。

 

 

 食堂を出て行く際に漏らした雪風の言葉通り、彼女はこの鎮守府に居る全ての艦娘たちを引っ張ってきたのだろう。いや、金剛さんが見当たらないから全てではないが、それを抜きにしても駆逐艦から戦艦、軽空母等とかなりの数が揃っている。

 

 

 そして、その全員が一様に同じ顔をしている。目を刃物の様に鋭くさせ、歯をこれでもかと食い縛り、身体中から溢れ出る『殺気』を惜しげもなく晒し、駆逐艦に至っては涙を浮かべて、まるで親の仇を見るような表情で睨み付けてくるのだ。

 

 

 他の艦娘たちが気にしないのは『殺気』を向けられることに慣れているからだ。深海棲艦との戦闘、そして初代の所業を受けてきた私たちからすればこの程度の『殺気』なんて屁でもない。しかし、彼は違う。

 

 

 彼は着任してからまだ1週間から2週間の新米。更に、その間に周りの艦娘から偏見による様々な扱いを受けてきただろう。更に、この前の襲撃で戦場を走り回るような豪胆さはあろうとも、彼は現場の空気に触れる機会が少ない司令官。さっき曙や吹雪に詰め寄られた時のように、これだけの『殺意』に晒されれば気圧されるのは仕方がないことだ。彼が恐怖を覚えるのも無理はない。

 

 

「イムヤちゃん? 大丈夫ですか?」

 

 不意に横から声を掛けられ、振り向くと皿を抱えながらこちらを覗き込んでくる榛名さん。その顔には心配そうな表情が浮かんでいた。

 

「だ、大丈夫ですよ」

 

「本当ですか? すごい汗ですよ?」

 

 

 唐突に投げかけられた榛名さんの言葉。それを聞いた瞬間、ゾワリ、と言う虫唾が襲い掛かってくる。

 

 

 突然、心臓が狂ったように暴れ出す。それと同時に冷凍庫にでも叩き込まれた様な寒さと震え、そして背中や額などがじんわりと湿り気を感じた。突然のことに思わず手のケースを取り落しそうになるのを寸でのところで押しとどめ、榛名さんに笑顔を向ける。

 

 

「大丈夫ですよ」

 

 その言葉は震えていた。笑顔も取り繕えていたかは分からない。自分からしても取り繕っているのがまる分かりだ。そんな虚勢を張っている私の言葉に、榛名さんは表情を引き締めるとクルリと前に向き直った。

 

 

「周りを見ない様、私の背中だけ(・・)を見てくださいね」

 

 

 そう語り掛ける様に言葉を吐き、榛名さんは先ほどよりも少しだけ速足で歩き出す。それに一秒遅れて私は彼女の背中に視線をくぎ付けにし、ぴったり張り付くようにその後を追った。

 

 

 榛名さんの後を追っている間も心臓は暴れ続け、湿り気は大粒の水玉となって背中や額を伝っていく。それに比例するかのように頭が熱を帯び、意識が微かに薄れ視界もぼやけてくる。手足の感覚も徐々に薄れていくのが分かる。

 

 

 しかし、何故こんな症状になっているのか皆目見当が付かない。

 

 

 

「イムヤたち……」

 

 

 横からそんな言葉。それを聞いた瞬間、今まで感じていた全ての症状が重くなった。思わずよろけそうになるも何とか踏みとどまり、榛名さんの後を追う。まだ取り繕えるが、症状は目に見えて悪くなっている。

 

 

 

「何してる……」

 

 

 またもやそんな言葉。それと同時に身体が軋むかと思うほどの重圧がのしかかった。心臓が破裂しそうなほど暴れ回って――――いや、力任せに握り絞められている感覚が襲ってくる。それは呼吸の乱れとして外に現れ、同時に榛名さんがスピードを上げたのが分かった。

 

 

 そんな謎の症状に押しつぶされそうになりながらも、榛名さんの後に続いてテーブルにケースを置いて回る。その間にも、周りの声――――ヒソヒソ声やぼやくような声が聞こえる度に症状が酷くなっていく。そんな中、ふと視界の中に居た司令官に目が映る。

 

 彼は先ほど同様その顔に恐怖の色を浮かべていた。周りに視線を向けず、ずっと手に持った皿を見続けてながら速足で歩いている。

 

 

 そんな姿に、一瞬だけ自分自身に重なって見えた。そしてそれは、私が探し求めていた答えだった。

 

 

 

 

 私は怯えているのだ。周りの艦娘から向けられる『殺気』に。

 

 

 

『今更、媚び売ろうとでも思ってるのかしら?』

 

 

 答えが出た瞬間、そんな言葉が聞こえてきたような気がした。

 

 

 

『うわっ、提督に尻尾振ってるよ』

『あれ、ご機嫌伺いよね?』

『やっぱり潜水艦はずるい』

『すぐに手の平返しとは……さすが潜水艦様ね』

『これだから潜水艦は』

『これであの件がチャラになるとでも思ってるの?』

『有り得ない』

『信用ならない』

『裏切り者』

『あんなのが仲間なんて信じられない』

 

 

 

 そんな言葉が聞こえてくる――――いや、聞こえてはこない。全て私の幻聴。そうだ幻聴だ、そうに違いない。周りはそんなこと言ってない。言うはずがない。

 

 しかし、聞こえてくるのは確かに艦娘たちの声。そんな心無い言葉が、全て艦娘たちの声で聞こえてくるのだ。それが幻聴だと分かっていても、それを聞くたびに私の症状は重くなっていく。先ほどとは比にならないスピードで。

 

 

 『いや、本当にそう言われているのかもしれない』――――唐突にそんな考えが浮かんだ。

 

 

 私たちは彼女たちと違って半日だけだが休みをもらっている。他の人たちにはない特別待遇を受けている。それを周りがどう思っているか、少なくともその分の役割がハードなことを知らない子は好意的ではないだろう。むしろ、私たちだけ休みをもらっていることに不満を持っているのは確実だ。

 

 そして、休みをもらっている私たちがやらかしたミスによる鎮守府への被害。それで不満を爆発させた子がいないわけがない。金剛さんが待遇改善を一蹴したように、司令官が言ったように、周りの艦娘たちは私たちのことをよく思ってないだろう。

 

 そんな私たちが今目の前で料理を運んでいる。目の敵にしている司令官と一緒に、傍から見れば尻尾を振っているように見える。ここまで条件が揃っているのだ、そんなことを思われていてもしょうがない。いや、そう思っているに違いない(・・・・)

 

 

「戻りましょう」

 

 前から榛名さんの焦った声が聞こえ、同時に手を握られる。そのまま彼女に引っ張られるように食堂の中を歩いていく。その間も、周りのヒソヒソ声――――侮蔑(・・)の言葉は止むことなく聞こえてくる。

 

 

 やっぱり、周りからはそんな風にみられているのか。こんなところで改めて再確認させられるとは思わなかったけど、予想通りと言えば予想通りね。分かり切っていたことだ。だからショックも受けないし、悲しくもならない。

 

 

 どうせその程度だ、私なんか。

 

 

 

 

 

「どうしたでちか?」

 

 

 不意に投げかけられた言葉。それと同時に榛名さんが止まった。声からして、問いかけたのはゴーヤ。私にいつも盾突いてくる、私を旗艦だとも思っちゃいない、隙があれば引きずり降ろそうと画策する。周りと同じ思いを、人一倍抱えているゴーヤだ。

 

 どうせ、周りと同じことを言ってくるのだろう。そうに違いない。そう諦めをつけ、私は視線を上げた。

 

 そこにはいつもの冷ややかな視線を向けてくるゴーヤ。いつもと同じように、口を開けば悪態を付きそうな、そんな表情だ。

 

 

 しかし、その表情は私と目が合った瞬間に変わった。冷ややかな視線から、驚愕の表情へ。

 

 

 次に現れたのは真顔。しかし、その口周りは歯を食いしばっているかのように少し強張っている。そんな表情のまま、私から視線を外したゴーヤは歩き出した。一言も発せず、私を一瞥することなく、私を視界に入れないように、ただ真っ直ぐ前を見て。

 

 

 失望させちゃった? いや、元々失望していたか……なら、呆れかえった? ……そうね、そうに違いないわ。

 

 

 そんな結論を腹の中に落とし込むように下を向いた時、ポンと肩を叩かれた。

 

 

 

「大丈夫でち」

 

 

 次にゴーヤの声。その声と共に肩の感触は消える。思わず振り返ると、何事もなかったかのように皿を運んでいくゴーヤの後ろ姿。その姿、そして触れられた感触が残る肩を交互に見る。

 

 

 

「イームーヤー」

 

 不意に後ろから声を掛けられ、同時に榛名さんとは逆の手を握られる感覚が。そちらの方に振り返ると、柔らかい笑みを浮かべたイクが、両手を包み込むように私の手を握っていた。

 

 

「榛名さん、後はイクに任せるのー」

 

 私の顔を見たイクはその表情のまま榛名さんに言う。それを受けた榛名さんはイクと私を交互に見つめ、そして一つ息を吐いて掴んでいた私の手を離した。

 

「では、よろしくお願いします」

 

「りょーかいなのー」

 

 榛名さんの言葉にイクは緩い口調でそう言って敬礼をする。それを受けた榛名さんは慌ただしく厨房の方へと向かっていった。

 

 

「さーて。イク、行くのー」

 

 榛名さんの後ろ姿を見送ったイクはそう言うと私の手を引っ張って歩き出す。向かう先は厨房と反対側の、正確には私に心無い言葉を投げかけてくる艦娘たちの元。そうと分かった瞬間、身体中の体温が一気に下がった。

 

 

 

「ちょ、ちょっ」

 

「大丈夫」

 

 思わず足を止める私に語り掛ける様にそう言って、イクはこちらを振り向き優しく微笑みかけてきた。

 

 

 

「怖がらなくても、イクがついてるの」

 

 

 その言葉と共に、私の手を掴むイクの手に力が籠る。力が入り過ぎて、痛みを感じた。しかし、その痛みは一瞬にして消え、同時に今まで私の身体を蝕んでいたモノも消えてしまった。

 

 

「無理に周りを見なくていい、怖かったら下を向いてイクの手を握るね。そしたら必ず握り返してあげるの。だから、怖がらなくても大丈夫ね」

 

 そう言ってイクは私の頭に手を置き、クシャクシャと撫でながら下を向かせる。そしてまたもや力強く握りしめてくれた。今度は痛みを感じず、代わりに体温を伝えようとするかのように優しく揉んできた。それに私は抵抗することなく、為すがままにされる。

 

 

 

 イクに揉まれるごとに、彼女の体温が手を伝って私の身体にじんわりと広がっていくような心地よさがあったからだ。それと一緒に、強張っていた顔が緩んでいく。そんな視界の中に、こちらを覗き込んでくるイクが見える。彼女は柔らかい笑みをこぼして、ゆっくりと私の手を引いて歩き出した。

 

 

 嫌と言うほど聞こえていた心無い言葉は一つも綺麗さっぱり消え去っていた。やはり、あれは幻聴だったのだろうか。しかし、声に出していないだけで思っているかもしれない。そう思うと、怖くて顔を上げられない。視界に映るのは、イクの足と彼女に握られた私の手。それを見た時、私は確かめるようにイクの手を握った。

 

 

 すると、イクは一拍置いて握り返してくれた。

 

 こちらを振り返ることは無かったが、握り返してくれると同時に歩くスピードを速めてくれたのが分かる。何故そうしてくれたのかは分からない。でも、そんな理由がどうでもいいと思う。

 

 

 それほどまでに、私は身も心もイクの体温で温められていたのだ。

 

 

 唐突にイクの足が止まり、同時に私の足も止まる。そうすると、今まで気にならなかった周りの喧騒が徐々に聞こえ始める。その中に、私やイク、ゴーヤ、ハチたちに限らず、今日の朝食堂に集まった艦娘たちの名前が飛び交うことがあった。

 

 

 それが聞こえる度に、私はイクの手を握った。何度も、何度も。そこに居るのを確かめるように。

 

 

 それに、イクは必ず握り返してくれた。何度も、何度も。傍に居るから、と伝えるように。

 

 

 

 

 

 やがて、あれだけ聞こえていた喧騒は段々小さくなっていき、いつしか食堂は静まりかえった。

 

 

 次に聞こえたのは、コホン、と言う咳払い。頭を上げると、食堂に集まった艦娘たちの前に立つ司令官の姿が見えた。

 

 

 

「えーっ、まず、今日は食堂に集まってくれてありがとう」

 

 

 そこで言葉を切った司令官は艦娘たちに向かって軽く頭を下げた。予想通りと言うか、若干声が上擦っている。さっきの準備の時でさえあのような様子だったのだ。こうして、一同の視線が集まる場で話すのがたどたどしくなるのは仕方がないことだろう。

 

「多分、いきなり呼ばれて来たらびっくりしているかもしれない。ただ、今日はみんなに―――――」

 

 

 

「嫌がらせかい?」

 

 たどたどしい司令官の言葉を遮る様に声が上がった。その声に、司令官を含めた周りの視線がその声の主に集まる。その声の主を見て、司令官は眉を潜めた。

 

「どういう意味だ?」

 

「言葉通り、うちらに嫌がらせでもするんか?」

 

 

 司令官にそう返したのは、軽空母の龍驤さん。彼女は手をヒラヒラさせながらニヒルな笑みを浮かべているも、その目は笑っていなかった。

 

 

「うちらみたいな『兵器』が資材以外のモン食えへんのは知ってるやろ? そんで今日、雪風に呼ばれてきてみれば目の前では『人間』が食うようなモンを持って走り回る君たちや。これはあれか? うちらが食えへんモンを敢えて作って、目の前で君が食べるのを見せつけられるんか?」

 

 そこで言葉を切った龍驤さんは何処か試す様な視線を司令官に向ける。そして、そんな龍驤さんの言葉に押されるように周りの艦娘の中から喧騒が上がり始めた。

 

 

「……確かに、これは俺も食うヤツだ」

 

 喧騒の中で、司令官がポツリと呟く。それと同時に喧騒は少し収まるも、代わりに先ほどよりも強い殺意を感じた。

 

「でも、これは俺だけじゃない。これは俺を……俺を含めた鎮守府全員が食うモン、『食事』だ」

 

 

 先ほどのたどたどしさはあるものの、司令官は力強くそう言い切る。それと同時に時が止まったように喧騒が止み、微かに聞こえたのは無数の息を呑む声。周りが息を呑む中、龍驤さんだけは目を細め、小さく笑みを溢した。

 

 

「つまり、これは君を含めたうちらの食事であると。なら『補給』はどうするん? 流石にそれ食うだけじゃ出撃も何も出来へんで?」

 

「勿論、補給とは別モンだ。補給は出撃を控えている奴だけで、出撃が終わった奴は『食事』を食うことになる」

 

「食事は誰が作るん? まさか、間宮に全部丸投げかい?」

 

「週ごとに何人かのグループを組んでそれを回していけたら、って考えている。勿論、間宮は毎日担当してもらうことになるが、それは本人も了承済みだ」

 

 そう言う司令官の言葉と共に、彼の傍に居た間宮さんが満面の笑みを浮かべてぺこりと頭を下げる。私たちのような深海棲艦と戦うことが出来ない彼女からすれば、日々私たちに皿に盛りつけただけの資材を渡す毎日よりも汗水垂らして食事を作る方がうれしいのだろう。

 

 

「待ってくれ」

 

 そんな中で声を上げたのは、戦艦の長門さん。彼女は手を上げているも、その顔には不安そうな表情が浮かんでいる。

 

 

「提督、まず私たちが貴方の言う『食事』をとるメリットを教えてくれないか?」

 

「単純に、資材の消費を抑えられることだな。今まで朝昼晩と資材を食っていたんだろう? それの晩、または昼を『食事(こっち)』に差し替えればそれだけ資材の消費量も少なくなるし、状況によっては一日の出撃回数を減らせるかもしれない」

 

 司令官の言葉に、にわかに湧きたつ艦娘たち。出撃回数が減るとなれば、それだけ日々の負担が減ることとなる。上手くいけば出撃のない日、私たちで言うところの完全な非番になる日が出来るかもしれない。

 

 

 自らの言葉に沸き立つ艦娘たちを前に手ごたえを感じたのか、司令官の顔に光が宿った。

 

 

 

 

「でも、私たち『兵器』には関係ありませんよね」

 

 

 しかし、その光も唐突に上がった言葉によって消え去ってしまった。

 

 

 その言葉を上げたのは、今まで龍驤さんの横で静かに佇んでいた艦娘―――隼鷹さん。薄紫の髪を揺らして、真っ直ぐ見開かれた瞳を真っ直ぐ司令官に向けていた。

 

 

「それは、あくまであなたたち人間の話ですよね? 先ほど龍驤先生が言った通り、私たち艦娘は『兵器』。『兵器』が資材以外のモノを口にすることは出来ない、これはこの鎮守府の決まりです。皆さん、お忘れですか?」

 

 隼鷹さんの言葉に、今まで沸き立っていた艦娘たちの顔は一気に花がしおれる様に笑顔が消えた。それを前にして、司令官は怒りの表情を浮かべて隼鷹さんに向き直る。

 

 

「それを決めたのは初代だろ? そいつはもういなくなった。既に消えちまったヤツ、しかもお前らに酷いことをしたヤツの言いつけをずっと守る必要があるのか?」

 

「はい、確かに彼はいません。でも、今までそれが撤回されたことも、況してやこの件に触れられたこともありません。今まで触れられてこなかった、それはつまり続けるにあたって何も問題が無かったと言えませんか? 何も問題が無いのに、それを変えようとする意味が分かりません」

 

 司令官の言葉に、隼鷹さんはまるでナレーションを読むように淡々と言葉を吐く。そこに一切の表情は見えない。

 

「なら、さっき上げたメリットはどうだ? 置き換えれば資材の消費量は減る。そうすればお前たちの負担も減るんだぞ」

 

「確かに『補給』だったものを置き換えれば負担は減りましょう。しかし、私たちの負担が減る、それはつまり自由な時間が出来ると言うことですが、その時間をどう使えばいいのでしょうか? 私たちはここに配属されてから娯楽と言うものに触れていません。今考えられるのは寝ることだけです。しかし、寝られないときはどうします? 『寝れない時ほど辛い非番はない』と、ゴーヤさんたちがぼやいているのを聞きましたが」

 

 隼鷹さんの言葉に司令官がチラリとゴーヤを見る。本当か、と問いかけるような視線に、ゴーヤはブスッとした顔で頷いた。

 

「で、でも、それはゴーヤたちだけが非番だったせいだろ? 周りの奴も非番になれば話したりするだろ?」

 

「娯楽皆無の、ただ淡々と出撃と『補給』と休息だけを続けてきた私たちに、話の種になるものがあるとでも?」

 

 司令官の言葉に隼鷹さんが間髪入れずにそう突っ込む。その言葉に司令官は口を開いたが、言い返す言葉が見つからなかったのか言いたげな表情をしながらも押し黙ってしまった。その姿に、隼鷹さんは冷たい視線を向ける。

 

「仮にその制度を実施した時、それがこの先ずっと続く保証がありますか? 食材を何処から調達してきたのかは知れませんが、それ続くと言う確証は?」

 

「そ、それは大丈夫だ。この食材は大本営から送られてきているからな」

 

 隼鷹さんの言葉に、司令官がそう答える。その瞬間、周りの艦娘たちから表情が消えた。それと同時に、周りの空気が一気に下がるのを感じた。

 

 

 

 

「なら、話になりません」

 

 

 そう吐き捨てた隼鷹さんは踵を返して食堂を出て行こうとする。すると、それに続くかのように何人かの艦娘たちが同じように出口へと向かい出した。その様子に、一瞬ポカンとしていた司令官は我に返ると慌ててその後を追った。

 

 

「ま、待ってくれ!! 何でそれだけで話にならないんだ!!」

 

「簡単です。大本営が関わっているからです」

 

「な、何でそれだけで―――」

 

「それだけ?」

 

 司令官の言葉を隼鷹さんはただ返しただけ。『それだけ』で、白い息が出そうなほど食堂の空気は凍り付いた。

 

 

「それだけ……ええ、貴方にとってはそれだけです。しかし、私たちにとってその言葉の重みは段違いなんですよ。適性がどうこうで無理矢理召集されて、訳の分からない訓練が終わって配属された先の上司が最悪で、いなくなったと思えば資材などの支援が止められ、訳の分からない上司が新しくやってきてはすぐに消える……全部、大本営が私たちに課したことですよ? 今までデメリットしか生まなかった存在を好意的に捉えろ、何の疑いもなく信用しろって方がおかしいですよ」

 

 一言一言を噛み締めるように言葉を漏らした隼鷹は追いかけてきた司令官に向き直り、ズイッと顔を近づけた。

 

 

「そんな信用出来ない大本営からやってきた、『訳の分からない上司』を、その言葉を、好意的に捉えられると、何の疑いもなく信用出来ると、そう言い切れますか?」

 

 

 司令官を真っ直ぐ見据えて、そう言い切った隼鷹さん。その言葉、表情、目に映るもの、全てが何かを物語っている。その何かを理解することは出来ない。しかし彼女の思いを、少なくとも彼女の後について食堂を去ろうとした何人かは抱いている、と言うことは分かった。

 

 

 目の前でそう言い切られた司令官は一歩後退りする。その顔に宿っていた光などとうに消え失せ、代わりにあるのは光を宿す前の、料理を運んでいた時よりも前、私の話を聞いてメニューを変更すると言い出すよりも前。

 

 

 雪風が指摘したあの顔。『何処か思い詰めたような』、『迷っているような』そんな表情。それに加えて、『諦めたような』表情も混ざっていた。

 

 

 

 

 しかし、その表情は突如としてしかめっ面に変わる。

 

 

 

「いつまで怖気づいてんのよ!!」

 

 そんな怒号にも似た声と共に、司令官のお尻に蹴りが入ったからだ。よほど痛かったのか、彼は小さな呻き声を上げて飛び上がり、お尻に手を回しながら涙を浮かべるしかめっ面を真後ろに向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「な、何しやがんだ……曙ぉ」

 

 

 そう声を漏らす彼の視線の先に立っているのは曙。眉間にしわを寄せ、口を尖らせている。腕組みするその手の指は何度も腕を叩き、同じように片足は床を何度も叩いてた。傍から見ても分かる通り、不機嫌だった。それも、今まで見たことがないほどに。

 

 司令官を見ていた曙であったが、すぐに司令官に向けられていた刃物のような鋭い眼光を隼鷹さんに浴びせ、無言のまま足を踏み出してその距離を詰めた。途中、「邪魔」と言って痛みに呻く司令官を押しのけたが、とにかく曙は隼鷹さん前に立つとその顔を見上げる。

 

 

 

「何か、言いたいことでも?」

 

 隼鷹さんが淡々とした口調で問いかける。対して曙はそれに応えることなく、一度目を閉じて大きく息を吸った。その行動に周りの艦娘が首をかしげるも、彼女は気にすることなく吸った息を吐き終え、そして改めて隼鷹さんに向き直る。

 

 

 

「いつまでも、ガキ(・・)みたいなこと言ってんじゃないわよ」

 

 隼鷹さんの目を真っ直ぐ見据えながら、曙はそう吐き捨てた。その言葉が予想外だったのか、今までポーカーフェイスだった隼鷹さんの顔が呆けたものになる。

 

 

「何が今まで問題が無かったから変える必要が無い、よ。そんなのただ屁理屈ゴネてるだけでしょ。『兵器』が資材以外を食べちゃいけないって何? あの初代(クソ)が押し付けてきただけで、私たちは食べられないわけじゃない。初代が消えてからは資材が比較的安定して供給できるから食べていただけで、やろうと思えば海で漁業とか出来たわ。そして時間の潰し方なんて、そんなもん教えられることじゃなくて各々が勝手に考えてやっていくものでしょ? 少なくとも、その方法をクソ提督が提示する必要はないわ……これで、満足かしら?」

 

 そこで言葉を切った曙は、わざとらしく首をかしげて隼鷹さんに問いかける。彼女の口から流れる様に出てきたのは今まで隼鷹さんが司令官を言い負かしたこと、その全てを曙が言い負かしたのだ。言い負かされた事実、そして挑発的な態度に隼鷹さんの眉がピクっと動く。

 

 

「で、では大本営からの支援は? それがこれからも続くと言う保証がないですが、どうするんです?」

 

「そんなの、一番簡単(・・・・)よ」

 

 

 隼鷹さんの言葉に曙は猫なで声でそう返し、かしげていた首を戻すと目を閉じた。その行動に周りが首をかしげると、次の瞬間大きく目を見開くと同時に息を吸った。

 

 

 

 

 

「それがどうした!!」

 

 

 雷鳴の様に食堂に轟く曙の声。それに周りが飛び上がり、彼女の目の前に居た隼鷹さんもポーカーフェイスを崩してビクッと身を震わせる。そして、呆けた顔のまま目の前で仁王立ちする曙を見据えた。

 

 

 

「支援が続く確証? そんなもん、今分かることじゃないでしょ!! 今あるのはクソ提督が大本営に行って、支援を取り付けたって言う『事実』だけでしょ!! それ以外に判断材料なんて無い!! なのに、現実に存在しない『今後の確証』なんて甘々な未来予想図、さっさと捨てろ!! そんなものに現を抜かす暇があるならしっかりと現実を見据えろ!! 甘ったれたこと言ってんじゃないわよ!!」

 

 

 食堂中に轟く曙の怒号。それは彼女が叫ぶ言葉の意味を、その場に居た全員の鼓膜を嫌と言うほど震わせ、その骨の髄まで染み渡らせた。

 

 

「あん……隼鷹さんがどんな経緯でここに配属されたかは知らないけど、その経緯とコイツは一切関係ないわ。なのに、隼鷹さんはそれを理由にコイツを信頼できないって吐き捨てた。無理矢理だとは思わない? こじつけだとは思わない? じゃあ聞くけど、コイツは一体何をした? どんなデメリットを押し付けた? コイツのせいでどんな被害を被ったの? そんな経緯の押し付け(くだらない)もの以外にあるのなら、すぐに言えるわよね? 胸張って、こんなことをされたって言えるわよね? どうなの!!」

 

 怒鳴りつけるような曙の問いに、隼鷹さんは何も言えずに黙り込んでしまう。何も言ってこない彼女を前に、曙は小さなため息をついた。

 

「勿論、隼鷹さんや皆がクソ提督を信用できないってのは分かるわ。私自身も、あの日のことが無ければここまでしていなかった。でも、私は今こうしてコイツの前に立っている、庇っている。あの日―――――――――深海棲艦の襲撃を受けたあの時と同じように、私はこいつを庇っているわ」

 

 

 そう言い切る曙の言葉に反応したのは、痛みに顔をしかめていた司令官だった。彼は慌てた様に口を開くも、曙から向けられた剣幕に気圧されて口を閉じてしまう。

 

 

「その日、コイツは営倉に来たわ。自分でたたき込んでおきながら、どの面下げてきたのかと思った。でも、コイツは救急箱を持ってきて、傷を手当してくれた。ドックに入ればすぐ直るって分かっているのに、『ドックにいれてやれないから』って理由で必要もない手当をしてくれたの。そして、今度は頭を下げてきた。叩き込んだことへの謝罪ではなく、命を救ってくれたことのお礼だって。雪風だけじゃなく、自分の命も救ってくれたって。恩着せがましいにもほどがあるけど、コイツは私がやったことを褒めて、認めてくれた。普通なら見逃す様な事をコイツは見逃さず、あまつさえお礼と言って頭を下げた」

 

 先ほどまでの喧嘩口調から、曙は話を読み聞かせるような柔らかい雰囲気で語る。それに隼鷹さんや司令官、周りの艦娘たちは一言も発せず、ただその話に耳を傾けた。

 

「部下である艦娘に頭を下げるなんてありえないけど、コイツは下げた。それも2回。1回目は皆知っている通り、間違えて(・・・・)ドックに入った時だけど、それも全面的に自分が悪いって頭を下げてき……あ、も、もう1回あったけど……」

 

 そこで言葉を切った曙は何故かそっぽを向く。わずかに見える顔が若干赤くなっているが、わざとらしく咳をした時には普通の顔色に戻っていた。

 

「ともかく、私はそのことがあったから今、信じている。多分、私と同じようにクソ提督の手伝いをした子達は少なからずそんな経験を持っていると思うわ。そんな私たちと、隼鷹さんたちを同じに見ることはで出来ない。でも、今この状況は? 今こうしてクソ提督が真正面から向き合っている。今こそ、その経験(・・)にならない?」

 

 そう力強く問いかける曙。その言葉と真っ直ぐな目を向けられ、隼鷹さんを含めた周りの艦娘の視線が彼女の後ろで呆けた顔を浮かべている司令官に集まる。

 

「でも隼鷹さんは真正面で向き合ってきたクソ提督から目を逸らし、今まで自分が受けてきたことを理由にこじつけで突き放した。コイツが向き合おうと必死に手を伸ばしたのを、貴女はガキみたいなこじつけを正当化するために一瞥もせずに払いのけたのよ。今まで避け続けてきたように、そのくせコイツのことはお見通しだと言わんばかりに理屈をこねて。そこが、ガキっぽいのよ」

 

 そう吐き捨てた曙は両手を握りしめ、大きく息を吸った。

 

「何も知らない、向き合ったこともないくせにコイツのことを分かり切ったようなこと言ってんじゃないわよ!! あんたなんかよりも、私の方が数倍も、数十倍もコイツのことを知っている!! なのに私を差し置いて勝手にコイツを語るな!! 勝手にこじつけるな!! そんなに語りたいならちゃんとクソ提督と向き合え!! 外聞じゃない、誰のフィルターも通さないあんた自身の目で見て!! ちゃんとあんた自身の言葉でぶつかれ!! それだけ……それだけやってから好きに語りなさいよぉ!!」

 

 

 喉が張り裂けんばかりに曙の叫びが木霊し、やがて聞こえるのは彼女の荒い息遣いだけになる。しかし、すぐに別の声が上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に……食べていいっぽい?」

 

 

 その声は曙でも隼鷹さんでも、まして彼女の後を追って出て行こうした者でもない。今まで一言も発さなかった艦娘たちの中から聞こえた。次に聞こえたのは数人の小声、やがて他の駆逐艦に引かれる手を振り払ったらしき一人が一歩一歩とフラフラと進み出てきた。

 

 

 背中までスラリと伸びた金髪、そして斜めに軽く揃えられて黒い細身のリボンで結ばれている前髪を揺らし、綺麗に澄んだ曇りのない緑色の大きな瞳には大粒の涙が浮かんでいる。この駆逐艦は、先ほど司令官がこの鎮守府全員が食べる食事だと言った時にその大きな瞳からポロリと涙を溢していたのを見えた。

 

 

 

「本当に……本当に食べていいっぽい? ゆ、ゆうだ、ゆうだちはぁ……」

 

 涙声になりながら、そう言葉を吐きだす駆逐艦――――――夕立。彼女が一歩一歩進むと、それを見ていた司令官がゆっくりと立ち上がり、彼女に近付いていく。

 

 

「本当に……本当にぃ……」

 

 司令官が少し離れたところで膝を折って夕立と同じ目線になった時、彼女の顔が一気に崩れた。

 

 

 

 

「食べて…………い、『生きて』いいっぽい?」

 

 

 

 

 『生きていいの?』―――――それは、私たち艦娘がここに配属されてから心の隅に抱えていた疑問。

 

 

 国のために艦娘となり、訓練をしていく中で自身とは違う記憶と艤装と言う唯一深海棲艦に対抗できる装備を手に入れた。訓練を終え、いざ鎮守府に配属された最初の日、執務室に座っていた男から言われた言葉。

 

 

 「『兵器』如きが、軽々しく『生きる』と言う言葉を使うな」―――――と言う暴言のような命令。

 

 それは、ついこの間まで人間として暮らしていた私たちに突き付けられた、その瞬間から人間ではない、況して『生きる』ことさえも許されない、『人間』や『生き物』と言うアイデンティティーを否定された、本当の『兵器』にならなければならないと言う現実だった。

 

 

 それを突き付けられた時、誰しもが思った。艦娘(今の自分)は、『人間』はおろか『生き物』ですらないのか、と。

 

 

 そしてそれはその日から始まる地獄のような日々によって徐々に薄れていく。やがて、元々自分は『人間』であったことさえも忘れてしまう、もしくは『人間』であったことに拒否反応を示すようになる頃には、そんな疑問など消え去っていた。

 

 

 

 そんな、今まで誰しもが忘れていた疑問を口にした夕立は、言葉にならない声を上げて司令官の胸に寄り掛かる。そして、今まで押し殺していたように声を上げて泣き始めた。彼はあやす様にその震える背中、そして彼女の頭を優しく撫でる。

 

 

「夕立……だっけか? お前は一つ、間違えてるぞ」

 

 子供をあやす様な声でそう語り掛け、泣きじゃくる夕立の肩を掴んで立たせる。そこには涙でぐちゃぐちゃになった夕立。その頭を撫で、その顔を真っ直ぐ見据え、彼は笑いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「『生きていい』んじゃない。『もう生きている』んだよ、お前らは」

 

 そこで言葉を切った司令官は不意に夕立の背中に腕を回し、その華奢な身体を抱きしめる。いきなり抱きしめられて固まる夕立に、司令官はふたたび語りかけた。

 

 

「飯を食べるから『生きている』んじゃない、『生きていい』から飯を食べる訳じゃない。『生きている』から飯を食べる、そんな当たり前のことだよ」

 

 そう言って、司令官は優しく夕立の頭を撫でる。語りかけられ、そして頭を撫でられた夕立は再び泣き出した。そんな彼女の身体を、司令官はぎゅっと抱き締めてその頭を撫で続ける。

 

 

 彼は言った、私たちは『生きている』と。ただの兵器だと、ただ動けばいいと言われ、今まで人間はおろか『生き物』でさえ否定され、『生きる』ことさえも許されなかった艦娘(わたしたち)に。

 

 こうも言った、『生きている』から食事する、それが『当たり前』だと。たった数ヵ月でかなぐり捨てられた、それまで当たり前であった『事実』を、『事実』を否定されて身も心もただの兵器に成り下がった艦娘(わたしたち)を。

 

 こちらからは一歩も歩み寄ろうとしてこなかった私たちを、司令官は真っ正面に立って、そして認めてくれたのだ。

 

 

 

 

 

「本当に、いいのかい?」

 

 次に声を上げたのは、夕立と同じ駆逐艦。彼女も夕立同様、目に大粒の涙を浮かべて、余計な声を出さない様歯を食いしばっていた。

 

 

「あぁ、いいぞ」

 

「……本当かい?」

 

「当たり前のことだ、許可なんていらねぇよ」

 

 再び問いかけた駆逐艦に、司令官は同じように返す。しかし、とうの駆逐艦は何故か動こうとせず、忙しなく周りに視線を向けていた。周りの目を気にしているのか、そう思った時、一人の艦娘が動いた。

 

 

 

 

「行かないんなら、先に行かせてもらうよー?」

 

 

 そう言って艦娘たちの集団から抜け出したのは龍驤さん。彼女はいまだに動こうとしない駆逐艦そして司令官とその胸で泣きじゃくる夕立の横を通り過ぎ、料理が置いてあるテーブルに近付いた。テーブルの近くで止まった彼女は、一切の躊躇もなく大皿に山のように積まれていたコロッケを一つ手に取り、一気に半分ほどかぶり付いた。

 

 

 彼女がかぶり付いた瞬間、周りの艦娘たちから息を呑む声が聞こえる。しかし、そんなことなどお構いなしに龍驤さんはゆっくりとコロッケを咀嚼しながら、うっとりと顔を綻ばせた。

 

 

「おー、美味いやん」

 

 かぶり付いたコロッケを飲み込んだ龍驤さんは呑気な声を上げる。その姿を口をパクパクさせながら見ていた駆逐艦、それを見つけた龍驤さんはイタズラっぽい笑みを浮かべ、食べかけのコロッケを周りに見える様に軽く上げる。

 

 

 

「皆、何してんの? 司令官の許可貰ったんや。食べへんと損やで? それとも、このままうちがぜーんぶ平らげるのを指を咥えて見てるつもり?」

 

 

 そう挑発的な発言を残し、すぐさま近くにあった取り皿を取るとコロッケの近くにあったポテトサラダを盛り付け始めた。周りが微動だにしない中で、一人嬉々としてはしゃぎ回る龍驤さん。ポテトサラダを頬張っていたとき、ふと彼女は視線だけを先程の駆逐艦に向けた。

 

 

「『生きたい』んやろー? 自分?」

 

 

 そう語りかける。その言葉を聞き、その意味を周りが理解する。その極僅かな間に、駆逐艦は涙を溢しながら龍驤の横に走り込んでいた。

 

 

 

「来おったか。ほな、2人でぜーんぶ平らげちゃおうや!!」

 

「う、うん!!」

 

 龍驤さんの言葉に駆逐艦が涙を浮かべながら元気よく返事をする。その姿に周りの駆逐艦たちは唖然としているも、やがて1人、1人と前に歩き出し、彼女たちの周りにどんどん集まっていき、賑やかになっていく。その中に、抱きしめられていた司令官に押されて輪に入っていく夕立の姿があった。

 

 

 

「長門。君もこっち()いやぁ」

 

 そんな中、頭ひとつ飛び抜けた龍驤さんが呑気な声を上げる。名前を呼ばれた長門さんは、ハッと我に返ってそんな彼女を見つめた。

 

「このままやと、うちら提督代理さんに大目玉喰らうこと必至やん? だから、長門も一緒やと心強いなぁーと思って」

 

 呑気な声でそう語る龍驤さんであるが、その周りで食事を口に運んでいた駆逐艦たちの動きが止まる。止まった手は微かに震えはじめ、ハツラツと輝いていた瞳に恐怖の色が映る。

 

「要するに、道連れになれと言うことか?」

 

「ええやん? 大好きな駆逐艦に囲まれるんやで? 悪い話では無いやろ」

 

「誤解を生む言い方はやめろ。しかし、魅力的な条件ではあるな」

 

「長門さん!?」

 

 長門さんの言葉に周りの艦娘から驚きの声が上がるも、彼女は何か問題があるのか、と言いたげに首を傾げた。

 

「提督が、我々の上司が良いと言ったのだぞ? 何処に問題がある? それに、すでに駆逐艦たちが手を付けてしまっている。龍驤の言葉通り、この後大目玉を喰らうだろうよ。そんな姿を、ビッグセブンともあろう私に指を咥えて見ていろと? 冗談じゃないな」

 

 そこで言葉を切った長門さんは駆逐艦たちに向かって歩き出し、取り皿を抱えて固まっている駆逐艦の頭に手を置いた。

 

 

「この長門も輪に入れてくれないか? なぁに、心配するな。お前たちにはこのビッグセブンがついている。大船に乗ったつもりでいるがいいさ」

 

 そう自信満々に胸を張って長門さんが言い切った。すると、今まで恐怖を浮かべていた駆逐艦たちの顔に光が宿り、再び楽しそうな声が聞こえ始めた。

 

 

「だが、やはり私だけではどうも不安だ。お前たちも、一枚噛んではくれないか?」

 

 目の前でわいわい騒ぐ駆逐艦たちの前で呟くようにそんな言葉を吐いた長門さんは、今なお微動だにしない艦娘たちにイタズラっぽい笑みを向ける。その表情を見た艦娘たちは更に顔を強張らせるだけで、動こうとはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 数人を除いて。

 

 

 

 

「フフ、流石のビッグセブン様もあの人が怖いか。なら、仕方がないよなぁ」

 

 そう言って前に進み出たのは、軽巡洋艦の天龍。おかしそうに顔を綻ばせながら歩を進める、その後ろには不安な表情を浮かべながらも彼女の後についていく姉妹艦の龍田さんの姿が。

 

 

「まぁ、仕方がないよねぇ」

 

 次に進み出てきたのは、同じく軽巡洋艦の北上。眠そうに欠伸を溢しながらも力強い足取りで進み出ている。しかし、途中で立ち止まった彼女はクルリと後ろを振り返り、今なお動こうとしない艦娘たちに向けて冷ややかな視線を浴びせかけた。

 

 

「まぁ、気持ちは分かるけどぉ? 今回ぐらいは、曙の顔に免じて信じてやってもいいんじゃないの? そんなとこ突っ立って、そんなみっともない顔(・・・・・・・)するくらいならさぁ」

 

 そう言葉を残して、北上は駆逐艦たちの元へと向かっていく。そんな後ろ姿を、みっともない顔の艦娘たちが見つめていた。涙でぐちゃぐちゃになって溢れ出る鼻水を幾度となく啜る、そんなみっともない顔で。

 

 

 やがて、その中から一人がフラリと前に進み出た。その足取りはフラフラとしていたが進むごとにしっかりとしていき、それと一緒に歩幅がだんだん広くなる。いつしか、その足はドタドタと言う音を響かせた。

 

 それを皮切りに、隼鷹さんや彼女に続いて出て行こうとした艦娘以外、いや、その中の何人かを含めた殆どの艦娘たちがフラリと歩き出し、やがて脇目も振らずにテーブル目掛けて走り出す。そして奪い合う様に取り皿を手に取る、その上に料理を乗せ、震える手でそれを口に運んだ。

 

 

 それが何度も何度も繰り返され、終いにはその口から嗚咽が漏れ始める。同様に、その瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ始めた。

 

 

 そうして、食堂は料理を口にして顔を綻ばせてキャッキャと騒ぐ駆逐艦たちの楽しそうな声、そして涙や鼻水を拭って料理を口に運ぶ軽巡洋艦以上の艦娘たちの嗚咽交じりの声で一杯になった。

 

 

「こちら、カレーですよー」

 

「ご飯はこっちでーす」

 

 そんな中で響くのは巨大な寸胴とこれまた巨大な羽釜の横に立っている間宮と吹雪の声。彼女たちの言葉に、周りの艦娘たちは一斉に声の方を向き、弾かれた様に2人の元へと押し寄せて行った。そんな光景を前にして、私は何処か懐かしい感覚を覚えた。

 

 

 それはここに配属される前。まだ訓練のとき、一緒だった艦娘たちと揃って食堂に行き、そこで出される決して美味しいとは言えない食事。それでも、周りと一緒に食べるときは決まって笑顔があった。

 

 そしてそれよりももっと前。まだ艦娘の適性があると分かる前、夕暮れ時に泥だらけになって家に帰った時、食卓に置かれた、温かくて美味しいご飯。この世で最も安心できる人が作った、この世でもっとも美味しいモノ。

 

 

 今、目の前にあるのはそれではない。しかし、それではないにしても、こうして目の前で涙を流して嬉しそうに食べている子、美味しいと顔を綻ばせてキャッキャと騒ぐ子がいる。

 

 つい数年前までは当たり前だった光景が目の前に、それも今まで食事とも言えないモノを無表情で一言も発せず、ただ作業の様にそれを口に運ぶだけだった場所。そこに、当たり前だった光景が広がっている。

 

 

 ただそれだけなのに、その懐かしさは温かさに変わり、じんわりと広がっていった。

 

 

「隼鷹ー。そんなとこ突っ立ってないで、君も来たらどうや? それとも、うちの言葉に従わないつもりかい?」

 

「そ、そんなことは……」

 

 

 またもや龍驤さんが今なお動こうとしない隼鷹さんに向けて声をかける。その口調は砕けてはいたモノの、有無も言わせぬ威圧感があった。それに気圧された隼鷹さんは小さく声を漏らした後しばらく何かを呟くも、観念した様にため息を吐いて龍驤さんの元に歩き出した。それに触発され、出て行こうとした艦娘たちも同じようにワイワイ騒ぐ輪へと入っていく。

 

 

 これで、食堂に居た全ての艦娘たちが輪に入った。

 

 

 

 

「あんなに美味しそうに食べられたら、イクもお腹空いちゃうのー」

 

 そんな光景を前に、ポツリと呟くように横のイクが声を漏らし、お腹の辺りを撫でる。それを見た瞬間、ぐおーっとだらしない音が聞こえた。それは私にも良く聞こえた、私のお腹の音だった。

 

 咄嗟にお腹を抑える。それでも収まらず私のお腹はゴロゴロという低い音を上げ、いつの間にかこちらを振り向いていたイクは、小悪魔のような笑みを浮かべていた。

 

「ほほ~う、これはいけないのねー」

 

「ち、違う!? こ、これはそんなんじゃあ!!」

 

 お腹を抑えて抗議するも、それに聞く耳を持たないイクはクックックと笑いを溢して私の手を引っ張ってくる。それに必死に抵抗するが何処にそんな力があるのかと叫びたくなるほど強い力で引っ張られてしまう。

 

 

「提督ー、イムヤがお腹減ったって言ってるから、イク達も食べに行っても良いのー?」

 

「イムヤが? そうか、お前らは作るだけ作って何も食ってないもんな」

 

「イクはそうなの。でも、イムヤは摘まみ食いしていたからイクより減ってないハズなの。イムヤは卑しん坊なのー」

 

 わざとらしく肩を竦めるイクと、それを間に受けて申し訳なさそうな顔を向けてくる司令官。待って、まず何処から突っ込めば良いか分からないわ。

 

 

「まぁ、イムヤが卑しい卑しくないは置いといて、イク達も食べて良いのー?」

 

「ちょっと!! 勝手に片付けないで!! 後、私は卑しくない!!」

 

 舌をペロリと出して小馬鹿にしたような物言いのイクに思わず声を上げて噛みつく。取り敢えず『卑しい』なんて不名誉な肩書きを否定できた。まだまだ突っ込みどころはあるのだが、それを言う前に司令官が顔を背け、ワイワイと騒いでいる艦娘たちを見据えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「因みに、今回の試食会はイムヤたち潜水艦たちの助力が有ってのモノだ。皆、彼女たちにお礼を言うように」

 

 

 突然飛び出したとんでも発言。私の目はそれを吐き出した司令官に釘付けになる。なにせ、その言葉が嘘っぱちだったからだ。

 

 

「ま、待って!! 私たちは司令官に呼ばれて……そう、この前の襲撃の罰としてやっただけ!! そんな率先して手伝いを申し出た訳じゃないわ!!」

 

「それでも、手伝ってくれた半数はイムヤたちだろ? 経緯がどうであろうと、人数面で貢献してくれたことには代わりない」

 

「そ、それは……そうだけど。で、でも私たちはそんな」

 

 

 

 『立派じゃない』、そう言おうとした。しかし、その言葉は突然何かを口の中に突っ込まれたことで途切れてしまう。

 

 

「司令官の言う通り、経緯がどうとかそんなんは関係あらへんよ。けどさぁ?」

 

 そう言葉を溢したのは、山盛りのポテトサラダが乗っている取り皿を手に取り、彼女が使っていたであろうスプーンを私の口に突っ込んでいる龍驤さん。口の中に広がる味、それは先ほどつまみ食い――――――ではなく、味見をしながら作ったポテトサラダだ、そう理解すると同時に龍驤さんは小さく笑みを向けてきた。

 

「少なくとも、うちは知っとるよ。あの日、君たちが敵を見逃したせいでみんなが傷ついたこと――――――の、前にオリョクルで頑張っていたこと。その前の日も、その前も、その前の前の前のもーっと前から、君たちが頑張っていることを。君達の、そしてうちらの食い扶持を確保するために身を粉にして資材をかき集めてくれたことも。ちゃーんと、知っとるよ」

 

 そんな言葉と共にねじ込まれたスプーンを引き抜かれ、優しく微笑みかけてくれる龍驤さん。それを前にした瞬間、手の甲に何かが落ちた。ゆっくり手の甲に目を向けると、一つの水滴の痕。更に2つ3つと痕が増える。

 

 

「あれ?」

 

「イムヤさん、泣いてるのー?」

 

 

 思わず漏れた声、それは横から飛んできた無邪気な声と心配そうに除き込んでくる駆逐艦が。涙を見られたと悟った瞬間、先ほどよりも大きなお腹の音が。いきなりのことに口をポカンと開ける駆逐艦と私。

 

 

「イムヤは今、すごくお腹が空いてる(・・・・・・)から、ポテトサラダが泣いちゃうほど美味しかったのよねー」

 

「ち、ちが――」

 

「そうなの!!」

 

 不意に両肩を掴まれて乗りかかってくるイクがそんなことをのたまってくる。それを否定しようと声を上げるも、それすらも横から飛んできた駆逐艦の声によって遮られてしまう。訂正しようと振り向くと、そこにはカレーライスが乗ったスプーンを手に、キラキラとした目を向けてくる駆逐艦が。

 

 

「それなら、あたしのあげる!! いつも(・・・)頑張ってくれているお礼!!」

 

 そう言って、駆逐艦は笑顔でスプーンを突き出してくる。突き出されたスプーン、そして駆逐艦を交互に見ていると、別の場所から違うスプーンが突き出された。

 

 

「私もあげるよー!!」

 

「私もー!!」

 

「あげるー!!」

 

 

 そんな声と共にいつの間にか周りは様々な料理が乗せられたスプーン、そして駆逐艦たちの笑顔に囲まれていた。その光景にポカンと口を開けていると、最後にスプーンを向けてきた駆逐艦が、満面の笑みを向けてきた。

 

 

 

 

 

 

「イムヤさん、いつもありがとう!!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私の中でピシリと言う音が聞こえた。それと同時に目頭が熱くなり、段々目がぼやけてくる。それが涙だと察し、見られないよう誤魔化すために一番近くのスプーン目掛けて口を開いた。

 

 

 

 

 

 その瞬間、ダァン!! と言う音が食堂に響き渡った。

 

 

 今までワイワイ騒いでいた艦娘たちの動きが止まり、その視線が音の方―――――限界まで開かれた扉、その真ん中に立っている一人の艦娘に注がれる。そして、皆一様に顔色を青くした。

 

 

 

「何をやってるデース?」

 

 

 ポツリと声が聞こえた。たった一言、呟くような大きさのそれに、この場に居た殆どの艦娘たちがビクッと身を震わせた。そんな言葉を零した艦娘は返答など端から期待していなかったのか、おもむろに歩き出す。

 

 

 カツ、カツと言う音が食堂に響く。その音が鳴る度に艦娘たちは身を震わせるも、司令官は少しも動じる様子もなくただ近づいてくるその音の主に顔を向けていた。段々と近づいてくる足音の主は、司令官から少し離れた所で止まった。

 

 

 一瞬の沈黙、それは何処か軽い口調の司令官の言葉によって破られた。

 

 

「やっときたか、金剛」



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提督代理の『理由』

「やっときたか、金剛」

 

 

 その言葉に、ワタシ――――――金剛は身体中の血が一気に沸き立つのを感じた。しかし、周りの艦娘の目がある手前ここで下手に感情を出すのは良くないと訴えかけた自制心によって、高ぶる感情を何とか抑え込んだ。その代わりに、ワタシはテートクから周りに居る艦娘たちに視線を向けた。

 

 

 

「貴女たちは、今自分が何をしているのか分かっていますカ?」

 

 

 そう問いかける。その瞬間、周りの艦娘たちの血の気が一気に引くのを、駆逐艦たちは涙を浮かべるのが見えた。それが示すのは、彼女たちは己が犯したことの意味を理解していると言うことだ。しかし、それも一歩前に進み出たテートクの一言によって覆られた。

 

 

「俺が勝手に飯を作って薦めただけだ。艦娘たち(こいつら)に非は無い」

 

 その言葉を受け、周りの艦娘たちはテートクに驚いたような、ワタシは込み上げる感情をぶつけるような、そんな視線を浴びせ掛けた。しかし、その視線に彼が怖気づくことは無い。ただ、憮然とした態度でワタシを見るだけであった。

 

 

「では、この状況はテートクが彼女たちを誑かしたために出来たモノであると、そういうことで良いデスカ?」

 

「あぁ、そうだ」

 

 ワタシの問いに、テートクは臆することなくそう言ってのけた。その言葉に周りの艦娘は一様に息を呑む。その様子から彼の言葉が本当かどうかは分からないが、そんなことはどうでもいい。ワタシはただ、目の前に佇む人間(・・)しか見えていなかった。

 

 

「……まぁ、今回はテートクの言葉を信じまショウ……何故このようなことをしたんデスカ?」

 

「んなもん決まってる。この状況を打開するためだ」

 

 ワタシの目を見据えて、テートクはしっかりとした口調で答えた。それと同時にワタシは眉を潜め、そしてしかめっ面を彼に向けた。

 

 

 彼が言った『この状況』、それは何なのか。まぁ部屋にあった走り書き、そして今なお皿を手に固まっている艦娘たちを見て察しは付いている。大方、艦娘(ワタシ)たちの『補給』についてだろう。しかし、それを打開すると言う彼の言葉が引っかかった。

 

 

「その言い草、まるで今までの状況がおかしいとでも言いたげデスネ」

 

「あぁ、おかしいって思っているからな。当たり前だ」

 

 少し窘めるようなワタシの言葉に、テートクは迷いなく淡々とした口調で答えた。それが何故か癪に障ったが、感情を出したら負けであると自らを言い含めて、すました顔を繕った。

 

人間(テートク)にはおかしいかもしれませんが、艦娘(ワタシ)たちにとっては当たり前のことデース。勝手に決め付けないでくだサーイ」

 

「……まぁ、他に食うモンが無かったから仕方がなかったんだろ。初代の時は横領されて、その後はこっちから支援を打ち切ったんだ。そうなると、唯一自給できる資材を『食事』代わりにするしかないしな」

 

「食事ではなく『補給』デス」

 

 肩を竦めながらのたまうテートクの間違い(・・・)を訂正する。艦娘に必要なのは資材などを『補給』することであり、『食事』など必要ない。まして、人間が食べられるモノなどもってのほかだ。

 

 

「でも、それは『食材』が無かったからだろ? それさえ確保すれば、別に『食事』しても問題ないだろ?」

 

「食材ではなく、『資材』デス。……わざと間違えてマス?」

 

「それはお前だろうが」

 

 ワタシの訂正に、人間(・・)は渋い顔で戯言を溢した。何を言っているのだ、この人間は。艦娘に『食材』や『食事』などの言葉を使うなんて、それこそワタシたちを愚弄していると言うものだ。

 

 

 特に、存在そのものを全否定した大本営(おまえら)なんかに、そんなことを言う資格なんて無い。

 

 

 と、熱くなってしまった。そう自分に言い聞かせ、胸の奥から込み上げる熱を無理やり飲み込む。何度か息を吐いたところで、ワタシは更に引っかかった言葉に疑問を投げかけた。

 

 

「『確保した』と言うことは、何か伝手を利用したってことデスカ?」

 

「……資材と同じで、上層部のお偉いさんから支援を取り付けてきた」

 

 ワタシの言葉に、人間はこの日初めて視線を逸らした。口調も若干上擦っている。ここがウィークポイントだろう。しかし、それよりも引っかかるモノがあったためそちらから問いただす事にしよう。

 

 

「昨日、受けた報告にはそのことについて一言も聞いていまセーン。それは、何故デスカ?」

 

 

 昨日、ワタシは人間から大本営に出頭してどんなことがあったかを聞いた。その時、彼は襲撃に関することを問いただされたこと、中将と呼ばれる男に庇われたこと、庇われた理由が新人であったこと、そして資材(・・)の支援を取り付けたことを報告するだけだ。

 

 食材(そんなもの)が送られてくるなんて、一言も聞いていない。これはどういうことか。

 

 

「言ったら真っ先に潰されるのが目に見えていたから、隠させてもらった。それについては本当に申し訳ない」

 

 

 ワタシの問いに人間は申し訳なさそうな表情でそう答え、言い終わると同時に頭を下げる。その光景に周りの艦娘は再び息を呑むも、同時にワタシは抑え込んだ熱が再び沸き上がるのを感じた。

 

 

 昨日の報告された時点で疑問ではあった。何故、ただの新米の人間に中将とやらが上層部の追及を庇い、そして資材や食材の支援を買って出たのか。そして今、人間が食材の件を隠していたことが発覚したのを踏まえて、疑問は確信へと変わった。

 

 

 恐らく、人間と中将は個人的に繋がっている。そしてそのことを隠していたことから、その条件の中にワタシたちが含まれていることも確実だろう。

 

 

 そして、今回はその条件を達成する上での第一歩だ。

 

 

 何を企んでいる? ワタシたちを懐柔して何をさせる気だ? どんな目に遭わせる気か? 意図的に被害を出す気か? いっそ、全員沈める(ころす)気か? 

 

 

 いや、そんなことはどうでもいい。今重要なのは、人間がこんなことをした理由を隠しているという事実だ。それだけでコイツの真価も分かる、今までと同じ(・・)だと。

 

 

「潰されるとマズイ理由が少々気になりますガ、ワタシを騙したのは事実デース。そして、そのお偉いさんとやらと共謀し支援と(かこ)つけた甘い言葉でこの子達を懐柔して……大方、この子達にも本当の目的を教えてないんでショウ? ホント、つくづく最低なクズ野郎デース」

 

「……隠していた手前何も言えないが、流石にちょっと言い過ぎだろ」

 

「どうでもいいデース」

 

 

 反論がない=確定事項。そう結論付けた瞬間、ワタシの関心は人間から周りの艦娘へと移った。

 

 

 コイツは大本営の人間と共謀してワタシたちを騙していたことが露見した。これで艦娘たちは、コイツがワタシたちを騙し、酷使し、使えなくなったら捨てる。そんな使い捨ての兵器であるワタシたちに真実を教えなくていい、そう考えているのが分かっただろう。

 

 コイツがどんな手を使ったのかは分からないが、ともかく皆コイツの甘い言葉に騙されている。何としても打開させねばなるまい。

 

 

「皆さん、よく考えてくだサイ。初代の蛮行を見過ごし、頼みもしてないのに勝手に人間を押し付け、しかもその全員が役立たずばかり……そんな大本営が、たかが一人の言葉で支援を再開すると思いますカ? それもまだ着任して間もない、実績も名声もない、ただの新米のために支援をすると思いますカ? その間に何かしらの取引が交わされているのは明白デース。そして見落としているかもしれませんが、先ほど人間は私が『本当の目的を教えてない』と言った時に否定してまセン。つまり、貴女たちにも『本当の理由』を隠していマース。それは何故か、何故隠す必要があるのか……これでもまだ、この人間の言葉を信じますか?」

 

 ワタシの問いに今しがたそのことに気付いたのか、その場に居た殆どの艦娘の顔が強張る。そしてそれは猜疑心を孕んだモノへと変わり、一人一人の視線が人間へと注がれる。

 

 その視線に晒された人間はそれらと相対するようにゆっくりと周りを見渡した。その横顔には、何故か恐怖が浮かんでいない。少しも変わらない、真剣な表情が浮かぶだけだった。

 

 

 何故だ、何故少しも動じない。ワタシの言葉で再び艦娘たちは猜疑心を芽生えさせ、その目を向けている。状況は明らかに不利だ。なのに、何故人間は平然としていられるのだ。

 

 

 ふと、ゆっくりと動いていた人間の顔が止まり、次の瞬間頷いた。その視線の先に目を向けると、周りと同じように人間を見つめる吹雪。

 

 

 しかしその顔に猜疑心はなく、人間と同じ(・・)真剣な表情が浮かんでいた。

 

 

 

「さて、金剛。実は俺もお前に聞きたいことがある」

 

 

 ふと投げかけられた人間の言葉に振り返ると、人間は真剣な表情をこちらに向けていた。

 

 

 

「……何でショウ?」

 

「お前がそこまで『資材』と『補給』にこだわる理由はなんだ?」

 

 何を聞いてくるかと思えばそんなことか。そんなの先ほどから、出会って二日目の夜に言った筈だ。何度も聞かれようが、答えは同じだ。

 

 

「ワタシたちが食事(そんなこと)を必要としない『兵器』だからデス。何度も言わせないでくだサーイ」

 

「それは、『兵器だから資材以外口にするな』って初代が言い出したことだろ。強制していた奴が消えた今、どうしてそれを続けているんだ?」

 

「さっき貴方も言ってたでショウ? それしか自給出来なかった、その通りデース」

 

「当時はそうだ。でも今は食材があって、安定した供給が出来る。それなのに、どうして『補給』にこだわる?」

 

大本営(おまえら)が信用できないからデース」

 

 淡々とした口調の問いに、ワタシは詰まることなくスパッと言い切る。それを受けた人間は、何故か小さくため息を吐いた。何だ、何か不満でもあるのか。

 

 

 

 

 

「何度も言うが、艦娘(おまえ)たちは俺たちと同じ存在だ」

 

 

 不意に人間の口から飛び出した言葉。それは抑揚もなく、必要最低限の感情すらも籠っていない淡々とした口調であった。

 

 

 なのに、それはワタシの中の感情を大きく揺さぶってきた。

 

 

「お前も知っている通り、艦娘は妖精を目視、意思疎通できる『人間』が、特殊な訓練を経ることで誕生する存在。その過程の中で身体を改造するなんてこともなく、ただ艤装を装備でき、砲門を具現化し、艦艇の記憶と意識を宿しただけの、そんな特殊な能力を持った『人間』なんだ」

 

 淡々と続くその言葉。それを遮る言葉はいくつでも見つかった。しかし、それを口にする余裕はない。間欠泉のように噴き出してくる熱と感情を抑え込むのに必死だったからだ。

 

 

「勿論、『人間』と艦娘とじゃ違うところはある。でもそれと同等、もしくはそれ以上に同じところもある。『食事』をとれるし、食事や資材を食べなければ腹が減る。出撃をすれば疲労が溜まるし、睡眠や『食事』をすれば疲労もとれる。怪我をすれば痛いし、血も出る。まぁ、そんなもん入渠すればすぐに治っちまうが、人間が受ける応急処置や治療も効く。そして―――――」

 

 

 

「shut up!!」

 

 

 人間の言葉をかき消す様に、いや掻き消すために大声を上げる。突然大声を上げたことに周りの艦娘たちはビクッと身を震わせ、人間も口を閉じた。そして、周りの視線がワタシに集まってくる。

 

 

 腕から具現化した巨大な砲門を、人間に向けていたからだ。

 

 

「ワタシ……ワタシたち艦娘は『兵器』!! 『人間』ではなく『兵器』!! 人間(おまえら)なんかとは違うんデス!! これ以上……これ以上『同じ』なんて言ってみるネ!! 二度と減らず口を叩けない様、その身体もろとも消し炭にするデース!!」

 

 

 そう言い切ると、砲身からガコンと言う音が聞こえた。それは砲弾が装填された音、いつでも砲撃できると言う合図だ。引き金を引けばその瞬間目の前に居る存在全てを消し去れると言う、向けられた者への最後通告。

 

 

 しかし、最後通告を突きつけられてなお、砲門の前にいる人間が動じることはなかった。目の前で砲門を向けるワタシを、どこか憐れむような目で見てくる。それが、何よりも腹立たしかった。

 

 

「……つまり、お前は人間(おれたち)と一緒にされるのが嫌で、『食事』を拒んだってことか?」

 

「そうデース!! 人間と同じ存在、なんて考えるだけで虫唾が走り、吐き気を催しマース!! ワタシは艦娘が人間と同じ存在でないのなら、後はどうでもいいネ!! それが『兵器』でも『化け物』でも、『人間(おまえら)』と違う存在であればそれでいいんデース!!」

 

 

 ワタシは『人間』が嫌いだ。特にこの鎮守府にクソみたいな体制を作り、それを強要しほしいままに権力を振った初代が世界で一番嫌いだ。

 

 そんな初代を送り込んできた大本営が嫌いだ。その後、大本営から送り込まれてきた無能で使えない提督が嫌いだ。

 

 

 そして、今目の前で『人間』と同じだと言い張る、『共通点』と言うただのこじつけを片っ端からほじくり返すコイツが嫌いだ。大っ嫌いだ。

 

 

 ワタシはコイツなんかとは違う。艦娘たちのことを第一に考え、そして動いてきた。だから――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「なら、お前は初代(・・)と同じだな」

 

 

 ポツリ、と呟くように聞こえた人間の声。それはちょっとした音で掻き消されてしまいそうだったが、どうしてか、ワタシの耳にははっきりと聞こえた。

 

 

 

「……what?」

 

「だって、お前は『人間』と一緒にされたくないから食事を拒んだんだろ? それは艦娘全体じゃなくて、お前だけの個人的な(・・・・)理由だ。なのに、お前はそれを理由に他の艦娘たちの食事さえも否定した。個人的な理由を周りに押し付けたってことだ。それって、周りからの評価や欲望のために無理な出撃や食事制限、伽をお前たちに強要した初代と何が違うんだ?」

 

 ワタシの問いに人間は淡々とした口調で、あたかも事実を語る様に答えてくる。しかし、その言葉の殆どを理解することは出来なかった。今、頭の中にあるのは「初代と同じ」と言う言葉のみ。それを何度も繰り返し思い浮かべ、その意味を理解しようと噛み砕くのに必死だったからだ。

 

 

「勿論、他の艦娘たちも始めは食事を拒んだよ。初代が戒めた……金剛(・・)が戒めたようにな。でも、コイツ等は『人間と一緒にされたくない』なんて一言も言わなかったよ。ただ『生きていいのか』って、そう聞かれた。お前らがここに配属された時、『人間』の前にある大前提『生きている』ことを否定された、『生きていない』から食事を取ってはいけない、そう言ったよ。だから俺は言った。ここに配属されてからずっと『生きている』って、生きているから食事をする、そんな『当たり前』のことだって。そうしたら、皆食い始めた。笑ったり、泣いたりしながら食ってたよ。そこに『人間と一緒にされたくない』なんて理由は無かった」

 

 何を言っているんだ。人間と一緒にされたくない、これは皆思ってることだ。もし人間と一緒にされれば、大本営はおろかあの初代と同じになってしまう。そんなこと、誰が望むものか。どうして、進んでアイツらと同じ存在になろうとするんだ。あんな仕打ちをしてきたやつだぞ、そんなヤツと同列なんて死んでもごめんだ。

 

 

「そんなこいつらに、お前は『人間と一緒にされたくない』って言う個人的な理由を押し付けた。押し付け、従うよう強要したんだ。しかも、食事をさせないと同時に『生きる』ことを否定したんだ」

 

「違う!!」

 

 

 再び、大声を上げて人間を黙らせる。しかしその声には先ほどまでの勢いはなく、弱弱しい。人間に向けている砲門は小刻みに震え、同時に全身も震えている。込み上げてきた熱は目の辺りに集まり、熱い雫となって頬を伝っていった。

 

 熱が引いていくことで頭が冴えてくる。しかし、それはワタシに思考する余裕を与えることはなく、人間の言葉を用いて自問自答する時間のみを与えてきた。

 

 全力で否定したい。全部違う、そんなことない。ありえない、そんなつもりはないと。しかし、人間に言われた言葉を思い浮かべる度に、今までやってきたことに疑惑の目を向けてしまい、やがてその言葉通りに見えてくるのだ。それと同時に、今度は自責の念が込み上げてくる。

 

 

 どうして……どうしてワタシが初代と同じことをしたのだ。一番嫌いで一番憎い、今目の前に現れたら問答無用で消し炭にするほどなのに、どうしてワタシは初代と同じことをやってしまったのか。なんでそうなってしまったのか。なんでこんなことをしてしまったのか。ワタシはただ……―――――

 

 

 

「『あの子』に……」

 

「金剛さん」

 

 

 不意に聞こえた人間ではない声。振り向くと、真剣な表情の吹雪が立っていた。その手に料理が盛られた皿を携え、それをワタシに差し出しながら。

 

 

 

「これ、ワタシが作ったんですよ。食べてみてください」

 

 笑顔を浮かべて、吹雪はそう言いながらワタシの手に皿を押し付けてくる。突然横に現れた吹雪、そしていきなり皿を押し付けてくることに頭が回らなかったが、その皿を受け取ることは無かった。

 

 

 笑顔で皿を差し出してくる吹雪でさえも、人間と同じように見えたから。

 

 

 貴女もワタシを否定するのか。今までやってきたことを、初代と同じだと言うのか。今まで艦娘たちのことをかんがえてやってきたことを、全て否定するのか。そうなのか、否定するのか。

 

 

 お前も、ワタシを『初代』だと言うのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう思った瞬間、ワタシは片手を大きく振りかぶっていた。

 

 

 パァン!! と、乾いた音が食堂に響き渡る。その次に聞こえたのは食器が割れる音、次に何か重いモノが床にぶつかる音。

 

 掌に集まる熱と鋭い痛み。激しく乱れた息と滝のように落ちる汗。そして目の前に見える、粉々に割れた皿とグチャリと床に落ちる料理。

 

 

 

 そして、その横で寝そべる様に倒れ伏す吹雪の姿。

 

 

 その姿が、一瞬『あの子』に見えた。

 

 

 

「いn―――」

 

「吹雪!!」

 

 

不意に出たワタシの言葉をかき消したのは、叫ぶようにそう言って吹雪に駆け寄ったテートク(・・・・)であった。彼はピクリとも動かない吹雪を助け起こし、介抱を始める。その姿にワタシは駆け寄ることも忘れ、無意識の内に視線を上げた。

 

 

 見えたのはワタシや吹雪たちの周りを取り囲む艦娘たち。誰一人として状況を把握していないためか、全員が目を見開いて固まっていた。その中で、ふと一人の駆逐艦と目が合う。

 

 その駆逐艦は目が合った瞬間、その顔を強張らせた。思わず一歩引いたのが分かる。そして、強張らせた顔に既視感を覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今よりも昔に見た、『初代』を見る時の顔だ。

 

 

 それだと分かった瞬間、ワタシの身体は走り出していた。

 

 

「金剛!!」

 

 

 背後からテートクの声が聞こえる。しかし、その時に既にワタシは食堂の出口へと走り、扉に体当たりをかまして外に飛び出したところであった。

 

 飛び出した反動で上手く着地できずに転んでしまうも、すぐに立ち上がって再び走りだす。後ろから再びテートクの声が聞こえるも、振り返ることは出来なかった。今は一刻も早くあの場から離れることだけしか考えられなかった。

 

 全力で廊下を駆け抜け、転がる様に階段を下りる。途中、転んだリぶつかったりしたが、それでも足が止まることは無い。とにかく離れたい一心でがむしゃらに走った。

 

 

 

 

 どれぐらい走ったであろう。後ろから声も聞こえない。少なくとも、食堂からは離れることが出来た。追ってくる子もいない。

 

 それが分かった瞬間、心臓を握り潰されそうな痛みが襲ってきた。同時に肺から空気が込み上げ、次の瞬間激しく咳き込む。咳をするごとに涎や鼻水が飛び散り、視界は涙で霞んで良く見えない。

 

 

 そう思った立ち止まった瞬間、足の力が一気に抜けた。次に全身の力が抜け、そのまま床に倒れ伏した。傍から見れば、その姿は糸が切れた人形みたいだったかもしれない。しかし、そう思う間もなく視界が一気に暗くなり、同時に全身の感覚が遠退いていく。

 

 

「……!!」

 

 

 遠くの方で声が聞こえ、同時にバタバタと足音が聞こえる。一体、誰だろうか。いや、この声は聴いたことがある。誰だったか、よく聞いた声だ。そして、何故か懐かしい。

 

 

 誰だ?

 

 しかし、その答えにたどり着く前にワタシの意識は途切れた。



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軽空母の『嗅覚』

『もう……ダメ……みた……す』

 

 私の腕の中で、『彼女』は苦笑いを浮かべて呻き声を上げた。

 

 その顔、そして全身には無数の火傷に大小様々な裂傷が刻まれ、そこから血が止めどなく溢れ出ている。その背中に背負う艤装からは甲高い金属音と共に無数の煙と火花が飛び散り、艤装としての機能が完全に失われていた。艤装がただの重しとなった『彼女』の身体は、まるで引き込まれるように(した)へと沈んでいこうとしている。

 

 『彼女』を抱きかかえるワタシ、苦渋に満ちた表情でそれを見据える艦娘たち。ワタシたち、そして敵であっても、助かる見込みはないと判断するだろう。それほどまで、『彼女』はボロボロだった。

 

 それでも、ワタシは沈めまいと『彼女』を抱き抱える腕に力を入れる。ワタシも助かる見込みが無いと判断している。恐らく、『彼女』も助からないと諦めているだろう。それでも、ワタシはその身体を離さなかった。頭では助からないと分かっていても、別の何か(・・)が決して諦めることが出来なかった。

 

 突然、ワタシは側の艦娘()に向けて喉がはち切れんばかりに声を上げる。自分が何を言おうとしたのか、何故かワタシの耳には聞こえなかった。それでも、その艦娘は歯を食い縛りながら力強く頷いた。

 

 

 それと同時に周りの艦娘達が一斉に動く。

 

 

 ある者は無線を駆使して通信を試み、ある者は腕のカタパルトから偵察機を発艦させ、ある者は砲門を構えながら周りに鋭い目線を走らせた。各々が安全の確保に全勢力を注いでくれる。今、新手の深海棲艦が現れてもある程度の対処は可能、これで周りの安全は確保された。

 

 

 後は、ワタシが『彼女』を連れて帰ればいい。ただ、それだけだ。

 

 

『金……ごぅ……さ……』

 

 不意に、腕の中で『彼女』が声を出した。すぐさま『彼女』の方を見る。『彼女』はおもむろに手を伸ばして私の頬に触れ、口を開いた。

 

 

 

『     』

 

 

 

 

 

 彼女が何と言ったのか理解できなかった、いや理解する()がなかった。何故なら、その瞬間に彼女が(・・・)ワタシの胸をおもいっきり突き飛ばしたからだ。

 

 

 

 突然の衝撃にワタシの体勢が崩れ、彼女の身体から腕が離れてしまう。何とか倒れないよう体勢を立て直すワタシの耳に、重たいモノ(・・)が水に落ちる音。

 

 すぐさま視線を上げると、目の前には大きな水柱――――の影に見えた、小さな手のひら。

 

 

 それを見た瞬間に喉元まで込み上げてくる言葉。それを抑え込む術も余裕も、今のワタシには無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気付いたら、ボンヤリと霞む視界に白い天井が映った。そして何かを掴もうと天井に伸びる白く細長い腕、ワタシの腕。

 

 あまりの状況の変化に戸惑っているワタシの視界に人影が映った。

 

 

「お目覚めかい?」

 

 

 ポツリと聞こえた声。それは何処か聞き覚えのある、目まぐるしく変わる状況に対応できない頭でも、その声が誰か把握できるほど、馴染み深い声。

 

 

 

「……響デスカ?」

 

「ご名答。響だよ」

 

 ワタシの言葉に、響はそう返す。その飄々とした口調、そしてボンヤリと映る視界の中で彼女の癖である帽子の唾を掴んで下げることで、彼女であると分かった。

 

 

「ここは……何処デスカ」

 

「君の部屋だよ。昨日の朝、雪風に食堂に来るよう誘われたんだけど、前日に残しておいた艤装の整備があったからそれが終わり次第向かうことにしたんだ。そして整備も終わっていざ食堂に向かおうとしたら、廊下で君が倒れているのを見つけてね。すぐに皆を呼んで此処まで運んで、その後は皆で交代しながら番をしてたのさ。それで今、ちょうど私の時に目を覚ましたってわけ」

 

 淡々とした口調の説明は、廊下で倒れてから途切れた記憶と合致した。彼女の言葉通り、ワタシは廊下で倒れてから今まで意識を失っていたのだろう。それよりも、昨日の朝と言うことは……。

 

「……どのくらい経ちましたカ?」

 

「丸1日と半日ぐらいかな。因みに、今は2回目の番だよ」

 

 1日と半日、それだけ意識を失っていた。我ながら長過ぎだと思うし、それだけ意識を失っていたとなると執務も溜まっているだろう。今からそれを片付けると思うと……これもテートクが原因だ。

 

 

「北上の検診によると、疲労の蓄積による心身の衰弱が主な原因。そこに高ぶった感情と形振り構わない衝動が加わって倒れたらしいよ。ここ数日、ちゃんと休んでいたかい?」

 

 ワタシの考えを見透かしたのか、響はカルテらしい書類がまとめられたボードを手に呆れた顔を向けてきた。テートクも原因であると言い張ろうと思ったが、その鋭い視線にいたたまれなくなって黙って視線を逸らしながら身体を起こす。その視界の外で彼女の溜め息、そしてが何かを机に置く音が聞こえた。

 

 それを確認して、ワタシはどうしても聞きたかったことを口にした。

 

 

 

「響は……食堂のことを聞きましたカ?」

 

「聞いたよ。君が吹雪を殴ったことも」

 

 

 響の返答に、ワタシは身体中の血の気が引いていくのを感じる。しかし、頭では自分に対する非難の言葉が浮かんでいた。

 

 当たり前だ、あの時から1日以上経っているのだ。知らない方がおかしい。よくよく考えれば分かっていたことではないか。何でこんなバカな質問をしたのだろう。

 

 それと同時に、そんな質問をした理由も浮かんでいた。ワタシは、単に『味方』が欲しかったのだ。テートクの言葉に惑わされない、ワタシの傍に居てくれる艦娘を。

 

 

 しかし、それは彼女の言葉で脆くも崩れ去った。鎮守府(ここ)に、ワタシの味方はいないと、そう悟ったからだ。

 

 

 

 

「でも、君は『初代』と同じなんかじゃない」

 

 

 不意に聞こえた響の言葉。その言葉に、ワタシは顔を上げて彼女の顔をマジマジと見つめた。

 

 

 

「確かに、艦娘(わたし)たちは『人間』との決別なんて望んでないし、君はそれを目的に色々なことを強要した。でも、それはただ『人間との決別を図りたい』と言う願い(・・)であって、初代のような小汚い欲望や野望なんかとはまるで違う。あの時司令官が言ったのはそんな見方も出来るよ、ってだけ。言ってしまえば、ただの『屁理屈』さ。まぁ、君が彼に今まで言い続けてきたことも、そして私のこれも『屁理屈』と言われればそれで終わりだけどさ」

 

 響の淡々とした言葉。それは小さいながらも、しっかりと通る声で、ワタシの耳に届いてきた。その言葉はワタシにのしかかる重みを解く半面、別の重圧をかけてきた。

 

 

 何故なら、彼女はワタシの味方でもテートクの味方でもない。どちらにも加担しない、第三者目線の言葉だからだ。

 

 

「今回の……と言うよりも、今までの君と司令官の争いは、もう『理屈』ではどうにもならないんだ。『理屈』でどうにもならない状況だ。だから、互いに正論の皮を被った『屁理屈』をこね続け、それに押し負けた君が感情を爆発してしまったんだよ。知ってるかい? 水掛け論の必勝法は、いかに相手の感情(ボロ)を引き出せるか…………そら、ボロが出た」

 

 

 響は途中で言葉を切り、窘めるような表情でワタシの顔を覗き込んでくる。それに思わず顔を背けると、彼女そう言って苦笑いを浮かべた。

 

 

「まぁ、感情を露にすることが全て悪手って訳じゃないよ。理屈や屁理屈は楽に片が付く反面、使える場面は限られるから万能ではない。逆に、感情は理屈や屁理屈の前では悪手になってしまう反面、それらが通じない場合は非常に強力な理由となる。感情は使いようによっては自爆材にも、強力な理由(ぶき)にもなるのさ」

 

 そう言って肩を竦める響を、ワタシは黙って見つめ続けた。

 

「でも、私からすれば今回は司令官の方が酷いと思うよ。何故なら、彼は『鎮守府(ここ)のことをよく知らない』ことを武器にしたんだから。過去にここで何があったか、それが私たちにどれだけ傷を負わせたのか、君が今までどんな思い(・・・・・)で司令官代理をしてきたのか、司令官はそのほとんどを知らない。でも、彼はそれを逆手にとって、『無知』という免罪符で君にあんな酷いことを言ったんだ。たぶん、彼は自分の言葉で君が傷つくことを知って、それが免罪符になると踏んでいた(・・・・・)と思うよ。誰かの入れ知恵かもしれないけど」

 

 

 つまり、響の言葉はこうだ。彼は傍から見ても相当酷い言葉を投げかけた。しかし、それは彼が着任して間もないために『よく知らなかった』から、誤って(・・・)そんな言葉を投げかけてしまった。これは一概に彼を責められない、もしくは仕方がない(・・・・・)ことなのだ。

 

 

 そう、傍から映るかもしれない。テートクはそうなると分かっていた上で、敢えてその間違いを犯したのだと、彼女は言っているのだ。

 

 やはり人間は汚い。だが、周りの艦娘たちが彼の思惑をそこまで理解しているのかは分からないし、何よりその術中に嵌ってしまったのは紛れもなくワタシの過失だ。ワタシ自身にも責任がある。

 

 それに、皆の前で『感情』に突き動かされて吹雪を殴ってしまった。これはワタシでも弁論の仕様もなく、艦娘たちに最悪の印象を与えてしまった。恐らく、彼女たちの目には初代の再来として映っただろう。

 

 

 これらを踏まえて、改めてワタシは味方がもう居ないことを再確認できてしまった。それはつまり、こういうことを表している。

 

 

 

「ワタシの居場所、もう無いんデスネ」

 

 

 ポツリと漏れた言葉。それは小さな小さな呟きであった。しかし、ワタシはそう呟いた後、響は帽子の唾を下げながらこう言った。

 

 

「なら、確かめてみるかい?」

 

 

 響の消え入りそうな小さな問いかけ。その瞬間、コンコンとドアがノックされた。

 

 

「いいよ」

 

 部屋の主であるワタシを差し置いて響が許可を下す。それを受けて、ノックした人物がドアを開けて入ってきた。

 

 

 

 

 ワタシを術中に嵌め、鎮守府から全ての居場所を奪った男―――テートクだ。

 

 

 部屋に入ってきた彼はワタシを見て一瞬表情が強ばるも、すぐに表情を引き締めて近付いてきた。

 

 

「いつ起きたんだ?」

 

「ついさっきだよ」

 

 テートクが響に問いかけ、彼女は何事もないように返す。それを受けたテートクは、響からワタシに視線を変えた。彼と目が合うと思った瞬間、ワタシの視線は彼から外れ、シーツを握り締める己の手に注がれた。

 

 

 

「気分はどうだ?」

 

 

 遠慮気味にテートクが問い掛けてくる。しかし、ワタシは答えなかった。いや、正確には答えられなかったのだ。

 

「まだ、優れないみたいだな」

 

 頭上からテートクの声が聞こえる。少しの凄味も威圧するような重厚感もない、普通の声色だ。でも、ワタシの耳には、この世で最も恐ろしい言葉のように聞こえた。

 

 

「響、席を外してくれるか?」

 

一向に応えないワタシを尻目に、テートクは響にそう言った。その瞬間、ワタシは視線をそう言われた響に向ける。テートクとワタシ、二つの視線に晒された彼女は少しも考えることなくこう答えた。

 

 

「分かったよ」

 

「ひびッ!?」

 

 予想外の答えに思わず声が出るも、彼女はまるで聞こえてないかのように反応しない。テートクに向けて敬礼をし、ワタシを一瞥することなく部屋から出て行こうとする。

 

「金剛」

 

 その後ろ姿をワタシが呆然と見つめる中、彼女はドアノブに手を掛けた時に思い出したように声を上げた。

 

 

 

「さっきまで私が言っていたことは信じなくていい。だけど司令官の言葉は、今だけ(・・・)は、どうか信じてほしい」

 

 

 こちらを振り返すことなくそう言い残し、響は部屋から出て行った。あとに残されたワタシ、そしてテートクは一言も発することなく、彼女が出て行った扉を見続けため、しばらく部屋は沈黙に包まれた。

 

 

「金剛」

 

 その沈黙を破ったのは、テートクだった。その言葉にワタシはビクッと身を震わせ、彼と目を合わせない様、視線を自分のシーツに移した。

 

 

「こっちを向いてくれないと、話が出来ないんだが」

 

 頭上から、彼の声が聞こえる。しかし、それでもワタシは顔を上げることが出来なかった。現実では昨日のことだが、ワタシの意識ではつい先ほど激しい言い争うを演じながらその術中に嵌め、1日にしてワタシの立場を陥れた人間の顔を、どうして見れるだろうか。絶対、見れるわけがない。

 

 

「まぁいい。正確には話じゃなく、事後報告(・・・・)だからな」

 

 いつまでも経っても反応しないワタシに、テートクはそんな言葉をかけてくる。話ではなく事後報告、と言うよりも、私への断罪と言った方が正しいだろう。あれだけのことをやらかしたのだ、何も罪に問われない方がおかしい。

 

 

 

「先ず、昨日付けでお前を秘書官の任から解いた。これからは俺と秘書艦に志願した日替わりの艦娘、そして補助の大淀で執務を行うことになった」

 

 

 テートクの口から零れた言葉。妥当な判断だ。なにせワタシは秘書官に任命されただけ、それだけの艦娘だ。『テートク代理』なんて言い張ったが、そんな役職はない。勝手に言い張って、勝手に鎮守府を運営していただけだ。それ以下は無数に存在するだろうが、それ以上は絶対にない。

 

 秘書艦を日替わり制にしたのは、恐らく今後ワタシのような艦娘を出さないための対策だろう。大淀は主にテートクが執務をこなせるようになるまで補助に就かせ、彼が執務に慣れてくれば別のことをさせる。最終的には彼の一本化にするのが目的だろう。

 

 最終的には鎮守府の全てのことを彼が掌握することになる。本来、それが普通なのだ。しかし、ワタシには今目の前でそう話すテートクが、何故か初代(あのおとこ)と重なって見えた。でも、今のワタシではどうすることも出来ない。

 

 

「そして、今後は他の鎮守府や大本営とも連携を取る予定だ。あくまで予定だから今後色々と混乱するかもしれない、そこから正式な支援を取り付けられるかは分からないが、今後のことを考えてもここで関係を修復する。状況的に安全であると判断すればだが、あちらから送られる人員も受け入れるつもりだ」

 

 

 大本営との関係修復。いつものワタシなら、この言葉を聞いた瞬間彼を殴り飛ばしていただろう。しかし、今はそんな気持ちが一切湧いてこない。むしろ興味が湧かない、今まで散々食い下がったモノがどうでもいいように感じていた。

 

 

 そんな気持ちになっているワタシに、彼は今後の鎮守府の体制で変わった点を教えてくれた。

 

 

 先ず、出撃について。これは艦娘たちの希望を元にスケジュールを組み、月の8日は半日、その内4日は終日の休暇を設けることとなった。まだ調整中ではあるが、これが安定すれば艦娘一人一人にかかる負担を抑えた上で、全艦娘が十分な休息をとれるようになるのだとか。

 

 次に、食事について。これは出撃を控えた者のみが燃料と弾薬を補給、その日出撃がない者や出撃を終えた者、そして夕食は全艦娘が食堂で出される食事をとることになった。これも調整中ではあるが、安定すれば資材の消費を抑えることが可能となり、艦娘たちの士気も維持が出来るだとか。因みに、艦娘たちが食べる食事は、間宮と10人程度の週替わり当番制を設けて対応するらしい。

 

 そして、先ほど述べた秘書艦の交代制。その内容は先ほど彼が言っていた通りなのだが、他の二つとはある点で違っていることにワタシは気付いた。

 

 

 それは、既に施行(・・)されていること。他の二つは調整中にあるにもかかわらず、何故かこれだけは今、現在進行形で機能しているということだ。

 

 

「何故、秘書艦だけは既に動いているのデスカ?」

 

 無意識の内にポツリと零れた言葉。それによって、テートクの話は途切れた。話を途中で途切れさせられた彼であったが、その顔に不満げな表情を浮かべることはなく、淡々とした口調でこう言った。

 

 

 

「艦娘たちが、お前を秘書艦の座から降ろして欲しい。そう言ったからだ」

 

 

 その言葉を聞いて、ワタシは少しも驚かなかった。だって、今まで散々思い知らされてきたことではないか。ワタシの味方は、居場所はもう存在しない。分かっていたことだ、今更絶望なんてしない。ただの事実として受け入れられ、何かが吹っ切れた。

 

 

 そして、それは同時に鎮守府への『存在意義』が消えたことを表していた。

 

 

 

 

 

「解体してくだサーイ」

 

 

 ポツリと、ワタシは呟いた。普段よりも少しトーンが低いがそれ以外は普段と変わらない、いつも通りの口調で。

 

 返答はない。ワタシはいつも通りの顔でテートクを見上げる。先ほどまでは絶対に見られないと思っていたのに、吹っ切れたせいかその感情すら感じなくなっていた。その日、ワタシは初めてテートクと視線を交わした。

 

 

 彼は食堂と同じように憮然とした表情をしていた。しかし、その唇は固く結ばれ、その目に焦りが見えた。

 

 

「解体してくだサイ、テートク。ワタシは上司である貴方に逆らったんデスヨ? 上司への反抗は軍規違反、そして今までワタシが犯してきた罪は山よりも高く海よりも深いはずデース。だから極刑に、あなた達で言う死刑にしてくだサイ。解体が生ぬるいなら、今から単艦で出撃してきましょうカ? 装備も全て降ろして、必要最低限の燃料だけ補給して、深海棲艦の餌食になってきましょうカ?」

 

 

 再び、ワタシはそう言った。しかし、彼は一言も発しない。

 

 

「どうしました、何故何も言わないんデス? あなたはこれが目的なんでショ? ワタシを陥れて鎮守府を掌握する、それは達成したんデスヨ。あとはどうするか、邪魔な奴を始末すればいいんデス。ほら、何か言ったらどうデス? 何で何も言わないんデスカ? 何で黙っているんデスカ? 何で何も言い返さないんダヨ? 言いたいことがないんデスカ? 何か言ってみろヨ……言えヨ、言えって言ってるダロ!! ナァ!! 言え―――」

 

 

 いつの間にか怒号に変わっていたワタシの言葉が途切れる。それは、テートクがおもむろにポケットに手を突っ込み、折りたたまれた紙を差し出してきたからだ。

 

 

「What?」

 

 ワタシは差し出された紙、そして差し出してきたテートクを一瞥しそう言った。しかし、彼は頑なに口を開こうとせず、ただ紙を差し出すだけ。彼が何も言うつもりは無いと判断し、ワタシは差し出してきた紙を受け取って中を開いた。

 

 

 それは手紙だった。それも、書いては消してを繰り返したのかその紙は所々黒く汚れており、水滴が落ちたかのように灰色の斑点が付いている。そんな紙の中央に、こう書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『金剛さんを解体しないでください』

 

 

 その一文を読んで、ワタシの思考は停止した。

 

 

「それ、ついさっき駆逐艦から貰った嘆願書だ。それだけじゃない。執務室に行けば、それと同じものが山ほどある」

 

 ふと聞こえたテートクの言葉。それに思わず彼を見る。そこには先ほどの憮然とした表情ではなく、力無い苦笑いが浮かんでいた。

 

 

「確かに、艦娘たちはお前を秘書艦から降ろすよう言った。でも、それと同時に解体処分にしないことも言ってきた。そして、ついさっきをもってお前以外の艦娘全員が嘆願書(これ)を渡してきた。この意味、分かるか?」

 

 テートクが問い掛けてきた。しかし、ワタシは頷くことが出来ない。嘆願書が示す意味の前に、まずこれの存在自体が理解出来ないから、その意味まで考える余裕がないのだ。

 

艦娘たち(あいつら)は、お前のことを少しも恨んでない。これ以上負担をかけないために秘書艦を降ろさせ、軍規違反で解体されないように、こうして嘆願書を持ってきた。つまり、金剛を助けようとしているんだよ。だから解体しないし、俺も元々解体する気もない。まぁ、俺が言っても説得力ないかもしれないけどさ。でも――――」

 

 

 そこで言葉を切ったテートクはその場で膝を折って座ってるワタシと同じ目線になり、シーツを握るワタシの手に触れ、こう言った。

 

 

 

 

「俺のことは信じなくてもいい。でも、艦娘たち(あいつら)のことを、あいつらがやってきたことを、信じてやってほしい」

 

 

 真っ直ぐ、片時も目線を外すことなく彼はワタシを見据えてそう言い切った。その言葉、その表情、その視線に、止まっていた思考が動き出す。そして、たどり着いた言葉を吐いた。

 

 

 

 

 

「どう信じればいいんデスカ?」

 

 

 その言葉が零れた瞬間、テートクの表情から光が消えた。そして何か言いたげに口をモゴモゴしているのを尻目に、ワタシは淡々と言葉を吐き出す。

 

 

「響はテートクを、テートクは艦娘を信じろと、そして互いに自分のことは信じなくてもいい、と言いましタ。響の言葉を信じるならあなたを、あなたの言葉を信じるなら艦娘たちを信じることになりマス。でも、あなたの言う艦娘たちには響も含まれていますが、あの子には自分の言葉を信じる必要はないと言われましタ。でも、あなたの言葉を信じるにはあの子を信じなければならないんデス。あなたたちのどちらを信じても、どちらも信じることが出来ないんデス。どうすれば……どうすればいいんデスカ?」

 

 

 テートクと響は、互いに自分を信じなくてもいいから艦娘を、テートクを信じろと言っている。どちらか片方を信じても、どちらも信じても、結果はどちらも信じるな、と言うことになる。つまり、二人が言っていることは矛盾している。それは答えがない問題を渡されて答えを導き出せと言われていることと同じ、不可能(・・・)なのだ。

 

 

 だから、ワタシはテートクに問いかけた。この答えのない問題を解く方法を、テートクや艦娘たち両方を(・・・)信じることが出来る方法を知っているのであれば。

 

 

 

「……残念だが、それに答えることは出来ない。問いかけておいた手前、すまなかった」

 

 

 しかし、彼はその問いに答えず、代わりに謝ってきた。その姿を見たワタシは、彼から手にある嘆願書に視線を落とした。

 

 

「最後に、お前の処分についてだ。合議の結果、無期限の謹慎処分だ。それが解けるまで、出撃や演習に参加すること、そして鎮守府の敷地外に出ることは禁止だ。取り消しのタイミングについては、客観的に可能でないと判断しない限り、お前の意見を尊重した上で決める。だから……」

 

 

 そこで、テートクは何故か言葉を切った。ほんの一瞬沈黙が生まれるも、それは彼がいきなり立ち上がったことで破られ、嘆願書に移っていたワタシの視線が再び彼に注がれる。

 

 

「十分に頭が冷えて、通常の任務に就いても何ら支障がないと判断したら、傍にいた艦娘にでも言ってくれ」

 

 

 それだけ言って、彼はクルリと背を向けてドアに近付いていく。その後ろ姿をワタシはずっと見つめていたが、やがて視界は薄い膜でも張られてしまったかのようにぼやけてしまう。

 

 そして、ドアが閉まった。その瞬間、ワタシの口から小さな泣き声が漏れる。一度漏れた泣き声は洪水のように止めどなく溢れていき、視界をぼやかしていたものは無数の涙となり、頬を伝って嘆願書に落ち始めた。

 

 

 

 溢れてくる涙が枯れ切った時、手にあった嘆願書は黒ずみと灰色の斑点で文字が滲んで読めなくなっていた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「『休んでくれ』なんて、俺の口から言えねぇよな」

 

 金剛の部屋を出て執務室に向かう途中、俺はそうため息を溢した。

 

 

 大淀や今日の秘書艦である榛名と一緒にある程度書類を捌いたとき、気分転換がてらに金剛の様子を見に行ったら目を覚ましててびっくりしちまったよ。なんとか表面上は取り繕ったけども、バレていたんだろうなぁ。

 

 そして、番をしていた響に席を外させて金剛に今の鎮守府の現状、そして彼女の処分を言い渡した。現状について話しているとき、彼女はあまり聞いていなかったんだろうな。無理ないよな、今まで自分が敷いてきた体制をまるっと変えてしまったんだから、面白いわけがない。

 

 

 それにアイツ(・・・)の予想通り、金剛は解体を申し出てきた。たぶん、この状況の鎮守府で過ごす自分が耐えられなかったと思うが、その前に聞いてきた質問から見るに自分以外の艦娘たちが俺側についてしまったと勘違いしたんだろう。打つ手が思い付かずに一言も発せなかった俺に怒号を浴びせたのも、俺がそのことを隠しているとでも思ったんだろうな。実際は違ったんだが、あの時は本当に危なかった。部屋に行く前に嘆願書を受け取らなかったらどうなっていたか……。

 

 と言うか嘆願書、この嘆願書だ。

 

 会ってきて分かったが、今、金剛に必要なのは十分な休息と一人になるための時間だ。一応、禁止しているのは鎮守府の敷地外ってだけで鎮守府内は自由に歩けるものの、他の艦娘と顔を会わせることを避けるだろう。そこに無理に艦娘たちが会いに行けば、それが今の精神状態の金剛にどんな影響を及ぼすか分からない。恐らく、良い影響を与えないのは確かだ。

 

 でも、嘆願書なら直接会わなくても言葉が伝わるし、金剛が処分しない限りはずっと残るため彼女に時間的余裕を与えられる。そして書かれている言葉が変わらないから、さっきの俺と響のようにどちらの言葉が本当か嘘か分からなくなることはない。つまり、金剛のペースで艦娘たちの言葉と向き合うことが出来るのだ。

 

 

 初めて持ってこられた時は驚いたが、ここまで読んだのは流石第3艦隊旗艦(・・・・・・)と言うべきか。

 

 

 

「司令官?」

 

 

 そんなことを思っていると、後ろから声を掛けられた。振り返ると、小さな土鍋とお椀を乗せた盆を持った吹雪が立っていた。しかし、その背中には華奢な彼女には不釣り合いな武骨い艤装を背負っている。

 

 

「ご苦労さん、吹雪。それは金剛の分か?」

 

「お疲れ様です。はい、帰投した時に響ちゃんから金剛さんが目を覚ましたと聞いたので、艤装も外さずに来ちゃいました。あ、第3艦隊(・・・・)の戦果報告は後で必ず行くので、今は見逃してもらえませんか?」

 

 そう言って、吹雪は苦笑いを浮かべる。しかし、俺は苦笑いを浮かべる彼女の目が、赤く充血しているのを見逃さなかった。

 

「構わない。別に吹雪じゃなくても他の奴に報告させていいんだぞ?」

 

「いいえ、大丈夫です。報告も私の役目ですし、あまり長居をするのもあの人に悪いですから。では、失礼します」

 

 そう言って吹雪はクルリと背を向けると、逃げるように走り出した。しかし、その足は俺が彼女の腕を掴んだことによって止まる。

 

 

「……俺が言うのもなんだが、お前だけが背負う必要は無い。俺だけじゃない、皆背負う覚悟だ。だから――――」

 

 

「司令官」

 

 

 俺の言葉は、吹雪の一言によって遮られてしまう。俺が黙ったのを確認して彼女は再びこちらに向き直り、涙が浮かぶ顔のままこう言った。

 

 

 

 

 

「覚悟じゃないんです。背負いたい(・・・・・)んですよ。私は、あの人を」

 

 

 それだけ言うと、吹雪は一礼をして今度こそ走っていった。その後ろ姿を、俺はただ見つめることしか出来ない。やがて彼女の後ろ姿が見えなくなる。それを確認してから、俺は執務室へと歩き出した。

 

 

 

「司令官」

 

 

 再び声を掛けられる。それは先ほどの吹雪の同じ言葉であったが、関西訛り(・・・・)の効いた独特なイントネーションで発せられたため、振り返るよりも前に誰であるかが分かった。

 

 

「龍驤か」

 

「そうやで」

 

 振り返った先には、少し離れた場所からいつもの柔和な笑みを浮かべた龍驤が手招きしていた。なんだろ、口調も相まってきな臭さが尋常じゃないんだが。

 

 

 

 

「何か用か?」

 

 

「急ぎの話があるんや。付き合ってくれへん?」

 

 そう言って、再び笑みをこぼす龍驤。しかし、その笑みにはいつもと違い言い知れぬ威圧感があり、思わず腰が引けてしまった。その様子を見てか、龍驤はクルリと背を向けると、手でついてこいと合図をしながら歩き出してしまう。

 

 

 その後ろ姿、そして言葉の重圧に無視できないと判断し、俺はその後を追った。



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新米提督の『胸中』

「とうちゃーく」

 

 間の抜けた声と共に目の前の龍驤が足を止める。それに一瞬遅れて止まる俺に、彼女はクルリとこちらに向き直り、とあるものを指さした。その顔にはいつもの笑みが浮かんでおり、片方の腕は後ろに回している。見た感じ、飛び掛かられる様子はない。それを確認して、俺は指差す方に目を向けた。

 

 

 それは古めかしい樫の木で出来た扉。ボンヤリした光が点々と奥へと続く長い廊下にポツンと浮かぶ、そんな何の変哲もない只の扉であった。

 

 年期を感じられるも扉自体は傷んでいる様子はなく、隅々まで手入れが行き届いている。埃が積もっていないのを見るに、今でも使われるのだろう。なら此処は何だ? 資料室なら執務室の横にあるから、倉庫辺りだろうか。

 

「入りますよー」

 

 此処がどのような場所であるかを熟考している俺を尻目に、龍驤は間の抜けた声を上げながら扉を開けて中に入る。それに気付いて俺は慌ててその後を追って中に入った。

 

 

 中に入って最初に感じたのは、鼻を刺すような金属と油の匂いだ。あまりに強烈な匂いに鼻を摘まみたくなるが、前の龍驤は慣れているのか特に気にすることなく悠々と進んでいく。その姿を見ている内に目が暗闇に慣れ、其処は俺の背丈を優に越える棚で囲まれているのが分かった。

 

 

 暗闇で何が置かれているかは分からないが、やはり倉庫だろう。でも、たかが倉庫に頻繁に出入りするのか? なら、何か特別なモノがあるとか。

 

 

「此処はウチら空母が乗せる艦載機を作り出す……『儀式場』って言えばウチ的にしっくりくる。ま、謂わば空母専用の工厰みたいなもんや」

 

 

 暗闇の中で龍驤の声が響き、同時にボンヤリと光が現れる。それは天井の光ではなく、壁に掛けられたガス灯でもなく、龍驤の指先から発せられる小さな光だった。光によってぼんやりと照らされる彼女の片手には、不思議な模様が書かれたお札。

 

 その光景に首をかしげる俺を尻目に、龍驤は笑みを浮かべながらお札に光を近付けた。

 

 

 その瞬間、お札は光の中に吸い込まれてしまう。突然の光景に俺は声を上げようとするも、口から出たのは息を呑む音だけ。

 

 何故なら、次の瞬間に鋭い羽音と共に光から一回り小さい艦載機が飛び出し、彼女の掌に降り立ったからだ。

 

 羽音は掌に降り立つと同時に止む。その後、艦載機は沈黙を保っていたが、その操縦席らしき場所から戦闘服に身を包んだ妖精がひょこっと顔を出した。

 

「ウチは(これ)が、他の空母は矢が艦載機になるのは知ってるよな? 艦載機を作り出すカラクリはちょいと奇っ怪やけど、簡単に言えば資材で作った特殊な塗料で専用の呪詛を札や矢に刻む。すると、刻まれた札や矢に艦載機と操縦士が宿るっちゅう寸法や。せやけど、これがくじ引きみたいなモンで何が出るかはウチらでも分からんのが痛いな。何でも、先の大戦で艦艇(じぶん)が乗っけてた艦載機が宿ることが多いらしいって話や」

 

 そう言いながら、彼女は掌の妖精の頭を軽く撫でる。撫でられた妖精はくすぐったそうに頬を綻ばせるも、龍驤の手が離れると名残惜しそうにいそいそと操縦席に帰っていった。

 

 てか艦載機ってそんな生まれ方なのかよ。世の科学者もビックリのトンデモ現象過ぎるわ。でも妖精なんてファンタジーな存在も居るわけだし、気にしない方がいいか。

 

「でも、なんで工厰と別になってるんだ? メンテナンスとか大変だろ?」

 

「それは単にスペースの問題っていうのもあるけど、一番は塗料、特にこの強烈な臭いやなぁ」

 

 そう言いながら、龍驤は光が灯る手で傍の『艦載機用』と書かれた大きな箱を叩く。あぁ、この匂いって塗料なのか。なら別にするのも頷ける。駆逐艦とか、身体の小さな艦娘とかは敏感そうだし。

 

 

 と、そんな空母専用工廠の話は置いておいて、もう本題に移ろう。

 

 

「それで? 話って?」

 

「そんな急かさんでもええやん。もうちょい、雑談しようや」

 

 俺の言葉にわざとらしく頬を膨らませる龍驤。いや、『急ぎの話』って言ったのお前じゃねぇか。何で雑談するんだよ。それにこっちも暇じゃない、その辺の一般人が見ても少なくないと感じるぐらいは書類が溜まってるんだよこんちくしょう。

 

 

「急がなくていいなら俺は戻るぞ」

 

「ごめんごめん、冗談や」

 

 そう言いながらドアの方を振り返って帰ろうとした時、後ろから龍驤の声と共に羽音が聞こえる。その直後、俺の真横を何かが通り過ぎた。ちらりと見えた黒いボディから、多分艦載機だ。

 

「なら、雑談(・・・)はここまでや」

 

 

 再び後ろから龍驤の声が。それに振り返ろうとした瞬間、俺の視界は突然強烈な光に包まれた。

 

 

「ッ!?」

 

「電気を付けただけやで?」

 

 突然の光に声を上げて目を庇う俺の耳に龍驤の呆れた声が聞こえる。その言葉、そしてそれ以後何も身体に変化がないことで、自身に危険がないのは分かった。でも、やはりここにいると、反射的に身を守ってしまうのは仕方がないことだろ。

 

 取り敢えず顔を庇っていた手を下し、目を開けてみる。真っ暗な空間でいきなり電気を付けられたため、目が光に慣れてないのかぼんやりとしている。しかし、それも徐々にハッキリとしていき、改めてこの部屋の全体像が見えてきた。

 

 

 俺が立っている場所の周りには入った時に微かに見えた大きな棚で囲まれており、その棚には艦載機の工廠らしく大小様々な艦載機が鎮座している。そして、その艦載機の横にはその操縦士らしき妖精たちが立っていたり、座っていたり、寝そべっていたり、2、3人で寄り添ったりしながら、俺に視線を注いでいる。

 

 

 傍から見れば、とてもほのぼのとした光景に見えただろう。でも、その光景に俺はほのぼのどころか壮絶な悪寒を感じた。いや、感じざるを得なかった(・・・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 何故なら、その全員の手に鈍く光る銃火器。それは彼らの視線と同じように、その黒光りする銃口の全てが俺に注がれていたからだ。

 

 

 

 

「ここからは曙が言った通り、『お話』といこうや」

 

 

 そんな光景の中、ふと投げかけられた龍驤の声。振り向くと、何処からか持ってきた丸椅子に腰を下ろし、足を開いてその膝に肘を置いて頬杖を突く彼女。サンバイザーでその殆どが隠れた顔から覗く二つの瞳を、真っ直ぐ俺に向けている。

 

 

 その瞳と視線を合わせた瞬間、心臓を握りしめられるような圧迫感、そして全身にのしかかる重圧が襲い掛かってきた。口を動かすこと、唾を呑み込みこと、呼吸するだけでも辛い。まるで、重力負荷の大きい場所に放り込まれたような感覚だ。

 

「お前は……」

 

「見ての通り、その辺にいる極々普通(・・)の軽空母やで? まぁ、強いて言うなら―――――」

 

 思わず漏れた俺の言葉に、龍驤はそこで言葉を切ると『完璧』な笑顔を向けてきた。

 

 

 

 

 

 

鎮守府(ここ)に必要ない、あってはならない『ゴミ』を処理する……『ゴミ処理係』ってとこか」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、凄まじい寒気と強烈なプレッシャーが襲ってきた。それを発しているのは龍驤。しかし、彼女は笑顔は変わっていない。

 

 

 否、1つだけ変わった場所がある。

 

 

 それは『目』。笑顔で細めていた目を開き、俺を見据えているのだ。

 

 しかも、何故か俺は龍驤の目に既視感を覚えた。その目は金剛や潮の『兵器』(あの)目ではない。

 

 

 あれは……そう。大本営に出頭して、上層部と顔を会わせたときに向けられた。

 

 

 照峰元帥(・・・・)が向けてきた目にそっくりだ。

 

 

「と、言うわけで、これから司令官にはウチと質疑応答をしてもらう」

 

「質疑応答? なん―――」

 

 先ほどの間の抜けた声とは一変して、低い声色で淡々と話し出す龍驤。その言葉に疑問を溢すも、次に聞こえた弾を込めるらしき金属音に、俺はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。

 

 

「質問の内容、対する答えの形は基本自由。イエスかノーでもいいし、ちゃんとした言葉で答えるのもアリや。ただ、どんな質問でも絶対に答えてもらうのが条件な。勿論、ウチだけじゃなくて君からの質問もOKや。ただ、公平を期すために質問出来る数が同じになるよう、交代で質問していく形を取らせてもらう。簡単やろ?」

 

 何が公平だ。周りを武装した妖精に取り囲まれている時点で俺が不利だろ。なんて、口にしたらヤバい言葉を飲み込んで、代わりに頷いた。そんな俺を見て龍驤は満足そうに笑みを浮かべ、頬から手を離して前かがみの姿勢になる。

 

 

 その間、その瞳は絶えず俺を捉え続けていたが。

 

 

「ほな、先ず君が鎮守府に来た理由は?」

 

 いつもと寸分狂わず同じトーンで、同じ口調で問いかけられた質問。しかし、それが『いつも』と変わらないことに一番の恐怖を覚えた。

 

 

「……上層部の判断だ。『類稀なる器量と采配を振るえるには提督しかない』って名目らしい。俺には体のいい左遷にしか思えないが」

 

「……今までのと同じってわけか。あの髭親父共、もっとマシな…………話が脱線したわ。ほな、次は君の番やで」

 

 頬を掻きながらそう促してくる龍驤。彼女が簡単に質問権を回してきたことに面を喰らうも、何とか頭を働かせて質問を捻り出す。そして、一つの疑問が浮かんだ。

 

 

「……さっき言った『今まで』と同じってのは、俺が来る前に着任した提督たちのことか?」

 

「そうや」

 

 俺の問いに龍驤は何の悪びれもなくそう答える。しかし、その答えに俺の体温がさらに下がった。

 

 

 『今までと同じ』、そしてその『今まで』が初代以降から俺直前までの提督たちのことを指している。普通に考えれば矛盾もない普通の答えだ。でも、更に踏み込んでみるとどうだろうか。

 

 

 まず、何故彼女は『今まで』の提督たちの着任理由を知っている? それは今、俺にしているような質疑応答と言う名の尋問をしたからだろう。

 

 次に、何故彼女はそんなことをする? それは、彼女がこの鎮守府の『ゴミ処理係』だからだ。

 

 では、彼女が処理する『ゴミ』とは何か? それは鎮守府に必要ないモノ、あってはならないモノのことを指す。否、そうではない。

 

 

 彼女の呼ぶ『ゴミ』とは提督(・・)。つまり俺を含めた大本営から派遣された人間のことを指すのだ。

 

 

 そして、彼女は言った。提督(ゴミ)処理係と。

 

 

 

「今までの提と―――」

 

「質問者は交代する(・・・・)って言ったハズや。忘れたんか?」

 

 俺の問いを掻き消すように龍驤が言葉を吐く。それは先程よりも低く、語気も強い。同時に頭上で無数の金属音。今動けば確実にハチの巣にされる――――その言葉が本能的に動きを止め、俺の口から言葉を吐きださせた。

 

 

「……すまん」

 

「分かってるならええで」

 

 直前の氷点下の語気から打って変わり、いつもの笑みを浮かべる龍驤。何だろ、『切り替えが上手い』とかいうレベルじゃない、人格が変わっているかと思う程コロコロ変わる口調と語気。それが重鎮が纏う雰囲気のようなモノを醸し出している。

 

 

「ほな、大本営に召集された時、アイツらから何言われたん?」

 

 

 そんな不気味な程自然体な口調で龍驤はそう問いかけてくる。その様子に背筋に冷たいモノを感じるも、何とか喉から声を絞り出した。

 

 

「この前の襲撃に関する被害報告、その責任追及で上層部と少し口論になった。その後、その中の一人である中将に庇われ、その人と個人的に資材と食材の支援を取り付けるように言われた」

 

 

「それだけ?」

 

 

 俺の返答に、柔和な笑みを浮かべた龍驤が問いかける。特に語気が強いわけでもなく、口調も普通のその一言。それが俺の身体中の体温を奪うのに、そう時間がかからなかった。それに拍車をかける様に、笑顔の中に生えるあの目。

 

 まるで俺が何か隠しているのを見透かしているような、そんな気がしてならない。しかし、その言葉は俺に少しだけ余裕を与えた。

 

 

 

「質問者は交代するって言った筈だぞ。忘れたか(・・・・)?」

 

 

「……ホンマや、すまんかったな」

 

 

 先ほど、彼女が言った言葉をそっくりそのまま返してやる。その言葉に一瞬目を丸くした龍驤であったが、笑いをかみ殺す様な声を上げながらそう言った。質問の上乗せはさっきに咎められたばかりだからな、これで少しは流れをこっちに持っていきたい。

 

 

「なら、改めて……今までの提督たちはどうなった? まだ生きている(・・・・・)のか?」

 

 

「君は今まで捨てたゴミのことを覚えているんか?」

 

 

 笑みを浮かべながらそうのたまう龍驤。その言葉を聞いた瞬間、全身の筋肉が強張るのを感じた。

 

 

「冗談や、冗談。確かにウチは捨て(・・)はしたけど壊した(・・・)ことは無いで? だから、そんな怖い顔しんといてや」

 

 感情が顔に出ていたのか、動物を落ち着かせるようなしぐさをしながら龍驤がそう言ってくる。その言葉、そしてまたもや聞こえた無数の金属音に本能的に身に危険を感じ、ギリギリのところで理性と思考を繋ぎ止めた。

 

 彼女が何度も口にした『捨てる』と今初めて口にした『壊す』。これが隠喩であること、そしてその意味が何なのか、言われなくても分かった。

 

 

「ほな気を取り直して、昨日の食事―――君で言うところの『試食会』……か? あれをやった理由は?」

 

 次の質問は昨日の試食会について。これに関しては昨日の時点で既に話したんだが、まぁもう一度話すことになんら問題はない。

 

 

「あれは昨日言った通り、『補給』を『本当の食事』に切り替えるためだ。でも、一昼一夜で何の前触れも無しに切り替えるのは確実に反発を招くだろ? だから、先ずは『試食会』と称して食事に触れてもらおうと思って―――」

 

 

「違う、そうやない」

 

 

 俺の言葉を掻き消す様に鋭い声を上げる龍驤。その言葉に思わず彼女を方を見る。彼女は頬杖をついていた手を前で組み、少し前傾姿勢になっていた。

 

 

 その顔には先ほど浮かべていた笑顔はなく、代わりに今まで見たことが無い程真剣な表情がある。

 

 

 

「ウチが聞きたいのは、『本当の理由』や」

 

 

 真剣な面持ちの龍驤から零れた言葉。それに俺は反応することが出来ず、ただポカンと口を開けた。『本当の理由』?

 

 

「昨日、食堂で金剛が言ってたやろ? その理由以外(・・)にもある、そしてそれを隠しているって。それが知りたいんや」

 

 真剣な顔、そして今日一番の低い声で龍驤は問いかけてくる。隠したらどうなるか分かるか? と、暗示しているような、そんな言葉だ。

 

 

 確かに、あのとき全ての理由を話していない。だが、それはあの場(・・・)だったからこそで、今この場なら別に言えないわけではない。

 

 しかし、その理由は先ず信じてもらえないだろうし、それに下手したら俺は愚かアイツ(・・・)の立場も悪くなってしまう。何としてもそれだけは阻止しなければ。

 

 そんな思いから、俺はあの時を含め今も口を割らなかった。

 

 

「……だんまりか? なら、答えやすいようにイイコト(・・・・)教えたるわ」

 

 黙っている俺にしびれを切らしたのか、龍驤は立ち上がって俺に近寄り耳元で囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「知ってるで? 君が、大本営(アイツら)から艦娘(ウチら)を沈める様に言われているの」

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、思考や身体機能を含めた俺の時間が止まった。直接脳にフックを喰らったような、そんな衝撃に近いショックがそれら全てを停止させたのだ。

 

 その視界の中で離れていく龍驤の顔にはあの笑顔を浮かんでいる。その目は一切笑っていない。

 

「ウチは『ゴミ処理係』やで? 今の君と同じように、提督の(その)数だけこれをやってきて、そして君以外は全て『捨てた』んや。その中で、このことを漏らさないのが居らんと思ったか? まぁ、その殆どはウチからネタバラシをした形になるんやけど……今の君、ネタバラシ組と同じ顔やで?」

 

 

 こちらを覗き込む龍驤。彼女の目に映る俺の顔がどうなっているか、なんて考える余裕はない。他のことを考えていたわけでもなく、まだ思考が停止していたわけではない。ただ、龍驤の言葉を必死に咀嚼していた。その意味を落とし込み、なんと言おうかを。

 

「改めて言うで。君が試食会を開いた理由は何や? 敢えて言い直すなら、君が試食会を開いたのは金剛が言った通り、ウチらをどうにかするための、沈ませるための下準備か?」

 

 念押しとばかりに発せられた問い掛け。それと同時に、龍驤は片手を上げる。次に聞こえたのは今まで聞いたことのない数の金属音。それは、俺の周りから聞こえた。

 

 

 そんな状況の中、とある一つの言葉が思い浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そっち?」

 

 

「は?」

 

 

 意識とは無関係にポロリと漏れた言葉。次に聞こえたのは今まで聞いた中で最も間抜けな声と、それを発したであろう面を喰らった顔の龍驤。その顔を、同じように呆けた顔で見つめる俺。

 

 

 しばらくの間、部屋は沈黙に包まれた。

 

 

「……ってことはあれか?」

 

 その沈黙を破ったのは、未だに呆けた顔でいる龍驤だ。その片手はいつでも合図が出させるように上げてはいるが、それ以外は完全に警戒心が解けていた。

 

「大本営の密命を遂行する以外に理由があるってことか?」

 

「や、ち、違う違う!!」

 

 龍驤の言葉に思わず大声を上げて否定する。そんな俺の姿に、龍驤は呆けた顔のまま口を開いた。

 

 

「……ほな、それ以外に理由は無いってことか?」

 

「それも違う!!」

 

「ならどういうことや?」

 

 龍驤の言葉に食い気味に否定する。すると、彼女は呆けた顔から訝し気な顔に変えさらに問いかけてきた。声色も若干イラついている。矛盾したことを言う俺にイラついているのだろう。しかし、当の俺はこの状況で最も安全な方法を見つけようと頭をフル回転させていた。

 

 とは言っても、既に俺の中で答えは出ている。

 

 龍驤は今、大本営の密命以外に理由があることに勘付いている。ここで変に隠したところで不信感を抱かせるだけだ。なら、もういっそのこと全て(・・)話してしまおう。

 

 

 後は、全てを話した際に被るデメリットをどうフォローするかだ。

 

 

「龍驤」

 

 しばらくの間、唸り声を上げていた俺はそれを止めると同時にそう言いながら彼女の方を向いた。そこには、待ちくたびれたと言いたげな顔の龍驤が立っている。

 

 

「今から洗い浚い全て話す。そして、今を持って俺はお前への質問権を放棄する。だから、今から話すことは絶対に口外しないでくれ。それが守れないなら俺は何も話さない」

 

「……話さない場合、ハチの巣になることは承知の上か?」

 

「あぁ、承知の上だ。だから、頼む。約束してくれ」

 

 脅しとも言える龍驤の言葉に俺は力強く言い切り、彼女に向かって頭を下げる。暫しの沈黙、それは深い溜め息によって破られた。

 

 

「……分かった、口外せんって約束するわ」

 

「すまん」

 

 そう言いながら顔を上げると、いつの間にか椅子に腰かけている龍驤。その顔には訝しげな顔が浮かんでいる。

 

 取り敢えず話を聞こう、とでも言いたげに顎で合図をしてきた。

 

「先ずは訂正から。確かに俺は大本営からお前らを沈めるよう命令された。だが、俺は端からお前らを沈める気なんて毛頭無い。絶対とまでは言えないが、少なくとも俺の意思(・・・・)では絶対に沈ませない。勿論、お前らを懐柔しようとも思っちゃいない。まぁ、早い話、昨日の試食会に関して大本営の密命は一切関係ない。多分信じられないかもしれないが、それだけは念頭に置いてくれ」

 

 先ずは先ほどのやり取りで誤解を生んだところの訂正から。そこで言葉を切り、龍驤を見る。彼女は訝し気な顔のまま俺を見つめ、顎で続きを話せと促してくる。

 

 

「んで、試食会の理由か。主なものは2つ。先ずはさっき言った通り、『補給』を『本当の食事』に切り替えるため……それじゃ納得しないか。なら、『食事』が必要だって思ったからだな」

 

 

 艦娘たちは資材があれば食事をとらなくても高いパフォーマンスを実現できる。それはただ知識としてあるだけで、実際に艦娘たちは食事もとれるし元々人間だったこともあって『補給』よりも『食事』の方が受け入れやすいだろう。しかし、ここの艦娘たちは『補給のみでいい』と言う事実を、そして文字通りそれをやってのけてしまった。出来ると証明してしまったのだ。

 

 だから、初代は食事の予算を横領するため彼女たちに資材のみの『補給』を強要することが、そんな初代と同じ存在である人間と自分たちを決別させるために金剛がそれを受け継ぐことが出来た。出来てしまったのだ。

 

 そこにやってきた俺は、その事実があること、そして文字通りの様を目の当たりにした。

 

 その事実を、そして金剛をはじめとした艦娘たちの言葉を浴びながらも、俺は『食事』が必要だって思った。思わざるを得なかった。

 

 

 間宮アイス券を渡したときに見た天龍の嬉しそうな顔。今思うと、あれが初めて艦娘の柔らかい表情を見た時だろうか。

 

 

 その後、食堂で無表情のまま資材を口に運ぶ艦娘たち、対照的に俺が作ったカレーを美味しいと言いながら食べる雪風。

 

 

 その翌日、好きなモノを作ってやると言われて喜ぶ雪風。演習場で成績優秀者に間宮アイス券を進呈すると言った時に沸いた艦娘たち。

 

 

 営倉で雪風のカレーに毒づきながらもがっつくように掻き込む曙。その横でカレーの完成度の低さに落ち込む雪風。

 

 

 そんな姿を見てきたのだ。雪風や天龍、曙の姿、そして『補給』の時は無表情だった他の艦娘たちが、三人と同じように顔を綻ばせる姿を見てきたのだ。

 

 食事とは、本来空腹を満たすためのものであるが、同時に満足感を得たりストレス緩和の効果がある。つまり、食事は『身』だけではなく『心』にも影響を与える、『心身』を満たしてくれるモノ。

 

 そして、この鎮守府は『心』をずっと無視し続けてきた。後に判明したことだが、曙のように『心』のせいで身体に支障をきたすこともある。それ程までに、艦娘にとって『心』は重要なのだ。なのにそれを無視し続けてきた。いや、彼女たちからすれば無視せざるを得なかったのだろう。

 

 

 だからこそ、それを受け止める場所が必要だと感じた。

 

 

 ただ空腹を満たすだけの『補給』じゃない成し得ない、空腹と同時に『心』も受け止め、十分に満たしてくれる『食事(ばしょ)』が必要だと。

 

 

「だから、安定した供給を得るために大本営に資材と一緒に食材の支援を頼んだ。勿論、俺の食い扶持確保のためもあったけどな。ただその時(・・・)は料理に資材を入れようと考えていた。それは――」

 

「艦娘たちの反発を少しでも緩和するため、ってところか? これは『食事』じゃなくて、あくまで『補給』だからって言い張るためにって具合に」

 

 

 俺の言葉に直ぐ様答えを返してくる龍驤。それに思わず面を食らった顔になる。

 

 

「ちゃうんか? ウチらは資材以外を口にすることを拒否していたけど、資材が入った食い物なら嫌々ながらも食べるだろうって見越してたんやろ?」

 

「ま……全く持ってその通りだよ」

 

 

 艦娘たちは初代から今まで資材だけしか口に出来ない状態。そして何故か艦娘たちはそれに反発せずに黙って従っていた。本来なら思うところがある筈なのに誰も何もしなかった。更に言えば、昨日の隼鷹の様に今の体制のままでいいと言い張る者も居たほどだ。

 

 恐らく、ここの艦娘たちには何か従うべき理由があったのだろう。案の定、それは初代に存在そのものを否定されたことだったが、当時の俺はそれを知らなかった。知っていたのは、彼女たちは『人間』と言う存在を、そして提督と言う存在を極端に嫌っているということだ。

 

 そんな彼女たちに、先日着任してきたばかりの(ていとく)がいきなり『補給』じゃなくて『食事』を食え!! なんて言っても、先ず受け入れられる訳がない。更に言えば、「提督憎し」の思想がまかり通る鎮守府で、周りが『補給』を続けている中で自分だけ『食事』を取ろうと考える奴が居るだろうか? 提督の言葉に従うこと、それはつまり『裏切り』に等しい、なんて思われていそうな中で。 

 

 

 ……あ、雪風(ひとり)居たわ。

 

 まぁ、アイツは俺が居るときしか食ってないから似たようなもんか。ともかく、鎮守府という集団の中で長年暮らしてきた彼女たちが何の前触れもなく違うことを、しかも周りが誰もやっていないようなことを積極的にやるハズがない。

 

 だから、彼女たちが料理を食べるための『理由』として資材を入れようと考えた。資材が入っているから、人間は食べることが出来ないから、これは『補給』だって言い張れる。そんな苦し紛れの理由を掲げて、少しでも受け入れてもらうようにするためだ。

 

 まぁ、雪風や曙は普通に食べていたから全員が反発することは考えておらず、主に警戒していたのは金剛だったが。それでも少なくない反発を考慮した安全策を打ちたかったのだ。

 

 

 っと、話が脱線したな。

 

 

「話を戻すぞ。えっと、試食会を開いた理由だな。もう1つはその反発するであろうと思っていた『金剛』、アイツを『提督代理』から解任するためだ」

 

 

 そう言った途端、今まで怪訝な顔だった龍驤の目が鋭く光る。俺が今言ったのは現トップを失脚させると言っているようなモノ、いわば下剋上だ。まぁ、本来俺がトップなんだけどさ。

 

 

「勘違いしないでくれ。これは俺が発案じゃなくて、アイツ――――『吹雪』に頼まれたんだよ」

 

「吹雪が?」

 

 

 俺の言葉に龍驤は先ほどみたいな間抜けな声を上げる。それもそうか。何せ、彼女は俺と初めて出会った時に吹雪の土下座を目の当たりにしているのだ。多分、それ以前にも金剛を庇うことをしていたのかもしれない。

 

 そんな彼女が、今まで必死に守ろうとしていた金剛を『提督代理』から解任させる、彼女の言葉をそっくりそのまま使えばその地位から『引きずり降ろそう』としている、なんて言われればそんな顔にもなるだろう。

 

 

「……理由はなんや? ウチにはあの子がそんなことを言うとは思えんのやけど」

 

「『自分は金剛が敷いてる体制に心底辟易している。でも、ただの駆逐艦である自分じゃ周りを動かす発言力も、考えを改めさせる影響力も無い。俺は今までとは違う、きっとより良い体制を作り上げると信じている。だから、事実上のトップである俺が金剛に取って代わり、新しくもっと生活しやすい体制を作り上げて欲しい』だとさ」

 

 

 龍驤の問いに、俺は吹雪に言われた言葉を殆ど言い換えることなく伝える。それを聞いた彼女はますます顔をしかめて考え込む。まぁ、今までの吹雪を見てきたのなら想像もつかないだろうな。でも、俺は嘘をついていない。本当に彼女はそう言ったのだ。

 

 

 

 

 

 

「今にも泣きそうな顔で、そう言ったよ」

 

 

 それはあの日、自室で榛名に『初夜』と言う名目で襲われそうになったところを曙に助けられ、吹雪と入れ替わりに彼女が出て行った後。敬礼を崩さずに力強い口調で金剛の失脚を願い出た時だ。

 

 

『……ごめん、なんて言った?』

 

『ですから、金剛さんを失脚させて欲しいんですよ』

 

 

 はじめ、俺は自分の耳を疑い間違いかと思って吹雪に聞き返した。しかし帰ってきたのは同じ言葉、幾分か乱暴な言い方に変わっていたが、それでもその意味は少しも違えていなかった。だから、俺はそれを認識した上でその理由を聞いた。

 

 

『私、金剛さんが敷いている鎮守府の体制に心底辟易してるんですよ。休みもありませんし、ご飯も『補給』だけ、それすらも無い時もあります。せっかく初代司令官が居なくなって自由に出来るのに、昔と変わらないなんておかしいです。だから、私は今の体制を変えたいです、変えるために金剛さんを失脚させたいんです。でも、私には周りを動かす発言力も、考え方を変える影響力もありません。だから司令官、金剛さんととってかわって下さい。司令官は今までの人とは違う、きっと金剛さんとは違う体制を敷いてくれるって信じています。だからお願いします、金剛さんを失脚させ、新しい体制を敷いてください』

 

 

 そう言って、吹雪は頭を下げてきた。今にも泣きそうな顔で。勿論、初めから泣きそうだった訳じゃない。最初は真剣な顔であったが、金剛の名前を溢口にする毎に表情が崩れ、頭を下げる頃には泣きそうな顔になっていった。

 

 

 その言葉が『本心』ではないことは分かり切っていた。

 

 

 でも、それを指摘すれば吹雪はどうなる。必死に取り繕っている、触れただけで壊れてしまいそうなほど脆い虚勢を必死に張っている。頬を引きつらせて、瞬きで涙を消そうとしながら、へたくそな作り笑いを浮かべて。

 

 艦娘と言えども、年齢的には見た目通り。本来なら、安全な場所で平和に暮らしている歳だ。なのに彼女は戦場に立ち、一回りも歳の違うであろう金剛を己の身と引き換えに庇おうとした。そして今度は陥れようとしているのだ。

 

 その心中は如何なモノか。

 

 少なくとも、それは彼女が抱えるには大き過ぎる、そして一度決壊してしまえば元には戻れないことが分かった。だから、理由について追及することが出来なかった。

 

 

「それで、君はその提案を受け入れたと」

 

「……正直、今でもその選択が合っていたかどうか不安だが」

 

 俺の言葉に、龍驤は何か言いたげに顔を向けて口を開く。しかし、彼女はすぐ口を噤み、代わりに眉を潜めた。

 

 

 

 

「……そう言えば、試食会(あの)の料理には『資材』が入ってなかったなぁ?」

 

「あぁ、それか」

 

 

 ポツリと漏れた龍驤の言葉。何の変哲もない、今までの話と彼女が現場で見たモノを比べれば出てくる疑問だ。しかし、それを聞いた瞬間、俺の中の体温が一気に下がるのを感じた。龍驤に睨まれた時よりも、更に低く、更に重く。

 

 

 しかし、俺はその理由は知っている。

 

 

 話を戻そう。俺は当初、料理に資材を入れようとしていた。その理由は、艦娘たちが口にしてくれる可能性を少しでも上げるためだ。

 

 そのことで、この計画を練っていた間宮、そして金剛の失脚を提案した吹雪、そして渡したレシピを見た曙の口から否定的な言葉が出てきた。資材を料理に入れるなんてことして本当に大丈夫なのか、明らかに必要でもないのに何故資材を入れるのか、その理由を問い詰められた。

 

 曙の時、俺はそれっぽい理由と吹雪のアシストで抑え込んだ。その吹雪を含めた間宮たちに関しては理由が思いつかず、『艦娘たちが食べてくれるにはそれしか方法がない』と力説……もとい、頼み込む形で何とか納得してもらえた。吹雪に関しては、彼女のお願いを達成するためには必要不可欠であると。それを人質(・・)に。

 

 あの時、俺はただ艦娘たちが食事を『口にする』ことだけを考えていた。それが到底『食事』とは呼べない補給擬き(・・・・)だったとしても、先ずは資材以外のものを口にすることが大事だと思っていた。

 

 

「君……」

 

 不意に龍驤の声色が変わる。重圧を与えてくる低いモノから、予想外のことを目の当たりにしたような上擦ったモノに。今、龍驤の顔に浮かんでいるのはどんな表情か。いや、先ずは話さなければいけない。

 

 

「途中で気が変わったんだ。最初は曙に問い詰められた時、そしてイムヤに『補給』以外の食事を禁止された理由を聞いたのを皮切りに、180°変わったんだよ」

 

 

 さっきも言った通り、艦娘たちが『補給』を続けている理由は初代に人間として、『生き物』として否定されたからだ。艦娘は『生き物』ではなく『兵器』、『生きる』のではなく『動く』のだ。『兵器』は資材さえあれば『動ける』が、『生き物』は食べなければ『生きられない』。

 

 それはつまり、艦娘は『生き物』ですらない。だから、彼女たちに『食事』や『生きる』と言う言葉は必要ない。そう、初代は彼女たちに言い放った。

 

 

 もう一度言おう。

 

 

 初代は資材だけあれば『動ける』艦娘は、『生き物』ではなく『兵器』。裏を返せば、艦娘が『兵器』である条件は資材だけあれば、もっと言えば資材を食べる(・・・・・・)ことが出来る、だ。

 

 そして、当初俺は何をしようとしていた。『食事』を受け入れてもらうために料理に『資材』を入れようとした。艦娘が口にする(・・・・)であろう、料理にだ。

 

 

 

 

 

 

 

「それってよ、俺も初代と同じ(・・)をすることになるよな?」

 

 

 目的がどうあれ、当初の俺は艦娘たちに『資材』を食べさせようとしていた。つまり、結果的に俺も『資材を口にすること』を強要(・・)していたことになる。「艦娘は『人間』だ!!」って言い張った俺が、初代と同じように艦娘たちを『兵器』扱いしていた。彼女たちを『兵器』として見ていたことになるんだよ。

 

 

 だから、資材の使用を取り止めた。初代と同じことをしようとしていることに気が付いたから慌てて止めた。理由は単純、初代と『同等』になりたくなかったから。この鎮守府をここまで陥れ、艦娘たちに深い傷を負わせた、クソ初代と同じ轍を踏むことを避けたからだ。

 

 

 だから、これは『我が儘』だ。俺が、『初代』との決別(・・)を示すための、本当の『我が儘』。

 

 

 それを口走った時、吹雪はどう思っただろうか。あれだけ頑なに譲らなかったことを、しかも直前に撤回したことを。彼女の願いをかなえるために必要不可欠だと言ったものを撤回した、それはつまり彼女の提案を叶えることを放棄したのだ。

 

 

『今まで一緒に(・・・)決めてきたことを、ここで引っくり返しちゃうんですか? それも貴方の『我が儘』で、いともたやすく白紙に戻しちゃうんですか? その程度のことだったんですか? 提督、言ってましたよねぇ? 『これしか方法がない』って、言ってましたよねぇ? やるしかないって、言ってましたよねぇ!!』

 

 

 それは、彼女の『本心』だっただろう。怒りで紅潮した頬も、勢いよく殴りかかってきた拳も、雪風に阻まれてから向けてきた『失望』の目も。全部、彼女の『本心』だったのだろう。

 

 

「そんな奴が昨日説教染みたこと言ったんだぜ? 自分も同じ()を犯したばかりなのに、それを棚に上げて偉そうにさ……笑えるよな?」

 

 

 俺の問いかけに応える声は無かった。何となく視線を上げると眉間にシワを寄せる龍驤。恐らく、俺の話がアホらしくて呆れているのだろう。当たり前か、俺だってこんな話を聞かされたらそんな顔になるわ。

 

 

「それに、昨日はお前や曙のお蔭で乗り切ったものだ。お前らがいなければあそこで終わっていたよ」

 

 

 昨日、吹雪の怒りを目の当たりにしてから、俺は胸を締め付けられるような圧迫感、足は鉛のように重く、腕は棒のように固く、頭は重油が詰まる圧迫を感じた。その胸中にあったのは一つ、沸々とした自責の念だった。

 

 

 何故、資材を入れようとしたのか。何故、周りの意見に耳を傾けなかったのか。何故、自身の意見を押し付けてしまったのか。何故、吹雪や艦娘たちを傷付けてしまったのか。何故、もっといい方法を考え付かなかったのか。そんな後悔と罪悪感が胸にのしかかり、それは艦娘たちの前を行き来するうちにどんどん大きくなっていった。

 

 

 

 そして、艦娘を前にして話し始めた時、それはピークに達した。

 

 

 すぐにでも逃げたかった。彼女たちの前で無様に泣き叫びたかった。周りに見境なく当たり散らしたかった。胸の内のモノを全て吐き出したかった。すぐにでも楽になりたかった。

 

 

 何処かで、終わって欲しい(・・・・・・・)と思っていたのだ。

 

 

 それを堪えながら話を続けたが、途中で隼鷹が出て行こうとしてしまう。傍から見れば計画が破綻する一歩手前だったのに、その時俺は肩の荷が降りるのを、そのせいで顔が緩むのを感じた。これで終わった、楽になると、そんな思いと共にホッとしてしまったのだ。

 

 

 でも、その後に進み出た曙が、大声を上げて俺を擁護してくれた。

 

 

 そして、泣きながらも夕立が前に進み出てきてくれた。

 

 

 次に、龍驤が進み出て、料理を食べてくれた。

 

 

 それに続くように長門、天龍、龍田、北上が前に進み出てきてくれた。

 

 

 あの場で、前に進み出るのにどれほどの勇気が必要だっただろうか。それも、まだ出会って一週間ほどしかたってない、夕立に関しては初めて言葉を交わす場で、どれほどの勇気が必要だっただろうか。

 

 

 その姿を見て、俺は何とか踏みとどまれた。喉元まで出掛かった胸のモノを飲み込み、鉛のように重い足を前に踏み出し、棒のように固まった腕で彼女を抱きしめ、重油の詰まった頭がひねり出した言葉を零した。

 

 

 

 艦娘は『動いている』のではなく、『生きている』と。それは今も昔も、そしてこれからも変わらない『事実』、そんな当たり前のことだと。それに彼女たちを『人間』か『兵器』と決めつけることはない。

 

 

 何故なら、艦娘は『生き物』だ。『人間』でも『兵器』でもない、『艦娘』と言う名の生き物であると。それでいいじゃないか。彼女たちと言う存在を表すなら、『艦娘』と言う言葉だけでいい。少なくとも、今はそれで十分だ。

 

 

 そして、それを決めるのは人間(おれたち)じゃない、艦娘(かのじょたち)だ。

 

 

 なのに、俺はそれを棚に上げて彼女たちに価値観を押し付けた。無理矢理、自分の思想の枠組みに入れようとした。自分の我が儘で周りを振り回し、結局尻拭いをさせてしまった。なのに、そんな俺にたくさんの艦娘が手を差し伸べてくれた。

 

 計画に乗ってくれた吹雪や間宮、手伝いをしてくれた榛名や潜水艦たち、俺の考えを真っ向から批判し、責められた時に庇ってくれた曙や雪風、前に進み出てくれた夕立や龍驤、長門、天龍、龍田、北上。

 

 

 

 だから思う。俺は、彼女たちが手を差し伸べてくれるほどの価値(・・)があるのか。

 

 

 

「何で俺は――――」

 

 

「アカン」

 

 

 

 次の言葉を、龍驤が遮った。同時に両肩を掴まれ、目線を無理やり上げられる。そこには、真剣な表情で俺を見つめる彼女の顔が。しかし、俺はそれを前にしても動く口を止められなかった。

 

 

 

 今までずっと溜め込んでいた胸の内にあるモノ(・・・・・・・・)を、全て吐き出したかったからだ。

 

 

 

 

「俺なんか――――」

 

 

「それ以上はアカン」

 

 

 目線を逸らし再度口を動かすと、先ほどよりも強い語気で龍驤が言ってくる。同時に肩を強く握りしめられ、痛みに顔をしかめるも、口は吐き出そうとした。しかし、それも次に聞こえた龍驤の言葉によって掻き消された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それ以上言うと、ウチは君を『捨てる』ことになる」

 

 

 温度を感じさせない、淡々とした龍驤の言葉。それを聞いて、俺は吐き出そうとした言葉を飲み込んで視線を上げた。

 

 

 そこに、何故か悲痛な顔の龍驤がいた。

 

 

 

 

 

「君が何を言おうとしたのかは分かってる。言いたくて言いたくてたまらないことも、我慢するのがしんどいことも痛いほど分かる。でも、それを言ってしまうと君は同じになってまう、『今まで』のと同じになってまうんや。だから、言わんといてくれ」

 

 

 絞り出す様な龍驤の声に、俺はその姿をただ目を丸くして見つめることしか出来なかった。胸の内にあるモノが相変わらず渦巻いているも、不思議と抑え込むことが出来た。

 

 

「3つ、君に言っておかなアカンことがある。ええか?」

 

 

 ポツリ、と龍驤が言う。俺はその言葉に特に考えもせず頷いた。

 

 

 

「1つ、新米だろうがなんだろうが君は提督、ウチら(・・・)の提督や。提督の役目は、部下の統括、鎮守府の運営、戦線指揮、海域の防衛、維持、って具合にたくさんあるけど、一番大切なのは『責任を負う』ことや。部下の失敗だろうが赤の他人の失敗だろうが、ここで起きたことは全部君に降りかかってくる。大本営に召集されたのがその証拠や。だから、君には責任を負うこと、正確には責任を負う『覚悟』を持って欲しいんや。例えそれがどんな些細なことでも、誰かが傷つくことになろうとも、誰かを斬り捨てることになろうとも、それを背負う『覚悟』を持って欲しいんや。『責任の放棄』、『押し付け』は絶対にやめてや」

 

 

 そこで言葉を切った龍驤は確かめるようにこちらを覗き込んでくる。一瞬目が合うも、すぐに逸らされた。

 

 

「2つ、君は確かに色々と足りない部分、未熟な部分が多々ある。でも、今君には何人かの艦娘たちが慕っている。提督としてまだまだ未熟な君に、ついてきてくれる子達がちゃんとおるんや。自分自身を卑下することは、同時に君を慕ってついてきてくれる子達を馬鹿にしていることになる。だから、君が君自身を卑下すること、そしてあの子達を馬鹿にするのはやめてや」

 

 

 再び沈黙、それに何となく顔を上げる。そこには笑みを浮かべた龍驤。柔和で小馬鹿にしたような、人を試す様な笑みではなく、穏やかな、安心感を与えてくれる笑みを浮かべて。

 

 

「最後、君はこれから目一杯考えて、たくさんの判断や決断をしていかなくちゃアカン。多分、君は自分の判断があっているかどうか不安になるやろう。だからこそ、君は君自身の判断に自信を持って欲しいんや。君が自信を持って判断してくれるだけで、ウチらは安心して動ける。ウチらは提督(きみ)と言う道しるべがいるからこそ、安心して前に進めるんや。だから、君は自らの判断に、君自身に自信を持って欲しいんや」

 

 

 そこで話を切った龍驤は、掴んでいた俺の肩から手を離す。未だに痛みが感じるも、それが気にならない程俺の目は龍驤に釘付けであった。

 

 

 

「多分、今も潰れそうな程しんどいやろう。なのに、更に今言ったことをやれってのは酷やと思う。でも、そうしないと君は『今まで』と同じになってしまうんや。だから、しんどいかもしれんが我慢してやって欲しい。こればかりはウチや他の子も手を差し伸べることが出来へん、君だけで立ち向かわなくちゃいけない。それがどれだけしんどいかは正直分からん。でも君が進む後ろには、必ずあの子たちがついてくる。進めば進むほどその数は増えていく筈や。それは分かる。だから、やって欲しいんや」

 

「……あぁ、分かった」

 

 俺の返答に、笑みを浮かべた龍驤は俺から視線を外し、周りを見渡しながら手を上げる。その瞬間、複数の金属音が鳴り響く。咄嗟に身構えるも、一向に銃声は聞こえてこない。

 

 恐る恐る周りを見まわすと、銃火器を手にしていた妖精がそれらを担ぎ、あるいは片付けていそいそと艦載機に戻っていくのが見えた。

 

 

 

「……助かったのか?」

 

「なんや言い方が気になるなぁ……まぁそんなところや」

 

 

 ポツリと漏れた言葉に、少し不満げな龍驤の声が聞こえる。彼女は服に付いた埃を払い落とすと、クルリとドアの方を向いて歩き出した。

 

 

「これで、ウチの話はお終いや。執務中に付き合わせて悪かったな。お詫びになんか一つ、質問に答えるで。さっきの質疑応答とは関係なしや。何でも言ってみ」

 

 ドアノブに手を掛けた時、龍驤がそんなことを言ってくる。さっきに質疑応答で質問権を放棄したのに気を使ってくれたのか。その言葉を受けて、俺は口に手を当てて考える。

 

 

 そして、思いついた疑問を口に出した。

 

 

 

 

 

 

「何か、困っていることとか、変えて欲しいこととかあるか?」

 

 

「ないな」

 

 

 いろいろ考えて絞った質問を、龍驤はあっさり返してきた。あまりのことに目を丸くする俺を尻目に、彼女は顎に手を当てて考える。

 

 

「不満って言っても、『出撃』や『補給』ぐらいやったからな。それも君のお蔭で改善されたし、他にこれと言って不満かぁ……。まぁ、そんなところや」

 

 

 ぼやくようにつぶやく龍驤に、思わずため息が零れる。先ほどまで、空気を張りつめさせていた人物とは思えない能天気な顔で彼女はドアを開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まぁ、強いて言えば、『何もないから』こそ、『周りがよう見えてしまう』ことやな」

 

 

 ポツリと聞こえた龍驤の声。その方を振り向くも、見えたのはドアの向こうに消える赤装束の袖。それも、一瞬にして消えてしまった。

 

 

 一人、残された俺は、龍驤が消えていったドアをずっと見つめる。訝し気に見つめる妖精たちの視線をひしひし感じながら見続けていたが、遂に一つ溜め息を溢した。

 

 

「帰るか」

 

 

 そう呟いて部屋を出た。いや、正確には出ようとした。何故なら、俺はドアに近付く途中でその前に誰かがいることに気が付いたからだ。

 

 

 

 

 

「雪風?」

 

「お疲れ様です!!」

 

 俺が声をかけるドアの陰に隠れるように立っている雪風。彼女は俺の声を聞くと、こっちを振り向いて元気よく挨拶をしてきた。

 

 

 

 ただ、俺が声をかける前、一瞬だけ見えた彼女の顔は、一切の『感情』が抜け落ちていたような気がした。

 

 

 

「何してるんだ?」

 

 

「いえ、たまたまここを通りかかっただけです。そしたらここからいきなり龍驤さんが出てきて走っていくもんですから、誰かいるのか気になって……そしたらしれぇが出てきたんです。ちょっとびっくりしましたよぉ」

 

 

 俺の問いに、ちょっと頬を膨らませる雪風。なるほど、たまたま通りがかっただけか。まぁ、近づいたドアがいきなり開いたらびっくりするよな。何か、悪いことをしたな。

 

 

「びっくりさせて悪かったな」

 

「まぁ、今回は許してあげます。では、雪風は失礼しますね」

 

 

 雪風はそう言ってぺこりと頭を下げた後、クルリと向きを慌ただしく走って行く。方向的に工廠だろうか、装備の手入れでもしにいくのかな。

 

 

 でも、雪風がクルリと向きを変えた時、一瞬見えたその顔から『表情』が抜け落ちていたのは気のせいだろうか。



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提督の『理由』

『まぁ、強いて言えば、『何もないから』こそ、『周りがよう見えてしまう』ことやな』

 

 

 真っ暗な空間の中で聞こえたのは、龍驤の言葉。それと同時に浮かぶのは彼女の顔。

 

 

 その顔は笑っている。『苦笑い』と言う顔だが、確かに笑っている。だが、その笑顔の中にある目は、笑っていない。

 

 

 その目は何処か遠くを見つめる様な、何かから目を背けるような、そんな虚ろな目をしている。その視線の先に何があるのかは分からない。もしくは、その視線以外の場所に何があるかも分からない。

 

 

 次の瞬間、その姿は溶ける様に消えてしまう。それが綺麗さっぱり消え去った後、何かが浮かんでくる。

 

 

 それは笑みを浮かべる吹雪。下手くそな笑みだ。頬が引きつっている。無理をしているのが丸分かりだ。それもすぐに消えてしまい、また新しいのが浮かんでくる。

 

 

 今度は金剛だ。ベットから上半身を起こし、手元を凝視している。その手には俺が渡した駆逐艦の嘆願書が。それを穴が開くほど見つめている。そこでその姿も消えてしまい、またもや新しいのが浮かんでくる。

 

 

 それは雪風。直立不動のまま、黙って俺を見据えてくる。その顔に表情はない、まるで龍驤と別れた後に会った時、一瞬だけ見たあの表情だ。

 

 

 いや、それか。俺は以前にも同じ表情を見た。それは何時だ。着任してからか? それとも大本営から帰って来てからか?

 

 

 否、その時じゃない。

 

 

 あれは、確か大本営。元帥の言葉を聞いて、思わず身体が動いたとき。元帥の横に控えていた艦娘――――大和が向けてきたものにそっくりだ。

 

 

 

 本当の『兵器』の目に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「楓さん!!」

 

 

 雷の様に響き渡る大声。それによって真っ黒だった空間は溶ける様に消えていき、やがてそれはぼんやりと霞む天井に変わった。

 

 

 何が起こったのか―――そんな言葉が頭の中一杯に広がり、思考回路をせき止める。鼓膜を直接叩かれたような感覚と痛み、そして服を掴まれる感覚。

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

 再び、声が聞こえた。霞む視界のまま声の方を見ると、ぼんやりとした輪郭しか見えないが、誰かがこちらを見つめている。

 

 右に七三分けされた黒髪と金の留め具、こちらを見つめる大きな橙色の瞳。それらの特徴、そして時間と共にはっきりしていく視界によって、落ち着き始めた頭の中に一人の艦娘の名前が浮かんだ。

 

 

 

「榛名……?」

 

 

「はい、『遥南』は此処に」

 

 

 そう問いかけると、柔らかい声色で声の主は返してくる。やがて、霞んでいた視界はクリアになり、声の主―――――柔らかい笑みを浮かべた榛名が見えた。それと同時に、見慣れた天井と窓から差し込む日差し。

 

 

 ここは間違えなく俺の部屋だ。でも、何でいきなりここに? まだ執務室にいるはずじゃ……。

 

 

 ……そうだ、龍驤と話した後、俺は榛名の勧めで寝たんだった。

 

 雪風と別れた後、執務室に戻った俺に榛名が顔色が悪いって言われて、すぐに休むよう言われたんだ。その時は龍驤との話で時間を食った分を取り戻そうと、大丈夫だ、って言ったんだが、断固として引かない榛名に押し負け、渋々飯と風呂を済ませて寝たんだよな。

 

 まぁ、確かに龍驤との話でちょっと気分が悪かったのは認めるけど、個人的にはとっとと休めなんて言われるほどでもなかったんだけどなぁ……まぁ押し負けた手前何言っても遅いんだけどさ。

 

 てか、窓から日差しが入るってことは今は朝か。寝たのは8時前だったから大体……どんだけ寝てたんだよ、俺。

 

 

「それより大丈夫ですか? 随分うなされていましたし……汗、凄いですよ?」

 

 

 現在の状況を確認する俺に、榛名はそう問いかけながら表情を曇らせた。そして、いつもの服の袖を掴んだ手を伸ばして俺の額に触れる。彼女の言葉から察するに、汗を拭っているのだろう。そして、どうやら俺はうなされていたらしい。

 

 

 多分、あの夢のせいだろうな。でも、所詮は夢。気にする必要もないし、たかが夢で榛名を心配させるのも提督(・・)としてマズイ。

 

 

「変な夢を見ただけだ。心配ないよ」

 

「本当ですか? 何かあったら遠慮なく『遥南』に言ってくださいね」

 

 視線を外しながら答えると、榛名は少し明るい声色でそう言った。追及しないでくれるのは有り難いな。それに何かあったら遠慮なく言ってくれとは、頼もしいことを言ってくれる。なら、さっそく(・・・・)その言葉に甘えさせてもらおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんでそんなところにいるんだ?」

 

 

 そう、彼女に問いかける。すると榛名は答えることなく、ただニッコリと微笑みかけてきた。おい、何か言えよ。

 

 

 そして、俺の言うそんなところ――――――一人用のベットの上、正確にはその上の掛布団の下。ベットの端と寝間着の俺の間に入り込み、そして抱き枕の如く俺に抱き付いているこの状況を。キッチリ説明しろ。

 

 

 

「起床時間になっても楓さんが起きてこないので、『遥南』が起こしに来ました」

 

 微笑んだまま、しれっと言ってのける榛名。彼女の言葉に時計を見ると、確かに起床時間を過ぎていた。起こしに来た、というのは本当だろう。てか、なんで『遥南』の方で呼ばせようとしてくるんだ。

 

 

「起こしに来たなら普通(・・)に起こせばいいだろ? なんでわざわざベットに潜りこんで、添い寝する必要がある?」

 

「それこそ、楓さんがうなされていたからですよ。『遥南』に何か出来ることはないかと考えた結果、楓さんを抱きしめるという方法にたどり着きました」

 

 俺の問いに、微笑む榛名は俺の身体に回している腕に力を入れて更に身体を密着させてくる。ほう、うなされていたから心配になって添い寝した、と。俺のことを思っての行動か、それなら有り難いな。

 

 

 

 

 

 

 

「あわよくばそのまま既成事実を――――」

 

 

「そっちが目的だろうがぁ!!」

 

 

 大声と共に柔らかい微笑みから怪しい(・・・)笑みに変わった榛名をベットから叩きだそうとする。しかし、ガッチリと俺の身体に密着しているためにビクともしない。

 

「甘いですよ楓さん。貴方が遥南を叩きだそうとすることは昨日の時点から予測済みです!!」

 

「んなこと誇らしげに言ってんじゃねぇ!! てか離れろ!! 誰かに見られたらまた誤解される!!」

 

「既に知れ渡っていますから大丈夫です。だ・か・ら、安心してしましょう(・・・・・)!!」

 

 

 得意満面の笑みでそう宣言する榛名。いや、それのどこが安心できるんですか!! てか知れ渡ってるって、榛名との『ケッコンカッコカリ』のことか、それが誤解だってことかどっちだ? いや、もう榛名の行動から前者だろう。

 

 もうその時点で既に誤解されてるんですがそれは!!

 

 

「朝からお熱いことで……」

 

 ふと、ドアの方から呆れた声が聞こえてくる。抱き付く榛名を引き剥がしながらその方を見ると、そこに居たのはドアにもたれかかりながらこちらを見つめる北上。気だるげな表情ではあるが、その目はいつもよりも冷めているような気がした。

 

 

「違う!! 誤解だ!!」

 

「あぁ、いいよいいよ。別に提督と榛名さんが『そういう関係』でも、あたしは気にしないよ~」

 

 

 俺の悲痛の叫びを適当にあしらう北上。しかし、何故かその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわつくのを感じた。突然のことに身体が一瞬強張る俺を尻目に、北上はいやらしい笑みを向けてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「夕べはお楽しみでしたね?」

 

「やめろォ!!」

 

 確実に誤解しているであろう……てか、誤解だって分かった(・・・・)上での言葉に、間髪入れずに大声で否定する。寝起きで大声を上げたため、少し痛んだ。てか、さっき身体が強張ったのは……って、今はどうでもいいんだよ。

 

 

 北上の言葉に榛名は榛名で否定もせずに「キャッ」と言って紅潮させた頬に手を当ててやがるし……お前さっき『起こしに来た』って言ったよな? さっさと否定しろよ!!

 

 

「榛名は起こしに来ただけだ!! 『そんなこと』は一切やってない!!」

 

「そんな隠さなくてもいいってぇ……周りにはあたしから言っておくからさぁ? あ、これ今日のヤツね。じゃあ、後はごゆっくりどーぞ」

 

 必死の弁論にも北上はいやらしい笑みを浮かべて何処からか取り出したファイルを床に置き、ドアの向こうに消えてしまう。何のファイル……今日の予定か、今日は北上が秘書艦だったな。

 

 って、待て。周りになんて言うつもりだ? いや、もうそのいやらしい笑みで絶対ロクなこと言わないってのは分かってるんだけどさ!!

 

 

「待―――」

 

 

「夕べはお楽しみ……へぇ~?」

 

 

 出て行った北上に声を掛けようとした言葉は、ドアの向こうから返ってくる北上ではない声にかき消されてします。同時に、背筋に寒気が走った。そして、俺の目は北上と入れ替わる様に入ってきた、その声を発したであろう人物に注がれる。

 

 

 

 

 

「あ、曙……」

 

 

「これは一体、どういうことかしらぁ?」

 

 そこにいたのは、素敵な笑みを浮かべる曙。そう、笑みを浮かべてはいるのだ。だが、その周りからはどす黒いオーラのようなものが漂ってるような気がする。一瞬、その背後に般若が見えたのは気のせいか、気のせいだと信じたい。

 

 

「榛名さん? 私はクソ提督を起こしてくるように(・・・・・・・・・)、って頼んだんだけど?」

 

 

 般若を従えているであろう笑顔の曙はそんな言葉を零す。そして、その言葉に何故か胸の奥がざわつく。何だ、この感覚は……。しかし、その思考も引き剥がされまいと力を込めてくる榛名の迎撃で消え去った。

 

 

「楓さんがうなされていたので、起こすよりも先ずこっちが必要かなと思いまして」

 

「……なら、もううなされていないから離れても大丈夫よね?」

 

 

 何とか引き剥がそうと躍起になる俺を尻目に、榛名は完璧な笑顔で答える。彼女の言葉に眉を歪めながら笑顔を崩さない曙はベットに近付き、俺から榛名を引き剥がそうとする。しかし、ぴったりとくっついている……と言うか、徐々に俺を抱きしめる力を強くする榛名は一向に離れない。

 

 

「すみません、引っ張るの止めてくれませんかぁぁぁぁああ?」

 

「コイツにくっつく必要はもうないでしょぉぉぉおお? だから、とっとと離れなぁさぁぁいぃぃよぉぉぉおお」

 

「まだです、『遥南』のお役目はまだ終わっていません。だから、引っ張らないで下さぁぁぁいぃぃぃぃよぉぉぉおお」

 

 

 顔を赤くさせながら引きつった笑顔で榛名を引っ張る曙、そしてその手に落ちまいと更に抱きしめる力を強める榛名。それを目の前で見せつけられながら、榛名を引き剥がそうと躍起になる俺。

 

 

 なんだこの光景。なんだこの状況。まったく、何なんだよ一体。そう心の中で愚痴を溢しながら、顔を背けて溜め息を溢した。

 

 

 

 

「『提督』?」

 

 

 ふと、榛名の声が聞こえる。その瞬間、またもや胸の奥がざわつく。そして、ようやくその原因に気付いた。

 

 

 俺は『提督』と言う言葉に反応しているのだ。

 

 

「クソ『提督』?」

 

 

 次に聞こえるのは曙の声。ざわつきのためワンテンポ遅れた後、声の方を振り向く。そこには、今まで剥がす剥がされまいとしていた二人が、キョトンとした顔で俺を見つめていた。

 

 

 しかし、次の瞬間その二つの表情は、不満げなモノと満足げな笑顔に変わった。

 

 

 

「何わ――――」

 

お役目(・・・)が終わったみたいですね」

 

 不満げな曙の言葉を、満足げな笑顔の榛名が遮る。そう言って、彼女は断固として動かなかったベットから這い出し、いまだ固まっている曙を脇を抜けてドアの方に近付く。

 

 

「ちょ!?」

 

「では、失礼します」

 

 

 硬直から解放された曙が声を上げるも、榛名は含んだ笑みを残して出て行ってしまった。俺の部屋に残されたのは、榛名が出て行ったドアを見つめて固まる俺と曙。

 

 

 しばし、沈黙が流れる。

 

 

「……そういうことか」

 

「何が?」

 

 沈黙を破ったのは、何故かそんな言葉を零しながら疲れた様に頭を抱える曙。その言葉に未だ追いついていない俺は疑問を投げかけるも、彼女はただ黙って俺の顔を見つめるだけで何も返してくれない。

 

 

 またもや、沈黙が流れる。

 

 

「……あんたは知らなくていいわ」

 

 それも、ため息と共に零れた曙の言葉によって破られる。そう零した曙は俺の傍から離れ、北上が置いていったファイルを手に取り、差し出してきた。

 

 

「取り敢えず、寝坊してるんだからさっさと準備しなさい。待ってるから(・・・・・・)

 

 

 差し出されたファイルを受け取ると、そう言い残して曙は慌ただしく出て行ってしまった。一人残された俺はファイルを片手にボケっと曙が出て行ったドアを見つめる。

 

 

 そして、その視線は手にあるファイル。正確にはそこに表記された『提督用』の二文字に注がれた。

 

 

 

 

『新米だろうがなんだろうが君は提督、ウチら(・・・)の提督や』

 

 

 ふと、昨日の龍驤の言葉が浮かんだ。その瞬間、胸を握り潰される圧迫感が襲ってきた。

 

 

 

 そうだ、俺は提督だ。ここの鎮守府の、ここの艦娘たちの提督。『新米』だろうが、提督は提督だ。『新米』なんて理由はもう通用しない。

 

 それに今までは金剛と言う『提督代理』がいた。が、今はいない。昨日、俺の手で解任した。今、此処に俺と同階級のヤツはいない。

 

 

 当たり前のことだ、俺が『提督』なのだから。

 

 

 『提督の役目は、部下の統括、鎮守府の運営、戦線指揮、海域の防衛、維持、って具合にたくさんあるけど、一番大切なのは『責任を負う』ことや』

 

 

 再び浮かんだ龍驤の言葉。それが、提督の役割。

 

 この鎮守府を運営、管理し、部下である艦娘たちの統括、戦闘指揮、海域の防衛、維持、そして近隣住民の安全を確保、強いては鎮守府の安全の確保等々、その数は多い。

 

 そんな提督の役割で、一番大切なのは『責任を負う』こと。ここの鎮守府で起こる全てのことに、例えそれがどんな些細なことでも、誰かが傷つくことでも、誰かを斬り捨てることになろうとも、その全てを背負わなくてはならない。

 

 

 当たり前のことだ、俺が『提督』なのだから。

 

 

 

 今更、気付かされた。『提督(その言葉)』の重みに。そして、もう逃げられないことに。

 

 

 もし逃げれば龍驤の言葉通り、『捨てられる』だろう。そしてそれは、今まで失踪してしまった提督、強いては初代と同等と言うことになる。

 

 失踪してしまった提督たちはまだ良い。だが、初代と同等なんて死んでもごめんだ。吹雪を傷付けてまで守り抜こうとしたんだ、こんなところで諦めて堪るか。

 

 

 しかし、そのために俺はそれだけのことをやらなければならない。『初代と同等にならない』ために、それだけのことをしなくちゃならない。昨日、今日のことでいっぱいいっぱいの俺が、更にそれらのことをやらなければならない。

 

 

 

 龍驤(おまえ)の言った通り、しんどいよ。今にも潰れそうだ。酷だよ。

 

 

 

「何考えてんだ」

 

 

 口から飛び出した言葉。それは怒鳴り声に近かった。それも、頭の中にあった思考を無理やり断ち切るため。それでも、まだ思考は拭い切れなかった。それを考えないように、ベッドにファイルを放り出して手早く着替え始めた。

 

 着替えている間、何も考えなかった。しかし、時折視界に入るファイルがその感情を無理やり掘り起こしてくる。だから、着替え終わった瞬間、ファイルを引っ掴んでドアを開けた。

 

 

 廊下には誰もいなかった。それを確認し、俺は部屋を後にした。

 

 

 今、艦娘に会うのは不味い。と言うか、単純に艦娘と会いたくない。その理由は何となく分かる。

 

 

 『怖い』のだ。『提督』として彼女たちと向き合うのが。『初代と同等になりなくたい』なんて、吹雪を傷付けた理由で『提督』の役割を背負い込むことが。

 

 

 そんな『我が儘』で、彼女たちの前に『提督』として出て行くのが、たまらなく怖いのだ。

 

 

 そんな感情を持ったまま、廊下を進んでいく。幸いなことに、誰ともすれ違わない。俺の部屋が建物の隅の方であることに加え、出撃や演習などの準備で工廠や演習場に出払っているためだろう。普通なら不満の一つでも出るところだが、今は有り難かった。

 

 

 やがて、目的の場所――――食堂が見えてくる。それを見つけた瞬間、無意識に早歩きになる。早く、あそこに入りたい。そんな言葉が頭を過り、俺の手は扉に触れた。

 

 

 

 

 

 

 ――――『食堂』に艦娘はいないのか?―――――

 

 

 扉に触れた瞬間、そんな言葉が頭を過った。同時に、扉を開けようとした手が止まる。

 

 

 よくよく考えれば分かったことだ。昨日からの新体制で艦娘全員が出撃や演習などに駆り出されず、少なくはない人数が非番になっている。そんな彼女たちが朝食の後すぐに部屋に帰るだろうか? 何人かは食堂に留まらないだろうか?

 

 隼鷹の言葉通り、ここには娯楽がない。なら、何人かは多分……いや、確実にいるだろう。

 

 

 そんな中に入るのか? こんな感情(この)まま入るのか? それを見せない様、勘付かれない様に、取り繕って入るのか? 出来るのか(・・・・・)? 俺に。

 

 

 

 『提督』としての価値(・・)が無い、俺なんかに。

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫です」

 

 

 ふと、後ろから声が聞こえた。同時に、扉に触れる手の上に誰かの手が重なる。その手は俺よりも一回りも小さいながらも、俺の手を優しく包み込んでくる。

 

 

 

 

「しれぇ」

 

 

 再び同じ声。その言葉に、俺の首はゆっくりと動かす。自分の手を包み込んでくる手から腕、肩、そして顔に。手の、声の主の顔に視線を向ける。

 

 

 

 そこには、今まで見たことのないような柔らかい表情で佇む雪風。

 

 まるで、赤ん坊を見つめる母のような、子供を見つめる父のような、大切なモノを見つめるような。それらの言葉では全てを表現できないほど、本当に柔らかい表情を浮かべていたのだ。

 

 

 

「大丈夫です」

 

 

 再び、雪風の口が動く。呟くように言葉を零した彼女は目を閉じ、同時に俺の手を包み込む手に力を入れる。

 

 

 俺の半分ほどの、包み込むというよりも添えられたと言った方が正しいほど、本当に小さな手だ。でも、感じるのは手全体を包み込まれているような温かさ。まるで彼女の手で包み込めない部分を、その温かさが補っているような、そんな感じだ。

 

 

 閉じられていた雪風の目が開かれる。その目は呆然と彼女を見つめる俺の視線と重なり、やがて笑みに変わった。

 

 

 その瞬間、彼女の手は俺の手を()に押し出していた。

 

 

 

 

「おっはようございまーす!!」

 

 

 扉が開かれた食堂に雪風の声が響き渡る。同時に、俺の手を包み込んでいた彼女の手が離れ、そしてその身体も俺の横を通り抜ける。目の前の扉が開かれたことに頭が追い付いた頃に見えたのは、カウンターに向かうその後ろ姿だけであった。

 

 

 

 それと同時に、食堂に居た艦娘たちの視線が俺に注がれるのも見えた。

 

 

 

 中に居たのは、天龍と長門だ。皆が皆、唖然とした表情で俺を、正確には飛び込んできた雪風、そして扉の前でボケっと突っ立っている俺へと視線が動いたのだ。雪風が向かったカウンターの奥でも、彼女たちと同じような顔の間宮が見える。

 

 

 

 今、俺は一身に艦娘たちの視線を浴びている。その事実を落とし込んだ瞬間、あの圧迫感が襲ってきた。

 

 

 同時にそれを悟られない様、視線を下げる。そして、いつまでも食堂の前に突っ立っているわけにもいかないため、そのまま歩き出した。

 

 

 少しの間、食堂は俺と雪風の足音しか聞こえなかった。しかし、それもすぐに別の音、俺を呼ぶ声によって破られる。

 

 

 

「『提督』よォ」

 

 

 またあの言葉にざわつく。声からして、天龍だろうか。そう思って視線を上げると、天龍が近づいて来るのが見えた。その顔には、少し不満そうな表情。それを見た瞬間、圧迫感が強くなった。

 

 

 

「どうした?」

 

「それ、今日のだろ? 見せてくれよ」

 

 なるべく心中を悟られない様、取り繕う俺に、天龍がそう言って手を差し出してくる。彼女が言っているのは、俺の手にあるファイルだ。そう理解して、俺は特に何も考えずにファイルを手渡す。

 

 

 天龍は手渡したファイルを開き、中をパラパラとめくる。それはとあるページで止まり、何故か彼女は溜め息を溢した。

 

 

「また遠征かよ……」

 

 

「え?」

 

 不満げな天龍の呟きに、思わず声が出る。それを受けた天龍の顔は不満げなモノから意地悪いモノに変わり、何故か詰め寄ってきた。

 

 

「なぁ~、たまには出撃させてくれよぉ。資材が無いのは分かってっけど……それも昨日届いたんだろ? なら、少しぐらい遠征が減っても問題ないよな? 遠征ばっかじゃ腕がなまっちまうからさぁ? な、な? たまには良いだろ?」

 

 

「我が儘は慎め、天龍」

 

 

 言葉を捲し立てて詰め寄る天龍に思わず後ずさると、彼女の背後から鋭い声が聞こえる。すると、天龍はまた不満げな顔を浮かべ、後ろを振り返った。

 

 

「んだよ長門ォ、別に良いだろ?」

 

「『良くない』から、口を挟んでいるのだ。それは艦娘(わたし)たちの意見を元に提督たちが組んだモノ、お前の一人の言葉で変えられたら堪ったもんじゃない。それでも強行するのであれば、不満の鎮静化に走り回ることになるぞ? あと―――」

 

 

 天龍の言葉に呆れた様に返すのは、いつの間にか近づいてきた長門だった。彼女は困ったように頭を抱え、そしてあの言葉を零す。

 

 それによる圧迫感を感じるよりも前に、前触れもなく鋭くなった長門の視線に身が強張った。

 

 

ファイル(それ)は本来、提督と秘書艦しか触れられない重要な書類だ。今回は天龍だから良かったが、もしそれが艦娘に擬態した深海棲艦だったとしたらどうする? それだけで私たちは劣勢に立たされていただろう。今回は頼み込んだ天龍が悪いが、安易に手渡した『提督』も駄目だぞ。今後は謹んでくれ」

 

 

 長門の言葉、その意味に俺は更に圧迫感を覚える。そして、それはすぐに羞恥心へと変わった。

 

 

 俺の手にあるファイルは艦娘たちの予定、つまり今日一日の行動パターンが記されている。もし、これが敵の手に渡ったら、それこそ攻め込まれるチャンスを与えてしまう。深海棲艦が擬態するのかは分からないが、最悪のケースを想定するのは当たり前のことだ。それなのに、俺はたった今その危険を犯してしまった。

 

 

「……すまん」

 

「いや、今後気を付けてくれるのならいい。それとは別で、一つ進言しよう」

 

 

 俺が頭を下げると長門はそう言って表情を和らげ、次に真剣な顔を向けてくる。

 

 

「現在、我が鎮守府は電波探信儀―――所謂『電探』が不足している。なので、今後の装備開発は電探を優先的に開発してみてはどうだろうか? 勿論、言い出した私が細かい指示は出そう、君や秘書艦に負担はかけないさ。どうだろうか?」

 

「それは我が儘に入らないんですかぁ? 長門さーん?」

 

 

 長門の言葉に、天龍が嫌味ったらしくそう問いかける。それに長門は小さく笑い、小馬鹿にしたような顔を天龍に向けた。

 

「言っただろ? これは『進言』だと。私は鎮守府のためを思って進言したのだ。私利私欲に走ったお前と一緒にしないでもらいたいな」

 

「ほぉ、言ってくれるじゃねぇか?」

 

 

 長門の言葉に、天龍は楽しそうに笑みを浮かべる。そのまま、二人の応酬が始まるかと思ったが、それは一つの大きな咳払いによって阻まれた。

 

 

 

 

「いい加減、そいつ放してもらって良いかしら? そいつが食べ終わらないと、私たちが終われないんだけど?」

 

 

 その声を発したのは、カウンターから身を乗り出して不満げな顔を見せつけてくる曙。何故かカウンターの向こう側―――厨房に居て、何故かいつもの制服の上にはエプロンを纏っている。

 

 

「わりぃわりぃ」

 

「すまなかったな」

 

 

 曙の言葉に、長門と天龍はそう言って俺の前から退き、カウンターへの道を作る。二人があっさりと引いたことに若干驚きつつも、何故かもの凄い剣幕でこちらを睨んでくる曙の視線に狼狽えながらも進んでいく。

 

 

 

「……おー怖い怖い。流石、あの時啖呵を切っただけあるなぁ……な? 長門さんよ」

 

 

「そうだな。今日の朝もソワソワして落ち着きがなかったし、食堂から飛び出した時の顔と言ったら……まぁ、エプロンを置きに帰ってきた時が一番笑ったが」

 

 

「そこの二人!! うるさいわよ!!」

 

 

 背後でボソボソと喋る長門と天龍。そこに曙の怒号が飛ぶ。それに二人は飛び上がるどころか、更に声を押し殺して笑っている。何だこれ、なんて思いながらカウンターの前に立った。

 

 

「いつまで待たせる(・・・・)のよ、全く」

 

 

 カウンターに立った俺に、エプロン姿の曙がふくれっ面を向けてくる。それを前にして、俺は頭に浮かんだ疑問を口にした。

 

 

 

「なんでエプロン着てんだ?」

 

 

「はぁ?」

 

 

 俺の疑問に、曙は一瞬唖然とした顔を浮かべ、次に頭を抱えながら溜め息を溢した。

 

 

 

 

「間宮さんの手伝いをするって、一昨日言ったじゃでしょ? まさか、もう忘れたの?」

 

 

 曙の言葉に、一昨日の記憶が蘇る。

 

 

 それは、倒れた金剛を部屋に運び終わってからのこと。食堂で宣言していた通り、今後の体制へと移行するために金剛を除いた全艦娘に希望を取って、出撃や遠征、非番、食堂当番の人員振り分けをしていた時だ。

 

 

『間宮さんだけ毎日食堂じゃ大変でしょ? どうせ出撃できないんだし、私は間宮さんの手伝いをするわ』

 

 

 そう言って、曙は全ての日程に食堂当番のチェックを入れた希望書を持ってきたのだ。

 

 確かに、食堂では間宮と何人かの人員で回すと、後に人数も10人程度と決まった。しかし、今まで料理はおろか食事に触れてこなかった艦娘たちにいきなり調理をしろ、って言ってもそう簡単に出来る訳もない。少なくとも、彼女たちが慣れるまでは間宮に負担がかかるだろう。

 

 一応、間宮本人は大丈夫だと言ってはいたが、それでも心配なモノは心配である。せめて間宮の補佐役が一人いれば……と思っていた所の提案だったので、渡りに船と言わんばかりにそれを呑んだ。まぁ、流石に非番の日を作らせたが。

 

 そんな感じで曙は間宮と同じ調理当番に配属された。しかし、昨日は一昨日の試食会で作ったおかずが余っており、ご飯を炊くだけで調理らしい調理は無かった。

 

 

 そして、そのおかずもご飯も、昨日の内に綺麗さっぱり無くなり、調理当番制は今日から本格的に始まるんだったよな。

 

 

「『やっと役に立てる』なんて言って、凄く張り切ってましたからねぇ」

 

「間宮さん!!」

 

 いつの間にやら曙の横に立っていた間宮が可笑しそうに笑みを浮かべ、それに顔を赤くした曙が噛み付く。しかし、俺は噛み付かれた間宮の言葉に疑問を持った。

 

 

 

「『役に立てる』? 誰の?」

 

「誰って、それは……」

 

「そんなの『提督』に決まってるじゃないですか」

 

 

 俺の疑問に言いよどむ曙の代わりと言いたげに、間宮が即答する。その言葉に更に顔を真っ赤にした曙が間宮に詰めよるも、彼女は涼しい笑顔でそれをあしらう。

 

 

 しかし、俺はそれよりも間宮が発したあの言葉による圧迫感を堪えるのに必死だった。

 

 

 

「だ、だって……クソ提督のおかげだし」

 

 

 ボソリと漏らした曙の言葉。その言葉に、俺は今日一番のざわつきを感じた。しかし、そこに圧迫感は無かった。何故なら、それよりも引っかかった言葉があったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クソ提督の『おかげ』?」

 

 

 無意識の内に漏れた言葉。それは、曙や間宮に聞こえていたのだろう。何故なら、彼女たちがキョトンとした顔を向けてきたからだ。そこでも、二人の表情は分かれた。

 

 

 困惑した表情と、真剣な表情に。

 

 

 

 

 

「まさか、提督はご自分の選択が間違っていると思っていますか?」

 

 

 訝し気な顔で問いかけられた間宮の言葉。ぶっちゃけ、図星だった。俺がここに着任して、今の今まで胸中に秘めていたこと。まさに、心のうちに秘めていた不安を的中されたと言っていいだろう。そんな疑問、もとい不安を、間宮によって暴露されたのだ。

 

 

 思わず彼女の顔を見る。そこには真剣な表情が。しかし、その表情は何処か寂しげであった。

 

 

 

「提督は、食堂(ここ)でのあの子達の顔を見ましたか?」

 

 

 続けて投げかけられた問い。それは普段よりも低い声色だった。発したのは、やはり真剣な表情の間宮。横の曙は困惑した顔で俺や間宮を交互に見る。

 

 

「もし、そこまで注意して見ていないのなら、今日の昼、もしくは夜の時にしっかり見て下さい。そこに、貴方がやってきたことの『結果』があります。そこに、貴方の求める答え(もの)が、きっとある筈です」

 

 

 間宮の言葉。その意味は分かった。

 

 

 俺が精力的にやったこと、特に『食事の改善』については、食堂に顔を出す艦娘の顔を見れば一目瞭然だ。そこで見せる艦娘たちの表情が、そっくりそのまま俺が今までやってきたことの結果に繋がる。

 

 

 でも、そう理解しただけ(・・)だ。それを信じようと、彼女の言葉をそっくりそのまま信じようという気持ちを、何故か持てなかった。彼女の言葉を、そして今の今まで食堂(ここ)で見た光景を信じられないわけではない。いや、信じたい(・・・・)のだ。

 

 

 でも、信じられないのだ。それを確定付ける、確固たる証拠が無いから。

 

 

「……もし、『それ』が信じられないのなら、言わせていただきます」

 

 

 不意にそう言葉を零した間宮。そう零した彼女は俺に頭を下げていた。横に立っていた曙も驚いた顔をしている。そんな俺たちを尻目に、間宮は力強く言い切った。

 

 

 

 

 

 

「『ありがとうございます』」

 

 

 

 それだけ。間宮の口から零れたのは、その一言だけであった。しかし、それを聞いた俺の胸中から、今まで俺を苦しめてきた圧迫感が、すっと消えるのを感じた。

 

 

 

「提督の『おかげ』で、私は自らの役割を全うすることが出来るようになりました。『給糧艦』と言う、『戦闘面以外で艦娘(あの子)たちを支える』役割を、ようやく全うすることが出来るようになったんです。それがあの子達にどんな影響を与えることになるのであろうと、少なくとも(・・・・・)、私は貴方に救われました。貴方の行いで、給糧艦である私は、役立たずだった(・・・・・・・)私は救われました。最低でも、貴方は『私を救ってくれた』という結果があります。それだけは、覚えておいてください」

 

 

 そこで言葉を切る間宮。彼女は笑みを浮かべていた。今まで見たことのない、満足げな笑みを。

 

 

「私も一緒よ」

 

 

 次に聞こえたのは、曙の声。その方を向くと、彼女は苦笑いを浮かべていた。

 

 

「私も、艦娘としての力を失いながらも、こうして皆の役に立とうと動いている。でも、それって提督(あんた)の許可を得ないと出来ないことよ。でも、あんたがここに置いてくれた。それはつまり、あんたが居てくれた(・・・・・)から、私はこうして動けるのよ」

 

 

 そう言って、曙は苦笑いを浮かべる。その顔に悲壮感はない。代わりに何があるのかは分からなかったが、少なくとも悲壮感(それ)は無かった。

 

 

 

「んなこと悩んでたのかよ?」

 

 

 次に聞こえたのは、天龍の声。振り向くと、彼女と長門は呆れたような表情を浮かべている。

 

 

「お前、俺が何処ぞの馬の骨とも分からない奴に、あんなこと頼むと思うか?」

 

「少なくとも、私は提督『だから』電探について進言したんだ。そうでなければ、相談せずに勝手に開発していた所だぞ」

 

「長門さん、それ立派な軍規違反よ?」

 

 

 天龍と長門、そして長門の発言に突っ込む曙。そんなやり取りが目の前で繰り広げられる。その光景に、俺は一言も発せずに、ただ茫然と見つめるしか出来なかった。

 

 

 

 

『提督としてまだまだ未熟な君に、ついてきてくれる子達がちゃんとおるんや』

 

 

 ふと、浮かんだ龍驤の言葉。その言葉が指す存在を、俺は信じられなかった。いや、存在すること自体は信じてはいた。が、それに見合うだけの価値が自分にあると、到底思えなかったのだ。

 

 

 でも、今こうして目の前にその存在がいる。いてくれる。俺を『提督』と呼んでくれる。こんな未熟で優柔不断で、結局のところ我が儘でしか動けない俺についてきてくれる。

 

 

 そして、あの時の様に、俺が立ち止まった時は誰かが後ろから押してくれる。今、目の前にいる。ちゃんといる。いてくれる(・・・・・)んだ。

 

 

 

 

 

 

「言ったでしょう?」

 

 

 不意に聞こえた言葉。その方を振り向くと、あの柔らかい笑みを浮かべた雪風が立っていた。

 

 

 

 

「『大丈夫だ』、って」

 

 

 雪風のその言葉。それを聞いた瞬間、顔の筋肉が緩まるのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

また(・・)、笑ってるの?」

 

 

 不意に聞こえた曙の言葉。その方を見ると、そこに居た艦娘たちの殆どがキョトンとした顔をしている。唯一、その中で一人だけ、曙だけは苦笑いを浮かべていた。

 

 

 

「提督の笑顔……初めて見ましたね」

 

「そうなんですか? 私は2回目だけど」

 

「それよりもどうしたのだ? 私のジョークがそんなに面白かったか?」

 

「いや、それは有り得ねぇから」

 

 

 俺の顔を見ながらそんなことを話し始める間宮に曙、長門、天龍。その言葉に、思わず顔に手を当てる。手で触って分かる通り、顔が緩んでいた。そうと分かった瞬間、何とか取り繕おうと手で顔の筋肉を引き上げる。

 

 

 しかし、それも次の瞬間には俺の顔を離れ、笑みを浮かべたまま頬を掻いていた。

 

 

 

 

「と言うか、皆さん時間は大丈夫なんですか?」 

 

 

 ポツリと聞こえた雪風の一言。その言葉に、全員の視線が食堂の時計に注がれる。そして、それを見た何人かの顔色が一気に変わる。勿論、その中に俺もいる。

 

 

 

「ヤベェ!? もうこんな時間かよ!! あ、近いうちにちゃんと出撃させてくれよな!!」

 

「くっ、長居しすぎたな……提督、取り敢えず電探の件は任せておけ」

 

 

 そう言って、天龍と長門は慌ただしく食堂から出て行く。そう声を掛けられた俺も、彼女たちと同じように食堂の外へと続く扉に駆け出した。

 

 

「ちょ!? 朝ご飯はどうするのよ!!」

 

「時間ないから昼にまとめて食べるわ!! だから、ちょっと多めにしてくれると助かる!!」

 

 

 後ろから聞こえる曙の言葉に、振り向かずにそう答える。振り向かなかった理由は、単に時間がなかったことに加え、自分が浮かべている顔を見られたくなかったからだ。

 

 

 何せ、緩んだ顔が一向に戻ってくれないんだ。多分、今の俺は今までで一番だらしなく弛んでいるだろう。そんな顔を、そう易々と人に見せるわけにはいかない。今はまだ未熟だからと理由を付けても、これからのことを考えると、そうも言ってられないんだよ。

 

 

 それに何となくと言うか。ようやくと言うか、俺がここの提督をやる『理由』みたいなモンが出来た。

 

 

 今の俺は未熟だ。『提督』なんて肩書を背負うほど、立派な人間じゃねぇ。多分、運営面的に言えば、金剛や大淀の方が適任だろう。俺はせいぜい、飯作りが上手いことが取り柄ってだけ。

 

 でも、そんな俺を『提督』と呼んでくれる奴らがいる。そう言って、ついてきて、時には押してくれる、正確にはケツを蹴り飛ばされるが、とにかくそんな奴らが居るんだ。数は少なくても、ちゃんとそこに居る、居てくれる。

 

 

 

 そんな奴らに、俺は応えなくちゃならない。いや、応えたい、応えたいんだ。

 

 

 周りから見たら、どう見えるだろうか。我が儘に見えるだろうか? しょうもないだろうか? いや、そんなことはどうでもいいんだよ。

 

 

 これは艦娘が『人間』か『兵器』かを決めるのと同じ、周りがどうこう言おうが、結局それを決めるのは艦娘自身だ。それと同じで、結局決めるのは自分自身だ。

 

 

 

 だから、俺は決めた。『アイツらに応える』ことが、俺の『理由』だと。



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episode4 変化
提督の『相談事』


 目の前、正確には視界の左右に見えるのは白い山。その形は縦長の長方形をしているものが殆どで、その中のいくつかは蛇行し若干傾いている。何故その形を保っていられるのか疑問に思うほどの傾き具合のモノもある。

 

 もし仮にそれに触れようものなら、その瞬間それは白い濁流となって襲ってくること間違い無しだ。

 

「ここ、間違ってますよ」

 

 そんな何処ぞの斜塔よろしく素晴らしきバランス感覚でそびえ立つ山を両脇に抱える俺に、そんな言葉と共に横から一枚の紙が置かれる。

 

 それは俺がさっき確認した書類。書き殴りに近い俺の文字の上、誰がどう見ても『綺麗』と思うであろう綺麗な文字が淡々と羅列してあった。その文字が赤ペンで、そして資料がテストであれば、目も当てられない点数だっただろうな。

 

 そんなどうでもいい考えを溜め息共に吐き出す。そして、その書類から両脇の山―――もとい書類の山を見て、更に深い溜め息を吐いた。

 

 

 

「多すぎね?」

 

「この程度で何言ってるんですか……」

 

 そう漏らす俺の前、書類を差し出す黒髪に眼鏡をかけた少女―――大淀は、『何言ってるんだこいつ……』と言いたげな目を向けてくる。その視線に晒されながら彼女から書類を受け取り、脇にあるペンを手に取ってお手本を見てなぞる様にその指示に従って書類を直していく。

 

 

「まだまだあるんですから、頑張ってくださいよ、提督(・・)?」

 

 

 そんな俺の姿を見て、大淀は呆れた声でそう言うと自身も目の前の書類にペンを走らせる。このやり取りも、何度目だろうか。少なくとも、『数えることを放棄した』程だけは言っておこう。

 

 

 つい先日、龍驤が言った『提督』の役割。それは、『部下の統括』、『鎮守府の運営』、『戦線指揮』、『海域の防衛、維持』等だ。 しかし、学校卒業後すぐにここに放り込まれた俺にそれら全てをこなせる力量も器量もなく、やろうとすれば数日でパンクすることは目に見えていた。

 

 故に、後者の『戦線指揮』と『海域の防衛、維持』に関しては各艦隊の旗艦に一任し、その報告を上げさせることで俺を頂点とした情報の一本化体制……と、言う名の半ば丸投げ状態とし、俺自身は前者である『部下の統括』と『鎮守府の運営』を大淀のフォローを受けながら担う体制を作り出した。

 

 その中で、俺がメインで担当するのは『鎮守府の運営』、具体的に言えば『必要物資』を申請する書類の製作と、『部下の統括』、こちらも具体的に言えば艦娘たちのスケジュール組みと各艦隊への大まかな指示だ。

 

 今、俺が書いている書類はまさに前者。各艦隊の旗艦からの戦果及び消費資材の報告書、そして間宮からの食材に関する補充物資の報告書から資材やバケツ、食材などのその他必要物資の数を算出し、大本営、主に朽木中将宛てに送る用の書類を製作している最中だ。

 

 最も、必要物資の算出自体は大淀が担当し、俺は彼女が出した物資数を元に書類を製作して正式な書類の証である印を押すだけ。しかも、それを大淀がチェックしてミスがあれば訂正する。二度手間ではあるが、書類の不備で資材が来ない事態になるよりかはマシだと言う大淀の提案でこうなった。

 

 そして、それを書く俺の横に積み上がっている書類の山は後者、艦娘たちから集めた出撃や非番、食事当番などの希望を取った書類だ。それを元にここ数日の出撃記録と戦果、そして入渠頻度を参照しつつ人員編成を組む。それを配布し何か問題があった場合はそれを考慮しつつ再編成、再配布。なるべく艦娘たちの希望通りの組み合わせを作る様心がけるのが大事だ。勿論、全てが上手くいく筈もなく、誰かに負担が偏る場合は希望の優先や間宮アイス券の配布などで不満を和らげるなど、絶妙なバランスを維持する必要がある。

 

 更に、出撃している各艦隊への指示――――と言うよりも、実際の戦闘指揮は各旗艦に一任しているため、俺が出すのは被害報告を考慮して『進撃』するか『撤退』するかの判断のみだ。それを秘書艦を介した無線通信で行っている。本来、艦隊との通信に関しては大淀の役割なのだが、物資算出と書類チェックのため俺と共に執務室に缶詰、代わりに秘書艦が各艦隊とのパイプ役を担っている状態だ。

 

 そのため、今執務室に俺と大淀しかいない。今日の秘書艦である榛名は、恐らく先ほど帰投した第2艦隊の被害報告を受けるために母港にいる。傷ついた艦娘の入渠を優先させるための措置だが、パイプ役である彼女が執務室を離れるのはそれだけ俺からの指示が遅れることになる。仮に指示が飛ばせない時は、必ず撤退するよう旗艦に言ってあるため無理に被害を出すことはないと思う。

 

 

 まぁ、ぶっちゃけこれらは今のところ机上の空論に近い。『言うは易し』と言う言葉もあるように、これだけ明確に問題が見えても対処するには俺自身のスペックが足りない、こうして大淀からミスの指摘を連発するなどの失態を犯しているし、何より各艦隊にリスクを背負わせている。足を引っ張っていると分かっている手前、非常に申し訳なく思う。

 

 

 だが、この件に関して大淀から『今はとにかく執務に慣れて下さい』と言われた。下手に背伸びして大きなミスをするよりも、今はとにかく慣れるまで『経験』積むことがを大事である、と。甘えだってのは分かってるし、いつまでも甘えていられるほど呑気なつもりは無い。早急に執務をこなせるようにならなければ。

 

 

 

 と、気持ちを新たにした時、執務室の扉をノックする音が聞こえた。

 

 

「どうぞ」

 

「失礼します」

 

 そう言って扉を開けたのは榛名。その手には第2艦隊の被害報告が記されたファイルを持っている。彼女は一礼して部屋に入り、扉を閉めるとこちらに振り向いて敬礼する。

 

 

「秘書艦榛名、母港より戻りました。こちら、第2艦隊の被害報告です。そして第2艦隊旗艦龍田より、軽巡洋艦天龍が大破のため高速修復材の使用を希望しています。如何されますか?」

 

「すぐに手配してくれ!!」

 

 俺が思わず叫ぶと榛名は驚いた顔をするも一礼して執務室を出て行った。それよりも天龍の容態だ。まさか敵艦に単騎突入したんじゃないだろうな。いや、そんな死に急ぐヤツじゃない筈だ。急いでファイルを開け、戦果を確かめる。

 

 どうやら天龍は戦艦の砲撃から龍田を庇って大破したようだった。そのおかげで天龍以外に被害は無し……か。それを知るとともに安堵の息が零れた。因みに、後に提出された報告書では天龍大破後に戦艦以下残っていた敵艦を悉く沈めた龍田がMVPだったのは関係ない話だ。

 

 

 

「なんでバケツ使ったんですか?」

 

 

 ふと、そんな声が聞こえてきた。ファイルから視線を上げると、書類に走らせていたペンを止めた大淀が半眼で見つめてきていた。眉をひそめ、口は口角が下がっているのを見るにご立腹そうだ。

 

 

「第2艦隊の帰投をもって本日の出撃は終わりましたから、天龍さん以後入渠する子はいませんし増えることもありません。ドックを開ける必要が無い以上、バケツを使うことはないと思うのですが?」

 

「え、いや……き、旗艦を守って大破だ。失態による大破なら長時間入渠だが、旗艦庇保の大破なら名誉モンだ」

 

「被害報告見る前に許可出してましたけど」

 

 

 俺の言葉に大淀は白い眼と共にそんなことを言ってくる。そ、そう言うこと突っ込まないでくれるかな? 結果的にはそうなったんだから良いだろ。

 

 

「そうですか。なら、それで誰か(・・)がまた一から算出結果を出すハメになったのは、別によろしいんですね?」

 

「……すみませんでした」

 

 大淀の嫌味ったらしい言葉に、俺はぐうの音も出ずすぐさま額を床に擦り付ける作業に移る。これはもう謝罪するしかないですよ、もう……ん? それってもれなく製作した書類(・・・・・・)も書き直しになるんですよね?

 

 

「以後、気を付けます」

 

「別にいいですよ。そろそろ、『一休み』しましょうか」

 

 

 自らにも降りかかる事実を噛み締めた上でもう一度頭を下げると、そんな言葉と共に椅子が床を引きずる音が。その言葉に思わず頭を上げると、執務室にある戸棚に近付く大淀の後ろ姿が見えた。

 

 彼女は今まで何があるか知らないために近付かなかった戸棚に勝手知ったる顔で開け、中からティーセットを取り出し始める。その姿を見て、思わず口が動いた。

 

 

「紅茶じゃなくていいぞ?」

 

「何で貴方に出さなきゃいけないんですか?」

 

「え、あ、はい……」

 

 大淀の鋭い言葉と視線に引き下がる。って、そうじゃねぇよ。何でいきなりそんなこと言い出したんだよ。執務を始めて数週間だぞ? んなこと、今まで一度も言わなかったじゃねぇか。

 

 

「私がやりたくなったんですよ。今まで(・・・)、ずっとやっていましたから」

 

 

 俺の言葉に、大淀はこちらを振り向きもせずそんなことを言った。彼女の言葉、正確には『今まで』と言う言葉に、俺は思わず押し黙ってしまう。その言葉に中にある、一人の存在が見えたからだ。

 

 そんな俺を尻目に大淀は手早くカップの準備を整え、ポットを抱えて部屋を出て行く。お湯を沸かしに食堂辺りにでも行ったのだろうか。ここから食堂って無駄に遠いし、執務室に『一休み』用の設備でも整えた方がいいかな。

 

 ふとこれも検討しながら、大淀が帰ってくる間に出来る限りの書類を片付ける。少しして、ノックとともに開けられた扉から大淀が入ってきた。

 

 

「先ほど、食堂に行ったら間宮さんから言伝を預かりました。何でも提督に相談したいことがあるので、今日の執務後に食堂に来て欲しいそうです」

 

「あ……あぁ、分かった」

 

 入ってきて早々そんな言葉を大淀が言うので、特に考えもせずそう答えた。それを受けた彼女は俺に一礼し、先ほど用意したカップに向かい手早く用意を始める。

 

 

 やがて、執務室は香ばしい香りが漂い始めた。

 

 

「どうぞ」

 

「ありがとう」

 

 大淀がそう言ってカップを差し出してくる。宣言通り紅茶ではなく、真っ黒に染まるブラックコーヒー。それを受け取り、少し冷ましてから一口飲んだ。

 

 

「美味い」

 

 

 一口飲んで、素直に感想……と言うか独り言を溢す。いや、コーヒーの良し悪しなんて分からないんだが、取り敢えず美味い。それしか言えない。香りが良いとか、コクがあるとか、そんなボキャブラリー持ってねぇよ。

 

 

「そうですか」

 

 大淀が溢したのはそれだけ。カップを傾けながら横目で彼女を見ると、澄ました顔で同じようにカップを傾けている。しかし、その顔にほんの少しだけ、ほんの少しだけ柔らかな表情が見えた。

 

 

「何で今までやってきたんだ?」

 

 

 その表情に思わずそう問いかけた、いや、かけてしまったと言った方が正しい、行ってしまえばそれは失態だ。何故なら、彼女の動きが止まり、その顔に暗い影が掛かったからだ。

 

 

「すまん、忘れてくれ」

 

 

 

 地雷を踏んだことを察して、すぐさま謝罪と共に質問を撤回する。しかし、大淀はそれに応えることなく、ただ手に持つカップを見つめている。その横顔に掛かる影はドンドン暗くなっていく。

 

 

「……大よ――」

 

 

 

「『代わり』に……なりたかったから」

 

 

 俺の言葉を遮る様に、大淀はゆっくりと声を漏らした。彼女は俺を見ていない。ただカップを、カップを握る自身の手に視線を落としている。しかし、その顔が弾かれた様に僅かに上がる。

 

 

「いえ、違います。ただ、あの人を休ませるための口実です。周りには十分な休息を取らせるよう配慮しているくせに自分は一向に休もうとしないし食事もまともに取らなかったので、その時間を確保するために私が言い出したんです。自分が休まないのに、疲労が駄々漏れで、なのに虚勢を張って、限界など当の昔に越えているのが誰でも分かる顔なのに、そんな人から休め休めと言われても説得力がないから――そんな理由で無理矢理休ませました。それだけです」

 

 流水のようにペラペラと言葉を吐きだした大淀。その声は抑揚がなく、淡々と語られるものの、何処か『焦り』を感じさせた。まるで、ポロリと溢した言葉を別の言葉で取り繕ろうとしているように。

 

 

 大淀はそのままカップの残りを一息に飲み干す。飲み干すその顔には深いシワが刻まれており、俺に聞こえるほど喉を鳴らして飲み干した。まるで、飲み干すと同時に喉の奥からあるモノを無理矢理流し込んだように。

 

 

 

空のカップを両手に、一息ついた大淀は視線をカップから窓から見える青い空に向ける。

 

 

 

「それが、あの顔が緩まる唯一の時間でしたから」

 

 

 ポツリと零れた言葉。念を押すような、その言葉が本当であると俺に、自分に言い聞かせるような、そんな言葉だ。

 

 

 大淀は立ち上がってポットに駆け寄り残ったお湯でカップを濯ぎ始める。俺に背を向けたことが、これ以上の追求を拒むことを示していた。

 

 

 彼女の表情は見えない。しかし、そこにどのような感情が浮かんでいるのか、何となく想像がついた。それと同時に、とある言葉(・・・・・)が込み上げてくる。

 

 

 俺はそれを飲み込むように、大淀と同じようにコーヒーを飲み干した。その言葉が、今この場において不適切であり、その言葉だけ(・・)ではただ彼女を傷付けるだけだと悟ったからだ。

 

 

 それ以降、俺たちの間に会話は交わされることなく、互いのカップを片付けた後はただ黙って執務に戻った。

 

 少しして、バケツの手配を終えた榛名が執務室に帰ってきた。彼女は入るなり部屋の空気を感じ取ったのか一瞬顔を強張らせるも、すぐに表情を戻して何事も無かったかのように報告を上げてくれた。正直、この状況の説明を求められても絶対に出来なかったので、その対応は有り難い。

 

 そんな重い空気のまま時は進み、時計の短針が「6」を過ぎ、窓から差し込んでいた夕日が徐々に消えていく。やがて、俺が書き上げた書類に目を走らせていた大淀が小さなため息と共にそれを傍の山に重ねた。

 

 

「はい、OKです。これで、本日の執務は終わりました。お疲れ様です」

 

「お疲れさん」

 

「お疲れ様です」

 

 

 大淀の言葉に、俺と榛名は伸びをしながら口々にねぎらいの言葉を述べる。大きく伸びをする俺の背中や腰は、ポキポキと軽快な音を立てる。

 

 

「提督、ご飯に行きましょう」

 

 そんな言葉と共に、榛名が俺の腕を掴んでグイグイ引っ張ってくる。大体、執務が終わるのは夕食の時間帯になることが多いため、執務後はその日の秘書艦と一緒に飯を食いに行くことが多い。そのため、このお誘いは慣れたモノだ。しかし、俺はその言葉に応える前に、別の場所に顔を向けた。

 

 

 

「大淀、一緒に来ないか?」

 

 

「は?」

 

 

 俺の言葉に、大淀は書類の後片付けをしながら訝し気な顔を向けてくる。予想通りの反応か……前触れも無しに言われれば無理もないか。

 

 と言うのも、これまで俺は大淀と夕食を食べに行ったことが無い、正確に言えば食べる時間が一緒になったことすらないのだ。日替わりの秘書艦とは違い毎日のように顔を会わせて執務をしているのに何故そのようになるのかは、『明日の執務の準備』にある。

 

 明日に向けた準備とは、主に本日の進捗状況と各艦隊から上がった報告書をまとめ、そして明日行う執務内容の大まかな目安を立てることだ。とは言っても、これは提督(おれ)と秘書艦が行うことであり、鎮守府の経理を担う大淀は違った内容を纏めているだろう。しかし、内容に違いはあれどそれに費やされる時間はほぼ同じと言って良い。

 

 俺の場合は割と時間かかるため、先に飯と風呂を済ませて後は寝るだけってなった時にそれを行っている。対して大淀は俺と逆で、執務終了直後にそれらを片付けてしまうのだ。そのタイミングのズレが、夕食時間が一緒にならない要因となっているわけ。

 

 

 以前その理由を本人に聞いたら、ご飯を食べた後にまた執務室に戻ってくるのが面倒くさい、との事だった。面倒なことは先にやるタイプか、それで執務に支障がないなら別に問題ない。しかし、この前俺が飯より先に片付けようとしたらその日に限って先に食堂に行ってしまったのは何故なのか。偶々だろうか?

 

 ……もしかしたら、大淀は俺と飯を食うのが嫌だから敢えて時間をずらしているんじゃないか……なんて、被害妄想みたいなことを思ったが杞憂であって欲しい。そう願ってのお誘いでもある。

 

 

「何故ですか?」

 

「『何となく』だ。それに雪風から聞いたけど、お前いつも一人で食ってんだろ? たまには誰かと食うのも悪くないぞ」

 

「……そうですよ。良い気分転換になりますし、榛名もご一緒したいです」

 

「榛名さんは言葉と表情を一致させて下さい」

 

 心底残念そうな顔でお誘いの言葉を吐きだす榛名に、呆れ顔の大淀が突っ込む。榛名、誘うならもっと明るい顔をしろよ。てか、お前秘書艦の時いつも一緒に食ってるだろ、むしろ秘書艦でない時も殆ど一緒だろうが。少しぐらい自重してくれませんかね。

 

 

「すぐに慣れますから、大丈夫です」

 

「いや、そういう問題じゃないですから」

 

 

 何故か胸を張ってそう宣言する榛名に、大淀が突っ込む。大淀が言いたいことを言ってくれたので、俺は榛名に白い眼を向ける。しかし、彼女は俺に視線に気付かず(多分フリ)、俺の腕から手を離すとすぐに大淀の腕を掴んだ。

 

 

「ちょっと、私はまだ行くとは――」

 

「細かいことは良いですから、さっそく行きましょう!!」

 

 いきなり腕を掴まれた大淀は抗議の声を上げるも、それを遮る様に元気よく声を上げた榛名は大淀と俺を引っ張りながら執務室を出て行く。大淀は何度も抗議の声を上げながら抵抗するも、戦艦である榛名の腕力に勝つことは出来ずズルズルと引き摺られていく。因みに、俺は初めから勝てないと分かっているので引っ張られるがままだ。

 

 

「悪い、何か奢るからさ」

 

 尚も抵抗を続ける大淀に俺はこっそり声をかけた。その言葉に大淀は抵抗を続けながらムスッとした顔を俺に向けてくる。不満を隠そうともしない彼女に、俺は小さく苦笑いを浮かべて軽く頭を下げる代わりに会釈をする。

 

 何回目かの会釈で大淀は表情を不満げなモノから何処か諦めたようなモノに変え、小さくため息を溢した。

 

 

「……分かりました。ちゃんとついていきますから、離して下さい」

 

 

 何処か投げやり気味な大淀の言葉に、榛名は彼女に小さく笑いかけながらその手を離した。離された大淀は掴まれていた場所を軽く摩り始める。いくら頑丈な艦娘だろうと、戦艦の腕力で掴まれれば痛いよな。そんなことを思いながら、視線を榛名に向ける。

 

 

「ついでに俺の手も離してくれるとありがたいんだけど」

 

「すぐに『慣れます』から、大丈夫です」

 

 

 俺の言葉にニコッと笑いかけながらそんなことを言う榛名。いや、それに『慣れた』ら……何か色々と駄目になる気がするんですけど。お願いですから離してくれませんか?

 

 そんな言葉も空しく、俺は食堂につくまでずっと榛名に引っ張られることとなる。そして、背後から何か痛いモノを見るような目を向けられているような気がしたのはどうでもいいことだ。

 

 

 

 

相変わらず(・・・・・)、ね」

 

 

 そんなこんなで食堂についた俺たちに刺々しい言葉をかけてきたのは、カウンターを挟んで対峙する曙。

 

 学生っぽいいつもの制服の上に白いエプロン、そして頭に薄黄色の三角巾、と言う調理実習真っただ中の学生染みた格好もこの数週間で見慣れたものだ。そんな彼女は何故か眉をヒクヒクさせながら白い眼を向けてくる。

 

 

「いや、離れろって言ってんだけどな? 一向に離れてくれないんだよ」

 

「離れる理由がありませんから、榛名は大丈夫です!!」

 

「クソ提督が『離れろ』って言っ……このやり取りも何回目よ。取り敢えず、茶番は良いからさっさと離れなさい。数はあんたたち二人と大淀さんの三人ね」

 

 

 そう言って俺に抱き付く榛名、そして何故か俺にも白い眼を向けながら曙はそう言って奥に引っ込む。曙の言葉に、榛名は渋々と言った顔で俺の腕から離れた。ようやく腕を解放された俺は強張った筋肉をほぐすために軽く肩を回すと、ポキポキと軽快な音が鳴った。

 

 

「何回目って……いつもそんなことやってるんですか?」

 

 

 後ろから少し遠慮気味に大淀が問いかけてくる。振り返ると若干引き気味な顔の大淀。うん、そんな顔になる気持ちも分かるよ。でも、悲しいことに榛名が一緒だとこれが『いつも』なんだ。しかも、それを見る周りの艦娘たちは何も言ってこない、ただ呆れたような目を向けてくるだけなんだ。

 

 でも、これはこれでマシになった方だ。初めの頃は、俺と同じ空間にいること自体嫌だったのか、入ってくると同時に艦娘たちが出て行く、途中のヤツは飯を食うスピードが上がる程だったんだぞ。それが、今は俺が入ると早々に出て行く艦娘はいない、入ってきた際に俺(とベッタリくっつく榛名)を変な目で見て、ヒソヒソ話をするぐらいだ。傍から見ればどんぐりの背比べみたいな差かもしれないが、それでも変化は変化だって胸張って言える。

 

 

 ポジティブに捉えるんだ。そうしないと、此処ではやっていけないって感じたからな。

 

 

「はい、お待ちどおさま」

 

 

 心中で俺自身に慰めの言葉をかけていると、そんな曙の言葉と共に三人分の食事が乗ったトレイが出てくる。その上には、白いご飯とみそ汁、漬物のラインナップ。そして、中央に鎮座するのはユラユラと白い湯気を立ち昇らせるきつね色のコロッケだ。

 

 現在、食堂のメニューは日ごとに替わる定食、所謂『日替わり定食』しか設けていない。そして、その日替わり定食も固定されたラインナップにメインの大皿が一つ付く一汁一菜形式を採用している。一応、ご飯とみそ汁はお代わりはある程度自由にしているが、それでも戦場に立つ艦娘たちの働きと比べると非常に質素なモノだ。

 

 本当は何種類かのメニューを設けて利用する艦娘が好きなモノを選べる様にしたかったが、当番制の施行が始まってまだ日が浅いこと、そして当番である艦娘たちの調理経験が少ないことを考慮して、先ずは一つの料理をしっかり作ることで『慣れる』ことを最優先にした。これには少なからず反発があると思ったが意外にも反発は無く、むしろ賛同する声が多かったのは驚いたな。

 

 

 と言うか、コロッケか……。

 

 

「何考え込んでるんですか? 食べるなら早くしてください」

 

「あ、いや……二人は先に席を取っておいてくれないか? すぐに行くから」

 

 

 いつの間にか自身のトレイを持っていた大淀に、そして自分と俺の二人分のトレイを持つ榛名にそう言って開いている席を指さす。俺の言葉に二人は首を傾げながら顔を見合わせるも、言葉通りに先に席を取りに行ってくれた。その後ろ姿を見送りながら、今度は曙に振り返る。

 

 

「どうしたの?」

 

「『ソース』って何処ある?」

 

 

 不思議そうな顔の曙にそう問いかけると、彼女の顔に若干シワが刻まれる。あぁ、分かっていたことだけど、不満がありありと伝わってくるな。

 

 

「何? あたしの味付けじゃ不満だって言いたいの?」

 

「違う違う……ガキの頃から『コロッケにはソース』って決まってたんだよ。だからさぁ、お願いっ」

 

 

 明らかに不機嫌な曙に、顔の前で手を合わせて頭を下げる。俺の行動に言葉は返ってこなかったが、代わりにため息が返ってきた。

 

 

「待ってなさい」

 

 そう言って、再び曙は奥に引っ込むも、すぐに帰ってくる。その手には、横に突き出す長細い口の付いた赤い蓋のプラスチック容器、『ソース』と言えば誰もが思い浮かぶあのビジュアルそのものがあった。

 

 

「ほら、ご希望のモノよ。もし味に不満があるなら……今度はちゃんと言ってよね」

 

「すまん。なら、いつも美味い飯をありがとうな」

 

 

 ムスッとした顔でソースを差し出してくる曙からそれを受け取り、そう言ってカウンターを離れる。後ろで何か声が聞こえた様な気がして、振り返ったがこちらに背を向けて奥に引っ込む曙の後ろ姿しかない。その耳が赤いように見えたが、それを聞く前に曙は奥に行ってしまった。

 

 

 取り敢えず、俺は大淀と榛名が座る席に向かう。席に近付いて分かったが、彼女たちはまだ食事に手を付けていないことに気付いた。先に食っても良いんだがなぁ。

 

 

「提督と一緒に食べたかったので」

 

「誘われた手前、待たないと失礼ですから」

 

 

 俺の呟きが聞こえたのか、二人が同時にそう言った。まぁ、二人が良いなら別に良いんだけどよ。そんなことを思いながら榛名の横、大淀の向かい側に腰を下ろした。

 

 

「で、それが先に行かせた理由ですか。何ですそれ?」

 

「あぁ、ソースだよ」

 

「かけるんですか? コロッケに?」

 

 俺の手にあるモノに興味を持ったらしき大淀の問いに素直に答えると、彼女は興味深そうにソースを見つめながらさらに問いかけてくる。そんなに珍しいか? てか、多分食ったことないんだな。

 

「普通だろ? 何なら食うか?」

 

「え?」

 

 俺はそう言いながら自分のコロッケにソースをかける。大淀の好みが分からないから普段よりも大分少なめだ。かけ終わった皿を大淀の前に差し出す。

 

 彼女は差し出された皿を見つめ、そして何故か俺に視線を向けてきた。その顔は嫌悪と言うよりも、驚愕に近い。

 

 

「いいんですか?」

 

「あぁ、構わないぞ。さっき奢るって言ったし」

 

 大淀の問いかけにそう答えると、大淀はおっかなびっくりと言った顔で箸を手に取り、俺が差し出したコロッケに箸を入れた。彼女はソースが半分ほどかかった箇所をゆっくりと切り離し、それを摘まんで口に含んだ。

 

 

 その瞬間、彼女の表情が変わる。一瞬、真顔になり、そして次の瞬間にそれはほどける様に消えていった。何度か咀嚼するごとに、彼女の表情はどんどん変わっていく。

 

 

 それは、『一休み』の時に浮かべていた柔らかい表情(モノ)に似ていた。

 

 

「美味いか?」

 

「ッ、ふ、普通ですよ、普通」

 

 

 俺が問いかけると、大淀はスイッチが切り替わるように一瞬で顔を強張らせた。しかし、その要所要所には隠しきれないあの表情が窺える。それを見て、俺は思わず小さな笑みを浮かべた。

 

 

 

「やっと―――」

 

 

 

「榛名にも食べさせて下さい!!」

 

 

 俺の言葉を遮ったのは、俺の横に座っていた榛名。彼女は身を乗り出す勢い箸を大淀の前にあるコロッケに伸ばす。その迫力に思わず大きく仰け反り、それを回避する。

 

 

 その瞬間、俺の手からソースが離れてしまった。

 

 

 ソースの容器はクルクルと縦回転で俺の前へ飛んでいく。その口からは管の様にソースが飛び出し、弧を描きながら辺り一帯にまき散らされる。

 

 

 

 

「きゃぁ!?」

 

 

 俺の前方から悲鳴が上がる。次の瞬間、カランと容器が床に落ちる音が。その音に食堂に居た艦娘たちの視線が俺たちに集まる。しかし、俺の目には前方しか見えていなかった。

 

 

 

 

「大淀!?」

 

 思わず声を上げ、蹴り倒す勢いで立ち上がり前に座る大淀に駆け寄る。隣に座っていた榛名も、顔面蒼白で同じように駆け寄ってくる。対して、大淀は顔の前で腕を交差させ、固く目を瞑っていた。

 

 

「すみません!! おおお、お怪我はありませんか!?」

 

「だ、大丈夫です。幸い、容器自体は当たっていませんから」

 

「な、ならいいけど。でも……」

 

 叫び声に近い榛名の問いに少し上擦った声で答えた大淀の様子にホッとするも、言葉を切ると同時に顔をしかめて彼女の全身に目を向ける。

 

 

 と言うのも、大淀の身体には大量のソースを浴びているのだ。制服はおろか、顔や頭にも結構な量が付いている。

 

 制服は特に酷く、肩からスカートにかけて一直線にベッタリと付いており、早く措置をしなければシミになってしまう恐れがあった。

 

 

「大淀、今すぐ服を脱げ!!」

 

「いきなり何言うんですか!?」

 

 

 思わず飛び出た言葉に大淀は顔を真っ赤にして叫ぶ。あ、いや、そういうことじゃなくて、早く洗濯しないといけないからって意味だから。なんてことはどうでもいい。今は何をすれば……。

 

 

「何やってんのよ、もう」

 

 

 突然、後ろから飛んできた呆れ声。振り向くと、バケツとモップを抱えた曙とタオルを手に持つ間宮が小走りで近づいてくる。彼女たちは俺を押しのけて大淀に駆け寄り、間宮は持ってきたタオルを大淀に手渡した。

 

 

「こりゃ、派手にやりましたねぇ……大淀さんはそれ持ってお風呂へ、汚れた服は脱衣所に放り込んでおいていいから先ずは身体に付いたソースを落としてね。提督は床のソースの掃除、榛名さんは大淀さんの着替えを用意して汚れた制服を回収してここに持ってきてください」

 

 驚くほど落ち着いた声で間宮が指示を飛ばしてくる。その落ち着き様にポカンとしていると、曙に尻を小突かれてそのままモップを押し付けられたことでようやく頭が追い付いた。他の二人も間宮に急かされたことで我に返り、各々間宮の指示に従って動き出した。

 

 

 その指示を出した間宮は、何事かと騒ぎ始めた艦娘たちを諫めるために慌ただしく走り回っている。そのおかげか、艦娘たちはこちらに目を向けながらもいそいそと自分の席に座っていく。本来あの役回りって俺なんじゃないかな?

 

 

「ほら、さっさと動く」

 

 

 そんな姿を見ていたら、また曙に小突かれてしまう。その言葉に俺は渋い顔をしながらも、いそいそと床に広がるソースをモップで拭く作業に戻る。しばらくして、大体ソースを拭い取った頃に間宮が苦笑いを浮かべながら近づいてきた。

 

 

「取り敢えず、此処にいた子たちは説明しました。ソースも綺麗に拭き取れましたし、後は榛名さんが制服を持ってくるだけですね……にしても、やっちゃいましたねぇ?」

 

「す、すまん……」

 

 苦笑いを浮かべながらそんなことを言ってくる間宮。その言葉と視線に居た堪れなくなり、素直に謝罪する。それを受けた間宮は小さくため息を溢した。そんな俺たちの姿に曙が口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「でも、何でいきなりソースなんか言い出したの? あんた、これまで(・・・・)コロッケだった時、そんなこと一言も言わなかったくせに……」

 

「あぁ、あれは……その……」

 

 

 曙の疑問に、俺はそう返しながら頬を掻く。まぁ、確かに、今までもコロッケがメニューに出ることはあったが、その時俺はソースを所望しなかった。それなのに、今日(・・)に限っていきなりソースを所望したのだ。勿論、曙に言った理由が嘘じゃない。単純にコロッケにソースは最強の組み合わせだと思ってる。

 

 

 

 ただ、今日はもう一つ理由があったんだ。

 

 

 

「なぁ間宮。確か、俺に相談があるんだよな? それにかこつけて、俺からも一つ良いか?」

 

「え、ええ、別に構いませんよ」

 

 

 俺の言葉に、間宮は不思議そうな顔を浮かべ、曙は何事かと顔を近づけてくる。本当は間宮だけに相談するつもりだったが、この際いいか。

 

 

 

「実はな―――――――」



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提督補佐の『表情』

「はぁ……」

 

 程よい温度の湯船に肩まで浸かる。それと同時に口から間抜けな声が漏れた。

 

 

 ここはお風呂場―――――艦娘からすればドックと言った方が正しい。戦闘による損傷を修復するため場所であるが、この鎮守府では日々の入浴と併用している。なので、ここには修復専用の浴槽と入浴用の大きな浴槽が併設されており、それ以外は身体を洗うスペースに占められてる。傍から見れば銭湯とも何ら変わらないだろう。

 

 そんなドックは今、真っ白な湯気で満たされている。その柔らかい湯気、そして身体中にじんわりと広がる暖かさに思わず頬が緩むも、次の瞬間それはツンと鼻を刺す酸っぱい臭いによって邪魔されてしまう。

 

 視界の端に見える毛先が湯船に浸かっている黒髪を手に取り、ゆっくりと鼻に近づける。すると、案の定酸っぱい臭いが鼻を刺した。

 

 

「もう一回、洗わなきゃ」

 

 

 そう零しながらも、私―――――大淀は浴槽に手足を目一杯広げ、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 今日の執務終了直後、いつもは私を放っておいてさっさと食堂へ行ってしまう提督からいきなり食事のお誘いを受けた。もちろんさっさと行ってしまうこと自体に不満はなく、むしろ一緒に行かないようにわざと時間を外しているぐらいだ。それなのに、いきなりそんなことを言われようものなら低い声と共に睨み付けてしまうと言うモノ。

 

 

 それに、『一休み』の件で気まずくなったのを知ってる上で誘ってきたこと、その神経に少し苛立っていた。

 

 

 そんな不快極まりないお誘いの答えはもちろん『NO』だ。誰が好き好んで嫌な思いをするだろうか。それに秘書艦であった榛名さんも来て欲しい感じには見えなかった。断る理由としてはこれ以上ないだろう。しかし、何故かその後、話の論点がズレてしまったために断る機会を見失い、そこに畳みかける様に榛名さんが腕を掴んで提督共々執務室から引きずり出された。

 

 

 尚も抵抗するもそのまま押し切られてしまい、なし崩しに提督と食事をとることとなる。そしてそれは、提督と榛名さんによる激しい攻防……もといイチャイチャを見せつけられると言う苦行にも等しい状況の始まりでもあった。

 

 確かに、榛名さんと提督が互いに『真名』を伝えたのは聞いている。聞いていると言うか聞かされたと言うか定かではないが、取り敢えず把握はしている。それは私だけではなく鎮守府にいる全艦娘の周知の事でもある。だから、二人が『そういう関係』であることも分かっている。だけど、いざ目の前にされたら堪ったものではない。

 

 何かにつけてベタベタする榛名さん、おどおどしながらそれを諫めようとしてさらに踏み込まれる提督。それが食堂に着くまで、そして食堂でも続けられるのだ。別に榛名さんが羨ましいとかそんなことはないが、それでも目の前で嫌と言うほど見せつけられればげんなりしてしまうだろう。

 

 

 そして曙ちゃんの言葉。この二人は『いつも』やっていると。それを聞いて、私は今まで一緒に食事をしなかった選択は間違ってはいないと自覚し、そしてこれっきりもうしないと決意した。

 

 

 そんな時、提督が夕食であるコロッケを黙って凝視し始める。そして声を掛けたら、榛名さんと二人で先に行くよう言われる。その言葉に思わず榛名さんと顔を見合わせるも、従わない理由もないので大人しく席を探しに行くことになり、空いた席を陣取り榛名さんの向かい側に座って一息ついた。

 

 

 そう言えば――――。

 

 

 

 

 

「大淀さん?」

 

 

 不意に聞こえた声。その方を見るも、眼鏡をかけていないのと真っ白な湯気で声の主は見えない。ただ、声からして榛名さんだと分かった。

 

 

「着替え、持ってきました。ただ、制服が見つからなくて代わりのモノになってしまいましたが……重ね重ねすみません」

 

「全然大丈夫ですから、そんなに気にしないで下さいよ。それにドックの独り占めなんて早々出来ませんからね? 存分に堪能出来て、むしろ得した気分です」

 

 

 沈んだ声色の榛名さんに冗談交じりで声をかける。大きな怪我もないし、服も間宮さんが綺麗にしてくれる。それで終わりだ。それに提督(あの人)から離れられたのだからある意味願ったり叶ったりと言える。だから、そんなに気に病まないで欲しい。

 

 

「……ありがとうございます。では、せっかくの時間を邪魔しても悪いですし、もう行きますね」

 

「あ、榛名さん」

 

「どうしました?」

 

 

 浴場から出て行こうとする彼女を呼び止めると、そんな言葉と共にドアが動く音が途中で止まる。よく見えないが、多分ドアに手をかけてこちらを見ているだろう。

 

 

「今日初めて見ましたけど、艦娘たち(みんな)の前であれだけベタベタして恥ずかしくないんですか?」

 

「これっぽっちも恥ずかしくありませんよ。それが『夫婦』と言うモノですから」

 

 

 私の言葉に、榛名さんの自信たっぷりと言いたげな声が返ってくる。恐らく、ドヤ顔で胸を張ってるのだろう。いや、『夫婦』と言うよりも『バカップル』と言った方が良い気がするのだが……口にするのはよそう。と言うか、それよりも気になることがある。

 

 

 

「『無理』してませんか?」

 

「そんなこと無いですよ? では、間宮さんが待っていますからもう行きますね」

 

 私の問いに、榛名さんはそれだけ答える。そして再びドアが動く音が聞こえ、今度は最後まで締め切った音がした。それは彼女が出て行ったことを示している。音によって彼女が出て行ったことを把握した私は、何となく口元まで湯船に浸かった。

 

 

 

 榛名さんに聞いた最後の問い。これにはちゃんとした理由がある。

 

 

 それは、提督に言われて席を取った時のこと。榛名さんは私の向かい側に腰を下ろした時、彼女は一つ溜め息を溢したのだ。特に深いわけでも、重々しいわけでもない。多分、今日の執務の疲れから出たモノだろう。特別気にするほどのモノでもない。

 

 

 私が気になったのはその『表情』。

 

 

 疲労の色を、疲労の他に何か別のモノを抱えているような、憂いているような、そんな表情だ。そして最も引っかかったのはそれから感じた『既視感』。その表情を、私は前に見ている。それも、一度ではなく何度も見ている。更に言えば、それを見た状況は決まって一緒だ。

 

 

 

 『榛名は大丈夫です』

 

 

 そんな決まり文句の時に浮かべる表情そのままだ。出撃で傷付いた時、入渠が後回しになった時、とにかく彼女が無理をする時に浮かべるモノ。その中で真っ先にとある状況を思い浮かべ、そして思い浮かべてしまった自分を張り倒したくなった。

 

 

 

 

 

 

 何せ、それが『初代提督との伽後』だから。

 

 

 

 

 

 

「あーーーッ!!」

 

 

 その時、私はそう叫んで湯船から勢いよく立ち上がる。湯船が激しく揺れて少なくはない量のお湯がこぼれるも気にしない、いや気にする余裕もない。何せ、とても深刻な問題に気付いてしまったのだから。

 

 

 

 

「この後、執務室に行くんだったぁ……」

 

 

 いつもなら、執務終了直後に明日に向けた準備を片付けるため、執務室に行く必要はない。だが、今日は提督に誘われて食堂に行ったため、その作業が残っている。更に言えば、少なからず提督も執務室にいる可能性もあり、運が悪ければ鉢合わせからの長時間同じ空間にいなくてはならないことになる。

 

 しかも悪いことに、先ほど榛名さんは制服の代わりを持ってきたと言った。それもその筈、明日用の制服は今日の朝に洗濯したばかりで着れるようになるのは明日の朝だから、今日中に用意するのは不可能だ。

 

 そして、私が持っている制服以外の服など、自室でしか着ない寝間着ぐらいだ。しかも、汚れた制服は榛名さんが持っていってしまったため、私に残された選択肢は榛名さんが持ってきた制服の代わり―――寝間着を着る以外に方法はない。

 

 

 つまり、制服ではない且人前に出たことのない寝間着姿で、あろうことかあの提督が居るであろう執務室に行き、長時間同じ空間にいなくてはならないのだ。

 

 

 いや待て、提督の準備が終わってからやると言うのはどうだ? いや、提督が作業に取りかかる時間も作業スピードも遅い。それを待っていたらこちらの睡眠時間が削られてしまうし、何より私にしわ寄せが来るのは納得できない。

 

 

 では、提督が来る前に終わらせるのは? 駄目だ、執務室で鉢合わせする光景しか浮かばない。入浴中にやろうにも時間があやふやでどのみち意味がない。

 

 

 と、なると、残された道は1つしか無いわけだ。

 

 

 

「なんで今日に限ってやるかなぁ……?」

 

 

 髪をクシャクシャしながら今日洗濯に出した自分を、そして元凶である提督に向けて愚痴を漏らす。しかし、愚痴も漏らした所で事態が好転する筈もない。あれこれ考えないでさっさと切り上げてしまおう。

 

 

 そう無理矢理納得し、湯船から上がってもう一度頭を洗う。腹いせとばかりにシャンプーを使いまくって少しスッキリした後、身体を手早く拭いて脱衣所へ。

 

 脱衣場に入り、真っ直ぐ脱いだ服を放り込んだ籠に近づくと、眼鏡の横に榛名さんが持ってきたらしき真新しいバスタオルと下着、そして件の薄い黄色の寝間着が丁寧に畳んで置いてあった。やはりか……と目の前にある現実に肩を落としたくなる。しばらく項垂れた後、タオルで身体や髪を拭いて寝間着に着替えた。

 

 寝間着に着替えた後、眼鏡をかけて近くの姿見の前に立つ。眼鏡をかけたお陰で、寝間着姿の私が嫌と言うほどハッキリ見えた。それを前に思わず深い溜め息を吐き、手早く髪を乾かして使ったタオル類を回収ボックスに入れ、項垂れながら脱衣場を出た。

 

 

 幸い、廊下に出た瞬間に誰かに出くわすと言う事はなかった。この姿はあまり晒したくない手前、安堵の息を漏らして執務室に向かう。因みに、食堂から直接ここに来たため、履物は革靴だ。寝間着に革靴と言うちぐはぐ感に部屋に戻ろうと考えたが、考えるのが嫌になったのでそのまま向かうことにした。

 

 

 革靴の音が廊下に響き渡る。急いで乾かしたために少し湿っぽい髪が頬に付くも、特に直すことはない。ただ、ひたすら、執務室に向けて歩き続けた。

 

 

 やがて、目的の場所が見えてきた。執務室は明かりが付いており、中に誰かが居るのは確実だろう。そう思って扉の前に立った瞬間、憂鬱な気分が込み上げてきた。先ほど覚悟はしたものの、やはり人様に、特に提督に寝間着姿を晒すのは抵抗がある。心の準備と理由を付け、扉を少し開けて中を覗き込んだ。

 

 

 見る限り、中には誰も居ない。この時間に執務室に来るのは提督ぐらいだし、トイレにでも行っているのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大淀さん?」

 

 

「ひゃい!?」

 

 

 突然、背後から声が聞こえた。それに思わず変な声を上げ、同時に心の中で不運を呪った。何せ、その声は提督であり、そして部屋を覗き込んでいるときに出くわすと言う、想定する中でも最悪なパターンだったのだから。

 

 

「あの……」

 

 

 沸き上がる羞恥心を、提督の困ったような声が逆なでしてくる。変な声を上げてしまった手前、顔を見られたくない。今すぐに、全力疾走で部屋に帰りたい。でもそんなことをすれば職務放棄だし、何より振り返らないと事は進まない。そう自分に言い聞かせ、渋々提督の方に振り返った。

 

 

 そして、思わず目が点になった。

 

 

 

 

「……何ですかその恰好」

 

 

「お前が言うなよ」

 

 

 ポロリと漏れた私の言葉に提督が素早く突っ込んでくる。しかし、その言葉よりも私は彼の立ち姿、格好に意識に向かっていた。

 

 

 

 

 何せ、その恰好はいつもの真っ白な軍服ではなく、若干色あせた水色のパジャマだったからだ。

 

 

 

 

 

 

「お風呂入ったんですか?」

 

 

「違う違う。さっきの騒ぎで上着とズボンにソースが付いちまって、それを見た間宮に脱がされたんだよ。明日のヤツを探すのもアレだし、どうせ準備して風呂入って寝るだけからパジャマ(こっち)の方が都合が良いって思ったわけだ。間宮に『脱げ』って真顔で言われた時はどうしようかと……っと、人のこと言えないか」

 

 

 私の疑問に提督はそう答え、苦笑いを浮かべる。彼はソースまみれの私に近付き、そして触っている。その時、また片付けの際にソースが付いたということか。確かにありえなくないか。と言うか、間宮さんも言ったのか。全く、この人と言い間宮さんと言い、何でこう公衆の面前で『脱げ』なんて言うのだろうか。

 

 

 

「とまぁ、そういうわけだ。しかし、こんなことになっちまって悪かったよ」

 

「あ、いえ、大丈――――」

 

 

「だから、お詫び(・・・)を持ってきた」 

 

 

 私の言葉を遮る様にそう言って、提督は自慢げな顔で何かを近づけてきた。思わず後退りするも、その瞬間フワリと鼻をくすぐる甘い香り(・・・・)。その香りはここ数年程は感じなかったものであり、誰もが良く知ってる馴染み深い香りでもあった。

 

 

 そして、私の目は提督に近づけられたモノ――――お盆に乗せられた二つのマグカップに注がれていた。

 

 

「中に入るか」

 

 

 そんな提督の言葉と共にお盆は離れ、代わりに提督の腕が伸びてきて私が寄り掛かる扉に触れる。キィッと軽い音と共に扉が開き、未だ突っ立っている私の横を通り過ぎて提督は中に入っていった。数秒遅れて、私も執務室へと入る。

 

 

 執務室に入ると提督は近くの棚にお盆を置き、執務机に散乱する書類の束を片付け始める。その姿を、私は鼻に残るあの香りと共に黙って見続けていた。やがて大方の書類を片付けた彼はお盆を執務机に移動させ、二つある内の一つを手に取り、私に差し出してきた。

 

 

 

「ほれ」

 

 

 提督に促され、カップを受け取った。カップに触れた瞬間、またあの香りが鼻をくすぐり、カップから少し熱い位の熱がじんわりと手に広がっていく。それと同時に、私の目はカップの中身に注がれた。

 

 

 

 カップはこげ茶色の液体で満たされており、そこからゆっくりと湯気が立ち昇っている。その淵には液体が固まって(・・・・)付いていた。それを目にして、私の口がゆっくりと開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チョコレート?」

 

 

「正解」

 

 

 私の言葉に提督はそう言いながらカップを傾け、空いた手で私を指さしてくる。その姿に、そしてもう一度カップの中を満たすチョコレートを凝視する。あの香り、チョコレート独特のふんわりと甘い香りが、それが本物であることを示していた。

 

 

 しかし、私の知っているチョコレートは液体ではなく、四角く薄い板状のモノだ。それに、表面に薄い膜が張り、カップが揺れるごとにその表面がユラユラと揺れるその様は、まるで牛乳のようである。

 

 

 

 

「正確に言えば、溶かしたチョコと牛乳を混ぜ合わせた『ホットチョコレート』だけどな」

 

 

 その疑問を見透かしたのか、何処かホッと息を孕んだ声が聞こえてくる。『ホットチョコレート』と言う聞きなれない言葉に思わず提督の方を見ると、彼は先ほど指してきた手でカップを傾けるジャスチャーをしてくる。それを、そしてもう一度カップを見て、恐る恐る口を付けた。

 

 

 

 先ず感じたのは真っ白な湯気とチョコレートの香り、その中に隠れる温かい牛乳の乳臭さ。香りの形容としてふさわしくないかもしれないが、とにかく『柔らかい』のだ。次は唇に触れる暖かさ、それは小さく開いた口にトロリと流れ込む。それと同時に、チョコレートの強烈ながらも牛乳でまろやかになった甘さが舌に触れ、暖かさと同時に口いっぱいに広がった。

 

 口に含んだ感覚はココアに近い。だが甘みが強いためにある程度口に含み、舌で転がしながらじっくりと味わう。いや、正確にはその暖かさを堪能したかったから。そして、存分に堪能して少し冷えたチョコレートを一息に飲み込む。それは喉を通り下へ、暖かさは全身にゆっくりと広がっていく。

 

 

 チョコレートを飲み込むと、入れ替わる様に息が漏れる。口に残るチョコレートの甘い余韻、鼻に残る香り、なおも広がり続ける暖かさ、布団に包まれているような心地よさ。

 

 

 

 

「美味いか?」

 

 

「はい、とっても」

 

 

 ふと聞こえた問いに、何も考えずにありのまま応えた。しかし、すぐに我に返って声の方を見ると、カップを傾けながら小さく笑う提督が。それを見て、先ほど感じた暖かさとは別の()を感じた。

 

 

 

 

 

 

「ふ、普通ですよ、普通」

 

 

「そうかい」

 

 

 慌てて訂正するも、提督はそう言った後小さく吹き出した。明らかに小馬鹿にしたような対応に、更に顔に熱が集まる。しかし、ここで下手に騒げば墓穴を掘るだけだ。何か、話題をすり替えないと……。

 

 

「そ、それよりも、これどうしたんですか?」

 

 

「これか? 食堂から返ってきた時、間宮から言伝を預かっただろ? あれ『間宮アイスに変わる新しいメニューの試食』で、ホットチョコレート(こいつ)はその中にあったヤツだよ」

 

 そう言って、提督は再びカップを傾ける。その姿を見て、私もカップを傾けた。

 

 間宮さんが私に託した言伝はそれだったのか。確かに、提督は料理に関して一目置くところがある。それに最近ようやく食事を取り始めた艦娘(わたしたち)よりも彼の方が相談しやすかったのだろう。そして、準備があるから執務室に持ち込んだのも分かる。

 

 

 でも、何故私の分まで用意されているのだろうか。

 

 

「まぁ、俺の相談も叶えてくれたしな」

 

「相談……あぁ、そう言えば『奢る』約束でしたね」

 

 

 呟くようなその言葉に、私は少し前の記憶を掘り起こして納得した。榛名さんに引きずられていく中、抵抗する私に向けて、提督は条件として何かモノを奢ることを提案した。今になって考えると、奢ろうにも『奢るモノ』が無いと思うのだが、その結論に至った提督は間宮さんに相談し、そしてこの話を持ち掛けられて渡りに船とばかりに呑んだのだろう。

 

 今になればその約束は無理だし、私としても別に期待していたわけではない。或る意味、それでこれにありつけたのであれば儲けものだ。そう思って、私はカップを傾ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大淀に『ちょうどいい』って思ったからさ」

 

 

 先ほどの呟きよりも小さい声。普段なら聞き逃してしまいそうな声なのに、何故か私の耳にはしっかり聞こえた。そして、私が振り向いたのと、提督が呑み終えたカップを置くのが同時だった。

 

 

「だって、お前いつも眉間にしわ寄ってんだもん。朝から晩までずっと、俺が見た限りは四六時中だ。一瞬も気を緩めずに、ずっと難しい顔してんだぞ。いつもそんな顔をされたら、見ているこっちが気を遣っちまう。でも、俺の前では変わんないし、どうしたもんかって思ったわけよ」

 

 そう言いながら、提督は両目の目尻を上に押し上げながら目つきを鋭くさせる。一見すれば、変顔をしているようにも見えるが、その目からはいつになく真剣な雰囲気が伝わってきた。

 

 

「それが、今日ようやく見れたんだ。榛名に引きずられて、飯食ってた時にさ」

 

 

 提督はそう言い切ると彼は顔から手を離し、私に指を向けてくる。その表情は手が離れる前と後は全然違う。しかし、目から感じる真剣な眼差しは少しも変わらなかった。

 

 

「今は違うが、お前コロッケの味を聞いた時『普通』って言ったよな。『不味い』でも『嫌い』でもない、『普通』って。それ、少なくとも『不味く』もなくて『嫌い』でもないってことだろ? まぁそれだけじゃ『美味い』か『好き』かまでは分からんが、それはお前の顔や目が教えてくれた」

 

 

 そこで言葉を切ると、提督は表情を真剣なモノから柔らかい笑みへと変わった。口から微かに笑い声を漏らしている。その言葉に、そして表情に、私は顔に手を当ててその形を確認する。そしてそれが彼の言う表情(モノ)であると分かった瞬間、すぐさま眉間に皺を寄せた(・・・)

 

 

 

 

 

「そんな顔じゃ、『一休み』も出来ないな」

 

 

 その瞬間、再び聞こえた提督の言葉。声の方を振り向くと、そこには悪戯っぽい笑みを浮かべる提督の姿。彼は私から視線を外し、何処か遠くを見つめる様に目を細めた。

 

 

「そんな眉間に皺を寄せた、傍から見て分かるほど気を張った、無理してるのを悟らせないしかめっ面の鉄仮面で『一休みしよう』なんて言われても説得力(・・・)の欠片もないだろ。だから、それが一時でも、せめて一瞬でもいい。それが緩む、鉄仮面が崩れる時間を、『一休み』の時間を、ただ作りたかっただけだ」

 

 

 そう言うと、提督は外していた視線を再び私に向ける。そして、子供を見るような目をしながら口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

誰かさん(・・・・)の様に、な」

 

 

 

 『誰かさん』――――それが一体誰なのか、分からない。いや、心当たりが無いわけではない。幾人かの名前が浮かぶも、それを覆すほど心当たりがあり過ぎるのだ、自分に(・・・)

 

 

 

「さて、それじゃあ片付けますか。あ、片付けは全部やるし、後で持ってくから気にせずゆっくり飲めよ。それと、会った時でいいから間宮に感想を言ってくれ。俺からも言っておくが、やっぱり生の声がいいからな」

 

 

 空のカップとお盆を回収した提督はそう言いながら厳命とでもいうかのように私に指を向け、笑みを浮かべて執務室を出て行った。その姿、そしてその動きは今まで見たことがないほど早く、口を挟む暇も無かった。いや、挟ませなかったと言った方がいい。

 

 

 

「ただ……『作りたかった』、か」

 

 

 ふと、無意識の内に口から漏れた言葉。それと同時に胸の奥の方から熱を感じる。そしてそれは段々と大きくなり、いつしか胸一杯に広がった。それはホットチョコレートの暖かさも包み込む、心地よい、本当に心地よい暖かさ。そんなものがずっと自分の中にあったのかと驚いたほど、心地よい。それを感じながら、カップを傾けた。

 

 

 いつの間にか、私は欠伸を溢していた。提督が居なくなって、気が抜けたのだろうか。無意識の内に、視線が手元のカップに移る。ゆっくり視線を上げるも、いつの間にかまたカップに移っていた。気付く度に何度も繰り返すも、視線の景色は段々と固定化されていく。

 

 

 やがて、半分以下になった視界に空のカップが映ったところで、私の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 パチッと目を開けた時、見えたのは大きな扉。一瞬、此処が何処か分からなくなるも、見えた扉が執務室と廊下を繋ぐモノであること、そして今自分がいるのが執務室の、それも金剛さんの部屋から移動させたソファーに寝転がっていることを把握した。

 

 

 

「……寝ちゃったんだぁ」

 

 

 そう言って上体を起こすと、何かが身体からずり落ちた。首だけを動かして落ちたモノを見ると、茶色い毛布だった。だが、執務室に毛布なんてあるわけがない。なら、此処は自室か? いや、さっきの扉からしてそれはない。だけど、何で毛布が―――。

 

 

「バケツ……」

 

 

 その時、私の耳に縋る様な提督の声が聞こえた。思わずその方を見ると、机に座って塞ぎ込んでいる提督。何事かと思うも、その背中がゆっくりと、規則正しいリズムで上下しており、そのリズムに合わせて彼が唸り声を上げている。それを見て、さきほどのが『寝言』であると分かった。

 

 

 身体を動かし、時計を見る。時間は午前1時を回ったところ。本来なら、執務室にいるような時間ではない。次に、寝息を立てる提督へと視線を向ける。先ほどと変わらず、規則正しい寝息を立てている。しかし、それよりも彼の顔の下にある紙に妙な違和感を感じる。

 

 

 ソファーから身を起こし、ゆっくりと提督に近付く。そして、起こさないようにその紙を引っ張り出した。

 

 

 そこには計算式がびっしりと書かれており、『=』の後には導き出した答えと補足説明が書かれている。そして何よりも、それらが導き出そうとしていたモノの全て、昨日の執務中では算出しきれなかった物資の数々、いわば、『私』がやり残したモノであった。

 

 

 その紙を、そして寝息を立てる提督の周辺にある書類――――――私が物資の算出を明日に(厳密に言えば今日)回しておいた書類。それらには先ほど算出した数、そしてご丁寧に提督の判子が押されている。あとは、私が記入漏れがないかをチェックするだけ(・・)だ。

 

 

 つまり、提督は私が明日に回そうとしていたことを『肩代わり』していた。しかも、ちゃっかり自分の仕事も行いながら。それも隣で眠りこける私を起こさず、むしろ毛布までかけて。こんな夜遅くまで執務を、途中で寝落ちする程無理をしていたのだ。

 

 

 

「貴方だって……人のこと言えませんよぉ」

 

 

 そう漏らし、眠りこける提督から書類に視線を移す。すると、申請している物資の数が異様に多いことに気付いた。先ほどの計算式と見比べてみると、途中で計算が間違っている箇所がある。それを皮切りに、計算式を洗い浚い目を通すと、その3割以上が計算ミスを起こしていたことが分かった。

 

 

 つまり、彼の周りにある書類の3割はやり直しだと言うことだ。

 

 

 

「慣れないくせにやるから……」

 

 

 そうため息交じりに漏らしながら、未だ寝息を立てている提督を見る。その時、その身体が動いて腕に隠れていた顔が露わになった。

 

 

 

 そこにあったのは、今まで見たことないほどだらしなく緩み切った彼の寝顔。口が若干開いており、下手すれば涎が垂れていたかもしれない、そんな子供のような寝顔だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう……」

 

 

 

 それを見て、無意識の内にそう呟いていた。次の瞬間我に返り、顔に手を当てて表情を確認する。しばらく触り、どんな表情をしているのか把握した後、特に何もすることなく手を離した。そして、近くに落ちている毛布を手に取り、寝息を立てる提督の身体に掛けた。

 

 

 もし、今の姿を見たらどう思われるだろうか。いや、周りは気持ち良さそうに寝息を立てる提督だけ。時間的に起きている艦娘も少ないし、彼に関しては間違えて叩かない限りは起きそうもない。見られる心配はないから、特に気にする必要もないだろう。

 

 

 

 

 たとえ、目の前で眠りこける男を見つめる私が、彼が言っていた表情(モノ)を浮かべていたとしても。



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提督と『初秘書艦』

「こっち、『定食』三つお願いしまーす!!」

 

「こっちは『出撃用』四つ!!」

 

「ちょっと待っててねー!!」

 

 ガス灯のぼんやりとした優しい明かりが照らす中、眠気を吹き飛ばすほど明るく威勢の良い声が次々に飛び交っている。少し前までの其処――――机に座る誰もが無言、無表情で資材を口にしていた食堂を目にした者なら、まさか此処が『その』食堂だとは思わないだろう。

 

 何故なら、その無表情だった艦娘たちの顔に様々な表情が浮かんでいるからだ。

 

 非番の艦娘は極々普通のご飯をつつき、みそ汁を啜りながら穏やかな笑みを浮かべて話をしている。出撃のある艦娘は大方食事とは呼べない弾薬や鋼材を片手間に齧り、真剣な顔でミーティングをしている。食堂当番の艦娘は額に汗を浮かべながら、次々とやってくる艦娘たちを前に辟易とした顔で食事を提供している。

 

 

 どれもこれも、傍から見れば普通の食堂と大差変わらない。しかし、やはりあの時を知っている俺からすれば、それらが意味すること、そしてそこに至るまでの過程を思い出さずにいられない。本当に、変わったよな。まぁ、まだ提督(おれ)の距離はあるけど。

 

 

 

 

「箸、止まってますよ?」

 

 

 ふと、横から挑発するような声が聞こえ、その方を向くとニヤニヤと小悪魔っぽい笑みを浮かべる間宮が。その言葉に、俺はいつの間にか朝食の箸を止めてボケっと周りを眺めていたことに気付いた。

 

 

結果(・・)が気になるのは分かりますが、もうちょっと隠してください。あんまり露骨過ぎると、変な誤解生みますからね」

 

 

「あぁ……気を付けるわ」

 

 

 間宮の言葉に、すぐさま思い当たる節が浮かんだ俺は思わず引きつった笑みを浮かべる。そうだな、あの時はビックリしたなぁ。いきなり深海棲艦のスパイとか言われたし。

 

 

「まぁ、貴方が周りからどう思われようが知ったこっちゃないんですけどね」

 

「おい」

 

 間宮の辛辣な言葉に渋い顔を向けると、彼女は悪びれる様子もなく可笑しそうに笑いを溢すだけ。その姿に、怒りを通り越してもはや呆れに変わった俺はため息と共に苦笑いを溢した。

 

 

「それよりも、提督にお見せしたいものがあります」

 

 その言葉と共に、間宮は真剣な表情に変えて何やら手書きの書類を手渡してきた。その切り替わりように、同じく表情を引き締めて書類を受け取る。

 

 

「新メニューの件か」

 

「はい」

 

 受け取った書類を見てそう零すと、間宮は力強く頷いた。それを横目に、書類に目を通していく。

 

 

 内容は、新メニュー候補として取り上げたモノの中で、カステラ、ロールケーキなどの洋菓子、羊羹、最中などの和菓子が数種類ずつ、そして先日大淀と一緒に飲んだホットチョコレートが採用された旨と必要な材料の総数、そして候補たちそれぞれの評価であった。

 

 目を通す限り、採用不採用関わらず新メニュー候補たちの評価は高い。ぶっちゃけ、これだけ人気なら全部採用しても良さげなのだが、そうなれば人員的、そして材料の申請的問題(主に俺の)が生じる。それを考慮したのか、いくつか的を絞ってくれたのだろう。また、洋菓子は駆逐艦や軽巡洋艦に、和菓子は戦艦や空母に人気と、艦種によって幾分かばらつきが見られるため、それも含めて和洋から数種類ずつを選び出したようだ。

 

 更に、メニュー自体は食事と同じく日替わりで固定化するものの、提供するタイミングは個人の好きな時間に注文できるようになっている。恐らく事前に作っておいて、注文と同時に盛り付けて出す感じか。メニューもまとめて作れるものばかりだしお菓子作りなら当番の艦娘も喜ぶだろう。問題はないな。

 

 

「それで問題なければ、提督から発表してもらっていいですか?」

 

「あぁ、問題ないし構わない。しかし、あれだな……」

 

 書類を見ながらそう零すと、間宮は何だと言いたげに首を傾げる。何気なしに呟いただけだからあまり口にするようなことでもないんだけど、そこまで興味を持たれると言わざるをえないよな。多分、怒るし。

 

 

 

 

 

 

「あの……意外に字が幼いな~、って」

 

 

「喧嘩売ってます?」

 

 

 案の定、俺の言葉に間宮は隠そうともせず不満げな表情を見せつけてくる。いや、言いたくなかったけどなんか言わないといけない雰囲気だったじゃん。

 

 

「だ、だってなぁ……いつも大淀の字ばかり見てるから、つい……」

 

「日がな一日書類を書き倒している人と比べないでください」

 

 おい、酷い言いようじゃねぇか。まぁ、否定出来ないけどよ。主に俺のせいで。

 

 

「それに何ですか? 艦種関わらず艦娘は全員字が綺麗だとでも思っていたんですか? 残念ながら目の前に下手くそな艦娘が居ますよ。朝っぱらから寝ぼけたこと言わないでください」

 

「いやいや、誰も下手くそなんて言ってねぇだろ」

 

 

 流水のように飛び出す間宮の嫌味に突っ込みを入れるも、彼女はご立腹と言いたげに腕を組んでそっぽを向いてしまう。だから言いたくなかったんだよ。まぁ、ちょっと言葉を選ぶべきだった気はするが……。他の言い方は何だろう。

 

 

 

 

 

「あ、あれだよ。幼いって言うか……女の子らしい、可愛いらしい字って意味だよ」

 

 

 考えた末にたどり着いた結論を出すと、間宮の不満げな表情が一瞬にして真顔に戻った。その姿に、俺は地雷を踏んだのかと思わず身構える。当の間宮は真顔のまま暫し硬直した後、深いため息と共にジト目を向けてきた。

 

 

「あの……『女の子』らしいって言ってる時点で『幼い』とそう変わりませんからね。『歳相応』とか『若々しい』とか、もうちょっと別の言葉を探してください」

 

「あ、はい」

 

「あと、そういうの(・・・・・)は私じゃなくて曙ちゃんとか榛名さんとか、他の子に言ってあげてくださいよ」

 

「へ、何を?」

 

 

 間宮の言葉に聞き返すも彼女はその問いに答えることなく席を立ち、さっさと厨房の方に行ってしまう。その後ろ姿を首を傾げて見つめるも、彼女は振り返ることなく厨房に引っ込んでしまった。怒らせちまったかな? ちょうどカウンターで朝食を受け取っていた艦娘たちがキョトンとした顔になっていたし。

 

 

 

「しれぇ、前いいですか?」

 

 

 間宮の言葉に頭を捻っていると、朝食のトレイを持った雪風が声をかけてきた。その言葉に頷くと、彼女はいそいそと前に座り、手を合わせて「いただきます」と言って食べ始める。トレイを持っているってことはカウンターの近くにいたんだよな。つまり、厨房に引っ込む間宮の顔を見てるってことになるか。

 

 

「時にしれぇ、間宮さんに何か言いました?」

 

「あぁ、ちょっと『字』についてな。やっぱり怒ってた?」

 

「ん~、しかめっ面ではありましたよ。耳まで真っ赤になっていましたし」

 

 俺の問いに、雪風は首を傾げながら唸る。やっぱり怒っていたのか、何か不味いことでも言っちまったな。今後は気を付けないと。

 

 

 

「まぁ『怒っている』と言うよりも、『恥ずかしそう』と言った方が良いかもしれませんね」

 

 

 『恥ずかしそう』……字を指摘されたことを、か。まぁ、そうだよな。面と向かって言われれば恥ずかしいよな。俺も人の事を言える立場じゃないし。

 

 

「謝らないとなぁ」

 

「……その必要はない気がしますけどねぇ」

 

 

 俺の言葉に何故かジト目を向けてくる雪風。その言葉に首を傾げながら雪風を見るも、彼女は視線を逸らし何食わぬ顔で箸を動かすだけだ。その姿に眉を潜めつつも時間も時間であったために急いで残りを平らげ、トレイを返却台に置いて執務室に向かった。

 

 

 

 トレイを返却する際、厨房にいた曙がジト目を向けていた気がしたが、多分気のせいだろう。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 ただいま、執務室は俺と大淀がペンを走らせる音のみが響く。いや、それに加えてちょっと重い空気が執務室を満たしている。そんな重々しい空気の中、俺はペンを走らせながら横目で隣の、正確にはその空気の発生源を見つめた。

 

 

「遅い……」

 

 

 その発生源――――腕組みをしながら凄味のある表情を浮かべる長門は、そう零しながら扉を見つめ続けている。その横では苦笑いを浮かべている吹雪、そして我関せずと言った態度の北上が立っていた。俺と同じようにペンを走らせる大淀は、時折長門に目を向けている。

 

 そこに居る長門以外の全員が、一刻も早くこの空気を終わることを願っているのは明白だった。

 

 

 

「提督よ」

 

 不意に、長門が問いかけてくる。その方を見ると、子供が見たら泣き出すのではないかと思うほど凄味のある表情を向けてきた。正直、それを向けないで欲しい。

 

 

「秘書艦はまだか?」

 

「ま、まだです」

 

 

 表情同様、凄味のある声に思わず敬語になってしまった。いや、だってあんな顔で、しかも不機嫌バリバリの声色で問いかけられちゃ敬語にもなるってもんですよ。まぁ、長門がこんな態度になってしまうのも無理はない。

 

 

 何故なら、彼女が問いかけた秘書艦が、執務開始から30分経った今でも現れないのだからだ。

 

 

 うちの鎮守府における秘書艦の役割は、主に各艦隊と俺のパイプ役だ。そのため、各艦隊の旗艦には出撃前に必ず執務室にやってきて、出撃の報告と秘書艦との通信機能の最終確認を行うことを義務付けている。つまり、今ここにいる長門、吹雪、北上の三人は各艦隊の旗艦だ。因みに吹雪と北上はそれぞれ資材を集める遠征艦隊、そして長門は練度向上を兼ねた鎮守府近海の哨戒艦隊だ。

 

 とまぁ、そんな彼女たちは既に随伴艦共々出撃の準備を終え、後は秘書艦との最終確認を残す所となっている。しかし、その最終確認で必要な秘書艦がまだ来ていない、最終確認がまだなので出撃が出来ない、秘書艦は何をやっている? と言った状況なのである。勿論、ローテーションでは彼女たちと入れ替わる様に違うメンバーの出撃を控えているため、このまま来ないとそっちにも支障が出るから俺としては長門以上に来て欲しいんだけどさ。

 

 

 でも、この状況じゃ入りづらいな。少しでも空気を換えないと。

 

 

「ま、まぁまだ30分だし。多分、何らかの事情で遅れているだけだろ」

 

「何らかの事情とは何だ、提督」

 

 そんな重々しい空気の中で秘書艦を弁護すると、長門から先ほどよりもキツイ表情と言葉が飛んでくる。いや、だからその顔を向けないでくださいお願いしますから。

 

 

 

「秘書艦するのが嫌になったんじゃないの~?」

 

「おいやめろ」

 

 横から北上がとんでもないことを言いやがる。何で火に油注ぐようなことするんだよ。見ろ、長門の目付きがもっと鋭くなったぞ。

 

 

「大淀、今日の秘書艦はどいつ(・・・)だ?」

 

「え、えっと……」

 

 先ほどよりも落ち着いた声色で長門が大淀に問いかける。いや、落ち着いてはいるんだけど、トーンが一気に下がったから確実に怒っている。静かに怒るタイプなのかもしれない。その言葉に、流石の大淀も顔を引きつらせながら狼狽えながら今日のローテ表に目を通す。

 

 

「き、今日はゆう――――」

 

 

 

 

 大淀の言葉を掻き消したのは、凄まじい音を立てて開かれた扉であった。突然の事に全員の視線が開け放たれた扉に注がれる。

 

 

 

 そこには、膝に手を置き、呼吸と共に肩を激しく上下させる一人の艦娘。

 

 

 腰まで届く亜麻色の髪はボサボサに乱れ、前髪を結ぶリボンは解けかかっている。額には汗をにじませ、呼吸する度にそれらが顎を伝って制服や床に点々と後を付けていた。そして、急いできたのか制服は盛大に着崩れ、その隙間から白い素肌が見えた瞬間、思わず視線を逸らす。横にいる長門や大淀たちも、同じように目を見開いてその艦娘を見つめていた。唯一、北上は横目でその艦娘を見てすぐさま視線を逸らしたが、特に何も言わなかい。

 

 

 やがて、荒い息遣いが徐々に小さくなっていき、やがてそれは大きく息を吸う音と共に消えた。

 

 

 

 

 

 

「すみませんっ!!」

 

 

 その代わりに、とんでもない声量の謝罪がその艦娘から発せられた。彼女はそう言って勢いよく頭を下げる。凄まじい音ととんでもない声量の謝罪に面を喰らう一同の中、視線を逸らしていた北上がため息をついた。

 

 

 

「随分遅い登場だね、夕立」

 

 

 北上の言葉に、頭を下げていた艦娘―――――夕立はビクッと身を震わせる。その後、ゆっくりと顔を上げた夕立は未だに固まる俺たちを見回す。身体を小刻みに震わせ、血の気の引いた顔、透き通る淡い緑色の瞳に目一杯の恐怖を浮かべて。

 

 

「ゆ、夕立ちゃん? なんで……遅れたのかな?」

 

 

 そんな中、我に返った吹雪が苦笑いで夕立に問いかける。その声色は柔らかく、威圧感を殆ど感じられないモノであったが、夕立は更に身を震わせてそのまま俯いてしまう。その姿に、ようやく追いついた頭が口を挟んではいけないと警告してきた。俺と同じなのか、大淀や長門も黙って夕立の言葉を待っている。

 

 

 しばらくの間、沈黙が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ね、寝坊……です……」

 

 

 その沈黙は、夕立が泣きそうな声で呟いたことで破られた。にしても、寝坊ねぇ。

 

 

 

「夜更かしでもしていたのか?」

 

 

 夕立の言葉に、長門が問いかける。その声色は夕立が来る前程凄味はないが、それでも駆逐艦をビビらせるほどの凄味はあった。それを向けられた夕立は今まで以上に身を震わせ、両手を力いっぱい握りしめる。しかし、それ以上の反応がない

 

 

 

「どうなんだ?」

 

 

 更に長門が問いかける。しかし、夕立は何も言わない。それは肯定を表しているのか、はたまた違う理由があるのかは分からない。しかし、ここで沈黙するのは、悪手であることを誰もが感じていただろう。そのせいか、長門の目付きが鋭くなっていく。不味い、このままじゃ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「不安だったんじゃないの?」

 

 

 そんな空気の中、ポツリと聞こえた言葉。その言葉に、俺たちの視線はそれを発した者に集まる。その視線を受けた者―――――北上はめんどくさそうに頭を掻いて夕立に向き直った。

 

 

 

「いやさぁ、夕立って今日が初めての秘書艦でしょ? 今まで戦闘か演習しかやってこなかった奴がどういう心境の変化か知らないけど、いきなり秘書艦に立候補したんだもん。右も左も分からないんだから、不安になるのも当然でしょ。まぁ、一応簡単な説明は受けたけど、聞いただけと実際にやるのとじゃ大違いだしね。それに……」

 

 

 そこで言葉を切った北上は何を思ったのか夕立に近付いていく。その姿に俺たちは唖然とし、夕立は近づいてくる北上を見つめ、目の前まで近づいたと同時に固く目を瞑って俯いた。まるで、叩いてくださいとばかりに頭を差し出しているような。

 

 

 その姿に北上は呆れたようなため息をつき、差し出された夕立の頭に手を伸ばす。しかし、その手が彼女の頭に触れることは無かった。

 

 

 

 

「こうやって、頑張って(・・・・)きたんだから、少しは大目に見てもいいと思うよ? あたしは」

 

 

 何処か気の抜けた声でそう言う北上は、辛うじて夕立の前髪を纏めているリボンを軽く解き、素早く結び直した。予想外のことに顔を上げる夕立であったが、北上は気にする様子もなく着崩れた夕立の制服を整えていく。

 

 

 

「因みに、あたしがそう思ったのは昨日この子に秘書艦について相談されたからだけどね」

 

 

「き、北上さんっぽい!?」

 

 

 制服を整えながら何気なしに漏らした言葉に、夕立が変な声を上げる。その言葉に一同の視線が夕立に集まり、それを受けた夕立は顔を赤くして俯いてしまう。しかし、俯いた顔は「顔上げな」と言う北上の言葉によって一同の前に晒されることとなった。

 

 やがて、制服を整えた北上は一つ息を吐いて夕立から離れる。そこには、先ほどとは見違えるほどしっかりとした服装になった夕立が立っていた。その表情は真っ赤で、恨みがましそうな視線を北上に向けているが、当の北上は知らないフリを決め込む。

 

 

 

「そうか」

 

 

 次に言葉を発したのは、長門であった。その言葉に夕立は先ほど同様身を震わせるも、次の瞬間には呆けた表情になった。何故なら、長門の手が彼女の頭に置かれ、優しく撫でていたからだ。

 

 

 

「不安で眠れなかったんだな。すまんな、早とちりをしてしまって」

 

 

 長門はそう言いながら膝を折って夕立と同じ視線になり、柔らかい表情を彼女に向ける。しかし、その表情もすぐに真剣なモノに変わる。

 

 

「だが、遅れたことは変わらん。今後は気を付けろ」

 

「わ、分かりました」

 

 

 長門の言葉に、夕立は表情を引き締めてそう答えた。すると、表情を緩めた長門は再度夕立の頭を撫でる。うん、何だろ。まぁ、丸く収まって良かった。ともかく、時間も押してるからさっさとやろう。

 

 

「それじゃあ夕立、早速秘書艦の仕事だ。各旗艦との最終確認を―――」

 

 

「えぇ~、面倒くさ~い」

 

 

 俺の言葉を遮るように北上が声を出す。『面倒くさい』ってなんだよ。お前、そのためにここに来たんだろうが。確かに最終確認は使える周波数全てを一つずつ確認するから時間がかかるけどさ。

 

 

「もうだいぶ時間も押してるんだし、今日は通信に使う周波数を決めておいて、帰投、入渠に関しては旗艦が直接報告するで良くない?」

 

「そうだな、その方が秘書艦も楽だろう」

 

「確かに、そっちの方が良いですね」

 

 

 北上の提案に長門と吹雪も賛同する。やがて、三人の視線が俺に集まる。あとはお前が許可すればいいっていう視線。こういうことの決定権は俺にある筈なんだけどなぁ……何この出来レース。まぁ、秘書艦に慣れてない夕立だし、あまり役割を押し付けすぎるとパンクしちまうか。

 

 

「分かった。それで頼む」

 

「す、すみません……」

 

 俺がそう言うと、夕立は申し訳なさそうに三人に頭を下げた。すると、吹雪が前に進み出てその肩に手を置く。

 

 

 

 

「夕立ちゃん。そういう時は『ありがとう』って言うんだよ」

 

「え、あ、うん。あ、ありがとう……ございます」

 

 

 吹雪の言葉に狼狽えながら、夕立は再度そう言って頭を下げる。その姿に、吹雪は苦笑いを、北上は疲れたような表情を、長門は優し気な笑みを浮かべて、夕立に何やらメモを手渡して執務室から出て行った。

 

 

 メモを手渡された夕立は呆けた顔で三人が出て行った扉を見つめている。少しして、我に返ったように俺に向き直った。

 

 

「よ、よろしくお願いします」

 

 

 そう言って、夕立は頭を下げる。その姿に、俺も思わず頭を下げた。視界の外で大淀が小さく噴き出す声が聞こえたが、気にしないことにしよう。

 

 

「さて、改めて秘書艦の仕事を説明しよう。まぁ、ぶっちゃけ、主に各艦隊との通信のやり取りだ。あちらの戦況をこっちに伝えてもらうんだが……って周波数決めてねぇや」

 

 

「そ、それならここに書いてあるっぽい」

 

 

 いきなり凡ミスをやらかしたと思ったら、夕立がそう言って先ほどのメモを見せてくる。そこには、各艦隊との通信で使う周波数が書かれていた。ご丁寧に、各艦隊に4、5通りの周波数も添えて。アイツら、初めからこうするつもりだったな。

 

 

「……まぁ、それに従って通信だな。取り敢えず、それがちゃんと繋がるかどうか試しに通信してみてくれ。終わったら、次を説明する」

 

 

「りょ、了解です」

 

 

 俺の言葉に夕立は緊張した面持ちでそう言い、俺の方を向きながら耳に手を当てて黙り込んだ。いや、そこまで気を張らなくていいんだよ、別に。そう言いかけたが水を差すのも悪いと思い直し、代わりに傍にあったペンを握りしめた。

 

 

 しばらくの間、執務室はペンを走らせる音と、俺の目の前で初めての通信に四苦八苦する夕立の声だけが響く。その間、俺はペンを走らせながら夕立に何をしてもらおうか考えた。やがて、考えがまとまったと同じタイミングで夕立の通信が終わった。

 

 

「お、終わ……りました」

 

「OK、なら次はローテ表作りを頼む」

 

 

 詰まりながら報告してくる夕立に、俺は傍にあった未記入のローテ表用紙と名簿を差し出す。ローテ表作りと言っても、各艦娘の予定が記された名簿通りにローテ表に書き込むだけだ。書いてあることをそのまま移せばいいだけだから、多分大丈夫だろう。

 

 

「りょ、了解です」

 

 差し出されたものを見て、一瞬夕立の顔が強張る。しかし、それを聞く前に彼女はローテ表と名簿を受け取り、近くの机に向かってしまう。先ほどのことが気になったがペンを握る表情は真剣そのものだし、取り敢えずは何も言わないでおこう。そう決めて、俺は自身の執務に戻った。

 

 

 しばらくの間、執務室はペンを走らせる音だけとなった。時折違う音が聞こえるが、それは俺と大淀の書類チェックの声であって、夕立は黙々とローテ表にペンを走らせるだけだ。

 

 

 やがて、粗方の書類を片付けた俺は小さな呻き声を上げながらグルグルと腕を回す。そして、ふと夕立に目を向けた。そこには、先ほど同様黙々とペンを走らせる夕立が居るだけだ。

 

 

 

 

 その顔を、今にも泣き出しそうな程歪めながら。

 

 

 

 

「夕立?」

 

 

 思わず声をかけると、夕立は遅れてやってきた時と同じように、いや、それ以上(・・・・)に大きく身を震わせた。それは思わずペンを取り落し、そしてペンを走らせていたローテ表が滑り落とすほどである。

 

 彼女は滑り落ちるローテ表に手を伸ばすも、その手をすり抜けてしまう。やがて、それは彼女から少し離れた床、それも俺の傍に舞い降りた。そのローテ表を目にした瞬間、電流が走ったみたいに身体が強張った。

 

 

 

 

 俺の目に映るローテ表に、その……もの凄く『アレ』な……いや、『個性的』な字が書かれていたからだ。

 

 

 

「ごめんなさい……」

 

 

 その瞬間、夕立は消え入りそうな声でそう言い頭を下げた。心なしか、その身体が震えている。その姿を、そしてローテ表を、そして心配そうに夕立を見つめる大淀を見て、俺は頭の中に浮かんだ結論を実行に移した。

 

 

 

「何で謝る? 気にすんな」

 

 

 そう言いながら夕立に近付いて、今なお下がっているその頭を撫でた。撫でられた夕立は弾かれた様に頭を上げ、若干潤んだ瞳を向けてくる。今度はその瞳と同じ高さになるよう膝を折って、苦笑いを向けた。

 

 

「それに、こっちもロクに聞かずに悪かったよ。許してくれ」

 

 

 俺の言葉に、潤んだ夕立の瞳が見開かれる。その顔を見てもう一度その頭を撫でてから立ち上がり、自分の机に戻る。理由は単純、ローテ表作り以外の仕事を探すためだ。俺が机を引っ掻き回している間、夕立は呆けた顔で俺を見つめてくる。

 

 

 やがて、彼女の前には俺がかき集めた書類と大淀にピンハネを喰らった書類、そして正式な書類の証である印を押す判子と朱肉が置かれた。

 

 

「なら、この書類に印を押していってくれ。見本はこんな感じで、此処に押してくれればいいから。出来るだけでいいから印は綺麗にな。もし綺麗に押せるか不安なら、この紙で練習すればいい」

 

 

 目の前に置かれたモノに目を白黒させる夕立。そんな彼女に一つ一つ手に取りながら説明していく。一通り説明し終えてから、今度は印を押す際のコツを教えた。

 

 

「いいか? 判子を一回紙に付けたら絶対にその場から動かさず、且つ円を描くように判子の淵を紙に押し付けるんだ。こんな感じに」

 

 そう言って、夕立の目の前で手本として判子を押して見せた。しかし、何故か上手くいかない。何回押しても字が滲んでいたり、淵が切れたりしてしまう。

 

 

「大淀、ちょっと押してみて」

 

「い、いいですよ」

 

 まさか声を掛けられるとは思っていなかったのか、大淀は一瞬身を強張らせつつもそう言って近づいてくる。その手に判子を渡し、場所を開ける。大淀はそのスペースに入り込み、何食わぬ顔で押した。

 

 

 

 その印は、滲んでもなく切れてもない。まるで専用の機械が押したのではないかと思うほど綺麗な印であった。

 

 

「押せますよ、普通に」

 

「多分、大淀だから出来たんだ。夕立、やってみて」

 

 

 すまし顔、いや、若干にやつく大淀を尻目に、今度は夕立に押すよう促す。その言葉に夕立は一度俺に顔を向け、そして大淀から差し出された判子を受け取って恐る恐ると言った表情で押した。

 

 

 その印は、大淀程綺麗ではなかった。ただ、字もそこまで滲んでおらず、且つ淵も綺麗に押せている。どう鑑みても、一番最初に押した人間(・・・・・・・・・・)よりも綺麗な印であった。

 

 

 

「提督より上手いですね」

 

 

「お願い、やめて」

 

 

 大淀がすまし顔でそんなことを言いやがる。おい、やめろ。その人、さっきそこで自慢げに説明していたから。自慢げだった分、今すっごい恥ずかしいから。

 

 

 

「ぷっ」

 

 

 そんなやり取りに、夕立が小さく噴き出す。その瞬間、俺と大淀の視線が夕立に集まり、それに気づいた夕立はしまったと言いたげな顔で俯いた。その姿に大淀は小さく噴き出し、俺は思わず息を吐いた。

 

 

 

「なら、早速やってもらいましょう。頼みますよ? 秘書艦様?」

 

 

 そう言いながら立ち上がると驚いたように夕立が顔を向けてくるも、それも柔らかな笑みに変わった。

 

 

「了解っぽい!!」

 

 

 そして、今までのように詰まることなく、ハッキリとした元気のよい返事だ。それを見届け、俺と大淀は自分の執務に戻った。

 

 

 やがて黙々と執務を続け、いつしか時間は12時を回り昼食の時間になる。いつもは一区切りついた個人が好きなタイミングで食堂に行くのだが、今日は12時を回った時に盛大に腹の虫を鳴かせた夕立を伴って三人一緒に食堂に行った。

 

 聞くところによると、夕立は寝坊のせいで朝食を食べておらず、11時を回った段階で印を押しながら腹の虫と格闘していたらしい。それで途中から印が雑になったのか。まぁ、上に送るには十分許容できる範囲ではあったが。

 

 

「昼食、三人分。うち二つは多めで頼む」

 

 

「提督も、朝食べてないっぽい?」

 

 

「うん……まぁな。それよりも夕立、三人分の席を見つけてくれないか?」

 

 

「了解っぽい!!」

 

 カウンターでそう注文すると、夕立は首を傾げながら問いかけてくる。午前中を一緒に過ごしたおかげか、夕立の顔には今朝よりも緊張の色はない。その様子に安堵の息漏らしながら席を取るのを頼む。すると、夕立は元気よく返事して空いてる席を探しに行った。

 

 

 その後ろ姿を見て、俺と大淀は同時に深く息を吐いた。その後、互いに目を合わせ、同時に苦笑いを溢した。

 

 

 

「いやぁ、一時はどうなることかと思いましたけど……大丈夫そうですね」

 

 

「どっかの旗艦様のお蔭でな。あ、それと大淀。うちの艦娘で字を書けるヤツって結構限定されるのか?」

 

 

 ふと、思いついたことを問いかけてみる。すると、大淀はしばし考え込む。

 

 

 まぁ、今回の夕立は何とか『印を押す』仕事を見つけられたから良いモノの、いつもそうだとは限らない。まして、今日みたいに当日になって判明することもあるとすれば、それに柔軟に対応するにも限度がある。一番はそういう艦娘を秘書艦にしないのが良いんだが、いかんせん本人がやりたいと言ってきたモノだから無碍に出来ないし。それに、執務を行える艦娘が増えるのは悪いことではない。

 

 

 だから、誰でも秘書艦が出来る環境を作る方が都合がいいんだよな。

 

 

「……全員がどうかは分かりませんが、少なくとも駆逐艦の子達はあまり得意ではないと思いますね。軽巡洋艦以上は大丈夫だと思いますよ」

 

「やっぱりか……」

 

「『おいおい』、だと思いますよ?」

 

 俺の呟きに、大淀も同じような顔でそう言ってくる。やっぱり、駆逐艦だよな。しかも、所属する艦娘の中で一番多いし、一人一人を秘書艦にして慣れさせるのは効率、負担的に共々悪いし。まぁ大淀の言う通り、『おいおい』考えていけばいいか。

 

 そう結論付けると同時に注文していたトレイが差し出される。それを受け取って、俺たちは夕立を探す。すると、カウンターから少し離れた場所でこちらに手を振る夕立が。それに気づいた瞬間、何処かで聞いたことある音が聞こえ、同時に夕立が腹を抑えて蹲った。

 

 その姿に大淀共々噴き出し、笑いを堪えながら彼女の元へと向かった。

 

 

 

 

「はい、待ちに待ったご飯ですよー」

 

 

「いっそ殺してっぽい……」

 

 

 そう言いながら夕立の前にトレイを置くと、彼女は蹲りながらそんなことをのたまう。飯食う時に何言ってんだ、と言って夕立の手に箸を握らせた。握らされた箸を見つめ、渋々と言った顔で手を合わせて食べ始める。こんな時でも合掌は忘れないんだな、なんて場違いなことを思いながら、俺も同様に手を合わせて食べ始めた。

 

 

 

「提督」

 

 

 昼食を粗方食べ終わった頃、不意に声を掛けられた。振り返ると、困った顔の榛名が近づいてくるのが見える。

 

 

 

「どうした?」

 

「いえ、ちょっと……」

 

 

 俺の言葉に榛名は辺りに目配せしながら言葉を濁し、手で近づいて欲しいと訴えてくる。周りに聞かれたら不味いのか、そう思いながら榛名に近づく。

 

 

「実は今、鎮守府の入り口に大本営の人間だと言う人が来ていまして、提督と引き合わせろと言ってるんですよ」

 

 

 大本営からの? うちに人を寄こすのは中将ぐらい……いや、今まで中将からの人はちゃんと名乗っていた。なら、中将ではない大本営の人間からか。一体誰が?

 

 

「申し訳ないのですが、対応をお願いします」

 

「分かった」

 

 申し訳なさそうな顔の榛名にそう言って、俺は元の席に戻る。すると、案の上不安そうな表情を大淀と夕立が向けてきた。

 

 

「どうしました?」

 

 

「いや、ちょっとしたトラブルだ。ちょっと行ってくるが、二人は食べ終わったら先に執務室に行っててくれ。すぐ帰ってくる」

 

 

 心配そうな表情の大淀にそう返しながら残りを掻き込み、途中で抜けることに詫びを入れて、食堂を後にした。そのまま建物を出て、鎮守府の入口へと向かう。

 

 その途中、工廠脇から見える海の遠くに、海面を疾走する艦娘の姿が見える。時間帯的にどれかの艦隊が帰投する頃か。この用が終わったら労っておこう。そう思いつつ、歩くスピードを少し上げた。

 

 

 やがて、鎮守府の入り口を示す錆びた門と、その脇に止まる黒塗りの車と、同じく黒塗りの軍服に身を包んだ人間――――所謂憲兵が見えた。その憲兵は近づいてくる俺に気付くと、待ってましたと言わんばかりに表情を綻ばせた。

 

 

「良かった、やっと来てくれた」

 

 

「あ、いえ……その、随分お待たせしてしまい申し訳ありません」

 

 

 何故か手を差し出してきたその憲兵に驚きながらもその手を取り、軽く謝罪する。すると、その憲兵はそんなことどうでもいいと言いたげに首を振り、懐から一枚の封筒を取り出した。

 

 

「これ、大本営からの正式な書類。内容は、大本営から一名憲兵を送ること、そしてその人物についての詳細が書かれている。さぁ、見て見て」

 

 

 憲兵は慌てるようにそう言いながら封筒を差し出してくる。その言葉に俺をそれを受け取り、その場で開いて中に目を通す。確かに、そこには憲兵を一人派遣する旨と、派遣される憲兵の詳細が書かれていた。それを一通り読んで、俺は改めて前に立つ人物を見る。

 

 

 

「なるほど、貴官がうちにやってくる憲兵ですか」

 

 

「ま、まぁ書類上(・・・)は、ね。だけど、重要なのはここからだ」

 

 

 俺の問いに歯切れの悪い言葉を零した憲兵は、次に真剣な表情を向けてきた。

 

 

 

 

 

「ここに派遣される憲兵は書類上僕だけど、実際にやってくるのは僕じゃない。ここを分かって欲しい」

 

 

「……どういうことですか?」

 

 

 訳の分からない言葉、と言うよりか不穏な言葉に眉を潜める。すると、憲兵はじっれたそうに頭を掻く。その姿に更に眉を潜めるも、彼が俺の表情に気付く様子はない。いや、気付く余裕がないと言った方が正しいか。

 

 

「と、ともかく。僕はただ書類(これ)を渡しに来ただけで、本当(・・)の憲兵は後日やってくる。それだけ君が分かっててくれればいいから。じゃ、あんまり長居すると不味いから」

 

「あ、ちょっ」

 

 

 憲兵はそれだけ言うと、俺の言葉を振り切って車に乗り込み、すぐさまエンジンをかけて走り出してしまった。一人残された俺は走り去る車、そして手にある大本営からの書類に目を落とす。

 

 

 このタイミングで、大本営からの人員派遣かよ。それに関してはこっちの状況を見ながら中将との相談の上って言う話だったけど、多分中将を通してない。となると、これを動かしているのはあまり好意的ではない人物だろう。あの感じだと、断ったところで何も変わらないか。

 

 取り敢えず、やってくる憲兵には警戒するよう言っておいて、念のため中将にも報告しておこう。そう結論付け、書類を封筒に戻して懐にしまい、鎮守府へと歩を進める。

 

 

 その間、憲兵派遣は誰が仕組んだことかと考えたが、中将以外に心当たりがあり過ぎて的を絞り切れない。結局、結論が出ないまま執務室へと辿り着いた。まぁ、今考えたところでどうにもできないな。そう疑念を片付け、扉に手を掛けた。

 

 

 

「ただい――」

 

 

「ひっ」

 

 

 間の抜けた俺の声を、小さな悲鳴(・・)が掻き消した。それと同時に、鋭い視線を中に向ける。そして、執務室の真ん中で立ち尽くす一人の艦娘と目があった。

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 その艦娘は、俺と目が合った瞬間、小さく声を漏らす。それと同時に手に持っていたモノを傍に投げ捨て、俺目掛けて突進してきた。思わずその身体を避けるとその艦娘は俺の脇をスルリと走り抜け、廊下に飛び出す。廊下に飛び出した際に着地に失敗して盛大にこけるも、すぐさま立ち上がった彼女は一目散に走り出した。

 

 

 凄いスピードで走り去るその背中に、俺を張り上げてその名(・・・)を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「夕立!!」

 

 

 

 俺の声は、その艦娘――――――その大きな瞳に涙と恐怖を携えた夕立に確かに聞こえただろう。しかし、彼女の後姿が消えるまで、その顔がこちらに向けられることは無かった。




2/6 夕立の語尾を修正


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立候補の『理由』

「どうしよう……」

 

 

 そう、小さく呟く。しかし、その言葉に応える者はいない。

 

 

 目を凝らしてみる。

 

 

 そこに、幾重にも表情に変える水面、青々と広がる空、気持ち良さそうに飛ぶ海鳥、そして陣形を組みながら周りに視線を走らせる、または声を掛け合う僚艦たちの姿――――――いつもの光景は無い。

 

 

 あるのは、視界の殆どを覆う細い腕と、その隙間から見える黒い制服とその上で揺れる胸元を結んでいる赤いスカーフ、黒いスカートから覗く細い脚、そして一切の温かみを感じない灰色のコンクリートだけ。

 

 

 耳を澄ましてみる。

 

 

 艤装から発せられるモーターみたいな機械音、脚に打ち付ける白波、海鳥の泣き声、顔や全身を叩く海風の音、そして軽口に始まり索敵報告など僚艦たちの声――――――いつもの音も聞こえない。

 

 

 あるのは、遠くの方で揺れる木々の擦れる音、岸に打ち付ける白波の音。ただそれだけだ。

 

 

 

 なんで、いつもの光景が、音が無いのか。理由は簡単、此処が海上(いつもの場所)ではないから。此処が、執務室のある建物から工廠へと続く道にある、ちょっとした空き地みたいなところだから、そしてそこで膝を抱えて塞ぎ込んでいるからだ。

 

 

 

 なんで、そんなところに居るのか。それは逃げたから。

 

 

 執務室に入ってきた人―――――提督さんから、秘書艦の仕事から、やってしまった失敗(・・・・・・・・・)から、それによって償わなければいけない責任から。

 

 

 それらから、逃げてしまったのだ。脆弱で臆病で、『責任を取る』覚悟すら出来ない自分――――――駆逐艦夕立は。

 

 

 

 

「……やだ『っぽい』」

 

 

 

 無意識の内にため息がこぼれた。それに気づいた時、真っ先に沸き上がったのは嫌悪感。矛先は自分、正確に言えばその口から漏れた言葉――――その語尾だ。

 

 

 

『何だ語尾(それ)は、ふざけているのか』

 

 

 ふと、そんな言葉が浮かんだ。同時に、目の前にその言葉を言い放った人――――――一番最初の提督さん(・・・・・・・・・)が現れ、大きく手を振り上げていた。

 

 

 次の瞬間、頬に激しい痛みと共に視界が大きく変わった。床に全身を激しく打ち付けたところで視界が止まり、激しい怒号と共に背中やお腹、脚などに鈍い衝撃、更に靴底で踏みつけられる。更に、その衝撃によって吐き出される空気と身体中が軋む感覚が。

 

 

 それは事ある毎に夕立の身体を襲った。唯一違うのは、その前に提督さんが言い放つ言葉だけ。

 

 

 出撃準備に手間取った時、敵艦を撃沈させられなかった時、誤って被弾した時、僚艦に庇われた時、それが原因で撤退した時、持ち帰った資材量が足りなかった時、バケツを見つけられなかった時、『補給』や入渠する時間が誰よりも遅かった時、提督さんが話している時にお腹が鳴った時、提督さんの質問にすぐに答えられなかった時、曖昧な答えを返した時、『出来ない』と言った時、『出来る』と言ったことが出来なかった時、言われたことが出来なかった時、提督さんの気分を害した時、そして、語尾に『ぽい』を付けた時、等々。

 

 

 提督さんの口からは、これだけの言葉――――理由(・・)が出てきた。だけど、それ以外は全て一緒。何度も何度も同じことが、同じ痛みが、衝撃が、絶え間なく夕立の身体に降り注ぐのだ。

 

 

 そして、その度に提督さんはこう言った。これが『責任を取ること』であると。これが夕立(お前)の、駆逐艦(お前ら)の『責任の取り方』であると。

 

 

 これが、駆逐艦(お前ら)が責任を取る『唯一の方法(・・・・・)』だと。

 

 

 

 いつの間にか、全身が小刻みに震え、歯がガチガチと音を鳴らしていた。二の腕を掴む手に力が籠り、鋭い痛みを感じる。だが、その痛みや震えが、『頬の痛み』、『回転する視界』、『投げつけられる怒号』、『全身を襲う衝撃』などを過去の記憶(・・・・・)であると、身体に刻み込まれた記憶であると分からせてくれた。

 

 

 次に、多く深呼吸をする。何度も何度も、一回一回を深く長く。こうすると今まで身体を蝕んでいた過去の記憶が少しずつ、ほんの少しずつだが静まるのだ。

 

 

 

 

 だが、それも次の瞬間には意味を成さなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「夕立?」

 

 

 

 ふと、聞こえてきた名前を呼ぶ声、それは聞き覚えのある声だ。ついさっき聞いた声であり、此処に来るまでに聞いた最後の声。

 

 

 

 そして何よりも此処に来るまで夕立が居た、執務室(あそこ)で聞いたあの声だった。

 

 

 膝を抱えた体勢のまま、顔だけを向ける。そして、名前を呼んだであろう人――――――提督さんを視界に捉えた。

 

 

 その時、提督さんはどんな顔をしていただろうか?

 

 

 執務を放棄した夕立を怒っていただろうか?

 

 覚悟のない夕立を見下していただろうか?

 

 夕立に『責任を取らせる』とほくそ笑んでいただろうか?

 

 

 ともかく、そこにどんな表情があったのか、夕立には分からなかった。

 

 

 

 

 だって、その顔を見る前に提督さん目掛けて走り出していたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさいっ!!!!」

 

 

 自分でも何処から出ているのか不思議に思うほど甲高い悲鳴を上げ、同時に目を固く瞑る。

 

 

 次の瞬間、頭からお腹に掛けて強い衝撃を受けた。それと一緒に頭上から提督さんの呻き声が聞こえる。多分、お腹か胸の辺りにぶつかってしまったのだろう。だが、そう思っている間に夕立の両手は提督さんの背中の方に回され、その服をガッチリと掴む。

 

 

 

 そして、息を大きく吸った。

 

 

 

「逃げ出してごめんなさい!! 『責任を取る』覚悟が無くてごめんなさい!! お腹を鳴らしてごめんなさい!! 語尾を直さなくてごめんなさい!! 文字が下手くそでごめんなさい!! ローテ表を作れなくてごめんなさい!! 文字が下手くそなのに何も言わなくてごめんなさい!! 吹雪ちゃんたちに気を遣わせてごめんなさい!! 寝坊してごめんなさい!! 遅刻してごめんなさい!! あ、あの……あの……あの!!」

 

 

 先ほどの悲鳴よりも大きい声で息が続く限り、頭に思い浮かぶ夕立の過失の全てを謝った。しかし、そこまで言い終えてもなおも頭はまだ謝っていない過失を探すべく更に回転する。その間、口からは取り繕う様に言葉にならない声が度々漏れた。

 

 

 声が漏れる度に提督さんの服を握る手に力が籠り、同時にそのお腹に頭を押し付ける。先ほどよりも凄まじい勢いで全身が震え、歯がガチガチと音を鳴らす。

 

 

 過失、まだ謝っていない過失はあるか。それは何か。そもそも何故、謝らなければならないのか。何故、此処に、この状況に立っているのか。この状況を作り出したのは何だ、根本的原因は一体何か。

 

 

 

 

 その瞬間、一つの言葉が頭の中に浮かんだ。

 

 

 それはこの状況を作り出した根本的原因であり、そして何よりも夕立の過失だと断言できる、そんな言葉だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何も出来ないくせに『秘書艦』に立候補してごめんなさい!!」

  

 

 

 そう、叫んだ。力の限り、喉がはち切れんばかりに。でも、それでも頭の回転が止まることは無かった。まだ他にあるだろう、とでも言うかのように。

 

 

 

 

 

「夕立」

 

 

 でも、それは頭上から聞こえた提督さんの声によって瞬く間に止まった。それと同時に、背筋に尋常ではない寒気が走る。口を固く結び、目が潰れんばかりに瞑る。その理由は何か、痛みがやってくるからだ。

 

 

 次に感じたのは、夕立の両肩に触れる提督さんの手。それは肩に触れ、包み込み、そして掴んだ。掴まれた瞬間、提督さんの服の掴む手に力が籠る。まるで、提督さんに引き剥がされて、痛みを拒むかのように。

 

 

 懲りずに、夕立は痛みから、『責任』から逃げ出そうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

「ほら、深呼吸してみろ」

 

 

 そんな夕立に、提督さんはそう言った。その言葉に、夕立の頭の中は真っ白になる。その意味を、そして何故そんなことを言ったのか、理由が、わけが、原因が分からなかったからだ。だけど、身体はその言葉に従った。

 

 

 何回か、深呼吸をする。いつものように大きく、そして深く。そのおかげで全身の震えは止まったが、頭の中は未だに真っ白のままだ。

 

 

 

「落ち着いたか?」

 

 

 またもや、頭上から提督さんの声が聞こえる。その言葉に身体は無言で頷く。すると、今度は肩を掴んでいた提督さんの手が離れ、夕立の頭をクシャリと撫でた。

 

 

 

そのままで良い(・・・・・・・)、どうして此処に来たのか説明してくれるか?」

 

 

 優しくクシャクシャと撫でながら、提督さんがそう言ってくる。その言葉に、思わず変な声を上げそうになった。『そのままで良い』と言うのは今の状態、提督さんのお腹に顔を埋めていることを言っているのだろう。

 

 でも、今までの、一番最初の提督さんなら顔を見て話せと言う。なのに、今の提督さんは顔を見なくていいと言うのだ。

 

 普通なら怒る筈なのだ。なのに、この人は怒らない。

 

 

 その事実が、衝撃が、目と共に固く結ばれていた口を開かせた。 

 

 

 

 

 

 

「長門さんの報告を……まとめられなかったからっぽい」

 

 

 

 そう、夕立の口から漏れた。またもや癖が出てしまったが、それを気にする余裕はない。何故なら、同時にその時の光景が蘇ったからだ。

 

 

 

 それは、提督さんがトラブルが起きたと言って先に行ってしまった後。

 

 

 夕立と大淀さんはその後ろ姿を見送りながら食事を続けていると、今度は響ちゃんが大淀さんに声をかけてきた。何でも、今日の哨戒艦隊に所属する誰かの艤装に懸念が発見されたらしく、提督さんの代わりに大淀さんが出向くことになった。

 

 

 大淀さんも提督さん同様、すぐ戻るから先に執務室に戻るよう言い残して行ってしまったので、夕立は一人ぼっちでご飯を食べることに。とはいっても、その時点で半分以上を平らげていたので、夕立も二人と一緒で残りを一気に掻き込んで二人の言葉通りに執務室に向かった。

 

 

 空っぽにした食器を返却台に置いて急いで食堂を出た時、無線から声が聞こえた。

 

 

 

『哨戒艦隊、帰投した。これから報告に行く』

 

 

 

 その声は長門さん。その声色は何処か早口で、吠えるかのように帰投報告をしてそのまま一方的に通信を切ってしまう。突然のことに目を見開いているも、長門さんの『報告に行く』との言葉が頭を過り、同時に執務室目掛けて走り出した。

 

 

 『報告に行く』―――――その言葉は文字通り、報告をしに来ることだ。では、何処に来るのか。そんなの、執務室以外にあり得ない。だが、今提督さんも大淀さんも執務室に居ない。なら、誰がその報告を聞くのか。そんなの、夕立(秘書艦)以外にあり得ないから。

 

 

 その一心で鎮守府内を走り抜け、遂に執務室にたどり着いた。飛び込むように入ると、そこには既に長門さんが。いきなり飛び込んできた夕立に長門さんはビックリするも、すぐさま凄まじい剣幕を向けてきた。

 

 

「提督は何処だ?」

 

 

 そう、問いかけてきた。その言葉、その剣幕、凄味に思わず後退りしてしまう。でも、早く言わなきゃ。提督さんは今、トラブルで来れないって。

 

 

「提督さ―――」

 

 

「まぁいい、それは置いておこう。それよりも報告させてくれ」

 

 

 意を決して言いかけた夕立の言葉を、そう言いながらプイッと後ろを向いた長門さんによって遮られてしまう。出鼻をくじかれたことでボケっとしている夕立を見て、長門さんの眉間に一瞬皺が寄るのが見えた。

 

 

 

 『怒鳴られる』――――その言葉が浮かんだ瞬間、夕立の身体は執務机に近付いていた。

 

 

 執務机の上を引っ掻き回し、ご飯を食べに行く前に提督さんに教えてもらった白紙の戦果報告書を引っ張り出す。この時、提督さんから自分や大淀さんが居ない時に長門さんたち旗艦が報告に来た場合、旗艦本人に記入してもらう様にしろ、と言われた。これなら、夕立が報告を聞き、それに合わせて書く必要はないからだ。

 

 

 その言いつけがあったので、夕立は傍にあったペンを手に取って長門さんの方を向き直る。あとは、これを渡せばいいだけだ。

 

 

「長門さ―――――」

 

 

「では、戦果及び被害報告だ」

 

 

 長門さんは報告書とペンを持っている夕立を見て、そう言い切った。そして、そのまま夕立から目を離して流れるように早口で報告をし始めたのだ。その姿を、夕立はただ茫然と見つめるしかなかった。いや、途中で我に返り、その時点から長門さんの報告を書き込みはした。そう、書き込み(・・・・)はしたのだ。

 

 

 報告が速すぎて書くのが間に合わなかった、早口で聞き取れない箇所が何個もあった、知らない漢字が、言葉が出てきた、長門さんの報告に重複する、または矛盾が起こるモノがあった、そのおかげで今自分が何を聞き、何処を書かなければいけないのか、何を優先して、何を後回しにすればいいのか、このまま報告書を書き続けていいのか、分からなくなった。

 

 

 だけどそれよりも、何よりも、真っ白だった報告書に文字とも記号とも呼べない、解読不可能な文字が淡々と刻まれていくのが、嫌で嫌で仕方が無かった。

 

 

 やがて、長門さんの声が途切れる。報告が終わったのだ。終わってしまったのだ。

 

 

 

「提督によろしく頼むぞ、何かあったら私はドックに居るからな」

 

 

 

 それだけ言って、長門さんは執務室から出て行ってしまった。残されたのは、報告書とペンを持ったまま呆然と立ち尽くす夕立のみ。しかし、茫然と立ち尽くしながらも夕立の頭は今まで以上にフル回転を、一つの言葉がぐるぐると回っていた。

 

 

 

 『責任を取らないと』

 

 

 夕立は報告書をまとめられなかった、長門さんに代わりに書いてもらう様言えなかった、提督さんの言いつけを守れなかった。ならどうするか、その『責任』はどう取るか、どのような方法があるか。

 

 

 

 そんなの、一つしかないじゃないか。今まで散々取ってきた、唯一の方法が。

 

 

 

 

「ただい――」

 

 

「ひっ」

 

 

 あの声が、提督さんの声がした。思わず悲鳴を上げ、振り返る。そこには、扉を開けてこちらを、夕立を見る提督さん。その目は鋭く尖っている。それと目が合った。

 

 

 

 

 その瞬間、夕立の目の前が真っ暗に染まり、いつの間にか身体が動き出していた。

 

 

 

 

 

 

 

「……なるほど」

 

 

 そこまで話し終えると、提督さんはポツリと呟いた。でも、それだけじゃない。

 

 

 夕立が話す間、提督さんは絶えず頭に置く手で撫でてくれた。夕立の言葉が詰まったり、途切れたりする度に、「うん」と軽く相槌を打ち、そして夕立の肩を優しく叩いてくれた。

 

 夕立自身、話した内容をそこまで覚えていない。矛盾もあったり、内容が飛んだり、脈略がなかったり、起こったことの全てを提督さんに伝えきれたか、自信は無い。それでも、提督さんは何も言わず、ただ夕立の話を聞いてくれた。

 

 

 それが無かったら、夕立はちゃんと話せなかった。ただ、黙って、俯いていた。そして、提督さんを怒らせていた。いや、多分今も、話せても、提督さんを怒らせただろう。だって、夕立は逃げたのだから。

 

 

 頭上からは何も聞こえない。提督さんは黙っている。いや、言葉を選んでいるのだろう。夕立を怒るための、怒鳴るための、蔑むための、そんな言葉を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よく頑張った(・・・・・・)

 

 

 だけど、降ってきたのはそれだった。怒りでも、蔑みでも、はたまた感謝でもない。『労い』の、夕立を『褒める』言葉だ。

 

 

 

 その言葉に、思わず顔を上げる。それと同時に胸を締め付ける恐怖が過るが、それも提督さんの顔を見た瞬間に四散した。

 

 

 

 だって、その顔が微笑んでいたから。

 

 

 

「それじゃ、行くか」

 

 

 提督さんの顔を茫然と見つめる夕立に笑いかけ、そして頭と肩に置いていた手で後ろに回された夕立の手を掴む。茫然としたせいか夕立の身体はいとも簡単に提督さんから離され、提督さんの片手が夕立の片手を掴む、いや繋いだ(・・・)。いきなり手を繋がれたことに反応することも出来ず、夕立は提督さんに引かれて歩き出す。

 

 

 

 夕立は提督さんに引かれるまま鎮守府を歩いた。途中、誰かに会ったかもしれない、話しかけられたかもしれない。でも、それに反応することは無かった、いや、出来なかった。だって、あの時見た提督さんの顔が頭から離れなかったから、提督さんの言葉がぐるぐると回っていたから。

 

 

 

 

 やがて、提督さんの足が止まる。それを受けて、夕立は顔を上げた。

 

 

 

 先ず視界に入ったのは廊下の壁にある燭台と窓。そして、目の前には窓から吹き込む風で揺れる、高速修復材―――バケツのマークが付いた暖簾だった。

 

 

 

 

「ドック……っぽい?」

 

 

 ポツリと、 口から漏れる。同時に、忌まわしい癖が出たため口を覆う。しかし、当の提督さんはそんな夕立に見向きもせず、手で暖簾を少し上げ、もう片方の手でドックの扉をノックした。

 

 

 

「長門ーぉ、居るかーぁ?」

 

 

 提督さんが、間の抜けた声でそう言う。すると、ドックの奥からバタンと言う音が聞こえ、ドタドタと言う足音が徐々に大きくなってくる。次の瞬間、ドックの扉は勢いよく開かれた。

 

 

 

「提督……今、駆逐艦が入渠中なのだが」

 

「あぁ、分かってるよ。でも、用があるのはお前だ」

 

 

 扉の向こうには明らかに不機嫌そうな顔の長門さんがそう言いながら立っていた。夕立は思わず視線を逸らすも、提督さんは特に臆することなくそう言い、懐から何かを取り出した。

 

 

 

 その何かが目に入った瞬間、体温が著しく下がるのを感じた。

 

 

「それは……?」

 

 

「報告書」

 

 

 首を捻る長門さんに、提督さんは何か―――――白紙の報告書を軽く掲げる。提督さんが掲げる報告書を見て、長門さんは更に首を捻った。当たり前だ。だって、長門さんは先ほど報告したのだから。仮に報告書が出来ていないのなら、それは長門さんの責任ではない。夕立の責任だ。

 

 

 

「いやぁ、実は夕立の書いた報告書に大分穴があったから、もう一回書いてもらおう(・・・・・・・)と思って」

 

 

 

 そう、苦笑いを浮かべながら、提督さんは言った。その言葉に、夕立の目は真っ先に提督さんに注がれる。同様に長門さんも面を喰らったような顔を提督さんに向けるも、提督さん自身はクルリと身体の向きを変え、何事も無いように歩き出す。

 

 

 

 そして、とある場所で立ち止まると、懐からペンを取り出し、手にある報告書と一緒に前に差し出した。

 

 

 

 

「頼めるか?」

 

 

 

 そう提督さんは笑いかける。目の前で、ただ茫然と立ち尽くす夕立に、報告書とペンを差し出しながら。

 

 

「で、でも……」

 

 

「『出来ない』?」

 

 

 提督さんを前にして夕立が言葉を濁すと、提督さんは笑顔のまま『出来ない(その言葉)』を投げかけてくる。その瞬間背筋に寒気が走り、目の前にあの光景(・・・・)が蘇る。

 

 

 

 しかし、それも一瞬のうちに消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「『頑張れ』、夕立」

 

 

 そう、提督さんが言ったから。今度は『労い』でも『褒める』でもない。背中を押してくれる、『応援』だったから。あの光景が消え去った先に、提督さんの笑顔が見えたから。

 

 

「うん」

 

 

 無意識の内に、夕立は頷いていた。それに、提督さんは笑顔のまま報告書とペンを夕立の手に握らせた。そして横に下がり、長門さんへと続く道を作ってくれた。

 

 

 

 

「じゃあ、頼みますよ? 秘書艦様(・・・・)

 

 

 

 あの時の言葉を、夕立を『秘書艦』と、逃げ出した夕立を『秘書艦』と呼んでくれた。そして、そう言いながら一歩踏み出そうとした夕立の背中を優しく、そして強く押してくれた。

 

 

 

 それが、夕立の中で、今ここで報告書を書き上げる覚悟を――――『責任を取る』覚悟を決めさせた。

 

 

 

 提督さんに背中を押され、夕立は歩き出す。一歩、一歩を強く、しっかりとした足取りで、長門さんに近付く。当の長門さんは、先ほどの面を喰らったような顔からいつもの表情に戻っていた。

 

 

 

「長門さん、報告お願いします」

 

 

 

 そう、長門さんに言う。今度は癖も出なかった、ちゃんと長門さんの顔を見て言えた。書く準備も出来た。後は、長門さんからの報告を待つだけ。

 

 

 

「……あい分かった。では、もう一度、秘書艦に報告する」

 

 

 一つ溜め息をついて、長門さんは再び戦果報告を話し始めた。

 

 

 それは執務室で聞いた時よりもゆっくりで、且つ丁寧だった。意味が分からなかった言葉もなく、もしそれがあったら長門さんは分かりやすく噛み砕いて教えてくれた。時折、言葉を切って息継ぎをしていたけど、多分あれは夕立の書くスピードに合わせてくれたんだと思う。

 

 

 それほどまでに長門さんの報告は丁寧だった。夕立に気を遣ってくれた。

 

 

 でも、それほどの気を遣われても、夕立には自身が書き出す『文字』がある。それは長門さんの手には負えず、且つ報告を書くだけで手いっぱいの夕立がどうこうできるものでもない。必然的に、夕立の目の前にはあの時同様の文字が刻まれ、それが嫌で嫌で仕方がなくなる。でも、それが沸き上がるのはほんの一瞬だ。

 

 

 

 だって、その感情を掻き消す様に、『頑張れ』と言う言葉が現れるから。その言葉と一緒に提督さんの声も、だ。

 

 

 

 

「……以上だ」

 

 

 その言葉と共に、長門さんの報告が終わる。実際にはそこまでかかっていないかもしれないが、夕立にとってその時間はいつもの出撃よりも長く感じられた。一言一句聞き逃すまいとしていたためか、そうでないかは分からない。

 

 

 それでも、これだけはハッキリと言えた。

 

 

 

 

「さて、出来栄えはいかかでしょう?」

 

 

 そう思っていたら、いきなり横から提督さんの声が聞こえ、今しがた書き終えた報告書が夕立の手からスルリと離れた。いや、いつの間にか横に居た提督さんが抜き去ったのだ。

 

 

 

「ちょ、提督さん!?」

 

 

「ほほぅ……これはまた」 

 

 

 いきなり取られたことで声を上げて報告書に手を伸ばすも、提督さんに届かない所に持っていたためにどうしようもなく、これもまたいつの間にか傍に居た長門さんも提督さんの手にする報告書を覗き込む。

 

 

 

 また、『出来ていない』って言われる――――そんな考えが、恐怖が頭を過るも、それは報告書から顔を上げた提督さんと長門さんの、微笑みによって瞬く間に消え去った。

 

 

 

 

「『よく書けてる』よ」

 

 

「うん、『よく書けている』な」

 

 

 

 二人がそう言いながら、うんうんと頷く。その様子に、夕立はただ茫然と目をパチクリさせるしかなかった。そして、二人はボケっとしている夕立に気付き、提督さんはあの笑みを、長門さんは夕立の頭をクシャリと撫でながら、こう言った。

 

 

 

 

 

『よく頑張った』

 

 

 

 二人同時にそう言われた。その瞬間、胸をキュッと締め付ける圧迫感を感じた。でも、それは先ほど、そして今まで感じていた『恐怖』ではない。『頬の痛み』でも、『回転する視界』でも、『投げつけられる怒号』でも、『全身を襲う衝撃』でもない。

 

 

 それは『熱』。真っ暗闇にいきなり点火した小さな光のような、小さいながらもしっかりと存在感を放つ『熱』だ。

 

 

 やがて、『熱』は段々と大きくなり、胸を満たした。そのまま、『熱』は首を伝い顔に、肩を伝い腕や手に、腰を伝い足や指にまで広がる。そして何よりも、その『熱』は全身へ広がる中でその勢いを失っていく、いや、分散していくと言った方がいい。やがて全身に広がりきったとき、その『熱』はちょうど人肌ぐらいの温度にまで下がっていた。心地よく、かつ柔らかい。

 

 

 

 それは『熱』よ言うよりも、『暖かさ』と言った方が正しい。

 

 

 

「では、私はこれで失礼するよ」

 

 

「おう、いきなり押しかけて悪かったよ」

 

 

 そんな言葉と共に、長門さんの手が頭から離れる。我に返って声がした方を向くと、ドックへと戻っていく長門さんの後ろ姿が見えた。元々、二回目の報告をすることになった原因は夕立だ。何よりも謝らないといけない。そう考え、口を開いた。

 

 

 

 

『夕立ちゃん。そういう時は『ありがとう』って言うんだよ』

 

 

 

 口から声が飛び出す直前、そんな言葉が頭を過った。すると、それに呼応するように口の、舌の、声帯の形が変化する。

 

 

 

 

 

 

 

「あ、ありがとうございましたっぽい!!」

 

 

 大声で、今日一番の大声でそう言う。それは廊下中に、そして長門さんが入ろうとしたドック中に響き渡った。そのせいで、長門さんは身体を強張らせ、驚いたような顔を向けてくる。しかし、それも次には柔らかい笑みに変わった。

 

 

 

「どういたしまして」

 

 

 そう言って、長門さんはドックに入っていった。その後ろ姿を、そして大声を出してしまったこと、また癖が出てしまったことに気付くも、それも悔やむ間もなく頭を押さえつけられ、視界がグワングワンと揺れた。

 

 

 

 

 

 

「よく『お礼』が言えたな! すげぇよ!」

 

 

 そう興奮気味に喋るのは提督さん。先ほどよりも満面の笑みを浮かべて、夕立の頭をこれでもかと撫でてくる。でも、夕立にとって、その言葉の意味が分からなかった。だって、夕立は『頑張って』もいないのに、『褒めて』くれるからだ。

 

 

 

「何で誉めるの? 吹雪ちゃんに言われたからやっただけっぽい……」

 

 

「だから、だよ。吹雪に言われたことを思い出して、自分で考えて(・・・・・・)やったんだろ? 人に言われたことをすぐに出来るヤツなんてそうそう居ねぇよ」

 

 

 人に言われたことをやったのが、そんなに褒められることなのか。夕立にはそれは分からなかった。だって、言われたことをやるのは当たり前のことだったからだ。それに、吹雪ちゃんに言われなければ、お礼は愚か謝罪すらしなかったかもしれないのに。

 

 

「でも、言われなきゃ……わっ」

 

 

そこ(・・)は掘り下げなくていいんだよ。むしろ、『私が全部考えました』ってドヤ顔で胸張っとけ。こういうのは言ったモン勝ちだ」

 

 

 そう言いながら再度頭を撫でてくる提督さん。未だに、提督さんの言ってる意味が分からない。でも、それを口に出すことは無かった。いや、出来なかった(・・・・・・)

 

 

「俺を見てみろ。大淀に何回も同じ指摘をされて、その度に『前もやってましたよね?』って嫌み言われてるんだぞ。それよりはマシだよマシ。いやぁ、ほんと秘書艦様は優秀ですわぁ~……って、夕立?」

 

 

 今まで上機嫌だった提督さんの声が、一気にしぼんでいく。多分、夕立を見たからだ。

 

 

 

 胸を押さえて蹲る夕立を。

 

 

 

「だ、大丈夫か!?」

 

 

 提督さんが焦った声を上げ、近づいてくる。それを、夕立は片手で制した。顔も見せず、ただ手だけで制した。提督さんも、それだけで止まってくれた。いや、それだけではないであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「怖かったよぉ……」

 

 

 

 夕立の口から声が、嗚咽(・・)が漏れた。やがて顔に熱が集まり、両目の端から熱い涙が零れてくる。それは頬を伝い、床に痕を残した。何粒も何粒も、涙は床に痕を残す。それと一緒に、夕立の口から嗚咽が絶え間なく漏れ始めた。

 

 

 しかし、一番初めに漏れたもの以降、口から漏れる嗚咽は言葉ではなかった。

 

 

 

「怖かったか?」

 

 

 不意に提督さんの声が聞こえる。

 

 

 怖かった。

 

 

 また殴られるんじゃないかと、罵声を浴びせ掛けられるんじゃないかと、踏みにじられるんじゃないかと。怖かった、果てしなく怖かった。

 

 

「辛かったか?」

 

 

 また、提督さんの声が聞こえる。

 

 

 辛かった。

 

 

 また、あの痛みを、苦痛を、苦しみを味合わなければならないと、分かっていながらまた同じ二の舞になると、分かっていながら提督さんの言うことに従わなければならないと、考えただけで。辛かった、尋常じゃなく辛かった。

 

 

「嫌だったか?」

 

 

 また、提督さんの声。

 

 

 嫌だった。

 

 

 どうして苦しみに立ち向かっていく選択をしてしまった、出来もしないのにことをやれるといい、言ったことが、言われたことが出来ない、いつまでも『出来ない』ままでいる夕立自身が、嫌だった。嫌で嫌で堪らなかった。

 

 

 そんな、どうしようもない『恐怖』に、『苦痛』に、『嫌悪』に、そして何よりもそれら全てをひっくるめた『不安』に、押しつぶされそうだった。

 

 

 

「大丈夫だ」

 

 

 また、提督さんの声。

 

 

 今度は声だけでなく、身体を抱き締められる。そして、語り掛けるように何度も「大丈夫」と言ってくれる。その度に抱きしめる力を強くしてくれる。頭を撫でてくれる。

 

 

 あの時と一緒、食堂の時と一緒だ。

 

 

 一人でフラリと前に進み出て、込み上げてくる言葉を言ってしまった、『不安』を抱えていた。その時と同じように抱き締めて、同じように語り掛けてくれて、同じように頭を撫でてくれる。

 

 

 それは沸々と煮えたぎり、身体と心を蝕んていた『不安』を消し去り、その代わりに『熱』を、『暖かさ』をそして何よりも『安心』を与えてくれる。

 

 

 

 

「好きなようにすればいい」

 

 

 

 

 その言葉が、その『熱』が、『暖かさ』が、そして何よりもそれら全てをひっくるめた『安心』が、涙腺と共に固く結ばれていた口から、溢れんばかりに泣き声(・・・)を引っ張り出したのだ。

 

 

 

 

 その後、どのぐらい経ったのか分からない。

 

 

 夕立は提督さんの胸で、喉が枯れんばかりに泣いた。今まで溜め込んでいたモノを、押し殺してきたモノを吐き出さんばかりに泣きに泣いた。提督さんは、先ほどと変わらず、ずっと抱き締め、語り掛け、そして頭を撫でてくれた。そのせいで、更に声が込み上げてきたのだが。

 

 

 とにかく、夕立はこれでもかと言うほど泣き喚いた。

 

 

 

「落ち着いた?」

 

 

「ん……」

 

 

 頭上から提督さんの声がする。その言葉に、夕立は言葉とは程遠い動物の鳴き声のような声を出した。すると、頭上から乾いた笑いが聞こえる。

 

 

 

 

 

「なぁ、何で秘書艦に立候補したんだ?」

 

 

 唐突に、そんな問いが降ってきた。その問いに夕立は身を震わせ、提督さんの胸から顔を上げてその顔を見る。

 

 

 

「北上も言っていたけど、夕立は自分で立候補したんだろ? 誰に言われたわけでもなく、かといって良く分からないから不安で一杯だったろうに……何か、特別な理由でもあったのか?」

 

 

 苦笑いを浮かべながら、何処か申し訳なさそうに提督さんが問いかけてくる。その問いに、夕立はすぐに答えることなくそっぽを向いた。視界の外から、「ヤベェ」と言う提督さんの声が聞こえる。多分、夕立のトラウマでも抉ったと思ったのだろうか。

 

 

 だが、生憎そんなことは無い。ただ、その理由を面と向かって言うのが、()の夕立にとって憚られることだったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「『提督さんを知りたい』って……思ったから」

 

 

「俺のことを? 何でまた?」

 

 

 絞り出すように出した言葉に、提督さんがすっとんきょうな声を出す。だが、夕立はその声に反応することは無く、ただそっぽを向いたまま口を開く。

 

 

「曙ちゃんが言ったっぽい。『ちゃんと提督さんと向き合え』、って。だから、提督と『向き合いたくなって』……それで立候補したっぽい」

 

 

 夕立でも、言葉足らずだと分かる。本当は、曙ちゃんがそう言った後、高ぶった感情のまま前に進み出て、想いの丈を吐き出したら、提督さんに抱きしめられて、頭を撫でられて、そして笑顔を向けられた。それに夕立は自分でも分からないうちに『安心』してしまったのだ。

 

 

 それがあって、ずっと抱えていた『不安』を消し去る『安心』を求めた。それがこうして抱きしめられて、語り掛けられて、頭を撫でられることであると分かっていて、それを味わいがたいために立候補したのだ。

 

 

 そう、少し前の夕立なら、そこまで言葉足らずにならず、ありのままにそう言っただろう。少し前(・・・)なら。

 

 

 

 

「そ、そっかぁ……なんかありがとうな」

 

 

 頭上から提督さんの笑い声が聞こえる。思わず見上げると、言葉の通り、照れたように頬を掻く提督さんの顔が見えた。

 

 

 

 それを見た瞬間、夕立の顔に『熱』が集まるのを感じた。

 

 

 

「も、もう大丈夫っぽい」

 

 そう言って、提督さんの胸から離れた。いきなり押されたことで提督さんが驚いたが、その様子を見ることが出来なかった。

 

 

 だって、提督さんの顔を見てから胸の辺りが苦しくなったのだ。それも、今までに感じたことのない、『苦しく』も『心地よい』、『熱く』も『暖かい』、そんな色々な感情が入り混じった、そんな苦しさだったから。

 

 

 

「夕立」

 

 提督さんの声が聞こえる。すると、胸の苦しさ、その中の『熱い』と言う感情が強くなる。それを悟られないため、澄ました顔で提督さんの方を向く。しかし、その努力の甲斐もなく、夕立の表情は呆けたモノに変わった。

 

 

 

 それは、提督さんを、正確には提督さんが夕立に差し出してくるモノを見たからだ。

 

 

 

 

 

「日記帳っぽい?」

 

 

「うん、日記帳」

 

 

 夕立の問いに、提督さんは真顔でそう答える。しかし、夕立にはどうして日記帳が、そしてどうして提督さんが夕立にそれを差し出しているのかが分からなかった。

 

 

 

 

「夕立、『字の練習』をしたくないか?」

 

 

 首を捻る夕立に、真顔だった提督さんは笑顔を浮かべ、そう言った。その言葉に、夕立は目を丸くして提督さんを見る。

 

 

 

「まぁ、俗に言う『交換日記』ってヤツだ。これを俺とお前で一日おきにその日あった出来事を、また書かれていたことの感想を書き合う。そうすれば、字の練習になるだろ? まぁ、無理にとは言わないし、もちろん俺以外の艦娘でもいい。だから―――――」

 

 

「やる!!」

 

 

 提督さんの話を遮るように、夕立は大声を出した。それにびっくりした顔になる提督さんの手から、日記帳をひったくる。少々強引すぎたと思ったが、今はそれよりも胸の奥から込み上げる『暖かさ』が――――『嬉しさ』が支配した。

 

 

 その理由は、交換日記が出来るからではない、『字の練習』が出来るからではない、

 

 提督さんを知る『きっかけ』が出来るからだ。『安心』出来る場所、人である提督さんとの、繋がりが出来るからだ。

 

 

 

 そして何よりも、そんな提督さんの『傍に居たい』から。

 

 

 

「気に入ってくれたようで良かったよ。なら、夕立からスタートってことでいいか?」

 

 

「了解っぽい!!」

 

 

 苦笑いの提督さんの言葉に、夕立は元気よく返事する。その際、いつもの癖が出てしまったが、それを咎める自分はいない。

 

 

だって、夕立(・・)の提督さんはそんなことを咎めないから。

 

 

 

 

 その後、その日の出来事が、そして提督さんとの交換日記が、艦娘の間で提督さんに『とある性癖』があるのではないかと噂になり、それを消すべく提督さんと共に走り回ることになるのを、この時はまだ知らない

 



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艦娘の『役目』

「さて、今日も頑張りますかぁ」

 

 

 誰も居ない執務室。そこでポツリと呟きながら、俺は軽く身体を動かしている。日々のデスクワークで凝りに凝った身体を少しでも解そうと思ってやっているが、如何せん心得が全くないので効果があるかは分からない。それでもやっているのは、『やらないよりはマシ』と言う貧乏性が板についた行動だと思う。

 

 

 とまぁ、そんなことを考えながら大きく伸びをすると、ポキポキと言う素敵(・・)な音が身体の至る所から鳴りまくる。その軽快かつ不穏なメロディが『執務の始まり』と『身体の衰え』を感じさせる。いや、『衰え』じゃなくて『疲労』か……世間一般で言えば俺はまだまだ『若者』だし。

 

 

 何となく目を閉じれば、仕事に就きながらも自分の好きなことをやっている同世代が見えたり見えなかったり。深海棲艦との戦争中ではあるが、その影響を―――『命の喪失』として真っ先に受けるのは軍属の連中(俺たち)だ。勿論、一般市民――――所謂『国民』も物資の不足によって日々の生活を(おびや)かされているだろうが、それを考慮しても(俺から見たら)極々普通の生活を送っているだろう。

 

 

 『羨ましい?』、と聞かれたら、『羨ましい』と答える。その理由は『自由がある』こともそうだが、一番は『当たり前』のように軍に守ってもらえること。

 

 

 軍人は国民を守るのが『義務』であり、何よりも優先すべきことであるのは大本営に召集された際に嫌と言う程聞かされ、そして俺自身も重々理解している。軍の運営、維持には莫大な資金や物資、人員が必要不可欠であり、それを補っているのが国民であることも、今こうして鎮守府と言う建物に居て、暖かい食事と寝床にありつけているのも彼らのお蔭であると、分かっている。

 

 でも、税金などは経済の流れを作る人、そしてそれを回す人が居なければ集まらないし、食材などの物資はそれを生み出す生産者が居なければ始まらない。人員に関しては、俺のように『志願』する者と、艦娘たちのように『召集』の名目で徴兵される者だけ。しかも艦娘が出現したことで徴兵される対象も絞られることとなる。

 

 

 つまり、『全国民が軍を支えている』と銘打たれた名札の裏では、その殆どが一部の人間に集中し、それ以外はそこまで負担がかかっていないと言うことになる。そして、軍の守る対象はそう言った人間も含めた『全国民』なのだ。

 

 

 まぁ、『志願』で一部の人間(こちら側)に飛び込んだ俺がどうこう言える立場じゃないし、この発言もお門違いだってのは分かってるさ。同期に、日々の食い扶持を得るために飛び込んだ奴も居るぐらいだ。俺たちがいくら喚こうが、その身にのしかかる負担は全て自己責任だ。

 

 

 

 でも、艦娘は、あの人(・・・)は――――――

 

 

 

 

 

 

 不意に、コンコンと言う軽い音が聞こえた。思わず身を強張らせ、音の方を向く。それは廊下へと続く扉、先ほどの音は誰かが扉をノックしたのだろう。それが分かった瞬間、安堵の息と共に身体から力が抜けた。

 

 

 

「どうぞ」

 

「失礼します」

 

 

 一呼吸おいてそう答えると、凛とした声と共に扉が開かれる。しかし、その『声』を聞いた瞬間、俺は思わず眉をしかめた。

 

 その声は、いつも傍で聞いている大淀の声ではない、別の声だった。でも、知らない声ではない。その声が大淀ではない『誰か』で、その『誰か』が分かっていて、そして何よりも今日(・・)執務室(ここ)に来るような人物ではないから、思わず眉をしかめたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「隼鷹……か」

 

 

 そんな動揺を出さぬよう、俺は扉を閉めるためにこちらに背を向けている『誰か』――――隼鷹の名を口にした。対して、彼女はこちらに向き直って俺を一瞥し、言葉の代わりに黙って一礼する。

 

 

 そのまま互いに一言も発することなく、ただ沈黙だけが流れた。いや、俺に関してはこの状況を理解しようと必死に頭を働かせていたわけだが、隼鷹に関してはそんな俺をただ黙って見つめてくるだけだ。

 

 

 と言うか、何で隼鷹がやってきたのだろうか。

 

 確か、今日彼女は非番だ。そのため彼女が執務室に来る必要性は無く、且つ雪風のように積極的に俺に絡みに来るような性質でもない。しかも、試食会(あの日)以来彼女と言葉を交わしたこともなく、たまに鎮守府内で見かけるとむこうが避けていくから俺も無理に接しようとはしなかった。

 

 なので、こうやって互いの顔を真正面から見据える機会は久しぶりだし、今この状況自体が俺にとって有り得ないことだと言える。

 

 

 しかし、その疑問は固く閉ざされた隼鷹の口が開いたことで瞬く間に氷解した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「飛鷹型航空母艦2番艦、隼鷹。加賀型航空母艦1番艦、加賀に代わり、本日の秘書艦を務めさせていただきます」

 

 

 一切の抑揚がなく、感情も見えない声で隼鷹はそう言葉を吐き、機械のような無駄のない動きで敬礼をする。その姿、そしてその口から吐き出された言葉を前に、俺は一言も発することなくただ立ち尽くした。その理由は彼女の言葉が予想外過ぎたことと、氷解した疑問の多さに戸惑ったからだ。

 

 

 

 今しがた隼鷹が発した『加賀』と言う言葉、と言うか名前か。これが指す人物は、この鎮守府に所属する一人の艦娘だ。

 

 

 俺がこの名を初めて聞いたのは、着任3日目にして起きた深海棲艦の鎮守府襲撃事件の真っただ中、天龍から託された無線を通じて、大淀と彼女とで演習場に残る艦娘たちの避難を行っている時だ。

 

 

 

 

 ―――こんな状況だけど、『航空母艦、加賀』よ。――――

 

 

 そんな、あまりに簡素な自己紹介だった。あまりの簡素さに面を喰らいながらも何か言葉を返そうとするが、それを遮るように同じ声が避難する艦娘たちの居場所を告げてくる。次に大淀の声、その次に加賀の声が続く。

 

 

 いつの間にか彼女の簡素な自己紹介は目まぐるしく変わる状況に押し流され、俺も彼女たちと同じように『艦娘たちの避難』と言う最優先事項に目を向けた。

 

 

 結局、そのまま俺は特に何も返すことなく、ズルズルと今日まで引きずってしまったわけだ。

 

 

 更に言えば、俺は彼女の名前は知っていてもその素顔(・・)は知らない。と言うのも、今の体制が施行されてから今日まで、加賀は俺の前に現れたことはないのだ。

 

 

 勿論、加賀が出撃もせずに過ごしていたわけではない。出撃する艦隊にも所属していたが、うちの体制上旗艦以外は執務室に来ることは無いため、出撃する時は決まって僚艦として名簿の中にある名前でしか見たことは無いのだ。また、秘書艦だって今日が初めて。名前や声は知っているがその風貌は知らない、なんて提督としてはあまり宜しくない関係ではある。

 

 

 まぁ、俺が顔を知らないだけで、本当は何回も顔を会わせているかもしれない。と言うか、あの試食会で否が応にも目立ったのだから、少なくともあっちは俺を把握しているだろう。あちらからすれば、所属する艦娘の顔も知らないのか、なんて呆れられるかもしれないな。

 

 

 とまぁ、そんなこんなで俺は今日初めて加賀の顔を見れると思っていた。そして、今目の前に立つ隼鷹がそんな彼女の代わりにやって来た、と言ってきたのだ。

 

 

 其処までは何とか理解できた。よし、取り敢えず詳細を聞こう。

 

 

 

「加賀に何かあったのか?」

 

 

「体調不良です」

 

 

 おずおずと言った感じの問いに、隼鷹は言葉数少なく返す。にしても体調不良か……無理させちまったか?

 

 

「その話、初耳なんだけど」

 

 

「今朝方に体調を崩されたからです。更に、本人が動けない状態なので、代わりに私が報告兼秘書艦代理を頼まれました。大淀には先程報告しています」

 

 

 成る程、今朝方に悪化して報告が遅れた、と。それも動けない程……。ちょっと予定を見直す必要があるかも。いつもなら居る筈の大淀が来ていないのは、多分様子を見に行ったのだろうか。いや、それよりもまずは聞くことがある。そう思って、顎に手を当てて考える。

 

 

「先ず、食欲はあったか? いや、動けないならある訳ないか……なら、後で間宮にお粥辺りを用意させて……あぁ、水分はちゃんと補給させるよう言ったか? 言ってないなら、これも間宮にお願いするとして……なるべく暖かい恰好で寝させてるか? いっそ何かあった時用に誰か看病を立てた方が良いか? って、隼鷹?」

 

 

 取り敢えず頭に浮かぶ心配事を質問するも、何故か返答が無い。顔を上げると、何故か目を見開いて立ち尽くしてる隼鷹が。ん? 何か変なこと言ったか?

 

 

「隼鷹?」

 

 

「え、いや、だ、大丈夫ですよ、多分」

 

 

 もう一度、名前を呼ぶと、隼鷹はしどろもどろと言った感じで視線を逸らす。てか、『多分』って言ったな? 十中八九やってないよな? そんなことを思いながら、しどろもどろする隼鷹から時計に視線を移す。執務まで、まだ時間があるな。

 

 

「ちょっと様子を見てくるか」

 

 

「や!! そ、その必要はないです!!」

 

 

 俺がそう言って立ち上がると、慌てた様に隼鷹が止めてくる。ここ最近の予定で体調を崩したのなら、一言ぐらい詫びを入れても良いだろ。それに今後のスケジューリングの参考にもなるし、誰も損することは無い筈だ。

 

 

 それとも何だ?

 

 

「今言ったことが―――――」

 

 

 

 

 

「『嘘』よ」

 

 

 俺が言おうとした言葉が横から飛んでくる。その瞬間、俺と隼鷹は反射的にその方に顔を向け、そして目を見開いた。

 

 

 

 

「その子の言っていることは、全部『嘘』」

 

 

 またもや、その声が聞こえた。それと同時に、『ギシッ』と言う床を踏みしめる音、『スルスル』と言う床に布が擦れる音、『ガタガタ』と言う床の凹凸で何か重いモノが揺れる音、『キィッ』と言う金属の軋む音が、絶え間なく鳴り始める。

 

 

「ちょっと一人で準備するのに手間取ったけど、特に問題ないわ。別に体調を崩したわけでもないですし」

 

 

 またもや、その声が聞こえる。その声色は淡々としているが、何処か呆れたようであった。その何処か呆れた声に、聞き覚えがある。それは、無線機の向こうから聞こえた、俺の冗談を一蹴し、簡素に自らの名を口にした、あの声だ。

 

 

 

「もういいわ、大淀」

 

 

 またもや、その声が聞こえる。すると、今まで鳴り続いていた小さな音が止み、今度は床を踏みしめる音だけ(・・)が鳴り始める。それと発しているのは、今まで声の主の後ろに控えていた大淀。彼女はその横を通り過ぎて俺の横まで来ると、改めて声の主に向き直った。

 

 

 

「こうして互いに顔を合わせるのは初めてですね。今の私はあまり相応しい恰好ではないけど、こればかりは許して欲しいわ」

 

 

 

 またもや、その声が聞こえた。今度は俺に向けて、少し肩を竦めながら、ただ少し目線を逸らして、そう言った。だが、すぐさま逸らした視線を戻し、今度は俺を見上げるように見据えて口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

「『初めまして』、加賀型航空母艦1番艦、加賀です。本日はよろしくお願いします」

 

 

 

 

 そう言って、声の主――――――加賀は頭を下げた。しかし、俺はその姿をただ黙って見つめた。いや、どう反応していいのか分からなかった。

 

 

 

 

「……私の顔に、何かついていて?」

 

 

 いつまでも何も言わない俺に、加賀は怪訝そうに見上げてくる。いや『怪訝そうに見えた』だけだ。何故なら、その表情は一切変わっていないのだから。でも、若干低い声色に首を傾げた仕草で、俺が勝手に不審に思っていると解釈しただけだ。

 

 

「い、いや、何もついていないよ。ただ……」

 

 

 加賀の問いに俺は慌てて訂正をするも、その視線はある一点を捉えていた。

 

 

 それは、加賀の恰好(・・)。先ほど、挨拶をするには相応しくない格好だと彼女自身が言った通り、その恰好はお世辞にも人前に出るようなものではないだろう。

 

 

 何せ、今彼女の恰好は、弓道で使うような白い胴着にスカートの様に裾の短い青い袴、照明の光を照り返す黒い胸当て、足先から膝まで伸びる黒のハイソックスだからだ。恐らく、ハイソックスは膝より上まではあるだろう。そう、恐らく(・・・・)だ。

 

 

 何故、断言できないか。それは彼女の腹部から膝に掛けて薄い毛布が()から覆っているからだ。

 

 

 何故、上から毛布で覆われているのか。それは彼女が『立っている』のではなく、『座っている』からだ。

 

 

 何故、彼女は『座っている』のか。いや、もっと言えば、『何』に座っているのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「別に珍しいモノでもないでしょ? 『車椅子』なんて」

 

 

 そう言って、加賀は俺から視線を外しながら自らが手を、身を置くモノ―――――車椅子を撫でた。その瞬間、俺は加賀から、正確には彼女が腰掛けている車椅子から視線を外した。

 

 

 外した視線の先に居たのは隼鷹。彼女は加賀から見えない場所でバツの悪そうな顔をしている。しかし、その表情からは、何処か悲しそうな雰囲気が感じられた。

 

 ふと、そんな彼女と視線が合う。しかし、すぐさま隼鷹から視線を、正確には身体の向きごと逸らされた。

 

 

 そんな隼鷹から、加賀に視線を戻す。それまで加賀は視線を伏せて車いすを撫でていたが、すぐに俺の視線に気付いて目を合わせてきた。多分、横目で俺の様子を伺っていたのかもしれない。

 

 

 ふと、ある言葉が浮かび上がった。

 

 

 

 

 

 

「出撃していたのか?」

 

 

 ポツリと、口から言葉が漏れた。その言葉に、加賀が目を大きく見開く。同時に、彼女が腰掛ける車椅子が軋んだ。

 

 

 

「出撃していたのか? それ(・・)で、その恰好で? 今までずっと、俺に言わずに出撃していたのか?」

 

 

「……提督、もう少し言葉を選んでちょ―――――」

 

 

「答えろ」

 

 

 加賀の言葉を遮るように、少し強めの言葉を投げかける。その言葉に、あれ程動じなかった加賀の顔に不満が浮かぶ。しかし、それを気に掛ける余裕なんてない。

 

 

「……さっき言った通り、何も(・・)問題ないわ。執務も出来ますし、出撃だって艤装を付ければ普通に戦え―――」

 

 

「駄目だ!!」

 

 

 伏し目がちにそう言葉を漏らした加賀に、思わず大声を上げる。突然の大声に目の前の加賀が、そして視界の端に居る隼鷹が弾かれた様に顔を上げる。

 

 

 それが見えた。でも、見えただけ。今の俺に、それを目にすることしか出来なかった。

 

 

 

「出撃なんか……出撃なんか駄目だ!! 艤装が付ければ問題ない、艤装を付ければ普通(・・)に戦えるとか、そんなの関係ねぇんだよ!! 絶対に!! 絶対に駄目だ!! 駄目なんだよ!! てか何で今まで出撃してきた……? そんな姿で!! そんな状態(・・)で!! 何で……何で今まで黙ってた!! 何で黙ってたんだよお前ら(・・・)!! ふざけんな!! ふざけんなよ!! それで……それでもししず―――――」

 

 

 

ふざけないで(・・・・・・)

 

 

 吠えるように吐き出された言葉は、胸の奥から沸き上がる熱は、頭を一杯にする激しい怒りは、全てその一言で掻き消された。

 

 

 

「何言ってるの? 艦娘(わたしたち)は深海棲艦と戦い、そして深海棲艦から人間(あなたたち)を守るのが役目。それこそが私たちが存在する意味、『存在意義』よ。そして、提督(あなた)は、私たちにそれをさせる(・・・)のが役目。それが、『提督』であるあなたの存在する意味、『存在意義』よ……違うかしら?」

 

 

 そこで言葉を切った加賀は、無表情のまま首を傾げてくる。頭の中では、色々と言いたいことがあった。しかし、身体が動かない。頭は血管がはち切れそうな程回転しているのに、それ以外全てが動かないのだ。まるで、蛇に睨まれた蛙のように。

 

 

 

「さっき言いましたけど、私は艤装を付ければ(・・・・)戦えるの。艤装さえ付ければ、艦載機を発艦することも、艦載機の妖精たちに指示を出すことも、敵の攻撃を避けることも、海上を走ることも、地上を歩くこと(・・・・・・・)だって出来るの、普通(・・)に出来るのよ。地上で使わないのは余計に資材を消費するから、だから地上では車椅子(これ)に頼っているだけ。車椅子だからって『戦えない』わけじゃないの、車椅子だからって『守れない』わけじゃないの、『役目を果たせない』ってわけじゃないのよ」

 

 

 

 またもや、加賀はそこで言葉を切り、またもや無表情の顔を向けてきた。いや、違う。その表情は、表情だけは同じだ。

 

 

 違うのは、その瞳。車椅子に座っているため俺を見上げるように向けてくる、吸い込まれそうな程深い黒の瞳だ。なのに、その瞳に何処か既視感を覚えた。それが何処で見たモノかまでかは分からない。

 

 

 

「そんな私から役目を、『存在意義』を奪うのかしら? 私と言う『存在』を否定(・・)するのかしら?」

 

 

 

 

 加賀が、そう問いかけてきた。いや、問いかけられると言うよりも言い含められたと言った方が正しい。何せ、その問いかけに俺は何も言えないから、その問いかけにふさわしい解答が、まったく浮かんでこないから。

 

 

 

 何せ、その言葉を真っ向から否定できない、全くもって当然の『正論』だったから。何せ、『存在意義(それ)』を決めるのは俺じゃなくて彼女だったから。

 

 

 

 そして何より、それを否定すること自体、彼女自身を否定してしまうことになるから。

 

 

 

 

「どうなの?」

 

 

 何も言わない俺に、加賀は再び問いかけてきた。しかし、相も変わらず俺は何も言えないままだった。

 

 

 

 この感じ……あの時と、曙の時と同じだ。

 

 

 

 あの時も、曙から同じようなことを問われ、そして何も言えなかった。ただ、曙が問いと共に渡してくれた、彼女が、いや()が望んでいた解答をオウム返ししただけ。彼女が渡してくれなかったら、俺は今のように何も言えずただ黙っていただろう。

 

 

 そして、加賀は解答を渡してくれない。いや、渡している、渡してくれてはいるのだ。ただ、それが俺にとって容認できないモノであるだけだ、俺が望む解答(モノ)じゃないだけだ、双方が(・・・)望むそれが無いだけだ。

 

 

 

「……まぁいいわ。で? 隼鷹についてはどうするのかしら?」

 

 

 不意に、加賀がため息と共に再び問いかけてきた。俺を見つめながら。その瞬間、視界の端でバッと顔を上げる隼鷹が見える。しかし、加賀はその姿を一瞥することもなく、ただ俺を見つめ続けた。

 

 

 

 

「先ほど言った通り、隼鷹が言ったことは全部、『嘘』です。体調なんか崩していませんし、動けないわけでもありません。食欲もありますし、水分もしっかり摂りました。この格好も暖かいですし、寒くても毛布があります。睡眠も十分すぎる程とりました、看病も必要ありません。そして何より、私は彼女に言伝も秘書艦代理も頼んでいません。そうよね?」

 

 

 そこで言葉を切った加賀は、初めて隼鷹に視線を向ける。その瞬間、今まで食い入るように見つめてきた隼鷹が顔を背けた。視界の端に一瞬だけ見えたその顔には、眉間に深いシワが刻まれ、そして血が出んばかりに目一杯噛み締めていた。

 

 

「この通り、彼女が提督に言ったことは全て『虚構』、事実無根です。『妄言』と言ってしまって良いでしょう。彼女はその妄言を、あたかも『事実』のように貴方に報告した。しかも、それが露見されることを危惧して私の元に行かせないように。そんなの、自らの発言が『妄言』であると言っているようなモノじゃない。弁明の余地は無いわ」

 

 

 加賀の声は、淡々としている。なのに、その一言一言が酷く重く感じる。この感覚は、龍驤に問いただされた時と同じだ。視界の端に居る隼鷹も、加賀が言葉を吐きだす度に身を震わせ、その度に肩を落としていた。

 

 

「ともかく、彼女は提督に『妄言』を、『嘘』をついた。世間一般にだって、子供でも悪いことだってわかる様な事をしたの。それも、いつ敵が攻めてくるか分からない最前線(ここ)で。報告一つで命運すらも左右される戦場(この場所)で、『嘘』をついたの。この重大性、分かりますよね?」

 

 

 再び、加賀は俺に目を向けてきた。あの、黒い瞳を。俺の腹の内を見透かしてくる、あの大きな瞳を。

 

 

 

 

 

 

「取り敢えず、『今日一日、部屋で謹慎』と言うのはどうでしょう?」

 

 

 そんな中、加賀以外の声が聞こえた。そして、俺の視界にセーラー服の青い襟と艶のある綺麗な黒髪、そして赤と青の帯紐が映る。

 

 

 

 大淀が俺と加賀の間に割り込んだのだ。

 

 

 

 

「甘すぎないかしら?」

 

 

「だから、『取り敢えず』です。時間も時間ですし、今は取り敢えず部屋に戻ってもらって、後程相応の処分を伝えると言うのはどうでしょうか? ね、提督?」

 

 

 いきなり割り込んできた大淀に、加賀は鋭い視線を投げかけながらそう問いかけ、それを受けた大淀は少し焦りながらもそう言い、こちらに顔を向けながらそう言葉をかけてきた。

 

 

 

「あ、あぁ」 

 

 

「決まりですね。では、後程詳細を伝えに行きますので、隼鷹さんはお部屋に戻ってください。加賀さんはこちらに机と本日の書類を用意していますので、目を通しておいてください。提督も、こちらです」

 

 

 

 俺から言質を取った大淀は流れるようにそう指示を出す。あまりの自然な流れに俺は一瞬思考が止まるも、それはこちらに振り向いた大淀から書類の束を手渡されたことで動き出した。

 

 大淀は苦笑いを浮かべながら俺の横を通り過ぎ、その後ろ姿に鋭い視線を向けていた加賀は一つ溜め息をつき、今まで固まっていた隼鷹は呆けた顔のままよろよろと廊下へと続く扉に進む。その中で、扉へと進む隼鷹の顔には、暗い影が掛かっていた。

 

 

 

 

「失礼しま―――」

 

 

「待ちなさい、何か提督に言うことはないの?」

 

 

 出て行こうとした隼鷹に、加賀が声を投げかける。同時に、今まで見たことのないような鋭い視線を投げかけた。その言葉、そして視線に隼鷹は身を震わせるながら、俺に向き直った。

 

 

 

 

 

「すみませんでした」

 

 

 

「あ、や、だ、大丈夫だ。じゃあ、後でな」

 

 

 

 頭を下げる隼鷹に、俺はつっかえながらそう返す。その瞬間、何故か加賀が鋭い視線をこちらに向けてきた。それを見て見ないフリをしながら隼鷹に戻る様促すと、それを受けた隼鷹はもう一度深々と頭を下げて出て行った。

 

 

 

 

 

 

「甘いわね」

 

 

 ボソリと、加賀の声が聞こえた。それが誰に向けられた言葉であるか、そして誰の行動を指しているのか、何となく分かってしまった。しかし、それも再び扉をノックされたことで有耶無耶になる。

 

 

 

「どうぞ」

 

 

 俺の代わりに大淀がそう声をかけると、「失礼します」と言う言葉と共に扉から数人の艦娘たちが入ってきた。彼女たちは本日出撃する艦隊の旗艦たちで、いつもの無線の確認をしに来たのだ。しかし、彼女たちは加賀を見た瞬間にその表情を強張らせた。

 

 

 

「加賀……さん」 

 

 

「何してるの? さっさと済ませるわよ」

 

 

 その中の一人が、小さく声を漏らす。他の者も声のかわりに、その表情が全てを物語っていた。対して、加賀は特に気にする様子もなく、無線の通信確認を始める。その様子に、艦娘たちも何も言えずに取り敢えず確認に入った。

 

 

 

 

「提督さん?」

 

 

 不意にそう声を変えられその方を見ると、いつの間にか俺の前で不思議そうに見上げてくる夕立が。しかし、それと同時に、何故夕立がここに居るのか、と言う疑問が湧いてくる。今日の予定では、彼女は出撃組の僚艦で執務室に来る必要はないからだ。

 

 

 

「……何で居るんだ? お前、今日は僚艦だろ?」

 

 

「日記を貰いに来たっぽい」

 

 

 日記を貰いに来たって……お前、この後出撃が控えてるんだぞ? 今渡したところでゆっくり見れないだろ。出撃が終わった後でいいじゃねぇか。

 

 

 

 

「お、『お願い』の返事が早く欲しいから……」

 

 

 俺の言葉に、夕立は何故か視線を逸らせながらそう答える。その言葉の意味を、一応は理解することが出来た。しかし、それと同時に新たな疑問が生まれた。

 

 

 

 夕立が言った『お願い』――――それは、昨日彼女から渡された日記に書かれていたこと、『願い事が叶うおまじないを教えて欲しい』のことだ。

 

 

 それまで、日記では互いにその日あったことを綴り、それに対する感想などを書いていた。夕立からは出撃でこんなことがあったとか、非番を誰とこんな風に過ごしたとか、今日のご飯は美味しかったとか、そんな他愛もないやり取りだ。

 

 しかし、昨日貰った日記にはそのようなことが一切なく、代わりに『願い事が叶う方法を教えて欲しい』と言う質問のみが書かれていた。理由もなく、ただ漠然と質問のみが、しかも少しでも読みやすいよう丁寧に書かれていたのだ。

 

 それを見た時、真っ先に理由は何だと思った。しかし、日記からそれを読み取る情報は無く、かと言って彼女に聞きに行くのは日記をやる意味がない。取り敢えず、その理由とその質問に対する答えを書き、その答えに必要なモノ(・・・・・)も一応用意しておいたわけだが。

 

 

 

「何であんなことを書いたんだ?」

 

 

「えっと……秘密っぽい」

 

 

「夕立、そろそろ行くよー」

 

 

 再び問いかけると、またもや夕立は視線を逸らした。そんな彼女に怪訝な顔を向けるも、その直後に加賀との確認を終えた艦娘の一人が夕立を呼ぶ。その言葉に、夕立は旗艦である艦娘、その次に俺を見て、そして顔の前で手を合わせて頭を下げてきた。どうやら、理由を言う時間は無いらしい。

 

 

 それを受けて、俺は自分の机から夕立との日記と、その答えのために用意した袋を引っ張り出し、彼女の手に押し付けた。夕立は日記と共に押し付けられた袋を凝視するも、すぐさま俺に頭を下げて踵を返し、旗艦たちともに部屋から出て行った。

 

 

 

 

 

「『贔屓』とは感心しないわ」

 

 

 ふと、加賀の声が聞こえる。彼女の方を見ると、無表情の加賀。しかし、その視線は先ほど同様鋭い。

 

 

「べ、別に贔屓しているわけじゃ――――」

 

 

「『特定の個人だけに何かを与える』ことが、『贔屓』以外になんていうのかしらね?」

 

 

 俺の言葉に、加賀は視線を逸らしながらそう吐き捨て、そのまま大淀が用意した机に向かう。その後ろ姿を、俺はただ黙って見つめ、やがて彼女と同じように自分の机に向かった。

 

 

 その間、一言も発しなかった。そう、発しなかった(・・・・・・)のだ。

 

 

 

 

「では、本日はよろしくお願いします」

 

 

 俺と加賀が席に着くと、コホンと言う咳払いと共に大淀がそう言い、軽く頭を下げた。普段彼女はそんなことをしないのだが、多分俺と加賀の間に流れる重い空気を少しでも払拭しようとしたのだろうか。

 

 

「お願いします」

 

 

「お願いします」

 

 

 それを受け、俺は大淀と同じように軽く頭を下げる。加賀も、無表情のままそう言い、頭を下げた。それを見て、何処か安心したような顔の大淀が、早速書類を渡してきた。それを受け取り、それぞれがペンを握りしめた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 執務が始まって、大体二時間程が経っただろうか。時計を見ても、短針が『11』を僅かに過ぎたばかり。お昼まで、少しばかり時間がある。いつものこの時間なら、執務室はペンを走らせる音が延々と響いているはずだ。

 

 

 なのに、ペンを走らせる音は一切しない。因みに、今俺のペンは止まっている。もっと言えば、大淀のペンも止まっている。もっともっと言えば、加賀のペンも止まっている。

 

 

 それは何故か? 簡単な話、『執務』が終わったからだ。

 

 

「えっと……大淀さん? しょ、書類とかは無いんですかね?」

 

 

「は、はい……午前の分、そして『午後の分』も無いですぅ……」

 

 

 俺の問いに、魂が抜けてしまった顔の大淀がそう答える。ほう、『午後の分』も無い、と。え、それってつまり、今日一日分(・・・)の書類を片付けちゃったってことですか? まだ半日も経ってないよ? 嘘でしょ? 嘘ですよね? ねぇ?

 

 

 

「嘘だよね?」

 

 

「提督、そんなこと言われても困るのだけど……」

 

 

 目の前の現実から全力で目を逸らすと、代わりに手元の書類の束を纏める加賀が苦言で返してくる。いや、そうは言ってもさ、今日一日分の書類がたった半日で片付いたんだよ。今まで、大体夕方ぐらいまでかかったのが、場合によっては夕食後まで掛かっていたのが。

 

 

 

 

「それに、あの程度(・・・・)の書類なんてすぐ終わるわよ。大方、『提督』に合わせてたんでしょうけど」

 

 

 とどめとばかりに、加賀がため息交じりにそんなことを言ってくる。その言葉に俺は完全ノックアウトです。大淀も特に否定することなく苦笑いを溢すのみ。そこは嘘でもいいから否定してほしかった。

 

 

 てか、それって俺がやらかしたミスを加賀が手直ししたってことか。何か今日は跳ね返ってくる書類がほぼ無いなとは思っていたが、そう言うことかよ畜生。

 

 

 

 

「で、このまま執務室(ここ)でボケっとしているわけにはいかないでしょう? 私的には、明日の分も片付けるのがいいと思います」

 

 

 そんなノックダウン状態の俺に、呆れたように加賀が問いかけてくる。その言葉に、俺は加賀、そして大淀に目を向け、首を捻った。

 

 

 多分、普通なら明日に回す筈の分をやるのが妥当か。前倒しになる分、後々が楽になる。むしろ作業効率がいいときにやって、貯金を作るのが賢いだろう。

 

 

 でも、それは明日やる分が決まってる前提が必要で、今俺たちにはそれが無い。なので、明日の分をやろうにも先ず『明日の分』が何なのかを見極める必要があるのだ。なら、見極めればいい。

 

 

 

 しかし、一つだけ。やりたいこと(・・・・・・)がある。

 

 

 

「いや、先ず休憩しよう」

 

 

「休憩……『一休み』ですね」

 

 

「なるほど、休憩しながらやることを考えるわけ、ね。良い判だ―――」

 

 

「いや、そうじゃない」

 

 

 俺の呟きに、都合よく解釈する大淀と加賀の言葉を否定する。すると、大淀は眉を潜め、加賀も表情自体は変わらないが、その目からは不満げな雰囲気が感じられた。

 

 

 それらを受けて、俺は今まで腰掛けていた椅子から立ち上がり、スタスタと歩を進める。その姿を、他の二人は不思議そうに目で追うも、やがて一人が目で追うのを止めた。

 

 

 

 

「提督、何で私の後ろに立っているのかしら?」

 

 

 追うのを止めた一人――――加賀は真正面を向きながら、自らの背後に立つ俺に向けてそう問いかけた。今なお追っている大淀は、ただ呆けた顔で俺を見つめてくる。

 

 

 

「加賀、最近外に出たことは?」

 

 

 そんな二人を前にして、俺はただ一言、そう言葉を漏らした。すると、今まで前を見続けていた加賀が真上に顔を向け、鋭い視線を向けてくる。視界の端で顔を引きつらせる大淀が見えるも、今は気にしないでおこう。

 

 

 

 

「……いいえ、無いわ。こんな恰好だから……」

 

 

「そうか、ならちょうどいい(・・・・・・)

 

 

 加賀の言葉に、俺はそう返す。すると、今まで頑なに動かなかった加賀の表情がわずかに歪む。それを真っ直ぐ見据えながら、俺は笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「外に出るぞ、加賀」



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提督の『役目』

 何で……こうなったのかしら。

 

 

 今、目の前で繰り広げられるモノ、私からすれば茶番劇に等しいそれを見て思わず頭を抱えた。

 

 

 私の目には、いつもの鎮守府の廊下、それがゆっくりと後ろに流れている。私の耳には、聞き慣れた車椅子の音、聞き慣れない革靴の音、そして久しぶりに聞いたあの声が後ろ(・・)から聞こえてくる。

 

 

 

「あの……提督」

 

「ん? どうした?」

 

 

 私の問いに、あの声―――――提督の声が聞こえ、それと一緒に視界の端に白い軍帽の鍔(つば)が現れる。彼が私を覗き込んでいるのだ。覗き込む彼を見るため、首を捻り()を向く。すると、前を真っ直ぐ見据える彼の顔が見えた。

 

 私が見上げていることに気付いた彼は、悪戯っぽい笑みを向けてくる。それを向けられた私――――――加賀は思わずため息を溢した。

 

 

 先ほど、今日分の執務を片付けたことで手持無沙汰になった私たちは、今私の後ろで車椅子を押す提督の鶴の一声で『休憩』を取ることとなった。そう、動き回っていた足や手を止め、部屋の一角に腰を下ろし一息つく、その『休憩』なのだ。

 

 

 なのに、今こうして提督に押されて廊下を移動しているのは、これもまた彼の『外に行くぞ』と言う発言のせい。それは、所謂『外出』であり、彼が提案した『休憩』とは似つかぬモノだ。

 

 まぁ、確かに今日は暑くもなく寒くもなく、程よい雲と日光が照らす絶好のお出かけ日和。お昼までの時間を考えれば、ちょっとした散歩に持ってこいだと言える。だが、それはそれ、これはこれだ。それが、『外出』する理由にはならない。

 

 

 そのことを突っ込んだら、提督から『狭っ苦しい執務室に居るよりも良いだろ? 何、気分転換さ』と言われる。執務で固まった心身を解すわけね、それなら『休憩』と言えるわ。気分を切り替えて午後の執務(あるかどうかは不明だが)に臨もうと言うのだ。

 

 

 だが、何故それに私もついていかなければならないのか。そこだけは一向に解せない。

 

 

 別に、私は『気分転換』をする必要はないし、車椅子(こんな)姿で外に出たくない。執務室の隅っこのスペースとコーヒー辺りを与えられれば、それでいいのに。それ以上は望まないし、文句もない。

 

 

 まぁ、それが聞き届けられたかどうかは、今の状況を見れば分かると思うけど……。

 

 

 

「承諾した後で聞くのもアレだけど、一体どこに行く気なの?」

 

「それは着いてからのお楽しみってことで……あ、止まるぞ」

 

 

 私の問いにもったいぶって言葉を濁す提督。しかし、次の瞬間には低い言葉共に真剣な表情を浮かべる。その視線は私ではなく私の前を、これから通るであろう廊下へと向けられている。

 

 

 いや、正確にはその先に居る一人の艦娘(・・)に注がれているのだが。

 

 

 

 

『こちら、長門。次の角の向こうにて艦娘二名を捕捉……体格からして、駆逐艦の模様。恐らく、食堂に向かっているようです。いかがしますか? 提督』

 

「こちら、提督。駆逐艦二人、か……了解した。では角の手前まで移動し、彼女たちが食堂に入るまでそこで待機だ」

 

 

 耳元の無線機とすぐ後ろから、間抜けな内容の会話が聞こえてくる。しかも、無理矢理(・・・・)緊迫した雰囲気を出そうとわざとらしく声を震わせたり、息を呑んでみたり、意味深な間を開けてみたり。実に、やりたい放題と言える。

 

 時折、無線機から笑いをかみ殺す声が聞こえるのも、当人たちが悪ふざけでやっている証拠でしょうね。

 

 

 

「長門……貴女も何をしてるのよ」

 

『む? 提督に新しく開発した新型電探の性能をお披露目しているだけだが? 何もおかしくはないだろう』

 

 

 頭を抱えながら無線機の先、正確には廊下の向こうで次の角を覗き込んでいる長門に問いかける。すると、無線機から当たり前のことを言うような声色のその声が聞こえ、遠くでは彼女が装備している電探をつつくその姿が見えた。それに、更に深いため息をつきたくなる。

 

 

 と、言うのも、今こうして私が提督に押されて廊下を進んでいる原因の殆どが、この超弩級戦艦が執務室にやってきたことにあるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

「それで? 私も行く理ゆ――――」

 

「提督よ!! この長門、ようやく新型電探の開発に成功したぞ!!」

 

 

 

 一緒についていかなくてはならない理由を聞こうとした私の言葉を、ノックもせずに執務室の扉を開け放った長門が掻き消した。突然のことに固まる私たちと、その姿を見て何故か得意満面の笑みを浮かべる長門。ほんの少し、沈黙が流れる。

 

 

「長門……今は執務中よ」

 

「何故だ? 今は『休憩』中であろう? それよりも見てくれ!!」

 

 

 私の苦言に悪びれもせずそう言い、長門は今なお固まっている提督ににじり寄る。恐らく手にしている電探を見せつけるためだろう。と言うか、今までの話を聞いていたのかしら。

 

 

「勿論、ただ電探を見せびらかしに来ただけではない。今回の開発で使用した資材の数と副産物(ハズレ)の報告書を出しに来たのだ。決して、見せびらかしに来たわけではないからな?」

 

「おかしいわね……私には目的の八割が見せびらかしに来たようにしか聞こえないのだけど」

 

 

 白々しい長門の発言にジト目を向けるも、当の本人は何処吹く風。ようやく我に返った大淀に報告書を渡し、提督に電探を見せつけている。

 

 

 報告書を用意している辺り、本当にそれが目的でやってきたのは間違いない。ただ先ほどの言葉から、入るタイミングだけは謀られたと言うわけだ。全く、何を考えているんだか。

 

 

「長門、電探(それ)近くにいる艦娘(・・・・・・・)を探知することって出来るか?」

 

 

 提督が溢した言葉に、吐きかけたため息を飲み込み引きつった顔を彼に向ける。視線の先で、私と目を合わさないようにしながら同じように引きつった顔をする提督。恐らく、いや確実に見えているんでしょうね。

 

 

 

「無論、出来るぞ。むしろ、『相手よりも先にその存在を探知すること』こそが電探の役目だからな。何なら、今から(・・・)でも試してみるか?」

 

「いいのか? じゃあ、これから一緒に――」

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい」

 

 

 提督の問いかけに、何故か笑顔でそう答える長門。その言葉を聞き、顔を綻ばせる提督。二人の間でトントン拍子に話が進んでいくのを、当事者なのに何故か蚊帳の外に放り出された私が口を挟む。すると、笑顔のまま長門がこちらを向き、ズイッと顔を近づけてくる。

 

 

 

「加賀、これは『任務』。提督に新しく開発した新型電探の性能を知ってもらうための、非常に重要な『任務』だ。提督から見れば、電探の性能をチェックする『執務』と言える。提督が『執務』をするのに、その横に秘書艦が控えていないのは……おかしくないか?」

 

「そんな子供みたいな屁理屈で納得するわけないでしょう。それに、ついていくにしても私じゃなくて大淀でも良いじゃない」

 

「私は長門さんの報告書を確認しなければならないので……それに、提督と秘書艦が執務をされるのに、提督補佐()だけ休憩をいただくのはよろしくありませんから」

 

 

 長門の屁理屈を一蹴しつつ話題の矛先を大淀に向けるも、こちらも何故か笑顔の大淀にかわされてしまう。しかも、自分は秘書艦ではなく提督補佐である、と釘を刺してくる念の入れよう。

 

 

 いつの間にか……いえ、元々執務室(ここ)に味方は居なかったわね。

 

 

「頼むよ、加賀。電探があれば道中で艦娘に出会う可能性も殆ど無くなるし、何より電探のチェックと気分転換が一緒に出来て、まさに一石二鳥だろ?」

 

「『執務』は本来、『休憩』と一緒に行うモノではないわ」

 

 

 畳みかけるように語り掛けられた提督の言葉を、即座に一刀両断する。せっかく長門と大淀が『執務』で押し通してきたのに、ここで『気分転換(それ)』を使うのは逆効果も良いところよ。何より、提督(あなた)が『執務』を疎かにしては駄目でしょうが。

 

 

 私の一刀両断に目に見えて焦り始める提督と、その姿を見て「あちゃー」と苦笑いを浮かべる長門と大淀。それに特に反応することなく、しばらくあれやこれやと口走る提督を見つめていたが、それも私が溢した深いため息によって断ち切られた。

 

 

 

 

 

 

 

「分かりました。行けば良いんですね?」

 

「本当か!?」

 

「本当です」

 

 

 観念したと肩を竦めながらそう言うと、パァッと顔を綻ばせる提督。そんな彼に、呆れた視線を向けながら彼の言葉を繰り返す。すると、提督は何故か安堵息を漏らす。そんなに行きたかったのかしら。

 

 

「二言は無いか?」

 

「『男』ではないけど、無いわ。後、話があるから」

 

「あい分かった」

 

 

 安心する提督の横から、したり顔の長門が問いかけてくる。もう、入ってくるまでの私たちのやり取りを聞いていたのは確実ね。それに応えつつ、色々と問い詰める時間を寄こせと釘を刺すと、長門は笑いをかみ殺しながら承諾した。『もし逃げたら只では済まない』、と付け加えておこうかしら。

 

 

 そう思うも、それはいきなり動き出した車椅子によって阻まれてしまった。

 

 

 

 

「よし、なら早速行くぞ!!」

 

「あぁ、任せておけ!!」

 

「帰投の報告は私に来るよう各旗艦に伝えておきますので、気にせず『執務』に精を出してください」

 

 

 威勢の良い二つの声、そして後ろから何処か間の抜けた声を背中に受けつつ、私たちは執務室を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 そんないまいちスッキリしない形で執務室を飛び出した私たちは今、長門が探知した駆逐艦が食堂に入ったのを確認し、再び提督が向かう目的地に向けて動き出している。相変わらず、無線では異様にテンションの高い二人が悪ふざけをしているのだが、その反面今まで艦娘たちに遭遇することはなく、問題なく進んでいる。

 

 

 強いて上げるとすれば、時折私に満面の笑みを向けてくる長門にイラっとするぐらい。特筆する必要もない。

 

 

 にしても、流石は新型電探ね。今まで使っていた電探よりも探知可能範囲と精度が格段に違う。まぁ、今まで使っていた電探が幾分か古い―――――初代の頃に開発されたモノが殆どだったからだけど。それでも、ここまで高い精度はなかなか無いわ。良い仕事してくれたじゃない。

 

 

 ただ、その分電探自体が大型のため駆逐艦などが装備出来ないのが難点らしいから、哨戒を主に行う駆逐艦用の電探も開発が必要ね。開発の指揮は長門に任せるとして、後は開発に必要な資材の確保か。午後はそれを踏まえて、今一度ローテ表のチェックになりそう。

 

 

 

 とまぁ、そんなことを考えている間に長かった廊下もようやく佳境に差し掛かり、あと少しすればこの棟から外に出られるところまで来ていた。

 

 

 

 

 そんな中、その角を曲がれば玄関へと続く場所で、今まで順調に進んでいた長門の足がいきなり止まった。その様子を遠くから見ていた提督は、何事かと無線機を口元に近付ける。

 

 

 

「こちら、提督。どうした?」

 

『……こちら、長門。玄関前にて艦娘一名を捕捉、体格からして……いや、声からして夕立だ。玄関前に立っており、今のところ動く気配は無い』

 

 

 提督の問いに、無線の向こうから苦虫を噛み潰したような長門の声が聞こえる。夕立って確か今日出撃じゃあ……あぁ、時間的に帰投していてもおかしくは無いか。と言うか、帰投を報告する無線が届いてないのだけど……と、これも大淀に向かうんだったわね。

 

 頭に浮かぶ疑問を一つ一つ処理する私の頭上で、「あぁ……」と提督が小さく呻き声を漏らした。そんなに落胆するほどのこと? 電探の性能も分かったことだし、もう隠れながら進む必要はない筈よ。

 

 

「普通に出て行けば良いでしょう?」

 

「いや……何か、ここまで来たら最後まで誰にも見つからずに行きたいじゃん? 所謂、『完全勝利』ってヤツ?」

 

『分かるぞ、提督。私も同じ気持ちだ』

 

「無線飛ばしてないのに何で聞こえてるのよ」

 

 

 悔しそうにそう言う提督と、何故か無線の先から聞こえる筈のない彼の言葉に同意する長門に突っ込みを入れ、何度目か忘れたため息を吐いた。まぁ、その気持ちは分からなくはないけど。

 

 

 

『相変わらず夕立は玄関前でキョロキョロと辺りを見回しているなぁ……ん、どうやら提督を探しているようだな』

 

「俺を探してる? 何でだ?」

 

『ん~……私も提督の名前が聞こえただけだからなぁ。如何せん、電探は居場所の特定は出来ても会話の傍受までは出来ないからな』

 

 

 先ほどまでのワザとらしい言葉遣いが抜けた二人の会話に突っ込むのも忘れ、いつの間にか私は顎に手を当てる。しばし、沈黙が流れるも、それは不意に私が無線を口元に近付けたことで破られた。

 

 

 

 

「確認なんだけど、夕立に見つかりたくないのは提督と長門、どっちなの?」

 

『え、あ、ど、どっちかぁ……』

 

「加賀だよ」

 

 

 私の問いに長門は言葉を濁す中、後ろの提督はハッキリとそう言い切った。その言葉に見上げると、今まで見たことのない真剣な顔つきで見下ろしてくる提督の顔が見えた。

 

 

「俺でも長門でもない、加賀だ」

 

 

 暫し、無言で見つめ合うと、念を押す様に提督が再び言い切った。それも、見つめる私から視線を逸らすことなく、臆する様子もなく。

 

 

「……つまり、私と一緒に居る提督と言う訳ね」

 

『そういうことだな』

 

 

 提督から視線を外しながらそう漏らすと、相変わらず聞こえないのに同調してくる長門。本当は会話も拾っているんじゃないの? まぁ、この際いいわ。

 

 

「となると、ここは『完全勝利』を諦めて『勝利』に、最低でも『戦術的勝利』に持ち込むことを考えるべきよ」

 

『なるほど、要は私を切り捨てると言うことか』

 

「えっ!?」

 

 

 私の言葉に、その意味を理解した長門は何故か楽しそうに、提督は驚愕の声を上げる。頭上から視線を感じるも、気付かないフリをしよう。

 

 

 

「別に長門で確定じゃないわ。夕立は提督を探しているのだから彼を切り捨てるのも、そしてこのまま夕立が立ち去るのを待つのもアリなんだから」

 

『バカを言え。言い出しっぺの提督、そして『勝利条件』であるお前が見つかってしまったら、それこそ『敗北』してしまうではないか。それに、私はお前に改まって話をすることもない、あるなら部屋に行く。わざわざ外に出てまで話をするほど、私も暇じゃないのでな』

 

「暇じゃないくせに、こうして『茶番』に付き合っているのはどういうことかしら?」

 

『『執務』は本来、『茶番』と一緒にするモノではないのだろ?』

 

「フッ……そうだったわね」

 

 

 無線を通して長門の声と共にドヤ顔が目に浮かび、思わず笑みを溢す。すると、無線の向こうでも同じように笑いが聞こえた。それを聞いて、私は視線を未だ固まっている提督に向ける。

 

 

 

「で、どうするの? 私は別にどちらでもいいのだけど」

 

「で、でも……」

 

『気にするな、提督。私の目的は電探を見せた時点で九割方完遂しているのだから、ここでどうなろうが『勝利』は揺るがん。むしろ、駆逐艦用の電探開発に夕立を引き込めるチャンスだ。申し訳ない(・・・・・)が、此処は私に『完全勝利()』を持たせてくれないか?』

 

 

 

 私の言葉に表情を曇らせる提督。そこに明るい声色で、暗に『自分を切り捨てろ』と催促する長門の言葉。やっぱり見せつけに来たんじゃない、と言う突っ込みを飲み込み提督を見る。ほんの少し唸った後、彼は無線を口元に近付けた。

 

 

「長門、確か玄関の前って結構広かったよな? 夕立を玄関口が見えない隅の方に誘導して、それが終わったら合図を頼む。そのタイミングは任せるし、こっちも玄関を抜けるタイミングも伝える。だから―――」

 

『そう細かく指示をしなくてもいい。要は、提督たちに気付かないように夕立の気を引けばいいのだろう? 心配するな、このビックセブンに任せておけ』

 

 

 何処か早口に説明する提督にゆったりとした口調で長門が窘める。そして、無線の先で自慢げに胸を張るその姿が浮かぶほど、彼女は仰々しく言い切った。その言葉に一瞬固まる提督であったが、すぐ苦笑いを溢して「頼む」と無線に語り掛ける。

 

 

「やーやー、夕立!! ちょうどいいところに居てくれた!!」

 

「長門さん!?」

 

 

 その直後、無線を通さない長門の声、正確には彼女の大声量が玄関前を含め廊下に響き渡り、その中で夕立の狼狽える声が聞こえた。と言うか、これ大丈夫なのかしら? 明らかにワザとらしいのだけど。取り敢えず、提督にお願いして先ほど長門が居た場所の手前まで移動しておく。

 

 

「少し、話をしないか? 何、ちょっと頼みたいことがあってな。それも、皆には内緒の事だ」

 

「内緒っぽい?」

 

 

 長門が発した『内緒』と言う言葉に、夕立が少し反応する。夕立のような年頃の子、特に駆逐艦は『内緒』や『秘密』と言った言葉に弱い。そのツボを突いたと言うわけだ。流石、駆逐艦に人気のビックセブンね。

 

 

「そう、内緒の話だ。ここでは人目を引く、少し場所を変えないか?」

 

「分かりましたっぽい!!」

 

 

 先ほどの大声量を出しておいてどの口が言うの、と突っ込みが出掛かるが何とか飲み込む。その後、何度か会話が続き、どうやら長門の言葉に夕立は食いついたようだ。後は、長門から合図を待つだけ。

 

 

『行け』

 

 

 そう思った直後、無線から出来る限り潜められた長門の声。それと同時に、車椅子を押す取っ手を掴んでいた提督の手に力が籠り、身体が勢いよく後ろに引っ張られる。

 

 その力に頭が後ろに引っ張られ、顔が真上を向く。すると、視界に映るのは私が身を預ける車椅子を押す提督の顔――――――――の、筈だった(・・・・)

 

 

 

 映ったのは、()の顔。

 

 

 七三分けになったダルグレー色の前髪が、そして頭の後ろで括られた髪が毛先につれて段々と細くなっていく―――――所謂、ポニーテールが風にあおられた様にフワリと浮いている。

 

 その胸元は真っ白な軍服ではなく、薄紅色の和服。肩には髪と同じ色のタスキ、その結び目がポニーテール同様フワリと浮いていた。

 

 

 しかし、次の瞬間、その顔は提督に変わる。

 

 

 ダルグレーの髪は提督の黒髪に、ポニーテルも薄紅色の和服もタスキも若干着崩れた真っ白な軍服に、一瞬にして変わってしまった。

 

 

 しかし、前髪(・・)だけは、七三分けになったその前髪だけは、提督になっても変わらなかった。

 

 

「――――さん」

 

 

 無意識の内に漏れた言葉。しかし、その返答が返ってくることは無かった。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「辿り着いたぁ……」

 

 

 そう声を漏らす提督は膝に手をつき、肩で息をしている。その姿を、彼の向かい側で私はじっと見つめ、そしておもむろに彼から視線を外した。

 

 

 先ず目に入ったのは、私の身の丈を優に超える赤レンガの壁だ。赤レンガの建物と言われれば、真っ先に思い浮かぶのは工廠だ。工廠に限らず、主に艤装などの整備を行い、そして出撃に備えて艤装を保管する建物だ。

 

 次は、足元のコンクリートで塗り固められた地面、そしてそれと境界をなる青々と広がる大海原だ。ここは艦娘たちの『演習』で利用される海とは違い、出撃または帰投する艦娘の安全のために近海一帯をぐるりとコンクリートの壁で囲まれている。そのおかげで、時化の影響も受けにくい穏やかな海だ。

 

 最後は、提督が肩で息をしながらフラフラと歩み寄り、大きく息を吐きながら腰を下ろしたドラム缶だ。海風に晒されて表面が錆び付いており、それが二、三個ほどが固まって置かれている。大きさが提督の腰辺りなので、彼が腰掛けるにはちょうどいい高さだ。

 

 そんな、工廠に近い建物が両脇を固め、足元はコンクリートが広がる。そして使えないモノとして放置されたであろうドラム缶が集まる場所。

 

 

 早い話、工廠へと続く道の途中、ぽっかりと空いた空き地だった。

 

 

「いいだろ? ここ。夕立が教えてくれたんだよ」

 

 

 ふと、そんな空き地を眺めている私に、汗を浮かべながら提督が話しかけてきた。『夕立が教えた』――――ね。()とは少し違うけど、まぁいいか。ともかく、今はこっちを聞かないと。

 

 

「それで、何でこんなところに連れてきたの?」

 

 

 ドラム缶に腰掛ける提督に、早速問いかける。彼は長門や大淀の手を借りてまで、私を引っ張ってきたのだ。やはり、それ相応の理由があるに違いない。そう踏んでいる。と言うか、理由が無ければそんなことしないだろう。

 

 案の定、提督は私の問いにすぐに答えることは無く、ただ小さな笑みを浮かべて視線を外した。言いにくいことなのかしら……まぁ、自分で言うのも何だけど私は取っつきにくい性格だし、それに執務前に彼を散々に言い含めてしまったから、仕方がないか。そう思い、私も提督が視線を向けるモノを見る。

 

 

 その先は、海。潮風に揺られ、海面は小さな白波が立つ、穏やかな海だ。それは見慣れた光景だ。何せ、出撃の度に、帰投する度にその海面を移動しているのだから。帰投する際にこの海面を滑ることが、無事に帰ってこれた証なのだから。でも、出撃じゃない日に、こんな間近で海を見たのは本当に久しぶりね。

 

 車椅子(こんな)格好だ。大淀のように、提督のように、そして執務室にやってきた旗艦たちのように、私の姿を見れば誰だって気を遣う。長門はそれを隠すのが上手いだけで、やはり気を遣ってくれている。それが申し訳なかったから、任務と食事以外では部屋に居るように努めた。

 

 

 いや、申し訳ないと言うか、その気遣いが『煩わしかった』のが大きいか。

 

 

 

 

 

「楽しかった?」

 

 

 ふと、そんな問いかけが聞こえた。声の方を向くと、いつの間にか海から私に視線を戻していた提督。彼は、真っ直ぐ私の顔に、親が子供を見るような、そんな優しい表情を向けている。

 

 

「は?」

 

「だから、楽しかった?」

 

 

 その言葉、そして向けられた表情に思わず声を漏らすと、提督は同じ問いを投げかける。それに、私は少しも隠すことなく不満を顔に浮かべた。

 

 

 『楽しかった』? 何が? 今この状況が、か?

 

 

 『休憩』と銘打たれて、理由もはっきりしないままなし崩しに外に連れ出され、くだらない『茶番』に付き合わされ、やっとのことでここにたどり着き、はぐらかされた理由を問いかけたら逆に脈絡のない問いかけられる、この状況のことか?

 

 

 もしそれらのことなら、私はこう言う。

 

 

 

「煩わしかったわ」

 

 

 

 彼が私を無理やり連れ出したのは、私が最近外に出たことはないと言ったからだ。

 

 

 彼が長門と共謀してくだらない『茶番』を繰り広げたのは、そして夕立に見つかりたくないのは誰か、と言う私の問いに彼が即答したのは、私が他の艦娘と鉢合わせするのを避けるためだ。

 

 

 彼が今までやってきたことが、私を『気遣う』ことだったからだ。そしてそれは、私にとって『煩わしい』ことだったから。

 

 

 

「……そっか」

 

 

 私の言葉に、提督はポツリと呟く。しかし、その表情は暗くない。ただ、少し眉を潜め、苦笑いを浮かべた程度だ。つい先ほど、執務室で彼の言葉を一刀両断した時とは明らかに違った。

 

 

 まるで、『予想通り』とでも言いたげに。

 

 

 

 

「でも、そうね。少しだけ(・・・・)、楽しかったわ」

 

 

 でも、その表情は次に私が発した言葉によって脆くも崩れ去った。『予想通り』と言う苦笑いが、『予想外』と言う呆けた表情に。

 

 

 

「確かに、貴方たちの『気遣い』にはそう感じたわ。でもそれ以外は、長門や大淀、そして貴方との執務室でのやり取りは、長門と貴方とのくだらない『茶番』は()。それらは、楽しかったわ」

 

 

 『報告書を持ってきた』と言う建前で電探を見せびらかしに来た長門。そんな長門の屁理屈をフォローし、微笑みながら容赦なく逃げ道を塞いできた大淀。そして、それらの発端でありながら長門や大淀のフォローを台無しにし、それを慌てて取り繕おうとした提督。

 

 

 そんな、三人とのやり取りは楽しかった。

 

 

 『電探の性能を確認する執務』と言う名目で先頭を切って進み、ありふれた報告をさも意味有り気に報告する長門。その報告に、ワザと顔をしかめたり、変な間を取ったりと存分に悪ノリする提督。そして、そんな二人に色々と突っ込みを入れたり、そして最終的には―――夕立の目を掻い潜らなければいけないとき、その『茶番』に乗っかってしまった私。

 

 

 そんな、三人(・・)で繰り広げた『茶番』は楽しかった。

 

 

 そして、今こうして出撃以外で外に出たことも、穏やかな海を眺めながらゆったりとした時間を過ごすのも、この場で提督と話をすることも。もしかしたら、もしかしたら楽しくなるかもしれない(・・・・・・・・・・・)

 

 

 彼が、私の問いに答えてくれたら。

 

 

 

「もう一度聞くわ。何でこんなところに連れてきたの?」

 

 

 もう一度、同じ問いを繰り返す。未だに呆けた顔の提督に視線を、顔を向けながら。()と同じように、親が子供を見るような、そんな優しい表情を。

 

 

 

 

 

 

「加賀を……楽しませたかった(・・・・・・・・)から」

 

 

 私の問いに、提督は呆けた顔のままそう零した。先ほどのように、視線を逸らすことは無く、未だ引き締まらない呆けた顔を私に向け、片時も逸らすことなく、そう言った。

 

 

「どういうことかしら?」

 

 

 その答えに、私は更に問いかけた。すると、彼は我に返ったのか、呆けた顔を引き締め、視線を逸らしてしまう。しかし、その視線も次の瞬間には私に向けられ、その表情は苦笑いに変わっていた。

 

 

 

「朝、加賀が言ってただろ? 艦娘たちの『役目』――――深海棲艦から人間を守る『役目』を果たさせることが、提督()の『役目』であり、『存在意義』だって」

 

 

「ええ、そうね」

 

 

 提督の問いに、特に口を挟むようなことでは無かったのですぐに同意する。すると、提督は小さく笑みを溢し、再び話を続けた。

 

 

「その通り、俺たち人間は深海棲艦を倒すことが出来ない、艦娘に守ってもらわなけりゃ生きていけない。だから、艦娘が代わりに戦う、艦娘に守ってもらう、艦娘に『安全』を貰っているんだ。じゃあ、その()は? 俺たち人間は、俺たちに『安全』を与えてくれる(・・・・・・)艦娘に、一体『何』を返せば(・・・)良いんだ?」

 

 

 そこで言葉を切った提督は、今まで浮かべていた苦笑いから、何かに縋る様な表情になった。それを向けられた私は、何故か何も答えることが出来なかった。

 

 

 『人間は何を艦娘に返せばいいのか』――――その疑問が、その発想が予想外過ぎたからだ。

 

 

「『何』をって……そんなものいらないわ。だって、それこそが艦娘()たちの『役目』じゃない」

 

「あぁ、そうだ。それが『役目』―――――それこそが艦娘たちの『義務』だ。そして、人間にはその『義務』を受けられる―――――艦娘に守られる『権利』がある。じゃあ、その『権利』ってのはどうすれば得られる(・・・・)? その『権利』を得るには艦娘たちに、俺たちを守る『義務』を果たしてくれる艦娘たちに返さないと、それ相応のモノをあげない(・・・・)といけないんじゃないのか?」

 

 

 提督の言いたいことは分かる。『義務』と『権利』と言う言葉だけを見れば、人間を守る『義務』がある艦娘は、私たちに守られる『権利』を持つ人間を守る。では、その『権利』とやらを得るために何が必要か、むしろ『義務』を果たす私たちに何を与えれば守ってもらえるのか(・・・・・・・・・)。そう、彼は言っているのだ。

 

 

 でも、それはあくまで『そういう言葉』とだけ捉えた場合。彼が言った『義務』は、そのまま私たちの『存在意義』だ。私たちは存在するため(・・・・・・)に、『人間を守る』が必要になる。だから、彼の言う『権利』が在ろうが無かろうが、そこに存在する人間(・・・・・・)は悉く『守る対象』だ。

 

 

 端的に言うと、彼の語るその『人間』は、外敵から守ってもらうため(・・・・・・・・)にそれ相応のモノを提供し『権利』を得る、そして大本営はそのお返し(・・・)として彼らを守る『義務』を負う、謂わば『共生するもの同士のギブアンドテイク』だ。

 

 そして、本来の関係(・・・・・)は、『人間』は外敵と戦うため(・・・・・・・)に必要なモノを用意する、そして大本営は用意されたモノを使って外敵と戦う、それだけ(・・・・)。それは『当たり前』のことであり、その間に損得勘定は存在しない。謂わば、私たちは『一個体の防衛本能』の一部分だ。

 

 

 それに、もし提督の言に従うにしても、既に(・・)その答えは出ているはずよ。何せ、提督や私、そしてここに所属する艦娘たちにも、()はその『権利』とやらを持っていたのだから。

 

 

「その答えも分かってる。その『権利』を持っている人間は――――『国民』はこの鎮守府を、大本営と言う軍事組織を維持し、運営するだけの『税金』や『物資』、『人材』を与えている。今、こうしてお前と話を出来るのも、鎮守府で過ごしているのも、提督として、沢山の手を借りながら鎮守府を回してるのも、元を辿れば『国民』が支えているからだ。だから、俺たちはそれに対する『義務』を果たす、『国民』を守る必要が出てくる。つまり、その権利を得るなら『国民』になればいい。『国民』であると、軍のために『税金』、『物資』、『人材』を、その中でいずれかを与えていると言い張ればいい(・・・・・・・)。そうすれば『国民』になって、そして『当たり前』のように守ってもらえる」

 

 

 そう、私たちは元を正せば『国民』だ。そして、大本営(私たち)は彼らからたくさんのモノを与えられている。それが、提督の考える『権利』を得るために必要なモノとすれば、それを受け取っている私たちは、本来の関係でも、そして彼の理論上でも『義務』を果たす必要がある。

 

 

 そして、それが人間たちにとっても、艦娘たちにとっても『当たり前』のことなのだから。

 

 

「だから俺たちは……いや、艦娘たちは『国民』を守らなければならない。例え、『税金』の大半を支払う者が一部に集中していようが。例え、『人材』の半数以上が召集と言う名(・・・・・・)の徴兵で引っ張ってこられた、その『義務』を果たさなきゃいけない艦娘だろうが。例え、――――――」

 

 

 そこで言葉を切った提督は、今まで私に向けていた顔を逸らした。それも、顔を隠すように額に手を当て、ワザとらしく項垂れて。

 

 

 

 

 

 

 

俺みたい(・・・・)に、『国民』じゃなくても」

 

 

 腹の底から絞り出すような、蚊の鳴くようなか細い声で、提督が呟いた。気を抜いていたら、聞き逃していたかもしれない、いや、提督が意図的にそう仕向けたであろうが、私の耳にはしっかり聞こえた。

 

 

「だから、俺は加賀に、此処に所属する全ての艦娘に、それ相応のモノを『あげなきゃいけない』んだよ。それは、俺は『国民』じゃなくてここで艦娘を率いて深海棲艦と戦う『提督』だから、実質的(・・・)に艦娘に守られているから。なら、その『お返し』をしなくちゃいけないだろ? いや、いけないとかそうじゃなくて……したい(・・・)んだ、俺は。守られている手前こんなことを言うのもアレだけど、お前の言葉を借りるなら『与えたい』んだよ」

 

 

 先ほどまでの雰囲気とは一変し、提督は早口(・・)でそう捲し立て、そして取り繕った(・・・・・)笑みを溢す。そして、あの時――――彼が夕立に日記と一緒に何かを渡したことを皮肉った言葉を、そちらに気を取らせるように(・・・・・・・・・・・・・)使ってきた。

 

 

「まぁ要するに、提督()の『役目』は、艦娘たちを率いて各々の『役目』を果たさせること。そして、自分を守ってくれる艦娘たちに、その『お返し』をすることだと思ってる。それで、俺は夕立に交換日記を提案して、そこに書かれていた『お願い』に応えた。そして、俺は加賀に少しでも『楽しかった』と思ってもらえるよう、こうして外に連れ出したんだ。勿論、贔屓(・・)にならないよう、所属する艦娘たち皆にやっていくつもりだが」

 

 

 そこで言葉を切った提督は、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべながら頬を掻く。その姿に、私は特に何も言い返すことなく、黙って見つめ続けた。

 

 

 勿論、彼の言葉が納得できなかったわけではない。少々『甘すぎる』気もするが、彼がそうする、いや『そうしたい』のであれば、私に止める義理は無い。そして、彼が『したい』と思っていることは、恐らく間違ってはいないだろう。そう、間違ってはいないのだ。

 

 

 

 

 

 その考え方自体(・・)は。

 

 

「一つ、『お願い』していいかしら?」

 

 

「あぁ、いいぞ」

 

 

 ポツリと、思いついたように提督に問いかけた。それに、提督は笑みを浮かべる。やはり、取り繕った笑みを。それを前にして、私はこれから彼に告げる『お願い』が的外れ(・・・)ではないかを確認した。

 

 

 それが、未だに腹の底で燻っている『何故、彼が私の出撃を頑なに認めなかったのか』と言う疑問を、彼が先ほど漏らした言葉を、そしてその二つから導き出された一つの『憶測』を、適切に伝えることが出来るのかを。

 

 

 

 

 

 

「提督は『国民』だったの?」

 

 

 確認が終わると同時に、そう『お願い』を、質問を投げかけた。すると、案の定、提督の表情が強張る。そして、次に不信感を顔に浮かべた。

 

 そうだろう。何せ、私は『お願い』と言っておきながら質問を投げかけたのだから。そして、彼はその答えを―――――『()、自分が提督だから』と答えているのだから。勿論、私はそれを分かった(・・・・)上で問いかけた。

 

 

 しかし、どうやら上手く伝わらなかったようだ。なら、もう少し分かりやすく(・・・・・・)しよう。

 

 

()、『国民』ではなかった貴方を守った艦娘がいたの?」

 

 

 再び、問いかけた。今度はストレートに、私が導き出した『憶測』を投げかけたのだ。

 

 

 すると、『憶測』通りと言うか、予想通りと言うか、彼の表情が凍り付いた。そして、その視線はすごい勢いで私から彼の足元に移る。気のせいか、彼の身体が微かに震えているように見えた。

 

 

 あぁ、やっぱりか。やっぱり彼も『同じ』だ。あの人(・・・)と『同じ』じゃないの。

 

 

 

「ごめんなさい、唐突過ぎたわね」

 

 

 私はそう言って、軽く頭を下げる。すると、視界の外で目の前の人物が安堵の息を吐くのが分かった。全く、ここで息を吐く所まで同じ(・・)じゃないの。なるほど、龍驤が彼を『捨てなかった』のも()なら頷けるわ。

 

 

 

 

過去の(こういう)話は、先ず私から(・・・)するべきよね」

 

 

 そう言って、頭を上げる。すると、やはり提督は表情を凍らせていた。ごめんなさいね、私は龍驤ほど、『甘く』は無いの。

 

 

 

 

 

 

「私が車椅子(こんな)姿になったのは、赤城さ――――――いえ、赤城型航空母艦1番艦、赤城が轟沈したからです」



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『鞘』の役目

 私は昔から人の一歩先(・・・)を行く存在だった。

 

 

 一を聞いてに十を知り、口を開けば弁論者も舌を巻く論を紡ぎ、弓を取れば全射命中、竹刀を取れば男だろうが叩きのめす。師と仰いで3日と持った存在はおらず、指揮を執れば予想以上の結果を残すのは当たり前。そして、周りの人には決して見えない存在である妖精たち(・・・・)と意思疎通を出来た等々。

 

 

 とにかく、その殆どに於いて、私は周りの存在から抜きん出ていた。横に並ぶ人も、前を進む人もおらず、むしろ周りは積極的に私の後ろに回り続け、それは(砂糖)に群がる蟻の大群のようにどこまで伸びて行った。

 

 そんな彼らに、私は担ぎ出された。

 

 私の後ろを大勢の人がつき従い、こびへつらう様に頭を垂れる。耳当たりの良い言葉を吐き続け、時には私の代わりに『牽制』と言う名の『侮蔑』を振りまいた。

 

 それを誰かが『虎の威を借る狐』だと罵ると、それを標的として大人数で叩き潰す。そしてまた『侮蔑』を振りまく。そのサイクルが繰り返されるほど、『侮蔑』はエスカレートしていった。酷い時には、流言を用いて自らの前を行く人を蹴落とし、私に近付こうとする人さえ居た。

 

 その状況に、私はさして何もしなかった。特に理由もないが、強いて言えばそれを止める理由(・・)が無かったからだ。

 

 私に敵対する者は居ない、周りが勝手に担ぎ上げ、勝手に争い、勝手に傷付いている。それも有り難いこと(・・・・・・)に、彼らは私にその火の粉がかからないように細心の注意を払ってくれた。

 

 更に、私が通った道を彼らは奪い合い、傷つけ合い、蹴落とし合い、私の真後ろ(・・・)に居座ろうとする。そして、私の後ろに居ると言う事実を、または私の名前(・・)を使って周りを蔑んだ。

 

 つまり、彼らが欲したのは『私の後ろ』と言う盾と『勝手に付与した価値』と言う矛であり、それを持つ私と言う器を望む者は居なかった。私がどうなろうとその二つだけを提供していれば、彼らは満足するのだ。

 

 例えるなら、私は鞘。どれほど煌びやかな宝石で装飾されていようと価値があるのは宝石だけで、それが埋め込まれた鞘自体に価値は無い。仮に鞘自体に価値があったとしても、所詮は鞘。装飾の宝石や中身の刃には勝てるはずもない。

 

 しかし、逆に言えば鞘も宝石を奪い合う人たちを気に留める必要もないと言える。宝石さえ差し出せば、後は蚊帳の外に行けるのだ。出来ることと言えば、宝石をなるべく遠くに投げてそれを奪い合う喧騒から遠ざかるぐらいか。

 

 私自身、その程度にしか考えていなかった。だから、こちらからそれを止めに行く気もなく、ただ放っておいた。

 

 

 何より、それこそが私にとっての『普通』だったからだ。

 

 

 やがて、深海棲艦が出現し、世界は恐怖に包まれた。

 

 幸い、私の故郷は内陸部だったため直接被害に遭ったわけではない。しかし、代わりにやってきたのは『噂』だ。

 

 深海棲艦に通常兵器が通用しない、深海棲艦一体で軍の一個師団が壊滅した、海に面している町は悉く襲われ夥しい数の人間が犠牲になった、新たな召集が来る、その召集は女子供関係なく徴兵される、そして召集されれば生きて帰ってこれない、召集されなくても深海棲艦は陸上でも活動でき、近い内に内陸部も襲われる等々。

 

 

 今となってはその殆どが大げさであると言い切れるようなことも、その情報しか知らない私たちにとって『事実』に映り、皆が恐怖した。

 

 

 そして、そこに希望と言える噂――――『艦娘』の存在が現れ、そして大本営から正式にその存在と艦娘の適性、そしてその素質を持つ存在の大規模な招集が発表された。

 

 

 次の日、私は大本営に『志願』した。召集ではなく、志願だ。その理由は、『見返り』。家族に対する多額の補償金であったり、村に対する一年間の免税であったりと、様々な補償を貰えるのだ。それを得るために、私は志願した。

 

 

 いや、もっと直接的なのは、今までつき従ってきた人々から乞われたからだ。

 

 

『村のために、志願してくれないか?』

 

 

 大本営の発表があったその日の夜、私の前に伏す大勢の中で村長が懇願してきた。と言うのも、私は艦娘の素質――――妖精と意思疎通が出来ることを隠さなかったため、村長を含めた村人全員が知っていたからだ。

 

 

 その理由は、『村を救うため』。深海棲艦の出現からそう経ってないものの、戦闘の全てにおいて敗北を繰り返してきた分増税や物資の徴収が度々行われ、私の故郷は困窮している。このままでは深海棲艦に襲われる前に滅んでしまう、と。そう、一回りも二回りも年下の私に、村長が頭を下げたのだ。

 

 

 その周りに居た人々も同じように頭を下げている。それは村長同様、『村を救ってくれ』と。

 

 『まさにこの時のためにその才能をもって生まれてきた』のだと、『人類を救う救世主になって欲しい』、『君なら必ず艦娘になってくれる』、『歴史に名を残す艦娘となる』、『その才能を使うには、艦娘になるしかない』、『艦娘になって、深海棲艦の脅威から人類を守って欲しい』、『私たち(・・・)を守って欲しい』等々。

 

 

 しかし、その声色に村長程の切望は無い。ある人は懇願する『ポーズ』をしていた。そう、彼らは思っているのだ。

 

 自分たちが懇願すれば、私は動いてくれる、と。『私に付与された価値()』を使えば、それを使って迫れば()でさえも動かせる、と。つまり、彼らは()を切り捨てたのだ。

 

 

 それに対し、私は「村が救われるのなら」と承諾した。大部分は、『切り捨てられたからこっちも切り捨てた』だが、それでも村が救われることは変わりない。それで丸く収まるのなら良いではないか、そう言って難色を示していた両親を説得し、私は志願した。

 

 

 軍に志願し、艦娘の適性検査を受け、私は『加賀型航空母艦一番艦 加賀』となった。その結果を言い渡した軍属の医師は、名誉なことだと褒めてくれた。

 

 

 しかし、軍事知識に疎かった私はいまいちピンと来ず、訓練の合間にどんな戦艦であったのかを調べた。

 

 

 戦艦として建造されるも途中で空母に改装された経緯を持ち、場合によってはあの戦艦長門をも越える超弩級戦艦になるかもしれなかった。就役後、数々の死線を潜り抜け、最強と謳われた『第一航空戦隊』の片翼を担い、戦争の常識をひっくり返す大戦果を挙げた。そして、その沈没と共に『敗戦』へと向かっていく。そんな、武勲艦も武勲艦だと知った。

 

 

 その戦歴に、私は親近感を抱いた。常に上を走り続け、それに見合う戦果を挙げ続けた『加賀』に。そのおかげか艤装とのシンクロもスムーズにいき、ここでも周りを差し置いて抜きんでてしまった。

 

 

 しかし、一つだけ。一つだけ、『加賀』と違う点が、私には無かった(・・・・・)点があった。

 

 

 

「加賀、相変わらず凄いですねぇ……」

 

 

 訓練の後に渡された結果を、次に私の結果を覗き込んで肩を落とす『赤城型航空母艦一番艦 赤城』、その名を冠した赤城さんの存在だ。

 

 

 その名は、『加賀』を調べていく内に嫌と言う程目にした名前。それも加賀が片翼を担った『一航戦』のもう片翼、そして『一航戦(それ)』を率いた旗艦だ。或る意味、『加賀()』よりも上に居て、ずっと一番上(・・・)を走り続けた存在だ。そして、その名を冠した彼女は、お世辞にもその名が相応しいとは言えない、いわば『平凡な人』だった。

 

 

 訓練の結果も平々凡々で尖った能力もない。私がどんどん抜きん出ても、彼女は周りの子達と同列にいて、抜きん出ることも抜かれることも無かった。そのくせ、『一航戦』と言うことで私は赤城さんと同じペアとなり、訓練所生活の殆どを一緒に過ごすことを余儀なくされる。

 

 

 それはつまり、私と彼女を比較する目に晒されることと意味する。事実、上官たちはその目を向けてきたし、周りの子たちも少なからずそうだっただろう。

 

 私は思った。この人も、私の後ろに回り込むだろう、と。あの人たちと同じように、『私の後ろ()』と『私に付与された価値()』としか見ないだろう、と。

 

 

 

 でも、彼女は回り込まなかった。むしろ、劣等感の象徴である私に『師事』を仰いできたのだ。

 

 

 

 はじめ、私はその言葉に戸惑った。何せ、今までの『普通』とは違ったからだ。その衝撃に、思わず彼女に理由を聞いてしまった。

 

 

 私からすれば、それは『屈辱』だ。何せ、恥を忍んで『劣等感』の象徴に師事を仰ぎ、それから『何故?』、『理由が分からない』と、その人物に「お前など眼中にない」と言われたのだからだ。

 

 

 しかし、赤城さんは私の質問に、怒りもせず、黙せず、ただ当たり前(・・・・)のようにこう言った。 

 

 

 

「そんなの、貴女の隣に居たいからですよ」

 

 

 その言葉に、私の思考は止まった。今まで前に、上に立ち続けた私の『普通』が、今までの『常識』が通用しなかったから。そんな私に、彼女は更に言葉を紡いだ。

 

 

 

「確かに、私は貴女を率いた『赤城型航空母艦一番艦 赤城』です。でも、それは()の私でしょ? ()の私は『赤城』と言うただの艦娘、『一航戦旗艦、赤城』じゃないんです。そして、貴方も前の私に率いられた『加賀型航空母艦一番艦 加賀』じゃなくて、『加賀』と言う艦娘。それも周りから一目置かれる優秀な艦娘です。自分より優秀な人に師事を仰ぐことに、何か問題でも?」

 

 

 彼女はそこで言葉を切って覗き込んでくるも、未だに止まっている私にそれに応えることは出来なかった。

 

 

「なーんて言っても、『一航戦』の肩書がいらないってわけじゃないですよ? むしろ『一航戦』を背負うために、貴方(・・)と一緒に背負うためにお願いしてるんです。『一航戦旗艦(貴女の上)』ではなく『一航戦(貴女の隣)』に居たいんです。駄目ですか?」

 

 

 覗き込んでくる赤城さんの言葉に、私はようやく理解した。そして、同時に胸の奥がキュッと締め付けられる感覚に襲われた。

 

 

 私は今まで誰かの前に、上に立ち続けた。それが己が望む望まないに限らず、常に走り続けた。それ故に、誰かが前に、上にいることが無かった。それが、『普通』だと思っていた。

 

 でも、目の前の人物は、私の隣に立ちたいと言った。後ろに回り込むのではなく、かと言って私の前に、上に立つのではない。私の隣に。誰も立とうと、近づこうとすらしなかった場所に立ちたいと言っているのだ。

 

 彼女は私の『普通』を――――――『常識』をひっくり返したのだ。戦争のそれをひっくり返した、『一航戦』のように。いともたやすく、当たり前のように。

 

 

 その時、私は悟った。

 

 

 彼女ほど、『赤城』の名に相応しい人はいないだろう、と。そして私も、彼女の()に居たい、と。貴女の隣にいることが、『当たり前』になればいい、と。

 

 

 赤城さん()の隣に必ずいる、『鞘』になりたい、と。

 

 

 その後、彼女はメキメキと実力を上げた。上官や周りの艦娘たちも目を丸くする程、その成長は素晴らしいモノだった。その速さに私も何度か追い抜かれたが、そこは『隣に居たい』と言う想いと今まで人の上に立ち続けた意地ですぐに追い抜いたり、それに触発された赤城さんが追い抜き、また私が追い抜くことを繰り返した。

 

 

 巷では、『伝説の一航戦。再び』なんて騒がれたと知った時、互いに目を見合って噴き出したのはいい思い出だ。

 

 そして、訓練が完了し、私たちは正式な艦娘として二人揃って鎮守府に配属されることとなった。

 

 上官から二人一緒に配属されると言われた時、赤城さんは子供のように手を叩いて喜び、私も彼女の見えない所でガッツポーズをした。これからも一緒に居られる、一緒に活躍できると。新しい『一航戦』として、華々しいデビューを飾れると。期待に胸を膨らませ、配属される鎮守府へと向かった。

 

 

 

 そう、初代の(あの)鎮守府に。

 

 

 

「『一航戦』……あぁ、あの海戦(・・・・)でズタボロにされて、『敗北』を決定付けた負け犬(・・・)か」

 

 

 提督に挨拶した時、彼の口から飛び出した言葉。その言葉に、私と赤城さんは目を丸くしている。驕っているのを承知で言うと、誰もが羨む『一航戦』を手に入れたのに、それを喜ぶどころか『負け犬』と蔑んだのだから。

 

 

「違ったか? 甘すぎる見通しと敵の過小評価、そして己を過信する『慢心』であっけなく沈み、軍の名に泥を塗った愚かで傲慢な兵器(・・)。その代名詞と言える『一航戦(それ)』を、よく口に出来るな」

 

「ッ」

 

 目を丸くする私たちに、提督は蔑むような視線と更なる暴言を吐き出す。それに、思わず前に出ようとした私を、横の赤城さんが制止した。

 

 

 

「……提督のおっしゃる通り、『一航戦』はあの海戦で『慢心』と共に沈みました。しかし、私たちは()ではなく艦娘(・・)です、艦娘の『一航戦』です。艦の『一航戦』と全く違わないとは言いませんが、私たちはまだ沈んでいません。いえ、むしろ沈みません。あの時のような『慢心』を捨て、常に戦況を冷静に見つめ、必ずや勝利を掴みます。艦の『一航戦』のように……いえ、それ以上の戦果を提督にお見せしましょう」

 

 

 そう、赤城さんは力強く言い切った。その言葉、その姿は、今まで見たことが無い。赤城さん(・・・・)ではない、『一航戦旗艦の赤城』の姿が見えた。

 

 

 その言葉に、提督は初めて視線を私たちに向けてくる。その視線に、私は少しだけ悪寒を感じた。

 

 

 何故なら、その視線は『殺意』を孕んでいたから。提督が向けてくるとは思えない、まるで敵に向けるような純粋な殺意だったからだ。

 

 

「下がれ」

 

 

 暫しの沈黙の後、提督がそう声を漏らした。その言葉に、赤城さんは素早く敬礼し、私を引き連れて執務室を出て行った。

 

 

 それが、私と初代とのファーストコンタクトであり、それこそが『地獄』の始まりだった。

 

 

 出撃の度に罵られ、暴力を振られ、ロクな補給も入渠もさせてもらえないのは当たり前。勿論、伽もやった。思い出したくもない、虫唾が走る記憶だ。

 

 

 いや、私はまだ空母だったから良かった。空母は他の艦よりも攻撃手段が多いために火力が高く、且つ遠距離戦闘なので被弾する確率も低い。更に、中破すれば攻撃も出来なくなる。それらの要因があったため、私は周りよりも比較的入渠や補給にありつく機会が多かった。そのおかげで戦果も上げられ、伽をすることもあまりなかった。

 

 

 だけど、赤城さんは違った。何故なら、出撃する度に中破して帰ってきたからだ。そして、その罰として出撃するごとに伽を強いられていた。

 

 

 提督自身も、そんな赤城さんに容赦が無かった。

 

 

 毎回のように配属当初の言葉を上げ、それを理由に罵った。それが『一航戦』かと、あの時の言葉はその程度の価値だったのかと。拳と蹴りの雨を。

 

 

 その度に、私は彼に抗議した。赤城さんと一緒に出撃させてくれ、と。私たちは二人で『一航戦』、『一航戦』を罵りたいなら、先ず私たちを一緒に出撃させてから言え、と。私たちは『刃と鞘』だと。

 

 

 しかし、その返答は「消費資材がかかるから」とその拳であった。しかし、しつこく言い続けた結果、一度だけ赤城さんと出撃できる機会を得た。

 

 

 それは南西諸島海域の一つ、東部オリョール海の攻略作戦だ。その作戦に私たち『一航戦』と戦艦2隻、そして駆逐艦2隻の編成で向かった。

 

 

 その作戦で、私は大破した。駆逐艦を守ろうとした赤城さんを庇ったためだ。しかも、無傷(ただ)の駆逐艦ではない。

 

 補給も入渠もさせてもらえず、攻撃や牽制ではなくただ敵の攻撃から身を持って(・・・・・)私たちを守るため、被弾率を下げるためだけに編成された艦――――――所謂『捨て艦』だ。それも、まさに役目を果たそうとしていた駆逐艦を。

 

 その時の赤城さんの動きに迷いが無かった。まるで、『いつもやっている』ようにその子を庇ったのだ。砲弾とその子の間に滑り込み、両手を広げた。それが、彼女が出撃の度に傷付いて帰ってくる理由(わけ)だった。そこに、私が滑り込めたのは本当に奇跡と言って良いだろう。

 

 結果、私たちは大破2隻、中破1隻、小破3隻と言う大損害ながらも勝利した。その時、私は意識を失っていて、鎮守府に帰投後すぐに入渠された。

 

 次に私が目を覚ましたのは、入渠から2日が経った自室のベットの上だった。

 

 

 同時に、昨日(・・)赤城さんが轟沈したと知った。

 

 

 私が入渠された後、赤城さんは次の海域、沖ノ島海域の偵察部隊として出撃した。そして、そこで駆逐艦を庇い、轟沈した。そして、その後庇った駆逐艦も轟沈してしまった、と。

 

 

 それも、提督の口(・・・・)から。

 

 

「残念だったな」

 

 

 その報告をした後、彼はただそれだけ言った。そして、私の部屋を立ち去った。

 

 

 

 その直後から、私の記憶はすっぽり抜け落ちている。ただ、全身に電流が走ったような感覚の後、両脚(・・)の感覚が消えたことだけは覚えている。

 

 

 発見された私は自室の床に倒れていたらしい。部屋は砲撃された様に何もかもが滅茶苦茶になっており、そして私の手の甲や脚、額は血で真っ赤に染まっていたと聞いている。

 

 

 再び記憶が戻ったのはまたもやベットの上。しかしそこは自室ではなく、隼鷹の部屋だ。

 

 

「加賀さん!!」

 

 

 目を覚ました私に気付いた隼鷹は大声を上げて詰め寄る。彼女から私が自室で倒れたこと、あの日から丸1日寝ていたこと、そして目を覚ましたら執務室に来るするよう、提督から言われていることを知った。

 

 

 彼女から話を聞く間、私は痛みに耐えていた。それは胸の奥を締め付けられる痛み。これはあの時と、赤城さんに師事をお願いされた時とはまるで違う。

 

 

 心臓を握り潰そうとするかのような、むしろ既に心臓が潰されたような。泣き叫びながらその場にのたうち回り、血反吐を吐き散らす方がよっぽどマシだと思うような、そんな激痛(・・)だ。

 

 

 赤城さんが沈んでしまった。私が唯一、本気で、その隣に居たいと願った。その隣が、消えてしまった。それも、私が居ない間に。私が眠りこけている間に。

 

 私が居れば、私が隣に居れば守れた。あの時のように身を挺して守れた、身を捨てて守れた、『鞘の役目』を果たせた。

 

 

 なのに、私は居なかった。いられなかった。いることが『当たり前』になれなかった。『普通』になれなかった。鞘になれなかった。刃を守れなかった。

 

 

 

 そんな考えで満たされた私を、隼鷹は手を持って引き上げた。茫然としている私を、提督の元に引っ張っていこうと思ったのだろう。でも、その時、私は違和感を感じた。

 

 

 

 

「脚が……無い」

 

 

 その違和感に気付いたとき、ポツリと漏らしていた。その言葉に、隼鷹はすぐさま血相を変えて私の身体を調べ始めた。

 

 脚は確かに付いている。傍から見たら何の変哲もない。が、『感覚』がないのだ。感覚が無いため、動くこと出来ない。

 

 

 そう判断した時、私はどうすればいいか分からなかった。隼鷹もどうすればいいのか分からず、ただ私を見つめるだけであった。

 

 

 そこに、何の前触れもなく提督が現れた。私の様子を見に来たであろう。一人の駆逐艦を侍らせ、その手に私の艤装(・・・・)を持たせて。

 

 

「着けてみろ」

 

 彼はそう言った。その言葉に、私も隼鷹も意味が分からず、ただ茫然とした。しかし、侍らせていた駆逐艦がその言葉と共に私に近付き、茫然とする私に艤装を装着させた。

 

 

 その瞬間、何故か脚の感覚が蘇った。

 

「立ってみろ」

 

 艤装を装着した私の表情が変わったことを見て、提督は更にそう言った。すると、隼鷹は提督を睨む。当たり前だ、先ほど足の感覚が無いことを知ったばかりで、今の私がそのショックに打ちひしがれていると思っているからだ。

 

 しかし、その顔も私が立ち上がった瞬間、呆気に取られた顔に変わる。対して、提督は特に反応もせず、ただこう告げた。

 

 

「選択肢をやろう」

 

 その言葉に、私と隼鷹は提督の顔を見て、提督が侍らせていた駆逐艦は下を向いた。その二つの視線を受けながら、彼は更に続ける。

 

 

 

「このまま解体されるか、それとも出撃するか。選べ」

 

 

 提督の言葉。それに、私はその意味を理解するのに頭を働かせて、隼鷹はそんな提督に掴み掛った。

 

「馬鹿な事抜かしてんじゃねぇぞ!! そんな……そんなクソみたいなことより先ず言うことがあるだろが!! 加賀さんに!! 加賀さんと赤城さんに謝―――」

 

「黙れ」

 

 掴み掛った隼鷹を、提督はただ一言で黙らせた。いや、彼がそう言った瞬間、駆逐艦が隼鷹を突き飛ばしたのだ。床の上で痛みに呻いている隼鷹を意に返さず、提督は私に視線を向けてきた。

 

 それでも、私は未だに彼の言葉の意味が理解できなかった。

 

 

「言葉を変えよう、艦娘(・・)の『一航戦』に泥を塗ったまま放置するか、その泥を(そそ)ぐか。選べ」

 

 

 再び、提督がそう言った。その言葉を受けて、私は理解した。

 

 

 要するに、彼は私に『戦う』か『戦わない』かを選べと言っているのだ。戦うのであれば出撃させよう、戦わぬのであれば解体しよう。そう言っているのだ。

 

 それは、私に『艦娘の一航戦』の名を、赤城さんの『死』を背負うか背負わないのか、どうする。そう言っているのだ。

 

 そしてそれはつまり、私はまだ戦える(・・・)と言っているのだ。 

 

 

「私は戦えるの……?」

 

「今の自分を見て判断しろ」

 

 確証を得るため、私は彼に問いかけると、彼はそう吐き捨てて視線を逸らした。それが、私には『肯定』に見えた。

 

 

 

「出撃します」

 

 そう悟った瞬間、私はハッキリと言った。その言葉に、提督は視線を私に戻す。

 

「出撃します。数えきれないほど出撃して、夥しい数の敵を倒して、頭一つ二つ、それ以上に抜きん出た戦果を上げて、『艦娘の一航戦』の名を背負います。背負い続けて、その名を世に知らしめます」

 

 ここでそれを蹴れば、私自身は助かる。しかし、それは赤城さんが守り続けたモノを捨てることだ。彼女が身を捨ててまで守った駆逐艦も、既にいない。残されたのは、私と『艦娘の一航戦』の名だけ。

 

 ならば、私はそれを守る鞘になろう。本来、鞘は刃を守るモノだ。脚が動かない(こんな)私でも、『艦娘の一航戦()』を守ることは出来よう。むしろそれしか出来ないのであれば、それを全力で守るのみだ。

 

 

「そうか」

 

 彼はそう言い、私に背を向けて出て行く。その後ろ姿を前に、私の身体は動いていた。

 

 

 腰の艤装を展開し、そこから弓を出現させ、それを持つ手を前に、片手は矢筒より矢を一つ摘み、それを弓の弦に番え、上体を使ってゆっくりと引く。

 

 

 その狙いは、今、目の前で私に背を向ける()―――――提督に向けて、弓を引いたのだ。

 

 

 赤城さんが沈んだのは駆逐艦を守ってだ。私が庇った時も、その前も、その前も、出撃の度に傷付いていたのは、駆逐艦を庇い続けたのだ。だが、駆逐艦を守らなくてはいけなくなったのは何故だ。それは彼女が出撃の度に駆逐艦が大破していたからだ、大破したまま進撃したからだ。

 

 では、誰が続けた? いや、誰が続けさせた(・・・)? それは旗艦だ。しかし、進撃と撤退の判断は違う。必ず、提督に判断を仰ぎ、その指示に従う。要するにこの男が進撃をさせたのだ。

 

 

 この男が赤城さんを殺したのだ。

 

 

 そして、この男は先ほど言った。『艦娘の一航戦の名に泥を塗ったまま放置する』と。なら、その泥を塗ったのは誰だ? 決まっている、赤城さんだ。彼は、赤城さんが死んでも守ろうとしたことを、それ自体が守ろうとしたものに泥を塗ったと言ったのだ。

 

 

 つまり、この男は赤城さんを殺し、あまつさえ彼女が命を賭けたモノを、その行いを貶したのだ。

 

 

 そして、私は鞘。刃を守る者、その役目を全うするために、()が出来る。鞘であろうと敵を殴ることが、そのまま命を奪うことが出来る。敵を滅することが出来る。敵を傷付けることが出来る。

 

 

 

 『赤城さん()』を守るためなら、この男()を滅するぐらい……。

 

 

 

 しかし、すぐに私は提督に向けていた弓を下ろす。下ろしながら深い息を吐き下を向いた。

 

 今、此処で提督を殺せば、『提督殺し』の汚名を()ごと刃が被ってしまう。それこそ本末転倒だ。そして、それは赤城さんの『死』で泥を塗ったと罵ったこの男と同族になってしまうではないか。ただの鞘であろうと、鞘は鞘だ。埋め込まれる宝石を選ぶ権利はある筈だ。

 

 

 『提督殺し(そんな宝石)』、死んでもごめんだ。

 

 

 今は戦果を上げ続け、『艦娘の一航戦』の名を知らしめる。そうすれば、提督もあの言葉を撤回するだろう。いや、撤回させる。赤城さんとの出撃を承諾させたように、同じように彼を動かす。『艦娘の一航戦()』を持って、提督を動かすのだ。

 

 だから、それまでこの矢を放つわけにはいかない。この矢は、今ここでその頭を突き穿つのではなく、いつの日か頭を垂れるその顔に恐怖を植え付けるモノだ。

 

 そう自身を落ち着かせつつ、私は立ち去るであろう彼の背中に目を向ける。

 

 

 そこには、彼の背中を守る様に駆逐艦が涙を浮かべながら(・・・・・・・・)立ちはだかっていた。

 

 

 提督が出て行った。それを見て、私は手にしていた弓と矢を戻し、艤装の展開を解いた。それを見た駆逐艦は黙って私に近付いてくる。私はベットに腰掛け、私の艤装に手を掛ける彼女に身を預けた。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 艤装を外した時、駆逐艦は小声でそう言った。その声は震えており、今にも泣き出しそうな、か細い声だった。その言葉に私は思わずその顔を見て、そして悟った。

 

 

 この子も、何か(・・)を背負っていると。

 

 

 私がその感覚から我に返る頃には、彼女は私の艤装と共に部屋を出た後だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「それが、私が戦う理由よ」

 

 

 そう言って、私は長い息を吐きながら目を開けた。私の前には一人の男が立っている。

 

 

 大きく見開いた目を伏せ、口を固く結び、頬を引きつらせ、肩を震わせている。ダラリと垂れた腕の先、その手は固く結ばれ、これも震えている。ギリッ、と、歯を食いしばる音が聞こえた。その姿を見て、私は苦笑いを彼に向ける。

 

 

 

「何で貴方が怒っているのよ」

 

「だって……だってよぉ!!」

 

 

 私の言葉に、彼はそう言って固く結んだ拳を傍の壁に叩き付けた。小さくはない鈍い音が何度も(・・・)響く。その音は少しずつ水気を孕んでいくが、その顔には一切の苦痛が見えない。

 

 

 

「今度は貴方の番よ」

 

 

 だから、その手を止めた。こんな脚じゃ、その手を止めれない。だから、そう言った。それが、彼にとって苦痛よりもツライことだと知っていながら。

 

 

 予想通り、彼は壁に打ち据えたために血が流れる手を止め、先ほどの視線――――――泣きそうな目を私に向けてくる。それを見て、私はただ微笑む。

 

 

「私は過去を話した。思い出したくもない、忌々しい記憶を。それを聞いて、まさか貴方は言わないなんてこと、無いわよね?」

 

 

 そんな彼に、とどめ(・・・)を刺す。その言葉に、彼の目が一瞬光ったように見えたが、その光が何であったからは何となく分かった。こんな卑怯(・・)な手を使うなんて、『艦娘の一航戦』に泥を塗っちゃったかもしれない。

 

 ごめんなさい、赤城さん。貴女が守ろうとした『艦娘の一航戦(モノ)』、少しだけ汚してしまった。背負い込むとか言ったくせに、こうも簡単に汚してしまった。拭えるのは何時になるだろうか、これじゃ、赤城さんに向ける顔が無い。

 

 

 でも、許して欲しい。今回は、今回だけ(・・・・)はどうか許して欲しい。

 

 

 何でかって? それは、一緒だったから。彼と――――――今の私の提督と、貴女(・・)が。いや、正確にはあの時の表情(・・)が。

 

 

 

 私が貴女を庇った時に私に向けてきた表情(それ)が、今目の前の彼が浮かべる『泣きそうな』表情が一緒だったから。

 

 

 

 

「…………俺は」

 

 

 そして、彼は語り出した。

 

 

 

 

「艦娘に……母さん(・・・)に助けられたんだ」



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『息子』の役目

今話の中盤に、人体破損描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 『母さん』――――俺の母親は、何処にでもいる普通の母親だ。そして、そんな母さんと息子である俺は2人で海にほど近い村で暮らしていた。

 

 

 もう一人の家族である父さんは離婚や死別したわけではなく、職業柄転勤が多く俺や母さんを振り回すのは酷だと言うことで単身赴任をしているだけ。毎月生活費を振り込んでくれるし、頻繁に連絡も取っている。更に行事ごとには必ず見に来てくれたし、そうでなくても月一で顔を合わせていたからそこまで寂しくは無かった。

 

 

 そんな父さんは俺や母さんが暮らす場所を、自分の『帰ってくる場所』を作ったのだ。勿論、顔を合わせれば目一杯に甘えさせてくれたし、たくさん話をして、そして笑わせてくれた。普段会えない分、沢山の愛情を、父親の『暖かさ』をくれた。

 

 

 そんな『帰ってくる場所』を父さんの代わりに守り続けて、父さんの分も俺に愛情を注いでくれたのは母さんだ。

 

 

 『帰ってくる場所(そこ)』に帰ってくる俺を、同じ姿で、同じ表情で、同じ言葉で、当たり前のように返してくれる。温かい飯を、温かい風呂を、温かい布団を、それら全てをひっくるめた『暖かさ』で、いつも包み込んでくれた。

 

 

 しかし、その『暖かさ』は時と場合によって様々に移り変わる。

 

 

 嬉しいとき、怒った時、泣いた時、楽しい時―――家族である俺は、母さんが見せる様々な『暖かさ』を見た。怒った時は『暖かさ』と言うより『冷たい』、むしろそれすら感じられない程であったが、それでも最後にはちゃんと『暖かさ』をくれた。

 

 

 そんな『暖かさ』に包まれた、俺は育った。同時に、俺も出来うる限りの『暖かさ』を二人に向けた。すると、二人はそれ以上の『暖かさ』を返し、それに俺も答える。そんな、極々普通の家族だった。

 

 

 普通ではない点を上げるとすれば、母さんは幼い頃から妖精と言葉を交わすことが出来、息子である俺は妖精を目視出来たことぐらいだ。

 

 その件に関して、周りに知られたくないと言う母さんの言葉に、あまり人前で触れないようにしていたから周りから変な目で見られることは無かった。家族の中で唯一妖精を見れない父さんは気味悪がることも無く、むしろ俺たちを通して妖精たちとのコミュニケーションを図る人だったので、あまり気を遣わなくて済んだ。

 

 

 極々普通の家族として、俺は育った。そんな生活の中で、俺は一度だけ母さんに反発したことがある。

 

 

 

 それは、母さんが俺を怒る際に必ず『理由』を聞いてきたことだ。

 

 

 勿論、『理由』の内容によって説教が帳消しになるわけではなく、ただ『説教』の度合いが変わるだけ。酷い時には拳骨からの夕飯抜きとかあったし、一番優しくても長時間の『お話し』だ。更に、あっちから手を出したからやり返したとか、母さんの目の前で大事していたモノを壊されたとか、その場の状況を見るだけで『理由(それ)』が分かってしまう時でも、母さんは必ず聞いてきた。

 

 小さい頃は、「何で分かり切っていることを改めて聞くの?」、「聞かなくたって、目の前で見ていたでしょ?」なんて思った。実際、言うのを渋ったせいで『説教』の度合いが酷くなった時もあったから、それ自体が理不尽にさえ映る時もあった。

 

 息子びいきならぬ他人びいきと言うその接し方に不満を抱きつつも、素直に答えた。勿論、怒られたくない一心で、と言った面もあったが、一番は最後には必ず「暖かさ」を向けてくれる、と思っていたからかもしれない。だから素直になれたと思う。

 

 

 そして時が過ぎ、ある程度自分で感情をコントロール出来るようになったとき、母さんが昔話をするかのように教えてくれた。

 

 

 人が行動を起こす一番の原動力は何か。それは「理由」だ。

 

 

 自分を守るため、誰かを守るため、認めてもらうため、人を受け入れるため、理不尽な環境から脱却するため、よりよい生活を送るため、理想を追い求めるため、真実を暴くため、好き勝手に、自由に、気楽に、楽しく、幸せに生きていくためなどなど、何か行動を起こす人には必ず「理由」が、原動力が、自らが導き出したただ一つの答え(・・・・・・・)がある筈だ。

 

 もしかすると、それは傍から見れば無謀に、滑稽に、理不尽に、馬鹿らしく見えるかもしれない。命を賭けてやろうとしていることが周りから見ればどうでもいいことに、気にも留められない「当たり前」のことかもしれない。しかし、どんな「理由」であれ、その人(・・・)にとっては何よりも代えがたい重要なモノであり、それを馬鹿にされようものなら、自らの命すらも顧みずに迫ってくるだろう。当たり前だ、それを否定することは、即ち彼ら彼女らにとって『最大限の侮辱』になるのだから。

 

 

 だから、人の失敗を、「失敗」と言う『結果』だけ見て笑ってはいけない。人の『背中』だけを見て笑ってはいけない。人の『立ち位置』だけを見てはいけない。

 

 その「失敗」に至るまでの『過程』を見なければならない。その人が浮かべている『表情』を見なければならない。そこに立つまでの『足跡』を見なければならない。

 

 

 それら全ての原点となった『理由』を見なければならない。それこそが『人』と向き合うことであると、そう教えてくれた。

 

 

 その言葉を聞いたとき、俺はその全てを理解しようとしなかった。何故なら、「それが出来たら苦労しない」と切り捨てたからだ。

 

 

 先ず、「理由」なんてそう簡単に人に話せるモノじゃない。或る程度の信頼を持たないと話せないし、価値観の違いでそれが「押し付け」になりかねない。だから、より多くの人が納得する正論や数に物を言わせた多数決を用いたり、詭弁や屁理屈で時間を稼いだりと、様々な手段で自らの意見を押し通す。時には暴力に訴えかけ、恐怖によって従わさせることもあるのだ。

 

 それに、そんなことをしなくても人は向き合っていける。相手の顔色を窺い、耳当たりの良い言葉を吐けば、それで円滑に回ってしまうのだ。なにも、そんな茨の道に進むよりもそっちの方が楽なら、誰だってそれを選ぶだろう。

 

 

 だから、「そんな夢見がちなこと……」と言ってしまった。すぐさま『怒られる』と身構えるも、返ってきたのは「いつか、分かる時が来る」と言う言葉と、何処か寂しそうな苦笑いだけ。後日、その言葉を父さんに言ったら、母さん同様苦笑いを溢すだけだった。

 

 

 

 やがて、深海棲艦が出現し始め、それに対抗するために大本営から艦娘における大々的な発表がされた。

 

 艦娘がどのような存在であるか、と言う説明と、素質のある女性の条件、対象者に向けた志願の呼びかけ、そして近々大規模な招集があることなどだ。その発表に俺と父さんは母さんの身を案じ――――と言うか、その発表を目にした母さんの身体が小刻みに震えていたのを見た俺が無理やり連絡を取って家族会議を開いたのだ。

 

 そこで俺と父さんは、母さんが素質を持っていると自分たちが口外しなければ無理矢理引っ張り出されることもなく、安定した生活のために志願の見返りに多額の給付金を得る必要もないとして、周りにバレるまでは何とか隠し通すことになった。これが村に、そして国に背く行為だって分かってる。しかし、深海棲艦との戦闘に悉く敗北している、その殆どが壊滅や全滅している現状で、その最前線に大事な肉親を送り出せるかと問われれば、俺と父さんは「NO」だ。

 

 

 でも、母さんは違った。

 

 

 

 

 

「志願させてください」

 

 

 その一言に、初めは聞き間違いかと思った。しかし、同じような顔で母さんを見つめる父さん、そして俺たちに見つめられるながら、頭を下げている母さんの姿に、それが現実であると理解させられた。父さんは俺よりも先に我に返り、その理由を聞く。

 

 

「……これと言って、理由はありません(・・・・・・・・)。ただ、私が行きたいんです。行かなきゃいけないんです。()と同じように、遅れないように、残されないように、一人にならないように、早く、真っ先に、一番最初に行かないといけないんです」

 

 

 その言葉に、俺や父さんは口を挟めなかった。納得したわけじゃない。何を言ってるんだ、考え直せ、と言いたかった。でも、出来なかった。何故なら、それ以降母さんは壊れた人形のようにずっと同じことを繰り返し続けたからだ。ただ「行きたい」と「行きなきゃいけない」を発し続ける機械のように見えてしまった。それが、母さんではない別の存在(・・・・)に見えたから。

 

 

 そこに、『暖かさ』が無かったから。

 

 

 翌日、母さんはいきなり自分が艦娘の素質があることを暴露した。家族の中でひた隠しにしていた、何よりも母さん自身が『知られたくない』と言っていた事実を自分から曝け出したのだ。そして今まで隠していたことを詫びた上で一年間の免税を確約すると言い、村人に頭を下げた。

 

 その言葉に、村の皆は諸手を上げて喜んだ。元々、誰にでも好かれる性格だった母さんだったからかもしれないし、彼女が志願することで受けられる見返りを受けられると言う思惑があったからかもしれない。その中でも、村長は人目もはばからず涙を流していたのは、今でも印象に残っている。

 

 母さんの暴挙に、俺と父さんは村人に知られてしまった、母さんが行くと言っている、ここで引き留めれば確実に不興を買う、と言う理由から、母さんを引き留めることが出来なくなってしまった。

 

 

 結局、母さんはその日のうちに身支度を整え、家を後にした。まるで旅行に行くかのようなパンパンの荷物を抱え、残していく俺と父さんに頭を下げた。その姿を何も言えない俺たちを尻目に、母さんは踵を返して行ってしまった。その間、一度もこちらを振り返らず、且つ後ろ髪に引かれることも無く、ただ、淡々と俺たちから遠ざかっていった。

 

 

 その後ろ姿に、俺は悟った。

 

 

 母さんが母さんでなくなったこと、別の存在になってしまったこと、『艦娘』と言う存在になってしまったことを。

 

 

 その後、俺はその村に住み続けた。いつも通り、今まで通り、母さんが居る(・・・・・・)ように、そこに住み続けた。父さんから、自分の元に来ないか、と言ってくれた。でも、俺はそれを断った。それが我が儘だと分かっていたけど、断った。

 

 何故なら、此処が俺にとっての『帰ってくる場所』だから。母さんが居て、母さんが守ってきた場所だから。何より、母さん自身(・・・・・・)が『帰ってくる場所』だから。そう言って、断った。

 

 

 いや、違う。そんなモノじゃ、そんな尤もらしい理由(・・)じゃない。そう、むしろ俺はそれを、母さんが志願した『理由』が知りたいのだ。

 

 

 あの時、いきなり志願したいと言い、その翌日にいきなり隠していたことを暴露し、自分が志願せざる負えない状況を自ら作り出した、その暴挙に至った『理由』を。自ら『理由がない』と言ったくせに、何故そこまでのことをしたのか、その原動力となったのは、そう考えに至った『理由』を知りたいのだ。

 

 だって、それが『人』と向き合うことだから。そう、母さんが教えてくれたから。それこそが、『艦娘(母さん)』と『人』を結び付ける唯一の方法だと、そう思ったから。

 

 

 そんな俺を、村人は声をかけてくれた。「最近どうだ」とか、「大丈夫だ」とか、どれもこれも俺を心配する言葉だ。特に、村長は毎日のように家に来ては、「大丈夫」、「心配するな」、「必ず帰ってくる」と言ってきた。その言葉に俺は曖昧に笑い、「大丈夫ですよ」と同じ言葉を返す日々が続いた。

 

 

 

 

 

 母さんが志願して数か月が経った時、突然母さんが帰ってきた。

 

 

 それを知ったのは、誰も居ない筈の家に明かりが灯っていたのを見た時。それを見た瞬間、身体が全力で走り出し、ドアを蹴り破るが如く開けて玄関に転がり込んだ時。

 

 

 

「おかえり」

 

 

 転がり込んだ瞬間、久しぶりに聞いた母さんの声を聞いた時だ。

 

 

 その時、母さんは台所で夕飯を作っていた。転がり込んできた俺を、同じ姿で、同じ表情で、同じ言葉で、今まで通り(・・・・・)、当たり前のように返してくれたのだ。

 

 そこに、ちゃんと『暖かさ』があったのだ。

 

 

 その後、久しぶりに『二人』の食事をする中で、俺は母さんからいきなり帰ってきた理由を聞いた。それによると、予定していた訓練が早く終わり時間的余裕が出来たため、大本営側から希望者のみの帰郷を許可したとのことだった。話はそこから、訓練期間に起こった出来事、仲良くなった艦娘など、逆に俺は村での出来事、よく声をかけてくるようになった村長や村人の話など、たわいもない話に花を咲かせた。

 

 そして、大体のことが話し終わった時、俺は今まで抱えていた質問をぶつけた。

 

 

「母さんが志願した理由って、何?」

 

 

 その言葉をぶつけた時、母さんの顔が一瞬強張った。しかし、それも『笑顔』に変わった。それは間違いなく『笑顔』だった。誰がどう見ても、不満も不安も後悔も垣間見えない、完璧な『笑顔』だった。でも、俺はそれが『笑顔』に思えなかった。

 

 だって、『暖かさ』が感じられなかったから。

 

「言ったじゃない、『行きたかった』からって」

 

 母さんはそう言った。『笑顔』で、『暖かさ』を感じさせないまま、そう言った。分かってる、『行きたかった(それ)』も立派な『理由』だ。でも、あの時、母さんは言った。『理由は無い』と、そう言った。つまり、母さん自身が、それを『理由ではない』と否定したのだ。

 

 それなら理由は、『本当の理由』は何か。それ以外にあった、むしろそれに至った『本当の理由』は何なのか、何故『行きたかった』(・・・・・・・・・・)のか、それが知りたかった。

 

 

 しかし、それは叶わなかった。突然、雷鳴が真横に落ちた様な凄まじい音が、それと同時に尋常ではない揺れが俺たちを襲ったからだ。

 

 

 突然のことに硬直する俺を、母さんが机の下に引っ張り込む。引っ張り込まれた瞬間、今まで座っていた場所に本棚が倒れ、けたたましい音と共に揺れが襲った。しかし、それもすぐに止んだ。止んだことで母さんは机から這い出し、今なお呆けている俺を引っ張り出された。

 

 

 しかしその手が、俺を引っ張り出す母さんの手が止まった。それにようやく頭が追い付いた俺は母さんを見上げる。

 

 

 母さんは目を見開き、口を少しだけ開けた、『唖然』とした表情である一点を見つめていた。その視線の先に、俺も目を向ける。

 

 

 その先にあったのは大きな火柱を上げて燃える家。次の瞬間、その隣の家に黒いモノ―――――大きな砲弾が飛び込み、燃え上がる炎と同時に先ほどよりも大きな音と衝撃が襲ってきた。

 

 

 その光景に、俺は何も言えなかった。それと同時に、頭上からガリッと言う歯を食いしばる音が聞こえた。次の瞬間、掴まれていた感覚が消え、視界に一房の黒髪が映った。

 

 

 

「母さん!!」

 

 

 俺が叫ぶと同時に、母さんは走り出していた。居間を抜け、廊下を抜け、玄関にたどり着く。そこには母さんが帰ってきた時に持ってきた荷物が置いてある。母さんはそれを勢いよく開き、中から不揃いなモノを引っ張り出した。

 

 

 薄紅色の上着に紺色の袴、白い長靴下とタスキ、薬指と小指が覆われていない手袋、身の丈以上の大きな弓、数本の矢が残る矢筒など、一見すれば弓道で用いられる一式だ。だが、次に出てきたのは煙突が付いた金属の塊に厚底の下駄、そして何より、飛行機が離着陸する滑走路のような形をした細長い板状のモノだ。

 

 

「母さ―――」

 

 

「楓」

 

 

 今しがた引っ張り出した一式に着替える母さんは俺の声を遮り、そのままこちらを振り向かずにこう言った。

 

 

 

「絶対に、海に近付いちゃ駄目だからね」

 

 

 その言葉と共に、母さんは衣類以外の一式を持って家を飛び出した。その後ろ姿を、俺はただ見つめた。今しがた母さんが残した言葉の意味を受け止め、咀嚼し、理解するために、時間がかかった。そして、ようやく落とし込めた。

 

 

 その瞬間、俺は家を飛び出していた。

 

 

 辺りは一面火の海だった。そこかしこの家から炎が上がり、同時に悲鳴が聞こえる。そして何より、一定間隔で感じる地響きと共に起こる爆発と火柱。それは、まさに地獄だった。

 

 

 その中で俺は見た。遥か遠く、燃え上がる村の向こうに広がる大海原。そこに、無数の『黒い何か』が蠢いているのを。

 

 

「ふざけんなぁあ!!」

 

 突然叫び声が聞こえた。その方を見ると、瓦礫の前に居る女性が見える。しかも、彼女は目の前にある瓦礫から飛び出た人の腕らしきものを引っ張っていた。

 

 

 

「手伝います!!」

 

 

 俺はそう吠えながら女性の元に駆け寄った。突然現れた俺にその子は一瞬驚くも、俺が発した言葉、そして駆け寄った俺が腕が飛び出る瓦礫の下に潜りこんで上に押し上げたことで、彼女はすぐさま腕を引っ張り始めた。

 

 

 だが、それもすぐに終わった。彼女が腕を引っ張り出したからだ。そう、腕だけ(・・・)を。

 

 

 

 

「いやぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!」

 

 

 女性の絶叫が鼓膜を叩いた。それと同時に、俺は彼女が引っ張り出したモノを見て、胃の中のモノが込み上げてくる。しかし、すぐに動くと瓦礫が崩れ、自分や女性が巻き込まれてしまう。その思いだけで込み上げてきたモノを無理やり飲み込み、押し上げていた瓦礫が崩れない様ゆっくりと降ろした。

 

 

 瓦礫の重みが消えた瞬間、限界だった。すぐに誰も居ない方を向き、ぶちまけた。つい先ほど、食卓の上に並んでいたモノが、若干の形を残したモノを地面目掛けまき散らす。全てを吐き出したおかげで少しだけ楽なった時、後ろから声が聞こえた。

 

 

 

 

 

「何で、助けてくれなかった(・・・・・・・・・)の」

 

 

 その言葉の意味を理解できなかった。だって俺は手を貸した、彼女を『助けた』のだ。しかし、彼女の口調は、まるで見捨てた(・・・・)ように聞こえた。だから、その声の方を向いた。その瞬間、胸倉を掴まれた。

 

 

 

「何で艦娘(・・)は助けてくれなかったの!! 艦娘は私たちを守るのが役目でしょうが!! なのに、なのにアイツは!! アンタの母親は見捨てたの!! 気付いたくせに見て見ぬフリしたの!! 私たちを見捨てたのよ!! 何で、何で見捨てたのよ!! 何で助けてくれないのよォ!!」

 

 

 鬼のような形相。そうとしか言えない女性の剣幕。それに気圧された俺は何も言えずに、ただその言葉を受け続けた。やがて、彼女の罵詈雑言は問いに変わり、胸倉を掴んでいた手から力が抜けていく。その姿に、俺は思わずこう言ってしまった。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 そう言った瞬間、胸倉を掴んでいた手に再び力が籠り、勢いよく引っ張られた。

 

 

 

「謝るぐらいなら助けなさいよォ!!」

 

 

 その言葉と共に、俺は彼女の手によって瓦礫とは反対側に投げ捨てられる。地面に叩き付けられるも、すぐに投げ捨てた女性を見た。彼女は腕を抱え、身体を震わせている。その瞬間、彼女の悲鳴のような泣き声が響き渡った。

 

 

 その姿を見た瞬間、俺の身体はとうに動いていた。すぐに立ち上がり、全力で走り出したのだ。一刻も早く、この場を離れるために。

 

 

 

 その後、俺は周りを見ずに走り続けた。途中、いろいろな声が聞こえた。悲鳴に絶叫、泣き声に怒号、罵声に助けを求める声など、色々だ。

 

 

 俺はそれら全てから目を背けた。また、あの女性のようなことになるからだ。俺じゃあ答えようのない問いをされ、責められ、泣きつかれる。反応は様々かもしれないが、その根本にあるのは艦娘に――――母さんに向けられた『憎悪』だから。それを『艦娘の子供』と言うだけで容赦なく向けられ、それをどうにかできる術を持っていないからだ。

 

 だから、俺はその術を持つ人物を―――――母さんを必死に探した。そして、見つけた。

 

 

 そこは村の漁船が停泊する小さな港。そこで見つけた。先ほど引っ張り出したモノ全てを身に付けて、深海棲艦と戦う存在、俺たち人間を助ける艦娘、そう呼ばれる母さんを。

 

 

 

 

 

 

 鬼のような形相を向ける村中の人間に囲まれた母さんを。

 

 

 

 

「早く、早く行けよ!!」

 

 

 母さんを囲む一人が、怒号を投げつける。それに続けとばかりに叫び声が上がる。それら全てを投げかけられる母さんは反論することなく、俯きながら歩を進めている。その先にあるのは海だ。そして海には先ほど見えた黒い何かが、到底生き物とは思えない異形の姿をした生物が―――――深海棲艦が居た。

 

 

 そして悟った。母さんはたった一人であそこに、海を覆いつくさんばかりに展開する深海棲艦の群れに飛び込もうとしているのだと。

 

 

 

「何してんだ!!」

 

 

 そう悟った瞬間、俺はそう叫んでいた。その声に周りの人間、そして今まさに海に足を付けようとしていた母さんがこちらを向く。こちらを向いた母さんの顔が歪むのが見えた。『笑顔』ではない、『泣き顔』に。だけど、今の俺はただ母さんの元に辿り着くことしか考えられなかった。

 

 

 

「『艦娘』の息子か」

 

 

 そんな声が聞こえたからだ。

 

 

 

「お前ら!! 何させようとしてんのか分かってんのか!!」

 

 

「分かっているも何も、これが『艦娘』の役目だろうが」

 

 

 俺の言葉に、人ごみの一人がそう言った。それも、まるで『当たり前』のことを言う様に。その言葉に、その顔に、その姿に、一気に血が昇った。

 

 

 

「『艦娘』の役目……これが? あんな大量の深海棲艦の中に、たった一人で突っ込むことが? 母さん(艦娘)の役目だと? ふざけんなよ……艦娘は人間(俺たち)を助けるのが役目だ。あんな……あんなとこに一人で突っ込んだらどうなる!! 確実に死んじまうだろうが!! お前らはそれが役目だって言うのかよ!! 『死ぬこと』が役目だって言うのかよォ!!」

 

「楓くん!!」

 

 怒鳴り声を上げながら飛び掛かろうとする俺を、村長が押さえつける。俺はその手を逃れようと暴れまくるが、初老に差し掛かった人とは思えないほど強い力で村長が押さえつけてくるために動けない。そんな中、周りの一人が俺にこう言ってきた。

 

 

 

 

 

「なら、死んだ(・・・)娘を返せよ」

 

 

 その一言。それだけで、情けないことに俺の動きは止まってしまった。さっきと一緒だ、俺ではどうしようもない『憎悪』を向けられたから。そして、今しがた自分が言った言葉が、致命傷(・・・)になったと分かったから。

 

 

 

「言ったよな? 艦娘は俺たちを『助ける』のが役目だと。なら、何で娘は死んだ? 深海棲艦の砲撃を諸に喰らったからだ。なら、何で深海棲艦は砲撃してきた? アイツらを止める奴が居なかったからだ。なら、誰がアイツらを止めるんだ? 『艦娘』だろ? 『艦娘』が止めるんだろ? 『艦娘』が俺達を、娘を助けるんだろ? 助けてくれる筈だろ? なのに、なのに娘は死んだ!! 俺の目の前で!! 木っ端みじんに吹き飛んじまった!! 何でか分かるか!! 何で吹き飛んじまったかお前に分かるか!? 『艦娘』が助けなかったからだよ!!」

 

 

 男の怒号に一瞬の静寂が、その次に現れたのは、同じような怒号の数々だ。

 

 

 娘を、息子を、妻を、夫を、祖父を、祖母など、近しい人の死を挙げ、その全責任が『艦娘』にあると高らかに叫んだ。ここに来るまでに出会った女性も、近しい人を失ったのだろう。つまり、そこに挙げられた人たち以外にも多くの人が死んだ。

 

 そして、その原因は艦娘に―――――今ここに居る母さんにあると言うのだ。『艦娘(母さん)』のせいで死んだのだと言うのだ。

 

 

 そこで俺が、『艦娘』の息子が何を喚こうが、彼らにとって意味は無い。まして、俺がどれだけ母さんが『死ぬかもしれない』と叫ぼうが、既に近しい人が『死んだ』彼らにとって、ただ俺が自分たちと同じ同類になるだけだ。ただ、『それだけ』なのだ。

 

 

 今の俺に、艦娘(母さん)を守る力なんか無いのだ。

 

 

 

 

「もう、いいですか」

 

 

 そんな喧騒を抑えたのは、母さんだった。俺や周りの人間たちがその方を見ると、こちらに背を向けて立っている母さんが居た。それも俺たちが立つコンクリートの上ではなく、海面に佇んでいた。

 

 

「先ほど言った通り、もうすぐ迎撃艦隊が来ます。彼女たちが来るまでアイツらを引き付けますから、その間に出来るだけ遠くへ、出来るだけ海から遠ざかってください。道中、派手なモノの傍を通らないように。目立つ分だけ砲撃の的です。それだけ注意すれば大丈夫です。そして……」

 

 その言葉に、『感情』は無かった。まるで、母さんが志願したいと言った時に、「行きたい」と「行きなきゃならない」と言い続けていた時、母さんが母さんでなくなった時、その時と丸っきり一緒だったから。

 

 

 だけど、それは言葉を切ると同時にこちらを振り向いた母さんを見て、それは間違いだと気づいた。

 

 

 大粒の涙を溜め、肩を小刻みに震わせ、唇を噛み締めながらも『笑顔』を浮かべていたから。そして何より、そこに『暖かさ』を感じたから。

 

 

 

 

「息子を、よろしくお願いします」

 

 

 そう言った。そう言って、母さんは前に向き直った。その瞬間、モーターのような機械音が聞こえ、同時に母さんの身体が前に動き出す。それはすぐにトップスピードになり、母さんは瞬く間に大海原へと飛び出した。その向こうに待ち構える、深海棲艦()に目掛けて。

 

 

 

「かあさぁん!!」

 

 

 そう叫び、その後ろ姿に手を伸ばした。しかし、その手が届くことは無い。代わりに、村長が飛び出そうとした俺の身体を抱き留める。その腕から逃れようともがくも、その手から逃れることは出来ない。次々と新しい手が伸びてきて、俺の身体を掴むからだ。

 

 

 その手に引きずられ、俺は港から遠ざかる。同時に、大海原へと進む母さんの背中が小さくなっていく。それでも、俺は手を伸ばし続けた。それが届かないと分かっていても、絶えず手を伸ばし続けた。

 

 

 やがて、薄紅色の豆粒となった母さんに、同じく豆粒のような黒い塊たちが群がっていくのが見えた。次に小さくはない砲撃音が鼓膜を叩き、薄紅色の豆粒の周りに複数の水柱が上がる。それでも、薄紅色の豆粒は確かに見えた。

 

 

 しかし、次の瞬間、海面ではないモノに当たった爆発音が聞こえた。同時に、薄紅色の豆粒から小さくはない火柱が上がる。

 

 その瞬間、立て続けに同じ(・・)音が聞こえ、それに合わせるように火花が上がった。やがて、薄紅色の豆粒の周りは無数の水柱と火花で一杯になる。

 

 

 それら全てが収まった時、今の今までそこに居た、確かにあった薄紅色の豆粒は、忽然と姿を消した。

 

 

 それ以降、どれだけ見回しても、目を皿のようにしても、二度と目にすることはなかった。

 

 

 その後の記憶は曖昧でよく思い出せない。ただ、引っ張られるがままに連れて行かれ、村を抜けた山の中にある避難所に辿り着いたことだけは覚えている。そこに、俺たち以外に逃げてきた人も居て、その中に先ほどの女性が居たのは微かに覚えている。

 

 

「楓くん……」

 

 

 俺の耳に、村長の声が聞こえる。しかし、その言葉に俺は反応しない。俺はただ黙って膝を抱え、そこに顔を埋めた。周りを見ないように、無理矢理視界を真っ黒にしたのだ。そうでもしないと、自分を抑えられなかったから。

 

 すぐ横に、一緒に港から逃げてきた人たちが、母さんを『死』に追いやった奴らがいる。母さんの姿が消えてから、奴らは静かになった。静かになった今も、時々俺に視線を向けてくる。それがたまらなく嫌だった。それを見ただけで、奴らに殴りかかるかもしれなかった。

 

 でも、奴らの理由も分かりたくはないが、分からなくてはならない。むしろ、そうしないと俺自身が納得出来ない。母さんの『死』を、俺の中で落とし込むことが出来ないから。

 

 

 だから、顔を伏せた。誰も見ないように、誰も責めないように、『誰のせい』でもないと思い込むために。『仕方が無かった』と言い聞かせるために。母さんの『死』を無駄にしないように。

 

 

 

 

「失礼します」

 

 

 そこに、場違いな程凛とした力強い声が聞こえた。その声に、俺は奴らを極力見ないように顔を上げた。

 

 

 そこに居たのは、ピンク色の髪をポニーテールでまとめ、黒を基調とした制服を着た少女だった。しかし、その視線は鋭く、只者ではない雰囲気を醸し出している。

 

 

 

「迎撃部隊の旗艦、陽炎型駆逐艦2番艦、不知火です。今回、襲撃した深海棲艦は全て不知火たち迎撃部隊が排除しました。そして、只今を持って貴方たちの身柄は不知火たちが預かります」

 

 

 そう言って、不知火と名乗った少女は軽く頭を下げる。それに、周りの人間の殆どは安堵の息を漏らした。そんな中、村長が進み出る。

 

 

「村まで送り届けてもらえるんですか?」

 

「いいえ。貴方たちは、これより大本営が指定する地域に移動してもらいます」

 

 

 村長の問いに不知火は淡々とした口調でそう返し、懐から何やら紙を取り出した。その姿に、周りの人間は『安全な場所に行ける』と考えただろう。何せ、深海棲艦の被害を受けたのだ。深海棲艦に襲撃されたここは危険地帯、そこに住んでいた自分たちは『被害者』として軍が提供する避難地域に行き、そこで軍に守られて安全に暮らせると、そう思っただろう。

 

 

 

 

 

 

 

「先ずは東京で裁判(・・)です。その後、男性はここから少し離れた大規模農園に、女性は大本営直属の病院に送還(・・)します。そこで最低5年の奉仕活動に従事してもらいます」

 

 

 紙を読み上げる不知火。その言葉の意味を、初めは誰も理解出来なかった。誰もが目を丸くし、誰もが口を開け、誰もが信じられないようなものを見る目で不知火を見た。いや、その中で、村長だけ(・・・・)は表情を強張らせていた。

 

 

「何で裁判になるんだよ? 俺たちは被害者だろ? 深海棲艦に襲われて、家族を殺された被害者だろ? 何で裁判なんか―――」

 

 

「貴方たちが『犯罪者』だからです。罪状はここに」

 

 

 怒号を上げて掴み掛ろうとする男を、不知火は一睨みで黙らせる。その後、彼女は今しがた目を通していた書類を俺たちに見せた。

 

 

 それは逮捕状。容疑者のところに俺たちの村の名前が書かれており、罪状は『数年に渡る脱税』と記されていた。

 

 

「脱税ってどういうことだよ? 俺はちゃんと払ったぞ? 役所に行って、更新もして、届けでも出した。確かに出した!! なのに、何で脱税になるんだよ!!」

 

 

「弁論は審議の場でお願いします。不知火たちは貴方方を『罪人』として連行し、その後に各地の施設に送還するよう言われただけですので」

 

 

「そんな無茶苦茶な話があるか!!」

 

 

 不知火の言葉に、その場にいた人間から色々な声が上がる。怒号に悲鳴、泣き声も混じっている。その場に居る全ての人間が叫んでいた。いや、『二人』は違った。不知火と、他の人々の中で項垂れる村長と、その姿をただ黙って見つめる俺だ。

 

 

 

 

「確か、税金を国に納めるのって……村長(・・)の仕事だよな?」

 

 

 

 そんな喧騒の中、一人の男がそう溢した。すると、あれだけ騒いでいた声がピタリと止み、その場にある視線が一人の人物―――――今なお俯いたまま黙り込んでいる村長に集まる。

 

 

 ほんの数秒の静寂。それは人によっては数時間のようにも思えただろう。そして、その静寂を破ったのは、合点が付いたように手を叩いた不知火の言葉であった。

 

 

 

「つまり、『貴方たちが納めた税を村長()が横領した』、と言うことですか」

 

 

 その言葉に、村長がビクッと身を震わせる。その反応に、周りの人間の視線が鋭くなる。しかし、誰も動く者は無かった。それは、村長の口から否定の言葉が出ることを期待していたのかもしれない。彼が否定すれば、それで『無罪』だと言い張れるかもしれない。そう思ったのかもしれない。

 

 

 しかし、それ以降、村長は何も言わない。ただ身を震わせ、固く目を閉じ、俯いたままだ。唸り声も上げず、歯を食い縛るのみ。

 

 

 

 それが『肯定』を表していると、その場に居る全員の目に映った。

 

 

 

 

「ふっざけんな!!」

 

 

 一人の男がそう言って村長に掴み掛り、数秒遅れて周りの人間たちも村長に掴み掛った。その数はドンドン増えていき、それに比例するように拳や蹴りが村長目掛けて振り下ろされる。しかし、村長は黙ったままで、それら全てを受け入れた。その姿が、まるで罪を受け入れるかの様に映り、ますます雨が激しくなる。

 

 

 しかし、その雨は一瞬にして止まった。

 

 

 

 

 

「集団暴行は罪に問われますよ」

 

 

 そう冷たく言い放った不知火が、村長に掴み掛る連中に向けて砲門を向けたからだ。

 

 

 その言葉に、掴み掛っていた連中は拳を止め、ボロ雑巾のようになった村長は力なく床に倒れた。掴み掛っていた連中が離れた後も砲門を向けていた不知火であったが、誰も襲わないと確信したのか砲門を下ろし、床に倒れる村長に近付いた。

 

 

「納税の拒否は国への反逆行為です。まして深海棲艦と戦闘が激化するこのご時勢、その罪は一層重くなります。何故、脱税を?」

 

 

「…………を、守る、ため……」

 

 

 不知火の問いに、村長は途切れ途切れでそう言った。その声はか細く、最初の方が聞き取れない。しかし、それを適当に解釈したらしき男がこう吐き捨てた。

 

 

 

 

「『自分』を守るため、かよ」

 

 

「『お前ら』を守るためだよォ!!」

 

 

 男の言葉に、今まで虫の息だった筈の村長からとんでもない怒号が飛び出した。今まで聞いたことないような、血と唾をまき散らしながら、獣のような咆哮だった。

 

 

 

「深海棲艦による襲撃と陸海の生産業への大打撃にそれら物流の停滞、それによる物価の高騰、更に度重なる増税と有限物資の奪い合い……私はこのご時勢の中で村長に就任した。そして、私は『村』を守るために走り回った。身を粉にして、精神をすり減らして、少しでも『村が潤う』ように、『お前らの生活が損なわれない』ように、ずっとずっと、動いてきた。村の経済を回しながら、減ることのないお前らの不平不満を解決しながら、寝る間も惜しんで動き続けたよ」

 

 

 苦痛に歪む顔の村長は、血を吐き出すように更に続けた。

 

 

「でも、私が動くだけでは駄目だった。何をするにしても『金』が必要だ。『金』が無ければどうすることも出来ない。だが、この状況では税金を納めるだけでも精一杯だった。『金』を捻出する余裕なんか、何処にもなかった。そこに増税に次ぐ増税だ。収入が変わらないのに、支出だけが増えていく。いつしか、税金すら賄えなくなった。このままでは村が終わってしまう。そう思った。だから『脱税』に手を出した。『村』を守るために、『お前ら』を守るために!!」

 

 

 そこで言葉を切った村長は、今まで伏せていた目を周りの人間に向ける。その目に、とてつもない憎しみと激しい怒りの炎が見えた。

 

 

「だが、お前らは何をした!! お前らを守ろうとした人を、私を助けてくれた(・・・・・・・・)人を『死』に追いやった!! それだけならまだしも、お前らは彼女(・・)に罵詈雑言を浴びせ掛けた!! こうなったのは全てお前のせいだと!! 全部全部、お前のせいだと言った!! どうしようもない状況だと分かっていた筈だ!! たった一人(・・・・・)で何が出来る、そう分かっていた筈だ!! なのに誰一人として、『感謝』しなかった!! どうしようもない状況なのに、その全責任を押し付けられ、最期はお前らを守るために死にに行った(・・・・・・)彼女を、誰一人として『感謝』しなかった!! そんなお前らを、恩を仇で返す様な連中を今まで必死に守ってきた私は何だ? 何で守ってきた? こんな連中を、何で守ってきたんだ? お前らのために身も心もボロボロにして、最期はゴミみたいに捨てられるために守ってきたのか? 可笑しいとは思わないかァ!? どうだ!? 何か言ってみろよォ!?」

 

 

 そこまで叫び、村長は再び口を閉ざした。目を大きく見開き、ずっと周りの人間たちを見つめている。しかし、その目には大粒の涙が溢れていた。無理矢理作られた笑みは震え、固く結ばれた口からは小さな泣き声が聞こえる。

 

 

 

 

「すみません」

 

 

 そんな彼に、不知火は頭を下げた。その姿に、村長を含め、周りの人間の視線が彼女に集まる。その視線を気にすることなく、彼女は続けた。

 

 

 

 

「深海棲艦を押し返せていないこの現状、貴方たちをその脅威から守れていないこの現状、不知火たちが戦うために様々な重荷を背負わせてしまっているこの現状。これら全て、不知火たち『艦娘』の落ち度、ひいては『大本営』の責任です。その点に関しては、本当に申し訳なく思っています。しかし、貴方がやったことは紛れもない『罪』です。誰のものでもない、『貴方の責任』です。非常に酷かもしれませんが、それだけ(・・・・)はどうか背負ってください」

 

 

 不知火の言葉に、小さかった村長の泣き声が大きくなった。同時に、身体の震えも、溢れる涙の粒も大きく、そして多くなった。

 

 

 

「これで分かっただろ……?」

 

 

 

 そんな中、一人の男が声を上げた。不知火は村長から視線を外し、鋭い視線をその男に向ける。その視線に怖気づきながらも、男は引きつった笑みを浮かべてこう続けた。

 

 

 

「俺たちに『罪』は無い。有るのは村長だけ……あんた、そう言った(・・・・・)だろ? だ、だから、俺たちを安全な場所に――――」

 

 

「不知火たちは『罪人』を連行し、その後に各地の施設に送還するよう言われただけ。弁論は審議の場でお願いします……と、そう言った(・・・・・)筈ですよ?」

 

 

「だから俺たちは『罪人』じゃない!! 知らないうちに巻き込まれただけの被害者だ!!」

 

 

「ですから、弁論(それ)は審議の場で言ってください。しかし、不知火は貴方たちを『罪人』だと断言(・・)します。その罪状は、今しがた貴方が言った『知らない』こと、今しがた貴方が行っている『それを理由に都合の悪いことから逃れようとする』こと。即ち、『無知』の罪です」

 

 

 そこで言葉を切った不知火は、改めてその男に向き直った。そして、その幼い見た目からは想像も出来ない眼光を、まるで喉元に刃物を当てられたような感覚を相手に与えるであろう鋭い眼光を。それを男に、その向こうに居る人間全員に向けた。

 

 

 

 

 

 

 

恥と思え(・・・・)、『人間』」

 

 

 不知火はそう言い切った。その言葉に、誰一人として反論する者も、逆上する者もいない。誰もがその眼光に呑まれたのか、はたまた彼女の言葉に思い当たることがあるのか、俺には分からなかった。

 

 

 いや、分かろうとしなかった。何故なら、それよりももっともっと『重要なこと』があったからだ。

 

 

「では、行きましょう」

 

 

 不知火がそう言うと、それを合図に外へと続く扉から黒い軍服を身に纏った男たち――――憲兵が入ってきた。彼らは慣れた様にここに居た村人たちを連行する準備をし始める。そんな中、一人の憲兵が俺に近付き、手に手錠を掛け、立ち上がらせた。

 

 

 

「すみません、不知火さんとお話させてもらって良いですか?」

 

 

 その時、俺はそう憲兵に申し出た。その言葉に憲兵は俺に目を向けて暫し睨み付けた後、俺から離れて不知火の元に走っていった。恐らく、俺の言葉を彼女に伝えているのだろう。

 

 

 何故、急にそんなことを言ったのか。その理由は、母さんが何のために(・・・・・)死んだのか、ハッキリさせたかったからだ。

 

 

 村長が言った。『私を助けてくれた人』と、『彼女』と。それは恐らく、いや確実に母さんのことだ。つまり、母さんは村長の助けになるために、『村』を守るために艦娘に志願したのだ。だから、母さんが志願していった後、不自然なぐらい村長が声をかけてきた。村長にとって『唯一の理解者』だったんだ。そりゃ、息子の俺を気にかけるのも分かる。

 

 そうなると、母さんは『村』のために艦娘に志願し、そして死んでいったことになる。だけど、『村』は深海棲艦に蹂躙され、見る影も無くなってしまった。母さんが守ろうとした『村』は跡形も無く消えてしまった。母さんが『村』のために死んだとすれば、その『死』はどうなる? 『守るべきもの』が消えてしまったら、その『死』はどうなる? その『死』は無かったことに、無駄(・・)にならないか?

 

 

 もう一つ、村長の言った。母さんは『お前ら』のために死んでいった、と。『お前ら』とはあの港に居た人間全員、引いて言えばこの村に住む人間だ。しかも、全員『犯罪者』だ。村長が一人で勝手に行った税金の横領で、知らない内に加担させられたと言えども『犯罪者』だ。そんな『犯罪者』のために、母さんは死んでいったと言える。

 

 そして、『艦娘』は人間を守るのが役目だ。村長が言う様に守ろうとした母さんを貶し、憎悪を向け、理不尽な理由を叩きつけようと、『人』を守るのが役目だ。例えそれが『犯罪者』だろうが、そいつらが母さんを『死』に追いやったクソ野郎であろうが、『人』である以上、艦娘(母さん)は守らなければならない。

 

 

 それなら良い。艦娘が『人』を守るのであれば、母さんの『死』は無駄にはならない。それなら、納得が出来た。その『理由』なら、胸の内にある本音(・・)を押さえつけることが出来た。

 

 

「何でしょうか?」

 

 

 いつの間にか、不知火が目の前に居た。先ほどの鋭い眼光よりも柔らかい。しかし、手はいつでも前に突き出せるように構えている。俺が掴みかかるとでも思っているのか。まぁ、警戒するのは分かる。

 

 

 

 だから、俺は不知火に出来るだけ威圧感を与えない様、柔らかい口調で問いかけた。

 

 

 

 

 

 

「艦娘が守るべき存在って、何ですか?」

 

 

 その問いに、不知火は一瞬呆けた顔になる。しかし、すぐに凛とした表情になる。そして、ハッキリ(・・・・)とこう言った。

 

 

 

 

 

「『国民』です」

 

 

 不知火の答えに、俺は驚かなかった。予想外の答えではあったが、驚かなかった。一番欲しかった答えではなかったが、驚かなかった。

 

 

 ただ、俺の『望み』に適した答えだったからだ。

 

 

 

 不知火は言った。艦娘は『国民』を守るのが役目であると。では、『国民』とは誰を指す。その定義は色々あるが、その最低条件として必ず挙げられるのは『三大義務』を果たしているかどうかだ。暴論だってのは分かってる。でも、そうしないと俺が納得できないのだ。

 

 『国民の三大義務』とは『勤労』、『教育』、そして『納税』だ。それを果たしているのであれば、『国民』であると言えよう。だが俺たち、村の人間はどうだろうか? 『納税』の義務を果たしていない。村長が勝手に横領したのだが、こうして逮捕状があり、その罪は『脱税』である。『国民』の義務である、『国民』である条件である『納税』を放棄しているのだ。

 

 

 そんな奴らを、俺たち(・・・)を、『国民』と言えるだろうか? 俺たちを守る義務が、艦娘にあるのか? 『国民』の義務を放棄した、『国民』の条件を満たしていない――――――『国民』でない俺達を守る義務が、艦娘にあるのか?

 

 『無い』、『無い』のだ。艦娘が、母さんが奴らを、俺たち(・・・)を守る義務なんてないのだ。なのに奴らは、俺たち(・・・)は在りもしない権利を、『艦娘に守ってもらえる』権利を振りかざし、母さんを『死』に追いやった。守る必要もない存在を守るために、いや、在りもしない責任を押し付けられ、理不尽を押し付けられ、何の意味も無く死んでしまった。

 

 

 それを何と言うか―――――――『無駄死』だ。

 

 

 母さんは守る必要のない存在を守って死んだのだ、『無駄死』したんだ。守る必要もない俺たちを、『国民』ではない俺たちを守って死んだんだ。『感謝』もされず、死ぬことが当たり前(・・・・)だと吐き捨てられたのだ。それを『無駄死』と言わずに何て言うんだ? 守る必要もない奴を守って、それで死んだその『死』を、『無駄死』と言わずに何だと言うんだよ?

 

 

 それが『艦娘』か? 在りもしない権利を押し付けられて、『感謝』もされず、あまつさえその死を蔑まれる。それが『艦娘』なのか? それが『艦娘』と言う存在となのか? どうしようもない状況でもその全ての責任を押し付けられ、反論することが許されず、ただ『国民』の要求に応えるのが、そのために『死ぬ』のが『艦娘の役目』なのか?

 

 そんなの、『道具』じゃなねぇか。『使い捨ての道具』じゃねぇか。元々は俺たちと同じ『人間』なんだぞ? たまたま妖精と意思疎通が出来るってだけの、ただそれだけの違いしかないんだぞ? それだけで、『艦娘』の価値(・・)が決まるのかよ? 『艦娘が人間よりも格下』だって、そうなるのかよ? ふざけんなよ。

 

 そんな……そんなクソみたいな理由で母さんは死んだのかよ。勝手に格付けされて、勝手に『義務』を、『責任』を押し付けられて、そのせいで死んだのかよ。その死すらも『当たり前』だと一蹴されるのかよ。それが『義務』だって言われるのかよ。

 

 

 だったら、それだけの『義務』を背負う艦娘は、どんな『権利』を持つんだ? 『義務』を背負うなら、それ相応の『権利』もある筈だろ? それは何だ? 何があるんだ? ……無いだろ(・・・・)? 何も思いつかないだろう?

 

 

 あぁそうだ、無い(・・)んだよ。艦娘に『権利』なんか無いんだよ。頭悪い俺が思い付かないだけかもしれないが、艦娘が行使できる『権利』を、俺が知る限り無いんだよ。あれだけの『義務』を背負うのに、行使できる『権利』が無いんだよ。

 

 

 何故か分かるか? 艦娘が『人間』じゃないからだ。『人間』ではない、『艦娘』と言う存在――――そう言う名前の道具(・・)だからだ。誰もがそれを『当たり前』だと思っている、誰も変えようとしない、だから何も変わらない。

 

 

 

 

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 

 黙り込んでいる俺を心配そうに覗き込む不知火。その言葉に我に返り、すぐさま思っていたことを続けた。

 

 

 

「俺が今から『提督』になることって、出来ますか?」

 

 

「それは……難しいと思います」

 

 

 俺の言葉に、不知火は渋い顔を浮かべる。そうだろうな、今から連行される奴がいきなり『提督』になるなんて言い出せば、誰だってそんな顔をするだろう。

 

 

 

「俺の母さん、この村から志願した艦娘なんです。その息子(・・)なので妖精が見えます。これって、『提督』に向きませんか?」

 

 

 俺の言葉に、不知火は表情を強張らせた。そして、彼女は俺から顔を背け、耳に手を当てて話し始める。通信をしているのだろうか。その姿に、俺はただ黙って見つめた。先ほどから込み上げる『思い』を押さえつけながら。

 

 

 このまま『提督』になれば、艦娘を指揮下に納めれる。そして、それは同時に艦娘たちの身柄を、その存在を守ることが出来る。誰もが『当たり前』だと断じたことを、『道具』と同等に扱われる艦娘を、提督と言う立場から守ることが出来るのだ。『道具』だと蔑まれた艦娘の価値を、俺たちと同じ『人間』であると、そう変えることが出来るのだ。

 

 

 あの時のように、たった一人の艦娘(・・・・・・・・)を守れなかった、『艦娘の息子』であった俺が、『提督』として大勢の艦娘を守ることが出来るのだ。艦娘に対する世間の『当たり前』を、ぶち壊すことが出来るのだ。

 

 

 『提督』になれば、もう母さんみたいな存在を―――――『人間』の身勝手に、理不尽に、思い込みに振り回され、『死』を強要させる艦娘を少しでも守ることが出来ると、そう思ったから。

 

 

 

 それこそが、『艦娘』と『人』を繋ぐ、本当に(・・・)唯一の方法だと、そう思ったからだ。そんな思いを、俺は押さえつけていた。

 

 

 

 そんな俺の耳に、彼女の提督に通信がつながったらしき不知火の声が聞こえる。

 

 

 

 

「突然のご連絡、失礼します。実は『司令官』になりたいと言う男性が居まして……はい、母親が艦娘であると言っていますので素質はあるかと。は、その艦娘の名前ですか? えっと……確か……」

 

 

 そこで言葉を切った不知火は暫し考え込むも、答えが導き出せたのかすぐに耳に手を当て、こう続けた。

 

 

 

 

 

「はい、その艦娘は『鳳翔型航空母艦1番艦、鳳翔』です」



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二人の『願い』

「その後にそこで得た伝手で軍に志願、父さんに頼んで学費を工面してもらった。でも、入学早々『艦娘は兵器だ』なんてのたまう教師どもと真っ向から対立して、他の生徒からも浮いて、散々な学校生活だったよ」

 

「そう」

 

 

 俺の話を聞く加賀はただ相槌を打つだけだった。その表情は変わらず、視線も俺から赤レンガの壁から覗く海原に向けている。一見すると話を聞いてないように見えるが、ちゃんと聞いてくれていると思えた。

 

 

 だから、ポロポロと話してしまったのかもしれない。

 

 

「同時に無力さを、『何の能力も権力も持たないただの人間』だと知ったよ。()のように教師に噛み付く癖にお世辞にも成績は良いとは言えない、そんな奴が喚き散らそうが周りは誰も見向きせず、実力がない奴には権力も人権すらも無い。『厄介者』、『非国民』、『ロクでなし』、嫌と言うほど罵られた。でも、学校よりも此処――――『提督』になってから、容赦なく突き付けられたんだ」

 

 

 ……不味い。これじゃあの時と、龍驤の時と同じだ。出すなと言われたのに、何とか抑え込んだのに、我慢して飲み込んだのに、ボロが出ちまう。

 

 

「『守る』ためになったのに逆に守られて、支えられて、助けられて……なのに傷付けて、泣かせて、無理をさせて……ホント、何をやってんだろって、そう思って――――」

 

 

 その時、俺の視界は突然暗くなった。同時に、顔が柔らかいモノが触れ、いや勢いよくぶつかる。突然のことに言葉を失うも、暗くなった視界はすぐに元通りになった。

 

 

 そこに、上体を前に倒し、何かを投げた(・・・)ように片腕を前に突きだす加賀の姿があったのだ。

 

 

風に飛ばされてしまったわ(・・・・・・・・・・・・)。申し訳ないんだけど、取ってもらえるかしら」

 

 

 上体を起こしながら、加賀は抑揚のない声でそう言った。その言葉に俺は足元に目を落とすと、先ほどまで彼女の膝を覆っていた毛布があった。明らかに飛ばされていないだろう、と口にしかけたが、先ほどの声に有無を言わさない重圧を感じた俺は、何も言わずに足元の毛布を手に取った

 

 手に取った毛布には水滴が落ちた痕があった。その痕が何なのか、頭の中に一つの答えが浮かぶも問いかけることも出来ない。予想を胸の内に秘め、見られたくないだろう(・・・・・・・・・)その顔から視線を外し、彼女に近付いて毛布を差し出した。

 

 それを受けて加賀は両手を伸ばす。その手はしっかりと掴んだ。

 

 

 

 俺が着る軍服の襟を。

 

 

 

「ぇ?」

 

 

 予想外のことに声を上げるも、次の瞬間に襟を掴まれた加賀の両手によって引っ張り込まれた。それに抵抗することが出来ず、俺は加賀の前で膝をついてしまう。しかし、彼女の両手はそこでとどまらず、下げていた俺の視線を無理やり引き上げ、自身の顔に近付けた。

 

 

 そこで、俺は彼女を見てしまう。予想通り(・・・・)、彼女は涙を流していた。あれは涙の痕だったのだろう、そう確信するも、俺の思考はそこで止まってしまう。彼女の表情が予想通りであり、予想外(・・・)だったから。

 

 

 目を見開き、歯を食いしばり、今にも飛び掛からんとする獣のような眼光を向け、『怒』と言う感情を惜しげもなく晒している『予想外』と、大粒の涙を溢している『予想通り』が混在していたから。

 

 

 ただ、その『表情』を今までに何度も向けられたから、だ。

 

 

 

 今までの自分の行いを否定され、絶望の末に解体を渇望した金剛が。

 

 数々のトラウマを、『それだけ』の一言で済まされた隼鷹が。

 

 自らの願いを、『俺の我が儘』で切り捨てられそうになった吹雪が。

 

 仲間の落ち度すらも一身に背負い込もうとしたイムヤが。

 

 仲間の死を悲しまない雪風を『死神』と罵った北上が。

 

 降りかかる理不尽、それを納得させた理由すら否定された曙が。

 

 仲間を守ろうとし、守ろうとした存在に否定された潮が。

 

 『料理』と言う自らの役目を奪われ、あまつさえ目の前でそれを見せつけられた間宮が。

 

 

 彼女たちが浮かべていた『怒』を前面に押し出しながらもその裏にある『哀』を必死に隠そうとする、そんな表情だ。

 

 

 

 

「何で逃げたの?」

 

 

 その表情で、加賀はそう問いかけてきた。低く、凄味を効かせた、明らかに『怒』の感情を孕んだ声だ。対して、大きく見開かれた瞳から涙が零れる。それは分かった。しかし、その言葉の意味は分からなかった。

 

 

「逃げ……?」

 

「何でお母さん(・・・・)から逃げたの、って聞いているの」

 

 

 俺の言葉に、加賀は声を絞り出す。それと同時に、彼女の手に力が籠る。眉間に皺が刻まれ、目付きが更に鋭くなる。しかし、彼女の言葉は全く(・・)理解出来ない。

 

 逃げ出した? 何処がだ? 俺は母さんの死を乗り越えた。そして、母さんのようなことに他の艦娘が成らない様俺は軍人に、周りから踏みつけられ、蔑まされ、地べたに這いつくばりながらも何とか『提督』に、艦娘を守れる(・・・・・・)『提督』になったのだ。

 

 

 これの何処が『母さんから逃げている』と言うのだ。むしろ、母さんを背負っていると言える。『逃げる』と言うのは、今まさに村の連中と――――母さんを殺した連中と一緒に居ることを言うんだ。奴らと同じ空間でのうのうと生きていることこそ『逃げている』と言うのだ。なのに、何故加賀は俺を『逃げている』とのたまうのだろうか。

 

 

「私が戦う理由は赤城さんを、一航戦の名(・・・・・)をこの世に知らしめるため。戦果を挙げ続け、名を広め、『艦の一航戦』に引けを取らないほどの伝説を残すことで『艦娘の一航戦』の名を歴史に刻むの。それが私の考える、『背負う』ことよ。だけど……」

 

 

 そこで言葉を切った加賀の表情が変わる。糾弾するような鋭い目付きから、俺を蔑むような(・・・・・)目つき(それ)に。

 

 

「貴方は何をしてるの? お母さんが殺されたくせに何も言わず、『相手も同じだから』なんて理由で簡単に押し黙って……その後は『国民じゃない』なんてどうでもいい(・・・・・・)理由でその死を無駄にして。最終的に、お母さんのような艦娘をこれ以上増やさないように、艦娘(赤の他人)を守るために提督になった……なんて。そんなのお母さんの『死』から逃げているだけじゃない」

 

 

 加賀の言葉。それは、あの出来事から今の今まで俺が積み上げてきたモノ全てを無に帰する言葉、俺の全てを否定する言葉。

 

 それを聞いた今この時、頭の中では大声を上げながら加賀に掴み掛り、彼女が座る車椅子を倒し、その襟を締め上げている己の姿が瞬く間に浮かんだ。

 

 

 

 しかし、身体は動かなかった。

 

 

 頭の中にある自分が動くのと同時に、全身の体温が一気に下がった。いや、下がったのではない、集まったのだ。胸の奥に、血と共に熱を全身に行き渡らせる心臓に。体温が一点に集中し、まるで火の玉を飲み込んだかのような熱さが胸を焦がすほどに。

 

 なのに、動かなかった。それだけのことがあったのに、俺の身体は動かなかった。理由は分からない。本当に分からない。今の今までなら頭の中にある通りのことをしただろう。

 

 

 雪風を『死神』とのたまった北上に掴み掛ったように。

 

 艦娘たちを兵器と、『化け物』と罵った元帥に詰め寄ったように。

 

 榛名に伽をさせたと勘違いして金剛に手を上げそうになったように。

 

 

 そうしただろう。なのに、動かなかった。

 

 

 

 

 

図星(・・)かしら?」

 

 

 再び聞こえた加賀の声。今度は先程よりも鋭くは無いが、目付きは変わらない。俺の身体も変わらない。でも、頭の中に浮かんでいたモノは、少しだけ変わった。

 

 

「逃げてなんかない……逃げないために提督に」

 

「『赤の他人』を守るためでしょ? 提督になったのは……それが『お母さんを背負っている』ことにならないわ。さっきも言ったけど、『戦う』ことが存在意義であり、何よりそれを望んでいる艦娘を出撃させないことが、『艦娘を守る』こと? 最もらしい理由だけど、ただ単に貴方が同じ(・・)悲劇を味わいたくない、ってだけでしょ。その時点で、貴方は『お母さんの死』から逃げているのよ」

 

 

 俺の言葉を掻き消そうとしたのか、加賀は強い口調で捲くし立てる。それと同時に俺の襟を締め上げるその手が、その瞳から零れる涙が増した。その表情に、頭の中のモノがまた少し変わった。

 

 

「貴方はただ目を背けているだけ。目を背けて、在りもしない理由を絞り出し、それを周りに押し付けているだけ。それで終わらせようと、都合よく解釈しようと、何度も噛み砕いて理解しようと、自分を納得させよう(・・・・・・・・・)と、お母さんを死なせた(・・・・)理由から逃げているだけよ。死に追いやった最大の原因になるのが嫌なだけ、怖いだけ、逃げたいだけ、『理由』から逃げ出した自分を守ろうとしているだけじゃないの!!」

 

 

 彼女の言葉は叫びに変わった。それは悲鳴にも泣き声にも近い、目の前にいる俺に向けた言葉。『母さんの死』から逃げ出した俺に対する糾弾、俺が最も恐れていた言葉だ。

 

 それを叩きつけられた俺はただ息を呑んだ。加賀の言葉が図星過ぎて、自身を擁護する言葉を失った―――――わけではない。

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、俺は何をすべき(・・・・・)だったんだ?」

 

 

 その問いを投げかけるために息を吸った(・・・)のだ。その問いに加賀の表情が固まる。意味が分からないのか。そりゃそうか、持っている(・・・・・)ヤツには分かる筈がないんだから。

 

 

「あの時―――――母さんが死んだ時、俺は何をすべきだったんだ? 連中を説き伏せるべきだったのか? 連中をぶっ飛ばすべきだったのか? 母さんを連れて逃げるべきだったのか? 迎撃部隊が来るまで時間を稼ぐべきだったのか? 深海棲艦を撃退すべきだったのか? あぁ、そうすべきだった。母さんを守るためならいくらでも方法があった。それをやれば良かったんだ。そうすれば母さんも死なずに済んだかもしれない、被害を最小限に抑えられたかもしれない。そう出来れば(・・・・)良かったんだ」

 

 

 連中を黙らせて従わせることが出来れば(・・・・)、母さんが見殺しにされなかったかもしれない。もしくは連中を残らずぶっ飛ばすことが出来れば(・・・・)、母さんを引っ張って逃げ出せたかもしれない。母さんを連れて逃げ出すことが出来れば(・・・・)、母さんを守れたかもしれない。迎撃部隊が来るまで時間を稼ぐことが、もしくは深海棲艦を撃退することが出来れば(・・・・)、母さんを守れたかもしれない。

 

 そう、全て『出来る』のなら良かった。そうであれば、そうでさえあれば、俺は全てを実行した。母さんを、大切な人(・・・・)を守るために、俺の命を擲ってでもそうしただろう。出来るのがどれか一つだけだったとして、俺は迷うことなく実行しただろう。

 

 

「でも俺は、その時(・・・)の俺はどれも出来なかった。人を説き伏せる弁論も、人をぶっ飛ばす腕っぷしも、人を押し退ける胆力も、時間を稼ぐ方法を導き出す頭も、深海棲艦を撃退する術も能力も、何も持ってなかった(・・・・・・・)、何も出来なかった。ただの無力な人間だった。そんな奴はあの時何をすればすべきだったんだ? 何をすれば良かったんだ? 何をすれば守れたんだ? 何が出来たんだ?」

 

 

 そう、再び問いかける。その時も、そして今でさえも何も出来ない(・・・・・・)俺が。その全てを、少なくとも『最後の1つ』は確実に出来るであろう彼女に。だが、彼女は何も答えない。一言も発せず、表情も変えず、ただ俺をじっと見つめてくるだけだ。

 

 

「『何も出来ない』奴が同じような(・・・・・)連中を非難できる立場も、その権利も資格もない。全員、『同じ穴のむじな』だ。俺も奴らと同等なんだよ。ただ好き勝手に喚き散らして、常に力を持つ存在に縋り、都合が悪くなれば『非力』を理由に非難することしか出来ない、どうしよもない奴らなんだよ。そこに脱税と来たモンだ。その時点で、俺たちは国民が持つ権利を失った。そんな奴らを――――――そんな俺を守る必要があるのか?」

 

 

 加賀が言った通り、俺はそういう(・・・・)人間だ。『力が無い』ことこそが最大の強みだ。それを免罪符にして他者を陥れ、平気で命を奪う、そんな存在だ。だから、母さんを殺してしまったのだ。殺して尚、その死を背負うことを放棄したのだ。それが今も(・・)出来ないことだったから、逃げ出したのだ。

 

 だから、そんな存在から抜け出すために、俺は提督になった。『守られる』ことしか出来ない能無しから、軍人と言う誰かを『守る』者に。それが、その時の(・・・・)俺が出来ることだった。だから、提督になった。

 

 そして、『守る』者に艦娘を含めた。『守る』ことを義務付けられた彼女たちを、『守られる』立場である国民と、人間と同じと位置付けた。それが、今の(・・)俺が出来ることだった。いや、それしか(・・・・)出来ないと思っていた。

 

 

 そして、それこそが母さんを背負うことだと、そう思い込むしかなかった。例え、それが『非力』を理由に逃げているだけだと言われようとも、そう思い込むしかないんだ。

 

 

 

 だって―――――――

 

 

 

 

 

 

「俺なんかに、守られる価値(・・)なんて無いんだよ」

 

 

 それが俺が持つ、俺への評価。守られる意味も価値も無い、その辺に転がっている石ころと一緒。あぁ、だから俺はさっき動けなかったのか。

 

 守る価値が無いと分かっているモノを守る気なんてない。そして、俺にとって『俺自身』はまさにそれだと言うことだ。守る気が無いモノをいくら糾弾されようが、気にすることは先ずない。石ころと同じ、どうでもいいことなのだから。

 

 逆に、俺が動いた時は艦娘――――俺が『守るべきモノ』だったのだ。だから傍から見れば自分のように噛み付いたのだ。今此処で、大本営から全員沈めろと言われている中で、最も『守るべきモノ』なのは彼女たちなのだから。

 

 

 待て、そうなると試食会の時はどうなる? あの時、俺は『我が儘』でメニューを変更したことは、守る価値も無い俺を優先したってことだよな。今日もそうだ。俺は自分の都合で嫌がる彼女を外に連れ出した。これって、結局は『守るべきモノ』よりも石ころを優先したってことか。

 

 なんだよ、あれだけ大口叩いておいてまだ同じ穴(・・・)ってことか。未だに、そう言う人間だってことかよ。

 

 

 

「やっぱ、守られる価値なんて―――――」

 

 

 そこで、俺の言葉は途切れた。乾いた音と同時に頬に衝撃が走り、視界が急速に変わる。その直後、衝撃が走った頬に鋭い痛みを感じた。

 

 

 早い話、加賀に殴られたのだ。

 

 

「だから、それが間違ってるのよ!!」

 

 

 再び聞こえた絶叫。今まで聞いた中で最も荒々しく、最も憤怒に満ちた、そんな表情と共に向けられた。だから、俺も同じモノ(・・・・)で返した。

 

 

「だから言ってんだろ!! 俺に何が出来たんだよ!! 俺はお前のように艤装も砲も艦載機も無い!! 深海棲艦に傷一つ付けれない俺が!! 無力な俺が!! 一体何が出来るんだよォ!!」

 

 そう吠える。それと同時に加賀を―――俺が一生かけても手が届かない(それ)を手にし、自分だけで大切な人の死を背負えることが出来る存在を。俺が―――一生かけても手が届かない力、それを持つ者を目の前にして、別の方法を模索することしか出来ない存在が、睨み付けたのだ。

 

 そこにあるのは尋常ではない『嫉妬』。持つ者と持たざる者の、決して相容れる事の出来ない、決して理解し合えない、決して手を取り合えないモノ。

 

 持つ者が手を伸ばそうとしても、持たざる者は『嫉妬』からその手を取ることはない。逆に持たざる者が助けを乞おうが、持つ者は彼等が助けを乞う理由が理解できないから、手を取ることはない。だから相容れない。

 

 端から見れば、どうしょうもないだろう。そんなどうしょうもない『嫉妬』に振り回され、勝手に傷付き、逆恨みをする。そんな人間のために誰かが死ぬ必要なんて無いんだよ。俺なんかのために死ぬ必要なんて無かったんだよ。

 

「命張って……守られるような価値なんか……」

 

 

 

「価値が無いわけ無い(・・)じゃない!!」

 

 

 俺の言葉を掻き消すように発せられた言葉。それに、俺の思考は瞬く間に止まってしまった。あれだけ強張っていた表情筋が一気に緩み、同時に全身から力が抜ける。突然力が抜けた俺は、 襟を締め上げる加賀にされるがままになった。

 

 

「貴方が自分を非力でどうしょうもない人間だと、守る価値もない人間だと思うことは、どうでも良い(・・・・・・)のよ!! 私が言いたいのは、お母さんは貴方を守ったことを、その事実(・・)を貴方の価値観で否定していることなの!!」

 

 

 そこで言葉を切った加賀は襟から手を離し、軽く俺を突き飛ばした。突き飛ばされた俺は少しだけ後退りし、再び加賀を見る。

 

 彼女は、いつもの真顔に戻っていた。先程の憤怒の色は何処へやら、何事もなかったかのように背筋を伸ばし、車椅子に背中を預けている。

 

 その頬に、涙の跡を残しながら。

 

 

「もしもの話をしましょう。もし、貴方とお母さんの立場が逆だったら、貴方はお母さんを守らないのよね?」

 

「んなわけ無いだろ!!」

 

 

 脈略もなく始まった加賀の話に、俺はすぐさま噛みつく。すると、すかさず加賀の目付きが鋭くなった。

 

 

「何故かしら? さっき貴方が言った通り、『非力でどうしょうもない、守る価値もない』人間なのよ? 守る必要なんて無いでしょ」

 

「それとこれとは話が別だろ!!」

 

「いいえ、別じゃないわ。さぁ、答えて」

 

 

 俺の言葉に聞く耳を持たない加賀は、先程よりも語気を強くしてそう言い放った。納得する答えが出るまで、妥協しないと言う意志が見てとれる。これは真剣に考えないと……てか、なんで急にこんなことを。

 

 

「んなもん、母さんを守るため―――」

 

 

 そこで、俺の言葉は途切れた。加賀に遮られたわけでも、誰かが現れたわけでもない。ただ、先程の加賀の言葉が甦ったからだ。

 

 

 

『もし、貴方とお母さんの立場が逆だったら』

 

 

「『母さんのため』……まぁいいでしょう。じゃあ、貴方が守ろうとしたモノを、命を賭ける『価値』があると思ったモノを、お母さんに守る必要もないモノと、命を賭ける『価値』も無いと言われたら、命を賭けたこと自体を否定されたら、どう思う?」

 

 

 再び投げかけられた問い。投げかけた加賀は、真剣な表情で俺を見据えている。その目には一点の曇りもない、自分が導き出している答えが正しいと、そう確信しているように見えた。

 

 

「……それが、今の俺ってか」

 

「ええ、そうよ」

 

 

 絞り出すような俺の言葉に、加賀はすぐさま同意する。多分、俺がこう答えることまで予想していただろう。

 

 

 

「もう一つ、話をしましょう。『自分の価値』と言うのは自分(・・)が与えるモノじゃない、誰か(・・)に与えられるモノよ」

 

 

 またもや唐突に始まった加賀の話に、俺は何も言わずにその言葉に耳を傾けた。噛み付こうとも、話を遮ろうとは思わなかった。つい先ほど、その行為がどのようなモノかを知ったからだ。

 

 

「今日、私は出撃していると、艤装を付ければ戦えると貴方に言ったわ。車椅子(これ)に頼ってる姿を見せながら、そう言ったの。そして、貴方はそれを否定した。まぁ、この姿だけを見ただけだと普通信じられないわよね。私は自分を戦えると、戦う『価値』があると言うも、貴方の目には戦えないと、戦う『価値』が無いと映った。いくら私が戦う『価値』があると説こうが、戦えない(そう)判断してしまった貴方の『価値(それ)』は覆らないわ。それに艤装を付ければ戦える、と言うのはただの『理由』だから覆るわけがない。だけど、他の子たちは私が艤装を付ければ戦えることを、戦う『価値』があることを分かっている。だから貴方に出会うまで、私は当たり前のように出撃していた。つまり、私が出撃できたのは周りの子たちから『価値』を与えられていたから、そう言うことになる」

 

 

 そこで言葉を切った加賀は、少しだけ首を傾げて俺を見上げてくる。その顔は真顔ではない、憤怒でもない、子供を見るような柔らかい表情だった。

 

 

「貴方は自分に『価値』がないと言ったけど、お母さんが命を賭けてまで守るだけの価値(モノ)があるの、だからお母さんは命を擲ったの。だけど、貴方はそれを受け入れなかった。受け入れる価値が無いと思い込んでいたから、目を背け、逃げ出し、『無駄死』だと言った。それが許せなかった。それに、貴方さっき言ってたでしょ? 『しなくちゃいけないじゃなく、したい』と、『与えたい』って。その時、『価値』が有るか無いかなんて考えてた? まぁ、散々語った手前だけど、『価値』なんて無粋な言葉でまとめることは無いわね」

 

 

 その時、俺の手を加賀の両手が包み込んだ。暖かかった。久しぶりに感じた、もう感じることが出来ないと思っていた、母さんの(あの)『暖かさ』だった。

 

 

「ただ『貴方を守りたかった』、それでいいじゃない。もしくは貴方(・・)がそうであったように『息子を守るため』、それでもいいじゃない。母親が息子を守ろうとすることは当たり前(・・・・)のことでしょ? 『家族』なんだから。だから、貴方も背負いなさい。命を擲ってでも守りたかった『家族』なんでしょ?」

 

 

 『家族』だから『守りたい』、それが当たり前(・・・・)のこと、か。何だ、自分が言った言葉をそっくりそのまま返された気分だ。そう言葉を噛み締めた俺は、いつの間にか俯いていた。加賀に顔を見られない様に。こんなみっともない顔を見せないように。

 

 

「それに『価値』と違って『理由』は自分にも相手にも与えられるわ。まぁそれを押し付けって言うのだけど、私が『艤装を付ければ戦える』と言ったことで周りがそれが認知し、やがて事実だと理解した様に、時と場合によって『理由』は『価値』を生み出すことが出来るわ。そこまでいかなくても、人を動かすには十分よ。これ、貴方はよーく分かっているわよね?」

 

 

 加賀の何処か窘めるような言葉に、俺は顔を背けながら苦笑いを溢した。確かにその通りだ。小さい頃から散々言われ続けて、そして今の今までそれを盾に逃げ続けてきたんだから。

 

 

「なら最後にもう一つだけ、話をしましょう」

 

「あぁ」

 

 

 加賀の言葉に、俺はそう声を漏らした。それを見てか、俺の手を包み込んでいた加賀の手はそこは離れる。それでも、『暖かさ』は離れることは無かった。

 

 

「私が貴方と初めて話したのは……襲撃の時よね。無線に入り込んできた時は、ハッキリ言って信用ならなかった。いきなり入り込んで、勝手に仕切って、穴だらけの案を自慢げに出してきた時は、今まで大本営から送り込まれてきた人間と一緒なんだろう、そう思ったわ。でも、貴方の言葉を――――『信じるか信じないかはこの際どうでもいい。今はこの状況を打破するのが先決だと思うが?』って言葉を聞いたとき、今までとは違うって感じたの。安全地帯に居る貴方が最前線にいて、命を落とすかもしれないのに一番危険な役回りを買って出て、自分やその信頼よりも事態の終息を優先したからよ。まぁ、それはただ『守る価値』が無かったから出来たことだと分かってしまったけど……」

 

 

 加賀の遠くを見ながら思い出を語るその姿に、俺も同じようにその時のことを思い出していた。あの時は、ただ艦娘を守ることだけを考えていたからな。今思うと、まぁ無茶をしたモンだ。

 

 

「その後、曙の件も聞いたわ。貴方の思惑(・・・・・)通り、ほぼ全ての艦娘は曙じゃなくて貴方を非難したことも。まぁ、あの時はああするしかなかったかもしれないけど……少々やり過ぎよ。だから、試食会の時とか失敗しかけたんだから。もう少し、考えて行動してほしいものね」

 

「ちょ、ちょ、ちょっと待って……何か、色々と知り過ぎじゃないですかね?」

 

 

 曙の件は本人とあの場に現れた雪風にしか話していない筈だぞ。何でそれを知ってんだよ。

 

 

「分かる人には分かる、ってことよ。現に龍驤や長門、北上辺りは気付いていたようだし。だから試食会で前に進み出たんでしょ? まぁ、天龍と龍田は良く知らないけど」

 

 

 え、あ、そうなんですか。気付かれていたんですか……割と大丈夫だろうなぁなんて思っていたんですが。まぁ、そのおかげで試食会が何とかなったと考えれば……結果オーライかな? 納得できないけど。

 

 

「ともかく、曙に潮、潜水艦たちに間宮、大淀、夕立、雪風、龍驤、榛名……そして金剛。鎮守府(ここ)に来て、貴方は特にその子たちを知って、手を差し伸べた筈よ。でも、ここにはまだ沢山の子が居て、それぞれ隠しているモノがある。もしくは貴方と同じように、逃げている子も、脅えている子も、泣いている子も、きっといる。そういう子に貴方は何か出来ると、『価値』を与えれると、そう思うの。だから―――――」

 

 

 そこで言葉を切った加賀は目を閉じ、片手で俺の胸に触れる。

 

 

「貴方はそれが出来る(・・・)、それが出来るだけの『価値』がある。それはたった今、現れたわけじゃない。ここにやってきてから、もっと言えば貴方が生まれてから今日までずっと持っていたモノよ。そして私たちに、逃げていたり、脅えていたり、泣いている子に『価値』を、『理由』を与えて欲しい。貴方に、私たちの『価値』になって欲しい。私たちが前を向けるよう、歩いていけるよう、守って(・・・)欲しい。これは提督だからではなく、貴方(・・)だから出来ること。貴方と言う『人』だから出来ることよ」

 

 

 随分と重責を掛けてくる。そう思った。でも、それは次の瞬間、加賀の言葉によって消え去った。

 

 

 

「『艦娘の一航戦』がそう言ってるんです。大船に乗ったつもりで安心すると良いわ」

 

 

 何処か得意げに加賀はそう言い、俺の胸から手を離した。その言葉、その表情、その手を見て。いつの間にか、笑みを溢していた。

 

 

「さて、それじゃあ執務室に戻りましょうか」

 

 

 加賀はそう言って大きく伸びをする。その姿を見て、俺も彼女と同じモノ(・・)を考え付いた。

 

 

「なぁ、加賀」

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

「提督さん!!」

 

 

 帰投してからずっと探し回っていた提督さんを見つけて、夕立は思わず声を上げた。割と大声で叫んでしまったためか、提督さんはビクッと身を震わせて夕立の方を見る。その姿に、夕立は両手を突き出して一目散に駆け寄った。

 

 

「見ぃつけたぁ!!」

 

「おごッ!?」

 

 

 掛け声とともに提督さん目掛けて飛び込む。目の前は提督さんの真っ白な軍服一色に染まり、ほんのり汗を孕んだ提督さんの匂い、勢いよく飛び込んだ夕立を抱き留める提督さんの腕。その全てが、夕立に『安心』を与えた。

 

 その直後、提督さんの蛙が潰れたような声と共に夕立は顔に強い衝撃を受けることになる。夕立の勢いを抑えきれなかった提督さんごと倒れてしまったのだ。顔、特にジンジンと痛む鼻を両手で抑えながら、夕立は全身を預けている提督さんから上体だけを起こす。

 

 

「……痛いっぽい」

 

「こっちは数倍痛いんだが……後、退いてくれない?」

 

 

 下から提督さんの声が聞こえ、鼻を抑えながら下を向くと頭を抱えながら涙目になっている提督さんが。その様子に夕立はすぐさまその身体から降りる。少しの間痛みに呻いていた提督さんであったが、多少マシになったのか頭を摩りながら起き上がり、夕立にジト目を向けてきた。

 

 

 そのまま、提督さんは数秒ほど固まった。

 

 

「……夕立、色々と突っ込みたいことがあるが、先ずいきなり飛び掛かってきた理由を聞こう」

 

「……や、やっと見つけたから」

 

 

 動き出した提督さんの低い声とジト目に夕立は素直に答えた。だって、帰投して執務室に行ったら大淀さんから休憩中だって聞いたし、途中で長門さんに捕まったし、鎮守府を掛けずり回ったんだし。その…………嬉しくて、つい。

 

 

「なるほど、『嬉しくて、つい』飛びついたってわけね」

 

「ち、違うっぽ―――」

 

 

 夕立の心を読んだ声が聞こえ、その方を振り向くと車椅子姿で佇んでいる加賀さんが。その姿を見た瞬間、血の気が引くのを感じた。怖かったからじゃない、提督さんに飛びつく夕立を見られたからだ。

 

 

「……い、いつからそこにぃ」

 

「いつからも何もずっと居たわよ? それよりもその腕はどうしたの?」

 

 

 夕立の問いに加賀さんはサラリと答え、すぐさま話題を変えてきた。それが夕立のことを思ってからか、はたまた本当に興味が無いのかは分からないけど、追及されたくない夕立にとっては渡りに船だった。

 

 

「そ、そう……『これ』を渡そうと思って探してたっぽい」

 

 

 そう言って、夕立は両腕を前に伸ばす。すると、提督さんや加賀さんの視線が夕立の腕に――――正確には、まるでカラフルな紐でぐるぐる巻きにしているようにその腕から大量に垂れ下がっている色とりどりの大小様々な編み紐の輪っかに注がれていた。

 

 

「これ……ミサンガよね?」

 

「あぁ……朝、俺が渡したヤツだ」

 

 

 夕立の腕に付けられた大量のミサンガを見て、二人はそう声を漏らす。その表情に、夕立はちょっとだけ嬉しくなった。

 

 

 ミサンガとは複数の紐を編み込んで作る編み紐の一種。紐と共に自分の願いを一緒に編み込み、その紐が自然に切れたら願い事が叶う、と言うモノだ。そして、昨日の日記で夕立が提督さんに『願いが叶うおまじないを教えて欲しい』と言うお願いの答えでもある。

 

 

「これ……全部夕立が編んだのか?」

 

「夕立一人じゃなくて、長門さんと食堂にいた人たちと一緒に作ったっぽい」

 

 

 提督さんから貰った袋には、編み方を書いた紙と編み込む前の紐が大量に入っていたのだ。正直、一人でこの量を作ることは無理だったし、何より提督さんと作りたかった……じゃなくて、心得がある(・・・・・)人と一緒に作った方が上手く出来ると思ったから。だから、提督さんを探していたのだ。

 

 まぁ、それも「ビックセブンに任せろ!!」と意気込んだ長門さんを前にして諦めたんだけど。でも、他の人たちも一緒に作れて凄い楽しかったから良いっぽい。

 

 

「それで、鎮守府を歩きながら出来上がったミサンガを配っている、と言うわけね」

 

「ぽい!!」

 

 

 加賀さんの言葉に夕立は元気よく声を上げて胸を張る。こうしてミサンガを渡せるのも色々な人のお蔭だけど、こういうのは『言ったモン勝ち』って提督さんに言われたもん。夕立が全部やりました!! みたいにドヤ顔で胸張っても良いハズ。

 

 と、そろそろ本題に行こう。

 

 

「さぁ、好きなのを選ぶっぽい!!」

 

 

 そう言って、二人の前に大量のミサンガが垂れる両腕を突き出す。目の前に現れた大量のミサンガにちょっとうろたえる提督さんと、口に手を当てて考え事をしている加賀さん。しばらく、二人はミサンガたちに目を走らせる。そして、加賀さんが最初に口を開いた。

 

 

「じゃあ、これとこれを貰うわ」

 

「2本っぽい?」

 

 

 加賀さんの言葉に、夕立は思わず声を上げてしまった。だって、今までミサンガを選んだ子は1人1本ずつで、2本以上を選んだ子は居なかったから。

 

 

「1本しか付けちゃいけないなんてルールは無かったハズよ?」

 

「で、でも他の子は……」

 

「あら……皆、願いが少ないのね」

 

 

 夕立の言葉をまたもやサラリと流し、加賀さんは宣言通り選んだ2本を夕立の腕から外した。夕立と提督さんが凝視しているのを気にすることなく、加賀さんは1本を自分の手首に付け始めた。しかし、片手でミサンガを付けるのは難しいのか、なかなか思うようにいかない。

 

 やがて、ため息と共にミサンガを巻くのを諦め、何故か提督さんにミサンガを差し出した。

 

 

「提督、付けてくださる?」

 

「ッ……ぅえ」

 

「お、おぉ……」

 

 

 予想外な発言に思わず声を上げてしまった。しかし、加賀さんはそんな夕立に目を向けず、提督さんにミサンガを差し出し続ける。そんな様子の加賀さんと夕立を交互に見ていた提督さんは、戸惑いながらも差し出されたミサンガを手に取り、加賀さんの手首に付け始める。

 

 

「見過ぎよ」

 

 

 加賀さんの指摘に、夕立は無意識(・・・)の内に加賀さんの手首に注いでいた視線を慌てて逸らした。視界の外から加賀さんの噛み殺した笑いが聞こえたが、また指摘されるのが嫌だったから夕立は見ないように我慢した。しかし、その我慢も次に発言で限界を迎えた。

 

 

「提督、手を出してください」

 

「へ?」

 

「待つっぽい!!」

 

 

 聞き捨てならない加賀さんの発言にすぐさま顔を向けると、ポカンとしている提督さんとその手首を手に取っている加賀さんが映った。

 

 

「自分のミサンガを人に付けるのは駄目っぽい!!」

 

「そんなルール、聞いたこと無いわ」

 

「いや、普通に考えておかしいだろそれは」

 

 

 夕立の噛み付きに何処吹く風の加賀さん。流石の提督さんも難色を示している様子。流れは夕立にあるっぽい。

 

 

「それに、これは『私』の願いであると同時に『提督』の願いでもあるの。要するに、私たち二人(・・)の願いなのよ。それをどちらか片方が背負うなんて、不公平じゃないかしら?」

 

「な、な、な…………ふ、二人の願いって……な、何っぽい?」

 

「それは教えられないわ。だって、ミサンガに込めるほどの願いだもの。そう易々と口に出来るようなモノではないでしょ?」

 

「……まぁ、そうだよな」

 

 

 くそ、妙に正論ぽくて口を挟めない。そして提督さんも納得しちゃったし。いつの間にか流れが向こうに変わってる……このままじゃあ提督さんも。

 

 

「じゃあ、俺はこれとこれで」

 

「付けるわ」

 

 

 そんな夕立の心の叫びも空しく加賀さんのミサンガを受け入れた提督さんはミサンガを2本選んでしまい、夕立が口を挟む前に加賀さんが提督さんの手を取った。付け入る隙が全くないっぽい……。

 

 夕立の目の前で、加賀さんが提督の手首にミサンガを付け、今度は提督さんが加賀さんの手首に自分が選らんだ――――『二人の願い』が込められたミサンガを付け始めた。その光景を、加賀さんが笑いを噛み殺しているのを分かった上で見続ける。

 

 

 

「良いなぁ」

 

「何が『良い』のかしら?」

 

「何でもないっぽい」

 

 

 ポロリと漏れた本音(・・)を目ざとく拾う加賀さんから顔を背け、同時に聞こえてくる噛み殺した笑い声を我慢する。そんな夕立を見て提督さんは首を傾げていたが、加賀さんがミサンガを巻き終わると更なるトンデモ発言が飛び出した。

 

 

「夕立、加賀を頼めるか?」

 

「へ!?」

 

「え?」

 

 

 トンデモ発言に、流石の加賀さんも夕立と同じように声を上げる。夕立と加賀さんが同時に提督さんを見ると、何故か提督さんは顔の前で手を合わせ、頭を下げていた。

 

 

「ごめん、ちょっと寄るところがあるのを思い出したんだ。すぐ終わると思うから、加賀は先に執務室に戻ってくれ。そして、夕立は加賀を執務室まで送り届けて欲しいんだ。頼めるか?」

 

「え、え、その」

 

「分かったわ」

 

 

 提督さんの発言に頭が付いてこない夕立を尻目に加賀さんは何かを理解したのか、いつもの真顔でそう言った。その言葉に提督さんは「すぐ戻る」と言って再度頭を下げ、慌ただしく走り出してしまう。夕立の頭がようやく追いついたときには、提督さんの背中は見えなくなっていた。

 

 

「えぇ……」

 

「じゃあ夕立、お願いね」

 

 

 途方もない疲労を感じる夕立に、その元凶である加賀さんは悪びれも無く声をかけてくる。その全くブレない姿勢に、夕立は怒りを通り越して諦めの境地に達していた。なので、何も言わずに加賀さんの後ろに回り、車椅子を押し始めた。

 

 

「あと、その露骨な態度。もう少し自重しなさいよ」

 

「へ? 自重って?」

 

「もう少し感情をコントロールしなさいってこと。ただでさえあの人は雪風と一緒に居るんだし……貴女や曙は分かりやすいんだから、色々と噂が立っているのよ。出来るだけでいいから、自重してね?」

 

 

 どういうことっぽい? 先ずあの人って誰なんだろう? 雪風ちゃんと曙ちゃんが関係してるっぽいけど……それって提督さ―――。

 

 

 そこで夕立の頭はとてつもない熱を帯び、それによって外界からの情報が一切入ってこなくなった。だから、遮断される寸前に聞こえた加賀さんの言葉も、瞬く間に忘れてしまったのだ。

 

 

 

 

 

「『絶対に帰ってこい』なんて……無茶なお願いね」



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二人の『欲しい言葉』

 古ぼけた木張りの床、ベッドに机、椅子、本棚しかないとても簡素な部屋だ。そこで、私は一人頭を抱え、ベッドに腰掛けている。

 

 手で覆われた顔は深いシワが刻まれているだろう。唇は血が出るほど噛み締めているだろう。歯が折れんばかり食い縛っているだろう。それは、胸の内から沸き上がるモノを抑え込むためだ。

 

 

 目を瞑ると浮かんでくるのは加賀さんだ。

 

 

 最初に浮かぶのは、今朝の彼女。空気が凍りつきそうな程冷え切り、切れ味抜群の刃物のような鋭い視線を私に向けている。

 

 次に浮かぶのは、赤城さんと一緒に居る彼女。その顔はいつものように真顔なのだが、頬が幾分か緩み、目付きもだいぶ柔らかい。

 

 最後に浮かぶのは、もっと前―――脚の現状を知った直後の彼女。目を大きく見開き、口から小さく浅い息を繰り返し、自らの脚に手を置くその手を微かに震わせている。

 

 

 普段、何があっても動じず、赤城さんのことになると少しだけ喜怒哀楽を見せるぐらいだった彼女が始めて見せた顔――――目を背け、耳を塞ぎ、「何かの間違いだ」と悲鳴を上げそうな顔だった。

 

 

 その表情のまま、私の中の(・・・・)彼女が手を伸ばしてくる。助けを乞うように、泣き喚きたいのを堪えながら、必死に手を伸ばしてくる。その姿に、私は彼女に手を伸ばす。彼女の手と、私の手が少しずつ近づき、指先が触れた。その瞬間、私は力強くその手を握りしめた。

 

 

 しかし、その感触は無かった。目を開ける。見えたのは、握り拳を作り前に伸ばされた私の手だ。その中に彼女の手は無い。ただ、汗ばんだ己の手の平のみ。

 

 あれ程の感情を曝け出し助けを求めていた彼女の手を、その体温を、その恐怖を、その悲鳴を、私は受け止めることが出来ない。受け止めることは愚か、触れることも出来ないのだ。

 

 

 当たり前だ、本当の(・・・)彼女は、私に手を伸ばしていないのだから。彼女は、初めから私に助けなんて求めていないのだから。

 

 

 その時、ドアをノックされる。突然のことに思考がストップするも、次に聞こえた声で早々に把握した。

 

 

 

「隼鷹ー? いるかー?」

 

 

 何処か間の抜けた声色で私の名を呼ぶ提督の声だ。その声を聞いて私はほんの少しだけ向こうに立っているであろうドアを黙って見つめるも、再び聞こえた彼の声に重い腰を上げた。

 

 ドアに近付く間も、提督はしつこくノックと呼びかけをくり返す。出てこないとでも思っているのだろうか、そう心の中で悪態をつきながらドアの鍵を外した。

 

 

「聞こえていますから、何度も言わないでください」

 

「すまん、すま―――」

 

 

 ドアの隙間から顔を覗かせる私に提督は苦笑いを浮かべて謝罪するも、すぐにその言葉が途切れ、その表情が変わった。

 

 

「……その恰好」

 

 

 何処か上の空のような声で提督が問いかける。その言葉に、私は自らの身体に視線を落とした。

 

 

 私が着ているのはいつもの制服―――――にある白のブレザーと赤のスカートを取り払い、赤のシャツのみと言ういで立ち。更に赤のシャツは第2ボタンまでを開け、胸元を大きく曝け出している。所々無地の下着が見えてしまっているが、実際は見せている(・・・・・)のだ。それを確認し、私は目を背けながら返答した。

 

 

 

「『処分』と言えば、これ(・・)ですから」

 

 

 彼が私の部屋に来た理由は、先送りにされた『処分』についてだ。

 

 

 その内容は、私が嘘をついたこと。加賀さんが病気で臥せっているとして、今日一日の秘書艦を代わろうとしたことだ。しかし、それは加賀さんが執務室に現れたことで破綻し、虚偽の報告をした私は彼から―――正確には大淀の提案を受け入れた彼によって、今日一日は自室で謹慎、『処分』は追って言い渡されることとなった。だから、彼はやってきた。『処分』を言い渡すために、正確には私に『処分』をさせるためにやってきたのだ。

 

 そして、私にとって『処分』とは彼に身体を差し出すこと、即ち『伽』。初代の頃に強要され、ことある毎に言い渡された『処分』だ。彼が他の艦娘を引き連れてこなかったのも、つまりそういう『処分』だから。稀に引き連れてくることもあったが、それはその艦娘()もまとめて『処分』をさせるため、つまりそういうことなのだ。

 

 

 だから、言い渡されるよりも先にこうして準備した。いちいち時間を喰うのも面倒だし、何より早く終わらせたい。どうせ、()と一緒だから。

 

 

 

 

 

「分かった。じゃあ、先ず服を着てくれ」

 

 

 そう思っていたからこそ、その言葉が予想外だった。いや、もう一つ予想外だったのが、私が開いたドアを提督(・・)が閉めたことだ。

 

 

「ちょ、提と―――」

 

「そんな『処分』はしないし、そんな恰好じゃ話も出来ん。後、頼むからあんまり肌が見えないようにしてくれ……」

 

 

 閉められたドアの向こうで、提督が早口に捲し立てる。後半が少し籠っていたが、何とか聞き取れた。しかし、その意味までは即座に理解できなかった。

 

 

 『処分』と言えば、これだった。他には無い、これが唯一(・・)だった。でも、提督は拒否した。今まで当たり前だった『処分』を拒否したのだ。彼は別のことを課そうとしている。『伽』以外の、別の何かを。何か、別の酷いこと(・・・・)を。

 

 

 そこで、私は思考を止めた。ここでうだうだ考えたところで、どうせ変わらないと思ったから。何か別のことをして、それで提督が満足して、それで終わりだ。私には何も変わらず、どうしようも出来ない、とっとと終わって欲しいことだと、そう決めつけた。

 

 取り敢えず、提督の言葉通りシャツのボタンを留め、片付けておいたブレザーとスカートを引っ張り出し手早く着込んでいく。本来なら髪やアクセサリーで色々と時間がかかるのだが、それに時間を割くことすら惜しい。人前に出られる最低限の恰好まで整え、再びドアを開けた。

 

 

「出来ました」

 

「……おぉ」

 

 ドアの隙間から提督は私を見て、小さく息を吐いた。合格、ってところか。と言うか、これ以上いちゃもん付けられても面倒だ。とっとと部屋に入れてしまおう。

 

 

「どうぞ」

 

「……し、失礼する」

 

 

 ドアを更に開け、提督に中に入る様促す。いきなりドアが開かれたことに驚く彼であったが、すぐに切り替えて私の言葉に従った。その通り過ぎる姿を見ながらドアを閉め、鍵を掛けようとする。

 

 

「あ、鍵はそのままで頼む」

 

「え」

 

 

 後ろから聞こえた提督の言葉に思わず振り向くと、隅に置いていた椅子を抱え申し訳なさそうな顔の彼が立っていた。その姿に、そしてその言葉に私がどんな表情をしていたか、それは彼がちょっと身を震わせたことで何となく察した。

 

 

「さっき『そんな処分はしない』って言ったけど、多分信じてないだろ? んで、万が一に俺がそう言うコトを起こそうとした場合、開いていればすぐに逃げられる。要は、あの言葉が本物である証明だ。まぁ、する気も無いんだけどさ。少しは安心できるだろ」

 

 何処か浮ついていた彼の言葉であったが、最後の方にはしっかりした口調になり視線もしっかりと私に注がれている。その視線に私もじっと見つめ返すも、彼のそれが逸れることは無い。嘘、ではない様だ。

 

 まぁ、仮にそんなことしなくても、私が大声上げて暴れまくれば問題ない気もするが……掛けなかったとこで問題も起きないか。

 

 

「分かりました」

 

「ありがとう」

 

 

 私の言葉に彼はそう言って軽く頭を下げる。その姿を横目に、私はドアノブから手を離し、彼の方を向き立ったまま両手を後ろに回した。提督は椅子に腰を下ろし一息ついた後、私に目を向ける。

 

 

 何故か、そこに沈黙が生まれた。

 

 

「何してんの?」

 

「『処分』を待っています」

 

 

 それを破ったのは提督だ。何故か、不思議そうな顔で問いかけてくる。その言葉をそっくりそのまま打ち返してやりたいのをグッと堪え、そう返した。その言葉に、提督は少し困った顔になる。

 

 

「話をしよう。さ、ここに座って」

 

 

 そう言って、提督は前にあるベッドを軽く叩く。その姿に思わず鋭い視線を彼に向けるも、気にするような素振りは無い。そんな茶番に付き合う気は無い、とっとと『処分』を言い渡せ。そう心の中で悪態を付くも、それを言ったところで意味は無い。その言葉通り、ベッドに近付いて彼に向き直り、ゆっくりと腰を下ろした。

 

 

「じゃあ先ず何でこんなことになってるか、分かるか?」

 

 

 腰を下ろした私に、先ず提督はそんな質問を投げかけてきた。その口調は何処か子供と接するように柔らかい。その柔らかい物腰が気味悪くに映ると同時に、「舐めているのか」と言う怒りが込み上げてくる。しかし、ここで口答えして更に面倒なことになるのは避けたい。

 

 

「『加賀さんが体調不良で秘書艦を代わった』と、嘘の報告をしたからです」

 

「その理由は?」

 

 

 視線を落としながら声を絞り出すと、提督は間を開けずに再び問いかけてくる。その言葉に、更に嫌悪感が沸き上がる。だけど次に聞こえた言葉に、それだけ(・・・・)では済まなかった。

 

 

 

「それと、お前の生い立ちも一緒に教えてくれ。艦娘になる前から今までを詳しく」

 

 

 その言葉に、私の身体は動いていた。ベッドから立ち上がり、椅子に座る提督の襟を掴もうと、そのまま壁に押し付けようとした。

 

 何故そんなことまで話さないといけない。今回の件とは関係ない、話したところで何の意味も無い。なのに何故、それをお前なんかに話さないといけないのだ。

 

 

 そう、しようとした(・・・・・・)

 

 

 

(それ)が『処分』だ」

 

 

 

 その言葉を、そして提督の表情を見て、私の身体は固まってしまったからだ。その言葉は先ほど同様柔らかい、気持ち悪いほど柔らかい。その表情も、子供を見るようなそれだ。

 

 

 だけど、その目は違った。

 

 

 柔らかい表情の中にあるその目は、一切笑っていなかった。研ぎ澄まされた刃物のような、身も心も凍りつくような、そんな冷え切った目だ。声や表情が柔らかい分、その目が、その中でより一層映えた。より一層映えたから私の意識に刻み込まれ、それは全身の動きを奪ったのだ。

 

 

「何、そんな大層なことじゃない。ただ知りたいだけだ。お前がどんな経緯で艦娘になって、此処に配属されるまでに起きたことを。そして、何が今朝のことを引き起こしたのか、そして俺らを毛嫌いするのかを。まぁ、後者は大体想像はつくが……どう思っているのか、教えてくれ。それに――――」

 

 

 そこで言葉を切った彼は、私に笑いかけてきた。相変わらず目のまま、そのせいでその笑顔が笑顔には思えないが、吊り上がった口角や細められた目から、笑顔であると判断した。

 

 

「『信用出来ない大本営からやってきた、訳の分からない上司』に身の内を曝け出すこと……お前にとって、これ以上(・・)はないだろ」

 

 

 その目を逸らすことなく、彼はそう言った。言い切った(・・・・・)。その瞬間背筋に、いや全身に尋常ではない悪寒が駆け巡る。

 

 

 今までの提督(やつら)も、初代でさえもこんなことは無かった。浴びせ掛けられた怒号や罵詈雑言、欲に塗れた視線や言葉、今まで身の毛もよだつモノは幾重にもかけられたが、此処までのモノは無かった。なのに、今向けられたモノは、それら全てがマシだと思えるほどに、『冷たい』と言う言葉でさえも生ぬるく感じさせる程に凄まじかった。

 

 

 そしてそれが私にとって何よりも辛いことだと、分かった(・・・・)上でやっているのだ。

 

 

 

「……酷ぇよ(・・・)

 

「そういうモノだろ、『処分』って」

 

 

 思わず漏れた私の言葉に、彼は冷たく言う。『吐き捨てる』よりも『投げかける』に近い、相手がちゃんと受け取った(・・・・・)かを確認するような、そんな言葉だ。

 

 

 その言葉を受けて私は視線を落とし、淡々と話し始めた。

 

 

 

 艦娘になる前、私は海から離れた町で育った普通の少女だった。いや、『普通』ではないか。両親がその街で有名な地主で、私はそんな家の娘だったから。傍から見れば恵まれた環境だと思う。しかし、当事者の私からすれば、それは苦痛でしかなかった。

 

 何せ、私の一つ上に、私なんかよりも才能に恵まれた『出来の良い』姉が居たからだ。 

 

 姉は天真爛漫で、何でも出来てしまう人だった。決して奢らず、誰とでも真っ直ぐに向き合い、誰にでも笑顔を向ける。まるで天使のような存在だった。そして、妹である私は引っ込み思案で、何をするにも時間がかかり、失敗も多く、いつも誰かの後ろに隠れては周りの視線から逃れることを願い続けた。そんな二人の姉妹がいたら比較するのは当たり前で、当然後者である私は下に見られた。

 

 

 しかし、それよりも辛かったのが、姉が事あるごとに私に引っ付いてくることだった。

 

 

 天真爛漫な姉だ。そこに私を見下そうなんて考えはなく、ただ純粋に私と一緒に居たいから、そんな理由だっただろう。だからこそ『離れて』なんて、そう言えばそれで周りの人間から反感を買ってしまうから、言えなかった。言えるはずが無かった。

 

 しかし、同時に姉は私を認めてくれる唯一の存在だった。

 

 彼女は誰とでも真っ直ぐ向き合い、誰にでも笑顔を向ける。その『誰』に、もれなく私も含まれていた。そこに『強情』と言う気性を付け加えるものだから、誰かの後ろに隠れてしまう私の前に何度も現れ、視線から逃げようとする私を執拗に追いかけることになった。

 

 その最後には、両親が選んだ決して安くは無い服を徹底的に汚し、綺麗に整えられた化粧は汗でドロドロにして、そんな有様になりながらも私を見て、私に向けて、笑顔になった。誰からもそんなことをされたことが無い私にとって、その鬱陶しいまでのしつこさは、自分が認められているように思えたのだ。

 

 つまり、姉は私にとって、耐えがたいほどの劣等感の塊であり、同時に私を認めてくれる、そんな複雑な存在だった。でも、そんな複雑な存在だったからこそ、側に居ることが出来て、周りの視線にも耐えられたのかもしれない。

 

 

 そんな私にも一つだけ、姉が持っていないモノがあった。それは、妖精と意思疎通が出来る――――後に、艦娘の素質と呼ばれる能力だ。

 

 勿論、姉も妖精自体は見えていたが、意思疎通までは出来なかった。両親にも聞いたが答えは返ってこず、ただ気味が悪いモノを見る目を向けられた。でも、姉はそのことを知った時、まるで自分のことのように喜んでくれた。凄い、流石は私の妹、姉として鼻が高い、と。同じことを何度も何度も繰り返しながら、子供のように喜んだ。

 

 そんな姉を見て、同じように私も喜んだ。それは、いつも姉の陰に隠れてその栄光に縋っていた私が、ようやく自分の足で立てた様な気がしたでもあり、同時に姉の横に立てた様な気がしたからだ。

 

 

 だが、自らを証明してくれたそれは、時が過ぎて大本営がある発表をしたことにより、今すぐにでも捨て去りたいモノに変わった。

 

 

 大本営の発表を受け、両親は私を艦娘として志願させようと考えた。多分、厄介払いが出来るとでも思っていたのだろう。この話は使用人の間にも広がり、すぐに私の耳にも届いた。その言葉に、私はいつ何時両親がその話を持ち掛けてくるのか怖かった。艦娘なんて、なりたくなかった。

 

 大体の艦娘になった理由を聞くと、口を揃えて『行かなきゃいけないと思ったから』と答える。そう思った理由は特になく、本能的にそう感じた、と言った見解が通っていた。しかし、自分は違った。その発表を聞いたとき、真っ先に感じたのは『恐怖』。次に凄まじい嫌悪感と、逃げ出したいと言う激しい衝動だ。

 

 艦娘になれば家族と、姉と離れてしまう。それは私を認めてくれる、見てくれる人と離れることとなる。それに艦娘は深海棲艦と戦う、命のやり取りをする存在だ。戦うことは相手を傷付け、そして自分も傷付く、最悪の場合死んでしまうかもしれない。

 

 嫌だ、絶対に嫌だ。私は艦娘なんてなりたくない。そんな場所に連れて行かれるぐらいなら、今の生活で良い。この先周りからどんな目で見られようとも構わない、いつまでも白い目を向けられても構わない。姉の、私を証明してくれる人の傍に居れば、それで十分だ。

 

 

 

 

 

 『艦娘になってお国のために戦うなんて、凄いことじゃない!!』

 

 

 

 

 それは姉の言葉。両親から艦娘に志願するよう言われた時、その傍らに居て、目をキラキラさせて、嬉しそうに、自分が褒められたように喜ぶ姉の言葉だ。

 

 両親はこの話を食事の席で私に伝えてきた。家族が一堂に会する、大勢の使用人や姉が居るその席で。いつも逃げ出す私が何処へも逃げないようにするために、敢えて大勢の人の前でその話を切り出したのかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。私の答えは決まっていた。嫌だと。離れたくないと、そう決まっていた。そのためなら、此処から逃げ出すことだって出来た。

 

 しかし、それを阻んだのが姉だった。

 

 姉の言葉は飛び出す筈だった私の言葉を飲み込ませ、私の手を力強く握りしめる姉の手は逃げ出そうとしていた私の身体をその場に縫い付け、姉の笑顔は私の答えを完膚なきまでに叩き潰したのだ。

 

 姉は私を陥れようとか、見下そうとか、そんな考えは毛頭ない、ただ単に嬉しいだけ。いつもは見抜きもしない両親が初めて妹を見て、その力を、姉である自分が持っていない『艦娘の素質(その力)』を認めたことが、ただ純粋(・・)に嬉しかったのだ。

 

 

 その純粋さが、この時ほど忌々しいと思ったことはない。そんな言葉を、そんな顔を、今の私に向けないで。それが今の私にとって死刑宣告にも等しい言葉(モノ)だと、何故気付いてくれないの。何故、そこまで純粋なの。姉の嬉しそうな顔目掛けて吐き捨てそうになるのを堪えながら、心の中で何度もその言葉を繰り返した。

 

 

 もし、此処で私がそれを言ったら、姉は、その言葉は、その顔はどうなるだろうか。今までと同じになるだろうか、周りと同じになるだろうか、周りよりも酷いモノになるだろうか。いや、少なくとも今までの同じは絶対に有り得ない。純粋な人だ。吐き捨てた私の言葉を、悪い意味(・・・・)で純粋に受け止め、解釈するだろう。

 

 その先に、今まで通りの関係があるとは到底思えない。そしてそれは、私が拠り所としていた唯一のモノが消えてなくなってしまうことを意味している。そんな恐ろしいこと、出来るわけがない。例えそれが、『私自身』を犠牲にしようとも、それが無くなってしまうことだけは何が何でも避けたかった。

 

 

 

 

 

『はい、分かりました』

 

 

 

 だから、そう言った。その言葉に姉は更に顔を綻ばせながら私に抱き付き、私はその身体を受け止めた。当分、その傍に居られないから、そのぬくもりを感じられないから。そう、『当分』だ。志願しても此処に帰ってくる時間があるだろう。その時までの、ほんの少し(・・・・・)辛抱だ。

 

 

 その翌日、私は放り出されるように家を後にし、艦娘への志願者が集う所に向かった。そこで適性審査を受け、私は晴れて艦娘候補生なった。その際言い渡された艦名(名前)が、『飛鷹型航空母艦二番艦 隼鷹』だった。

 

 元々は大型客船であったが、先の戦争により空母に改装され、貨客船よろしく速度、装甲共に他の空母に劣りながらも、客船らしく艦載機の積載量は肩を並べるほどであった空母。様々な激戦を繰り広げ、散っていった先人たちの看板を代わる代わる背負い続け、その終わりまでを走り抜けた歴戦の空母。その後、損傷のために客船への復帰は出来ないままその生涯を閉じた、何とも数奇な運命を辿った空母だ。

 

 そのことを知った時、私は思った。この隼鷹と言う空母()、本当は戦いたくなかったのだ。ただの客船として多く人々を乗せ、世界中を駆け巡りたかったのだ、と。だから、その適性がある私は大本営の発表を聞いた時に恐怖し、嫌悪感を抱き、逃げ出したかったのだ。

 

 かたや客船として生きたかった船、かたや姉の傍に居たかった私。どちらもそう願いながら、望まない運命を受け入れた二人。多分、私ほど隼鷹に適した存在は居ないのではないか、そう思った。

 

 

 それからだ、私の性格が徐々に変わり始めたのが。

 

 

 引っ込み思案だったくせに初対面の相手でも馴れ馴れしく接することが増え、視線から逃げていたくせに進んで大勢の目の前に立ち、姉以外の存在からは離れたかったくせに常に周りに大勢の人が居るようになった。

 

 常に誰かの横に居て、常に大勢の目に入り、常に笑顔を浮かべ、ゲラゲラと下品な笑い声を上げながら過ごす。訓練の成績が悪いことも自分でネタにして周りの笑いを誘うことも、平気でするようになっていた。志願する前の私からすれば、考えられないほどの変わりようだと言える。

 

 

 その答えは、『怖かった』から。

 

 

 常に誰かの傍に居るのは、一人になるのが怖かったから。大勢の目の前に出るのは、だれも見向きもされなくなるのが怖かったから。常に笑顔で下品な笑い声を上げていたのは、そうしないと本当の自分(・・・・・)になってしまうから。

 

 引っ込み思案で、周りの視線から逃げ続け、笑顔も浮かべない――――そんな本当の私では誰からも見てもらえないと、認めてもらえないと、証明してもらえないと思ったからだ。姉と言う拠り所から離された私には、それが耐えられないと思ったからだ。

 

 

 同時に、彼女たち(・・・・)との差を少しでも隠したかった。

 

 

 『行かなきゃいけない』と言う使命感で志願した周りと、周りに志願させられ『拠り所を壊すくらいなら志願した方がマシ』と妥協した私。戦うために生まれ、戦うことを望んだ周りと、人を乗せるために生まれ、人を乗せることを望んだ隼鷹。深海棲艦と戦うことを心から望む周りと、それから逃げたくて逃げたくて堪らない私たち。

 

 その差が露見した先に何が有るか、私は見たくなかった。多分、隼鷹も同じだったのだろう。そんな二人の願いから、段々と性格が変わっていったのだ。

 

 

 しかし、それをずっと続けられる程、私たち(・・・)の身体は強くなかった。

 

 お手洗いに行って吐くのはしょっちゅう、食事も喉を通らなくなることもあった。だけど、そんな姿を周りに見せられるわけも無く、誰かの前では常に自分を偽り続けた。無理が祟り倒れることもあったが、それは訓練のせいにした。艦娘になる前は良いところのお嬢様だったと言う経歴もあり、誤魔化すのは苦労しなかった。

 

 それでも、誰かが居なくなると決まって目頭が熱くなり、我慢していた嗚咽が漏れることが多々あった。しかし、誰かが来ればそれらは瞬く間に引っ込み、いつものケロリとした顔になっている。そう、身体が覚えていたのだ。その分、吐き出す時はより激しく、より辛いモノに変わっていたが。

 

 

 しかし、それもいつしか当たり前になった。同時に、今の自分は本当か偽りか、今の感情は本当か偽りか、それすら分からなくなってしまった。

 

 

 だからだろう、訓練期間中に一度だけあった帰郷のチャンスが潰されてしまったことに特に何も感じなかったのは。

 

 その理由は、帰郷した訓練生の一人が深海棲艦の襲撃に巻き込まれ命を落とした、それも故郷である村の人たちに訓練生が単艦での出撃を強要されたためだとか。その村人たちは村ぐるみで脱税に手を染めており、その件と今回のことを含めて裁判で裁かれる、と聞かされた。

 

 その発表に周りはその訓練生の死を悼み、同時にその村人たちに静かな怒りを向けた。私も周りに合わせて怒りを露わにしたが、心の中では何も感じなかった。ただ、帰れないのが残念だな、としか思えなくなっていたのだ。

 

 

 そんな、本当の自分と偽りの自分とがごちゃごちゃになったまま訓練期間を終え、初代が提督を務める鎮守府に配属された。そこで味わう地獄の日々でも、私のそれ(・・)は変わらなかった。

 

 殴られても、罵られても、伽をさせられても、どのような辛いことがあっても、ずっとヘラヘラと笑い続けていたのだ。辛くなかったわけではない、嫌じゃなかったわけではない、笑いたかったわけではない。なのに、無意識の内に笑いが込み上げてくるのだ。

 

 いや、『笑うこと』しか出来なくなった、の方が正しいだろう。今、その時、どんなこと、どのような感情を持っているのか、それが本当なのか偽りなのか、それが分からなくなったから『笑うこと』しか出来なくなったのだ。

 

 

 『笑っている私』すらも本当の私か、偽りの自分か、軽空母 隼鷹(もう一人の自分)か、分からなくなったのだ。

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 そんな自身の存在が不安定になった私にそう言って頭を下げてきたのが、加賀さんだった。それは彼女たちがここに配属されてから、初めて顔を合わせた時だった。初対面の人にいきなり頭を下げられて戸惑う私に、加賀さんは続けてこんなことを言った。

 

「貴女、隼鷹よね? ()の私たちが沈んだ後、他の子達と一緒に『一航戦』を、そして空母機動部隊を最後まで支えてくれた。貴女には色々なモノを背負わせてしまって、本当にごめんなさい」

 

 加賀さんの言葉に、戸惑っていた私はようやく理解した。彼女は『加賀航空母艦一番艦 加賀』として、飛鷹型航空母艦二番艦 隼鷹()に謝罪をしたのだ。

 

 彼女と私の関係は、空母機動部隊の歴史を紐解いていけば嫌でも分かる。そして、その歴史は私の歴史でもある。その中で、端的に言ってしまえばこう云うことだ。

 

 

 自他ともに戦うために生まれ、『最強』の名と馬力、速力、装甲を備えて海を刹那(・・)に駆け抜けた一航戦と、『他』から戦うことを強要され、凄まじい重圧と沢山の死を一身に背負わされた名義上の一航戦。

 

 

 それが、私たちの関係だ。

 

 だけど、それはその時がそうだっただけで今は全然関係ないし、私は何とも思っていない。だから、気にしないで欲しい。そう告げた。すると、加賀さんから返ってきたのは、予想もしない事だった。

 

 

 

「無理しなくていいのよ?」

 

 

 その言葉と共に眉を潜め、何処か心配そうな表情を、その手を私の頬に手を当て覗き込んできたのだ。突然のことだった。その言葉、その行いが理解できなかった。

 

 だから、色々と口走ってしまった。その言葉が隼鷹()の本心なのか、はたまた『他の私』なのか、分からなかった。

 

 目の前で、初対面でそんなことを口走ったせいで。加賀さんは頬に触れていた手を頭の後ろに回し、そのまま隼鷹()を抱き寄せた。

 

 

「余計なこと言って本当にごめんなさい。ただ、貴女は()の隼鷹じゃなくて艦娘(・・)の隼鷹……いえ、それでもない(・・・・・・)。貴女は『貴女』。艦とか艦娘とか、そう言うのとか関係ないの。貴女は、『貴女』と言う存在なの。ただ、()の名前が隼鷹ってだけで、本当(・・)の名前は違うわ」

 

 

 彼女は言った。隼鷹()は艦の隼鷹じゃないと、艦娘の隼鷹でもないと。隼鷹()は『私』だと。艦とか艦娘とか関係ない、『私』と言う存在。ただ、今の名前が『隼鷹』と言うだけで、本当の名前は違うと。そう言った。

 

 その言葉に、私はまたもや何かを口走った。しかし、その言葉はより一層加賀さんに抱きしめられたことで、そして加賀さんの言葉によって途切れてしまう。

 

 

 

「だから、その取り繕った(・・・・・)口調はやめて。後、その貼り付けた(・・・・・)笑顔も。そんなもの、『貴女』には必要無いんだから」

 

 

 『貴女には必要ない』。それは、艦娘になってから今までずっとそれを続けた私の全てを全否定する言葉だった。数え切れぬほど吐き、本当の自分すらも分からなくなるまで我慢して作り上げてきた『私』を否定する言葉だ。

 

 でも、それは同時に私を――――――飛鷹型航空母艦二番艦 隼鷹と言う、やりたくないことをやり続け笑うことしか出来なくなった『偽りの自分』ではない。引っ込み思案で、周りの視線から逃げ続け、笑顔を浮かべることのない『本当の自分』に向けられていた。

 

 それは、欲しかった言葉だった。『本当の自分』を犠牲にし、上塗り続けた虚構の中で消えかかっていたそれを見つけ出してくれた。自身と正反対の人物を無理やり演じることも、自分を押し殺すことも必要ないと、本当の私で十分なのだと、そう教えてくれた。本当の私を認めてくれた言葉だった。

 

 艦娘になって――――いや艦娘になる前からずっとずっと欲しかった、私を認めてくれる純粋(・・)な言葉だった。

 

 

 だから、思わずその胸の中で泣いてしまった。本当の自分を曝け出してしまった。それが嬉しくて、有難くて、申し訳なくて、それら全てをひっくるめた感情が、今まで必死に押し殺してきた感情が、止めどなく溢れ出てしまった。

 

 それを加賀さんは本当の私を、初対面の私を突き放すことなく抱きしめてくれた。純粋な、本当の、私の拠り所になってくれた。

 

 

 

 

 だからこそあの時の加賀さんを、脚の現状を知った直後の彼女を見た時。『守らなきゃ』、『拠り所に成らなきゃ』、そんな言葉が真っ先に思い浮かんだ。

 

 加賀さんの拠り所(それ)は、赤城さんだ。しかし、彼女は遠いところに行ってしまった。その事実に、そして己の身体のことに、加賀さんは打ちのめされている。自分を見失いかけている。踏みしめるべき地面も、掴むべき場所も、向くべき方向も、全てが見えなくなっている。

 

 

 そんな彼女を『誰が』守るのか、打ちのめされた彼女を『誰が』支えるのか、見失ってしまった彼女に『誰が』その拠り所になるのか。誰が、誰が、誰が。

 

 

 

 そんなの、『私』しかいないではないか。彼女たちを背負い最後まで支え続けた『隼鷹()』しか、加賀さんに拠り所になってもらった恩返しをしなければ、いやしたくてたまらない(・・・・・・・・・)本当の私()しか、考えられないではないか。

 

 私は、赤城さんのようにはなれない。でも、そんな私でも、何か出来るはずだ。拠り所ではなくてもいい、彼女の横でなくても良い、彼女の周りに居るその他大勢の中の一人で良い。それでも出来ることがある。なら、私はそれを全力でやるだけだ。

 

 

 だから、初代に噛み付いた。本当の私が『偽りの私のような口調』で、猛犬のように噛み付いたのだ。

 

 だから、大本営を憎んだ。こんな姿になってまだ戦力として扱う初代を、そんな初代の所に彼女を配属させた大本営を憎んだのだ。

 

 だから、やってくる提督を嫌った。初代が蒸発し新たにやってきた、何も出来ない役立たずの提督たちを、初代のように艦娘を扱おうとした提督たちを嫌ったのだ。

 

 だから、提督が捨てられる(・・・・・)よう仕向けた。早めに芽を摘むために何人かと手を組み、やってくる提督を追い詰め、此処かへ捨てられる(・・・・・)ように。そう仕向けたのだ。

 

 

 

 それが加賀さんを、ひいてはこの鎮守府に所属する全ての艦娘を守れると、そう思った。

 

 

 

 

 

もう十分(・・・・)だ」

 

 

 そこまで話したところで、提督の声とともに私の顔に手を翳す。その言葉に、私は我に返った。

 

 これは『処分』だ。『信用出来ない大本営からやってきた、訳の分からない上司に身の内を曝け出す』と言う、提督から私に向けた最も酷い『処分』だ。なのに、その『処分』を止められた瞬間、私はこう思ってしまった。

 

 『話し足りない』と、そう思ってしまった。『まだまだ話し足りない』と、『言いたいことが山ほどある』と、『此処で全て(・・)吐き出してしまいたい』と、そう願っているのだ。

 

 もし、彼の手が離れたら、私の口は勝手に語り出すかもしれない。もし、彼が言葉を挟もうとすれば、私の手がその口を抑えるかもしれない。もし、彼が話をやめさせようとするなら、私の身体は盛大に暴れるかもしれない。

 

 そんな熱が、感情が、胸の内から沸き上がっているのだ。

 

 

そっか、分かったよ(・・・・・・・・・)

 

 その感情を押し殺すように、そう言った。すると翳されていた提督の手が下げられ、その先に彼の顔が見えた。その表情は先ほどの身の毛もよだつようなモノではない、予想外のモノを見せつけられ困惑しているようなモノだった。しかし、それもすぐに別のモノに変わる。

 

 

 眉を潜め、何処か心配そうな、何処か悲しそうな表情だ。それは、あの時の加賀さんの表情によく似ていた。

 

 

「すまなかった、隼鷹」

 

 

 いきなり、提督がそう言って頭を下げた。突然のことに何も言えないでいる私に、彼は立て続けに言葉を続けた。

 

 

「自分の身の丈を話してくれたことだ。『処分』だったとは言え、辛かっただろう。先ず(・・)、それを謝りたかった。そして―――」

 

 

 そこで言葉を切った提督は、再び顔を上げた。そこにあったのは、笑顔だ。それも、先ほどの身も凍りつくようなモノではない。むしろジンワリとした暖かさを与えてくるモノだった。

 

 

 

「加賀を、皆を守ってくれてありがとう」

 

 

 提督の言葉。その言葉に、私の思考は停止する。しかし、何故か口は勝手に(・・・)語り出した。

 

 

「な、何言ってんですか。確かに守ろうとしたのは事実だけど、あたしはあんたを捨てようとしたんだぜ? 艦娘たちならまだしも、何で捨てようとした人から感謝なんかされなきゃいけないんだよ」

 

今朝(・・)のは違うだろ? 非番を潰して、嘘の報告をしてまで、加賀を俺に近付けさせたくなかった。バレるリスクも十二分にあった、バレれば加賀に迷惑をかける。それでも強行した、実際にバレて加賀に責められた時も何も言い出せなかった。それは、加賀を『訳の分からない上司』から守りたかったからだ。それに試食会の時だって、俺は傍から見れば信用ならない一人の人間に見えて、これは罠かもしれない、そう思っただろう。だから、汚れ役を買って出た。それは、皆を俺から守りたかったからだ。お前の言う通り(・・・・・・・)、『全部』そうだっただろ?」

 

 そこで、理解できた。彼の言葉は、私の姿を、私の行いを、私の考えをしっかり見た上で、それを認めてくれる言葉だと。加賀さんよりも(・・・)、もっと私を見て、認めてくれた言葉そのものだと。

 

 

 なのに、提督のその言葉が嫌で嫌で仕方が無かった。

 

 

「や、やめてくれよ。むず痒くなっちまうから」

 

 否定するも、提督は肯定する。なんでだよ。

 

「周りはそんなこと知らないし、知らないことは無いことと一緒だろ?」

 

 認知されないモノだと言うも、提督は自分が知っていると言った。あんたが知ってたって意味無いんだよ。

 

「これはただの自己満足……親切の押し付けだよ」

 

 周りからすれば害悪以外の何物でもないと言うも、提督は全員がそんな風に思ってないと言った。あんたがそう言ったって説得力なんか無いんだよ。

 

「試食会の時だって、皆はあたしじゃなくて提督を信じたんだ。意味無かったんだよ、結局」

 

 無意味だったと言うと、提督はお前がきっかけになったからこそ、曙や夕立、龍驤、長門、天龍、龍田、北上、そして艦娘全員が動けたんだ、お前のお蔭だ、と言った。あんたがそう言ったって、全くフォローになってないんだよ。

 

 

「だから―――」

 

「隼鷹」

 

 私の言葉を遮った提督は、いつの間にか視線を逸らしていた私の肩に手を置き、自分の顔が見えるところまで引き上げた。そこで、私は今日一番の嫌悪感に襲われた。

 

 

 あぁ、そうだ。私はそれが嫌なのだ。その、全部分かっているような(・・・・・・・・・・・)顔が、嫌で嫌で堪らないのだ。そんな私を他所に、彼はまた、私が嫌で嫌で堪らない言葉を吐いた。

 

 

 

「だから、『ありがとう』」

 

 

貴方じゃ意味が無いんですよ(・・・・・・・・・・・・・)!!」

 

 そこが限界だった。感情を押し殺すのが、取り繕うのが、貼り付けた笑顔でいられるのが、限界だった。

 

 

「貴方じゃ……貴方じゃ意味が無いんです!! 私が本当に欲しいのは貴方の(・・・)じゃない!! 聞きたいのは貴方じゃない!! 言われたいのは貴方じゃない!! 見て欲しいのも、認めて欲しいのも、貴方じゃないんですよォ!! ですから……ですから……」

 

 

 言った。言ってしまった。あれ程我慢したのに、あれ程押し殺したのに、本心を、本音を、言ってしまった。それも、彼が最も傷付くであろう『彼を否定する』言葉を、誰よりも何よりも私自身(・・・)が最も傷つく言葉を、それを浴びせられることを最も恐れ、逃げ続けた言葉を。有ろうことか、私が浴びせてしまったのだ。

 

 『怖い』――――顔を上げるのが『怖い』、彼の顔を見るのが『怖い』、彼の言葉を聞くのが『怖い』、彼に同じ言葉を浴びせられるのが『怖い』……最も『怖い』。それが、私が浴びせたことへの報復だとしても、それを受けるのが道理だとしても、『怖い』、『怖い』のだ。視線から逃れたいのだ、逃げ出したいのだ。

 

 

 

「分かってる」

 

 

 ふと、そんな声が聞こえた。それを発したのは提督、その声色は穏やかだった。突然のことに、思わず顔を上げてしまう。上げてしまった瞬間、後悔した。しかし、それも彼の表情を見たことで、別の(・・)後悔に変わった。

 

 

「分かってるよ、初めから(・・・・)

 

 

 もう一度、彼はそう言った。その表情は、苦笑いだ。彼の言葉通り(・・・・)、『初めから』、『全部』、分かっていた表情(かお)だった。それを見て、私はすぐに謝ろう(・・・)とした。でもそれは、提督の後ろから聞こえてきた別の声を聞いたことで、出来なくなってしまった。

 

 

 

 

「本当に、分かっているの?」

 

 

 私は、そして目の前の提督は弾かれるように身体を回し、声の方を向いた。そして、再び(・・)目を見開いた。

 

 

 その先には、大きく開け放たれたドア。そしてその先には今朝と同じ光景が―――少し俯き加減の大淀を従え、身を預けた車椅子の上で、真っ直ぐ私たちを見つめる加賀さんが居たのだ。

 

 

「加賀……なんでここに」

 

「『すぐ戻る』って言ったくせにいつまで経っても帰ってこないから、大淀と一緒に迎えに来たのよ。後、此処に来るなら秘書艦である私を従えないのは頂けないわ。それも込み(・・)で、分かっているのか聞いてるのよ」

 

 

 提督の言葉に、加賀さんは深いため息をつきながらそう返す。それと同時に、彼女の後ろに控えていた大淀さんが車椅子を押し、二人は部屋に入ってくる。その姿を、私は呆けた顔で見つめ、提督は気まずそうに視線を逸らした。

 

 

「え、いや、その……」

 

「……まぁいいわ。それで、『処分』は済んだの?」

 

「あぁ、お分かり(・・・・)の通りだ」

 

 

 提督の言葉に、加賀さんが鋭い視線を向けるも、提督はすぐに目を逸らすだけで何も言わない。しばらく、加賀さんはそんな彼を見つめるも、やがて諦めた様にため息を吐いた。しかし、次にその口から出た言葉に、私は耳を疑った。

 

 

「午後の執務、休んでも構わないかしら?」

 

「あぁ、良いぞ」

 

 

 加賀さんの言葉に思わず声が出そうになるも間をおかずに了承した提督の言葉に更に驚き、出掛かった言葉を飲み込んでしまう。そんな私を尻目に、提督は座っていた椅子を手早く戻し、加賀さんの後ろに居た大淀共々部屋から出て行ってしまった。

 

 

 あっという間のことに、未だに固まっている私、そして静かに佇んでいる加賀さんに、提督と大淀はドアを閉める直前でこんな言葉を残した。

 

 

『ごゆっくりどうぞ』

 

 

 その言葉を残し、二人は出て行った。残された私は、二人が出て行ったドアを見つめ続け、加賀さんは何も言わない。その十秒もない沈黙が、私には何時間のように感じられた。

 

 

「隼鷹」

 

 

 しかし、それも加賀さんに名前を呼ばれたことで破られ、私の身体も彼女の方を向く。そこに、真顔の加賀さん。だけど、その目は真っ直ぐ私を見据えており、見つめ返すのが辛かった。

 

 

 だから、無意識になってしまった(・・・・・・・)のだろう。

 

 

「どうしたんだよ加賀さん、そんな顔してさ。あ、執務中に何もされてないよな? 何かあったら言ってくれ、すぐに行くからさ……だから―――――」

 

 

「必要ないって言ったわよね、『それ』」

 

 

 だから、その言葉を投げかけられてしまったのだろう。その言葉に偽りの自分は、軽空母 隼鷹もすぐさま消え失せた。

 

 

「先ず、私との話が終わったら、一緒に提督に謝りに行きましょう。さっき言ったこと、後悔してるんでしょ?」

 

「はい」

 

 

 加賀さんの言葉に、私は素直に頷く。もし『処分』が無ければ私は何かと理由を付けて行かなかったと思う。でも『処分』があった今なら、彼と話して自分のやったこと、自分に非があることを痛感した今なら、素直に行ける。

 

 ちゃんと向き合って、ちゃんと目で見て、ちゃんと言葉でぶつかって、それだけやってから好きに語れ、ってか。これが曙の言う『経験』ってやつなのだろうか。なるほど、確かにそうだよ。

 

 

「そして、これからはちゃんと私と話してちょうだい。貴女の言う通り(・・・・)、今朝のことは『親切の押し付け』よ。申し訳ないけど、それが私のためだと言われても納得できないわ。私のためを思うなら彼同様、私とも向き合ってほしいわ」

 

「……はい」

 

 

 次の言葉、それは私を否定する言葉だった。だから、思わず語尾が掠れた。しかし、それは否定されたことが悲しくて掠れただけではない。

 

 

 その直後、顔の横に腕が伸び、そのまま顔を掴んだ。すぐさま下に引っ張られ、やがて視界は目を閉じる加賀さんで一杯になった。私のおでこに彼女のおでこが、私の鼻先に彼女の鼻先が触れるまで、加賀さんは私を引き寄せていた。

 

 

 

 

「『ごめんなさい』」

 

 

 そして、視界を埋め尽くす加賀さんの顔が、目が開き、頬が緩み、子供を見るような柔らかい表情に変わり、その言葉を零した。

 

 

「『ごめんなさい』。気付いてあげられなくて、あんな酷い言葉を言ってしまって、本当に『ごめんなさい』」

 

 

 違う。違うんだ、加賀さん。謝られたくなんか無いんだ。私が本当に欲しい言葉は、聞きたい言葉は 言われたい言葉は。それじゃないんだ。

 

 

 

 

 

「『ありがとう』」

 

 

 でも『その言葉』を、やっぱり(・・・・)その言葉を私に向けて語り掛けてくれたのは、私を見てくれた人、認めてくれた人、故に守りたい人、だから大切な人。

 

 

 純粋な、本当の、私の拠り所になってくれた加賀さん()だった。

 

 

 そんな彼女を前にして私は『また』、本当の私(同じ姿)を見せてしまった。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「どうしました? 提督」

 

 

 隼鷹さんの部屋を後にし執務室へと帰る道中。目に見えて落ち込む提督を見て私は思わず聞いてしまった。

 

 

「いや……本当に分かっていたし、期待してなかったんだけどさ。こうも正面切ってハッキリ言われると……心に来るって言うか。いや、分かっていたんだけど」

 

「言い訳にしか聞こえませんね」

 

 

 彼の言い訳を断言して、更に肩を落として落ち込む提督。その姿にちょっとだけ笑いそうになるのを堪え、再び聞いた。

 

 

「と言うか、本当に分かっていたんですか?」

 

「……何が?」

 

「私たちがあそこに来ることですよ」

 

 

 私の言葉に提督は一瞬キョトンとした顔になるも、すぐに理解したのか何処か遠くを見つめるような目になる。その姿に、私は加賀さん(・・・・)が言ってたことが本当だと思った。

 

 

『多分、提督は私が来ると分かっている』

 

 

 そう語る加賀さんの顔は、少し嫌そうだった。普段、表情が変わらない彼女のそんな顔を見て私は表に出さない様心の中だけで驚いたのだが、今回(・・)は隠せなかった。

 

 

 

 

「いや、全然」

 

「は?」

 

 

 流石にその発言には声を抑えきれなかった。そこで固まる私を尻目に、やはり遠い目のまま提督は言葉を続けた。

 

 

「まぁ、隼鷹があんなことをした理由も、そこに加賀が居るってことも、あんな形じゃないと隼鷹も言ってくれないってことも、それを加賀が聞かなきゃいけない(・・・・・・・・・)ってことも、一応は分かってたんだ。だけど、最後のは加賀と別れた後に分かったことだからさ? どうしよっかってすげぇ焦ってたんだよ。このまま加賀を呼びに行くのもアレだし、隼鷹も加賀が居たら話してくれないだろうな~、って思ったからさ。だから、来てくれた時は本当に驚いたし、本当に助かったよ。でも――――」

 

 

 彼はそこで言葉を切り、苦笑いを向けてきた。

 

 

 

「来てくれるだろうなって、『思ってた』」

 

 

 その言葉、その表情、その姿に、私は彼に見入ってしまった。その視線に、彼が気付くことは無い。

 

 

あれだけ(・・・・)のこと言ったんだ。言った張本人が分からないわけないだろうし、アイツなら分からないと示しが付かないだろうし。だから、思ってた。自分で気づいて、やって来て、聞いてくれて、ああ言ってくれて、『欲しい言葉』を言ってくれているんだろうな、って、思ってた。ま、希望的観測だったけど」

 

 

 そう言って、提督は笑いかけてくる。その時、私は彼から目を背けていた。その理由を、私は何となく理解していた。

 

 

 

「それで良いんですか?」

 

 

 だから、聞いてしまった。その理由を知って、今の自分が彼と同じ立場(・・・・・・)だと、そう思ったから。すると、視界の外から彼の声が聞こえてくる。

 

 

「まぁ、あそこまで想われてちゃな……そこに入り込むのも無粋ってモンだし。それにあの二人に限らず、此処には互いを見ていなかったり、片方が気付いてなかったり、気付いているのに目を逸らしている奴らが多い。そう言った奴らは、俺が『理由』にならなくて大丈夫だ。だから、その代わりに俺はそんな奴の、互いを見る、気が付く、目を向ける。そんな――――」

 

 

 そこで提督は言葉を詰まらせた。顔を上げると、提督が見える。やはり、彼は苦笑いを浮かべていた。何処か悲しそうな、悔しそうな、苦しそうな、辛そうな。彼がここにやってくる前、いつも()で見ていた顔。

 

 

「『きっかけ』になれれば、それで良いかなって」

 

 

 

 金剛さん(あの人)が浮かべていた、それだった。

 

 

 

『分かってないですねぇ』

 

 

 

 そんな提督に、私はそう言いたかった(・・・・・・)。あの時と同じように、あの人と同じように、同じ言葉を言いたかった。でも、言えなかった。言えなかったから歩き出した。立ち止まっている彼の横を通り過ぎて。

 

 

「まぁ、()はそれでいいんじゃないんですか? じゃあ、先に帰っててください」

 

「え、えっと……何で?」

 

「加賀さんとの休憩からそのまま隼鷹さんのところに行って、どうせ疲れている(・・・・・)んでしょう? コーヒーでも淹れますよ」

 

「いや、休憩だったし。別に疲れてなんか」

 

 

 歩き出す私の背に彼がそう言ってくる。だから、立ち止まって振り返り、窘めるような顔を向けた。

 

 

「分かりますよ。あれだけ一緒に執務をこなせば、否が応にでも」

 

 

 それだけ言って、私は彼に背を向けて歩き出した。後ろを見ないように、前を見据えて。そんな私の耳に、彼の言葉が聞こえてきた。

 

 

 

 

「すまんな、大淀」

 

 

 その言葉に私は後ろを振り返らず、ただ手をヒラヒラとさせた。すると、後ろから床を踏みしめる革靴の音が聞こえ、段々と小さくなっていく。それを聞きながら、私は小さくこう溢した。

 

 

 

「それじゃないんですよ、欲しい(・・・)のは」

 

 

 そう溢した時、私の頭には、隼鷹さんの部屋に向かう道中、加賀さんの言葉がやっぱり(・・・・)本当だったと実感した。

 

 

 

『多分、提督は私が来ると分かっている、提督(自分)じゃ隼鷹(あの子)の『理由』になれないことも、分かっているんでしょうね。だから、敢えて私を置いて行った。どうやら、私は彼がそう分かる『きっかけ』にはなれたけど、彼がもう一歩踏み出す『理由』までにはなれなかったようね』

 

 

あれだけ一緒に(・・・・・・・)居たのに……『きっかけ』にすらなれないのか、私」

 

 

 そう溢し、眼鏡を外して袖で目元を拭い、再びかけなおした。おかげでぼやけていた視界がクリアになる。そのかわりに拭った袖は、ほんの少しだけ湿った。



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込められた『想い』

「今日、執務しなくていいわよ」

 

「はい?」

 

 

 唐突に言い渡された言葉に、俺は素っ頓狂な声を上げた。俺の前に居るのは本日の秘書艦である加賀、そして彼女に控える非番の隼鷹だ。この組み合わせは珍しい……と言うか先日のことを考えれば大分気まずい組み合わせに見えるだろうが、こうなったのには理由がある。

 

 

 それはあの日の午後、二人揃って執務室にやってきた時だ。

 

 

『すみませんでした』

 

 

 執務室に現れた隼鷹は真っ先にそう言って頭を下げてきた。気にしてない、と言ったが、彼女はその後も何かと理由を付けて頭を下げてくる。その表情は硬く、申し訳ないと言う思いが嫌でも感じられた。そこまで気に病まなくてもいいんだけど、これが彼女の素なのだろう。

 

 一緒に謝りに来た加賀も複雑そうだった。こうなってしまった原因が自分にあると分かっているからか、そんな顔にもなる。そんな割と気まずい空気を払拭しようと、俺はお願いした。

 

 

『なら、これから()加賀の傍に居てくれ』

 

 

 そう言うと、隼鷹も加賀も驚いた顔を向けてくるので、俺はニッコリと微笑みかける。すると二人は俺を、そして互いを見合う。しばらくの沈黙の後、加賀は恥ずかしそうに、隼鷹は嬉しそうにこう言ってきた。

 

 

『ありがとうございます』

 

 

 その時、隼鷹が浮かべていた笑顔は多分本物(・・)なんだろうな。加賀も恥ずかしそうではあったが、その表情に不快感は無かったから少なくとも嫌ではないだろう。

 

 

 とまぁ、そんなこんなで隼鷹は加賀と一緒に居ることが多くなり、同時に話す姿も見られるようになった。その様子はまだぎこちないが、両者ともよく笑顔を溢すから関係自体は上手く行っているようで一安心。その分、隼鷹があまり顔を合わせてくれなくなったが……まぁ二人が良好な関係を築けているならそれでいい。

 

 だから、後ろに隼鷹が居るのは分かる。だけど、加賀の発言が分からない。そしてこの状況―――――今日の執務がまとめられたファイルを渡しに来たであろう加賀が何故か渡さず、その言葉をぶつけてきたこの状況が。

 

 

「どういうこと?」

 

「言葉通りです。今日は執務をしなくていいの、要は『非番』よ」

 

 

 加賀の言葉に、俺は首を傾げた。今日は元々執務をする予定だった……と言うか、提督()に非番なんて無いだろうよ。戦闘をするわけでもないし、艦隊を指揮するわけでもない。ただ書類を捌いて、艦娘たちのコンディションを管理するだけだ。負担が無いとは言えないけど、艦娘に比べたら微々たるモノだぞ。

 

 

「だからと言って、ずっと働きっぱなしは良くないでしょう。働いた分はちゃんと休まないと駄目。幸い、急ぎのモノは昨日の内に済ませたし、資材だって大本営からの支援と遠征組のお蔭で十分と言えるわ。今日くらい、休んだって支障無いわよ」

 

 

 うん、まぁ、そうかもしれないんだけど。多少は資材に余裕も出てきたし、急ぎの書類も昨日粗方捌いたから心配ないとは思うんだ。でも、だからと言って安心は出来ないし、何より俺自身がもっと早く執務を捌けるようにならないといけないんだよ。

 

 

「体調管理も提督の立派な仕事よ。それに貴方が倒れて真っ先に迷惑を被るのは私たちなんだから、それも含めて休んでって言ってるの」

 

「……そうか?」

 

「そうよ。それに、周りに『休め休め』と煩く言うなら、先ず自分が休まないと説得力ないわよ?」

 

 

 何処か聞いた……と言うか、言った覚えのある屁理屈をぶつけられ、思わず顔をひきつらせてしまう。まさか自分がそれを言われる立場になるとは、もうちょっと自戒しよう。

 

 

「ともかく、今日は一日お休みなさい。部屋でゆっくり休むも良し、他の子達と触れ合うも良し、静かなところでボケっとするのも良し。ゆっくり羽を伸ばしてきなさい」

 

 

 加賀はそう言い、ファイルを開き目を通し始めた。その姿を見て、俺は一日非番を貰った自分の姿を思い浮かべいた。

 

 

 

 部屋でゆっくりする――――ベットでゴロゴロしてる自分、その横でギラついた目を向けてくる榛名。

 

 

 他の艦娘と触れ合う――――いろんな子と話そうとする自分、その横でべったり抱き付いてくる榛名と俺たちを白い目で見る艦娘たち。

 

 

 静かなところでボケっとする―――木陰のベンチに腰を下ろす自分、その横で膝枕をしてくださいと鼻息を荒くしながらせがんでくる榛名。

 

 

 

「どうしよう……どのパターンでも某戦艦娘が居るんだが」

 

「その某戦艦娘なら、今日出撃で夜まで鎮守府に居ないわよ」

 

 

 全てのパターンに出現する某戦艦娘に戦慄する俺に、加賀がそう言いながらファイルを見せてきた。そこには、榛名の今日のスケジュールが記載されており、朝は哨戒から昼は遠方海域の偵察と、今日は殆ど一日鎮守府に居ないとあった。それを見てホッと胸を撫で下ろした俺は悪くない。

 

 

「『今日』と言う日に非番を思いついた隼鷹に感謝しなさい」

 

「ちょ、加賀さ」

 

 

 加賀の言葉に後ろの隼鷹が声を上げるも、俺が顔を向けたことで気まずそうな顔になる。相変わらず目を合わせてくれない。

 

 

「そ、その……提督が休みだと確実に榛名さんがベッタリくっつくだろうなって……避けた方が良いかな、って思いまして……余計でした?」

 

「いやいやいや、そんなことないそんなことない!!」

 

 

 申し訳なさそうな隼鷹に少し大げさに手を振り、お礼を言う。榛名には悪いけど、本音を言えば凄いありがたい。アイツも俺のことを考えてああいうことをしてる筈……だよね? 俺のことを思ってだよね? 決して邪な考えとかないよね? いや前に垣間見えたけども。

 

 そんな俺の言葉に隼鷹は一瞬呆けた顔になるも、そう言って顔を背けた。背けた先で胸を撫で下ろしていたけど、自分がやったことが不安だったのかな。まぁ、やっちゃった後に自身無さげな顔をされてもねぇ……筋は通ってるし、俺も助かるし、もうちょい自信持っても良いんだけどなぁ。一応言っておくか。

 

 

「別に間違ってないんだから、もうちょい自信持って良いんだぞ?」

 

「貴方も人のこと言えないでしょ」

 

 

 そう言ったら加賀からジト目と鋭い突っ込みをもらう。いや、そんなことは…………すみません、すっごいブーメランでした。で、でも『ブーメランだって分かるからこそ言える』ってのもある筈……え、説得力? 皆無です、すみません。

 

 

「そういうわけで今日は一日休み、それでいいわね?」

 

「あ、はい」

 

 

 その剣幕と低い声で言われたらもうそう言うしかないよね。あれ、俺提督だよね? 上司だよね? 何で部下の言うこと聞いてるんだろ……今更か。うん、今更だ。もう『今更』で納得する自分が居る。悲しくはないけどすごく空しい。

 

 

「じゃあ、そろそろ行くわ。ゆっくり休んでね」

 

「あぁ、分かった。隼鷹も、気ぃ遣ってくれてありがとうな」

 

「え、あ、は、はい!!」

 

 

 俺の言葉に隼鷹が素っ頓狂な声を出し、加賀と共に出て行く。自分に声をかけられるとは思わなかったのだろうか、でもその後加賀と共に出て行く彼女の顔に笑顔が浮かんでいた。これも『素』なのかね、良いことだ。

 

 

 さて、隼鷹たちの好意でいきなり暇になったわけだが、ぶっちゃけ何をしたらいいのか分からん。休むと言っても大淀との『一休み』ぐらいだし、それも執務室内で完結していたからあまり外に出たことも無かったな……あぁ、この気持ち、多分艦娘(みんな)味わったんだな。自戒しないと。

 

 まぁ、せっかくの休みだ。加賀の言葉通り、鎮守府をブラブラさせてもらおう。艦娘と直に触れ合えるいい機会だ。と、言った感じで状況を前向きに捉えつつ、様々な場所に足を延ばすべく自室を出た。

 

 

 自室を出て廊下を歩いていると、窓の向こうで演習組が訓練に励む姿が見える。前に俺が顔を出した演習は海上での操舵訓練、模擬戦などの実戦を想定したモノだったが、その訓練、及び実戦に耐えうるだけの肉体づくりも立派な演習だ。うちの演習内容は、午前はトレーニングを中心とした身体づくり、午後は実践を想定した海上訓練となっている。肉体は常に鍛え続けないと衰えてくるモノだから、俺も暇を見つけてやるのもいいな。最近、肉が付き出したし。

 

 そんな、提督諸君が一度は危惧するであろう悩みを漏らしつつ、更に歩を進める。その道中で艦娘に会わなかった。非番組は俺と同じように外をブラブラしているのか、それとも部屋でゴロゴロしているのか、ちょっと知りたくなったけど突然俺が部屋に押し掛けるなんかしたら大問題になるからやらないでおこう。

 

 

 とまぁ、本当に当ても無くブラブラ歩いていると、窓の向こうに一人の艦娘を見つけた。彼女は日陰にあるベンチに腰を下ろし、本らしきものを読んでいる。確か、彼女を含めた艦隊は非番だったな。その筈なんだが、恰好は出撃の時も変わらないのね。いや、まぁ、試食会の準備の時も同じ格好だったけどさ。

 

 そんなことを考えながら、彼女のいるベンチを目的地として、彼女が腰を下ろしているベンチに向かう。外に出てベンチに近付くと、その艦娘の身体がピクリと動き、本から近づいてくる俺に視線を向けた。その瞬間、彼女は驚いた顔を向けるも、俺は構わず声をかけた。

 

 

 

「食堂以外で会うのは初めてかな、ハチ」

 

「お、お久しぶりです……提督」

 

 

 俺の言葉に目をパチクリしながらそう答えたのは、潜水艦隊の一員である伊8ことハチだ。あの日以降、ハチを見るのはほぼ食堂だったから食堂以外で、こうやって外で出会うのは初めてだ。あの日以来会話も出来なかったしな。

 

 

「横、良いか?」

 

 

 俺が横に座っていいかと聞くと、ハチはまだ驚いた顔のまま頷き座れるスペースを作ってくれた。俺が座るスペース以上に距離がある気もするが、そこは気にしない気にしない。断りを入れつつ腰を下ろし、一息ついた。その間、ハチは顔を前に向けながらもチラチラと盗みしてくる。

 

 

「いつも此処にいるのか?」

 

「あ、いや、今日はたまたまいい天気だったので……いつもは部屋に居ます」

 

「そうか、今日はいい天気だからなぁ」

 

 

 なるべく柔らかく接するも、たどだどしいハチ。緊張している、と言うよりも怖がっているな。そりゃそうか、今まで恐怖の存在だった提督がすぐ横に居るんだから。このまま話していいのかな?

 

 

「提督は……何故こんなところに?」

 

 

 そう思っていたら、未だにたどたどしいハチからそう質問される。それに、あまり緊張させないよう視線を外しながら同時に大きく伸びをする。

 

 

「加賀に今日は休めって言われたんだよ。それも昨日じゃなくて今日、ついさっき部屋の前で。もう、ポカンだよ。その後色々と言ったんだけど、最後は淡々とした口調の低い声にあの剣幕で言い含められたってわけ。あれ出されちゃ勝てねぇわ」

 

「あぁ、なるほど……」

 

 

 俺の言葉に、何処か納得した様に苦笑いを浮かべるハチ。視線を外したからか、その表情は先ほどよりも柔らかい。まぁ、まだ引きつってはいるんだけど。

 

 

「んで、ハチはいつも(それ)を読んでるのか?」

 

「え、えぇ……まぁ、読んではいますね」

 

 

 俺の質問に何処か含んだ言い方のハチ。少しだけ視線を向けると、それだけで彼女は俺から視線を外してしまう。そのことにちょっとだけ心が痛むも、それは彼女が手にしている本を見たら消え去った。

 

 

「手書き……自作の本か?」

 

 

 ハチが持つ本――――と言うか、鉛筆で書かれたらしき丸文字がビッシリの紙をひと纏めにして、外を厚紙で覆い紐で綴じられただけのモノだが、その厚さはかなりある。全部手書きだとすると、その文字数は相当のモノだ。それに、殆どのページの端は折れたり鉛筆の汚れが付いていたり。相当読み込んでいることが窺える。

 

 

「自作……と言えば自作ですね。中身は違いますけど」

 

 

 俺の言葉に、ハチは何処か恥ずかしそうに答える。またもや含んだ言い方だったが、それよりも俺は彼女が持つ本の中身に既視感を覚えた。

 

 

「コレ、あの小説だよな?」

 

「知ってるんですか!!」

 

 

 ポツリと零れた俺の言葉に、今までのたどたどしさが嘘のようにハチが叫び顔を近づけてきた。その勢いに思わずたじろぐと、ハチも我に返って恥ずかしそうな顔でスルスルと離れた。ほんの少し、沈黙が支配する。

 

 

 

「あの小説、好きなのか?」

 

「……はい、とっても」

 

 

 沈黙を破った俺の言葉に、ハチは小さな声で同調する。その際、本を持つ彼女の手に力が籠ったのを見逃さなかった。

 

 

「初めて買ってもらった本で、私が本の虫になったきっかけなんです。何回読み返したか分からない、読み返す度に幸せな気持ちにしてくれる、思い出がいっぱい詰まった話です。此処に来た時も持ってきたんですが一番最初の提督に没収されて、そのまま処分されちゃったみたいで……」

 

 

 そう語るハチの表情は暗い。初めて会った時のように、悲壮感に満ち溢れている。そして、彼女はそこから俺に笑顔を向けた。相変わらず、その笑顔は影が掛かっていた。

 

 

「提督のおかげで自由に過ごす時間と余裕が増えたんで、あの話と気持ちを思い出そうと書き始めたんです。最後に読んだのが大分前なんで、結構あやふやなところが多いのがアレですけど」

 

 

 そこで言葉を切ったハチは、手に持つ本を愛おしそうに撫でる。その表情は未だに悲しそうだった。だから、思わずこう言ってしまった。

 

 

 

 

「その本、探そうか?」

 

 

 そう言った。その言葉に、ハチは勢いよく顔を上げ、驚いた表情を向けてくる。真っ直ぐ向けられる視線に、思わず目を逸らしながら俺は言葉を続けた。

 

 

「多分、大本営からの支援に組み込めば、手に入れるのは難しくないはず。もしくは街に出かけて本を探せば……」

 

「有難いですけど、遠慮しておきます」

 

 

 俺の言葉に、ハチは苦笑いを浮かべてそう言った。そして、そのまま俺から視線を外し、空を見上げながら再び口を開いた。

 

 

「提督を信じていないわけじゃないんですけど、大本営はまだちょっと信じ切れなくて。それに、提督のお休みを潰してしまうのも悪いですし、私だけ外出するのも皆に不公平です。かと言って、全員が外出しだすと提督や大淀さん、その日の秘書艦が更に忙しくなります。私の我が儘一つで、それだけの迷惑をかけてしまうのは忍びないです。それに……」

 

 

 そこで言葉を切ったハチは手にしていた本を持ち上げ、表紙を見せてくる。そこには、中身にあった丸文字でその小説のタイトルと『絶対に思い出す!』と言う一文が書いてあった。

 

 

 

「『大好き』だからこそ、なるべく自分の力で思い出したいんです」

 

 

 そう言ってはにかむハチ。そこに今まであった悲壮感は無く、力強い決意が見てとれる。多分初めて、彼女の本当の笑顔を見た。

 

 

 

「って、言った手前なんですけど……覚えている内容があれば教えてもらえますか?」

 

「あぁ、お安い御用だ」

 

 

 申し訳なさそうなハチに、俺も笑いかける。今日初めて互いに笑みを浮かべ、向かい合うことが出来た。多分、気が抜けたのだろう、その時ハチの手からスルリと何かが滑り落ちたのだ。

 

 

「あっ」

 

 

 ハチが小さく声を溢しそれに手を伸ばすも、彼女の手をすり抜けて俺の足元に落ちる。俺は足元のそれに手を伸ばし、一瞬固まった。

 

 それは小さな押し花があしらわれたしおりだ。ハチが書いている本に挟まっていた、所々鉛筆の汚れが付いており、大分使い込まれているのが分かる。そんな普通のしおりに俺が目を奪われてしまったのは、そのしおりにあしらわれた押し花だ。

 

 

 そこにあったのは、花弁が少ない四本のバラだ。それも、赤、ピンク、青、黄色の四色。近すぎず、遠すぎない。しおり全体にバランスよく配置されたバラたち。

 

 

 

 そして、それらが一体()を表しているのか、分かってしまったから固まったのだ。

 

 

 

「すみません」

 

 

 固まっている俺の視界から、ハチの手が伸びてきてしおりを持ち去る。それに思わず顔を上げると、今日見た中で一番と言って良いほど悲しそうな顔をしたハチが映った。その目が一瞬光ったのは、多分見間違いじゃない。

 

 

 

 

 

「提督は、バラの花言葉を知っていますか?」

 

「え、っと……確か、『あなたを愛しています』だったっけ?」

 

 

 唐突に、ハチが問いかけてきた。その問いに、俺はすぐさま頭を働かせ、答えを出した。確か、バラの花束を贈るのが一種の求愛と言うかプロポーズになるって聞いたことがある。その答えに、ハチは頷きつつも何故か苦笑いを浮かべた。

 

 

「ええ、そうです。でも、それは『赤』色の花言葉です。バラって色によって花言葉が違うんですよ、知っていました?」

 

「いや……知らなかった」

 

 

 再び投げかけられた問いに、俺は首を横に振った。それにハチは先ほど手に取ったしおりを取り出し、そこにあしらわれた押し花の一つ、『赤いバラ』を指差した。

 

 

「先ずは赤。正確にこの色は『濃紅』と言って、花言葉は『内気、恥ずかしさ』です。次にピンク、花言葉は『感謝、幸福』、青は『夢が叶う、奇跡』、最後に黄色は……『友情、平和』です」

 

 

 一つ一つを指差しながら、ハチは説明してくれた。その説明、そして説明している際の彼女の顔を、俺は黙って見つめる。彼女が持つしおり、そしてそこにあしらわれ4本のバラ、その花言葉、それら全てをひっくるめたモノの先に、彼女が込めた想いがしかと見えたから。

 

 

 

それ(・・)、俺に出来ることがあるか?」

 

 

 しおりの説明を終え、そのまま黙ってしまったハチにそう声をかける。俺の言葉にハチは顔を上げなかった。ただしおりを握り締め、血が出るのではないかと思うほど唇を噛み締めるだけ。その姿を前に、俺は黙って彼女の返答を待った。

 

 

 そう問いかけ、黙って待つことが、今の彼女たち(・・・・)にとって『必要なこと』だと思ったから。

 

 

 

 だが、()その言葉を聞くことは出来なかった。

 

 

 ハチが顔を上げた瞬間、後ろでガシャンと何かが落ちる音がしたからだ。

 

 

 反射的に俺たちは音の方を見る。しかし、そこに人影は無かった。ただ、離れたところに誰かが落としたらしき何かの道具が地面一杯に散乱していただけだ。

 

 地面を見て、すぐに辺りに目を走らせる。すると、道具が散乱している場所からすぐそばにある建物の角、そこに消えていく黒髪が一瞬だけ見えた。流石に黒髪だけじゃ判断は付かない。

 

 

「……誰だ?」

 

「さ、さぁ……でも、あの散乱しているのって」

 

 

 俺の言葉にハチも同調するも、地面に散乱しているモノに見覚えがあるらしい。その言葉に、俺たちは散乱している場所に近付いた。

 

 

 近づいた俺の目に映ったのは、地面に散乱した色とりどりの鉛筆とクレヨン、様々な色に染まった無数の消しゴム、そしてクレヨンや鉛筆で汚れている使い込まれたスケッチブックだった。先ほどの人物の持ち物だと思うが、これだけモノを持っている奴に心当たりはない。

 

 

 

 

「これ……潮ちゃんの?」

 

「潮の?」

 

 

 横のハチが漏らした言葉に思わず聞き返すと、ハチも顎に手を置きながら考え込む。

 

 

「確か、北上さんからリハビリの一環として絵を描くよう言われて、最近描き始めた筈です。私もたまに部屋から彼女が絵を描いているのを見たことがありますから、多分間違いないかと」

 

「あぁ、そう言えば北上から聞いてたな」

 

 

 ハチの説明に、北上からの報告を思い出す。にしても、リハビリに絵……か。応急処置以外の医療は素人だから分からないが、絵って結構細かい作業だからリハビリにちょうどいいのかもしれないな。でも、リハビリにしては道具が充実しているな。

 

 

「……こういうのって、見ていいのか?」

 

「どうなんでしょう……」

 

 

 スケッチブックを手に取り、俺とハチは困惑した。絶対、俺に見られたくはないだろう。北上からリハビリの報告でかねがね良好だとも聞いているからわざわざ確認する必要はないんだけど……気になってしまうのは人間の(さが)か。ハチもスケッチブックに目をやっている、やっぱり気になるよな。

 

 

「すまん、潮」

 

 

 好奇心に勝てず、聞こえないであろう潮に謝ってスケッチブックを開く。そして中を見た瞬間、言葉を失った。

 

 

 

 

 そこにあったのは、色鉛筆やクレヨンで書かれた工廠とその向こうに広がる海原。それも、もの凄く上手い。とても色鉛筆だけで書いたとは思えないほどの完成度だ。絵の知識なんて皆無だが、それでも凄いと分かる。むしろ、『凄い』以外の言葉が見つからない。

 

 

「綺麗……」

 

 

 横のハチもそう零した。その目はスケッチブックに注がれている。多分、今のも無意識の内に溢したモノだろう。その言葉に俺も何度も頷き、更にページをめくった。

 

 

 スケッチブックには様々な風景画が描かれていた。どれもこれも、『凄い』と『綺麗』の二言でしか表せない自分のボキャブラリーの無さが嫌になる程、素晴らしいモノばかり。そんな俺を横目にハチが溢したのが『まるで目で見た風景を切り取ってそのまま貼り付けた様な絵』だ。流石は本の虫。

 

 

 しかし、めくっていく中であることに気付いた。

 

 

 

「全部、風景画だな」

 

「ええ、それ以外は無いですね」

 

 

 スケッチブックにある絵はどれもこれも素晴らしいのだが、全て建物や山、海などの風景画だけなのだ。辛うじて違うモノと言えるのは一種類の花だけで、艦娘は愚か鳥などの動物も描かれていない。敢えてそう言ったモノを排除した、そんな印象を抱いた。それと同時に、俺は描かれている花に既視感を感じ始めた。

 

 

 

「花も『ミヤコワスレ』ばかりですね」

 

「『ミヤコワスレ』?」

 

「日本に昔からある花で、とある帝が島流しにされた時にこの花を見ると都を忘れられる、と歌ったことが名前の由来です。花言葉も『しばしの慰め、分かれ』だった筈ですね。でも、何でこの花だけ……?」

 

 

 ポツリと漏らしたハチの言葉に聞き返すと、ハチは簡単に説明してくれた。その説明を受けても、既視感が何であるかを突き止めることは出来ない。そんなモヤモヤを残したまま、次のページをめくった。

 

 

「ここが最後ですね。そして、この花は……」

 

 

 次のページには、先ほどハチが教えてくれたミヤコワスレと違う種類の花の二本、互いに寄り添うように描かれていた。ミヤコワスレよりも赤みが強い、そこが違うだけであとはそっくりな花だ。色が付いてなかったら、同じものだと思い込んだだろう。

 

 

 

「多分、『ヒロハノハナカンザシ』……かな?」

 

「どんな花だ?」

 

 

 再びハチの口から飛び出した聞いたことのない花に、自分の学の無さを痛感しつつも説明を乞うた。それに、ハチはミヤコワスレ同様、噛み砕いて説明をしてくれる。そしてその説明で、ようやく既視感の正体が分かった。

 

 

「……そうか、なるほど」

 

「どうしたんですか?」

 

 

 勝手に納得した俺に不思議そうなハチは不思議そうな顔を向けてくる。俺は納得した理由を話すと、彼女も複雑な表情を浮かべながら納得した様に何度も頷いた。そうなると、先ずは散乱しているヤツを届ける必要があるな

 

 

「ごめん、拾うの手伝ってく―――」

 

「あ、あの、提督!!」

 

 

 そう言って地面に散乱した鉛筆やクレヨンを拾い集め始めると、唐突にハチが大声を上げた。手を止めて顔を上げると、そこには先ほどの悲痛な表情をしたハチが立っている。その口はモゴモゴ動いており、まるで喉に出掛かった言葉をどうするか迷っているようであった。

 

 

 しかし、それもすぐに終わった。

 

 

 

 

「私たちを……あの子(・・・)を……どうか、どうか助けて下さい……」

 

 

 それは今日、いや今まで聞いた中で一番弱弱しく、そして彼女の悲痛な想いが目一杯に込められた言葉だった。その言葉、そして悲痛な表情のハチに、俺の身体はいつの間にか動いていた。

 

 

 あの子(・・・)と同じようにハチの前に立ち、あの子(・・・)と同じように膝を折ってハチと同じ目線になり、あの子(・・・)と同じようにハチの目を真っ直ぐ見据えた。

 

 

 

「その願い、絶対に叶えてやる」

 

 

 そう言い切った。すると、あの子(・・・)と同じようにハチの目が大きく見開き、口元が微かに緩んだ。

 

 

 

「だから、ちょっとだけ力を貸してくれ」

 

 

 その直後、苦笑いを溢しながらそう付け加えて手を差し出す。すると、あの子(・・・)と同じだった筈のハチの口許が完全に緩んだ。その瞳に大粒の涙を浮かべ、その顔を可笑しそうに歪め、少しだけ震えている手で俺の手を取った。

 

 

 俺はその手を握ると、ハチは震えながらも力強く握り返してくる。しかし、その直後に今度はハチが握りしめてきた。一回ではない、何度も何度も。だから、その度に握り返してやった。

 

 

 その行為、そしてその延長線上が彼女たち潜水艦にとって『安心』、もしくはそれ以上(・・・・)のことを意味すると知るのは、もう少し先のことだ。



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押し付けた『望み』

「ここか」

 

 

 ハチと別れた後、俺は潮が落とした道具を持ってとある部屋――――医務室の前に来ていた。

 

 艦娘が患うのは何も戦闘による外傷だけではない。人間と同じように風邪を引くこともあれば、金剛のように疲労で倒れること、精神的にすり減っていくこともある。そう言ったドックでは直せない身体の不調、心の不調を診るために設けられた場所だ。同時に後遺症を改善するためのリハビリも一括で担当してる。謂わば、『鎮守府の総合病院』だ。

 

 しかしこの医務室、当初は艦娘をバックアップする専門の人間が務めていたそうなのだが、初代に脅されたか結託していたかでまともな機能を果たしていなかったらしく、更にそこに務めていた人間も初代ほどではないが、やはり艦娘たちを道具のように扱っていたようで、艦娘たちも極力ここに近付こうとしなかった。そして初代が居なくなった直後、金剛が医務室も含めた人間全員を真っ先に追放したそうだ。現在は医術の心得がある艦娘が管理している。

 

 そして、此処にやってきた理由は、現在リハビリ中である潮に道具を返すためだ。まぁ、確実に居るかどうかは分かんないけど。

 

 そんなことを思いながらドアの前に立ち、軽くノックする。すると、中から「どうぞー」と言う何とも間の抜けた声が聞こえ、それを受けて俺はドアを開けた。

 

 

 その先には、白を基調とした壁に風に吹かれるクリーム色のカーテン、色々と薬品や包帯がしまわれているであろう身の丈以上は在る戸棚たちが壁際に鎮座している。その中心には大きめの机に綺麗に整頓されたファイル、そして座り心地がよさそうな椅子と対峙する背もたれの無い黒い丸椅子。『保健室』、と言った時に真っ先に思い浮かぶ光景そのものだろう。

 

 

 そんな中、その椅子に身を預け、コーヒーを飲みながら手にしたファイルを眺めている艦娘が一人。その恰好はいつもの緑を基調とした制服の上に彼女からすれば大き過ぎるであろう白衣を羽織り、その顔には黒渕のメガネが掛けている。そんな彼女の目が、俺に向けられた。

 

 

 

「あれ、提督じゃん。どったの?」

 

「北上、飲みながら話すなよ」

 

 

 緩い雰囲気を醸す艦娘―――――北上にそう言いつつ呆れた目を向ける。俺の言葉に北上はめんどくさそうな表情を浮かべてカップを机に置き、開いていたファイルを同じようなモノが立てかけられている棚にしまった。

 

 

 現在、この医務室を管理しているのは北上だ。

 

 

 と言うのも、北上はこの鎮守府で飛び抜けたの医療の心得があり、且つそれを使って初代の頃から密かに艦娘たちの治療を行っていた経歴を持っている。しかし、治療と言っても医療関係を管理する倉庫からギンバイしたモノを使い、且つ周りにバレないように応急処置程度しか出来なかったらしい。その代わりにメンタル面のサポートに力を注いでいたと聞いている。多分、夕立が秘書艦について聞きに行ったのもこう言った経緯があったのだろう。

 

 因みに、北上が持っている医療の心得の殆どは艦との同化をした際に身に付いたモノらしい。彼女曰く「人を運ぶために動かない子を直していた頃がある」とのことだが、彼女が名を冠した艦艇『北上』は、先の大戦終結後に工作艦として復員船に使われる艦艇の修理に携わった過去を持っている。

 

 そんな経緯で医務室の管理を引き受けている北上だが、主に動いているのは妖精たちで彼女は医療関係全般の情報管理と妖精たちの統括をメインで行っている。なので普通に出撃したり秘書艦をやったりしているが、最近はそっちに重きを置いてもらうためにその数を減らした。

 

 

 そんな、この鎮守府にとって貴重かつ有難い存在は今、「よっこいせ」とおっさんみたいなことを言いながら俺に身体を向けた。

 

 

「はいはい、これで良い……って言うか、執務はどうしたのさ?」

 

「加賀に休めって言われた」

 

「はぁ、どゆこと?」

 

 

 俺の端的な答えに眉を潜める北上。まぁ、これだけじゃ分かるわけないか。そんなことを思いながら、非番になった経緯を説明する。それを聞き、「あぁ……まぁそうだよねー」と北上は納得した様に頷いた。本当に無理してるわけじゃないんだけどなぁ。

 

 

「駄目だよ、提督は『人間』なんだから。艦娘(あたし)らみたいに入渠してハイ終わり、ってわけにはいかないの。そこんとこ、しっかり管理してもらわないと困るんだよねー」

 

 

 本来なら専門家の言葉なんだけど、加賀よりも軽い物言いだから重みが感じられない。相手を不安がらせないためってことなのかもしれないが、仮に真剣な物言いだった時は口調とか纏う空気とかが段違いなんだろうな。

 

 

「それで? せっかくの非番にこんなところに来た理由は?」

 

「あぁ、これを渡しに来たんだ」

 

 

 北上の問いに手に持っていたモノを見せる。それに一瞬北上の顔が強張るも、やがて察しがついたような顔つきになった。そしてそのまま俺から顔を背け、ファイルがしまわれた棚に手を伸ばす。

 

 

「生憎、まだ帰って来てないねぇー」

 

 

 棚を触りながら北上は疲れたような声でそう言い、その言葉に俺も肩を竦めた。まぁ予想はついていたから驚かないし、むしろ居ないんだろうなと思っていた。

 

 何せあれだけ盛大に道具をぶちまけたんだ。潮自身が気付かない筈がないし、必ず回収に来るだろう。でも、彼女が回収したいそれは俺の手にある。無くなっているのを見て誰かが持っていった、もしかしたら俺が持っていったと勘付くだろう。そして、潮は自身の容態を定期的に北上が報告しているのを知っている、となれば……まぁしばらくは医務室(ここ)に近付かないよな。

 

 何処かで道草食ってるのか、はたまた俺が出て行くのをどこかで見ているのか。そこまでは分からんな。

 

 

 

「んじゃ、待たせてもらうか」

 

「え、マジで言ってる?」

 

 

 俺の言葉に北上は棚から一冊のファイルを取り出す手を止め、その言葉と共に怪訝な顔を向けてきた。潮が俺を避けていることはこの鎮守府での周知の事実、しかもあの事件以降一番身近に居る存在が北上だ。この鎮守府の誰よりも潮のことを理解しているだろう。

 

 

「ちょっとだけ話があってな? これを渡すとき一緒に聞けば丁度良いだろ」

 

「……言伝じゃ駄目なの?」

 

「駄目」

 

 

 少し遠慮気味に問いかけてくる北上に、俺は笑みを浮かべてそう断言した。すると、北上も困ったように視線を逸らし、表情を微妙に変えながら何かを思案し始める。その間、俺は北上から少し離れたところにあるソファに腰を下ろした。

 

 

「ふっかふかだな、このソファ」

 

「前の人たちが使ってたのをそのまま使ってるからねぇ。どうせ予算をこっちに回したんでしょー」

 

 

 サラリと毒を吐く北上に苦笑いを向ける。それと同時に、目の前にファイルが差し出された。上を向くと、いつの間にか距離を詰めていた北上が居り、少しだけ真剣な表情を浮かべている。

 

 

「これ、読んで」

 

 

 そう言って、北上は差し出したファイルを揺らす。それを見て、俺は何も言わずにファイルを受け取り中に目を通す。

 

 

 北上が差し出してきたのは、潮の容態に関する報告書。あの襲撃、そして金剛の件の後、北上から定期的に上げてもらっており、そこには潮のリハビリ進行具合と彼女自身の様子などが記されている。そこから彼女が現場復帰をするタイミングを見計らっているわけだ。

 

 

 そして、差し出されたのは前回のモノ。そこには最新のリハビリ状況を記されている。だが、その内容は当然提出された時とは変わっていない。もっと言えば、この報告書の前、その前も、内容は一切変わっていないのだ。

 

 

 

 『身体的障害は見受けられず、完治と見てよい。しかし、まだ出撃は認められない』と。

 

 

「前の報告書だろ、これ。何で今更見せるんだよ」

 

「そこに、あたしたち(・・)の答えがあるよ」

 

 

 俺の言葉に北上は先ほどよりも強い口調で答える。その言葉に、差し出したファイルを再び開き、内容に目を通す。と言うか、北上の答えと言うヤツは彼女に言われる前に気付いていた。もっと言えば、初めてこの報告を受け取った時からずっと浮かんでいた疑問だ。

 

 

 

完治(・・)しているのに、何で出撃させないんだ?」

 

 

 俺の問いかけに、北上は先ほどまでの真剣な顔つきから一転、ふにゃりと顔を緩ませる。いつもの緩い雰囲気を醸し出すも、その目は笑っていなかった。

 

 

「潮が『まだ出撃したくない』って言うからだよ」

 

 

 その表情のまま、北上は言い切った。だけど、その瞳の奥に何かが見えた気がした。

 

 

「身体も問題なくて、演習の結果も報告書通り。あたしには実践投入可能だと見えるんだけど、本人がそれを拒んでる。理由を聞いてもただ曖昧に笑うだけで、本当のことを話そうとしない。まぁ、建前は『誰かさんに負い目を感じている』なんだろうけど、ぶっちゃけ『逃げてる』だけよね。ともかく、戦う意思のない奴が海に出ても沈むだけ、最悪僚艦にまで被害を及ぼす害悪だ。それを黙って見過ごすわけにはいかないでしょ」

 

 

 北上の言葉。それを聞いて、俺は潮が何故出撃しないのか、そして彼女が追い目を感じている『誰かさん』の正体が、憶測ではあるが理解した。前の俺なら、それで手を引いていただろう。でも今の俺にとって、それは改めて『俺がやらなくちゃいけない』と決意するきっかけになった。

 

 

「あとさ? 潮が何であそこまで提督を―――――『男』を毛嫌いしているのか、知ってる?」

 

 

 決意した直後に投げかけられた問い。何の脈絡もない突然の問いかけであったが、俺は何も言わずにただ首を横に振った。何故なら、北上の問いを受け止め、その意味を理解した瞬間、とある言葉が浮かんできたからだ。

 

 

 

『アイツはあんなこと言ってたけど、どうせ全部嘘!! 初めから曙ちゃんの身体目当てに決まっている!! 男の人(・・・)なんて所詮そのことしか頭にないの!! 本能の赴くままに女の子を襲う醜い獣なんだからぁ!!』

 

 

 

 これは着任2日目の朝にドックで曙と鉢合わせしたことを金剛に締め上げられた時、当時名前も知らなかった潮の言葉だ。今考えると、少々おかしいところがある。

 

 と言うのも、ここの艦娘が敵視しているのは人間、その中でも最も彼女たちに実害を及ぼした初代提督だ。現に金剛や間宮、大淀、隼鷹など殆どの艦娘は俺を『提督』として目の敵にしてきた。勿論、提督も男ではあるが、それ以上に『提督』と言う言葉、その存在を憎み、散々に罵ってきたのだ。

 

 そして、潮も彼女たちと同じであるなら、真っ先に俺を男ではなく『提督』として目の敵にするはずだ。しかし、彼女は初めて目のした俺を、『男の人』と罵った。『提督』ではなく『男』としてとらえていたのだ。彼女にとって『提督』への憎悪よりも『男』への憎悪の方が大きくなければこうはならないだろう。

 

 

 

 つまり、潮は初代提督から、『男』として最低なことをされた、と言うことになる。

 

 

 

「初代が艦娘(あたし)たちに課したモノの中で、『伽』があるのは知ってるよね? 出撃で失態を犯した子への罰として、そうじゃなくても日替わりで誰かが一人、時には複数人で提督の相手をしてたこと。多分、榛名さん辺りから聞いてると思うけど」

 

「あ……あぁ、聞いた」

 

 

 本当は大本営に出頭した際に中将から聞いたんだが、北上は榛名から聞いたと思い込んでいるためそのまま流すことにする。

 

 

「元々は全艦娘対象だったんだけど、駆逐艦や軽巡洋艦とか精神的苦痛に弱い艦娘を外すために金剛さんたちが説得したんだ。説得の経緯は省くけど、ともかく初代はその説得を受け入れた。そのことで、艦娘たちは安心したんだ。でも……」

 

 

 そこで言葉を切った北上。いつの間にか、その表情は先ほどの緩い表情から真顔に、その目は冷えたモノから熱を、怒り(・・)を帯びたモノに変わっていた。

 

 

 

「その日の伽に潮が選ばれた。それも無理やり連れ去って、今までの伽で最低最悪のコト(・・)を、一人にさせたんだよ。そのことに周りが気付くまで、優に一時間(・・・)。その間、ずっと一人で晒され続けた。多分、終わりのない地獄をずっと味わっているような感じだっただろうね」

 

 

 吐き捨てるような北上の言葉。それに、俺は自身の体温が一気に下がるのを感じた。初代が潮に何をさせたのか、想像できない。しかし、今までの潮の言動や表情から彼女がその時、その瞬間、どんな気持ちで、どんな表情で、どれほどの恐怖を味わったのか、何となくではあるが理解できた気がした。

 

 

「あたしたちが突入した時には潮は酷い恰好、特に顔が酷かった。憔悴を通り越して衰弱し切ってて、誰かが声をかけても反応せず、か細い声でひたすら謝り続けてた。その後、その後に約束と違うと初代に問い詰めた。駆逐艦たちには手を出さない約束した筈だ、と。そしたらなんて言われたと思う?」

 

 

 

 その問いと同時に、北上は目を向けてきた。そこに、先ほどの『怒り』は無い。それすらも通り越した、純粋な『殺意』が見て取れた。

 

 

 

「『確かに約束したが、それがいつから(・・・・)かは言われていなかった』って。ホント、ふざけてんのかって話だよ」

 

 

 そう零す北上は笑っている。嘲るような笑い、見下す様な笑い、侮辱するような笑い、それらの感情をぶつけるしか値しない相手に向けた笑い。例え、目の前の相手(それ)が死んでいても、同じ笑いを彼女は向けるだろう。

 

 

「まぁ、要するに潮は『男』に対する恐怖心を刻み込まれているの。提督に対するあの態度は、刻み込まれた恐怖を隠すための虚勢。そして、元々仲間想いの子だから誰かが提督の手にかかりそうならなり振り構わず助けに行く。例え、それが助けようとした子を巻き込もうとも、ね。それすら判断できないほど、とてつもない恐怖を抱いているってことさ……だから」

 

「『男』である俺が近づくな、ってことか?」

 

 

 北上の言葉を遮り、彼女が言おうとしたであろう結論を質問としてぶつける。すると、北上はバツの悪そうな顔になるも、無言で頷いた。しかし、その表情も次の瞬間には驚愕に変わる。

 

 

 

「嫌だ」

 

 

 俺がそう言った。少しも悪びれもせず、真顔でそう言い切った。その言葉に驚いた北上であったが、すぐにめんどくさそうな顔を浮かべてガシガシと頭を掻き始めた。

 

 

「聞いてなかった? 潮は『男』に恐怖心を抱いてるの。下手に近付かれるとこっちが困るんだよ」

 

「あぁ、分かってる。分かっている上(・・・・・・・)で話したいんだ」

 

 

 俺の言葉に、北上は白けた目を向けてくる。何言ってんだこいつ、とでも言いたげな、いや心の中で確実に言っているだろう。そんな視線を晒されながら俺は彼女に向けていた視線を自身の手に、正確にはその手が持っている潮の道具に落とした。

 

 

「コレ、見て欲しいんだ」

 

 

 そう言って、視線の中にあったスケッチブックをもう片方の手で抜き取り、北上の前で開いた。俺の言葉に北上は怪訝そうな顔をしながらも目の前で開かれたスケッチブックに目を通す。とはいっても、リハビリの一環としてコレを潮に渡した北上だ。多分さっきの俺同様、何も変わっていないモノを見せられて変な顔をするだけだろう。

 

 

 だから、そこに問いを付け加えた。

 

 

 

「これに描かれている花の名前って知ってるか?」

 

 

 その問いに、北上は呆けた顔になる。それも、俺の言っていることが微塵も理解できないような、本当に予想外過ぎて思わず浮かべてしまったであろうその顔を。そんな北上を前に、答えが無いだろうと判断した俺はスケッチブックの最後のページ、二本花が描かれたページを開き、そこに在る絵を指差した。

 

 

「この花、ミヤコワスレって名前だ。名前の由来は……この花を見れば都を忘れられる、って言われたことから。花言葉は『しばしの慰め、別れ』って言うんだ」

 

 

 とまぁ、名前の由来を端折った以外はまんまハチの説明をパクって説明する。しかし、北上にはあまりピンと来ていない様子。いきなり花の紹介をされればこうなるか? まぁ、お構いなしに進めるんですけどね、と思いながらもう一つの絵を指差す。

 

 

「んで、このミヤコワスレの横にあるのが、ヒロハノハナカンザシ。原産は海外で、ドライフラワーによく使われることから『永久不変の花』なんて呼ばれたりしてる。んで、花言葉が……」

 

 

 そこで言葉を切り、真っ直ぐ北上を見据える。次に、不思議そうな表情を浮かべた彼女が顔を上げ、俺と視線を合わせた。それを受けて、俺は口を開いた。

 

 

 

 

「『変わらぬ思い』、そして『終わりのない友情』」

 

 

 俺が言った、ヒロハノハナカンザシの花言葉。それを聞いたとき、北上の表情が変わった。不思議そうな表情から真顔に、そして何かを察したような顔に。それを見て、俺は改めてミヤコワスレを指差した。

 

 

「それを踏まえて、この花が()を指しているか、分かるか?」

 

「曙でしょ。髪留めに付いてる花の装飾、確かそのミヤコワスレってヤツだった筈」

 

 

 間髪入れずに飛んできた北上の言葉に、俺は何度も頷いていた。そう、俺がミヤコワスレを見てからずっと感じていた既視感の正体は、ここに着任して初めて出会った曙の第一印象が目に留まった彼女の髪留めに付いていた花だった。だから、ヒロハノハナカンザシの花言葉を聞いた時に同時に気付いたんだ。

 

 

 俺が今、北上に見せている絵はミヤコワスレとヒロハノハナカンザシが互いに寄り添うように描かれたモノ。そして、その片割れであるミヤコワスレは、同じ花の装飾がほどこされた髪留めを付けている曙を指している。また、もう一つの花であるヒロハノハナカンザシは、その花言葉を『変わらぬ思い』、そして『終わりのない友情』としている。

 

 

 最後に、この絵を描いたのが潮である。ここから推測される答えは、恐らく『一つ』しかないだろう。

 

 

 

「自分はヒロハノハナカンザシ(この花)だと、もしくはそうなりたい(・・・・・・)、って言いたいわけか」

 

 

 ポツリと、北上が声を漏らす。その言葉に、俺はニッコリと微笑んで頷いた。期待通りの答えが返って来て、そして理解してくれたことが嬉しかったから。

 

 

 恐らく、潮が出撃を拒んでいるのは曙への負い目を感じているからだろう。だが、それ以上にあの時の言い争い、そして自身を砲撃されたことが潮の心に深い傷を負わせた。だから出撃を拒んだ、まだリハビリ中であろうとした。それは、リハビリ中であることを理由に曙を顔を合わせる機会を減らすため、必要最低限にとどめるため、曙の前から逃げ続けるためだ。

 

 だけど、潮は分かってる。本当は向き合いたいと、前みたいにその隣に居たいと、それが自分の本心だと、分かっている筈だ。だから絵を描いた、あの花たちを描いた。花で表した、曙と自分が寄り添っている姿を、今最も望んでいる姿を。あの花を選んだのも、本心は変わってない、昔も今も、そしてこれからもずっと大切に想っている、と言うメッセージだ。まぁ、これだけだと潮からの一方的な押し付けにも見える。

 

 しかし、曙も解体申請書を持ってきた時の表情から、潮を恨んでないはずだ。むしろ心配していたから、曙自身も潮との関係を改善したいと思っているだろう。でも、傷付けてしまったことと己の状況を鑑みた時、アイツから潮に行くと言うのは考えづらい。

 

 つまり、今二人は顔を逸らして互いに互いを見ようとしないだけ。だから、互いが互いを見れるよう、誰かが二人の背中を押す必要がある。

 

 

 そう、『きっかけ』にしかなれない、ただ二人の背中を押すことしか出来ない俺がやるしかないのだ。むしろ、それだけしか出来ないからこそ何としてもやりたいんだ。

 

 

「……なるほど、でも、どうするの? 曙と引き合わせるの?」

 

「あぁ、まぁ、引き合わせるっちゃ引き合わせる。でもそれだけじゃない、引き合わせるだけの『建前』が必要だ。だから、こうしようと思う」

 

 

 そこで、俺は考えていることを北上に話した。多分、真っ当な方法ではないと思うし、失敗するかもしれない。それを見越したのか、北上の表情も何処か微妙そうだ。微妙と言うか、なんか憐みの目を向けてきている。

 

 

「……聞くだけで嫌になる程めんどくさくて回りくどいけど……まぁ、良い考えだとは思うよ? ただ、どっちに転んでも提督には何かしらの不幸が跳ね返ってくる気がする」

 

「そこは、まぁ……必要経費だから」

 

「自分を消耗品みたいに扱わないでよ」

 

 

 ジト目を向けてくる北上から視線を逸らしつつ、苦笑いを浮かべる。しばらくはその視線に晒されたが、やがて諦めたようなため息が聞こえ、顔を向けると北上が肩を竦めていた。

 

 

「やっぱり、潮はあたしに任せてくれない? 提督に降りかかる不幸はどうしようもないけど、その考えをなるべく達成させたいんなら、あたしから伝えた方が良いと思うんだよねぇ。ほら、あたしセンセーだよ? センセーが言うなら自然だし、受け入れてもらいやすいでしょ」

 

「や、でも」

 

「それに、曙も『自分だけ』なら許してくれるかもしれないじゃん。あれ、これ結果的に不幸も軽減されてる? 流石は北上様、今日もキレッキレだね~」

 

 

 俺の言葉も聞かず自分を褒めだす北上。確かに、彼女の言葉は一理ある。曙は良いとして、潮は俺の考えを伝えてもやってくれるか分からない。それ以前に話が出来るかが問題だ。その点、北上なら担当医としての立場から潮と話す機会が多く、且つその言葉なら潮も受け入れやすいだろうな。俺への不幸は良いとしても、可能性を上げれるのなら有りか。

 

 

「それにさ、あたしも担当医のくせに潮の絵のこと分からなかったじゃん? まぁメンタルはからっきしだし花言葉なんて微塵も知らなかったから、多分提督に言われるまで気が付かなかったと思うんだよー。だから、教えてくれたお返し、ってことで一つ手を打ってもらえないかなぁ?」

 

 

 何処か申し訳なさそうな北上の言葉。そこまで気にしなくていいんだけど、彼女自身がそう言ってくれるなら任せていいか。むしろ、こっちからお願いしたいぐらいだ。

 

 

「じゃあ、よろしく頼むよ」

 

「ほいさー」

 

 

 と言うわけで、潮は北上から伝えて貰うこととなった。そうなれば、俺がここに居て潮を待つ理由は無い。でも、北上が言うほどメンタル面がからっきしだとは思えないんだがな。

 

 

「夕立から相談を受けてたんだろ? 潮のことだって分かっていたんだし、それプラスで潮のリハビリと体調を崩した艦娘を一人で相手してたんだ。そんなに卑下することもないだろ」

 

「そんなんじゃないよ」

 

 

 俺の言葉に、北上はそう言った。言葉だけ見れば、手放しに誉められたことへの謙遜に映るだろう。でも、その声色は違った。先ほどまでの緩い空気と軽い口調は消え去り、胸を締め付けられるような圧迫感を孕む強烈な重さとそれ以上に低くどっしりとした口調だ。

 

 あまりの変わりように、思わず北上を見る。すると、そこには先ほどまでの緩い表情はない。有るのは、真顔。全ての感情を、彼女が帯びる熱すらも失ったような暗く、冷たく、一歩間違えれば生気すらも感じられない程、『無表情』だ。

 

 

 

「あたしは『あの子』の真似をしてるだけ。夕立だって元々は彼女に懐いていたし、誰もが真っ先に相談していたのは彼女だった。あたしはその傍に居て、出来ることをやってただけ、その姿を一番見ていただけ、その立ち振る舞いを真似ているだけ。ただ、それだけ。何も偉いことも良いこともやってない」

 

 

 言葉を捲し立てる北上。その姿に、俺は何も言えなくなった。だけど、頭では必死に言葉を探している。何を言えばいい、何を伝えればいい、目の前にかけるべき言葉は何だ。それだけのために、血管がはち切れそうな程頭を回し続けた。

 

 

 

「北――――」

 

「ごめん、提督は関わらないで」

 

 

 何とか言葉を絞り出した瞬間、北上がそれを遮る。その言葉は、先ほどのどっしりとした口調であったが、俺に言葉を飲み込ませるには十分だった。

 

 

「これはあたしとあいつの事だから、下手に首を突っ込まないで。まぁ、突っ込んだところで何が出来るか、って話だけどさ。先に言っておくけど、確実に無駄足、出来ることなんてないから。だから、そっとしておいて」

 

 

 それだけ言って、北上は口を閉じた。その表情は、先ほどのままだ。それを受けて、俺は口を開いた。

 

 

 

 

「『あいつ』って誰だ?」

 

 

 冷静に、淡々とした口調で問いを投げる。その瞬間、今まで無表情だった北上の顔に感情が宿る。『怒り』だ。

 

 

「言ったよね? 首突っ込まないで、って」

 

「『あの子』と『あいつ』って言ってたから、この二人は一緒じゃないんだろ? 『あいつ』って誰だよ」

 

 

 北上の言葉を無視して、更に問いかける。そのことに、北上は更に『怒り』を募らせる。

 

 

「提督には関係ないよ、そんなこと」

 

「『あの子』ってもう居ないのか? 彼女が居なくなったのは何でだ?」

 

「止めてっ言ってるんだけど」

 

「その原因に『あいつ』は関係しているのか? それとも『あいつ』が原因なのか?」

 

「やめろって」

 

 

 俺が言葉を発するごとに、北上の語気が荒くなり、その表情もどんどん変わっていく。だけど、俺は至って冷静だった。この空気を、つい先日感じたばかりだったからだ。だから、こう言えた。

 

 

 

 

「『あいつ』って、雪風のことか?」

 

 

 俺がそう言った。その瞬間、北上の身体が、その腕が動き出していた。上半身ごと腕を後ろに振りかぶり、そのまま勢いよく前に、俺目掛けて突き出された。それは、俺の頬を掠り、後ろの壁に思いっきり叩き付けられた。

 

 北上の手と壁が勢いよくぶつかる音が鼓膜を叩くも、俺はひるむことなく前を見続けた。その先では、手を突き出した格好で俺を見据える北上。その顔に見覚えが、と言うかそれはつい先ほど彼女が浮かべていた表情だった。

 

 

 『笑い』だ。先ほど、初代の言葉を口にした際に浮かべていた。

 

 

 嘲るような、見下す様な、侮辱するような、それらの感情をぶつけるしか値しない相手に向けた笑い。例え、目の前の相手(それ)が死んでいても、同じ笑いを彼女は向けるだろう。

 

 

「初めて会った時や『死神』の時、んでついさっきも思ったんだけどぉ。あんまりズカズカと人様の()に入り込まない方が良いよ? それが琴線に触れるかもしれない、信管に触れて爆発するかもしれないからさ。だから、これから気を付けなよ。あと……」

 

 

 その笑いのまま、北上は俺に目を向ける。その目は、初代のことを話していた時にあった、純粋は『殺意』を孕んだ目だった。

 

 

 

 

「ウザイ」

 

 

 

 抑揚のない声で、北上はそう言い放った。笑ったまま、殺意を孕んだ目を向けたまま、そう言ったのだ。その言葉に、俺は彼女の目を真っ直ぐ見据えた。

 

 

 

 

お似合い(・・・・)だな、今の俺に」

 

 

 俺の言葉に、北上の笑いが一瞬崩れる。笑いから呆けた顔に、呆けた顔から怒りに、怒りから悔しそうな顔に。目の前でコロコロと表情を変え、何か言葉を吐き出そうとする北上に、更にこう続けた。

 

 

 

 

「でも、そうしなくちゃ駄目なんだ。潮のように、ハチのように、誰かがそれを望んでいるのなら動かなくちゃいけない。例え出来ることが限られていても、ほぼ皆無に等しくても、その中で出来ることを見つけてやるしかないんだ。それに……」

 

 

 そこで言葉を切って、俺は北上に笑いかけていた。そう、無意識の内に微笑んでいたのだ。

 

 

 

「潮と曙のように、お前らも向き合って欲しい。そう、()が望んでいる」

 

 

 その言葉と同時に、北上の表情が固まった。それは真顔。目を大きく見開いて、俺を見ている。口も半開きで、頭の中が真っ白になっているのが分かる。しかし、その表情は彼女が俯いたことで、そして俺から離れたことで見えなくなった。

 

 

「勝手に押し付けないで。ウザイ、それ」

 

 

 不満げな様子の北上に、俺は苦笑いを向けた。しかし、北上は俺を見ることなく背を向け、先ほど腰掛けていた椅子に座って深いため息を吐く。その時、北上は手で顔を覆っていたため、その表情は見えなかった。

 

 

「取り敢えず、潮はあたしがやっとくから、提督は曙にやっておくこと。はい、この話はこれで終わり。さ、残り少ない非番を存分に満喫してきなよ。ほら、早く早く」

 

「お、おう……じゃあ、頼んだぞ」

 

 

 そう言って、北上は手で出て行けと促してくる。その間も、彼女は顔を隠したまま。それを受けて、俺は素直にその言葉に従った。

 

 突然投げやり気味になった北上の態度に疑問を持ったし、俺の質問に対する明確な答えを貰っていなかったから、ぶっちゃけまだまだここに居たかった。此処に居て、その理由や俺の質問に対する答えなど、いろんなことを話したかった。

 

 でも、それらが憚られる理由があった。正確にはあるモノを見てしまったから。

 

 

 

 それは、手で覆われたために表情が殆ど見えない北上の頬。そこで、ゆっくりと下へ流れていく一筋の涙があったからだ。

 

 

 



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見続けた『姿』

「はい、これ」

 

 

 何処か気の抜けた北上さんの言葉と共に目の前にスケッチブックが差し出される。それに私―――――潮は手を伸ばすことなく、ただただ差し出されたそれをまじまじと見つめた。

 

 所々土や鉛筆などの汚れや折り曲げた跡、濡れた跡などが付いている。それは私が付けたモノであり、それ以外に真新しいモノは無い。正真正銘、私のスケッチブックだ。だから、差し出されたそれを受け取らない理由は無い。だけど、受け取らなかった。いや、受け取れなかった。

 

何故なら、それはあの時落としてしまい、そして今の今まで探し続けた末に見つからなかったモノだから。何故それを彼女が持っていたのか、分からなかったから。

 

 

「腕、疲れるんだけど」

 

「あ、す、すみません」

 

 

 スケッチブックに注がれていた視線の外から、不満げな北上さんの声が聞こえる。その言葉に顔を上げ、少しだけ不満そうに顔を歪める彼女に頭を下げてスケッチブックを受け取った。

 

 触れた際に感じた表紙の凹凸、画用紙の荒さ、スケッチブック自体の重さが『私のモノである』と訴えかけてくる。でも、何故これを彼女が持っていたのか、その疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。

 

 

「ど、何処でこれを……」

 

 

 その疑問を解消すべく、北上さんに問いかける。その言葉に、彼女は何か言いたげな目を向けてくる。『分かってるんでしょ?』―――そんな問いを投げかけてくるような目だった。その通り、私の中にはその問いに対しての答えが一つあった。それも、十中八九それだろうと言えるものがあった。

 

 でも、口にしなかった。それは、十中(そこ)にある『二』もしくは『一』であってくれと願ったから。

 

 

「提督が持ってきてくれたの」

 

 

 だけど、返ってきた答えは『八九』だ。予想通りだったから、驚きもしなかった。その名を聞いた瞬間、背筋に凄まじい悪寒を感じる、全身から血の気が引いて体温が一気に下がる、目眩と共に呼吸が乱れる、微かな震えに呼応するように心臓の鼓動が早くなる、その場で悲鳴を上げて手にあるスケッチブックを放り投げそうになる。

 

 

 全てが全て、予想通り(・・・・)だ。

 

 

「そう……ですか……」

 

 

 それら全てを抑え込んで、作り笑いを浮かべる。なるべく平静を装うべく、声の震えを抑え込むべく。お腹に力を込めて、文字通り腹の底から絞り出すように言葉を吐き出した。その言葉、そして私が浮かべているであろう表情に、北上さんはしばらく黙って見つめてくる。

 

 

 その瞳に、私の顔が映った。今にも泣きそうな程、酷い顔をしている。でも、北上さんは特に何も言わず身体を預けていた椅子ごと私に背を向けた。

 

 

「そう言うコトだから、お礼言っとくんだよ」

 

「……はい」

 

 

 その言葉に、私は再度同じような声を出す。北上さんが背を向けて手にしたファイルに目を通している分、表情までは取り繕う必要は無かったから、幾分か楽だった。

 

 

 『提督』――――先日、ばったりと出会ってしまった存在。最初は怖そうな上司、次に私にトラウマを刻み込んだ(そんざい)、逆らってはいけない(そんざい)、理不尽を押し付けてくる(そんざい)、痛みを与えてくる、恐怖を植え付けてくる、それによって周りを子達を壊していく(そんざい)。此処まで様々に形を変えつつも、その度に重圧を与え続けてきた(そんざい)は、少なくとも私が生きてきて、艦娘として動き出して、今日までは居なかったと思う。

 

 そんな恐怖と理不尽の象徴、害悪とも言うべき男はいつの間にか消え、その座に金剛さんが座っていた。その後、すぐに彼女は鎮守府内に居る人間たち全てを追放、そして大本営からやってきた人間をも追い返し、それら全てとの決別を宣言した。

 

 

 その時、彼女が大いに振るい、そして人間たちに突き付けたのが、艦娘が持つ『力』だった。

 

 

 火砲、艤装、生命力、艦隊に所属する艦娘の数、そして深海棲艦に対抗出来る唯一の存在、人類に牙を剥いたと言う他に類を見ない強烈なメッセージ性、自分たちと同じような不満を持つ艦娘たちが呼応するリスクなど、それらと人類の運命を天秤に掛け、人間たちに突き付けた末に呑ませた。

 

 更に、その後大本営からやってくる男たちを次々と失踪させた。あれだけ理不尽を強いられた最初の時から考えられない程あっさりと、簡単に失踪させたのだ。それだけの力を金剛さんは持っていた。いや、金剛さんだけではない。龍驤さんや隼鷹さん、皆持っているのだ。艦娘(みんな)持っているのだ。その姿を見て、私は気付いた。

 

 艦娘には力がある。深海棲艦に対抗できる力が、それを持つ唯一の存在なのだ。それは戦艦から駆逐艦問わず、私にだってあるのだ。それが何故、深海棲艦に対抗出来ず艦娘(わたし)たちに助けを求める人間(そんざい)に従っているのだ、理不尽を強いられているのだ、仲間が傷付けられるのをただ黙って見つめているのだ、自らに降りかかる火の粉を払わないのだ。

 

 

 『艦娘は人間にだけ力を振るってはいけない』―――――そんな馬鹿げたこと、そしてその理由が、一体何処にあるのだ。

 

 

 そのことに気付いてしまってから、私の男に対する態度は一変した。

 

 

 罵詈雑言を、拒絶を、負の感情を、憎悪と嫌悪が入り混じった殺意のような、いや『殺意』を、それら全てを容赦なくぶつけるようになった。出会い頭に噛み付き、殴りかかり、挙句の果てには支離滅裂な理由を押し付け、躊躇なく砲門を向けるようになった。慈悲や同情、それら全ての感情を消した、ただ無機物を見るような目を向けるようになった。

 

 

 それは、今まで受けてきた理不尽や恐怖の裏返し。それらが怖いから、それらを受ける前に先ずこっちからやってやる、と言う子供みたいな発想だ。相手からすればただの理不尽、子供の我が儘、批判されるべき行動だ。

 

 でも、それをするしかなかった。何故なら、排除しなければならないからだ。(それ)が周りに暴力や理不尽を振りまく前に、どんな手を使ってでもその脅威を取り除かなければならないからだ。それが正しいか正しくないかはどうでも良い。私に、そして周りに危害を加えなければそれでいい。それだけのためだ。それだけのためにやらなければならない。

 

 

 例え、それが私自身が忌み嫌った理不尽であろうと、守ろうとした人から『子供(ガキ)の我が儘』と罵られようと。私はそれをしなければならない。

 

 

 

 

「おーい」

 

 

 不意に聞こえた北上さんの言葉。それに弾かれるように顔を上げると、真顔の北上さんが一枚の紙を私に差し出していた。深い思考の海から引っ張り上げられ、そして目の前に写真を差し出されている状況に反応出来ない私に、彼女は「ん」と言って手にある紙を軽く揺らすのみ。それが「受け取れ」と言う意味だと分かり、特に考えもせずそれを受け取る。そして、その紙を目を通した。

 

 それは演習参加の通達。それを、私は良く知っている。何故なら、今現在にも私が受け取っているリハビリ(・・・・)の内容を記したモノだからだ。しかし、その通達は私に向けられたモノではない。その根拠は、いつも私の名が描かれている筈の欄に、別の名前が書かれていたから。

 

 

 

 『綾波型駆逐艦8番艦 曙』と。

 

 

 

「あの事件の後、曙が砲門を出せなくなったのは知っているでしょ?」

 

 

 視界の外から聞こえた北上さんの声に、私はただ頷いた。それが失礼なことだと分かっていた。だけど、どうしても目の前に映る通達から、正確にはそこに記された名前から目が離せなかった。

 

 

「それで最近はもっぱら間宮さんの手伝いをやってたわけなんだけど、流石にいつまでも出撃しないわけにはいかない、ってことになったらしくてねぇ……ついさっき、提督があたしのところに話を持ってきたの。んで―――」

 

「許可したんですか?」

 

 

 北上さんの話を断ち切る様に、私は質問を投げかけた。今まで釘付けになっていた報告書から目を離し、北上さんに視線を向けながら、淡々とした口調で。それを受けて、北上さんは横目で私を見たと思ったらすぐに目を逸らした。

 

 

「そうだよぉ」

 

「何でですか!?」

 

 

 いつの間にか、そう怒鳴っていた。それは無意識の内。でも何故そう怒鳴ってしまったのか、その理由は分かっていた。対して、北上さんは特に驚く様子も無く、逸らした視線を再び向けてきた。いや、先ほどよりも冷えに冷え切った刃物ような鋭い視線を向けてきた。

 

 

「曙は過度な負荷で腕の神経が断裂したとか、誰かさん(・・・・)みたいに手や腕が吹き飛ばされた訳じゃない。ただ、砲門が出せなくなっただけ。その腕自体に後遺症はなく何不自由なく動かせる、つまり身体的問題は無いってこと。これはあの子が普通に生活している時点で証明済み。んで、問題がある砲門に関しては、あの子が砲門を出してくれないと診ることが出来ない、診れなければ対策を打つことも出来ない……要はお手上げ状態ってわけ。となれば、ここは完治の為に少しでも無理をしてもらわないといけない。無理(リハビリ)をしたあんたなら、分かるよね? だから、許可した」

 

「それでもし砲門が暴発したらどうするんですか!?」

 

 

 一切の感情を押し殺した淡々とした口調で北上さん。その説明が終わった瞬間、間髪入れずに質問をぶつけた。先ほどよりも大きな声で、先ほどよりも強い口調で。なのに、北上さんは身じろぎもたじろぎもせず、ただ視線を向けてくるだけだ。

 

 

「初めは燃料だけの補給だから暴発の危険はないよ。安定して砲門が出せて、且つコントロールが出来るようになってから砲撃訓練に撃つ予定。だから大丈夫」

 

「訓練中に深海棲艦が攻めてきたどうするんですか!?」

 

「哨戒隊が居るんだよ? 鎮守府(ここ)に攻めてくるわけないじゃない……て、言いたいところだけど、前例があるからね。だから、曙の訓練中には一艦隊分の艦娘も同伴する予定。万が一、敵さんが攻めてきても退避は出来る。こっちも前例(・・)があるし、何よりあの時よりも状況は段違いでしょ。だから問題ない」

 

「せ、潜水艦は!?」

 

「訓練中海上への出口は封鎖する、潜水艦が侵入することは先ず不可能。破壊すれば速攻で分かるから対処できる。陸に上がるバカもいないだろうし、仮にいたらその場で八つ裂きにすればいい」

 

「でも……でもぉ!!」

 

 

 ぶつけた質問を北上さんは少しも表情を変えることなく次々に論破していく。しかし、それでも私の頭は考え続ける。何処かに問題点がある筈だ、何処かに綻びがある筈だ、何処かに見えないモノが、見落としが、穴がある筈だ。それを見つけねば、それを見つけて提示しなければ、そしてやめさせなければならない。だって――――

 

 

 

 

「『提督』が気に入らないんでしょ?」

 

 

 北上さんの言葉。それは抑揚も無く、迫力も無く、重圧も無い。そんな言葉を、彼女は私に投げつけた。それはまるで、ごみをゴミ箱に向けて投げ入れるような、そんな適当で、ぶっきらぼうで、興味すら向けない。そんな投げつけ方だった。

 

 

「これを提案したのが『提督』で、『提督』の提案が受け入れられて、『提督』の思い通りに進んでいるこの状況が気に入らないんでしょ?」

 

 

 再び投げつけられた言葉(ごみ)。今度はちゃんと狙いを澄して、(ゴミ箱)に入るように。

 

 

「どうなの?」

 

 

 投げかけてきた言葉。今度は入らない(・・・・)ようちゃんと狙いを澄して、投げかけてきた質問(白紙)だ。

 

 

 それを本音を書いて(汚して)言葉(ごみ)にして投げ返してみろと。

 

 

「もし……」

 

 

 それを受け取って、私は口を開いた。投げかけられた質問を汚すために。

 

 

「もし、あの男が別の目的を持っていたらどうするんですか? あの時と同じ無防備な状況を、今度は自分の手で作り出そうとしていたらどうするんですか? 大本営に反旗を翻そうとか、深海棲艦に繋がっているとかそう言うのじゃない。今までずっと、誰にも言わずにひた隠しにしている目的のため、その状況を作り出したとしたらどうするんですか? それを達成するために艦娘たちを召集し、甚大な被害を与えようとしていたらどうするんですか? もし―――――」

 

 

 そこで言葉を切り、顔を上げる。目の前に、北上さんは立っていなかった。代わりに居たのは提督(・・)。馬乗りの状態で私を逃げられなくし、何度も何度も拳を振り降ろしてくるあの提督だ。

 

 痛みで感覚が殆ど消えた腕で顔を庇うも、振り下ろされる衝撃が腕を伝って顔にのしかかる。そこに容赦はない。本当に私を殺そう(・・・)としている、そんな恐怖を植え付けてくるほどの衝撃。そして同時に、耳に嫌と言うほど焼き付いた言葉、提督の声だ。

 

 それは泣き叫ぶような声だった。それは怒り狂っている声だった。ただ己の感情を拳に乗せ、それでもあり余っている感情の全てを吐き出そうとしているような、そんな声だった。だが、その声に乗せられ、私目掛け投げつけられた言葉は、全て同じ(・・)だった。

 

 

 

 

 

 『お前らが居なければ良かった』

 

 

 

「『この世から艦娘たちを失くす』――――これが貴方(・・)の目的だったら、どうするんですか?」

 

 

 そう、投げかけた。絶対に外すまいと狙いを澄まし、受け止めやすいようにゆっくりと。目の前の人物に、『提督』に投げかけた。

 

 

 あの日、連れて行かれたあの日、提督の部屋で散々にぶつけられた言葉。これを知っているのは、私だけではない。同じ目に遭った人はたくさんいる、少なくとも金剛さんは知っている筈だ。だから提督が消えた後に残っている人間たちを追放して、その大元である大本営と手を切ったのだ。

 

 

 今度も一緒だ。既に金剛さんが、誰かが動き出している、その筈だ。どうだ、図星だろう。提督の目的は既に知れ渡っているのだ。露見しているのだ。何人はもう動き出してる、提督を排除しようと動き出している。だから提督はもう消える、確実に消えるのだ。

 

 私の言葉(これ)はその始まり、私はスターターだ。誰が提督を排除するか、そんなレースの火蓋を切った。たった今、目の前で切った。後は、誰かがゴールするまで待てばいいのだ。それだけで終わる、終わらせることが出来るのだ。

 

 さぁ、どうする? 一度始まったレースはもう止まらない。私も誰かも艦娘たち(ギャラリー)も、誰も止まらないし、止まらせないし、止められない。ただ一直線にゴール目掛けて走るだけだ、提督目掛けて襲い掛かるだけだ、提督(ゴミ)を排除するだけだ。

 

 

 

 さぁ、どうする?

 

 

 

 

 

 

 

「なわけないじゃん」

 

 

 しかし、提督はそう言った。いや、それは提督の声ではなく、北上さんの声だ。その瞬間、目の前に立っていた提督の姿が消え去り、代わりに北上さんが現れた。相変わらず冷え切った視線を向けながら、私を見つめている。その姿を見た瞬間、あれだけ沸き上がっていた熱が急激に引いていった。

 

 

「す、すみません……」

 

 

 冷えた頭で考えて、先ず北上さんに謝った。しかし、彼女は特に反応することなく、ただ黙って私を見つめ続けた。その場に流れる沈黙。だけど、何故だろう。私はこの空気を、この沈黙を知っているような、そんな違和感があった。

 

 

 

「じゃあもし私がそう企んでいたら、どうするの?」

 

 

 次に聞こえた北上さんの言葉。それは質問だ。しかし、私にはその意味が理解できず、呆けた顔を彼女に向けることしか出来なかった。それを見て、ほんの少しだけ北上さんの表情が歪む。

 

 

「言ったじゃん、『艦娘を失くす』のがあたしの目的だって。もしそれが本当だったらどうするの?」

 

「え、いや……そ、それは北上さんに言ったんじゃなくて――――」

 

「誰でもいいよ、そんなこと。あたしが聞いているのは、もし誰かがそう企んでいたらどうするか、ってこと。答えて」

 

 

 私の弁明を掻き消す様に北上さんが再び質問を投げかける。気のせいか、その語気が少しだけ荒くなっているような気がした。そしてまた、私はこの状況にもあの違和感を感じた。その違和感を確かめるため、私はふと北上さんの顔を見る。

 

 

 

 その瞬間、凄まじいほどの寒気が全身を走った。

 

 

 突然のことに顔を下げる。しかし寒気は止まらず、むしろ酷くなっていく。寒気に続いて、全身から血の気が瞬く間に引き、冷凍庫に小一時間放置されたのかと思うほど低い体温にまで一瞬にして下がった。激しい目眩と共に呼吸が不規則に、酷くなり、尋常ではない震えに呼応するように心臓の鼓動が早鐘を打った。

 

 

 それは、『提督』の名を聞いた時と同じ現象だ。しかし、その度合いはケタ違いだ。先ほどの取り繕う笑みも、頭を上げることも出来ない。ただ、その場に立っているだけで精一杯なのだ。それが、ただ北上さんの顔を見ただけでそうなってしまった。

 

 

 

 いや、本当に北上さんなのか?

 

 

 

「何で何も言わないの(・・・・・・・)?」

 

 

 再び聞こえた北上さんの声。その声に、弾かれた様に顔を上げる。微かに、本当に微かにだが、彼女の他に別の声が重なって聞こえた気がしたから。故に顔を上げ、北上さんを見た。

 

 

 そして、それは間違いではないことを思い知らされた。

 

 

「そう企んでいるのが分かっているでしょ? だったら未然に防ぐとか、防げなかったら現場に立って少しでも被害を抑えようと、そう言えば(・・・)いいじゃん。何が起こるか事前に分かっているなら、どう動けばいいか、どう周りを動かせばいいか、少なくとも艦娘の中で一番分かっている筈でしょ。なのに、何で何も言わないの? 何で何もしないの? 現場に来ない、離れた場所に居る。離れた場所で馬鹿みたいに罵っているだけ。何で他人任せなの? 何で自分が動こうとしないの? そんなの、自分から蚊帳の外に逃げ込んで、安全圏から野次を飛ばしているだけじゃん」

 

 

 容赦なく投げつけられる言葉。それは言葉(ゴミ)なんかじゃない、罵声()だ。

 

 私目掛けて、容赦なくそれをぶつけられているのだ。顔に当たろうが、お腹に当たろうが、心臓の真上に当たろうが、そのせいで私が倒れてたところで止むような、そんな生半可なモノではない。

 

 だけど、それではない。別の声が重なって聞こえた理由は、これではないのだ。ではその理由は何か、それは北上さんの顔に重なる別の顔だ。

 

 

「あの日、提督にどんなことをされたのか凡そは理解してる。そのせいで男が怖くなったのも、その裏返しに攻撃的になったのも全部、全部知ってる。あんたが何に怯えている(・・・・・・・)のかも、それに対してどうしたいのかも、全部。でもね――――」

 

 

 

 そう罵声をぶつけてくる北上さんの顔に、曙ちゃんの顔が重なって見えたからだ。

 

 

「それはこじつけ。全く別の理由をあたかもその理由である様に仕立て上げている、ただそれだけ。それ以下でもそれ以上でもない、全く意味の無いモノ。それは在りもしない理由を無理やりひねり出し、それを馬鹿みたいに掲げて相手を糾弾しているのと同じだ。それはあの時―――――()に砲撃された時と同じだ」

 

 

 『私に砲撃された時と同じ』―――――これは幻聴だ。目の前に彼女は居ない。聞こえるのは北上さんの声だけだ。

 

 『曙ちゃんの顔』――――これは幻覚だ。目の前に彼女は居ない、居るのは北上さんだけ。それ以外に人は居ない、居ない筈だ。

 

 

 なのに、目を開けば彼女の顔が見える。耳を澄ませば彼女の声が聞こえる。それは段々ハッキリと、段々大きくなっていく。

 

 まるで北上さんを飲み込み、彼女のみ(・・・・)になろうとしているような、そんな気がした。いや、そうなると確信(・・)した。

 

 

「本当は()から逃げているだけでしょ? ()を守るために空回りして、それを目の前で全否定されて、挙句の果てには砲撃されて、あんたのやってきた事全てを否定した()が怖いんでしょ? また否定されるんじゃないかって、また砲撃されるんじゃないかって、それが嫌なだけでしょ? だから標的を提督に変えて、()に会いたくない理由をでっちあげて、それをデカデカと掲げて大股で歩いていきたいだけでしょ? 誰も非難されない大弾幕が欲しいだけでしょ? それに()を使いたいだけでしょ?」

 

 

 やめて……そんなことない、そんなわけない、そんなはずない。私がそんな事、曙ちゃんを利用しようなんてこと考えるはずがない。絶対に、絶対にない。

 

 

「私は……私はただ貴女(・・)を守りたいだけで……」

 

「なら、どうやって()を守るの? そんなに離れていて、あんただけ安全圏に居て守れるの? そうやって顔も向けず、声もかけず、背を向けて耳や目を塞いでいるだけで守れるの? 全く別の場所に向けて野次を飛ばすだけで守れるの? それで、『本当』に()を守れると思っているの?」

 

 

 その言葉に、私は今自分が曙ちゃんに背を向け、耳や目を固く塞いでいることに気付いた。だけど、身体が動かない。どれだけ力を入れても、神経が焼き切れるかと思うほど命令しても、頑なに動かない。

 

 このままだと、曙ちゃんの言葉を肯定することになってしまう。そんなので曙ちゃんを守れるなんて微塵も思ってないのにそれを肯定することになってしまう。

 

 

 確かに私は臆病だ。いつも誰かの、曙ちゃんの背に隠れて、その後ろで他人の顔色を窺ったりしている臆病者だ。一人になったらただその場に塞ぎ込んで助けを待つことしか出来ない、弱い存在だ。

 

 確かに私は卑怯だ。いつも曙ちゃんの背後に、いや隣でも前でもいい。その近くに居さえすれば、周りはどうでもいいと思う卑怯者だ。そこを守るためなら他人を蹴落とすことも厭わない、もしかしたらそのために彼女自身を利用したかもしれない、姑息な小心者だ。

 

 

 でも、一度であって『彼女を利用しよう』と考えて動いたことはない。いつもあったのは『彼女を守りたい』、『彼女の傍に居る』、この二つだ。これしか、本当にこれしかないのだ。

 

 

「そんなことぉ……す、するわけ、ないよぉ……」

 

 

 その言葉を否定するも、私の口から零れた声は非常に弱弱しい泣き声であった。しかもその声が、曙ちゃんの言葉を肯定しているようにも聞こえてしまう。違うのに、そんな気も無いのに。

 

 

「なら、あんたは何処まで()を守ってくれるの? 何かあっても知らないふりなの? 気に留めてくれるの? 様子を見に来てくれるの? 恐る恐る近づいてくれるの? 真っ先に近付いてくれるの? 手を取って引いてくれるの? 引っ張ってくれるの? 一緒に逃げてくれるの?」

 

 

 今まで刺々しかった曙ちゃんの口調が少しだけ和らぐ。それは先ほどの刺々しい言葉ではない、何処か自身無さげ、手を差し伸べているような、そんな印象を与えてきた。

 

 それに、私は思わず手を伸ばした。知らないふりなんてしない。真っ先に近付いて、今伸ばしている手で貴女の手を取って、一緒に逃げる。絶対にそうする。だってそれが貴女を守ることだから。貴女の傍に居ることだから。

 

 

「敵の攻撃から守ってくれるの? 庇ってくれるの? 代わりに傷付いてくれるの? ()の代わりに――――」

 

 

 そこで言葉を切った曙ちゃんは、柔らかい笑顔を向けていた。それを見て、今まで無意識の内に伸びていた手が止まる。それを気にすることなく、曙ちゃんはこう言い切った。

 

 

 

 

 

 

「沈んでくれるの?」

 

 

 

 その瞬間、私の顔が、身体が、医務室全体が突然の突風に襲われた。前髪が巻き上げられる感覚がある、視界には突風にさらわれた無数の紙が蛇のように曲がりくねって舞い踊り、そして風に揺られながらゆっくりと落ちていく。

 

 目の前の曙ちゃんは、微動だにしない。同じく、私も微動だにしない。私は曙ちゃんを、彼女は私を黙って見つめている。いや、彼女は時折視線を別の場所にやっている。

 

 

 

 それは私と彼女の間に現れた、黒光りする砲門だ。しかも、それは私の腕(・・・)から現れ、その先を曙ちゃんに向けているのだ。

 

 

「……()? 何でそんなものを向け――――」

 

「曙ちゃんの真似は止めて下さい」

 

 

 狼狽えた様にそう言葉を零す曙ちゃんに――――――いや、彼女の口調を真似している北上さんに冷たく言い放つ。すると、先ほどの提督同様曙ちゃんの姿が消え去り、彼女が立っていた場所に何処か疲れた表情の彼女が現れた。

 

 

「何であたし(・・・)はそんなもんを向けられているのかねぇ?」

 

 

 私の言葉に、いつもの口調でそう問いかけながら肩を竦める北上さん。その姿を見て、私は自分が落ち着いていることに少し驚いていた。

 

 何せ、今の今まで胸中を渦巻いていた感情が、自分の言ってること、やってること、言われたこと、罵倒されたことの全てでグチャグチャになっていたからだ。でも一言、曙ちゃんの真似をした北上さんの一言が、それら全てを消し去る程の『新たな感情』を呼び起こした。

 

 

 

 

「曙ちゃんは、そんなこと言いません」

 

 

 少しの沈黙の後、何か言おうとしたらしき北上さんを遮って、力強くそう言い切った。その言葉に、彼女は少しだけ目を見開き、私をじっと見つめてくる。そこに感情が見えず他の人ならすぐに目を逸らしただろう。が、私は逸らすことなくじっと見つめ返した。

 

 

 ここで目を逸らしたら今しがた自分が言い放った言葉を否定してしまう、そう思ったから。

 

 

「何でそう言い切れるの? 曙から直接聞いたわけでもないのに、誰かがそう言ってたわけでもないのに。ただあんたがそう言ってるだけ、根拠もない。なのに、何でそう勝手に決めつけられるの?」

 

 

 その声色は、先ほどの罵声をぶつける時と同じだ。でも、私は臆さなかった。臆す理由が無かった、臆さない理由があった。そう決めつけられる(・・・・・・・)理由があった。

 

 

 

「曙ちゃんは素直じゃなくて、強情で、意地っ張りで、プライドが高くて、言葉の節々に棘があって、それを直そうともせず、逆に煽ることもある、言葉で人を傷付けることもある、手を出すこともある。でも……」

 

 

 そこで言葉を切り、一歩踏み出す。それと同時に砲門を下げ、北上さんに詰め寄った。目の前に近付いたのに少しも微動だにしない彼女の目を真っ直ぐ見つめ、睨み付ける様に、噛み付くようにこう言った。

 

 

 

 

 

「『私のために犠牲になって』なんて言葉、絶対に言いません」

 

 

 今までの中で一番力強く、そして間違っているなど微塵も思ってない私の言葉に、北上さんの表情が少しだけ動いた。それは強張ったわけでもなく、しわが刻まれた訳でもなく、悲しそうに目尻が下がるモノだった。

 

 

「彼女は前世でたくさんの嘘や裏切り、理不尽に見舞われました。人一番それを経験して、誰よりもその辛さを知っている。だから誰かがそれを味わう姿を見たくないんです、誰かが自分と同じ目に遭うことが許せないんです。だからどんな状況でも、どんな立場でも、自分が被害者(・・・)だろうが加害者(・・・)だろうが、自分が正しいと思ったことを最後まで貫き通すんです。そのためなら自分を犠牲にするも厭わない、本当に優しい子なんです。誰かが犠牲になるなら先ず自分が手を挙げる、理不尽を押し付けられても無理やり納得させてしまう、そんな堅固な意志と優しい心を持った、本当に凄い子なんです。そんな彼女が、誰かを犠牲にしてまで自分が幸せになろう、なんて絶対に言いません」

 

 

 言葉を吐きだすごとに下を向いていく私に、北上さんはただ悲しそうな表情を向けてきた。何故、そんな表情を向けてくるか疑問だったが、今の私に気を遣う余裕なんて無い。

 

 

「前から見てきたんです。誰よりも長く、誰よりも一番近くで見てきたんです。だから分かるんです、多分本人以上に分かるんです。ずっと見てましたもん、ずっとそばに居ましたもん。ずっとあの子の後ろ姿を、その背中から見てましたもん。だから――――」

 

 

 そう言って、私は再び顔を上げた。少しだけ霞んだ視界のまま、北上さんを見つめた。その時、北上さんがどんな顔をしていたか、分からない。

 

 

「さっきの言葉、どうか訂正してください。お願いします」

 

 

 そう言って、頭を下げた。私が頭を下げることに、何の意味があるのか分からない。だけど、今の私にはそれぐらいしか出来ない。だから、頭を下げた。無意味だろうと、ただの出しゃばりだろうと、頭を下げた。

 

 

 それが、曙ちゃんを守ることだったから。

 

 

 

 

 

「ちゃんと見えてんじゃん(・・・・・・・)

 

 

 そんな私の耳に、ポツリとそう聞こえた。それに思わず頭を上げると、何処か申し訳なさそうな顔をした北上さんが。先ほどの感情の見えない視線を向けてきた人とは思えないほど、いつもの彼女に戻っていた。

 

 

「実はね、さっき言ってた曙の訓練の件? アレ、嘘なんだよねぇ」

 

「はぁ!?」

 

 

 突然の爆弾発言に、思わず声を上げてしまった。それに、北上さんはちゃっかり耳栓をしつつとぼけた顔を向けてくる。

 

 

「提督が話を持ってきた、ってだけだよ? 本人が言ってきたならいざ知らず、他人が提案したモノなら当事者も合意の上じゃないとねぇ? まさかぁ、提督が持ってきただけであたしが許可出すわけないじゃんよぉ」

 

「え、え?」

 

 

 先ほどの張りつめた空気からの落差が激しく、いまいち状況が掴めてない私の背中をケラケラ笑いながらバシバシ叩いてくる北上さん。その、さっきと変わり過ぎじゃありませんか、そう言おうとした瞬間、彼女の顔が真剣な面持ちに変わるのを見た。

 

 

「まぁ、茶番は置いといて本題(・・)に移るよ。提督が話を持ってきたのは本当で、内容も曙がどうやったら砲門を出せるようになるか、だ。あたしはそれに一枚噛んでくれって話を持ち掛けられたのよ」

 

 

 テンションがコロコロと変わる北上さんについていけず、かと言ってここで口を挟むのもアレだ、と私は追いついていない頭で考えた末、ただ黙ってその話に耳を傾けることにした。

 

 

「あんたが……まぁリハビリするようになってから、一度曙が提督に解体を希望したらしいんだけど、その理由は砲門が出せなくなったから。つまり、あの子が砲門を出せなくなったのはあんたがリハビリに入ってすぐらしいのよ。と、言うことは? あの子の砲門はあんたの存在が少なからず影響しているかもしれない、ってことになる。んで、あんたたちはあの日以降顔を会わせてないんだろ? そこで、もしかしたら顔を会わせれば砲門が出るようになるかもしれない、ってことになったわけ。だから、曙のために協力してほしいのよ」

 

 

 そう言って北上さんが差し出してきたのが、私のスケッチブックだ。その時、私は心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。まさか北上さんはあの絵のことを知ったのかもしれない、と。

 

 

「リハビリにいいかも、って軽い気持ちで渡したけど、あんたすっごい上手いじゃん。花ばっかりだけど、素人目のあたしから見ても凄いと思うよ。だから、今度からは花じゃなくて人物画にしてほしいの。ほら、人物画なら花より複雑で一つ上のリハビリとして良いのかもしれない、って思われやすいでしょ? そして、何より被写体と長時間一緒に居られる、此処大事。要するに……」

 

「曙ちゃんを被写体にして、長時間一緒に居て欲しいってことですか?」

 

 

 自らの真意を悟られていないと安心しつつ、今までの話の流れを察して導き出した答えを口にすると、北上さんがにんまりと笑いかけてきた。

 

 

「曙の場合は、多分あんたを傷付けた自責からくる精神的な問題だろう。だからこういうのでよく言われる何気ない会話や触れ合いって、負担が少なくて一番効果が良いのよ。そこに、元々親しかった人と話が出来ればもっと効果的でしょ? だから、あんたには曙の治療に協力してほしいの。いや……」

 

 

 そこで言葉を切った北上さんは、真っ直ぐ視線を向けてくる。

 

 

 

あんたにしか(・・・・・・)、出来ない事なの」

 

 

 そう言われた。その瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられた。それは苦しさよりも、むしろ暖かさがあった。それを知ってか知らずか、北上さんはまた表情を崩して軽い調子に戻った。

 

 

「あんただって、久しぶりに話したいでしょ? それであの子の治療になるんだから、こっちとしてもお願いしたいわけよ。仮に曙があんたを受け入れなくても、周りにとってその事実は重要だよ。周りからすれば仲良くしてもらうのに越したことは無いからね、外堀から埋めていくのもありだ。まぁ、少なくとも納得はするさ」

 

 最後の方になるにつれて明るかった北上さんの口調が消えていった。何事かと彼女の顔を見ると、そこに在ったのは薄暗く、何処へ向けられているのか分からない目をした北上さんだ。しかし、その顔はいつもの表情に変わっていた。

 

 

「と、言うわけで、この話乗ってくれない? まぁ、提督が提案してきた話だから、色々と言いたいことは在ると思うけど、あたしからもお願いするからさ。これが上手くいけばあたしも患者が減って楽になるし、曙も戦線に復帰できるし、あんたもあの子と仲直りするチャンスだ。これほどお得な話は無いと思うんだけど……どう?」

 

 

 少し困った表情で、私に手を合わせてお願いしてくる北上さん。その姿を、その言葉を受けて、私が出す答えは分かり切っている。勿論、一つだけだ。

 

 

「こちらこそ、ぜひ協力させてください」

 

 

 そう言って、力強く頭を下げた。願っても無い申し出だ。これを手放す気も、理由もない。そして何より、今一番必要な形で、曙ちゃんを守り、そして助けることが出来る。乗るしかない。その答えに、北上さんはまた笑顔を向けてきた。

 

 

「うん、ありがとう。じゃあ、あんたの設定を教えるよ。先ず、あんたは提督に解体申請を出しそれを受理された。残された解体されるその日まで、仲間の顔をスケッチブックに残すために人物画を書き始めた。んで、解体される日が近くになって、人物画の最後の一人ってことであんた自身が曙を呼んだ、ってことになる予定」

 

「わ、私が呼び出したってことにするんですか?」

 

「大丈夫、そう伝えるのはあんたの心の準備が出来てからだ。それまではなるべく近づけないようにするけど、万が一、やってきたらそこは上手く切り返してね。勿論、予定通りでも設定は崩さないように」

 

 

 やるとは言ったが、結構緻密な作戦であることを教えられて少しだけ自信がなくなりかける。しかし、ポンと肩に手を置かれ、顔を上げると先ほどの笑顔を、子供を見るような柔らかい笑顔を向けていた。

 

 

 

「あんたはちゃんと見えてる。だから、大丈夫さ」

 

 

 そう言って、北上さんは私から目を離し、何処か遠くを見つめるような顔をした。それは先ほどの何処を見ているのか分からない目ではなく、誰かを見つめるような、悲し気な目であった。



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唯一無二の『こと』

「ふぅ……」

 

 

 無意識の内に、そんな息が漏れた。同時に酸素を求めるように呼吸が荒くなり、腕には軽い痺れを、指にはチクリとした、目には後ろへと引っ張られるような小さな痛みを感じる。それに思わずこめかみに手を当てて軽く揉むと、幾分か和らいだ。

 

 その瞬間、私の身体に不思議なことが起こった。

 

 窓から差し込む柔らかい日差しの明るさ、心地よく頬を撫でる風の涼しさ、淡々と一定の間隔で聞こえる鉛筆を走らせる音、それと入れ替わるように消しゴムと画用紙が擦れる音、水と絵具を含んだ筆が画用紙の上を滑る音、様々な色で染め上げられたパレットを置く、または手に取る音、筆をおいた指でこめかみを揉む心地よさ、頬についた絵具を拭う布の感触、自らの脚元、そして少し離れた場所から聞こえる掛る重さの向きによって軽く軋む椅子の音。

 

 意識の隅に追いやられていたそれら全ての感覚が、まるで時間を早送りしているかの様にものすごいスピードで私の身体に現れたのだ。その中に呼吸(・・)の感覚が無かったのは、酸素を求めている身体を見れば、そして私の目の前にある一人の少女が座っている書きかけの絵で、その理由が分かった。

 

 

 呼吸を忘れるほど、絵を描くことに集中していたのだ。

 

 

 

「だ、大丈夫っぽい?」

 

 

 ふと、視界の外側から声が聞こえ、目を向けると描いてきた少女そのままの、椅子に腰かけて背筋を伸ばす夕立ちゃんの姿が見えた。その顔には心配そうなであったが、その端々から疲労感が見える。被写体は長時間同じポーズを維持しなければならないし、尚且つじっとすることが苦手な彼女のことだから余計疲れたのだろう。

 

 しかし何だろうか。心配そうと、言うか、何処か引いているようにも見えるのは。そしてその答えは、質問を投げかけようと顔から離した手が視界に映った瞬間に理解した。

 

 

「うわぁ……」

 

 

 思わず漏れた呻き声。それを漏らした私の目は自分の手に、鉛筆やクレヨン、そして絵具によって様々な色が混じり合った何とも形容し難い色に染め上げられた手に注がれている。それも、ちょうどこめかみを揉んだ親指と人差し指、中指の先が明らかに色落ちした痕が残っているのだ。

 

 

「その、止めようと思ったっぽい。でも邪魔するのも悪いかな、って思ったっぽい……」

 

 

 何処か申し訳なさそうな夕立ちゃんの声が聞こえ、顔を向けると彼女は苦笑いを浮かべながら頬を掻いている。そんな彼女に大丈夫だ、と言いながら傍に置いておいたハンカチで拭おうと思うも、それもまた何とも形容し難い色になっているわけで。

 

 仕方がないのでそのハンカチで手を拭いつつ、それがお気に入りのモノではなかったことに安堵しつつ、今度は汚れても居ないモノを用意しようと密かに決意した。そんな私を尻目に、夕立ちゃんは腰掛けていた椅子から立ち上がって大きく伸びをして、一息ついてから走り寄ってきた。

 

 

「凄いっぽい……」

 

 

 そして、今しがた筆を走らせていたスケッチブックを見て、夕立ちゃんはそう声を漏らした。いつもの彼女なら大声を上げ、感情を身体で表現しそうだが、今この時はそれすらも忘れ、書き換えの絵に釘付けになっている。その様子につられ、私も己が描いたそれに目を向けた。

 

 

 そこまでのモノだろうか。確かに沢山の色を何度も何度も塗り重ねて出来上がった代物だが、それは『失敗』を繰り返しただけだ。その過程には数え切れないぐらい配色を、塗る箇所を、挙句の果てには水分量を間違え、その度に修正に修正を加えてのコレだ。時間とモデルの労力に見合うモノかどうかは、正直自信が無い。

 

 多分、絵心がある人はもっと早く、もっとスマートに目的の色を出せるだろう。それを考えると、私はまだまだひよっこもいいところだ。それについ最近絵具を使い始めたのも拍車をかけている。

 

 

「そういうのを、『味』って言うっぽい」

 

「そ、そうなのかな……」

 

 

 そう答えたら、何処か刺々しい言葉と共に少しだけ鋭さのある視線を向けられてしまった。夕立ちゃんが苦々しく思うことなんてあっただろうか。しかし、それを聞こうにも彼女は再び絵に視線を移し、端々から舐めまわす様に目を走らせている。時折、「ここはこうっぽい?」とか「なるほど」とか、何処か関心するような声が聞こえるので、まさか彼女も絵を描いているのかな、なんて淡い期待が込み上げてくる。

 

 

「もしかして、夕立ちゃんも絵を描くの?」

 

「え!? や!? そそ、そんなことないっぽい!!」

 

 

 同じ趣味を持つのか、興味半分、期待半分の気持ちでそう問いかけたら何故か慌てたように否定されてしまう。当然の変わりよう、そして淡い期待を真っ向から否定されたことによって放心状態になる私を尻目に、夕立ちゃんは視線をあちこちに向けながら大きく身振り手振りをし始めた。

 

 

「ただ純粋に上手だなって思っただけっぽい!! た、確かに夕立もこれぐらい描けたらいいなとか、これぐらい上手なら褒められるかなぁとか、確かに思ったっぽい。でも、夕立はその前に練習すべきモノが、一緒にやろうって渡してくれたモノがあって……先ずはそっちを頑張りたいって夕立が思ってる(・・・・)。だから……今は我慢っぽい」

 

「その練習すべきモノって、日記帳?」

 

 

 そう説明していく夕立ちゃんは先ほどの慌てようが嘘のように落ち着いており、そしてその瞳には何処か熱い感情のようなモノが浮かんでいる。そんな彼女にそう返したら、その感情が瞳だけでなく顔全体に、太陽みたいに顔を赤くさせたのだ。

 

 

 最近の彼女は変わったと思う。雰囲気や表情が明るくなり、自らの感情を言葉だけでなく全身を使って表現するようになった。前までは自分の感情を出すことを良しとせず、大人しい印象を与えていた頃とは段違いだ。

 

 そして、何事にも積極的になった。こうして絵のモデルをしているのも、彼女自身がやりたいと言ったからだし、私からの注文にもしっかり答えてくれて、更に様々な提案もしてくれる。その内容は多岐に渡るも、それだけアイデアを考え付くこと、そしてそれを臆することなく言ってのけることが凄いと思った。

 

 

 ただ、一つだけ欠点を上げるとすればその溢れ出る感情を隠すのが下手な所だろうか。だから見えてしまう。彼女がそうなったきっかけが、彼女が見つめる先に居る人物が。見たくなくても(・・・・・・・)、見えてしまうのだ。

 

 

 

「潮ちゃん」

 

 

 ふと、名前を呼ばれ、顔を上げると真剣な表情を浮かべた夕立ちゃんが正面に立っていた。やはり、その横にその人物の顔が見えてしまう。思わず私はその顔を睨み付けたが、すぐに笑顔に変えた。

 

 

「なに?」

 

「……ううん、何でもない……じゃあ、夕立はそろそろ行くっぽい」

 

 

 それだけ言って、夕立ちゃんは私の傍を離れた。彼女が言葉を飲み込んだのも、そして離れていくその顔が何処か悲しそうなのも、その横に浮かんでいたとある顔が消えてしまったのも、私のせいだ。多分、彼女は私に睨まれたと思ったのかもしれない。本当は違うのだけど、それを言っても仕方がないだろう。

 

 

「ありがとう」

 

 

 だから、せめて今この時だけは笑顔で、そしてお礼と共に見送ることにした。その言葉に、扉の陰へと消えていく夕立ちゃんの顔に少しだけ笑顔が戻った。だが、それもバタン、という音と共に消えてしまう。

 

 その後、私は無意識の内にため息を漏らし、今しがた筆を走らせていた絵を見ていた。

 

 

 北上さんとの話から、一週間ほど。私は医務室近くの一室を借りて、彼女の言いつけ通り人物画を描き始めた。でも、私がこの間に書き上げた絵のはほんの数枚。今までなら一日で一枚を書き上げていた為、明らかにペースが落ちてしまっている。その理由は二つある。

 

 

 1つは、今私が使っている水彩絵の具。これは、少しでも長く居られるように、とのことで北上さんから新しく渡されたものだ。被写体と長く居ることが好ましい状況、そして少しだけ鉛筆やクレヨンなどの単調な色合いに飽きていた私にとって、まさに渡りに船だ。だから早速取り入れてみた。

 

 しかし、表現の幅が広がることは、それだけ難易度が上がる。なかなか思い通りの色が出せずに修正に修正を重ねることとなり、そのおかげで私が一枚に要する時間が倍近くなってしまった。当初の目的通りなので問題は無いのだが、それだけ自分の技術が無いのだと少しだけ悲しくなったのは内緒の話だ。ともかく、慣れない水彩絵の具を使い始めたことで時間がかかる様になってしまった。

 

 

 もう1つは、この部屋を訪れた艦娘たち。と言うのも、やってきたその多くは何故解体申請をしたのか、解体なんてやめろ、このまま鎮守府(ここ)に残れ、と、説得に来た人たちばかりだったからだ。その幅は広く、昔から親しくしている駆逐艦の子や軽巡洋艦の人から接点の少ない重巡洋艦や戦艦、空母の方々までと、本当に沢山の人たちが来てくれた。

 

 勿論、私自身解体される気はない、そういう設定(・・・・・・)だから、なんて言えるはずも無く、『私が決めたことだから』と言う理由で今日まで何とか押し通すことが出来た。中には納得できない、ちゃんとした理由を教えてとせがまれたこともあったが、その時はただ黙って曖昧な笑顔を浮かべて切り抜ける時もあった。

 

 正直、此処まで沢山の人が来てくれるとは思わなかったし、そう言う人たちを騙すのは心苦しかったけど、どうか今回だけは許して欲しい。

 

 

 これも全て、曙ちゃんの為なのだ。

 

 

 そう思った時、いきなりドアをノックされた。普通なら何の前触れも無くドアをノックされたら驚くだろう。でも、私は驚かなかった。何故なら、それはこの一週間でずっと繰り返されていること――――北上さんがやってくることだからだ。

 

 

 北上さんが今回の計画を話した際、私にこう言った。「あんたの心の準備が出来るまで」、と。

 

 これは私が人物画を描く最後の一人として曙ちゃんを呼ぶ際、そのタイミングを私に委ねてくれたことを示している。なので、この一週間。決まった時間に彼女がやって来て、そのタイミングが今日かどうかを尋ねてくれるのだ。それが大体今の時間ぐらい、もしくは被写体としてやってきた艦娘が帰って少ししてから。なので、私にとっては日課の一つとなっている。

 

 

 それを踏まえて、私は今日の答えを考える。

 

 

 先ほど夕立ちゃんが座っていた椅子に曙ちゃんが座り、その反対側に私がスケッチブックを手に座っている。

 

 曙ちゃんはポーズをとりながら、私は絵を描きながら互いに言葉を交わしている。

 

 初めは互いによそよそしい感じであったが、やがて私が頭を下げる。

 

 それに、彼女も頭を下げてくれる。

 

 その後、互いに顔を見合わせて苦笑いを浮かべ―――――。

 

 

 

 

 

 

 

「無理だ」

 

 

 そこまで考えたところで、私はそう結論付けた(・・・・・)。そう溢した私の身体は、いつの間にか両手で肩を掴み、背中を丸め、目の前で交差する腕に顔を埋め、震えている。

 

 

 また今日も、この『答え』が出てしまった。

 

 

 なんで、なんで震えてしまうの。何処に震える理由があるの。曙ちゃんと顔を会わせる機会なのに、喜ばしいことなのに。なんで震えてしまうの。

 

 なんで、なんで『無理』なの。私は曙ちゃんの傍に居たい、彼女を守りたいはずなのに。なんで『無理』なの。

 

 なんで、なんで今日も同じところで止まるの。互いに顔を見合わせて、苦笑いを浮かべるところで。なんで止まってしまうの。

 

 なんで、なんで見えない(・・・・)の。なんで浮かんでくる全ての曙ちゃんの顔が黒く塗りつぶされているの。背を向けている時は無いのに、彼女の顔が見えた瞬間、瞬く間に黒く塗りつぶされちゃうの。

 

 

 また今日も、自分を責めてしまった。この答えを出したことを、最後まで考えることなく結論付けてしまったことを、その理由が今日も見つけられなかったことを。

 

 

 

 また(・・)、ドアをノックされた。先ほどよりも、少しだけ強い。それに、私はいつものように(・・・・・・)身を震わせた。そして、いつものように(・・・・・・・)周りにあった道具を出来うる限り片付ける。その後、ドアに目を向けて声をかけた。

 

 

「ど、どうぞ」

 

 

 いつものように(・・・・・・・)、か細く震えた声だった。それに対し、ドアはすぐに開かれない。いつも(・・・)なら、すぐに開かれるはずなのに。しかし、そう思った瞬間にドアノブが回る。いつものように(・・・・・・・)、北上さんが入ってくるのだ。

 

 

 

入るわよ(・・・・)

 

 

 だけど、その直後に聞こえた声は、北上さん(いつものよう)ではなかった。

 

 

 

 ドアが開かれる。その隙間から、脚が見えた。でも、それは革靴に深緑の靴下ではなく、革靴に黒の靴下だ。

 

 次に見えたのは腕。でも、北上さんよりも細く、且つその腕が伸びる袖口は深緑ではなく青に白のラインが入った、私と同じ(・・)モノだった

 

 最後に見えたのは髪と髪留め。北上さんの黒髪ではない薄紫、髪留めには大きな鈴とそれよりも大きな花――――ミヤコワスレが装飾されていた。

 

 

 そこで、私の視線は入ってきた人物から自分の足元に移っていた。

 

 

 視界の外で、ドアが閉まる音が聞こえる。それに、私は身を震わせた。勿論、いつも(・・・)ならこんなことは無い。入ってきた人物に苦笑いを向けて、今日も同じ答えに至ったことを伝えるはずだった。いつもなら、そうするはずだった。

 

 

 視界の外からカツカツと言う軽い音が、入ってきた人物が歩く音が、段々と近づいてくる。それに、私は少しだけ後退りした。その人物から離れるように、突然襲ってきた寒気に導かれるように、ほんの少しだけ後退りしてしまった。

 

 しかし、その足音は途中で止み、次に椅子を動かす音、そして何かモノが乗せられた様に軋む音が聞こえた。その人が椅子に腰かけたのだと、数秒経った後に理解した。その瞬間、寒気が消えた。だけど、顔は頑なに上げれなかった。

 

 

 その後、その部屋は沈黙が支配した。それは1分も、下手すれば10秒も無かったかもしれない。でも、私にとってはとてつもなく長かった。1時間とか2時間とか、そんなレベルではない。終わりの見えない、いや、その沈黙がずっと続けばいい(・・・・・・・・)、そう願っていたのかもしれない。

 

 

 

「潮」

 

 

 しかし、その願いも次に聞こえたその声によって断ち切られた。止まれと願った秒針が無慈悲に動き出し、同時に尋常ではない速さの鼓動が鼓膜を叩き始め、それに呼応するように様々な異変が起きた。

 

 悪寒を感じた、息苦しさを感じた、胸の奥に鋭い痛みを感じた。手足の感覚も遠退いていく、力も入らなくなる。異常、異常だ、異常である、と脳が警鐘を鳴らす。今にも倒れてしまう、そう身体が悲鳴を上げているような気がした。

 

 

 でも、私はそれら全てを飲み込んだ。全てを飲み込み、悲鳴を上げる身体に鞭打ち、強張っている表情筋を動かし、『平静』を装うための仮面(・・)を被った。

 

 

 

 

「何? 曙ちゃん」

 

 

 顔を上げ、笑顔を浮かべて、そう問いかけた。なるべく自然に見えるよう、頬や口角を引きつらせ、逆に目尻を下げ、目を潰さんばかりに固く瞑り、声に震えも抑揚も無い、極めて普通(・・)の声色で問いかけた。

 

 

 今の自分が出来るだけの笑顔(仮面)を被ったのだ。

 

 

 固く瞑られた目では、何も見えない。聴覚のみに神経が集中している筈の私の鼓膜は、相も変わらず鼓動が聞こえる。それが段々と大きくなっていき、やがて鼓動以外の音が全てシャットアウトされた。

 

 なのに、私は目を開かない。目以外での情報源が絶たれてなお、頑なに目を開かない。いや、開けない(・・・・)のだ。だけど、その理由が分からない、そしてそのことに対して自分を叱り飛ばしたいと言う感情すら湧かない(・・・・・・)理由も分からない。

 

 

「絵、描いてくれるんでしょ?」

 

 

 ふと、そう聞こえてきた。鼓動の音で支配されていた耳にハッキリと、クリアに、そう聞こえた。その言葉に、ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ仮面が外れかけた。だけど、すぐに元に戻した。いや、戻れたと言った方が正しい。

 

 

 だって、外れた仮面の隙間から座っている曙ちゃんの姿が見えたからだ。座っている彼女の顔が、またもや真っ黒に塗りつぶされたからだ。

 

 

 

「うん」

 

 

 その言葉に、私はそう返した。今度の声も、震えていない。自然だ、自然に振る舞えている。大丈夫、大丈夫だ。

 

 

 何が大丈夫なのだろうか(・・・・・・・・・・・)

 

 

 それすら分からない。身体と意識がずれている、意識で判断するよりも先に身体が動いてしまう、意識が感じない何かを身体が感じている、意識と身体が別の生き物になっている。なのに、何故そうなってしまったのか、この状況が悪いのか、早急に対処すべきか、どう対処すべきか、分からないのだ。

 

 

 だけど『大丈夫』――――その一言で、私は片を付けてしまった。あれだけ振り回された意識()は。

 

 

 

 そんな私は改めて椅子に座り直し、夕立ちゃんの絵から白紙のページに変える。そして、すぐに鉛筆を手に描き始めた。いつもなら、先ず初めに構図を決め、それを被写体に伝えてポーズをとってもらう。だけど、今この時は、被写体に何も告げずに描き始めた。既に構図通りのポーズをとっていたわけでも、忘れていたわけでもじゃない。

 

 

 ただ、被写体を一切(・・)見なかった。

 

 

 目の前一杯に広がる白紙を、それが段々と少なくなっていく様を、ずっと見続けた。白紙(それ)が時間の経過を示す一つの目安だったのかもしれない、白紙(それ)がこの時間自体を表していたのかもしれない、白紙(それ)が無くなることがこの時間の終わりを表しているのだと思ったのかもしれない。

 

 

 この時間を、あの日からずっと待ち望んだ曙ちゃんとの再会(この時間)を、早く終わらせたかったのかもしれない。

 

 

 被写体を一切見ないのも、白紙ばかり見るのも、それが少なくなっていくスピードがいつもより速いのも、この時間を早く終わらせたかったのかもしれない。

 

 『無理だ』と結論付けてしまうのも、震えてしまうのも、彼女と笑い合うところで止まってしまうのも、その顔が真っ黒に塗りつぶされているのも、この時間を避けたかったのかもしれない。

 

 

 そうしたい、そうしたいからこそ意識は『大丈夫』だと、片を付けてしまったのかもしれない。

 

 

 でも、何故そうしたいのか。何故この時間を避けたかったのか、何故やってきてしまったこの時間を早く終わらせたかったのか。

 

 そう疑問に思った瞬間、あれだけ忙しなく動いていた手が止まった。この時間を終わらせようと、少しでも早く秒針を進ませていた手が止まってしまったのだ。

 

 

 だけど、その答えはすぐに分かった。同時に、何故自分がそうしたいのかも、分かってしまった。

 

 

 それは目の前にある絵、早く終わらせたい一心で鉛筆を走らせた私によって書かれた曙ちゃんの絵だ。だけど、その絵に描かれた人物が誰なのか、私以外の人はすぐに分からないだろう。

 

 何故なら、そこに描かれている人物の顔がポッカリと穴が開いたように白紙のままだから。ちゃんと身体も、髪も、輪郭さえも描かれているのに顔だけ、そこに居る彼女の顔だけが無いのだからだ。

 

 もっと言えば、彼女は座っていない(・・・・・・)。今スケッチブックを挟んだ向こう側にいる彼女は椅子に座っているのに、私が描いたスケッチブック内の彼女は立っているのだ。それも、力が入っていないであろう脚で辛うじて立ち、傷だらけの腕で片方の腕を支え、支えられた腕は真っ直ぐ前を、私に向けて伸ばしている。

 

 

 その腕には今の彼女が向けることの出来ない、具現化(・・・)することの出来ない砲門があった。

 

 

 それは見覚えのある、決して忘れることが無いであろう姿。支離滅裂な理由を振りかざし、通らぬと分かるや否や大声と共に引き金に指を掛けた私に向けられた、あらん限りの憎悪(・・)と敵意に顔を歪ませた姿だ。

 

 その時の表情を、私は最近見た。北上さんと話した時、その顔に重なっていた曙ちゃんが、この表情をしていた。そして、この一週間幾度となく繰り返した『答え』を考えている時。真っ黒に塗りつぶされていた彼女が、まさにそれだ。

 

 

 そう、私は怖いのだ。その表情が、それを浮かべる曙ちゃんが。

 

 

 私は曙ちゃんの傍に、いやその背に隠れていた。そこから散々に提督を揶揄した。その背に隠れて、自分の過去を免罪符に、ありったけの罵詈雑言を浴びせ掛けたのだ。つまり彼女を利用したのだ、その姿はまさに卑怯者だっただろう。

 

 そんな卑怯者の前に、彼女が立ちはだかった。いや、そんな大層なことじゃない。ただ、彼女が振り返って、前にも出ずにいつまでも自分を利用(・・)している卑怯者と向き合っただけだ。目と鼻の先で、惜しみなく敵意を剥き出して、ありったけの憎悪と共に叩きのめしたのだ。言葉と共に、砲撃と言う分かりやすい形で卑怯者を、私を叩きのめしたのだ。

 

 

 今までずっとその姿を、その後ろ姿だけ(・・・・・)を見続けた私が、初めて真正面から叩きのめされたのだ。初めて前から見た表情が、それだったのだ。

 

 

 散々に叩きのめされた私は、それが怖くなった。いつ何時、またそれを向けられ、同じように叩きのめされるか、怖くなった。だから、逃げた。その表情から、それを浮かべた彼女から、あらん限りの手を尽くして、逃げようとしたのだ。

 

 

 

 『本当は()から逃げているだけでしょ?』

 

 

 

 ふと、北上さんの言葉が蘇る。そうだ、まさにそうだ。その表情から、私は逃げた。それが自分自身が引き起こした、誰がどう見ても自業自得の事なのに、性懲りも無く、悪びれもせず、逃げていたのだ。卑怯者の名の如く、逃げ続けていたのだ。

 

 この時間を避けたかったのも、やってきたそれを早く終わらせたかったのも全てそう。ただ、彼女から逃げたいから、彼女の真正面に立つことが嫌だったから、その表情を向けられるのがたまらなく怖かったからだ。

 

 

 結局、曙ちゃんの為なんかじゃなくて私の為だ。彼女にまた真正面から叩きのめされるのが、面と向かって私のやってきた事全てを否定される(・・・・・・・・・・・・・・・・)のが、たまらなく怖いからだ。

 

 

 

「潮」

 

 

 また、曙ちゃんの声が聞こえる。それに我に返った瞬間、スケッチブックの陰に青いスカートが見えた。いつの間にか彼女は腰掛けていた椅子を離れ、私の目の前に立っていた。

 

 

 

「何で見てくれないの(・・・・・・・)?」

 

 

 その言葉に、全身の血の気が引いた。今度は曙ちゃんの真似をした北上さんでは無い、本人だ。その口から私が最も恐れている、いろんな意味で恐れている言葉が飛び出した。

 

 私はその言葉に応えることも、顔を上げることも出来ない。先ほどの仮面を付けることすら、出来なくなっていた。あれほど鼓膜を叩いていた鼓動すらも、止まってしまったかのように聞こえない。ただ、目の前に立っている曙ちゃんが先ほど溢した言葉だけがしつこく鼓膜に、脳に、全身に響き渡っているのだ。

 

 響き渡る言葉は、その形をどんどん変えていく。初めは『何で』から始まる疑問、やがて『でしょ?』で結ばれた非難、最後は『してくれるの?』で投げかけられる問いかけ。それら全て、今しがた彼女の口から零れた言葉ではなく、私の記憶の中にある北上さんが溢した言葉だ。

 

 だけど、もしかしたらそれらが飛び出すかもしれない。それらが飛び出し、襲撃事件の同じように私を叩きのめすかもしれない。その後に砲撃のような物理的な衝撃が飛んでくるかもしれない。私の全てを、また否定されるかもしれない。

 

 

 だけど、その恐怖に何故か私は逃げなかった。

 

 

 怖い、嫌だ、逃げたい。そう思っている筈なのに、何故か身体は動かなかった。その理由は分からない。今となってはもう逃げることも出来ず、ただ次に叩きのめされるであろう言葉を待つことしか出来なかった。

 

 

 

 

 だけど、彼女はその全てを裏切った。

 

 

 

 

 

「ごめんね」

 

 

 

 ポツリ、と聞こえた言葉。それは、何処か言い聞かせるような声色だった。そして、それと同時に頭に何かが触れ、ゆっくりと髪がかき分けられる感触。畳みかけられるそれに、私の頭は真っ白になった。

 

 

 

「ごめんね、いきなり押しかけちゃって。怖かった?」

 

 

 また、聞こえた言葉。今度は申し訳なさそうな、少しだけ低い声色だ。でも、その意味はまさに私の胸中を射ていた。怖い、私は彼女が怖い、彼女が今まさに向けているであろうあの表情が、たまらなく怖い。

 

 だけど、今感じているこれ、頭にある感覚、私の頭を撫でている(・・・・・・・・・)その感覚。真っ先に思い浮かんだ私自身を都合よく解釈し過ぎだと馬鹿にした上で、考えられる限りの可能性を駆使し、どれだけ最悪の予想を盾に立てた結果であるそれを、私は信じれなかった。

 

 

 自分の中で最も可能性が高く、現実味を帯びて、もっともな根拠がある答えだと導き出したそれを、自分で信じれないのだ。今度は身体だけでなく、思考とすらも切り離されたのだろうか。

 

 

 

「いや、怖いわよね。自分を傷付けた張本人が目の前にいるんだから」

 

 

 声が聞こえ、私の頭を撫でていた手が止まった。後に聞こえるのは、二つの呼吸だけ。それ以外の音が聞こえない、いや真っ白になった頭では感じていないだけで本当は沢山の音が溢れているのかもしれない。

 

 その音を、私の耳は全て閉めだした。先ほどみたいに取りこぼさないよう、曙ちゃんの言葉をちゃんと受け止めようと、細心の注意を払っての結果、もしくはそれ以外の一切を放棄した、と言ったところだ。

 

 

 

「だから、先ずそのことから。傷付けちゃってごめんなさい(・・・・・・)、あの時は私も頭が真っ白になっちゃってて、本当にごめんなさい」

 

 

 だから、次に続いた彼女の言葉がハッキリと聞こえた。今度は聞こえ、それがどんな言葉であるか、その言葉の意味を、ちゃんと受け止め、理解した。

 

 

「次に、お見舞いが遅くなってごめんなさい。傷付けた私が先ず最初に来なきゃいけないのに、今の今まで出来なくて……こんなきっかけ(・・・・・・・)で来ることになって、本当にごめんなさい。」

 

 

 次に続いた言葉。それも同じように受け止め、理解した。彼女の溢した『こんなきっかけ』とは、私が解体されることだ。そう捉え、そしてその返答も用意した。

 

 『私の方こそ、こんな形で、()を使って顔を会わせることになっちゃって、本当にごめんなさい』と。そう用意し、そう謝ろうとした。

 

 

 しかし、それは次に聞こえた言葉によって返答は、それを含めた全ての機能を失った。

 

 

 

 

「そして、潮の全部(・・・・)を否定しちゃってごめんなさい」

 

 

 その言葉。それによって機能を失い、制御の枷から逃れた身体が曙ちゃんの顔を見ようと頭を上げるも、それは彼女が再び撫で始めたことによって失敗に終わった。

 

 

「あんたが過去の押し付けで噛み付いたように、私も過去の押し付けであんたに噛み付き、そして否定した。それもあの時だけでなく、朝にあったこと、そして艦艇時代(以前)のことも、『駆逐艦 潮』の全てを否定してしまった。此処で一緒に過ごしてきた仲間として、姉妹艦として、何より『駆逐艦 曙』として、本当に……本当にごめんなさい」

 

 

 そこで言葉を切った曙ちゃんの手に、私を撫でている手に力が籠る。そして、下を向いている私の視界に、薄紫の髪が上下するのが見えた。それが示すのは何だろうか、それを考える余裕も無かった。

 

 

「怖がらせちゃって、ごめんなさい」

 

 

 次に聞こえた言葉。それはまさに今私が抱えている感情そのものだった。だから、思わず身体が震えた。だから、曙ちゃんが息を呑み、「やっぱり」と小さく溢すのが聞こえた。

 

 

「あいつと初めて顔を会わせたのが、あの朝だもん。あいつが怖いと、前の奴と同じだと、早くどうにかしないと、そう思っちゃうのも当然のことね。そして、そう思わざるを得なくなった片棒を担ぎ、そのくせあいつを庇い、あんたの全てを否定して、大怪我を負わせた私が怖くなるのも当然よね。だから……怖がらせちゃって、本当にごめんなさい」

 

 

 その言葉と同時に、私の頭から手が離れる。また違う言葉が来ると思ったが、何故か曙ちゃんは此処で沈黙した。その沈黙を未だに頭が真っ白な私が破れるはずも無く、ただただ無言の時間が流れた。

 

 

 それを破ったのは、やはり曙ちゃんだった。

 

 

 

最期(・・)に顔が見たかったけど、満足したわ」

 

 

 何処か自嘲染みた彼女の声が聞こえる。彼女が漏らした『最期』とは、私が解体されてしまうこと。これは嘘、嘘なのだ、私は解体されない。これは曙ちゃんのリハビリのため、彼女のためなのだ。

 

 

 なのに、私は何をしている(・・・・・・)?

 

 

 その言葉に、私の中でドクン、と音がした。それは心臓の鼓動、今まで嫌と言うほど鼓膜に絡みついてきた、なのについ先程消え去った筈の鼓動が聞こえたのだ。いや、その鼓動ではない。小さく小刻みに聞こえる喧しい音ではなく、たった一つ。たった一回で身体の末端にまでくまなく血液を送り届けるほど大きく、そして重い鼓動の音だ。

 

 

 そして、その一回で、私に備え付けられている全ての機能が息を吹き返した。

 

 

 なんで何も応えない、なんで動かない、なんで頭を下げている、なんで彼女を見ない、なんで目を固く瞑っている、なんで平静を装っている、なんで仮面付けている、なんで彼女の顔が黒く塗りつぶされて、いや塗りつぶしている、なんで彼女と笑い合うところで止まる、なんで『無理』だと決め付ける、なんで震えている、なんで同じ答えを出し続けている。

 

 その理由は怖いからだ。今この時、目の前にいる曙ちゃんからあの表情を、見たくないと言う理由で黒く塗りつぶしているあの表情を向けられ、あの時と同じように叩きのめされるのが嫌だからだ、逃げたいからだ。

 

 

 だけど、それがどうした(・・・・・・・)。そんなことが、一体どうしたと言うのだ。

 

 

 私は今、怖いくせ(・・・・)に彼女の前に立っている、嫌なくせ(・・・・)に彼女と言葉を交わしている、逃げたいくせ(・・・・・・)に此処に留まり続けている。

 

 本当に怖いならこんなことに協力しない、本当に嫌なら一言も言葉を交わさない、本当に逃げたいなら設定じゃなくて、早々と解体を希望する筈だ。でもそれを選択しなかった、いや選択肢にも上げなかった。

 

 

 その理由は何か、なんて問いは、まさに愚問だ。

 

 

 何せ、曙ちゃんが入ってくる前に思い浮かべて、北上さんにこの話を持ち掛けられた時にも口に出して、あの襲撃の時だって、前日の朝だって、私は行動していたじゃないか。

 

 

 

 『曙ちゃんを守りたい』『曙ちゃんの傍に居たい』―――――と、私自身が一番分かっているじゃないか。

 

 

 

 

「じゃあ……さよなら(・・・・)

 

 

 その言葉が聞こえ、同時に床を踏みしめる音が。それを聞いて、私は顔を上げた。それは身体ではない、私の意志でだ。

 

 

 上げた先に見えたのは、こちらに背を向けて出て行こうとする曙ちゃんの姿。それを見た瞬間、また一つ大きな鼓動が聞こえた。その直後、今まで固まっていた全身の神経が蘇り、私の思うままになる。そして同時に、頭にとある考えが浮かぶ。それは思考ではない、私の意志でだ。

 

 

 一歩、踏み出した。そのことに、目の前の彼女は気付かないのか、その歩調は変わらない。もう一歩踏み出した。それにも気づかない、いやそんなことを気にしてられないほど私は更に一歩を、彼女との距離を詰めていく。

 

 

 

「ま、待って」

 

 

 彼女との間合いが詰め切っところでそう声をかけ、彼女の手を取った。声が震えているのは、まだ怖いからだ。もう片方の手で彼女の肩を掴み、曙ちゃんの背中にぴったりと身を寄せ、彼女の顔を見ないようにしたのも、怖いからだ。

 

 

 だけど一番怖いのは、今ここで行かないともう二度と(・・・・・)彼女の傍に立つことが出来なくなってしまうことだ。

 

 

 

「わ、私の方こそごめんなさい……本当に!! ごめんなさいっ!!」

 

 

 

 声の震えを少しでも止める為、お腹の底から声を上げた。それが予想以上に大声となるも、曙ちゃんは特に反応することは無かった。まるで、こうくるであろうと分かっているかのように。

 

 

 

「実はね、私も曙ちゃんを避けてたんだ。貴女の言う通り、怖かったから。怖かったから顔を会わせなかった、怖かったからずっと逃げていた。怖かったから、『子供みたいな我が儘』を一杯言っちゃった。出撃したくないって、リハビリ期間を伸ばしたいって、解体してほしい(・・・・・・・)って、言っちゃったんだ」

 

 

 『解体してほしい』―――これは設定、彼女が砲門を具現化できるようになるために用意された私の設定だ。あくまで、この設定は曙ちゃんのリハビリを少しでも促進させるためのモノ。同時に、北上さんは『もし彼女が突然やって来ても、設定は崩さない様にして』と言った。その理由も曙ちゃんのため、彼女のリハビリを少しでも促進させるためだ。

 

 

 つまり、この設定は曙ちゃんのため(・・・・・・・)、私にしか出来ない、唯一無二のことなのだ。

 

 

 もしそれを今ここで嘘と言ってしまったら、どうなるだろうか。そして曙ちゃんは私を非難するであろうか、あの時のように正面から叩きのめすだろうか。いや、そんなことはどうでも良いのだ。

 

 私にとって重要なのは北上さんと提督が考えてくれた、私にしか出来ない唯一無二のそれを『子供の我が儘』で放棄することが、たまらなく怖い(・・)からだ。

 

 

「でも、今日曙ちゃんと話をして、ようやく分かった。私は貴女の傍に居たいって。怖いのは確かだけどそれでも貴女の傍に居たいって、それが本当にしたいことだって、分かったんだ。そして今、『怖い』が『怖かった』に変わった。今は『ただ貴方の傍に居たい』、そう心の底から想い、願って、こうして口に出せるようになったよ」

 

 

 そして、設定を崩さない範囲で本当のことを言った。それは『嘘をつくのが嫌だ』、という至極個人的な想いからだ。本当、こんなところにまで『我が儘』を言ってしまう自分が嫌になる。だけど、どうしても今この時に伝えておきたかった。いや、『我が儘』だからこそ、伝えなきゃいけないと思った。

 

 

「だから、もう一回ちゃんと考えてみる。ちゃんと自分と、本心と向き合ってみる。多分、まだ時間はかかると思う。いつ何時、何かの拍子でまた考えが変わるかもしれない。自分を見失うかもしれない。だから、もしそうなったら、またこうして話を―――――」

 

 

 そこで言葉を切り、同時に曙ちゃんの身体から離れた。すると、今までずっと見えていた彼女の背中が見えなくなり、同時に今までずっと見えなかった彼女の正面が、彼女の顔が現れる。それはつまり、私が彼女の真正面に立ったと言うことだ。

 

 

 現れたその顔は真っ黒に塗り潰されておらず、あの時の表情もなく、ただただ驚いているような表情が浮かんでいた。心の片隅で叩きのめされると覚悟をしていた手前、そんな表情を向けられたら思わず笑いが込み上げてくる。

 

 それを出し惜しみせず、全ての表情筋を動員し、仮面ではない『本当の笑顔』を浮かべ、目の前の彼女にそれを向けた。

 

 

 

 

「『私の我が儘』、聞いてくれるかな?」

 

 

 そう言った。何故なら『私の我が儘を言うこと(それ)』こそが、私だけで考えた、もう一つの『唯一無二のこと』だと、そう思ったからだ。

 

 

 

 

 

 

「ちょっと待って」

 

 

 だけど、その返答はあまりにも素っ気なかった。思わず笑顔を崩して、曙ちゃんを見る。目の前の彼女は先ほどの驚いているような表情ではなく、顎に手を当てて何か考え事をしている。その姿に、そして思わぬ返答に反応出来ない私に、考え事を切り上げた彼女は訝し気な表情を向け、こう言い放った。

 

 

 

 

「何であんたが解体されるの?」



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向けられた『表情』

「えっ?」

 

 

 思わず声が漏れた。そう声を漏らした私の表情筋―――『本当の笑顔』を作り出していた表情筋はその機能を停止する。

 

 

 頭をバットで殴られたような衝撃と共に今まで抱えていた思考、感情の全てが瞬く間に叩き出され、頭の中は真っ白に――――いや、夥しい数の疑問符で満たされる。そこに状況を把握する余裕などなく、ただただ間抜け面を彼女に晒すことしか出来なかった。

 

 

 そんな間抜け面を向けられた曙ちゃんも、同じく呆けた顔を浮かべていた。先ほどの訝し気な表情も、私を叩きのめした時の表情も無い。文字通り、ただただ間抜け面(・・・・・・・・)だ。だけど、その目は忙しなく動いている。思考自体は停止しているのではなくむしろ働いており、そのためにそれ以外の機能を放棄しているのだろうか。

 

 

 ともかく、部屋は沈黙が走った。その沈黙を破ることなく、私たちは互いに互いの間抜け面を嫌と言うほど見つめ合う。その時間は、長かったのだろうか。それが長いのか、はたまた短いのか、それすらも分からなくなっていた。

 

 

 

 

「えっと、ねぇ……」

 

 

 その沈黙を破ったのも、曙ちゃんであった。その顔は先ほどの間抜けな面ではなく、こめかみに手を当て小さく唸り声を上げている。頭痛に悩んでいるようだ。

 

 

「今からいくつか質問をするけど、正直に(・・・)答えてね?」

 

 

 軽く唸り声を孕みつつ絞り出された彼女の言葉には――――と言うか、分かりやすく強調された『正直に』と言う言葉に何処か言い知れぬ重みを本能的に感じた。故に、私は首振り人形のように何度も頷くしか出来なかった。そんな私を見て、彼女の表情はほんの少しだけ緩んだ。

 

 

「先ず、あんたが解体されるって話は本当?」

 

「い、いいえ……」

 

 

 最初の質問。『正直に』と釘を刺されていた、または思考が止まっていた私に取り繕うことも出来ず、ただ言葉通り素直に答える。対して、曙ちゃんは小刻みに頷きつつブツブツ呟くも、すぐに私に向き直って再び口を開いた。

 

 

「次は、()が解体されるってことは聞いてる?」

 

「え、えっと……」

 

 

 次の質問。その間に少しだけ思考が戻り始めたため、私の頭には二つの答えが浮かんでいた。

 

 まず、北上さんから聞かされたこと。彼女は一度、私を砲撃したために砲門が出せなくなり、それを理由に解体を申し出た。だけど、それを彼女は取り下げ、今は間宮さんと中心に食堂を切り盛りしている。そのことは知っている。

 

 だが、彼女の口ぶりはまるでそれ以外に解体を申し出たと言ってるかのようであり、その場合は知らない。仮にそっちであれば、逆にその理由を問いただす気だ。だけど、そうであると言う確信がいまいち持てないのだ。

 

 つまり、彼女の口振りは前者と後者のどちらにもとることができ、かつどちらであるか判断がつかない。故に二つの答えが浮かび、どちらを答えにしようかと悩んでいるのだ。だけど、ここで変に話しをこじらせるのもあれなので、素直に答えた。

 

 

「……一度、取り消したってことは知ってる」

 

「……あぁ、そうね、そうだったわ。ありがとう」

 

 

 質問によって再び動き出した思考を元に答えを絞り出す。それに曙ちゃんは一瞬キョトンとした顔になるも、すぐに合点が付いたのか小さく息を吐きながら頭を抱える。だが、それもすぐに終わりを告げた。

 

 

 

「じゃああいつにどんな話をされたか、教えてくれる?」

 

 

 その言葉自体は、今まで聞いてきた彼女の声色でも柔らかい方であり、子供に語り掛ける母親のそれに似ていた。そして、その顔に浮かんでいる表情も今まで見ていた彼女の中でとても柔らかい笑みだ。

 

 

 その後ろに、鋭い光を放つ数々の刃物を携えた鬼の群れを従えてなければ。

 

 

 その光景に身も心も腰が引けてしまった私は、彼女の口に乗せられるままに話した、いや話してしまった。それが、私と北上さんとの約束、そして今の今までやってきたことを否定してしまう。そのことに気付いたのは、彼女に話し終わった後であった。

 

 

「そっかそっかぁ、そういうことかぁ……」

 

 

 私が話終わると、曙ちゃんはそう言いながら何故か頭を抱える。手の隙間から見える彼女の表情は、苦笑いとも、呆れとも、疲れているともとれる、なんとも複雑なモノ。

 

 それが意味するものは何か、私は戻ってきた思考を総動員し答えを導き出しにかかる。だがそれは、いきなり彼女に手を握られたことで強制終了した。

 

 

「えっ!?」

 

「よし、行くわよ」

 

 

 思わず声をあげるも曙ちゃんには聞こえていないのか、それだけ呟いて私を廊下へと続く扉へ引っ張り始める。彼女の中では何かしらの答えが出たのだろう、だけど私はようやく思考が戻ってきたばかり。その答えが何か、分かるはずもない。

 

 

「ど、何処へ?」

 

「執務室よ」

 

 

 だから、問いかけた。そして、後悔(・・)した。

 

 

 次の瞬間、そう答えた曙ちゃんの身体が一瞬後ろに引っ張られる。突然のことに彼女は一瞬驚いた顔をするも、すぐに何かを悟ったのか神妙な顔を後ろに、私に向けてきたのだろう(・・・)

 

 何故、『だろう』なのか。それは、向けられているであろう彼女の顔が見えないから、早い話私は自分の足元に視線を落としているからだ。

 

 

 彼女に握られていない手が血が止まって白くなるほどスカートを固く握りしめているからだ。そしてその手が、手が握りしめるスカートが、そこから伸びる足が、それを含めた全身―――私が小刻みに震えているからだ。

 

 

「どうし……あぁ」

 

 

 視界の外から曙ちゃんの声が、驚いた声色から何かを悟ったような低い声が聞こえる。だけど、それを聞いた私は言葉は愚か反応すら返すことが出来ず、ただただ足元に視線を落とすだけ。

 

 

 いや、その言葉に反応出来ないほど、『とある感情』に襲われているのだ。

 

 

 それを、私は知っている(・・・・・)。最後に感じたのはつい先ほど、何の前触れも無く曙ちゃんがやってきた時だ。その次は北上さんと話した時に、彼女の顔や声が曙ちゃんのそれに重なって見えた時。その次は、北上さんの口から『提督』の言葉が飛び出した時。

 

 

 その次はこの目でその姿を見た時。その次は大分前まで遡るが、あの事件の時――――曙ちゃんに砲撃された時、彼女に否定された時、彼女がその背中に背負われた時、彼女が手当てをされている時、彼女が私の手から引き剥がされた――――いや、その際に手を掴まれた時。

 

 

 倒れた曙ちゃんを庇う私に近付いてくる提督を見た時、私たちが逃げてきた演習場へと走っていく提督を見た時、その日の朝、食堂で彼の声を聞き、そして雪風ちゃんに引かれる形で近づいてくる提督を見た時。

 

 

 その前日、駆逐艦(私たち)の宿舎にて、榛名さんの陰から提督を見た時、自室に帰るため、そして榛名さんに駆け寄るために提督の横を通り過ぎた時、「雪風ちゃんを脅迫している」と思って殴り掛かり、それが避けられて対峙した時、雪風ちゃんと一緒に歩く提督を見た時。

 

 

 その日の朝、他の子に引っ張られながら提督の横を通り過ぎた時、金剛さんに選択肢を与えられ狼狽える曙ちゃんに詰め寄る途中に提督の姿が見えた時、手足を縛られて動けない提督の姿を見た時、曙ちゃんの悲鳴に急いで駆けつけ、そして床に伸びている提督を見た時。

 

 

 その前日、本部の中をうろうろする提督の姿を見た時、その前の前、目の前に散乱する泥まみれの荷物――――今しがた()が泥水を浴びせた提督の荷物を見た時、天龍さんに泥水で満たされたバケツを渡され、それを荷物にぶっかけろと言われた時、私の前で彼女がありったけの泥を荷物に浴びせた時、汚れていない荷物が新しくやってくる提督のモノだと、そして新しい提督がやってくると知った時。

 

 

 それよりも更に更に時間を遡り続け、そしてある記憶(ところ)で止まる。『お前らが居なければ良かった』と何度も口に出し、何度も拳を振り下ろし続ける提督、最初の提督だ。

 

 

 この『とある感情』はそこから始まったのだ。提督を含めた男性と言う存在全てに対して、怒りや危険視(仮面)の下に埋もれていた『恐怖』は、ついその時に始まったのだ。

 

 

 

 

「大丈夫?」

 

 

 視界の外から、曙ちゃんの声がした。言葉尻が上がっている、これは問いかけだ。いつまで経っても動こうとしない、ただ黙って震えている私に向けた問いかけだ。だけど、それに私は反応出来ない。その場から動けないのと同時に、全身が動かないのだ。

 

 その原因は恐怖。今の今まで在りもしない感情で塗り固め、自分を騙し続け、必死に抗い続けたそれが、仮面と言う歯止めが外れ、一斉に襲い掛かってきたからだ。ずっとずっと抑え込み続けた分、その勢いは私の意志を、思考を、身体の全てを駆使しても抑えきれないほど強大に、重大に、私の心の奥底に、その根底にベッタリと染みついているのだ。

 

 それを『染み』と言えるだろうか。いや、気付かない内に付いていた(・・・・・・・・・・・・)ではなく、まざまざと見せつけられながら打ち込まれた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)の方が正しい。『恐怖』と言う巨大な楔を、『苦痛』と言う巨大な金づちで何度も何度も、自分ではどうすることも出来ないほど根底に深く深く打ち込まれたのだ。

 

 

 だから、白くなった手を見ている。そこに、恐怖()が深々と突き刺さっているからだ。

 

 

 

 

「大丈夫」

 

 

 また、曙ちゃんの声が聞こえた。先ほどと同じ言葉だが、今度は言葉尻が上がっていない。これは問いかけではない、果たして何なのだろうか。と、言う思考はすぐに途切れた。

 

 

 視線を落としていた私の手を―――――楔によって動かせない筈のその手を曙ちゃんが取って、いとも簡単に持ち上げたからだ。

 

 

 手に視線を落とす、いや釘付けだった私の視線はそれが持ち上げられると同時に上を、前を、曙ちゃんを向いた。そして、彼女の顔が見えた。そこにあったのは、あの時の表情でも、申し訳なさそうな表情でも、キョトンとした表情でも、大量の鬼を従えた清々しい笑顔でもない。

 

 

 

 真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ、片時も逸らさず、瞬きすらも忘れた様な、一点の曇りもない瞳。吸い込まれそうとか、澄んでいるとか、そう言った類いではない。ただ単純に私を、私の瞳だけを見つめている、そんな表情だ。

 

 

 突然現れたそれに、私は糸が切れた操り人形のように何も反応できない。そんな人形に向けて、曙ちゃんは口を開いた。

 

 

 

 

 

「今は、私が傍に居る」

 

 

 その口から聞こえた言葉。それと一緒に楔が突き刺さっている私の両手を、彼女の両手が包み込んだ。ぎゅっと、力強く、且つ優しく、暖かく、私の手を握りしめてくれた。

 

 

 

「あいつが怖いって、会いたくないって、逃げたいって、それは分かってる。だけど、今は私が傍に……ううん、()じゃない。これからずっと(・・・・・・・)、私が傍に居る。私が傍に居て、私が守る(・・)。あの襲撃事件であんたが私を守ろうとしてくれたように。また押し付けちゃうけど、艦艇時代(過去)に『駆逐艦 潮(あんた)』が『駆逐艦 曙()』を救ってくれたように、ね」

 

 

 まるで子供に語り掛けるような柔らかい口調で、曙ちゃんは語り掛けてくる。同時に、包み込んだ私の手を優しく撫でてくれる。

 

 

「だから、見て欲しい。初代(過去)じゃなくて、あいつ()をちゃんと見て欲しいの。大丈夫、怖かった私(・・・・・)に比べれば、あいつなんて余裕よ、余裕。私も傍に居るからもし万が一何かあってもすぐにぶっ飛ばすし、他の艦娘()も居るから安心よ。その時になったら、あんたもアイツの頬を思いっきり引っ叩いてやればいいわ。だから、見て欲しい。私がずっと傍にいるから、怖がらずに見て欲しい」

 

 

 彼女の言葉。それを聞いた瞬間、私の中で『何か』が動いた。同時にあれ程動かなかった足が、手が、全身が動くようになった、思考が再び動き出したのだ。それが何を意味するのか、その答えは曙ちゃんから外れた視線が捉えた私の手にあった。

 

 その手には、未だに楔が深々と突き刺さっている。だけど、それがほんの少しだけ、ほんの少しだけ浮いているのだ。あれだけ深々と、ちょっとやそっとじゃ抜けない程、私ではどうすることも出来ないあの『恐怖()』が少しだけ浮いている、動いているのだ。それこそが、動いた『何か』なのだ。

 

 そして、それを掴む細い、いかにも非力な手がある。それが誰の手か、もう分かるだろう。今私の目の前にいて、私の手を握っている曙ちゃんだ。私ではどうすることも出来ないそれを彼女が引き抜こうとしているのだ。

 

 その力は弱く、完全に引き抜くまでは時間がかかるかもしれない。でも確実に楔は動いている、着実に私から引き抜かれている。それがほんの数ミリでも動いているのだ、今まで動かなかったそれが動いているのだ。

 

 

 それこそが、『彼女が私の傍に居る』ことの証明なのかもしれない。

 

 

 

「うん」

 

 

 だから、その言葉に応えた。今度は後悔しない。何故なら、その言葉を受けた曙ちゃんの顔が戻った(・・・)から。今回の件、そして襲撃の件、それらよりももっと前、いつも(・・・)横に居た彼女の表情に戻ったからだ。

 

 

 だけど、その表情も唐突に顔に押し付けられた柔らかい布によって消え去った。

 

 

「わっぷ」

 

「流石にその顔で乗り込むのは問題よねぇ……」

 

 

 変な声を上げる私に構わず布を私に押し付けて、いや私の顔を拭う曙ちゃん。その声色は何処か呆れたようで、そして笑いを孕んでいた。それを聞いて、何故か大人しくなってしまった私は特に抵抗することも無く、されるがままになった。

 

 

 いや、本当はその声を聞いた瞬間、目頭が熱くなったからだ。

 

 

「取り敢えず拭える分は拭ったけど、やっぱり一回顔洗った方が良いわね」

 

 

 拭っていた布が離れ、開けた視界に一息つく彼女の姿が見え、そして彼女が手にしている何とも言えない色に染まる布に目を向け、思わず声を上げた。

 

 

「こ、これ!! お気に入りのヤツじゃぁ……」

 

 

 そう、それは彼女が大切にしているハンカチだ。それもここに配属される前、もっと言えば訓練生時代から愛用している、彼女にとっては沢山の思い出が詰まった大事なモノだ。それが私の顔を拭ったことで、何とも言えない色に染められてしまったのだ。その事実に、血の気が引いた。

 

 

「たかがハンカチ1枚よ? 構わないわ」

 

「で、でも制服も……」

 

 

 私の言葉に、曙ちゃんは自らの制服に視線を走らせる。そうなのだ、よくよく見てみると曙ちゃんの制服にも所々絵具が付いているところがある。特に、肩の所は大きく、離れていても結構目立つ。これはさっき私が彼女に身を寄せた時に付いたモノだろう。それに気づき、更に血の気が引いたのは言うまでもない。

 

 

「制服の心配よりも、あんたはその絵具塗れの顔をどうするか考えなさい。さ、それじゃあ殴り込みに行くわよ」

 

 

 私の言葉に、少しだけ語気が強い言葉が返ってくる。だけど、その言葉はイライラをぶつけていると言うよりも、私を言い含めようとしているような、そんな思いを孕んでいた。そして、それでも謝ろうとした私の言葉は、彼女に引き摺られる形で部屋を出たために口にすることが出来なかった。

 

 

 私を引きずって、曙ちゃんは廊下をズンズンと進んでいく。その後ろを、私はワタワタと危うい足取りで追い縋っている。この光景は、ある意味見慣れたモノであり、そして久しぶりに見れたモノだ。そのことに、私は何も言わない。ただ、自分の中にある楔がまた動いたような気がしたからだ。

 

 対して、曙ちゃんは何やらブツブツと呟きながら、何か考え事をしているようだ。その表情がコロコロと変わるのを、それも彼女の後ろで見ることも久しぶり。そのこともまた、楔を動かした。

 

 

 そのまま私たちは無言に近い状態で歩き続け、やがてお手洗いに辿り着いた。私は彼女の言葉通り、洗面台の蛇口を捻ってそこから出る水を掬い、何度も顔に浴びせた。石鹸が無いために水洗いしか出来ないが、それでもハンカチで拭ったままより幾分かマシになるだろう。水を浴びせ、その度に擦ることを何度か繰り返し、顔や手にまとまりつく絵具の感覚がある程度消えたところで蛇口の栓を締めた。

 

 ふと、そこで気付いた。今、私は顔を拭うモノを持っていない。制服で拭おうにも色移りしてしまう。そのことで頭を悩ましていると、横から何とも言えない色が若干薄くなったハンカチが差し出された。

 

 

「一応色移りしない程度にまで水洗いしたから、多分大丈夫よ」

 

「え、でも……」

 

 曙ちゃんの声が聞こえ、顔を上げると至極当然とでも言いたげな表情の彼女がいた。しかし、またもやそれを汚してしまうことに躊躇してしまう。すると、彼女は呆れるようなため息をこぼし、そして少しだけ目つきを鋭くさせた顔を向けてきた。

 

 

「どうせ汚れてるんだから関係ないわ。後、これ以上気にしたら怒るわよ」

 

 

 その言葉、そして鋭い視線に気圧され、私は彼女からハンカチを受け取った。だけど、受け取ったそれで顔の水気を拭く間、私の頭の中にはとある疑問というか、懸念があった。

 

 

「あ、あの……執務室に行くんだよね?」

 

「そうだけど、それがどうしたの?」

 

 

 ある程度拭き終わり、ハンカチを手渡すと一緒に問いかけると、曙ちゃんはそれを受け取りつつ不思議そうな顔を向けてくる。その表情にこの問いをしていいかどうか一瞬躊躇したが、その不安を頭の外に払いのけ思い切って問いかけた。

 

 

 

「さ、さっきからどんどん物騒な言葉が聞こえる気がして……執務室に行く(・・)んだよね?」

 

「そう、執務室にカチコミをかける(・・・・・・・・)のよ」

 

 

 私の問いに、曙ちゃんは更に物騒な言葉を零す。『そう』、じゃないよ。『行く』と『カチコミ』は全くの別物だから、明らかに暴力的な意味あいを孕んでいるから。それも『行く』から『乗り込む』、『殴り込む』、そして『カチコミをかける』って、悪い意味でどんどんアップグレードしちゃってるからそれ。

 

 なんて、次々浮かぶツッコミを言えるはずも無く、私はそれら全てをひっくるめた問いを絞り出した。

 

 

 

 

「お……怒ってる?」

 

「何で? 何であいつに怒らないといけないの? ほら、さっさと行くよ」

 

 

 私の問いに曙ちゃんは清々しい笑顔を浮かべてそう言い、再び私の手を取ってお手洗いを後にした。いや、確かに怒っているかと聞いたけど、『誰に対して』とは言ってないんだけどなぁ。まぁ、そこであの人が出てくる辺り、図星なんだろう。

 

 とまぁ、こんなツッコミとも感想ともとれるそれもやはり口に出すことは出来なかった。それは何故か、いや、もう言わなくたって分かるだろう。

 

 

 

 清々しいほどの笑顔を浮かべる曙ちゃんの背後に、ただならぬ雰囲気を醸し出す般若が浮かんでいたからだ。

 

 

 そのまま、私たちは歩き続ける。その間、曙ちゃんは笑顔を浮かべ、その背後に浮かぶ般若はその只ならぬ雰囲気を更に大きくさせている。それが見えてしまうから、私は何も言わずにただただ従うしかなかった。

 

 

 そしてやってきた執務室。私たちの前には執務室に続く扉が。曙ちゃんはやっぱりあの笑顔のまま、空いている手で扉を軽くノックした。

 

 

 

「どうぞー」

 

 

 すると、扉の向こうから声が聞こえた。だけど、それは男性の声ではなく明らかに女性の、それも若々しい声だ。そして何よりも、私も良く知っているある人物の声だった。

 

 

 だけど、それを思案する私の視界に、今しがた扉をノックした手を腕ごと大きく後ろに振りかぶっている曙ちゃんの姿が映った。

 

 

 

 次の瞬間、ダァン!! とシャレにならない程の音が響き、遅れて軽い突風が私の顔を叩いた。

 

 

 思わず目を瞑り、突風が過ぎ去った後に目を開く。すると、先ほどまで目の前に鎮座していた扉が消えていた。いや、扉自体は蝶番によって私たちと反対側、つまり執務室の中で小さく揺れている。なので、消えていたと言うよりも、開かれたと言った方が正しい。

 

 そんな、一歩間違えれば執務室の扉を破壊しかねないことをやらかしたのは薄紫の髪を振り乱し、先ほど後ろに振りかぶっていた腕を前に突き出している彼女だ。だけど、彼女は何事も無かったかのように腕を下げ、乱れた髪を簡単に整え、そしてこう言った。

 

 

 

「失礼しまぁーす」

 

 

 先ほどのことをやらかした人物とは思えないほど、柔らかい声色でそう言ってのけた曙ちゃん。だけど、その声には何処か棘と言うか、明らかに何かの感情を孕ませ、且つ誰にでも分かりやすいように見せつけているような雰囲気があった。

 

 

「あの……『失礼』の意味は知ってる?」

 

 

 また、声が聞こえた。今度女性ではなく、男性の声だ。その瞬間、私は視線を自分の足元に下げる。同時に、楔がまた深く突き刺さるのを感じた。ここでその声を出せるのは、たった一人だ。そして何より、その声の主こそが――――

 

 いや違う、彼じゃない。彼は初代ではない。分かってる、分かっている。だけど、それでも視線を上げられない。提督の顔を見るには、まだまだ楔が深すぎるのだ。

 

 

「勿論、入る前にノックすることでしょ?」

 

「いや、まぁ、そうなんだけど……いやいやいや、今はそうじゃなくて」

 

 

 私の視界の外で曙ちゃんと提督のやり取り、と言うか彼が彼女に言い含められるのが聞こえる。それだけなら、まだ大丈夫。楔が更に突き刺さることは無かった。だけど、おもむろに曙ちゃんが歩き出したことでそれは変わった。

 

 

 彼女に引かれていくこと、それは提督に近付くことと同義だ。つまり、楔そのものに近付くこと、それは今までにないほど強く、そして深く楔を突き刺していくだろう。そしてそれで、私はまた立ち止まってしまうだろう。

 

 だけど、私の足が止まることは無かった。それは歩き出したと同時に、私の手を握る曙ちゃんの手に力が入ったからだ。しかも、ただただ力強くではなく優しく包み込むような、そんな包容力と安心感があった。

 

 故に、私に突き刺さる楔は、一歩踏み出すごとに深く突き刺さり、すぐに曙ちゃんによって引き抜かれ、また踏み出して突き刺さり、またすぐに引き抜かれる、という状態にあった。だからこそ私に足は止まることが無く、そして私の視線はずっと足元に落としていたのだ。

 

 

 やがて、曙ちゃんの足が止まり、私も立ち止まる。視界の端に、机らしきものが見えた。今、目を上げれば机を挟んだ反対側に提督がいるのだろう。

 

 

「それで、ちょっと教えて欲しいことがあるんですよぉ」

 

「あ、あの……怒ってます?」

 

「当たり前でしょ」

 

 

 なおも物腰柔らかな口調であった曙ちゃんだったが、提督の問いに一変、明らかに不機嫌な声色になった。いや、今まで張り付けていた仮面を引き剥がしたと言った方が正しいのだろう。その証拠に、視界の外で誰かが生唾を呑み込む音が聞こえた。

 

 

 

「取り敢えず、先ずは私たちに嘘をついたことからね。何か弁面は?」

 

「う、嘘? な、何が?」

 

 

 不機嫌さ全開な曙ちゃんの問いに、提督が何故か歯切れの悪い声を上げる。明らかに心当たりがあるみたいだ。と言うか『嘘』とは何だろう、曙ちゃんは分かっているようだけど。

 

 

 

「あんたは言ったわよね? また私が解体申請をして、それを受理した体で行くって」

 

「えっ!?」

 

「えっ」

 

 

 曙ちゃんの言葉に私は思わず声を上げ、何故か提督も驚いた。彼との間に少しだけ間が空いているため、彼は曙ちゃんの言葉に驚いたのではなく、それを聞いて声を上げた私に驚いたのだろう。いや、そんなことはどうでもいいのだ。

 

 彼女がまた解体申請をしたなんて聞いてない。いや、予想外ではなかった。何せ先ほどの問いで可能性の一つとして挙げていたからだ。だけど、その可能性はほぼ無いと思っていた。でも、今考えると私の言葉に曙ちゃんはハッキリと答えなかった。もしかしたら、本当に解体申請をしたの?

 

 

 ん、待って……受理した『()』ってどういうことだ?

 

 

「そして、あんたもこうも言った。『これは()のリハビリだ』って」

 

 

 またよや飛び出した言葉。それを皮切りに、曙ちゃんの口は淡々と話を続けた。その内容はこうである。

 

 

 私が出撃を拒んでいるのは、曙ちゃんに少なくはない負い目を感じているから。だから私と顔を会わせて、話をすれば私がまた戦線に復帰するかもしれない。曙ちゃんには、その手伝いをしてほしいのだ。

 

 その設定(・・)はこうだ。先ず、曙ちゃんが再び提督に解体申請して、それを受理したことにする。そして、その話を私に流しておく。私は北上さんの薦めで絵を描いているから、解体される前の思い出として私に自分の似顔絵を描いてほしい旨を北上さんから伝えてもらい、私の方で準備が出来たら絵を描いてもらいに行く。

 

 絵を描くには色々と時間がかかる、つまり長時間同じ空間に入れる。その時間を利用して私と話し、そしてその負い目を払拭してほしい。だけど私は負い目を感じていると同時に曙ちゃんを怖がっているから、もし黙り込んでしまったら、曙ちゃんから話を切り出して欲しい。その所は彼女のしたいようにして良い。

 

 

 そして、これは曙ちゃんにしか(・・・・・・・)出来ない事である。

 

 

 彼女の話はこうだ。そして、何処かで聞いたことあると言うか、ほぼほぼそっくりと言うか。これって―――――

 

 

 

「私のと、逆だ」

 

「そう、逆なの。あんたが言ったことと潮に伝わっていたことの、私たちの立場(・・・・・・)が全くの逆だったのよ」

 

 

 ポツリと漏れた言葉。それを拾い、曙ちゃんは更に付け加えた。その言葉に、提督は反応しない。それは曙ちゃんが言ったことが図星であったのか、はたまたその話に理解が追い付いていないのか、彼の表情を見れない私に判断するのは不可能であった。

 

 

「しらばっくれるつもり? だから、潮には『私のリハビリに潮が協力する』っていう風に伝わっていたのよ」

 

「何で!?」

 

 

 曙ちゃんの言葉に、いきなり提督が大声を上げる。予想外のそれに私、そして曙ちゃんはビクッと身を震わせた。曙ちゃんに関しては、いきなり目の前で大声を上げられたこと、そして今しがた自分が話ことに対する彼の反応が予想外だったのだろう。

 

 

「な、何であんたが驚いてるのよ。考えたの、あんたでしょ?」

 

「え、いや、ごめん。ちょっと待って、は、話が読めないんだ……」

 

 

 曙ちゃんの問いに、提督は明らかに狼狽えている。それも、思惑が見透かされてどう取り繕うかを模索しているようではなく、予想外のことに頭が混乱しているように。その様子に曙ちゃんも「えっ、な、えぇ?」とこぼしながらオロオロとし始める。勿論、私も視界を下げながら絶賛混乱中だ。

 

 

 

 

 

「あぁー、逆だったかぁ」

 

 

 そんな中、明らかに場違いな程落ち着いている声が聞こえた。それに私は思わず顔を上げ、声が聞こえた方を見る。頭を上げることが出来たのは、その声を発したのが提督ではなく、且ついつも耳にしていた声だったからだ。

 

 

「まさか、お前……」

 

「ごめんごめん、私が間違えてたようだねぇ」

 

 

 視界の外で、提督の絞り出すような声が聞こえる。その言葉に、その声の主――――――北上さんだ。そして、曙ちゃんがノックした時に返した声は、まさしく彼女のモノだった。

 

 そんな北上さんはにへらと表情を緩ませ、心のこもっていない謝罪の言葉を零す。何より、彼女が悪びれもなく手をブラブラさせていることも謝罪の言葉を薄っぺらくさせているのだろう。

 

 

 だけど何故彼女が謝罪をするか、その意味を理解するのにそう時間がかからなかった。

 

 

「潮に嘘を?」

 

「やだなぁ、嘘なんて人聞きが悪い。私はただ間違えて伝えちゃっただけだよぉ」

 

 

 再び聞こえた提督の問い。それに北上さんは間違えたのだと、いやあくまで(・・・・)間違えたのだとのたまった。だけど、今この場においてその言葉を信じる者は私を含めていないだろう。

 

 

 今更ながら考えてみると、この話を持ってきたのが彼女であることが少し変だ。本来であれば、こういうことは提督の口から伝えるべきである。まぁ、それは私を考慮に入れたために彼女が出張ったと言うことなのだろうが。それであれば彼女が伝えてきたのは十分納得できる。

 

 だけど、同時にそれは私への情報網が彼女だけであることを示している。そして、今しがた発覚した私に聞かされたことが全くの逆、嘘であったこと。この事実を説明する際に真っ先に矢面に挙げられるのは北上さんだ。そして、彼女は「間違えて伝えてしまった」と言っている。

 

 

「なら今日の朝、潮の準備が出来たって私に伝えてきた(・・・・・・・)ことのは……どう説明するつもり?」

 

 

 そんな北上さんに、曙ちゃんが鋭い質問をぶつける。その言葉に、薄ら笑いを浮かべていた北上さんの表情が強張った。

 

 確かに、北上さんは私に、そして提督は曙ちゃんに()の準備が出来たら顔を会わせると話を進めており、その伝達をするのが北上さんの役目だ。そして、私はまだ心の準備が出来ていなかった。そして、そのことを北上さんに伝えていない。更に言えば、私は曙ちゃんから絵を描いて欲しいなんてお願いも聞いていない。なのに、曙ちゃんはやってきた。それも私が彼女のお願いを聞いた上でそれを了承し、そして私の準備が出来たと北上さんから聞いて、だ。

 

 これだけのことをするには、少なくとも北上さんが双方の情報を把握している必要がある。故に、間違えて伝えてしまった、という理由は成立しなくなるのだ。そして何よりも、曙ちゃんの指摘で強張った北上さんの顔が、バツが悪そうな表情に変わったことが、その答えを物語っている。

 

 

 

 

 

「面倒くさかったもん」

 

「ふざけんじゃないわよ」

 

 

 最後の駄目押しとばかりに、北上さんが自白した。その言葉に、曙ちゃんが小さく漏らして彼女に詰め寄る。その際、曙ちゃんは私の手を離してしまった。

 

 

「何でこんなことしたんですか?」

 

「だってぇー、小突いてやればすぐくっつく癖にどっちも動かないからさぁ? うじうじしてるその尻を蹴飛ばしたわけよ。こういうのは変に時間かけるよりも手っ取り早く済ませる方が良いし、その方が私も楽だし、後ろに建て込んでることもあるしぃ」

 

 

 曙ちゃんの問いに、北上さんは茶化しながら答える。だけど、彼女の口から零れたその答え、彼女の言い分に少しも納得できない。何せそれは全部彼女の認識下で判断されたこと、所謂彼女の都合を前提とした話であり、その中に私たちのことは一ミリも加味されていないからだ。

 

 

「そんな身勝手な理由で私たちを放り出したの? もしそれで――――」

 

「まさか、失敗すると思ってた?」

 

 

 何処か飄々としていた北上さんの口調が一変、冷え切ったモノに変わった。同時に柔和な笑みが消え去り、何の感情も伝わらない表情になる。その変わりように、曙ちゃんが言葉を詰まらせ、私は背筋に寒気を感じた。だが、その表情はすぐに消え去り、柔和な笑みに変わった。

 

 

「私は上手くいくって信じてたよ(・・・・・)? ちゃんと、二人とも見ていたからね。後は、その引けている尻を蹴飛ばせば良いって」

 

「だ、だから私たちの都合は……」

 

「それに、何もあたしは嘘しか(・・)言ったわけじゃないしねぇ」

 

 

 そこで言葉を切った北上さんは、詰め寄っていた曙ちゃんから私に視線を、いや私ではない。私から見て少し右、私の前方にいる人物に向けていた。

 

 

 

「ねぇー、てーとくぅー」

 

 

 北上さんの言葉に、曙ちゃんは彼女の同じ方向を向き、私の右方向からは「へっ?」と間の抜けた声が聞こえる。その瞬間、また楔が深く突き刺さり、私はその方を見ることが出来なかった。

 

 

「いや? ()は嘘だけどこれから(・・・・)本当になる、かな?」

 

「……あぁ、そういうこと」

 

 

 いつもののほほんとした口調でそう続ける北上さんの言葉に、横から小さなため息と共に感嘆が聞こえる。それに、曙ちゃんが訝し気な顔を更に歪め、その感嘆を漏らした人物を睨み付けた。

 

 

「どういうこと?」

 

「いや、本当はもっと時間を掛けてから二人(・・)に提案しようと思っていたんだが…………ちょっと強引すぎだ」

 

「提督だけには言われたくなーい」

 

 

 曙ちゃん、そして北上さんとのやり取りが、同時に横から何かを引っ掻き回す音が聞こえる。恐らく、何かを探しているのだろう。そして目的のモノが見つかったのか、引っ掻き回す音が消え、次に足音が聞こえ、それは段々私の真横から前へと移動していく。同時に、私の視線が足元に下がったのは言うまでもない。

 

 

「これなんだけど」

 

「そう、これこれぇ」

 

「何これ?」

 

 

 前方から、提督、北上さん、そして曙ちゃんの声が聞こえる。何やら、提督が探し当てたモノを三人で見ているようだ。それが何なのか、判明するのはすぐだった。

 

 

 

「これ、私宛の通達?」

 

 

 

 曙ちゃんの口から飛び出した言葉。『通達』――――それは演習参加の通達だ。そしてそれに聞き覚えがある、というか一週間前に北上さんから伝えられ、私が猛反発したモノだ。

 

 

「少し前……大体一週間前から北上と相談していたんだ。本当はもう少し固まってから見せようと思っていたんだけど……まぁこの際だ、ちょっと見て欲しい」

 

 

 曙ちゃんの問いに、提督はそう前置きを入れて説明し始める。全体の流れ、そして安全面の配慮は、まさにこの前北上さんが教えてくれた通りのものだ。彼女が言っていた、『これから本当になる』と言うのはこのことだったのか。

 

 

 いや、そんなことはどうでも良いのだ。

 

 

 問題は、それを提案したのが提督だと言うこと。そこに私は突っかかり、猛反発したのだ。提督の狙いである艦娘を、曙ちゃんを沈めようとしているのだから、それを見越していたから猛反発していたのだ。

 

 そして今、目の前でまさにそれが行われている。あの時と同じ、あの時よりも明確に問題視したことがあるではないか。今度こそ、私の手で終わらせなければ。今度こそ、曙ちゃんを守らなければ。

 

 

 

「そして、この担当艦を潮にやってもらいたいんだ」

 

 

 しかし、その思いは次に聞こえた彼の言葉によって四散した。同時に顔を前に上げた、視界が上がった、その先に驚いた表情の曙ちゃん、わざとらしく視線を外す北上さん、そして少しだけくたびれた白の軍服を身に纏い、私に背を向けている一人の男性――――提督が見えた。

 

 

 

「な、何で?」

 

「何でって、そりゃ曙の完治を少しでも早めるためだよ。それに、あの時言っただろ? 『頭が正当化しても、心が正当化しない』って。なら、曙のリハビリに置いて最も重要視すべきは『心』。そして、正当化しないのは今まで言った通りだ。そう考えた時、潮が傍にいてもらうのが『心』のリハビリに最適だと思ったんだ」

 

 

 提督の言葉。それは本心からの言葉であるか、それとも本当の狙いを隠す隠れ蓑であるか、それは分からない。いや、多分後者だ。少なくとも、今まで(・・・)の私ならそう断言しただろう。

 

 

 だけど、()はどうだろうか。

 

 

 そう断言することが出来ない。それは一週間前、北上さんとの問答にて散々に叩かれたことだからだ。そしてつい先ほど、曙ちゃんとの会話で導き出した『答え』があるからだ。いや、その『答え』自体、とっくの昔から導き出してた。とっくの昔に出している癖に、さっきまで見向きもしなかったのだ。

 

 

 

「潮」

 

 

 不意に、名前を呼ばれる。提督からだ。我に返ると、背中しか見えなかった軍服の正面が見えた、私の方を向いているのだ。その瞬間、私の視線は足元に落ちた。次に誰かの足音が前方から聞こえ、どんどん大きくなっていく。それが聞こえる度に、楔が深く深く突き刺さっていく。

 

 

「俺は是非ともやって欲しいんだけど……」

 

 

 その言葉と共に足音も大きくなっていき、目を開けることさえも耐えられなくなった私は固く目を瞑ってしまう。もう『答え』は出ている。昔から、そしてつい先ほどしっかり見据えた筈の『答え』が。だけど、それを言うには、提督に言うにはあまりにも楔が深すぎた。だから『答え』を伝えることが出来ず、ただただ黙ってしまった。

 

 

 でも、それを伝える必要(・・)は無かった。

 

 

 

 

「やりたくないか?」

 

 

 提督の言葉。それに、あれだけ固く瞑っていた目が開いた。驚いたからだ、彼の口からその言葉が出てきたことに。

 

 

「いや、『やりたい』?」

 

 

 再び提督の言葉。それに、あれだけ見ないようにしていた視界が上がった。驚いたからだ、彼の口からその言葉が――――――『答え』が出てきたからことに。

 

 

 『曙ちゃんの傍に居たい』、『曙ちゃんを守りたい』と。それを彼が知っていたことに驚いたからだ。

 

 

 現れた提督の顔。それに、何度も何度も突き刺さり続けていた楔がそこで止まった。見たからだ、そこに浮かんでいた表情を。

 

 

 真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ、片時も逸らさず、瞬きすらも忘れた様な、一点の曇りもない瞳。吸い込まれそうとか、澄んでいるとか、そう言った類いではない。ただ単純に私を、私の瞳だけを見つめている、そんな表情を。

 

 

 曙ちゃんが浮かべていたその表情、提督が浮かべているのを見たからだ。

 

 

 

 次に、視界が上下に揺れた。それは誰かに強制されたのではない、私自身が頷いたのだ。それも、無意識ではない。私の意志で、頷いたのだ。

 

 すると、提督の表情が変わった。曙ちゃんが浮かべていた表情から、安心したような笑顔に。

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 その口から、その言葉が漏れた。その瞬間、私の中で『何か』が、楔が動いた。それは更に深く突き刺さったのではない。逆、逆なのだ。深々と突き刺さっていた楔が、ほんの少しだけ浮いた(・・・)のだ。

 

 ふと、視線を提督から私の手に移してみる。やはり、そこには深々と突き刺さる楔があった。そして、それを掴む手が二つ(・・)。一つはとても細い、いかにも非力な手。そしてもう一つは、軍服の袖から伸びる、大きくて力強い、まさしく男性の手だった。

 

 

 その手が誰か――――その『答え』は今、私の前に広がっている。

 

 

 

「潮の了解は取れた。あとは曙だけど?」

 

「聞くまでも無いでしょ。あ、後で詳細をお聞かせ願えるかしら?」

 

「……あの、相談だよね? 間違っても説教とかじゃないよね?」

 

「何言ってるの? どっちもするに決まってるじゃない」

 

 

 片や、只ならぬ雰囲気を醸し出す般若を従えながら清々しいほどの笑顔を浮かべている。片や、その雰囲気に、そしてその言葉から降りかかるであろう災厄がどれほどのものであるかを察したのか、げんなりした表情で肩を落としている。

 

 そんな『答え』たちの向こうには、黙って『答え』たちを見つめる北上さんが。その表情は何処か疲れた様に見えたが、同時に何処か羨ましそうでもあった。何故羨ましそうなのか、それを考えることは出来なかった。

 

 

 

「そ、そうそう!! 仲直り記念に二人に渡すモノがあるんだ!!」

 

 

 説明を求める曙ちゃんに詰め寄られていた提督がわざとらしく声を上げたからだ。突然のこと、そして彼が発した言葉に曙ちゃんは一瞬動きが止まり、これ幸いとばかりに提督が逃れて机に近付き、またもや何かを探し始めた。

 

 その様子を、私や曙ちゃん、そして北上さんも不思議そうな表情で見つめた。やがて、彼はお目当てのモノが見つかったのか引っ掻き回していた腕を止め、ゆっくりと何かを持ち上げた。

 

 

 

 そこで気付いた。何故、彼が私の『答え』を知っていたのか。

 

 

 

「……何それ?」

 

「ミサンガ」

 

「いや、それがミサンガなのは分かるんだけど……」

 

 

 提督が取り出したのは2本のミサンガだ。夕立ちゃんが皆に配り歩くのを見てるからそれがミサンガと言うのであるのは分かる。曙ちゃんが聞いているのは夕立ちゃんが配っていたモノとは違う、そのミサンガにだけあしらわれている装飾のことだろう。

 

 

「何でミヤコワスレと……えっと」

 

「ヒロハノハナカンザシ」

 

「あ、うん、えっと……その花が付いているのよ?」

 

 

 何故か単語しか言わない提督、それを訝し気な顔を向ける曙ちゃん、そしてその二人を見て何故か笑いを噛み殺している北上さん。多分、北上さんも知っているのだろう。いや、今は件のミサンガだ。

 

 提督の手から垂れる二つのミサンガ、その一つには、一輪のミヤコワスレが、もう一つには一輪のヒロハノハナカンザシが付いているのだ。ご丁寧に手の動きを阻害しない程度の大きさで、よく見てみると茎の部分が固められている。

 

 

「ドライフラワーに加工した後に茎と壊れやすいところを蝋で固めたからちょっとやそっとじゃ壊れないし、そう大きくないから動きの邪魔はしない。大丈夫だろう」

 

「……何で花が付いているの?」

 

「そりゃ『特別』だからだよ」

 

 

 提督の言葉に「特別……」と呟いて、何故か曙ちゃんは顔を背けた一瞬だけ見えたその顔が赤かったのは見間違いではないだろう。そんな彼女を横目に見つつ提督はおもむろに歩き出し、私の前で止まった。

 

 

「ほい」

 

 

 そう言って、彼は私にミサンガを――――ミヤコワスレがあしらわれたミサンガを差し出したのだ。それに、思わず顔を上げて提督を見る。そこに浮かんでいたのは、何処か得意げな表情であった。

 

 

 そう、このミサンガは『特別』だ、私にとって『特別』なモノなのだ。そして、彼はそのことを知っている。私にとってその二輪の花が『特別』であると知っているのだ。

 

 

 それも、どちらがどちらである(・・・・・・・・・・)かさえも知っているのだ。そして何より、そうなってしまったのは紛れもなく自分の責任だと分かってしまったのだ。

 

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 差し出されたそれを、私は受け取った。その時の顔は、それはそれは酷く無愛想であっただろう。彼がどうしてこんな無茶なことをしたのか、その答えが分かってしまったから。そして何より、『借り』を作ってしまったからだ。

 

 私が無愛想に受け取ったわりにその得意げな顔が変わらなかったのは、多分彼も同じことを思っているからだろう。それさえも見えてしまったから、心の中で借りを作ってしまった自分を非難した。

 

 

「あ、そうだ」

 

 

 思いついたように提督が声を上げたのは、私を尻目にまだ顔を背けている曙ちゃんにミサンガを渡した時だった。彼は先ほどの得意げな顔から、穏やかな笑みを浮かべてこう言った。

 

 

 

 

「一つ、絵を頼まれてくれないか?」

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「何か……釈然としないわね」

 

「……そうだね」

 

 

 執務室を後にして廊下を歩く私と曙ちゃん。二人の顔にはいつにも増して疲労の色が濃かった。それもこれ、つい先ほど執務室で起こった出来事だろう。そして何より、そこにいた二人の人物にそれぞれハメられたからであろう。

 

 

「でも良かったの? 近々私の演習、そして出撃も始まるんだし。そこで一枚絵を描くのって負担にならない?」

 

「今まで描いてきたモノと変わらないし、描き上げるまでは出撃しなくていいらしいから大丈夫だよ」

 

 

 借りも返せるし……と言葉を飲み込みながら、心配そう声色で問いかけてくる曙ちゃんに私はなるべく労力を使わない笑顔を向けてそう答える。だけど彼女はなおも心配そうな顔を向けてくるので、大丈夫だよと言う代わりに微笑んでおく。それを見て、ようやく彼女は前を向き、私も前を向き、そして同時に息を吐いた。

 

 私は疲れからくる溜め息だ。対して、曙ちゃんは疲れからくる溜め息であったが、そのすぐ後に何故か笑みを溢した。

 

 

「どうしたの?」

 

「いや……何か普通に会話してるなぁ、って。さっきまで互いにしどろもどろしてた癖にさぁ?」

 

 

 曙ちゃんの言葉に、私は改めて自分たちを客観視した。確かに、あの部屋での私たちを考えたら、もの凄い進歩である。いや、進歩と言うか、元に戻ったと言った方と、いや、元も此処まで普通に会話できていなかった筈だ。だから、これは進歩だ。

 

 

「確かに、可笑しいね」

 

 

 その言葉通り、私は笑みを溢していた。これはあの二人のお蔭であり、また借りを作ってしまったわけなのだが、どういうわけか今この時は笑いが込み上げてきたのだ。

 

 

「潮」

 

 

 だけど、曙ちゃんは違った。その声色に笑いは無く、いつになく真剣な声色げあった。思わず横を見ると、彼女は居ない。後ろを振り返り、私から少し離れたところに立つその姿を見つけた。

 

 

「どうしたの?」

 

「いや、本当は私が最初に言いたかったことなんだけど……」

 

 

 私の問いに何故かそっぽを向いた曙ちゃんであったが、意を決したのか再び視線を私に向けて、口を開いた。

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 そう彼女の口から聞こえた。その言葉を、私は受け取った。しかし、受け取ったその言葉の真意を理解できなかった。その理由は、突然『とあるモノ』が生まれたからだ。

 

 それは私の胸の奥で生まれ、その奥をぎゅっと締め付け、同時にじんわりとした暖かさをも生まれた。

 

 

「実は、私もあんたが怖かったんだ。傷付けちゃって、そのことで拒絶されるのが怖かった。だから今までずっと行けなかった、だから今回のことに協力……いや、縋っちゃった。勿論、あの時言った言葉は嘘じゃないけど、設定を守りつつだったから本当の言葉でもない。だから、今ここで言うね」

 

 

 そこで言葉を切った曙ちゃんは、今までに見たことのないほど柔らかく、そして暖かい笑顔を浮かべた。それを見て、『とあるモノ』が大きくなった。

 

 

 

「私を受け入れてくれて、守ろうとしてくれて、傍に居てくれて、ありがとう……本当に、本当にありがとう」

 

 

 そう言って、曙ちゃんは深々と頭を下げたように見えた。だけど私はその姿に、そしてその言葉に何も言うことが出来なかった。

 

 

 何故、『ように』なのか。それは広がり続ける『とあるモノ』によって、私の視界がすっかりぼやけてしまったからだ。

 

 何故、『出来なかった』のか。それは広がり続ける『とあるモノ』によって、言葉にならない声が込み上げてきたからだ。

 

 

 

「だから、これからもよ―――――」

 

 

 そう言いながら私に下げた頭を上げる曙ちゃんの言葉が途切れた。何故、途切れてしまったのか。

 

 

 

 それは『とあるモノ』に――――――『安心』によって、今まで溜め込んでいた全ての感情が爆発した私が、獣のような声を上げて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、曙ちゃんに抱き付いたからだ。獣のような声を上げてワンワン泣く私の頭に撫でられる感覚、自分の泣き声が響く耳にこんな言葉が聞こえた。

 

 

 

「これからもよろしくね」

 



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掲げた『建前』

 白い雲がゆったりと漂う青々とした空。そんな空の青さを産み出すのは、眼下に広がる青々とした海と風に吹かれて海面を滑る白波。

 

 

 そんな中にポツリ、波に揺られながら海面に立つ人影。海面に人が立ってるなど、本来であればあり得ないことなのだがその人影―――いや、艦娘である曙はあり得るのだ。勿論、その背中と足に艤装を装着すれば、と言う条件付きではあるが。

 

 そんな彼女は両手をだらりと垂れさせ、軽い前傾姿勢で俯いている。一見眠っているようにも見えるが、足の艤装は低い音を立てながら絶え間なく稼働している。その姿は項垂れているよりも耳を澄ませているような、何かを待っているような、そんな雰囲気であった。

 

 

 そんな曙の姿を離れたところから見るのは、潮。彼女もまた背中と足に艤装を装着し、その手にはストップウォッチが二つ握られている。それは演習の際に艦娘の個人タイムを計測するモノで、それを彼女が持っていることは今しがた演習が行われていると言うこと。

 

 それを更に裏付けるのが、俯く曙の前に広がるロープと浮きで作られたコースだ。

 

 

「それじゃ、行っくよー?」

 

 

 声を張り上げ、曙にそう呼び掛ける潮。その言葉に曙は俯いていた顔とともに片手を上げ、すぐに下ろした。それが準備完了の合図であり、それを受けた潮は両手にストップウォッチを構え始めた。

 

 潮が準備を終える間、そして掛け声を出すまで、曙は刃物のような鋭い視線を目の前に向けている。食堂の時に見せる柔らかい表情とのギャップに驚きつつも、艦娘(本来)の姿なのだろうとも思えた。

 

 

「スタートォ!!」

 

 

 そんな思考を断ち切るように、潮の口から開始の合図が放たれ、同時に曙の真後ろへ彼女の身の丈は優に越す程の水しぶきが上がった。

 

 

 水しぶきの中から飛び出した曙に、まず現れたのは複雑に湾曲したコースだ。湾曲は小さいモノから大きいモノとその差が激しく、進行方向、または加減速の切り替え、そしてそれらをスムーズに行うための絶妙なバランス感覚が求められるのだろう。前に見た演習でもそれらに悪戦苦闘する艦娘も多く、求められるレベルは非常に高い。

 

 だが、曙はそれをスムーズに、流れる水のように滑らかな動きで次々に突破していく。それは進んでいると言うよりも、まるで踊っているようである。

 

 

 次に現れるのは、二本のロープで作られた大きな一本道。一見すれば何もないように見えるがその水中には網が幾重にも張り巡らされており、誤ってその上を通ると脚に網が引っ掛かってしまう。引っ掛かったら最後、頭から海面に突っ込むため、如何に海中に潜む障害物を見つけ避けるか、広い視野と瞬発力が求められる。

 

 そこを曙は先程よりもスピードは落ちているものの、引っ掛かることなく進んでいく。途中、一度だけ片足を上げたが、それ以外は危なげなく突破した。

 

 

 次に現れたのは、最初よりもやや緩やかな湾曲のコース。それはこの演習における難所―――背面航行で抜けなければならないからだ。しかもなるべく後ろを見ないように進まねばならず、ここでは一目見ただけで距離感、進行方向などの状況を把握してそれを元にどのように動けばいいかを推測、実行する力が求められる。勿論それは並大抵のものではなく、多くの艦娘はここで減速を強いられることとなる。

 

 そして、曙も例に漏れず減速をしつつ背面航行で進んでいく。その航行はやや蛇行しているが航行スピード自体はそこまで落ちておらず、他の艦娘よりも早くそこを突破した。

 

 

 その先に現れたのは細長いコースから一転、大きく開けた場所。そこにはロープも網も無く、ただ無数の浮きが漂っている。だが、それはただの浮きではない。その一つ一つには小型の爆弾が取り付けられており、半径10m以内に熱源を察知すると起爆する仕組みになっている。勿論、その威力はせいぜい水柱を上げる程度であり、主な役割は音と衝撃、そして水柱による視界の制限など、実際の戦闘に近い環境を作り出すこと。ここでは戦闘下でいかに冷静に、そして素早く動けるかが鍵となる。

 

 曙はその広場に入ると、先ず減速した。浮きの位置を確かめ、自らが進むべき道を探しているのだろう。やがて、道筋が見えたのか彼女は一気に加速して浮きの群れに突っ込んでいく。両者の距離がどんどん縮まり、遂に10mを切った。

 

 その瞬間、小さくはない爆音と激しい突風が海上を襲った。それらは同時に起爆したモノ、或いは時間差で起爆したモノのどちらと判断することは出来ず、ただただ大きな水柱が無数に立ちあがったと言う事実だけしか把握できない。しかし、そんな水柱の真横をすり抜ける形で曙が突き進んでいく。

 

 すかさず轟音と共に水柱が立ち上がる。立ち上がるまでの間隔はどんどん短くなっていき、いつの間にか曙が最初にいた場所から半分ぐらいのところまで水柱が上がっている。なおも次々に水柱が上がり、やがて最後にして最大の水柱が上がる。その大きさは戦艦のそれと同等であり、曙の姿を隠すには十分だ。故に、彼女はその陰に隠れてしまった。

 

 

「え、ちょ!?」

 

  

 不意に、潮が声を上げた。手に持ったストップウォッチを取り落しそうになりながらも前を、曙の姿を隠している水柱を見ている。その表情は驚愕と言うよりも、何処か焦りが窺える。彼女が立っている場所から何が見えるのか。

 

 

 その答えは、すぐに現れた。

 

 

 

 それはモーター音。一気にアクセルを踏み込んだ車のような激しく大きな音だ。だが、それは一瞬だけ消えた。いや、消えると同時に立ち登っている水柱の中腹がいきなり突き破られ、その中から顔の前に腕をクロスさせ、身体を丸めた曙が飛び出したのだ。

 

 

 弾丸のように水柱を突き破った彼女はそのまま転がるように海面に着水、全身がずぶ濡れになりながらも素早く立ち上がり、そのまま一気に加速した。彼女が突き進む後にはその身体から流れる水が糸のように海面に落ちていき、彼女が突き進むその先には先程よりも更に大きな浮きが一つ。

 

 その浮きの上には、大きな的。弓道や射的、射撃訓練に用いられるあの的だ。それ目掛けて、曙は更に速度を上げて突っ込んでいく。それと同時に、彼女は片腕を大きく後ろに振り上げた。

 

 

 そして、再び耳を劈くようなモーター音が鳴り響き、大きな水しぶきが彼女と的の間に上がる。それと同時に振り上げられていた彼女の腕が前に、的に突き出される。片手で突き出した腕を支え、腰を低く保ち、上体を支える足に力を入れる。その姿はまさに砲撃体勢だ。

 

 

 彼女と的の間はまだ水しぶきで遮られている。それが全て落ち切る、それが砲撃の合図だ。的からすれば、遮っていた水しぶきが落ち切ると同時に砲撃されることになる。これがもし実戦で、的が深海棲艦だったら、今この時ここで命運が尽きたと言っても良い。あとはただ、水しぶきが落ちると同時に砲撃されるのを待つだけだ。

 

 

 

 だが、次に来るべき砲撃音は、何時まで経っても来ない。

 

 

 

 既に水しぶきは落ち切った。的からも曙が、曙からも的が視認できる。後は砲撃するだけなのだ。なのに、砲撃はない。砲撃は疎か、的目掛けて突き出された曙の腕には何もない。ただ、彼女の小さく華奢な腕を的に差し出してるだけなのだ。目前でただ腕を差し出している艦娘がいる、これがもし実戦だったら逆に彼女の命運が尽きていただろう。勿論、これは演習なので彼女が砲撃されることはなく、腕を突き出した姿で固まる曙と的が波に揺られるだけだ。

 

 

 日差しもそこまで強くない青々とした空の下、そんなのんびりとした空気の中で続いた傍から見たら何とも間抜けな光景は、唐突に終わりを告げた。

 

 

 

「あぁ!! もう!!」

 

 

 

 そう声を荒げたのは、腕を突き出していた曙だ。いや、それよりも前からその身体がプルプルと震えており、その顔は赤みがかり、その頬は大きく膨らんでいたのだが。ともかく、そう叫んだ曙は前かがみになる程両腕を思いっきり振り下ろし、そこから上体を逸らしつつ何故か片足を上げた。

 

 

 

「な、ん、で、出、な、い、の、よぉ!!」

 

 

 そんな恨み言を一言一言噛み潰す様に吐きながら、あろうことか的を足蹴し始めた。勿論、蹴り倒すとか、吹き飛ばすとかそんな威力ではなく、あくまで小突く程度だ。だが、小突かれている的からすれば自分ではどうすることも出来ないことで罵られ、挙句の果てに足蹴にされているのだ。それはただのはた迷惑な八つ当たり、理不尽の極み。何故か、心が痛くなった。

 

 

 そんな姿を離れたところで見つめる潮は手で顔を覆いながらため息を溢していた。恐らく、こんな光景を何度も見ているのだろう。だが、覆っていた手が離れて彼女の顔が現れると、何故かそこに驚愕の表情が浮かんでいた。だが、それもすぐさま気まずそうなモノに変わる。其のモノは、「やっちゃった」と言いたげな表情だ。

 

 

 一体何があったのだろうか、何を見たのだろうか。その理由の全てを、()は知っている。

 

 

 

「あーけーぼーのぉー?」

 

 

 手をメガホン代わりにして、俺は彼女の名を口にする。すると、あれだけ騒ぎながら的を足蹴していたその動きが、錆び付いた機械のように鈍くなり、やがて止まった。しばらくその姿のまま波に揺られていたが、やがて少しずつだが錆び付いたネジが回る様にぎこちない動きで顔を向けてきた。

 

 

 その顔に浮かんでいたのは、一言では言い表せない色々な感情が入り混じった表情だ。そんな曙、そしてまた頭を抱えている潮を手招きして呼び寄せる。二人の表情は「行きたくない」という心情がヒシヒシと伝わってくるものの、素直に近づいてきてくれた。

 

 

「……いつからぁ?」

 

「初めから」

 

 

 引き吊る顔のまま問い掛けてくる曙にそう返すと、その表情が更に歪んだ。それは嫌悪か、どちらかと言えば羞恥の方が強いように見える。因みに、俺が演習場にやって来たのはついさっき、見たのも今しがた終わった何回目(・・・)かの航行演習のみだ。曙は言葉通り、一回目(・・・)から見ていたと勘違いしているようだが、灸を据える意味でも訂正する必要はない。

 

 

「当たりたいって気持ちは分かるけど、何も的に当たらなくても」

 

「あー!! あー!! うるさいうるさい!!」

 

 

 ジト目を向けつつもらした俺の苦言を、曙は声を張り上げながら赤くなった顔を背けて手で耳を抑えてしまう。何も聞きたくない、何も聞こえない、と言いたげな……いや、聞き飽きたから改めて言うな、って意味合いの方が強いか。そんな彼女の気持ちを代弁するように足の艤装は先ほどよりも更に激しい音を上げ、背中の艤装からは白い煙がモリモリと立ち上っている。

 

 何と言うか、分かりやすいと言うか、『心』が重要故にその一部である『感情』も艤装は代弁するんだなぁ。本人はそれに気づいていないようだけど、いや気付く余裕が無いんだろうな。

 

 

 そんなことを思いながら曙を観察していると、横目に潮の姿が見えた。その顔はムスッとしており何処か不満そう、多分俺と曙のやり取りを見たからだろう。ふと、俺の視線に気付いたのか俺たちに向けられていた視線が逸らされる。

 

 

「毎回こうなのか?」

 

「……今回だけです」

 

 

 逸らされたことにショックを受けつつも取り繕って声をかけるが、逸らされた視線のまま素っ気なく返されたことで少しだけ気持ちがブルーになった。前半部分の妙な間は何だったのだろうか、それを聞くのは野暮か。うん、野暮ってことにしとこう。その方がスムーズに事が進む。

 

 それに表面上では相も変わらず頑なな態度だけど、顔を会わせた途端噛み付かれていた今までを考えれば劇的な変化だ。それに、その原因も一応は聞かせてもらったし。

 

 

『その……しょ、諸事情(・・・)でまだ提督の顔を見ることが出来ません。すみません』

 

 

 以前、曙を伴ってやって来た潮が語った理由だ。明らかにはぐらかしたもので、そしてやはり顔を見てくれなかったのだが、それを曙ではなく潮の口から伝え、その後彼女が頭を下げてきた。つまり『誠意』を見せてくれたのだ。これは今までのことを考えればとてつもない進歩であり、彼女の心情を考えれば無理をしていることだろう。

 

 なので、俺は深く詮索することなく受け入れることにした。焦らず、慌てず、自分のペースで近づいてきてくれれば良い、と言って。多分、それが彼女に対する俺なりの『誠意』だ。

 

 

「どうぞ」

 

 

 そんなことを思っていると、潮の声と共に視界の外から一枚の紙を差し出される。それは、曙の演習結果をまとめた報告書だ。これを差し出してくるってことは、何故俺がここに現れたのかが分かったみたいだ。

 

 念のため言っておくが、俺がここに来たのはこの報告書を貰うためだ。ちゃんと大淀には説明しているし、主な通信も変わってもらっている。これを受け取って帰ってから、改めて二人と一休みするつもりだ。だから、これはちゃんとした執務であり、サボりとかそう言うのでは断じてない。

 

 

「いつもは私が執務室に持っていくのに、今日はどういう風の吹き回しですか?」

 

「たまには自分の目で見るのも大切だろ?」

 

 

 そんな言い訳を見透かしたのか潮が鋭い指摘を飛ばしてくるも、こちらも用意していた言葉で打ち返す。絶対そこを突っ込まれると思っていたよ。そして、それを聞いて更に嫌そうな表情になるのも分かっていたから驚かない。

 

 彼女の言葉通り、俺はいつもは執務室で曙の担当艦である潮から報告書を受け取っており、今日みたいに演習場に顔を出してまで報告書を貰いに来たことはない。そして再度言うが、これを口実にサボっているわけでもない。と言うのも、俺があらかじめ用意していた言葉はただの言い訳ではなく、俺がここにやってきた正真正銘の理由だからだ。

 

 

 そしてその要因の一つは潮から離れた視線の先、今しがた潮から手渡された報告書である。

 

 

「毎回思うんだけど、ここまで細かく書く必要あるのか?」

 

「何言ってるんですか? 人の形をした艦娘だからこそ、ここまで書かなくちゃいけないんです」

 

 

 俺の言葉に潮は呆れた口調でそう返す。何故こんなことを言うのか、それは毎回彼女が持ってくる報告書には曙の動きは勿論、その視線の向きや反転のタイミング、現れたモノを認知し、対応するまでの時間、更には次々と移り変わる思考の流れと、明らかに見るだけじゃ分からないだろうと言いたくなるほどの膨大なデータが記されているからだ。それも、余白を塗りつぶす様に寸分の隙間も無くビッシリと書き尽くされている。初めてそれを見た時、俺の頭が停止したのは仕方がないってことにしてほしい。

 

 

「昔に比べ今の姿は的が小さく、且つ私たち駆逐艦は素早く動けるので戦場におけて非常に柔軟で迅速な対応が出来ます。しかし、昔ほど多くの砲も乗組員による全方位を網羅する視野もなく、且つ身体が小さいためにダメージコントロールが難しいんです。故に、発見が遅れれば沈む確率が昔とは比べ物にならないほど跳ね上がります。更に言えば私たちは昔と違って思考と感情があり、それは表情として外に現れます。外に現れるのであれば、対峙する敵に見られ、次の行動が予測される危険性もありますし、それに付け込まれて戦況をひっくり返されることもあります。人の形をした私たちが抱えるリスクを少しでも減らすため、その一挙手一投足だけでなく視線の向きから目まぐるしく変わる状況への順応、そして表情の変化に伴う思考や感情までを事細かに書かないといけないんです」

 

 

 潮の口から流水の如く現れた、彼女が事細かに記す理由。簡単に言えば、艦娘は人の形をしているためにその動きは『人間の出来る範囲』に限定されてしまい、且つ思考と感情を人間と同じように持っているというリスクも背負っているってことだ。そう考えると、大本営が艦娘を兵器として扱う理由も何となくだが分かる気がする。分かっただけで共感はしないけどな。

 

 因みに、これを初めて聞かされたのは潮ではなく、彼女からの報告書を見てげんなりしていた俺にニヤニヤと意地悪そうな笑みを向けてきた大淀だ。その説明は非常に分かりやすく丁寧であったが、言葉の節々から馬鹿にされている感がヒシヒシと伝わってきたのがどうも腑に落ちない。

 

 とまぁ、そこまでは分かっている。だけど、そこまで分かっている上で『事細かく書き過ぎじゃない?』と思ってしまうのだ。そう思いながらその報告書に、正確にはその初めの方に目を向けた。

 

 

 

 『今日はなかなかベッドから起きてこず、起こしに行ったらもの凄い不機嫌そうな顔を向けられた。昨日夜遅くまで起きていたに違いない』

 

 『食堂にて、間宮さんと何やら楽しげに話してる。新しいメニューの事だろうか。とても楽しそう』

 

 『演習前、艤装を受け取りに行くと工廠の妖精さんに怒られていた。艤装の清掃を怠っていたらしく、小さな妖精さんと同じぐらい小さくなっている』

 

 

 そこまで読んで、思わず目を抑える。あぁ、やっぱりかぁ……と、心の中で呟きつつ今度は下の方、最後に書かれたであろう文章を見る。

 

 

『突然提督に名前を呼ばれ、珍しく慌てている。私だとそこまでならないのに、ずるい』

 

 

 

「何が『ずるい』んで―――」

 

 

 そう漏らした瞬間、いきなり手にしていた報告書をひったくられる。犯人は潮、彼女はひったくった報告書にある最後の文章をあっという間にペンで塗りつぶし、その後何事も無かったかのように再び差し出してきた。しばらく、潮にジト目を向ける。潮は顔ごと逸らしながら涼しい顔をしているが、その頬が引きつり、額に汗が滲んでいるからな。

 

 そして、俺が言っている『書き過ぎ』と言うのはまさにこの部分、明らかに演習ではない時のことを記していることだ。一応、演習前後の彼女の様子を知ることも大事であると分かって……いや、このことを指摘した際、潮にもの凄い剣幕で言い含められたために理解させられ、必要だってことも分からされている。

 

 だけどね? そこに個人的な感情を載せるのはどうかと思うわけですよぉ。それも大体報告書の半分近くを占めてて、たまにこっちがメインじゃないの? っていう時もあるんですよぉ。もっと言えば、今みたいにそれを無自覚で書いちゃっていることが多いんですよぉ。

 

 まぁ、潮は気持ちを言葉ではなく絵や文字として吐き出していたから、元々積極的に想いを表に出す様なタイプじゃないのだろう。いや、多分あのリハビリのお蔭で吐き出し方を覚えたから気を抜くと吐き出しちゃうようになったと言ったところか。こちらとしてはその方が有り難い。でも、限度ってものがあるよね?

 

 

 

「……何、どうしたの?」

 

 

 そんな俺たちに、ようやく再起動を果たした曙が訝し気に見てくる。そうだよな、いきなり俺に声を掛けられて混乱して、ようやく立ち直ったと思ったら自分の担当艦が汗を流しながら俺に報告書を差し出し、差し出された報告書を受け取りもせずに俺が担当艦にジト目を向けていたらそんな顔にもなる。

 

 

「ううん、何でもないよ」

 

「いや、明らかに何かあった雰囲気なんだけど……」

 

 

 そんな曙に、潮は笑顔でそう言った。だが、曙は尚も訝し気な表情のままだ。実は潮、演習の結果はこの報告書の他に曙に渡す専用のものを用意している。本来であれば報告書をコピー或いは複写して渡せば済むのだが、これだけ個人的なことが書いているのを知られたくないのだとか。だから、今目の前にある報告書を曙は目にしたことが無い、故にそこに何が書かれているのか知らないのだ。

 

 隠さなければならないことをわざわざ書くなって言いたいが、これも潮のペースに任せた方がいいか。ミサンガに込めた願い同様、こう言ったものはあいつ自身から伝えた方が良いだろう。

 

 

「いや、何でもないさ。それよりも、ほれ」

 

 

 潮と同じ言葉を吐いた後、俺は差し出された報告書を受け取りつつ、もう片方の手をポケットに突っ込んだ。目的のモノはすぐに見つかり、掴んだそれを引き抜いて二人に見せる。

 

 

「そ、それは……」

 

 

 それを見てそう漏らしたのは潮だ。その顔は先ほどまでの不機嫌さは何処へやら、代わりに目を大きく見開き、紅潮した頬を緩ませ、口角を少しだけ上げた、嬉しいと言う感情を目一杯表現した、年相応な子供っぽい笑顔だ。

 

 対して、何も発しなかった曙の表情は真顔である。真顔と言うよりも少しだけ冷めた、潮とは対照的にそこまで嬉しくなさそうな顔だった。そんな表情のまま曙は俺に視線を変え、口を開いた。

 

 

 

「……ただの甘味券でしょ」

 

 

 冷めた口調で語る彼女の言葉通り、俺が出したのは甘味券だ。まぁ、『甘味券』なんて銘打っているが、元々は間宮アイス券。ただアイス券の裏に手書きで『甘味』と書いただけの、何ともみすぼらしい券だけど。

 

 そして、これは演習や出撃において優れた成績を出した艦娘に手渡されるご褒美であり、これを食堂に持っていけば好きな甘味と交換できる。勿論アイスとも交換できるので、正しくはご褒美の種類が増えたことになる。つまり間宮アイス券の上位互換だ。

 

 まぁ、これは新メニューとして色んな甘味が増えたことで洋菓子や和菓子など艦娘の好みが多様化し、アイス自体の需要が低くなったため、対応として取り入れたのだが。また、その分好みに対応するために間宮の負担が増えたのだが、本人は了承済みだ。同時に、ご褒美をあげる対象を絞ったことで、負担の軽減と艦娘たちのモチベーションの上昇に成功したわけだ。

 

 

 そんな、艦娘たちにとっては夢のような代物に何故か喜びもせずに冷めた様子の曙。まぁ、この甘味券を発案したのが彼女なのだから、そりゃ自分の発案したモノを自慢げに差し出されればこんな顔にもなろう。

 

 

 というわけで、更に言葉を付け加えた。

 

 

 

「これで、潮に試作品をご馳走してくれ」

 

 

 俺の言葉に、冷めていた曙の表情が強張る。横の潮は面喰らった顔で曙に視線を向けていた。その姿を見て、俺は手にしていた券を曙に差し出す。

 

 

「間宮からお前が新しいメニューの開発を買って出たって聞いたからさ。演習で世話になってるんだ、お礼にご馳走したらどうだ?」

 

 

 そう、俺がわざわざ演習場にやってきたのはこの甘味券を渡しに来たのだ。いつもであれば報告書を提出しに来た潮に渡すって形になるが、何かそれだと味気ないと言うか、やっぱり直接渡す方が気分的にも良いだろうって思ってのことだ。勿論、今まで連ねた理由も込みだが一番はこれである。だが、当初は二人に甘味券を渡すだけで、曙の新メニューをなんて微塵も思ってなかった。

 

 そこに、先ほど見た曙の態度だ。勿論しょうがないとは思うが、それでも的に当たり散らすのは考えものだろう。なので予定変更、曙が奮闘している試作品を食べてもらうことにする。これなら曙にはちょっとした罰だが、甘味を食べれることに加え、俺や間宮以外に試作品の味見をしてもらえる。また、潮には甘味を味わえることに加え、普通なら食べることの出来ないモノを食べれるチャンスだ。十分ご褒美だろう。

 

 

 因みに、曙が買って出たことは何故かニヤニヤと笑う間宮から教えてもらった。

 

 

『そう言えば、曙ちゃんが新しいメニューの開発を買って出てくれましたよ。どうも食べさせたい人が居るようで、今まで見たことないほど張り切っていましたよぉ? 良かったですね、提督』

 

 

 何が良いのか分からないが、それほど張り切っているなら大丈夫だろう。厨房を任せられると間宮からのお墨付きももらっているほどだ、心配ないさ。それに食べさせたい人がいるなら、尚更だ。

 

 

「…………」

 

 

 そんな俺の言葉に、曙の強張らせていた顔が一転し、一切の感情が抜け落ちていた。冷めたと言うか、熱を一切感じない表情で俺を見ている。横の潮は、そんな彼女を見てオロオロしている。予想していた反応からかけ離れている様子に俺は首を捻った。あれ、何か様子がおかしい。だってさ、

 

 

 

 

「食べさせたい人って潮のことだろ?」

 

「うん、そうよ」

 

 

 俺の言葉に、曙はその表情のまま肯定する。そして脚の艤装を動かして海面を移動してコンクリートの地面に上陸、そして何故か無言のまま歩を進め、俺の傍で止まった。それにつられて潮も同じように上陸し、曙から数歩離れたところで止まる。そんな二人の様子に更に首を傾げた俺の目に、大きく振り上げられた曙の手が映った。

 

 

「あがァァア!!」

 

 

 その腕は勢いよく俺の腰に叩き付けられる。それに盛大に悲鳴を上げる俺の手から彼女は鮮やかに甘味券を抜き取った。その間、僅か数秒。潮の目には、手を振り上げていた曙、悲鳴を上げる俺、そして片手に甘味券を掲げる曙、という光景がまるで写真のように見えただろう。

 

 腰に突き刺さった衝撃と激痛、そして曙の行動に頭が混乱する中、視界の中では俺に背を向け潮に近付き、乱暴にその手を取る曙の姿、そしていきなり手を掴まれて驚く潮の顔があった。

 

 

「行くわよ潮!! あんたのために用意したんだから、ありがたく味わいなさい!! そしてそこの馬鹿!! あんたには後で無理矢理にでも味わわせてやるから覚悟しなさい!!」

 

「え? あ、ちょ」

 

 

 今までにないほどの大声で罵声を浴びせつつ、潮を引っ張っていく曙。それに引っ張られながら曙、そして痛みに悶絶する俺を交互に見て困惑する潮。そんな二人の姿が段々遠くなっていくのを、俺は痛みを堪えながら見送った。二人の姿が見えなくなってから、しばらく俺はその場に膝をついて痛みにもがき苦しんだ。そして、ようやく痛みが引き始めたところでよろよろと立ち上がる。そして、何故曙にぶっ叩かれたのかを考えた。

 

 やっぱり、食べさせたい人が潮だってバラしたのが不味かったかな。そうだよな、隠していたかどうかは分からないけど、本人の目の前でバラされちゃ堪ったもんじゃない。でも、何でわざわざ俺にも食わせるって言ったんだ? 俺が味見するのは大前提だろうに。

 

 

 

 そんな思考に没頭していたためか、背後から忍び寄る気配に気付けなかった。

 

 

 

「隙あり、なの!!」

 

「え、いッ!?」

 

 

 突然、そんな言葉と共に腰の辺りに強い衝撃が襲った。突然のことに前のめりに倒れそうになるも、腹筋に力を入れて何とか一歩二歩と踏み出したところで耐えた。そう、耐えた。衝撃を受けた瞬間腰の奥の方でピシッと音がしたけど、何とか耐えた。腰の辺りに何かが抱き付き、その体重の全てを腰で受け止めたけど、何とか耐えた。

 

 

「お? 流石に女の子一人は支えられたのね? ただの柔らかい装甲だと思ってたけど、下にはちゃんと筋肉があるのー」

 

 

 再び声が聞こえ、衝撃を受けた腰にはいつの間にか何か柔らかいモノが押し付けられた感触、そして腹回りをぐるりと一周する締め付けが有り、次に執務で少しだけ緩くなった腹回りをつつかれる感触があった。立て続けに現れた感触、背後から聞こえた何とも間の抜けた声、そして視線を腹回りに向けた際に見えた、後ろから回されへその辺りでガッチリ握りしめられた2本の細い腕、

 

 その声、そしてそんなことをする、そして今見えているその腕が誰か、俺はすぐに分かった。

 

 

 

「イ、イク!! 駄目だって!!」

 

 

 だが、その名前を発したのは俺ではない。俺の背後から聞こえた息を切らした少女の声だ。それに思わず振り返ると、遠くの方からこちらへかけてくる水着姿の少女。水兵帽と金髪を揺らし、ずれたメガネも直さずに、水着に白いニーハイソックスと言う何とも目のやり場に困る格好で一目散に駆け寄ってくるのは伊8ことハチだ。

 

 すると、俺の腰に回されていた腕がモゾモゾと動き、視線を向けると腹の後ろからひょっこり顔を出した、これまた水着姿の少女。薄紫色の髪に透き通るような赤い瞳を携えた少女、伊19ことイクだ。彼女は俺の視線に気付いていないのか、意地悪な笑みを浮かべて口を開いた。

 

 

「ちゃんとお仕事終わらせたから大丈夫なのー。それに、提督はイクに優しいのー」

 

「そうだな、そんなことをしなければ優しい提督なんだけど?」

 

 

 上から聞こえた俺の言葉に、イクは弾かれた様に顔を上げ俺と目が合う。しかし、次に現れたのは申し訳なさそうな視線でもなく、先ほどの笑みからもっと意地悪いと言うか、小悪魔と言う言葉が似合う笑みを向けてきた。

 

 

「帰投したのー」

 

「……お疲れさん」

 

 

 悪びれる様子もなく笑顔を向けてくるイクを見て怒りが呆れに変わり、労いの言葉と共にその頭に手を伸ばす。だが、俺の手が触れる前にイクは俺から離れ、2、3歩ほど後ろに下がったところで敬礼した。その直後、追いついたハチは息を整えることなくイクの隣で同じく敬礼する。

 

 

「せ、潜水艦隊、き、帰投、しま、したぁ」

 

「呼吸を整えてからでいいよ。取り敢えず、二人ともお疲れさん」

 

 

 呼吸と発声が混同しているハチにそう促しつつ、二人の身体を見る。見た所、怪我は見受けられない。シフトの関係上今日はほぼ連続で出撃するんだが、補給と休憩を十分に取らせれば大丈夫か。そんなことを考えていると、突然イクが身を庇う様に両手を胸に当て、身体を捩る。

 

 

「提督、さっきからイクたちの身体を舐めまわす様に見ているけど……時間と場所を弁えるのー」

 

「損傷が無いか見てただけだ。そこ、ハチも真に受けない」

 

「え、あ、その、ま、真に受けたわけじゃ……」

 

 

 身体を庇いながらそう言うイクの顔には小悪魔っぽい笑みが浮かんでおり、彼女自体は冗談であると分かって言ってるのだ。だが、横のハチは真に受けたのか顔を赤くしてイクと同じように身体を庇った。そこを突っ込むとハチは慌てた様に手をバタバタさせ、その様子を面白そうにイクが見ている。

 

 

 そんな二人を見て、俺は初めて彼女たちに出会った時を思い出していた。

 

 

 先ず、ハチ。初めて会ったのは食堂。あの時は俺の不用意な発言で泣かせてしまった。その翌日、俺の頼みで朝から食堂に来て、試食会の準備を手伝ってもらった。その時は、やはりぎこちない態度ではあったが、イムヤと一緒に作業をする彼女は少しだけ楽しそうであった。

 

 試食会も終わり、金剛が倒れたことで新しい体制を確立させてからも潜水艦隊の一員として頑張ってもらう日々。そして先日、半ば押し付けでもらった非番でばったり顔を会わせ、そこで彼女からお願いをされたのだ。それ以降、顔を合わせればたまにあちらから声をかけてくれるようになった。勿論、まだ緊張していたり、申し訳なさそうではあるが、それでも初めて会った時から考えればもの凄い変化だ

 

 因みに、曙や潮に渡したミサンガにあるドライフラワーの作り方は彼女から教えてもらった。また、材料である花は出撃の間に探してきてもらった。

 

 

 そして、イク。初めて会ったのは食堂で、ハチ同様泣かせてしまった。その後の試食会の準備ではゴーヤとペアを組ませて手伝いをしてもらっていたが、いつの間にかイムヤの傍に居てその手を握っていた。その時は普通に言葉を交わしてくれたが、試食会以後は顔を会わせても声をかけてくることは無かった。

 

 だが、彼女の態度が一変したのはハチのお願いを聞いてからだ。いや、初めて今の態度で絡まれた時はびっくりした。何せ、間宮とメニューについて相談していた時にいきなり背後から抱き付かれ、危うく間宮ごと倒れそうになったからだ。因みに言っておくと、その時驚いた間宮から容赦ないビンタを喰らって彼女を倒さなかっただけで、俺自体は倒れた。その時に腰に違和感を覚えもした。

 

 まぁ、俺の身体はどうでもいい。ともかく不意打ちで押し倒された俺は何が何だか分からず、ただ抱き付いてきたイクを唖然とした顔で見るだけだった。そんな俺に、イクはケースに入れられたミヤコワスレとヒロハノハナカンザシの花を見せつけてくる。それを見て、ハチに頼んでいたのに何故イクが、と混乱する俺だったが、後からやってきたハチから出撃の際に見つけて持ち帰ったと説明を受け何とか理解した。

 

 それを踏まえて抱き付いてきた理由を聞くと、単純に持ち帰ったことを報告しに来ただけだと言われた。取り敢えず頼んだモノを持ち帰ってくれたことに感謝しつつ、何故抱き付く必要があったのかを更に問いかけたら、イクは少しも悪びれることなく笑顔でこう言った。

 

 

『提督は優しいから、何しても怒らないのー』

 

 

 イクの言葉に、俺は面喰らった。言葉の意味が理解できなかったわけではないが、ただその理由に驚いたのだ。いや、怒らないわけじゃないんだぞ? 金剛には面と向かって怒鳴って手を上げそうになったし北上に関しては実際に襟首を掴んだ。言い争いではあるが加賀にも怒鳴った。ただ公衆の面前で大声を上げていないだけで、怒ると言うか怒鳴りはしてるんだぞ。

 

 それをオブラートに包んで伝えるも、イクは悪びれることなくただ『提督は優しい』と言うだけだ。何度言ってもその言葉は変わらないため、その日は説得を諦めて今後は抱き付くのをやめろと釘を刺すに留めた。だが、今の通りその釘が役に立ったためしはなく、毎日のように背後から抱き付かれることを繰り返しているわけだ。

 

 その度に注意するも、イクは悪びれる様子もない。埒が明かないと何度か怒ろうと思ったが、その度に彼女は笑顔から一転して泣きそうな顔になる。その顔を、そして初めて見た際に泣き崩れる彼女の姿を見たため強く言えずに注意でとどまってしまうのも、この状況を作っている原因なんだろうな。

 

 

 まぁ、それは別に良いのだ。その度に腰にダメージを蓄積させるだけだから良いんだよ。もっと問題なのは、イクの言動だ。

 

 

「でも、大分身体が弛んでいるのね。今度、イクと運動するの!!」

 

「だから、俺は何百メートルも潜れないって。そしてハチさん、変なこと想像しない」

 

「………っぁ」

 

 

 小悪魔っぽい笑み、というか艶っぽい笑みと言うか、そんな表情を浮かべ、何故か腕を使って己の胸を強調させながらそんなことを言うイク、そして先ほどよりも更に顔を赤くして黙り込むハチのそれぞれに突っ込みを入れる。その言葉にハチは反応せず、イクはことさら意地悪い表情で強調した胸を俺に向けてきた。

 

 

 このように、イクは何故か言葉の節々に変な想像をさせるようなことを言い、そしてあからさまに己の武器を向けてくるのだ。因みに、彼女が言った『運動』とは『潜水』の事だ。決してハチが想像している事ではない。そこだけは言っておく。

 

 でもね、分かるよ。初めて見た時だって先ず目が行ったのはそこだよ。何ともまぁご立派なモノをお持ちだって、とてつもない武器を持ってる危険な存在だって思ったよ。前に目の前で曝け出された某金剛型戦艦3番艦さんと互角に渡り合えるぐらいあると思うよ。そこは男の(さが)として認めるよ。

 

 でもね、出会うたびに抱き付かれてるの。その度にそのご立派なモノが押し付けられるのよ。一度や二度ならまぁラッキーとか思うけど何度も何度も繰り返されるとねぇ? 飽きたわけじゃないけど、そんな安売りされても、って思うわけですよ。もっと言えば、俺はその件に関して辟易してるんだよ。某金剛型戦艦3番艦さんによってさ。

 

 だからちゃんと注意したいんだけど、これただのセクハラにしかならないから出来ないんですよ。注意する代わりに、安売りするようなモノじゃない、もっと自分を大切にしなさい、って二人に自分が持っているモノの価値が大きいことを知ってくれって言いたいんですよ。でも、それを言ったらおしまい(・・・・)というか、無事で帰ってこれない気がするんですよ。

 

 

 それにさ、お前ら……って、あれ?

 

 

 

「イムヤとゴーヤはどうした?」

 

 

 ふと、今この場に居ない二人の名前を口にした。潜水艦隊はイクとハチ、そしてイムヤとゴーヤの4人だ。もし帰投したのなら、他の2人も今ここに居るはずなんだけど。食堂の時に見た様子から、二人だけで補給しに行ったと言うのは考えづらい。そんな俺の言葉に、イクの顔から笑顔が消え去り、ハチの顔には悲痛な表情が浮かんだ。

 

 

 

「実は帰投の途中に敵の奇襲を受けまして、イムヤが大破しました」

 

「たいッ、にゅ、入渠は!?」

 

「帰投してすぐゴーヤがドックに連れて行ったので大丈夫です。ただ、時間がかかるので次の出撃に間に合うかどうか……」

 

「そ、そうか」

 

 

 イムヤ大破の報告に始めは肝を冷やしたが、無事に帰ってきたようで安心したよ。ただ、ハチの言う通り大破の入渠は時間がかかるが、彼女たちはこの後も出撃が控えてる。此処は修復材を使うべきか、はたまた出撃の時間をずらすか。どっちがいいだろう。

 

 

「そこで、提督にお願いなの」

 

 

 ふと、考え事をしていた俺に今までと打って変わって落ち着いたイクの声が聞こえ、同時に腕に抱き付かれる感触が。腕の方を見ると、苦笑いを浮かべたイクが居た。

 

 

 

「この後の出撃、取り止めにしてほしいの」

 

 

 そう言って、イクは俺の腕に抱き付く力を強めた。そのことに、俺は黙って彼女を見る。それに対してイクは片時も目を逸らすことなく、更に言葉を続けた。

 

 

「今朝なんだけど、イムヤの様子がおかしかったの。何処かフラフラしてて、動くたびに顔をしかめていたから、体調が悪かったんだと思う。だから今日は休もうって言ったんだけど聞かなくて、そのまま出撃しちゃって。その時もフラフラしていつもはしないミスを何回もしてたから、出撃中に悪化したんだと思うの。そして、帰りの奇襲で大破して……だから、今日はもう休ませて欲しいの」

 

 

 淡々と語られつつもその節々に滲む重い空気を感じながら、俺は話を聞き続けた。と言うのも、俺も今朝執務室にやってきたイムヤの様子を見て、同じ印象を持ち、同じことを言って、同じように断られたからだ。だけど、俺はそれでも出撃させたのは、それ以上に彼女の目が出撃させろと訴えてきたからだ。

 

 その剣幕に押されてしまい、俺は無理をしない事を条件に出撃を許可したわけだが、聞き届けられなかったようだ。いや、奇襲だからイムヤに非はない、むしろ良く無事で帰ってきてくれた。逆に、体調不良を分かっていながら出撃させた俺に非がある。謝っておかないといけない。

 

 

「そのこと、イムヤたちは了承したのか?」

 

「言い出しっぺがゴーヤだから大丈夫だけど、イムヤはまだなのね」

 

 

 ゴーヤが分かっているならいいな。まぁイムヤが知らないのは仕方がないし、知っていたら絶対に反対していただろうな。因みに俺も彼女たちの意見に賛成だ。だが、取り止めた分を何処かで補わなければいけないのが問題か。

 

 

「分かった、今日の出撃は取り止めだ。ただその分を明日の午前中に回すが大丈夫か? 無理なら他の日にするけど」

 

「私たちの中ではそうする予定でしたので、問題ありません」

 

 

 俺の言葉に、ハチは不安そうな顔から安心した様にホッと胸を撫で下ろしそう答えてきた。彼女たちの中でそこまで決まっているなら、後は大淀と予定を調節するだけか。大淀も俺と一緒に休ませようとしていたから、多分大丈夫だろう。

 

 

「やっぱり、提督は優しいのー」

 

「分かったから、取り敢えず離れてくれ」

 

 

 俺の言葉にイクはそう言って抱き付いてくる力を更に強めてくる。いい加減腕が疲れてきたので離れるよう促しながら彼女に手を伸ばすが、触れるよりも前に彼女から離れてくれた。離れてなお、笑みを浮かべている彼女を見つつ、俺は今から自分がすべきことを考えた。

 

 

「取り敢えず、先ずは大淀に相談を……」

 

「大淀さんは問題ないそうですよ。そして予定は彼女が調整しておくらしいので、提督はイムヤちゃんにこのことを伝えて欲しいそうです。さぁ、では一緒に行きましょう」

 

 

 不意に聞こえた声、そして腕を掴まれ引っ張られる。突然のそれに俺は何とか踏ん張って引っ張られないようする。

 

 

「どうしたんですか? 提督」

 

 

 すると、またもや声が聞こえた。それは引っ張られる腕の方から聞こえ、同時に引っ張られる力が強くなった。それに流されない様、視線を動かす。

 

 

 先ず映ったのはポカンと口を開けているイク、そしてハチだ。何かを見て驚いてる彼女たちの視線は俺の横に注がれてる。そのまま視線を横にずらしていき、俺の真横---腕が引っ張られている方に辿り着いた。

 

 

 そこには、各艦隊の資料が挟まったファイルを片手に持ち、もう片方の手で俺の腕を掴み、引っ張られる方へと身体を向けつつ、満面の笑みを浮かべた顔だけを俺に向けている艦娘が。

 

 

 

 今日の秘書艦である、金剛型戦艦3番艦の榛名だ。

 

 

 

「……いつからいた?」

 

「イクちゃんに抱き付かれたところからです」

 

「行くって何処へ?」

 

「イムヤちゃんの所ですよ」

 

「あぁ、そう……何でいるの?」

 

「『提督と運動する』と聞いて」

 

「よし、じゃあドックに行くか」

 

 

 動き出す前に前段を片付け、後はドックに行くだけにしてくれた非常に優秀な秘書艦様は最後の質問に何故か自慢げに親指を立ててきたので、スルーすることにした。いや、そこは建前でも『大淀と相談したことを伝えに来た』とか言ってくれよ。

 

 

 その後、俺はイクとハチにそのまま休むよう言い、何故か急かしてくる榛名に引っ張られるようにドックに向かった。



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変えさせない『モノ』

「で、イムヤの容態は?」

 

「四肢の欠損はありません。また帰投時に意識がなく一人で入渠させるのは危険と判断したため、入渠補助の妖精を緊急召集させています。ただ集まるまで時間がかかるため、その間はゴーヤちゃんが補助をしています。今は妖精に代わっていると思います」

 

 

 廊下を歩く中、俺は後ろを歩く榛名に問いかける。その問いに、榛名は手元のファイルを開きつつ俺の問いに答えた。横目にその様子を窺った時、そこに居たのは先ほど演習場で見た怪しい笑みではなく、鋭い視線をファイルに向けるとても頼もしい秘書艦であった。だが、それも俺の視線に気付くとすぐに怪しい笑みを浮かべるのだが。

 

 

「ゴーヤが?」

 

「……はい、本当は榛名がやろうとしたんですが。ゴーヤちゃんが、自分がやると頑なだったのでお任せした次第です」

 

 

 それをスルーしつつ俺は疑問を口にすると、榛名はスルーされたのが不服だったのか不満そうに頬を膨らませて答えた。まぁ、そんな顔をされたところでスルーするのだが。

 

 

 にしても、ゴーヤが補助を買って出たか。普通考えたら意識を失うほどの重傷に陥った仲間を助けるため、ってところだろうが、試食会の朝にあった二人の会話からはどうも確執があるようだ。それを踏まえると、ゴーヤが何故補助を買って出たのか、と思うわけだ。俺は双方の気持ちを知っているわけではないから、下手に口を出せないわけだが。

 

 

 ま、少なくとも片方の気持ちを知る術を持ってはいるんだけど。

 

 

 と、それはまだいい。先ずは出撃延期をどうイムヤに伝えるのか、だ。

 

 ただ今日の出撃が明日に延期された、と伝えるだけだからそこまで深刻に考える必要はないかもだが、問題はそうなった理由だ。勿論、それもイクたちがそう言ってきたから、と言えばいい。だけど、何故イク達がそう言ってきたのか、と掘り下げられると少々面倒なことになる。

 

 まぁ、それはイムヤを休ませるため、ってことだけど。むしろ、この理由こそがそもそもの問題なんだが。

 

 

「あ、見えてき……まし……?」

 

 

 ふと、後ろに控えていた榛名がそう声を上げる。だが、それは語尾に向かうほど弱く、小さく、どちらかと言えば言葉を発することよりも己の感情が出てきてしまったようにも見える。まぁ、そうなってしまうのもしょうがないだろう。

 

 

「提督でちか」

 

「何やってるんだ?」

 

 

 その理由である人物に声をかけると、その人は俺の声に腕に埋めていた顔を上げ、面倒くさそうに顔を向けてきた。ピンク髪に同じ色の髪飾りを揺らし、これまた同じ色の瞳とその顔に疲労の色を携えた艦娘。その恰好はイムヤと同じセーラー服にスクール水着と言う選定した奴の性癖がこれでもかと盛り込まれた変態仕様だ。

 

 イムヤ率いる潜水艦隊の一員、伊58ことゴーヤである。

 

 そんな彼女は何故か廊下に腰を下ろし、立たせている両脚を胸の辺りまで引き寄せ、それを抱えるように両腕を回している、要するに体育座りをしているのだ。その背中は壁にもたれ掛かっている、つまり身体は壁と反対側を向いているのだ。

 

 そして、その反対側に在るのは一つの扉。それもただの扉ではなく、そこにはバケツの模様がほどこされた暖簾。俺も風呂場として利用する、今現在はその名の通りの役割を担う場所、ドックだ。

 

 

 ゴーヤはドックへと続く扉の反対側の壁にもたれ、体育座りをしているのだ。それも、一度俺に向けた視線を再びそちらに向け、今までずっとそうしてきたかのように片時も離さず。

 

 

「何やってるって、見ての通り摘み出されたんでちよ。妖精さんが到着したからお役御免だって、必要ないって、そう言われたんでち」

 

 

 視線をドックに向けながら、ゴーヤは乾いた笑い声を上げる。確かに、彼女は笑っていた。だけどその笑い声は、その笑顔は、その姿は、とても笑っているようには見えなかった。

 

 

「誰に?」

 

「そんな汚い言葉、妖精さんが向けると思うでちか? 麗しき我らが潜水艦隊の旗艦様から頂いた、有難いお言葉でち」

 

「その顔も?」

 

 

 俺の指摘に、ほんの一瞬その笑顔に陰りが見えた。しかし、それも次の瞬間には乾いた笑い声と、乾いた笑みに変わる。そんな乾き切った表情を浮かべるゴーヤの顔、正確には頬の辺りがほんのり赤くなっているのだ。色の境界線がハッキリとしているため自然に赤くなったものではない、人為的なものだろう。

 

 

「愛の鞭でち」

 

 

 そう吐き捨てたゴーヤは表情を消し、真顔のまま口元までを腕の中に沈める。ただその目は、何処か遠いものを見つめるように細められたその目は、風に吹かれて揺れる暖簾の向こうに注がれていた。

 

 

「……ご苦労さん。それと、今日の出撃は明日の朝に延期になった。イクとハチはもう食堂に行ってる、お前も飯食ってゆっくり休んでくれ」

 

「了解、ありがとうでち」

 

 

 そんなゴーヤにため息を吐きつつ俺が出撃延期の旨を伝えるも、彼女は俺の方を一切見ずにお礼を述べただけ。それ以降はピクリとも動かず、ただ目の前を見つめ続けるのみだ。その姿に、俺はただ黙って見つめ、榛名は少し困ったような顔でゴーヤと俺を交互に見る。

 

 

「イムヤには俺から伝える、だから―――」

 

「ゴーヤの休む時間はゴーヤが決める、それにここで泣き寝入りするのはゴーヤの名が廃るでちよ。旗艦様にはしっかり伝えるから、提督こそ執務に戻るでち」

 

 

 埒があかないと踏まえた上で促すも、ゴーヤは相変わらず俺を見ず淡々とした口調で言葉を返してきた。その心遣いはありがたいけど、相手が違うんだよな。

 

 

 いや、相手は合ってる。ただ、遣い過ぎてる(・・・・・・)んだ。

 

 

 

「いつまで続けるんだ?」

 

「……旗艦様が出てくるまででち」

 

「いつまで意地を張り(・・・・・)続けるんだ?」

 

 

 ゴーヤの言葉を遮った俺の声に、頑なに暖簾の向こうに注がれていたその目が動く。同時に、欠片も無かった感情が浮かび上がり、それは動いた目の向こう―――すなわち俺に向けられた。

 

 

 そこにあったのは怒りでも嫌悪でもない。途方もないほどの疲労を宿した、寂しさだった。

 

 

「提督……」

 

 

 ふと、後ろから声が聞こえ、同時に片手を誰かに握られる。目だけを向けると、先程よりも近いところで俯く榛名。その頭、そして俺の手を握る彼女の手が、小刻みに震えている。それは恐怖のためか、怒りのためか、はたまたそれ以外の感情のためか、俺には分からない。

 

 

「何だ?」

 

 

 だから、俺は問いかけた。彼女が何故俺の名を呼び、まるで引き留める様に手を握っているのか。その答えが分からないから知っているであろう張本人に、握りしめられた手を強く握り返した。

 

 

「すみません、何でもないです」

 

 

 だが、榛名は答えなかった。そう言って、逃げるように俺の手を振りほどいて離れた。俯いたままなので、その表情は分からない。何故答えず、そして逃げるように離れたのか、その理由も分からない。だけど、改めて(・・・)分かったことがあった。

 

 

 

「お前もか」

 

 

 そう呟いた。誰にも聞こえない程小さく、囁くような声で。そのおかげか、榛名は顔を下げたままだ。それを見て、俺は再び前を向く。そこには、腕の中に顔を埋めるゴーヤが居た。心なしか、いや確実に震えている。

 

 

「……ゴーヤにも分からないでち」

 

「そうか? 俺は、お前が素直になればすぐにでも終わる気がするけど」

 

「それじゃ意味がないでち」

 

 

 傍に近付いてきた俺に、ゴーヤは鋭い視線を向けてくる。先ほどの疲労を滲ませながらも、その奥に強い意思を携えた目だ。その目を捉え、なのに何も言わないでいる俺に向け、彼女は更に口を開いた。

 

 

「あいつが分からないと、分からせないと駄目なんでち。言い聞かせただけじゃすぐに戻って、何度やっても戻りやがる、それを繰り返すといつしか聞き入れることすらも拒むようになったでち。言うだけじゃ分からないなら行動で示すしかない、それを誰かがやるしかない、やり続けるしか、張り続けるしかないんでち」

 

 

 溜まりに溜まった感情を吐き出す様に、後ろに行くにつれて語気が荒くなっていくゴーヤ。その顔にははっきりと、怒りが刻まれている。今、それは俺に向けられているが、恐らく彼女は別の人物へと向けているつもりなのだろう。そして、それがお門違いだと分かっていながら、それが事態を硬直させていると知らずに。

 

 

 

「あいつって?」

 

 

 唐突に聞こえた問い。それは俺でも、ゴーヤでも、榛名でもない。その声にゴーヤと俺は同時に、同じ方向に目を向ける。その方向とは暖簾の先、ドックへと続く扉だ。次の瞬間、その扉が勢いよく開け放たれた。

 

 

 腰まで届くほどの赤髪を振り乱し、透き通るような緋色の瞳に疲労感、そして強い敵意を惜しげもなく滲ませている少女、伊168ことイムヤだ。だけど、ほんの一瞬だけ、彼女がイムヤであるのかが分からなかった。何故か、それは彼女ら潜水艦の代名詞である、あの変態仕様の水着が無かったからだ。

 

 

 もっと言えば、彼女は水着は愚かタオルすらも巻いていない、生まれたままの姿だったからだ。

 

 

 

「ばッ、な、何やってんだ!!」

 

 

 そんな彼女の姿に一瞬だけ思考が停止したがすぐに復帰し、大声を上げながら彼女に近付く。その間に上着を脱ぎ、すぐに彼女の肩にかけて隠させた。そうしたのは、彼女が裸だったからだ。だけど、それだけなら俺は再起動するのにもう少し時間を要しただろう。では、何故すぐに復帰したか、それは勿論彼女の身体を見たからだ。

 

 

 正確には言えば、彼女の身体に至る所に刻まれた傷を、治りかけているのであろうグチャグチャになった傷口を見たからだ。

 

 

「何出てきてんだよ!! まだ途中だろ!!」

 

「あいつって誰?」

 

 

 駆け寄った俺が大声を張り上げるも、イムヤは俺など隣に居ないかのように振る舞い、一歩前に踏み出す。その時、彼女の長い髪から無数の水滴が落ちるのが見えた。そしてそれが落ちた足元に、イムヤの足に縋り付く妖精たちも。鬼のような形相でしがみつく彼らを見て、彼女が本当にヤバい状態であると余計理解した。

 

 

「そんなこといいから早く戻れって!!」

 

「痛いから離して」

 

 

 俺が声を張り上げながら彼女の身体を掴むと、氷のような冷たい声色でイムヤがそう言い顔を向けてきた。その言葉、そして彼女が向けてくる視線に寒気に襲われた俺は思わず掴んでいた手を離す。すると、イムヤは俺から目を離した。その後ろ姿、そして今まで掴んでいた場所、そして至る所がほんのりと赤く染まっていることに気付いた。

 

 

「イム―――」

 

「分かってるから、今は行かせて」

 

 

 それでも呼び止めようとした俺の言葉を、イムヤが掻き消した。彼女の声はそこまで大きくなく、どちらかと言えば俺の方が大きかった。だけど掻き消された、いや俺が口を噤んだ。何故か、それは見たからだ。

 

 

 俺に背を向けて一歩一歩進んでいくイムヤの先、そこで今までにないほど怯えた表情を浮かべたゴーヤを見たからだ。

 

 

 

「あいつって誰?」

 

 

 再び、イムヤが問いかけた。彼女の表情は分からないが、その言葉にゴーヤはビクッと身を震わせるほどの表情をしていると言うことは分かった。

 

 

「誰?」

 

 

 再びの問い。今度は短く、簡潔だ。しかし、ゴーヤは答えない。もう一度身を震わせ、顔を背けるのみだ。

 

 

「私?」

 

 

 問い。今度はもっと簡潔。言葉を発せずとも答えられる問いだ。だけど、それでもゴーヤは答えない。身を震わすこともせず、ただ黙っているだけだ。

 

 

 やがて、イムヤはゴーヤの目の前まで近づいた。彼女は何も言わない、何も言わずただ黙ってゴーヤを見つめ続けるだけだ。対して、ゴーヤも同じく顔を背け続ける。誰も動かず、何も言わず、ただ沈黙のみが支配した。

 

 

 

「分かってるわよ」

 

 

 沈黙を破ったのは、イムヤだ。そう吐き捨て、彼女はゴーヤの前で踵を返した。そして、ゆっくりと歩を進める。彼女が歩を進め始めた時、ゴーヤは背けていた顔を上げる。そこに浮かんでいたのは恐怖ではなく、何処か縋りつくような顔だった。

 

 

 

「あんたたちが、私を恨んでるって」

 

 

 だが、その表情もポツリと漏れたイムヤの言葉で一変した。縋り付くような顔から、親の仇でも見るような顔へ。そしてゴーヤの身体は動いた。歩を進めるイムヤに近付く、その肩を掴んで自分の方を向かせる。今にも殴り掛からん勢いに俺は思わず駆け寄ろうとしたが、それも途中で止まった。

 

 

 

「分かってないでち」

 

 

 感情の一切を殺した声色で言い放つゴーヤの表情が、侮蔑を携えたものに変わっていたから。ゴーヤはイムヤと同じように吐き捨て、同じように踵を返し、同じように歩き出した。違っていたのは、彼女が歩き出した方向が廊下の向こう側であったこと、そして進んでいく歩がイムヤよりも速かったことだ。

 

 

「待ちなさい!!」

 

 

 その背中に声をかけたのはイムヤだ。離れていくゴーヤに向き直り、先ほどの淡々とした口調から一変、獣のような咆哮をゴーヤにぶつけた。だが、ゴーヤの歩みは止まらない。だが、その顔は少しだけイムヤの方を向いた。

 

 

「分かってないヤツに、言えるわけないでち」

 

 

 その言葉と共にハイライトが消えかけた瞳を向けた。それもほんの一瞬で、すぐに前に向き直り何事も無かったように歩き出す。だがその一瞬、その一瞬だけでこの場に居る全員を動かなくすることは出来た。

 

 

 

「分かるわけないでしょ」

 

 

 だが一人だけ。イムヤだけは小さくなっていくゴーヤの背を見ながらそう呟き、同じように踵を返した。彼女が踵を返したことで俺は彼女の表情が見えるようになる。

 

 

 そこにあったのは、怒りでも悲しみでもなく、ただただ寂しそうな顔だった。

 

 

「これ返すわ」

 

 

 だが、その表情も唐突に聞こえたイムヤの声と共に視界が真っ白に染まったことで見えなくなった。いつの間にか俺が掛けた上着を脱いだ彼女が投げ渡してきたのだ。視界一杯に広がった上着を慌てて掴んだ時、その内側全体にベッタリと血が付いているのを目の当たりにした。

 

 

「ごめんなさい、駄目にしちゃって」

 

 

 上着の向こうで、申し訳なさそうなイムヤの声が聞こえる。広げていた上着を下げると、裸のままドックの扉へと歩いていくイムヤの後ろ姿、その背中にとてつもない大きな傷が見えた。それに、思わず駆け寄って上着を着せる。

 

 

「……もういらないわよ?」

 

「そんな身体で出歩かれちゃこっちが困るんだよ。着替えは?」

 

「妖精が用意している筈です」

 

 

 俺の問いに今まで黙っていた榛名が答える。その言葉に俺は今もイムヤの足にしがみつく妖精たちに目を向けると、彼らは何度も頷いていた。俺がそれを見たのを確認してか、イムヤは着せられた上着を脱ごうとするも俺は頑なにそれを阻止した。

 

 

「いらないって言ってるでしょ」

 

「頼むから俺が居なくなるまでは着てくれ。色々と目のやり場に困るんだよ」

 

 

 頑なに押し付けながら漏らした言葉に、イムヤの抵抗が止んだ。何事かと目を向けると、キョトンとした顔で俺を見つめていた。突然のことに同じようにキョトンとした顔を向けると、彼女の口が開いた。

 

 

「そうなの?」

 

「そうなのって……お前だって、目の前で傷口を晒されたら嫌だろ?」

 

「……そうね、確かにそうよね」

 

 

 俺の言葉にイムヤはキョトンとした顔から何故か苦笑いへと変え、俺の手から離れた。思わずその後を追おうとするも、彼女の足にしがみついていた妖精の何人かが通せん坊してくる。それを見て俺は歩を止め、遠ざかっていくイムヤに声をかけた。

 

 

「今日の出撃は明日に延―――」

 

「聞いてたわ。それを考えたのがゴーヤで、司令官に伝えたのはあの二人だってことも。お言葉に甘えて、ゆっくり休ませてもらうわね」

 

 

 俺の言葉に、イムヤはそう言って手をヒラヒラさせる。尚も彼女に言いたいことがあったが、それは妖精たちがドックへの扉をピシャリと閉めてしまったことで叶わなかった。閉じられた扉の前で、俺は行き場を失った片手を下げ、一つ息を吐き踵を返した。

 

 

 返した先に居たのは榛名。彼女は柔らかい笑みを浮かべている。そう、()は柔らかい笑みだ。だけど、その前、ほんの一瞬だけそれとは違う表情が見えた。

 

 

「榛名」

 

「はい、榛名は大丈夫です!!」

 

 

 その名を呼ぶと彼女は元気よく返事をして、流れる動作で敬礼をする。そこにあるのは、やはり柔らかい笑みだ。それを見て、思わず苦笑いを溢してしまう。

 

 

「どうされました?」

 

 

 すると、榛名は不思議そうな顔を向けてきた。当たり前か、笑われるようなことは何一つしていないのだから。

 

 

「何でもないよ。それより少しくたびれた、帰ったら一休みするか」

 

「良いですね!! では、榛名は飲み物を貰ってきます!!」

 

「あぁ、頼むよ」

 

 

 榛名の提案に賛同すると、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせて食堂へと向かっていく。その足取りは軽く、本当に嬉しそうに見える。その後ろ姿を見ながら、俺はため息を吐いた。

 

 

 

 『大丈夫か?』なんて、一言も聞いてないのだから。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「終わったぁ~……」

 

 

 そう言って、俺は手にしていたペンを置き、机に身を預ける。その横で、椅子に背を預けながら大きく伸びをする大淀、その向こうで今しがた俺が書き上げた書類をファイルにしまう榛名。三人の様子は各々だが、どの顔にも疲労の色が浮かんでいるだろう。

 

 しかし疲れた、量的にはいつもと同じなのだが今日はいつも以上に疲れを感じる。それはまぁ、昼間のことがあったからだけど。長時間同じ姿勢を取り続けた節々の痛みよりも、曙に叩かれた尻が痛いから多分そう言うことだろう。

 

 

「あ」

 

 

 ふと、横の大淀が素っ頓狂な声を上げた。目を向けると、驚いた顔の彼女が一枚の書類を手にしている。チラリと見えたそれは、工廠に持っていった艤装点検の調査に関する書類だったはずだ。

 

 

「それ、工廠に持ってくヤツか?」

 

「はい、先ほどの書類と一緒に持って行って貰う予定でしたが、いつの間にか紛れ込んでいたみたいで……渡してきます」

 

「あ、榛名が持っていきますよ」

 

 

 大淀の言葉に真っ先に手を上げる榛名、その言葉にどうしようかと迷う大淀。工廠に持ってく……のか。

 

 

「俺が行ってもいいか?」

 

「「えっ」」

 

 

 俺の言葉に、二人の顔がぐるりとこちらを向く。声を発してこちらをに振り向くまでの速さが異常だったことにビビりつつ、二人に問いかけた。

 

 

「いつも二人に行ってもらってばかりだし、たまにはいいだろ?」

 

「……明日は雪ですね」

 

「おい」

 

 

 疲れた様に目頭を押さえる大淀に突っ込みつつ、その手から書類を受け取る。だが、受け取った瞬間に横から手が伸び、今しがた俺が手にした書類を掴む。その手の方を見ると、少し焦った様子の榛名が居た。

 

 

「榛名がやっておきます。だ、だから提督は」

 

「榛名には昼間、というか秘書艦の時はいつも走り回ってくれているだろ? 今日ぐらいは労わせてくれ」

 

「で、でも」

 

「大淀」

 

 

 俺の言葉になおも食い下がる榛名から視線を大淀に向ける。大淀は俺の意図を汲み取ったのか、すぐさま榛名の横に移動してその腕をガッチリホールドし、ズルズルと引き摺り始めた。

 

 

「ささっ、行きますよ」

 

「え、ちょ、は、榛名は大丈夫ですから、ま、ちょ」

 

 

 大淀によって強制連行される榛名は最後まで抵抗するも、大淀の巧みな手さばきの前に為す術もなくズルズルと引き摺られていった。

 

 前は立場が逆だったが、最近はこっちの方が良く目にする。翌日辺りに大淀から榛名を引きずっていった謝礼を要求されるまでがセットだ、何かしら考えておかないと。

 

 それもこれも……いや、今はいい、取り敢えず持っていこう。

 

 

 そう頭を切り替え、執務室を後にする。廊下へ出ると、窓の向こうから山裾に消えようとする夕日が差し込んでいた。もうあと少しで山の向こうに沈んでしまうだろう、見慣れた光景だ。そんないつもの風景を見つつ、俺は工廠へと向かった。

 

 廊下を歩き、階段を降り、時折出くわす艦娘たちと言葉を交わしつつ、とは言っても未だに避けられることが多いが、それでも今日は少しだけ多い気がした。

 

 

 

「あ、しれぇ!! ご無沙汰してます!!」

 

 

 そんな中で、久しぶりに聞く声が聞こえ、振り向くとこちらに手を振りながら近づいてくる雪風が見えた。俺が提督の仕事をまともに始めてからめっきり顔を会わせる機会が減ったので、こうして言葉を交わすのは本当に久しぶりだ。そして、そんな彼女の横には無表情のまま白い帽子で顔を隠しつつ手を振ってくる響が。二人が一緒に居るところ、始めて見たな。

 

 

「珍しい組み合わせだな」

 

「はい!! 今日はヴェールヌイさんと同じ哨戒部隊でしたので、ご一緒にご飯でもとお誘いしたんです!!」

 

「別に断る理由が無いからね、承諾したまでさ」

 

 

 元気よく答える雪風と対象に少し素っ気無い顔で答える響……いや、ちょっと待ってくれ。一つ、聞き慣れない名前があるんだが、確認していいか?

 

 

「ヴェールヌイって、響のことか?」

 

「そうだよ。私の正式な艦名はВерный、ロシア語で『信頼できる』って意味の言葉さ」

 

 

 俺の問いに、響……ヴェールヌイはさも当たり前のように、そして流暢な発音で己の名を答えた。あぁ、そうなの? じゃあ『響』は? お前の名なのか?

 

 

「勿論、『響』も私の名だよ。艦艇時代()の私がロシアに渡った際、『Верный』と名前が変えられてね? その名残か、最終改装を終えた艦娘()の私も正式な艦名がそっちに変わったってことさ。まぁ、本当は『響』の方が良いんだけど、丹陽は『Верный』(こっちの名)が馴染み深くてね」

 

「ちょっとヴェールヌイさん? 雪風は、まだ『雪風』ですよ?」

 

 

 響、いやヴェールヌイ? ともかく彼女の発言に唇を尖らせる雪風。いや待って、『丹陽』? 誰それ、って言うか雪風? 雪風のことか? ちょっと待ってくれ、本当に色々と分からなくなってきたぞ。

 

 

艦艇時代()の雪風はヴェールヌイさんと同じく台湾に渡った際、艦名を『雪風』から『丹陽』に変えられたんです。でも、雪風はまだ改装されてないので『雪風』のままですよ!!」

 

 

 元気よく反論してくる雪風……いや丹陽? いや雪風? 一体どっち、どっちで呼べばいいの? 響、というか『雪風』って言葉が色々と溢れて訳が分からなくなってきたぞ? よし、一先ず置いておこう。目先のことに目を向けよう。

 

 

「えっと……二人はどう呼んで欲しいんだ?」

 

「雪風は勿論、『雪風』です!!」

 

「出来れば『響』でお願いするよ」

 

 

 俺の問いに、二人は即答する。よし、取り敢えずこれで良い。今は二人がどう呼んで欲しいか、それだけ良い。なんでそうなのか、深い意味は後回しだ。別に知らなくたって現状にさほど影響はない。いつか、それが必要になったら聞けばいい。うん、そうしよう。

 

 

「じゃあ、改めて雪風と響。今日はご苦労様、ゆっくり休んでくれ」

 

「はい、ありがとうございます!!」

 

 

 俺の言葉に、雪風は笑顔で敬礼をするも、響は特に何も反応せずに俺をじっと見つめている。あれ、何か可笑しなこと言ったかな? てか、俺を見ているのか? 俺よりも後ろを見ているような気がするんだが。

 

 

「あぁ、すまない。少しボーっとしていたようだ。ありがとう、司令官」

 

 

 俺の視線に気付いたのか響はそう言いながら小さく笑い、俺の横を通り過ぎた。その瞬間、俺の耳にこんな言葉が聞こえた。

 

 

 

『背後には気を付けた方が良い』

 

 

 

 その言葉を発したのは響だ。ボソリと、呟くような小さな声だ。だが、俺の耳にハッキリ聞こえた。だけど、その意味を聞こうと振り向いた時、彼女の姿は廊下の向こう側へと消えていく最中だった。

 

 

「あ、待ってくださいよぉヴェールヌイさん!! では、しれぇもお気を付けて(・・・・・・・・・・)

 

 

 次に聞こえた雪風の言葉。前半はいつもの明るい調子だったのだが、後半は一変して低く真剣な声色だった。だけど、それも聞こうと振り返った時には、同じように廊下の向こうに消えていく最中だった。

 

 

 しばし、二人が消えて行った廊下の向こう側を見続ける。二人が残した言葉、それがどんな意味を持つのか、それを考えた。だけど、しばらくして俺は再び歩き出す。それは答えを出すことを諦めたからでも、その答えが見つかったからではない。

 

 

 

 今ここ(・・・)ではその答えが出ないと、分かったからだ。

 

 

 そして、再び工廠へと歩を進める。その後、たまに艦娘たちと顔を合わせるも、特に喋ることなく労いの言葉をかけるだけ。まだ俺のことを避けている子も多いので、二言三言声をかけるのみ、会話らしいものは無い。それでも、ちゃんと一人一人に声を掛け続けた。

 

 それを繰り返しながら工廠ヘと向かう道中、ふと甲高い金属音が微かに聞こえてきた。それは工廠のすぐ横、演習で使用される海へとつながる道の向こうから聞こえてきた。その音が気になった俺は工廠への道を外れ、音の方へと近づいていく。

 

 

「おらぁ!!」

 

「甘いわよぉ」

 

 

 音の方に近付いていくと、金属音に紛れた二つの声が聞こえてきた。一つは男らしい勇ましい声、もう一つは相手を嗜めるような柔らかい声。その二つの声に、俺は聞き覚えがあった。そして工厰に続く一本道に出たとき、岸辺にその声を聞いた際に思い浮かんだ人物たちが見えた。

 

 

「んだ、提督じゃねぇか」

 

「あらぁ、珍しいですねぇ」

 

 

 近づいてくる俺を見て、声の主たちは同時に声を上げる。前者は天龍、後者は龍田だ。そんな二人は向かい合い、その手に艤装の一つである刀と薙刀を持っている。先程聞こえた金属音は恐らくそれなのだろうか。

 

 

「何してたんだ?」

 

「何って見りゃ分かんだろ? 稽古だよ稽古、艤装の手入れついでにやってんだ」

 

「……意味あるの?」

 

「たりめぇだろォ? これで敵や砲弾を叩っ斬ったり、避けられないのを弾いたりすんだよ。弾切れの時は武器に、電探が使えない時は光を反射させて目印にしたり、めちゃくちゃ重宝するんだぞこれ。つうか、お前目の前で叩っ斬ったの見てただろ」

 

 

 基本砲雷撃戦がメインと言われる艦娘の戦闘で近接戦闘は起こらないのでは? と言う先入観の元にした質問も、呆れ顔の天龍に一蹴されてしまう。そう言われれば確かに便利そうに見えるし、以前俺も目の前で艦載機を真っ二つにしたのを見たよ? でもさ、その状況を加味した上で考えると結構最終手段的な選択肢じゃないのか、それ。提督的には駄目なんだけど。

 

 

「それに、手ぶらよりも得物とか持ってた方が、なんかこう……格好良いだろ?」

 

「天龍ちゃん、そこは『怖いだろ?』って聞くべき所よぉ」

 

「う、うるせぇな。今は良いだろ、別に……それにあれだ、格好良すぎて気圧されるとかあるだろ? あるよな? なぁ、龍田? 聞いてる?」

 

 

 恐らく大部分をであろう理由を暴露した天龍に、龍田は彼女の口癖を上げつつしたり顔で窘める。それに天龍はブスッとさせつつ詭弁を振るうも、龍田はただ静かに微笑むだけで乗る気は無いようだ。その様子に何を言っても無駄だと思ったのか、天龍はジト目を向けつつ一つ息を吐き、気持ちを切り替えるためか手にした刀を空中で大きく一振りした。

 

 

 その時生まれた小さくも強い突風が、気が抜けていた俺の手から書類を掻っ攫ったのだ。

 

 

「ちょ、待っ!?」

 

 

 自分でも変な声だと思うほど素っ頓狂な声を上げ、俺は空中に躍り出た書類を掴もうと必死に手を伸ばす。しかしその場では届かず、一歩前に踏み出した。それでも届かず、また一歩踏み出す。

 

 

 もう一歩、もう一歩、もう一歩、頭上高くをヒラヒラと舞う書類に必死に手を伸ばしながら進んでいく。だから、見えなかった。目の前に誰が居るか、見えなかったのだ。いや、『誰が』かは分かった。先ほど互いに向き合っていたどちらか(・・・・)であるのは、その時は分かっていた。

 

 

 

 

「ひッ」

 

 

 だけど、その声。蚊の鳴くように小さく、幼子のように弱弱しく、向き合っていたどちらかが発したとは到底思えない、そんな悲鳴(・・)が聞こえた。だから、俺は『誰が』さえも分からなくなった。だから、思わず頭上に向いていた顔を下げてしまった。

 

 しかし、『誰が』の顔は見えなかった。下げ始めた際、脚に棒のようなモノが触れ、次の瞬間視界が一変したからだ。

 

 

 灰色の地面、赤く染まった空、黒い海面、そして灰色の地面の上で立ち尽くす天龍とその足元に薙刀を向けている龍田、その四つの場面が順番に現れた。脚が地面についている感覚は既に無く、空中に投げ出されているのだろう、と状況を把握しきれていない頭が教えてくれる。

 

 やがて二人の姿が消え、再び空が現れ、それもまた消えて目一杯に広がる黒い海面が現れる。そこで今の状況をようやく悟ったが、既に手遅れだった。

 

 

 何か言葉を発しようと口を開いた瞬間、その口目掛けて大量の海水が飛び込んできた。否、海水が飛び込んできたのではない、俺が海に頭からダイブしたのだ。

 

 

 海面に顔から叩き付けられた衝撃で、少しだけ意識が遠くなる。それと同時に制服が海水を吸って重みを増し、それによって俺は海底へと引き摺られていく。手足を動かそうにも衝撃から頭が立ち直っておらず、上手く動かせない俺の身体は少しずつ、だが確実に下へと向かっていく。日が傾きかけた時間のため水温も低くなっており、余計に俺の頭を鈍らせているのだ。

 

 

 だが次の瞬間、背後から抱きかかえられて上へと引っ張られる感覚、そして背中に押し付けられる体温を感じる。その直後、俺の顔は冷たい海水から少しだけ肌寒い空気へと解き放たれた。

 

 

「提督!? しっかりするね!!」

 

 

 空気に辿り着いた瞬間、激しく咳き込む俺の後ろから聞き覚えのある声が。それが誰か考える余裕はなく、とにかく飲む込んだ海水を吐き出す。その間、背中から胸に回された腕が何度かきつく締め付け、俺が海水を吐き出すのを促してくれた。

 

 

「だだ、大丈夫か!!」

 

 

 次に聞こえた声。それは正面から、叫ぶような声だ。未だにぼんやりとしている視界には、コンクリートの岸から身を乗り出している天龍が見えた。そこで飲み込んだ全ての海水を吐き出し終え、咳が小さな深呼吸に変わる。同時に靄がかかっていた視界がゆっくりと晴れ、少しずつだが頭も動き出した。

 

 

「俺、海に落ちたのか」

 

「いきなり飛び込んでくるんだもん。イク、びっくりしたの」

 

 

 俺がポツリと呟くとそんな声が、海面で俺を抱きかかえているイクが大きなため息が漏らした。海に落ちた俺を海面上に引き上げてくれたのか。いや、今もこうやって俺が沈まないように抱き抱えてくれているのか。

 

 

「お、おい!! とと、取り敢えずこっ―――」

 

「ごめんなさい」

 

 

 視界の向こうでそう言いながら天龍が手を伸ばそうするが、いきなり横から割り込んだ龍田が言葉ごとをそれを遮って手を伸ばしてきた。焦ってる天龍とは対照的に、龍田の声色は至って冷静だ。いきなり目の前で人が海に落ちたとは思えないほどに。

 

 

「守ろうとしたんだけど、まさか落ちるとは思わなくて……」

 

 

 俺がその手を掴み、イクと龍田に助けられながら岸に上がった時、彼女は小さな声でそう漏らした。俺が海に落ちた原因が彼女だからだ。あの時、一瞬だけ見えた天龍の足元に向けられた薙刀、あれが俺の足に引っかかって俺は海に落ちたのだ。彼女はそう分かっているから冷静で、そして申し訳なさそうなのだろう。

 

 でも、それは俺を守ろうとしてくれたのだ。まぁあの状況で動こうとするなら、得物を俺の前に出して止めることぐらいしか出来ないもんな。悪気があったわけじゃないなら怒る必要もないか。

 

 

 うん、これで俺が何故海に落ちたのかは分かった。そしてもう一つ、先ほど気になっていた『誰が』かも。

 

 

 

 

「って、書類!!」

 

 

 岸に上がった所で、ふとそれら全ての元凶である風に吹かれた書類のことを思い出す。その瞬間、突然叫んだ俺に何故か天龍がビクッと身を震わせたがそれに構う余裕はなく、今しがた飛び込んだ海へと向き直った。

 

 目を細め、沈みかけている日の明るさだけで書類を探す。しかし、どれほど見回しても、目を凝らしても、海面に浮かぶ白い紙は見えない。あぁ、また書き直しか……そう思って肩を落とす。

 

 

「しょしょ、書類って……ここ、これか?」

 

 

 ふと何故か噛みまくる天龍の声が聞こえ、同時に彼女の方を向き直る。いきなり振り向いた俺にびっくりした顔の天龍、そしてその手に今しがた探していた書類があった。それを見て、思わず天龍に駆け寄ろうとした。

 

 

「提督が触ったら、大事な書類が濡れちゃいますよぉ?」

 

 

 だが、またもや天龍との間に龍田が割り込んでくる。今度は先ほどの申し訳なさそうな顔から一変、いつもの柔らかい笑みを浮かべつつ手にした薙刀を構えていた。構えられた薙刀からとてつもない圧を感じた俺は思わずその場で踏みとどまる。

 

 

 そして見た。龍田の背後で、まるで何かに脅えるような表情を浮かべている天龍を。

 

 

 

 

「ぶぁっくしょい!!」

 

 

 だが次の瞬間、俺の口から盛大なくしゃみが飛び出した。それは一つでは収まらずもう一回、更にもう一回。咄嗟に誰も居ない方を向いたため、色々と飛び出したモノは誰にもかからなかった。だが流石に俺まで庇い切れず、色々と飛び出したモノの一つがツーっと垂れ、風に吹かれてユラユラと揺れ始めた。

 

 

 ほんの一瞬、沈黙が支配し、すぐに盛大な笑い声によって破られた。

 

 

「ッあ、な、なんて、なんて顔してんだよぉ……は、鼻、鼻が垂れてやがるぅぅ……」

 

 

 声の主は天龍だ。ツボにハマったのか、龍田の背後で腹を抱えて身悶えしている。その前に立つ龍田は驚いたように目を見開いて天龍を見ていた。勿論、俺も突然ツボにハマった天龍に驚いているわけだが、それも次にやってきた第二波を被害なくやり過ごすことに全神経を集中させた。

 

 

「今日はいつもより寒いの。提督、ご飯の前にお風呂入った方が良いのね!!」

 

 

 何とか第二波をやり過ごした俺に、いつの間にか海から上がったイクが元気よく提案してきた。その言葉、そして示し合わせたように吹く海風の冷たさに俺の中でそれ以外の選択肢が立ち消えた。一つだけ、懸念を残して。

 

 

「でも、工廠に書類を……」

 

「これ……工廠に持っていけば良いのか? な、なら俺たちが代わりに持って行ってやるよ。どうせ、得物(こいつ)を片付けに行くし、何より龍田が海に叩き落しちまったしからな。今回はそれでチャラってことにしてくれねぇか?」

 

 

 俺の呟きにようやく落ち着いた天龍が龍田を押し退けて俺に近付き、お願いするように顔の前で両手を合わせた。彼女の提案はまさに渡りに船、むしろこっちからお願いしたいぐらいだ。それに気にしてないとはいえ、海に落ちた件を遺恨なく片付けられるのも有り難い。

 

 

「……じゃ、頼む」

 

「おう、任せとけ!! 行くぞ、龍田」

 

 

 震えながらも声を吐き出すと、天龍は大きく声を張り上げて胸を叩いた。その姿はとても頼もしく、男勝りな彼女らしい返事だった。

 

 だけど、その後半。龍田の名前を呼び、踵を返して龍田と向き合った時。あれほど頼もしく聞こえた天龍の声から、そして龍田へと向き直る際に一瞬だけ見えた顔から、殆どの感情が消え失せた。

 

 

 

 辛うじて残った、その表情から読み取れた唯一の感情は、『怒り』だった。

 

 

「ささ、早く行かないと風邪ひいちゃうの」

 

 

 だが、それも背中を押してくるイク、そして容赦なく吹きつける冷たい海風によって、結局天龍の後ろ姿に声をかけられないままイクに急かされて海岸を後にした。

 

 



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墓穴を掘った『先』

「はぁ~ぁ……」

 

 

 肩まですっぽりと湯船に浸かり、だらしない声が水滴が滴る壁や天井、濡れて表面が光る床に当たっては跳ね返り、それが幾度となく繰り返され、段々と小さくなっていく。それを目視することは出来ない、当たり前だけど声だからさ。まぁ、仮に見えたとしてもこれだけ真っ白な湯気では見えないだろうけど。そんな思考もじんわりと伝わる暖かさの中に呑まれていく。

 

 

 工廠前の海に落ち濡れ鼠となった俺はイクによってドックに放り込まれ、こうして温かい湯船に浸っている。もし入渠者がいたら濡れ鼠のまま待ちぼうけを喰らっていたかもしれない。いや、多分着替えて待つんだろうけど、まぁ誰も使っていなかったのは本当に運が良かった。因みに、俺を叩き込んだイクは濡れた服を持っていき、そして着替えを取りに行ってくれている。

 

 

 そんなことを思いながら、今度は口元まで湯船に浸かった。首周りにじんわりと暖かさが広がり、鼻からは暖かい湯気が入り込こんでくる。その暖かさに意識が持っていかれそうになり、いっそここで手放してもいいのかもしれないとも思ってしまうが、後々のことを考えたら色々と不味いから無理矢理頭を振って意識を繋ぎ止める。

 

 

 その際、湯船に落ちるお湯の音が響く―――――と思ったら、それに紛れて違う音も入ってきた。

 

 

 その音にドック内をぐるりと見回してみる。勿論、湯気に阻まれてぼんやりとしか見えないため音の正体は分からないが、よく考えてみたらドック内で音を立てることが出来るのは俺だけ。そうなると、考えられる場所は限られてくる。

 

 

 その時、また音が聞こえた。その元は考えた場所の一つ、脱衣所だ。多分、イクが着替えを持ってきてくれたのかな。でもイクなら声をかけると思うんだが……まぁいいか。

 

 

「おーい、持ってきてくれたのかー?」

 

 

 脱衣所に向けてそう声をかける。しかし、反応が無い。あれ、イクなら返事をしてくれると思うんだが……まさか他の艦娘? え、イクに頼んでいつも俺が入っている時に貼る紙を貼ってもらった筈だよな。張り出してから入ってくるようなことは一度も無かったし、むしろ誰も入ってこないだろうし。でも実際居る訳で、しかもドックに来る用事は一つしかないし……。

 

 

 いや、今はいいか。取り敢えず、入ってきた艦娘は俺の存在に気付いてくれたはず。多分このままほっといても出て行くと思うけど、一応声をかけておこう。

 

 

「ごめん、今使っているから後にしてくれないかー?」

 

 

 そう、声をかける。しかし、またもや返事がない。聞こえる筈だよな、まぁ扉を隔てた向こうに俺が、しかも裸で居るわけだから声も出せないかもしれないか。取り敢えず伝えることは伝えたし、あとはほっといても大丈夫だろう。

 

 

 そう決めつけ、俺は再び口許まで湯船に浸かった。しばし、その心地よさに意識を半分ほど委ねるために目を閉じて軽く身体を浮かせ、湯船に身体を預けてみる。それほどまでにその心地よさを存分に堪能しようとしたため、気分も幾分か緩んでいた。

 

 

 故に、気付かなかった。脱衣場から聞こえてくる音が、俺が声をかける前と全く同じである(・・・・・・・)と。

 

 故に、向いてしまった。不意に聞こえた音、扉を開ける音(・・・・・)に何も考えず、顔を向けてしまった。

 

 

 だから、見てしまった。真っ白な湯気の中に佇む一人の艦娘を。その透き通るような赤髮を揺らし、華奢な体にタオルすら巻いていない、文字通り生まれたままの姿を。

 

 

 

 

 そんなイムヤを。

 

 

 

 

「ばッ!?」

 

 

 その瞬間、俺の大声に湯船が盛大に揺れた。同時に、大きな水しぶきも上がった。でも、俺はそれらを目にすることは出来なかった。何故なら、その一瞬で真後ろに身体を向けたからだ。

 

 いやいや、んなことどうでも良い!! なななな、何で裸ぁ!? いや、それは風呂だから当たり前……違う違う!! だからそれはどうでも良いんだって!! 常識とかそういうのは良いんだよ!!

 

 

 そんな頭の中が疑問符で溢れかえる俺の耳に、濡れた床を歩く音が聞こえてくる。それに頭が更にいっぱいになったのは言うまでもない。だけど、それでも考え続けることだけは止めなかった。

 

 俺、声かけたよな? 俺が居るって分かったはずだよな? なのに何で入ってくるの!! しかもはだ……だからそれは良いんだって!! いや、精神衛生上、そして俺の社会生命上非ッ常に悪いけど!! 常識的には良いんだよ!! さっきと矛盾してるけどそれもどうだって良いんだよ!!

 

 

 尚も肯定と否定を散々繰り返す俺であったが、それも何かが水面に浸かる音、それに合わせるように湯船が揺れたことで、もっと言えばその揺れの間隔が短くなってきたことで、それら全ての思考が弾け飛んだ。

 

 え、待って、これ入ってきてる? そして近づいてきてる!? 何で!? 何で!? 訳分かんないって!! 仮に入るまで良いとしても何で近づいてくる必要があるんだよ!! って、理由は後だ!! まままま、先ずはこの状況を切り抜け――――――

 

 

 そこで、俺の思考は完全に止まった。何故か、それは背中に感覚があったから、誰かに触れられたからだ。

 

 

 もう、声も出せず、頭も真っ白、何も考えることが出来ない。人は心の底から驚くと声も失うことを『絶句』と言うが、まさにこのことだろう。しかし、『感覚』だけは消えない。むしろそれ以外の全てが止まった分、余計研ぎ澄まされたのかもしれない。

 

 

 ともかく、その『感覚』は様々なモノを俺に与えた。

 

 

 湯船に身体を揺さぶられる感覚、お湯が背中にかかる感覚、背中の一部にしかなかったのがいきなり背中全域に広がる感覚、さらさらした髪のようなものが背中に触れる感覚、背中にかかる体重が一気に増えた感覚、小刻みに浅い呼吸が耳に届く感覚、それに合わせて背中に小さな風が当たる感覚。

 

 

 そして何よりも、それら全ての『感覚』を受け取った俺の心臓がほんの一瞬止まった、ほんの一瞬だけ時間が止まったような感覚。ほんの一瞬、ほんの一瞬だけ。その一瞬だけ、俺の身体は全ての生命活動を停止したような感覚に襲われた。

 

 だけど、それは一瞬故、すぐに消え去った。いや、消えさせられたのかもしれない。

 

 

 

 

「しれ……かん……」

 

 

 何故なら、イムヤが俺のことを呼んだから。蚊の鳴くような弱弱しく、触れただけで崩れてしまいそうな程脆い声で、縋る様に。

 

 

 その声に、俺は思わず振り向いてしまった。そう、しまったのだ。声の方を向くと同時に、俺に首に何かが絡みついてくる。それがイムヤの腕だと分かったのは、振り向いた先で彼女の顔を見たからだ。

 

 

 目を閉じ、頬を紅潮させ、唇を少しだけ尖らせた顔を、間近(・・)で見たからだ。

 

 

 

 その時、湯船が大きく揺れた。それは俺が振り返ったからであり、イムヤが一気に顔を近づけてきたからであり、俺たちの間にあったお湯が両側から押し出され、逃げ場を失ったそれが大きな波を作ったからだ。

 

 俺は目を閉じていた。それは間近に迫ったイムヤの顔に驚いたから、だから目を閉じた。目を閉じたせいで、またもや『感覚』が鋭くなった。

 

 

 波が身体にぶつかる感覚、お湯の温かさとは違う『熱』の感覚、顔に何かを押し付ける感覚、首に絡みついた彼女の腕に少しずつ力が入っていく感覚、段々と『熱』が近づいてくる感覚、先ほどよりも早く洗い呼吸が耳に届く感覚、それに合わせて()に熱い空気が当たる感覚。

 

 

 

「な、んで……」

 

 

 そんな、弱弱しい声が聞こえた。そう、『声』が聞こえたのだ。その声に俺はすぐに反応せず、ただ全神経を一か所に集中させた。それは耳でも、口でも、手でも、脚でもない、己の額に。何故なら、そこに『熱』を感じたから。

 

 

 

「熱い、な」

 

 

 そう溢した。感じていたそれを。同時に、イムヤが身体を震わせたのが分かった。その理由は、小刻みに揺れた湯船、首に絡みつくその腕、そして彼女に触れている額からだ。同時に、何故彼女が身体を震わせたのかも分かった。それは彼女の唇に、俺の吐息が触れたからだろう。

 

 それを受けて、俺は目を開けた。見えるのは、先ほどよりも赤い顔のイムヤ。目が見え、鼻が見え、そして紅潮した頬と共に口許が、そしてお湯が滴る顎まで。全部見えた。それも目前、お互いの顔の距離はほんの数センチ、唇に関してはお互いの吐息が唇にかかる程近くに。

 

 

 そう、それはほんの一瞬。間近にあったイムヤの顔を見た瞬間、俺の身体は動いていた。顎を引き、代わりに額を前に出して、互いの唇が重なることを防いだのだ。

 

 

「なんで」

 

 

 だが、その距離も耳に届いた一言によって侵攻を許してしまう。首に絡みついたイムヤの腕に力が一気に籠り、不意打ち気味にその距離が一気に詰めてきたのだ。が、俺の身体はすぐに反応し、今度は額ではなく湯船の中にあった両腕でイムヤの肩を掴み、縮められた距離を一気に開かせた。

 

 それは同時に、首に絡みついていたその腕がほどけ、イムヤ自身を俺から引き剥がすことに成功したことを示している。そして、これまた同時に間近では見えなかった彼女の顔が見えるようになった。

 

 

 

 イムヤは泣いていた。緋色の瞳を歪め、そこに大粒の涙を溜めて、歯を食いしばり、悔しそうに眉を潜め、泣いていたのだ。

 

 

 

「お願い」

 

 

 また、その一言が。その瞬間、イムヤは俺の首に腕を伸ばし、再び絡みつこうとしてくる。だが、既に彼女の肩をガッチリ掴んでいる俺の腕がつっかえとなって、その腕はただ俺の目前で空を切るだけだ。

 

 

 

「イムヤ」

 

「お願い、させて」

 

 

 彼女の名を呼ぶ。しかし、彼女は目を伏せて、空を切るだけの腕を精一杯伸ばしてくる。俺の声は聞こえていないのか、はたまた無視しているのか、そのどちらかであるか判断することは出来ない。だけど、彼女が口にした『お願い』が何を指しているのか、それだけは分かった。

 

 

 

「イムヤ」

 

「ほんの一瞬でいいから、今だけでいいから、もうこんなことしないから」

 

 

 もう一度、彼女の名を呼ぶ。しかし、やはり彼女は反応しない。ただただ、俺に向けて腕を伸ばし、その度に湯船を揺らすだけ。違うところを挙げるとすれば、彼女の顔が徐々に徐々に下を向いていく、そして伸ばされた手が何かに縋る様に空気を掴むことぐらいだ。

 

 

 

「イムヤ」

 

「今しかないの。ここで見せないと、私だって出来るんだって、分かってもらわないと駄目なの。でないと、でないと……」

 

 

 もう一度、彼女の名を呼ぶ。やはり、彼女は反応しない。その顔も既に真下を向いており、今彼女がどんな表情をしているか分からなくなった。既にあれだけ執拗に伸ばされていた腕は湯船に浸かり、彼女が俯く先に水面には小さな波紋がいくつも現れては消えるを繰り返している。

 

 

 

 

「許して、もらえないから」

 

 

 そう、彼女が漏らした瞬間、またもや大きく、いや最も大きく湯船がゆれた。それは、俺が動いたから。今まで自らが死守してきた距離を放棄し、彼女の距離を詰め、彼女の肩を掴んでいた腕で俯いているその顔を無理やり上を向かせ、顔をグイっと近づけ、大声を出すために息を吸った。

 

 

 

 

 

 でも、俺の口から大声は出なかった。いや、出せなかった。寸でのところで、飲み込んだのだ。吐き出した方が楽だったと思うけど、それでも無理矢理飲み込んだ。何故か、それはイムヤの顔を、盛大に頬を引きつらせ、目も眉も歪み、口を半開きにした、何もかもに怯え切った泣き顔を見たから。

 

 

 その顔が、あの時の金剛に、そしてあの時の自分に見えたから。

 

 

 

「しれ……かん?」

 

 

 そんな俺に、脅え切った顔のまま、イムヤが声を漏らした。その声は震えて、いや彼女自身が震えていたから声も同じようになったのだろう。そして、震えていたために彼女の瞳に堪っていた大粒の涙が零れてしまった。それを見て、俺は気持ちを落ち着かせるために目を閉じて深呼吸をし始める。

 

 落ち着け、俺はあの時なんて言われたかった? 怒鳴られたかった? 責められたかった? 違うだろ、全部違うだろ。あの時の事、あの時の気持ちを思い出せ、あの時加賀に言われたこと、そして隼鷹に言ったこと、そこに答えがある。

 

 

「しれ……?」

 

「大丈夫、落ち着いた」

 

 

 もう一度、イムヤが声を漏らす。いきなり近づき、上を向かせられ、鬼のような形相で近づかれたのに、何も言わずにただ目を閉じて深呼吸をし始めた俺の意図が読めなかっただからだろう。その言葉に俺はなるべく冷静に、且つ自分に言い聞かせるようにそう呟き、ゆっくりと目を開けた。

 

 

 見えたのは、やはり先ほどと同じ表情のイムヤ。俺が目を開け、その目と目が合ったでまたもや身体を震わせ、その瞳に浮かぶ『恐怖』の色が一層濃くなる。それを見て次に踏み出そうとした一歩を躊躇しそうになった自分に、心の中で言い聞かせた。

 

 

 大丈夫、あの時とは違う。ちゃんとイムヤは俺を見てくれている、頭ごなしに否定するヤツはいない。大丈夫だ、やれるはずだ。でも、先ずは……―――

 

 

 

「いきなり近づいてごめんな。怖かっただろ」

 

 

 なるべく柔らかく、接しやすく、恐怖を与えない様に。表情を、声色を、首の傾け方から手の動かし方まで、一挙手一投足の全てを『恐怖を与えない』という命題の元に動かす。そのおかげか、イムヤの表情が少しだけ緩んだ。

 

 

「でも」

 

 

 だが、その一言、そしてそれと同時に俺が彼女の肩から手を離し、片方をその顔に近付けたことでことさら強張ることになった。が、次の瞬間にはその強張りは消え、呆けた表情になっていた。まぁ、ただ引きつった頬が一気に緩んだことしか分からないが。

 

 

 

「……しれぇ?」

 

「うん、やっぱり」

 

 

 何処かの駆逐艦みたいに舌足らずで俺の名前を口にするイムヤ。恐らく、彼女は俺に目を向けているだろうが、生憎その目元は俺の手がスッポリ覆っているため見ることが出来ない。もっと言えば、俺の手は彼女の顔上半分をスッポリと覆っているのだ。そして、もう片方の手は俺自身の額に触れている。

 

 

 何故、そんなことをしているのか。その答えは俺が今しがたやっている行為だ。

 

 

 

「熱あるぞ、お前」

 

「そう……なの?」

 

 

 

 今しがた手にした結論をイムヤに伝えるも、彼女は不思議そうに首を傾げるのみ。昼の凛とした表情をしていた彼女とは思えない鈍い反応に、思ったよりも重症であると悟った。

 

 

 そう、彼女は熱がある。それも高温、風呂に入っているせいもあるが、それを踏まえたとしても明らかに高すぎるほどに。そして、彼女の身体は微かとは言い難いほどに揺れているのだ。湯船に揺られているだけだと思うが、逆を言えば湯船の力に押し負けてしまうほど力が入ってないとも言えるだろう。

 

 他にも、いつも以上に赤い顔、考えられない程鈍った反応、舌足らずな口調。挙げ出すとキリがないが、決定打は今朝彼女の姿を見て抱いた違和感、そしてイクが教えてくれたことだ。『体調不良』と判断するには十分すぎる証拠が揃っている。

 

 だから張り紙を見落としたのも、俺が声をかけても気づかなかったのも、恐らく熱で頭がボーっとしてたせいだろう。いや、そう思いたいが、それだけでは先ほど彼女が漏らした言葉の意味が説明できない。であれば、ここで説明を求めたいところだが、その前に涼しい場所に移動させて水分を取らせる必要がある。都合がいいのはイムヤ達の部屋か。

 

 

「色々と聞くのは後だ。取り敢えず、部屋まで送……」

 

「だめ」

 

 

 そう言いかけた俺の言葉を遮るようにイムヤは声を漏らした。そして、額に当てられていた俺の手を掴んだ。いきなりのことに何も言えない俺、それと同じように手を掴んでから動かないイムヤ。だがその手は、掴んでいるその手にはゆっくりと、だが確実に力が込められていく。まるで離さないように、縋るように、確かめるように、身を震わせながら、それは込められていった。

 

 

「今じゃ、今じゃ早すぎる。これじゃあ分かってもらえない。絶対に、分かってもらえない。だからもう少しだけ、もう少しだけここに……」

 

 

 縋る様に、逃さぬように、イムヤは言葉を吐いた。いや、言葉だけだろうか。他にももっと、もっと大事なモノも一緒に吐き出そうとしているのではないか。残念ながら、そこまでしか分からなかった。しかし、同時にこのまま部屋に引っ張っていくことは先ず無理であることも分かった。

 

 

「……分かった。ただ脱衣所までは出ること、いいな?」

 

 

 このまま湯船に浸からせておくのも、ドック内に居るのも、俺はどちらも許すつもりはない。そして、イムヤは部屋に帰るのは避けたい、出来るだけドックに長く留まっていたい。それを踏まえての落としどころはここだろう。俺からすればここが最大限の譲歩だ、これ以上は譲れない。

 

 

「しれぇかんが……一緒なら」

 

 

 と思ったら、イムヤはサラッと新しい条件を突き付けてきた。俺も同伴って服無いんだけど……いや、寒いとか以前にこれ以上裸を晒すのは色々と不味いだろう。誰かが入ってきたらそれこそ、いや服を着ようが着まいが艦娘と脱衣所に居るって時点でアウトか。それより優先すべきは彼女だ。

 

 

「それでいい。じゃあ……」

 

「まって」

 

 

 イムヤの条件を飲みさっそく湯船から出ようとする俺の手を掴んだまま、またもやイムヤが声を漏らした。先ほどよりも幾分か和らいだ声色で、彼女も少しは落ち着いたのだろうと安心した。だが、それも次に彼女が漏らした発言によって瞬く間に消え去ってしまう。

 

 

 

 

 

「……身体、洗いたい」

 

 

 それは極々普通の言葉だった。風呂に入ったのだ、身体を洗うのは当たり前だ。俺だって湯船に浸かる前に洗った。だけどそれはあくまで体調が万全であり、身体を洗う行為に一切の支障をきたさない場合だ。

 

 でも、目の前に居る少女はどうだろうか。湯船に浸かっている分体温が高くなり、意識も、口調も、全身の力さえも心もとない。そんな彼女が湯船から出て、身体を洗い、脱衣所まで行けるだろうか。いや、それら全てに加えて脱衣所でもすべきことがあるのだが、その全てを今の彼女が出来るだろうか。

 

 

 

「……出来る、よな?」

 

 

 念のため、彼女に確認をとる。それは自分が出来ると言う前提で発した言葉かどうか、そして彼女にそれだけの道筋が見えているかどうか。間違っても誰か(・・)の手を借りようなんて思ってないだろう、そう念を押すために。

 

 だけど、彼女がその問いに答えなかった。ただ俺の手を掴む力を少しだけ強め、今まで下げていた目線を上げて、縋る様な目を俺に向けてくる。

 

 

 

 その目が語っていた。彼女の前提は俺のそれとは違っていると、そしてその前提に俺が組みこまれていると。

 

 

「……じゃあ、持ち上げるから首に手を回して」

 

 

 これ以上イムヤを湯船に浸からせるのは不味い、そしてもうここまで来たらどうしようもないと諦めた上で俺は妥協した。さっきこれ以上妥協しないとか言ったけどすぐこれだ。でも、イムヤの体調には代えられない。俺の言葉にイムヤは口元に微かな笑みを浮かべ、俺の首に腕を巻き付けてきた。

 

 

 その時、俺は嫌な予感がした。それは首を巻き付けてから俺がその身体を持ち上げ、運び終わるまでの間に彼女の唇がまた近づいてこないだろうか、という予感だ。こっちが言った手前もう訂正は効かないし、首に巻きつかれたら最後、後は彼女の為すがままだ。

 

 不味い、と思った。しかし、首に巻きつき、頬と頬がくっつきそうな距離になってもイムヤが唇を近づけてくることは無かった。むしろ避けるように、触れないように顔を背けている。さっきはあれ程お願い(・・・)したのに、なんて残念がる気持ちは生憎だが持ち合わせていない。それとは別の感情が、感情と言うよりも怒りがあったからだ。

 

 

 

「無理すんなよ」

 

 

 それを言葉(・・)にして、俺は湯船に漂うイムヤの膝裏、そして背中に腕を伸ばし、なるべく揺らさない様、ゆっくりと湯船からその身体を持ち上げた。

 

 お湯から冷たい空気に身体を晒したことで、俺は小さく身震いした。同時に、俺の腕の上でイムヤが震える。俺よりも大きく、そして今なお続いている。俺は揺らさない様、割れ物でも運ぶように彼女を運んだ。浴槽の中を歩くので結構苦戦したが、それさえ抜ければ大丈夫だ。

 

 浴槽から脱出した俺は出口に一番近いシャワーまで移動して脚で腰かけを蛇口の前に動かし、そこにイムヤの腰を預けた。その後、首に巻かせた腕を解かせるも、俺と言う支えを失ったイムヤの身体は前のめりに倒れるので、前の鏡に手をつかせることで支えさせた。

 

 倒れないことを確認し、一旦俺は脱衣所に向かった。そして手短にあったコップを複数掴み、傍の蛇口で水を入れてドック内に持っていく。

 

 

「ほら」

 

 

 横から俺コップを差し出すと、イムヤはひったくるように受け取って一気に飲み干した。意識は朦朧としていても、身体は水分を求めていたのだろう。続けて二杯、三杯と彼女は貪るように飲み干し、その度に大きく息を吐いた。一息ついたのを確認して彼女からコップを受け取り、傍に置いた。

 

 

「じゃ、本当に洗うぞ?」

 

 

 そこで、最後の確認をする。先ほどより体温も下がって、水も飲んだ。正気と言うか、ちゃんと頭が働くようになった筈。なら、俺が彼女の身体を洗うなんて考えが少しでも変わるかも、と願った。

 

 でも彼女は何も言わず、一回頭を上下に振っただけ。それによって俺の願いは脆くも崩れ去る。いや、それで全てが崩れ去ったわけではない。有るには有るが、これを使うと墓穴を掘ることになるのだ。だから使いたくない、でも優先すべきは……決まってるよな。

 

 

 

「なら、その間に色々と聞かせてもらうぞ。いいか?」

 

「……うん」

 

 

 俺の言葉に、イムヤは若干の間を置いた後に頷いた。その間は聞かれることにある程度検討を付けただろうか。それを受けて、早速俺は質問を投げかけた。

 

 

 

「分かってもらいたい相手って、誰だ?」

 

 

 そう俺が口にした。その瞬間、あれ程弱っていたイムヤの目に光が宿り、同時に緩み切っていた表情が引き締まり、刃物のような鋭い視線を俺に向けてきた。その変わりようは凄まじく、普通なら驚いてしまうだろうが俺は気にすることなく更に質問を続けた。

 

 

「あと許してもらいたい相手に……そしてそいつと何があったか」

 

「そんなこと、言う必要ないでしょ」

 

 

 先ほどよりも力強く、地に足が付いているほどしっかりした声で彼女は言い切った。熱があると、つい先ほどまでフラフラしていた彼女とは思えないほどの眼光を、その奥にある炎を宿して。でもそれは想定内であり、もしくは確信であり、事を早く進めるための近道であった。

 

 

「だってお前、ついさっき『分かってもらえない』、『許してもらえない』って言ったよな。それが、今までやってきたことの理由なんだろ?でも、俺が聞きたいのは、何故それを口にしたのか、それが『誰』に対してか、そしてその『誰』と何があったのか。そんなこと(・・・・・)だ」

 

 

 俺の問いに、イムヤの顔に深い皺が刻まれる。恐らく、彼女は自らの行動を説明する(・・・・)とばかりに思っていただろう。張り紙を見落とし、そして俺の声が聞こえず、『間違えて』ドックに入ってしまう。しかしいざ入ったら動けないほどに苦しくなり、先に入っていた『誰か』に助けを求めた。それがたまたま『司令官』で、それに気づくのが遅れてしまった。それもこれも、全て自分が『体調不良だと気付かなかったから』だと、そう説明して終わらせようと、そう検討を付けて俺の質問を受けたのだろう。

 

 でも、俺は一部始終を見ている、だから分かっている。分かっていることを改めて聞く必要なんてないし、説明で終わらせて『本当の理由』を隠すつもりだと分かっているなら尚更だ。そして『本当の理由』(それ)が先ほど彼女が口走った言葉だろうと、それを俺が口にした際に見せたその反応で確信できた。

 

 

 だからこそ、『聞きたい』と言ったのだ。『説明してほしい』ではなく『聞きたい』と。説明すれば済むと思った彼女に、彼女が隠していたモノ、そしてその先に居る『誰か』を、俺は聞いたのだ。ある意味、先ほど彼女が俺の前提を覆したように、今度は俺が彼女の前提を覆させてもらった、と言ったところか。だけどこれではまだ足りない。だからこそ、彼女が言い逃れしない内に決定的な一手を打った。

 

 

「それに、あの時言っただろ? 『今後、こういうことは私以外の子に聞かないで』って」

 

 

 俺の言葉にイムヤはほんの一瞬だけ呆けた顔になり、そして次に心当たりがある様に手で顔を覆った。そう、彼女は言ったのだ。あの日、試食会の準備の時、初代に『補給』を強要された際に言われたことを俺に教えた時だ。その時、彼女は自分から言ったのだ、『過去の出来事(こういうこと)は私に聞け』と。多分、彼女は墓穴を掘ったと思っているだろう、実際掘ったわけだが。

 

 

「た、確かに言ったけど……」

 

「俺にここまでさせておいて、教えてくれないのか?」

 

 

 なおも渋るイムヤに、俺は逃れるための梯子を外した。これ、前に加賀にやられたことと似てる。最初は何も言わずにやるだけやって後でその対価を要求する、まるで詐欺の手口だ。まぁ、それでも何度か確認し、取り消しにする機会も何回かあったわけだからまだ良心的だと言える。いや、知らない間に逃げ道を塞いだともとれるか? どっちが悪質だろうか。

 

 そんな考えを他所に、イムヤは先ほどよりも更に鋭い視線を向けてくる。少なくとも、彼女は俺が悪質だと思ってるな。ハメられたわけだし、いつの間にか逃げ道を塞がれたんだから。

 

 でも、よく考えて欲しい。これ、実は元々条件の一つに組み込む必要が無い。ただ単に前にこんなこと言ってたよねって話題に出して、それを根拠に根掘り葉掘り聞けばいいだけだ。今俺がやってるようにイムヤの身体を洗う対価として要求するなんて二度手間であり、前者がノーリスクなのにこっちはリスクを背負うことになる、どう考えても俺に不利益しか生まないのだ。

 

 

 でも、それを度外視しても余りあるメリットがある。それは俺ではない、今目の前で俺の言葉に躊躇している少女に。

 

 

 

 

「吐き出せば、楽になる」

 

 

 そんな彼女に最後のとどめを、最後の後押し(・・・)をする。俺の言葉に、あれ程眉を潜め、苦悶の表情をしていたイムヤの顔が一瞬にして呆けたものになった。それは俺の言葉が予想外過ぎたからであろう。用意周到に追い詰めてきた相手が、いきなり掌を返して友好的になったのだから。

 

 

 俺がイムヤに示した『楽になる』というメリット。彼女しかり、潮しかり、隼鷹しかり、そして金剛しかり、此処の艦娘たちは本音を溜め込むヤツが多い。しかも溜め込むだけ溜め込んで、何処かに、誰かに吐き出そうともしない。許容を越えてもなお溜め込もうとするから、彼女たちのようにふとした拍子に暴発してしまう。

 

 だから、暴発する前に吐き出す場所を示す。重要なのはそいつが吐き出せるかどうか、そうであれば誰だっていいのだ。潮のそれが曙だったように、隼鷹のそれが加賀だったように。乱暴に言えば、場所が何処だろうと、誰であろうと吐き出せさえすればいいのだ。

 

 そして、溜まりに溜まったものが吐き出されれば、それだけ楽になる。それは溜め込んだ分、内包し続けた時間が長いほど楽だと感じるのだ。その感覚はとても心地よい、このまま溺れてしまいたいと思うほどに甘美だ。傍から見れば毒のようにも見えるのだが。

 

 まぁ、その感覚を甘い蜜にするか、それともこの先ずっと身体や思考を蝕み続ける毒にするかは、本人ではなく周りの存在次第だ。周りの人間がそれに近いこと、それが必要にならないと感じるほどのモノを用意すればいい。だけど、それは提督()の役目ではない。その役目を担うのはいつ何時、どんな状況でも彼女の傍に居る存在、存在たち(・・・・)だ。差し詰め、俺はその感覚を味わうためのきっかけかな。

 

 

 そのためなら俺が彼女の身体を洗わざる負えなくなるリスクなど、些細なことだろう。

 

 

「……ホント?」

 

「絶対とは言えないけどさ。ただ、俺は楽になったよ」

 

 

 半信半疑と言いたげな顔で問いかけてくるイムヤに、俺は苦笑いで答えた。そう、俺はそうなったのだ。あの時―――――龍驤に問い詰められた時も、加賀に話した時も。俺は内に秘めた不安、苦痛、悲観、自責、憤怒、そして己の過去を曝け出した。そうしたら、楽になった。更に秘めたモノ全てを曝け出そうと、周りに止められてもなお話し続けようとした程に、楽になろうとした。

 

 

 だからこそ、彼女にそれを味わって欲しい。彼女には、自分にはそれが必要だと分かって欲しい。

 

 

 俺の言葉に固まっているイムヤを尻目に、俺は彼女の前にあるシャワーヘッドを手に取りもう片方の手で蛇口を捻った。その瞬間飛び出したのは水であり、お湯に変わるには少し時間がかかる。それがイムヤにかからないよう注意してその変化を待った。同時に、イムヤの返答も。

 

 

 

「あのね」

 

「うん」

 

 

 シャワーが人肌より少し温かいお湯に変わった頃、イムヤは呟くように言葉を吐いた。それに、俺はお湯をかける場所を何処にするか考えつつ返事をする。その後、イムヤは少しだけ顔を上げて鏡と向き合った。いや、正確には鏡に映る俺を見ていた。

 

 

「私ね」

 

「うん」

 

 

 またもや、イムヤが溢した。それに返事をして、シャワーをその背中に向けた。その瞬間、俺の目の前は白い湯気に包まれ、イムヤの顔が映っていた鏡が見えなくなる。だけど、その中でほんの数秒、小さな光を見た。

 

 それは鏡の中。先ほどまでイムヤの顔、それも目元の辺りから現れ、まるで頬を伝う様に下へと消えていった光だ。そしてその光が消えた後、ポツリと彼女の震えた声が聞こえた。

 

 

 

 

「身代わりにしちゃったんだ、皆を」

 



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棚に上げた『汚れ』

 私たちはいつも一緒だった。

 

 いや、正確には一緒にさせられたと言った方が正しい。潜水艦は他の艦娘と一線を画す少々特別な艦娘であったからだろう。

 

 

 少ない燃料、弾薬で出撃が可能、傷付いても入渠時間がすこぶる短く、戦艦などの大型艦種からの攻撃を受けないなどの優位性。反面、対潜装備をこしらえた敵に対しては駆逐艦だろうが容赦なく大破させられる装甲、耐久の致命的な低さ、潜航ゆえに海面より上の状況を把握することが難しく、把握するにはわざわざ海面へと浮上し、飛行甲板を展開、発艦と言う手間がかかるため浮上した際に敵と遭遇しようものなら海の藻屑となる危険性が高い、などの欠点がある。しかし、それを差し引いても十分な強みと言えるだろう。

 

 

 その特別扱いは、私に『伊号第一六八潜水艦』 の適性があると判明した時から始まっていた。審査前に与えられた部屋から一回りも大きな部屋に変えられ、全艦娘対象の基礎訓練の他に潜水艦専用の訓練日程を与えられ、更には潜水艦専用のドックも与えられた。その中で特に印象深いと言うかインパクトが大きかったのは、修復液が作用する特殊な生地で作られたスクール水着だ。まぁ、そのインパクトと言うのは屈強な軍人がそれを手にしてやってきた光景だったが。

 

 ともかく、私はそんな待遇を受けながら訓練に入った。しかも潜水艦の適性を持つ人間は珍しく、その日は私以外に同じ部屋になる人はいなかった。そのためしばらくは私一人でこの大きな部屋を使うことになり、一人では余りある部屋に物寂しさを感じていた。

 

 

 暫くした時、初めて同居人が現れた。

 

 

 

「初めまして、伊号第八潜水艦です。えっと……長いんで『ハチ』って呼んでください」

 

 

 呑気な声色でそう自己紹介したのは、パンパンに膨れ上がったリュックを背負いつつ両脇に取り落しそうなほどの本を抱えたハチだった。そんなファーストコンタクトにただただ唖然とした私は悪くない。もっと言えば彼女が背負っていたリュックの中も沢山の本だったから、もっと言えば鎮守府に配属される時もまんま同じ格好だったのだから。

 

 そんなとてつもないファーストコンタクトではあったが、彼女とは普通に打ち解けた。多分、ハチも私以外に同居人が居なかったせいだとは思うが、それでも日々あったことや思ったこと、楽しかったことを誰かに話せることはとてもとても楽しかった。無類の読書家であるハチは私が知らないことをたくさん知っていて、それが話の種になったのも大きいだろう。

 

 ハチが来たおかげで殺風景だった部屋に現れた大きな本棚、それに入りきらない本たちの山が鎮座し、少しだけ当初感じていた物寂しさが幾分か薄れた。

 

 

 そして、それもすぐに何処かへ消え去った。

 

 

「伊号第十九潜水艦、イクなのー!!」

 

「伊号第五十八潜水艦、ゴーヤでち」

 

 

 二人の声が響いたのはハチがやって来て数日後、それも同時に、更に二人とも大量の私物を抱えて。イクはシャンプーに始まり乳液、ハンドクリーム、剃刀などの化粧品関係を大量に、対してゴーヤは特筆すべきものは無い代わりにその量が多い。本人に聞くと日課のトレーニング用に多めに持ってきたそうで、それを聞いたときにトレーニングに誘われたが丁重に断ったが。

 

 そんなこんなでここ数日の間に同居人が一気に三人になり、部屋は彼女たちのベッドや私物で埋め尽くされた。あれだけ殺風景だと嘆いていた部屋が一気に狭く、そして騒がしくなったのだ。

 

 

 だが、同じ空間に人が、それも一気に増えればそれだけ色々とゴタゴタするわけで、時には本をしまえだの、使用済みの化粧品を捨てろだの、洗濯物の生乾き臭で部屋が臭いだの、不平不満はいつもの事。時には怒号が飛び交う始末、いざこざで教官にこっぴどく絞られもした。

 

 

 その日々に私の胸は満たされていた。人が増え、音が増え、物が増え、問題やいざこざ、時には顔も見たくないと思う日も増えた。なのに、満たされていた。

 

 それは朝目を覚ました時、今まで聞こえなかった三つの寝息、そして目に映るこれでもかと散乱する私ではないモノの数々。それを見る度に私ではない誰かの存在を確認し、そして自分だけしかいなかった頃の光景を思い出し、誰かが近くに居ることがどれほど心強いか、どれほど心地よいかを感じることが出来るからだ。

 

 

 

 それを直に感じることが出来るようになったのは、とある日の深夜だ。

 

 

 

「……その、トイレ行きたいでち」

 

「……へっ?」

 

 

 そう言って恥ずかしそうに顔を背けたのは、うっすらとした月明りに照らされたゴーヤであった。寝起きの頭で理解できない私に、ゴーヤは早口になりながら話し始めた。

 

 

 何でも、彼女は夜が、と言うか暗いところ全般が苦手らしい。志願する前から苦手ではあるもそこまで酷くはなかったのが、訓練が進むにつれてどんどん苦手になっていったようで、その時は誰かについていってもらわないと動けないほどにまでなっていた。

 

 それが露見しない様に寝る前に必ずトイレに行き、仮に夜中に行きたくなっても我慢していたようだが、その日は我慢も出来ないほど限界だったらしく、イクやハチたちに知られるよりは良いと、恥を忍んで声をかけたのだとか。

 

 

 しかし、その計画は次の瞬間足元から崩れ去った。

 

 

「……なーに、コソコソ喋ってるのねぇ?」

 

 

 私たち潜水艦が使っているのは二段ベッド、そして私は下のベッドを使っている。大きな音を立てずに動けると思ったから、ゴーヤは私を起こしたのだろう。しかし二段ベッド故に上の段も、そこで寝ている子もいるわけで。そんな間延びした声が上の段から聞こえた。私たちは一斉に上を見ると、意地悪な笑みを浮かべたイクが手を振っていたのだ。

 

 

 そう、イクが起きていた。起きていたでは飽き足らず、ゴーヤが私を起こしトイレについてきて欲しいと言ったことまでもバッチリ聞いていたのだ。

 

 

 その後すったもんだの末に静かに寝ていたハチも叩き起こし、結局4人でトイレに行くことになった。それも『手を繋いで』だ。

 

 それを提案したのは、勿論イク。その理由は『暗闇でも怖くない様に、そして傍に誰かが居ることが分かるように』だ。その提案に案の定ゴーヤは猛反発した。自分が夜にトイレに行くのが怖いから他の三人を起こし、更に道中手を繋いで伴わせた、ということになるからだろう。だがノリと勢いで突き進むイクに気圧され、とどめにどうあがいてもその事実は消えないと指摘されたことで折れた。多分、私やハチも乗り気だった手前、断りづらかったのもあるだろう。

 

 因みに私が乗り気だったのは、イクが挙げた『傍に誰かが居ることが分かるように』と言う理由に惹かれたからだ。

 

 私たち潜水艦は海の中を進む。それも敵に発見されなために海中深く、光が差さないところまで潜ることが多い。そのため視界は薄暗く、水温も低く、何より誰かが傍に居ることを知る術が圧倒的に少ない。勿論、戦闘に置いてそれは必要ないが、一人しか居ない時に味わった寂しさと三人がやって来てから改めて思い知った人肌の恋しさを知った私にとって、出来れば払拭したいと常々思っていた。

 

 

 だから、誰かが傍に居ると、その温もりを感じることが出来るそれを気に入ったのだ。

 

 

 その出来事から、私たちは日々の中で手を繋ぐことが多くなった。それは一種のスキンシップであり、互いに互いを認識する上での重要なツールだ。その発端でありダシにされたゴーヤはあまり好きではないようだが、私やイクが手を差し出せば渋々といった感じで繋いでくれる、ハチは言わずもがなだ。

 

 

 そんな日々は続いた。訓練も佳境に入り内容がハードになった時も、喧嘩の決着が第三者からの両成敗であった時も、訓練を終えて正式な艦娘となり配属先を言い渡されるその瞬間も、配属先で提督と初めて顔を会わせた時も、それから始まる地獄の日々も。辛いときは必ず手を繋ぎ、傍に居ることを確かめ、心の支えとした。

 

 

 

 

 

 あの日までは。

 

 

 

 

「出撃早々爆雷を避け切れず中破、そこから指揮が混乱し他も中大破させた、と……お前の目は節穴か?」

 

 

 あの日―――――それは私たちがここに配属されて間もない頃、出撃にて旗艦中破からの随伴艦に中破と大破が一隻ずつという被害をもたらした時だ。報告書を読み上げた司令官はそれから視線を外し、刃物のように鋭くさせてその日の旗艦を―――――私を睨み付けた。

 

 

 対して、私はちょうど立ち上がるところだった。何故立ち上がる必要があるか、それは報告書を見せた際に無言で殴られたからだ。

 

 今とは違い、当時の出撃前と出撃後は艦隊全員が執務室に召集され、前者では目標の確認を、後者は達成具合に応じて処罰を受ける、または言い渡される時間である。なので報告書を渡した瞬間に殴られることは多々あり、酷いときは此処で散々殴られた後に伽を言い渡されることもあった。

 

 そしてそれは旗艦に限らず、召集された随伴艦たちにも及ぶ。故にイクやハチ、ゴーヤも頬が赤い。特にハチとゴーヤは頬以外にも軽くはない外傷があり、彼女たちこそが中大破した随伴艦だ。でも、彼女たちが殴られる云われはない。何せ私が中破したせいで混乱した艦隊をまとめ上げ、己が傷つきながらも中破した私とイクを引き連れて撤退したからだ。もし、彼女たちが居なければ私は轟沈していたのかもしれない。

 

 だから、今回の件は全て私の責任だ。私が中破さえしなければ、ハチもゴーヤも傷付かず、こうして司令官から叱責を受けることも無かった。

 

 

「さて、お前の処遇だが……」

 

 

 そう、司令官が溢した。その瞬間、全身に寒気が走る。空気が凍り付き、それを一呼吸取り込むごとに体温がガクッと落ちる。私の口から漏れる息が白く染まり、やがてその形のまま凍り付いて足元に落ちた。勿論、それは私の幻覚だ。だが、今まさに目の前にそれが広がる程『恐怖』に支配された。

 

 

 処遇―――それは伽だ。そして、私はそれを経験したことは無い。むしろ、潜水艦隊の誰一人としてそれを経験した者はいない。だが、それが苦痛を伴うモノだと言うことは分かる。それは、伽を行った人を嫌と言うほど見たからだ。

 

 金剛さん、加賀さん、榛名さん、長門さん、龍田さん、そして潮など、目にした人は数知れず。その殆どは服が乱れ、露わになった肌には青アザや傷、血、酷いときは脱がされた上着で胸元を隠しただけの姿で歩いている姿もあった。そして何より、そんな恰好で歩く彼女たちの顔に感情が無かったのだ。

 

 ある人は放心、ある人は感情を押し殺している、ある人は何を考えているか分からない。憤怒があっただろう、嫌悪も、憎悪も、恐怖もあっただろう。だけど、伽を終えた人たちは感情を表に出すことは無い。いや、表に出す余裕が無いのだ。それほどまでに、伽が過酷であると言うことだ。

 

 

 それを幾度となく見た、伽を経験したことのない艦娘()たち。経験が無い故に内容を知らず、結果のみを見せつけられた私たち。その頭にある『伽』と言う言葉、そこに植え付けられた恐怖は尋常ではない筈だ。

 

 

 だからこそ、そんな幻覚を見た。だからこそ、その場にいる誰もが恐怖した。

 

 

 だからこそ、次に聞こえたその声に耳を疑った。

 

 

 

 

 

イク(・・)、俺の部屋に来い」

 

 

 

 その言葉に、全員の視線がその言葉を吐き出した人物に集まった。全員が耳を疑い、全員が顔に驚愕を浮かべ、全員がその言葉を理解するまで時間がかかった。

 

 

 

 

 

 

「ひっ」

 

 

 只一人、名前を呼ばれたイクだけが小さな悲鳴を上げ、その場に座り込んだ。

 

 

 

「待つでち!!」

 

 

 そう怒号を上げたのは中破したゴーヤだ。いち早く我に返った彼女は表情を驚愕から憤怒に変え、司令官とイクの間に立ち塞がったのだ。だが彼は一切動じることなくただただ冷ややかな目を彼女たちに向け、そしてゆっくりと近づき始める。

 

 

「どけ」

 

「理由を!! イクがお前の部屋に行かなきゃいけない理由を教えるでち!!」

 

 

 司令官の言葉に、イクは身体を震わせながら後退るも、その前に立つゴーヤは一歩も引かない。憤怒を露わにし、今にも殴り掛からんと身構えながら噛み付くように吠えた。その言葉に、無表情だった彼の口許が不気味に吊り上がる。

 

 

「お前とハチは中大破しながらも艦隊を撤退させた。だが、その時イク(こいつ)は何をしていた? 周りが傷つく中何もせずにただ守られて、一人だけ無傷でおめおめと帰ってきた。もし、イクが動いていれば被害を抑えられたかもしれない、お前らではなくイクが先導すればお前ら二人は傷付かなくて済んだかもしれない……怠慢ではないか?」

 

 

 司令官が挙げた理由。いや、理由なんてモノじゃない。それはただの屁理屈、こじつけ、当て付け、彼の主観の中だけしか成立しない強引な理論に基づいてねじ曲げられたモノだ。彼以外がそれを肯定することはない、誰もがそれを間違いとし、それを他人に押し付けることを糾弾するだろう。

 

 しかし、鎮守府(ここ)ではそれがまかり通ってしまう。彼はここの絶対的支配者であり、誰一人として逆らえる人はいない。深海棲艦を撃滅しうる火砲を持ってしても、この男には逆らえないのだ。それは、彼が私たちをねじ伏せるほどの力を持ってるわけではない。

 

 

 

 

「嫌なら『連帯責任』だ」

 

 

 ただ一言、その一言を発するだけで、私たちは従わざるをえない。正確に言えば、それを聞いた一部の艦娘が周りを言い含めるのだ。

 

 

 

「い、イクが行く、から……そ、それだけは……」

 

 

 その一部になってしまったイクが声を上げ、震える手でゴーヤの服を掴む。それにゴーヤは後ろを振り向き、そして更に憤怒を募らせた顔を前に向け、踏み出そうとした。

 

 

 

「イクがぁ!! 行くのぉ!!」

 

 

 それを先程よりも大きな、悲鳴に近い怒号をイクが上げる。その悲鳴にゴーヤの身体が止まり、その顔が再びイクに向き直り、その口が大きく開け放たれる―――――前。

 

 

 

「上官を『お前』呼ばわりした罰だ」

 

 

 その一言と共に進み出てきた司令官がゴーヤを殴り飛ばしたのだ。彼女の身体は引っ張られるように吹き飛び、勢いよく壁に激突した。その瞬間、小さな息が漏れ、ほんの少しだけ血が滴る。そのまま、ズルズルと床に落ち顔を抑えて蹲るゴーヤを尻目に、司令官はイクに近付く。

 

 

 己が赤く染めた手袋を汚いモノに触れるように外し、躊躇なく投げ捨てて。

 

 

「あぁ、お前たちの入渠と補給を許可しよう。その後、明朝の出撃まで待機だ。良かったな(・・・・・)

 

 

 イクの横を通り過ぎる際、司令官はそう言ってその肩に触れる。その瞬間、イクの身体が一際大きく震えた。それと同時に震えは止まり、今まで聞こえていた泣き声も止んだ。先ほどまで腰が抜けていたとは思えないほどスムーズに立ち上がり、彼が消えて行った扉に向けて機械のように歩き出した。

 

 

 

「イ……ク……」

 

 

 その背中に、腹の底から絞り出すようにゴーヤが声をかける。だが、イクがそれに応えることは無く、何も反応せず執務室を出て行った。

 

 

 

「ゴーヤぁ……」

 

 

 イクが出ていくと、そう声を上げたハチが真っ先にゴーヤに駆け寄った。大破しているため足を引きずりながら、これでもかという程悲痛な表情を浮かべて。その姿に私も数秒遅れて駆け寄り、倒れ伏しているゴーヤを助け起こした。

 

 

 浅い呼吸を繰り返す彼女の左頬には殴られた跡が、そして口許から右頬にかけて血糊がベッタリと付いている。この出血量、そして中破と言う事実に私はすぐに入渠させると決め、ゴーヤに背中を向けた。その行動に、ハチも私の意図を理解したのか、すぐにゴーヤを抱き寄せて私の背中に寄り掛からせる。

 

 

「いくよぉ……せーのっ」

 

 

 絞り出すようなハチの掛け声とともに、私の身体にゴーヤの全体重がかかった。脱力し切ったその重さは容赦なく足に小さくはない痛みを感じる。だけど、そんなのゴーヤの容態に比べればどうってことはない。一刻も早く彼女を入渠させなければいけないからだ。

 

 

「行くよ……」

 

 

 背中のゴーヤに声をかける。意識は既に無いと分かっていたが、いきなり動くとびっくりして傷に響く可能性を考慮してだ。そして、予想通り返事は無かった。それを確認し、私は前を向いた。

 

 

 

 

 

「何で動かなかったでち」

 

 

 その瞬間、ゴーヤがそう漏らした。それはとてもとても小さく、扉を開けに離れているハチには聞こえない。いや、彼女に聞かせようとは思ってない。私だけに聞こえるよう、私に聞かせるように(・・・・・・・・・)漏らしたのだ。

 

 

 

 それも、先ほど提督に向けていた、噛み付くような声色で。

 

 

 それに、私は答えなかった。ゴーヤの入渠が最優先だと判断したからだ。そう、無理矢理(・・・・)判断したからだ。そして、そう溢したゴーヤもそれ以降何も言ってこなかったからだ。

 

 

 ゴーヤを連れてドックに向かい、彼女とハチを入渠させた。自分が大破している癖に私を差し置いて入渠することを渋ったハチであったが、ゴーヤが意識を取り戻すまで傍で見ていて欲しいと頼み込むことで何とか首を縦に振らせる。二人を入渠させてその介抱を妖精たちに頼み、私はドックを出た。

 

 誰も居ない廊下をひたすら歩く。俯きながら、古ぼけたフローリングと片方ずつ前に伸ばされては後ろ手と消えていく己の脚を見つめた。しかし、その間隔がどんどん大きくなっていく。それと同時にフローリングに着く足の間隔も短くなっていく。それにつられて、視界の端に映るフローリングが後ろへと消えていく速さも上がってきた。

 

 口から漏れる空気の量が減り、それを補う様に小刻みになる。静寂であったはずの耳にはフローリングを踏みしめる音と荒い呼吸音、何時の間にか振り上げられていた腕は振り子のように前後上下へと動き、またもとの位置に戻る。足は床を踏みしめる感触、そしてそこにかかる体重が踏み出すごとに大きくなる。俯いていたはずの視界は徐々に上下が狭まっていき、今では真っ黒に染まっている。

 

 

 

 そう、私は走っていた。必死に、がむしゃらに、目の前に垂れる餌に縋る動物のように、ただただひたすら走っていた。

 

 

 

「私が逃げたから……」

 

 

 そう、荒い息と共に零す。そしてそれは、私が今しがた走っている理由でもあった。

 

 私は逃げた、逃げたのだ。何から逃げたか、それは苦痛とも、恐怖とも、嫌悪とも、とにかくそれら全てをひっくるめた全ての感情から。無論、その中に提督への感情もあった。だが、それをも覆い尽くさんばかりにあふれ出すのは、私自身に向けた感情だ。

 

 

 あの時中破しなければ、私は意識を失わなかっただろうに。

 

 あの時意識を失わなければ、皆が傷付くことは無かっただろうに。

 

 あの時私以外が傷付かなければ、一人だけ傷付いた私の責任に出来ただろうに。

 

 あの時私の責任に出来れば、イクが全てを背負うことも無かっただろうに。

 

 あの時私が背負っていれば、ゴーヤが殴られることも無かっただろうに。

 

 あの時私が殴られていれば、誰も傷付かなかっただろうに。

 

 

 そう、どれもこれも私のせいだ。私のせいで皆が傷付き、背負わなくてもいい業を背負い、負わなくていい傷を負った。それも全て私が足りなかったから、私が皆の代わりになれなかったからだ。

 

 いや、違う。代わりになれた、なれた筈なのだ。なれた筈なのにならなかったのだ、私がならなかったのだ。私がその業から逃げだしたからだ、己の責任を皆に押し付けたからだ。

 

 

 その全てから、真っ先に逃げ出したからだ。

 

 

 ゴーヤが言ったように、私が動くべきだった。私が立ちはだかるべきだった。私が殴られるべきだった。私が背負うべきだった。私が代わりになるべきだった。私が傷付くべきだった。私が守るべきだった。全てが全て、私がやるはずだった、私がすべきだった、私がやらなくちゃいけなかった。

 

 

 だって、だって私は――――

 

 

 

 

『旗艦なんだから』

 

 

 

 そう、口から漏れた。いや、漏れていない、私の口がその形をしたというだけだ。だって、今の私は自室のベッドに寝転がり、枕に顔を埋めているからだ。そして、振り上げた拳を何度も何度も枕に――――己の顔目掛けて振り下ろしているのだ。枕に押し付けるシーツや毛布は血で染まっているが、そんな些細なことに気を向ける余裕は無い。

 

 そうでもしていないと、己の内からあふれ出す言葉を抑えきれないから。己の、己による、己に向けた、己を棚に上げた夥しい数の批判を漏らすまいとしているからだ。漏らす代わりにそれを拳へと変え、己の頭に振り下ろしているからだ。それでようやく、己だけを抑えることが出来た。

 

 

 だけど、周り(・・)は無理だった。

 

 

 枕越しに伝わる拳の衝撃が頭を揺らす度に、真っ暗な筈の視界にゴーヤが現れるのだ。口許から頬に血糊を付けた顔で私を真っ直ぐに見て、刃物のような視線を向けて、何で動かなかった、そう言ってくる。語気は荒くもなく、まるで機械のように淡々とその言葉を浴びせ掛けてくる。

 

 やがて、それはゴーヤだけではなくなった。先ずはハチだ。大破した姿で現れ、無表情でゴーヤと同じように言葉を吐き出してくる。何で意識を失った、と。ゴーヤ同様、機械のように淡々としていた。

 

 次はイクだ。だけど、その風貌は他の二人とは異なっている。リボンでまとめられた髪は解かれ、その薄青紫色の髪が腰まで伸びている。その口元は大きな青あざ、それは口元に留まらずに至る所にあった。そして、強引に降ろされ生地が少しだけ引き裂かれた水着、そして降ろされたことで露出した自らの胸を庇っている。

 

 

 その顔は、今にも泣き出しそうな程ぐしゃぐしゃに歪んでいる。そして、その口はこう叫んでいた(・・・・・)

 

 

 

『何で助けてくれなかったの』

 

 

 ゴーヤやハチとは違う。震える声で、今にも悲鳴を上げそうな声で、必死に堪える恐怖を滲ませた声で、そう漏らしているのだ。しかも、それは声を漏らすごとに小さく、弱弱しくなっていく。同時に、私に向けられていたその顔も段々と下がっていく。やがて顔が見えなくなったとき、その声は既に聞こえなくなっていた。

 

 

 

 

 その時、私の耳にドアが開く音が聞こえた。思わず枕から顔を上げ、音の方を見る。

 

 

 そこには、イクが立っていた。今の今まで私の前に居た彼女が、俯いて声すらも聞こえなくなったまさにその姿が、自らが開けたドアを閉めようとしていたのだ。

 

 

「イク!!」

 

 

 思わず大声をあげ、ベッドから飛び起きる。大声だった。大声だった筈なのに、イクは顔を上げない。何事も無かったかのように、ドアを閉めた。

 

 

「イク!!」

 

 

 もう一度、大声を上げる。今度はベッドから這い出して床に足を付ける。そこで、ようやくイクの身体が微かに震えた。だけど、それだけだった。顔を上げることも無く、声を出すことも無く、ただただ黙っていた。

 

 

「イ、ク……?」

 

 

 もう一度、声を上げる。今度は大声ではじゃなく、普通の声でもなく、震えた声だ。同時に、彼女に向けて歩を進める。少しずつ、少しずつ、一歩一歩、近づいていく。だけどイクは何も言わない、何も言ってくれない(・・・・・・・)

 

 

「ぃ……ぅ……」

 

 

 今度も声を上げた。いや、声のようなものを、漏らした。同時に、イクに手を差し出した。それはあの時、四人で決めた事、誰かが傍にいることを知るため、もしくは示すため。私が傍にいるとイクに伝えるため、いや、違う。そんな綺麗なものじゃない。

 

 こんな私に、旗艦の癖に何もかもから逃げ出した私に、その傍に居てくれるのかという問いだ。またしても、此処まで来ても、私は彼女に縋ったのだ。全てから逃げ出した私を許して欲しいと、都合のいい解釈を押し付けようとした。

 

 

 

 だからだろう、彼女はそれを拒否した。

 

 

 言葉を溢したわけでもなく、私を突き飛ばしたわけでもなく、ただ差し出した私の手を一瞥し、そして力なく垂れた己の手を一瞥し、そこで終わった。私の手を握らなかった、握ってくれなかった。

 

 

 

 傍にいてくれなかったのだ。

 

 

 

 

「あ、ごめん。こんな汚い(・・)手、触りたくないよね」

 

 

 私の口から漏れた言葉は、震えはなく、脅えてもおらず、至って普通の声だった。誰だって汚いものに触れようとしない。何もかもから逃げ出した私の汚らしい手なんか、触れたくもないだろう。事実、私の手は自分の血で汚れていた。二重の意味で、とても汚かったのだ。

 

 そう言って差し出した手を下げた私は、クルリと自分のベッドへと歩き出す。その間、後ろから息をのむ声が聞こえた様な気がしたが、多分幻聴だ。私の願望が生み出した、ただの幻聴だ。たった今、目の前で打ち砕かれたものに性懲りもなく縋るなんて、やっぱり私は汚い。そう思いながら、既に血まみれのシーツで手を拭う。

 

 

「シーツ、変えてくるね」

 

 

 次に私はそう言ってシーツを剥がし、小さくまとめたそれを小脇に抱えた。そして、今度は床を踏みしめる幻聴だ。いい加減にしてほしい。そう心の中で舌打ちをしつつ、私はドアの方に向かって歩き出した。

 

 

「   」

 

 

 幻聴が聞こえ、同時に肩を触れられた。最近の幻覚って触られることもあるんだ、凄い。そう思いながら、私はその全てを無視してドアを開け、部屋を出て行った。

 

 廊下を歩く中、ふと自分の手に視線を落とす。シーツで拭ったとはいえ、乾燥した血の全てをふき取ることは叶わず、所々黒くなった血がこびりついている。

 

 

 

「汚い」

 

 

 

 そう、声を漏らす。その言葉は自分が発したはずなのだが、聞こえたのは他の三人の声だ。そしてそれは、幻聴なんかじゃない。誰もが言葉にしていないだけで、心の中ではそう思っている。だって汚いから。汚い私を見て、知って、その上で触れなかったからだ。だから、手にこびりついたこの汚れは一生取れないだろう。

 

 

 だって、その汚れこそが私だからだ。

 

 

 その日、ドックから帰ってきた二人は何も言わなかった。二人の声に似た幻聴が聞こえた、それだけだ。こんな汚い私にかける言葉も、伸ばす手も、向ける視線も、ある訳がない。だってそうだろう、誰も私の傍に居たくないから。だってそうだろう、己を傷付けた張本人が目の前でのうのうとしているんだから。

 

 

 誰も、汚れ()の傍に居てくれるはずがないのだから。

 

 

 

 そしてそれを唯一示したのは、いや示してくれた(・・・・・・)のは司令官だった。

 

 

 

「一度、自分をよく見てみろ」

 

 

 その言葉を向けられたのは、あの日から少し経った時。その日以降、私たち潜水艦隊は失態を犯す度に誰か一人が伽をさせられた。

 

 主に指名されるのは、その出撃で最も酷い醜態を曝した子だ。だから、イクやハチ、ゴーヤも伽をさせられた。だけど、私がさせられることは無かった。醜態を晒さなかったわけではない、何度も何度もあの日よりも酷い醜態を晒した時もあった。だけど、その日に限って司令官は私を選ばずに他の子を指名した。

 

 だから、私は異議を唱えた。今回の失態はどう考えても自分だと、責任を取らされるのは自分だと。そう言った。そして、その返答がその言葉だったのだ。

 

 

 

「誰がそんな身体……」

 

 

 

 次に、彼はそう漏らした。それは誰かに聞かせるようなモノでもなく、ただ今しがた思っていることを口にしただけだろう。

 

 

 だけど、私はその言葉を不快に思うことは無かった。まさにそうだと、納得したからだ。

 

 

 私は潜水艦の中で一番貧相な身体だ。イクやハチは言わずもがな、ゴーヤだって私より胸がある。体格なんて寸胴、まさに幼児体型なのだからそこに魅力を感じるわけがない。そして私は汚れだ、触れたくもない私に誰が伽をさせようと思うか、有り得ない、ある筈がない。

 

 そんな魅力なんて一片も無い、純然たる汚れである私に伽をさせようなんて、その考え自体が間違っているのだ。

 

 

「じゃあ、私は()が出来るんですか」

 

 

 だから、そう問いかけた。周りの誰もが口にしなかった言葉を、唯一口にしてくれた司令官に。誰もが目を背ける中、唯一目を向けてくれた司令官に。誰もが私への感情を隠す中で、唯一感情を向けてくれた司令官に。

 

 

 『汚い』と、言ってくれた(・・・・・・)司令官に。

 

 

 

「自分を見て考えろ」

 

 

 だけど、やはり彼も教えて(・・・)はくれなかった。汚れに付き合う義理は無い、なら仕方がない。だけど、ヒントはくれた。それは今の自分を見ること。今の状況を整理し、考えて、答えを出すことだ。

 

 私の見て、言葉をかけて、触れる存在はいない。だから、私一人の力でやるしかない。だけど、私は潜水艦故に一人で多大な戦果を上げることも、一人故に皆を庇うことも、『汚れ』故に一人で伽をすることも出来ない。

 

 そんな私は何をすれば、汚れでしかない私は一体何をすればいいだろうか。どうすれば皆は私を見てくれるだろうか、どうすれば声を変えてくれるのだろうか、どうすれば触れてくれるのだろうか。

 

 どうすれば、それを許してくれる(・・・・・・)のだろうか。そうするには、何が出来る(・・・)のだろうか。

 

 そして、導き出した。戦果も挙げれず、伽も出来ず、誰にも見向きをされない汚れでも戦果を上げて、逆に誰にも伽をさせない(・・・・・・・・・)ようにするための、唯一の答えが。

 

 

 それは『旗艦』であり続けることだ。

 

 

 旗艦であれば、艦隊を率いて戦果を上げることが出来る。戦果を上げれば、他の子が伽をする必要がなくなる。いや、それは建前。性根を隠すために何回も何回も上塗りした、最もらしい建前だ。その下に隠された本当の理由は違う。

 

 それは、見ざるをえない(・・・・)から。旗艦は艦隊を率いる故に僚艦と必ず言葉を交わし、そしてそれは私を見て、私に触れることに近い。言ってしまえば、それだけの口実だ。

 

 そうでもしないと、皆は私を見てくれることも言葉をかけることも、触れることもしないだろう。何せ私の身代わりでイクは、そして今後もあるであろう私の伽を三人が担うのだから。勿論、わざと失態を犯すつもりもない。この身がどれほど傷付いてでも戦果を上げ、絶対に伽をさせないようにするつもりだ。でも、汚い私はもしもその失態を犯した際の保険を、自分に都合のいいだけの保険をしたいのだ。

 

 例えそれが仮初めのモノだとしても、あの時感じた孤独を、出撃のように誰にも触れられず真っ暗な闇の中をあてもなく進み続けるよりはマシだと、そうこじつけて。

 

 

 つまり、汚い汚い私は『旗艦』という権力を使い、三人に無理矢理触れさせているのだ。まさに、提督と同じようにだ。

 

 

 そして当然とも言うべきか、やはり私は彼女たちに身代わりを強いてしまった。それも何度も、私が傷付く度に伽をさせてしまった。言い訳なんかしなかった、言い訳したところで何も変わらないから。だから、その伽を減らせるように戦果を上げることに心血を注いだ。

 

 

 誰よりも前に出て、誰よりも早く攻撃して、誰よりも多く敵を引き付けて、誰よりも多く雷撃や爆雷を交わして、少しでも戦果を上げるよう努めた。

 

 酷く傷付いていようが、疲労がたまっていようが、歩けないほどにフラフラだろうが、絶対安静だといわれようが、お構いなしに出撃を続け、身代わりをさせ、それらを上回る程の戦果を上げようとした。

 

 

 そのおかげ(・・・)か、ゴーヤが声をかけてくるように、いや、突っかかってくるようになったと言った方が正しい。

 

 休めと言われた、前に出るなと言われた、危険なことはするなと言われた、無理をするなと言われた。

 

 

 旗艦をやめろと、そう言われた。

 

 

 その時、私は彼女に何を言ったのかは覚えていない。だけどその日以降、あれだけ突っかかってきたゴーヤが大人しくなった。

 

 別に突っかかるのをやめたわけではない。唐突に、脈絡もなく突っかかってくる。そしてその理由を問うも何も言わず押し黙る、もしくは逃げる。それを幾度となく繰り返すようになった。それも、自分が突っかかった時だけ声をかけ、それ以外は口もききたくないと言わんばかりだ。

 

 また、その日以降、ゴーヤの勝手な行動が目立ち始めた。旗艦()の指示を聞かずに勝手に前に出て、勝手に傷付いて、勝手に伽をするようになった。勿論、その理由を問いただしても何も言わない。

 

 恐らく、彼女は行動で私に示しそうとしているのだ。旗艦をやめろと、旗艦をやめろ(傍に寄るな)と。そう言っているのだ。それは今も同じだ。

 

 

 でも、私はそれしか知らない。それしか知らないし、分からないし、誰も教えてくれない(・・・・・・・・・)

 

 だから、それしか出来ない、汚い私はそれしか出来ないから。そうでもしないと、きっと許してもらえないから。それに縋らないと、私は――――

 

 

 

 

 

「一人に、なっちゃう」

 

 

 そう、声が漏れた。だけど、私の声は良く聞こえなかった。それを掻き消すほどの大きな音があったからだ。

 

 目を開けると、ぼんやりとした視界の中で鏡に映る自分が見えた。先ほどドック内にて曝け出した姿ではなく、ここにきた際に持っていた替えの服を着ている。服に身を包んだ私は猫背のまま腰を下ろしている椅子に背中を預けていた。

 

 そしてその背後には、上半身裸の男性が―――今の司令官が立っていた。彼は手にドライヤーを持ち、もう片方の手で私の髪を掬っては一房一房丁寧に生乾きにならないようにドライヤーをかけ、手櫛で解くことを繰り返している。それが、何とも心地よかった。

 

 

「はい、おしまい」

 

 

 だが、その心地よさもその言葉通り終わってしまう。重力に従って髪が床に垂れ、その重みで顎が上がる。そのため、視界は鏡から天井、そして上下が逆さまになった脱衣所に変わった。その大分上の方で、先ほどまで私の髪を乾かしていた司令官が少し離れた所に身をかがめ、何かを探しているのが見えた。因みに、彼は腰にタオルを巻きつけているため、全裸ではない。

 

 というか、あれからどうなったんだろう。司令官から話をしてほしいと言われてから今までの記憶が良く思い出せない。彼の言う通りに熱があるせいかも、もしくは話すのに夢中だったせいかもしれない。

 

 いや、確か話の途中に後ろから身体を洗う用のスポンジを差し出されたような気がするけど、受け取った記憶はないな。まぁ、いいか。

 

 

「おーい、大丈夫か」

 

 

 ボーっとする頭に司令官の声が聞こえ、頭を支えられて前に押し上げられる。視界は逆さまの脱衣所、天井、そして鏡に映る私と彼に戻った。鏡越しの彼と目が合った時、何故か彼は笑みを浮かべた。

 

 

「で、どうだ。少しは楽になったか?」

 

「うん」

 

「そうかそうか、良かったよ」

 

 

 そう笑みを浮かべた司令官が問いかけてくる。それに、私は特に考えることなく素直に答えた。事実、気持ちが楽になったからだ。その言葉に彼は安堵の息を漏らす。そして、次に彼は少しだけ苦笑いを浮かべた。

 

 

「それとさ、話を聞いて一つ思いついたことがあるんだけど。言って良いか?」

 

「言って」

 

 

 彼の言葉に、私は食い気味でそう言った。すると、何故か彼は少しだけ表情を歪ませる。歪み、顔に影がかかり、最後は申し訳なさそうな表情になった。

 

 だけど、その理由が私には分からなかった。だって、私が良いと言ったのだから。そのまま言えばいい、何を躊躇する必要がある。むしろ、そうやって言葉を濁されることこそが私が最も嫌う、自分が棚に上げた動かなかった自分(そのもの)を目の前で見せつけられているからだ。

 

 

 だけど、その直後に何故司令官が躊躇したのかを理解した。

 

 

 

 

 

「旗艦、やめてみないか?」

 

 

 

 彼もまた、そう言ったからだ。

 



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沢山の『くれたモノ』

「……何で」

 

 

 司令官の言葉に、私はそう漏らした。同時に身を預けていた背もたれを離れ、立ち上がり、後ろの彼に突っかかろうとした。

 

 

 でも、それは叶わなかった。

 

 

「いきなり立ち上がると危ないぞ」

 

 

 その言葉と共に肩を掴まれ、強引に座らされたからだ。おかげで立ち上がることが出来ず、代わりに鏡越しに彼を睨み付けた。だけど、その顔は変わらない。ただただ真っ直ぐ、柔らかい表情で私を見つめ返してくるだけだ。

 

 

「……何で逸らした?」

 

 

 不意に聞こえたその声。その時、私の視界に彼は居なかった。彼の言葉通り、私から視線を逸らしたのだ。彼の視線が鋭いわけでもなく、威圧感があったわけでもない。なのに、逸らしてしまった。その直後、噛み付こうと息巻いていた筈の喉も、突っかかろうと力を込めた腕も、脚も、それらを含めた全身が、まるで石化されてしまったかのように動かなくなってしまった。

 

 

「イムヤ?」

 

 

 だけど、彼は更に問いかけてくる。それで、喉だけは動き出した。だから、何とか声を絞り出すことが出来た。

 

 

「……何でそんなこと言うの」

 

「お前に旗艦を任せるべきじゃない、そう判断したからだ」

 

 

 私の言葉に、司令官ははっきりとそう言った。旗艦を任せるべきではない、と。私が旗艦を担い、すがり続ける理由を知っていながら、その言葉が私の全てを否定すると分かっていながら。彼は、そう言ったのだ。

 

 

「俺が旗艦に求めるのは、鎮守府及び近隣の住民を守るために深海棲艦を撃破すること、艦隊の被害を最小限に留めること、そして誰一人欠けることなく帰還すること、この3つだ」

 

 

 彼が挙げた、旗艦に求めるもの。それは極々当然であり、真っ当であり、何より私の旗艦の役割(それ)と合致していた。だから分からなかった、理解できなかった、納得できなかった。

 

 

「……その3つなんでしょ? 深海棲艦を撃破する戦果を上げて、僚艦の被害を最小限に抑えて、皆を帰還されることでしょ? どれもこれも今までやってきた、ちゃんとやってきた、旗艦()はやってきた、出来る限りやってきた!! なのに、なのに何で……」

 

 

 そう、私はやってきた。彼が掲げたことを、私が掲げたことを成すために、それだけを目標に。ずっとずっとやり続けてきた。出来る限り、出せる力を出し切って、やれるだけのことをやってきた、やり続けてきた。

 

 なのに、なのに何でそんなこと言うの? 何でそれを認めてくれないの? 何で見てくれないの? 何で触れてくれないの? 何で傍に居てくれないの? 

 

 

 ……あぁ、そうか。

 

 

 

「まだ、足りないんだ」

 

 

 ふと、口からこぼれた言葉。それは呟きに近い。足りない、足りないのだ。彼は――――初代(・・)は満足してないのだ。私が必死になって上げた戦果じゃ満足できないのだ。

 

 だから何も変わらなかった。怒鳴られ、殴られ、蹴られ、誰かに『身代わり』をさせてしまう、あの頃から何も変わらなかったのだ、何もかもがそのままなのだ。あれから少しも、一ミリも状況は変わってないのだ。

 

 

「    」

 

 

 何処からか、また幻聴(・・)が聞こえる。うるさい、今私は忙しいのだ。『旗艦』としてどうすればいいか、『旗艦』として何をすればいいか、『旗艦』として何が出来るか、それらを考えないといけないのだ。

 

 

「   」

 

 

 また幻聴が聞こえた。どうでもいい、放っておいてくれ、構うな、あっちに行け、近寄るな(・・・・)一人にして(・・・・・)――――――

 

 

 

 

「『イムヤ』!!」

 

 

 次の瞬間、私の思考を幻聴が、いや、今の司令官(・・・・・)の大声が遮った。それに思わず顔を上げた私の目に映ったのは、先程の柔らかな笑みから一変した彼の険しい表情と鋭い視線だった。その表情と視線、そして先程の大声から、彼が『怒っている』と察する。それ故、再び私の視界から彼の姿が消えた。

 

 

「何を考えていた?」

 

「……き、旗艦の役割について」

 

 

 彼の問い。やはりその声色は少しだけ低く、僅かに怒気を孕んでいた。そのためか、私は素直に答えた。あの時と―――初代に報告する時と同じように。

 

 

「『足りない』、って言うのは?」

 

「……今までやってきたことじゃ足りないって……司令官が、満足しないって」

 

 

 再び投げ掛けられた問いにも、私は答えた。答える中、思わず歯を食い縛りそうになりながらも、何とか答えた。これを言い終えてしまったら、次に来るのが拳か革靴か、その両方か、少なくともどれかは飛んでくると思ったからだ。

 

 

 だけど、そのどれもが飛んでくることはなかった。

 

 

「そうだな。確かに『足りない』から、満足してないな」

 

 

 その言葉と共に肩から手が離れる感覚、鏡に映る司令官が私の肩から私が腰かける椅子の背もたれを掴む姿、次に横に引っ張られる感覚、感覚と同じ方に動き出す視界、視界の外へと飛んでいく鏡、脱衣場の風景たち。

 

 

 そして、背もたれを掴みながら何故か膝を折り、私に向かって頭を垂れている彼の姿。

 

 

 いきなりのことに何がなんだか分からない。思考も感情も、感覚の全てが大混乱して、状況も把握できない。ただ、いきなり目の前に現れた頭を垂れる提督に丸くなった目を向けるだけだ。

 

 やがて、背もたれを掴んでいたその手が離れ、垂れていた頭がゆっくりと上がる。その下から現れたのは、先ほどの真剣な表情であった。

 

 その視線と目が合い、思わず視線を逸らしそうになる。だけど、それは次に飛び出した彼の言葉によって、その顔が消える寸でのところで繋ぎ止められた。

 

 

 

「何で、『イムヤ』が入ってないんだ?」

 

 

 彼が私の名前を口にしたこと、そして何よりもその言葉の意味が分からなかったからだ。だから、逸らそうとした視線が止まり、そこから錆びたネジのようにぎこちない動きで彼の方を向き始める。その間、彼は何も言わなかったが、私の顔が真っ直ぐ自分の方を向いたとき、ようやく喋りだした。

 

 

「俺が旗艦に求めるのは、艦隊の被害を最小限に抑えること、そして誰一人欠けることなく帰還すること、そう言った。なのに、お前は『艦隊』を『僚艦』に、『誰一人』を『皆』に変えた。俺の求めるものから自分(・・)を消したんだ。何でだ?」

 

 

 そこで言葉を切り、代わりに私を見つめてくる司令官。それはまるで私からの返答を待っているかのよう……いや、待ってくれているのだ。私を見つめ、声をかけ、私の言葉を受け止めようとしてくれているのだ。そのせいか、私はまたもや素直に言葉を吐いた。

 

 

「そ、そんなの……私が帰ってくること前提で……」

 

「毎回、大破状態(・・・・)でか? 今日みたいに明らかに無理をしていてもか? 最悪の場合イムヤだけが沈んでもか? お前が傷付いて、明らかに無理をして、お前だけ沈んで……それで俺が満足(・・)するとでも思ってんのか?」

 

 

 私の言葉を遮るように始まった淡々とした彼の言葉は、後ろにいけば行くほど語気が荒くなり、次第に怒気を孕んでいく。それに比例するように、真剣な表情が何処か険しくなっていく。

 

 だけど、ほんの僅か。ほんの僅かだが、その表情の中に『哀愁』のようなものを感じた。しかし、それを口にすることはできなかった。それよりも、私の頭は膨れ上がった疑問符で一杯だったからだ。

 

 

 私が求められているのは戦果、それに加え自分が求めたのが旗艦であり続け、出来る限り僚艦に無理をさせないことだ。それ以外は求められて、求めておらず、逆に言えばそれを遂行するためなら何をしていいということ。だから。私は己に強いて、摩耗させて、すり減らして、出来うる限りを背負ってやってきたのだ。

 

 それが、私の全てだ、私の宿命(さだめ)なのだ。

 

 だけど、目の前の司令官は、『私』はどうなのだ、と言っている。そんなの、どうでもいい(・・・・・・)に決まっている。目的を遂行するための手段なんて、所詮は道具に過ぎない。道具は使われることに意味があり、使われることなく大事にされるなんて求めちゃいない。道具を大事にし過ぎたせいで目標を達成できないなんて本末転倒もいいところだ。

 

 (道具)は使われなければならない。皆を守る(目的)のために出来る限りのことを、己をすり減らさなければならないのだ。すり減らし、ボロボロになり、やれるだけのことを終えた上で壊れる。これほど素晴らしい最期はないだろう。それが彼の言う轟沈であるならば、まさに本望だ。

 

 

 なのに彼は旗艦をやめろと言う。道具()が役立てる場所を奪い、文字通りの役立たずに、誰も見向きもしない代物に成り下がれというのだ。ゴーヤと同じように、ハチと(・・・)イクと(・・・)皆と同じように(・・・・・・・)。そんな、そんなことになるくらいなら――――

 

 

 

「沈んだ方がマシよ」

 

「ふざけるな」

 

 

 ポツリと漏れた言葉。それは呟くような大きさだった。だから、彼の淡々とした言葉に易く掻き消された。いや、淡々としているがやはり言葉の節々からは怒気がにじみ出ている。まるで今にも噴き出しそうな怒鳴り声を無理やり押さえつけているように。そんな言葉に、私のそれが掻き消されるのも当然だろう、思わず顔を背けてしまうのも当然だろう。

 

 

「もう一度聞くぞ、お前が無理をして、傷付いて、最悪の場合沈んで、それで俺が満足すると思っているのか? むしろ、俺がそう言ったか? 無理をしろ、傷付け、沈んで来い、なんて一言でも、ほんの一瞬でもお前にそう言ったか? そんなこと、俺は言ってないぞ。戦果を上げろなんてのも、お前以外(・・・)が傷付かず、お前以外(・・・・)が無事に帰ってこいなんてのも、言った覚えは無い」

 

 

 視界の外から聞こえる彼の言葉は淡々としており、且つ怒気を孕んでいる。そんな声色で、そんなことを言ってきた。確かに言ってない、言ってないのだ。でも、口にしていないだけで本当は思っている、口にするのを躊躇しているだけ。誰もがそう思っている。そんな中で、唯一それを示してくれたのが、言ってくれたのが初代なのだ。

 

 

「だけど、こうは言った(・・・・・・)

 

 

 その言葉と共に視界の外から現れた二つの掌に顔を掴まれ、無理矢理前を、司令官の方を向けさせられた。拳でもなく、革靴でもない、初めてのこと。それに私は今までにない恐怖が襲ってきた。だから、思わず目を瞑った。視界を真っ暗にした。視覚を捨てたことで更なる恐怖を味わうと分かっていながら、私はそれをかなぐり捨てた。

 

 

 そんな私の耳、視覚を失ったことで敏感になった私の耳は、彼の言葉を拾った。

 

 

 

「『初代がお前らに課したことは、絶対にしない』」

 

 

  

 その言葉。それはあの時、初めて彼のと会った時、言われた言葉。私の目を真っ直ぐ見据えて、真剣な表情で、言ってくれた(・・・・・・)言葉だ。

 

 それに、いつの間にか視界が開けていた。無意識の内に目が開いていた。そして、目の前にいる司令官を、あの時と同じく真っ直ぐ私を見据える、私を見てくれる(・・・・・)司令官を見た。

 

 

「初代がお前らに課したのは多大な戦果を強いる、制裁を加える、伽を強いることだ。これを絶対にしないって言ったけど、正直絶対じゃない。大本営から戦果を求められればそれに従うし、明らかにそいつの失態であったら罰も加える。でも戦果は求められた必要最低限で良い、罰は暴力一辺倒じゃなくて別の方法を取る、伽なんて罰は絶対にしない。前言ったのが曖昧だったから改めて言うと、俺は初代がお前らに強いたものほどを強いる気はない。勿論、お前が自分に強いたこともだ」

 

 

 彼は真剣な表情のまま、私を見据えながら話を続ける。それに、私は瞬きすらも忘れて聞き入った。いや、正確には瞬きをする必要が無かったからだ。

 

 

「それにさっき俺が言った旗艦に求めることも、ぶっちゃけ旗艦じゃなくてもいい(・・・・・・・・・・)。僚艦だって敵を撃破できるし、旗艦を含めた僚艦全員を守ることもできる。それを曲がりなりにも実践してるヤツも居る。それを遂行するために旗艦であり続ける必要なんて無いんだ。旗艦が出来るように、僚艦にだって出来ることがある。むしろ、お前みたいに『自分がどうなってもいい』なんて思っているヤツが旗艦だと、僚艦が余計なリスクを負うことになる。だから、お前に旗艦を任せるのは難しいって判断したんだ」

 

 

 そこで言葉を切った司令官は、私の顔から手を離した。だけど、それでも彼の視線は私を見据えていた。

 

 

「今までのことをまとめると、俺は初代やイムヤ程に強いるつもりはない。そして俺が強いることは旗艦じゃなくても出来るし、尚且つお前が旗艦だと余計なリスクを負いかねない。だから、旗艦から外そうと思った」

 

 

 彼の言葉は非常に端的で、まさに正論だ。ぐうの音も出ないほどに。そこに浴びせる言葉の全てを言い訳に変えてしまうほどの正論だった。

 

 

 だけど、それでも私は。汚い(・・)私は言葉を浴びせた。

 

 

 

「じゃあ、どうすればいいのよぉ……」

 

 

 そう、声を絞り出した。それは罵声でも、怒鳴り声でもなく、ただただ弱弱しい。正論を前にして言い訳も暴れもせず、ただ震える手を伸ばし助けを乞う、なんとも浅ましい姿だ。

 

 それは同情を誘うため、私が縋り付いている理由を知っている彼に弱弱しい姿を見せれば救ってくれる、なんて汚い考えを持っているから。その証拠に、私は実際に手を伸ばしていない。それはあの時のように、差し出した手を握りしめられないと分かっていたからだ。

 

 

 だからだろう。彼もまた、私の問いには(・・)答えなかった。

 

 

 

「試食会の朝のこと、覚えているか?」

 

 

 私の問いを無視して、彼はそんなことを問いかけてきた。突然の問いに、私は驚きつつもやっぱり救ってくれなかった、と内心肩を落とす。それ故、私はその返答を言葉ではなく頷くことで示した。

 

 試食会の朝とは、私が遅刻してしまったことだろう。それもゴーヤがそうなるよう仕向けて、私を旗艦の座から引きずり降ろそうとした。

 

 

「あの時に約束通り来てくれたことを感謝しつつイムヤが居ないことを聞いたら、その時に初対面だったゴーヤが進み出たんだ」

 

 

 ゴーヤが進み出た。恐らく、私に向けた嫌味を言ったのだろう。約束したくせにまだ寝ている、これが旗艦様か、と。そうのたまう姿が目に浮かぶ、声色の変化まで手に取る様に分かる。私を引きずり下ろす布石を打ったのだろう。それに乗せられた結果が今の司令官だ。

 

 

 だと、思っていた。

 

 

 

「『イムヤを休ませてほしい』、そう言って頭を下げてきた(・・・・・・・)

 

 

 その言葉に、私の頭の中は真っ白になった。彼の言葉が予想外過ぎて、理解出来なくて、信じられなくて、ただ限界まで見開いた目を彼に向けた。

 

 

「その後は怒涛の言葉攻めだ。イムヤがこれまでにやってきたこと、頑張っていること、苦しんでいること、我慢していること、堪えていること、とにかくお前に関する色んなことを教えてくれた。そして、今日はイムヤが休める時間を少しでも確保するために敢えて(・・・)起こさずにやってきた。その代わりは自分たちが埋める、責任も自分たちが全て被る。だから見逃して欲しい、休ませて欲しい、ってさ。ゴーヤだけじゃなくて、イクやハチも頭を下げてきたよ」

 

 

 彼の口から語られる言葉。その全てが信じられなかった。ゴーヤがそんなことを言った? 有り得ない、あいつは私を旗艦の座から引きずり降ろそうとしているのだ。だから私に突っかかって、指示に従わず、真っ向から反抗している。そんなゴーヤが私のために頭を下げるなんて。

 

 それにイクやハチも頭を下げた? なら何であの時黙っていたの、何でそうだと教えてくれなかったの、何でただ曖昧に笑うしかしなかったのだ。何でいつも二人は口を閉じるんだ、何でいつも視線を合わせてくれないんだ。

 

 いや、分かってる。それは私のことを恨んでいるからだ。身代わりをさせ続けたことを恨んでいるからだ。それに対して私が何も言わず、同じことを繰り返したからだ。だから何も言わなかった、見もしなかった、触れもしなかった、傍にいてくれなかった。

 

 

 汚れ()なんかに近寄りたくもなかった、そうだった()でしょ? それなのに、何で―――――

 

 

 

 

「言ってくれな――――」

 

お前が聞き入れなかった(・・・・・・・・・・・)んだろう」

 

 

 思わず漏れた言葉を、司令官が容赦なく切り捨てた。その声色は先ほどよりも低く、冷たく、感情の一切が籠っていない。そして私の目に映る彼の表情は、その声色通り一切の感情が感じられない真顔だった。

 

 

「その後、ゴーヤはこうも言った。()のイムヤは何を言っても聞き入れない。どんな言葉をかけても、どんな感情を向けても、自分に都合の悪い(・・・・・)ように解釈して受け止める。さっきお前が言った、ゴーヤが『旗艦をやめろ』と言ったことを『傍に寄るな』と解釈したように。どれもこれも、何もかもを勝手に解釈されるから思い通りの言葉が伝わらない。だから、言葉じゃなくて行動で示すようにした。お前が今やっていることが人――――僚艦(・・)にどう映るかを分からせる(・・・・・)ために」

 

 

 司令官の言葉、正確にはゴーヤの言葉に、私は今までされてきた彼女の行動を思い出していた。

 

 

 彼女は私の指示を聞かず、勝手に前に出て、勝手に攻撃して、勝手に敵の攻撃を引き付け、勝手に傷付いて、勝手に伽をした。勝手に突っかかって、不利になれば黙りこんで、最後は逃げる。それ以外は口もききたくないとばかりに。

 

 それを私がやっていると? 分からせるためだと? ふざけるな、有り得ない、思い違いも甚だしい。そう、言いたい。でも言えない、言えるはずがない。だってその通りだから。私が『旗艦』という権力を振り回してゴーヤたちに強いたのが、まさにそれだったからだ。分かっている(・・・・・・)上で、やっているのだから。

 

 だけど、そこに一つだけ無いものがある。それは伽だ。私は伽をしていない、むしろ皆に身代わりを強いた。そこだけがゴーヤと、皆と違う。それが私と彼女たちを隔てる壁であり、初代に拒否され、今の司令官も強いないと言い切った現状では絶対に乗り越えられない壁なのだ。

 

 だから、その穴を埋め合わせようとした。埋め合わせるために『旗艦』に縋ったのだ。『旗艦』という立場でしか私は彼女たちの隣に立てない、それ以外に方法が無い。だから縋った、だから権力を振り回した、今も昔も変わらず私はそれを求め続けた。

 

 だってそうしないと、今の私では誰も見てくれず、声をかけてくれず、触れてくれず、傍に居てくれない。文字通り、本当に、今すぐに―――――。

 

 

 

「一人に……」

 

「誰かがそう言った(・・・・・)のか?」

 

 

 私の言葉を掻き消した司令官の問い。突然のこと、そしてあまりに突拍子もないことに、思わず彼を見つめた。そして、見た。

 

 

 痛みに耐えているかのように顔をしかめながら、それでも無理矢理微笑んでいるその顔を。

 

 

「『旗艦になれ』って、そうゴーヤたちに言われたのか? でないと、誰も見てやらない(・・・・)、声をかけてやらない(・・・・)、触れてやらない(・・・・)、傍に居てやらない(・・・・)。アイツらの誰かにそう言われたのか?」

 

 

 立て続けに投げかけられた問い。その問いは単純明快、『イエス』と『ノー』だけで、首の振り方でさえも答えられるとてもシンプルな問いだ。でも、私はその二つの選択肢では答えなかった、いや答えられなかった。

 

 だって、私はそれを『言葉』で言われてないからだ。『言葉』ではなく、『行動』で示された。『近寄るな』と言われたわけではなく、『差し出した手を握られなかった』から。言われたも同然(・・・・・・・)だからだ。

 

 

「言われたも……同然でしょ」

 

「いや、お前はちゃんと言われた、『言葉』で受け取った筈だ。何せついさっきお前が言った(・・・・・・)んだからな」

 

 

 私の言葉に、司令官は肯定しつつも否定した。彼は何を言っているんだ。私はそんなこと言われた覚えも、況して言った覚えもない。あの言葉(・・・・)以外、何も言われてない。

 

 

「『旗艦をやめろ』」

 

 

 その『言葉』に、私が導き出した結論が覆ることは無かった。むしろ再び向けられた聞きたくない(・・・・・・)言葉に身体が動いた。

 

 

 

「『無理をするな』」

 

 

 だけど、次に聞こえた一言で私の身体は止まった。

 

 

「『危険なことをするな』、『前に出るな』、『休め』。ゴーヤに言われた(・・・・・・・・)って言ったよな」

 

 

 そう言って、再び司令官は私を見つめた。真っ直ぐ、私を見据えた。何故だろうか、その姿がほんの一瞬だけ、別の姿に見えた。

 

 

「そこに『旗艦になれ』、『旗艦じゃないと……』なんて言葉があるのか? ゴーヤだけじゃない。他の艦娘たちや俺が言ったことにも、そんな意味合いの言葉があったのか? 少なくとも、俺はそんなことを言った覚えは無い。ただお前がそうであると勝手に解釈してるだけだ、そうであると決めつけているだけだ、そう言われる筈(・・・・・・・)だと思い込み、向けられるのが怖いだけだ」

 

 

 『怖い』―――それは何度も何度も口にした言葉。非難されることが、手を握られないことが、傍に居られないことが、一人になることが。怖い、堪らなく怖い、身の毛もよだつ程に怖いのだ。

 

 

「だから自分を貶し、辱め、過小評価し、自分にとって『最悪』と言える環境を作り出した。そうすれば、誰も言ってこない(・・・・・・)と思ったからだ。自分がどれほど愚かであるか、自分がやっていることがどれほど間違っているか、その全てを自分は分かっている、分かった上(・・・・・)でやっている。だから改まって非難する(・・・・)必要はない、貶しても(・・・・)意味が無い、辱めても(・・・・)何も変わらない、侮った(・・・)ところで時間の無駄である。自分に『負』の感情を向けることを『意味が無い』と切り捨てさせるために、『仕方がない』と諦めさせるために」

 

 

 『仕方がない』――――そうだ、『仕方がない』じゃないか。私に何が出来た? 私に何があった? 私に何の価値があった? ロクな戦果も挙げれず、伽も出来ず、傍に寄るなと言われたも同然な、汚い汚い私なんだぞ。何も出来なくて『仕方がない』じゃないか、何もなくて『仕方がない』じゃないか、何の価値もなくて『仕方がない』じゃないか。

 

 だから、『旗艦』を言う価値を求めても『仕方がない』じゃないか、無理矢理傍に居ようとしても『仕方がない』じゃないか、無理矢理見させようとしても、声をかけさせようとしても、触れさせようとしても『仕方がない』じゃないか。

 

 

 何の価値も無い汚れ()が『旗艦(それ)』に縋ったって、『仕方がない』じゃないか。

 

 

「『自分から非を認めることで、周りからの非難を防ぐ』なんて、灯台下暗しってところか。そうやって、『負』の感情だけで周りをガチガチに固め、それでもやってくる感情の全てを都合の悪いように――――自分にとって都合のいい(・・・・・)『負』の感情に変えて捉え続けた。だから、ゴーヤたちは何も言わなくなった。どんなに気持ちを伝えても、その全てが『負』の感情に書き換えられてしまうから。そうやって固め続けた中に逃げる(・・・)からだ」

 

 

 そうだ、その通りだ。私は、汚れである私は自覚しているくせに逃げだのだ。向けられる言葉から、向けられる視線から、向けられた感情から、それらから逃げ続けた。それら全てを欲したくせに、『怖い』からと言うだけで逃げていたのだ。

 

 だから、さっき司令官の言葉を『幻聴』と扱い、そこで『一人になる』ことを、『傍に寄るな』と望んだのだ。だからゴーヤの言葉を鵜呑みに出来ず、あまつさえ勝手に書き換えた言葉をぶつけてしまったのだ。八つ当たりのように、寄せ付けないように、今日も、この前も、あの時も。

 

 だけど、それしか無かった。それ以外の選択肢が見当たらず、与えられず、価値が無い頭で絞り出したのが『逃げる』だったのだ。

 

 

 だから言ったじゃないか。『仕方がない』って。

 

 

 

「あぁ……そうか」

 

 

 ポツリと漏れた一言。その瞬間、私は再び逃げ出した(・・・・・)。彼の言葉を曲解させようと構えたのだ。

 

 

 これから彼がなんと言おうと、全て私の都合の良いように書き換えられる。もしくは『幻聴』として扱おう、聞かないふりをしよう、書き換えた言葉を叩きつけてやろう。

 

 そうすれば、彼は何も言わなくなる。そうすれば、これからもずっとこのままだ。逃げ続け、書き換えて、聞こえないふりをして、言葉を叩き付けるだけだ。この状況がずっと続くだけだ。

 

 

 この『汚れ()』にお似合いの状況がずっと―――――

 

 

 

 

 

 

「『逃げる』のは、悪いことじゃない」

 

 

 だけど、その言葉を都合よく解釈することが出来なかった。何故なら、予想外だったからだ。何故なら、それを聞いた瞬間顔を上げ、司令官を見たからだ。何故なら、『負』の感情で――――『悲しみ』で既に酷く歪んでいたからだ。

 

 

 その顔が今日、そして今まで見たゴーヤのそれと、寸分の狂いも無く重なったからだ。

 

 

「『逃げる』のは良いことじゃないけど、悪いことでもない。逃げるのは物事を滞りなく進めるため、軌道修正するため、被る被害を最小限に抑えるため、そんな時に必要だからだ。全体を見渡した中で小さな盲点や障害を、その時、その状況、その一瞬をやり過ごすために人は逃げる。それでうまくいくこともあるから、一概に逃げることが悪いなんて言えない。まぁ、お前の場合は『自分を守るため』って言う、どちらかと言えば悪い方だ。でも、それしか無かったんだろ? それしか分からなかったんだろ? だから、『仕方がない』ってことにしたんだろ?」

 

 

 不意にそう話す彼の手が私に迫り、頬を優しく撫でる。頬を伝って耳、そして散らしている髪の一房に触れた。

 

 

「お前はそれを分かった上で逃げた。ずっとずっと、今も逃げ続けている(・・・・・・・)。自分を貶めて、辱め、過小評価して、自分の価値を無いものとして、それで固めた盾を振りかざし、脇目も振らず逃げ続けている。だけど、逃げたことは誰も責められない。誰もが一度はやってるんだ、それを棚に上げて責めるヤツはそう居ない。ただ、『逃げ続けている』ことは別だ。それは俺も周りも、そしてお前(・・)も責めることが出来る。だから、逃げて続けている自分を貶め、辱め、過小評価し、『価値が無い』と断定した。仮に周りがそれを否定しようとも、自分が許せない(・・・・・・・)お前はそれらを撥ね退けた。そうしないと今までのことを償えない、許してもらえない、そうまでしないと自分が納得出来ないからだ」

 

 

 彼の手は触れていた私の髪を離れて再び頬に触れ、そのまま止まった。だけど彼の瞳は私の目を、汚れている私の目を何処か眩しそうに見つめた。

 

 

「でも、ゴーヤはそんなこと言ってない。アイツが言ったのは、『無理をするな』、『前に出るな』、『危険なことをするな』、『休め』、そして『旗艦をやめろ』。それを、お前は『そんなことをやる価値が自分には無い』と捉えた。でも、ゴーヤは『そんなことをする必要は無い』って言いたかったんじゃないかな。そんなもの要らない、そんなことをしなくても良い、ってさ。それが聞き入れられなかったからゴーヤは『イムヤにしてほしくないこと』を、お前が『自分に課したこと』を敢えてやった。もし本当に『傍に居たくない』なら、今日みたいにお前をドッグに担ぎ込みも、意識が戻るまで傍にいることも、『今』も同じ部屋で過ごさないだろう。まぁ、その真意は分からない。ただ俺が知る限り、アイツが突っかかってくるのはお前(・・)が自分を貶めた時だと思うぞ」

 

 

 彼の言葉に、私は頭の中にその光景が浮かんだ。今日のこと、試食会のこと、それ以前のこと。確かに彼の言う通りだ。今思い出してみると、ゴーヤが突っかかってきたのは決まって私が自分を貶めた時だ。

 

 だけど、それは全部(・・)だ。私はかけられた言葉の全てを都合の良いように曲解させている。仮にゴーヤがそれ以外の感情を向けようも、私は全て『負』の感情に曲解して受け取る。だから、私からすればどんな会話でも自分を貶めていることになるのだ。

 

 そうなると、ゴーヤが突っかかってくるのは自分の言葉を曲解されたのか、はたまた私が自分を貶したからなのかは分からない。それを、私が判断するのは不可能だ。

 

 

 

「ゴーヤだけじゃない。イクやハチだって、『行動』で示していたんじゃないか?」

 

 

 だけど、そこに付け加えられた言葉。それは今まで浮かんでいた光景を消し去り、代わりに試食会の時に見た、聞いた、感じたことを呼び起こした。

 

 

 私の傍(・・・)で楽しそうにジャガイモを潰すハチ、そして笑顔を向けてくれた(・・・・・・)

 

 果てしない恐怖に苛まれる私を見て(・・)驚くゴーヤ、そしてそんな私の肩に触れ(・・)、「大丈夫」だと言ってくれた(・・・・・・)

 

 私の手を握った(・・・)イク、そしてずっとついていると、傍にいる(・・・・)と伝えてくれた。

 

 

 そうだ、そうじゃないか。それだけのことを皆はやってくれた。こんな私に、汚い私に。貶されて、辱められて、恨まれて当然の、そんなことをされる価値が無い私に。『言葉』で伝えたところで何も変わらない私に、皆はこれほど『行動』で示して、伝えてくれていたじゃないか。

 

 勝手に自己嫌悪に陥って、勝手に突き放して、勝手に閉じ籠った私。その周りに―――そのすぐ()に彼女たちは居てくれた。こんな『汚れ()』の傍に、ずっと(・・・)居てくれたのだ。

 

 

「アイツらは待ってる。お前が自分を責めるのやめて、逃げるその足を止めて、俯いていた顔を上げて、見ないふりをしていた自分たちを見てくれて(・・・・・)、聞こえないふりを、曲解させていた言葉を聞いてくれて(・・・・・・)、お前から声をかけてくれる(・・・・・・)のをずっと傍で、今も待ってるんだ。ならお前は? お前がやることは、本当にしたい(・・・)ことはなんだ? アイツらを待たせたまま『旗艦であり続ける』ことか、アイツらから『逃げ続ける』ことか、アイツらの言葉を無視して『自分を責め続ける』ことか? アイツらの手を逃れて『閉じ籠り続ける』ことか? アイツラから離れて『一人になる』ことか?」

 

 

 そこに畳みかけられた問い。その答えはすぐに出た。いや、既に(・・)出ていた。それは今の今まで心の奥底にしまい込んでいたものだったから。口にすることも願うことも許されない、『汚れ()』が抱くには不相応過ぎて、大きすぎて、絶対に叶わないと思っていたことだからだ。

 

 でも、汚い私は卑しくもそれを捨てきれなかった。汚いからこそ、不相応だからこそ、それを夢見て、心の底から願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「皆の傍にぃ……居たいよぉ……」

 

 

 『皆の傍に居たい』―――――それが私の『答え』だ。しょうもない、ありきたりな、他の人からすればそんなに大事だろうかと首を傾げられるかも、それを手放したのはお前だと言われるかもしれない。だから不相応だと言った、それを持つ自分を汚いと言った、卑しいと言った。

 

 

 

「良いじゃん、それ」

 

 

 だけど、司令官はそれを否定も非難もせず、認めてくれた。同時にその手が私の頬を離れ、私の腕を掴み、そして引っ張った。それに引かれた私の身体は座っていた椅子を離れ、前に倒れる途中で止まった。その時、私の視界に彼の顔は無い。代わりに自分のものではない鼓動、体温、そして頭を撫でられるのを感じた。

 

 

 早い話、司令官に抱きしめられたのだ。

 

 

「なら、それをアイツらに話さないとな」

 

 

 突然のことに思わず漏れそうになった言葉は、司令官のその一言で止まった。彼の言う『それ』とは私の答え、『アイツら』とは皆―――ゴーヤたちのことだと理解したからだ。

 

 

 同時に、それが『無理』だと思ったからだ。

 

 

「……無理だよ、あれだけのことをやっておいて、今更……」

 

「確かにそうかもしれない。でも、アイツらはそんなこと言ってないし、何よりお前(・・)もそれを言ってない。お前がアイツらの気持ちが分からないように、アイツらもお前の気持ちが分からないんだよ。だからゴーヤはお前が自分に課していることを敢えてやった。それがお前の価値を否定することに、お前にとって都合の良い『負』の感情だと分からずにだ。それが祟った結果が今のお前らだ。もう、そういう回りくどいことはいいんじゃないか? 何時までも互いに意地を張るよりか、素直に本心を伝える(・・・)方が良い」

 

 

 司令官の言っていることは分かる。今の私たちにそれが必要であると、本心を聞きたいのなら先ず自分から示すのが筋であると、筋を通す『行動』が必要であると、分かっている。だけど――――

 

 

 

「もし……駄目だったら―――」

 

「やり直せばいい」

 

 

 私の言葉を掻き消す様に、彼はそう言った。その瞬間、ほんの少しだけ彼の身体(・・・・)が震えた気がした。

 

 

「一回やって駄目なら、やり直せばいい。それで駄目でももう一回、駄目だった度にやり直せばいい。アイツらはずっと傍に居てくれる、お前が変わるのを待ってくれる。いや、一緒(・・)に変わってくれるはずだ。だから大丈夫、お前は、お前ら(・・・)なら出来る。まぁ、俺が断言したところであんまり意味は無いがな」

 

 

 そう言って、彼は私を抱き締める腕に力を込める。それはあれに似ていた。そう、潜水艦()たちの『傍に居る』と伝える行為、『手を握ること』に。少なくとも、私はそう感じた。

 

 でも、それは一時のことに過ぎない。私たちは何処へ行くのも一緒であったから、それはずっと行われた。だけど、彼はずっと一緒に居ることは出来ない。彼の言葉通りに皆の前に行く時、恐らく私は一人であろう。今この時は良いかもしれない、でも一番傍に居て欲しいときに彼は居ない。

 

 

 それだけで、私は逃げたくなるのだ。

 

 

 

 

 

「だから、これは『お守り』だ」

 

 

 しかし、彼はそんなことを漏らした。同時に私の身体を抱き締めていた腕が離れ、何故か私の髪に触れた。触れた際に痛みはなく、髪を乾かしていた時のように優しく髪を纏めていく。やがて、私の髪は紐のようなもので縛られた。

 

 

「『お守り』……?」

 

「俺が付けていたミサンガだよ。そして、今からこれは俺とお前のミサンガだ」

 

 

 司令官の言っていることが分からない私を尻目に、彼は結び終えるとそのまま肩を掴み、私の身体を助け起こした。そのおかげで、私は彼の表情を見ることが出来た。彼の浮かべている、とても柔らかな笑みを。

 

 

 

「お前は『ゴーヤたちの傍に居たい』、俺は『お前らがずっと一緒に居て欲しい』。そんな俺たち(・・・)の願いを込めたミサンガだ。願いが同じなんだ、わざわざ人数分用意しなくても良いだろ? むしろ、俺が嫌ならアイツらと改めて(・・・)結び直せばいい。だけど、それまでは俺とお前のミサンガだ」

 

 

 そう言って、司令官は何故か自分の手首にあるミサンガを見せつけてきた。それがどんな意味なのか、そのミサンガにどんな願いが込められているのか。それは分からない。だけど一つだけ、一つだけ分かった。

 

 

 

 今この瞬間に、『逃げたい』と思っていた自分が消えたことが。

 

 

 

「あと、これも言っておくか(・・・・・・)

 

 

 そう言って、司令官は先ほどと打って変わって真剣な表情を向けてきた。その言葉、その表情、彼がそんなことをする意味を理解するよりも先に、私の思考は停止した。

 

 

 

 

 

 

「お前は『綺麗』だよ」

 

 

 いきなり、面と向かって、真剣な表情で、声色で、片時も目を離さず、そう言われたからだ。

 

 

「お前は自分を『汚れ』だと言った。それは自分を貶めるための例えだろう。勿論、お前がそう言った理由に、アイツらの中で一番幼い体型だと言ったのも分かる。正直、アイツらに比べたら多少は見劣りするってのも思わなくはない。でもな――――」

 

 

 そこで言葉を切った司令官は、私の頬に手を添えた。そして、真剣な表情であったその顔を崩し、苦笑いへと変えた。

 

 

 

「お前のその赤髪と、その緋色の瞳。俺は『綺麗』だと思うよ」

 

 

 そこまで来て、ようやく思考が動き始めた。動き始めたから彼の言葉を飲み込み、咀嚼し、噛み砕き、その意味を理解した瞬間、私は真っ先に顔を背けた。

 

 

「な、何を……」

 

「さっき、思いついたことを言って良いか、って聞いただろ。まぁ一つって言ったけど、初めて会った時とさっき改めて(・・・)思ったからさ。それにお前は自分を『汚い』って勝手に(・・・)言い出した。なら、俺がお前を『綺麗』だって勝手に(・・・)言い出しても問題ないだろう? さて、ついでにもう一つ(・・・・)思いついたから言っておこう。確かにお前は『綺麗』だけど、まだ綺麗になれる(・・・・・・)

 

 

 『綺麗になれる』―――その言葉に私は背けていた顔を司令官に向けた。それと同時に彼の手が私の視界を覆い、そのまま頭を撫でられ、見えない彼の口からこんな『言葉』を贈られた。

 

 

 

 

 

「だから、『綺麗になってこい』」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、私は目を見開いた。その目を、その手で遮られている司令官の顔へと向けた。

 

 

 彼は言ってくれた、私が無理をすることを望んでいないと。

 

 彼は教えてくれた、ゴーヤたちのことを、彼女たちが何を望んでいるのか。

 

 彼は認めてくれた、私のことを、私の『答え』を。

 

 彼は与えてくれた、二人の願いを、それが込められたミサンガを。

 

 彼は否定してくれた、私は『汚くない』と。

 

 

 彼はそれらをくれた(・・・)。私が望んだものを、叶わないばかりに思っていたものを、望むためにすべきことをくれて、そして叶う筈だと断言してくれた。

 

 

 何もないと嘆いていた私に、『綺麗』という価値をくれた。

 

 

 

「それがさっき(・・・)の答えだ。もし駄目だったら帰ってこい。文句の一つ……あれなら拳の一つでも喜んで受けてやるさ。だから、『行っておいで』」

 

 

 その言葉と共に司令官は私の頭から手を離し、さっきの――――私はどうすればいいのか、という問いの答えをくれて、あまつさえ背中を押してくれた。背中を押された私は一度立ち止まるもすぐに歩き出し、廊下へと続く扉に近付く。その間、彼の方を振り返ることは無かった。いや、振り向こうと思わなかった。

 

 だって、まだ私は『綺麗』になってない(・・・・・)。どうせなら、ちゃんと『綺麗』になった私を見て欲しい。それに司令官は私が『綺麗』になるまで待ってくれる、彼の傍に戻ってこれる(・・・・・・)。だから、『今』は振り返らなかった。だから、代わりにこの『言葉』を贈った。

 

 

 

「『行ってきます』、司令官」

 

 

 そう言い残し、私はドックを後にした。

 

 

 



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唯一『要求されたモノ』

 『足が重い』

 

 廊下を歩きながら、私は口に出さずに溢した。足だけではない。腕も頭も、全身が鉛のように重い。意識も朦朧としている、息も荒い、立っているのもやっとだ。それほどまでに、私の身体は異常を訴えていた。

 

 やはり私は体調を崩している。それは私ではなく司令官や大淀さんから指摘された時、それよりも前に起きた時から分かっていた。分かっている上で強行したのだ、回復は先ずしていない。そこに先ほどのことだ、悪化したのは間違いない。

 

 まさに満身創痍、その言葉を絵で表したとしたら今の私だろう。こんな状態で海に出れば確実に落とされる、陸である今でもふと力を抜けば倒れてしまうかもしれない。それほどまでに最悪のコンディションだ。

 

 このまま倒れてしまえば、誰かが見つけるまで私は廊下(ここ)で何時間も放っておかれる。それこそ、古びた道具のように捨て置かれてしまうだろう。それが海上なら、僚艦たちを逃がした上でのそれなら、私はなんの躊躇も無く受け入れただろう。

 

 

 だけど、私の足は未だに動いている。足だけではない。振り子のように前後を揺れる腕も、もたげた頭から僅かに前を見据える目も、今にも倒れそうな上体を懸命に保とうとしている腰も、全てが動いている。燃料なんて既に尽きている、原動力なんかどこにも見当たらない、なのに動いているのだ。

 

 先ほど、足がもつれて倒れた。その衝撃が全身を襲い、意識が飛びかけた。でも、私はそこで動かなくなることを拒んだ。震える腕に精一杯の力を籠め、無理矢理立ち上がる。立ち上がる際、液体が手の甲に落ちた。それは生暖かく、こうして歩いている今も落ち続けている。それを拭うことも、止めることもせず、ただただ歩を進め続けた。

 

 

 それは一重に、司令官が私を支え続けた(・・・・・)からだ。

 

 

 一歩踏み出すごとに私の耳に彼の言葉が、それを漏らした彼の顔が浮かぶのだ。そこにあるのは笑顔、暖かな笑顔だ。私に向けられたとても頼もしい、とても優しい、好きになれそうな、そんな笑顔。

 

 一歩踏み出すごとに今にも倒れそうな私の身体を彼が支えるのだ。私の腕を取り、背中を支え、そのまま押してくれる彼の手は暖かく、心地よく、そして安心を与えてくれた。

 

 勿論、それらは私の思い込みだ。彼の言葉も、笑顔も、その手も、実際には無い。だけど一つ、ただ一つだけ彼を感じることができるモノがある。それを時折触れている。その存在を確かめるように、そこに居てくれると身を持って知るために。

 

 

 そんな言葉に支えられ、私はようやくたどり着いた。

 

 

 目の前には、いつもの扉だ。毎日、毎朝、毎晩、目にしている。何も変わらない、いつもの扉だ。だけど、今は違う。いつもの扉のはずなのに、それは壁に見えた。とてつもなく高い、てっぺんが見えない壁だ。乗り越えることをよしとしない、私の侵入を拒む頑強な壁だ。

 

 それを前にして、私の中に恐怖が生まれた。果たしてこの壁を越えることが出来るのか。いや、仮に越えたとして、その先に待つもっともっと大きな壁に太刀打ち出来るのか。いや、出来るわけがない。あれだけのことをやったんだぞ、自分勝手も甚だしい。そんな不安と自己否定を孕んだ恐怖が襲ってきたのだ。

 

 目の前が黒く染まっていく。手足の感覚が消えていく、思考が真っ白になっていく。今すぐにでもこの場から逃げ出したい、一歩前に踏み出すよりも此処から背を向けて逃げ出した方が容易である、だから逃げろ、耳を塞げ、背を向けろ。そんな言葉が恐怖を掻き立て、無理矢理引きずるように後ろ髪を引っ張る、それに引かれて身体が少し浮いた。

 

 

 

 『大丈夫、俺がいる』

 

 

 だけど、その瞬間司令官の声が聞こえた。言われたこともない、向けられたことも無い。ただ私が彼とのミサンガに触れた時、何処から聞こえたと勘違いした、いわば幻聴だ。

 

 だけど、私はそれが幻聴だと思わない。その言葉だけで私を蝕んでいた恐怖が消えたからだ。引っ張られる感覚も消え、逆に手足の感覚から思考、黒く染まっていた視界も元通りになる。

 

 

そして、気付いた。自分の手が後頭部へ、己の髪を纏めるミサンガに触れていることに。

 

 

 彼は自らの手でミサンガを付けるという『行動』で示してくれた。それは彼が傍に居ると、そう言われたも同然だ。それは私の思い込みだろう。でも、彼は勝手(・・)にそれをやった。なら、勝手(・・)に言葉にするぐらい問題無いだろう。

 

 ミサンガに触れ、在りもしない司令官の温かさを感じ、目を閉じて深呼吸する。不思議と、先ほどまで感じていた身体の不調がほんの少しだけ軽くなった気がした。それを受けて、私は目の前にそびえる壁に手をかける。すると、あれだけ高々とそびえていた筈の壁はいともたやすく私、いや私たち(・・・)を受け入れた。

 

 

 壁を越えた先で、私は三つの視線に晒された。

 

 

 一つはハチ。いつも腰掛けている椅子に身を預け、お手製の本を読みふけっていたのだろう。彼女は本から目を離し、入ってきた私を見た。

 

 一つはゴーヤ。私に背を向けて床に座り込んでおり、入ってきた音に反応してゆっくりと顔を向けてきた。そこにあったのはいつものブスッとした顔だ。

 

 一つはイク。二段ベッドの上段に腰掛け、空中に垂らした足を忙しなくブラブラさせていた。私が入ってきた時、真っ先に視線を向けたのは彼女だ。

 

 

 三つの視線が私に注がれる。これもまた、いつものことだ。だけどその視線が注がれてすぐ、それらは驚いた表情に変わった。

 

 

 

「どうしたの、その顔!?」

 

 

 そう叫んだのはハチだ。彼女は手にしていた本を放り投げ、一目散に私に駆け寄ってきた。途中、近くにあったティッシュ箱を引っ掴み、数枚を引き抜いて同じように放り投げた。

 

 ゴーヤも表情を変え、顔だけでなく身体ごと私を向く。その時、ほんの少しだけその腰が浮いたように見えたが、ハチが真っ先に駆け寄ったことで浮いた腰は床に落ち着いた。

 

 イクも表情を変え、思わず腰掛けていた上段から飛び降りようとしたのだろう。だが、下にゴーヤが居たこと、そしてハチが駆け寄ったことでそれをやめ、梯子を伝って素早く降りてきた。

 

 

 だけど、次の瞬間ハチが押し付けてきたティッシュによって視界が塞がれてしまう。

 

 

「何処かで転んだ!? ぶつかった!? それとも殴ら…………れるわけないか、取り敢えずこれで顔拭って。あぁ、服にも付いてる。落ちるかな、これ……」

 

 

 普段の彼女からは想像も出来ないほど饒舌に喋るハチにティッシュを押し付けられ、その隙間から彼女の姿を見る。ハチは先ほど放り投げたティッシュ箱を拾い、新たに数枚ティッシュを引き抜いて私の手を拭っていた。さっき転んだ時に付いた液体、鼻血を拭っているのだ。

 

 

 その瞬間、私はあの時の――――――血で汚れた自分の手が重なった。

 

 

「駄目、汚れちゃう」

 

 

 そう言って、ハチの手を振り払おうとした。彼女が汚れる必要は無い、汚したくないと。だけど、それは叶わなかった。

 

 

「何言ってるの、ほっとけないよ(・・・・・・・)

 

 

 語気の強いハチの言葉、そして彼女が私の手を離すまいと力を込めたからだ。その言葉に胸の奥がざわついた。

 

 

 いや、ざわついただけじゃない。締め付けられた、苦しくなった、辛くなった、吐き出したくなった。何もかもを吐き出す、そうすれば楽になる。司令官が言っていた言葉を思い浮かべ、実際に吐き出した末の感覚を思い起こし、その末に与えられたモノを力の限り噛み締めた。

 

 次に何かが溢れた、止めどなく、勢いよく、堰を切ったように、溢れ出してきた。それは何なのか、私には分からなかった。それ自体の見当がつかなかったわけではなく、何もかもが当てはまるから断定が出来なった。

 

 

「あ、あの―――」

 

 

 だから、そう声が漏れてしまった。そして、そこで言葉が止まった。

 

 それは、いきなり皆の視線が改めて集まったからではない。大きな音に私の言葉を掻き消されたわけでも、誰かが口を挟んだわけでもない。

 

 感情の中に、本当に小さなしこりが現れたからだ。

 

 

 

 私の想いは、果たして言葉(・・)で伝わるのだろうか――――

 

 

 分かっている、分かっているのだ。司令官が言ったように、本心を伝えなければいけない、私から伝えるのが筋だと、それこそが最善策であることぐらい、分かっているのだ。

 

 だけど、今まで私は彼女たちの言葉を拒んできた。拒んだために彼女たちは言葉ではなく行動で伝えてくれた。それ程の手間と時間を要求しておいて、私は今この時、それも言葉だけで想いを伝えようとしている。彼女たちに要求した様に、私も何らかのことを要求されなければいけないのではないか。

 

 

 いや、それ以前に私とのやり取りで言葉なんか役に立たないと思われているかもしれない。私とのコミュニケーションツールは行動だと、言葉なんか薄っぺらい紙と一緒であると。そう思っているとしたら、私が言葉()に書きつけた想いなんか読まれることなく捨てられるのではないか。むしろ、今まで言葉をないがしろにしてきた私のそれに、何の価値があると言えるだろうか。

 

 もっと根本的なことを言えば、そもそも私に何の価値がある。確かに、司令官から『綺麗』と言う価値をもらった。でも、それは司令官だけであり、今目の前に対峙している彼女たちに通用する保証はない。となると、私に一体何があるのだ。『旗艦』と言う立場を取っ払った今の私に何が、何もない私は彼女たちと同じ土俵に立っているのか。そんな私の言葉なんか、何の価値があると言うのだ。

 

 

 

 いや、分かっている、それは全て私の思い込み、万に一つも在りはしないただの被害妄想だ。だけど、今まで私が積み重ねてきた業、そして彼女たちに強いた苦痛を天秤にかけると、どうしても万に一つの『一つ』ではないか、と思ってしまうのだ。

 

 恐怖の芽は本当に小さく、最初は些細な胸の引っ掛かりだと言える。しかし、本当に恐ろしいのはその成長スピードだ。本当に小さな一粒だったとしても、一度芽生えてしまえば瞬く間に深く根を張り、葉を茂らせ、やがてその人自身を飲み込んでしまう。

 

 そして飲み込まれてしまえば最後、一人で抜け出すことは不可能だと言っていい。まして、『汚れ』である私だ、それは全くの不可能である。さっきのだって、司令官が引き上げてくれただけ。私は何もしなかった、何も出来なかった、ただ彼が差し伸べた手に縋りついただけ。

 

 

 

 

 あぁ、なんだ。結局、私が出来ることって、本当に無いのか。

 

 

 

「イムヤ?」

 

 

 ふと、ハチの声が聞こえてきた。先ほどの力強さはなく、困惑したような声色だ。思わず、顔を上げると、三人の顔が見えた。どれもこれも心配そうな表情をしている。

 

 

 

 

『動かないの?』

 

 

 だけど、その顔を見た瞬間、その言葉が聞こえた様な気がした。それを発したのが誰かは分からない。でもしっかり聞こえた、心に刻み込まれた、そしてそれは静まっていた筈の恐怖を掻き立てるには十分だった。

 

 

 すぐさま視線を足元に向ける。心臓の音が聞こえない、呼吸も出来ない、温度を感じない、まるで時間が止まってしまったかのように、何もかもが感じなくなった。いや、恐怖に飲み込まれてしまったのだ。

 

 

『また逃げるの?』

 

 

 それなのに、その言葉だけはハッキリと聞こえた。気付いたら、私の手はまたもやミサンガにあった。さっき、恐怖に呑まれた私を救い上げてくれた、それがまた起こるとでも思ったのだろう。現に先ほどは触れるであったが、今は束ねられた髪ごと握りしめている。

 

 だけど、何も起こらない。まさに今、喉から手が出るほど渇望しているのに、まったく起こらないのだ。ただ、無言で自分の髪を握りしめる私、そんな私を見つめる皆だけ。

 

 何も起こらない、何も言ってくれない、勝手にしてくれないし、勝手にさせてくれない。お願い、何かちょうだい。何か縋れるものを、支えてくれるものを、背中を押してくれるものを、私の逃げ場を――――。

 

 

 

『逃げるのは悪いことじゃない』

 

 

 そう思ったら、その言葉が現れた。これは幻聴ではなく、彼が実際に言ってくれた言葉だ。そうだ、そうじゃないか。彼はそう言ってくれたじゃないか。

 

 

『もし駄目だったら帰ってこい』

 

 

 次に、その言葉が現れた。これも幻聴ではなく、彼が実際に言ってくれた言葉だ。そうじゃないか、今すぐに解決する必要は無いのだ。一回駄目でもまた次がある、今日が駄目でも彼の元に戻ればいいじゃないか。

 

 

 

 何を心配する必要がある。もう、逃げ場(・・・)はあるじゃないか。

 

 

 

「何で、今日の出撃を取り止めたの?」

 

 

 その言葉は、いつも通り(・・・・・)スルリと出てきた。声のトーンもいつも通り、多分表情もいつも通りだ。その証拠に、ゴーヤの顔が困惑からいつもの表情に戻った。

 

 

「……何でって、お前のせいでち」

 

「そう、確かに私のせいよ。でも、高速修復材の使用を申請すればよかった。仮に降りなくても私たち潜水艦は入渠時間が短い、もしかしたら次の出撃までに間に合ったかもしれないわ。だけど、それを考慮せずに司令官に取り止めを言いに行った。どういうこと?」

 

 

 あぁ、私は何を言っているのだ。そんなこと今更言うなよ、お前もあの時了承したじゃないか、そう自分に向けて非難の言葉を浴びせる。多分、同じことを思い浮かべているであろう、ゴーヤの顔つきがますます険しくなった。

 

 

「     」

 

「いや分かってる、分かってるわ。どうせ、『役立たず』だって言ったんでしょ」

 

 

 何か言って血相を変えて詰め寄ろうとしてくるゴーヤを手で遮り、いつも通りの言葉を吐く。そう、これで良い、今はこれで良いのだ。これ以上ここで議論をしても無意味だし、私にはまた次の機会がある、逃げ込む場所もある。だから、今日はもうこれで良い。いつも通り、今まで通り、同じことをすればいい。そうして、此処から逃げればいい

 

 

「      」

 

 

 視界の中で、何かを叫んだゴーヤの顔つきが変わるのが見えた。それはあの時と、ドック前で詰め寄った時と同じだった。鬼のような顔、怒りや憎しみを抱えた顔。でも次の瞬間、それが驚愕の表情に変わる。その視線の先は私ではなく、その手前だった。

 

 

 

 だけど、その視線の先に目を向けることが出来なかった。

 

 

 

 感じたのは強い衝撃、衝撃によって振り回される視界、耳を指す乾いた音、頬にじんわり広がる熱と痛み。

 

 そこで、時が止まった。いや、熱と痛みは今もなお広がり続けているから止まったわけではない。ただ、私が感じていた筈の時間が、状況が意識の外に行ってしまったのだ。

 

 

 

 

「ちゃんと『言って』」

 

 

 不意に聞こえたその言葉。それは、私の前方から聞こえた。それは私のよく知っている声。だけど、それは今の私を混乱の渦中に突き落とすだけだった。

 

 その言葉に私はゆっくりと視界を、真横に向けていた顔を正面に、その言葉を発したであろう人物に向ける。何故、ゆっくりだったのか。何故、正面に顔を向けた、いや向けられたのか。恐怖に駆られていた私が真正面を、逃げ続けていた彼女たちを見ることが出来たのだろうか。

 

 

 それは一重に混乱していたから。それは想定外のことが起きたから、その声の主が、私の頬に痛みと衝撃を与えたことが、信じられなかったから。

 

 

 

「ハ、ハチ?」

 

 

 その声の主の名を溢す。同時に、私の視界の中に彼女が現れた。私の手を拭っていた筈の両手、その片方を自らの顔の横に、まるで真横に振り回したように構えている。鬼の形相を浮かべながら、その目に今まで見たことのない怒りを、同時に大粒の涙を浮かべたハチの姿を。

 

 

「ハ―――」

 

「お願い、ちゃんと言ってよ。そんな『分かってる(決まり文句)』じゃなくて、ちゃんとイムヤの口から、私たち全員に聞こえるように……もう――――」

 

 

 もう一度、彼女の名を溢した私の声を掻き消す様に彼女は言葉を発し、その言葉は途中で途切れた。それ以外は何も変わらない、構えた手も、表情も、目も、何も変わらない。その言葉を発しただけだ。

 

 

 だけど、それも次の瞬間には変わっていた。

 

 

「『これ』に頼らないで」

 

 

 そう言ったハチは構えていた手とは別の、私の手を今も握っている手を持ち上げた。同時に、彼女に握られた私の手も引っ張り上げられる。だけど、それは間違いであった。

 

 

 彼女は私の手を握ってはいなかった。逆に、私が彼女の手を握っていたのだ。それも、自分の手が白くなるほど強く、片時も離さまいと。

 

 口ではあんなことを言っておきながら、差し出された彼女の手に縋る。『言葉』をないがしろにしたくせに、『行動』だけで伝えようとする。そんな、醜い(汚れ)がそこにあった。

 

 

 

『ごめん』

 

 

 私はそう声を漏らし、すぐさま手を離そうとした。彼女は示した、私の汚さを。それが不快だったから、私の頬を張ったのだ。『触るな』と、言ったのだ。

 

 だけど、そのどれもこれもが叶わなかった。離れた私の手を、今度はハチの手が握りしめたからだ。逃がすまいと、離れまいと、『汚れ』に躊躇なく触れたのだ。

 

 

「逃げないで」

 

 

 再び聞こえた彼女の言葉。同時に、握りしめられる手に力が籠る。これで、私はここから逃げる術を失った。

 

 

「顔を上げて」

 

 

 再び聞こえた言葉。同時に、肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。その反動で、私の顔は前を、正面に立つハチを向いた。これで、私は嫌でも彼女の顔を見なければならなくなった。

 

 

「私たちを見て」

 

 

 再び聞こえた彼女の言葉。そして、同時に彼女の目が私の目を見据える。片時も離すことなく、逆に離すことを許さないとでも言いたげな目。これで、私は嫌でも彼女と目を合わせるしかなくなった。

 

 

「私たちの声を聞いて」

 

 

 何度も耳にした言葉。これで―――いやもう既に、元々、昔から、彼女の言葉は私の耳に嫌でも聞こえてくる。私が彼女の言葉を都合よく解釈することが出来なくなっただけだ。

 

 

 

待ってる(・・・・)から、ちゃんと言って」

 

 

 その言葉、それは初めて聞いた言葉だ。いや、初めてではない。ハチの言葉で聞いたのは初めてだ。でも、その言葉を最初に向けてくれたのは司令官だ。いや、それだけじゃない。ハチが今まで言った言葉、『逃げないで』、『顔を上げて』、『私を見て』、『私の声を聞いて』―――全部、最初に向けてくれたのは司令官だ、司令官が教えてくれたことだ。

 

 

『いっておいで』

 

 

 その瞬間、その言葉が聞こえた。それは先ほど、彼に送り出された時に言われた言葉。その時は皆の所に行く、『行っておいで』と言う言葉だっただろう。だけど、今この瞬間、この時聞こえたそれを、私は勝手に都合よく解釈した。

 

 

 

『言っておいで』

 

 

 

 

「恨ん、で、る?」

 

 

 その言葉に押され、私の口から漏れたのはそれだった。それも、今までの抑揚のない、淡々とした口調から程遠い、弱弱しい涙声だ。それは自らに何の価値も無いと断じた汚れが発した、初めての『言葉』だった。

 

 

「私のせいで、皆、に身代わり、を、させちゃった、こと……恨んでる?」

 

 

 私は皆を身代わりにした、身代わりにしたことを詫びなかった、身代わりにすることをやめなかった。そんな私を皆は恨んでいるだろう、憎くて憎くてたまらないだろう、自分だけ苦しみを味わうことなくのうのうと過ごしている汚れ()を、心の底から恨んでいるだろう。

 

 

「旗艦、の、立場を使っ、て……偉そうに、勝手にやったこと、怒ってる?」

 

 

 旗艦の立場に縋り、その権力を笠に着て無理やり近づいて、触れて、そのくせ彼女たちから浴びせられる言葉を拒絶し、勝手に解釈し、勝手に実行した。そんなことをした私に怒りを抱いているだろう、理不尽に、不快に、汚れ()なんかに触れたくないと思っているだろう。

 

 

「そう、勝手に……元から何もないのに……秀でている事なんか、何もないくせに、旗艦だからって、空手形を振りかざして……そ、そのくせ勝手に一人になって、勝手に閉じこもって、勝手に責めて、それを周りに強いて……」

 

 

 ―――――――違う、違うんだ。これじゃない、言わなきゃいけないのは、最初(・・)に言わなきゃいけないのはこれじゃないんだ。これは後でも言える、何時でも言える。でも、それは『言わなきゃいけないこと』を言った後じゃないと駄目だ、駄目なのだ。

 

 

「ひ、一人になると何も出来ない、動けない、誰かに手を引かれることを、誰かに縋ることしか出来ない……そんな、そんな汚い……汚い私に、私の傍に……わ、わたしがぁ――――」

 

 

 だけど、『想い』は溢れてしまう。『言わなきゃいけないこと』を押し退けて、『言いたいこと』が溢れてしまう。これも汚い私だからか、多分そうなんだろう。そう自覚してなお、私は『想い』を止められなかった。

 

 

 

 

「傍に居て……良いのぉ?」

 

 

 

 その『想い』――――――『皆の傍に居たい』、それを漏らした。漏らした瞬間、両頬を何かが伝う感覚、そしてぼやけていた視界がほんの少しだけクリアになった。クリアになった先で、ハチの顔を見た。先ほどの鬼の形相はなく、待ち望んだモノを前にした子供のような表情だった。

 

 

 

 

「ふざけるなでち」

 

 

 だけど、次に聞こえた言葉はその表情とはかけ離れていた。勿論、それを発したのはハチではない。声の方を向く、そこには先ほどのハチと同じように鬼の形相を浮かべるゴーヤが立っていた。

 

 

「やっと、やっと言わせた(・・・・)と思ったら何……言ってるでち? そんな、そんな今更……ゴーヤがずっと言い続けてきた(・・・・・・・)ことを今更聞くなんて……ふざけるな……ふざけるなでち。あんなこと(・・・・・)言っておいて……結局、お前もそうじゃないでちか……」

 

 

 そこで言葉を切るとゴーヤはその形相のまま近づき、私の襟をつかんだ。そのまま私を引き寄せ、同時に彼女の顔も近づいてくる。そして、私の視界は彼女の顔で一杯になる。その鬼の形相に似つかわしくない、真っ赤に腫れた目を携えて。

 

 

「恨んでる? あぁ、恨んでるでち。ゴーヤたちに身代わりをさせて、それを顧みず、ゴーヤたちに一度も声を、話を、相談も助けも求めず(・・・・・・)、たった一人で突っ走ったこと……心の底から、恨んでるでち」

 

 

 ゴーヤは恨んでいた。私が身代わりを強いて、それを顧みなかったことを。だけど、私の言葉(それ)とはちょっと違う。彼女は私が身代わりを強いたこと、それを顧みなかったこと、そしてそれを自分たちに相談すること、助けを求めなかったことを恨んでいた。

 

 

「怒ってる? あぁ、怒ってるでち。ゴーヤの言葉を聞かず、言ったことをでっちあげて、それで自分を追い込んで、傷付けて、閉じ籠って……ようやく言わせたと思ったら今更同じことを、言っても聞かなかったこと(・・・・・・・・・・・・)を改めて聞いたこと……怒ってるでち」

 

 

 ゴーヤは怒っていた。彼女の言葉を聞き入れず、勝手に自爆していったことを。だけど、私の言葉(それ)とはだいぶ違う。彼女は私がその言葉を聞き入れず、あまつさえでっち上げたことを、それによって自分を追い込んで、傷付けて、閉じ籠ったことを、そして何よりも言っても聞かなかったことを今更聞いたことに怒っていた。

 

 

「そして……最後のは……――――――」

 

 

 そこで彼女の言葉が途切れた。それは私のようにハチが遮ったわけではない、ハチの代わりにイクが、ましてや私が遮ったわけでもない。私に詰め寄っていたゴーヤが、自身でその言葉を遮ったのだ。

 

 いや、本当に遮ったのだろうか。少なくとも私には、遮ったと言うよりもどちらかと言えば他の何か(・・・・)を溢すまいと必死に取り繕っているように見えた。

 

 

 だけど、その何かは出た。それも私の予想とかけ離れた、私とは全く違うものが。

 

 

 

 

 

「ごめんでち」

 

 

 

 ゴーヤの口からその言葉が出た。同時に、彼女の瞳から大粒の涙が零れる。そして、あれ程力強く握りしめていた彼女の手は私の襟を離し、そのまま体ごと私の胸の伝い、ゆっくりと下がっていく。それの様子はまるで、縋りつける場所を探しているようだった。

 

 

「ごめん、でち。あんなことやって、あんなこと言って……本当にごめんでち。あれはイムヤのためだって、イムヤを助けるためだって、助けるために、言葉を引き出すために必要だって……そんな言い訳を並べたけど、ゴーヤがやったことは決して許されることじゃないでち。イムヤを怒らせて、恨ませて、避けさせて、当然でち――――――でも、他に何も思い浮かばなかった、ゴーヤにはこれしか(・・・・)なかったんでち!!」

 

 

 突如、そう叫んで今まで下げていた顔を上げ、ゴーヤは先ほどよりも涙で濡れた顔を見せつけてきた。同時に水着の胸を掴み、グイっと下を向かせた。その様子は、今から発する言葉を一言も聞き漏らすな、目を逸らすな、勝手に解釈するな、と釘を刺す様に。

 

 

「あの時、イムヤは『何も知らないくせに分かったような口を聞くな』って言った。今のゴーヤみたいに詰め寄って、怒りと憎悪で染まった目を向けてきたでち!! だからゴーヤは聞いた、『何があった』、『何を言われた』、『ゴーヤたちに何が出来る』って。だけど、イムヤは何も教えてくれなかった。教えもせず、顔も見ず、道端に捨てるようにこう言った――――『あんたに言っても意味が無い』って!! 言ってもくれない、教えてもくれない、ゴーヤの言葉を聞きも、ゴーヤの顔を見も、ゴーヤの傍にもいてくれない!! そんな状況だったでち!!」

 

 

 それは糾弾だった。先ほどとは違う、彼女の口から漏れる言葉の全てが私に向けられた、これでもかと叩きのめす言葉だ。だけど、その言葉は私以外にも向けられていると感じた。何故なら、私も以前――――――司令官に言い寄った時に、同じような感情を抱いていたから。

 

 

「そんな中で、ゴーヤは何が出来た? そう、何も無かった(・・・・・・)でち!! ゴーヤから出来ることは何も無かった、だからイムヤから来てくれるようにするしかなかった。イムヤから助けを求めてくれることを待つしか、そこまでイムヤを追い詰めることしか出来なかった!! だから、だからぁ!!」

 

 

 そこで、ゴーヤの言葉が途切れた。いや、途切れざるを得なかったのだろう。彼女の顔は既に涙で滅茶苦茶で、同時にその心も滅茶苦茶だろう。だって、私も同じだったから。

 

 ゴーヤも私と同じように、何をすればいいのか分からなかった。だから私の言葉を鵜呑みして、必死に噛み砕いて、咀嚼して、最善策を生み出した。それが、傍から見れば見当違いも甚だしい、明らかに下策であると言われるモノに、それしかないと縋ってしまったのだ。

 

だけど、彼女は違っていた。それは、私が苦しむことを分かっていたことだ。悪い言い方をすれば、彼女は私が音を上げるまで負担を強い続けるつもりだった。だけど目的は私を助けるため、そしてその手段は私を苦しませる、そんな自己矛盾をしていた。それを承知で、今の今までやっていたのだ。

 

 

『皆の傍に居るため』だけに旗艦の権力に縋った私と、その点は全くの大違いだ。

 

 

「だからごめんなさいでち。今まで酷いことを、辛い思いをさせて本当に……本当にごめんなさい!!」

 

 

 吠えるように、胸の内に溜め込んだものを吐き出すようにゴーヤは謝罪の言葉を紡ぐ。そこに先ほどの覇気も怒気もない、ただただ今までやってきたことを悔いて、必死に許しを乞う弱弱しい少女だった。

 

 それに比べて、私は何をやっている。彼女は自らの保身を無視して私の為と、飲む義務も必要もない煮え湯を率先して飲み続けてきたんだぞ。それに彼女は言ったじゃないか、私が言うべきことを、私が『言わなきゃいけないこと』を。

 

 

 

 

 

「『ごめん』、ゴーヤ」

 

 

 『言わなきゃいけないこと』が、ようやっと私の口から漏れた。やっと言えた、最初に言わなきゃいけないことを。そしてこれは私が『想い』を繋ぎ止めていた歯止めが、完全に消失したことを示していた。

 

 

「ごめん、ゴーヤ。ごめん、ごめん……私が勝手に、私から拒絶したのに、そんな辛いことをさせちゃって……皆も、あんなに言葉をかけてくれたのに、行動で伝えてくれたのに、ずっと傍に居てくれたのに……ごめんなさい……ちゃんと見なくて、ちゃんと聞かなくて、閉じこもって……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

「何、言ってる、でち。ゴーヤの方こそ、ごめんなさい……指示も聞かず、話もせず、あの朝だって黙って置いていって、ろくに謝りもしなくて……さっきも掴みかかって、吐き捨てて、突き放して、追い込んで、散々苦しめて……ごめんなさい、ごめんなさい、謝って終われる筈がないのに、こうやって謝ることしか出来なくて……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいでちぃ……」

 

「違う、違うよゴーヤ。ゴーヤは……皆は悪くない。全部、全部私が悪いの、私がもっとしっかりしていれば、私が逃げ出さなければ、私が皆と向き合っていれば……ごめんなさい、ごめんなさい、本当に、ごめん、な、さい……」

 

 

 私が『ごめんなさい』と言うと、ゴーヤはそれ以上に『ごめんなさい』を言う。

 

 ゴーヤが何度も頭を下げると、私は下げた数以上に頭を下げ、彼女よりも低く低く頭を下げる。

 

 『自分が悪い』とゴーヤは自分を陥れ、私はそれ以上に自分を陥れる。

 

 『自分がこうしていれば』とゴーヤは自分を非難し、そもそもの原因は自分だと私は言い張る。

 

 互いが互いを糾弾するのではなく、互いが互いを『自分が悪い』と言い張って、一歩も譲らず、どんぐりの背比べのように堂々巡りに陥る。だけど、私たちの身体はとうにその答えを出していた。

 

 

 棒立ちの私に泣きながらゴーヤが縋り付いていた、そんな姿。だけど今は、いつの間にか棒立ちから床にへたり込む私に向き合ってへたり込み、両腕で私を抱き締めて上を向いているゴーヤ、その肩に顎を乗せ、ゴーヤの背中に両腕を回してぎゅっと抱き締め、彼女と同じように上を向いている私。

 

 口では自らに非があると、全ての責任を背負い込もうとしている癖に、互いの身体に身を寄せて、互いの存在を確認し、もうこれ以上離れまいとしている―――――そんな『行動』を互いにしていたのだ。

 

 そして、そんな口から漏れる言葉はいつしか声に変わり、やがて声にもならない泣き声(・・・)へと変わっていた。抱き締め合い、大声を上げて、先ほど吐露した『想い』と共に今まで散々溜め込んできた涙を吐き出す。涙に紛れた『本当の私』を、『見てほしかった私』を、『傍に居て欲しい私』を。

 

 

 

「イムヤ」

 

 

 そんな中、二つの泣き声に紛れた一つの声が聞こえた。その声に、今もなお吐き出そうとする泣き声を抑え込み、ゴーヤの肩から顔を上げて涙で霞む視界をその方に向ける。そこには青紫の髪を揺らした人影が―――――イクがいつの間にか私の傍に立っていた。

 

 

 一瞬、その青紫が目の前に迫ったかと思ったら、顔一面に何か柔らかいものが押し付けられる。その柔らかなモノがとても暖かく、その奥から鼓動を感じ、やがて頭を撫でられるのを感じた。

 

 

 そう、イクが私の顔を抱き締めたのだ。

 

 

 

「良く、言えたのね」

 

 

 そんな言葉が聞こえる、同時に頭を撫でられ、更に強く抱きしめられる。まるで自分の体温を感じさせようと、試食会の時みたいに『此処にいるよ』と言い聞かせるような。そこに込められた力は強く、そして暖かかった。

 

 

 

 そして、彼女はその言葉を、それを受け取る資格なんかない私に向けて、その言葉を贈ってくれた。

 

 

 

 

「『ありがとう』」

 

 

 

「いや――――」

 

「ありがとぉ……イムヤぁ……」

 

 

 その言葉を否定しようとしたら、今度はイクではない弱弱しい声、ハチだろう。同時に真横から強い衝撃を受け、同時にイクと別方向から押し付けられる柔らかな感触、そしてハチの鼓動。

 

 イクのゆっくりと大きな鼓動と違い、小さくてより小刻みに感じる。イクが傍に居るよ、と伝えているとすれば、ハチは不安と緊張に駆られ、張り続けた虚勢に耐えきれなくなり安心できる場所に飛びついたような、そんな印象を抱いた。

 

 そう抱いた瞬間、視界の中にその顔が現れた。それは試食会の朝、二手に分けられた時に見た、ハチの心の底から楽しそうな顔、そしてそれを聞いた際に向けられた本当の笑顔。そして、同時にこう悟った。

 

 

 

 私は何も出来ないんじゃない。こうやって、誰かに『安心』を与えることが出来る。それだけの『価値』が、私にはあったのだと。

 

 

 ようやく気づいた、気付かされた、気付かせてくれた。私にそれが出来ると、その『価値』を見出してくれた。それを気付かせてくれたハチに、いや『安心』を与えてくれるイク、私のことを思って行動してくれたゴーヤ。彼女たちに『言わなければいけない』ことがあるじゃないか。

 

 

 今までの『ごめんなさい(それ)』とは違う、たった今、たった今変わった、今の私が――――綺麗になれる(・・・・・・)私が皆に『言いたいこと』。

 

 

 

「あ、あり――」

 

 

 だけど、それは最後まで言えなかった。それは唐突に現れた音、それも私も含める部屋に皆ではない、扉の向こう、廊下から聞こえた何かを重いモノを置く音。

 

 

「誰?」

 

 

 その音にいち早く反応したのはイクだった。鋭い言葉と視線を扉に、その向こうに居る誰かに投げかける。すると、今度はドアの向こうから小さな声を、軽く床を踏みしめる音が聞こえ、やがてそれはひときわ大きな音からだんだん小さく、そして遠くなっていく――――走っていく音に変わった。

 

 誰かがそこに居た、その事実に頭の中が真っ白になる私たち。だけど、何故かイクだけは特に動じずに抱きしめていた私の頭を離して扉に近付き、少しだけ開けて顔を出した。

 

 その後ろ姿を、残された三人は黙って見つめる。その間も、私たちの身体が離れることは無かった。

 

 

 

「これは……?」

 

 

 そんな微妙な空気を破ったのは、扉から突き出した頭を戻そうとしたイクだ。彼女は何かを見つけたのか、閉めようとした扉の隙間から廊下へと出ていった。ほんの一瞬、部屋は静寂に包まれるも、すぐに開いた扉の隙間からイクの足が現れ、扉をゆっくりと開ける。

 

 

 その後、イクは首を傾げながら部屋に入ってきた。その際、彼女が手にしていたのはその上半身がスッポリ入りそうな程大きな額縁の絵であった。絵が描かれているであろう正面はイクに向けられているので、その絵を私たちは見ることができない。

 

 

「誰か、いた?」

 

「いや、誰もいなかったのね。代わりにこれが壁に立て掛けてあったの」

 

 

 そんなイクにハチが震える声で問いかけるも、イクは至って冷静に言葉を返した。いや、どちらかと言えばハチの問いよりも、自分が抱えている絵に対して頭を捻っているようにも見える。

 

 

「何が描いてあるでち?」

 

 

 いつの間にか落ち着いたのか、鼻声のゴーヤがイクに問いかける。すると、イクは絵に注いでいた視線を私たちに向け、もう一度絵に向けて何故か溜め息を吐き、ようやくその絵を見せてくれた。

 

 

 そこにあったのは、虹色の大きなバラが活けられた花瓶であった。淡い色使いの水彩画が花弁一つ一つを少しずる変化させることで虹色のバラを見事に表現し、反対にズッシリと重さを感じるクレヨンで描かれた花瓶が絵全体の雰囲気を引き締める。絵の心得が無い私が見ても、とても素敵な絵だ。

 

 だけど、よく見るとそれは一本の大きなバラではない。少し色の違うバラを何本も描き、あたかも虹色の大きなバラが咲いているように見えるよう描かれていた。その数を数えてみると十三本である。

 

 そして、数えている間に気付いたが、よくよく見ると原色と言える色は虹の七色ではなく、たった四色だった。それも赤、青、黄色、そして、赤系と言えるピンクの四色。それだけの色なのにはた目から見れば虹色に見えるのは、その色遣いが絶妙であるからだろう。

 

 そこまで、分かった。だけど、それだけだ。何故こんな絵が私たちの部屋の前に置かれたのか、それは分からなかった。いや、分かれなかった(・・・・・・・)

 

 

 

「あ、あ、あぁ……」

 

 

 その絵を見たハチが何かに気付き、次にそんな声を上げてその場に崩れ落ちたからだ。突然のことに、私たちはハチを見るも、彼女は床にへたり込んで両手で顔を覆い、肩を震わせながら声を――――嗚咽を溢していた。

 

 

「ハチ?」

 

「あぁ……ずるい、ずるいよぉ、こんな時にぃ……」

 

 

 何が起こったから分からない私はハチの名を呼ぶも、彼女は独り言のようにそう呟いて嗚咽を漏らし、すぐに床に伏せて大声で泣き出してしまった。その姿に目を丸くする私の耳に、今度は息を呑む声が聞こえた。

 

 声の方を見ると、片手で絵を持ってもう片方の手で口を抑えるイク。その視線は絵ではなく、その裏側に注がれている。そして何故か、その目には今にも零れそうな程大粒の涙が浮かんでいた。

 

 

「イク?」

 

 

 イクの名を呼ぶと、彼女は涙を浮かべる目を私に向け、そしてもう一度絵の裏側、色鮮やかな絵とは対照的にシンプルな木の板を見せてきた。そこに、私とハチは同時に目を向け、そして気付いた。

 

 それは裏面の中心、木の板に記された言葉。それは絵具の筆を使ったようで、どうも使い慣れていないのか少し波打っている。少し波打っていて、明らかに絵を描いた人ではない誰かであろうその言葉はこうだ。

 

 

 

 

『永遠の友情』、『無限の可能性』

 

 

 その言葉が一体何なのか、何の意味があってそこにあるのか、それを考えることは多分野暮なのだろう。そして、この言葉を書いたのは、そしてこれを持ってきてくれたのは、それを今ここで考えることは、やっぱり野暮だろう。

 

 それに、それを聞きに行く前に私には先にやることがある。それは『やらなきゃいけないこと』じゃなくて、『やりたいこと』、『言いたいこと』、『伝えたいこと』、そんな『想い』に突き動かされたことだ。

 

 

 だから、もうちょっと待って。いつか必ず、ちゃんと見せに行くから、まだまだ綺麗になるから、一番綺麗な私を見せたいから。

 

 『待ってる』って言ったもん。あれ、言ったっけ。いや、多分言ってない。これは私の『勝手』だ。でも、それでも待ってくれるよね? だって、『帰ってこい』って言ってくれたもん。多分、いつまでも(・・・・・)待ってくれるってことだ。

 

 だから、先ずは―――――

 

 

 

「みんな」

 

 

 そう、私は声を上げた。それに、三人の顔が私の視界に現れる。誰もが、キョトンとした顔をしている。さっき、部屋に入ってきた時と同じ顔だ。それを見て、何故か浮かんだ笑みを隠すことなく、私は『言いたいこと』を言葉にした。

 

 

 

「『ありがとう』」

 

 

 そう溢した瞬間、私の視界は大きく揺れる。その中で慌てて近づいてくるゴーヤの焦った顔を見て、私の意識は真っ暗闇に消えていった。

 



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『優しい』提督

「んで、ぶっ倒れてそのまま寝込んだってか」

 

「そうでち」

 

 

 溢したのは提督、ぶっきらぼうに返したのはゴーヤである。彼女の後ろに控えるのは苦笑いを浮かべたハチ、そして()だ。

 

 

 私たちは今、執務室に居る。と言うのも、昨日私たちは提督にお願いして出撃を延期にしてもらっている。なので、翌日である今日は朝から夜まで出撃だ。だけど、私たちは今、こうして執務室に居る。

 

 いや、私たちではない。私とハチとゴーヤだけ、イムヤは此処に居ないのだ。うちの鎮守府の出撃体制は、執務室に旗艦がやってくるだけでよく、私たち僚艦は此処に来る必要は無い。だけど、今私たちは此処にいる。

 

 

 その理由は、とあることを提督にお願いしに来たからだ。

 

 

「そこでお願いが……」

 

「今日の出撃も取り止めて欲しい、だろ? 大淀」

 

 

 ゴーヤが私たちの『お願い』を口にする前に彼はそれを口にし、傍に控えていた大淀さんの名を呼ぶ。すると、大淀さんは何も口にすることなくファイルをパラパラとめくり始めた。まるで、あらかじめ用意していたかのようにテキパキと動く二人を前にゴーヤとハチは目を丸くし、そんな彼女たちを私は見つめた。

 

 

 昨日、私たちはようやく元に戻れた。誰しもが待ち望んだ、元の私たちに。そのことに、そしてようやく手にした居場所に緊張の糸が切れたのだろう。イムヤは私たちに『あの言葉』を発し、そのまま倒れてしまったのだ。

 

 倒れた彼女をゴーヤが真っ先に助け起こし、ハチはその身体に触れて顔をしかめる。その時、イムヤの身体は信じられないほどの熱を帯びていたからだ。すぐさまイムヤをベッドに寝かせ、私は北上さんと間宮さんを呼びに走った。夜も更けた頃だったが二人はすぐに私たちの部屋へと来てくれたのは本当にありがたかった。

 

 そんな北上さんの診察の結果、イムヤは過労からくる熱であるとされた。それを聞いたとき、私たちの顔が渋くなったのは言うまでもない。その後、間宮さんに水に濡らした手ぬぐいと洗面器を用意してもらい、その夜は三人で交代しながら看病を行い、今に至る。

 

 その中で一番長く看病したのはゴーヤだ。彼女自身、今まで自分がやってきたことを悔いるようにイムヤの傍を離れようとしなかったのだ。いや、多分悔やむ以上に別の感情があったと思うが、それは彼女だけでなく潜水艦(私たち)もだろう。

 

 

 特に、私はそうだ。

 

 

「北上から潜水艦隊員の休養要請を受けている。期間は一週間、既に出撃も他の艦娘と交代済みだ。ただ、そのうちの一日だけは食堂の手伝いをしてもらうが、そこは頼む」

 

「い、一週間もでちか?」

 

 

 大淀さんから手渡された書類を見ながら漏らした彼の言葉に、ゴーヤは声を漏らした。勿論ゴーヤだけではなく、私を含めた全員だ。確かに、執務室にやってきたのは出撃の延期をお願いするためだったが、それはイムヤのみだ。私たちは問題なく出撃できるし、イムヤが抜けた穴を三人で補うつもりである。逆に昨日、変わって貰った分を今日取り返そうと思っていたからだ。

 

 そこに降って湧いた休養命令、それも期間は一週間と破格の待遇である。更に言えば、イムヤだけでなく私たち全員だ。いくら北上さんが要請を出したからと言って、出撃出来る私たちまで休養を問うと言うのは虫が良すぎる。だからその理由を欲した、故にゴーヤはたどたどしく声を漏らしたのだ。

 

 

 

「あぁ、話をする(・・・・)には十分だろ?」

 

 

 彼はそれを、いとも簡単に言ってのけた。『話をする』―――たったそれだけのために彼は一週間も休養を与えてくれた。ただ、『話をする』ためだけに。その答えに、私たちは唖然として彼を見つめることしかできなかった。そんな私たちを見て、彼は一瞬驚いた顔をするも、すぐに笑みを浮かべてこう続けたのだ。

 

 

「やっと向いてくれたんだ、今まで溜まったことを好きなだけぶつけてやれよ。そして、『傍に居る』って教え込んでやれ。アイツの耳に胼胝ができるほど、それこそ忘れさせない(・・・・・・)ようにさ。それとも、一週間じゃ足りないか?」

 

 

 提督は最後にそう付け加え、私たちの答えを待った。それに私たちは誰も声を発しない、いや発せないのだ。それは彼の言葉が信じられないのではなく、その言葉を受け取るだけで精いっぱいだったから。

 

 

 話をする、それは言葉を交わすこと。私たちは長らくそれをやってこなかった。言葉ではなく『行動』でそれを補ってきた。その期間が長かったためか、私たちは『行動』で意思を伝えることに慣れ、逆に『言葉』を用いることに不慣れになってしまった。だから、彼の言葉を受け止めるだけで精いっぱいだったのだ。

 

 それを特に痛感したのが、昨日のことだ。誰しもが言葉足らずで、段階をすっ飛ばして、己の内に秘めていた『想い』を吐き出した。ゴーヤだって、ハチだって、勿論私だってまだまだ言いたいこと、伝えたいこと、言われたいこと、知って欲しいことがたくさんある。恐らく、それらを全て伝えるためには膨大な時間がかかるであろう。

 

 

 だから、彼の言葉は渡りに船だった。だから、私は思った。やっぱり、この人は『優しい』と。

 

 

「『足りない』って言えば、伸ばしてくれるの?」

 

「いや、それ以上は無理だ。後は飯とか寝るときとか、出撃と哨戒以外の時間にやってくれ」

 

 

 今も固まっているゴーヤを尻目に私が更にお願いの上乗せ(・・・)をするも、あっさりと拒否されてしまう。彼の言葉通り、話をすること自体は何時でも出来る。今回は不慣れな私たちに敢えてそう言う時間を用意してくれたのだ。それ以上を望むのはおこがましい。だから、私はすぐに引き下がった。

 

 

「それと手伝いの時でいいから艦娘(みんな)にお礼を言っといてくれ。特に、潮にさ」

 

「何ででちか?」

 

 

 次に彼が溢した言葉に、ゴーヤが質問を投げかける。彼女がそう思うのも無理はない。皆にお礼を言うのは私たちの出撃を肩代わりしてくれたからだが、何故敢えて潮ちゃんを名指ししたのか、その理由が分からないからだろう。そうだよね、ゴーヤは知らないんだっけ。

 

 

「昨日、お前らの部屋に届けた絵。あれ、潮が描いてくれたんだ」

 

「あれを…………す、凄いでち」

 

 

 提督の言葉に、ゴーヤは感嘆の声を漏らし、感心したように小さく頷く。昨日見たときはそこまで感心できなかったけど、実際にあの絵は凄い。絵心が無い私でも『スゴイ』という感想しか浮かべないほどに素晴らしいものだ。正直、あれを一週間程度で描き上げたと知った時は本当に驚いた。

 

 

「な、凄いだろ? だから、潮には特に――――」

 

「ありがとうございました」

 

 

 得意満面の顔で潮ちゃんを褒める提督の言葉を、今まで黙っていたハチが遮った。彼はその言葉に面を喰らった顔を浮かべてハチを、お礼の言葉を発して深々と頭を下げている彼女を見た。その顔が、若干引きつっている。

 

 

「えっと……ハチさん? 絵のお礼は潮に―――――」

 

「なぁーに、とぼけてるんですか。描いたのは潮ちゃんでも、描かせたのは提督ですよね? 後、届けてくれたのも」

 

 

 ハチの言葉にゴーヤはもの凄い早さで顔を提督に向け、彼自身は顔を思いっきり引きつらせた。何も隠す必要は無いと思うんだけど……まぁ、やったことがやったことだから仕方がないか。

 

 

「なな、何を言ってるんでしょうか……?」

 

「あの言葉を教えたのは私ですよ? 分からないわけないじゃないですか。じゃあ聞きますけど、何で絵のことを知ってるんです? それにその絵が昨日届けられたことも。もっと言えば、さっき『届けた』って言いましたよね? 後―――」

 

「すみません、そこで勘弁してください……」

 

 

 流水のようにハチが彼のドツボを突き倒したせいか、彼は顔を覆って苦々し気に言葉を吐く。若干だが、その隙間から覗く彼の顔は赤みがかっていた。

 

 

「残念でしたね、提督」

 

「うるさい」

 

 

 そんな提督に隣の大淀さんはニヤニヤ笑いながらそう声をかけ、彼はぶっきらぼうに返す。何だろう……今の提督になってから一番楽しんでいるの、この人じゃないだろうか。

 

 

「そういうことは個人的に言って欲しかったなぁ……」

 

「絶対に駄目です。ほら、イクとゴーヤも」

 

 

 ポツリと漏らす提督の苦言をピシャリと撥ね退け、私とゴーヤにお礼を言う様に促す。それに従って私たちが頭を下げると、彼は苦笑いを浮かべながらもそれを受け取ってくれた。その間も、大淀さんがずっとニヤニヤ笑っていたのは言うまでもないだろう。

 

 

「と、とにかく!! お前ら全員、一週間の休養だ。そしてこのことをあいつに伝えること、これは提督命令だ。その後は、その、まぁ……ゆっくりしてくれ」

 

 

 空気を引き締めるためか彼はわざとらしく大きな声を出すも、恐らく言うことを考えていなかったためか何とも締まらない言葉で終わってしまう。その様子に、誰しもが微妙な顔を浮かべ、当の提督も苦笑いで誤魔化そうとしていた。

 

 

 だけど、次の瞬間、その空気は一変した。

 

 

 

 

「あぁ、イク(・・)は残ってくれ」

 

 

 そんな誤魔化し笑いのまま、彼がイク(私の名)を口にしたのだ。その瞬間、周りの空気が一変する。同時に、ゴーヤの目つきがあの時(・・・)のように変わる。

 

 

「理由は?」

 

「ちょっと聞きたいことがあるからだ。出来れば、二人っきりで話したい」

 

 

 あの時と同じようにゴーヤが凄味を効かせた言葉に、提督は意に介さないようにサラッと答えた。だが、何気なしに付け加えられた新たな情報に、ゴーヤの表情が更に険しくなる。

 

 

「二人っきりになる理由は?」

 

「その方が聞きやすいからだ。俺が、そしてイクも」

 

 

 再び投げかけられた問いにも、提督は同じように答える。まるであの時のことをもう一度見ているような、まさに既視感(デジャブ)だ。だが、そこで二人は言葉を噤み、執務室は沈黙が支配した。だけど、それはつかの間に過ぎない。いつか二人の押し問答が始まるのだろうか、あの時と同じように私が割り込めばいいのか。

 

 いや、あの時とは違う。あの時は何も知らずに理不尽な理由を擦り付けられ、意に介さないままに渦中に放り込まれた。だけど今回は前提が違う、私は最初(・・)からこの渦中に放り込まれることを知っており、必ずこの状況になることを覚悟(・・)していたからだ。

 

 

 

「りょーかいね」

 

 

 だから、私はその沈黙を破った。あの時と同じように、私自らゴーヤを止めるのだ。私の言葉に、ゴーヤは険しい顔のまま私の方を向く。あぁ、本当にあの時と一緒じゃないか。またそんな顔させちゃって、本当にごめんね。

 

 

イクが(・・・)……行くの(・・・)

 

 

 そう、あの時と同じ言葉を溢す。すると、同じようにゴーヤの顔が歪む。この後、彼女は提督に殴られてしまう。そして蚊の鳴くような彼女の声を聞きつつも、振り向くことなくこの部屋を後にする(・・・・)のだ。ごめんね、また痛い目に遭わせちゃって。ごめんね、本当にごめんね。

 

 

 だけど、そうはならなかった。

 

 

 

「行こ、ゴーヤ」

 

 

 そう溢したハチが、私に詰め寄るゴーヤを引き剥がしたからだ。突然のことにゴーヤは、そして私は驚愕する。だって、あの時と同じようにハチは動かないとばかりに思っていたからだ。ゴーヤも、恐らく彼女に引きずられるとは思っていなかったのだろう。だが、すぐに我に返ると掴まれるその手を振りほどこうとする。

 

 

 

「信じても良いんですよね、提督」

 

 

 だけど、それよりも前にハチが問いかけた。それは私でもゴーヤでもない、提督に。突然の言葉であったため、ゴーヤも固まっている。そんな彼女と同じ筈だが、彼は先ほどのゴーヤと同じように意に返さず、まるで既に決めていたことを言うかのようにこう溢した。

 

 

 

「あぁ、お前の色(・・・・)に誓って」

 

 

 その言葉に、ハチは小さく微笑む。そして、未だに固まっているゴーヤを引き連れて扉へと進み、そのまま出て行った。気になることと言えば、途中で我に返ったゴーヤに何かを呟き、それ以降ゴーヤもおとなしくなったぐらいだ。その後に大淀さんも続く。先ほどのニヤニヤ顔から一変、いつものすまし顔で。だけど最後、彼女の顔が見えなくなるその直前、小さくため息を吐くのを見た。

 

 

 三人が出て行った。執務室には私と提督だけ、あの時とは場所が違うが状況はほぼ一緒だ。途中、ハチが動くと言う予想外の出来事があったが、おおむね予定通り(・・・・)だ。

 

 

「さて、イク」

 

 

 不意に、提督の声が聞こえる。その方を向くと、先ほどのごまかし笑顔を完全に消し去った彼が居た。その顔は真剣と言うよりも何処か私を責めるような、まさに初代提督()と同じだ。さてさて、次に飛び出すのは何だろうか。私が残された理由だろうか。

 

 

「何で残されたか、分かるか?」

 

 

 そう思ったら、本当にその質問がやってきた。あぁ、やっぱり同じなんだな……そう心の中で呟き、その質問に答えた。

 

 

 

 

「イクが、今回のことを仕向けた(・・・・)からなのー」

 

 

 そう、いつも通りに答えた。これはあの時と違う。あの時はこんな風に答えてなんか、むしろ答えることすら出来なかったのだ。だけど、今回はハッキリと分かっている。だって、私が一連の騒動を仕立て上げた張本人だからだ。

 

 私の発言に、今まで意に介さなかった提督の顔が僅かに歪む。多分、こうも簡単に自白するとは思わなかったからだろう。しかしすぐに咳払いと共に先ほどの顔に戻し、彼は言葉を――――私の『罪』を述べ始めた。

 

 

 

「先ず昨日、イムヤに相談することなく出撃を取り止めてもらおうと最初に提案した。合ってるか?」

 

 

 最初に投げかけられた『罪』。それはイムヤに黙って出撃を取り止めてもらおうと提案したことだ。正直、傍から見ると仲間想いの素晴らしい提案だと思うだろう。だけど、私にとってこれは『罪』だ。だって、この提案でイムヤが更に傷付くと、そして付き添いのゴーヤがなんらかの痛い目に遭う可能性があると、その危険が十分に在ると分かった上で強行したからだ。彼の言葉は間違っていない、だから何も言うことなく頷いた。

 

 

「……次、執務が終わってからだ。どういう理由か分からないが、執務室から出てきた俺の後をつけた。合ってるか?」

 

 

 次に投げかけられた『罪』。それは執務が終わった彼の後をつけたことだ。私の中では完璧な筈だったが、何処かでバレたみたいだ。大方、幸運艦コンビと出会った時だろう。二人とも提督と喋りながらも時折私の方を見ていたし、二人が立ち去った後で彼も私の方を見たから間違いない。でも、理由までは分からなかったようなので、此処でバラしちゃおう。

 

 

「合ってるのね。いつ提督を襲おうか、虎視眈々と狙っていたのー」

 

 

 そう悪びれも無く返すと、彼の顔がまた強張った。面と向かって襲おうとしていたと言われれば当たり前だろう。まぁ、私の場合は命を奪おうとかそう言う物騒なものではなく何とかして彼が一人になる状況(・・・・・・・)を作り出すためではあったし、そのおかげで海に落ちた彼をすぐに助けることが出来たわけだが、今更言う必要もないことだ。

 

 

「……そうか。じゃあ、次。俺が入っているドックにイムヤをけしかけた(・・・・・)…………合ってるか?」

 

 

 最も低く、長い間を置いて投げかけられた『罪』――――恐らく、彼がそんな顔を向ける最大の理由だろう。それを受けて私はちょっとだけおかしくなった。何故なら、ここまでのやり取りがまさにあの時、そして今まで繰り返してきたことと同じだったからだ。

 

 

 淡々と投げかけられる言葉に、何も言えずにただ首を振る私。

 

 一つのことを投げかけられる言葉に、自らが身体を差し出すと言い張って返答を待たずにコトに及んだ私。

 

 数えきれないほどに浴びせ掛けられる言葉と拳に、抵抗することなく全てを受け入れる私。

 

 

 今までやってきた初代()とのやり取りと何ら変わらなかったから、むしろ予想通りに事が運び過ぎておかしくなったのだ。

 

 

「えぇ、そうなのね」

 

 

 そう、そうなのだ。提督の言う通り、イムヤに黙って昨日の出撃を延期にさせ、彼を一人にさせ、そこにイムヤをけしかけた――――――全て、私が仕組んだことなのだ。

 

 

 この計画を思いついたのは、ハチが提督から花を探して欲しいと頼まれたと知った時だ。

 

 当時の私は試食会の一件以降彼が今までの提督たちとは違うとは感じていたが、まだ彼との距離が測れずにいた頃である。同時に、その件で少しだけ緩んでいた空気がイムヤとゴーヤのやり取りで元に戻ってしまった頃でもあった。

 

 なので、その時に私はほんの少しであるが緩んだ空気に一抹の希望を見出し、必死に出来ることを模索していた。そこにその話が舞い込んできたのだ。同時にハチが彼にイムヤを助けて欲しいと伝え、彼がそれを承諾してくれたことを聞いた。

 

 そこで私は思った。彼ならこの状況を変えてくれるのではないか、彼ならイムヤを救ってくれるのではないか、と。

 

 

 そして、朧気ながら今回の計画が浮かんだ。だけど、それには二つの障害があった。

 

 先ず、彼は試食会の時と違って本格的に業務を開始した。故に、一日の殆どをその時間に割かれる。それ以外の時間は食事に入浴、就寝と必要不可欠なものであるため、その中で無理矢理イムヤとの時間を捻出してくれるのか疑問であった。

 

 また、計画では長時間イムヤと彼を二人っきりにする必要がある。初めて会った時に彼は何もしないと言い、試食会の朝も何もしてこなかった。だが、それは周りの目があったからであり、それが取り払われてしまった場合に本当に何もしないのか、それが気がかりだった。

 

 これらの障害、特に後者は特に重要である。もし仮に彼が手を出したなら、けしかけた私、そして私たちは絶対に元に戻れない。ただ同じ傷を受けただけで根本的解決にならず、且つそこで終結してしまうことが目に見えていたからだ。

 

 

 それだけは回避したい、だから彼に対する態度を大きく変えた。ちょうど彼と接する口実がある。それを使って、彼が本当に手を出さないのかを試したのだ。

 

 自慢するつもりではないが、私の身体は潜水艦(みんな)の中で一番良いだろう。だから初代も私を指名したのだ。つまり私の身体で、それも明らかに誘っていると分かるように接することで大抵の男性は受け入れるだろう。もし彼が受け入れたらこの計画は頓挫、次の機会を待つだけだ。それに彼は既に榛名さんに言い寄られ、頑なに拒否している。勝算はあった。

 

 

 そして、彼は予想通りに拒否した、それも何度も。最も危惧していた障害を取り除くことが出来た。そこからは、ただ二人っきりにさせる状況を作り出せる機会を伺った。そして昨日、その機会が巡ってきたのだ。

 

 後は、今しがた提督が言った通りだ。真っ先に出撃の延期を提案し、彼に直談判で通す、そして彼を一人にさせるために後をつけ、運よく(・・・)海に叩き落された彼をドックに放り込み、彼の状況をイムヤに伝えた――――直接イムヤに言ったわけではなく、私が他の子に話している内容を敢えて盗み聞きさせる(・・・・・・・)ように彼女の近くでわざとらしく声を張った。

 

 

 正直、イムヤが彼の元に行くかどうか、そしていざ彼女を目の前にした彼が本当に手を出さないか、これらは賭けだった。前者は彼女の気質を、後者は今までの経験を踏まえてだが、どちらも絶対ではなかったからだ。故に、イムヤの後ろ姿を見届けてから彼女が部屋にやってくるまで、気が気でなかった。

 

 だからイムヤが帰ってきた時、彼女が鼻血を流していたことよりも計画が上手く行ったかどうかを優先してしまった。彼女を気遣う言葉をかけず、いきなり出撃のことを話し始めた彼女に心の底から落胆し、ハチやゴーヤのお蔭で上手くいったことに安堵の息を漏らし、誰しもが涙を流す場面で流さなかった。

 

 あの絵の言葉を見た時に浮かびはしたものの、その言葉を素直に受け取る資格が私には無いこと、そして今の状況が頭に浮かんだことですぐに引っ込んでしまった。勿論、その直後にイムヤが倒れたこともそうだが、とにかく全てが計画通りに済んだ。

 

 

 だから、いとも簡単に答えられた。それも若干の笑いを含みつつ、今目の前に居る彼から見ればおかしく、酷い奴だと映るだろう。だけど、事実(・・)だからしょうがない。そう意図して行い、実際にそうなった『結果』がある時点でその過程はどうでもよくなるのだ。

 

 

 『結果さえあれば後はどうでも良い』―――――――それは、()が最も心得ている事だ。

 

 

 私の言葉に彼はただ黙っている。こうもあっさりと『罪』を認めたことに呆れているのか、私が分かった上で行った事への憤りか、はたまた私からコト(・・)に及ぼうとするのを待っているのか。いや、彼が今どんな思いでいるかなんて、あまり重要ではない。だって、私の計画はまだ終わっていない(・・・・・・・)から。

 

 

 

 さぁ、『総仕上げ』といきましょう。

 

 

 

「提督ぅ……」

 

 

 彼の名を、正確にはその役職名(・・・)を呼ぶ。その際なるべく艶っぽくするよう意識し、彼にそういうコト(・・)に及ぶという意志を伝える。同時に、肩にかかっている水着を持ち上げ、外した。その瞬間、押さえつけてられていた胸の圧迫感が幾分か小さくなり、水着が重力に従って落ち始める。

 

 それを目の前で見せつければ、彼もいつも通り動き出すだろう。後はそのまま、いつも通り始めればいい。それで終わりだ。始まったばかりで終わりなんて考えるなんておかしい。だけど『終わる』のだ、ようやく。やってきたことが、やらされてきたことが、受け入れざるを得なかったことが、やっと終わるのだ。

 

 

 もうしなくていい、これが最後、これさえ終われば、もう、これ以上―――――――

 

 

 

 

 

「アホ」

 

 

 だけど、終われなかった。終われもしなければ、始まりもしなかった。ただ一言、今までかけられたことのない、何とも間抜けな声色の言葉を、同時に額に受けた衝撃と鋭い痛みだけだった。

 

 

「痛ったぁ……」

 

 

 仰け反る程の衝撃とギリギリ我慢できないぐらいの微妙な痛みに、今まで意識していた艶っぽい声を忘れ、思わず素の声が出てしまう。不味い、このままでは終われない、そう頭では分かっていながらも、ある意味一番厄介な痛みのせいで行動に起こせない。順調に落ち始めていた水着も額を抑える腕のせいで止まっている。

 

 だが、いきなり私のものではない力が現れて今にもずり落ちそうな水着を支え、あろうことか外したはずの肩へと持っていくではないか。

 

 駄目だ。これじゃあ終われも始まりもしない、この状況がまだ続いてしまう。だから早く始めないと、終わらせないと。あと一歩、あと一歩で終われる。

 

 

「だから――――」

 

「誰がそんなコトやれって言ったよ」

 

 

 そんな私の言葉を遮って、彼はそう言った。同時に頭を触れられる。その瞬間、私の身体は動いていた。

 

 

 

「嫌ぁ!?」

 

 

 

 頭に触れている彼の手を思いっきり払いのけたのだ。だけど、その手に触れることは無かった。払いのける瞬間、彼は離れたのだ。そのおかげで、彼の手を払ったことで私の視界は前を、彼の方を向いた。そして、彼の顔を見た。

 

 

 そこにあったのは先ほどの責めるような顔でも、驚くような顔もでも無い。何故か、とても悲しそうな(・・・・・)顔だった。

 

 

 

 

 

「『無理』、するなよ」

 

 

 そんな彼の口から、その言葉が飛び出した。それはただの言葉である。だけどその一言は、私の感情を大きく揺さぶった。

 

 

「な、何……言ってるの?」

 

「もう良いんだよ、『無理』しなくてさ」

 

 

 私の言葉が聞こえてないように、彼同じことをもう一度呟いた。それに、また感情が大きく揺さぶられる。こんなこと、昨日は無かった。皆と散々に泣き合った時にも浮かばなかったものが今、こんなところで、しかも()の前で。

 

 

「俺が潜水艦隊の失態を口にした時、お前は額を擦り付けるほど必死に弁明した。本当は身体を差し出すことが嫌で嫌で堪らないんだろ? だから、『無理』して身体を差し出さなくていい」

 

 

 次に現れた彼の言葉。その言葉は、まさしく今の私を体現してい――――――いや、していない。私は『無理』して身体を差し出しているわけじゃない。『必要』だから、そう『必要』だから差し出しているのだ。終わらせるために喜んで(・・・)差し出しているのだ。

 

 

「俺に触れる時、お前はいつも後ろ(・・)からだった。そして俺から触れようとした時は離れて、今は手を払いのけた。本当は触れられるのが怖くて怖くて堪らないんだろ? だから、『無理』して俺に、()に触れなくていい」

 

 

 また現れた言葉。いや、違う。『必要』だから彼に触れてきたのだ。イムヤの安全を少しでも確保するために、そのために『必要』だから触れてきた。さっきのは『必要』じゃなくなったから拒否しただけ、決して『無理』をしているわけじゃない。

 

 

「俺が『無理』をするなって言ったら、お前は今そんな顔(・・・・)をしている。本当は辛くて、泣きたくて堪らないんだろ? だから、『無理』して笑わなくていい」

 

 

 またもや現れたそれ。違う、『必要』だから笑っていた。潜水艦隊内の空気を少しでも明るくするために、そして私の感情を悟らせないように、『無理』していること(・・・・・・・・・・)を悟らせないように、そのために『必要』だったから。そう、弁面しなければ。

 

 

 

「ち、ちがぁうぅ……」

 

 

 だけど、私の口から漏れたのはハッキリとした言葉でもなく、怒気を孕んだ言葉でもなく、ただただ弱弱しいかすれ声だった。その時、私の視界に映る彼は輪郭の殆どが()によってぼやけていた。

 

 

「俺の言ったことを否定する時、今の声だった。本当に弱音を吐きたくて、泣き叫びたくて堪らないんだろ? だから、()は『無理』して堪えなくていい」

 

 

 

 ぼやけた彼の顔が微妙に変わる。どう変わったのか、それは分からなかった。が、次に現れた言葉で、それがどのような顔であるのかが分かった。

 

 

 

 

 

「今までずっと、アイツらのために『無理』してくれて、本当に『ありがとう』」

 

 

 

 その言葉に否定しようとしたのか、肯定しようとしたのか、判別付かなかった。だって、私の口から漏れた言葉(それ)は泣き声だったから。

 

 

 

「あ、あぁぁ……ぁぁっ、あぁぁぁぁあああっ……」

 

 

 今までずっと、ずっと堪えてきた泣き声が漏れてしまう。

 

 今までずっと、ずっと溜め込んできた涙がこぼれてしまう。

 

 今までずっと、ずっと抑え込んできた感情が溢れてしまう。

 

 

 こんな姿、人に見せちゃいけない。こんな姿、晒してはいけない。頭はそう言ってる、でも身体は、感情は、心は、思考以外の全てがその命令を拒否した。拒否をして尚も、思考は見せるな、晒すな、いいから隠せ(・・)と喧しく捲し立てる。

 

 

 

 

 

「イク」

 

 

 だけど、それは聞こえてきた彼の言葉、そして視界の中で彼の顔が消え、代わりに視界一派に広がる白い何か―――――軍服の背中が現れた。

 

 

「背中、空いてるぞ」

 

 

 彼の言葉、その中に『背中』と言う言葉が聞こえた。そして、目の前に現れた真っ白な背中。

 

 

 つまり、提督は()、私に背を向けている。

 

 つまり、彼は()、後ろを向いている。

 

 つまり、彼は()の私を見ていない。

 

 

 そう理解した。その瞬間、あれ程喧しかった思考が掌を返したように他の後を追ったのだ。

 

 

 

 

「いッ」

 

 

 頭上から、提督の呻き声が聞こえる。それは昨日、彼の背中に突撃した時のものと同じだ。だけどそれ以降、彼は何も言ってこない。いや、私の耳に聞こえないのだろう。だってそれを掻き消すほどの大音量が、私の口から飛び出しているのだから。

 

 

 しばらくの間、私の耳には同じ声ばかりが聞こえ続けた。それは時折止み、嗚咽を交えながら途切れ途切れにひたすら響いた。まるでしまっていた感情を一つ一つ拾い上げて確かめるように、その一つ一つに込められた全てを曝け出した。

 

 視界は真っ暗だ。提督の背中に顔を押し付けているのだから当然であろう。そして、押し付けている背中がいつの間にか湿り気を帯び、そしてそこからポタポタと水滴が落ちていく。それは私の中に刻み込まれた痛みや苦しみ、それを帯びた記憶や感情の殆どを攫い、何処かへと持ち去っていくようであった。

 

 視界を暗くする背中は、力の限り抱き付き、抱き締め、身体を押し付ける私を良く支えてくれた。大きくて、広くて、しっかりして、暖かくて。まるで、ずっと傍に居てくれるかのような、そんな安心を与えてくれた。

 

 

 

 

「なぁ、イク」

 

 

 そんな中、提督の声が聞こえてきた。それに返事をする余裕は、今の私になかった。だから、彼の背中を握りしめる手に力を込めた。

 

 

 

「イムヤが差し出した手を握らなかったって聞いたけど、何でだ?」

 

 

 彼の声色は責めていると言うよりも、単純に疑問に思っていたことを問いかけているようであった。そうであったからか、はたまた今の私にその答えを止める術を持っていなかったからか、その答えはスルリと言えた。

 

 

「だ、だっ、て……い、イクの、手が…………イク(・・)が、汚かったからぁ……イムヤのせい(・・・・・・)だって思ったからぁ……」

 

 

 

 あの時、私の手は汚れていた。初代提督によって、汚されていた。その手でイムヤに、汚れていない彼女に触れることが出来なかったから――――――いや、違う。

 

 

 その時、ほんの少し、ほんの一瞬だけ。イムヤのせい(・・・・・・)だと思ってしまったから。そんな、汚い(・・)私だったから。

 

 

 

「だからぁ……みんなが、ああなっちゃったのは……イクの、イクのせいなのォ!!!!」

 

 

 それがあったから、イムヤはああなってしまった。それがあったからゴーヤも、ハチも、ああなってしまった。

 

 皆の仲を壊したのは私、私なのだ。だから私が何とかしないと、私が『無理』しないといけないのだ。その責任を、その業を、全て私が背負わないといけないのだ。

 

 

 

 

「しょうがないさぁ、それは」

 

 

 だけど、彼の言葉はそんな私を否定せず、むしろ肯定した。そのことに、あれだけ喚き散らしていた声が止み、あれだけ怖がっていた提督に目を向けた。

 

 

「全く、お前もイムヤもなぁ……状況が状況なんだから、そう思うのもしょうがないだろう。それに、今はそれを悔いているんだろ? だから、ずっと『無理』をしてきたんだろ? そして、その結果(・・)何とか元に戻った。今はそれでいいじゃないか? だけど、それは今日までだ」

 

 

 背中の向こうから、彼の言葉が聞こえてくる。その口調は柔らかく、まるで面と向かい、手を握られながら、目を見て言われているような、そんな感覚であった。

 

 

「これからは『無理』をする前に誰かに言ってくれ。俺でも良いし、イムヤたちでも良い。一人で抱え込まず、皆で頭を捻って答えを出せばいい。誰か一人に押し付けず、皆のせいにすればいい。あの時言っただろ、『これは一人の責任ではなく、艦隊全員の責任だ』ってな」

 

 

 彼の言ったあの時とは、初めて会った時だろう。でも、あれは今と状況が違う。だから、皆のせいになんて出来ない。そう言おうとするのを、彼の言葉が止めた。

 

 

お前のお蔭(・・・・・)で元に戻れたんだ。少しぐらい、我が儘言っても受け入れてくれるはずだ」

 

 

 彼が溢した、『お前のお蔭』。その言葉に、私は驚きや嬉しさよりも何故か可笑しさが込み上げてきた。だって、彼は先ほど『結果が良ければそれで良い』と言った。でも今、彼は『私のお蔭』だと、そして私がやってきたことを認めてくれた。

 

 

 彼は『結果』と『過程』、そして『理由』も認めてくれたのだ。これは、今まで(・・・)の中で初めてだ。初めてその三つを――――――私の全てを認めてくれたのだ。

 

 

 

 

 

「『優しい』、提督なの」

 

 

 ふと、漏れた言葉。それは彼に聞こえたのだろうか、頭上から小さく噴き出す声が聞こえた。そして、次にやってきた言葉から、彼が苦笑いを浮かべているのだと分かった。

 

 

「そうだよ、あんなこと(・・・・・)しなければ『優しい』提督だよ」

 

 

 そう、何処か茶化す様に彼は言う。その言葉に、私も思わず声を――――笑い声を漏らした。それは久しぶりに出せた、何もかもを取っ払った本当のイク()なのかもしれない。

 

 

 

「あ、一つ聞きたいことがあるのー」

 

「ん、何だ?」

 

 

 私の言葉に提督はそう言って、顔の代わりに耳を向けてくる。多分、私のことを気遣ってのことだろうが、()の私にはいらぬお世話である。そう心の中で溢しながら、別の言葉を投げかけた。

 

 

 

「何で、イクが『無理』しているって分かったの?」

 

「そりゃ、今までのお前を見てたからだよ」

 

 

 私の問いに、至極当然のように提督は答えた。だけど、その中にある『お前を見ていた』に、ちょこっとだけ引っかかったけど、おくびにも出さないように努めた。

 

 

「さっきも言ったけど、お前が抱き付くときは決まって後ろからだったし、俺が触ろうとした時に避けてただろ。それも一回や二回じゃなくて毎回だ。まぁ決め手はイムヤの話を聞いたからだけど、あれ結構傷付いていたんだからな? それに……」

 

 

 最初は世間話でもするような軽い口調であったが、言葉を切る直前からその雰囲気は一変した。同時に、私に向けられていた彼の耳が離れ、何故か天を仰ぐようにその頭が上がる。

 

 

 

 

「ここ最近、ずっと『無理』してる奴を見てきたからなぁ」

 

 

 天を仰ぐように、彼はポツリと漏らした。恐らく、その『奴』と言うのは私ではないだろう。だけど、それが誰を指すのか、それまでは分からなかった。ただ、『最近』と言う言葉からその『奴』がこの鎮守府に存在し、そしてこの鎮守府に所属する艦娘の内の誰かであることは分かった。

 

 

 そう分かった瞬間、何処からかそのことを不愉快(・・・)に思った。そんなお門違いなそれの名を、私は知っている。

 

 

 

 

 ―――『嫉妬』だ。

 

 

 

「ふーん、そうなのー」

 

「あぁ、そうだな……」

 

 

 若干の感情を込めつつ、返事をすると、お返しとばかりに生返事がやってくる。勿論、彼が意図したわけではなく、恐らくその『奴』を考えるので一杯なのだろう。そのことに、ますます私の『嫉妬(それ)』は大きくなった。

 

 

 そして、とある計画(・・)を思いついたのだ。

 

 

 

「もう一つ、聞きたいことがあるのー」

 

「んぁ、何―――」

 

 

 もう一度彼にそう言うと、彼は先ほど同様顔の代わりに耳を近づけてきた。だけど、その言葉は先ほどと違い、最後まで行くことなく途切れた。

 

 

 何故なら、私が無防備に晒していた彼の襟を掴んで引っ張り、これまた無防備に晒していた彼の頬に()を押し付けたからだ。

 

 

 

「ばッ!?」

 

 

 今までののんびりした彼とは思えない野太く、明らかに焦った声、そして私の唇と手から勢いよく離れる彼の頬と襟、同時に勢いよく立ち上がる彼の身体、そして今まで抱き付いていた背中が消え、今しがた唇を押し付けた頬を抑える真っ赤に染まったその顔が現れた。

 

 つい先ほどまで恐怖の象徴であった提督。そんな彼が与えてきたのは、恐怖でも悪寒でもない。

 

 

 顔を見てくれたと言う嬉しさと、何物にも代えがたい暖かさだ。

 

 

 

「何すんだよォ!!」

 

「『優しい提督』だから、何しても怒らないのー」

 

 

 悲鳴にも近い提督の言葉に、私は少しも悪びれることなく言ってのけた。それに、ただでさえ赤い顔を更に赤く染めて、何か言葉を吐き出そうとした。

 

 

 

「我が儘言っても、きっと受け入れてくれるのー」

 

 

 だけど、それは私が言い放った言葉、正確にはついさっき彼が言った言葉をぶつけられ、吐き出そうとした言葉を留めたのだ。勿論、それは彼にではなくイムヤたちだ。だけど、それを言った張本人が破ることは出来ない、少なくとも『優しい提督()』なら破らない。

 

 その言葉通り、『優しい提督』は言葉を飲み込んでからあちらこちらに視線を飛ばし、口をモゴモゴさせ、表情筋をフル稼働させて心の葛藤を曝け出してくれる。その様子に、思わず笑い声を上げた。その笑い声に、彼は様々に変えていた表情をただ一つ――――諦めた表情にした。

 

 

「そういうことは……ちゃんと、大切な人のために取っておけよ」

 

「分かったの、じゃあ大切な人になれる(・・・)ように頑張るの!!」

 

 

 肩を落とす彼に、笑いながら更に『我が儘』をぶつける。すると、また顔を真っ赤にさせて何か言いたげな顔をするも、すぐに何所か諦めた様な表情になった。どうやら観念したようだ。

 

 

「あぁ、もう……頑張れよ」

 

「頑張るの!!」

 

 

 ため息とともに向けられた言葉に、元気よく応える。それに、彼は疲れながらも少しだけ笑みを溢してくれた。それだけ、嬉しかった。

 

 

 

 

「ちょ――――――は、―――――ます」

 

「――――か、―――――だ」

 

 

 

 しかし、その空気は遠くから聞こえる言い争いによって消え去った。それに提督は表情を引き締めて、廊下へと続く扉の方を見る。私も同様に扉へと目を向け、そして耳を澄ませる。

 

 その言い争いは、段々と近づいてくる。その途中でおかしなことに気付いた。大きくなっていく二つの声、そのうちの一つが明らかに男性(・・)のものなのだ。

 

 だけど、この鎮守府には提督以外男性は居ない。なので、ここで彼ではない男性の声が聞こえるのは有り得ないのだ。ふと提督を見ると、彼は訝し気な顔をしている。私同様、聞こえてくる声のおかしさに気付いているようだ。

 

 

 だけど、いきなりその顔から感情が消えた。

 

 

「まさか……いや、でも」

 

 

 彼の口から漏れた言葉。その言葉、そしてそう漏らしてから現れた、明らかに焦っている顔。その声の主が誰なのか分かったのかだろうか、それともその答えに確証が持てないのか、彼はブツブツと考え事を続ける。

 

 

 

「だか―――――、こ―――ます!!」

 

「うる――――、さっさと――――ろ」

 

 

 なおも外から聞こえる声は大きく、そしてここに近づいてくる。ここで、私は男性では無い方の声が誰なのか分かった。仮に男性が鎮守府外から来たとすれば、今日の秘書艦である彼女が対応するのはもっともだろう。しかし、その()が問題なのだが。

 

 それを十二分に理解しているだろう提督は、その瞬間に顔を上げた。そこにあったのは先ほどの訝し気な表情ではなく、やってくる何者かが誰であるかが分かり、その事実に焦っている表情であった。

 

 

 

「嘘だろ」

 

 

 そう漏らして、彼は勢いよく扉に走り出した。しかし、走り出す前にそこまで近づいていたのだろう。提督が扉のノブに触れる前に勝手(・・)に動き、扉は勢いよく提督目掛けて開け放たれた。

 

 

「ッ!?」

 

 

 迫りくる扉を、提督は間一髪の所で避けた。そして、改めて開け放たれた扉の前に立つ。彼の足が落ち着く床、その向こうに見知らぬ黒いブーツが見えた。

 

 

「す、すみません、提督ぅ……」

 

 

 その時、男性ではない声――――申し訳なさそうな榛名さんの声が聞こえた。だけど、提督はその声に応えない。何も言わず、ただ目の前に立っているであろう黒ブーツの人物を見ているのだ。

 

 

 

「全く、素直に案内すればいいものを……」

 

 

 次に聞こえたのは、提督ではない男性の声、つまりは黒ブーツの人物だ。いや、黒ブーツと言っていたが、私はその人物を、少なくともその役職名(・・・)を知っている。それはずいぶん昔、まだ初代提督が居た頃、彼と手を組み、艦娘()たちを道具のように扱った存在。

 

 

 

 ――――憲兵である。

 

 

 

「何でお前がここに……」

 

「事前に資料を送らせた筈だぞ……まぁ、いいだろう」

 

 

 腹の底から絞り出すような声を、提督が漏らす。すると、その憲兵は鼻で笑った。まるでその問いを受けて、提督を見下す様にわざとらしく。

 

 

 だけど、次に聞こえた憲兵の言葉。それは普通の鎮守府において当たり前であろうが、私たちの鎮守府では絶対にありえない事であった。

 

 

 

初めまして(・・・・・)、提督殿。本日付けで当鎮守府に配属となりました、憲兵の花咲(はなさき) 林道(りんどう)と申します」

 



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都合の悪い『最適解』

「久しぶりですな、明原提督(・・・・)殿」

 

 

 久方ぶりに呼ばれた俺の名字、それも役職である『提督』を付けて。目上の人に対しての呼称ではあるが、その前にある砕けた口調、それを発した男の顔には一切の敬意が感じられない。むしろ、目の前の人――――俺を蔑むような目をしているのだ。

 

 その言葉、そして明らかに蔑むその態度に対して俺は抗議出来る。その態度を叱責して部屋から出て行かせることも、その気になれば中将に具申して憲兵自体を変えてもらうことも出来るかもしれない。

 

 だけどそれをしなかった、厳密に言えば出来なかった。この生意気な憲兵を叱責して立ち退かせることよりも、何故彼がここに居て、彼が『ここに配属になった』と口走ったことが頭が衝撃過ぎたからだ。

 

 

「おい、挨拶の一つも返せないのか?」

 

 

 次に聞こえた憲兵の言葉。今度は侮蔑を隠しもせずに、そしてイラついているとのたまう様にわざとらしく語気を荒げている。その顔も、不機嫌そうに歪んでいる。

 

 そう、その顔(・・・)を、俺は見たことがある。それは遠い昔、まだ俺がここに配属された頃。演習中に襲撃を受けたことの弁明、及び俺は配属された本当の理由を聞かされた時。

 

 

 

 その時、俺を案内した憲兵――――――――朽木(・・) 林道だ。

 

 

 

「朽―――――」

 

「これが新しい書類だ。目を通しておけ」

 

 

 俺の言葉を掻き消すように朽木はわざとらしく声を張り上げた。それに言葉を詰まらせると、その間を使って奴が近づき、手持ちの鞄から大きな茶封筒を引っ張り出した。

 

 

 

その名(・・・)で呼ぶな」

 

 

 茶封筒を押し付ける際、耳元でそう囁かれた。それとともに人を黙らせるほどの眼力をもって睨み付けてくる。その眼力を、俺は学生時代に良く向けられていた。それはヤツに不都合な(・・・・)ことが起こった時に現れ、大概の人間はそれだけで黙ってしまう。

 

 そして、俺も例外に漏れず黙ってしまった。押し付けられた茶封筒を受け取り、中を検めもせずに茫然と林道の顔を見るのみ。そんな俺にヤツは訝し気な顔を向けるも、興味を失ったのかすまし顔で俺から視線を外し、あるモノを捉えて何故か鼻で笑った。

 

 

「『艦娘と逢引する』など、執務にない筈だが?」

 

 

 その言葉に、ヤツは俺の後ろに居るイクを捉えたのだと理解した。そして、言葉にならない小さな悲鳴が聞こえたことで彼女であり、尚且つ怯えていることを確信する。そして、次に舌打ち(・・・)が聞こえた。

 

 

「待―――」

 

 

 林道を引き留めようと声を上げその腕を掴もうと振り返った時。ヤツは既にイクの元に歩き出しており、その向こうに一歩後ずさる彼女の姿が見えた。

 

 

「上司同様、挨拶も無しか。これは見過ごせん」

 

「ぃ、ゃぁ……」

 

 

 俺に向けた皮肉を吐きながら手を上げる林道、そして近づいてくるヤツに怯え切るイク。その距離はどんどん詰められていく、彼女の顔に浮かう恐怖が色濃くなっていく。ヤツの手が彼女に触れるのも時間の問題であり、尚且つ二人の間に割り込める余裕もない。だから、声を張り上げて止めようとした。

 

 しかしその距離も、イクの顔に浮かぶ恐怖も、彼女に近付くヤツの手も、そして張り上げようとした俺の声も。時計の針を無理やり動かす様に進められたそれらは、唐突に止まった。

 

 

 

林道(・・)さん」

 

 

 そう、榛名がヤツの名前を口にしたからだ。そう発する前に俺の横を素通りし、発したと同時に林道の腕に自らの腕を絡ませてその動きを止めたからだ。

 

 いきなり腕を絡められて驚いたのだろう、林道は弾かれた様に榛名の方を向く。その向こうに居るイクも、ヤツと同じような顔を榛名に向けている。そんな二人の視線を向けられた榛名の顔は見えない。ただ、顔を向けられた瞬間、ヤツに絡みつくその腕に力が込められるのを見逃さなかった。

 

 

「申し訳ありません、彼女は提督以外の男性に慣れていないんです。私からも謝りますので、どうか許していただけませんか」

 

 

 何処か申し訳なさそうな声色で榛名はそう言い、更に絡みつく腕に力を込める。それは林道の腕を止めていると言うよりも、自らの身体を押し付けているようにも見えた。その姿に、俺の胸がチクリと痛んだ。それは先ほど俺が口にした言葉が思い浮かんだからだ。

 

 

 

 また『無理』をさせてしまった、と。

 

 

 

「俺からも謝る。申し訳ない」

 

 

 それが原動力となり、俺の身体は動き出した。今も林道に絡みつく榛名の横に立って彼女の肩を掴み、頭を下げながら彼女を離れさせようとする。しかし、榛名は離れたくないのか更に力を込めてきた。チラリと横目で彼女を見ると、そこには必死の形相があった。

 

 だがそれも、次の瞬間別のものに変わる。それと同時に、あれだけ抗っていた彼女の力が唐突に消えたのだ。

 

 

「もういい、離せ」

 

 

 そう吐き捨てた林道が、絡まれていた榛名の腕を振り払ったからだ。林道と言う支えを失った彼女の身体は、俺に引かれるままに後ろへ倒れる。それに俺は慌てて腕を背中に回して何とか支えた。そして、支えたことで正面から彼女と目が合う。

 

 

 予想通り、向けられたその目には怒り(・・)が込められていた。

 

 

「お前とその艦娘に免じて、今回は見逃してやる」

 

「助かる。それと詳しい説明をしてくれないか?」

 

 

 視界の外から聞こえる少しだけ狼狽えた林道の言葉に、俺はヤツに視線を向けつつそう問いかけた。尚も榛名の視線を感じるも、見て見ぬふりをする。勿論それだけではなく、俺の言葉にヤツの視線が何処に向かうのかを見逃さないためでもある。

 

 そして案の定、林道の視線は俺が抱き留める榛名、ヤツの後ろで震えているイクへと移る。これもまた、無意識に不都合だと思っている存在を見てしまう癖を知っていたからだ。故に、二人には聞かれたくない話であると分かった。

 

 

「榛名、悪いがイクを部屋まで送ってくれ」

 

「え……で、でも――」

 

「これは()()()()だ。速やかにイクを部屋に送ってくれ、良いな?」

 

 

 畳みかける俺の言葉に榛名は口にしようとした言葉を飲み込み、その視線をイクに向けた。俺も向けると、未だに震えてはいるがここから離れられると分かって安堵している彼女が見える。それを見て、俺はもう一度榛名に視線を向けると、何処か諦めた様な目を浮かべていた。

 

 

「はい……」

 

 

 明らかに意気消沈と言った声色でそう返事をした榛名は俺の手を離れ、林道を素通りしイクに近付く。俺から離れる際、初めから俺の手を触れたくなかったかのように振り払われた。

 

 

「イクちゃん、大丈夫?」

 

 

 そう言ってイクの手を掴み、もう片方はその背中を摩る。榛名が近くに来たことで安心したのか、イクの顔が若干緩む。それを見た榛名は小さな笑みを浮かべ、イクの手を引いて廊下へと続く扉へと速足に歩き出した。

 

 

「では、失礼します」

 

 

 彼女はそう言って俺たちに向き直り、頭を下げる。ある程度余裕が出来たイクも彼女に習って頭を下げ、二人は執務室を出て行った。それまでの間、榛名の視線が俺へと向けられることは一度も無かった。

 

 

 

「『提督命令』、か……似合わんなぁ?」

 

 

 ふと、林道からそんな言葉と共に蔑む目を向けられる。それを一瞥し、特に何も言わない。こんな安い挑発に乗るだけ無駄、そう斬り捨ててヤツが手渡してきた茶封筒を開けた。

 

 

「しかし二度も命令を下さないと従わないとは、上官に対する教育がなっていないではないか」

 

「生憎、そんな教育をする暇が無くてね」

 

「お前に才能が無い、の間違いだろ」

 

 

 更に繰り出される林道の挑発を適当に受け流しながら書類に目を通す。視界の端で何故か俺を睨み付けてくるが、書類を読むのに忙しいってことで無視する。流石のヤツでも自分に関する書類を読む邪魔をするのは気が引けたのだろう、睨み付けつつも言葉を発することは無かった。

 

 

 ともかく、林道は書類を持ってきた。取り合えずそこから色々と状況を把握していこう。

 

 先ず、俺が上層部の前で啖呵を切ったことで大本営としては俺と中将の二人に今回の件を任せた。しかし、そのことに納得しない一部の上層部がうちの鎮守府に連絡役を配属させることを提案。元帥以下上層部の面々もこれに賛同し、俺も金剛を秘書艦から外した際に大本営の正式な物資支援を行うことを条件にこれを呑んだ。

 

 しかし、大本営との決別を宣言したうちの鎮守府である。いつ何時、何の拍子に再び艦娘たちが反旗を翻すか分からない、仮に反旗を翻した際の責任は重く、それ以前にそうなったら真っ先に狙われるのは自分である、いわばいつ爆発してもおかしくない爆弾の傍にずっと居座るようなモノだ。

 

 更に、此処は大本営から目の上のたん瘤であり、出世を目指すエリート思考の人間には出征街道と正反対、今後の人生計画が崩壊してしまう。そんな貧乏くじも通り越したもう疫病くじじゃないかと言われそうな役目に誰が首を縦に振るだろうか。

 

 配属を求められた人間には悉く拒否されてしまったのだろう。また上層部と実際に派遣される人の間に立つ人間も、部下が失敗した際の責任を恐れて他人に押し付ける。それを受けた人間も他に擦り付け、この一件は散々たらい回しにされたのは明白だ。それが、今日まで配属が遅れた一番の原因だろう。

 

 勿論、そんな経緯などこの書類に書いてあるわけではなく、条件を呑んだ際に聞いたことと今日まで憲兵が配属されなかった事実を加味すれば、こんな裏話があっただろうと想像しただけだ。

 

 そんな経緯があってかは知らないが、取り敢えずすったもんだの末にようやく人員が決まり、配属準備も終わった。そして、本日その人員が派遣され、この件は一段落である。また、その人員と共にやってきた件の書類には配属理由が記された証明書と共に配属された人員の顔写真付き資料が添付されている。

 

 

 その顔写真、そして記載された資料と全くの別人(・・)が目の前にいる。これこそが問題なのだ。

 

 

「……本当にお前が配属されたのか?」

 

「あぁ、書類上(・・・)は彼だがな」

 

 

 俺の質問に、林道は涼しい顔で答える。その言葉に、俺は改めてその顔写真に映っているヤツではない『彼』を見る。その人物に見覚えはある。もう数週間前になるが、夕立が初めて秘書艦をやってくれた日、鎮守府の門でであったからだ。

 

 そして、彼もまた自身を書類上(・・・)の憲兵であると言い、後日本当の憲兵がやってくると言っていた。つまり、彼が言っていた本当の憲兵と言うのが、今目の前にいる林道なのだろう。

 

 

「確かに、彼も同じことを言っていたな。ならそれを踏まえて、何故お前がここに来たのかを説明しろ」

 

「おや、さっきと違って随分喧嘩腰じゃないか。なるほど、これが提督様の威厳ってや――――」

 

「御託は良い、とっとと説明しろ」

 

 

 安い挑発を続ける林道に黙らせるため、語気の強い言葉を吐いて睨み付ける。俺の言葉にヤツは何か言いそうになるも、視線を合わせた瞬間にその顔が何故かニヤリと笑った。

 

 

「イラつくとその目になるの、昔のままだな」

 

「『御託は良い』って、言った筈だ」

 

 

 なおもふざける林道にもう一度言葉を向ける。すると、ヤツはやれやれと言いたげに肩をすくめた。その仕草に込み上げてくる怒りを抑えながら、俺はヤツの話に耳を傾けた。

 

 

 林道の話は先ず何故憲兵が配属されることになったのかから始まり、そしてそれは俺が想像した通りのものだったので省く。取り敢えず、ヤツにこの話が回ってきた直前から始めよう。

 

 

 先ず、林道は父親である朽木中将の勧めで提督から一転、憲兵へと志願した。今まで提督となるべく勉強と訓練を行ってきた手前、畑が違う憲兵への転属は難しいらしいが、地頭の良さと中将のご子息と言う威光を背に無理矢理突き進み、無事憲兵隊所属となった。俺が大本営に呼び出された時は所属したばかりで、配属先を言い渡される前だったらしい。

 

 そして俺が鎮守府に戻ってからもうすぐ配属が決まる直前に、うちの鎮守府に憲兵を配属させようとしていると噂を耳にした。それを聞いて、何故かヤツはうちに配属することを上官に具申したのだ。上官からすれば、中将のご子息の身に危険が及ばないようにと慎重に慎重を重ねて決めた苦労を台無しにされるようなもので、更にあれだけたらい回しにされた役目にヤツを任命するなど自分の首を絞める行為である。故に、当初は難色を示しつつオブラートに包んだ非難を浴びたとか。

 

 

「何でうちに?」

 

「言っただろ? 『お前がやらかしたら真っ先に確保してやる』と」

 

 

 その理由を聞くと林道はまるで待ってましたと言わんばかりに声を張り上げ、その顔に笑みを浮かべながらこう言った。その言葉を聞いたのは、やはり大本営に呼び出された時だ。しかし、それだけ言うとヤツは口を噤んでしまう。同時にその笑みも失われ、いまいち感情が読み取れない顔になる。

 

 

 この表情は学生時代にも見たことがない。こればかりは判断がつかないため、取り敢えずは置いておこう。

 

 

 自身の上官に相手にされなかったため、そんな上官の制止を振り切り林道は上層部の一人に直談判した。それもうちの鎮守府に連絡役を配属させようと言い出した張本人に、だ。勿論、新人憲兵がそんなことをして許されるはずも無く、いくら父親の威光があっても同じく上層部に所属する人物に通用するわけがない。誰しもがそう思ったに違いない。

 

 

 だが、何故か林道の談判は通ってしまった。

 

 

「その理由は?」

 

「今言ったことをお話しした結果さ。このお話をさせていただいた時、大層お喜びになられていた」

 

 

 俺の問いに、林道は先ほどの顔から打って変わり、自慢げな笑みを浮かべた。自分の意見が通ったことが嬉しいのか、その上層部に喜ばれたのが嬉しいのか、いまいち判断がつかない。だが、今こうしてヤツがいるわけで、恐らくは何らかの理由でその上層部の一人が任命したのだろう。

 

 

 だが、それだと説明がつかないものがいくつかある。

 

 

「その上層部とやら直々の任命なんだろ? なら、何でこの書類はお前じゃないんだ?」

 

 

 先ず一つ、それは俺の手にある書類。林道の話を鵜呑みにするならこの配属は大本営が決定した正式なものだ。ならば、この書類も正式な情報が載っている筈である。だが、書類には林道ではなく以前うちにやって来た憲兵が記載されており、正式な書類を証明する印もある。普通なら書類の内容を優先し、ヤツの話は真っ赤な嘘になる。

 

 だが、林道は自身の話を真っ向から否定する書類を隠すことなく差し出してきた。更に、ヤツが口走った『書類上は』との言葉。これらを汲むと、本来配属される林道を書類上では別の人物であると偽装していることになる。

 

 

「そして、うちと大本営との連絡役は朽木中将が担っている。今回の件、あの人に通したか?」

 

 

 もう一つ、それは中将が今回の人事を把握しているかどうか。うちと大本営のパイプはあの召集以降中将が担っている。故に、うちに関わることは全てあの人が把握している。そして、俺が以前あの人に林道を憲兵隊に活かせた理由を聞いたとき、自分とは同じ苦痛を味わって欲しくないと、言った。息子を別の畑に向かわせるほど提督、そしてうちの鎮守府から距離を置こうとした彼がこの配属を見過ごすわけがない。

 

 しかし、現に林道は此処へ正式に配属されている。また、書類上で別の人物を据え置き偽装している時点で誰かを騙す必要がある案件であることだ。その騙さなければならない誰かが林道を鎮守府に配属させたくない中将であるとすれば、先ほどの書類偽装に筋が通る。

 

 

 さて、ここまでは物的証拠と憶測を交えたモノだ。が、次は完全な憶測の内である。しかし、もしこの憶測が正鵠を射ているならば、今までの話がグンと信憑性が増す。同時に、最大限の警戒を持ってことに当たらなければならなくなる。

 

 

 

「お前をうちに配属させた、その上層部の一人ってのは誰だ?」

 

 

 その問いを、一呼吸おいて林道に投げかけた。対して、ヤツの顔は今まで見せていた笑みを消し、感情が読めない表情になる。いや、それは俺が今までの問いを投げかけている間にその表情に変わっていた。あれだけ俺の質問に茶々を入れ、答える時は不敵な笑みを浮かべていたにも関わらず、今ではその表情のまま黙りこくっているのだ。

 

 そんなヤツに俺が構わず問いを繰り返したのは、一重にこの質問をぶつけるためである。

 

 今までの話、そして憶測を組み合わせてみよう。その人物とやらは、俺が信用できないとして直接的なパイプ役を提案した。更に彼は林道の直談判を受け入れ、その父親である中将を騙すために別の人物を書類を偽装したのだ。先ほどヤツが自らを『花咲』と言ったのも、少しでも身バレを防ぐための対策かもしれない。

 

 それだけのことを秘密裏に行った。それは俺と中将を信用していないから、つまり俺たちは彼から反感を買っているわけだ。そんな彼が、そこまでのことをして林道を送り込んできた目的は? 少なくとも、俺に都合の良いモノではないだろう。

 

 また彼も中将と同じ上層部の一員であり、中将同等の権力を持っている。故に書類上の偽装を行えたのだ。そんな彼が中将に対抗する戦力を保有していてもおかしくないし、持っていなくても権力を持って周りを纏め中将に対抗する可能性もある。

 

 そうなった場合、元々大本営に喧嘩を売ったうちである。大本営から不信感を買っている今、最大の支援者を絶たれたらそこで終わりだ。そんな事態の引き金が今目の前に立っているのだ、これを警戒しないわけにはいかないだろう。

 

 その目的が見えないにせよ、取り敢えずは中将に報告しなければならない。報告して、警戒を促さなければならない。勿論、林道もだ。その手を持ってここに配属されたなら、ヤツに何らかの目的を命じている可能性もある。もしくは、林道がいると分かれば中将側で何とかしてくれるかもしれない。こればかりは人任せだが、俺が手を出せる範囲を超えているから仕方がないだろう。

 

 ともかく、今はその人物の情報を聞き出さなければならない。林道は渋るだろうが俺の言い分に筋は通っているし、言わなくても報告と一緒に違う人員を申請すればいい。今ここでヤツが言う言わないにしても、中将への報告でこの件は片が付く。

 

 

 

「邪魔するぜ」

 

 

 だが、その流れは唐突に打ち切られた。その声の方を見ると、扉の向こうからいそいそと天龍が入ってくる。彼女の後ろには龍田も控えており、何処か申し訳なさそうな顔である。だがその顔も俺を、そしてその前に立つ林道を見て瞬く間に変わった。

 

 

 天龍はキョトンとした顔に、そして龍田は真顔に。

 

 

「貴様、ノックもせずに入ってくるとは何事だ!!」

 

 

 突如、林道が声を張り上げた。その語気は荒く、俺や天龍が身を震わせるには十分だった。ヤツは大声でそう言い放つと、わざとらしく足音を立てて歩き出す。その先は固まっている天龍、いや固まっているだけではない

 

 その顔は強張っており、その身体は明らかに震えており、そして何より彼女の目に光るもの(・・・・)が見えるのだ。しかし、次の瞬間、その姿は紫がかった黒髪に、次に真っ黒なモノに遮られてしまった。真っ黒なモノとは憲兵の真っ黒な制服、つまり林道の背中である。

 

 

 だが、おかしなことにその背中から下へと伸びるヤツの両足は、何故か宙に浮いていた(・・・・・・・)

 

 

「ぐっ!?」

 

 

 次の瞬間、林道の呻き声と共にその背中が床に思いっきり叩き付けられる。先ほどまでヤツの背中があった場所には先ほどの黒髪を振り乱した龍田がいた。その顔はやはり真顔である。だがその手は床に倒れ伏す林道の襟を掴んでおり、もう片方は高々と上に掲げられている。

 

 

 鋭く光る薙刀の切っ先を林道に向けて。

 

 

「やめろ!!」

 

 

 俺が声を上げるも、その言葉を無視して振り上げられた龍田の手は思いっきり振り下ろされる。同時に薙刀の切っ先は林道へと吸い込まれていく。

 

 

 

 

 

「たつ、たぁ……」

 

 

 だが、その切っ先は林道の目前でピタリと止まった。あれ程の勢いで振り下ろされていた、俺の絶叫にも動じなかった龍田の手が止まったのだ。止めたのは、蚊の鳴くような小さな小さな声だった。

 

 それを受けて、あれ程頑なに感情を浮かべなかった龍田の顔に、いつもの柔らかい笑みが現れる。その顔を、彼女は今しがら薙刀を突き立てようとした林道でもなく、彼女を止めようと声を張り上げた俺でもなく、ただ一人の人物に向けた。

 

 

 

 

「なぁに、天龍ちゃん?」

 

「や、やめ、ろ……」

 

 

 いつもの声色で龍田はその人物の名を呼び、呼ばれた天龍はつっかえつっかえながらも言葉を吐いた。いや、本当にその言葉を発したのが天龍なのかと疑問に思うほど、その言葉が弱弱しい。同時に先ほど見た彼女の様子から、更に酷くなっていた。

 

 

 顔は強張りを通り越し、明らかに脅えたモノになっている。同時に、大きく見開かれた目からは大粒の涙がいくつも零れその頬を、その上着をぐっしょりと濡らしていた。また、半開きになった口から歯がかち合う音が聞こえる。

 

 自らを庇う様に両肩に回された手は無数のシワを上着に刻み、その身体は先ほどよりも激しく震えている。辛うじて身体を支えているその足も立っているのが不思議なぐらい激しく震えていた。

 

 もし、今の彼女を一言で表すとすれば、誰しもがこう表すだろう。

 

 

 『恐怖』――――と。

 

 

 

「戻りましょう」

 

 

 そんな天龍を見た龍田は小さくそう言うと天龍の傍に屈み、その腕を自らの肩に回す。いきなり回された天龍の身体が盛大に震えるも、龍田はその腕を掴んで離さない。無理矢理天龍を立たせた彼女は、こちらを見ることなく扉へと向かう。

 

 

「待て!!」

 

 

 だが、そこに怒号が投げかけられる。発したのは林道、ヤツは上体だけを起こして後頭部を摩りながら鋭い視線を龍田たちに向ける。だが、彼女たちはそれに振り返らない。いや、天龍に至ってはヤツの怒号に小さな悲鳴を上げ、再びその場に座り込んでしまったのだ。

 

 

「だから待てと言ってるんだ!!」

 

 

 龍田は座り込んでしまった天龍の傍に再び屈んで、無理矢理引っ張り上げようとする。だが、そこに林道は更に追い打ちをかける。そのせいでなかなか天龍の身体が上がらず、龍田の顔から段々と柔らかい笑みが消えていく。

 

 

「おい、聞い――――」

 

「黙りなさい」

 

 

 何度目かの怒号を、龍田の一言が掻き消した。それは怒号ではなくポツリと呟くような一言だったが、林道の怒号を掻き消した。いや、正確に掻き消したのはその一言ではなく、龍田が向けた視線だろう。

 

 

 

「黙らないと壊すわよ(・・・・)?」

 

 

 そう告げながら、彼女はその視線を―――――一切の温度と感情を感じさせない、帯びている筈の殺気すらも感じさせない、久しぶりに見た兵器のような目、それを林道に向けたのだ。それに、ヤツの顔が強張る。だが、その次に現れたのは『怒』の表情だった。

 

 

「黙れとは何だ、黙れとは!!」

 

「言葉通りよ」

 

 

 龍田のあの視線を諸に受けても、林道は臆することなく声を荒げる。その反応に、龍田は隠していた筈の殺気を惜しげも無く表し、再度林道に言葉をぶつける。この時、彼女の手は天龍の腕を離れていた。

 

 

「大体、いきなり押し倒すとは何事だ!!」

 

「いきなり大声を上げて勝手に詰め寄ってきたのは貴方。私はそれに対処しただけよ」

 

「それはお前らがノックもせずに入ってくるからだろうが!!」

 

「ノックをしなかっただけ(・・)じゃない。危害を加えたわけでもないわ」

 

「なッ!? それは――――」

 

 

 目の前で龍田と林道による言葉のドッジボールが展開される。両者は一歩も譲らず、収まるどころか激しくなる始末。恐らく廊下や隣の部屋にも駄々洩れであろう。普段は飄々とした龍田、そして林道は完全に血が上っているのか、そのことに気付く様子はない。

 

 そして、龍田に手を離された天龍はその場で座り込んでいた。だがその顔は、『恐怖』と言う言葉を表したその顔だけは頭上を、林道に言葉をぶつける龍田を捉えている。そしてその手は龍田の制服を掴み、何かを訴えるように引っ張っている。

 

 

 明らかに、『無理』をしているのだ。

 

 

 

 

 

「お前ら、いい加減にしろ」

 

 

 それを見て、俺は声を漏らした。大して大きくも無い、普通の声だ。だが、その一言であれだけ激しかった二人のぶつかり合いがピタリと止まった。止まったと同時に、三人の視線が俺に集まる。そのうちの一つを除いて、俺はその視線たちと目を合わせる。

 

 

「龍田、何で執務室に来た?」

 

「……昨日の件、改めて提督に謝ろうとしました」

 

 

 その一つである龍田と合わせた時、そう問いを投げかける。それに龍田は俺から視線を外しつつ、ぶっきらぼうにそう答えた。昨日の件、俺を海に落とした事か。それは書類を工廠に持っていくことで手を打ったはずだが、わざわざ謝りに来てくれたのか。

 

 

「そうか、分かった。なら、彼にあんなことをしたのは?」

 

 

 その次に、彼女がやったことの理由を問う。だが、龍田は何も応えない。ただ、自分の制服を引っ張る天龍を一瞥するのみ。それだけで、何となく理由は察した。

 

 

「何とか言――――」

 

「なら、後で聞こう。じゃあ、今ここで互いに謝れ。一旦は終わりだ」

 

 

 黙り込む龍田に業を煮やした林道の言葉を遮りつつ、部屋に戻る様促す。その瞬間、三人の顔が一斉に俺に向けられる。今度はその全てに目を向けることなく、踵を返して机に向かう。だが、それは後ろから肩を掴まれたことで叶わなかった。

 

 

「俺は被害者だぞ!!」

 

「一旦は、だ。勿論、後で説明させる。それに発端は龍田でも、いきなり掴みかかったのはお前だ。少なくとも非はある(・・・・)

 

「だ、だが―――」

 

「申し訳ありませんでした」

 

 

 俺の言葉に食い下がる林道を尻目に龍田は澄ました声でそう言い、深々と頭を下げた。下から現れたその顔はいつもの柔らかい笑みではなく、先ほどの真顔だ。感情が籠っていない、ともとれる。そのせいか、林道は頑なに俺に食い下がり続けて謝る気配が無い。

 

 

「龍田、取り敢えず天龍を部屋に連れて行ってくれ」

 

「了解です」

 

 

 このままでは埒が明かないので、俺はさっさと主目的(・・・)に切り替えた。この場で一番ここにとどまりたくないのは天龍だ。だが、彼女は龍田が言い争いを終えるまで大々的に離れたいと言わずに待ち続けただろう。だから、何とかして話を纏めて天龍をここから離れさせようとした。まぁ、正直これ以上目の前で言い争いを続けられても困ると言う本音もあったが。

 

 龍田自身もそれを望んでいたのか、即座に反応して自らの制服を掴む天龍の手を取って立たせる。先ほどよりも幾分か力が入る様になったのか、天龍はぎこちないながらも立ち上がれた。そして、ようやく廊下へと続く扉に手をかけた。

 

 

朽木(・・)、こっちの話は終わってないぞ」

 

 

 その後ろ姿に食い下がろうとする林道に釘を刺しておくため、敢えてヤツの気を引く言葉(・・)を口にする。案の定、ヤツは龍田たちから俺に目を向ける。だが、その背後で扉が閉まった瞬間慌てた様に振り返るも、そこに誰も居ない。

 

 

 

「その名で、呼ぶな」

 

「すまん、つい癖でな」

 

 

 苦々し気な顔を向けながら言葉を吐き出す林道に適当に嘯いておく。それを受けて林道は何か言いたげな顔になるも、口を挟ませることなく俺は再度言葉をぶつける。

 

 

「でだ、お前をここに配属させたのは誰だ?」

 

「答えるわけないだろう」

 

 

 俺の問いに、林道はぶっきらぼうにそう返した。予想通り、と言うかそうとしか言わないだろうな。と言うことなら、他の問いも同じ答えだろう。此処で話は終わりだな。

 

 

「そうか」

 

「言っておくが、父上に報告しない方が良いぞ?」

 

 

 だが、次に聞こえたのは問いではない、忠告だった。それも、いましがた俺がやろうとしていたことへのだ。

 

 

「……いきなりなんだ?」

 

「アホか、お前があの答えで引き下がるわけがない。大方、父上に報告して対処してもらおうとか考えていたんだろう。だが、それをすればここは終わりだ」

 

「言ってる意味が分からん」

 

 

 俺が中将に報告したら、鎮守府が終わる。言っている意味が分からない。と、言いたいところだが、一つだけ予想していることがある。それは林道を送り込んだ人物の目的だ。あれほど高らかに信用できないと言い、そして正式な書類を偽装してまで林道を送り込んできたその人物が描く、それも最低最悪の事態を想定した際に導き出した、俺にとって都合の悪い最適解(・・・・・・・・)

 

 

 

 『うちの鎮守府を潰すこと』――――。

 

 

 

「察したか」

 

 

 思考が顔に出ていたのか、林道はそう言いながら不敵な笑みを浮かべた。その笑みが、一番考えたくないその最適解に現実味を帯びさせる。

 

 

「あの方は、もう既に(・・)準備を整えておられる。後は、此処に攻め込む大義名分だ。つまり、俺が『何かをされた』と一言報告すればそれだけでここは終わる。そう、俺の一言がお前らの運命を左右するのだ。なんなら、今しがたやられたことを報告しても良いんだぞ? それに、もし俺の目を掻い潜って父上に報告したとしても一から準備を整える方と既に準備を整えている方、どちらが先に動けるかは明白だろう」

 

「……どうすればいい?」

 

 

 最適解を前にして、俺は抗うことなくあちらの要求を知ることにした。此処で足掻いたところで、既に二歩先を言っている相手を抜き返すのは至難の業だ。慎重に慎重を重ねなければならない。

 

 

「無論、戦果だ」

 

「戦果……か」

 

 

 一体どんな要求をされるかと身構えたが、出てきた答えは意外にまともなものであった。予想外のことに思わず首を傾げると、林道の顔は笑みから一転、真剣な表情に変わる。

 

 

「お前が召集された際、元帥は戦果をお求めになられた。であれば、その言葉を無視するわけにはいかない。ただ、他の鎮守府のような戦果では駄目だ。他から頭一つ……いや、二つは飛び抜けた戦果を挙げなければならないだろう。そうだな……さしずめ、現状は北方海域への進出か」

 

「……北方海域、か」

 

 

 林道の言葉に、俺は頭を抱えた。ここ最近執務に明け暮れはしたものの、何だかんだ時間を作って各海域の情報を集めたりしていた。勿論、今のように戦果を要求された際に対処するためだ。しかし、個人的にまだ新しい海域へ艦娘たちを向かわせるのは早いと思っている。

 

 いや、早いと言うか、怖いのだ。未知の海域に彼女たちを向かわせるのが。これは執務に専念するために海域攻略ではなく現状維持にしていた、それに逃げていた俺のせいだ。それにまだ金剛が療養中である。出来れば、彼女のペースに合わせて海域攻略を始めたい。

 

 

「それに、一度大本営(われわれ)に決別した鎮守府だ。それが今更また傘下に入ります、なんて虫が良すぎる。地に落ちた信頼性を回復させるにはそれぐらいの戦果を挙げてもらわないと、お前に任せた元帥の顔に泥を塗ることになる」

 

「こいつらだって……好きで決別したわけじゃ……」

 

 

 林道の言葉に、俺は思わず反論を溢してしまう。それを目ざとく拾ったヤツは、いつになく真剣な顔を俺に向けてくる。

 

 

「好き嫌いなんぞ知らん(・・・)、重要なのは決別したと言う事実のみだ。そこにどんな感情が燻っていようが、やってしまったと言う事実だけで立場が明確になる。それが答えであり、組織を作り上げる規律であり、社会を安定させる法律だ。好き嫌いなんぞで国や軍隊が運営していけるとでも?」

 

「それは……」

 

「お前はたった一つのために何千何万を切り捨てるのか? 『個』と『その他大勢』、切り捨てるべきなのは言わなくても分かるだろう。もし『個』を守りたいと言うのなら、それだけの価値があることを証明するしかない。その証明できるものが、限りなく大きな戦果だと言うことだ。最適解が出ているのに他を探すのか? それこそ徒労だ」

 

 

 林道の言葉は、俺から見ても正しい。まさに軍隊と言う組織にとって最適解だ。多数決なんてまさにそうじゃないか。そうしないと意見がまとまらないし、先に進めない。ならば、時に片割れを切り捨てることだって必要だ。だから、母さんは――――――――

 

 

 いや、今それは関係ない。林道が言った通り、この鎮守府が存続するにはヤツに何らかの危害を加えずに、北方海域の進出を成し遂げなければならない。急ピッチではあるが期限を明言されてない以上、ギリギリまで戦力を整えて出来うる限り万全の体制で臨むしかない。

 

 

「分かった、善処する」

 

「まぁ、せいぜい気張れ」

 

「あ、あともう一つ聞いていいか?」

 

 

 話を終わらせようとした林道の言葉を遮り、俺はもう一つ質問を投げかける。

 

 

「何で中将と敵対する(・・・・)側についた」

 

 

 その問いを投げかけた時、林道の顔が今までで大きく強張った。予想していなかったのか、はたまた掘り下げられたくなかったのか、恐らくは後者だろう。何故分かるのか、それはこの反応が見られるのは後者の場合だからだ。

 

 それに、林道はその上層部の一人についている。そして彼は俺や中将が信用できないから今回のことを目論んだ、つまり中将とは事実上敵対しているのだ。そんな彼にヤツはついている。あれだけ自慢げに話していた父親だったのに、今は敵対する立場に身を置いているのだ。

 

 

「……父上の目を覚まさせるためだ」

 

 

 それは本心なのか、はたまた嘘なのかは分からない。だが、それだけ言うと林道はさっさと執務室を出て行ってしまった。その顔に、苦痛の表情を浮かべながら。

 

 だけど、俺はその顔を見て思ったのは同情ではなかった。

 

 

 

 それこそ『個』じゃないのか―――と言う、なんとも辛辣な言葉だった。



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『見ている』人と『見られていた』人

「ほれ、報告書だ」

 

 

 その言葉と同時に、大きな音を立てて目の前に紐で縛られた紙の束が降ってくる。落ちた衝撃で揺れる書類の山を寸でのところで支えた。崩れなかったことに安堵しつつ、すぐに目つきを鋭くさせて目の前に立つ人物を見る。

 

 

「崩れるから静かに置いてくれ」

 

「その山を作り上げたのはご自身でしょう? 自身の怠慢を私に押し付けないでください」

 

 

 俺の苦言にその人物―――――林道はニコニコと微笑みながら毒を吐いてくる。煽る様なその態度にイラつくも、書類が山積みになっているのはひとえに俺の手際の悪さだから正論であるとして何とか納得する。俺の傍らにすまし顔で書類を処理する大淀も、一瞬ヤツを睨み付けていたから気持ちは一緒だと思う。同時に、手際が悪くて申し訳なくも思う。

 

 

「それよりも、早く目を通せ」

 

 

 そんな俺たちを尻目に、林道は先ほど置いた書類を読めと催促してくる。こちとら絶賛執務中なんだが……いや、読むことも執務なんだけどそもそもの優先順位が……なんて、沸々と沸き上がる愚痴染みた言葉を飲み込みつつ、ヤツの言葉に従い束から一枚だけ引っ張りだして目を通す。

 

 

 そして、すぐに目頭が痛くなった。

 

 

「……またか」

 

 

 その報告書に書かれていたのは、昨日とある駆逐艦が別の部屋に居たという内容であった。それも夜間、本来であれば自室で寝ている筈の時間に、更に言えばその駆逐艦と彼女が居た部屋の主である子も今日の朝から出撃があったのだ。そのため二人に厳重注意し、自室に戻らせたとある。

 

 その後は嫌味のオンパレード。早々に目を離したのは言うまでもない。

 

 

「翌日に出撃を控えているのに夜更かしとは見過ごせん。相変わらず、上司部下共々国防の意識が足りてないな」

 

 

 目頭を押さえる俺を前に林道はそう言ってわざとらしく肩をすくめた。その何度目かも忘れた姿を横目で流し、これまた何度目かも忘れたため息を吐き出す。

 

 

 最近、この鎮守府は以前のような重苦しい空気に戻りつつある。少しだけだが増えていた笑顔も減り、あれだけ騒がしかった食堂を始めとした鎮守府内は静かになった。夜の鎮守府を歩けばたまに見られた眠れない艦娘たちがワイワイしている光景も、この一週間で見なくなってしまったのだ。

 

 その原因は言わずもがな、今目の前に立っているヤツ。そのきっかけは着任早々に言い放ったこの言葉だろう。

 

 

『先に言っておこう。大本営はお前たちがやったことを忘れたわけでも、況してや許したわけでもない。その上で俺を派遣するに留めているのだ。お前たちは黙認(・・)されていることをしかと心に刻み、心を入れ替えて誠心誠意奉仕(・・)するように』

 

 

 執務室の一件後、食堂にて改めて設けた林道と艦娘たちの顔合わせ。その際、ヤツは自己紹介をするわけでもなく、ただただ憮然とした態度でこう言い放ったのだ。その言葉に、場の空気は凍った。いや、凍ってくれた(・・・・・・)。もし他の反応だったら、仮に『怒り』が爆発してしまっていたら、今この鎮守府が存在していたのかすら分からない、灰塵と化していたかもしれない。まさに紙一重であった。

 

 勿論、ただただ凍ってくれただけではない。その後、正確にはそう言い放ったヤツが脇目も振らずに出て行った直後、止まっていた時計が動き出す様に彼女たちから感情が噴き出した。本来であれば、その多くは『怒り』だろう。大本営からやってきた初代にされた仕打ち、その後の大本営の対応、俺がここにやってきてから今まで見て、聞いて、そして触れてきたモノが、彼女たちが胸に秘めていた言葉の数々を物語っている。故にそれらを完全に無視し、否定したその言葉に誰もが『怒り』をぶちまけるはずだった。

 

 だけど、彼女たちが真っ先に見せたのは『恐怖』だった。誰しもの顔が青ざめ、震え、そして泣き出す者もいた。『喜怒哀楽』の中で真っ先に現れた『哀』、その光景に俺は改めて思い知らされた。未だに、彼女たちの中に『初代』が染みついていることを。

 

 

 同時に、未だに彼女たちの提督(・・・・・・・)は初代なのだと。

 

 

 改めて突き付けられた現実を飲み込みつつ、俺は何とかその場を収めた。無論、俺一人の手じゃ回らなかったため、その場にいた長門や龍驤、曙たちの手を借りてだが。その上で、今後何かされたらすぐに俺に言うように伝えて、その日は終わった。

 

 

 だが、それは始まり(・・・)だった。

 

 

「……何度も言うが、夜間の外泊許可を出したのは()だ。申請書も書かせたし、それも渡した」

 

「あんな理由、認められるか」

 

 

 あの日のことを思い出しながら、無理矢理絞り出した言葉を、林道はすぐさま否定してきた。それに、思わず顔を上げると、同じく目付きを鋭くさせたヤツの顔が映った。

 

 

「何が『翌日の出撃に関する意見交換をするため』だ。『仲良くお喋りしたい』の間違いだろうが。実際、向かったら意見交換をしているとは思えないほど騒がしかったからな。大体、お前の艦娘は――――」

 

 

 紙面から目を離したはずの嫌味がヤツの口から垂れ流され始めた。それを聞いているふりをしながら、思わず零れそうになった言葉を、『それもお前のせいだよ』と言う悪態を飲み込む。

 

 

 ヤツが着任したその翌日、俺の元には新たに大量の報告書が山と積まれるようになった。その殆どは艦娘の素行不良を記した、いわばこれだけお前の艦娘は悪いことをしていたというもの。当初、俺はそれに背筋が一気に冷たくなった。まさかうちの艦娘たちが俺の見えないところで何かしていたのかと言う不安と、ヤツに報告の口実を与えてしまったのかと言う危機感に駆られたからだ。

 

 だけど、それは内容を読んですぐに氷解した。夜遅くまで起きていたや食堂で騒がしかったなど、どれもこれも大事では無く、且つ誇張しようの無いものばかりだったからだ。そのせいか、末尾にはその場で注意をした程度で済まされている。ヤツ自身もここまで大事にする気も無いようだ。だから、渡された当初はヤツの入念な仕事ぶりに呆れただけだった。

 

 しかしそれが翌日、その翌日、そして今日まで欠かすことなく続けばどうだろうか。内容は似たり寄ったりではあるが同一人物が同じことを繰り返した、という報告は決して無い。もう、それは『入念』を通り越して『やり過ぎ』、もしくは『異常』と言える。そしてヤツが仕事をこなせばこなすほど報告書の数も増え、それを確認しなくてはならない俺の仕事も相対的に増えていく。なので、ここ最近で俺は睡眠時間を幾分か減らされてしまった。まぁ、それはそこまで気にしていない。

 

 

 問題はもう一つだ。

 

 

「憲兵殿、少々よろしいでしょうか?」

 

 

 つらつらと小言を吐き出す林道に、今まで沈黙を保っていた大淀が声を上げる。言葉自体は丁寧であるものの、その語気やそう零す彼女の表情には明らかな『反感』が見て取れた。それを受けた林道は一瞬キョトンとした顔になるも、すぐに待ってました(・・・・・・)と言わんばかりの笑みを浮かべる。

 

 

「何か?」

 

「ここ最近における艦娘たち(私たち)の素行不良は認めます。しかし、それは憲兵殿の過剰な巡回が一因でもある、と言えます。今まで咎められなかったことが大半を占めており、現に艦娘たちからも過剰過ぎるのではと言う声が届いています。その責を提督、ひいては私たちに非があるとするのは如何なものでしょうか?」

 

「それは鎮守府のモラルが底辺であるせいだ。私はそれを『一般的』にしているだけで、今までそれを放置し続けたお前たちの責任であるのは明白だろう?」

 

「ですが、その方法が強引すぎると申しています」

 

 

 彼女に珍しい喧嘩腰の大淀と笑みを浮かべて飄々とする林道。彼女の会話に出てきた『過剰な巡回』。それは今まさに俺が問題視していることそのものである。

 

 

 林道が異常な量の報告書を毎日のように寄こしてくる、つまりそれだけ鎮守府内を巡回しているということだ。いや、『巡回』なんて生易しい言葉じゃない。『監視』もしくは『威圧行為』とも言えるほど、執拗に艦娘を見ている(・・・・)のだ。

 

 巡回中に艦娘と鉢合わせすれば先ず一喝、その後適当な理由を押し付けて更に叱責する。それならまだ良い方であり、時には『抜き打ち』と称して艦娘たちの自室に押しかけることもある。未だに傷跡が残る艦娘たちにしてみれば、良く知りもしない男がいきなり部屋に押し掛けいちゃもん染みた理由で叱責してくるのだ。それは『恐怖』しか無いだろう。

 

 しかも先ほどヤツが見せてきた報告書にあった夜間での外出行動。そもそもの発端はヤツが部屋に押しかけたことである。それのせいでよく眠れないと相談され、十分な睡眠をとれるようにと俺が許可を出したのだ。同時に、ヤツとの行き違いを防ぐために俺が認可した申請書を用意して提出した。

 

 しかし、結果は報告書の通りだ。むしろ申請書を出したせいでそのことを知り、敢えて押しかけたともとれる。気配りが仇になったと言うわけだ。

 

 

 そんな、ヤツの異常な巡回に艦娘たちは辟易している。現に出撃の準備のためにやってくる旗艦たち、そして食堂で顔を会わせた艦娘から林道に対する不平不満をぶつけられている。勿論、全員が口々にぶつけてくるのではなく、龍驤や長門、加賀など比較的話が出来て且つ周りを纏める立ち位置に居る艦娘が代表してぶつけてくるので、負担的にはそこまで重くはない。

 

 しかし、逆に言えば個々人が抱えている感情を把握できないと言う不味い状況ともいえる。龍驤達も不満の全てを把握しているわけではないため、俺たちの知らない所で不満が爆発、ということも十分あり得る。更に何で林道を好き勝手にさせているのか、提督の許可したことが憲兵に通じない、などと俺への不満も少なかず出ていると聞いている。今は龍驤たちが抑え込んでくれているみたいだが、それも時間の問題だ。

 

 

 更に言えば、俺は林道に待たせていることがある。それは龍田の一件だ。

 

 一歩間違えれば殺傷事件、そして鎮守府の解体になりかねなかったあの事件。実は未だに決着がついていないのだ。と言うのも、両者の頑な姿勢が原因である。

 

 龍田は、俺の『先ずは互いに謝れ』と言う発言から先ず林道が謝罪するのが筋であり、それが無い場合は理由を話さないと主張している。

 

 対して林道は、俺の『発端は龍田である』と言う発言から発端であるならその理由を述べるのが筋であり、それが無ければ自分の非を判断できないから謝罪しないと主張している。

 

 天龍に至っては龍田が頑なに面会させないせいでその主張を知ることが出来ない。出撃自体には出ているようだが報告は全て龍田伝いであり、食堂でも龍田がベッタリであるため声をかけることが出来ないのだ。それなら俺だけにでも理由を教えてくれと龍田に言ったが、林道に伝えられたら困ると拒否されて聞けずじまいだ。

 

 そのため、この一件は止まっている。また林道もこの一件があるから強引な手段に出ているのだろう。奴からすれば、この件を振りかざせば俺は動けず、このまま強引な手段を取り続ければいずれ他の艦娘からボロが出る。それを拾って報告するも良し、それを餌に更に揺さぶっても良し。

 

 まさに、この鎮守府は完全にヤツの手の内である。それも八方塞がり状態。

 

 

 この状況を打開するためには戦果を挙げる―――具体的には北方海域への進出しかないわけである。勿論、それは今の現状をなるべく維持しつつ、日に日に増え続ける報告書を片付けながらだ。

 

 

 目の前で繰り広げられる大淀と林道の舌戦の中、ふと扉がノックされた。それに二人は舌戦をやめて扉に目を向け、対して俺は時計を見る。時間的にそろそろ帰ってくる頃か。

 

 

「失礼するでぇー」

 

 

 今までピリピリしていた執務室の空気をぶち壊す、何処か間延びした声と共にファイルを抱えた龍驤が入ってくる。彼女は今日の秘書艦だ。その手にあるファイルは今日の出撃報告書であろう。そして、この空気を塗り替える救世主だ。

 

 

「おい、誰が入っていいと言った」

 

「え、ノックはちゃんとした(・・・・・・・・・・)でぇ? あぁ……まぁ、旗艦ならいるかもしれへんなぁ。でも、今日のうちは秘書艦や。早く報告書を持ってこうへんとあかんのに、いちいち許可とってたら間に合わんやん?」

 

「……急ぎには見え―――」

 

「はいはい、お小言は後々ぉー。んで、報告書や」

 

 

 噛み付く林道を片手間であしらいながら、龍驤はファイルを差し出してくる。ある意味、林道を手籠めできる数少ない存在である。そんな彼女はファイルを手渡した後、なんとも人懐っこい笑みを浮かべて林道に向き直った。

 

 

「あと、これから北方海域に関する報告をせんとあかんから、部外者(・・・)は出て行ってくれや」

 

「き、貴様ァ!!」

 

憲兵の職務(・・・・・)は鎮守府内外の治安維持やろ? 出撃なんか微塵も関係ないですやん。それとも、我々の提督を差し置いて出撃の指揮を執れる権限が憲兵殿にお有りなのですか? もしくは越権行為におよぶつもりですか?」

 

 

 笑顔できついことを言った後に正論で進路を叩き潰すお得意の論法。今回は逆上に備えて丁寧語を用いる入念っぷりを龍驤は披露した。それを向けられた林道は表情を更に歪ませるだけで、何も言ってこない。いくら大本営のパイプ役と謂えども、表向きはただの一憲兵であることを分かっているのだろう。それに下手に動き過ぎて目立つのも立場的に避けたいだろうな。

 

 

「どうやら、ご意見は無いみたいやな……ほな、憲兵殿。大本営様の為にも、誠心誠意ご自身の職務を全うしてくださいませぇー」

 

 

 なんとも絶妙なタイミング、尚且つあの時の言葉を意識した返答に、林道は怒りを滲ませた目を龍驤に向ける。しかし、龍驤は動揺することなく微動だにしない。恐らく、向けられたヤツの目を見つめ返しているのだろうが、その表情がどのようなモノであるかは分からない。

 

 

「……失礼する」

 

 

 だが、怒りを滲ませていた林道を引き下がらせるだけの眼力であったのは間違いないようだ。そう呟いた林道は踵を返すとさっさと執務室を出て行ってしまった。ヤツが出て行った瞬間、執務室を支配していた重苦しい空気が消え去り、その反動で俺は思わず嘆息を漏らした。

 

 

「なんや、つまらんなぁ」

 

「いや、あの状況でそう言えるお前のメンタルがおかしいって」

 

「『楽しい』は自分で作るもんやで」

 

 

 林道が出て行った扉を見つめながらそう言い放つ龍驤にほとほと呆れてしまう。その言葉に龍驤はそう言いながら先ほどの人懐っこい笑みを浮かべた。見た目も相まって本当に歳相応に見えてしまう。まぁ、『楽しんでいる』状況が歳相応をすっ飛ばして真っ黒なのだが。

 

 

「と言うか、その物言いだと俺の時も楽しんでいたことになるんですが……」

 

「それはそれ、これはこれや。そんなことより、ほらぁ、読んで読んで」

 

 

 あの時に向けられた視線と物言いを思い出しながらそう零すも、龍驤は取り合う気も無い。早々に話を切り変え、且つ俺の手にあるファイルを軽く小突いてくる。その姿にちょっとだけ視線を向けるもその返答は先ほどの笑みであった。

 

 

 だが、その笑みは途中で強張り、同時に彼女が息を呑んだ気がした。それを俺は見間違いだと片付け、彼女の言葉通りにファイルを―――――『北方海域調査報告書 第一海域 モーレイ海について』と題されたそれを開いた。

 

 

 北方海域――――南西諸島海域に蔓延る深海棲艦に打撃を与えたうちの鎮守府が次に向かうべき、もしくは大本営への信頼回復の条件として指定された目標である。

 

 この海域はモーレイ海、キス島沖から始まりアルフォンシーノ方面へと抜ける広大な範囲を指している。そのため、一度の出撃で全ての海域を制圧しようなんて無謀なことは出来ない。先ずはモーレイ海の敵を撃破することが第一目標だ。

 

 そして、その第一目標であるモーレイ海。海流や天候の移り変わりが激しい北方海域の中では比較的マシな方である本海域は、軽巡洋艦や重巡洋艦を中心とした艦隊が展開しているようである。ただ何回か戦艦の報告もあるためそう楽観視も出来ないし、元々する気も無い。

 

 潮の流れは複雑ではあるものの艦種を制限されるほどではないが、逆に進路は羅針盤の妖精たちに委ねる形になる。そのためどちらかと言えば羅針盤が正しく艦隊を導いてくれることが重要となりそうだ。勿論、艦娘の編成から装備、艤装のメンテナンスなどの万全を喫した状態で出撃を前提としている場合だ。それが整わない限りは出撃したくないが、如何せん林道(やつ)の目があるため悠長に構えることも難しいか。

 

 さて、報告によると道中に敵空母がほとんど見かけられないようだ。しかし、最深部から外れた場所に軽空母の一団を補足したとあるが、数もそこまで多くはないようだ。しかし、こちらの航空戦力である龍驤、隼鷹、加賀の中から最低二人ほどは編成に組み込んでおこう。航空戦力の脅威は演習で身を持って知ったからな、用心するに越したことは無い。

 

 となると、あとは他の四人か…………さて、どうしたもの――――

 

 

「そぉーい」

 

 

 不意に聞こえた間延びした声と共に、俺の視界一杯に広がっていた報告書がいきなり視界の上へと引っ張り上げられた。いきなりのことに思考が途切れ、そのまま丸くなった目をただ茫然と前に向ける。

 

 そこにはいつの間にか机に身を乗り出し、俺が今しがた持っていたファイルを上に掲げる龍驤が居たのだ。そんな彼女の後ろには、俺同様ポカンと口を開けた大淀も居る。そんな中、龍驤は掲げていたそれを下ろし机に置いた。身を乗り出したまま俺に微笑みかける。

 

 

「はい、おしまい」

 

「は?」

 

 

 ポツリと漏れた龍驤の言葉に俺はそう声を漏らす。だが、彼女はそれ以降何も言わず、ただ微笑みかけるのみ。その姿にようやく再起動を果たした俺は彼女から机に置かれたファイルに目を向け、手を伸ばす。しかし、それは視界の外から伸びてきた彼女の手によって届かないところまで下げられてしまう。

 

 

「あの……」

 

「おしまい言うたやん」

 

 

 俺の言葉に、龍驤は先ほどと同じ言葉を吐き出す。その姿に再度首をひねる。おしまいって何が? そして北方海域の報告書を何で遠ざけるの? 北方海域の報告がおしまいってことだとしても、まだ始まってもいないよ?

 

 

「司令官、ちゃんと寝とる?」

 

 

 そんな疑問符で頭が一杯の中、不意に龍驤がそんなことを言ってきた。その言葉と同時に龍驤の手が伸び、俺の顔をグイっと上げる。その時、彼女の顔は何処か心配そうな表情があった。

 

 

「ね、寝てるよ?」

 

「嘘つけ、目の下にこんな隈作っとるやないか」

 

 

 俺の浮ついた言葉を龍驤はピシャリと叩き、その言葉に従うかのように俺の目の下に指を滑らせる。あの、その、この状況……結構不味い気がするんですが。あの、大淀さんが居るんだよ? 当の本人は顔を真っ赤にしながら見ているだけだけど……居るんだよ?

 

 

「あの……」

 

「ホンマ、キミはちゃんと寝なあかんで。まぁ、今の状況じゃ難しいかもしれへんけど……お、せや!!」

 

 

 俺の言葉を無視して何かを思いついた龍驤は俺の目の下を滑らせていた手を頬、そして顎に持っていき、顎を軽く掴んでクイッと持ち上げた。それと同時に彼女も更に身を乗り出し、俺との距離を詰める。それはもう、互いの鼻がくっつきそうなくらいに。

 

 

 

 

うちを抱いてみる(・・・・・・・・)か?」

 

 

 そんな距離で、そんな爆弾発言を平然と吐き出したのだ。その瞬間、執務室の空気が凍り付く。しかし、それもすぐに消え去った。

 

 

「なななななな何言ってんですかぁ!?」

 

 

 今まで沈黙を貫いていた大淀が突然大声を上げて立ち上がったのだ。その際、ガン!! と言う音と共に彼女が向かっていた机が大きく持ち上がったので、恐らく立ち上がった時にその足がぶつかったのだろう。その痛みは相当なもののはずだが、当の大淀はそれを感じさせないほどの鬼気迫る顔を龍驤に向けている。

 

 

「なんや、いきなり大声出して……」

 

「いきなりそんなこと言われたらそりゃ出しますよ!! と言うかこんな……白昼堂々と、何を、言い出してる、んです、かぁ……」

 

 

 迷惑そうにそう漏らし、龍驤は不満そうな顔を大淀に向けた。今もなお彼女の手は俺の顎を掴んでいる。その姿に大淀は更に顔を赤くしつつ大声で吠える。しかし、その方向も後ろの方に行くにつれて小さく、弱弱しくなる。そんな大淀の姿に龍驤ははて、と言いたげに首を傾げた。

 

 

「白昼堂々……何言うてん? うちは単純に、抱き枕みたいに(・・・・・・・)抱いて寝るか? って言ってるだけやで」

 

「……へ?」

 

 

 龍驤の言葉に大淀はそう小さく声を漏らし、そしてその言葉を最後に固まってしまった。再起動には時間がかかりそうだ。この謎の時間を終わらせるために、俺は顎を掴まれながら龍驤に問いかけた。

 

 

「つまりどういうこと?」

 

「言葉通り、うちを抱き枕みたいに抱いて寝てみたら、って提案や。自分で言うのも何やけど、うちぐらいの身体ならちょうど抱き枕代わりになれそうやん? それに人肌に触れていれば安心して眠れるってよぉ聞くし、ちょっとした仮眠なら付き合ったるでぇって話や。それとも何や?」

 

 

 そこで言葉を切った龍驤は、再びあの笑みを近づけてくる。

 

 

「大淀が想像した通り(・・・・・・)にしたろか?」

 

「丁重にお断りします」

 

 

 今度こそ投げつけてきた本当の爆弾発言を、俺は即座に受け流す。すると、龍驤は笑みを崩して何処かつまらなそうな顔を浮かべた。それと同時に俺は彼女の身体を押し退け距離を取る。

 

 

「なんや、食いついてくると思ったのに……」

 

「……あのな、さっき目の前であんなことを堂々と言われたんだぞ? 今、お前がこの状況を完全に『楽しんでいる』って分からないわけないだろうが」

 

「えー……でもキミ、うちみたいなちっこい子好きなんやろ? 雪風、曙、吹雪、夕立、ハチ、潮、イムヤ、イク……もう確信犯やん?」

 

 

 彼女たちの名前を挙げながら指を折る龍驤。おい、人を子供が好きみたいに言うな。確かに一番関わることが多いのが彼女たちだけど、他にも間宮、長門、天龍、加賀、隼鷹、そしてそこで固まっている大淀とも良く関わっているからな。と言うか、それで良いのか軽空母さん。今の物言いだと、自分も駆逐艦と同じだと言っているようなものだぞ。

 

 

「まぁ冗談はさておいて、とにかくキミは少し寝なあかん。そんな顔で執務されたら他の子達に余計な心配をかけるし、そんな状態で今の鎮守府を上手く回せるとでも? 今更言うけど今日の執務で書き上げた書類、結構ミスがあったで?」

 

「本当に今更だな……」

 

 

 先ほどの会話から一転、真剣な顔で龍驤が問いかけてくる。それに軽くツッコミを入れつつ、頭の中でしばし考えをめぐらす。正直、睡眠不足であるのは事実である。しかしそれを度外視してでも進めなければいけないことが目の前にあるため、寝不足ぐらいで後回しに出来ないってのが本音だ。

 

 

「ほら、とっとと決めてや。うちを抱き枕にして寝るか、大淀の膝枕で寝るか」

 

「何勝手に言ってんですか!!」

 

 

 そんな俺を尻目に龍驤は更なる爆弾発言を繰り出し、その言葉で再起動を果たした大淀が再び声を上げる。まぁ、そりゃ勝手に選択肢に挙げられればそうなるか。

 

 

「流石にそれは横暴だろ……」

 

「何で? うちじゃ眠れないからって他の子を呼び出すわけにもいかんやろ。なら、もう大淀しかおらへんやん」

 

「いやいやいやいやその理屈はおかしいですよ!!」

 

 

 トンデモ発言からの恐ろしい屁理屈に大淀がますます声を上げる。と言うか何、龍驤の中で俺が寝るのは決定事項なの? それも人肌に触れながらってことも。

 

 

「そもそも、司令官がこんな状態で放っておいたのはキミやろ? 補佐(・・)として、それはどうなん?」

 

「そ、それは…………」

 

 

 冗談交じりの屁理屈から一転した鋭い指摘――――とは言えこれもこれで屁理屈ではあるが、何故か何も言えずに押し黙ってしまう大淀。いや、体調管理も仕事なんだからその責任は俺にあるんだけど。別に補佐だからってそこまで気にする必要は無いんだけど。

 

 

 あぁ、もういいや。

 

 

「分かった分かった。どんな形であれ、俺が寝さえすればいいんだろ? なら、これから一人(・・)でそこのソファで仮眠をとる。それでいいか?」

 

「えっ、えっ」

 

「……まぁ、ええんちゃう」

 

 

 俺が妥協案を提示すると、龍驤は少しだけ唇を尖らせてそう零す。あからさまに残念がるなよ。隣の大淀も俺の発言に何故か戸惑っているし、何なんだよ。だが、そう聞く間もなく龍驤が手を叩いた。

 

 

「ほな、うちは司令官の仮眠を邪魔しない様、工廠に行ってくるわ。大淀、後は頼んだで」

 

 

 そう言って、龍驤はいつもの笑みを浮かべながら執務室を出て行ってしまった。まさに嵐が過ぎ去った、と言って良いほど俺の身体は途方もない疲労感を抱えている。これ、今までの疲労とかも相まっているのか、いや十中八九龍驤のせいだろう。

 

 まぁいい、嵐が過ぎ去ったんだ。取り敢えずやるべきことを片付けよう。そう頭を切り替え、先ほど龍驤が遠ざけたファイルに手を伸ばす。

 

 

 だけど、またもやそれに俺の手が届くことは無かった。

 

 

 

「何してるんですか」

 

 

 そう溢した大淀が、俺が掴もうとしたファイルを横から掻っ攫ったのだ。そんな彼女に目を向けると、何処か咎めるような目つきで見つめ返している。そして何故か、その顔がほんのりと赤い。

 

 

「何って……報告書に目を通そうと」

 

「さっき、これから(・・・・)仮眠をとるって言いましたよね?」

 

「いや、それは―――」

 

「言、い、ま、し、た、よね?」

 

 

 俺の言葉を敢えて遮りながら念押しの確認を取る大淀。え、いや、あの……その、まさか龍驤が言ったことを気にしてるの? そう問いかける前に、大淀は何故か踵を返した。その姿に何も言えない俺を尻目に、彼女は何処か速足で俺の机を離れ、自身の机を通り過ぎ、何故かソファの前で立ち止まる。

 

 その後少しだけソファを見つめ、意を決したようにソファの端に腰を下ろした。その姿に、俺はただただポカンとするのみ。当の彼女は先ほどよりも更に顔を赤くさせながら固く目を瞑り、何かごにょごにょと呟いている。

 

 

「……何してるんですか」

 

 

 しかし、それもすぐに終わり、代わりに先ほどよりも鋭い目を向けてそう問いかけてくる。同時に発した声に先ほどの冷静さは無く、焦りと言うか、何処か怒りを孕んでいるような気がした。

 

 

「え、えっと……」

 

「早く……来てください……」

 

 

 俺が言い淀んでいると、大淀は何処か焦った声色でそう言い、自らが腰を下ろすソファをポンポンと叩いた。それで俺は理解した――――と言うか、背けていた事実を認めた。

 

 

 大淀は、龍驤がそそのかした膝枕(こと)をやろうとしているのだ。

 

 

 

「あー……大淀さん。あの、別に気にしなくていいんですよ? 体調管理も俺の仕事ですし、補佐だからって気にす―――――」

 

「い、い、か、らぁ!! とっとと来てくださいッ!!!!」

 

 

 龍驤の言ったことをやんわりと否定するも、それを遮るように何故か声を張り上げて大淀は再びソファを叩く。先ほどの『ポンポン』よりも『べシベシ』と表現した方がいいほど力強くだ。

 

 だが、それもどんどん力強くなっていき、同様に大淀の顔も真っ赤になっていく。このままじゃ埒があかない。もう……何なんだよ。

 

 

「分かった。今すぐ行くから、そう叩くなって」

 

「っぇ」

 

 

 俺が観念したら、大淀は何故かそんな声を上げた。そんな彼女を半眼で睨み付けるも、彼女は尚も『バシバシ』とソファを叩くのみ。どっちだよ、と心の中でこぼしながら、今まで腰掛けていた椅子から立ち上がってソファに近付く。

 

 その間に、既に座っている大淀の膝に目を向ける。予想通り、彼女の右ひざが赤く腫れていた。さっき立ち上がった時に机にぶつけたのだろう。

 

 

「大淀、もうちょっと右に寄ってくれ」

 

「なな、なんでですか?」

 

「北枕じゃん」

 

 

 何故か狼狽えている大淀の問いに適当に答えながらソファの前で立ち止まり、無言で大淀を見下ろす。その視線と目を合わせた大淀はすぐさま目を逸らし、俺の言った通りに右端に寄った。

 

 

「よっ、と」

 

 

 それを確認し、俺は軍帽を脱いで近くの机に置き、空いたスペースに身を預ける。その際、あわよくば頭ごとソファに預けようと思ったがその前に大淀に襟を掴まれ、無理矢理彼女の左ひざに頭を預けさせられた。

 

 後頭部にスカートを隔てた太ももの感触が伝わってきた。それは程よい高さと柔らかさで、いつも頭を預けている枕よりも快適である。その心地よさに深く息を吐くと、目の前が真っ暗になる。同時に俺の手よりも一回り小さな手が俺の額、そして生え際を優しく撫でてきた。

 

 その心地よさ、そして先ほど抱え込んだ疲労もあって、俺が意識を手放すのにそう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「寝ました……か」

 

 

 膝の上で仰向けに無防備な顔を晒す提督を見下ろしながら、私―――――大淀はポツリと声を漏らした。無論、それは彼の口から規則正しい呼吸、そして上下する胸を確認した上で漏らした言葉である。もし彼が狸寝入りでもしようものなら、早く寝るようにと口を酸っぱくしていた所だ。

 

 それが現実にならず取り敢えずは安堵の息を吐く、と言うわけにもいかない。それが片付いてすぐに新たな問題を―――それほどまでに彼が疲れていたことを実感したからだ。

 

 今、目下で寝息を立てる提督。私は一度、彼の寝顔を見たことがあるが、その時とは比べ物にならないほど覇気が見受けられない。ちょうど、履き潰される間近の靴のような草臥れた雰囲気を出しているのだ。ここ数日ずっと、朝から晩まで執務をして、一休みでもその眉間に刻まれた皺がほんの少し緩む程度。常に考え事をし、何かに気を向け、警戒し、自分をすり減らしている。

 

 

 それはまさに、提督がやってくる前の金剛さんだ。

 

 

 あの時、金剛さんの横に座っていた時、私はただ毎日処理しなければならない書類を少しでも多く片付けることしか出来なかった。そうしてくれると自分が楽になると、そう彼女に言われたからだ。でもそれだけでは彼女を楽にすることが出来なかったから、もう一つに紅茶を淹れることを始めた。

 

 必要最低限の資材以外口にしなかった彼女が唯一口を付けたそれ。最初に返ってきたのは小さな呻き声と共に舌を出した顔であった。それでも、その一瞬だけ表情が和らいだ、その一瞬だけ彼女は忘れることが出来た。それでも彼女が見せたほんの少しの変化が、妙に嬉しかった。

 

 その直後、そして紅茶を淹れる度に容赦ない駄目出しを食らいながらも続けた。それは金剛さんの表情が和らぎ、色々なことを忘れられる、そのほんの一瞬が積み重なっていくから。そうすればやがて彼女も変わっていくと思ったから。

 

 でも、今考えればそれは逆効果だったのかもしれない。何せ、その時の私はほんの少し前の彼女にそっくりだったからだ。

 

 

 やっていることは違えど、彼女もまた走り回っていた。

 

 見ている人は違えど、彼女もまたその人のためだった。

 

 私と彼女の時間は違えど、彼女もまた続けていた。

 

 その人の居場所(・・・)は違えど、彼女もまた報われずにいた。

 

 

 

 ……まぁ、最後は私の見ている人が変わっただけなのだが。

 

 

「ッ」

 

 

 その時、いきなり右ひざに痛みが走った。提督を起こさない様に身体を前のめりにして確認する。すると、膝小僧の辺りが赤く腫れ上がっていた。それを見て、先ほど立ち上がった時に右ひざをしこたま打ち据えたことを思い出した。その時は龍驤さんの言葉に意識を向けていたから気付かなかったのだろう。

 

 

 そう納得した瞬間、提督の言葉が蘇った。

 

 

「……そういうところですよ」

 

 

 そして、なるべく小さな声を漏らした。そう、そういうところだ。そういうところがあるくせにまるっきり活かせてないから。だから残念であり、駄目駄目であり、目を離せない(・・・・・・)のだ。

 

 

「んっ」

 

 

 膝の上で眠る提督が声を漏らす。その顔を見て、そして起こさないように額を撫でた。今はざらざらとしているけどちゃんと休めばマシになるだろうか。次に額から生え際へ、ちょっと後退したかな。目の隈も酷く、頬も少しだけコケだしてる。それでもあの時の面影はある。分かることはあの時以上に疲れていることかな。

 

 最近のご飯も片手間で済ませられるものが多いし、私が淹れるコーヒーの用途も眠気覚ましだし、ホットチョコレートを持ってきても他の子に渡してくれ、とか言ってくるし、人にあんなこと言っておいて自分はそれを真っ先に破るし。

 

 全くもって残念だ。残念、駄目、駄目駄目、惜しい、心配、気にかかる……気になる。

 

 

 だから――――

 

 

 

見ている(・・・・)んですよー?」

 

 

 ポツリと思いついた言葉、それと同時に漏れていた言葉。それが体現していることを今更捲し立てる必要も無いか。捲し立てる気は無いけど、腹いせぐらいはしていいよね。そう決めつけ、膝の上で眠る提督の頬をつついた。突っついたのがむず痒かったのか、提督はむずむずと身を震わせる。その姿に、私は思わず声を漏らす。

 

 

「だから、とっとと気付けっての」

 

 

 それと同時だろうか、執務室のドアが開いたのは。その直後、思わず顔を上げて扉を見た。そして、顔から血の気が引いていくのを感じた。

 

 

 

「何しているのですか?」

 

 

 そう声を漏らした。開け放たれた扉の前でファイルを抱え、いつもの制服を身に纏い、その顔から一切の感情を削ぎ落した()表情を浮かべた榛名さんが。

 

 

「や!? え、と、こ、これは……」

 

 

 思わず大声を上げて立ち上がりそうになるも膝の上にいる提督がもぞりと動くのを感じ、立ち上がるのを何とか抑え、出来る限り声を絞る。チラリと提督を見ると、動いただけで未だに寝息を立てている。起きる心配はないと心の中で安堵したが、それも横から突き刺さる刃物のような視線によって瞬く間に消え去った。

 

 榛名さんは先ほどの言葉以降何も喋らない。刃物のような視線を私に向けるのみ。その瞳の奥に見える感情すら分からない。ただ、黙って私たちを見据えるのみ。

 

 

 しかしそう思った直後、その身体は動いた。

 

 先ずは足、前へと伸ばされ、床を踏みしめる。

 

 次は腕、抱えていたファイルを投げ出し、手ぶらになる。

 

 次は膝、ある程度足が床を踏みしめたところでいきなり折られ、その上体が前に投げ出される。

 

 次は再び腕、手ぶらになった腕を前に突き出し、何かを包み込むように輪を模っている。

 

 最後は頭、上体よりも更に前のめりになり、その先は模られた輪の中心に吸い込まれていく。

 

 では彼女の頭が吸い込まれていったその中心とは何処か、私の膝である。

 

 

 正確には、私の膝で眠る提督の顔だ。

 

 

 

「ッえ―――」

 

「静かに」

 

 

 目の前に現れた光景に声が出る前、榛名さんの凛とした声が聞こえた。それに、とんでもないことをしでかしておいて何言っているんだ、と言い出しそうになる。だが、今しがた彼女の声が聞こえたことで引っ込んだ。

 

 もし榛名さんがとんでもないことをしたなら、こうもはっきり彼女の声が聞こえるはずがない。だって、現在進行形で彼女は口を塞いでいる(・・・・・・・)のだから。そう思考がまとまった時、彼女の片手がその頭の下にあることに気付いた。それが何なのだろう、と考える間もなく榛名さんは頭を上げた。

 

 

 その下に見えたのは提督の寝顔ではなく、その顔に覆いかぶさる少々くたびれた白い軍帽だ。それは彼が私の膝に寝転がる際に脱いで傍の机に置いておいたものである。

 

 

「この方が、良く休めるでしょう」

 

 

 視界の外から榛名さんの声が聞こえ、軍帽に注がれていた視線を彼女に向ける。彼女は私に背を向け、先ほど放り出したファイルを拾っているところであった。

 

 

「あの……」

 

ファイル(これ)を渡しに来ただけですから無理に起こさなくても良いですよ。あぁ、でもそれを見た上で今後どうするかをお聞きしたいので、時間を置いてまた来ます。それと北上さんが金剛お姉様について相談したいことがあるそうです。後は……うん、伝えてもらいたいのはそれだ―――――」

 

「あの!!」

 

 

 こちらを向かずに捲し立てる榛名さんの言葉を遮る。それに、榛名さんは捲し立てていた話を断ち切るのみで、こちらを見ようとはしない。拾ったファイルも傍の机に置くだけだ。

 

 

「何ですか?」

 

 

 その後ろ姿から、彼女の声が聞こえた。それは抑揚が無く、とても冷たい。先ほど向けられた視線のような、刃物のような鋭さを帯びた言葉だ。それに思わず今しがた問いかけようとした言葉を飲み込もうか迷った。

 

 でも、言わなければ。あの人のように、言わなければ。もう此処に居ない、彼女を見ていた人(・・・・・・・・)のように。

 

 

「もうこん―――――」

 

あなたたちも(・・・・・・)

 

 

 そう決意した私の言葉を榛名さんの声が遮った。いや、その声自体は私の声を掻き消すほど大きくも、私の言葉を飲み込ませるほど重くもない。ふとした物音にかき消されてしまうほど小さく、ちょっとした声を上げれば何処かへ飛んでいくほど軽い声だった。

 

 

 

「私を、否定するんですか?」

 

 

 だが、その『言葉』は。それとともに向けられた表情は――――何もかもを諦めてしまった『絶望』の表情は。私の『言葉』を飲み込み、『決意』を叩き折るには十分だった。

 

 

「では、そうお伝えください」

 

 

 私が絶句しているのを見て、彼女はそう言った。その表情の上に首の皮一枚ほどの厚さしかないであろう虚勢(笑み)を重ねて。そのまま、彼女は廊下へと続く扉の向こうに消えて行った。

 

 

 その後、扉が閉まる音を最後に執務室は沈黙に包まれた。時が止まってしまったのか、何も、誰も、音を立てない。呼吸すら忘れてしまったのか、そんな小さな音を拾うことを耳が放棄したのか、分からない。

 

 

 だけど、その沈黙はようやく終わりを告げた。

 

 

 

「そういうところだよ」

 

 

 そんな声が聞こえた。そう、聞こえた(・・・・)。つまり、私が発した声ではない。私以外の誰かが発したのだ。そして、この場で声を発することができる存在は限られて、いやたった一人(・・・・・)しか存在しない。

 

 

 その直後だろうか。仕事放棄したはずの私の耳に、わざとらしい寝息が聞こえ始めたのは。



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都合の良い『御伽話』

 扉を開けると冷ややかな風が肌を撫で、それに思わず身を震わせる。只今の時刻は午前5時。身を刺す様な寒さだがちょっと体を動かせば体温で暖まり、逆に動かなければ瞬く間に熱を引かせる、身体を動かすには持ってこいの季節である。

 

 そう思いながら扉を抜けると、朝日が目を刺した。それは山裾から顔を出した太陽からだ。太陽の光で真っ白になる視界の中で、ほうっと立ち登る白い息がうっすらと見える。それもだんだんはっきりとしてくる。同時に、日差しに遮られていた山々が浮かび上がった。

 

 しかし、それに反して鼻をくすぐるのは潮の香りである。山に囲まれているのに何故潮の香りがとも思うが、現に俺の視界の端に朝焼けを受けてキラキラ光る水面がある。それは大海原へと繰り出す艦娘を送り出し、そして迎え入れる湾だ。そんな相反するものが隣に存在する場所――――対深海棲艦戦争の最前線である鎮守府だ。

 

 

「今日も早いな」

 

 

 そんな最前線では聞けるとは思えない朗らかな声が聞こえた。その声に俺は視線だけを向ける。その向こうには一人の女が手を振っていた。

 

 腰まで伸びた黒髪を短く束ねている。その身体は随分年季の入った半袖Tシャツにこれまた年季の入ったジャージに身を包んでいた。一見すればどこにでもいる普通の女性であり、俺と彼女が顔を会わせる時は決まってこの格好ともう一つの恰好だ。

 

 しかし、先ほど言った通り此処は鎮守府、最前線である。そんな場所に普通の女性がいるはずも無く、彼女もまた普通ではない存在、人間ではない存在、深海棲艦に対抗しうる兵器(・・)とされる存在。在りし日の艦艇の御霊を受け継ぐ存在、艦娘である。

 

 

「……あぁ」

 

「気の抜けた返事だなぁ、憲兵殿。寝不足か?」

 

 

 そんな艦娘に生返事を返すと、彼女は何所かとぼけた口調でそんなことを言ってくる。その言葉に俺――――花咲(・・)林道は返事の代わりに鋭い視線を投げかけた。しかし、その視線に彼女は特に気にする様子も無く、むしろ不敵な笑みを向けてくる。

 

 もし、彼女が普通の女性であれば、いや駆逐艦などの子供であれば俺は間違いなく怒声や罵声を浴びせただろう。しかし、彼女の笑みは有無を言わさぬ重み、そしてこちらの威勢を挫くほどの威圧感があった。流石、艦娘の中でも花型である戦艦を、それもわが国だけでなく世界にもその名を轟かせた『ビッグ7』である。

 

 

「どうした? この長門と朝を共にすることに、今更感動しているのか?」

 

「ふざけるな」

 

 

 そんな不敵な笑みのまま冗談をかましてくる艦娘――――長門に冷たい言葉を浴びせ、俺はいつも通りの準備運動を始める。そんな俺の言葉に彼女は何故か面白そうに笑うと、特に言い返すことも無く準備運動を始めた。

 

 

 俺がこの鎮守府にやってきて一週間ほど。その間、俺は任務をこなしてきた。それは憲兵として鎮守府内の風紀を取り締まり、やってくる前に蔓延っていた緩い空気を幾分か引き締めること。そして、上層部に極秘として受けた、この鎮守府を潰す大義名分を得ることである。

 

 

『どんな手を使ってでもいい、あの鎮守府を潰してくれ』

 

 

 それは俺が直談判した日、熟考の末に認めてくださったあの方から言い渡された言葉だ。言い渡された直後、その言葉の真意を理解しかねた俺であったが、そこから受けた説明にて納得するに至った。

 

 

 『新鋭』の言葉を体現するかのような異例の勢いで戦果を挙げ続け、膠着状態と言える現状を好転させるのではと期待されていた鎮守府。そんな期待の星であった鎮守府、そして初代提督からの報告がある日を境にぱたりと止む。そこから一方的に決別を言い渡し、何度も派遣した使節を問答無用で攻撃、敵対表明を露わにした艦娘たち。

 

 そんな爆弾たちを新米提督が上手く丸め込んだと思うも、蓋を開ければ艦娘(あちら)側に立っているアイツである。事態が好転するどころか悪化していると見えるだろう。更にその新米提督は大本営からの支援を要求してきた。もし艦娘が面従腹背だとしたら、もしあの新米提督が艦娘たちと結託していたら、仮にそうであったらその支援は敵に塩を送る行為に他ならない。むしろ、お返しに砲弾が文字通り飛んでくるかもしれない。

 

 そんな不確定要素しかない且つ反旗を翻る可能性が高いその鎮守府を味方陣営に組み込むなんて正気の沙汰じゃない。むしろ、安全を確保するために早々に潰すべきである。最善策は反旗の兆しを見せた艦娘たちが動く前に強襲し全員を捕縛すること。捕縛後は見せしめ(・・・・)か解体、他鎮守府へ転属させ、固まらないように離れ離れにさせる。

 

 それが無理なら殲滅する。文字通り、一体残らず。それは艦娘だけが対象ではない。あちら側に立った人間も容赦なくだ。仮に生き残っても軍法会議にかけられるだろう。

 

 正直、そこまでやるのかとは思う。だが、それで大本営が存続し、その傘下である鎮守府がまとまるのであれば、安い駄賃(・・・・)である。その駄賃に誤って(・・・)俺が含まれてしまってもだ。無論、そんなリスクは此処に配属される前から覚悟の上である。むしろ、俺の身に何かあれば被害を被るのは奴らであるため、どうにかして俺への被害を失くそうとするだろうから、リスクはないに等しい。

 

 

 それもあってを俺は快諾し、今日まで忠実にこなしてきた。そのおかげか、鎮守府内に蔓延っていた空気が張りつめたモノになり、俺に対する艦娘たちの、そして提督である(アイツ)の態度もどんどん硬化してきた。あと少し、もう少し突けば恐らく堪え切れない。何処かに綻びが生まれ、それを起点に瞬く間に崩壊していくだろう。

 

 だが、中には態度が変わらない存在もいる。それは昨日、俺を執務室から追い出した小柄な軽空母、そして今しがた目の前にいる戦艦だ。

 

 

 

「では、そろそろ行こうか」

 

 

 互いに準備運動が終わった頃を見計らって、長門はそう言って手招きしてくる。その姿、そしてその言葉に俺はほんの少し間を置いて、何も聞こえなかった(・・・・・・・・・)かのように彼女の横をすり抜けて走り出した。俺の耳には自身の足音だけが聞こえたが、すぐに後方から別の足音が聞こえ始める。そこからは常に二つの足音と息遣いが聞こえ、たまにそれらが合わさったりズレたりを繰り返すぐらいだ。

 

 

 この早朝ランニング。俺にとっては日課の一つである。それは此処に配属する前からずっと続けており、軍人としての身体作りが目的だ。対してこの戦艦も同じであったようで、俺がここにやってきた翌日の朝にはこうして二人でランニングをしている。

 

 だが、その日は他の艦娘がいた。元々は彼女を中心とした少人数でランニングを行っていたようであるが、俺と鉢合わせして以降艦娘たちは来なくなってしまった。だが、この戦艦だけは毎日欠かすことなくやってくるのだ。それも、『一緒に走る相手がいなくなったから、責任を取って私と走れ』と言い寄ってきたほどに。

 

 それに対する俺の答えは『勝手にしろ』だ。誰と走ろうがどうでも良いし、この戦艦が俺に危害を加えるような風にも見えない、むしろ加えたならこちらの思うつぼである。しかし、俺の責任で他の奴らが来なくなったなんて知ったこっちゃない。それは来なくなった奴らの責任である。だから拒否もせず承諾せず、ついてきたければついてくればいいと言うスタンスで返したのだ。

 

 

 そんなこんなでこの戦艦と早朝ランニングを共にすることになったが、その最中に話はしない。俺は話しかける必要もないし、あちらも話しかける気も無いようだ。ただ黙々と俺の後ろについてくるだけで、終わった後に話すことも無くあちらから一方的に「明日もまた」と言われて別れるのみ。

 

 それは、今日もまた同じだろう。そう考えながら、俺は黙々と歩を進める。山裾に居た筈の太陽は既にその全体を表し、空も夜明けから朝ヘと変わっていく。朝に変わっても、俺たちは変わらず歩を進める。

 

 

 だが、それは唐突に終わりを告げた。

 

 

「時に憲兵殿、貴官はうちの提督の知己か何かか?」

 

 

 不意に、後ろの長門がそう言い出したのだ。その言葉に、俺は黙々と進めていた歩が地面に縫い付けられた様にピタリと止まってしまった。俺の背後で「おっと」と言う彼女の声が聞こえ、同時に俺の横をすり抜けて前に出る彼女が見える。

 

 彼女は横をすり抜けた後、すぐに振り返って俺を見据える。その顔に不敵な笑みを浮かべながら。

 

 

「……いきなり何だ?」

 

「何、ここ数日の貴官と提督の会話を聞いていると、どうも役職以上の関係にある様に思えてな。以前、彼がここに配属する前に出会っていたのか、もしくは同じ釜の飯でも食っていたのかと、ふと気になってな」

 

 

 不機嫌であることを惜しげも無く晒すも、長門はその笑みを崩すことなく何処かおどけるようにそう言う。だが、その目にはおどけている様子も無く、何処か俺を見定めるような印象を受けた。

 

 

「知己じゃない。学生の時に知り合っただけだ」

 

「ほう、そうなのか。なら、当時の彼はどんな感じだった?」

 

「答える必要はあるのか?」

 

 

 続けざまに投げかけられた問いに、こちらも問いを投げかける。いや、投げかけると言うよりも投げつけると言うか、その問いに食い下がる様な言い方だった。

 

 

「私たちは此処にやってきた彼しか知らないからな。それ以前がどんな感じだったか気になるのも当然だろ?」

 

「それを知ったところで何がある。それを餌にヤツを揺さぶるのか?」

 

「誰もそんなこと言ってないだろう? 何、只の興味さ。それに……」

 

 

 そこで言葉を切った長門は不敵な笑みを崩し、何処か幼子を見るような表情を向けてこう続けた。

 

 

 

 

「何をイラついてる?」

 

 

 長門の言葉に、俺はその日最大(・・)のイラつきを覚えた。そう、俺はイラついているのだ。だから彼女の問いに食い下がった、だから余計なところまで問いかけた。

 

 それはこの戦艦がアイツのことを話題にしたからだ。

 

 

「イラついてない」

 

「いいや、貴官は彼の話になると目付きが鋭くなる。顔や口調もだ。まさに教えてもらった(・・・・・・・)通りだなぁ」

 

「黙れ」

 

 

 俺の言葉に長門はカラカラと笑いながらそんなことをのたまう。顔や口調が険しくなる、考えが極端になる。何処ぞの阿呆にも通じることではないか。いや、本人(・・)だからこそ教えたのかもしれないか。つまり、ヤツが今その問いをぶつけたのも、そしてこうして俺と共にランニングを続けること自体もヤツが関連しているのかもしれない。

 

 

「アイツの差し金か?」

 

「だったらどうする?」

 

 

 そんな図星を狙った問いを投げつけるが、彼女は涼しい笑顔で逆にこちらを煽ってきた。十中八九図星だと思っていた手前、あまりに余裕ぶった物言いに少しだけ驚くも、それを察知されないように努める。

 

 

「何、冗談だ。そこまで(・・・・)驚かれるとは思わなかったよ」

 

「っ」

 

 

 だが、それは何処かで漏れてしまったようだ。長門はそう言って笑い声をあげ、馴れ馴れしく背中を叩いてくる。感情に任せた言葉を投げつけたかったが、これ以上ボロを出すことの方が避けたい。だから、何も言わずに顔を背けた。

 

 

「大丈夫だ、貴官の思っているようなことはないから安心してほしい。第一、貴官がやってくる前から私たちは走っていた、その時点で彼が関与していないのは明白だ。それにあの提督がそこまで抜け目なく采を配するとでも? もしそれが出来ていたら、こんな所に左遷(飛ばされない)さ。多分、幸か不幸か聞けば間違いなく不幸だと言うだろうな」

 

 

 その言ってのけた長門は笑っていた。だけど一瞬、ほんの一瞬だけ、その目に陰りが見えた様な気がした。

 

 

 

「さて、いい加減話を戻そうか。私は此処にやってきた提督しか見ていない。その印象は『提督らしくない』、『軍人らしくない』だ。私たちを人間と言い、力を持たないくせに進んで戦場に飛び込み、逆に力を持つ私たちを危険に晒す、もしくは負担を強いることを避けようとする。今までの提督とは一線を引く、とにかく変な人間(・・・・)だ。それが生来のモノか、それとも此処にやってくる前に培われたモノか、知っておいて損はないだろう。だから、教えてもらいたいのだ」

 

 

 だが、それも先ほどの笑みを浮かべた長門によって問いかける機会を逃してしまう。いや、逃してしまうと言うよりも、俺の興味が移ったと言った方が正しい。

 

 なるほど、相も変わらず(・・・・・・)艦娘を人間だと言い張り、弱いくせに危険地帯に飛び込み、そのくせ艦娘たちにかかる負担を減らそうとしている、か。そうか、ヤツは懲りず(・・・)にそれをやっているのか。そうか、そうか……

 

 

 

 なら、好都合だ(・・・・)

 

 

 

「良いだろう、一つ話をしよう」

 

 

 俺の言葉が意外だったのか、長門は少し驚いた顔をした。しかし、すぐに表情を引き締めて真っ直ぐ俺を見つめてくる。いいだろう、教えてやろう。

 

 

 お前が抱いているヤツの姿。それが、全くの虚構(・・)だということを。

 

 

 

 

「あれは、兵棋演習の時だ」

 

 

 兵棋演習――――――それは数か月に一度、シミュレーター内に展開する海域を舞台に生徒たちを二つの陣営に分けて行う模擬戦闘だ。そこで生徒は一艦隊を率いる艦隊司令官と言える演習員、その演習員を統括する実質的な連合艦隊司令長官と言える統裁官の役目を与えられる。演習員は統裁官の指示に従い己の役目を全うしながらも戦局を鑑みた上での進言をする、統裁官は戦局を見ながら各演習員に指示をする、もしくは進言を取り入れることで自陣営を勝利に導くことで艦隊指揮能力や状況把握力を培う。

 

 その兵棋演習における統裁官と演習員は数か月の成績を元に選ばれる。明言されて無いものの統裁官に選ばれるのは成績優秀者であることは誰の目にも明らかであり、分かりやすい目標の一つとして生徒の殆どは統裁官に選ばれるために日々の訓練や講義に精を出した。

 

 その中で、俺は同期生中最も多く統裁官に選ばれた。当然、成績優秀であったためだが最初は親の七光りだと揶揄する奴らが多く、反抗的な視線に晒される時期もあった。しかし、それは初めて統裁官として臨んだ兵棋演習にて相手を完膚なきまでに叩きのめすことで虚偽であることを証明し、以後連戦連勝を続ける俺に周りは反抗的なものから好意的、更には多大なる敬意へと変わっていったのだ。

 

 

 そんな俺と(ヤツ)が顔を合わせたのは、組み対抗の兵棋演習である。

 

 俺とヤツとは元々所属していた組が違い、定期的に行われていた演習では対峙することも協力することも無く一切の関わりを持たなかった。しかし、その前から『他の組に問題児がいる』との噂は耳にしていた。

 

 何でもそいつは成績最底辺の存在であり、講義の度に「艦娘は人間だ」と教師に噛み付いては口論、取っ組み合い寸前まで食い下がる問題児。周りからは『異端児』、『厄介者』、『非国民』、『ロクでなし』などと呼ばれていた。当時、俺を含め殆どの同期生は即刻退学させるべきだとしたがとある提督の推薦状を携えて入学したため無碍に扱えないと言う上官の態度に、親の七光りならぬ提督の七光りを借る狐だと揶揄していたほどだ。

 

 俺はその噂を聞き、少しだけ興味を抱いていた。俺自身、『艦娘は兵器である』との方針に些か疑問を抱いていたからだ。元々は適性があった人間、そして深海棲艦に対抗しうる唯一の存在、艦娘は俺たち人類の生命線である。それを『兵器と言う道具』として扱うのはどうなのか、と。

 

 しかし、どのような形であれ戦うのは、そして犠牲になるのは人間である。勝利と言う大弾幕に隠されてはいるが、その下には数えきれないほどの屍が横たわっているのも事実。実際、艦娘が現れるまで深海棲艦と戦っていたのは多くの将兵であり、その殆どは今も海底深くに眠っているのだ。

 

 そして、艦娘は提督の指示を受けて戦闘を行う。彼女たちが扱う艤装、資材、拠点である鎮守府と戦闘を行う上で必要なものは大本営が用意し、そして途切れることなく供給している。艦娘の前線基地である鎮守府、そこを運営し指示を飛ばす提督、その母体となる大本営がいるからこそ艦娘は戦闘に赴ける。そう無理矢理落とし込めば、艦娘たちを戦争に勝つための道具、即ち兵器として扱うのも頷ける。

 

 俺はそこで何とか納得した。だが、ヤツはそれで納得していない。納得する気も無く、懲りることなく噛み付き続けている。

 

 何がヤツをそこまで駆り立てるのか、艦娘は兵器ではない確固たる証拠を持ってるのか、そしてそれをどう証明しようとするのか。それが非常に気になったのだ。

 

 そんな俺を尻目に、その噂を受け取った同じ組の奴らは『狐狩り』と言う言葉を掲げた。この演習で無能、役立たず、恥さらしの烙印を叩き付け、ヤツ()を退学に追い込もうとした。

 

 

 そして、結果は『敗北』だった。いや、狐に化かされた(・・・・・・・)のだ。

 

 

 だが、前に言った通り統裁官に任命されるのは成績優秀者。つまり、最底辺であるヤツが極々一部の例外を除いて統裁官にはなれないのだ。その極々一部の例外とは何か、それは提督の七光りを使って統裁官になった――――――わけでもない(・・・・・・)

 

 ヤツは連合艦隊を指揮する統裁官ではなく、そこに所属する一艦隊を率いる演習員の立場で俺たちを化かした。兵棋演習は一人一人が持つ視野、思考、判断の全てを結集して望む総力戦である。その中で、たった一艦隊のみで自陣営を勝利に導いた。

 

 であれば、ヤツが率いた艦隊はさぞ活躍をしたのだろう。一艦隊で連合艦隊をいなす巧みな指揮、戦局を読み切りその先までを見通す視野、絶妙なタイミングで状況をひっくり返す判断力、その全てを持ち合わせていたのだろう。

 

 否、違う(・・)違うのである(・・・・・・)。ヤツにそんな能力は無い、一切、欠片ほども。なのに俺たちは化かされた。能力も才能も無い、文字通り最底辺の狐に俺たちは化かされた。それは何故か――――――そんなもの、簡単(・・)である。

 

 

 それは、ヤツがその身を差し出した―――――――開始と同時に単騎突撃、自艦隊を生贄にした特攻(・・)を仕掛けたからだ。

 

 その動きに俺たちは出鼻をくじかれた。しかも恐ろしいことにその行動は敵の統裁官も予想外だったらしく、演習は大いに乱れ混沌を極める始末。結果、ヤツの艦隊を全滅させるも引っ掻き回された戦況を立て直すに至らず、俺の組は僅差で敗れた。『常勝』と謳われた俺たちが、たった一匹の狐によってその栄誉を剥奪されたのだ。

 

 

 終了後、俺は真っ先にヤツに詰め寄った。ヤツが起こした暴挙を問いただすためである。だが、それの他にもう一つ看過できないことがあった。

 

 

『何だ』

 

 

 俺が詰め寄った時、ヤツはそう溢した。あれだけのことをしておいてよくそんな言葉が吐ける―――――そう心の中で、そして口に出した上でヤツの胸倉を掴んで引き寄せた。ヤツの身体は抵抗することなく俺にされるがまま。まるで演習の時と同じように自ら身を差し出すが如く、いとも簡単に引き寄せた。

 

 そして、その目を見据えた。同時に、何故ヤツがこんな暴挙を起こしたのか、その理由の片鱗をおぼろげながら捉えた。

 

 その目が酷く濁っていたのだ。理想の提督、司令官を目指して日々切磋琢磨する学生とは思えないほど黒く、数えきれないほどの感情を押し殺し、蓋をかぶせ、『希望』、『未来』、『理想』と言った光の全てを排除し尽くした、『絶望』しか映っていない、とても酷い()をしていたからだ。

 

 その瞳を捉えた上で、俺はヤツに問いをぶつけた。何故あんな暴挙に出たのか、と。すると、ヤツは俺に注いでいた視線を下に向け、呟くようにこう漏らしたのだ。

 

 

『勝てれば良いだろ』

 

 

 その答えに、俺は納得した。なるほど、内容はどうあれヤツの起こした暴挙で俺たちは負けた。勝敗は時の運であり、泥を塗られたからと言って負けは負けである。喚いたところで変わる筈も無く、そのことをとやかく言うつもりもない。そしてその結果だけを見れば、ヤツは自分の身を捧げて自陣営に勝利をもたらした功労者だといえよう。その点は認めよう、その点は評価しよう。

 

 

 そう、その点だけ(・・・・・)は。

 

 

 

『じゃあ、勝利のために貴様の艦娘(・・・・・)を犠牲にしても良いと言うことか?』

 

 

 納得した直後に問いを、看過できないことをぶつけた。その瞬間、ヤツの時が止まった。黒く濁っていた目の中で渦巻いていた『絶望』が、感情の一切を押し殺していた顔が、延々と燻っていたであろう思考が、それらが示し合わせた様に止まったのだ。

 

 

 恐らく、いや確実にヤツの頭から抜け落ちていたのだろう。勝利の代償として犠牲となった自身の艦隊、それを構成するのは6()の艦娘であることを。自分は兵棋演習で勝つためだけに6人の艦娘を殺したと。

 

 そして、ヤツは再三艦娘は人だと言い続けている。人として扱うことを望み、対等もしくはそれ以上の存在であると高らかに宣言し、教師や周りの人間から散々罵詈雑言を浴びせられようとも決して撤回しなかった。

 

 そんな艦娘は人(・・・・)だと喚き続けている己が、艦娘を兵器(・・・・・)のように扱ったことを。ヤツは俺の言葉で気付いた。

 

 そう、俺はヤツが犯した凄まじい矛盾を――――能天気に晒していた狐の尻尾を容赦なく踏ん付けてやったのだ。

 

 勿論、これは実戦ではない演習、それもシミュレーターを使った疑似(・・)演習だ。俺たちが動かす艦隊、艦隊を構成する艦娘はただのデータ。意志を持たず、俺たちの指示を忠実に守る駒、演習に勝利するための道具、戦争とすればまさに兵器である。

 

 そしてデータであるが故に現実における損害は一切ない。例えヤツのように艦隊を全滅させても、それが影響しうるのは演習の勝敗だけで、演習さえ終われば何事も無かったかのように復活する、いとも簡単に塗り替えられる。だからこそ、俺たちの艦隊指揮の訓練として用いられるのだ。

 

 

 そう、割り切ればいいのだ。そう、言い返せばいいのだ。むしろ「これは戦争だ、何を綺麗事を」と吐き捨てればいいのだ。それ以外にも答えは無数にあり、その殆どは最適ではないモノの『正解』である。周りに散らばっているそれを一つ手にして、俺に投げつければ良かったのだ。

 

 

 だが、ヤツはそのどれもこれもをしなかった。いや、正確には何も選ばなかった。

 

 

 その問いをぶつけた後、ヤツは何も言わずにその場を立ち去ったのだ。何も言わなかったが、俺が与えた衝撃は相当なものだと分かった。何せほんの一瞬、その一瞬だけで示し合わせて止まったもの全てが足並みをそろえて動き出したからだ。

 

 燻っていた思考は再び激しく燃え上がり、押し殺していた感情が再び湧き出し、黒く濁っていた瞳が歪に歪み、そこから白く光るものがこぼれ始めた。

 

 

 『後悔』と言う感情を瞬く間に表し、振りかざし、ヤツの身体を、思考を、あらん限りの力で振り回し始めていたのだ。

 

 

 そして数か月後に再び組み対抗の兵棋演習が行われ、俺の組は文字通り完勝(・・)した。一艦隊も失わず、損害すらも出さずに敵を全滅させたのだ。勿論統裁官は俺であり、ヤツは相変わらず演習員。そして、前回特攻を仕掛けてきたヤツは開始から終了まで、一度も攻撃することなく(・・・・・・・・・・・)戦場を逃げ回り続けた。

 

 それは前回の演習で犯した愚行を顧みた結果なのだろう。自艦隊の艦娘を沈めないよう逃げる(・・・)ことに終始したのだろう。しかし、結果的にヤツの陣営は全滅。結局は前回と(・・・)同じように艦娘を殺したのだ。今度は矛盾すらなく、ただただ己の無能さを曝け出しただけだった。

 

 その演習で、俺はヤツに声をかけなかった。声は愚か視界にすらも入れなかった。それは前回の、そして今回の演習でヤツは何の考えも無くただ喚き散らすだけの男だと判断したからだ。関わっても何も利益もない、その辺に転がっている石ころと同じものだとしたからだ。

 

 

 

なのに(・・・)

 

 

 思わず漏れたその言葉に、俺は慌てて口を噤んだ。突然話を終わらせた俺に長門は首を傾げ、俺が望んでいない言葉を口にする。

 

 

「なのに、なんだ? 何と言おうとした?」

 

「何でもない、気にするな」

 

 

 その言葉に俺はそう吐き捨て、再び走り出した。数秒遅れて、長門も走り出す。

 

 

「しかし、そんなことがあったのとはなぁ」

 

 

 後ろから聞こえる言葉。ヤツの恥部を晒したことに対する感想であろう。しかし、その声色は俺の予想とは違い何処か朗らかであり、ゆったりとした口調であった。

 

 

「なら、益々支えてやらんとな」

 

 

 そして次に聞こえたそれは、独り言のようであった。何でもないようなこと、至極当たり前(・・・・)のことのように長門の口から零れた。

 

 その言葉は俺の足をまた再び縫い付けられた。だが、その言葉を発した本人は何事も無かったかのように歩を進める。俺の横を通り過ぎ、前に躍り出てなおその足は止まらない。俺を振り向くこともなく、黙々と進んでいく。

 

 

「待て」

 

 

 だから、そう溢した。そう溢し、躍り出た長門に詰め寄り、その腕を掴み、離れ行くその身体を引き留めた。引き留め、こちらに振り向かせた。あの時と――――あの演習後に詰め寄った時と同じように。

 

 

何だ(・・)

 

 

 そして、こちらを向いた長門はそう溢した。言葉まで同じ、まさか敢えて同じにしたのかと思うぐらい自然とその口から聞こえた。

 

 だが、その目は違った。明らかに違った。一寸の曇りも、濁りも、うす暗い影さえない。眩い光を帯びた、『信念』に満ち満ちた()であった。

 

 

「なんでそん、な、ことを……」

 

 

 だからか、それ以降の言葉に詰まった。その瞳を前にして、その『信念』を前にして、怖気づいてしまったのだ。

 

 

「なんで、とは……また可笑しなことを言う。彼は提督だぞ? 艦娘()が支えるのは当たり―――」

 

「何故見限らない(・・・・・)!!」

 

 

 その瞳のままそう語る。そんな長門に、俺は吠えた。言葉に詰まっていた筈なのに、何故かその言葉は詰まることなく、むしろ貯めに貯めた胆力を持って飛び出したのだ。

 

 

「ヤツは空っぽだ!! 何もない、何も出来ない空っぽなんだぞ!! 口先だけの空っぽな人間だ!! お前らの嫌いな人間(・・)なんだぞ!!」

 

 

 そうだ、ヤツは何もない。何もないくせに口先だけ耳障りの良いことを吐き、そのくせ何も出来ない空っぽの人間なんだ。空っぽなんだ、何もないんだ。なのに、何故『支える』なんて言える、何故そう思える、何故そんな真っ直ぐな瞳で言えるんだ。

 

 分かっている筈だ、証明したはずだ。この一週間、俺はヤツが空っぽであると証明し続けた筈だ。ここに来て真っ先にヤツが作り上げた空気を壊した、壊れた空気が戻らぬように常に艦娘たちに目を光らせていた、ヤツの考えを先回りをしてその対応を潰した。

 

 

 それは艦娘たちにヤツは何も出来ない人間であることを分からせるためだ。分からせて、失望させて、俺と同じように、その辺に転がっている石ころ程度に陥れるためだ。艦娘たちがヤツをそう思い、その制御下から離れれば後は簡単である。適当に挑発して、手を出させればいい。大義名分を得ればいい。

 

 それで、あの方の悲願を達成でき、且つ父上の目を覚ますことが出来る。石ころの価値を見誤り、捗らない、成果も挽回もしない、微塵も動かないこの鎮守府(ブラックボックス)に際限なくモノを投資するその滑稽な後ろ姿。いつまでも掴み、縋り続けるその手を振り払わせ、目の前で破壊する。そうすれば父上は目を覚ます。覚まさないにも、目の前で破壊した俺に目を向ける(・・・・・)だろう。

 

 

「なのに……なのに何故見限らない!! 何人もの提督を挿げ替えてきたくせに、何でヤツはそうしない(・・・・・)!! 何で今も担ぎ続ける!! 何で見続ける!!」

 

 

 ヤツがこの鎮守府で今も提督をしていること自体がおかしいのだ。ここは問題だらけ、ベテランの提督ですらも手こずるであろう鎮守府。アイツの前に何人かの提督が赴任され、姿を消している。そんな所に放り込まれたヤツはせいぜい使い捨て、触れてはならないパンドラの箱を開けるために、破壊するために数多派遣された人間の中で最も貧弱な、最底辺の駒だ。

 

 なのに、(ヤツ)は今も提督をしてる。身分不相応、才気に乏しく、無自覚に矛盾を犯し、その答えを導き出すことができないヤツが、足元にも及ばないであろう優秀な前任者が果たせなかったことを果たし続けている。それも、目の前にいる艦娘は『支える』と口走り、その瞳は濁るどころか真っ直ぐな光を携えている。

 

 

 何故、そんなことを言えるのか。

 

 何故、そんな瞳を浮かべられるのか。

 

 何故、()と同じように見限らないのか。

 

 何故、父上(・・)と同じように見続けるのか。

 

 何故――――――

 

 

 

見てくれない(・・・・・・)んだよォ!!」

 

 

 いつの間にか零れていた言葉。それはこの場に不相応であり、向けるべき対象もおらず、目の前にいる艦娘は全くもって関係ない。場違いで、見当違いで、勘違いも甚だしい。

 

 それを長門がどう受け取ったのかは分からない。彼女は何も言葉を発しないからだ。その代わりに、彼女は黙って俺を見つめている。その目には、訳も分からずいきなり叫んだ俺を訝しむモノでもなく、俺が自分たちに害をなす人間であると警戒するモノでもない。

 

 

 見たくないモノを見てしまった、そんな目だ。そんな目を、片時も離すことなく向け続けているのだ。

 

 

 

「……それが、『なのに』の続きか」

 

 

 次に発せられたのは、そんな言葉だった。それに、俺は思わず目を見開く。

 

 

「申し訳ない。私もそこまで()を見ていない、そして他の者たちの評価もおおむね『大本営の犬』だろうな」

 

 

 しかし、次に発せられた言葉によって、俺は長門から視線を外した。ほんの少し、僅かに抱いた『期待』、場違いにもほどがあるそれを真っ向から否定されたからだ。

 

 

「だが、君の彼に対する評価はあながち間違っていない。今の提督は以前の者たちに比べればその足元にも及ばないだろう。要領も悪く、艦隊指揮も取れない、提督としては最底辺。君の言葉通り、まさに『空っぽ』だ。それは私を含め、艦娘全員が抱いているだろう」

 

「じ、じゃあなんで……」

 

「それだから、だ。『空っぽ』だから彼を『支えよう』、と、私は思っている」

 

 

 『答えになっていない』、『真面目に答えろ』、そう心の中で吐き捨てた。何故、心の中か――――それはその言葉を吐き出した長門の表情がどう見ても冗談を言うようなものではなかったから、真面目に答えている(・・・・・・・・・)からだ。

 

 

「『支える』では意味が通じないか……であれば、『空っぽ』だから『繋ぎ止めよう』……これも違うな。『空っぽ』だと表現しにくいから、今は『真っ白』とでも言わせてもらおう」

 

 

 『真っ白』―――――まさに何もないと言うこと。意味は同じ、ヤツと言う存在を的確に表現した言葉だ。『空っぽ』と同じ意味を持つそれにわざわざ言い換えたのか、それを問いただすよりも前に彼女は再び口を開いた。

 

 

「彼は自分を『真っ白』だと思っている。『真っ白』故に、彼は染まる(・・・)ことを何とも思っていない。赤なら赤に、青なら青に、私たちの場合は汚れ(・・)と言った方が的確か。だが、彼はそんなこと考えてもいないだろう。そこで蹲っている存在が居れば、彼はそれが人間だろうが私たち(汚れ)だろうが躊躇なくそこに飛び込むだろう。その存在が泥だらけなら同じように泥だらけになり、埃をかぶっていたら同じように埃をかぶり、血まみれならば同じ血に塗れる。そこが絶対に踏み込めない、例えるなら光さえ届かい海底に座り込んでいても、彼は息の続く限り、体力の続く限り、その命が続く限り、永遠に届きのしないその手を必死に伸ばし続けるだろうさ」

 

 

 『何もないから何をするにも躊躇が無い』――――それは一見、長所のようにも聞こえるが、裏を返せば『際限なく自身を陥れ続ける』と言うことだ。そして、鎮守府を率いる提督として考えれば、傘下である艦娘にもそれを強いることになる。そこまで言えば、それが如何に愚かなことか分かるだろう。現にヤツは兵棋演習でそれを強いたじゃないか。

 

 

「しかし、困ったことに彼は今でも(・・・)自分を『真っ白』だと思い込んでいる。まぁ、そのおかげで彼は何度も(・・・)染まろうとするわけで、その度に蹲っていた者たちが立ち上がるから敢えて指摘することも出来ない。彼は今もなお真っ白な軍服に袖を通しているつもりだろうが、実際は袖の先から襟、更には内側まで汚れているわけだ。そんな彼を見て、立ち上がれた者(・・・・・・・)が歯がゆく思うのは当然であろう?」

 

 

 そう、歯がゆく思うのは当然であろう。自分を無かったことにされていると同じだからだ。そして、無かったことにされないように存在を主張し続ける。ヤツがやってきたことを―――――ヤツのお蔭(・・・・・)で自分がいることを分からせるために。

 

 

「簡単に言ってしまえば、彼女たちは今もなお『真っ白』だと思い込んでいる阿呆が飛び込み、染まり、そして立ち上がらせた証明(・・)――――今まで染まってきた『汚れ』と言うわけさ。それも水で濯いだ(・・・・・)ぐらいじゃ落ちない、とてもとても『頑固な汚れ』だ。勿論、全員がそうだとは言えない。中には未だに不信感を募らせている者、心を開いていない者、もしくは彼を利用しようとする者もいるだろう。だが、確実に『汚れ』は存在しているのだ」

 

 

 自分たちはヤツがここでやってきたことを証明する存在、だから離れることは無い。ちょっとやそっとの水で洗い流されようとも『汚れ』は残り続ける、存在を主張し続ける。

 

 

「そして、私は『汚れ』ではない。彼によって立ち上がった、彼のために存在を証明し続けている『汚れ(彼女たち)』を見ているだけの傍観者だ。ある意味、私は彼を利用している存在だと言えよう。それ故にここで彼が潰れてしまっては困るのだ、ここで押し流されてしまっては困るのだ。だから支える、彼を支える。この鎮守府のために、此処にいる未だ塞ぎ込んでいる者たちのために、彼を支え、繋ぎ止め、時にはその弱腰を蹴飛ばし、何としても歩いてもらう。何せ―――――」

 

 

 その時、一際強い風が俺たちを叩いた。俺の髪、上着を盛大に掻き揚げ、長門の上着、そして後ろでまとめられた黒髪が盛大に乱れる。その惨事に彼女は特に気にする様子はなく、見上げるように少しだけ仰いだ顔をこちらに向け、非常に穏やかな顔でこう言い放った。

 

 

 

「この鎮守府には、彼のような人間(・・)が必要なんだ」

 

『私には、彼のような人間(・・)が必要なんだ』

 

 

 

 その言葉は俺の耳に一つ、俺の頭に一つ浮かび上がった。だが、全く同じ意味の言葉なのに、それを発した声は全く別ものであった。

 

 耳に入ってきたのものは、今しがた目の前で長門が発した言葉だ。

 

 頭に浮かび上がってきたのは、今よりも幾分か古い記憶、場所は此処ではなく大本営(・・・)

 

 真っ赤な絨毯で覆われた床を踏みしめ、年季の入った机に身を乗り出し、目の前で煙草を燻らせる老練な男―――――父上に詰め寄った時に返された言葉だ。

 

 

 同時に、こう思った。なんて、なんて馬鹿馬鹿しいほどに都合の良い御伽話(・・・・・・・・)だろう、と。

 

 

「さて、憲兵……いや、流水(・・)殿。貴官が何を考え、どんな目的で此処に来たのか、この私には分からない。だが仮にこの鎮守府を乱すようなことをすれば、御身は只では済まないだろう。万が一それこそが貴官の目的であるのなら、この手(・・・)が向けられない内に此処を立ち退かれよ」

 

 

 そう言った長門は、おどけた表情で片手を掲げた。その腕にとてつもなく大きく、重く、冷たい黒い塊を――――戦艦の代名詞である砲門を携えているかのように。

 

 その姿に、俺は身体が動かなかった。それは任務を遂行するまたとない好機と捉えたわけでもない。まして、彼女が掲げた腕を向けられた時のことを思い浮かべ、恐怖に足が竦んだわけでもない。

 

 

 たった今聞かされた都合の良い御伽話、その主役が俺に背を向けて(・・・・・・・)立っているのが見えたからだ。

 

 

 

 

「だが、()の『なのに』に対する答えは、生憎その目的の先には無いだろう」

 

 

 しかし長門は――――都合の良い御伽話の語り部(・・・)は何故か俺に――――ただの脇役にそう言った。

 

 

「意味が分からない、と言う顔をしているな。そう、これは全くもって真実ではない。とっさに思いついて、口に出しているだけの法螺話だ。だが、敢えてさせてもらおう。その答えは此処(・・)にある、正確には此処にいる彼女たちが持っている…………かもしれない(・・・・・・)。こうやって断言しないのも、判断するのは私ではなく『君』だからだ。それを受け取って、君がどうするかは自由だ。目的を遂行するも良し、更に答えを求めるも良し、どちらを優先するのも君次第だ」

 

 

 彼女は断言した、これは法螺話である。だが、これを法螺話とするか、真実とするか、転ばせるのかは脇役()次第だと。そしてそれをどちらに当て嵌めてみろ、当て嵌めた上で好きをしろ(・・・・・)、主役のためだけに存在するこの都合の良い御伽話の綻びを突いてみろ、そう煽っているのだ。

 

 

 この脇役に、『主役』の座を与えようとしているのだ。

 

 

 でも、何故煽るのか分からない。一歩間違えれば、彼女が守ろうとしている此処を潰しかねないのに。何故か、彼女はその危険を冒してまで煽ってくるのだ。

 

 

「なんで、そんなことを……」

 

「ふふっ、やはりそう言うだろうと思った。だが、そっちの『答え』は()に言った筈だぞ?」

 

 

 俺の言葉に長門は可笑しそうに笑みを溢しながら、真っ直ぐ俺を見て(・・)こう言った。

 

 

 

「私は、利用する存在(・・・・・・)だ」

 

 

 彼女は言った、自らは利用する存在だ、と。

 

 彼女は言った、その理由は鎮守府のためだ、と。

 

 彼女は言った、鎮守府のために必要(・・)だから、と。

 

 

 

「さぁ、もう日も昇った。そろそろ戻ろうか」

 

 

 ポツリと、彼女はそう言った。その言葉通り、太陽は先ほどよりも高い所に浮かんでいる。口から漏れる息も白くはなくなった。ランニングをするには少々暑い、それ故の言葉だろう。

 

 その言葉を残して、長門はこちらを振り向くことなく走り出した。だが、何故だろうか。その背中に既視感を覚えてしまった。

 

 

 それはあの時――――――兵棋演習後に見送った『空っぽ』の背中に、よく似ていたからだ。



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脇役たちの『本音』

「おはよー」

 

「今日はなにー?」

 

「えーあれ好きじゃなーい」

 

「好き嫌いはだめだよー」

 

 

 ふんわりとした日差しに包まれた大きな食堂は沢山の艦娘で溢れかえっていた。寝癖を付けた者、瞼が閉じている者、キッチリ身なりを整えている者、整えている中で気付いていないだろう寝癖を付けた者。鎮守府の朝を三者三様に表現している彼女たちではあるが、その表情は一様に『笑顔』だ。

 

 その光景は普通である。複数人が共に過ごす場所であれば、必ずと言って良いほど見られる光景。珍しくも無く、なんてことのない日常風景だ。ここが鎮守府と言う戦争の最前線であっても、そこに集う艦娘たちにとっては当たり前のように繰り返される日常である。

 

 だけど、この鎮守府は普通(・・)ではない。複数の提督を失踪させ、大本営に敵対し、深海棲艦とも相容れず、孤立無援で大海原を漂っていたこの鎮守府は、世間は愚か鎮守府の普通からかけ離れた存在である。

 

 今しがた彼女たちが口にしている食材、そしてこの大海原を駆け巡り鎮守府に帰ってくるための燃料、自身の身を守るために深海棲艦を屠る弾薬、それら全て大本営から送られてきたモノである。だが、敵対した彼女たちが敵対から今日までずっとそれらを口に出来ていたとは思えない。事実、彼女たちはつい最近まで出撃や遠征でかき集めた資材を食材とし、それで食い繋いでいたと聞いている。

 

 燃料がどんな味か、弾薬がどんな食感か、鋼材がどれほど腹持ちがいいのか、実際に口にしたことのない身としては何とも言えない。ただ当時の彼女たちが今目の前にある『日常』を過ごしていたとはどうしても思えなかった。これだけは分かる、分からざるを得ない、分かりたくなくても目の前にあるから理解するしかないのだ。

 

 

 では、誰がこの『日常』を取り戻したのか。いや、誰が作り上げたのか。そんなの、分かりきっているだろう。

 

 

 

「ッ」

 

 

 その時、唇に鋭い痛みとそこから広がる鉄の味を感じた。その場所に手を近づけると、少し粘度を持った温かいものに触れた。その手に視線を向けると、指先に赤い血が付いていた。いや、指先だけでなく掌全体がほんのりと赤みを帯びている。血まみれと言うわけではなく、握りしめていたせいで止まっていた血液が勢いよく流れだしたからだ。

 

 そして何故か、それが腹立たしかった。血液が流れることは普通である。生きていく上で必要不可欠なことである。それが無意識の内に握り締めていたことで血液が止められていた、それだけだ。握りしめることを止めれば血液は再び流れ出す。目に映る手のように最初は赤く染まるだろうが、時間が経てば普段の肌色に戻る。

 

 

 そんな当たり前のことが、普通のことが、そうなっていくその過程が目の前に広がる御伽話(・・・)と重なって見えるから。余計、腹立たしかった。

 

 

 そんな御伽話から俺は―――――朽木(・・)林道と言う脇役は目を背けた。艦娘たちが食事をとる食堂、その入り口から少し離れた壁にある今しがた顔を覗かせていた窓から離れた。先ほど御伽話の語り部に煽られた脇役はのこのこと食堂にまで足を運び、まざまざと見せつけられたそれから目を背けたのだ。

 

 語り部は言った。俺が求めている答えは彼女たちが持っている、それを受け取って判断してみろと。しかし、語り部はどう受け取る(・・・・・・)かまで言わなかった。無論、それは語るまでもないと思ったからだろう。なにせ彼女たちからその答えを受け取る方法は、彼女たちにヤツのことをどう思っているのか直接聞けばいいからだ。故に彼女は示さなかった、故に俺は彼女と別れた後食堂(ここ)に来たのだ。

 

 

 そして、俺はここまで足を運びながら背けた。理由は先に言った通り、見せつけられたから。今まで行ってきた接し方がその難易度を跳ね上げていることもあったが、一番はそれだ。背を向けてきたものを直視することが嫌で嫌で堪らなかったのだ。

 

 この感覚は初めてではない。ついさっき感じた、この前感じた、あの時感じた、何度も何度も感じたものだ。『ついさっき』は長門との問答だ、『この前』は大本営で父上から席を外すよう言われた時だ、『あの時』は父上が必要だと溢した時だ。

 

 

 どれもこれもただ一人、唯一無二、この『日常』を作り上げた、この馬鹿げた御伽噺の中心、そこで盛大にスポットライトを浴び続ける主役――――――明原 楓が居たのだ。

 

 

 脇役が何を言っているのか、そう言ってしまえばそれまでだ。これは主役が輝く話だ、その一部である脇役にスポットライトが当たるなんてありえない。脇役はせいぜい主役を引き立てるだけの舞台装置、悪く言えば噛ませ犬だ。その存在意義は主役を引き立てさせるのみであり、それ以外を望まれることは決して無い。

 

 だけど俺は――――目立ちたがり屋で我が儘で、どうしようもなく諦めの悪い脇役()は自らそれを望んだ、身分不相応であるにもかかわらず主役(それ)を望んでしまった。そして与えられた、突拍子も無く、何の心構えも無いままに与えられてしまった。

 

 

 そして逃げ出した。その座から、そこから伸びる道から、その先で歩いている主役の後ろ姿を前にして、それを見たくないなんて我が儘で。ポッと出の脇役にそのスポットライトは眩し過ぎた。

 

 

 見る度に惨めになって、目を向ける度に心が荒んで、視界に入れまいと顔を覆って蹲る。その先に答えがあると、一歩さえ踏み出せば手に入ると言われても、その一歩が途方も無く遠く、重く、耐え難いと決めつけてしまえば脇役は――――――いや、人と言う生き物はそこで立ち止まり、膝を折り、顔を覆い、塞ぎ込んでしまう。

 

 だからこそ主役が必要なのだ。塞ぎ込んだ脇役たちを立ち上がらせ、その一歩を踏み出すために。そのきっかけに、その理由になるために。御伽噺だろうが与太話だろうが、『話』を進ませるために主役が必要なのだ。

 

 そして、その座に脇役がとって代わるなんて出来ない。そんな話の中で脇役が出来るのは、せいぜい主役がやってくるまでその場で蹲っていることかそれを悟らせないように振る舞うことだけだ。

 

 その中で、振る舞うことを選択した多くはなるべく感情を表に出さない。それは本心を悟られることを良しとしないからだ。その逆に感情を出す者もおり、こちらの方が性質が悪い。何せ、それが出す感情は本心と全く別のものであるからだ。また、そういう存在ほど同じ(・・)感情しか出さないし、その典型的な例は『笑顔』だろう。

 

 

 そして前者後者関わらず、そういう脇役たちは一度本心(ボロ)を出してしまうと一気に脆くなってしまうのだ。

 

 

 

「……ぁ」

 

 

 そんな脇役()が目を背けた先で、一人の艦娘がいた。

 

 

 肩から腰までスッポリ入るセーラー服型のワンピースに身を包む駆逐艦。彼女は確か、幾多の戦場を駆け巡り生還し続けた武勲艦『雪風』の名を冠する駆逐艦だったはずだ。だけど、それは本当に雪風(彼女)だったのだろうか。

 

 ここに来てから俺は何度か彼女を見ている。その時、いやいつ何時目にしても彼女は笑顔だった。見た目相応の笑みを浮かべ、見た目相応に元気よく振る舞い、悩みなんか一つも抱えてないかのように日々を過ごす、そんな極々普通の艦娘であった。

 

 だけど今、俺の視界にいる彼女は今までの姿からかけ離れていた。いつもの笑みが無く、明るい雰囲気もない。かと言って肩を落としているわけでもなく、暗い雰囲気を醸し出しているわけでもなく、何かに悩んでいるわけでもない。

 

 ただ、何事も無く佇んでいる。何事も無く佇み、抱いているであろう感情の一片すらも見えない、ありとあらゆる感情(それ)を殺し尽くした末に辿り着く、極端に言えば死人と対して変わらないのではないかと思ってしまうほど『無』表情であったからだ。

 

 

 いや、むしろそれは『人』と呼べるのか? 殺し尽くしたのではなく、元々無い(・・)のではないか? そういうモノ(・・)を、大本営はああ(・・)言ったのではないか?

 

 俺がその仮説に落ち着く前に、その艦娘は俺に向けていた視線を外した。能面のような顔のまま、何事も無かったかのように背を向けて行ってしまったのだ。

 

 

 その後ろ姿を前に、俺の足は勝手に動き出していた。

 

 

 

「待て!!」

 

 

 自分でも驚くほど大きな声でそう吠えた。先ほど、食堂に踏み出そうとした足が、艦娘たちに声をかけようとした喉が全ての機能を失った筈なのに、今のそれらはちゃんと機能して、それぞれが持つ役割を果たしている。その筈なのに、彼女は意に返さない。返すための意があるのかすら疑問になるほど、全く動じることなく前を行ってしまうのだ。

 

 淡々と進んでいく彼女の背に追いつけとスピードを上げる。すると、それに呼応するかのように彼女の歩も早くなった。だがそれは俺のようにゆっくりと、そして速度が一定しない不安定な上がり方ではなく、スイッチが切り替わったかのように急に、そして一切ぶれることない安定した上がり方だ。それはもう、人間業とは思えない。

 

 息が荒くなってきた、脚が重くなってきた、軍人として身体づくりをしてきた俺でもこのまま走り続けるのが難しくなってきた。それでも、彼女は変わらない。身体が訴えてくる要求に競り負けそうな俺と違い、それらを感じさせない、むしろそれらが存在していないかのように、彼女は変わらず進むだけだった。

 

 

 だけど、その歩みが途中で止まった。

 

 

 

「何してやがる!!」

 

 

 横殴りに怒号が飛んできたからだ。同時にその艦娘は怒号の方を、その直後に俺も向いた。その先にはもう一人の艦娘が、此処にやってきた時に無断で執務室に入ってきた艦娘の一人。俺が詰め寄った方だった。名前は確か――――

 

 

「天龍さん」

 

 

 俺が思いつくよりも前に、艦娘がその名を口にした。その声も抑揚が無く、感情も無く、ただ発音だけが完璧な機械が発した電子音のようである。しかし、その声で名を呼ばれた天龍はそれに言葉を返すことなく俺たちに近付き、俺と艦娘の間に立ち塞がった。

 

 

「雪風に何かしようってんならただじゃおかねぇぞ!!」

 

 

 立ち塞がると同時に天龍はそう吠えた。執務室で見た時の彼女とは別人のような、いや別なのはその声だけだ。そう発した彼女の顔はあの時とと同じように強張り、その身体は明らかに震えており、あの力強い声を発したとは思えないほど頼りない姿だった。

 

 

 その姿が、何故か重なった。何とは言えない、だって重なったそれを実際に見たことが無いから、俺が見ることのできない()の後ろ姿のようであったからだ。

 

 

「逃げろ!!」

 

 

 俺が固まっているのを見かねてか、天龍は後ろに居る雪風にそう言い放つ。その言葉に雪風は特に何も言葉を返すことなく、クルリと後ろを振り向いてまた走り出した。その後ろ姿に、またもや俺の口が勝手に動いていた。

 

 

 

 

「楓のこと、どう思っているんだ!!」

 

 

 俺の口から、喉から、腹の底から勢いよく飛び出した言葉。それは先ほどあれだけ躊躇した、嫌悪によって吐き出すことを拒んだ言葉だった。だけど今この時、何故かそれはいとも簡単に飛び出した。そして、その言葉は一度も意に返さなかったその艦娘の歩みを止まらせた。

 

 それだけではない。歩みを止め、向けられなかったその顔をこちらに向かせ、無いのではないかと思われたその顔に『驚き』と言う感情を浮かばせたのだ。

 

 

「此処が悪いとか此処が嫌とか、そこまで具体的に言わなくてもいい。好き嫌い、それだけでもいい!! お前は楓を……アイツと言う人間をどう思っているんだ!?」

 

 

 そのまま勢いに任せてそこまで言い切り、それと同時に自分(・・)を嫌悪した。それは一例として『悪い』や『嫌』を挙げ、選択肢を与えると同時に暗に自分が欲しい言葉を要求しているからだ。どこまでも自分本位であるからだ。

 

 そして何より、俺が彼女にそこまでの反応をさせるためにあれほど嫌っていた主役様を利用したからだ。

 

 

 しかし、そんなことなどどうでも良いと思えるほどの答えを艦娘は発した。

 

 

「しれぇはしれぇです」

 

 

 そう、抑揚の無い、感情の無い、無表情で。彼女はそう発したのだ。それを起点に、その場は時が止まったかのような静寂に包まれた。風やさざ波などこの世の全ての音がかき消え、呼吸することすら忘れてしまったのかと思うほど、静かだった。

 

 だがそれも長くは続かない。その静寂を破ったのは俺。密かに回っていた頭が、その答えが投げかけた問いに対していささか的外れだと、ようやく分かったからだ。

 

 

「い、いや、そうじゃなくて、人間としてアイ―――」

 

「しれぇは」

 

 

 再度問いかけようとした俺の言葉を遮る様に、それ(・・)は声を張り上げた。同時に、その顔に表情が浮かんだ。それは先ほど見せた『驚き』ではない、新しい表情。

 

 

 

 

「しれぇです」

 

 

 そう言い切ったその顔は、これ以上の口答えは許さないと言わんばかりの『怒気』を孕んでいたのだ。同時に抑揚の無かった声色が若干低くなっていたのだ。

 

 

 あれ程無感情だった艦娘(兵器)から、『怒り』という感情を引っ張り出したのだ。

 

 

「失礼します」

 

 

 次の瞬間、それはそう言い頭を下げ、クルリと後ろを向いて走り出した。もう、その顔がこちらを向くことは無いだろう、そう思わせるほどその足取りは早かった。

 

 そう、早かったのだ。一定ではなく(・・・・・・)早かったのだ。しかし、その感傷に浸る間は無かった。

 

 

「え、あッ!?」

 

 

 そんな声とも思えない声と共に視界の端からいきなり天龍が現れた。先ほどよりも更に顔を引きつらせながら、だけどその目は俺を捉えておらず、どちらかと言えば俺の横に注がれていた。そしてあろうことか、俺を突き飛ばしたのだ。

 

 そして突き飛ばされた直後、前髪が何かに触れた。その感覚は一瞬で消え、同時にすぐ近くで鋭い金属音が鳴り響いた。金属音に軽く耳をやらせながらもすぐに体勢を立て直し、いきなり突き飛ばした天龍を睨み付ける。そして、何故彼女がそんな暴挙に出たのかを理解した。

 

 

 そこに居たのは龍田、彼女は今しがた俺が居た場所にの真横に前かがみに立っていた。その片腕は腰のあたりに、もう一つの腕は彼女の顔の近くにあって、そしてその視線はつい先ほど俺が立っていた場所に注がれている。

 

 

 その場所にはコンクリート――――――に突き立てられた薙刀が、そして人の髪の毛のような黒いものが散乱していた。早い話、彼女は俺が今しがた場所目掛けて薙刀を振り下ろしたのだ。

 

 

「龍田ぁ!!」

 

 

 視界の外から天龍の怒号が聞こえた。それは先ほどよりも力強く、大概の人なら身を強張らせてしまうほどの迫力があった。しかしその怒号、そして名前を呼ばれたはずの龍田は意に返さず、地面に注いでいた視線を俺に向けた。

 

 

 向けられた対象を動けなくしてしまうほど、尋常ではない『殺意』を帯びた目を。

 

 

 それを向けられた俺は地面に足が縫い付けられてしまったかのように動けなくなった。まさに蛇に睨まれた蛙。ただただ訪れる死を前にして逃げることも泣くことも出来ない、一人では何も出来ない脇役のように。あとは蛇が牙を剥くのを待つばかり。

 

 そして、龍田は流れるような動作で俺に向き直り、薙刀を振り上げる。今度こそ蛙に牙を突き立てるために、その動きに一切の躊躇も迷いもない。

 

 それを前にして、俺は動けなかった。それは恐怖からであろう。しかし、もう一つだけ理由があった。それは振り上げられた薙刀が日の光を反射し、示し合わせた様に俺の目が眩んだ。

 

 

 白く染まる視界の中で、龍田の目に涙が浮かんでいたのを見たのだ。

 

 

 

「やめろってんだろ!!!!」

 

 

 しかし薙刀が振り下ろされる直前、天龍の怒号と共に龍田の身体が横に吹き飛んだ。いや、吹き飛んだように見た。吹き飛んだ先を見ると、地面に倒れる龍田の腰に天龍が抱き付いている。恐らく、天龍がタックルしたのだろう。

 

 しかし、それでも龍田は俺にあの目を向け、俺目掛けて薙刀を振り回そうする。それもすぐさま腰から離れた天龍が薙刀の柄を掴みそのまま龍田を組み伏せた。突如始まった艦娘同士の取っ組み合いに、俺はへたり込んだままそれを見ている。

 

 

 だが、それも次に聞こえた怒号で強制終了した。

 

 

 

朽木(・・)!!」

 

 

 それを発したのは、今なお龍田と取っ組み合っている天龍であった。いきなり名前を、それも隠している筈の方を叫ばれ、俺は頭の中が真っ白になる。

 

 

「龍田は俺が抑える!! だからさっさと逃げろ!!」

 

 

 また天龍が叫ぶ。その言葉もまた予想外、襲い掛かる龍田から俺を逃がそうとしているのだ。次々にぶつけられる予想外に、俺は何も出来ずにいる。それに業を煮やしたのだろう、龍田を組み伏せながら天龍が顔を向けてきた。

 

 

「おい、聞こえてんのかァ!?」

 

「お、俺―――」

 

てめぇ以外(・・・・・)に誰が居るんだよ!! いいからさっさと行け!!」

 

 

 俺の言葉を掻き消す様に、いや受け取った上ですぐさま答えをぶつけてきたその言葉に、あれ程動かなかった身体が動いた。それは今この場から逃げ出すため、と言う脇役らしい何とも情けない理由だ。

 

 

 でも、それでも、それが出来るようになった『きっかけ』は、紛れもなく俺を見てくれた()が居たからだった。

 

 そんな人を置いて、脇役()は走り出した。脇目も振らず、一目散に、がむしゃらに。

 

 

 

もう良い(・・・・)!! やめてくれ、龍田ぁ!!」

 

 

 その背に、その人の悲痛な(・・)叫びを受けながら。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 どれほど走っただろうか。分からない。

 

 我に返った時、俺はフラフラだった。血管もろともはじけ飛んでしまう程暴れ回る心臓、それに押された肺から喉が焼けただれてしまうかと思うほど高温の空気を何とか吐き出し、手足が棒のよう且つ足のあちこちに鈍い痛みを感じ、額から止めどなく零れる汗に滲んだ視界が外の情報を遮断している。

 

 

 ここは何処なのだろうか。分からない。

 

 文字通り、転げまわる様に走った結果だ。此処の鎮守府は無駄に広く、敷地の半分近くを森林に覆われている。恐らくはその森林なのだろうと思われるが、探検する暇も気も無かったために実際にこうして足を踏み入れるのは初めてだ。勿論、此処がその森林だと言う証拠はぼんやりと見える緑だけだ。

 

 

 何処に行けば良いのだろうか。分からない。

 

 それは本館や宿舎などの居住区にどうやって帰ればいいか、と言うわけではない。あの時、天龍に名前を呼ばれたあの時、あの場から逃げてしまったこと。命の危険があったとは言え、ずっと欲していた人が居たあの場から逃げてしまった今、あの場に戻ることは、いや出会うことすら出来ないだろう。

 

 それならば何処に行けば良い。何処に行けばあの場に、あの時のような場所に行ける。せっかく巡ってきたチャンスを、答えがあると言われた場から、与えられた筈の座から尻尾を蒔いて逃げた脇役は。一体何処に、一体何処へ、一体何を、何をどうすれば良いのだ。

 

 いや、無いのだ。そんな場所など、何処にも無いんだよ。脇役の未来なんか、どうでも良いのだ。スポットライトが当たる主役以外に目を向ける観客なんかいない。まして、一度向けられたスポットライトから逃げ出した脇役なんかに。もう二度と、そんな機会は訪れない。

 

 なら――――――

 

 

 

 カーーン

 

 

 その時、奇妙な音が聞こえた。

 

 俺の認識が正しければ、ここは森林の中。聞こえるのは風に吹かれた木々が鳴らす音、ここで暮らす鳥たちのさえずり、それぐらいであろう。でも、今しがた聞こえたその音はその2つではない。

 

 こんな自然あふれる場所に似つかわしくない程に乾いた金属音(・・・)なのだ。

 

 

 カーーン

 

 

 また聞こえた。先ほどよりも大きい。どうやら音の場所は近いようだ。そう気づいたとき、独りでに足が動き出していた。ぼやける視界も少しだけハッキリしており、やはり此処が鎮守府内にある森林の何処かであることが分かった。それ故に、似つかわしくないその音が余計気になった。

 

 

 カーーン

 

 

 もう一度、その音が聞こえた。同時に、俺に視界にその音の主が現れた。

 

 

 そこは、森林の中でぽっかりと開けた場所。あれ程密集していた森林はその場所を境にパッタリと消え、代わりに足首ほどの高さがあろう草が風に吹かれ靡いている。そしてその先、そのぽっかり空いた場所の中心にポツリとある金属で作られた墓のようなものがあった。

 

 墓と言ったが、正確に言えば地面にただ分厚い金属版が突き刺さっただけの無造作なモノだ。それが墓だと思ったのもその前に添えられた献花があったからであり、その前に立つ一人の艦娘が居たからだ。

 

 頭に電探を模したカチューシャらしきものを付け、その髪は頭の両脇で二つにまとめると言う独特の髪型である。肩を大きく露出させた白衣を黄色の太い紐が胸の前で結ばれている。膝上までしかない黒の袴には白いフリルがあしらわれ、スラリと延びる足は黒いニーハイソックスに覆われていた。

 

 その艦娘はよく知っている。むしろ、此処に配属される前から知っている。初代提督との連絡が途絶えた後、ボロボロの使者と共にもたらされた決別宣言、のちの脅迫染みた文言、それらを考え、大本営に送り続けた艦娘――――――金剛型戦艦一番艦、金剛だ。

 

 

 その時、金剛の身体が動いた。彼女は自らの腰に視線を向け、同時にその先に手が持ち上がる。その手にあるのはやはり此処に似つかわしくない四角い金属のような、いやどこからどう見てもただの金属―――――資材的に言えば鋼材である。それも所々角や側面が欠けた、明らかに品質の悪いものだ。

 

 金剛は少しの間、それに視線を向け続けた。そしてその目からは生気が感じられない。だが、それは雪風のような精密機器のような意味ではなく、何の目標もゴールもなくただただ無駄な日々を過ごしている、そういう()が浮かべるであろう生気の籠っていない目だ。

 

 そんな目を今まで鋼材に落としていた彼女は、ふとその目を前に向けた。同時に片手を前に、もう片方の手――――鋼材を握る手を後ろへ、上体が少し反り返る程振り上げたのだ。

 

 

 そう、まるで手にしているものを投げつけるように。

 

 

 

 カーーン

 

 そして、その音はまた響いた。金剛の手から離れた鋼材は一直線に墓に吸い込まれ、その距離がゼロになった瞬間、その音が鳴ったのだ。これで先ほどの音の正体が、金剛が墓に鋼材をぶつけていたことだと分かった。

 

 しかし、墓にものを投げつけるとは非常識にも程がある。だけど墓前にある献花は真新しく、明らかに変えられたばかりのものだ。この状況から察するに、献花を変えたのは金剛だろう。

 

 もっと言おう、墓の状態は良くない。此処から見える限り、手入れされていると言えるのは申し訳程度に表面を磨かれたぐらいか。少なくとも金剛以外に此処を訪れる艦娘はいないのだろう。こんな辺鄙な場所にわざわざ足を運ぶことには感心するが、それでもその行動は非常識を通り越して非道である。

 

 

 そこに眠る存在に失礼である。そこまで行き付いたところで、俺の思考は途切れた。目と鼻の先に何かが落ちてきたからだ。

 

 

「ッ!?」

 

 

 思わず飛び出た声。次の瞬間、それが漏れた口をおさえた。足元に目を向けると、所々欠けた鋼材がある。先ほど金剛が投げた鋼材が勢い余って遠くに飛び、偶然俺の目の前に落ちてきたのだ。

 

 

「誰?」

 

 

 同時に、視界の外から金剛の声が聞こえた。驚いている様子も焦っている様子もない、かといって冷静でも落ち着いているわけでもない。どちらかと言えば、気に掛けることすら億劫だ、と感じられる程気の抜けた声だった。

 

 その声に、俺は口をおさえながら視線だけを向けた。そこには、先ほどの立ち尽くす身体に首だけを動かして俺の方を見る彼女の姿。その目は、やはり先ほどの生気のない目だった。

 

 

 しばし、沈黙が訪れた。俺は口をおさえつつ、金剛は生気の無い目のまま黙って相手を見つめ続けたのだ。俺が黙ったのはこの鎮守府で最も危険とされる艦娘を前に警戒していたから。彼女が何故黙っていたのかは分からないが、確実に言えることは彼女の表情は愚かその目でさえも一向に変わらなかったことぐらいだ。

 

 

 

「なんだ、貴方デスカ」

 

 

 その沈黙も、やはり何も変わらない金剛が漏らした言葉で破られた。いや、その言葉ではなく、彼女が俺から目を離したから。まるで、興味を失ったように。

 

 

「おい」

 

 

 そして、その興味を失ったような態度にまた腹が立ってしまった。せっかく与えられた場から逃げ出した脇役は、いや脇役は愚か舞台装置にもなれない俺は、性懲りもなくまた欲してしまったのだ。

 

 

「what?」

 

「何をしていた?」

 

 

 俺の言葉に、金剛はこちらを振り向かずに心底鬱陶しそうな声を上げる。その態度にまた腹が立つも、先ほどと同じ轍を踏まない様、先ずは先ほどの蛮行を問いただすことにした。

 

 

「何って……墓参りデス」

 

「あれが墓参りだと、鋼材をぶつけることが供養になるだと? ふざけているのか?」

 

 

 憤りを隠すことなく問いかけるも、金剛はやはり興味なさげに首を傾げるだけだ。だが、何かに気付いたのか納得した様に小さく頷くと、何故か俺ではなく先ほど鋼材を投げつけた墓へと近づいていく。その後ろ姿にその行動の意味を理解し切れない俺を尻目に、彼女は墓の前に辿り着いた。

 

 

 そして、何故か片足を持ち上げた。

 

 

 

「こうしろ、ってことデスカ?」

 

 

 その言葉とともに、金剛は持ち上げた足を勢いよく、躊躇なく、一切の迷いなく、()目掛けて振り下ろしたのだ。ゴォン、と言う先ほどの乾いた金属音ではない鈍い音が響く。同時に傍にあった献花が倒れ、墓一面にその水が、金剛の足も少なくない水を被った。

 

 だが、彼女にそれを気にする様子はない。振り下ろした足を動かし続ける。その先にある墓を何度も足蹴し、そのままグリグリと踏み付け続けたのだ。

 

 

「おい、何を!!」

 

「散々こうされたんデス、少しくらい(・・・・・)やり返しても罰は当たらないネ」

 

 

 俺の言葉にも、金剛は涼しい声で墓を踏み付けるのをやめない。むしろ、段々と力が込められ、それに比例するように墓が後ろへ後ろへと徐々に倒れていっているようにも見える。このままでは墓が倒れてしまう。それだけは本当に不味い。そう思い、彼女の蛮行を止めるべく近づき、その肩を掴んだ。

 

 

「やめろ!! 眠っている方に失礼―――――」

 

 

 

 

「は?」

 

 

 その一言、一切の温かさを感じさせないその一言は俺の身体を瞬く間に強張らせた。同時に体感温度が一気に下がり、手足の感覚が遠退く、ような感覚に襲われた。口から漏れる呼吸が白く見える、ような幻覚を見た。

 

 いや、それは一言だけ(・・)ではない。一言には彼女が発した言葉以外のモノ――――感情があった。鋭く研ぎ澄まされ、その身を真っ赤にさせた刃物のような感情(それ)。それを人は何と呼ぶだろうか。何はともあれ、それを向けられた俺はこう呼ぶ。

 

 

 

 『憎悪』と―――――。

 

 

「失礼……失礼? 失礼(rudeness)? why? 何故? 何が? 何処が? 何で失礼なんデスカ? 何が失礼なんデスカ? 何処をどう見たらワタシが(・・・・)失礼になるんデスカ?」

 

 

 そう、淡々と『失礼』と言う言葉を発しながら、彼女はあれ程向けてこなかったその顔をようやく向けてきた。同時に、向けられたことを後悔した。

 

 

 何せそこにあったのは、到底人ととは思えない程限界にまで見開かれた目が――――――『憎悪』に満ちた目だったからだ。

 

 

「失礼、失礼……あ、あぁ、そう。そうです(・・・・)そうでしょうネ(・・・・・・・)。何も知らない貴方からすれば、失礼(rudeness)ですネ? なるほど、そうですかそうですか……そういうことなら、教えてあげマース。この最低な男(scum)に払う敬意は、『失礼』なんて思える(heart)は当の昔に無くなり……いや――――」

 

 

 そこで言葉を切った金剛は今までずっと踏み続けてきた墓から足を離した。だが、それは足蹴をやめたわけではない。彼女の足は墓の表面を何度も小突く方法に変えただけだ。まるでそこを見ろと言わんばかりな彼女の行動に、俺は小突かれている墓の表面を見た。

 

 

 

 

『音  鷹少佐 墓』

 

 

 所々が酷く損傷しているために文字が掠れて読めず、辛うじて拾えたのがこの5文字である。だが、それでこの墓に眠っているのが誰か、そしてその誰かが彼女にとってどれほどの存在であるのか、今の彼女を見れば分かった。

 

 

 

ワタシたち(兵器)が辛うじて持っていたもの全て、全部、何もかもを……このテートク(・・・・・・)にかなぐり捨てられたんデス」

 

 

 

 そう言い切った金剛は笑っていた。『笑みを浮かべていた』ではなく『笑っていた』のだ。それは、その下にある『憎悪』を通り越した別の感情を隠す為であろうか、それは分からない。だけど、彼女のその『笑い』が仮面であることだけは分かった。

 

 

 そう、その点だけ(・・)は分かった。

 

 

 

「な、なら何で墓を作ったんだ……」

 

 

 それ以外にあった疑問を、俺は無意識の内に漏らしていた。そう、そうなのだ。もしこの墓がその人物であれば、何故こんなところに()の墓があるのか、同時に何故金剛が墓参りをしているのか。それが解せないのだ。

 

 もしこれが憎悪を叩き付けるためのサンドバッグであれば、文字通りサンドバッグを作ればいい。何も墓を建てる必要もないし、むしろ忌々しいそれ(・・)を海に流せばいいだけだ。

 

 しかし今こうして墓があり、あれ程の仕打ちをしつつも金剛が墓参りをしていると言うことは、少なくともこれを作って供養したいと言った存在が居たということだ。そして、その存在もまた彼女にとってとても大きな、下手をすれば彼以上に大きな存在であったということだろう。

 

 

 俺の言葉に『笑っていた』金剛の顔が僅かに強張った。だが、強張ったのはそこまで。彼女はすぐに笑い(仮面)を付け直し、何事も無かったかのようにこう言ってのけた。

 

 

 

「頼まれたからデース」

 

 

 頼まれたから、恐らくそれが真実だろう。その答えは俺の問いにちゃんと向き合っており、その返答に俺自身も納得出来た。

 

 

 そして、やはりそこにあった矛盾(・・)を見つけた。

 

 

 

 

「ならこの(・・)墓参りも、頼まれたのか?」

 

 

 

 その言葉を向けた瞬間、金剛の顔から笑い(仮面)が外れた。その下から現れたのは、ただただ呆けた顔だ。そう、それはまるでそれは狐の尾を踏み付けた時と同じ。気付けなかった矛盾を叩きつけられた明原 楓(主役様)と同じだ。

 

 彼女は頼まれた、これほど憎しみを抱いている彼の墓を建てることを。そして彼女は鋼材をぶつけ、あろうことか足蹴する程憎悪した存在の墓にこうして墓参りをしている。それをさせるほど、『その存在』とやらは彼女にとって大きいのだろう。

 

 そして、その存在が今しがた、いや恐らく金剛が今までずっと行ってきたことも頼んだのであれば、俺の矛盾は解消される。墓を作ってそれをぞんざいに扱うことを願われたのなら、彼女は嬉々として墓を建てて好きなだけ蛮行に走るだろう。

 

 

 だけど、その線は消えた。その証拠に、金剛は今もなお呆けた顔をしている。頭が追い付いてないのか、果ては理解することを拒否しているのか、少なくとも今までやってきたことは頼まれたことに含まれていないのだろう。

 

 そしてそれは、金剛がその彼に対する感情を押し殺してまで叶えた頼まれたことを、自らの意志(・・・・・)で踏みにじっていたと言うことだ。

 

 

 

「そん、な、筈、は」

 

 

 ポツリと漏れた金剛の言葉。そこに、先ほどまでの憎悪はない。ただただ、困惑した声色だった。同時に聞き取れない程の声で何かをブツブツ呟き始めた。何を言っているのかは分からないが、その声が次第に震えていくことは分かった。

 

 

 だけど、その先で何を言えばいいのか分からなかった(・・・・・・・)

 

 

 

「あ、や……」

 

 

 何か言わなければならない。言わなければ金剛が何をするのか、どうなってしまうのか。それが分からなくても、それが最悪の結果を招くことぐらいは分かる。だけど、その焦りに反して口から出るのはただの声。言葉でもない、ただの鳴き声だ。

 

 そのせいでどんどん焦る、焦って頭が回らず、また鳴き声が出る。堂々巡りだ。そこから抜け出す術を、脇役()は持っていないのだ。

 

 何を言えばいい、何を伝えれば彼女を繋ぎ止められる、何を、何を、何を。

 

 

 こういう時、主役(アイツ)は何を言うんだ。

 

 

 

 

 

 

「一つ、聞いても良いデスカ?」

 

 

 その答えが出る前に、金剛がそう問いかけてきた。彼女を見ると、先ほどの取り乱していたとは思えない程落ち着いていた。その顔に『笑み』を浮かべて。『笑い』ではない、『笑み』だ。それも、先ほどの仮面とは比べ物にならないほどに自然で、普通な、完璧すぎる(・・・・・)笑みだった。

 

 まるで笑み以外の表情を与えられなかった、それだけしか浮かべられない、それすらも張り付けた仮面である。大本営が兵器(・・)と呼ぶそれだ。

 

 

 最悪の結果(それ)に、俺がしてしまったのだ。

 

 

「貴方がテートクだとしマス。そして貴方は戦果第一、艦娘(私たち)の命よりもそちらを優先する、むしろその命を損なわせることが本当の目的(・・・・・)だとしマース。そして、本日の出撃で艦娘一名が見事(・・)轟沈、貴方はゴールに一歩近づきましタ。さぁ、貴方はどうしマス?」

 

 

 唐突に投げかけられた問いに、俺は体温が一気に下がるのを感じた。それは今まさに俺があの方から託された密命そのものであるからだ。何処で漏れた、もしくは誰かが察した、どちらであるか、或いはまた別の方法か、どちらにしろ彼女の口からそれが飛び出したことに驚く他なかった。

 

 

「勿論、例えの話(example)ヨ? 仮にそうだとしても今の貴方には何も出来ないカラ、正直どっちだって構わないデース。どんな答えが来ようとワタシは気にしないネ。だから……答えて(・・・・)

 

 

 今俺の顔を見て何を思ったのか、金剛はそんなことを言ってくる。それは冗談染みていて、本当に例えばの話であるかのようだ。それが図星の俺からすればこれを例えばの話で片づけられるのか、と問いかけたくなる。だが、それをしたところで彼女の『笑み』は変わらないだろう。

 

 

 だから、こうなってしまった、こうしてしまった彼女にせめてもの償い――――になるのか分からないが、せめて正直に、(脇役以下)として答えよう。

 

 

 

 

「後悔……すると思う」

 

 

 此処が反旗の芽であり早急に摘まなければならない且つ周りの鎮守府の引き締めにもなる。そういう納得できる理由があればきっちり遂行する。そう言い切り、実際にそれをやっている。なのに、今俺はやっていることと真逆なことを吐き出した。お前は何を言ってるんだ、と言われるだろう。そう言われ、罵られ、批判を受けることも分かってる。

 

 だけど今は、現場に立ったことのない(・・・・・・・・・・・)今では、どうしても沈めたことを好意的に取る自分が想像できない。あれほどやり切ると言っていた手前、いざ想像してもその姿が思い浮かばないのだ。代わりに浮かぶのは、執務室で一人頭を抱えている俺。これが目的だ、これが正しいのだ、と自分に言い聞かせてながらもその口からは沈めてしまった艦娘への懺悔の言葉を吐き出しているのだ。

 

 勿論、覚悟はある。だけど、それは俺が犠牲になる(・・・・・)と言う覚悟だ。俺が煽ったことで反旗を翻した時真っ先に狙われるのは俺だし、大本営も殲滅を選択した場合は俺ごと此処を消し飛ばすだろう。そういう、自分自身に降りかかることは覚悟の上だ。だけどこの手で、この指揮で、それも意図的に誰かを犠牲にする(・・・・・・・・)覚悟は全くの別ものである。だから、いざをそれを求められた時、それに沿っていけるかと言われれば分からないのだ。

 

 また、いくら納得できる理由があったとしても、頭がそう理解しても、人を殺したと言う事実からは逃れられない。その事実は心の何処かに罪悪感を芽生えさせる。それ一つは小さくとも、繰り返していけば取り返しのつかない大きさに、全身をスッポリ覆うほどの大きさに膨れ上がる。それに覆われた人はゆっくりと、じっくりと、確実に蝕まれ、飲み込まれ、やがて思考を止めるだろう。

 

 それが普通の人、普通の脇役(・・・・・)なんだ。脇役(彼女たち)でそうなら、それ以下の俺は瞬く間に飲み込まれてしまうだろう。そうなると、飲み込まれる前に分かってしまうのだろう。分かってしまうから、そうなる前にそうなってしまった際の予防線を吐き出してしまうのだ。

 

 

 

 ……と、ここまで言い訳(・・・)を晒した。分かっている、これが全部言い訳だと。取り上げられることのない、何の価値もない我が儘だと。俺が口に出した言葉とは全く逆のことだ、お前の心の声なんか聞いてない、言ったことは最後までやり通せ、覚悟とはそういうものだ。そうだろう、全くもってその通りだ。

 

 

でも、もしその言葉と心の声が違っていたら、その覚悟とやらに塗り潰された『本音』はどうなる。

 

 

 本来、それは明るみに出ることはない。何せ本編となんら関係がないからだ。RPGゲームで何度話しても同じことを、同じ表情を、それを何度も繰り返す村人の心の内なんて描かないだろう。せいぜい、主役たちがストーリーを進めることで話す内容が変わるだけ、結局はそれを繰り返すだけの人形に過ぎない。そんな人形に裂く時間もテキストもなく、その人形自身も変わることがない。だから明るみに出ない、だから何も分からない、吐き出した言葉と心の声が違っても、それを表に示す術が無いのだ。

 

 でも、俺はその人形ではない。御伽噺の中で散々に暴れ、矛盾をまき散らし、無様な姿だけを晒す。主役の宿敵でも、登場人物たちの噛ませ犬でも、彼らに経験値になるモンスターでもない。物語とは関係ないところで喚き散らし、逆方向へ突っ走り、知らない内に退場している、そんな存在だ。

 

 だから、俺はそう言えた(・・・)。憲兵の花咲 林道ではなく、元提督候補生の朽木 林道でもなく、今の俺はこの御伽噺の中で無様に醜態を晒す脇役以下の存在、本来は表に出ることのない存在だったから。この御伽噺では決して拾われないであろう、裏設定にも組み込まれない、語り部は愚か作者でさえも気づけない脇役たちの本音(・・・・・・・)を言えた。

 

 

 恐らく、この御伽噺の()主役であろう彼女に。

 

 

 

 

 

「アッハハハハハハハハハハ!!!!」

 

 

 その返答は、笑い声(・・・)だ。それを発したのは、紛れもなく金剛だろう。先ほどの落ち着きようから一変、今は腹を抱えて笑い続けている。仰け反っているため笑っているだろう顔は見えない。ただ、じたばたと暴れる何かを抑え込むようにその身を激しく震わせ、大きく開かれた口から良く通る甲高くも腹の底に響き渡る重い笑い声を上げているのだ。

 

 

「あ、あはッ、あははッ……そうですかそうですか、貴方も一緒(・・・・・)デスカ」

 

 

 一しきり笑い続けた金剛はそう呟くと仰け反っていた上体を戻し、俺とは反対方向に歩き出した。その足取りはスキップのように軽やかであり、彼女が進みたびにその巫女装束がフワリと揺れる。見惚れてしまいそうな程美しい光景である。しかし、今の俺にそんな余裕はなかった。

 

 

 何せ、その進む足が、揺れる装束が、彼女が奏でる鼻歌でさえも、全てが全て一糸乱れぬことのない、まさに一定(・・)であったからだ。

 

 

 

「貴方がテートクじゃなくて、本当に良かったデース」

 

 

 俺と反対―――墓の前に行き付いたときに彼女から漏れた言葉。それは俺への侮辱である。俺じゃなくて、今の提督で良かった、脇役以下の俺じゃなくて、主役様のアイツで良かった、本当に良かった。そう言っている。だが、今の状況を前にしてその言葉に噛み付けるほど、脇役以下()は勇敢ではなかった。

 

 

「……何でだ」

 

「そんなの決まってるネー。だって―――――」

 

 

 お決まりの台詞を吐き出すと彼女は、いやそれ(・・)はようやくその顔を―――――『笑顔』をこちらに向けた。同時に、またもや片足を振り上げ、勢いよく振り下ろした。

 

 

 

 

「此処に、もう一つ(・・・・)建てることになっていたからデース」

 

 

 その言葉とともに、彼の墓のすぐ横に足を振り下ろした。それも、今までの音とは比べ物にならない程鈍く、大きな音を響かせ、同時にその横にある彼の墓が軽く傾いたのだ。

 

 

「もう墓参りなんて面倒くさいこと、これ以上増やさないでくだサーイ。だから――――」

 

 

 そこで言葉を切った金剛はいきなりその場で腰を下ろした。それも先ほどの矛盾に苛まれていた筈の墓に、躊躇なくその腰を下ろしたのだ。腰を下ろした金剛はその足を前に投げ出し、それと同時に袋に手を突っ込む。

 

 出てきたのはやはり鋼材であった。それも、先ほど墓に投げつけていたものとは比べ物にならないほど高品質の、まるでつい今朝方くすねてきたものであるような。

 

 

 だが、それも次に聞こえた金属音。甲高く乾いた音ではない、低く鈍い音。金属同士がぶつかった音のではなく、金属が破壊された(・・・・・)音によって、投げつけていたもの以下になってしまった。

 

 

 

 

さっさと消えろ(get out)クソ野郎(shitsky)

 

 

 そう、金剛が言った。その言葉を発した口元に小さな金属片を付け、明らかに引き千切られた(・・・・・・・)であろう鋼材の片割れを噛み締め、明らかに引き千切ったのであろう鋼材のもう片割れを握りしめながら、それ(・・)はそう言ったのだ。

 

 

 そしてその言葉を発したほんの一瞬、灰色の瞳が真紅(・・)に染まったのだ。

 

 

 その言葉に何も反応出来ないでいると、それは手にしていた鋼材を無造作に放り出した。鋼材が落ちたのは彼女が腰を下ろしている墓の横、つい先ほど勢いよく踏みしめた場所だ。そして次の瞬間、その鋼材目掛けて彼女の足が振り下ろされる。何度も何度も振り下ろされ、果てはグリグリと踏みにじられた。

 

 

 その行為が示す意味を、俺は嫌と言うほど理解した。

 

 

 その姿に、俺は何も言わず背を向けた。背を向け、力の限り全力で走り出した。何故なら、一刻も早くここから逃げ出すため。先ほどと変わらない、やはり脇役らしい理由だ。

 

 でも、そのきっかけは違う。そこに行き付いたきっかけは俺を、脇役以下の俺を、本当の俺(・・・・)を見た上で、真っ向から否定した(・・・・)人がいたから。

 

 違う、俺が否定したのだ(・・・・・・・・)。俺が否定して、彼女を最悪の結果(それ)にしてしまったのだ。だから、違う。否定されたことがきっかけじゃない。

 

 

 俺が否定したことで最悪の結果になった――――そんな場所に、脇役以下の俺がしてしまったからだ。

 

 

 

 

ワタシはなんてことをしてしまったの(What on earth I have done)……」

 

 

 そんな俺が背を向けて逃げる際、その結果が今にも泣きそうな声でそう呟くのが聞こえた。それはもしかしたら、準主役が漏らした『本音』だったのかもしれない。だけどそれを拾い上げる覚悟(・・)は、今の俺に無かった。

 

 

 またもや俺はその場所から、そして自ら掲げたはずの覚悟すらも捨て去ったのだ。

 

 

 

 

 そこからの記憶は曖昧だ。どこまで走ったのかも、何処かで立ち止まったのかも、そこで泣き喚いたのかも、頭を抱えて塞ぎ込んだのかも、何もかも覚えていない。恐らく御伽噺とは関係ないところで喚き散らしたのだろう、そことは関係ない場所に突っ走っていたのだろう、まさに俺と言う存在がやりそうなことをやっていたのだろう。だから記憶にない、周りの誰も、まして俺自身の記憶にも残ってないのだろう。

 

 

 記憶がはっきりしてきた―――――御伽噺に戻ってきた時、俺は食堂前に居た。真上にあったはずの日が山裾の向こうに消え始めていた。その時間、食堂には今日の出撃を終えた艦娘たちで賑わっている。いつもなら、この時間帯は避けている。今までは食事位職務を忘れてゆっくりしたいと思っていたが、今思えば艦娘(脇役)たちと顔を合わせたくないためだろう。

 

 

 だけど今日は、今日だけはそんなことどうでも良かった。いや、むしろ彼女たちに会いたい(・・・・)程だ。そのせいか、食堂に踏み込む足、扉を開ける手に迷いはなかった。

 

 やはり、食堂は艦娘(脇役)で賑わっていた。今朝見た通り、何処もかしこもあるのは笑顔だ、極々普通の笑顔だ、主役が作り出した『当たり前』だった。フラリと入ったせいか、彼女たちは俺に気付いてない。でも、やはり何人かは気付いたようで、その『当たり前』が一つ、また一つと消えてゆく。『当たり前』の代わりに『異常』へ、『笑顔』代わりに『困惑』へと変わっていく。

 

 

 だが、その中で一つだけ『真剣』な表情があった。それは俺に法螺話を吹き込み、今日という一日を散々にしてくれた語り部殿だ。彼女の表情は、俺に向けられた真っ直ぐな目は『答えは出せたか?』と問いかけてきていた。それに、俺は同じように目で答えようとした。

 

 

 

「わッ」

 

 

 だが、それは素っ頓狂な声とともに下腹部を襲った衝撃、そして衝撃を受けた場所に広がる生暖かい湿り気に阻まれた。本来であれば多少驚くはずなのだが、今の俺はそれにさして反応しなかった。

 

 

 

「ひッ」

 

 

 また、声が聞こえた。今度は素っ頓狂な声ではなく、明らかに引きつったモノ。それを受けて、ようやく俺は視線を足元に、先ほどの声を上げた存在に向けた。

 

 

 そこに居たのは名も知らぬ駆逐艦だった。駆逐艦は自身を見下ろす俺の視線に固まっている。その手には、彼女の掌に収まるぐらいのカップがあり、その中には茶色い液体が半分ほど入っていた。鼻をくすぐる甘い臭いからしてそれはホットチョコレートだろう、そしてつい先ほどまでそのカップはホットチョコレートで満たされていたのだろう。

 

 どうして分かるか、って。何故ならそのホットチョコレートが制服の下腹部目一杯に広がっていたからだ。つまりこの駆逐艦は俺とぶつかり、手にしていたホットチョコレートを俺の制服にぶちまけたのだ。

 

 

「あ、あ……」

 

 

 その駆逐艦は声にならない声を上げる。その身体は小刻みに震え、その瞳は大粒の涙を湛え、全身を使って恐怖を表していた。言葉にならない声を、心の声を引き出した。そう、俺は都合よく解釈してしまった。だから、顔を変えた。

 

 

 仮面(笑顔)に。

 

 

 

 

「貴様、謝罪の一つも出来ないのか?」

 

 

 そう、駆逐艦に問いかけた。それに対して、彼女は大きく身を震わせるのみ。一言も発しない、いや発せないのだ。ただ己の全部を使って『恐怖』を表すことで手一杯なのだ。

 

 

「おい、人の一張羅を汚したんだぞ? 聞いているのか?」

 

 

 もう一度、問いかける。今度は問いかけるだけではなく、その駆逐艦へ手を伸ばした。それに更に身を震わせた彼女は俺の手から逃れようと後退るも、それを許す筈がない。離れようとしたその首元を掴み、強引に引き寄せた。

 

 

「何とか言え」

 

 

 顔を近づけ、今までよりも低くドスの効いた声で囁く。目の前には涙でグチャグチャの駆逐艦で一杯である。ガタガタと歯を鳴らし、声を出せない代わりに首を降り続けている。それは「やめて」と言う意思表示であろう。そこまで分かっていて、俺はやめない(・・・・)

 

 

 何故か―――それは待っているからだ。

 

 誰を―――――そんなの決まっている。この『当たり前』を作り出した主役様を。

 

 何で―――――分かり切ったことだろう。一人でも多くの目の前(・・・)で退場するためだ。

 

 

 今までずっと御伽噺の外でしか喚き散らしてこなかった。だから誰にも見られず、気に掛けられることも、拾われることも無かった。ずっとずっと、無意味なことをしていたのだ。好転もしない、逆転もしない場所で力の限り暴れ回ったところで、ただ己を摩耗させるだけだ。本来はそれでいい、脇役以下の存在が御伽噺に出ること自体可笑しいのだ。

 

 しかし、俺はそれを良しとしなかった。我が儘で自己中心的な俺は、誰にも知られずにただ摩耗するだけの場所ではない、自らを見てくれる人(・・・・・・)がいる場所を求めたのだ。

 

 そして見つけた。見つけるも糞もない、最初から隣に横たわっていたヤツの御伽噺だ。そこで喚き散らせばいい、暴れればいい、そうすれば嫌でも目が集まってくるのだ。それも一人ではなく、多くの目にとまる。例えそれがほんの一瞬でも、多くの目に見られたと言う事実は変わらない。

 

 たった一人に見られ続けるより、たった一瞬でも多くの人に見られた方がいい。それだけでもう十分だ、脇役以下にはそれぐらいが丁度いい。いや、脇役以下じゃない。こうして御伽噺の中で騒ぎを起こし、主役の手によって退場させられるから、もしかすると脇役の一人と言えるかもしれない。

 

 

 その時、また衝撃を受けた。今度は足元、そしてまたもやその場所全体に生暖かさを感じる。駆逐艦から離れ、足元を見る。そこには先ほど彼女が手にしていたカップが転がっており、それから最も近い俺の足首からつま先までホットチョコレートに染められていた。早い話、彼女が取り落としたカップが俺の足に落ち、残りをぶちまけたのだろう。

 

 

 

『汚れ、と言った方が的確か』

 

 

 それを見た時、俺の頭に長門の言葉が過った。そして、今しがた自分が立っている場所、そして今しがた演じている役(・・・・・・)をようやく理解した。

 

 心の声を押し殺し、言葉はそれ真逆のことを、身体は言葉通りに動かし、顔には仮面(笑顔)を張り付けている。その姿で御伽噺の主役様の登場を待ち、その手で退場させられることを望んでいる。まさに矛盾だらけの俺に相応しい。そして脇役以下とは言ったが、どうもこの役は脇役よりも上じゃないか。

 

 

 そんな、俺の願望そのものを表すその役名は――――――― 

 

 

 

汚れ役(・・・)、か」

 

 

 ポツリと漏れた一言。それに返す者は居ない。いや、一人だけ。一人だけその言葉に反応(・・)した者がいた。

 

 

 

 それは言葉(・・)ではなく、()だった。

 

 

 視界が、身体が一気に横へ吹き飛ぶ。吹き飛ぶ直前、駆逐艦を引き寄せていた腕を掴まれ、強引に引き剥がされた。だからそちらに顔を向け、振りむきざまに拳を喰らったのだ。

 

 固い床の上を転がり、何処かのテーブルに突っ込んだところで止まった。痛みで眩む視界、熱を帯びる頬、艦娘(脇役)たちの悲鳴が上がるもそれ以降何も起こらない、それら全てが物語っている。そう理解し、未だはっきりしない視界のまま視線を上げた。

 

 

 

「林道」

 

 

 ぼんやりとした視界の中で、俺の名前を呼ぶ声がした。それは隠している方の名前でもなく、偽っている方の名前でもない。そして、その名前を呼ぶのは、この鎮守府で一人しかいない。

 

 

 段々と視界がハッキリしてくる。そして、ようやく現れた。

 

 

 そこに居たのは、仮面(真顔)をしながらもその目から隠し切れないほどの心の声(憤怒)を曝け出している主役様(ヤツ)だった。



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『汚れ役』と『語り部』

 『汚れ役』―――――本当に、何故今まで気づかなかったのだろうか。今の俺に、いや俺と言う人生そのものにこれほど適した言葉があるだろうか。

 

 そうだ、俺は、今まで生きてきた俺の人生は、ただ『汚れ役』への軌跡だったのだ。

 

 

 我が国に軍隊が創設されてから今日まで、軍の要職を歴任し続ける軍人の名門。歴史ある一族の主家、更にはその長男として生まれた。幼いころから受けた教育によって軍人の心得、振る舞い、教養を思う存分吸収し、心身ともに我が国に捧げる覚悟を獲得した俺。周りは次期当主として一族を、そして国を背負う軍人として多大な期待を向けられ、同時に俺自身もそれに応えるつもりであった。

 

 互いの利が一致し、それを実現するだけの器量も機会も十二分にあった。それ程までに恵まれた環境に置かれているのだ、今、そしてその先には数多の名誉と敬意を集め、最上位に君臨すると言う華々しい人生が約束されていた筈だった。

 

 しかし、それは深海棲艦の登場により早々に頓挫した。理由は簡単、奴らに我が国が保有する最新鋭の兵器が通用しないからだ。俺たち人間は弱い生き物である、弱い故に身を守るために手にする武器を血眼になって発展させてきたのだ。そんな国家の基盤として精力的に開発、時には他国から技術の導入を駆使して作り上げた最高傑作は、奴らの前には只のガラクタに成り果て、残された人間は身を守る術を失ってしまうことを意味する。

 

 突如として、人間は消費する(・・・・)側から捨てられる(・・・・・)側に転落したのだ。何故、消費される、ではなく捨てられる、なのか。それは、奴らが生き残るためや誰かを守るためなどの正当な、或いは気に入らないや目障りなどの個人的な理由でさえも感じないからだ。

 

 ただ目の前に放りだされた己たちを淡々と屠る、その理由の片鱗すらも分からないまま。奴らどのような存在なのかも、何故襲われるのかも、何が目的なのかも、何もかも知らないまま。理由もなく、それを知る術もなく、ゴミのように捨てられるのだ。

 

 そして俺は、俺たち軍人はそんな中でも奴らに相対しなければならない。軍人は国家を、国民を守ることが役目であり、使命であり、そのために命を投げ出さなければならない。勝てない、敵わない、どうすることも出来ないと知っていても誰一人としてそれを口にせず、通用しないと分かっている兵器を片手に戦々恐々とそれに―――『死』の前に躍り出なければならない。一度出てしまえば、たちまち奴らの砲火に吹き飛ばされ、その巨体に押しつぶされ、その獰猛な牙にズタボロにされるだけ、まさに死への(・・・)行軍だ。

 

 その行軍で数多の人間が海で、陸で、空でその命を散らした。歴戦の猛者も新兵も関係なくその命を刈り取られた。だが奴らの戦力を削ったわけでもなく、その目的を知ったわけでもない。一つだけ挙げるとすれば、襲われた地域の国民を避難させたことだ。しかし、奴らの支配する海に比べれば避難できる土地など微々たるモノである。いずれ駆逐される、それが少しだけ遅くなっただけ、結果は何も変わらない。

 

 そう、何もない。誰がどう見ても、どれほど贔屓目に見ても、『無駄死』に以外の何物でもないのだ。

 

 

 そんな絶望的な状況で、俺は何時上から出征せよと申し付けられるか期待(・・)していた。俺は名門の跡取り、今後軍部にて自由に指揮を執っていくには周りを押さえるだけの実績が必要である。しかし、以前の海ではその実績を挙げられる機会が殆ど無く、更に軍人としては後方にて前線の維持に腐心するよりも部隊を率いて敵陣に突撃、撃破と言う目に見えた戦果が無性に欲しかったのだ。

 

 今思えば、若気の至りだと言える。だが、その覚悟は今も変わらず本物である。それが行き過ぎた当時は完敗の知らせが届くたび軍に志願した、そのために通用しないと言われた兵器の扱いを徹底的に学び、いくつかの策を考え、実際に前線にて振るうシミュレーションもした。

 

 勿論、周りは必死に止めた。当たり前だろう、脈々と受け継いできた伝統を受け継ぐ者が死に向かって一歩を踏み出そうとしてるのだから。その言葉を、俺は上手く丸め込み続けた。いつ何時前線に放り込まれてもいいように、常に最悪の場合を想定していると周りを言いくるめながらその実、個人としては最高の場合を想定していると言う矛盾を孕みながら。

 

 

 だがその中で一人だけ、周りとは違うことを言った存在が居た。

 

 

 

「出来れば敵も……助けて下さいませんか?」

 

 

 そう漏らしたのは、妹である。時は深海棲艦との戦闘で殉職された親戚の葬儀、告別式を終えた後に催される食事会にて、再び俺が父上に直談判した時だ。俺の直談判が退けられた後、おずおずと妹は父上にそう言ったのだ。

 

 この妹、軍人の名門に生まれなのかと疑問に思うほど弱かった。初対面だろうが顔見知りだろうが先ずは誰かの陰に隠れる引っ込み思案で、暗い所から高い所、時には小さな犬にまで距離を取る怖がりで、少し突くとすぐ涙目になる泣き虫で、とにかく弱かった。しかし、その裏返しに誰よりも人のことを慈しみ、愛し、敬意と尊敬の眼差しを向け、誰かのために涙を流せる、ひたすらに優しい存在だった。

 

 同時に、彼女を含め俺たちは妖精が見え、且つ彼女だけ彼らと意思疎通が出来た。しかし、妹はそれを誇ることすらせず、親しい友人のように接し、時には喧嘩をし、いつの間にか仲直りしている、そんな日常を、それを可能とした能力(それ)を愛していた。

 

 そしてそんな妹を、俺は家族として愛していた。いや、それを『愛』と呼ぶのかは分からない。ただ、守らなければいけない存在であるとは思っていた。ある意味、守らない程弱い存在であると下に見ていたともとれるが、ともかく愛していた。

 

 

 そんな妹の言葉に、一同は目を丸くした後口々にその理由を問うた。身内を殺した相手に情けをかけろと言うのだから当たり前である。更に言えばつい先ほど、妹自身もその死に涙を流していたわけで、説得力は愚かその考えを口にすること自体あり得ないに等しい。そのためか親類の一人、殉職した人の妻は怒りを露わにして詰め寄った。

 

 それに、妹は怯えながらも『何故か』こう続けたのだ。

 

 

「だってあの人(・・・)たち……」

 

 

 妹の言う『あの人』とは、話の流れ的に深海棲艦のことだろう。しかし、妹は深海棲艦を生で見たこともなく、辛うじてニュースで放送された映像しか見ていないはずだ。そして、同時にあの化け物たちを『人』と称した。その時点で、その場にいる全員は妹をまるで気が狂った者を見るかのような目を向けていた。

 

 

 だが、それは次の一言によって変わった。

 

 

帰りたい(・・・・)、って叫んでいるから……」

 

 

 そう言った。妹は、いや後に艦娘となる彼女はそう言ったのだ。その言葉の意味を当時の、今の俺でも理解できない。『帰りたい』――――何処へ? むしろ何処に? お前たちがやってきたのは海だ、であれば帰る場所は海だろう。しかし、奴らはひたすらに陸へと侵攻を繰り返している、その理由が『帰りたい』とは。

 

 そしてもう一つ、当時理解できないのが、その一言で変わったのは彼女ではなく、周りの親類たちでも、俺でさえもなかったこと。その言葉を、その前に向けられた「敵を助けて欲しい」と言う哀願を向けられた父上であったことだ。

 

 

「分かった」

 

 

 その証拠に、父上はそう言ったのだ。その目は気狂いを憐れむものではなく、光明が開けたかのような真っ直ぐな目をしていたことだ。

 

 今思えば、当時の父上は艦娘の存在を知っていたはずだ。だから妹の発言にそのうちに眠る艦娘の存在を見出したのかもしれない。その証拠に、父上の態度は一変した。前までは妹のたわいもない話に慈愛に満ちた笑顔を向けていたのに、その日以降その顔は険しく、覇気に溢れ、一字一句聞き漏らさまいとする、その背中に数多の命を背負い、時に背負った命を捨て去る覚悟を携えた、まさに軍人の顔をしていたのだ。

 

 

 その頃からだ、父上の視界から俺が消え去ったのは。そこからだ、俺が『主役』の座から転げ落ちたのは。そして、俺を消し去った妹に向ける目から愛が消え、嫉妬に変わったのは。

 

 

 その後、いよいよ艦娘の存在を軍が発表した。同時に、その素質とそれを持つ女性に対して大々的に召集令を発布したのだ。艦娘の存在をいち早く見出したのが父上であるため、妹には真っ先に令状が届くはずであったが、実際に来たのは少し時間を置いてからであった。これも『軍人』として娘を戦場に送る父上が示した、『父親』としての抵抗だったのかもしれない。

 

 その令状を受け取った妹に、周りは諸手を上げて喜んだ。その中に妹に詰め寄った人も居た。そして、彼女はあの時乱暴に掴み掛った妹の手を今度は縋り付くように包み込み、その手に額を押し当て、絞り出すような声で仇討ちを懇願した。

 

 そんな彼女に妹はその手を握り返し、何も言わずに微笑み返した。それを承諾と取るか、否定と取るか、そのどちらを明言せずお茶を濁したと取るか、人それぞれであった筈だ。彼女はそれを承諾と取ったのだろう、その笑顔に嗚咽を漏らし始めた。

 

 

「本当に殺せるのか?」

 

 

 そんな妹に、俺は問いと言う石を投じた。その笑顔に隠れた彼女の意志を曝け出させるために。その俺に、周りは驚きの目を向けてきた。その直後、それは『侮蔑』へと変わった。これから戦場へと赴く妹に兄がかける言葉か、兄として妹を心配する気は無いのか、中には役立たずが何を言っているのかと思っていた奴も居たかもしれない。とにかく初めて向けられるモノばかりだった。

 

 初めて向けられたそれらに俺は特に何も感じなかった。それらを向けてくる周りも、結局は俺と同じ役立たずなのだと下に見ていたからだ。同じ穴の狢にどう思われようが、結果何も変わらないのであればどうでも良かったからかもしれない。むしろ、目の前にいる嫉妬の対象以外眼中になかったのだ。

 

 

「お前が助けて欲しいと、『帰りたい』と叫んでいたと言った。そんな奴らを、弱い(・・)お前が殺せるのか?」

 

 

 今まで下に居た筈だった、守らなければならない筈だった、守らなければならないほど弱い筈だった、故に愛していた妹の筈だった。それらをひっくり返され、『主役』の座を奪われた俺の悪あがき。そして託された懇願を笑顔で誤魔化した妹へのアンチテーゼ。それらをひっくるめ、彼女がこれから背負い続ける大きな矛盾と共に突きつけた。

 

 それは期待していたから。どれだけ取り繕ってもやはり弱い妹であり、弱い彼女は今までと同じように俺の後ろに隠れるのを、俺に助けを求めるのを。再び彼女の上に立てるのことを期待していたからだ。

 

 

「行ってきます」

 

 

 だが、それは妹の一言で脆くも崩れた。いや、一言ではなくその顔だ。今しがた自らの手に縋り付き、望まぬことを懇願した彼女に向けたそれ。万民に分け隔てなく向ける故に誰一人として注視しないこと、お前なんか眼中にないと言い放つことと同義であるそれ。『優しさ』と言う先入観に包まれた最も残酷で卑怯な、最も簡単に犯してしまうそれ――――――

 

 

 偽り(・・)の『笑顔』だ。

 

 そして父上が用意した車に乗り、それが俺たちの視界から消え去るまで。妹は必死に(・・・)それを浮かべ続けたのだ。

 

 

 程なくして、艦娘による深海棲艦撃退の報が上がってきた。国民はそれにお祭り騒ぎ、中には艦娘を主として崇める怪しげな宗教団体も出現するほど、とにかく国民たちは浮かれに浮かれた。だが連戦連勝などと上手く事が運ぶわけもなく、時には深海棲艦に敗北したとの報も上がってくる。その報に殆どが意気消沈する中、お門違いにも敗北した艦娘を非難する者も少なからず現れ始めたのだ。

 

 深海棲艦と言う脅威に対抗できる唯一の存在、そして宗教が出来てしまうほどの存在。故に完璧でなければならない、敵に負けるなんて有り得ない、許されない(・・・・・)。自らに襲い掛かる深海棲艦と言う『悪』を、艦娘と言う『善』が必ずやっつけてくれる、これは不変であり、こうあるべきなのだ、こうならないとおかしい、と。まさに『勧善懲悪』を最大限に悪用した考えである。恐らくこれが艦娘ではなく只の兵士ならば、此処まで極端な考えは出なかっただろう。自分と同じ生き物が出来ることを把握するのも、そこに下手な希望を抱かない方が良いと思うのも容易だからだ。

 

 しかし、これが艦娘だとどうだろうか。自分たち人間とは違う存在であり、与えられた情報は深海棲艦に対抗できる唯一の存在であると言うこと。恐怖に塗れた未来に突如現れた唯一の希望、そこにありとあらゆる期待を好き勝手に詰め込んでしまうのは人間の性だ。そして、それを損なった存在を激しく糾弾してしまうのも、人間の醜い性だ。

 

 唯一の救いは、その危険思想が大部分を占めていないことだ。その理由は艦娘は元人間だという事実があるからだろう。特に艦娘として出征していった娘や妻を持つ家族は一定数存在し、今後も増え続けるのもそれらに歯止めをかけることに繋がっている。

 

 しかし、その均衡もいつ破れるか分からない。長期化による物資不足、延々と好転しない戦況、一度遠ざかった筈の襲われると言う恐怖、そしてほんの一時深海棲艦の恐怖から解放された、そんな甘い汁を啜ってしまった事実。それらを養分に少ないながらも、そのスピードは緩やかながらも、ガン細胞のように広がり続けているからだ。

 

 

 そんなガンに侵された人を見た。妹に詰め寄り、その手に縋り、そして目の前でテレビに向かい艦娘へ罵詈雑言を浴びせ続けるその人だ。

 

 

「何してるのよ……仇を取るって、必ず殺す(・・・・)って言ったじゃない!!」

 

 

 彼女はそんな言葉を吐き続けていた。誰もそんなことを、少なくとも妹は一言も言っていない。ただ、笑顔を向けただけだ。約束も確約もしていない、全て彼女の妄言だ。いや、妄言ではない。少なくとも、『殺す』と言う言葉はあの時あった。そう、()が漏らした。

 

 

 彼女は、俺が初めて『最悪の結果』に変えてしまった人だった。

 

 

 その罪悪感に苛まれることは、いや苛まれる暇すらなかった。妹が出征した直後、父上から士官学校へ、それも艦娘たちを指揮する司令官候補生として入学するように言われたからだ。

 

 艦娘は深海棲艦に対抗できる唯一の存在ではあるが元は人間、しかも民間から召集した女子供である。いくら戦艦の記憶を引き継いだと言っても実際の戦場でうまく立ち回れるはずもなく、彼女たちを指揮し勝利をもたらす提督が必要だ。故に俺が危惧していた軍人の需要自体は無くならず、逆に艦娘の登場と共に急増した背景があった。

 

 更に言えば艦娘を見出した父上、その子息であり器量も能力もあると言われていた俺だ。軍部が傘下に組みこもうとするのは自然であろう。そのことを告げた父上は何処か渋い顔をしていたが、その理由を問う間もなく俺は家を離れ全寮制の士官学校へと進んだ。

 

 

 そこで、俺は今までの鬱憤を晴らす様に勉学に、戦術に、艦隊指揮に打ち込んだ。元々練っていた策を披露し、教官からは名高い父上の子息である、と太鼓判をもらった。周りの生徒からも尊敬の眼差しを向けられ、嫉妬に駆られたヤツは真正面から対峙し、そして心服させた。

 

 妹の、艦娘の上に立つ提督として教養と実力を培い、更に同胞たちを心服させ、それらを伴ってやがて実際に艦娘たちの上に立つ、まさに当初の俺が想定していた最高(・・)の場合だ。そして、この時期はまさに全盛期であったわけだ。

 

 

 だが、これもそう時を待たずに崩れ去った。そう、明原 楓(主役様)の登場である。

 

 

 兵棋演習の一件以降、父上はヤツのことを気にかけ始めた。俺と顔を合わせた時も、何処かで必ずと言って良いほどヤツを話題に挙げ、時にはちょっとしたことから俺が知るわけがないだろうとぼやいてしまう程踏み込んだことまで、ともかく様々なことを聞かれたのだ。時にはヤツにこんな言葉をぶつけてみたらどうだ、と嗾けられたこともあった。逆にヤツはこうではないか、と答え合わせのようなこともあった。

 

 

 そう、いつの間にか、父上の視界にヤツが躍り出ていたのだ。そして、妹以上に嫉妬の炎を燃やした。

 

 妹の時は嫉妬しつつも一応の納得はしていた。妹は艦娘であり、俺は人間である。この戦況を鑑みて、どちらを優遇すべきかは断然前者であろう。そして俺が嫉妬していた妹―――艦娘たちを下に置き、彼女たちを導いて勝利を手にする提督になる、その道筋を完全に捉えていたからだ。それがあったから、多少の不満はありつつも満足はしていた。

 

 だが、ヤツはどうだ。兵棋演習で醜態を晒し、周りからの評価も低く、落第の一歩手前を踏みとどまっていた。落ちこぼれ、恥さらし、帝国海軍きっての汚点だと揶揄されていた、そんなヤツが父上の視界に躍り出て、今もなおそこに立っているのだ。

 

 その事実に納得出来ようか、満足できようか。否、絶対に無理だ。どれほど譲歩しても無理だ、寛大な心をもってしても無理だ、百歩は愚か千歩、万歩譲っても無理だ。

 

 だから、父上から嗾けられたと察していてもわざとそれに乗ってヤツにぶつかったこともあった。時には父上に言われたことを理由に何もしていないヤツに突っかかりもした。子供の我が儘だと知っていた、理不尽だと、傲慢だと、全て分かっていた。でもそうせずにいられなかった、それが無意味であると分かっていても、逆にヤツの報告とかこつけて父上に面会を求めることもした、その度に惨めになり、その鬱憤を再び奴にぶつけた。

 

 今になって思う。この頃に、俺が生まれた時から掲げていた目標であった『家と国を背負う軍人となる』ではなく、『ただ父上に見てもらう』と言う我が儘にすり替わっていたのを。

 

 

 同時にここからだ。俺が『脇役』から『汚れ役』に舵を切ったのは。

 

 

 舵を切り、そのまま士官学校を首席で卒業した俺に、父上は憲兵に異動しないかと言われた。冷静に考えれば、ただの左遷もしくは用無しだと言われているようなものだ。しかし、提督の立場で父上の視界に入ることが出来ないことに陰鬱としていた当時に俺は憲兵なら父上の視界に入ることが出来る、と言う単純な思考に支配され、その申し出を二つ返事で受けた。

 

 そして嬉々として憲兵に異動し、そこで真っ先に考えられるそれを聞かされた。当初、俺はそれを否定した。そんなことは無い、父上は陸の治安を守るために無理を言って憲兵に異動させたのだ。父上が望んだから、必要だと言ったから、心の何処かにそんなわけがないと言う冷めた自分を抱えつつも、盲目と言う言い訳を掲げてその言葉たちから背け続けたのだ。

 

 

 そして、父上に大本営に来るようにとのお達しがあった。あの落ちこぼれが大本営に召集される、その護衛兼監視を仰せつかったのだ。正直、此処でヤツが出てきたことが癪に障ったが、ヤツが問題視されている鎮守府に放り込まれ、先日鎮守府に深海棲艦の侵攻を許し甚大な被害を受けたことをまた聞きしていた。そのため、この招集はヤツを断罪するためのモノだと勝手に解釈し、そのお達しを引き受けた。

 

 しかし、実際は逆だった。召集の内容自体はその後に聞いたが、当時はただ父上が自らの懐を切り崩してまでヤツを支援すると明言したと聞かされただけだった。その時、俺の胸中がどれほど荒れ狂っていたか、想像するのは簡単だろう。そして、極めつけはヤツとの話が終わった後、父上が漏らしたこの一言だ。

 

 

「……彼で良かった」

 

 

 その一言を父上は、あろうことか俺の目の前で漏らしたのだ。既に嫉妬でグチャグチャだった俺はその言葉に過敏に反応し、父上に激しく抗議した。何が、どうして、どういう理由で、そんなことを吐いたのか、自分に分かる様に、理解できるように、納得できるように言って欲しい、そう猛抗議したのだ。

 

 

 そして、返ってきたのがあの言葉――――――「私には、彼のような人間(・・)が必要なんだ」だった。

 

 同時に俺は理解した。父上はヤツを、軍事的な面で買っているのではなく人間的な面で買っているのだと。それは、俺が今まで培ってきたモノでは覆せない、絶対不変のものである、と。

 

 

 今、これを言葉にするならばこうだ。『俺の物語から、ヤツの御伽噺にすり替わっていた』。

 

 

 そこにスルリと入ってきたのが、『あの方』だ。俺の胸中を察し、俺の望みが成就するかもしれない道を示してくれた。あの鎮守府を潰す、極秘任務と言いながらもそれは大本営の上層部が、つまり父上を含む全員が一致している目的であり、その片棒を担いではくれないかと言う、なんとも甘い甘い言葉だ。それに乗った、乗ってしまった。利用されているかもしれないと分かっていても、その甘言に縋り付くことしか他に方法が無かったのだ。

 

 

 甘言に縋り付き、鎮守府(ここ)に派遣され、ある程度引っ掻き回し、語り部に煽られ、一度向けられながらも逃げ、また『最悪の結果』を生み出した俺は―――――――『汚れ役』は今、ようやく晴れ舞台に立てたのだ。

 

 

 

「いい加減にしろよ、お前」

 

 

 その晴れ舞台で、主役様の口からそんな言葉が零れた。それは何度も何度も言われたこと、学生時代に時と場所を共に過ごす中で何度もぶつけられた言葉だ。

 

 それは廊下だったかもしれない、それは食堂、或いは浴場、もっと言えば顔を合わせれば俺が突っかかり、ヤツもそれに乗っかってくる。今思えば、何とも餓鬼っぽいことだろう。軽くあしらえばいいのに、受け流せばいいのに、ヤツは決まって真正面からぶつかってきた。馬鹿の一つ覚えのように、そこから口論に発展し、酷いときは取っ組み合いの喧嘩にまで至ったこともあった。

 

 

 そんな懐かしい言葉を、主役様はまたぶつけてきた。だけど、それは言葉だけである。それ以外は、まるっきり違っていたのだ。

 

 ヤツの恰好は大本営指定の真っ黒な学生服ではなく真っ白であっただろう軍服だ。所々くたびれて、シミも綺麗にとっておらず、着れれば良いを体現した、何ともみすぼらしい軍服だ。

 

 ヤツの帽子は大本営指定のこれまた真っ黒であった学生帽ではなく、これまた真っ白であっただろう軍帽だ。そのくたびれ具合は軍服よりもマシではあるが、その唾は肩程で軽く折れており、奴の目の半分以上を覆い隠している。

 

 そしてヤツの目は、絶望に染められていた筈のその目は真っ直ぐな光を宿し、その下に静かな憤怒を燻らせた、そんな目。

 

 それを、俺は初めて見た。だけど何故か、初めて見た筈なのに何故か既視感があった。それもヤツではない他の人物が浮かび上がったのだ。

 

 

 

 

 朽木 昌弘(父上)だ。

 

 

「大丈夫か?」

 

 

 しかし、主役は俺に向けていた目を瞬く間に離し、その傍でへたり込んでいた艦娘、俺が詰め寄った艦娘にそう声をかけた。それを受けた艦娘は呆然とした顔をヤツに向けながらも次にはその表情一杯に感情を募らせてその胸に飛び込んでいた。

 

 

「大丈夫、大丈夫だ」

 

 

 それを受け止めたヤツは胸に顔を押し付けて声を漏らす艦娘の頭を撫で、そう言い聞かせる。その目は先ほどの憤怒を消え去り、とても暖かい目をしていた。まるで泣きじゃくる子供をあやす父親のような光景であり、これまた既視感を覚え、またもやあの人が浮かんできた。

 

 

 俺ではない人(・・・・・・)にその目を向ける父上だ。

 

 

「何が大丈夫だ」

 

 

 それを前にして、俺はそう吐き捨てていた。同時にヤツの目がこちらを向き、先ほどのものに戻る。それを向けられた俺は胸の奥が少しだけ苦しくなった。何故かは分からない、だって俺はこの場を――――脇役以下の俺には明るすぎるほどの退場劇を前に心を躍らせている筈だからだ。だけど、その苦しさはそのどれにも当てはまらなかった。

 

 

「お前……自分が何をしたか分かっているのか?」

 

 

 そんな思いを飲み込み、俺は台詞(・・)を吐いた。同時に、周りの艦娘たちの視線が変わる。それは恐怖であった、それは敵視であった、それは殺意であった。艦娘と言う兵器に向けられれば身も竦むような鋭さや冷たさ、或いは感覚すらも奪われかねないその視線を一身に受けた筈なのに、微塵も恐怖を感じない。

 

 これは退場劇、汚れ役が最後に無様な姿を晒し物語の外へ叩き出される一幕、最後の晴れ舞台である。そこは汚れ役に向けられた敵視と言う名のスポットライトで溢れているからだ。

 

 

「お前は俺を殴った。憲兵である俺を非があるくせに謝罪の一つもしない艦娘を庇って……明らかな公務執行妨害だ。これを上に報告すればどうなるか、分かるよな?」

 

 

 俺はそう捲し立てた。勿論、これはただ事実のみを淡々と綴っただけだの文章に過ぎない。そこに各々がどんな対応をしたか、何故そうなったのかと言う状況の一切を無視し事実のみを記した記録と変わらないのだ。

 

 

「黙れ」

 

 

 だが、主役様は俺の記録をあっさり切り捨てた。拾うこともせず、その辺にある紙くずのように踏み付けたのだ。それに、胸の奥が更に締め付けられた。息苦しくなり、圧迫感を十二分に受け、額からいくつかの汗が流れる。本来であればそれに歓喜するのだが、どうもそんな感情は浮かばなかった。

 

 それは主役様の目がおかしかったからだ。確かにその目には怒りがあった、忌々しいモノを見る目であった。だが何処か、何処かその中にそれではないものがあった。それを言葉にすると―――――――これだろうか。

 

 

 『焦り』、と。

 

 

「お――――」

 

「黙れ」

 

 

 その違和感に思わず漏れた言葉を、主役様は無理やり遮った。同時に抱きしめていた艦娘から離れ、立ち上がり、歩き出した。しんと静まり返る食堂に、ヤツの靴底が床に接する音だけが響いた。誰一人としてその歩みを止めるモノも、その先を遮るものもなく、ヤツは目的の場所に―――――俺の前に達した。

 

 立ち止まると同時に、俺の胸倉に手を伸ばし、力の限り握りしめ、容赦なく引き上げた。引き上げられた俺の目の前は主役様の顔で――――――今度はちゃんと、しっかり、その目に怒りを携えて。

 

 

「撤回しろ」

 

 

 その顔のまま、ヤツはそう俺に言葉を向けてきた。しかし、その意味が分からない。何を撤回すれば良いのか、何が気に入らなかった、いや、俺がやったことの大半は気に入らなかった筈だから、正確には何が一番気に入らなかった、だろうか。ともかく、その言葉の真意をくみ取れなかった俺はただ呆けた顔を向けるしかなかった。

 

 

「こいつらを『汚れ』だって言っただろ。この場で、今すぐ、撤回しろ」

 

 

 それをくみ取ってかくみ取らずか、ヤツは更にそう捲し立てた。どうやら、主役様は俺が艦娘たちを『汚れ』だと吐き捨てたと勘違いしているようだ。本当は自分のことを『汚れ役』だと言ったのだが、用意された晴れ舞台を台無しにしないため、敢えて俺はその勘違いに乗っかることにした。

 

 

「何故だ? こやつらは大本営の傘下にいながら反旗を翻した汚点、恥晒しも良いところだ。『汚れ』と言って何が悪い?」

 

「黙れ」

 

 

 俺の言葉に主役様はそう続けた。先ほどよりも語気が強く、怒りを携える目が更に見開かれる。先ほどの焦りが何処かへ行ってしまったかのようだ。このまま続ければ、再び主役様は拳を振るうだろう。正義の味方が、悪の下っ端を懲らしめる、言葉通りの『勧善懲悪』を完遂するために。そのために振るわれる拳は『正義』と言う言葉が全肯定してくれる。

 

 だからほら。とっとと振り下ろしてこい、もっと罵ってこい、俺の最期に豪勢な花を手向けてくれ、誰もが目を見張る、お前の御伽噺における最初の山場にして最大の見せ場にしてくれ。

 

 

 もっと俺を見てくれ(・・・・・・)。なぁ、()よ。

 

 

 

 

「汚したのは誰だ(・・)

 

 

 その口から漏れたのはそれだった。今度こそ、俺の頭は真っ白になった。次に出てくるであろうと信じていた俺に対する罵詈雑言ではなかったからだ。

 

 

「こいつらが大本営にしたことは重々分かっている。だから『汚れ』と吐き捨てるのはまだ理解出来る。じゃあ、こいつらをそうさせたのは誰だ? そこまで追い込んだのは、見捨てたのは、過度な期待を、敗北の責任を、戦火に巻き込まれた原因を、生き残るための犠牲を……それら全てを背負わせたのは一体誰なんだよ?」

 

 

 そう捲し立てる、いや正確には絞り出すようにぽつりぽつりと溢し続ける主役様。その言葉は、その顔はこの伽噺の主役とは思えないほど、憔悴しきっていた。それは俺がかけ続けた負担から来る疲労かもしれない、もしくは俺が来るまでに此処で起こったこと、分かる範囲は襲撃事件に背負った気苦労かもしれない、それとも此処に来る前、士官学校時代に俺がぶつけた矛盾かもしれない。

 

 

 

「誰が殺したんだよ!!」

 

 

 ――――――それはもしかしたら、主役様が士官学校に入学する理由かもしれない。

 

 

 そう叫んだ今の主役様は、いやその煌びやかな衣装に身を包んだだけの、士官学校時代から落ちこぼれの烙印を押され続けた劣等生、本来ならこんな所に立つべきではない、ただ一人の人間だった。

 

 

「それが俺たちだろ? 俺たち人間だろ? 勝手な理想を押し付け、身勝手に権利を掲げ、都合よく形作った継ぎ接ぎだらけのそれを見せつけてこれを果たせ、これが艦娘の責務だと言ったのは俺らだろ? その責務とやらを全うさせるために沢山沈めてきたのは、沈めたくせに何も憂うことなくお門違いに罵ったのは、全部全部人間(俺たち)がしたことだ。それらがこいつらを汚したんだよ、ただ国のために、俺たちのために戦場に立ってくれた彼女たちにそんな仕打ちをしたのは俺たちなんだよ、()が殺したも同然なんだよ!!」

 

 

 それは心の底から沸き上がった咆哮かもしれない。ただ最後の最後にそれが飛び出した時、視界の端に居た車椅子の艦娘が弾かれた様に顔を上げるのが見えた。

 

 

「だから、こいつらを汚したのは俺たちだ。それをさも他人事のように、安全な場所から投げつける野次のように、権利という盾の後ろから当然のように、軽々しく罵るな。他の言葉ならまだ許せる、俺に対する罵声はむしろ大歓迎だ。だがその言葉だけは、俺たち人間に返ってくるその特大のブーメランだけは……直ちに、今すぐ、今この場で撤回しろ。そして今後一切、それを口にするな」

 

 

 先ほどの咆哮から一変、静かな声色でそう締めくくった。しかし、その声色の裏にはとても重く、冷たい何かが、楓の胸中に蔓延る何かを感じさせた。それは言葉にすることが出来ない、むしろ言葉にしてはいけないのではないかと思わせるようなものだった。少なくとも、それを他人が触れてはいけない(・・・・・・・・・・・)ものである気がした。

 

 そしてその感覚は、つい先ほど金剛に、そして楓と初めて出会った時に開いてしまったモノによく似ていた。

 

 

「それだけだ」

 

 

 だけど、そんな気遣い(・・・)もその一言で掻き消された。そう溢した楓は、俺から目を、胸倉を握りしめていた手を離し、背を向けたのだ。それは、この見せ場が終わったことを示していた。俺の華々しい幕切れがとうとうに終わりを告げたのだ。

 

 

 そのことに俺は、『汚れ役』の俺はまだ満足(・・)していなかったのだ。

 

 

 

「知るか、そんなこと」

 

 

 舞台に降ろされた幕を巻き上げ、舞台袖に引っ込もうとした役者たちを引き留め、次の場面に向けられたスポットライトを無理やり呼び戻した。まだ終われない、終わりたくない、こんな中途半端な終わり方じゃ満足できない。

 

 

 まだ、俺の退場劇は―――――『御伽噺』は続いているのだ。

 

 

「そんな個人的な戯言はどうでも良い、そう言った筈だ。此処は軍隊、軍隊と言う集団が全てだ。集団で取り決めたことが正しいのだ、上が右向け右と言えば全員右を向かねばならんのだ。その中で右ではなく左を、もしくは微動だにしない者が居れば弾かれるのは当然なんだよ。そしてお前たちは微動だにしなかった、弾かれても文句は言えまい」

 

「だか―――――」

 

「いかなる理由があるにせよそれがこの組織の善であり、それに従わないものは悪となる……単純明快だろ? 悪は疎まれる存在である、それもまた道理であろう? 善と悪がハッキリしている且つ『勧善懲悪』が道理として成立している……どうだ、それ以外に答えは無い」

 

 

 楓の言葉を遮りながら、俺は台詞を吐き出す。しかし、これではまだ満足しない。違う、これが言いたいわけじゃない。これ以外にもっと、もっと言うべきことが、言いたいことが、ぶつけたい言葉があるのだ。それは揶揄、『汚れ役』として『主役』に向ける、『悪』として『善』に向ける、今しがた口にした『勧善懲悪』を真っ向から無視した言葉をぶつけたいのだ。それこそが『汚れ役』の本懐であり、去り際に相応しいことである。

 

 

 そこに更に重みをもたせるなら、こうすればいいか。

 

 

いい加減話を戻そう(・・・・・・・・・)。で、どう落とし前を付けるつもりだ?」

 

 

 俺が投げかけた言葉に、険しかった楓の顔が呆けたものになる。それは奴だけでなく、周りの艦娘たちも同じであった。いや、一人だけ。その中に紛れていた長門だけは何故か真剣な顔を、何処か寂しそうな顔をしていた。しかし、今そんなことに気を掛けられる程、俺は出来てはいない。

 

 

「先ほどお前は俺を殴り、更にその艦娘も俺にぶつかって制服を汚した。この落とし前をどう付けるつもりだと聞いている。まさか、このまま何もしないわけはないよな?」

 

 

 俺の言葉を理解したのか、楓は顔を引き締めた。そう、引き締めたのだ。焦りもなく、後悔もなく、腹に決めたものを見せつけるように、引き締めたのだ。そしてその直後、ヤツはその場に腰を下ろした。

 

 それだけでなく、両膝を折りたたみ、両手を前の床に、その少し前に額を付けた姿勢――――――要は土下座の姿勢を取ったのだ。

 

 

 

 

すみませんでした(・・・・・・・・)

 

 

 そう、顔が見えない楓の言葉が聞こえてきた。それは主役が見せるべき姿ではない、そして『汚れ役()』なんかに向ける姿でも、周りの艦娘たち(脇役)に見せるべき姿でもない。

 

 だけどそれは此処では、俺の御伽噺では通用しない。何故なら此処では俺が主役で楓が脇役だからだ。『汚れ役』の御伽噺――――最大にして最高の散り際における主役は楓ではなく俺である。だからこそ、ヤツがこんな醜態を晒すのは当然と言えよう。

 

 横暴なことだと? 当たり前じゃないか、都合の良い(・・・・・)御伽噺なのだから。

 

 

 

「何の真似だ?」

 

「先ほど殴ってしまったこと、そして今までうちの艦娘たちが犯した粗相に対する謝罪です」

 

 

 俺の言葉に楓はそう答えた。一切の迷いもなく、一切の躊躇もなく、そう言ってのけた。その言葉に動揺が走ったのだろう、周りの艦娘たちが息を呑んだ。その中で数人の艦娘の顔に俺への敵意に満ちた目を向け、前へ進もうとするのが見える。

 

 なるほど、これがお前が被ってきた『汚れ』たちか。これがお前の制服に染みついた汚れ、(流水)じゃ落ちることのない『頑固な汚れ』、片時も離れず、認識されまいが関係なくお前の傍に存在し続ける、お前のために存在を主張し続ける者たちか。

 

 全く、何処が『汚れ』だ。その言葉と真逆に、正反対に位置する存在じゃないか。汚れ役()に頭を下げる主役()にはもったいない程に美しく、強く光り輝いているではないか。こんなに近くに居るのに認識されないのはとても忍びない、同じ『汚れ』の名を冠する俺なんかと同列にするのはふさわしくない。

 

 

 では、彼女たちに手向けを。『汚れ役』らしい、いや『悪役』らしい手向けを贈ろう。

 

 

 

「それで済むと……思っているのかァ!!」

 

 

 そう俺は言った、叫んだ。言いながら(・・・・・)前に一歩踏み出した、歩いた、楓の前で止まった、叫びながら(・・・・・)その頭を横殴りに蹴り上げたのだ。

 

 周りから悲鳴が上がる、無理矢理吐き出された楓の声が、その身体が床を転がる音が聞こえた。だがそれを境に、俺の周りから一切の音が消えた。

 

 あるのは視覚だけ。俺の足元で顔を抑え蹲る楓、視界の端で固まっている艦娘たち、そして今しがた蹴った俺の靴に付いた赤い血、それだけだ。

 

 

『貴様がやったのは反逆罪だ。貴様のみならず、此処にいる艦娘全員が罪人だ。それを下賤な人間一人の土下座で済むと本気で思っているのか』

 

 

 それは俺の口から飛び出した言葉だ。実際は叫んでいたのかもしれない、或いは冷ややかに口にしていたのかもしれない。ただ俺の視界では、その中の俺は蹲る楓に近付き、その身体に再び蹴りを入れている。何度も何度も、蹴りが入る度にヤツの身体が浮き上がり、その顔に浮かぶ苦痛の色が濃くなる。

 

 だが、そこまでされて楓は何もしてこない。ただ身を固め、降りかかる蹴りを耐えるだけ。それを良いことに、俺は容赦なく蹴りを浴びせ掛ける。その度に楓は苦痛に身体を、顔を歪ませ、それでも耐えるだけ。

 

 

 

『     』

 

 

 また、俺の口から言葉が飛び出した。だが、それがどのような内容であったか分からない。むしろ、それは言葉だったのだろうか。何の意味を持たない喚き声だったのではないか、言葉から程遠いただの音だったのではないか。

 

 

『     』

 

 

 また、俺の口から言葉が飛び出し、何を言ったのか分からなかった。分からない、分からないのだ。

 

 

 俺が何を言っているのか、分からないのだ。

 

 楓が何もしてこないのか、分からないのだ。

 

 周りの艦娘たちが何をしているのか、分からないのだ。

 

 この最大の見せ場が、最高の散り際が一体何処まで続くのか(・・・・・・・・)、分からないのだ。

 

 これが何時終わるのか(・・・・・・・)、分からないのだ。

 

 

 

 

「はい、ストップ」

 

 

 それは唐突に聞こえた。音が消えた筈なのにその言葉だけは、一切の感情を感じさせない声は聞こえたのだ。

 

 

 同時に襟首を掴まれ、後ろに引っ張られる。その力は強く、地に付いていた筈の俺の足を軽々と引き剥がした。空中に浮かぶ感覚、背中から空気を切り裂く感覚、重力に従って落ちていく感覚。それはほんの一瞬だけだったが、その間で俺は理解した。

 

 

 ようやく、俺の御伽噺が幕を閉じたのだ。

 

 

「ッ!?」

 

 

 そう理解した瞬間、背中に強い衝撃を受けた。床に叩き付けられたのだ。痛みで熱を帯び、口からそんな声が漏れる。だが、それらは目を開いた瞬間、何処かへと消え去ってしまった。

 

 

 何故なら、開かれた視界の大半が黒光りする二つの筒状のモノで占められていたからだ。

 

 

「ストップやぁ、言うたやろ?」

 

 

 筒状のモノで視界の端から先ほどの声が聞こえた。同時に、筒状のモノに遮られていた周りの光景が見えた。

 

 

 場所は食堂、そこで使われているであろう机と椅子があちこちに倒れている。いや、正確には退けられたのだろう。何故なら、俺を中心にぽっかりと空間が出来ているからだ。

 

 そして、そのぽっかりと空いた空間には艦娘たちが立っている。俺を取り囲むようにぐるりと、そして俺の方を向いていた。その顔にあったのは大小さまざまな感情があっただろう。『恐怖』もあり、『怒り』もあり、『焦り』もあった。だがちゃんと共通項もあった、その殆どが俺に片腕を差し出しているのだ。その差し出された片腕に黒光りする筒状のモノを携えているのだ。

 

 

 そして目前にあるそれを―――――――砲門(・・)を携えているのは二人の艦娘。

 

 

 一人は先ほど俺にぶつかり、制服を汚した艦娘だ。表情は詰め寄った時と変わらない、涙でグチャグチャである。だかそこにあったのは『恐怖』では、いやそれだけ(・・)ではない。頑なに浮かべ続けた『恐怖』を押し退けて、新たな感情が―――――――『憤怒』があったのだ。

 

 もう一人は昼間に出会った駆逐艦、雪風である。その表情は隣の艦娘とは違い、表情が無い。『無』表情である。昼間に俺が引っ張り出した『怒り』も『驚き』もない。使い手の意のまま、一切の躊躇なく、容赦なく、目の前にいる対象が善か悪かなど微塵も考えていないであろう、まさに兵器の表情だ。

 

 

 そして、そんな二人の間に一人の艦娘が立っていたのだ。

 

 

 

「離して下さい」

「離すっぽい!!」

 

 

 次の瞬間、俺に砲門を向けていた二人が同時にそう言った。その言葉に温度差はあれど、その向きは一緒であった。

 

 

「阿呆、これ以上事態を悪化させたいんか」

 

 

 その言葉を向けられた艦娘は、そう吐き捨てた。彼女は昨日、俺を執務室から叩き出した艦娘だ。見た目は雪風とそう変わらないが軽空母だそうだ。常に笑みを浮かべ、周りに冗談を飛ばし、そこに居るだけで空気が幾分か和らぐ、そんな存在であると、その姿を見る度に思っていた。

 

 だけど、今の彼女は違う。その顔は雪風と同じように感情を感じさせない無表情、その声も同じく抑揚の無い無感情。その眼力だけで敵を縫い留め、次の瞬間その命を刈り取る存在、『兵器』と言う言葉すら生ぬるく感じるほどに危険な目であった。

 

 

「下がれ」

 

 

 軽空母は、先程と変わらない声色と共に冷ややかな目を向けた。その言葉に、その目に雪風は特に何の感情を示すことも無く、逆にもう一人の艦娘は悔しそうに顔を歪めながら渋々とその言葉に従った。だが、その二人の目は片時も俺から離れることはなく、その砲門も常に向けられたままであった。

 

 

「いやぁ、すまんかったなぁ」

 

 

 だが、それすらもどうでもよくなる程に能天気な声色で軽空母は俺にそう言う。その顔にあるのはいつもの笑みだ。その声色もいつもの柔らかいものだ。全てが全て、いつも通りであった。何時、何処で、誰であろうと、どのような状況であろうと、彼女はそうなのであろう。常に『いつも通り』なのだろう。

 

 

「せやけど君も悪いで? あんな一方的に司令官をボッコボコにしたんやからなぁ。こうしてうちが入らんかったら、今頃木っ端みじんになってたかもしれへん……ま、ぶっちゃけそれがちょっち延びた(・・・)だけやけど」

 

 

 そう言い、軽空母は歩き出した。その顔はいつも通りの笑みを浮かべながら。だが、それは最後に濁した言葉と共に少しだけ変わった。いや、笑み自体は変わっていない。変わったのは、いや現れた(・・・)のはその『目』だ。

 

 

「さてさて、今回は出血大サービスや。誰の出血か? なんてつまらないことは置いといて、単刀直入に聞くで?」

 

 

 そこで言葉を切った時、軽空母は俺の前に居た。俺の前で膝を折り、俺と同じ目線になり、いつも通りの笑みを浮かべながら、薄く開かれた目で俺を見据えながら。

 

 

 

「『此処から逃がしてもらう』か『此処で殺される』か、選べ(・・)

 

 

 そう、俺に選択肢を投げかけた彼女の目が、尋常ではないほど冷たく、刃物のように鋭く、呼吸を忘れさせ、心臓を握りつぶせそうな、生命活動を停止させてしまう、見た者を殺してしまう(・・・・・・)目をしていた。

 

 そんな目を持つ者を、人は何と呼ぶだろうか。分からないだろう、何せそれに相対した存在は皆死んでしまうのだから。そしてそれを向けられ、それが最期の光景であろう俺は、こう呼ぼう。

 

 

 

 ――――――『化け物』と。

 

 

 

「今少し、時間を与えてはどうだろうか?」

 

 

 だが、それが最期の光景とはならなかった。そう言って、軽空母の肩を掴んだ者がいた。俺はその姿を呆けた顔で、軽空母は俺に向けていた表情のまま自らの肩を掴んだ者を見た。

 

 

「長門、義理立てする気か?」

 

「生きるか死ぬかの選択肢だぞ? すぐに答えれるわけないだろうが。龍驤……そう急かすのはお前の悪いところだぞ。そして……」

 

 

 肩を掴んだのは長門だった。俺に進むべき道を示し、俺の背中を押した、ある意味今この状況を作り出した張本人だ。そんな彼女に龍驤と呼ばれた軽空母は噛み付くも、長門はどこ吹く風と言う感じで受け流し、逆に彼女を窘める。

 

 その表情はとても穏やかだった。この場に、一歩間違えれば一人の人間が肉塊に変わってしまうかもしれない、そんな場でだ。そして彼女は場違いな程穏やかな表情を、この場で向けられるはずがない俺に向けてきた。

 

 

 

「君も、答えを出すのはまだ早いぞ」

 

 

 そして、そう問いかけたのだ。それは、語り部(・・・)としての言葉だろう。それも主役()ではなく汚れ役()の御伽噺の語り部として、更に言えば今しがた終わった御伽噺の続きを始めようとしているのだ。

 

 

「今まで君は色々と見てきた、それらを踏まえた答えが先ほどの暴挙だろう。だが敢えて言おう、まだ法螺話は終わっていない(・・・・・・・・・・・・・)と。だからもう少しだけ付き合ってくれないか? それを踏まえてもう一度考えてくれないか? もう少しだけ――――――」

 

 

 そこで言葉を切った長門の表情は穏やかであった。だがほんの少しだけ、その表情が変わる。

 

 

 

語らせて(・・・・)はくれないか?」

 

 

 それはとても悲しげな、決して御伽噺に登場することができない(・・・・・・・・・・・)語り部だけが浮かべる、語り部と御伽噺を繋げる唯一の手立てを続けさせて欲しい、そう懇願する(・・・・)表情だった。

 

 

 その言葉に、俺は何も返さなかった。思いついた言葉が全て陳腐で、ふさわしくなく、どれを選んでも彼女を惨めにさせるだけだと、彼女を傷付けるものばかりだったからだ。

 

 無言で立ち上がり、歩き出す。長門の横を通り過ぎ、龍驤を、雪風を、艦娘たちの横を通り過ぎる。誰しも殺意を込めた目を、携えた砲門を向けてきてはいたが、俺が食堂を後にするまでその引き金が引かれることはなかった。

 

 

 

「ぁ……」

 

 

 そんな中でただ一人、場違いにも声を上げるモノが居た。つい先ほど俺が散々に痛めつけた存在である、チラリとその姿を見る。ヤツは数人の艦娘に介抱されていた、その艦娘たちは俺に砲門を向けていなかったのだろう。ヤツは彼女たちに介抱されながらも、その目は俺を見ていた。

 

 

 そして可笑しなことに、その目は語り部(・・・)と同じ色をしていたのだ。

 

 

 それを見て、それは主役(お前)が浮かべていい色ではない――――そう心の中で呟きながら俺は食堂を後にした。

 

 

 



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『水』と『油』

 食堂から自室へと戻ってきた俺は、ベッドに身を投げていた。

 

 食堂であれだけやらかし、長門以外の艦娘から明確な殺意を向けられた。今後顔を合わせればいつ何時この命を狙われるかも分からない。普通なら一刻も早くこんなところから逃げるべきなのだが、長門の言葉がある手前そうも出来ない。かと言って、ここからどうすれば彼女の法螺話が終わるのかも分からない。まさしく八方塞がりである。

 

 

「終わっていない、か……」

 

 

 そうポツリと漏らした俺の頭は、長門が残した『まだ終わっていない』と言う言葉が浮かんでいた。

 

 彼女はまだ終わっていないと言った。だが、傍から見るとあの時終わる筈だった物語を無理やり続けた、と言った方が正しい気がする。まぁ、もしあそこで俺が物言わぬ肉塊になってしまえば、父上の息子を殺害したと言う大義名分を持って大本営は動くだろう。ある意味、この鎮守府のために動く彼女にとって是が非でも避けたいことだろう。

 

 だが、もしそうならあの時に俺の暴挙を止めた筈だ。あそこまでやってしまったのだ、艦娘との関係修復は不可能、今はただ殺されるのを先延ばしにしただけで、結果的には何も変わらない。しかし、彼女はそれを見過ごした。関係は修復不可能になったところでようやく重い腰を上げたのだ。

 

 

 何故そのタイミングで割り込んだのか、その理由が良く分からない。

 

 

 そんな思案に暮れていた時、いきなりドアを叩かれた。その音に身を投げていたベッドから身体を起こし、今しがた音を立てたドアに視線を向ける。

 

 鎮守府でドアを叩く存在は提督である楓か艦娘の二択、そして前者は先ほど声も出せない程ボコボコにした後だ。此処に来れるのはどう考えても後者である。更に言えば砲門の数々を向けられた、此処にやってくる理由も察する。

 

 

 要は、俺を殺しに来たのだ。

 

 

 もう一度、ドアが叩かれる。それは先ほどと変わらない、何の変哲もないノックだ。その『何の変哲もない』ことが警戒心を煽る。もし、俺を殺しに来たのならノックなどせずに砲撃すればいい。しかし、ドアの向こうに居る艦娘は二回目のノック以降、特に何をすることもない。部屋を壊すなと言われたのか、そのため外に連れ出すつもりか、生命の危機に思考が目まぐるしく回る。

 

 

「いらっしゃいますか?」

 

 

 しかし、その思考を止めたのはその普通の声だった。いや、正確には『普通』に務めようとしている声、平常心を保つことに腐心し、ドアの前で『人』の文字を掌に書いては飲む、それを何度も何度も、貪るように繰り返している様子が浮かぶ。そこまでして隠したいのだ、殺意(本心)を。

 

 そして、その声の主を俺は知っていた。知っているが故に必死に普通になろうと悪戦苦闘する彼女の姿が思い浮かび、その滑稽すぎる姿に思わず吹き出しそうになった。その笑える、ある意味微笑ましい姿に、先ほどまで目まぐるしく動いていた思考も、警戒心も解けた。

 

 

「あぁ」

 

 

 だからだろう、その声に対してとても穏やかな、余裕のある声で答えてしまった。まさか返ってくるとは思ていなかったのだろう、その声の主はドアの向こうで変な声を上げた。狼狽えているのが丸分かりである。それにまたもや噴き出しそうになった。

 

 これから死ぬかもしれない、なのに何故これだけ落ち着いていられるのだろうか。やりたいことをやり切ったからもう悔いが無いのか、それとも長門の言っていた御伽噺の続きが始まったからか。それどれもこれも分からない、分からないのだ。

 

 分からない故に『知りたい』のだ。御伽噺の続きを、退場劇が終わった後の物語を。そこにどれほどの爪痕を刻めたか、汚れ役()が存在できたか、知りたいのだ。

 

 

「し、失礼します」

 

 

 俺の言葉からどれほど間を置いただろう。ドアの向こうに居る艦娘は意を決した様にそう言い、それに呼応するようにドアが開かれた。その顔は何所か引きつっていた、その動きはぎこちなかった、全身で『普通』を装っていたがやはりにじみ出る殺意を隠しきれていない、まさに思い浮かんだ姿そのものであった。

 

 

「金剛型戦艦、3番艦の榛名です」

 

 

 その姿のまま、榛名は頭を下げた。その言葉、以前にも向けられたものと――――鎮守府にやってきた時と一緒だ。その時、俺は彼女を一瞥するだけで満足に返事も返さずその横を素通りした。素通りし、慌てて引き留めてくるその腕を振り払い執務室に向かった。つい先日の事である。

 

 

「何の用だ」

 

 

 そんな天丼を繰り返さない様、俺はその言葉に答える。目を向け、言葉を向け、身体を、意識を、俺が向けられるモノ全てを持って彼女に向き合った。対して、榛名はまたもや狼狽える、ことなく今度は特に戸惑うそぶりも見せず部屋へと踏み込んだ。相変わらずにじみ出る『殺意』に気付かず、必死に取り繕っているであろう冷ややかな目で俺と向き合った。

 

 ほんの少し、沈黙が部屋を支配する。互いが互いを見つめ合い、どう動くのか、どうするのかを測りかねている。双方の違いと言えば、纏う空気の重みぐらいか。片や溢れ出す殺意を押し込めるために平静を装うことに終始する重苦しい空気、片やおとぎ話の続きを待ち望んでいる何処か軽い空気。決して相居れることの無い空気を纏う両者が対峙する一時の矛盾に満たされた空間。

 

 それはまるでページの最後に残された煽り文。次のページに向けて読み手を高ぶらせる、その先に何が待っているのかを静かに暗示する、たった一言でその場にある視線の全てを釘付けにする。そんな、魔法のような言葉。

 

 

 

「殺しに来たのか?」

 

 

 それを、敢えて口にした。その瞬間、沈黙は破られ、今か今かと待ち望んでいた俺の手はページを捲る。この先、俺に向けられるのは何なのだろうか、そこに在るのは何なのだろうか、俺を待っている者は誰なのだろうか、知りたかったものがちゃんと在るのか、その不確定要素はその片鱗をようやく表した。

 

 

「はい」

 

 

 その答えを榛名は提示する。そして、彼女はおもむろに片腕を上げ、その先を俺に向けた。それが答えだ、彼女はそう示す。それを向けられた俺は、当然受け入れるつもりだった。

 

 

 しかし向けられたそれが砲門ではなく、きちんと折りたたまれた憲兵の制服であったならば、どうだろうか。

 

 

 

「着替えて下さい」

 

 

 その後、目の前に立つ艦娘からそう言われたら、どうだろうか。何も反応出来ないのが普通である。その例に漏れず、俺はただ茫然と榛名を見つめた。彼女は相変わらず殺意を滲ませている、そして俺の問いに彼女は肯定した。しかし、今彼女が向けているのは俺を殺すための砲門ではない、更に言えばその後に続けた言葉も俺を殺す暗示とも取れない。

 

 煽り文に乗せられてページを開いたら、また新たな矛盾があった。戸惑うなと言うのが無理な話だ。

 

 

「早くしてください」

 

 

 その矛盾を放り込んでおいて、その張本人は急かしてくる。その証拠に先ほどの殺意だと感じていたモノはいつの間にか不平や不満と言う類いのモノに劣化していた。その変化についていけず俺は呆けた顔を晒しながらも何とか状況を把握しようと再び煽り文を読み上げた。

 

 

「殺さないのか?」

 

「えぇ、榛名は(・・・)殺すつもりですよ。でも、それを決めるのは榛名じゃないので」

 

 

 読み上げた煽り文を榛名は再び肯定した。だが、最後に付け加えたその一文に俺はなんとなく察した。彼女は俺を殺す気なのだろう、その証拠にあの殺意と今の歯切れのいい言葉だ。しかし、同時に彼女に俺を殺す選択肢を与えられているわけではない。だから俺の言葉を肯定したのだ。

 

 そして、彼女が制服を寄こしたのは俺をその選択肢を握っている人物の元に連れていくためだろう。連れていき、改めて沙汰を下す。下されたそれが『俺を殺す』であれば彼女はその場で俺を殺す、そういうことだ。未だに何故ここで殺さないのか、何故改めて沙汰を下すのか、いくつか疑問は残るのだが大方そういうことなのだろう。

 

 

「なるほど、俺の命は(誰かさん)の掌ってわけか」

 

「非常に残念ですが、それは貴方(・・)の掌ですよ」

 

 

 納得した答えを、今度は真っ向から否定した。それに思わず彼女を目を向けると、とても残念そうな顔をしていた。いや、残念と言うよりも、何処か羨ましそうな顔だ。そして先ほどから感じていた不平不満はまた別のモノに変わっていた。

 

 

 

 それは士官学校時代、良く向けられたものであった。だから分かった、それが『嫉妬』であると。

 

 

「その前に……」

 

 

 その問いを投げかける前に、榛名はそう溢したと思うと何故か近づいてくる。途中差し出していた制服を俺のベッドに放り投げ、いきなりの行動に少しだけ身を引く俺にあろうことか顔を近づけてきたのだ。目の前に迫る彼女に気圧され、引いた距離すらも詰め寄られて、どうすることも出来ずに顔を背けた。

 

 

「こっち向いて」

 

 

 だが、榛名はそう言って背けた俺の顔を両手でつかみ、自分に向き直らせたのだ。目前に、視界目一杯に広がる彼女の端正な顔、その距離は鼻と鼻がくっつく距離である。普通であれば、緊張と気恥ずかしさ、更には息がかかるその距離に心臓の一つでも暴れ狂いそうなのだが、生憎俺にそんな甘いシチュエーションを感じれるほどの余裕は無かった。

 

 

「痛ッ」

 

「そのみっともない顔、どうにかしないとね」

 

 

 榛名が掴んだ場所がちょうど楓に殴られた場所であったからだ。そこを掴まれ、容赦なく押さえつけられれば痛みもする。更に言えばその物言いから彼女も敢えてそこを選んで掴んだ、と取れたからだ。その証拠に、彼女は掴んでいた片手を離し、スカートのポケットに手を突っ込んで何かを引っ張り出した。

 

 

「湿布ッ」

 

「動かないで」

 

 

 榛名が取り出したものの名を口にするも、彼女の言葉とわざとであろう腫れた頬を触られたことで遮られてしまう。痛みに呻く俺を無視して、榛名は湿布のフィルムを剥がすと慣れた手つきで腫れている患部に貼った。その際、わざとらしく押さえつけたのは彼女が滲み出している感情が原因だろう。

 

 

「これで楓さんも変に気を遣うことも無いでしょ……ほら、出ていくからさっさと着替えて」

 

 

 そう、何でもない風に溢した榛名の言葉に俺は疑問が解けると同時にまた新たな疑問を植え付けられた。彼女が連れて行こうとしているのは楓の元だろう。そこに連れていかれ、沙汰を下され、場合によっては彼女に殺される。

 

 が、先ほどの話からしてその沙汰を下すのは楓ではない。沙汰を下されるはずの俺だと言う、俺自身が自らの罪を裁くと言うのだ。そんなの出来レース、終わった筈の御伽噺じゃないか。これから続くのは法螺話じゃないのか、語り部が嘯いたはずの、在りもしないifの話ではないのか。

 

 

「あ――」

 

「早く」

 

 

 俺から離れて出ていこうとする榛名を引き留めようとするもその一言で、正確にはそれと共に向けられた視線に、『嫉妬』に塗れた子供のような目に、言葉を飲み込んでしまったのだ。その目のまま、彼女はドアを向こうに消えていった。

 

 しかしドアの向こうで彼女はいる、俺が着替えるのを待っている。イライラしているように足を動かしながら、やり場のないそれを向ける先を探す様に時折声を漏らしながら、俺を待っているのだ。

 

 

「まだ?」

 

 

 いつまで経っても出てこない俺に、榛名はそう問いかけた。今まで見てきた低姿勢は何処へやら、その言葉遣いも、ドアの向こうにいるであろうその姿も、まるっきり子供のそれに見えた。

 

 

 いや、まるっきり『俺』じゃないか。

 

 

 

「頼まれたのか?」

 

「は?」

 

 

 その言葉に返す形で、俺は問いを投げかけた。当然、榛名からの返答は意味を解していないものだった。そうだろう、いきなり突拍子もないことを聞かれればそうなる。だから、その問いに補足を付けた。

 

 

「俺を楓の元に連れてくることだ。頼まれたのか?」

 

「……自分から」

 

 

 付け加えた補足に、ドアの向こうから渋々と言いたげな返答があった。頼まれた訳ではなく自ら名乗り上げた、そうか。

 

 

「この湿布もお前が?」

 

「そう」

 

 

 再び投げかけた問いに、榛名は短く答えた。その声色に戸惑いはなく、ただただ面倒だと言う感情に溢れていた。湿布も楓じゃなく彼女が用意した、なるほど。

 

 

 

 

 

「点数稼ぎか?」

 

 

 その問いかけをした時、ドアの向こうからとてつもない殺気(・・)が身体を貫いた。同時に、ガコン、と言う腹の底に響く重苦しい音が聞こえた。

 

 

「図星か?」

 

「うるさい」

 

 

 もう一度補足を付けると、今度はちゃんとした返答が来た。それは面倒だと言う感情はない。あるのは『嫉妬』、それに塗れたなんとも幼稚な言葉だ。

 

 

「いつからだ?」

 

「黙って」

 

 

 今度は別の問い、それに榛名は食い気味にそう吐き捨てた。吐き捨てたのだが、俺はその問いの答えを知ることが出来た。

 

 

「何か得たか?」

 

「やめて」

 

 

 また問い、それに榛名は噛み付く。微かに歯を食いしばる音が聞こえた。今にも爆発しそうなその感情を感じた。その答えを知ることが、いや既に知っていた(・・・・・・・)

 

 

 

 

「意味があるのか?」

 

 

 だからその問いを――――――今の彼女を、彼女がやっていること、やってきたこと、その全てを『否定』する問いを投げた。

 

 そして、その返答はあった。だが、言葉(・・)ではなかった。

 

 

 次の瞬間、俺の耳に届いたのはすさまじい轟音だった。それは目の前、先ほど榛名が消えたドアの向こう。そのドアが勢いよく開けられたのだ。

 

 蝶番が外れかかったドアの向こうに居るのは榛名。短いスカートをものともせずに大胆に振り上げられた足から、彼女は開けたのではなく蹴破ったとだろう。彼女は振り上げていた足をすぐさま下ろし、そのまま俺に近付いてきた。

 

 その速さは先ほどよりも速い、『異常』ともいえるスピードだ。だが、それを前にして俺は身を引くことは無い。迫りくるそれを、ただ待ち構えた。

 

 ある程度近付いたところで、彼女はおもむろに片腕を上げた。先ほど手にしていた制服は彼女の手を離れベッドの上、湿布も既に俺の頬だ。では代わりに何があったか、もう一つしかないだろう。

 

 

 

 

「やめてって言ってるでしょ!!!!」

 

 

 そう、榛名は吐き捨てた。彼女の願いを叶える、俺の命を瞬時に刈り取るそれを、戦艦の名に相応しいその堂々たる砲門を携えた腕を突き付けながら。

 

 それと一緒に向けられたその目は『嫉妬』で溢れている。溢れて、塗れて、何も見えなくなった、見ることをやめた、望まない現実から目を背けた―――――脇役以下の(俺と同じ)目だった。

 

 

「……何も知らないくせに、知ったような口しないで。貴方に何が分かるの? 何を知ってるの? 何を根拠にそんなこと言えるの? そういうのが腹立つのよ……そういう知ったかぶりが頭に来るのよ……持ってないフリ(・・・・・・・)をされるのが一番虫唾が走るのよォ!!」

 

 

 榛名は吐き捨てる、叫び続ける。それは今までひた隠しにしていた本当の彼女、誰にも言えず、どうにか自分の中で落とし込もうとして、それが出来ずにずっとずっと胸の底に残っていた言葉かもしれない。

 

 

「榛名はあの人が此処にやってきた日から知ってる。金剛お姉様にやられたことも、食堂の件も、迫った時に見たあの怒りも、襲撃の後に向けてくれた笑顔も、その優しさも、大本営から帰ってきてから垣間見えた弱さも、今にも潰れそうな泣き顔(・・・)も……全部、全部知ってるの。だから榛名が……()がいないといけないの、()が支えないといけないの、()があの人の受け皿にならないといけないの、私しか(・・・)いないの!! なのに、なのにぃ!!」

 

 

 そう叫び続ける榛名の砲門を携えていない手はいつの間に顔に押し当てられていた。彼女が言葉を吐き出すごとにその手に力が込められ、それに握りつぶされるかのようにその顔は苦痛で歪み、嫉妬に塗れていた目にはいつの間にか光るものがあり、それは彼女の頬にいくつもの筋を残していた。

 

 

 

「なんで貴方が、『必要』なんですか……」

 

 

 最後にそう叫び―――――いや、そう泣き声(・・・)を漏らした彼女は俺に向けていた砲門を下げた。その砲門ですら彼女が言葉を吐き出す中で震えだし、その砲口も仮に砲撃したとしても俺に当たっていたのかと疑問に思うほどにズレていた。

 

 だが、逆にその姿にぴったりと当てはまるものがあった。スポットライトを求め続け、身分不相応の夢を抱き続けた、憐れな脇役以下()である。

 

 

「『必要』とされる貴方に……『必要』とされない、『不必要』とされる人の気持ちなんて……絶対分かりっこない、分かるわけがない、分かってほしくない。それも一度救い上げられた(・・・・・・・・・)上でその烙印を押され……違う、いずれ押されるだろう人間に、一度じゃ飽き足らず二度(・・)も押されるであろう私に。それを押されることが、面と向かってそれを言われることが怖くて、それから自らを守ろうと誰かの想いを、心を、葛藤を踏みにじってまで存在を証明しようとする私の気持ちを……」

 

 

 榛名はそこまで溢したところで吐き出してしまった本音(言葉)の意味に気付き、口を抑えた。その顔は苦渋に、後悔に、悲壮に満ちている。恐らく、誰にも漏らしたことがなかったのだろう、誰にも知られたくなかったのだろう、誰にも見せたことがなかったのだろう。

 

 

 そう、楓にも(誰にも)

 

 

「……取り乱してすみません。そして提督から『話がある、執務室に来て欲しい』との言伝を預かっております。お渡しした制服に着替え、執務室に向かってください。榛名がいないことを聞かれたら、体調不良で部屋に戻ったとお伝えください。よろしくお願いします」

 

 

 先ほどの取り乱しから一転、感情を押し殺した声で榛名はそう言うと、何事も無かったかのように部屋を出ていこうとする。その後ろ姿に思わず手を伸ばす。

 

 

「貴方も」

 

 

 それと同時に後ろを振り向いていた筈の彼女の顔がこちらを向き、こう言葉を残した。

 

 

 

 

「霧島と、同じことを言うんですね」

 

 

 榛名が残した言葉、その意味を今ここで解することは出来なかった。その言葉に何も言えない俺を、その後一瞥することなく彼女は出て行った。彼女が出て行ったドアは半開きのまま右往左往する。それはまるで、先ほど自らを『私』と呼称した一人の艦娘のように。

 

 だが俺は、またもや人を傷つけてしまった俺は何も出来なかった。彼女への罪悪感を放り出し、最後に残していった言葉を、非常に聞き慣れない言葉を噛み砕くのに精一杯だったからだ。

 

 

 

「『必要』、『必要』?」

 

 

 それは『必要』―――――榛名が残した言葉。それはなくてはならないモノに、どうしてもいなければならないモノに向けられる言葉。その言葉を向けたのはそれを発したのは榛名ではなく彼女が溢した人だ、彼女をここに寄こした人だ。

 

 

 それが『誰か』なんて疑問は、必要無い(・・・・)。必要なのは『何故』だ。『何故そんなことを言う』だ、『何故そんなことを考える』だ、『何故俺が必要なのだ』だ。

 

 

 語り部の法螺話は、俺の御伽噺は、終わった筈じゃないのか?

 

 

 

 いつの間にか、俺は自室の鍵を閉めていた。中からではなく外からだ。

 

 格好もホットチョコレートで汚れた制服ではなく榛名が用意した真新しい制服であり、誰かの血に塗れていた靴ではなく念入りに磨き上げられた真新しい靴である。

 

 

 汚れの無い、何も無い、真っ白な俺。汚れ塗れの誰かとは大違いだ。そのくせ汚れ以上に頑固で、一度や二度こすっただけじゃ落ちない、とてもとても厄介なそれ。塗れる(・・・)のではなく錆び付いた(・・・・・)と言った方が近しい、時と共に深く深く刻み込まれた『我が儘』と言う錆びに侵されて動くことすらままならない厄介者。

 

 誰にも見守られず、ただ朽ちていくだけの鉄屑である。枯れていく木でも咲き誇る花でも、まして()ちていく()でもない、何物でもない鉄屑である。

 

 

 そして、その鉄屑はそそのかされた。一滴の水を与えられ、その上で向こうに泉があると、いや梅林があるとそそのかされた。

 

 勿論、鉄屑はその言葉が嘘であると分かっていた。泉なんかない、それこそ梅林すらないと分かっていた。だが青々と実る梅の味を思い浮かべ、知らず知らずのうちに口に満ちていた己の唾を糧に歩んでしまった。

 

 そしてその唾すらも枯れ果て、いよいよ朽ちる時が来た。そう思った、そうなる、そうなる筈だと思った。

 

 そこに降って湧いた新たな一滴。それこそ梅林などではないれっきとした、向こうに湧いている泉からはじき出された(・・・・・・・)、その向こうに泉があると言う確固たる証拠だ。

 

 

 そして今、証拠を辿っている。

 

 その先に何があるのか分かっていながら、それを信じられないくせに。それが法螺話だと信じ切っているのに、目の前に現れた確固たる証拠を前にしたから。それが朽ちていく己を、錆び付いていた筈の己を動かしたからだ。

 

 

 語り部の法螺話()ではない、脇役以下の嫉妬()であったからだ。

 

 

 

 やがて、俺は辿り着いた。そこは自室よりも大きく、重厚なドア―――扉と言った方が良い。そして扉の向こうから複数の声が、同時に一人の悲鳴じみた声も聞こえる。その向こうには忌み嫌った、見たくもなかった光景が広がっているはずだ。

 

 だけど同時にその光景は、その光景の中心にいるヤツは――――弾かれた油が示した泉である。泉であり、鉄屑の俺を更に錆び付かせる筈の、正しく天敵とも言える存在である。

 

 

 そして、俺を『必要』とした存在だ。

 

 

「失礼する」

 

 

 ノックもせずに扉を開いた。その向こうには予想通りの光景が―――――数人の艦娘に介抱される楓の姿があった。俺の声と同時に艦娘たちは俺の方を向き、敵意むき出しの表情を向けてきた。先ほど提督を蹴り付け、罵った俺が何の前触れもなく入ってきたのだから当たり前だ。むしろ入ってきた瞬間俺に向けて砲門を、更には砲撃しなかったことすら奇跡と言える。

 

 

「待ってたぞ」

 

 

 いや、その大部分は楓がそう言ったからだろう。事実、その言葉に艦娘全員がヤツに顔を向けた。俺からは見えないが、恐らくその全ては『驚愕』に満ちているであろうな。

 

 

「ちょ、待ってたって……」

 

「そう、俺が呼んだ。あれ、榛名は?」

 

 

 薄紫髪の艦娘に至極当たり前のようにそう言い、同時に俺に向けてそう聞いてくる。予想通りの問いに俺はそっぽを向きつつ、伝えて欲しいと言われたことを口にした。

 

 

「体調不良で部屋に帰った」

 

「まさか榛名さんに!?」

 

「イムヤ、それはないよ」

 

 

 俺の言葉に血相を変えた赤髪の艦娘を楓が引き留める。イムヤと呼ばれた艦娘は楓に顔を向けるも、ヤツの至極真面目な顔に口をモゴモゴさせながら黙り込んだ。なんだ、押さえつけることが出来るじゃないか。ちゃんと教育……じゃない、『信頼』されているな。

 

 

「それと悪いんだが、憲兵殿と二人っきりにさせてくれないか?」

 

「え!?」

 

「本気!?」

 

 

 その後ぶちかまされた発言に、流石に二人は声を上げる。そんな二人を尻目に、楓はそのどちらでもない艦娘、今までの発言に微塵も反応しなかった一人の艦娘に目を向けた。

 

 

「大淀、曙とイムヤを……」

 

「……はぁ」

 

 

 何処か申し訳なさそうな楓の言葉に、大淀と呼ばれた艦娘は明確な返事をすることなくただため息を吐いた。だが、その身体は楓に言われて、いや言われるよりも前に動いていた。

 

 

「ほら、いきますよ」

 

「大淀さ!? う、嘘でしょ!?」

 

「いいの? このままじゃ……」

 

「本人が言っているんです、きっと大丈夫よ。あぁ、それと……」

 

 

 大淀は曙と呼ばれた薄紫髪の艦娘とイムヤの腕を掴み、ズルズルと引き摺って行く。その最中、ふと思い出したようにそう言って、俺に目を向けた。

 

 

 

 

「もし提督に何かするのであれば、それ相応のご覚悟を」

 

 

 そう口にした彼女の目は到底人に向けるモノではない、敵に向けられるであろう明らかな殺意に満ちた目で遭った。

 

 

「では、失礼します」

 

 

 その目を俺に向けたまま、大淀は今もなお暴れる二人を引きずって扉の向こうに消えていった。消えた後も暴れる二人の声が聞こえたが、それも姿同様すぐに消えてしまう。残ったのは俺と楓、そして沈黙だ。

 

 

「やっぱ、『提督命令』なんて似合わな……痛ッ」

 

 

 そんな沈黙を破ったのは、何故か苦笑いを浮かべた楓である。ヤツは自らの頬を、俺が蹴りつけて青あざが出来ている頬を掻いて痛みに呻いた。その姿に俺は自室から此処に来るまでずっと張り続けていた警戒を危うく解きそうになるも、此処に呼ばれた真意と向き合うべく何とか堪えた。

 

 

「全く、お前の言った通りだ」

 

「……いや、違うさ」

 

「なんか言った?」

 

 

 ヤツの言葉を――――いや、それは前にヤツに向けた俺の言葉を、俺は無意識に否定していた。その言葉は聞こえなかったのだろう、ヤツはきょとんとした顔をする。その顔に更に警戒が解けそうに、いやもう警戒することすら馬鹿らしくなってきた。

 

 

「何でもない。それで、何の用だ?」

 

 

 下手に根掘り葉掘り掘られても困るし、何よりそれは双方とも望まない筈である。それを断ち切るためにこちらから切り出す。俺の言葉に、楓はキョトンとした顔を引き締める。この表情は初めて、ではないか。此処に来た時に向けられた、俺が潜水艦に詰め寄ろうとして、榛名に引き留められ、その榛名を引き剥がしにかかった際に向けられたそれ。

 

 

 榛名(彼女)を守ろうとする表情だ。

 

 

 そのまま、楓は座っていた椅子から腰を上げた。その際チラリと見えた腕には痛々しく巻かれた包帯が、はだけた上着の隙間から見えた肩や腹にはテーピングでしっかり固定された湿布が、甲斐甲斐しく手当てを受けた跡があった。その殆どが大げさに施されたそれは、それだけ楓が心配されている証拠である。

 

 

「ホント、大げさだって言ったんだけどな……」

 

 

 そんな俺の視線に気付いたのか、楓は苦笑いを浮かべながら腕の包帯を摩る。その表情は自慢げなど無く、そして感謝とは少し違う。どちらかと言えば申し訳なさ、此処までする必要もない、此処まで心配されるようなこともない、と言うニュアンスを含んでいる。あぁ、確かに、これは骨が折れそうだ。

 

 

「まぁ、それはいっか」

 

 

 そう言って楓は立ち上がった椅子を離れ、机の横切り、ソファーの横を掠め、そして俺から少し離れた場所で立ち止まった。立ち話か、しかし距離が遠過ぎる。じゃあ食堂の報復か、しかし執務室は狭すぎる。その微妙な距離を取った真意を量っている時、ヤツの身体が動いた。

 

 

 その動きは食堂のそれと一緒であった。

 

 

 

 

「すまんかった!!!!」

 

 

 食堂のそれ―――――――土下座をしながら楓はそう叫んだ。だがその言葉、その姿、何より纏っている雰囲気の全てが食堂のそれと違った。

 

 ヤツの動きは食堂の時と比べ物にならないほど早かった。しかし機械のような正確さなど微塵も感じないぎこちない動きであった。

 

 ヤツの言葉は食堂の時と比べ物にならないほど軽かった。それは良い意味でも悪い意味でもある、提督としての言葉と言うよりも楓個人の言葉である様に思えた。

 

 ヤツの姿は食堂の時とは比べ物にならないほど小さかった。提督が晒すべきではない姿、ある意味食堂の時よりも醜い姿である。

 

 

「さっきは本当にすまんかった!! あの時は頭に血が上り過ぎてついカッとなってやっちまっただけで、いや勿論お前の言葉を肯定するわけでもないけど……本当の本当に殴る気は無かったんだ!! それとアイツらがやっちまったことも、本当にごめん!! こればっかりは俺の教育不足だ、文句言われたってしょうがない……だから、アイツらがやったことも俺の監督不行き届きってことでどうか咎めないでくれ!! 責任は全部俺が被る!! だから!!」

 

「ちょ、ちょっと待て」

 

 

 地面に額を擦り付けながらマシンガンのように謝罪と懇願を飛ばしまくる楓の口に歯止めをかける。すると、ヤツは擦り付けていた額を勢いよく上げ、不安げな顔を覗かせた。それはあの食堂で見せた周りを黙らせるほどの重厚感を漂わせた提督とは思えないほど、情けなかった(・・・・・・)

 

 

「何!? これじゃあ駄目!? あ、パンツ一丁になればいいのか!! じゃあなろうか!?」

 

「誰もそこまで言ってない!! って待て服を脱ぐな!! 目の毒にしかならんからやめろォ!!」

 

 

 下手に止めたせいでとんでもない方向に暴発しそうになる楓を一喝することで何とか押し留める。いつの間にか俺は仁王立ちで腕を組み、楓は土下座から上体を上げた体勢――――所謂正座している。傍から見れば俺がヤツに説教をしている構図になっていた。

 

 

「……ごめん、ちょっと焦り過ぎた」

 

「それはもういい。それで、何で頭を下げた? ゆっくり、順を追って、最初から話せ」

 

「……はい」

 

 

 俺の念押しに小さく返事をした楓はポツリポツリと話し始めた。

 

 先ず土下座の理由、それは俺が着任してから今までにあったこと全てだそうだ。着任初日にあった潜水艦と榛名、そして俺に矛を向けたあの軽巡洋艦、それを皮切りに俺が取り締まった艦娘たちのことも含まれ、最終的に先ほど食堂で起きたことまで、それら全てを提督(・・)として謝ってきたのだ。

 

 同時に今まで艦娘が俺にやってきたことは全て上司である自分の責任であるとも言った。だから、艦娘たちに責任を取らせるのはお門違いである、取るなら俺が全部被るのだ。そして、これから報告書を大本営に送るのだろう、その際俺が被ったことは全て提督である自分の監督不行き届きが原因だとして欲しい、そう懇願してきた。

 

 『言いたいこと』、『したいこと』、『してほしいこと』―――これら三つがあの土下座に含まれていると、そしてこれは提督として憲兵である俺に懇願していると楓は言った。つまり、ヤツは個人としてやって欲しいことを『提督』と言う職権を利用して叶えようとしている。これだけ見れば横暴だと言われよう。しかし、裏を返せばそうまでした叶えたいことなのだ、本心(・・)から思っていることなのだ、とも言える。

 

 その強引すぎる手段が、ヤツの言葉が本物であると信憑性を持たせるのだ。そのせいか今の姿、そして向けてくる表情に『提督』の威厳など無く、『明原 楓』と言うただただ一人の人間であるのだ。

 

 

「……何故そこまでする?」

 

 

 楓の話を一通り聞き終わった俺は真っ先にそう問いかけた。ヤツはただ此処に配属させただけ、それ以外に縁もゆかりもない、ましてそれ以前の提督たちが消息不明となった場所である。普通なら是が非でも回避したいはずだ。

 

 だが、ヤツはそうしない。そして今、己の名誉を損じてまで艦娘たちを、赤の他人を守ろうとしている。それが解せない、どうしても解せない。『これが主役なのだ』と言われても、そんなご都合主義(・・・・・)じゃ納得できない。

 

 

「守りたいからだ」

 

 

 その問いに、楓はそう答えた。今度は焦りもなくはっきりと、ゆっくりと、言葉を絞り出すように、本心を溢す様に。その目に、真っ直ぐな光を携えながら。

 

 

「俺たちはどう足掻いても艦娘に守られる存在だ。深海棲艦を撃破する手立ても、奴らの砲火からアイツらを守れる盾にもなれない。出来ることとすればアイツらのサポートだけ、その中でも生活環境の改善、人間関係の修復しか俺は出来ない……後者に関しては出来ているかどうか分からないけど、あとは『提督』の立場を利用することぐらいだ。俺がアイツらに出来ることは片手で数えられる程、ならその少ない中で足掻くしかないんだよ。出来る手数でやりくりするしかないんだよ。もしそれでアイツらの安全がほんの僅かの時間でも保たれるなら、そのきっかけになれるなら、()を天秤にかけることぐらい造作もないさ」

 

 

 そう、真剣な顔で楓は言い切った。ヤツの言葉はこうだ、艦娘に守られることはどうしようもない。なら守られる存在なりに出来ることをしたい、そのためなら己も差し出せる。その対価がどれほど小さくても良い、些細なきっかけでも、むしろそれになれれば良いと。

 

 あぁ、やはりコイツはあの時と――――兵棋演習の時と変わらない。短絡思考しか出来ない、目の前にある現状しか見えない……馬鹿だ、大馬鹿だ、大馬鹿野郎だ。

 

 

 もしお前がここを去ったら一体誰がその責務を負う? そんな罰ゲーム、誰が引き受けようか。

 

 仮にお前以外の人間がやってきても艦娘たちが従うのか? 無理だ、お前と言う前例を越えられる奴なんているわけがない。

 

 万が一に艦娘が従ったとして彼女たちを守れるか? 有り得ない、此処はお前だから今の現状を保てているんだ。より良くなる補償は無いに等しい。

 

 

 端的に言おう、お前がやろうとしていることはお前が守ろうとしているものを壊すことに等しいんだよ。それに考えてみろ、これはお前の御伽噺、お前が主役なんだ。物語の途中で主役が退場するなんて、許されるわけがないだろうが。

 

 

「なんて言った手前なんだけど、それは逆効果だって分かってる。分かっていると言うか教えられたと言うか……頼まれたと言うか。とにかくそれが墓穴を掘ることだってことは理解している。でも『守りたい』のは本当で、違うのはその手段(・・)だ。そして、さっき言ったことは最終手段。もしお前が受け入れてくれなかった時(・・・・・・・・・・・・・・・・・)の、な」

 

 

 その妙な言い回しに、俺は再び楓を見る。そこに居たのは楓である。だけど、それは楓ではない(・・・・・)。正確に言えば、今までのヤツではない。

 

 

 

 

「力を貸してほしい(・・・)

 

 

 そう、楓が力強く言い放った。そして、その言葉を発したのは楓個人(・・・)でも提督(・・)でもない。まして『提督』と言う身分不相応の地位を押し付けられた、ただの落ちこぼれでもない。

 

 

「さっき言った通り、俺が出来ることは少ない。そしてお前が此処にやって来た時に言った『戦果を上げる』なんてのは俺じゃ―――――俺だけ(・・・)じゃ無理だ。だからお前の力を、兵棋演習で見せてくれた(・・・・・・)お前の指揮能力、常套手段や奇策、言い方は悪いが小手先の策も、全体を見渡した戦略の構築、その他諸々含めて『戦果を上げる』(それ)を達成しうるための全体構想(グランドデザイン)を描く手伝いをお願いしたい。本来、提督として振る舞う筈だったその才能を、どうか貸してほしい」

 

 

 そう言って、『ソイツ』は再び頭を下げる。その姿は、脇役以下()に懇願しているとは言えないほど堂々としていた。そこに付いている『提督』と言う肩書が、なんとも粗末な(・・・・)モノであろうかと思えた。

 

 

 

「俺には、提督は愚か『艦娘を守りたい』なんて大層な夢を叶えられるほどの力量を持ち合わせていない俺には――――――」

 

 

 その言葉を、俺は心の中で吐き捨てた。嘘をつけ、戯言を言うな、どの口が言っている、誰がそんなことを言っている、何様のつもりだ。なぁ――――――

 

 

 

 

「お前が必要なんだ」

 

 

 そう、『ソイツ』は――――――――この物語の主役(・・・・・・・)は顔を上げ、俺の目を真っ直ぐ見据えて言い切った。その目に一切の迷いも、淀みも、先ほど揶揄した短慮もない。

 

 あるのは『自信』――――何も出来ない自分だけでは無理である、そのために俺の力を借りなければならない、己の夢を叶えるために俺が必要であると信じて疑わない、何とも情けない自信(・・・・・・)だ。

 

 楓は紛れもなく主役である。だがその実、中身は脆い。一度触れてしまえば崩れてしまうかもしれない、小突いただけで壊れてしまうかもしれない。それをヤツは知っている。むしろ、その弱点を逆手に取っている。その弱点を補うために周りに――――俺に助けを乞うているのだ。

 

 そして今、俺は――――『脇役以下』は助けを乞われた、『必要』だと言われた。退場劇も無理矢理延ばした悪あがきも終え、あとは誰にも見えない所でひっそりと消えるはずだった『汚れ役』は。

 

 お門違いな嫉妬を向け、心底忌み嫌い、脇役たちの目前で醜態を晒させた筈の主役にまた自分の御伽噺(舞台)に立ってはくれないか? そう誘われたのだ。

 

 

 そう、救われてしまった(掬われてしまった)のだ。

 

 

 なるほど、確かに艦娘たちの気持ちも分かる。自分を救ってくれた筈の恩人がこれでは支えたくもなる。恩人自身が前を向かず、且つそこから立ち上がろうとも歩き出そうともしない。ただ周りを立たせて、歩き出すその後ろ姿を座って(・・・)見ているだけなのだから。

 

 歩き出せたヤツは後ろで座り込む恩人に近付き、その手を取る。何を座っている、一緒に行こう、と。そしてなんとか立ち上がらせようと、一人一人と傍に集まってくる。老人や老婆、果ては犬や猫まで駆り出されて引き上げられる、あの大きなカブのようではないか。

 

 

 さて、これはどうしたものか。周りにはヤツをなんとか引き上げようと躍起になっている艦娘が数人見える。そしてヤツは彼女たちの方を見ることなく俺に顔を向けている、自分を差し置いて俺に立ち上がれと急かしてくる。そんな間抜けな光景が広がっているのだ。

 

 このまま艦娘たちと一緒に引き上げるのか、はたまたこれを放置して離れていくのか、選択肢は無数に存在する。

 

 

 

「それはあれか? 『毒を食らわば皿まで』ってことか?」

 

 

 それを見定めるために、いやこれは『汚れ役』として、ひねくれものとしての足掻きである。

 

 俺と言う毒を鎮守府内に入れてしまい、そしてここを潰すには十分な程の失態を犯してしまった。このまま野放しにするのは危険だからいっそのこと自陣営に取り込んでしまえ、と言う腹積もりなのかもしれない。俺なら、そう考える。何故なら今のアイツの立場上、これが最も安全な解決策だからだ。最も、その言葉の前に『小手先の』と付くかもしれないが。

 

 

 

「へ?」

 

 

 そして、その問いに答えは無かった。正確には俺の問いを理解していないと言ったところか。つまり、そんなこと考えもしなかった(・・・・・・・・)、そんな結論と共にアホ面を晒す主役、と言うにはいささか威厳が足りない(カブ)が居た。

 

 

「何でもない、気にするな」

 

「え、あ、うん……」

 

 

 俺の言葉に生返事を返す。恐らく問いの真意を測りかねているのだろうか。ホント、そういうところが『落ちこぼれ』なんだよ。

 

 

 そう心の中でため息を溢した時、ふととある艦娘たちのことを思い出した。

 

 

「お前、榛名のことはどう思っているんだ?」

 

 

 俺の問いに、思案に暮れていた楓の顔に何故か哀愁が漂い始める。その変わりように目を丸くしていると、ヤツは疲れた様な声色で話し始めた。

 

 

「えっと、正直どうすればいいのか分からないんだ。いや? 秘書艦とかよくやってくれるし、手際も良いからめちゃくちゃ助かってはいる。好ましい形じゃないけど、榛名のお蔭で他の艦娘との距離も縮まっているのは確かなんだ。ただ、なぁ……」

 

 

 そこで言葉を切った楓は何処遠くを見るように、そして申し訳なさそうにこう続けた。

 

 

 

「無理、させちゃってるんだよなぁ」

 

 

 その言葉に、俺は特に驚きもしなかった。それは何故か、身を持って知っている(・・・・・・・・・・)からだ。

 

 

「榛名が俺に近付く時、大概無理してるんだよ。多分俺と艦娘の溝を早く埋めるためだと思うけど……背負い過ぎと言うか、別にそこまでしてくれなくてもいいよ、ってところまでやってくれるからさ。しかもそれがやりたくてやっているようには見えなくて、どちらかと言えばやりたくないこと(・・・・・・・・)を無理してやっているようにしか見えないんだ。それも最近は特に顕著になってきたと言うか、周りの艦娘たちと話せるようになってから一気に増えたと言うか……」

 

 

 楓の言葉に、俺は心の中でその言葉を否定した。違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。ズレてるんだ、お前らは。

 

 榛名も―――――いや戦艦榛名となった『彼女』もまた主役によって救われた一人なのだろう。だが、彼女は救われた存在ではなくその先を、『汚れ』以上を欲したのだ。主役を支える存在、主役の傍に、最も傍に居る存在、所謂『メインヒロイン』と呼ばれるとても大きな役を欲したのだろう。それを欲したために彼女は主役に近付こうとしている。それが身分不相応だと言うことを知らずに、いや知っていてもなお近づこうとしているのだろう。

 

 そして案の定(・・・)、楓は彼女を他の『汚れ』たちと同じようにしか見ていない。彼女の言葉通り、一度救い上げて、前を向かせたと思い込んでいる、もしくはその自覚すらないのだろう。だから榛名が此処まで献身的に、無理をしてまで尽くしてくれる現状に戸惑っているのだ。

 

 片方だけが相手の真意を知ってなお無理して(・・・・)近づこうとしている。それは相手の為でもなく、ただ自分がそうなりたいがために。そしてもう片方は真意が分からない、その不自然過ぎる行動が本来なら見えるべきモノまでも曇らせてしまう。これでは堂々巡りも良いところ、悪化することはあれど改善は絶対にしないだろう。

 

 

 それを彼女は知っているのか。いや、そもそも彼女自身(・・・・)も見えていないのではないだろうか。

 

 

 

「話の腰を折って悪いんだけど……実は俺も気になるヤツが居るんだ」

 

 

 そんな俺の尻目に、今度は楓がそう声を上げる。その顔は主役のそれではなく、カブ頭と笑い飛ばしてしまうほどに情けない顔だ。そして、その口から一人の艦娘の名が出た。

 

 それに俺は驚かず、むしろ予想通りであった。だって俺が思い出した艦娘たち(・・・・)の中に、彼女の名前があったからだ。

 

 

 

 

 

「『天龍』の……あの、初日にあった軽巡洋艦たちの件なんだけど」

 



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妹の『我が儘』

「いい? 何を聞かれても答えないで。全部私が答えるし、いざとなったら連れ出すわ。声を出さなくても、アイツを見なくても、前に出なくてもいい。ただ、私の後ろに居て」

 

 

 いつもの見慣れた廊下を歩く中、私はそう天龍ちゃんに口を酸っぱくする。しかし、私の視界に彼女はいない。あるのは廊下、見慣れた廊下だ。

 

 

「ちょ、たつ、たぁ」

 

 

 視界の外から天龍ちゃんの声が聞こえる。途切れ途切れに漏れたその声は何処かぎこちない、何処か震えている、恐怖に駆られている(・・・・・・・・・)。当たり前だ、怖いのだから。当たり前で、行きたくないのだから、当たり前だ――――

 

 

 

「また、あの男に会……」

 

 

 ポツリと漏らしそうになった言葉を飲み込んで、私は歩みを止めない。後ろにいる天龍ちゃんの手を取って、震えているであろう彼女の前に立って、これから降りかかるであろう『彼女にとって』尋常じゃない恐怖から守るために。

 

 

 

『天龍、龍田の両名は本日の予定を全て取り止め。朝食後、執務室に参上せよ』

 

 

 この命令を受け取ったのは昨日――――食堂であの男が暴れた後、自室に居た私たちに提督自ら伝えてきたのだ。やってきた彼は甲斐甲斐しく手当てを受けた……ように見えて、その実包帯もテーピングも滅茶苦茶な手法で施された、まるでミイラ男のような様相であった。

 

 

 だから、仕方がない。彼を見た瞬間、薙刀を突きつけてしまったのは。

 

 

「待て待て待て待てストップストップ!!」

 

 

 ミイラ男から提督の声が聞こえ、既の所で止めれたのは奇跡に近い。もし彼の声がほんの少し遅ければ……なんて考えても仕方がない。重要なのはその後、その騒ぎに驚いて天龍ちゃんが出てきてしまったことだ。

 

 

「どうした龍……」

 

 

 そこで天龍ちゃんの声が途切れる。その瞬間、私は手にした薙刀を放り出した。足元に薙刀が落ちる音、提督が驚く声、それらを無視して私は天龍ちゃんに走り寄る。

 

 天龍ちゃんはただ黙っていた。その顔に皺を刻み、口元を固く結び、目を見開いて、一言も声を漏らすまいと、零れる『それ』を抑えようと、ずっと耐えていた(・・・・・・・・)

 

 

 あぁ、ごめんなさい。貴女にその顔して欲しくないの。貴女のそんな姿、見たくないの。

 

 

「いきなり押しかけて悪かったよ。そして、二人に明日のことについて伝えに来た」

 

 

 そんな私たちを尻目に、提督は今日のことを伝えた。私がしでかしたことを責めもせず、ただそう言ったのだ。それに思わず向けてしまった私の目には、ただ笑みを浮かべた彼が映った。まぁ、笑みを浮かべたと言っても包帯でぐるぐる巻きの顔だったので声色で判断しただけだ。

 

 

 だが、その目は――――――背筋が凍るようなその目であった。その目があったから、彼が笑みを浮かべているのかと言う確信が持てなかった。

 

 

「じゃ、天龍(・・)、よろしくな」

 

 

 それだけ言うと、彼は何事も無かったかのように出て行った。何故そこで天龍ちゃんの名を挙げたのか、分からない。その時はただ、天龍ちゃんのその顔(・・・)をどうすれば払拭できるかだけを考えていた。

 

 だから、彼の言葉を否定できなかった。冷静になって考えた時、その裏に憲兵(あいつ)が居ることに気付いたのに、出来なかった。

 

 私たちはあの場であいつが暴れるのを見ていた。あいつが夕立に迫り、提督が殴り、その後の所業も全て目の前で見ていた。それを目の当たりにしてあいつはもう鎮守府を出ていくか、もしくは艦娘たちによって壊される(・・・・・)かだと思っていた。

 

 そして今回の呼び出し。名前は提督の名を冠してはいるが、その裏にはあいつがいるだろう。第一、提督がわざわざ予定を取り止めてまで私たちを呼び寄せる理由は一つしか―――――あいつがやってきた時に私がやったことしかない。大方、此処を去る前にせめてもの仕返しをしたいとか、そんな腹積もりだろう。

 

 しかし、それなら私を呼び出せばいい。天龍ちゃんまで一緒に呼び出される理由は―――――いや、分かっている、分かっている。私がやったことの理由が彼女にあると、あそこまで露骨にやれば誰だって察するだろう。恐らくテコ入れしたのは提督。彼は一度、その被害にあった。二度も同じことを、それも客観的に見れば察してしまうのはしょうがない。それがあった上でのあの言葉だとすれば、辻褄も合う。

 

 

 だが、それがどうした(・・・・・・・)というのだ。それを察して、更に私が真相を暴露したところで私の行いに『正当性』は無いにしても、天龍ちゃんには『同情に値する』だけのモノがあること分かる。それでいい、私の行いは正当性も糞もない、それこそ初代が向けてきた理不尽なことと同じだと罵られてもいい。むしろそうなるしかない、そう事が運ぶようにお膳立てし、一身に被る手筈を整えたのは紛れもなく私なのだ。

 

 これは予定通り、計画通り、確定事項。私の掌で終わらせられる場所だ。あとはいかにして天龍ちゃんをこの場所から逃がすか、それだけを考えればいい。

 

 

「着いた」

 

 

 そうこうしている間に辿り着いた、辿り着いてしまった。目の前にあるのは重厚な扉。もう幾分か前、あの提督が荒れ果てた此処を掃除しようとした時のことを思い出す。

 

 あの時は散々なことを―――彼の荷物を滅茶苦茶にした。後悔が無いわけでは、罪悪感が無いわけではない。勿論、この感情(・・・・)を向けるのがお門違いだと言うのも理解している。だけどこれしかないのだ。これしか、私が太陽の代わりをするしか、太陽が休まるためには私が代わりにやらなければならない。

 

 

 だからこそあの時だって―――――初代の(あの)時だって、私は肩代わりをするしかなかった。

 

 

「龍田」

 

「大丈夫。私が全部、背負うから」

 

 

 天龍ちゃんの声にそう返し、私は扉を開いた。もう一度、太陽の代わりになるために。

 

 

 

 開いた扉の先で、二人は居た。一人は執務室の机を挟み、私たちと対峙している―――――提督。もう一人はその提督の横に立ち、澄ました顔で私たちを見つめ返す――――――憲兵(あの男)だ。

 

 

「ノックぐらいしろ」

 

 

 その中の一人、憲兵はそう文句を言ってきた。その顔は真顔であるが、声色から皮肉っているようにも聞こえる。それに目を向ける、あの時と同じようにあいつと視線を交差させた。しかし、それも次の瞬間、私の視線から離れる。代わりに捉えたのは、天龍ちゃんだ。

 

 

 

「それで、何か用ですかぁ?」

 

 

 その視線を遮る様に天龍ちゃんの前に出て、そして敢えて私に意識を向けさせるようにわざとあいつの言葉を無視した。これであいつの視線は私に映る、更に前に出たことでこれ以降天龍ちゃんに降りかかることもない。手筈通り、手順通り、だった。そして予想通り、あいつの視線は私に戻った。

 

 

 だけど、その目にあるはずだった『怒り』は何処にも無い。代わりにあったのは『哀愁』、まるで可哀想なモノを見るような目だ。

 

 

 視線の先は私だ。だけど、あいつが私にそんな視線を向ける理由はない。であれば誰を見ている、誰を……

 

 

 

「哀れだな」

 

 

 その視線のまま、あいつは続けてそう言う。その言葉は誰がどう見ても、その言葉自体がかの視線に則した、むしろあの視線がその言葉通りであると確定付けた。だが、それでもその視線の先は分からない。だが、その言葉に反応した存在がいた。

 

 

「おい」

 

 

 それは私の後ろに居る天龍ちゃんであった。彼女の声は何故か怒気を孕んでおり、私の肩に手を置いて前に出ようとする。そして、私はそれを遮る。無言で手を翳し、それに何か言いたげな天龍ちゃんと視線を重ねた。それに天龍ちゃんは私の視線を受け、やはり口を開いた。

 

 

「そこに居て」

 

 

 だが、それも私の言葉によって無いモノにされた。天龍ちゃんは薄く開いた口を閉じ、目を背けた。そうか、さっきの言葉は天龍ちゃんに向けた言葉だったのか。『哀れ』……『哀れ』か、確かにそうだろう。彼女の境遇(・・・・・)を知れば誰だってそう思う。

 

 

 

「龍田」

 

 

 そう、私の名を呼んだのは提督だった。彼は先ほどの姿から微動だにすることなく、ただ視線だけを私に向けてきた。その目は、あいつとは違っていた。それは何処か子供(・・)を見るような目だ。その目を見たのは食堂の一件以来である。

 

 

「もう、良いだろう(・・・・・)?」

 

 

 だが、次に現れた彼の言葉に首を傾げるしかなかった。何が『良い』のか、何のことだ、何故そんなことを言うのか、そんな疑問で少しだけ思考が止まる。脈絡もなく、話の腰を折る以前にその腰すら見当たらない唐突な問いだった。しかし、それはわざとらしく咳払いした提督によって遮られた。

 

 

「さて、二人を呼んだのは他でもない。もう、いい加減ケリをつけよう(・・・・・・・)って話さ。今更『何に』ついてなんか、言わなくても分かるだろ?」

 

「さぁ? 皆目見当もつかないわぁ~」

 

 

 提督の言葉に、私はわざとらしく話をはぐらかす。わざとらしく(・・・・・・)、なのは分かっている上でやっていることをそれと無く察させるため、分かっている癖にはぐらかす私への意識を集中させるため、少しでも天龍ちゃんに向けられる二人の、いや()の視線を減らすためだ。

「そっか、なら天龍は?」

 

 

 だが、予想に反して提督はすぐに引き下がり、代わりに天龍ちゃんに問いかけた。その瞬間、私の身体は動いた。彼と彼女の間に入り、彼を黙らせる視線を――――――『殺意』に満ちた視線を向けた。

 

 

 

 筈だった。

 

 

 

「全く」

 

 

 そう、視界の外から聞こえ、同時に天龍ちゃんの前に出ようとした腕を掴まれた。その瞬間、私の腰は抜けていた(・・・・・)。そう、腰が抜け、足から力が抜け、その場にへたり込んでしまったのだ。

 

 

 

「『哀れ』だな、お前」

 

 

 そう、視界に映ったアイツから言われた。その目は今度こそ、逃れようもなく、確実に私を射抜いていた。その吸い込まれそうな瞳に私が―――――――床にへたり込み、肩を震わせ、瞳一杯に涙を浮かべた私が映っていた。

 

 

 あれ、何で私泣いてるの? 何で肩を震わせてるの? 何で床にへたり込んでいるの?

 

 おかしい、おかしい、可笑しい。全部おかしい、全ておかしい、有り得ない、絶対にない光景。

 

 私は立っている筈だ、私は立ち塞がっている筈だ、アイツと提督の前に立ち塞がっている筈だ、後ろ(・・)で震えている天龍ちゃんを守っている筈だ。

 

 

 

「もう、いい」

 

 

 

 なのに、何で目の前(・・・)に貴女が居るの?

 

 

「これ以上は、もう……やめてくれ……」

 

 

 目の前にいる、正確には私と提督たちの間に立ち、両手を目一杯広げている天龍ちゃんはそう漏らした。だが、その後ろ姿は『いつもの彼女』だ。目一杯に広げられた両腕は震え、足も弱弱しく小突いてしまえばすぐさま崩れ落ちてしまうだろう。

 

 

 『精一杯の虚勢(いつもの姿)』なのだ。

 

 

 

「なら、答えてくれるかな?」

 

 

 その虚勢に提督は特に言及することもなく、何事も無かったかのように促す。そしてその声は柔らかい。この柔らかさが曙や夕立、潜水艦たちを解きほぐしたのか。そしてその例に漏れず、天龍ちゃんも言葉を絞り出したのだ。

 

 

「……まず龍田がやっちまったこと、ホント、本当にすまなかった。そして、今日まで謝罪を引っ張ったことも、本当にすま……申し訳ありませんでした(・・・・・・・・・・・)

 

 

 その言葉。それは天龍ちゃんらしくない、いや天(・・)らしくない言葉遣いだ。そんな言葉を吐き、彼女はゆっくりと頭を下げた。それを向けられた彼らがどんな顔をしているか、分からない。ただ、その身体は相変わらず震えているから、視線自体は彼女に注がれているのだろう。

 

 

「でも、これには理由が……いや、原因(・・)は俺なんだ!! 俺が悪い(・・)んだ!! だ、だから……」

 

 

 言葉を吐き出すごとにその声は大きく、語気は荒くなっていく。しかし、それに反比例してその身体は震え、手足の力も抜け、二人に向けていた顔も段々と下に向いていく。

 

 恐らく、いや確実にあの時(・・・)もこうだったのだろう、こんな姿だったんだろう、こんなことを強いてしまった(・・・・・・・)のだろう。

 

 

 だから、それを止める言葉を、()は吐いた。

 

 

 

 

お姉ちゃん(・・・・・)

 

 

 

 その言葉を、私は吐き出した。同時に、そう呼ばれた天龍ちゃんの顔が強張っただろう。『だろう』、なのは実際に見えていないから、そしてこの言葉を吐き出す度に見てきたと言う確固たる自信の元だ。ともかく、天龍ちゃんは私の言葉に止まった、止まってくれた(・・・・・・・)

 

 

 

「取り乱してすみません。その話は私()します」

 

「龍――――」

 

「お姉ちゃん」

 

 

 その言葉と共に立ち上がった私は更に続けてそう言い、前に居た天龍ちゃんを押し退ける。それでも食い下がる天龍ちゃんに私は再びその言葉を、そして止め(・・)の言葉を向けた。

 

 

 

 

「また、置いていくの?」

 

 

 止めの言葉―――――『妹の我が儘』に、天龍ちゃんはそこで完全に沈黙した。あぁ、やっぱり貴女は天龍ちゃんだ。格好良くて、優しくて、しっかりとした、大人(・・)な、龍田()のお姉ちゃんだ。

 

 

 

 

子供(ガキ)が」

 

 

 そう、視界の外から吐き捨てられた、いや投げつけられた(・・・・・・・)言葉を受け取る。あぁ、そうだろ。傍からすれば、そう(・・)見えるだろう。

 

 

「でぇ? 何処から話せばいいかしらぁ?」

 

「お前らの姉妹関係から」

 

 

 沈黙する天龍ちゃんを尻目に話を進める私に、彼は―――――提督は間髪入れずそう突き付けてきた。その言葉に、笑みを浮かべながら殺気(・・)を彼に向ける。それに対して、彼は笑みを浮かべるのみ。そして、その目は自室で向けられた目である。

 

 ほんの一瞬、執務室は私と提督が圧を掛け合うだけの空間となる。その一瞬で、彼がこの膠着状態を解く気は無いと悟った。いつの間にか彼の横に移動していた憲兵も彼と同じようである。そして、このまま無駄に時間を過ごすのは良くない。

 

 

「分かりましたぁ~」

 

 

 その言葉を皮切りに、私は話し始めた。それは私たちの話、私たち『姉妹』の話。いや、そんな大層なモノじゃない。これ(・・)は年下と言う特権を振りかざし、甘やかしてくれる大人なお姉ちゃんを好き勝手に振り回している。

 

 

 

 子供()の我が儘だ。

 

 

 

 『姉妹艦』――――それは一つの設計図を基につくられた複数の艦船を括る呼称である。また何故「姉妹」と言うのかは、我が国が海軍を創設する際に見本とした外国が船を女性名詞と扱っていたからだと、いつかの講義で聞いたことがある。それゆえに艦()になるのだとか。

 

 とはいっても、私の『龍田(名前)』なんて女性名詞は愚か人名ですらない。戦艦や空母、軽巡洋艦や駆逐艦、潜水艦に至るまで人の名前を冠している艦娘はいない。誰もがその説明に首を傾げ、一様に訝し気な顔を浮かべていただろう。

 

 しかしそれらはたかが名前、それも艦娘としての名前である。言ってしまえば源氏名と一緒であり、職場において自分を証明する名札だ。それが軍と言う大それた場所であり、その名札とともに艤装、そして深海棲艦と戦う使命を付与されただけ、此処にいる間だけ通用するそれだけのものだ。

 

 だから姉妹艦と言われても実感が湧かないと思っていた。与えられた名札がたまたま一緒だっただけの赤の他人なのだから。元々人との係わりを密にする性質じゃないから、軽く顔を合わせて挨拶を交わす、それだけで終わると思っていた。

 

 

 だけど、その予想は斜め上を行った。

 

 

「はじめまして……で、良いのか? まぁいい、姉妹艦の天龍だ。よろしくな」

 

 

 天龍ちゃんと初めて顔を合わせた時、彼女は少しだけ困った様にモゴモゴしながらも最後には屈託のない笑顔を向けてきたのを覚えている。そしてそれを前にして、私は何も言い返さなかった。いや、言い返せなかった(・・・・・・・・)

 

 

 彼女を前にした瞬間、両の目から止めどなく涙が溢れ出したからだ。

 

 

 突然のことに、その場は騒然となった。ついさっきまで平然としていた艦娘候補生がいきなり子供のように泣き出したからだ。ある者は上官を呼びに走り、ある者は突然泣き出した私を茫然と見つめている。だが、その中で一番訳が分からなかったのは私である。

 

 止めどなく溢れる涙と堰を切ったように流れ出す泣き声、それを抑える術も何故こんなことになっているのか、何もかもが分からなかった。ただ彼女に言葉を投げかけられただけだなのに、ただ笑顔を向けられただけなのに。何処にも泣き出す様な要因もない筈なのに。

 

 

 それはまるで、今まで(・・・・)溜め込んでいたモノ全てを吐き出す様であった。

 

 

「全く、こっちも相変わらず(・・・・・)か」

 

 

 だが、騒然とするその中で一人だけ。そんな言葉と共にため息を溢した存在が居た。それはそう溢した後、ゆっくりとした足取りで私に近付き、膝を折り今もなお泣き喚いている私と目線を合わせてくれた。

 

 

「寂しい思いさせて、ごめんな」

 

 

 そう言って、まるで子供をあやす様に私の頭を撫でた天龍ちゃん。彼女と出会ったのは初めてだ、それは私も彼女も同じである。なのに、何故か私は彼女に出会っただけで泣き出し、そんな私を彼女は慣れた(・・・)ように慰めてくれた。

 

 

 その姿は、まるで悠久の時を超えてようやく再会した『本当の姉妹』のようであっただろう。

 

 

 後に調べて分かったことだが、天龍型(私たち)は同じ艦隊に居ながら共に戦列を並べる機会が少なかったようだ。そして龍田が主に輸送作戦や護衛任務に就く傍ら、天龍ちゃんは旧式と言うブランクの身に似合わぬ戦場に駆り出され、そして先に沈んでいった。

 

 そして、残された龍田は彼女の忘れ形見である艦隊を解散させられた。唯一無二の姉を失い、その存在を証明するものも悉く失われた。しかし、当時の龍田は意志を持たぬ鉄の塊である。故に突き付けられた現実を、まるで動じていないかのように受け入れた。その後、彼女もまた旧式の身でありながら水雷戦隊旗艦の名札を与えられ、最期は天龍ちゃんと同じく潜水艦に沈められたのだ。

 

 だけど、この話は特に珍しくない。姉妹艦として同じ戦場で目まぐるしく活躍した者も居れば、私たちのように離れ離れの中で沈んでいった者もいる。だが、それはあくまで『艦』としての私たちだ。意志を持たぬ『艦』故に、その境遇に不平不満を持たなかった。

 

 しかし、今彼女たちは人の器を得た。同時に意志を、感情を、声を、涙を、それら全てを突然(・・)得たのだ。そして目の前に唯一無二の姉が現れたのだ。あの時は泣きも喚きも嘆きも出来なかった私の前に、そして今それら全てを可能とした人の器を得た私の前に。

 

 

 だからだろう、『今まで溜め込んでいたモノ』を、今しがた得たもの『全て』で表現したのだ。

 

 

 同時に、龍田はもう一つの得たもの―――――彼女が見てきた記憶もまた塗り替えてきた。それは彼女を調べる度に頭痛と共に現れた光景。

 

 

 晴れ晴れとした空の下、手にした刀を振り上げて(龍田)に笑顔を向ける天龍ちゃん。

 

 黒ずんだ雲が漂う中、駆逐艦たちを率いて大海原へと向かう天龍ちゃん。

 

 紅色に染まった空の下、白い鉢巻をたなびかせて鋭い視線を浮かべる天龍ちゃん。

 

 そして、ボロボロの身体で必死に取り繕った笑みを浮かべ、夕闇へと消える天龍ちゃん。

 

 

 それらは艦艇龍田(過去の私)が見てきた艦艇天龍(過去の天龍ちゃん)の姿、竣工から最期に見た姿だ。それが何故か艦娘の姿で再現されているのだ。これもまた、彼女たちが抱き続けていた感情を最大限に表した結果なのだろう。

 

 その後、私たちは離れ離れだった時間を埋め合わせるようにずっと一緒に居続けた。起床から始まり食事、訓練、休憩、また食事、入浴、就寝まで、訓練時代から一緒だ。傍から見れば仲良しの姉妹、もしくは姉妹以上の関係なのではと噂が立ったのかもしれない。しかし、天龍ちゃんはそこで終わらなかった。それは、彼女の周りには常に人で溢れていたからだ。

 

 誰とでも気兼ねなく話しかけ、笑い、じゃれ合い、その周りには笑顔で溢れていた。駆逐艦にはいいお姉さん、戦艦や空母からは生意気だけど可愛い後輩のような立場であった。だから私以外にも彼女の周りに集まる存在が居た、中には「天龍さんに憧れていました!!」なんて言い放ち私のように四六時中ベッタリな子も程だ。そんな沢山の人を惹き付け、笑顔に出来る天龍ちゃんの横に、私は居続けたのだ。

 

 

 だけど、その日常は脆くも崩れた。それが何処(・・)なんて、もう分かり切っているだろう。

 

 

 

「提督より『軽巡洋艦天龍、補給後に執務室に参上せよ』との言伝です」

 

 

 そう伝えてきたのは、一人の駆逐艦だ。彼女はこの鎮守府で最古参、提督と共にやってきた初期艦である。私たちが此処にやってきた時に最初に出迎えてくれたのも彼女であり、それ(・・・)を持ってきたのも彼女だった。

 

 

「……分かったよ」

 

 

 その言葉に、天龍ちゃんはやっぱりかと言いたげな顔でそう答える。実はその日、天龍ちゃんが率いた遠征部隊が資源回収に失敗してしまったからだ。それも敵襲や天候不良によるどうしようもない理由ではなく彼女に率いられた駆逐艦たちが航行中に僚艦同士で衝突し、その損傷具合にこれ以上の航行は無理と判断した天龍ちゃんが提督の進撃せよとの指示を無視して帰投してしまうという呼び出されるには格好の理由を携えて。

 

 勿論、彼女は即断即決で無視したわけでもない。無線で提督に判断を仰ぎ、進撃せよとの命に自らが率いた駆逐艦たちは全員初めての遠征、それも長距離練習航海と言うあくまで『練習』であること、そして駆逐艦の損傷具合と今後の艦娘としての活動に支障をきたす可能性があること、そのリスクを犯してまで得られるリターンが少ないこと、何より艦娘の生命を第一に考えるべきだと言う主張を持って提督に提案したのだ。

 

 しかし提督はその言葉を受け入れず、頑なに進撃を主張する彼と口論になった。その決着がつかず、堂々巡りに埒が明かないと判断した天龍ちゃんは「帰投する」と言い放って無線を切り、そのまま帰投したのだ。

 

 

 それは命令違反であり、帰投した彼女に待っていたのは彼の拳と言う制裁だ。海軍に於いて鉄拳制裁なんて日常茶飯事であるため、彼女はそれを何の躊躇もなく受け入れた。同時に、無断で帰投したのは自分の判断であり僚艦たちは巻き込まれただけだと言い張り、本来は受ける必要のない拳も全て受けた。

 

 その当時、提督も鉄拳制裁のみ(・・)。言ってしまえば殴られて終わり、それ以降は互いに引き摺ることなく職務を全うせよ、との教えが彼と私たちの共通認識である。故にその呼び出しは予想通りであり、ある意味予想外でもあった。

 

 

「小っせぇ器……」

 

「慎んでほしいのです」

 

 

 そう、天龍ちゃんは小さく溢しながら立ち上がる。殴って終わりが基本である場所に於いて、我らが提督はそれだけで気が済まなかったからだ。そしてその言葉を聞いたであろうその駆逐艦も、鋭い声で天龍ちゃんを諭す。まぁ、上官への暴言ともとれるその発言を秘書艦が見逃すことは出来ないからだろう。

 

 だがその言葉と共に向けられた視線は、その言葉とは全く違っていた。そこに在ったのは非難や憤怒ではなく、憐れむような哀愁を抱えていたのだ。今になって思う、恐らく彼女はそれ(・・)を知っていたのだろう。だからそんな視線を向けたのだろう、だからそれ以降も秘書艦であり続けたのだろう。

 

 

 だから、彼女は最期まで何もしなかったのだろう。

 

 

 そんな彼女の言葉を「へいへい」と軽く受け流しながら天龍ちゃん皿に残った最後の弾薬を掴み、親指でピンと上に真上に弾いた。弾かれた弾薬はピーナッツのようにクルクルと回りながら浮き上がり、やがて下へと落ちる。その最後は小さく開かれた天龍ちゃんの口に収まる。

 

 

「んじゃ、行ってくる」

 

 

 今なお残る弾薬を口の中で転がしながら、天龍ちゃんは気だるそうに席を立つ。その後ろ姿を、私は何も言わずに見送った。『心配ない』、と心の何処かでタカを括っていたことは認める。天龍ちゃんがあの提督に丸め込まされるわけがない、むしろ逆に丸め込めてしまうだろうと期待していたことも、彼女ならそれが出来てしまうと信じて疑わなかったことも認める。

 

 

 そして、それこそが私が犯した『最大級の罪』であると、認める。

 

 

 

 

 

「た、つ……たぁ……」

 

 

 その日の夜、天龍ちゃんは戻ってきた。蚊の鳴くような声で、涙でぐしゃぐしゃの目で、痛々しい青あざが残る顔で、盛大に引き裂かれた(・・・・・・)制服を抱えた腕で、抱えると同時に必死に隠している腕の隙間から見える青あざだらけの上半身(・・・)で。

 

 

 

 痛々しい青あざと共に、その白い太腿に残る赤い筋(・・・)で。

 

 

 それを見た所で、私の記憶は一旦途切れた。次にはっきりした時、私の目の前には提督がいた。彼の頬は赤く腫れており、そんな彼の襟を私の手が乱暴に掴みかかり、捻り上げ、片手には艤装の一つである薙刀を携え、その刃先を彼の目前に突き付けていたのだ。

 

 同時にありとあらゆる罵詈雑言を彼――――いや()に吐き出していた。上官に向けて良い言葉なんか一つもない、『非難する』なんて言葉では庇い切れないほどの汚い言葉をぶつけていたのだ。

 

 

 上官に暴言を吐き、暴行し、艤装の一つを向ける、そんなことをすれば軍法会議行きだ。いやそれ以前にその場で殺されてもおかしくない、それほどのことを私はしていた。だが、何故か奴は私にされるがまま、もっと言えばその顔に薄い笑みを浮かべてこう言ってきたのだ。

 

 

 

「どうだ? 良い罰(・・・)だろう?」

 

 

 それを、私は煽られたと判断した。そう判断し、突き付けていた薙刀を大きく振るった。今まで突き付けていただけのその目に、今度こそ突き立てるために。だが、それは叶わなかった。その瞬間、飛び込んできた二人の艦娘に止められたからだ。

 

 一人は奴の言伝を持ってきた、いわば引き金を引いた駆逐艦だ。彼女は艤装を装着しており、その手に砲門を携え、飛び込むと同時に私に向けてその砲門を向けてきた。

 

 もう一人は天龍ちゃんだ。部屋で見た格好のまま飛び込み、後ろに振りかぶった私の腕を掴んだ。涙でぐしゃぐしゃの顔で、蚊の鳴くような声を精一杯に張り上げてこう言ったのだ。

 

 

 

 『もう良い』――――と。

 

 

 その後、騒ぎを聞きつけた他の艦娘たちによって私は取り押さえられた。彼女たちも何が何なのか分からず、その場を抑えるためにまず私を止めたのだ。しかし私は彼女たちの手を振り払いなおも奴に襲い掛かり、最終的に首筋に鋭い手刀を受けて意識を失った。

 

 次に目を覚ましたのは翌日の朝、自室である。横には天龍ちゃんがいた。目を覚ましてすぐ彼女に詰め寄り、昨日の顛末を問いただし、その終着点を知る。

 

 私が意識を失った後、奴はこの騒ぎについては明日話すと言ってその場にいた艦娘たちを解散させたらしい。そしてつい先ほど、その説明がされた。

 

 昨日の騒ぎは、奴が設けた新たな試みを試したために起きた騒ぎである。その試みとは『出撃、及び遠征における任務の失敗した時、その中で最も責任がある者は鉄拳制裁以上の罰は何がふさわしいか』。

 

 

 そこで採用されたのが『身体を差し出す』こと――――――後に常習化する『伽制度』の始まりである。

 

 

 その発表に艦娘の殆どが反発した。駆逐艦から戦艦、果ては空母まで、ありとあらゆる艦娘が猛反発したのだ。それに意を返さず、奴は更に詳しい説明を続けた。

 

 後に修正されることになるが、この制度の対象は全艦種、駆逐艦も漏れずに含まれる。また該当艦がそれを行うに困難な状況下で、あれば他の艦娘が肩代わりすることも認める。更にその該当艦を決めるのは基本的に奴の判断に委ねられるも、自己申告によってその判断を覆すことも出来る。

 

 そう付け加えて説明されるも、艦娘たちの怒号が止むことは無かった。だが、次の瞬間それは一つの発砲音によって強制終了したのだ。

 

 

 奴の横で、黒煙を燻らせる砲門を頭上高く掲げた駆逐艦によって。

 

 

 

「ふざけてる」

 

 

 天龍ちゃんの口からそれを聞いた時、私が漏らした言葉だ。何がふさわしい罰だ、何が肩代わりだ、何が自己申告だ、何もかもが『ふざけてる』(その一言)で一蹴できてしまう。何の意味も強制力もない、ただの言葉じゃないか。

 

 何故皆それに従ったのか、何故たかだか駆逐艦一人の発砲によって引き下がったのか、何もかもが分からなかった。それ故に、私の身体は動いていた。

 

 

「龍田!!」

 

 

 動き出していた私の腕を、天龍ちゃんが掴んだ。あの時と同じように、また天龍ちゃんが止めたのだ。それに対して、私は彼女に視線を向け、その腕を振り払おうとした。

 

 何故止めるのか、何故誰も抗議しないのか。私たちは艦娘であり、上官である奴に従うのは当然だ。だが、ここまでされる理由もない、ましてこの上で従う筋合いもない、いざとなればここから逃亡することも出来る。だから、何故彼女が、いや他の艦娘たちがこの状況を受け入れているのか到底理解できなかった。

 

 

 私を止める天龍ちゃんの顔に、昨日には無かった(・・・・・・・・)あざを見るまで。

 

 

 

「天龍ちゃん、そのあざは――――」

 

「何でもない。ちょっと転んだだけだ」

 

 

 私の言葉を遮る様に天龍ちゃんはわざとらしく声を張り上げ、同時に掴んでいた私の手を引きそのまま抱き寄せた。そして、落ち着かせるように私の頭を撫でた。それは初めて出会った時、その場で泣き崩れた私を慰めてくれた時、それ以上のことをしてくれた。

 

 だけど、それは私の思考をフル回転させるだけであった。今しがた見た新しいあざ、そして先ほど天龍ちゃんから聞かされた、奴が付け加えた説明。

 

 

 『該当艦がそれを行うに困難な状況下であれば、他の艦娘が肩代わりすることも認める』

 

 『更にその該当艦を決めるのは基本的に奴の判断に委ねられるも、自己申告によってその判断を覆すことも出来る』

 

 

 そこまで導き出して、私の全身から力が抜けた。その身体を天龍ちゃんが支えてくれた。同時に、その腕に新しい傷を見つけた。それによって導き出した答え、それに頭が真っ白になる私に、天龍ちゃんは先ほどの話を続けた。

 

 駆逐艦の発砲によって静まり返ったその場で、奴はあろうことか彼女を殴りつけたのだ。突然のことに騒然となる一同に、奴はこう言い放つ。

 

 

「これが、お前らが怒号を浴びせ掛けた罰だ」

 

 

 そう言って、床に倒れ伏す駆逐艦に躊躇なく蹴りを入れる。何度も何度も、入る度にその小さな体が浮き上がり、今にも掻き消されそうな声が漏れた。それが聞こえなくなることはその命が途切れてしまうことを表している、誰しもがそれを理解した。

 

 だからこそ、それ以降誰も何も言わなくなった。何か言えば、その度に倒れ伏す命を踏み付けることになるからだ。それを察したのか、奴は彼女への『罰』を止めてその場を後にした。その直後、金剛が真っ先に駆け寄り、北上を引き連れ医務室へと運び込んだ、と。

 

 つまり、その駆逐艦がその場にいた全員の罪を被ったと言うこと。だからこそ誰も声を上げなかった、その理由は述べた通りである。そして、それは私も例外なく含まれているのだ。

 

 

 ただ、私の場合その『肩代わり』が駆逐艦ではなく私を抱き締めている存在だったこと。そして、その存在が肩代わりしたのが、『提督との伽(最大級の罰)』であったこと。

 

 

 その後、天龍ちゃんは何事も無かったかのように振る舞い続けた。だけど、それは誰もが虚勢だと見抜けるほどにボロボロであった。ふと気を抜くとボロが出てしまう、出てしまったそれを必死に取り繕うから余計惨めに見える。そしてそれは奴の前に立つほどに顕著に現れ、同時に奴が彼女に刻み付けた傷の深さをまざまざと見せつけるほどだった。

 

 そんなボロボロの虚勢を彼女は必死に守ってきた。駆逐艦から戦艦、空母まで誰とでもすぐに仲良くなれる。彼女の笑顔は人を惹き付ける、あまねくモノに等しく光を与える『太陽』だ。その虚勢こそが奴の下で日々を過ごす私たちに注がれるとてもとても暖かな陽であった。

 

 だからこそ、彼女は『太陽』であり続けた。あり続けなければならなかった。常に笑顔を浮かべ、周りを明るく、暖かく、照らし続ける『太陽』という()に徹しなければならなかった。深く深く刻み付けられた傷があろうと、彼女は『太陽』であることを求められたのだ。

 

 そして、『太陽』であり続けることがとてもとても辛いことであると、ずっと傍に居た私だけは分かってた。たまにはその役目をサボりたいことだってある、休みたいことだってある、全部分かっていた。だからこそ彼女が休める時を、場所を、機会を、私が作らなければいけなかった(・・・・・・・・・・・・・・)のだ。

 

 天龍ちゃん(太陽)のためにその役目に取って代わる。ほんの一時、ほんの一晩だけでいい。太陽の代わりなれる存在、その光を受けなければ周りを照らすどころか存在すら無いモノとされる―――――『月』になる、いやなれるのは私しかいない(・・・・・・・・・・・)のだ。

 

 だから、決まって何かあった時はあの扉を叩いた。天龍ちゃんのミス、彼女が率いた駆逐艦のミス、或いは彼女を率いた旗艦のミス。それは大小様々であったが、『彼女に降りかかる』と言う点に絞れば全て対象だった。彼女に降りかかるそれを、身の丈ほどの火の塊から手で振り払えてしまえるほどの小さな火の粉、それら全てを消し去るために。

 

 そのために、その一点(・・)だけに。私は何度もその扉を叩き、中に招き入れられ、制服を(はだ)けながら、こう言ったのだ。

 

 

 

 『姉の肩代わりに来ました』、と。

 

 

 それを幾度となく続けた。内容は十中八九『伽』だ。時には鉄拳で済ませられるようなことも、私はそれで『肩代わり』した。彼は言った、これは最も責任がある艦娘に対する罰である、つまり最大級の罰だ。そして、この罰を受け入れることは犯してしまった失敗の責任全てをチャラに出来るのだ。

 

 こうすれば天龍ちゃんに降りかかる何もかもを無しに出来る、その一心だった。のちに伽が常習化しても、私は頑なに肩代わりし続けた。そのためにそっち(・・・)の技術も学んだ、正確に言えば数をこなした末の『成果』だ。他の艦娘はそれを『汚点』や『トラウマ』などと言うだろうが、私にとってはかけがえのない『成果』である。

 

 

 そして、私の『肩代わり』は天龍ちゃんにバレていた。出来れば気付かないでいて欲しかったが、自分が受けるべきものを悉く私が肩代わりしているのに気付かない方が可笑しい。でも、その願いが割と長く持ってくれたのが予想外だったが。

 

 まぁいい、ともかくバレた時は酷かった。いつものように『肩代わり』を終えて自室に帰った時、いきなり胸倉を掴まれた。そのままいつもの天龍ちゃんからは想像もできないほど憤怒に満ちた顔を向けられ、怒号に近い声で詰め寄られた。

 

 

 『なんでこんなことをした』、『おかしい』、『俺の罰だ』、『ふざけるな』、『お前が被る必要なんかない』、『馬鹿野郎』――――色んな言葉を投げつけられた。それはあの時、初代に詰め寄った私のようであった。それが何故か『やっぱり姉妹なのだ』と場違いにも思ってしまい、笑ってしまったのはよく覚えている。

 

 そして、その笑みに意味を見出せない天龍ちゃんが『笑いごとじゃねぇ』と言う罵声を向けてきた。だけど、それに、投げつけられたそれらに答える気は無かった。だって私は何も聞いてない(・・・・・・・)、貴女から何も聞いていない、貴女が『何故肩代わり』をしたのか、何も聞いてない。

 

 

 お姉ちゃんだって、何も教えてないじゃない。お姉ちゃんだって、勝手に『肩代わり』したじゃない。お姉ちゃんだって、何も言わずただ笑っていた(・・・・・・・)だけじゃない。

 

 

 

 ―――お姉ちゃんは、そのまま逝って(・・・)しまったじゃない―――

 

 

 そんな言葉を飲み込み、或いは含ませ言葉。それを私は、龍田は、天龍ちゃんに、お姉ちゃんに、優しいお姉ちゃんに――――『妹の我が儘』を言った。

 

 

 

「また、置いていく(・・)の?」

 

 

 



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『悪役』の役目

「だから」

 

 

 そこで、私の言葉が途切れた。誰かが口を挟んだわけでもない、私自身がその話を打ち切ったのだ。突然、黙り込んだ私に周りの視線が集中する。一つは黙り込んだ私を真顔で見つめる提督の視線、もう一つは黙り込んだ私を、もしくはそれ以前から苦虫を噛み潰した顔を向けてくる天龍ちゃんの視線。

 

 

「だから、何だ?」

 

 

 そしてもう一つは、黙り込んだ私をまるで何事も無かったかのように、もしくは慣れた(・・・)ように続きを促してくる憲兵の視線、そして言葉、最後にその表情。

 

 

 何処か懐かしむ(・・・・)ような表情だった。

 

 

 

「だ、だから……」

 

 

 その表情に私は先ほど吐き出した言葉をもう一度溢し、そして再び打ち切った(・・・・・)。今度こそ、誰もが困惑の視線を送ってくるだろう。同じところで二回、それもそこから初めてすぐである。息が続かなかったや話し疲れたなどの言い訳は通用しない。

 

 では、何故そこで打ち切ったのか。それ以降に続く言葉が無かったからわけでもなく、その言葉が見当違いなものでもない。今までの私を総括し且つ端的にまとめて、更にこれ以上に私を表現した言葉はないと言えるほど、決して否定されず、絶対に肯定されるであろう言葉を用意していた。

 

 

 だからこそ、出したくなかった(・・・・・・・・)のだ。

 

 

 

「質問を変えよう。お前がやってきたこと(・・・・・・・)は何だ?」

 

 

 それを憲兵は見抜いていた。だからこそ質問を変えた、ありとあらゆる言い訳で塗り固めた私の言葉を、ずっと口にはせずに心の中で何度も言い放った言葉を、誰にでもなく自分(・・)に向けて吐き捨てていた言葉を。

 

 それを引っ張り出すために、口にさせるために、対外的に認めるために。自己完結していた、自己嫌悪していた、誹謗中傷に乗せ、散々に投げ付け、踏み付け、押し付けていたそれを。

 

 

 今もなお犯し続けている最大級の罪(それ)を。

 

 

 

 

()の……ただの……我が儘、です」

 

 

 遂に私はそれを口にした。絶対に肯定させるであろう、肯定される(・・・・・)ことを頑なに避け続けた、一つ(・・)の肯定で私の全て(・・)を否定してしまう言葉を、自己完結と言う枠組みにずっと押し込めていた事実を、夥しい数の虚言、戯言、雑音、曲解によって作り上げられた―――――

 

 

 (咎人)の首に下がっている、咎人()が書き綴った断罪文だ。

 

 

 

 

「そうだ。お前のやってきたことは、全部(・・)我が儘だ」

 

 

 その言葉を憲兵は全肯定―――否、それを持って私の全てを否定したのだ。

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、体温が下がった。心臓を掴まれた様に胸の奥が痛んだ。呼吸を忘れ、血の気も引き、目の前に、真っ向から、容赦なく、躊躇なく、一切合切全てを無に帰する。私の身体を、精神を、心を、私を構成する全ての要素を全否定だ。

 

 そうなると分かっていたから、出したくなかったのだ。是が非でも避けたかった、誰にも否定されたくなかった、犯してしまった罪の全てを私の中だけで落とし込み、人目に触れぬようひた隠しにすることで、これ以上傷を増やしたくなかった。

 

 

 だが、()にはそんなことなど関係なかった。

 

 

「何の関係も無い部外者が『可哀想だから』というだけで加害者を糾弾するのと一緒だ。もしかしたら被害者側にも何か落ち度があるかもしれない、加害者がそれに及んでしまった深いわけがあるかもしれない、そういった詳細を知らず勝手に抱いた思い込みだけで加害者を徹底的に叩きのめす。酷いときはあることないことを付け加え事実とは全く無関係な加害者像を作り上げ、それが部外者(自分たち)が加害者を攻撃する『正当性』と高らかに掲げる。その下にあるのは『安全圏から誰かを攻撃したい』という醜悪な欲望だ。それを『正当性』という紙に包んで投げ付けて、当たっただの外れただのと楽しんでいる(・・・・・・)だけ。それと何が違うのだ?」

 

 

 彼の言葉、それは今まで私がしてきたことの全て(・・)だ。彼は先ほど私の全てを否定しておいて、今度は私の全てを言い当てた。当たり前だろう、何せ彼が今発しているのは彼自身の言葉ではなく私が話した事なのだから。咎人がしたためた罪状を一つ一つ読み上げているだけなのだから。 

 

 同時に、彼はその一つ一つを私目掛けて投げ付けてくる。それらは私に触れ、絡みつき、固まり、そのまま枷となる。何もかもが私の身体に触れ、当たって、痛みを与えて、枷となり、動けなくする。

 

 差し詰め、此処は処刑場。私は受刑者、彼は執行人、そして現在進行形で罪状を読み上げている。一つの読み上げる度に私の身体に罪と言う名の枷をはめている最中だ。それはこの場から逃げられないようにするため、今までの罪をここで清算させるためだ。

 

 

「仮に被害者がそこに口を挟んだとしよう。自分はそんなことをされていない、それは言い過ぎだ、事実無根の虚言だ。しかし部外者はその言葉に耳を貸さない、何せ両者の目的は根本的に違うからだ。被害者は加害者にある程度(・・・・)の罰を与えればいい、つまり納得できるまでとの際限がある。だが、ただ攻撃したい(・・・・・・・)部外者には際限(それ)が無い。有るとすれば『飽きたら』なんていう身も蓋もないモノか……だから事態は収束することなく、加害者は何時まで経っても晒しもの、被害者は何時まで経っても体のいい神輿、両者は常に部外者の掌で転がされることとなるわけだ。まぁ、お前らの場合は加害者と部外者が同一人物(・・・・)と言う特異性があるが」

 

 

 そこで執行人は言葉を切った。同時の彼から―――――――本物の部外者(・・・・・・)からの視線を感じる。見ているのだ、私を。足枷、首枷、腕に手に腹に髪―――――ありとあらゆる枷を身にまとい、ただ茫然と立ち尽くす受刑者を。

 

 改めよう、憲兵()は執行人ではない。彼は部外者だ、執行の時を今か今かと待ち望んでいる野次馬だ。だからこそ、彼は好き勝手言える。だからこそ、奴は容赦なく言える。だからこそ、コイツは一切の慈悲なく加害者を徹底的に叩きのめすことが出来る。

 

 その言葉が私を押し潰そうとしても、私を支えているものを延々踏み付け続けていても、それで私がどうなろうと、知ったこっちゃないのだ。

 

 

「要は、お前は自らが犯した罪を肩代わりさせてしまった。その罪悪感を少しでも払拭するためだけ(・・)に、こいつにかかる負担の全てを肩代わりし続けている(・・・・・・)わけだ。全くもってくだらん……いや陰湿(・・)だな。部外者(自分)が許せないから加害者(自分)を責めて、それを強いる正当性だけを被害者(他人)に押し付ける、しかも自分が納得する気もなければ飽きる気配もない。自己完結しか出来ないくせに完結しようとしない、堂々巡りの末がまさかの自傷行為……全く、押し付けられた奴は本当に気の毒だ」

 

 

 最後に付け加えられたそれに、私の身体は大きく震えた。それは何故か、彼の前口上が終わったからだ。罪状の全てを読み上げ終えれば、その次に待っているのはもう刑の執行しかない。そして、その刑を執行するのは部外者ではないもう一人――――被害者だ。

 

 『やられたらやり返す』――――その言葉通りに加害者は被害者の手によって刑を受ける、罰される。これほどまでに真っ当な裁判はないだろう。しかも、私が最も避けたかった―――――『最大級の罪を被害者の手を持って受ける』である。誰もが口を挟むことも無く、誰もが納得する結末だ。

 

 

 だが一人だけ、(加害者)だけは納得しない。展開だけを見れば彼女だけが糾弾され、天龍ちゃんには何も降りかからない。全て予定通りであり、望んだものそのものである。だけど、それを前にして納得しない加害者。

 

 望んだ展開なのに、それが自らではない誰かの掌で転がされたものだと知っているから。今までが全て自らの掌だった故に結末も落ちも思うままだったのが、誰かの手に渡ってしまえばどこにどう転ぶか分かったものではない。更に言えば今回は優しいお姉ちゃんではなく、全くもって関係の部外者が握っている。そして、今しがた目の前にしている最低最悪の展開へと舵を切ろうと、いや切ってしまっている(・・・・・・・・・)

 

 

 ずっと掌で転がし続けた代償が、ツケが回ってきた、そう落とし込めばいいのに。それに慣れてしまったためにいざそこに放り込まれる恐怖を、初めて(・・・)恐怖を前に己の外聞を捨てて泣きじゃくる、愚かな我が儘な妹に。

 

 

 お姉ちゃんからの全否定(最大級の罰)を受ける、そんな最低最悪(最高)の結末を。

 

 

 更に付け加えよう、被害者は以前から何度も私に語りかけてくれた。それは怒号でも罵声でもない、裁判において何の意味を持たない言葉をずっとかけ続けてくれた。

 

 そして、それから私はずっとずっと背け続けた。向けられた顔も、かけられた言葉も、差し出された手さえも無視し続けた、時には気付かないフリをした、振り払いもした、してしまった(・・・・・・)

 

 やがて、それはいつの間にか私の前から消えてしまった。見えないフリに徹する私の視界から、本当に見えなくなってしまった。

 

 

 それが意味するコト、『こんな妹、ほとほと愛想が尽きた』ということだ。

 

 

 

 

「なぁ、そう思――――――」

 

 

 そこで、部外者の言葉は途切れた。

 

 同時に、いつの間にか低くなっていた私の視界。部外者の言葉によってその場にへたりこんでしまっていた私の前に、彼女(・・)は現れた。

 

 

 

 

「黙れっつってんだよォ!!!!!」

 

 

 そんな勇ましい咆哮を上げ、へたり込む私に背を向け、いつの間にか大きく振りかぶっていたその腕を、その先で固く握りしめられた拳を前に――――部外者の頬に思いっきり叩き込んでいたのだ。

 

 大胆に振りかぶられた腕に引かれ、その制服がフワリと揺れる。その隙間からスラリと伸びる足は何故か(・・・)震えていない。制服に包まれたその背中も、挙動不審に忙しなく動いていたその頭も。『何故か』、そうではなかった。

 

 次の瞬間、けたたましい騒音と共に部屋が揺れる。一人の成人男性が勢いよく床に叩き付けられ、転がったのだから当たり前だろう。だが、それもほんの一瞬で終わる。残ったのは沈黙ではなく、一つの荒い息遣い。

 

 その息遣いはいきなり動いたことで出遅れた身体を待つためのものではなく、今にも飛び出してしまいかねない言葉を押し留めるためのものだ。故に、その息遣いは瞬く間に消えていった。同時に、それ(・・)は次の言葉を吐き出した。

 

 

「これ以上俺の―――――いや、あたしの妹(・・・・・)を責めんじゃねぇ!!!!」

 

 

 

 そう、『それ』は―――――――私を守る様に立つ天龍ちゃんは、そう言ったのだ。その身体は、声は、彼女が醸し出す殺気は、一切微動だにしない。そこにいつも(・・・)の彼女は、私が守るべき『弱い天龍ちゃん』は、況してや『艦艇の天龍』はいない。

 

 

 

「おねぇ……ちゃ、ん……」

 

 

 龍田()の口から漏れた『それ』―――――――初めて出会った筈の、悠久の時を経て再会した、『本当の姉』が居たのだ。そして、私の漏らした言葉を聞いた天龍ちゃん(お姉ちゃん)が浮かべていたのはどんな顔だったか、龍田()には見えなかった。

 

 

「お前の言った通り、あた……()は被害者だ。それは初代にキズモノにされたこと、そして妹に自傷行為を強いるための理由にされたことにただ指を咥えて見るだけで、今もなお祭り上げられている。お前から見れば、俺も(・・)哀れな被害者だろう。だけど、それは一概に俺が『弱い』からだ。俺が弱かったから今も傷を引きずり、そのせいで妹に背負わなくてもいいものを背負わせちまった。だから(・・・)……」

 

 

 まるで一つ一つ絞り出すようにお姉ちゃんは自分に責任があると、自ら犯した罪を語り始める。その語気は憲兵を殴り飛ばした際の荒々しさを孕みつつも、言葉を吐き出すごとに徐々に小さく、弱くなっていく。そして、()と同じ場所で打ち切った。

 

 

「……だからあの時、妹がお前にやっちまったことも一重に『弱い』俺を守るため、ひいては俺の責任だ。それだけじゃない、さっきお前に切りかかったのも、提督を海に叩き込んだのも……全部、全部俺の責任だ。俺が弱かったせいだ。だからどうか妹を責めないでくれ」

 

 

 だけどお姉ちゃんは、私と違って強い(・・)お姉ちゃんは、ちゃんと自分でその続きを引き出した。その続きを引き出し、その全てを認め、また(・・)『肩代わり』をした。しかし今の私に、弱い(・・)妹にそれを止める術はない。

 

 

 あぁ、これじゃあまた、振り出し(一緒)じゃないか。

 

 

 

「だ、だから!! 責めるならそれを強いちまった俺に……可愛い妹すら守れない弱いままの姉に!!」

 

「阿呆」

 

 

 勢いよく捲し立てるお姉ちゃんの言葉を一蹴したものがいた。それは彼女に殴り飛ばされた憲兵だ。しかし、その言葉に怒りは感じられない。更に言えば彼は自らの頭から離れた帽子に手を伸ばし、まるで何事も無かった(・・・・・・・)かのように埃を払っていたのだ。

 

 

「全く、『此の妹にして、此の姉あり』か」

 

 

 そう愚痴のような言葉を溢し、憲兵は埃を払い落とした帽子を深々と被り直した。その際、真っ赤に腫れ上がる頬が映る。そして「おっと……」と言葉を溢しながら彼はフラフラと立ち上がった。それは、つい先ほどの一発による影響だととれる。

 

 

「天龍、さっきの話を聞いていなかったのか? 今回は加害者が『部外者面』して自分を糾弾し、それを被害者に押し付けただけ、言わば加害者の独りよがりだ。そして、今お前はその『責任』とやらを全て(・・)被ろうとしている……今のお前はどっち(・・・)だ? お前ら(・・・)、いい加減『部外者面』するのはやめろ」

 

 

 ふらつく身体のまま、憲兵はお姉ちゃん(天龍ちゃん)に、いや()に。違う、姉妹(私たち)に向けてそう問いかけた。『責任』を全て被ろうとするのはどちらの立場なのかと、『部外者面』をするなと。

 

 

 

 

「もう、飛べるんだろう?」

 

 

 その時が初めてだろう。こんなにも柔らかい(・・・・)、こんなにも温かい(・・・)、まるで妹を見るような表情の、そう優しく(・・・)語り掛ける憲兵を見たのは。

 

 

 

「たつたぁ……」

 

 

 次に聞こえたのは天龍ちゃんの声だ。そして目の前にあったのは、涙でぐしゃぐしゃ顔を惜しげもなく浮かべて私に抱き付くお姉ちゃんだった。

 

 

「もう、背負わないでくれ……」

 

 

 泣きそうな声で、泣きそうな顔で、お姉ちゃんはそう語り掛けた。なのにその手は、私の頭を撫でるその手は弱さなど感じない、初めて出会い、手に入れた手段(もの)全てを駆使して泣き喚く私に差し出してくれた手と同じだった。

 

 

「俺が弱いせいで、余計なものまで背負わせたのは本当に悪かった……だけど、もう大丈夫。今の提督はそんなことしないし、誰も強要しない、もう昔のことなんだ。だから、もうあの頃に縛られないでくれ。あの頃の俺はもう居ない、あの頃のお前ももう居ない、今のお前があの頃に背負わされたものも、もうとっくの昔に消えてるんだ」

 

 

 その言葉とともに、お姉ちゃんは私を抱き締め、その頭を撫でてくれた。まるであの時と同じ、初めて出会った時と、そして私の『肩代わり』をした時と同じだ。

 

 しかし、その時とは違う。今、彼女は私を否定してくれた。あの時は肯定も否定もせず、ただ誤魔化しただけの彼女が。今はハッキリと、しっかりと否定(・・)してくれた――――『必要ない』と肯定(・・)してくれたのだ。

 

 

 加害者(咎人)が必死に書き連ねた断罪文を、被害者(執行人)がその手を持って破り捨てたのだ。

 

 

 

「それでも、まだ背負わなきゃって思うなら、それは俺が弱いせいだ。なら俺が強くなればいい、お前が安心できるくらい強くなれば……いや、なる、必ずなる、なってみせる。だから、もう背負わなくてもいい、もう守らなくてもいい」

 

 

 その次に発せられた言葉。それは私が今のままでずっと背け続けた、無視続けた、もう二度と向けられないだろうと思っていた言葉―――――――否、ずっと向けてくれた(・・・・・・・・・)言葉。

 

 

 

「もう、良いんだよ」

 

 

 それを受けて、いやそれ以前に受け続けたその言葉が、もう、既に、とっくの昔に、私の『肩代わり』が終わったことを教えてくれた。

 

 

 加害者(咎人)の身体に下がるありとあらゆる枷を、執行人(被害者)がその一言を持って終止符を打ったのだ。

 

 

 

「っぁ」

 

 

 その後、私の口から漏れたのは言葉だったのか、声だったのか、音だったのか、それは分からない。何故なら、それはほんの一部(・・・・・)だからだ。

 

 龍田が人の器を得た様に、得たもの全てを持って表現した様に。私は意志を、感情を、声を、涙を、用いることのできるモノ全てを持って、『私』と言う人間を表現した。

 

 対してお姉ちゃんはそんな私を、あの時と同じく泣き喚く妹をただ抱き締め、優しくあやしてくれた。手慣れた様に、且つ懐かしむように、私の頭を撫でてくれた。

 

 

 自分勝手な我が儘は既に優しいお姉ちゃんが受け入れていたことを、()は知った。それも、お姉ちゃん(被害者)でも(加害者)でもない。

 

 

 

 『とある部外者』の手によって。

 

 

 

「手のかかる妹だ」

 

 

 そう、何処からか声が聞こえた。同時に、私を抱き締めていたお姉ちゃんの身体が動く。正確には私の身体を抱き締めていた腕が離れ、それは何かを掴んだ。

 

 

「なんだ?」

 

 

 その『何か』とは、黒い制服の裾だ。そして、それを身を包み、私たちの横を通り過ぎようとしていた()はそう言って立ち止まった。

 

 

「……まだ、お前を殴ったこと、終わってない」

 

「ほう」

 

 

 そう、鼻声で呟くお姉ちゃん。その言葉に憲兵はそう溢しながら小さく笑みを浮かべた。その表情、その言葉、そこに込められた意味、それら全てをひっくるめた答えが出た。その瞬間、私は天龍ちゃん(・・・・・)を抱き締め、彼から引き離そうとした。

 

 

 

「「そこに居ろ」」

 

 

 だが、同時に投げかけられた一つの言葉。それは意味も言葉自体も同じであるが、それが飛び出したのは違う口―――――『お姉ちゃん』と『憲兵』の口から、異口同音に飛び出したのだ。

 

 

「理由はどうあれ、俺は憲兵殿を殴った。その落とし前をつけてくれ」

 

「『つけてくれ』ということは、『俺にして欲しい』ってことか。で、お望みは?」

 

「……望むもクソも、此処(・・)では一つしかないだろ」

 

 

 憲兵の言葉にお姉ちゃんはそう吐き捨て、固く目を瞑り頬を差し出した。その差し出された頬が意味することは、鎮守府(此処)にいる誰もが知っている、知らなくても今しがた私が語って聞かせた。今この場でそんなもの知らない、と言ったところで嘘を付くなと言われるだけだ。

 

 それを心得ている、いや心得ている筈の憲兵は頬を差し出すお姉ちゃんを―――――次に襲い掛かるであろう衝撃と鈍痛に身体を震わせている彼女を黙って見つめるだけだった。

 

 やがて、その片手が動いた。それはゆっくりと上に持ち上がり、彼の肩を、顔を、その頭よりも上に掲げられる。後は、その力なく揺れている指を折りたたみ、渾身の力を込めて差し出された頬に振り下ろすだけ。

 

 

 それで、終わる筈(・・・・)だ。

 

 

 

「楓」

 

「あいよ」

 

 

 次に聞こえたのは、唐突に植物の名前を口にする憲兵の声。そして、その声に待ちくたびれたとでも言いたげに返事をした提督の声だった。

 

 次に見えたのは、返事をした提督が今まで身を置いていた執務机の陰から何かを取り出し、それを憲兵に向けて放り投げた姿だった。

 

 次に現れたのはパシッと言う軽い音と共に提督が放り投げたそれを掴み、今もなお固く目を瞑るお姉ちゃんに差し出す憲兵の姿だった。

 

 

「ぇ?」

 

 

 いつまで経っても拳が来ず、かつ見えない視界の中で二人のやり取りを聞いていた天龍ちゃんは素っ頓狂な声を上げ目を開き、差し出されたそれに視線を落とした。

 

 

「何、これ」

 

「どう見ても、竹刀だろ」

 

 

 何処か呆けた顔でそう問うお姉ちゃんにさも当たり前のように言葉を返し、今しがた口にしたそれを―――――差し出している竹刀の柄を軽く揺らす憲兵。その姿に、そしていきなり差し出された竹刀に開いた口がふさがらない彼女を見て、彼は何処か小馬鹿にする顔を浮かべた。

 

 

「生憎、憲兵()は陸軍畑。何でもかんでも鉄拳で済ませる野蛮な奴らと違って、迅速で効率よく、スマートに物事を進めるのがモットーだ。確か、天龍型の艤装には得物があったはずだろ? 実はちょうど(・・・・)剣術鍛錬の相手を探しているところでな……お前にその相手をさせれば俺は鍛錬が出来る、そして『相手をさせる』と言う罰を与えることが出来る。まさに我ら陸軍のモットーに則した、理想的な解決案だ」

 

「で、でも……」

 

 

 流水の如く現れる憲兵の言葉に、お姉ちゃんは言い淀む。彼の言っていることは間違ってはいない、筋も通っている、まさに諸手を上げて賛成できる、都合の良い解決案だ。彼女はそれが、それほどまでに都合よく整い過ぎた彼の言い分が恐ろしいのだ。都合の良い話の裏には必ず何かがある、そう疑わざるを得ないのだ。

 

 

 

「強くなりたいんだろ?」

 

 

 だが、その()を憲兵は惜しげもなく披露した。確かに、都合の良い話だ。表は憲兵にとって、その裏はお姉ちゃんにとって。互い都合を絶妙に組み込み、落とし込んだ、これ以上ない完璧(スマート)な解決案だ。

 

 

「そう、だな……良い(・・)な、それ……めちゃくちゃ良い!! 最ッ高じゃねぇか!!!!」

 

 

 その言葉に、そして掲示されたその意味を咀嚼し、呑み込み、落とし込んだ彼女の顔に、いつもの虚勢は無い。

 

 

 そこにあったのは、『とびっきりの笑顔(太陽)』だった。

 

 

 

「いこう!! 今すぐいこう!! なぁ、すぐやろうぜ!!」

 

「ちょ、ちょっと待てって」

 

 

 興奮した様にはしゃぎ、憲兵の袖を掴む天龍ちゃん。ほんの少し前、そんなことをすれば身を震わせ、腰砕けになっていた筈なのに、そんな姿を感じさせない程に彼女が浮かべる笑顔は美しかった。そんな彼女に袖を掴まれ、ズルズルと引き摺られる憲兵の顔には、何処か懐かしむような表情を浮かべている。

 

 

 

龍田(・・)

 

 

 そんな彼からいきなり名前を呼ばれる。それに思わず身を震わせ、涙で腫れた目を彼に向ける。そんな私を見つめ返す彼の顔は、憲兵ではなかった。

 

 

「お前も、飛びたくなったら来い」

 

 

 泣き疲れた妹をあやす、そんな『兄』の顔だった。

 

 

 それだけ言い残し、彼は出て行った。その姿に、そして言い残した言葉に、私はただ茫然とするしかない。いきなり向けられた『飛びたくなった』との言葉。ぱっと見、いきなりそれを向けるのは不自然だ。しかし何となく、何となくだが、そのニュアンスは辛うじて受け取れた。

 

 

「いや、分からないだろ」

 

 

 しかし、それを察せないだけでなく何とも無神経な言葉を溢した存在が居た。それに私は目を向けることなかったが、何故か『不快』と言う感情が芽生えた。

 

 

「『空気』の癖に読めないんですかぁ?」

 

空気(それ)に徹するだけで精一杯だったからな」

 

 

 思わず漏れた毒づきに、提督は皮肉を込めてそう返してきた。その言葉に、私は改めて彼に目を向ける。そこには、ずっと座り続けていたがために固まった腰を叩く、何とも情けない我らが提督が座っているだけだった。

 

 

「と言うか、あの人に色々吹き込んだのは提督ですよねぇ? 場合によってはその舌を切り―――」

 

「負け惜しみにしか聞こえないぞ」

 

「うっさい」

 

 

 なんとかこちらにペースを持っていこうとするも、的確に図星を突かれて思わず反論してしまう。それにしたり顔を向けてくる彼に更に『不快』になり、思わずそっぽを向いた。

 

 

「あいつな? 天龍を『鳥』に例えたんだ」

 

 

 そんな私を無視して、いや話す気がないことを察してか、提督は独り言のように語り出した。その声に耳を塞ぎたくなったが、そうしてしまえば彼の思惑通りになってしまう。それだけは何とか逃れたかったから、聞こえないふりに徹した。

 

 

「鳥は飛べなくなるほど深い傷を負い、同時に飛ぶことを怖がるようになった。そんな鳥を見て、飼い主(・・・)はこれ以上怖い思いをさせまいと甲斐甲斐しく世話をし、何時しか鳥かごに閉じ込めるようになった。でも鳥は飛ぶことが本能の一つだ。だから―――――」

 

 

 その後続いた言葉に、私は聞こえないふりをしながら心の中で何故か(・・・)安堵していた。それは、今しがた提督が話したこと――――あの憲兵が話した例え話が、私が辛うじて受け取ったニュアンスと、全く一緒(・・・・)だったからだ。

 

 

 

「いくら怖くても、飛びたくない(・・・・・・)わけじゃない」

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「で、何処でやる? 工廠前か? 広場か? 俺、実は良い場所(とこ)知ってんだよ!! そこにするか!? なぁ!?」

 

 

 俺の後ろからついさっき泣きじゃくっていたとは思えないほど明るく、心底楽しそうな声が聞こえてくる。チラリと振り返ってみると、先ほど手渡した竹刀を遊ばせながら満面の笑みを浮かべる天龍が軽やかな足取りでついてくる。まるで親の後ろを歩く雛鳥のようだ。

 

 まぁ、それはその姿と言うよりも、留まることなくあれこれ喋りまくる姿が忙しなく鳴く雛鳥にそっくり、と言った方が近いな。

 

 

「なぁ……なぁ!! 聞いてんのかぁ? おい!!」

 

「そう何度も叫ぶな、誰かに聞かれたらどうする?」

 

 

 叫ばなくても聞こえる距離で大声を出し、いまいち反応しない俺の背中を何度もバシバシ叩く。いい加減鬱陶しくなったので、視線を向けつつそう諭した。すると、天龍はすぐに叩くのをやめ、代わりに不貞腐れた顔を向けてくる。

 

 

「……んなの、お前が反応しないからだろうが。それに誰かに聞かれたって、問題ないだろ?」

 

 

 急にすね始めた天龍に、なかったらこんなこと言わないだろう? と言う言葉を向けかけたが、何とか飲み込む。今は時間が惜しい、悠長なことを言ってられない、そんな言葉が次々と浮かび、それらも同じように飲み込んだ。

 

 

「今日の鍛錬は中止だ」

 

「はぁ!?」

 

 

 それら全てをひっくるめて出た結論(・・)を、俺は口にした。すると案の定、真後ろから今日一番の怒号を浴びせ掛けられる。

 

 

「何言ってんだ、さっきやろうって言ったばかりじゃねぇか!!」

 

「俺は『やろう』なんて一言も言ってないぞ? 言い出したのはお前で、俺は『ちょっと待て』って言っただけ、一度たりとも同意してない」

 

「んなもの屁理屈だろ!! 第一竹刀を寄こした時点で言ったも同然だ!!」

 

「それこそ、お前の思い込みだ。それに俺の立場(・・・・)を考えてみろ」

 

 

 俺の言葉に、ようやく天龍は口を噤んだ。やっと察してくれた、と言うべきか。今の俺に、さも親し気に接することがどれほど危険なことなのかを。

 

 

 今、俺はこの鎮守府に居る殆どの艦娘から『敵』と認識されている。昨日、大勢の前であれだけのことをやらかし、最終的にはその場にいた艦娘全員から砲門を向けられた。その場は長門のお蔭で切り抜けられ、更に俺が必要だと言った楓のお蔭で出会い頭に砲撃、と言う事態は避けられている。正直、今も近くに天龍が居るから飛んでこないだけだ。

 

 そして、そんなあからさまな『敵』に一人の艦娘が親しくしていたとする。それを見た周りはどう思うだろうか。少なくとも、良い印象は持たない。最悪、裏切り者扱いされかねない。此処は鎮守府、そして彼女は深海棲艦に唯一対抗できる艦娘。彼女たちが仲間割れをする、それはそのまま人類の敗北に直結するかもしれない。

 

 そんな愚を、深海棲艦側でもない限り犯せようもない。だから、俺と親しくすることは出来るだけ避けねばならない。そして、今この場を誰かに見られては非常に不味いのだ。

 

 

「だ、だったら……その立場を変えれば……」

 

「先ず変える理由が無いし、こっちの方が都合がいい(・・・・・)。それに今から変えられるとでも? それこそ気味悪がられるだけだ。それに……」

 

 

 そこで言葉を切る。同時に、今まで背を向けていた天龍に向き直り、おもむろに手を伸ばした。無言で伸びる先は天龍である。先ほどまで口うるさくのたまい、噛み付き、背中を容赦なく叩いていた、その顔に笑顔を浮かべていた彼女。

 

 

 そう、先ほど(・・・)まで。

 

 

 

お前(・・)が、まだ無理だろ?」

 

 

 今、俺の手が伸びる先にいる彼女に向けてそう問いかけ、その手に握られていた竹刀を掴む。掴んだ竹刀を引けば、恐らく面白いように彼女の手から離れるだろう。否、手だけではない。先ほどまで散々に捲し立てていた口も、俺の背中をバシバシ叩いてきたその腕も、俺の後を雛鳥のようについてきたその足も、何もかもがその場に縫い付けられた様に止まっているのだ。

 

 

 動いていたのは一つだけ。それは天龍の身体、小刻みに震える(・・・・・・・)その身体だけだ。

 

 

「…………っぇ」

 

 

 その口から音が漏れた。声ではなく音である、何故そう断言できるのか。それは彼女が声を発しようとして漏れたものではなく、全身の震えによって偶然零れ落ちたものだから。

 

 

 それが、今もなお彼女を蝕み続ける深い深い(トラウマ)であったからだ。

 

 

 大方、執務室でのあの態度はカラ元気だ。肩代わりをさせ続けた妹に対して、伝えたかったことを口に出来、そして俺の提案が自分の求めていることと合致したから、だからこそあの場は動けた。だからこそ俺の袖を掴み、外に出ようとした。妹にカラ元気だとバレる前に、一刻も早くあの場を後にしたかったのだ。

 

 どんな万能薬だろうと傷口を瞬く間に直すことは……いや、高速修復材(バケツ)があったか。しかし、あれも少なからず時間がかかる。そして、なによりトラウマ(彼女の傷)に対して微塵も効果が無いのだ。だからこそ、天龍は今こうして目の前で震えているのだ。

 

 だが、彼女の傷には万能薬がある。それは時間、または経験、そして彼女自身の強さだ。それは身体的な強さではなく、天龍型の性能でもない。天龍型一番艦、天龍となった一人の少女が持つ、人としての強さだ。そして、同時にその強さはいくらでも鍛えられる(・・・・・)

 

 

 そして、鍛えるのは誰でも(・・・)出来るのだ。

 

 

「鍛錬の日程はお前に任せる。お前のペースで、お前の都合で、お前が『出来る』って思った時でいい。その時は、キッチリ相手をしてやる。だから―――」

 

「何をしている?」

 

 

 不意に視界の外から声が聞こえた。その声色は明らかな怒気を孕んでおり、恐らくその艦娘は俺が天龍に何かを強要しようとしているように見えただろう。

 

 

 なら、都合がいい(・・・・・)

 

 

 

「何、こいつが以前提督の慰めモノになっていたと聞いたからな」

 

「ばッ!?」

 

 

 俺の言葉に、今しがた固まっていた天龍が声を上げる。同時にその艦娘から新たな視線を、尋常ではない殺気を向けられた。

 

 

「今すぐ天龍から離れろ」

 

「あぁ、邪魔者のせいで興が冷めた」

 

 

 ドスの利いた声を受け、俺は素直にその言葉に従った。掴んでいた竹刀をそのまま押し込み、竹刀ごと天龍を突き飛ばしたのだ。いきなり押された天龍は背中から床に叩き付けられ、それを前にしたその艦娘は―――銀色の髪を振り乱した駆逐艦は彼女に駆け寄る。

 

 

「今日はこのくらい(・・・・・)にしといてやる」

 

 

 そんな二人に向けて、そう様々意味に取れる言葉を吐き出した。すると二つの顔が同時に俺に向けられ、一つは信じられないと言う顔、もう一つは『敵』に向ける顔を。

 

 

 

「待っているぞ、天龍(・・)

 

 

 その二つの顔に向けてそう言い放ち、俺はクルリと振り返って歩き出した。その言葉に込めた意味は二つ、一つは天龍に向けた、鍛錬の相手になってくれるのを『待っている』と言う意味だ。もう一つは、これまた天龍に向けた、慰めモノ(・・・・)になってくれるの『待っている』と言う意味だ。

 

 勿論、後者のことなんか微塵も思っちゃいない。恐らくそれは天龍も承知しているだろう。だが、そこにいる駆逐艦はどうだろうか。恐らく、十中八九今の言葉を後者に取るだろう。それでいい、それでいいのだ。そう都合よく勘違いしてくれればいい。

 

 

 それこそが俺の狙い―――――楓の正反対(・・・)に立つためだ。

 

 

 

「楓に足りないもの、それは『冷徹さ』だ」

 

 

 天龍達の姿が見えなくなったところで、俺は独り言を漏らした。

 

 

 そう、士官が持つべきモノ中で一際重要な『何かを切り捨てれる力』である。そして、今、俺たちが立っているのは戦場、戦争の真っただ中だ。そして、戦争は得ることよりも失うことの方が圧倒的に多い。沢山のことを失って、何も得られなかったなんてザラだ。何かを得たとしても、失ったことを庇い切れずに最終的に何もかも失ってしまうことも、普通に有り得てしまう。

 

 そんな渦中に於いて、奴は何もかもを手に入れようとする。奴が握りしめている選択肢に『切り捨てる』が無いのだ。だからこそ身の丈以上のものを抱え込み、その手からこぼれ落ちようものならそれを拾おうと手を伸ばし、その視界の外で取りこぼしたものに気付かない。その結果、奴が本当に守りたかったものごと何もかもを失いかねないのだ。

 

 今はまだ辛うじて、本当に辛うじてだが保っている。それは一重に楓が救い上げた艦娘たちがいるからだ。彼女たちが周りに居て、奴が取りこぼしたものを片っ端から掬い上げているからだ。勿論、そうなったのは楓が『冷徹さ』を持たず、何でもかんでも手に入れるために己自身を惜しげもなく差し出したからだろう。その身を投じた献身に彼女たちは感化され、今は保っているのだ。

 

 だが、それもやがて限界が来る。その綻びは楓なのか、その周りにいる艦娘なのか、はたまた俺のように大本営から送り込まれる部外者か。それは分からないが、だが確実の何処かに綻びが生じるだろう。それは一度零れてしまえば取り返すことはまず不可能――――所謂、『覆水盆に返らず』と言うやつだ。

 

 

「それを補う役目がまさか俺とは……皮肉以外の何物でもないな」

 

 

 俺の役目はその綻びをいち早く見つけること、覆水を掬い上げる(・・・・・)ことだ。別に救い上げる(・・・・・)のは頂点に立つ提督であり、要は提督の目に映る範囲に覆水を持っていくこと、そしてその中で覆水の最大量を見極める――――そのまま捨てる水(・・・・)を計ることだ。

 

 それは奴がもっとも嫌うこと、奴の楽観的思考を真っ向から切り捨てる、場合によっては奴の周りにいる艦娘(誰か)を切り捨てる。彼女たちから見れば血の涙もない冷酷な選択肢を突きつけるのと同義である。

 

 故に、今の立場は――――その役目を担うには最適なのだ。冷酷非道な選択肢をあげ、それを強要させる。それを違和感なく行えるのは、『敵』に近しい存在なのだ。今しがた、あの目を向けられている俺にこそ相応しいのだ。

 

 

 あぁ、そうか。だから、それを担う存在のことを人々はこう呼ぶのだろう。

 

 

 

「『汚れ役』、随分と板に付いてきたもんだろ? なぁ、『語り部』さん?」

 

「……バレていたか」

 

 

 そう口に出し、俺は横に目を向ける。そこは天龍達が居た廊下から少しだけ離れた、誰も居ない筈の踊り場。だが、俺の言葉に応えるように彼女は―――――自身を『語り部』と称した艦娘は、曲がり角から気まずそうな顔を浮かべた長門が現れた。

 

 

「いつからだ?」

 

「俺が執務室を出てから、だ」

 

 

 気まずそうな長門の問いに面と向かってはっきりと言ってやった。その言葉に彼女の顔が強張る。今しがた発していた『独り言』の時、だとでも思っていたのか。生憎、お前のそのデカい図体とそれに似合わないおどおどした様子に気付かない方が可笑しいと言うものだ。

 

 

「差し詰め、『煽ったはいいが俺が自分の思い通りに動くかどうか不安だったから見に来た』と、言ったところか?」

 

「……いやぁ、敵わんなぁ」

 

 

 更なる俺の言葉に、長門は苦笑いを浮かべた。更に付け加えれば、あの食堂の件も予想外だったのだろう、だから今回は俺が変なことをしでかす前に止めに入ろうと構えていた。まぁ、これ以上彼女を惨めにするのは止そう。

 

 

「それで? 今回は描いた通り(・・・・・)か?」

 

「それだったらこうして後を付けていない――――と言いたいところだが、まぁ『結』としては相違ない。ただ、君の立場が……なぁ?」

 

 

 困った顔を向ける長門。彼女の『結』――――起承転結の『結』か。恐らく俺が楓と和解し共にこの鎮守府を盛り立てていこう、なんて結末だったのだろう。そして俺は軍事顧問兼対外交渉役、そして楓と双璧を成すもう一つの存在となることか。奢っていると言われようが、正直それぐらいしか思いつかない。

 

 だが、俺はその立場とは正反対になった。艦娘たちにとって楓が『味方』であれば、俺は『敵』。正しく真逆の立場に立ったのだ。楓が「右」だと言えば真っ先に「左」だと言い張り、楓が「NO」と止めていたことを「YES」と無理矢理押し進める。一見邪魔者でしかないが、使い方によっては楓を正当化するための体のいい理由である。

 

 それに同じ立場の神輿(・・)が2つもあってみろ。遠くない内に片方ずつの神輿を担いだ派閥が出来るだけだ。それこそ運営に支障がきたす。対極に神輿があるからこそ、微妙に違う意見でも無理矢理一つにまとめられるのだ。

 

 

「俺と言う『不義』がいるからこそ、楓と言う『大正義』が纏まる。お前の目的である、『この鎮守府のため』と言う点に関してはこれで十分だろう。その後の、仮に奴が掲げる『大正義』が不正解(・・・)に進もうが『不義()』には関係ないこと、後は『汚れ達(お前ら)』で何とかすればいい話だ。最も、そこまで面倒を見るつもりはない」

 

「なるほど、天龍たちに向けたのあれは君の『不義』に含まれる面倒(・・)と言うわけか」 

 

 

 俺の言葉に、長門はしたり顔でそう問いかける。彼女にとって、それは余裕ぶっている俺を窘めるため言葉だろう。彼女は執務室から出てきた俺たちを見ていた、だからこそ俺が天龍にかけた言葉も、その後乱入した駆逐艦に向けた言葉も、それが敢えて勘違いさせるようしむけたことも知っているのだろう。

 

 

「あぁ、そうだ」

 

 

 だからこそ、それを肯定した。本来であれば否定するべきことを俺は肯定した。『不義()』であるが、『正義』がする行いを――――『正道』を認めたのだ。恐らく、今日一番に驚いたのだろう。今まで見たことのない間抜け面を晒した語り部殿に、俺はこう告げた。

 

 

 

「だってそれ、『男』なら誰でも(・・・)出来るだろう? いや――――」

 

 

 そう、天龍のトラウマを解消し以前の状態に戻すことはぶっちゃけ『男』であれば出来ることだ。そして、その条件を満たすのは『大正義()』と『不義()』だけ。更に言えば、楓は提督と言う大きな役目があり、覆水に目を向けることはまず不可能。そして俺の役目は覆水を掬い上げること、もう分かるだろう。

 

 

 

「『(悪役)』の役目だ」

 

 

 そう、これは『悪役』として『大正義』に対する初めて(・・・)の反抗。『不義』として、最初に課した、誰でも(・・・)出来る、且つ俺しかやれる存在が居ない、とてもとても重要な役目だ。

 

 そしてそれは、主役に救われたところで最初に担った役目からは逃れられない、ある意味一つの『呪い』ともとれる『汚れ役(それ)』に馴染んでしまった自分への皮肉かもしれない。もしくは、『否定』でしか人を動かせない役立たずの強がりかもしれない。

 

 それか、『主役』の弱点を見つけて狂喜乱舞し、いつ何時その弱点を晒しても良いようにその傍で虎視眈々と機会を伺う―――――――『悪役』かもしれない。いや、恐らくそうなのだろう。

 

 

 何せ俺は、『汚れ役』の言葉では庇い切れないほど、どうしようもなく悪辣なのだから。

 

 

 

「そして、その面倒にはお前も含まれているからな?」

 

「え?」

 

 

 突然、悪役()に矛先を向けられた長門は珍しく固まってしまう。なるほど、やはりずっとその立場に甘んじていただけあって、こういう場合(・・・・・・)に慣れていないようだ。そうだろう、やはり今までやってきた奴らじゃ此処まで頭が回らなかったのだろう。無論、それは楓も含まれている。

 

 だが、生憎俺はそこまで頭が回る、回ってしまう。だからこそ今、此処で、甘んじている(・・・・・・)その立場から引きずり下ろすことを宣言しておこう。お前もその『肩書』を持つ艦娘、登場人物なのだから。

 

 

 

「いつまでも『語り部』に胡坐をかくなってことだ。なぁ、ビッグセブン様(・・・・・・・)?」

 

 

 俺の言葉に、長門は再び固まった。だが、その表情は予想していたモノと違う。俺の予想はキョトンとした顔の後、何処か恥ずかしそうに顔を赤らめる姿だ。

 

 本来、彼女は俺や楓以上に活躍の場を与えられた登場人物、所謂メインキャストだ。それが今の今まで『語り部』と言う立場に甘んじ、そこからいきなりスポットライトを浴びたわけである。心の準備、演技、身支度など、全てが整わない内に放り出され、醜態を晒したわけだ。

 

 

 そこに無理矢理放り込んだ俺を恨めし気に睨み付けるはず(・・)だ。

 

 

 

 

「そっか……そう言えば、私はビッグセブンだったな」

 

 

 だが彼女は――――『ビッグセブン』と煽った長門は怒ることも恥ずかしがることも無く、ただ投げつけた言葉を咀嚼するだけであった。そして、思い出したかのように納得するだけだった。ある意味、それは語り部に徹し過ぎて本来の役柄を忘れていただけかもしれない。

 

 だがどうも、どうもその姿は『それ』とは少し違う。

 

 

 

 それは、まるで初めて(・・・)名前を与えられた無名役者(モブ)のようであった。



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Episode5 失敗
『提督代理』の真意


「…………」

 

 

 沈黙が支配する中、俺の唸り声だけが微かに響いている。それ以外の音は無いに等しい、と言うよりも俺の耳に入ってくるのが自分の唸り声だけと言った方が正しいだろう。

 

 しかし、此処は執務室。当然俺以外にも人はおり、実際に此処には俺を含め四人もいるのだ。だが、その中で音を響かせているのは俺だけ。後の三人は沈黙を守り、一人唸る俺に視線を注ぐのみだ。

 

 

 まず一人、それは大淀だ。俺の横で姿勢よく立ちつつもその上体を傾け、何処か不安そうな顔を俺に向けている。その心中は俺と同じであろう。一応昨日のうちに話を聞き動じないようにしっかり構えていただろうが、やはりいざ目の前にすれば動揺を隠せない様子。いや、それは開口一番であれをかまされたのだからしょうがないだろう。

 

 次の一人、それは北上だ。彼女は執務机の向こうに立ち、いつも通り気だるげな顔で俺を見ている。恐らく、何時まで経っても固まっている俺に呆れているのだろう。彼女が動じていないのは、この話を持ってきたからだ。そして、今目の前にいる彼女(・・)の様子についても、ずっと接していたために慣れたのだろう。

 

 

 そして、最後の一人。

 

 

 

「許可してくれますカ? テートク」

 

 

 誰かが沈黙を破る、それは彼女(・・)だ。その言葉に、俺は今まで釘付けになっていた書類――――――彼女について書かれたカルテと出撃申請書(・・・・・)から目を外し、ゆっくりと前に向ける。

 

 

 すると、書類の陰からその一人が――――――金剛型戦艦一番艦、金剛が現れたのだ。

 

 

「what? ワタシの顔に何かついてますカ?」

 

 

 自らの言葉に視線を寄こしたくせに黙っている俺に、金剛は首を傾げながらそう問いかける。その仕草はとても可愛らしく、この仕草一つで多くの男を釘付けにしただろう。ただ、それは『彼女のことを一切知らない』と言う必要条件を添えて、だが。

 

 

「……本当に、金剛なのか?」

 

何と失礼な(How rude)!! 何言ってるんですカ、正真正銘の金剛デース!!」

 

 

 俺の失礼極まりない問いに、金剛はわざとらしく驚いた後に片手を腰に据え、もう片手を前に突き出しながら元気よく答える始末。その異様なまでのテンションの高さに俺と大淀は唖然とするしかない。そんな俺たちを見て、北上は面倒くさそうにため息を吐き、頭を掻き始めた。

 

 

「えぇーっと、まぁ……そんなわけで、本人はこう言ってまーす」

 

「いやいやいやいやいや主治医さん? この人本当に金剛さん? 本当? 本当に? それか何処ぞで頭をぶつけたとか、変な薬飲ませたとかそういうのはないんですか? あなた主治医さんでしょ、ちゃんと説明しろくださいませ」

 

「落ち着いてください提督、北上さんは主治医ではなく軽巡洋艦です」

 

「違うそうじゃない」

 

 

 なんともやる気の無さげな北上を言葉を持って捲くし立て、横の大淀から的外れな指摘に突っ込むミニコント劇場を開催。いや開催するつもりじゃなかったんだが結果的にコント染みたやり取りになってしまった。それだけ俺と大淀が混乱していることだ。

 

 そしてこんなくだらない場面を金剛に見せたところで、大方「……what?」と言う氷点下を優に下回る声色とそれ以上に冷たい視線を向けられること必至なのだが。

 

 

 

「プッ……なぁ~に可笑しな(・・・・)ことしてるデース」

 

 

 今目の前にいる金剛(らしき人)は小さく噴き出した後、笑いを堪えながらそんなことを溢した。え、今の可笑しかった? 多分、他の艦娘たちの前でやったら失笑すら誘えないぞ、これ。そんな心の声を最大限に乗せた視線を北上に向けるも、向けられた本人は我関せずと言いたげに顔を逸らすだけ。

 

 

 

 よし、一旦落ち着こう。落ち着くために状況を整理しよう。

 

 

 事の発端は一週間、まだ林道が過剰な巡回を続けていた頃だ。因みに巡回自体は今も続いているが前までのいちゃもん染みた絡みはなく、目に余るものはその場で注意し後日報告書で俺に届けられる。そして、それを持って制裁自体は俺の名で下されることとなり、そこに林道の意見も取り入れる形になっている。

 

 だがその報告自体がそこまでなく、今は出撃における編成や演習内容についての相談役として頼らせてもらっているわけだ。そして林道のお蔭で編成における被害も減り、演習も新しいことを取り入れたために若干の戸惑いがあるも初めてやることばかりで艦娘たちの士気は高いと聞いている。まぁ、林道の意向でそれら全て俺の名で行っているため、手柄を横取りしているようで非常に複雑な気分ではあるが……。

 

 

 話を戻そう。ともかくその時に榛名がファイルと共に持ってきた言伝が発端である。因みにファイルの内容は林道に対する艦娘たちの不満について。そしてその言伝とは北上からで、金剛に関することであった。その翌日、早速北上に言伝を聞きに行き、そして相談されたのが金剛の復帰についてである。

 

 金剛は俺が此処に着任する前まで提督代理を担っており、俺は食堂の一件で彼女をその座から引きずり下ろした。その後、心の整理とそれに費やす時間が必要だとして無期限の謹慎処分と言う名の療養を言い渡していたのは、何処か遠い昔のことに思うので念のため述べておこう。また、その際謹慎を解くタイミングは客観的に可能ではないと判断しない限り本人の意思を尊重することも伝えている。

 

 それ以後、俺はこちらから彼女が療養する私室を訪れたことは無い。引きずり降ろした張本人が引きずり降ろされた側に気軽に挨拶できるほど肝が据わっている方ではないため、何度か廊下の窓から彼女の後姿を見たぐらいだ。

 

 その時の金剛は出会った当初のような覇気もなく、無気力な目を浮かべたままフラフラと歩く抜け殻のようであった。たまに吹雪と一緒にいるときはちゃんと表情を浮かべてはいるものの、一人の時はいつも決まって無表情なのが割りとメンタルに来たのを覚えている。まぁ、それを意識しないために執務を片付ける原動力にしたこともある。正直、薄情な提督だと思う。

 

 

 ……話が逸れた。北上から持ち掛けられた金剛の復帰について、俺は最初に北上の見解を聞いた。金剛には自分で大丈夫だと思ったら近くの艦娘に伝えて欲しいと言ったため、恐らく発起人は金剛だ。そして、それを受け取った北上は近くの艦娘、つまり身近にいた存在であり療養開始からずっと彼女を見てきた訳だ。そんな北上から最初と今がどう映ったのかを聞いたのだ。

 

 

「……えっと、見れば分かるよ」

 

 

 そんな北上から返ってきたのが、なんとも判断に困る答えだった。その意味を聞いても、『口では説明できない』、『今伝えても余計混乱するだけ』、『聞いたら後悔する』などとのたまい濁されるばかり。今思えばこの返答も頷けるが、当時は堂々巡りに埒があかないと判断した。

 

 その後に戦闘面で問題が無いのかを見るために演習場の使用許可を出した。元々曙のように戦闘面が原因で療養していたわけではないため、航行、砲撃、回避などは問題ないと思う。まぁ、提督代理をする前はこの鎮守府の主力を担っていたわけだからその技術に問題があるわけないのだが、如何せんブランクと言うモノがある。それを見るための演習である。

 

 そんな突貫工事で金剛の演習をねじ込みそこに立ち会う筈であったが、その夜に林道に散々ボコボコにされる事案が発生。当初は普通に立ち会う予定であったが、ボロボロの姿を見て金剛が気の迷いを起こす可能性があると北上に指摘され、更に絶対安静と頑なに譲らない曙とイムヤの猛反対に遭ったために俺の代わりに林道が立ち会うこととなった。因みに翌日起きた龍田たちの件は二人に内緒にしていたため、後日こっぴどく叱られてしまう。

 

 しかし、一つ難点がある。それは現在の林道の立場だ。食堂であれだけのことをしでかしてたせいで、下手をすれば俺以上に危険な目に遭う可能性がある。なので現場に立つのではなく遠巻きにその様子を眺めることにしようと言ったら、それは間近でしか分からないこともあると本人に一蹴された。それに食い下がったら、いざとなったら覚悟しとけと脅迫染みたことを言われるも、金剛は自分を害することで被るデメリットを重々承知しているだろうし、何よりそこまで気を回せるほどの余裕もないだろうとのことだ。

 

 

「多分、俺が……」

 

 

 それは俺が林道の説得に渋々了承した時、その口から漏れた独り言。それこそが林道をここまで頑なに動かした要因なのだろうが、それを拾うことは出来なかった。そんなわけで俺が立ち会う筈だった金剛の演習は林道に代わってもらい、立ち会うために空けておいた時間は何の予定もない休日となった。案の定、それは鬼の形相で突撃してきた曙たちによるお説教タイムとなったのだが。

 

 そんなすったもんだを経たが、意外と演習は恙なく終わった。自業自得とは言え俺はこっぴどく叱られたせいでげんなりしたが、何故か立ち会った林道は俺以上にげんなりしていた。よっぽど演習の結果が悪かったのかと心配になり、いざ演習の様子を聞いたのだ。

 

 

 

「あ、うん…………立ち会えば、分かる」

 

 

 そして、返ってきたのがまたもや判断に困る答えだった。それに目を丸くし、詳しく問い詰めても北上と同じことを溢すばかり。林道から得られた情報は、戦闘自体は問題なく出撃してもなんら不安点はないこと、そして金剛と接すると疲れる(・・・)ことだ。後者は全く意味が分からないが、理由を聞いても頑なに濁されるばかりだ。

 

 ……ここまで来たら、もう直接会うしかない。そういうわけで、復帰の最終確認と言う名目で彼女を呼び出したのだ。最終確認と言っても、事前に北上や林道から金剛の様子を詳しく聞いており、出撃になんら問題は無いことは把握している。後は本人の確認とその許可をする、ある意味出来レースではあるがこれまで二人がひた隠しにした点の解明も含まれていた。

 

 また、この面会でよっぽどの問題が無ければこのまま出撃してもらうことになっている。目標は北方海域のモーレイ海哨戒だ。既に何度か哨戒を試し、此度の出撃を持って攻略に踏み切ろうと算段を付けている。勿論、復帰直後が最前線で不安ではあるが、北上経由で金剛の希望を優先すると言ったことを盾に押し切られた。なので、不安を解消すべく彼女と共に出撃する艦娘たちはこの哨戒作戦に最も従事してきた面子を取り揃えた。

 

 僚艦たちには事前に連絡を入れ、一人一人に直接話をした上で了承も得ている。更に、今日この日に向けてローテ組や資材、休息の管理とモーレイ海における情報の洗い出しから分析、留意点の確認、編成と僚艦の立ち回りなど、想定できるありとあらゆる面に対しての対応策を検討しておいた。勿論、後者に関しては林道や大淀、実際に出撃する艦娘たちにも聞いた上でだ。俺一人で考えるよりも精度は抜群だろう。

 

 そんな出来うる限りの手を尽くし、出来る範囲で万全と言える体制を整え、あとは送り出した彼女たちを無事迎えるだけ。正直やり過ぎだとは思うが、それは提督としてではなく一人の人間として、酷く傷つけてしまった金剛へのお詫びだろう。

 

 

 そんな自責を胸に秘めながら、俺は個人としても提督としても非常に重要な日を迎えた。

 

 

 

 

「グッッッド、モォーニィーング!!!!!!」

 

 

 そんな挨拶とも叫び声とも咆哮ともとれる『おはよう』で、堅固であった決意も無いなりに醸し出そうとしていた威厳も、この日の為に用意した何もかもが木っ端みじんに吹き飛ばされてしまったのだ。

 

 

 

「テートク? 何時まで黙っているつもりデース? そろそろ飽きてきたヨー」

 

 

 自分を落ち着かせるために大分時間を費やしてしまったのだろう。目の前に立っていた金剛はそう言いながら突き出していた手を腰に据え、覗き込むような体勢で俺にふくれっ面を向けてくる。うん、落ち着いたには落ち着いたけどここからどう進めていくのかを考えていなかった。だから状況は一切変わっていない。

 

 

「……えっと、失礼を承知で聞くんだけど、頭打ったりとかしてないよね?」

 

「してないですヨー!! これが本当のワタシデース!!!!」

 

 

 何も思いつかなかったために失礼極まりない質問を再度投げかけるも、金剛は苦言を漏らすことなく元気よく答えてくる。あの、本当に、本当に金剛さんなんですか。あの、本当は別の鎮守府の金剛さんとかじゃないんですかね。

 

 

「俺が此処に着任した翌日しでかしたことは?」

 

「曙の入渠(bath time)に乱入したネー」

 

「よし、正か―――」

 

 

 本物なのかを調べるために投げかけた質問の答えは完ぺきだった。彼女は間違いなく金剛である。因みに、俺の言葉が途切れたのは大淀から強烈なチョップを喰らったからだ。

 

 

「多分、テートクがくれた時間で気持ちの整理がついたからかもしれませんネー。おかげで色々と吹っ切れましタ……thank youデース」

 

 

 チョップからの尋問に移ろうとする大淀を押し留める俺に、今までの彼女なら絶対に口にしないような言葉を次々と吐いてくる。その姿に大淀すらもポカンと口を開ける始末、まぁそのおかげでその魔の手から逃れられたのだが。

 

 さて、これで今目の前にいる金剛が本物であると証明された。しかし、それでもまだ信じられない。いくら気持ちの整理がついたとか吹っ切れたとか、理由を並べても、今までの彼女を見て、触れてきた身にはただの詭弁にしか聞こえないからだ。それと同時に、それらが詭弁であると言う確固たる証拠がない上に逆にそれが本心であると言う証拠もないのだ。

 

 

 いや、一つ。あるにはある。それはそれらを真実だと決定づけるには及ばないものの、それを匂わせるだけのものはあるのだ。

 

 

 それは、今しがた金剛が浮かべている笑み(・・)

 

 

 俺は今まで彼女の笑顔を見てきた。それは初対面に砲撃をかまされた時、食堂の一件以降解体してくれと懇願した時……よくよく考えたらこの二回しかないが、まぁそれでも見てきた訳だ。そしてその時は笑顔(・・)であり、今しがた彼女が浮かべている笑み(・・)ではないわけだ。

 

 

 これらの違いは一つ。無理矢理(・・・・)浮かべているか、自然と(・・・)浮かんでいるか、だ。

 

 前者は笑顔、その場を取り繕うために取り敢えず浮かべるそれ。例を挙げるなら榛名。彼女は常に笑顔を浮かべており、たとえどんな時でもそれを絶やさなかった。しかし、あくまでも笑顔は仮面だ。その下にツライ、苦しい、嫌、逃げたい、それら全ての感情を押し殺し、『無理している』ことを隠すために、嘘をつくために浮かべるのが笑顔である。

 

 逆に後者は笑み、無意識の内に浮かんでしまうそれを指す。例を挙げるなら雪風。彼女は特に素直であり、ちゃんと喜怒哀楽全ての感情を表す。その中で『喜』や『楽』の時に浮かべる自然と零れる感情と共に現れるのが笑みなのだ。

 

 そして、今しがた目の前にいる金剛はこの『笑み』に該当する。満面の笑みではなく柔らかな笑み、恐らく意識の外にあるからこそ浮かぶ自然の笑みだ。この鎮守府には『笑顔』を浮かべる奴らが多い分、そっちの目は肥えていると自負している。その点から、今しがた彼女が浮かべているのが笑顔ではないと分かるのだ。

 

 それをもう一度、注意深く、最終確認としてじっくりと観察する。その視線に、金剛はやはり笑みをうかべたまま不思議そうに首を傾げるのみ。それ以外に変化は、ボロもほつれもない。正しく、真っ当な笑み。

 

 

 完璧な(・・・)笑みなのだ。

 

 

 

「分かった、許可しよう」

 

 

 それを踏まえて、俺はそう伝えた。すると金剛の笑みが花が咲き誇る様に明るくなり、彼女の手が俺の手を取って固く握りしめてくる。やはり、明るくなった笑みもまた、完璧なそれだった。

 

 

「ありがとございマース!!」

 

「ただし」

 

 

 心底嬉しそうな金剛に冷や水を浴びせるように鋭い言葉を向ける。するとその笑みが一気にしぼみ、不安そうな顔になる。その変化はとても自然であり、やはり取り繕っているようには見えない。大体、取り繕っている奴はこういう突拍子もないところでボロが出るんだが、その様子もないか。

 

 

「今回は哨戒任務だ。艦隊全体を乱す独断行動は禁止だ。そしてお前はあくまで僚艦、酷い言い方だが今回の任務上戦力に数えていない。だから極力戦闘は避けること、もしやむを得ない場合でも絶対に無理するな、自分の限界を越える行為は控えろ。そして何より旗艦の指示には絶対に従うこと。この三点を留意してくれ。今回の出撃によって最悪の場合許可の取り下げも検討する。それも覚えておいてくれ。そして―――――」

 

「『変な気を起こすな』、ですカ?」

 

 

 留意点を並べていた俺の言葉を、金剛はその言葉で遮った。それに俺は思わず呆けた顔を彼女に向ける。そこには、やはり笑みを浮かべた彼女が立っていた。

 

 

 そう、やはり完璧な(・・・)笑みを浮かべた彼女が。

 

 

「ワタシのためにテートクを含め色んな子達が走り回ってくれたんですから、それを裏切る行為なんて絶対にしませんヨ!! それに、もうこれ以上誰かの想いを踏みにじるのは止めると決めましタ……だからNo problemデース!!」

 

 

 そう捲し立て、これまた元気よく宣言する金剛。その時もまた一切変わることがない完璧な笑みを、一定の笑みを浮かべている。それが要因となった。いや、正確にはとある事象と一致し、その事象が特異的だったためだ。

 

 

 それは何時、何処で、何があり、どのような結果になろうと、ずっと笑顔を浮かべている(・・・・・・・・・・・・)と言われた雪風、だ。

 

 

 

 やはり取り止めるべきか―――そう思った瞬間、扉をノックされる。その音にその場にいた全員が扉の方を向き、うち何人かは身構え、内一人は時計に目をやり、一人は笑みを浮かべながら扉を開いた。

 

 

「Hi、吹雪。出撃準備は済みましたカ?」

 

「え……あ、は、はい!! 終わりました!!」

 

 

 扉の先には吹雪が立っていた。そして、いきなり開いた扉とその先に居た金剛に驚き、思わず敬礼しながら勢いよく応える。その姿に、金剛は小さく笑うと敬礼をする吹雪の額を小突いた。

 

 

「何かしこまってるデース。貴女は旗艦、今はワタシの上官なんですからそんなことする必要ないヨ」

 

「え、え」

 

「あ、テートク」

 

 

 いきなり額を小突かれて唖然とする吹雪を尻目に、金剛は思い出したように俺の名を口にして、顔を向けてきた。

 

 

「実は貴方が着任してからずっと渡しそびれていた資料がありまして、此処に来る前に貴方の部屋の前に置いておきました。そして此処に着任する上で重要な資料を今まで渡さなかったこと、本当に申し訳ないデース。また、時間がある時に確認してくれると助かりマース」

 

 

 やはり、そこにあったのは笑みである。だが、先ほどの笑みとは全く違う。何処か血の通った人間が浮かべているようなモノとは思えない、とても冷たい笑みに見えた。

 

 

 

「『絶対に帰ってこい』」

 

「ハイ」

 

 

 だからこそ俺はその言葉を、先ほど最後に言おうとした言葉を、今まで散々取り繕ってきたもの全てを引き剥がした末に残った、俺の願い(・・・・)をぶつけた。そして、その言葉に金剛は間髪入れずに肯定した。

 

 だが、その『ハイ』には一切の感情は愚か心すらも感じられなかった。まるで、決められた文を淡々と話す、いや文字を発する機械のような。

 

 

 そんな言葉を、やはり完璧な笑みを添えて。

 

 

 

「失礼しマース」

 

 

 その言葉を残し、金剛は執務室を出て行った。残された面子は誰一人として声を出さず、沈黙に支配される。だが、それも一つ咳払いをした北上によって破られた。

 

 

「もう時間が無いんだから、さっさと準備したら?」

 

「そ、そうですね」

 

 

 北上の一言に吹雪は戸惑いながらも無線の周波数を調整し始める。その姿に大淀が我に返ると彼女に近付き、同じく調節を始めた。本来すぐにその輪に入って同じく調節をすべきなのだが、それは北上の言葉によって遮られた。

 

 

 

「もうちょっと、提督らしいこと言えたらよかったね」

 

 

 その言葉を残し、北上は手をヒラヒラさせながら執務室から出て行った。そして、その言葉は俺へのアンチテーゼであり、提督に向ける言葉ではない。提督の地位を脱ぎ捨て、いとも簡単に自分の願いを吐き出した俺に対する、もっと提督の自覚を持って、と言う注意だ。

 

 

 だけど何故だろうか。その言葉を残した北上本人の顔が、何処か羨ましそうな顔をしていたのは。

 

 

 

「提督」

 

 

 そして次に俺の名を呼んだのは、吹雪であった。大淀との通信を終え、残るは俺との通信だけ。それをするために近付いてきたのだ。だが、俺を見るその目は、それ以外の感情が宿っていると感じた。

 

 

「そんな当たり前(・・・・)のこと、言わないで下さい」

 

 

 その感情はその言葉に出ていた。何処か投げつけるような、俺を非難するような、とてもぶっきらぼうな言葉だ。だがその言葉と同時に俺の胸を小突いた彼女の握り拳には、小突きながらも向けてきた彼女の目には、『非難』という色は見えなかった。

 

 

 あったのは『任せておけ』とでも言いたげな、自信に満ち溢れた目だった。そんな自身に満ち溢れる吹雪の言葉に、俺は自信無く無言で頷くしかなかった。

 

 

 俺との通信を終えた吹雪は出撃する旨を高らかに宣言し、旗艦の名に恥じぬ見事な敬礼を残して出て行く。その後ろ姿がとても頼もしく見える反面、そんな姿を出来る彼女が、いや彼女たちが羨ましく思えた。何せ、人間である俺には絶対に出来ないことだから。

 

 だが、ここで意気消沈している暇は無い。今日までの色々なことを今日の出撃に絞って調整してきたため、やはり所々無理が生じている場所がある。金剛たちが帰ってくるまで気が抜けないが、今のうちに出来ることを進めておくべきだ。そう心機一転、心を入れ替えて挑んだわけだが。

 

 

 

「……提督、いい加減にしてください」

 

 

 そんな苦言と共に丸めた没書類で俺の頭を叩く大淀。それを甘んじて受け入れる俺、それもその筈執務を初めて一時間、溜まっていた執務は愚か今日の分すらも満足に進んでいない。それは一概に俺のミスが原因である。

 

 書き損じに始まり、消印ミス、表記ミス、書類の取り違え、紛失などなど、普段では絶対にしないようなミスまでやらかしている状態。それによって大量に発生した没書類は大淀によって簡易海軍精神注入棒となり、もう何回目かも忘れたぐらい俺に注入しているのだ。しかもその注入が役に立った試しは、もう彼女に聞いた方が早いだろう。

 

 

「……すまん」

 

「謝るくらいならミスをしないようしっかり確認してください。と、言いたいところですが、どうせ意味もないんでしょうね……なら、一休みにしますか」

 

「さ、流石にそれは……」

 

 

 まだ執務が始まって一時間しか経ってないのに一休みは早すぎるだろう、と捲し立てようとしたら何故か目前に大淀の手があり、そのまま勢いよく額にデコピンを喰らった。痛みに呻く俺を尻目に、大淀は机に広げられた書類を纏め始める。

 

 

「そんな状態で続けたところで余計悪化するだけです。取り敢えず三十分ぐらいの短い休憩をとりましょう。これなら、外に出れます(・・・・・・)よね?」

 

 

 俺から視線を外しつつ大淀はそんなことを、特に最後の方は念を押す様に問いかけてくる。その言葉に、俺は彼女が少なからず俺の心中を察していることを悟った。それに思わず目を向けるも、彼女は何処吹く風と言いたげに書類を纏めるのみ。いや、その耳がほんのり赤くなっていたのは気のせいだろうか。

 

 

「ごめん」

 

「だから、謝るんじゃないっての」

 

 

 だが、それを問いかける余裕もなく、俺はそう断りを入れるとすぐに執務室を出る。俺の耳には、何処か不服気にそう呟く大淀の声が聞えたが、生憎それも聞き流すほかなかった。

 

 

 廊下を早足で駆け抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がり、目的の場所へと向かう。息が少しずつ荒くなっていくが、それもやがて感じなくなる。視界には飛ぶように後ろへ流れていく風景、それが目的の場所へと近づいていくという証拠として映るのみ。

 

 やがて、たどり着いた。そこは何の変哲もないドア、いつも見ている俺の私室だ。そして、その中でドアの足元に見慣れないものが置いてある。それは古びた二つのファイル。

 

 

 

 そのボロボロの表紙には、『所属艦娘一覧』と記されていた。

 



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初代の『残痕』

「重い……」

 

 

 それは床に置かれたファイルを手に取った時に漏れた感想だ。多分、実質的な重さはそこまでだと思う。では何故そんな感想を漏らしたか、それはこの鎮守府の来歴(・・)を考えれば分かるだろう。

 

 ふと零れかけた言葉を飲み込み、俺は手にしたファイルを抱えて私室に入る。相変わらずベッドだけと言う殺風景な部屋だが、生憎そんなことを気にしていられる程余裕はない。先ず何よりも、このファイルを艦娘に見られるのは不味いと思っていたからだ。

 

 

 部屋に入り、ベッドに手にしていたファイルをそっと置く。そしてその横に腰掛け、深呼吸を繰り返した。何度も何度も、深く深く、乱れた呼吸を整えるため、と言うにはいささか大げさな呼吸を繰り返す。やがてある程度呼吸が整ったところで、俺は横に置かれたファイルを手に取った。

 

 やはり、重い。それは物理的な重さではなく、精神的な重さだ。中には少なくはない数の書類が、この鎮守府に所属している艦娘たちに関する書類が収まっている。一覧表だから当たり前じゃないか、そんな言葉で一蹴してしまえたらどれほど気が楽であったか。

 

 だが、それは無理だ。何せ、このファイルは一覧表であってそうではない。ここに配属された艦娘たちを知る上で欠かす事の出来ない第一次情報の塊であるが、同時に()の一次情報を与えてもくる代物なのだ。

 

 

「ッ……」

 

 

 再び漏れかけた言葉を飲み込み、意を決してファイルを開いた。

 

 

 開いた先にあったのは、一人の少女の写真が添付された資料だった。写真の少女は紺色の長髪に薄紫色の瞳、幼い外見でありつつも何処か自信ありげに胸を張っていた。だが、その頭に乗るやや大きすぎな紺の戦闘帽が幼い印象を際立たせている。

 

 

 艦名と書かれた欄に『特Ⅲ型駆逐艦 暁型一番艦、暁』と記されている。つまり、彼女は暁と呼ばれる艦娘なのだ。

 

 そして、もう一つ目を引くのが艦名の下にある名前と書かれた欄。恐らくそこには『真名』が記されていたのだろう。何故、だろう(・・・)なのか。それはこの欄がまるでペンキをぶちまけた様に真っ黒に塗りつぶされているからだ。

 

 大本営との決別を表明した時に金剛の手によって塗り潰されたと推測される。人間だったころの名を塗り潰すことが決別を意味し、それによって自分たちに残された名は艦名と言う兵器の名前だけである、そんなところか。

 

 それよりも、『真名』は特に信頼を寄せる相手にしか教えないモノじゃなかったか。確かに必要な情報だとは言え、これじゃあ『真名』を伝えること自体無意味になってしまう。と、思った矢先によく見たらその欄の横に『任意』と書かれていた。なるほど、『真名』の記載は強制じゃないのか。

 

 

 ……と、此処まで現実逃避(・・・・)を続けてきた。いい加減、現実を直視しなければならない。そう決意し、俺は艦名からずっと下に視線を滑らせ、戦歴の項目を見る。

 

 しばらく、彼女の戦歴を読み続ける。時折、その視線が止まったわけだが、なるべく意識しないように読み進めた。そして、ようやく読み終えた。いや、迎えてしまったと言った方が正しい。そんな後悔を飲み込み、俺は最後の一文をもう一度読んだ。

 

 

 

『第一次バシー海峡攻略作戦にて、戦艦ル級の砲撃により轟沈』

 

 

 その一文を読んだ瞬間、また寒気が襲ってきた。それは先ほどよりも寒く、心胆までも凍えさせる容赦ないものだ。それほどまでの重い一次情報が――――――今は亡き艦娘たちの最期が記されているのだ。

 

 それは最期だけではない。着任から轟沈までの戦績がある。しかも、どれもこれも被害のことばかり。時折、視線が止まったのも、『大破』と言う文字を見つけたからだ。勿論、これは全ての情報ではなく、その中でピックアップされたものだろう。何故ピックアップされたのか、その理由は考えたくない。

 

 ともかく、この一覧表はこの鎮守府に在籍する、もしくはしていた艦娘たちの情報が記されているのだ。それも着任からその最期まで、実際にここに居て、生きていた筈の艦娘たちの情報が記されているのだ。

 

 

「まるで墓標じゃないか……」

 

 

 そう、今まで呑み込み続けていた言葉を吐いてしまった。そう、これは墓標である。今は亡き艦娘たちが確かに存在していたと言う重要な記録だ。裏を返せば、こんな幼い子があの扱いをされ、そして沈んでしまった。俺の手が届かないところで、今までのうのうと過ごしていた鎮守府(此処)で、数多失われた命たちの墓標なのだ。だがこれはあくまで所属艦娘一覧、此処に乗せられている艦娘全員がそうと決まったわけではない。

 

 

 次の頁を開くと見知った顔がいた。響である。同じく艦名には『特Ⅲ型駆逐艦 暁型二番艦 響 Верный』と記されていた。最後の一文は多分前に聞いた彼女のもう一つの名前である『ヴェールヌイ』と読むのだろう。そして、彼女の名前の欄は空白のままである。恐らく『真名』を書かなかったのだろう。

 

 戦歴に目を通すもやはり被害の項目ばかり書かれていたが、その数は先ほどの暁よりも少ない。その中で目に留まったのが、最後の一文である。

 

 

 

『提督の命により、第二改造を行う。以後、呼称を響からВерныйとする』

 

 

 これは第二改造を行ったと言う記録だが、それを指示したのが提督―――つまり初代であると言う点だ。今までの話を聞く限り初代は傷付いた艦娘、特に駆逐艦を盾にしていた。このことから、初代にとって駆逐艦は消耗品であっただろう。その中で響は何故か第二改造を指示している、つまり沈めるつもりが無かったととれる。

 

 何故響だけ……そんな思考に落ちかけるも、あまり時間がないとのことで取り敢えず置いておくことにしよう。

 

 

 次の頁には響達とよく似た艦娘だ。癖のある茶髪のボブヘアーに薄茶色の瞳。左の髪にヘアピンをつけており、とても活発的な表情をしている。

 

 彼女の艦名は『特Ⅲ型駆逐艦 暁型三番艦 雷』、彼女もまた暁同様『真名』を記していたのか、真っ黒に塗りつぶされている。そして、彼女の戦歴もまた着任から始まり、その最期を『南西諸島哨戒任務にて、敵艦載機の爆撃を受け轟沈』と記されていた。

 

 

 此処までで、響は二人の姉妹艦を失ったことが分かった。そしてそれだけで、俺はもうこのファイルを閉じたくなってきた。いや、むしろこれを見る前からこうなることが分かっていた。彼女たちと同列に立って良いのか分からないが、俺だって家族を失っている。姉妹艦が沈んでしまうことがどれほど辛いのか痛いほど分かってしまう。

 

 だが、俺は提督だ。残された彼女達を、沈んでしまった彼女たちもまとめて率いる提督だ。さっき北上に提督らしいことを言えと言われたばかりじゃないか。ここで躓いてどうする、ここで立ち止まってどうする。いずれは知らなければならないことじゃないか。

 

 そう自らを奮い立たせ、俺は次の頁をめくった。

 

 

「あれ……?」

 

 

 めくった時、俺はそんな声を漏らした。次の頁は響たちとは全く別の駆逐艦であった。だが、声を漏らした理由はそこではない。それは雷とその駆逐艦の間に書類が入っていない透明な頁があったからだ。書類が抜け落ちてしまったのだろうか。その空白の頁に居たのは誰なのか見当もつかないし、このことを響に聞くのも酷に違いない。それに時間も押していると言うことで、その空白は飛ばすことにした。

 

 

 その後、俺は一人一人の頁をじっくり読んだ。それ以降の頁は主に駆逐艦がメインだったので、轟沈と言う文字を見かけた。その度に胸が痛み、目を背けたくなるも、己を奮い立たせることで何とか読み進めていく。その中で知っているのは夕立、イムヤ、イク、ゴーヤ、ハチの五人だった。そして、書かれていることも本人たちから聞いたことばかりなので、そこまでダメージは無かった。

 

 だが、それでも少なからず姉妹艦を失っている子は多い。先日の龍田のように、姉妹艦に並みならぬ想いを抱いている子も少なくはないだろう。今後、もしその片鱗に触れるようなことがあれば気を付けなければいけない。

 

 

「……終わったぁ」

 

 

 そうこうしているうちに、ファイルの一つを読み終えた。一つだけで此処まで神経を使うのか。正直、もう一つには手を伸ばしたくはない。だが、これではわざわざ大淀に気を遣わせてまで時間を作ってもらった意味が無いし、何より俺が本当に知りたいことがまだ分かっていない。

 

 

 俺が知りたいのは、金剛が何故このタイミングでこの一覧表を渡してきたのかだ。

 

 

 北上や林道の二人が金剛の様子を口を噤んだ理由は分かった。確かにあのテンションでいきなり来られたらげんなりするのは分かる。だけど俺や北上、大淀は以前の彼女を知っているから余計衝撃を受けたのも分かる。

 

 だからこそ彼女の言い分が、その時浮かべていた笑みが、最後の一言が機械染みていたのが、それら全てがこの一覧表に込められているような気がしたからだ。いや、だからこそ渡してきたのだろう。

 

 何より、今日以外でもいつでも渡せたはずだ。それが今このタイミングで渡したきた、そして同時に彼女は『気持ちの整理がついた』、『吹っ切れた』と言っていた。つまり何かが、確実に何かがあったとみて間違いない。

 

 

 そして、その手掛かりが一覧表(此処)にある。それが彼女が意図したことか、それとも無意識かは分からないが、手掛かりがあることだけは確実に言えた。

 

 

 そう改めて自らの目的を確認し、もう一冊を開いた。

 

 

 最初に現れたのは長門である。今と瓜二つ、と言うか完全に今の長門本人だろうと言えるほど堂々とした態度で映っている。そんな姿にちょっとだけ気持ちが軽くなるも、艦名の欄に視線を移した時に奇妙な一文が目についた。

 

 

『長門型戦艦 一番艦 長門(予定)』

 

 

「予定……?」

 

 

 彼女の輝かしい艦名の後ろにくっついている『予定』との文字。今まで見てきた艦娘の中にこのような表記がある子はいなかった。不思議に思い来歴を見ると、これまたおかしな一文があったのだ。

 

 

『第三候補生訓練所 戦艦型より出向、後に配属』

 

 

 この候補生訓練所とは艦娘に志願した人々が艦娘になるための訓練施設であり、本来、と言うか他の艦娘たちは全員この訓練所を卒業して、そこから各鎮守府に配属されるのが正道である。だから、彼女以外の艦娘は『○○候補生訓練所 ○○型卒業 後に配属』と表記されるはずである。

 

 しかしこの表記を見る限り、長門は訓練所を卒業していないということになる。と言うか、訓練生のまま鎮守府に配属させていることになるのだ。本来、訓練生の彼女を配属させることなどまずありえない。一つ有りあるとすれば、それだけ優秀であったと言うことだろうか。だから体験学習でこの鎮守府に出向し、戦果を上げたため特例で配属になったのか。

 

 更に、一つ気になるのが、今まで見てきた一覧に記された文字、恐らくは初代が書いたであろう文字とは明らかに違う筆跡で書かれていたこと。まるで改めて書き直したかのようであったのだ。

 

 

 いろいろ気になるが、今回は置いておこう。そう思い、次の頁をめくる。

 

 

 開いた先は、あまり接点のない艦娘であった。焦げ茶色のおかっぱヘアーで表情筋が仕事をしていない艦娘。仰々しい艤装の中に特に異彩を放つ軍刀を腰に据えている。

 

 彼女の艦名は『伊勢型戦艦 二番艦 日向』。記憶にないかもしれないが、彼女はあの深海棲艦が襲撃してきた日の演習で、水上偵察機を單寧に磨いていた彼女だ。それ以降、出撃する艦隊の中に何度か名前を見かけたが、直接声をかけたのは演習の時以来である。

 

 さて、次に行こう。と、知らないのであれば日向についてもっと見るべきだろうと思うだろう。しかし、日向についてはこれでいい、これで十分(・・・・・)だ。薄情だと言われるかもしれないことを承知で言おう、彼女はもういい(・・・・)のだ。

 

 

 その答えは、次の頁にある。

 

 

 

 

 

『死神』

 

 

 それが、次の頁をめくった先で真っ先に見た言葉だ。それはその艦娘に頁一杯に書き込まれている。その艦娘の艦名にも『死神』、その下にある名前の欄にも『死神』、来歴、戦歴、果ては出身地からどこの訓練所、何年何月何日に着任した日付の欄、その全てに『死神』の文字が刻まれているのだ。

 

 いや、欄がある部分だけではない。欄以外の余伯と言う余白、ありとあらゆる隙間と言う隙間にビッシリと、『死神』の文字が刻まれている。本来、必要事項だけ記されたほぼ真っ白である筈のその頁は、まさに真っ黒に塗りつぶされていたのだ。

 

 しかも、その一つ一つの筆跡は全て同じだ。辛うじて読める出身訓練所や来歴、その他個人情報と言える類いを記した文字も、それ以外にこれでもかと刻み込まれた『死神』と言う文字も、全てが全て同じなのだ。それはつまりこの頁を書き記したのがたった一人であることを示す。

 

 そして何より、俺はその筆跡に見覚えがあるのだ。

 

 

 

 

「ゆき、かぜ……?」

 

 

 その頁を――――――『陽炎型駆逐艦 八番艦 雪風』の頁を前に、俺はそう呟くしかなかった。彼女からの報告書についてはよく覚えている。正直、初めて受け取った時は、その文字の個性的さに数分ほど唖然としたからだ。そして、今目の前に刻まれている『死神』の文字は、明らかに報告書で見た彼女の特徴をそのままだ。

 

 

 だからこそ、覚えている。だからこそ、分かる。これは雪風本人(・・・・)が書いたのだ。

 

 

 『死神』と言う言葉は、本人の口からきくことは一度として無かった。聞いたのは唯一、北上である。彼女だけがそう雪風を呼んでいた、いや揶揄していた。それを知っているため、この筆跡が北上が書き連ねたものであれば、一応の納得は出来た。しかし、潮や曙、果ては金剛の療養における報告書を受け取っていたため、彼女の筆跡も覚えている。そして、この筆跡は彼女のモノではないことも、すぐに分かった。

 

 つまり、彼女は自分自身を『死神』だと揶揄していることになる。しかし今までの彼女と接してきて、そんな風に自分を卑下する様子はなかった。いつも天真爛漫で、常に笑顔を浮かべている姿ばかりだ。

 

 しかし、彼女は俺の知らない所で自らをそう評し、蔑んでいた。いや、蔑んでいるのかどうかは分からないが、少なくとも『死神』なんて称号を好意的に受け取る奴なんて居ない。蔑んでいるとすれば、今しがた彼女が見せてきたモノ全てはまやかしと言う、幾重にも上塗りされた末に生み出されたもの、逆に残された残骸なのかもしれない。

 

 彼女の戦歴に目を通してみても、『死神』の文字で埋め尽くされているせいで読み取ることができない。むしろ、その戦歴を隠す様にその文字があからさまに密集しているように見えるのだ。まるで、この鎮守府にやってきた、その記録から何まで一切を消し去ってしまおうとしているように。

 

 

 それらの衝撃は凄まじかった。だが、その中で最も衝撃を受けたのが、そこに添付されている写真である。

 

 

 その写真は、そこに映る少女は紛れもなく雪風本人である。だが、それが信じられないほどに写真の中の彼女はやせ細っているのだ。

 

 頬もこけ、髪もボサボサで、いつもの天真爛漫な笑顔も見る影もない、無表情な顔。特にその目は黒く濁っている。まるで全ての希望を捨て去り、絶望の海の中を漂っていたかのような目だ。それが訓練生になったばかりの写真であれば、彼女が辛い境遇の中を死に物狂いで生きてきたと、そんな他人染みた視線を向けられることもできる。

 

 しかし、彼女の艦名には長門のように『予定』などと言う文字はない。来歴は塗り潰されているためハッキリとは分からないが、彼女は訓練生を経て艦娘となったのだろう。つまり、訓練生時代をこの姿で過ごしていたことになるのだ。あるいは訓練生に、艦娘(・・)になってしまったからこうなってしまったのかもしれない。

 

 だが、今の彼女はそんな気配を一切見せない。年相応に笑い、年相応に怒り、そして時に母のような温かさをくれた。もし、これがここに配属されてから変わったものだとしたら。他の艦娘にとって地獄に等しい環境で、彼女だけは良い方向(・・・・)に変われたのではないか。

 

 

 そして、彼女を今のような姿にしたのは、彼女を救い上げたのは、誰だろうか。そんなの、初代(一人)しか考えられない。

 

 

 考えてみろ、初代と言う負の存在を被られたせいでそれ以降着任する提督たちを追い出し、もしくは……壊した(・・・)艦娘たちだ。誰しもが提督と言う存在に好意を向けるはずがない、それ自体おかしい。だからこそ皆最初は冷ややかな目を向けてきて、金剛や潮は直接手を出してきた。何も理由も聞かされず、非道なことを強要され続けてきたのだから、そうなってしまうのは当たり前である。

 

 だが雪風だけは、彼女だけは俺と初めて出会ってから今日まで一度たりとも俺に敵意を見せていない。それどころか率先して俺を守ろうとしてくれた。今までそれに助けられていた身ではあるが、本来なら彼女も俺に砲を向けるべきであろう。

 

 それなのに、彼女は一度としてそんなことをしていない。俺の傍らにいるときは、いつも俺の味方だった。いや、本当に(・・・)俺の味方か? 彼女は俺ではない奴でも同じく傍に居たのではないか。彼女が味方をしているのは、『提督』と言う肩書なのではないか。そして、その肩書を携えて最初に彼女に接したのは、あんなボロボロの状態で着任した彼女を今の状態にまで救い上げた(・・・・・)のは―――――

 

 

 

 雪風にとっての『提督』とは、初代なのではないか。 

 

 

 

 

「やめよう、やめよう」

 

 

 その疑問に行き付いたとき、俺の口から自然とその言葉が零れていた。そして、雪風の頁から目を背けるように無理矢理次の頁をめくる。その時、俺の心はグチャグチャだった。その理由は分からないから、いや分かりたくない(・・・・・・・)からだ。

 

 今まで向けられてきたあの笑顔も、怒り顔も、与えられた暖かさも、向けられた敵意を拒むあの背中も、全てが全て俺ではない。ただ『提督』と言う肩書を持っているだけの俺に、その肩書に彼女を動かせるだけの価値を与えた初代に向けられていたこと、そう分かってしまった事実を分かりたくない。

 

 

 彼女から何一つ向けられていなかったという事実を、分かりたくないのだ。

 

 

 そんな現実逃避に頁を押し上げる俺の手は力が籠っていたらしく、まとめて何枚かの頁を捲り上げてしまう。そして何枚か飛ばした先で俺の目は再び留まった。いや、そこに釘付けにされてしまった。とても不幸な(・・・)ことに、背けていた筈の現実を目の当たりにしてしまったのだ。

 

 

 その頁は、先ほど見た雷の後のように資料を抜き取られた透明の頁を挟んだ向こうにあった。そこに添付された写真には、栗色の短髪に独特な形をした黄色のカチューシャを付け、大胆に肩を露出させた巫女服のような制服を身にまとい、人懐っこそうな笑みを浮かべていた。

 

 彼女の艦名は『金剛型戦艦 二番艦 比叡』。艦名、そして服装の特徴から金剛や榛名、そして霧島の姉妹艦であろう。そして、彼女もまた『真名』を記していたのか、その欄が黒く塗りつぶされている。彼女の戦歴も、やはり被害報告が多数見受けられる。確か、伽の大半を金剛たちが請け負ったと聞いたから、彼女の被害報告もまた、そう言うことなのだろう。そして、その最期はこう記されていた。

 

 

 

『第二次沖ノ島海域攻略作戦にて、駆逐艦を庇い轟ごめんなさい』

 

 

 そう、最後の一文に重なる様に『ごめんなさい』の文字があったのだ。そこだけではない、その『ごめんなさい』と言う文字が比叡の資料の至る所に刻まれているのだ。戦歴などの彼女に関する情報に極力被らないように、細心の注意を払われたであろう、『ごめんなさい』がビッシリと、隙間なく、余白余白を黒く塗りつぶしている。

 

 恐らく、その一文に被せたのはワザとではないのだろう。何故なら、その一文に被る『ごめんなさい』だけ、周りの文字以上に乱れており、よほどの力で刻まれたモノだと分かる。そして、その文字の所々に微塵でいる、また水滴が落ちた跡が見受けられるから、その文字を刻むのに並々ならない感情があったのだと分かった。

 

 

 そして何より、俺はその『ごめんなさい』に見覚えが―――――()が書いたのか、分かってしまったからだ。

 

 

 

「入るよー?」

 

 

 その時、真横から呑気な声が飛んできた。思わず目を向けると、北上が数冊のファイルを抱えて立っていたのだ。突然のことに俺は固まってしまう。いや、固まってしまった。

 

 

 

「居るじゃん……ノックしても返事がな………」

 

 

 呑気な声で入ってきた北上と目が合う。いや、正確には目があった次の瞬間、その視線が俺の手元に落ちるのを見た。だからこそ、彼女の言葉はそこで途切れたのだ。だからこそ、彼女は次の瞬間もの凄いスピードで詰め寄ってきたのだ。

 

 

「見して」

 

 

 瞬く間に距離を詰められた俺は、北上からその一言を向けられる。同時に、見られてはいけないという思いからどうにか隠そうと試みるも、いつの間にか俺の手からファイルは抜き取られ、北上の目には今しがた俺が見ていた頁、とある駆逐艦が懺悔の言葉を書き連ねていた頁が映っていた。

 

 

 ほんの一瞬、彼女はその頁に目を通し、いきなり前の頁へと戻し始めた。俺が読み進めていたことへの配慮を感じず本来なら抗議できる立場なのだが、今の俺にそれを出来る余力はなかった。そして、北上はとある頁で止めた。

 

 それは俺が知らない艦娘の頁である。茶色の長髪に同じく透き通るような茶色の瞳、明るい緑と濃い緑の二色で構成されたセーラー服を着ており、その顔は何処か大人びており、表情からも子供っぽさは見えない。

 

 その艦名は『球磨型軽巡洋艦 四番艦 大井』と記されている。球磨型軽巡洋艦、と言うことは他に姉妹艦が居るのだろう。いや、それよりも注目すべきは彼女が見に纏っている制服が、その写真を眺める北上と同じであることだ。

 

 つまり、大井は北上にとって近しい存在。姉妹艦なのだろう。

 

 

 だが、それも次の頁に進んだことで、気にする余裕もなくなった。

 

 

 

「あたしじゃねぇんだよ!!!!!!」

 

 

 次の頁をめくった瞬間、北上が大声をあげた。それだけではなく、その咆哮と共に今しがた手にしていたファイルを頭上高く掲げ、次の瞬間床に叩きつけていたのだ。両者の音は互いを打ち消し合い、そして打ち消すにはいかず、双方が盛大な音を上げる。

 

 その最中、俺は叩き付けられたファイルを見た。そこには、今しがた目の前で大声をあげ、あろうことかファイルを叩きつけた存在、北上の写真が貼られた、彼女の資料だった。そして、そこであの言葉を見つけたのだ。

 

 

 

『ごめんなさい』

 

 

 

 そう、『ごめんなさい』の言葉が一つ(・・)。彼女の戦歴の下に刻まれていた。その文字もまた一人の駆逐艦が、己の頁に『死神』と書きつけ、比叡の頁に『ごめんなさい』を刻み付けた。

 

 

 死神(雪風)である。

 

 

 

「お前が、お前がその言葉を向けるべきなのはあたしじゃないだろ!! 大井っち(・・・・)だろ、お前が沈めた(・・・)のはあたしじゃなくて大井っちなんだよ!!!! なんであたしに向けるんだよ、なんであの子に向けないんだよ、なんであの子のことを見ない(・・・)んだよォ!!!!」

 

 

 それが後に続いた北上の言葉だ。いや、言葉なんて生易しいモノじゃない。彼女のそれは叫び声だ、悲鳴だ、咆哮だ、何者を貫き、傷付け、いっそのこと殺してしまおうとも思っているものだ。それを何と言うか、一つ見当がついている。それは彼女が、そして雪風が自身を揶揄した『死神』。それは自称でも他称でもあるそれ。

 

 

 双方が望んで(・・・)刻み付けた呪詛だ。

 

 

 

 

「ねぇ、提督」

 

 

 その言葉を発しながら、北上は―――『死神』に姉妹を奪われた彼女は俺に目を向けてきた。そして、その瞬間尋常ではない寒気を感じたのだ。

 

 

「前にさ、あたしと死神が向き合うことを望んでいたよね? でもお生憎様、あたしたちは前々から向き合っているよ。つまり、提督の願いはもう既に叶っていたわけだ。おめでとう、良かったね、君の願いは叶えられた、素晴らしいことだ、喜ばしいことだ。じゃあそんな願いを叶えてやった(・・・・・・)北上と言う艦娘の願いを聞き届けてやってもいいんじゃないか、そうだ、その通りだ、叶えてもらった借りを返す時だ、それがふさわしい、北上はその権利がある、提督にはその義務がある。さて(・・)――――」

 

 

 そこで言葉を切った北上はゆっくりと首を傾げる。まるで今から口にすることはどうなのか、と問いかけるようである。

 

 

「あたしの願いはね? 死神が犯した罪を懺悔して、その代償となった子に――――大井っちに謝らせることなんだぁ。だからさ、どうすればいい? どうすれば死神は自分の罪を認知する? どうすれば死神は犠牲になった人に目を向ける? どうすれば死神の口から謝罪の言葉が出てくるの? ねぇ―――――」

 

 

 

 そこで北上は今日初めてのそれを、今まで見てきた中で最大級のそれ(・・)を見せてきた。

 

 

 

「『死神』に仕立て上げた提督(・・・・・・・・)なら、出来るんでしょ?」

 

 

 自らの願いを口にする北上。その顔には紛れもなく、一片の狂いもなく、正真正銘、まごうことなき『笑み』が浮かんでいたのだ。

 

 

 

 

『提督!!!!』

 

 

 しかし、次に聞こえたのはそんな北上の声でもなく、それを向けられた俺の声でもなく、突如耳元で叫ばれたように鼓膜を揺らす無線の大音量に乗せた大淀の声であった。

 

 突然のこと、そしてその大音量に鼓膜をやられた俺は耳を抑えてその場で蹲ってしまう。突然耳を抑えたかと思うとそのまま蹲ってしまった俺を前に、北上は先ほどの笑みから一変何が起こったのだと眉をひそめているだろう。

 

 

『提督!! 提督!! 聞こえています!?』

 

「き、聞こえてる……聞こえてるからもうちょっと音りょ――――――」

 

 

 なおも響く大淀の声に俺は辛うじて返事をするも、それは途中で途切れた。何故なら、床に蹲る中でとある資料が目に映ったからだ。

 

 その目に映ったのは、北上が叩き付けたファイル。そこからはみ出した一枚の資料だ。恐らく、透明な頁の所に入っていた資料だろう、そしてそれは比叡の前にあったところだろう、と気付いた。

 

 何故気付いたか、それはそのはみ出した資料に添付された写真が、比叡と同じ独特な形をしたカチューシャに肩を大胆に露出した巫女服を模した制服。ブラウン色の長髪を流し、その二房を左右の団子に結った艦娘。しかし、その表情は見えない、いや黒く塗りつぶされていてその表情が見えないのだ。

 

 ただ髪型やその服装から、そして艦名に記された名前からその艦娘が『金剛型戦艦 一番艦 金剛』であるは分かった。ただ、

 

 

 いや、そこではない。俺の目に映ったのはそこだが、その目をくぎ付けにしたのはそこではない。

 

 それは、彼女の戦歴である。彼女もまたもの凄い戦歴、もとい被害報告があった。恐らく、今まで見た艦娘たちの中で一番多いのではないでは、と思ってしまう。そんな彼女の長々と書かれた戦歴、恐らくこの鎮守府の歴史と言ってもいいかもしれないそれはこの一文で締めくくられていた(・・・・・・・・・)

 

 

 

 

 

『モーレイ海哨戒任務にて、      により轟沈』

 

 

 その一文、空白になっているところは恐らく後に(・・)書き込めるように敢えて空けておいたのだろう。同時に、その筆跡を俺は知っていた。何故なら、俺が執務を始めてから今までの書類を捌く時、よくよく参考にさせてもらった―――――俺以前に裁かれた書類と共にひたすら読み込んだ文字だったからだ。

 

 

 そんな俺の耳に、先ほどよりも更に大きな声で叫ぶ大淀の声が響き渡った。

 

 

 

 

 

『モーレイ海哨戒部隊に敵艦載機による奇襲を受け、旗艦吹雪及び僚艦金剛が消息不明です!!』

 



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穴だらけの『作戦』

『吹雪、金剛の両名は消息不明』

 

『哨戒部隊は榛名を臨時旗艦とし、まもなく帰投する』

 

『すぐ執務室に戻ってくるように』

 

 

「くそッ」

 

 

 鎮守府内を走りながら、俺は熱を帯びた空気と共にそう吐き出す。視界はドンドン後ろへと飛んでいき、時折雫となった汗が飛び散る。そんな中でも俺の耳には大淀の声が、目を背けてしまいたい現実を吹き込んでくるのだ。

 

 否、一番突き付けてくるのは頭――――その中で次々と移り変わってゆく金剛の姿だ。

 

 

 最初は初めて出会った時、未だに砲煙を燻らせる砲門を向け、口角だけを上げた最低限の笑顔で俺を歓迎した彼女。

 

 曙の入渠中に入った俺に淡々とした言葉と共に蹴りを入れる彼女。

 

 榛名に伽を強要したと勘違いした俺が詰め寄った時、初めて見せた涙を流しながら固く目を瞑る彼女。

 

 俺が大本営に召集される前後、大量の書類と格闘する彼女の疲れ切った姿。

 

 試食会を敢行し、そこに乱入した彼女が見せた、怒り、困惑、混乱、そして恐怖。

 

 倒れてから目を覚まし、俺に解体を懇願した笑顔、その後の憤怒に混乱、そして悲壮。

 

 

 最後は今朝見たばかりの、笑みだけ(・・)を浮かべる彼女。

 

 

 それらが走馬灯のように現れては消えるを繰り返す。ただそれだけ、ただそれだけなのに、それはとてつもない重さとなって俺に降りかかる。懺悔、後悔、憤怒、傲慢、それら全てを携えた『今』と言う時間が押し寄せてくるのだ。

 

 『止めていれば』、なんて言葉はもう数えきれないくらい吐いた。しかし、そんな言い訳(・・・)をいくら吐いたところで事態は好転しない。時は非道なのだ。いくら言い訳を並べたところで時間は容赦なく進み、淡々と悪化へ、最悪の結末に進んでいく。

 

 最悪の結末、それは水平線上にポツリと浮かぶ豆粒が―――――

 

 

 

「違う」

 

 

 うっすらと現れた金剛ではない(・・・・)風景を押し退け、俺は考えた。いや、無理矢理思考の海に身を投じたのだ

 

 何が出来る、何が出来る、今の俺に何が出来る。それだけを頼りにもがき続ける。他を考えない様に、『過去』を思い出さないように、目の前でせせら笑う『今』と向き合うために。それに必要な、大事な、大切なものは何かを模索する。

 

 大淀の連絡を受けてから、北上には入渠と帰投した艦娘に行う治療の準備をお願いした。次に大淀へ連絡を入れ、今うちにあるモーレイ海域を含め北方海域全体に関する資料を出来うる限り集めておくように頼んだ。

 

 あとは何だ、何をすればいい。捜索隊を出そう、だけど確固たる情報が無い以上闇雲に出すのは不味い。だけど情報を手に入れるにはある程度の出撃が必要、いやそれは大淀が用意してくれた資料から絞ろう。しかし、資料だけでは駄目だ。今の情報、せめて近しい情報が欲しい。

 

 次は、次は、と脳みそが焼き切れんばかりに思考を回す。時間は待ってはくれない。進めば進むほど二人の帰還は絶望的になる。それが及ぼす影響がどれほどのモノか、恐らく回している俺以外分からないだろう。そんな俺の足は、いつの間にか執務室とは違うところに向いていた。

 

 

「無事か!!」

 

 

 俺が居たのは執務室よりもずっとずっと大きく、小奇麗にまとめられた内装とは程遠いありとあらゆる金物が無造作に転がり、大淀が淹れるコーヒーの香りは金属とオイル、そして鼻を突き刺す強い潮の香りに、照明は執務室のものよりも暗いくせに大きく開かれた向こう側から目一杯の陽光と青々と広がる海によって明るく開放感を生む―――――艦娘たちが出撃と帰投を繰り返す場所、所謂母港だ。

 

 

 

「ぇぃ……ぉ、ぅ」

 

 

 俺の言葉に弱弱しい声を上げたのは、旗艦の吹雪が消息不明になってから臨時旗艦を務めた榛名だった。その声に俺はすぐさまその方を向き、彼女に近付く。近づき、少しだけ後ろに下がりかけたその肩を握りしめ、何故か背けている顔に詰め寄った。

 

 

「榛名!! 一体何があった!!」

 

 

 その肩を強く揺すりながら、俺は大声で彼女に問いかけた。しかし、彼女は顔を背けたまま何も言わない。いや、声は聞こえる。だが、小さすぎて何を言っているのか分からない。

 

 今は時間が惜しい、それだけ。だからこそ、執務室に向かわず此処に来た。今、金剛たちがどうしているか分からない。しかし、消息不明になるまで横に居たのは彼女たちだ。つまり、彼女たちは今に近しい情報を持っている。それを求めて、俺はここに来た。

 

 しかし、その情報を持っている筈の榛名は何故か口を割らない。ただ顔を背け、小さな声でしゃべるだけ。その姿が、最大の敵である時間を更に加速させるだけのものにしか見えなかった。

 

 

「お―――」

 

「おい!!!!」

 

 

 何も言わない榛名に更に詰め寄ろうとした時、真横から怒号が飛ぶ。思わず身を竦ませ、怒号が飛んできた方を見ると、刃物のような目つきを向け、わざとらしく軍靴を鳴らし近づいてくる林道が居た。

 

 

「何をしている!! 離れろ!!」

 

 

 気炎を吐き出すかのような激しい怒号と共に近付いてきた林道は榛名から俺を引き離し、距離を取らせるためか俺の首元を掴んで無理矢理引っ張っていく。その姿が、更に時の流れを加速させるモノ―――――手の届かない所へ連れていく奴らに見えた。

 

 

 

「落ち着け、楓」

 

 

 だが、次に聞こえたのは奴らの声ではない。先ほどの怒号から一転した、囁くような静かな林道の声。それは俺の耳にスルリと流れ込み、まるで冷水を被ったかのように瞬く間に頭を冷やした。頭が冷え、思考が真っ白になった俺は林道の顔を見る。

 

 

「榛名を、よく見てみろ」

 

 

 俺の視線に気付いた林道は澄ました顔でそう呟き、視線を逸らした。その言葉に従い、その視線と同じ方を向く。そこには逸らしていた顔、そして所々火傷がある片腕をこちらに向け、何とか俺たちに近付こうとする榛名がいた。だが、相変わらずその片手は今もなお彼女の口を覆っている。

 

 そしてその覆っている手が、真っ赤(・・・)に染まっている。手を染め上げたそれは、未だにその指の隙間からこんこんと溢れていたのだ。

 

 

 

 そこでようやく俺は察した。榛名は喋らない(・・・・)のではない、喋れない(・・・・)のだ。

 

 

「行け」

 

 

 俺が大人しくなったのを見計らってか、林道は榛名に向けてそう言った。しかし、林道の言葉に榛名は動かない。彼女は臨時とは言え旗艦であり、報告義務がある。更に言えば俺が母港までやって来て情報を寄こせと言って来たことが尾を引いているのだろう。そのせいかどうすればいい、と言う視線を俺に向けてきた。

 

 

「ほ、報告は後でいい……北上が入渠の準備を済ませているはずだから、先ずは傷付いた艦娘たちの治療を―――――」

 

「いや、報告する義務があるその艦娘は最優先だ」

 

 

 俺の言葉に割り込みながら林道はそう進言、というか命令を下す。思わず目を向けると、「だろ?」と言いたげな視線で返された。

 

 

「そう、だな……うん。榛名は最優先に入渠、バケツを使ってくれ。そして入渠が終わり次第、執務室に来て報告を頼む。いい、かな?」

 

 

 俺の言葉に困惑していた榛名は一瞬視線を逸らすも大きく頷くとともに一礼、頑なに口を抑えながらも僚艦たちを率いて外に出て行った。気のせいか、一瞬逸らされたその視線の先が林道で合ったような気がした。

 

 

「……落ち着いたか?」

 

「……ごめん」

 

「気にするな。それより何があった?」

 

 

 謝る俺の背中を叩きながら、林道はそう尋ねてきた。今は時間が惜しいし、無視して走ってきた俺が言うのも何だが早く執務室に来いと大淀に呼ばれている。それにこの問題は林道にも知っておいても損は……いや、こういう時のために居るんじゃないか。

 

 

「歩きながらで説明する。ついてきてくれ」

 

 

 俺の言葉に林道は真剣な顔で頷き、それを受けて俺たちは執務室へと向かった。その傍らザックリではあるが事の詳細を林道に伝えると、林道は苦虫を噛み潰した顔を浮かべた。

 

 

「不味いな……」

 

「あぁ……無理矢理にでも止めておくべきだったよ」

 

「いや、それ逆効果だ。繋ぎ止めていたものが無くなった反動があの態度だとしたら、無理に止めるのは悪手でしかない。もし此処で暴れられたら彼女だけでなく他の艦娘まで被害が、最悪それを名目に鎮守府自体を潰されたかもしれない。少なくとも、現状の被害は最小限に抑えられている」

 

 

 俺の言葉を否定した林道が言う『最小限』とは、つまり金剛と吹雪の事だろう。そう頭の中で理解した瞬間、思わず掴み掛りそうになった。だけど、寸でのところで抑え込んだ。

 

 

「後は、その最小限の被害をどう失くすかだ」

 

「……分かってるじゃないか」

 

 

 俺の言葉に林道は何処か感心した様にそう言ってくれた。何も林道は金剛を切り捨てろとは言ってない。今の段階で被害となるのは金剛たちだけ、そしてそれをどうするかは今から(・・・)の行動にかかっている。

 

 

「まぁ、その初手が『榛名に詰め寄る』のは、よろしくないがな」

 

「……上げて落とすなよ」

 

 

 最後の最後に痛いところを突く辺り、抜け目ないと思う。だが、今はその抜け目のなさが何よりも心強い。そう心の中で林道を称賛する頃、俺たちは執務室に辿り着いていた。

 

 

「すまない、遅れた」

 

 

 遅れたことを謝罪しつつ、執務室に入る。中には俺を呼んだ大淀、そして彼女が呼んだのか龍驤、長門、加賀が待機していた。彼女たちは今までの哨戒任務で何度もモーレイ海に出撃している、恐らく紙面の報告から分からない生の情報が必要だと判断したのだろう。俺の言葉に4人は一切に俺に目を向け、そして次の瞬間その目は半分に分かれた。

 

 

「何で君がおんねん」

 

 

 その目に込められた感情―――――『不信感』を言葉にしたのは龍驤だ。そして、同じくその目をしたのは加賀である。彼女たちが抱く林道の印象は食堂での一件だけだから、それが先行しているのだろう。そして、龍驤はその言葉を体現するかの如く前に進み出たのだ。

 

 

「提督に呼ばれたからだ」

 

「……そう」

 

 

 冷静な林道の言葉に加賀は一言そう呟き、小さく頷きながら目を閉じた。納得した、と取っていいのだろうか。

 

 

「司令官、ホンマに?」

 

 

 だが、龍驤はその言葉に食い下がった。募らせていた不信感を更に全面に出してくる。何を考えている、と言いたげな表情だ。それを受けて、俺は大きく頷く。しかし、それは彼女の顔を更に歪ませるだけであった。

 

 

「司令官、もっかいよぉ考――――」

 

「そうか」

 

 

 更に食い下がろうとした龍驤の言葉を、もう半分である目―――――当然だ、と確信した強い光を宿す目をした長門が遮った。その目に該当する大淀も長門ほど強くはなく、当然と言うよりも予想通りと納得した目ではある。その言葉を体現した長門は龍驤を押しのけ、そして俺の横を素通りし、林道の前に立つ。

 

 

「よろしく頼むぞ」

 

「あぁ」

 

 

 そう言った長門は林道に手を差し出し、その言葉に短く応えた林道もその手を握る。その光景にその場にいる全員が雷に打たれたような顔を、いや約一名以外はほんの一瞬そうなるもすぐに元の顔に戻った。唯一、戻らなかったのは彼に詰め寄ろうとした龍驤だ。

 

 

「長――――」

 

「憲兵だろうが何の知識も無いど素人だろうが、提督が必要と言ったんだ。なら此処にいることに何ら問題はない。その決定を覆す権利を私たち艦娘にはない、何より時間が無い中で無意味な押し問答を続けるのは最も忌むべき手だ。違うか?」

 

 

 なおも食い下がる龍驤を、長門は冷たく言い放つ。正論で完全武装し、彼女の言い分から今の行動に至るもの全てを散々に叩きのめしたのだ。叩きのめされた龍驤の顔は強張り、次に出たのは今にも泣きそうな顔(・・・・・・・・・)であった。

 

 

「そんな顔をするな、龍驤。私だって、お前と同じで不安でいっぱいだ。だが今回は彼を必要と言った提督を信じてみよう。もしくは、彼を信じた私を信じてくれ」

 

 

 そんな龍驤に、長門は先ほどとは一転した明るい声をかける。言葉を掛けながら彼女に近付き、その頭をグリグリ撫でた。撫でられた際に押し込まれたサンバイザーが龍驤の目元を隠す。そのせいで彼女の表情が見えなくなったが、撫でられながらも小さく頷いたことで俺は一応の納得を得たと捉えた。

 

 

 

「改めて、集まってもらった理由を言おう。本日モーレイ海への哨戒任務に当たった艦隊が敵襲を受け、旗艦の吹雪、そして僚艦の金剛が消息不明になった」

 

 

 俺の言葉に全員が顔を引き締めた。そこに動揺がないのは、事前に大淀から聞いていたからだろう。本当に有難い。

 

 

「この緊急事態に対処するため、まずはモーレイ海を中心とした北方海域全体の情報を総ざらいしたい。本来なら早急に捜索隊を出すべきだが、闇雲に出すよりもある程度絞ってから出した方が良いと考えている。この方針に、何か意見はあるか?」

 

「その方針自体は良いけど、金剛たち以外の艦娘は帰投しているのよね? 先ずその子達に聞くべきではないかしら?」

 

 

 俺の言葉に加賀がそう問いかけてくる。彼女だけでなく、周りも同様だ。その視線を受け、俺は頷きながら彼女たちの視線を真っ直ぐ見据える。

 

 

「加賀の言う通り、現在2人以外の艦娘は帰投済みだ。ただ臨時旗艦である榛名の怪我が酷く、先に入渠してもらっている」

 

「緊急事態なんだから、別の艦娘に報告させても良かったんじゃない?」

 

「報告は旗艦の義務だ。そこを疎かにすると、成り立つものも成り立たん」

 

 

 更なる加賀の問いに答えたのは林道だ。少し語気を強め食い気味にそう答えた林道に加賀は視線を向けるも、すぐに外した。それを、納得と取った俺はわざとらしく咳払いをして注目を集めた。

 

 

「榛名が来るまで、皆にはこの資料で気付いたこと、またはここから読み取れない生の情報を教えて欲しい」

 

 

 その言葉に真っ先に手を上げたのは大淀だ。

 

 

「襲撃の報を受け取った時、彼女たちを襲ったのは敵艦載機だと聞きました。モーレイ海における敵航空戦力は資料の通りですが、実質的な脅威は如何ほどでしょう?」

 

「正直言うと、そこまで脅威じゃないわ。正規空母クラスもしくは軽空母クラス―――――所謂、空母ヲ級と軽空母ヌ級が一隻ずつ艦隊にいるかどうか。私や龍驤、隼鷹の内1人が居ればどちらも対処可能、2人以上なら無力化できる程度よ。そもそもヲ級は最奥部にしかいない上に哨戒で入り込む範囲で遭遇するのはヌ級だけ、こっちに戦艦が居れば十分対処できる。どちらかと言えば戦艦や重巡の方が数も質も高くより大きな脅威と考えてもいいわね」

 

 

 大淀の問いに、加賀がスラスラと答える。そこで聞いた深海棲艦の名称、今までも文面上で見たものである。が、当の俺が生で見たことは無い。あるのは本当に小さな豆粒ほどの大きさの深海棲艦、だけ……だ。

 

 

「提督、大丈夫ですか?」

 

「……大丈夫、大丈夫だ」

 

 

 いつの間にか加賀に向けていた視線を俺に向けた大淀が心配そうな顔で覗き込んでくる。その言葉、その顔に、俺は大丈夫と返した。俺がその言葉を返した時、彼女の顔がどのようであったのかは分からなかった。

 

 

「しかし、幾度となく交戦しただろう? 最前線の航空戦力が乏しいなら増援を派遣されてもおかしくない筈だ」

 

「その点に関して一つ見解がある。北方海域では度々補給艦が目撃されており、その多くは最奥部、特にモーレイ海は必ずと言って良いほど確認されているのは資料にある通りだ。このことから、この2つには補給拠点―――所謂資材集積地であること、もしくは定期的に資源を補給しなければならないほど不毛の土地であること、この二択だと考えられる。そして今までの報告の中で空母の増援は確認されていない。そう考えると、恐らくは後者ではないだろうか?」

 

「……なるほど、ボーキサイトが貴重であるのは互いに同じ。そのボーキサイトを食い潰す空母をわざわざ不毛の地で運用するよりも、比較的潤沢な燃料、弾薬で動く戦艦、重巡を中心とした駐留部隊を置く方が合理的だ。加賀の話とも噛み合う、その見解は正しいだろう」

 

 

 林道の疑問に長門が答える。彼女の見解が正しいとすれば、空母の増援がモーレイ海に進出する可能性は低い。こっちは何度も哨戒を繰り返しているのだ。増援を持って一度俺たちを追い返したとしても、俺たちは体勢を立て直して何度も襲来する、それは増援部隊の駐留を意味するのだ。不毛の地に大軍を留め於けば、自滅の道が待っているだけ。そう考えると、長門の見解は筋が通っている。

 

 

 だが、実際は艦載機の奇襲があった。つまり……

 

 

「裏を返せば、『今回、敵は一度でこっちを叩き潰せるほどの航空戦力を用意していた』とも取れるなぁ」

 

 

 俺の言葉を、龍驤が代弁する。先ほどの一件で目元が僅かに腫れていたように見えたが、指摘する余裕はなかった。

 

 

 長期戦が難しい状況であれば、次に挙げられるのは短期決戦だ。それは何処ぞの歴史を紐解いてもまず確実に見受けられるモノ。そしてそれがもたらす結果もまた二択、『生存』と『滅亡』である。

 

 前者は背景に潤沢な物資を抱え、そして勝利後の事にも目を向けている。後者はその逆。目前の勝利に焦点を当てそれだけに全力を雪ぎ、最後は天運に任せる。そんな用意周到な策にもとんでもない博打にもなりえる、最良にして最悪の一手だ。

 

 そして深海棲艦は海が持つ全ての資源を背景に、その保有する軍勢も計り知れない。どれほど不味い状況であったとして、奴らの立場は限りなく前者(・・)なのだ。

 

 

「でも、それ程の敵勢に襲われたとしたら…………」

 

「えぇ、榛名たちはまず還ってこなかった」

 

 

 大淀が言い淀んだことを加賀が代わりに口に出す。その瞬間、その場の空気が一気に重くなった。恐らく、その場にいた全員がその報告を―――――哨戒部隊全滅の報を想像したのだろう。

 

 

「彼女たちは還ってきてくれた、これは事実だ。その仮定は控えろ」

 

「すみません……」

 

「ごめんなさい」

 

 

 いつの間にか漏れていた俺の言葉に、二人は驚いた顔をしつつ謝罪してきた。彼女たちが驚いたのは、俺の声が思ったより低かったことと、何よりそんなことを指摘するようなたまじゃなかったからだろう。それに気付いた俺は、すぐに頭を下げた。

 

 

「すまん、言い過ぎた」

 

「いいえ、私も不用意な発言でした。しかし、これは襲撃部隊が小規模である何よりの証拠です。大艦隊ではなく小艦隊であれば追撃の規模も小さく、更に艦隊が二手に分かれたことも追撃部隊の半減を意味しています。決して楽観視は出来ませんが、彼女たちが生存している可能性も決して絶望的ではありません」

 

「大淀の言う通り、彼女たちはまだ(・・)無事でしょう」

 

 

 俺の言葉に、大淀は謝りつつも可能性を示してくれた。そこに便乗しつつ、時間的制限を添えたのは加賀である。それを受けて、俺は今一度周りを見回す。誰しもに目線を合わせ、返される視線と向き合う。そんな俺の視線に、誰しもが何も言わない。

 

 

 つまり、何も意見が無いと言うことだ。

 

 

「では、情報を纏めよう。モーレイ海及びキス島沖は定期的に補給艦を派遣する程に資源が乏しい場所であり、大規模な航空隊を据え置くのは不可能。だが、敵はその中で運用できる程に切り詰めた増援を送り込み、それが運悪く金剛たちを発見し奇襲。だが切りつめた増援であったが故に全滅するに至らず、こっちは運良く離散に落ち着いた。これで大丈夫か」

 

「今手元(・・)にある情報でだとそうなるわ。あとは……」

 

 

 加賀の言葉が途切れたのは、扉をノックする音が聞こえたからだ。その音に真っ先に反応した大淀は流れるように扉に向かい、素早く開く。

 

 

「お待ちしていました、榛名さん」

 

 

 そう言いながら大淀はノックした人物、榛名を中に招き入れる。その言葉に、榛名は俯いたまま黙って中に入ってきた。誰しもが待ち望んだ『近しい情報』を持った彼女がやってきたのだ。

 

 

「榛名、よく来てく―――」

 

 

 そんな彼女に向けた言葉は途中で途切れる。それは何故か、俺が声をかけた瞬間、榛名がぶつかってきたからだ。

 

 

 

「榛名のせいです!!!!」

 

 

 そう、自責の言葉を添えて。

 

 

「ごめんなさい、ごめんなさい!! 榛名のせいです、榛名が悪いんです、全部全部榛名のせいなんです!!!!」

 

 

 その身体を受け止めた俺の胸に顔を埋め、己の胸を引き千切らんばかりに握りしめた榛名は絶叫する。言葉の一つ一つにありったけの感情を――――自身に向けられたありったけの憤怒を込めた罵詈雑言を吐き出しながら、その握りしめる胸を引き千切り、握りつぶし、それで己の罪を清算しようとするかのように。

 

 その姿に、誰一人として声を上げるものはいなかった。誰もがその姿を唖然と見つめるだけ―――――いや、一人(・・)は違った。

 

 

「榛名がもっと早く見つけていれば!! 榛名がもっと早く動いていれば!! 榛名が金剛お姉さまの前に立っていれば!! 榛名が庇っていれば!! 榛名が標的にされていれば!! 榛名が……榛名がぁ!!!!」

 

「いい加減にしろ」

 

 

 その一人である林道はそう吐き捨て、俺に縋り付く榛名を無理やり引き剥がした。それに飽き足らず、引き剥がした彼女の襟元を掴んで己の顔に引き寄せたのだ。その行動に誰もが目を見張り、その蛮行を止めようと駆け寄ろうとした。

 

 

 

本音(・・)を吐かせるために、お前の入渠を最優先にしたわけじゃない」

 

 

 だが、それは林道が榛名に面と向かって言い放ったその一言で止まる。周りだけじゃなく、面と向かって言われた榛名自身も真っ赤に腫らした目を大きく見開いた。

 

 

「お前は旗艦、臨時とは言え旗艦だ。旗艦の責務は艦隊全員を無事帰投させることと、次に繋げられる(・・・・・・・)報告を示すことだ。この際前者はどうしようもない、そこは仕方がない。だが後者は? 今お前が置かれている役割は? 先ずはそれをやり遂げろ。その後に好きなだけ吐けばいい、好きなだけ喚き散らせばいい。だがそれぐらい出来なければ、お前の本音(それ)は何時まで経っても見られないだろう」

 

 

 林道の言葉―――端的に言えば『報告を早く上げろ』だ。だが、奴の言葉にはそれ以外に、いやそれ以上に強く、深く、真剣に、榛名に伝えようとしている何かがあった。それを察することは出来なかったが、林道を見る榛名の目がその言葉によって別の意志(・・・・)が宿っていくのが分かった。

 

 

「今此処にいる全員がお前を求めている、誰もがお前を『必要』としている。例えそれがお前自身じゃなくても、此処はお前がずっと待ち焦がれた舞台だ。少しはらしく(・・・)振る舞ってみせろ、少しは表現してみせろ、演じてみせろ、全うしてみせろ。いざ本番(・・)に放り込まれた時、お前の好きなように動くために」

 

 

 そこで言葉を切ると同時に、林道は引き寄せていた榛名を適当に突き放した。突き放された榛名はフラフラと身を躍らせるも、それはほんの一瞬だけ。

 

 

 その直後、ダンッ!! と言う鋭い音が執務室に響いた。

 

 

 

「取り乱して申し訳ありません。モーレイ海哨戒部隊属榛名以下4名、只今戻りました」

 

 

 そう凛とした声を発したのは、今しがた床を力強く踏みしめた榛名だ。彼女は先ほどの泣き腫らしたとは思えないほど凛とした表情で俺に向けて敬礼をする。その真っ直ぐな視線、そしてその目に宿る確かな意志――――『戦艦 榛名の意地』を受け取り、俺はその目を見据えながら頷いた。

 

 

「よく無事に戻ってきてくれた。早速だけど、報告を頼む」

 

「では、報告させていただきます」

 

 

 俺の言葉に、榛名は敬礼していた手を下ろしながらそう答える。その一挙手一投足は思わず見惚れてしまうほどに綺麗であった。そしてそれは俺だけでなく、視界の端に立っていた林道も釘付けにしていた程だ。

 

 

 

 そこから続く榛名の報告はこうだ。

 

 

 俺たちが見送った後、哨戒部隊は特に問題なくモーレイ海に進出。その道中何度か戦闘を交えつつも大きな被害を出すことなく、哨戒部隊として入り込める最奥部まで到達した。

 

 因みに、哨戒部隊の役割はこのポイントに留まり最奥部に潜む敵主力部隊の視察と、その道中で現れる敵艦隊を掃討することだ。それをすることで敵主力の戦力を把握し攻略部隊の編成と装備に反映させると同時に、攻略部隊が道中で行う戦闘を極力減らすことが出来るのだ。

 

 また、繰り返す哨戒部隊の編成をなるべく固定化することで敵にこちらの編成内容を刷り込ませ、いざ攻略部隊は今までとは全く別の編成で挑み混乱を誘う、と言う搦め手も取っていた。そのため、稀にではあるが敵主力との交戦も許可していた。無論、それは哨戒部隊の被害状況と燃料、弾薬の残量によってではあるが。

 

 

 ともかく、彼女たちはそのポイントに留まりつつ哨戒部隊としての役割を果たしていた。だが、それは唐突に終わりを告げた。

 

 

「……ッ!?」

 

 

 その言葉にならない声を上げたのは吹雪であった。それと同時に彼女は頭上高くに砲門を向け、次の瞬間砲撃を放ったのだ。その場にいた誰しもがその行動に驚き、彼女が砲門を向けるその空に目を向けた。

 

 砲門の先には、一機の敵艦載機がいた。灰色のフォルムに生き物のような目とその機体から下がる小さな爆弾と機銃を携えた、深海棲艦が扱う艦載機である飛び魚型である。それ自体は幾度となく目にしているため、それ自体は誰しもそこまで驚きはしなかった。

 

 

 逆に驚いたのは、その艦載機が通常では有り得ない高さを飛んでいたこと。

 

 そして吹雪の正確な対空砲火をいとも簡単に避け続けたこと。

 

 その機体に宿る光が緑色ではなく青色だったこと。

 

 

 そして何よりその艦載機が雲の向こうに消えた瞬間、偵察機から敵主力が自分たち目掛けて進撃を開始したという報であった。

 

 

 それを受けた榛名たちは即時撤退を試みるも、敵主力の驚異的な速度で距離を詰められやむなく迎撃を選択。一度は謎の艦載機を目撃した海域から少しだけ離れた小さな岩礁が点在する海域で相まみえることとなった。

 

 先に到達していた榛名たちは岩礁を利用して進出してきた敵艦隊を吹雪たちを囮に釣り出し、岩礁に潜む榛名たち戦艦が一斉射、思わぬ攻撃に混乱したところへ戦艦組が殴り込み撃滅する作戦を立てた。その作戦は成功し、まんまとつり出された敵主力は戦艦勢の一斉射に戦艦ル級以下艦隊の半数を撃沈、その後の殴り込みで残った空母ヲ級含む半数も撃沈するに至った。

 

 その代償として旗艦吹雪と榛名が小破、殴り込みで深入りし過ぎた金剛が中破の被害を出したが、敵主力艦隊の撃滅を考えれば微々たるものだ。一同は俺に迎撃の許可を得ずに交戦したことによる懸念を抱きつつも、被害が微々たる且つ哨戒部隊が敵主力を撃滅したと言う思わぬ戦果に咎められることは無いだろうとタカを括っていた。

 

 

 だが、タカを括ってしまったこと自体が致命的な失敗であったのだ。

 

 

 そのタカをいち早く捨て去ったのは金剛だ。彼女は力なく浮かべていた笑みを突如消し去り、同じく撫で下ろしていた吹雪を突き飛ばした。蛮行ともいえるそれは、ほどなくその身体に降り注いだ数多の爆撃によって蛮行ではないことが証明されてしまった。

 

 爆撃に晒される金剛がその中で真上を指差し、一同が指し示す頭上に目を向ける。そこには、先ほどの青色の光を宿した艦載機が居た。それも1機だけではない(・・・・・・・・)

 

 

 1、10、20、30――――優に100を超える艦載機が空を覆い尽くしていたのだ。

 

 

 その瞬間、榛名たちは対空砲火を開始した。頭上を覆い尽くす艦載機を少しでも減らそうとしたからだ。だが、それを阻んだのは自身が立つ水面からほんの少しだけ離れた水面に立ち上がった巨大な水柱である。

 

 爆撃では有り得ない高さであるその水柱は、砲撃によるもの(・・・・・・・)であると誰もが悟った。しかし今ここには艦載機しかおらず、その巨大な水柱を立ち上げるほどの火力を持つ存在はいない。それゆえにその水柱が立ち上がった理由(わけ)が分からなかった。だが、それだけでは終わらなかった。

 

  

 それ(・・)を受けたのは榛名であった。頭上に砲門を向けながら、程近くに立ち上がる水柱に目を取られていたため彼女の耳に聞こえた。突如、足元から勢いよく水面を突き破る魚雷(それ)を。

 

 次の瞬間、榛名は何が何か分からないまま海面に叩き付けられていた。腹部を中心とした全身が激痛に悲鳴を上げ、同時に口許の鋭い痛みを受けた途端感覚が消え、視界は意識もろとも朦朧とした。海面に叩き付けられたその一瞬、遥か彼方に一つ(・・)の影を見た。

 

 

 その影は子供のそれと変わらない、一見すれば少女である。だが、それはおおよそ人の形をしていなかった。その少女の姿の真後ろに、その身の丈を優に超えるであろう巨大な怪物(・・)が控えていたのだ。

 

 蛇のような灰色の身体の先に巨大な砲と魚雷発射管を携えたおおよそ生物とはかけ離れた頭部を有する怪物と、それを背後に侍らせその顔をスッポリと真っ黒なフードで覆い隠した少女らしきそれ。今まで確認した深海棲艦とはあまりにかけ離れ過ぎたそれ。

 

 

 艦載機を携え、砲撃を行い、魚雷も発射できる『それ』を、なんと呼称すればよいのだろう。

 

 

 その直後、榛名は魚雷の直撃により意識を失った。意識を取り戻したのはそれが過ぎ去った後であり、その時に既に金剛と吹雪とはぐれていた。そして残った僚艦より聞かされたことの次第を――――金剛たちは囮として『それ』を引き連れていった(・・・・・・・・)のだと聞かされた。

 

 

 

「その後、口を損傷した私に代わって僚艦の駆逐艦が大淀さんに事の次第を伝え、今に至ります」

 

「……そうか」

 

 

 榛名の報告を受け、一同は誰しもが黙りこくっている。その面々は一様に顔をしかめていた。それは榛名の話が信じられないと同時に、今しがた自分たちが論じていた議論を根本から引っくり返されたからだろう。

 

 

 

「その……艦載機を飛ばせて、砲撃も出来て、更に雷撃も行える正体不明の深海棲艦に襲われた、ってこと?」

 

「……端的に言えばそうです」

 

 

 信じられない顔で今までの話をまとめた加賀が投げかけた質問を、榛名は肯定する。その言葉に、一同は更に顔をしかめた。

 

 

 艦娘たちには駆逐艦、軽巡洋艦、重巡洋艦、戦艦、軽空母、正規空母などの様々な艦種があり、それぞれが出来ること出来ないことが分かれていた。ある意味、一種の住み分けがなされていたわけだ。

 

 だが、榛名が語った深海棲艦はたった一隻でそれら全てを行っていた。艦載機も飛ばせて、砲撃も出来て、更に雷撃も出来る艦娘はいない、少なくともうちの鎮守府にそれを可能とするヤツはいない。

 

 勿論、それが榛名が目撃したその一隻だけだと言う保証はない。何処か別の場所から艦載機を飛ばしていたかもしれないし、もしかしたら潜んでいた潜水艦が雷撃を行っていた可能性もあるわけで。

 

 

 だが、それらは全て希望的観測(・・・・・)である。この緊急事態、そんなものは足枷にしかならない。であれば、常に物事は最悪の場合を想定するのが定石である。その定石に沿ってみると、たどり着くのがその何もかもが可能であるトンデモ深海棲艦だ。

 

 そして榛名の話を正しいとするならば、俺たちが示していた補給線の貧弱さを根拠とした『敵の増援は小規模な艦隊である』と言う結論が白紙に戻されてしまう。同時に、その貧弱な補給線で動ける上にその一隻だけで一個艦隊の戦力を有するトンデモ深海棲艦を引き連れた金剛たちの生存率は、まさに絶望的になってしまったのだ。

 

 

 

「……仮に、その深海棲艦を『重雷装航空巡洋戦艦』としましょう。それを引き連れた金剛たちが向かった場所は分かるかしら?」

 

 

 先ほど同様、頭を抱えながら加賀は榛名にそう問いかける。普段の加賀が口にすることはまずないであろうありとあらゆる言葉を繋ぎ合わせただけの造語に、誰しもが突っ込む余裕すらない。唯一、それを受けた榛名もそのとんでもない造語に顔を引きつらせつつも、しっかりと力強くこう答えた。

 

 

「恐らくモーレイ海域から南西――――――キス島方面かと思います。」

 

 

 榛名が指し示した、それはモーレイ海域の次に攻略を予定していた場所である。情報はそれだけ(・・・・)、俺たちはその海域について何も知らない。あるのはそのトンデモ深海棲艦を引き連れた金剛が向かったであろうと言う情報、それだけだ。

 

 

 では、この情報を敢えて裏を返してみよう。

 

 

「つまり、『そのトンデモ深海棲艦を見つければ金剛たちの居場所もおのずと掴める』と言うことか」

 

 

 俺の言葉に、そこにいた皆が視線を俺に向けてきた。誰しもがその顔に驚愕を浮かべており、同時に俺の言葉を信じられないという裏の言葉をも示していた。

 

 

「今は何より情報が欲しい。その深海棲艦を目標としてキス島方面を中心に捜索隊を出す。その際、彼女たちは索敵に細心の注意を払わせ、そして発見したのがその深海棲艦ではないとしても極力戦闘を避けることにしよう。その捜索隊で発見できれば良し、出来なければ捜索で集めた情報を元に新たな作戦を立てる。時間的制限に捜索隊派遣は明朝を一区切りとする。それ以降は集めた情報を元に次の作戦を立て、決まり次第決行……どうだ?」

 

 

 独り言のように淡々と呟き、全てを話し終えた上でその場にいる全員に問いかける。その目は先ほど俺が理解を求めた時とは比べ物にならないほどかけ離れた、『容認できない』と言うものであった。

 

 分かってる、俺だって分かってる。こんなの作戦でも何でもない、ただ決断を先送りにさせているだけのその場しのぎ(・・・・・・)だって、分かっているんだ。

 

 これは短期決戦案でもなく、長期戦案でもない。中途半端な案だ。だが俺たちが有する資源は、戦力は、何より残された時間そのものが乏しいのだ。

 

 

 そんな中で短期決戦をしてみろ。待っているのは無理な進撃による自滅まっしぐらだ。

 

 じゃあ長期戦をしてみろ。待っているのは資源、戦力、時間、全てが枯渇するジリ貧だ。同時に、ただでさえ絶望的な金剛たちの生存率が真っ先に‟0”になってしまう。

 

 

 じゃあ何を選択すればいい? 今ある手札ではこの窮地を打開できない。であれば、手札を増やすしかない。今は限られた時間の中で世迷言と揶揄される妄言に現実味を帯びさせるしかない。理想論だと吐き捨てられるものに現実味を与えるしかない。

 

 

 

「……見通しが不明瞭であるが、『現状維持』としては有りだ」

 

 

 それを―――――現状維持を目的にした俺の案を林道は支持してくれた。その言葉に、誰しもが表情を変えた。そのどれもこれもが俺の成功する道筋が見えない不明瞭な作戦にその身を捧げる覚悟を決めた、軍人の顔立ちであった。

 

 

「今の話だとその深海棲艦は航空戦、砲撃、雷撃が出来るんだったな。あくまで可能性だが、もしかしたら対潜攻撃は出来ないかもしれないな?」

 

「……その可能性は十分ありますね。私から潜水艦隊に出撃の要請を出しておきしょう」

 

「私たち空母部隊も出ます。何が有るか分からない以上、切れる手は全て切るべきよ」

 

「なら、私たち戦艦も出よう。捜索自体は出来ないが、北方海域に蔓延る敵戦力を削ることは出来るさ―――なぁに、別にそのトンデモ深海棲艦とやらを倒してしまっても構わんだろう?」

 

 

 俺の不明瞭な作戦を、この場にいる全員が『自分の出来ること』を中心に補填してくれる。傍から見れば穴だらけで、成功する可能性は限りなく低い俺の作戦を、鎮守府の皆によって現実味を与えてくれる。

 

 それは初めての事であり、そしてとても心強いモノであった。

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 だからだろうか、そう無意識の内に漏らしていたのは。その言葉を受けた面々が、皆一様に驚いた顔をしつつ、次にその顔に含み笑いを浮かべていたのは。

 

 

 



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埋め合わせていく『存在』

 辺り一面真っ青に満たされた空間。頭上からは足元のその先へと垂れさがる真っ白なカーテンが揺れと、時折下から上へと白い気泡が走り抜けていく。それを前方に、後方に、左右に、遠方に、至近に、時には前に現れては消え、再び視界は真っ青に満たされるのだ。

 

 

 そんな真っ青な空間――――――キス島を右手に大きく北回りの航路をひたすら突き進むのは私、伊168率いる潜水艦隊である。

 

 

 提督の名のもとに発動された救出作戦は現在、私たちを含めた複数の捜索隊がキス島沖に展開する第一段階だ。私たちの他に長門さん率いる戦艦部隊、加賀さん率いる空母機動部隊、天龍型姉妹率いる水雷戦隊もおり、その規模は広大である。

 

 それら主目的は『金剛さんと吹雪の捜索』であるが、担う役割はキッチリと住み分けされている。戦艦、空母部隊には敵哨戒部隊の襲撃による本作戦時に向けた露払いを。水雷戦隊は小規模艦隊によるキス島沖侵入方法の模索と敵補給艦隊襲撃による敵補給線の破壊工作を。

 

 そして、私たちが担うのは金剛さんが引き連れていったとされる『重雷装航空巡洋戦艦』の捜索である。

 

 

「潜水艦の皆さん、提督がお呼びです」

 

 

 大淀さんからの言伝を受けた時、私たちは部屋の中で今日の非番をどうするかを相談していた。自主トレや訓練、あるいはひなたぼっこや読書、散策、遊覧航行とやれそうなことを一通りやってしまったために持て余していた時間をどうしようか、と思案に暮れていたのだ。

 

 そこに飛び込んできた呼び出し、それを受けた私たちはすぐさま執務室に向かった。ほんの少し前は、こうもすんなりと執務室に向かうなんてことは絶対にありえなかった。呼び出しと言えば大概『罰』であり、誰がその毒牙にかかるのか、と言う不安と恐怖で一杯だったからだ。しかし、そう動けたのは彼女のおかげである。

 

 

「了解、すぐに行くのね」

 

 

 その呼び出しに返答したのはイク。それがある度真っ先に悲鳴を上げていた彼女が、今や誰よりも早く、そして力強く答えたのだ。その姿に私をはじめゴーヤにハチも目を丸くするも、その次に現れた彼女の言葉にその全員が動き出せたのだ。

 

 

 

「行こう、提督(・・)を助けるの」

 

 

 『提督を助ける』――――提督は私の、私たちの恩人だ。いや、私たち以外にもたくさんの子にとっても恩人だ。そんな人から呼び出しがあった。何か問題を起こしたことは無く、呼び出されるいわれはない。私たちに理由がなければ、提督(あちら)側にあると言うことだ。

 

 そして、提督はあまり周りに頼らない。いや、誰かに頼れるような環境ではないと百も承知だが、それを抜きにしても彼はなかなか頼らない。何か問題があれば自分の中で片づけて、そのためなら埃をかぶるのも、泥を啜るのも、火の海に飛び込むのも、自分の身を削ることを一切厭わないのが彼だ。

 

 

 そんな彼が、何か理由を持って私たちを呼び出した。彼が、私たちを『必要』としている。だからこそ、イクは『助ける』と言ったのだ。

 

 

 彼女に率いられた私たちを待っていたのは、普段通りの提督であった。いや、普段通りに振る舞おうと務めている、明らかに『無理』をしている彼だ。そんなことなど気付いていない彼は非番に呼び出した事への謝罪とその理由――――――金剛さんたちが行方不明である状況とその情報取集に私たち潜水艦たちも協力して欲しい、と頼んできたのだ。

 

 彼は私たちの上官。上官が私たちに下すのは命令であり、言ってしまえばこれもそれに当てはまる。だが彼は『命令』ではなく『希望』を、『下す』のではなく『頼んで』きた。彼は自分を私たちと同等、或いはその下に位置付けたのだ。

 

 これは鎮守府と言う組織を維持する上での『最悪手』である。下手すれば艦娘の中から良からぬことをしようと息巻く輩が現れるかもしれない、現にここの艦娘は『提督』に散々虐げられたせいでその可能性は十分ある。そんな危険を孕んだ手だ。

 

 だが、生憎そんな輩がいない(・・・・・・・・・・)此処では『悪手』に留まる。そしてその『悪手』を『好手』、最低でも『妙手』にまで昇華させるのが私たちの役割だ。

 

 

 良いだろう、見せてやろうじゃない。提督(貴方)が今立っている場所を、その場所にいる私たち(・・・)を。

 

 

 その思考は、視界の端に現れたハチによって断ち切られた。

 

 真っ直ぐ潜航をしながら、視線だけをハチに向ける。その視線を受けたハチは上半身を私に向け、両手を忙しなく動かす。

 

 

『前方に濃霧を確認。まもなく突入する』 

 

 

 彼女の手を動き―――――手信号(ハンドサイン)にてもたらされた情報を受け取る。今回はあくまで情報収集を目的とした出撃であり、限りなく戦闘を避けることが第一。それに対して、私たちは無線傍受を可能な限り避けるために艦同士の情報伝達は手信号を用いているのだ。元々潜航が前提である私たち潜水艦は訓練項目の中に無線以外に意思疎通を行う手段の確立があり、今回はその一つであるこれが日の目を浴びることになったわけである。

 

 

 そして、ハチがもたらした情報である『濃霧』――――このキス島沖は昼夜問わず濃霧が発生する特殊な気候なのだ。だがその濃霧は海域全体を覆い尽くす規模はなく、小さな濃霧の塊が海域のあちこちに点在していると言った方が良いだろう。

 

 更に言えば一つの濃霧は数時間程度で現れては消えるを繰り返しており、その移動スピードも極端に速い。であるため、キス島沖に関する完璧な海図を作るのはほぼ不可能だ。出来るのは海域の概要くらいであり、それもまた途方もない時間を要するのだ。そんな複雑奇怪な海域を生み出すのは、これまた複雑奇怪に混ざり合う海流のせいである。

 

 キス島周辺は海上海中問わず小規模な岩礁があちこちに点在しており、それらが海流の流れを滅茶苦茶にしている。そのため一見すれば何もない穏やかな海も、一歩踏み込めば複雑に絡み合う海流に足を取られるのが殆ど。ほんの一瞬でも気を抜けば知らず知らずのうちに海流に流されあらぬ方向へと向かってしまう。恐らく、これは艦の排水量が多ければ多いほど強く影響を受けるだろう。

 

 そしてそれは海上艦であり、海流をかき分けて進む潜水艦はそれ以上に影響を受けるのは言わずもがな。そのため、私たちは流れに身を任せて何処へ行き付くのかを試している。だが、この条件下だと私たちが行き付く先に排水量が多い艦―――――戦艦や空母などが駐留している可能性が高い。

 

 

 そして、私たちが探しているのもまた戦艦と思わしき深海棲艦。この先にいる可能性は高いだろう。

 

 

 ふと、今まで海面から垂れていた白いカーテン―――――日光が消え去った。濃霧に突入したのだろう。濃霧を頭上に従えた潜航、ただでさえ見つけ辛い私たちが見つかる要素は完全に排除された。哨戒、及び偵察としてこの上ない好条件である。しばらくはこの濃霧に紛れて進むことにしよう。

 

 

 

 

 という思考は、唐突に聞こえた爆発音(・・・)によって吹き飛んだ。

 

 

 その音に思わず上を向く。恐らく、皆も同じだろう。だが頭上は濃霧に覆われているため何も確認できない。自らを隠す隠れ蓑は同時に視界を制限する遮蔽物でもある。そのことを失念していた。だが、それは視界の中に飛び込んできたハチによって新たな情報がもたらされた。

 

 

 

『偵察機が撃墜された。付近に敵艦有り』

 

 

 そう、片手で手信号で伝えてくるハチはもう片方を耳に当てて顔をしかめていた。恐らく撃墜された際の通信が途切れた音が大きかったのだろう。だが、これでようやく状況が掴めた。

 

 先ほどの爆発はハチが放った偵察機が撃墜された音であり、この付近に敵艦載機、及びそれを放った敵艦が居るということだ。つまり、あちらに私たちの存在がバレてしまった。早急に退却する必要がある。だが、私たちはまだ何も情報を得ていない。このまま戻ったらただ時間を無駄にしただけ、提督の作戦を滞らせるだけだ。であれば、多少のリスクを背負ってでも情報を得なければならない。

 

 尚且つ、今私たちは存在を気付かれたがその居場所までは気付かれていない。今もなお濃霧は私たちを隠し続けているのだ。下手に動けばせっかく身を隠せる濃霧が無駄になってしまい、それこそ敵に居場所を教えてしまう。そして此処は海流に身を任せている道中、排水量の都合を考えれば此処に潜水艦を攻撃できる敵はいない。見つかってもそこまで脅威と言えない、わけではないが出会い頭に攻撃を受ける可能性は低いだろう。

 

 

 そう方針を決め、後ろに向かって手信号を出すと3人は頷いてくれた。それと同時に、何故かにやけ顔のゴーヤが手信号を送ってくる。

 

 

 

『無理しないで』

 

 

 それは素直に(・・・)解釈したものだ。彼女的には『怖くなったら帰って来ても良いぞ』とか『へっぴり腰を見ていてやる』とか、そんなニュアンスを孕んでいただろう。だが、それを表現できるほどのバリエーションがない手信号では、それに近い意味のものを拾い上げるしかない。つまり、それが彼女の本音(・・)なのだ。

 

 

『ありがとう、58(ゴーヤ)

 

 

 後ろを見ずに、そう手信号を返す。後ろの方から何やら大きな音が聞こえたが、それも次に現れた鈍いエンジン音によって意識の彼方へと行ってしまった。顔が引き締め、同時に再度手信号で後方の3人に指示を飛ばし、潜航スピードを少し緩めた。

 

 音は前方からゆっくりと近づいてくる。大きさを見ると、恐らく大型艦だろう。戦艦か空母、最小でも重巡だ。致命的な攻撃を受ける心配はないが、それでも海中目掛けて砲弾を放り込まれると海流が乱れて隊列が崩れてしまう。ここは潜水艦の本分通り、潜んでやり過ご――――

 

 という思考は、目の前に飛び込んできた泡の弾幕によって断ち切られた。突然のことに私は緊急停止をした、いやしてしまった(・・・・・・)

 

 

 その泡に紛れて目の前に漂う一回り小さな、掌サイズほどのドラム缶のようなもの―――――爆雷である。次の瞬間、目の前が真っ白に染まった。

 

 

 四方八方から強烈な衝撃を受け、痛覚は許容範囲を超えた。

 

 爆雷の直撃を喰らった視界は真っ白から真っ黒に――――何も見えなくなった。

 

 爆発による海流の急激な変化に揉まれ、平衡感覚を失った。

 

 衝撃、激痛に襲われ、その他諸々の感覚を失い、意識も飛びそうになった。

 

 だが、辛うじて意識を繋ぎ止めた()がいた。

 

 

 

「ミィツケタァ……」

 

 

 それは海流にもみくちゃにされている最中に私の首を的確に掴み、それだけで私を海中から引き揚げ、身を刺すような北風に晒された私の耳に届いた、おおよそ人とは思えない奇怪な声である。

 

 その声は長年声を発していなかったのか酷く濁っており、その口調も『言葉』と言うよりもただ『文字』を発しているだけのような片言なものであった。ただ、その中でも一つ一つのイントネーションは合っており、それにとっては慣れ親しんだ言葉であることも何となく感じた。

 

 

 いや、そんなことはどうでも良い。もっと重要視すべきなのは、『それ』が今立っているのが大海原の真ん中であり、確実に人ではない何かであることだ。そして、この大海原に立っており、そして私たちを攻撃する存在なんて、深海棲艦以外いないじゃないか。

 

 

「偵察機トソナーノ反応ヲ辿ッテ正解ダッタヨ」

 

 

 『それ』は何処か安心したような口調でそう言う。視界が真っ黒であり、痛覚も機能を失ったせいで敏感になった私の聴覚は、何故かそんなことまで拾い上げてくれる。おかげで、『それ』が一方的にこちらを潰しに来たわけではないと分かった。

 

 

 だからこそ、『対話』と言う手段を取れた。

 

 

「あんた……」

 

「ン? 喋レルノカ?」

 

 

 喉の筋肉をフル稼働させ、言葉を絞り出す。すると、深海棲艦から驚いたような声色が返ってくる。

 

 

「それ、は……こっち、の、台詞よ……」

 

「……ッハハハハハ!! ソリャソウダ!! オ前ラカラスレバ、私ノ方ガヨッポド可笑シイダロウサ!!!!」

 

 

 思わず零れた言葉に、深海棲艦は豪快に笑い飛ばした。戦場に立っているとは思えないほど自然に笑い声を上げるそれに、私は更に言葉を続ける。

 

 

「それ、よりも……あんた、何……?」

 

「アァ、何言ッテンダ? コンナ場所デ、艦娘(オ前ラ)ヲ襲ウ時点デ答エハ出テンダロ?」

 

「違う……もく、てき……」

 

 

 深海棲艦の呆れた言葉に、私は問いの続きを口にした。それが何かなんて、もう出会ったその時に分かっていた。だからこそ、私はその問いを口にする。そして、その問いもまた向けられた側にとっても分かり切ったことであろう。

 

 

「アッハハハハハハハ!!!!!」

 

 

 やはり、と言うべきか、深海棲艦は先ほどよりも大きな笑い声を上げた。本当に可笑しかったのだろう、本当に笑えたのだろう。だからこそ、それは必死に笑いを押し殺しながら、こう言ったのだ。

 

 

 

 

「ッァ、ッハハッ……ソ、ソンナ……ソンナノ……オ前ラヲ沈メルタメサ」

 

 

 最後の言葉は、一切笑っていなかった。まるでスイッチが切り替わったかのように冷たく、機械染みた声だった。それと同時に、私の首を掴む力が一気に強まり、私は気管を潰されまいと必死に空気を吐き出した。

 

 

「全ク、折角コッチカラ攻メル好機ダッタノニアノ駆逐艦ノセイデバレチマッテ、仕方ナク挟撃デ墜トソウトシタラ戦艦ノ突出デコッチガ墜トサレルワ、単騎デイッタラ取リ逃ガスワ、全ク散々ダヨ……マァ、コウシテ網ヲ仕掛カケタラマンマト掛ッタワケダガ」

 

 

 深海棲艦は何処か疲れた様に愚痴を吐き続ける。その間、なおも私の首は絞められていく。私は絞められていく首に必死に抗うだけで何もしなかった。それをどう受け取ったのか分からないが、深海棲艦は更に言葉を続ける。

 

 

「オ前ラモ大変ダナァ? タカガ戦艦ト駆逐艦ノ為二コンナ所ニ放リ出サレテ……潜水艦ナラ危ナクナイト思ッタンダロ? 残念、私ハ対潜モ出来ルノサ。ムシロ潜水艦狩リノ方ガ得意ダッタリスル……トイウ訳デハナイケド、露払イ程度ハ出来ル。戦艦ガ対潜ナンテ普通考エナイカラ、オ前ニ非ハ無イサ。ダカラ―――――」

 

「そう、分かったわ」

 

 

 自らを戦艦と称した深海棲艦の言葉を、唐突に遮る。すると、驚いたように息を呑む音が聞こえる。私が喋れる余裕が無いとタカを括っていたのだろうか。生憎、私は『出来なかった』わけではない、『しなかった』のだ。

 

 

 何故しなかったのか、それは当初の目的があったからだ。

 

 

 

「『取り逃がした』ってことは、まだ金剛さんたちは沈んでないのよね」

 

「……ソレヲ知ッテ如何スル? オ前等ヲミスミス逃ガス訳無イダロ」

 

 

 私の言葉に、その戦艦はさも動じていない口ぶりで問いかけてきた。戦艦の話を鵜呑みにすれば、金剛さんたちは戦艦の手を逃れたことになる。その信憑性はその話と今こうして戦艦が網を張っていた事実である程度保障される。そしてそれは私たちにとって重要な情報だ。これを持ち帰れば、次の作戦に移れる。

 

 そう、『金剛さんたちの情報を集める』と言う私たちの目的は達成されたわけだ。そして、それを簡単に口にした戦艦は自らの不用心さを嘆くだろうが、それも伝わらなければなんら問題ない。

 

 

 更に言えば、その情報を持っているのは今自らが首を締め上げているボロボロの潜水艦のみ。締め上げる力を籠めれば、潜水艦は簡単に息絶える。仮にその手を逃れたとしてもボロボロの潜水艦を沈めることぐらい造作もない。同時にゴーヤたちの存在も把握しており、そちらもソナーと艦載機を使えば簡単に落とせる。最悪は私を使うだろう。つまり口封じはいくらでも出来てしまうわけだ。だからこそ、戦艦は余裕を保っているのだろう。

 

 この状況を打開するにはこの戦艦に被害を、最低でも艦載機を発艦できない中破状態にまで被害を与えなければならない。もしくは著しい機関部への損傷を与えるか。余裕ぶりから、この戦艦は装甲の分厚さにも自信があるようだ。恐らく、たかが潜水艦の魚雷を喰らった程度ではビクともしない程だろう。

 

 

 この現状は私たちの『戦艦は対潜攻撃が出来ない』と言う慢心が招いた結果である。

 

 もう一度言おう、この現状(・・・・)は『私たち』の慢心が招いた結果である。

 

 

 

 ではこれから(・・・・)は、『どちら』の慢心が招く結果だろうか。

 

 

 

「私の僚艦、舐めんじゃないわよ」

 

 

 そう呟く私の耳には―――――視覚、痛覚を手放し聴覚がより敏感になった私の耳には聞こえていたのだ。水流を切り裂きながら虎視眈々と迫りくる3つ(・・)の音を。

 

 

 次の瞬間、強烈な爆発音が鼓膜を叩いた。同時に足元がフワリと浮き上がる――――爆風に押し上げられたのだ。

 

 

 

「ガッ……」

 

 

 それに一拍遅れて戦艦が呻き声を上げる。だが、それも立て続けに起きた2回の爆発によって完全に掻き消された。同時に、私の首を掴んでいた力も爆発が起きる度に弱まっていき、3回目にはボロボロの私でも容易に振りほどけるほどだ。

 

 足元から押し上げる爆風を利用し、私は戦艦の手から逃れた。そのまま爆風に身を任せ、次の瞬間背中から海面に落ちる。海中に飛び込んだ衝撃で意識が飛びかけるも、すぐさま何者かに手を掴まれたことで手放すに至らなかった。

 

 

 

『こちらゴーヤ。旗艦イムヤの保護に成功、これより戦闘海域からの離脱を図る』

 

『こちらイク。発射した魚雷3発の機関部命中。敵戦艦の著しい速力低下を確認。牽制にもう3発を発射する』

 

『こちらハチ。進行方向に巨大な濃霧を確認、敵艦載機の攻撃を避けるために突入する』

 

 

 

 耳元の無線から三人の声が聞こえる。誰一人焦ることなく、己の役割を着実に遂行してくれる。何とも頼もしい、心強い。本当に、私なんかにはもったいない。

 

 

 

作戦(・・)成功』

 

 

 そんな彼女たちに、私は無線で声をかけた。

 

 

 そう、これは私たちが事前に決めていた作戦。作戦と言っても事前に話し合ったわけではなく、発端はつい先ほどエンジン音が聞こえた直後だ。

 

 

 

『私が囮になる』

 

 

 そう、短く伝えただけ。そんな作戦なんて言えない只の大博打である。成功する見込みはほぼゼロに等しかったが、そこは皆が何とかしてくれるだろうな、なんて思っていた。まぁ最悪の場合も考えてはいたが、それに陥ることは無いだろうと確信していた。

 

 

 先ずはイク。元々、彼女は私たちの中で最も戦果を挙げていた子であり、特に雷撃の命中率は頭一つ飛び抜けていた。それは初代の頃も変わらない。故に戦闘における被害が最も少なかったと言える。

 

 次にゴーヤ。彼女は持ち前の幸運である。ここぞと言う場面では必ず戦果を挙げ、こと敵の攻撃を避ける回避能力は尋常ではなかった。撤退する際も彼女が殿となることが多く、今回も()に次ぐ危険な役割を担った。

 

 最後にハチ。彼女はその知識の豊富さと鋭い洞察力。この海域に入る前に濃霧の発生条件を艦隊に提供し、海域に入ってすぐに海流の複雑奇怪さを見抜き、それが濃霧の発生源であると言い当てたのだ。また、彼女が偵察機を飛ばしていたのも、情報を最も扱えるのは彼女だからである。

 

 

 そんな僚艦たちが揃っている。だからこそ私は大雑把な作戦をぶち上げるだけでよく、躊躇なくこの身を囮に差し出せる。彼女たちならきっとやり遂げてくれる、というあちらからすれば何ともはた迷惑な『信頼』を寄せられるのだ。

 

 

 私の無線に、最高の僚艦たちは異口同音にこう答えた。

 

 

 

『『『ばかイムヤ』』』 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

『軽巡ホ級の轟沈を確認、これにより敵残存兵力の殲滅完了だ』

 

 

 無線から聞こえる天龍の声に、私は構えていた砲門を下げる。同時に張りつめていた殺気を解くと、ドッと疲れがのしかかってきた。

 

 

「大丈夫、響ちゃん?」

 

「……うん、大丈夫だよ」

 

 

 疲れにふらついた私―――――響を、心配そうな顔の潮が支えてくれた。その言葉、そして支えてくれた手を受け、私は何とか倒れずに済む。久しぶりの長期戦だから、ちょっと気が抜けちゃったか。最近、ずっと遠征ばかりだったからだろう。

 

 

「疲れたなら、帰投するか?」

 

「バカ言うんじゃないよ。何も得てないのに帰れるかい」

 

 

 ふらついた私を見て天龍が少しおどけた様に問いを投げかけ、それをピシャリと否定する。非常事態ではあるが、気を張りつめ過ぎるのはよくない。それゆえに空気を緩めるような発言をするのは彼女の良い所だ。

 

 まぁ、そんなこと言う天龍は常に目を光らせており、気を抜いているわけではない。傍らの龍田も黙っているもののその得物は手の内にあり、視線に至っては常に臨戦状態だ。

 

 

 北方海域の中でも特に複雑奇怪だと言える海流の渦中に浮かぶ島――――キス島。おまけに濃霧に塗れ、艦隊の進撃もままならない。守るに易く攻めるに難し、周辺海域全体が難攻不落の牙城だ。本来であればありとあらゆる対策を講じた上で気運、天運を計り、全てが揃った瞬間を狙わなければ、先ず落ちない。

 

 しかし、今回は攻略作戦ではなく救出作戦である。勝利よりも各艦の帰投を第一、僅かな時間をその目標一辺倒に注力させた。これもまた奇怪な作戦だと思えてしまう。そしてこれを掲げたのが司令官だと言うのも、正直耳を疑いたくなるほどだ。

 

 だが、私はこの作戦になじみがある。何の因果か、この作戦は私にとって『4回目』。1回目(・・・)はあまりいい思いではないかな……作戦中に攻撃を受けて前部を損傷、前進できずに後進で何とか帰投した苦い苦い思い出だ。その時、帰投まで私を守ってくれたのが「レディー、レディー」とうるさい姉だったね。

 

 

 

『絶対に守るから、お姉ちゃんに任せなさい』

 

 

 そう、前が見えない私に何度も何度も語り掛けてくれた。その声、その言葉、その暖かさに、私は何度も救われた。その時、そしてそれ以降、更には今の私(・・・)になってからも。変に背伸びするよりも自然体でいる方がよっぽど大人っぽいのに、と人知れず思っていたが、結局言えずじまいだったなぁ。

 

 

 ねぇ、暁。私はちゃんと、『お姉ちゃん』になれたかなぁ……

 

 

 ……駄目だね、思い出話に花を咲かせている場合じゃない。とにかくこの海、そしてこの『救出作戦』に一家言を持つ私は司令官に捜索部隊を志願した。そしてその言は受け入れられ、今はキス島を左手に大きく南回りで進出している。このルートは、2回目に似ているな。

 

 航行して分かったけどが、やはり一回目とは少々海流が変わっているみたいだ。あの時よりも流れは少しだけ緩和してるね。これなら戦艦でもある程度までなら奥へ行ける。濃霧の乱立は相変わらずだけど、ここまで早かったかな。逐一気付いたことはまとめておかないとね。

 

 

「そうか、ならこのまま行―――」

 

「天龍ちゃん」

 

 

 私の軽口を流した天龍の言葉を、傍らの龍田が遮った。いや、それよりも前に天龍が言葉を止めたのだ。彼女だけではない、この場にいた全員が天龍と同じ方を―――龍田が指す方へ目を向けたのだ。

 

 そこには、黒い煙を上げる何かが近づいてきていた。こんな大海原、黒い煙を上げることが出来る存在は限られている。それは艦娘(自分)たちか、深海棲艦()かだ。

 

 

「吹雪……なわけないか」

 

「えぇ、深海棲艦ね」

 

 

 刃物のような視線で自らが吐いた希望的観測を否定する天龍に、龍田がその答えを上げる。それは今この場に居る全員の一致した見解だ。そのため知らず知らずのうちに全員が戦闘態勢を整えていた。しかし、それは数秒もしない内に解かれることとなる。

 

 

 

「補給艦……?」

 

 

 その発端は目を細めて凝視する潮である。彼女の言葉通り、煙を上げているのは敵の補給艦であった。金剛たちの捜索と同時に敵補給路の寸断を担う私たち水雷戦隊にとってまさに格好の獲物である。それを確認した私が天龍に目を向けると、彼女は無言で頷いてその補給艦に近付いていく。それに全員が戦闘態勢のまま後に続いた。

 

 

「んだこれ、補給艦の残骸じゃねぇか」

 

 

 だが、それも彼女の素っ頓狂な声によって張りつめた空気は一気に緩んだ。必要最低限の態勢を保ったまま、私たちは天龍の元へと急ぐ。彼女に近付くと同時に、その目の前に漂ってるのが航行能力を失った補給艦の残骸であると確認できた。

 

 

「何でこんなところに……」

 

「さぁな、他の部隊が打ち漏らしたのがここまで流れてきたのかもな」

 

 

 補給艦の残骸をマジマジと見つめながら、天龍が一つの可能性を上げる。確かに、私たちが見逃した補給部隊が他の部隊とかち合い、打ち漏らしがここまで流れてきたと言うことも考えられる。

 

 

「だけど補給艦は艦自体だと積載した物資の重みで沈んじゃうでしょ? まぁ積載した物資が減っているのなら話は別だけど……」

 

 

 その可能性を龍田が否定した。補給艦は物資を運ぶ専門の船だとしても、その積載量はエンジンの馬力も含まれている。仮にエンジンを稼働させずに最大積載量を乗せれば、その重みで艦自体が水没してしまう恐れがある。まして煙を上げているのだから、耐えうる積載量も大幅に低下している筈だ。

 

 

「龍田さんの言う通り、物資は殆ど残っていません」

 

 

 その答えを、その残骸を手早く調べた潮が上げてくれた。これで残骸が此処まで流れてきた理由までは把握できた。では、私は一つ気になったことを聞いてみることにしよう。

 

 

「目測で良い。減った(・・・)物資の量は分かるかい?」

 

「えっと……ちょっと待ってくださいね」

 

「何でだ?」

 

 

 不意に投げかけた問いに潮は戸惑いながらも従ってくれ、彼女を含め私以外が浮かんだであろう問いを天龍が投げかけてくる。それを受けて、私は補給艦の残骸を指差しながら答えた。

 

 

 

「もしかしたら、これは金剛たちへの手がかりかもしれない」

 

「本当か?」

 

 

 私の言葉に、天龍が真剣な顔でそう言ってくる。周りを見回すと、補給艦を調べる潮以外が同じ目を向けていた。同時に、潮の作業スピードも幾分か早くなる。

 

 

「これは深海棲艦の補給艦。同時に航行機能を失うほどの損害を受け、そして積載していた物資が残っていない。このことから襲撃者の目的は物資を奪うため(・・・・・・・)だと言える。そして現状、深海棲艦を襲える存在は艦娘(私たち)だけだ」

 

「つまり、この補給艦は金剛さん、損傷報告的に吹雪ちゃんが襲った可能性が高いってことね」

 

 

 私の説明に龍田が結論を述べてくれたので、頷き返す。あくまでこれは可能性が高いと言うだけだ。絶対ではないけど、金剛たちがこの海域に潜伏しているかもしれないと信頼できる証拠ではあるだろう。さて、不確定要素を孕んではあるが報告すべきかな。

 

 

「強ち、間違いじゃないかもしれませんよ」

 

 

 思案に明け暮れた私に、何処か確信染みた声色で潮がそう言った。その言葉に目を向けると、何故か彼女は補給艦の残骸、正確にはその船体に穿たれた弾痕を指差していた。

 

 

 

「この弾痕、恐らく10cm連装高角砲のものと思われます」

 

 

 潮の一言で、可能性が一気に現実味を帯びてきた。10cm連装高角砲は対空装備であり、特に対空に優れた艦娘に配備されている。そして、うちの鎮守府で最も高い駆逐艦は吹雪だ。逆に深海棲艦側で何らかの理由により同士討ちをしたとしても、あっちの装備は全て『inch』だ。その微妙なずれを見逃すことはない。

 

 

「物資数は?」

 

「目測ですが駆逐艦2、3人分、もしくは戦艦1人分程度です」

 

 

 極めつけがこの解答だ。もっと言おう、今この補給艦は航行不能に陥る程の損傷を受け、沈まなかったのも物資を奪われたからだ。更にこの残骸は煙を上げていた、つまり火の手が上がっていたわけだ。襲撃からそこまで時間が経っていないことを示している。

 

 

「こいつは何処から流れてきた?」

 

「海流の流れ的にもう少し先の方だろう」

 

「……行くか?」

 

「待って」

 

 

 私の答えに進撃を選択しようとした天龍を龍田が押し留める。その目は私が指し示した先、海域の奥に注がれている。その先に全員が視線を向けると、同時に全員が戦闘態勢を整えた。

 

 

 

「……数は?」

 

「1隻。駆逐艦ね。距離的に追いつけなくはないけど、奥に踏み込まないといけないわ」

 

「攻撃の意志は?」

 

「……無し、ね。偵察っぽいけど、こっちが気付いても特に反応なし。ずっと様子を見てるわ」

 

 

 天龍姉妹のやり取りを聞きながら、私は遥か彼方に見える1隻の駆逐艦を凝視する。真っ青なキャンバスに落とされたインクの痕のように、この大海原にたった1隻だけで、こちらが気付いても構わず静止しているのだ。

 

 偵察にしては不用心すぎるし、ここは囮と判断した方がよさそうか。更にこの残骸を襲撃したのが吹雪だとすれば、その音を聞きつけて敵が集まってきているかもしれない。あの駆逐艦は囮兼先遣隊の一部、ということもある。下手に踏み込むのは危険だ。

 

 

「……帰ろう」

 

「だな、下手に刺激しない様少しずつ離れていく。龍田、後尾に回れ」

 

「了解」

 

 

 私の言葉に天龍が同意し、私たちは撤退を開始する。有益な情報を手に入れた、後はこれをどう生かすか。そこは司令官にかかっている。しかし、たかが駆逐艦一人が大勢を動かせるはずもなく、出来るのはこの情報を無事に鎮守府まで送り届けることぐらいだ。

 

 とはいっても、一つ腹案があった。有るにはあるが、恐らく採用されないだろう。何せ、彼の命令に則してないからだ。

 

 

「……さて、どうしたものか」

 

 

 撤退中、一人頭を捻ってみる。採用されないにしても、どうにかこの腹案を彼に伝えたいからだ。天龍に吹き込むか、長門や加賀に伝えるか。方法はたくさんある。この帰投中に思いつけばいい。

 

 そんな思案に明け暮れたせいで、私は気付かなかった。それは様子見の駆逐艦が私たちの撤退と同時に近付いてきていたこと。

 

 

 そしてその反応が補給艦の残骸に到達した瞬間、範囲外へと消えてしまったこと。



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『素敵』な汚れ

 頭上から聞こえる甲高い音、空気を切り裂く音だ。

 

 そっと目を開け、ゆっくりと頭上へと視線を向ける。そこは一直線に私へと向かってくる艦載機――――あの頃は空気抵抗、重量、装甲、搭載弾、機動力、航空距離、全てにおいて比類なき戦闘力と美しいフォルムが両立する艦載機。その恩恵は今、私が発艦する艦載機たちにも少なからず引き継いでいる。

 

 それに比べて、今こうして目の前に迫る()艦載機はどうだ。歪な形、乱暴な配色、空気抵抗なんか一切考えておらず、ただ搭載する機銃、爆弾、とにかく私たちを沈めるモノを盛り込んだだけ。もし、この設計を考えた者がいれば、私は何故こんな風にしたと詰め寄るだろう。

 

 

 なお、最も腹立たしいのはその何もかもが考えられていないそれの方が、私たちの艦載機(もの)より幾分か高性能だと言うことか。

 

 

「不愉快だわ」

 

 

 その不愉快なものを見据えながら、私は呟く。すると、次の瞬間その不愉快なモノから火の手が上がり、一直線を進んでいたはずの軌道はドンドン横に逸れていく。その最後は私から大分離れた水面に吸い込まれ、小さな水柱を上げた。

 

 その水柱を視界の隅に置きつつ、私はその場で大きく身体を翻して旋回。今しがた立っていた水面から数メートル程離れた地点に移動する。そして一呼吸おいて、先ほど私が立っていた水面に人一倍大きな水柱が立ち上がった。あの不愉快なものが引っ提げていた、これまた威力のみに特化した不格好な爆弾が落ちたのだ。

 

 その水柱を、今度は視界にも入れない内に早々と今立っている海面から移動する。その後を追う様に、大小様々な水柱が上がるも、その全てが私を掠ることはない。多少水を被るのが億劫なぐらいだ。

 

 それでも私の溜飲は幾分か下がった。何故ならその水柱が上がる数と合わせて敵艦載機が火の玉となり水面に落ちていくのだから。

 

 

「優秀な子たちですから」

 

 

 ポツリと私――――――加賀は呟く。同時に周りに目を向けると、同じく敵艦載機を縦横無尽に翻弄する味方艦載機の姿。

 

 大胆不敵な旋回、立ち回り、明らかにパイロット及び機体に負荷をかけるであろう無茶な軌道で戦闘を繰り広げるのは龍驤率いる航空隊。私の航空隊ならあんな動きしないだろう、出来なくはないが確実に後の戦闘に支障をきたすのは目に見えている。それを可能とするのは、彼女が第一航空戦隊の最初期であるためだ。

 

 特に目立った動きをせず、そのくせ見敵必殺のごとく一機一機を確実に仕留めていく堅実なくせにただ殲滅を正とするのは隼鷹率いる航空隊。黙々と艦載機を屠りつつ、綱渡りな戦闘をする龍驤隊の隙を埋め合わせる芸当を見せている。目立つことを極力恐れ、周りに迷惑を掛けないことに心血を注いでいた彼女らしい緻密な戦闘だ。もう少し大胆になっても良いと思うが、現状では彼女の働きは心強い。

 

 そんな彼女たち、そして護衛艦を伴った私率いる航空戦隊は現在、キス島沖周辺を回遊しつつ出会った敵艦隊を悉く殲滅しながら進んでいる。会敵するのは殆ど水雷戦隊程度である。現在は珍しく航空部隊を相手取っているが、練度はそこまで高くない。キス島が不毛の地であるために十分な補給が出来ない上に、水雷戦隊が補給線を潰しにかかっているためだろう。

 

 こんな思考にふけりながらも、視界の端に捉えればすぐさま私の部隊が叩き落してくれる。それで取りこぼそうが他の皆が捌いてくれる。おかげで私は戦闘にそこまで集中する必要が無く、代わりに現状把握と後の行動方針に思考を振ることが出来るのだ。

 

 まぁ、それでも最優先事項である金剛たちの行方は何一つ掴めていないわけだが。これだけ暴れているところにわざわざ乗り込んでくるとも考えづらいし、何より敵の目を引くことは出来ているからそこまで問題視していない。捜索自体は潜水艦隊、水雷戦隊に任せればいいわ。

 

 

「さて、上手く引き付けられたかしら?」

 

 

 そう呟き、粗方敵を落とし終えて手持無沙汰になった自部隊の何機かを偵察に回す。同時に出撃前に見せてもらったキス島海域の大まかな海図を思い浮かべ、敵艦隊との遭遇地点をマッピングしていく。

 

 回遊しつつ見敵必殺を実行してきたことで、敵はキス島海域全体に満遍なく部隊を配置していることが分かった。恐らくは近々攻勢に出るための下準備、索敵を主目的として水雷戦隊を配置していたのだろう。その証拠に会敵した敵の数は多いモノの一つ一つの戦力は水雷戦隊程度であることは前に述べた通りだ。そして、それらを悉く潰している今、総数は不明ながらも敵戦力は幾分か低下していると考えられる。

 

 それは敵が張り巡らせた防衛線に穴を作ったことと同じであり、そこに補給線の破壊工作だ。敵は蜂の巣をつついたように大騒ぎだろう。だがそれは一時的なものであり、敵は総戦力も保有する資源も全て私たちより上である。一時優勢になったところで最後は物量が勝つのは目に見えている。

 

 

 だがこの状況は――――『攻略』ではなく『救出』が目的であるこの状況は、今のところ(・・・・・)順調だと言えよう。

 

 

 今回の目的は金剛たちの救出、そして隠密を基本とする救出部隊に私たち航空戦隊は目立ち過ぎる。であれば、私たちは目立てばいい。周りが霞んで見えるほど周りの目を引き付ければいい。強すぎる光は周りのものを全ての飲み込み、見えなくしてしまう。ちょうど、太陽の強すぎる光が星々の輝きを隠してしまうのと同じである。

 

 私たちが縦横無尽に暴れ回れば、敵の戦力を削りつつ敵に主力が私たちであると思い込ませることができる。するとどうだろうか、敵は主力である私たちを迎え撃とうと相当な数を寄こすだろう。そして、この襲撃は先ほど突破されたモーレイ海攻略時に幾度となく行われた哨戒部隊、その中で敵主力と交戦したことがある艦娘で構成されているとすれば……もう私たちだけに目を向けるしかなくなる。

 

 

 私たちがすべきことは、その一時的な優勢を少しでも延命させ、同時に敵の目を一身に集めること。提督が絞り出した作戦、その最大にして最強の敵――――『時間』を確保することだ。

 

 

「加賀」

 

 

 不意に声を掛けられ、声の方を向くと制服が所々破れている龍驤が真剣な面持ちで立っていた。普段、飄々として掴みどころのない彼女が珍しく真剣な表情を浮かべている。

 

 

「あら、もう掃討完了?」

 

「……敵航空母艦の轟沈を確認、粗方潰し終わったで。今、隼鷹が偵察機を出すところや」

 

「偵察機は既に出しているわ。それよりも損害報告を」

 

 

 私の発言に面を喰らったのか龍驤は一瞬驚いた表情を浮かべるも、すぐに顔を引き締めて損害報告を上げてくれた。

 

 

「うち、隼鷹が小破、護衛の駆逐艦一人が中破、他は損害無しや。せやけど燃料、弾薬が空っぽに近い。これ以上の進撃はしんどいで?」

 

「……そうね、この辺が潮時かしら」

 

 

 龍驤の報告に私の中で撤退の算段が付く。元々、戦闘は極力避けるように言われている。このまま戻ったところで何も問題は無い。まぁ、恐らくその言葉を鵜呑みにする艦娘は誰一人いないのだけれど……出来れば、私たちのすべきことがなされたかどうかの確証が欲しいところね。

 

 

「加賀」

 

「何?」

 

 

 再び、龍驤が声をかけてくる。それに、私は偵察機からの情報に集中していたため生返事で答えた。多分、彼女は今も真剣な表情を、いや少し責めるような顔で私にこう言っただろう。

 

 

「何で信じられたん?」

 

「逆に、何で信じられないの?」

 

 

 龍驤の問いを正反対にして、そのまま投げ返した。顔を向けず、偵察機から送られてくる情報の整理に集中しながらだったため、その問いを正面から喰らった龍驤の表情を見ることは叶わない。だが、先ほどよりも息を呑む声から、その表情が更に酷く歪んだものであることを察した。

 

 

「やけど、あいつは司令官を―――」

 

「その答えは長門が言ったじゃない。その提督が『あいつ』を―――――憲兵を信じた。それでおしまいよ」

 

「……騙されている可能性は?」

 

「無きにしも非ず、と言ったところね。ここで良い顔をして私から信頼を得ようとしているのかも。でも、私たちは提督の指示に従い、そして実際に提督は彼に協力を仰いだ。彼が私たちから信頼を得ても意味が無いし、既に提督からは協力を仰がれるほどの信頼を得ている。価値の無い信頼を得るために彼があそこまでのリスクを背負う必要が何処にあるの? まぁ、もし私たちの想像のつかない深い所に真相があるのなら……彼はよほどの人物だと言うことね」

 

 

 龍驤の問いに、私も長門と同じように正論を持って否定する。あまりこういうことはしたくないのだけど、手っ取り早く話を片付けるにはこれが最適なの。感情、思惑、そこに至る過程の全てを廃し、理論と結果だけに焦点を当てた言葉。これを叩き付けるのは二度目ね。

 

 

「その真相って何や?」

 

「それは分からないわ……と言うか、貴女がそこまで食い下がるなんて珍しいわね。何かあったの?」

 

 

 だが一度目よりもダメージに慣れてしまったのか、龍驤は尚も食い下がってくる。彼女がここまでしつこいのは珍しい。いつもなら真っ先に最もな理由を付けて周りを丸め込むのが彼女の立ち回りなのに。その姿とのギャップに、私は思わず問いかけてしまった。

 

 すると、その問いに龍驤は眉間に刻んだしわを更に深くさせる。だが、その険しい表情に反して威圧感と呼べるものは全くなかった。凄味を持たせた表情の筈なのに、何故かそれが我を通そうとする子供のような脆弱性を孕んでいたからだ。

 

 

 

「あいつの目的が、全く読めへんのや」

 

 

 そんな子供みたいな表情のまま、彼女は答えを絞り出した。そこで、私は初めて集中を途切れさせられたのだ。

 

 

「あいつは大本営の指示で此処にやってきた、言ってしまえばスパイや。そして、指導と称したあら捜しはまさにそれやったやん。それについ先日の食堂の件で完全にボロが出て、うちらもアイツもそう認めて砲口を向けた。修復しようのないほどの溝を互いに穿ったはずや。やけど、あいつは今も此処にとどまっている。あまつさえ以前ほど過激ではなくなったもののあら捜し自体は続けている。それだけでも理解不能なのに、そこに降って湧いた今回の騒動。あいつにとってまたとない機会、絶好のあら捜しポイントなのに、今回に限ってその素振りすら見せない。むしろ解決に持っていこうとしている。『司令官から頼まれた』だけでは説明がつかないほどに支離滅裂な行動の上その先が読めない……これほど怖いものは無いやろ」

 

 

 龍驤の言葉、恐らく彼女の疑問、心配、懸念に該当するであろうその言葉。それもまた、正論と呼べる類いであった。正論で結論付けられたものは大概何処に目を通しても真っ当な根拠がある―――――正論が成立する上での絶対条件と言えよう。それゆえに、龍驤はその真っ当な根拠を求めている。彼の不可解過ぎる行動を当然のことだと成立しうるだけの真っ当な理由を求めているのだ。

 

 そして、彼女の言葉に私は驚いた、驚いてしまった。それはそこまで考えが至らなかったわけでも、そしてこれであると胸を張って断言できる答えを持っているわけでもない。

 

 

 

 目の前に差し出されたこれであろう(・・・・・・)という答えに、彼女が全く気付いていないからだ。

 

 

 

「……そうね、私もそこまでは読めないわ」

 

「やろ? なら――――」

 

「でも、彼にはちゃんと目的があるみたいよ。それも――――」

 

 

 私から同意を得たことで笑顔を綻ばせた龍驤に、再度冷や水を浴びせ掛けることとなる。

 

 

「正論よりも自分(・・)よりも、よっぽど大事なものをね」

 

 

 何処か遠くを見つめるように、私はそう絞り出していた。その視線の先は何処までも広がる大海原。そのずっとずっと先に一人の後ろ姿を捉える。その後ろ姿は黒い制服に身を包んだ男性とも、所々くたびれた白い軍服に身を包んだ男性とも。

 

 

 腰に届くほどの黒髪を揺らす赤い袴姿の女性とも見えた。

 

 

 

『航空部隊旗艦加賀、応答願う』

 

 

 その後ろ姿は、唐突に聞こえた無線の声によって掻き消された。いきなりのことに思わず無線に手を置く。その様子に龍驤は何事かと近づこうとするも、私が手を差し出したこととで制した。

 

 

 

『む? 加賀ぁ? 聞こえてるか? おーい』

 

「……いきなり通信してこないで」

 

『なんだ、聞こえているじゃないか。うん、感度も上々っと』

 

 

 突然の通信に苦言をぶつけるも、声の主は気にする素振りを見せない。その口ぶりから、何処か悪戯っぽい笑みを浮かべながら笑っているその姿が浮かんできた。誰よりも子供っぽい笑みを浮かべる超弩級戦艦の姿を見てしまえば、もう何を言っても無駄だと諦めるしかない。

 

 

「それで、一体何の用?」

 

『今何処にいて、どんな状況で、これからどうするか、その情報共有だ。知っておいて損はないだろ?』

 

 

 無線の向こうからのんびりとした声色で長門が提案してくる。元々、私たちは同じ目的――――哨戒部隊の撃破を担っている。そして私たちは事前に互いの担当範囲を決めていたため、出撃から今まで一度として合流することは無かったのだ。むしろこういう通信すら決めていなかったこと自体おかしな話だが、今はどうでも良いか。

 

 

「こっちは既に哨戒済みよ。ついでに戦闘も終わって、そろそろ帰投しようとしていたところ」

 

『お、そ、―――か。流石――な』

 

 

 時間を取らせるのもあれなので端的に帰投することを伝える。しかし、何故かその答えは途切れ途切れでよく聞こえない。通信不良かと思ったが、音声自体が途切れているわけではない。どちらかと言えば何か大きな音にかき消されているような……

 

 

「……で? そっちの状況は?」

 

 

 一つ、思い当たるものがあり、それを飲み込んで問いかけた。いや、まさか、まさかそんな状況で通信を送ってくることは無いだろう。そう思いながら、同じ問いを投げかけた。

 

 

『ん? こっちは――――』

 

 

 その答えを、恐らく最後まで拾うことは出来なかっただろう。それは何故か、簡単である。

 

 

 

 

 通信を行っていた私のすぐそば(・・・・)に、巨大な水柱が立ち上がったからだ。

 

 

「っぇ、ゲホッ、ぺッ、ペッ…………うぅ、海水が……」

 

 

 立ち上がった水柱から落ちてくる海水を盛大に被った私は思わずその場で狼狽えてしまう。大海原を駆け回っている手前、戦闘で水柱を被るのはしょっちゅうだ。慣れているとはいってもこうも諸に被るのはまた別問題である。

 

 

『ちょっと、大丈夫?』

 

 

 すると、無線の向こうから彼女の声が聞える。いつも冷静に、そして些細なことでもなかなか動かない彼女の声色が何処か上擦っている。心配してくれているのか、なんともめずらしい。

 

 

「あぁ、ちょっと水を被っただけだ。問題ない」

 

『そう…………で? 改めて聞くけど、そっち(・・・)の状況は?』

 

「あれ、聞こえなかったか? 今、私たちは――――――」

 

 

 そう言って、私―――――――長門は大きく旋回、その場を離れた。

 

 

 旋回した直後、つい先ほど立っていた場所に大きな水柱が立ち上がる。それに向けて、私は片手を突き出す。同時に腰に据えられた艤装が金切り声を上げて稼働し、瞬く間に巨大は二つの砲門が水柱へ向けられた。

 

 その一瞬、私の世界から音が消えた。有るのは轟々と立ち上がった水柱が重力に従って海面へと落ちていく映像だけ。それはスローモーションのようにゆっくりと落ちていく。それを黙って見据え、同時に砲門の向きを微調整する。

 

 

 微調整が完了した時、水柱のカーテンが落ち切ってそれは現れた。その向こう側で黒々とした砲身、青白い肌、大胆に露出した四肢に禍々しい装甲を携えた深海棲艦―――――重巡リ級、その顔には勝ち誇ったものから突如、思考が真っ白になった呆けたモノに変わる。

 

 

 

「全主砲、斉射!!!! てーーーーッ!!!!」

 

 

 この海域に響き渡る咆哮と共に主砲が火を噴き、同時に呆けた顔をしていたリ級は凄まじい火力と爆炎の前に吹き飛んだ。それは過剰気味だったのであろう。主砲から解き放たれた砲弾の内、いくつかは爆炎となったリ級から飛び出してさらに飛距離を伸ばす。

 

 そしてこちらに横っ腹を晒していたそれ―――――おおよそ人の形を為していないまさに化け物と呼ぶべき様相の深海棲艦、軽巡へ級の船体に突き刺さる。次の瞬間、その船体もまた吹き飛んだのだ。

 

 

 

「……さて、実は――」

 

『大丈夫。そっちが戦闘中(・・・)で、その最中に『馬鹿』が余裕ぶって通信してきたと分かったから』

 

 

 改めて伝えようとした状況を、何とも不名誉な称号と共に投げ返されてしまった。その言葉に、思わず頬を膨らまる。

 

 

「『馬鹿』とは何だ、『馬鹿』とは。情報共有は最重要事項だろう」

 

『……あのね、状況を考えなさいって言ってるのよ』

 

「そっちはもう撤退する所だったんだろ? タイミングもバッチリだ」

 

『……もういいわ』

 

 

 向こうの咎めるような言葉に対して自信たっぷりに答えると、疲れた声が聞えた。『哨戒による疲れが出たのだろう』、そう言いかけたが、これ以上彼女の機嫌を損ねる必要は無いな。

 

 

『で、榛名の様子はどうかしら?』

 

「問題ない。向こうで、元気よく敵を屠っているぞ」

 

 

 加賀の言葉に、私はそう答えながら横目で話題の人物を見る。ちょうど、彼女が敵の駆逐艦を2隻相手取っている最中だ。

 

 

 駆逐艦たちは持ち前の機動力で榛名の砲戦を掻い潜っているが、双方とも所々に損傷を受けている。対して榛名は必要最低限の動きで敵の砲戦を回避し、お返しとばかりに砲戦を加えてその度に敵に小さい損害を与えているようだ。

 

 私たち戦艦の砲撃が駆逐艦に与える影響は大きい。例え直撃を避けられても、風や波、そして砲弾の破片など様々な衝撃は船体に確実なダメージを与えていく。それを見越してか、彼女は直撃を狙うよりも夾叉弾を断続的に行い確実な標準の確保と敵の機動力を奪う戦法を取っている。

 

 その戦法を把握しているのか定かではないが、その尋常ではない精密射撃と絶え間ない砲撃に駆逐艦たちは為す術もなく翻弄されるのみ。そんな状況で敵の砲撃が当たる筈もなく、その殆どは榛名から遠く離れた場所に小さな水柱を上げるだけだ。

 

 

「     」

 

 

 そう、遠目から榛名が何かを溢すのが見え、同時に敵駆逐艦同士が衝突する。その瞬間、彼女の腰に据えられた巨大な砲門が火を噴き、衝突した敵駆逐艦2隻は爆炎に包まれ沈んでいった。

 

 それを見届けた榛名は刃物のような目付きを解き、一息つく。そこには疲労を浮かべている。志願したとはいえ、彼女は金剛たちと離れてからこの捜索兼哨戒部隊に連投で出撃している。いくら入渠して肉体的疲労が無いとは言え、彼女が抱える疲れ全てを拭えることはない。

 

 

 

「お疲れ、榛名」

 

 

 そんな彼女に労いの声をかけると、彼女は疲れた表情のまま私に目を向け微笑む。そんな彼女にこっちへ来いと合図を送り、再び無線に声を通した。

 

 

「周辺に敵影は?」

 

 

 それは栄えある航空部隊旗艦への通信ではなく、我が部隊内に向けた通信である。戦艦(私たち)だって偵察機を有しており、空母ほどではないが索敵能力は高い。そして、今しがた溢した言葉はその中で最も索敵を得意とする戦艦に向けた言葉だった。

 

 だが、その返答はなかった。いや、別の形であった。それは私が言葉を向けた直後、凄まじいスピードで私の横尾を走り抜けていったその戦艦の姿であった。

 

 

 それも携えていた太刀を下段に構え、私の視線の先―――――今しがたこちらに近付いてくる榛名に斬りかからんとするように。

 

 

 

「日向!!!!」

 

 

 その姿に私はその戦艦の名を叫ぶ。だが、彼女――――日向は止まらない。全速力で榛名に突撃し、下段に構えた太刀を小さく後ろに向けた。突然のことに榛名も驚愕の表情を浮かべ、その場で急停止した。だが既に双方の距離は避けられる範囲を超えており、このままでは日向の太刀が榛名に浴びせられることは確実だ。

 

 

「榛――――」

 

『二人とも、屈みなさい』

 

 

 喉がはち切れんばかりに叫ぼうとした私の言葉を、もう一つの声が遮る。それは無線の向こうから、そして私の後方の二方向から聞こえた。同時に上から肩を押され、私はその力に負けてその場にしゃがみこんでしまった。

 

 その視線の先で、榛名は弾かれた様に私を、いや私をしゃがみこませた何かを見た。次の瞬間、その表情を驚愕から何か確信めいたものに変わり、すぐさまその場にしゃがみこんだ。

 

 

 そして見えた。下へと消えてゆく榛名の影からそこまで離れていない距離に立つ重巡リ級。その砲門が榛名へと向けられており、そしてその姿とほぼ同じ大きさの砲弾(・・)を。

 

 

 次の瞬間、その砲弾は日向の影に隠れてしまう。だが、次の瞬間下段に構えていた筈の彼女の太刀がいつの間にか前方へと振り上げられている。そして太刀を振り上げた彼女を両脇へと飛んでいく、真っ二つになった砲弾の破片(・・・・・)を。

 

 

 

「日向には、負けたくないの」

 

 

 同時に、頭上からポツリと漏れた声。それは次の瞬間、とてつもない轟音と共に放たれた砲撃によって掻き消されてしまう。その数秒遅れで、日向の身丈を優に超える爆炎が彼女の向こう側に立ち昇ったのだ。

 

 その爆炎を眺めながら、日向は振り上げていた太刀を一度横に切り払い鞘に納める。それ以後、彼女は不動のまま立っていると思ったら、唐突に耳に手を当てた。

 

 

 

『敵影、無し』

 

「あ、あぁ……」

 

 

 その声は無線から聞こえた。つい先ほど、私が投げかけた問いへの返答である。先ほどの無茶苦茶な突撃から砲弾を叩き斬る超人技を披露したとは思えない、何事も無かったような口ぶりだ。それを受けて私は何と言っていいのか分からず、適当な相槌を返すしかなかった。

 

 

「日向、ちゃんと説明しなきゃ駄目じゃない」

 

『私は説明下手だ。嗾けた(・・・)お前からの方が適任だろう』

 

「あら、嗾けたなんて人聞きの悪いこと言わないで欲しいわ。私は索敵ばかりで暇を持て余していた貴女のために出番を譲ってあげた(・・・・・・・・・)だけじゃない。むしろ感謝する立場じゃないかしら?」

 

『おや、そうだったのか? 私はてっきり為す術もなく私に泣きついた(・・・・・)とばかり思っていたが?』

 

 

 そんな私を放っておいて、無線を通して二つの声が幾重にも交わされる。その会話には所々棘があり、それを隠そうともせず互いが互いへ向けて吐き出しているのだ。だが、これでようやく状況が分かった。

 

 

 

「扶桑、そこまでだ」

 

 

 そんな終わりの見えないやり取りを、その名前を口にすることで幕引きを行った。同時に、私は立ちあがりながら後ろへ振り向いた。そこには、戦場に立っているとは思えないほど穏やかな笑みを浮かべた一人の戦艦が居た。

 

 

「あら旗艦様、如何しましたか?」

 

「相変わらず白々しいな……皆、戻ってきてくれ」

 

 

 あくまで白を切る戦艦―――――扶桑型戦艦一番艦 扶桑を尻目に、私は無線で艦隊の皆を呼び戻す。その間、私は白けた目を目の前に佇む戦艦に向けた。

 

 

「で、弁明はあるか?」

 

「ありませんよ。何せ、あれが最善策(・・・)ですもの」

 

 

 私の苦言に扶桑は真面目に取り合う素振りを見せない。確かに善策だとは思うが、『最』善策ではないだろう。

 

 

 さて、では扶桑がのたまう『最善策』とは何であったか説明しよう。

 

 

 先ず、私たち戦艦部隊は空母に及ばないながらも索敵機を搭載することは可能だと言うことは前に述べた。その中で最もポピュラーなのが零式水上偵察機である。これは戦艦型の艦娘が持つ初期装備に該当するもので、最も開発しやすい水偵だ。その反面、そのカテゴリー内では最も性能が低いとされており、尚且つ攻撃手段を持っていないために敵に見つかればほぼお終いだ。

 

 そんな中で、この水偵に急降下爆撃と言う攻撃手段を付け加えたのが、多用途水上偵察機『瑞雲』だ。これは従来の偵察機に違わぬ索敵能力を持ちながら、いざ敵艦隊を見つければ急降下爆撃を行う優れもので、後に現れる攻撃手段を有した水偵の先駆け的存在だと言える。

 

 この瑞雲、実は以前私が装備開発を担当させてもらった時に量産したものであり、電探と同様に弊鎮守府の戦力強化の一翼を担ったものである。そして、うちの鎮守府にはこの瑞雲の性能を十二分に引き出す稀有な艦娘が存在した。

 

 

 それが伊勢型戦艦二番艦 日向だ。

 

 

 正確に言うと、彼女は航空戦艦。私たち戦艦と空母の能力を併せ持つ艦娘であり、彼女曰く訓練時代からその頭角を現しており、卒業と同時に航空戦艦に改造された珍しい経歴を持つ。そのせいか彼女は砲撃戦よりも瑞雲を用いた索敵、及び急降下爆撃を、またその腰に携えた太刀で敵を斬り伏せる超近接戦闘を好むのだ。勿論砲撃戦に参加することもあるが、その精度は芳しくない。

 

 一部の噂では、彼女が航空戦艦に改造されたのは砲撃技術が水準に及ばず航空戦力としての運用するしかなかった、とある。本当であるかは不明である。

 

 そんな彼女は今回、戦艦部隊の索敵要員として出撃してもらったわけだ。そして、彼女は私の期待以上にいい仕事をしてくれた。だが、戦艦部隊としては航空戦よりも砲撃戦に重きを置くわけである。索敵専門の彼女をカバーできるだけの砲戦技術を要する艦娘が必要だった。

 

 

 その難しい役割を担うのが、扶桑型戦艦一番艦 扶桑だ。

 

 

 彼女の経歴は特にこれと言って珍しいことは無い。訓練時代もほどほどの成績であり、此処に着任してからも特に大きな戦果をもたらしたことも無い。だが、それは以前の鎮守府(・・・・・・)においてと考えると少し意味合いが変わってくる。

 

 今の提督が来るまで、此処は劣悪な環境であった。だが彼女はその劣悪な環境下である程度の戦果をもたらした。いつ、どこで、どんな状況で、どれほど劣勢でも一定の戦果を挙げた続けたのだ。一つ一つだけではその凄さが分からないが、全体を俯瞰してみるとそれがどれほど凄いか、異常であるかが分かるだろう。

 

 炎の如く敵に突撃するときもあれば、冷静に敵を狙い撃つ時もある、その場の戦況、自艦隊の特徴、敵艦隊の艦種、数、練度等々、戦場における様々な要因を加味しその中で自分が取れる最善策(・・・)を打つ。それが、戦艦扶桑の戦い方である。

 

 

 だが、その戦い方にも少し例外がある。それは、日向が艦隊にいる場合だ。

 

 

 どうも、この二人は強く意識し合っており、顔を合わせる度に先ほどのような軽口なのか嫌味なのかその境界が曖昧になるほどの毒舌合戦を行うのだ。だが、互いが嫌っていると言うわけでも、逆に好いていると言うわけでもない。互いの腹に何を抱えているかは分からないが、とにかく強く意識し合っている、こう表現するしかないのだ。

 

 

 その理由は、彼女たちが轡を並べた時、最も(・・)戦果を挙げるのだ。

 

 

 この二人。口では毒舌を投げかけ合っているのだが、いざ戦場に立つと二人は事前に話し合っていたとしてもここまでうまくいかないだろう、と思えてしまう程見事な連携を見せる。片方が動けばもう片方はその動きに合わせて立ち回り、進退、攻防、戦場における全ての行動を完遂してしまうのだ。

 

 その間に言葉が交わされることは無い。全てが阿吽の呼吸で行われ、そして寸分狂うことなく、まるでパズルのピースを当てはめていくように確実な戦果を挙げる。

 

 

 日向は、『扶桑の砲撃による砲弾の相殺では至近距離にいる榛名に少なからず被害を与えてしまい、尚且つ爆炎によって敵の位置を補足出来なくなる』と悟った。

 

 扶桑は、『日向では索敵にそほとんどの労力を費やしている上に不得手な砲撃では敵を仕留めることが出来ない』と悟った。

 

 

 先ほどの状況でこれを導き出すと、自ずと担うべき役目を悟ることが出来る。あとはその役目を着実に遂行するだけ。事実、先ほどの日向の行動は扶桑が指示を出したのか、それとも日向の独断なのかは不明である。

 

 しかし、そのどちらだとしても彼女たちは同じ行動を―――――日向が榛名に迫る砲弾を叩き斬り、扶桑が砲撃で敵を仕留めていただろう。

 

 

「……まぁ、そこまで持っていくことが鬼門なのだが」

 

「お褒めの言葉、ありがとうございます」

 

 

 私の呟きに、微笑みながら扶桑は悪びれもせずそう言ってくる。そんな彼女に半眼を向けていると、散らばっていた皆が戻ってきた。連戦に次ぐ連戦であったため少なからず傷付いている。こちらも航空部隊同様、撤退すべきか。

 

 

「如何せん、索敵が終わらなければなぁ……」

 

『その心配は無いわ』

 

 

 そんな私の耳に、今まで沈黙を保っていた加賀から通信が入る。

 

 

「何だ、見つけたのか?」

 

『いいえ、違う。さっき大淀から通信が入って、どうやら潜水艦隊が件の戦艦を、水雷戦隊が金剛たちの手がかりを得たそうよ。その情報を纏めて再度作戦を練るから、私たちも帰投するように言われたわ。だから―――』

 

「長門」

 

 

 加賀からの朗報を遮ったのは日向である。彼女は無表情のまま、更なる朗報(・・)をもたらした。

 

 

「偵察機が敵艦載機を捉えた。それも榛名たちが見た青色(・・)だ。真っ直ぐこっちに向かっている」

 

 

 日向の言葉に、全員の表情が険しくなった。特に榛名は苦々しい表情を浮かべ、日向が偵察機を飛ばしているであろう海域の向こうに視線を向ける。だが、彼女はそれ以上何もしなかった。この状況で闇雲に突っ込んでいったところで、今の状況では返り討ちに遭うだけだ。

 

 そして私たちの使命がその戦艦を倒すことではないことを、十二分に承知しているのだ。

 

 

「加賀、こちらで件の艦載機を発見した。概ね、私たちの目的は果たしたと見ていいだろう。即時、撤退する」

 

『了解、この報告は私から伝えておくわ。早急な戦線離脱を』

 

 

 そこまで伝え合うと、加賀が通信を切った。敵が迫っている今、この通信を傍受されるのは不味い。それを向こうも理解してくれたのだろう。有難いことだ。

 

 

「これより我が艦隊は帰投する。日向、偵察機を呼び戻せ。扶桑は後方の警戒を、損傷の大きい榛名を中心に陣形を形成する」

 

「了解」

 

「かしこまりました」

 

「……はい」

 

 

 私の指示に、三人とも従ってくれた。一人、榛名は何か言いたげであったが何も言わず従ってくれたのは有り難い。

 

 

 

「さて、問題は此処からか」

 

「そうですね……」

 

 

 私の呟きに、榛名が同調する。その表情は何処か優れない。疲れがたまっているとみるのが最もだが、どうも別の何かがある様に見える。

 

 

「時に榛名、あの憲兵と何かあったのか?」

 

「……いいえ、何も」

 

 

 私の問いに、榛名はこちらに顔を向けることなくそう答えた。どちらかと言えば吐き捨てたともとれ、明らかに何かあったのはバレバレである。しかし、この状況で敢えて明言しない方が良いだろう。

 

 

 

「ただ、ちょっとムカつくだけです」

 

 

 だが、敢えて明言しなかったことを本人自らが暴露したのだ。その言葉に思わず目を丸くするも、榛名自身はその爆弾発言に気付いていないようで。先ほどよりも明らかに不機嫌そうな表情を浮かべていた。恐らく、それも無意識なのだろうか。

 

 

「そうかそうか、そいつは良かった」

 

 

 そのだだ漏れっぷりに笑みを浮かべながらそう言うと、彼女は更に不機嫌を前面に押し出した表情を向けてくる。いつも笑みを絶やさない彼女が滅多に見せない表情に、私は思わずその頭をクシャリと撫でた。撫でられた榛名は訳が分からないと言う表情を向けてくるも、私は敢えてそれを無視して前を向く。

 

 

 そして、彼女に聞こえないよう細心の注意を払った一言を漏らした。

 

 

 

 

「いやぁ、何とも頑固な……素敵な(・・・)汚れじゃないか」



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提督の『刃』たち

「潜水艦部隊、キス島沖北方にて金剛さんたちを襲った深海棲艦と遭遇。深海棲艦は人語を解し意思疎通が可能、そしてイムヤが深海棲艦から金剛さんたちが逃げ切ったとの情報を得ました。撤退時の雷撃による轟沈は確認できず、現在も同方面に潜伏している可能性があります。またイムヤは出会い頭に爆雷の直撃を受け大破、現在入渠中です」

 

「水雷戦隊、キス島沖南にて複数の補給部隊を落とした。数的に大規模な艦隊行動は一時的に不可能だ。そして、そこで吹雪が襲撃したと思わしき補給艦の残骸を発見。詳細は報告書を見てくれ。あくまで希望的観測の域だが、吹雪たちの可能性はある。また撤退直前に敵駆逐艦を発見したが、深入りの危険性と敵に攻撃の意志が見受けられないことを考えてそのまま放置した。その駆逐艦から俺たちの存在が伝わっている可能性があり、補給部隊の襲撃も合い余って同海域周辺に集まってくるかもな」

 

「その続きは私から。キス島沖南の海流は南から北へと向かっているけど、戦艦級でも全速にすればある程度無視して行けるだろう。だが襲撃時の様子から金剛は大破、そこに小破した吹雪が彼女を曳航したとすれば海流を長距離逆らうのは不可能だ。つまり、彼女たちが潜伏している可能性があるのは私たちが進もうとしたキス島沖南東方面、仮に上陸に成功したとすればキス島南部の海岸線に潜伏している可能性が高いとみる。天龍の言葉に補足を付け加えるなら、あの海流で自由に動き回れるのは軽巡級以下、雷巡もギリギリいけるかどうかの瀬戸際だね。重巡以上は海流に取られて満足な回避行動はとれないし、上手く立ち回っても浮き砲台になるかだよ」

 

「では私だな。戦艦部隊、海流に左右されない範囲でキス島沖を捜索するも金剛たちの情報は無しだ。一応、発見した敵哨戒部隊は悉く始末しておいた、敵編成もモーレイ海と同じく戦艦、重巡を中心とした部隊がだと思われる。ただ撤退直後に件の敵艦載機を発見しており、件の深海棲艦は健在だと思われる。場所は潜水艦隊が会敵した海域からそう遠くなく、その深海棲艦はキス島沖北方に駐屯していると考えられる」

 

「最後は私ね。空母部隊、戦艦部隊と同じくキス島沖全域を捜索するも金剛たちの発見に至らず。同じく敵哨戒部隊も殲滅、敵編成も長門の報告と一緒よ。また、敵に私たち空母や戦艦部隊が主力だと思われるように遭遇した部隊は徹底的に潰したわ。敵の兵力も一時的とはいえ減らし、水雷戦隊の補給線潰しも合い余って、恐らく今までのようにキス島全域に満遍なく戦力を展開することは困難でしょう。凡そ、私たちの作戦は成功よ」

 

 

 そこまで報告を受け取り、執務室にいる面々は大きく息を吐く。それは安堵からか、更なる苦悩からか、孕む巻上は様々ではあるが、共通項を上げるとすれば皆一様に疲れていた。

 

 

 

「皆、ありがとう。これで目処が建てられそうだ」

 

 

 それを見て、俺は真っ先にそう言う。俺がぶち上げた作戦は相も変わらず穴だらけで、他力本願だ。そして皆は己を賭してその穴だらけの作戦に従って、尚且つここまで穴を埋めてくれた。俺が振り上げた机上の空論に色を、重さを、現実味を与えてくれたのだ。感謝してもしきれない。

 

 

「その言葉、全てが終わった時に言って欲しいわね」

 

「全くだな」

 

「それなら一駆逐艦如きをこんな場に立ち会わせてくれたこと、感謝する。ありがとう(Спасибо)

 

 

 俺の言葉に加賀が呆れた声を上げ、それに長門は苦笑いしながら同調し、それに続けとばかりに響がそう言いながら恭しく頭を垂れる。その姿に他のメンツは何も言わないものの、皆一様に苦笑いを浮かべていた。

 

 一時の緩んだ空気―――それは緊迫した状況には似つかわしくないかもしれないが、張りつめた糸を解き解すことも重要だ。と、誰かが言っていた気がする。因みに、響が此処にいるのはキス島に関する情報を最も持っているから参加させた方が良いと言う天龍の意見を受けたからだ。

 

 さて、緩ませるのは此処までだ。此処からは次の段階、本格的な救助作戦を詰めなければならない。ある程度の戦力を削り、そして補給線も乱した。敵は多数、物質量も格上であるが大軍故に状況を立て直すのに時間がかかる。そして俺たちは数も物資量も少ないが、それだけ組み替える人員や規模が小さいために素早い転換が可能だ。この唯一と言って良い強みを生かさない手はない。

 

 これは攻略作戦ではなく、あくまで救出作戦。敵を殲滅する必要もなく、ましてやこちらに無理な進撃をさせる必要もない。皆が絞り出してくれたこの時間を持って最適な作戦を立案し、色を付け、重みを持たせ、誰もが納得するものに仕上げる。

 

 そしてそれを今この時、ここぞと言う時に実行し、速やかに遂行する。それが俺の、艦娘の上に立つ提督が担う役目だ。この一時、一瞬、針の穴にも満たない僅かな時間(とき)を正確に射止めること、果たしてそれが出来るかどうか。この作戦はそこにかかっている、故に寸分の狂いを生じさせてはいけない。

 

 

 今この時、そう決意し、一度深呼吸をして顔を引き締める。

 

 

「よし、じゃあ―――――」

 

「失礼するわよ」

 

 

 その第一歩は、部屋の外からやってきた声によって掻き消された。その声に一同が扉に目を向け、そしてその扉から曙が現れた。その手には数枚の書類を携えている。

 

 

「どうでした?」

 

「お望み通り、ドンピシャのものが出来たわ」

 

 

 その姿に一同が目を丸くする中、大淀は待ってましたと言わんばかりにそう言って彼女に近付いてその書類を受け取る。その言葉に曙も小さく笑みを浮かべた。出撃した面子は、曙がやってきた理由が分からないだろう。何せ彼女たちが出撃した後に手回ししたことだからな。

 

 

「皆が出撃した後、大淀の提案でこの状況で必要になりそうな装備の開発を行ったんだ。そして、その時たまたま執務室に顔を出した曙に頼んだんだ」

 

「こちとら会議の一休みにもってコーヒーを持ってきたら、そのまま油臭い工廠に放り込まれたわけよ。全く、人使いが荒いんだから……」

 

 

 俺の言葉、そして何故か自慢げにそう語る曙に一同はなるほどと、一人長門は何処か不服そうな表情を浮かべる。長門に関しては今まで開発を担当していたのは自分であり、今の俺の発言はその開発にいそしんだ日々を否定することに等しいからだろう。だが彼女が担当すると大概戦艦用の大型な装備が多く、駆逐艦が持てる装備が少なかったことが挙げられる。申し訳ないが、今は切れる手札を増やさせてもらった。

 

 そんな彼女に苦笑いを向けると、不服ながらも肩をすくめて頷いてくれた。それを了承と受け取った俺は曙に視線をむける。

 

 

「曙、結果を聞かせてくれ」

 

「では、報告します。12.7cm連装砲が五基、零式水上偵察機が三機、61cm四連装酸素魚雷が四基、21号対空電探が二基、22号対水上電探が一基、輸送用ドラム缶が多数、以上です」

 

「『マグロ』か……これは面白いね」

 

 

 曙の報告にそう言葉を漏らしたのは響だ。彼女が突然発した言葉に俺が首を傾げるも、俺以外は特に疑問に思ってないようで。一人首を傾げる俺に気付いた響はクスリと笑みを溢しながら言葉を続けた。

 

 

「『マグロ』――――――22号対水上電探は使えるよ。先の作戦時、某スピードジャンキーに配備されると聞いた司令官が飛び上がって喜ぶほどにね。ぼの、よくやったよ(Молодец)

 

「……褒められたってことで良いのよね? あと『ぼの』って言うな」

 

 

 流暢なロシア語で褒めた響に釘を刺す曙。しかし、彼女の言葉は補足説明のように見えてその実説明になってない。取り敢えず駆逐艦であり今回の海域に一家言を持つ彼女がそう言うほどのモノが開発できたと言うことか、上々であろう。

 

 

「で、『ぼの』もロシア語?」

 

「あんたは黙ってなさい」

 

 

 曙はあのロシア語が分かるのかな、と思いついたことを口にしたら本人から刺々しい言葉と軽い蹴りをもらいこの話はお開きとなる。その様子を何とも言えない微妙な顔で眺められることに、林道に至っては顔を抱えていることに気付く。曙の登場で脱線してしまったし、いい加減話を進めないとな。

 

 

「さて、改めて情報を集めてきてくれたこと、感謝する。早速だが今しがた出た情報を元に救出作戦を立てよう。先ず……響、何か意見は?」

 

 

 前置きをした上でいきなり飛び出した己の名に、響は少しだけ驚いた顔をする。その顔を見つめ、俺は更に言葉を続けた。

 

 

「正直、今から作戦を一から立ち上げるのは時間がかかり過ぎる。時間がモノをいう今、それは悪手でしかない。だが響は今の現状によく似た作戦に従事していた、しかもその作戦は成功したときた。参考にしないわけにはいかないだろう」

 

「……いいのかい? たかが駆逐艦に通達された作戦概要だよ? 全てを網羅してるわけじゃないんだよ?」

 

「それでもいい。むしろ、今このときにその作戦を再現してくれ。当て嵌めるとかは置いておいて、先ずは響が聞いた作戦概要、そして実際の状況を教えて欲しい」

 

 

 俺がそう促すと、響は驚いた目を俺に向けてくる。だが、それもすぐに引き締めた表情に変えた。

 

 

「では、僭越ながら説明するよ」

 

 

 響の口からもたらされた作戦―――――それはまさに『奇跡の作戦』であった。

 

 

 周辺の島を敵に占拠され、孤立無援となった島に残された自軍の兵士を短時間で救出すると言う何とも無茶な作戦。キス島同様、この島周辺の海流は複雑に絡み合い、そしてたちどころに現れては瞬く間に消え去る濃霧によって進撃するだけでも困難な海域あった。そこに敵の目を掻い潜って味方を救出、撤退するのだ。

 

 この作戦で、響たち駆逐艦と軽巡洋艦で構成された水雷戦隊で出撃、進撃の困難な濃霧に敢えて紛れて島に接近することで敵の目を掻い潜ったのだと言う。勿論、それは突入時に身を隠せるほどの濃霧が立ち込めているか、そしてその濃霧が撤退するまで持ってくれるか、成功の殆どを運に託した作戦だ。故に、一度接近したものの濃霧が晴れてしまい、島に突入する一歩手前で撤退を余儀なくされたこともあったとか。

 

 だが、再び出撃した際は濃霧などの条件が全て揃い、なお且つ救出に要した時間も僅かであったため、誰も犠牲を出すことなく撤退することが出来たのだ。そう、自然条件、そして乗員の迅速な対応など、全ての条件が揃った上に完遂出来た、まさに『奇跡の作戦』と呼ぶにふさわしい。

 

 だが、そんな『奇跡の作戦』にも犠牲が無かったわけではない。響たちが出向く前、この作戦は潜水艦隊によって一度実行されていたのだ。そして、その作戦で潜水艦を損失したという。奇跡の裏側には、必ず犠牲が付くものだろう。

 

 そんな犠牲を、なるべく出したくはない。それはその話を聞いた俺が真っ先に思ったことだ。

 

 

「さて、ここまでが私の知っている作戦概要だ。あまり参考にならないかもしれないが、御一考願おう」

 

 

 響がその言葉とともに締めくくり、執務室は一時の沈黙に包まれた。誰しもが腕を組み、頭を抱えている。それはこの作戦が『奇跡』によって生み出された稀な成功例であるためか。皆と同じく、俺もいい案が浮かばない。

 

 

「……どうやら、皆々様方には特に意見がないようだね。じゃあ、さっきの延長線上だと思って私の話を聞いてもらえるかな?」

 

 

 だが、そんな中何処か得意げな響が手を上げた。それに誰しもが彼女に視線を向けるも、口を挟む様子はない。俺もまた同様に、口を挟むことなく彼女に促した。

 

 

「私の意見はこうだ。先ず、同時出撃可能な艦隊を3つ編成する。一つは水雷戦隊、もう一つは戦艦や空母などの大型艦で構成される艦隊、最後の一つは先に述べた艦隊のどちらかこれは状況に合わせればいい。理想は両編成を用意する、つまり合計4つの艦隊を編成することだね」

 

「ほぉ、なるほど。そういうことか」

 

 

 響の言葉に乗っかったのは長門である。そのまま彼女は前へ身を乗り出し、机の上に広げられた簡易な海図に指を下ろした。

 

 

「まず、水雷戦隊だな。これは金剛たちを救出する本隊だ。海流に左右されず、尚且つ敵に気付かれない隠密行動が可能なことを考えれば妥当だろう。響の話の通り、濃霧に紛れれば敵の目を掻い潜れるかもしれん」

 

「そうだね。そこに付け加えるとすれば、金剛と吹雪の損傷を修復する資材を持っていくのがベストだろう。吹雪は良いとして金剛を曳航するのは骨が折れるからね、なるべく自走してもらった方が良い」

 

 

 二人の話は先の作戦に則した編成だ。水雷戦隊での救出は現実的だろう。しかし、そうなるともう一部隊、そして大型艦による編成はどうなる?

 

 

「もう一つの水雷戦隊は金剛たちを救出した後、母港へ帰投するまでの護衛さ。帰投する航路の確保も重ねてやればいいと思うよ」

 

「なるほど、であればもう一つの艦隊は私たちの護衛と言うわけか。じゃあ―――」

 

「どうやら、私の意見も二人と同じようね」

 

 

 そこで割り込んできたのは加賀である。だが、彼女は口を挟んできた割にはいつものように車椅子に座っており、響たちとの議論に参加しているようには思えない。

 

 

「やはり、加賀も同じか」

 

「ええ、あの通信で貴女と私の考えが近いことは察したわ。だから――――」

 

 

 そこで言葉を切った加賀は、間髪入れずにこう言った。

 

 

「その意見に反対するわ」

 

「はぁ!?」

 

 

 あまりの発言に長門が素っ頓狂な声を上げ、その勢いのまま加賀に詰め寄った。対して、加賀はただ目を閉じて黙り込むだけである。

 

 

「何を言ってるんだお前!! 同じ考えなんだろ? 何で賛同しない!?」

 

「何故って、この作戦は実行されない(・・・・・・)もの」

 

「……どういう意味だい?」

 

 

 加賀の言葉に、響が珍しく語気を荒くしてそう問いかける。対して加賀はその問いに答えず、閉じていた目を薄く開いて視線を外した。

 

 

「提督が、許すはず無いもの」

 

「はぁ?」

 

「へ?」

 

 

 突然矛先を向けられた俺は間抜けな声を上げ、その言葉を受けた長門と響は不満の矛先を向けてきたのだ。

 

 

「どういうことだ、提督?」

 

「私たちの考えを許さないとはどう了見だい?」

 

「いや待って、まだ俺その意見がどんなのか知らないからさ、ね? か、加賀ぁ!! ど、どういうことだよ!?」

 

 

 ずいずいと詰め寄ってくる二人を抑えながら、俺は突然のキラーパスを寄こした加賀に助け舟を求める。それを受け取った加賀はほんの少しだけ黙って俺を見つめるものの、一つ咳払いをする。

 

 

「じゃあ改めて二人の、そして私の意見をまとめるわ。その代わり『途中で話を打ち切らない』と約束して」

 

「お、おう……」

 

 

 妙に念押しする加賀の顔がいつもより幾分か真剣な気がしたため、俺は話が読めないまま了承するほかなかった。それを受けて、加賀は一つ息を吐いて話し始めた。

 

 

「先ず、2つの水雷戦隊は金剛たちを救出する本隊とそれが帰投するルートの哨戒とその護衛、そこまでは分かるわね?」

 

 

 加賀が周りにそう問いかけると、俺を含めた皆が一様に頷いた。それを受けて、加賀はもう一つ息を吐く。だが、それは話をするためと言うよりも、これからこの言葉を口にするのだ、という覚悟のようにも見えた。

 

 

「……じゃあ、もう片方の艦隊、私から言わせれば問題(・・)の大型艦で構成された艦隊ね。この艦隊は私たち空母や長門たち戦艦で構成される、いわば敵を叩くための艦隊よ。この艦隊は金剛たちが潜伏している可能性のあるキス島南東からなるべく離れた(・・・・・・・)海域に出撃する。そして、そこで遭遇した敵艦隊とひたすら戦闘を繰り返す(・・・・・・・・・・・)の。ちょうど、私や長門がやったようにね」

 

「ちょ、ちょっと待て。その艦隊も金剛たちを救出する部隊だろ? 何で反対方向(・・・・)に行くんだ? 何で戦う(・・)んだ? おかしいだろ?」

 

 

 加賀の言葉に、俺は思わず口を挟んでしまった。『打ち切らない』と約束はしたが、これは質問である。決して打ち切っているわけじゃない。純粋な疑問をぶつけているにすぎない。

 

 

「…………いいえ、この艦隊は金剛たちを救出する部隊じゃないわ(・・・・・)。第一、私たち大型艦が救出なんて隠密行動を出来るわけないでしょう。それに本隊である水雷戦隊が何度も敵に遭遇したら不味いでしょ? だから、なるべく離れたところ(・・・・・・・・・・)で、なるべく多くの敵を引き付ける存在(・・・・・・・・・・・・・・・・)が必要なの。そう……」

 

 

 そこで加賀は言葉を切った。そして、次にその口から出てくるだろう言葉を、俺はすぐに察した。同時に、彼女が言っていたことの真意を理解した。

 

 

 あぁ、そうだ。確かに俺はその作戦を許さないだろう。絶対に、万が一に、許すことはしないだろう。それは何故か――――それは俺がこの世で最も許せないものだからだ。

 

 

 

 

 

 

「いわば……『囮』よ」

 

「駄目だ」

 

 

 そう、俺の口から言葉が飛び出た、いや飛ばせた(・・・・)。無意識ではなく、俺の意志を持ってだ。

 

 その言葉に周りの視線が一斉に集まる様な気がした(・・・・)。俺の視界に彼らがおらず、複数の息を呑む声、擦れる靴底、相当な力で肩を掴まれたこと、これらの情報から推測したからだ。

 

 

「何故だ?」

 

「駄目なんだ、それは」

 

 

 視界の外から投げかけられた問いに、俺は反射的にそう返していた。だが、質問に則した答えではなかったのだろう。掴まれた肩が大きく揺らされる。同時に、こちらに近付く足音が複数聞える。囲まれているのか。

 

 

「何故『駄目』なんだ? その理由を聞かせてくれ」

 

 

 次に投げかけられた問い、それは違う人物からのもの。今しがた聞こえた声は先ほどは女の、先ほどは男の声だったから、それだけだ。他に情報は無い。そう判断した理由はない。

 

 

「駄目なんだ」

 

「だから、何が駄目なの?」

 

 

 もう一度、俺は理由のようなものを発した。すると、何故かまたもや同じ問いが投げかけられる。その声は先ほどの男か、女か、それすらも分からない(・・・・・)

 

 

「……まず俯いていちゃ話が出来ません。顔を上げ――――」

 

嫌だ(・・)ッ!!!!」

 

 

 上げない、上げたくない。

 

 上げれば見てしまうから、見えてしまうから。

 

 

 一光もなく、かがり火さえない真っ黒な空、その下に広がる不気味な程に青々とした海。その海を覆い尽くさんばかりの黒い黒い斑点、そこにインクが垂れ落ちた様に現れた薄紅色の点(・・・・・)

 

 突然現れたそれは一時その存在感で周りを圧倒するも、それはほんの一時(・・)だけ。その一時が過ぎれば、瞬く間に黒に塗り潰されてしまう。そこに、確かにそこにあったはずの点は塗り潰され、後には何も残らない。点は存在そのものを消され、紙面上にも音声にも、()の記憶にも残らない。

 

 そんな、そんな光景が目の前(・・・)に広がっている、広がろうとしている。時が、再びその引き金に手を掛けている。時を進ませ、点を染めんと、そのインクを早く垂らせ(・・・)と急かしてくる。再びその引き金を引け(・・・・・・・・・・)と急かしてくる。

 

 

 

『……く』

 

 

 声が聞えた。それは時か、運命か、結末か、或いはそれ以外か。分からない、分からない。分かりたくない。

 

 

『……いとく』

 

 

 またもや聞こえた。それはどのような言葉か、命令か、狂言か、妄言、甘言、いや、違う。そのどれもこれも違う。

 

 

『提督』

 

 

 やはり、また聞こえた。それは俺だ。俺である。俺のことだ。俺の地位だ、俺の立場だ、俺の役だ。同時に、その引き金を引くことこそが俺の役目(・・・・)だと言うのだ。

 

 

 『さぁ染めろ』、『染めるべきだ』、『染めるのがお前の役目』、『何も出来なかったお前が得た役目だ』、『お前が欲した役目』、『お前が望んだ役目』、『お前が手に入れた一丁の銃だ』、『一丁の銃と、ただ一つの銃弾だ』、『それがお前が望み、お前が手に入れた、唯一、ただ一つの出来ること(役目)だ』

 

 

 立て続けに現れた言葉たちを押し退け、最後に残ったそれ(・・)は獰猛な笑みを浮かべた。

 

 

 

『さぁ撃ってみろ。ま()染メ上ゲテヤルカラサァ(・・・・・・・・・・・)……』

 

 

 

 

 

「しれぇ」

 

 

 次の瞬間、その言葉が聞こえた。同時に、手を掴まれた。その言葉に顔を上げる、上げてしまう。上げた先は真っ黒な空、真っ青な海、夥しい数の黒い斑点、ではなかった。

 

 そこに居たのは一人の女性、名前も知らぬ(・・・・・・)女性。彼女は何故か車椅子に腰を下ろしている。青の袴に白の胴着、栗色の髪を横に束ね、肩に降ろしている。

 

 彼女は手を掴んでいる。誰かの手を、彼女の手ではないであろう手を掴み、自らの寄せている。そして不思議なことに、その動きに呼応するように俺の視界が段々と前に、段々と彼女に近付いていくのだ。

 

 何故か分からない、何故か彼女に近付いていくか。目の前に広がっている筈の光景ではない、彼女が居るのか。彼女の向こうに更に人影が見えるのか。存在しない筈(・・・・・・)の光景が目の前に広がっているのか。

 

 

「大丈夫()

 

 

 次に聞こえた言葉。それは彼女の言葉、確か(・・)に彼女の言葉だ。そして、その言葉を受け取ると同時に、俺の視界は真っ暗になった。広がっていた筈の光景に近いが、実像は全くの別物である。それは何故か、その要因は何か。

 

 それは顔を包み込む柔らかなもの、その向こうに確かに聞こえる鼓動があったから。規則正しく時間を、命を、そこに一つの命が確かに存在している証があったからだ。

 

 

 

「あなたは今、一人じゃない」

 

 

 次に聞こえた声、それは向けられた甘言。甘言であるはずが、それと同時に俺の顔を包む力が一層強まったことによって、それが甘言ではないという結論に至った。鼓動の音がより一層大きく、その動きが手に取る様に分かるようになった。

 

 自身のモノではない別の体温を、暖かい熱を、()此処に居ると言う存在証明を、確かに感じたのだ。

 

 

あの時(・・・)とは違う、確かに私たちがいる。私たちが居て、支えて、寄り添って、あなたが前を向くのを待っている。あなたが向いた未来()が順当な運命か、それに抗う修羅の道か、それを選ぶのはあなた。そして、その道を切り開き、障害を退け、壁を乗り越え、或いは壊すのは私たち。そう―――――」

 

 

 そこで途切れた言葉、いや一旦止まった言葉。それと同時に、手が再び引かれ、真っ暗だった視界が急に開ける。

 

 その後に現れたのは、先ほどの女性――――――加賀だ。

 

 彼女は真剣な表情を浮かべ、引っ張り上げられた俺の腕を掲げ、その手首に垂れる今にも擦り切れそうな(・・・・・・・)ミサンガを掴んでいた。

 

 

艦娘(私たち)はあなたの願いを成就させる『刃』、あなたはその刃を手に自らの願いを成就する『主』」

 

 

 その言葉と同時に、彼女は俺の手首に垂れていたミサンガを勢いよく引っ張る。

 

 

「あなたは今、とてつもなく強靭な刃を手にしている。それであなたは私たち(・・・)の願いを、『誰一人として失わない、全員必ず帰ってくる』、そんな大言壮語を必ず成就できる。いや、必ず成就させる(・・・)わ」

 

 

 そう言い切った時、彼女の手には所々ほつれた糸が力なく垂れていた。それは俺の、俺たちの願いが込められたミサンガ。

 

 自然に切れれば願いが叶うと言われる願掛けの一つ。しかし故意に切ってしまうとその効力は消えてしまう、下手をすれば込めた願いが叶わないとも言われる。だが、彼女はそれを切った。傍から見ればせっかくの願掛けを不意にしてしまったように見える。

 

 

 だが彼女はこう言いたいのだ。『そんな願いはミサンガではなく、私たちが叶えるのだ』と。

 

 

 

「……まだ不安? なら私のモノも切っていいのよ?」

 

 

 反応をしなかったためか、加賀は少しだけ不安そうな表情を浮かべて、自らの手に垂れるミサンガの一つに手をかける。それは新品同様の姿を保つものではなく、俺のよりもマシではあるが大分年季が入ってきた方だ。

 

 

 紛れもなく、二人で付けあったミサンガだ。『誰一人として失わない、全員必ず帰ってくる』―――そんな二人の願いが込められたミサンガだ。

 

 

 

「いや……大丈夫だ……」

 

 

 不安そうな表情の加賀へその申し出を断り、一度大きく深呼吸をする。より大きく、より深く、夕立に教えたようにゆっくりと大きな深呼吸だ。その効果は抜群で、あれ程ごちゃごちゃしていた心が嘘のように落ち着いた。

 

 

「……そう。で、考えはまとまった? 私の話を打ち切って、『刃』の温もりを感じて、覚悟(・・)は出来たかしら? もう一度言うけど、私は二人の意見と同じよ」

 

 

 深呼吸を終えた俺は顔を上げ、今しがた目の前に広がっている光景を――――――()が俺に視線を向けている光景を見回す。誰しもが頼もしい顔を浮かべる中、一人曙だけが何処か悔しそうな表情をしていたが、俺と目が合った瞬間、周りと同じものになった。

 

 

 そうだ、今の俺には彼女たちが、『強靭な刃』たちが居る。あの時とは違う、あの時のように大切な人を守る力を持たず、ただ己に降りかかる責任を他者に押し付けるしかなかったあの事の俺ではない。いや、本質的に俺は変わってないかもしれない。

 

 だが俺の周りには、何時まで経ってもた割ろうとしない俺の周りには、沢山の『刃』たちが居るのだ。俺だけ(・・・)ではない、沢山の『刃』たちが傍に居てくれるのだ。

 

 

 そして、俺はそれを手にする『主』なのだ。であれば、少しくらい『刃』に願いを託しても、罰は当たらないだろう。

 

 

 

「加賀と長門…………頼めるか?」

 

「承知しました」

 

「無論、初めからそのつもりだ」

 

 

 俺が二振りの刃に願いを託すと、刃たちは力強く了承してくれた。その言葉と共に、両者とも不敵な笑みを浮かべる。

 

 

「囮部隊は戦艦と空母の混成部隊。旗艦は長門、僚艦は日向、扶桑、加賀、龍驤、隼鷹の5名――」

 

「榛名は入れないのか?」

 

 

 俺の編成に林道―――――『懐刀』が食い気味に口を挟む。彼の方を見るも俺の編成に不服と言う感じではなく、ただ単純に榛名を外した理由が知りたいみたいようだ。

 

 

「榛名は哨戒部隊からの連戦で疲労が溜まっているだろう。彼女は入渠完了後、母港にて待機。金剛たちを発見、保護した際に後詰として出撃し救出部隊を護衛する部隊を率いてもらおうと考えているが……どうだ?」

 

「……まぁ、大丈夫だろう」

 

 

 俺の言葉に林道は少し考えた後そう口にし、思案するように黙り込んだ。そんな彼と入れ替わる様に、何処か得意げな表情の天龍が前に進み出た。

 

 

「ってなると、救出部隊(本隊)は俺たちか。ハハッ、腕が鳴るぜ!!」

 

「……天龍達は敵に顔が割れている。すまんが、榛名と同じく護衛部隊を率いてもらう」

 

「マジかよ…………まぁ、しゃーねぇか」

 

 

 意気揚々と前に進み出た天龍に冷や水を浴びせるも、納得してくれたのか渋々と引き下がってくれた。襲われる危険を回避するためといえ、やはり敵に姿を晒している彼女を本隊に据えるのはリスクがある。長門や加賀たちが盛大に暴れてくれて、敵もそれに目が向いているのだ。出来ればそのメリットを利用したいのだ。

 

 

「そうなると、誰が本隊を?」

 

 その疑問は大淀から飛んできた。それに周りのメンツも彼女と同じ表情を向けてくる。その視線を一身に受け、俺は口を開いた。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「この招集、金剛さんのことだよね?」

 

「そうに決まってるでしょ。でも、どうするんだろう……」

 

「誰が行くのかな?」

 

 

 すぐ傍から聞こえた一つの声。それは何処か不安な表情を浮かべた駆逐艦が漏らしたものだろう。彼女だけではない、周りにいる殆どが同じ表情を浮かべ、口々に同じことを呟いている。誰もがここに召集された理由をおぼろげながら察しているが、その真相までは知らないからだ。

 

 

「潮ちゃん、何か知ってる?」

 

「ごめん、分からないんだ」

 

 

 そんな艦娘たちでごった返す食堂、その中に居る一人からそんな疑問を投げかけられた私――――潮は素直に答えた。

 

 金剛さんが行方不明になったことは数時間前、大淀さんによって全艦娘に通達された。そのことに多くが激しく動揺する中続けて捜索隊を編成し出撃、それ以外は鎮守府にて待機するとの旨を告げられたのだ。そして、次に読み上げられた艦娘の中に私が含まれており、すぐに執務室に向かった後天龍さん率いる水雷戦隊で出撃した。故に、自分よりも情報を持っていると思われて先ほどの問いを投げかけられただろう。

 

 しかし、私はあくまで出撃しただけであり、それ以降は天龍さんが響ちゃんを引き連れて執務室に報告を上げたことまでしか知らない。それに、本来一駆逐艦が作戦概要を把握はすれど作戦自体に意見するなんてことは稀である。響ちゃんは経験がありそれが今回の作戦に役立つと言う提督直々の指名があっただけだ。

 

 

「北上さん、何か知ってます?」

 

「んー? さぁーねー、分かんないや」

 

 

 その答えを得ようと私は投げかけられた問いをそのまま隣に居た北上さんに向けるも、返ってきたのは期待していたモノではなかた。因みに何故彼女が私の横に居るのかは、召集を受けた際にたまたま私と曙ちゃんのリハビリについて打ち合わせをしていたからだ。

 

 だが、そう気だるそうに返答する彼女の視線は何処か一点に注がれていた。生憎、北上さんと私は幾分かの身長差があり、その視線の先に何があるのかまでは把握することが出来なかった。

 

 

 ただ、その何かに向ける視線が身内に向けるものとは思えないほど冷え切ったものであることは分かった。

 

 

 その時、食堂の扉が開いた。それと同時に、あれ程がやがやしていた艦娘たちの声がぱたりと止む。それは、扉の向こうから提督が現れたからだ。

 

 提督は一斉に向けられた視線に一瞬たじろぎながらも、すぐに表情を引き締めて視線を外し、私たちの中を歩き始める。そして、その後ろに大淀さん、長門さん、天龍さん、響ちゃん、最後に曙ちゃんに押される加賀さんが続く。入ってきた面子のうち、大淀さんは提督の後を、彼女以外は静まり返る私たちの中に入っていく。

 

 

「皆、先ずはロクな説明もなく待機してくれてありがとう。そして、改めて現状を説明しよう」

 

 

 食堂に集う艦娘の視線を一身に受けながら、提督は口を開いた。その姿は試食会の時に見たそれと酷似していたが、その顔はあの時の心ここにあらずと言った感じはなく、強い意思を持って言葉を発している。その姿のせいか、食堂のようなヒソヒソ話は皆無だった。皆が今目の前に立つ提督の言葉を待っているのだ。

 

 

「本日、モーレイ海に出撃した哨戒部隊が敵主力と交戦後、謎の深海棲艦の襲撃を受け金剛と吹雪が消息不明になったことは話した。残念ながら、依然として金剛と吹雪は行方不明のままである。だが、モーレイ海から北東に位置するキス島付近にて彼女たちを襲った深海棲艦を発見、彼女たちはその手を逃れてキス島付近に潜伏している可能性を得た。同時にキス島南東にて彼女たちのモノと思われる痕跡を発見し、その信憑性が増した。故に、これよりキス島に駐留すると思われる金剛、吹雪の両名を捜索、発見しだいこれを救出を主とした作戦を決行する。そして―――――」

 

 

 彼はそこで言葉を切り、小さく息を吸った後に再び声を上げた。

 

 

「今より本作戦名を『ケ』号作戦―――――通称『キス島撤退作戦』とする」

 

 

 提督の口から発せられた作戦名。それは先の大戦で行われた駐留部隊を無傷で撤退させた『奇跡の作戦』と名高いそれを下敷きにしているのだろう。現に響ちゃんが経験したものだ。そして、その作戦名に何人かの艦娘たちがピクリと反応した。彼女たちも、何らかの形で参加したのだろう。

 

 

「本作戦は吹雪、金剛の救出を目的とする本隊と戦艦、空母を中心とする敵深海棲艦を引き付ける囮部隊、両部隊の帰投を支援する護衛部隊、この三つに分かれて行う。なお今作戦にて本隊に編成されない者は全て母港にて待機だ。戦況に合わせて別部隊を組織する可能性があるため、各々何時でも出撃出来るように準備をするように」

 

 

 提督の言葉にその場にいた艦娘全員の顔が引き締まった。先ほどと同じ待機命令ではあるものの、状況による出撃の可能性を示唆されたのだ。金剛さん、そして吹雪ちゃんを救出する作戦に実際に自ら関われるかもしれないと言う淡い期待かもしれない。

 

 

 そして何より、どのような形であれ自分たちを守るために身を粉にし続けてくれた金剛さんを助けたい、と言う願いからかもしれない。

 

 

「先ず、護衛部隊。本部隊は金剛救出部隊と囮部隊を護衛するために二部隊編成する。前者は先の出撃で海域を把握している天龍、龍田の2人を中心とした水雷戦隊、後者は同じく海域を把握している榛名を中心とした戦艦部隊。僚艦は各旗艦に一任する、各々が最適と言えるものを集めてくれ。集め次第、報告をするように」

 

「了解だ」

 

「……はい」

 

 

 提督の言葉に私たちの中に居るであろう天龍さんは力強く、同じく何処かに居るであろう榛名さんは何処か弱弱しく声を上げた。

 

 

「次に、囮部隊。本隊は捜索部隊で出撃した面々である長門、扶桑、日向、加賀、龍驤、隼鷹の6名だ。本隊は潜水艦隊が件の深海棲艦と交戦したキス島北方面に出撃し、存分に暴れ回ってくれ。ただし深追いは絶対にするな。敵の目を引き付けるために多少の無茶は許すが、最低限のラインを越えそうなら無理をせず帰投するように。非常に難しい役回りだが、頼むぞ」

 

「望むところだ」

 

 

 提督の言葉に、長門さんが自信たっぷりに言い放つ。同時に、同じく名前を呼ばれた人たちもそれぞれの反応を示した。それは誰一人として同じものは無かったが、その全てに悲観的なものは無かった。

 

 

「そして、最後に救出部隊。本隊は本作戦の軸である金剛、吹雪の救出を目的とする。囮部隊が北方に敵を引き付けている間に南東方面に出撃し、金剛、吹雪の救出してくれ。そして編成だが……」

 

 

 そこで、またもや提督は言葉を切った。その姿に、皆の視線が集まる。本作戦の主力なのだから、否が応にも注目してしまう。その視線を受けて、提督は重い口を開いた。

 

 

 

「北上、夕立、響、曙、潮、雪風。この6名による水雷戦隊だ」

 

「待ってください!!!!」

 

 

 提督の口から飛び出した艦名、それを受けて私は大声を上げた。それは自分が主力部隊に居たからではない、私の名があった事なんかどうでも良い。そんなことよりも何故そこに彼女の名が、曙ちゃんが編成されているのか、戦えない艦娘の名があるのか、その意味が分からなかったからだ。

 

 いや、一つ考えられる理由がある。それは今の提督がやってくる前、初代が居座っていたことによく(・・)目にした編成であった。入渠も補給もさせてもらえず、生きる屍のような姿で出撃し、僚艦たちを敵の砲火から守る―――――自らを盾として、その命と引き換えにして。

 

 

 初代が用いた『捨て艦戦法』(常套手段)の編成であったからだ。

 

 

 

「潮」

 

 

だが、それも真横から聞こえた声によって遮られた。同時に進もうとした私の前に手を出して行く手を阻み、それと同時にゆっくりとした動きで前に進み出る後ろ姿。

 

 

「北上……さん」

 

 

 その後ろ姿に、私は彼女の名を溢していた。先ほどの勢いを何処へ捨ててきたのか、とても弱弱しい声で。否、その後ろ姿を、ほんの一瞬だけ見えた彼女の横顔―――――そこに浮かぶ狂気に染まった獰猛な笑み(・・)を見てしまったからだ。

 

 

 

「何でその面子になったの?」

 

 

 北上さんの声はいつも通りだ。何処か緩く、緊張感が感じられない。だが、今この状況でそんな声を上げること自体異常である、恐らく彼女以外の誰もがそう思っただろう。しかし、あまりにいつも通り過ぎる彼女の様子に誰一人としてそれを口にすることは無かった。

 

 

「……先ず、北上。お前は工作艦の経験があり、現在この鎮守府の医療を司っている。そして報告から金剛が大破、吹雪は小破している可能性が高い。だから金剛たちを発見した時に出来うる限り治療して欲しい。そして、お前の実力はあの襲撃で身を持って知っているし、キス島の海流を動き回れるのは軽巡洋艦と駆逐艦のみ。このことから適役だと判断した」

 

「へぇ~、そこまで買われちゃうと悪い気はしないなぁ~」

 

 

 提督の言葉に北上さんはわざとらしく頬を掻く。その一挙手一投足が何処かわざとらしく見えてしまうのは私の偏見だろうかそれとも彼女が敢えてそうさせているのか、それは彼女以外分からない。

 

 

「でもぉ、戦闘も出来て治療も出来るハイパー北上様も修復に必要な資材がなけりゃどうすることも出来ないよぉ? まさか現地調達しろって無茶言う気?」

 

「いや、資材は救出部隊と一緒(・・・・・・・)だ。金剛と吹雪の両名が完治できるだけの鋼材と弾薬、そして高速修復材(バケツ)はお前たちに運んでもらう」

 

 

 その後に投げかけられた北上さんの指摘に、提督は臆することなくスラスラ答えた。その話から、修復に必要な資材は救出部隊が運ぶ手筈だと言うことが分かった。そして、同時にもう一つの疑問の答えでもあった。

 

 

 

 

「その資材を運ぶのが、私の役目よ」

 

 

 その答えを発したのは、いつの間にか私の傍にいた曙ちゃんだった。

 

 

「曙には今しがた言った資材を積んだドラム缶、そして先ほどの開発で出来た22号水上電探を持たせる。そして、彼女には資材の運搬と電探を用いた索敵を担ってもらう」

 

「まぁクソ提督はあんなこと言ってるけど、要するに誰かに引っ張ってもらう『輸送船』より、自走出来て回避行動もとれる『輸送船』の方がマシ、ってことよ」

 

 

 提督の説明に身も蓋も無い補足を付け足す曙ちゃん。彼女は戦えない艦娘だが、リハビリを通してその航行技術と回避技術は既に実戦に戻っても問題ないレベルにまでなっていた。これはリハビリを担当した私が認めたことであり、同じくそれを見ていた北上さんも太鼓判を押したことである。砲撃さえできればいつでも現場に復帰できる―――――それは私たちの共通認識であった。

 

 そして、資材を積み込むドラム缶は私たちが持てる兵装と同等であり、私たちが持てる装備を制限してしまう。同時に、元々輸送用であるそれを抱えて行う戦闘は圧倒的に不利となる。だからこそ、艦娘は別で輸送船を用意してそこに資材を積み、誰かがそれを引っ張り周りを護衛する形をとる。勿論、護衛なのでそれだけ速力も落ちるし、同時に厳重警戒を敷くため各艦にかかる負担は大きくなる。輸送船を護衛するだけでも相当のハンデを背負うのだ。

 

 だから、現状において私たちと同じ速力を持ち、なおかつ自分で回避行動をとれる輸送船の存在は非常に心強く、なお且つこの役割に適任である曙ちゃんを編成に加えるのは分かった。だが、分かっただけだ。分かっただけで納得したわけじゃない。

 

 いくらリスクが抑えられるとはいえ、攻撃手段を持たない艦娘が敵地に入り込むだけで相当の危険を伴う。これは覆しようのないことだ。そんな虎穴に、何故わざわざ曙ちゃんを飛び込ませないといけないのだ。

 

 

 そう、言い返そうとした(・・・・・・・・)

 

 

 

「そして潮。あんたに私の背中、預けるわ」

 

 

 それを遮ったのが、曙ちゃんの言葉だ。同時に私の肩に手を置き、真っ直ぐ私の目を見てそう言ったのだ。

 

 

「潮、曙を頼むぞ」

 

 

 同時に、今度は提督からそんな言葉が投げかけられた。彼も、曙ちゃんと同じく真っ直ぐ私の目を見てくる。そして、私は自分が選ばれた理由を―――――――『曙ちゃんを守る』という役目を知った。

 

 ずるい、提督も曙ちゃんも本当にずるい。そんな言葉を、そんな役目を、そんな目を向けられちゃったら…………もう納得するしかないじゃないか。

 

 

「……分かりました。必ず、守ります」

 

 

 二人の言葉を受けて、二人の目を見て、二人の期待を背負って、私は力強く答えた。すると提督の表情が緩み、曙ちゃんは嬉しそうに私の方に腕を回してきた。

 

 

「頼んだわよ!!」

 

「……うん、任せて!!」

 

 

 曙ちゃんの言葉に、私は笑顔で答えた。これから虎穴に向かうとは思えないほど、晴れ晴れとした笑顔を浮かべながら。

 

 

「次に夕立。夕立は金剛たちの消息不明以来、『吹雪を助けたい』と何度も救出部隊に志願してくれた。また最近の演習や出撃でもなかなかの戦果を挙げており、特に駆逐艦の中では敵艦撃破数がトップだ。本人の熱烈な要望、そしてここ最近の戦績を踏まえ、今回の編成に加えてもらった。いくら救出部隊とはいえある程度の戦闘は避けられないだろう。敵との戦闘時、存分に活躍してくれ」

 

「っぽい!!!!」

 

 

 提督の言葉に、少し離れていた所に居た夕立ちゃんは声を張り上げて返事をする。やっぱり、以前の彼女とは変わった。此処まで積極的になれたのは、正直羨ましい。まぁ、私も変われる理由を貰ったんだけどね。

 

 

「次に、響。彼女はこの作戦の下となった『奇跡の作戦』に従事した経験を持ち、同時に捜索隊として現状のキス島付近の海域に詳しい。敵に認識されているリスクはあるが、それよりも彼女が本隊に参加することで得るメリットを優先した。響は今作戦のかじ取りを担うだろう、皆と共に本作戦を成功に導いてくれ」

 

「大層な役割だなぁ……了解、響、出撃する」

 

 

 提督の言葉に響ちゃんは少し苦笑いを浮かべるも、最後は力強く頷いた。彼女が本作戦に参加してくれるのは僚艦としてありがたい。作戦指針を決めてくれる存在は想定外の状況に際して進むべき道を指示してくれる、そして今回はあくまで『可能性が高い』というだけで確証を得た情報はあまりないのだ。だから、状況を把握と次に来る展開の予測を出来る存在が必要であり、それが『奇跡の作戦』に従事した響ちゃんとくればこれほど心強いものはない。

 

 

「最後に、雪風だが……」

 

 

 そこで、今まで流暢に言葉を紡いでいた提督の口が止まった。いや、止まったと言うよりも明らかに鈍ったと言った方がいい。突然のことに今まで高揚していた雰囲気が消えてしてしまった。誰もが黙り込んだ提督を見つめ、彼は集まる視線に気圧されている、いや、どちらかと言えばある一点を見て気圧されているように見える。

 

 

「なんでしょう? 司令官」

 

 

 名前を呼ばれたのか、はたまたその視線の先が彼女であったのか、ともかく雪風ちゃんはそう声を上げた。その様子はいつもと変わりなく、不思議そうに首を傾げている。傍から見ればいつもの彼女だが、何故か提督はそんな彼女をいつもとは違うような目で見ている。

 

 ふと、私の目に先ほどいの一番に声を上げ、そして自身が編成された理由を聞いて以降黙っていた北上さんが映った。彼女は先ほどの獰猛な笑みを浮かべておらず、滅多に見せない真剣な表情提督を見つめていた。まるで、その口から飛び出す言葉を一言一句聞き漏らすまいとするかのように。

 

 

「……雪風は以前から演習、出撃共に戦果が高かった。最近、夕立に撃破数を抜かれたものの、総合的に見れば駆逐艦の中でトップクラスだ。夕立同様、雪風には戦闘時の活躍を期待している。そして、今作戦は可能性がある、と言うだけで確証が少ない中で決行される。本作戦の成功は各艦の奮闘ぶりも必要だが、同時に様々な条件が揃わなければならない状況もあるかもしれない。正直そこは誰も手を出せない、文字通り『神のみぞ知る』状況だ。だからこそ――――――」

 

 

 提督は再びそこで言葉を切った。今度は言い淀んだと言うわけではなく、次に吐き出うとする言葉を選んでいるかのようであった。だが、それもあまり時間がかからなかった。

 

 

 

 

「お前の『幸運』で、本作戦を成功に導いてくれ」

 

 

 提督の口から飛び出した言葉。それは雪風ちゃんが良く口にする『幸運』と言う言葉だ。最も、彼女が実際に言葉にするのは『幸運の女神のキスを感じる』であり、ある意味彼が口にした『神のみぞ知る』にかかっているために敢えて『女神』を、そして女神が行う行動である『キスを感じる』を省いたのだろう。

 

 そして彼女は自称、他称とも『幸運艦』、もしくは『奇跡の駆逐艦』である。雪風と言う艦艇が歩んだ歴史は膨大であり、その殆どが『幸運』の名を欲しいままにしていた。故に、彼女が動けば大概の物事が彼女に都合よく動いてしまう。まさに『幸運体質』ともいえる。

 

 

 ……正直言おう、雪風ちゃんの起用は他の子達に比べて大分弱い気がする。勿論、彼女の戦闘技術が高いことは知っているし、彼女が持つ『幸運』は可能性に塗れた本作戦を遂行するには必要だとも言える。

 

 だけど、それだけ(・・・・)なのだ。工作艦の北上さん、輸送船役の曙ちゃん、その護衛である私、熱烈に出撃を希望した夕立ちゃん、『奇跡の作戦』に従事した響ちゃん。私たちが持つ理由と比べてしまうと、やはり見劣りしてしまうのだ。

 

 また、彼女が起用された『幸運』を見ても、私や北上さん、響ちゃんも運が良い方(・・・・・)だ。自惚れる訳ではないが、可能性を引き寄せるためとして、私たち3人を編成するだけである程度事足りてしまうのではないか。まぁ、雪風ちゃんが軸を担って私たちはその補強、という捉え方なら納得するが。

 

 そんな起用理由のせいか、雪風ちゃんは黙りこくっている。唖然としてようにも見える。確かに、これほどの大規模な作戦にそんな理由で起用されれば面を喰らうか。そんな何処か冷ややかな視線を向けていると、不意に彼女が俯いた。

 

 

 

 

「違ったか……」

 

 

 俯いた際、微かに、本当に微かにだが、雪風ちゃんの口からそんな言葉が漏れた。それはいつもの彼女からは考えられない程、低く、重く、何処か残念そうな(・・・・・)声色だった。

 

 

「了解しました!! 雪風、拝命いたします!!」

 

 

 だが、次の瞬間いつもの彼女がそこに居た。いつものように笑顔で、元気よく、提督の言葉を了承したのだ。突然の宣言に驚きつつも、その返答に先ほどの強張った表情を少し緩ませる。そして、彼女の力強い宣言によって一時沈みかけていた雰囲気が再び盛り上がった。

 

 

「各艦隊の出撃は翌日の明朝とする。それまで出撃メンバーは補給と十分な休息をとること。曙も念のため弾薬も補給しておいてくれ。そして、待機する者も同様に補給と休息をとるように。では、解散!!」

 

 

 提督の号令にその場にいた艦娘たちは一斉に動き出す。ある者は補給の準備を、ある者は艤装の整備へと動き出す。その目的は殆ど一致していた。何故、殆ど(・・)なのか。それは今私の視界に居る二人は恐らく違うと察したからだ。

 

 

「さて、じゃあ軽~く作戦について話し合うよ?」

 

 

 そう言って私たちを招き寄せた北上さん。その表情はいつもの気だるそうなもんではあったが、一時、ほんの一時―――――雪風ちゃんを見るほんの一瞬だけ、その目がまるで獲物を狙う獣のようであったからだ。

 

 その視線を受けた雪風ちゃん。彼女はその視線を意に返さず、正直気付いていないのではと思える様子であった。が、その様子、そして彼女の雰囲気、いつもの天真爛漫な雰囲気である筈のそれが、何処か錆び付いた機械のようにぎこちなかったからだ。

 

 

 そして、その違和感が強くなるのは決まって彼女が視線を外した時――――――提督を捉えている時だからだ。

 



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『刃』と『なまくら』

「腹立たしいわ……」

 

 

 ふと、そんな言葉が漏れていた。

 

 場所は大海原、時間は正午をまわった所、それを漏らしたのは長門を先頭に展開した単縦陣の真ん中、最も内側で目を閉じて静かに航行する私――――正規空母 加賀だ。

 

 

 鎮守府を出撃して数時間。私たちは目立った被害もなく目標海域に差し掛かろうとしていた。勿論、敵が居なかったわけではない。道中こちらの索敵に何回か敵が引っかかるも、接敵することなくこちらの存在だけを示唆する航行に留めたからだ。これはより多くの敵を引き付けるためであり、その結果私たち空母は見た目に反して多忙を極めている。

 

 今こうして目を瞑っているのも視覚情報を締め出し、頭の中にある先発させた索敵機からの情報に集中するためだ。それを一つ一つ確認し、現状に適した情報を選び旗艦である長門に伝える。また選び出した情報を索敵機に付き返し、集めるべき情報、必要な事柄を示すことで溢れる情報量を抑制しつつその質を上げる作業に着手する。どちらかと言うと航行の方がおまけに近い。更に言えば被害は無いが疲労自体は溜まっている。

 

 

 だからこそか、胸中にある不満(・・)を溢してしまったのも。

 

 

 

『大丈夫ですか?』

 

 

 それを拾ってしまったのか、後ろで同じように索敵機を飛ばしている筈の隼鷹からそんな無線が飛んでくる。彼女も私と同じ作業に、着手しており搭載数もそこまで変わらない。故に捌く情報量は私と同じであり、私がそれ以外の作業に手を出せない程の筈だ。

 

 しかし、彼女の声色からそんな重い作業をしているとは感じない程自然であった。まるで、私が必死に裁くこの情報量を片手間で裁きそれでも持て余してるかのようである。

 

 彼女は常日頃から周りの目を気にし、そこに映る自分の姿を一挙手一投足に至るまで完璧にコントロールしてきた。それを可能とするにはまず一度に得る情報量を増やさねばならず、更にそれを捌く処理能力も高めなければならない。そして、処理を終えた情報に対して適した行動を導き出し、それを完璧に演じ切る。彼女の人生はまさに『舞台』と呼ぶにふさわしい戦場だった。

 

 その結果、彼女が有する索敵能力は私や龍驤を軽く凌駕している。そのため私が秘書艦の時に色々と手を回したり、提督に休日をぶつけた時はその表情を読み切って求めている答えを指し示すなど、その高さは行動に現れている。また戦闘に於いては敵の動きを瞬時に察し、即座に対応することで目立たないながらも、その実戦果は私たちの中で最も多い。本人は謙遜しているものの、場合によっては彼女一人で一空母群を相手取ることも可能かもしれない。

 

 その点に関して私は諸手を上げて彼女を称賛し、密かに羨望の眼差しを向けている。しかし、その並外れたものが培われた境遇(土壌)に目を向けてしまうと、それが欲しいとは言えなくなってしまう。人前に出ることを恐れながら常に人前へ出続けた『彼女』、そして望まぬ運命を押し付けられ最後の最後まで走り切ってしまった『隼鷹』。そんな周りの視線や望まぬ運命に振り回された彼女たちにとって、その能力は忌まわしきものかもしれないからだ。

 

 

「ううん、何でもないわ。大丈夫よ」 

 

 

 そんな彼女に無線を通して言葉を向け、気にするなと手を軽く振っておく。しかし、それが不味かった。手を振った時、手首に纏わり付く3つ(・・)のそれを思い出してしまったからだ。

 

 

 

「……忘れてたのに」

 

 

 再び呻き声を上げる私の視線は隼鷹に向けて振った手、正確にはその手首にある三本のミサンガを捉えていた。

 

 

 一本目は未だに新しくまだまだ切れそうにない方。提督と二人で付けあった二本の内、私の願いが込められたものだ。

 

 二本目は私の願いが込めた方よりも擦り切れてはいるがまだまだ切れる見込みは薄い方。提督と二人で付けあった二本の内、私たちの願いが込められたものだ。

 

 

 そして三本目。それは少し時間を遡ること数時間前――――

 

 

 

 

「何、これ?」

 

 

 食堂で行った大号令から数時間後。水平線から顔を出した太陽が母港内を忙しなく照らす中、定刻から数分早く集合してた出撃部隊の面々。その中で私が放った言葉だ。

 

 

「いや、何って……ミサンガ」

 

 

 そんな私の言葉に何処か狼狽えるように身を竦ませながらもそれを――――白と黒の真新しいミサンガを差し出しながら提督は答えた。そして何故かその後ろには彼が持つミサンガを大量に携えて得意満面の笑みを浮かべている夕立がいるのだ。そして、彼女が抱えているミサンガと同じものを出撃する面々の手首にぶら下がっている。

 

 そして私がやってきた時、開口一番に「はい、これ」と言われてミサンガを突き出された。それに面を喰らった後に絞り出した言葉がさっきのだ。

 

 

 要するに私はこう言いたいのだ、この状況を説明しろ、と。

 

 

「提督さんが『この作戦は運に左右される』って言ったっぽい。だから夕立が提督さんに作戦成功を祈願して夕立たちだけじゃなく、鎮守府の皆でミサンガを付けようって提案したの。一人よりも皆で付ければ効果は絶大!! 絶対絶対、ぜぇ~ったい!! 成功するっぽい!!」

 

「そ、そういうわけ……です、はい……」

 

 

 抱えたミサンガを振り回しながら声高に笑う夕立の言葉に、提督はそう言いながら申し訳なさそうに視線を外す。

 

 夕立の言葉がほぼ正解を言っているが、要するに作戦成功を込めたミサンガを鎮守府にいる全員で付けることで運に左右される作戦の成功率を上げようと言うわけか。運に左右されることは提督の口から語られているわけだし、このミサンガも元々夕立が発端であるためこの流れになるのは至極当然のことだ。

 

 しかし、何故彼の語尾が敬語になっているのだろうか。つい先ほど、私がその願いに近いものを込めた彼のミサンガを引き千切ったばかりだからだろうか。今こうして新しいミサンガを付けることが私の行動を無かったこと(・・・・・・)にすると分かっているからだろうか。

 

 いや、そもそもミサンガを付けること自体不本意なのか……いやそんなわけないか。自分の口から運に左右されると語ったし、何よりその運を少しでも引き寄せるために雪風を起用したのだ。彼にとって夕立の提案は渡りに船だろう。

 

 しかし、仮にそうなら彼は夕立と同じように満面の笑みでミサンガを手渡してくるはずだ。だが実際、彼は申し訳なさそうに私から視線を外している。つまり、私の行動を無かったことにすると分かった上で夕立の提案を呑んだということか、いや十中八九夕立の熱意に押し切られたのだろう。

 

 

 決して、『刃』()のことをないがしろにしたわけではないのだろう。そういうことにしておいてやろう。

 

 

 

「加賀さん」

 

 

 そんなジト目を彼に向けている私に、夕立が声をかけてきた。その声色はつい先ほどまでミサンガを振り回していた彼女と思えないほど静かで、そして重みのある声だった。そのことに思わず夕立に視線を向ける。向けた先で、彼女は不敵な笑みを浮かべていた。

 

 

 

「必ず、成功させるよ」

 

 

 その言葉、夕立が発したその力強い言葉。それを受けて、私は察したのだ。彼女もまた立派な『刃』の一振りなのだ、と。

 

 

 

「ええ、そうね。でも最初は提督と貴女、二人だけの願い(・・・・・・・)にしようとしたのね? そういうの、抜け駆けって言うのよ」 

 

 

 そんな『刃』に私は冷や水を浴びせる。その話を聞くに、どうやら最初は『彼女たちだけ』でミサンガを付ける話だったのではないか、と。そんな冷や水を掛けた筈なのに、彼女は立ちどころにその顔(刀身)を真っ赤にさせたのだ。

 

 

「ちっ、ちちちちちちちがうっぽい!!!! そ、そんなんじゃないっぽい!!!」

 

「『ぽい』と言うことは、完全に否定するわけではないのね」

 

「それは口癖だもん!!!!! そういう意味じゃないもん!!!」 

 

「お、おい。その辺に――――」

 

 

 ヒートアップする私たちの間に割り込んできた提督の言葉は途中で途切れた。割り込んできた、いやまんまと私が張った罠(・・・・)に飛び込んできた彼の襟首を素早く掴み、強引に引き寄せたからだ。

 

 

「貴方も」

 

 

 そして頬と頬が密着する距離まで彼を引き寄せた時、私は彼の耳元に口を近づけた。

 

 

 

「そう簡単に、流されてんじゃないわよ」

 

 

 そう囁き、そのまま乱暴に彼の襟首を離す。私の手から解放された彼は素早く飛び退き、若干赤くなった頬に手を当てながら茫然と私を見つめてくる。

 

 

「貴方の悪い所よ」

 

 

 そんな彼に柔和な笑みを向けながら毒を吐いておく。それに彼は特に反応することなく、ただ見つめてくるのみ。そんな彼を見る私の視界に、彼以上に茫然とした表情を浮かべている夕立が見えた。その瞬間、私は無意識の内に提督から彼女に視線を移していた。

 

 

 

『―――――そして小指で瞼を下に引っ張り、軽く舌を出した。年甲斐もなく『あっかんべぇ』をしたのだ』

 

「……ちょっと、ねつ造しないで」

 

 

 いつの間にか無線を通じて当時の状況を事細かに実況し始めた旗艦様に、私は容赦なく突っ込む。すると、無線の向こうから複数の笑い声、正確には笑いを噛み殺そうとしたが漏れてしまった声が小さく聞こえてくるのだ。この旗艦様、全員への回線を繋げて先ほどのねつ造話を披露していたのか。

 

 

『何処かねつ造だ。私はほんの少し表現を変えているだけで、語っているのは事実そのものだぞ? 現にお前は舌を出した。それに気付いた夕立が『決闘よ決闘!! 決闘するっぽい!!』と言って艤装を展開させ始めた。それを寸での所で止めたのは、この長門だぞ?』

 

「…………その節はどうも」

 

 

 無線の向こうから「誰?」と言いたくな程に幼い声で夕立の真似をする我らが旗艦、長門の言葉に私は投げやり気味に返答する。その返答に一人が小さく噴き出すのが聞こえたが、もう脱線しかしないと察し早々に無視した。

 

 

『別にいいさ。まぁしかし、加賀の気持ちも分からんでもない。あれだけのことをして、ようやく動いてくれたわけだしな』

 

 

 私の意図を汲んでか、長門はこの話題を早々に切り上げて別の方向に持っていった。あれだけのこと、というのは私が執務室で提督にしたことだろう。そしてそれをした上でのあの仕打ちなのだから、自分で言うのも何だが暴走(・・)してしまったのも仕方がないと言いたいらしい。

 

 

「残念だけど、私じゃないわ」

 

 

 だが、彼女が持っていった方向は、私の真意から微妙にずれていた(・・・・・)。だから私は彼女の言葉を否定した。

 

 

『それは――――』

 

『見つけました』

 

 

 私の言葉、そしてそれに対する長門の言葉を隼鷹の淡々とした報告(・・)が遮った。その途端、艦隊の空気が変わる。

 

 

『隼鷹、そのまま続けろ』

 

『ここから南に下った海域に真っ直ぐこちらへ向かってくる深海棲艦の一群を発見。規模は主力らしき戦艦と重巡とその護衛に駆逐艦、軽巡洋艦を配した中規模艦隊がおおよそ四部隊。そして――――』

 

 

 そこで隼鷹は言葉を切った。後ろを見ると、固く目を瞑って何かボソボソと呟いている。恐らく、頭の中にある情報を整理しているのだろう。

 

 

『件の深海棲艦をその最後尾に確認、それ以外の空母の姿は無し。以上です』

 

『承知した。全艦、集まってくれ』

 

 

 隼鷹の報告を聞き終えた長門がそう号令する。先ほどのおちゃらけた声色から一変、低く重い、威厳に溢れる声になっている。この切り替えの早さ、そして何より誰しもを従わせるその言動、まさにビックセブンであろう。そんな彼女の号令に私たちは少しずつ速度を緩め始め、そう時間が経たないうちに各艦が長門の周りに集結した。

 

 

「隼鷹の報告通り、私たちは敵の目を引くことに成功した。これより艦隊決戦に突入する。私たち一部隊に対し敵は四部隊、四倍の戦力だ。持久戦に持ち込まれたらじり貧だろう。しかし、私たちの任務は敵を引き付け時間を稼ぐこと、故に持久戦は免れない。つまり、私たちが勝てる見込みは皆無に等しい……」

 

 

 集まったのを皮切りに長門が淡々と話し始める。その内容はお世辞にも決戦前にする話ではない。頭ごなしに、勝てる戦ではないと言っているのだから。

 

 

 しかし、それを語る長門の表情は、全くの別もの(・・・)であった。

 

 

「だがそれがどうした? 勝てる見込みがない? 何を馬鹿なことを……大前提に私たちが勝つ必要はない。それに我々(・・)は―――我が鎮守府は現在勝っている(・・・・・)勝ち続けている(・・・・・・・)。敵がキス島北方方面に集結している時点で勝っている、敵が此処に集結し続ければ我々の勝利は揺るがない(・・・・・・・・)のだ。この勝ち戦を何処まで続けられるか、そして誰一人として欠けず母港に帰投するか、それこそが『囮』の役目であり、それこそが私たちの勝利である。各々、その言を心に―――――彼が見つけたその心(・・・・・・・・・)にしかと刻むように」

 

 

 そこで言葉を切った長門は、清々しい顔で誇らしげにこう宣言したのだ。

 

 

「我ら、兵器に非ず。我ら艦娘、明原(・・) ()提督閣下の艦娘なり。あののほほんとした阿呆面に、『(我ら)』が切れ味、存分に見せてやろう」

 

 

 長門の言葉に、それを受け止めた僚艦たちの表情が微妙に緩む。全く、大言壮語を言わせれば右に出る者は居ないのに、そうやって空気を緩ませるからここぞと言う威厳に欠けるのよ。まぁ、だからこそ彼女の周りに人が集まるのだけど。

 

 

『加賀』

 

 

 そんな言葉で各艦を散開させた後、長門は無線を通してこう言ってきた。

 

 

 

『仕方がないさ。何せ彼女はまだ、彼を否定していないのだから』

 

 

 それは先ほどの言葉の続きなのだろう。そして、彼女はどうやら私の真意をしっかりくみ取っていたようだ。その言葉に、私は何も返すことはなかった。恐らく、長門はそれに対する返答を求めていない。むしろ返答があれば困っただろう。

 

 

 何せその答えは私が誰よりも知っているものであり、そして私を惨めにするものだからだ。

 

 

「やっぱり、なれなかったか……」

 

 

 思わず漏れてしまった言葉、それは私の中に燻る不満だ。彼に対しての不満であり、彼女に対しての不満でもあり、その確固たる証拠を自らの口で示してしまったことへの後悔でもある。

 

 

 その後悔とは、彼を呼ぶ時にその言葉(・・・・・)を使ったことだ。

 

 

「……どうか、そのままでいてね」

 

 

 その後悔を、或いはその羨望を、その他大小様々なものを積み重ね、落とし込み、無理矢理ひとまとめにしたそれを、私は無責任にも託したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「雪風」

 

 

 その名を呼んだ時、反応は無かった。それは航行に集中していたからかもしれない、それは全速に近い速度で稼働する艤装の音にかき消されたかもしれない。他にも理由があったかもしれないが、現状それを知る術はない。

 

 

「ねぇ……雪風?」

 

「……はい!! なんでしょう?」

 

 

 もう一度、その名を呼ぶ。すると、今度はちゃんと反応があった。少し遅れ気味ではあったが、ちゃんとこちらに顔を向け、いつものように元気な声を上げる。顔をこちらに向けながらも、その速度は落ちることは無い。前を向いている時と同じように、全速に近い速度で航行しているのだ。

 

 

 

「ごめん……ちょっと、速度落としてくれない? 陣形が崩れちゃう……」

 

「あぁ!? すみません!? 気が付かなくて……資材、重いですもんね? 雪風が持ちましょか?」

 

 

 私の言葉に雪風は慌てた様にそう言って頭を下げ、すぐさま速度を落としてくれた。それだけでもいいのに、申し訳なさそうな顔を浮かべて近づいてきて、私の背中にあるドラム缶の一つを指差しそんなことを言ってくる。

 

 

「あ、いや、もう大丈夫。この速度なら問題ないわ。ありがと」

 

「そうですか? 曙ちゃん、無理しちゃ駄目ですよ?」

 

 

 雪風が速度を控えてくれたおかげで何とか態勢を立て直した私、曙は近づいてきた雪風の手を制しながらお礼を言う。だが、それでも雪風は何処か不安な表情を向けてくる。あんまり弱音を吐いちゃうと、却って不安を煽っちゃうか。今後は自重しよう。

 

 

 母港を発ってから数時間。本作戦の要である救出部隊は現在、キス島南東方面へ進んでいる。陣形は輸送艦である私を中心に輪形陣だ。傷一つついていない艦娘()が艦娘に護衛されるって、何処か変な感じである。まぁ攻撃手段が無いからあれだけど、大部分は私が持っている22号水上電探(マグロ)の索敵範囲を最も有効活用できる陣形がこれなのだとか。

 

 その陣形のおかげか、私たちは母港を発って一度も会敵していない。むしろ、電探にすら引っかかっていない。これは長門さんや加賀さんたち囮部隊が上手く敵を引き付けていると言うことなのだろうか。

 

 

 それか、これも『幸運』のおかげなのだろうか。

 

 

「無理ならすぐに言ってくださいね? 雪風が持ちますし」

 

「いや、これ持たれちゃうと私が居る意味無いでしょ……」

 

 

 何故か妙に食い下がってくる雪風に私はそう言いながら苦笑いを向ける。すると、雪風は「そうですか?」と言いたげに首を傾げてきた。全く、この子も本当に普段と変わらないわね。

 

 

 いや、一つだけ違うことがある。

 

 

「それ、そんなに嫌?」

 

 

 その『違うこと』について、私はそう言いながら彼女の手首を指差した。私が指し示すその手首には、出撃前にクソ提督(あいつ)からもらったミサンガが下がっている。このミサンガは、今輪形陣の一角を担う夕立があいつと何か示し合わせたのか、出撃する面子及び鎮守府内で待機する他の艦娘たちに配っていたものだ。

 

 私と潮も出撃する直前、両腕にそれを大量にぶら下げた満面の笑みを浮かべた夕立から受け取った、もとい押し付けられた。そしてこのミサンガを付ける意味―――作戦が無事成功するように、という理由も一緒に告げられ納得の下に付けた。そして今、それは私の、そして雪風の手首にもぶら下がっている。

 

 

 だが、実は一度、彼女はそのミサンガを付けるのを断ったのだ。

 

 

「雪風には幸運の女神が付いていますから、もうこの作戦は成功したも同然です!! だから、雪風には必要ありません!!」

 

 

 彼女の言い分はこうである。自分が参加する時点で幸運の女神を味方につけたも同然である。だから、今更ミサンガを付ける意味はない、と。普段からやることなすことが自分の都合よく運ぶ彼女にとってミサンガはあってないようなもの、だからそれは別の人に付けて欲しい。そういうことだと。

 

 だが、だからこそ彼女にこのミサンガを、幸運の女神に愛された彼女にこれを付けてもらえば作戦の成功率は格段に上がる、それが夕立の言い分であった。その返答、そしてそのまま勢いに押し負け彼女はミサンガを付けた。その様子は渋々と言った様子ではなく、「もう、欲張りさんですね……」といった感じであったため、そこに嫌悪感は無かった。

 

 

 だが先ほど、私が彼女の名前を呼んでも反応しなかった時、彼女の目は自身の手首に下がるミサンガに注がれていた。そしてもう片方の手でミサンガを、今にも引き千切らんばかりに握りしめて。

 

 

 同時に、その彼女の表情は今まで見たことが無いほど苦痛(・・)に歪んでいたのだ。

 

 

「そんなことないですよ? 雪風には幸運の女神が居ますからあまり意味はないですけど、あまり欲張りすぎるのもどうかな……って、心配になっただけです」

 

 

 だが、彼女の返答にそんな雰囲気は感じられず、どちらかと言えば女神のご機嫌を損ねちゃうかも、という何とも可愛らしい不安であった。正直、こんな状況でそこまで考えを回すことが出来るのは、幸運に恵まれている証拠なのかもしれない。

 

 

「んー……あんた一人ならそうかもしれないけど、これだけ大勢の艦娘が願っていたら女神様も無視できないんじゃない?」

 

「そういうものですかね……そう言えば、ミサンガは自然に切れたら願いが叶うんでしたっけ? 故意に切っちゃうのは駄目でしたっけ?」

 

 

 ……なんだろう、自分でもどうかと思うけどこれから戦場に赴く面子がする会話じゃないわね。まぁ、この子と一緒に出撃すると戦場に居ることを忘れそうになるって聞いたわね。私は遠征がメインだったから一緒に出撃する機会が殆ど無かったんだけど。

 

 

「確か故意に切っちゃうのは駄目だ、って夕立が言ってたはず……でも切れたミサンガはそれっきりだから、敢えてミサンガを解いて別の願いを込めてもう一度結ぶのは有り……だったと思うわ」

 

 

 

「そう、ですか」

 

 

 そこで、私は強烈な寒気に襲われた。その瞬間に背筋を、いや全身を強烈な寒気、そしてとてつもない気持ち悪さもセットで。気を緩めた瞬間、その場にへたり込んでしまうかと思ったほど、強烈な『嫌悪感』だ。

 

 その根源は目の前にいる雪風。彼女が浮かべている笑み(・・)だ。普段の彼女が浮かべているそれと全く同じ、同じなのだ。なのに、その笑みが醸し出す雰囲気、印象、空気、その全てが普段のそれから想像もできないほど、気分が悪くなるほどの『違和感』を。

 

 

 

『こらー、そこの三人(・・)。遅れてるぞぉー』

 

 

 と、思ったのもつかの間。無線の向こうから私たちの旗艦の声が聞えてくる。その言葉に私、雪風、そしていつの間にか私の後ろに近づいてきていた潮が旗艦の方を向く。その先に、こちらに身体を向けながら両腕を頭の後ろに組んだまま後ろ向きに航行する、所謂背面航行をする北上さんのが見えた。

 

 

『曙ぉ? この速度でへばってちゃいざって時に動けないぞぉ? そして潮ぉ……勝手に陣形を崩しちゃ駄目じゃない。すぐに配置に着きなさーい』

 

 

 頭の後ろに回していた両腕を前に、その両手でメガホンを作りながら間延びした声で注意してくる。この作戦の要、そして何より本隊を率いる旗艦と言う最重要地位に居るはずなのに、その声色は普段と変わらない。ハッキリ言うと緊張感に欠けている。

 

 しかし、先ほども言った通り彼女は背面航行をしており、その速度は私たち駆逐艦が正面を向いて全速で進む速度と一緒。更に言えば、私たちを含めた駆逐艦の誰よりも前、最前列を難易度の高い背面航行でこともなげに進むその航行技術は並外れたものではない。普段の様子では分からないものの、彼女もまた鎮守府内トップクラスの練度を誇っているのだ。

 

 そんな能ある鷹は爪を隠すかのようにのんびりとした表情で何事も無く背面航行から正面の航行へと戻る。本来、それだけでも大変な技術、そしてそれをもってしても体勢を崩す筈なのに、彼女の身体はまるで地面の上を歩いているかのように自然に、そして一切ぶれることなくそれを成し遂げてしまう。

 

 

 その中で、彼女の片手が不自然に動く。それは正面を向く瞬間、その片手が人差し指で前方を指したのだ。 

 

 

「分かりました」

 

 

 その瞬間、横に居た筈の雪風がそう声を漏らしたと思うと、いきなり速度を上げて前に進んでいってしまったのだ。

 

 

「え、ちょ」

 

『はい。ボケッとしてないで、とっとと配置に着いて~』

 

 

 私の声を掻き消す様に無線から北上さんの声が聞える。だが、それは私の耳に入ってこない。それは何故か、見えたからだ。前方に向かって離れていく雪風、その頭の上で狂ったように暴れ回る妖精の姿を。その妖精はいつも雪風と一緒に居て、まるで姉妹のように仲良しだった。なのに今目に映るその妖精はそんな過去を一切感じさせないほど、容赦なく雪風の上で暴れ回っている。

 

 

 

 まるで、雪風(この船)から一刻も早く逃げ出そうとしているように。

 

 

 

「曙ちゃん、私の後ろに」

 

「へ?」

 

 

 だが、それも横から現れた潮によって遮られてしまう。いや、遮られただけであれば私の思考は止まらない。だがどうだろうか、潮の手には黒光りする砲が具現化していれば。

 

 

『敵艦隊、発見したよ』

 

 

 それと同時に、無線から響の低い声が聞える。その言葉に、ようやく私は先ほどから激しく点滅を繰り返す電探の反応に気付いた。距離は驚くほど近く、このまま進んでいたら鉢合わせしていたであろう距離だ。

 

 

 

「て、敵がっ」

 

「落ち着いて」

 

 

 不意打ち気味に現れた敵に狼狽える私に、潮が冷静な声を浴びせ掛ける。同時に、電探を握りしめる私の手を彼女が取った。落ち着いて、私がついている、とでも言う様に。

 

 

『……さて、ようやく索敵員さんが敵を発見したところで作戦を説明するよ。先ず、そこの濃霧に紛れる。そして濃霧で身を隠しながら前進する。そして―――――」

 

『やり過ごすっぽい?』

 

『…………まさか(・・・)。いくら隠密行動だとしても、帰りは金剛たちを曳航して帰るんだよ? 出来るなら帰りの分(・・・・)を減らしたいじゃん。そして、やるなら守る対象が少ない(・・・・・・・・)今が良い』

 

 

 無線間でやり取りされる北上さんの作戦。それは作戦と呼べるモノか疑問に思うほど、言ってしまえばお粗末なものだ。しかし、ある意味私たち(・・・)にとってそれは最適なものだと言えた。

 

 

『さて、リハビリですっかり牙を抜かれて愛しの提督さんにご執心な索敵員さんに、思い出させて(・・・・・・)あげようじゃないか』

 

 

 作戦概要を説明し、その締めくくりに索敵員()を弄りながら北上さんが漏らした言葉。その言葉、それは私たち、いや私以外の艦娘たち全員が口を揃えて言っていただろう言葉。もし、今ここに加賀さんが、自分たちを『刃』と称した彼女が今ここにいたら、彼女は僚艦たちをこう称しただろう。

 

 

 

『私ら、なまくら(兵器ども)の戦いをさ』

 



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なまくらたちの『戦い』

 キス島沖はとても奇妙な海域だ。

 

 複雑奇怪に絡み合った海流により上昇気流が至る所で乱立し、元々の気温が低いために立ち昇った空気は瞬く間に冷やされ、分厚い濃霧に変化する。そのため上昇気流の数だけ濃霧が発生し、その数は両手で数えきれないほど。そんな膨大な濃霧が海域全体へ満遍な広がり埋め尽すその姿は生き物が群れを成すことによく例えられた。

 

 そんな濃霧の群れを体当たりしては消し去ることを繰り返す一団があった。

 

 それは『船団』。恐らく初見であれば誰もがそう認識するだろう、その一団を表現するに適した言葉である。だが、その姿形は到底『船』とはかけ離れているわけだ。

 

 

 先ず、その大きさ。多くの積み荷、大勢の人を乗せるには不可解過ぎる程小さい。せいぜい1人を乗せられる程度、その中にはもっと乗せられるモノも居たがそれでも4、5人が限界である。しかし、中には人を乗せることを目的としないものもあるため、一概にそれを別のモノだと否定することは出来ない。

 

 次に、その船体。のっぺりとした黒色の鋼鉄で作られた船体は潮の流れや波の影響を相殺するために船頭が鋭く尖り、そして重心を低く保つためにどっしりと重いわけではなく、まるでボロボロの鉄屑を無理やりくっつけたように不格好で、何よりその表面は鋼鉄とは比べ物にならないほど柔らかそうな灰色の()が見え隠れしている。しかし、それでも海の上を進んでいるため、これもまた『船』と言う枠組みから外す要因としては弱い。

 

 そして、その立ち姿(・・・)。『船』に立ち姿という言葉を当てはめること自体おかしな話である。この時点でそれが『船』ではないことが分かるだろう。ここでハッキリとした否定とその理由を挙げたわけだが、恐らくそれでも人々はそれを―――――彼女たち(・・・・)を『船』と呼ぶだろう。

 

 それは幾度となくテレビで報道されたその姿、年端もいかぬ少女が重厚な鉄の塊―――艤装を背負ってそれに突撃することを見たのだから。人々は人の形をした『船』を知っているから、同じく人の形をしているそれも『船』と呼ぶのだ。

 

 だが、それは彼らが持つ知識のカテゴリー内にあった言葉を選び出し、無理矢理当て嵌めているだけ。実際にはもっと適切な表現もある。しかし、彼らは最適な表現を敢えて選ばず『船』(この表現)を、自分にとっての最適な表現を用いてしまう。都合の良いことばかりに目を向け、目の前にある現実から目を背けたいが為だ。

 

 では、その現実とは何か――――――相まみえてしまえば、会敵(・・)してしまえば彼らは確実に海中深くに引きずり込まれるから。その小さな船体から繰り出される強力な砲火によって、為す術もなく海の藻屑とされてしまうから。それが目の前に、文字通り『死』が行軍を始めたことを認めたくないからだ。

 

 

 その禍々しい立ち姿、正しく『化け物』とでも言うべき姿で自らに死を叩きつけてくる『船』―――――――艦娘と対を成す存在、彼ら人類の敵、深海棲艦が現れたと、認めたくないからだ。

 

 

 そんな全人類にそれほどの恐怖とトラウマを打ち据えているとはつゆ知らず、深海棲艦の一団はこの奇妙な海を進んでいる。

 

 彼女たちは人間と船を無理やり混ぜ合わせたような艦、大本営が命名した艦名を用いれば軽巡ホ級を先頭に雷巡チ級、駆逐ロ級及びその後期型4隻の順番に単縦陣を形成している。海域が海域のため、そして艦隊の足並みを揃えるために軽量艦で構成された水雷戦隊。

 

 

 彼女たちの情報はそれだけ。ただ、それだけだ。

 

 先ほどの呼称もこちら側が勝手に名付けただけであって、向こうがそれを認識しているかどうか分からない。何故自分たちとの共存を否定し、何の理由もなく砲を向け、何のためらいもなく轟音を響かせ、『死』を押し付けてくる。

 

 それほどまでに何も知らない、何の指標も見当たらない真っ黒な大地に無理矢理目印を付けた程度、その全容は愚か彼女たちが何をもって何のために何をなさんとしているのか、皆目見当がつかないのだ。故に、人々は恐怖を覚える。得体のしれないモノが良く分からないものが、何の目的で動き、何の理由を持って自らを襲ってくるのか、その何もかもが分からないから。

 

 人を始め生き物は未知のモノに対して真っ先に恐怖を抱く、他の感情を抱くよりも先に覚える(・・・)のだ。それは生き残るために必要なもの、生存本能、その中でも先頭を切って現れるアラーム(危険信号)。己の命を奪わんとする者の前に立ちはだかる第一関門、第一にして最も固く、厚い壁。そしてそれ以降の第二、第三の関門はそれほど強靭ではない。ハリボテとまではこき下ろせないモノの、恐怖と比べると一回りも見劣りしてしまう。だからこそ、恐怖と言う感情は生き物にとって重要なのである。

 

 

 不意に航行を続ける水雷戦隊の先頭、旗艦である軽巡ホ級が前方からやや左に逸れた一つの雲海を指差した。それと同時に、一隻の駆逐艦ロ級が隊を離れ、指差された雲海目掛けて進んでいく。ホ級が何かを感じ取り、駆逐艦に哨戒の指示を出したのだろう。

 

 雲海へと突き進むロ級の足は速くとも遅くとも言えない。ただ一定の速度で進んでいく。一歩間違えれば敵の餌食になりかねない筈なのに、そこに微塵の恐怖を抱いていないかのように進むのだ。これらのことからロ級、及び深海棲艦には恐怖と言う感情を覚えない、生き物ではないことが分かる。

 

 

 だが、本当にそうなのだろうか(・・・・・・・・・・・)? と、()は思うのだ。

 

 

 それは何故か、それは―――――

 

 

 

「鴨がネギ背負ってやってきた」

 

 

 そう、()から聞こえた。その瞬間、一発の砲声が鳴り響く。ロ級が目指していた濃霧は内側からはじけ飛び、その大きく食い破られた大穴から黒い塊が飛び出した。そのことにロ級がすぐさま回避行動をとるもその黒い塊は―――――一発の砲弾は旋回途中であったその無防備な側面に突き刺さり、次の瞬間爆発を起こした。

 

 突然のことにホ級以下()水雷戦隊はすぐさま急停止し、偵察に出したロ級が居た場所を、今もこんこんと黒い煙が立ち上る場所を茫然と見つめる。そう、茫然(・・)と見つめているのだ。

 

 何故、茫然と見つめているのか。それはそのこんこんと立ち昇る黒い煙、その腹を突き破る、いや食い破る存在があった、先ほどロ級を沈めた黒い砲弾がその数を更に増やしたそれが自分たち目掛けて突き進んでいたから。

 

 

 文字通り、彼女たちに『死』が襲い掛かってきたからだ。

 

 

「―――――――――!!」

 

 

 ホ級が声と呼んで良いのか分からない声――――()声を上げる。それを受けて、陣形を作り上げていた敵艦たちは蜘蛛の子を散らす様に回避行動をとる。その中で一隻だけ、逃れなかったものがいた。その一隻捉えたのは黒い砲弾ではなく、優雅に踊る髪が光の粒を纏うかのように美しく光る金色(・・)の砲弾。

 

 

 

「さぁ、素敵なパーティしましょう!!」

 

 

 水の滴る黒を基調として白のラインが走る制服を靡かせた駆逐艦―――夕立である。

 

 彼女は声を上げてロ級に突進、その側面に文字通り張り付いた。その瞳に恐怖の色はない。代わりにあるのは『歓喜』、艦娘として敵を殲滅することの出来る喜び。彼女は獰猛な目にそれを宿し、口元は引き裂かれた布のようにつり上げていたのだ。

 

 だが、それを確認する間もなく彼女は自らの主砲をロ級の身体、正確には悲鳴を上げるその口にねじ込んだ。次の瞬間、ロ級が一瞬光ったかと思うとその身体が内部からはじけ飛んだ。彼女の砲が零距離でロ級の内部目掛けて火を噴いたのだ。

 

 ロ級爆発を至近距離で受けた夕立は爆風に乗せられ宙を舞うも、空中で体勢を立て直し難なく着水する。そして、彼女は顔を上げた。次に沈めるべき敵を探しているのだろう。忙しなくあちこちに目を光らせる彼女の顔は、いつもおどおどした様子はない。ただ敵を屠るためだけに己を突き動かし、その結果自身がどうなろうと露ほどにも思っていない、そんな顔をしている。

 

 

 その印象に拍車をかけるのが彼女の翡翠であった瞳が、透き通るような深紅(・・)になっていることだ。

 

 

 だが、そんな彼女も何かを感じ取ったのか飛ぶようにその場を離れる。その直後、彼女が立っていた水面に大きな水柱が無数に立ち上がる。それを横目に夕立は回避した場所ですぐさま砲撃体勢を取り、砲を噴かせた。

 

 彼女が砲を向けるその先―――――その先には先の砲弾を回避したであろうホ級、ロ級の一隻が夕立に対して砲火を交えている。駆逐一隻と軽巡、駆逐それぞれ一隻による砲撃戦。艦数、砲数ともに劣るために瞬く間に夕立の周りに水柱が立ち上がり、対して敵への水柱はまばらになる。

 

 砲撃戦にて優勢となった敵が、少し前進を開始する。砲の精度を上げ、一気に夕立を磨り潰してしまおうと言う算段だろう。その証拠に先ほどまでけたたましく上がっていたホ級は声を潜め、先ほど同様ロ級に指示を出す。それに呼応し、ロ級はホ級同様前進を開始する。

 

 

 

 その後ろ(・・・・)、濃霧を突き破って現れたのが雪風だ。

 

 

 濃霧から現れた雪風は砲を構え、すぐさま砲火を上げた。彼女の砲音に気付いたロ級がすぐさま砲を雪風に向けるも、振り返った瞬間に彼女が放った砲弾がその大きく開けられたロ級の砲に着弾。その瞬間、夕立よりも大きな爆発を起こして果てた。

 

 通常、駆逐艦の砲で敵艦を爆発させることは出来ない。せいぜい着弾させて体勢を崩したり、よくて小破になる程度だ。当たり所さえ考えればほぼ無傷で受け止めることさえできる。それほどまでに駆逐艦の砲には火力がないのだ。

 

 だが、逆を言えば当たり所が悪ければ駆逐艦の砲でも敵を沈めることが出来る。それは先ほどの夕立のように零距離で敵の機関部に叩き込めば、そして雪風のように砲弾を装填した砲身で砲弾が爆発を起こしそのまま誘爆を引き起こした。

 

 前者は己の身を顧みない特攻を背景とした必然であるが、後者は何も天秤にかけずにただそのときおの瞬間に幸運に恵まれるかどうかの綱渡り。ある意味、先の演習中に起きた襲撃の際に艦載機がぶら下げていた爆弾を狙撃したことと同じである。

 

 

 そんな離れ業、ある意味運が良くなければ行えないであろう業を披露した雪風はロ級撃沈を確認すると何故か砲を手放してホ級に急接近する。ロ級撃沈、そしてその骸を踏み越えて近づいてくる雪風を前にホ級も船首を彼女に向けて砲火を浴びせる。それに対し雪風は一切の予備動作なく、そしてその反動による身体のぶれを一切見せずに進路変更、ホ級を中心に円を描くように航行を始める。

 

 ホ級はその動きに呼応して雪風の正面に立ち続けながら同航戦の構えを取った。同航戦の特徴はその砲撃戦の長さである。これは砲の数とその威力によって左右されるため、どちらも上であるホ級が即決するのは必然であった。

 

 

 

 故に、それを予測する(・・・・)のは容易である。

 

 

 

「まあまあか」

 

 

 その姿を眺めながら私から見て左前方――――左手を前に突き出した北上さんがポツリと呟いた。それと同時に、突き出した左手から鋭い音が鳴り、その腕にあった二本の魚雷が海中へと飛び出す。魚雷は海中に白い尾を引きながらぐんぐん突き進む。しかし、海流が複雑なために少しだけ僅かに軌道が逸れていく。

 

 だが、それに呼応するように魚雷の先、そこでホ級と同航戦を繰り広げる雪風は砲撃にかまけて少しずる移動を繰り返した。雪風の動きにホ級はその後ろを追尾し、更に激しく砲撃を繰り返す。砲撃の数が多ければ多いほど周りを支配する音は砲撃音のみに絞られ、雪風を狙い撃とうと躍起になればなるほどその視野は狭く、そして警戒は疎かになる。

 

 

 そして、雪風が突如大きく動いた。ホ級の進行方向とは逆に、である。その動きにすぐさま進路変更をしたホ級は次の瞬間、その動きを止めた。恐らく見えたのだ、自らの背面にまで迫る二つの白い尾を。

 

 直後、二つの大きな水柱が立ちあがる。同時に、周りは何か重いモノが水面に落ちる鈍い音に支配された。更に生暖かい液体があちこちにまき散らされ、それが私たちを軽く濡らす。

 

 

 

「思い出した?」

 

 

 液体が降り注ぐ中、一つの声が投げかけられた。その主は先ほど魚雷を放った北上さんである。彼女は降り注ぐその液体―――――ホ級の血が一筋垂れるその頬を私に――――――駆逐艦 曙に向けながら、更に言葉を続けた。

 

 

「これが、戦いだよ」

 

 

 そう溢す彼女の顔には味方である私でさえ無意識に警戒してしまうほど、獰猛な笑みを浮かべていた。その顔を見たのは三度目だ。一度目は編成発表時に浮かべていた、二度目は濃霧に紛れながらわざと音を立ててロ級をおびき出し、己が主砲で屠った時。

 

 そして三度目が今。彼女の砲撃により火蓋を切った奇襲を瞬く間に終了間近にまで持っていたその手腕、そしてリハビリで勘を鈍らせていた私に戦いとは何かを教えた時だ。

 

 

 これが戦い、確かに戦いだ。敵味方が顔を付き合わせ、その得物を手に全力で衝突する。まさに戦いだ。しかし傍から見れば―――――今の私から見れば、これは『戦い』ではない。

 

 濃霧からの砲撃による奇襲、突然の襲撃に動揺する敵へ畳みかけるように砲弾の雨と戦闘狂と化した夕立を差し向ける。その後夕立を囮として敵の目を引き付け、背後に雪風を回らせてロ級を屠る。後に今度は雪風を囮として敵を動かし、自らの魚雷射程内に誘い込みこれを沈める。

 

 全てが全て、北上さんが発した戦闘経過と合致している。まさに彼女の掌で敵水雷戦隊が踊らされ、そしてこちらの思惑通りに事を進ませ、その身を果てた。こちらが負った損傷は至近距離で爆発を喰らった夕立のみ、しかもその損傷すら軽微に収まるように装甲を位置をいじくったのも、全て彼女の手腕である。

 

 だから、私はこれを『戦い』とは言えない。双方が全力でぶつかり、双方がそれ相応の損傷を受けてこそ、両者の戦力が拮抗してこそ、或いは劣勢に立たされてこそ『戦い』だと、『正念場』だと言える。むしろ、私たち小型艦で構成された水雷戦隊は大体がそう言った劣勢における戦闘を主としている。故に駆逐艦()は彼女の言葉に違和感を覚える。

 

 それはフェアプレーを良しとする『戦い』ではなく、『蹂躙』、『虐殺』、『屠殺』等々、常軌を逸した目に余る残虐極まりない行為だから。

 

 

 だが、それは健全な(・・・)鎮守府から出撃した真っ当な(・・・・)水雷戦隊だけに適応される、とても狭い範囲での意味合いなのだ。

 

 私たちの鎮守府は健全とは程遠い、劣悪と言う言葉すら生ぬるく感じるほどの環境であった。補給も入渠も休息すらなし、ただ鎮守府と海域を往復し、ただ敵を屠り、その度に夥しい数の味方を磨り潰し、壊し、身体も心も散々に打ち据え、踏みにじられ、ボロボロにされた。

 

 そんな状況で私たちは戦わなければならなかった。いや私たちは戦っていたのではない、必死に生き残ろう(・・・・・)としていた。動こう(・・・)としていたのではなく、生き残ろう(・・・・・)とした。

 

 

 生き残るために、私たちは何でも(・・・)した。言葉では言い尽くせないほど沢山、表現できないほど残忍なことをし続けた。ひとえに生き残るために、生き残るために必要なことを、命を脅かす存在の排除を、それ一辺倒に私たちが持ちうる全てを注ぎ込んだ。

 

 如何に敵を屠るか、如何に敵の戦力を削ぎ、如何に敵の作戦を乱すか、如何に敵の通信手段を滅茶苦茶にするか。全ては立ち向かった敵、囮になった敵、撤退する敵、それら全てを一隻残らず海の藻屑に沈めるために。殺られる前に殺る、見つけ次第皆殺し、『見敵必殺(サーチアンドデストロイ)』を完遂するために動き、そしてその一点だけに己の身を捧げ続け、そして生き残ってしまった残骸が私たちだ。

 

 

 故に、私はこれを『戦い』ではないが『戦い』だと言える。私たちにとっては紛れもなく『戦い』だ、傍から見れば『蹂躙』、『虐殺』、『屠殺』等々、常軌を逸した目に余る残虐極まりない行為だろうが。

 

 

 これがなまくら(私たち)の『戦い』なのだ。

 

 

 

 

「―――――――――!!!!」

 

 

 そんな思考を断ち切ったのは北上さんでも、夕立でも、雪風でもない。少し離れた場所で奇声を、いや悲鳴を上げる雷巡チ級であった。その身体はボロボロで、その右腕は肘から先が無く、その先からは夥しい血が垂れ流しであった。雷撃か、砲撃か、はたまた腕を引き千切られたのか、とにかく満身創痍のチ級は今も無傷で佇む私たちに向けて悲鳴を憎悪で塗れた汚い言葉を盛大にぶつけていた。

 

 

 ここで話を戻そう(・・・・・)

 

 生き物は恐怖と言う危険信号を持っており、それはどんな生き物にでも備わっている。そして、ロ級が何の躊躇もなく突き進んできたことから、深海棲艦たちはこの危険信号を持っていない。故に、彼女たちは生き物でないと。

 

 

 だが、私は本当にそうなのか、いやそんなわけがない(・・・・・・・・)と思うのだ。

 

 今こうして金切り声を上げるチ級を見ろ。あんな必死に泣き叫んでいるじゃないか、あんなに痛がっているじゃないか、あんなに怖がっているじゃないか。

 

 

 あれ程盛大に、必死に、全力で『恐怖』を表現しているじゃないか、あれ程必死に生きよう(・・・・)としているではないか

 

 

 

「っさいな……」

 

 

 そんなチ級を見ながら、北上さんが吐き捨てる。その言葉を糾弾する気は無く、むしろ敵対している故に当然の反応だと思う。だがそれでも、それでも思ってしまうのだ。それでも疑問に、ふと疑心暗鬼に陥ってしまうのだ。

 

 あれ程必死に恐怖しているチ級を見て吐き捨てるしかしない、いや出来ない、出来なくなってしまった(・・・・・・・・・・・)私たちは。本当に、本当に、本当に、生きているのだろうか。もう既に何処かで死んでいて、その骸が自分の死を知らずに今もなお動き回っているだけではないのか。

 

 今こうして目の前で泣き叫ぶ深海棲艦を見据え、血まみれの恰好でただ殺戮する立場の私たちがよっぽど『化け物』じゃないか。人間であった筈の私たちが、最も『化け物』に近い存在なのではないか。

 

 

 人間が最も恐れる『化け物』とは、今の私たちではないか、と。

 

 

 

 

「回避ぃ!!」

 

 

 その思考は北上さんの怒号によって断ち切られた。同時に、そう遠くない海面に巨大な水柱が立ち上がる。それは他の海面に衝撃と大きな波を生み出し、私たちに襲い掛かった。大きなうねりにより私たちは体勢を大きく崩す。それはチ級も同様であり、その体勢もまた大きく崩れた。

 

 

「曙ちゃん!!」

 

 

 危うく海面に頭から突っ込みそうになったところを寸でのところで潮に腕を掴まれ何とか回避した。そのまま潮に引かれる形で大きくその場を旋回する。その直後、先ほどと同じ大きさの水柱が――――――とても駆逐艦や軽巡洋艦、ましてや重雷装巡洋艦の雷撃でも立ち上げられないほどの水柱が無数に現れたのだ。

 

 

「何処からの砲撃!? 敵影は!?」

 

『砲撃……だったらどれほど良かったか』

 

 

 次々と立ち上がる水柱、その轟音を撥ね退けるように大声で吠える潮、そして無線の向こうから渋い声色の響きがそう溢す。その言葉に私は足元に目を向け、そしてそこで黒い小さな影が無数(・・)に動き回るのを見た。次に頭上を仰ぐ。それと同時に頭上から眩しい日の光で目を貫かれるも、それは次に現れた黒い影の正体によって遮られた。

 

 

 

 そう、濃霧の隙間を縫うように、夥しい数の敵艦載機が飛び回っていたのだ。

 

 

『く、空母が―――んて聞――――いっぽい!!』

 

『黙―――な、夕立。各艦、回避――――――念。濃霧を見つ――――そこに退避を』

 

 

 無線の向こうから途切れ途切れの通信が届く。その声は夕立と北上さんであり、途切れる度に聞こえるのは爆弾の炸裂音だ。勿論、それは無線の向こうだけではなく現在進行形で周りでも起きている。艦載機から落とされた爆弾で生み出された水柱は私たちの視界を奪い、体勢を崩し、そして大量の潮水を頭上から降り注いでくる。

 

 

「あけ、ぼ、ちゃん!! 絶対に、絶対に離れないで!!」

 

 

 潮水を被り、濡れ鼠となった私の手を必死に握りしめ、決死の回避行動をとる潮。だが私を、それも燃料と鋼材、バケツを詰め込んだドラム缶を背負っている私を曳航しながらの回避行動はハッキリ言って無茶だ。現に、避け切れずに少しだけ傷付いている。

 

 そこに運命のいたずらか、絶対に回避できないであろう爆弾が迫ってきた。あの位置、そしてその距離では絶対に避け切れない場所に。あれに当たればただでは済まない、駆逐艦の装甲など簡単に抜けるであろう強力な爆弾が。

 

 

 だが、それを前にして彼女は決してあきらめなかった。

 

 

 

「うぁぁああッ!!!!」

 

 

 そう獣のような声を上げて潮は片腕を頭上高く、その迫りくる爆弾目掛けて思いっきり振り上げた。その手には彼女が愛用しているピンク色の主砲が有り、それを頭上の爆弾に向けたのだ。艦載機や敵艦とは違い、爆弾は上から下へ一直線に動くのみ。故にその軌道と落下速度を予測し、爆弾を狙撃するのは比較的容易であった。

 

 次の瞬間、潮の主砲が火を噴き、同時に頭上に迫っていた爆弾が盛大な音を立てて爆発を起こす。爆発は爆風を、衝撃波を、そして爆弾の残骸を辺り一帯にまき散らした。残骸はまるで弾丸のように私たちに降り注ぐも、潮が高々に掲げた主砲を盾に辛うじてやり過ごす。

 

 勿論、全てを防ぎきれるわけではなく、彼女の身体は傷付き、太ももにある魚雷発射管はたちどころに撃ち抜かれ使い物にならなくなり、彼女の制服も破片によってびりびりに引き裂かれてその白い肌に無数の切り傷が刻まれる。

 

 そしてその盾は、そして衝撃波に意識を取られた潮は、私までもを守ることが出来なかった。ただでさえ表面積の広いドラム缶、そこに大量の資材を詰めて重くなったそれが爆風に攫われ、私たちの手は離れてしまったのだ。

 

 

 

「――――!!」

 

 

 

 視界の中で何かを叫び、必死に私に手を伸ばす潮。その手は辛うじて、寸でのところで私の手を捉える。が、それも間近に落ちた爆弾、それがもたらした大きな水柱によって離れ離れになってしまう。

 

 潮の手を離れた私は、空中から容赦なく海面に叩き付けられる。水切りの石のように海面を何度も跳ね、その度に意識を飛ばしそうになった。だが、それでも私は何とか保った。それは自らの背にあるドラム缶が海面を跳ねる度に身体を打ち据え、その痛みで意識を辛うじて繋ぎ止めたからだ。

 

 だが、その代償に全身を激しく打ち据え、足腰に力が入らない。ようやっと止まった海面で、私は全身をはいずり回る痛みに呻き声を上げるしか出来なかった。今この時、立ち上がらなければ敵に狙われてしまう。恰好の的、獰猛な獣の目の前に現れた獲物となってしまう。

 

 

 そんな私の顔に、再びあの影(・・・)がかかる。

 

 目を向けると、一機の艦載機が頭上高くを漂っている。そして、その艦載機から黒い点が現れた。紛れもなく、私を狙って落とされた爆弾である。

 

 ふと、その爆弾から目を離し、先ほど泣き叫んでいたチ級に目を向ける。彼女は前に目を離した時と全く変わらない場所に居た。ただ、その表情は先ほどと全く違う。先ほどは恐怖が浮かんでいた。生き物が抱くことのできる恐怖を、奇しくもそれを表現していた。

 

 だが、今はどうだ。彼女は笑っている(・・・・・)。笑みを浮かべ、まるで歓声を上げているかのように、獰猛な笑みを浮かべている。そしてその胸部にはぽっかりと大きな穴が穿たれ、そこから右腕と比較にならないほど夥しい血が噴き出しているのだ。

 

 そんな彼女も、次の瞬間に木っ端みじんになってしまった。その頭上から爆弾が落とされ、さく裂したのだ。その最後、爆弾が落ちるその最期まで、彼女は笑っていた。何故か笑っていた。

 

 

 死の間際、その最期の一瞬でさえ、その『生き物』は笑っていたのだ。

 

 

 それを垣間見て私は再び頭上を、こちら目掛けて落ちてくる爆弾を、迫りくる『死』と向き合った。生き物とは最期の瞬間、どうやら笑うようだ。では私は、『化け物(私たち)』は笑えるのだろうか、迫りくる『死』を前にして本当に笑えるのだろうか。

 

 

 それが指し示す答えを私は今ここで、この身を持って知ることとなった。

 

 

 

 



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綻び始めた『奇跡の作戦』

「おおォ!!」

 

 

 腹の底から響き渡る咆哮を上げながら、私は拳を振り抜く。その先は重巡リ級、装甲を剥がされ無防備になったその頭だ。鼻血を垂らしながら犬歯をむき出しで吠えるその顔に拳を叩き込み、そのまま真横へ吹き飛ばす。拳には何かが折れる手ごたえがあったがそれを想像する暇などない。リ級が吹き飛ばされたと同時に二方から空気を揺るがす轟音が鳴り響き、黒々と大きな砲弾が一直線に私目掛けて迫ってきているからだ。

 

 それを横目で確認し、私はその場で身を翻す。駆逐艦に比べ機動性に劣る戦艦が回避なんて真似をすれば、敵前に無防備な腹を見せるだけ。故に迫りくる砲弾に関して私たちが出来ることは、被弾する場所を装甲の分厚い場所に調節する、所謂ダメージコントロールだ。そして数多の戦場を駆け巡った武勲艦たちをたった一瞬で水面に沈めたあの光に、それも二度も晒されながらも耐え忍んだ長門(この船)だからこそ、装甲の分厚さは折り紙付きである。

 

 

「長門ォ!!」

 

 

 何処からか誰かの悲鳴じみた声が聞えた。それが誰かを把握する前に両脇にずしりと重い衝撃、肌に刺すような痛みと熱、そして砲弾の破片が襲ってきた。無意識の内に歯を食いしばり、血に飢えた野犬のように襲ってきたそれらをただじっと耐え忍び、逆に装甲を押し出して内部機関部へのダメージを極力抑える。装甲の大部分の占める巨大な砲身も、元々こういう使い方を想定していたために恐ろしく頑強に作られている。砲弾の4、5発程度なら造作もない。

 

 そう思っているのもつかの間、襲ってきた野犬の群れは瞬く間に沈黙した。辺り一面、黒煙に包まれている。視界不良の中、私はすぐさま艤装の各部分を点検する。本来であれば視界不良の中で棒立ちなど愚の骨頂なのだが、それはケースバイケースだ。

 

 砲弾が命中し対象物が黒煙に包まれている場合、主に無駄撃ちを避けるために対象物の残存が確認されるまでに次弾を叩き込む可能性は極めて少ない。砲撃一つとってもありとあらゆる工程、手順、データなどの判断材料と膨大な労力を有するためである。これは時代や姿かたち問わず、艦船の枠組みにあるモノ全てに適応されることだ。一撃必殺が最も効率よい戦い方である、そこに性能の全てを傾けるのは当たり前だと言える。

 

 

「損害軽微ならず、されど航行に支障なし」

 

 

 簡易的な点検を終えた私は無線にそれを乗せ、すぐさま砲弾を装填する。発射から次弾装填までの制限時間はおおよそ40秒、また同時に砲撃を行ったためにそのタイムラグ内に放り出されるであろう敵弾は無し、あっても駆逐艦などの小型艦である。戦艦の装甲をぶち抜ける存在は稀有だ。機関部へのダメージもコントロールでどうとでもなる。

 

 故に、この40秒が勝負の分かれ目。現状の所、軍配はこちらに上がりつつある。今すべきことは上げ渋られている分軍配を高々に上げさせること、こちらに流れを引き寄せること、損害を与えた敵艦にお礼参りをすることだ。

 

 

 敵総数は既に加賀たちと共に一部隊を落としているため残りは三部隊だが、先のトンデモ深海棲艦を一個艦隊とすれば未だに四部隊である。先の砲弾は各部隊にいた戦艦ル級二隻とすれば、戦艦級はもう一隻と件のトンデモ戦艦のみである。しかし、そのトンデモ戦艦は開戦以来後方に留まっており砲火を重ねてはいない。

 

 制空権は我が航空隊により確保状態である。トンデモ戦艦からの艦載機もちらほら現れてはいるものの、制空権を取る気が無いのではと思うほど消極的な戦闘ばかりだ。時折無線の向こうから空母勢から情報が流れてくるも、それを語る各々の口調に焦りはない。

 

 

 

『目標、戦艦ル級、左35、上30、距離10000……』

 

 

 砲弾の装填が完了した私に、加賀の淡々とした声が聞えてきた。それは私にお礼参りをすべき相手―――――戦艦ル級に標準を合わさせるためだ。とは言っても黒煙に視界を塞がれているためにその姿を捉えることは出来ない。だからこそ、目の効く航空隊からの情報を送ってきたのだ。

 

 有難い情報にすぐさま砲口を調節し、照準が定まると同時に砲弾の尻を叩いた。その瞬間、天地を揺るがす大砲声が鳴り響き、私を取り巻いていた黒煙を食い破り41cm砲弾が一直線に飛び出す。時速2000kmを越える砲弾が着弾するまで僅か10秒、その間に自身を反転させてそのまま全速全進で動き出さなければならない。先ほどにも言ったが、戦艦にそんな素早い動きが出来るわけがない。

 

 故に装甲が厚いわけなのだが、かの戦艦にこの長門が主砲から放たれた砲弾を受け止め切れることは難しい。損傷が一切なければ耐えしのげただろう、何か盾になるものがあれば免れただろう、すぐさま砲身を掲げ、砲撃による相殺が出来れば何とかなったであろう。だが私たち、そして空からの攻撃により中破状態に陥っていた戦艦がそれらを行う術はない。

 

 私の予想通り、敵戦艦に一直線に向かっていく砲弾は誰にも邪魔されることなく進んでいる。その姿がスローモーションのように見えるのは、砲を撃ったせいかもしれない。自らが放った砲弾が何時と退くのか、酷い言い方をすれば何時その命を刈り取るのか、仄かに期待しているのかもしれない。戦果を挙げたわけだから当然だ、ここは戦場であるから命を奪うことが当たり前だ。

 

 

 やっと、ようやっと、夢にまで見た念願の瞬間が、この水面に沈みゆくその瞬間まで縋り続けた未練(・・)が、今そこにあったからだ。

 

 

 

『ハァイ、残念』 

 

 

 

 だが、その思考はいきなり繋がった無線によって打ち切られた。同時に、砲弾の直線上に何かが入り込んだ。それが何かを確認する前にその何かと砲弾が接触、爆発を起こしたのだ。

 

 一瞬、何が何だから分からなかった。何が起きたのか、何があったのか、今目の前で起きていること全てが分からなくなった。空中に広がった黒煙を眺め、その破片が海面に吸い込まれるその音を頭の片隅に捉えた。それだけだ、それだけで私の頭はパンクしたのだ。

 

 

『ッタク、アノ潜水艦ノセイデ航行ガシ辛クテショウガナイ……ッテ、コレマダ入ッテル? オーイ』

 

 

 そんな私の無線から場違いな程緊張感のない声が聞える。その声は今まで聞いたことのない声だ。僚艦たちの声は聞き覚えが無いわけはなく、仮に鎮守府からの通信だとしても同じ理由で有り得ない。じゃあこの通信は、この声は一体誰なのか、何処から発せられているのか。

 

 

『オーイ、オーイ……返事シロー?』

 

 

 

 その答えは()にあった。正確には先ほど加賀が無線で寄こした座標の少し手前、中破状態の戦艦ル級を遮る様に立ちはだかる件の深海棲艦が、私たちに向けて大きく手を振っているその姿があったのだ。

 

 それも、何処かに通信しているように耳に手を当てながら。

 

 

 

『ン? 電波ガ強過ギカ? マァイッカ、手短ニ伝エヨウ』

 

 

 そこで言葉を切った深海棲艦は一つ呼吸を置いて、その言葉を吐いた。

 

 

 

 

『オ前ラノ本隊(・・)。ウチノ航空隊ガ補足シタトヨ』

 

 

 無線から漏れた言葉。それはまるで顔を近づけられ、耳元で囁かれた様に聞こえたその言葉。最初、その意味を解することが出来なかった。次に意味を解した時、それが間違いだと断じた。

 

 次にそれが間違いではないだと―――――――遠くに見える深海棲艦の顔に薄ら笑いが浮かんでいた時―――――

 

 

 

『マァ、オ前ラヲ()ニ私タチヲ引キ付ケルノハ上手ク考エタナァ……ダケド、詰メガ甘イゾ』

 

 

 

 その口から作戦概要が漏れた時、私はその言葉が現実であると知った。

 

 

「な、何故それを……」

 

『ナンダヨ、聞コエテルナラ返事ヲシロヨナ……デ、‟何故”ト来タカ』

 

 

 思わず漏れた問いにそれに深海棲艦は一瞬キョトンとした顔になるも、すぐに薄ら笑いを浮かべた。

 

 

『オ前ラノ目的ハ、アノ潜水艦ガ言ッテイタ金剛ノ救出ダロ? ソレニコノ海域ノ特徴、ソシテ目的ガ救出作戦ト考ガエレバ、少ナクトモオ前ラ大型艦(デカブツ)ガ本隊ナンテ有リ得ナイ。ソレニ奴ラヲ取リ逃ガシタ私カラスレバ、ソノ潜伏地域ヲ予想スルノハ造作モナイ。ソシテ、オ前ラト示シ合ワセタヨウニ現レタ水雷戦隊ダ。ドチラガ本隊カ、ドンナ馬鹿デモ分カルサ』

 

 

 その口から語られた戯言、いやその作戦要綱はまさに私たちが練り上げたものと合致していた。その発言は作戦そのものを見透かされたことを示していた。しかし、この作戦は模範解答である。数ある物的情報を踏まえた上で導き出したものであり、言ってしまうと情報さえあれば誰でも(・・・)導き出せてしまう代物と言ってしまえる。情報を集め、分析し、導き出した答え故にそれを持つ敵も同じことを考え、その対策をすることも十二分にあり得るのだ。

 

 だからこそ、私たちが先の出撃で会敵した敵を悉く屠り去ったのだ。同じ土俵で戦うに際して勝利を得るには戦力が多い方が有利、それを覆すことは不可能であるがその溝をある程度埋めることは可能である。そして、それと同時に敵の選択肢を減らすことに直結することになる。

 

 今回の主目的は救出であり、それに大型艦は不向きだ。しかし、仮に大型艦で編成された艦隊が海域の何処かに現れれば否が応にも対応しなければならない。そしてキス島は不毛の地であり、活用できる資源は限られている。航空戦力が皆無に等しい故に迎撃部隊には重巡、戦艦を中心とした部隊を派遣しなければならない。

 

 ただでさえ戦力を削られた上に間断なく攻めたため、敵の対応能力は著しく落ち込んでいる。その中で私たちに対応できるのは戦艦部隊、そして今回の作戦の引き金となった件のトンデモ戦艦を引っ張り出すしかない。そして私たちの目的はその深海棲艦をこちらに引き付けることだ。今ここに、この深海棲艦が居る時点で作戦は成功していると言える。仮にこの作戦が敵にバレてしまおうが、そう対応せざるを得ない状況に追い込んだことでそのリスクは帳消しになる。

 

 

 だから私はこの作戦を、この穴だらけの常套手段を推したのだ。打開策としては些か欠けるものの、その穴埋めはどうとでもなる。むしろ、救出作戦に従事できない私たちからすればその穴埋めこそが活躍できる舞台なのだ。私たちはやることなすこと全てが小手先の策ではあるが、それが幾重にも重なれば立派な作戦となる。塵も積もれば山となる、小さな弾痕も数が増えれば戦艦すらも沈めれるのだ。

 

 そして、小手先の策に切れ味を与えるのが士気だ。このような作戦を押し進めるには勢いが必要不可欠である。だからこそ私は戦闘前に鼓舞した。それは艦隊全体の士気を高め、同時に自分の意志を、本当にこの作戦を成功するのか、という不安を払拭するためである。皆が一様に目的を――――全員で帰投すると言う薄氷の上を歩くに等しい目的へ全精力を注がせるための体のいい謳い文句を。語り部には過ぎた言葉を無理矢理絞り出したのだ。

 

 

 だからこそ、私は耳を疑ったのだ。その言葉を、その存在を、その思い違い(・・・・)を。

 

 

 

 

「空母が居るのか……? 南東(そっち)に……」

 

「……何時カラ空母(・・)ガ私ダケダト錯覚シテイタ?」

 

 

 私の呟きに深海棲艦が心底嬉しそうに、私たちが犯した誤算を口に出した。

 

 私たちは――――いや()はキス島周辺の海流、そして敵編成を見てキス島は資源が乏しく大型の空母を置いておくことは不可能だと判断した。そして、今こうして私に語り掛けている深海棲艦のスペックを見て、主力となる航空戦力はこの深海棲艦だけだと断定していた。また先の出撃で空母自体はちらほらいたものの軽空母ばかりで、その殆どを加賀たちによって屠られている。

 

 そして何より、海流の激しさ故に空母では本隊が向かう海域に留まることは不可能。仮に敵が空母群を大量に率いていても海流に足を取られ北西(こちら)側に流れてしまう、これは覆しようのない事実だ。だからこそ勝算があった、だからこそこちらに私たちが持ちうる航空戦力を全振りしているのだ。

 

 全ては空母群が南東(そっち)に居ないことを前提とし、確かな情報で足元を固めた上で決行した常勝(・・)手段。その筈だ。だからこそこの深海棲艦の発言は嘘だ、根拠のない戯言だ、これに惑わされてはいけない。

 

 

「……ば、馬鹿な!! あの海流に空母が留まれるはずはない。それに艦載機の活動範囲は帰投を考慮しても―――」

 

「何デ水ニ浮イテイル(・・・・・・・)前提ナンダ?」

 

 

 虚勢を張る私の耳に、深海棲艦の少しつまらなそうな声が聞えた。そして、その言葉に私の中で一つの仮説が浮かんだ。だがそれもはっきり言ってしまえば可能性の低い、有り得ないと断言してしまうほどに夢物語過ぎる。

 

 だが、もしそれが本当であれば、いや私たちの前提が間違っていた(・・・・・・・・・)とすれば、その仮説は一気に現実味を帯びるのだ。

 

 

 キス島には『航空部隊を運用できるほどの資源が無い』のではなく、『産出資源では賄えないほどの超強力な空母群が常駐している』のではないか。いや、この深海棲艦の言葉から常駐しているのが空母とは考えられない。航空部隊ではなく航空戦力として見た場合、航空戦力=空母という方程式を掲げるのは早計過ぎる。

 

 そもそも空母が何を目的として作られたか。それは海上で艦載機を発艦、着艦させるためだ。大海原に無理矢理艦載機を飛ばす場所―――――飛行場を置くためだ。その役割を担ったのが空母なのだ。

 

 その空母が必要ない、そして水に浮いている前提を否定、更に補給線を敷いてまでそれ(・・)をキス島に常駐させている、いやそこに存在している。そして何より戦艦のくせに艦載機を発艦、雷撃、そして対潜も出来てしまうトンデモ深海棲艦がいると言う事実。それら十分すぎる情報(・・・・・・・)を元に導き出したそれ――――

 

 

 

 

「陸上型が、いるのか……?」

 

 

 『陸上型』――――――ほとんどの深海棲艦が艦娘と同じように航行する、その言葉に対して『海上型』と呼ばれる中に現れた稀有な存在。航行能力を有さず、島の一角、もしくは島そのものに常駐し、そこから夥しい数の艦載機を発艦させ、場合によっては砲撃まで行う。まさに飛行場と要塞が一つの深海棲艦となってしまった存在だ。

 

 その存在自体は度々確認されている。此処から近い北方AL海域には小さな子供の姿をした深海棲艦――――北方棲姫と呼称された個体がいるのだ。一歩踏み込めばその小さな身体から想像もできないほどの艦載機を放ち、侵入者を執拗なまでに撃滅する。それも海域の奥に踏み込めば踏み込むほどその攻撃は熾烈を極めると聞く。

 

 しかし、その脅威とも言える深海棲艦は北方AL海域の外に出たと言う報告はない。陸上にある飛行場を動かせないのと同様に、陸上型の深海棲艦も根を張った植物のように移動できないとされている。自らの縄張りを侵すものに対してのみ攻撃することも、その仮説の根拠となっている。

 

 仮にそんな存在が、万が一に陸上型がこのキス島にいるとすれば今までの話に辻褄が合う。空母を有さないのもそれに勝る存在が居るからだ、空母では進撃不可能な筈のキス島南東で航空部隊が現れたのも陸上故に海流の影響を受けず、尚且つ空母では足元に及ばないほどの強力な航空戦力を有しているのだ。

 

 

 同時に、私たちが導き出した常勝手段が、その存在だけで全くの愚策に追い落とされてしまったことを意味していた。

 

 

 

「ハハハッ!! ゴ名答ォ!! ―――――ト、言イタイガハズレ(・・・)ダ」

 

 

 しかし、それを否定したのは敵である深海棲艦だ。その声色は最初こそ高笑いに則していたが、最後の答えを吐き出した時にはバツの悪そうなものになっていた。

 

 

「アノ()サンハ陸上型ジャナイ。生マレタバカリデ、偶々ソレガコノ海域ダッタッテェダケ。漸ク航行ガ出来ル様ニナッテ、モウスグ此処ヲ発ツ手筈ダ。私ハソレマデノオ守リッテ訳サ。デナケリャ、コンナ僻地ニ私ガ居ル訳ナイダロ」

 

 

 『姫』――――その言葉が飛び出した。先の北方棲姫もその字を冠しているため、その『姫』とやらも同等の存在なのだろう。そして『此処を発つ』、つまり航行可能だと言うのだ。陸上型と同格の深海棲艦が海域を跋扈する、それを想像しただけでどれほど脅威かは嫌でも分かる。そしてその『姫』とやらは陸上におり、そこから艦載機を飛ばしたのだ。その艦載機が本隊を補足したのだ。

 

 

「待て、まさか北上たちは……!?」

 

 

 そこでようやく気付いた。本隊は艦載機の襲撃を受けた。対空装備を持たない水雷戦隊が、『姫』に匹敵する敵の艦載機群に襲われたのだ。空母がいない、という前提のもとに編成された彼女たちに艦載機をしのぐ術は皆無だ。つまり、最悪の事態を覚悟しなければならない。

 

 その言葉を吐き、私は思わず無線の先に居るヤツに――――――件の深海棲艦に視線を向ける。その視線の先で、無線から私の声を聞いたらしき奴は、何とも楽しそうな笑みを浮かべた。

 

 

 その後、奴は一言も言葉を発さない。ただただ浮かべた笑みをどんどん綻ばせていくだけ。その笑顔、そして沈黙を貫く、それらが表す意味を、私は肯定(・・)ととった。

 

 

「貴様―――」

 

『残念ナガラ、取リ逃ガシタミタイダ。マァ、駆逐艦一隻大破ハ確実ダトサ』

 

 

 私の咆哮に示し合わせたのか、深海棲艦は私の肯定を否定した。突然のことに思わず面を喰らう私を他所に、深海棲艦は何処か面倒くさそうに頭を掻いている。その姿はまさに絶好のチャンスと言えるが、腰が抜けた私にそこから砲撃を加えることは出来なかった。

 

 

 

『ソコデ、ダ。取引シヨウ』

 

 

 そんな言葉が無線の向こうから聞こえてきたからだ。突然の発言に、私は言葉を返すことが出来ず、私の沈黙を話を続けろと取ったのか、向こうはスラスラと詳細を話し始めた。

 

 

『結論カラ言オウ。私タチヲ見逃ス(・・・・・・・)、タダソレダケダ。ソウスレバ姫サンニオ前タチノ仲間ヲ攻撃シナイヨウ伝エヨウ。ソシテ此処デ互イニ引ケバ、ソノママコノ海域カラモ撤退シヨウ。コンナ僻地ジャ姫サンノ補給ガシ辛クテショウガナイシ、コンナ不毛ノ地ヲ守ルメリットハ少ナイカラナ。悪クハナイダロ?』

 

 

 そう提案した深海棲艦は、まるでいい話を持ってきた商人のような柔和な笑みを浮かべている。その提案は、今の私たちにとって渡りに船だ。攻撃を行わずに引けばこちらは全員助かる、私たちの最重要事項である金剛の救出と全艦娘の帰投が果たされるのだ。こちらの作戦を見透かされ、前提の履き違いによる本隊が事実上の撤退、作戦そのものが暗礁に乗り上げた今だからこそ心の底から渇望する提案である。

 

 そして何より、この海域を奴らの手から奪い取ったと言う戦果を挙げることができる。ある程度の打撃を与えたこと、そして形はどうあれ海域を奪った事実は変わらない。憲兵(悪役)殿が言った通り、戦果を挙げること自体は出来るのだ。それを盾に大本営にも幾分か交渉の余地が生まれ、それによって微妙な立ち位置に置かれる私たちの安全もある程度保障されるかもしれない。逆に言えば、此処で変に意固地になって仲間の命を天秤に乗せることこそ、全くの愚策と呼べないだろうか。

 

 

『モシ…………万ガ一(・・・)、受ケ入レナイトナレバ此処ニ居ル全艦ヲ向コウニ送ル。海域ニ阻マレナイ程度ダガ、大破艦ヲ引キ連レタ艦隊ガ100%海流ニ逆ラウ事ハ不可能。海流ノ向キヲ把握シテイル深海棲艦(私タチ)ガソノ逃亡先ヲ予測スルノハ可能ダシ、索敵ガ十八番ノ艦載機群ガアル。コノ話ヲ蹴ルカ蹴ラナイカ、ソレ以前ニ現在進行形デ何処マデ持ツカ、見物ダナァ?』 

 

 

 そこに付け加えて、奴は先ほどの提案を蹴った場合のことを話した。その詳細はまさに今ここで選択を間違えれば有り得てしまう確かな地獄である。敵地に切り込んでいる私たちは常に地の利を握られているわけだ。海流の向きについてはあちらに一日の長がある。その上海流に左右されない航空戦力を広範囲に渡って展開可能となれば、この海域に踏み込んだ時点で私たちはその掌に乗せられたも同然ではないか。

 

 だが、それは複数存在する事態の最悪手を示しただけ。今こうして悩んでいるまさにこの瞬間、北上たちが敵の追撃に遭っているかもしれない。金剛たちが敵に発見されたかもしれない。今まさに、私の見えない場所でその二つの命が消え失せているかもしれない。私がどちらを選択するか以前に、既にそれらの命は天秤に乗せられている。私が選択するしない以前に、まさに燃え尽きようとしているのだ。

 

 であれば早急にこの提案を呑み、即時撤退が正答である。だが、私はそれを即決できない。私は作戦の采配権を持ち合わせていないのも確かだが、何よりも新たに芽生えた最悪の事態(・・・・・)があるからだ。

 

 

 

 それは『この姫と呼ばれる深海棲艦をみすみす逃がしていいのか』という未来へ蒔かれた疑念の種だ。

 

 

 陸上型なら海域に踏み込まなければ攻撃をしてこない。その一線を越えなければ脅威とはなり得ない。勿論、何時かは駆逐しなければならないのだが、それはこちらの戦力が整った時であり戦闘のイニシアチブを握ることが可能なのだ。だがその姫とやらは航行が可能であり、下手をすれば今後何処かの海域で遭遇するかもしれない。もしくは待ち伏せされる可能性もある。そこに飛行場と要塞両方の機能を有するとなれば、その事態に陥った際の絶望感は数知れないだろう。下手すれば他の鎮守府や大本営、そのまま人類に危険をもたらす存在になるのは確実だろう。

 

 そんな存在を逃がして良いわけがない。一刻も早くキス島に殺到しその『姫』を、のちに必ず脅威となるであろう芽を早急に潰さなければならない。しかし、今の私たちの目的はあくまで救出であり、侵攻ではない。金剛の救出、そして全艦隊が1人も落伍することなく帰投すること、未来に必ず芽吹くであろう脅威を放置することだ。

 

 

 それに今、今まさにこの時、その姫とやらは生まれたばかりだ。航行すらままならない状態、いわば赤子同然。北上たちが大破艦を出しながらも逃れたことから、姫の戦闘力はそこま高くないかもしれない。もし私たちが一気呵成に襲い掛かれば、撃沈は無理でも無力化まではいけるかもしれない。ある程度の損害を与えればここで駐留し、傷を癒すだろう。そこに費やされる時間や資源は膨大であり、こちらが立て直せる時間はあるかもしれない。

 

 もし、もし上手くいけばここで姫に損害を与え、その傷が癒える時間を利用して金剛たちを救出し、そのまま再度攻撃を仕掛け今度こそ水面に沈めることができるかもしれない。そんな、そんなご都合主義に塗れた展開があるかもしれない。勿論そんな理想論が叶うわけもない、有り得ない、そう断言出来てしまう。だが今なら、今ならその可能性は0ではない。限りなく低いが、‟0”ではないのだ。

 

 

 だがそれを選択すれば北上、金剛、果ては私たちの中の誰かが落伍する可能性が跳ね上がってしまう。しかし、先を見据えればそれ以上に犠牲を出しかねない、それこそ人類の存亡を揺るがす存在をこの大海原に解き放つことになる。

 

 それこそ本末転倒だ。人類滅亡の引き金を引くことに、そしてその銃口に先には私たちの鎮守府もあるだろう。大と小、人類と私たち、鎮守府全員と水雷戦隊一部隊及び負傷艦2名、どちらを選び、どちらを切り捨てるか。

 

 その銃を手渡され、その引き金に指をかけ、目の前に横たわる大と小を前に、どちらかを撃ち殺せと囁かれる。そんな大それた役回りをこの語り部に、物語をただ淡々と読み上げるしか出来ない、その頁の端をただめくるだけしか出来ない無名役者(モブ)に、『やれ(殺れ)』と言うのか。

 

 

 

 

『話は終わり?』

 

 

 

 だが、次に聞こえたのは加賀の声だった。その瞬間、私の横を何かが通り過ぎる。それは一直線に深海棲艦たち目掛けて飛び掛かり、その距離をどんどん詰める。突然のことに飄々と語っていた深海棲艦の顔に焦りが浮かべている。そのまま前かがみの態勢になり、その背中にあるまるで化け物のような艤装を展開。その大きく開かれた口から無数の艦載機を放った。

 

 それを見て、先ほど私の横を通り過ぎた何かが艦載機であると分かった。分かった頃には飛び出した艦載機たちの腹から魚雷が投下され、身軽になったそれらはそのまま敵艦載機と空中戦に突入する。魚雷は水面に白い尾を引きながら一直線に深海棲艦たちに襲い掛かり、トンデモ戦艦は何とか回避するもその後ろにいた戦艦ル級は間に合わずに巨大な水柱と共に水面に沈んでいった。

 

 

『まず一隻』

 

 

 そう、再び加賀の声が聞えてくる。それと同時に新たな艦載機がまた私の横をすり抜け、深海棲艦に襲いかかった。それに深海棲艦は再び艦載機を放つも空中戦は加賀が放ったであろう艦載機が優勢であり、かの艦載機は悉く撃ち落されている。

 

 

『何を悩んでいるの?』

 

 

 再び聞こえた加賀の言葉。それを私に向けられた問いだと判断し、私は真後ろを向く。そこにはなおも弓に矢を番えながらこちらに近付いてくる加賀の姿があった。そしてその姿を見て、私の思考は止まった。

 

 

 

『提督の願いは金剛含め全艦娘の帰投、そして私たちの目的は救出するまでの囮。囮がすることは敵を引き付けること、それ以上でもそれ以下でもないわ。私たちはただそれを遂行すればいいの。本隊が金剛を救出するまででも、本隊が無事帰投するまででも、目的は違えどやれることは時間を稼ぐことと敵を引き付けることに変わらないでしょ? あまり深く考えすぎないで』

 

 

 無線から至って冷静な加賀の声が聞える。だが、私はその声を発しているであろう彼女の姿を見ることしか出来なかった。

 

 

『そして……その姫とやら? 確かにとてつもない脅威よ。出来るならここで放置するのは得策じゃないわ。だけど現状でそれを撃退するのは無理、不可能だわ。正直今の私たちじゃ太刀打ちできないでしょう。だから敢えてここは見逃して、後々発見された時に何処の鎮守府と共闘なり戦力増強を行って、万全に近い状態で相まみえるのも一つの手よ。でもね、それよりももっといい手(・・・)があるの』

 

 

 彼女の手から再び艦載機が放たれる。それは私の感覚的に、いつもよりもスピードが増していたように見えた。まるで、その銀色の弾丸は猛スピードで深海棲艦へ向かっていくのだ。

 

 

『要はその姫が移動しなければ(・・・・・・・)いい。陸上型と同じようにこのキス島に釘付けにすればいいのよ。幸い此処は不毛の地でその姫が駐屯するに必要な資源は賄えず、補給線による維持が必要不可欠。そして、今その補給線は私たちが滅茶苦茶にした。この状況だけを見れば、またとない好機よ。あとは補給線が復活しないように襲撃を繰り返せばいい。補給が無ければ修復も出来ず、航行も出来ない。釘付けにすると同時に戦力の弱体化を図れる。兵站を断ち切られた籠城戦ほど苦しいものはないでしょう。そして、その第一段階として必要なのが……その戦艦を沈める(・・・)こと』

 

 

 そこで言葉を切る加賀。その真後ろに太陽が重なり、私からは彼女のシルエットが、海風に振られる腰まで伸びるサイドテールが分かるのみ。

 

 

 

『その戦艦は姫のお守りなんでしょ。また、姫以外で脅威と呼べるのはそこにいる戦艦のみ。そしてイムヤ達のおかげで機関部を損傷、機動力が著しく低下している。艦隊の最後尾に居たのは単純に速度が出せなかっただけ。そしてこのタイミングでさっきの提案をぶつけてきたのも、現状姫と一緒にここを離脱するのが難しいと判断したから。違うかしら?』

 

『……チッ』

 

 

 加賀の問いと共に、その深海棲艦の忌々し気な舌打ちが聞こえる。図星なのか、はたまた他に何か理由があったのか。私には分からない。ただ、図星だけ(・・)ではないのは分かった。何故なら、その舌打ちは加賀の言葉を受けて発したにしては少し早すぎる(・・・・)のだ。同時に、その舌打ちが何に向けられていたのかが分かったからだ。

 

 

『……ほら、こんな目の前に手負いの()が居るの。据え膳食わねば男の恥じとは言わないけど、ここまでお誂え向き用意されれば頂かないわけにはいかないでしょ? あとね、ようやく分かったの。この作戦、その前哨戦が始まってからずっと燻ってた不快感の正体がね……え()

 

 

 そこで言葉を切った加賀が太陽の前から外れた。同時に、私の横にやってきた。それによってシルエットになっていた彼女がハッキリと鮮明に、映る。だが、それがハッキリとしているのか、鮮明なのか、残念ながら今の私に判断がつかなかった。

 

 

 

()かが戦艦風情()、私た()戦場()に踏み込んデク(・・)るんじ()ない()よ」

 

 

 

 そう、発した加賀。流暢な言葉ではない、所々音が外れた言葉。まるで長い間喋らずにいたせいで正しい音を忘れてしまったかのような。ちょうど今、彼女と対峙している深海棲艦のような言葉。

 

 それは言葉だけではない。彼女の姿はいつものそれとは違っていた。彼女の代名詞である肩までのサイドテールは腰まで伸びており、それを含めた髪の毛先が白と赤に染まっている。その健康的な色をしていた肌は血色を失い、灰色っぽく変わりつつある。そして何より、その吸い込まれそうな黒い瞳も色を失ったように白く染まり、そこから仄かに赤い光(・・・)が漏れている。

 

 

 

 そんな姿はまるで、深海棲艦のようであったからだ。

 

 

 

『ハッ、随分大キク出タモンダ。加賀ァ、ソレ僚艦タチニモ向ケテヤレヨ?』

 

「生憎、この子達に向ケテではナイわ。私は戦艦のクせに一丁前に艦載機を飛バシて空母()たちと対峙してル糞生意気な戦艦に向ケて言ッてルノ。ソレニムカつくのよ、私たちの子ヨリ高性能なあなたたちの方が」

 

『オ、ナンダ? 嫉妬カ?』

 

『……頭ニ来マシタ』

 

 

 そう漏らした加賀は間を置かずに矢を放つ。だが、彼女は気付いていないのだろうか。彼女が今しがた発艦した、そしてつい先ほどにも発艦した艦載機。それが彼女が『私たちの子』と称す艦載機から随分とかけ離れた姿に―――――まさに彼女が揶揄した深海棲艦の艦載機そのものになっていることに。

 

 だが、憤慨して放った艦載機は瞬く間に同じフォルムのそれの餌食とあり、それを見ながら深海は小馬鹿にした様に鼻で笑う。

 

 

『ハハッ、確カニコッチノ方ガ高性能ダナ!! マァイイヤ、取リ敢エズ……』

 

 

 笑いを一瞬にして殺した深海棲艦は両手を広げ、次の瞬間それを目前で叩いた。軽い音は瞬く間に大海原へと広がり、それを合図にその背後に展開していた敵軍が踵を返して後退をし始めた。先ほどの宣言通り、南東方面へ向かうのだ。あまりの迅速さに対応できない私を尻目に、加賀は舌打ちをして更に艦載機を放つ。しかし、それらは悉く敵のそれに阻まれてしまう。

 

 

『交渉決裂。折角ドッチモ救エル道ヲ用意シタノニ……マァ、決メチマッタコトハショウガネェ』

 

 

 深海棲艦は先ほどのおちゃらけた雰囲気から一変、心胆から震えさせる低い声色でそう問いかける。だが、心胆から震えさせられたのはその声色だけではない。

 

 手を合わせるその身体から夥しいほどの艦載機が飛び出してくるのだ。その数は80、90、100、110、120、130、その先以降は数えるのをやめた。その数に激昂していた加賀でさえ口を綴んだほどだ。

 

 

『サァ、気合イ入レロ』

 

 

 そう声を漏らした深海棲艦はすまし顔から一転子供っぽい笑みを、そして獰猛な眼を浮かべた。同時に、私たちの賽は次の漏れたによって強引に投げ捨てられたのだ。

 

 

 

 

 

『戦艦レ級、行クゾ』



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致命的な『失敗』

『……振り切れたね』

 

 

 無線の向こうから北上さんの声が聞える。だけど、私の視界に彼女はいない。むしろ、彼女は愚かその他僚艦たちの姿も見えない。私たちは今、数m先の水面さえ見えないほど白い霧に包まれているからだ。

 

 同時に無線の外から聞こえる5つの波を切り裂く音がその存在を辛うじて保証しているのみ。その音に私の――――曙の足元から聞こえる音も入っているため、実質的に存在が保証されているのは4人だけだ。私たちは6人で母港を出撃しているため、本来ならこの音はもう一つ存在している筈。

 

 だが、どれほど耳を澄ませてもそれを拾うことは出来ない(・・・・)。そのことに誰も触れない、触れられない。触れてしまえば終わってしまうから。人によってはそんな余裕がないと言って逃げるだろうが、その胸中は皆同じ。誰もその口火を切りたくないからだ。誰も認めたくないからだ。

 

 

 

 『ケ』号作戦、通称『キス島撤退作戦』。同名を冠した先の作戦が『奇跡の作戦』と謳われ、それにほぼ同一の状況故にそれにあやかって名付けられた本作戦――――――その頓挫(・・)を。

 

 

 ケ号作戦、その本番と言うべき作戦は現在、暗礁に乗り上げた。その発端は救出部隊として切り込んだ私たち水雷戦隊が哨戒部隊と思わしき敵艦隊に急襲を敢行した際、不意に現れた艦載機群である。事前情報に航空戦力の皆無、そして隠密故に軽量編成を優先した水雷戦隊と言う航空戦力を無視した編成、前提を元に立ち上げた作戦要綱は突如現れた艦載機群によって瞬く間に窮地へと追いやられた。

 

 その時点で作戦は失敗した。だが、私たちはそれを『失敗』とは言わず、『暗礁に乗り上げた』と言葉をすり替えた。と言うのも私たちは現在、濃霧の中を進んでいる。艦載機の羽音はなく銃撃も砲撃もない、敵影さえも見えないかつ攻撃されることなく進んでいるのだ。つまり、艦載機群から逃れることに成功したのだ。

 

 

 成功せしめた要因は3つ。

 

 1つはこの濃霧だ。艦載機群の奇襲を受けた際、周辺海域をスッポリ覆ってしまえるほどの巨大な濃霧が発生したのだ。おそらくは艦載機群の襲来によって気流が大いに乱れたせいで局地的に強い上昇気流が発生、それに煽られて巨大な濃霧が発生したと考えられる。理論的にはそう考えられるが、正直あの時、あのタイミングで、あれ程の濃霧が都合よく発生するとは到底考えられないため、ある意味幸運だったと言えよう。

 

 もう1つは私が背負っていたドラム缶――――金剛さんと吹雪の修復用資材とバケツを積んだドラム缶だ。輸送船兼索敵艦として出撃した私は背負っていた電探とドラム缶2つ、そのドラム缶には戦艦一隻と駆逐艦一隻分を修復するために必要な燃料、鋼材、バケツを双方に同量になるように詰め込んでいたのだ。その理由は戦闘で狙われた際、ドラム缶の片割れを放棄しても作戦を続行できるようにである。

 

 その本作戦とも言うべきドラム缶は今、私の背中にない。それは濃霧が発生した際にドラム缶1つを外して敵艦隊と艦載機群目掛けて投げつけ、それを狙撃して誘爆を起こしたのだ。可燃物である燃料は膨大な量の爆薬は濃霧の一部を食い破る程の爆発を起こし、装甲を形作る筈だった鋼材は大小様々な鉄片となって敵艦隊を強襲、数機の艦載機を道連れに敵艦隊全体に深刻な混乱を与えた。そしてその混乱に乗じて、私たちは濃霧の中に逃げ込んだのだ。同時に私は背中に残っていたドラム缶を機動力と積載スペースを確保するために放棄する。

 

 

 

「うぅ……」

 

 

 唇を噛み締める私の耳に、か細い声が聞える。その言葉に、私は間髪入れずに後ろに回していた手に力を込める。思考の海に落ちていたせいで、その身体を支える力が疎かになっていたのだ。故にすぐさまその力を込め直し、今にも零れ落ちそうな()を抱え直した。

 

 

 最後の1つ。それは今私の背中で声を上げた存在――――――大破した雪風だ。

 

 

 話は私たちが艦載機の急襲を受け、爆風によって潮から引き離されてしまったところに戻る。その時、私は全身を海面に打ち据えた激痛によって動けずにいた。そしてそこに示し合わせた様に頭上から爆弾が投下されたのだ。当然海面でぐったりとしている、ましてドラム缶の所為に機動力を著しく落とした私に回避行動をとることなんて不可能。直撃は確実と思われたその瞬間、横から滑り込んできたのが雪風であった。

 

 自身が出せる限界のスピードで私と爆弾の間に割り込んだ彼女は海面でぐったりしていた私の服を掴み、突っ込んできたスピードを利用してその場から遠くへぶん投げたのだ。再び空中に投げ捨てられた私は再び海面に叩き付けられる――――ことはなく、間一髪のところで雪風同様滑り込んできた潮によってキャッチされた。キャッチされた直後、私は潮の腕の中で首を動かし雪風を見る。

 

 だがその姿を直視する前に爆弾が彼女に着弾。とてつもない轟音と共に顔を叩く爆風、髪を焦がさんばかりの熱に襲われ思わず目を閉じてしまう。無意識に犯してしまった愚を取り戻そうと無理矢理目を見開くと、目の前に広がる黒煙、それにまかれて宙を舞うボロボロの雪風が見えた。

 

 

「雪風!!」

 

 

 その名を叫び、私は潮の手から飛び出して全速フルスロットで宙を舞う彼女を追った。急激な速度に艤装が悲鳴を上げるのを無視し、そのまま突進。しかしドラム缶を背負っていたせいで瞬間的なスピードを出せず、私の手に触れることなく雪風は着水。その身体は爆風の勢いを受けてた目一杯投げられたボールのように海面を跳ね、その度に彼女の艤装から金属片が零れた。

 

 

 何度目かの着水に何とか間に合い、私はボロボロのその身体を抱いた。爆弾の直撃、それも駆逐艦ならそれだけで轟沈してしまうであろう強力なそれの直撃を受けた彼女は意識を失い、同時にその身体が酷く傷ついていた。生傷、切り傷、火傷、打撲、見えないだけで脱臼や骨折もしているかもしれない。誰がどう見てもその姿は致命的な損傷―――――大破であった。唯一の救いは外傷は酷いものの五体満足でいたことぐらい。しかし彼女の呼吸は今にも止まってしまいそうな程弱く、早急に入渠させなけばならない状態であるのは明白であった。

 

 だが、それを見逃す敵ではない。雪風を抱き留めた私に目掛けて数機の艦載機が猛スピードで突っ込んできた。大破状態の駆逐艦と迎撃能力を持たない駆逐艦など敵からすれば恰好の餌だ。逃れることはまず不可能、そうと分かっていても私は無我夢中で艤装を再び全速にする。

 

 再び艤装が悲鳴を上げ、私たちの身体は前へと押し出される。だが、その瞬間雪風の手が私の肩に回され、同時に後ろからカチッと言う軽い音、そして今まで全身の片側にかかっていた重みが一気に消えたのだ。突然のことに重心が崩れて視界が大きくぶれた時、見えた。

 

 

 背負っていたはずのドラム缶、その一つが私たちの背後に広がる海面に浮かんでいるのを。そして、意識を失っていた筈の雪風が腕を突き出し、そのドラム缶に砲口を向けている姿を。

 

 

 その直後、一つの砲撃音と共に巨大な爆発が起こる。その爆風に背中を押され私たちはすぐさまトップスピードで艦載機から離脱。同時に砲撃を行ったであろう雪風が再び意識を手放したため、私はその身体を振り落とさないよう力を込める。しかし、艦娘一人を背負うには荷が多すぎた。それに気付いた私はすぐさま背中に手を回し、先ほど彼女が外したホック―――――ドラム缶を繋ぎ止めていたそれを外した。

 

 再び訪れた重みの喪失と共に抱き留めていた雪風の身体を大きく持ち上げ、そのまま背中に回してガッチリと背負い込む。それと同時に、まるで示し合わせた様に目の前に巨大な濃霧が現れた。

 

 

「16時方向に巨大濃霧を確認!! 全艦、退避ィ!!!!」

 

 

 無線に向かって私はそう吠え、そのまま全速力で濃霧に突入。

 

 

 

 ―――――そして、今に至る。

 

 

 結果として雪風は私たちを、私に至っては直接的に救ってくれた。あの巨大な濃霧も、もしかしたら彼女が呼び寄せた幸運かもしれない。しかし、同時に彼女はこの作戦を暗礁に乗り上げさせてしまった。

 

 まず、彼女が咄嗟に外したドラム缶。これがなければ金剛さんと吹雪の修理が出来ず、二人を曳航して撤退と言う多大なリスクを背負わなければならない。しかし工作艦の役割を担う北上さんが居たとしてもドック以外で艦娘の修復を出来るかどうかすら怪しく、仮にできたとしても不具合が起きる可能性が高い。

 

 あくまでドラム缶は乗せられる艦娘がいたからついでに持って来たと言う色が強く、持って行って修復出来たらラッキー程度だ。私たちは元々二人を曳航するつもりで出撃しているため、ドラム缶を失ったところでそこまで痛手ではない。

 

 

 そして次に、というかこれこそが作戦続行を阻んでいる最大の障害――――雪風の大破である。

 

 初代の頃、私たちは幾度となく大破した僚艦を率いて進撃しその度に多くの艦娘が轟沈した。その経験、というかもう事実として大破した艦娘を抱えたまま進撃すればほぼ確実に轟沈してしまうのだ。敵艦に今にも沈みそうな艦が居れば真っ先に狙うのは私たちも向こうも同様である。

 

 そして、ここにいる殆どは知らないのだろうが、あいつはこの作戦で先ず何よりも全艦娘の帰還を目標と―――――――そう願っている(・・・・・)。『誰一人として失わない、必ず全員帰ってくる』、これが加賀さんが口にしたあいつの願いなのだ。これがあいつがミサンガに込めた願いであり、加賀さんによって引き千切られた願いなのだ。私たちが叶える願いなのだ。

 

 故に大破した雪風を率いたまま進撃することは出来ない。これはあいつの願い関係なく私たち全員一致の答えだ。そこに付け加えてドラム缶の喪失による応急修理が出来ない点を挙げて、母港に撤退することもできる。もしくは榛名さんたち後詰艦隊に雪風の護衛と鎮守府より新たな資材を持ってきてもらえば撤退しなくても大丈夫なのだ。

 

 

 だが、そこに降りかかるのは『時間を消費する』と言うリスク。もし撤退をすれば鎮守府に帰投し、入渠させ、補給を済ませてもう一度出撃するまでにどれほど早くとも一日はかかる。その間他の艦娘が救出部隊として出張ればそのリスクもある程度軽減するかもしれないが、それでもやはり時間はかかってしまう。

 

 時間の経過=金剛さんたちの生存率低下であるため、最優先に避けねばならないリスクだ。また応急修理の関係上北上さんが連続出撃となるため、彼女の負担が増えることも出来れば避けたい。それらを考えると、このまま進撃する選択肢となる。

 

 

 このまま進撃すれば本作戦の成功が最も高くなるが、その代わり雪風が轟沈してしまうリスクが発生する。

 

 このまま撤退すれば雪風以下負傷した艦娘は帰投しもう一度万全の状態で作戦を決行できるが、その代わりに主目的である金剛さんたちの生存率が格段に下がる。いやこうして迷っている今も下がり続けている。

 

 

 故に此処で迫られた選択は、『どちらを取るか』。駆逐艦1隻と戦艦と駆逐艦の2隻、『どちらを捨てるか(・・・・)』。

 

 合理的に考えればこのまま進撃するのが正答である。しかし、感情的にはこのまま撤退をしたい。もうこれ以上仲間を沈めたくない――――――そう私たちは願って、そしてあいつもそれを願っている。だが、その願いを叶える選択肢はない。そして選択しなければ待っているのは最悪の結末。

 

 だからこそ、願っているからこそどちらも選択できない。選択できる勇気がない。選択した責任を取れない。いや私たちに責任を取ることは出来ない、取ることができるのは提督であるあいつだけなのだ。

 

 

 

 あいつに全てを押し付けなければならないのだ。

 

 

 

『皆、一回集まって』

 

 

 その時、無線から北上さんの声が聞えた。その声色は重苦しく、嫌々なのがヒシヒシと伝わってくる。その声に無線の向こうから『了解』と言う声が聞え、それに続いて私も電探に表示される点たちが集まっていく場所に向けて速度を上げた。

 

 そこは濃霧の中で一か所、ぽっかりと開いた空間であった。上からは太陽の日差しが差し込むも、周りは濃霧の壁に囲まれている。こんな現象が起こるなんてまずありえないのだが、これもまた幸運なのだろう。そう切り替え、少し離れたところに見える北上さん以下僚艦たちの下に近付く。

 

 離れた所から見ただけでも、皆の損傷は軽度と言う言葉では済まされない程傷付いていた。

 

 パッと見、夕立と潮は中破、北上さんと響は中破に近い小破。特に潮に至っては魚雷発射管はなく、主砲もひしゃげているために攻撃能力は失われているように見える。恐らく雪風の次に重症なのは彼女だ。そして夕立は深紅に染まった瞳のまま平気な顔でケロリとしているものの僅かに身体がふらついており、現在はスイッチが入っているだけでそれが切れてしまうと一気に衰弱してしまうと予想される。

 

 北上さんと響は損傷こそ少ないものの潮たちを見て表情を歪ませている。彼女たちの中でも撤退が第一案だと見受けられた。そこに現れたほぼ無傷の私と大破した雪風。私たちを見てその表情が攫い歪んだのは言うまでもない。

 

 

 

「さて、改めて状況を説明する……までもないね。手短に聞くよ……此処で撤退するか進撃するか、意見を聞きたい」

 

 

 北上さんの重苦しい言葉。旗艦である彼女はその責務を全うすべくその問いを―――――作戦の頓挫を認め、それを踏まえて今後をどうするか、本来であれば責任を負うあいつに向けるべき問いを私たちに向けてきた。彼女は艦隊の総意を固めるためにそう聞いてきたのだ。いきなりあいつに意見をぶつける前に、先ずは当事者の意見を纏めたいのだろう。

 

 だがその問い以降、誰一人としてその答えを発することは無かった。私たちの意見は満場一致で撤退であるからだ。この状況で進撃したところで救出作戦が成功するとは到底思えない、であれば此処は撤退して再起を計るのが上策である。その下に自分が助かりたいからという身勝手な理由があるかもしれないが、そう考えてしまうのは普通だから誰も非難することはない。まして生き残ることを徹底してきた私たちだ、リスクを回避するのは当然の結果である。

 

 

 

 

「進撃です」

 

 

 だが、問いに対する第一声は固まっていた総意に反するものであった。それを聞いた一同の目が私に注がれる。そのどれもこれも信じられないような目をしていたが、その中で北上さんが向けてくる目だけはそこに内包された感情が一切読めなかった。いや、読めなかったのはその目自体が私に向けられていなかったからだ。何せ、それを口にしたのは私ではなかったから。

 

 

 

 

「撤退なんて駄目です、進撃しましょう」

 

 

 

 そう、更に言葉を添えたのは私の背中で意識を失っていた筈の雪風であったからだ。意識を取り戻した彼女は私の背中で顔を上げ、しっかりとした口調でそう進言した。そこに、いつもの彼女はいなかった。いつもの笑顔を、いつもの柔らかな雰囲気を、その他『いつも』の彼女が纏っていたもの全てを捨て去った雪風がそこに居た。感情の全てを捨て去って、ただ淡々と言葉を発しているかのような、まるで感情を持たない兵器のような彼女が居たのだ。

 

 

 

「……進撃するリスクは理解している?」

 

「はい、雪風が沈むだけです」

 

 

 北上さんの重苦しい問いに、雪風は至極当然のように答えた。当たり前の答えを吐き出し、それが選択されるだろうと信じて疑わない。『進撃』と言ってしまえば今すぐにでも海面に足を付け、そのまま進んでいってしまうのではないかと思うほどに。

 

 

「あんただけじゃない。潮や夕立、軽微とはいえ私と響も損傷している。この状況で進撃して全員無事に帰ってくる可能性は……」

 

「敵は雪風が引き付けるので大丈夫です」

 

 

 北上さんの言葉を遮る様に雪風は声を上げた。その言葉に、やはり感情はない。ただ淡々と、己の役割を述べるのみ。後は述べたそれを忠実に遂行するだけだ。

 

 

「考えてみてください。目の前に傷付いた敵艦隊が現れた時、真っ先に狙うのは誰ですか? 味方かの被害を抑えるために戦艦や空母の大型艦を狙いますか? 機動力が売りの軽巡洋艦、駆逐艦を狙いますか? それこそ無駄に弾薬を浪費するだけです。雪風なら仕留めやすい(・・・・・・)のを狙います。特に火力に乏しい水雷戦隊なら頭数を減らすために狙うでしょう。つまり、必然的に敵の目は雪風に集中します。それで……」

 

「それで他の艦は沈まないって?」

 

 

 雪風の話を、今度は北上さんが遮る。先ほどの感情の無い声色ではなく、何処となく刺々しい、弄んでいた刃物を突き付けるような鋭さがあった。だが、その剣幕に雪風は動じることも無く、感情の一切を削ぎ落した表情を向けるだけだ。

 

 

「勿論、全てを引き付ける自信はありません。少なからず皆さんにも火の粉がかかるでしょう。ですが今までの経験上私たちは沈むのは大破状態で進撃した場合、言い換えれば大破していない艦娘はある程度の進撃は可能だと言うことです。恐らくは妖精さんの懸命な応急措置だと思いますが、少なくとも沈んでいった艦は雪風の知る所大破状態での進撃が殆どだったと記憶しています。このことから皆さんが沈むことは無いと判断します」

 

「でも、それって雪風ちゃんが……」

 

 

 そこに割って入ったのは夕立である。ボロボロであるものの、その目は元の色に戻っている。スイッチが切れ始めた証拠だろうか。その証拠に先ほどの不敵な笑みを浮かべた彼女ではなく、少し不安げな表情である。その言葉に雪風は北上さん同様の顔を向けた。

 

 

「だから『雪風が沈むだけ』と言ったじゃないですか。進撃した場合、落伍する可能性があるのは雪風だけです。それだけ(・・・・)で成功に導けるんですよ? 万が一このまま撤退すれば金剛さんと吹雪さんが戻らない可能性が跳ね上がりますよ? 良いんですか?」

 

「でも現状、金剛を吹雪を修理して撤退するのが前提だった資材が無い。このまま進撃したところで意味が無いじゃないか?」

 

 

 次の話を遮ったのは響である。彼女は落伍者ではない別の点を、金剛さんたちの修理に必要な資材の喪失を上げてきた。それを聞いた瞬間、私の胸中に鉛のような重圧がかかったのは言うまでもない。

 

 

「元々資材が有れば修理できる保証なんて無かったはずです。仮に出来たとしても何処かで不具合が起きる可能性もあった。資材の有無は本作戦の根本ではないのですから、それで撤退を選ぶのは愚策かと。それに一つは爆発四散しましたがもう一つは行方知れず、響さんたちの報告では吹雪さんが補給艦を襲撃したとありました。運が良ければ(・・・・・・)敵が回収し、それを金剛さんたちが奪取してくれるかもしれませんね」

 

 

 響の問いを否定し、余裕とばかりに机上の空論を述べる雪風。だが何故だろうか、その空論を述べる彼女の顔がほんの一瞬、ほんの一瞬だけ苦痛に歪んだのは。

 

 

「さぁ、もういいでしょう。しれぇに通信を」

 

 

 一通りの意見を、というか雪風との舌戦はあちらに軍配が上がったのを持って雪風は北上さんにそう促した。それを受けて、北上さんは無言で私たちを見回す。その視線に晒されるも、誰も口を開くことは無かった。それは雪風の意見に賛同すると同義である。

 

 

「通信を開始する」

 

 

 全員を見回した後、北上さんはそう口を開く。その瞬間、無線の向こうからノイズが走り始めた。艦隊と鎮守府を結ぶ無線はとても強力な電波を使用しており、旗艦だけでなく僚艦全員の無線にも聞こえるようになっている。無論、傍受される危険を孕んでいるため、通信の認可は旗艦の判断だ。

 

 

「降ろしてください」

 

 

 通信が繋がる間、背中の雪風がそう言う。その口調は口答えをさせない重さがあり、それを受けた私は素直に彼女を彼女を下ろした。私の背中から着水した彼女は大破しているとは思えないほど滑らかだ。その見事なまでの着水にほんの一瞬大破しているのだろかと疑問に思ったが、次に移ったボロボロの彼女を見てその考えは露と消えた。

 

 そして、彼女の視線はまたもや自身の手首に下がるミサンガに注がれる。爆撃をもろに受けたせいで、彼女のミサンガは今にも千切れそうなほぼボロボロであった。だが辛うじて、本当に辛うじてだがまだ繋がっている。それを見て、私は彼女がまた苦痛に満ちた表情を浮かべると思った。

 

 

 

 だが、その予想に反して彼女が浮かべたのは安堵した表情だった。

 

 

『皆、無事かッ!!』

 

 

 次の瞬間、無線の向こうから悲鳴のような怒号が鼓膜を揺さぶってきた。その場にいた全員がそれに思わず耳を抑える中、一人ミサンガから目を離した雪風はすぐさま無線に語り掛けた。

 

 

「はい、誰一人として損傷艦はいません」

 

『そ、そっ―――』

 

「んなわけないでしょ」

 

 

 力強い雪風の発言に安堵の言葉を漏らすあいつに、北上さんがすぐさま否定する。同時に北上さんが雪風にもの凄い剣幕を向けるも、当の本人はすぐさま視線を逸らして知らんふりだ。そんな一色触発の雰囲気であったものの、切迫した事態故に北上さんが矛を収める。

 

 

「今のは無視して。本隊は進撃中に敵艦載機群の奇襲を受けた。被害は雪風が大破、夕立と潮が中破、私と響が小破。また金剛たちの修復資材積んだドラム缶は両方とも喪失、以上が現状の報告だよ」

 

『な、何で艦載機が……』

 

 

 北上さんの報告に、あいつは至極当然の問いを溢した。艦載機群が居ないことを前提に決行された作戦だったのに、其処に現れた大規模な艦載機群だ。この事実はこの作戦の頓挫を意味している。

 

 

「残念だけど原因は分からないし、今それを議論する余裕はない。提督には現状、進撃するか撤退するかの判断を」

 

『そ、そんなの撤退に決まってるだろう!!』

 

 

 北上さんの問いに、あいつはすぐさまそう叫ぶと思った。しかし、その予想に反し返ってきたのは息を呑む音だけ(・・・・・・・)だ。その変化はあいつが人としてほんの少し成長したと言う証拠である。本来なら息を呑むのはこちらであり、場合によっては手を叩いて喜ぶことだ。

 

 

 だが残念なことに、非常に残念なことに、今この場に居る誰もがその変化を恨んだ。

 

 

 

『……撤退したら金剛たちは?』

 

「無論、助かる可能性が低くなります。今こうして悩んでいるだけで、お二人の生存率は絶望的になりますよ」

 

 

 あいつの問いに容赦なく答えたのは雪風である。その天秤に己の命がかかっていると分かっているのか疑問に思うほど、バッサリと切り捨てたのだ。それを受けて、あいつは再び黙り込む。その状況を私は歯を食いしばりながら見るしかなかった。

 

 

 もし、もしあいつが今までのままであったら、北上さんの問いにすぐ『撤退』を選んだだろう。あいつは目先のことにすぐ行動を起こす、提督としてはまさに欠点とも言うべき部分である。だが、それは場合によっては上手く転ぶこともある。それは今まであいつがここでやってきたことを見れば証明されるだろう。

 

 また時にはその欠点を艦娘(私たち)が利用することもあり、今回はまさにそれを利用しようとしたわけだ。

 

 今までのこと全てを棚に上げて言うが、私たち艦娘は所有者である提督の命令を絶対に聞かねばならない。それは旗艦だろうが僚艦だろうが、あいつが提督を務める鎮守府に所属する艦娘全てに適応されるもの。だから、あいつが示したこの作戦を私たちは成功させる義務がある。つまり、現状のままでは作戦成功の条件である『金剛さんたちを救出すること』が最優先となり、私たちはどんなに傷付いていようと進撃しなければならないのだ。

 

 だが、あいつはその場の勢いで選択を変える欠点がある。もしあいつが一回でも『撤退』を選択すれば、それを大義名分に私たちは撤退することが出来るのだ。雪風は暴れるだろう、金剛さんたちは助からないかもしれない、だがこの状況で、この状態で進撃をすれば成功は愚か二次被害が出る可能性が高い。その最たるものが雪風の轟沈、最悪の場合は救出部隊の全滅だ。

 

 これは戦いであり、殺し合いである。生き残るかどうかは運。誰が殺し、殺されようと、結局は『運が無かった』で片付けられてしまう世界だ。その世界で私たちが足掻けることは運に左右される対象を絞ること、被害を最小限に抑えることぐらい。ならば、盛大に足掻くのが当然であろう。

 

 

 だからこそ、その欠点を欲したこのタイミングであいつが成長してしまった(・・・・・・・・)ことが、何よりも恨めしいのだ。

 

 

「ほら、何黙り込んでいるんですか? 早く進撃しましょう。こうして黙っている時間がもう無駄なんですよ。今この時、金剛さんたちが襲われているかもしれないんですよ。それをただ指を咥えて見てるなんて、それこそ愚の骨頂ですよ? 分かっていますか?」

 

 

 黙りこくるあいつに対して、雪風は進撃しろと捲し立てる。その口調は私たちに向けてきた、淡々と事実を述べつだけのモノとは違っていた。その言葉の節々から見えたのは焦りだ。それは金剛さんたちが助からないことへの焦りだと思われる。だが、どうも私には――――ミサンガを見ていた彼女の横顔がちらつく私にはそう思えなかった。

 

 

 

『……し、進撃した……場合は?』

 

 

 ようやく、あいつは口を開いた。それは散々捲くし立てた雪風の進言に対する問いである。いや、『問い』と言うよりも『反抗』と言った方が良いだろう。何故ならその覚束ない口調があの時と―――――試食会の時に私たちの前で喋っていた時と全く同じであったからだ。

 

 

「そんなものな―――」

 

「金剛たちに加え、私たち救出部隊の全滅」

 

 

 あいつの問いを鼻で笑うかのように否定しようとした雪風を遮って、北上さんが事実を叩きつけた。それに雪風は今まで見たことがない程鋭い剣幕で北上さんを睨み付ける。刃物、というには生易しいほど鋭利な剣幕だが、北上さんは先ほど自分がされたことをそのまま返すかのように無視した。

 

 

「本隊の被害状況は報告した通りさぁ。その状況で進撃したら、私たちは何人帰ってこれるかね~……無論、進撃(その選択)で金剛たちの無事も保証されることは無い」

 

 

 いつもの緊張感の抜けた口調から一変。北上さんは白々しく背けていた視線を動かし、今もなお剣幕を向け続ける雪風へと向ける。その時、彼女たちが浮かべていたのは、とても味方に向けるものとは思えなかった。

 

 

 

「絶対に、無い」

 

 

 そんな剣幕を―――殺意を込めた目を向けながら、北上さんは断言する。それを受けて、雪風は何も発しない。ただその向けられた殺意に満ちた目に対して、彼女は同じように目を向けていた。だが、彼女が向けている目には北上さんのそれとは少しだけ違っていた。

 

 

 それは何処か申し訳なさそうなものだったから。

 

 

 

「さぁ、提督。どっちか(・・・・)決めなよ」

 

 

 その時間を切り上げたのは北上さんである。これ以上時間を割くことを嫌ったためだろう。何故なら、彼女は今この場を進展させる最終決定権を有する存在に匙を投げたのだから。

 

 

「そうですしれぇ、早く決めて下さい」

 

 

 それに続き、雪風も自身の匙をあいつに委ねた。自身がどれだけ騒いだところで、結局は上司(あいつ)の一言で決まってしまうからだ。むしろ相対する北上さんが決定権を丸投げしたことで自身の独壇場から引きずり降ろされてしまったためでもあるだろう。ともかく、彼女も早々に決着をつけたいがためにあいつに押し付けたのだ。

 

 

『…………』

 

 

 押し付けられた側であるあいつは二人の言葉を受け取った後、ただ沈黙を貫いていた。恐らくその頭は、感情は、心は、あいつを構成する全てが悲鳴を上げているだろう。何せあいつが望んだのは誰一人として沈まない『未来』なのに、望まれたのは『誰かの命を捨てる『選択』なのだから。

 

 勿論、その『未来』を知っているのはあの時執務室に居た私と響だけ。選択を投げつけた二人、そしてその周りにいる子達の殆どは知らない。あいつが望んでいることを、私たち以外誰も知らないのだ。そして投げつけられた選択肢はどちらもその『未来』を否定するもの。つまり、あいつ自身の手であいつの『未来』を潰せと言っているのだ。

 

 それがあいつにとってどれほど酷なことか、正直分からない。ただあの時、執務室で盛大に取り乱したあいつの姿を見た私にはその選択肢は拷問にほかならない。どちらも想像を絶する痛みを、苦しみを、一重に死んでしまいたいと願ってしまう、それを受刑者であるあいつにわざわざ選ばせているのだ。

 

 

 これほど酷いことがあるか、これほど非道なことがあるか。

 

 

 これほど許せない(・・・・)ことがあるか。

 

 

 

 

「ちょ―――」

 

「待って欲しい」

 

 

 いつの間にか声を荒げていた私を遮ったのは、北上さんでも雪風でもない。先ほど雪風に論破され、それ以降沈黙を貫いていた響であった。

 

 

「何です?」

 

「まぁそう言わないでくれ。少し、先人の話を聞いてくれないか?」

 

 

 突然口を挟んだ響に雪風が邪魔をするなと言いたげに語気を荒げる。だが響はその勢いに気圧されることなく、飄々とした口調で彼女を諭し、そして自身を『先人』と評した。彼女が本隊に選ばれたのは、今作戦の名をなぞられた『奇跡の作戦』に従事したからだ。そんな彼女が敢えて自分を先人と評したと言うことは、これから彼女が語ることは先の作戦についてであろう。

 

 その言葉を受け、北上さんは雪風に向けていた視線を響に向けた。その目は雪風に向けていたものからは幾分か和らいでいたものの、未だにその鋭さは健在であった。まるでその話は口を挟むに値するものか、と問いかけているようだ。

 

 

「まず最初に、私は『撤退』を支持する。これは私たちの戦況を一切無視した上での判断だ。別に自暴自棄になったわけじゃない。元々、この作戦自体が不明瞭な前提を無理やりこじつけて組み上げた、いわばお粗末な(・・・・)作戦だ。正直、何処で綻びが生じるだろうか、とは思っていた。そして案の定、綻びが生じたわけだ。これはもうどうしようもない事実、潔く受け入れるしかない」

 

 

 元々無理があった作戦、それを馬鹿正直に実行し、当然のように頓挫した。端的に言えば、彼女はこの作戦を実行した私たちを馬鹿にしたのだ。無論彼女もこの作戦を立案した一人であり、ひいては自分を馬鹿にしているこことになる。

 

 だが、どうも彼女の言葉からそのような空気は感じ取れなかった。

 

 

「……話は変わるが、私が従事したあの作戦は当初、成功が見込まれない無謀な作戦だと言われたそうだ。何せ敵の展開範囲からその性能、レーダーが向けられている方向、乗員の視線の向き、その視力、更には天候と濃霧の濃さと範囲、発生から消滅までの時間、こちら側の艦の向き、海洋の状況、装備の機能と乗員のコンディション、大小様々な要因が複雑に絡み合っていて、そのどれか一つが欠落すれば救出部隊共々全滅の恐れがあったからだ。司令官はそのどれもが噛み合うタイミングを、針の穴を通すような僅かな瞬間を見定めなければならない。見定めたら間を与えず、一気呵成に動かなければ成功しない。相当の胆力、決断力が無ければまず成功しなかっただろう。だからこそ『奇跡の作戦』だって呼ばれているわけであり、それは一度撤退した(・・・・・・)上での成功でもあったからね」

 

 

 響の口から現れた言葉で、私は彼女が言わんとしていることが分かった。つまり、彼女は『奇跡の作戦』と謳われたキス島撤退作戦も一度撤退(・・・・)をしていることを伝えようとしたのだ。

 

 それはその司令官が周りの反対を押し切って下した決断である。当時、彼以外の人間すべてが撤退を反対したが彼はその全てを押し切り、あと一歩で到達しようとしていた海域から反転、離脱した。その撤退によって、司令官は各方面から痛烈な批判を受けることとなる。臆病者、愚者、無能等々、ありとあらゆる罵詈雑言が彼に向けられた。

 

 だが、彼はその全てを意に返することは無かった。何故なら、その時自身が下した決断が間違っていたなど、微塵も思っていなかったからだ。それと同時に誰もが失敗だと断じた作戦を彼は諦めずに、ただひたすらに時機を待ち続けた。

 

 そして再び決行された第二次撤退作戦。その作戦でも、同艦隊は第一次と同じ状況に立たされることとなった。これに船員はまた引き返すのだろうと司令官を侮るも、彼はただひたすらに機会を、成功への道しるべを待ち続けた。そしてそれが満を持してやっていた瞬間、怒涛の勢いで進撃を開始。無謀な作戦と、そして失敗を犯した愚鈍な司令官が無理矢理決行したその作戦は、犠牲の殆どを払わずに成功した。

 

 

 成功は絶対にありえないと断言できてしまえる状況下で光る司令官の決断力、全ての条件を揃えた『幸運』によってもたらされたからこそ、この作戦は『奇跡』と呼ばれたのだ。

 

 

「それに君は言った筈だ、この作戦は様々な条件が揃わなければ成功しない、まさに『幸運の女神』を味方に付けなければならない。だからこそ君は雪風を起用し、彼女が受ける寵愛を頼みとした。そして雪風自身も言った筈だ。『運が良ければ(・・・・・・)喪失した資材を敵が確保し、その敵を金剛たちが襲うかもしれない』と。君自身も己が寵愛に身を委ねた。ここまで委ねているんだ、今更一つ二つ委ねたって変わりっこない。もう一回(・・・・)ぐらい『幸運』に委ねてもいいんじゃないかな?」

 

 

 彼女は今この時、この時こそ先の作戦で言う『撤退』を選択すべき場面であると。今こそ合理的に考えられる範疇を越えた、『幸運』と言う不明瞭なものに身を任せる時だと。

 

 

「そしてね、司令官。私たちが撤退した時、司令官が周りを説得するときに言った言葉があるんだ」

 

 

 その言葉とともに響は何処か語り掛ける様に言葉(それ)を口にした。それは『奇跡』を起こしたもう一つの要因である司令官の決断力を。今ここでそれをあいつに求めている。それもただ押し付けているだけではない。何も見えない真っ暗な道を、『前例』と言う松明で照らした上で。闇雲に進むしかなかったあいつに対して、道しるべを向けたのだ。

 

 

 

「……帰ろう。帰れば、また来ることができる」

 

 

 

 同時に、『彼女』の前で絶対に言ってはいけない言葉(・・・・・・・・・・・・・)を。

 

 

 

 

 

 

「あはッ」

 

 

 それを響が口にした時、彼女(・・)はそう声を、笑い声を上げた。その笑い声に、その場にいた全員が彼女に目を向けた。そのどれもこれもが驚きに満ちている。この緊迫した状況、そしてようやく今後の見通しが出来たところなのに、呑気に笑い声を上げられるほど無神経な精神を持つ者は存在しないと思っていたから。

 

 

「ッぷ……くぅ……そうですか、そうですか……」

 

 

 彼女は込み上げる笑いを無理やり殺しならが、そう言葉を続ける。その言葉が向けられていると思っている(・・・・・)響はポカンと口を開けて彼女を見るだけ。そう捉えるのはしょうがないし、間違っているわけではない。どちらかと言えば、誰もが向けられていると勘違いするほど溢れ出るそれが膨大過ぎるだけだ。

 

 

「そうかぁ……そうですかぁ……ははッ、そっか!! そうだよねぇ!!」

 

 

 それを無視して彼女は大きくそう叫ん後、一転した静かになった。突然の沈黙に周りの視線が彼女に集中する。勿論その中に響も含まれており、その表情は訝し気に首をかしげているた。彼女のシナリオからすれば、このまま撤退する運びとなっていた筈だからだろう。そして、何より撤退を支持できる理由を――――彼女が撤退に必要不可欠だと伝えたからだろう。

 

 だが、その表情も次の瞬間に消え去ってしまう。訝しげだった表情は強張り、瞳孔はキュッと締まり、額から汗がにじみ出ていく。何故そうなったのか、答えは目の前にある。

 

 

 

「その言葉、よりにもよって『あたしたち』に言っちゃいますかぁ」

 

 

 そう、何処か楽しそうに笑う雪風(彼女)に詰め寄られたからだ。

 

 

 いきなり詰め寄られた響は思わず一歩下がるのを、詰め寄った雪風は一歩進んでその差を埋める。

 

 縮められた差を取り返そうと身を引くも、制服の襟を掴んだ雪風が強引に引っ張ってその差を埋め、今後広がらないようにする。

 

 距離を取れなくなった響が視線だけでも逸らそうとするのを、その透き通る宝石のような明るさは見る影もない黒く歪んだ瞳を向けて釘付けにする。

 

 

 

「そう言えば、あなたはあの時入渠していたから知らないんですね。なるほど、それなら仕方がありません。その言葉を『あたし』に向ける意味、特別に教えてあげちゃいます」

 

 

 そう、彼女は嬉々としてそう語り始める。その様子はある意味、いつもの雪風に近い振る舞いにも見えた。だが、その実彼女がまとう雰囲気は全くの別物である。

 

 

 それを言葉で表すなら、何が適切だろうか。

 

 

「実は()が入渠している間、雪風は夜間の強襲任務に参加しました。そこで敵巡洋艦、駆逐艦数隻を攻撃し、撃沈させました。だけどその戦闘であの人(・・・)は航行不能になってしまい、雪風たちは曳航することも出来ずその人を置いて一時撤退しました。そして再びその場に戻ってきた時、その人は既に沈んでいたんです。貴女の言う通り(・・・・)にしたら、その人は沈んでいたんですよ」

 

 

 雪風が淡々と話すのは、恐らく彼女自身ではなく先の大戦での記憶。駆逐艦 雪風が経験したことだ。だからこそ、彼女は自身を『雪風』と称した。

 

 

「そして……これは最近(・・)ですね。しれぇの命令で沖ノ島海域の攻略に向かった時……あたしを庇って大破したあの人を助けようと言う通り(・・・・)にした結果――――」

 

 

 そこで言葉を切った彼女は響の襟を掴んでいた手を離し、その手で自身の胸元を握りしめた。そのままひき千切らんとするように、その下にある己の心臓を握りつぶしてしまおうとするように。

 

 

 

 

「この手で、沈めました」

 

 

 

 己の心臓を潰さんばかりに握りしめ、その顔に笑顔を張り付けた泣き顔を浮かべた彼女は、『幸運艦』とは程遠いもののように思えた。そしてその姿が、不意にあの時(・・・)と重なった。

 

 

 

 目を剥かんばかりに輝く太陽を背景に、一人ぽつんと海面に佇む雪風。

 

 

 彼女の前方で、ちょうどいま立ち上がったばかりの大きな水柱が。それを前にして微動だにしない彼女の背中にある魚雷発射管は、魚雷2本分が抜け落ちている。

 

 

 そしてその2本分が命中した際に立ち上がる水柱が、ちょうど今しがた立ち上がる水柱と同じぐらいだった。

 

 

 

 

あたし(・・・)は、雪風(・・)は…………あたしたち(・・・・・)はその言葉で、その言葉であの人を――――――」

 

 

 そこで顔を上げた彼女たち(・・・・)は笑っていた。泣いていた筈のその顔を完璧な笑顔に変えた彼女たち(・・・・)を、こう呼ぶのだ。

 

 

 

 

 

「「比叡さんを、二度も殺したんです」」

 

 

 

 『死神』―――――と。

 

 

 

 彼女たちがそう言い終えたと、沈黙のみが流れた。誰一人としてその後に話を続けようとする者はおらず、ただひたすらに待った。

 

 

「これで響さんの作戦は下策であることが証明されました。さぁしれぇ、早く決めて下さい」

 

 

 その一人である雪風もまた、待っていた。いや、待ち侘びた(・・・・・)のかもしれない。ここまで御膳立てしたのだから、当然自分が望む答えが返って来ると。

 

 しかし、何時まで経ってもその答えは来ない。彼女がそう声を発して以降も、誰も声を上げないのだ。

 

 

「しれぇ、何考えているんですか? 答えはもう決まっているでしょ? 進撃、進撃です、進撃しかないんです。こんなとこで時間を浪費する暇じゃないんです。ほら、言っちゃえばいいんですよ。ほらぁ!!」

 

 

 その声色は柔らかいものの、徐々に徐々に荒くなっていく。彼女の中で、当然来るべきものが一向に来ないからだ。

 

 

「……まさか雪風以外が沈んでしまうのでは、とお考えですか? 心配ありません!! 雪風の経験上、沈んでしまうのは大破した艦娘だけです。潮さんや夕立さんは中破ですから、絶対大丈夫です!! だから……ね? 進撃しましょうよぉ?」

 

 

 答えが返ってこない理由を察したのか、雪風は自信満々に答えた。その考えは的を射てるようで、実は外してる。それを彼女は分からないのだろうか、いや分かってやっているのだ。それは少しでも答えを得やすくするために。

 

 

「しれぇ、いい加減にしてください。今ここで撤退すればしれぇの守りたいものを失っちゃうんですよ? 良いんですか? こうして黙り込んでいれば、何もかも全部失っちゃうんですよ? 良いんですか? しれぇが今まで大切に守ってきたものが、こんなしょうもない判断一つで消えちゃうんですよ? 良いんですか? それがほんの少し、たった一隻(・・)だけで守れるんですよ? 良いんですか? どちらを選ぶか分かっていますよね? だからさぁ……早く、決めろって……」

 

 

 最後は語りかけると言うよりも吐き捨てるに近かった。それだけ雪風の中で限界が近づいているんだろう、それだけ彼女も焦っているんだろう、それだけ彼女は求めているんだろう。

 

 

「たかが駆逐艦1隻(・・)だけで戦艦と駆逐艦2人(・・)の命を救えるんですよ? どちらを取るか、子供でも分かりますよ。だからほら、早く決め……あぁ、もう!!」

 

 

 

 遂に我慢の限界に達した雪風は胸元に付けていた無線のマイク部分をひったくり、口元に近付け盛大に吠えた。

 

 

 

 

「さっさと雪風(あたし)を捨てろって言ってんですよ!!!!」

 

 

 その咆哮は無線を通して私の耳を、そして空気を通して直接私の耳に突き刺さった。その言葉ほど、残酷なモノはないだろう。そう思えてしまうほど、彼女の言葉は重く、鋭く、容赦が無かった。

 

 それでようやく反応があった。それは息を呑む音でもなく、覚悟を決めて吐く息の音でもない。

 

 

 

「ぅ」

 

 

 

 小さく小さく、本当に小さく聞こえた、あいつの声だ。それは言葉ではなく音、突然突き付けられた重責に思わず漏れてしまったあいつの悲鳴だ。多分、それがあいつが絞り出せた唯一の声だ。

 

 

 

 

 何故なら、それ以降無線の向こうから声が発せられることは無かったからだ。

 

 

 

「もう、良いです」

 

 

 不意に雪風がそう呟き、同時に私の無線から何かが途切れたノイズが走った。雪風は今まで自身の耳に入れていたイヤホンを引き千切り、海に捨てたのだ。それはまるで、今後無線の向こうから聞こえてくる声を遮断するかのように、今までの関係を絶つかのように。

 

 

あなた(・・・)は」

 

 

 イヤホンを捨てた雪風はまだ機能しているマイクを口元に近付け、先ほどの大声から一転し、囁くようにこう言った。

 

 

 

 

 

あたしのしれぇ(・・・・・・・)じゃ、ありませんでしたね」

 

 

 

 そう言い残し、雪風はマイクを捨てる。同時に上体をかがめ、その瞬間その足元からエンジン音が鳴りだした。

 

 

「まっ?!」

 

 

 

 それが何を示すかを瞬時に理解した北上さんが咄嗟に手を伸ばす。しかし一気にフルスロットルを上げた雪風の艤装が悲鳴と共に発生させた突風に阻まれ、その手をすり抜けた雪風の身体は私たちの一団から一気に離れた。離れた雪風はそのまま方向を変え、フルスロットルで濃霧の壁に突っ込んでいった。

 

 その進む先は先ほど私たちが逃げてきた方向―――――キス島方面。

 

 

 

 そう、独断で進撃を強行したのだ。

 

 

 

「夕立!!」

 

「行きますッ!!」

 

 

 雪風が消えていった壁を見ながら北上さんが叫ぶと、その意図を理解した夕立がフルスロットルで濃霧の壁に突入する。それを見届けた北上さんはすぐさま無線に口を近づけた。

 

 

「『死神』が進撃を断行、私らも後を追って進撃する。早急に後詰を寄こして。あいつを取っ捕まえ次第、帰投する。それと……」

 

 

 そこで言葉を切った北上さんは、マイクを握りつぶさんばかりに力を込めながらこう続けた。

 

 

 

「いい加減、提督らしいこと言えよ」

 

 

 そう吐き捨て、彼女もまた雪風の後を追って濃霧の壁へ突っ込んでいった。残されたのは私、潮、響、の三人。潮はこの事態にどうすれば良いのか分からずオロオロしている。響は先ほど雪風に言われたことにショックを受けているのか、苦虫を噛み潰した顔をしている。

 

 

 

「ねぇ、クソ提督」

 

 

 ()は今まで触れなかった無線のマイクを手に取り、口元に近付けてそう問いかけた。この言葉に周りの二人も反応する無線を解しているため、二人にも私の声が聞える。だけど私が語り掛けたのは二人ではなく、無線を介した向こうにいる存在。

 

 決して手では触れない距離にいて、そのくせ無線の向こうからしっかり声が聞える。だけど、私の問いにあいつが答えることは無かった。そして、それも私は分かっていた。

 

 

 だからこそ、こう続けた。

 

 

 

 

「大丈夫。皆、無事に戻ってくるって」

 

 

 そう無線に、その向こうでどんな顔をしているか分からない人に、私はそう語り掛けた。周りの二人から視線を感じる。だが、それに意を返す気は無い。

 

 

「大丈夫。誰一人欠けずに戻ってくる」

 

 

 もう一度、同じことを伝える。この言葉がどれほどの意味が、価値が、重みが、現実味が。もしかしたら何の意味もないかもしれない。だけど、仮にそうだとしても、仮に何の証拠もない嘘八百だろうと、私は同じことを伝える。

 

 

「大丈夫、全員必ず帰ってくる」

 

 

 あの時の加賀さんがそうであったように。あいつの顔を上げさせ、前を向かせ、その背中を押す存在に、あいつを動かす理由が必要だ。

 

 加賀さんの話しぶりからして、彼女はあいつのことを知っていた。彼女だけしか知らなかったことが―――――誰も沈めたくない、というその願いを、それが込められたミサンガだと知っていた。だからこそ、あの場でああ言えたのだ。艤装を装備すれば戦闘を行える彼女だからこそ、ミサンガの願いを背負えた。

 

 じゃあ、今の私は何がある。知っているのは加賀さんが明かしたあいつの願い、そしてそれに固執したあいつが導いてしまった最悪の現在、雪風や北上さんに散々に打ちのめされたボロボロの姿。

 

 これだけ、これほど(・・・・)私は知っている。見えている、分かっている、揃えている。これだけあれば、もう理由なんてどうでもよくないと言えないか。

 

 

 ……あぁもう、面倒くさい。こんな屁理屈をこねたところで私の意志は変わらない。だからもう一度、もう一度だけ伝えよう。伝えさせて欲しい、宣言させて欲しい。

 

 

 

 もう一度、言わせて。

 

 

 

「私が、何とかするから!!」

 

 

 務めて明るく、はきはきと、胸を張って、自信たっぷりに。顔の見えないあいつに向けて、とびっきりの笑顔で。

 

 その言葉に根拠なんてない。成功する見込みなんかある筈がない。戯言と、狂言と、無責任な言葉だと罵られるだろう。でも、そんなの別に良い。むしろ現実的か現実的じゃないかとか、この際どうでもいい。あるのはそう、ただそうしたい(・・・・・)と言う思いだけ。

 

 

 

 あの時―――――執務室であいつが取り乱した時、何も出来なかった私だけど。

 

 こんな―――――砲撃も出来ず、資材を守り抜くことすら出来ない私だけど。

 

 そんな―――――艦娘としての能力を失っても見捨てずに、あまつさえ潮と一緒に居られる様にしてくれた。

 

 

 そんなあなた(・・・)だから、あなただからだと。

 

 

 私はその願いを、今しがた踏みにじられた望みを、あなたが託したこのミサンガに、(私たち)が叶えなければいけない願いを。

 

 

 

 私が叶えたい、叶えてあげたい、『私とあなた』の大切な願いだと。

 

 

 

「だから、待ってて」

 

 

 

 そう無線の向こうに――――『大切なあなた』にそう伝え、私は通信を切った。

 

 



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重ねてしまった『姿』

 目を覚ました。きっかけは頬に落ちてきた水滴。頬に落ち、そのまま顔を伝って下に落ちていった。

 

 

 ぼやけた視界のまま、目だけを動かす。視界に広がるのは目一杯の緑、そしてその隙間から降り注ぐ白くか細い線のようなもの。頬を撫でる風に揺られることなく、一直線に引かせたそれは陽の光だと分かった。

 

 今度は顔ごと動かしてみる。目一杯に広がっていた緑はその途中で途切れ、現れたのは眼前に積まれた黒い砂の壁、その隙間から覗く白い砂浜、その先に広がる青い海だ。頬に付く砂粒の感触でそれらが砂だと分かった。

 

 

 それらの情報を元に、ワタシ――――――金剛は状況を整理した。

 

 

 モーレイ海哨戒に出撃したワタシは吹雪が発見した艦載機をきっかけに敵主力部隊の接近を許すもその不利を逆手にとって待ち伏せ作戦を指揮、損害を出しながらもこれを壊滅させた。しかし、その直後に現れた夥しい艦載機の急降下爆撃を受けて意識を飛ばしてしまい、今に至る。

 

 肌に感じる砂と降り注いでくる陽光に、鎮守府ではない何処かの島にいると思われる。恐らくあの艦載機群に艦隊は四散し、運よく何処かの島に流れ着いたのだろう。北方海域は海流の流れが複雑であるも、それらは総じて鎮守府方面に向けては流れていない。であれば、少なくとも今ワタシがいるこの島はモーレイ海よりも奥にある場所だ。

 

 頭の中に北方海域の資料を呼び起こし、この島と合致するものを探す。モーレイ海よりも深く、海流が入り乱れ、その往き付く先にある島―――――――――キス島と思われる。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 そこまで整理したところで、ワタシは思考を止めた。状況を把握した、そこがワタシのゴールだ。今のワタシにすることなんてそれぐらいしかない。出来ないわけではないが、もうゴールに辿り着いているのにその先を見る必要なんてないはずだ。敢えて考えるなら、あの遠くに見える海へ進むことぐらいか。

 

 

 艤装を装着せず、生身のまま海に進み、足を踏み入れ、波に攫われ、そのまま海中に身を投げ、意識を手放す。

 

 

 総括しよう、ワタシは沈みに来た(・・・・・)のだ。

 

 

 

 

「気が付きました?」

 

 

 不意に横から声が聞えた。本来聞こえるはずない、いや聞こえてはいけない声が聞えた。それに思わず目を見開き、すぐさま声の方を向く。

 

 

 そこに居たのは吹雪。制服の所々が焼け焦げ、破けて、その下から覗かせる腕や足には軽いながらも切り傷、擦り傷、打撲が沢山伺える。そんな生傷だらけの彼女はワタシに背を向けて座り込んでおり、顔だけをこちらに向けている。そしてこちらに背を向ける彼女の向こうには、曲がりなりにも原型をとどめている大きな鉄の塊――――――ワタシの艤装が見えた。

 

 

「吹雪……なんで……」

 

「私がここまで曳航してきたんです」

 

 

 ワタシの問いに吹雪は簡潔に答え、そのまま顔を前に戻した。その直後、奇天烈な金属音が鳴り響き始める。その音が、その後ろ姿が、何より今この場に吹雪が居ることを信じられなかった。

 

 確かに目を覚ました時、ワタシは海岸から離れた陸地にいた。もし流れ着いたのなら海岸に打ち上げられている筈であり、また艤装が外れていることも同様の理由で。その事実から、『意識を失ったワタシが海流に乗せられて運よく島に流れ着いた』よりも『吹雪がワタシを曳航して戦線を離脱、キス島に逃げ込んだ』という方が現実的だと言える。だが、それだけの判断材料を得てしてもワタシは信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 

 ワタシは元々沈みに来た。帰る当てもなく、むしろ帰る気すらなく、その必要性すら感じていない。だがそれはワタシ一人だけ、という条件がある。一人だけで、我が儘を言えば誰にも看取られることなくひっそりと沈みたい。勿論鎮守府と言う組織に居る時点でそれは夢物語ではあるが、一番は沈みにきた、沈む場を、死に場所を求めてやってきた。

 

 ある意味、この状況はワタシにとって最高の結末(・・)なのだ。敵に襲撃され、艦隊から落伍し、救援の見込みは0、ワタシ自身は大破、航行も戦闘も出来ない案山子状態。鎮守府の皆には必死に捜索隊や救援部隊を派遣するかもしれないが、もしくはそこに貴重な労力を割く時点で申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、それでも私の願いが成就するのであれば無視できてしまう。

 

 だが、今目の前には吹雪が居る。大破して意識を失ったワタシを曳航し、キス島に引っ張りあげ、身を隠している。この状況で――――――助かる筈の無い状況に、轟沈しかない道はないこの状況に彼女を巻き込んでしまった。我が儘の正反対―――最も避けたかった事象が起きてしまった。

 

 

 彼女の存在一つで、ワタシの最高の結末(ハッピーエンド)最悪の結末(バッドエンド)になってしまったのだ。

 

 

 

「それより、これを」

 

 

 そこでワタシの思考を断ち切ったのは吹雪。彼女はワタシに身体を向け、所々機械油にまみれた一枚の大きな葉を、そこに包まれた鋼材と小さな缶に満たされた燃料を差し出してきたのだ。それらは鎮守府でよくよく目にした代物であり、ほんの少し前まで舌で慣れ親しんだ資材(食事)であった。

 

 

「これ、何処で……」

 

「補給艦から強奪したんです。それで補給を。艤装(これ)が航行可能な状態になるまでに済ませて下さい」

 

 

 差し出されたそれをワタシの手に押し付け、吹雪はそう言いながら再び背を向け、ワタシの艤装に向き合った。すると、再び場違いな金属音が鳴り始める。彼女の後ろ姿、そして資材を差し出してきた油まみれで傷だらけのその手を見て、彼女が何をしているのかを察した。

 

 

「直しているんデスカ? ワタシの艤装を?」

 

「えぇ、そうです。とは言っても応急処理程度ですがこの子達が居れば少なくとも航行可能まで持っていけますし、時間もそこまでかかりません」

 

 

 その言葉と共に吹雪の肩からひょこっと妖精が顔を出した。ワタシたちが良く見る戦闘服に身を包んではおらず、白のヘルメットをかぶり、工兵の恰好をしている。彼女は艦娘や艤装が負った外傷を修復する妖精、『応急修理要員』である。

 

 だが彼女たちは偶発的に現れる他の妖精たちとは違い、テートクが艦娘に装備の一つとして渡さない限り現れない妖精たちだ。つまりあのテートクがもしもの時のために吹雪に渡したということになるが、いつの間に渡したのだろうか。

 

 

「因みに黙って持ち出したんで、他の人には内緒でお願いします」

 

「……悪い子デスネ」

 

 

 その答えは自分の肩に乗る妖精を摘まみ上げ作業に戻らせる吹雪の背中から聞こえていた。その言葉に思わず笑いが漏れる。先ほどは最悪の結末に転がり落ちたと思っていたのにワタシは笑ってしまった。それは彼女の場違いな発言に面を喰らったのもそうだが、一番の理由は打開案を―――――

 

 

 

 最高の結末(ハッピーエンド)へと伸びる光を見出したからだ。

 

 

 

「吹雪、貴女の艤装は大丈夫デスカ?」

 

「……資材(これ)を強奪した時に中破になってしまいましたが、航行は出来ます」

 

 

 ワタシの問いに、吹雪は先ほどと同じように答えた。若干返答が遅れたのが気になったが、この状況でそれを追求するのは時間の無駄だと判断する。そして、次にその光に手を伸ばす。

 

 

「ワタシのはいいから先ず貴女の艤装を―――――」

 

「嫌です」

 

 

 だが、伸ばした光は吹雪の一言で遮られてしまった。驚きのあまり固まるワタシを他所に、吹雪は何事も無かったかのように手を動かすのみ。いや、心なしかその手が早くなったような気がした。

 

 しばし、辺りは吹雪が鳴らす金属音だけになる。その間、ワタシは一言も声を発することが出来ず、吹雪もワタシに顔を向けることは無い。ただただ、ワタシが再起動を果たす時間のみが過ぎていった。

 

 

 

「ふ、吹雪……? よく考えるデース」

 

 

 ようやく再起動を果たしたワタシはもう一度光に手を伸ばしてみる。それに対し、吹雪は即座に否定することなく、ただ黙って手を動かすだけだった。取り敢えず振り払われなかったことに安堵しつつ、ワタシは更に手を伸ばした。

 

 

「現状ワタシは大破、そして吹雪は中破。手元に有るのは応急修理要員のみ、これではどちらも完全に修復するのは不可能デース。選択肢としてはワタシの艤装を航行可能な状態まで直すか、貴女の艤装を小破状態まで直すか、この二択だ――――」

 

「ですから、金剛さんの艤装を修復しているんです」

 

 

 ワタシの話を敢えて遮る様に吹雪はそう答える。その時、あれ程忙しなく動いていた彼女の手は止まっていた。恐らく、彼女も私が言わんとしていることを察したのだろう。だが彼女がそれを拒む理由までは分からないが、それを考慮する余裕はない。それはワタシだけでなく彼女も――――今この状況をよくよく理解していれば、誰だって余裕がないことぐらい分かるのだ。

 

 

「大破した戦艦の艤装を入渠施設も無しに修復するのにどれだけリソースがかかるか分かっていますカ? どう考えても中破状態の貴女を修復した方が良いに決まってマース。それにワタシの艤装を修復したとして、どうやってこの島を脱出するんデスカ? 辛うじて航行が出来る大破した戦艦と中破した貴女と小破した貴女、どちらが生存率が高いか分かりますカ?」

 

「私一人が脱出したとしても、道中で敵に見つかればお終いです。それに一度は金剛さんを曳航してこの島に入り込めたんです。それを考えたら、航行出来る貴女を護衛して脱出する方が遥かに生存率が高いです」

 

 

 ワタシの言葉に吹雪は言葉巧みに反論を向けてくる。互いに的を射ている上にどちらも譲る気配がない。この感じ、まさに食堂でテートクとやり合った時とそっくりだ。あの時はこちらが感情(ボロ)を出してしまったせいで打ち負けた。ここはあくまで冷静に、論で丸め込むしかない。

 

 

「であればこうしましょう。吹雪の艤装を修復し、先にこの島を脱出する。そのまま鎮守府に帰還し、救出部隊を要請するのデース。それまでワタシは此処に潜伏。貴女の艤装なら残る資材の量も多いですし、3日は持ちますからその間に救援に来れれば――――」

 

「その間に沈むつもりでしょう?」

 

 

 ワタシが出した折衷案を無視して、吹雪は問いかけてきた。残念ながらその顔は見えない。ただ、その問いを投げかけてきた時、僅かにその身体が震えたのが分かった。それが何を意味するのか、ワタシはそれを理解しようとすることを放棄する。現状必要ないことであるし、何より彼女はワタシが言わんとしていたことを理解した上で拒んでいると。要は分かった上でワタシの最高の結末(願い)を邪魔していたことに、少しだけ腹立たしく思ったからだ。

 

 

「最初から沈むために出撃したんですよね。執務室で見せたあのカラ元気は私たちにそれを悟らせないため、司令官に私たちの名簿帳を渡したのは元あるべき場所に返した――――――と見せかけて自身の最期を司令官に書かせるため、今こうして私の艤装を修復させようとするのも私を沈ませないため、一人で沈むため……違いますか?」

 

 

 そんなワタシを尻目に、吹雪は早口に言葉を続ける。そこまでお見通しだったら、いや元々隠す気なんてなかったから察されて当たり前だが。だからこそ何故その選択肢を、ワタシだけが沈む選択肢を頑なに拒むのか。それが理解できなかった。

 

 

「そこまで分かっているなら尚更デス。さぁ、早――――」

 

「嫌です、絶対に嫌です」

 

 

 またもや吹雪はワタシの言葉を遮った。先ほどと違うのは食い気味に挟んできたこと、そして『嫌』、『絶対』と言う感情を入れてきたこと。論を捨てて感情に頼り始めた証拠と言えよう。流れはこちらに傾いてきた。

 

 

「嫌と言われても困っちゃうネ。現状、ワタシが上げた折衷案が最適デショウ? ワタシを修復してもリスクが減るだけでメリットが無い。それなら貴女の方がどちら(・・・)も生還できる可能性は有りマース」

 

 

 先ほど沈むつもりだと言ったくせに、と自分でも思う。しかし感情に流され始めた吹雪にその矛盾を指摘できることは難しい。悲しきかな、これも経験上の賜物である。

 

 

「その間に沈むと言った人が何言っているんですか。ともかく私は何が何でも金剛さんの艤装を選びます。修復を終わらせて、二人で一緒に脱出するんです」

 

 

 だがまだ感情に支配され切っていないのか、吹雪は的確なツッコミを持ってワタシの言葉を否定する。流石に早計過ぎたか、だがそれでも流れはこちらにある。現状、論理的に見てもワタシの案の方が理にかなっているからだ。

 

 

「……先ほども言った通り、その選択はリスクが大き過ぎマス。だから折衷案を―――」

 

「それでみすみす貴女が沈むのを黙認しろと? 沈むと知った上で放置しろと? そんなの『死ね』と言っているようなもんじゃ――――」

 

「そう言えばいい」

 

 

 今度はワタシが吹雪の言葉を遮う。思わず感情が、否このまま水掛け論が進むのが避けたかったから敢えて感情を放り込んだ。そう投げかけた瞬間、吹雪の身体が人一倍震えた。これで彼女が論で勝負する可能性はなくなった。

 

 

「ワタシに『死ね』と、そう言えばいいネ。貴女は旗艦、ワタシは僚艦。旗艦にはテートクに戦果を報告する義務が、帰還する義務がある。それを妨げるのは大破して動けない僚艦が一隻、切り捨てるのは妥当な判断ダヨ。別に雷撃処分しろとは言ってないネ。ただ義務を果たすために僚艦を切り捨てるのは何ら問題ないってこと。違いマスカ?」

 

 

 ワタシの論に、吹雪は何も言えずに押し黙ってしまった。論で丸め込み、その上で論理武装した言葉を持ってそちらを選択する理由を悉く奪い取っていく。非常に姑息で卑怯な手だと思う。だが、その効果は折り紙付きである。しかし、これではまだ足りない。論で押しつぶそうとしたところで、向こうの土俵である感情でも打ち勝たなければいけないからだ。そしてワタシは既にそちらの一手がある、決定的な一手が、王手が。

 

 

 さぁ、これで終いだ。

 

 

「それにね、吹雪……()はもう――――――」

 

 

 その言葉(王手)を口にする直前、()は今までを振り返った。

 

 

 艦娘になり、此処に配属され、あいつに踏みにじられ、あの子を救おうとして、救えなくて、二人が居なくなってからテートクの座に居座り、やってくる奴らを追い落とし、零れそうなものを掬い上げ、閉じ込め、何とかしがみついてきた。

 

 今のテートクがやって来て、私は追い落とされた。しがみついてきた、握りしめてきたものを奪われ、何も持っていない私に彼は時間だけ、いや時間だけではない。ある程度の自由を与え、一人になれる場所を与え、胸に燻る思いを、言の葉に乗せる、乗せられるだけの時間を与えてくれた。

 

 その時間で色々考え、後悔し、懺悔し、同時に彼がこの鎮守府で存在感を増していく姿を見て、あろうことか周りに(・・・)嫉妬した。全ては自分が招いた結果なのに、自分が起こした行動のツケが回ってきただけなのに、それら全てを棚に上げて嫉妬したのだ。

 

 それでも何とか自らを繋ぎ止めていた。あの日から、あの瞬間から。感情の全てを、自分自身を押し殺してなお噴き出してくる感情を抑え込んで、それでも優先し続けたことが私を繋ぎ止めていた。しかし、つい先日それすらも無いモノと―――――逆に踏みにじり続けていたことを指摘されてしまった。自分の首を絞め続けてまで行ってきたことが、いとも簡単に崩れてしまった。後に残ったのは何の価値も持たない抜け殻の()だ。

 

 

 これが私の、金剛の人生(・・)だ。こんなしょうもない、もったいない、何も残すことなく、忘れ去られてしまう、そんなつまらないものだ。こんなものに未練を覚えるだろうか、こんなものを手放すのに躊躇するだろうか。

 

 否、否だ。未練も躊躇もない。『仕方がない』――その一言で諦められる人生だ。その程度のものだ。だからこの言葉は偽りのない、外聞の何もかもを取っ払った私の本音である。

 

 

 

 

 

「沈みたいの」

 

 

 そう本音を口に出した。それだけで終わる、終わって、終わらせてしまえた。そんな私の人生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 の、筈だった。

 

 

 

 それは唐突だった。いきなり胸倉を掴まれ、勢いよく引っ張られる。視界が一気に変わった。ずっと向けられていた吹雪の背中は消えてしまい、代わりに現れたのはボロボロになった吹雪の制服、正面から見た彼女の制服。同時に現れたのは、大きく振りかぶられた彼女の腕と渾身の力で握りしめられた彼女の小さな拳。

 

 

 

 そして鬼のような形相を浮かべ、血が出んばかりに歯を食いしばり、大粒の涙を止めどなく流す、そんな泣き顔の吹雪だった。

 

 

 直後、ワタシは頬に強い衝撃を受ける。思いっきり振りかぶられた彼女の拳は、真っ直ぐ私の頬に吸い込まれたのだ。その衝撃に思いっきり上体を崩すも手負いの駆逐艦に戦艦を殴り飛ばせる力はなく、私は何とか倒れることなく踏みとどまれた。

 

 それに対して、吹雪はワタシを殴った勢いを殺しきれずにその場で盛大にこけた。質量のあるものが落ちる音、震動、盛大に散らかされた鋼材、なぎ倒された燃料が宙を舞い、音を立てて地面に落ちていく。仰向けに倒れた彼女の周りは鋼材、零れた燃料、弾薬、様々な資材で散乱した。

 

 そのどれもが地に落ち、音を立て、やがてそれすらも聞こえなくなった。残ったのは二つの荒い息遣い。一つは吹雪に殴られ、放心状態で倒れる彼女を見るワタシ。もう一つは仰向けに倒れ、燃料まみれの手で目を覆い、歯を食いしばりながら呻き声を――――込み上げる何かを飲み込もうと必死に口を噤む吹雪。

 

 

 それ以外、音は無かった。

 

 

 

「金剛さん」

 

 

 それも唐突に終わりを告げる。さきほどと打って変わり冷静な口調でそう漏らした吹雪が上体を起こしたからだ。彼女はそのまま私に背を向け、何事も無かったかのように再び金属音を鳴らし始めた。起き上がった際、その顔を見ることは出来なかったため、今彼女がどんな表情を浮かべているかは分からない。

 

 

「司令官が貴女を代理の座から引きずり降ろした件あったじゃないですか? あれ、私が司令官にお願いしたことなんですよ」

 

 

 世間話でもするかのように軽く振られた言葉は、まさに青天の霹靂である。ワタシが今の状態に陥れられたあの事件、その発起人が自分であると暴露された。自分を追い落としたのが今目の前に、無防備な背中を向けている。普通なら激昂し、その背中目掛けて鉛玉をぶち込んでもいいだろう。むしろ暴露した本人がそれを望んでいる節が見えるなら、なおさら非難されるいわれはない。

 

 

「理由は単純、貴女が敷いた体制が嫌だったからです。何であんなものを続けているんですか、何であんなものに縋っているんですか、何であんなものを引きずっているんですか。それも自分だけでなく、私たちにも強いるんですか? 貴女はいいかもしれない、でも巻き込まれるこっちは堪ったもんじゃないんですよ。せっかく自由になれたのに、何で貴女の我が儘に付き合わなければいけないんですか。可笑しいでしょ? たかが一艦娘である貴女が、秘書艦代理(・・・・・)しかしてこなかった貴女がいきなり司令官代理なんて……納得できると思っているんですか?」

 

 

 だが、今のワタシは彼女の背中に鉛玉をぶち込む術を持っていない。大破しており、艤装も彼女を挟んだ向こう側だ。出来るとすればこの拳で殴り掛かることぐらい、先ほど殴られた吹雪のようにだ。

 

 

「だから貴女を引きずり落とし、彼をその位置に着けました。元の体制に戻っただけですから、誰も文句はありません。因みに彼も望んで貴女を引きずり降ろした訳ではありません。私に頼まれ、仕方がなく(・・・・・)強硬手段に出ただけです。だから彼を恨むのは、引きずり降ろされたことを黙認した周りの人たちを恨むのはお門違いです。恨むなら私を――――反旗を翻した反乱分子である私だけ(・・)を恨んでください」

 

 

 いや、生憎そんなつもりはない。仮に全快だとしても、望まれても(・・・・・)、そんなことをするつもりは毛頭ない。何故って、貴女はそれを望んでいるわけではないからだ。鉛玉を受け入れる気はあるが、受け入れたい(・・・・・・)わけではないからだ。

 

 

「もっとも、そんな身体じゃ私を殴ることも出来ませんよね。今の金剛さんなら小指でつつくだけで倒せちゃいそうですもん。だからほら、演習場で決闘しましょう。お互いに万全の状態で全力でやりましょう。そこで盛大に私をボコボコにして下さい。沢山の観客を集めて、盛大な舞台で、全力で私を辱めてください。それなら溜飲も下がるでしょう。だから、ね…………」

 

 

 そこで吹雪の言葉が途切れた。そうだろう、もう限界だろう。そうやって取り繕うのも、憎まれ役を買うのも、心にもない言葉を口にするのも、何もかも限界だろう。

 

 

 

 

 

 

「帰り、ま、しょうよぉ」

 

 

 次に聞こえた声、泣き声、心の声、あらゆる外聞を取っ払った吹雪の声。彼女の本音。それを溢した彼女はどんな顔をしているか、見えなくても分かった。

 

 

「そんな、そんな……『沈みたい』、とか……『死ねと言え』、とか……そんなこと、言わないで下さいよぉ……わた、私は、私は貴女にどれほど、どれほど助けられたか……どれほど救われたか!! 分かっているんですかぁ……知っているんですかぁ……? あ、あな、貴女が居たから、貴女が居てくれたから!! わた、わたひ、私は今、ここに居るん、で、す……そんな、そんな人に、そんな酷いこ、ことを、言えるわ、け、ないじゃないですかぁ……」

 

 

 途切れ途切れに、つっかえつっかえ、吹雪は本音を吐き出していく。正直、彼女にそこまで想われるようなことをした記憶はない。だが憎まれ役を買ってでも私を連れ戻そうとし、それに耐えきれず今こうして本音をまき散らしている彼女の背中だけで、そんな些細なこと(・・・・・)などどうでもよくなった。

 

 

「……知っ、て、ます。あな、貴女にとって、『あの子』がどんな存在か……全てではありませんが、知っているつもりです。いま、今も貴女の後ろにあの子がずっと……ずっと居ることを、あの子のため動いてきたこと、あの子のために生きてきたこと、誰かは分かりませんがそれを否定され、『生きる理由』を失ったこと……なんとなく、なんとなくですが、知っています。でも、それでも、私は貴女に―――――」

 

 

 そこで言葉を切った吹雪は今まで本音を溢していた顔を上げ、大空を仰いだ。

 

 

「生きて、欲しいんです」

 

 

 そして、その口から願いを溢した。その言葉は先ほどの泣きじゃくりながら吐き出したモノとは違う。しっかりと芯の通った、力強い言葉。

 

 

「傍に、居たいんです」

 

 

 その願いは成就を願っているだけでは終わらせない。ただ享受するだけでは叶わないことを知っている、分かっている。だから彼女は動く、行動する、立ち回り、それを手中に収めて見せる、そんな確固たる意志を惜しげもなく掲げる。

 

 

 

「貴女の『生きる理由』に、なりたいんです」

 

 

 

 空を仰ぎながらそう宣言する彼女の背中。それがほんの一瞬重なった。いや、重なったなんておこがましい、無理矢理重ねてしまった。それはワタシ(・・・)金剛(ワタシ)だ。

 

 

 『金剛型戦艦1番艦 金剛』その名に恥じぬ堂々とした、()が出来なかった金剛(ワタシ)の姿だ。

 

 

 

 そこに、ふと小さな音が聞こえた。それは遠く、遠く、海の向こうから聞こえた微かな音―――――エンジン音だ。それに気づいたワタシと吹雪は同時に音の方を見る。

 

 何処までも続く水平線にポツリと現れた黒い点。目を細めてそれが何なのかを確認する。点は徐々に大きくなっていき、やがてそれは2隻の深海棲艦、駆逐イ級の姿に変わった。

 

 イ級は真っ直ぐこちらに向かってきている。脇目も振らず、一直線に、まるでワタシたちの存在を認識しているかのように。

 

 

 その直後、真横から音が聞こえた。それは先ほど吹雪が鳴らしていたものよりも重く、重量感をある。まるで何か重いモノを背負ったかのような。

 

 

「行きます」

 

 

 そう漏らした吹雪はいつの間に立ち上がっていた。否、それだけではない(・・・・・・・・)

 

 

 つい先ほどまで凝視していたその小さな背中には、所々損傷した艤装が。

 

 つい先ほどまで裂き出された油と傷だらけだった小さな手には、そこに納まらないほど大きな魚雷が。

 

 つい先ほどまで涙に塗れていたであろうその小さな顔には、同世代の少女が浮かべることまずないであろう刃物のような鋭い視線を携えた軍人の顔が。

 

 

 

 彼女は今、あの駆逐艦を襲撃しようとしているのだ。

 

 

「駄目、行っちゃ―――」

 

「相手は駆逐イ級だけ、後ろの黒いのはドラム缶です。恐らく何処からか物資を奪ってきた帰り、狙わない手はありません」

 

 

 ワタシの言葉を遮り、吹雪は淡々と事実を述べる。それはワタシを安心させるためのものか、単純に状況整理するためか、分からない。いや分かりたくない。

 

 

「嫌――――」

 

「金剛さんは此処に居て下さい。すぐに帰ってきますから」

 

 

 また()の言葉を遮ってくる。吹雪の言葉は私を安心させようという意思が伝わってきた。だが、分かりたくない。そんな言葉を向けて欲しくない。帰ってくるなんか()だ、また嘘をつく(・・・・)つもりなんだ。

 

 

 

「お願―――」

 

「問題……ないのです」

 

 

 また遮って、いや遮ったのは彼女の声(・・・・)ではない。吹雪はただ進んでいくのみ、遮ったのは私にだけ聞こえた声、私が遮られた声、遮られてしまった声。どれほど手を伸ばしても、どれほど声を上げても、決して届かない、届くことのない、あの子の声。

 

 

 やがて彼女は波打ち際に到達した。

 

 

 その瞬間、彼女の艤装が動き始める。

 

 その瞬間、手にしている魚雷を握りしめる手に力が籠る。

 

 その瞬間、海風によってその茶髪(・・)が揺れる。

 

 その瞬間、所々破けたタイツ(・・・)に包まれた小さな足に力が入る。

 

 その瞬間、艤装の稼働によって発生した風によって、上着の裾に付いている『Ⅲ』のバッチが光る。

 

 

 その姿を見た瞬間、私はあらん限りの声で、その名を叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「電ぁ!!!!!」

 

 

 あらん限りの声で叫んだそれは彼女に届いた。それに彼女はこちらを振り向く。そこに在ったのは笑顔だ。取り繕っている節も、無理矢理浮かべている節もない。純粋に、心の底から、満足した笑みを浮かべていた。

 

 その笑みを浮かべ彼女は、彼女たち(・・・・)はこう言った。

 

 

 

 

『ありがとう』



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『懐刀』の成果

 静寂の中に音が一つ、乾いた音だ。その音は断続的になり続ける。一定の間隔で、まるで時を刻むように。事実、その音は壁に掛けられた古時計が発していた。いつもの調子で、いつものペースで、規則正しく、淡々と進む時を表している。

 

 例外のない、この世に生きる全ての生命に向けて、容赦なく迫る現実を、残酷なまでに進んでいく時を、生命の終わりに迎える瞬間まで、淡々と進み、流れ、その終わりを迎えてもなお進んでいく時を。巻き戻しなんか出来ない、後戻りも出来ない、誰かの命を弄び、滅ぼしていく時を。

 

 

 そんなこの世の支配者を前に、()はいる。その前にあるいつもは書類の山で埋め尽くされていた机は本作戦の概要をまとめた資料と今回の出撃メンバー、鎮守府待機している艦娘の名簿とその情報、海図、コンパス、定規、それらを取り囲むように膨大な走り書きのメモが散乱している。

 

 護衛部隊の編成、装備、進撃ルート、合流後の撤退ルート、帰投後の入渠、補給の段取り、必要資材、バケツの用意、帰投後の論功行賞などなど、そのメモに走り書きされることは多岐にわたる。今まで彼が必死になってやってきた書き記してきた、己がここに着任し提督として執務を行ってきた中で得た経験、知識の全てをフル活用し、且つ最大限に発揮した末に生み出されたものたちだ。その数も馬鹿にはならず、尚且つその重要性も相当のものだ。

 

 しかし今、たった今それらは全て只の紙切れとなった。今しがた入った一本の無線、そこで行われた会話によって全て無用の長物となった。誰のせいでもなく、他の何かによってでもなく、紛れもない彼自身の手によって。

 

 

 もはや無用の長物と化した、としてしまった紙切れたちを前に、彼はただ茫然としている。先ほど目一杯、力の限り握りしめ、己の全てを紙に走らせていた手はペンを離し、代わりに彼が絞り出してきた紙きれの一部を握りしめている。

 

 もう片方の手はその顔の半分を覆い尽くしている。その内から沸き上がる後悔を、悲観を、懺悔、負の感情を吐き出し、そしてそれらを突き付け、突き刺し、その喉元を喰い千切ろうするほど強く、強く、その顔を握りしめていた。その隙間から見える彼の顔は、突き刺されたもの、喉元に食いつかれたもの、それらから逃げることも出来ず、悲鳴を上げることも出来ず、ただ声を押し殺し、息を押し殺し、そのまま呼吸を止めてしまった方が楽なのではと思うほど酷く、脆く、儚く、歪んでいるだろう。

 

 

 

 そんな彼――――提督に、私―――――大淀が出来ること、それは何だろうか。

 

 

 彼の補佐としてずっと執務を続けてきた。この鎮守府の中で彼と共有した時間は一番長いだろう。それだけ彼を見てきた。補佐してきた、時に怒り、時に呆れ、時に笑った。顔を突き合わせ、意見をぶつけ合い、気を遣い合い、敬い合い、信頼を向け合い、時には無防備な寝顔を見せ、そして見てきた。彼の色々な表情を見たつもりだった。

 

 だけど、それ以上に彼を知っている人がいた。突然取り乱した彼を抱き締め、その手に付けられたミサンガを引き千切った加賀さん、食堂で拳をぶつけ合い、その後に彼を自室に呼び出した憲兵、先ほどの無線で一言も発せなかった彼の願いを肯定し、そして叶えてあげると豪語した曙ちゃん。彼らは私以上に彼を知っていた、だから彼にあの言葉を向け、そして向けられた。

 

 だが、私は彼らと同じように出来なかった。先ほどの無線――――その向こうであったことを、会話には参加していないものの実際に聞いていた。聞いていたくせに動けなかった。それは現れた選択肢が二つとも、彼が是が非でも回避したいものばかりだったから。どちらを選んでも彼が傷付いてしまう、選ばせてしまえば彼を傷付けてしまう、そんな自己保身の姿勢であったから。

 

 

 同時に、私は戦場に居ない。加賀さんや曙ちゃんは彼の願いを叶えるためにその命を燃やしている、燃やし尽くそうとしている。彼の艦娘として、彼の刃として、役目を全うしようと全力で走り続けている。選択を強いるしかなかった私と違う。選択肢のその先を見据え、其処へ全力を尽くしている、命の燃やし処を得ている。

 

 それが何よりも羨ましい、妬ましい。私だって彼女たちと同じように海を駆け回り、砲を振り回し、敵を撃破することが出来る。ただ彼女たちよりも事務能力に長けていて、その能力を買われて提督の補佐として執務を手助けしているだけ。いや、それこそが私の致命的な失敗なのだ。手助けする立場になってしまった、それゆえに戦場に出ることがなく、提督の頭から私を戦場に出そうと言う考えが抜け落ちてしまったのだ。自らの牙を、自ら折ってしまっていたのだ。

 

 

 だが仮に彼女たちと同じく戦場に立っていたとして、私は同じように動けただろうか?

 

 

 そう問われると、黙りこくってしまう自分が居る。彼を助けたいと言う想いは同じだが、それに則した行動をとれるかどうか分からない。曙ちゃんのように彼を肯定し、その願いを叶えるがために命を燃やすことが出来るだろうか。

 

 その答えは『命を燃やすことは出来ても、彼女のように肯定までは出来る気がしない』である。

 

 何故なら、彼女があそこまで力強く言い切った根拠が分からない、いや無い(・・)からだ。根拠のない無責任な発言と言ってしまえば聞こえは悪いが、彼女の発言は実際そうなのだ。だからこそ彼はこうして塞ぎ込んでいる。その言葉に根拠があればその策に乗って動いていただろう。それは先の加賀さんが言い放った言葉で彼が動いたのが証拠だ。

 

 だから彼は動かない、いや動けない。それは根拠がないから、彼女たちが全員生還できる可能性が見えないから。雪風ちゃんの発言も曙ちゃんの言葉も、全て根拠のない夢物語であるからこそ彼は動けない。

 

 

 彼が今までしてきたこと―――――そこにはある程度の根拠があり、それが最も発揮される場所で動く。それが彼の常套手段だ。

 

 その常套手段で鎮守府(ここ)は変わってきた―――――否、救われてきたのだ。同時に自惚れていることを承知で言おう、私はそれを間近で見てきた。見てきた故に知っているのだ。

 

 彼は安全牌しか拾えない『腰抜け』だと、彼は誰かの命を切り捨てられない『臆病者』だと、彼は自分が守りたいもの全てを守ろうとする『甘い人』だと、彼は誰かのためなら自分を躊躇なく危険に晒し、誰かのために自分を汚し、誰かのために身を削り、誰かのために受け皿となれる――――――

 

 

 

 そんな『優しい』、『優し過ぎる(・・・)』人なのだと。

 

 

 本人でさえ気づいていないであろう、彼の本質を知っている。恐らく唯一、知っている。だからこそ彼のしたいこと、やりたいこと、しなければならないこと、その全てに微力ながら協力してきた。夕立ちゃんの、加賀さんの、イムヤちゃんたちの、榛名さんの、憲兵の。今しがた彼を救おうとその命を燃やしている彼らの、そう動けるようになった、動けるようにお膳立てした。

 

 それだけは言える、それだけは譲れない。私だけが出来る、私だけしか出来ない唯一無二の立場。胸を張って断言できる、声を高らかに自慢できる、私の成果(・・)。おおっぴろげに出来る内容ではないものの、いざ言えと言われれば躊躇なく言えてしまう。それほどまでの誉れ高き成果だ。

 

 だが、この状況においてはそんなものに価値はない。安全牌を取り続けた故にその道理から外れてしまえば、私がやってきたものは全て無意味となってしまう。結局安全牌と言う保険を背景に動いてきた私の成果は、それを保証する牌が無ければ無価値の烙印を押されてしまう。それほどまでに危ういものであり、息を吹きかけただけで何処かへ飛んで行ってしまう程、軽いモノ(・・・・)なのだ。

 

 

 そしてこの状況――――彼が選択出来ずに進んでしまった、彼が思い描く未来から、彼の掌から零れた現実。それに対して私が出来ることは皆無だ。彼が大いに活躍できる場所を作り上げるのが役目の私が、誰がどう見ても彼が委縮するしか出来ない場所で動けることなどない。同時に、そういう場所に放り込まれた彼が私に求めるものが、皆目見当がつかない。

 

 今まで彼の近くに居たのに、今も彼の傍に居るのに、最も彼と時間を共有したのに。その願いを叶えることが、その手助けすら出来ない。そして今この場に居る自分が何をすればいいのか、この状況で補佐しか出来ない私に何が出来るか、それすら分からない。

 

 

 

 正真正銘、本当の役立たずでしかない。

 

 

 

「楓」

 

 

 ふと声がした。それは私以上に彼を知っているうちの一人、他の2人と違って戦場に出ることが出来ない、ある意味私と立場が近い、なのに彼からある程度の信頼を向けられた存在――――憲兵だ。

 

 彼は先ほどのやり取り――――救出部隊とのやり取りをする提督をただ黙っていた。その時の表情は至って焦っている様子もなく、まるで彼がどのように判断を下すのか、その行く末を見守ろうとしている。そんな姿勢に見えた。

 

 そんな彼は今、提督の横に立っている。そして、その手には何故かマグカップが――――私が大分前に淹れたコーヒーが置かれている。もう湯気は立っておらず、温もりの殆どを時に持っていかれた残骸。今の彼は、まさにこの冷めきったコーヒーだと言える。それをいつの間にか手に持ち、提督の横に立っている。

 

 それを見た瞬間、彼は手に持ったカップを前に突き出しゆっくりと傾けはじめた。重力に引っ張られ、冷めきったコーヒーはカップの淵に行き付くも暫し押し留まった。が、やがては重力に押し負け淵を越えて下に零れる。淵を飛び出したコーヒーは一本の線となって下へ下へと落ちていき、やがてとあるところに行き付いた。

 

 

 

 所々くたびれた、よれよれの、型崩れが目立ち始めた、かつては純白であったはずの制服――――――提督の制服である。

 

 

 

「ちょ」

 

「これは『汚れ』だ」

 

 

 思わず駆け寄ろうとした私の身体は、憲兵の口から漏れた『汚れ(その言葉)』によって遮られた。尚もコーヒーは提督の制服を汚していく、『汚れ』を刻んでいく、その行為がどんな意味を持っているか、何を示そうとしているのか。

 

 その答えは、次に飛び出した彼の言葉で分かった。

 

 

 

「今しがたお前が犯した――――『提督』の汚れだ」

 

 

 そう言ったところで、カップに残っていたコーヒーは無くなった。一滴残らず提督の制服に、提督の『汚れ』となった。白い布地の制服に、大きな黒いシミが刻み込まれた。白だからこそ黒が良く映える、何色にも染まらない黒だからこそ長く、永く残る。よく映え、永く残るからこそ、忘れない(・・・・)

 

 彼が犯した提督として(・・・)の罪を、その代名詞たる制服に刻み込んだ。いつ何時、毎日のように袖を通すその制服()に刻み込んだ。一重に彼がこの罪を忘れさせないために、二重に彼が同じ過ちを犯さないように、それらを重ね合わせた末に出来上がった『真意』は。

 

 

 

「さぁ楓、これから(・・・・)どうする?」

 

 

 そう、憲兵は問いかけた。その言葉に、その掌に納まっていた彼の顔がゆっくりと持ち上げられた。そこにあったのは悲壮、後悔、懺悔、憤怒、ありとあらゆる負の感情に押しつぶされて憔悴し切った表情であった。だがその中でも特に前面に押し出されていたのは『戸惑い』。自分に向けられた問いの意味を解することが出来なかったからだろうか。

 

 

「提督は艦隊の、その下にいる艦娘の道しるべにならなければならない。艦隊を勝利に導くこと、艦隊を生還させること、誰かを切り捨てること、全てにおいて答えを示さなければならない。例えそれが艦隊の全滅であっても、鎮守府の壊滅であっても、提督(お前)が決めなければならない。先の選択、どちらも『答え』であって『正解』ではない。何故ならお前が選んだものが『正解』になるからだ、お前が下した判断が『正解』となるからだ、『正解』を選ぶ(・・・・・・・)のではなく『正解』を決める(・・・・・・・・)、それが提督が担うべき責務だ」

 

 

 その口から飛び出した言葉は刃物と、いやそれよりももっと凶悪な凶器となって彼に襲い掛かった。それを受けたその顔は更に苦痛に歪み、暗い影を落とす。憲兵の口からつらつらと語られた話、提督と言う存在がどのようなモノか、どんなことを求められるか、その責務とは何かを示している。その次に続くのが彼が今しがた犯した罪を提示し、その責任を追及すると思っているのだろう。

 

 

 

「そしてお前は、『決断しない』と言う正解(・・)を出した」

 

 

 

 だが、次に現れたのは予想していたものとは幾分かかけ離れていた。その言葉に今度こそ彼の顔が強張る。雷に打たれた様に、いきなり水をかけられたかのように。思考、感情、衝動、全てが綺麗さっぱり消え去った彼が、『素の彼』がそこに居た。

 

 

「曲がりなりにもお前は『決断しない』という答えを、正解(・・)を出した。同時にお前は提督の責務を放棄した。そんな奴を提督とは言わない、今のお前は提督ではなく『明原 楓』と言う一個人だ。後に残ったのは提督の地位を放棄したお前と、『決断しない』と言う正解のみ……それらを踏まえてお前は――――明原(・・) ()はどうするんだ?」

 

 

 それが憲兵が投げかけた問いの『真意』だ。提督の地位を放棄した彼に向けて、提督ではなく彼自身として次に何をするかを問いかけたのだ。言葉通り、一言一句言葉通り。曲解する隙も無く斜に構えることも出来ず、言葉通りに受け取るしかない。

 

 

 彼は『提督』として正解を出した。同時に今の彼は提督などではない――――『明原 楓』と言う一個人でしかない。その一個人として何をする? そう、聞いているのだ。

 

 

 

「……何―――」

 

「『何が出来る?』なんて、間抜けなこと言わないよな?」

 

 

 彼の答えを先読みしていた憲兵はその言葉を遮る。そして手にしていたカップを机に置き、彼の頭に乗せられた提督の帽子を奪う。提督でなければ被れない帽子(それ)を奪うことで彼から『提督』の地位を剥奪し、同時に帽子に遮られていた彼の視界を開けた。

 

 苦しみ、憎しみ、後悔によって混沌に染め上げられていた目を開かせ、前に広がる光景を――――現実を見せつけ、その上で目の前に広がる先を―――――未来への道を開かせた。

 

 

 

 

「信じろ」

 

 

 それと同時に、未来への歩み方をも与えたのだ。

 

 

「お前が決めた『正解(答え)』にあの駆逐艦――――()なんとかする(・・・・・・)と言った。彼女だけじゃない、夕立(・・)()()北上(・・)雪風(・・)も……形はどうあれ『正解(答え)』を受けて動いた。お前が決めた『正解』を現実にするために、『正解』にするために(・・・・・・・・・・)動いた。提督が下した決断を、提督が決めた『正解』を実現させることが彼女たちの、刃たち(・・・)の役目だからだ。それを忠実に、確実に、お前の思い描く理想に少しでも近づけようとする、主の願いを導き出す、主の望む未来を切り開く、主の願いを叶える……その時こそ刃は、お前が救い上げてきた(・・・・・・・・・・)彼女たちは最も煌びやかに、最も『綺麗』に輝くんだ」

 

 

 憲兵は彼にそう言葉を向け、手にしていた帽子をクルクルと回す。だが次の瞬間回していた帽子を力強くに入り締め、同時に今まで彼に向けていた目を変えた。何処か試すようなものから、壊れものに触れるかのように優しく、柔らかく、肉親に向けるそれに近いものに。

 

 

「そんな彼女たちを信じろ。お前が救い上げてきた彼女たちを、お前の『正解』を肯定した彼女たちを、お前の失策を、失態を、どうしようもない致命的な失敗を肯定した彼女たち―――――お前の刃たちを、その輝きを、その美しさを。それこそが誠意だ、それこそが手向けだ、それこそが持ち主であるお前(・・)の義務だ。提督であったお前(・・)が下した答えを成功に導く彼女たちをお前(・・)――――――明原 楓として信じてやれ」

 

 

 

 そこで一呼吸おいて、憲兵はこう続けた。

 

 

 

「それこそ、『明原 楓』にしか出来ないことだ」

 

 

 憲兵の言葉に彼の―――――明原(・・) ()さんの目に新たな感情が芽生えた。灰色に染まり切っていたその目に小さな光が灯った。それはとてもとても小さく、息を吹きかければばたちどころに消えてしまう程弱弱しいものであった。

 

 

 が、確かにそこに光が灯ったのだ。

 

 

「それに刃は使われてこそ輝く。いつまでも懐にしまわれていては輝きたくても輝けない、そのもどかしさはどれほどのモノか…………な、大淀(・・)?」

 

 

 不意に憲兵はそう言って、横目で私を見る。そこで気付いた、いや気付けた。憲兵は彼だけでなくその横で同じように立ち尽くしていた私に―――――――『懐刀』と言う渾名を与え、歩むべき道をも示した。

 

 

 

「『楓さん』」

 

 

 それを受けて、私はすぐに(・・・)動いた。彼の名を――――――――『楓さん』の名を口にし、その傍に立ち、憲兵の手によってコーヒーに――――――『明原 楓提督』が犯した罪によって汚された手に触れた。添えるでもなく、掴むでもなく、ただ優しく、ただ暖かく、その両手で包み込んだ。

 

 

 

「『どう』、したいですか?」

 

 

 楓さんに向けた言葉。それを受けた彼は目を丸くした。彼だけではなく憲兵も同じような顔をしている。しかし憲兵の顔はすぐに何か面白いモノを見るような表情に変わるも、相も変わらず楓さんは呆けた顔を向けるのみ。その顔を小突いてやりたい、そんな衝動に駆られるほど間抜けな、『楓さん』という()がそこにいた。

 

 

「『何』を、言いたい(・・・・)ですか?」

 

 

 再び同じような問いを向ける。その理由は彼が気付けるのかを計るため、単純に『明原 楓』という()の見つけた未来への歩み方が、私の見つけたそれと同じかどうかを見極めるためだ。しかし、彼の表情は変わらない。正確には意味を解した上でその『答え』が見つけられていないといったところか。

 

 

「『何』と、伝えたい(・・・・)ですか?」

 

 

 だから『答え』を――――――楓さん(・・・)としての『正解(答え)』を、『彼のために命を燃やし続ける刃たちを信じていると伝えるための言葉』を。彼を補佐し続けてきた者として、彼の『願い(答え)』の成就に最も尽力した者として、その膨大な成果を背景に、それら全てを賭けた上で彼に求めた。

 

 

 

 

「…………北上たちに、もう一度通信を繋げられるか?」

 

 

 

 その『言葉(答え)』を用意できたのだろう。彼はか細い光を灯した目のまま、私にそう言ってきた。だが彼の目に灯された光がほんの僅かに、本当に僅かにだが、大きくなったような気がした。その理由は何か、()のおかげか、そんな野暮なことを考える必要は無いだろう。

 

 

 

「はい、お任せください」

 

 

 そう言って、私は無線に片手をかけ通信を開始する。その間、もう片方の手は楓さんの手を包み続けた。コーヒーで塗れるその手を、その汚れを幾ばくも気に欠けることなく、彼のように汚れることを『是』とするように。常日頃彼の傍に居続けた、彼の横にあり続けた、大切にされ続けた『懐刀』は今、白日の下に晒された。

 

 

 今この瞬間、勢いよく引き抜かれた(懐刀)が持つ輝きを、美しさを、その切れ味を。その全てを持って彼が歩む、歩みたい(・・・・)未来への道を切り開いたのだ。

 

 

 

 

 

『提督さんが、好きだからだよ』 

 

 

 通信が繋がった瞬間、その先で待っていたのはとある刃(・・・・)の凄まじい言葉(斬撃)だった。

 

 

 高らかに、気持ちよく、一切の躊躇なく言い放たれたであろうそれ。恐らく発した本人は()に聞かれることがないとタカを括った上で、どのような状況下は想定できないが取り敢えず彼女は戦場の何処かで、誰かに向けてこの一撃を放ったのだろう。

 

 だが彼女の想定しない所で身構えることも出来ず真正面から叩きつけられた()は今、私の横で呆けた顔でいるわけだが。

 

 

「な? 『綺麗』だろ?」

 

 

 そんな彼とそれを引っ張り出してしまった私に対して、憲兵はしたり顔でそう言ってくる。彼もまた無線を付けているためその斬撃を聞いていた。そしてそれを向けられた私たちを、その反応をリアルタイムで見た傍観者が発した言葉だ。

 

 だが、生憎私はその言葉に少しも動揺しなかった。何故なら、自負があったから。私には誰にも負けない、唯一無二の、誉れ高き成果があるから。それをその言葉(・・・・)に置き換えて、懐刀()は胸を張ってこう言ってやった。

 

 

 

 

「もっと『綺麗』ですよ? 私は」

 



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彼を見ている『三人』

 海を駆ける、髪が靡く、巻き上がる飛沫を浴び、分厚い霧を切り裂き、前へ前へと進んでいく。

 

 身体が軽い、足取りも軽やか、痛みなんかとうの昔に何処かへ置いてきた。あるのは高揚感、優越感、達成感。大小様々な『好感』のみ。

 

 この先に待っている。待ち焦がれたもの、待ち遠しかったもの、口惜しかった、名残惜しかった、待ち望んだそれが。ようやくこの手に納まる。その日が、その時が、その瞬間が、この先に待っているのだ。

 

 

「ハハッ」

 

 

 それを前に、あたしの口からそんな声が漏れる。歓喜に満ちた、満ち満ちた、両手に余るほどの『幸せ』を抱え、両脚が羽を得たかのように軽やかに、祝福の歌を奏でる口を携え、あたしは進むのだ。

 

 

「アハハッ」

 

 

 またもや漏れる。それは沸き上がる幸せを、幸福を、幸運を、幸運の女神に愛されたあたしにもたらされた千載一遇のチャンス。それを両手いっぱいに握りしめ、噛み締め、飲み干し、腹の底に落とし込んだそれ。本来なら両手を振り上げ、万歳を繰り返し、心より祝えてしまう、そんな感情をもたらすそれを。

 

 

「はッ、ははッ……は……」

 

 

 だから嬉しいのだ、嬉しいはず(・・)なのだ。待ち焦がれたはずなのだ、待ち遠しかったはずなのだ。口惜しかったはず、名残惜しかったはず、待ち望んでいたはず。言葉では尽くせないほどに渇望したそれが今、たった今手に入った。

 

 だから嬉しい、幸せ、幸福、幸運。今こうして両の目から零れる涙はきっと感激の涙なのだ。今こうして口から漏れる嗚咽は感嘆の嗚咽なのだ。

 

 

 

「あ……あぁ……っぁ……」

 

 

 

 今あたしが浮かべている泣き顔(・・・)、いやこれは笑顔(・・)満面の笑み(・・・・・)、幸福に満ちた顔。その根源たる『それ』――――――全て、全て、何もかも、例外なく、寸分の狂いもなく、間違いなく、違えることない願い、あたしの願い、長年の願い、積年の願い、あたしたちの願い。

 

 

 

 雪風(あたし)の願いなのだ。

 

 

 

『やめて』

 

 

 そんな中、あの子は――――いつも傍にいてくれた妖精(この子)は性懲りもなく叫んでいる。先ほどまでは頭の上で口うるさく叫び、あたしの頭を足蹴にし、そして後ろ髪を思いっきり引っ張っていた。それを露ほども気に掛けなかったせいで、今はあたしの耳元でこう叫んでいるのだ。

 

 

 

 『帰ろう』と。

 

 

 『戻ろう』と。

 

 

 『生きよう』と。

 

 

 

 そんな言葉、もう聞き飽きた。やり尽くした、選び尽くした。帰ってきたし、戻ってきたし、生きてきた。散々に選びつくしたそれらを今更選択しろなんて、一体全体何を言っているんだ。あたしは飽きた、飽きたのだ、それら全てに、雪風は飽きた。

 

 

 

 『生き残る』ことに、飽きたんだ。

 

 

 

「うるさいなぁ」

 

 

 その声は先ほどのように嗚咽を交えていなかった。ただ淡々と、機械のように、声のトーンからイントネーションに至るまで、全てが一定だった。それを溢したあたしの目はこの先に待っているものではなく、自身の手首に下がったそれ――――――――ミサンガに注がれていた。

 

 作戦の成功を願って鎮守府一同が願掛けた代物。発案者は夕立さん(・・)、以前ミサンガを渡して回っていたからその答えはあっている。そしてそれを許可し全員に広めたのはあの人。彼にとってその申し出は渡りに船だっただろう。彼が堂々と一同の前で言った―――――あたしを本作戦に抜擢した理由を見れば分かる。

 

 

 『お前の幸運で、本作戦を成功に導いてくれ』

 

 

 前途多難な作戦に置いて最も重要視される『運』。それをこちら側に引き寄せるために幸運艦と名高い雪風を起用した、と。そうハッキリ言ったじゃないか。

 

 だからあの時、進撃か撤退かの選択を迫った時も言ったじゃないか。進撃したところで沈むのはあたしだけ。それ以外は沈まない、むしろ沈ませないと。そのためにあたしがいる、デコイがいる、囮がいる。『幸運艦と名高い雪風が囮になる』それだけで十分ではないか。それの何処に心配する所があるのだ。

 

 それにこうも言った。もし運が良ければ放棄したドラム缶を吹雪ちゃんたちが回収し、自分たちで修復して、何処かで合流できるかもしれない、と。これを言った時、周りからは特に何も反論が無かったがその表情を見れば誰もが『有り得ない』と思っていたことぐらい分かった。普通なら有り得ないことだろう。普段ならそんな戯言の天秤に誰かの命を乗せることなんてしない。

 

 だけど理由(そんなもの)はどうでもいい。むしろ、正当な理由がないと動けない、なんて甘いこと言っていられないだろう。いつも安全第一を選択していたら、せっかくの機会を逃してしまう。時には博打が必要だ、時には勝負をかけなければいけないのだ。虎穴に入らずんば虎子を得ずの通り、時には危険を冒さなければ何かを手に入れることなんてできないのだ。

 

 そこにかけられた命はあたしだけ。大破した駆逐艦1隻を失ったところで鎮守府にとって痛くもかゆくもない。それで金剛さんと吹雪さん(・・)―――――北上さん、夕立さん、潮さん(・・)、響さん(・・)、曙さん(・・)、そして加賀さんたちも無事に戻れるのだ。それだけの命が助かるのだ。お釣りどころではない莫大な資産が、メリットが、戦略的、戦略的、完全勝利(・・・・)があるのだ。

 

 

 なのにあの人はそれを手に取らなかった。何故か、何故なのか。自身の口でそう言っておいて、それに即した選択肢を手にしなかった。あの人が雪風に求めたのは『幸運』、作戦を成功に導くための幸運の女神、それに愛された『雪風』と言う()だったはずだ。

 

 

 

 

 『あたし』なんて、どうでもいいのだ。

 

 

 

 その瞬間、痛みが走った。大破しているのだから当たり前だがつい先ほどまで一切感じなかった筈。なのに、ほんの一瞬だけ痛みが走ったのだ。その痛み(・・・・)なんかとうの昔に置いてきたはずなのに。だが、それもほんの一瞬であり、その出所を知る前に何処かに消え去ってしまった。同時にその痛みへの関心も消えた。

 

 

 その時、あたしの手はそのミサンガにかけられていたからだ。

 

 

 

「あたし、はッ……」

 

 

 そう漏らして、手を真横に振り切った。その手には白と黒の紐で結ばれていたミサンガが。あの人、そして鎮守府一同の願いが込められた――――――作戦の成功を祈願したミサンガがあった。

 

 

 故意に切られたミサンガ、そこに込められた願いは成就しないと聞いた。だがこの願いはあたし以外のミサンガに込められている。そのうちの一つや二つ、事故(・・)で切れたとして意味はない。

 

 そして、今あたしが握りしめているミサンガは何の願いも込められていない。同じ願いを込めるのは駄目でも、別の願い(・・・・)なら問題ない。そう思ってか、あたしの手は今しがた断ち切ったミサンガを再び手首に結び付けた。同時に先ほどよりも若干緩く、強い衝撃を受けたら自然に(・・・)切れてしまうのではないかと心配になる程緩く結んだ。

 

 今、これに込めた願いはあたしだけだ。それが成就する確率は低い。現状ならそれは間違いなく成就すると思われるが、緩めに結んだのは少しでも確立を上げるためのズルだ。仮にも幸運艦がしていいことではないと重々承知しているが、生憎あたし(・・・)は幸運艦ではない。ただ単にその名を冠してしまっただけの存在。

 

 

 だから、その成就を願い、 水面に映る自分の顔を――――――今にも泣き崩れそうな顔を踏み付け、言の葉に乗せた。

 

 

 

「沈め、たいのッ……」

 

 

 

 ヒュン

 

 

 その時、耳に聞こえた音。妙に高い、一瞬と言える短さ、小さいながらも存在感を持つ音。それを捉えた瞬間、あたしの身体は大きく動いていた。上体を真横に逸らし、顔を背け、目線だけをその音に向ける。

 

 それと同時に、風に靡く髪を食い破る様に何かが顔の横を通り過ぎた。一瞬、ほんの一瞬見えたのは黒々と光る丸みを帯びた塊―――――すなわち弾頭だ。顔の真横擦れ擦れを掠めた砲弾は後方すぐの海面に突き刺さり、その瞬間轟音と共に大きな水柱を上げた。

 

 

 それを、あたしは耳で確認した。同時に次々に迫りくる無数の弾も。

 

 

 

 

「あぁぁあああああああ!!!!!!!」

 

 

 雄たけびを上げながらあたしはその場を大きく旋回する。水面にはあたしが引いた白波の線が刻まれるも、次の瞬間それらは無数の水柱によって食い破られた。それはあたしの背中を追いかける様に次々と、迅速に、正確に、淡々と蹂躙されていく。

 

 体勢を立て直す暇もなく足の艤装を最大出力にした途端、あたしの身体は勢いよく前に飛び出した。出力だけを最大にしたのだ、着水姿勢なんて言ってられない。投げ捨てられたピンポン玉のように水面を跳ね、その度に身体のあちこちから金属片が飛び散る。

 

 装甲か、砲身か、弾倉か、ギアか、バルブか。どれがどの部品で、稼働に必要か不要か、攻撃に必要か不要か、航行に必要か不要か。その一切合切が分からない、分かるわけがない、分かりたくない。ただ確実に喧しく叫ぶ艤装の断末魔の勢いが段々と弱くなっていくことだけは分かった。

 

 

 何度目かの着水時、あたしの目にようやく敵が見えた。

 

 

 戦艦ル級1隻、重巡リ級2隻、軽巡ホ級1隻、駆逐艦ロ級後期型2隻、計6隻の水上打撃部隊。戦艦を先頭に単縦陣を敷き、砲撃を繰り返しながら猛然とこちらに接近してきた。砲火を上げるのは戦艦ル級と重巡リ級たち、このまま接近を許せば軽巡と駆逐艦も砲火を上げ、弾幕が分厚くなる。それは今でさえギリギリの回避が更に難しくなることを意味していた。

 

 これ以上の弾幕を受けないために何度目かの着水時に体勢を立て直し、再びフルスロットルで敵船団から離れる。それに呼応するように砲戦が激しくなるも、その全てを音を頼りに着弾地点を割り出して辛うじて回避していく。

 

 同時に目を走らせて周りの天候状況を把握する。濃霧があればそこに突っ込み身を隠すためだ。キス島の海域に発生する濃霧は巨大であり、駆逐艦1隻を隠すことなんて造作もない。敵も標的を定めない限り砲撃を加えることはない。濃霧に入れば単艦のこちらに分がある。そのわずかな差を利用してここから逃げなけれ―――――

 

 

 

 

「いや、なんで逃げるの」

 

 

 

 水柱によって立ち上がった塩水を頭から被りながら、あたしはそう自身に問いかけた。同時に、今まで自身が取った行動の全てに疑問符を、今も回避しようとする身体に向けて問いかけた。

 

 言ったじゃないか、『沈めたい』って。あたし(お前)の願いは『沈むこと』だろ? であれば、何故敵の弾頭を避けた、何故その場で立ち尽くさなかった、何故迫りくる『死』を受け入れなかった。自身が望んだ結末が目の前に現れたのに、何故目を逸らした、何故今も避ける、何故今も生きようとする。

 

 

 また真横を砲弾が掠めた。水柱が立ち上がり、それによって大きく体勢を崩されたあたしは視界すらも覆い尽くされてしまう。それを逃さぬように一つ、もう一つ、もう一つと砲弾があたしを掠めていく。今度は向こうの誤射、しかし夾叉弾であるため次の砲撃までの時間はない。このままここに立っていれば、お望み(・・・)の直撃弾がやってくるだろう。

 

 だが、またしてもあたしの意志に反して身体は動き出す。崩れた体勢を立て直し、艤装に鞭打って水柱の影から飛び出す。

 

 

 

 だが飛び出した瞬間、すぐ横に大口を開けたロ級が居た。

 

 

 強い衝撃と共に右腕を万力に掛けられたかのように激痛が走る。ロ級に喰らい付かれたのだ。右腕には砲撃可能であった砲門一基があり、本来なら一瞬で食い千切られいたであろう右腕を寸でのところで守ってくれた。しかし、込められるロ級の力と容赦なく腕に食い込む砲身が生み出す痛みは言葉にすることが出来ず、食い千切られてしまった方がマシだと吐き捨てたくなる程だ。

 

 

 だが、それを飲み込ませたのは脳裏に走った言葉―――――動きを止められてしまった、と言う事実だ。

 

 

 

「あぁああああああ!!!!」

 

 

 喉が張り裂けんばかりに叫び声を挙げ、ロ級に喰らい付かれた腕を引き抜きにかかる。力を込めるたびに激痛が増し、耳に何か軽いものが折れ、何か柔らかいものが避け、その度にポタポタと水の音がひっきりなしに聞こえ続けた。段々と右腕の感覚が消えていくとともにその音は大きくなっていく、痛みも既に許容量を超えた、その代わりというようにあたしの口から吐き出される叫び声は、悲鳴はどんどん大きくなっていく。

 

 

 

 『帰りたい』――――飽きた。

 

 『戻りたい』――――飽きた。

 

 『生きたい』――――飽きた。

 

 

 『生き残ること』―――――――それら全てに飽きた、飽きたのだ。飽きたからああ言った、飽きたから飛び出した、飽きたからここにいるのだ。

 

 なのに、何故あたしはそんな悲鳴を上げている。何故泣いている。何故嗚咽を漏らしている。満身創痍の身体に鞭を打ち、望んでいる筈の『死』を届ける砲弾を避け、望んでいる筈の『死』から逃れようとしている。

 

 

 そんなの、そんなのまるで、まるで――――――

 

 

 

 

見つけた(ひふへは)

 

 

 

 その時、そんな声が聞えた。同時にロ級で一杯だった視界に何かが割り込む。

 

 金色の髪を靡かせ、所々焼け焦げた黒色の制服を翻し、いつも穏やかな光が籠る翡翠色だった瞳をギラギラと激しく光る深紅の瞳へと変えた一人の艦娘(・・)

 

 そして、その口には真っ白な歯を剥き出しに意地悪く笑う顔が刻まれた弾頭、今にも発進してしまうのではと思うほど真っ赤に染まる尾部舵、そんな異様な魚雷があった。

 

 

 その艦娘は今にも右腕を食い千切ろうとするロ級の口に取り付き、無理矢理こじ開け始める。突然現れた彼女に動揺し且つあたしに夢中だったロ級は何も対応することが出来ず、ただ口を開けられまいとするだけであった。

 

 だが、その艦娘の力は駆逐艦(・・・)のそれをはるかに凌駕していた。徐々に右腕の圧力が弱くなっていき、やがて消えた。

 

 

「あぁッ!!」

 

 

 怒号のような悲鳴を上げてあたしはロ級から右腕を引き抜き、水面を転がりながら距離を取った。それを見届けた艦娘は今も無理やりこじ開けているその口に顔を近づけ、咥えていた魚雷を離す。

 

 

 

「おやすみ」

 

 

 そう呟くとロ級の口を力づくで閉じ、そのまま素早く離れる。離れた瞬間、ロ級の目に新たな魚雷が二本突き刺さっていたのを見た。だがそれも、次の瞬間盛大な爆音と突風と黒煙を上げ、大きな火柱となる。

 

 至近距離での爆風を受けるも、その艦娘が距離を取る際にあたしを引っ張ってくれたおかげで巻き込まれることは無かった。しかし、彼女は引っ張る際に右腕を――――――肘から先が真っ赤に染まるボロボロの腕を掴んだせいで、更なる激痛に見舞われることになったが、同時に実感することが出来た。

 

 

 

 まだ(・・)、『生きてる』と。

 

 

 

「立って」

 

 

 しかし、その実感は彼女の口から漏れたそんな言葉と共にいきなり海面に投げ出されたことで意識の外に行ってしまった。不意に投げ出され、さらに右腕が使い物にならないせいで盛大な水しぶきを上げて着水。着水の衝撃に顔をしかめながら、あたしは首だけを前に―――――その前に立つ艦娘に向けた。

 

 

「早く立って」

 

 

 もう一度彼女は―――――――夕立さんはそう言葉を漏らす。その目は真っ赤に染まっている。充血とは違う、完璧に染まり切った、真っ赤な血のような赤。それ以外はいつも通り、いつも通りなのだ。『いつも通り』だからこそ、その変化が際立ち、同時に本当に『いつも通り』(そう)なのかと疑いたくなるほど彼女が纏う雰囲気が違うのだ。

 

 

「ゆうだち、さん……」

 

「そうだよ。ほら、早く立って」

 

 

 その違いに思わずその名を呼ぶと夕立さんは特に意に介することなくそう返答し、更なる催促をしてくる。ただそう言うだけで手を差し出すことも、肩を貸そうとする様子もない。ただ淡々に「立て」と言うだけ。『無表情』と言う真っ暗闇の中に怪しげに光る真っ赤な瞳だけが浮かんでいるかのようだ。

 

 だが、次の瞬間その能面のような顔は突如として消え去る。代わりに現れたのは豪快に舞い上がる彼女の金髪、そしてそれを食い破るかのように擦れ擦れを通り過ぎた砲弾。それは瞬く間に彼女の頭上を通り越し、後方の海に水柱を上げた。

 

 

 そう、彼女は砲弾を避けた。背後から正確に彼女の頭目掛けて放たれた砲弾――――『死』への招待状を。後ろを振り返ることなく、表情の一切を変えず、完璧なタイミングで、必要最低限の動きで、いとも簡単に避けたのだ。

 

 

 

「邪魔」

 

 

 そんな彼女は回避体勢をいつの間にか元に戻し、魚雷の一切を放り出し片腕の砲門一基を前方に向けた。その向こうには砲撃直後のホ級。直撃必至と思われた一撃を避けられ、さらには驚くべき速さで反撃体勢を整えた夕立さんに動揺したのだろう。回避行動をとるわけでもなく、迎撃態勢をとるわけでもなく、ただ茫然と立ち尽くしていた。

 

 もしかしたら回避、立て直し、砲撃構え、までの一連の流れの美しさに見惚れていたかもしれない。しかし、その姿も夕立の砲門から放たれた無慈悲な砲弾によって爆炎の中に消えてしまう。

 

 ゼロ距離での取り付きによる魚雷で駆逐艦ロ級を一隻、ノールック回避からの流れるような反撃で軽巡ホ級を一隻撃沈。駆逐艦一隻のみの戦果とすれば目を疑いたくなるような大戦果を瞬く間に挙げた夕立さんであるが、まるで興味がないかのように特に反応することもなく、再びあたしに『無表情(それ)』を向けた。

 

 

 おおよそ味方に向けるべきでない――――――敵に向けるべき表情()を。

 

 

 

「……いつまで座ってるの?」

 

 

 それはついに言葉にまで伝播する。彼女の口から漏れたそれは明らかな棘を持ち、どう都合よく解釈しても友好的ではないと結論付けてしまうほどに冷たかった。同時に、向けられたその真っ赤な瞳がまるで獲物を見つけた獣のように怪しく光る。

 

 今の彼女にとって、深海棲艦とあたしの違いはさほどないかもしれない。一歩間違えればその獰猛な牙を剥かれると、そう身構えてしまうほど彼女が纏う空気は異常であった。

 

 

「早く、帰ってください……」

 

 

 だからこそあたしはそう言った。沈むことを望んでいるあたしは、その牙に倒れることを善しとした雪風は、あえてその眼下に身を晒したのだ。だが夕立さんは―――――獰猛な獣はそれに喰いついてこない。ただ見るだけ、食われようとする獲物を見るだけだ。警戒するわけでもなく、飛び掛かるチャンスを見計らうわけでもなく、ただ見るだけ。

 

 

「敵艦は幸いにも混乱しています。このまま雪風が囮になりますから、夕立さんは戦線離脱を。北上さんたちと合流後、この付近を迂回してキス島に向かってください。その間なら雪風も持ちこたえてみせます……だから――――」

 

立つ(・・)の? 立たない(・・・・)の?」

 

 

 あたしの話を遮る様に、夕立さんは再度同じことを、いやこれが最後通告とでもいう様に静かにもう一度問いかけてきた。同時に、彼女の手にある砲門からガコンという低く鈍い音が鳴る、紛れもなく砲弾が装填された音だ。今一度彼女がその砲口を向ければ、何が待っているかは容易に想像がつく。

 

 

 そして、それこそあたしが望んだこと。その砲火によって水面に沈みゆく、素晴らしい切符が目の前にある。それに手を伸ばしている。

 

 掴み取ってしまえば最後、最期(・・)さいご(・・・)サイゴ(・・・)、そこで終わってしまう、幕を閉じてしまう、完結してしまう、()くなってしまう、()くなってしまう、消え(なくなっ)てしまう。

 

 

 『あたし』と言う存在そのものが抹消されてしまう。

 

 

 

「立たないな―――」

 

 

 次に続いた夕立さんの言葉は途中で途切れた。同時に爆発音、同時に突風、熱風、衝撃波、飛び散る火の粉、鼻を刺す火薬の匂い、まとわりつく焦げた匂い、風に乗って舞い上がる黒いリボン、舞い上がる金髪。

 

 

 

 夕立さんが砲撃されたのだ。

 

 

 

「夕立さん!?」

 

 

 声を張り上げ、喉がはち切れんばかりにその名を叫ぶ。しかしそれに応える声はなく、目の前には黒煙を背中から燻らせながら前のめりに倒れてくる彼女。透き通るような金髪は乱れ、前髪を纏めていたリボンは火の粉と共に水面に落ちた。

 

 その姿に思わず駆け寄る。身体に鞭を打ち、痛みに顔を顰めながら、ボロボロの右腕で彼女の身体を抱き留める。

 

 

 

 

 

()が沈んじゃうよ?」

 

 

 同時に、抱き留めた彼女がそう囁いてきた。その言葉を吐いた彼女は不敵な笑みを浮かべている。ついぞ直撃を受け、中破状態から大破になったばかりなのに。砲弾の直撃と言う想像を絶する痛みを抱えているはずなのに、彼女は笑っていたのだ。

 

 

「囮になるんでしょ? 攻撃の一切を引き受けるんでしょ? なら、こんなところで座っていたら駄目っぽい。こんなところでへたり込んで、何も考えずにボケーーッとして、ただ私が沈むのを指を咥えて見てちゃ駄目っぽい」

 

 

 そこで言葉を切った夕立さんは寄り掛かりながらもその腕であたしの襟を掴み、自身の顔にグイっと近づけた。その時彼女が浮かべていた表情―――――今まで見たことないほど険しい表情だ。

 

 

「立て、立ち上がれ、両の足で地を、この水平線を踏みしめろ。駆けて、翔けて、足を止めるな、ハンモックを張れ、四肢が動く限りこの海を縦横無尽に、この戦場を自由自在に駆けろ。避けて、避けて、掻い潜って、敵の砲弾を、雷撃を、迫りくる『死』を避けろ。囮として走り回ると言った、そうすれば誰も沈まない(・・・・・・)と言った、そう豪語した。ならその言葉に全精力を、胆力を、根気を、精神力を、全生命力を、生命活動の全てを捧げろ。そうしないと私が沈むよ? 金剛さんが沈むよ? 吹雪ちゃんが沈むよ? 北上さんや響ちゃん、潮ちゃん、曙ちゃん……誰もかれも何もかもが沈んじゃうよ? 貴女のせい(・・・・・)で亡くなっちゃうよ?」

 

 

 そこまで言い終わり、彼女はあたしの身体から離れた。その手にひしゃげかけた砲身を携え、手に一杯の魚雷を持ち、既に限界を超えているであろう艤装に鞭を打ちながら。

 

 

 その顔に笑みを浮かべて。

 

 

 

「もう自分のせい(・・・・・)で、誰かを沈めたくないんでしょ?」

 

 

 彼女はそう言い、その笑み(・・・・)を向けてくる。笑っている筈、微笑んでいる筈なのに、まるで刃物を突き付けられるような感覚が、言葉を一つでも違えれば容赦なく喉を切り裂かれるのではと感じてしまう恐怖があった。

 

 同時にその言葉を、その言葉を。この状況下において最低最悪の帰結を、雪風が恐れている言葉を、あたしたちという存在に刻み付けられた忌々しい幸運(それ)を口にした。

 

 

「だから早く囮になるっぽい。幸い私も大破してるから狙いは分散されるから、ヘマしない限りどちらかに砲撃が集中することはないわ。ただ、その代わり動き続けないと私に集中する。貴女が動き続けなかったせい(・・・・・・・・・・・・・)で私が砲撃を一身に受ける、下手したら沈むっぽい。その次は貴女かもしれないけど、私は貴女のせい(・・・・・)で沈むっぽい。どれだけ奮戦しようが、どれだけうまく立ち回れようが、 私が沈めば(・・・・・)全部貴女のせいっぽい。少なくとも、貴女はそう思うっぽい」

 

 

 そう言って、彼女はあたしに背を向けた。目前に敵がいる、それ故にだ。むしろ、今までこちらに顔を向けていたこと自体が自殺行為だ。

 

 

「さぁ、ここから私たち二人の勝負。私が沈めば貴女の負け、貴女が沈めば私の負け、二人とも沈んだら私の勝ち(・・・・)。最初から敗色濃厚な出来レースなんて思っても駄目だよ? だって貴女自身が選んだことだもん。その責任はしっかりとってもらうから覚悟して。それにこれは貴女があの人に強いたこと(・・・・・・・・・・・・)だ、文句なしだよ」

 

「ぇぅ……」

 

 

 彼女の言葉に、思わず声が漏れた。それは悲鳴かもしれない、嘆願かもしれない、幾年も音を発しなかった喉から絞り出したあたしの言葉(・・・・・・)かもしれない。

 

 しかし、今の状況ではただの言い訳しかならない、ただの我が儘にしかならない。何の意味を持たないモノでしかない。それを示すように、夕立さんはこちらを振り返ることなく再び言葉を続けた。

 

 

「そんな声出したって駄目っぽい。それもこれもみんな貴女(・・)が悪い。もっともらしい理由を並べて、自分が欲しい言葉だけを求めて、それ以外は容赦なく叩き潰して、あの人(・・・)の弱みに付け込んで、選択肢を奪った上で強要して、最後は勝手に捨て置いてさぁ…………私、本ッ当に怒ってるんだからね? いや、貴女だけじゃない。北上さんも、響ちゃんも、潮ちゃんも―――――――勿論、自分にも(・・・・)怒ってる。あの時何も言い出せなかった、いつまでもお利口さんのまま、お利口さんのフリをしている自分にさぁッ!!」

 

 

 彼女の声が途切れる。それと同時に肌を焦がさんばかりの熱風と衝撃波が。その直後に彼女の手にあった砲門が黒煙を上げながら後方に飛んでいき、目の前には砲門を持っていた腕を大きく振り上げる彼女がいる。

 

 再び襲ってきた砲撃を彼女は文字通り叩き落とした。ただでさえ少ない攻撃手段の一つを手放すことで、敵の砲撃を無力化した。

 

 

「みんな好き勝手に言いたいことを言ってやりたいことをやって……皆自分のことばかり。誰も周りを、誰も『あの人』を見てない。その中で私もお利口さんのフリをしている、フリで我慢(・・)している。そんなの釣りに合わないもん、我慢するだけ損だもん、それで『あの人』を守れないなんて本末転倒だもん。だから私も好き勝手に動くことにした。私のやりたいように、したいように、動きたいように、望むように、叶うように、守りたいものを守るために」

 

 

 そこで言葉を切ると、彼女はこちらを向いた。顔だけでなく、身体全身をあたしに向けたのだ。それは敵に背を向ける行為であり、今ここで砲撃されれば今度こそ無事では済まないであろう。しかし、彼女はそのリスクを犯してこちらを向いたのだ。

 

 

「貴女のこと、全部知っているわけじゃない。あの日一人で帰って来て、その後提督さんと何があったのかも、知らない。それから笑うだけ(・・・・)になったのも、その下にどんな想いがあるのかも、知らない。いや、今の私には関係ない(・・・・)。私は守りたいものを守るために貴女を、貴女の過去を、貴女の想いを利用する。どれだけ残酷だろうと、残忍だろうと、どれだけ薄情だろうと、それでしか守れないなら……私はその罪を犯すし、その業を背負うし、喜んでこの身を差し出す」

 

「何で……」

 

 

 彼女の言葉を遮る様に、あたしはそう問いかけてしまった。それに彼女はキョトンとした顔を浮かべる。だけどすぐに表情を崩した。それは先ほどの敵に向ける表情でも、仮初めの笑顔でもない。いつもの彼女が浮かべるであろう、人懐っこい苦笑いだ。

 

 

 

「提督さんが、好きだからだよ」

 

 

 

 その苦笑いのまま、彼女はそう言った。同時に照れ臭そうに頬を掻きながら、それでも芯の通った声で、その言葉が本心から思っているものであると。今までの彼女らしからぬ言葉は誰かの口調を当て嵌めて、少しでも凄味を持たせようと、無理をして紡ぎ出した言葉であるならば。

 

 

 この言葉こそ、今彼女が発する言葉こそ、本当の本当に彼女の想いなのだろう。

 

 

「それに提督さんは私を、夕立(・・)を見てくれた。最初は出来ないことを出来るようになるまで待ってくれた、出来たときは目一杯に褒めてくれた、日々頑張った夕立を認めてくれた、ちゃんと()を見てくれた。あの悪夢に紛れて薄くぼやけてしまった夕立を、過去と現在の境目でもがいていた私を、『二人』ともをしっかり見てくれた。そんな提督さんは今、出来ないこと(・・・・・・)に襲われている。海を駆けることも、砲を撃つことも、貴女を守ること(・・・・・・・)も出来ない。それらに襲われ、脅えて、泣いている。だから、私たちがそれをする(・・)んだ。提督さんの代わりに、提督さんの守りたいものを……」

 

 

 そんな彼女は苦笑いを消した。残ったのは真剣な顔、しかしどこか自慢げで、胸を張っていて、何処までも自分に自信を持ち、やり遂げてやるぞと言う強靭な意志を感じる顔だ。

 

 

「そして提督さんを――――明原(・・) ()さんを守る。それが私たち(・・・)の――――『駆逐艦 夕立』と『私』の願いだから」

 

 

 それこそ『彼女』なのだろう。

 

 

 ボロボロの身体で、痛々しい火傷が目立つ四肢で、瞬きの間に消えてしまうほど程弱弱しい姿。そんな有様でもなお水面に立ち、両の手に目一杯の魚雷を携え、真っ赤に染まる瞳に、ボロボロの身体に、その魂に。自身を飲み込み、焼き焦がし、朽ち果てさせんばかりの熱い、厚い、篤い、猛々しく燃え盛る炎のような願いを宿して。

 

 

 驚くほど真っ直ぐで、呆れるほど実直で、羨ましいほど正直な、『駆逐艦 夕立』と『彼女』の願いなのだ。

 

 

 

 

 

 

「ぃぃなぁ」

 

 

 

 

 いつの間にか、あたしの口からそんな言葉が漏れていた。無意識に漏れた言葉を彼女は拾ったのか、一瞬驚いたように目を見開いた。

 

 

「本当の本当に酷いことを言うけど、言いたいことはちゃんと言った方が良いよ? っぇ?」

 

 

 何処か神妙な表情でそう言った彼女も、次の瞬間弾かれた様に耳に手を当てた。

 

 

「どうしたの? え、さっきの聞いてた? 本当ぉ!? えッ、あ、うぇぇ………………まぁ、いいや。それで、ご用はなぁに?」

 

 

 先ほどの堂々たる立ち振る舞いは何処へやら。今の夕立さん(・・・・)は年相応に取り乱し、妥協して、何処か投げやり気味な物言いで無線の向こうに言葉を投げかけている。

 

 どうしてだろう、何故だろう。この絶望的な状況に、勝機の欠片すら見当たらない戦場において。彼女はとてもとても柔らかく、そして暖かい。まるで家にいるかのような安心感に満ち溢れた表情を浮かべていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――はい、はい、分かりました」

 

 

 執務室との通信が終わり、私―――――潮は無線から手を離した。

 

 それと同時にため息を吐く。ここは北方。気温が低いためか、私の口から漏れた息は白い霧となって空気中に躍り出るも、その姿は瞬く間に後方へと消えていく。消え去る霧の向こうには、一人の艦娘がいた。

 

 彼女は無線に耳を当て、静かに佇んでいる。恐らく、今は行った通信を―――――――提督の言葉を聞いていたのだろう。それに対して、彼女は何も反応を示さなかった。かける言葉が無かったのか、そもそもかける必要が無かったのか、どちらかは分からない。

 

 

 ただ、これから彼女が起こすであろう行動は一つだ。

 

 

 

「今更、何だよ……」

 

 

 そんな中で一人毒づくのは北上さん。私の前方で同じように無線に耳を傾けており、彼女もまた特に何も反応を示さなかった。しかし通信が切れた途端、こうやって毒を吐く。今の彼女を表すなら、『卑怯者』と言う言葉が当てはまるだろう。

 

 

「北上さん」

 

 

 そんな彼女に声をかけたのは先ほどの艦娘―――――――曙ちゃんだ。彼女は無線から手を離し、真っ直ぐ北上さんを見ていた。その姿に、北上さんはただ冷めた目付きで見つめるのみ。言葉を発する様子はない。

 

 

「旗艦が持つ権限、全部私に頂戴」

 

「……何言ってんの? この状況下、旗艦の権限なんて意味ないじゃん」

 

「あんたに無くても、私にはあるの」

 

 

 北上さんの何処か侮るような言葉にも、曙ちゃんは動じることない。そこに焦っている様子もなく、まるで忘れものを借りるような感覚で話を続けた。

 

 

「無線が自由に使えて、艦隊を自由自在に操れて、何より各艦から情報が一挙に集まってくる。索敵機が無い私にとって、情報の集積地である旗艦(ここ)は最適なのよ」

 

「……何企んでるの?」

 

「いいからさっさと寄こしなさい。そして、行くわよ」

 

 

 そこで言葉を切った曙ちゃんは一度息を吐き、無線に手を当てながらこう言った。

 

 

 

「キス島撤退作戦、二度目の出撃(本番)をね」



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『強者』たるもの

 この世で最も強い者は何か。

 

 炎、水、風、光、空気、重力などの無機物に始まり、人、怪物、化け物、鈍器、火器、銃器などの有機物。果ては道端に転がる石ころ、屋根から垂れる雫、容易に跨いでしまえる水たまりでさえ、それを前にした存在にとっては等しく強い者となる。

 

 ではこの途方もなく続く潮水の溜まり場――――海において強者とは何か。先ず挙げられるのは鮫、鯱に始まる肉食動物、次に徐々に熱を奪い、間断なく体力を奪い、最期は静かに、誰にも看取られなく水面の底に誘う海そのもの。だが少なくとも、彼女(・・)はそのどれもこれもが強者となり得ない。

 

 まず動物に襲われることはない。もし襲われればその強靭な装甲が防ぎ、両腕に携えた砲門が火を噴くからだ。それ以前に生気の無い彼女を襲おうとする動物もそういないからだ。

 

 まず海に飲み込まれることはない。大しけにあっても、たとえ機関部が停止してもこの船体は浮き続ける。浮力と言う自然の摂理に則って、沈むと言う選択をしない限りは漂い続けるからだ。

 

 

 では、彼女にとって(・・・・・・)強者とは何であろうか。

 

 彼女は並大抵の衝撃なら容易く跳ね返してしまうほどの装甲を持ち、並大抵の存在なら瞬く間に火だるまに変えてしまうほどの砲火を持つ。強いて言えば彼女の砲火が届かない空からの襲撃、海中から現れどてっぱらを食い破る忌まわしき鉄の魚、彼女の装甲をものともしない超巨大戦艦(・・)、それぐらいだ。

 

 それが彼女自身『最強』の言葉を背負えるほどの存在ではないが、少なくとも『強い者(それ)』の中ではなかなかの上位に食い込めるからであろう。

 

 

 そして今、彼女が対峙するのは弱者たちだ。

 

 彼女から離れた場所に一人の駆逐艦。震える足で立ち、息も絶え絶えで、立っているのもやっとな状態な弱者(それ)。次にもっと離れた位置で水面を走るもう一人の駆逐艦。それもまたボロボロの恰好で動き続けている、ほうほうの体で逃げ続けている。彼女の目に映るそれらは、ただただ己の砲火に蹂躙される獲物でしかない。

 

 

 単艦、それも大破状態で航行する駆逐艦を見つけ砲火を交えてどれほど経ったか。

 

 

 途中、中破状態の駆逐艦が乱入しロ級、ホ級を沈められはしたものの、戦況は相変わらずル級たちに傾いている。無傷の戦艦1隻、重巡2隻、駆逐艦1隻に対し、向こうは駆逐艦2隻それもどちらも大破している。

 

 現状、彼女たちからの砲撃による損傷は皆無。無傷の駆逐艦が放つ砲撃など、彼女にしてみれば蚊に刺された程度だ。逆に言えば、向こうはこちらの攻撃を避けるので手いっぱいなのだ。最初の損害は奇襲によるもの、ただの砲撃戦に持ち込んだ今、駆逐艦たちに勝機は無い。

 

 

 贔屓目に見ても、どれほど屁理屈をこねても、ル級たちが敗北する未来は起こり得ないのだ。

 

 

 その意思を、確固たる意志を噛み締め、呑み込み、腹に落とし込み、彼女は再び砲門を前に向ける。次こそ(・・・)その弱者を葬り去るために、今度こそ(・・・・)灰燼に帰すために。照準を合わせ、腰を据えて反動によるブレを抑え、あらん限りの力を込め、引き金を引いた。

 

 次の瞬間、耳をつんざく爆音が、全身を襲う衝撃が、突風が、『砲撃した』と言う事実が様々な形を持って彼女に降りかかった。そして、事実は黒い砲弾となって弱者へと襲い掛かる。距離は1000mを切っており、到達時間は数秒、いや数える暇もないだろう。そして満身創痍のそれに避ける余裕も、耐える余力もない。彼女から吐き出された砲弾によって、爆炎を上げて水面に沈むのみ。

 

 宣告通り、砲弾は瞬く間に距離を詰め、遂にその眼前へと肉薄した。次の瞬間、辺りは爆炎に包まれるのだ。それを持って、これとの対峙が終わる。残るもう一人に襲い掛かるのだ。それが道理だ、運命だ、自然の摂理に準ずる結果だ。

 

 

 だが次の瞬間、いや何時まで経ってもそれらはやってこなかった。爆炎も、黒煙も、衝撃も、轟音も、何も来なかった。辺り一面何処を見回しても、目を皿のようにしても、血眼になっても何も見つけられない。ただ弱者(それ)が立ち尽くすのみ、何も変わっていないのだ。

 

 ようやく、待ち望んだ変化があった。それは遥か彼方で立ち上がる大きな水柱だ。その大きさからして、恐らくは彼女が放った砲弾が起こしたものであろう。そう、彼女が起こした事実がもたらしたのは、ただ何もない場所に水柱を立ち上げただけ。要するに、『無駄弾を放った』ということだ。

 

 照準が狂った、手元が狂った、ブレが大きかった、そもそも砲弾があらぬ方向へ飛んでいった等々、考えらる原因はある。しかしそのどれもこれも、既に目を通した(・・・・・・)ものばかりである。もう何発も放っているのに、その数だけ修正と改善を行ったはずなのに、もたらされる事実は『無駄弾を放った(それ)』ばかり。どれだけ標準を合わせ、修正し、ブレを抑え、万全を喫した上での砲撃を、そのどれもこれもを無駄弾になってしまうのだ。いや、されてしまう(・・・・・・)のだ。

 

 

 その時、駆逐艦の身体が揺れた。

 

 腰まで伸びる金髪を翻し、両手にあらん限りの黒い筒―――――魚雷を持ち、鮮血のような真っ赤な瞳を、刃物のような鋭い光を宿した眼光を、おおよそボロボロの駆逐艦が浮かべることが無いであろう笑みを浮かべて。まるで獲物を前にした強者のような面構えで。

 

 

 

「夕立、突撃するっぽい」

 

 

 そう淡々と、懇々と、これから起こす『事実』を宣告するかのように口を開く。次の瞬間、彼女の身体はフルスロットルによる超加速によって舞い上がる水しぶきと共に空中へと踊り出た。

 

 

 その顔に、圧倒的強者の顔――――余裕の笑みを浮かべて。

 

 

 それを前にして彼女――――――戦艦ル級は負けじと咆哮を上げ、まだ再装填のままならない砲門を構えた。次の瞬間、先ほどとは比べ物にならない程小さな砲声が立て続けに上がる。主砲ではなく、その側にある副砲による連続砲撃だ。照準なんて無視しただ弾の続く限り砲声を上げ、大量の鉛玉を吐き出させる。

 

 大量に吐き出された鉛玉は鉄のカーテンとなって駆逐艦に襲い掛かった。それを前に、彼女は臆することなく真正面からカーテンに突っ込む。傍から見れば無謀ではあるが、カーテンとの接触面積が少ない小さな体躯、眼前に迫る顔ほどの砲弾を敢えて(・・・)ギリギリで避ける反射神経と胆力、超人的な身体機能の前に鉄のカーテンは彼女の頬を撫でる程度のモノでしかなかった。

 

 その速力もそうだ。1000mという距離を瞬く間に縮めてくる。800m、700m、600m、ついに500mを切った。それに呼応するように駆逐艦の瞳が爛々と輝き出す、その艤装からはけたたましい唸り声が上がり、黒々とした魚雷の先端が一瞬静かに光る。

 

 

 確実にこちらの命を刈り取りに向かってくる。

 

 

 だが、それよりも先にル級の主砲が声を上げた。砲弾の装填完了、砲撃可能の合図だ。それを受け、彼女は硝煙を燻らす副砲を下げ、その代名詞たる主砲を押し出す。絶え間ない発砲で熱を帯びた副砲をそのまま下げたため、密かに彼女の肌は焼かれた。そんな痛みをものともしない彼女は迫りくる駆逐艦に向けて照準を合わせる。

 

 対して夕立は主砲を向けられたにもかかわらずそのまま突撃を、いや艤装の唸り声が更に高まったことからスピードを上げて突撃した。真正面から主砲の砲撃を受ける覚悟か、それともこの超至近距離の砲撃を避け切る自信を持ってか、その真意をル級が知る由もない。

 

 

 その姿に、ル級は驚愕した。それと同時に、凄まじい恐怖(・・)を覚えた。

 

 主砲の砲撃がこの駆逐艦に命中するのか、幾度となく避けられたこの主砲が、この駆逐艦に命中することに対しての信頼が皆無の役立たず(デカブツ)が、万が一に命中したとしても至近距離による爆風で自身に何らかの被害を被らないか、むしろ命中をもってしてもこの駆逐艦を止められないのではないか――――

 

 様々な想定、想像、妄想、幻想、ありとあらゆる事象を瞬く間に想起させてしまったル級の動きは、ほんの一瞬、止まってしまった。その一瞬の静止が、一つの迷いが、一滴の恐怖心が、後に迎える己の運命を決定付けると悟ったが、既に遅かった。

 

 

 ル級が気付いた時、彼女が弱者と格付けていた駆逐艦は強者の顔で目の前にいたのだ。獰猛な笑みを浮かべ、嬉々とした様子で、真っ赤に染まる瞳を輝かせた、そんな『強者』が居たのだ。

 

 そしてもう一つ、彼女は間違いを犯した。その強者を前にして、目を瞑ってしまったのだ。強者に命を刈り取られる弱者のように目を、恐怖から目を背けたのだ。

 

 

 だが、不思議なことに彼女に『恐怖』は訪れなかった。ただ自身の砲門を踏みしめられる感覚があったのみ。それ以外は何も無い。何も来ない、何も起きない、ただ真っ暗な視界が広がるのみ。

 

 ル級は目を開ける。そこには大海原があった。先ほどまで目の前に迫っていた駆逐艦は何処にもいない。彼女が水面に刻み付けたであろう航跡があるのみ。それも、先ほど駆逐艦が居た所で途切れていた。ただ、その途切れた先が、どうも大きく乱れていた。

 

 その乱れ様は、まるで踏みしめた様に―――

 

 

 

「おーい」

 

 

 その時、背後から声が聞えた。ル級はすぐさま振り返る。そして見た、強者(・・)の姿を。

 

 

 

 彼女は立っていた。ル級の背後、そこから10mも進んでいない位置に。やはりボロボロだった。しかし、その姿勢は損傷を感じさせない。何事も無く、ただ立っている。手にした魚雷は沈黙を保っている、ひしゃげた主砲も同じ。そして嬉々とした様子も、獰猛な笑みも無く、ただ冷たい視線を向けている。

 

 

 

 次の瞬間、彼女はその表情のままチロリと舌を出す。それが何を表すか、何を意味するか、何と彼女が言っているのか。少なくとも、ル級はこう捉えた。

 

 

 

 

 『当ててみせろ』―――――そんな宣戦布告と。

 

 

 

 次の瞬間、ル級の主砲が火を噴いた。今度こそ、今こそ、この糞生意気な駆逐艦を沈めようと。その小さな体躯を木っ端みじんにしようと、その遺骸を残さぬよう、文字通り灰塵に帰すために。

 

 だが、それは叶わなかった。火を噴く直前、艤装の金切り声と共に駆逐艦が海原へ飛び出したからだ。ル級が吐き出した砲弾は、ただ彼女が巻き上げた水しぶきを食い破るに留まった。

 

 

「――ァ!!」

 

 

 それにル級はすぐさま副砲を前に押し出し、こちらに背を向ける駆逐艦目掛けて砲撃を開始する。照準なんて一切無視、ただ弾をばら撒く。無駄弾だと分かっていても、ばら撒かずにはいられなかった。当たるわけがないと分かっていても、照準を合わせる気は無かった。

 

 

 ただこの目に焼き付く、この瞳にこびりつく弱者の顔を。戦艦(弱者)に向けられた駆逐艦(強者)の顔を掻き消すために。

 

 しかし、やはり無駄弾は無駄弾か。踊る様に水面を走る駆逐艦を掠めることなく、ただただ小さな水柱を上げるのみ。それを背に、駆逐艦はすました顔でこちらん視線を送り、そのまま前を向く。まるで興覚めのように、興味の対象からル級を外したかのように。

 

 

 もう、獲物と言う枠組みからさえ外されてしまったかのように。

 

 

 だがその時、その駆逐艦の体勢が大きくぶれた。彼女の片足が引っ張られるように後ろへズレ、それに呼応するようにその身体全体が大きく横へ倒れる。恐らく艤装のエンジントラブルだろう。普通の船であればスクリューの一つが止まろうが航行になんら支障はないが、人の身であり全身を支える2本の片割れが止まれば大きく体勢を、勿論航行に致命的な支障となるのは当然だ。

 

 そして、それはル級に巡ってきたまたとない好機である。すぐさま彼女は副砲を押し出し、無数の薬莢を吐き出して発砲準備を整える。その間、体勢を立て直そうとする駆逐艦の顔が見えた。驚愕と焦りが浮かぶ、そして次の瞬間苦痛に歪むであろうその顔を。

 

 

 

 だが、またもやル級の視界から消えた。横からの衝撃により、ル級自身の視界がブレたのだ。

 

 

 だが、それは砲撃ではなかった。砲撃音も爆炎も黒煙も、言うてしまえば真横から殴られただけ。そんな小さな衝撃だけ(・・)なのだ。不意に足元に何かが当たり、ル級は足元に視線を落とす。

 

 そこにあったのは水面に浮かぶ双眼鏡。片側のレンズにひびが入っており、本体にも所々傷やへこみが目立ち、千切れかけているバンドには焼け焦げの他に握りしめた後らしき血の跡がある。しかし、それは決して沈むことなくゆらゆらと漂っていた。

 

 そして視線を上げると、ル級からそう遠く離れていない場所の水面に航跡らしき白波。そして、その白波の先に立つもう一人の駆逐艦。一人で笑いながら先行していた、ル級の砲撃を間一髪で避け、その後泣き叫びながら逃げ惑い、ロ級に食らいつかれ、それでも叫び声を上げながら逃れようとしていた。

 

 

 『死ぬ』ことを恐れていた弱者だ。 

 

 

 彼女は血まみれの腕を庇い、その顔には苦痛に歪んでいる。だがその下に恐怖はなく、何処か安心したような穏やかな表情があった。そしてその身体が真横に流れ、その背後から彼女に―――――こちら(・・・)に砲口を向ける我が僚艦たちと、それらが放ったであろう無数の砲弾が現れた。

 

 

 

 避ける間もなく、砲弾の雨はル級を捉えた。目の前が爆炎に、黒煙に包まれる。体内に流れ込む熱、身体を軋ませる衝撃。『着弾』の事実を告げるありとあらゆる事柄が彼女の身体を媒介にして現れたのだ。それも大破状態の敵が放ったなけなしの砲撃ではなく、重巡洋艦2隻の明確な殺意による誤射。

 

 

「あーーーっ……取ったぁ!!!!」

 

 

 その直後、ル級はそんな声を真下から拾う。同時に視界の下に乱れる金髪と水しぶきが映り、何かが足元を通り過ぎた。振り返ると先ほど体勢を崩した駆逐艦の後ろ姿が、その高々に掲げられた手に双眼鏡を握りしめた姿があった。

 

 

「ちょ、何やってんですかぁ!?」

 

「『みんな』で帰るんだもん!! 双眼鏡(これ)だって立派な『みんな』っぽい!! 一切合切、漏れることなく、全て、全部、全員……全員(みんな)一緒に帰るのぉ!!」

 

 

 焦ったように怒声を浴びせ、それにしたり顔で答える駆逐艦(強者)たち。戦場に、それも絶望的な戦況に身を投じているとは思えないほど、彼女たちから絶望の色が見えない。まして、じゃれ合うだけの余裕を見せる。

 

 その直後、リ級たちから報復とばかりに砲撃が放たれる。が、それを察した彼女たちは表情を引き締めて回避行動をとる。そして、案の定(・・・)リ級たちの砲撃は彼女たちの身体を掠めることなく、ただ何もない水面に無様な水柱を上げるのみだった。

 

 戦況はル級たちに傾いている。現にこちらの損害はリ級たちの誤射のみ。それ以外は無い、何も無い、何も無いのだ。被害は愚か戦果(・・)も無いのだ。

 

 金髪の駆逐艦に砲撃を喰らわせて以降、一切の損害を与えていないのだ。これほど圧倒的な状況で、弱者を磨り潰すだけの状況で、何の戦果も挙げていないのだ。

 

 

 

 弱者の皮を被った強者たち、戦線の膠着(彼女たちが望む壇上)でただただ踊らされているだけなのだ。

 

 

 

 

 

 その時、()が響いた。

 

 

 同時に、強者たちは空を仰ぐ。先程まであった余裕の表情を消し、驚愕に近いものに変えて。その直後、双方が舵を切ってその場から逃げるように移動する。

 

 

 次に現れたのは小さな水柱。ル級、リ級、ロ級でさえ起こすことができないほどの小さな水柱だ。それは音楽に合わせて立ち上がる噴水のように規則正しく、等間隔に、水面に線を描いていく。

 

 直後、ル級は黒い影に覆われた。それは瞬く間に消えるも、すぐに別の影が、また別の影が彼女を覆っては消えていく。

 

 

 今度こそ、ル級は空を見上げた。その先にいたのは何処までも続く青空の中に現れた黒い点―――艦載機である。それも艦娘たちのではない、深海棲艦(彼女たち)のものだ。

 

 

 それだけではない。今度は遠くから腹のそこに響く砲声が。直後、駆逐艦たちの回りに大きな水柱が立ち上がる。砲声の先を向くと無数の小さな黒い点―――重巡リ級に率いられた艦隊が見えたのだ。

 

 

 こちら側の援軍。この拮抗した戦況を揺さぶる、この茶番劇を終わらせる、起承転結の『結』がようやく現れたのだ。

 

 

 艦載機たちが餌に集るハエのように駆逐艦たちに襲いかかる。それに対し、2隻はジグザグに航行をすることで機銃掃射を掻い潜るも、無数に立ち上がる水柱は同時に彼女たちの視界を悉く奪っていく。

 

 そこに援軍たちからも砲撃が加えられ、その周りは一瞬にして地獄と化した。地獄を掻い潜る駆逐艦たちの顔に先程の余裕はなく、一心不乱に砲弾、弾丸の雨中を動き続ける。

 

 

 

「あああっ!!!!」

 

 

 その中で、金髪の艦娘が雄叫びを上げながらひしゃげた主砲を頭上に向けた。無造作に掲げられた腕、威嚇するように声を上げたところを見るに、目的は艦載機の撃墜ではなく威嚇射撃だろう。

 

 

 

 だが、示し合わせたようにその掲げられた腕を機銃掃射が撃ち抜いた。

 

 

「あ、ガッ」

 

 

 駆逐艦の悲鳴とも呻き声とも言えない声と共に、鮮血を飛び散らせながら力を失ったその腕から主砲が溢れ落ちる。直後、追い討ちとばかりに主砲の本体に無数の弾痕が刻まれ、それと同時に駆逐艦の肩、太股にも掃射の猛威が襲いかかる。

 

 

「ゆうだちさぁん!!」

 

 

 その姿にもう片方が金切り声をあげる。声を上げる彼女の身体にも無数の傷があったが、それは全て掠めた程度の軽傷ばかりだ。重傷度、痛み、全てにおいて金髪の艦娘に及ばない筈なのだが、その顔に刻まれた『苦痛の表情』は他の誰よりも険しく、深く、悲壮感に満ちている。

 

 心臓を握り潰されたのか、四肢のどれかを、その全てを消し飛ばされたのか、はたまたそのどれもこれもを一度に、同時に、一辺に被って漸く浮かべることのできるであろう『表情』をしている。

 

 

 しかし、そんなことなどこちらには関係ない。この駆逐艦たちを屠れさえすれば、ル級はどうでもいい(・・・・・・)のだ。茶番劇に終止符を打てれば、それで良い。そして、ようやくその時が訪れるわけだ。

 

 連合艦隊による駆逐艦2隻の撃沈ーーーーそんな当たり前の結末を迎えられるわけだ。今まで何度も何度も迎えてきた、どう足掻いても覆しようのない、残酷なまでに刻み付けられた、予定調和とも、テンプレートとも、ありとあらゆる物語で起用され続けた凡例とも。

 

 

 

 『宿命(さだめ)』とも、言うのだ。

 

 

 

 だが、不意に『宿命(それ)』は水を指された(・・・・・・)

 

 

 

 駆逐艦に群がっていた艦載機、その一つが突如爆発したのだ。その爆発に巻き込まれ他の艦載機も爆発、もしくは火を上げながら水面に落ちる。それ以外は蜘蛛の子を散らすように駆逐艦たちから離れていく。

 

 当の駆逐艦たちも何が起きたのか分からないという顔だ。状況、そしてその表情から艦載機を狙撃したとは思えない。

 

 ではまたもや誤射か、と疑うも機銃先は全てを眼下の駆逐艦たちに向けられている。その中でわざわざ砲口を上げ、味方しかいない方向へ発砲するとは考えられない。

 

 

 次に考えられるのは、援軍艦隊からの砲撃に巻き込まれた。駆逐艦目掛けて砲撃を加えている、そして艦載機たちは射程の短い機銃掃射のため至近距離にいる。状況的に妥当であろう。

 

 

 しかし、次の瞬間この結論すら否定された。

 

 

 艦載機爆発を受け砲撃をやめていた艦隊。その中の1隻、駆逐艦ロ級後期型が突如、爆発炎上したからだ。

 

 突然のことに周りは陣形を無視して炎上するロ級から離れ、残されたロ級は断末魔を上げながら沈んでいく。しかし最期まで沈むことすら許されず、先程よりも大きな爆発を起こしてその身を果てた。

 

 

 突如、立て続けに起こった原因不明の爆発。いや、原因不明ではない。原因自体は既に突き止めている。艦載機は分からないが、少なくともロ級轟沈の原因は誤射ではない。

 

 

 問題は、その原因が何処にいるか(・・・・・・)

 

 

 不意に、またもや爆発が起きた。

 

 

 ル級は爆発が起きた方向を見る。そこには火だるまになって落ちていく艦載機、その近くに浮かぶ濃霧。よく見るとその上部は何か(・・)が飛び出したのか、不自然な形をしていた。

 

 新たな被害に、何かを察したであろう艦載機の1機が濃霧へと突っ込んでいった。その腹には戦艦であろうとも沈めかねない巨大な爆弾を携えている。それを投下し、濃霧を消し飛ばそうと言う算段だ。

 

 羽音を響かせながら、艦載機はぐんぐん濃霧に近付いていく。近付くにつれてその音は大きくなってなっていくので、確実に察せられそうなのだが、濃霧は沈黙を保っている。

 

 その姿を前に、ル級たちは砲口をその濃霧に向ける。艦載機の接近に呼応して、何らかの動きがあると感じたからだ。同時に散らばっていた艦載機たちも濃霧から距離を取りつつ集結していく。

 

 艦載機の斥候、そして背後に控える艦隊の一斉射、そして艦載機群の弾幕という三重の構えを以て、ル級たちは来るであろう次の攻撃に備えた。

 

 

 遂に斥候の艦載機が濃霧に到達、その頭上に爆弾を投下した。爆弾はぐんぐん落ちていき、やがて爆弾は濃霧に吸い込まれ、次の瞬間濃霧を消し飛ばしてしまうだろう。

 

 投下を果たした艦載機はくるりと向きを向け、こちらに帰ってくる。

 

 

 だが、それは軽い発砲音とともに一瞬にして火に包まれる(・・・・)

 

 同時に(・・・)、濃霧目掛けて落下していたはずの爆弾が不意に向きを変え、濃霧から大分手前に外れた海に落ち、大きな水柱を上げる(・・・)

 

 同時に(・・・)、正に砲撃しようとしたル級の背後ーーーー同じく砲口を向けていた援軍艦隊の旗艦が砲撃される(・・・・・)

 

 

 

 

 

 その直後(・・・・)、濃霧から3()の艦娘が飛び出したのだ。

 

 

 

「対空砲用意ッ!!」

 

 

 その中の一人、黒髪のお下げを振り乱した軽巡洋艦らしき艦娘が吠えた。それに呼応するように、銀髪を棚引かせた駆逐艦が対空砲を頭上高くに向ける。その対空砲は、何故か従来の武骨な灰色ではなく淡いピンク色をしていた。

 

 

「てぇー!!」

 

 

 軽巡洋艦の号令と共に対空砲が火を噴き、同時に集結していた艦載機群から火の手が上がる。それも対空砲は尚も放たれ、火を噴く毎に1機、また1機と火だるまとなっていく。

 

 その恐ろしいまでの正確性に周りが狼狽える中、僚艦である重巡リ級が雄叫びを上げながら砲口を向ける。

 

 

 だが、次の瞬間その姿は爆炎に包まれた。

 

 

 突然のことに辺りを見回すル級。すると、先程号令をかけた軽巡洋艦がこちらに砲口を向けているのが見えた。距離は10000m。かの軽巡が持つ主砲は5か6inch程度の連装砲、射程もせいぜい20000mが関の山である。距離が延びれば命中率も下がり、尚且つトップスピードでの航行である。その状況で砲弾を当ててきたその手腕は並外れたものだろう。

 

 そんな感想を抱く間もなく、その向けられた鋭い砲声とともに砲弾が放たれる。ル級は直ぐ様砲門を盾とし、その砲撃を受けた。衝撃、爆発を起こすも威力自体は軽巡洋艦の砲撃である。ル級の装甲を抜かれる事はなかった。

 

 しかし、旗艦が砲撃されたという事実は艦隊に混乱を招く。僚艦である重巡リ、駆逐ロ級は突然の奇襲に狼狽えたように砲口を世話しなくあちこちに向け、援軍艦隊は統率する旗艦が撃沈されたせいで、混乱を極めていく。

 

 その混乱を他所に、艦娘たちは砲撃を加えながらこちらに突進してくる。混乱の中でも砲撃をする僚艦もいたが、そのどれもこれも照準も定めずブレも構わず、ただばら撒くだけの砲弾だ。そのどれもこれもが掠めることなく、艦娘の接近を許した。

 

 

 しかし、艦載機群の建て直しは早かった。群の中から数機が飛び出し、向かってくる艦娘たちに向け機銃掃射を放つ。対して艦娘たちは対空砲を放つも混乱から立ち直った艦載機を仕留めることは難しく、徐々に彼女たちの周りに水柱が目立ってくる。

 

 その中で、銀髪の駆逐艦が突如砲撃を止めた。その対空砲が火を噴く度に艦載機が落ちる、それほどの射撃技術を持った彼女が止めたのだ。その代わりに彼女の航行スピードがぐんぐん上がっていき、最高速度(全速)となる。その突出に艦載機の多くが彼女に群がっていき、弾幕は分厚くなっていった。

 

 流石に分厚い弾幕の中を無傷で駆け抜けることは叶わず、少しずつその身体にも損傷が増えていく。しかし、彼女はなおも砲撃を行うことはなく、淡々と弾幕を避けながら航行を敢行する。

 

 

 そして、艦載機の殆どが彼女に群がった時ーーーーそれはちょうど、彼女がポカンとしていた(・・)艦娘達の真横を通り過ぎた時だった。

 

 

 

(теперь)

 

 

 突如、銀髪の駆逐艦がそう声を漏らす。同時に通り過ぎた艦娘たち、その内の一人である金髪の駆逐艦が艦載機群目掛けて何かを放り上げた。

 

 それは彼女が手に握り締めていた魚雷である。それは一直線に艦載機群へ近付いていき、それを待っていたと言わんばかりに銀髪の駆逐艦が腕をーーーーその先に携えた対空砲を艦載機群に向けた。

 

 

 一発の砲声が鳴り響く。直後、それは帯びた強い数の爆発音によって掻き消されたのだ。

 

 

 目の前には黒煙に撒かれながら1つの火だるまが―――否、小さな火だるまがいくつもいくつも重なりあって大きな塊となって落ちていく。火だるまの中でも小さな誘爆を起こし、周りの空気を盛大にかき乱していく。乱高下する空気によって濃霧が起こり、その巨大な火だるまでさえも包み込んでいく。しかし、濃霧に包まれてもなおその輝きを奪い尽くすことは出来ず、その輪郭をぼやけさせるのみ。

 

 

 さながら、その姿は朝もやに包まれた日輪のよう。

 

 

 その神々しいまでの光景は、その見惚れるほどの光景はこちらに残酷な事実を突き付けた。こちら側の航空戦力の喪失を意味していたのだ。

 

 

 

「――――ァ!!」

 

 

 

 しかし、その光景にようやく立ち直った僚艦、援軍は雄たけびを上げながら砲撃再開した。敵に技術はあれど、所詮砲撃戦の優劣は弾を吐き出す砲の数に、砲の数は艦の数に比例する。艦の数はこちらが圧倒的、艦種の数、規模もこちらが圧倒的だ。

 

 

 そして何より、向こうの奇襲(・・)が終わった。

 

 

 艦娘たちは先ほどの突進をやめ、こちらから距離を取る様に迂回に務め始める。先ほどの一気呵成に攻勢がなりを潜めたのがそう意味していた。敵にこれ以上の策は無い、そう判断するに安い。事実軽巡1隻、駆逐艦4隻の水雷戦隊もどき、戦艦、重巡を中心とした連合艦隊に為す術があろうか。そこに半数以上が中大破の損害を抱えている、負ける要素が見つからない。

 

 

 

 ―――――――と、無能な馬鹿(・・・・・)は思うだろう。

 

 

 

 ル級は目を、その一人に向けた。

 

 

 その先に居たのは先ほど飛び出した3人の内、最後の1人。他の2人が果敢に砲声を上げる中、一発の砲声を上げず、ただ黙々と回避に専念した艦娘。

 

 クルリと跳ねた前髪を靡かせ、ボロボロの兵装のまま、使い物にならないであろう魚雷発射管も、身を守る唯一の術である主砲をも捨て去った、それでもなも進撃(歩み)止めない――――そして、他の2人と違う鋭さを持った目を浮かべる駆逐艦である。

 

 

「――――――、――――――」

 

 

 その駆逐艦はこちらの砲撃を掻い潜りながらも、いや掻い潜るように見せかけてその実何か(・・)を伝えている。耳に手を当てながら、口元に何かを近づけながら伝えていた。

 

 恐らくは、この戦況を伝えている。こちら側が混乱から立ち直った時、真っ先に迂回航路を取ったのが彼女だ。通信の精度が悪いのか、それとも騒音による通信妨害を嫌ったのか、或いは他に理由があるのか。ともかく彼女が何かを伝えているのは確実である。

 

 

 それを受け、ル級は無線を起動させた。耳にはノイズが走り始め、それはチャンネルを回すごとに形容し難い音をヘと変わっていく。だが、次の瞬間それはノイズではなく、人の声(・・・)に変わった。

 

 

 

 

『―――――左20、上40、距離20000……』

 

 

 それは命令でもなく、激励でもない、ただの座標(・・)。この大海原において豆粒ほどの小ささになる敵艦を砲撃する際、無駄弾を避けるために、一撃必殺を実現するために必要とされた指標である。

 

 声の主が指し示す座標が何を表しているかは分からない。しかし、その後に砲撃中の僚艦が一隻、砲撃を受けた。撃沈はしていないためにそこまで動揺はなく、艦娘たちは変わらず意味の無い(・・・・・)砲撃を繰り返すのみ。

 

 

『目標、ホ級。響、右20、上15、距離6000……』

 

 

 そして呼応するように、闇雲に砲撃を繰り返していた銀髪の艦娘が主砲を掲げた。その砲口は無線にあった軽巡ホ級に向けられ、それに気づかないホ級は雄たけびをげながら他の艦娘たちを追い散らしている。やがてその砲口から火が噴き出し、ホ級は被弾する。

 

 

『次』

 

『目標、リ級。北上、左40、上20、距離4000……』

 

 

 なおも無線の彼女は淡々と座標を示す。それに呼応し艦娘たちは砲火を上げ、その度に僚艦たちから火が上がり、もしくは挟夾弾を生み出し、その次は必ず命中する。その正確性に僚艦たちはまたも狼狽え始め複数被弾する艦もいるが、損害自体はやはり軽微である。故に、ル級はその損害を無視して分析を続けた。

 

 

 

 ル級が導き出した答えは、『弾着観測射撃』。

 

 砲撃の方角、角度、距離、実際の着弾した地点、そのズレを元に照準を修正する砲術。手垢塗れの戦術だが、今もなおル級たちや艦娘たちの中で用いられるほど、その効果は折り紙付きである。

 

 そしてそれを用いるに必要なのは砲弾を吐き出す主砲、着弾地点を観測する水上偵察機。電波の跳ね返りによって敵の座標を示す電探がある。

 

 しかし、偵察機を射出するカタパルトが必要である。そして現在交戦中の艦娘達に偵察機を飛ばすことができる者は見受けられない。彼女たちと遭遇するまでに得た情報にも、偵察機を飛ばしていたとの報告もない。

 

 であれば、考えられるのは偵察機ではない後者、電探を用いた場合だ。この場合、『弾着観測射撃』ではなく、『レーダー掃射射撃』となる。

 

 一件最新鋭の技術を用いたハイスペックに思えるが、実は精度はこちらの方が低い。確かに敵の位置は瞬時に分かるが、それが敵なのか味方なのかの判断が付かず、誤射する可能性が高いからだ。特に現在の乱戦でその欠点は足枷にしかならず、下手すれば味方を轟沈しかねない。

 

 だからこそ、肉眼で把握する必要がある。レーダーに引っ掛かったのが敵か味方かを判断するために。それがあの駆逐艦だ。一切砲戦に参加せず、ただ敵の位置を、それが敵か味方かを判断する『目』だ。

 

 

 そう結論付け、ル級は『目』である彼女に向けて砲撃を開始する。単艦での砲撃ゆえに着弾は難しい。しかし、目的は妨害なので問題はない。無線の向こうからのこちらの砲撃が聞こえてくる。同時に『目』は回避行動に気を取られてまともな通信を出来ていない様子だ。

 

 

『ごめ―――あけ―――』

 

 

 無線から『目』の悲痛な声が聞こえてきた。これで向こうの強みである正確性を奪い、同時に僚艦たちへの砲撃も目に見えて衰えた。元々消耗しきった部隊であるため、唯一の強みを奪えば後は烏合の衆と化す。

 

 こちらもある程度撃ち減らされていたが、烏合の衆を磨り潰すには何ら問題ない。幸いあの爆発以降、巨大な濃霧は発生していない。つまり、地形は何ら変わっていないということだ。

 

 

 さて、『目』は潰した。次は『本体(・・)』だ。

 

 

 ここでレーダー掃射射撃の性質をもう一度おさらいしよう。レーダーから放たれた電波の跳ね返りで座標を測る。そしてそこに敵味方の判別が付かない。故に『目』を置いていたわけだが、もっと簡単な対策もある。それはレーダーの正面に立たないこと、電波が放たれる場所にいないことだ。これなら引っ掛かることもなく、仮に『目』が潰されたとしても誤射の可能性を押さえられる。至極単純な理由だ。

 

 そして今、艦娘たちは不意に航路を変更(・・)した。『目』を潰されたタイミングで、今までの航路よりも()へ向けて、まるで道を開ける(・・・・・)ように、だ。そんな艦娘たちの動きによって、目に見えない筈だった1本の道が浮かび上がった。

 

 

 その先には1つの濃霧があった。規模としてはそこまで大きくない、砲撃の衝撃で消し飛んでもおかしくはないほどの濃霧。しかし交戦開始から今まで、ずっと僚艦たちの正面にあったもの。乱戦の中、唯一艦娘の砲火に、そしてこちらの砲火にも晒されなかった濃霧。

 

 

 

「ーーーー!!」

 

 

 ル級が声を上げる。それに応えるように僚艦たちは闇雲な砲撃を止め、全ての砲口を濃霧に向けた。

 

 

 

『曙――――』

 

 

 無線の叫びを掻き消すよう轟音が。それと共にル級の砲口から、無数の轟音と共に僚艦たちの砲口から夥しいしい数の砲弾が放たれた。砲弾は分厚い弾幕となり、間髪入れず濃霧に突っ込む。その瞬間、濃霧を食い破るように火の手が上がった。

 

 同時に轟音が、衝撃が、それによって濃霧は一瞬に消滅。残るは過剰砲撃による爆炎のみ。最低でも一個艦隊の一斉射だ、例え戦艦だろうが陸上型だろうが、それを耐え抜く存在はいないだろう。まして水雷戦隊の1隻、とてもとてもーーー

 

 

 

 

『ーーー健在なり』

 

 

 そう思った矢先、そんな言葉が無線から聞こえた。それに思わずル級は爆炎に目を向ける。そこにあるのは先程と変わらない光景、もうもうと立ち上る煙のみ。

 

 

 だが、次の瞬間そのカーテンを潜り抜けるように1人の艦娘が、紫髪の駆逐艦が現れた。

 

 

『損害、軽微ならざれど……航行に支障……なし』

 

 

 その艦娘は口許に手を、無線のマイクに向けて何かを呟き、同時に無線の向こうからそんな言葉が聞こえた。その言葉通り、彼女はボロボロだった。制服も髪も、手足も艤装も。全てがボロボロ何一つ無事なところはない。言葉通り、『計り知れないほどの損害であるが、辛うじて航行は出来る』と言ったところ。

 

 

 だがおかしいことに、恐ろしいことに、彼女の顔に『絶望』の色がない。

 

 

 

 

『上等ぉ……』

 

 

 無線に向けてそう言い放つその顔には、不敵な笑み(・・・・・)があったのだ。

 

 

「ーーーーーァ!!!!」

 

 

 その笑みに、その言葉に、ル級は再び砲撃を加える。それ呼応し、僚艦たちも一斉に砲撃を始めた。再度襲来した夥しい砲弾を前に艦娘は臆する様子もなく、ただ片方の手首に手をーーーーーそこに下がる花の装飾をあしらったミサンガに触れた。

 

 

 

『飛翔……ね』

 

 

 無線の向こうで彼女はそう呟く。その言葉が何を意味するか、次の瞬間彼女はその身体を以て証明した。

 

 

 盛大に水飛沫を上げ、彼女は大海原へと飛び出したのだ。

 

 

『左30!! 上34!! 距離18000!!』

 

 

 背後に巨大な水柱が上がる中、彼女は無線に向けてそう声を張り上げた。彼女は全速で航行しながら座標を提示した、次に来るのは砲撃である。その宣言通り、他の艦娘たちが砲を向けてくる筈だ。

 

 だが次の瞬間、僚艦の1隻であるリ級が爆炎に包まれた。周りにいる艦娘、その誰一人として砲声を上げていない(・・・・・・・・・)のにだ。

 

 

 突然のことに呆然するル級。突然の砲撃、そして無傷(・・)であったリ級の轟沈に、僚艦たちも動きが止まった、止まってしまった。

 

 

戦場(ここ)で止まるなんて、自殺行為だよ』

 

 

 無線の向こうからそう聞こえた。耳元で囁かれるような声、そしてそれは死の宣告。

 

 

 それを提示したのは呆然とする僚艦のホ級ーーーーーの背後に立ち、その頭に砲を突きつけた黒髪の軽巡洋艦だ。

 

 次の瞬間無線の向こうから鋭い砲声が聞こえ、視界の向こうでホ級の頭が吹き飛ぶ。それと同時にそう遠くない場所にいたロ級も、いつの間にかその背後に回っていた銀髪の駆逐艦の砲撃によって爆炎に包まれた。

 

 

『右15!! 上20!! 距離15000!!』

 

 

 再び無線の向こうで紫髪の駆逐艦が吠える。そして、間を与えず砲撃に襲われる。今回は誰にも当たらなかった、しかし着弾点から僚艦、ル級までの距離はほんの僅か、狭叉弾だ。次は当たる、当てられる、誰かが沈む。

 

 ル級の中でそんな恐怖が沸き上がった。それを掻き立てるのは他でもない、謎の砲撃である。同時に狭叉弾が立ち上げた水柱が、どう考えても駆逐艦、軽巡洋艦では起こし得ないほどの大きさなのだ。

 

 

 ル級は艤装も鞭打って回避行動を、絶えず地点を変え続けながら思考に走る。

 

 謎の砲撃、いやもしくは魚雷か。しかし、座標を示して着弾までのタイムラグが短すぎる。であれば、先に魚雷を発射し到達地点へ誘導したのか。無線での座標は魚雷到達地点の確定情報、砲撃は魚雷攻撃を隠すためのカモフラージュか。しかし実際に砲撃されている、仮にそれ折り込み済みのダミーだとしても、只でさえ不利な状況において無駄弾をばら蒔くだけの行為は首を絞めるだけ。その線も無い。

 

 思考に落ちれば落ちるほど、訳が分からなくなってくる。同時に砲撃が激しくなり、僚艦たちも次々と落とされていく。ル級以外、装甲の薄い艦ばかりなのが災いした。せめて空母の1隻、あるいは戦艦の1隻でもいれば状況は違っただろう。

 

 

 そう行き着いたとき、ル級の中にある仮定(・・・・)が生まれた。

 

 

『ーーー上15!! 距離8000!!』

 

 

 同時に、無線の向こうから座標が聞こえた。それに、ル級は顔を上げる。今度は顔を上げると同時に僚艦ーーーーー最後の1隻が撃沈された。残るはル級1隻のみ。

 

 

 その事実が、ル級を動かした。

 

 

「ーーァァ!!!!」

 

 

 ル級は叫び声を上げて突撃を敢行する。狙いは紫髪の駆逐艦、『本体』だ。同時に副砲を彼女目掛けて放つ。副砲の弾幕を受け、無線の声が途切れる。彼女が座標を指し示せなくなる。ル級は絶えず副砲を撃ち続け、主砲の次弾装填を待つ。

 

 そして完了と同時に流れるような装備換装、主砲の一斉射を放つ。砲弾は紫髪の駆逐艦を捉えはしなかったものの、座標を提示する時間をさらに奪った。

 

 

「曙ちゃん!!」

 

 

 すると、『目』の駆逐艦が声を張り上げた。同時に砲をル級に向けてくるも、再び換装した副砲を以て黙らせる。それをこなしながら、ル級は紫髪の駆逐艦に迫る。

 

 結論から言えば、ル級は紫髪の駆逐艦を沈める選択をした。理由は彼女の存在がこの流れを握っているからである。彼女を落とせば、あとはボロボロの艦隊のみ。単艦だけでも撤退できる可能性がある。

 

 

 そして、何より時間がない(・・・・・)のだ。

 

 

 ル級は絶えず砲火を紫髪の駆逐艦に向ける。その絶え間ない弾幕に彼女は回避行動で精一杯、それも距離を詰めればこちらが有利になる。今はただ近付くことに全精力を傾けなければならない。

 

 

 

『右40、上35、距離6000』

 

 

 だが、次の瞬間無線の向こうから座標が届いた。同時にその通信を最後に、今まで回避行動に腐心していた彼女が突如こちらに突撃してきたのだ。彼女もこれ以上距離を詰められての通信は危険と判断、ならいっそ距離を詰めて混乱を誘うつもりなのだろうか。

 

 しかし、ル級はその突撃に臆することなく淡々と砲火を激しくする。一度決めた、それも腹を括ったものにとって、その程度のことなど毛ほどにも思わないのだろう。

 

 

 ル級は副砲による絶え間ない砲撃を加える。

 

 

 対して、彼女は減速、加速、方向転換、緩急織り混ぜた複雑な回避行動で副砲をかわしていく。

 

 

 ル級は神速の装備換装を以て、完了と同時に主砲の一斉射を放つ。それも敢えて各砲身を僅かにずらした広範囲及び時間差を狙った砲撃だ。

 

 

 対して、彼女は初撃の着弾を飛び上がるように回避。なおも広範囲に降り注ぐ砲弾を両足の接水地点転換、重心移動、無理な体勢での回避など、極力自身の座標を動かさない最低限の回避行動でこれを凌いだ。

 

 

 ル級は弾幕の継続を放棄し、主砲と副砲の換装タイムラグを利用し弾幕の複雑化を図る。あるときは一定の間隔で吐き出す砲弾を敢えて撃たず、あるときは無尽蔵に弾をばら蒔く、これを織り混ぜることであちらの回避タイミングを崩そうとしたのだ。

 

 

 対して、彼女はル級の砲撃が無尽蔵になると、正面航行から背面航行に切り替える。今までは耳のみを頼りに回避していたが、今度は目を伴ってル級の無差別砲撃を寸でのところでかわしていく。

 

 

 だが、流石に無理があったのだろう。副砲の一発が紫髪の駆逐艦を捉えた。彼女の身体から爆炎が上がり、その体勢が大きく揺れる。

 

 

『ーーー?』

 

 

 無線の向こうで声がした。彼女に向けられたものだろう。しかし、ル級には関係ない。何故ならこのタイミングで、最高のタイミングで主砲の装填が完了したからだ。

 

 神速の装備換装を以て主砲を向け、そのどの照準もを彼女に向ける。そして、全てが揃ったと同時に全砲弾の尻を叩く。

 

 

 天地を揺るがす轟音が鳴り響く。同時にソニックブームが巻き起こり、水面を激しく揺らす。それを生み出した砲弾の雨は真っ直ぐ彼女へと向かう。未だに、彼女は体勢を崩したまま。回避は絶望的。

 

 やがて、その身体も再び巻き起こる轟音、爆炎、無数に立ち上がる水柱の林の向こうに消えた。直撃弾、それも戦艦の一斉射、無事では済まない。

 

 

 

 

 その、はずだった。

 

 

 

「あぁあああああ!!!!!!!!」

 

 

 突如、獣のような咆哮が上がる。同時に、無数に立ち上がる水柱。その腹を何かが突き破った。それは勢いよく海面に着水、そのまま転がるようにして海面を進む。

 

 やがてそれはーーーーー、いや彼女は立ち上がった。ボロボロの身体で、なおもずぶ濡れになりながら。その両の足で、しっかりと水面を踏みしめて。

 

 

 その顔に、不適な笑みを浮かべながら。

 

 

 次の瞬間、鋭いモーター音と共に彼女はその場を踏みしめ前進を開始した。その身体からは糸のように水がこぼれ、その後ろには大量の水飛沫が舞い上がる。

 

 その姿に、ル級は再び砲撃を加えた。無茶な突撃、無謀な突貫、自殺行為。その筈なのに、何故かル級の砲弾は彼女を捉えない。掠りもせず、その航行に一切の影響を与えず、ただ離れた場所に水柱を立ち上げるのみ。

 

 

「ーーーーァ!!!!」

 

 

 ル級の口から絶叫が漏れた。それは何を以て引き起こされたものか、少なくとも勝利を確信した雄叫びではない、僚艦に警戒を促すものでもない。

 

 

 強者を前にした、弱者の悲鳴である。

 

 

 そして強者はついに弱者を捉えた。距離にして既に50mを切った。瞬く間に40、30、20、10mとなる。同時に、彼女は両手を大きく後ろに振り上げた。

 

 次の瞬間、鋭いモーター音と共に盛大な水飛沫が彼女の前方に舞い上がる。それは目の前にいるル級に襲い掛かり、またしてもル級は目を閉じてしまった。

 

 

 それは次に来る砲撃、自身を死に追いやる一手を前に、女々しく目を背けたと同義だ。その愚かな行為に対する裁定は、もうすぐそこに迫っていた。

 

 

 

 

 だが、どうだろうか。いつまでたっても『(それ)』はやってこない。

 

 

 ル級は目を開けた。そして前方を見て、そのまま固まった。

 

 

 目の前には確かに彼女がいた。先ほど振り上げた両腕の片方をル級に突き出し、片手をその腕を支え、腰を低く据え、上体を支える足に力をいれた。まさに砲撃体勢でだ。

 

 だが、肝心の砲身がなかった。かわりにあったのは突き出された、親指と人差し指を立てた手。拳銃を模しているようなその手だけだ。砲撃体勢をとっているのに、その実その手には砲門がない。

 

 

 何もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

発射(fire)

 

 

 あった(・・・)のは声。無線の向こうから初めて聞こえた声、違和感を与えない自然な、流暢な発音の英語(・・)である。

 

 同時に、背後に強い衝撃を受ける。次に爆発音、爆炎、灼熱が身体を蝕み、鋭いものが全身に突き刺さる。

 

 次に視界の端に黒煙が映り混む。同時に喉の奥から何かがこみ上げ、吐き出すと共に足元が赤に染まった。

 

 

 それと共に視界が揺れ、腹部から飛び出す赤く染まった鉄片が見えた。

 

 

 

『次弾、装填完了。5(five)4(four)3(three)

 

 

 無線の向こうから、カウントが聞こえる。それを受け、ル級は自身の身体を貫く鉄片から再び視線を上げた。その先には彼女だ。爆炎に巻き込まれないため(・・・・・・・・・・・・)か、先ほどよりも離れた場所に立っている。

 

 

 だが、その顔には先ほどの不適な笑みはない。あったのは何処か悲しむような、哀れむような、そんな表情だ。

 

 その表情のまま、彼女は片手ーーー右手を上げた。先ほど拳銃を模していた手を解き、軽く指を伸ばし、親指だけを折り畳み、それを額の前に持ってきた。

 

 

 

 所謂、敬礼ーーーー挙手の敬礼である。

 

 

 

 それを受けたル級は、自然の表情が変わったのを感じだ。自身の顔がどの様になっていたのか、それを浮かべている彼女には分からない。

 

 

 そして再び爆炎に包まれる彼女の耳に残った言葉は、これであった。

 

 

 

2(two)……おやすみ(good night)



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綺麗な『花』

「おやすみ……」

 

 

 目と鼻の先で赤々と燃える鉄屑に、私はその言葉を手向けた。

 

 炎の中で鉄屑はもがき苦しむことも無く、泣き叫ぶことも無く。ただ淡々と自らが朽ちていくのを待つかのように、懇々と沸き立つ泉のように、静かにその身を水面に沈めていった。

 

 その煙の向こうにはボロボロになった僚艦たち。軽傷の者は誰一人としておらず、皆何かしらの重傷を負っている。今この時敵が現れたのなら、間違いなく殲滅されてしまうほどの損害を被っている。

 

 だが彼女たちの顔には悲壮など無く、安堵の表情が浮かんでいた。誰一人として絶望など無く、希望に満ちていた。激痛に顔を歪める者も、泣き叫ぶ者も、怒りに身を任せる者もいない。

 

 

 そんな彼女たちに向けて、私は―――――――曙は片腕を頭上高く掲げた。

 

 無数の火傷、切り傷、擦り傷で埋め尽くされた細い腕。今にも倒れそうな程に弱弱しく震える四肢。激しい頭痛に襲われ朦朧とする意識。

 

 それら全てを抱えながら、私は腕を掲げた。その手首で揺れる細い紐の輪――――ミサンガを見せつけた。

 

 

 『ケ』号作戦、通称『キス島撤退作戦』。

 

 同名を冠した先の作戦が『奇跡の作戦』と謳われ、それにほぼ同一の状況故にそれにあやかって名付けられた本作戦。

 

 一度頓挫の危機に瀕し、同時に艦隊内での分裂、僚艦一隻の独断専行を許し、なし崩しに大破進軍と言う最悪の選択を取ってしまった本作戦。

 

 一度の失敗を経て挑んだ二度目。大損害の危険を孕み、もはや成功は絶望的と思われた本作戦。

 

 

 

 ―――――――その『成功』を宣言したのだ。

 

 

 

 二度目の進撃。その発端は私が抱えている電探が捉えた一つの反応(・・)だった。

 

 その時雪風が単艦にて大破進撃を断行、北上さんの指示で夕立が彼女を追跡。黙りこくった提督《あなた》に向けて、私が無責任極まりない言葉を届けた後だ。

 

 その反応は私たちが居た場所から北へ35kmほど。驚くほどゆっくりな速度で南西へ進んでいた。どう考えても敵であることは明白、考えられるのは敵の輸送隊、哨戒隊、追撃部隊、侵攻部隊等々。隊が分断された上に敵襲か、と身構えるのが普通である。

 

 

 しかし、おかしなことにその反応は『一つ』―――つまり単艦(・・)だった。

 

 支配海域とは言え侵攻を受けている現状、単艦で航行するのはリスクである。ましてただでさえ複雑奇怪な海流なのだ。大型艦が満足な回避行動をとれるはずもなく、かといって小型艦だとしてもただ襲撃にリスクを跳ね上がるだけ。把握しているか分からないが、現状窮地に陥っているのはこちらであるためそのリスクを取る理由もない。

 

 

 では、それが『敵』ではなかったら?

 

 

 それを受けて、私はすぐに無線のチャンネルを変えた。

 

 出撃前に哨戒部隊が用いていた周波数を教えてもらっており、そして一度目の最中も時折それに合わせては声が拾えないかを試していた。そしてこれまでその周波数からはホワイトノイズ以外何も聞こえず、数分程それに切り替えてはまた戻してを繰り返していたのだ。

 

 しかしその時は一抹の希望ではなく、一つの確信を以て変えた。そして次に聞こえたのは、ホワイトノイズではなかった。

 

 

 

応答せよ(over)応答せよ(over)!! ……お願い、誰でも良いから返事してぇ……』

 

 

 切羽詰まったような、行き止まりを前にして泣き崩れるような、縋れるもの全てに縋ろうと手をばたつかせる子供のような。そんな、みっともない声。同時に金切り声を上げる艤装の音、水面を切り裂く風の音、今にも消えてしまいそうなほどか細いもう一つの呼吸を拾っていた。

 

 

『こちら曙……こちら曙……貴官は何者か、返答願―――』

 

『曙?! 曙ですカ!? 曙なんですカ!!!!』

 

 

 念のためあちらの素性を問いかける。それに喰いかからんばかりに返答が、答えるまでもなくあの片言英語(・・・・)が帰ってきた。

 

 

 

 今作戦の目標(ゴール)―――――金剛さんたちを発見したのだ。

 

 

『あッ、あけ、曙ォ!! い、今何処ですカ!? 何処に居ますカ!? すぐ、今すぐ来てください!! 急いで来てくださぁい!! でないと吹雪が……吹雪がァ!!!!』

 

 

 無線の向こう、金剛さんは酷く取り乱していた。恐らく吹雪が危険な状態であるからだ、そう読み取るのに時間はかからない。そして、何故か冷静でいられた私は彼女を落ち着かせることを優先した。

 

 

「落ち着いて、金剛さん。『大丈夫』、ちゃんと聞いているから。『大丈夫』、『大丈夫』……」

 

 

 私はあいつと『大丈夫』(同じ言葉)を彼女に向けた。努めて柔らかく、努めてゆっくりと、呼吸を整えるかのように間を置きながら、言葉を繰り返す。そのおかげか彼女の声は次第に落ち着いていき、ひっくり返っていたその声も元通りになった。

 

 その間、私は目と手を使って潮と響にこのチャンネルに合わせろと伝える。それを受けて、二人はすぐさま無線に手を置く。同時に、無線の向こうから二人の声も聞こえてきた。

 

 

『金剛さん!! よく無事で……』

 

『金剛。私だ……響だ。無事でよかったよ……』

 

『あぁ……潮ォ、響ィ……』

 

 

 二人の声を、特に響の声を聞いた金剛さんは悲鳴みたいな弱弱しい声を上げる。その後二人の力添えもあって

、金剛さんは何とか落ち着いてくれた。

 

 

「大丈夫、ね? じゃあ、そっちの状況を教えてください」

 

『Ok、OK……』

 

 

 砕けた口調を敬語に戻し、報告を促す。その言葉を受けて、金剛さんは少し早口に話し始めた。落ち着いてはいるもののその声色には焦りがある。言わずもがな、吹雪の容態は酷いのだろう。

 

 

 彼女の話はこうだ。

 

 金剛さんが目を覚ましたのは、キス島周辺に浮かぶ島々の一つ。名前も名称も分からないが、比較的海流の弱いところだ。彼女が意識を失っている中、吹雪が先導してあの戦艦を振り切ってたどり着いたらしい。

 

 そこに潜伏していた彼女たちはドラム缶を曳航した駆逐艦を発見。それを中破状態であった吹雪が襲撃してこれを奪取した。その時、吹雪は襲撃した反動で中破から大破となり、ドラム缶を曳航して島に上陸した際に意識を失ってしまった、と。

 

 それを話す彼女の声が何故かつっかえつっかえになったが、私はそれを指摘せずに促す。指摘する気も起きないし、そのメリットもない。ただ『その時』何かがあったのだろう、そう捉えることにした。

 

 

 その後は吹雪がくすねてきた応急修理要員と奪取した資材を駆使し、何とか自分の艤装を大破状態から中破まで修復することに成功。余った資材は荷物になるからと全て放棄し、彼女は未だに意識を取り戻さない吹雪を連れて島を脱出した。

 

 因みに気絶している吹雪はドラム缶を輸送船代わりに金剛さんが曳航している。島を出る前に燃料と鋼材を無理やり摂取させて『補給』まがいをしたおかげか息はあるようだ。しかし大破状態、更には金剛さんの曳航に素人ながらも彼女の艤装を修復など、金剛さんの生命維持に全てを賭けた彼女にどれほどの力が残されているか分からない。

 

 

 『もしかしたら、鎮守府まで持たないかもしれない』―――――それが金剛さんの見解だ。だからこそ、あの悲痛な声だったのだろう。

 

 

『随分、無茶なことをしたね……』

 

『えぇ、本当に……』

 

『こっちの状況は以上デス。で、今何処に居ますカ? どのくらいで合流出来ますカ? 教えてくだサイ』

 

 

 こちらの話は終わったとばかりに金剛さんはそう捲し立ててくる。彼女からすればようやく開いた光明なのだ、是が非でも掴み取りたいのだろう。

 

 

「了解、そちらの状況は理解しました。そして、私たちはそちらから見て南に35kmほどに居ます。互いが全速で向かえば1時間もかからずに合流できそうです」

 

『OK、南ですネ? わか――――』

 

「ええ、ですが一つお聞きします」

 

 

 そこで一呼吸置いた私は、はっきりとこう問いかけた。

 

 

 

「砲撃は、出来ますか?」

 

 

 その問いに、無線の向こうから3つの息を呑む声が聞えた。次に視界の外から視線を感じた、同時に無線の向こうから強烈な敵意も。

 

 

 

『何……馬鹿な事言ってるネ、この状況で戦うなんて、そんなの出来――――』

 

「雪風が単独で大破進軍したんです」

 

 

 当然拒否しようとした金剛さんの言葉を、私はこちらの状況を伝える形で叩き斬る。それを受け、無線の向こう彼女が小さく「ぇ……」と声を漏らした。

 

 

「ついさっき、たった今です。それを追って夕立と北上さんが続きました」

 

『何で……そんなこと……』

 

 

 彼女はそんな問いを漏らす。それに応えることを、私は思わず憚った。いや、彼女自身もどことなく自分(・・)が原因だと察しているだろう。彼女のその発言は、その事実から目を背けるために敢えて溢したモノのように思えた。

 

 

 

『無論、貴女()を助けるためです()

 

 

 そして背けられた目を事実を突き付けたのは、私といつの間にか傍にいた響だ。それを受け、私は響を見る。そこに居た彼女はいつもの飄々とした顔ではなく、今にも泣きそうな程に顔を歪めていた。

 

 

「私たちと通信が繋がった時点で、君は自分を救出にきたのだと分かったはずだ。そして雪風が大破進軍する理由も同じ――――()を探し出すために、自分の命よりも君の命を優先したと。君ならそう分かったはずだ、いい加減とぼけるのはやめろ」

 

『……』

 

 

 続けられた響の何処か責めるような言葉に、無線の向こうは沈黙に包まれる。微かに歯ぎしりが聞こえるが、特に声を上げる様子はない。それを受けて、響は泣きそうな顔のまま私に話を続けろと言いたげに視線を向けてきた。

 

 

 

「……もう一度、お聞きします。砲撃は可能ですか?」

 

『……Yes』

 

「どの程度? 主砲の状態は? 稼働砲数は? 照準の歪み、そこから生じる誤差は? 修正可能な範囲は?」

 

『諸々調べてない上に突貫修復ですカラ……良くて普段の半分程度だと思いマス』

 

 

 普段の半分となると―――――――最大船速は14ノット、射程は約18000mぐらいか。射程は駆逐艦(私たち)と同じだが、普段は倍以上の射程で撃ち合いしているから有効射程はほぼ同じだろう。

 

 そして先行した面子も濃霧の中を進むからそんなに速度は出せない。出せても10ノット程度、敵に遭遇しようものならそこで止まる。追いつくこと自体は難しくない。

 

 勿論会敵せずに合流出来ればそれが良い。しかし此処は敵地、更に艦載機群を逃げ切っただけで殲滅したわけではない。敵が増援を送るのは確実だ。だからこそ敵に遭遇した場合、この状態で戦闘になった場合を考える。

 

 どうすれば全員生還と言う戦略を完遂できるか。その時、今の私たちが取れる最適な戦術は何か。何が私たちに足りなくて、私に何が出来るのか。

 

 

 

 どうすれば、(あいつ)の『願い』を叶えられるか。

 

 

 

「……もし、私が指定した座標に砲弾を叩き込め(・・・・・・・・・・・・・・・・)って言ったら、出来ますか?」

 

 

 その答えを導き出すための一手を、私は求めた。

 

 

『……what?』

 

 

 だが、返ってきたのは一手の説明を求める声だった。無線と同時に横から、響は怪訝な顔を、潮は不安げな顔を向けてきた。その顔を受け、私は頭の中で朧気に浮かんでいたものを口にした。

 

 

「電探で特定した座標を無線で共有し、其処に金剛さんが砲弾を叩き込む。要は電探を用いた『弾着観測射撃』もどき(・・・)、レーダー掃射砲撃です」

 

 

 駆逐艦以上―――特に戦艦たちが空母勢と一緒になった時、よく用いられたのが『弾着観測射撃』。それは偵察機が着弾地点を測定、修正し後の砲撃の命中率を上げるもの。そう聞いたことがある。

 

 しかし私たちには偵察機を発艦できる艦が居ない。唯一可能性のあるのが軽巡洋艦だが、生憎北上さんは偵察機を飛ばせない。では金剛さんが発艦すれば……となるが、そもそも砲撃する上に中破状態で大破した吹雪を曳航している彼女にを強いるのは酷だ。

 

 しかし中破とは言え戦艦の火力をこのまま遊ばせておくことはもったいない。それもこの海域は海流のお蔭で重量級の敵はそこまで現れない、と踏んでいる。元々ボロボロの私たちが水雷戦隊を相手取るなら、戦艦の火力は魅力的な材料である。

 

 

 そこで現れるのが、私が持つ電探である。

 

 電波探測儀――――電波を放出し、波長によって障害物を認知する。ようはレーダーである。これを使えば、電波の届く範囲に居る全てのものを感知できる。それは距離、方位、高さまで、ともかく砲撃に必要な情報は粗方収集できる優れものだ。

 

 短所を上げるなら、関知したものが『何』であるか分からないことだ。又この濃霧であり、目視の精度は期待できない。戦況を俯瞰できる偵察機が居て、初めてできる戦術である。

 

 しかし、それは全てを一人(・・)で行った場合だ。一人で不可能なら、役割を分担すればいい。主に電探で情報を集める私、その情報が敵か味方かを見極める『目』を誰かに。これらを分担して行えば弾着観測射撃のようなものが可能ではないだろうか。

 

 私が得た情報を元に『目』が確認。その情報を元に私が座標をはじき出し、それを金剛さんに送る。情報のやり取りに時間がかかりそうだが、無線を自在に操れれば時間もかからない……はず(・・)

 

 

 これが、私が絞り出したものだ。そしてそれを提示した時、返ってきたのは真面目に思案する響と潮の言葉だった。

 

 

「電探による座標の共有、ね……そこから射角や砲の向きを定めるには時間がかからないかい?」

 

「……じゃあ私が決める(・・・)。私が飛ばした照準に向けて砲撃すればいい。どう?」

 

「なるほど……じゃあ私は君たちが狙われないように敵の目を引き付けよう。可能なら私たちの照準も用意してくれないか? 万が一、無線を傍受される場合があるからね」

 

「……OK、出来る限りやってみるわ」

 

「なら『目』は私がやる。響ちゃんの照準計測も、やるよ」

 

 

 二人との会話で着々とそれが詰められていく。正直、最初に向けられるのは否定や非難、怒号や罵声だと思っていた。『そんなの出来っこない』、『ふざけるな』、『何を考えているんだ』、など、口汚い言葉の雨だと思っていた。

 

 

 当たり前に投げかけられていた『否定(それ)』だけだと思った。

 

 

『ちょ、ちょっと待つネ?』

  

 

 だが誰もがそのようになれるわけはなく、その一人である金剛さんは困惑した声を上げる。

 

 自分が鍵を握る作戦の詰め合わせに参加できないからだろう。それもようやくここまで逃げ出してきたのに此処から反転して敵地に突っ込んでいく。反論したくなるのも分かる。

 

 それに対して、響は柔らかい口調でこう諭した。

 

 

「大丈夫、勿論君たちへの砲撃も引き付けるつもりだ。そのために私たち用の照準を用意し、この砲撃は()が起こしていると錯覚させる。それで、ある程度敵の目は誤魔化せるだろう」

 

『そ……それについては問題ないネ。遠方からの砲撃なら多分見つからない、最悪見つかっても接敵まで時間がかかりますカラ……ワタシが言いたいのは、吹雪のことデス』

 

 

 響の弁論を踏まえた上で金剛さんが溢した懸念。恐らく、彼女が渋る理由であろう。

 

 先ほどの取り乱し様、そして彼女の話を含めて考えると吹雪は本当に虫の息だ。正直、今から全力で撤退したとして間に合うかどうか分からない。そんな彼女を引き連れてさぁ敵地に進撃だ、とは絶対ならないだろう。私もその懸念があったが、すぐにでも動きたいがために敢えて話題に挙げなかった。

 

 

「正直、それはもう吹雪ちゃんの力に頼るしか……」

 

『で、でしたらまず合流しませんカ? そして曳航を誰かに代わってもらって、その後進撃すれば―――』

 

「この作戦は距離がある劣勢を逆手に取ったもの。それだと遠方射撃(君の強み)が消えてしまうから、出来れば避けたいところだ。そして大前提に私たちは合流が目的で、これはその間にもし戦闘があったらの話さ。本筋ではないから後々変更が効くし、会敵さえなければまず発生しない。だから……」

 

 

 そこまで指摘した上で、響は言葉を濁した。その指摘をされた今、何とか回避する術を提示しなければ彼女は動かないだろう。目的は一緒なのに、何故こうも道筋が違うのか。互いの落としどころがまるでない、悪く言えば言いくるめられなかった私たちの落ち度だ。

 

 このままでは一歩も動けず、ただ時間だけが過ぎていく。このままでは雪風は疎か先行した夕立、北上さん、更には私たちに金剛さんたち、諸々全員が沈んでしまう。そんな最悪の展開が目に見えた。

 

 

 こんなとき、クソ提督(あいつ)はなんと言うのだろうか。 

 

 

 

 

 

「怖い、ですよね?」

 

 

 その一言、金剛さんの気持ちを表した言葉を吐いた。それは私でも声を以て彼女の安心をもたらした響でもなく、そこから最も遠いと思われる存在―――――潮が発したのだ。

 

 

 そしてその言葉をかけられた金剛さんが無線の向こうで言葉を詰まる。それと対照に、潮は更に言葉を続ける。

 

 

 その姿が、何処となく『明原 楓(あいつ)』に重なった。

 

 

「分かります、分かりますよ。どちらも取りたい、どちらも捨てられない、分かりますよぉ……それを一人(・・)で背負うのが辛いのも。私も同じ(・・・・)でしたから」

 

『え……あ……』

 

「だから、分かるんですよ。分かっちゃうんです、分かっちゃったんですよ。私も同じですから、(おんな)じです、同じでした(・・・・・)から。だからどうしたい(・・・・・・)かも分かっちゃうんですよ、だから(・・・)

 

『そ、それは関係ありま―――』

 

なら(・・)、私たちにも背負わせてくださいよぉ。関係ないなら、余計背負わせてくださいよ? 多分……いや、きっと、吹雪ちゃんだってそうだったでしょ?」

 

 

 潮は、まるで金剛さんの言葉を笑い飛ばすかのようにう言葉を紡ぐ。一見すれば彼女の意志を、心配を無視した無責任な発言のように見える。だが、金剛さんの背負うものを知り、背負う辛さを享受する彼女が発したそれは全くもって見当違い(・・・・)だ。

 

 

「貴女が守りたいものは、貴女だけ(・・)のものではないんです。貴女のように、吹雪ちゃんのように、私のように、曙ちゃんのように、提督さん(・・・・)のように。『誰か』が発して、『誰か』が受け止め、『誰か』が動き出して、『誰か』が掴み取って、最後に『皆』で笑い合えればいいんです。『皆』で、守っていけばいいんですよ。だって――――」

 

 

 何故ならそこに浮かんでいたのは呆気からんとした笑顔だ。心労なんぞ何処かへ吹き飛ばしてしまうほど、底なしに明るい笑顔だった。

 

 

 

「貴女は、一人じゃないんですからぁ」

 

 

 

 それはとても軽い言葉だった、軽口だった。他人事のように軽く、その程度かとタカを括り、項垂れるその肩に手を置き、俯いたその頭をそっと撫で、持ちあがった視線に微笑みかけるような。

 

 

 そんな、『優しい』言葉だった。

 

 

 

 それを受け、無線の向こうで息を呑む音、唸り声、そして何か(・・)を諦めた様なため息が聞こえた。その後、続いたのは二人の掛け合いである。

 

 

 

『……ますカ』

 

「ん?」

 

『助かりますカ?』

 

ええ(・・)

 

『『誰』も沈みませんか?』

 

勿論(・・)

 

『『誰』も傷付きませんカ?』

 

はい(・・)

 

「……『皆』、『皆』笑顔で帰れますカ?』

 

 

当たり前ですよ(・・・・・・・)。だから……」

 

 

 

 そこで言葉を切った潮は、底抜けの明るさを孕んだ声でこう伝えた。

 

 

 

「帰りましょう、『皆』で」

 

 

 戦場に居るとは思えないほど明るく、死と隣り合わせでいることを忘れてしまうほど暖かい、優しい笑みを浮かべた潮。いつもの彼女からは想像も出来ないほど力強く、頼もしい姿。無線の向こうにいるのに、目の前で語り掛けているような、そんな距離感で。

 

 

 『近くに居るよ』―――――そう、微笑みかける様に。

 

 

 

 

『……曙、どっちに迎えば良いですカ?』

 

 

 その次に聞こえてきたのは、いつもよりも低い金剛さんの声だった。そこには重みがある、深みがある、今から紡ぐ言葉を一言一句聞き漏らすなと言いたげな、彼女の言葉。

 

 

 

 私たちを信じてくれた、彼女だった。

 

 

 

「今進んでいる方角から南東へ、最大船速でお願いします。恐らく1時間はかかるかと」

 

『……OK、45分でそちらに向かいマース。その前に、敵艦全ての座標を送ってくださいネ?』

 

「分かりました、ではこれが私たちの周波数帯です。以後、こちらで連絡」

 

『OK』

 

 

 私の答えに、金剛さんは短くそう答えて通信を切った。それを受けて、私は息を吐く。それを受けて、響は静かに頷く。それを受けて、潮は「よしっ」と小さく声を上げて私たちにこう言った。

 

 

 

「行こう」

 

 

 彼女は北上さんが消えていった方向を指差し、真っ直ぐな視線を私に向けて、そう力強く言った。それを受けて、私たちは進撃した。

 

 

 その後私たちは進撃を続け、北上さんに合流したのはそれから10分後ぐらいであった。その直前、電探に彼女らしき反応があり、それを受けて私は無線を飛ばすと案の定彼女と繋がった。

 

 

「駆逐艦曙から旗艦北上へ。本艦は救出対象である金剛、及び吹雪を発見。2名は現在北東へ35kmほどの地点に居り、そこから反転して本艦のところの合流を図っている。おおよそ45分で合流可能と予想、以上(over)

 

『旗艦北上から駆逐艦曙へ。まず金剛たちの発見、感謝する。本艦は現在、駆逐艦夕立を追って進撃中、そのまま進撃を続ける。貴官はそのまま進撃、こちらに合流願う。以上(over)

 

 

 目標である金剛さんの発見、救出部隊(私たち)にとっては手を叩いて喜ぶ筈の吉報を、北上さんは片手であしらうかのように適当に受け流し、そのまま合流するよう指示を下して一方的に通信を切る。そして、その有無を言わさない態度に違和感を覚えたが、先ずは彼女との合流を優先した。

 

 

 やがて彼女と合流、その時北上さんは濃霧が開けた場所に一人立っていた。だけど、その艤装は忙しなく水面に白波を立たせており、フル稼働状態で待機している。まるで、無理矢理のその場に足を縫い留めているかのように、ことが終われがすぐにでも進もうとしているかのようであった。

 

 

 そこで、私は彼女が焦っていることを確信した。

 

 

「北上さん、よく無事で」

 

「あぁ、皆もね。それで、金剛とは無線で話せる?」

 

「えぇ。それ――――」

 

『「金剛、聞こえる?」』

 

 

 北上さんは私の言葉を遮る様に、というよりも金剛さんとの通信手段を知った瞬間。その手が無線に伸び、目の前と無線の両方から彼女の声が聞えてきた。

 

 

「金剛、今から作戦を伝える。こちらから敵の座標を送るから、そこ目掛けて砲撃して。多少の誤射は構わない、むしろ夾叉弾の方があたしたち的に動きやすくなる。遠慮せず、ガンガンぶっ放して。座標は曙の電探で算出し、潮がその補助を担う。その間、あんたの存在を悟られない様あたしと響が徹底的に隠蔽する。艦載機もこっちで何とかする(・・・・・・)。無理も無茶も、理不尽極まりないのも全部承知の上で頼む」

 

 

 早口に捲し立てるように、彼女は『それ』を口にした。目を忙しなく動かしながら、両手を強く、固く、握りしめながら、その額に汗を滲ませながら。この場に居る誰よりも焦っていた、悔しがっていた、憤っていた(・・・・・)

 

 

『き、北上? 落ち着くネ。もう、そう(・・)動いていますカラ』

 

「え? あ、そう。そっか、ならいい(・・・・)

 

 

 一瞬、北上さんは驚いた顔をしたが、私と同じように金剛さんの返答を待たず一方的に通信を切った。その直後、何処か安堵したような顔を浮かべる。だが、すぐにそれは刃物のような鋭い視線となり、私たちに向けられた。その後、彼女は淡々と言葉を吐いた。

 

 

 

「……潮。あんたの主砲、響に渡しな。『目』のあんたに必要ないはずだ」

 

「……はい」

 

「響、それで艦載機を出来る限り撃ち落して。どうやるかはあんたに任せるし、あたしをどう使っても構わない」

 

「……了解(Хорошо)

 

「曙、あんたはさっき言った通り電探(それ)で敵の座標を特定して。それを金剛に伝えるの。とにかく早く、一つでも多く、無駄だろうが無意味だろうが構わない。それで―――」

 

「北上さん」

 

 

 一方的に放り投げられる言葉を、私が塞き止めた。その瞬間、彼女の目が光る。なんていうことは無い、『殺意』だ。到底味方に向けるものではない、殺意に満ち満ちた目だ。

 

 

 同時にその目には恐怖(・・)があった。その中身は『轟沈される(・・・)』こと、これだろう。

 

 そして憤怒(・・)もあった。その中身は『轟沈する(・・)』こと、これだろう。

 

 それら全てをひっくるめ、凝縮し、煮詰めた末の感情が焦り(・・)だ。その中身は『轟沈されまい(・・・・)』、これだろう。

 

 

 彼女の感情を総括する。彼女は轟沈されることを恐れ、轟沈することに怒り、轟沈されまいと焦っている。

 

 

 

「まさか、『撤退する』とか言わないよな?」

 

 

 だから、北上さんはそんな言葉を向けたのだ。

 

 自身が求めるものを手に入れるために。その道筋を描き、明らかにし、協力を取り付け、或いは強引に引っ張り、出来なければ殺す(・・)ことも厭わない。

 

 喉元に突き付けた刃物のような危険な言葉を。

 

 

「勿論、言うわけないわ」

 

「……そう」

 

 

 私の言葉に北上さんはそう漏らし、興味を失ったかのように視線を外した。いや失ったのではなく、戻った(・・・)のだ。彼女が最も関心を寄せる、とある艦娘に。

 

 まるでその身に迫る結末を全力で否定するために、誰かに降りかかる最期を奪い去るために、最期を迎えてしまうことを極端に恐れているのだ。

 

 それを前に、私は否定しなかった。無論、否定するために遮ったわけではない。彼女のと私のに、大して変わらなかったからだ。

 

 

 それと同時に確信した。このままでは、双方(・・)とも失敗すると。

 

 

 

 彼女の『それ』と私の『それ』。

 

 電探によるレーダー掃射、囮を用いた金剛さんの隠蔽、更に彼女の方は一歩踏み込んだ艦載機への危惧。多少の過不足はあるがほぼ同じである。しかし、その根幹は正反対である。

 

 私の根幹は『希望』。私たちの願いを成就させる、叶えてみせる、救ってみせる。そんな単純(・・)なものだ。

 

 彼女の根幹は『恐怖』。そこまで切羽詰まる程焦り、その手から自ら離れようとするものに怒り、その手から離れてしまうことを恐れている。それほど複雑(・・)なものだ。

 

 根幹の不一致、行動原理の不明瞭、もとよりバラバラな思想思考。どれほど完璧なものを生み出したとして、そこに齟齬があるだけで致命的な欠陥となってしまう。響の話した『奇跡の作戦』も、数多の手段を用いながらもその根幹は揺るがない司令官の判断(一つ)だった。

 

 まぁ、現状は一度伺いを立てたことで引き起こされたわけで。今、誰しもが彼に失望しているだろう、侮っているだろう、無能の烙印を押しているだろう。残酷なことを言うが、今クソ提督(あなた)が何と言っても根幹にならないだろう。だからこそせめて、せめて私たちの中だけでも一致させなければならないのだ。

 

 しかし、今目の前にあるのは同じ殻(・・・)を被ったものだけ。それで動くわけにはいかないし、何より味方にさえ殺意を向けてしまうほど焦る片割れが冷静な判断を下せることすら怪しい。もしこれが頓挫すると分かってしまえば、彼女が次に起こす行動が読めない。それこそ、誰もが恐れる最悪の結末かもしれない。

 

 この状況で、やはり成否を左右するのは『幸運』か。いや、今ここまで道筋を辿ってこれたことも幸運なのだ。金剛さんを発見できたのも、私が電探を持っていることも、その打開策を導き出せたのも、全て幸運だったからだ。

 

 その中で金剛さんは自力でキス島から脱出し、潮はその金剛さんを動かし、北上さんは私たち3人がかりで立てたそれを一人で成し、響は厄介な艦載機の対処を任された。

 

 

 あぁ、なんだ、本当に。艦娘(仮)()に出来ることって、本当に無いんだなぁ。

 

 

 

『―――』

 

 

 その時、無線からノイズが走った。同時に全員が無線に耳を傾ける。誰一人として例に漏れず、皆一様に無線に耳を傾けた。無線の向こうから聞こえてきたのは絶え間ない砲音、空気の叩く音、誰かの息遣い、誰かの悲鳴。

 

 

 そして、こんな言葉だった。

 

 

『みんな好き勝手に言いたいことを言ってやりたいことをやって……皆自分のことばかり。誰も周りを、誰も『あの人』を見てない。その中で私もお利口さんのフリをしている、フリで我慢(・・)している。そんなの釣り合わないもん、我慢するだけ損だもん、それで『あの人』を守れないなんて本末転倒だもん。だから私も好き勝手に動くことにした。私のやりたいように、したいように、動きたいように、望むように、叶うように、守りたいものを守るために』

 

 

 それを発したのは夕立だ。何かの拍子に無線が起動してしまったのだろう。本人は気付いていないが、その口調は明らかに誰か(・・)に向けての言葉だ。

 

 

 

『みんな好き勝手に言いたいことを言って、やりたいことをやって。皆自分のことばかり。誰も周りを、誰もあの人を見てない』

 

 

 だけど彼女の言葉はまさに私たちを指して(・・・)刺して(・・・)いた。賛同者、反逆者、傍観者、その他諸々、私たちを表す言葉(もの)全てを揶揄していた。その中で、特に顔をしかめたのが北上さん(傍観者)なのは言うまでもない。

 

 

『その中で私もお利口さんのフリをしている、フリで我慢(・・)している。そんなの釣り合わないもん、我慢するだけ損だもん、それで『あの人』を守れないなんて本末転倒だもん」

 

 

 これは彼女だから吐けた言葉だろう、彼女だから口に出来た言葉だろう。誰よりも何よりも、今成すべきことを、今成さんとすることを、今成したいものが見えている彼女だからこそ、手向けられた言葉だろう。

 

 

『だから私も好き勝手に動くことにした。私のやりたいように、したいように、動きたいように、望むように、叶うように、守りたいものを守るために』

 

 

 これは彼女の願いだろう。彼女は同じだから、彼女は変われたから、彼女は手を差し伸べられたから、彼女は触れたから、触れてくれたから、ちゃんと自分の手で触れてくれたから、ちゃんと私の言葉を受け取ってくれたから。

 

 

 

 ちゃんと、あいつを見てくれたから。

 

 

 

 

『提督さんが、好きだからだよ』

 

 

 その次に飛び出した言葉は、私の中で一つの変化をもたらした。それはずっと、私の中で引っかかっていた違和感、それを綺麗さっぱり洗い流してくれた。ずっとずっと心の隅でチクチクと蝕んでいた感情、いや、目を背けてきたもの、その正体を現してくれた。

 

 

 彼女の言葉は、今私がこうしている理由(わけ)そのもののように思えた。

 

 

『それに提督さんは私を、夕立(・・)を見てくれた。最初は出来ないことを出来るようになるまで待ってくれた、出来たときは目一杯に褒めてくれた、日々頑張った夕立を認めてくれた、ちゃんと()を見てくれた。あの悪夢に紛れて薄くぼやけてしまった夕立を、過去と現在の境目でもがいていた私を、『二人』ともをしっかり見てくれた。そんな提督さんは今、出来ないこと(・・・・・・)に襲われている。海を駆けることも、砲を撃つことも、貴女を守ること(・・・・)も出来ない。それらに襲われ、脅えて、泣いている。だから、私たちがそれをする(・・)んだ。提督さんの代わりに、提督さんの守りたいものを……』

 

 

 その後、夕立の口から漏れた言葉。なんだろ、もう、私の感情(これ)を代弁しているようで、ちょっと恥ずかしくなってきた。でも、それでも、そうだとしても、彼女が羨ましかった。本当に、羨ましかった。

 

 

『そして提督さんを――――明原(・・)()さんを守る。それが私たち(・・・)の――――『駆逐艦 夕立』と『私』の願いだから』

 

 

 何処までも真っ直ぐな、果てしなく綺麗な、羨ましいぐらい素直な、彼女は『願い』を口にした。

 

 

 

 

 

『――――――そっか、なら俺も好き勝手に言わせてもらおうかな』

 

 

 そして、あろうことか本人に届いたのだから。

 

 

『え、さっきの聞いてた? 本当ぉ!?』

 

『あぁ……バッチリ、聞かせてもらった、よ? いやぁ、その、しかし、なんだ……あ、ありがとな』

 

『えッ、あ、うぇぇ……』

 

 

 突然現れたあいつ、そして自分の秘めていた想いを思いがけない形で知られてしまった夕立。二人の間に妙な空気が流れる。戦場に居るはずなのに、どこか緩い空気が流れる。

 

 

『まぁ、いいや。それで、ご用はなぁに?』

 

『あぁ、いや、ちょっとお前たちに言いたいことがあってな……』

 

 

 だが、それも夕立の言葉で一気に引き締められる――――わけもなく、どこか緩い空気のまま、状況は続く。だがしかし、やはりというべきか、その空気が異様に居心地よかった。どうやら、私も既に染められていたようだ。

 

 

 そんな緩い空気の中、あいつは一つ咳払いをしてこう言った。

 

 

『これから撤退時のルート確保と護衛を担う部隊を送り、退路を確保する。だから、皆はそのまま行ってくれ、金剛たちを、雪風を……そして、必ず皆で戻ってきてくれ…………俺は、戻ってきて欲しい。誰一人欠けることなく戻ってきて欲しい、皆帰ってきて欲しい。無茶かもしれない、無理難題かもしれない。だけど……だけどこれは嘘偽りない俺の――――明原(・・) ()の言葉だ。俺の想い、俺の願いなんだ』

 

 

 うん、知ってる、知ってる。知っているよ、知っているんだから。だからあの時取り乱したんでしょ? だからあの時何も言えなかったんでしょ? だから今、そんな震えた(・・・)声なんでしょ?

 

 今さら、なんて言わない。分かり切っている、なんて言わない。あんたがずっと閉じ込めていた想いを、秘め続けた願いを、こうして口に出したんだ。それを否定するなんてしないし、誰にもさせないし、なるべく多く、沢山、出来る限り受け止めるつもりだ。

 

 

 

『そして、曙』

 

 

 そう、腹を括った筈なのに。そう、覚悟を決めた筈なのに。あいつは、私の提督は、明原(・・) ()は。あっさりと、悠々と、楽々と、私の覚悟を越える言葉を寄こした。

 

 

 

『信じている』

 

 

 無線の向こうから、そう聞こえた。その瞬間、身体が震えた。それは、すぐに消えた。いや、全て消えたのではない。あるもの(・・・・)を残してくれた。

 

 

『お前の言葉を、そう言ってくれたお前(・・)を俺は――――――明原 楓は、信じている』

 

 

 続けられた言葉――――贈られた言葉を、私は受け取った。

 

 『信頼』をくれた。『信用』をくれた。何も無いくせに大見得切った私に、根も葉もないことを嘯いた私に、嘘偽りによって散々に貶され、辱められた駆逐艦 曙()に。

 

 あいつはまたしてもくれたのだ、送ってくれたのだ、授けてくれた、残してくれた。

 

 

 

 私だけの『理由』を、唯一無二のそれを。

 

 

 

『――――じゃあ、母港で待ってる(・・・・)

 

 

 そう言って、あいつは通信を切った。皆で戻ると、私が何とかすると、そんな都合の良い言葉を信じて、彼は待ってくれる。

 

 他の子がそれをどう受け取ったのかは分からない。だけど私はその言葉で、その言葉だけで。

 

 

 

 艦娘(仮)()は、十分だった。

 

 

 

今更(・・)、何だよ……」

 

 

 それと同時に、言わせまいとしていた言葉を吐いた()が居た。その方を見る、やはり北上さんだ。その顔には先ほどの複雑な感情は無かった。あったのは一つ、一つだ。それも、どうやら私と同じもの(・・・・)だった。

 

 それは『呆れ』、そして『諦め』。今更そんなことを言うのかという『呆れ』と、此処でじっとしていても仕方がないという『諦め』。

 

 これで動けるようになった、という小さな『喜び』。

 

 これを以て、キス島撤退作戦の第二次作戦行動。奇しくもそれは『奇跡の作戦』と同じく一人の男(・・・・)によって整えられた。いや、同じではないか。

 

 

 一度作戦の根幹を揺るがした筈の明原 楓(一人の男)が整えたのだから。

 

 

 

 北上さんから旗艦の全権を譲渡してもらい、そのまま夕立の元に急行。向かう道中に彼女が雪風と接触したことを聞き、それに返す形で『それ』を伝えた。

 

 

『何それ、面白いっぽーい』

 

 

 砲音と共にそんな感想が返ってきた時、誰しもが苦笑したのは言うまでもないだろう。そのまま、夕立は私たちがやってくるまで敵を押し留めておくことを了承してくれた。更に無線を捨て去った雪風にもそのことを伝えてもらう。

 

 

『やります、だってさ』

 

 

 すると、すぐ夕立から雪風の了承を得た言葉が返ってきた。どうやら彼女は既に腹を括っていたよう、いや既に腹を括らされていたのかもしれない。正直これ以上押し問答を続ける気は無かったから、非常に有難かった。

 

 

 夕立たちが時間稼ぎをしている間にその元へ向かい、電探が複数の反応を拾ったところで潮に斥候を頼み慎重に近づく。同時に、金剛さんに無線を飛ばし互いの位置関係を確認しておく。

 

 潮から二人の姿と敵艦隊を目視したとの報告を受け、すぐ彼女と合流。濃霧に紛れながら進む道中、やがて無数の砲音や艤装の金切り声が聞こえ始める。

 

 

 それと一緒に、あの忌々しい羽音もだ。

 

 

「予定通り、艦載機()は私に任せてもらおう」

 

 

 それを聞いたとき、真っ先に声を上げたのは響だ。同時に彼女は艦載機を撃墜する策を提示した。艦載機を一か所に集めてそこに魚雷を投擲し狙撃、誘爆を以て一網打尽にするというものだ。そして、その魚雷投擲を夕立に任せるというのだ。

 

 

「空中に飛ばせる且つ投擲の衝撃で誘爆しない魚雷って、手で握りしめても平気な彼女のしかないじゃないか」

 

 

 無茶では……という目を向ける一同に、響は説得らしき言葉を吐く。説得力皆無ではあるが、何故かその言葉に納得してしまった。それに彼女がやると言ったのだ、こちらとしてもやってもらわなければ困る。ここまでやって来てしまったのだ、考え付くことは全て試すしかない。と、いうことでその案に乗った。

 

 

 そして、無謀極まりない『それ』は始まった

 

 

 響、北上さんによる艦載機の撃墜を皮切りに、二人は濃霧を飛び出して更なる砲火を上げる。そんな二人と一緒に飛び出した潮は『目』として私に視覚情報を送ってくれる。

 

 私は電探に引っかかった反応と潮の情報を照らし合わせ座標を特定。それを無線に乗せて金剛さんに送る。それを受けた金剛さんが主砲を遠方射撃を敢行。初撃は幸運にも敵二個艦隊旗艦の片割れ、重巡リ級に命中、そのまま撃沈させた。

 

 次に響によって艦載機が一網打尽にされる。響と夕立が通信した様子はなく、どうやら夕立は天性の感で響の狙いを見抜き、それに合わせたようだ。彼女の戦闘に対する驚異的な嗅覚に驚きつつも、私は自身の役割を淡々とこなすことに集中する。

 

 電探があるとはいえ、座標の計測から金剛さん用の砲撃地点座標をはじき出すのは困難を極めた。レーダー射撃が重宝されないこと、そして駆逐艦(私たち)が行えない理由はこの膨大な情報量だと思う。これは駆逐艦ではなく、一度に複数の艦載機を操る航空母艦たちの方が得意とすることだ。

 

 そんな畑違いの役割はそのまま私への負担となる。血管がはち切れそうな程頭をフル回転させ、ゆで上がるのも構わず計算を続ける。正直、回避行動と並行するなんて無理だ。もし濃霧が無ければ、私は誰かに護衛されていただろう。ある意味、この戦場であったことも『幸運』だったのだ。

 

 

 だが、途中で戦艦ル級の動きが変わった。彼女は砲口を囮たちから『目』に変えたのだ。

 

 

 そのせいで潮からの情報が妨害される。それまである程度敵の数を減らしていたが、この状況で一度のミスは致命的だ。すぐに座標の伝達を止め、自力で得れる情報を集める。

 

 

『曙ちゃん!! 逃げて!!』

 

 

 唐突にやってきた潮からの無線。それと私目掛けて迫る無数の砲弾を感知したのは、ほぼ同時であった。

 

 

 

 襲い掛かる砲弾の雨がもたらした爆風、衝撃、熱風に身体を焼かれた。息も出来ないほど、助けを求めることすら出来ないほど、私は砲火に晒された。髪留めが吹き飛び、制服が焼き焦がされ、艤装の装甲部分がはじけ飛ぶ。皮膚が焼かれ、髪も焦げた。

 

 

 だが、沈まなかった。

 

 

「ぁ……」

 

 

 砲火が過ぎ去っても、私は水面に立っていた。何もかもがボロボロで、傷だらけで、四肢の一つも吹き飛んでもおかしくない砲火だったのに。五体満足で、私は立っていた。

 

 

 そして幸運なことに、艤装、無線、電探――――全て生きていたのだ。

 

 

「曙……健在なり……損害、軽微ならざれど……航行に支障……なし」

 

 

 無線にそう語り掛ける。僚艦たちに向けて自分は健在であると、伝えた。すると、無線の向こうからこんな言葉がやってきた。

 

 

 

『強い意思……もう、ここまでくると執念だねぇ』

 

 

 それを向けたのは北上さん。その声色は冗談っぽくやはりどこか呆れていた。だが、彼女が溢した言葉は冗談ではない。私に向けた、れっきとした称賛だった。

 

 

 『強い意思』―――――それは花言葉だ。

 

 私の髪留めに付いている花――――――ミヤコワスレの花言葉だ。よく上げられる『別れ』や『しばしの慰め』ではない、ミヤコワスレ()の花言葉だ。

 

 そして私は今、立っている。幸運にも五体満足で、いや、これは幸運(・・)なんかじゃない。私が今、こうして立っているのは、こうして圧倒的戦力差で抗っているのも、全部幸運なんかじゃない。そんな軽い言葉で片づけられたくない。

 

 これは私たちが強く望んだ(・・・・・)からだ、私が全員帰ると固く誓ったからだ。全員が帰ると、同じ目標を掲げたからだ。

 

 

 全員がそれを達成させようとしたから、その中でも私が最も『強い意思』を持っていたからだ。

 

 

 

「上等ぉ……見せてあげるわ」

 

 

 見せてやろう、正してやろう、証明してやろう。ただ運が良かっただけじゃない、幸運だったわけじゃない、幸運の女神に愛されたわけじゃない。

 

 私はただ、ただずっと続けてきただけだ。何があろうと、どんな状況に陥ろうと。決してブレることなく、決して脇目を振ることなく、ひたすらに続けてきた。その積み重ねがようやく芽吹き、こんなにも綺麗な花を咲かせたのだ。

 

 その花に女神というヤツが見惚れただけ。見惚れるほどの美しさだったのだ、女神が目を奪われるなんて当たり前だったのだ、必然だったのだ。『幸運に恵まれただけ』、なんて言葉は見当違いだ。恵まれるだけのことをひたすらに続けて、必然的に実ったのだ。幸運艦(あんたたち)もそうだったはずだ。

 

 『強い意思』()がどれほどのものか、どれほど執念深い(・・・・)か、諦めが悪いか、往生際が悪いか。改めて、思い知らせてやろうじゃないか。

 

 

 その時、私の目に映ったのはミサンガ。オレンジ色の紐にヒロハノハナカンザシがあしらわれた方だ。そして、それを指し示す存在を、彼女(・・)が持つ花言葉を思い出した。

 

 

「飛翔……ね」

 

 

 彼女の言葉は『飛翔』。そして文字通り、彼女は飛翔した。このミサンガを送られてから、彼女はずいぶんと高く飛べるようになったようで、その証拠を先ほど私は見た。彼女は高く飛べるようになった。そして私は彼女の傍に居ると約束した。どうやら、置いてけぼりを喰らっているのは私のようだ。

 

 

 じゃあ、私も一緒に(・・・)飛んでみようじゃないか――――そう心の中で溢し、私は大海原へと飛び出した。

 

 

 

「左30!! 上34!! 距離18000!!」

 

 

 先ほど出来ないと言った回避行動と並行して座標特定、それをがむしゃらにこなしていく。はじき出した座標を無線に吠える様に飛ばし、その数秒後砲弾が降ってくる。それは私が指し示した座標ぴったりに、そこに居た重巡リ級を吹き飛ばした。

 

 なんだ、案外出来るじゃん。そんな軽口を心の中で叩きながら、私は続行する。その後、私が送り続ける座標に次々と砲弾が降り注ぎ、時に夾叉弾を、時に命中弾を出しながら着実に敵艦を減らしていく。

 

 その間私を狙ったル級も混乱しているようで、ひたすら回避行動に務めている。しかし、その視線は忙しなく動いており、その思考もまた回っているのだろう。

 

 恐らく、いや、確実にあのル級はこちらの魂胆を見抜いてくる。見抜かれるまでにどれだけ向こうの数を減らすかが勝負だ。

 

 

 そしてル級以外の敵艦を沈めた時、その動きが変わる。私への弾幕を分厚くしたのだ。それは回避行動に専念しなければ避け切れない程に。それを以て、私は魂胆が見抜かれたと悟った。

 

 

「右40、上35、距離6000」

 

 

 そして、その座標を金剛さんに伝えた。それは今まで向けていた方角とは違う、言ってしまえば出鱈目な座標だ。金剛さんの砲撃まで時間がかかる。その時間はせいぜい1分もない。この1分で、勝負を決めようと言うのだ。

 

 

 私は座標を伝えた後、ル級目掛けて突撃した。理由は単純、今しがた送った出鱈目な座標にル級を誘い込むためだ。

 

 ふと、私はあの時のことを思い出した。それは潮と一緒に行った航行演習だ。あの時私が見せた航行方法が、そっくりそのままル級との戦況に似ていた。だから行うべきこと、成すべきことが手に取る様に分かった。恐らく、夕立が縦横無尽に立ち回った時も、こんな感覚だったのだろう。

 

 だけど、やはり無理があった。全てをかわし切れず、ル級の副砲を喰らってしまう。一瞬、体勢が崩れる。だがやはり、いや当然と言ってしまって良いだろう。私は沈まなかった。

 

 そして、それを待っていたと言わんばかりにル級は全ての砲門を向け、砲撃を敢行した。先ほどは食らいながらも何とか踏みとどまった、だが今回直撃すれば無事では済まないだろう。

 

 だが当然、砲弾は私に当たることは無かった。ただ周りに水柱を上げただけだ。そしてそれを前にして、私がやるべきことは一つだ。

 

 

「あぁああああああ!!!!」

 

 

 叫び声を上げながら、目の前に立ち上がる水柱に突っ込む。一瞬身体が上に引っ張られるも、その感覚は水の壁を抜けると同時に消え去った。当然、私は水柱を突き破ってすぐに立ち上がる。

 

 そしてル級の位置を見る、先ほど私が指し示した場所にいた。それを見て、私は思わず笑みを溢す(・・・・・)

 

 どうだ、どうだ。こうも上手くいったぞ、こうも上手く事が運んだぞ。これが私だ、これが『強い意思』だ。見直したか、気付いたか、どれほど綺麗か思い知ったか。

 

 

 さぁ、これで終わりだ――――そう最後通告を向けて、私は再び突撃した。

 

 

 ル級は尚も金切り声を上げて砲撃をするも、その全てが見当違いだ。無意味に弾をばら撒き、ただ水柱を上げ、自身の思考を陥らせていく。

 

 私は悠々と彼女に接近する。その距離は瞬く間に縮み、目前となった。その瞬間、私は急ブレーキをかけてル級目掛けて盛大な水しぶきをかける。目くらましであり、これから私が成すことを悟られないように。

 

 水しぶきでル級が見えなくなってから、私は体勢を低くした。腰を据え、右手を前に突き出し、左手でその腕を支え、両の足で衝撃に備えるように踏ん張る。右手の先は親指と人差し指を意味有り気に立て、そのまま静止する。

 

 やがて水しぶきが消え、目を瞑っていたル級が現れた。その目はゆっくりと開かれ、そして私を見て目を丸くした。

 

 

 

発射(fire)

 

 

 そして無線の向こうから金剛さんの声が聞え、ほぼ同時にル級の背中から爆炎が上がった。それを受け、私はすぐにル級と距離を取る。そして、彼女に向けて敬礼した。

 

 理由はない、意味もない。ただ何となく、何故か申し訳なく感じたから。敵である筈なのにそう感じるんは可笑しいだろうか。そうかもしれない、何せ私は艦娘ではないのだから。

 

 

『次弾、装填完了。5(five)4(four)3(three)2(two)……お休み(good night)

 

 

 無線の向こうから、金剛さんのカウントダウン、そして同じような言葉が聞こえてきた。それと共に贈られた砲弾は悉くル級の身体に突き刺さり、その目から光が失われた。

 

 

 

 これにてキス島撤退作戦、その第二次作戦行動は完遂された。

 

 なんてことは無い。私が立案した作戦がそのまま採用され、こうして敵艦隊を撃滅した。複数の中破艦を伴った進撃であったために損害は甚大だが、辛くも轟沈者は出なかった。なし崩しに始まったとはいえ、よくここまで上手く事が運んだものだ。

 

 

 勿論、それは賭けた代償のお蔭だ。

 

 この作戦には敵を撃退する方法しかない。言い換えれば身の保証はノータッチなのだ。沢山の命を天秤にかけた、色んな想いをふるいにかけた。人を、モノを、天候を、時を、それら全てに手を出したのだ。

 

 決して一つにならないであろうありとあらゆる事柄を無理やりくっつけ、強引に縫い付け、つぎはぎだらけのちり紙に。鉛筆、ペン、クレヨン、筆、果ては刃物など何かを記し、刻み付けるものを用いて走り書いた、殴り書いた、塗りつぶし、絵具を落としただけ、刃を突き立てただけの。

 

 

 そんな『作戦(落書き)』なのだ。

 

 

「疲れたっぽーい……」

 

 

 緊張感皆無、脱力感全開の声を上げたのは夕立だ。足と肩、腕に痛々しい弾痕が見え、そこから少なくない血が見える。艦載機に撃ち抜かれたのだろうか。そんな彼女は両脇を北上さん、響に支えられながらこちら近づいてきていた。

 

 

 夕立―――『作戦(落書き)』における一投目だ。

 

 僚艦の中で最大戦力と言っても過言ではない存在。駆逐艦にはあるまじき高火力、動物並みの反射神経、強靭な体幹と絶妙なバランス感覚、他の追随を許さない圧倒的士気の高さ。彼女が備えていたもの全てを発揮してくれた。

 

 それに彼女は一度目の頓挫時、真っ先に動いた。真っ先に動いてくれて、そして時間を稼いでくれた。そのおかげで私たちは間に合った。同時に奇襲と言う最高の舞台を用意してくれた。非常に有利な戦況に持っていく光明となってくれた。

 

 

 彼女は、最大の功労者だ。

 

 

 北上さん―――――『作戦(落書き)』を整えてくれた人。

 

 本来の旗艦であり、私に旗艦権限を譲渡してくれた。そして私がぶち上げた作戦(・・)の色を選び、配色を決め、適量を持って現実味を帯びさせてくれた。

 

 大破進撃を上げる雪風に真っ向から反対、最後まで対立姿勢を崩さなかった。そして真っ先に動ける夕立に指示を飛ばし、なし崩しに始まった進撃を途中まで進めてくれた。彼女の中の理由はどうあれ、譲渡後は私のサポートに呈してくれた。私の指し示した座標へ的確に砲撃を加え、同時にデコイ(・・・)としても役立ってくれた。

 

 

 彼女は、影の立役者だ。

 

 

 響――――『作戦(落書き)』における最大の障壁を取り除いてくれた人。

 

 それ(・・)を実行する上で最大の壁であった艦載機の存在。大量に引っかかる(・・・・・・・・)であろうそれらを堅実な対空戦闘をこなしながらその砲撃を持って一網打尽にしてくれた。同時に彼女も北上さんと同じく的確な砲撃とデコイも担ってくれた。

 

 

 潮――――『作戦(落書き)』を描く私の『目』になってくれた人。

 

 唯一の自衛手段であった主砲を北上さんの言葉で響に譲渡し、自らは私の『目』になってくれた。己の身一つで敵前に飛び出し、砲撃も出来ない状態ながらもしっかり、正確に情報を送り届けてくれた。

 

 

 そんな皆が居て、私が居て、そしてあいつが『信頼』をくれたから。皆が同じ思いを抱き、それを私が指し示し、その思いを信じてくれたから。

 

 

 そんな『強い意思』を、何者にも負けない美しさを持った願い()を咲かせたからだ。

 

 

 

 そして、その向こうに目を向ける。そこに、彼女が立っているからだ。ボロボロの身体で、私たちから最も離れた所に立っているからだ。

 

 その顔には力ない笑みを浮かんでいる。まるで物語のハッピーエンドを見る読者のように、舞台上で幕を下ろす活劇を見る観客のように、自分には関係ないことだと諦めているように、他人事だと嘯くように。

 

 

 

 そして、その背後に大きな腕を振り上げるボロボロのリ級が見えた。

 

 

「雪風!!」

 

 

 私はそう叫び、艤装の速度を全速にした。トップスピードで飛び出した私の身体は驚くほどスムーズに海面に着水、そのまま雪風に迫る。だが、それと同時に深海棲艦の腕が真横に振り切られ、鈍い音と共に雪風の身体が真横にふき飛んだ。

 

 水切りのように海面を跳ねる雪風、その身体から無数の金属片が飛び散る。同時に真っ黒な液体、真っ赤な液体も。どれもこれも彼女の命を繋ぎ止めるものだ、辛うじて残されていたであろう、彼女の命そのものだ。

 

 

「ッ!?」

 

 

 私の叫び声に周りも反応し、いち早く砲口を向ける。が、雪風とリ級との距離が近過ぎるせいで撃つことが出来ない。それを受け、誰しもが私と同じく雪風に近付く選択をした。だがその遅れが致命的であり、彼女たちはこのレース(・・・・・)から早々に脱落した。

 

 

 参加者の殆どが脱落したこのレース。そこでデッドヒートを繰り広げるのは2つの影。

 

 1つは追撃せんとその腕を高らかに振り上げるリ級。その手には禍々しい魚雷があった。恐らく、先ほど振り切られた腕にも握られていたのだろう。殴打による衝撃で自分もろとも雪風を吹き飛ばそうとしたのだろう。運悪く起爆しなかったため、今度こそ己が使命を全うせんと猛然と向かっていく。

 

 もう1つは私だ。相対するリ級とは違い、私には何もない。リ級を屠る砲も、雪風を守る盾も、あるのは己が身一つだけだ。このまま突っ込んだところで、何が出来るわけもない。ただがむしゃらに、猛然と、無策で突っ込む馬鹿だ。

 

 

 だが、それがどうした(・・・・・・・)

 

 

 無策でどうした、馬鹿でどうした、敵を屠る術も持たず、雪風も助けられず、あいつの願いも叶えられない、何もすることが出来ない。そんな私だ、私だ、私なんだ、艦娘じゃない艦娘(仮)()なんだよ、『曙』なんかじゃない私なんだよ。『曙』の名を冠して艦娘になった、ただの人間(・・・・・)なんだよ。

 

 だけど、今この時、この状況、この瞬間、『私』がすることなんて、決まっているじゃないか。例え砲を持とうが、例え大破していようが、やることは、為すことは、出来る(・・・)ことは、もう既に決まっているじゃないか。

 

 

「っぁ!!」

 

 

 やがて、たどり着いた。先に着いたのは私だ。いや、着いたのではない。リ級とは別のゴールを見つけただけだ。雪風ではなく、雪風とリ級の間。猛然と雪風(ゴール)に向かうリ級の行く手を阻んだのだ。その間に割り込み、両手を広げ、迫りくるリ級の前に立ち塞がったのだ。

 

 リ級は死に物狂いで獣のよう叫び声をあげ、勢いよく腕を振り上げた。その手には魚雷が、私の命を刈り取るそれがある。振り下ろされてしまえば最後、私は木っ端みじんにされてしまうだろう。

 

 

 これが『私』の最期なら、潔く受け入れよう―――――そう思えた。

 

 

 

 

 だがその瞬間、奇妙な光景が見えた。

 

 

 そこは晴れ渡った空。清々しいほど青く、欠伸が出てしまうほど穏やかな、麗らかな日中の1コマ。そして、そんな晴れやかな空の下で佇む男が一人。あいつである。

 

 晴れやかな空に反して、その顔は無表情だ。無表情で、視線だけを下に落としている。その先にあるのは地面に突き立てられた石、その前には花が手向けられていた。そして、手向けられた花は全て同じ――――ミヤコワスレだ。

 

 不意に、あいつの顔が苦痛に歪み、そして顔を隠す様に帽子の深くかぶる。だが、隠せなかったのだろう。その頬には一筋の雫が流れる。

 

 

 あぁ、もう、なんでよ。ただ私がいなくなっただけじゃない、ちょっと願いを叶え切れなかっただけじゃない。私だけ戻れなかっただけじゃない。

 

 

 ―――――だから、もう、さぁ。

 

 

 

「そんな顔、しないでよ」

 

 

 無意識にそう漏れていた。そしていつの間にか私は片腕を前に突き出し、もう片方でその腕を支え、腰を低く据えていた。

 

 そして突き出した片腕に、黒く光る金属の塊(・・・・)があった。同時に、『ガコン』という音がその塊から聞こえた。同時に私は片眼を瞑り、狙いを定めていた(・・・・・・・・)

 

 

 

 次に私は――――――『曙』は大きく息を吸っていた。

 

 

 

「いっけぇー!!!!!」

 

 

 喉が、肺が、心臓がはじけ飛ぶかのような大声を張り上げ、()は叫ぶ。同時に、黒い金属の塊―――――『曙』の砲門が轟音、硝煙、爆風を起こしながら砲弾を吐き出した。突然の砲撃、何より回避という選択肢を放棄していたリ級にその砲弾を避ける術はない。

 

 やがて、まるで刈り取られたかのようにリ級の頭部が消えてしまった。その後方で海面に落ちる何か、そして頭部を失ったリ級の身体はフラフラと数m進み、やがて海面にその身を伏した。

 

 

 

 その後、静寂が訪れた。私の耳に聞こえるのは自身の荒い息遣い、そして潮風に吹かれて海面を滑る白波の音だけ。

 

 

「雪風ぇ!?」

 

 

 不意に背後から聞こえた声。北上さんだ。彼女は今しがた私が守った艦娘の名前を叫んだ。彼女が追い付いたと言うことは、他のメンツも同様ということだ。そして、彼女は駆け寄ってきたのだろう。その言葉を受け、私は後ろを振り向いた。

 

 確かに、そこに北上さんはいた。彼女だけではない、潮や響、夕立も。レースに出遅れた面子は全てそこにいた。

 

 だが、それだけ(・・・・)。出遅れたメンツだけ(・・)、彼女たちだけ(・・)だった。

 

 

 

 

 そこに居るはずの、雪風が居なかった。

 

 

 

「え」

 

「くそ!! 届けぇ、とどけぇ!!!!」

 

 

 私の声は必死の形相でそう叫ぶ北上さんの声で掻き消された。彼女は今、海面に這いつくばっている。這いつくばり、片腕を必死に海中に伸ばしている。そして、何か(・・)を掴もうとしている。

 

 

 その何かを私は海面の向こう側で――――下へ黒く、深く、何もかもを飲み込んでいく深海で見た。

 

 

 

 

 満足そうな笑みを浮かべながら沈んでいく(・・・・・)、雪風を。



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死神の 『贖罪』

『沈めたい』

 

 

 そう、何度口にしただろうか。気付いたら口にしていた、気付いたら言葉にしていた。その度に周りからおかしな目を向けられ、『どうしたの?』、『大丈夫?』、と声をかけられた。

 

 それが自然な反応だ。目の前に誰か(・・)を沈めたいと溢したものが居れば、誰だってそう声をかけるだろう。そう語り掛け、寄り添い、手を握ってくれる。そうだった、そうしてくれるはずだった。そうされるのが当たり前だと思っていた。

 

 だけど『貴方』はそうしなかった。いや、それ以上(・・)のことをしてくれた。だからあたしは貴方に付き従ったのだ、だからあたしは貴方の命令を忠実に遂行したのだ、だからあたしは貴方のような人を求め続けたのだ。

 

 

 『あたし』には貴方が必要だったんだよ、しれぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『雪風』

 

 

 強運艦、幸運艦、異能生存艦。途方もない海原を駆け抜け、数多の戦場を駆けずり回り、多大な戦功を挙げ、微々たる損傷のみで絶望的な状況を走り抜けた。『奇跡』の名を欲しいままにした稀代の駆逐艦。

 

 その名は数十年たった今でも語り継がれるほど人々の記憶に刻み付けられている。色あせることのないその功績に誰もが目を輝かせるだろう。ある人はそんな船をこの手で生み出したい、ある人はそんな船をこの手で指揮してみたい、もしかしたらある人はその名を背負いたい、そう思っているかもしれない。

 

 だが、そんなのまるっきり()だ。嘘、虚構、狂言、妄言、出来もしない(・・・・・・)ことをただ口にしただけの『音』に過ぎない。出来るはずがない、あり得ない、不可能だ。その嘘を確約させる言葉が湯水のごとく溢れ出てくる。とにかくそれは嘘だと断じてしまえた。

 

 その理由は『雪風(この艦)』が持つもう一つの異名、いや蔑称(・・)が物語っている。先ほどは途中で切ってしまったが、今ここで改めて続けよう。

 

 

 多大な戦功を挙げ、微々たる損傷のみで絶望的な状況を走り抜け、数多の最期を看取り(・・・・・・・・・)数多の命を取りこぼし(・・・・・・・・・・)数多の味方を沈め(・・・・・・・・)夥しい命の上で悠々と生を謳歌した(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

 それはただ『幸運』と言う綺麗事で己を隠しただけだ。その実全てを奪い去り、『不幸』というオブラートに包んだソレ(・・)を周りに押し付け、その命を以て対価とし、他者を蹴落として『生』を貪る不届き者。他者の命を弄び、踏みにじり、飽きたら容赦なく切り捨てる業深き者。雪風(それ)が本当の姿を現した時、人は口を揃えてこう言ったのだ。

 

 

 『死神』と。

 

 

 だが、この『雪風(死神)』と言うのは生真面目と言うか律儀と言うか、何故か今まで自分が切り捨ててきた命の全てを覚えていた。それがせめてもの償いとでもいうかのように、自らの行いを正当化するための道具にするかのように、取りこぼしてきた命全てを己に刻み付けてきた。

 

 

 そして、あろうことかその全てを押し付けてきたのだ。

 

 

 怒号、悲鳴、金切り声に呻き声、恨み、辛み、痛み、哀しみ、悲しみ、虚しさ――――人が持ちうるありとあらゆる感情をひとまとめにし、凝縮に凝縮を重ね、絞りに絞ったその一滴。常人では耐えきれないほどの、一人では抱えきれないほどのあらゆる『それ』をあたしに押し付けてきたのだ。

 

 艦娘になるとは艦と同化すること、つまり艦そのものになること。オカルト的なことを言えば艦の魂を自身に降ろすこと、自分自身を艦に譲渡すること、自らの存在を艦に書き換えることを示すだろう。

 

 勿論、その程度は各々によって異なる。人間であった頃の記憶が色濃く残っていたり、当時の性格がそのまま残っていたり、或いは記憶すらも塗り替えられてしまうこともある。人の頃に名乗っていた名前、『真名』は覚えているという一応の共通項はあるものの、一律に艦娘には艦の影響を強く受ける。だからこそその身に砲門を宿し、艤装を背負い、大海原を駆け抜けられるのだ。

 

 そしてあたしに降ってきた一滴。『死神』が犯した罪、重ねた業、捨て去った命等々、心を持たぬ艦が際限なく刻み付けてきたもの全てだ。それを押し付けられ、飲み込まされ、刻み付けられ、染め上げられる。いつしか自分が見えなくなり、あたしそのものが失われていく。完璧なまでに『雪風』になっていく。

 

 

 それを痛感させられた出来事(こと)、今も覚えている。

 

 

 あれはあたしが『雪風』になり始めて間もない頃。確か、次の訓練に向けて移動していた時だ。

 

 

 当時、あたしは『雪風』から押し付けられたそれによる弊害を被っていた。毎晩悪夢に苛まれ、幻覚に惑わされ、その度に悲鳴を上げ、その度に逃走を図り、やがて意識を失っては自室に担ぎ込まれることを繰り返した。そのせいで常に軍の人間があたしの傍に張り付いており、何かあればすぐに取り押さえられるようになっていた。

 

 

 ともかくそんな状態で移動していた時、3人の少女たちとすれ違った。

 

 

 一人は狐色のセミロングを大きなリボンでツインテールにまとめ、溌溂とした表情が特徴の少女。

 

 もう一人はピンク色のセミロングをリボンの飾りを施したゴムでポニーテールにまとめ、鋭い目付きが特徴の少女。

 

 最後の一人はやや銀色がかった黒髪のボブヘアーに左のこめかみ部分に金色の髪留めを付け、柔和な笑みが特徴の少女。

 

 

 彼女たちは和気あいあいとした雰囲気で歩いている。恐らく知り合い、友人だろう。そして、少女たちがここにいる理由なんて一つしかない。彼女たちも候補生、それか適性を持った少女。恐らくそのどちらかだろう。

 

 因みにあたしは彼女たちを、また彼女たちもあたしを知らない。今ここで初めて顔を見たばかりの、赤の他人だ。

 

 

 

 

姉さん(・・・)!!」

 

 

 

 その筈だったのに、あたしはそう叫んでいた。それもすれ違った後にわざわざ足を止め、あろうことか振り返りってけ寄ろうとした。しかしそれは軍の人に引き留められて叶わなかったが、駈け寄れない口惜しさに思わず叫んでしまったのだ。

 

 この行動を、あたしは知っている。同化以降、よく起こる『奇行』。自分の意志とは関係なく身体が勝手に動いてしまう、あたしではない『雪風』が起こしたものだ。恐らく『雪風』にとって彼女たちは、彼女たちが持つ適性の艦は何らかの関係があるのだろう。同化の影響が凄まじいためにまだ人間である彼女たちに反応してしまったのだ。

 

 だが、それはあたしだけ。向こうは何も分からない。それゆえに突然叫んだあたしに怪訝な顔を向け、逃げる様にその場を去った。

 

 

 そして数日後、あたしは再び彼女たちに出会った。それは最初に出会った時と同じ、訓練のために移動していた時だ。

 

 

「やっと会えた!!」

 

「ひっ」

 

 

 そう背後から声が上がり、その直後に後ろから頭を撫でられる。突然のことに思わず悲鳴を上げてその手を振り払い、あたしは前に飛び退いて後ろを振り向いた。

 

 そこに少女が立っていたのは狐色の髪、三人組の中でリーダー格だった少女。前に見た時はパーカーにTシャツ、膝下丈のパンツとラフな格好だったが、今は白シャツに黒ベスト、胸元に緑色のリボンという制服(・・)を纏っていた。

 

 彼女はあたしが払いのけた手を空中で遊ばせながら驚いた顔をしていたが、すぐに人懐っこい笑みを浮かべてあたしに話しかけてきたのだ。

 

 

久しぶり(・・・・)、雪風!!」

 

 

 その言葉。それ自体におかしなところは無かった、何処にも矛盾が無かった。強いて言えば、彼女とあたしが出会ったのは数日前で、数日顔を会わさなかっただけで『久しぶり』というのは少し大げさだとか、その程度だった。

 

 

 だけどその時、その時のあたしはそう感じなかった。むしろそれ(・・)しか感じられなかった。

 

 

 数日前に彼女から向けられたあの目は、確かに赤の他人に向けたものだった。恐らく、その時彼女は人間だった。適性があるだけの人間だった、ちゃんと赤の他人(・・・・)だ。

 

 そんな彼女が今、あたしに笑いかけている。あたしの頭を撫でようとした、あたしに声をかけてきた。まるで知り合いかのように、まるで姉妹(・・)のように馴れ馴れしく接してきたのだ。

 

 恐らく、今の彼女は艦娘なのだろう。適性検査を受け、制服を受け取り、その身に艦を宿した艦娘なのだろう。そして艦娘になったせいで、赤の他人(あたし)にこうやって声をかけているのだろう。

 

 もしこれが彼女とあたしではなく、艦娘と『雪風』であれば全てに辻褄がある。その艦娘と『雪風』は何らかの関係があったのだろう。そして、彼女もまた『雪風』の犠牲になったのだろう。だから久しぶりと言った、長い年月を経て少女の身体を介してようやく再会できたから、『久しぶり』と言ったのだ。

 

 つまり、今こうして親し気に接している彼女は―――――――陽炎型1番艦『陽炎』はあたしに―――――陽炎型8番艦『雪風』に笑いかけている。そこに人間(彼女)とあたしのことなんて、何もない(・・・・)のだ。

 

 

 その事実に対し、あたしは嫌悪感(それ)しか抱かなかった。

 

 

「いやぁ!?」

 

 

 

 不意に伸ばされていた彼女の手。それをあたしはそう叫んで払いのけていた。これは『雪風』ではない、あたしだ。あたし自身の意志で払いのけたのだ。あたしの行動に、今度こそ彼女は――――陽炎は目を丸くする。頬が引きつり、驚いた顔であたしを見つめる。それ以外、互いに何もしなかった。

 

 

「もぉ~急に走らんといてぇなぁ……」

 

「全く……陽炎(・・)、誰かいたんですか?」

 

 

 そんな陽炎の背後からそんな声が聞えてきた。その姿を見るまでもなく、『雪風』がその二人について教えてきた。恐らくは陽炎であった彼女と一緒に居た二人だ。

 

 ピンク髪のポニーテール少女は陽炎型2番艦『不知火』。

 

 黒髪のボブヘアー少女は陽炎型3番艦『黒潮』。

 

 その二人が固まる陽炎の背後から近づいてきていたのだ。あたしに近付いてきていたのだ。姉妹艦と呼ばれる艦娘が、『雪風』が叫んだ『姉さん』が、『雪風』の『姉』たちが。

 

 

 先ほどよりも更に強烈な『嫌悪感』を連れて。

 

 

 それからあたしは逃げた。陽炎に、他の2人に背を向けて全力で逃げたのだ。訓練なんか知ったことか、艦娘なんか知ったことか、『雪風』なんか知ったことか。

 

 

 あたしはあたし。『雪風』なんかじゃない、ちゃんとあたしなんだ。

 

 

 

 『艦娘(雪風)』なんかじゃない『人間(あたし)』なんだ―――

 

 

 

 結局、その逃走も今まで同様周りの人間に阻まれる。同じように捕まり、同じように連行され、同じように訓練の場に引っ張り出された。だが不思議とそれ以降、悪夢に苛まれることも幻覚に惑わされることも無くなった。

 

 それはあたしが『雪風』を否定したからだろう。あたしが『雪風』になることを拒んだからであろう。だから『雪風』はあたしから目を離した、『雪風』はあたしから手を引いた、『雪風』はあたしを見限った。

 

 

 もう、あたしが『雪風』である理由が、艦娘である理由がなくなってしまった――――そう思っていた。

 

 

 だけど、あたしから『雪風』を剥奪されることは無かった。素行不良、逃走癖、上官への反逆行為、おおよそ『不可』の烙印を押されることはとことんやり尽くした。一つ間違えれば反逆罪で逮捕されていたかもしれない。周りから見てもあたしは異端児だっただろう。何故こんな奴が艦娘なんかに、何故上はこいつを排除しないのか、そう思われていただろう。

 

 しかし、あたしは何時まで経っても残っていた。多分、あの『雪風』の適性を持つ人間なんて殆ど居なかったのだろう。その名が持つ伝説を、その『奇跡』を信じて手放さなかったのだろう。そのために苦渋を舐めても厄介者を引き留めていたんだろう。

 

 

 そう、思っていた(・・・・・)

 

 

 

「おめでとう、此処まで適合率が高いのは君が初めてだ」

 

 

 

 それは候補生の修了過程を終え、正式に艦娘となったとき。訓練所のお偉いさんから修了証書と共に向けられた言葉。それは学校の卒業式よろしく名前を呼ばれて前に進み、お偉いさんから証書と共に賜われたありがたいお言葉だったはず。

 

 その言葉を向けられた時、あたしは思わず口を開きかけた。もし止められなかったらその胸倉に掴み掛り、嘘を吐くなと迫っただろう。あたしは『雪風』じゃない、あたしは人間だ。そう心の中で何度も何度も叫んだ。だが、その実贈られた言葉はそれを完全に無視したものであり、後に送られてきた通知表という名の『事実』がそれを裏付けた。

 

 

 ―― 陽炎型駆逐艦8番艦『雪風』 卒業席次(ハンモックナンバー) 3位 『雪風』適合率 93% ――

 

 

 それが、あたしに下された結果。いや、あたしではない(・・・・・・・)。優秀な成績を修めた『雪風』候補生に、その名に刻まれた伝説を、幸運を、この闇に包まれた未来を照らす光となると、そう信仰される奇跡の駆逐艦『雪風』に下された結果だ。

 

 

 ここでもまた、『あたし』は無きモノにされたのだ。

 

 

 

 

 ……それが、あたしが痛感した時、あたしが無きものにされた時。『雪風』と書き換えられてしまった時だ。

 

 

 

 だけどそれでも、それでも一人だけ。たった一人(・・)だけはあたしを見てくれた。

 

 

 

 

「あの……雪風……です、よね?」

 

 

 それは卒業後に配属になった鎮守府(ここ)。しれぇとの顔合わせを終えて自室に戻ろうとした時に声をかけてきた一人の艦娘だった。

 

 栗色の短髪に独特な形をした黄色のカチューシャを付け、大胆に肩を露出させた巫女服のような制服。彼女はあたしに声をかけてきた時、何故か人懐っこい笑みを浮かべていた。その表情、そして声色からして、何処か好奇心に駆られているように感じられた。

 

 だけど、あたしは違った。何故ならその声で誰か分かってしまったから、その姿でその目的が分ってしまったから。その表情で、彼女が私に向けた感情を読み取ってしまったから。

 

 

 彼女は金剛型戦艦2番艦 『比叡』――――雪風がこの手で雷撃処分した艦。

 

 

 そして、彼女はその『償い』を要求しに来たのだ。

 

 

 その言葉を、声を、姿を、感情を向けられた時、あたしは逃げ出していた。それは今までとは違う、明らかに違う、疑いようもないほどに別の理由(・・)だ。

 

 

 雪風と比叡――――先の大戦では、雪風と彼女の関係はほんの一時だけ。ほんの一時だけだが、その一時が雪風に与えた影響(もの)は多大なモノであった。

 

 それはあの夜、あの海で行われた大夜戦。悪天候の中無理矢理進軍した彼女たちは、目と鼻の先程の距離で会敵した。確かその場には暁さんと夕立さんも居たはず。暁さんは探照灯の斉射によって会敵僅か15分程度で、夕立さんは単艦突撃を断行し約30分間暴れに暴れ回った後で、双方ともに水面に沈んでいった。

 

 彼女も例に漏れず敵艦との殴り合いを敢行し、敵側の探照灯に晒されその砲火を一身に受けた。主砲、副砲、機銃など、敵側がもつありとあらゆる攻撃手段を以て彼女を攻撃し、その全てを受け止めた彼女は巨大な黒煙を立ち上させながらも、ただ操舵機能を失ったのみに留めた。

 

 そんな彼女を曳航せよと命を受けたのが雪風たちだ。雪風はいち早く彼女の元に駆け付け粘り強く曳航を試みた。他の駆逐艦も合流し、皆で彼女を曳航すれば何とかなると、そう思っていた。しかし皆が揃った時、既に空は白み始めており、同時に敵の艦載機が彼女に止めを刺すべく意気揚々とやってきたのだ。

 

 我が方も艦載機を迎撃に向かわせた。確か、この時制空権確保を担っていたのは隼鷹さんだったか。彼女も懸命に力を尽くしてくれたが、元々敵の飛行場を砲撃するために移動していた所で鉢合わせした海戦である。近くに敵の飛行場があるのは当然であり、数の暴力に押し切られてしまう。同時にそれは彼女とあたしたち救助艦隊もその戦火に晒されることとなった。

 

 敵の戦火に雪風以下救助艦隊にも損傷が蓄積、そして操舵機能の喪失が致命的な要因となり軍は彼女の放棄を決定。彼女を助けに来た筈のあたしたちに、あろうことか彼女を雷撃処分せよと命令を下してきたのだ。

 

 だが、それは後に撤回された。そして撤回されるまで誰も雷撃を行わなかったために、この手で味方を沈めるという最悪の事態は免れたのだ。しかし、それでも放棄の決定は覆ることはなく、彼女が乗せていた船員は私たち救助隊に乗り換え、浮島となった彼女を残して私たちは撤退した。

 

 その後、同海域に再び乗り込んだものの、遂に彼女の姿を見ることはなかった。彼女は私たちに見棄てられたまま、たった一人で沈んでいったのである。

 

 戦争は命のやり取りだ。誰が殺られるなんて日常茶飯事であり、その一つ一つに感情を露にしていたら身が持たない。そう割り切ることを求められるため、決してこの選択は間違ってはいない。それに一度命令が下ったとはいえ、雪風が直接的に手を下した訳でもない。

 

 そう、どうしようもない。どうしようもない状況だった。彼女を放棄して撤退する以外、有力な選択肢が無かった。だから気に止むことはない。そう、何度も何度も言い聞かせた、言い聞かせたはずだった。

 

 だけどやはり、少なくとも、万が一でも救える状況であったのに。雪風はそれを無視して撤退してしまった、見殺しにしてしまった。

 

 

 雪風(あたし)が、彼女を沈めたのだ。

 

 

 

「捕まえました!!」

 

 

 だけど、またその声が聞こえた。先ほど逃げ出してある程度離れたことであたしが息を整えていた時、その声と共に後ろから抱えられたのだ。

 

 彼女は高速戦艦だが、さすがに陽炎型駆逐艦の速さには及ばない。だからあたしは振り切ったと思い込んでしまった。だが航続距離は彼女の方が上であり、それは身体能力に直結する。そのせいで遅れながらも彼女に追い付かれてしまった。それもこちらの体力が戻る前に、だ。

 

 

「は、離して!!」

 

「はぁーい、暴れない暴れない。戦艦の馬力に勝てるわけないんですから、大人しく連行されてくださいねー!!」

 

「連行って何処にぃ!?」

 

 

 抱っこの状態から脇に挟む抱え方に変えられ、まるで暴れる動物を抱える飼育員のような格好で歩き出した比叡さんにあたしはそう抗議の声を上げる。だがそれに彼女が意に介した様子はなく、「ハッハッハ!!」と笑いながらそのままとある場所に連れていかれたのだった。

 

 

 連れていかれたのは食堂だった。

 

 

 時間はちょうど夕食時、他の艦娘も各々食事を採っていた。そこに勢いよく扉を開けた比叡さん、その脇に抱えられたあたし。周りの目は一様にあたしたちに向けられたのは言うまでもない。ズカズカを進んでいく比叡さんとその脇でじたばたもがくあたしを周りは奇妙な目で見るものが殆ど―――――いや、そんな目で見つめるものは誰一人としていなかった。

 

 では憐れむような目か、違う。好奇心に満ちた目か、違う。これからあたしに降りかかる未来(地獄)を想像し同情を向けたのか、違う。どれもこれも違う。

 

 そこに在るのは『無』。『無』関心なのだ、関心が無いのだ。誰もがあたしたちを一瞥に、次の瞬間興味を失ったかのように目を逸らす。しかも、それは単純に興味がないとか、関心がないとか、そう言った類いのモノではない。

 

 『目を向けるほどの余力がない』―――――そう言った、類いのモノだった。

 

 

 そんな彼女たちが一様に口に運んでいるものは黒い液体、鉛色の塊、茶色の塊、そして黄土色の先端が尖ったもの――――弾薬だ。それを彼女たちは何の躊躇もなく口に運び、含み、咀嚼し、飲み込んでいる。

 

 誰もが同じ『無』表情で、同じ仕草で、同じ行動をひたすら繰り返しているのだ。まるで機械のように、まるで家畜のようにただ目の前にある食事とは呼べないものを摂取していた。

 

 

 

それが、『補給』と呼ばれるものだった。

 

 

 

 

「……」

 

 

 その光景にあたしは暴れるのも忘れて唖然とするしかなかった。急におとなしくなったあたしを適当な席に座らせ、比叡さんは何処かに行ってしまう。今、まさに逃げ出すチャンスなのに、あたしの身体は動かなかった。

 

 

 確か……確か、艦娘は3つ(・・)のことが可能になると習った。

 

 1つは艤装を背負い、大海原を駆け抜け、その身から砲身を具現化して敵を滅ぼすことが出来る。深海棲艦に対する唯一の攻撃手段を有すること。

 

 2つは戦闘による損傷を受けても専用の修復液とある程度の時間を使えれば完治すること。例えて足をもがれようが、全身やけどを負おうが、呼吸一つ、首の皮一枚繋いでさえいれば何事も無かったかのように治ってしまうこと。

 

 3つは食事を必要としない。勿論何かを摂取しなければ衰弱してしまうのだが、その『何か』が人間(あたし)たちが食べていた食材ではない、今こうして彼女たちが口にしている資材でも賄えてしまうこと。

 

 

 それこそが、艦娘になった現実を突き付ける根拠たちだ。

 

 

「お待たせしました」

 

 

 そんな折、頭上から比叡さんの声が聞えた。見上げた先には先ほどの笑顔から一転して何処か真剣な表情を浮かべる彼女、その両手にはトレイがある。彼女はその表情のまま、あたしの前にそれを置いた。

 

 トレイの上には、やはり周りと一緒。弾薬、燃料、鋼材、ボーキサイト、資材だ。あるものは平皿に無造作に転がされ、あるものは深めの皿に注がれ、あるものは直に転がされ、そこになけなしの箸やフォーク、スプーンがある。

 

 到底『食事』と呼べるモノではないこれらを家畜のように直接口を付けるのを避ける様に、最低限のラインをギリギリ超えないように。むしろ既に超えているものをどうにかして誤魔化そうとするように。

 

 

 その子供騙しな誤魔化し様が。滑稽で、愚かで、惨めで、みっともない、人間(あたし)人間(あたし)だと思い込む艦娘を―――――――

 

 

 

 『お前は艦娘(兵器)だ』―――――先ほど、司令官(・・・)から投げかけられた言葉であった。

 

 

 

「    」

 

 

 

 だから、だから。次の瞬間、あたしはその手を払いのけていた。その時、何かを口走ったか、どんな暴言を吐いたか、どんな醜い表情を向けたか。

 

 

「    」

 

 

 分からない、分からない。自分がやったことなのに、自分が起こしたことなのに、自分が抱いた感情なのに。その全てが理解できなかった、把握できなかった、察することが出来なかった。

 

 

 

 

 

「良かったぁ」

 

 

 そう払いのけられた比叡さん(・・・・)が、安堵の表情を浮かべるのを。

 

 

「ぇ」

 

「『あなた』は、あの雪風じゃないんですね」

 

 

 

 その言葉、その表情に目を見開く。だけど、それは同時に視界の殆どを覆い尽くす前髪によって阻まれた。頭上に置かれた手がくしゃりとあたしの前髪を乱したからだ。

 

 

 その言葉、その手、その温もり。どれもこれも、何もかも、与えられたもの全て。初めてだった。

 

 

「今まで会った雪風たち……まぁ訓練所でですが。彼女たち全員、初対面の私に最初『ごめんなさい』って謝ってきたんですよ。その後はもう謝罪のオンパレードで……『気にしてない』って言っても聞かなくて、会うたびに頭を下げられて、一緒に訓練しようものなら庇われて、無茶されて、やめてって言うと泣きそうな顔を向けるし……とにかく大変でした」

 

 

 彼女はそう話しながら、本当に疲れた表情を浮かべる。その様子から、こちらを気遣っての言葉ではなく、本当に辟易していると分かった。

 

 他の雪風はそんなことを……いや、当然だ。彼女たちも、あたしと同じように雪風から『あれ』を押し付けられたのだ。『あれ』に蝕まれている中で見殺しにした彼女が目の前に現れればそうなるだろう。

 

 しかもそれが自身を蝕むものを和らげる罪滅ぼし()であれば、なりふり構わずやるだろう。もしあたしが雪風を受け入れていたら、同じようにしただろう。

 

 

 

「だから今日うちに雪風が配属されると聞いたとき、正直憂鬱でした。ここは只でさえ酷い環境なのに更にあの(・・)雪風が来るなんて……って、本人を前に言うことじゃないですね、ごめんなさい……でも、あなた(・・・)で良かった」

 

 

 彼女はそう言うと頭を下げた。その姿にあたしは、雪風は動いた。彼女に頭を上げろと言おうとした、下げられた頭よりも更に深く頭を下げようとした。だが、それはあたしの頭に置かれている彼女の手が阻んだ。

 

 

「それにあれは雪風(あなた)のせいじゃない、私自身が選んだ結末です。むしろあなたはそれを覆そうと必死に頑張ってくれたじゃないですか。この比叡、粉骨砕身してくれたあなたに感謝こそすれ、恨むなんて恩知らずじゃありませんよ。それも我々帝国海軍の誇り、最上級武勲艦である駆逐艦『雪風』を……そして何より、『雪風』は『比叡』を残してくれた(・・・・・・)じゃないですかぁ」

 

 

 そう言って、彼女はその言葉を続けた。

 

 

「よくぞ最後(終わり)まで走り切ってくれました、よくぞ比叡()を覚えていてくれました、よくぞ比叡()の最期を後世に伝えてくれました。歴史の波に消えてしまうはずだった比叡()を、よくぞ刻み付けてくれました。比叡()たちは本当に、本当に心の底から感謝しています。だから(・・・)―――」

 

 

 そこで言葉を切った比叡さんはあたしの頭から手を離し、今度は両手であたしの顔を包み込むように触れ、その指であたしの目を、そこに溜まった涙を拭き取る。

 

 そのまま視線を――――頑なに彼女と視線を合わせようとしなかったあたしの視線を持ち上げ、真正面から微笑んだ。

 

 

 

 

「ありがとう、雪風」

 

 

 

 彼女はそう言葉を続けた。そして頬を撫でる。割れ物を触れる様に、愛しい人に触れる様に、優しく、柔らかく、暖かく、撫でてくれた。

 

 その言葉は、()に向けたものだろうか。その表情は、どれ(・・)に向けたものだろうか。その思いは、どっち(・・・)に向けたものだろうか。

 

 

 

 そのどれでもない両方(・・)へ。あたし(雪風)たちへ向けたものだ。

 

 

 

 

「もう、泣き虫なのは一緒(・・)ですねぇ」

 

 

 

 そんな言葉が、頭上から聞こえた。何故頭上からか、何故つい先ほどまで視界にいた彼女の姿が見えなくなったか。

 

 

 

 その理由を裏付ける様に、食堂に一つの泣き声(・・・)が響いたのだ。

 

 

 

 

「しっかしこの髪……流石に長すぎますね」

 

 

 胸の中でわんわん泣き叫ぶあたしの髪を弄びながら、比叡さんはそんなことを呟く。先ほど視界を奪われたのも、この好き放題にさせていた前髪のせいである。

 

 そして記憶にある中で、あたしが髪に目を向けたのはこの時が初めてだろう。恐らく艦娘になってから一度も気に掛けたことはない。とは言っても伸ばしっぱなしと言うわけではなく、誰かが適当に切り揃えていたのだが。

 

 

「取り敢えず前髪をこうして、量を梳いて、ちょっとまとめて軽くウェーブもかけて……ん~、悩むなぁ」

 

「……な、何か、楽し、そう、です、ね?」

 

 

 比叡さんの何処か楽し気な声に、あたしは涙でぼやけた目を向けつつそんな問いを向ける。すると、ぼやけた中で比叡さんはキョトンとした顔を浮かべ、次に砕けた笑みを浮かべてきた。

 

 

 

「えぇ!! だって私、美容師になるのが『夢』なんですから!!」

 

 

 

 そんな呆気からんとしたことを、彼女は口に出したのだ。

 

 

 その言葉にあたしは、そしてその場にいた他の艦娘全員が動きを止めた。同時に、全員が可笑しなことをいう彼女に目を向けたのだ。

 

 そうだろう、そう見るだろう。だってあたしは言われた。そして周りも、何より彼女も言われたはず。艦娘は人間ではないと、艦娘は兵器だと、そう言われたはずだ。

 

 

 

「この戦争で一度は終わっちゃった夢だけど、諦めたわけじゃない。いつか、この戦いが終わったら(・・・・・・・・・・)もう一度勉強して美容師になる、それが私の『夢』――――――いや、『目標』かな? まぁ、この戦いが終わったらだけどね」

 

 

 それなのに彼女は『夢』を語った。兵器では絶対に持ちえないであろう、人でしか持ちえないであろう『夢』を。

 

 そして、彼女は()を見ていた。この状況ではないその先を――――戦いの終わりを、戦争の終結を見ていた。その世界で自分が歩んでいく未来を捉えていたのだ。

 

 そして何より、そう楽しそうに話す彼女の口調は先ほどよりも少しだけ砕けていた。それは比叡さん(・・・・)ではない、戦艦比叡になった一人の女性(・・・・・)としての言葉だったのだろう。

 

 だからこそその言葉に(しん)があった、(こころ)があった。()からその夢を、その目標を掲げていた。

 

 彼女は誰よりも、何よりも、『人』であった。人であることを否定されてもなお、劣悪な環境下でもなお、常人なら狂ってしまうだろう倫理観の欠落したこの戦場であっても、彼女は常に人で在り続けた。

 

 

 そして彼女は、自身を依り代とした戦艦『比叡』をも受け入れていた。

 

 

 

『ねぇ聞いて下さい!! 今日、初弾で命中弾を出しました!! しかもそれで敵を沈めたんです!! 凄くないですか!!』

 

 

 比叡さんが帰投した際に食堂にいたあたしに真っ先に駆け寄り今日の戦果を自慢げに話す彼女。

 

 

『よし、今度は見捨てられないように頑張りますよぉ~!!』

 

 

 敗走した敵艦を追撃せよとの下知を受け、日が傾き始めた空を仰ぎながらそう声高に吠える彼女。

 

 

『雪風? どうしま……そう、あの子が……ほら、こっちに来てください。一つ、歌でも歌ってあげましょう』

 

 

 廊下をフラフラしていたあたしを見つけてそう声をかけ、子守唄を口ずさみながら泣き声を漏らすあたしと一緒に居てくれた彼女。

 

 

 

 自身が挙げた戦果に一喜一憂する価値観(ものさし)

 

 自身を奮い立たせる理由(わけ)

 

 あたしに安らぎを与えるために用いた(もの)

 

 

 それら全て、戦艦『比叡』が持っていたものだ。

 

 

 それを彼女は敬遠することも否定することもせず、彼女の一部として完璧に落とし込み、振り回されることなく乗りこなしている。手足のように『比叡』という船を操っているのだ。

 

 それがどれほど難儀なことか、あたしを見れば分かるだろう。

 

 艦娘が人間であろうとすれば、必然的に艦であることを否定してしまう。少ないながら過ごしてきた人生の中に全く別の心が宿るのだから当然だろう。

 

 しかし最終的には艦に同調する、悪い言い方をすれば艦に侵されてしまう。ある意味、あたしみたいになおも否定し続ける存在も珍しいのだが、比叡さんはそれ以上に稀有な存在なのだ。

 

 彼女はそういう『才』を持った存在だ。それは人として、艦娘として、そのどちらに対しての。完璧に乗りこなし、隔たりなく両立させ、そして周りにも多大な影響を与えるほどの。まさに『天賦の才』と呼べるほどの。まさに人として、艦娘として、完璧な存在だった。

 

 

 

 だが神様は、残酷な女神様(・・・)は、完璧な彼女にそれ(・・)を与えた。

 

 

 

 

 『運命』を。

 

 

 

 

 その日(・・・)、あたしたちは沖ノ島海域にいた。

 

 

 つい先日、この海域で赤城さんが没した。それを知った加賀さんが倒れ、両足が使えなくなった。それからさほど日が立っていない頃。赤城さんの、そして捨て艦として散っていった駆逐艦たち(みんな)の命と引き換えに手に入れた情報―――――『敵空母群が多数展開している』を元に決行された『第二次(・・・)沖ノ島海域攻略作戦』。

 

 空母ヲ級flagship率いる機動部隊に対して、こちらは索敵に優れる駆逐艦、一撃で空母を中破に追い込む火力を持つ戦艦の水上打撃部隊を送り込む。

 

 駆逐艦の索敵により海域の全体像を浮き彫りにし、各敵空母群の配置を把握。更に敵の索敵範囲外から遠距離砲撃、混乱する中に突撃し砲雷撃によって更なる被害を与えることを目的とした。

 

 

 あくまで攻略ではなく敵戦力の減少、及び敵制空権の縮小、あわよくば奪取を目的とした作戦である。

 

 

 その作戦、結果だけ言えば『成功』だ。

 

 

 敵空母群を撃滅とまではいかないものの主力空母に損害を与え、敵の立て直しに時間を要する状態にさせた。そして何より海域に点在する渦潮の存在を確認。広大な海域を誇る沖ノ島海域で貴重な燃料、弾薬を投棄しなければならない渦潮の存在は厄介そのものだ。それを早々に発見できたおかげで、道中の無駄な消費を抑えられた。

 

 しかし『渦潮を発見した』ということは、裏を返せばそれだけ渦潮に引っかかったということだ。渦潮に引っかかれば乗り越えるために無駄な燃料を費やし、身軽になるために貴重な弾薬を投棄しなければならない。その日は運が悪い(・・・・)ことに渦潮に何度も何度も引っかかり、その度に貴重な資材を投棄したのだ。

 

 雪風のように身軽な艦娘はそこまでの量を投棄する必要はないが、比叡さんはそれ相応の量を投棄しなければならない。また戦闘に置いて戦艦は主戦力であるため、弾薬の放棄はそのまま艦隊の戦力低下を招く。更に言えば、戦艦は敵の攻撃を受け止めることを前提にしているため、耐えうるだけの装甲を供えている。避けられるならそれに越したことはないが、攻撃力を低下させてまで確保する必要もない。

 

 故に、彼女は渦潮を踏むごとに燃料を優先的に投棄した。そして道中の戦闘で彼女は減少した燃料を節約するために回避ではなくダメージコントロールで敵の攻撃を防いだ。それ故に、彼女の装甲は既に穴だらけであった。

 

 そして、敵機動部隊との戦闘。彼女は砲戦を駆使して敵を屠り続けた。しかし幾多の戦闘、渦潮のせいで艦隊全体の回避力が著しく低下していたため、彼女を含め僚艦たちの損害が酷くなってくる。小破のものはおらず、殆どが中破、または大破に近い中破だ。中には弾薬が底を尽き、ただデコイとして走り回る者もいる劣悪な状態だ。

 

 

 

「撃ちます、当たってぇ!!!!!」

 

 

 その中で、彼女の主砲が火を噴く。その砲弾は音速を越えるスピードで飛んでいき、空母ヲ級flagshipに突き刺さり爆発を起こした。損害は中破、彼女はそれ以降艦載機を発艦できなくした。だが、そこから放たれた艦載機が比叡さんを強襲、彼女もまた大破に追い込まれた。

 

 

 しかし敵も相応の損害を被ったためにそのまま撤退していき、そこで戦闘は終了した。あわよくば追撃を、という無茶なことをいうものは誰も居ない。誰もが作戦完了を感じ取った。旗艦が無線を飛ばし、しれぇに作戦完了と損害を報告し、その間あたしたちは帰投の準備にかかる。

 

 

「ははっ、無茶しちゃいました……」

 

 

 苦笑いを浮かべながら、彼女は()と共にそんな言葉を吐き出した。その身体はボロボロで、艤装のあちこちから黒煙が噴き出しており、足元の艤装はつんざくような金切り声を上げている。主砲もひしゃげ、攻撃手段は残っていない。あるのは彼女の脇に身体を滑り込ませ、今にも倒れそうなその身体を懸命に支えている雪風(あたし)だけだ。

 

 

「もう……無茶しないで下さいよ」

 

「いやぁ、まぁそこはご愛敬ぉ、ってて痛ててててて、わわッ脇腹抓らないでぇ~お願いぃ!!」

 

 

 ボロボロの比叡さんに肩を貸しながら、あたしは半目で彼女をにらむ。その視線にいたたまれなくなったのか、彼女は苦笑いを浮かべながら視線を逸らす。そんな彼女の脇腹を抓りながら、あたしは安堵の息を漏らした。

 

 

 

 誰も犠牲にせずに帰投できそうだ、と。

 

 

 

 

「進撃、ですか」

 

 

 

 だが、それは辛くも崩れ去った。その原因たる言葉を発した存在は―――――しれぇとの通信を行っていた旗艦だ。彼女は顔面蒼白で茫然としていた。彼女自身、そして私たちの誰もがもう帰投すればいい、という頭でいたからだ。だから、まさかここからまた進撃せよと言われるとは思っていなかった。まさかの事実に、あたしたち僚艦は彼女に近付いた。

 

 

「待ってください!! 私たちは敵空母群に損害を与えました!! もうこれ以上本作戦を続行する意味が……は? 撤退した空母が残っている? それを沈めれば作戦完了とする? そ、そんな無茶な!! 私たちにはもう燃料も弾薬も無いんです!? こんな状態で進撃すれば敵に損害を与えるどころか、下手したら全滅します!! 私たちに『死ね』と言うんで……ぇ?」

 

 

 無線に向かって声の限り吠えていた旗艦は、不意に声を落とした。その顔は先ほどの激昂から一変鳩が豆鉄砲を喰らったよう顔に、次にその顔に絶望が浮かんだ。

 

 

 

()……だった?」

 

 

 そして何故彼女がそんな顔になったのか、その口からその理由が発せられた。それと同時に、彼女の手から無線が滑り落ちる。

 

 

「っと」

 

 

 それを、比叡さんが寸での所で掴んだ。そのままイヤホンを耳に入れ、無線に向けて声を発した。

 

 

「司令、説明してくれますか?」

 

 

 至って冷静な声色で発せられた比叡さん。その顔も冷静であった。しかし無線を握るその手には力が込めらており、その下に激しい感情を湛えることを示していた。

 

 

 そして彼女の口を通し、しれぇが立ち上げた本当(・・)の第二次沖ノ島海域攻略作戦。その全容が明らかになった。

 

 

 先ずあたしたちは先行部隊(・・・・)であり、目的は最初に述べた通り敵戦力を出来る限り減らすこと、そして同時に敵の目を引き付ける(・・・・・・・)ことだ。空母群に敢えて航空戦力皆無な水上打撃部隊を向かわせたのも、敵が目の前の餌に食らいつくと目論んでいたためだ。

 

 そして美味しい餌(あたしたち)が海域の深部まで進み出来うる限り敵の目を引き付けたら、満を持して本隊(・・)を出撃させる。第一次で持ち帰った情報の中に、最深部で待ち受ける敵主力部隊は空母群ではなく戦艦を中心とした部隊とあった。

 

 ここに空母機動部隊(本命)をぶつける。旗艦は加賀さんである。練度は言わずもがな、其処に赤城さんの仇を討つと、一航戦の名を轟かせると息巻いているために士気も高い。それをぶつけることでこの海域を攻略する。

 

 

 先行部隊(あたしたち)を―――――『囮部隊』が敵空母群を引き付け、その隙に本命を送り込み海域を攻略する。それがしれぇが描いた青写真(・・・)

 

 そしてこの意図は囮部隊(あたしたち)、そして本隊(加賀さんたち)も伝えられていない。あたしたちが知り得たのもたまたまだ。

 

 もしこのままあたしたちが沈めば加賀さんたちは先行部隊が全滅したと知るだけで、ただ(・・)討つべき仇が増えるだけ(・・)で終わってしまう。まして彼は大破進撃を平気で行うため、結果的に彼への評価は変わらない。誰もその意図を察することが出来ずに、真実は闇に葬ってしまえる。

 

 もしこのまま生き残ったとしても、この事実を流布したところで意味はない。そういう手を使うんだという認識だけで、彼自身は気にも留めないだろう。もうこの作戦は完遂しかかっている。

 

 

 

 あたしたちが全滅しようがしまいが、既に(・・)青写真は現像しているのだ。

 

 

 

「―――――だそうです」

 

 

 そこまで話し終えて、比叡さんは一息ついた。周りの艦娘は全員、その場でへたり込んでいる。今まで必死に戦い、激戦を潜り抜け、ようやく帰れる―――そう思っていた筈。しかし、其処に叩き付けられたのは大破進撃、そして元々自分たちは捨て駒だったこと、自分たちの命すらしれぇに握られ、そして既に(・・)捨てられていたと言う事実。それだけで、彼女たちの心を折るには十分だった。

 

 

 

 

「では端的に聞きます。進撃か撤退か、どっちが生き残れますか(・・・・・・・)?」

 

 

 だけど彼女は、比叡さんはそう問いかけた。その言葉に、その姿に、誰もが目を見張る。そんな視線を受けてもなお彼女はその姿勢を崩さない。その表情を変えない。その瞳を変えない。

 

 

 彼女はこの絶体絶命な状況でも、『生きる』ことを選んだのだ。

 

 

「まだ私たちの任務は完了していません(・・・・・・・・)。私たちが生き続ければ、それだけ敵の目を引き付けられます。それだけ本隊が敵を殲滅する可能性が上がるじゃないですか。私たちは『生きたい』、司令は『この海域を攻略したい』、目的(・・)は違えど進んでいる向き(・・)は一緒です。本隊が完全勝利できるよう、せいぜい無様に逃げ回って見せますよ。まぁそんなこんなで……とっとと教えろ(・・・・・・・)

 

 

 恐らく最後の言葉(其処)で限界だったのだろう。彼女は敬語を取っ払い、沸き上がる憤怒を込めてその言葉を吐く。同時に平静を装っていた表情を崩し、その下にあった憤怒を表した。その表情に、へたり込んでいた艦娘たちの顔が変わる。

 

 

 

 絶望の淵で泣き崩れていた表情(モノ)から、『生き残ってやる』という執念に満ちた表情(モノ)に。

 

 

 

「なるほど、ではまた(・・)

 

 

 そしてその返答を受け取ったのだろう。比叡さんは短くそう返しながら通信を切った。そして無線から手を離し、あたし達を見据える。その視線の先には、生き残る覚悟を決めた僚艦たちが立っていた。

 

 

「司令から、生き残るなら進撃(・・)が良いと言われました。本隊は既に母港を発っており、私たちの進撃ルートから外れる様に進んでいるようです。仮に撤退した場合、ルートが被らなければ彼女たちと合流することは難しく、護衛なしでの撤退になるだろう。それなら同じゴールを目指した方が合流できる可能性は高く、空母の索敵にも引っかかりやすいだろう、と。その代わり敵地に進撃するわけですから、会敵する可能性は必須でしょう」

 

 

 彼女の口から投げかけられた選択肢。それはしれぇの見解を元にした提案だった。私たちの死を織り込んだ作戦を立てながら、その提案は意外にも合理的であった。彼からすれば、私たちが沈もうが沈むまいが状況に大した変化はないため、はっきり言ってどうでもいいからだろう。

 

 

 

「……このまま留まっているのは?」

 

「私たちは既に敵に発見されており、そして空母を逃がしています。此処に留まるのは悪手でしょう」

 

「じゃあ進撃……か」

 

「この状況で敵に突っ込んでどうするの!? 絶対撤退です!!!!」

 

「で、でももし合流出来なかったら……」

 

 

 

 僚艦たちが口々に議論を展開する。進撃か撤退か、意見は半々だ。比叡さんは自身が口を挟むと数に関係なく結果が傾いてしまうため、敢えて黙している。やがて議論が堂々巡りに落ちた時、周りの視線があたしに向けられた。

 

 

 

「雪風は、どっちがいいですか?」

 

「え、あ、その……」

 

 

 急に問いを向けられ、いや選択を迫られたあたしは言葉を濁す。

 

 正直、どちらも選択したくない。勿論、この言葉であたしたちの命がかかっているからだ。

 

 そして何より、あたしは『雪風』だ。

 

 こういう場面を幾度となく潜り抜け、そして生き残った『奇跡の駆逐艦』。その名前が一人歩きしているだけで、(あたし)にはそんな大層なものはない。むしろ、あたしの決定がそのまま正解にされかねない。

 

 

 何せ、彼女たちは知らないからだ。その下に、夥しい(ソレ)が横たわっているのかを。

 

 

 

「雪風」

 

 

 不意に名前を呼ばれた。顔を上げる。そこに居たのは比叡さん。その顔は真剣そのもの。だけど柔らかい。だけど暖かい。そして、親愛に満ちた顔をしていた。

 

 

『あなたは、あの雪風じゃないんですね』

 

 

 同時に、彼女の言葉が浮かんだ。

 

 

 そう、そうだ。あたしは雪風じゃない。『あの雪風』じゃない。自身の命と引き換えし沢山の僚艦を沈めたわけじゃない。沢山の命を手放して、逃げることしか出来なかった、憐れな艦ではない。

 

 

 ただ一人、ただ一つ。あたしはあたしだ。この選択は誰かを殺すためではない、誰かを生かすためだ。そして、これはそれを示すのだ。

 

 

 雪風ではなく、雪風としてではなく。

 

 あたしはあたしとして、あたしが歩んでいくため。

 

 

 そう、これこそが艦娘(あたし)としての第一歩なのだ。

 

 

「撤退を、支持します」

 

 

 そう決意し、意気揚々と踏み出した一歩。

 

 

 

 その一歩を以て、あたしはそれで自分の存在を認識した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「嫌ぁ、嫌ぁ!!! 沈みたくない!! 沈みたくない!! 誰か助―――――」

 

 

 そう叫んでいた彼女が、夥しい砲弾の雨に飲み込まれた。

 

 

「くそ、クソォ!! やっぱ撤退するんじゃなかった!!! 糞がァ!!!!」

 

 

 そう喧しく喚き散らした彼女は胸にあらん限りに魚雷を抱えて敵艦隊に突撃、その身を散らした。

 

 

「ハハッ、ハハッ、やっぱり無理だったんだ!!!!! やっぱり生き残るなんて出来なかったんだ!!!! わたしたちはもう死ぬ運命だったんだ!!!! ハハッ……痛ゥ、痛い、痛いよォ……痛いよォ!!!!! やめてぇ!!!!」

 

 

 そう狂ったように笑い声を上げていた彼女は数隻の駆逐ロ級に囲まれ、その身体を文字通り(・・・・)食らいつかれ、何時しか声が聞えなくなった。

 

 

「あんたのせいだ!!!! あんたが撤退なんか選んだから!! だからこうなった!!!! やっぱり進撃した方が良かったんだよォ!!!!!!」

 

 

 そう、進撃を支持していた彼女は自身を引きずり込んでいく艤装の重みに抗いながらあたしにそんな罵声を浴びせ、やがて水面にその消えていった。

 

 

 

 

 数多の悲鳴、断末魔、罵声、怒号、恨み節――――全て聞いた、聞いてきた。()も、()も、きっと未来(・・)も。同じだろう、同じに決まっている、どうせ一緒に決まっている。

 

 

 やっぱり無理だった、やっぱり一緒だった。やっぱり変えられなかった、抗えなかった、覆せなかった。ようやく巡ってきたものを、ようやく挽回できるはずだったものを、またもや同じことを、同じ愚を、同じ結末を辿ってしまった、辿らせてしまった、迎えさせてしまった。

 

 

 

 

 

 

「私を置いて、行ってください」

 

 

 彼女も―――――――――比叡さんもまた、同じ結末を迎えてしまった。

 

 

 

 彼女はもう助からない。先ほどの敵襲によって航行機能を失い、燃料が漏れだし、弾薬もそこを尽いた。もう彼女が出来ることはない。ただその身を水面に晒し、やがてやってくるであろう『死』を静かに待つだけ。

 

 彼女を曳航しようにも、当に僚艦たちは海の藻屑と消えた。そして今もなお、加賀さんたちは見つからない。索敵機すら見つからない。こちらは索敵機を飛ばせない。仲間を呼ぶことも、敵から逃げることも出来ない。

 

 

 

 何から何まで、あの夜と一緒だ。

 

 

 

 いや、あの夜(・・・)とは違う。

 

 あの夜は、今まで(・・・)は、ここまで被害を出さなかった。艦隊の壊滅はあっても、雪風の他に帰れた艦も居た。雪風以外全滅なんて、今までの戦い(・・・・・・)ですらならなかった。

 

 

 そう、『今まで』とは違う。『今まで』よりも酷い、『今まで』よりも残酷で、『今まで』よりも夥しい命が散っていった。

 

 

 

 

 

 そして『今』――――――その際たる命が一つ、『今まで』と同じように(・・・・・)失われようとしている。

 

 

 

 

「雪風ぇ? 早く行ってください。あなただけでも、生き残ってください」

 

 

 そう促す比叡さん。彼女は笑っている。ちゃんと、しっかり、笑顔を浮かべて。そこに偽りはない、憤りも、後悔もない。あの時と同じように、腹をくくった比叡(彼女)がそこにいた。

 

 

 それを前に、あたしは立ち尽くした。今まで(・・・)と同じように立ち尽くしていた。雪風(彼女)が浮かべていた表情を、あたしも浮かべているのだろうか。それはどんなものか、どれほど酷いものか、どれほど醜いものか。それを知るのは向けられている比叡さんだけだ。

 

 

 そして、あたしの手が動いた。その姿に比叡さんは一瞬驚いた顔を浮かべるも、やがて何処か悲しそうな表情に変え、こう口に出した。

 

 

 

そこまで(・・・・)……しなくていいん、ですよぉ……?」

 

 

 そう語り掛ける比叡さんに向け、あたしは腕を突き出していた。いや、腕ではない。正確にはそこから伸びる黒々と光る砲身だ。その砲口を彼女に向けているのだ。

 

 

 

 『見捨てないで』

 

 

 この言葉は比叡さんが良く口にしているものだ。それは比叡が沈む際、誰にも看取られずに一人静かに沈んでいった。その恐怖が今もなお彼女を蝕んでいるからだろう。

 

 現に自分を置いていけと言った彼女の言葉は震えていた。本当は彼女も怖いのだ、何せまた同じ苦しみを、同じ運命を辿るのだから。『死』の恐怖を、しかも同じものを二度も味わうのがどれほど怖いか、恐らく彼女にしか分からないだろう。

 

 だからこそ、その恐怖を少しでも和らげるために。少しでもその運命を捻じ曲げるために、その帰結をずらすために。

 

 

 

 そのためにあたしは、雪風(あたし)は、あたし(雪風)たちは。

 

 

 

 

 比叡さんを、もう一度(・・・・)殺すんだ。

 

 

 

 そう思った時、あたしは砲口を下げてそのまま彼女から距離を取った。そして背負った魚雷発射管を下ろし、両手で抱え、その矛先を比叡さんに向ける。

 

 

 確実に、比叡さんを殺すために。

 

 

 

 

「雪風」

 

 

 

 その時、比叡さんがあたしの名を呼んだ。視線だけを彼女に向ける。そこには申し訳なさそうな顔の比叡さん。

 

 

 

 

「    」

 

 

 

 その口が動いた。同時に手に持った発射管が鋭い音を立て、魚雷を2本吐き出す。その音のせいで、彼女の声は聞こえなかった。

 

 

 だが、その口の動きは見ていた。そして彼女が何と言ったのか、後に分かった。

 

 

 

 

「ごめんね」

 

 

 

 

 そう言ったと―――――――最期の言葉(・・・・・)を知った時、あたしの視界は大きな水柱が立ち昇る光景で一杯だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気が付くと、あたしは廊下を歩いていた。

 

 

 誰かに手を引かれている、誰かに引っ張られている。

 

 傷もない、痛みも、疲れもない。確かにあった傷も、身を裂かんばかりに襲ってきた痛みも、泥のように眠ってしまうだろう膨大な疲れも、無い。

 

 

 まるで、今までのことが無かったかのように。『夢』を見ていたのかもしれない、そう勘違いしてしまうかのように。何もかもが、違って(・・・)見えた。

 

 

 そして手を引く誰か(・・)。白い軍服が見える。それを身に纏う存在を、あたしは一人しか知らない。

 

 

 やがて、何処の部屋に放り込まれた。そこは暗い、窓もカーテンも閉め切られた部屋。ただベットと本棚、そして机が置いてあるだけの簡素な部屋だ。そこに放り込まれ、茫然と立ちつくすあたしの後ろで鍵が閉まる音が聞こえた。

 

 

 

 

「雪風」

 

 

 何秒、何分、何時間経っただろう。もはや時間すらどうでもよくなっていたあたしに、誰かは『その名』を呼んだ。名を呼ばれて振り返る。そこには軍服姿の男が立っていた。

 

 彼の目はいつも通り冷たい。心の奥まで見透かされているかのように、透き通るような瞳だった。その瞳を見た、その瞳に移る自分を―――――『死に損ない』を見た。

 

 

 

「しれぇ」

 

「お前に罰を与える」

 

 

 あたしがその名を。名前なんか知らない、その役職目を口にする。するとしれぇはそう言ってあたしから目を離し、本棚に近付いた。その後ろ姿を、あたしはただ黙って見る。

 

 

 罰、罰とは何だろう。むしろあれ以上の罰があるのか、もしそうなら見て見たい。そんな虚勢に塗れた余裕を、あたしは心の中で溢した。

 

 

 

 

 

 だけど、すぐに後悔した。

 

 

 

 

 

「ここに、ヤツの最期(・・)を記せ」

 

 

 

 そう言って、しれぇは一冊の本を差し出した。それはこの鎮守府に所属する艦娘の名簿だ。そして、彼はただそれを差し出したわけではない。

 

 

 とあるページを開き、其処を指差しながらそう言ったのだ。

 

 

 

 

 

『金剛型戦艦 二番艦 比叡』

 

 

 

 その名前と共に、人懐っこそうな笑みを浮かべた比叡さんがいた。

 

 

 その言葉に、あたしは悲鳴を上げた。もう、何もかも、何もかも捨て去ってもいい。何もいらない。この場から逃げられるのなら何だってする、何だって差し出す、この命でさえも差し出そう。

 

 

 

 

奴を忘れないように(・・・・・・・・・)、お前の記憶に刻み込め」

 

 

 

 だが、それはしれぇの言葉によって簡単に阻まれた。同時に、しれぇはページを指していた筈の手を離し、あたしの頭に置いてきた。

 

 

 

「そして今後『雪風』が沈めたヤツは、全て俺が沈めたことにする」

 

 

 

 しれぇの言葉。それはあたしにとって、いやあたし(雪風)にとって、『救い』の言葉だった。

 

 

 雪風は幾多の戦いで仲間を沈めてきた。勿論意図せずだが、遠縁ながらもその要因であったのは確実(・・)だろう。何せ、雪風は幸運だからだ、周りの運を吸い取っていたからだ、自分の代わりに仲間を沈ませたからだ。

 

 だからこそ、雪風はその命を背負った。そして、それをあたし(雪風)に押し付けてきた。同じ苦しみを味わえと、これが幸運だ、これが『幸運の代償』だ、と。

 

 お前も雪風だから背負え(・・・・・・・・・・・)と。意志を持たない船でさえ誰かに押し付けるほどに膨大なソレ。

 

 

 

 

 (ソレ)を、このしれぇは全て肩代わり(・・・・・・)してくれると言うのだ。

 

 

 

「だがそいつだけは、お前が沈めた(・・・・・・)比叡だけは背負え。そのために、その最期を書き記せ」

 

 

 

 それと交換条件にしれぇは比叡さんを背負えと言った。これもまた、『救い』の言葉だ。

 

 

 雪風は比叡の最期をしっかり記憶し、そして後世に伝えた。そして比叡になってしまった『彼女』の最期を知るのも、あたし(雪風)だけなのだ。彼女は後世に消え失せなかったことを喜び、その橋渡しをした雪風(あたし)を感謝していた。

 

 

 

 比叡さん(彼女)も、それを望んでいる筈なのだ。

 

 

 

 

 

「分かりました!! そこの机をお借りしてもいいでしょうか!!」

 

 

 

 いつの間にか、雪風はそう応えていた。先ほどの衰弱は何処へやら、元気よくはきはきとした声で。完璧なまでの敬礼をしれぇに向けた。

 

 それにしれぇは特に反応せず、黙って名簿を押し付け机へと促した。

 

 

 

「ありがとうございます!!!!」

 

 

 しれぇにお礼を言って、雪風は机に向かって歩き出す。机の上に名簿を開け、傍にあったペン立てから羽ペンを一つ拝借し、椅子に座った。ペンにインクを浸し、黒く染まったその先を名簿の上に押し付けた。

 

 スラスラとその戦歴が刻まれていく。彼女が挙げた戦果は膨大である。それを一つ一つ漏らすまいと、キッチリ書き込んでいく。

 

 

 

 

 

『第二次沖ノ島海域攻略作戦にて、駆逐艦を庇い轟ごめんなさい』

 

 

 

 そう書き記した時、その文末にぽたりと涙が落ちた。

 

 

 口から嗚咽が漏れた。

 

 

 頬を伝い涙がぼたぼたと落ちた。

 

 

 名簿を抑えていた手に力がこもり、クシャリと頁に深い皺を刻む。

 

 

 でも、それでも雪風はペンを走り続けた。決してペンを離さなかった。決してその名簿から、その言葉から目を離さなかった。

 

 

 これを書き上げれば雪風は許される(・・・・)

 

 

 もう彼女以外、誰も背負わなくていい。もう、誰かに謝る必要もない。

 

 だって、しれぇが全部背負ってくれる。しれぇが全部肩代わりしてくれる。

 

 

 全部全部、しれぇのせい(・・・・・・)に出来る。

 

 

 

「もういい」

 

 

 不意にそんな言葉が聞こえ、雪風の手から名簿が奪われた。奪ったのはしれぇだ。彼は奪った名簿を一瞥し、今しがた雪風が書き記していた頁を見せた。

 

 

「気は済んだだろう」

 

 

 そう言うしれぇが見せているページには比叡さんの戦歴、そしてそれ以外にビッシリと書き詰め込まれた『ごめんなさい』の文字たち。

 

 

 

 それこそ、雪風(雪風)最期の贖罪(・・)だった。

 

 

 

 

 それ以降、雪風は何も感じなくなった。

 

 

 勿論、それらは痛覚、味覚、視覚、触覚などの五感を失ったわけではない。

 

 出撃すれば疲れるし、被弾すれば痛いし、お腹もすくし、補給すればお腹いっぱいになるし、眠くなるし、寝れば疲れもとれる。いつも通り、生命活動に則するもの全ては今まで通り、今まで通りだ。むしろ()になったことで、逆に新鮮に感じていた節さえある。

 

 

 

 雪風が失ったのは、『感情』だ。

 

 悲しい、空しい、嬉しい、楽しい、嬉しい、好き、嫌い――――――――等々、それら全ての感情を失った。

 

 出撃で誰かが活躍しようが、誰かが危険を犯そうが、誰かに感謝されようが、誰かに非難されようが、庇おうが、庇われようが、誰かが傷付き、衰弱し、そのまま沈もう(・・・)が、何も感じなくなった。

 

 

 

 だって、あの瞬間から今までに至るまで、何もかも、全て、全部、一切合切、しれぇのせい(・・・・・・)だからだ。

 

 

 誰かが傷付いたらしれぇのせい、誰かが悲しんだらしれぇのせい、誰かが怒ったらしれぇのせい、誰かが沈んだらしれぇのせい。

 

 しれぇのせい(・・・・・・)で誰かが傷付き、しれぇのせい(・・・・・・)で誰かが悲しみ、しれぇのせい(・・・・・・)で誰かが怒り、しれぇのせい(・・・・・・)で誰かが沈んだ。

 

 その『誰か』に当て嵌まるのは天龍さん、龍田さん、隼鷹さん、長門さん、潮さん、曙さん、イムヤさん、ゴーヤさん、ハチさん、イクさん、榛名さん、加賀さん、金剛さん―――――この鎮守府にいる艦娘全員だ。彼女たち全員『しれぇのせい』であんな風になってしまった。そこに雪風は一変たりとも関係ないのだ。

 

 それは間違いない事実だ、捻じ曲げられない、変えることのできない真実だ。

 

 

 

 だけど、どうもその道理にそぐわない人もいた。

 

 

 

「おい!!!!」

 

 

 あれは何時だっただろう、何処かの海域に出撃し帰投した時か。

 

 いつも通り母港に降り立ち、艤装を下ろした時。一人の艦娘がそう怒鳴りつけてきた。その方を向くと、腰に大きなポケットの付いた濃い目の緑色のセーラー服を着た黒髪おさげの艦娘が、鬼の形相で雪風に近付いてくる。その目は赤く純血しており、頬に薄っすらと筋が伺えた。

 

 多分、泣いたの――――

 

 

 

「よくも、よくも大井っち(・・・・)を!!!!」

 

 

 雪風の思考は、再び怒号を上げて襟を掴みかかってきた彼女――――――北上さんによって途切れた。いつもの飄々とした彼女はおらず、まるでヒステリックに陥った少女のようであった。彼女は雪風の襟に掴み掛り、強引に締め上げてくる。

 

 『このまま絞め殺してやる』――――清々しいまでの殺気を向けながら、北上さんはそれ以降訳の分からない(・・・・・・・)暴言を向けてきた。

 

 彼女が口に出した大井っち―――――恐らく、彼女の姉妹艦である『球磨型軽巡洋艦四番艦 大井』その名を冠した大井さんを指しているのだろう。確か、今日の出撃で一緒だったか……だが、辺りを見回してもその姿はない。そして心なしか、一緒に帰投した僚艦たちの顔が暗い。

 

 特に駆逐艦に至ってはわんわんと泣き喚いている。記憶が正しければ、彼女は大井さんにべったりだったような。

 

 

 そっか、そう言えば―――――

 

 

 

 

しれぇのせい(・・・・・・)で、大井さんが沈んだんですね」

 

 

 そんなことを、雪風は声に出していた。自分でも思わず漏れてしまった、失言だ。それを聞いた、それも目の前で聞いた北上さんは一瞬呆けた顔を浮かべる。

 

 

 

 だが、次の瞬間、その顔は『憤怒』で染め上げられた。

 

 

 

 

「     」

 

 

 何か、北上さんが怒鳴る。それと一緒に掴まれていた襟ごと思いっきり突き飛ばされた。突き飛ばされた雪風の身体は勢いよく後ろの壁に激突し、身体が軋み、肺から無理矢理空気を絞り出される。全身に痛みを感じながらも、雪風の思考はそこで終わった。

 

 

 だって、大井さんが沈んだのは全部しれぇのせいだ。仮に、万に一つ、億に一つ、彼女が雪風を庇って沈んだとしても、それも(・・・)全部しれぇのせいなのだ。

 

 しれぇの指示で渋々雪風の盾となって沈んでいったとしても、全部しれぇのせいなのだ。

 

 しれぇの指示を無視し、自らの意志(・・・・・)で沈んでいったとしても、全部しれぇのせいなのだ。

 

 

 そのどちらでもないとしても、やっぱり全部しれぇのせいなのだ。

 

 

 

「     」

 

 

 また、北上さんが何か叫ぶ。そして再び雪風に掴み掛ろうとするも、周りの艦娘に取り押さえられる。母港内での乱闘騒ぎ、それはしれぇにとって艦娘に厳罰を言い渡す格好の餌だ。故に此処で事を荒立てるのは北上さんにとって悪手でしかない。だからこそ周りは止めたのだ。

 

 それは無論、雪風にとっても悪手だ。まして雪風はしれぇの指示通り任務を遂行しただけだ。何も失敗したわけでもないし、それで誰かに糾弾される云われもない。

 

 雪風はしれぇの言う通り、言われたことをただこなしただけ。それだけでいい、求められたことを忠実にこなせばいい、着実に完遂すればいいだけだ。

 

 

 裏を返せば、完遂するためなら何をしてもいい(・・・・・・・)と言うことになる。もし仮に、大井さんの死が完遂に必要だとしたら、北上さんの言う通り雪風のせいなのだろう。しかし、その下敷きはしれぇの命令がある。

 

 そうなれば、結局そうするしかなかった雪風に非は無く、そうするしかない状況にさせたしれぇに責任が向く。結局のところ、やっぱりしれぇのせい(・・・・・・)になるのだ。

 

 

 

 

「この、『死神』がァ!!!!」

 

 

 だけど、そんな北上さんの罵詈雑言の中で、その言葉を雪風は拾い上げた。それは何故か、懐かしかったからだろう。何せ今まで散々浴びせ掛けられたものの中で、最も多く(・・・・)ぶつけられた蔑称だからだ。

 

 

 

 

「『死神(それ)』、雪風(あたし)にお似合いですね」

 

 

 そう、腐るくらいぶつけられた言葉を。ただ黙って耐えるしかなかったその忌々しい蔑称を。あたし(雪風)が、雪風(雪風)が、人の依り代を得て、数多の存在を犠牲にして、時には血反吐を吐いて、それでも無理矢理進んだ先で。

 

 

 

 ようやく一矢報えた、『唯一の反撃』だった。

 

 

 

 

 

 そして『今』―――――あたし(雪風)はようやく終焉(・・)を迎えた。

 

 

 全身にのしかかる水の重さ。身にまとっていた制服、艤装、何もかもが雪風(あたし)を―――『死神』を下へと、海の底へといざなっていく。其処(・・)()へ、闇よりも深く、光の届かない世界へ誘っていく。そのどれもこれもが雪風(あたし)の『理想郷』と重なった。

 

 

 死神は意志に関係なく周りに悪影響を、最悪の場合を『死』をもたらす。その例が比叡さんだ。故に死神(あたし)が存在している限り周りにいる存在全てに悪影響を―――――『死』を招いてしまう。

 

 これは宿命(さだめ)なのだ。あたしが存在している限り、逃れられない宿命、呪い、幸運艦であり続け、最後の最期まで走り抜けた『雪風』と言う船が背負った『幸運の代償』なのだ。

 

 それを背負って、雪風が沈む。これ以上、誰かをその代償とやらにさせないために。これ以上、雪風のせいで誰かを『不幸』にさせないために沈むのだ。

 

 そう、雪風はずっと、『雪風』はずっと、あたし(雪風)たちはずっと、願っていた。

 

 

 

 『雪風(自分)を沈めたい』、と。

 

 

 ずっとずっと、そう願い続けていた。雪風になってから、『雪風』となってから、願い続けてきた。その途中に比叡さんを、そし大井さんを、沢山の艦娘に『幸運の代償』とやらを払わせてきた。だから何時か、何処か、何かで、その『代償』を自ら払わない(・・・・・・)といけないと、そう思ってきた。

 

 

 そして『代償』に見合うもの―――――その帰結が『雪風(自分)を沈めたい』と言う答えだった。

 

 

 あたしが存在する限り、周りのその代償を負わせてしまう。多分、その因果関係は覆すことが出来ない大きな力のせいだ。

 

 雪風(・・)はそれを『幸運の女神のキス』だと言い張った。 自分は幸運の女神に愛されている、目を付けられている(・・・・・・・・・)。だからこそ今まで己が払ってきた代償を『幸運の女神』に押し付けてきた。そうすることで己の存在を、犯した罪を、犠牲にした戦友を、何もかもを『幸運の女神』のせいにした。それで己自身を保った。

 

 それと同じように(・・・・・)、あたしはその全てをしれぇに押し付けた。向こうが拒まなかったから、好き勝手に捻じ曲げて擦り付けた。だが結局の所、何の解決にもならなかった。ただただ責任を延々と擦り付け合うだけだった。根本的解決に結びつかなかった。

 

 

 だから、その堂々巡りと言える無駄な流れを、あたしの轟沈()をもって断ち切ろうと言うのだ。

 

 

 あたしが沈めばこれ以上誰かがその『代償』とやらにならなくて済む。あたしの死をもって脈々と続いてきたこの呪いに、ようやく終止符を打てるのだ。

 

 これはあたしに、『雪風』に、『雪風』になってしまった艦娘に。その中でも最も雪風に近い(・・・・・・・)あたしに課せられた贖罪なのだ。

 

 あたしにはこれを負う責任がある。況して今まで『代償(それ)』を押し付けてきたんだ、それぐらい背負って当然だ。これが『雪風』となったあたしの宿命(・・・・・・)なんだ。

 

 今この時、雪風(あたし)が沈む。それでこの世界の辻褄が、因果関係が、この世界の善悪が、全てが真っ当に整うのであれば。

 

 

 それで、これ以上(もう)、いいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ダメだよ』

 

 

 そう耳元で囁かれた。同時に、背中を何者かに押された。

 

 

『帰って』

 

 

 

 そう後ろで囁かれた。同時に、背中を押した何者かを見た。

 

 

 

『戻って』

 

 

 

 そう語り掛けてきたのは、青の法被に身を包んでだ一人の少女。額にねじり鉢巻をし、片手には黄色いドリルのようなものを持っていた。

 

 

 雪風は―――――――あたしは、彼女に身に覚えがある。

 

 

 いつも雪風の側にいたあの子、雪風と一緒に居続けてくれたあの子、そして先ほどまで散々に喚き散らし、暴れまわり、やがて耳元で喧しく叫び倒していたあの子―――――妖精さんだ。

 

 同時に、彼女の格好にも見覚えがある。古い記憶だ、訓練時代のものか。それを手繰り寄せて、紐解いて、ようやく答えが出た。

 

 

 『応急修理要員』、その最上級たる『応急修理女神』だ。

 

 

 次の瞬間、雪風は真っ白な泡に包まれる。その泡は雪風の身体に、正確には戦闘でボロボロになった傷口や損傷した艤装、果ては疲労によって棒のようになってしまった手足までもを包み込む。

 

 そして泡が消え去ると、それら全て跡形もなく消え去っていた。目を背けたくなるような傷も、航行機能に支障をきたすであろう損傷も、何もかも全てが綺麗さっぱり直っていた(・・・・・)

 

 視界から泡が消え去ると、今度は上に上に身体が持ち上げられる。泡たちが雪風の身体を押し上げているのだ。水面に向けて、『生』に向けて。

 

 その最中、雪風は女神に―――――ずっとずっと側にいてくれた友達(・・)に手を伸ばし続けた。

 

 今までずっと側に居てくれた。彼女だけは居なくならず、ずっとずっと側にいてくれたのだ。だから、これからも側にいてくれる。必ずこの手をとって、一緒に来てくれるはず。そんな幻想(・・)に縋った。

 

 だけど彼女は手を伸ばすことなく、ただ悲しげに微笑むだけだ。そしてその身体は雪風と正反対に下へ下へと沈んでいく。『死』に向けて。役目(・・)を果たすために。

 

 

  

 『応急修理女神』の役目――――轟沈した艦娘を無傷の状態で復活させ、その身代わりとして沈んでいく。

 

 

 その事実を前に、あたしはなおも手を伸ばす。

 

 

 必死に、懸命に、死に物狂いで、醜い獣のように。がむしゃらに手を伸ばす。

 

 だがそれは叶わない。伸ばし続けても一向に届かない、その距離は離れていくだけ。

 

 女神が悲しそうな笑みを浮かべ、そこにシワを深く刻んでいく姿を見るだけ。

 

 

 やがて、微笑むだけだった彼女の口が動いた。

 

 

 

 

『生きて』

 

 

 

 そう、その口がそう動いた。それを見届けた瞬間、あたしの視界は真っ白な泡に包まれた。

 

 

 

 

 重苦しい水の重圧が消えた。

 

 

 鼻や口を覆っていた水の層が消えた。

 

 

 耳を塞いでいた水の蓋が消えた。

 

 

 呼吸が出来た。

 

 

 照り付ける太陽を見た。 

 

 

 肌にまとわりつく髪、制服、時に優しく、時に激しくうち据えてくる海風を感じた。

 

 

 

 そして何より、声を聞いた。

 

 

 

「雪風ぇ!!」

 

 

 

 その名を、依りにもよってその名を。課せられた呪いを、背負わされた重圧を、その根元たる存在そのものを。

 

 

 同時に突きつけられた現実を、事実を、結末を、『代償』を。

 

 

 どうやら、あたしはまた――――――

 

 

 

 

「沈め、なかった」

 

 



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報われた『三人』

 空気を吸えた(・・・)

 

 吸いたくなかった。

 

 

 陽の光を感じた(・・・)

 

 感じたくなかった。

 

 

 誰かの声を聞けた(・・・)

 

 聞きたくなかった。

 

 

 誰かに触れられた(・・・・・)

 

 触れられたくなかった。

 

 

 

 あたしは、雪風は、『あたし達』は。

 

 ただ、一()になりたかった。

 

 ただ、一()にしてほしかった。

 

 

 ただ、忘れられたかった。人々の記憶から消え去りたかった。

 

 ただ、自由になりたかった。この身一つに、綺麗さっぱり、何もかもを失くしたかった。

 

 

 ただ、ただ―――――――ただの『()』になりたかった。何も背負わず、何も持たない、ただの『物』になりたかった。

 

 

 

 

 だから、そう思えた。

 

 ついさっき、視界の全てが薄暗い青に満たされていた時。

 

 今度こそ逃げ切れると、振り払えると、逃れられると。

 

 何もかもから、誰もかもから、過去から、未来から、現在(いま)から、解放されると。

 

 

 ようやく、ただの『物』になれると。

 

 

 

 

 だけど、それは許されなかった。

 

 妖精(あの子)は雪風の手から離れていった。その命を犠牲に、雪風を生き(・・)地獄に突き落とした。それが己の役目だと言うかのように、そんな偽善(・・)を押し付け、そんな自己満足に浸りながら居なくなった。

 

 そしてあの子を寄こしたのは幸運の女神だ。あの女は離さなかった。この手を、この首輪を、この呪縛を、宿命(さだめ)を、『幸運』を、その『代償』を。

 

 

 性懲りもなく。

 

 おこがましく。

 

 厭らしく。

 

 あたしに当てつけ(・・・・)のように。

 

 雪風に宛てつけ(・・・・)のように。

 

 

 

 『雪風(呪い)』を、離さなかったのだ。。

 

 

 

 

「『雪風』」

 

 

 また、誰かが『雪風(呪い)』を口にした。顔を向けず、ただ呼吸を繰り返す。

 

 誰かが雪風の胸倉をつかむ。力の限り、まるで絞殺さんばかりに、捻り潰そうとするかのように。気にもかけず、ただされるがまま。

 

 

 このまま絞め殺してくれれぼ(・・・・・・・・・)どれほど喜ばしいことか。

 

 このまま海中に沈めてくれれば、どれほど有難いことか。

 

 このまま……そう、このままずっと(・・・)――――――

 

 

 

「雪風ェ!!!!」

 

 

 舌打ちが聞こえ、胸倉を締め上げられ、視界が上を向く。青々とした空、照り付ける太陽。その光を背後に抱え、影が落ちる。

 

 だけど彼女(・・)は。彼女はそれでも顔を見せた。その顔(・・・)を見せた。そこにあった、『怒り』を見せつけていた。目を剥かんばかりに見開き、破ってしまうほどに唇を噛み締め、彼女が持ちうる全てを以て『怒り』を見せつけてきた。

 

 

 『目は口程に物を言う』とは、よく言ったものだ。よくもまぁ(それ)だけでここまで雄弁に語れるものだ。

 

 

 『其処に居る』、『此処に居る』、『目を離すな』。

 

 

 

 『目を背けるな』と。

 

 

 

 

「今、何つった?」

 

 

 彼女は――――――北上さんは今にも殺してくれそうな形相で、辛うじて残ったであろう理性を駆使して、その問いを絞り出してきた。

 

 

 

「『沈めなかった』……って、言ったよな? そうだよな? そう言ったよなァ!!!!」

 

 

 どうやら問いではなかった。北上さんは雪風の答えを待つことなくそう捲し立てた。同時に締め上げる力を込め、鬼の形相を更に歪め、喉が潰れるのではと思うほど大音声で言葉を―――――いや、呪詛を吐いたのだ。

 

 

「あんたの足元……一体どれだけの犠牲があると思ってんの? 沢山、夥しい、数えきれないほどの犠牲が、死体(・・)があんのよ? それを踏みにじった末に、あんたがいるんでしょ? 分かってんの? 今まで踏みにじってきた奴ら全て、全部、全員お前のせい(・・・・・)で死んだんだぞ!!!!」

 

 

 呪詛を、呪いを、今までさんざん言われ尽くした、投げつけられた、押し付けられたこと、もの、過去、今、未来―――――『雪風』が持ちうる(モノ)何もかもを彼女は吐き出した。雪風に叩き付けた、投げつけ、押し付けてきた。

 

 

 

 

 それだけ(・・・・)なら、まだ抑え込めた。

 

 

 

「で、何? 今から贖罪(・・)でもしようっての? 今更ぁ? 今頃ぉ? ……で? それが沈むこと? 死ぬこと? それで皆が、大井っちが許してくれる(・・・・・・)とも? 皆の死を無駄にして(・・・・・・・・・)、それが贖罪になるとでも? ふざけるのも大概にしろ!!!!」

 

 

 

 それは初めてだ。いや、初めてではない。今まで幾度となくぶつけられた言葉、過去を背負い、清算しようと目論む愚か者全てに向けられたであろう、この歴史においてもう見飽きたと嘆息されるであろう、手垢塗れの言葉。

 

 

 『死をもって罪を償う』

 

 

 

 なんていう、美談のように見せかけた愚か者の常套手段(・・・・)。それがどれほど滑稽か、みすぼらしいか、『雪風』は知っている。

 

 何故なら、それを駆使した愚か者たちが沈んでいく様を見たからだ。それを駆使して逃げ延びた(もの)たちを見てきたからだ。そんな者たちの後を追えず、ただ離れゆくその背中たちへ手を伸ばせず、見続けてきたからだ。

 

 そして『僚艦を沈ませた』と、『周りの幸運を吸い取っている』と、『味方を死に追いやっている』だと。逃げ延びた者たちの『罪』すらも背負わされた。死んだものだけが報われ、生き残ったものがその『罪』を、『業』を、『結末』を押し付けられてきたからだ。

 

 

 だから、雪風(・・)にとってそれは初めてなのだ。紛れもなく、初めて手を伸ばしたのだ。手垢塗れの方法(もの)なのに、誰しもがそれに縋った宿願(もの)なのに。

 

 

 

 『それすらも、雪風(お前)手にしてはいけない(・・・・・・・・・)

 

 

 

 そんな赤の他人(・・・・)が、被害者が、被害者面した部外者が、その皮を被った加害者ども(・・)が。

 

 当然と、平然と、当たり前のように、悪びれも無く、事の発端から原因、結果、影響など、ありとあらゆる『不都合』をもって、雪風の手を払いのけた。

 

 自分たちの都合よく事を運ぶために、平気な顔で全否定を叩きつけ、あまつさえその原因(・・)すらも雪風に押し付ける。

 

 

 誰しもが手をとれるものすら手にさせてもらえない、誰しもが身に纏えるものすら纏えない、仮初めながらも守ってくれるものにすら守ってもらえない。

 

 

 

 そんな、幸運の代償(えこひいき)を。

 

 

 

「違ぇよ、違ぇんだよ……そうじゃないんだよそれじゃないんだよそんなことよりももっと先にすべきことがあるだろ!!!!」

 

 

「――……だよ」

 

「あぁ!? 聞え――――」

 

 

 

「誰が『助けて(・・・)』って言ったんだよォ!!」

 

 

 いつの間にか、雪風(・・)はそう言葉にしていた。

 

 

雪風(・・)は一度も言ってない……雪風(・・)は一度も望んでいない……一度たりとも、一ミリも一秒たりとも『助けて』なんて言ってないんですよ!!」

 

 

 吠えた、怒号を上げた。声を荒げ、喉を潰さんばかりに、血を吐き出さんばかりに、あたし(雪風)はそう叫んでいた。雪風(・・)はそう叫んでいた。

 

 

 

 

 初めて(・・・)、『雪風』は心をひけらかした。

 

 

 

 

「一言も『助けて』なんて言った覚えはない!! 『庇って』なんて!! 『盾になって』なんて!! 一言たりとも言ってないんですよォ!! なのに、なのに……何で庇うんですか、何で盾になるんですか、何で勝手に(・・・)沈んでいくんですか!! 勝手に庇って、勝手に盾になって、勝手に沈んでいくんですか!!」

 

 

 出した、曝け出した、ひけらかした、ぶちかました。雪風がずっとずっと抱えてきたものを。物になり損ねた、物のくせに抱いてきた心――――物心を、出してしまった(・・・・・・・)

 

 

「それなのに……それなのに『お前のせい』だって、『お前が沈めた』って、『お前は死神だ』って。何で、何で言われなきゃいけないんですか……こっちは!! 勝手に!! 沈まれただけ!! 雪風(・・)が沈めたわけじゃない!! 雪風(・・)が沈んでって望んだ(・・・)わけじゃない!! 雪風(・・)が沈めって願ったわけじゃない!!」

 

 

 

 そこで息を吸い、太陽を睨み付け、北上さんに顔を向け、掴まれた胸倉の手を掴み返し、あらん限りの声でこう言い放った。

 

 

 

 

雪風(・・)のせいじゃない!!!!」

 

 

 その瞬間、辺りは静寂に包まれた。

 

 

 聞こえるのは雪風の荒い息遣い、足に当たる白波の音だけ。それ以外、何も音が聞こえない。何も音を拾わない。振り払い、捨て去り、聞こえなくした。情報をシャットアウトした、全てを放棄した。

 

 

 

 ただの、『物』になろうとした。

 

 

 

 

「そう」

 

 

 だけど、その声だけは振り払えなかった。

 

 

「分かった、お前の言い分は分かった。じゃあ、こうしよう……いや、こうしてやる(・・・・・・)

 

 

 そう発した彼女は締め上げていた手を離し、雪風を解放する。だが、次の瞬間その腕は砲門があり、それは雪風に向けられていた。

 

 

 

 

「あたしが、殺してやるよ」

 

 

 

 そこにあったのは、真顔の北上さん。感情の一切を捨て去って、ただ淡々と言葉を発する機械のような表情で。そう音を発した。

 

 

「ただし、殺すのは大井っちに『謝罪』をしてからだ。それまでは何が何でも、どんな手を使ってでも、お前を沈ませない(・・・・・)。沈みたいと言っても、死にたいと言っても、絶対に死なせない(・・・・・・・・)。誰かが代わりに傷付こうが、誰かが悲しもうが、誰かが沈もうが、何が何でもお前だけは沈めない、死なせない……逃がさない(・・・・・)

 

 

 北上さんの言葉は、雪風にとって理不尽の極みだ。沈むことを、死ぬことを望む雪風にとって、何が何でも阻止してやる、そう言うことだ。だが、彼女は同時に救いの手を提示した。目の前に突き付けてきた、同時に砲門を突き付けてきた。

 

 むしろ、彼女にとってもこちらが本音なのだろう。彼女は雪風を憎んでいる。沈めたい程に、殺したい程に。殺すためなら何だって手を染めよう、そんな揺るがない決意を携えて、腹の底に横たえて、薄っぺらい言い訳を用意してでも叶えようとしている。

 

 

「ただ謝罪さえすれば、いつでもどこでも何度でも殺してやるよ。今ここで懺悔すればその頭ぶち抜いてやるよ、自室で懺悔すればそこを砲撃してやるよ、演習場で懺悔すれば雷撃処分してやるよ。だから―――――」

 

 

 そこで言葉を切った、いや切れてしまったのだろう。何故ならその瞬間、彼女の瞳から一滴の涙が零れたからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「謝れよ、あたし(大井っち)に」

 

 

 

 その言葉、そこに込められたもの。思い、感情、心、それら全てをひっくるめた末に導き出した彼女の『願い』だ。

 

 

 

 同時に、それはあたし(雪風)にとって。『最高』の逃げ道(・・・)だ。

 

 

 

 

 

 

「すみませんでした」

 

 

 その言葉に続いて、雪風はそう言っていた。その瞬間、能面のようであった彼女の顔に憤怒が宿り、拳を握りしめ大きく振り上げた。

 

 

 

 

「いい加減にして」

 

 

 だが、それが振り下ろされる前に横から声が飛んできた。振り上げた拳を止めるほどの気迫も重みもない言葉の筈なのに、何故か北上さんは振り下ろそうとした拳を止めた。同時に、その視線をその声の主に向ける。それに遅れて雪風も視線を向けた。

 

 

 

いい加減に(・・・・・)、して」

 

 

 もう一度、同じ言葉を発したのは曙さんだった。片腕を組みながら、肩で息をしながら、倒れてしまいそうな程の満身創痍の身体。

 

 そんなボロボロの彼女は、刃物のような鋭い視線を向けている。たったそれだけ、それだけであった。彼女は北上さんの動きを止めようとする素振りもなく、ただ一言そう言っただけだ。

 

 

 

 なのに、言葉(それ)に乗せられた彼女の感情が―――――――凄まじい『憤怒』が雪風たちを止めたのだ。

 

 

 

「……これより帰投する。北上さん、金剛さんと一緒に吹雪の曳航。雪風、あんたはあたしの補助。潮、響は夕立の曳航。良い?」

 

「ぽーい」

 

「了解」

 

「はい」

 

 

 だが、それは次に続けられた各々への指示には全くもって無かった。どちらかと言えば至極冷静で、淡々とした指示だ。そして曙さんの指示に夕立さん、響さん、潮さんは二つ返事で了承し、指示のもとに動いていく。

 

 

「チッ」

 

 

 その姿を見て北上さんは小さく舌打ちをし、曙さんの指示通りに金剛さんに近付いていった。北上さんを迎えた金剛さんも手早く吹雪さんを曳航する準備に取り掛かり始める。

 

 

 

「……ごめん、ちょっと肩貸して」

 

 

 一人動けない雪風に曙さんがそう詫びを入れながら身を預けてきた。その身体を何とか支え、その鼓動を、その命をしっかりと抱き留めた。曙さんは雪風に寄り掛かりながら一息つく。その姿は先ほどの剣幕からは尊像出来ないほど、気の抜けた顔だった。

 

 

 

 

「何で……進撃したんですか」

 

 

 そんな彼女に向け、雪風はそう問いかけていた。

 

 

 それは彼女に向けた糾弾。雪風を棚に上げ、それを悪びれもせず突き付けた糾弾文だ。それを受け取った彼女の肩が、僅かに動いた。

 

 雪風が独断で進撃した後、彼女は北上さんから旗艦を譲渡されたと聞いた。そしてこの無茶苦茶な作戦を立案し、あまつさえ実行したのは彼女。つまり、本来は雪風だけであった危険に艦隊全員を突っ込んだのは彼女なのだ。

 

 更に言えば、旗艦を譲渡された時点で雪風を放って帰投することも出来た。況して旗艦になる前に金剛さんと通信出来ていたのなら、尚更帰投するべきである。夕立さんと北上さんも、無線を通せば撤退することも出来た筈。わざわざ独断で大破進撃した駆逐艦一隻のために、艦隊全員を危険に晒すことはない。

 

 そして何より、彼女は砲撃された雪風とリ級との間に走り込み、あまつさえ雪風を庇おうとした。結果だけ見れば砲撃に切り替えたのだが、それまでは確実に自分が盾になろうとしていた。

 

 

 雪風に全てを押し付けてきた愚か者たちのように、沈もう(逃げよう)としていたのだ。

 

 

 

輸送艦(・・・)一隻と、駆逐艦一隻。どっちを取るか、子供でも分かるでしょ?」

 

 

 

 そして、彼女は悪びれもせずそう言ってのけた。その言葉に、雪風は思わず食い掛ろうとした。

 

 

 

 

 だが顔を上げた先で、彼女はこちらを見据えていた。それも、今まで見たことのないほど冷たい視線を向けていた。

 

 

 

「何?」

 

 

 曙さんはそう問いかけてくる。恐らく雪風が何を言うとしたのは分かった上で、敢えて問いかけてくる。同時に、彼女は目で語ってきた。

 

 

 

 『それ(・・)を、お前が言うな』と。

 

 

 

 その目に雪風は何も言い返せず、ただ視線を下に向けた。それ以上曙さんも追及する気が無かったようで、それ以降雪風たちの間に会話は無かった。

 

 

 やがて、他の面々の用意が整った。雪風に支えられた曙さんの周りに皆が集まる。しかし、誰も雪風を責めない。いや、責めることは愚か見向きもしない。更に言えば、敢えて視界の外に置こうとしている節さえあった。

 

 

 

 唯一視線を向けてきたのも、北上さんの憎悪に満ちたモノだけだ。

 

 

 

 

 

「よし、じゃあ帰投する」

 

 

 

 そんな曙さんの号令で、雪風たちは撤退を開始した。

 

 

 旗艦の曙さん、それを支える雪風、金剛さん、吹雪さん、潮さん、夕立さん、響さん。この並びで単縦陣を敷く。雪風と曙さんは索敵に集中、他は曳航をしているため誰も声を発することはない。そのため、一同は終始無言で海上を進む。

 

 

 

「MVP、何もらおっかな~」

 

 

 そんな中、一人警戒も攻撃もしなくていい身の上の夕立さんがそんなことを言い出した。先頭を行く雪風はその呑気な問いに何も言えなくなってしまう。だが、支えていた曙さんは小さく噴き出し、後ろからも笑い声が上がる。

 

 

 

「夕立……あんた、まさか今回もMVPがあるって思ってるの?」

 

「何で? 夕立、一番敵を沈めたよ? 皆が来るまで時間稼ぎもしたよ? これだけ頑張ったんだもん!! MVPは夕立に決まりィ!!」

 

「いやぁ、あ、あのね夕立ちゃん? そういう問題じゃなくて……」

 

「待って欲しい。ここは夥しい敵の艦載機勢を一網打尽にした私にこそふさわしいんじゃないか?」

 

「うぅ、そ、それはそうっぽ…………って、それ夕立の御膳立てがあったからっぽい!!」

 

「ふふ、『沈黙は金』さ。だから、黙っておいてくれよ?」

 

「嫌っ!!」

 

 

 そんな調子で、曙さん、夕立さん、潮さん、響さんが軽口をかわし始めた。それを契機に、艦隊を包んでいた雰囲気は幾分か軽くなる。その空気に毒を抜かれたのか、金剛さんの笑い声も聞こえてくる。その和やかな雰囲気で、言葉を発さないのは雪風と北上さんだけだ。

 

 

 

 だけど、それは唐突に途切れた。

 

 

 

「敵機」

 

 

 その言葉を、雪風が溢した。それと同時にあれだけ和気あいあいとしていた空気は消え去り、誰もが目を鋭くさせる。そしてその視線たちは頭上に、雪風が指を向ける空へと集めた。

 

 

 

 そこに居たのは敵機―――――と、思われるもの(・・・・・・)

 

 加賀さんや龍驤さんが放つ緑色の機体ではなく、敵から放たれる灰色の機体でもない。

 

 白濁とした白色の丸い機体、其処から涎を垂らす様に大口を開け、舐めまわす様に()をぎょろぎょろと動かしている。その姿は艦載機か、飛行機か、況して鉄の塊か、などと問うことが愚問のように思える程、生き物のようであった。

 

 

 本当に、『生き物』のようであった。

 

 

 羨ましい程に、『生きていた』。

 

 

 

「……気付かれてない、ね」

 

 

 その答えを出したのは、響さんだ。彼女の言葉通り、その敵機らしきものは獲物を探す様に機体をあちこちに向けている。元々霧で視界が塞がれやすい海域故に目を向けなければならない範囲が広すぎるのだ。

 

 そのためたった一機の索敵だけじゃ賄い切れず、索敵に穴が空いてしまう。どうやら、雪風たちはその賄い切れない穴に居るみたいだ。

 

 

「すぐ霧に紛れる。面舵一杯」

 

 

 それを受けた曙さんは静かに号令を発し、雪風たちはすぐさま右へ進路をずらす。その先に待つ霧の壁に突入した。

 

 

「視界不良につき原速、宜候(ヨーソロー)

 

 

 視界を霧に覆われてすぐ、曙さんが矢継ぎ早に指示を飛ばす。視界を霧によって覆われたせいで索敵能力は著しく低下、更に言えば僚艦同士も間隔を把握が困難になったための減速指示。また減速によるエンジン音の抑えることで『音』によって気付かれる可能性を限りなく低くしたのだ。

 

 ほんの一瞬、藁の山から探し出した針に等しい僅かな時間。それだけでこれだけの判断を下し、瞬く間に指示を飛ばした曙さん。彼女は恐らく、いや確実に、間違いなく、生きよう(・・・・)としている。

 

 

 先ほど自らの身を投げうとうとしたのに。死のうとしたのに。逃げようとしたくせに(・・・)

 

 

 眩しいほど、『生きよう』としている。

 

 

 

「もうすぐ、抜ける」

 

 

 曙さんの言葉通り、視界を覆っていた霧が段々と薄くなっていく。それに合わせて艦隊の速度も上がっていく。その足取りはおぼつくことも無く、ぶれることも無く、ただ真っ直ぐに前を向き、しっかりと水面を踏みしめ、堂々としている。

 

 

 手を伸ばすのを憚れる程、『生きよう』としている。

 

 

 

 

「ぃぃなぁ」

 

 

 僅かに、雪風の口から漏れた。だが、それを拾う者は居なかった。誰もが、『生きよう』としていたからだ。誰もが、『生き延びよう』としていたからだ。

 

 

 誰も、『死』を望んでいなかったからだ。

 

 

 そして、視界が晴れた。空が見えた、太陽が輝いていた、陽の光を浴びた、風を感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 其処に、ソレ(・・)がいた。

 

 

 

 透き通るような白い肌、陽の光にきらめく銀色の腰まで届く長髪、その一房を纏め左肩に流したサイドテール、黒いセーラー服に身を包み、華奢な手足に似つかわしくないほど重厚な装甲を身に着けていた。

 

 ソレが身を預けるモノ―――黒々とした椅子のような艦首を模した艤装、その両端からは大小様々に飛び出す機銃類、ソレがもたれ掛かっている黒鉄の砲台、ソレの両脇から前方へと伸びるカタパルト。

 

 

 ソレを何と呼べばいいのか、分からない。ソレを前にしてどうすれば良いのか、分からない。ただ、霧の向こうにソレがいた。それだけなのだ。

 

 

 空を仰いでいたソレ。見惚れてしまうほどに美しい髪で表情が見えない。その顔はゆっくりと下に動く。それに合わせて、その髪は絹のようにほどけて良き、やがてその横顔が見える。

 

 人形のように白い肌に、少し釣り目だった。そしてその瞳は、赤い光を帯びている。何処か物憂げな表情で、視線を下へ下へと向けて良く。息をするのも忘れる程に、美しかった。

 

 

 だが、そこに『生』の感情は無かった。

 

 ただ、其処に居るだけのモノだった。存在しているだけの物にしか見えなかった。『生きよう』とも、『生きたい』とも、『生きる』と言う言葉すら知らないのではないかと思うほど。

 

 

 憐れ(・・)なほどに、美しかった。

 

 

 やがて、ソレは遂にこちらを見た。その赤い瞳が雪風たちを捉えた。物憂げな顔のまま、こちらを見たのだ。そして、その表情を変えた。

 

 

 物憂げな表情でもない、嘲る様な笑みでもない。

 

 

 

 

 見つめた先に居る誰か(・・)を安心させようとするような、『微笑み』だった。

 

 

 

 その微笑みを向けられ、雪風は動けなかった。正しく、動けなかった。

 

 それは恐怖からではない。驚愕からではない。ただ、その微笑みに妙な違和感を覚えたから。

 

 

 

 決して深海棲艦に抱くことのない感情――――――『懐かしさ』を、感じたから。

 

 

 

 やがて彼女はこちらから視線を外し、身を預ける艤装を軽く摩る。途端にけたたましい轟音が響き渡り、艤装の口のような所から黒い煙が上がる。その間も、彼女は身体を砲台に預けている。まるで海上クルージングを楽しむように、彼女は悠々と前進を始めた。

 

 そして、それに呼応するように頭上から羽音が聞こえた。思わず目を向けると、先ほど見た白い敵機が頭上高くから降下してくるのが見える。ただその勢いは攻撃、というよりも着艦のように見え、実際降下してきた敵機は彼女の脇に伸びるカタパルトへと飛び込んでいく。

 

 

 やがて、全ての艦載機を着艦し終えた彼女は再度艤装を摩った。すると、前進していた艤装の艦首が左へ逸れていく。

 

 

 

 

 それは、雪風たちとは逆方向だ。

 

 

 

 艦首が見えなくなり、艤装の背面が顔を出した時。今までの中で最も大きな駆動音を響かせ、彼女は前へ進んでいく。やがて霧の壁に到達するも、変わらずその壁に突入した。やがて喧しく聞こえていた駆動音も小さくなっていき、やがて聞こえなくなる。

 

 

 彼女は雪風たちの前から消えてしまった。

 

 

 

「何、今の……」

 

 

 ようやく時間が動き始めたのだろう。潮さんがそんな声を漏らす。その言葉に、他の皆も時間が動き始めたのか荒い息遣いが聞こえ始めた。

 

 誰もが死を覚悟しただろう。誰もが生を諦めただろう。だが、雪風たちは生きている。何故か、彼女は雪風たちを襲わず、こちらに背を向けて逃げた。いや、逃がしたのだ。

 

 

 

 

 

「なんで」

 

 

 その時、雪風の口からそんな言葉が零れていた。それを拾ったらしき曙さんが雪風に顔を向け、そして目を丸くした。その目に映る雪風がどんな顔をしていたのか分からない。 

 

 

 だけど一つ分かるのは、零れた言葉に凄まじい怒気(・・)が孕んでいたこと。だが、それに彼女が言葉を続けることはできなかった。

 

 

 

 次の瞬間、雪風たちの周りに無数の砲撃音が聞こえたからだ。

 

 

 

「全速前進!!」

 

 

 曙さんが声を張り上げる。同時に艤装の唸り声が無数に上がり、艦隊は全速で進む。そして、その後を追う様に無数の水柱が立ち上がった

 

 回避に成功した雪風たちはすぐさま水面に目を走らせる。そして、すぐにその水柱の正体を捉えた。

 

 

 

「敵水雷戦隊発見!! 右方向、距離15000!!」

 

 

 同じく敵を発見した潮さんが声を張り上げる。敵は旗艦軽巡ホ級、駆逐艦ロ級の水雷戦隊。距離からして射程ギリギリからの砲撃だ。あくまで攪乱を目的としたものだろう。攪乱している間に距離を詰め、一気呵成に砲火を上げるのが狙いだ。

 

 それを読み、曙さんは取舵を切る。距離を取るためだ。しかし、負傷艦ばかりの雪風たちが敵水雷戦隊から逃げきれるのはほぼ不可能だろう。それは彼女も分かっている筈だ。

 

 

 

 それがただの『悪あがき』だとも、分かっている筈だ。

 

 

 

「取り舵一杯!! 距離を取―――」

 

 

 そんな曙さんが声を張り上げた瞬間、また砲撃音が聞こえた。

 

 だが可笑しなことに、それは先ほど敵が上げた砲撃音よりも低かった。そして、小さかった、遠かった。

 

 

 

 そして次の瞬間、敵水雷戦隊の一隻が火柱を上げたのだ。

 

 

 その光景に、雪風たちは目を丸くする。それは敵水雷戦隊も同様だった。両艦隊は時間が止まったようにその場にとどまり、火柱を上げた敵艦が水面に沈んでいく様子を見るだけだった。

 

 そして、またもや砲撃音が鳴り響く。今度は複数、先ほどよりも大きく、近く、そして低かった。それに呼応するように敵艦隊の周りに水柱が上がる。駆逐艦では到底上げられないであろう大きな水柱だ。

 

 

 

 まるで、『戦艦』が放ったような。

 

 

 

 

 

 

「榛名さん?」

 

 

 そして、とある戦艦の名前が曙さんの口から飛び出した。まさかの名前に、雪風は曙さんを見る。彼女は驚愕の表情のまま、とある方向を見ていた。その先に、雪風も視線を向ける。

 

 

 そして見つけた。敵水雷戦隊よりも小さな黒い粒が、この距離からでも分かる程大きな砲火を上げているのを。それに呼応するように敵艦隊に水柱や火柱が立ち上がり、反撃するかのように砲火を上げているのを。

 

 

やがて、その砲撃戦は終わりを迎えた。敵水雷戦隊が無数の水柱、火柱の中に消え去り、黒い粒のように見えていた艦隊が姿を現した。

 

 

 

 先頭を進むのは榛名さん。その後ろに軽巡洋艦、駆逐艦、そして駆逐艦の後ろに曳航されている大発動艇が見える。

 

 

 

「救助部隊、かぁ」

 

 

 それを見た曙さんが、安心したような声を上げる。同時に進路を反転させ、榛名さんに向ける。艦隊は速度を上げ、雪風たちと榛名さんたちは瞬く間に距離を詰める。

 

 

 やがて、近付いてきた榛名さんはピシッと敬礼を向けてきた。

 

 

 

「本隊護衛部隊、旗艦榛名です。母港まで、護衛致します」

 

「救出部隊、臨時旗艦曙です。敵水雷戦隊の撃破、真に感謝します」

 

 

 互いに形式の挨拶を交わした。それに倣い、雪風たちも同じく敬礼をする。ほんの一瞬、張りつめた空気が走るも、それは表情を崩した榛名さんによって瞬く間に消え去った。

 

 

 

 何ともみっともない、泣き顔だ。

 

 

 

「良かったぁ……皆さんご無事で……本当に良かっだぁ……」

 

「ちょ、榛名さん、何も泣かなくても……」

 

「だっでぇ……」

 

 

 子供のようにぽろぽろ涙を流し始めた榛名さんに曙さんが苦笑いを浮かべる。傍から見れば、立場が逆だと突っ込まれるだろう。

 

 しかし、榛名さんは今作戦の主力を担えなかった。救出部隊ではなく、まして囮部隊でもなく、護衛部隊としか動けなかった。更に言えば、彼女は金剛さんたちを置いて帰投した。言い方を変えれば、金剛さんを見捨てて帰投した。誰も責めない故に、誰よりも責任を感じていた筈だ。それに押しつぶされまいと必死に堪えてきたのだろう。

 

 

 

 その辛さ、痛いほど分かった。

 

 

 

「榛名」

 

 

 そんな中、金剛さんが彼女の名を呼ぶ。それに、榛名さんは真っ赤に腫らした目を彼女に向けた。そして、彼女は駆け出したのだ。

 

 

 

「お姉様ぁ」

 

「大丈夫、大丈夫……皆無事、皆生きてマス。そしてごめん、ごめんね……心配かけて、本当に申し訳ないデス」

 

 

 飛び込んできた榛名さんを抱き締め、金剛さんはその頭を撫でる。その胸の中で子供のように泣きじゃくる榛名さん。その様子はまさに姉妹であった。生と死の狭間を潜り抜け、再会できた姉妹であった。

 

 

 

 

 その様子が、羨ましかった。

 

 

 

「取り合えず大発に吹雪ちゃんを、他の皆さんも乗ってください」

 

 

 そんな中、大発を引いていた駆逐艦が声を上げる。その言葉に、北上さんが吹雪さんを曳航していた金剛さんの紐を外し、今もぐったりしている彼女を大発に乗せる。それを受けて、各々も大発に乗る準備をし始める。

 

 

 

 

 

「なんで」

 

 

 その様子を見て、雪風はまたその言葉を漏らしていた。その視線の先に居る僚艦たちを見て、忌々し気に。

 

 

 

「なんで」

 

 

 僚艦たちは皆、安心している。そこに誰一人として、恐怖を浮かべていない。雪風が居た場所では、絶対に見れない光景だった。

 

 

 

「なんで」

 

 

 雪風が居るのに、雪風が傍に居るのに。誰も恐怖を覚えていない、誰も悲しみを携えていない。『今まで』とは違う、『あの時』とは違う。

 

 雪風が辿り続けた結末から、唯一逃れた『結果』だ。それが今、目の前に広がっている。それが今、手の届く場所にあった。それが今、手に入れることが出来た。

 

 

 

 『今』、手に入ったのだ。

 

 

 何故、『今』なのか。

 

 何故、『今』だけ(・・)なのか。

 

 

 何故、『今まで』ではなかったのか。

 

 何故、『今まで』では駄目だったのか。

 

 何故、『あの時』に手に入れられなかったのか。

 

 

 何故、『あの時』撤退を選んでしまったのか。

 

 何故、『あの時』敵に遭遇してしまったのか。

 

 何故、『あの時』僚艦の全てが沈まなけれならなかったのか。

 

 

 

 何故、『今まで』こうならなかったのか。

 

 

 

 

「なんで今更(・・)、手に入るんだよぉ」

 

 

 

 そんな泣き声が漏れた。それは雪風の声だ、彼女(・・)の声だ。ずっと押し殺し続けた、幸運の代償(えこひいき)に対する彼女(雪風)の声だ。その筈だ。

 

 

 

 決して、『あたし』の声じゃない。

 

 

 

 

「さぁね、分からないわ」

 

 

 その言葉に応えた人が居た。雪風が支えていた曙さんだ。思わず彼女を見る。対して曙さんは雪風を見ることなく、ただ目の前に広がる光景を、ようやく手に入れた『今』を見つめていた。

 

 

 

「でも多分、いやきっと……あいつが」

 

「あい、つ……?」

 

 

 彼女の言葉を繰り返す。すると曙さんは視線を雪風に向けた。そこにあったのは、刃物のような鋭さも、身も凍り付くような冷たさもない。

 

 

 

 羨ましい者を見るような、熱の籠った目だ。

 

 

 

「……教えない」

 

「え?」

 

 

 次に飛び出したのは、何とも子供っぽい言葉だった。それに疑問符をなげかけるも、曙さんは不服そうに頬を膨らませるだけだった。

 

 

「ほら、曙ちゃんも乗りますよ」

 

 

 その様子に疑問をぶつける前に、護衛部隊の駆逐艦が彼女にそう声をかけてくる。すると渡りに船とばかりに曙さんは雪風の身体から離れ、その駆逐艦の手を取った。

 

 そのまま雪風が口を挟む暇もなく、彼女たちは大発へと行ってしまった。

 

 

 

「さぁ、帰りましょう」

 

 

 やがて準備が整った雪風たちは泣き腫らした顔の榛名さんの号令に従い、帰投を開始する。

 

 

 その間、敵に遭遇することは無かった。

 

 その間、戦闘も無かった。

 

 

 

 何の問題もなく、いとも簡単に、母港に帰投出来てしまったのだ。

 

 

 

 母港を目の前にした時、その先で沢山の人だかりが見える。艦隊の帰投を待ち望んでいた艦娘たちだ。誰しもが作戦の成功を喜び、全員の生還を喜んでいるのだ。

 

 それを前に、雪風は思わず視線を下げる。いや、下げてしまった。生還を待ち望んでいる皆の目に映るのが、とても憚られた。

 

 自分勝手な行動を起こし、本作戦の崩壊を招こうとした。そんな自分にどんな視線を向けられるのか、考えなくても分かっていたからだ。

 

 

 そんな雪風に向けられる視線は、『今まで』と同じだからだ。

 

 

 やがて近づくにつれて歓声が聞こえてくる。それに、雪風は耳を塞ぎたくなるのを必死に堪えた。その中に自分に向けられた言葉があるかもしれない、それが一体どんなものか、考えなくても分かったからだ。

 

 

 こんな雪風に向けられる言葉は、『今まで』と同じだからだ。

 

 

 ようやく、不安定であった水面からどっしりとした地面に足を踏み入れた。同時に、遠巻きに聞こえていた歓声が嫌というほど鼓膜を叩いてくる。ありとあらゆる視線が雪風に降り注いでくる。

 

 

 

 『今まで』通り、全て同じだ。

 

 

 

 

 

 だが、突然その歓声は水を打ったように消えた。

 

 

 そして、同時に一つの革靴の音が聞こえる。カツカツ、と乾いた一定のリズム。それは少しずつ、早くなっていく。歩いているから早足、そして駆け足になる。

 

 

 その音はどんどん大きくなる。大きくなり、そし近くなってくる。同時に息遣いが聞こえ、足音が荒々しくなっていき、風を切る音が勢いを増してくる。

 

 

 それは、雪風の前に達した。

 

 その時、雪風は下げていた視線を上げる。

 

 

 

 上げた先にあったのは、大きな手の平だ。

 

 

 

 

 

 

 あたり一帯に乾いた音が聞こえる。

 

 

 雪風の視界は真横を向いていた。頬は熱を帯び、鋭い痛みが走った。それはすぐにじんわりとした鈍い痛みとなり、頬を蝕んでくる。

 

 

 だけど、頭は至って冷静だった。

 

 

 これも『今まで』通りだからだ。今までも、幾度となくこんな仕打ちを受けた。お前のせいだと、お前のせいで沈んだと、その言葉とともにこうして平手を喰らったのだ。

 

 

 

 

「なんで進撃した」

 

 

 

 やがて、視界の横からそんな声が聞えてくる。その声色、『今まで』と一緒だ。何もかも、一緒だ。予想通り、一緒だ。

 

 

 

「なんで進撃した」

 

 

 

 また、同じ言葉がやってきた。声色は変わらない、雪風を責めるものだ。雪風を糾弾するものだ。雪風に全てを押し付けるものだ。

 

 

 

「沈むかも……しれなかったんだぞ」

 

 

 

 だが、次にやってきた言葉は違っていた。声色は変わらないが、言葉だけが違っていた。だけど、それが持つ意味は一緒だ。

 

 彼が指しているのは雪風の大破進撃に巻き込まれた曙さんたちのことだ。お前が進撃しなければ、彼女たちが無用な危険に晒されることは無かった。そう言いたいのだ。

 

 

 

「なのに……なん、で……」

 

 

 その言葉は震えていた。怒り(・・)に震えていた。余計な犠牲を出そうとした雪風に、死神(雪風)に。そのくせ沈まずに、あの子を犠牲にして、なおも生き永らえたあたし(・・・)に。

 

 

 だけど、あたしはちゃんと聞いたはずだ。

 

 

 どうすればいい、と。どっちがいい、と。進撃か撤退か、どちらがいいか、と。

 

 

 『あたしを切り捨てろ』、と―――――そう進言したはずだ。

 

 

 なのに、貴方はそれを選ばなかった。何も(・・)選ばなかった。

 

 だから断行した、だから決行した、だから背負った。

 

 

 しれぇ(お前)が選ばなかったから、あたし(・・・)が選んでやったんだ。

 

 

「あたしが――――」

 

 

 それがいつの間にか声に出ていたのだろう。そう言いながら、あたしは顔を上げる。

 

 上げた先にあったのは手の平でもなく、拳でもなく、小さな雫(・・・・)の跡が無数に付いたよれよれの軍服だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よがっ、だぁ」

 

 

 

 そう、声が聞えた。同時に肩を掴まれ、背中に腕を回され、力の限り引き寄せられた。次の瞬間、先ほど視界にあったはずの軍服が目の前にあった。

 

 

 その向こうから、喧しい心音が聞こえた。

 

 

「よが、よ、がっ……た、よがっ……たぁ、よかった(・・・・)ぁ……()がっだよぉ!!」

 

 

 

 頭上から彼の声が、泣き声が聞こえる。

 

 身体を締め付けられる。力の限り、締め付けられる。

 

 頭上から、水のようなものが落ちてくる。それは雪風の制服を濡らす。

 

 

 それらの事実を拾い上げ、ようやく分かった。

 

 

 

 

 

 雪風は、抱きしめられている。

 

 

 

「っご、ごめん……ごめん、ごめん……ごめんなぁ、雪風ぇ……こ……こんな、だ、駄目な提督で……ごめんよぉ……選べなくて(・・・・・)本当に……本当にごめんよぉ……」

 

「なん、で」

 

 

 

 子供のように泣きじゃくる男―――――しれぇを支えながら、あたしはそう声を漏らした。

 

 

 分からなかったから。

 

 

 彼が泣くのも、彼が『良かった』と口にするのも、彼が謝るのも、彼が謝る理由も。

 

 

 全部、全部、分からなかった。

 

 

 

「で、でも……でも、よかったぁ……良かったぁ……良かったよぉ……」

 

 

 しれぇは尚も言葉を、嗚咽を、泣き声を上げる。それは謝罪ではなく、まして糾弾でもない。ただの安堵、ただの安心。

 

 

 だけど分からない、分からない。

 

 

 何故、しれぇがここまで取り乱すのか、あたしには分からない。

 

 

 

 

 

「帰って、きてくれたぁ……」

 

 

 その答えは、しれぇの口から出た。

 

 その理由は、しれぇが教えてくれた。

 

 

 

 あたしが帰ってきた(・・・・・・・・・)ことが、『良かった』と言ってくれた。

 

 

 

「ほんと、ほんどうに……う、ぁぁぁぁああ……あぁぁああああああ!!」

 

 

 そう漏らした後、しれぇの口から言葉が出てこなくなった。唸り声のような、呻き声のような、泣き声にか出てこなくなった。

 

 

 大の大人が、それもこの鎮守府の最高権力者が。部下たちの目の前で、みっともない泣き顔を晒している。本来、そのような姿を晒すべきではない。隠さなければならないものだ。

 

 だけど、裏を返せば取り繕えないほどのことが起きたと言える。それほどまでに、彼の中では大きなことが、重要なことが、大切なこと(・・・・・)が起きたと言える。

 

 

 

 

 その『大切なこと』、それが『あたしが帰ってきた』ことなのだ。

 

 

 

 

「っぇ」

 

 

 

 いつの間にか、声が漏れていた。

 

 いつの間にか、しれぇの腕を掴んでいた。

 

 いつの間にか、しれぇの胸に顔を埋めていた。

 

 

 

 いつの間にか、あたしの目は大粒の涙で一杯だった。

 

 

 

 

「あぁぁっ……ああぁぁぁああああぁぁ……あぁぁあああああああ!!!!」

 

 

 

 

 しばらくの間、母港には二つの泣き声が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……見たくなかったのに、な」

 

 

 母港の真ん中で、わんわんと泣き声を上げる二人。そこから視線を外して私は―――――曙はそう愚痴を漏らした。

 

 こちとらそのみっともない面を見たくないために身体張ったって言うのにさ……ホント、クソ提督なんだから。

 

 

 まぁでも、正直雪風に近付いて平手を喰らわせた時は焦った。誰しもがあいつの行動に目を疑っただろう。確かにあいつはあの憲兵に拳を振るったけど、それを艦娘に振るうとまでは思わなかったかもしれない。

 

 そしてそれを見て、あいつも前のと同じく暴力を振るうかもしれない。そんな恐怖を植え付けるかもという心配も、今のみっともない姿を曝け出した時点で問題ないわね。

 

 

 そこで、何故か私は安堵の息を漏らした。そして、なおも泣き喚く二人に目を向ける。二人は今も喧しく泣き喚いている。

 

 

 まぁ、どちらもずっと押し殺してきたものが一気に溢れ出たんだから、こうなるのは当たり前か。本人たちのことを思えば、もう少しそっとしておくのが良いんだけど、流石に周りの目もあるしねぇ……。

 

 

 うん、そろそろやめさせよう。

 

 

 

「ほ~ら、二人とも? みっともないから、いい加減泣き止ん―――」

 

 

 二人に近付きながら、そう呆れ声をかける。だけど、その言葉は途中で途切れた。

 

 

 

 

 不意にあいつに手を掴まれ、そして抱き締められたからだ。

 

 

「ちょ、え!?」

 

 

 突然のことに変な声を上げ、その手から逃れようと力を込めた。

 

 

 

 

 

「ありがとうぅ……」

 

 

 だけど、次に聞こえたあいつの言葉。それを聞いて、私は暴れるのをやめた。

 

 

 

「ありがとうぅ……ありがとうぅ、曙ォ……ありがとうぅ……」

 

 

 あいつは泣きながら、私に『ありがとう(その言葉)』を向け続ける。それを前にしちゃ、受け入れるしかないでしょう。そして赤子のようにその頭を撫でた。

 

 

 

「大丈夫、大丈夫よ、ちゃんと連れて帰るって言ったじゃない」

 

「ありがとうぅ……ありがとうぅ……」

 

 

 だって、あんたが望んだんじゃない。

 

 だって、あんたが信じてくれたんじゃない。

 

 だって、あんたが待ってくれたからじゃない。

 

 

 私は『雪風を連れて帰る』(あんたの願い)を叶えるのが役目なんだから、そんなの当たり前じゃないの。

 

 

 

 

「無事に帰ってきてくれて……ありがとうぉ……」

 

 

 

 だけど、次に飛び出した言葉は。いや、あいつが私に感謝してくれた(・・・・・・・)ことは。

 

 雪風の無事ではなく、艦隊みんなの無事ではなく、私が無事であった(・・・・・・・・)ことだった。

 

 

 私の安否も、しっかり留意してくれていた。

 

 私の生還も、しっかり願っていてくれていた。

 

 

 

 私も、しっかり見てくれていたのだ。

 

 

 その後、あいつはまた泣き声を上げるだけになった。それに、私はなだめるよう声をかけることが出来なくなっていた。

 

 

 

 何故なら、私の声もあいつらと同じような泣き声に変わっていたからだ。

 

 

 

 不意打ちのような言葉。

 

 本当に欲しかった言葉。

 

 そしてちゃんと大切に思われていたという事実。

 

 

 それらを一気に手渡して、そして今もなお泣き声を上げてくれる。

 

 そんなあいつ、そんな提督、そんな私の提督。

 

 

 ……あぁ、夕立の言葉を借りよう。借りてしまおう。

 

 

 

 あぁ、もう、ほんと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 好きだ、バカ。



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『向日葵』の『太陽』

 気が付くと、雪風は廊下を歩いていた。

 

 誰かに手を引かれている、誰かに引っ張られている。

 

 

 傷もない、痛みも、疲れもない。

 

 確かにあった傷も。

 

 身を裂かんばかりに襲ってきた痛みも。

 

 泥のように眠ってしまうだろう膨大な疲れも。

 

 

 何も無い。

 

 

 まるで今までのことが無かったかのように。

 

 『夢』の続きかもしれない、そう勘違いしてしまうかのように。

 

 

 何もかもが、同じように見える(・・・)

 

 

 今までもこれからも、過去も未来も、呪縛と一蓮托生、決して逃れられることが出来ず。

 

 この心臓が動き続ける限り、この血液が巡り続ける限り、この身体が呼吸を続ける限り。

 

 ずっと、ずっと、永遠に、永久に、背負わされ続ける(モノ)を背負い。

 

 

 このまま『雪風』として、(終わり)を迎える。

 

 

 

 そう、思っていた(・・・・・)

 

 

 そして手を引く誰か。白い軍服が見える。それを身に纏う存在を、雪風は一人しか知らない。

 

 

 だけどその背中は、前と一致しなかった。

 

 

 前は一切の汚れの無い軍服だった。でも、今目の前に見えるそれは『白』と言うにはほど遠いほど、汚れていた(・・・・・)

 

 

 襟や肩口はヨレヨレ、所々ほつれや所々擦り切れている。

 

 場所によっては穴が空きそう、または既に空いている場所さえある。

 

 帽子も型崩れを起こし、色も落ち、シミや汚れ、傷、シワに塗れ等々。

 

 

 極めつけはその襟から背中に広がる大きな茶色のシミ。まるで頭から何かを被ったかのような、身にまとうのすら憚れるほどの汚れだ。

 

 何千、何万と言う多くの若人たちが『夢』を見て、研鑽し、挑戦し、叶わず破れていった。

 

 その数多の想いを一身に引き付け、魅了し、そして踏みにじってきたであろう。

 

 

 そんな『夢』の証は今、目を疑いたくなるほどに汚れ、傷付き、擦り切れている。若人たちからすれば喉から手が出るほど欲した『(それ)』を、何故ここまで筵に出来るのか、そう激昂されてもおかしくない。

 

 身にまとうことすら憚れる、目にするだけでも気が引ける、さっさと捨ててしまえばいいとさえ思えてしまう、そんな汚れ塗れの軍服たち。

 

 

 

 

 それを()は身にまとっていたのだ。

 

 

 

 やがて、雪風たちはある場所で止まった。

 

 

 そこは重厚な鉄の扉。

 

 

 基本、木材で造られている鎮守府の扉の中で稀に見る鉄で造られてた扉。木造が多い中で鉄で造られるのは、それだけ重要な場所だと言うことだ。

 

 更に言えばしれいかん(・・・・・)の部屋の扉でさえも木造となれば、其処の重要性は一気に跳ね上がるだろう。

 

 

 そしてその扉に、雪風は見覚えがある。

 

 以前、曙さんが一週間の謹慎を過ごした場所――――営倉である。

 

 

 彼は軍服のポケットから鍵を取り出し、鍵穴に挿して右に回す。カチャリ、という音と共に扉は開かれた。

 

 途端、埃っぽい臭いを鼻を刺す――――かのように思えたが、思いのほかそれは無かった。日々、清掃に精を出す妖精さんたちの賜物だろう。

 

 

 そう、あの子も―――――

 

 

 

「雪風」

 

 

 不意に飛んできた声。それを受けて、雪風は顔を上げる。ぼやけた視界の向こうに、雪風を見つめる彼。その表情は分からない。

 

 

 だけど雪風の顔見た瞬間、雪風の手を握る彼の手に力が籠った。

 

 

「……足元、気を付けろ」

 

 

 彼はそれだけ言って前に向き直り、雪風の手を引きながら営倉へと続く階段に足を踏み入れた。

 

 

 

 入って分かった。此処は寒い。

 

 懲罰房であるため、空調に気を遣うわけがない。それに場所が場所であるため、身体がそう感じるだけで実際の寒さはそこまでだろう。

 

 それに雪風は、過去にここで何があったのかを知っている。純真無垢を装っているが、ここで口にすることを憚れるコトが行われていたと知っている。伊達にここで過ごしてきたのだ、人の汚い所なんて嫌でも見てきた。良くも悪くも(・・・・・・)嫌でも(・・・)見てきた。

 

 

 故にこれから何をされるのか、手に取る様に分かるはずだ。

 

 

 

 だけど、分からない。

 

 

 今、雪風の手を引く彼がどんな意図で、何の目的で、何をしようとしてここにやってきたのか。分からない、見当もつかない、理解できない。

 

 

 故に『動揺』があった、故に『困惑』があった、故に『疑心』があった。

 

 

 

 

 だけど、不思議と『恐怖』はなかった。いつもなら真っ先に抱くはずなのに、何故だろうか。

 

 

 そんな思考の海を彷徨っている間に、営倉に辿り着いた。

 

 前回のように、そこに人はいない。生活感の一切を排された個室が二つ。鉄格子を隔てて広がっている。ここで毎晩、ある時は一日に複数回、目を覆いたくなるようなことがあった。伝聞でしか知らないが、ソレ(・・)をされた人たちを嫌でも見てきた。

 

 そんな営倉の一つに、彼は先ほどの鍵を取り出し挿した。カシャン、という先ほどよりも少しだけ重い音が響き、鉄格子が開いた。

 

 彼はそのまま中に足を踏み入れる。同様に、彼に引かれた雪風も。

 

 

 その瞬間、何かを足を取られた感覚と共に視界がガクンと下がった。バランスが崩れ、前のめりに倒れる。恐らく、何かに足を引っかけたのだ。

 

 

 

「っと」

 

 

 すると、頭上から少し驚いたような声が降ってきた。そして目の前が先ほど見えていた軍服で一杯になる。

 

 鼻を刺すのはコーヒーの香り。または顎にボタンが食い込んだのか軽い痛み。そして、目の前に広がる制服の向こう。手を伸ばせば届く距離に、しっかりと彼の鼓動がある。

 

 

 何処からか伸びてきた2本の腕、そして雪風程の体躯ならすっぽり覆ってしまうほどに広い胸。それらを以て、彼は雪風を支えていたのだ。

 

 

 そこでやっと、ほんの少しだけ、僅かに、たった一つだけ、分かったことがあった。

 

 

 

 

「……大丈夫か?」

 

 

 

 頭上から彼の声が降ってくる。それに、雪風は反応しない。ただ、目の前に押し付けられた軍服に顔を埋めるだけ。何も発さない、何も言わない。

 

 

 それは、その理由は、その答えは、雪風(・・)が導き出した結論は、こうだ。

 

 

 

「……雪か――」

 

「『死神』なんですよ」

 

 

 

 再び声を上げた彼を遮る様に、雪風はそう応えた。

 

 同時に顔を上げ、彼の顔を見上げ、慣れ親しんだ仮面を―――――『笑顔』を向けた。

 

 

 

「雪風、『死神』なんですよ。比喩じゃなくて、正真正銘、本物なんです。雪風に関わった人は、皆死んじゃう(・・・・・)んです。どんなに強靭でも、どんなに精強でも、どんなに憶病でも、どんなに卑怯でも、どんなに『生』に執着していても……何一つ関係なく、皆同じように、等しく、誰それ構わず死んじゃうんですよ。死神(そういう存在)なんですよ、雪風は」

 

 

 

 彼は知らない、知らないのだ。

 

 雪風がどんな存在か、雪風がどんな軌跡を歩んできたのか、雪風がどんな罪を背負っているのか、何も知らない。彼は出会ってからの雪風しか知らない、それ以前の雪風を知らない。

 

 どれほど非情な、残酷な、卑劣なことを山ほどやってきた雪風を。それを平然と、感情の一切を排して淡々と行う、初代(しれぇ)の雪風を知らないのだ。

 

 

 

「幸運艦、強運艦、異能生存体、奇跡の駆逐艦……そんな煌びやかな名でもてはやされ、喝さいを浴びたと思うでしょう。でも雪風の下には、『雪風(この名)』の下には夥しい数の命があるんです。雪風はそれを踏んで生きているんです。雪風はそれらを身代わり(・・・・)に生きているんです。生き残るために捨て去ったんですよ。それも雪風の手で……雪風が自分の意志(・・・・・)で捨て去ったんですよ」

 

 

 

 彼が知っているのは、彼の下で過ごした雪風だけ。彼の下す采配はどれもこれも真っ当で、真っ白で、道理、理屈、倫理に則したことばかり。雪風はただその采配に従っただけ、故に彼は雪風を自分と同じ清廉潔白な存在だと勘違い(・・・)している。

 

 だからこそ彼は雪風を切らなかった、彼は雪風を捨てなかった、こんな薄汚れた存在なんかに情を向けた。あれ程酷い言葉を浴びたのに、彼はその帰還を喜んでくれた、その生還を望んでくれた。こんな雪風のために人目を憚らず醜態を晒したのだ。今もこうして雪風の身体を支えてくれるんだ、触れてくれるんだ、傍に居てくれるんだ。

 

 

 これほどまでに綺麗なんだ。純真無垢で、実直で、素直な人なんだ。『死神』如きが見ることを憚れる程、光り輝いているんだ。

 

 

 誰しも分け隔てなく光を与え、その行く末を照らし続ける―――――『太陽』のような存在なんだ。

 

 

 

「雪風は確かに幸運です。周りの人を不幸にしてしまうほどに、幸運(・・)なんです。でも、全部が全部幸運なわけないんです。その中でも、きちんと自分の意志で仲間を切り捨てたこともあります。それこそ沈みそうな仲間を見捨てて悠々と帰投した、守りきれたであろう味方を捨てて勝利に固執した、身を徹して守ってくれた仲間を毛ほども気にかけなかった……ほら、雪風はこんなに汚い(・・)んですよ」

 

 

 そんな人に『死神(雪風)』が関わってはいけない。まして、幸運の代償(理不尽な結末)にしてはいけない。

 

 彼が失われれば、路頭に迷う人々で溢れかえる。彼一人が消えるだけで夥しい数の人々が光を失うだろう。それこそ、『死神』一人が沈んだところで取り返せないほどの損失だ。それだけは回避しなければならない、絶対に在ってはならない、最低最悪の『代償』だ。

 

 

 だから雪風は現実を、彼の知らない雪風を、罪を犯して、投げ捨てて、踏みにじって、そのうえで何食わぬ顔で笑っている。そんな『死神』の姿を曝け出した。

 

 

 

 これ以上、彼が関わらないように。

 

 これ以上、彼が悩まないに。

 

 これ以上、彼が苦しまないように。

 

 

 掃いて捨てる程度の存在だと、貴方が目を向けるほどの存在ではないと、すぐにでも捨ててしまえ、真っ先に切ってしまえ、目もくれず、踏みにじり、捨てた事実すらも忘れてしまえ、と。

 

 

 今すぐにでも。今この場でもいい。直接手を下してもいい、誰かの手を借りてもいい。

 

 

 とにかくこの息の根を止めてくれ、と。

 

 

 

 

「……」

 

 

 だけど、彼は何も言わない。

 

 

 真っ直ぐ雪風の顔を見て、素直に雪風の言葉に耳を傾け、仮初め(・・・)のすまし顔でいるだけ。

 

 

 

 いつまで経っても、『死神』を糾弾する言葉が来ない。

 

 いつまで経っても、『死神』を罵倒する言葉が来ない。

 

 いつまで経っても、彼はその場から―――『死神』の傍から離れようとしない。

 

 

 ただ、ただ、雪風(・・)の話を聞くだけだ。

 

 

 

「……ですよ、酷いでしょ? 残忍でしょ? それが雪風なんです。これが『死神』と呼ばれる所以なんですよ……それにほら!! 雪風は比叡さんを……しずめ、まし……た、し」

 

 

 

 そこで言葉が途切れた。同時に胸の奥が締め付けられ、息をするのも困難になる。同時に目頭が熱くなり、視界はぼやけてしまう。手足が微かに震え、体温が下がる。

 

 あれ程すらすら吐き続けてきたのに、何故かその話になると。いや、いざその話になると、雪風は口を噤んだ。

 

 これが雪風の最も汚い所だ。都合の悪いことは口にせず、たいして思っていないことは流水のようにスラスラ言えてしまう。

 

 だからこそ『死神』なんだ、だからこそ北上さんがそう称したんだ。清廉潔白な貴方に程遠い、汚れに塗れた存在なんだ。

 

 

 

 (汚れ)だらけなんだよ、雪風は。

 

 

 だが、それでも彼は何も言わない。今まで通り、ずっと黙って雪風の話を聞くだけ。次に続く雪風の話を待っている、口を開く気配もない。餌を寄こせと喧しく騒ぎ立てる雛鳥の方がよっぽどマシだと思えるほど、彼は頑なに沈黙を貫くだけ。

 

 

 そのまま、互いに口を開くことなく沈黙が支配した。彼は動かない、動く気すらない。そんな彼を前にしたら、こちらがまた話をするしかない。しかし、今しがた話し始めたことは憚れるため、何かしら別の話題を用意しなければ。

 

 

 

 

 

「……あ、あたし(・・・)は!!」

 

 

 

 そんな思考であれやこれや考えて考え抜く中、ポロリとそんな言葉が()が零れた。

 

 

 その瞬間、雪風は口を噤んだ。慌てて言葉を噛み殺した、その先の言葉を飲み込んだ、零れかけた感情をすぐさま拾い上げた、ぶちまけかけたパズルのピースを寸でのところで掴んだ。

 

 

 

 

 

 

「言ってくれ」

 

 

 その瞬間、今まで沈黙を保っていた筈の彼が動いた。

 

 

 

 

「言ってくれ」

 

 

 彼は雪風が噛み殺ろうとした言葉を引っ張り出してきた。

 

 

「教えてくれ」

 

 

 彼は雪風が拾い上げた感情に手を添え、雪風の手ごと包み込んできた。

 

 

「話してくれ」

 

 

 彼は雪風が掴み損ね床に落ちたピースを摘まみ、雪風の手に押し付けてきた。

 

 

 

 

 

「俺は()を……雪風になってしまった君(・・・・・・・・・・・)と話がしたいんだ」

 

 

 彼はそう言ってきた。

 

 そう言って、雪風を真っ直ぐ見つめてきた。

 

 そう言って、彼は最後(・・)のピースを嵌め込んできた。

 

 

 

 雪風(その)向こうにいる、あたし(パズル)を完成させたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しに、たく、ない……」

 

 

 

 いつの間にか、『あたし』はそう漏らしていた。

 

 

 

「しず、み、たく、ない……」

 

 

 

 いつの間にか、『あたし』はそう答えていた。

 

 

 

「しず、め……たく、ないぃ……」

 

 

 

 いつの間にか、『あたし』はそう懇願していた。

 

 

 

 

「……あたし(・・・)あたし(・・・)はぁ……あたし(・・・)は!!!!」

 

 

 

 いつの間にか、『あたし』は声を荒げて、涙でぐちゃぐちゃであろう顔を前に向け、前に居る彼に対して、しれぇ(・・・)に対して、こう叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「『死神(雪風)』じゃない!!!!!」

 

 

 

 ようやく(・・・・)、『あたし』は『あたし』をひけらかした。

 

 ずっと、ずっと押し込んでいた心を、想いを、『雪風』に支配されつつあった『あたし』を。

 

 『雪風』なることを頑なに拒否し続け、それに反して日々押し付けられていく膨大な罪に押し潰されかけ、その逃げ道を与えられ、その代償に忠実な駒になることを求められ、それに縋り続け、やがて何もかもから逃げるために沈むことを望むようになった。

 

 

 

 『雪風』になることを拒否した筈なのに。何時しか『雪風』になることが、『雪風』として沈む(死ぬ)ことが目的となっていた『あたし』を。

 

 

 

 

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 そしてその結果。それはしれぇの微笑みと共に返ってきた。

 

 罵声でも怒号でも恨み節でもない。凡そ艦娘になって初めて向けられたであろう。

 

 

 

 感謝(・・)の言葉だ。

 

 

 

「そしてごめん、ごめん……()と話すのが遅くなって、()のことをずっと放っておいて、()に辛い選択をさせてしまって……本当にごめん」

 

 

 

 しれぇはそう言って、今まで微笑みを浮かべたまま深々と頭を下げる。そして、数秒後に下げた頭を元に戻し、再びその微笑みを向けてくる。

 

 

 だけどその目に、うっすら涙が溜まっていた。

 

 

 

「俺、どこか安心していたんだ。君は……雪風(・・)はいつも俺の味方だって、そう勝手に思い込んで胡坐をかいていたんだ。事実、君が俺のやることを否定したことが無かった。間違っていたとしても頭ごなしに否定せず、意見を取り入れつつ別の案を出して上手く軌道修正してくれた。だから、君だけは俺を裏切らないだろうって、勝手に思っていたんだ……」

 

 

 しれぇは何処か自虐を滲ませながらそう語る。

 

 

「それに君が周りの艦娘とは違う、『異質』であることも気づいていた。特に北上が、そして今しがた君が語った比叡について。君がそれを抱えて苦しんでいることを知っていながら、俺は見て見ぬふりをした。何処か他人事のように思っていたんだ……」

 

 

 その言葉は、何処か震えていた。

 

 

「その結果、君が初めて俺に反抗した。それに俺は何も言い返せずに路頭に迷った。今回は大淀、林道、夕立、響、そして曙のお蔭で何とかなった。結果はどうあれ、今回の采配は紛れもなく『失敗』だ。あいつらの奮戦が無かったら、俺は全てを失った。俺一人だったら、何もかもを失う『失敗』だっただろう。そのきっかけも俺だし、導き出したのも俺。万が一に俺が正しく判断できれば……いや、仮に判断できたとしても、金剛と吹雪、夕立や曙、そして君を含めあの作戦に参加した艦娘(みんな)の誰かが沈んだかもしれない。今回は皆の奮戦と……幸運に恵まれただけ、全ての歯車が都合よく噛みあっただけ……」

 

 

 そこで言葉を切ったしれえは、まるで今から吐き出そうとする言葉を飲み込もうとするかのように、その顔を苦痛に歪めた。

 

 

「……もし、その一つ(・・)でも違っていたら」

 

 

 

 しれぇは苦痛に苛まれながら、それを吐き出した。それは有り得たかもしれない未来、敷き詰められた数多の道筋の殆どがたどり着いたであろう至極現実的な結果―――――誰かの轟沈だ。

 

 今回はその道筋の中で数少ない全員生還と言う答えに辿り着いただけ。普通に考えれば有り得ない答えであり、本来ならそれを勝ち取ることは出来なかっただろう。一歩間違えれば容赦なく前に現れたであろう、()悪とは言い難いが、彼は是が非でも辿り着きたくないであろう答えだ。

 

 彼は不本意ながらその答えを導き出そうとした。寸でのところで他の艦娘たちの奮戦があり、辛くも回避できたのだが、結局のところ彼が導きだしたのは全員生還(・・・・)の『最適解』ではなく、必要な犠牲(・・・・・)を伴う『模範解答』だ。

 

 

 

 しれぇの独力では、どう足掻いても『模範解答(誰かの轟沈)』が最適(・・)解だっただろう。

 

 そう語る、そう悟る(・・)、そう諦める。そんな彼の顔が、悲痛に歪む彼の顔が、途端に変わった。

 

 

 

 苦痛に覆われていた顔は驚き、そして何かを悟った顔に。

 

 

 

 

「……ほら、これだ」

 

 

 悟った顔でしれぇはそう言って、おもむろに自分の手を見せてきた。

 

 

 そこにあったのは小刻みに震えている彼の手。そしてその手をしっかりと握りしめる、『あたし』の手だった。

 

 

 

「ぅぇ、あ、す、すみま―――」

 

「ありがとう」

 

 

 しれぇに指摘されてすぐさま引こうとするあたしの手を、彼は感謝の言葉と共にその手を掴んだ。掴んだまま、離さなかった。彼はあたしの手を掴み、そのままぎゅっと握りしめた。

 

 

「俺はこの手に何度も救われた。最初は食堂に引っ張り込まれた時、次は寝起きのまま食堂に引っ張らりこまれた時、その次は曙を営倉(此処)に放り込んだ時、その次は大本営に召集され……あぁ、あれは(これ)じゃなかったが……まぁいい。とにかく俺はこの手に何度も救われた。何度も掬われ(・・・)救われ(・・・)た。この手のお蔭で、この手があったから、この手が救って(掬って)くれたから……」

 

 

 しれぇはそう話しながら、あたしの手を包む力を僅かに強める。決して痛みを伴わせないように、だけどしっかり締め付けられる感覚を与えるように、『その手を決して離さない』という言葉を込めるかのように。

 

 

「それが、その手を差し出してくれたのが誰か(・・)。『雪風』なのか、『君』なのか、そのどちらかでもあり、そのどちらでもないとしても、俺が救われた事実(・・・・・・・・)は変わらない。例え『雪風』が否定しようとも、『君』が拒否しようとも、『君』が何にも思っていなくても、『雪風』が当たり前のことだとしても……俺はきっちり、しっかり、臆することなく、疑うこと無く、声高に、胸を張って、『君』に届くように、『雪風』に届くように」

 

 

 そう言って、しれぇはあたしの手を離し、そのまま自身の膝に置き、背筋を伸ばし、目線を下げ、真っ直ぐあたしに向き合った。

 

 

「俺は『雪風』に救われた、俺は『君』に救われた――――――『俺』はこの二人(・・)に救われたんだ。この二人に救われて、この二人のお蔭で、この二人がいたから、この二人が生きていてくれた(・・・・・・・・)から、俺は此処に立っているから……だから(・・・)

 

 

 

 そう言ってしれぇは大きく息を吸う。あたしを、雪風を。真っ直ぐ見つめ、口を開いた。

 

 

 

 

「生きてくれて、本当にありがとう」

 

 

 

 

 それは『あたし』に向けた感謝、『雪風』に向けた感謝、『あたしたち』に向けた感謝。

 

 ……『初めて』じゃない、『初めて』じゃない。これは二度目、二度目だ、二度目なんだ。前にも言われたことなんだ、前に一度(・・)言われたことなんだ、比叡さんが言ってくれたことなんだ、しれぇだけじゃないんだ。

 

 でもその言葉を直接(・・)向けてくれたのは、『雪風』ではなく『あたし』に直接向けてくれたのは―――――

 

 

 

 もう、もう、うぬぼれでもいい、自意識過剰でもいい。

 

 勘違いでも、深読みでも、解釈違いでも、鼻で笑われ一蹴されるようなことでも、いい(・・)

 

 

 今この時、この時だけ、この瞬間(とき)だけ。

 

 

 唯一無二の瞬間(とき)でも、永遠にやってこない時間(ページ)でも、この人生最大の栄華(ピーク)だとしても、これからの未来が急転直下の墓穴(バットエンド)でも。

 

 あたしの、雪風の、あたしたちの集大成が今ここに。大きく、美しく、煌びやかな、凛とした二輪の華(・・・・)が開いた。

 

 『太陽に向けて自らの存在を誇示する』――――その健気にも力強く、美しい姿に人々はその華に『太陽の華』と呼ぶようになった。

 

 

 しれぇ(・・・)はあたしの、雪風の、二人の『太陽』になってくれた。

 

 

 あたしは、雪風は、二人はしれぇ(『太陽』)の、彼と下で燦燦と咲き誇る『向日葵』になれた。

 

 

 

 

 

 

「……こちらこそ、ありがとうございました(・・・)

 

 

 

 だからこそ、尚のこと。あたし(向日葵)しれぇ(太陽)から離れなければならない。

 

 

 一重(ひとえ)に、向日葵は太陽に近づき続ける(・・・)ことが出来ない。己の身が焼き焦げてしまうからだ。

 

 

 二重(ふたえ)に、太陽は分け隔てなく照らし続けなければならない。たかが二本の雑草(・・)のために、周りの華たちをないがしろにしてはいけないからだ。

 

 

 三重(みえ)に、太陽はほんの気まぐれ(・・・・)で向日葵を一瞥したに過ぎない。それに狂喜乱舞し、後に深い傷跡を負う愚行を幾度となく犯してきたのは、何を隠そう向日葵(雪風)だからだ。

 

 

 四重(しじゅう)に、それは向日葵が背負う罪、呪い、『幸運の代償』にしてはならない。これはありとあらゆる理由や事情、想いを無視し、ただ一つ――――『死神の傍に居る』だけで無差別に、際限なく適応されてしまう代物からだ。

 

 

 五重(いつえ)に、雪風は(・・・)――――――――

 

 

 

 

 

 

 

「……なぁ、君の名前(・・・・)を教えてくれないか?」

 

 

 いつしか思考の海に沈んだ雪風(・・)。その言葉の意味を、解することが出来なかった。

 

 故に呆けた顔を上げ、目の前にいる太陽に目を向けた。本来なら、強すぎる日差しに目を焼かれてしまうはずだった。

 

 でも目を上げた先に居たのは、煌びやかに輝く太陽ではなく――――

 

 

 

 

 

 

「あ、えっと……よ、要するに、『真名』を、だな……」

 

 

 ほんのり顔を赤らめ、気まずそうに視線を逸らしながら頬を掻く一人の青年(・・・・・)だった。

 

 

 

「あ、や、えっと、そういう意味(・・・・・・)じゃなくて!! た、ただ、その、君は『雪風』って呼ばれるのがその……嫌、なんだろ? で、でも俺……『雪風』以外に知らないからさ……な、なんて君を呼べばいいのか……その……」

 

 

 何処か慌てた様に言葉を捲し立てるも徐々に徐々にその大きさは小さくなっていき、やがてよく耳を澄まさなければ取りこぼしてしまうほどの大きさになった。そんな姿、太陽とは程遠い姿、恐れ多くも人の姿に見えてしまった。

 

 

 

 そんな()に、雪風(死神)その姿(・・・)を現した。

 

 

 

 

「分からないです」

 

 

 

 あたしの言葉に、しれぇの顔から血の気が引く。ほら、こうなった。こうなってしまった。

 

 

 

もう(・・)分からないんですよ。あたし(・・・)は、『あたし』が」

 

 

 

 いつしか、あたしは『あたし』の名前を忘れてしまった。もう、何時忘れたのかすら分からない。少なくとも鎮守府(ここ)に配属された時には、あたしが何者かが分からなくなっていた。だからこそ(・・・・・)、卒業出来たのだろう。

 

 本来、艦娘はどれだけ同化が進もうが、人の頃に授かった名を決して忘れない。そう教えられ、実際にそうだった。恐らく、今現在この世に存在する艦娘の中で、あたしのような例は他に居ないだろう。

 

 

 

 だけど何もかもを忘れてしまった中で、唯一これだと言える根源があった。

 

 

 

  ―― 陽炎型駆逐艦8番艦『雪風』 卒業席次(ハンモックナンバー) 3位 『雪風』適合率 93% ――

 

 

 これはあたしが卒業時に渡されたあたし(・・・)の評価だ。『適合率 93%』という数字がどれほどのものか、他と見比べたことが無いためにいまいち分からない。

 

 だがこの数字は何の前知識のないあたしから見ても、高いと見える。況してお偉いさんがわざわざ口に出して褒め称えたことだ、外聞からしても高いのだろう。そして『史上最高』だ、『前例のない』、というのであれば、周りとの『乖離』も頷ける。

 

 

 あたしが誰よりも『雪風』に拒否反応を示したこと。

 

 なのに『雪風』に在り続けてしまったこと。

 

 そして『雪風』と同じく幸運の女神に見初められ、その代償を周りに科してしまったこと。

 

 

 やがて己の名前を――――『あたし』と言うの指針を失わせ、身も心も、はて記憶さえも、何もかもが『雪風』となり、最期は『雪風』として沈むことを望んでしまったこと。

 

 

 

 あたし(雪風)も、そういう運命だったのだ。

 

 

 

 

 

 

「そっか」

 

 

 だが次に飛んできたのは、そんな軽い言葉だった。

 

 

 そして向けられたのは―――――

 

 

 

「なら、思い出したら教えてくれ」

 

 

 まるで赤ん坊を見つめる母のような、子供を見つめる父のような、大切なモノを見つめるような。それらの言葉では全てを表現できないほど、本当に柔らかい表情を浮かべた。

 

 

 

「待ってる」

 

 

 

 そんな言葉を向けてくれた、()だった。

 

 

 

「……待ってる?」

 

「あぁ、待ってる。君が思い出して、教えてくれるまで、ずっと待ってる(・・・・・・・)

 

 

 

 あたしがその言葉を咀嚼すると彼は再び同じ言葉を、いや同じじゃない。さっきのが平手打ちなら、次に来たのは握りこぶしだ。

 

 だけど、そこに痛みは無かった。痛みの代わりにあったのは、苦痛の代わりにあったのは、嫌悪の、憎悪の、何もかもを過分に含んだ絶望の代わりにあったのは。

 

 

 

 

 

 

「……いいんですか?」

 

 

 『それ』を受け取り、押し付けられて、ぶつけられたあたしは、雪風は、あたし(雪風)は、雪風(あたし)は。そんな問いを差し出していた。

 

 その問いに、彼は何も言葉を発さない。だけどしっかり、あたしが差し出した問いを受け取ってくれた。受け入れてくれた。

 

 

 

「……待ってくれるんですか?」

 

 

 彼は頷く。

 

 

「……時間がかかりますよ?」

 

 

 彼は苦笑いを向ける。

 

 

「……それまで色んな言葉を、色んな重荷を背負わせるかもしれませんよ?」

 

 

 彼はもう一度あたしの手を優しく握る。

 

 

「……幸運の代償(えこひいき)、されるかもしれませんよ?」

 

 

 彼は一瞬キョトンとした顔になる。

 

 

「……貴方が傷付いて、誰かが傷付いて、沢山の人を傷付けるかもしれませんよ?」

 

 

 彼は先ほどの問いを解したのか、キョトンとした顔を戻す(・・)

 

 

 

「……馬鹿みたいに時間がかかって、見たくなくなるほど沢山の人が傷付いて、嫌になるほどツラいことが、ふりかかるかも、しれ、ないん……ですよぉお?」

 

 

 

 もう見えなくなっていた。涙でぼやけ過ぎて、彼の輪郭だけしか見えなくなっていた。その表情がどんなものか分からなくなっていた。

 

 

 

「そ、れ、でもぉ……」

 

 

 

 見えない筈なのに。

 

 手の届かない筈なのに。

 

 

「それ、でも、ぉ……」

 

 

 近づけない筈なのに

 

 

 近づき続けられない(・・・・・・)筈なのに。

 

 

 

「……そ、そ、それでぇもぉおっ!!!!」

 

 

 

 向日葵(あたし)の傍で微笑む太陽()が、好く(・・)見えた。

 

 

 

 

 

そば(・・)に、ずっとそばに……いてくれるんですかぁあ?」

 

 

 

 それ(温もり)を、与えてくれていた。

 

 

 

 

 

 

「いやぁ、それは無理だ」

 

 

 

 だけど次に聞こえたのは、本当に突拍子もない言葉だった。

 

 

 

 

「えッ」

 

「だって俺、君たちと違って海に出れないもん。それに男だし、仮に四六時中ずっと一緒に居たら憲兵に捕まっちまうよ」

 

 

 

 だけど、次に飛び出した言葉、こちらの方こそ本当に突拍子の無い言葉。それを受け取り、真っ白になった頭が再起動する。

 

 

 ……どうやら、彼はあたしの言葉をそっくりそのままの意味で受け取ってしまったようだ。そのことに、安堵の息を漏らした。

 

 勿論、そこまで一緒にいろなんて言わない。本当に望んでいたとしても、それはただの我が儘だ。あたし以外にも、彼を必要としている存在は多い。

 

 

 だから――――

 

 

 

 

「だから」

 

 

 同じ(・・)ように(あたし)の口から漏れた。

 

 同じ(・・)ように(あたし)の手があたし()の手を握った。

 

 

 

 

「帰ってきてくれ」

 

 

 

 先に(・・)、彼がこう言った。

 

 

 

「俺が『君』の傍に居られるように、俺が『雪風』の傍に、俺が『皆』の傍に居られるように……帰ってきてくれ、還ってきてくれ、生きて帰ってきてくれ」

 

 

 

 そういう彼の顔は、今まで見たことが無いほど()に塗れていた。

 

 

 

 

「俺の傍に……必ず、帰ってきてくれぇ……」

 

 

 涙に塗れながら、声が震えながら、あたしの手を痛いほど握りしめながら、彼はそう溢した。願いを、望みを、懇願を、哀願を吐き出した。

 

 

 

 

 しれぇではない彼――――――明原 楓という一人の『人間』として。

 

 

 

 

 プツン

 

 

 

 ふと、そんな音がした。

 

 

 微かな音だったが、あたしは気付いた。

 

 何故なら、それはあたしの手首から聞こえ、それと同時に僅かに手首が軽くなったからだ。

 

 

 

「……切れた」

 

 

 同時に、彼もそれに気付いた。

 

 何故なら、彼の目の前でそれ(・・)が落ちたからだ。そして、『それ』は彼があたしに託したものだからだ。

 

 

 

 

 白と黒のミサンガだ。

 

 

 

「……なんで、今ごろ(・・・)切れるんだ?」

 

 

 それを見て、彼はそう溢した。

 

 

 これは本作戦の成功を祈願して艦隊全員で付けたミサンガだ。であれば、あたしたちが帰投した時点で切れるのが筋と言うか、まぁ何となしに納得できる。

 

 

 そう、彼は思っているだろう。

 

 

 

「まぁいいか。やっぱり付け……」

 

 

 そう苦笑いを溢す彼の言葉を遮った(・・・)

 

 

 正確には、そう苦笑いを溢す彼の顔にあたしが手を添えたのだ。突然触れられて目を白黒させる彼を尻目に、あたしは彼の頬を、額を、その頭にゆっくりと手を滑らせた。

 

 

 

 今しがた切れたミサンガ。

 

 あたしはそこに、彼とは違う願いを込めた。

 

 

 正確には、その込めた願いすらも違う―――――胸に秘めていた願いが、つい今しがた叶った願いが、いや動き出した(・・・・・)願いだ。

 

 

 

 

「沈みません」

 

 

 

 あたしは、そう力強く答えた。

 

 

 

「誰も沈めません」

 

 

 雪風(・・)は、胸を張ってそう答えた。

 

 

 

 

「必ず、帰ってきます」

 

 

 

 あたしと雪風―――――あたしたち(・・・・・)はそう彼に向けた。

 

 

 

 彼は『あたしたちに傍に居てほしい』、そう願った。そう願い、それを与えてくれた。

 

 あたしたちは『誰かの傍に居たい』、そう願った。そう願い、それを与えられた。

 

 彼はあたしたちに、あたしたちは彼に、その願いを手渡し、受け入れた。

 

 故に彼はあたしたちの『居場所』となった。

 

 あたしたちが生きる帰る『場所』になった。

 

 そして『居場所』を守る様に願われた。

 

 

 

 あたし達の『居場所』を、彼の『傍』を守る――――――三人の『願い』となった。

 

 

 

 

 

 

「絶対、大丈夫!!」

 

 

 

 そう、力強く、元気よく、あたしたちは彼に笑顔を―――嘘偽りのない、二人(・・)の笑顔を向けた。

 

 

 

 

 

 

「……で、何時まで触っているの?」

 

 

 だけど、その返答は彼からではなかった。あたしたちは揃って声の方を見る、其処に居る声の主を見て、思わずその名を叫んだ。

 

 

 

 

「あッ、曙さん!?」

 

「ごめんねぇ? よろしく(・・・・)やってるところ邪魔して……」

 

 

 

 あたしの叫び声に、曙さんは柔和な笑みを浮かべながら手をヒラヒラさせた。いや、曙さんだけじゃない。

 

 その後ろ―――――正確には壁からひょっこり顔を出す曙さん、その下に夕立さん、その上にイクさん、その後ろに潮さんなど、今回の作戦に参加した面子が勢ぞろいしていたのだ。

 

 

 

「ッぇ」

 

「あぁ、皆。入渠は終わったのか?」

 

「……えぇ、何処の誰かが惜しみなくバケツを使ってくれたおかげでね? さて、邪魔するわよ」

 

 

 絶句するあたしを尻目に、しれぇと色々と言いたげな曙さんがそう言葉を交わし、そして壁の向こうに居たメンツがぞろぞろと営倉に、あろうことか鉄格子をくぐってズカズカと入ってきたのだ。

 

 

 

「てーとくぅー!!」

 

 

 その中の一人、イクさんが鉄格子をくぐって早々そう声を上げてしれぇに飛びついた。突然のことなのに、しれぇは驚く様子もなく当たり前のように彼女の方を向き、腕を広げて彼女を受け止めた。

 

 

「おっ、まさかの胸でホールドと来た!! これは色々と新展開がありそうなのね!!」

 

「これ以上お前に腰を砕かれちゃ困るんだよ。ほら、とっとと立った立った!!」

 

「む~いけずぅ……ところで、イクの真名聞く気ない?」

 

「……あのな? そうやって安売りしてるうちは絶対に買わないから安心しろ」

 

「安売りしてるわけじゃないのね~……うん」

 

 

 しれぇの明らかなにあしらうような口調に何処か不満げな顔になるイクさん。それを受けて、しれぇは助けを求める様に曙さんに視線を送る。

 

 

 

「何? 教えないわよ?」

 

「違うわい!! ……で? どうしたんだ?」

 

 

 

 だがその視線を勘違い……いや敢えて曲解した答えを返し、しれぇのツッコミでオチが付く。という取り敢えずの収束を迎え、話題を変える様にしれぇはそう問いかける。だけど、曙さんの視線はしれぇに注がれてはいなかった。

 

 

 

「雪風」

 

 

 その視線の先にあたしを見据えながら、曙さんはあたしの名を呼んだ。後ろで「え、無視?」というしれぇの呟きを更に無視して、彼女はあたしに近寄った。

 

 

 

「待つっぽい」

 

 

 更にそれを遮ったのは、曙さんよりも早い歩調であたしに近付いてきた夕立さんだ。

 

 その顔はいやに険しく、まるで今も戦場に立っているかのようだ。更に言おう、彼女の目は未だに紅い(・・)のだ。

 

 

 

 

 

「提督さんに、ちゃんと謝った?」

 

 

 

 その目のまま、夕立さんはあたしの前に腰を下ろし、その目を真っ直ぐ向けてきた。その目に晒されたあの時、あたしは、背筋に寒気を覚えた。

 

 

 だけど今は、不思議と無かった。

 

 

「……まだ?」

 

 

 だけど、その声色は低く、明らかに何か(・・)を我慢しているように聞こえた。それを受けて、あたしは慌てて身体をしれぇに向けて、深々と頭を下げた。

 

 

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「お、おう……」

 

 

 あたしの言葉に、しれぇは無理やり感半端ない謝罪をおずおずと受け取る。その後、ほんの少しだけ沈黙が支配した。

 

 

 

 

「うん!! よく言えました!!」

 

 

 それを破ったのは先ほどと打って変わって柔らかい声色、そしてあたしの頭をクシャクシャと撫でる夕立さんの手だ。

 

 

 

「え、え、え……?」

 

「よく言えました!! 偉い!! 偉いっぽい!!」

 

 

 何もかもから置いてけぼりにされる一同を尻目に、夕立さんは人懐っこい笑みを浮かべ、まるで子供を褒める様に何度も「偉い」と言ってあたしの頭を撫でてくる。

 

 未だに頭を撫でてくる夕立さんの手にされるがままのまま、あたしは辛うじて視線を周りに向ける。だが、そこにいる面子の誰もかれもが一様に――――温かい目を向けている。

 

 

 

 雪風(あたし)に、だ。

 

 

 

 

「雪風ちゃん」

 

 

 

 ふと、そう夕立さんに名前を呼ばれ、同時にあれだけ忙しなく撫でてきた彼女の手が離れた。それを受けて、あたしは上体を上げる。

 

 

 だが次に待っていたのは、身体をぎゅっと抱き締められる感覚だった。

 

 

 

「おかえり」

 

 

 そして、すぐ耳元で聞こえた夕立さんの声。そして再び頭を撫でられる。あたしは今、夕立さんに抱きしめられ、頭を撫でられている。

 

 

 

 

 『お帰り』と、言われた。

 

 

 

「おかえり、おかえり、よく頑張ったね、よく頑張りました。本当に、本当にお疲れ様」

 

 

 そう語り掛ける様に、そう頭を撫でる様に、夕立さんは何度も何度も同じ言葉を向けてきた。まるで刷り込むように、刻み付けるように、忘れないように。

 

 

 

 『ちゃんと、向けているよ』―――と、教えてくれるかのように。

 

 

 

「これが、あの時の『答え』よ」

 

 

 

 そんなあたしに、曙さんがそう声をかけてきた。彼女の方を見るも、その姿をはっきりと捉えることは出来なかった。

 

 

 

 またも、あたしの視界は涙で一杯だったからだ。

 

 

 

 

 

「おかえり、雪風」

 

 

 

 

 だけど、だけど、その言葉を向けてくれた彼女の顔は、紛れもなく笑顔だった。

 

 

 

「おかえりなさい」

 

「おかえりなの、雪風」

 

「おかえり、雪風」

 

 

 

 その後、口々に向けられた『おかえり』。それは雪風の存在を、あたしの存在を、あたしたちの居場所を。

 

 

 あたしたちの『願い』を、皆が肯定してくれた。

 

 

 それこそ今更(・・)手に入った理由だ。

 

 

 

 

 『皆』が一心に願い続けたから、手に入ったのだ。

 

 

 

 

 

「Wo、これは通報ものネー」

 

 

 

 だが、それは唐突にとんだ一つの声で瞬く間に消え去った。

 

 

 

「こ、金剛ぉ……」

 

「Hey、テートク。ちっちゃい娘をそんなに侍らして、よっぽど憲兵に捕まりたいデスカー?」

 

 

 その声に、その声の主をしれぇが口にする。その言葉に、先ほど曙さんたちが覗き込んでいた壁にもたれかかる彼女がそんな冗談を飛ばした。涙でよく見えないが、彼女は手をヒラヒラとさせている。

 

 

「……捕まる様な事をしてる自覚はないんだが?」

 

「それはそれで問題デース。すぐに憲兵を―――」

 

「金剛さん、私は冗談を飛ばし合わせるために連れてきた訳じゃないわよ?」

 

 

 若干狼狽えるような声のしれぇと面白がる声の金剛さん、そして最後に呆れ声の曙さん。そんな三人のバトンリレーが瞬く間に終わり、ほんの一瞬沈黙が支配する。だが、それは金剛さんの深いため息によって破られた。

 

 

 

「……ぼの? こういうのはもう少し泳がせるのが良いんデスヨ? まぁ、冗談は置いておいて……テートク、一つお願いがありマース」

 

「……なんだ?」 

 

 

 金剛さんの言葉に、明らかに警戒心丸出しでしれぇが問いかける。正直、状況や周りの反応が一切把握できていないので、何が何だか分からない状態だ。

 

 

 だからこそ、得られる情報は各々が発する言葉だけ。

 

 故に、(それ)から得られる情報は嫌でも強調されて聞える。

 

 

 

 だから、あたしの耳にはその言葉が。嫌に大きく(・・・)聞こえてしまったのだ。

 

 

 

 

 

「現在、第三艦隊旗艦を務めている特Ⅰ型駆逐艦――吹雪型一番艦、吹雪。彼女を、その座から引きずり降ろして欲しいデース」



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ワタシの『願い』

「頑張り過ぎダヨ」

 

 

 そう言って、貴女は私の髪をクシャリと撫でた。

 

 そう言って、貴女は生傷だらけの腕を撫でた。

 

 そう言って、貴女は汚れ塗れの頬を撫でた。

 

 

 その時、貴女は何を見ていたのか。

 

 その時、貴女は何を想っていたのか。

 

 その時、貴女は何を望んでいたのか。

 

 

 

 そのどれもこれも、()には分からなかった。

 

 そのどれもこれも、私には理解できなかった。

 

 そのどれもこれも、私には感じることが出来なかった。

 

 

 

 だからこそ、私は知りたかった。

 

 だからこそ、私は見たかった。

 

 だからこそ、感じたかった。

 

 

 その視界の隅に、その頭の片隅に、その世界の端っこに。

 

 ほんの一瞬でも、ほんの一片でも、ほんの一時でも。

 

 

 

 私が居れた(・・・)のだと。

 

 

 

 

 

 目が覚めた。

 

 天井が見える。いつもの所にシミがある。夜中に見ると人の顔に見えるとか何とかで、相部屋だった子が怖がっていたっけ。

 

 今はこのやけに広い部屋を一人で使わせてもらっているが、何分スペースが多くて持て余している状態である。

 

 

 視線を横にずらす。シミは視界の端に消え、代わりに現れたのは机と椅子、本棚、そして机の上に置かれた大量の手紙――――――『嘆願書』の山だ。

 

 それをしたためたのは私ではない。この鎮守府に所属する艦娘たちだ。とある目的(・・・・・)をもって彼女たちは手紙をしたため、各々が内に秘めていた想いを綴り、私に託したものたちだ。

 

 

 あの人へ届くようにと。

 

 あの人が居なくならないようにと。

 

 あの人に『ありがとう』を伝えるために。

 

 

 そんな大小、上下左右、強弱の全て。そのどれか一つとさえ完全には一致していないであろうちぐはぐな、或いはパズルのように全てが一つの答え(・・・・・)を形作っているような、私たちの想い。

 

 それは今なお数を増やしている。以前よりも増えるスピードは緩やかになったが、着実に増え続けているのだ。

 

 

 

 さて、そろそろ起きよう。

 

 私は名残惜しい布団に別れを告げ、起き上がった。視界にサラリと前髪が零れる。それを適当にまとめ、そのまま後ろに片手を回し髪を纏める。もう片方は机の上にあるゴムを手に取り、一房にまとめた。

 

 次にベッドから立ち上がり、寝間着を一思いに脱ぐ。それをベッドに放り出し、すぐに傍の壁に掛けてある制服に袖を通す。いつもの制服、いつもの服。何時も見に纏っている筈なのに、今身にまとった制服(これ)は何処か違和感があった。

 

 いつもよりも固いというか、洗濯のりが取れていないというか。新品のようにパリッとしている。いつもならある程度馴染んでいる筈なのに、今日のに限ってまるで新品のようであった。

 

 

 余所行きの恰好、と言った感じだ。

 

 この日、吹雪()は司令官に執務室に来るよう言伝を預かっていた。

 

 

 内容は『ケ号作戦』―――通称『キス島撤退作戦』の報告を受けるため。その経緯は何と言えばいいのか、詳細に説明すると長くなるが敢えてしよう。

 

 

 先ず本作戦の中で救出対象の一人とされた私は母港帰投時に瀕死の重傷を負っていたようで、生死の境を彷徨っていたらしい。

 

 そして昨日、殆どが寝静まった深夜に意識を取り戻した。傍に居たのは潮ちゃんだ。ちょうどうつらうつらと船を漕いでいた時だったので、しばらくその年相応の寝顔をボーっと見ていた。やがて彼女が目を覚まし、黙って見続けていた私と目が合った。

 

 

 

『おかえり』

 

 

 その時、潮ちゃんが発した言葉がこれだ。この言葉、そして柔らかい笑みを浮かべていた。

 

 

 その後彼女は北上さんを呼び、深夜にも関わらず北上さんは駆けつけてきてくれた。彼女もまた、私と目が合った時に『おかえり(同じ言葉)』を発した。潮ちゃんとの違いは、その言葉と共におでこにデコピンを喰らわしてきたことか。

 

 おでこの痛みで呻く私に溜飲が下がったのか、溜め息を溢した北上さんは簡単に診察し、外傷を見受けられないことを確認。あとは少し疲労が溜まっているため、このまま朝まで休養するよう指示を出された。

 

 そして、これから司令官に意識を取り戻したことを伝える。多分、明日には何らかの出頭がある筈だから覚悟しとけよ、という言葉を残して部屋を後にした。

 

 

 ……まぁ、それからそう経たない内に廊下から何やら男女が言い争う声とバタバタと言う足音が聞こえたが。それが鳴りやんで少ししてから、とてつもなく疲れた顔の北上さんが明日の朝、つまり今改めて報告をするために執務室に向かうよう言伝を持ってきた。

 

 

 それから大人しく自室で休養を取り、今に至る。

 

 

 そんな若干着慣れていない制服に着替え、放り出した寝間着を畳んでベッドに置く。そしてベッドをある程度整えていた時、ふと視界の端で何かが落ちた。それを目で追い、手を伸ばし、取った。

 

 

 

『金剛さん』

 

 

 

 それはあの人――――――金剛さんへ向けて綴った私の嘆願書だ。

 

 

 

 『あの人』に言った、生きる理由になりたいと。

 

 『あの人』に言った、傍に居たいと。

 

 『あの人』に言った、生きて欲しいと。

 

 

 そして彼も、司令官にもこう言った。

 

 

 『任せておけ』と。

 

 『覚悟』じゃなくて、『背負いたい』と。

 

 私の『願い』を叶えて欲しいと。

 

 

 彼女を引きずり降ろしたいと。

 

 彼女を追い詰めないで欲しいと。

 

 彼女を責めないで欲しいと。

 

 

 彼女の為なら轟沈(・・)すら厭わないと。

 

 

 

 そう、これは司令官に向けてじゃなくて、金剛さんに向けた嘆願書。

 

 

 こうあって欲しい、こうなって欲しい、こう幸せになって欲しい。

 

 そのためなら私はそうしよう、こうしよう。貴女が望むなら、貴女が必要とするならば、このちっぽけな命を惜しげもなく賭けよう(・・・・)

 

 金剛さん(貴女)に向けた、ちっぽけな命()という存在を賭けて差し出した嘆願書。

 

 もし私が存在しなくなった(・・・・・・・・)時、その名はこう変わる。

 

 

 

 

 『遺書』と。

 

 

 

 

 コンコン。

 

 

 その時、ドアをノックされた。

 

 それに驚き、私は慌てて手に持っていた『遺書』を懐にしまい込む。そして、じっと音のしたドアを凝視する。するとまたもやコンコン、とノックされた。

 

 

「おはよう」

 

 

 同時に、扉の向こうからそう声が聞えてきた。その声を聞き、私は安堵の息を漏らす。だけど、懐にしまい込んだ遺書(手紙)が頭を過り、胸の奥がキュッと締まった。

 

 

 この人は私を叱った。

 

 それはいつのかの演習、そして深海棲艦の航空隊による襲撃を受けた時。

 

 襲撃を受ける直前、先ほど私が司令官に向けた言葉、いや向けようとした(・・・・・・・)言葉――――『轟沈』と言う言葉を遮った時。それと同時に、私を叱ってくれた。

 

 

 

 ――――「その言葉、二度と言うな」――――――

 

 

 涙でグチャグチャで、自分の嗚咽でいっぱいいっぱいで、大小上下左右何もかも滅茶苦茶で支離滅裂で。

 

 本音も嘘も強がりも虚勢も、願いですらも認識できなくなっていた、手に取ることが出来なかった、触れることの出来なかったが故に。

 

 

 

 すぐ近くにあった、よく見ていた(・・・・)、『あの人』が選択した『轟沈(言葉)』を。

 

 

 この言葉を、この行為を、命を差し出す(・・・・・・)ことを。それを咎め、叱責し、この世につなぎ止めてくれた。ほんの一時でも、たった一瞬でも、私を引き留め、つなぎ止め、この命を手放さないでくれた。

 

 

 

 

 そんな『この人』が今、扉の前に立っている。

 

 

 

「はい」

 

 

 そう返事をし、いつの間にか懐に当てていた手を離す。彼女が私の部屋に来たのは、恐らく彼女も呼ばれているからだろう。

 

 この作戦に、彼女も参加していた。それも本隊とは別の囮部隊の旗艦として。かの高名な戦艦や一航戦の片翼を擁した彼女たちは敵船団の殆どを引き付けるだけではなく、その中枢部隊に壊滅的打撃を与えたと聞いた。それも轟沈者ゼロ、またそのおかげで本隊の進行を円滑に進ませ、無事作戦参加艦全てが帰投するという大戦果を挙げたのだ。

 

 そんな成功の立役者、最強の戦艦、不沈艦(・・・)ともてはやされているであろう『この人』。そんな偉大な人の声を受け、私は扉を開けた。

 

 

 

 だけど、その人はそこに居なかった。

 

 

 代わりに居たのは、曙ちゃんだ。

 

 相変わらずムスッとした顔だ。私の顔を見た時、少し表情が歪んだ気がした。だけど、それもすぐにいつもの顔に戻して、黙って私を見返した。

 

 だけど先ほどの声は、『この人』は彼女ではない。そして先ほど聞いたのは紛れもなく彼女の声だった。なのに、目の前には曙ちゃんしかおらず、彼女の姿が見えない。

 

 

 

 

「おーい」

 

 

 面を喰らっていたら、()から声が聞えた。

 

 

 それは彼女だった、だからすぐに視界を下げた。

 

 そして目を見張った、そこには彼女が居たからだ。

 

 最後に言葉を失った、彼女が微笑んでいたからだ。

 

 

 

 

 

 そんな『車椅子姿』の長門さん(彼女)を。

 

 

 

「元気そうで何よりだ」

 

 

 長門さんはそう微笑みかけた。その顔はいつものように自信に満ちた顔であった。だが、その下にある光景に、彼女の身体を前にすると、そのどれもこれもが虚勢のように見えた。

 

 

 私たち艦娘はどんなに重傷を負おうが入渠すれば元通りになる。酷い火傷や骨折、最悪千切れようが元通りになる。『異常』と言えるほどの生命力と治癒力を有する艦娘が車椅子(こんな)姿になるなんて有り得ない。

 

 だけど、既に此処にその『有り得ない』は存在する。それは加賀さんである。彼女は艤装を装着しなければ立てない、普段は目の前の長門さんと同じように車椅子姿だ。今目の前に居る彼女も何らかの原因でこの姿になったのも、曲がりなりにも納得できる。

 

 

 問題は、何故彼女がこんな姿になってしまったのか。誰のせい(・・・・)でこんな姿になったのか。

 

 

 

 そんなの、決まっているじゃないか。

 

 

 

「では、行こうか」

 

 

 そう長門さんは言うと、後ろの曙さんがそれに合わせてゆっくりと車椅子を動かし、私に背を向けて二人は廊下を進み始めた。その後ろ姿を前に、私は息を吸った。

 

 

 

「すみません!!」

 

 

 廊下に私の叫び声が響く。幾重にも反響し、この場に居る誰もの鼓膜を揺らした。

 

 その時、私の視界は廊下の向こうでも、この場に居る『誰』も無く、真っ暗に塗りつぶされていた。真っ暗に塗りつぶされた視界の中、垂れた髪が頬に触れるのを感じる。

 

 

 私は謝罪(その言葉)と共に頭を下げた。彼女がその姿になってしまったのは自分のせいだと認め、それに対して自らの想いを投げかけた。

 

 

 

「それは『同情』か? それとも『侮蔑』か?」

 

 

 その返答に寄こされたのがこの問いだ。それを寸でのところで受け取った私はその言葉の意味を理解出来ず、手の平で転がすことしか出来なかった。

 

 

「なんだ? 他の感情(もの)か?」

 

「あ、や、いえ」

 

「……まぁ何でもいい。要は、私を馬鹿にしているのか?」

 

 

 

 長門さんから新たに投げかけられた問い、それは私の血の気を瞬く間に引かせた。

 

 

 

「そ、そんなわけありません!! ただ、ただ私のせ―――」

 

「ならその言葉、二度と言うな」

 

 

 私の言葉を遮り、長門さんはそう言い放つ。同時に、車椅子の軋む音が聞こえるようになった。先ほどよりも小さい。どうやら随分先に進んでしまったようだ。

 

 

 

 

「そんな簡単に、私の価値を否定しないでくれよ」

 

 

 

 だけどその言葉は。何処か笑い飛ばすかのように発せられたその言葉ははっきり聞こえた。それは理由もなく何故か聞こえてきた訳ではなく、私が聞こえる様に(・・・・・・・・)声を張って言ったからだ。

 

 

 その言葉を発した彼女が今、どんな表情なのかは分からない。だけど、どれだけ考えても、どれほど想像しても、先ほどの言葉を発した彼女の顔に暗い影が落ちているとは思えなかった。

 

 

 そのまま私たちは無言で進む。聞こえるのは長門さんが座る車椅子の軋む音ぐらいだ。誰も一言も発せず、ただ黙々と足を進めるだけ。

 

 だけど不思議と空気は重くない。誰しもが声に出すことを憚っているのではなく、声を出す必要がないから何も発しないと言った方が正しい。

 

 曙ちゃんも、聞いた話では救出部隊の一人として活躍したそうだ。

 

 詳しくは分からないが、本作戦失敗間際で旗艦を譲渡され、絶望的な状況下で起死回生の作戦を立案し遂行、そして成功に導いた。また、その中で砲の具現化が出来るようになったと。

 

 前を歩く二人は、今回の作戦を成功に導いた存在。だから、その顔に影なんか差さず、こうして胸を張って前を向き、真っ直ぐ前を見つめれるのだ。

 

 

 

 何故、この二人を寄こしたのか。

 

 

 二人の後ろを歩く私の頭に、いつの間にかそんな言葉が浮かんだ。

 

 

 確かに、私は独断専行が過ぎた。それに伴い沢山の人に迷惑を、それも命を落としかねない危険を伴わせてしまった。私の行動一つで沢山の命を天秤にかけてしまった。

 

 今回、その偏った天秤の中で必死に動き、引っくり返したのはこの二人だ。私のせいで、二人に余計な気苦労を背負わせたとでも言いたいのか。事実だからその非難は甘んじて受け入れよう。罪悪感に苛まれろと言うのなら何時までも、何処までも、何度でも、苛まれてやろう。

 

 

 だけどそれは、それは。その片側にあるのはちっぽけな『錘』があったから。

 

 釣り合う筈もなく、況してそれらに勝る筈もない。他人から見ればその辺の石ころと大差ない、無価値に等しいもの。そこまで(・・・・)分かっているし、贔屓される筋合いもないし、誰もかれも、そんなことなんか関係ないって知っているし。

 

 だけど、だけど。私にとって、それはとてもとても大切だから。

 

 

 そんな我が儘()があったから。

 

 

 

 

「着いた」

 

 

 そんなことを考えていたら、いつの間にか執務室に辿り着いた。その扉を前にした私たちは正反対であっただろう。

 

 

 片や作戦の功労者。

 

 片や作戦の元凶。

 

 

 本当に、何故この二人を寄こしたのだろうか。お門違いな怒りを込み上げる私を尻目に、長門さんは意気揚々と扉をノックする。

 

 

「どうぞ」

 

 

 すぐにやってきた司令官の返答。それを受け、曙ちゃんは長門さんの前に立ち扉を押し開ける。

 

 

 中には沢山の人が居た。

 

 

 司令官、大淀さん、北上さん、夕立さん、イムヤさん、天龍さん、榛名さん、憲兵さん、そして……――――

 

 

「こ……」

 

 

 最後の人は静かに目を閉じていた。入ってきた私たちに声をかけず、ただひたすら目を閉じ、黙りこくっている。

 

 その姿を見た瞬間、その名前を出そうとした自分を殴りたくなる。殴る代わりに自分の胸倉を思いっきり掴み、舌を思いっきり噛んだ。

 

 

 

 痛い。

 

 いたい。

 

 思いっきり噛んだ舌が痛い。

 

 思いっきり掴んでいる胸が痛い。

 

 それらの痛みよりも、心が痛い。

 

 何よりもいた(・・)い、誰よりもイタ(・・)い。

 

 

 居た(・・)い。

 

 

 

 

 

「そうだ」

 

 

 ふと、そう声を賭けられた。長門さんだ。彼女は背もたれに体重をかけながら、チラリと視線だけを向けてきた。それはすぐさま司令官へと向けられ、その真意を問うことが出来なかった。

 

 だが視線を移す瞬間、彼女は呟くように口だけをこう動かした。

 

 

 『それでいい』、と。

 

 

 

「さて、早速始めてもらおうか」

 

 

 長門さんはそう声を張り上げ、堂々とした笑みを司令官に向けた。それを受け、司令官は静かに立ち上がり周りを見回した。

 

 

「ではこれよりケ号作戦、通称キス島撤退作戦の報告会を行う。それに際し先ず俺から一言」

 

 

 そこで言葉を切り、彼は深々と頭を下げた。その姿に誰もが息を呑む、ようなことは無い。恐縮する様子も戸惑う様子もなく、かといって頭を下げる司令官の姿を訝しむことも蔑むことも無い。

 

 

 『彼らしい』――――とでも言いたげな柔らかな笑みを浮かべていたのだ。

 

 

「皆、よく頑張ってくれた。皆の尽力のお蔭で、本作戦は一人の轟沈者を出すことなく完遂することが出来た。本当に、本当にありがとう」

 

「ありがとうございます」

 

 

 その姿に誰しもが声を発することなく受け入れる中、榛名さんは司令官の後に続いて頭を下げた。自らの失敗が今作戦を招いたのだと思ったのか、であれば彼女以上に私も頭を下げなければならない。

 

 

 何せ、私はこの作戦の元凶なのだから。

 

 

 

「すみ―――」

 

「で、それに続いて各部隊の報告といく。先ずイムヤ、その次に天龍、長門、北上だ」

 

「はい、では話させていただきます」

 

 

 だけど、それを遮る様に司令官が報告に進めてしまう。その一番手として白羽の矢が立ったイムヤさんは何処からか用紙を取り出し、読み上げ始める。

 

 

 其処から、本作戦における各部隊の報告が始まった。

 

 

 先ずイムヤさん。

 

 彼女の部隊は私たちを襲った件の戦艦を―――――後に会敵した長門さんから『戦艦レ級』と呼ばれたそれの捜索、北方方面にて会敵した。イムヤさんを囮に戦艦レ級から金剛さん以下私の生存を確認、イクさんの魚雷攻撃によりその機関部にダメージを与え、機動力を著しく低下にさせることに成功。ゴーヤさんが解放されたイムヤさんを寸でのところで保護し、ハチさんが導き出した撤退ルートで無事に帰投した。

 

 

 次に天龍さん。

 

 彼女の部隊は私たちの捜索兼敵補給線の破壊だ。補給艦や哨戒部隊を襲撃しつつ捜索したが見つけることは叶わなかった。しかし襲撃された敵補給艦を発見、そこに私の装備である10㎝連装高角砲の弾痕を確認。よって、私たちはキス島海域南東に避難している可能性が高いと導き出した。

 

 それと同時にその予想が正しいかどうかの真偽を尋ねられた。事実、彼女たちが示した場所は私たちが隠れていた場所からそう遠くなく、且つ金剛さんをそこに避難させた後に私は付近の哨戒に出て、そこで襲撃を受け撤退する補給部隊を発見、これを襲撃してある程度の物資を奪ったことを報告した。

 

 その際金剛さんの表情がほんの一瞬崩れた様に見えたが、それを指摘できるほどの余裕はなかった。

 

 

 次に長門さん。

 

 彼女の部隊、及びここに居ない加賀さんの部隊は天龍さんと同じく私たちの捜索兼敵防衛線の破壊だ。双方共に会敵した敵艦隊を悉く殲滅、彼女たちが出撃した海域の敵艦を激減させた。これで敵の防衛線に無視できない穴を穿ち、ひいては敵戦力の大幅な低下させることに成功した。それと同時に戦艦レ級が放ったと思しき艦載機を見つけ、撤退した。

 

 

 それらで集めた情報をもとに決行された第二次作戦。

 

 

 先ず、長門さんが先ほどの続きとばかりに話し始めた。

 

 彼女の部隊は先程の加賀さんたちと合流した戦艦と空母の混成部隊。主に北方方面に進み、出会った敵をひたすら殲滅し、同時に敵を私たちが居たとされた南東方面から引き剥がすための囮である。

 

 そしてそのまま彼女たちは敵主力部隊四部隊、そして戦艦レ級と戦果を交えた。数にして実に四倍の数である。良く言えば劣勢、普通に言えば絶望的。そんな圧倒的不利な状況下で彼女たちは戦い、そして無事落伍者を出すことなく全員帰投したのだ。勿論、車椅子姿の長門さん(看過できない犠牲)を払って。

 

 

 次に北上さん。

 

 彼女の部隊は此処に居る夕立さん、曙さんを引き連れた本隊。長門さんたちが敵の目を引き付ける間に私たちを救出する部隊だ。本部隊は長門さんたちが出撃してから少ししてから母港を発ち、順調に航路を進撃していた。しかし、途中で敵艦載機の攻撃を受け、北上さんと響ちゃんは小破、夕立ちゃんと潮ちゃんは中破、そして雪風ちゃんが大破と甚大な被害を受けた。それをうけ、一同は進撃か撤退かの是非を話し合い、それを司令官に判断を仰いだ。

 

 そこまで話終わった時。北上さんはチラリと司令官を見て、その視線を向けられた彼は渋い顔を浮かべた。その視線に首をかしげたが、すぐにその意味を――――――司令官が判断を渋り、進撃を主張する雪風ちゃんが単身で進撃を強行、夕立ちゃん、北上さん、他のメンツとバラバラになった救出部隊は最悪の形で大破進撃することになったそうだ。

 

 

 その後、語り部は後に旗艦権限を譲渡された曙ちゃんに変わった。

 

 

 部隊が四散した直後、残された曙ちゃんたちは金剛さんと曳航される私を発見。彼女たちは即時撤退を主張する金剛さんを説得し、先行した3人と合流、後に撤退する方向に切り替えた。後に合流した北上さん、その直後に通信が繋がった戦闘中の夕立ちゃん、雪風ちゃんにもその旨を伝え、一同は作戦方針を固めた。

 

 曙ちゃん以下一同は合流するとともに当時戦闘中であった敵部隊の撃破を目的とした作戦を立案。凡そ作戦通りに事が運び、彼女たちは敵部隊の殲滅と合流を果たした。その戦闘中不意を突かれた雪風が一時轟沈するも、彼女の傍に付き従っていた妖精が応急修理女神であったことが功を奏し、辛くも彼女は轟沈を免れた。

 

 

「あ……」

 

 

 曙さんがそう話した時に司令官がそう声を漏らし、この場に居る全員が一斉に彼の方を向く。私も向けると、其処には顔を手で覆う彼が居た。手の隙間から見える彼の表情は僅かに歪んでおり、何処となく合点が言ったと言いたげであり、それを取りこぼしたことを後悔するものであった。

 

 その反応に誰しも顔を向けるのみで特に意味を問わない。というか、その表情を浮かべる彼の心を見透かしているかのように誰もが何処か呆れた表情を浮かべているのだ。唯一、北上さんだけが無表情で彼を見つめるだけだ。

 

 

 その後、曙さんの咳払いによって報告が再開される。

 

 

 話は雪風ちゃんが轟沈を免れた一同はそのまま撤退を開始する所から始まった。残りは母港に帰投したと締めくくるだけの筈が、何故か今まで淡々と言葉を紡いできた曙ちゃんの顔がいきなり険しくなった。

 

 それは、撤退中に遭遇した正体不明の深海棲艦のせいだ。

 

 

「撤退中、正体不明の深海棲艦に遭遇した。私を含めその姿を確認した全員が、今まで見たこともない(・・・・・・・・・・)種類よ。それは私たちを一瞥した後に何故か撤退していった……いや、見逃されたと言った方が正しいかしら」

 

 

 これが曙ちゃんの話だ。正体不明の深海棲艦、それは私たちにとって看過できない存在である。同時に、彼女は会敵から撤退までに目視で入手出来た情報を出した。

 

 ソレが戦艦級の砲門や装甲を携えて、当時艦載機を収容していたこと。裏を返せば艦載機を発艦できるということよ。恐らく、救出部隊を襲った艦載機群がこの深海棲艦から発艦されたものだ。そして彼女たちが幾度にも受けた艦載機群の全てをこの深海棲艦が発艦したものだとすれば、その収容数は想像を絶するものだ。

 

「……以上のことを踏まえて、憶測だけどソレは私たちが有する全艦娘を投入してようやく戦力が拮抗するかどうか、それほどの戦力を有していると思われます」

 

 

 

 そこまで曙ちゃんが話し終えた後、部屋に静寂が支配した。誰もが彼女が発した言葉とそこに現れた正体不明の深海棲艦を思い浮かべ、肝を冷やしただろう。何せ、私たちが有する全戦力をたった一隻で賄ってしまうほどの存在だ。

 

 もし何処かの海で会敵しあちらが敵意を向けてきたら、そう思うだけで額に嫌な汗が滲み、足が竦んでしまう。誰しもが同じ思いであっただろう。

 

 

 

「そうか、()はそんな感じかぁ」

 

 

 ただ一人、車椅子を軋ませながら楽しそうに(・・・・・)呟く長門さんを除いて。

 

 

「……なんて?」

 

「ん? ()だろ? その深海棲艦とやらは」

 

 

 一人場違いな反応を示した長門さんに司令官が異様なモノを見る目を向けるも、どこ吹く風とでも言いたげな長門さんがそう明るく返す。その反応に、面を喰らった顔をする司令官を尻目に、長門さんはまるで世間話でもするかのように語り始めた。

 

 

「曙の報告に付随させてもらう形になるが、改めて報告させてもらおう。私たち囮部隊が敵主力艦隊及び戦艦レ級と交戦した際、奴から『自分たちを見逃せ。そうすれば金剛たちに手を出さない』と交渉された。同時に奴が生まれたばかりの『姫』をお守りをしており、それは要塞の如く莫大な戦力を保有しつつ海を跋扈出来る存在であると。恐らく、曙たちが遭遇したのはその『姫』と呼ばれるものだ」

 

 

 そう始まった暴露劇とでも言う長門さんの話に、私たちはただ目を丸くするだけしかいない。それはその『姫』と呼ばれる深海棲艦に対しての恐怖ではなく、それをさも嬉しそうに語る長門さんに対しての疑念だ。

 

 

「まぁその交渉を蹴った上で交戦し、私たちは戦艦レ級と敵部隊を撃退した。と、言えば聞こえがいいが正しくは双方の継戦能力喪失による撤退だ。また交渉を持ちかけてきたことから、交戦の意志は弱かったと思われる。その姫とやらが撤退する時間を稼ぐのために私たちを足止めした、これが向こうの目標だろうな。つまり、今作戦は互いの目的が上手く噛み合い、ちょうどいい(・・・・・・)落としどころを見つけることが出来ただけ。勝利でも敗北でも無く、引き分けと言っていいだろうな」

 

 

 それが長門さんが抱く今作戦の総評。

 

 互いに守るべきものがあり、そのために囮を用意し、それに引っかかり、時間を稼ぎ、守り切った。おおよそ戦略的目標を達成したのだ。それが双方共に勝敗を付けない目標だったが故、丸く収まった。

 

 

 敢えて白黒つけるとすれば『引き分け』。

 

 

「因みに報告で言っているとは思うが、レ級から受けた損害は私含め艦隊全員の大破だ。特に何故かレ級の攻撃が集中したこともあり加賀は意識不明の重体、護衛部隊が来なければ危なかったであろう。今は目を覚ましたそうだが、身体のことを考えベッドで絶対安静だそうだ。そのおかげで奴から車椅子(こいつ)を借りて、好き勝手乗り回しているわけだがな。まぁ、今はこんな姿だが数日もすれば歩けるようになる。そこは心配しなくていい」

 

「でも……」

 

 

 長門さんの言葉に口を挟んだのは司令官だ。その顔は優れない。何か申し訳なさそう彼も、恐らく私と同じだろう。

 

 この作戦は彼が立案し、決行した。それによって長門さんや加賀さんが傷付いたとなれば、当事者が何と言おうと少なからず罪悪感を抱いてしまうだろう。事実、私がそうであったからだ。

 

 

 その言葉に長門さんは司令官に不満げな視線を向けるも、次に表情を変えてこう言い切った。

 

 

 

 

 

「そうだ、そして砲を撃てなくなった(・・・・・・・)

 

 

 

 長門さんが言葉を発した。その言葉に、私は顔を上げて彼女を見た。しかし、それは私だけで在り、他は僅かに表情を歪めるのみ。その中で最も表情を歪めたのは、司令官であった。

 

 

「私は戦艦レ級との交戦によって艤装に致命的な損傷を受けた。その損傷は砲撃を司る砲塔部、そして艤装の根幹を成す機関部にまで及んでいる。妖精の手を以てしても、そして修復材を投入しても、現状尽くせる手を尽くしたとしてもその損傷は治らないようだ。航行自体は可能ではあるが、一度でも砲撃すれば(・・・・・・・・・)損傷部が破裂、それは機関部に及び最終的に轟沈するそうだ。つまり、私は牙をもがれた『ただの船』というわけさ」

 

 

 彼女は自身が先ほど示した『そこ』以外。司令官が、周りが、そして彼女が心配している(・・・・・・)部分を語り出す。

 

 彼女が語るのは艤装に関する被害だ。だが、現に彼女は車椅子に身を預けなければならなくなった。その口から語られることはないだろうが、彼女は艤装(それ)以上の被害を被った筈である。

 

 

 決して軽微ではない、甚大な、当人にとっては決して看過できないであろう傷を負ったのだ。

 

 

「勿論、手が無いわけではない。一度自沈し、応急修理女神の手によって再度修復されれば元に戻るだろう。それは応急修理要員でもいいだろうが、そんな手を使ってみろ。私は妖精たちに見限られ、砲は愚か航行すら出来なくなるだろう。それは文字通り、戦艦長門()の死を意味する。じゃあ通常の戦闘で轟沈すればいいとなるが、そこはこの不沈艦とも言われた長門だ。この装甲をぶち抜けるほどの敵に遭遇しない限り、沈むことは叶わないだろう。それにそんな真似を提督()が許可しないと、今回の作戦で嫌というほど知ってしまったからな……」

 

 

 その傷をなぞる、いや傷口に塩を塗り込み、あまつさえ刃物の切っ先でそこをグチャグチャにするかのように、彼女は言葉を紡いだ。言葉と言う名の事実を、事実と言う名の刃物を、自らの懐に突き立てるが如く。

 

 

「つまり、現状私が講じる手立ては無い……お手上げ状態さ」

 

 

 今、彼女は激痛(・・)に見舞われている。修復材でも妖精の力でも決して直せない、元通りになれない、取り返しのつかない傷を負ったのだから。普通ならそれに蝕まれ、悲鳴を上げ、のたうち回り、その運命を呪い、その矛先を私たちに向けても、何やおかしくないのだ。

 

 

 

 なのに。

 

 

 それなのに。

 

 

 

 

「そして、私はそのことに感謝している」

 

 

 

 次に発した言葉、それを口に出す長門さんは笑っている(・・・・・)

 

 激痛に見舞われている様子も、理不尽に打ちひしがれている様子も、況してはそれら全てを押し殺して無理矢理笑顔(・・)を浮かべている様子もない。

 

 

 

「戦場において何らかのハンデを被り、それを抱え苦境に抗いながら戦う―――――物語(・・)によくあることだ。まるで『主人公』のようじゃないか、過言と言うのであれば『名脇役』、『名悪役』などなど……少なくともその他大勢として一括りにされることはまずない。いつか、きっと、必ずスポットライトを浴びる、主役と言う名のドレスを身にまとい、大勢の前に躍り出ることを約束されたのだ。とても喜ばしく、とても有難く、これほど価値ある(・・・・)ものはない」

 

 

 彼女はそう語り背中を預けていた背もたれを離れ、何時しか身を預けていた車椅子からも離れた。しかし、彼女の身体は数歩歩くこと叶わず、前のめりに倒れる。あわや机に倒れ伏す寸でのところで曙さんがその身体を支えた。

 

 

「そして此度の作戦は引き分けた。引き分けということはお預けされた(・・・・・・)勝負、つまり後に雌雄を決するときが来ると言うこと。そんな舞台が確約されているわけだ。その緒戦である今作戦で得た価値が其処に関係ないわけがない。きっと何らかの形で、数多の因果を越えて、その舞台に繋がっている。私はそう思う。そう思う故に、この価値を誇りに思うんだ」

 

 

 机を挟み、長門さんは司令官にそう言葉を向けた。同時に彼女の目に光が、いや()が宿る。そしてその手は、自らを支える曙さんの肩に触れた。

 

 

「それにすぐ傍にそのハンデを覆した存在がいる、これは私にとって僥倖だ。今でさえ輝かんばかりの価値(それ)が、更に光り輝くかもしれないのだから。だから提督、いや明原 楓殿。そんな顔(・・・・)をしないでくれ」

 

 

 長門さんはそう言い、司令官へ手を伸ばし、その頭を撫でた。

 

 

「今作戦は誰も轟沈者を出すことなく目的を達した、結果は成功だ。だが、貴方にとって成功とは言い難い。その過程……貴方の行動(・・・・・)は失敗の一言に尽きる、同意しよう。そしてその失敗に引っ張られた結末(モノ)がある、肯定しよう。だけど、貴方は成したことがある。戦えるようになった曙を見ろ、泣けるようになった雪風を見ろ、そして得難い価値を与えた私を見ろ。貴方が成したものは、確かにあったんだ」

 

 

 そして、長門さんは司令官に笑みを向けた。まるで子供をあやすように、こう言った。

 

 

 

「本当にありがとう、吹雪(提督)

 

 

 一瞬、私の目は狂った。目の前にいるのは司令官と長門さんの筈なのに、その一瞬だけ全く別の人物が見えた様な気が、いや見えたのだ。

 

 狂った目の向こうにあったのは、()りえないモノ。

 

 

 

 

 撫でられる私と、撫でる金剛さんだ。

 

 

 

「そしてもしその舞台がやってきたら、必ず私を登壇させてくれ。今度こそ必ず、勝利を掴み取ってくれよう」

 

「……あぁ、ありがとう」

 

 

 

 呆気からんとした声色でそう言う長門さんの言葉を、司令官はそう言葉を返した。そして、長門さんは曙さんの手を借りて車椅子に戻る。

 

 

 その様子を見て、私はこう思ってしまった。

 

 

 

 

 

 何だ、この茶番(・・)は。

 

 

 

 私は今、何を見せつけられているんだ。

 

 私は今、何のためにここにいるんだ。

 

 私は今、こんな茶番に付き合わされるためだけに此処にいるんだ。

 

 

 これが、私が受ける価値のある(・・・・・)罰とでもいうのか。

 

 

 もしこれがそうだと言うのなら、今すぐにでも私はここを出ていきたい。こんな茶番を見るだけなら今すぐにでも演習場に引っ張り出されて、完膚なきまでに叩きのめされた方がマシだ。

 

 

 

「さて、報告は此処までにしよう」

 

 

 

 そんな憂鬱で仕方がなかった茶番は司令官のその言葉で終わった、ように見える。多分だが、終わった。いや、むしろ早く終わってほしかった。早く罰を与えてほしかった、早く営倉に叩き込まれたかった。

 

 

 早く、裁いて(終わらせて)ほしかった。

 

 

 

 

「では次に、MVPを発表する」

 

 

 

 だけど司令官の口から飛び出した言葉は違った。その言葉に私は彼を見る、いや睨み付けた。対して、彼は無反応だった。あからさまに敵意を向けたのに、まるで最初から分かっているかのようだ。

 

 そしてその顔には恐れも怒りも、笑みも安心も無い。無表情だ。そして、彼の言葉に呼応するように大淀さんがファイルを取り出し、息を吸った。

 

 

「此度の作戦における全ての報告を聞き、撃破数、情報入手数、作戦貢献度、また作戦に参加した艦娘たちによる他薦数など多岐にわたる要素を加味し、総合的に判断いたしました。その結果、此度のMVPは……」

 

 

 そこで言葉を切った大淀さん。そして呼応するように司令官が彼女(・・)に目を向け、声を発した。

 

 

 

「白露型駆逐艦四番艦、夕立」

 

「ぽい!!」

 

 

 司令官の口から自身の名が呼ばれ、夕立ちゃんは元気よく声を上げた。声と一緒に手を上げ、次に堂々とした足取りで動き出した。

 

 司令官の前に居た長門さんと曙さんは下がり、その場所に夕立ちゃんが立った。以前の彼女からは想像できない程、彼女は堂々とした態度で司令官の視線を受ける。その彼女からの視線を受け取った司令官は一度咳払いをした。

 

 

「先ず此度の作戦に尽力してくれたこと、本当に感謝する。今作戦に貴艦が与えた功績は多大であり、それにお……()は報いなければならない。しかし今手元に特にこれと言ったものが無く、あってもその功績見合うものはないと思われる。故に貴艦に尋ねさせてもらおう、何を望むだろうか?」

 

 

 堅苦しい口調でそう言った司令官の言葉に、夕立ちゃんは可愛らしく首を傾げ視線を彼から外した。返答を熟考しているようだ。

 

 いつもMVPは何らかのものや権限が与えられる。大体は間宮さんお手製のスイーツをの甘味券、もしくは次回以降の出撃に対する希望だ。しかし、今回は鎮守府の存在を揺るがす重要な作戦だった。故に彼は彼女の望むものを問い、それを恩賞として叶えることにしたのだろう。

 

 

 

「……じゃあ、夕立のお願いを一つ聞いて欲しいっぽい」

 

 

 熟考とは言わないまでも長めの時間を要し、夕立ちゃんは答えを出した。それはある意味答えとは言い難い、自身が与えられた権限を更に大きくする狡い(・・)答えだった。

 

 それを受け、司令官は一瞬目を丸くするもすぐに無言で頷いた。その時彼が浮かべた表情(それ)は、何か解した様にも見え、そしてそれを受け取った夕立ちゃんは満面の笑みを浮かべてこう言った。

 

 

 

 

「今作戦のMVP、辞退させてくださいっぽい」

 

 

 満面の笑みでそう宣言する夕立ちゃん。その言葉の意味を解するのに、時間がかかった。言葉の意味自体はすぐに出来た、かかったのはその理由だ。そうのたまった夕立ちゃんは堂々としている。もっと言えば、先ほどとは別人ではないかと思うほど、澄ました顔になっていた。

 

 

 

「一応、理由を聞こう」

 

「確かに夕立は頑張ったっぽい。たっくさん走って、たっくさん避けて、たっくさん撃って、たっくさん倒しました!! だからMVPに選ばれるのは、当然夕立だって確信してたっぽい!! それに提督さんのことだから、今回のMVPは何かお願いを聞いてくれるだろうなって思っていました(・・・・)。だから()は辞退します。別に相応しくないとか、活躍してないとか、そういう理由とかじゃなくて」

 

 

 そこで言葉を切った夕立ちゃんの目が動いた。動かした先に居たのは、誰だっただろう。

 

 

 

今まで(・・・)頑張ってきた人が居るから」

 

 

 そう言葉を発した時、彼女は視線を動かさなかった。決して動かさず、ずっと見てきた(・・・・)

 

 

 

 決して、私に向けられていない筈だ。

 

 

 

「分かった、では今回のMVPは別の者にしよう。となると……」

 

 

 夕立ちゃんの言葉、もとい願いに司令官はそう言って大淀さんに視線を送る。すると大淀さんは彼に近付き、一枚の紙を渡した。紙が渡される直前うっすらと透けた裏側を見て、それが名簿のようなモノであった。

 

 

「えっと、次は……綾波型駆逐艦八番艦、曙」

 

「辞退します」

 

 

 司令官が名前を読み上げた瞬間、曙ちゃんは即座にそう言い放った。あまりの速さに面を喰らう司令官、と思ったが、何故か彼はすまし顔(・・・・)で彼女に目を向けた。

 

 

「理由は?」

 

「無論、夕立と一緒よ。私も沢山頑張ったけど、結果的にそれよりも大きい夕立、更にそれ以上が居るって言うのに三番目(・・・)がもらうわけにはいかないでしょ。だから、私も辞退します」

 

 

 曙さんは飽きれた様にそう言い、視線を向けてきた(・・・・・)

 

 

 絶対、私に向けられていない筈だ。

 

 

 

「では、球磨型軽巡洋艦三番艦、北上」

 

「その流れで最初に(・・・)あたしに振る? 勿論、辞退しまーす」

 

「……では、長門型戦艦一番艦、長門」

 

「私は既にもらっているようなものだ。無論、辞退する」

 

「……じゃあ、海大VI型潜水艦一番艦、伊168」

 

「ただの斥候にそんな功績ないわ。辞退します」

 

「じゃあ、天龍」

 

「うぉい!! 面倒だからって省略すんな!! ……まぁ、辞退するけど」

 

 

 それから立て続けに名前を呼ばれ、呼ばれた人は悉く辞退していく。また辞退する際、そして今なお彼女たちの視線はある一点に向け、ずっと見続けられている(・・・・・)

 

 

 

 恐らく、私に向けられていない筈なのだ。

 

 多分、私に向けられていない筈なのだ。

 

 

 だけど一人が辞退するごとに、向けられる視線が増えていく。

 

 だけど一人が口を噤むごとに、見続けられる感覚が増していく。

 

 

 どう考えても、どう取り繕っても、その感覚が拭えない。

 

 どれだけ考えなおしても、どれだけ否定しても、その結論が浮かび上がってくる。

 

 

 

「では、次」

 

 

 そして司令官が声を発した時、ゆっくりと視線が動いた。

 

 

「特Ⅰ型駆逐艦。通称吹雪型一番艦、吹雪」

 

 

 その名が呼ばれ、彼の視線は私に向けられる。

 

 

「今作戦、貴艦がMVPだ」

 

 

 その言葉と共に、彼の顔に笑みを向けてくる。それと同時に襲ってきたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強烈な嫌悪感が。

 

 

 

 

「ふざけんな!!」

 

 

 そう私は叫んでいた。

 

 それは執務室に響き渡る。私の、そして周りの鼓膜を揺らしただろう。もし理性が保てなかったら、私は今なお気持ち悪い笑みを向ける司令官に詰め寄り、あの時(・・・)のように思いっきり殴り掛かっただろう。

 

 だが、辛うじて理性を保った私はそう叫び、わざと音が鳴る様に床を踏みしめ、先ほどとは比べ物にならない敵意を、いや『殺意』を彼に向けたのだ。

 

 

「何ですか、何なんですか、いつまでこんな『茶番』を続けるんですか? 早く、早く終わらせてよ……とっとと裁いてよ……今更そんな情け(・・)求めてないんだよ!!!! そんな気遣い(・・・)不要なんだよ!!!! 貴方からの同情(・・)なんかいらねぇんだよ!!!!」

 

 

 大声で叫ぶ。血管がはじけ飛ぶほど叫ぶ。恥も外聞も何もかもを捨て、沸々と煮えたぎる感情を赤裸々にする。

 

 今まで溜め込んできたもの全てをぶちまける様に、目を覆いたくなる程醜い姿を曝け出す様に、私の本性を見せつける様に。

 

 

 そのどれもこれもがお門違いの怒りなのに。

 

 決して人に向けるべきではないものではないのに。

 

 況して関係ない人に向ける八つ当たりなのに。

 

 

 それを一番見られたくない人が、目の前にいるのに。

 

 

 

「大体、これ最初から仕組んでいたでしょ? 私が目を覚ましてから今まで……長門さんを寄こしたのも、報告会に参加させたのも、その後MVP発表に移ったのも、夕立ちゃんが願い事を決めて(・・・・・・・)、そして皆が辞退するって言い出すのも全部……全部、仕組んでいたことでしょ? それで私にMVPが回って来て、そして願いを言え……だぁ? 馬鹿にすんなよ!!!!」

 

 

 分かっている、分かっている。

 

 これは私に気を遣ってくれたことだって。私が今までやってきたことを認めるためのものだって。全て分かっている、分かっているんだよ、分かって()いるんだよ。分かっている(・・・・・・)からこそなんだよ。

 

 

「哀れみや、気遣い、同情、情け……そんなもので終わらせれば此処まで迷ってないんだよ!! 他人(ひと)から向けられたもので代えられれば此処まで悩んでないんだよ!! 他人(たにん)から寄こされたもので満足出来れば此処まで来てないんだよ!! その人(・・・)じゃなけりゃあ此処に居ないんだよ!!」

 

 

 分かって欲しい、分かって欲しい。

 

 

 身勝手だって、理不尽だって、我が儘だって自分でも分かっている。だけど私は此処までやってきた、頑張ってきた、ずっとずっと我慢して、押し殺して、苦痛に耐えて耐えて耐え抜いて、(此処)に居るんだよ。

 

 そこまで頑張ってきて、我慢してきて、耐え抜いてきた先が『これ』じゃあさ?

 

 事情も知らない赤の他人(ひと)が勝手に同情して、そのお情けでお膳立てしましたって丸分かりの結末(ゴール)じゃあさ?

 

 納得できないじゃん、満足できないじゃん、後悔するじゃん、報われないじゃん。

 

 そうだって、この作戦で(・・・・・)分からされたんだからさ。

 

 

「……だからこんなこと、こんな茶番(・・)今すぐ終わらせてください。意味無いんですよ、いらないんですよ、求められて(・・・・・)ないんですよ。分かるでしょ? 他人からどれだけ好意を向けられようがそれが『他人』である時点で無価値、スタートの時点で既に詰んでいるんですよ。その人の傍に居たとしても、況して『生きる理由』に成り代わろうとしても……絶対(・・)出来ないんですよ。だから……――――」

 

 

 どうせ何も得られないのなら、どうせ何の意味も無いのなら、どうせ何の価値も無いのなら。

 

 絶対に報われることのないものだって分かっていて、それでも手を伸ばし続けきたんだから。

 

 

「せめて」

 

 

 せめて、そうせめて。

 

 諦められるように、悔やまないように、切り捨てられるように。

 

 

 

貴女(・・)の手で」

 

 

 

 納得できる理由で、意味のある理由で、価値のある理由で。

 

 

 

「終わらせてください」

 

 

 終わらせてください。

 

 

 

 

 

 

 

「分かったデース」

 

 

 次に聞こえたのは、彼女の声だ。

 

 その声色は読めない。顔は見えない。見れない(・・・・)。その声が聞えた時、私の視界は下を向いていたから。自分の胸を締め付ける手に注がれていたから。

 

 

「テートク、次のMVP候補は誰ですカ?」

 

「次は……そう、貴艦だ」

 

「Wow、ちょうどいい(Nice timing)

 

 

 次に聞こえたのは、誰かの足音だ。

 

 それは遠くから近くへ、つまり私に近付いてくる。そして丁度、私の前で止まった。同時に、下に向いている筈の視界に誰かの足が見える。

 

 

 だけどその足は、その足先は私の方を向いていなかった。

 

 

 

「改めて確認しますケド、救助対象(・・・・)の『ワタシ』がMVPを貰っても問題ありませんカ?」

 

「何、同じ(・・)吹雪に与えられたのだ。問題ないだろう」

 

「今作戦における彼女の貢献度、特に撃破数については群を抜いているでしょう。『目』の私が保証します」

 

「Ok、thank you ……『貴女』も、問題ありませんよネ?」

 

 

 彼女の言葉に、私は無言で頷いた。彼女が指す『貴女』と言うものが自分だと、その問いを口にした時に彼女の声が大きく、こちらに向かって投げ渡されたモノだと理解したからだ。

 

 

 何より、吹雪()が望んでいたことだからだ。

 

 

 

 

 

 

 

「吹雪を、第三艦隊旗艦から外してくだサーイ」

 

 

 

 次に聞こえた言葉、それに思わず顔を上げた。何故なら、それは私にとって予想外(・・・)だった。

 

 

 

 彼女は、もっともっと重要なモノがあったはずだ。

 

 秘書艦の座に戻せとか、もっと強力な装備を寄こせとか、よくある甘味券や非番の希望、別鎮守府への移籍 、それこそ解体を希望することだって出来た。それが周りがどう思うは置いておいて、彼女にとって利益を生むものは沢山あった。

 

 ましてMVP、MVP報酬だ。誰もが蹴った末に回ってきたものだ、司令官や周りから決定権を託されたものだ。もし誰かが口を挟もうとしても、その『誰か』自身が先に手放したもの、そして先ほど確認をした時に了承したのだからもう何も出来ない。文字通り、彼女の思うがまま、好きなことを要求できるのだ。

 

 

 だからこそ、彼女がそれを――――――彼女の中で優先順位が低いであろう事柄を要求したことが信じられなかったのだ。

 

 

 そして今、顔を上げた先に彼女は立っている。私に背を向けて、右手はその腰に、そして左手は親指を立てたまま後ろに向けられている。まるで人を指しているように向けられているのだ。

 

 

 

「そして」

 

 

 やがて、彼女がそう口にした。そして、後ろに向けられていた―――――()に向けられていたその手がゆっくりと前に戻り、そのまま自身(・・)を指した。

 

 

 

 

 

「ワタシ――――――金剛型戦艦一番艦、金剛を第三艦隊旗艦にして欲しいデース」

 

 

 次に聞こえた言葉。今度こそ、今度こそ思考が停止した。

 

 理由は明確、意味が分からなかったからだ。

 

 

 

 貴女は沈みたかったはずだ。

 

 貴女は消えたかったはずだ。

 

 貴女は彼女(・・)の元に行きたかったはずだ。

 

 

 だから、貴女は分かった上で私の想いを踏みにじった。

 

 だから、貴女はその止めとして私に沈みたいと言った

 

 だから、貴女は私の姿を彼女に重ねた。

 

 

 それほどまでに、貴女は願っていた筈だ。

 

 

 

 今回、それを達成するまたとない機会だ。今後、手に入るかどうかも分からない。誰一人に迷惑をかけず、しがらみの全てを捨てて自由になるチャンスなのだ。

 

 

 

 何で、私に構うのだ。

 

 何で、私に近付くのだ。

 

 何で、私の傍に来ようとするのだ。

 

 

 私はもう、諦めた。

 

 私はもう、目を背けた。

 

 私はもう、手を伸ばすのをやめた。

 

 

 だからもう、もう。

 

 

 

 

「もう……良いのに」

 

良くない(・・・・)

 

 

 

 私が呟く。それを否定する声が聞えた。

 

 我に返る。彼女が、『金剛さん』がこちらを見ていた。

 

 

 

 今まで見たことが無い程、真剣な顔だった。

 

 

「全然、良く(・・)ありません。絶対、善く(・・)ありません。好く(・・)ない、良か(・・)ない、良いなんて絶ッ対に有り得ませんヨ?」

 

 

 それはただただ同じことを繰り返すだけのものだった。だけど、その一つ一つが持つ重みは、まるでその経験が生きている(・・・・・・・・・・)かのように重かった。それを背負う苦しみを知っているかのように重かった。

 

 

「……あと吹雪は演習場で盛大にボコボコにしろって言ったネ。同じ艦隊なら許可さえあればいつでも演習し放題、つまりいつでもボコボコにし放題デース。あれだけ啖呵を切ったのだから、文字通り死ぬまで付き合ってもらいますヨ?」

 

 

 次に世間話をするようにスラスラとのたまう金剛さん。確かにそう言った、そうは言ったがそれは私の我が儘だ、独りよがりの願望なんだ。決して金剛さん(貴女)が優先すべきことじゃない筈だ。

 

 

「それにこうも言いました。『ワタシの傍に居たい』、『ワタシの生きる理由になりたい』、と。それを達成するのに、これも同じ艦隊に居るのが丁度いいとは思いませんカ?」

 

「いや、でもそれは貴女の――」

 

「ワタシの願いです」

 

 

 その言葉に、私は再度目を見張った。同時に、金剛さんの表情が先ほどから変わっていることに気付いた。

 

 

 真剣な顔から、柔らかい笑みに。

 

 

 

「これは紛れもなく、嘘偽りなく、まごうことなきワタシの願い。それが偶然(・・)貴女の願いと重なっただけ、いや貴女の願いがワタシの願いになっただけネ。だから、吹雪……」

 

 

 そこで言葉を切った金剛さんはいきなり両手を伸ばし、私を抱き締める。そして、頭を撫でながらこう続けた。

 

 

 

一緒に(・・・)生きてください」

 

 

 私は頷いた。

 

 

ずっと(・・・)傍に居てください」

 

 

 私は抱き締めた。

 

 

「『これから』の、ワタシの生きる理由になってください」 

 

 

 私は声を押し殺すのをやめた。

 

 

 蚊の鳴くような小さな泣き声が響く。

 

 その胸にすがり付き、彼女の胸元を濡らす。

 

 足の力が抜け、身体の全てを彼女に委ねる。

 

 

 『貴女の言葉』で報われた。

 

 『貴女の願い』で生きる意味を、価値を与えられた。

 

 

 また『貴女の手』で、私は救われたのだ。

 

 

 

 泣き声で埋め尽くされる中、私は金剛さんからこう語りかけられた。

 

 

 

「これから()、目を離しちゃ、No!! なんだからネ」

 

 



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Episode6 交流
『腹芸』と『言伝』


「――――です。今作戦で確認された深海棲艦は二隻、その内一隻は自らを戦艦レ級と号しました。もう一隻は正体不明ですが、恐らく北方海域最奥部に駐屯する北方棲姫と同じ姫級かと思われます。双方の行方は不明、現在我が鎮守府が進出している北方海域を脱していると考えられます。詳しくはその資料に」

 

 

 白熱電球の柔らかな光が照らす一室。

 

 大小様々古今東西入り乱れた書物で埋め尽くされ、また埃一つ被らずに眩く光る勲章、トロフィーが光り、それら全ての中心に一際大きく、其処にその性格を体現するかのようにキッチリ纏められ、整理整頓を地でゆくほどに整えられた机。

 

 それを前にし、取り敢えず置ければそれでいいと言いたげな程に散らかる我らが提督の机を思い浮かびため息を溢す。同じ道を志しその半ばまでを歩いた者として、非常に情けなくなる。が、それも此処(・・)では関係のないことか。

 

 そんな机の上には数枚の資料。うちの秘書官補佐が作成したもので、正体不明の深海棲艦について知りえる全ての情報を記載している。まぁ正直一次情報が少ない分、ほぼ過去の資料を漁り類似したものを引用、そこから仮説と言う形でまとめたものではある。

 

 無いよりはマシより程度のものであり、今からそこに口頭で補足説明を付けれなければならない。

 

 

 

「次に―――」

 

「いいや、もう結構」

 

 

 そんな俺の補足説明を遮ったのはその言葉、そして目の前に翳された手の平だ。シミ一つ見受けられない真っ白な手袋に包まれたそれ。清潔感に溢れる一方誰にも触れたことが無いような程に潔白過ぎて(・・・)、一切の温かみを感じられなかった。

 

 

「長々と報告をありがとう。しかし私が聞きたいのはそんなことではないと、君も承知の筈だろう?」

 

 

 彼は柔和な笑みを浮かべ、心にもない感謝を述べた。同時に自身が欲しい情報をさっさと寄こせと催促してくる。柔和な笑みを一切崩さず、彼は言葉の節々に感情を込め、容赦なくぶつけてくるのだ。

 

 それは手に取る様に感情が分かると言える。どこぞの面従腹背に長けた艦娘(奴ら)とは大違いだ。しかし敢えて分かりやすく感情を見せているだけ、そう思わせようとしているだけかもしれない。大変分かりやすいが、その実踊らされている可能性もある。とにかく、腹芸を挑むには分が悪すぎる相手。

 

 

 そんな相手は口の前で手を組み、其処に顎を乗せる。そしてまるで世間話をするかのように声を発した。

 

 

 

 

何隻(・・)沈んだ?」

 

 

 その言葉を発した瞬間、俺の背筋に寒気が走る。その言葉に乗せられた感情――――憎悪を一身に受けたからだ。しかし俺も軍人の端くれ、更に言えば偉大な父(・・・・)を持つ。その程度の圧に狼狽えるほど貧弱な精神ではない。

 

 

 故に俺―――――花咲改め、朽木 林道は淡々と答えた。

 

 

 

「……残念ですが少将、今回の戦役でご期待に沿える結果(もの)はありません。彼奴等は執拗にしぶとく、今回はあの無能の元に曲がりなりにも結託しました。そして何より、あそこには『奇跡の駆逐艦』他数多の幸運艦が居座っています。今回はその恩恵を、もしくは偶然の産物(ビギナーズラック)を手にしただけでしょう」

 

「そうか。まぁ、偶然であればそれでいい」

 

 

 俺の言葉にその相手――――少将は柔和な笑みを少しだけ崩し、その声色からは落胆の感情が見えた。

 

 

 俺の前に居るのは少将。本名、音桐(おとぎり) 玄海(げんかい)

 

 彼は我が父、朽木 昌弘中将や、大本営最高責任者である照峰 一元帥が属する大本営上層部のナンバー3である。そして深海棲艦戦争とでも言えるこの戦争の最初期―――――艦娘が現れる前からを戦役に身を投じた古参だ。

 

 だが彼は他の二人とは違う点がある。それは彼は根っからの海軍人ではなく元々は陸軍将校であり、そこから海軍上層部に転属した特殊な経歴を持っていることだ。

 

 その経歴を説明しよう。

 

 

 彼が陸軍時代、特に深海棲艦が現れてから一年目は完敗に次ぐ完敗を喫し、海軍内情はズタボロであった。こちらが用意しうるありとあらゆる兵器が通用せず投入した戦力はほぼ全滅、辛うじて帰還した者たちも精神をやられて復帰不可。まさに資源と人命を消費して彼奴等の侵攻を遅らせることしか出来なかった。

 

 そしてそれも防ぎきれずについに上陸を許した頃。音桐少将は上陸した深海棲艦を迎え撃ち、これを撤退させたのだ。

 

 こちらの兵器全てが通用しないのにどうやって撤退させたのか、と疑問に思うだろ。というのも、奴らは何故か陸に上がるとその機動力が著しく低下し、更に奴らはある一定までの砲撃を行うとそれ以降砲火を上げることなく海に帰っていくのだ。そしてその時は機動力も無くなり、まるで燃料が切れかけた車のようになるのだとか。

 

 詳しい理由は分からない。研究者の中では海から離れて活動するには限界があり、限界が来た時点で撤退するのではないかと言われる。そんな奴らの弱点を突いた彼は陸戦隊に敵の死角を突いて急襲、弾を撃ち尽くさせて撤退させるゲリラ防衛戦法を用いたのだ。

 

 勿論、防衛作戦でも犠牲が無いわけではない。彼は少なくない犠牲を払いつつも奴らの侵攻を防ぎ、そして深海棲艦が撤退した際に神速の如き速さで防衛ラインを構築した。再び来襲した敵を迎え撃ち撤退させ更に防衛ラインを押し出し、また迎え撃ち撤退の後にまた押し出すことを繰り返す。更に艦娘の出現もあって陸から駆逐し、前線を各地域の海岸にまで押し戻すことに成功したのだ。

 

 その功績により彼は陸軍にて強い影響力を有することになる。やがて艦娘の登場により陸軍が最前線で戦う機会が無くなったのを理由に今度は主戦力となる海軍に転属したのだ。

 

 そのおかげで陸軍は国内の防衛及び治安維持、海軍は深海棲艦との戦闘及び資源の確保とそれぞれの役目を割り切り、反目することなく互いに支え合う形となった。彼はその構築に尽力し、海軍と陸軍の橋渡し的な存在となった。

 

 だがその一方、我が国が保有する全戦力に対して照峰元帥をも上回る影響力を有している。もっと言えば彼は反目しあっていた陸海軍を見事にまとめ上げた交渉力を買われ、他国との軍事的外交も担っているのだ。彼がその気になれば軍は愚か国すらも動かせる―――それほどの力を持っている。

 

 

 そして、もう一つ。

 

 彼を最も警戒すべき理由がある。

 

 

 

「では何人の艦娘が戦闘不能に陥った? 何人の艦娘が精神不良に陥った? それだけでも構わん。教えてくれ」

 

 

 音桐少将は気を取り直して、矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる。その表情はやはり笑みなのだが、その目は刃物のように鋭く尖っていた。それは今までで最も強くその感情を表していた。

 

 

 そこにあったのは羨望、期待、懇願、熱望、所望等々。とにかく欲しいと言うものばかり。

 

 では何が欲しいのか、それは彼が口にしたこと。あの鎮守府の戦力低下、早い話艦娘たちの安否だ。

 

 それも『安』ではなく『否』の方。傷付き、病み、そして沈んだか。

 

 

 それ自体に何ら疑問は無い。あの鎮守府を解体しようと画策した上層部の一人であり、そのために楓を送り込んだのだから求めるのは当然だ。

 

 だが楓はその思惑を真っ向から否定し、それを父上や元帥が曲がりなりにも認めた。やがて鎮守府はあいつの元でまとまりはじめた。

 

 傍から見れば無駄に戦力を削らずに不安分子を潰したと喜ぶことだ。ましてじり貧の戦局を生き抜いた音桐少将なら尚更喜びそうなのだ。

 

 

 だが彼はそうしなかった、いや出来なかった。

 

 そして嫉妬と憤怒の海に溺れていた俺に手を伸ばし、甘言を囁き、あの鎮守府に送り込んだ。人事への口出しに書類の偽装から隠蔽工作までと、下手すれば軍法会議にかけられてもおかしくないほどのことをしてまで、彼は内部崩壊を画策した。

 

 それは彼はあの鎮守府を潰したがっている。誰よりも何よりも、自身を危険に晒してまでも、潰すことに執着しているのだ。

 

 

「鎮守府に所属する艦娘、長門型戦艦一番艦 長門が艤装の損傷により砲撃不可になりました。事実上の戦力外です。また以前お伝えした綾波型駆逐艦八番艦 曙が砲の具現化を実現させ、戦力復帰しました。数だけ見れば変わりませんが戦艦一隻の喪失と駆逐艦一隻の復帰。戦力は大幅に落ちたと言えます」

 

「そうかそうか、それは僥倖だ……少なくとも、得るものはあったのだな」

 

 

 俺の言葉に音桐少将は少々物足りなさげにそう呟く。それ以上の反応が無いと確認し、俺は手元の書類を目を落とした。書類に記載してあるものは大方説明し、補足説明もある程度終えた。後は少将の質問に答え、今後の動向を受けるのみだ。そう思い、俺は心の中で息を吐いた。

 

 

 

「時に、君は女でも出来たのか?」

 

 

 だが次に向けられた言葉に、俺は面を喰らった。その顔のまま少将を見る。その顔は小さく笑っていた。その目も笑っていた。その言葉も何処か茶化しているように聞こえた。間違いなく彼は笑っている。

 

 だがあれ程ちぐはぐであったその感情がこうも一致している。一挙手一投足の全てで様々な感情を表していた手前、いきなり全てが一致したことに驚きを隠せなかったのだ。

 

 

「……と、言いますと?」

 

「何、君も若い。そしてあそこにいるのは兵器とはいえ見目麗しい者たちばかり、そういう浮ついたことがあってもいいじゃないか」

 

「……おっしゃっている意味が分かりません」

 

「ほんの親心だよ。誘った私が言うのもあれだが、君はあれ程敬愛する父を裏切っている。その心境は間違いなく健全ではない筈だ。その穴埋めにそう言う存在を求めてもおかしくないだろう?」

 

 

 そこまで聞いて、俺はその真意を理解する。少将は俺が向こうに内通していないか試しているのだ。自分で言うのも何だが、彼から密命を受けた頃から考えると幾分か落ち着いていると言えよう。懐柔されたと取られてもおかしくない。

 

 まぁ実際そうではあるんだが、それが露見してしまえば確実に任を解かれる。何とか誤魔化す……いや、必要はない(・・・・・)か。

 

 

「確かに、そういう渡りは見つけました」

 

「渡り、とは?」

 

「文字通り、こちら側(・・・・)です」

 

 

 俺の言葉に、少々はようやく笑みを崩した。崩したと言っても目だけだ。それを受け、俺は先ほどとは別の資料を、着任前に手渡された所属艦娘の名簿を取り出した。

 

 それを机の上で開き、パラパラと頁を捲る。そして、該当艦娘の頁で止めた。

 

 

「この艦娘―――金剛型戦艦三番艦 榛名。彼女は現在の鎮守府に不満を、特に明原 楓に対して強い不満を持っております。それは以前報告しました、あちらで起こした騒動の折に本人から確認しました。更に言えば、それは純粋は悪意でも善意でもないただの『欲求』です。純粋であるが故に甘言に弱く、視野が狭く、何より周りを顧みない。使わない手は無いでしょう」

 

 

 俺が話すのはあいつ、榛名だ。あいつは今も迷っている。自分の居場所を求めて、存在を認めてもらおうと、早い話依存先(・・・)を求めているのだ。その第一候補であった楓には既に救ったと、恐らく手を伸ばさなくてもいい存在だとされた。つまり目を向けてもらえなくなったのだ。

 

 だからこそ榛名は救われない。もう地面に零れた水なのだから、楓が掬える(救える)わけがない。それが故に付け入る隙があると言うわけだ。そして俺は溢した水を掬い上げるのが役目。俺にしか榛名(あいつ)を『すくえ』ない。これは紛れもない事実であるからだ。

 

 それと同時にどう(・・)すくい上げるかは俺の自由だ。そしてどうする(・・・・)かは敢えて明言しない。勿論まだ定まっていないのもあるが、そうすることで向こうは都合よく勝手に解釈するからだ。

 

 

 ―――全く、腹芸とはこうでなくちゃ。

 

 

「もしもそれを()と言うのであれば、『出来ました』とお答えしましょう」

 

「なるほど、以前の君(・・・・)と言うわけか」

 

「はい。以前の私(・・・・)だからこそ、どうにでも(・・・・・)転ばせられるのです」

 

 

 俺の言葉に少将が笑い声を上げた。それを見て、俺も薄ら笑いを浮かべる。今、どんな顔をしているだろうか。ちゃんと『悪役面』出来ているだろうか。

 

 

「いやぁすまない、以前の君と雰囲気が変わったから、少しカマかけさせてもらった。許して欲しい」

 

「いえ、少々の心配はごもっともです。しかし、よく女が出来たと分かりましたねぇ」

 

「……その言葉は仕返しだな。甘んじて受け入れよう。以前の君と同じ雰囲気を持つ者と過ごしているからね。そういう雰囲気について、嫌でも理解してしまったんだよ」

 

 

 少将がそう言った時、不意に扉がノックされた。それに少将はすぐに「入れ」と声をかける。それを受けて、扉はゆっくりと開かれた。

 

 

 

「失礼します」

 

 

 鈴のような凛とした声を上げて入ってきたのは、一人の少女であった。

 

 

 膝くらいまである長い黒髪を赤紫色のゴムバンドでポニーテールにまとめて後ろに流し、肩を出した身体のラインを際立たせるタイトなセーラー服と真っ赤なミニスカート。

 

 右足のみに太ももまで伸びる二―ソックスと生足の左足と何もかもを大胆に露出している反面、その両腕は肘までを覆う真っ白な手袋をしていた。

 

 

 恐らくこの少女は艦娘なのだろう。しかし今の彼女を見て、艦娘と断言していいのだろうか。

 

 

 何せ、彼女はその凛とした制服。

 

 その上にクマのアップリケがあしらわれた可愛らしい黄色のエプロンが。

 

 

 肘まで覆われた真っ白な手袋に包まれた。

 

 その手には埃落としが握られていたからだ。

 

 

 

「寝室のお掃除、完了しました」

 

「そうか、じゃあ次は庭の手入れだ」

 

「承知いたしました」

 

 

 少女と少将の会話はそれで終わり、少々は手元の書類に目を落とした。そして少女は深々と頭を下げ、何事となく部屋を出て行った。それは一分にも満たない短い時間であった。

 

 

「……彼女は?」

 

「あぁ、君は会うのが初めてか。あれ(・・)は矢矧だ」

 

 

 矢矧――――それは阿賀野型軽巡洋艦三番艦、矢矧。先の大戦では最新鋭軽巡洋艦として生まれ、勝敗が決した中でも奮戦し武功を上げ、最期はこの国の名を冠した船と共に身代わりとして果てた艦。

 

 武勲艦と名高い矢矧、その名を冠した艦娘はさぞ勇猛果敢であり、以前で十分な力を発揮できなかった鬱憤を晴らすが如く戦場を縦横無尽に駆け巡るだろう。そしてそれは名将と名高く、そして戦うために海軍に転属した音桐少将の秘書艦として適任であろう。

 

 有能な人の元に有能な艦がやってきた。傍から見ればこれ以上ない最適な人事配置であろう。しかし、少将の言葉を聞く限り、友好的とは思えない。

 

 

「矢矧と言えば武勲艦ではありませんか。何故あんな恰好で……」

 

「君には関係ないこと、あまり詮索しない方が良い。でないと―――」

 

 

 言葉を切った少将は『君の立場が危うくなる』とでも言いたげな笑みを浮かべたので、俺はそれ以上の詮索をやめた。

 

 

「申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました」

 

「何、君は大事なパートナーだ。多少の無礼は許すよ。それに矢矧(あれ)と君のどちらと言われれば、間違いなく君だからね。では、報告を終えようか」

 

 

 少将の言葉を受け、俺は一礼して持ってきた書類を片付ける。すると、また扉がノックされた。同じように少将が「入れ」と言い、先ほどとは違う声色の声と共に一人の少女が入ってきた。

 

 

「失礼いたします」

 

 

 先ほどの矢矧よりも小さい。ピンク色の髪をポニーテールでまとめ、黒を基調とした制服を着ている。矢矧よりも露出が少なく、そしてその目は刃物のような鋭さを有していた。

 

 

「陽炎型駆逐艦二番艦、不知火。只今帰投しました」

 

「おぉ、不知火()。ご苦労様」

 

 

 少女とは思えない完璧な敬礼と共に、不知火は力強くその名を口にした。そして少将は先ほどの矢矧から一変、柔和な笑みと共に労った。そのあまりの差に、俺は少将と不知火を交互に見る。

 

 

「……閣下、この憲兵殿はどなたでしょうか?」

 

「あぁ、陸に居る同期の倅だ。さっき偶然出会ってちょっと話し込んでいたんだよ」

 

「どうも、花咲と申します」

 

 

 不知火の疑問に少将は息をするように嘘を吐き、俺もそれに乗っかりすまし顔で挨拶をする。それに不知火は姿勢を正し、頭を下げた。

 

 

「改めまして、陽炎型駆逐艦二番艦、不知火です。本来は別の鎮守府所属ですが、現在は短期出向で音桐少将閣下の元に詰めております。以後、お見知りおきを」

 

 

 彼女の挨拶を終えてから、部屋は沈黙に包まれた。俺はすまし顔で不知火を、彼女は無表情で俺を見つめる。こちらは単純に何故彼女が出向しているか、そして先ほどの少将の態度について思案していた。逆に彼女も何かを考えているようにも見えるし、何も考えていない様にも見える。

 

 

 とにかく、俺と彼女もこの沈黙を破る気はなかった。

 

 

「……ここはお見合い会場ではないんだがね。花咲くん、長く引き留めて悪かったよ」

 

「いえ、こちらこそ貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました」

 

 

 それを破ったのは音桐少将であり、俺はその船にすぐさま乗った。そのまままとめた書類を鞄に突っ込み、一礼して部屋を後にした。

 

 

 廊下を歩いている中、俺の頭の中はあの艦娘――矢矧のことが気になった。

 

 

 矢矧であるらしきあの艦娘、正直艦娘と紹介されなければ分からないほど覇気が無かった。そして、少将が言っていた以前の俺と同じ雰囲気を持つ者、これは恐らく彼女のことだろう。そして、武勲艦を手元に置いているにも関わらず他の鎮守府から艦娘を出向させており、明らかにそちらを優遇していた。

 

 恐らく少将的に言えばあの矢矧と言う艦娘は使えないのだろう。しかし、それなら何故手元に置いているのだろうか。戦闘以外に何かしらの価値があるのか。それとも存在自体に価値があるのかもしれない。生まれながらに価値を持っているとは、何とも羨ましい限りだ。

 

 

 だけど、恐らくソレではない。俺が彼女に関心を寄せているのは、そんな理由ではない。

 

 俺がここまで気にするのか、それは少将の言葉だ。彼女の雰囲気を俺も以前纏っていた、つまり彼女も俺と同じ悩みを持っていると言うことだ。

 

 同族嫌悪ならぬ同族擁護とでも言うのだろうか。それともあの苦しみを抱える彼女に同情しているのかもしれない。それとも重ねているのかもしれない。

 

 

 

 他でもない、榛名(あいつ)に。

 

 

 

「もし、憲兵殿」

 

 

 ふと、後ろから声をかけられた。振り返ると、先ほど別れた筈の不知火が立っていた。彼女は俺と目が合うと敬礼したので、俺も敬礼を返した。

 

 

「これは不知火殿、如何しました?」

 

「一つ、お聞きしたいことがありまして。貴殿が所属する鎮守府の司令官は、明原 楓殿ではありませんか?」

 

 

 不意に飛び出した楓の名前に、俺は思わず目を見開く。俺の反応を肯定と取ったのか、不知火は何故かため息を吐いた。

 

 

「……確かに、私が所属する鎮守府の司令官はその名だ。それが何か?」

 

「あぁ、いや、あの、ですね……恐らく朽木中将経由で話が行くと思うのですが、先にお伝えした方が良いかと」

 

 

 俺の質問に不知火は何処か歯切れの悪い言葉で返す。しかし、その中にただならぬ人物の名があった。

 

 父上経由、どういうことだ? 確かやつ経由で父上にもキス島撤退作戦(今回の作戦)の報告が行っており、また求めた援助も資材や修復材だけだ。

 

 

 ……まぁ、何故か憲兵の俺に必要資材数や修復材数を相談しに来た(バカ)のお蔭で把握しているのだが。

 

 ともかく、資材類だけであとは何も求めていない筈だ。これは間違いない。だからこの不知火の話は、父上側から持ちかけられたものだろう。一体何を要求されたのかは分からない。というかその話すら聞いてないぞ。

 

 

 ……いや、本来は聞かなくても良いはずなんだが。

 

 

 

「あの、大丈夫でしょうか?」

 

「……あぁ、申し訳ない。話がいきなり過ぎて……」

 

「何故憲兵殿が狼狽えているのか分かりかねますが……ともかくうちのバk――――失礼、不知火の司令官が近々そちらに顔を出すそうです。期日は分かりませんが、そう遠くないでしょう」

 

 

 一瞬上官侮辱罪になりかけたであろう不知火の発言に俺は首をひねる。確か、楓は何時かは他の鎮守府と交流を持つ気でいると言っていたな。恐らく父上に相談していて、今回それが叶ったのだろう。

 

 まぁ、今の鎮守府なら他方と関わっても問題は少ないだろう。というか、他の鎮守府との交流を持つことはある種の先入観を取っ払うのに最適と言える。勿論、悪影響もあるだろうが、それも抱えても大きなメリットはある。

 

 

 だが、疑問がある。それは何故、この不知火は上での取り決めをわざわざ先回りして伝えようとしているのだろうか。

 

 

「そして、司令官から言伝を預かっています。これをお伝え下さい」

 

 

 その理由、恐らくどちらかと言えば言伝(こちら)がメインであろうそれを、不知火は何処か疲れた顔で教えてくれた。

 

 

 

 

「『おう、紅葉坊。近々お前んとこ行くから、美味い飯よろしくな』」



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提督と『中佐』

「……」

 

「……」

 

「……」

 

 

 執務室は重苦しい空気に包まれていた。

 

 誰も一言も発しない。誰もが気難しい顔を浮かべ、黙って立ち尽くしている。中には静かに目を閉じる者、額から汗を流す者、唾を呑む者、視線を泳がせる者。様々な表現を駆使して、皆一様の感情を表した。

 

 

 『不安』である。

 

 

「……はぁ」

 

 

 そんな中で俺は場違いな声を、何処か疲れたような声を漏らした。

 

 

 

「随分と余裕ね」

 

 

 それを見逃さず、傍に控えていた一人―――――目を閉じていた加賀が冷ややかな視線を向けつつそう言った。その言葉に他のメンツもそれぞれの表現を止め、俺に目を向けてくる。

 

 

「……まぁ、俺は知っているからなぁ」

 

「それ、余計心配なんだけど」

 

 

 俺の言葉にもう一人―――視線を泳がせていた曙が棘のある言葉を向けてきた。そしてその言葉に他の二人―――――汗を拭う夕立と唾を飲み込んだ榛名がコクコクと頷く。

 

 

 そこ、普通は提督が大丈夫だって言うから安心できるとか、そういう場面じゃないの? 何か、扱い酷くないか……? あぁ、今更か。

 

 そんな周りのあんまりな反応に傷付きつつ、俺は手元にある二通の手紙に目を落とした。

 

 

 

 一通は朽木中将だ。

 

 内容はとある鎮守府の提督がうちの鎮守府―――というか俺に会いたいと言ってきたので許可した、というものだ。

 

 うん、いや、何で? 何で俺に一回話持ってこないの? 当事者に一回伺い立てろよ。

 

 いや、確かに前々から何処かの鎮守府と交流はしたいって言っていたけどさ。それでも限度ってもんがあるだろう。てかこっちのタイミングでやらせろよ。ほんと軽率過ぎるだろう。

 

 

 

 

 ―――――って、思っていた時期がありました。時期と言うか中将の手紙を読み進めるまで、だけど。

 

 

 後に続いた内容を読み進めると、こうある。

 

 

 その提督、実は俺が着任してすぐ位から会いたがっていたらしく、今の今まであれこれ理由を付けて抑え込んでいたみたいだ。そしてそいつを抑え込むために資材とかバケツとかをを融通することで間接的に支援させていたのだとか。

 

 つまり、中将から流れてきた資材の殆どはその提督が集めてくれたのだ。だから中将自身もそいつに借りがあるわけで、今の今までのらりくらりとかわし続けてきたんだけど……流石に限界が来たと言うことらしい。

 

 

 ……なんか、ありがとうございます。

 

 

 しかもその提督。許可が得た途端こっちに直接出向くって言い出したらしく、しかもそれがこの前のキス島撤退作戦の頃で。

 

 もし中将が抑え込んでいなかったらと考えると……

 

 

 ホント、ありがとうございます。

 

 

 

 そんなこんなで今まで抑え込んできたけど限界なんで、その提督が突撃する前に何とか一報を送らなければいけない。予期せぬことで混乱するだろうが、ともかく敵意は無い奴だから安心して欲しい。だけど俺に対する執着が凄いから、ある程度警戒してなんとかやり過ごしてくれ。

 

 

 と、いうわけだ。色々と心を砕いてくれて感謝しかない。

 

 

 ホント、取り越し苦労(・・・・・・)とはいえ感謝しかないわけだ。

 

 

 

「ホント、何であんたそんなに落ち着いてんのよ」

 

「んー? だって……なぁ」

 

 

 呆れた顔の曙の言葉に、俺はそう生返事をしつつ手紙―――――中将のものとは別のやつを手に取る。

 

 

 それは林道からの手紙、というか電報だ。

 

 なんでも陸軍のお偉いさんに呼ばれたらしく、現在大本営へ出向いている。そして向こうでその提督の艦娘に出会い言伝を貰ったようで、それを先に電報で送ってくれたわけ。

 

 

 その電報には、短くこうあった。

 

 

 

 

「『おう、紅葉坊。近々お前んとこ行くから、美味い飯よろしくな』――――って、どんな内容よ」

 

「あ、ちょ」

 

 

 俺の手から電報を掻っ攫いながら、加賀が困ったように呟く。掻っ攫われた手を空中で遊ばせながら、何度目かのため息を吐いた。

 

 中将からの一報、そして林道を介した意味不明な言伝。

 

 ここで終わっていたら、こんな状況にならなかった。だけど結果は終わらなかったわけで。その続きと言うのもが何と言うかアレ過ぎると言うか。

 

 

 まぁ早い話、先ほどの電報が届いたのが昨日。

 

 そしてその翌日、つまり今日。

 

 

 

 突然、所属不明の艦隊が鎮守府近海に現れたのだ。

 

 

 その艦隊を発見したのは帰投直後の夕立だった。彼女は近づく存在を確認、それが艦隊であることを把握する。そこでたまたま母港にいた吹雪に、そこから第三艦隊旗艦である金剛に通報。

 

 それを受けた金剛は夕立にこのことを俺に伝えるよう指示し、彼女は第三艦隊を引き連れ謎の部隊に接触を図った。

 

 汗だくで執務室に飛び込んできた夕立を出迎えたのは、俺と提督補佐の大淀、秘書艦の加賀。そしてたまたま報告書を渡しに来ていた榛名、自身と長門のリハビリ状況の報告をしに来ていた曙だ。

 

 夕立の口から伝わった謎の艦隊襲来(当時はそう思っていた)を聞き、俺はすぐさま迎撃部隊の召集をかける。それを受けて榛名と曙が走り出そうとした時、大淀を介して金剛から無線が入った。

 

 

 

「『紅葉坊、腹減ってるからとっとと飯を作ってくれ』…………と、その提督(・・)が申しているそうです」

 

 

「あ、来たんだ」

 

 

 怪訝な顔の大淀から放たれた言葉、そしてそれを受けて思わず漏れた俺の言葉。次の瞬間、その場にいた一同から視線が集まる。

 

 

「……提督」

 

「一体全体」

 

「どういうことなの」

 

「説明して」

 

「するっぽい」

 

 

 次の瞬間その場にいた全員からこのように詰められ、俺はその剣幕にビビりながら中将と林道から届いた電報を話す。そして全員(何故か電報を手渡してきたはずの大淀も)から『大事なことはさっさと言いなさい!!』と怒られた。

 

 

「いや俺だって昨日知ったことだし、まさか翌日に来るなんて思わないだろう!?」

 

「先ず外部の連中が来るかもしれないってことを真っ先に伝えなきゃダメでしょ? 怠慢よ」

 

「そ、それはそうだけど……い、いや!! てか俺よりも今日来るって連絡を入れなかった向こうに責任があるだろう!?」

 

「その向こうは直接出向く以外にどうやって連絡を入れるんですか? 外と連絡とれる存在は提督しかいないのに……これは外部とのコネクションを開かなった提督の責任です」

 

「ぐっ……だ、だけど……いきなりだし」

 

「大体外部との交流を考えていたのはクソ提督でしょ? 外部に任せっきりにしないでもっと手回ししておけばこんなことにはならなかったはず!! 何でこっちの鎮守府(ホーム)なのにイニシアチブ取られてんのよ!!」

 

「うぅ……うぅぅぅ……」

 

「ま、まぁまぁ皆さん落ち着いて」

 

「そ、そうっぽい。提督さんも悪気があったわけじゃないんだし……」

 

 

 三人(加賀、大淀、曙)から正論で殴られ、二人(榛名、夕立)に慰められる―――――なんて、そんなやり取りを挟みつつ。金剛を仲介してその艦隊との接触、件の鎮守府からやってきた部隊と判明。現在彼女がここに案内してくれているわけだ。

 

 

 なので周りはこんなに浮足立っている、そして俺は落ち着いている。

 

 

 ここの理由は至極単純だ。

 

 周りはこれからやってくる人物を知らなくて(・・・・・)、俺は知っている(・・・・・)からだ。

 

 

 

 

「――――ら、――――め」

 

「い――――、あい――――よ!!」

 

「くは――――、――がい――」

 

 

 その時、扉の向こうから複数の声、何人かの足音が聞えてきた。と言うよりも、何処か言い争っているような、そして足音も歩いてると言うよりも走っているように聞こえる。

 

 

「何か、騒がしくない?」

 

「大丈夫なの?」

 

 

 その様子に加賀たちは怪訝な顔になるも、それを耳にした俺は思わず苦笑いを溢した。

 

 その騒がしい喧騒を、その中に居た『頃』を思い出していたからだ。

 

 

「大丈夫だ」

 

 

 そう言って俺は前に進み出て、それを周りの皆は怪訝な顔で見る。特に誰も止めようとしない。

 

 仮に敵だとしてもこんな敵地のど真ん中で提督()を襲おうなんて考えないだろう。

 

 そして何より(非常に不本意ではあるが)いつも慌てふためくはずの提督がここまで落ち着いているのだから、きっと大丈夫だろう。

 

 そんな気持であったと推測する。それを信頼と取るかどうかは俺次第だが、此処は意地でも信頼と取る。

 

 

 喧騒が近づいてくる。それに従い、聞きなじみのある声もちらほらあった。それを受けて俺は扉の前で止まり、クルリと振り向いて加賀たちを見る。

 

 

 そして苦笑を浮かべながらこう言った。

 

 

 

「いつも、あぁだから」

 

 

 

 その言葉が彼女たちに聞こえたか、分からない。

 

 何故なら、そう言った瞬間真後ろのドアが力強く開け放たれたからだ。

 

 

 その言葉が彼女たちに伝わったのか、分からない。

 

 何故なら、振り向いた先に居た彼女たちの顔が一瞬にして『驚愕』に変わったからだ。

 

 

 その言葉が彼女たちの心にどう響いたのか、分からない。

 

 何故ならその瞬間、後頭部に何かが激突したからだ。

 

 

 そしてその何かによって前のめりに押し倒されたからだ。

 

 

 

 

「……あんたがここの提督ね」

 

 

 後頭部の激痛、衝撃、状況に追いつかない頭、混乱、思考停止。ありとあらゆる情報をシャットアウトされた真っ暗な視界の中、その声はしっかりと聞こえた。

 

 同時に頭上から聞こえた鈍く低い音、背中に体重をかけられ全く動けず、何より何が起こっているのか、どういう状態なのか、状況の一切が把握できない。

 

 

 その中で、唯一分かったことがある。それは後頭部に押し付けられた『モノ』だ。

 

 それは金属のように固く、棒のようなモノで中央に穴が空いており、その奥から火薬のにおいが漂ってくる。

 

 それは俺がここに来て幾度となく向けられ、或いは火を噴かれたであろうモノ。

 

 

 

 砲門である。

 

 

 

「あんたに……姉さまはぁああああああ!!!!!!!」

 

 

 

 そんな絶叫と共に頭上の砲門からガコン、と言う音――――装填音が聞こえ、やがて火花が散る様な音が聞こえ、そのまま砲撃音が―――

 

 

 

 

 

「やめなさい!!」

 

「んぎゃ!?」

 

 

 と思った矢先に聞こえたのは、聞きなじみのある(・・・・・・・・)声。

 

 その直後、頭上でスパーンと言う軽快な音と共に何かが間抜けな声を上げた。そのまま背中にのしかかっていた重みが消え、動けるようになる。

 

 

 

「先に走り出したと思ったら……なにメーちゃん(・・・・・)襲ってんの!!」

 

「うぅぅ、だって、だってこいつに姉さまがぁ……」

 

「おバカ!! メーちゃんがあんなことするわけないでしょ。あたしがどん~~~~だけ!! 誘惑しても一向に反応しなかった朴念仁なんだから……」

 

「そ、それは単に魅力が無――」

 

「お黙りィ!!!!」

 

 

 聞きなじみのある声がそう叫ぶと、また軽快な音が鳴り響く。恐らくまた頭を叩かれたのだろう、叩かれた何か―――恐らく少女は小さな呻き声を上げる。

 

 

「おいおい伊勢、そこまでせんでもいいだろう」

 

「あら中佐(・・)、ごきげんよう。と言うか、貴方がこの子に『姉がここの提督に慰めモノにされた』って吹き込んだからこうなったのよ? 場合によっちゃ外交問題だわ」

 

「くははッ!! あぁ分かっているとも。そして紅葉坊(・・・)なら許してくれるってことも、な?」

 

 

 もう一つ聞きなじみのある声が。と言うか人物がやってきた。それを受けて俺はようやく状況を―――何故押し倒されたかは置いておいて―――把握した。

 

 

「ほら紅葉坊、大丈夫か?」

 

 

 そう声をかけた声の主、『中佐』と呼ばれた人物が俺の制服を掴んで引き上げた。それを手助けに何とか立ち上がる。衝撃でくらくらするが何とか立てた。口元を確認する、鼻血は出ていないようだ。良かった。

 

 

「うん、大丈夫そうだな!!」

 

「いや、今しがた押し倒されたばかりなんだけどさ」

 

「まぁあれは挨拶みたいなものだ、気にするな!! それより―――」

 

 

 俺の苦言を『中佐』は適当にあしらい、そして指を向けたのだろう。視界の横からその腕が伸び、俺の前方に向けられる。

 

 

 

 

「彼女たち、どうにかしてぇ?」

 

 

 そんな声、のようなお願いが聞こえた時。俺の視界に映ったのは。

 

 

 

 鋭い視線を、敵意に満ちた目を向けながら具現化した砲門を向ける大淀、夕立、榛名、曙。

 

 その背後に何処からか取り出した弓に矢を番え、俺に向けて目一杯に引いている加賀。

 

 

 

 明らかに、完全に、戦闘態勢(・・・・)を整えていた我が艦娘たちだった。

 

 

 

「で、提督? 何が大丈夫なの?」

 

「すぐにそいつらから離れて欲しいっぽい」

 

「ことを荒立てる気はないけど、此処は譲れません」

 

「楓さん、其処のチビが狙えないんで取り敢えずどいてください」

 

 

 

 口々に敵意丸出しの声、今にも噛み付きそうな顔でそう捲し立てるうちの艦娘たち。皆目がマジだった。冗談抜きでこのまま何かしら合図を送れば砲撃戦になる、そう確信できるほどに。

 

 

 

「ほぉ~ら、あんたのせいよ。何とかしなさい」

 

「うぅ……」

 

 

 

 その時、もう一つの聞きなじみのある声、そして俺に襲い掛かってきた何かの呻き声が聞こえた。その方を向くと、二人の人物が立っていた。

 

 

 一人は女性。

 

 ブラウン色の髪を赤紐で結い、ポニーテールで纏めている。白を基調とした着物で肩口と袖を赤い紐で結びつけており、その下から黒いインナーが見える。短めのスカートに似つかわしくない一振りの刀を携えている。

 

 もう一人は少女(・・)

 

 黒髪のボブヘアー。金剛や榛名のような露出度の高い巫女服姿で、彼女たちよりもシンプルでより巫女服っぽさを出している。そして何よりも目を引くのはその頭にある髪飾り――――と呼ぶにはいささか武骨で何処か艦橋のように見えた。

 

 

 そんな二人―――女性の方が少女の後ろに立ち、その背中を小突いている。小突かれた少女は『嫌悪』をこれでもかと表現したもの凄い表情を浮かべ、そのまま俺に向けてきた。

 

 

 

 

「…………先ほどは蹴り倒して、砲門を向けて、砲撃しかけてしまい、申し訳ありませんでした」

 

 

 そう、不満げバリバリの声色でそう溢し、渋々頭を下げた。その後、後ろに立つ女性が「これで勘弁して、ね?」と言いたげに手を合わせてきた。

 

 

 そこでほんの一瞬沈黙が流れる。そしてその沈黙はすぐに終わった。

 

 

 

「はぁ……ようこそいらっしゃいました、柊木(ひいらぎ)中佐」

 

 

 

 そう言って俺が『中佐』に手を差し出し、『中佐』―――――柊木中佐は笑顔を浮かべて手を取った。

 



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中佐の『紅葉狩り』

「呉駐屯軍所属、第二四鎮守府を任されている柊木(ひいらぎ) (つかさ)だ」

 

 

 応接室で快活な声とともに完璧な敬礼をこなし、目の前に立つ加賀たちに自己紹介をする柊木中佐。

 

 

「階級は中佐、軍歴は十年ほどか? 年齢は三十六歳、三十路を超えたところだ。趣味は釣りと食べること、好きなものは肉だ。旨い肉があったら是非教えてくれ!! あと―――」

 

「ちょっと中佐ぁ? 先に言うことあるでしょ?」

 

 

 自慢げに自身のことを語る柊木中佐を押しのけながら、一人の女性――――聞き覚えのある声の主が前に進み出る。

 

 

「先ほどはとんだご無礼をいたしました。私、伊勢型航空戦艦 一番艦の伊勢と申します。そして……ほら、さっさと出る」

 

「……うぅ」

 

 

 これまた快活な笑顔で自己紹介した伊勢はもう一人――――先ほど俺に襲い掛かった少女を無理やり前に押し出す。その強引さに渋い顔を浮かべつつ、少女は俺たちに向き直った。

 

 

「……扶桑型航空戦艦、二番艦……山城です……」

 

 

 自己紹介を、というかその途中から顔を背け、最後にはそっぽを向きながら言い切る。その様子に傍らの伊勢が「あんたねぇ~」と言いながらその頭をぐりぐりとなで回すも、それ以上は何も言わないと言いたげにふんと鼻を鳴らすだけだった。

 

 

 

「よし!! というわけで今後のことだが」

 

「いやいやいやストップストップストップ」

 

 

 自己紹介は終わったとばかりに話し始めた柊木中佐の言葉を曙が制す。彼女は前に進み出て柊木中佐の前へ、と思ったら通り過ぎ俺の前に立つと中佐たちへ向き直った。

 

 

「そんなこと聞きたいわけじゃないの? まず聞きたいのは、あんたたちの関係……なんで会って早々うちの提督(バカ)はそこのチビに押し倒されて砲口を向けられたの? そしてそれを悪びれもせずあんな謝罪で済ませてるの? それになんであんたもそれを許してんのよ!!!!」

 

 

 最初は問いかけるような声調であったが、段々と荒々しくなっていく。というか、俺に向けられた瞬間荒くなったんだけど。前に向けた顔もいつの間にか(こっち)に向いてるし。

 

 

「まぁ、その、落ち着けよ……な?」

 

「はぁ!!? 落ち着けるわけないでしょうが!!!!」

 

「ま……まぁまぁ」

 

「落ち着けるわけないでしょ?」

 

 

 さらにヒートアップする曙を抑える俺に、後ろから少し不機嫌そうな顔の加賀が口を挟んでくる。

 

 

「貴方が襲われたのよ? 貴方傘下の私たちにとってトップが襲われたの。曙や私、そして他の皆もそれ相応の説明を受けないと納得しないわ」

 

 

 加賀の言葉に、俺は今にも中佐に噛み付かんとする曙を抑えつつ、俺は後ろの――――加賀以下うちの艦娘たちを見る。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 そこにいたのは先ほどと同じ、いやそれよりも鋭い目つきをしたうちの艦娘だった。

 

 というかあの、その『鋭い目つき』っていうか、もう殺意が―――――

 

 

「で、弁明(・・)はありますか?」

 

「オーケーオーケー、説明しよう!!」

 

 

 その代表とでも言いたげに大淀が質問を向けると、柊木中佐がわざとらしく声を上げて前に進み出る。その姿にうちの艦娘は相も変わらず、あっちの艦娘は苦笑い&渋い顔だ。

 

 

 まぁ、そうだよなぁ……

 

 

「柊木中佐、ここは俺が―――」

 

「阿呆か紅葉坊、ここは俺から言わなきゃダメだろう」

 

「それ」

 

 

 俺と中佐のやり取りに口を挟んだのは今まで沈黙を保っていた夕立だ。その目は周りと同じく鋭い……というか殺意の塊みたいになっている。てか、いつもの緑色の瞳から深紅の瞳になっていた。

 

 

「その『紅葉坊』っての、やめてくれない? 夕立の提督(・・・・・)、バカにしてるっぽい?」

 

「っ、くははははは!!!! いやぁすまないすまない。少し、嬉しく(・・・)てなぁ」

 

「……嬉しいっぽい? そうなの?」

 

 

 柊木中佐の言葉に夕立はあれほど殺意を発していた雰囲気を一変させ、可愛らしくで首を傾げた。しかし他のメンツは変わらず、警戒を解く気はないようだ。

 

 

「そりゃそうだろ!! 昔面倒を見ていた坊主が、こんなに立派になったんだからなぁ!!」

 

「ちょ痛っ、い、痛いって……聞いてんのかつかさ(・・・)ぁ!!」

 

 

 そう言って柊木中佐は俺の肩をバシバシと叩き、その痛みがシャレにならなくなったので声を荒げてその手を払いのける。

 

 

 その際、思わず『つかさ(言い慣れた名前)』を言ってしまった。

 

 

 気づいたとき、横の柊木中佐――――もとい『つかさ』はきょとんとした顔をしていた。だがそれはすぐにいたずらっぽい笑み、俺にとっては悪魔の微笑み(・・・・・・)といえるそれを浮かべる。

 

 

 だが、それも横から現れた黒くて柔らかいものに遮られる。

 

 

「やった!! やっぱり覚えててくれた!! も~メーちゃんったら、忘れたんじゃないかって心配したよぉ~」

 

 

 先ほど渋い顔の山城やつかさを窘めていた艦娘、伊勢が勢いよく抱き着いてきたのだ。俺の目や鼻、口は真っ黒な、そして柔らかいものに覆われる。

 

 

「ちょ、い、伊勢さ――――伊勢ねえ(・・・・)!! く、苦し……」

 

「あ、やっと言ってくれた!! そうそう、貴方の大好きな伊勢ねえですよ~」

 

 

 伊勢ねえ(・・・・)の胸の中でもがく俺を、彼女はそう言いながら頭をなでてくる。ちょ、ほんとに死ぬ、窒息死する、冗談抜きで、ほんと!!

 

 

「……で、貴方たちの関係なのですが」

 

「おう、話せば長くなるが、まぁ聞いてくれや」

 

 

 そんな俺たちを無視して大淀たちは話を続ける。いや、助けて!! 死んじゃう、死んじゃうから!! 貴女の提督さんが死んじゃうって!!

 

 

「た、たすけ……」

 

「ハッ、この気配は!!!!」

 

 

 そんな俺の悲鳴をかき消したのは、今まで渋い顔で黙っていた山城だ。彼女は何か電波を受信したようにバッと顔を廊下に向け、いきなり走り出した。

 

 そして廊下に出る手前で大きく踏み込み、そのまま前方へダイブしたのだ。

 

 

「提督、昨日の報告――――」

 

「姉ぇぇえええええさまぁぁぁああああああああああああ!!!!!!!」

 

 

 

 ちょうどその時、廊下から執務室に入ろうとした艦娘―――――扶桑と出合い頭にぶつかった。ぶつかったというか扶桑の胸めがけて山城が抱き着き、それを扶桑が少し体勢を崩したぐらいでやすやすと抱き留めたのだが。

 

 

「っと、あら山城? 来てたの?」

 

「姉さまぁ姉さまぁ、姉さまぁ姉さまぁ~!!」

 

 

 いきなり抱き着かれたとは思わないほど驚いた様子がない扶桑と、聞こえていないのだろうか『姉さま』と連呼しながらその胸に顔をぐりぐりする山城。

 

 

 

 あぁ、もう、なんかもう、その―――――

 

 

 

「話を進めさせろぉ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

「ってなわけで、ようやく落ち着いて話ができるわけだ」

 

 

 俺の悲鳴に騒いでいた一同はおとなしくなりそのまま机を挟み向き合った時、つかさがため息をこぼしながらそう言う。いや、大体脱線させてたのお前だよな?って言いたくなるのを我慢する。

 

 ちなみに山城に捕捉された扶桑は彼女を胸に抱えたままつかさの横に座っている。そして山城は今も扶桑の胸にぐりぐりしている。それとさっきの言動――――彼女と伊勢ねえのものだ。

 

 

 あぁ、そういうことね……

 

 

「さて、まず俺たちの関係性だな。簡単に言うと、昔こいつをうちで匿っていた(・・・・・)。そして俺の伝手を使って士官学校に入学させた。つまるところ、楓が提督になれたのは俺のおかげってわけ」

 

「か、匿っていた?」

 

「それは……」

 

 

 大淀が引っ掛かった言葉を問い、それにつかさは言葉を濁して俺に視線を向けた。その目には、話していいか? という意思が感じられた。俺の過去(この話)を知っているのって、加賀だけだもんな。

 

 

「中佐、それは俺から」

 

 

 それを受けて俺はつかさからバトンをもらう。そして匿っていたという言葉の真意――――俺の身の丈話を話した。

 

 

 母さんが艦娘であったこと、自分が住んでいた村が深海棲艦に襲われたこと、その襲撃で母さんを失ったこと、自覚はなかったが村ぐるみで脱税に加担していたこと、その罪で俺たちを連行しにきた艦娘――――不知火に提督になりたいと志願したこと。

 

 正直、脱税の件は話さなくてもいいと思う。それを話し始めたときにつかさが割り込もうとしてきたし。だけど『匿っていた』なんて言った時点で俺が何かやらかしたって察するやつもいるし、何より今までいろんな奴の過去(・・)を暴いてきた。

 

 

 その見返り(・・・)として、いつかは話さなければいけないことだ。

 

 話し終わるとやはり沈黙が流れる――――かに、思われた。

 

 

 

「ふーん、で? その後は?」

 

 

 俺が話し終わると同時に、そう曙がそう言った。それに俺は思わず彼女たちを見る。予想では、冷たい視線に晒されていると思っていた。

 

 

 が、そこにあったのはいつもと変わらない表情の曙たちだった。

 

 

「ん、どうしたの?」

 

「いや、な、なんか言われるかと……」

 

「はぁ? なんで? そんなの関係ないじゃん」

 

 

 

 俺の問いに曙がバッサリ切り捨てる。それに呆けた顔になる俺に、彼女は至極当然のようにこう言った。

 

 

「あんたが無自覚にも脱税に手を染めて、そして裁かれずに放置されている『犯罪者』だって言うなら、私たちだって大本営に反旗を翻した『犯罪者』よ? 周りがどうこういうのはいいとして、犯罪者(私たち)の中で罵り合うなんてみっともないわ」

 

 

 曙の言葉に周りのみんなが無言でうなずく。そして強い意志を持った目で俺を見てくるのだ。

 

 

「それに所詮(・・)は過去のこと。その時のあんたを私は知らないし、過去の私たちをあんたは知らなかった(・・・・・・)。そしてあんたはそれを知った上で何か変わった? 私たちを敬遠した? 疎んだ? 少なくとも、私たちは『特に変わらなかった』って思っているわよ。あと、こうも教えてくれたわね」

 

 

 そこで言葉を切った曙は俺を、そしてつかさ達を見回してこう言った。

 

 

 

「『前を見て、一歩踏み出そう』って」

 

 

 堂々と、はっきりと、一寸の狂いもない真っ直ぐな目でそう言い放った曙。それを向けられたつかさ、伊勢ねえ、扶桑は呆けた顔になる。扶桑に抱き着いていた山城もまた、動きを止めた。

 

 

 

「なるほど、良い()だ」

 

 

 ぽつりと、つかさがそう漏らした。その言葉を受け、伊勢ねえが頷きながら俺に視線を向ける。その目が懐かしく、そこに込められた意味を受け取った。

 

 

 

 『良かったね』、と。

 

 

 

「さて、では話そうか」

 

 

 そう言って、つかさは話し始めた。

 

 

 俺がつかさと出会ったとき、奴は海軍内で新進気鋭と謳われ始めたころだ。的確な指示と柔軟な戦略を立案し、また当時としては非常に珍しい艦娘との関係も良好な提督だった。

 

 いまだに軍では『艦娘=兵器』という思想を持っているが、奴は士官学校時からそこに疑問を持っていた。それは俺みたいに『艦娘=人間』だという正反対な思想ではなく、あくまで鎮守府運営に関してその思想は効率が悪い(・・・・・)というものだ。

 

 大本営の兵器であるという言い分も容認しており、あんな人間離れした存在を『人間』と扱うのは間違いだと思っている。だが元が人間である艦娘を運用するなら、兵器だと断ずるよりも人間として接し良好な関係を保つのがいい。

 

 奴の考えは『艦娘=兵士』だ。平時は人間と同じように接するも、有事には『兵器』として容赦なく扱う。もちろん功績を挙げれば褒め称え、逆に失態は脱兎のごとく叱りつける。時には拳も振るったが、それは度を越えない範囲であり、受けた艦娘側も納得のいく範囲にとどめた。

 

 

 正しく、奴は鎮守府を良く(・・)回していた。

 

 

 だが当時としてその思想は少数派であり、多くは大本営の意に従い『兵器』として扱っていた。そして運用方法も非効率極まるものばかり。奴としてもこのままでは内部崩壊を招きかねないと危惧していた。

 

 しかし、新規精鋭と謂えども一士官とその傘下にいる艦娘たちだけ。総勢力の1%にも満たない自分たちが何か言っても黙殺される、最悪の場合は大本営から反乱分子として粛清しかねない。

 

 故に奴は実績を重ねて続けることで影響力を付け、先の未来で自分たちのやり方が浸透していくのを待つことにしたのだ。

 

 

 そこに転がり込んできたのが艦娘の母を持ち、妖精の姿を目視できる俺だ。

 

 

 話が変わるが、提督としての資質の中に必須条件(・・・・)はない。

 

 当時として艦娘とそれを率いる提督は枯渇しており、しかも早急に数をそろえる必要があった。そして艦娘に関しては艦を宿る依代であるかという難関な条件があるものの、提督に関してはただ艦娘を率いるだけなので特別な条件はない。仮に経験ゼロでも受けれたのだ。

 

 だが、受けれるだけで『士官』として合格するのは極端に難しい。大体が士官から弾かれ、弾かれたものは施設建築や兵站業務などの後方部隊に回される。それは艦娘が出現する前に多くの人間、特に若者が戦死してしまった背景があり、これ以上国力の低下を抑えるための国策ともいえる。

 

 

 そして、提督の資質の中に必須条件がないが推奨条件(・・・・)はある。

 

 

 それは文字通り、知識と経験である。戦術、戦略に関する知識。戦闘の経験、特に隊や軍を率いた経験は特に厚遇された。だがその中でも特に、最も優遇された条件というもの。

 

 

 それこそ『妖精の姿が見えること』である。

 

 

 これは艦娘の素質を持つ女性の家族が該当する。特に艦娘の母親を持つ息子、艦娘の姉妹を持つ兄弟、艦娘の娘を持つ父親がそうだ。

 

 またこの妖精という存在はいまだに謎が多い。分かっているのは艦娘のそばに常に存在し、彼女たちが離れればいつの間にか消えてしまう。まるで艦娘のために存在しているかのように。

 

 そしてそんな妖精が見える者は、総じて艦娘の掌握が上手い(・・・)。それも、『兵器』として扱ってもだ。その理由は未だに分からないが、事実として周知されているのだ。ゆえに、大本営の思想が払しょくされずにまかり通っていると言える。

 

 

 そんな提督として優遇されうる資質を持ち、艦娘を『兵器』と断じない存在()。奴にとってこれほど都合のいい存在はいないだろう。

 

 

 そんなわけで不知火の仲介を得て俺は奴の鎮守府に転がり込んだ。

 

 本来なら他の村人とともに連行されるはずであったが、つかさが俺の資質を報告すると上は手のひらを返して歓迎してきた。そして奴の下である程度知識を固めた後、士官学校への特別枠で入学を許可されたのだ。

 

 ま、軍もボランティアじゃないためそれ相応の資金を要求され、それを父さんに工面してもらったわけだ。てか、そういえば―――

 

 

 

「父さんは?」

 

「今は第二四鎮守府(うち)傘下の民間企業でバリバリ働いているから、まず安全だ。確か、お前のことを相当気にかけていたはずが……お前ろくに連絡とってないだろ? 渡してやるから、あとで手紙書いとけ」

 

 

 つかさから父さんの安否を知り安堵の息を漏らす。元気そうでなによりだが、確かに卒業以降全く連絡を取っていなかったなぁ。なんか書こう。

 

 

「さて、ここまでが俺と楓の関係だ。何か質問は?」

 

 

 つかさが一息つきながらコーヒー―――先程大淀が人数分淹れた―――を一口すする。長々と話したせいだと思われるが、奴自身は特に疲れた様子もない。

 

 そしてその問いに誰も声を挙げなかった。いや、挙げなかったというか続きを催促しているようにも見える。彼女たちにとって提督の素質(それ)は何となく聞き及んでいた話だからだろうか、もしくは聞きたいのは()の話だからだろうか。

 

 

 

「……大丈夫そうだな、では次の話だが―――」

 

「はーい、提督ぅ!!」

 

 

 次を話し始めようとするつかさを、伊勢ねえが大げさに手を挙げて遮る。ようやく聞きたい話が回ってきたのに遮られたせいか、うちの艦娘たちの顔が曇る。しかし伊勢ねえは無視して話し始めた。

 

 

「その話、私からしていい? 多分、私の方が貴女たちが聞きたいことに答えられると思うし」

 

「む、そうか? じゃあ、頼む」

 

 

 伊勢ねえの言葉に、つかさは少し考えながらもその席を譲った。それに満面の笑みで受け取った伊勢ねえは、改めて曙以下うちの艦娘たちに向き直った。

 

 

「改めまして……というか改め過ぎてもう訳わかんないけど、ともかく伊勢です!! 柊木提督の秘書艦やってます!! メーちゃん(・・・・・)がうちに居たとき、主に『教育係兼お姉ちゃん』をやってました。そして……」

 

 

 そこで言葉を切った伊勢ねえは俺に近づき、肩に手を回してきた。

 

 

「ちなみに、私が『メーちゃん』っていうのは、楓の木からとれるメー(・・)プルシロップから!! 可愛いでしょ? そしてうちの提督は『楓=紅葉』って短絡思考で『紅葉の男の子』、つまり『紅葉坊』ってことです」

 

「おい、短絡思考とか言うな」

 

 

 横からの突っ込みを無視して伊勢ねえは曙たちに、特に夕立に向けて語る。それを受けて、夕立は合点がいったような顔になった。決して、その口から「美味しそう」と漏れたとか知りませんから。

 

 

「まぁ私とメーちゃんの関係は『お姉ちゃんと危なっかしい弟』みたいな感じね。ほら、この子どんなに危険だろうとかまわず突っ込んでいくでしょ? それに悩みとか全然言わないし、手助けも求めない。ほんと、危なっかしいったらありゃしない」

 

 

 俺の頭をぺしぺし叩きながら伊勢ねえは失礼なことを言う。本人目の前にしていくことじゃないだろう、そしてうちの艦娘(お前たち)よ、なぜ全員目をつむって深く頷いているんだ。

 

 

「そしてこっちのちっこいのが山城です!! こんな姿(ナリ)ですが、一応最年少(・・・)戦艦適合者です。パッと見で駆逐艦、良くて軽巡洋艦ですがれっきとした戦艦娘。しかも艦載機を発艦できる戦艦――――航空戦艦でもあります!! ちなみに私も航空戦艦ですが、艦載機の扱いは彼女の足元にも及ばないんですよねぇ……まさに神童といっても良いかも。ただ――」

 

 

 そこで言葉を切った伊勢ねぇは俺から離れ、今なお扶桑の胸に顔を押し付けている神童(山城)の首根っこをつかんで引きはがした。

 

 

「な!? 何するの伊勢!! せっかく姉さまのぬくもりを堪能しちぇ!?」

 

「こーのーよーうーにー、目上の人に敬語を使わない暴言しか吐かない傍若無人で礼儀を弁えないじゃじゃ馬娘ですが、決して悪い子ではありません!! そちらの扶桑さんとは実の姉妹らしく……その、ちょこっと(・・・・・)お姉さんへの熱意が激しいだけなんですよぉ」

 

 

 叫ぶ山城のほっぺを片手で抑え込みながら伊勢ねぇが弁面、というかフォローを、もうフォローすらできてない謎な説明をしている。その姿はまさしく飼い主とその手の中で暴れる猫そのものだ。

 

 

 そして彼女の話、というかそれ以前の彼女の様子を見て何となく察していたが……

 

 

「そして先ほどメーちゃん、いえ明原提督に砲を向けたのはそういった事情がありまして……」

 

「ぶっは、だ、だって伊勢!! こいつがここの艦娘に手を出したくそ野郎なんでしょ!!!! つまり姉さまにも手を出したってころでしょ!!!!!! ゆ、許すまじ!! 姉さまの柔肌を目に入れて触れて舐め回した大罪!!!! 決して、決ッして許さないわよくそ提督がぁぁああああああああ!!!!!!!」

 

 

 ……つまり、山城は此処の過去について、そして現在そこに実姉である扶桑がいることを知って、提督()が愛する扶桑(姉さま)に手を出して、さらにはひどいことをしていると思っていたわけか。

 

 うん、まぁ、ここまで取り乱す人にそんな情報を与えたらこうもなるか。そして、それを与えたのがクソ提督(つかさ)ってこともなぁ!!!!

 

 

「人間、ああなったらお終いねぇ……」

 

 

 ぽつりと、その様子を見ていた曙が漏らす。その言葉に彼女の周りにいた何人かが彼女にジト目を向け、そして何人かは視線を逸らした。

 

 前者は俺と同じ、『いや、貴女もクソ提督(同じ言葉)言ってるじゃないですか……』という顔、後者は身に覚えがありすぎて耳が痛いんだろうな。

 

 

「さてさて、とまぁこんな感じで誤解も解けたところで、改めましてお礼を。メーちゃんにあなた達のような艦娘()がついてきてくれて本当に良かったです。今までありがとうございました!!」

 

「い、いえいえ!! 私たちこそ提督に多大な迷惑をおかけしていますから……へ?」

 

 

 

 伊勢ねぇの言葉に大淀がそう言葉を返す――――その途中で何かに引っかかった。それは彼女を含め、うちの艦娘全員が怪訝な顔になる。

 

 

 

 

今まで(・・・)、って。どういうことかしら?」

 

 

 

 その引っ掛かった言葉を口にしたのは加賀だ。先ほどよりも鋭い視線を伊勢ねぇに向けている。それに対して、伊勢ねぇは特に反応することなくにこっと笑うだけ。答える様子はない。

 

 

「あ、それに関しては俺から。というかやっと本題に移れるぞぉ……」

 

 

 そこに口を挟んだのはつかさ。それは嘆息とともにこぼれた。というか本題? ん? 今回はただ会いに来ただけじゃないの? 何しに来たの?

 

 

「今回来たのは紅葉坊の様子見もあるが、本来の目的はお前からの引き継ぎ(・・・・)だ。早急に準備してくれ」

 

「へ、何の?」

 

 

 俺の言葉につかさは呆れ顔で懐から一枚の封筒を取り出し、俺に差し出した。

 

 

「理由はこれ、読んでみ」

 

「は、はぁ……」

 

 

 つかさから封筒を受け取り、中身に目を通す。

 

 

 差出人は大本営。

 

 内容は。昨今の深海棲艦勢力増強に伴い迅速な作戦行動の強化と複雑な情報網の整理を行うため、単体では大した戦力を有さない鎮守府同士を統合、あるいはより大きな鎮守府に吸収させる、というものだ。

 

 それに伴いつかさの鎮守府は以下に記された鎮守府を吸収せよとの命が書かれていた。

 

 

 そしてその下、吸収される(・・・)鎮守府の一覧。

 

 

 そこにうちの鎮守府が記されていたのだ。

 

 

 

「まぁ、その、なんだ。つまり―――」

 

 

 つかさの声とともに肩に手を置かれる。顔を上げると、満面の笑みを浮かべた奴がいて、そのままこう続けた。

 

 

「お前、クビだってさ」



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狩られた『紅葉』

「はぁ!? ふ、ふざけんじゃないわよ!!!!!」

 

 

 その宣言に、曙が大声を上げた。

 

 それに続けと夕立が今にも飛び掛からんばかりに身構え、それを榛名が何とか羽交い絞めにする。

 

 その横で加賀が思わず立ち上がろうとして体勢を崩し、それを大淀が慌てて支える。

 

 そして、その様子を笑みを浮かべたまま見守る伊勢ねぇ、冷めた目で見る山城、そして感情が読めないつかさだ。

 

 

 とにかく、執務室は一気に喧騒に包まれた。

 

 

「ッぽい!!」

 

「あ、ダメぇ!!」

 

 

 

 そして榛名の羽交い絞めを抜け出した夕立がつかさに迫り、握り拳を振り上げた。

 

 

 

 

「伊勢」

 

 

 それを前に奴は一言、艦娘の名を呼んだ。

 

 それで、夕立の動きが止まる。同時に、水を打ったように他の奴らの喧騒も止められた(・・・・・)

 

 何故なら、止まった夕立の喉に冷たく光る切っ先(・・・)―――――それは彼女とつかさの間。

 

 

 そこで先ほど鞘に納まっていたはずの日本刀を手にした、名前を呼ばれた艦娘がいた。

 

 先ほどの快活な人とは思えないほど、冷え切った目をして。

 

 

 

「はい、ストップぅ~」

 

 

 だが、すぐに彼女は快活な笑顔に戻し、声色も元に戻る。だが、夕立に向ける切っ先は微動だにしない。

 

 次に夕立が後方に飛び、その範囲から外れる。だが、それでも彼女は切っ先を夕立、その後ろにいる俺たちに向ける。夕立の動きに合わせて、一切ブレることなくだ。

 

 

「ほら、その言い方はこうなる(・・・・)って言ったじゃん。ほんと、もうちょっと思慮深い行動を慎んでよ」

 

「は? お前がこう言え(・・・・)って言ったんだろうが……ともかく、そういうことだ」

 

 

 物騒なものを向けているにもかかわらず何処かわざとらしい二人のやり取りに、うちの艦娘たちの思考はようやく回り始めたのだろう。

 

 

「だッ、ばッ、せ、説明して!!!!」

 

 

 おそらく最初に考えがまとまったのだろう―――というか全てが不明すぎるためにこの質問しかないのだが、曙が声を上げた。

 

 

 

 

「あぁ、説明しよう。だが、先ず落ち着いてくれ」

 

 

 その言葉につかさはこう返した。だが、その声色は先ほどの明るいものはなく、淡々とした事務的な口調になった。

 

 そんな彼の変わりよう、そして今なお向けられる刀の冷たさは、曙たちの気勢を削ぐのに時間がかからなかった。

 

 

 やがて、奴は語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 ソレ(・・)は『空母棲鬼』と命名された。

 

 

 初出(・・)はここからはるか遠くの海。その近海にある鎮守府の哨戒部隊が発見した。

 

 

 当時のそれは艦隊の存在を認知しないままふらふらと航行していたらしく、哨戒部隊の出した艦載機を発見したところで一目散に逃げて行ったそうだ。

 

 哨戒部隊は駆逐艦3隻と軽巡洋艦1隻の小さな艦隊であるため、『空母』の名を持つそれなら艦載機の一団でもよこしてもおかしくはないはず。だが、それは攻撃するそぶりも見せず逃げて行った。

 

 それに認知された艦載機から無線を通して、まるで泣きわめく子供のような声が聞こえてきたとか。

 

 

 哨戒部隊はその旨を提督、そこから上官を通して大本営に報告。当初は水雷戦隊に怯えて逃げて行ったことから脅威にあらずという見解がなされる。

 

 またそれと同種と思われる『北方棲姫』が一定海域に入らない限り攻撃することがなかったことを踏まえ、それも同じであろうと断定。その後特に調査もされずに放置された。

 

 

 その後、何件かそれを発見したと報告があった。だが、そのどれもこれも撤退した、逃げ帰った、護衛(・・)の僚艦を見捨てて逃げ帰ったなどなど。さらにこちらから危害を加えなければ反撃をしてこないなど、当初はそれほど脅威に映らなかった。

 

 そんな報告がちらほらあり、やがてその存在も他の深海棲艦と変わらないだろうという認識が定着し始めたころ。

 

 

 とある鎮守府が潰滅(かいめつ)した。

 

 

 経営破綻でもなく、艦娘の蜂起でもなく、言葉通りの『()』れて『(ほろ)』ぼされた。

 

 さらに潰滅した鎮守府周辺にあった鎮守府も同じ末路を辿った。

 

 

 いわば鎮守府()が潰滅したのだ。

 

 

 極めつけはこの2つの情報がもたらされたのは同時。

 

 つまり僅か数日(・・)のうちに複数の鎮守府が落とされた。

 

 

 そしてその情報を持ってきたのは一人の艦娘―――――複数ある鎮守府に所属していた唯一(・・)の生き残りだ。

 

 彼女の話によると事が起きる前、最初に潰滅した鎮守府から遭難者と思われる少女を保護したとの一報があった。

 

 そしてもはや恒例となっていた『ソレ』の報告。いつも通りこちらの哨戒に気づくとそそくさと逃げて行った。

 

 だけど哨戒に引っかかるまで、『ソレ』はずっと目を閉じて佇んでいたという。

 

 

 それを境に、その鎮守府からの交信が途絶えた。

 

 さらに、様子を見に派遣した艦隊とも通信が途絶えた。

 

 やがて、昨日まで湯水のように現れていた深海棲艦たちがぱったりと姿を消した。

 

 同時に近海を回遊していた魚類も、気持ちよさそうに飛んでいた海鳥などの姿も。

 

 

 数日間、海は沈黙(・・)し続けた。

 

 

 そして『ソレ』は現れた――――――文字通り、『鬼』となって。

 

 

 彼女の記憶は()色に塗り潰された。

 

 

 一つは『黒』

 

 黒煙、黒雲、破壊つくされた瓦礫の山、空を覆いつくさんばかりの黒い蝿、そこから雨のように降り注ぐ黒弾や機銃掃射、あれほど青かった海を覆う漂う重油、それを踏みしめ海を埋め尽くす黒い船体、うめき声をあげる炎に捲かれて真っ黒になった者、やがて動かなくなった者だった(・・・)モノ。

 

 

 もう一つは『赤』

 

 慣れ親しんだ鎮守府を灰燼に帰す大炎、逃げ惑う者の悲鳴、怒号、絶叫、黒い船体から光る赤い閃光、爆発炎上する工廠、食堂、宿舎、砲撃を受け、掃射を受け飛び散る赤い液体やそれをまとう肉塊、重油を足掛かりに『モノ』も『者』も関係なく悉くを燃やし尽くしていく()()()

 

 

 

 その中で一際、(あか)るく、(あか)るく、(あか)るく光る―――――

 

 

 

 『深紅』の瞳を携え、(いつく)しむ様にほほ笑む『(ソレ)』だった。

 

 

 

 

「……そして『ソレ』――――空母棲鬼は今までの評価を覆し、大本営()が最も備えるすべき『敵』となった。それも北方棲姫と違って航行能力を有しており、いつ本土に乗り込んできてもおかしくはない強敵とな。そして、今回其方が報告した『姫級』とやらは空母棲鬼(ソレ)と思われる。もしくはそれ以上の脅威を持つ新しい敵―――の、可能性も示唆される」

 

 

 つかさはそこで一息つく。話を聞いていたうちの艦娘たちは、誰一人として声を上げない。

 

 恐らくその話を聞いて、今しがた自分たちが置かれている立場――――鎮守府群を滅ぼした正体不明の敵に襲撃される可能性が最も高いということを自覚したからだ。

 

 

「故に、同じ二の轍を踏まないように各鎮守府の戦力強化及び連携の簡略化を推し進めることになった。内容は貴官の提督に渡した封筒―――辞令(・・)にあるように、この地域にある鎮守府をある程度の数になるまで統合する。場所によっては解体されるかもだが、基本的には代表鎮守府の中に傘下に納まる形になるだろう」

 

「つまりあなた達にここを去れって言ってるわけじゃないの。だから、安心してね」

 

 

 その言葉に付随するように伊勢ねぇが笑いかける。いつの間にか向けていた日本刀が鞘に戻っていた。

 

 

「そのため、貴官たちは此処から動く可能性はないと考えてもらっていい。ただ明原提督が俺に代わるだけだ。俺の下で、引き続き各自の任務に努めてもらいたい」

 

「変わる必要があるのでしょうか?」

 

 

 つかさの言葉に、今まで黙り込んでいた加賀が声を上げる。つかさは彼女に冷たい視線を向け、同様に加賀もまた彼に同じ視線を向ける。

 

 

「私たちが此処に居てもいいなら、提督も此処に居てもいいのでは? この鎮守府の最高権力者という立場を中佐殿に譲渡し、現場の統括を提督に任せる。いわば現場監督と考えていただければ分かりやすいかと」

 

「先の話にあった通り、ここは真っ先に狙われる。故に落ちる前提の捨て駒ではなく、難攻不落の牙城でなければならない。侵攻があればすぐさま情報を飛ばし、そして援軍が来るまで何としても耐え切ってもらわねば困るのだ。任期の浅い新米提督に任せるわけにはいかない、何より先の作戦で判断ミスをした(・・・・・・・)と報告を受けている。摘めるべき不安は摘むべきだ」

 

 

 加賀の提案を、つかさは一刀両断する。それを受けて加賀は横目で俺を睨んできたが、そのまま引き下がった。

 

 

「し、しかし提督は艦隊を指揮します。そこには円滑な意思疎通が不可欠、つまり互いの信頼が重要になります。急に上が変わると艦隊の指揮に影響が出るのでは……?」

 

「それ、今まで失踪させた提督たちに言ってあげてよ」

 

 

 次に声を上げたのは大淀。だが、間髪入れずに伊勢ねぇが食い掛ってきた。そう言葉を投げる彼女のめは、今まで見たことないほど冷たかった。故に、大淀もそれ以上声を上げることができなかった。

 

 

「……伊勢が言う通り、君たちは提督不在でも鎮守府を運営、死守(・・)してきた。理由はどうあれ、それ自体は非常に困難なことだ。だから、俺は此処に居てもらいたいと考えている。それこそ、君の言う現場監督を艦娘(君たち)の中から選出してもらってもいいぞ」

 

「お断りっぽい」

 

 つかさの発言に夕立は間を置かず否定する。そして、俺の腕に抱き着く。

 

 

 

 

「夕立の提督さんはあかは……ん? めいは……んん?? …………あ!! 『かえで』だけっぽい!!」

 

「せめて『さん』はつけような」

 

 

 夕立の発言にやんわり突っ込みを入れる。その瞬間、周りの空気が一気に緩んだ。その元凶である夕立は頭を撫でられて、気持ちよさそうにしている。ほんと、このワンコ。

 

 

「ッ、く、あーぁ、やめだやめだこんな空気。ガラじゃねぇ」

 

「あ、ずるい提督」

 

 

 先ほどの重い雰囲気を取っ払い身体を伸ばすつかさと、同じように伊勢ねぇも伸びをする。慣れないことするから……

 

 

「ま、かたっ苦しいのはもういいだろう。つまり、楓の下からそっくりそのまま俺に傘下に移るってことだ。基本はこっちに従ってもらうが、それ以外のやり方は今まで通りにしよう。気に入らなければさっきも言った通り、ある程度権限を譲渡する。どうだ、悪い話ではないだろ?」

 

 

 先ほどの冷徹な空気から一転、つかさは明るい声でみんなに笑いかける。言ってることは一緒だが、言い方や雰囲気一つでここまで変えられるものなのか、と感心してしまう。 

 

 ふと下からの視線に気づく。下を向くと夕立が黙って俺を見つめており、不満そうに頬を膨らませていた。

 

 

「提督は何処へ?」

 

「さぁ? 俺はここを引き継げってことしか聞いてない。何処かに飛ばされるんじゃねぇか?」

 

 

 加賀がさらに質問を――――何故か俺のことだ。それにつかさは首を傾げ、適当に返す。その話しぶりだと、本当にここを離れた先は決まっていないんだろうか。

 

 

 というか―――――

 

 

「なぁ、そんな気を遣わないでくれよ……」

 

 

 そこで、明原 楓()はようやく声を上げた。その言葉に、その場にいた全員の目が集まる。そこにあったものは様々であったが、好意的なものはなかった。

 

 

 

「つかさが言った通り、()が変わるだけ。皆いるんだよ。それに先の作戦で俺の采配で曙たちを危険に晒したことは事実だし、その空母棲鬼っていうのが滅茶苦茶危険な存在なら……なおさら新米の俺なんかよりもっと優秀な人がいるべきだろう」

 

「提督さんは、一緒に居たくないの?」

 

 

 俺の話を遮ったのは、下に居た夕立。いつの間に俺の腰に抱き着きながら、上目遣いでそう言ってきたのだ。

 

 

「違うんだ、夕立。俺は居たい居たくない以前に、『居ちゃダメ』だって上の人から言われている。今話すべきことは夕立たち皆が一緒に居れるかどうかなんだ」

 

「ぽい……」

 

 

 俺の言葉に、夕立はそう声を漏らして俯いた。お詫び(・・・)にその頭を撫でるも、すぐに振り払われてしまう。

 

 

「それにほら、中佐が言った通り皆が離れるわけじゃないんだからさ。指揮だってほぼ旗艦に丸投げしてたじゃんか。俺はただ書類と格闘してただけ、誰だってできることだ。だから、心配なんていらないよ」

 

 

「ねぇ」

 

 

 何とか説得しよう(・・・・・)としたら、またもや遮られた。それはうちの艦娘ではなく、いつの間にか傍に立っていた山城だ。

 

 彼女は先ほどのぶすっとした表情のまま、俺の袖をちょいちょいと引っ張ってくる。その意図が分からず、取り敢えず膝を折って彼女と同じ目線になる。

 

 

 

 次の瞬間、目の前にあったのは小さな手のひらだった。

 

 

 

 乾いた音が執務室に響く。俺の視線は誰もいない壁へ向けられ、じわじわと頬が熱を帯びる。ワンテンポ遅れて周りの息をのむ声が聞こえた。

 

 

 

 

「最低ね、あんた」

 

 

 

 次に聞こえたのは、そんな捨て台詞だ。

 

 

 

「さぁ姉様、こんなところに居ないで外に出ましょう? 山城、この日に備えて色々な話を用意してきたんです。さぁ、さぁ!!」

 

 

 視界の外で、山城は黄色に声を上げて扶桑を誘う。その声色は先ほど吐き捨てられた時から想像もできないほどに、元通りの声色だ。そのまま、彼女たちは出て行ったのだろう。ドアが閉まり、二つの足音が遠くなっていった。

 

 

 やがて、その音が聞こえなくなった。

 

 

 

 

「まーその、なんだ」

 

 

 そんな沈黙を破ったのはつかさだった。奴は頭を掻きながら申し訳なさそうに俺を、そして周りの皆を見た。

 

 

 

「急な話なのは分かっているし、まだ心の準備が整っていないのも重々承知だ。なので、今日から何日かここに滞在させてもらおうと思っている。これから一緒になるんだ、お互い腹を割って話せた方がいいだろう。明原提督は引継ぎの準備をしてもらいつつ、今後のことを話そう。そして艦娘()たちの相手は、これから彼女(・・)に引き継いでもらおう」

 

 

 つかさの言葉に、彼の後ろで待機していた一人の艦娘が立ち上がった。

 

 

 ピンク髪で横髪をおさげ風にまとめその額には白いハチマキが、水色のシャツの上にセーラー服を着て腰回りの露出したスカートのようなものを穿いている。その中で目を引くのが左肩と足に装甲のようなもの、そして背中側に大量のクレーンだ。そういったものを除けば、その制服は何処となく大淀のものに似ていた。

 

 活発な印象を与える大きな目をらんらんと輝かせて、彼女は前に進み出て俺の前、ひいては艦娘たちの前に立ち、白い歯を見せつけながら満面の笑みを受けべてこう言った。

 

 

 

 

「明石型工作艦 1番艦 明石と申します!! あなたを、魔改造しに来ました!!!!」



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欲張りな『提案』

本当にお待たせしました。


『練度』

 

 

 艦娘が一定の経験を積み上げて戦闘技術が上がっていくこと、艤装が持つ機能を最大限に扱えるようになることを意味する。艦娘自身の戦闘技術の成熟度、艦艇との同化率、艤装の稼働率などその他諸々を、総じて大本営では艦娘の『練度』と呼称している。

 

 しかし、いつしか艤装そのものが艦娘の練度に付いていけなくなる時が来る。その原因は、艤装の機能不足、そして経験を積む中で蓄積される艤装の摩耗劣化と言われているのだ。

 

 特に摩耗劣化については妖精や艦娘自身の整備では完全に止めることはできず、日々の戦闘でわずかにだが確実に進行していくことが確認されている。故に、ずっと同じ艤装で戦い続けることは不可能と言われているのだ。

 

 

 そんな艤装が艦娘の足を引っ張るようになった時に行われるのが『改造』である。

 

 

 普段行われる整備をより大規模にしたものであり、具体的には艤装の部品交換や新たな付属パーツの追加、兵装の交換、拡張などなど。端的に言えば艤装の大幅な強化であり、更に改造後は一律に艤装の性能が向上するだけでなく今まで摩耗した劣化がゼロ(・・)になる。つまり艤装という深海棲艦に対抗できる唯一の兵装をそのまま永続的に使用できるのだ。

 

 またとある艦娘は第一次、第二次と一度のみならず複数の改造が可能だ。それを経た艦娘はその艦名に『改二』を付け加えられることから、第二次改造は総じて『改二改造』と呼称される。

 

 同時に『改二改造』以降は姿かたちが確実(・・)に変わってしまうため、一部で()改造なんて呼ばれ方もしているとか。

 

 

 

「つまりあなた達の練度は既にその艤装を置いてけぼりにしちゃってて、下手したら死んじゃうからここで改造しておこうってわけ!!」

 

「……ご丁寧に説明どうも」

 

 

 自信たっぷりに説明する彼女―――『明石』と名乗る艦娘に、曙ちゃんはジト目でそう返した。

 

 

 

 ここは工廠に設けられた一室、整備室。

 

 

 食堂に劣るがそれなりに広いスペースには等間隔で複数の作業台が置かれ、壁には整備に必要な工具や重油が収納された大きな棚が隙間なく並んでいる。さらに天井には大きなクレーンが何基か備え付けられており、戦艦などの大型の艤装を吊るすことで整備作業の負担を軽減している。

 

 そんな普段は艤装の整備に勤しむ妖精や艦娘で賑わっているはずの整備室。

 

 

 だが、今日は違う。

 

 

 等間隔でおかれた作業台は全て脇に追いやられ、その代わりに部屋を半分に分ける白い幕が設けられている。その向こうは明石さんが引き連れてきた妖精たちが持ち込んだ様々なモノで溢れていることだろう。

 

 それを用意した妖精たちは彼女の足元をせわしなく行き交い、白幕とこちらを出入りしている。同時に白幕の向こうでは激しい金属音、打撃音、ジタバタもがく音(・・・・)、小さく籠った悲鳴(・・)、白幕にうっすら浮かぶ簡易ベッドに拘束(・・)された夕立ちゃんの影。

 

 

 

「どう見てもヤバい組織のヤバい改造手術じゃないの!!」

 

「だから、改造(そう)だって言ったじゃな~い」

 

 

 曙ちゃんの突っ込みに至極当然のように答える明石さん。というか、声を発することができるのが二人なだけ。

 

 ここには私を含めた多くの艦娘が改造待ちをしているのだが、その殆どが目の前で起きている状況にドン引きしてしまっているのだ。特に駆逐艦たちは顔を青くさせ、中には涙目を浮かべながら震えている子もいる。そんな子をあやす巡洋艦たちもまた、頬を引き攣らせている有様だ。

 

 

 

 

 どうしてこんな状況になっているのか、説明しよう。

 

 

 現在、私たちは柊木中佐が伴ってきた彼女――――明石型工作艦 1番艦 明石が主体となった弊鎮守府の戦力増強計画を受けている。

 

 

 理由は二つ。

 

 

 一つは先ほど彼女が述べた『練度』の関係。

 

 彼女曰く、私たちはこれまでの戦闘でほとんどの艦娘が改造目安である練度を軽く超えてしまっているらしい。このままでは艤装の性能を発揮できないことはおろか、下手すれば自身に余計な負担やリスクを背負わせることになる。それを避けるために適正な艤装、兵装に換装する必要があるのだとか。

 

 もう一つは柊木中佐陣営の戦力強化。

 

 書類上私たちは既に彼の陣営に組み込まれており、ゆくゆくはその指揮下に入る手はずになっている。彼から見ればもう私たちは自分の艦娘であり、自分の艦娘を強化するのは当然のことだとのこと。

 

 それを受けて柊木中佐、そして提督の賛同もあって私たちは整備室に集められ、順次改造を施されるのを待っているのだ。

 

 ちなみに改造にはある程度のまとまった資材、艦娘によってはそこに設計図や資料なども必要になるようだが、その辺りも用意しているようだ。その用意周到さから、確実に自分の傘下に納めようという心意気が見て取れた。

 

 

「ま、本来改造なんて練度が超えた順にコツコツ進めるものだからあんまり人目につかないんだけど、この大人数を一気にするなら大規模会場を用意してドカンと派手にやらないとね!!」

 

「前後半の流れが微塵も繋がってないんだけど……てか、なんであんたは白幕(あっち)側に居ないのよ!? 全部妖精任せなの!?」

 

「あー……えっと、工作艦 明石()って結構貴重な艦娘でして。それに改造は全艦娘にとって必須、毎日何十何百と改造が行われている。もし私しかできないってなったら私が過労s……じゃなくて、効率的に戦力増強できないじゃない。だから、改造自体は妖精さんだけでも可能になってるわけ」

 

 

 そう答えながら、明石さんは何処からか取り出した大きなレンチの口部分を肩にあててマッサージし始める。明らかに肩の肉を持っていかれそうな構図だが、「あ゛ぁ~」とおじさんみたいな声を出しながら恍惚の表情を浮かべる明石さんを見るによく日常的にやっているのだろう。

 

 

 

 うん、何というか。こう言っちゃうと、本当に失礼極まりないんですけど。

 

 

 

 そんなに大事な計画、明石さん(この人)に任せてはいけないと思います……

 

 

 

 そんな彼女の後ろでは、今も様々な音を立てながら夕立ちゃんの改造が進んでいく。先ほどにプラスでビリリという電流音やピーピーというアラーム―――警戒音(・・・)も聞こえてきた。

 

 

 ……いよいよ、大丈夫じゃないかもしれない。

 

 

 

「おぉぅと、これは……」

 

「ねぇ!! 大丈夫なの!! 明らかにヤバい音しかしてないんだけどぉ!!!!」

 

 

 そう声を漏らしながら、当てていたレンチを下した明石さんがふらりと立ち上がる。その姿に、焦りを通り越して泣きそうな顔の曙ちゃんが悲鳴じみた声を上げた。

 

 

 そんな彼女に、明石さんはにっこりと笑いかける。

 

 

「……さっきの話に戻るけど、私は改造自体に必要ないけどなるべく立ち会うことが望ましい(・・・・・・・・・・・)とされているの」

 

「い、いや!? そんなこ」

 

 

 唐突に曙ちゃんの言葉が途切れた。それはかき消されたからではない。()である。

 

 

 

 

 あれほどやかましく鳴り響いていた音が、一斉に止んだ(・・・)からだ。

 

 

 そしてそれは、その場にいた一同の視線が白幕に集中することを意味する。

 

 

 

 白幕には、簡易ベッドに横たわりピクリとも動かない人影があった。だが、それは目覚めたようにゆっくりと起き上がる。

 

 先ほど見た影よりも少々背が伸び。同様に髪も伸びてボリュームも増えている。同時に華奢であった肩回りも幾分かしっかりしており、明らかな身体的部分の強化(・・)が見て取れた。

 

 極めつけはその頭に現れた二つの大きな()。恐らくそれは増えた前髪が跳ねてそう見えるだけなのだが、その絶妙な位置と大きさに、どうしても垂れた犬耳(・・)と誤認されてしまうだろう。

 

 だが一つ、気になるのがその影を見る駆逐艦たちの視線が『とある装甲』に集まっていることだが。

 

 

 

「夕立ぃ!!」

 

 

 

 そんな中、一人の駆逐艦がその名を呼んで駆け出した。彼女は夕立ちゃんと仲が良かった子だ。先ほどの光景を目の当たりにした手前、彼女のことが心配で思わず駆け寄ったのだろう。

 

 

 その声に白幕の影は反応し、駆け寄ってくる彼女に顔を向け――――

 

 

 

 次の瞬間、白幕から飛び出して彼女に襲い掛かった(・・・・・・)

 

 

 

「え」

 

「グルァァアアアアアアア!!!!」

 

 

 駆け寄った彼女の呆けた声を、夕立ちゃんの唸り声がかき消す。突然のことに誰もが動けず床を勢いよく転がる二人を見ることしかできない。当の二人は激しく取っ組み合うも、あまりの衝撃で動揺してい彼女を夕立ちゃんが組み伏せ、馬乗り状態で拘束してしまった。

 

 

 

「ゆう……だち……?」

 

 

 顔に恐怖を浮かべながらも、彼女はその名を呼ぶ。しかし、今目の前にいるのは彼女の、いや私たちが知っている夕立ちゃんとは別物(・・)だ。

 

 目は真っ赤に染まり、今にも食い破らんばかりの鋭い犬歯をギラつかせ、荒い息を吐くその姿は――――

 

 

 正に、『狂犬』だ。

 

 

 

「おいたは」

 

 

 何処かともなく聞こえた、とても軽い声。

 

 

 それを発したのは、いつの間にか彼女たちの傍に立っていた明石さん。

 

 

 

 そんな彼女は今、手にしたレンチを大きく振りかぶっていた(・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 

「ダメよッと!!」

 

 

 その言葉とともに、彼女は思いっきりフルスイングする。それは夕立の横顔に迫り、勢いそのまま彼女を真横に叩き飛ばしたのだ。

 

 周りの艦娘から悲鳴が上がる。中には顔を覆っているものもいる。レンチがモロに入ったのだ、無事じゃすまない。下手すれば辺り一面血の海になりかねない。

 

 叩き飛ばされた夕立は空中で器用に身体を動かして着地する。レンチが入ったであろうその横顔は赤く腫れ上がっておらず、いつも通りの透き通るような白い肌だ。

 

 

 その目が、真っ赤な血のように毒々しく蠢いているのを除いて。

 

 

「直前で手で弾いたか……本能ってのは怖いねぇ」

 

 

 小さくつぶやく明石さんは手にしたレンチの口を調節している。その口を見ると、ついているはずの血痕がない。彼女はそのまま調節を続け、やがて完了したのか感覚を確かめるようにレンチを振るった。

 

 

 それを合図に、夕立ちゃんが再び動き出した。

 

 

 彼女は犬のように四足歩行で走り出し、勢いそのまま明石さんに飛び掛かる。そんな彼女に明石さんはレンチを持っていない手を握り、その顔めがけて思いっきり拳を突き出した。

 

 本来なら避けられないであろうそれを、夕立ちゃんは空中で上体を下げる荒業で避けた。拳を超えた先にあるのは、空振りした明石さんのがら空きの腹部のみ。

 

 

 獰猛な目を血走らせ、彼女はそこめがけて突進し、けたたましい唸り声を上げる。

 

 

「ウ――」

 

「でも」

 

 

 その中、聞こえたのは明石さんの声。その瞬間、彼女のもう片方の手―――――レンチを持つ手が現れ、突進する夕立ちゃんのうなじめがけて振り下ろされた。

 

 

 

 辺り一面に、ガーーーンという鈍い金属音が鳴り響く。

 

 

 それは硬直していた艦娘全員の耳に響き、無理やり再起動させることに事欠かなかった。誰しもが耳を抑えながら、音の下に目を向ける。

 

 

 そこには、明石さんが振り下ろしたレンチに首を挟まれぐったりしている夕立ちゃんの姿があった。

 

 

 

「夕立!!」

 

「ダメだよ」

 

 

 先ほどの駆逐艦が悲鳴じみた声を上げながら駆け寄るのを、明石さんは夕立ちゃんからレンチを離さずに制止する。そのまま膝を折り、ぐったりしている夕立の触診を始める。

 

 

「……改造っていうのは『もう一度艦を降ろす』――――所謂、艦との同化率をさらに高めることと同義なの。特に姿かたちが変わる『改二改造』なんかはその影響が強くて、こうして改造直後に一時的とはいえ人間性を失い暴走することがある。その場合は他の僚艦が対処するんだけど、日々をともに過ごす僚艦だと手荒なことが出来ずに後手に回っちゃって、結果余計な被害を生んでしまう恐れがある」

 

 

 夕立の触診をしながら、淡々と語る明石さん。その表情、その声色には先ほどの軽い雰囲気はなく、厳格な軍人としての彼女がそこに居た。

 

 

「そういった場合、対処法を熟知し容赦なく実行できる部隊が必要になるわけ。工作艦『明石』は修理、整備を専門とした艦だったから、艦の構造から特徴、性能、その弱点などあらゆる艦の情報を把握している。それら膨大な知識とその対処法も熟知しているから、こういった暴走しちゃう艦娘を無力化するにはうってつけってわけ。工作艦 明石()たちは、対艦娘用特殊部隊とでもいうべきかな? まぁ、イメージはそんな感じでいいか。まぁここ数年でも発見された報告はごくわずかで、今も絶賛増強中なんだけど……よし」

 

 

 長々と語り終え、最後に一言漏らした彼女はゆっくりと立ち上がり、ぐったりしている夕立の首からレンチを離した。その瞬間、先ほど釘を刺されていた駆逐艦が脱兎のごとく走りより夕立を抱き起す。

 

 

「特に目立った外傷なし、ある程度加減したけどレンチでぶっ叩かれているわけだから……軽い脳震盪は起こしているかな。少し安静にしていれば大丈夫大丈夫ぅ!!」

 

 

 そう語る明石さんは先ほどの軽い雰囲気に戻っている。何処か笑い飛ばすようにそう言うも、彼女に向けられる視線は冷ややかだった。

 

 

「あり? なんでそんな目で見るの?」

 

「いや……大丈夫じゃない状態にした人から言われても」

 

「なんで? 滅茶苦茶説得力あるでしょ? どんなに暴走してもこうやって無力化するから大丈夫(・・・)!!」

 

 

 いや、そっちの方が余計怖いです……という言葉をその場にいた全員が飲み込んだだろう。だが、彼女は次に笑顔のまま薄目を開け、声も少し低くさせながらこう言った。

 

 

 

「で、次は誰が行く?」

 

 

 

 その言葉に、私たちの背筋が凍る。夕立ちゃんの改造を見た後だ、誰しも自分があんな風になるなんて想像したくない。まして暴走で仲間を傷つけるなんてまっぴらごめんだ。

 

 

「あれ? 誰もいない? 彼女は真っ先に挙手したけど……」

 

 

 その光景に、明石さんは困ったように頬を掻く。明石さんが言う『彼女』とは、夕立ちゃんのことだ。

 

 

 彼女の言葉通り、夕立ちゃんは今回の改造計画。その記念すべきトップバッターに名乗り上げた。明石さんは嬉しそうに彼女を向かい入れ、何故名乗り上げたのかを聞いた。

 

 

 その時、彼女は真っ直ぐな目でこう宣言した。

 

 

 

 

『強くなりたい』

 

 

 

 たった一言。一言だけであったが、そこに彼女の思いがこれでもかというほど詰め込まれていた。その言葉に少し驚いた様子の明石さんが、更にその理由を聞いた。

 

 

 

『提督さんと夕立たちでもここを守れるって証明すれば、今の提督さんが何処かに行く必要がなくなるっぽい。だけど夕立、あんまり頭良くないから難しい作戦とか考えられないっぽい……だから、そのかわりにどんな作戦でも達成できるだけの力が――――『強さ』が欲しいの』

 

 

 そう言って、意気揚々と白幕の向こうに消えていったのだ。

 

 

 ―――――その後ろ姿、私にとって(・・・・・)目も眩むほど眩しかった。

 

 

 

「行くわ」

 

 

 

 そしてもう一人、名乗りを上げた艦娘が一人。

 

 曙ちゃんだ。

 

 

 

「おー、次はきみか。で、意気込みは?」

 

「はぁ? 無いわよそんなもの……ていうか、これって命令でしょ? さっさと改造しちゃえばいいじゃない」

 

「私もそうしたいところだけどうちの提督の意向でね? なるべく艦娘の意思を尊重するっていうか、『意思を確認したい』っていうの」

 

「はぁ……変な提督もいたものね。ま、うちのも大概変だけど」

 

「あ、そういう惚気良いんで。とっとと言っちゃってください」

 

 

 

 明石さんの言葉に顔を赤くする彼女であったが、周りの心配するような視線に気づいたようだ。彼女は一度深呼吸し、真っ直ぐ私たちを見据えてこう宣言した。

 

 

「私も夕立と一緒。『強くなりたい』から。別にあいつのためとかじゃない、私たちの鎮守府のために強くなりたいの。皆もこの前の報告で知ってるかもだけど、未知の敵が現れた。それは今の私たちじゃ手も足も出ないほど強力な敵かもしれない。この先、いつ遭遇するとも分からない。だからこそ試せることは、できる努力は、あらゆる手を使っておきたいの」

 

 

 力強く、覇気に満ちた言葉に彼女たち(・・・・)は見惚れていた。そこにいた彼女たち(・・・・)の顔は―――改造に対する恐怖はなく、今後のため、この先の未来のため、できる限りのことをしよう、そう覚悟を決めた顔たちで溢れていた。

 

 

 ――――その潔い覚悟、私にとって(・・・・・)近づくことを憚られるほど力強かった。

 

 

「うん、いい心意気だ。じゃあ先に言っておくけど、私の見立てだと君の改造は先ほどの子よりも厳しいものになる……それでも受ける?」

 

 

 曙ちゃんの宣言に拍手を送りながら、明石さんは最後の念押しをする。その言葉に、彼女は鼻で笑い飛ばし、顔を向けた。

 

 

「上等」

 

 

 歯を見せながらそういう曙ちゃんを、明石さんは満面の笑みを向けてその場から一歩下がる。彼女に白幕へと続く道を作ったのだ。

 

 何故だろう、その時後ろに組まれた彼女の手が小刻みに震えていたように見えた。

 

 

「みんな、待っててね!!」

 

 

 だが、それも曙ちゃんはこちらに向けて手を上げながらそう言ったことで視界の外に消えた。私も彼女たち同様、意気揚々と白幕に向かう曙ちゃんの背中を見送る。

 

 何故だろう、消える直前、正確には曙ちゃんの言葉を聞いた瞬間、手の震えが全身まで伝わったように見えた。

 

 

 やがて、曙ちゃんが白幕の向こうに消えた。

 

 

 

 

「よし、じゃあよろしく」

 

「って、え、ま、え?」

 

「これ、え? これ?」

 

「はい? え、だけって」

 

「えっと、特に身体は、あ、はい」

 

「はい、はい、はい……」

 

 

 

 白幕の向こうから、いくつかの声が。というか全て曙ちゃんの声が聞こえてきた。同時進行で白幕に映る彼女の影は、ずっと立ち尽くしているだけで、簡易ベッドに触れてすらいない。

 

 その動きから妖精に何かを差し出されていたようだが、何分不確定な情報だ。またそれ以降の目立った動きがない。というか動き自体がなく、ただ曙ちゃんが立ち尽くしているようだ。

 

 

 そしてもう一つ、彼女がいる白幕の向こうから妖精たちが出てきているのだ。出てくる妖精の誰もが少しくたびれた表情をしている。その雰囲気は、どことなくとある結論を導き出した。

 

 

 

 

 

 ―――――もしかして、終わった?

 

 

 

 

「明石ぃぃぃいいいいいいい!!!!!!!!」

 

 

 

 次に聞こえたのは曙ちゃんの絶叫。そして白幕が盛大に捲れ上がる。そこに居たのは先ほどよりも顔を真っ赤にし、阿修羅も裸足で逃げ出すほどの怒りと憎しみを携えた彼女。その手には真新しい制服があった。

 

 

 ちなみに名前を呼ばれた張本人は先ほどの場所で倒れている。お腹を抑え、肩で息をし、全身の震えを、ではなく笑いを堪え切れずにヒーヒーと力ない声を上げながら。

 

 

「こんの腐れ工作艦がぁぁああああ!!!!!!」

 

 

 再度怒鳴り散らす曙ちゃんは今も床に伏す明石さんに近づき、その襟を掴んで力任せに振り回す。振り回される明石さんは若干顔を青くするも、それでも笑いが収まらないようで再び噴出した。

 

 

「あんた最初から分かってたでしょ!! 分かっててあんなこと言わせたんでしょ!!!! どうなの!!!!」

 

「い、いや、嘘じゃ、嘘じゃない……ほ、本当にその場合があるから……嘘はついてないよ!? それに艤装自体の改造がメインであって、大体は制服が変わるだけっていうか、彼女は別というか……だ、だって、だってまさかあん、あんな大見え切るなんて聞いてな、聞いてないから……ブフゥゥゥ!!!!」

 

「腹くくって覚悟決めて行ったら制服変えてお終いとか聞いてないわよ!!!! 返せ!! 私の決意と覚悟と羞恥心をよぉぉぉおおおおお!!!!!!」

 

 

 目の前で繰り広げられる二人の大乱闘……? というか一方的なリンチ……? でもない。なんとも名状し難い謎の行動にその場にいる全員が口をあんぐりさせた。だが、そんな中で何人かが声を上げた。

 

 

「妖精、さん?」

 

 

 彼女たちを正気に戻したのは妖精――――明石さんが連れてきた妖精さんたちだ。

 

 

 彼らは艦娘たちの服を引っ張り、白幕の向こう側へと連れて行こうとしている。同時に傍にいる妖精は、その艦娘が来ている制服にそっくりな真新しい制服を掲げていた。

 

 先ほどの曙ちゃんの発言、そして彼女たちの傍にいる妖精さんたちの様子を見て、先ほどの結論が真実であると悟った。

 

 

 

 

 今回の改造で、自分たちは夕立ちゃんのようになる心配はないと。

 

 

 

 

「騒がしいなぁ……終わったか?」

 

 

 その時、整備室と廊下を隔てる扉の向こうから男性――――柊木中佐の声が聞こえた。それと同時に扉が開き、彼と伊勢さん、そして先ほど見かけなかった艦娘二名が入ってきた。

 

 

 一人は加賀さんと同じ弓道着のような格好の艦娘。

 

 青みがかった髪を白い紐でまとめたツインテール、緑の着物に紺のスカート。身長は低く、体つきも華奢で、おっとりとした反面、どこか儚げな雰囲気を醸し出している。しかし、その中で最も気になるのは、彼女の―――

 

 

「で、でかいっぽい……」

 

 

 ふと、どこからか夕立ちゃんの声が聞こえた。気が付いたのだろう、一言声をかけようと振り向く。

 

 そこには何故か胸部を触りながらうなだれている彼女、そして同じようにうなだれているもしくは絶望の表情を浮かべている数人の駆逐艦(制服着替え済みで胸部に触れている)がいた。

 

 

 

「夕立……夕立、これでも倍は増えたんだよ……? なのにこの仕打ちって……」

 

「上には……上がいるんだよ……」

 

「あの人……きっと空母だよ。加賀さんや隼鷹さんを思い出して……デカいでしょ?」

 

「で、でも龍驤さ―」

 

「「「それ以上いけない」」っぽい」

 

 

 

 そんな会話が聞こえ、思わず彼女の胸部―――――豊かでは表現しきれないほどの立派なものに目を向けた。そして、思わず自分のそれに視線を落とす。一応これでも割とある方だと自負はしていたが……流石にあれには勝てないな。一体何を食べたらあんなに育つのだろうか……

 

 

 ……じゃなくて。そうじゃない、いや、それも気になるけど、一番はこっち―――――彼女の瞳だ。

 

 

 

「あ、あの~皆さん、どこ見てるんですかぁ……?」

 

 

 おそらく周りの視線が集まっていることに気づいたのだろう。彼女は両腕で自分の胸を隠しながらおずおずと尋ねる。隠しきれてない、手から溢れんばかりの……じゃなくて。困った顔を浮かべる彼女の瞳の色。

 

 

 右は彼女の髪色と同様に透き通るような青みがかかっている。

 

 左は彼女の髪色よりも大分暗い。紺を通り越して灰色がかっている。

 

 

 左右の瞳の色が違う。所謂オッドアイと呼ばれるものだ。

 

 ただ少し気になるのは右は瞳全体に青みがかっているのに対し、左はまるで後から色を足したような色むらのある不安定な色。

 

 

 おそらく、先ほど感じた彼女の儚げな印象は、その不安定な瞳から感じたのだろう。

 

 

「あの……『改造』っておっぱい増量の術じゃないからね」

 

「……違うの?」

 

「違うよ!? 私、おっぱい大きくする艦娘じゃないからね!? そんなに大きくしないならバルジ積みなさい!!」

 

 

 夕立ちゃんの言葉に珍しく明石さんが突っ込み、そのまま訳の分からないアドバイスをする。なお、その間ずっと曙ちゃんのチョークスリーパーを喰らっています。流石に顔色が不味くなってきました。

 

 

 

「なんでそこまで胸にこだわる?」

 

「だって、男の人っておっぱい大きい方が好きでしょ?」

 

「んー、どうだろうな? 『乳に貴賎なし』が体のいい答えだが、まぁ在るに越したことはないなぁ」

 

「ですよね……」

 

 

 ……ねぇ、この話いつまで続けるんですか? もうよくないですか?

 

 

 そんな視線を私、伊勢さん、そして大きい(・・・)人が柊木中佐へジト目を向けるも、彼は意に介していないようで、次に彼は思い出したようにこう言った。

 

 

 

「あ、でも楓は小さい方が良いっ―――」

 

「ほんと!!??」

 

 

 彼の言葉に食いついたのは夕立ちゃんではなく、何故か明石さんにチョークスリーパーをかけていた曙ちゃんだ。急に拘束を解かれた明石さんはその場で倒れ伏し、真っ白になっている。そんな彼女などお構いなしの曙ちゃんは、興奮したように柊木中佐に詰め寄った。

 

 

「あいつ、小さい方が好きなの!?」

 

「あ、いや、好きというか……」

 

「大きい方が良いの!? どっち!?!?」

 

「む、いや、恐らく、あまり加点対象として見ていないと思われる」

 

「……じゃあ何が好―――」

 

「もちろん尻だぁ!!!」

 

 

 今度は柊木中佐が叫びだした。なんか話のネタが変わっただけで本質的なものは一切変わってない。ふと、その隣で頭を抱える伊勢さんがゆらりと刀を抜いた。

 

 

 え、まさか……

 

 

「しり……お尻?」

 

「そうだぁ、尻だぁ……程よく引き締まったのも良し、ふくよかに培われたのも良し!!!! 尻には万物すべての要素が詰まっておるのだ!! 尻を磨けばおのずと自身が磨かれていく、尻を磨かなければどんどん朽ち果ててゆく!!!! 尻を笑うものは尻に泣く!! これ宇宙の真理なり!!!! また古来より尻は胸と同等……いやそれ以上に女性のシンボルとして扱われてきた。良い尻を持つことこそ、いい女の証なのだ!! さぁ、もっと詳しく説明し――――」

 

「それはあんたの趣味だろ!! はい、終了ぉ!!」

 

 

 いつの間にか柊木中佐の目つきが変わり変な熱を帯び始めたが、伊勢さんの声とともにその脳天に鞘(中身なし)が振り下ろされたことで強制終了。混沌した彼は、皆の邪魔にならないよう部屋の隅に押しやられた。

 

 

 

「申し訳ない、うちの提督(バカ)が……後で回収しておくよ」

 

「い、いえ、こちらこそ変な話題で盛り上がっちゃって……というか、大丈夫なんですか?」

 

「あぁ、たまにやることだし、本人から自分が暴走したら遠慮なくやれって言われてるから」

 

「それはそれでどうなんですか……」

 

 

 互いに謝罪し合う。取り敢えず先ほどの流れは断ち切れたようだ。

 

 

「ちなみにメーちゃん、たぶん太ももフェチ」

 

「「やった」っぽい」

 

 

 と、思っていたら蒸し返されました。てかなんで二人とも「やった」ってなんですか、もう……

 

 

 

「ぷっ!!」

 

 

 その時、鈴のような声が聞こえた。

 

 

 その綺麗で可愛らしい声に、その場にいた全員がその声を発した人に目を向ける。

 

 

 

 そこに居たのは、日本人離れの透き通るような肌をした少女だ。

 

 腰まであるストレートの金髪に青い瞳。頭には白地に黒いリボンを巻いたイギリス海兵帽を被っており、そこから伸びる金髪が日の光を浴びてキラキラ光っている。白のミニスカートワンピースを身にまとい、その上から紺地の半袖セーラー服を着ている。手にはお洒落な装飾を施した手袋を、足にはフリルのついたソックスを履いており、その姿は何処かのご令嬢かと思うほど整えられていた。

 

 

「あははッ……Darlingの言った通り、本当にpleasantな人たちね」

 

 

 お腹を抱えながら、彼女はうっすら涙を浮かべながらそう言う。その容姿、そして服装から、まるで命が吹き込まれた人形のようない現実離れした雰囲気を持っていた。

 

 

「こら、ジャービス? 笑ったら失礼でしょう?」

 

「No!! 私の名前は『Jervis』。『ジャーヴィス』よ。間違えるなんて……That's rude!!」

 

 

そう言って、ぷっくりとほほを膨らませるジャーヴィス。そんな彼女にごめん、と軽く頭を下げる伊勢さん。どうやら、このやり取りも初めてではないようだ。そして、互いにそこまで気にしていない様子。

 

 

「というか、皆さんは何故ここに?」

 

「いや、この二人ともう二人がついさっき合流したから、改めて挨拶回りをと。ま、二人は先に姉妹を探してくるって言って勝手に走り出しちゃったけどね。じゃあ、先にこっちの二人から自己紹介しよっか」

 

 

 曙さんの問いに伊勢さんは困ったような顔をするも、そう言って一歩引いて後ろの二人を前に進みださせた。

 

 

「彼女はJ級駆逐艦 一番艦のジャーヴィス。御覧の通り、日本の艦娘じゃなくてイギリスの艦娘よ。あっちの国との技術交換でこっちにやってきたの。ま、短期間だけ日本に出向してうちの技術や戦術を習得し、逆にあちらの技術や戦術を私たちに伝授するって目的だけどね。もちろん、日本(うち)からも数人向こうに出向しているよ」

 

「出向……このご時世でですか?」

 

 

 外国からの出向。それよりも他国にも私たちと同じような存在が現れ始めているとは。初めて知りました。まぁ、外部の情報と遮断されていたのが主な原因ですけど。

 

 

「今回が初めての試みみたいね。私も詳しくは知らないけど、最近ジャーヴィスのように日本以外の国でも艦娘が出現し始めているんだって。そのおかげで数か国だけど国交が回復したこともあり、互いの現状把握もかねてこうして他国の艦娘を出向させている、とか」

 

「Yes、その通り!! うちのfool admiralのため、遠路遥々英国からやってきたのよ!! もちろん生まれ育った祖国を離れるのはVery lonelyだけど……祖国のために頑張るわ!! ……まぁJapanese-style mealが食べたかったってのもあるけどね?」

 

 

 ぼそりと本音を漏らし、可愛らしく舌を出すジャーヴィスちゃん。こんな小さな子が英国からやってきたとは……驚きです。そして彼女にもちょっと一つ、気になることが。

 

 

「そしてこっちの大きい(・・・)子が、蒼龍型正規空母 一番艦の蒼龍よ」

 

「ちょ、蒸し返さないでよぉ……」

 

 

 伊勢さんのひどい紹介に狼狽えながらその豊かな胸部装甲を隠す彼女―――蒼龍さん。

 

「みなさんご存じ、ご立派なものを持っています。だけど、こう見えてうちの空母じゃ一番の実力者です。空母ヲ級2隻ぐらいならこの子一人で倒しちゃうんじゃないの?」

 

「え、えへへ……そ、そんなことぉ……も、ないですよぉ?」

 

 

 伊勢さんの言葉に口では否定しつつも顔はにやけており、小さな身体をモジモジさせながらうれしさを表している。まぁ、モジモジするたびにそのご立派が強調されるのだが。それに多くの駆逐艦がメンタルをやられているのが見える。

 

 

「そして、あとの二人は名前だけ伝えおくね。陽炎型駆逐艦 一番艦の陽炎、長門型戦艦 二番艦の陸奥。彼女たちとは、何処かのタイミングで改めてするね」

 

「あの、提案があるのですが」

 

 

 

 伊勢さんの言葉を遮り、私は声を上げた。その言葉に、彼女含めその場にいた全員の視線が私に注がれる。

 

 

「貴女は……」

 

「申し遅れました。私、金剛型戦艦 三番艦の榛名と申します」

 

「あー、さっき執務室に居た子か。ご丁寧にどうも……それで、提案って?」

 

 

 伊勢さんに、改めて私の名―――――榛名だと自己紹介する。それを受けて、これはどうもと頭を下げる彼女は、すぐに私が投げかけた言葉を返してきた。

 

 

 今から提案することはこの鎮守府のため、みんなのため、提督のため、自分のため。

 

 私が守りたいもの、すべて(・・・)を守るための提案だ。

 

 

 

「演習、やりませんか?」



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艦娘の『権限』

「これ、見ておいて」

 

 

 そう言って、俺は今しがた書き上げた書類を視線の外---横にいるであろう大淀に差し出す。しかし、それは

手から離れていかない。

 

 次に聞こえたのは、小さなうなり声。それは俺が差し出した先から聞こえた。とても不満そうだ。だが、それに対して俺は特に反応することなく、俺は空いている右手で次の書類を書き始める。

 

 そんな俺に、声の主はまた小さく唸り、俺の手から書類を抜き取る。ようやく自由になった左手を別に伸ばし、開かれたファイルのページをめくる。

 

 

「次は……非番の順番か」

 

 

 目的のページ―――――鎮守府に所属する艦娘たちのスケジュールが記された書類に目を通し、同じ内容を手元の書類に落とし込む。それを数度繰り返し、あらかた埋まった書類を再び大淀に差し出し、渡したらまた新しい書類を書き始める。

 

 

 着任してから変わらない、いつもの執務(しごと)だ。

 

 

 

「今日は、いやに真面目ね」

 

「いつも真面目だぞ」

 

 

 黙々と作業する俺に向けてか、横から声がかかる―――いや浴びせられる。声の主は、今日の秘書艦である加賀だ。だが、俺はその声に対して、気にも留めていないかのように片手間であしらった。

 

 俺の言葉に返事はなく、代わりに視界の横に新たなファイルの山が置かれた。彼女は俺が書類を作る際に必要な本やファイルを集めてもらっている。きっと、今しがた置かれた他にも積みあがっているだろう。

 

 

 

「なんで、反抗しなかったんですか?」

 

「むしろ、なんで反抗できると思っているんだ?」

 

 

 

 次に聞こえたのは大淀の声だ。先ほどの怒気はなく、どこか伺うような声色だ。おそらく振り向けば、心配そうにのぞき込んでいる彼女と目が合うだろう。

 

 だが俺は特に顔を向けることなく、逆に質問をぶつけた。到底彼女にはこたえられない、俺に(・・)向かうべき問いを彼女に向けたのだ。無論、彼女が知る由もないため答えることはできない。

 

 

「あら、貴方ならあの提案に食って掛かるぐらいすると思ったけど?」

 

「人を狂犬みたいに言うな」

 

 

 次は加賀。先ほどの声色よりも少し柔らかい。普段通りの軽口に近いものだ。おそらく、普段のやり取りでボロを出すことを狙ったのだろう。生憎、対応可能だ。

 

 

「せっかくここまでやってきたのに……ここに残りたいとか思わないんですか?」

 

「『残りたい』じゃなくて、もう(・・)『残れない』だ。俺に拒否権はないよ」

 

 

 またもや大淀。今度は、ひどく残念そうだ。気のせいかな、彼女のほうからくしゃりと紙を握る音が聞こえた。おいおい、今しがた書き上げた書類だぞ。なにや――――――

 

 

 

 

もう(・・)、いいでしょ」

 

 

 

 次は加賀。だが、それは声ではない。正確には声だけ(・・・)ではなかった。

 

 

 その声と同時に、顔を掴まれ引き寄せられたのだ。今しがた書いていた書類から、目いっぱいに広がる加賀の顔。彼女はいつもの無表情のまま、俺を見つめ返していた。

 

 だが、その眼には感情が見て取れた。

 

 

 

 『不快』と。

 

 

 

「あの時は周りにたくさんいたからいろいろ取り繕っていたんでしょうけど……ここは私たちしかいないわよ?」

 

「……何のこ―――」

 

「とぼけないで」

 

 

 俺の言葉を遮るように、加賀が詰め寄ってくる。逸らそうとした俺の視線に、彼女は掴んだ手に力を込めてやめさせる。

 

 

 目の前に広がる加賀の顔が一瞬(・・)霞み、またはっきりと彼女の顔が映る。

 

 

 

そんな(・・・)顔するぐらいなら――――」

 

 

 

「グッッッド、モォーニィーング!!!!!!」

 

 

 

 そんな加賀の声を吹き飛ばすがごとく、執務室の扉が開け放たれた。同時に風が吹き荒れ、書類が舞い上がる。その中を、その声の主が歩いて入ってきた。

 

 

「金剛……」

 

「Hey! 提督、戦果Resultが上がったネー!!」

 

 

 俺の言葉に、金剛は意気揚々と入ってくる。その手にはファイル――――今日の哨戒任務の報告書であろう。子供が自慢してほしいものを見せつけるようにぶんぶん振っている。とは言っても、いつもは提督補佐である大淀が代わりに受け取っているため、こうして旗艦自ら報告書を持ってくることはないのだ。

 

 

「こ、金剛さん!! 無線で言ってくれれば取りに行きましたのに……」

 

「No!! 大淀? 大事なお客様がいらっしゃっているんですヨ? もし無線を送ったときに取り込み中(in the middle of something)でしたらどうするんデース!! だから失礼のないように(don't be rude)と―――」

 

「だったらノックぐらいしたらどうなの?」

 

「……そ、それは終わっていたようでしたからネー」

 

 

 金剛の屁理屈に加賀の鋭い突っ込みが入る。それを受けて、金剛が目線をそらして答える。その声は震えていた。明らかに取り繕っている。

 

 

「……まぁ良い。わざわざ悪いな」

 

「No problemデース」

 

 

 ため息を吐きながら俺がそう言うと、金剛は笑顔で返しファイルを差し出してくる。それを受け取るために手を伸ばした。

 

 

 

「ところで、テートクはいつ異動するんですカ?」

 

 

 

 だが、次に彼女はそう問いかけてきた。

 

 

 同時に、執務室の空気が凍る。体感温度的に2、3度は下がった気がした。

 

 それは周りの同じようで、大淀は露骨に顔を引きつらせ、加賀はその眉をピクリと動かした。

 

 

 ただ唯一、金剛だけは問いかけと同じ表情―――――笑顔のままだった。

 

 

 

「……なんでそれを知っている?」

 

「何処の誰かはわかりませんが、すでに鎮守府中に知れ渡っていますヨ? テートクがクビにされるって」

 

「だ、誰がそんなことを!?」

 

 

 金剛の軽い言葉に、大淀が大声を出す。それと同時に机をダンッ!! と叩き、飲みかけのティーカップが甲高い音を出した。だが、それ以降誰一人として声を発しない。

 

 執務室は沈黙が支配した。

 

 

 

「……恐らく、意図的に流したんでしょうね。」

 

 

 沈黙を破ったのは加賀だ。彼女は顎に手を当てながら考え込んでいるようだ。大淀もその言葉に、顔を歪めて黙り込む。

 

 

 情報を流した理由、それはこの鎮守府の動揺させるためだ。

 

 

 ここは提督を何人も失踪させた鎮守府、故にどの艦娘にも提督に対するある程度の偏見がある。俺が最初にやってきたときのみんなの反応がそうだ。最近はなくなってきた……のか、俺が慣れてしまったのかは分からない。

 

 だが、おそらく誰しもが少なからず提督に悪い感情を抱いているのは確かであろう。そこに提督が異動するという情報を流してみよう。そういった感情が強い艦娘は手をたたいて喜び、そうでない艦娘は動揺するだろう。

 

 だが、この鎮守府においてどちらの割合が多いかと考えれば間違いなく前者だ。仮に少数派が過半数だとしても、結局その感情は俺がここにやってきてからしかない。それよりも長い時間を彼女たちは過ごしているわけであり、どちらの存在が大きいかを考えれば間違いなく俺を切るだろう。

 

 

 まぁ仮に俺を切る選択をしないにしても、全艦娘内に動揺が走るのは避けられない。それが任務に支障をきたす可能性が高く、その度合いは長引けば長引くほど大きくなっていくであろう。さらにこれだけ多くの集団である。一度流れた情報を統制するのはほぼ不可能だ。それこそ箝口令を敷かねばならないほどだ。

 

 しかしそれを敷けばあらぬ疑惑を持たれる可能性が高い。もとより提督という存在にアレルギーを持つ艦娘ばかりだ。疑惑は深まり、そしてそれは悪い印象を強めてしまう。

 

 

「こうなってしまえば、異動させたいあちらが有利になってしまう」

 

「外堀を埋めにきたってわけですか……」

 

 

 説明した加賀、それに苦虫を嚙み潰した顔になる大淀、そしてそれを聞いてもなお笑顔の金剛。

 

 

「金剛」

 

「What?」

 

 

 その中で、俺は金剛に声をかけた。彼女は笑顔のまま、俺を見る。

 

 

「それを聞いた、周りはどんな様子だった?」

 

「……みんな、反応に困っていましたヨ」

 

 

 俺の問いに、金剛は曖昧な答えをよこす。それを受けて、俺は肩を落とした。望んでいる(・・・・・)答えがなかったからだ。

 

 

 

「それで、テートクはいつ異動になるんですカ?」

 

 

 

 だが、再度投げ掛けられた問い。それは俺が求めている(・・・・・)答えでもあった。

 

 

「……まだ分からん。だが、異動は確定だ」

 

「そうですか、寂しくなりますネ。異動先でも元気でいてくださいヨ!!」

 

「ちょ、金剛さん!?」

 

 

 俺の言葉に、金剛は笑顔でそう言い俺の肩をバシバシ叩いてくる。その言葉、そしてその様子に看過できなかった大淀は俺たちの間に割り込んできた。

 

 

「何ですか大淀? テートクの新しい門出、お祝いしないんですカー? それとも『テートク行かないで!! ずっとワタシのそばに居て!!』って言いたいんですカー?」

 

「そそそそそそそ、そういうわけじゃないです!? い、いや違うわけじゃなくて、いや合ってもなくて……」

 

 

 金剛の言葉に顔を真っ赤にさせる大淀。小さな声でボソボソ早口でしゃべる彼女を面白そうに眺める金剛。確実に遊んでいるぞ。

 

 

「逆に、貴女はどうなの?」

 

 

 そんな大淀を見かねて、加賀が助け舟を出す。いや、どちらかといえば会話の主導権を奪い取った方が正しいか。その証拠に、金剛を見据える彼女の眼は笑っていなかった。

 

 

「今までの口ぶりからして、貴女は提督の異動に賛成のように聞こえるんだけど?」

 

「Yes、ワタシは賛成ですよ? めでたいことデース!!」

 

 

 加賀の問いに当たり前のように答え、そしてお祝いの言葉を述べるかのように俺に笑顔を向けてくる金剛。そこに一片の曇りがない、100%自らの主張に賛成する表情だ。

 

 

「……貴女、何言っているか分かっているの?」

 

「もちろん分かっていますヨ? この話、メリットしかありませんから」

 

 

 『メリット』

 

 

 その言葉を発した時。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、金剛の視線が俺に向けられた気がした。だが、次の瞬間、その視線は加賀に向けられている。まるで、駄々をこねる子供に向ける視線だ。

 

 

 同時に、彼女は指を三本立てた。

 

 

「まず、ワタシたちの……いや、ワタシ(・・・)のメリットです。これは単純、もう一度この鎮守府を掌握できるからデース。あのテートク、ある程度ここをワタシたちの自由にしていいと言ってたそうですネ、つまりテートクが異動した後にここを統括する存在をワタシたちが選べるわけデス。今まで艦娘の上に立ったことのある存在はワタシだけ。つまり、テートク代理としてここを統括する可能性が高いワケネ。しかも以前と違い、資源の補給や他鎮守府との連携もできる。より整った環境での再スタート(Restart)デース!!」

 

 

 そう言い終わると同時に、一本目の指が下がる。それに対して、加賀は黙って顎で続けろと促した。

 

 

「じゃあ次に、私たち艦娘のメリット。これも単純、優秀なテートクに変わるからデース。お世辞にもテートクの能力は高いとは言えないネー。特に事務処理も大淀ありき、艦隊指揮もほぼ旗艦任せ、進撃撤退の指示も下せない……酷なことを言えば、ワタシたちの上に立つにはふさわしくありまセーン。むしろ、誤った判断でワタシたちが沈む可能性が高い……そんなリスクを背負う必要がなくなりマース。高い事務処理能力を持ち、的確な戦闘指揮をこなせるテートクは大勢いるでしょうネ……また先に言いましたがある程度こちらの都合に合わせてもらえる、それこそテートクを拒否してもいいわけデース。他にもいろいろありますが、大きなものはこれでしょうネ」

 

 

 そう言い終わると同時に、二本目の指が下がる。それに対して、いつの間にか回復していた大淀が何かを言いたそうにしていたが、それを加賀が手で押しとどめた。だが、その眼には怒りが浮かんでいた。

 

 

 それを見据えながら、金剛は一つ息を吐いた。

 

 

「じゃあ次……これはテートクのメリット」

 

 

 その言葉と同時に、金剛は俺に視線を向けた。

 

 

 

 

「ワタシ達からの解放です(・・)

 

 

 そう発した金剛の眼。それは今まで向けられてことのないほどやわらかいものだった。この視線を向けているのが金剛なのかと疑うほどに、慈愛に満ちていたのだ。

 

 

 

 だが、それに対して俺が感じたのは、『寒さ』だった。

 

 

 

「先ほど言いましたが、提督(・・)はそこまで能力が高くありません(・・)。そしてここは最前線、彼がやってきてすぐに起きた鎮守府の襲撃もある通り、常に死のリスクが付きまといます(・・)。また()のように提督(・・)に対して敵意をむき出した艦娘が大勢います(・・)。文字通り周りに味方はいない状態でした(・・・)そんな中で今まで提督(・・)をやってきたのは、ひとえに彼が無理をしてきただけ彼が精神をすり減らしてきたおかげなんです()

 

 

 淡々と金剛の口から語られたメリット。それを話す彼女の口調はいつもの片言ではなく、流暢な日本語であった。

 

 

「提督がここまで尽くしてくれる理由は分かりませんが、私たちがその姿勢に甘えてきたのは事実です。もう、十分じゃありませんか? 十分尽くされたと思いませんか? もう彼無し(・・・)でやっていけると思いませんか? これ以上、彼に余計な重荷(・・・・・)を背負わせる必要はないと思いませんか? これ以上提督の自己犠牲(・・・・)に甘え、その身をすり減らさせる(・・・)のはやめにしませんか?」

 

 

 そこで言葉を切った金剛は再度加賀たちに視線を向けた。

 

 

 

「もう、『自由』にしてあげませんか?」

 

 

 

 そう締めくくり、金剛は黙った。それに対して、加賀も大淀も何も言わない。

 

 ただ、二人の表情は全てを物語っていた。

 

 

 『もう、良いのではないか』と。

 

 

 

「ま、待ってくれ」

 

 

 そんな空気に耐え切れず、俺は声を上げた。その言葉に、三人が俺を見る。

 

 

 加賀と大淀は申し訳なさそうな。金剛はうっとうしそうな視線だ。

 

 

「……何ですカ?」

 

「い、いや、語弊があったから訂正をと……」

 

 

 そう言った瞬間、金剛の視線が鋭くなった。だが、先ほどよりも多く向けられたもの故、怖気付くことはなかった。

 

 

 

「さっき金剛が言ってたこと……『俺に甘えていた』ってところ。逆だ、俺がお前らに甘えていたんだよ」

 

「……逆ではありませんヨ? 少なくともワタシ達はテートクの厚意に甘えていた、これは事実デス」

 

 

 俺の言葉に金剛は僅かに顔を歪ませ反論してくる。だが、俺はそれでも止まらなかった。

 

 

「考えてもみろ、俺はお前らに負担しかかけていなかった。執務も満足にできず、戦闘指揮も取れない、進撃撤退の指示さえまともに……な。そんな負担しかかけていないのに俺がお前たちにしてやれることなんて少ない。な、ならそのお返しを全力でするのは当然だろ……? だ、だから―――」

 

「つまり、テートクがしてきたことは『ただのお返し』であると……そういうことですネ?」

 

「違います!!」

 

 

 

 俺たちの会話に割って入ったのは、大淀であった。その顔は真剣であり、まっすぐ俺を見据えていた。

 

 

「貴方は私たちにいろんなことを、いろんなものをくれました(・・・・・)。それは決して『お返し』なんかじゃない……貴方が私たちに与えた、『無償で差し出したもの』なんです!! だから、そのお返し(・・・)にみんな頑張っているんです!! 貴方のためなんです!!」

 

 

 その言葉に、俺は思わず息を飲んだ。目頭が熱くなり、喉にある言葉がこみあげてくる。

 

 

「ほん――」

 

「つまり、私たちは負のループに陥ってるわけですネ」

 

 

 だが、それは金剛の言い放った一言でかき消された。同時に、体温が一気に下がる。

 

 

「互いに負担を押し付け合い、清算し合い、その度に苦悶し合い、また負担を押し付け合い……これを、負のループと言わずに何と言いますカ……まぁ、ワタシが言うなって話ですけどネー」

 

 

 そう、吐き捨てるように金剛が言い放つ。そして自分を皮肉る。まるで、自分はすでにそこから脱却できたとでも言わんばかりに。

 

 

 

 

「確かに、その通りね」

 

 

 

 そして、次に加賀が答える。それは金剛に賛同するものだった。また、体温がガクっと下がるのを感じる。

 

 

「金剛の言う通り、私たちと提督の関係はまさにそう。互いが互いに負担を押し付け、消耗し合う……自滅まっしぐらね」

 

その通り(Exactly)、だからこそこれはテートクとワタシたち、ひいては鎮守府にとってのメリットってわけネ」

 

 

 納得したような加賀、ようやく理解してくれたかと肩を撫で下ろす金剛。二人はそれ以上何も語らないが、視線が交差している。おそらく目で何かを伝えあっているのだろう。

 

 

「な、なぁ……」

 

 

 それが分からなかったから、思わず俺は声を漏らした。だが、それに答えたのは金剛だけ。加賀はわざとらしく目をそらしたのだ。

 

 

 

「テートク、貴方は此処に残りたいですか?」

 

 

 そして、金剛からそんな問いが飛んでくる。それは今まで、何度も二人から、いやそれを告げられたあの場にいた全員から投げ掛けられた問いだ。

 

 

 それに対して、今まで俺は同じ答えを返している。

 

 

 

 

「……だから、俺の意志ではどうにもならないって」

 

 

 今回も例に漏れず、同じ答えを返す。

 

 

 それに金剛は特に反応を示さない。視界の隅で加賀が唇をかみしめるのが見えた。視界の外から、大淀の怒りを押し殺す声が聞こえた。

 

 

 

「何故そう言い切るんですカ?」

 

 

 次に投げ掛けられた問い。これも同じだ。今まで通り、悟られない(・・・・・)ように同じ答えを返すだけだ。

 

 

 

「それ――」

 

「代わりに答えてあげますヨ」

 

 

 

 俺の言葉を遮られた。それに、思わず声の主を見る。

 

 そこにいたのはいつもの金剛だ。

 

 俺に対してどこか他人事のように、まるで興味がないように、この先どうなろうと知ったこっちゃないとでもいうように。

 

 

 俺に無関心な(いつもの)金剛だ。

 

 

 

 

 

「貴方の『我儘』だからです」

 

 

 

 そんな彼女が。一切の温かみも感じず、道端の石ころを見るような目で、そう言い放ったのだ。

 

 その姿に、俺は言葉を失った。同時に、興味も失った。

 

 

 彼女が望まない(・・・・)答えを口にしたからだ。

 

 

「ここまでメリットを上げられて、上からも命令されて、もう異動しかない状況に追い込まれています。この状況で、貴方が『ここに残りたい』なんて言っても、それは貴方の我儘としか言えません。受理されることはないでしょう……まぁ、それを覆せるだけの『権限』は持っています。だがその理由が『我儘』となると……どこまで通用するか」

 

 

 そういって、やれやれと肩をすくめる金剛。まるで俺を馬鹿にしているように見える、というかおそらく馬鹿にしているのであろうが、生憎彼女の言っていることは正解だ。反論の余地すらない。

 

 

「……一応、貴方がテートクでいる限り、ワタシ達は貴方の艦娘デース。理由はどうあれ、貴方の命令に従う義務があります。だから―――」

 

「それが『権限』なんだろ?」

 

 

 金剛の言葉を遮るように、俺は声を――――『答え』を絞り出す。

 

 

「俺が持っている『権限』は、俺の我儘を通すためにお前たちを利用できるってことだろ? 分かっているよ、そのぐらい……」

 

 

 絞り出すように漏らした『答え』―――それは俺の立場である提督が持つ『強制力』だ。

 

 原則、艦娘は提督の命令に従わなければならない。金剛が言ったように、それは義務だ。だから、俺がここにいたいから協力しろといえば、()でも彼女たちは協力しなければならない。

 

 だからこそ、その手立てはあるのだ。ある意味最強である手立て。だがそれで幸せになれるのが誰もいない。大本営も、つかさたちも、金剛たちも。誰も幸せにならないのだ。

 

 

 そんな選択肢、選べるわけないんだよ。

 

 

 

「……まぁ、ワタシ達は貴方の判断に従うだけネ。他の子にもそう伝えておきマース」

 

「えっ!? そ、それは――」

 

「承知したわ」

 

 

 金剛の言葉に、加賀は即座に返事をする。そんな二人にうろたえる大淀であるが、彼女も特に口をはさむ気はないようだ。そうだろう、金剛と加賀が納得したんだ、異論なんて挟めるわけがない。

 

 

「じゃあ、そうつ――」

 

 

 金剛がそういって執務室を出ていこうとしたとき、勢いよく執務室の扉が開かれた。全員が一斉に扉に視線を注ぎ、そこに立っていた人物を凝視する。

 

 

「おう、入るぞ」

 

 

 そう言ってヅカヅカ入ってきたのは、つかさであった。

 

 奴は先ほど引継ぎの打ち合わせをした後、うちの艦娘たちの様子を見に工廠に行っていたのだが。と思ったら後ろに曙や夕立、榛名が立っている。どうやら改造が終わったみたいだな。

 

 というか、夕立なんかいろいろと変わってない?

 

 

 

「明原提督」

 

 

 そんな執務室組をしり目に、つかさがそう言った。俺の名前ではなく苗字と役職名を。今は柊中佐として俺に語り掛けているのだ。

 

 

「はっ」

 

 

 そう感じた俺は背筋を伸ばし、短く答える。

 

 

 

「貴官の艦娘たちとうちの艦娘たちで、演習を行うこととなった」

 

「はっ……は?」

 

 

 条件反射的に返事をし、その後本音が漏れた。

 

 

 

「日時は本日より五日後、場所は演習場だ。規模は一個艦隊だ。それと―――」

 

「ちょ、ちょっと待って!!」

 

 

 淡々と説明していくつかさの言葉を遮る。それに奴は鋭い視線を向けてきた。いや、その前にちゃんと説明してくれよ。いきなり過ぎるって。

 

 

「な、なんで急に演習を?」

 

「単純に貴官の艦娘たちの実力を図るためだ。同時にうちの戦い方(やり方)を身をもって知ってもらう。今後、俺の下に組み込まれてもいいようにな」

 

「は? いや、実力を知るのは分かるけど……組み込まれてもいいように(・・・・・)ってどういうことだ? だって吸収されるんだろ?」

 

 

 俺の問いに、つかさは間を置く。その間、その視線は俺に注がれ続けた。それを追うよりも先に、答えを寄越した。

 

 

「貴官の艦娘―――金剛型戦艦三番艦 榛名より、『演習の勝敗によって、現提督の続投(・・)を検討されたし』と申し出されたからだ」

 

「はぁ!? ほ、え、は、榛名!?」

 

 

 つかさの言葉に、俺は思わず榛名を見る。すると、彼女は一歩前に進み出てこう言い放った。

 

 

「私は、楓さんが変わるなんて嫌なんです。だから演習で私たちの実力を示して、貴方が上でも問題ない(・・・・)と示せば続投を承認していただきたいと提案したんです。そして、中佐が受けて下さいました」

 

「え、え、き、急す――」

 

 

「クソ提督!!」

 

「提督さん!!」

 

 

 急展開についていけない俺に、つかさの後ろに控えていた曙と夕立が飛び出して詰め寄ってくる。両方とも、俺の制服を掴んで食い掛ってきた。

 

 

「いい!! ここで勝てばあんたが残れるの!! 絶対勝つわよ!!」

 

「提督さん!! 夕立絶対勝つから!! 見ててね!!」

 

 

 鬼気迫る表情で詰め寄られる二人に気おされ、何も言えなくなってしまう。二人の向こうから、つかさの声が飛んできた。

 

 

「ちなみに、これは上官命令だ。拒否権はないぞ」

 

 

 それだけ言うと奴は執務室を出て行ってしまい、詳しい話を聞くことすらできなかったのだ。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

「妙ね……」

 

「どうした?」

 

 

 廊下を歩いてるとき、傍らの伊勢がつぶやいた。それに対して、俺――――柊木 士は彼女に顔を向けて問いかけた。

 

 

「今回の提案、なんか引っかかるんだよねぇ……」

 

「そうか? 俺はありがたい提案だと思うぞ。向こうは誰もが納得してないから、このまま吸収しても(わだかま)りが残る。だが、この演習で実力の差を見せつければ扱いやすくなる。それに向こうからの提案だ。言い出しっぺの法則上、向こうは従わざるを得ない……だいぶ都合がいい」

 

「だよね? 納得してるわけじゃないのこっちに都合のいい提案……出来過ぎていると思わない?」

 

 

 伊勢の言葉に、俺は再度考えてみる。

 

 確かに都合がよすぎる提案だと思う。だが万が一こちらが負ければ、奴らは今まで通りやっていける。それを考えれば、向こうにメリットがないわけでもない。

 

 だが、正直今のあいつらにうちが負けることはまずないだろう。これは贔屓目に見ているわけではなく、単純に場数の差だ。

 

 向こうはようやく北方海域の半分を制覇したところ、対してうちは西方海域を超え南方海域へと踏み込んでいる。相手にした敵の数、種類、海域全てにおいて圧倒していると見ていいだろう。

 

 

 それらを踏まえて、二つの答えを出した。

 

 

「まぁ、過信しすぎてこちらの実力を見誤っているだけかもしれないなぁ……もしくは楓を変えさせ―――」

 

「そうですよ」

 

 

 俺の言葉を遮るように、後方から声が飛んできた。

 

 それに俺と伊勢は同時に振り返る。そして、声の主をとらえた。

 

 

「その通りです」

 

 

 そういってこちらに近づいてきたのは、一人の艦娘。

 

 

 先ほど執務室で高らかに宣言し、その前に工廠にて俺たちに都合のいい(・・・・・)演習を提案してきた艦娘――――金剛型戦艦三番艦 榛名であった。

 

 

 

「いやぁ、よかったです。既に私の意図に気づかれたようで、安心いたしました」

 

「……一応、確認のためお聞きしてもよろしいか?」

 

 

 笑顔で近づいてくる榛名に、俺は念のため問いかけた。

 

 それは今しがた俺が語った答えの内、どちらかを―――――正確には片方ではない(・・・・)ことを確認するためだ。

 

 

 

「……ええ、では改めまして」

 

 

 その問いかけに、一瞬キョトンとした榛名。だが次の瞬間、その顔は笑顔が―――――完璧な笑みが浮かんだ。

 

 

 

「明原提督の罷免、よろしくお願いいたします」



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背信者の『目的』

「で、どういうことだ?」

 

「先ほど申した通りです」

 

 

 先ほどの廊下から場所を鎮守府の客間に移した俺―――柊木 司は、改めて彼女―――金剛型戦艦 三番艦 榛名に問う。

 

 それに対し彼女は笑みを浮かべそう答えたが、そこで言葉を噤んでしまう。

 

 

 あとは互いの視線がぶつかり合うのみ、客間は沈黙で満たされた。

 

 

「……君は、明原提督を守りたいわけじゃないのか?」

 

「違います。でなければ、提督(・・)たちと『演習』なんて無謀な提案しませんよ」

 

 

 俺の問いに、榛名は澱みなく答える。さらっと俺のことを『提督』呼びしたのは、俺たち側だとでも言いたいのだろうか。

 

 俺の傍には、怪訝な顔の伊勢が立っている。こいつも彼女の真意を図れていないのだろう。その証拠に、何かあった際に対応できるよう鞘に手を置いている。

 

 

 ……ひとまず、伊勢が警戒しているのなら今ここで襲われても対応できるか。

 

 

「なんとなく言いたいことは分かる。が、一応の君の口から説明してくれるか?」

 

「承知いたしました。では、こちらをご覧ください」

 

 

 俺の言葉に、榛名はそう答えて何処からファイルを取り出す。それを俺の目の前に置き、中身を開いた。

 

 

 

 

「こちら、この鎮守府に所属する艦娘の名簿。その複写です」

 

 

 その言葉に、俺は彼女に思わず見る。視界の外で伊勢の息を吞んだのが分かった。

 

 

 所属艦娘の名簿―――つまりこの鎮守府の総戦力(・・・)が記された重要機密だ。僅かに見えた範囲でその戦歴も記されており、これ一つに相当数の情報が詰め込まれていると考えられる。

 

 

「そして、こちらは過去の作戦経過報告書。更に()がここにやってきてから今日までの資材管理謄本と運営費用の概算を記した一覧、実際の決算書など。どれも複写やコピーにはありますが、この鎮守府に関わる全ての情報になります」

 

 

 次々に出てくる機密書類の数々、つまり鎮守府全てだ。下手すれば楓ですら把握していない情報だってあるだろうし、逆に楓が把握していないことまで知ることができる。まさに、鎮守府として絶対に漏らしていけない極秘機密だ。

 

 そして今、それを一艦娘が提示している。普通、秘書官ですら所持しているなんてあり得ない。まして入手するなんて不可能だ。まだ潜入調査員の方が、持っていても信じられる。

 

 

 であれば、これは俺たちを騙すための偽物の可能性が高い。

 

 

「こちら、先日起きたキス島撤退作戦の報告書です。恐らく、大本営から(・・・・・)受け取ったものと一致していると思われます。またこちらがモーレイ海攻略作戦のもの、次に沖ノ島海域攻略作戦、更に……」

 

 

 だが榛名がそう言って見せてきた作戦報告書は、此処に来る前に大本営に寄越してもらったものと一致している。更に大本営からの……というか、朽木中将からの支援物資についても一致している。

 

 仮に他の情報がガセだとしてもそもそも情報自体を入手することが不可能なため、全てを一概に偽物とは切り捨てられない。

 

 

「これらを提供し、更にこれから行われる演習の戦略と戦術、その他全ての情報を提督にお渡ししましょう。それらをもって演習に勝利し……」

 

 

 そこで言葉を切った榛名は顔を上げ、先ほどよりも笑みを深くして言い放った。

 

 

 

明原楓(・・・)を、この鎮守府から追放してほしいのです」

 

 

 

 それが榛名の目的――――明原 楓の罷免、そしてこの鎮守府からの追放だ。

 

 

 

「……理由を聞いても?」

 

「簡単です。あの人が鎮守府(此処)に必要ないからです」

 

 

 

 そう彼女が発した途端、俺は素早く腕を真横に伸ばした。次に現れたのは、固く冷たい感触。それを、俺は刀の柄だと察した。

 

 

「伊勢、落ち着け」

 

「……はい」

 

 

 俺の言葉に、今しがた刀を抜き払おうとした伊勢が不満げに声を漏らす。そのまま後ろに下がったのだろう、俺の手から柄が離れた。それを確認し、俺は再度目の前に対峙する榛名に目を向ける。

 

 

 特に動揺している様子もなく、ただ静かに微笑んでいた。が、俺の視線を受けて口を開いた。

 

 

「私はこの鎮守府が開設当初から配属されており、様々な提督の下で戦っておりました。その中で現提督である明原 楓は指揮能力乏しく、決断力もありません。更に艦娘()たちと対等な関係として接してきます。私たちは軍に属するモノ(・・)、階級は絶対です。まぁ、そちらに関しては我々の問題があった故に致し方なかった、といえばそうですが……健全ではありません」

 

 

 すらすらと言葉を述べる彼女を、俺はじっと見つめる。傍らの伊勢も、俺同様沈黙を保っていた。

 

 

「そして現在、ある程度の問題は解決できたのではと考えております。しかし、今度は別の問題が浮上してきました。それは明原 楓に心酔する艦娘が増えてきたことです。先ほど見ていただいた通り、当方の艦娘は彼を異常(・・)なほど慕っております。もはや宗教です。そして、それを傘下に組み込まなければならない提督からしても、非常に厄介と思われるでしょう」

 

「……そうだな、だから俺はあいつを引きはがそうとしている。だが、目的が同じというだけで信用しようとは思わない」

 

「もちろんそれだけではなく、私は提督たちの真意(・・)も検討がついております」

 

「真意?」

 

 

 榛名の言葉に俺は眉を顰め、伊勢は声を漏らす。そんな俺たちの様子に、榛名はさらに笑みを深く刻んだ。

 

 

 

「提督たちの『真意』―――――それは『明原 楓の安全を確保するため』でしょう」

 

 

 

 榛名の言葉。それに、俺たちは何も声を上げることができなかった。

 

 

「……いつから気づいていたの?」

 

「提督たちが、彼に異動を言い渡した時です」

 

 

 伊勢の問いに榛名は微笑みながら片手をあげ、指を一本立てた。

 

 

「あの時、提督は彼をそのまま据えて命令系統だけを譲渡する案を蹴られました。その理由は、此処を牙城とするためとされました。しかし、それなら彼だけでなく私たちも異動させ、提督の直属部隊を置けば済む話です。なのに提督は彼だけを異動させようとしていました」

 

 

 そこで話を切り、榛名はもう一本指を立てた。

 

 

「また提督は私たちに、必要であれば鎮守府の運営を任せるとまで仰られました。こちらも同様に、直属部隊を置けば事足りるはずです」

 

 

 もう一本、榛名は指を立てた。

 

 

「更に『必要であれば』という言葉から、私たちに相当の配慮(・・)をされていると推察しました。私たちの暴発を防ぐためと言われればそうですが、それならあれだけ彼女たち(・・・・)が彼の異動に反発しているのにこれを意に介さず強硬(・・)する姿勢を崩しません」

 

 

 そこで言葉を切った榛名は、再び笑みを深く刻みながらもう片方の手で先ほど立てた三本の指を包み込んだ。

 

 

 

「彼女たちに対して好意的な姿勢を見せながら、彼の異動については頑なな態度をとられている。これを見るに、提督たちは私たちから『彼』を引き離そうとしているのでは、そう感じたのです」

 

 

 話し終えた榛名の言葉に、俺も伊勢も何も反論できない。いや、する必要(・・)がない。

 

 ぐうの音も出ないほどに真意を―――『楓を此処から助けに来たこと』を言い当てたからだ。

 

 

 

 元々、楓は士官学校を卒業したらうちに配属されるはずだった。それは俺の派閥形成のためであり、楓のためでもある。

 

 

 元来、権力が集中している組織というものは水面下の争いが激しく、成り上がるにはある程度の地位と実績、そして強力な後ろ盾が必須である。

 

 そして、俺たちの派閥―――『艦娘は兵器ではなく兵士である』と主張する派閥は若年層が大半を占めている。それこそ、組織内では弱小派閥とでもいえるだろう。

 

 そんな魑魅魍魎の巣窟のような組織に、何も後ろ盾がない若造が放り込まれれば良い様に使いつぶされるだけだ。それも俺が裏で色々と手を回し育ててきた存在なわけで、そのまま潰されることだけは避けたかった。

 

 

 ……まぁ学生時代のやつのことも聞いていたし、その尻拭いの意味もある。

 

 

 だから、楓が此処に配属されたと聞いた時は驚愕した。当然だろう、自分が育てようとしていた士官が最前線に、それも大本営に反旗を翻した鎮守府で、その前任者たちが次々と失踪しているのだから。

 

 恐らく、対立派閥―――『艦娘は兵器である』と主張する側から俺たちに向けた、見せしめのつもりもあっただろう。

 

 それ故に、なんとか渡りをつけて楓をこちらに引っ張れないかと今まであれこれ手を回してきた。が、潰されるであろうと思っていた奴はなんと艦娘たちを上手くまとめ、更に大本営含め軍部とのつながりを復活させたわけだ。

 

 これに対して俺は自分の事のように喜んだし、うちの派閥としても対立派閥の鼻を明かせたと留飲を下げることができた。更に対立派閥としても自分たちが擁立した故に表立って手を出せないため、まさしく目の上のたん瘤となったわけだ。

 

 

 だが、これは同時に楓を潰そうと裏で暗躍される可能性が高まったことでもある。奴を送った張本人である上層部、特に鎮守府を潰す案に賛同していた音桐少将は特に警戒しなくてはならない。現に彼の息のかかった憲兵が派遣されていると、現在上層部に出向している不知火から聞いている。

 

 今回は彼を経由し、楓にしか伝わらない文言で俺たちが行くと伝えてもらったからこうして無事接触できている。が、二度も同じ手は通用しないだろう。

 

 

 つまり、今回が楓を安全に俺たちの下に『帰ってこさせる』唯一のチャンスなんだ。

 

 

 幸いにして奴の指揮能力の具合は聞いていたし、先ほどの作戦の経緯もあった。解任するには十分な理由もある。更に榛名(彼女)たちが過去にしてきたことを盾にすれば、ある程度の反対も押し切る自信もあった。その反対もある程度の権限を認める譲歩も提示した。

 

 また予想外なこと……いや、ある意味予想通り(・・・・)と言えばいいのか、楓は自身の解任に肯定的だ。奴が従うのなら、奴を慕う彼女たちはぐうの音も出ないだろう。まぁ、それに関しては時間をかけて解消していくつもりだったが。

 

 

 そんなふうにぼちぼちやっていきますか……と思っていた時に、離反者(これ)だ。

 

 

「……なるほど、事情は分かった。貴艦の言う通り、俺たちは楓をここから引き剥がすためにやってきた。そして、君もまた奴をここから引き剥がしたい。互いの利害が一致しているから、俺たちに協力するというわけだな」

 

「はい、そのような認識で間違いありません。」

 

「でも、貴女がメ……明原提督が敢えて送り込んできた可能性は?」

 

「あの人がそこまで考えを巡らせたなら、私は此処に居ませんよ」

 

 

 今まで沈黙していた伊勢が疑問を投げかけるも、榛名は少し視線を逸らしながら答える。

 

 まぁ、そうだよなぁ。元々頭が切れる方ではなかったし、何よりこういうやり方を考え付きもしないだろう。それは俺や伊勢も分かっている。

 

 

 だからこそ、伊勢は楓が榛名(誰か)に唆された、と考えているんだろうな。

 

 だが、その線はないだろう。

 

 

「伊勢、恐らく楓は関わっていない。俺たちは変な横やりが来ないよう、敢えてアポなしで此処に来た。事前に用意していない限り、ここまで準備出来るはずがない」

 

 

 今言ったとおり、俺たちは敢えていきなり鎮守府にやってきた。それは俺たちの接触によって外部から手を回されないようにするためだ。これを知っていたのは、楓に対して独自に支援をしてきた朽木中将のみ。まぁ、楓たちと連絡を取る術がほぼなかったってのもあるが。

 

 更に俺は中将以外のルートからの連絡を試みた。それは敵側の音桐少将に出向中の不知火から、少将が送り込んだ憲兵経由でだ。そこも念のため、楓のみ(・・・)に対して伝わる方法で情報をリークさせた。

 

 あちらからすればいろいろと迷惑だったかと思うが、こっちだって相当配慮して今日に辿り着いたわけだ。それは分かってほしいが……ないものねだりだな。

 

 

「まぁ……だからこそ既に(・・)動いていたことが驚きなんだが」

 

「恐れ入ります」

 

 

 俺の言葉に、榛名は笑みを崩さずそう言った。褒めたわけでも貶したわけでもないが、彼女も無難な言葉で返したのだ。

 

 

 俺たちが此処に来ることを知ることができない、まして楓にそんなところまで考えられるわけがない。しかし、現に彼女は一艦娘の立場でこれだけの機密を握っている。

 

 つまり、彼女は以前(・・)から独断(・・)でこれらを収集していたわけだ。仮に楓たちにバレれば吊るし上げ待ったなし、最悪『処分』されてもおかしくない。

 

 そんな危険を犯してまで彼女は情報を集め続けた。それはひとえに、『願望成就』のためだろう。

 

 

「この情報、どうやって手に入れた?」

 

 

 そして、当然であり重要な質問を榛名にぶつける。それを受けた彼女は、今まで浮かべていた笑みを更に深くして答えた。

 

 

 

 

「提督との夜枷です」

 

「はあぁ!!?? メーちゃんが!?」

 

 

 彼女の発言に伊勢が叫ぶ。もちろん、俺も声は挙げなかったが同様の意見だ。もっと言えば、突拍子もなな過ぎて声が出なかった。

 

 

「え、え、どゆこと? え、メーちゃんいつの間に大人になったの……? いや、もうオトナ(・・・)なんだろうけどさ、でもあたしに、あたしの裸に、なっっっっんにも反応しなかった朴念仁なのに……えぇ? 夜な夜な艦娘とよろしくやってたってこと……」

 

 

 彼女の言葉に狼狽えまくる伊勢。その言葉の肯定も否定もせず、笑みを浮かべる榛名。

 

 

 

 

初代(・・)との、だろ」

 

 

 そんな彼女に言い聞かせるように、俺は声を絞り出した。その言葉に、伊勢は「えっ?」と漏らして俺を凝視し、榛名は頷いた。

 

 

 

「夜枷については中将殿から聞いている。そして、特に金剛型(君たち)が相手をさせられていたこともな……その時から収集していたってことか?」

 

「おっしゃる通りです」

 

 

 一応、過去の提督のことは聞いている。嫌な話、俺の保身のためにだがな。

 

 

 それに、楓ほどではないがここの艦娘たちには同情している。初代があんなクソ野郎じゃなければ、彼女たちもここまでならなかっただろう。

 

 それに一応、俺の傘下に入るわけだ。注意するに越したことはないし、あまり余裕がない故同じ轍を踏まないようにしなければならない。

 

 

 というわけで、『一応』の理解は示している。賛同はしないがな。

 

 

「だが、それでは最近の―――楓が着任してからの情報があることの説明にならない。まさか、楓にも色仕掛けしたとかないよな?」

 

「最初はそうしたんですが、どうも彼はそういうことに疎いようでしたので……なので、彼とそういう(・・・・)ことはしていませんよ」

 

「そ、そう……」

 

 

 榛名の言葉に、伊勢はホッと胸を撫でおろす。いや、それはそれで懸念すべきことじゃないのかな。(あいつ)、そっち側ってことかもしれないんだぞ。

 

 

 いや、そうじゃなくて。

 

 

「じゃあ、どうやって最近の情報を?」

 

「方法は同じですよ。ただ、対象(・・)を変えただけです」

 

 

 俺の言葉に、榛名は先ほど同様笑みを浮かべながらそう答えた。

 

 

 ―――――いや、ほんの僅かにその顔が歪んだ。

 

 

 

「憲兵です」

 

 

 次の瞬間、榛名は表情を戻してそう言い切った。

 

 

 その言葉に、俺はまっすぐ彼女を見た。同様に、彼女も俺たちをまっすぐ見つめ返してくる。いつの間にか、その表情は戻っていた。

 

 視界の外で伊勢が小さく息を吐くのが聞こえた。同時に、刀を握りしめたのか軽い金属音が鳴る。

 

 

「何故、そこで憲兵が出てくる? 彼は鎮守府の治安維持であって、運営そのものに関与できないはずだ」

 

「本来であればそうなんですが、どうも彼は明原 楓と旧知の仲だったそうで。最初こそ関与していませんでしたが、その能力を明原 楓が高く評価しまして、その右腕としてここ最近の進攻作戦に関与しています。それこそ、以前ありましたケ号作戦にも、憲兵は参謀として作戦会議の場にいました」

 

 

 そう話す榛名の表情は、今までの笑顔ではなく真顔だった。いや、どちらかと言えば感情を押し殺しているような。そんな表情だ。

 

 

 しかし、予想外だ。まさか憲兵を鎮守府の運営に、それも最も重要な進攻作戦に関与させているなんて。そんなバカな話があるか。

 

 憲兵は陸軍所属、その戦い方は陸地戦闘がメインだ。俺たち海軍と戦い方が根本的に違う。いくら神算鬼謀に長けていたとしても、陸のそれが海に通用するとは思えない。

 

 そして何より、敵側である音桐少将から送られてきたんだぞ。その息が掛かっていないわけがない。そんなやつを作戦に関与させるなんて……いくら楓自身が落ちこぼれだからと言って、流石に擁護できないぞ。

 

 まぁ毒と分かっていながら飲んだのか、はたまた毒だと思わずに飲んだのか。そこは分からないが、現にこうして内通(・・)されているじゃないか。

 

 

 

「つまり、君にその情報を渡したのはその憲兵というわけか」

 

「そうです。また、今はその右腕として働いていますが着任当初は私たちに対して横暴な態度をとっていました。それは私たちに手を出させ、それを理由に此処を潰す大義名分を得るため、そう聞きました(・・・・・・・)。しかし、それは明原 楓に丸め込められ、今はその側近としてふるまいつつ転覆の機会を伺っています。そのために、こうして情報を私に流しているのです」

 

 

 ……どうやら、本当にギリギリのタイミングで滑り込めたみたいだ。

 

 これが事実なら……いや、それはもう榛名(彼女)が証明しているが、この問題は此処だけでなく、この海域に駐屯している全ての鎮守府を危険に晒す問題だ。ただでさえ姫級の出現により危険な海域になっているのに、そこにこれほどの火種が燻っている。

 

 そして俺たちの派閥に多大な影響を、それも取り返しのつかない大打撃を被る可能性がある。いや、もはや派閥なんて関係ない。これは我が国の存亡の危機だ。くだらない派閥争いに終始している場合じゃないのだ。

 

 

 これは、是が非でも演習に勝たなきゃいけなくなった。

 

 

 

「あい分かった。貴艦の協力、感謝する」

 

「はい、よろしくお願いいたします。提督」

 

「あの」

 

 

 俺と榛名が合意した時、横の伊勢が声を上げた。それに俺と彼女は顔を向けると、伊勢は怪訝な顔をしていた。

 

 

「ちょっと気になったんだけど、もしメー……じゃなくて、明原 楓提督を此処から追い出したとして、此処を潰したい憲兵は残るわけじゃない? その場合、どうするの?」

 

「そちらに関しては、提督が私たちに運営を委ねていただければどうとでも対処します。慣れています(・・・・・・)ので、ご心配なく」

 

 

 伊勢の問いに、榛名は悪びれもなくそう答える。その言葉、そしてその意味を理解した上でそう答えているのだろう。そう思うと、背筋に寒気が走る。

 

 

 

 

「……そう。それじゃあもう一つ、というか確認ね。あんた(・・・)の目的は何?」

 

 

 そう告げる伊勢の顔から感情が消える。同時に片手で腰の刀を軽く抜き、その柄にもう片方の手を置く。少しでも動けば、そして嘘をつけば(・・・・・)叩き切ると宣言するように。

 

 その動きを、俺は敢えて止めない。その代わりに伊勢と同じように、冷めた視線を榛名に向けた。

 

 

 本当に、ただ本当に楓を此処から助け出すだけなら、ここまでしなくてよかった。だが、問題は水面下で致命的一歩手前まで進んでいる。それも、早急に対処しなければやすやすと超えてしまう一歩だ。

 

 それを理解しているために、伊勢は強硬姿勢をとった。そして俺も理解しているために、伊勢のそれを止めなかった。

 

 

 本来、彼女は此処で『処分』すべきだ。ここまで鎮守府に、そして大本営(俺たち)に対して背信行為をしているのだ。過去に何があろうとその行動は肯定できない。肯定してはいけない。必ず罰しなければならない。

 

 今回はたまたま(・・・・)利害が一致しただけだ。その言動にその考え、全てに信を置くことはできない。仮に互いの思惑が相克していたならば、今この場で伊勢にやらせていた(・・・・・・)。そして、このままことがうまく運び、楓を助け出したとしても、彼女だけは『相応の対処』をしなければならない。

 

 その対処は変わらない。変えるつもりもない。彼女もそれを理解している筈だ。理解した上で、対処されると分かっていながら、目の前に立っている。

 

 

 だからこそ問うた。彼女の目的(覚悟)を。

 

 

 

 

「此処を、元に戻すため」

 

 

 そして彼女は、榛名はそう答えた。

 

 

 その声色は、今までの柔らかな物腰ではない。感情の一切をそぎ落としたものだった。

 

 その手は、今まで力なく垂れていた手ではない。か弱い力で握られたこぶしだった。

 

 その眼は、今までピクリとも動かなかった目ではない。眉間にしわを刻んだものだった。

 

 

 

私たちの居場所(・・・・・・・)に、戻すためです」

 

 

 

 その表情は、今までずっと浮かべていた笑み(・・)ではない。

 

 ありとあらゆる感情を押し殺し尽くした末に浮かべられるであろう。

 

 

 

 

 ただの泣き顔(えがお)だった。

 

 

 

「……分かった、ありがとう。じゃあ、これからよろしくね(・・・・・・・・・)

 

「はい、榛名は大丈夫(・・・)です。では、失礼します」

 

 

 伊勢はそう言って今しがた抜きかけていた刀を戻す。それに対して榛名はそう言って頭を下げ、そのまま部屋を出て行った。彼女が頭を下げてから出ていくまで、その表情を伺うことが出来なかった。

 

 

 

 

「……ごめん提督、行かせちゃった」

 

 

 榛名を見送った後、伊勢がそう声を上げた。その方を向くと、やってしまった…と言いたげに片手で顔を覆っている彼女がいた。

 

 

「大丈夫だ、どうせ今は何もできないしな。それより今回の演習、是が非でも勝つぞ」

 

「うん、それはもちろん。負ける気ないし。必ずメーちゃんを……」

 

 

 話の途中で、伊勢は言葉を切ってしまう。そして、小さなうめき声を上げた。

 

 

「伊勢。分かっていると思うが、同情するな。彼女は敵だ」

 

「……分かってる、分かってるよ。あの子は敵、いずれ排除しなくちゃいけない。分かってるよ」

 

 

 俺の言葉に、伊勢は淡々と答える。答えてはいるものの、その様子から分かっている(言葉通り)には見えない。

 

 

 

「でもさぁ」

 

 

 そして彼女はポツリと、分かっていない(様子通り)の言葉をこぼした。

 

 

 

「あんなに酷い顔(・・・)見たの、うちにやってきたばかりのメーちゃん以来だよ」



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妹艦の『受難』

「山城? あとで一緒に謝りに行きましょうね?」

 

「……はい」

 

 

 頭上から姉さまの声が聞こえ、私はちょっと不貞腐れつつ答える。そして、そのすぐさま目の前のふくらみに顔をうずめる。

 

 

 そして大きく息を吸う。

 

 最初に感じたのは甘い匂いだ。次にきたのは少し酸っぱい匂い、恐らく汗か何かだろう。いや、姉さまは汗をかかない。これはあれだ、きっと姉さまの蜜だ。そうに違いない。

 

 一嗅ぎすれば世の男どもを瞬く間に魅了し、地の果てまでも追い求め、子々孫々に至るまで狂わしめる魔性のもの。

 

 それを追い求めた先にあるのは、その神々しいお姿だ。その姿を前にしたものは皆一様に頭を下げ、尊敬の意を示すだろう。それほどまでにお美しい、見目麗しいお姿だ。

 

 一糸まとわぬ姿なぞを目に入れようものなら、その眼を突き潰してやる所存である。いやほんと、冗談抜きで。ほんと。

 

 

 ……そしてここの提督(オス)は目に入れるだけでなくその身体を―――――――。

 

 

 

「よし、とりあえず両腕を叩き折ろぉぉおおおおお」

 

「やーまーしーろー?」

 

 

 新たな提督抹殺計画(決意)を口に出した瞬間、姉さまが私の頬を掴みそのまま左右に引っ張った。痛い痛い痛い、痛いけど嬉しい。姉さまに私の頬をつねられている、それだけでこうも気持ちが高ぶってしまうのは姉さまが姉さまだからだ。

 

 

 私――――山城は、そんな至高のひと時を送っている。

 

 

 今、姉さまが配属された鎮守府の中庭にあるベンチに腰掛け、その豊満な胸に顔を埋め『姉さま吸い』を慣行中である、以上(・・)だ。

 

 

 このまま死んでも悔いはない、そう思えるほどの時間だ。何も語る必要もない、姉さまに頬をつねられている、それだけ分かれば十分だ。

 

 何も語る必要もない。そのはずだ、うん。というか姉さま成分を感じることに集中しなければいけない、その他の事なんか語る余裕がないのだ。全神経を、全細胞を駆使して姉さまを感じなければいけないのだ。

 

 

 

 描写(周りのこと)なんか、知ったこっちゃない。

 

 

 

 

「ところで、どうして貴女が此処に居るの? 確か、もっと南方に配属された筈よね?」

 

 

 しかし、そんな女神さま(姉さま)から描写しろ(話をしろ)と言われてしまった。非常に、ひッじょォォオオオうに名残惜しいが、姉さま(女神さま)のお言葉には従わなければならない。

 

 というわけで、しぶしぶその双丘から顔を上げてそのご尊顔を拝謁する。

 

 

 はぁッ! いつ見ても神々しい……やはりこの世のものとは思えないお美しさ……惚れ惚れしてし――

 

 

 

 

「やーーーまーーーしーーーろーーー?」

 

「ふぁい!? は、はなしましゅはなしましゅうううう!?」

 

 

 姉さまの笑顔のまま、私の頬を引く力を込める。千切れそう、いやこのまま千切れてしまっても本望だ。だが、流石にこれ以上姉さまの機嫌を損ねるのはやめた方がいい。

 

 (不本意ながら)離してもらった姉さまの手に名残惜しさを感じつつも、私は伸びに伸びた頬を抑えながら話しだした。

 

 

 

「私がこっちに来たのは……半年前ぐらいです」

 

 

 

 私が今の艦隊に配属されたのは半年前。

 

 その前は、訓練校を卒業した時に配属されたところにいた。

 

 そこは今のところよりも南方。深海棲艦の拠点が複数点在しており、此処よりも強力な敵艦隊がひしめき合っている場所だ。

 

 

 そこに配属されたのは、訓練校時代の成績が関係していると言われている。

 

 自分で言うのもあれだが、これでも一応『最年少戦艦適合者』と『当期最優秀成績艦』の看板を引っ提げていたわけだ。上の意図とすれば、優秀な戦力を激戦地に置き、最速で精鋭とするための判断したのだろう。

 

 しかし、どうもそこの鎮守府は艦娘を『兵器』として扱っていたようで。今の提督がいる派閥に力を持たせないためだったように思う。

 

 つまり、二重の意味で自派閥の権威を確保しようと考えたのだろう。まぁ、高々一艦娘の配備で情勢を覆るとは思えないが…。

 

 

 

 とにかく、私は此処よりも激しい戦闘が行われる場所で日夜戦っていた。

 

 一進一退の攻防線を繰り返し、こちら側にも少なからず犠牲を出しながらも少しずつ前線を押し上げていった。

 

 

 でも、これは戦争なのだ。犠牲が出るのは当たり前。まして艦娘を兵器と扱う場所だ。そこにいる人間が情を向けることはない。

 

 それは私たち艦娘たちも同様だ。戦力の保持のためにも救えるものは救うが、もし沈んだとしてもそれは仕方がない。感傷に浸るのは愚行、それよりもこれ以上被害を出さないように全力を注ぐ。それがその艦隊の習わしだった。

 

 あと提督が私たちをちゃんと(・・・・)兵器として扱ったってのもある。兵器以外のこと、以上のことを要求してこなかった。そのおかげで、私たちはちゃんと兵器として動くことが出来た。

 

 

 そして何より、私は此処で沈むつもりもなかった。私の目標は姉さまの下に向かうこと、それだけ。

 

 そのためなら何でも(・・・)した―――というわけではないが、やったのは身を危険に晒す範囲を抑えたぐらい。そのせいで失敗した作戦もあったが、こちらとしてはいきなりこんな激戦地に放り込まれ、日々死と隣り合わせの戦闘を強要されたのだ。自分の身を守ることを強要させている手前、文句は言わせない。

 

 また、私が失敗の原因となった作戦で轟沈した艦娘はいない。失敗を取り戻そうと次に行われた作戦で沈んだ艦娘もいただろうが、それは作戦のミスであって私個人のせいではない。何より、作戦の責任を『兵器』に負わせること自体が筋違いだ。

 

 

 また、私は配属当初から転属希望を出していた。当然、姉さまの下に行くためだ。それを分かっていただろうし、そのために戦っていることも分かっていたはずだ。

 

 自身の意向に従わないくせに、ある程度の戦功を挙げているため無下にできない。それもただでさえ反発を受けやすい『兵器』として扱っている、その中でぞんざいに扱えば他の艦娘がどう思うか。大本営から激戦地に配属された優秀な(・・・)提督が、その危険性を理解していないはずはない。

 

 当時の提督としても、非常に扱いにくい存在だっただろう。

 

 

 そのおかげか、つい半年前にようやく転属希望が通った。その時、訓練学校から優秀な艦娘が配属されるみたいだったから、ようやく厄介払いができたとでも思ったのだろう。

 

 

 私は追い出されるようにそこを後にして、柊木 司(あの男)のもとにやってきたのだ。

 

 

 

「『あの男』なんて……提督をそう呼んじゃいけないわよ?」

 

「いいんですよ、許可(・・)もらっていますし」

 

 

 姉さまの叱責(ご褒美)を堪能しつつ、私は話を続ける。本来はそこで『姉さま吸い』をしようと思ったが、姉さまの両腕でがっちりガードされているためできなかったのだ。

 

 

 

 とにかく、私は今の鎮守府に転属した。

 

 そこは前にいたところとは別の派閥である、艦娘を『兵士』として扱う場所であった。まぁ対立派閥に扱いづらい艦娘を寄越したのだろう。

 

 

 いや、そんなのは関係ない。何故なら、私は猛烈に抗議したからだ。

 

 

 だって姉さまがいないんだもん!!!! なんでまた姉さまがいないところに行かなきゃいけないのよ!!!

 

 

 そんなわけで転属初日に執務室にダイナミックエントリー。そこで待っていたあの男に、たまりにたまった感情をぶつけたのだ。

 

 確かその時の秘書艦は蒼龍で、私を取り押さえるときにその豊満な乳を背中に押し付けられたような気がする。馬鹿め、そんな脂肪を押し付けられたところで今目の前にある姉さまのソレ(・・)に叶うはずがない。無駄に実ったそれに私が籠絡されるはずがないのだ!!

 

 

 というかなんだその脂肪は。これ見よがしにぶら下げやがって、削ぐわよ、クソ……

 

 

 

 ……話を戻そう、とりあえずあの男にとっとと姉さまの下に配属させろと抗議したわけだ。

 

 そして返ってきたのは、『お前の姉は大本営(我々)に反旗を翻した』であった。

 

 

 姉さまが配属された鎮守府は北方に位置しており、比較的危険度の低い場所であった。

 

 更にそこの提督は若いながらもなかなか優秀な男で、新任ながらも鎮守府の運営をよくやっており、戦績も申し分ないとも聞いていたわけだ。何より戦果報告を逐一大本営に送っており、非常に優秀かつ従順な鎮守府だと認識されていた。

 

 

 だが、ある日を境に、その連絡がプツリと途切れ、次にやってきたのはそこの艦娘たちからの宣戦布告。更にそこから逃げてきた艦娘の証言から、その鎮守府の実態が露わになった。

 

 

 艦娘を『兵器』と称し、その実『兵器』以下の扱いをしていた。補給なし、入渠なし、轟沈上等、体罰や汚職の横行、更には艦娘に『罰』と称して伽を強要していた、などなど。掘れば掘るほどヤバい情報が出てきた。

 

 もちろん一艦娘の証言のため、全て事実だとするのは無理がある。しかしそれ以外に判断材料がなく、現にこうして艦娘が反旗を翻している。少なくともそれがあったことを認めなくてはならないだろう。

 

 

 そしてそれを受けた大本営は、鎮守府の破棄(・・)を決定。能力がおぼつかない士官を提督として派遣し、彼らに艦娘をわざと沈めさせることで内部からの瓦解、そして更に反旗を煽ることで外部からの撃滅(介入)を図った。

 

 

 もちろん、それを聞いてすぐさまその鎮守府に殴り込もうとした。安否不明、最悪の場合沈んでいる可能性もあった。まぁ姉さまのことは私がよく知っているし、その可能性は有り得ないと踏んでいた。

 

 

 だけど……姉さまが、伽を強要させられている可能性は……否めなかったのだ……

 

 

 だがそれはあの男によって防がれた。

 

 というもの、彼は万が一の場合はうちの鎮守府がそこを殲滅する任を受けている、その任のために君を此処に呼んだ、とも告げられた。それを受けて、私は此処に配属されたことに一応の納得を示した。

 

 

 万が一、そこが暴発した場合に真っ先に出撃するのは此処だ。その時に出撃し、姉さまを救出することが出来る。

 

 それに此処が真っ先に出撃するということは、ある程度近いということだ。何処かのタイミングで姉さまに接触を図ることもできる。

 

 

 今までの無い無い尽くしではない、ある程度の希望が見える場所。そこに態々呼ばれたのだ、この件に関してはある程度融通を聞かせることもできるだろう。

 

 

 そして、それは明原 楓(あの提督)がそこに着任したことで、現実味を帯びたのだ。

 

 

 

「一応、あの男から『あいつはそんなことはしない』と聞いていましたけど……姉さまの美しさを見れば何をしでかすか分からない。獣には獣らしく躾しないといけないのです……これも全て姉さまを守るために……フフフ……」

 

「山城~? 帰ってきなさ~い?」

 

 

 目の前で姉さまの御手がひらひら揺れるのが見える。楽園に咲く一輪の花とはこのことか。素晴らしい、美しい……

 

 ともかく今日此処にやってきて、二重(・・)の意味で姉さまの無事を確認できて良かった。あとは此処を吸収し、再配属を姉さまと一緒にするようあの男にゴリ押すだけ。そうすればようやく今まで戦ってきた苦労が報われるというものだ。

 

 いや、これは苦労なのではない。試練だ。姉さまという女神の傍に至れるための試練なのだ。そう考えれば、今までの事なんか屁でもない。

 

 

 それこそ、こうして念願の楽園に辿り着いたのだから。

 

 

 

 

「でも、困ったわねぇ……私ここを離れるつもりないのに」

 

「え゛」

 

 

 だが、楽園(それ)は姉さまの発言によって木っ端みじんにはじけ飛んだ。それを聞いた瞬間、私の身体はさび付いた機械のように固まる。

 

 首だけをギギギと音を立てながら、姉さまを見る。そこには困った表情の彼女がいた。

 

 

 

 

 

 ――――――あぁ、困った顔もお美しい――――――

 

 

 

 

 

「……じゃなくて! な、何故ですか!? 此処に居たって何の意味もないのに!!」

 

「何故って言われても……此処を離れる理由がないもの」

 

「り、理由がないって……どういう……」

 

 

 私の叫びに似た問いかけに、姉さまは頬に指をあててそう答える。その見惚れてしまいそうなほど美しい姿を見つつ、私はわなわなと震えながら両手を近づけた。

 

 姉さま? どういうこと? 此処、最低最悪の鎮守府だって言われていたわけですよ? 離れる理由なんかいくらでも転がっている筈でしょう? なのに、なんで……

 

 

「まぁ山城の言う通り、()の此処なら離れたいと思ったかもしれないわ。でも、()の此処は離れたいとは思わないわね。むしろ、此処に残りたいとも思うもの」

 

「え? えぇ……だ、だって、あの提督ですよ? あんな駄目提督……なんで……?」

 

「……山城? 人の提督を『駄目提督』というのは、感心しないわよ?」

 

「いや駄目ですよあの提督は!!!」

 

 

 姉さまの言葉に、思わず大声を上げてしまう。それは今こうして座っているベンチの周り、そして中庭の隅々まで響き渡っていたのだろう。

 

 

 

 だから、耳に届いてしまったのだ。

 

 

 

「何が『駄目』っぽい?」

 

 

 

 そう、声が聞こえた。

 

 普通の問い、ではあった。が、そこに込められていたのは『殺気』だ。

 

 

「何が『駄目』なの?」

 

 

 次も、声が聞こえた。

 

 同じ普通の問い、ではあった。先ほどと違い、そこに込められたのは『怒気』だ。

 

 

 

 声の方を向く。

 

 

 そこには、先ほど執務室に居た二人の駆逐艦―――――夕立と曙が立っていた。

 

 

 

「今の言葉、聞き捨てならないっぽい。何が『駄目』か、説明するっぽい」

 

 

 その中の一人、夕立がそう私に問いかける。

 

 いや、問いかけるなんて生易しいものじゃない。刃物を首元に押し付けられて、知っていることを吐けと、脅されているといった方が近い。

 

 その横にいる曙は声を発さないものの、夕立同様鋭いまなざしを向けている。彼女もまた、脅しているうちの一人だ。

 

 

 そんな二人からすさまじい剣幕を向けられたいるわけだが。

 

 

 

「はぁ、面倒くさ……」

 

「は?」

 

 

 思わず漏れた本音に、曙がドスの利いた声で反応する。夕立は身をかがめ、いつでも飛び掛かれる体勢を取る。

 

 

 

 

 全く、それの何処が脅し(・・)なのかしら。

 

 

 

「『責任』を取らないからよ」

 

 

 だからこそ、その答えをぶつけてやる。

 

 真正面から、堂々と、まっすぐその目を見据えて。ぶつけてやった。

 

 

「あの提督……もう『あいつ』でいいか。あいつはうちの提督から異動を言われて、何も反論しなかった。まぁ反論できなかったの方が正しいけど、でもあいつは異動の理由を『上からの命令』と言った。その命令を下したのが自分の失態(・・・・・)だってのに、それを棚に上げて『上からの命令』だと言った。それに加えて、あんたたちに詫びようともしない。まるで『自分は悪くない、責任は上だ』って、言ってるようなもんじゃない」

 

 

 前の提督は、私たち艦娘を『兵器』として扱った。だが、『兵器』以上のことを要求しなかったし、誰かが轟沈したことも誰の責任にもしなかった。艦隊の失態は全て提督(自分)の責任として、私たち(兵器)に求めなかったのだ。

 

 銃で人を殺した場合、その罪は銃ではなく銃を撃った人間にある。何故なら、銃は殺すよう向けられただけで、自らの意志で殺そうとしたわけではないからだ。

 

 

 だからこそ、あそこの艦娘は自身を『兵器』と扱う提督に従い、激戦を繰り広げることが可能(・・)なのだ。

 

 

 だが、あいつはそれをしなかった。

 

 

 今回の異動について、うちの提督から先の作戦での失態が関係していると言われた。確かに戦況的にそうせざるを得ない面もあるが、少なくともその判断を下した材料に『自身の失態』があるわけだ。故に、本来ならそう判断をさせてしまった艦娘たちに詫びなければならない。

 

 それも、彼女たちはあいつの異動に真っ向から嚙みついている。言えば、その判断からあいつを守っているわけだ。もっと言えば、彼女たちはその失態を犯した提督の指揮を――――自分が沈む可能性が高いその指揮に従うと言っているのだ

 

 

 あいつが捨てた責任を、本来糾弾するはずの自分たちが取る(・・)と言っているのだ。

 

 

 そして、あいつはその気遣い(・・・)すらも無下にした。それも上に責任を押し付けて、自分だけさっさと逃げようとしているわけだ。

 

 部下の失態はおろか、自分の失態すら周りに押し付ける奴が誰かの上に立てるはずがない。厄介なのは『強敵』ではなく無能な(・・・)『味方』。更に責任を負わずに逃げる奴は、もはや『味方』でもない。

 

 

「だから『駄目提督』……あの時は『最低』って言ったのよ」

 

 

 そう言い切って、いまだにこちらを見据える二人をにらみつける。私の話を二人は黙って聞いていた。その間、夕立は飛び掛かれる体勢を解いており、曙は変わらず直立不動だ。

 

 だが、何処かその表情は先ほどよりも柔らかいものになっていた。というか、どことなく拍子抜けしているようにも見える。

 

 

 

 

「はぁ? そんなこと?」

 

 

 

 だが次の瞬間、曙の口からそんな言葉が飛び出した。

 

 

「え」

 

 

 そして、私の口からもそんな言葉が飛び出した。

 

 

 

「なーんだ、心配して損したっぽい」

 

「そうね、じゃあとっとと済ませよっか」

 

「ちょちょちょ、ちょっと待って!?」

 

 

 何事もなかったかのように立ち去ろうとする二人を、思わず引き留めてしまった。引き留められた二人はこちらに顔を向け、何故か不思議そうな顔を向けてくる。

 

 

「あんたたち……本当に分かっているの?」

 

「あいつが責任を取る覚悟がないってことでしょ? 分かってるわよ」

 

「夕立、この前の作戦から知ってるっぽい」

 

 

 私の言葉に、二人は何事もない(・・・・・)かのようにそう言ってくる。そんな二人に、私が何も言い返せない。そんな私を見てか、曙がため息交じりにこう言った。

 

 

「責任がどうとか、だからこそこうあるべきだとか……面倒くさいのよ、そういうの。『負いたければどうぞご勝手に』、とまではいかないけどさ。わざわざ責任(それ)を誰かを決める暇があるなら、そうならないように(・・・・・・・・・)皆で知恵絞った方がいいでしょ?」

 

「そうそう。責任の(そういう)は、なったときに決めればいいっぽい!」

 

「いや、流石にそれは言い過ぎ」

 

 

 二人のやり取りに、ようやく頭が動き出した。

 

 

 ……つまり、なんだ? この二人は、責任の所在よりもまずはそうならないようにすべきだ、って言いたいのか?

 

 なにそのやべぇ考え方……脳筋じゃないの……

 

 

「まぁ仮にその責任が誰だってなったら、その時に色々知恵を振り絞ったみんな(・・・)の責任でしょ? それでいいじゃない」

 

「い、いや……ま、万が一それで誰か沈んだ時は……」

 

「そうならないように、夕立たちが考えるっぽい!! だから大丈夫!!」

 

 

 あぁ……駄目だ、話が通じない。こんな脳筋まみれの場所に姉さまがいるなんて信じられないわ……早く何とかしないと。

 

 

「それに――――」

 

 

 次に、夕立の声が聞こえた。同時にその顔が視界に入ってくる。覗き込んできたのだ。

 

 

「夕立たちが、負けるはずないもの」

 

 

 そう言い放った顔は、への字に曲げた眉、目じりが下がった半目、口角が吊り上がった口。

 

 

 

 簡単に言おう―――――煽り散らした(・・・・・・)笑顔だ。

 

 

 

 

 

「は?」

 

 

 一言、いや一文字が飛び出す。同時に頭が熱を帯び、額に青筋が浮かぶのを感じた。

 

 

「はい、扶桑さん」

 

「あら、何かしら……?」

 

 

 視界の外で曙と姉さまの声が聞こえる。その方を向くと、曙が姉さまに何かの書類を手渡しているところだった。不思議そうな顔の姉さまが書類に目を通すと「ほぉ…」と小さく声を漏らす。

 

 

「さっき夕立たちがそっちの提督さんに直談判して、演習をすることになったっぽい」

 

「は? なんで? なんであんたたちと演習なんか」

 

「その演習で、私たちがあんたらの傘下に入るかどうか決めるのよ」

 

「……ふーん」

 

 

 なるほど、なんとなく話が読めてきた。

 

 

 私たちの傘下に入ることをよしとしないこいつらが、あの男に直談判。その結果、傘下に組み込まれるかどうかを決める演習をすることになったってわけね。

 

 そして、それを姉さまに伝えに来たところにあたしの発言を聞いちゃったってことかぁ~……通りでタイミングよかったわけかぁ。

 

 それで? その演習で私たちと戦うことになるけど、『負けるはずがない』と。

 

 

 へぇ~そうなんだぁ~なるほど、なるほどなぁ~……うん。

 

 

 

 

「舐めてる?」

 

 

 その一言を発し、私は夕立に詰め寄る。目を見開き、額に青筋を浮かべながら。

 

 対して、夕立はその問いに答えない。ただ、先ほどの煽り散らした顔のまま黙って見つめ返してくるだけ。

 

 

 恐らく、傍から見ればものすごい剣幕でメンチを切り合っているように見えるだろう。マジでやり合う5秒前みたいに。

 

 

 

「あら、私も出るの?」

 

「ええッ゛!? 姉さまが!?」

 

 

 だが、それも横にいた姉さまの言葉で終わる。その言葉に思わず姉さまに近づき、その手にある書類を覗き込む。

 

 

 そこには傍にいる曙、夕立、そして『扶桑型戦艦1番艦 扶桑』の文字があったのだ。その事実に思わず曙の方を見る。彼女は急に向けられた私の視線に首をかしげた。

 

 

 

「な、なんで姉さまが巻き込まれているのよ!?」

 

「さぁ? それ考えたの、うちの提督だし」

 

「はぁあ!? ふざけんじゃないわよ!? なんで姉さまと戦わなきゃ―――」

 

 

 そこまで言い終えて、私は言葉を切った。いや、無理やり(・・・・)噛み殺した。

 

 

 

「え、もしかして勝てないっぽい?」

 

 

 横から聞こえた夕立(クソガキ)の言葉。その上擦った一言。その煽り散らした顔があったから。

 

 

 

 それを見て、私の中で何か(・・)がキレたからだ。

 

 

 

「やってやろうじゃないのよ、クソガキが」

 

 

 腹の底から響く低い声で、そう返してやる。人に見せてはいけない顔を浮かべながら、夕立に詰め寄る。

 

 対して、奴は一目散に退散していった。逃げるというよりも、もう用はないといった感じだ。その証に、奴は去り際にぺろりと舌を出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やってやろうじゃないのぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!! この野郎ォォォオオオオオオオオオオ!!!!!

 

 

 

「やーーーーまーーーーーしーーーーろーーーーー?」

 

「痛ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃぁ!!!???」

 

 

 心の中で叫んだ瞬間、姉さまに頬を思いっきり引っ張られる。私にとってはご褒美だけど!! 流石に『もう戻らないのでは?』と思うぐらいに引っ張られるのは辛い!!

 

 

 というか、なんで私が悪いことになってるの!? 煽ってきたのあっちじゃん!! おかしいでしょ!?

 

 

 そう疑問に思いながらも懇願し、なんとか姉さまの手から逃れる。ちゃんと戻っているだろうか、と熱を帯びる頬に手を当て確かめる。うん、多分大丈夫、最悪入渠すれば治る。

 

 

「全く……女の子がそんな顔したダメよ? せっかく、可愛い顔が台無しになっちゃうわ」

 

「か、かわ!? イイ……え、えへへへ…………」

 

 

 ね、姉さまから『可愛い』って言われたわ……

 

 もう、姉さまったら……私のことを案じて言ってくださったのね、好き。

 

 

 

 

 

 ……じゃなくて。

 

 

「というか、姉さま!! 訳の分からないうちに勝手に巻き込まれたんですよ!? なんで何も言わないんですか!?」

 

「なんでって……言う必要もないでしょ? 特に」

 

「いいや、大アリですよ!!!! 姉さまに同意もなく―――」

 

 

 そこで、私の声は途切れた。

 

 それは何故か、目の前に砲口(・・)が現れたからだ。

 

 

 

「あら、私も負ける気はないわよ?」

 

 

 それを向けてきた本人――――姉さまがそう問いかけてくる。

 

 

 その妖艶な笑みは、見るものすべてを虜にするであろう。誰一人として同じ表情を浮かべることが出来ない、唯一無二のものだ。

 

 本来であれば、速攻で見とれてしまうはずなのだが、生憎その人から鉛弾を吐き出す口を向けられている。非常に、非常に残念だが、それを堪能する余裕はなかった。

 

 

 

「……姉さまも、やる気なんですね」

 

「もちろんよ。私、此処結構気に入っているもの」

 

 

 脂汗をにじませる私の問いに、姉さまは鈴のような声でそう答える。そして、同時に向けていた砲を消し去る。ようやく姉さまの笑みを堪能できるようになったわけだが。

 

 

 それでも、先ほどの事が頭をよぎるせいで十分に堪能できない。

 

 

「まぁ、それは当日になってからのお楽しみ。よろしくね、山城」

 

「ええ、よろしくお願いします。姉さま」

 

 

 優しく微笑む姉さまに向けて、私は精一杯の笑顔を向ける。その裏腹に、私は心の中で悔し涙を流すのであった。

 

 

 

 あぁ、姉さまがもう脳筋(手遅れ)になってしまった……

 

 

 

 そんな私をしり目に姉さまは先ほどの書類を視線を落とし、ポツリとつぶやいた。

 

 

 

 

「日向も、か」



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触れてはいけない『こと』

「はぁぁあああぁぁぁ……」

 

 

 その身体のどこからそんな声が出せるの……? と言いたくなるほど深い深いため息を漏らす夕立。そんな彼女を心配半分、呆れ半分で見つめる私――――曙。

 

 私たちは今、食堂の一角に腰を下ろしてクリームあんみつを食べている。これは私が考案したもので、前に潮とクソ提督に食べさせ好評だったので定番メニュー化した代物だ。他の皆も好評で、間宮アイスに並ぶ人気商品となった。

 

 

 ……ええ、ちゃんとクソ提督にも食べさせたよ、あのバカ。

 

 

 まぁ、何故こんなところで二人のんびりしているのかというと、今しがた扶桑さんに演習の事を伝えに行ったからだ。いや、ただ伝えに行っただけなら、こんなことにはならない。問題は、その時居合わせた扶桑さんの妹である山城……さん? うん、山城さんがいたからだ。

 

 

「確かに『出来るだけ煽ろう』って言ったけどさぁ……」

 

 

 先ほどのやり取り、実はわざとだ。理由は簡単、向こうさんにこちらが調子に乗っていると思わせるため。もしくは周りが見えなくなっていると思わせるためでもある。

 

 ちょうどあちらさんのおかげでうちにいる艦娘たちの改造が進み、前に引けにならないほどの強くなったわけだ。その強化を過信してでかい態度をとっている、そう思い込ませやすい。

 

 しかも、さっきクソ提督が発表したメンバーに私たちが入っている。あいつ曰く、『お前たちが言い出したんだから最後までやり抜け』ということらしい。まぁ一理あるし、私たち的には丁度いいということで二つ返事で承諾。その代わり、演習メンバーへの通達をすることを了承してもらった。

 

 そんな役得もあったわけで、なら演習を周りに知らせつつあちらさん側の艦娘には舐めた態度をとるようにしてみよう、という私が提案。それを夕立も了承し、いざ飛び出したわけだ。

 

 

 そして第一メンバー発見、更に山城(あちら)さんもいた。こりゃ好都合だ、いざ尋常に勝負!!

 

 

 その結果が、普段慣れないことをして疲弊する&煽り過ぎたと後悔する夕立であった。

 

 

 

「……何もあそこまでやらなくても」

 

「……反省はしてないっぽい」

 

 

 いや、反省はしなさい。いろんな意味で。その意を込めて夕立の頭にチョップをかます。すると、彼女はふらりと頭を揺らして目の前の机に身体を預けた。器用に自分のあんみつを避けて、だ。スプーンも咥えたままだったので、「危ないわよ」と言いその口からスプーンを抜き取る。

 

 

「でも、言い出しっぺは曙ちゃんだよ? あそこは乗ってくれても良かったっぽい」

 

「今、そんなふうになってなければね? 一煽りごとにあんみつ食べさせる余裕はないわよ」

 

 

 ため息を吐き終わるとともに机にだらしと身体を預ける夕立をしり目に、私はクリームを掬って口に含む。うん、ホイップクリームだからそんなにくどくない。フルーツの酸味をいい意味で抑えて、かつ引き立てる。我ながら力作だ。

 

 ちなみに、このあんみつは私のおごりである。あれをかました後、夕立の疲労困憊ぐらいがヤバいと察し、とりあえず作戦会議も兼ねて休憩にしたのだ。

 

 

 私の言葉に不満そうに口を尖らせる夕立の口に、先ほど抜き取ったスプーンで掬ったクリーム付みかんを差し込んでやる。途端、夕立は顔に刻まれたしわを消し、恍惚の表情を浮かべる。

 

 

 それを何度か繰り返しながら、私は手元の書類に視線を落とした。

 

 

 

 それは、演習に参加するメンバーが書かれている。

 

 

 

『綾波型駆逐艦   8番艦  曙改』

 

『白露型駆逐艦   3番艦 夕立改二』

 

『金剛型戦艦     3番艦 榛名改』

 

『伊勢型航空戦艦  2番艦 日向改』

 

『扶桑型航空戦艦  1番艦 扶桑改』

 

『龍驤型軽空母艦  1番艦 龍驤改』

 

 

 

 以上が、今回の演習メンバーだ。

 

 

 自分で言うのもあれだが、何故このメンバーなんだろうか……

 

 

 

 あちら側の編成は、連れてきた艦娘たちそのままだ。伝聞ではあるが、艦種だけを見るとほぼ私たちと一緒だ。違うと言えば、あちらは正規空母の蒼龍さんに対してうちは軽空母の龍驤さんであることくらい。

 

 

 ――――そう、『一緒』なのだ。

 

 まるで向こうの艦種に合わせた(・・・・)ように、メンバーが組まれているのだ。それも、空母に関しては艦載数的に劣る軽空母を置いている。

 

 編成次第では加賀さんや隼鷹さん、金剛さんも組み込めたはず。その方が制空権を支配できる分、こちらが有利になるのにだ。また北上さんを組み込めば、駆逐艦(私たち)に対して独自に指示を出せるために小型組はある程度安定する。艦隊内に独立した小隊を持つことも可能だ。相手の手の内が見えている分、対策はいくらでも出来る。

 

 現時点でも非常に有利な状況なのに、クソ提督はそれをせずに相手に合わせたメンバーを組んできた。それがたまたまなのか、わざとなのかは分からない。しかし、ここまで揃えているところを見るに恐らく後者であろう。

 

 

 

 そう考えると、じゃあ何故この編成にしたのか。

 

 わざわざ勝てる見込みを捨てて、敢えて合わせに行った意図は何か。

 

 拮抗した状況でも勝つ算段があるのか、それとも勝つ自信があるのか。

 

 そもそも、勝とう(・・・)とすらしていないのじゃないか。

 

 『勝つ』ことが目的ではなく、『負ける』ことが目的なのではないか。

 

 『負ける』ことで、此処を去ることが目的なのではないか。

 

 

 

 ―――――考えられることは、沢山ある。だけど今のところ、言えることはある。

 

 

 あいつは、『自分』に都合の悪いことは言おうとしない。

 

 そしてそれは、『私たち』が被害を被ることであればあるほど、だ。

 

 

 

 もしそれが私の思い込みだとしても、それはそれでいい(・・・・・・・・)。私はその思い込みを信じていくだけだ。

 

 そして私と同じなのが今目の前にいる夕立、そして此処に居る艦娘たち。全員とは言わない、いや言えない。

 

 

 だけど、必ず(・・)存在していることは、確かだ。

 

 

 

「曙ちゃん」

 

 

 ふと、夕立の声が聞こえる。振り向くと、真剣な顔を浮かべた彼女がいた。

 

 

 

「負けないよ、絶対に」

 

 

 その言葉と共に、笑みを浮かべた。それを見て、私も笑みを浮かべる。

 

 

「ええ、当然でしょ」

 

 

 そう言って、二人で笑い合う。傍から見れば、どう見えただろうか。無邪気な笑みを浮かべる微笑ましい光景か、怪しい笑みを浮かべる近づきがたい光景か。

 

 

 

 

 

「何を企んでいるんだ?」

 

 

 そんな光景を、恐らく後者と捉えたらしき人が声をかけてきた。それを受けて、私たちは声の方を向く。

 

 

「日向さんっぽい!!」

 

「隣、良いかな?」

 

 

 夕立がその名を呼び、呼ばれた彼女―――――日向さんがうっすら笑みを浮かべながら、私たちの席に座ってきた。

 

 

 伊勢型航空戦艦の日向さん。この鎮守府には、私の後に着任してきた。

 

 最初は常に無表情。声色も変わらず、更に「ああ」とか「了解した」とかしか言わない。多くを語らない人で、非常にとっつきにくい印象だ。もちろん此処の状況もあったため、なおさら表情を出すことが出来なかったのもあるが。

 

 だが、それは先ほど出会った扶桑さんが来たことで、ある程度の感情を見せるようになった。とはいっても、そのほとんどは二人の煽り合いによるもので、見えた表情も扶桑さんに向けた皮肉や蔑視のようなものばかりだったが……

 

 

 ちなみに夕立曰く、先ほどのあの煽り方は二人のやり取りを参考にしたらしい。悪影響しか与えていない。

 

 

「ちょうど良かった、日向さんに渡すものがあるんです」

 

「ん? 私にか?」

 

 

 そう言って、私は先ほど視線を落としていた書類を日向さんに手渡す。彼女はそれを受け取り、目を通し始めた。

 

 一応、クソ提督の件は鎮守府中に広がっているため、ある程度の説明は省いても問題ないだろう。というわけで、簡単にだが説明した。

 

 

「……なるほど、提督の異動をかけて演習をすると。しかし、それにしては妙な編成だな」

 

「やっぱり、そうですよね……」

 

 

 私の説明に納得しつつも、日向さんも私と同じ疑問をこぼす。それに同調しつつ、私も首をひねった。私は相手の編成を知っている分納得できるところもあるが、それも知らない日向さんでもおかしいと思うだろう。

 

 

「多分ですけど、この編成は相手に合わせていると思うんです」

 

「相手に? なんでまた?」

 

 

 私の言葉に、日向さんが首をかしげながら問いかけてきた。遅かれ早かれ知ることだし、逆にここで演習の作戦を詰めることが出来るかもしれない。そう考えて相手の編成を伝えた。

 

 

 

「そうか」

 

 

 私が相手の編成を言い終えると、日向さんはそう言って黙り込んでしまう。その表情は読めない。ピクリとも動かない。急に動かなくなった日向さんに、私と夕立はいぶかしげな目を向ける。

 

 

「日向さん?」

 

「あぁ、すまない。じゃあ、ちょっと行ってくる」

 

 

 夕立の問いかけに日向さんは小さく答え、おもむろに立ち上がった。その時見えた顔、それはいつもの無表情だった。

 

 

 だが、ほんの少しだけ。何か(・・)に顔を歪めているようにも見えた。

 

 

「どこに行くんですか?」

 

「執務室だ。私を外してもらう」

 

「え!? な、なんでっぽい!?」

 

 

 日向さんに声をかけると、そんな答えが返ってきた。それに夕立は立ち上がり、行こうとする彼女の手を握る。

 

 

私がいる(・・・・)と勝てないからだ」

 

「そ、そんなの分からないっぽい!!」

 

「分かるんだ、私には」

 

「だ、だからなんでそう決め――」

 

「勝てないんだよ!!」

 

 

 夕立の声をかき消すように、その手を払うように。日向が声を、怒声(・・)を上げた。

 

 

 その怒声は食堂中に響き渡り、その場にいた周りの目を集めた。その全てを一心に集めた日向さんは、無表情であった顔を崩して、とある感情を見せた。

 

 

 

 

「伊勢には、絶対に」

 

 

 そう絞り出すように、『悲観』じみた顔で出したのだ。いつもの無表情、たまに見せる『不遜』な表情ではない。

 

 

 

 何度も何度も打ち砕かれたであろう、『脆弱』な彼女(もの)だった。

 

 

 

「どうした?」

 

 

 不意に声が聞こえた。その方を見ると、長門さんが立っている。その横には、驚いたような顔の女性がいる。

 

 少し癖のあるショートカット。後ろ髪はなぜか後方に向かって大きく跳ねており、前髪は右で七三分けになっている。その下に見えるは黄緑色の瞳だ。頭には艦橋の信号桁を模したカチューシャを、首には手錠を大きくしたような首輪がつけている。

 

 和風デザインのへそ出しノースリーブのトップスに黒の超ミニスカートという露出度の高い服装。足には赤のオーバーニーソックスを履いており、両手には白い手袋をつけている。

 

 

 そして何より、その大きく盛り上がった胸部装甲……くそ。とにかく、露出度が高いがどことなく長門さんに似ている。

 

 

 

「いや、なんでもない。じゃあ、私はこれで」

 

 

 声をかけてきた長門さんに、詫びを入れる。その時には、いつもの無表情に戻っていた。そのまま、長門さんの脇をすり抜け食堂を出ていく。道中、周りの艦娘に詫びを入れつつだ。

 

 日向さんが出て行ったあと、食堂は潮が満ちるように騒がしさを取り戻していく。ただ、そのほとんどが私たちを見てひそひそ話すものばかりだったが。

 

 

「で、何があった」

 

 

 もちろん、それを見逃す長門さんではない。彼女は先ほど日向さんが座った場所に腰を下ろし、そう問いかけてきた。それに対して私は口をつぐみ、視線だけをその横にいる女性に向ける。その視線を察したのか、女性は軽く咳ばらいし、手を差し出してきた。

 

 

「初めまして、私は長門型戦艦 2番艦の陸奥。知っていると思うけど、柊木提督傘下の艦娘よ。これからよろしくね」

 

「……曙です、よろしく」

 

「……夕立っぽい」

 

 

 差し出された手を握り返しながら、名前だけを述べる。非常に失礼だとは思うけど、クソ提督を此処から立ち退かせようとしている人ではあるので、あまり親しくしたくはない。

 

 

「おい二人とも……すまんな、陸奥」

 

「いいのよ、長門。私たちが此処に来た目的を聞けば、こういう態度をになるわ」

 

 

 私たちの塩対応に長門さんから苦言が飛び、そのまま陸奥さんに詫びを入れる。それに対して、陸奥さんは余裕そうな笑みを浮かべた。その余裕そうな雰囲気、男気満々の長門さんの妹とは思えない色気ムンムンの人だなぁ。

 

 

「陸奥さん、『演習』の件って聞いてます?」

 

「演習? いいえ、何も」

 

「なんだ、私も知らんぞ」

 

 

 演習について二人に問うと知らない雰囲気だったので、とりあえず簡単な説明をしておいた。その傍ら、特に何も言わずに黙っていた夕立であったが、その顔は先ほど山城さんに見せた顔――――『煽り散らした』顔になっていた。

 

 この子、本当にわざとやってるのかしら? 傍から見ると、自然(ナチュラル)にやってるようにしか見えないんだけど……

 

 

「……というわけです」

 

「ほぉ、面白いこと考えたなぁ」

 

「……それ、本当なの?」

 

 

 私の話に長門さんは言葉通り、クックックッと笑っている。その横の陸奥さんは何も言わないものの、その顔は明らかに不満げであった。彼女からすれば、このまま吸収されるだけで終わるところに無理やり演習をねじ込まれた形だ。そんな顔になるのも仕方がない。

 

 それに、確か彼女はうちにやってきたときから伊勢さんたちと別行動をとっていた。今の様子を見るに、恐らく長門さんに会いに行っていたのだろう。先方への挨拶よりも姉に会うことを優先したということだ。

 

 うちの艦娘たちを例に考えれば、少なくとも何らかの感情を長門さんに向けているに違いない。そして、演習の話をしてこの反応だ。彼女にとって、私たちが吸収されることを歓迎していたのだろう。

 

 

「……確かに貴女たちの境遇を考えれば、急にやってきた艦隊に吸収されることに反感を覚えるのは仕方がないか。まぁ、いずれにせよ仲間になるんだし、仲良くしましょうよ。でも演習はきっちり勝たせてもらうから、そこは我慢してね」

 

 

 しかし、陸奥さんは変に食い掛ることはせず、大人の対応で返されてしまった。流石にこれにかみつくのは厳しいわね……なるほど、これが大人の余裕か。

 

 でも、演習については言及しているので、少なくとも引っかかる部分があったのだろう。

 

 

「それと、ちょっと聞きたいことがあるのだけどいいかしら?」

 

「何っぽい?」

 

 

 微笑を浮かべる陸奥さんの問いかけに、私ではなく夕立が答える。その顔は変わらず煽り散らしている。夕立、それもうやめな―――

 

 

 

 だが次の瞬間、目の前で何かが通り過ぎた。

 

 

 それが何かを認識する前に、それは何かを―――――夕立の身体を引っ張り込んでいた。それを認識してようやく、何かが陸奥さんの両腕だと分かった。

 

 

 そして目の前には、机越しから夕立の胸倉をつかむ笑顔の陸奥さんがいた。

 

 

 

「ぽひぃ」

 

 

 かすかに漏れる夕立の声。先ほどの煽り散らした顔のまま、その目に涙がたまっていた。

 

 

 

「長門をあんなふうにしたのは、あんた(・・・)?」

 

 

 そう問いかける陸奥さん。その顔は笑っていた。笑って(・・・)はいたのだ。

 

 ただその薄く開かれた目は、真っ黒に染められていた。その『黒』には、膨大な感情でぐちゃぐちゃにしたように濁っていた。

 

 

 

「ち、ちょ――」

 

「じゃああんた?」

 

 

 ようやく理解が追いつき近づこうとすると、今度はその真っ黒な目を私に向けて問いかけてきた。その視線にさらされた瞬間、私は背筋に寒気を感じ、のど元に圧迫感を覚える。

 

 まるで首を絞められているような、のど元に刃物を突き付けられているような、そんな恐ろしい感覚に襲われたのだ。

 

 

 

「ち、違い……ます……」

 

 

 私がそう声を漏らすと、胸倉を掴まれている夕立は無言のまま首を縦に振りまくる。その度に涙や鼻水が飛び散るも、それすらも気にする様子のない陸奥さんは私たちから視線を外し、遠くを見詰めるように呟いた。

 

 

 

「やっぱり提督か……よし、なが―――」

 

 

 陸奥さんがそう言って長門さんの方を向く。だが、その言葉は途中で途切れた。

 

 

 振り向いた瞬間、長門さんの右ストレートがその顎に入ったからだ。

 

 

 

「えーーーーーーーーッ!!!!!!!」

 

 

 響き渡る私の絶叫、崩れ行く陸奥さん、それを支える長門さん、その手を逃れて椅子にへたり込む半べその夕立。

 

 

 またもや、食堂の視線が私たちに集中するのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやぁ、ごめんなさいね~」

 

 

 食堂が幾分か落ち着いて、というかそもそも利用者が減ったという方が正しい。ともかく、私たちは改めて陸奥さんと長門さんと対峙した。

 

 ちなみに、夕立は私にしがみつき小さくなっている。さっきの威勢は消え去り、怯えた目でブルブル震えていた。

 

 

「い、いえ……そ、その……」

 

「何よ、そうかしこまらなくていいじゃない!! ほらほら、これお詫びのアイス!!」

 

 

 視線を外しながらそういう私に、陸奥さんはそう言ってアイス(長門さんのおごり)を近づけてくる。いつもの夕立なら真っ先に飛びつくのだが、流石にあの後だとそれは無理みたいで。逆に小さな悲鳴を上げて後ずさりした。

 

 

「あら、あらあら……恥ずかしがり屋さん?」

 

「なわけあるか」

 

 

 そんな夕立の様子を何故か別の解釈をする陸奥さんに、横の長門さんが突っ込みと共に勢いよくその頭をはたく。割と高威力だったのだろう、それに合わせて陸奥さんの頭がぐわんと回る。

 

 だが、何故かその顔は恍惚の表情を浮かべていた。そしてそのまま立ち直ったかと思うと、何故か頬を赤く染め、身体をモジモジとさせ始めたのだ。

 

 

「ちょっと長門……こんな人前でやるのは恥ずかしいわ」

 

「……はぁあ」

 

 

 最後にそんな言葉をこぼす陸奥さんを見て、長門さんは今まで聞いたことのないようなため息をこぼした。いつもの頼もしい戦艦である彼女ではなく、いつ何時暴発するか分からない暴走列車の世話で疲れ切った哀れな人に見えた。

 

 

 多分、陸奥さんはあの山城さんと同じなんだろう。俗にいうと、『お姉さんLove』ってやつだ。

 

 

 山城さんは『好き』が先行し過ぎたパターン。扶桑さんに想いをぶつけることで発散するタイプ。

 

 陸奥さんは『好き』が歪んだパターン、それも『好き』とは別ベクトルへ全力疾走したやつ。長門さんからのアクション(物理)を受けることで快楽を得るタイプ。

 

 

 

 なんだよ、やべぇ奴しかいないじゃない……

 

 

 

「曙ちゃん……」

 

 

 ふと、夕立の声と共に服を引っ張られる。彼女を見ると、顔全体を使って『恐怖』をあらわした彼女が弱弱しくこういった。

 

 

 

 

「負けたくない、絶対にィ……」

 

 

 その言葉、つい先ほど勝気な彼女から聞いたものであった。だが、今のそれはこのまま彼女たちに飲み込まれたくないという強い意志があった。

 

 

 多分、『同じようになりたくない』という意志だ。私も同感である。

 

 

 

「……すまない、二人とも。うちの妹は、その……色々(・・)変わっているんだ」

 

「……深くは聞かないようにします」

 

 

 疲れしか感じない長門さんは言葉に、私は同情の意を込めてそう返す。なんか、その、うん、お疲れ様です。

 

 

 その疲れの原因は、ニコニコしている。その顎が赤く腫れ、その鼻筋に赤色の薄い筋があるのだが、それでも満足そうにニコニコしているのだ。それを見かねて、先ほど私はティッシュを手渡しておいた。

 

 

「でも、あなたたちも悪いのよ? 誰にも相談せずに私たちを引き裂こう(・・・・・・・・・)としたんだから……そりゃ、思わず詰め寄っちゃうのも仕方がないってものだわ、うん」

 

「いや、別にそういうわけ……じゃないです」

 

「そう? でも結果的には離れちゃうことにもなりかねないわ。卒業以来離れ離れになった私たちを更に引き裂こうなんて……酷い話よ?」

 

 

 最後の問いと同時に、陸奥さんは上目遣いで口元に指を添える顔を向けてくる。

 

 

 うーん……? なんか、話が別の方にこじれているような気がするぞぉ?

 

 でもその上目遣いでそういうことするのはずるい、女の私でもちょっとクラってきちゃうからやめてほしい。与えちゃいけない武器与えちゃってるよ。

 

 

「まぁ、その話はまた今度にしておこう。で、演習についてなんだが……」

 

「あぁ、そうですね」

 

 

 長門さんの言葉に、ようやく本題に戻ることが出来た。むしろ、今の今まで本題の存在を忘れていたよ。そうだよ、演習だよ。

 

 

「詳細は話した通り、演習を行いますのでよろしくお願いします」

 

「了解よ、私から他の子たちにも伝えておくわ」

 

「はい、お願いします。あ、山城さんには伝えてありますのでそれ以外の方にお願いします」

 

 

 陸奥さんの発言に一瞬考えるも、今の夕立の状況を考えると煽り作戦はやめた方がいいかと判断しお願いした。だが、先ほど煽り散らした山城さんには言わないよう釘をさしておく。なんか、更にこじれそうだからだ。

 

 

 まぁ、それよりも――

 

 

「日向さんについてなんですが……」

 

「うむ、そうだよなぁ」

 

 

 ホントの本当に本題――――日向さんの話に入る。これについては、改めて説明する必要もないだろう。というわけで、率直に長門さんに聞いてみよう。

 

 

「日向さん、伊勢さんと何かあったんですか?」

 

「んー、すまない。私もそこまで日向の事を知らないんだ。元々無口であったし、何より今までの環境を考えるとな……昔のことを深掘りできる余裕もなかっただろう」

 

「ですよね……」

 

 

 長門さんの言葉に、私も同意しつつ頭をひねる。傍の夕立に視線を向けるも、彼女も知らないとばかりに首を振るだけだ。

 

 

 恐らく、私たち側で彼女のことをよく知っている人はいないだろう。あんな状況下だったわけだし、どちらかと言えば誰にも話したくないという人たちが大半だろう。

 

 私たちが知っていることと言えば、主に此処に配属されてからだ。正直、思い出したくないことばかりであるが、それを抜きにしても日向さんが何かをしたということはない。

 

 

「しいて言えば、扶桑と競い合っていたことぐらいか」

 

「私もその印象ですが、流石に人の過去を聞くのもなぁ……」

 

「逆に、伊勢さんはどうっぽい?」

 

 

 長門さんと私で頭をひねっていると、いつの間にか復活した(それでも陸奥さんを警戒している)夕立が、陸奥さんに問いかけた。その問いに、陸奥さんは口元に手を当て小さく唸る。

 

 

 うん、絵になるなぁ。さっきまでの奇行がなければ。

 

 

「私もそこまで詳しく知っているわけじゃないけど……ここの吸収が決まった時は私たちと同じぐらい喜んでいたわよ。『メーちゃんに会える!!』って。でも、それは此処の提督だから、あまり関係ないわね……姉関連の話も、私の話を聞くだけだったし」

 

 

 陸奥さんもあれこれ思い出しながら話す。最後の姉関連の話、多分あなたがマシンガントーク過ぎて話せなかったんじゃないかしら……

 

 

 

「あ、でも、その時お腹の傷のこと話してくれたわね」

 

「お腹の傷? 艦娘なのに?」

 

 

 不意に出た話題。通常であれば過去の武勲を披露する流れになるが、どんな傷でも入渠で治ってしまう艦娘(わたしたち)にとっては非常に不可解なものだからだ。

 

 

「結構大きな傷でね、胸の下から腰に届くくらい。どうも、訓練生時代に付けられた傷みたいでね? その頃はまだ艦との同化が未熟だったせいで、傷は塞がっても完全には治り切らなかったって。詳しいことははぐらかされたけど、姉妹の話題でその話が出たってことは、もしかしたら……」

 

「……そうか」

 

 

 陸奥さんの話に長門さんはそう呟いた。その顔は、何かを察したようなものだ。そして、それは恐らく私の察したものと一緒だろう。

 

 

 日向さんは戦闘において、決して砲撃をしようとしない。

 

 それは戦場では瑞雲の運用に特化しており、接近戦では腰に帯びた刀を使う。私の記憶が正しければ、砲撃戦をしている姿を見たことがない。

 

 その理由を『砲撃が不得手だから』だ。これは本人の口から聞いたし、前に長門さんが彼女が砲撃する様子を見た時も、同じことを言っていただろう。だが、それでも戦艦での最大火力である砲撃を捨てる理由にはならない。故に、誰しもが疑問に思っていた。

 

 

 もしかしたら、『これ』がその理由なのかもしれない。

 

 

 もちろん、これは私の憶測だ。

 

 真実である保証もないし、それを証明する必要も義務もない。これを同行できるのは、当事者である日向さんだけだ。部外者である私たちが口を出せる話ではない。

 

 

「……私からも、日向さんの交代を提案してみます」

 

「そうだな、私も後でしておこう」

 

 

 陸奥さんの話を聞いて、私と長門さんは同じことを口にした。それを見て、夕立も肩を落とす。陸奥さんも、何処かいたたまれない表情を浮かべる。

 

 四人の間に、微妙な空気が漂った。

 

 

 

 

「あ、むっちゃん!!」

 

 

 そんな私たちに、誰かが声をかけてきた。全員がその声の方を見ると、一人の駆逐艦がこちらに近づいてきていたのだ。

 

 

 狐色のセミロングを大きなリボンでツインテールにまとめ、ちょうど前髪の分け目あたりからアホ毛のように一房飛び出している目尻の少し上がったキリっとした狐色の瞳。

 

 服装は白のカッターシャツの上から黒っぽい利休鼠色を基調としたブレザーベストを羽織り、首元には黄緑色の紐リボンを付けている。下はベストと同じ色のミニスカートに薄抹茶色のベルトを二重に巻き、黒のスパッツ、白のハイソックス、赤茶色のローファーを履いていた。

 

 

「あら、陽炎じゃない。妹ちゃんは見つかった?」

 

「いいや、全ッ然。見つけはするんけど、何故か逃げられるのよ……」

 

 

 陸奥さんの問いに、陽炎と呼ばれた駆逐艦は額に汗を滲ませながら私たちに近づいてくる。陽炎、か……うちにいる陽炎型駆逐艦って……

 

 

「妹って、雪風?」

 

「ん! そう!! 雪風!! 私の可愛い可愛い妹よ!!」

 

 

 私の問いに、陽炎は当たりと言いたげに片手で指を差してくる。もう片手ではスプーンを持っており、陸奥さんが持つアイスに伸ばしていた。だが、それは夕立によって阻止される。

 

 

「むー! いいじゃん、ちょっとぐらい!!」

 

「これは夕立のものっぽい」

 

 

 いつの間にかスプーンをもっていた、そして夕立とのアイス争奪戦が始まる。てか夕立、あんた私がおごったあんみつまだ残っているでしょうが。

 

 

「ちぃ! 流石に抜け目ないわね……っていうか、あなたは?」

 

「えぇ……あ、明原提督傘下の曙です」

 

「そう! よろしくね!!」

 

 

 この状況で? という疑問を飲み込みながら名乗ると、陽炎はニッコリと笑いながら手を差し出してくる。まぁ、差し出されたものなので、特に何も考えずに掴む。

 

 

 だが、次の瞬間、掴まれた手がグイっと引っ張られた。

 

 

「え!?」

 

「曙……いや『ぼの』!! それと『ぽいぬ』ちゃん!! 雪風を捕まえるの手伝ってちょうだい!!!」

 

「はぁ!? いや、ま――」

 

「というわけでレッツゴー!!!!」

 

 

 掴まれたまま私を、そしていつの間にか捕まっていた夕立を連れて陽炎は走り出していく。あまりの勢いに、そして高笑いしながら走る陽炎の様子に、とにかく色々圧倒されて抵抗できない。

 

 

 そんな私たちは、初対面の艦娘に食堂から連れ去られてしまうのだった。



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避けなければならない『代償』

「ゆーきーかーぜー!! でてきなさーい!!」

 

 

 廊下に響き渡る陽炎姉さんの声。それが発される方を察知し、その逆方向に小走りでかけていく。だが、その勢い的に逃げられないと判断し、近くに部屋にするりと入り込む。

 

 

「もーーーー!!!! どこ行ったのよーーーー!!!」

 

 

 すると、扉を一枚隔てた向こうに陽炎姉さんの声が聞こえ、どしどしと足音が通り過ぎていく。それを確認し、更に扉を少し開けて外を確認してみる。見た感じ、通り過ぎたみたいだ。

 

 

 

「はぁ……良かった……」

 

 

 それを確認したあたし――――雪風の口からそんな声が漏れたのだ。

 

 何故、こんな状況になっているのか。それを説明するには、少しだけ時間をさかのぼる必要がある。

 

 

 

 時は、この前の作戦―――キス島撤退作戦後だ。

 

 

 その作戦であたしは独断専行で突撃し、艦隊全員を危険に晒した。この行為は軍法会議ものだし、下手すれば解体の危機すらあったのだ。

 

 まぁ、あの時は曙さんやしれぇとのやり取りでよくわからない状況だったけど、一応あたしは先の作戦での行動の罰として営倉に入れられていた。だから、しれぇもあの時あたしを営倉に連れて行ったのだろう。

 

 だが、罰として営倉に入れられていただけで体感としてはいつもとそんなに変わらなかった。というのも、常に誰かが営倉にやってきたおかげで、寝るとき以外一人になるタイミングがなかったのだ。

 

 

 来てくれたのは、曙さん、夕立さん、潮さん、響さん、吹雪さん、金剛さん、イムヤさん、イクさん、龍驤さん、加賀さん、長門さんだ。特に夕立さんと曙さんは頻繁に来てくれて、その日あったことをいろいろと教えてくれた。

 

 曙さんに至ってはご飯をもってきてくれた。それもカレーいっぱいの鍋を担いで、だ。あたしがたくさん食べるからというよりも、前の仕返し(・・・)だというのが正しいだろう。

 

 

 味は美味しかったです。流石、間宮さん仕込み。

 

 

 とまぁ、罰なのだが罰の意味をなしていない営倉生活を終え、一応は普通(・・)の生活に戻ってきたわけだ。

 

 ただ一言で『普通』といえども、今のあたし(・・・)にとっては全部未知のことばかり。皆以前と変わらない様子で接してくれるが、それでもどこか違和感を覚えてしまう。

 

 多分、今までシャットダウンしていたものもちゃんと受け取るようにしたからだ。更に『雪風』ではなく、『あたし』として受け取るようにした。だからあたし(・・・)もぎこちないし、それが相手にも伝わってお互い微妙な空気になる。

 

 慣れるまで、時間はかかると思う。仮に慣れたとしても、以前と同じものではないと思う。そのおかげで、何か不都合が起きるかもしれない。もし、それが『償い』というのであれば、あたしはそれを甘んじて受け入れよう。

 

 でも、その()で待ってくれている人がいる。今までとは違う、決していなくならない人がいる。だから、あたしは歩いていける。

 

 

 

「……最近、喋ってないなぁ」

 

 

 ポツリと、声が漏れた。同時に、扉に身体を預ける。

 

 

 最近、というか営倉以降、しれぇと会っていない。

 

 元々執務に追われる身であり、更に罰せられた立場のあたしに会いに来るなんてまずあり得ない。営倉に連れて行ったこと自体、おかしいのだ。そんな彼がほいほい営倉に顔を出すことはないだろう。

 

 それは営倉を出た後も一緒だ。しれぇは今回の作戦の後処理のせいで、ほとんど執務室に籠っている。食事も大淀さんや、その日の秘書艦さんが持っていくほどだ。更にあたし自身も出撃任務があり、鎮守府を開けることが多いのもあるだろう。

 

 それ以外はお風呂と寝る時間ぐらいだが、それこそ出くわす可能性はほぼない。逆に出くわしたら彼が憲兵に連行されてしまう。その憲兵さんも最近は執務室でしれぇの執務を手伝っているみたいで色々知っていそうだが、一駆逐艦と憲兵さんとの接点なんてもっとない。

 

 故に、今日まで提督と喋っていない。声は聞いたが、それは出撃中の無線でだ。流石にそこで会話するのははばかられる。以前はたまに廊下や食堂で会うこともできたが、最近は見かけても大体他の艦娘さんと話していたりするので、なかなか声をかけづらい。

 

 

 『傍に居てほしい』って言ったくせに……ちっとも居させてくれないのだ。

 

 

 まぁそれも分かっている。しれぇは此処の艦娘みんなに向けてそう言ったのだ。だから、彼がやっていることは間違っていない。ちゃんとみんなの傍に居て、今は執務でてんてこまいだが、それが落ち着けばちゃんと受け入れてくれる。何も間違っちゃいない、タイミングが悪いだけだ。

 

 それはそうとして、それでもしれぇの口からそれを聞いたのはあたしだけだ。加賀さんや曙さんにも言っている可能性はあるが、あたしが把握している限りで確定しているのはあたしだけ(・・)だ。それについて、どうこういう気も権利もない、そうだと分かり切っている。

 

 

 分かり切っているんだけど……納得していないあたし(雪風)がいるわけで。

 

 

 

「はぁ……会いたいなぁ……」

 

「会えばいいデース」

 

 

 

 誰にも聞こえないと踏んだ漏らした言葉に、返ってきた。

 

 

 

「!?!?!?!?!?!?!?!?」

 

 

 

 声にならない悲鳴を上げてあたしはその場を飛び退き、声がした方を向く。

 

 

 そこは、机をはさんだ向こうのソファーに腰掛けながら紅茶を飲む金剛さんがいたのだ。

 

 

「ここここここ金剛さん!? なんで此処に!?!?」

 

「いや、ここワタシの部屋だし」

 

 

 あたしの悲鳴じみた声に、金剛さんは苦笑いを浮かべながらそう答える。その言葉に、あたしは扉を開けて廊下に吊り下げられた名札を見た。

 

 この鎮守府では、誰の部屋が分かるように扉の傍に名札がかけられている。そして、その名札には『金剛』と書かれていた。

 

 

「急に飛び込んできたから、びっくりしたネー」

 

「そ、それなら最初に言ってくれれば……」

 

「アナタのお姉さんから逃げているみたいでしたし、ちょっと声をかけづらかったデース」

 

 

 扉を閉じながら苦言を漏らすあたしに、金剛さんは肩を竦めながら紅茶をすすった。あたしのために声をかけなかったのなら、それはそれで有難いことではあるけども……にしてももう少し早くかけてくれてもいいじゃないか……

 

 

「フフッ、ほんとに此処の人たちはpleasantね」

 

 

 ふと、その場に聞き覚えのない声が響いた。鈴のようなきれいな声で、クスクスと笑いを抑えているみたい。だが、その姿は見えない。

 

 その声にあたしが反応できないでいると、金剛さんと机をはさんだソファーの横から金髪の美少女がひょこっと顔を出した。

 

 顔を出した少女は笑い過ぎたのか、うっすら涙を溜めた目を向けながら手をひらひらしている。

 

 

 

「……あの、この方は?」

 

「J級駆逐艦 一番艦のJervis。イギリスの駆逐艦で、祖国からの出向で現在柊木テートクのところにいるそうデス」

 

「Nice to meet you!! ゆき……かぜ!!」

 

 

 金剛さんの言葉に、ジャーヴィスさんが椅子から飛び出し、あたしに駆け寄ってきた。その姿に後ずさりしてしまうも、容易に距離を詰められた彼女に手を掴まれてしまう。

 

 

「は、初めまして……って、あたしのこと知ってるんですか?」

 

「Of course!! JapanのLucky girlだもん!! さぁ、こっちでTea timeしましょう!!」

 

 

 勢いに気圧されながらつつ、その手を握る。するとジャーヴィスさんはにこっと笑い、そのまま抱き着いてくる。すこし幸運(Lucky)という言葉に引っかかるも、抱き着かれた勢いで聞けずじまい。そのまま彼女に引っ張られてしまった。

 

 

「ほら!! コンゴーのTeaはscrummyよ!!」

 

「何言ってるネ? Tea leafはアナタが持ってきたものデス。ワタシをダシに自慢しないでくだサーイ」

 

 

 笑顔のジャーヴィスさんに引っ張ってこられ、隣に座らされてしまった。座った瞬間、対面に居る金剛さんスッと紅茶を差し出してくる。いつの間に……とも言えず、とりあえず紅茶を飲む。うん、紅茶の良し悪しは分からないが普通に美味しい。

 

 

「sconeもそうよ!! 食べてみて!!」

 

 

 紅茶を飲むあたしに、ジャーヴィスさんは机に積まれていたスコーンを手に取り差し出してくる。何も言えずに受け取ると、彼女は満足そうにニコニコしていた。よく見ると、その口元にスコーンのカスがついている。

 

 

「Hey girl? sconeはこぼれやすいから、お皿と一緒に渡してくださいネ?」

 

「……もう、コンゴーはいちいち really strictね」

 

 

 金剛さんから苦言と共にお皿を手渡される。それを受け取っている間、ジャーヴィスさんはしつこいと言いたげに頬を膨らませた。そんな二人を前にしながら口元にお皿を持っていきスコーンを齧る。

 

 齧りながらジャーヴィスさんを見ると、口元だけでなく制服のところどころにスコーンのカスがついている。彼女の前には皿はなく、直にスコーンを掴んで食べていたのだろう。

 

 

 

「It's bad manners that are inferior to dogs and cats, you bastard. Why don't you learn from them again?」

 

「It's better than your grandmother's unbearable American. Who did you learn it from? Was it an insect?」

 

 

 そう思ったら、目の前の二人から流暢な英語が飛び出してきた。意味は分からない。二人は笑みを浮かべている。

 

 

 だけど、何故か和やかではない雰囲気だと感じ取った。

 

 

 

「……まぁ良いデース。で、雪風はどうして逃げているんですカ?」

 

 

 そんな雰囲気は金剛さんの一言で消え去る。いきなり話を振られたので面食らったが、横のジャーヴィスさんも興味津々といった感じで見つめてくる。その視線にさらされたら、逃れることはできないよ。

 

 

「その、ちょっと、会いづらいんですよね……」

 

「Why? カゲロウは貴女のSisterなんでしょ? 嬉しくないの?」

 

 

 あたしの言葉に、ジャーヴィスさんは至極当然の質問を投げかけてくる。金剛さんは特に何も言わないが、目で答えろと促してくるのみだ。

 

 

「訓練生時代に会ってまして……その時、ちょっと酷い反応しちゃったんですよ」

 

 

 二人の視線に観念し、あたしは訓練生時代のことを話し始めた。

 

 

 訓練生時代、あたしが『雪風』に対して拒否反応を示していた時。当時、まだ艦娘試験に合格する前の、『陽炎』になる前の彼女に『姉さん』と呼んでしまったことがある。

 

 その時はまだ赤の他人であったため、陽炎姉さんはいぶかしげな顔を向けるだけであった。それを見て、赤の他人を『姉さん』と呼んでしまった自分が、『雪風』に毒されていくことを実感させられたのだ。

 

 

 それから数日後、今度は陽炎姉さんからあたしに接触してきた。

 

 その時に彼女は『陽炎』になっており、『陽炎』として妹である『雪風』に声をかけてきた。更にその後ろには、不知火姉さんや黒潮姉さんもいた。彼女たちもまた、会えば『姉』としてあたしに接してきただろう。

 

 だけどその時、あたしは『雪風』を否定していたため、『雪風の姉』である彼女たちと接触するのを拒否してしまったのだ。さらに、その拒否の仕方がマズく、いきなり大声を上げてその場から逃げ出してしまった。

 

 

 それ以来、あたしたちは出会っていない。姉さんたちが敢えて声をかけてこなかったのかもしれないし、あたしが彼女たちから必死に逃れていたのかもしれない。

 

 とにかく、非常に気まずい別れ方をしてしまったのだ。

 

 

 だが今回、というか今日だ。

 

 

「見つけた!!!!」

 

「え?」

 

 

 何気なく廊下を歩いていたら後ろからそう声が聞こえ、振り返るとものすごい形相で走ってくる陽炎姉さんがいたわけだ。

 

 突然気まずい別れ方をした姉が目の前に現れたこと。更に最近『雪風』と向き合うようになれたあたしにとって、現段階で陽炎姉さんのは相当の準備が必要なこと。そんな陽炎姉さんが何故うちの鎮守府にいて、何故こちらに走ってくるのか。

 

 

 そして何より――――

 

 

「ゆきかぜぇぇええええええええええ!!!!」

 

 

 地獄の底から叫んでるような声で、とても女子がしてはいけない顔で、全力で走ってくる存在がいたら誰だって逃げる。

 

 

 

 

「いやぁぁああああああ!!!!」

 

 

 

 と、今まで出したことのない奇声を上げ、反対方向へ全力疾走してしまった。

 

 

 

「そんなわけで……今の今まで逃げているわけですぅ」

 

「Oh……」

 

「それ、知ってるわ!!『ちぇすとぉ!!!!』ってやつでしょ!!」

 

 

 話を進めるごとにだんだん顔を覆っていくあたしを前に、金剛さんは様々な感情がこもった声を漏らす。対してジャーヴィスさんはそれが何処ぞの日本文化とリンクしたのか、両手で棒を握り目の前へ振り下ろすジェスチャーをする。

 

 とにかく、一度逃げちゃったせいで非常に会いづらい状況なのだということは理解してもらえたみたいだ。本当は色々とあるんだけど、今はそれだけでいいや。それにあまり長居するのはあたし的にも金剛さん的にもよくないだろう。

 

 

「では、雪風は失礼しますね。紅茶とスコーン、ありがとうございました」

 

「ん? 何処にデース? まだ話は終わってないですヨ?」

 

 

 お茶会のお礼を言って立ち上がろうとするも、何故、と言いたげな顔を金剛さんに引き留められる。いや、話は終わりましたよね? 陽炎姉さんに追いかけられている理由は話したし。他に聞かれていることなんて。

 

 

 

「テートクに会いに行けない(・・・・・・・)話、終わってませんヨ?」

 

 

 

 と思ったら、金剛さんがあたしの疑問を投げかけてきた。思わず彼女の顔を見るも、どうも茶化している様子はなく、いつになく真剣な顔をしていた。

 

 

「え……」

 

「さっき、『会いたい』って言ってましたよネ? 何故会わないんですカ?」

 

 

 面を食らうあたしに、金剛さんは再度質問を――――個人的に一番はぐらかしたかった話題を投げかけてきる。ふと傍らのジャーヴィスさんに視線を向けると、何故か彼女も真剣な表情をしていた。

 

 

 

「『テートクがいなくなる』―――あなたも聞いている筈ですよネ?」

 

「……はい」

 

 

 続けざまに投げかけられた問いに、あたしは今度こそ観念した。そう返しながら、ソファーに座り直したのだ。

 

 

「では、今テートクがいなくなることに反発した曙と夕立、そして榛名によって、テートクの続投をかけた演習が行われることを知っていますカ?」

 

「え……?」

 

 

 次に投げつけられた問に、あたしは思わず声を漏らした。

 

 確かに、しれぇがいなくなることは鎮守府中に知れ渡っている。それは陽炎姉さんから逃げていても耳にすることが出来た。そのため、あたしもその事実を知っていたのだ。

 

 だが、演習もついては聞いていない。何故金剛さんが知っているのかは分からないが、その発言にジャーヴィスさんが特に反応もしないのを見るに、彼女も知っていることなのだろう。

 

 

「……動かないんですネ」

 

 

 不意に、金剛さんからそう言われる。その言葉に、思わず目線を逸らした。

 

 

「あなたなら、テートクがいなくなると聞けばすぐ彼の下に飛んでいくと思ったのですが……演習の件を聞いても行かないんですネ」

 

 

 更に金剛さんから言葉を、いやナイフを投げつけられる。それは確実にあたしの身体に、それも心の臓に深く刺さる。痛みを感じるはずがないのに、あたしは確かに痛みを感じた。

 

 

「ゆきかぜ? Somewhere,it hurts?」

 

 

 ジャーヴィスさんからそういわれる。意味は分からないが、いつの間にか胸を掴んでいたあたしの手を見ているので、心配しているのだろうと分かった。うまくできるか分からないが、あたしは心配ないと笑いかける。

 

 

 そして、今度は金剛さんをまっすぐ見た。

 

 

「……動かないというよりも、動いちゃいけない気がするんです」

 

「Why?」

 

 

 金剛さんにそう言うと、彼女は腕組みをしながら首を傾げた。その目は相変わらず鋭いけど、先ほどよりも鋭さは弱まった。

 

 

 

「しれぇを、あの人を、あたしたち(・・・・・)の『代償』にしちゃう気がするんです」

 

 

 そう話した時、あたしはちゃんと笑えていただろうか。

 

 

 あたしは『雪風』、そして『雪風』は『幸運艦(Lucky girl)』でもあり、『死神』でもある。

 

 

 あたしたちが自覚しているしていないに関係なく、周りに『幸運の代償』を背負わせてしまう。それは今まで生きてきた中で何度も何度も、嫌になるくらい証明してきてしまった。

 

 その結果、あたしたちは周りを『代償』にさせないように、早く沈みたいと願ってきたわけだ。

 

 だけど、あたしたちは先の作戦で、しれぇに『生きること』を望まれ、『傍にいること』を願われた。それは彼だけでなく、あたしたち共通の願いになった。そして、それはあたしたちが成し遂げるべき『最優先事項』になった。

 

 

 そう願う反面、あたしたちには周りに『代償』を背負わせてきた事実がある。

 

 それは今もなお、続いているかもしれない。これを消し去る方法も知らないし、それがどれだけ周りに影響を与えるのか、その度合いはどのくらいなのか。それらを推し量ることが出来ないのだ。

 

 そんな状況で、しれぇの下に行った場合。いつ何時それを強いることになるか分からない、どれだけ強いることになるかも、その結果どうなるかも分からないのだ。

 

 

 そんな何もかもが不安定な状況で、更に悪影響を与えてしまうと分かり切っているのだ。

 

 周りの、特にしれぇの安全を確保するためにも、あたしたちは近づかない方がいい。更に言えば、曙さんや夕立さん、榛名さんがすでに動いてくれているのだ。状況を悪くするかもしれないあたしたちがわざわざ近づく必要はない。

 

 

 今、雪風(あたし)たちが出来ることは、周りを巻き込まないように距離をとることだけだ。

 

 

 

「……なので、あまり関わらない方がいいかと」

 

「それで、雪風は良い(・・)んですカ?」

 

 

 そう話し終えたとき、金剛さんからそう問いかけられる。それを受けて、あたしは胸を掴む手に力が込めた。

 

 

 

 そんなの、良いわけない。良いわけがない。

 

 

 今すぐにでもしれぇのところに行って、演習についていろいろ問いただしたい。

 

 今すぐ曙さんたちと合流して、作戦を練りに行きたい。 

 

 今すぐ相手のしれぇさんのところに行って、うちのしれぇの異動をやめさせるよう抗議したい。

 

 

 でも、あたしの行動ひとつでしれぇの、曙さんたちの立場を悪くするかもしれない。あり得ないとわかっていても、絶対ではない。

 

 少しでも可能性があるからこそ、少しの隙間だけでも多大な影響を及ぼす『雪風』だからこそ、関わってはいけないのだ。

 

 

 

「……悪い方に行くぐらいなら、あたしは良い(・・)です」

 

 

 

 そういって、金剛さんに笑いかけた。恐らく、次に来るのは鋭い視線、そして彼女の深いため息だろう。

 

 

 だけど、実際に来たのはそのどちらでもなかった。

 

 

 

「Aren't you dumb?」

 

 

 そう声が聞こえ、同時に顔に何の液体がかかる。とっさに目を閉じたことで、目に入ることは避けられた。だが、思考は止まってしまう。

 

 

 そんなあたしの鼻に、程よい暖かさと、心地よい香りを感じた。

 

 

 その香りは、先ほどいただいた紅茶に似ていた。

 

 

 

「Japanの艦娘は変な奴揃いだと思ったけど……あんた、相当のdumbだね」

 

 

 またもや声が横から(・・・)聞こえる。頭が回らないまま目を開けると、焦った顔をした金剛さんが机の上に手を走らせている。その様子から、彼女はやってないのだろう。

 

 

 その様子を見ながら、あたしは視線を横に――――紅茶をかけた人物に向ける。

 

 

 そこに居たのは、空っぽのマグカップを手にしたジャーヴィスさん。

 

 

 その顔は先ほどの可愛らしいものではなく、決して味方に向けていけない相手を蔑むような表情だ。

 

 あたしと目が合った際、その口から「チッ」と小さく舌打ちが聞こえた。

 

 手に持ったカップを机に投げつけ、転がるカップの横へ乱暴に足を投げ出した。

 

 頭の後ろに腕を回し、心底ダルそうな目をあたしに向ける。

 

 

 そして、その口がこう動いた。

 

 

 

「Useless girl」

 

 

 そう言われた。意味は分からない。でも、蔑まれていることは分かった。

 

 

 

 

「じゃぁぁああああああう゛ぃぃぃぃすぅぅぅううううう!!!!!!」

 

 

 だけど、その空気は真後ろから飛んできた声と腕によって破られた。その声は陽炎姉さんだ。

 

 

 

「あら、カゲロウ。All the best」

 

「何が『ごきげんよう』だこらぁ!? あんた、あたしの妹に何してくれてんのよ!!!!」

 

「何って、逃げないように引き留めておいたんじゃない」

 

 

  あたしを抱きしめながら激昂する陽炎姉さんの言葉に、ジャーヴィスさんはどこ吹く風という感じでスコーンを齧る。その様子に、何か言語ではない声を上げる姉さんを、何故か傍に居た曙さんと夕立さんが抑えた。

 

 

「ちょ、ほら!! 雪風見つけたから!! ここは一旦引きましょう!!」

 

「そうっぽい!! まずは妹ちゃんをお風呂に入れなきゃ!!」

 

 

 二人にいさめられて、いやいさめられてない陽炎姉さんであった。しかし、流石に駆逐艦二人を振りほどくことは出来ず、ズルズルと引きずられていく。そしてその手にがっちりつかまれている私も、一緒に引きずられていく。

 

 

「え!? ちょッ!? 待って!?」

 

「あと片づけはやっておきますから、安心してくださいネー」

 

 

 そんなあたしに金剛さんは笑みを浮かべながらそういうだけで、そもそも助けるつもりがない。ジャーヴィスさんは言わずもがな。

 

 

 懸命に伸ばしたあたしの手は誰にも取ってもらえず、そのまま陽炎姉さんと一緒に引きずられていった。




今回英単語が多いので、どのような意味なのかを記しておきます。


単語&熟語
 scrummy … 格別な、素晴らしい

 scone … お茶菓子のスコーン

 dumb … バカな、間抜けな

 really strict … 口うるさい、うっとうしい

 Somewhere,it hurts … 何処か痛いの?

 Aren't you dumb? … バカじゃないの?

 Useless girl … 役立たずな女
 


長文
 It's bad manners that are inferior to dogs and cats, you bastard. Why don't you learn from them again?
 ➙犬猫にも劣るマナーの悪さですねクソガキ。もう一度彼らに学んだらどうですか?

 It's better than your grandmother's unbearable American. Who did you learn it from? Was it an insect?
 ➙おばあちゃんの聞くに堪えないアメリカ語に比べたらマシですよ。 誰から学んだのかしら? 虫かしら?



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飼い主の『教訓』

「うぃ~……」

 

 

 全身を包み込む暖かさに、程よい圧迫で血流が良くなるを感じる。その心地よすぎる感覚に、意識を持っていかれそうになるのを何とかこらえる。

 

 

 お風呂からこんにちは、伊勢です。

 

 意識と身体が溶けていますが、私は元気です。

 

 

 というのも、私達はうちの鎮守府から海を越えてきたわけで、服も髪も玉のような肌も海風にさらされて最悪な状態になっていた。もし自鎮なら速攻で浴室に直行していたが、一応人様の鎮守府なので自重していたわけ。

 

 それでもやることやったんだから別にいいよね? という固い意志で此処のドック兼大浴場に来たわけだ。そして現在、その固い意志は暖かい湯船へ溶けようとしている。

 

 

「フフッ、あまり浸かり過ぎると溶けちゃいますよ~」

 

 

 そんな液状化一歩手前の私に声をかける人がいる。口元まで浸かる私の横で、苦笑いを浮かべる龍田ちゃんだ。

 

 彼女は大浴場の先客。彼女は私たちが鎮守府にやってきた時、ちょうど補給艦討伐任務に出ていたそうで。その任務で軽微ながら傷を受けてしまい、メーちゃんから入渠するように言われて此処に来たそうだ。

 

 彼女が来た時は誰もおらず、久しぶりに一人で満喫できると思っていたそうで。そこに私が全裸で飛び込んでしまい、相当に驚かせてしまったのだ。

 

 あまりよろしくないファーストコンタクトではあったが、彼女曰く割とこの鎮守府では日常茶飯事らしいので気にしなかった。そのおかげで、お風呂に漬かりながらいろいろと話をしたのだ。

 

 

「しかし、まさかあのメーちゃんがあのメーカーのコンディショナーとトリートメントを完備しているなんて……いつの間にこんなやり手に……」

 

「あぁ、それを導入させたのは私と隼鷹さんよぉ。前に入渠環境の改善に関する意見を求められたときに、隼鷹さんが実家で使っていたものを提案してくれて、それがそのメーカーだったので私がゴリ押ししたんですよぉ~」

 

「……これ、名の知れた高級メーカーだよ? どこからそんな予算……?」

 

「さぁ~? 提督も理解せずに承諾してくれましたし、その後も何も言ってこないので問題なかったと思ってますよ? 今更つつくのも野暮ですし~」

 

 

 『悪い』と1ミリも思っていない困った顔を浮かべる龍田。その彼女の髪は、艶に手触りにボリューム感などなど、あたしの塩と乾燥でパサついた髪なんかじゃ太刀打ちできないほどに素晴らしかった。もしここの鎮守府にいたら、多分出撃と補給以外はずっと入り浸っている自信がある。

 

 ……これ、一度うちで導入しようとして財政担当の不知火から『高過ぎます』の一言でバッサリ却下されたやつだ。あとで見積もり見せてもらったけど、提案した私から見ても絶対導入できない費用だった記憶があるよ。

 

 ここ、そんな金満鎮守府だっけ? いや、提督の話だとここは朽木中将の支援を受けているって聞いたから、恐らくそこが提供しているのだろう。羨ましすぎる。

 

 いや、待てよ。もしここで好評だってことを中将に伝えれば、そこから大本営に話が行ってこのメーカーが海軍御用達の商品に、つまり備品になるかもしれない。そうすれば予算関係なく全鎮守府に―――私たちにも回されるのでは?

 

 

「龍田ちゃん、大本営(うえ)に提案するとき、絶対連れて行くから」

 

「……それ、逆効果じゃないかしらぁ?」

 

 

 マジ顔で龍田ちゃんの両手を握りそう宣言する。彼女は引き気味の笑顔でそう言ってくるが、それでも目力で黙らせる。それは言わない約束だぞ、是が非でも実現させてやるから覚悟しておけ。

 

 

「というか、怖くないんですか~?」

 

「ん? というと?」

 

 

 龍田ちゃんから飛び出した質問に、私は自分の髪をいじりながらそう返す。それに、龍田ちゃんは先ほどの苦笑いから、少し不思議そうな顔になる。

 

 

「周りの子から聞きましたけど、そちらの鎮守府に私たちが吸収されるそうじゃないですかぁ。そして曙や夕立が反発しているのも聞いてるしぃ。だとすれば、口には出さないだけであの子たちと同じ思いの艦娘もいるかもしれない、と考えてもおかしくないと思うんだけど……」

 

「仮にそうだとしても、私たちは大本営の下に所属する艦娘だよ。仲間であることは違いないじゃん」

 

「その大本営に反旗を翻したとしても?」

 

「でも結果的に、()は従っている。経緯がどうあれ結果()がそうなんだから、敵対する理由にはならないよ」

 

 

 龍田ちゃんの言葉に軽い口調と答える。それに対して、彼女は不思議そうな顔のままだ。

 

 

 まぁ、彼女の危惧もないわけではない。

 

 仮にここで襲撃を受けようものなら、問答無用で叩きのめすつもりだ。だからこそ、此処に来てからは常に刀を帯びているわけだ。だが、同時に彼女たちはそう思っても攻撃してくることはないと踏んでいる。

 

 それは彼女たちの過去だ。

 

 うちの提督には同情するなとは言われたけど、一艦娘として話を聞けば聞くほど同情するしかないわけで。しかも、その経験をせずに此処に居る私は最も口をはさんではいけない存在だ。

 

 そして、彼女たちは部外者であるメーちゃんを受け入れた。しかも最も毛嫌いしているであろう提督をだ。まぁ、そうなったのはメーちゃんの頑張りが一番だろうとは思うが、それでも受け入れたのは彼女たちである。

 

 つまり、彼女たちは部外者を受け入れた実績がある。さらに言えば、私達は彼女たちが受け入れたメーちゃんの知り合いだ。ある程度の警戒はされようが、出会って即砲撃なんてことになればメーちゃんの顔に泥を塗ることになる。つまり彼を受け入れた自分たちの顔も泥を塗ることになる。

 

 そこまで考えていなくても、ともかく彼女たちにとってメーちゃんが普通ではない存在であることは変わりない。それがあったから、こうしてある程度気を許すことが出来るのだ。

 

 

「……提督みたいなこと言うんですね」

 

「ま、あの子は私が育てたようなもんだからね!!」

 

 

 何処か呆れた顔の龍田ちゃんに、私は腕のこぶを見せながらそう答えた。そのように、龍田は何故かため息を吐く。

 

 

「じゃあ聞くけど、龍田ちゃんはメーちゃんがいなくなってもいいの?」

 

「まぁ、いいじゃないんですかぁ? 私は天龍ちゃんと一緒に居れればそれでいいですし、提督を育てたあなたちの下なら、今とそう変わらない生活だろうと思いますから」

 

「……冷めてるなぁ」

 

 

 逆に龍田ちゃんに質問するも、そっけなく返されてしまう。そこはさぁ、もうちょっと恥ずかしがってもいいんじゃないの? まぁ言外でメーちゃんのこと信頼してるって言ってるようなものだけどさぁ……

 

 

 

「そうよね!!!」

 

 

 だが、次に聞こえたのは私でも龍田ちゃんの声でもない。その声の方を見ると、白い湯気の中に立つ4人の駆逐艦らしきシルエットがあった。

 

 

 その中の一人、というかよく聞く(・・・・)声に私は半目を向ける。

 

 

 

()さえいればいい!!!! 同感だわ!!!!」

 

()でぇす」

 

 

 大浴場に響き渡る大声でずかずか近づいてくるのは、うちの陽炎だ。そんな彼女に龍田ちゃんは鋭く突っ込む。何だこの状況。

 

 

 そんな龍田ちゃんの突っ込みに「一緒よ一緒!」と笑いながら近づく陽炎の腕には、青い顔をしている妹―――――雪風がなすがままに引きずられている。そしてその後ろには、タオルを身体に巻き付けた曙と夕立が続いていた。

 

 ちなみにうちの陽炎は何も巻いていない、全裸である。脇に抱えられた雪風ですらタオルで身体を隠しているのに。

 

 

「陽炎……人様の鎮守府なんだから少しは隠しなさい」

 

「何? 女同士なんだから別にいいでしょ? 不知火みたいなこと言わないでよ」

 

 

 私の苦言に、陽炎はキョトンとした顔で聞き返してくる。ほんと、この子はガサツというか恥じらいがないというか、「長女の威厳が……」といつも頭を抱える不知火の気持ちがよく分かるわ。

 

 

「いや、女の子なんだから……まぁいいわ。で、何しに来たの?」

 

「そう、聞いてよ伊勢!! ジャーヴィスのヤツ、私の妹に紅茶かけたのよ!! 酷いと思わない!?」

 

「えぇ……どういう状況?」

 

 

 私の問いに、陽炎が脱兎のごとく怒り散らす。おぉー怒ってる怒ってる。妹のことになるとすぐ逆上するんだから。まぁ悪いとは言わないんだけど……限度がねぇ。

 

 そんなシスコンを見ていると、どこから視線を感じた。それは彼女の脇に抱えられている雪風だった。その顔は申し訳なさそうな顔を浮かべつつ、あまり聞かれたくなさそうな雰囲気だ。

 

 

「それよりあんたたち、そのまま湯船に入らないでよ? ちゃんと身体を洗いなさい」

 

「そんなの分かってるわよ。ほら雪風ぇ、お姉ちゃんが洗ってあげるからねぇ~」

 

「え゛」

 

 

 その視線に答えつつ助け舟を出したつもりだったが、逆効果だったみたい。良い笑みを浮かべた陽炎に引きずられる死んだ目の雪風を、私は苦笑いを浮かべながら見送った。

 

 次に曙や夕立に視線を向ける。何か言いたげな彼女たちも、いそいそとシャワーを浴びに行ったのだ。

 

 

陽炎(あれ)もあなたが?」

 

「いいや、あれは天然もの」

 

 

 少し笑みを浮かべながら聞いてくる龍田ちゃんに、私は頭を抱えながらそう答えた。

 

 

 艦船には同じ型の艦がいる。それは艦娘でいうところの『姉妹』にあたる。

 

 その中でも陽炎型は同じ型の艦が多く、19隻も作られた。つまり、艦娘になった陽炎は、19人姉妹の『長女』というわけだ。

 

 多くの場合、そういう姉妹艦が多い艦娘は総じて仲間意識が非常に強くなる。その仲間意識というものは、2パターンだ。

 

 ひとつは多くの姉妹を束ねるカリスマ性と姉御肌を備えた、正しく『長女』と言えるパターン、

 

 もう一つは妹を周りが引くほど溺愛するパターン――――うちはそのパターンなのだ。

 

 

「他の鎮守府に行くと真っ先に妹がいないか探しに行って、最終的にうちにお持ち帰りできないか画策するけど私が阻止する……それがお決まりなの」

 

「……そう」

 

 

 ものすごい遠い目でそういうと、その苦労を察したのか龍田ちゃんもそれ以上言及しなかった。ありがたいことだよ……

 

 

 

「え、あんたいつもこれ使ってるの!? ずるい!!」

 

 

 

 大浴場に響き渡る陽炎の声。これは後で導入しろとせがまれるやつだ。よし、いい鉄砲玉が手に入ったわ……

 

 

「横、いいですか?」

 

 

 うちの入渠環境改善計画を思案していると、いつの間にか浴槽のフチに立っていた曙から声をかけられた。傍に夕立もおり、二人とも簡単にシャワーを済ませてきたのだろう。

 

 

「いいよ、どうぞー」

 

「失礼します」

 

「しますっぽい」

 

 

 そんな二人を快く受け入れ、二人が入れるスペースを空ける。そこに二人は収まり、湯船に暖かさにほぉっと息を漏らしたのだった。

 

 

「何? 何か言いたいことあるんでしょ?」

 

 

 湯船に入った二人に、私はそう声をかける。大浴場よろしく、浴槽は広い。そんな中でわざわざスペースを開けさせてまで近くに入ってきたのだ。話があるのだろう。

 

 

 

「あいつの昔のこと、教えてもらえますか?」

 

 

 その答えをだしたのは、曙であった。その言葉に、夕立もうなずいている。彼女たちの目は真剣そのものだ。そして、『あいつ』のことはメーちゃんであると察した。

 

 

「……なんで?」

 

「あいつが此処に来るまでのこと……さっき説明してもらったけど、解せない部分があるんです」

 

「解せない?」

 

「あいつがうちに来るまでに、あそこまで立ち直っている(・・・・・・・)ことです」

 

 

 私の問いに、曙はそう答えた。そう答える彼女の顔は、苦痛に顔をしかめている。恐らく、彼女も『立ち直っている(その言葉)』が適当(・・)でないことは重々承知しているのだろう。

 

 事実、メーちゃんは『立ち直ってはいない』。『立ち直っているように見せかけること』が出来るようになっただけだ。それは私よりも彼女たち―――『彼の失敗』を挽回した彼女たちだからこそ、良く良く理解しているだろう。

 

 故に、解せないのだ。メーちゃんが立ち直れていないことを理解しているからこそ、何処で装う術(・・・)を得たのか。

 

 

 そして、それこそが今彼女たちの前に立ちはだかっている『壁』なのだ、と。

 

 

「そうね……まぁ、一番は時間だと思うわ。自分の現状や実力、そして後ろ盾を得た中でそれらと向き合う時間を用意できた(・・・・・)のが大きいんじゃないかしら」

 

「……一番、無難な答えですね」

 

「まぁ、それぐらいしかないし」

 

 

 彼女の問いに、私は最も無難な答えを返す。それに曙は明らかに不満げな視線を見せるも、その顔に私は肩を竦めて返す。

 

 実際、彼はうちに来ても変わらなかった。いや、正確には私たちにできることはなかった(・・・・・・・・・・)。うちの提督は入学前にある程度の指南をしたようだけど、それだけだ。

 

 根本的(・・・)にどうこうできる術を持ってない。何故なら、彼の中で『答えが出てしまっている』から。『母親と同じ最期を迎える艦娘を助けるため』という答えで完結してしまっているから。それに対して、私たちが口を出すには、時間も立場も権利も何もかもなかったからだ。

 

 

 そんな私たちが出来ることは、せいぜい彼が士官学校に入れるようお膳立てし、卒業した後もしっかり面倒を見ることぐらいだ。

 

 

 

「ただ、『これはそうだろ』と言える出来事はあった」 

 

 

 そんな彼女に、私は投げ掛ける。それに曙や夕立、そして傍に居る龍田ちゃんも視線を向けてくる。その視線を感じながら、私は話を続けた。

 

 

「それはメーちゃんが士官学校に入学して随分経った時だった。彼から内線で電話がかかってきたの。それは入学前に、『何かあったら此処に電話しろ』って、うちの提督が彼に渡していたのね。まぁ以前もたまーにかかってきて、授業内容に対する不満や愚痴を聞いていたから、今回もそうだろうと思っていたわけ。でも……」

 

 

 そこで話を切った私は、目の前にいる3人から視線を外した。外した先には、陽炎に甲斐甲斐しく世話されながらも、視線をこちらに向ける雪風がいた。それを横目に私は話を続ける。

 

 

「泣いていたの、電話の向こうで。『艦娘沈めた……』って、ずっと言い続けながらね」

 

 

 そう漏らす私の脳裏に、当時の光景が浮かんでくる。今でも思い出せる、あまり思い出したくない記憶だ。

だ。

 

 

 その時、執務室に居たのは私と提督だけ、電話を取ったのは私。

 

 

 開口一番にそう言われた時、最初は何を言っているのか分からなかった。

 

 候補生である彼が、実戦で艦娘を指揮することなんてあり得ない。それは提督からも聞いていたわけで、実戦はうちに来た時に少しずつ教えていこうと話していたからだ。

 

 だから、その時の私はその言葉をオウム返しするしかなかった。そして、それを聞いた提督が私から電話をひったくって、彼と話をしたのだ。

 

 

 提督のおかげで、彼の状況が分かってくる。

 

 

 メーちゃんは今日の授業で兵棋演習―――シミュレーターを用いた疑似演習を行った。

 

 その時、彼はチームの勝利のために自艦隊で特攻をしかけ、勝利したのだ。だが、その結果自艦隊は全滅してしまったのだと。

 

 それを聞いて、私は本当に艦娘を沈めたわけではないと悟り、ホッと胸を撫でおろした。

 

 だが、同時にデータ上の艦娘を沈めたことにこれだけ狼狽する彼が、本当に(・・・)沈めてしまったらどうなるのだろう、という漠然とした不安を覚えた。

 

 

 もちろん、これは戦争だ。誰かが沈むことなんて十分あり得る。それは私たちだって例外ではなく、そういう場面を見てきた。

 

 だからこそ、その業に押しつぶされないように私たちの上にいるのが『提督』なのだ。提督とは、上官とは、戦争とはそういう(・・・・)ものなのだ。

 

 

 そして、提督はそういうものを全て背負わなければならない。そして、此処まで狼狽しているメーちゃんがその役目を担わなければならない。

 

 

 その姿を前にどうすることも出来ずにただ見つめることが、私にできるとは到底思えなかった。

 

 

「そして、それを最後にメーちゃんから電話が来ることがなかった。それは今日会えるまで、ね。だから、私たちもそこから何があったのか分からないのよ。しかも、そんな彼が卒業と同時に此処に配属された。それも……」

 

「『それも』? 何っぽい?」

 

 

 私が途中で話を止めたこと、そこに夕立が反応する。同様に、曙がずいっと顔を向けてきた。

 

 

 流石に『彼があなたたちを沈めるために着任した』なんて、面と向かって言えるわけがない。それを伝えた上でのこの信頼ならもろ手を挙げて喜んだだろうが、今の彼にそこまでぶっちゃける勇気があるとは思えない。

 

 

「……それも、配属先が反旗を翻した鎮守府なんだもん。提督の役割以前に、メーちゃんの身が心配で心配で仕方がないわけ」

 

 

 なんとか代わりの言葉を考えて、それをぶつける。その言葉に、心当たりがあり過ぎるのだろう。曙と夕立は視線を逸らした。龍田ちゃんは特に逸らすことはなかったが、口を挟む様子はない。

 

 

「だから、私もこうして色々と話をしているの。私も、どうして今みたいに『隠せる』ようになったか知りたいからよ。なので、残念ながらあなたの答えに答えられないし、逆にあなたもあたしの答えに答えられない。こういうわけよ……」

 

「そう……」

 

 

 私の言葉に、曙はそう声をもらした。夕立も、彼女と同じように下を向いている。少なくとも、彼女たちが求めるものを私があげることが出来ないと分かったからだろう。

 

 

 

 でもね、私は更にあなたたちに与えるものがあるの。

 

 

 

「ただね、彼の本心(・・)はよく知っているわ」

 

 

 そう、前置きをして話を始める。その時、ちょうど身体を洗い終えた陽炎と雪風が湯船に入ってきた。いつになく真剣な表情の雪風に、流石の陽炎も空気を読んで黙っている。

 

 

 そんな彼女たちに向けて、私はカミングアウトした。

 

 

 

「昔ね、メーちゃんとお風呂入ったのよ」

 

「え!?」

 

「大丈夫、何もしてないから」

 

「そういう問題じゃないっぽい!!」

 

 

 私の発言に曙と夕立は予想通りの反応を見せる。が、雪風は特に反応しない。ただ、少し頬が動いたのを見た。少なからず、関心はありそうだ。

 

 

「その時はメーちゃんがうちに来たばっかりで、親睦を深めようとお風呂に誘ったのよ。もちろんメーちゃんは断固拒否したけど、そこはお姉ちゃんパワーでゴリ押ししたわ。まぁ、流石に裸はあれだから水着で、って条件は出されたけどね」

 

「そりゃそうっぽい」

 

 

 私の話に、夕立が突っ込みを入れる。さっきまで突っ込んできた曙は、何故か顔を赤くして俯いている。これは……メーちゃんやらかしてるなぁ?

 

 

「まぁまぁ、取り合えず何とかお風呂にこぎつけたわけで、脱衣所で水着に着替えたわけ。その時、メーちゃんにこれを見られてね?」

 

 

 そういって、私はその場で立ち上がる。そして目下に居る全員の前で、惜しげもなく裸を晒した。さっき陽炎に裸を隠せと言った手前ではあるが、まぁ今回ばかりは許してほしい。

 

 

 

「……これ、日向さんが」

 

「え? 何で知ってるの?」

 

 

 私が見せた傷――――胸の下から腰に掛けて広がる大きな傷痕を見た曙がそう漏らす。それに思わず反応してしまう。

 

 この傷を見せるのは、うちの鎮守府のメンツ以外は始めてだからね。龍田ちゃんには先に見せたけど、どういった経緯で付いたものかは説明していないはずだ。

 

 

「実は、陸奥さんから聞きました……その……」

 

「あぁ、陸奥か。良いよ良いよ、気にしないで」

 

 

 少し申し訳なさそうに頭を下げる曙に、私は努めて明るく返す。まぁ、本当にそこまで気にしているわけでもないし、何よりそれよりも聞きたいことがあった。が、話の腰を折るわけにはいかないため、そのまま続けた。 

 

 

「話を戻すと、この傷をメーちゃんに見られた。その瞬間、あれだけギャーギャー騒いでいたのに、ぱたりと声が聞こえなくなったの。おかしいなぁと思って彼を見ると、私の傷を凝視しているわけ。見苦しいものを見せちゃったかなぁ、って気まずい雰囲気だったわ。でも、その時メーちゃんが呟いたのよ」

 

 

 そこで言葉を切り、私は自らの身体に刻まれた傷に手をおいた。

 

 

 

「『ごめんなさい』、って」

 

 

 

 そう漏らす。その瞬間、周りから息を呑む音が聞こえた。

 

 

「消え入りそうな声で、何度もね」

 

 

 さらに続ける。その瞬間、私に集中していた視線が弱まるのを感じた。

 

 

 

「自分は悪くないのに、そもそも関係ないはずなのに、まるで自分の事のように責任を感じ、罪悪感に苛まれ、必要のない謝罪を繰り返す。これを『優しさ』と言い切るのは難しいけど、『弱さ』だとは言い切ることが出来る。どんなに周りが否定したって、彼が(・・)肯定してしまったら意味ないのよ。そして、それは彼がなろうとしている『提督』の致命的なまでの欠点(・・)となり、それから逃れられない立場になる……」

 

 

 そこまで話して、私は空気に晒していた身体を湯船に戻す。心地よい暖かさに包まれたが、心までは温かくならなかった。

 

 目の前にいる曙、夕立は、苦虫を噛み潰したような顔で俯いている。雪風は二人と同じ顔をしているが、それでも私に視線を向けている。

 

 

 やはり、彼女たちも分かっているのだ。

 

 

 ここがメーちゃんにとって『地獄』なのだと。そして自分たちは、その地獄で彼を苦しめる『鬼』なのだと。

 

 

 

「……だからさ、私はここからメーちゃんを連れ出す―――救い出す(・・・・)の。傷つくと分かっているのに、それが彼にとって最もむごい(・・・)ことだと分かっているのに、それを見て見ぬふりをするなんて……とても私にはできない」

 

 

 そこで、私は話を終えた。そして、もう一度彼女たちに――――『鬼』達に視線を向ける。

 

 

 誤算がある。

 

 それは、彼女たちが心の底からメーちゃんを慕っていることだ。彼のお姉ちゃんとして、非常にありがたいことだし、だからこそ彼に『良かったね』と伝えたのだ。

 

 そしてもう一点。

 

 それは、彼女たちも私と同じ想いでいてくれたことだ。彼女たちは、メーちゃんが『不幸』にならないことを考えて動いてくれている。だからこそ、私の言葉に反論することなく飲み込んでくれたのだ。

 

 

 本当の本当に。ありがたいことでもあり、申し訳ないことでもあるが、飲み込んでくれるだろうと私は信じている。

 

 

 だからこそ、こうして腹を割って話した。

 

 だからこそ、私たちの仲間として迎え入れようとしている。

 

 だからこそ、メーちゃんと正反対の想い―――『明原 楓が傷つく姿のを見たくない』彼女を、彼から遠ざけようとしている。

 

 

 

 

 

 

「あっきれたぁ~」

 

 

 ただ一人、その場で一人だけ発言を――――反論(・・)した人がいた。

 

 

 

「それ、ただの『エゴ』っていうんですよぉ?」

 

 

 周りと違い私の話に反応を示すことはなく、ただただ冷たい目で私を見ていた人―――龍田ちゃんだ。

 

 

 

「龍田……さん?」

 

「あなた達、何も分かってないのねぇ……何も」

 

 

 急に声を上げた龍田ちゃんに狼狽える曙。そしてそれを受けて、今まで以上に冷たい視線を向ける龍田ちゃん。彼女はそう答えると、湯船から片手を持ち上げて曙を指さした。

 

 

「まず曙。あなた、一番提督のこと考えてきたくせに、なんで周り(・・)の憶測の中で話しているの? 今の話の中で、ひとつでも提督の発言があった? ひとつでも提督の願いがあった? 少なくとも『したい』なんて言葉はなかったわよ」

 

 

 マシンガントークで曙に突っ込む龍田ちゃん―――いや、龍田()。その言葉に、曙は何も言えずにただ刺される指を見るだけだった。

 

 

「そして夕立。あなた、今まで提督の気持ちを引き出してきたくせに、なんで今それをしないの? 今のあなた、自分のしたいことのために動いているようにしか見えないわ。そういうことを、提督から(・・・・)引き出すのがあなたの役目じゃないの?」

 

 

 次の標的は夕立だ。龍田()の言葉に、彼女は気まずそうに視線を逸らしながらもその手は固く握りしめられている。

 

 

「最後に雪風。あなた、なんで今動かないの? あなたを動かすために、提督は色々と走り回って、ボロを出して、それでもかまわず動き続けたじゃない。なんで、今それをあなたがしないの?」

 

 

 最後に雪風。龍田()の言葉に、彼女は視線を逸らすことなく、何も言うこともなく、ただその言葉を受け止めている。

 

 

 

「そういうこと、結局あなたたちがやっていることは『エゴ』――――『我儘』。最も近い(・・・・)あなたたちがそれに振り回されてちゃ、誰が提督を支えるの? 誰が提督を動かすの? 誰が提督を変えられるのよ?」

 

 

 最後に、龍田は三人に向かってそう呼びかける。それを受けて、視線を外す者、呆けている者、迷っている者。さっきまで目の前にいた者はいなかった。

 

 

 

「そして、伊勢(・・)

 

 

 次に、龍田()は私に標準を向けた。

 

 

「残念だけど、あなたが彼に出来ることはないわ。あなたの『エゴ』は、提督を留めておくことしかできない。現状維持は出来ても『解決』は絶対にできない。私も同じ(・・・・)だったから、断言する」

 

「なんで断言できるの?」

 

 

 龍田に向けて、私は自身が出せる限りの低い声を絞り出した。それは私が突き付けた刃だ。もし腰にそれを帯びていれば、今ここで一刀のもとに叩き切っている。それが叶わないから、一矢報いるために発した。

 

 

 それを、彼女は真っ向から受け止めた。その顔には何処か試すような笑みがある。まるでもっと切りかかって来いとでも言いたげな、煽り散らした顔だ。

 

 だけど、そこから感じるのは敵意でも、侮蔑でも、殺意でもない。

 

 

 同族を見るような哀れみだった。

 

 

「提督が現状維持(・・・・)を求めてないからよ。彼はあなたたちの提案も、曙たちの提案も全て飲み込んだ。それは大本営の決定であり、上官からの命令だから従ったのだ。それも立派な理由でしょうね。でも、もし本当に逃げたかったら(・・・・・・・・・・)、その二つに従うかしら? 本当に傷つきたくなかったら(・・・・・・・・・・・・・)、そもそも提督になってないんじゃないかしら? 本当に艦娘を救いたいと思っていなかったら(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、今この場で曲がりなりにも提督の任を全うしているかしら? つまりね、何が言いたいかというと……」

 

 

 そこで話を切った龍田は、天を仰いだ。まるで、その上にいる誰か(・・)に語りかけるように。

 

 

 

「『飛びたい』からこそ、此処に居るんでしょ?」

 

 

 その声は今まで私たちに向けて語っていた声よりも大きく、ぶっきらぼうで、そっけなく、それでも確かに、『誰か』に向けた言葉だった。

 

 

 その声は反響し、誰の耳に、その鼓膜を幾重にも揺らした。恐らく、その『誰か』には届いていないだろう。このままで、この声は何時まで経ってもここで空しく響くだけだ。

 

 

 故に、『誰か』へ届けなければならない。

 

 

 

「失礼します」

 

 

 そう、『誰か』に声を届ける()は言った。同時に、そのまわりに居た()たちも湯船から出ていく。ペタペタと音を鳴らしながら、彼女(・・)たちは浴場から出て行ったのだ。

 

 しばらく、大浴場には沈黙が支配した。龍田は出て行った三人に向けて手を振っている。そのうちの一人にべったりだった陽炎は黙って龍田を見ている。

 

 

「……なーんで、『火』付けちゃうかなぁ」

 

 

 そして私は、手を振っていた龍田ちゃん(・・・・・)に苦言をぶつける。それを受けた彼女も、先ほどと同じ笑みを向けてきた。

 

 

「だってぇ~……その方が面白そうじゃない?」

 

「人の弟分に、面白半分でけしかけちゃいけないでしょー?」

 

「ほらぁ、そこは姉貴分のゴリ押しで何とか出来るでしょぉ? それに勝手に牙を抜こうとした(・・・・・・・・)のはそっちじゃない」

 

 

 こいつ、抜け抜けと言いやがって……

 

 しかもこっちの意図を、二人の戦意をくじくためにメーちゃんに対する情を利用しよう作戦。それをくみ取った上でうまく利用されたわけだ。しかも、新たに火が付いちゃった子もいるし。

 

 はぁ、これで少しは恙無くメーちゃんを救い出せると思ったのに……

 

 

「というか龍田ちゃん、実はメーちゃんに変わってほしくないんでしょ?」

 

「いいえ~。さっきも言った通り、私は天龍ちゃんがいればあとは何もいらないわぁ~」

 

「どの口が言ってるのよ……」

 

 

 龍田ちゃんとのやり取りに、陽炎が突っ込みを入れる。彼女もまた私側だ。彼女の場合は雪風をお持ち帰りしたいわけだけど。

 

 だけど、何だろう。その顔にはイライラしているようでもあり、何処か悔しそうな顔でもある。

 

 まぁ、それはそうか。彼女にとって見ず知らずの人が、最愛の妹を動かした(・・・・)わけだからだ。お姉ちゃんとして、面白くないだろう。

 

 

「それに私、提督に感謝しているわけじゃありませんし~。むしろ仕返ししたい側なんでぇ~」

 

「それなら、私たちに協力してくれてもいいんじゃないの?」

 

「それは別問題で~す」

 

 

 はぁ、駄目だ。煽るだけ煽って、あとは好きにしろってスタンスだ。これは籠絡できないなぁ。

 

 それに私にも、随分言いたい放題したしさぁ? そこは許していないわけで。そっちが別問題(・・・)っていうのなら、私も別の問題(・・・・・)にさせてもらおうか。

 

 

「じゃあ、今から聞くことに答えてくれたら今日の事は見なかったことにしておくわ」

 

「あらぁ、何か気になる事でも~?」

 

 

 私の取引に、龍田ちゃんは快諾してくれる。割とさっきの問題に絡んでくる話ではあるが、言質は取れたし遠慮なく聞いちゃおう。

 

 

 

 

「この傷を付けた、日向()についてなんだけど」



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選んでしまった『結末』

「……で、これはなんだ?」

 

 

 客間にて、俺――――柊木 司はそう声を漏らす。額から汗が流れるのを感じた。だが、それ以外は特に変なところはない。脈も正常、呼吸も普通、血色も良好。文句なしの健康体だ。

 

 

 昨日、俺たちが楓の鎮守府に来て奴の左遷を言い渡した後。工廠でどんちゃん騒ぎする楓傘下の艦娘たちとアットホーム交流会、その後榛名の提案によって奴の左遷を賭けた演習をすることになった。

 

 ……そして、楓の左遷に反対である榛名から内通の申し出を受け、深掘りせずに受けたわけだがな。

 

 まぁ、その後は客人としてここの艦娘たちと接しつつ、飯食って風呂入って寝た。伊勢達にも部屋を割り振られておかげで、俺はこの客間を一人で利用している。そのおかげで久しぶりに一人の時間を思う存分楽しんだわけだ。

 

 いつもは何かしらあると誰かが部屋に飛び込んでくるから、たとえ自室に居ても常に気を張ってなきゃいけない。しかし此処に来る前に急ぎの仕事は終わらせ、近海の防衛には他鎮守府にお願い(ゴリ押し)してきた、更に鎮守府の運営は留守居の奴らに丸投げしてきた。

 

 まぁ帰ったら不在時の書類の処理とか鎮守府への謝罪とか、仕事丸投げした上に滞在期間延長による尻拭いのお詫びとか。いろいろ面倒なことがあるわけだが、いつものことだ。構わん構わん。

 

 

 そんなわけで久々のゆったりした朝を迎えることが出来る―――――と、思っていたのに。

 

 

「見ての通りデース」

 

 

 そんな俺の声に、彼女――――金剛型戦艦 1番艦 金剛は柔らかい笑みを浮かべてそう答えた。

 

 彼女と会うのは初めてであるが、彼女の事は此処に来るまでいろいろと聞いている。

 

 初代提督が失踪してからこの鎮守府を牛耳り、大本営に反旗を翻した張本人であり、俺たちが最も警戒すべき存在だ。

 

 中将経由で楓が此処に来た頃の話によると、彼女は提督代理としてここの運営していた。楓が着任した後も、何かと理由を付けて奴の代わりに執務をこなしていたが、楓とある駆逐艦の手によってその座を下ろされたとか。

 

 それ以降はずっと休養しており、楓たちが北方海域の攻略に乗り出した時に戦線復帰。だが、その初戦で謎の深海棲艦に襲われて行方不明、彼女の報告ではキス島に逃れた。

 

 そんな彼女たちを救出するために楓たちが決行したのがケ号作戦、いわゆるキス島撤退作戦である。結果は艦娘たちの尽力により救出され、現在は心を入れ替え第三艦隊旗艦として楓の下で働いているとのことだ。

 

 

 ……と、いうのが楓からの報告である。が、曲がりなりにもここを『提督』として運営してきた存在だ。無能なわけがないし、何より他の艦娘からの信頼は楓の次、もしくは楓以上の可能性がある。

 

 また、影響力は未だに健在であろう。その証拠に、彼女はこうしてほぼ初対面の俺に対して、かつ楓を異動させようとする敵に対してこうも堂々とした態度で立っているわけだ。それは、楓のように遠慮する必要がない、もしくはやすやすと従うつもりはないと言いたいのだろうか。

 

 

 そんな叛意バリバリのオーラをまとう彼女が、突然訪ねてきたのだ。

 

 

『グッッッド、モォーニィーング!!!!!!』

 

 

 と、大声と共にノックもなしに飛び込むという予想外の登場。

 

 うちの艦娘でも流石にノックするよ、なんで昨日初めて会った他人にそんなダイナミックおはようできるの? 楓の教育のせい? それつまりその教育係である俺のせいってこと?

 

 とまぁパニック状態の俺に彼女は特に悪びれもなく、今こうして立っているわけだ。いや、少しは悪びれよ? と注意する間もなく、彼女は次の行動を起こした。

 

 

「いや、だからなんなんだよ、この手紙の山は……」

 

 

 そう言って俺が指を差すのは客間に備え付けられた机、そこに山のように積まれた手紙だ。それは金剛が手に持っている袋の中にあったもの、彼女は部屋に入ってきてすぐに肩にかけていた袋をひっくり返し、その中身を机の上にぶちまけたわけだ。

 

 そして、そのまま何も言わずに笑みを浮かべる彼女に対して、「……で、これはなんだ?」(先ほどのやり取り)へ繋がるわけだのだ。

 

 

 そんな俺を前に、金剛が柔らかい笑みを浮かべたままこう答えた。

 

 

 

「うちの艦娘たちが書いた、テートクの異動取りやめ(・・・・)の嘆願書デース」

 

 

 その言葉を聞いて、俺は再び手紙の山に目を向ける。これ全て、楓の異動を取りやめにしてほしいという旨の手紙、彼女からすると嘆願書なのだろう。

 

 量から察するに、此処に居るほとんどの艦娘が書いたものと思われる。どれだけあいつが此処の艦娘に慕われているか、それを指し示す立派な物差しだ。これを前にして、俺はいかにあいつがこの鎮守府にとって大きな存在であるのかを知れた。

 

 

 とはいっても、これは予想通り(・・・・)だ。

 

 昨日、此処にやってきて楓異動の旨を伝え、さらに噂として鎮守府中に流布したのは俺である。そのため、此処の艦娘たちから何かしらの反応があるのは予想していた。まして、あの駆逐艦たちのように彼の異動を快く思わないものもいるだろう。そのため、異動に関して抗議するものたちがいることは十分に予想できた。

 

 また、上が挿げ替えられても別に問題ないが、現状が変わることを恐れたものもいるだろう。それも、なんだかんだ自分たちの待遇を改善した楓と、一時敵対した大本営からの指令をもって現れた見ず知らずの俺たちだ。彼女たちもまた、楓の異動に異を唱えるだろうとも思っていた。

 

 

 なのでこの異動について、十中八九艦娘たちは反対するだろう。そう予想できた。

 

 故に、彼女たちがその意思表示として何かしらの行動、今回の場合は嘆願書をしたためて俺に送りつけることも朧気であるが予想できたし、納得できた。

 

 

 

 

「これ、見なかったことにして全て燃やしてくだサーイ」

 

 

 だが、この発言は―――――目の前の金剛が発した言葉は流石に予想外だ。

 

 その発言を受けて、俺は思わず金剛を凝視する。その視線に対しても、彼女は笑みを浮かべたままだ。だが、その視線は常に俺を見据え、決して離そうとはしない。

 

 

 互いの視線が交差する。同時に、沈黙が場を支配した。

 

 

 

「……なんでだ?」

 

「これがテートクに見つかるとマズイからデス。あと、今後もこういったものはワタシ経由で集めますので、処分お願いしますネ」

 

 

 俺の問いに金剛は悪びれる様子もなく答え、更に今後もこのようなものは全て持ってくると言っていた。雰囲気的に嘘を言っているようでも、冗談のようでもない。当たり前のように、真面目に、こちらに協力する(・・・・)と言っているのだ。

 

 だが、その言葉を鵜呑みにすることはできない。それは彼女の経歴を見れは明らかであり、この申し出は未だに叛意(その意思)があると表明したも同然だからな。

 

 

「Wo、信用していませんネー?」

 

「……そりゃあ、なぁ」

 

「……まぁ、これも日頃の行いってやつですネー」

 

 

 沈黙する俺の心中を察した金剛は俺の答えに肩を竦める。いや、日頃の行いというか過去の行いというか。そこに深く切り込むのはやめておこう。

 

 

「もう一度聞くが、なんでこんなことを?」

 

「『テートクに見つかるとマズイ』……というのは、納得されませんでしたネー……でも、本当にそうとしか言えないんですヨ」

 

 

 再度の問いに、金剛は考えるように口元に手を置くが、それでも同じ答えを、今度は苦笑いを浮かべながら返してきた。あちらも余計なことを言わないよう警戒しているのだろう。互いに警戒したままだから進む話も進まない。

 

 

「分かった、まず俺の話を聞いてくれるか? その後、君の答えを聞かせてほしい」

 

「OK」

 

 

 俺の言葉に、金剛は即答する。そして幾分か雰囲気が和らいだ。少しは警戒を解いてくれたか。ということは、彼女の目的は俺と敵対することではないっぽいな。

 

 

「まず、俺たちが此処に来たのは君たちを安全に取り込むためだ。敵対する気もないし、させる気もない。それは昨日、君たちに提示した条件がそうだっただろう。そして、それと同時に楓を此処から動かすこと。これはまぁ話せば長くなるんだが、とりあえずあいつに危害を加えようとは考えて……まぁ、うちの山城が速攻危害を加えようとしたけど、もうさせることはない。絶対だ」

 

 

 俺がそう断言する。これは本心であり、隠す必要もない。それは金剛とて同じだろう。その証拠に、彼女は特に表情を変えることはなかった。『予想通り』、という意味か。

 

 だが、同時に彼女は何も発さない。これはまだ納得していないということだろう。今日初めて会ったからそりゃそうだ、と思えばそうだろうが、初対面でこんなやり取りするのは違う気がするんだがなぁ。

 

 

「そして、君の提案に対しての疑問はこの3つだ。まず何故それを楓に見られたらマズいのか、そしてそれをすることで君は何がしたいのか、それは俺にとってどんな影響があるのか、だ。ちなみに、最後の返答によって今しがたいった俺たちの目的は変わるかもしれない。そして、それを君に伝えない。良いか?」

 

 

 俺は問いの最後に釘をさしておく。これで、今しがた言ったことは全て金剛たちの考えによって考える、とけん制することが出来た。

 

 そりゃあな、榛名(彼女の妹)がこちらに内通しているわけで。もしかしたら彼女が送り込んだものかもしれないし、逆に言えば彼女に相談なしで来たかもしれない。そこを推し量れないため、榛名の立場を考えると変に突っ込まない方がいいだろう。

 

 

「……OK。では、ワタシのターンですネ」

 

 

 俺の言葉に金剛は少し考えた後、そう答えた。『合格』ということだろうか。全く、なんで(提督)じゃなくて、金剛(一艦娘)と腹の探り合いしてるんだろうな……

 

 

 

「では、先ほどから聞かれていました質問から……これは本当に単純で、()のテートクに聞かれちゃマズいんですヨ」

 

()の、とは?」

 

 

 金剛の言葉に、俺は気になった点を―――付け加えられた『今』という言葉に引っかかった。それを指摘すると、彼女は少し視線を外す。同時に、腕を組んで何処かイラついた雰囲気を出し始めた。

 

 

「今、テートクは『決断』を迫られていマース。それも、どちらの判断にも支持する存在がいて、そのどちらも彼にとって切り捨てられないものデス。彼にとって同等の価値があり、切り捨てるなら自分の『感情』に従うしかありまセン。そしてそれを迫られ、結局切り捨てられなかったのが先の作戦の失態です(・・)。今後それをされると、()たちがその尻拭いしなければなりません。それこそ私たちの本意でもなく、何よりテートク(・・・・)の本意でもないでしょう」

 

 

 話をするごとに、金剛の片言口調が薄れていく。それが無意識なのか、意識的なのか、それは彼女の表情を見れば明らかだろう。

 

 

「そして、この『決断』はテートクが一人(・・)でしなければいけません。今、現段階でうちの駆逐艦たちがいろいろと動いています。そして此処にある手紙の通り、私たちの総意は『彼が此処に残ること』。それを彼が知れば、彼は此処に残ると言い出すでしょう。でも、それはただ私たちに流されただけであり、彼が選んだわけではありません。そして、その選択(・・)では私たちが憂慮していることを払拭することはできないでしょう」

 

 

 彼女はそういって、一息つく。その様子を見て、俺は近場の椅子を掴んで彼女の横に置いた。それに、彼女は少し驚いた顔をするも、すぐさまその椅子に腰を下ろした。

 

 

「なので、この手紙をテートクに知られたらマズいんですよ。ようやく彼の()なところを直すチャンスなのに、そうやって横やりを入れられたら意味ないじゃないですかぁ。だから、こうやって手紙関係は私のところに持ってくるようにしたんです。管理しやすいですし、誰がどう思っているかも把握できますから……下手に動こうとする子にはストップかけられますしねぇ……あとは――」

 

「分かった分かった、もう十分(・・・・)だ」

 

 

 まだ語り足りない(・・・・)であろう彼女の言葉を遮って、俺は椅子から立ち上がる。それに彼女は、驚いた顔で俺を見る。

 

 

 

「楓が苦労をかけて、すまんなぁ」

 

 

 そんな顔に――――多方に配慮し過ぎて疲れ切った人間(・・)の顔に。俺は労いと感謝の言葉を向けた。

 

 

「……別に、そんなんじゃあり痛っ!? な、なんで叩くんですカ!?」

 

 

 俺の言葉に、そこに座っている金剛(彼女)は不貞腐れたように答える。その様子に、俺は笑いをこぼしながらその背中をバシッと叩いた。それに抗議する金剛を見て、俺は笑いをこらえながら再び椅子に座る。

 

 

「まぁ、これでお互いの腹は割れたわけだ。これからどうする?」

 

「……とりあえず、こちらの艦娘たちはワタシが抑えマス。もし必要そうであれば、そちらの艦娘にも出張ったもらうかもデース。あと、出来ればテートクと二人っきりにさせないようにしてくだサイ。変なこと吹き込まれると、それこそ余計こじれますカラ……」

 

「あい分かった。そこはうちの艦娘――特に伊勢だな。必ず徹底させよう。演習の勝敗はどうする?」

 

「それについては思う存分やっちゃってくだサーイ。こちらは全力で迎え撃つと思いますから、あまり油断はしない方がいいかもですヨ? ワタシは今回不参加なので特に関与できませんから、結果について文句は言わないでくださいネー」

 

 

 互いの腹の内を明かしたことで、その後のやり取りは結構スムーズに進んだ。やっぱり腹を割って、いや吐かせて(・・・・)正解だったよ。

 

 また演習についても聞いたところ、特に関与する気はないと言っている。これを見るに、榛名の独断で動いているだけのようだ。しかも、ただで負ける気はないと思っている。

 

 

「了解だ。てか、()的に楓は残って欲しいのか?」

 

「……言わないとだめですカ?」

 

「おう」

 

 

 割と砕けた口調で、俺は金剛の意志を聞く。その言葉に金剛は露骨に嫌な顔をしながら答える。その表情がもう答えだが、敢えて聞こう。

 

 

「……ワタシは、本当に(・・・)どちらでもいいデス。ただ、残るのならあの『優柔不断』を矯正する必要があると考えてマース。なので、今回骨を折っているわけヨ……」

 

 

 そこで言葉を切り、金剛は深いため息を吐く。なるほどなるほど、残った場合しか(・・)考えていないと。それだけで十分だな。

 

 

「遠回りなやり方だな……いっそ直接言っちまえばいいのに」

 

「……ここまでやってきたワタシの苦労を無駄にする気ですカ? それにその役割の方がもっと遠回りですし、何よりこれ以上テートクに苦労させられるのはごめんデース」

 

 

 俺の言葉に、金剛はイラついた顔を向けてそう答える。まぁ、確かに(あれ)を動かすのは骨折れそうだからなぁ。全く同意見だ。

 

 

「まぁ、それでも俺の目的は変わらんからな」

 

「……へー、それ(・・)は言わないんじゃなかったんですカ?」

 

 

 俺の宣言に、金剛は少し驚い顔をして返してくる。あぁ、あの『彼女の考えを聞いた後のことは教えない』ってやつか。そうは言ったが特に変わってないわけだし、何よりそれだけ暴露してくれたのだからこちらは何も言わないのはフェアじゃないだろう。

 

 

「別に構わんだろう。元々敵対しているわけでもあるまいし、目的もほぼ一緒だしな!!」

 

「……あなた、本当にうちのテートクの師匠ですカ? もし師匠なら、なんで『ああ』なっちゃったんですカ……」

 

 

 俺の言葉に、金剛はジト目を向けてくる。言いたいことは痛いほどわかるが、そこまで矯正した気もつもりもないのでスルーしておく。ニコニコする俺を見て、彼女は何度目かのため息を吐いた。

 

 

「まぁ良いデス。では、それでお願いしますネー」

 

「おう、またな」

 

 

 そう言って金剛は座っていた椅子から立ち上がり、軽く伸びをする。そして、肩にかけていた袋に先ほどばらまいた手紙たちをしまう。そして、全て納まったそれを俺に押し付けてくる。これ、後で伊勢に見せるか。

 

 

 しかし、これは僥倖だ。なにせ、此処に居る最大の懸念点が払しょくされたからな。このまま俺の下に入ろうとも、万が一に楓が一勢力となっても、ある程度の交渉は出来るわけだからな。

 

 

 であれば、もう一つの『争点』を摘むか。

 

 

 

「うわッ!?」

 

「ッ!?」

 

 

 そう考えている俺の耳に、不意を突かれた金剛の声ともう一つの声が聞こえる。

 

 その方を見ると、驚いた表情の金剛がいた。

 

 

 そして、もう一つの『争点』も。

 

 

 

 

「榛名? どうしたネ……?」

 

 

 金剛は首をかしげながら、目の前にいる『争点』―――――自身の妹に声をかける。

 

 

 対して、妹は何も声を出せないようだ。ただ茫然として、ただ信じられないものをも見るような目で金剛を見るだけだ。

 

 その顔は何処か悲しげであり、憎々しげであり、羨望と哀愁と、とかく全てを飲み込んだ絶望(・・)の色に塗りつぶされていた。

 

 

 

「大丈夫ヨ、榛名」

 

 

 そんな彼女に、金剛は何か合点が付いたようにそう言った。その顔は、まさに妹を見る姉の顔をしている。そして、その手は今なお固まる妹の頬に触れた。

 

 

「ワタシも、貴女と同じ(・・)想いですカラ」

 

 

 そう言って微笑みかける姉に、妹の目が大きく見開かれる。その口が堅く結ばれ、その拳が何度も空を掴み、その視線が姉から自身の足元に落ちた。

 

 

 『何か』、言いたいのだろう。『何か』、言ってしまいたいんだろう。『何か』、ぶちまけてしまいたいんだろう。

 

 それでも、妹はそれを辞めた。諦めた。手放さずに、固く固く握りしめ、その胸の奥深くにしまい込んだ。

 

 

 

 

「ええ、もちろんです」

 

 

 それらすべてを包み込みように、彼女はそう言う。それを受けて、金剛は満足そうに微笑んで部屋を後にした。あとに残ったのは、妹と俺の二人、そしてこの部屋全体を覆う沈黙のみだ。

 

 俺はそれを破る気はなかった。ただ、目の前で立ち尽くし、何処にも向けられない自分の足に視線を落とし、おおよそ予想が付くであろうありとあらゆる感情に打ちのめされ、押しつぶされ、すりつぶされているであろう。

 

 

 そんな榛名(争点)に手を差し伸べる気なんぞ、毛ほどもないからだ。

 

 

 

「――――あの」

 

「今更『降りる』、なんて言わないよな?」

 

 

 やがて何かしらの答えを出したであろう榛名は声を上げ、俺はそれをすぐさま握り潰した。ようやく持ち上がった視線は、俺の手によってふたたび地面に落ちた。

 

 叩き落され、ひしゃげた、ボロボロになったその身体から。ポツポツと、無色透明の液体が湧き出ている。それは上へ上へと持ち上げられ、その瞳から零れ落ちた。

 

 

「これは貴艦(・・)から申し出たことだ。それゆえに、最()まで全うせよ」

 

「はっ」

 

 

 俺の言葉に、榛名は短くそう言って敬礼を向ける。それを受けて、俺も彼女に敬礼を返す。

 

 

 その時、ちゃんと彼女の顔を見据えた。そこには、予想通りの顔がある。そこに、彼女の胸中がありありと現れていた。

 

 何度も言うように、何度も確認するように、何度も振り払う(・・・・)ように。俺は、何度でもこの答えを示すだろう。

 

 

 

「これが、君が選んでしまった(・・・・・・・)結末だ」

 

 

 これこそが、俺が彼女に手向けられるであろう、せめてもの言葉だ。

 

 申し訳ないとも思わないし、思ってはいけない。昨日今日で出会ったばかりの他人であり、大本営(おれたち)を転覆させかねない存在。

 

 例え、その根本的原因が大本営側だとしても。彼女の選択(それ)は見過ごすことはできないし、肯定してはならないし、潰さなくてはならない。

 

 

 例え、それが彼女の『本意』ではなくても。

 

 

 

「はい、榛名は大丈夫です」

 

 

 俺の言葉に、榛名は短くそう答えた。その声色は一瞬の震えもなく、抑揚もない、人間味を感じられないものだ。まさしく兵器だと言えてしまうほど、生気を感じなかった。

 

 

 ただ、そこにある顔は。そこに流れるそれだけ(・・)は。

 

 

 感情の消え失せた顔、その頬に流れる一筋の雫(それ)が。

 

 

 紛れもなく、彼女の『本意』であったとしても。

 

 

 

 何故なら、俺は彼女の――――いや、彼女は俺の艦娘(・・・・)ではないのだから。

 

 

 

「また、お伺いします」

 

 

 榛名はそう言って頭を下げ、足早に出て行った。その後ろ姿を見送った後、俺は深いため息を吐いてしまう。

 

 

 

「素直じゃねぇなぁ……全く」

 

 

 そんな言葉が、独り言が漏れる。どうやら、相当に疲れているみたいだ。起きたばかりなんだがぁ……

 

 

 そう言いながら、パキポキと肩を鳴らす。そのまま、先ほど金剛から渡された嘆願書の入った袋を脇に置く。まぁ、別に見る必要はないだろう。内容は分かっているし、捨てろと言われている。あとで伊勢……は、マズいから、山城あたりに頼むか。

 

 

「さて、今日の予定は……?」

 

 

 そう言って、俺は昨日目を通しておいた書類―――此処に所属する艦娘の名簿を開く。パラパラとめくり、とあるページで手を止めた。それと同時に、目の奥にだるさを感じたので目頭を揉んでおく。

 

 

「さぁて、どう伝えたもんかねぇ……」

 

 

 ある程度マシになった疲れ目を労りながら、俺はそこに書かれている艦娘の名前に視線を落とした。

 

 

 

 

『球磨型軽巡洋艦 3番艦 北上』



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見透かされた『腹の底』

「っぷ」

 

 

 ふと、無意識に声が漏れた。

 

 同時に、目の奥が熱くなる。視界が上下左右無作為に揺れ、三半規管をこれでもかとかき乱されたせいで上下の感すらも危うくなってきた。

 

 胸のあたりを締め上げられ、ここを起点に振り回されているわけだ。遠のく意識の中で制服から嫌な音が聞こえるが、それを制止する余力もない。

 

 

 

 

『助けて』

 

 

 それは今まで何度も聞かされた言葉だ。

 

 相手は誰だったか、多分駆逐艦(チビ)だったかな、傷ついた姉妹艦の治療をお願いされたっけ。完全な治療は無理だけど、気持ち程度の処置しかできなくて。それでも、痛みに顔を歪めながらも笑顔を向けてくれるたっけ。

 

 

 あまり、思い出したくない記憶。忘れかけていた記憶。忘れてはいけない(・・・・・・・・)けど、どうにか忘れたい(・・・・)記憶。

 

 

 

 私ではどうしようもできなかったもの、私には荷が重すぎたもの、なのに自分から背負ったもの。言葉を選ばずに言えば、これは私にとって『理不尽』なものだ。

 

 

 そして、決まってこの『理不尽』に見舞われた時。私はただただ抗議の声を絞り出すしかないのだ。

 

 

「ちょ、ま、ま……」

 

「お願い!!!! 私を助けて(・・・)!!!!! 後生だからぁあ!!!!」

 

 

 私の絞り出した声をかき消すように、『理不尽』を振りまく存在――――――工作艦 明石は金切り声を上げた。

 

 

 

 

 どうも、こんにちは。球磨型軽巡洋艦 3番艦の北上です。

 

 

 この鎮守府で軽巡洋艦をさせてもらってます。そしてつい昨日、第一改造を終えて軽巡洋艦から重雷装巡洋艦になりました。

 

 なんか艤装の換装で、従来の倍に及ぶ潜航距離を誇るすごい魚雷と大量の魚雷搭載が可能になりました。具体的にどうなのかと言われたら、なんか空母と一緒に魚雷ぶっぱできるようになりました、はい。

 

 とはいっても、昨日の今日なのでまだやったことはないです。まずは演習で使い方を覚えて、そこから模擬戦で試してみて、いけそうなら実践投入って流れかなぁ。まぁ、今回の演習には不参加なんだけどね。

 

 

 まぁまぁ……私のスペックについてはこんなところです。では次に、今あたしが置かれている状況についてかな。

 

 

「お願い!!!! ホントに助けて!!!! あたしを過労地獄から解放してぇぇええええええええ!!!!」

 

 

 今もなお、あたしの制服に縋り付きながらそう懇願する明石。

 

 

 『発端』……と呼べるか怪しいんだけど、とりあえずこんな感じ。

 

 

 あたしは廊下を歩いていたら、後ろから声をかけられる。振り返ったらピンク髪を振り乱して飛び掛かられました。

 

 そして現在進行形で、明石に制服を掴まれてぶんぶん振り回されているわけです。

 

 以上。

 

 

 ……いや、本当にどういうこと?

 

 まずなんで彼女があたしに飛び掛かってきたのかも分からないし、彼女がどうすればこの奇行を辞めてくれる術も知らない。要するに、あたしだけではどうしようもなくて外部の手が必要なのだ。

 

 だが、ここ鎮守府の廊下なのよ。普通にうちの艦娘たちも通るわけよ。そしてこの惨状を見るわけよ、見ないふりで通り過ぎていくわけよ。つまり、誰も止めに入ってくれないのだ。

 

 誰もこの惨状を止めてくれないし、あたしも三半規管がやられて抜け出せないのよ。ただただうちの廊下で明石(この人)の奇行に振り回されているわけだよ。

 

 

 ……地獄か?

 

 

 

 

「あ、いた……何してるの?」

 

Wow! That looks fun!(あら! 楽しそうね!)

 

 

 遠のきかけた意識の隅に、二つの声が聞こえた。一つは引き気味の声、もう一つは鈴のような明るい流暢な英語だ。

 

 そして、その声にようやく明石が手を止めてくれた。ただ離してはくれなかったので、あたしは猫みたいに力なくその手から垂れ下がる。

 

 朦朧とする意識の中で声の方を見ると、昨日工廠で会った二人が立っていた。

 

 

 

 一人は提督のお姉ちゃんを自称する艦娘、伊勢。

 

 もう一人は、イギリスからやってきた駆逐艦で……ジャーヴィスだったっけ?

 

 

 

「伊勢ぇ!!!! 彼女だよね!!!! 彼女が元工作艦(・・・・)の北上さんだよね!!!! 間違いないよね!!!!!!」

 

「……とりあえず、いったん彼女を離して」

 

 

 伊勢に向かって何かを訴えかける明石。その動きで再び揺らされ、そろそろ何か(・・)出そうな雰囲気が出てきたあたしを見て、伊勢はそういいながら彼女の手からあたしを引き剥がしてくれた。

 

 

「キタカミ? How are you feeling?(大丈夫?)

 

「お、おーけーおーけー……あいむふぁいん……せんきゅー」

 

 

 伊勢からあたしを受け取ったジャーヴィスがなんかよく分かんないこと言ってくる。それに対して、回らない頭のままとりあえず思いついた英語を口に出した。

 

 

 ちなみに、伊勢はその場に明石を正座させてお説教中だ。

 

 そしてここは相も変わらず廊下だ。当然周りの視線が集まり、同時に存在ごと離れていく。

 

 

 

 もう一度言おう。

 

 

 ……『地獄』か?

 

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 

「誠に申し訳ございませんでした……」

 

 

 しばらくして、ようやく回復したあたしの前には二人から謝罪を受けた。

 

 一人はきっちり頭を下げた伊勢。

 

 もう一人はその横で、首から『私は他鎮守府の艦娘を工作艦にしようとしました』と訳の分からない懺悔文を引っ提げて土下座する明石。

 

 

 

 ……何だこの状況?

 

 まぁ、それは置いておいて、分かったことというか明石の奇行については教えてもらった。

 

 

 あたし―――北上は前の記憶で工作艦をやっていた時期があって、その知識を使ってここの医療関係を担っていた。とはいっても、明石(彼女)のようにある程度の傷なら治せるとかではなく、あくまで応急処置程度。一時の痛みを引かせるとか、これ以上悪化しないようにとか。その程度のことだ。

 

 まぁ、本業は外傷よりもメンタルヘルスケアではあるんだけど……今はどうでもいいか。ともかく、医療関係にある程度の知識を持つ()工作艦であったわけだ。

 

 そして、私が持つ『工作艦』という肩書は、正式には明石だけしか持っていないものらしい。つまり、明石はとても貴重な艦娘なわけだ。

 

 更に、彼女が担う役目は艦娘の『改造』という戦力増強には欠かせないものであり、希少価値が高いくせに需要が半端ないわけだ。

 

 なので、明石という艦娘は一鎮守府に所属でありながら、複数の鎮守府の『改造』に携わらなければならない。要請があれば出張という形で日々いろいろな鎮守府を走り回っているそうだ。

 

 

 同時に、彼女は『酒保』の運営も任されている。

 

 酒保というのは軍人、兵隊向けの日用品や嗜好品を売る売店のようなもので、そこでは大本営の支援では得られない様々なものを扱っているそうだ。主に戦力増強を目的としたものばかりではあるが、彼女曰く指輪なんかも取り扱っているそうだ。

 

 

 そんな酒保を彼女たちが運営している理由は単純、『明石にしか商品を作れないから』だ。

 

 彼女曰く、酒保で扱う商品は全て『明石』が作ったものばかりであり、その生産工程も彼女たちで秘匿しているようだ。

 

 まぁ秘匿しているというか、その商品を生産する際に協力してくれる妖精さんが彼女たちの前にしか現れないらしく、公開したくてもできない状況らしい。

 

 また先ほどの複数の鎮守府を走り回る故に、出張先で酒保も開けば人員削減できるんじゃね? という大本営の判断で、明石達に酒保の運営を押し付けられている(任されている)のだとか。

 

 

 さて、ここまでこれば明石の奇行の理由が分かるだろう。

 

 

 ――――――そう、明石(彼女)はめちゃくちゃ忙しいのだ。

 

 

 彼女曰く『明石』はブラック企業もびっくりの激務で、(明石たち)みんな死屍累々の姿で働いているらしい。なので、少しでも自分たちの負担を減らすべく日々効率化を求めまくっているそうだ。

 

 

 そこに降って湧いてきた、()『工作艦』――――――まぁ、なんか抑えられないものがあったのだろう。

 

 

 

「お前も工作艦にならないか?」

 

「おい」

 

 

 その抑えられないものが噴出した明石に、横の伊勢が頭をぴしゃりと叩く。それに「あうッ」ってなった明石であったが、なる前の目が本気だったのを見逃さなかった。

 

 

「はぁ……まぁいいよ、別に」

 

「ホント!!! じゃ、じゃあ――」

 

「なんねーよ」

 

 

 そんな二人のやり取りを、あたしはため息交じりにそういった。その言葉に伊勢は苦笑いを浮かべ、明石はぱぁっと顔をほころばせながらそう言ってきたのでバッサリ否定する。

 

 その瞬間、明石は正座からゴロンと横になっていじけ始めた。良い大人がみっともない……

 

 

 

「で、あたしに何の用さ」

 

 

 とりあえず、明石は放置して伊勢にそう問いかける。それに、彼女はキョトンとした顔になった。横のジャーヴィスはニコニコしているだけ。

 

 

「さっき、『居た』って言ってたでしょ? あたしか明石(これ)を探してたんじゃないの?」

 

「あぁ、聞こえてたんだ。そうそう、貴女を探してい……大丈夫! 工作艦になってとか言わないから!」

 

 

 あたしの言葉に、伊勢は感嘆の声を上げて肯定してきた。その感情が顔に出ていたんだろう、伊勢は苦笑いを浮かべながら付け加えてくる。良かった、これ以上面倒くさいのはごめんだよ。

 

 

「そうそう! 貴女とお話したいの!」

 

 

 そういったのは、立ち直ったあたしの手を握りしめるジャーヴィスだ。キラキラと天真爛漫な笑顔を向けてくる。その笑顔を前にして、あたしは目を細めながらこう言った。

 

 

 

 

それ(・・)、いつまでやるの?」

 

 

 

 あたしの言葉で、その場の空気が一気に凍り付いた。その言葉に、ジャーヴィスの完璧な笑顔がこわばる。ふと視線を横に向けると伊勢が少し驚いた顔をしており、いじけていた明石も視線だけをあたしに向けてきていた。

 

 

「what?」

 

 

 次に聞こえたのは、ジャーヴィスの声だ。先ほどと同様、鈴のような可愛らしい声色だ。が、先ほどと違ってその声には何処か歪んでいるような違和感があった。

 

 

 

「いや、いつまでその『いい子ちゃん』キャラ続けるのかなって……思ってさ」

 

 

 そんなジャーヴィスを前に、あたしは少し笑みを浮かべながら畳みかけた。それを受けて、彼女の表情――――その上にある笑顔(仮面)を外したのだ。

 

 

 

 

I hate perceptive brats like you(あんたみたいな勘のいいガキは嫌いだよ)

 

 

 

 そう、流暢な英語で漏らした彼女の顔。今までの天真爛漫な笑顔が消えうせ、眉間に深いしわを刻み、生気の抜けた瞳を浮かべ、その言葉と共に聞かせる(・・・・)ように舌打ちをしたのだ。

 

 

 

「今回はあんたの負けみたいね? ジャビ(・・・)ちゃん」

 

「おい、変なあだ名付けるなバb――」

 

 

 

 その様子に楽しそうな顔の伊勢がそう言い、それに何か(・・)言おうとしたジャーヴィスの言葉を刀で遮った。その向けられた刀に全く臆する様子はないジャーヴィスは心底面倒くさそうにため息を吐き、ポケットをごそごそし始めた。

 

 

「あ、ジャビちゃん、タバコは身体に悪いですよ?」

 

「お前も呼ぶな……つうか、別にいいだろ」

 

「うち、敷地内は禁煙なんだよね~」

 

 

 明石の言葉を無視してジャーヴィスがポケットから取り出したタバコを咥えようとするので、それに釘を刺しておく。あたしの言葉に、彼女は刃物のような視線を向けながら舌打ちし、しぶしぶタバコをしまった。

 

 だが、どうも本性を出してからずっとそわそわしている。今まで装っていたわけだし、少なくはないストレスを抱えていたわけだししょうがないか。

 

 

 

「これあげるよ、タバコの代わり」

 

「あ? んだこれ、Candyじゃねぇか」

 

 

 そんな彼女に差し出したのは、ペロペロキャンディー。ちょうど、間宮から甘さ控えめかつ長く楽しめるもの、というコンセプトで発明された甘味の試作品だ。タイミングよすぎるけど、細かいことは気にしない気にしない。

 

 キャンディーの包装を剥がして、無理やりジャーヴィスの口に押し込む。彼女はすぐに吐き出そうとしたが、口に入れた瞬間おとなしくなった。

 

 

 見た目相応(・・・・・)、気に入ったのだろう。

 

 

「……これ、あとで作り方教えろ」

 

「間宮に『めちゃくちゃ気に入ったから作り方教えて~』って言えば?」

 

 

 あたしの答えに殺意の込めた視線を向けてくるも、特に気にすることなく明後日の方を向いて口笛を吹く。そんな私たちの様子を、特に飴でおとなしくなったジャーヴィスを見てニコニコしている伊勢と明石。

 

 

What are you smiling at !?(何笑ってんだよ!?)

 

「いや……ジャビちゃんも子供なんだなぁ、って改めて感じちゃってねぇ」

 

「うんうん……タバコもその、若気の至り(・・・・・)ってやつですなぁ」

 

 

 ジャーヴィスの反応に親目線の発言を繰り返す二人。それにちょっと文字に起こせない言葉を吐くジャビ(・・・)ちゃん。なるほど、こんな『扱い』でいいのか。

 

 

「しかし、ジャビちゃんはなんで日本に来れた(・・・)のかな? もっと外聞のいい娘いたはずでしょ?」

 

「おい、それ()のこと遠回しに貶してるよな?」

 

 

 あたしの言葉に、ジャビちゃんは額に青筋を浮かべながら詰め寄ってくる。いやぁ、端正な顔立ちだとそういう表情も幾分か緩和されるんだねぇ、ウケる。

 

 

 というのもね、彼女がイギリスとに日本との技術交換でこっちにやってきたのは昨日聞いたわけだが。一応、国家間の正式なやり取りなわけで、そういう時にまず第一とされるのが『外聞』なわけ。

 

 日本(うち)から誰が言ったかは知らないけどさぁ、一応は国を代表としてくるわけよ。そりゃ、それ相応の身分、もしくは品性を備えた存在が来るはずじゃんか。まぁ、それは彼女の演技が最も上手いから選ばれたんだろうけどさ。

 

 

「でもさぁ、こうして本心がバレているわけじゃんか? 普通、そこまで考えてカバーできる人にすべきだと思うんだけど?」

 

「本人を前に遠慮なく言うねぇ~……嫌いじゃないよ、そういうの」

 

 

 あたしの言葉に、伊勢は少し面白がるように顔を綻ばせながらそう言ってくる。ちなみに、ジャビちゃんはぶすっとした顔で黙っている。不満しかないけど……まぁそう思われるのも分かる、といった感じかな。

 

 

「まぁ、それに関しては私たちも実際に思ったし……今後一緒になるならきちんと知っておくべきことでもあるから、改めて何処かで説明させてもらうね」

 

「おー、いえーい」

 

 

 伊勢の言葉に、あたしは特に言及することもなく引き下がる。何せ、こっちがやった脱線(・・・・・・・・・)を軌道修正されたわけだし。従うしかないでしょ。

 

 

 

「んで? 本題はなにさ?」

 

「貴女、うちの鎮守府に来ない?」

 

 

 

 軽ーい気持ちで投げたボールが、なかなかの変化球(・・・)で返ってきた。その言葉にチラリと視線を向けると、先ほどのおちゃらけた雰囲気が一転、何処か張り詰めた空気をまとった伊勢がいた。

 

 それは彼女だけではなく、明石とジャーヴィスも同じ空気をまとっている。どうやら、彼女たちが同じタイミングであたしの前に現れたのは偶然ではないみたいだ。

 

 

「うちに来ないって、あたしたちは吸収されるんでしょ? 来るも来ないもなくない?」

 

「まぁ最終的には吸収するし、そのつもりなんだけどさぁ……万が一(・・・)、ってこともあるでしょ?」

 

 

 あたしの問いに、伊勢が何処か言いにくそうにそういう。つまり、彼女は今回の演習の勝敗に関係なく、あたしを時鎮守府に引き抜きたいみたいだな。

 

 そして、恐らくそれは伊勢だけでなく明石やジャーヴィスも同じな模様。あたし、改造しただけでそんなに人気者になっちゃったのかな?

 

 ただ、言い方的に『万が一』にする気は一切ない、という自信も垣間見せている。本人も、何処か不本意っちゃ不本意なのかもしれない。それが、自分がやっていることに対してか、はたまた負けることに対してかは分からない。

 

 

 まぁ、とりあえず全部ひっくるめて簡単に言うと、『あたしを引き抜きたい』ってことだ。

 

 

 

「へぇ? そんなに『重雷装巡洋艦』って引く手数多なんだねぇ~」

 

「いや、それは関係ないよ」

 

 

 あたしの言葉に、伊勢ははっきりと否定した。それを受けて、あたしは三人に目を向ける。それと同時に、三人からまっすぐ視線を向けられる。

 

 

「いやぁ、まさかここまで『北上』を求められるとは思わ―――」

 

「違うよ」

 

 

 あたしの言葉を遮るように、伊勢が否定する。それを受け、あたしは彼女に視線を向けた。

 

 

 

 

「私たちは貴女に―――――妹を失った『貴女』に来てほしいんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は?」

 

「ッ」

 

 

 その言葉を聞いた時、あたしの口からそれ(・・)が漏れた。

 

 

 同時に、自分が出せるだけの殺気を3人に向ける。それを受けて明石は少し後ずさりしたが、残りの二人は動じることはなかった。

 

 そして、後ずさりした明石がいつの間にか取り出していた一枚の紙を伊勢がひったくり、それを読み上げながらあたしに近づいてくる。

 

 

 

「球磨型軽巡洋艦 3番艦 北上。約1年半前に姉妹艦である球磨型軽巡洋艦 4番艦 大井と共に着任。その後、初代提督の下で艦隊に所属し、戦績を挙げる。後期にはその戦績を盾に提督へ出撃の頻度を減らすよう直談判、紆余曲折を経て大井と二人で鎮守府内で麻痺していた医療機関の役目を担う」

 

 

 淡々と、あたしたち(・・)の遍歴を読み上げてくる。そんな彼女の姿が、だんだんと近づいてくる。それを前に、あたしの視界が彼女だけになっていく。その姿が鮮明になっている代わりに、視界の端がどんどんどんどん暗く、ぼやけていく。

 

 

「その後、第一次(・・・)沖ノ鳥島海域攻略作戦に参加、同作戦で大井が轟―――」

 

 

「やめろォ!!!!」

 

 

 その言葉を、今度こそかき消すようにあたしは叫んだ。それを受け、今まで紙――――あたしの資料だろう、それに視線を落としていた伊勢があたしに目を向ける。その視線を受けて、更にあたしの腸が煮えくり返った。

 

 

 なぜなら、その視線は以前向けられた――――提督(あいつ)から向けられた視線と、全くもってそっくりだったからだ。

 

 

 

「なんだよ、なんなんだよ、なんで首突っ込んでくるんだよ、お前らには関係ないだろ? そうだろ? なのになんで踏み込んでくるんだよォ!!!!」

 

 

 無意識のうちに、いや意識があったとしても止められない。そんな言葉(思い)が立て続けに口からこぼれていく。

 

 

 髪の毛を引っ張られる感覚がした。いつの間にか自分で引っ張っているからだ。

 

 視界がぼやけてきた。いつの間にか涙があふれてきたからだ。

 

 口の中に血の味が広がった。いつの間にか唇をかみ切っていたからだ。

 

 

 その全てが『情報』として脳に伝えられる。伝えられるだけで、制御(・・)は出来ない。コントロールできない、止められない。

 

 

「これはあたしとあいつのことだ、あいつにどう償わせるか(・・・・・・・)なんだよ!! だから誰にも邪魔させない!! 誰にも決めさせない!! 誰にも―――」

 

 

 その時、目の前が真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次に現れたのは、あいつ―――雪風だ。

 

 

 その顔は死んでいた(・・・・・)。何の感情もない、何の生気もない、文字通り兵器の顔だった。

 

 

 それを見た瞬間、視界が一気に前へ進んでいく。

 

 同時に、腕を掴まれ、背中から腕を回されて抑え込まれる。それでも、あたしの視界は力づくで前へ前へ進んでいく。

 

 だがその姿を、自分に詰め寄ろうとするあたしを前にしても。雪風は表情一つ変えず、ただただ無表情を向けてきた。

 

 

 

「人殺しィ!!!!」

 

 

 それを目にして、あたしの口からその言葉が吐き出された。だが、雪風は何も変わらない。何も反応しない。

 

 

「このクソが!! クズ!!!! 『兵器』野郎!!!! お前なんか……お前なんか!!!!」

 

 

 また、あたしの口からその言葉が、暴言が、いやあいつの『罪』を吐き出した。吐き出したそれは、あいつに向けて叩きつけたのだ。

 

 

 だが、雪風は何も変わらない。ただ、今まで向けていた目を、顔を、関心の全てを私から背けた。

 

 

 まるで、言葉の通じない動物を前にしているような。

 

 まるで、興味の一切を失ったような。

 

 まるで、たった今『無関心』に落としたような。

 

 

 

「この、『死神』がァ!!!!」

 

 

 だからこそ、だからこそこの『言葉』。

 

 『死神』と呼ばれた雪風()の記憶。そこに深く深く刻まれたであろう、不特定多数の存在から吐き捨てられ、投げつけられ、今もなお雁字搦(がんじがら)めで離さない。

 

 何度輪廻転生しようが、何度贖罪しようが、何度生まれ変わろうが。

 

 雪風(それ)であるが故に、決して逃れられない呪い(・・)の言葉を。

 

 

 

 不特定多数(あたし)が、ぶつけたのだ。

 

 

 

 それをぶつけたら、死神の動きが止まった。ようやく、自分がぶつけられていた感情(もの)を理解したのだろうか。死神はその場でゆっくりと顔をこちらに向ける。

 

 その顔は、先ほどの無表情でも、無関心でも、死んだようでもない。『喜怒哀楽』の中で、恐らくそれは『楽』だろう。

 

 

 

 なぜなら、死神は泣きながら笑っていた(・・・・・・・・・・)からだ。

 

 

 

 

『死神』、雪風にお似合いですね(I see, you)

 

 

 

 その言葉は、死神の声ではなく()の声で聞こえた。

 

 

 その瞬間、今まで見えていた景色―――――あの時の『記憶』が、水のように溶けてきていく。今しがた声をかけられ、絡まれ、土下座をされていた廊下に戻る。

 

 

 そして、今しがた死神が立っていた場所には―――いや、正確には死神に見えていたジャーヴィス。彼女は冷めた目であたしを見て、何か納得したようにそう呟いたのだ。

 

 

「伊勢、俺はマミーヤのところ行くわ」

 

 

 次に、ジャーヴィスはそう言ってあたしに背を向ける。その言葉、その様子に何かを察した伊勢は目を細めた。

 

 

「いいの? 話したがっていたのに」

 

「Yeah、もう()はない」

 

「そう、分かったわ」

 

「待てよ」

 

 

 そんな二人のやり取りに、あたしが口を挟んだ。それに反応したのは、伊勢と黙って様子を見守る明石だけ。張本人であるジャーヴィスはこちらを振り返ることなく歩いていこうとする。

 

 

 

 その姿が、あの日の死神と重なった。

 

 

 

「待てって!! おい!! ジャーヴィス!!」

 

艦娘(・・)が沈んだだけだろ? いちいち騒ぐな」

 

 

 大声を上げながら近づき、その腕を掴む。だが、ジャーヴィスは特に気にする様子もなく、淡々と、当たり前のようにそう言ったのだ。

 

 

 それを聞いて、頭に血が上るのを感じる。同時に、その腕を握る力を最大限に込め、そのままこっちに引き寄せ、その顔面に頭突きをしようとした。

 

 

 

 

 だが、次の瞬間。あたしは宙を舞っていた。

 

 

「え」

 

 

 そう声を上げるあたしの視界には。

 

 宙をイギリス海兵帽と、その周りを覆いつくばかりにふわりと浮く金色の髪と、その中であたしの腕を掴みながらこちらをにらみつけるジャーヴィス。

 

 

 その目は、今まで見たことがないほど冷たく、暗く、低く、真っ黒に淀んだ瞳を。

 

 

 文字通り、『兵器』の目をしていた。

 

 

 

Don't move(動くなよ)

 

 

 その言葉と同時に床に叩きつけられ、そのまま押さえ付けられる。その時に片腕を極められたせいでろくに抵抗できずに抑え込まれた。

 

 

 

「ぐッ」

 

「こんなしょうもないことで問題起こすと、俺が国から怒られるからよ? あんま、手間とらせんな」

 

 

 抜け出そうとするあたしに、ジャーヴィスは今まで聞いたことのないドスの利いた声でそういう。同時に、極めている力を込めた。その激痛、そしてこっちが動けば動くほど痛みが増す状況に追い詰められたせいで、あたしは仕方なく抵抗をあきらめた。

 

 

「お前が……言ったからだろうがぁ」

 

「……ま、ちょっと言葉を選らばなかったのは悪かった。ただ、それはあんたに期待していた(・・・・・・・・・・)ってことで」

 

「期待……?」

 

 

 あたしの言葉に、頭上のジャーヴィスはそう返してくる。その時、視界に居た伊勢が彼女に視線を向けて軽くうなずく。その直後、あたしは解放された。

 

 

「まぁ~色々言いたいことはあると思うし、その感じだとメーちゃんにも突っ込まれたんだろうけどさ? 私たちのところに来れば解決しちゃうかもしれないよ?」

 

「……それが『頭を冷やせ』って意味なら無理。此処から離れる気ないもん」

 

 

 場を収めようとする伊勢の言葉に、あたしは真っ向から否定する。それを受けて、伊勢は困った顔を浮かべながら頬をかく。その様子にジャーヴィスは大きなため息を吐いた。

 

 

「何さ?」

 

「いや、別に? ともかく行くわ」

 

「あぁ、なら私たちも行くわ。じゃあ、もし気が変わったらいつでも相談してね~」

 

 

 あたしの言葉に、伊勢とジャーヴィスは答えることなくそう言いながら背を向ける。その背中に、まだ納得していないあたしは詰め寄ろうとしたが、先ほど極められた腕の痛みで動けない。

 

 

 その代わり、ただただ離れていく背中をにらみつけることしかできなかった。

 

 

 

 

「Don't take it out on Yukikaze」

 

 

 その時、ジャーヴィスがそう発した。その意味をあたしは理解できない、なので何も反応できない。すると、今まで前を向いていた彼女があたしに視線を向けた。

 

 

 

「いい加減、八つ当たり(・・・・・)はやめろよ」

 

 

 そして、その言葉を投げつけてきた。そのままジャーヴィスは前を向き、歩き出す。横の二人もチラリとあたしに視線を向けつつ、何も言うことなく歩いてく。

 

 

 その姿を前に、あたしは動かなかった。『動けなかった』ではなく、『動かなかった』。腕が痛んだとか、腹が立たなかったとか、そういうのじゃない。

 

 

 

 投げかけられた言葉が―――――今の自分の行動が、考えないように(・・・・・・・)していた腹の底を見透かされたからだ。

 

 

 

 

「分かってるよ……そんなこと」

 

 

 離れていく三人の背中に向けて、あたしはそう零すことしかできなかった。



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