真・恋姫†無双 一刀立身伝(改定版) (DICEK)
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第001話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 身体は勝手に動いていた。武器を持った男三人に、少女が囲まれている。助けなければ。そう考えるのは男として自然なことだった。

 

 一番手近な男にタックルを食らわせる。自分たちの他に人間がいるとは思ってもみなかったのだろう。一刀のタックルに、リーダー格らしい男はなす術もなく転倒させられた。男と一緒になって地面を転がる際、彼が手放した武器を奪って立ち上がり、構える。

 

 武器は両刃の剣である。刃を落としてあったりは……多分しないのだろう。本物の武器を持ったことは祖父の家にあった日本刀を持って以来だったが、それに通ずるずっしりとした物騒な重さがこの剣にはあった。

 

 芸術品として飾られていた祖父の日本刀とは比べるべくもない。手入れなど全くしていないのだろう。錆すら浮いている汚い剣が、しかし、今の一刀の唯一の武器だった。

 

 無手であれば、男一人と侮られもしたのだろうが、今の一刀は武器を持っている。男たちは三人。無論のこと武器を奪われた男も短刀を出し全員が武装していたが、強そうには見えなかった。一刀の彼らの印象はあくまで、武器を持った素人である。

 

 だが一刀も、素人には違いない。剣道をかじってこそいるものの、それを実践的に使ったことなど一度もない。喧嘩など数える程しかしたことがなく、その時も武器を持ってなどしなかった。精々、竹刀程度の大きさのものを取り回し慣れているというくらいだ。

 

 詰まるところ、優勢なのは数が多いあちらの方である。武器を持った戦いだ。数を頼みにこられたら、アッと言う間に一刀は殺されていただろうが、男三人が動く気配はなかった。明らかにイラだった様子の彼らは、同時に一刀を――厳密には、その手に持った剣を恐れていた。

 

 武装した敵と戦ったことが、ないのかもしれない。彼らの装いはいかにも盗賊といった風で、昔、教育番組で見た三国志の人形劇に出てくるやられ役のモブを連想させた。頭にまいた汚い黄色い頭巾など、実にらしい。

 

 踏み込む、退く。踏み込む、退く。昔遊んだおもちゃのようで何だか気分も良くなってきたが、あまり時間をかけてもいられない。剣を振り上げて大声をあげると、男たちは一目散に逃げていった。

 

 とりあえず、危機は去った。

 

 一刀は大きく息を吐き、剣を地面に放り出す。どっと疲れが押し寄せてきたが、するべきことはまだあった。

 

「大丈夫?」

 

 間に合った、というのは『助けた』一刀の認識である。何か怪我をしているのでは、単純に、少女を慮っての問いだったが、

 

「別に、大したことないわ」

 

 窮地を助けた人間に対するものとして、少女の反応は随分とそっけないものだった。所謂、ヒーローに対するヒロインっぽい対応を少なからず期待していた一刀は、微妙に肩すかしを食らったが、元よりヒーローという柄ではないと思いなおす。助けようと思って手を出したのだ。少女が無事と主張するなら当面問題はない。

 

「なら良かった。俺は北郷一刀。ついでに聞いておきたいことがあるんだけど、良いかな」

「手短にお願いね。できればこんなとこ、さっさと離れたいから」

「ここは、何て場所なんだ?」

「豫州潁川郡」

 

 聞いたことがないどころか、現代日本ではありえない地名に、いよいよ一刀の想像にも現実味がなくなってきた。少なくとも、一刀の最後の記憶にある場所とここは全く異なっている。

 

 そもそも、ここに来る直前まで何処で何をしていたのか記憶が曖昧だ。自分がどういう人間なのかは、はっきりと思いだすことができる。これまでの生い立ち、現在の交友関係。長年続けた趣味から猥本の隠し場所まで、記憶は鮮明だ。

 

 記憶喪失という訳ではないらしい。あくまで、ここに至るまでの直前の記憶がすっぱりと抜け落ちている。

 

 だが、直前までどこにいたという記憶がなくとも、今現在立っている場所がちょっとやそっとではたどり着けないような場所だ、ということは理解できた。これが夢というのでなければ少なくとも、慣れ親しんだ地元からはかなりの距離を移動していることになる。

 

 加えて、先ほどの男たちと少女の恰好だ。いかにも人形劇だった男たちに対し、少女の装いにはまだ現代でも通じそうな部分がある。これだけを見れば古風なコスプレとしても通じそうではあるが、いくらなんでもコスプレ関係のイベントで、武装したエキストラを用意はしないだろう。

 

 こつこつと剣を叩くと、固い金属の感触が返ってくる。改めて、剣が本物であることを確認すると、一刀は深く深く溜息を吐いた。現状解ることから判断するに、どういう訳か人形劇で三国志な場所に放り込まれた、というのが一番妥当なように思える。

 

 気合の入ったドッキリという可能性は捨てきれないし、できることならばそうであってほしいとは思うけれども、北郷一刀という一個人を担ぐためにここまで大がかりなことをするとは思えないし、それでは事前の記憶が曖昧という現象の説明がつかない。

 

 その辺りは、いくら考えても解らないような気もする。できることなら、全てを打ち明けることができるほどに信頼ができ、かつ自分など及びもつかない知恵者の頭を借りたいと思う一刀だったが、ここが何処で、何時なのかも解らない。手を貸してくれそうな人間は、全く脳裏に浮かんでこなかった。

 

「何を珍妙な顔をしているのかしら。間抜けで精液臭い顔が、更に酷いことになってるわよ」

「それは申し訳ない。それで、厚かましいお願いで恐縮なんだけど――」

「助けてもらってお礼くらいはするわ。実家が近くだから、寄っていきなさい」

「助かるよ、ありがとう」

「別に、命を助けられたのに恩人を放り出す不義理な女、なんて思われたくないだけよ」

 

 男を実家にあげるなんて、本当に忌々しいことだけどね……と小さく付け加え、忌々しそうに溜息を吐いた。命を助けられておいてここまで言える少女に、一刀は逆に感心していた。北郷一刀個人がどうこうと言うよりも、元々男が好きではないのだろう。

 

 そう考えると、冷たくされることにも納得がいった。だからと言って何のダメージも受けていない訳ではないが、冷たい態度に理由がつくだけでも違うものだ。初めての土地に不可解な状況。同級生からはよく動じない男だと言われたものだが、それにも限度がある。まだ、十代だ。不安なものは不安なのである。

 

「そう言えば、自己紹介もしてなかったわね。私は荀彧。字は文若よ。でも覚えなくて良いわ。きっと短い付き合いになるでしょうからね」

 

 振り向きもせずに名乗った少女の名前は聞き覚えがあったが、それは記憶が確かならば男性の名前だったはずだ。少女は確かに貧相であるものの、そこに男性的な特徴はない。女性っぽく見える男性という可能性も否定できないが、その可能性について少女に言及したら、間違いなく渾身の力を込めた拳が飛んでくる。

 

 少女は女性であるとして、だ。記憶の中では男性であるはずの名前を、少女が使っている。同姓同名ということはあるだろう。一刀にとっては外国の名前だ。女性名と男性名にどれほどの違いがあるのかすら、明確に答えることはできない。

 

 普通に考えるならば、名前が同じ、似てる、あるいは近いだけの他人と考えるのが当然なのだろうが、既に全く知らない場所に気が付いたら立っていて、暴漢に襲われている少女を助けるという、非日常的な場面に遭遇している。

 

 馬鹿げた想像だが、まさか三国志の世界に放り込まれた上に、その登場人物が女性になっているなんてことも、もしかしたらあるのかもしれない。

 

 すたすたと先を歩く少女の背中を見ながら、一刀はこっそりと溜息を吐いた――

 

「…………一度しか言わないから、良く聞きなさい」

 

 ――ところで、しばらく黙ってると思っていた荀彧がいきなり口を開いた。溜息を聞かれていたとしたら、また面倒くさいことになりそうだと身構えていると、荀彧は視線をこちらに向けないまま、小さく唸った。

 

 一刀の目には、荀彧は何事に対してもはっきりと物を言うタイプに見えた。それが言いよどむなどよほどのことである。一体何を言われるのか。身構えた一刀に荀彧が口にした言葉は、一刀が全く想像もしないことだった。

 

「本当は、あんたみたいな精液男にこういうことを言うなんて、本当に、本当に嫌なんだけど、口にするのも嫌なんだけど…………ありがとう。命を助けてくれたことには、本当に感謝してるわ」

 

 話はそれだけよ、と荀彧は今度こそ口を閉ざした。足音の大きさから、彼女がいかに不機嫌であるのか見て取れる。言葉の通り、本当に、心の底から嫌だったのだろうが、それでも、その気持ちを押し込めてお礼を言ってくれた。

 

 自然と笑みがこぼれる。一目でへそ曲がりと解ったこの少女が、自分の想像を遥かに超えるへそ曲がりと解って、妙に嬉しくなった。



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第002話 荀家逗留編①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生まれて初めて武器を持って、自分の意思でもって他人を傷つけた場所から、一時間も歩いただろうか。一刀はキツめな性格の猫耳頭巾に、彼女の実家があるという街まで連れてこられた。

 

 街の様子を見て、一刀は本当に違う時代に来てしまったのだな、と理解する。舗装されていない道に、道行く人たちは古風な恰好をしていた。時代劇特有の、小ぎれいな古臭さはまるでない。彼ら彼女らは普段から、こういう恰好でここで暮らしているのだ、というリアルさが道を歩いてみて犇々と感じられた。

 

 そんな人々の視線を、一刀は一身に集めていた。最初は前を歩く荀彧が目立っているのだと思った。事実、この街の有名人である荀彧は確かに人目を引いていたが、それ以上に一刀自身がかなりの人目を引いていた。本人が視線を自覚できる程である。

 

 一つ二つであればまだ勘違いで済ませることもできただろうが、道行く人々全員が一刀を凝視しているのだから、自分を誤魔化すことはできなかった。

 

「何か、もの凄く人の目を集めてる気がするんだけど、もしかして荀彧は有名人?」

「あんたの服が目立ち過ぎるのよ。何よ、その真っ白できらきらした服は……」

 

 巻き込まれることを嫌がってか、荀彧は振り返ろうともしない。言われて、一刀は自分の服を見下ろした。彼の通う聖フランチェスカの男子の制服は上が白ランという攻めに攻めたデザインである。親戚のお爺さんには『海軍のなりそこない』と笑われてしまったこのデザインだが、学園では男子は皆この恰好であることと、女子の制服はもっと目立つために感性がマヒしてしまい、『目立つ服』という印象は一刀の中で綺麗さっぱり消えていた。

 

 慣れとは恐ろしいものであるが、一歩学園の外に出れば人目を引いていたことは記憶に残っている。これも慣れだが、まだその視線になれていなかった頃の、初々しい記憶が今さらになって甦ってきたのはどうしてなのか。古風なこの環境ならば、更に悪目立ちするのも、仕方ないことのような気がしないでもない。

 

 堪らず上着を脱ぐ一刀だったが、その下に来ているワイシャツも白かったので、あまり効果はなかった。原色の少ないこの空間において、真っ白というのはそれだけで目立っていた。化学製品特有のきらきら感が、それに拍車をかけている。

 

 視線に居心地の悪さを感じていた一刀は、早く目的地に着かないかと考えていたが、荀彧に案内され、辿り着いた彼女の実家はまさに屋敷と呼ぶに相応しいもので、視線とはまた別の意味で一刀に居心地の悪さを感じさせた。

 

 塀がどこまでも続いていて、終わりも見えない。この街であれば荀彧さんちはどこですか、と聞けば『あの家だよ』と案内してくれるだろう。街の規模に比して、この屋敷は明らかに大きい。

 

 荀彧の性格から、それなりのお嬢さんだろうとは予想していたが、この屋敷の大きさは予想を遥かに上回っていた。塀に沿ってえっちらおっちら歩いていると、ようやく門が見えてくる。その門の前には、お手伝いさんといった装いの若い女性が立っていた。

 

 女性は荀彧を見つけ相好を崩すと、その隣に一刀の姿を見て目を見開いて驚いた。その時、一刀と荀彧は同時に彼女がこれから自分たちにとって良くないことを言うと直感した。女性を止める間もあればこそ。彼女は門の中にまで引き返し、屋敷中に響くような大声でこう言った。

 

「奥様! 街の噂は本当でございました! お嬢様が、婿殿を連れてお戻りにっ!!」

 

 もう、街の噂が届いているのか。昔の人でも耳は早いんだな、と諦めの境地で感心している一刀の横で、荀彧は微動だにしない。彼女は、立ったまま気絶していた。

 

 

 

 

 

 

「――そういう事情だったのですね。ご迷惑をおかけいたしました」

「こちらこそ。突然押しかけてしまって申し訳ありません」

「とんでもございません。娘の命を救ってくださった貴方は、当家にとっても恩人です。どうか気のすむまで、当家にご逗留くださいませ」

 

 ありがたい申し出に、一刀は素直に頭を下げた。卓を挟み、対面に座る女性は荀昆と名乗った。荀彧の母に当たり、現在の荀家を取り仕切っている女性だという。母親というだけあり、荀彧にも面差しが良く似ていた。二回りくらい年齢を重ね、毒舌と罵詈雑言と吊り上がったキツい目つきを取り除いて、落ち着きと柔和さを足したらきっとこうなる気がする。

 

 ちなみに荀彧であるが、今は自室で横になっている。旅の疲れ、襲われた衝撃で、と家人は説明したが、彼女にとって一番衝撃的だったのは、自分が婿を連れてきたという話が、実家だけでなく街にまで広まっていたことだろう。

 

 あの性格である。衝撃を受けるのも無理もない。うんうん頷きながら静かにお茶をすすっていると、荀昆の方から話を切り出してくる。

 

「婿殿――失礼、北郷殿はどちらから?」

「奇妙な話ではありますけど、お嬢さんが襲われていた現場に、自分がどうしていたのかも理解できない有様でして」

「それはまた、本当に奇妙な話ですね」

 

 普通そんな話をされれば少なからず不信感が態度に出るものだが、荀昆は欠片もそういうものを出さなかった。事実とは言え、あからさまに嫌な顔をされてしまったらどうしようと心配していた一刀は、心中でそっと胸をなで下ろす。

 

「全く。できれば、この国の地図など見せていただけるとありがたいんですが」

「この街周辺ではなくてですか? では、一番広い範囲を記した地図をお見せしましょう」

 

 荀昆が手配すると、部屋の隅に控えていた侍女がすぐに地図を持ってきた。両腕を大きく広げてもまだ足りない、一刀の感覚では非常に大きな地図である。

 

 その地図を見て理解したことは、人形劇という直感も中々捨てたものではないということだった。『中国』という国家の全図が一刀の頭の中にしっかりと記憶されていた訳ではないが、ぼんやりとした記憶の中にある『中国』とこの地図は似ている――気がしないでもない。

 

 地図については、根拠もあいまいな記憶という曖昧なものであるが、書き込まれているのは漢字であり。いくつか見たことのない字があるが、道々見かけた看板にも漢字が使われていた。ここが漢字を標準的に使う文化圏というのは間違いない。

 

 不可解なことはある。書いてある文字は読めないのに、話している言葉は理解できることだ。普通、話している言葉は使われる文字と密接に関係している。一刀が理解している以上、ここで使われているのは彼が唯一話せる日本語と考えるのが妥当であるが、地図や看板に使われている文字、文章を見る限りはそうではない。

 

 その辺りに、どうしてここにいるのかという疑問の解決の糸口がありそうだったが、当面はそれ以上に大事なことがあった。当分逗留して良いと荀昆は言うが、それを額面通りに受け取る訳にもいかない。これだけ大きな屋敷だ。人間一人を飼っていたところで経済的には痛くも痒くもないのだろうが、結果的に恩を売ったとは言えいつまでもおんぶにだっこでは外聞が悪い。

 

 いずれここを出て、生活する手段を見つけなければならないだろう。元の世界に戻る手段を探すにしても、諦めてこの世界で暮らすにしても、独り立ちできるだけの知識と手段が必要だ。

 

「…………事情がおありなようですから、話したい時に話してくださる、ということで構いませんよ」

「そうしていただけると助かります。まだ俺…………いえ、私の中でも考えがまとまらなくて」

「時間はたっぷりありますので、お好きなように使われるとよろしいでしょう。お部屋を用意させました。お疲れでしょうから、休まれてはいかがですか?」

「そうさせていただきます」

「案内は彼女にさせます」

 

 部屋の隅に控えていた、地図の準備をした少女が荀昆の声に一歩前に出る。幼い顔立ちをしているが、自分よりは二つか三つは下だろうと、一刀は当たりを付けた。それにしては随分と落ち着いている。自分と比べてどっちが大人に見えるかと人に聞けば、ほとんどが彼女の方だと答えるだろう。

 

「それでは。御用の際は何なりと仰ってください」

「お心づかいに感謝します」

 

 荀昆と別れ、少女について屋敷を歩く。少女に案内された部屋は、実家にある一刀の部屋の倍は広い部屋だった。これで客間ならば、屋敷の人間が住んでいる部屋はどれだけ広いのだろう。金持ちとそうでない人間の差を見た気がして、少し落ち込んだ。

 

「私は宋正。字は功淑と申します。お客様のお世話を、奥様より申し受けました。御用の際は、なんなりとお申し付けくださいませ」

「ああ、その、助かります。ありがとう」

 

 年下であるという見立てはそれなりの確信のあるものだったが、話して見るとやはり年上に見えた。いつか確認するのが良いのだろうが、荀彧の例もある。あれはかなり特殊な部類だろうが、二人続けてあんな感じの対応をされると流石に心も傷ついてしまう。

 

 時間はまだあるのだから、色々と質問するのは後でも良いだろう。大して運動をした訳でもないのに、今日はやけに疲れてしまった。できることなら、今すぐにでも床につきたい気分だ。 

 

「代わりの服は、こちらでご用意させていただきました。お召し物の方はこちらでお預かりし、洗浄の上ご返却いたします」

「何から何まで、ありがとうございます」

「とんでもございません。お嬢様を助けてくださいましたこと、私ども、心より感謝してございます」

 

 宋正の態度に、やはり裏は見られない。あれで、家人には好かれているのだろう。その言葉を聞いて、何故だか一刀は少しだけ安心した。結果的に自分が助けた少女が、人に好かれていることが、単純に嬉しかったのだ。

 

「お疲れのようですので、私はこれで失礼しますね」

 

 言って、足早に宋正は部屋を後にした。制服を脱ぎ、用意されていた着物に着替えると、寝台に飛び込んだ一刀は泥のように眠り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「婿殿はどうですか?」

「お疲れだったのか、すぐにお休みになられました。しばらくは、起きられないかと」

「そうですか。男嫌いのあの娘が男性を連れてきたと聞いた時には何の冗談かと思ったものですが、実物は冗談以上に冗談のような方でしたね」

「ええ、まさしく」

 

 一目見て、一度話してみれば彼がどれだけ特殊なのか解るというものだ。命を助けられた恩義があったとは言え、そう判断したからこそ娘も彼をここまで連れてきたのだろう。

 

 彼について、調べなければならないことは山ほどあるが、まずは最も疑問に思ったことについて、荀昆は宋正に問うてみた。

 

「彼の服については?」

「服飾に詳しい物に見せましたが、縫製はともかく素材については見当もつかないと。洛陽でもこれ程の素材は手に入らないと申しておりました」

「でしょうねぇ……」

 

 人目につくような服を着るというのは元来、庶民ではなく富裕層の文化である。目立つ服を着ているというだけである程度の資金力がある家の人間である、という証明にもなるのだ。何の事情も知らない街の人間は、どこの貴族かと思っただろうが、一刀と直接話をした荀昆は違う意見を持っていた。

 

 確かに育ちは良いようだが、高貴な生まれの人間特有の鼻についた雰囲気がない。良い意味で庶民的な一刀の雰囲気は、精々成り上がったばかりの商家の次男か三男という風だ。富裕層であったとしても、資金力も発言力も荀家とは比べ物にならないくらい下だろう。

 

 だがそうなると、あの服装の説明がつかない。希少で手に入らないというのならばまだしも、彼の服を見た人間は見当もつかないと答えた。服飾に詳しいと豪語するくらいである。古今の素材に精通しているはずだが、それでも尚見当がつかないということは、それだけ希少ということだ。

 

 希少であることはすなわち、値段が張るということとほとんど同義である。彼の振る舞い、雰囲気から感じる家格からすると、あの服を着ていることは酷く不釣り合いに思えた。

 

 態度、雰囲気から察せられる家格と、ああいう服を着ている家格が釣り合っていない。それに最も大きな疑問が残る。ああいう服を着る家格の人間だとして、それが丸腰で、護衛もなしに、どうして街の外れにいたのかということだ。

 

 記憶が曖昧という返答を、一刀はしたが、そういう事情を疑ってかかるのが荀昆の仕事でもある。何もないのなら話は早いし助かるが、そうではない時、早い内に手を打っておかないといけない。今、とにもかくにも情報が欲しい。 

 

「人を放った結果は?」

「元より街の住人についてはそのほとんどの素性を掴んでおりますが、記録を見る限り彼がこの街に住んでいたことはありません。放った者は第一陣が戻って参りましたが、やはり彼を初めて見る、という者ばかりですね。この街の周辺にまで調査の網を広げるよう、準備はしておりますが……」

「無駄な気はしますが、しないよりはマシでしょう。引き続き素性の調査をするよう、指示を出しておいてください」

 

 小さく、荀昆は息を吐いた。人間一人の調査の出だしで、ここまで難航するのは久しぶりのことだ。これでタダの人というオチだったら肩すかしも良いところだが、あの娘が連れてきた男性だ。きっと何かある、と思うのは親のひいき目だろうか。

 

 いずれにせよ、あくまで採算という面で彼を見るならば、あの服一つでも世話をした元は取れる。他に何か得るものがあるようならば、これからゆっくり人となりを見れば良いのだ。



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第003話 荀家逗留編②

 

 

 

 

 

 

 

 食事をして寝るだけという生活に一日で耐えられなくなったという体で、一刀はこの世界の情報収集を始めた。宋正に荀家の書架に案内してもらい、一つ目の木簡を開いたところで最初の躓きである。

 

 やはり文が全くと言って良いほど読めない。大体の漢字には見覚えがあるからぼんやりとした意味こそ解るものの、正確に訳してみろと言われたら困る有様である。この年になってこの文が読めませんと他人に言うのは想像していた以上に恥ずかしかったが、背に腹は変えられない。宋正に文章の翻訳をお願いすると、彼女は目をまん丸にして驚いた後、優しい笑みを浮かべて言った。

 

「でしたら、ご一緒に読み書きの勉強などいかがですか?」

「ありがたいお話ですが、そこまでしていただく訳には……」

「私は正式に北郷様付きになりましたから。北郷様から何かご指示がないと、正直暇なんです。私を助けると思って、お願いできませんか?」

 

 教えてもらう相手から頼まれてしまっては断るものも断れない。元より願ってもないことなのだ。宋正の申し出に対する、一刀の答えは決まっていた。

 

「申し出に感謝します。お願いできますか?」

「喜んで。ところで、もう少し砕けてくださって構いませんよ。北郷様はお客様ですし、私の方が年下でしょうから」

「年下かなとは思ってましたけど、本当にそうなんですか?」

「そうだと思いますよ。私は今年で十四になります」

 

 思わず、一刀は宋正を凝視してしまった。年下とは思っていたが、いざ本人から年齢を言われてみるとどうにも信じがたい。確かに自分よりも3つも年下だと言われても、納得できる容姿をしている。侍女らしくきっちりと服を着こなしてはいるが綺麗というよりは可愛らしい面差しだ。一刀の世界の中学生よりもとても大人びて見えるのは、環境の違いに寄るものだろう。

 

「では、どうぞ?」

「解ったよ。これからもよろしく、宋正」

「私のことは功淑とお呼びください。真名で呼ばない、親しくさせていただいている方々は私をそう呼ばれます」

「了解。ところで真名って何だ?」

「――教え甲斐のある生徒を持てて、私も嬉しいです」

 

 功淑本人が言った通り、彼女は本当に専属になっていたようで、それからは一刀と終日行動を共にするようになった。文字の読み書きからこの国の歴史、風俗から社会情勢まで、功淑は一刀が求めた全てを教えてくれた。文章を読めるようになるにはどれだけ時間がかかるのだろうと不安に思っていたが、文字そのものは馴染みがあること、何故だか会話は既にできることもあり、本人も驚く程の速度で知識を吸収していく。

 

 このちぐはぐさに功淑は戸惑った。当然知っているべきことを知らないと思えば、本腰を入れてかかるべきと思っていた文字の指導は、驚くほど早く進んでいる。

 

 これならば、二週間もあれば読み書きはできるようになるだろう。二、三日指導を受けて、そう太鼓判を押してもらったところで、一刀も更に欲が出てきた。

 

 荀家には、私設の警備隊がある。通常は屋敷の警護をし、家人が遠出する時などはその護衛も務める。有力者の間でこういう部隊を持っているのは、珍しいことではないらしい。

 

 必要になったその都度金で雇うのは信用できないからと、常に雇用しているという。

 

 警備の総数は約百五十。およそ10日に一度休日があり、それ以外は全て出勤。実働のおよそ半分が屋敷の警備に当たり、残りは中庭などで訓練をしている。家人の指示で使い走りをすることもあるが、警備をしていない時は大抵が訓練である。

 

 一刀が勉強をしている時、中庭で訓練をしているのが見えた。勉強に飽きたという訳ではないが、そろそろ身体を動かしたくなってきた一刀は、その旨を功淑に伝えた。

 

「問題ないと思います。奥様と向こうの隊長には、私の方から話をしておきます」

「助かるよ。ありがとう」

「どういたしまして。ところで、北郷様は何か武術の心得がおありなのですか?」

「じいさんに剣を少し――何もしてないよりはマシって程度かな。人と戦ったのは、この前が初めてだよ」

 

 剣道というジャンルに絞れば、二段である一刀の腕は高校生にしてはそれなりのものである。世間を見ればもっと強い奴はいくらでもいたが、それはそれだ。

 

 しかし、実際に真剣を持って戦うとなれば、話は大きく違ってくる。死なない前提の剣道と、死と隣り合わせの実戦では、気の持ちようからして、大きく違う。すぐに元の世界に帰る見通しが立っていない以上、身を守る手段というのはあって困ることはない。

 

 できることなら一から剣の指導を受けたいと思っていたところだ。警備の訓練に混ざれるならば、これ以上のことはない。

 

「それにしても、警備に話をつけられるなんて凄いな。功淑はもしかして、えらい立場だったりするのかな」

「入ったばかりなので、書生の中では立場は低いですね。北郷様の専属になったのも、年が近いからではないかと。警備に話をつけられるのは、単純に年の離れた兄が警備隊長ですから、話をし易いというだけの話ですね」

 

 大したことではない、という功淑の態度に過度の謙遜が見えた気がした。これという根拠はないが、本人の言葉以上に、彼女は偉い気がする。

 

 書生というのが役職の一つを指し、家長である荀昆の弟子であることは知っていたが、具体的にこの家がどんな仕事をしているのか、実のところあまり良く解っていない。下の方の立場であっても、普段は仕事をしていたはずだ。それを良く解らない人間の世話を任されたのだから、腐っても不思議ではない。

 

 内心でどう思っているのか知れないが、少なくとも功淑はそれなりに楽しそうに講義をしてくれているのが、一刀にとって救いだった。これ程熱意を持って勉強をしたことなど、過去にはない。思えば、勉強のために時間を費やすことのできる環境が用意されていたことが、どれだけ恵まれたことだったのか、この世界にやってきて初めて知ることができた。

 

 元の世界に戻ることがあれば、今までよりもずっと真面目に学校に通えるだろう。こんな美少女の先生はいないだろうことが、少し残念ではある。

 

「うちの家の人間に、色目を使わないでもらえるかしら」

 

 そんな邪な考えが、視線か態度に出ていたのか。これでもかというくらいにトゲのある声に、一刀は思わず背筋を伸ばした。見れば、不機嫌そうな顔をした荀彧がいる。不機嫌でない時がないくらい不機嫌な少女は、足音も高く部屋を横切ると、卓に広げられていた書物を見た。

 

「書庫で勉強をしてるって聞いたから来てみれば、随分と初歩的なことをやってるのね」

「文の勉強を兼ねてるというかさ。恥ずかしい話、言葉は話せるけど書けないんだよ、俺」

「一体どんな育ちをしたらそうなるのかしら――別に気になってないからね? 単に、あんたを罵ってみただけなんだから」

「明日から剣も学ばれるようですよ?」

「そうなの? まぁ、どっちかと言えば、そっちの方が向いてるんじゃない?」

 

 荀彧の声に、一刀は感嘆の溜息を漏らした。相手を慮ったものを『気持ちの籠った言葉』とするなら、今の荀彧の言葉はまさに真逆である。これほどまでにお前に興味を持っていませんよ、という感情を持たせようと放たれた言葉を、一刀はいまだかつて聞いてことがなかった。

 

 それ故に、もの凄く空々しい。荀彧に比べ、圧倒的に頭の回転で劣る一刀でも、荀彧に別の意図があることを理解できてしまった。話が途切れても帰る気配がないし、様子を見に来たというだけにしては腰が重いのだ。少しの沈黙が流れる。それだけで、荀彧のイライラが増したように一刀は感じた。

 

 こつん、と一刀のつま先が小突かれる。宋正だ。視線を向けると、宋正は一瞬だけ荀彧の方を視線で示した。その仕草の意味を察するに――

 

「良ければ、荀彧も俺の勉強を見てくれないか?」

「はぁ!? なんで私が!!」

 

 いきなり怒鳴られてしまった。それから荀彧はいかに北郷一刀がダメな精液男なのかを、豊富な語彙を尽くして罵倒し始める。十分ほども続いていただろうか。流石に息が続かなくなっていた荀彧は、荒い息を吐きながら近くの椅子に腰をかけた。

 

「良いわ、教えてあげる。借りの清算も、早めにしておきたいしね。ただし、私のやり方は功淑ほど甘くないから覚悟しておくことね」

 

 その言葉と興奮した様子の荀彧の顔を見て、最高に頭が良くて呼吸するように他人を見下しても、男というただそれだけで罵詈雑言を飛ばすような性格でも、他人のために骨を折って、そのために行動することのできるそれなりに良い奴なのだと理解した。あくまでそれなりだが。

 

 要するに感情表現が屈折しているだけなのだ。大抵の人間は浴びせられる罵詈雑言で心が折れてしまうのだろうが、それさえ突破できれば中々面白い奴ではあった。急ににこにこしだした一刀にとりあえず罵詈雑言を浴びせた荀彧は、すぐさまカリキュラムを作り直し、実行に移す。

 

 一言で言うならスパルタである荀彧の講義はそれはそれは凄まじいもので、二週間はかかるという功淑の見通しを遥かにぶっちぎり、それから三日で読み書きを可能なものとした。

 

 それができるようになると、後はひたすら勉強である。荀彧の言う所によれば、北郷一刀に才能はなく、精々下級の官吏にでもなって、慎ましく一生を終えるのがお似合いだと言う。

 

 だが、現状ではそれもままならないということから、役人になるための基礎知識から徹底的に教え込まれた。理解できないと言うと、容赦のない罵詈雑言が飛んでくる。最初こそ、その手加減のない物言いに一刀でもイラっときたものだが、勉強にある程度こなれてきて、相対的に罵詈雑言が少なくなってくると、それだけ物足りなくなってしまう。

 

 自分はもしかして、精神的なドMなのかと、こんな世界に来て気づくというのも奇妙な話である。

 

「実際、お嬢様は北郷様のことを良く思っていると思います」

「そうかな――」

 

 つかの間の休憩時間である。荀彧が荀昆に呼び出されて席を外している間に、功淑が耳打ちする。実感ができない一刀は功淑に疑問の声を挙げたが、彼女は当然です、とばかりに力強く頷いた。

 

「まず、お嬢様は極力男性とは会話をしようとしません。するとしても、とても短く済ませます。まして、大恩あるとは言え、自分から男性の教師役を言い出すなんて、これはもう何かあるとしか思えません」

「その何かが殺意とかでないことを祈るよ……」

 

 ツンデレというものがあると聞いたことはあるが、デレがないツンデレというのも存在するのだろうか。少なくとも優しい言葉をかけてもらった記憶は、一刀にはない。仲良くなればそういう時も、もしかしたらあるのかもししれないが、年頃の少女らしく頬を染めて、男を前に恥じらう荀彧など想像することもできない。

 

 きっと、仲良くなっても彼女はずっとツンのままなのだろう。そんな気がするし、そうであってほしいとも思う。

 

「戻ったわ。さぁ、また死にもの狂いで学んでもらうから、覚悟なさい」

「聞くにしても今さらだとは思うけど……俺に教えてくれるのはありがたいけど、良いのか? 今荀彧って無職なんだろ? 就職活動の邪魔にならないか?」

「惰眠を貪ってるだけのアンタと一緒にしないでもらえる? もう曹操様のところへ文を出したわ。今はその返事待ちよ」

「そうか。受かると良いな」

「私が落ちる訳ないでしょ!?」

 

 こいつめんどくさいなぁ、とは思いつつも、一刀の顔には笑みが浮かんでいた。口を開けば罵詈雑言が出てくるのでも、こういうやり取りはとても楽しい。落ちる訳ないと荀彧は言うが、功淑の話では最近の荀彧は常にイライラそわそわしているという。自信があっても気にはなるのだろう。

 

 荀彧にとって自分が特別優秀であるというのは事実であるが、それに必ずしも結果が伴う訳ではないことは当の荀彧が一番理解している。不確定要素というのは限りなく無に近づけることはできても、完全に排除することはできない。もしかしたら、という疑念は例え、荀彧くらい優秀な人間であっても消せないのだ。

 

「そうか。俺も信じてるよ。荀彧が受かるの」

「そのムカつく笑いを今すぐ引っ込めなさいよ! 一体何がおかしいの!?」

 

 頭から湯気でも出しそうな顔色で掴みかかってくる荀彧から、一刀は笑いながら逃げ出していく。部屋の中で始まった追いかけっこを、功淑はにこにこと眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第004話 荀家逗留編③

 北郷一刀の腕っぷしについてである。

 

 幼少の頃より祖父に剣道の手ほどきを受けた一刀は、地元では剣道少年として知られていた。とは言うものの突出した才能があった訳ではない。その腕はかけた時間相応で、天性の輝きはないものの実直な剣を持つ努力家というのが一刀の評価だった。

 

 だがその評価が活きるのも、この世界に来るまでの話だ。あくまでスポーツである剣道と、有事の際には相手を殺すことまで前提となる剣術では、根本の心構えからして大きく異なっており、さらに言えばその資本となる体力についても要求の度合がまるで違った。

 

 試合でガス欠になっても精々黒星がつく程度であるが、有事の際にガス欠になることは自身だけでなく仲間や雇用主の危険を意味する。荀家に限らず、剣を持って戦う職業の人間に体力がないなんてことはあってはならぬことであり、持久力のある身体を作ることは仕事の大前提だった。

 

 故に訓練と言えども、武装して行うのが常である。それはド新人であろうと客分であろうと変わらない。ド素人でかつ客分だった一刀はまず具足を付けることにも苦労したが、護衛部隊の人間は誰も手を貸さなかった。

 

 珍妙な付け方をして不格好になったド新人を笑うのが、彼らの通過儀礼であるからだ。

 

 何とか一人で具足を付け終えた一刀を全員で大笑いした後、さて仕事だと言わんばかりに懇切丁寧につけ方を指導していく。道具というのは正しく使ってこそ十全な機能を発揮するもので、具足の付け方一つでも、緩みがあってはいけないのである。

 

さて、具足をつけての訓練のその一日目。護衛部隊の面々と同じメニューをこなした一刀は、訓練が終了すると同時にぶっ倒れた。決してひ弱な方ではないはずの一刀だが、慣れない具足を着用しての訓練であること。そも一緒に訓練をしているのは体力が資本である本職の護衛要員であることが災いした。

 

 彼ら彼女らにすれば新人がぶっ倒れるなどいつものことである。あぁ新人が倒れてるなぁと笑いながら井戸の水をぶっかけて元気づけたりもしたのだが、これに激怒したのが荀彧だ。その日はたまたま訓練の後に講義を入れていたのだが、体力の尽きた一刀はまともに勉強のできる状態ではなかったのだ。

 

 ふらふらした様子の一刀に、それでも容赦のない罵倒を浴びせる荀彧は鬼気迫る程だったが、歯牙にもかけないような相手であればそも声もかけない。婿殿であるという噂は街の中からすら払拭されつつあったが、その見込みのある男性であるという認識は、荀彧を知る人間に共通のものだった。

 

 普通であれば一生立ち直れないような罵倒であるが、足腰が立たないような状態であっても一刀は一々頷いて聞いている。この時点で普通の精神性ではない。荀彧と番になるような男性はどういう人間なのだろうと、彼女を知る人間であれば一度は考えるものだが、その二人のやり取りは彼らを非常に満足させるものだった。

 

 そして荀彧からの物言いによって、その翌日から講義がある日は講義を先にするというスケジュールの変更が一刀の知らないところで決められた。

 

 一刀が訓練をしている間、現状、彼に講義をすることが唯一の仕事である荀彧は自分の時間を持てる訳だが、その時間を荀彧は当たり前のように講義の準備に費やした。一刀に教えるレベルの話で今さら荀彧が学ぶことなどない。片手間にでも教えられるようなことばかりだったが、やると決めた以上誰が相手でも手を抜かないのが荀彧である。

 

 一刀でも解るように黙々と難解な話をかみ砕いて編集していく荀彧に、功淑はそっと苦笑を浮かべた。これも仕事の内だと荀彧は言うのだろう。事実、仕事については完璧主義の荀彧だから、相手が一刀でなくても同じくらいの手間はかけるに違いない。

 

 翌日の分の編集を終えた荀彧は今、功淑の淹れたお茶を飲みながら護衛部隊の長からの報告書を読んでいる。既に荀昆も目を通したもので、屋敷の主だったものは目を通しておくようにという通達も成されたものだ。

 

 男の情報など頭に入れておきたくないのだが、家長の命令では仕方がない……という体で、苦々しい表情で報告書に目を通す荀彧を、功淑は微笑ましそうに眺めている。

 

 その報告書によれば、一刀の評価はそう悪いものではない。

 

 筋肉は薄いが、これは時間をかけて鍛錬をすれば解決するとのこと。剣の腕は、どこかで学んだことがあるらしく、悪くはないが微妙に癖があり、特に疲れてくると左の手首を狙いたがるという。筋が良いと言えなくもないが、特筆する程ではない。このまま訓練をすればそれなりのものにはなるだろうが、武人として光るものはない、というのが責任者の結論だった。

 

「何も取柄のない人間ってみじめよね……」

 

 くくく、と邪悪な笑みを浮かべ荀彧は報告書を放り投げる。近頃は不機嫌な表情が定番である彼女にしては珍しい機嫌の良さそうな表情に、功淑は済まし顔で椀にお茶を足した。

 

「北郷様にも取柄はあるかと存じますよ。お優しいところとか」

「ああいうのは、八方美人とか優柔不断って言うのよ」

 

 一転、今度は不機嫌な表情でお茶を啜る。この荀彧という少女は基本的に、他人が一刀を褒めるところを聞くのが嫌いなのだ。かと言って、自分が褒める訳でもない。まるで、北郷一刀の評価が常に最低でないと気が済まないと言わんばかりに、本人の前は元より他人の前でもこき下ろすのである。

 

 そんな辛口評価の荀彧であるが、護衛部隊の長が一刀の武術の腕前について論じたように、彼の学識について同様の報告書を荀昆に提出していた。末尾に署名の入った、正式なものだ。

 

 荀彧の一刀に対する評価は、それはもう酷いものだった。広く家人のために記載した報告書は、そのほとんどが一刀への罵詈雑言で埋まっていた。これでは公平も公正もあったものではない。これでも、彼女が直接一刀に並べる罵詈雑言に比べれば大分控えめに表現されているのだが、初めて読む人間はそのインパクトに圧倒され、そこまで配慮が回らないだろう。

 

 普通の人間は、この報告書を書いた人間はよほど調査対象のことが嫌いだったのだろうと、苦笑して報告書を閉じるのだろうが、普段から一刀と荀彧のやり取りを見ている人間はまた別の感想を持つことになる。その原因は、罵詈雑言で埋め尽くされた報告書の最後を結ぶ言葉にある。

 

 努めて難しい言葉で装飾され若干意味の取りにくい文章になっているが、要約するとこういうことだ。 

 

『こんな奴を外に出したら荀家の恥だ。こんな奴は精々私の目の届く所に置いておいて、一生奴隷のようにこき使ってやるのが妥当である』

 

 家人たちの間に、生暖かい微笑みが広がったのは言うまでもない。いっそ、仕官の際に傍仕えとして連れていく可能性もあるのでは、という期待すら持ちあがっていた。

 

 出自について全く不明という不安な所はあるにはあるが、家人が知る限り、あれだけ荀彧と接していて音を上げないどころか好んで近くにいようとする奇矯な精神を持った男性は、今のところ一刀だけだ。血を残すためにも、荀彧には適当なところで子を成してもらいたいというのが荀昆を含めた家人全員の願いであるのだが、今までは男の影すら全くなかったのである。

 

 北郷一刀は荀彧の前に舞い降りた最初の可能性だ。たかがこれだけでと他人は思うかもしれないが、彼女の性格を考えたらこれが最初で最後ということも大いにありうる。家人が一刀にかける期待は計り知れない。

 

 これで少しでも、荀彧の方に少女らしい反応でもあれば勢いに任せて押し切るという選択肢もないではなかったのだが、こういう文章や行動の端々にたまに見せる態度以外は、相手を嫌っているとしか思えない発言を連発している。祝言を勧めるにも口実というものが必要なのだ。

 

 他の男性と比べて、特に甘い態度を取っている訳でもない。むしろより気合を入れて罵倒している節すらある程だ。これでは勧めようにも勧められない。

 

 結果として、北郷一刀は荀彧に他の男性よりも相対的に近づくことのできる稀有な男性である、という資質以外には、特に見るべくところはないと結論づけられた。

 

 こと、人材に関する育成、取集を主にしている荀家としては、この時点で見るべきところはほとんどなくなっているが、荀彧を助けたという功績そのものは消えることはない。

 

 家としては別にいつまでもいてくれて良かったのだが、勉強が進むにつれ、警備の訓練に慣れてくるにつれ、一刀の内面にはそろそろ旅立たなくてはという気持ちが強くなってきた。

 

 その気持ちが言葉として表面に出てきたのは、荀彧の元に曹操から直筆の文が届いた時である。月日にして二十五日。この日、北郷一刀は荀家を出ようと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そろそろ旅に出ようと思うんだ」

「別に良いんじゃない?」

 

 会話はそれで終わってしまった。まさかあの荀彧が引き留めてくれると思っていた訳ではないが、ここまで無味乾燥だと流石に肩すかしである。それなりに意を決していた手前、受けるダメージもそれなりだ。思いつめた顔で口を開いたと思ったら、どんよりした顔になってお茶を啜る一刀に、苦笑を漏らしたのは功淑だった。

 

「どこか、行く宛はおありなのですか?」

「黄巾との決戦が北部で行われる見通しって話だから、それを避けて進もうかと。行けるなら一度洛陽に行って、それから南に行ってみようと思うんだけど」

「洛陽までなら出入りの商人に着いて行けば問題ないでしょう。あちらも護衛を雇っていますから、お一人よりは安心です。ですが南に行くとなると、誰か旅の人でも捕まえるのが心強いかと存じますが……」

 

 心当たりはおありですか? と功淑が視線で問うてくるが、無論のこと一刀にそんなものがあるはずもない。こちらにきてできた知り合いは、荀家の人間とその関係者のみだ。街にもほとんど出ていないから、交友関係は全くと言って良い程広がっていない。それに加えて、

 

「あんた、路銀はどうするの?」

 

 荀彧の発言に、一刀は言葉を失った。全く考えていなかった、と顔に出してしまった一刀に、荀彧は心底失望したという様子で深々と溜息を吐く。荀彧がぐさぐさと一刀の心を容赦なく刺していくのはいつものことだったが、功淑の目から見ても、今日の荀彧は当たりが強いような気がする。

 

 念願叶って曹操の処に仕官が決まった。それで浮かれているというのもあるのだろうが、一刀が一人で何処ぞに旅立ってしまうという事実が、彼女の心を波立てているのだと双方の関係者としては思いたいところである。もしかしたらという期待も込めて、家人は荀彧に内緒で彼が傍仕えになっても良いように準備も進めていたのだが、結局、荀彧の方からはその申し出はなかった。相も変わらず、一刀との距離感の掴めない少女だ。

 

「……仕事をしながらってことになるかな」

「普通は路銀を作ってからそういうことを言うべきだと思うんだけど?」

 

 荀彧にちくちくと文句を言われながらも、一刀は一言も彼女に路銀を出してくれとは言わなかった。立場を考えればどういう形にしても、荀家が金を出してくれるというのは一刀も理解している。それでもそれを口にしないのは、義理堅いというべきか世渡りが下手というべきか。

 

 それを好意的に解釈した功淑は前者として捉え、それを欠点として見た荀彧は後者として捉える。

 

「これは内緒のお話なのですが、こちらを立たれる際にはいくらかお渡しするように奥様から言付かっておりますよ」

「準備の段階からそれをアテにするのもな……自分で言いだして置いて何だけど」

 

 北郷一刀の現代人的な小さなプライドを満たすのを目的とするのであれば、どういう形であれ金を作ってから旅立ちの話を切り出すべきだったのだろう。だが、荀彧の就職が決まり彼女が近い内にこの家を出ていくという。いつまでも世話になる訳にはいかないのだ。このタイミングを逃してしまったら、この居心地の良い場所にいつまでもいたくなってしまうだろう。出ていくとしたら今しかないのだ。

 

「そういう無計画なところ、あんたらしくて良いんじゃない? 私は支持するわよ。私がいない時に私の実家に、あんたがいるっていうのも嫌だし」

 

 一刀にとっては無計画でも、荀彧にとっては渡りに船だった。自分で言った通り、実家に一刀が居続けるというのは彼女にとってあまり気持ちの良いことではなかったし、一刀は金の問題を気にしているようだが、こういう時にいくらか金を包んでやるのは、荀家の経済力を考えれば普通のことだった。

 

 型どおりのことを拒否されて、一刀の旅立ちが遅れるのもそれはそれで困る。荀彧が支持したことによって、一刀にとっては些か不本意な形ではあるものの、旅立ちは確定となった。

 

 そして同時に、荀彧よりも早く出立することも確定となる。袁紹のところから出戻ったとは言え、将来を嘱望されている人間が有力者の元に仕官するのである。この時代だ。全国に散っている親類を集めるのは骨だが、地元の有力者を集めてのパーティーくらいは開かれる。

 

 荀彧はそれの後に出発する。先方の曹操をあまり待たせる訳にもいかないから、彼女が旅立つのはおよそ一週間の後ということになる。しかも、その間は本人は元より家人も忙しくなる。自分がいない家に滞在するのはムカつくという荀彧の要望を叶えるのであれば、旅立ちはすぐにでもしなければならない。

 

「明後日に旅立つってのは可能かな?」

「急な話ですが、ちょうど洛陽に向けて旅立つ商隊がございます。その馬車に乗せてもらえるよう、手配をしておきましょう」

「ありがとう功淑。助かるよ」

「とんでもございません。ですが、北郷様がいなくなられると、寂しくなりますわね」

「私は清々するけどね」

 

 二人の少女の反応は対象的である。この期に及んでもツンケンした態度の荀彧に寂しさを憶えなくもないが、これこそが荀彧と思い直すことにした。出立が決まれば、後は挨拶回りである。功淑を伴って荀昆に会いに行き、できるだけ早く出立するという旨を伝えに行く。

 

 当然、荀昆は引き留めたが、これから仕官する荀彧のためという建前を持ち出されると、それに乗らざるを得なかった。へそ曲がりの荀彧の内心など解る訳もないが、本人は一貫してさっさと叩きだせという趣旨の発言を続けている。余計な気を回して余計にへそを曲げられたら、目も当てられない。

 

 それに今ならば本格的に忙しくなる前に、一刀の出立に荀彧を立ち会わせることができる。流石に命の恩人である。その出立に立ち会うのまで嫌だとは言わないだろう。

 

 良くも悪くも苛烈な性格をしている娘に心中で溜息を吐きながら、荀昆は一刀の旅立ちを認めることにした。

 

 家主に挨拶が済めば後は早い。翌日に小さな酒宴が開催され、さらに翌日に出立である。ほとんど屋敷から出なかったから、挨拶に行かなければならないような人はなく、元より身体一つでこちらに来たから整理しなければならない荷物はほとんどない。

 

 身の回りの物は餞別としてもらった。服がいくつかと、荷物を入れるための大きな鞄。今は着なくなった制服もここに詰められている。功淑が教えてくれた通り、荀昆は路銀を持たせてくれた。しばらくは遊んで暮らせるだけの額であるが、これが正真正銘の生命線である。これがなくなれば素寒貧になるのだ。その前にどうにかして暮らせるだけの手段を見出さなければならない。

 

 ついで、荀昆は紹介状を二通書いてくれた。

 

 一つは商隊宛てのもの。この人間は我が家の関係者だから、荷台に空きがあるようだったら混ぜてやってくれという趣旨の言葉が書かれている。これを見せれば荀家と取引のあるところならしばらくは一緒に旅をしてくれるだろうと保証してくれた。

 

 もう一通は、洛陽に住んでいる彼女の孫宛てのものだ。『さる高貴なお方』の家庭教師をしているとかで、荀彧を除けば現状、一族の出世頭であるという。そんな偉い人に仕えているなら時間は取れないのでは、と疑問に思った一刀が問うてみると、彼女もその孫に会えるかまでは保証しかねると答えた。

 

 ただ、屋敷には家人がいるはずだから、滞在の間の宿くらいは貸してくれるだろうと、こちらは保証してくれた。結局荀さんちにお世話になるのか、と旅立つ前から微妙に情けない気持ちになりつつも、好意はありがたく頂いて置くことにした。

 

 警備隊の面々は、一刀のために具足を一式プレゼントしてくれた。訓練で使っていたものなので武将が身に着けるような本格的な物と比べるといくらか格が落ちるが、防具としての性能は悪いものではない。あるのとないのでは大きな違いがあると、一刀は木剣で撃たれながら学んだ。

 

 それから同じく訓練で使っていた剣が一本である。これも別に良い剣ではないが、武装しているという事実は良くも悪くも相手にプレッシャーを与える。1の危険を対価に3の安全を買った、とでも表現すれば良いのか。武装していたところで襲われる時は襲われるし、運が悪ければ殺されて死ぬ。それが世の摂理というものである。

 

 どれだけの猛者であっても、死の危険を完全に排除することはできない。一刀のような中途半端な実力であるなら尚更だ。護衛部隊の面々から口を酸っぱくして言われたのは、危険と思われる者、物にはなるべく近づかないことと、なるべく集団で旅をすることだ。

 

 元気でな、という励ましてくれる彼ら一人一人と握手して、最後に残ったのは二人だ。その片割れである功淑が一歩前に出る。

 

「どうか健やかに。北郷様のご健康を、心から祈っております」

「俺なんかに良くしてくれてありがとう。功淑も元気で」

「…………本音を申し上げますと、こんなに早くお別れするのはとても残念です。少しですけど、私、北郷様のこと良いなと思っていたんですよ?」

「嘘でも冗談でも、功淑みたいな子にそう言われると嬉しいよ」

「ありがとうございます。お世辞でも冗談でも北郷様のような殿方に、そういってもらえると嬉しいです」

 

 次いで、一刀の前に立ったのは荀彧である。仏頂面だ。ここにいるのも嫌だというくらい不機嫌な顔に、一刀は逆に安心した。にこやかな顔だったり、泣き顔なんて浮かべられたら、それはそれで落ち着かない。不機嫌な仏頂面でこそ、荀彧だ。

 

「私には大きいから、あんたにあげるわ」

 

 荀彧は無造作に、袱紗を差し出す。受け取るとずしりと重たい感触があった。紐を解いて中を見ると、それが剣だと分かる。鍛練で使っていた剣よりも少しだけ短い。取り回し易さを重視したのだろう。装飾などは一切なく実用一点張りの剣だった。有事の際、小柄な女性でも取り回せそうなサイズである。

 

「こんなもの、もらって良いのか?」

「私が良いって言ってるんだから、良いのよ。私は別に、あんたと違ってバカなことに首を突っ込んだりはしないもの」

「……解った。ありがたくもらっておくよ」

 

 一刀は、それで折れることにした。荀彧からの贈り物である。来歴は気になるが、その希少さに負けてしまった。口にすれば荀彧は気持ち悪いとでも言うのだろうか。言わない気もする。きっとゴミでも見るような目で見つめてくるだけだ。

 

 その光景を少しだけ想像すると、目の前にそれと同じ顔をした荀彧がいた。想像が現実になったのかと軽く目を見開く一刀に、荀彧が実に冷たい声で告げた。

 

「そんな気持ち悪い笑顔を見なくても良いんだって思うと、清々するわ。あんたのことだからロクな一生は歩まないんでしょうけど、私に迷惑かけることなく精々平穏無事に暮らしなさい」

「栄達を祈ってるよ」

「言われなくても。その内、私の名前はあんたの耳にだって届くでしょう。曹操様の名前と一緒にね」

「ああ。凄く、楽しみにしてる」

 

 

 

 

 




村に行く前に寄り道をします。
これによりある人とある人の出番がかなり早まります。


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第005話 洛陽滞在編①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洛陽。帝国の首都にして、文化流通の中心地の一つである。今は乱世。治安の悪さ、文化の遅れなど現代と違うところは色々とあるが、行きかう人々の活気だけは現代以上のものがあった。私は、洛陽にいる。そんな人々の気概が見えるようである。

 

 こんな時代だ。大都会にいるということは、それだけでステータスであったのだろう。人々の熱に自分も浮かされながら道を行く一刀には、喧噪さえも心地よかった。

 

 荀家から商隊に連れられて、洛陽に到着した。彼らと別れ、目指す目的地は所謂高級住宅街である。それにも種類があるらしく、場所によって職業とランクが分かれているという。一刀が目指す先は高級官僚の屋敷が密集しているエリアで、一般市民はまず近寄らない場所である。

 

 尋ね人の名前は、荀攸という。荀昆の孫であり、荀彧から見ると年上の姪。『さる高貴なお方』の教師をしている荀家の出世頭だ。その内私が抜くけどね! とは荀彧の弁である。

 

 その屋敷は、高級住宅街の中にあっては地味な装いだった。荀家は華美な装飾を排し、質実剛健を追求することで他との違いを際立たせていたが、この屋敷もそれに近い。屋敷を囲む長い塀に、大きな正門の横には詰所が置かれている。常駐の警備がいるのだろう。今もどこの馬の骨とも知らない男を、彼らは強い視線でもって警戒している。

 

 知らない人間が屋敷の前でぼーっとしてたら、警戒もするだろう。この辺りの屋敷の住人は、重要人物ばかりだ。何かあってからでは遅いという危機感をこの時代に当てはめれば、問答無用で剣を抜かれるということも考えられないではない。

 

「お初にお目にかかります。私は北郷一刀と申すもので、荀昆殿の紹介で参りました。こちらが紹介状でございます。よろしければ、荀攸様にお取次ぎ願えませんでしょうか」

 

 最大限に腰を低くし、最初から紹介状を差し出す。主人の祖母の名前は効果覿面だったらしく、疑いの目を向けていた警備はすぐさま居住まいを正し、屋敷の中に使いを走らせた。それが戻ってくるまでしばらく待ちか、と一刀が休めの姿勢を取っていると、使いを出した警備の人間が申し訳なさそうに言った。

 

「申し訳ないのですが、主人は今留守にしております」

「…………今の使いの人は、何をしに屋敷へ?」

「北郷様が本日いらっしゃることは、先ぶれが来ましたので存じ上げておりました。ですが、主人は本日宮廷でどうしても外せない用事がありまして、そのために留守にしております」

「それなら出直してきますが」

「いえ、屋敷にご案内するようにと申しつけられております。夕刻までに戻るとのことですが、主人が戻るまではお客人(・・・)が北郷様の対応をすることになっております」

「…………お客人?」

「はい。先日から屋敷に滞在を。主人の友人です。北郷様のことをお聞きになり、それならば自分がと仰られました。主人も彼女ならばと任せたという次第でして」

 

 セレブのすることは解らない。一刀としては夕方出直してくるのでも構わなかったが、相手のあることな以上相手の都合も考えなければならない。紹介状があるとは言え、どの道一刀は頼る側なのだ。ならば相手の都合に合わせるのが筋というものだろう。

 

 一刀が方針を考えている間に、中まで走っていった警備が、女中さんを連れて戻ってくる。

 

「それでは、お入りください。中へはこの者が案内致します」

 

 残っていた警備が示したのは、連れてこられた女中さんだった。その女中さんに連れられて、一刀は屋敷の中に入る。どういう必要があると、ここまで広大な屋敷を建てようという気になるのだろうと不思議に思った。荀家でも客間を中心に普段使っていない部屋は沢山あったし、そのメンテナンスにかかる時間も費用も人手もバカにならないだろう。親戚を集めたって部屋は全部埋まらないと思うのだが……その辺りには、庶民には解らない金持ちならではの事情というものがあるのだろう。

 

「こちらになります」

 

 女中さんはとある扉の前で止まった。応接室だろう。ここに来るまでに見た他の扉よりも装飾が多い。

 

「北郷様が到着されました」

「入ってもらって」

 

 それでは、と女中さんが扉を開ける。女中さんは中に入らない。入れ、と視線で促された一刀は、一人で応接室の中に入った。背後で扉がぱたりと閉まる。

 

「やぁ、はじめまして」

 

 応接室で待っていたのは、この世界らしくない装いの女だった。この世界では初めてみるパンツルックである。肌の露出はほとんどなく、上は白いワイシャツ。思わず視線を向けずにはいられない大きな胸がなければ、女顔の男性でも十分通用しただろう。目元の黒子が色っぽく『男性の想像する女にモテそうな女』のイメージを体現したような女性だった。

 

「僕は単福……と普段なら名乗るんだけどね。こちらの家主に敬意を表して本名を名乗ることにするよ。徐庶。字は元直だ」

「北郷一刀です。姓が北郷で名前が一刀。字と真名はありません」

「二文字の姓に二文字の名前とは珍しいね。しかも字も真名もないのかい?」

「ええ。そういう土地に生まれまして」

「興味深いね。この国の出身ではないのかな?」

「はい。東の島国の出身です」

 

 位置情報について嘘は言っていない。ここが中国と同じ場所にある国であるなら、日本が東にある島国であるのは間違いないが、世界を飛び越えるような摩訶不思議に出会った後である。この世界に日本が存在していなかったとしても、何ら不思議はない。

 

 ともあれ、出身地についてはこれからはそれで押し通すことにした。現代ほど地図の精度が高くないことは荀家で散々確認した。東の海に島国があるかないか、それをきちんと把握している人間はそういないだろうから、この世界に日本がなかったとしても全く困ることはない。特に金持ち及びその関係者ならば、知らない土地=とんでもない田舎として解釈してくれるだろう。

 

「島国出身にしては白いし軟な気がするけどね……育ちも良さそうだ。僕には成金商人の二男か三男って雰囲気に思える」

「あちらでもそう言われました。甘っちょろい内面が、にじみ出ているようでお恥ずかしいです」

 

 徐庶の眉が僅かに動く。謙遜とかユーモアというのは、ある程度文化が成熟していないと生まれないものだ。世の平均を遥かに上回る博識を誇る徐庶をして見当がつきにくい東の島国となれば相当な田舎である。それっぽくはないというのが、徐庶が一刀を見た率直な感想だった。

 

 少なくとも庶民の生まれではないだろう。身体つきも肌の白さも肉体労働をしている雰囲気ではない。この時点で島国生まれというのも怪しいのだが、本人がそう言っていることを無理に掘り下げることもない。人には聞かれたくないことの一つや二つはあるものだ。

 

 それに、徐庶が一刀に聞きたいことはそんなことではない。

 

「荀攸殿の話では、君は最近まで荀家にいたんだろう? 功淑は元気かな。相変わらず美人かい?」

「ええ。俺の世話をしてくれました。お知り合いですか?」

「同じ先生の元で学んだ仲だよ。と言っても、僕の方が先に卒業してしまったしいくらか年上だけどね」

「……初めて聞きました」

「そうなのかい? まぁ、女には秘密が多いからね。功淑みたいな美人なら猶更さ」

 

 お互いの過去を全て知り合う程に、親しかった訳ではない。一刀にだって功淑に話していないことは沢山ある。あちらが話していないことがあっても不思議ではないしそうだろうという認識でいたのだが、先ごろまで一緒にいた知人の近しい時期の事情を全く知らなかったという事実は、一刀にもいくらか衝撃を与えていた。

 

「驚いてるようだね。彼女、結構優秀だったんだよ」

「書生の中では位が低いと言っていたんですが……」

「ご当主様に直接お仕えするって聞いてるよ。扱いが本当に書生で、しかも位が低いって言うなら僕は荀家の評価を大分改めないといけないね」

 

 はぁ、と一刀は溜息を吐いた。女は秘密がいっぱいというが本当である。徐庶と向かい合うようにして応接椅子に座ると、女中さんがお茶の用意をしてくれる。案内してくれた人とは別に、応接室には2人の女中さんが影のように控えていた。お茶を淹れてくれた彼女も、配膳が終わると部屋の隅で影に戻る。

 

「……同じ先生と仰いましたが、どういう学校だったんですか?」

「水鏡女学院って言ってね。その道では結構有名なんだよ? 水鏡先生って名高い司馬徽先生が学長でね、講師も生徒も警備の人も皆女性さ。何しろ女学院だからね」

「年が離れてらっしゃるようですが、学年が違ったんですか?」

「何歳からなら入学できると決まっている訳ではないからね。入学するに値すると判断されれば入学できるし、卒業するに値すると判断されれば卒業できる。だから同じ卒業生でも、在学年数が違うんだよ。ちなみに僕は三年で卒業した。功淑は四年だね。五年くらいかかるのが普通らしいから、これで功淑がどれだけ優秀か良く解ってくれただろう」

 

 さりげなく自分の方が主張しているが、話のオチには功淑を持ってきている。功淑に親しみを感じているのは事実なのだろう。ともすれば男性にも見える顔に、今は人懐っこい笑みが浮かんでいる。

 

「でも上には上がいるよ。入学した時から超が付くほど優秀だった二人の娘が、二年かからずに卒業するって話でね。僕も先輩として鼻が高いよ。あの娘たちの名前はその内、世に轟くだろうね」

「俺の地元では、一定の年齢になったら皆同じところで同じ内容を勉強して、同じ時間をかけて卒業してたので少し新鮮に感じます」

「…………ちょっと待って。たったそれだけなのに聞きたいことがいくつもできた。君の地元では例えば10歳になったっていう、ただそれだけの理由で勉学のために子供を集めるのかい? それに皆って言ったね。農家の子でも商人の子でも職人の子でも分け隔てなく?」

「そういう理由で分けられたって話は聞いたことないですね」

「経済的な理由もあるだろう。富裕層でない家の子はどうやって学費を捻出するんだい?」

「いえ、学費はかかりません。七歳になる年から十五歳になる年までの九年間。学費については国が負担して子供に学ばせます」

「例えばどんな勉強を?」

「読み書きと計算と国の歴史と地理と――」

 

 小学校中学校で学んだことを簡単に列挙していく一刀の言葉を聞いて、徐庶は額を押さえて頭痛を堪えるような仕草をした。聡明な彼女でも理解が追いついていない風である。そんなにおかしなことかと首を傾げる一刀に、徐庶は頭の中で言葉を整理しながら、質問を続けた。

 

「君の地元は子供を皆高級官僚にでもするつもりなのかな」

「公務員になるのは少数だと思いますよ。農業にしろ職人にしろ、家業がある家は子供の誰かが稼業を継ぐのが普通な感じです」

「こういう言い方をすると申し訳ないけど、例えば石工が仕事をするのに国の歴史は必要ないと思わない?」

「それは俺もそう思います。これは大人に聞いた話ですが、九年の勉強はなりたいものになるための下準備のためにするんだと。石工の子が公務員になったり、農家の子が商人になったり、後で自由に職業を選ぶために幅広い知識を満遍なく吸収するんだそうです」

「…………現実にそれで国が回るとは思えないけど、それで本当に国を回しているんだとしたらその構造を作った人間とは是非とも話をしてみたいね。身分も経済力も関係なく、国家が学費を負担してまで全ての子供に恒常的に知恵をつけさせるなんて、正気の沙汰とは思えない」

「底辺のレベル――あー、知識の度合が底上げされていた方が、国民全体としての総合力が上がるような気がしませんか?」

「一長一短だね。このまま文明が進歩していったとして、最終的にはおそらくそんな所に落ち着くんだろうとは思うけど、今すぐこの国で実行するのは難しいかな。上の人たちのほとんどは、庶民が知恵をつけることを歓迎しないと思うよ」

「そんなもんですか……」

「それに九年も同じ内容で授業を受けさせるのは時間の無駄だと思うよ。デキの良い生徒と悪い生徒が同じ授業を受けるってことだろう? どうして習熟度で教室を分けないんだい?」

「それは何とも」

 

 頭の良い人というのは、次から次へと疑問が出てくるものなのだろうか。比較的人当りの良さそうな徐庶でこれなのだから、荀彧相手にこの話をしなくて良かったと思う。

 

「どうやら君の地元は相当に面白い所のようだ。君さえ良ければ色々と話を聞かせてもらいたいな。洛陽にはしばらく滞在するのかい?」

「滞在期間は決めてませんが、もう少ししたら南に向けて旅をしてみようと思ってます」

「それなら僕が同道してあげるよ。僕もちょうど荊州にある学院まで戻らないと行けないんだ。学院は男子禁制だから途中までってことになるけど、それでも良ければだね。これでもそれなりに腕は立つから、道中の護衛くらいならしてあげられるよ」

「本当ですか!?」

「うん、本当だ。その代わり洛陽にいる間、僕が同道している間は僕の問答に付き合ってくれるかな。それさえ認めてくれるなら、護衛料とかケチ臭いものは要求したりしないよ」

 

 それなら是非! と声を挙げようとしたところで、部屋の扉がノックされた。応接室に入ってきたのは、入り口から屋敷まで走った警備の人間である。彼が告げたのは、主人である荀攸が戻ってきたということだった。本来であれば女中さんから一刀と徐庶に伝えられるべきことだったのだろうが、警備の声が大きく、女中さんが振り返った時にはそれは既に伝わっていた。

 

「夕刻に戻るはずでは?」

「夕刻までに(・・・)は戻るはずって聞いてるよ。予定が早まったんだろう。良くあることさ。何しろお相手は『さる高貴なお方』だからね」

「生徒ですよね?」

「時には教師よりも偉い生徒もいるものさ」

「徐庶様、北郷様、主人のことなんですが……」

「戻ってきたんだろう? 大丈夫、後は僕たちで――」

「いえ、それがお一人ではなくお連れがいるようなのですが、お連れの方がその――」

「わかった。みなまで言わなくて良いよ」

 

 にこやかに微笑んでいた徐庶が微笑みを引っ込めると、急に居住まいを正して立ち上がった。彼女は一刀にも立ち上がるように促すと、服装の点検を始める。慌てた様子の徐庶に、一刀は問うた。

 

「そこまで慌てるような人なんですか?」

「『さる高貴なお方』だよ? 慌てもするさ」

「誰なんです? 荀攸さんの生徒ってのは」

「知らないで使ってたのかい? ならちょうど良い。知らないままの方がきっと幸せだ。ただし、間違っても粗相のないようにね。これは脅しじゃないぞ。君の首のために言ってるんだ」

 

 ご到着です、という女中さんの言葉に、一刀は徐庶と一緒に背筋を伸ばした。礼儀作法については一通り教わったつもりだが、実践の機会はこれが初めてである。ここでしくじったらどうなるのだろう。緊張しながら待っていると、扉は静かに開かれた。

 

 扉を開いて現れたのは、黒髪黒目の少女だった。目鼻立ちのはっきりとした、ちょっとやそっとではお目にかかれない程の美少女である。小学生の中頃、きっと十歳にも届いていないだろう。可愛さよりも幼さが目立つような年齢なのに、ただこちらに歩いてくる、それだけの所作が恐ろしく様になっている。

 

 歩き方一つについても、高い教育を受けた後が伺えた。素人に解る程度なのだ。おそらくこの美少女が『さる高貴なお方』なのだろう。

 

 美少女は最敬礼をしている徐庶に軽い挨拶をすると、どうして良いのか解らずただ立っていた一刀を下から覗き込んだ。上目遣いの見本のような仕草に、思わずどきりとするが、真っ黒なその瞳に一刀は何か底知れないものを感じた。

 

「貴方が先生の親戚を助けた人ね。お名前は?」

「北郷一刀。姓が北郷で名前が一刀。字と真名はありません」

「珍しいお名前ね。でも、何だかかっこいいわ。似合ってる」

「ありがとう――ございます」

 

 ありがとう、で区切ろうとした瞬間、横から蹴りが飛んできた。痛みに思わずございます、と付け加えた一刀を見て、美少女はくすくすと小さくほほ笑んだ。

 

「私はリュウキ――うん、劉姫よ。貴方のことは一刀くんって呼ぶわ。よろしくね、一刀くん」

 

 




水鏡女学院についてはこちらで設定をしました。
原作、アニメなどで既に設定があるかもしれませんが、調べて見つからなかったので自分設定の採用となります。

カリキュラムを理解できる頭があると判断されると入学でき、カリキュラムを全て終えると卒業できます。ドロップアウトする生徒もいるので、卒業してるだけでかなり優秀です。帽子は卒業生に贈られるもので先生が選びます。

他、細々した設定は作中にて。次回、荀攸さん登場。洛陽回は二回か三回で終了です。


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第006話 洛陽滞在編②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遅れまして。私は荀攸。字は公達と申します。叔母を助けてくださったそうで、ありがとうございました」

 

 劉姫の後に、家主である荀攸が一歩前に出てくる。自己紹介をするまでもなく、一刀は彼女がそうであるというのは理解できた。それくらいには、荀彧や荀昆と風貌が似ている。ただあちらの二人と比べて荀攸は大分穏やかな雰囲気をしている。

 

 宮廷で仕事をしているのだ。もっとデキる女といった堅苦しい雰囲気をしていると思っていたのだが、良い意味で裏切られた形である。

 

「行きがかり上当然のことをしたまでです。それに荀昆殿を始め、荀家の方々には良くして頂きました。俺の方が申し訳ないくらいですよ」

「そう言っていただけると助かります。叔母は私達が無理に袁紹を勧めたせいで苦労をしたようなので、北郷殿と気心の知れたやりとりができて、大分気が晴れたと思います」

「彼女の助けになれたのなら、何よりです。荀彧は、元は袁紹のところに?」

 

 辞めてきたばかりで、元々袁紹のところにいたという話も聞いたような気はするが、本人が死ぬほど嫌そうな顔をして語りたがらなかったため、元の仕官先についての情報はまるでなかったのだ。袁紹と言えば本人の能力はともかく名門の出身で、今から天下取りの競争をするとしたら最も天下に近い位置にいる人間だと聞いている。

 

 親戚一同が薦めるのも分かるし、あの荀彧が主人の悪評を差し引いてまで一度は首を縦に振ったのだ。更にこれから乱世になるとなれば、仕官先としては本当に悪いものではないのだろう。結局辞めてしまったのは、荀彧とは反りが合わなかったのか。それとも彼女に『こいつではダメだ』と見限られたのか。

 

「はい。仕官先としては申し分ないと判断し勧めたのですが……アレならば最初から曹操殿を勧めれば良かったと後悔しております」

 

 溜息の度合いは深い。本当に後悔しているのだろう。誰に聞いても傑物だという話の曹操よりも、その誰に聞いても溜息を吐かれる袁紹にこそ興味が湧いてきた一刀だったが、誰に対しても聞ける雰囲気ではなかった。

 

「北郷殿は、旅をされるおつもりだとか。これから南に?」

「はい。洛陽に少し滞在の後、南を回ってみようと思います」

「僕が学院に戻るまでの間は、護衛を兼ねて一緒にどうだいって誘ってた所さ」

「そうなの? 元直が一緒なら安心ね」

「お褒めにあずかり恐悦至極にございます」

 

 徐庶は印籠を見せられた悪代官がするように、へへーと畏まっている。『さる高貴なお方』とは聞いていたが、これは想定以上に高貴なのかもしれない。身分権力が現代以上に物を言うこの世界で、人をこれだけ畏まらせるというのは一体どれほど偉い存在なのだろう。

 

 実感できれば良かったのだが、生まれてこの方尊い生まれの方と縁のない生活をしてきた一刀は、偉い人と言われてもぴんとこなかった。おそらく徐庶のするような態度が正しいというのは分かるのだが、目の前にいるのは一刀にとってはただのちょっとおしゃまな美少女である。

 

 それが態度に出ていたのだろう。劉姫の興味が一刀に向いた。一瞬、荀攸がしまったという顔をしたが止める間もなく、劉姫は一刀との距離を詰めてきた。

 

「一刀くん、お願いがあるんだけど聞いてもらえるかしら」

「内容に寄りますが……なんでしょうか」

「貴方さえ良ければ私とお友達になってもらえる? 気心のしれた間柄というものに、ちょっと憧れていたの」

「へい――伯和様。お戯れが過ぎます」

「あら、先生。私にお友達ができたらいけない? 私ももうすぐ十になるのよ。もう少しすれば子供だって産めるようになるわ。褥を共にする時、殿方に『物を知らない女だ』なんて思われるなんて嫌だもの。色々な人から知識を吸収するのは、悪いことではないと思うのだけど、違う?」

 

 嫌だわ、と言われても教師は困るだろう。そういう風にならないために教師がいる訳だが、荀攸が教えるのは一般常識まで含めた教養全般である。庶民の間には風習としてそういうことがある、というレベルであれば劉姫もそれは理解しているが、彼女の生まれでは実際にそういう場面に遭遇することはまずない。

 

 いずれ褥を共にするという人間も上流階級の出身の男性になるだろうし、その彼もきっと庶民に関する風習を実感はしていないはずだ。出自の不確かな人間と無理に交流を持つ必要はない。ついでにこんな利発な少女を相手に『物を知らない』などと思う男はいないだろう。それは一刀でも実感できる。

 

「いけません。彼が帝国の臣民である以上、貴女は敬意を持たれる存在でなければなりません」

「彼は帝国の臣民ではないよ、荀攸殿」

「…………今なんとおっしゃいました?」

「東の島国の出身らしいよ。何の役職にもついていないし、今はただの旅人のようだからどこの臣民かと言えば故郷の国の臣民なんじゃないかな」

「先生?」

 

 劉姫の言葉に荀攸が押し黙る。他の国の人間だからと言って彼女に礼を尽くさなければならないことに代わりはない。彼が立っているのはこの国の地であり、ましてこの洛陽は首都である。貴い血筋に生まれた人間は、ただそれだけで偉いのだ、という理屈はこの国の根幹に根差している。

 

 ここで一つを見逃すことはとても小さいことかもしれないが、本来、見逃されることなどあってはならないのだ。国に仕える人間として、劉姫の申し出は簡単には受け入れがたいものだったが、自分の教師のそういう性質をよくよく理解している劉姫は更に言葉を重ねた。

 

「特別に便宜を図ったりはしないわ。そんなもの、持ち込ませないし持ち込まない。私が彼を友人と思い、彼も私を友人と思う。そういう関係を築きたいの。本当にそれだけだわ。本当よ?」

 

 真摯な劉姫のお願いに、荀攸がついに折れた。

 

「解りました。外に持ち出さないと仰せであれば、もはや私に否やはありません。よくよく、友誼を結ばれるがよろしいでしょう」

「ありがとう、先生。私、先生のこと大好きよ」

「調子の良いことを仰られても、これ以上譲歩したりはしませんからね」

「解ってるわ。私は基本的には、良い子だもの」

 

 自らの野望に対し、最大の障壁となっていた荀攸を黙らせると、劉姫は笑みを浮かべて振り返った

 

「そういう訳で、今から私と一刀くんはお友達よ。対等な感じでお話ししてほしいわ。あと、私のことは伯和って呼び捨ててね。絶対よ。お友達だもの」

 

 ほらほら呼んでみて、という劉姫に釣られて伯和と呼び捨てると、彼女は嬉しそうに大きく頷いた。念願叶ったという風である。名前一つで、と思わずにはいられないが、家庭環境というのは人それぞれである。伯和には伯和の家庭の事情というものがあるのだろうと、一刀は納得することにした。

 

 同時に、伯和の後ろで彼女が伯和と呼び捨てにされる度に、お腹を押さえて苦しそうにする荀攸のことは見ないことにした。こちらはこちらで立場があるのだろう。その苦しみは理解できなくもないが、特に子供のお願いというのは世の中の何よりも優先されるのだ。

 

 荀攸の苦しみを知ってか知らずか、伯和はまるで他には誰もいないかのように一刀の手を取り、応接椅子に座らせた。そこが指定席だと言わんばかりに、当たり前のように隣に座る。それで何をするのかと言えば、伯和がしたのは一刀に話をせがむことだった。

 

 教育係の反対を押し切ってまで作った友達と最初にすることが、お話という。一体どれほど友達が少ないのか。一刀の思う友達らしいことなどしてあげられそうにないが、少なくとも、ここで彼女と向かい合っている間は彼女の要望に応えてあげようと思った。

 

 せがまれるままに、話をする。と言っても、するのは故郷の話ではなくしばらく前、荀家に滞在していた時の話だ。実感の籠った苦労話は利発な少女に大層受けが良く。一刀君のおばかさん、という軽い罵倒を交えながら和やかに進んでいった。

 

 最初はどうなることかとはらはら見守っていた荀攸も、今は力を抜き徐庶と並んで向かいの応接椅子に座っている。

 

「一刀くんは知ってるかしら? 一年くらい前に予言が流行ったのよ。天の国から御使いが現れて、この国を正しい方向に導いてくださるって」

 

 伯和はにこにこしているが、他の二人はどんよりとした顔をしている。この話題を聞いていたくないと顔に書いてある二人に、伯和は気づきもしない。

 

「それは、この国的には不味いんじゃないかな? そうなると今の皇帝陛下の立場がないだろ」

 

 どういう理由でその予言が発せられたかに関わらず、人の口を伝わり世に広まった以上、最終的な内容には少なからず人々の願望が含まれているはずである。彼ら彼女らは既に、国が自分たちを救ってくれるとは信じていないのだ。現代と違って、権力者の権力は絶対だ。

 

 流行ったのが一年前ということは、既に沈静化しているのだろう。体制側が火消しに走ったのか、民衆が単純に飽きてしまったのか。いずれにせよ、誰もがこれから乱世に突入する気配を感じている現状、御使いはまだ現れていないに違いない。

 

 とは言え、仮に御使いが既にこの地に舞い降りていたとしても、私がそうですとは名乗りにくいだろう。自分の立場に置き換えてみても、誰の後押しもない状態で、名乗り出たりはしないはずだ。

 

「別に気にしないと思うわ。予算が浮いたって喜ぶんじゃないかしら」

「随分現実的な皇帝陛下だな……自分が追われるかもしれないんだぞ?」

「誰もが意に沿った立場にいる訳じゃないと思うの。皇帝陛下だって、そうだと思わない?」

「…………伯和が言うなら、そうじゃないかって気がしてくるよ?」

「そう? きっと私の高貴さがそうさせているのね」

 

 ふふ、と伯和は嬉しそうに笑った。

 

「一刀くんは、予言って聞いたことある?」

「あんまり聞いたことないな。俺が生まれる前は、空から恐怖の大王が降ってきて世界が滅ぶって予言が流行ったらしいけど」

「…………その予言は一体誰が喜ぶの?」

「一部の人は凄い喜んだって聞いてるよ。後は大昔の王様が魔法使いからこんな予言を聞いたらしい。『お前は女の股から生まれた者には殺されないだろう』って」

 

 一刀が期待していた反応は『それじゃ無敵じゃない』という無邪気な反応だったのだが、伯和は少しだけ視線を彷徨わせると、あっさりと答えた。

 

「お腹を切開して生まれた人に殺されたんじゃない? 事例は少ないけど、そういう生まれ方もあると聞いたわ」

「…………こんな予言もあるぞ。森が動かない限りお前は安泰だ――」

「ねぇ先生。木々や葉っぱの被り物をして夜間に皆で移動したら、森が動いているように見えるかしら」

「伯和様。その辺りで勘弁して差し上げたらいかがですか? 一刀さんが表現に困るような面白い顔をされてますよ」

「だめよ。もっとこういう顔をさせてみたいわ。初めてできたお友達だもの。もっと色々な顔を見てみたいの。さぁ一刀くん。私に凄いって言わせたいようだけど、何かとっておきのお話はないかしら」

 

 次を促してくる劉姫に、一刀は考えた。先ほどの二つも何となく思いついたもので、元々温めておいた話ではない。話の上手い人間ならばこういう時に披露できる笑いの取れる話の一つや二つくらいは用意しているのだろうが、そうでない一刀にとっておきの話などない。

 

 だが、伯和は期待に満ちた目でこちらを見つめている。そんなものはないと言えない雰囲気に、一刀は無理やり記憶の奥から話を捻りだした。

 

「一応確認だけど、体制を批判するような冗句ってアリなのか?」

「他ではどうか知らないけれど、私が認めるわ。好きな話をしてくれて大丈夫よ」

「助かるよ。さて……ある男が、皇帝陛下が物乞いにお声をかけているのを見た。どうしても皇帝陛下と話がしたかった男は、翌日物乞いの恰好をして通りで待った。すると狙いの通り、皇帝陛下が近くにいらっしゃった。どんな言葉をかけてくださるのだろう。期待に胸を膨らませる男に、皇帝陛下はおっしゃった」

 

「昨日、とっとと失せろと言ったはずだが理解できなかったようだな」

 

 この冗句に特に思い入れがあった訳ではない。追い詰められて最初に思い出したのがこれだったから口にしただけだが、この国では不味いんじゃないか、というのは披露してから思った。

 

 荀攸など過呼吸を起こしかけて、徐庶に介抱されている。それだけ貴い立場の人を扱うのは冗句でも難しいのだ。これからは冗談でも言わないようにしようと反応のない隣の劉姫を見れば、お腹を抱えて俯いていた。

 

 貴い身分であるという。気でも悪くしたのだろうかと顔を見れば、涙を流しながら声を押し殺して笑っていた。大受けである。

 

「…………ち、巷にはそんなに面白い小話があるのね。初めて聞いたけど面白かったわ。でも、私の前以外でそういう話をしたらダメよ。皆が私みたいに冗談を理解してくれるとは限らないんだから」

「気を付けるよ、本当に……」




最初は最後にするのは小話ではなくモンティ・ホール問題というらしい確率論の話だったのですが、分かりやすい小話に差し替えました。何しろ私が理解できないもので……

この後、2、3日滞在して徐庶さんと色気のないデートをしたりしましたが無害です。

特に何も思い浮かばなければ次回から村編になります。


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第007話 とある村での厄介事編①

 

 

 

 荀攸の屋敷で寝泊まりをした間は、主に元直――すぐに気心が知れ、元直と字で呼べと要求された――と散策をしたり問答をしたりして過ごした。滞在期間は三日である。そろそろ洛陽を立つという彼女に合わせて、一刀も荀攸邸を辞することにした。

 

 結局、初日に出会った劉姫とはあれきり出会うことはなかったが、彼女の教師である荀攸からは手紙を預かった。流麗な文字にて曰く『必ず抜け出して会いに行くから、次に洛陽に来た時は一緒に街を散策しましょうね。約束よ』とのこと。絶対に他の連中に内容は見せるな、とのことだったので、甚く内容を気にしていた荀攸にも秘密と相成った。

 

 胃が痛むらしい荀攸に見送られて洛陽を立ってしばらくは、荊州にあるという元直の母校を目指して南下する。荀攸から餞別として馬を貰ったので、荀家から洛陽までの道中よりは、比較的早いペースで進んでいる。しばらく前まで馬に乗るなど考えもしなかった立場である。旅慣れた元直に比べると聊か恰好悪い乗り様ではあったが、それをからかわれながら旅路を行くと話も弾んでくる。

 

 故郷の話は洛陽で一通り話し切ってしまったので――その後、『絶対に信頼がおけると判断できる相手以外には、この話はするな』と釘を刺されてしまったが――道中にするのは主に元直の話である。旅慣れ人に慣れ話に慣れた彼女の話は面白く、聞き役になるのが一刀の仕事だった。

 

 慣れない馬の旅、そして良く考えれば人生で初めての女性と二人の旅行であるという事実に気づき、遅まきながらどきどきし始める頃には、旅にも終わりは見えてきた。学院に一番近い街で別れるという約束であるため、順調に行けば、後三日程。

 

 もうすぐ日が暮れる。今日は近くの村で宿を借りようと話していた矢先、ようやく村が見えてきた頃、一刀の耳に人の争う声が聞こえてきた。

 

 ただ事ではない。二人は瞬時に、馬を駆けさせる。村の入り口。大勢の武装した男が、一人と戦っている。おそらく村人だろう。遠目には男性か女性かも解らなかったが、背格好からして子供のようである。そのたった一人が、大人の男たち相手に立ちまわっていた。

 

 ただ事ではない腕前だが多勢に無勢だ。援護は必要であると判断した一刀が元直を見ると、彼女は小さく頷いてみせた。

 

「君が突撃、僕が援護ってことでどうかな」

「俺が援護、元直が突撃の方が良くないか?」

「君が僕よりも弓を上手く扱えるって言うならそれでも良いよ」

「悪かった。俺が突撃、元直が援護だ」

 

 先行して、馬を駆けさせる。立っている賊は数えてみた所、十五人。既に倒れているのが何人かいる。子供一人で、と思うと憤りも湧くが、賊をまとめて相手取れると判断したからこそ一人での相手ということもある。いずれにせよ手練れであるならば、素人に毛が生えた程度の自分の心配など、大きなお世話に違いない。

 

 馬で走ってくる一刀に、賊の一人が気づいた。迎撃する者はいない。慌てて道をあける賊に、すれ違い様に斬りつけ、戦っていた者を回収した。

 

「乗れ!」

 

 しばらく走って馬は反転、再び賊たちの方を向く。戦意は失っていないが、後ろからは元直の援護が入る。放たれた矢は狙い違わず確実に命中していく。村人を攫って行った一刀に比べて、明らかに手練れの雰囲気だ。賊であるからこそ命は惜しい。我先にと逃げ出すが、ただ走っているだけの人間など的と変わらない。

 

 背中に、あるいは足に矢を食らった仲間がばたばた倒れていくのを見て、ただ逃げるだけでは本当に死ぬだけだと理解した賊は、こここそが活路とばかりに一刀の方に駆けてくる。その数は五人。

 

「ねえ」

 

 少年か少女か解らなかった村人は、近くで見ると『少年のような少女』だった。戦闘中だ。盗賊の返り血を浴びている。褐色の肌に流れる汗と、漂ってくる少女の匂いに思わずどきりとした。緑色の瞳がまっすぐに一刀を見つめている。

 

「助けてくれてありがとう。お兄さん、名前は?」

「北郷一刀。姓が北郷で名前が一刀だ。字と真名はない」

「私は太史慈。字は子義だよ。よろしく、一刀さん」

「よろしく。ところで俺たちの前に盗賊が五人迫ってる訳なんだけど、三人任せても良いかな」

「五人全員私が引き受けても良いけど?」

 

 子義の提案に、一刀は押し黙る。任せられるのならばそうしたいのだが、少女一人に戦わせて自分一人後ろにいるというのも抵抗があった。その機微を表情から察したのだろう。先に子義の方から折衷案を出してくる。

 

「やっぱり、二人くらい受け持ってもらっても良い? こういう時に殿方を立ててやるのが女の仕事だって母上も言ってたし」

「……ありがたく好意を受け取ろう。君が三人、俺が二人ってことで」

 

 苦笑を浮かべながら、一刀はその提案を受け入れた。子義の母君はおそらく、何も言わずに最初からそういう配慮をしておくべし、と言いたかったのだろうが、世の中そんなものだ。

 

 さて、と気を引き締める。自分の希望の通りに二人受け持つことになったが、野盗とは言え与し易い相手という訳ではない。何しろ初めての実戦である。見たところ、荀家の警備隊と比べるとかなり質は劣るが、自分の腕がそう大したものではないということは、一刀自身が良く理解してる。

 

 ここには手練である元直と子義がいる。自分の仕事は、当面生き残ることだと割り切ることにして、一刀は馬から飛び降りた。子義は既に右に展開した三人へと飛び込んでいた。

 

 一刀の受け持ちは二人である。戦意というよりも焦燥感に満ちているのは、元直の矢に追い立てられたからだろう。その野盗二人が、一刀を見て少しだけ安堵の色を浮かべた。こいつは弱そうだ、と思っているのが表情からでも解る。事実その通りではある。侮られていることに腹も立つが、一刀はこれを好機と見ることにした。

 

『まず何よりも戦いを避けるようにしなさい。愚鈍なあんたが生き残りたいなら、まず戦いには関わるべきじゃないわ』

 

 軍学を教えたがらなかった荀彧が、口を酸っぱくして言っていたのがこれである。君子危うきに近寄らずだ。できれば一刀もそうしたかったが、世の中注意しているだけではどうにもならないことがある。その対処法が一人旅はしないというもので、安心できる護衛でも連れて歩けというものだったのだが、それでもなお、護衛があまりあてにできない状況でどうするべきか。

 

『相手よりも頭数を揃えなさい。攻める時には相手を囲む。守る時は囲まれないようにすること』

 

 あんたの頭で理解できるのはそれくらいよ、と軍学っぽい話はそこで打ち切られた。そんな単純な、とその時は思ったが、こうして武器を持って敵と相対してみると腑に落ちるものがあった。

 

 援軍が期待できるこの状況で考えるべきは、生き残ること。いわば守りの戦いだ。守る時には相手に囲まれないように動かなければならない――要は一対二の状況ではなく、一対一の状況を二つ作ると考えれば良いのだ。

 

 一歩右にずれる。一人目が二人目の影に隠れた。これで一対一。二人目に、一刀は当身を食らわせる。二人目は何とか堪えるが、後ろにいた一人目はたたらを踏んだ二人目にぶつかってひっくり返った。

 

 さらに、一対一。一刀の方から攻める。立ち振る舞いを見るに、荀彧の屋敷にいた警備隊の面々よりも大分弱い。素人に毛が生えた程度。おそらく自分と大差ない実力だろうが、慎重に慎重にと脳裏で唱えながら気を引き締める。

 

 どれだけ玄人でも剣で斬られれば死ぬ。打ち込む。相手に攻撃する時間を与えない。一人目が出てこないように二人目の動きを誘導する。気持ち悪いくらいに上手く行っていた。

 

 二人目の腕を斬り割く。血が噴き出た。怪我をしたことで二人目が逆上して更に踏み込んできた。剣を合わせて鍔迫り合い。力は強い。押し返すと、力任せに更に力を込めてきて――その力の分、一刀は力を抜いて大きく飛びのいた。

 

 素人が相手ならこれで確実にいける、と警備隊の面々が太鼓判を押した技だ。剣道の試合でも、小学生の頃によくやった。後ろに大きく下がった分、二人目は大きくバランスを崩し、その場に転んだ。無防備に晒される背中、首の付け根めがけて、思い切り剣を振り下ろす。

 

 鈍い音に、鈍い感触。二人目はそれで昏倒した。急所である。具合が悪ければそれで死んでもおかしくはない打たれ方だが、さて残りは――と目を向けると、一人目の賊は太史慈に打倒された後だった。

 

「受け持ちは三人から四人になったみたいだな。手際が悪くて申し訳ない」

「そんなこと思わないよ。私一人じゃここまで簡単に倒せなかったと思うし。お兄さんたちに感謝だね」

 

 弓矢で賊をあらかた仕留めた元直が、軽い足取りでやってくる。見事な弓の腕だ。確かに、援護を元直に任せたのは正解だった。

 

「視界に入った連中は皆動けなくしたけど、これで全部かい?」

「こっちから攻めてきた奴は全部かな。逆から攻められてたら私一人だとお手上げだったけど、何も騒ぎになってないってことは大丈夫ってことだね」

「それは何よりだ。ところでお嬢さん。こいつらを拘束しておきたいんだけど、縄を持ってきてもらっても良いかな」

「解りました!」

 

 にこにこと太史慈を見送った元直は、彼女の姿が見えなくなるとすぐに笑みをひっこめた。そして手近に転がっていた賊の襟首をつかむと、一刀の前まで引きずってくる。

 

 それは一刀と戦っていた内の片割れで、最後に太史慈に打倒された男だった。鼻血を流し、全身打たれたようだがとりあえず当面は命に別状はなさそうである。

 

 そんな男の前に腰を下ろすと、元直は努めて淡々とした声で言った。

 

「最初に言っておくけど、僕は君たちが生きようが死のうが知ったことじゃない。幸い、君以外にもくたばってない人間はいるから、君がダメなら他に聞く。それをよーく踏まえた上で、僕の質問に答えるようにね」

「わ、わかった……」

「よろしい。君らの仲間はここにいるだけで全部かい?」

「一緒に行動してる奴らってことならそうだ。俺たちは元々冀州の黄巾本隊にいたんだが、そこから逃げてきた口だ」

「連携してる訳じゃない、逃げてきた連中は近くにいるのかな?」

「それは知らねえ」

「指の二、三本も砕かれないと自分の立場も理解できないのかな……」

「本当だよ! こんな稼業をやろうってんだ。同業者が近くにいたら、河岸を変えるなり喧嘩を売るなりするわな」

 

 必死な賊の言葉には、一応の筋は通っていた。いずれにせよ、当面これで全部というのならばありがたい話だ。元直はそう、と短く言うと渾身の力を込めた拳を顔に打ち込んで賊を気絶させ、他の賊にも同じ質問をしていく。拳で五人も気絶させる頃には、情報の摺合せは終わっていた。

 

「どうやら本当にこいつらは単独みたいだね」

「他にも似たような連中がいるってのは、あまり嬉しい話じゃないけどな……」

「今日明日に来るってものでもないようだし、それは無視しても良いんじゃないかな。見ず知らずの人たちの安全にまで気を配っていたら、身体がいくつあっても足りないよ」

「それはそうなんだけどさ」

 

 だからと言って我関せずとはいかない。少しでも関わってしまった以上、何とかしてあげたいと思うのが人情というものだ。不服である、という一刀の雰囲気を察した元直が苦笑を浮かべる。

 

「一刀。『それ』は君の良いところだと思うけど、あれもこれもとはいかないものだよ。こういう世なら尚更ね。友人として君のことが大事だという僕の気持ちは、できればくみ取ってもらえると嬉しいね」

 

 危ないことはしてくれるな、という元直の言葉に一刀は少しずつ冷静になる。何はともあれ、今は目の前の問題を片づけることだ。戻ってきた太史慈から縄を受け取り、賊を縛り上げていく。矢を受けて怪我をしているものは応急処置だけをする。命に別状はないが、放っておいて良い傷でもない。

 

 本当であればちゃんとした治療を受けさせるべきなのだろうが、とりあえずの監禁場所に連れていく際、すれ違った村人たちは視線だけで殺さんとばかりに殺気立っていた。治療してやれという雰囲気ではない。この時勢だ。打倒されたにも関わらず、命があるだけでも御の字なのだろう。

 

 殺伐とした世界観に打ちひしがれながら、一刀が案内されたのは村の中央。明らかに『偉い』人が住んでいる家だった。屋敷なれしたせいか、小さな家だな、と思ってしまったのはご愛敬である。

 

 中に通され、村長ですと紹介されたのは初老の男性だった。白い髪に白いヒゲ。一刀が想像するいかにも村長な容姿の男性は、孫ほど年の離れた一刀と元直に手をついて頭を下げた。

 

「村を助けてくださって、ありがとうございます」

「私たちが手を出さずとも、太史慈さんが何とかしておられたでしょう。賊を相手に一人で立ちまわっておられたようですし」

 

 暗に少女一人に押し付けて残りの大人は何をやっていたんだと責める一刀に、村長は恐縮して頭を下げた。

 

「お恥ずかしい話なのですが、村の女が二人まとめて産気づきましてな……男衆はそちらの警護に回っておりました。いずれにせよ、年若い子義におんぶにだっこという形になり、大人としては恐縮するばかりでございます」

「それは……大変でしたね。赤子の方は?」

「無事に出産しました。両方とも、元気な女の子です」

「それは、おめでとうございます」

 

 事件に関するやり取りが終われば、今日あったばかりの人間である。特に話がある訳ではない。報酬などの話も必要だろうが、いきなり金の話をするのも無粋である。話は当たり障りのない世間話に移行した。

 

「お二人は、どういう旅を?」

「僕は恩師に会いに水鏡女学院まで」

「それでは、貴女様が軍師先生でいらっしゃる?」

「いまだに仕官をせずに、ふらふらしている不良弟子ではありますが」

「事情がおありなのでしょう。無理には聞きますまい。して、貴方様は?」

「見分を広めるために旅をしています。こちらの徐庶さんとは、洛陽から同道してもらっています」

 

 特に目的はないと正直に言う一刀に、元直はこっそりと溜息を漏らし、村長は返答に困った。

 

 この国に生きるほとんどの人は、今日を生きるために日々仕事をしている。そんな中、明確な目的なく旅ができるのは、掃いて捨てるほど金を持っている富裕層か、出先でも金品を調達できる技術を持っているかのどちらかである。前者は金持ちのボンボン、後者は傭兵や悪い意味では盗賊などもこちらに分類される。

 

 一刀はボンボンでも通りそうな容姿をしているが、同行者は元直だけで他に護衛はいない。洛陽から同道したという彼女がいなければ、一人で旅をしていたのだろうか。正直、村長の目から見ても一刀は一人旅ができそうな程強そうには見えなかったが、見た目が強さに直結しないことは太史慈を見て思い知っている。

 

 人には人の事情があるのだと、元直の時と同じく深くは聞かないことにした。

 

「ところで、物は相談なのですが……」

 

 きたな、と元直は思った。顔には出さずに静かに白湯を啜っている。

 

「村に残って自警団を組織するのを手伝っていただけませんでしょうか」

 

 村長が口にしたのは、元直の予想通りのものだった。

 

 官軍が当てにできないのだから、自衛の手段を考えるのは当然のことである。おまけに旅人である一刀は元々村の労働力に含まれていない。悪い言い方をすれば、仮に戦い死んだとしても痛くもかゆくもない人間なのだ。多少良心は痛むだろうが、それだけである。まさに、危険な仕事を任せるにはうってつけの相手だった。

 

 無論、男一人の食い扶持が増えるのは決して軽い条件ではないが、日々の生活を維持するのと同時に、身の安全も守らなければならない。その助けになるのならば、男一人くらいは許容できる範囲だろう。

 

 さて、と元直は一人考えた。仕事を任されるのは良い経験になると思うが、知己のいないこの村で一人自警団の組織に関わるのは、何かあった時に危ない。

 

 一刀の身を案じた元直が出した結論は、決してこの話を受けてはいけない、というものだったが、

 

「俺で良ければ、喜んで」

 

 これも、一刀の良いところではあるのだろう。善性に従って行動できるのは、それはそれで素晴らしいことだ。行動を律することのできる、頭の切れる側近でも抱えるのが望ましい。話に聞く限り、荀家のお嬢さんなどは事を成すに辺り、一刀とかなり相性が良いと思えるのだが、ない物ねだりをしても仕方がない。

 

 せめて、できるだけの助言はしよう。とんとん拍子で話がまとまっていくのを横耳に聞きながら、元直は静かに白湯を飲み干した。

 

 

 

 

 

 

 




大分話が変更された結果、相手にする盗賊の規模も増えそうになってきました。
今回の編で稟ちゃんたちと合流、現状、シャンも同道する形で話を進めていますがまだ確定ではないのでご了承ください。

この話が終わったら連合軍編――ではなく、間に一つ挟むことになるかと思います。


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第008話 とある村での厄介事編②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 村長に頼まれて一刀が組織したのは、現代風に言えば町の青年団のようなもので、自警団と表現するのは些か物足りないものだった。団員はそのほとんどが農家であるので、全員が兼業団員である。農作業が終わった後、夕餉の前などに皆で集まり訓練をする。日々の労働が二時間くらい増える形になるが、団員は誰一人として文句を言うことはなかった。

 

 団員は下は十代の前半から、上は四十の後半まで幅広い年齢層で構成されている。人数は三十二人。人口二百人に満たない小さな村であることを考えると、戦力としては十分過ぎる程である。団長は一刀で、副団長は団員の推挙により子義が務めることになった。

 

 十二歳である子義は自警団の中でも最年少でかつ唯一の女性団員であるが、その実力は突出していた。たまたま村を訪れた旅の武芸者から手ほどきを受けただけらしいが、その武芸は堂に入っており、彼女一人とそれ以外という勝負が平然と成り立ってしまう程だった。

 

 個人では唯一、きちんとした戦闘訓練を受けたことがある一刀が何とか太刀打できたのだが、荀家の屋敷で受けた内容をそのまま子義に伝えると、彼女はあっという間にそれを吸収し、より手が付けられない程になってしまった。

 

 正直、子義が一人いれば自警団など必要ない気がする。初めて出会った日も、彼女は一人で大立ち回りをしていた。ただ敵を倒すだけであればあの日も加勢はいらなかっただろう。自警団が必要になるとすれば、単純な戦力ではなく頭数の勝負になる時くらいである。子義で倒せない敵がやってきたら、そもそも他の団員がいてもどうにもならない。

 

 そういう実力差は、事実として団員たちも理解していた。子義が強いということは、一刀などよりも同じ村で暮らしてきた面々の方が良く理解できている。それでも、自警団を組織するという村長の言葉に皆が手を挙げたのは

男としての、大人としての意地があったからだ。

 

 そういう意地っ張りは、一刀も嫌いではない。意地と根性で訓練をする男たちは日に日に強くなり、二か月の後、同じように襲撃してきた盗賊十人を何なく撃退した。後はこつこつ経験を積んでいけば、村を守るくらいならば十分にこなせるようになるだろう。

 

 ここまで来ればお役御免である。そろそろお暇するタイミングを計ろうかと思っていた矢先、一刀にとって最悪な事件が起きた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今、何と仰いました?」

「だから、五百だよ!! 確かに俺は伝えたからな!!」

 

 馬でやってきた旅装束の男は、それだけを伝えると村を出ていった。盗賊がやってくる。その数は五百。にわかには信じがたい話だが、事実だとすれば大問題だ。村の自警団ではどう考えても迎え撃つことはできない。一刻も早く村人全員で避難するべきだと訴えるため、一刀は村長の家まで飛んで行った。

 

 何しろ緊急性の高い話である。それはすぐに村中に伝わり小さな村は大騒ぎとなったが、村人たちが出した結論は一刀の予想とは大きく異なるものだった。

 

「村に残る、というものが半分を越えました……」

 

 一刀は一瞬、村長の言葉が理解できなかった。自分たちを殺すものがやってくるという。それなのに逃げないというのは、死にたいとしか思えない。命は一つしかないのだ。それは現代でもこの世界でも変わることはない。命あっての物種だと一刀はさらに強く訴えたが、村長の返事は力ないものだった。

 

「逃げても、先がないのです」

 

 持ち出せる蓄えは少なく、この人数の人間を養える場所などない。また逃げても、盗賊は追いついてくるだろう。ならば生まれ育った場所で死にたいと考える人間が多く、村長でもそれを翻意させることができなかった。一刀にもその気持ちは解らないでもなかったが、まだ生きる道が残されているのに死に場所を選ぶというところには共感することができなかった。

 

 とは言え、長年村民と一緒に過ごしてきた村長が翻意させることができなかったのだ。新参者である一刀にそれを覆す言葉などあるはずもない。当面の説得を諦めた一刀はくれぐれも短気を起こさないようにと強い伝言を残して、村長の家を飛び出した。

 

 当面、自殺などしないように、と村中に使いを走らせた一刀は、村の入り口で一人途方に暮れた。

 

 本来村を守るべき自警団の中ですら意見が割れている。村に残る面々は徹底抗戦をする構えであるが、ただ死ぬよりは戦って死ぬという後ろ向きな考えでいる。村から離れる決断をした面々は既に旅支度を始めていた。何が何でも生き残る、という決断をした連中は行動まで早い。

 

 副団長である子義は一刀に追従する形で村から離れる方に付いているが、本音を言えば賊と戦いたいのだろう。事実、子義の実力であれば五百人くらい……と思わせる何かを持っているが、天性の才能にこそ恵まれているがそれはまだ完全に開花しきっていない。

 

 せめて後一年後であればまだ違ったのだろうが、普段の訓練の力量からみても殺せても精々二百人。それも相手が一人か二人ずつ、連携せずに行儀よくかかってきた場合の話だ。五百人は明らかに多すぎる。

 

 とにもかくにも、やってくる盗賊を撃退する手段が、一刀にはまるでなかった。生きることを半ば諦めたとは言えお世話になった人達だ。何とか助けてあげたいというのが偽らざる一刀の本音である。

 

 しかし、数で圧倒的に劣り、かつ無策ではどうにもならない。子義と一緒でも最終的には殺されてしまうのがオチだろう。生まれ育った村で死ぬという意義が村人にはあるが、一刀にはそれがない。死ぬために戦いたくはないと考えるのは、人間として当然のこと。その焦りがまた一刀の思考を鈍らせていた。

 

 冷静に、落ち着いていれば一刀一人でもある程度は有効な作戦を考えることができただろう。希望的観測とは言えまだ盗賊がやってくるまでに時間はあるのだ。村で戦うにしても罠を作るなり、偽装工作をするなり、勝率を上げるための方法はいくらか思いついたはずであるが、焦った頭ではそれもない。

 

 もはやこれまでか、と焦燥感の中絶望する一刀の耳に、場違いに涼やかな声が届いた。

 

「お困りのようですね、お兄さん」

 

 顔を上げると、そこには西洋人形のような少女がいた。フリルのついた水色の服に、ふわふわで金色の長髪。頭の上に前衛的なデザインをした人形が乗ってさえいなければ、文句なしの美少女だ。童女と言っても差し支えない見た目をしているが、不思議と落ち着いた雰囲気がある。

 

 洛陽で出会った劉姫とはまた違う。おそらくは自分と同じか、少し年上だろうと一刀は直観した。勿論、出会ったことのない顔である。

 

「今日やってきた、旅の人です。私たちが外にいた時に、村にやってきたみたいで……」

 

 少女に同道してきた子義が、解説してくれる。金髪童女の他にも、二人の人間がいた。茶色の髪をひっつめてお団子にし、眼鏡をかけた目つきの鋭そうな美人と、ビキニに袖しかない服にスカートの斜め履きという、この世界で見た中では一番極まったデザインの服を来た、タレ目の少女だ。

 

 誰一人としてそんじょそこらの凡人ではなさそうな気配であるが、女性三人だ。この時勢にこの面子で旅をしている以上、荒事に巻き込まれても何とかするだけの腕っぷしが知恵があるのだろう。恰好からして戦闘担当はビキニの少女に違いないと一刀は思った。

 

 金髪童女が、石に座った一刀に目線を合わせるように腰を下ろす。眉毛まで金色だ。染物特有の嘘臭さがまるでない。吸い込まれそうな深い緑色の瞳である。

 

「話は聞かせていただきました。何でも盗賊が迫ってきていて大変だとか」

「失礼だけど、貴女たちは?」

「申し遅れました。私は旅の軍師で程立と申します。こっちはお友達の戯志才と、徐晃です」

 

 程立の紹介に、残りの二人は頭を下げた。戯志才と紹介された女性は、眼鏡の奥から鋭い視線を一刀に向けている。値踏みされているようで気分は良くないが、今は非常事態である。自分の身が危険にさらされるかもしれないと思えば、用心深く行動するのも理解できた。

 

 対して、徐晃と紹介された少女はいまいち焦点の定まっていない視線で一刀のことを見つめていた。こちらはこちらで落ち着かない。何となく、この中で一番強いのはこの徐晃だな、と一刀は感じ取っていた。子義とこの娘ならばあるいは、という期待も持ち上がるが、

 

「で、どうしてお兄さんはまだこんな所にいるんですか? 村の戦力では勝てないことは、解りきっていると思うんですがー」

「どうしてってそりゃあ……」

 

 まだ村を守るという役目を捨てきれないからだ。ここにいれば何か良い知恵が浮かぶのではと思ったが、何も浮かばない。元より、十倍以上の戦力に戦いを挑むというのが無茶な話である。程立の指摘は尤もだった。

 

「勝てない戦についてあれこれ考えるより、救える人を確実に救った方が良いと思いませんか? 降って沸いたような凶事で命を落とすなんて、今の時代にはよくあることです。むしろ、馴染み深い場所で覚悟の上で死ぬというのは、とても幸福なことではないでしょうか? 人にはできることとできないことがありますよ。お兄さんは力を尽くしました。気に病むことは――」

「そういうことじゃないんだよ!」

 

 その言葉は、自然と一刀の口をついて出ていた。今までの人生を振り返っても、女性を怒鳴るなど初めてのことである。怒鳴られた程立よりも怒鳴った一刀の方がその事実に驚いていたが、一度口から出た言葉は引っ込めることはできない。

 

 反射的に謝りそうになるのをどうにか堪えた一刀は、勢いそのままに言葉を続けた。

 

「俺は、俺に良くしてくれた人たちに、死に場所なんて選んでほしくないんだ。だって理不尽だろ、こんな死に方なんて……俺にできることなら、何でもするよ。軍師だというなら、俺に知恵を貸してくれ」

 

 吐き出せるだけ言葉を吐き出した時、一刀は地に膝をつき頭を下げていた。助けるためなら何でもする。その言葉に嘘偽りはない。そのためになら自分の軽い頭の一つや二つ、大したことではなかった。少なくともこの金髪童女は、自分などよりも遥かに頭が回る。足りない頭数をどうにかするための知恵を生み出す頭脳は、何としても必要なのだ。

 

「……シャンは、このお兄ちゃんに協力しても良いと思う」

「殿方にここまで言わせて見捨てたのでは、流石の私でも良心が痛みます」

「そーですね。いじめるのはこのくらいにしておきましょう。何しろ風も最初からお兄さんと同意見ですから」

「……最初から?」

「はい。善良な村人が困っているのに、助けない道理はありませんからねー」

「なら今のやり取りは必要なかったんじゃ……」

「村の人の話を聞いてみた限り大分信用されているみたいですけど、それと一緒に事に当たれるかは別の問題ですから。この非常時に文句を言うだけなら、お尻をけ飛ばしてでも他の村人と一緒にいてもらうつもりでいました。お兄さんは合格です」

 

 と、程立は自分が咥えていた飴を一刀の口の中に強引に突っ込んだ。チープな味が口の中に広がる。この国にきて初めてのケミカルな味に、一刀が目を白黒させている内に程立は振り返った。

 

 そこには、自警団員たちがいた。逃げることを主張した者も、残ることを主張した者も全員いる。元より、村を守るために立ち上がったのだ。今は村の危機。自警団が何もしない訳にはいかない。逃げると主張したのも、何も手はないと思ったからだ。

 

 その知恵を授けるのが胡散臭い旅の軍師とは言え、襲ってくる盗賊たちに立ち向かうための手段があるというなら、何もせずに諦める訳にはいかなかった。戦う。それを決めた面々を前に言葉はいらない。飴をばりぼりとかみ砕いた一刀は子義を伴って歩き、自警団員たちの前に立つ。

 

 一刀を含めて三十三人。変わらずに一割以下の戦力だが、各々の目には戦うという意思が満ちていた。そんな彼らを見て、風は満足そうに頷いた。

 

「そんな皆さんに、良いお報せです。五百人いるという盗賊さんたちですが……実はその半分もいません」

「……………………なんだって?」

「そして数が頼みの烏合の衆であることも解っています。問題なのは二十人弱の幹部くらいですねー」

 

 何とかしなければいけないのは自分たちと同じくらいの人数で、しかも周囲にいるのは烏合の衆である。これなら何とかなる気がしてきたが、その幹部を皆殺しにするには烏合の衆とは言え二百人以上の賊を突破しなければならない。依然として数の差は存在しているが、大分ハードルは下がっている。

 

 しかも今は策を考えてくれる軍師がいる。頼り過ぎるのもどうかと思うが、五百と正面からぶつかることに比べればどうということはない。

 

「ですので、お兄さんたちの当面のお仕事はその幹部を皆殺しにすることです。幹部のところまで行く手段はいくつか考えてますが、ここは一番成功する可能性の高い方法で行きましょう。お兄さん――」

 

 

 

「――お芝居の経験とかありますか?」

 

 



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第009話 とある村での厄介事編③

 

 

 

 この村に来る前、風たちは四人で旅をしていた。今いる三人と、星――『常山の昇龍』を称する趙雲を加えた四人である。遊学をしようと決めた風と稟は一路洛陽を目指し、そこにたまたま洛陽に立ち寄っていた星が加わって意気投合した。

 

 星は武人であるがそれなりに学があり、道中学問を教えてくれるのであれば、という条件で護衛を買って出てくれたのだ。最も年若いシャンとは、道中の村で出会った。仕官先を探しているが、右も左も解らないという彼女に、やはり学問を教えるという条件で同行することになった。

 

 星は飲み込みが良かったが、風や稟の目から見てシャンはそれ程でもなかった。とは言え、学ぶ意欲は素晴らしくゆっくりとした速度ではあっても、きちんと知識を吸収し、応用してみせるだけの知恵はあった。剛力無双にこの知恵である。将来は一角の人物になるだろう、というのはシャン以外の三人の共通する見解だった。

 

 四人での旅は、それはそれは楽しいものだったが、そう長くは続かなかった。

 

「生涯の主と思い定めるには聊か心許ないが、これほど放っておけないと思ったお人は初めてだ」

 

 故にしばらく客将として世話になると、星が幽州は公孫賛の元に残ることになり、四人は三人となった。

 

 公孫賛とは風も稟も話をした。確かに能力は高く、特に騎馬隊の指揮力に優れていたが、大業を成すような大人物には見えなかった。だからこそ、星も生涯の主と定めた訳ではないと態々言い残したのだろう。

 

 それでも星が残ると決めたのは、大業を成すような器ではないけれど、どうにも放っておけない雰囲気があったからだ。あれは明らかにいらない苦労を背負い込んで、色々な面で苦労する性質である。風も自分に武力があれば残ると言っていたかもしれない。これも人徳と言えるのだろう。星が残ると決めた時、公孫賛は涙を流して喜んでいたのを良く覚えている。

 

 さて、黄巾賊との決戦が冀州で行われるという見通しを立てた風たちは、それを避けるようにして帝国を左周りで旅をしてきた。いつか使う時が来るだろうと、情報を収集しながらである。女三人の旅だ。情報を吐き出してくれる人間はそう多くはなかったが、腕っぷしの強い人間が一人二人いると、役人や商人の口も軽くなる。

 

 風も稟も知力で人に遅れを取るつもりはなかったが、乱世ではやはり力が物を言った。シャンの背格好を見て誰もが最初は不安を抱くのだが、彼女が自分の得物である大斧を振り回して見せると、途端に態度を軟化させるのだ。誰だって命は惜しい。力ある武人に対して知識人よりも敬意を払うのは、ある意味当然と言えた。

 

 方々で、シャンの腕は高く評価された。シャンくらいの腕であれば、どこでも高い給料で雇ってくれるだろう。年齢を考えれば仕官していないというのも納得はできるが、それも時間の問題だ。是非我が家に。という勧誘をしかし、シャンは断り続けた。

 

 星が大器を求めて旅をしていたように、シャンにも拘りがあったのだ。いくら話を聞いても要領を得なかったが、簡単に言えば彼女は相性の良い相手を選びたいのだということだ。

 

 器の大小はあまり重要ではない。会ってみて、話してみて、触れて見て、感じてみて『この人は心の底から信用できる』と思ったなら、生涯その人に仕えようという気でいるらしい。全ての話を断ったのは、彼ら彼女らがそういう気分にさせてくれなかったからだ。

 

「できれば男の人が良いなー」

 

 とシャンが口にした希望は、剛力無双の武人としては聊か乙女めいていた。年齢を考えればそれも無理からぬことではある。大斧を振る才に恵まれなければ、普通の少女としてシャンも暮らしていたはずだ。その才能が選択肢を広げると同時に、狭めてもいる。

 

 大抵の人間はシャンの才能を見て、それを活かすことを勧めるだろう。それと普通の少女としての幸せが両立しないとは言わないが、今が乱世であることを考えると、彼女ほどの才能だ。おちおち恋もできないだろう。主が素敵な男性であれば、その問題が一気に解決する。

 

 武勲を挙げて名前を売り、ご主人様に見初められて寿退官する。血なまぐさい前半部分を除けば、都市部の少女に好まれそうな、少女の成功譚そのものである。

 

 年若いシャンですら、最終的には家庭に入ることを考えている。女性としてはそれが正しいのかもしれない、と思うと何だか自分が打算のみで動いている汚れた人間のような気がして、風も稟も気分が滅入った。あくまで主は感性で選ぶ、というシャンに風と稟は羨望に近い気持ちを覚えていた。

 

 二人も主たる人間を選ぶに感性に依るところがないとは言わないが、シャンに比べるとその選考基準は打算的であると言わざるを得なかった。風たちが求めているのは、最終的に勝利する船だ。どれだけ相性が良くとも、途中で沈んでしまうのでは話にならない。

 

 後は、できれば名家の生まれでないことが望ましい。例えば曹操や孫堅など、既に大人物であると風評のある者は世に散見されるが、そういう人物はえてして、親類の発言力が強い。彼女らがいかに有能であっても、親類とは自分の後援者であり、同士である。例えその提案が間違っていると頭では解っていても、無視をできない時が来るかもしれない。名家の生まれでなければ、そういう柵は一切考えなくても良いのだ。

 

 もっとも、勝馬であるという事実に比べればこちらの方はあまり重要ではなく、あくまで好ましいという程度だ。どれだけ才覚があっても、それを活かす下地がなければ埋もれてしまう。風も稟も神ではない。いかに大器であっても、埋もれたままでは発見することはできないのだ。地に埋もれた大器と比べれば、多少窮屈な中器であっても満足するより他はない。

 

 三人で話し合った結果、現状、もっとも仕えても良い人間というのは曹操だった。中器というには大器過ぎるが、苛烈であっても公正で、卑しい身分の人間は重く用いないとして知られる袁紹と比べると、比較的広く人材を登用している。何より、高い才能を愛する人ということで有名だ。

 

 広く人材を集める、という点では孫堅も似たようなものであるが、あちらは既に上層部の体制が固まりきっていた。古参の武将が多く残っており、武官も文官も既に派閥が出来上がっている。側聞するに、文官筆頭は既に周瑜に代替わりしており、しばらく世代交代は見込めない。その周囲も縁の深い一族を中心に登用が進んでいる。

 

 これで盆暗ばかりというのであればまだ良かったのだが、文武両道を絵に描いたような孫呉上層部は、例え文官であっても、一通りの武を修めていると聞いている。筆頭である周瑜も鞭の名手であり、それに続く陸遜も三節棍を使うという。知一辺倒という人間には、聊か住みにくい集団なのだ。

 

 一緒に旅をしている間、星は色々と手ほどきをしてくれた。それほど運動神経の悪くなかった稟は、それなりに形になったのだが、背が小さく、また膂力にも恵まれなかった風は少し剣に触っただけで諦めてしまった。文の部分では誰にも負けなくても、武の部分では話にならない。

 

 無論のこと、孫堅も武がからっきしであるからという理由で、文官の登用を渋ったりはしないはずだ。文武両道というのはあくまで理想論であり、文官の本領は頭を使うことである。運動ができないからと言ってデキる文官の登用を渋っていては、国は立ちいかなくなる。孫堅もそれは解っているだろう。

 

 仕官を希望すれば風もきっと採用されるのだろうが、あくまで理想と言っても、それが理想として掲げられていることに違いはなかった。自分には向いてませんから、と言って全く歯牙にもかけないのでは角も立つ。まして自分たちは外様であり、周瑜や陸遜は一定の武を修めている。肩身の狭い思いをするならばと、どちらかと言えば曹操に、と軍配が上がっている訳である。

 

 流浪の軍師を気取るのもそろそろ限界だ。各地で残党が暴れているものの、黄巾の乱は一応の終息を見せた。少しばかり平和な時間が続くが、大きな戦が起こるのは時間の問題だろう。目下の問題が片付いたことで、権力争いが本格化している。

 

 遅れれば遅れるほど、売り込みは面倒臭くなる。そろそろどこかに仕官した方が良い。このまま曹操の本拠地まで旅をし、それまでに有力な候補がいなければ曹操に仕官する。三人でそう取り決めて、一路東進。

 

 その間に、一つおかしな盗賊団を見つけた。

 

 規模は五百人と言われているが、官軍と交戦した記録はない。襲撃した村は全て焼き払われていたが、その徹底っぷりに比べると死傷者は驚く程に少なかった。何でも、これから盗賊が来るぞ、という先触れが来たらしい。それが一つや二つであれば、良い人もいるものだ、という話で済むのだが、その盗賊団が襲撃した村は十を超え、その全ての村の生存者が、先ぶれが来たと証言していた。

 

 容姿も共通している。馬に乗った旅装束の男で、盗賊団が来る。それは五百人くらいだ、という情報を残すと馬で去っていくという。これ程怪しい存在もないが、これは違う村の証言を紐付けて初めて理解できたことだ。官軍であれば、ここまで詳細な調査はしなかっただろう。つまりは生存者同士が情報の交換でもしなければ、永遠に表に出てこなかった情報だが、誰も気づいていない情報というのは、使う人間が使えばそれなりに価値があるものだ。

 

 そして実際に襲われた村を見分して更に盗賊団の情報を収集した結果、先ぶれの男が言っていた五百人というのは相当なフカシであることも解った。始末されていた竈や便所の跡から類推するに、実数はおよそ半分ほど。二百から二百五十の間と言ったところだろう。

 

 先ぶれの男も盗賊団の一味だろう。先ぶれが行くことで村人は逃げる人間、残る人間に振り分けられる。残った人間はそれこそ死にもの狂いで戦うだろうが、村から逃げる人間がいる分、盗賊団の取り分は少なくなる。それを理解していて尚、先ぶれ作戦を取り続けたということは、取り分が少なくなることよりも、戦う相手を少なくすることを優先した結果である。

 

 二百人からの無頼の輩がいて、ただの村人を警戒している。農村部とは言え、従軍経験者がいることもあるだろう。一般人とて油断できる相手ではないのがこの時代の常であるが、用心深いというよりは臆病、というのが風と稟の共通見解だった。

 

 臆病で、戦闘能力に自信がない二百人からなる盗賊の集団。これならシャン一人でも、皆殺しにできると戦闘担当の少女は自信を持って断言した。

 

 盗賊団一つである。名前が売れる訳でも金になる訳でもないが、既に大きな被害が出ている以上、これを見過ごすのも道理に反する。できることならば何とかしようと心に決めて動きを予測し、次に襲われる村に当たりを付けて先回りして見ると、その村には自警団があった。

 

 自分の村を自分で守ろうという取り組みは珍しいものではない。従軍経験者がいれば、隊伍を組んで組織的な動きをする、というのもできなくはない。村人たちも命がかかっているから熱心に仕事をするだろうし、戦闘技術も学ぶだろう。

 

 村によって練度の差が激しいものだが、居並んだ団員の動きはそれなりに洗練されていた。この周辺に限定すれば、人数も練度も最良と言える。

 

 その指揮をしていたのは、北郷一刀という若い男だった。年齢は風や稟よりも少し下。農村ではなく都市部にいそうな男で、商家の次男か三男というのがしっくりくる優男である。それなりに洗練された服を着ていれば、さぞかし都のご婦人がたには人気が出るだろうが、今は農村らしく簡素な防具で武装していた。

 

 見た目の印象がそんなものだから、強そうには見えない。この男性が自警団の代表というと守られる側としては不安なのではと思うが、合流するまでに聞いた限りでは、彼の評判は悪くない。

 

 元々が旅人で、この村に来て三か月程であるという。給金などもちろん出ていないが、彼は毎日よく働き、村の男衆を調練したという。村を囲む柵も、いざという時の避難計画も、夜間の見回りも、全て彼が一人で構築したものだ。

 

 見た目以上に、優秀な男なのだろう。ここまでタダで尽力されると、何か裏があるのではと疑ってしまうが、顔を見た限りは、腹芸のできそうなタイプではない。これは風の直感であるが、この男は見た目通りの良い人だ。

 

 それなりに優秀であること、良い人であるということは解った。この男ならば勝算を示せば喜んで村の防衛に協力してくれるだろう。シャンが一番仕事をするとは言え、命をかけて戦うことになる。死傷者がゼロという訳にはいかない。風が聞きたかったのは、自分と、そして何より仲間が死ぬ危険を理解した上で参加できるかということだった。

 

 迂遠な言い回しでそれを試すと、男は声を挙げて反抗し手を突いて頭を下げた。村を助けるために力を貸してほしいと、彼はそう言っている。その頃には、自警団も全員集まっていた。盗賊との闘いに勝算があるとは匂わせておいた。ここまでは予定調和である。

 

 彼らの力量を再計算して、風は作戦を立て直した。元々は、盗賊団を強襲。周囲を自警団で固めて逃走経路を封じ、夜間にシャンを投入して皆殺しにする計画だった。作戦と呼ぶのもおこがましい雑な計画であるが、ある程度の取りこぼしを許容するのであれば、これが一番死傷者が少ない作戦である。

 

 シャン一人に犠牲を強いているようなものであるが、シャンの実力であればそう大怪我をするものではないし、何よりシャンが積極的にその作戦を採用するように働きかけた。自分一人でやるのが最も成功率が高いと、理解しているのだ。実力が離れすぎていると、仲間というのは邪魔でしかない。

 

 だが、この男だ。一刀は自分を自警団の一員、ただの戦力と考えているようだが、それは勿体ないことだった。風たちだけでは実行できず、村人全員の力を借りても無理だった作戦が、彼一人いるだけで実行が可能になる。後はどれだけ、一刀が作戦を理解し実行してくれるかだ。

 

 胸が高鳴る。一刀は地に手を突いて頭を下げ、知恵を貸してと願った。量られているのは、自分たちの器だ。どれだけ命を救い、この村と、人々と、その生活を守れるかで、風たちの器量が判断されるのだ。

 

 見栄など張る性質ではないと思っていた。しかし、この男に軽く見られたくないと思っている自分がいる。命のかかった状況だ。不謹慎ではあるが、知略を尽くし、物事に当たるこの時間が久しぶりに楽しい。

 

「お兄さん、お芝居の経験とかありますか?」

 

 風の問いに、一刀は目を白黒とさせた。意表を突けた。その事実に、風は笑みを深くした。

 

 

 

 

 

 




風たちのパート。彼女らは彼女らで仕事をしていたのでした。
次回、盗賊団との戦闘パートです。


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第010話 とある村での厄介事編④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでは、お兄さんに問題です。盗賊のお頭というのは、一体何人いるものでしょうか」

「一体何の話だ?」

「大事な話ですから、きちんと考えてください。風は稟ちゃんたちと旅をしている間に、この国で起こった賊の規模、構成、官軍あるいは民兵に討伐されたならそれに費やされた人員、費用、時間、その他諸々を調べました。その結果によれば、盗賊のお頭は概ね一人ですね。共同代表を設けているところも三つほどありましたが、例外なく内紛が起こって殺し合いになりました」

 

 いやー、怖いですねーと全く怖がっていない様子で、程立は飴を舐めている。準備している間、作戦を頭に叩き込んでほしいと、子義と一緒に呼び出されての話である。その場に戯志才と徐晃も同席していた。徐晃は実働部隊として、一刀に同行することになっている。

 

 程立と同様に、何を考えているのかよく解らない少女の瞳は、何やらじ~っと一刀のことを見つめ続けていた。視線を返すと、首をこてんと傾げてみせる。嫌われている訳ではないことは解るが、同時に意味も解らない。年頃の少女は難しいのだという現代の常識は、この世界でも当てはまるようだった。

 

 こうなると竹を割ったような性格である子義の存在が頼もしい。今も忠犬とは私のこと、と言わんばかりに一刀の傍に控えている。ちらと視線を向けると、太陽のような笑顔を返してきた。随分とこの笑顔に助けられた気もする……と感慨深く溜息を吐く一刀だったが、今は作戦のことだ。

 

「同格の奴を沢山作って、話し合いで決めるって賊はなかったのか?」

「そういう都の若手官僚のような方法を好む人間は、間違いなく賊にはなりませんねー。話を戻します。では、副団長さんは何人でしょう?」

「一人……じゃないのか?」

 

 自警団でも、副団長は子義が一人である。複数設ける案もあり実際にそうしたのだが、最終的には一人で落ち着いた。序列はできる限り明確にしておいた方が良い、というのがその理由である。

 

「調べた限りでは一人が多かったですけど、序列を設けて二人、三人置くところも結構ありました。『何か』あった時、次に誰の命令を聞けば良いのか明確にしてるんですね。従軍経験者が上の方にいたんじゃないかと、風は考えています。更に質問です――と、お兄さん。計算はどの程度できますか?」

「一通りは。大丈夫。大体の計算は問題なくできるよ」

「優秀ですねー。それで質問ですが『幹部』――集団の意思決定にある程度関与できる人は盗賊団の内何割くらいを占めると思いますか?」

 

 程立の問いに、一刀は自警団に合わせてそれを考えてみた。自警団は一刀を含めて三十三人で、幹部、と言うか役職があるのは団長である一刀、副団長である子義、それから約十人ごとに部隊を分けた時に、それを指揮する人間が三人である。

 

 従軍経験者が務めるこれは便宜上十人隊長と呼ばれている。この三人に一刀たち二人を加えた五人が、自警団における役職持ちである。残りは全員同列だ。三十三人の内の五人。計算し、キリの良い数字にするとして……

 

「…………一割五分ってところじゃないかな」

「自警団に当てはめて考えましたね? 一応、正解と言っても良いでしょう。ですが、少人数と多数の集団では事情が聊か異なります。仮に二百五十人の賊がいるとして、その中で団の意思決定に関与できることを幹部の条件とするなら、それを満たすのは二十人にも満たないんじゃないかと思います。後はそれぞれが子飼いの人間を抱えて、末端までを支配する。盗賊は概ねそういう構図です」

「それで、その幹部がどうかしたのか?」

「はい。この幹部とそれに追従する者を殺すことで、盗賊団全体を機能不全にする。風の作戦目標はそこにあります」

 

 程立の立てた作戦は一言で言うなら、なりすましの連打だった。

 

 まず、一刀が盗賊の同業者となって内部に入り込む。一刀の身分は洛陽を拠点にしている人買いの一味で、あの村には品定めのために潜入していた。女子供を攫って男と年寄りは殺す。そういう算段だったのに、お前らのせいで半分以上が逃げ出してしまった。責任取れと文句を言いに行く、というのが初期段階の筋書きである。

 

「悪党のくせに何て言い草だってのが正直な感想なんだけど、こういう業界ではそういう言い分に正当性があるものなのかな」

「あらかじめ取り決めがあったのならともかく、そうでないなら早い者勝ちだと思いますよ。まぁ、実際はどうあれ盗賊の皆さんは都市部の犯罪組織の事情なんて知りませんから、言ったもの勝ちですね」

 

 そこから妥協案を探すということで、商談に持っていくのが第二段階だ。

 

 一人も確保できないのでは商売にならないから、お前たちに業務を委託する。殺さずに生け捕りにしてくれれば一人につきこれだけ払おう。ついては、これが頭金である。最低、これに相当する人数は確保してもらいたい。

 

 そこで使用する銀は程立たちと、一刀の持ち出しである。尤も、一刀を含めた四人分の財布を全てひっくり返しても、演出のために必要な小袋一杯の銀を用意することはできなかったため、鉄や銅のクズを使っての代用である。とりあえず袋を開けた瞬間だけ、誤魔化すことができれば良いのだが、一刀にはまたも疑問が残る。

 

「俺たち人買いは、どうして自分たちで何とかしないで誰とも知らない盗賊に業務を委託するのかな」

「馬車数台に分乗した捕獲用の精鋭部隊の到着が、村に先ぶれが来てから四日後だからです。その数は四十。精鋭ということは念押ししてくださいね。シャンの力を見せつけてあげると良いでしょう。精鋭が皆これくらいと思ってくれれば、上出来です。奇しくも、村人たちと同じくらいの猶予が盗賊団に与えられる訳ですね。選択肢も同じ、戦うか逃げるか。あちらにも同じことを考えてもらいましょう」

 

 十中八九、盗賊団は戦わない方を選択するだろう。生け捕りにする手間は増えるが、同じ仕事をするだけで余計な手間賃まで貰えるのだ。相手が要求しているのは人だけで、その他一切は含まれない。若干危険は増すが収入が、それも銀と言う現物資産で増えるのだ。盗賊ならばこれに乗らない手はない。

 

「で、ここからが大事なんですが、頭金はできるだけ偉い人に手渡ししてください。お金を確認しているその時が、行動開始の合図です。狙いは幹部と追従する者のみ。それ以外は放っておいて構いません。とにかく、幹部だけは絶対に皆殺しにしてください」

「幹部皆殺しは確定なんだな」

「この盗賊団を無力化して、今後あの村に手を出さないようにする必要がありますからね。音頭を取れる人間を生かしておくことはできません。他に妙案があるなら、伺いますがー」

「いや、別にないよ」

 

 目的達成のために殺してしまう、という発想そのものに思うところがないではなかったが、村に残って戦ったとして、首尾よく盗賊団を撃退できたとしても、そこに人死は発生する。盗賊は死ぬし、自警団も死ぬし、村人も死ぬ。

 

 だが、この作戦は成功すれば、少なくとも村人は死なない。優先順位の問題なのだ。村人を死なせないことを最優先にするのならば、村で自警団で迎え撃つよりもずっと、程立の立てた作戦の方が優れている。味方の安全を犠牲にしてまで、こちらを攻撃してくる敵に払う配慮はないのである。

 

「ところで、この村には他にもいかつい顔は何人かいるけど、どうして俺が人買いの役なんだ?」

 

 農村部だけあって、普段の農作業で鍛えられた男衆の肉体は細く締まっていて無駄な贅肉など一片もない。日に焼けたマッチョと細マッチョで団員は占められており、その中に一刀が加わるとどうしても肌の白さと筋肉のなさが目立つ。

 

 率直に言うなら相対的に弱そうに見えるのだ。犯罪組織の人間という役割を演ずるなら、もっと強そうに見える人間は何人もいる。別に怖気づいたとか仕事を押し付けたいと思っている訳ではないのだが、およそ見た目に関することについては、何かと自虐的になる一刀だった。

 

 そんな一刀の内心を知ってか知らずか、程立は薄い笑みを浮かべてその問いに答えた。

 

「裏稼業とは言え商人の役ですからね。読み書き計算は必須です。そして何より、お兄さんは誰がどう見ても都市部生まれの都市部育ちで、この辺りの住民ではありません。村の人は一応、全員面通しをしましたが、やっぱりお兄さんがこの役柄に最適です」

 

 程立の物言いは『こじゃれた都会者』と好意的に解釈することもできたが、一刀には『お前は青瓢箪だ』と言われているように聞こえた。人知れず地味に傷ついた一刀は、救いを求めるように子義を見た。

 

「なぁ、子義。俺はそんなに弱そうに見えるかな」

「村の女衆は都会っぽくて素敵って言ってるよ。私も同じ意見かな」

 

 団長かっこいー、と軽い言葉で締めてくれた子義のおかげで気分もいくらか回復したが、一刀はもう少し気合を入れて訓練をしようと心に決めた。

 

「肝心なことを聞いてなかった。幹部が殺されてる時、他の連中が襲い掛かってきたらどうするんだ? まさか全員、逃げずにその場でじっとしてるとでも言うのか?」

「じっとさせてください。お兄さんは人買いではなく、実は官軍の先遣隊です。精鋭の部下が既に包囲しているので、抵抗は無駄。逃げず、そして抵抗さえしなければ雑兵の命は取らないと、全員に聞こえるように宣言してください。自分が助かるためなら、人は喜んで他人を見捨てます。盗賊さんなら尚更です。まぁ、それでも逃げる人はいるでしょうけど、その時は風と稟ちゃんが何とかします。いやー、自警団の指揮権を貸してくれて助かりました。これで風も作戦立案以外で貢献できます」

「村が守れるって結果が大事なんだ。誰が指揮をしてるかってのは、あまり関係がないと思うよ」

「お兄さんが調練していてこそですよ。お兄さんの命令だから、怪しい旅の軍師にも、あの人たちは喜んで従ってくれるんです」

 

 程立のまっすぐな発言がこそばゆい。掴みどころのない、ふわふわとした少女だが頭の冴えが凄まじいものだった。軍師というのはこんなのばかりなのだろうか。洛陽から同道してくれた元直も、世話になった荀彧も、知らないこと、理解できないものはないとばかりに、すらすらと物に応えていく。真に知識を理解し、それを応用して物事を解決するとは、こういうことなのだと、感心せずにはいられない。

 

「さて、第一、第二、第三段階。作戦についてはこんなところです。後は現地に着くまでの間に、細かい演技指導をしましょう。お兄さんの働きにこの村の行く末がかかっています。気を引き締めて、事に当たってください」

「……あぁ。質問ばかりで申し訳ない。俺の提案に乗ってくれることが作戦の大前提になってる訳だけど、もし、奴らが乗って来なかったらどういう作戦で行くんだ」

「その時は作戦なんて必要ありません。幹部だけ狙って殺すのが、盗賊団皆殺しになるだけです。二百人くらいならシャンが何とかしてくれるはずですから、お兄さんは生き残ることを優先してください」

「大丈夫。団長のことは私が守るから!」

 

 完全武装した子義が、目をきらきらさせながら言ってくる。戦を前に大興奮しているらしい。いつも一刀の周辺をちょろちょろとしている彼女だが、今日はいつになくひっついて離れない。実際、子義が近くにいてくれるのならば頼もしい。徐晃とも手合わせをした。流石に及ばないまでも、風や稟を驚かせるくらいの動きを子義はしてみせた。いずれ同格になるだろう、というのが徐晃の見立てである。

 

 改めて、一刀は子義を見た。地方の村で終わらせて良いような人材ではない。大舞台に立てば、子義は一角の人物になれるだろう。幸い、自分に懐いてくれている。村を出て例えば、名を挙げるために戦うと言ったら、この娘は付いてきてくれるだろうか。

 

 それでなくとも、旅の助けになってくれるだけでも、とても嬉しい。実際、この小さな妹分のことが一刀は好きになりかけていた。男女のそれではもちろんないが、この娘と一緒に旅が出来たら楽しいだろうな、と夢想するのである。

 

「妄想にふけっているところ申し訳ありませんがー」

 

 下から、にゅ、と程立が顔を出してくる。美少女のドアップに思わず一刀は後退った。一刀のつま先に乗って背伸びして、それでも小柄な程立とは視線が合わないが、頭の上に乗った模型が顔に当たっている。地味に痛い。

 

「皆殺しの気配を感じたら、予定を変えて風と稟ちゃんも突撃の指示を出しますから安心してください。皆で一緒に戦いましょう」

「程立も戦うのか?」

「風は稟ちゃんと違ってか弱いので応援だけです」

「…………心強いよ、ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




戦闘パートと言いましたが実は嘘でした。
次から本当に戦闘パートに入ります。


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第011話 とある村での厄介事編⑤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 村人たちの情報から、盗賊たちが夜営をしている場所は判っていた。先ぶれが『襲われた』と証言した村の方角と村を行き来するには、普通に歩いて二日かかる。その大体中間くらいの位置に丘があり、そこに古い漁師小屋があるのだ。馬を使って一日で踏破するのでなければ、そこで夜を過ごすのが普通である。

 

 盗賊団に馬がいないという保証はないが、二百人全員が騎馬ということはまずないだろう。官民問わず、行軍速度は足の遅い兵に合わせて遅くなる。歩兵の方が多いのであれば、行軍速度は軽装の旅人とそう変わるものではないはずだ。

 

 盗賊団がやってくるのは先ぶれの情報では二日後の夜ということだったが、程立の分析からさらに一日猶予があると判断された。

 

 理由は簡単である。彼らはできる限り、村人の数を減らしたい。村人の避難のための時間は、できるだけ長い方が良いが、長すぎてもいけない。二日猶予があれば着の身着のまま逃げるには十分だが、安全のために更に一日余裕を持たせる、ということである。

 

 臆病にも程がある話だが、対応する側の一刀たちには朗報だった。ではその浮いた分の一日を盗賊はどうするかということであるが……これは中間地点の猟師小屋で時間を潰すより他はない。回り道をするには人目につく。不必要に目立つようでは犯罪者失格だ。

 

 何より村を襲うのにここまで臆病になる盗賊である。時間を潰して安全を買えるなら、喜んでそうするだろう。斥候を出している可能性は程立でも否定できなかったが、最初から一つの村が標的になっている以上、多くの斥候を出す必要はない。程立は出していないと踏んでいるが、出ていたとしても二、三人としている。

 

 つまりは、およそ二百五十人という盗賊が、この丘に大集合している訳だ。やらなければならないと解っているが、あまりの数の多さに今さら身震いする一刀である。

 

 既に程立と戯志才は、半分に分けた自警団を率いて指定の場所に到着しているはずである。村人の記憶を頼りに丘の詳細な見取り図を作成し、そこから小屋で戦闘が起こった際、どのルートを使って逃げてくる可能性が高いか割り出し、そこを塞いでもらっている。打ち漏らしは彼女らに任せるより他はない。

 

「さて、上手く行くかな……」

「何かあってもシャンがどうにかするから、安心して」

「私も頑張っちゃうから!」

 

 人買い風に身なりを整えた一刀の周囲には、子義と徐晃のみがいる。二人とも武器らしい武器はもっておらず、完全な――実は完全ではないのだが――無手である。盗賊団に警戒を抱かせないためであるが、これも一刀が不安を消せない原因となっていた。武装した敵の本拠地に乗りこむのに武器がないのだから無理もない。子義も徐晃も一騎当千の猛者であることは理解しているが、身を守る手段がないというのは心細いものである。

 

 こうなると、緊張している様子のない二人のことが、羨ましくなる一刀だった。弱者と強者、その差だろうかとも考える。確かにこれだけ強ければ、殺されるかもという恐怖は少なくて済むだろう。一刀が見る世界よりも子義が見た世界の方が、見ているものが同じだとしても、安全に見えるのは道理である。

 

 今回も子義一人であれば、盗賊を殺すという目的のみに絞った場合、実のところ大した問題ではない。村と村人を守らなければならないという条件がついているからこそ、彼女には難しい問題となってしまっているだけだ。何度でも、どれだけ時間をかけて挑戦しても良いなら、子義にとって盗賊二百人というのは物の数ではない。

 

 自分にそういう力はないが、それが近くにあるというのは一刀の心を落ち着かせた。少女二人が、自分を守ってくれるという。実力は彼女らに遥かに及ばないが、例えどれだけ実力差があっても、一刀は男で子義と徐晃は少女だ。年下の女の子の前で恰好悪いマネはできない。それは男として当然の矜持だった。

 

 両頬をばしん、と叩いて気合を入れる。ここから先は、北郷一刀一世一代の大芝居だ。

 

「止まれ」

 

 丘の麓。猟師小屋まで、一本道が続いている。その道以外には木々が生い茂っており、夜間の踏破には向かない。きちんとした道があるのはここと、この反対側の二つのみ。こちらに守衛は二人。反対側にも、おそらく同じだけの人数がいることだろう。

 

 そちらが主要の逃走経路の一つである。程立の部隊が今頃は近くに到着しているはずだが、今は目の前のことだ。守衛の目は、不審に満ちている。村から離れた何もないところに、男一人に少女が二人。状況に合わないこの組み合わせは、守衛たちの目には恐ろしく奇異に見えた。既に、警戒度はかなりのものである。一刀から見て遠い方の一人は、腰の剣に手をかけていた。

 

 ここで戦闘になったら、全てが終わる。窮地の時こそ、不敵に笑ってください。程立の最後のアドバイスを思い出した一刀は、不遜な笑みを浮かべる。

 

 そしてそれが、守衛二人からいきなり騒ぎを起こす、という選択肢を排除させた。得体が知れない。そう思わせることができた時点で、ある意味、一刀の勝利である。

 

「何の用だ」

「お前らの同業者だよ。代表と話がしたい」

 

 なるべく威圧的に、と程立から演技指導を受けていたが、それがどこまで実行できているかは怪しかった。流し見した不良映画のイメージであるが、守衛二人の反応を見るに、そう的外れな振る舞いでもないのだろう。深夜に同業者の来訪。守衛二人の不信は更に増していく。

 

 これから村を襲撃する予定がある。そこに外部から同業者を名乗る人間が来たのだ。罠であればもちろん問題であるが、話が本当だったとしても彼らにとっては寝耳に水である。立場によって差はあるが、とにもかくにも、盗賊の取り分というのは頭数が増えるほどに少なくなる。守衛二人としてはこのまま回れ右をして、どこかに消えてほしかったが、代表と話がしたいと言っている以上、完全に無視する訳にもいかない。

 

 この連中を通して良いものか。一刀たちを観察する守衛たちの目が、子義と徐晃に向いた。如何にも女、という風ではない。簡素な恰好をしており一目みた限りでは田舎の村娘という風である。色気はないが、それでも少女ということは解った。

 

 ここが都市部であれば、それでも情婦というのが一番しっくりくる解答だろう。だがこの状況である。深夜にやってきた如何にも怪しい男が、両脇を固めるように連れている。それの意味するところはつまり――

 

「俺の女で、護衛だ。腕は立つ」

 

 やれ、と徐晃に短く指示を出すと、彼女はすたすた歩いて、手近にあった岩に拳を思い切り叩きつけた。砲弾が直撃したような轟音が辺りに響く。徐晃が何でもないような顔をしてその場を退くと、岩は真っ二つに割れていた。守衛二人の口が驚きでかくん、と落ちる。護衛ならば強いだろう。その程度に考えていた二人に、年若い少女が素手で岩を割って見せる、あまりに衝撃だった。加えて、

 

「これで不服なら、そっちの奴の頭を割るが」

 

 次はお前だ、という直接的な脅しである。名指しされた方の守衛はこの時点で落ちた。すがるような目で残りの守衛を見るが、命にまだ余裕のある彼は仲間の命よりも自分の職務を優先させることにした。

 

「……うちの頭とどういう話だ」

「それはお前に関係ない。あんまり寝言言うなら、お前の頭も割って勝手に進むが……」

「…………付いてこい」

 

 渋面を作った男は、もう一人をその場に残して奥へと歩いていく。当面の命の危機が去った男は、深々とした安堵の溜息を漏らした。守衛について奥へ行く途中、ちらと残った男を見た徐晃が男の前で拳を強く握りこんで見せた。拳を開くと、粉々になった石がぱらぱらと地面に落ちた。

 

 視線を合わせる。こちらの意に反することをすると、こうなるというより直接的なメッセージに男の心は完全に折れてしまった。自分よりも一回りは下だろう少女と、視線も合わせようとしない。自分の成果に満足した徐晃は一つ頷くと、少し先を歩いていた一刀たちに早足で追いつく。

 

 木々の間の道を行きながら、一刀は考えた。第一段階突破。守衛のところで騒ぎが起きると全てがご破算だった。ともかく最悪の事態を回避できたことに、一刀は人買いの顔を維持しながらも、心中で安堵の溜息を漏らしていた。子義と徐晃も、少しは緊張しているかと思って聞き耳を立ててみれば、

 

『俺の女だって! 俺の女だって!!』

 

 子義が小声で、きゃーきゃー大騒ぎしていた。できればそういう話は後でしてもらいたいものだが、幸いにも前を歩く男には聞こえていないようだった。ギクシャクした動きはそのままである。徐晃の力を見て、怖気づいているのだろう。岩を真っ二つにする少女が後ろを歩いていれば生きた心地がしないのは当然だ。一刀も逆の立場であれば、同じ気持ちになるに違いない。

 

 小高い丘の上。猟師小屋の近くに、盗賊たちが思い思いの恰好で座っている。守衛は盗賊たちの中を突っ切ると、猟師小屋にまで伺いを立てに走った。あの小屋の情報も既に掴んでいる。村人の話では入り口は正面にある一つだけで、裏口などの類はない。

 

 つまり正面の入り口さえ塞いでしまえば、中の人間の命運は決まったようなものだ。幹部が猟師小屋に全員入っているなら難題の一つがこの時点で解決するが、盗賊たちの顔だけを見てそれを判断する手段は、一刀たちにはない。数えるのもバカらしいくらいに周囲には盗賊の姿があったから、下っ端と幹部の区別はやはりつかなかった。

 

 盗賊たちを見まわしている一刀の背中を、徐晃が数度叩く。腰の辺りの右側を二回、左側を二回。右が百の単位で左が十の単位だ。ざっくりと、目に見える範囲にいる盗賊の数を、徐晃には数えてもらっていた。この場に二百二十人強。事前予想のほとんどが、ここにいる計算になる。

 

 後は猟師小屋の中にいる幹部で全員だろう。十人前後少ない気がするが、これくらいの人数ならばそれは誤差だろうか。ともかく、一刀たちの使命はこの場に集合している盗賊の無力化である。この場にいない盗賊のことは、また後で考えれば良い。

 

 一分程待っただろうか。小屋の中から男が姿を現した。ひげ面で顔には刃傷。加えて大男というのはいかにも盗賊と言った風で、一刀よりも頭一つ分は高い。それがのしのしと歩いてくるものだから、一刀も思わず及び腰であるが、隣に子義と徐晃がいるのを思い出し、気を引き締める。

 

 今の自分は北郷一刀でも自警団の団長でもなく、洛陽を拠点にする犯罪組織の一員で、この場には交渉に来たのだ。盗賊風情に遅れを取る訳にはいかない。

 

「あんた、同業者だって?」

「正確には違う。俺は――いや、俺の所属する組織は所謂人買いだ。主に田舎から人を攫って国中に売りまくる、そういう仕事だ。その一環として略奪もするが、それはまぁ、この際置いておこう。今晩は仕事の話でここに来た。あんたがここの頭ってことで間違いないか?」

 

 そう言って、一刀は男ではなく周囲の盗賊の顔を見た。替え玉を使われている可能性を確認するためだが、どの賊の顔にも、動揺は見られない。眼前の大男が頭ということで、間違いはないだろう。村を襲うのに臆病なくせに、こういう時は堂々と顔を出すというのはいまいち釈然としないが、本人であるというのなら一刀にとっては好都合だった。

 

「仕事の話って、どういうことだよ」

「お前たちの仲間が『盗賊が来るぞ』とぬかしたせいで、村人が逃げちまった。女子供が欲しかったのに、村に残ってるのは老人と男だけだよ。どうしてくれる」

「誰が話を漏らしたか何て知らねえよ。そりゃあ俺たちには、関係のない話だ」

「恍けるなよ。俺はそいつが村に来た時に、その場にいたんだ。馬に乗って村に来た旅装束の男はあんたの子分だろ? 捕獲しようと思ったんだが、残念ながら逃げられちまった。逃げ足早いな。あんたの子分は」

 

 頭は白を切ったが、そうはいかないとばかりに畳みかける。実際、あの旅装束の男が彼らの仲間という証拠は何もないが、既に確証を掴んでいるという態度は、切羽詰まった時にこそ真価を発揮する。大事なのは、相手がどのように感じるかだ。この場でははったりこそが最大の武器である。

 

「――で、その人買いが俺たちに何の用だい?」

 

 認めることもしないが、頭は話の先を促してきた。実質的に認めたようなものだが、これはこの際どうでも良い。話の主導権は取ることができた。ここからは証拠がどうしたではなく、仕事の話だ。

 

「女子供がいないのは正直痛いんだが、誰も連れて帰れないんじゃ、俺たちが追われる身になる。村人はもう三十もいないが、できればこいつらは生け捕りにしてもらいたい。老人と男でも、いないよりはマシだからな。生け捕りにしてくれたら、一人頭銀でこれだけ払う」

 

 一刀は懐から小袋を取り出して、口を開いて中身を見せた。小袋の上の方にある本物の銀が、松明の照明にキラキラと輝いている。その輝きを見て頭の顔色が変わり、頭の顔色を見て盗賊たちの顔色が変わった。袋の中身全てが銀であれば一財産で、これが人数分増えるのである。幹部が多めに取っていくのはいつものことだがそれでも、街で豪遊できるくらいの稼ぎにはなるだろう。

 

 現物資産は、大きな力だ。あっという間に欲に目が眩んだ頭に向けて、小袋をじゃらじゃらと振ってみせる。確認しろと視線を送ると、頭はふらふらと歩み寄ってきた。ちょろい。あと五歩、四歩、三歩――ここで、一刀は脇の徐晃に視線を送った。作戦開始の合図である。

 

 二歩、そして一歩…………ゼロ。頭が小袋に手をかけるのと、徐晃が袋に手をかけたのは同時だった。頭が疑問の声を挙げる。だが、一音だけのそれが終わるよりも早く、徐晃は小袋の紐を掴み、力任せに振りぬいた。

 

 古今の推理小説の、凶器消失トリックでは定番の武器である。重量物に紐をつけ、遠心力で相手に打撃を加える。単純な方法だが、その破壊力は凄まじい。銀と鉄と銅と、それら金属の一撃を頭に食らった盗賊の頭が、冗談のように吹っ飛んだ。

 

 徐晃の一撃で頭部は砕けている。明らかに即死だ。それは明らかなのに、盗賊たちは状況を受け入れるのに時間がかかった。その僅かな間に、徐晃は最強の凶器と化した小袋を持って小屋に突撃をかけ、子義は吹っ飛んだ頭から武器をはぎ取った。短刀と、剣である。

 

 頭が倒され、その下手人が武器を奪って武装した。その上、残りの幹部がまとめて殺されようとしている。そこまで来て、残りの盗賊たちは一斉に色めき立った。全員が得物に手をかけ、殺意をこちらに向けてくる。逃げる人間は見た限りいない。

 

 しかし、敵の頭数が減らないのは、一刀にとっては好都合だった。全ての戦力をここに釘づけにできれば、後々の問題が少なくなる。ここからは人買いではなく、官軍の指揮官だ。目まぐるしく変わる自分の役職に、気分を高揚させた一刀は、その場で大音声を張り上げた。

 

「勅命である! 盗賊ども、大人しく縛につくが良い!」 

 

 

 

 

 

 




ちなみにそんな勅命は出ていません。はったりです。
暴れん坊将軍で言うと例のテーマが流れました。次話は皆殺しモード、その後に解決編です。


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第012話 とある村での厄介事編⑥

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの時代、どこの国であったとしても、軍事組織、あるいは治安維持組織には命令系統というものが存在する。この国において、便宜上その頂点に君臨するのが皇帝陛下だ。彼女(・・)は国中の全ての事柄に口を出す権限を有しているのだが、実際にはそう上手く物事は進まない。

 

 確かに皇帝は権力の頂点に位置しているが、それを支える重鎮たちの権力も無視することはできない。世が乱れに乱れた現在は特に、皇帝の権威失墜が著しい。盗賊が跋扈し、官軍が弱体化しているのもその一例と言えば一例だ。

 

 だが、皇帝という権力者が存在しているという事実だけを理解している庶民はその実、皇帝の中身がミジンコであったとしても気にもしないだろう。庶民の頭にあるのは自分たちが庶民であり、この国には皇帝という偉い人がいるという事実のみだ。単純であるが強力なその事実の前に、『勅命』という言葉は得体のしれない強制力を持つ。

 

 冷静であれば、たかが地方の盗賊の処分に勅命が出るなどあるはずがないと、庶民であっても気づくことができたはずだ。皇帝は偉い人である。だからこそ、庶民の行く末に一々首を突っ込んだりなどしないということを、庶民はこれも、事実として認識している。

 

 だが頭目があっという間に殺され、その下手人が勅命であると大音声を挙げていた。劣勢に陥り、更に思考力が落ちている盗賊たちは、事実と違うことを『そうかもしれない』と思わされてしまった。

 

「既にこの丘は包囲されている。刃向かえば斬る! 逃げれば斬る! 命惜しければその場でじっとしているが良い! 我らの目的は首領と、それに連なる者の首! 雑兵の首などいらん!!」

 

 声は大きく、意図は明確に。誰を殺して誰を殺さないか。こうすることで、自分は殺されないと判断した人間は自然と気と手を抜き、自分は殺されると理解した人間は色めき立つ。

 

 殺される人間は、殺されない人間に対して圧倒的に少なく、まして幹部は小屋の中に集中している。勿論、幹部の全員が小屋の中にいた訳ではない。小屋の外に出ていた幹部は皆こそこそと隠れようとしたのだが、味方のはずの盗賊たちの視線によって、彼らは炙り出されてしまった。

 

 誰も『こいつが幹部だ』と声を挙げた訳ではない。しかし悲しいかな、自分は殺される人間ではないと認識した全ての盗賊の視線が、外に出ていた殺されるべき人間へと向いた。視線を集めた人間は三人。それを幹部だと狙い定めた子義は、一刀を守ったまま行動を開始した。

 

 その手が閃くと、短刀が放たれる。盗賊たちの間をすり抜けたそれは狙い違わず、視線を集めていた人間の一人に命中した。必殺。一撃で殺すために子義は喉を狙ったが、それは僅かにそれて肩に命中した。悲鳴を挙げ、痛みに蹲る幹部の男に、子義は小さく舌打ちをする。一刀を連れながらでも、その動きは止まらない。

 

 殺されないと判断した盗賊たちに、動きはほとんどなかった。その場を動かなければ殺されないのだ。実際にその通りになるか保証はないものの、言葉の力はまだ生きている。おかしいと思う人間が増えたら、言葉の魔法は消えてしまう。より多くの人間が正気を取り戻し冷静になる前に、全ての行動を終了させなければならない。

 

 即席の鈍器をぶら下げた徐晃は、全速力で小屋の方へ走った。小屋に他に出口はない。外で何か起こったというくらいは理解できたろうが、まだ誰も小屋の中から出てはいなかった。このままならば徐晃の足の方が早い。外で何が起こったのかを理解するよりも先に、小屋の中にいた幹部は皆殺しにされるだろう。

 

 やがて、盗賊の中にも動き出す者が出てきた。外にいた幹部が号令をかけ、十人ほどが動いた。幹部に近い人間なのだろう。こいつらを殺せば褒美を出すと、具体的な金額まで口にしているが、その金額は一刀の感性から言っても少なかった。

 

 窮地において、救援相手に提示するのは自分の命の値段と言っても過言ではない。それは同時に、相手に命の危険の享受を強制するための値段でもある。相手が聞いて心を揺さぶるような値段でなければ、義理で結ばれていない人間は動いてはくれない。

 

 幹部の発言は既に動いている盗賊以外にも向けられていたが、その金額で動こうとする人間は一人もいなかった。というよりも、すぐに動き出さなかった時点で既に、彼らは幹部に対し角が立っていた。

 

 腐っても幹部である。仮にこの場で一刀たちが殺された場合、動かなかった面々はその責任を追及される。まさかいきなり殺されはしまいが、相当な冷や飯を食わされることは覚悟しなければならない。元より、義理ではなく利益で結ばれた間柄だ。動かなかった人間にとって、幹部たちは既に、ここで死んでくれた方が都合のよい人間となっていた。

 

 お頭と、兄貴と仰いでいた人間たちだが、自分の命には代えられない。義理を優先する人間は、既に幹部の号令に従って動いている。残りは全て、義理なく利で動く人間たちである。

 

 一方、子義に守られながら動く一刀は、動く者と動かない者にはっきりと分かれた盗賊たちを見て、感嘆の溜息を洩らしていた。

 

 最大二百二十人殺さなければならなかったところが、十分の一近くにまで数が減った。たかが言葉、されど言葉だ。ただの言葉でも効果的に使うことで、自分たちよりも遥かに数で勝る集団の動きを誘導することができ。戦場において何故軍師が重く用いられるのか、頭ではなく心で理解した瞬間だった。

 

 外に出ていた幹部は三人。それぞれが四、五人を率いて一斉に動き出している。その三組が連携をしている様子はない。とにかく目の前の脅威を排除しようと、全速力で向かってきていた。

 

「子義、こういう時どうするんだった?」

「まずは……近いところから攻めること!」

 

 即座に近きを攻めると判断した子義は、一刀を連れたまま最も近い集団へと突っ込んでいく。まさか敵の方から突っ込んでくると思わなかった賊の足が、一瞬だけ鈍った。その一瞬で、子義には十分だった。一息で距離を詰めると、持っていた剣で先頭を走っていた賊の喉を割く。赤々とした血が噴き出す中、子義の動きは止まらない。

 

 喉を割いた賊の身体を後続に向かって蹴飛ばすと、大きく跳躍。その後ろを走っていた賊の頭上から、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。ぐしゃりと目覚めの悪い音がし、賊は頭蓋を割られた。子義はそのまま剣を引き抜こうとしたが、骨にめり込んだ剣は力を込めても動かない。

 

「こっちだ!」

「ありがと! 団長、愛してる!」

 

 放られた剣を受け取った勢いそのままに、動きの止まった賊の首に叩きつける。手入れも碌にされていない数打ちだったが、子義の力、技量で振りぬかれたそれが、容易に賊の首を跳ね飛ばした。瞬く間に、三人。ここまでの動きで、ようやく周囲の賊は子義が手練れであることを理解した。

 

 一人いれば二人目も、と考えてしまうのは人間の心理である。子義の後ろを走っているだけの一刀にも、畏怖の視線が向けられる。実際そんなことは全くないのだが、子義の奮闘が一刀が安全である時間を少しの間ではあったが増やしていた。

 

 子分を瞬く間に切り殺された幹部は、その僅かな間に剣を抜き放っていた。子義に向かって突き出されたそれを、彼女は事も無げに弾き、返す剣で幹部を切り倒す。剣戟は一合のみ。相手をするのが馬鹿らしくなるくらいの、力量の差だった。

 

 これを殺さなければならないのか。子義たちを目指して走る賊たちの足も鈍るが、既に拳を振り上げてしまった以上、それを実行しなければ命はない。進むも地獄、戻るも地獄。そして留まっても地獄だ。今さら剣を捨てて命乞いをしても、官軍は賊の命など助けてはくれない。

 

 ならば少しでも生き残る確率が高い方に。賊たちは雄叫びをあげて、突っ込んでくる。

 

「いいもの見つけた!」

 

 子義が持ち出したのは、今しがた斬り殺した幹部が背負っていた矢筒だった。弓は剣を抜いた時に、足元に落ちていた。何故彼が後生大事に弓を持っていたのか。それは一刀にも子義にも知る由もなかったが、弓を手にできたことは、子義にとって好都合だった。剣も槍も自警団の誰より上手く扱う子義だが、彼女が最も得意とするのは弓である。

 

 子義が狙って放った矢は、一刀が知る限り一度も的を外したことはない。的のど真ん中に刺さった矢の尻に、当たり前のように次矢を直撃させたのを見て、天才というのはいるものだと理解した。

 

 子義は矢をつがえ、大きく息を吸い込み――吐いた。

 

 そして一息に弦を一度引くと、後はもう子義の独壇場だった。その独壇場は、子義の手から矢が尽きるまで続く。彼女の矢が届くのは、視界その全てだ。目に見えている限り、的を外すことはない。一矢で、一人。確実に目を射抜いて行く子義は、盗賊には悪魔にでも見えただろうか。

 

 瞬く間に先頭を走っていた三人が射殺されたのを見て、後続は完全に足を止めた。もはや逃げるより他はない。戦うことを放棄した賊は我先にと駆け出したが、その動きは酷く直線的である。ただ動いているだけの的など、止まっているのと変わらない。まずは幹部、と既に盗賊の輪の外まで逃げつつあった二人の幹部に子義は的確に矢を撃ちこんでいく。

 

 初めは背中、その次は首。一発でも致命傷。二発あれば即死だ。外にいる殺すべき人間は、もう殺した。残っているのは幹部の号令に従った、賊が二人。彼らはまだ、剣を手放していない。

 

 だが、矢はその時点で尽きていた。子義はすぐに弓を手放したが、行動が一拍遅れてしまう。攻めるのならば、弱い方だ。一刀の方が組みやすいと判断した盗賊二人は、獰猛な笑みを浮かべて一刀へと駆け出し――唐突に、その片方が吹っ飛ばされた。

 

 血でべったりと赤くなった小袋。金属で一杯になったそれが、砲弾のようにすっ飛んできた。向かって右にいた賊にそれが直撃したのだ。徐晃の力で振り回されたそれは、容易く人間の頭を砕いて見せた。全力で投擲されたそれは、盗賊の身体をくの字にへし折った。遠回しな慣用表現では断じてない。大勢の人間の前で人間が、くの字に曲がったのである。

 

 即死なのは疑いようがない。その惨劇は事態の行く末を見守っていた人間全ての動きを止めるには十分だった。一刀も子義も含めて、全く動く人間のいなくなったその場を、一人の少女が疾風のように駆ける。

 

「お兄ちゃんに――」

 

 助走をつけて大きく踏み切ると、徐晃は空中で器用に身体を捻る。それはまるで、全てを貫く一矢を放つ、引き絞られた強弓の弦のようで、

 

「――近寄るな!!」

 

 十分な加速と、十分な捻転。剛力無双の徐晃の、渾身の力を込めた回し蹴りが賊の頭に直撃する。拳一つで岩を割るのだ。その全力の飛び蹴りを食らったら、人間は一体どうなってしまうのか。人の頭が爆ぜる(・・・)のを間近で見た一刀は、頭から真っ赤な何かを被ってしまった。ホラー映画も真っ青、いやさ真っ赤な光景に、むしろ一刀は冷静になった。

 

 一仕事終えた徐晃は満足そうに頷くと、一刀の元に駆けてくる。小屋の中は粗方片づけたのだろう。返り血で真っ赤に染まった少女は、ここに来る前と変わらない純粋そのものと言った表情を浮かべている。僅かに焦って見えるのは、こちらの身を案じているからだろう。

 

 今しがた盗賊の頭を粉砕したとは思えない少女は、少しだけ緊張した声音で一刀に問うた。

 

「お兄ちゃん、怪我はない?」

「自分のあまりの役に立たなさに真っ赤になって恥じ入るばかりだよ」

 

 それは危機的状況における北郷一刀渾身の冗句だったが、その機微は少女たちには伝わらなかったらしい。額面通りに一刀が落ち込んでいると解釈した少女二人は、そんなことないよ! と全力で励まし始めた。頭から血を被ったことも忘れて、何だか本当に情けなくなってきた一刀である。

 

 そうこうしている内に、二つに分けた自警団の面々も到着した。戦闘の痕跡は見られるが、一人も脱落者はいない。無事に任務を果たしてきたのだろう。部隊の中ほどから出てきた程立は一刀の姿を見つけると、手で口元を隠してわざとらしい、驚いた表情を見せた。

 

「おや、お兄さん。少し見ない間に随分と男前になりましたね」

「血も滴る良い男ってことで、笑いの一つも取れれば本望だよ。そっちの首尾はどうだ?」

「風の方は五人程。幹部じゃなかったみたいですが、ともかく自警団の皆さんが頑張ってくださいました」

「私の方は七人ですね。いずれも幹部ではなさそうでしたが、実力で排除しました。私が剣を抜く機会があるかと聊か肝を冷やしていましたが、貴殿の部下の働きで事無きを得ました。よく調練をされていますね」

「俺の働きなんて微々たるもんだよ。戯志才が助かったならそれは、皆がそれだけ頑張った成果さ」

 

 な? と視線を向けても、自警団の面々は照れて視線を逸らすばかりだった。農村の屈強な男たちは、年下の男に真正面から褒められることに慣れていないのである。

 

「さて、親睦を深めるのはこれくらいにするとして、事後処理を始めましょうか」

 

 放っておくといつまでも和んでいそうだった面々を、程立がぴしゃりと元の場所まで引き戻す。周囲には逃げられなかった盗賊が二百人から存在している。集まった自警団たちはそれでもまだ盗賊団の十分の一程の戦力だったが、既にお互いの格付けは済んでいた。数が少ないからといって、一刀たちに逆らおうとする者はいない。

 

 誰からともなく、剣を放り始める。投降の意思表示に、村の自警団にとって、今宵一晩の大戦の勝敗はここに決したのだった。

 

 

 

 

 

 

 




戦闘終了。次回、戦後処理編を経て次賞に入ります。


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第013話 とある村での厄介事編⑦

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦後処理である。まずは全員で死体を脇に片付けた後、生き残った盗賊たちは一ヵ所に集められた。自警団員はそれを囲むようにして配置されている。その正面には一刀と子義と徐晃。軍師役である程立と戯志才はその両脇に立った。

 

 話をするなら程立たちの方が……と一刀は中央に立つことを辞退しようとしたが、一番身体を張った功労者はお兄さんですからーと押し切られてしまった。誇らしげに両脇に立つ子義と徐晃を見ると悪い気はしないが、分不相応に偉そうに思えて、気分が落ち着かない。

 

 話し合いについては、生き残りの盗賊たちの中から代表者が立てられた。廖化という名前の三十絡みのダミ声の男だ。代表に立てられるだけあって盗賊たちからは信頼を得ているらしい。いかつい顔には違いないが悪人というよりは現代の土方のような雰囲気である。

 

 その土方っぽい廖化が、一刀たちを見て盗賊たち全員が思っていた疑問を口にした。

 

「…………結局よお、お前らはどこの誰なんだ?」

「俺たちはこの先にある村の自警団だよ。今日は先手を打って襲撃にきた」

 

 一刀の言葉に、盗賊たちは心の底から安堵の溜息を漏らした。奇襲という条件が伴ったからこそ、自分たちが見逃されたのだということが理解できたからだ。予定通りに村を襲撃していたら、大した加減をされることもなく、皆殺しにされていたことは想像に難くない。

 

「ところでまず質問なんだけどさ、お前たちは頭領ってどうやって決めるんだ?」

 

 盗賊のリサーチをしていた程立の言うところには、発起人が頭領になるケースが定番ではあるが、盗賊も生き死にの激しい職業だ。発起人がいつまでも生きていることは少なく、いざ発起人が死んだ時、スムーズに頭領が交代できるケースは少ない。 明確に序列を決めて副団長を用意しているケースもあると程立は言ったが、それに全ての人間が納得している訳でもない。

 

 それならお前たちのところはどうだったのか、と手近なところでサンプルを得ようと思ったのだが、一刀の問いに廖化たちは顔を見合わせた。

 

「……お前知ってるか?」

「知らん。そういや、何でお頭はお頭だったんだ?」

「俺が合流した時にはもうお頭だったぜ?」

「あぁ、幹部連中は皆死んじまったからなぁ……」

 

 盗賊たちはひそひそと話しあってはいたが、内容を聞くに結論は出そうにない。頭領本人と幹部が全滅しているのである。順当に考えれば組織の中では彼らが古参のメンバ-だろう。彼らが全滅した以上、それよりも後に入ってきた人間ばかりになるのは自明の理だ。

 

「とりあえず、解らないってことは解ったよ。話を早くするのに、とりあえずお前たちのお頭はお前たちをやっつけた俺たちってことで良いかな」

「それは異論ねえ。頭領をぶっ殺したんだからな。とりあえず、あんたをお頭と呼べば良いのか?」

「いや、俺じゃなくて俺たちって話だったんだけど――」

「風たちはこの人に率いられてきました。ですので、今日からこの人が貴方たちのお頭です」

『へい、姉御!』

 

 程立の物言いに盗賊たちはかしこまり、彼女に対して礼をした。話の流れでお頭になったはずなのに、盗賊たちは程立の方をより敬っている気がする。要所を押さえて、自分のしたいことを相手にさせる。そのための話術に長けた程立は、今の一刀たちの集団の中ではかなりの主導力を持っている。

 

 口の達者さでは戯志才も負けてはいないのだろうが、こと、今回の仕事については程立が異常なまでに積極性を発揮しているらしく、一歩引いた位置に立っていることが多かった。

 

「別に、彼女と付き合いが長い訳ではないのですが、これ程熱心に物事に取り組むとは思いもしませんでした。彼女なりに、思うところがあるのでしょう」

 

 とは、戯志才の弁である。何が程立をそうさせるのか一刀には見当もつかなかったが、ともあれ程立ほどの智者が知恵を貸してくれることは、一刀たちにとっては好都合だった。

 

 現に盗賊団はその機能を失い、交戦をしたというのにこちらには死者が出ていない。負傷者も、軽傷の者が三人いただけである。その三人すら、こんなものは唾を付けておけば治ると言っていた。十倍近い戦力を相手にした大戦だ。文句なしの大勝利だ。

 

「まずはお前たちのこれからについて話しておかないといけない」

 

 一刀の言葉に、盗賊たちは静まりかえった。捕まった盗賊の『その後』など考えるのもバカらしいくらいに決まりきっているが、勝者の言葉だ。それとは別に、けじめというのはつけなければならない。

 

「通常なら、お前たちはこれから官憲に突き出される。牢屋にぶち込まれるか、強制労働か、雑な判断をされて死刑か。いずれにせよ、ロクなことにはならないだろう」

 

 文句が出るかと思っていた一刀は、揃いも揃って神妙な面持ちである盗賊たちを意外に思った。事実、暴動くらいは起こされるかと覚悟していたのだが、その気配がまるでない。既に全員が自分のロクでもない未来を完全に受け入れている風ですらある。

 

「……文句は言わないんだな」

「俺たちも好き放題やったからなぁ……文句言えた義理じゃねえよ。まぁ、できれば捕まるのは勘弁してもらいたいが、ここから逃げ切れるとも思えねえしな。なに、今すぐ死ぬよりは大分マシさ」

 

 ここで負けてしまったのが運の尽きだ。元より、盗賊たちの誰も、この生活を長く続けられるとは思っていなかった。盗賊に身を窶す以前も、どんづまりの生活をしていた。どんづまりが、どんづまりのどんづまりになっただけのこと。それがついに終わるのだ、と思えば少しは気分も良い。

 

 もっと泣きわめいて文句を言うものだと思っていた。盗賊たちの目にあるのは諦観である。人間、死ぬ時は死ぬのだと彼らは理解しており、自分たちにその番が来たことを受け入れている。潔いと言えば、そうなのだろう。自分たちを打ち破った相手を恨まぬというのであれば、打ち破った側の気持ちもいくらか救われるというものだ。

 

 肩すかしも良いところだが、注文通り(・・・・)ではあるのだ。死を受け入れている彼らに、怖い物はない。無理難題を突き付けるなら今だと、程立は作戦を実行する前、最後の仕上げとしてそれを付け加えた。

 

 二百人からなる、戦闘可能な集団。今の世にこれを遊ばせておくのは勿体ないと、程立は言った。官憲に突き出しても、牢屋か労働か首を刎ねられるか。いずれにせよ、貴重な戦闘資源が無駄に消費されることには違いない。

 

 それならば、有効に使える内に有効に使ってしまおう。それを実行するのは――

 

(貴方ですよ、お兄さん)

 

 と程立が視線で言っている。やるなら今だと、軍師殿の仰せだ。この作戦を知っているのは、この場にいる中では程立と、その盟友である戯志才だけだ。重要な戦闘を担う前に、余計なことを考えさせるべきではないと、子義と徐晃には教えられなかった。

 

 俺には良いのかと文句を言った一刀に、程立は笑みを浮かべて答えた。

 

「お兄さんには、それ以上の覚悟を背負ってもらわないといけませんからね。これから(・・・・)のことを考えたら、これくらいのことは簡単にこなしてもらわないといけません」

 

 昨日今日出会った少女に、これからの人生のことを問われる始末である。居並んだ二百人の盗賊たちを見て、北郷一刀は考えた。村で自警団の訓練をしている時、故郷のことはあまり思い出さなかった。家族のことも、友人のことも脳裏に浮かばない。ただ考えていたのは、どうすれば彼らを強くできるか、どうすればこの村がもっと豊かになるのか。

 

 自警団が強くなれば、それを担保に安全を買うことができる。不慮の人災に対応できるようになるだけで、この時代では生存率が大幅に向上するのだ。一刀にすればたったそれだけのことだ。かつて『水と安全はタダ』とさえ言われた国で生まれ育った一刀は、この国のことを知れば知る程、何とかしてやりたいと思うようになっていた。

 

 そのためにはどうしたら良いのか。考えれば考えるほど、自分には全てが足りないことを自覚する毎日だった。

自分には力が足りない。金が足りない。権力が足りない。それら全てを持っている人間でも、国が腐ることを止めることはできなかった。

 

 もっとも、全てにおいてこの国よりも恵まれた現代においても、世界を、全ての人間を正しい方向に導くことはできなかった。科学や文明が進化したところで結局のところ、人間のすることは変わらないのである。ならば自分にできることは何もないのではないか。鬱屈しかけていた一刀のところに、お人形さんのような少女はそっと、耳元で悪魔のように囁いた。

 

 ここに、力があるぞと。人とは力、力とは礎である。その礎の上に文明が生まれ、国が興り、人の歴史が続いて行く。その一端を担う力が、目の前にあるのだ。それは即ち、この国の歴史への挑戦権に他ならない。一つの大きな戦が終わり、これから更に大きな戦が起こるという。

 

 そうなれば、より多くの血が流れ、多くの権力者が覇を競おうとするだろう。そこに一石を投じることは、流す血を増やすだけではないのか。疑問は残るが、自分ならという思いもある。この国で生まれた人間ではないからこそ、持てる感性というものもあるはずだ。

 

 頂点に立てなくても良い。自分の意見を聞いてもらえるだけの立場に就ければ、より良い国を作ることに協力することができる。そうまで考えると、一刀の口から自然と言葉が出ていた。

 

「そこで、俺からお前たちに提案がある。どうせならってことなんだけど、傭兵とかそういうものになってみないか?」

「…………なんだって?」

「牢屋とか強制労働とか処刑台とか嫌だろ? それなら危険ではあるけど、そこそこの自由が保証される傭兵の方が良いんじゃないかと俺は思うんだけども……」

「いやいや、ちょっと待てよお頭。俺たちゃ盗賊だぜ? 盗賊に傭兵になれって言うのか?」

「珍しいことでもないと思うけどな。どうだ、程立」

「食い詰め者の行く先としては、傭兵も盗賊も定番ですからねー。きちんと集計をした訳ではありませんが、真っ当な経歴をお持ちでない方も、かなりの数いると思いますよ」

「だ、そうだ。今盗賊であることと、過去盗賊であったことは、この際大した問題じゃないよ」

「お頭はそれで良いのか? その、お頭の村を俺たちは襲おうとしてた訳だが……」

「つまり、襲ってない訳だろ? 襲ってたらそりゃあ、自警団な手前手心を加えるつもりはなかったさ。盗賊とは言え奇襲をかけて幹部を皆殺しまでした俺の方にこそ、お前たちに負い目がある訳だけど、それをお前たちは頭にしてくれた。これでお互いに遺恨はなしだな」

 

 言葉にすれば簡単だが、お互いが内心でどう思っているかなど解るはずもない。自警団の面々も、自分の村が襲われていないから特に強硬な手段に出ていないが、盗賊というそれだけで許せないという気持ちはあるだろう。

 

 自分たちが悪党であるという認識があるからこそ、彼らはそれ以外の人間に信を置けない。そんな上手い話があるはずがないと、心のどこかで思ってしまうからだ。新しく頭領になった男とは言え、上手い話だ。俄かに信じることはできない。その疑いを一つ一つ晴らそうと、一刀は言葉を重ねる。

 

「俺の生まれた国じゃ、農民の子から大将軍になった男もいた。この国だって、帝国を興した劉邦は元々は亭長だった。盗賊から傭兵くらい、どうってことないだろ」

「そうは言ってもなぁ……というか、傭兵ってのは盗賊よりも儲かるのか?」

「いや、収入は今までよりも激減するし、窮屈な思いをするだろう。俺がお頭になったからには略奪は許さない」

「それじゃあ、どうやって稼ぐんで?」

「略奪してる奴をぶちのめす。俺からするとおかしなことではあるんだけど、今の世の中だと盗賊ならいくら雑に扱っても国も民も許してくれるらしい。お前たちだって結構ため込んでただろ? 今度はそれを狙うんだ」

 

 無論全てを懐に収めては角が立つから、ある程度は世に放出する必要があるだろうが、それでもそれなりの収入にはなるはずだし、盗賊を倒すということで農民たちからはそれなりの歓待を受けることができる。盗賊の時は村や街に入るにも抵抗があったが、これからは違う。精神面でも大きな違いがあると言って良い。

 

「同業者を襲うってのか」

「盗賊しか襲わない俺たちは、もう同業者じゃないから遠慮する必要はないぞ。頼もしい軍師殿が調べてくれたところによれば、この国に盗賊はまだまだ沢山いるらしい。金がなっている木だ。蹴飛ばして実を落とさない手はないぞ」

「今までよりも危ねえんじゃ……」

「武装してる奴を襲う訳だから当然危険は伴う。そこは我慢してほしい。でも、官軍と戦わなくても済むし、場合によっては協力することもあるだろう。あっちもあっちで人手不足だからな。戦力を高く売り込んでやる好機だ」

「断ったら皆殺しか?」

「そこまではしないよ、官憲に突き出す。ちなみに残ってくれれば、今までお前たちで稼いだ分を頭割りして全員に再分配する。嫌だと言ったらその時点で再分配には入れない。大人しく俺たちの糧になってくれ」

「つまり、全員が反対したら?」

「お前らが稼いだものは、俺たちが全ていただく」

 

 汚ねえぞ! と男たちが大合唱するが、一刀は耳を塞いで聞こえないふりをした。勝者総取りというのは、アウトローの解りやすい原理原則である。感情に任せて文句は言うが、理不尽だとは思わない。何故なら彼らも同じ立場であればそうするからだ。

 

「さて、この時点で傭兵になっても良いって奴は?」

 

 一刀が手を挙げると、盗賊たちの内半分程が手を挙げていた。その中には廖化も含まれている。官憲に突き出されるよりは、と打算的な判断でこちらに来ることを選択した者たちが。正直、この段階で転ばれるというのもそれはそれで信用ならないのだが、信頼関係は今後構築して行けば良い。今すべきは一人でも多くの盗賊を、真っ当な道に引っ張り込むことだ。

 

「じゃあ次はメリット――良いことを話す。これはまだ内緒の話なんだけど、一年くらい先、遅くても三年の間には黄巾の乱以上の大戦が起こる。兵はいくらいても足りなくなる。そこで一旗揚げることができれば、一生食うには困らなくなるくらい稼げるようになるだろう。故郷に錦を飾ることもできるぞ」

「黄巾の乱は終わったばっかりですが…………あれ以上の戦が起こるんで?」

「三年以内には必ず(・・)な」

 

 それで、盗賊たちは沈黙する。ただの民にとっては良い迷惑だろうが、身体一つで勝負するつもりのある人間にとって戦というのは稼ぎ時だ。ましてこれから傭兵でもやろうかという集団なのだ。戦は多ければ多い程良い。先ほど手を挙げなかった人間の半分は、傭兵になっても稼げないことを危惧していた。

 

 一年から三年と幅こそあるが、確実に起こるというのであればそれに賭けるのも悪くはない。無論、ただのホラ話という可能性もあるにはあるが、その時はその時で好き放題すれば良いのだ。元より、官憲に突き出されるか傭兵になるかの選択である。そこに稼げる可能性が加わったのだ。強制労働や牢屋、死ぬよりはずっと良い。

 

 そこまでで、残った盗賊の更に半分が賛成に回った。それでも残るという盗賊たちの諦観は深い。生き残る可能性、稼げる可能性を示しても、まだ死刑の可能性の方が良いと言っているのだから、その根深さが伺える。

 

 どうしたものか。考える一刀の横顔を、風は無言で眺めていた。風がさせたかったのは、まさにこれだ。動かないはずの人間の心を、動かすことができるかどうか。一騎当千の武人でもなく、知略で全てをひっくり返す智人でもなく、人の上に立って人を動かし、利ではなく心で人を導ける者。

 

 その資質が一刀に欠片でもあれば、力を貸すことも吝かではない。既にシャンは心を決めているようだし、今は戯志才を名乗る友人の反応も悪いものではなかった。ここで器を示してくれるのならば……と期待を込めて、風は一刀を見つめている。

 

 口説き落とすための助言は何もしていない。ここで話していることは全て、一刀が自分で考えたことだ。風の目から見ても良い線を行っている。正直ここまででも、十分に合格点をあげても良いくらいだ。これで残りの連中まで口説き落とせたら上出来を越えて、出来過ぎである。

 

 程立から期待の視線を受けていることも知らず、一刀は考えた。自らの命でもなく即物的な利益でもない。彼らを動かす者があるとすれば、それ以外の何かだ。利ではなく、心に訴えかけられるもの。それが何であるのかを考えて、一刀は程立を見た。

 

 飴を咥えたお人形さんのような少女は、値踏みするような目でこちらを見つめていた。試されている。そのことに憤りはない。程立たちは十分に仕事をしてくれた。自警団だけでは村を守ることはできなかったし、こうして盗賊団を前に話す機会も持てなかった。むしろ恩義に感じているくらいである。

 

 その恩義に報いるためにも、程立の眼鏡に少しでも適うような人間であると示してみたい。自分のこと、彼らのこと、これから名を馳せるであろう程立たちのこと。時間をかけて考えて、一刀はそれを覚悟と共に口にした。

 

「――俺は、天下を狙う」

 

 しんと静まり返っていたはずの場が、更に静まりかえった。沈黙が深くなるという現象を肌に感じながら、一刀は静かに興奮を覚えていた。自分が一体何を言っているのか。それは十分に自覚している。目をまん丸にして飴を取り落としてしまった程立を見れば、これが客観的に見てどの程度の大言壮語であるのかうかがい知れるというものだ。

 

 ホラ話で済むようなものでもない。場合によってはその場で首を刎ねられてもおかしくはない危険な言葉だが、そこまでやってようやく諦観に満ちていた残りの面々が聞く姿勢を見せた。居並んだ人間全員の目が、自分に集まっている。静かに高揚した一刀は、更に話を続けた。

 

「お前たちの協力を得た俺は、天下に名を馳せやがて天下を差配するようになる。広い部屋の中央にある玉座に俺が座って、その周囲にずらりとお前たちが並ぶんだ。今から欲しい役職を言ってくれ。そうしてくれたら、その役職に就けるよう最大限努力するよ」

「大盤振る舞いだな! するってえと、俺たちのお頭は陛下になるのか?」

「今から呼ばないでくれよ。俺もまだ死にたくないからな」

 

 盗賊たちの間に、一笑いが起きた。久しぶりに笑ったと、心の底からの笑みである。ホラ話であっても、ここまでぶち上げる人間は、盗賊家業の中にもいはしない。そんな人間が自分たちのお頭になったのだ。盗賊である自分たちももしかしたら、と夢を抱くには十分である。

 

「そんな訳で。俺の目指す山は遠く険しい。登りきるためには頼りになる仲間が必要だ。この大言壮語に付き合ってくれるからには、相応の報酬を約束する。自慢じゃないが、俺ほど分け隔てなく人材を登用して、働き相応の報酬を支払える人間は、他にいないぞ」

 

 盗賊たちを見まわす。全員が、一刀を見ていた。諦観の中にいた面々も、全てではないがそれが払拭されている。元より何もしなくても、ロクでもない死に方をするのだ。人生の最後にバカをするのも、悪い話ではない。そして付き合うのならば、最高のバカが良い。

 

「俺についてくるのに、異論のある奴はいるか?」

 

 ただ座っていただけだった盗賊たちは、一刀の言葉に居住まいを正し、全員が跪いた。それを見て、一刀は満足そうに何度も頷く。

 

 

 

 

「何度も何度も、窮屈な思いをさせるかもしれないけど、惨めな思いだけは俺が絶対にさせない。せめて胸を張って生きて、その内できるかもしれない家族にこう言おう。お前の夫は、お前の父親は、この国と、そこで暮らす人々と、そしてお前たちを守るために、多くの仲間と命がけで戦い、そして生き残ったと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




これでこの章は終了になります。
事後処理の事後処理は次章の頭にて。
次章『流浪の傭兵団編(仮)』となります。


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第014話 流浪の軍団編①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1、

 

 村に戻った一刀たちを出迎えたのは、村人たちの驚きの顔だった。

 

 自警団の面々が旅の軍師を連れて出ていったと思ったら、戻ってきた時には盗賊たちを配下に加えていた。何を言っているのか解らないと思うが、事実である。混乱するのも無理はない。一刀たちが最初にやって来ず、団員たちが村の外で待機していなければ、早合点した自殺者くらいは出ていたかもしれない。それくらいの混乱だった。

 

 一混乱あったが、盗賊は既に脅威ではないということは一刀の説明で村中に伝わることとなった。村を捨てなければならない程の脅威は、これで去ったのである。

 

 自警団員も、一刀以外は全員村人だ。この損耗をなしに事を成し遂げた一刀を村人たちは褒め称えたが、それに水を差す形で一刀から『そろそろ村を離れたい』という要望が伝えられた。

 

 村人としては一刀には長くこの村に留まってもらい、村の人間と番にでもなって末永く村に残ってほしいというのが正直なところだった。子義はそのための、悪い言い方をすれば生贄のようなものだったが、本人が望むのであればそれを止める権利は誰にもないと、快く送り出すことになった。

 

 一刀が面倒を見ていた自警団は残ることになった。元々、村を守るために立ち上がった者たちである。彼らにとって最も守るべきはこの村であり、それは国家やそこで暮らす人々を守ることに優先する。それでも名残惜しいと、彼らの多くが泣いてくれたことは一刀にとって望外の幸運だった。

 

 そのため、団長職の引き継ぎ作業は早急に進める必要があった。傭兵団の面々は、今は徐晃たちが面倒を見ているが、いつまでも村の近くに大人数を置いておく訳にもいかない。まして彼らはこの村を襲おうとしていた盗賊である。心を入れ替えたと説明しても、村人はそう簡単に安心できるものではないだろう。

 

 順当に行けば次の団長は副団長である子義が務めるのが筋なのだが、彼女は村に戻るとすぐに自分の家に飛んでいき、ご母堂から旅立ちの許可を貰って戻ってきた。番としてあてがわれた才ある少女は、村人の意図とは違った方向でその責務を全うしようとしていた。

 

「母上は『これと思った殿方に尽くしてこそ真の女です』って言ってたよ。これからは私のことは梨晏って真名で呼んでね!」

 

 今回の作戦で機先を制することを憶えたらしい少女は、天真爛漫に笑って見せた。有無を言わせず子義改め梨晏が旅についてくることになったため、新しい団長は子義を除いた残りのメンバーから選ばれることになり、十人隊長の一人が継ぐことになった。従軍経験もある年配の男で、団員にも良く慕われている。彼ならば十分に、自警団を率いていけるだろう。

 

 一つの肩の荷が降りた一刀を、村人たちは宴に引っ張り込んだ。一刀たちが戻ってきた時から既に準備は進められており、そこに賊のアジトから回収した酒や食料が持ち込まれていた。金品はそれほどでもなかったが、何故か酒類だけは規模に比して大量にあり、幹部はこれを自分たちだけで消費するつもりだったようである。

 

 生きる死ぬの話をしていたことも忘れて、村ではその日宴が開かれた。団員たちの監視で村の外にいる程立たちは参加を見送ったが、あちらもあちらで酒類と保存のできない食料を使って軽い宴をしているはずである。

 

 村の宴は老いも若きも全員が参加し、飲めや歌えの半狂乱である。一刀も色々歌わされたり踊らされた。未成年だから酒はという間もなく、がぶがぶ飲んでとにかく吐いた。吐いた傍からまた飲まされる中、流石にこれはいつまで続くんだろうと気になってきたが、気にしたところで宴は終わらず、主賓が逃げる訳にもいかない。

 

 結局、飲み過ぎた一刀がぶっ倒れても気にもされず、宴会は続けられた。どういう趣旨で宴会が開催されるかなど、参加する人間にはあまり関係ないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2、

 

 村の外では盗賊団改め傭兵団が、陣を張って待機している。アジトに残っていた資材を使っての設置だったが、軍が使っているような幕舎のようにとはいかない。それでも、従軍経験者を中心に組まれた幕舎はそれなりに様になっており、これで野宿でも雨露をしのげると大いに団員を喜ばせた。

 

 一仕事が終わると、後は宴会である。酒類はほとんどが村に持ち込まれたが、団員のためにも確保されていた。浴びるように酒を飲み、飲めや歌えの大騒ぎである。そんな中、一部の団員が酔った勢いでシャンに戦いを挑んだ。戦いという言葉を使ってはいるが、お互い実力差は解っているので稽古のようなものである。

 

 一人が打倒されると次の一人が、というノリでほとんどの団員がシャンに挑んでは返り討ちにされていく。傍からみていると豪快ないじめに見えなくもないが、打ちかかっていく人間は皆楽しそうで、吹っ飛ばされても笑っていた。酒の力があるのは否めないが、間違いなく親睦は深められている。

 

 一通りの団員が打ちかかっては地面に転がり、更にもう一周と始めた辺りで、村の方から子義が駆けてきた。打ちあわせにはない行動に、何かあったのかと団員たちも色めき立ったが、子義はそんな団員達を無視するとまっすぐシャンの元に駆けより、言った。

 

「私はもう十分だから、今度は徐晃がしたいことをしてきて」

 

 望外の配慮に、シャンは目を丸くする。シャンは子義を抱きしめて何度も礼を言うと、手早く真名を交換して村の方に駆けていった。心を決めていたのを、子義には見抜かれていたらしい。

 

「だって、私と同じ顔してたもん」

 

 からからと笑った少年のような少女は、自分の剣を持つと団員たちの元へ向かって行った。

 

 シャンが出ていったことで終了するかと思われた酔っ払いどもの宴だが、今度は子義が代わりにその役目を負った。子義も子義で自分の熱を持て余しているらしく、シャンと同じように団員たちの突撃を受けては返り討ちにしていた。シャンほどの強力はないが、彼女も猛者である。

 

 ちぎっては投げちぎっては投げする様は、シャンから子義へ変わっても関係のない人間からすると地獄絵図に見えた。既に何人も流血しているが、子義も団員たちも皆楽しそうなので、稟は黙っておくことにした。

 

「シャンの力を借りて盗賊を懲らしめてやるだけのつもりが、今後の人生が決まってしまいましたね」

「いやいや、風も驚きました。まさかあのお兄さんがここまでやるお人だとは……」

 

 一献、と風が酒瓶を差し出すと、稟が椀を差し出す。風も稟もそれほど酒に強い訳ではないのだが、今日はとにかく飲みたい気分だった。皆殺しにした幹部たちが思いの他酒をため込んでいたので、今夜呑み明かす分は十分にある。

 

「お兄さんは、本当に陛下になれると思いますか?」

「厳しいでしょう」

 

 稟の言葉はにべもない。大器の片鱗を感じるとは言え、今の一刀は裸一貫に近い。曹操や孫堅など天下に覇を唱えようと言う人間は、既に頭角を現しており、彼女らに比べると大きく見劣りしていることは否めない。スタートからして、大きく出遅れているのだ。この時代、この国で、これは大きなハンデとなる。

 

「彼に才能がないとは言いませんが、敵は強大で障害も多い。前途多難なのは間違いありません」

「ですが、風がいます。稟ちゃんもシャンもいます。子義ちゃんも、きっとお兄さんについていくでしょう。これからもっと、多くの人がお兄さんの周りに集まります。そうなれば、もっともっと、風も稟ちゃんも夢を見れるかもしれません」

 

 ご返杯。今度は稟が風に酒を注ぐ。お互いに酒が好きという訳ではない。見た目の通り、酒にあまり強くない風は既に相当酔いが回っていたが、椀を止める様子はなかった。長い髪をかきあげ空気にさらされた耳は真っ赤になっている。明け透けに物を言うように見えて、実のところあまり本心は話したがらない。

 

 掴み所のないというイメージは、そういう部分から来ている。今なら風の本音が聞けるかもしれないと、稟の酒を勧めるペースも早くなる。

 

「…………こういう気持ちを、楽しいと言うのでしょうか。久しく忘れていました。自分がどこまでやれるのか。今から楽しみで仕方ありません。やりたいことが、次から次へと湧きだしてきます」

「風もですよ。明日からきっと、楽しい毎日になります」

 

 なのでまた一杯。風もかなり早いペースで飲まそうとしてくる。普段飲まない訳ではないが、そろそろ前後も怪しくなってきた。子義がいるとは言え、ここで軍師二人が酔いつぶれてしまう訳にもいかない。少しは控えるべきでは? そう稟が言おうとした矢先、風はふらふらと頭を前後に揺らすと受け身も取らずに前のめりに倒れた。

 

 強かに顔を地面に打ち付ける嫌な音がする。風! と声を挙げて稟も立ち上がるが、酒が回っているせいでただ動くこともままならない。足がもつれた稟は、仲良く風の隣に倒れてしまった。起き上がろうとしても、足腰に力が入らない。おまけに気持ち悪くなってきた。このままだと友人と二人仲良く吐しゃ物の海に沈んでしまう。

 

 新しい門出の日に、女として最悪な末路が待っているのかと悪い気分の中で憂鬱になりかけていたが、二人して倒れていた軍師たちを目ざとく子義が発見した。

 

「大変! 先生が倒れてる!」

 

 軍師である二人は、団員たちの中では先生と呼ばれることになっていた。まだ何も教えた訳ではないのでむずがゆかったが、水でも持ってきてもらえるならば、今はどんな生徒でも歓迎だった。うーうー呻きながらまっていると、やがて子義が一抱えはある水がめを抱えて戻ってくる。離れて見ている分には気づかなかったが、子義も明らかに酔いが回っていた。

 

(これだから酔っ払いは!)

 

 と心中で毒づいても声にならない。当然ではあるが、その中には水が一杯に注がれていた。尋常ではない量に稟が抗議の声をあげるよりも早く。子義は何の躊躇いもなく水がめの中身をぶちまけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 慣れない酒をしこたま飲んだ一刀は、ふらふらとした足取りで自分の小屋に戻った。村にいる間に滞在していたものであり、一刀一人で住んでいた小屋である。男の一人暮らしであるから元々荷物などないが、明日旅立ちということで、酔ったまま簡単に荷造りをした。

 

 そのまま、寝床に倒れ込む。今日でここともお別れかと思うと、汚い掘立小屋でも感慨深い。酒の力もありこれならぐっすり眠れるか……と思って目を閉じてみても、中々寝付くことができなかった。興奮して夜も眠れない、という言葉を聞いたことはあるが、まさか自分がそうなることがあるとは思いもしなかった。

 

 自警団の団長になる。というのでも現代の学生からすると十分に異常なことだったが、それが傭兵団の団長になりいずれは『天下を取る』と公言してしまった。男が一度言ったことである。生半なことでは取り下げることはできない。

 

 自分にできるかとは考えなかった。気付けばそんな言葉が出ていたというのが一番近い。宣言を聞いていた面々もそれは驚いただろうが、一刀自身も自分の発言に驚いていた。今まで生きてきて、自分が野心家などと思ったことはない。

 

 団員たち相手にぶちあげたことも、適当に口を突いて出た妄想なのではと考えたが、天下を取る、という言葉は随分と一刀の心に馴染んでいた。よくよく考えてみても、北郷一刀という人間は天下というものが欲しいらしい。

 

 と言っても、天下を手に入れてではどうするか、と聞かれると返答に困ってしまう。具体的に何かやりたいことがある訳ではないのだ。自分の望みを叶えるために差し当たって天下が必要だから求めているだけ、と言ったら他の野心家は怒るかもしれないが、それが本心なのだから仕方がない。

 

 細かい展望については、知恵者の力を借りることになるだろう。そう言えば、細かい話をまだ詰めていなかったが、程立と戯志才は付いてきてくれるのだろうか。それではー、と軽いノリでここでさよならされてしまうと、一刀としても物凄く困るのだが、かと言ってあれだけの知恵者である二人を引き留めるだけの条件を、一刀は提示することができないでいた。

 

(出世払いってことでどうにか付いてきてくれないかな……)

 

 妙案に思えたが、そもそも出世できるか現段階では全く見通せないのだ。金もなく将来も見通せない男が、女性についてきてくれなどと言えるものだろうかいや言えない。悪い方向に酔ってしまった一刀は、どんどん暗い方向に考えが傾いていく。

 

 それを引き戻したのは、静かに戸が開く音だった。子義でもやってきたのか、と思えば違う。足音の主はこっそりと小屋の中に入ると、寝転がっている一刀の横にすとんと腰をおろした。腰を下ろして、何をするでもない。見られている気配は感じる。じっと、横顔でも見ているのだろう。彼女ならば夜が明けるまで見ていても不思議ではない。

 

 美少女に見つめられるというのも悪い気分ではなかったが、流石に決まりが悪くなった一刀は身を起こし、傍らに立つ少女――徐晃に声をかけた。

 

「こんばんは、徐晃」

「こんばんは、お兄ちゃん。もしかして寝てた?」

「いや、起きてたよ。今日が最後の夜だから眠れなかったんだ」

「寂しい?」

「色々あったからな。寂しくないと言えば、嘘になるかな」

「お兄ちゃんは絶対にそういう言い方をするって、稟が言ってた。ちょっとびっくり」

「…………そういう言い方って?」

「男の人って意地っ張りだから、寂しくても素直に寂しいって言わないんだって」

「悔しいけどそうかもなぁ……」

 

 それが男というものだ、と一刀は心中で納得する。人の好き好きだろうが、少なくとも一刀は一々寂しいという男を女々しいと思う。見栄や意地というのは、時にどうしても必要になるものなのだ。

 

「それで、何か用かな? 話がしたいだけでも、勿論歓迎だけど」

「ねぇ、お兄ちゃん。シャンのこと、ぎゅ~ってして?」

「…………なんだって?」

「シャンのこと、抱っこして?」

「いや、意味が解らなかった訳じゃない。どうして抱っこしてほしいんだ?」

「いや?」

「嫌じゃないけどさ……」

 

 徐晃の無垢な瞳を前に、一刀は答えに窮してしまった。夜中に女性が男の部屋を訪ねてきたのだ。結婚年齢も低そうな世界であるし、もしかしたらそういうことかと期待しないではなかったが、徐晃の反応を見るにその先がある訳ではないらしい。純粋にただ抱っこしてほしいようだが、一刀にはその意図が読めない。

 

 伝えた通り嫌な訳ではないが、既に腕を広げて身構えている美少女を前にすると、実行するのも憚られた。時間をかければ諦めてくれるだろうか、と考えるがそれでは何の解決にもならないし、これから一緒にやっていこうという仲間の要望だ。美少女をどうこうという邪な感情は別にして、小さな要望くらいは叶えてあげたいと思う。

 

 意を決して、一刀は徐晃を抱きしめた。力を込めて細い身体を抱くと、徐晃も手を回してくる。こうして抱き合ってみると、驚くほどに細い。この身体のどこからあんな力が……と思ったのは僅かな間だけ。気になってしまうのは手先の感触だ。

 

 徐晃の服は布地面積がとても少ない。背中に回した手は、徐晃の素肌に触れていた。誰も突っ込んだ様子はないから、これはこれで奇抜と言う程のファッションではないのかもしれないが、男ばかりの環境では目に毒だろう。その内違う服を着るように、やんわりと伝えた方が良いのかもしれない。

 

 そんなことを考えている間に、徐晃の方から腕は解かれた。

 

「満足したか?」

「した。それで、確信した。お兄ちゃんはずっと、シャンが探してた運命の人」

 

 言って、徐晃はその場に跪き、臣下の礼を取った。

 

「私は香風。この真名と共に我が身命、我が名声、我が忠節の全てを貴方に捧げます。私の――シャンのことを受け入れてくれるなら、今ここで、シャンって呼んで?」

「結構ずるいな」

「女は多少強引な方が良いって、稟が言ってた。こういう女、お兄ちゃんは嫌い?」

「いや、はっきり物を言ってくれる方が嬉しいよ。察しが悪いって、少し前まで言われ続けてたからな」

 

 脳裏に猫耳を被った軍師の姿が浮かぶ。今ごろ彼女も曹操のところで頑張っているのだろうか。元盗賊を率いて傭兵団を組織したと言ったら蹴り飛ばされそうだが――と考えていたら、今度は徐晃――シャンの方からぎゅーっとしてきた。夜に差し向かいで男女が二人。他の女のことを考えていたら気分が悪いに違いない。

 

 心なしか眉を吊り上げているように見えるシャンの後ろ頭を優しくなでると、

 

「ありがとう、シャン。これから一緒に頑張ろうな」

「受け入れてくれて、ありがとうお兄ちゃん。一緒にがんばろうね」

 



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第015話 流浪の軍団編②

 

 

 

 

 

 

1、

 

「いきなり貴殿の顔を潰すことになってしまって申し訳ないのですが、先延ばしにしても意味がないので単刀直入に申し上げましょう。できるだけ早急に金銭の工面をしないと、大業を成す前に我々は空中分解します」

「まぁ、そうだよなぁ……」

 

 村を出発して最初の夜、元気に野宿の準備をしている団員達を他所に、一刀たちは幹部会議を行っていた。参加しているのは団長である一刀と、軍師である程立と戯志才改め郭嘉。武官役としては梨晏とシャンの二人が参加している。

 

「数は力と申します。今の段階で兵が二百を超えるというのは素晴らしい始まりと言えるでしょう。しかし、我々にはそれを支えるだけの資本がありません。私や風の実家に支援を頼んでも良いのですが、それは最後の手段としましょう。団長である貴殿ができる限り己が力で、というのが外聞としても望ましいのです」

「お兄さん、荀さんちと仲良しだと言ってましたね。援助は頼めませんか?」

 

 程立の言葉に、一刀は渋面を作った。可能か不可能かと言われれば、可能だろう。北郷一刀は荀家に相当大きな貸しがある。滞在一か月で清算できたと一刀の方では思っているが、機会さえあればあの人たちは喜んで手を差し伸べてくるという確信があった。

 

 あの家がどれだけ金持ちなのか知らないが、少なくとも二百人の荒くれ物の食い扶持を確保したところで、パンクすることはない。一刀が問題だと思っているのは、彼個人の内面の話だ。あの人たちには良くしてもらったがそれだけに、迷惑をかける訳にはいかないと思っている。

 

 そんな内心を顔に出した一刀に、程立は少し呆れた様子で溜息を吐いた。

 

「迷惑とは思わないと思いますけどねー。所謂名家の人たちなら、これから戦乱が起こるということは感じ取っているでしょう。今はどの馬に乗るのか思案している最中で、恩は売れるだけ売っておけという風潮です。風たちは馬としては魅力はないかもしれませんが、まっさら加減では他に類を見ません。二百人の食い扶持分くらい、投資する価値はあるとお金持ちなら判断すると思います」

「俺の金持ちっぽい知り合いって、その荀さんちの関係者しかいないんだけど、かたっぱしから手紙でも出せってことか?」

「そうなりますね-。決心がついたのなら、洛陽にいるらしい荀攸さんにも一筆お願いしますね。支援の手は多ければ多い程良いですからー。でも、曹操さんのところの荀彧さんには出さないでください。お兄さんの話を聞く限り、支援してくれる可能性は皆無なので」

「……一晩考えさせてもらえるかな」

「あまり時間はありせんよ。少なくとも、最初の街に着くまでには結論を出してください」

 

 郭嘉の発言は、特に手厳しい。全体的にゆっくりと話す程立と違って、単刀直入に物事をずばずば言ってくる。おまけに理知的な眼鏡美人なものだから、相対して話していると威圧感を感じることもある。

 

 それに、郭嘉は団の金庫番だ。本人はもっと違う役割を得意としてるようだが、程立と比べた場合自分の方が得意ということで請け負ったのだ。団の金の流れの全てを把握する女性である。現段階でも色々と金策を考えてくれているようだが、長期的にもっとも効果があると彼女が主張するのが、大口のスポンサーを早めに見つけることだった。

 

「スポンサーを……あー、沢山金を出してくれる金持ちを見つけたとして、団のやることにあまり口を出されるというのも困らないか? 金だけ出してもらって口は出させないっていうのも、あんまりだとは思うけど」

「その辺りは契約次第でしょう。少なくとも、今の段階の我々には注文を付けても、応えることができませんからね。先々のことを考えるのも大事ですが、今は目先のことを優先しましょう。今日を生き残ることができなければ、戦うべき明日など来ませんよ」

 

 今借りた恩が後々になって負債となり、自分たちの行動を縛ることを危惧していたのだが、ど素人の自分が少し考えて思いつくようなことを、郭嘉が考えていないはずもない。参謀である彼女らが今はそれが必要で、それは必要ないと言ったのだ。

 

 一刀が考えるべきは、必要であるものをどのように捻出するかである。打てる手は多い方が良いというのであれば、手紙は出さざるを得ない。一度、近況報告くらいはしようと思っていたのだ。そこに援助の打診が加わるだけであるが、一刀の気持ちは晴れなかった。

 

 きっと、荀昆も荀攸も援助はしてくれるだろう。だが、その話はそう遠くない内に曹操のところに仕官したはずの荀彧の元にも届くはずだ。いずれ知れる話である。伝わるなら早い方が良いのは間違いないが、あの猫耳の耳に入ったら、後で何を言われるか解ったものではない。

 

 再会した時にどんな罵詈雑言が飛び出るのか。それを想像すると『楽しみで仕方がなかったが』それに程立や郭嘉が巻き込まれるのはどうにか避けたい。

 

 しかし、これを当の程立たちに言う訳にはいかないし、北郷一刀の頭では荀彧を上手いことけむに巻く方法など考えつかない。手紙を出すとなった時点で、荀彧から罵詈雑言が飛んでくるのは確定なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2、

 

 街が見えてくると、一刀達は二組に分かれた。街の外で陣を張って寝床を確保する組と、街の中で活動する組である。居残り組を指揮することになったのは程立で、これに梨晏が補佐として付くことになった。軍師と武官はセットで行動するというのが、幹部で決めたルールである。

 

 町に行く組は、郭嘉を筆頭に団長である一刀と、護衛としてシャンが付く。後は街で節度ある自由行動を許された十人の団員だが、彼らはさっさと街に消えてしまった。女性がいては行き難い所に行きたいらしい。団長もどうっすか? と誘われはしたのだが、誘った団員がシャンの拳で吹っ飛ばされたのを見るに、団長にそういう自由は許されていないらしかった。

 

 そのせいで微妙に機嫌が悪くなってしまったシャンの手を引いて、郭嘉の後ろに付いて街に入る。都会というには些か鄙びているが、それでもここ三ヶ月を暮した村と比べると随分と都会である。村では人の喧騒など宴の時くらいしか聞くことはなかった。喧騒すら、今は耳に心地よい。

 

 郭嘉が立ち寄ったのは商家だった。街でも一等地にある建物で、一目で大手と理解できる。村から持ってきたものを現金化するためと聞いている。こういう場所は一見さんに厳しいとも聞いたが、その不安はすぐに解消された。受付の男はやってきた郭嘉を、一目で只者ではないと判断したらしい。彼女が用向きを伝えるとすぐに奥に引っ込み、店主を連れてきた。

 

 いかにも商人といった恰幅の良い男である。郭嘉と比べると、親子ほども年が離れているだろう。行商人には見えない身なりの良い理知的な少女に、店主はまず面食らう。

 

 そしてそれを待っていたかのようなタイミングで、郭嘉はにこりともせずに話を切り出した。

 

「初めまして。私は郭嘉。旅の者です。東にある村からいくらか品物を持ってきたのですが、こちらで買取っていただけないでしょうか」

 

 草履や蓑、傘など農業の合間に作った品々である。これらの品質は持ち出す前に郭嘉が確認しており、街でも十分に売れるレベルの物だと太鼓判を押した。

 

 ただ、荷馬車もない集団では持ってこれる量に限りがある。二百人の内何人かを人足として利用し、持てるだけ持ってきたのだが、それでも商家に持ち込まれるケースで買取るには、些か物足りない量と言わざるを得ない。店主も僅かに渋い顔をしたが、郭嘉はそれを見逃さなかった。

 

「我々としては、これくらいの値段でと考えています」

 

 郭嘉が提示した値段に、今度は店主は驚きの顔を見せた。明らかに相場を大きく下回っていたのだ。東の村から運んできた手間と仕入値を考えると、利益としては明らかに割に合わない。もしや非合法な手段で入手したのでは、疑問を口にされるよりも僅かに先に、郭嘉が言葉を重ねる。

 

「お近づきの印、とお考えください。実は我々は、昨今蔓延る賊どもを打ち倒すことを生業をしておりまして、賊の所在は喉から手が出るほど欲しいものなのです。商人ともなれば、旅から旅の者とも多く伝がございましょう。相場との差額は、その情報料とお考えいただければと思います。無論、それを知らぬと仰せの場合でも、この値段をひっこめたりは致しません。あくまでこれはお近づきの印。そう考えてくださいますれば、幸いです」

 

 さて、と主人は考えた。流れの行商人にすればこの差額はそれなりの大金だろうが、街で店を構える彼にとっては大した金額ではない。それを担保に情報を売れと言われている訳だが、それで先々自分に利益があるのかどうか。商人らしい賢しさで、彼は考えていた。

 

 盗賊というのは、商人にとっても悩みの種である。商隊が商品を運ぶ際、これに護衛をつける訳だが、その費用もバカにならないし、この護衛でも何とかならなかった場合、大きな損害を被る。賊が少なくなったとしても護衛を付けなくなるということはないが、ある程度の安全が保障されれば護衛を少なくすることができる。賊がいないに越したことはない。賊を倒すことを生業とするというのは、商人からすれば渡りに船だ。

 

 当然、彼の元にはどこで賊が出てどれだけ被害が出たという情報があった。元よりタダで仕入れた情報である。これに値段が付くというのならば売らない手はないのだが、ここで商人としての欲が出る。彼らは基本、客が許してくれる最大限の値段で物を売ろうとする。もっと吊り上げられる、と彼は考えていた訳だ。

 

 しかし、こちらは郭嘉である。実は商人が持っている程度の情報は、彼女は既に知っていた。元より今彼が握っている情報というのは、郭嘉がシャンたちと旅をしていた時に収集した情報が元になっている。むしろ、純度が高い分、郭嘉が記憶している情報の方が正確で価値があると言っても良い。

 

 主人の表情から、その純度の低い情報を勿体ぶろうとしていることを察した郭嘉は、内心を隠しながら言葉を続ける。

 

「それでは、こういう形ではどうでしょうか。ご主人の商隊がこの街を出る時、盗賊がいる区域の近くを通るのであれば、その道程、私どもが同行します。この際、ご主人のお連れになる護衛の半数以下の人数でお供するとここでお約束しましょう」

 

 数を頼みに襲い掛かったりはしない、と言葉にしておく。無論店主にとって郭嘉というのは初めて会う相手であり、信用するに値しない人間である。差額と情報料は釣り合うかもしれないが、そこに賭け金として商隊の安全を突っ込むことは、また別の話だ。

 

 もう一つ。そう判断した郭嘉は、後ろ手で一刀に合図を出した。それを受けた一刀は懐からあるものを取り出し、店主に差し出す。

 

「これは?」

「豫洲から洛陽に赴きました時、私を乗せてくれた商隊責任者からの書状です。こちらの商家とも取引があるとお聞きしましたので、お持ちしました」

 

 差し出された書状を一目みて、店主の顔色が変わった。彼の商家はこの街では大手の一つであるが、国全体で見ると決して大きいとは言えない。対してこの書状を書いた者は、国全体で商売をしている大手であり、彼も年に何度か取引をさせてもらっている。

 

 書状には彼が何度も見たことがある名前と、横に印が押されている。間違いなく本物、という確証は持てないが、この場でこれを出されるだけで店主には十分だった。疑念は全て払拭され、この時点で郭嘉たちは大事な取引相手に変わった。

 

「いえ、この時勢に賊を討とうとしてくださる義勇の士。我々も疑うことなどありはしません。ご同道、こちらの方からよろしくお願いします」

「ご配慮感謝いたします。つきましては、私共はまだ今晩の宿を決めておりません上、仲間は街の外で待機しております。御都合のよろしい時に打ちあわせなどしとう存じますが、どのようにするのがよろしいでしょうか」

「商隊の出発は三日後でございます。そちらの都合がよろしければ、明日にでも打ち合わせをしたく存じますが」

「それではそのように。また明日、こちらを訪ねさせていただきます」

 

 それから二、三社交的な言葉を交わして、郭嘉は商家を辞した。その後を、一刀もシャンも黙って付いて行く。店が見えなくなってしばらくして、郭嘉は肩越しに振り返った。

 

「何か聞きたいことがあるのではありませんか?」

「悪いな。俺、ほとんど黙って突っ立ってるだけだったよ」

 

 質問よりも先に謝罪が出てきたことに、郭嘉は苦笑を浮かべた。上に立つ人間は謝罪のタイミングが遅いことが多いが、一刀は自分に否があると思ったらすぐに頭を下げる。正直、頭が軽すぎると思えなくもない。もう少し、集団の頂点に立っているという自覚を持ってくれると良いのだが、それは追々教えていけば良い。

 

「こういう場で貴殿が役に立つのは、もっと経験を積んでからです。今は私か風のやりようを見て、糧にしてください。それに書状を出してくれただけでも、十分な働きです。私や風では、あんなものは用意できませんでしたからね」

「そう言ってもらえると助かるよ。それでさっきの交渉だけど、良かったのか? タダで護衛を引き受けることになったみたいだけど」

「視点を変えましょう。彼らは私たちにタダで道案内をしてくれた上、途中まで道を共にしてくれるのです。加えて言えば契約の大筋が決まっただけで、まだ細かいところを詰めた訳ではありません。これからいくらでも、こちらに良い条件を追加できるでしょう。道中の糧食くらいはもぎ取ってやりますので、大船に乗ったつもりでいてください」

「村から持ってきたものは、随分安く売ったみたいだけど?」

「彼に精神的に貸しを作っておきたかったのでそうしました。彼の気持ちの中では、今回の収支は黒になっているはずです。お互い納得ずくで良い取引をしたと言えるでしょう。それに儲けが出ていない訳ではありませんよ。少しですが蓄えができました」

 

 全て計算通りです、と郭嘉は結論付けたが、それが一刀には腑に落ちない。

 

「……結局、郭嘉の目的は何だったんだ?」

「あの商家と共に仕事をすることです。収入についてはこの際、どうでも良いのですよ。最悪盗賊の蓄えを根こそぎ奪えば良い訳ですし、盗賊を討伐したとなれば、少ないでしょうけどしかるべきところから報酬が出ます。名前と顔を売り、この辺りの顔役を通じて方々に『我々は仕事のできる集団である』と宣伝してもらうため……目的としてはそんなところですね」

「郭嘉がいてくれて本当に良かったよ」

「ありがとうございます。あと、道中の村から現金化できそうなものは回収していきましょう。馴染みの行商人と契約している可能性もありますが、そうでないものもあるはずです。金子はあって、損はありませんからね」

「傭兵団が副業をしてるんじゃなくて、その内行商人が副業で傭兵をすることになりそうだな……」

「そうならないために、貴殿たちがいるのです。きりきりと働いてください」

 

 郭嘉流の冗談に、一刀は苦笑を浮かべる。難しい話は退屈なのか、シャンは一言も発しないままだが、繋がれた手はそのままだった。その手がふと引かれる。どうした、と声を挙げようとした矢先、

 

「おっと……」

 

 小柄な少女と、すれ違い様にぶつかってしまった。少女はバランスを崩して転びそうになったが、素早く動いたシャンが身体を支えた。シャンも十分に小柄だが、少女は更に小さい。見たところ怪我はなさそうだ。一刀は少女と視線を合わせるようにして、膝をついた。少女の赤みがかった真っすぐな瞳が、一刀を見つめ返す。

 

「怪我はない?」

「はわわ……大丈夫です! こちらこそ、不注意でご迷惑を」

「良いさ。怪我がないなら何よりだ」

 

 少女に怪我ないことを言葉にして確認した一刀は、改めて少女を観察した。淡い金髪のおかっぱ頭。大きめの帽子と、腰元に大きなリボンの付いた女子高の制服……のような制服を着ている。フランチェスカの女子制服に比べると地味な装いだ……という感想を、数か月前に抱いたことを、一刀はすぐさま連想した。彼女はスカートなど履いていなかったが、着ていた上着のデザインは眼前の少女と同じである。

 

「君はもしかして――」

「朱里!」

 

 人ごみの中、少女を追ってきたのはやはり、一刀の想像した通りの女性だった。

 

 この世界では珍しいパンツルック。女性にしてはすらっとした長身だが、出るところはしっかりと出た男装美人である。少女と共通するのは制服の上着と、帽子をかぶっていること。ただし、少女の方は魔女のようなとんがり帽だが、女性が被っているのは古典映画でマフィアが被っていそうなソフト帽である。

 

 女性――元直は、一刀の姿を見つけると、軽く目を見開いた。

 

「一刀じゃないか。これから後輩と訪ねようと思っていたのに、そっちから来てくれるとは……まさか僕に会いたくなったのかな?」

 

 相変わらずの伊達男っぷりを発揮した元直は、一刀たちの視線を集めると小さくウィンクをしてみせた。一つ一つの仕草が、役者のように様になっている。それでいて嘘臭くないのだから、如何に普段から彼女がこういうことをしているのかが解るというものだ。

 

 

「自警団の団長を引き受けた君が、かわいいお嬢さんを連れて何でここにいるのか……まぁ、他にも聞きたいことは色々ある。再会を祝して僕が費用を持つよ。その辺の茶屋にでも、付き合ってもらえないかな?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




元直さん再登場。
何故ここに後輩たちをつれているのかは次回にて。


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第016話 流浪の軍団編③

 

 

 

 

 

 

 元直が選んだのは住宅街にある、小洒落た雰囲気の店だった。労働者が中心の大衆食堂とは明らかに客層が違う。目につく身なりの良い連中は下級官吏だろう。彼らは来客があったことに入り口に目を向けたが、それが女性の集団であることに目を剥いた。

 

 目ざとい連中は元直と後輩二人が着ているのが水鏡女学院の制服だと気づいていた。才媛を輩出すると有名な学院で、政財界にその出身者は多い。そんな連中がこの地方都市に何の用だろうか。地元の役人としては気が気ではないが、元直は主人に話を付けると奥まった個室へ足を進める。

 

 金の使い方が堂に入っている。おそらく普段からこういう所を使っているのだろう。一緒に旅をした仲ではあるが、経済的な感覚には開きがありそうだった。

 

(思えば洛陽にいた時からこんな感じだったな……)

 

 一緒に散策していても遊び方が綺麗と感じたものだ。それでいて楽しそうに見えないというのではなく、同行している人間にも常に気を配っている。良い意味で遊び慣れている社交的な人間だ。初めて足を踏み入れる都会で遊ぶことになっても、こいつと一緒にいれば大丈夫という安心感がある。

 

 個室に案内された元直は一刀たちに席を勧め、適当に注文を済ませると帽子を取って一礼する。

 

「そちらのお嬢さんたちは初めましてだね。僕は徐庶。字は元直。一刀とは友人で、洛陽から村まで一緒に旅をした仲だ。見て解るかもしれないけど、水鏡女学院の出身だ。後輩共々よろしく」

「私は郭嘉。字は奉孝と申します。学院きっての才媛と名高い貴殿に、お会いできて光栄です」

「その肩書も後輩二人に持っていかれそうで、冷や冷やしてるけどね。こちらこそ『神算の士』と名高い郭嘉殿にお会いできて光栄だ。それでそちらは――」

「徐晃。字は公明」

 

 シャンの自己紹介は短い。お前と関わり合いになりたくないという感情が透けて見えていた。小さな両手で抱えた椀に口を付けながらも、視線は全く元直に向けようとしない。口数は少ないが人につっけんどんな態度を取るような少女ではないはずなのだが、何か理由があるのか。それを聞こうとした一刀を、元直が指で制した。

 

 元直は卓に身を乗り出してシャンに顔を近づけると、努めて優しい声音で言った。

 

「大丈夫。別に一刀を取っていったりはしないよ。見たところ君はかなりの手錬のようだ。君みたいな可愛い武人がいるなら、一刀も安心だね。僕の親友のことをよろしく頼むよ」

「…………ごめん。シャンが悪かった」

 

 シャンがおずおずと差し出した手を、元直は笑顔で握り返した。惚れ惚れする程の気の回しっぷりに内心で感心していると、一刀の袖がちょいちょいと引かれる。

 

「お兄ちゃん、この人凄い良い人?」

 

 手錬よりもかわいいという言葉を気に入った様子である。今までシャンの周囲にいた人間は、誰も彼女に可愛いと言ったことがなかったのだろうか。こんなにかわいいのに……と思いながらシャンの髪に手を伸ばす。唐突に髪に触れられたことにシャンは僅かに身体を震わせるが、すぐに髪をすく指を受け入れて笑みを浮かべる。

 

「一刀、そういうのは君らの部屋でやってもらえるかな?」

 

 放っておくといつまでもいちゃついていそうな気配を感じた元直が、少し強い語調で断りを入れる。隣では郭嘉が額を押さえて苦い顔をしており、少女二人は『私たちは何も見てません』という顔で視線を逸らしていた。そもそも、今は少女二人の自己紹介のタイミングである。咳払いをしてその場を誤魔化す――誤魔化したことにした一刀は、視線で少女たちに先を促した。

 

「しょ、諸葛亮。字は孔明です」

「鳳統。字は士元と申しまひゅ」

 

 かみかみであるが、少女たちの名乗った名前を聞いた一刀は動きを止めた。片方に聞き覚えがある。諸葛亮。字は孔明。三国志を全く知らない人間でも名前を知っているだろうその人物は、主人公格の一人である劉備に仕えた天才軍師として知られている。

 

 一刀は諸葛亮と名乗った少女の顔をじっと見つめた。頭にはベレー帽。薄い青色の長い髪は首のところで二つに縛られている。気が強い性質ではないのだろう。視線は定まっておらず常に泳いでいた。自信に満ち溢れた元直とは対象的である。

 

 それは鳳統と名乗った少女も同様だった。一刀が視線を向けると、童話に出てくる魔女が被るような先の曲がったとんがり帽子のつば(・・)で、顔を隠してしまう。一刀の位置から見えるのはおかっぱの金髪くらいである。

 

 最初に出会った水鏡女学院の関係者が元直なせいか、小動物のような、という印象を強く持った。考えれば卒業生在学生が全部元直のような少女、という方が恐ろしい。二人には男心を擽るかわいらしさはあるが、軍師として見ると聊か頼りないようにも思える。

 

 しかし、青い髪の少女は諸葛亮だ。学校を卒業したばかりというならば、まだ誰にも仕えていない可能性が高い。仕官先に向かっている途中という可能性もあるが、それにしては急いでいる気配が感じられなかった。元直はここで出会わなければ村まで足を運んでいた風である。後輩の二人は元直の旅に同行していると考えるのが自然だろう。

 

 小さく、溜息を吐いた。

 

 一刀に三国志に関する知識はほとんどない。それでも、諸葛亮が後の三大勢力の一角、その大軍師であることは知っている。この世界が三国志に似た世界であることも、荀家にいた頃に薄々ではあるが気づいていた。

 

 問題なのはここが同じ世界ではなく、似た世界ということだ。

 

 仮にここが同じ時間軸の過去であるとしても、既に未来から過去に向かって一人の人間が移動している以上、同じ過程、同じ結末になるとは限らないし、何より重要人物の性別が変わっているという重大な差異がある。

 

 女だからこそできることも勿論あるだろうが、男でなければできないことも当然ある。性別とはそれだけ個人を構成する要素の中で大きなものだ。今後の展開が実際の歴史や小説と同じになると、期待するのは難しい。

 

 だが、展開とは別に期待できるものもある。かの史実を元にしたという歴史小説において、重要な役割を果たした人物たち。彼らと同じ名前を持った少女らには、同じような能力、同じような役割があると考えて差し支えないように思える。現に曹操は英傑と評判だし、一刀程度の知識でも聞いたことくらいはある名前が周囲にも何人もいる。

 

 知らない人間が他に思いつくとすれば、精々劉備関羽張飛趙雲、後は呂布くらいのものだろう。趙雲はシャンたちの旅仲間だったらしく、今は幽州の公孫賛の元で働いているという。呂布は朝廷の軍に属しており、司隷が活動の拠点だとか。国士無双の武士として知られており、最強の呼び声高い。

 

 ただ劉備他二名については情報を集めながら旅をしていた郭嘉たちも知らないと言っていた。まだ世に出ていないだけならば良いが、最悪この世界には存在していない可能性もある。やられ役が百人千人消えたところで誰か別の人間がやられ役になるだけだが、三勢力の一つの代表が存在しないのでは展開が大きく変わる可能性があるが――そもそも、そんなことを気にしたところで始まらない。

 

 元より大した三国志の知識はないのだから、三国志のように歴史が転がったところで対応できる所は少ない。現代の知識を活かそうにも、ただの高校生である一刀にはすぐにでも実行できる革新的なアイデアには心当たりがなかった。

 

 火薬ならば作れるかも、と某落第忍者漫画で読んだ知識を元に実践できないか考えてみたが、結局危険すぎるということで誰にも相談せずに断念した。硫黄と硝石と木炭で作れるということは知っていても、どれをどれくらいの分量で混ぜるのか全く解らないし、木炭と硫黄はどうにか他人にも説明できるが、硝石がどういうものでどこで取れるのか一刀には見当もつかない。

 

 この世界にもあくまでこの世界の水準で化学的な知識を持っている人間はいるだろう。そういう人間を捕まえて試行錯誤を繰り返せばいずれ作れるようになるかもしれないが、その過程に危険があることに変わりはない。

 

 一刀の勢力の規模ではその危険を受け入れることはできないし、そもそも試行錯誤するだけの予算がない。生兵法は怪我の元、というのが良く解る思索だった。

 

 ついでに言えば、仮に歴史通りに物事が進まなかったところで、一刀に不都合は全くない。現代から見た過去と同じように物事が進まなければ、北郷一刀という存在が消えるというのであれば本腰も入れようが、今のところ身体が透けたり頭痛がしたりという兆候は見られない。

 

 どういう事情でこの世界に来たのか、一刀は考えないようにしていたが、もし神様のような超常的存在の力で送られてきたのだとしたら、きっとその神様は『自らの欲するところを為せ』と言っているに違いないと考えることにした。

 

 神様については顔を合わせる機会があったら渾身の力を込めて殴りつけるとして、今はともかく諸葛亮である。

 

 この少女が演じる役割は、史実や小説とそう差はないと考えて差し支えないだろう。この少女の小さな肩に、この国の命運が乗っている。少女がどこに行く、誰に仕えるということが、多くの人間の趨勢を決めるのだ。欲を言えば自分のところに欲しい。郭嘉にも程立にも何の不満もないが、物を考える人間こそ今、一刀の勢力では大きく不足している。

 

 後の大軍師であれば大歓迎だが、しかし誰もが郭嘉や程立のように好んで小勢力に籍を置いてくれる訳ではない。名門の学校を卒業したばかりだ。まさか現代と同じで新卒か既卒かを気にするような環境でもないだろう。就職口はいくらでもあるだろうし、是非うちに! という勧誘も掃いて捨てる程あるに決まっている。

 

 そんな純真無垢な美少女二人に、盗賊あがりの傭兵団に来ませんか、と言うのは人間として抵抗があった。アットホームな職場である。やる気次第で出世もできる。現代的な誘い文句が次々に浮かんでくるが、どれも空々しく思えた。どちらも一応事実ではあるのが、救いと言えば救いである。

 

 とは言え背に腹は代えられない。一刀は既に傭兵団の団長であり、団員の将来を預かる立場である。団員の質は団員たちの生存率に直結する。この少女たちが味方にいれば、それだけ味方の命は助かり将来性も豊かになるのだ。輝かしい未来に水を差すのは心苦しいが、人間やはり自分たちが一番大事である。ダメで元々。結婚詐欺師にでもなったつもりで、一刀は小さく余所行きの笑みを浮かべた。

 

「俺は北郷一刀。これから村に向かうつもりだったなら聞いてるかもしれないけど、少し前までそこで自警団の団長をやってた。今は色々あって、傭兵団の団長をしてる」

「詳しく聞きたいね。僕の見立てでは、もう少しもう少しと先延ばしにして、子義ちゃんあたりと番になると思ってたんだけど」

「そんな気配は感じてたけど、幸か不幸かそうはならなかったな。というか、他人の目から見てもそんな雰囲気だったのか?」

「僕が村の人の立場だったら君を放っておかないよ。それなりに顔は整ってるしそれなりに学がある。何より若い男だ。頭数は生産力。若さはその持続性を表す。ちょうど良い年齢の子がいるなら、とりあえず宛がってみようと思うのは当然さ」

「五歳も下だぞ?」

「たかが五歳だろ? それくらい年の差のある夫婦なんて世にいくらでもいると思うけどね」

 

 何を言ってるんだい、と元直は表情でそう言っている。郭嘉もシャンも、子義を宛がうことそのものに思うところはあるようだったが、五歳の年齢差を問題にしているようには見えない。そも、現代でも五歳差の夫婦というのは珍しいものではない。一刀が『五歳も下』と思ったのは、現代で考えると子義がまだランドセルを背負っているような年齢だったからだが、ただ嫁ぐだけであれば十代前半というのは少ないだけでありえない訳ではない。

 

 特に人口が生産力に直結する田舎であればなおのことだ。男も女も夫婦になるのは早ければ早い程良い。その分、子供が沢山生まれ、生産力に貢献できるからだ。子義と夫婦になる。別段、悪い話と思えないのが非常に恐ろしい。長くあの村にいて、周囲にそんな状況を作られていたら。考えれば考える程、あのまま村に残っていたら本当に子義と夫婦になっていた気がする。

 

「誰が君の気持ちを射止めるかには興味が尽きないが、今は置いておこう。自己紹介も済んだことだし近況報告をしてもらえるかな?」

 

 気を取り直して、一刀は最近自分に起こったことを話し始めた。村に二百人からなる盗賊団が押し寄せてくると情報が入ったこと。その盗賊団を追ってきた郭嘉たちが村にやってきたこと。彼女らの作戦で盗賊団に奇襲をかけて幹部を皆殺しにし、子分たちを自分の勢力下においたこと。

 

 その際、『天下を狙う』とぶちあげたことは省略した。仲間たちにも、外でその話は絶対にするなと厳命してある。元直のことが信頼できない訳ではないが、個室とは言え、流石に外でする話でもない。一刀の全ての話を聞き終えた元直は、長い長い溜息を吐いた後、

 

「どうして僕がいない時に、そういう面白そうなことをするのかな。親友として理解に苦しむね」

「悪かったよ。次はちゃんと声をかけてから面白いことをするよ」

「頼んだよ。それでも疑問は残るけどね。二百人の荒くれ者をどうやって支配下に置いたのか、とかさ……」

 

 君の作戦? と元直の視線が郭嘉に向く。

 

「いいえ。勧誘に関しては一刀殿に何の入れ知恵もしていません。彼の器を見るためでもありましたから」

「なら、一刀は君の眼鏡に適ったのかな。最初はどうして君がと思ったけど、納得尽くでいてくれるなら安心だ。一刀、この眼鏡の美人さんを逃がしちゃだめだよ?」

「愛想を尽かされそうになったら、拝み倒してでも引き留めるつもりだよ」

「仲が良さそうで何よりだ。傭兵団ということは、いずれ起こるだろう大戦までは、盗賊を狩って生計を立てるつもりなのかな」

「そのつもりです。先ほど大手の商家に挨拶に行ってきました」

「繋ぎを作る、ということだね。しばらくはこの街を拠点に?」

「この辺りではここが一番大きいですからね。もっと大きな街に行っても良いのですが、そういう場所には似たような勢力が多くありましたし……」

 

 村に到着する前、情報収集をしながら旅をしていた郭嘉は、近隣の街の状況を良く理解していた。もっと良い街に行くこともできたがここで妥協したのは、そういう存在を知っていたからに他ならない。無論のこと頭脳で負けるつもりはないが、地元有力者の支援を受けているという段階で、彼らは勢力として一歩も二歩も先を行っている。兵数では既に同等以上のものなのだ。彼らに勝つのに必要なのは、時間だけである。

 

「今は雌伏の時という訳だね。いずれ軌道に乗るとは思うけど、まだ乗ってはいない。なら、僕らにもまだ機はあるってことかな」

「協力してくれるってことか?」

「いや、もっと打算的な表現をしよう。業務提携のお誘いさ。僕は――水鏡女学院は、一刀の将来に期待して情報を提供する。代わりと言っては何だけど、将来君が立身出世したら、僕の後輩たちのために就職を世話してくれないかな?」

「名門女学院の期待に応えられるか解らないぞ?」

 

 全国にその名が知られるような名門校。通っているのは名家の子女に限らず、全国から優秀な少女が集まっているという。全てが元直に匹敵するという訳ではないだろうが、その卒業生となれば超のつく優秀な人間だ。いずれ天下を取るとぶちあげている。最終的には何でも受け入れられるようにならなければならないが、それはあくまで最終的な話。名門校の少女を受け入れられる体制が、何時整うかは現状全く見通しが立っていない。

 

 一刀の問いにはそれでも良いのか、という確認の意味も込められていたが、元直は大して考えた様子もなく首を縦に振った。

 

「いくら優秀な生徒を生み出しても力を活かせる場所がなければ意味がない。就職口が増えれば、優秀な人間は取捨選択の幅が広がるし、そうでない人間も進路に幅ができる。後、卒業生だけでなく途中で退学になった生徒たちについてもできる限り就職口は世話をしなきゃいけないからね。就職口は多いに越したことはないのさ」

 

 ただの卒業生というよりは教務員のような口ぶりである。お使いに行かされたり後輩の面倒を見たり就職口の世話をしたり、元直の仕事は一体何なのだろうか。その興味は尽きないが、彼女の提案は一刀にとって願ってもない話だった。

 

 元よりこちらはお願いする立場なのに、向こうから枠を確保してくれとお願いされている。現時点では、一刀側に大きなうま味があるだけで、水鏡女学院にはそれがない。即断即決しようとした一刀がブレーキをかけたのは、その差分に何が充てられるのか解らなかったからだ。

 

「嬉しいよ。ちゃんと用心深くなったんだね。二つ返事で是と言っていたら、軽く説教でもするところだった」

「他にも条件があるんだろ?」

「うん。僕からの要望は二つ。これからは僕と連絡を密にしてほしいということ。早い話、水鏡女学院の情報網に協力してほしいんだ。勿論、全ての情報をよこせなんて言わない。あげられるものだけで構わないから、適宜情報をこちらに送ってほしい」

 

 悪い話ではないように思える。小勢力である一刀たちは、確固とした情報網を持っていない。既に持っている勢力のものを使わせてもらえるなら、これに越したことはない。勝手に情報を吸い上げられる、という可能性もあるにはあるが、情報を吸い取られるデメリットよりも、情報を得られるメリットの方が大きいように思えるのだ。

 

 一刀は視線を郭嘉に向けた。個人的な考えでは、この話は受けておきたい。元直は信頼に値する人物だし、水鏡女学院とのコネは維持したい。黙っていても有望な新人を確保できる……可能性がある環境は、先々のことを考えるならば今の内に構築しておきたい。

 

 その優秀な新人を受け入れる体制が整うのは二年も三年も先だろうが、元来先行投資とはそういうものだ。確定した未来を観測できないからこそ、皆懸命に勉強するなり手を回すなりして、将来に備えるのである。

 

 一刀の視線を受けて、郭嘉は小さく笑みを浮かべた。

 

「私の顔色を窺う必要はありませんよ。貴殿の思うようになさってくださって結構です」

 

 部下を思う上司と、上司を立てる部下の演出である。それを装っているが、これは迂遠な表現による郭嘉のゴーサインだ。受けて問題なし。希代の軍師はそう言っている。

 

「ありがとう郭嘉。やっぱりお前は頼りになるな」

「おだてても何も出ませんよ」

 

 そっけない態度だが、口の端が僅かに上がっている。シャンや梨晏ほど感情表現が豊かな訳ではないが、起伏が少ないという訳ではない。個性の塊のような程立と一緒に旅ができたのだ。郭嘉も相当な変わり者である。

 

「それは問題ない。受けようと思う。もう一つは?」

「こっちは特に深く考えずに受けてくれると嬉しい。僕の最も自慢する後輩であるところのこの二人を、しばらく預かってもらえないかな?」

「それは願ってもない話だけどさ……」

「学院でも演習はするんだけどね、それはあくまで演習だ。実際に就職してから軍権を預かることになる訳だけど年端もいかない美少女にいきなり軍権を預けるには色々と抵抗がある。未経験なら尚更ね。そういうところでしらない衝突を避けるために、実地訓練をできるだけさせておきたいのさ。君のとこにはデキる軍師もいるし、徐晃ちゃんみたいな腕の立つ美少女もいる。後輩を預けるには持ってこいの環境なのさ」

 

 持ってこいとは言うが、軍権をいきなり預けるのは抵抗があると言われたばかりである。少女二人を受け入れるということは、それをするということだ。元直の紹介である。しかも諸葛亮だ。一刀には受け入れることに全く抵抗がなかったが、普通はいくら優秀でも抵抗があるものなのだろう。何しろ元直が態々条件の一つに数えるくらいだ。

 

「良いよ。構わない。むしろ俺からお願いしたいくらいだ。元直の紹介なら安心だしな」

「そう言ってもらえると助かるけどさ。僕だからってのは信用し過ぎじゃないか?」

「親友なんだろう? それくらいは信頼するよ」

「…………君も言うようになったね」

 

 元直は肩を竦めて苦笑した。信頼までされたのでは、疑問を持つ訳にはいかない。いくつもの懸念が一気に解決した。これで後輩の未来が開けるならば、安いものだ。

 

「君の仲間たちに挨拶に行かないとね。子義ちゃんの顔も見たいし、もう一人の軍師さんにも会ってみたい」

「良い奴だよ。元直もきっと気に入ると思う」

「楽しみだね」

 

 ほほ笑む元直の横で、所在なさげにしている少女二人を見る。ベレー帽の青髪と、魔女帽子の金髪。諸葛亮と鳳統。少女二人に、一刀は妙な違和感を覚えていた。言葉にはできないが、何か大きなことが違っている気がする。

 

 元直を見る。彼女は笑顔を返してくるだけだ。ここに何かあるという気配はないが、元直ならばそれくらい笑顔の下に隠して見せるだろう。元直のことは信頼できる。何か隠しているとして、それがこちらに危険があるものではないと確信は持てた。

 

 ならば、気にすることはないと、一刀は思うことにしたが、何かを試されていることは解った。これは少女二人の実地研修であると同時に、北郷一刀の面接試験でもあるのだ……

 

 

 

 

 

 

 




違和感の正体については後々に。多分想像の通りです。


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第017話 流浪の軍団編④

 

 

 

 

 

 

「元直、一つ聞きたいんだけどさ。その帽子、どこで買ったんだ?」

「これは学院を卒業した記念に先生から頂いたものだよ」

「君らの先生が選んだってことか?」

「正確には先生がこういう帽子を作ってくれと仕立て屋に発注したものだ。だからこれに限らず、僕らの帽子は唯一無二って訳だね」

「…………君らの先生ってどういう人だ?」

「上品で優しい人だよ。生徒が解らないことは、解るまで付き合ってくださる。実に根気のある教育をなさるお方だよ」

「服飾については?」

「あまり華美な服装は好まれないね。印象の通りに上品な服装を好まれる。中々趣味の良い方だよ」

「そうか……」

「妙齢なご婦人に鞍替えでもしたのかい? 先生を紹介しろって言うなら、生徒の一人としては全力で抵抗させてもらうけれど」

「そうじゃないよ。そんな人が選んだなら、俺の判断が間違ってんだなって打ちひしがれてたのさ」

「どういうことだい?」

「いや、俺が帽子を贈る立場だったら、諸葛亮と鳳統に贈る帽子は逆にする。諸葛亮の方にとんがり帽子。鳳統の方にベレー帽だな」

「…………一刀。君は時々、本当に凄いね」

「いつも凄い元直にそう言ってもらえると身が引き締まるよ」

「皮肉じゃなくて、完全な褒め言葉だよ。君は本当に人を見ている。これからもそれを忘れないで。ただ、同時に君の問題点もはっきりと見えた。君はもう少し自分に自信を持つと良い。今のうちに沢山失敗をして、郭嘉さんにでも怒られて、そこから色々学ぶんだ。そうすればきっと、君は人の上に立つに相応しい人間になれるよ」

「励ましてくれてありがとう。元直にそう言ってもらえると、本当に励みになるよ」

「僕もそう言ってもらえて嬉しいよ。いつか僕が仕えてみたいと思えるくらいに成長しておくれ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 元直たち三人を連れて野営地まで戻ると、団員たちは死屍累々の有様だった。適正を見て隊を分けるという作業をしている最中である。選定は主に程立と梨晏が担当している。この作業はもうまもなく完了するということだった。

 

 隊の振り分けが済めば、兵は幹部各々に振り分けられる。土木作業に強い部隊が欲しいと言っていた程立には元大工など、土木作業の経験者を中心に。弓が得意な部下が欲しいと言っていた梨晏には、元猟師など弓が得意な連中を集めると言った具合だ。

 

 それはそれとして、戦闘訓練も同時に行っている。一周りは上の男たちが姉御と慕える程に、梨晏とシャンの腕は突出していた。今日も梨晏一人で二百人の面倒を見ていた訳だが、死屍累々な二百人に対して梨晏は少し疲れたという程度である。今の傭兵団に梨晏の相手が務まるのは、シャンしかいなかった。

 

「おやおや兄さん。お仕事に行ったと思ってましたが、女性をひっかけてきたんですか?」

 

 軽い書類仕事をしながら訓練を眺めていた程立が、一刀たちに気づいて腰を上げる。歩み寄ってきた程立の小ささに、元直は僅かに驚きの表情を浮かべた。郭嘉とセットの軍師というから、勝手にもう少し大きい女性を想像していたのだ。それが、自分の後輩よりは大きいとは言え、こんなにも小さいのだから驚きもする。

 

 だが、小さくても軍師である。この少女は郭嘉と並び立つ人間なのだと思いだし、元直は笑みを浮かべて程立に手を差し出した。

 

「はじめまして。徐庶。字は元直だ」

「これはご丁寧に。私は程立。字は仲徳と申します。水鏡学院一の才媛と名高い貴女にお会いできて光栄です」

 

 程立は元直の手を握り返し、型通りの挨拶をしている。相変わらず眠そうな顔をしていて、内心を読み取ることはできない。そんな程立を横目に見ながら、一刀はそっと郭嘉に耳打ちした。

 

「元直はそんなに有名なのか?」

「知らないで付き合っていたんですか? 風も私も言った通り、水鏡女学院の歴史の中で一番の才媛と名高い方です。水鏡先生の信頼も厚く、行く行くは学院を継ぐのではとさえ言われています。ただ――」

 

 郭嘉の視線は、元直の後ろに立つ二人の少女に向いた。

 

「あの後輩二人は、それを凌ぐ程の傑物だと言われています。『臥竜』と『鳳雛』とあだ名され、学問全てに精通しているとさえ言われていますが、正確な所は解りません。『臥竜』諸葛亮は内政に、『鳳雛』鳳統は軍略に特に秀でているという話です」

「なるほどな……ちなみに、自分とその周辺の人間を除いて、郭嘉の目から見て、現役で有能な頭の回る人間ってどれくらいいる?」

 

 興味本位の質問であるが、一刀たちが後に天下を取るのであれば避けて通ることはできない問題だ。質問を置き換えるとこういうことになる。自分たちが天下を取るに当たり、最も障害となる頭脳は誰か。郭嘉の返答は早い。自分たち以外でならばと、常日頃から考えていたのだ。

 

「今現在までの実績を加味して名前を挙げろと言われれば、私が挙げるのは四人ですね。孫堅配下の周瑜、豫洲の曹操、袁術配下の張勲に袁紹配下の顔良」

「前半二人は聞いたことあるけど、後半二人は記憶にないな」

「表にはあまり名前の出ない方々ですからね。ですがその筋に有名です。袁紹も袁術も愚物と名高いですが、それにも関わらず北袁も南袁も軍団の体を有し続けているのは、一重にこの二人が軍団を仕切っているからだと専らの評判です。できれば会って話をしてみたいと思っているのですが、無理でしょうね」

「だろうなぁ。元直、その二人に会ったことないか?」

 

 程立と話し込んでいた元直に、話を振ってみる。先生のお使いで国中をうろうろ歩き回った元直だ。意外なところで顔が利いても不思議ではないと思い、それなりに期待しての問いだったのだが、元直の答えは否だった。

 

「僕も郭嘉さんと同じ気持ちだよ。とても会って話をしてみたい。どういう感性をしてたら愚物を頭上に据えてあんな大軍団を維持できるのか。是非コツを聞いてみたいね」

「外に漏れるくらい袁紹と袁術って言うのは不味いのか?」

「袁術は、実のところそれ程悪いものでもないのです。突拍子もないことを多々言うらしいですが、張勲が上手く取りまとめていますし、親戚連中も袁術に追従します。よくも悪くも愛されているのでしょう。袁術の一存で組織全体が動くので、一枚岩と言っても良い。問題なのは袁紹です。本人が突拍子もない上、それに輪をかけて親戚連中が煩く組織が一枚岩ではないのです。貴殿一押しの荀家のご息女も、相当苦労したことでしょう。辞めて当然です」

 

 友人の、かつての就職先を悪く言うのもどうかと思うが、袁紹に対する郭嘉の評判は最悪だった。これだけ評判が悪く、しかも一枚岩でないと外から評価されるような組織では、あの我の強い荀彧ではさぞかし苦労したことだろう。

 

 袁紹の悪い評判は、荀彧ならば知っていたはずである。それでも一度は仕官することを受け入れたのだから、本人なりに色々と思うところはあったのかもしれないが、結局は辞めてしまった。いずれ大軍団同士がぶつかることになる。その時、荀彧が後悔することがないよう、友人としては祈るばかりだ。

 

「それでお仕事の方は?」

「抜かりなく。ついでにいくらか金銭を作ってきました。これで少しはまとまった買い物もできるでしょう。部隊の編制についてはどうです?」

「こっちはまだ少し時間がかかりそうですが、お兄さんの直属兵だけは先に選んでおきました。ここから増えることはあっても減らすことはありませんので、存分に働いてきてください」

 

 風から部隊の名簿が渡される。そこには廖化を始め三十名の名前が記載されていた。彼ら全員が直属の部下である。直属、という単語一つが付くだけで、全てが違う気がした。名前を指でなぞり、一人一人顔を思い出す。ここから自分の道が始まるのだと思うと、身が引き締まる思いだった。

 

「夜が更けるまでにまだ時間はあります。食事が済んだら座学の開始です。お兄さんには覚えてもらわなければならないことが、山ほどありますからね」

「シャンは梨晏と鍛錬をしてくる……」

 

 巻きこまれることを嫌ったシャンは素早い動きで梨晏の所に飛んでいく。一刀がやってきたと知ってこちらに走ってきていた梨晏は、同じくらいの速度で走ってきたシャンに捕まり、奥へと連れ去られていった。

 

 どちらも決して勉学ができない訳ではない。稟や風をして悪くはないという頭の回転は、武将にしてはかなりの高得点を与えられるレベルであるという。

 

 三人で旅をしている時、シャンは稟と風の二人から手ほどきを受けていた。その時の記憶が頭から離れないのだろう。傭兵団を結成して以来、一刀のための講義は定番となっているが、シャンが自分から参加しようとしたことは一度もない。

 

 逆に何でも一刀と一緒が良い梨晏は何度か参加したことがあるが、毎回参加するとシャンが寂しいと思い、たまに彼女に付き合っている。繰り返すがシャンも別に勉強が嫌いな訳ではないし、やらない訳でもない。ただ身体を動かす方が好きなだけなのだ。

 

「一刀に講義をするのかい? それなら後学のために僕も拝聴したいな。朱里、雛里。君たちも一緒に聞くと良い」

「……断っておきますが、水鏡女学院を卒業した方々にするような内容ではありませんよ?」

「洛陽にいた時は散策をするだけだったし、旅をしてる間はただ話をしていただけだったから、一刀がどの程度できるのか個人的に興味があるのさ。後はこっちの二人も含めて、本当に後学のためだよ。これからは人に教えることも沢山あるだろうからね。参考にさせてもらうよ」

「これは手を抜けませんね、稟ちゃん。悪い意味で、お兄さんを寝かせられなくなりそうです」

「…………お手柔らかに頼むよ」

「それはできない相談ですねー」

 

 ふふー、と口元に手を当てて、程立は静かに笑っている。冗談めかした口調だったが、こういう時こそ彼女は本気でこちらを攻撃してくるのだ。今夜は本当に寝られないかもな。一刀はそっと、心中で溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初に商店を訪れた翌日、約束の通り細かな日程が調整された。商店が用意する護衛は五十人。三十人前後で護衛の方は調整してもらいたいという要望を受けた一刀は、三十人の直属兵を全員連れていくことにした。

 

 これに軍師役として郭嘉が付き、戦闘補助としてシャン。さらに研修生の二人の内、諸葛亮が同行することが二人には全く相談せずに決められた。自分たちは二人で参加。最悪でも元直が一緒だと思っていた諸葛亮は一人で行って来いという先輩の指示に大慌てしたが、これも研修の一環、という先輩権限で黙らされてしまった。

 

 卒業しようと先輩は先輩である。仕官し、役職を持てば立場も変わるのだろうが、共に遊学している身である以上、物を言うのは年功序列だ。思うところは色々あっても、決して逆らうことはできないのである。

 

 相談すらさせまいと、鳳統は程立が連れ出してしまっている。独立独歩。将来一緒に仕事をしようと約束していても、一人で考えなければならない時は必ず来る。これも訓練、これも修行と言われれば反対の言葉など出てくるはずもないのだが、いきなり放り出されて気持ちの整理など付くはずもない。

 

「折衝などは私が担当します。貴女は補佐ということで、仕事を見ていてください」

「解りました。お気遣い、ありがとうございます」

 

 緊張も何もかも全て飲み込み、諸葛亮は一人で郭嘉と打ち合わせを始めた。気持ちさえ切り替えることができれば、学院史上一番の天才と評される少女である。『神算の士』とあだ名された郭嘉も、舌を巻くほどの明晰さで話を詰めてしまった。

 

 学院でどれだけ成績が良くても、実地はまた別である。そう舐めてかかっていた部分があったことを郭嘉は心中で認めた。この少女は本物である。自分と同等以上の知性に巡り合った郭嘉は、興奮した様子で予定を詰めていった。

 

 その一方で派遣が決まった直属兵たちに、程立の厳しいチェックが入る。人は見た目が九割。傭兵団でございと言っても、見た目が盗賊では何の説得力も何もない。安物でも小綺麗な鎧を見につけ、ヒゲを伸ばしていた者はとりあえずとばかりに綺麗に剃る。急ごしらえに強い違和感が残るが、見ためが盗賊なよりはマシだろう。今は服に着られているような状態だが、いずれ心がついてくるようになる。今は辛抱の時期だ。

 

 そして約束の当日。一刀たちを見た依頼者たちの代表の反応は、実に微妙なものだった。最初に交渉をした責任者ではなく、その部下の男性である。交渉の時にも同席していたのだが、彼はその時よりも女性が増えていることに驚いた。

 

 男が代表で女性が増えている。しかもそれが美少女となれば、良くない感情も掻き立てられるというものだが、戦闘担当として同行していたシャンが大荷物を一人で軽々と動かすのを見て、依頼者も本職の護衛たちも一刀たちの認識を改めた。

 

 一番最初に力を見せつけるのは、交渉を有利に進めるための手段の一つである。命に関わる現場では尚更だ。

 

 馬車は五台。それに十人ずつの護衛が付く。中に三人。周囲に七人。一刀たちが受け持ったのは、前から三番目と四番目。少し余った兵は周囲を適当に歩かされている。馬車に乗っているのは一刀と郭嘉、それに諸葛亮である。

 

 商家が雇った護衛は、周囲の索敵までやっている。一刀たちを含めて都合八十人の大所帯だ。さて、この人数を見ても襲ってくる敵が果たしているものだろうか。郭嘉が元々持っていた情報に、元直が持ってきた情報を加えても、この辺を根城にする大人数の盗賊はいない。

 

 二百人の盗賊が傭兵団に鞍替えすることが昨今あったように、盗賊の事情というものは流動的で、一貫している訳ではない。油断は禁物である。

 

「何もなければそれに越したことはありませんが、これでもなお襲ってくるとしたら、脅威ですね。この数を物ともしない規模か、それだけの手錬がいるか、数の差を理解できない程の大馬鹿か……」

「大馬鹿なら楽勝ってことじゃないのか?」

「戦力差を理解できないということは、定石を無視してくるということでもあります。ある意味、死を覚悟して突撃してくる死兵と同じです。努々、油断をなされぬよう」

「忠告ありがとう。あぁ、俺も気が緩んでるみたいだな」

「気を張られ過ぎても困りますけれどね。貴殿はとりあえず、我々の後ろで堂々としていてください。当面はそれが一番の仕事です」

「仕事が本当に、それ一つだけだと楽ができるんだけどな――」

「お兄ちゃん。いつでも馬車から降りられるようにしてて」

 

 会話に割り込むように、外からシャンの声がする。緊張を孕んだ声音だ。何かある。そう察知した一刀は、同じくらい緊張に満ちた声音で問い返した。

 

「……敵襲があるのか?」

「まだ。でも良くない雰囲気。少なくとも一人、こっちを見てる」

「護衛団の監視の目を抜けてきたのかな?」

「手を繋いで放射状に広がるというのでもなければ、どれだけ監視の目を密にしても穴はできます。突破してきたということそのものは、それ程驚く程のことではありません。突破してきたのは少数でしょう」

 

 穴があるとは言っても、その監視の目をすり抜けるのは大規模では難しい。斥候を担当している護衛はそれなりに訓練されていたようだから、大規模の部隊を素通りさせるということは考え難い。敵部隊が通過するところの斥候だけ殺した、という可能性もないではないが、シャンが感じている視線は一つである。

 

「あちらも斥候、ということはありませんか?」

「戦闘要員。結構強い。シャン程じゃないけど」

 

 その知らせを吉報とするかどうか、判断に迷った。シャンならば勝てると喜ぶべきなのだろうが……それは敵がそれだけしかいない場合の話である。腕の立つ人間は監視の目を抜けて一人、こちらに視線を送っている。それだけで済むはずがない。どこか別の場所にも伏兵がいると考えるのが普通だろう。考えている間もあればこそ、シャンから次の指示が飛んだ。

 

「降りて!」

「全く、中々楽はできないな!」

 

 シャンの号令で、一刀は素早く立ち上がった。その横を郭嘉が『お先に!』と飛び出して行く。その手は既に腰の剣にかけられていた。軍師の割には機敏な動きをしている。逆にどんくさい諸葛亮は、立ち上がることにすら失敗してその場でひっくり返っていた。待っていたら間に合わない。そう判断した一刀は、短いスカートから伸びる真っ白い足を見ないようにしながら、諸葛亮を横抱きにした。

 

 所謂お姫様抱っこである。いきなりの行動に諸葛亮は声にならない悲鳴を上げたが、今は無視だ。諸葛亮を抱えてひらりと馬車を飛び降りると、シャンの手招きで急いで馬車から距離を取った。

 

 シャンが大騒ぎをしたことで、車列全体が止まっている。何故お前が、と本職の警護の人間は嫌そうな顔をしているが、シャンが手錬であることは全員が認めている。それに『敵襲!』と騒がれては、行動しない訳にはいかなかった。何より大事な自分の命がかかっているのだ。周囲の警戒にも力が入るが、シャンだけは更にその先を見ていた。

 

「先頭の馬車! 離れて! 早く!」

 

 シャンの声は切羽詰まっている。いよいよただ事ではないと理解した面々は、我先にと血相を変えて馬車から離れた。周囲に敵影は見えないがその頃になると、シャン以外の面々にも何故彼女が大騒ぎしたのか理解できた。

 

 地に影が見える、一刀が空を見上げると、大きな塊が空を飛んでいた。明らかに重量物である。狙いは先頭の馬車。直撃コース。全員が安全な距離まで離れたところで――直撃。

 

 飛んできたのは、荒縄で縛られた大岩だった。それは馬車の下部に直撃し、車輪を粉砕。馬車としての機能を完全に破壊した。自分が攻撃されたことを理解した馬が暴れだすが、馬車からは御者まで離れてしまっている。それを制御する手段はない。

 

「聞いた話じゃ、始皇帝が同じ狙われ方をしたらしいけど、なるほど、これは生きた心地がしないな」

「堂々としていてほしい、という私の進言を聞き入れていただけたようで何よりです。一応、うちに被害はありません。あちらについては確認中ですが……大丈夫なようですね」

 

 被害なし、と状況を調査しに行っていた団員から報告が入る。物的被害は現状、馬車が一つ。これを諦めるならば中の荷物も諦めなければならないが、その辺りの判断は一刀にはできない。遠距離攻撃で狙われている以上、とにかくこの場を離れることが先決だとは思うが、さてどういう判断が出るのか。

 

 考えている内に、第二射が来た。先頭の馬車を狙った初撃とは異なり、今度は最後尾の馬車を破壊した。道は決して狭い訳ではないが、先頭と最後尾の馬車が破壊されてしまったため、残りの馬車は退路を大きく塞がれてしまう。

 

 シャンは飛んできた方向に視線を向けていた。ただ二回の攻撃。それだけで、シャンはある程度、相手の力量と数を理解していた。

 

「一射目と二射目は同じ奴。狙って当てたみたい。大した腕。距離が離れてるから相手に走って逃げられると多分追いつけない」

「ここでシャンを追撃に出すのは怖いな……」

 

 年端もいかない少女に頼り切りというのも男として恰好悪いが、相手の戦力が全く見えない以上、最大戦力であるシャンを動かすことは躊躇われた。どういう行動をするのかの判断はまだ来ない。一刀は思考を進める。

 

 前後の馬車を破壊された。車列は動かず、護衛達は足止めされている。逃げるとすれば荷物を置いてとなるが、護衛たちにその判断はできない。商人も軽々に荷物を放棄することはできないだろう。指令が遅れたことで、護衛たちの展開も遅れる。攻撃をするとしたら、今だ。

 

「賊の襲撃。ここで戦うことになるだろう。敵の規模の予測と、俺たちの展開方法の指示を頼む……諸葛亮」

 

 郭嘉ではなく、諸葛亮に一刀は話を振った。彼女の実力を知る、良い機会と思ったからだ。何しろ諸葛亮である。さぞかし素晴らしい作戦を瞬時に思いつくのかと期待してみれば、何も反応はない。希代の軍師は一刀の腕の中で、ベレー帽を胸に抱えてぼーっとしている。

 

 そこで初めて、一刀は少女を横抱きにしていたことを思い出した。壊れ物を扱うようにそっと、諸葛亮を地面に下ろす。一刀の視線と問いを受けても、諸葛亮は何も聞こえていないかのようにぼーっとしていた。目の前で手を振っても、視線すら動かさない。流石に心配になった一刀は、少し強めに肩を揺すり、諸葛亮に再度訪ねた。

 

「……もしかしてどこか怪我でもしたか? 諸葛亮、大丈夫か?」

「え? あ、はい! 私ですね!! 失礼しました、大丈夫です!!」

 

 慌てて大声を上げた諸葛亮は、ベレー帽を深く被りなおした。そして、深呼吸を何度もする。気息が整い顔を上げると、少女は既に『臥竜』の顔になっていた。

 

「それなら良かった。状況は把握してるな? 答申を頼む」

「前後の馬車を破壊して足止め。この後伏兵の出現が常道かと。しかし、こちらは斥候を放っておりました。この周囲に密集していては発見される可能性が高い。ならば襲撃の機だけを決め、斥候よりも速く接近し、精鋭にて一気にこちらを叩くのではないかと」

「あっちも馬車か何かってことか?」

「おそらく騎馬。前から二十、後ろから十」

 

 それでもこちらよりは少ないが、護衛団は精神的に風下に立たされている。今奇襲を受けたら大打撃だが、幸か不幸か、今はつい最近まで賊をやっていた面々で構成される傭兵団がいる。こういう奇襲はやっていた側だ。精神的な動揺は少ない。既に有事と判断し、各々周囲を警戒している。

 

「廖化。この奇襲をどう思う?」

「まるでなっちゃいませんな。岩で狙うという戦法ありきで襲撃を決めたとしか思えません。おそらく軍人崩れが主体で経験が浅いんでしょう。騎馬を三十も揃えられるなら、他にやりようはいくらでもあったでしょうに……」

「俺もそう思う。しかし奴らが他のやりようを選ばなかったおかげで、俺たちはタダ働きをしなくても済みそうだ。三十もいるならニ、三頭はお駄賃として俺たちにくれるだろうさ」

「わ、私なら交渉で十頭は確保してご覧にいれますがっ」

 

 はい! と手を挙げて主張する諸葛亮はやる気に満ちていた。出遅れた分を挽回したいという意欲は感じられるが、その発言は先輩軍師の郭嘉には少々弱気と見えた。降って湧いた資源とは言えそれでもゼロから交渉を初めて十頭確保できるならば成果としては十分であるが、やるなら限界まで毟り取るのが郭嘉の流儀である。

 

 眼鏡をくいと持ち上げ、郭嘉は微かな笑みを浮かべる。最も付き合いの長い程立ならば、郭嘉の機嫌の良さを見て取れただろうが、出会って数日の諸葛亮にそれは解らない。小言でも言われるのかと背筋を伸ばした諸葛亮に、郭嘉は彼女なりの励ましのつもりで言った。

 

「私なら三十全て毟り取ります。欲がないのも結構ですが、時と場合によりますよ」

 

 

 

 

 



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第018話 流浪の軍団編⑤

 

 

 

 

 

「それでは諸葛亮。差配は引き続きお任せします」

「承りました。それでは――廖化さん」

「おうよ」

「五人連れて先ほどの射手の動きを抑えてきてください」

「別に首級を挙げてしまっても構わんのでしょう?」

「貴方がたの安全と、任務第一でお願いします。お願いしたいのはこちらで戦ってる間、もう岩を撃たせないことです。そのために犠牲がでるというのなら、首を挙げる必要はありません」

「了解でさあ。いくぞ、野郎ども」

 

 廖化の一声で、五人の部下が共に駆けていく。悪路をモノともしない。彼らは元盗賊。舗装された日の当たる道ではなく、人目のない、じめじめとした悪路を歩くことを生業としていた者たちだ。最近訓練こそしているが彼らの専門は『いかに一方的に相手をぶちのめすか』に特化しており、それはただの兵よりもよほど軍学の本質に通じていると言える。

 

 具体的な説明をするまでもなく、自分よりも大分年下であるはずの子供の指示にも、嫌な顔一つせず駆け出していった廖化たちを見て、諸葛亮は彼らの認識を改めた。強面であるというだけで、かなりの苦手意識を持っていたのだ。人は見た目に寄らない。知識として理解していたことに、初めて実感が伴った瞬間である。

 

「次に徐晃さん。後方から十騎ほど迫ってきます。これを無力化してください」

「安全第一?」

「いえ、手段は問いませんが確実に(・・・)無力化をお願いします。後、馬はなるべく傷つけないようにお願いしますね。戦闘後にできるだけ回収したいので」

「了解。行ってくる」

 

 無手のまま、シャンは後方に向けて駆けていく。その際、一番後ろの馬車を護衛していた面々はあっさりとシャンを見送った。勝手な行動をするなと咎める人間はいない。郭嘉や諸葛亮などのように、こういった緊急時に対応を考えることのできる人間がいないため、彼らはなし崩し的に一刀たちの傘下へと入っていた。

 

 彼らを使えば、こちらの戦力を危険に晒さずに対応できる。諸葛亮の脳裏に別の作戦が浮かぶが、すぐさまそれを却下した。味方の実力を信頼しているというのもあるが、何よりその発想は目先の利益に囚われ過ぎている。

 

 軍師は、味方の誰よりも先を見て行動しなければならない。この商隊との関係は今度も続くだろう。このせいで今の行動に制限を受けたと考えるのではなく、多大な恩を売りつける好機だと考える。味方の消耗は限りなくゼロに近づけ、同様に商隊の護衛の損耗も抑えなければならない。

 

 現状、正面からの突撃を受け止めるために、護衛は車列前方に集中している。理想は護衛の被害を、敵部隊との一度の接触だけに抑えることだ。その援護に人員は回さず、襲撃者を殲滅することに全てを費やす。護衛と襲撃者を二度も接触させてはならない。作戦の肝はそこである。

 

「正面から襲撃してきた騎馬二十は一度の接敵の後、両側に十ずつに分かれます。我々は戦力を片側に集中し、まず一方の殲滅を目指します。陣頭指揮は一刀さん、お願いできますか?」

「承った。でも、これに関しては俺が指示できるようなことはほとんどないな……」

 

 ははは、と苦笑を浮かべる一刀に、団員たちが追従した。こちらより数が少ないとは言え、騎馬を相手に軽装で戦うというのに誰にも緊張した様子は見られない。

 

 その精神性に、程立が彼らを真っ先に一刀の直属にした理由があった。一刀の直属になった人員は、廖化も含めて全員、盗賊をやっていた経歴が長い者たちである。色々な修羅場を潜り、様々な能力を実戦で身につけた彼らは当然、馬を盗んだこともある。

 

 走っている馬に飛び乗って乗り手を殺して馬を奪うという芸当を、彼らは『造作もないことだ』と言う。彼らには何ができるのか。出立前に聞き取りをし彼らの力量を理解した諸葛亮は、騎馬の襲撃があると判断した段階で、この作戦を取ることを決めていた。

 

 車列の先頭で声があがる。正面からやってきた敵部隊と接敵したのだろう。騎馬はその場に留まらず、二手に分かれて一度後方まで抜ける。残りの戦力を全て片側に集中させた一刀たちは、敵部隊が近づくのを息をひそめて待った。

 

「ところで、何でこっちだけにしたんだ? もう片方にも配置してたら、一気に落とせたと思うんだけど」

「皆さんの力量を疑っている訳ではありませんが、全員が馬を奪えるとは限りません。両側に分散すると十の騎馬に対して十人少々で相手をすることになります。二つ三つ打ち漏らしがあれば敵が残ることになり、危険です」

「なるほど。倍に近い数で当たればそれが保険になるってことだな」

「そういうことです。それでも、一つ二つは打ち漏らす可能性は否定できませんが……」

 

 世の中に絶対はないということだ。そうなったとしてもフォローする段取りは考えてあるし、最悪、少数であれば逃がしてしまっても構わない。一刀たちの目的は部隊を守ることで、敵を殲滅することではない。敵の殲滅はあくまで目的達成のための手段なのだ。

 

「何にしても、成功させておくことに越したことはないってことだな」

「その通りです」

 

 土煙が近づいてくる。一刀の部隊は約二十人。縦に広がって敵部隊を待っていた。一番先頭に近い人間のところに敵部隊が近づく。彼の合図と共に、全員が一斉に動いた。腰を低く走りながら馬に近づき、頃合いを見計らって飛びつく。作戦の都合上一斉にという訳にはいかないが、正体不明の敵に取り付かれた、と敵部隊が気づいて騒ぎ出した頃には、作戦の大部分が終わっていた。

 

 馬に飛び乗り、短刀で首をかっきる者。取っ組み合いの末に敵兵を地面に落とす者。それに失敗して敵兵と一緒に地面に落ちる者と様々だったが、馬に取り付いた人間は次々と作戦を成功させた。余った人間が乗り手のいなくなった馬を回収に走る。馬の数を数えると……

 

「九。これは一人か二人足りないか?」

「そのようですね。一番外側を走っていた人間を討ち漏らしたようです」

 

 郭嘉の言葉に後方を見れば、難を逃れた人間がこちらを振り返りながら馬で駆けていくところだった。まさか軽装の人間に馬を取られるとは考えもしていなかったのだろう。反撃されることを想定していないのだから、一刀の身からしても見通しの甘さが伺える。

 

 そして、反撃がこれで終わりと考えたのも、如何にも甘い。諸葛亮の考えたフォローその一。一刀たちから僅かに離れて配置してあった護衛部隊が、その一人に一斉に襲い掛かる。騎馬と人間という戦力差はあれど、騎馬と戦う心構えをしていた人間十人に、騎馬一人では心もとない。気もそぞろな所に矢をくらい、あっさりと落馬。その後、殺到した護衛部隊にたこ殴りにされる。馬は乗り手がいなくなってもぱかぱか駆けていったが、それは一刀隊の人間が全速力で走って追いつき、確保した。

 

 護衛部隊の人間に確保される前に、という行動である。聊か卑しいかとも思ったが、所有権を主張する時、実物が手元にあるに越したことはない。

 

 結局、こちら側にやってきたのは諸葛亮の予想の通りに十騎ちょうど。馬も十頭、ほとんど無傷で確保することができた。対してこちらの損耗はほとんどゼロ。一緒に落馬した団員が腕の骨を折る怪我をしたが、これも命に別状はない。本人は痛みでのたうち回っているが、煩い黙れと仲間に蹴り飛ばされ大人しくなった。

 

 さて、後は残りである。こちらとは反対側に回った敵部隊が遅れてやってくる。二手に分かれて車列を周回するならば、大体同じ速度で動いた場合、終点で合流することになる。喧噪に紛れてこちらのことが伝わらなかったとしても、合流すべき場所で味方がいなければ何かあったと思うだろう。

 

 しかし、彼らはそのまま馬を走らせ。こちら側まで来た。そこで見たのは、既に馬を奪われた味方の姿である。劣勢だ。それを理解した敵部隊の取れる行動は、簡単に言えば二つ。逃げるか、戦うか。奇襲は相手に迎撃態勢が整っていないからこそ生きるのである。

 

 既に準備万端、待ち構えている上に、既に十騎が打ち取られた。勢いはあちらにあると見るのが自然だ。後方から来るはずの味方も遅れている。劣勢であるのは疑いようがないが、それでは撤収、と素直に言えない事情も敵部隊にはあった。

 

 ここで撤収するということは、今回の襲撃がタダ働きであることを意味する。しかもこの時点で人員と馬を十ずつ失っていて収穫は何もない。彼らとて潤沢な蓄えがある訳ではない。収入がないということは即ち、それだけ自分たちの未来を圧迫するということだ。

 

 それでも、勝てる戦か負ける戦か、即断できれば彼らの未来も変わっていた。集団の先頭を走ってた男は結局、撤収することを選んだが、そうするまでにやられた味方を見てから五秒の時間が過ぎていた。

 

 そしてそれだけの時間があれば、一騎当千の猛者が戻ってくるには十分だった。

 

 集団の一番後ろを走っていた男の胸に、剣が生える。後方から全速力で走ってきたシャンが、剣を投擲したのだ。振り返り、仲間が討ち取られたことを確認した敵部隊の面々は恐慌状態に陥るが、それで手加減するようなシャンではない。

 

 走ってきた速度を落とさぬまま地面を踏み切り、一番近い男を蹴り飛ばす。腹に蹴りを食らった男はもんどりうって吹っ飛び、シャンは空いた馬の背を更に蹴って飛び上がる。この頃になると、敵部隊の中にも迎撃しようと動く人間が出てきたが、それも悪手である。

 

 空中で身体を捻ったシャンは手近な男の頭部を蹴り飛ばし、持っていた剣を奪うと――それを構える間もなく、次の男に投擲する。最初の男がやられたように、胸に剣を突きたてられた男は、自分が負けたことも理解できないまま絶命した。

 

 血煙が舞う。シャンはそんな中を、無表情に飛んでいた。これは戦闘ではない。もはや一方的な殺戮である。これには勝てない。遅まきにそう悟った敵部隊の中には逃げようという人間も出てきたが、その頃には、馬を奪った味方の展開も完了している。騎馬の敵が有利だったのは、こちらに騎馬がいなかったからだ。

 

 騎馬という条件が同じであれば、多数の方が有利なのは自明の理である。敵部隊の生き残りは既にシャンの手によって数を減らされた。数の上で有利に立っていて、しかも精神的に風上に立っているのであれば、賊あがりの人間でもそう負けるものではない。

 

 逃げようとする敵兵を追いまわし、着実に一人、一人と殺していく。その際、一頭だけ馬を逃がしてしまったことの方が、一刀たちにとっては大問題だった。人が乗っている馬とそうでない馬では、当然乗っていない馬の方が速い。ここは危険である。一目散に逃げる馬を捕まえるのは、彼らにとって一苦労だった。

 

 結局、敵兵の判断の遅れが一刀たちの仕事をスムーズにした。逃げた馬を追って、回収した仲間が戻ってきた頃には全ての戦闘は終わっていた。

 

「敵兵は、これで全部かな」

「後方の敵は皆殺しにしてきた。馬を纏めるのに時間がかかっちゃってごめんなさい」

「いやいや、一番武者働きをしたのはシャンだ。これで文句なんて言ったら罰が当たるよ。よく頑張ってくれた」

 

 頭を撫でようとして、シャンが返り血で真っ赤になっていることに気づいた。懐から布を取り出し、せめて顔にかかった血だけはと拭っていく。ごしごしこする一刀を、シャンは薄く笑みを浮かべて受け入れていた。

 

「北郷殿!」

 

 やってきたのは商隊の代表者である。顔色は悪いが見たところ怪我はない。前方の護衛部隊がどうにかしてくれたのだろう。

 

「ご無事なようで何よりです」

「こちらこそ。大変なお手数をかけて申し訳ない。賊を全て討ってくださったようですな」

「まだ岩を投げてきた奴がどうなったのか解りませんが……」

 

 という一刀の言葉を見計らっていたかのようなタイミングで、廖化と仲間たちが戻ってくる。彼らは麻縄でぐるぐる巻きにした大男を引きずっていた。察するに、彼が大岩を投げたのだろう。廖化たち五人に怪我はなさそうである。諸葛亮の指示通り、安全第一で無力化することに成功したようだった。

 

「ご覧の通り捕らえました。護衛もいませんでしたのでね、実に楽な仕事でした」

「とりあえず、この者は官憲に引き渡すということでよろしいでしょうか?」

「ええ。御随意に」

「それは助かります。後、物は相談なのですが……」

 

 馬の交渉を切りだそうとした一刀を『ここは私が』と郭嘉が遮る。ここまで話が進んだのならばここからは軍師の仕事だ。欲しいものは根こそぎぶんどっていくのが郭嘉のやり方である。馬の件はこのまま任せておいて問題ないだろう。

 

 馬一頭はそれなりの値段で売れる。商人としてもタダで手に入るのならばそれに越したことはないだろうが、人員も含めて全損するはずだったところを助けられたという恩義がある。元手のかかっていないことでそれを少しでも相殺できるのであれば、と交渉は郭嘉が考えていたよりもスムーズに進んだ。

 

「荷馬車をこの場で復旧するのは難しいでしょう。残りの荷馬車に荷物を全て分散させることは可能ですか?」

「お恥ずかしながら、どの馬車も荷物が満載でして……」

「ではこの荷は置いていくしかありませんね」

 

 足がないのだから仕方がない。早馬を飛ばして馬車をよこすにしても、馬車が到着するまでにどんなに早くても二日はかかるはずだ。その間、荷が無事である保証はない。最終的に荷物を無事に送り届けるためには、この荷を守る人員が別に必要になる。

 

 その間も変わらず、商隊の護衛も継続しなければならない。ここの警備に人員を割くということは、その分商隊の警備が薄くなるということでもある。賊は既に撃退したが、賊があれだけとも限らない。一度目があれば二度目も、と考えるのは人間として当然のことである。

 

「よろしければ、我々が残りましょうか?」

「なんとおっしゃいました?」

「そちらさえ良ければ、我々が残ってこの荷を警備しますと申し上げました。無論、そちらの警備も継続するため人員の大部分はそちらに残します。こちらに残るのはそちらの北郷と徐晃、それから諸葛亮の三名のみです」

 

 それならば、と商人は考えた。一刀たちの力量を彼もよく把握している。賊を撃退した手腕は見事だが、その大部分を成したのは徐晃の腕っぷしである。それが商隊から離れるのは心細いが、人員のほとんどは残る。元々彼らは警備には含まれていなかったのだ。義理は大いに果たしていることになるが……

 

「こちらからも三人残します。それでもよろしければ……」

「無論です。お聞き入れくださり、ありがとうございます」

 

 信用しきってはいませんと宣言されたに等しいが、それくらい警戒するのも当然のこと。郭嘉も態々頭を下げて商人の対応に感謝した。こうして予定の一つの通りに、一刀たちは二つに分けられることになった。商隊に残る部隊を郭嘉が、荷物を守るために残る方……と言っても、実働部隊は実質シャン一人だが、その指揮を諸葛亮が執ることになった。

 

 賊に襲われたような場所に、長居はしたくない。手早く荷物をまとめた商隊は、既に出発の準備を整えていた。

郭嘉を中心とした一刀団は、それぞれの馬車に再分配されている。

 

「後は頼みましたよ、諸葛亮」

「お任せください」

 

 簡単な引き継ぎだけで、郭嘉は諸葛亮に後事の全てを託した。頭の良い人間というのはやり取りも少なくて済むものらしい。一刀も含めて事前の打ち合わせをしたにはしたのだが、それでもまだ不安な一刀を尻目にてきぱきと作業は進められ、郭嘉たちは商隊について出発してしまった。

 

 後に残されたのは一刀とシャン、諸葛亮と商隊が残した三人の護衛のみである。約三十頭の馬も郭嘉たちが連れていってしまった。

 

「…………しかし、まさか最上の予想が大当たりするとはな」

「郭嘉さんは凄いです」

「諸葛亮だって鳳統と一緒に話を詰めただろ? 俺からすれば二人も十分過ぎる程凄いよ」

 

 一刀としては素直に心情を吐露したつもりなのだが、諸葛亮からすると過剰な褒め言葉であったらしい。そんなことは! とぶんぶん腕を振りながら後ろに下がり、足をもつれさせて一人で転んだ。控えめな性格の割に短いスカートの中身が見えそうになるが、紳士の義務として視線を逸らす。

 

「大丈夫か?」

「うぅ……ご迷惑をおかけしました」

 

 頭をさすりながら諸葛亮が立ち上がる。その間、シャンはせっせと郭嘉や廖化から聞いたことを木簡に書き留めていた。攻めに攻めた服装のセンスをしている割りに、シャンは字が上手い。

 

 それ以外の残された護衛隊の人間は、既に気を抜いている様子である。賊に襲われたらその時はその時、と考えているのだろう。シャン一人いれば大抵の賊は撃退できるし、それでもどうにもならない規模の敵がもし現れたら、ケツをまくって逃げれば良い。雇い主から離れて仕事ができると思えば、休暇を貰ったようなものだ。

 

 一刀もそのつもり、という風で護衛部隊の面々に気さくに話かけ、彼らの気を引きつける。その間に、シャンは動いた。こちらから見えるかもしれないギリギリのところに、人影があるのが見えたからだ。走って寄ればそれが仲間の団員だと解る。商隊の斥候にもばれないように、十分に距離をとって追いかけてきたのだ。団員はシャンを見ると頭を下げる。

 

「郭先生の予想が当たったようで」

「首尾は上々。これに場所が書いてある。風に渡して」

「了解」

 

 一礼すると、男は足早に去っていった。男が向かう先にいるのは一刀団の本隊である。彼らはこれからシャンの渡した情報を元に、賊の本拠地を襲撃する手はずとなっている。その指揮を執るのは風と、居残っている鳳統の二人である。

 

 盗賊というのは基本、本拠地を空にはしない。そして本拠地には多かれ少なかれ、ため込んでいるものである。賊が出たということは、徒歩や馬で遠くても三日以内に移動できる距離に本拠地があるということでもあった。商隊が襲われたということは、同時に本拠地が近くにあるということ。

 

 ならば物のついでに、本拠地を襲ってみよう。稟が立てたのはそういう計画だった。無論、悪条件が重なれば空振りもあるし、全くため込んでいない可能性もある。収支が+になるかは現場を見てみない限り解らなかったが、空振りなら空振りで行軍練習だと思えば良いと、稟は随分前向きに計画を立てた。途中で賊に襲われれば良し。そうでなければ普通に護衛して顔を売るだけの話である。少なくとも懐は痛まない。

 

 果たして、賊は襲撃してきた。廖化たちは生き残った男を戻ってくるまでの間に適当に締め上げ、こっそりと本拠地の場所を聞きだしていたのだ。今回の強襲が失敗したと知れれば賊はアジトの場所を移す可能性が高い。本隊はそうなる前に逆に強襲をかけ、ため込んだモノを根こそぎ分捕らなければならない。後は時間との勝負だった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第019話 二つの軍団編①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最近、親友がつれない。決して冷たくなったり距離を置かれている訳ではないのだ。ただ、今まではお互いが一番――と少なくとも朱里はそう思っているし、彼女もそう思ってくれていると思っている――のに、最近はどうもそうではなさそうな気配をひしひしと感じ取っていた。

 

 一刀団。北郷団。呼び方は安定しないが、団員たちは皆どちらかの名称で自分たちのことを呼んでいる。そんな団に雛里と共に研修生として加わって、あっという間に半年の月日が流れた。団に入る流れを作った灯里は仕事でいたりいなかったりと忙しい。まだ仕官していない彼女は、朱里たち全員の恩師である水鏡先生に使われ、各地の情報収集と使い走りを行っている。灯里程の才媛がする仕事ではないと思わないでもないが、彼女くらいに信頼のおける人間でないと各地の情報網の調整は行えないらしい。

 

 つい最近まで、水鏡学園では在校生、卒業生の全てを対象にした考査が行われていた。最も諜報活動を指揮するに優れた者は誰か。その考査で灯里は最終候補の一人にまで残ったという。最後の一人になれば学院の情報網の中から人員を譲渡されるという破格のご褒美が貰えたのだが、水鏡先生も含めた教師陣の長い議論の末、灯里は負けてしまった。

 

 結局、その栄誉に預かることになったのは、灯里や朱里の後輩で、まだ学園に籍を置いている在校生である。目つきが鋭く口の悪い、何かと他の生徒と衝突することの多い女性だが、何故か朱里と雛里には優しい変わり者だ。彼女の方がいくつか年上だが、それでも朱里たちを先輩と呼び随分とへりくだって接してくれた。

 

 彼女は元気にしているだろうか。卒業してから手紙のやりとりもままならない。いつか時間を見つけて話をしてみたいと思うが、それはいつになるのだろうか。学生の頃も時間が足りていると思ったことは一度もないが、卒業してからはその比ではない。

 

 何しろ自分以外の人員の命を実際に預かっているのだ。その重圧は半端な物ではなく、事実最初の頃は雛里と一緒に体調も崩した。今は何とか先輩の軍師に倣って仕事ができるようになり、団員たちにもどうにか認められ始めている。雛里と一緒ではなく一人での仕事にも慣れてきたところだが、同時に人員配置にも偏りが見えるようになっていた。

 

 基本の構成は郭嘉と程立、徐晃と太史慈、自分と雛里の三組からどちらか一人ずつの計三人に兵が付く。仕事は商隊の護衛か、賊の討伐。どちらに誰が配置されるのかはその時々で、配置を決めているのは郭嘉である。

 

 その配置に寄ると、雛里が盗賊の討伐に配置されることが極めて多く、しかもその時には大抵一刀が一緒に行動する。一刀が賊討伐に回されるというのは解る。彼は団の代表で、郭嘉としては最も経験を積ませたい人間で、顔と名前を売らなければならない人間である。普通ならば何かあっては困ると安全策を取るのかもしれないが、自分の主の教育方針に関して、郭嘉という軍師は妥協することをしないらしい。

 

 雛里が討伐に回されるのも解らないことではない。元より軍略に秀でている彼女は、兵を動かすことでこそその感性が磨かれる。長所を伸ばすか短所を補うかは教育する人間それぞれだろうが、郭嘉は既に雛里の得意分野を見抜いている節がある。もしかしたら雛里と二人、願掛けとして仕込んだ秘密にもとっくに気づいているかもしれない。

 

 それはそれで大問題だが、目下の問題は親友のことだ。必然的に一刀と一緒に行動する機会の多い雛里は、それだけ彼と親睦を深めている。最近まで女子校という男性のいない環境で勉学に打ち込み、入学までも接した男性と言えば家族親類くらいの雛里にとって、北郷一刀というのは久しぶりに出会った、比較的自分に近い年齢の他人の男性である。

 

 特別感を憶えるのも無理はない……と思わないでもないが、それでも親友が自分に向ける笑顔よりも五割増くらいのかわいらしい笑顔を、一刀に向けているのが面白くない。このまま行けば、一刀はきっと条件を満たすことになるだろう、と朱里は感じていた。郭嘉が察しがついているくらいなのだ。一刀も秘密にはいずれ気づく。

 

 その時、自分と雛里の間の『熱』に隔たりがあることが、後々の問題になったりはしないだろうかと朱里は心配していた。朱里も、一刀のことは嫌いではないし、むしろ好ましいとさえ思っている。気持ちの整理がつかないのは、親友が自分よりも彼のことを優先しているように思えているからのみだ。

 

 能力面で不安が残るが、それはいずれ時間が解決してくれるだろう。何より、郭嘉と程立という希代の軍師と徐晃と太史慈という猛者が既に仲間にいるというのは大きい。名前の売れていない勢力に、よくもここまで人が集まったと思うが、それも天運、天命と言われれば納得できる。

 

 いずれ彼に共に仕える。それは別に悪いことではないのだが、朱里は何故だか胸騒ぎを憶えていた。その理由は杳として知れないが……

 

「そのかわいくも切ない顔は、親友と道が分かたれることを心配している顔だね」

「灯里先輩……」

 

 学園時代からの、最も頼りになる先輩が笑みを浮かべてそこにいた。自分たちよりも前の世代で最も優秀であると評される才媛は、在学中から多くの生徒の信頼を集め相談に乗っていたらしい。水鏡先生や教師陣も勿論相談に乗ってくれるが、年齢が近いからこそ話せることもある。実質的に、灯里は生徒たちのまとめ役だった。

 

 誰か一人、どこかの集団へと腰を落ち着けることはない。基本、満遍なく色々な生徒と関わっていた風ではあったが、その中でも自分たち三人と一緒にいることが多かったような気がするのは、気のせいではないだろう。自分と、雛里と、灯里と、彼女。四人で政策について、軍略について議論を交わしたのも昔のことのように思える。

 

「君たちの誓いのことは僕も知ってるよ。できうる限り応援してあげたいとも思うけど、それは君たち二人の意見がきっちり揃っていたらの話だ。僕の見る限り、雛里の気持ちは結構傾いているように見えるね」

「うぅ……」

 

 朱里の口から悔しそうな呻き声が漏れる。灯里の目から見てもそう見えるのならば、本当にそうなのだろう。灯里は人をからかって遊んだりはするが、悪質な嘘を吐いたりはしない。真実を告げることでからかっている可能性も十分にあるが、現状、朱里にとって重要なのは灯里の分析の中身であって彼女が何を考えているかではない。

 

「まぁでも、現時点で仕えたい主君がいるって訳じゃないんだろう? それなら雛里に合わせるというのも友情を守る手ではあると思うよ。朱里も一刀が乗り気ではないって訳ではないみたいだし」

「それはそうなんですが……」

 

 この規模で軍師猛者がこれだけ揃っているのは破格の好条件である。頭数が少ないことが問題ではあるが、それは金銭や時間で何とかできる。自分の将来まで含めて打算的に考えるのであれば、将来有望な若い男性で煩い親戚も支援者もいない、あるいは少ないというのは、いずれその『隣に立とう』という女性にはこれまた破格の条件である。

 

 有力な武将には女性が多く、彼女らのほとんどは家を代表しているが、その家と仲良くしようと考える権力者にとって、相手は女性であるよりも男性である方が遥かに都合が良い。胎は一つ。種が間違いなくこちらの物であっても奪われてしまえばそれまで。しかし、胎がこちらにあれば種は最悪違う人間のものでも良い。

 

 朱里自身にそのつもりは今のところないが、実家が何も言ってこないとは限らない。これから出会う中でそう思う権力者も数多くいるだろう。自分が主と仰ぎ見る人である。売りこみ易い要素は多いに越したことはないし、自分自身、好けるあるいは都合の良い要素は多い方が良い。

 

 北郷一刀に不満はない。むしろ好意的に思っているところの方が多い。それでも、朱里が仕える人を一刀と決めることに抵抗があるのは、親友の雛里が彼にかわいい笑顔を向けているからだ。一言で言えば嫉妬である。論理的でないと解っていても、すぐに割り切れるものではない。

 

 そんな朱里を見て、灯里はうんうんと頷いている。学院にいた頃は学問に傾倒していた節があり、人生を楽しむことをそれほどしてこなかった。自分は相当遊んでいた方だと思うが、それでも学生時代にもっとやるべきこと、やっておきたかったことがあったと、国中を飛び回るようになって初めて気づいたものだ。

 

 今、後輩2人は他人のことで思い悩み、学問以外のことに目を向けている。良い兆候である。これで一つ二つ喧嘩でもして、お互いの友情を育んでくれたら先輩としてこれ以上のことはないのだが、さてどうなることか。後輩たちにとって良い方向に向かってくれるよう期待を込めて、灯里は朱里の肩をぽんと叩いた。

 

 

「まぁ、友情よりも愛情とも言うしね。君が選んだ主君よりも一刀の方が良いと雛里が言っても、決して責めてはいけないよ」

「先輩のばか!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先の商隊長を盗賊から守った一件で、一刀たちは名を挙げることになった。聊かできすぎではあるが、これも郭嘉の目論見の通りである。名前の売れた後は、こちらから営業をかけなくても仕事が入ってくるようになった。

 

 一刀団は二班に分かれて行動している。

 

 何か予定外のことがあった時、敵を皆殺しにできるだけの腕っぷしを持っているのが、今は梨晏とシャンしかいないからだ。保険の数、即ち部隊の最大数である。それに軍師が一人と兵が二、三十というのが護衛に駆り出される時の基本の編制である。

 

 それ以外の人員も遊んでいる訳ではない。当初の予定の通り、賊を見つけて叩き潰すという企画のため、賊がいるという情報のあった場所に急行しては、完膚なきまでに叩きのめして蓄えを根こそぎ分捕っていく。

 

 しばらくすると噂が広まり、一刀団が近づいているという情報が伝わると賊が逃げるようになったが、入念に下調べをしておいた軍師たちは、その逃走経路もしっかりと予測している。ここまで逃げれば大丈夫と賊が安心した瞬間、周囲に兵がわんさか湧く光景は、彼らにとっては悪夢と言って良いだろう。

 

 戦利品は通り道の村々に五割強ばらまいてしまうが、それでも恩賞と合わせると十分にプラスになる。事業として着々と成長していた。その内盗賊がいなくなるのではと思うが、世が乱れている影響だろうか、討っても討っても賊は湧いてきていた。

 

 郭嘉の予定では、こうなるのはもう少し先のことだった。いくら腕が良くても、それを発揮できる場はいつもある訳ではない。名前を売るためには、目に見える形で賊を討ってやる必要があったのだが、初めての仕事でいきなり、しかも依頼主と荷物を守るという最高の形で行きあたることは、神算の士と名高い郭嘉でも見抜くことはできなかった。

 

 恐ろしいことに、この半年の間の一刀団の死者はゼロである。重傷者こそ何人か出たが、全員命に別状はなく、回復次第復帰することになっている。これを含めた実績によって、団員も増えた。この時代、兵士の命はまさに一山いくらである。死ににくい上に結果を出しているというのは、兵として働きたいと潜在的に思っている人間に対して十分なアピールポイントになるのだ。一刀が説法の真似事をして勧誘したケースもあるが、多くは志願者である。

 

 二百名で始めた団が、今は三百にまでなった。経歴は様々だが、基本的に食い詰めた人間がほとんどである。出自や経歴に差はほとんどない。出身などで差別があったらどうしようと不安に思っていた一刀だったが、今のところそういう問題は起きていなかった。

 

 軍規もある。きちんとした給料も出る。小規模ではあるが、一刀団はもはや軍隊だ。学がなく、身体一つでどうにか生計を立てたいという人間には、それなりに魅力的な職場と言えるだろう。

 

 そんな風に団が軌道に乗った頃、狙い澄ましたように仕事が舞い込んできた。大商会の紹介である。一刀たちと同様に賊を討っている他の集団と合同で、賊軍を討伐してくれないかというものだった。

 

 そこまで大規模であれば官軍が出動してもおかしくないのだろうが、既に民草や商隊に大きな被害が出始めており、上を待っていたら手遅れになると近隣の商人たちが集まって金を出すことにしたらしい。金を出す以上、人員の選定は慎重に進めなければならない。熟慮に熟慮を重ねた結果、一刀団ともう一つに白羽の矢が立ったとのことだ。

 

 依頼を持ってきた郭嘉から説明を受けた一刀は、僅かに思考した後に渋面を作った。

 

「俺たちだけって訳にはいかないのか?」

「数が増えたとは言え、今回の敵は我々の総数よりも多いようですからね。味方がいるに越したことはありません」

 

 それなら仕方ないな、と一刀はすぐに納得した。初見の相手と連携ができるか不安であるというのもあるが、頭数が増えると単純に取り分が減ることを心配したのだ。商人から依頼料が出るとは言え、ため込んだお宝を分捕る機会もそれなりにあるだろう。それをふいにすることは、弱小団である一刀たちにとっては、できれば避けたいことだった。

 

 郭嘉と顔を突き合わせているのは、幕舎とは名ばかりの粗末なテントである。一刀が使っているのは『個室』で一人部屋として使っているが、これは団の中で一刀一人だけの特別待遇である。ヒラ団員は八人くらいで一つのテントを使っているし、郭嘉たち幹部でも二人一組で使っている。郭嘉は程立と、梨晏はシャンと同室だ。こういう特別待遇は逆に肩身が狭いと苦情を言ったら、郭嘉はしれっとこう言った。

 

『別に貴殿に配慮した訳ではありません。会議をする時、一々どこでやるのかを決めるのも面倒と思っただけです』

 

 常にスペースに余裕のある、人の出入りの少ない場所が欲しかっただけというのが郭嘉の言い分である。気の回し方も郭嘉らしい、と苦笑したのも少し昔のことのように感じる。幹部だけでなく、一刀に何か話がある時、団員たちは一刀の幕舎まで足を運んでくる。今日の郭嘉は一人だ。外部との折衝は主に郭嘉が担当している。まず最初に彼女が話を聞き、取り次ぐに足ると思ったら一刀の所まで話を持ってくる。

 

 一応、伺いを立てるという形を取っているが、一刀の所まで話を持ってきたということは、郭嘉としては受けて問題なし――もっとはっきりと言えば、受けろ、ということである。郭嘉の類稀な頭脳をして、収支がプラスになると判断したのだろう。ならばもはや、一刀に反対をする理由はない。

 

「ちなみに敵の数は?」

「五百から六百という話です。今回共に戦うことになっている軍団はおよそ六百と聞いていますから、それなりに有利に戦うことができますね」

 

 討伐対象の賊軍と、今回の味方がほぼ同数ということだ。おそらく、最初はそちらにだけ依頼をするつもりだったが、後になって不安になったのだろう。同数であればよほどの戦力差がない限り、人的被害が多く出る、一刀たちは、言うなれば傭兵団である。戦死者が出ることも仕事の内とは言え、後々まで仲良くしたいのであれば、人死は避けておきたい。利に聡い商人のこと。余分な出費などビタ一文も払いたくはないのだろうが、未来への投資とでもして、自分たちを納得させたらしい。

 

 数字の上では、一刀団が合流した分だけ勝っていることになる。欲を言えばもう少し欲しいところだが、今回の作戦が商人が身銭を切ることで成り立っている以上、これ以上の戦力増強は望めない。スポンサーがこの人数で戦えというのなら、この人数で戦うしかないのだ。

 

「味方の軍団は信頼できるのか?」

「我々と同業のようです。実績、名声共に申し分ありません。団長とその妹分は、一騎当千の猛者と評判です」

「猛者がいて六百ならそいつらだけで何とかなった可能性も大いにあるな。俺たちを邪魔に思ってたりしないか心配だな」

「その辺りは相手の反応を見て考えるのが良いでしょう。そろそろこの団を吸収してやろうという人間が現れてもおかしくはありませんからね。注意してください」

 

 郭嘉の言葉に、一刀は溜息を吐いた。勢力拡大を狙っているのは、一刀たちだけではない。盗賊は討っても討っても後から湧いてくるが、同様にそれを討伐することを生業とする者たちも、盗賊団程数は多くないが成立している。それらが解散壊滅することはあっても、勢力として無事な内に合流することはあまりない。

 

 誰でも主導権は握りたいのである。一緒にやろうと言うのも、実際行動に移すのも簡単だが、末永く仲良くやろうとすると途端に問題が生じる。それを取りまとめるには何か、他の連中にない特別な要素が必要だが、一刀たちには軍師と猛者という他にはないカードがあった。

 

 向こうにも一騎当千の猛者がいるという強力なカードがあるようだが、こちらには更に素敵な軍師たちがいる。話の持っていきかた次第では、あちらを吸収できるかもしれない。団を結成して以来、最も大きな飛躍の可能性に一刀の心も踊ったが……

 

「なるほどな。ちなみに向こうの代表者の名前って知ってるか?」

「確か、関羽。字は雲長といったかと」

 

 一刀は郭嘉から視線を逸らす。何だか無性に、雄大な海が見たくなった。 

 

 

 

 

 

 

 



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第020話 二つの軍団編②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関羽団と初顔合わせの日。団の代表として、一刀は会合の場に向かっていた。同道するのは護衛として梨晏。軍師として諸葛亮である。てっきり郭嘉がついてくるものだと思っていたのだが、これも勉強と郭嘉の判断で諸葛亮がついてくることになったのだ。

 

 研修という名目で預かって早半年。2人は既に団の一員と化している。鳳統よりも諸葛亮と一緒に仕事をする機会が多く、当初よりもかわいらしい笑顔を向けてくれるようになった。鳳統と同様、団に残ってくれると嬉しいのだが、現代で言えば超名門校出身の首席卒業者を、零細ベンチャーが誘うようなものである。引く手数多な才媛であることは解りきっているから、どうも声をかけにくい。本人たちの、特に諸葛亮の感触は悪くないと思うのだが、中々上手くいかないものである。ちなみに元直はいたりいなかったりだ。学院の仕事は忙しいらしい。

 

「先方がお待ちです」

 

 会合の場は、依頼者の代表である大商人の店、その会議室を使わせてもらうことになった。スポンサーである商人たちは同席しない。今回は複数の商人が連名で依頼を出してきた。会議室を使わせてくれている大商人はあくまでその代表であり、集団の決定権を持っている訳ではない。

 

 下手に口を出して責任問題に発展するのが嫌なのだろう。お前が口を出したせいで負けた、という流れになってしまえば、他の商人から攻撃される格好の材料になる。功績も失敗も、全て当事者が負う物とする。一刀たちだけで決めて一刀たちだけで動く背景には、そういう商人たちの思惑があった。

 

 さて、相手よりも先に来るつもりで三十分は早く会場に着いたのだが、相手は更に先に来ていたらしい。出鼻を挫かれた形になった一刀は、案内役の青年について歩きながら、心中で『関羽』について考えていた。

 

 関羽。字は雲長。三国志の主役級の一角、蜀を治めた劉備に仕えた人物であり、三国志を代表する武人でもある。劉備、張飛とは義兄弟であり、中華街などによく祭られている。それ以外は見事な髭を蓄えていたくらいしか情報がないが、今までのことを考えるに最後のヒゲは役に立たない情報である可能性が高い。使える情報はほぼ名前だけだ。

 

「一刀さん、緊張していらっしゃるようですが」

 

 考え事で立ち止まっていると、諸葛亮にまで心配される始末である。名前しか分からない以上、現時点でできることは少ない。本当にまだ売り出している途中のようで、情報もほとんど集まらなかった。郭嘉が持っていた情報でほぼ全て、というのだから関羽と言えどまだ新人なのだろう。誰にでもそういう時期はあるものだが、関羽が新人というのも違和感のある現代人である。

 

 さて、と一刀は自分の頬を指で動かしてみた。そんなに緊張しているように見えるのだろうか。むにむにと動かしていると、隣の梨晏が手を伸ばしてきた。頬をつまんで上に下に伸ばしてくる。笑顔の梨晏に、緊張した様子は全くない。

 

「大丈夫だって団長なら。私も諸葛亮もついてるよ」

「それは理解してる。二人とも、凄く頼りにしてるよ」

 

 ただ、相手が『あの』関羽だから、とは口にできない。まだ名前の売れていない人間をどうして警戒することができるだろうか。思い返してみると、知っているかと方々に聞いてしまった名前の中に関羽も張飛も入っていた気がするが、今はそれは考えないことにする。

 

 名前のパターンが少ないらしいこの世界でも、字まで含めて一致すれば別人ということはないだろう。つまり今回の関羽はあの関羽である可能性が高い。後の英傑であるのならば仲良くしておいて損はないが、そうなると疑問が一つ湧いてくる。

 

 劉備は一体、どこにいるのだろうか。

 

 一刀の記憶では劉備と関羽は割りと最初の頃からつるんでいたような気がするし、劉備が関羽の風下に立っていたという記憶もない。劉備の名前が自分の耳にまで聞こえてこないというのは、どういうことだろう。

 

 関羽とまだ接触していない。あるいは接触しているけど存在を隠したい事情がある。そもそもこの世界には劉備が存在しないか。関羽も曹操も諸葛亮もいるのだ。劉備だけいない理由は一刀には思いつかなかったが、全員集合していると誰に保証されている訳でもない。いるいないと、情報がない時点で決めてかかるのは危険である。

 

 一刀の数少ないアドバンテージは、世に出る可能性の高い人間を少数ではあるが知っていることだ。既に世に出ているならばともかく、出ていないならば、これを狙って釣り上げることができる……かもしれない。これでこの世界における英傑の容姿や出身地など知っていれば無敵だが、生憎と知っているのは名前だけである。かろうじて身体的な特徴を知っているケースでも、女性になっていた場合、関羽のヒゲなど共通していない可能性が高い。

 

 劉備の特徴というのも、耳が大きいらしいというくらいしか知らない。まさか耳の大きい人間を全て勧誘するという訳にもいかないし、これでこの世界の劉備が普通の耳をしていたら笑い話にもならない。結局、中途半端な知識では参考程度にしかならないが、何も知らないよりはマシだろうと無理やり良い方向に考えることにして、一刀は会議室の扉を開けた。

 

 大商人が気を使ってくれたのだろうか。会議室は一刀が思っていたよりもずっと広かった。中央にあるテーブルの片側に、二人の少女が座っている。彼女らは一刀が入ってきたのを見ると、椅子から立ち上がった。その内背の高い方の少女の黒髪が、動きに合わせてさらりと流れた。

 

 おそらく彼女が関羽だろう。道中で集めた話の中で、黒髪というのがあったからおそらく間違いはない。関羽というからもっといかつい女を想像していたのが、普通に美少女だ。緑を基調とした服にミニスカート。それにニーソックスを合わせているのは、一刀の基準で言うと中々あざとい服装ではあるが、無遠慮に視線を向けるのは憚られる理由が、少女らの背後にあった。

 

 武器は預からなかったのだろう。少女らの背後には、一目で重量物と解る武器が、二つ立てかけられている。ただ持ち上げるだけでも一苦労だろうに、ここまで持ってきたということは彼女らはこの武器を普段使いにできる程度には使いこなしているということである。

 

 この細い腕のどこにそんな力が……とも思うが、それはシャンの時に通った道だ。英傑になると定められているような才能を持った少女には、見た目に合わない力が備わっているものだ。納得はいかないが、事実であるのだからしょうがない。

 

 人間、初対面が肝心である。武器にも足にも目を向けないようにして、努めて笑顔を浮かべた一刀は少女二人に向かって一礼した。

 

「はじめまして。私は北郷一刀。姓が北郷で名が一刀です。田舎の生まれでして、字と真名はありません。こちらが太史慈と諸葛亮になります」

「二文字姓が三人も並んでるのだ……もしかしてお兄ちゃんの団は、皆二文字姓なのか?」

「鈴々!!」

 

 単純に疑問に思った、という体で赤毛の少女が問うてくる。子供からすればもっともな疑問だが、会談の場でいきなりするような質問でもない。早速関羽から怒声が飛ぶが、赤毛の少女はどこ吹く風である。一しきり赤毛の少女を怒った後、関羽は心配そうな顔を向けてきた。機嫌を損ねてはいないだろうかと心配している風であるが、今さらこの程度でイラだったりなどしない。

 

 無駄に関羽を心配させないよう、一刀は殊更に笑みを浮かべて、応えた。

 

「ああ、確かに珍しいですね。ですが、これは意図したものではありません。団でも、二文字姓なのはこの三人だけですよ」

「そうなのかー。あ、鈴々は張飛。字は翼徳なのだ。で、こっちが――」

「何故お前が私の紹介をするんだ……」

 

 一刀が機嫌を損ねていないと解って安堵した様子の関羽は、姿勢を正して深々と頭を下げた。

 

「義妹が失礼をいたしました。私は関羽。字を雲長と申します」

 

 ただの自己紹介であるが、ここで張飛に少し変化が起こった。関羽のことを、不思議そうな顔で見上げている。何か想定外のことがあったという顔である。今のやり取りのどこに、と思うがまさか直接聞く訳にもいかない。関羽もその視線に気づいていないようである。

 

 これで関羽もしまった、という顔をしていたらいよいよ一刀も何かあったのかと本気で考えなければならないところだったが、関羽の反応を見るに大したことではない、と思うことにした。小さく咳払いをして気持ちを切り替え、差し出された関羽の手を握り返す。

 

 関羽に促され、着席する。こちらは三人で相手は二人。

 

 人数の上で優位に立っている上に、こちらには軍師役までいる。関羽は意外にインテリであると小耳に挟んだこともあるが、まさか諸葛亮よりも頭が回るということはないだろう。一刀としては頭脳労働担当の人間を伴うのは当然のことなのだが、相手方にいないのを見るとどうにも、自分が仲間におんぶにだっこをしているような気がしてならない。

 

 何も話さない内から微妙に恥ずかしい思いをしている。根本的なところは諸葛亮が話を詰めることになっているが、精神的に風下に立っていても良いことはない。流れを変えよう。そう思った一刀は、機会があれば聞こうと思っていたことを、最初に切り出した。

 

「失礼。貴女方義姉妹は三姉妹とお聞きしたのですが、もうお一方はどちらに?」

 

 この言葉に、関羽と張飛は顔を見合わせた。その顔にあるのは疑問一色である。これで何か隠しているのだとしたら中々の役者だが、少なくとも一刀の目にはそうは見えなかった。現時点で、義姉妹はこの二人だけである。一刀はそれを確信した。

 

「失礼しました。きっと、情報が間違っていたのでしょう。見当違いのことを言って、申し訳ありません」

「構いません。情報が間違っているということもあるでしょう」

 

 一刀が中央。諸葛亮が右側に座り、梨晏は左側である。腰に下げていた剣は、関羽たちにならって壁に立てかけておくことにした。お互い武装していないので条件はイーブンと、建前上はそうなるのだろうが、あちらは関羽と張飛である。対してこちらは梨晏が強いものの、一刀は普通の兵と変わるところがなく、諸葛亮にいたっては剣を持ち上げるのにも難儀する始末である。

 

 いざ荒事になったら不利は否めないが、先ほどの応対を見るに二人とも誠実な人柄ではあるようだ。よほど怒らせるようなことでもない限り、武器を手に取ったりはしないだろうと安心する。

 

「どうして我々と共同で?」

「方々で北郷殿のお噂を耳にしました。それで、共に戦ってみたいと常々思っていたのです」

 

 型通りの答えである。そう答が返ってくることも予想済みだ。一刀団の筆頭軍師である郭嘉は、関羽からのこの提案の目的を、戦力の取り込みであると決め込んでいた。

 

 一刀たち三百は多いとは言えないが、統率の取れた人員というのはそれだけで魅力がある。訓練の時間を短縮できるのだ。それだけ戦場に出すまでの準備期間を減らすことができるし、即時投入が可能であれば言うことはない。

 

 関羽団の方も一刀たちよりは多いが、各地の群雄に比べると多いとは言えない。この時勢だ。特に野心的な人間でなくても、戦力の増強を考えるのは当然である。

 

 だが話を聞いてみた限り、関羽の言葉に裏はないように思えた。本当にただ協力して戦ってみたいだけなのではと一刀は考え始めていたが、郭嘉に釘を刺されたことを思い出す。特に相手方が女性である時、直感にのみ従って判断をするなと。思考が傾きそうになっていることに気づいた一刀は小さく息を吐き、隣の諸葛亮を見た。

 

 やはりベレー帽がイマイチ似合っていないちびっこ軍師は、一刀の視線を受けて小さく、しかし力強く頷いてみせた。最近、この小さな身体にも貫禄が出てきたような気がする。元より、こういう交渉事になると相手が強硬論を唱えでもしない限り、一刀に出番はない。

 

 基本、諸葛亮他軍師が交渉を進め、たまに視線を向けられた時に良きに計らえ、的なことを言うのが一刀の仕事である。本格的な交渉をしている訳でもない。スポンサーは急げと言っている訳だから、明日明後日には双方全ての団員が一同に集まり、当日の作戦を練ることになるだろう。

 

 今日は本当に見合いのようなものだ。話がまとまりさえすればそれで良い。相手に良い印象でも与えられれば更に良いのだが、女の笑顔ほど男を惑わすものはないと一刀は良く知っている。

 

 確かに笑顔は魅力的だが、一刀の周囲にいる女性は笑いながら大の男を纏めて吹っ飛ばすし、笑いながら悪夢でも見そうな程の課題を押し付けてくる。油断してはならない。

 

 結局その日、一刀たちは当たり障りのない会話をし、再会する日取りを決めて、大商人の店を離れた。元よりすぐに出動できるように準備はしている。商人たちから指定された日程は、一刀たちからすれば余裕のあるものだった。それはあちらも同様だという。既に準備を進めており、後は現場に向かうだけとのことだ。

 

 関羽たちと別れ、自分たちの陣まで向かう途中である。その両側を、少し遅れて梨晏と諸葛亮がついてくる。関羽と張飛のことについてしばらく考えていた一刀だったが、結局まとまらなかったので、考えることはやめにした。陣地まで戻れば、幹部全員に今日の印象を話すことになるだろう。簡単ではあるが、関羽と張飛の対策会議を開催する予定なのだ。深く考えるのはその時で良い。

 

 肩越しに背後を振り返ると、諸葛亮が早足になっているのが見えた。考えごとに集中していて、気づかなかった。身体の強い梨晏は歩く速度くらいどうってことないが、諸葛亮はそうはいかない。何もないところでも転ぶことがある諸葛亮を、早足で歩かせるのも忍びないと思った一刀は、歩調を落とした。後ろではなく、並んだことに諸葛亮は自分が配慮されたことに気づいた、縮こまる。

 

 謝るつもりだ。そう感じた一刀は、諸葛亮が口を開く前に彼女の手を取り歩き出す。自分が好きにやっていること、君が気にすることはない。言葉にはしなかったが、賢い諸葛亮のことだ。何を言いたいのかは伝わっただろう。諸葛亮から、礼の言葉はない。その代り、小さな手でぎゅっと手を握り返してくる。

 

 ちらりと視線を向ければ、諸葛亮は顔を真っ赤にしてうつむいていた。ベレー帽を目深にかぶって、視線を合わせないようにしている。恥ずかしがっている時の癖である。

 

「団長ー」

 

 恨みがましい声に目をむければ、梨晏がジト目で睨んでいた。ん、と小さく唸って左手を差し出してくる。何を要求しているのかは一目瞭然だった。一刀が苦笑を浮かべて右手を差し出すと、梨晏は花が咲くような笑みを浮かべてその手を取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのお兄ちゃんを仲間に引き込むって言ってたような気がするんだけどな」

 

 一刀たちが去り、二人きりになったところで鈴々は口を開いた。当初の予定では共に戦う利を説き、できることなら団をまるごと仲間に引き込む予定だった。それを提案したのは愛紗であり、誰よりも団の中で乗り気だったはずなのだが、結果はご覧の通りである。

 

 今日の愛紗の振る舞いは予定とはかなり違っていた。相手の代表に問題があるようならこの話はなかったことにするとも聞いていたが、鈴々の目から見て彼に問題があるようには思えなかった。愛紗の胸や足にちらちらと視線が行っていたが、鈴々だって目が行くものなのだ。男性ならば当然だろうと思いなおす。

 

 話を進めても問題ないと思うのだが、愛する義姉は違う判断をした。加えて態度が、不自然なまでに軟化している。愛紗は団の代表であり、鈴々を含めて団員全員には代表としての態度で接する。当然、敬語などは使わない。

 

 一緒に仕事をする相手とは言え、目上の人間ではない。団員の数もこちらの方が多いし、実績も勝っている。相手を下に見る必要はないが、見上げる必要はもっとないはずだ。にも関わらず、愛紗の態度はまるで自分の主人に対するもののようだった。

 

 普段の愛紗を知らない人間には、ただの物腰の穏やかな人間に見えただろうが、同じ団の人間には愛紗の行動は不可解に見える。仲間に引き込むという話をおくびにも出さなかったことも含めて、鈴々は今回の会談にいくつも疑問を持っていた。

 

「高い志を持っておられるように感じた。顔合わせの日に、いきなりそういう話をするのも失礼なのではと思いなおしただけだ」

 

 対して、愛紗の答えは実に尤もらしい。まるでこの話はするな、とでも言いたげな義姉の頑なな態度に、鈴々ははっと閃いた。

 

「……もしかして、あのお兄ちゃんのこと気に入ったのか?」

 

 その言葉に対する、愛紗の反応は劇的だった。顔を真っ赤にして振り向き、鈴々を怒鳴るのかと思えば、結局何も言わないままに唸り声を上げるだけに留まる。自分でも、どうするのが正しいのか、自分が何を言いたいのか理解できていないのだ。はっきりと混乱している愛紗の様子に、鈴々は相好を崩す。愛する義姉の、こういう態度を見るのは、鈴々にとっても初めてのことだった。

 

「そーか、そーか。愛紗にもついに春が来たんだなー。ああいう優男が好みとは、鈴々も知らなかったのだ」

「好みとか、そういう話ではなくてだな――」

「別にお兄ちゃんの子分になったところで、鈴々は怒ったりしないよ? 皆も同じことを言うと思うのだ。愛紗の好きにしたら良いと思う。大丈夫、愛紗のおっぱいで誘惑して『ご主人様』とか呼んであげればどんな男もイチコロなのだ!」

「だからそういう話ではなくてだな!」

 

 顔を真っ赤にして抗議の声を挙げる愛紗に、鈴々は取り合わない。普段やりこめられる義姉に、一矢報いることができた。それだけで、鈴々はあの青年のことが好きになりかけていた。

 

 

 

 

 




書いてみたら本当に当たり障りのない会話しかしなかったので、会談部分はざっくり省略しました。
これなら最初から全員で合流した方が良かった気がしないでもありません。

次回から戦闘パートになります。


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第021話 二つの軍団編③

 

 

 

 

 盗賊をやっていた仲間に聞いたことがある。何でも盗めるとしたら一体何を盗むか。彼らは全員が全員、一瞬も考えることなく『現金』と答えた。現金は売らなくて済むし、どこの街に行っても価値は同じであると。

 

 だから盗賊団から巻き上げた品を配って歩く時、喜ばれると思って現金から配ろうとしたのだが、それはありえないと止められてしまった。現金は食べられないし、交換してくれる人間がいなければただの金属の塊である。盗賊の拠点と街の間にあるような村はどうせ困窮しているから、現金よりも食べ物や衣類などの現物を配った方が喜ばれるという。

 

 そんな事情で、食料や衣類などを優先して村々に配って歩いた結果、一刀団には現金や貴金属などの交換価値が高い物と、盗賊が使っていた武具などの、そこそこ価値はあるけれど村々にあっても使いどころに困る物が残った。

 

 現金はいざという時の実弾として蓄え、武具は磨いて自分たちで使った。途中から入団してきた面々も、武具を持って入団というケースはほとんどなかった。収入の少ない内は盗賊から奪った武具が、実質的な一刀団の生命線だったのである。

 

 最初の一件で名前を売っておかなければ、こうはいかなかっただろう。きちんとした仕事が入るようになり、そこそこ規模の大きい盗賊を潰すこともできるようになったのも、最初の仕事で馬を回収し、それを売って現金に換えることができたことが大きい。

 

 三百人全員が武装できて、少ないが騎馬隊も編制できている。最低限、傭兵団としての体裁は整っていると言えるだろう。

 

 とは言え、袁紹や袁術などの金持ち連中の兵団と比べると、装備が見劣りするのは否めない。これで関羽団の兵が全員ぴっかぴかの鎧で武装していたら劣等感を憶えて仕方なかったのだろうが、ヒラ兵士に限って言えば、装備の質は一刀団と大差なかった。

 

 差があったのは関羽と張飛が直接指揮をとる二十から三十の部隊で、彼らは重い武器と頑丈な鎧で武装していた。明らかな待遇の差であるが、それを不公平と思う人間はいないようだった。

 

 彼らが良い装備を与えられているのは、彼らが精兵だからという理由もあるのだろうが、そうであるが故に、より危険な現場を請け負うことになるからだ。つまりはそれだけ死ぬ可能性が高いということである。何しろ一騎当千の武将が直接指揮をするのだ。普通の兵では命がいくつあっても足りないような現場を生き抜くには、相対的に良い装備がどうしても必要なのである。

 

 良い装備の兵も、普通の装備のヒラ兵士もきちんと整列して行進している。軍規が行き届いている証拠である。血色が悪かったり不衛生な兵は一人もいない。想像していた以上に良い環境のようである。なるほど、確かにあの関羽が率いているだけのことはあると思ったが、兵の質よりももっと気になることがあった。ぐるりと兵たちを眺めた後、一刀は関羽に問うた。

 

「これで、全員(・・)ですか?」

「はい。私と鈴々を含めて六百二十一名。我々はこれで全員です」

「軍規も行き届いているようで、行動に乱れがない。お羨ましいことです」

「ご謙遜を。一刀殿のところは、一から結成してまだ半年と伺っています。それでこれだけの兵団を作られたのですから、一刀殿も中々のものですよ」

「俺の力など微々たるものです。未だに仲間におんぶに抱っこの状態で、お恥ずかしい限りです」

 

 ははは、と一刀は苦笑を浮かべる。中々でも微々たるものでも、実際に関羽の方が倍以上の兵を持っているのだから、二つの団を外から見た人間はそのほとんどが、一刀団よりも関羽団の方が優れていると判断するだろう。

 

 軍師や武将など、団員の質で劣るつもりは決してないが、現時点で関羽団に劣っているという事実を否定する材料はない。郭嘉たち最高の人材を活かすには、まだまだ道半ばであると関羽団の兵を眺めながら、一刀は団を大きくするという決意を新たにした。

 

 自分の中の劣等感以外に、気づいたことがいくつかある。

 

 関羽の言葉を信じるならば、関羽団はこれで全員。やはり、劉備はここにはいないようだ。梨晏やシャン、郭嘉たち軍師にもそれとなく関羽団の兵を確認してもらったが、結果は芳しくない。関羽と張飛以外に特別技量に優れる者はおらず、また軍師役を担っていそうな者も、ぱっと見た限りではいないらしい。

 

 劉備の件はとりあえず置いておくとしても、軍師役がいないというのは意外なことではあった。何気にインテリだという噂の関羽がそれを兼ねているのだろうが、彼女は団の代表であり一騎当千の猛者である。戦では常に最前線に出て戦う彼女に、本陣で俯瞰して物事を見るという作業は不可能だ。

 

 これからのことを考えれば軍師の一人か二人は仲間に引き入れるべきだと思うのだが……まぁ、それは言われるまでもないことだろう。相手はあの関羽である。現代でぬくぬく生きてきた人間がぱっと見て思いつくようなことくらい、早々に考えついているはずだ。

 

 兵団の紹介が済むと、一刀たちは関羽団の幕舎に移動した。普段、関羽と張飛が使っている幕舎だそうで、広い作りである。これからの事を話し合うために、お互いの幹部を集めての会議であるが、ここで明確に人数に差が出てしまった。

 

 一刀団から出席した幹部は団長の一刀、武将であるところの梨晏とシャン。軍師として郭嘉、程立に客員の軍師である諸葛亮と鳳統。元直の立場も諸葛亮たちと同様『客員の軍師』であるのだが、色々と忙しい彼女は今現在はこの場にいなかった。連絡はついている。盗賊と戦う時までには必ず戻ると言っていたが、果たして戻ってこれるのかどうか分からない。

 

 一刀団がこれだけ大所帯なのに対し、関羽団の幹部として出席しているのは関羽本人と義妹の張飛の2人だけだった。それぞれが率いる中には百人隊長など、中間の管理職は複数名いるらしいのだが、それは幹部ではないというのが姉妹二人の認識で、隊長たちの方も同様であるらしい。

 

 少し少なすぎやしないだろうか。それとも、普通の団はこうなのだろうか。自分たちが普通の集団でないことは自覚しているが、逆にどういうものが普通なのだろう。そもそもこの国にとって、存在そのものが普通でない一刀には良く分からない。不安に思って横に座っている程立を見る。一刀の視線を受けた程立はいつもの寝ぼけ眼のまま、顔を寄せ、耳元で囁いた。

 

「ご懸念はもっともです。普通はこれくらいの集団になれば、少なくとも後2、3人は幹部がいるはずです。先頃戦った盗賊団を思い出していただけると、お解りいただけると思いますが」

 

 確か二百人からの集団に十人は幹部がいた。一人が二十人程度直接指揮をしているとすれば計算は合うが、烏合の衆がそこまできっちりとした統制を取っているとは思えない。深く考えず、何となく偉い奴とそれ以外を分けていてその形になったのだとしたら、それは自然が生み出した最適解ということなのだろう。勤勉な人間よりも怠け者の方が先に真理にたどり着くことがあるという。盗賊団の件も、そういうことなのかもしれない。

 

「人には限界があります。その限界を越えて物事を処理をしようとすると、そこから無理が生まれて全てが破綻します。組織が分業する理由の一つは、物事を無理なく運営するためなのです。しかし逆に言えば、自分の能力の範疇でさえあれば、物事は上手く回ります。六百人の集団を自分と義妹で運営するというのは、関羽さんにとって無理のないことなのでしょう」

「実は苦労してるとかは?」

「なさそうですねー。統制は取れていますし、調練もきちんとこなせています。物資が不足している様子もなく、兵たちの士気も高い。考えうる限り、限りなく最高に近い状態と言っても良いでしょう」

「文句のつけようもないっていうのはこのことだな……」

「ですが、それでも限界というのは必ずやってきます。組織が大きくなり関羽さんの限界が見えてきた時、いきなり組織の体系に手を入れるのは、得策とは言えません。張飛さんと二人で処理できなくなったということは、既に無理が生じているということであり、その上更に他人の手が入るということでもあります。全て今まで通りとは絶対にいきません。思わぬ所で思わぬことが起こり、それが大惨事に繋がる。世の中そういうものです」

「それは流石に悲観論が過ぎるんじゃないかと思うけどな」

「風は軍師なので、悲観論で備えてしまうのはご容赦ください。でも、困ってからようやく動くようでは遅すぎるということは忘れないでくださいね? 勝つために必要なのは、執念深い調査と周到な準備です」

 

 いつもの調子で痛い所を突いてくる程立であるが、それもまた真理である。美少女に顔を寄せている一刀を、関羽は黙って眺めていたが、話が終わったのを見ると小さく咳払いをして、今度は自分の話を始めた。

 

「――依頼主の情報では、賊軍が拠点としているのはここから三日程。朽ちた大昔の砦とのことです」

 

 一刀たちと関羽たち姉妹は、卓を挟んで向かい合っている。それほど大きくはない卓の上には、周辺の地図が置かれていた。現代人である一刀から見ると落書きのような地図だが、周辺の状況を把握するにはこれで十分だった。何しろそこは街道から外れた平地にあり、周囲に特筆するような地形はない。

 

 大昔とは言え、どうしてそんな場所に砦など作ったのかという疑問は残るが、実際にあるのだから今はそれを考えないでおく。

 

「改修されていると厄介ですが、その辺りの情報は?」

「崩れた塀を木で補強してある程度ということです。元々旅の人間が宿に使うこともあったとかで、詳細な情報が街にありました。あそこを砦として使うのならば、改修するよりも新しく立てた方が予算も時間も少なくて済むとのこと。大人数が雨露を凌げるだけの場所、という認識で問題ないかと思います」

「籠城する可能性は低い、と見て良さそうですねー」

 

 一刀の左隣に座っている程立が、寝ぼけ眼で見上げてくる。相変わらず大きな飴を咥えているが、それに張飛が卓の向こうから熱い視線を注いでいた。どうしても欲しいと言う程ではないが、是非口には入れてみたいという風である。

 

 見た目の通りの食いしん坊キャラのようだ。それをどうにか隠そうとしているようだが、視線は飴に釘づけである。当然、程立はそれに気づいていた。張飛の視線を誘導するように、飴を右に左に揺らす。張飛の視線もそれに合わせて動いていた。程立にとって飴は貴重品、という訳ではない。飴のストックは沢山ある。程立にとっては精神安定剤のようなものらしく、補充できるような場所に行った時にはいつも持てる限界まで補充してくる。

 

 最近は街に寄ることも多かったから、自分の分が不足している訳では決してない。別にケチな性格でもないから張飛に分けることに抵抗がある訳でもないはずだ。単純に、からかうのが面白いからそうしているのだろう。見た目お人形さんなせいか、微妙な悪戯好きなのである。

 

 散々からかい倒した後、程立は懐から予備の飴を取り出して卓の隅に置くと、張飛に向かって軽く掌を差し出して。『どうぞ』の仕草に張飛は目を輝かせる。飴に飛びつくために身体が動きかけたが、今が会議の席だと思いなおしたらしい。こほん、とわざとらしく咳払いをして椅子に座りなおしている。

 

 そんなやり取りを横目で眺めていた関羽は、義妹の行動に深々と溜息を漏らしていた。

 

「こちらの総数は九百。あちらは六百。一応、総数では勝っている訳ですが、そちらに何か計画などはおありでしょうか」

「正直、夜陰に紛れて近づき、夜明けと共に総攻撃、くらいしか考えておりませんでした……」

 

 関羽団の実力であれば、盗賊六百などは問題にならないだろう。ただ倒す、追い散らすというだけであれば、他所の手を借りるまでもない。

 

 しかし、商人たちからの依頼は盗賊団の全滅である。これは軍事的な用語としての意味ではなく、その全てに近い数を抹殺、あるいは捕縛せよという依頼である。関羽の言った方法では劣勢になった時点で、盗賊団の大部分が逃げてしまう。相手を逃がさないための周到な準備が必要となる訳だが、包囲殲滅となると同数である関羽団だけで対応するのは難しい。一刀団の三百を入れても微妙なところである。

 

「平野部で包囲するなら五倍は欲しいところですねー」

 

 程立ののんびりした声が幕舎に響く。何の気なしに言ったようにも聞こえるが、言い換えれば単純な包囲戦は無理だと暗に言っていた。ではどうするのか。それを話しあう会議な訳だが、関羽団の側から意見が上がってくる気配がない。

 

 引き摺り出して総力戦というのが現状、彼女らの考える最高の手段なのだろう。一刀自身、妙案があるという訳ではないが、大将とは別に中長期的な作戦を考えることのできる参謀が必要とされる理由が、よく解った気がした。一刀も頭を捻ってみたが、関羽の出した総力戦以上の案が出そうにもない。

 

 ちらと、郭嘉を見る。理知的な眼鏡美人は、僅かに目を細めると視線で諸葛亮を示した。一刀は、僅かに眉を上げて疑問を呈する。郭嘉は視線で『諸葛亮に任せる』と言っている。それに否やはないが、別に郭嘉本人が提案しても良い場面のはずだ。

 

 疑問は残ったが、筆頭軍師の指示である。ここで諸葛亮を使うことに、何か意味があるのだろうと思いなおした一刀は、諸葛亮に視線を向けた。

 

「諸葛亮。説明を頼む」

「は……はい!」

 

 まさか自分が指名されると思っていなかった諸葛亮は、背筋を伸ばし、かちこちと前に出る。緊張のあまり両手と両足が一緒になって動いていた。これで大丈夫なのかと関羽、張飛からも不安気な視線が向くが、一刀たちと関羽張飛の中間、地図の広げられた卓の中間位置に立つと、諸葛亮の震えはぴたりと止まった。大きく息を吸って吐く、俯いていた顔を上げた時には、諸葛亮の顔はもう軍師のものに変わっていた。

 

「分断し、各個撃破することを提案いたします」

「方法を説明してくれ」

「彼らの同業者…………流れてきた盗賊に偽装した兵五十でもって夜襲を繰り返します。彼ら自身ではなく、彼らのため込んだ財を狙っていると思わせるのです。自分たちの命ではなく、財物を狙っているとなれば、彼らも一度は足を止め、迎撃することを考えるでしょう。そうなってから、実際に忍び込み、財物を盗み出します。彼らが追ってくるように仕向けるのです」

「それで全数を引っ張り出すことができるか?」

「いいえ。間違いなく全員では追ってきません。財宝全てを一度に盗めるのならばその可能性もありますが、少数ではそれも難しいでしょう。砦から打って出てくるのは最大で半数。三百程度と考えます。こちらは五十ですから、それで十分と判断するでしょう」

 

 それが成功すれば、半分ずつに賊軍は分断されることになる。残りの半分は砦に籠ったままだが、半分は外に出ているのだ。明らかな少数で引っ張り出すところに難しさはあるものの、それをどうにか乗り越えることができれば後はこちらの領分である。

 

 こちらで状況を設定できるということは、罠を張って待ち構えることができるということだ。数で劣る敵を追っていたのに、気づけば危機的状況に追い込まれている。賊軍の不安は相当なものとなるだろう。

 

「可能な限り砦から引き離した後、伏兵により奇襲。足の速い戦力の九割をこちらに集中させます。出てきた賊は全て、討つか捕縛。砦に残った兵は、残りの全兵力で奇襲。賊が出ていったのとは逆方向からです」

「財物を放り出して逃げるってことは?」

「勿論考えられますが、出ていった半数が劣勢となれば状況が変わります。何しろ単純に取り分が倍に増えた訳ですから、この欲を振り払うことは容易ではありません。逃げるにしても、財物を確保してからです。財物がどういう状態で保管されているか解りませんが、六百という大所帯ですから相当量と考えられます。持ち出すのも一苦労でしょう」

「それで、諸葛亮殿。砦を襲う際の策は?」

「油をまいて火を放ちます」

 

 即答した諸葛亮に、関羽は絶句してしまった。砦を攻める際の手段として、火攻めは割とスタンダードなものだと聞いている。朽ちた砦に盗賊が沢山。火攻をするには持ってこいの状況であるが、表情を見るに関羽には精神的な抵抗があるようだった。思っていた以上に関羽が乗ってこないため、とりあえずという形で一刀が言葉を続ける。

 

「財物も一緒に燃えるかもしれないが……」

「賊の討滅とこちらの安全を最優先に考えました。それに信頼できる筋(・・・・・・)からの話では、拠点を決めた盗賊はすぐに持ち出せるものとは別に、価値の高いものをすぐに持ち出せない形で管理すると聞きました。あくまで希望的観測の範疇をでませんが、砦の状況を鑑みるに価値の高い財物はおそらく、地面に埋めているものと思われます」

「だと助かるんだがね……」

 

 諸葛亮の言う信頼できる筋というのは、無論のこと団の仲間たちのことであるが、彼らに言わせても本当に地面に埋まっている可能性は五割を切るという。財物が失われるのは決して少なくない損失であるが、作戦の成功に比べたらどうということはない。砦に火をつけても大丈夫、という精神的な不安を取り除くための提案だったのだが、それに乗る形でようやく関羽が口を開く。

 

「しかし火を放つというのは……」

 

 いかにも正道を行くという関羽からすれば、賊とはいえ炎に巻かれて人が死ぬ光景に抵抗があるのだろうが、その語調を見るにそこまで反対、という訳ではないようである。それを悟った諸葛亮は、普段とは異なる口調でぴしゃりと言い放った。

 

「義に寄って立った貴女方と、非道を働く者たち。どちらの安全を優先するかは考えるまでもありません」

「…………そうだな。すまなかった。忘れてくれ」

 

 結局、関羽の方が折れる形で話はまとまった。火を放つというのは現時点ではまだ案の一つであるが、そういう方法を取ることもある、ということで話はまとまった。

 

「それで、誰が盗賊のふりをするかということなのですが……」

 

 疑問を呈してきたのは関羽である。同業者が稼ぎを狙ってきたと賊に思わせることが、この作戦の第一段階である。襲撃するこちらが盗賊に見えなくては話にならないし、そしてそれは作戦を続行するに辺り、ある程度の精鋭でなければならない。

 

 関羽団で言えば彼女か義妹の張飛の直轄の兵がそれに当たるのだろうが、自分たちが賊のふりをできるか不安に思っているのだろう。無理もない。ただ襲撃するならばまだしも、本職の盗賊を相手に同業者だと思わせなければならないのだ。

 

 危険な役割である。関羽の性格上、是非ここは私に! と言いたいところなのだが、正直、品行方正に生きてきた彼女に、盗賊の真似事を完遂する自信は全くなかった。義妹の張飛は義姉に比べればまだマシだったが、実力はともかく愛敬のある顔立ちは盗賊に見えない。

 

 人は見た目が九割という。こういう時も、それは同じだ。ぱっと見盗賊に見えないようでは、相手の疑念を誘うことになる。疑念を抱かれるようではダメなのだ。考えれば考えるほど、自分たちはその作戦には向いていないことを理解した関羽は、困りきった顔で一刀を見た。

 

 これが、一刀団の軍師たちが待っていたタイミングである。卓の下で、郭嘉が一刀の座る椅子を軽く小突いた。郭嘉本人は澄ました様子で、明後日の方角を向いている。わざとらしいと思うが、それは事情を知っている一刀であればこそだ。ん、と小さく咳払いをした一刀は、関羽に用意していたセリフを口にした。

 

「どうでしょう。ここは俺に任せていただけませんか?」

「一刀殿……しかし、危険な作戦です」

「危険なのは、どこの場所でも同じでしょう。貴女に比べれば武の腕は全くもって大したことはありませんが、これくらいならば、何とかなりそうです。俺ではと不安に思う気持ちは解りますが、俺の男を立てると思ってここはお任せいただけませんか?」

 

 自分の行いに不安がある以上、他人を頼るしかない。そこに、一緒に仕事をする団の代表からの提案だ。しかも自信がある様子で、男を立ててくれとまで言っている。無論、一刀の言う通り不安に思う気持ちはあるが、それを口にできるほど、関羽の肝は太くなかった。

 

 この時点で、なにやら妥協してばかりと気づきつつあった関羽が、確信を持つことになるのはもう少し先の話である。

 

 

「一刀殿がそこまでおっしゃるのであれば、是非もありません。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、予定の通りに作戦を通したと、そういう訳ですな……」

 

 自分の幕舎に戻り、直属兵を集めて概要を説明した後のこと。部下を代表して口を開いた廖化に、一刀は頷いて見せた。

 

「ああ、全部諸葛亮と郭嘉の考えた通りになったよ」

「重畳ですな。しかし、まさか盗賊の真似事をして感謝されるような日が来るとは、楽な仕事もあったもんです」

「楽ではないぞ? 盗賊のふりをしながら、色々仕事しなきゃならないからな」

 

 この作戦なら、こちら主導でいけるだろうと、主に諸葛亮が中心となって組まれたこの作戦は、当初の予定通り無事に採用される運びとなった。明日には共に移動を開始する手はずとなっているが、軍師たちは郭嘉の幕舎へと移動し、作戦の詳細を詰めている。

 

 相談するならここでも良いのではと思ったが、今度は詳細が決まったら伝えるとのことで、会議からはハブられてしまった。仕方ないので、一刀は直属の兵を集めて、会議の内容を報告した。関羽の言っていた通りキツい仕事のはずなのだが、集まったいかつい男たちは一様に笑みを浮かべている。本当に、楽な仕事と思っているらしい。

 

「いやいや、ただ戦うよりはずっと気持ちが楽でさぁ。気質の問題なんでしょうかね。正面切って戦うよりは、こうやってちょろちょろしている方が性に合っているというか……」

「それは俺も同じだけど、これからはそういう場面も増えてくるだろうしな。少しずつ慣れていこう」

 

 油断するなという意味でいったつもりだったが、廖化たちの雰囲気は緩いままだ。これで大丈夫なのかと思うが、彼らは盗賊としていくつもの修羅場を潜っていた猛者である。自分よりもずっと肝が太いのだと思えば、これほど心強いものもなかった。

 

「それにしても、団長。相手の偉い美人の大将をもう籠絡したようで。おめでとうございます」

「…………一体どうしてそういう話になったんだ?」

「団長たちが話を練っている間に、俺らは俺らであちらの兵と交流を持ちましてな。いや、堅物ばかりかと思えば意外に話の解る連中で……それで、奴らの話では、あちらの大将はそれはそれは美人で大層腕も立つそうですが、性格も見た通りで如何にもな堅物とのこと。それが団長の前では年頃の乙女のようにふるまっているというのですから、これは何かあるのではと」

 

 情報元はよりによってあちらの兵である。こちら側だけで完結するならば、ただの邪推ということで片づけられもするのだが、関羽について何も知らないに等しい自分たちと異なり、共に戦ったことのある彼らは関羽の人となりをそれなりに知っている。

 

 その彼らが言うのだから、説得力も一入だった。無論、頭っからそれを信じるほど一刀も純粋ではないが、一刀とて健全な男子である。まして関羽ほどの美少女ともなれば、もしかしたらと思うくらいはどうしようもなかった。

 

 にやにや笑う廖化を視界の隅に追いやりながら、関羽という少女について考えてみる。自分の前では乙女のようになるということだが、言われてみれば確かに自分とそれ以外に話す時で大分口調が変わっているように思えた。隣にいた義妹張飛と会話している時と比べると、その違いが良く解る。

 

「それは俺がこっちの代表だからじゃないかな。対外的な話をする時は、大体ああなるのかも」

「そうではない、というのがあちらの兵の主張ですな」

 

 じわじわと外堀が埋められていく。廖化の言う通り本当に脈アリなのであれば、団を吸収する材料になるのではという打算が一刀の脳裏に浮かんだ。戦力増強というだけではない。あの関羽が味方になるというのは、現代からやってきた一刀にとっては、有力な武将がただ仲間になるという事実よりも遥かに価値のあることだったが、そう上手くは行かないだろうと即座に否定した。

 

 昔からプレイボーイで鳴らしていたというのならばまだしも、一刀自身、女性とお付き合いをした経験はなかった。それっぽく振る舞うことはできるだろうが、あくまでぽいだけだ。救いがあるとすれば相手の関羽もそんなに経験があるようには見えないことである。初めて同士ならば上手く行くのではと少しだけ考えるが、関羽の性格が見た目の通りというのであれば、疑念を抱かれた瞬間に全ての目論見が終了しそうな気もする。

 

 いくら考えても、成功する目が見えてこない。少ない勝算にかけて無理に実行するくらいならば、せめてもう少し勝ちの目が見えてくるまでそういう手は封印しておくべきだと思うのだ。

 

 軍師たちがどうしてもやれと言うのであれば世話になっている手前やらざるを得ないが、一刀個人としてはできれば取りたくない手段ではある。人間誠実であるのが一番だ。そこまで考えたところで、ふとあることに一刀は思い至った。

 

「なぁ、女性とお近づきになりたい時って、どうやって声をかけるんだ?」

 

 できれば広く意見を求めたい。幸い部下は全員年上であるから、何か良い知恵でも貰えるのではないか。軽い気持ちで一刀は問うたが、廖化たちから帰ってきたのは爆笑だった。

 

「ははぁ、団長のような優男でも、そういう疑問を持つんですな」

「褒めてくれるのは嬉しいけど、実は結構切実なんだ。下心を持って近づいたら、警戒されるものなんだろう? それじゃあどうやって仲良くなるんだ」

「なるようになるもんだ、としか俺程度の経験では答えられませんが、とりあえず二人きりになるところからでも始めてみたらいかがですか? 少しでもダメだと思ったら大人しく引き下がると決めてかかれば、少しは気も楽でしょう」

「想像した今この時点で、大分気が重いんだけど……」

「それこそ、なるようになるってもんでさぁ。俺としちゃあ、後学のためにお誘いするなら諸葛先生が良いんじゃないかと思いますが」

「参考までに、どうして諸葛亮が良いと思ったのか教えてもらえるか?」

「団長の周辺じゃあ、一番笑って済ませてくれそうじゃありませんか。郭先生からは小言を貰いそうですし。程先生はふふふと笑いながら踏みつけてきそうで聊か恐怖を憶えます。徐先生は何だかんだで『良い経験』をさせてもらえそうではありますが、今の団長には手に負えないでしょう。あれは怪物です」

 

 本人から聞いた話ではあるが、あれでも学生時代はそれなりに遊んでいたらしい。水鏡女学院は読んで字の如く女子高だった気がするのだが、あの性格あの見た目ならば確かにモテそうではある。遊んでいた、と態々男である自分に言うのだから、そういうことなのだろう。女同士というのに興味がないではないが、同時になるほど確かに怪物だとも思う。

 

「シャンと梨晏と鳳統が候補から外れたのはどうしてだ?」

「前のお二人は今の時点で尻尾を振ってついてきてらっしゃる。団長の望むような経験は積めんでしょう。鳳先生は何というか、今まで名前の挙がった方々と比べると、聊か壁があるんじゃないかと思うんですが……」

「よく見てるなぁ、廖化……」

「これでも団長の倍は生きてますのでね」

 

 感心した一刀に、廖化は事も無げに返す。確かに、よく話しかけてくれる諸葛亮と比べると、鳳統との会話は少ない。それを壁と言うのならばそうなのだろう。団長である一刀の立場をしても、きちんとコミュニケーションが取れているとは言い難い、唯一の人物だ。

 

 女性と仲良くなるという単純な目的を別にすれば、今最も交流を持たなければならないのは鳳統なのかもしれないが、ここまでオススメを聞いてしまった手前、全く参考にしないという訳にもいかない。

 

 デートとか男女交際とか、そういう甘酸っぱいものに発展することはあるまいが、ともあれ何事も経験しないことには始まらない。こんな思いをするなら、学校に行っている間にもっと色々とやっておけば良かったと、後悔しても遅いのである。

 

「時間が取れたら、諸葛亮に声をかけてみるよ。まぁ、そういうことにはならないと思うけど、某か成果があったら皆でお祝いでもしてくれ」

「何も準備しないで待ってまさぁ」

「そこはお世辞でも、期待してますとか言うところじゃないのか?」

「いやぁ。ここですんなり成功しちまうというのも、それはそれで腹が立つというか何というか……」

 

 なぁ、と廖化が振り返ると、部下たちは一様に頷いた。男の友情というのは、かくも美しいものである……。

 

 



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第022話 二つの軍団編④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人数も増え、様々な戦闘経験を積んだ一刀たちだが、所謂攻城戦の経験は少ない。防衛に向いている程の拠点を構えている賊軍を相手にしていなかったことが主な要因であるが、同時に可能な限りリスクを避ける戦い方をしてきたことも、原因の一つとして挙げられる。

 

 一刀団の基本戦術は、敵対勢力に対する執念深い調査をし、周到な準備をした上で、彼らが拠点の外にいる時を狙って奇襲するというものだ。元賊が多いだけあって、彼らは方法論としての戦術を理屈ではなく経験として理解している、

 

 可能な限り大人数で、少人数の敵を、迅速に、一方的に攻撃する。真っ当な教育を受けていると人からどう見られるかを気にしてしまうものだが、彼らは皆行動原理の根幹が生き残ることで統一されている。味方を、引いては自分の命を危険に晒すくらいならば、敵を痛めつけるし殺しもする。

 

 欠点があるとすれば、リスクを避けるせいで人数の割りに直接的な戦闘力が低いところだが、それを軍師による作戦の質でカバーしている訳である。筆頭軍師である郭嘉が団員に最初に徹底させたのは、上からの指示に疑問を持たないことと、それを忠実に、そして迅速に実行することだ。

 

 ある程度の慣れが必要な後半はともかく、上の指示が絶対であるのは軍でも賊軍でも同じである。命令に忠実という意味で、一刀団の面々は最初から優秀であったと言えた。

 

 総合的に見れば、兵士としての質は決して悪いものではない。無論のこと、世の英傑の部隊と比べると直接的な戦力は見劣りすることは否めないが、一刀団の兵たちは彼らには決してできない戦い方ができる。

 

 今回、関羽団の協戦もその得意分野を請け負っている形である。

 

 深夜、賊軍砦の近く。一刀を中心として団の精鋭五十人は、簡単な迷彩を施したボロ布をまとって闇に潜んでいた。視線の先には聞いていた通りのボロ砦が見える。かがり火に照らされている部分を見る限り、やはり補修はされていないようだ。

 

 歩哨が見える範囲に約5人。反対側にも同数がいるとして、砦の外側におよそ十人。予想の通りであり、そして郭嘉たちが望んだ通りの展開でもある。今回は見張りがいた方が、一刀たちにとっては都合が良いのだ。

 

「梨晏、行けるか?」

「もちろん。関羽さんに、良い弓ももらったしね」

 

 軽く弦をはじいて、梨晏が小さくウィンクをする。今梨晏の手にあるのは、関羽が予備として使っていた弓を譲り受けたものだ。今まで梨晏が使っていた弓も悪いものではなかったのだが、流石にかの関羽が使っているものは質が違った。しっかりと手入れされていたし、何より強力である。

 

 ちなみに、関羽団の中で彼女以外にこの弓を引ける者はいないらしい。張飛は弓を持ちたがらず、精兵の面々も弓は使うが、関羽が使うものは強すぎて引けないそうだ。梨晏が弓手であると聞いた関羽が、それならばと持ってきた弓を、梨晏は涼しい顔で引いて見せた。

 

 剣を使わせても十分強い梨晏だが、弓には更に天稟を発揮している。既に一騎当千の実力を持っているはずの関羽ですら、弓では既に敵わないと言っているのだから、その才能の高さが伺えた。

 

 周囲では他の部隊が既に配置についている……はずである。現代であればそれこそ、誰がどこにいるかなど文明の利器の力で把握できるのだろうが、今の状況、今の時代では確かめる術はない。恵まれた時代に生まれたものだと思いながら、一刀は指で梨晏に合図を送った。

 

 一刀の合図を受けて、梨晏は精神を集中させる。身体はここにありながら、視線は、精神は遥か彼方を見据える感覚。息を吸い、吐き、そのまま呼吸を止めて弦を一気に引く。

 

 狙いを定めたのは一瞬。

 

 矢が放たれた。それと同時に一刀たちは駆け出していく。ボロ布を放り出し、一目散に。見張りの内の一人が、駆ける一刀たちに気づいたが、声を挙げるよりも先に、梨晏の矢がその喉を射抜いた。うめき声すら上げられずに倒れる男に、他の見張りは気づかない。

 

 やがて、一人、二人と、見張りが射殺されていく。一刀たちが砦の壁に取り付いた頃には、全ての見張りが射殺されていた。遠目に見れば、弓を持ったまま梨晏が駆けてくるのが見える。本人は走りながらでもやれると言っていたのだが、万全を期した形だ。足音も小さく駆けてきた梨晏が合流するのを待ち、暗闇の中、一刀は仲間に指で合図を送る。

 

『実行』

 

 夜の闇は暗く、近くにいる仲間の顔も良く見通せない中、一刀は確かに仲間たちがにやりと笑うのを見た気がした。それが気の迷いのせいか、逡巡する間もあればこそ、団員たちは一斉に雄叫びを挙げた。そうして口々に、文字にするのも憚られるような品のない罵詈雑言を吐きながら、砦の中になだれ込んでいく。

 

 同業者がお宝を狙って殴りこんできた。その筋を信じさせるのに、これ程説得力のある行いもない。賊徒だった頃を思い出した一刀軍の兵たちは、あらんかぎりの罵詈雑言を吐きながらも、その実、郭嘉と諸葛亮が立てた作戦を忠実に実行していた。

 

 正面入り口を突破したら、外周に沿うようにして二手に分かれる。片方は一刀が指揮を取り、もう片方を廖化が受け持つ。どういう隠し方をしていたとしても、お宝は砦の中ほどにあるに違いない。襲撃となれば中央の守りが厚くなるはずである。

 

 一刀たち正面から攻める面々の役割は、一つは中央の動きを観察し、お宝がどこにあるのか目星を付けることと、首領、幹部の面構えを確認すること。もう一つは、有事にあっても中央に寄らず、外、あるいは外周付近に残った賊を討ち果たすことである。

 

 一刀たちが受け持ったのは討ち果たす方だ。そのため、兵は廖化隊に比べて相対的に質の高い人間が揃っている。とは言え、廖化の部隊も危険がないという訳ではない。総力戦でないとは言え、敵の本拠地に踏み込んでいるのだ。危険でない場所などあるはずもない。

 

 最終的に賊徒を殲滅させるのであれば、頭数は少ないに越したことはない。有事の際に中央に行かない、あるいはいけないとなれば、賊徒にあって立場が低いことは推察されるが、それが腕っぷしに繋がる訳ではないということは、廖化たちからしつこいくらいに念を押されていた。

 

 賊の首領というのは概ね、腕っぷしが強いものだが、賊軍の中での立場というのは腕っぷしの強い順で並んでいる訳ではない。集団から外れた位置にいるから雑魚、という認識はくれぐれも捨てるようにと何度も言われた一刀に油断はない。というのも、

 

「はっ!」

 

 裂白の気合と共に、梨晏が剣を振りぬく。これで五人目だろうか。一刀の護衛として合流した梨晏は、二合と剣を打ちあわせずに、賊を斬り殺していく。一応、一刀も剣を抜いて警戒しているのが、仕事は専ら梨晏の傍を離れないことだった。乱戦が続くこの状況で、梨晏の近くが一番安全だという確信がある。

 

 自分の5つは年下の少女におんぶに抱っこというのは恰好悪いにも程があるが、自分の力を過信しないようにとは郭嘉に何度も言い含められている。少し無理をしようとすると、脳裏に郭嘉の顔が思い浮かぶのだから、その言葉の浸透っぷりが伺える。

 

 外周の戦いが一刀たちの一方的優勢で落ち着くと、砦の戦いは一転、膠着状態に陥った。生き残っている賊は中央に集まって防御を固め、反撃の機会をうかがっている。思いのほか、行動が徹底している。有事の際は中央に集まれと、簡単な取り決めでもあったのだろう。外に残っていたのは、単純に乗り遅れただけの鈍間だった可能性も否めない。

 

 もはや寝ている賊はいるはずもなく、武器も既にいきわたっているだろう。奇襲の時間は終了だ。ならばここで撤収するべきであるのだろうが、一刀たちにはまだ一仕事が残っていた。

 

 時間は十分に稼いだ。廖化達も観察がし易い位置に陣取っただろう。一つ、二つ、三つ、四つ。心中で数えて時を待ち――

 

 やがて、一刀たちが押しかけてきたのとは逆の方向から、雄叫びがあがった。賊徒の間に動揺が走ったのを、一刀たちも見逃さなかった。遠間に、梨晏が次々に矢をいかけていく。一矢一殺。息の続く限り、矢の続く限り賊徒を殺すという意思を持った梨晏の矢に、賊徒は堪らず押し込められていく。

 

 別動隊の襲撃は、賊徒を減らすためのものではなく、一刀たちの撤退を安全にするためのものだ。雄叫びを挙げた別動隊は押し込むようなことはせず、一刀たち以上に無理をせずに撤退する手はずになっている。賊に動揺が走っている間に、一刀たちはケツを捲って逃げ出していた。

 

 正面で廖化たちと合流し、一目散に砦から離れる。走りながら仲間を見れば、何人かシルエットが大きくなっている者がいた。よりそれっぽく見えるということで、殺した賊の身ぐるみを剥いでこさせたのだ。星灯の中、兵たちは器用にも夜目をきかせて品物を選別し、いらないものをその場に捨てていく。手元に残るのは金目の物と、武器である。

 

 正体不明の敵の襲撃を受け、そいつらは夜の闇の中、何処へともなく逃げていった。相手の規模が解らない上夜の闇である。まさか打って出てくるようなバカがいるはずも――というのが一刀と、今回の連携相手である関羽の意見だったのだが、一刀団の中で元賊徒の面々を取りまとる廖化は、あっさりと二人の団長の考えを否定した。

 

 曰く、バカでなければ盗賊などやらない。

 

「あー、本当に廖化の言う通りになったな」

 

 走りながら後ろを振り返った一刀は、追っ手が迫っていることに呆れて溜息を漏らしていた。向こうが混乱している内に脱出し合流し距離は相当稼いだつもりだったのだが、追手の足はこちらに迫る勢いである。騎馬が三十。馬と人では足の速さから距離を詰められるのも理解できるが、考えが及ばないのは、馬が追ってきているということである。

 

 騎馬は真っすぐこちらを追ってきている。真っ暗闇の中で、一刀たちの持っている松明が目印になっているのだ。追ってくるのならば迷わず追ってこられるように、相手にとっての目印となるべく持っているものだが、こんな態とらしい目印を追ってくる人間など……と思っていたらご覧の有様である。

 

 賊の規模からして馬は虎の子だろう。乗っているのも雑魚であるはずもなく、賊の中では精鋭のはずだ。にも関わらず、数も質も正体不明の集団をその連中が追ってきた。自分たちが返り討ちに合うとか、伏兵が待ち構えているとか考えないのだろうか。相手のことながら逃げつつも気の毒に思う一刀だったが、敵の命よりも自分の安全である。

 

 廖化の提言を受けて諸葛亮は、元々設置するはずだった備えを強化した。徒歩で追ってくるとしたら適当に、もし馬で追ってくるならと配置された伏兵は、しかし集団では伏兵として機能しない。既にこちらの存在は知らしめている。これから戦うのであれば敵の数は少しでも減らしておかなければならず、この場合最も警戒するべきは伏兵に感づかれて、兵を退かれることだ。

 

 可能な限り少数で、かつ単独であっても追手を殲滅できるだけの戦闘能力の持ち主。一刀団と関羽団を足してもそれを可能とするのは四人しかおらず、そしてこれが二つの団が協調して行う作戦と理解していた諸葛亮は、あちらの二人に頭を下げた。

 

 誰一人欠けることなく、一刀たちは全員で所定の位置を通り過ぎた。それに遅れること僅か、賊の騎馬が迫ってくる。このまま走るペースを落とさなくても、一分もせずに追いつかれるだろう。それまで逃げの態勢では如何に梨晏がいると言っても一方的に数を減らすばかりである。

 

 一刀の指示で、仲間は密集して迎撃態勢を取る。通常であれば散開して逃げる場面であるのだろう。騎馬と戦うための装備もなく、ただどっしりと構えただけでは歩兵が騎馬を迎え撃てるはずもない。追手としては罠を警戒する場面である。

 

 イケイケで追ってきた賊も、流石に足を止めて武器を構えた一刀たちを警戒したが、それで足を止めてはここまで追ってきた意味がないと、そのまま『突撃』と部下に指示を出した。

 

 残り十メートル。夜の闇で見えない賊の顔が、笑みの形に歪んだのが見える。同時に、一刀は指示を出した。

 

「散れ!」

 

 その号令を元に、バラバラに逃げていく仲間たち。迎え撃たれると思っていた賊たちは、勢いを殺せず急な方向転換もできない。

 

 そこに、飛び込んでくる影が二つあった。名乗りはなく、問答もない。待機場所から飛び出し、賊の騎馬と並走していた関羽は、賊の背後で踏み切ると、青龍偃月刀を一閃させる。首が三つ、宙に舞った。血飛沫が舞うなか、着地した関羽は、次の獲物を求めて得物を振るう。

 

 後に神格化さえされる、一騎当千の猛者である。十把一絡げの賊で、相手になるはずもない。向こう見ずの賊であっても、流石に目の前に自分の命を脅かすものが、これ以上ないくらいに解りやすく出現すれば、自分たちの立場が風前の灯であること、今まさに罠にはまっているのだということは理解できた。

 

 責任者の指示は突撃であり、出立の際に出された命令は皆殺しであるが、その責任者の首は先ほど宙に舞った。死人の指示に付き合う程、彼らは職務に忠実でも義理堅くもなかった。馬首を返し、砦までの撤退を始める。この時までに、関羽の手に寄って十の首が舞っていた。

 

 更に次を、と動きだした頃には、馬は既に動き始めている。その最後尾を走っていた賊の首に、深々と矢が刺さる。梨晏の狙撃である。一刀を含めた他の仲間が逃げたふりをする中、彼女だけはあらかじめ指定されていた狙撃に適した場所まで移動していたのだ。

 

 優位な位置。邪魔をする相手は何もない。落ち着いて射れるとなれば、弓の名手である彼女が矢を外すはずもない。一射一殺。一つ射かけられる度に、一人が確実に落馬していく。三十を超えていた騎馬が瞬く間に十を切った。ここにいては殺される。賊たちの思いは一つになる。もはや統制などなく、一目散に駆けていく彼らの前に、しかし小柄な影が立ちふさがった。

 

「燕人張飛、見参…………なのだ!」

 

 必要のない名乗りは、彼女的には必要なものだったのだろう。小さな身体を最大限に使う様は、それが舞踊などであれば実に微笑ましい光景だが、少女が振るうのは扇や鈴ではなく、自身よりも遥かに長大な蛇矛である。

 

 張飛の手が閃く。その一瞬後に、胸から血を吹いた男が、馬から落ちた。蛇矛の先には血が滴っている。あれで突かれた。状況からそれは解るのだが、胸を貫かれて即死した男は元より、その周囲を駆けていた男たちは誰一人、少女の手の動きを追うことができなかった。

 

 あれだけ長大な得物を使っているにも関わらずである。一人殺すのが一瞬であれば、十人に満たない人間を殺すのは、一息の間。

 

 だが、最後の一人が打たれたのは胸ではなく肩だった。馬から落ちる。それは他の面々と同じだったが、彼らと違ったのはまだ生きていることだった。焼けるような痛みが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。助かった、と男が安堵したのは、すぐ近くに倒れている賊仲間の死体を見るまでだった。

 

 生かされた、それは解るが幸運だったと思うのは早計である。それは賊である彼が良く知っていた。殺してもいい相手を生かしておく場合、末路は一つしかない。彼に待っているのは死んだ方がマシな目だ。逃げなければ。這ってでも逃げようとした男の背中を、団員たちが押さえつけた。

 

 廖化から確保したと報告を受けた一刀は、すぐに拘束を命じる。その監視に二人を残し、後の人員は馬の回収に走らせる。乗り手だけを殺すように配慮しただけあって、馬は全て無事だった。五頭逃がしてしまったようだが、これだけ確保できれば十分だろう。砦を攻めるのに馬はあまり必要ないが、これからのことを考えれば馬は何頭いても足りないくらいだ。

 

「一刀殿、ご無事ですか?」

「お蔭さまで。関羽殿は流石の腕でらっしゃる」

「私の腕など……」

 

 関羽は謙遜の言葉を途中で濁した。それは人の良さから出てきた言葉だったが、彼女とて自分の腕が一流の部類に属することは知っている。一刀たちも決して悪い腕な訳ではないが、それはあくまでただの兵として見た場合のことである。

 

 自分の部下として彼らがいても、精兵の中には加えないだろうし、仮に戦ったとしても全員まとめて返り討ちにする自信があった。言葉を続ければ、嫌味になると思った関羽は、自分はどうして上手く言葉を紡げないのだろうと、そっと溜息を吐いた。

 

 そこに、馬を回収し終わった張飛と梨晏が合流する。

 

「賊の死体はどうするのだ?」

「気分としては野ざらしでも構いませんが、残しておいても厄介ごとしか生みませんからね。幸い、馬も手に入りました。回収して土に埋め、手くらいは合わせようと思います」

「ふーん、お兄ちゃんは優しいんだな」

「それほどでもありませんよ。単に化けてでやしないかと怯えているだけです」

 

 一刀はそこまで信心深い訳ではない。最初こそ、死体を見て気分を悪くしたものだが、そういうものだと割り切れるようになってからは、それもなくなった。死体を埋めようというのも、単純に衛生面での問題を気にしてのもので、心情的にどうしてもやらなければならないと思っている訳ではない。

 

「さて、こっちは上手くいったな。あっちの首尾はどうかな?」

「徐先生と程先生なら、問題ありませんでしょう。両先生も、団長の方を心配しておられたようですし」

「失礼しちゃうよね、私がいるのに……」

 

 砦に攻撃を仕掛ける一刀たちとは別に、一刀団の人員を割いて、砦の周辺の捜索と配置を行っている。五人一組で行動させ、砦から逃げてくる者を捕まえる算段であると言う。今後のことも兼ねた訓練という話だが、賊の経験のある人間の中ではすばしっこく、隠れるのが上手くて盗みが得意だった、という人間を中心に編制されている。

 

 それを指揮するのが程立と、仕事から戻ってきた元直である。程立はいつも通りののんびりとした顔でシャンを伴い、元直は今回は参加できると喜び勇んで出発していった。

 

 本来の予定では砦から脱走者が出るのはもう少し先の話だったのだが、虎の子の騎馬隊が負けてしまったとなればその予定は早まるかもしれない。思いの他早く、彼らにも活躍の機会がやってくるだろう。自分の仲間がそれを成せるのだと思うと、一刀の気分も良い。

 

「しかし、軍師の考えというのは素晴らしいものですね。私も兵法を齧ってはいますが、足元にも及ばない」

「俺も毎日が勉強ですよ。こんなことも解らないのかという目で見られると時に死にたくなりますが、同時に彼女らがいれば安心と思えます」

 

 基本的に、一刀は毎晩軍師の誰かの講義を受けている。どういうシフトになっているかは聞いていないが、持ち回りで行っているらしく、同じ人間の講義が二日続くことは少ない。そこには客員である諸葛亮や鳳統も参加しており、元直もこちらにいる時は戯れに講義を行ってくれる。

 

 彼女らからすれば一刀の知識は大分物足りないものであるらしく、時間はいくらあっても足りないと言われている。政治経済についてはいずれ必要になるだろうが、まずは軍学を中心とした部隊の運用や社会情勢について叩き込まれている途中である。

 

 一刀が知識を叩き込まれている間、団の他の面々は読み書き計算の練習をしている。識字率は一刀が考えていたよりも高かったが、それに四則演算ができるという条件を加えると、最初期のメンバーの中では両手で数えられるほどしかいなかった。

 

 何もそこまで、と郭嘉には呆れられたが、これは必要なことだと押し通して夜の暇な時間を勉強に当てることにした。その甲斐あってか、数も数えられなかった面々も、九九を覚えるくらいまでには成長している。読み書きの方はもっと順調で、もうしばらくすれば途中で合流した全員が、問題なく簡単な文章ならば読み書きできるようになるはずだ。

 

「お羨ましいことです」

「この手のことは縁ですからね。俺が彼女らと出会ったのもたまたまでした」

 

 ははは、と一刀は笑うが客員とは言え、自分たちの中に諸葛亮と鳳統がいるのである。軍師がいないと困っている、劉備を伴わない関羽を前にすると、聊か心も痛んだ。

 

 関羽たちと合流する前、郭嘉と話したことを思い出す。この時勢である。傭兵団も義勇兵も集合離散を繰り返しており、関羽団もそれを考えているだろうというのが郭嘉の読みだ。軍師不足を実感しているならば、今はそれを強く意識しているだろう。

 

 味方に関羽がいる。現代人である一刀にとってこれ程心強いこともないが、今の一刀には初期の団員たちに語った決して小さくはない野望がある。挑戦もする前から、これを諦めたくはない。

 

 その点で言うと、関羽という名前と実力は大きすぎるが、結果を見過ぎる余り過程を蔑ろにするのでは、そもそも夢に挑むこともできないかもしれない。

 

 合流するのか。そうでないのか。いずれ結論は出さなければならないだろう。賊軍には打撃を与えた。彼らの壊滅が早まったことが、今の一刀には少しだけ憂鬱に思えた。

 

 

 

 

 





合流するル-トとしないルート、一応両方とも構想中です。
しないルートは前と同じなのでそこまで悩みませんが、するルートは前と大幅に変わるので実現の度合は低めです。立身という感じではなくなりますしね。


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第023話 二つの軍団編⑤

 

 

 

 

 盗賊というのは往々にして、自分は機を見るに敏であると誤解しているものである。人の命が軽い時代だ。健全に生きている人間ですら簡単に死ぬのに、他人から見て積極的に殺しても良い理由のある人間が生きながらえる理由など、そうあるはずもない。

 

 彼らが生きていられるのは一重に運が良かったからである。そこに彼ら自身の資質というのはほとんど関係がない。盗賊の総数を考えれば、死ぬ前に引き上げられた一刀団のような例は稀である。

 

 さて、機を見るに敏であると自称する所の盗賊たちの数人は、虎の子の騎馬隊があっさりと返り討ちになったところで逃走を決めていた。襲撃してきたのがどういう相手なのか知れないが、精強であることに間違いはない。ならば死ぬ前に逃げてやろうと、分け前も取らずに一目散に廃砦を後にしたのである。

 

 先立つものも何もないが、命あっての物種だ。騎馬隊を返り討ちにするような連中と戦っても勝てるはずはないし、そういう時、真っ先に捨て石にされるのは下っ端だ。死ぬにしても幹部連中は最後の方になる。時間さえ稼げれば、彼らは容赦なく下っ端を斬り捨てて、宝をもって逃げようとするだろう。

 

 人から奪うことに抵抗はないが、それだけに他人のために命を張ることなどできるはずもない。彼らは盗賊である。彼らを結び付けているのは即物的な物のみだ。優勢である内は良いが、劣勢になると一気にその組織力は瓦解する。良くも悪くも、勢いが物を言う集団なのだ。

 

 主力の騎馬隊が壊滅されたのを理解しても尚、廃砦に残っている者の方が多数なのは、彼らがまだ自分たちの方が有利であると根拠なく信じていることもあるが、それ以上に廃砦にまだ宝が残っていることが大きい。

 

 気持ちは解らないでもない。盗賊にとっての価値基準は儲かるかそうでないかだ。積みあがったお宝というのはそれだけで、自分の命をかけ他人を殺す理由になりうる。

 

 だがそれでも、命には替えられないというのが正常な思考というものだろう、と男たちは考えた。逃げ出したのは自分たちが最初だが、このまま何事もなければ――お宝目当てに襲撃をしかけてきた連中が、お宝も取らずに諦めるなんて奇跡的なことでも起きなければ、これからどんどん逃げ出す連中は増えていくはずだ。

 

 頭数が減れば勝てる確率も下がるし規律も厳しくなっていく。逃げるならば今しかない。しばらくは不自由するだろうが、盗賊団に残っていても不自由はしていたのだ。自分で考えて動けるようになったと思えば、十分に釣りは来る。

 

 軽くなった心で夜道を走っていた男はしかし、不意の違和感を覚えた。それに従って足を止めた男を、他の連中が追い越していく。足を止めずに振り返る連中と、それを眺める男。奇妙な沈黙が流れたのは一瞬で、それを打ち破ったのは女の声だった。

 

「撃て!」

 

 女の声と共に、無数の矢が射かけられる。何故敵が、と考えるまでもない。ここで攻撃されるはずがないと安心していた盗賊たちは、その全てがまともに矢を受けて倒れ伏していく。足を止めていた男が幸運だったのは、そのおかげで致命傷を負わなかったことだ。

 

 集団から離れていたのだから、攻撃しないでも良さそうなものだが……というのは、攻撃を受ける側ならではの愚痴である。実際、的が止まっているのだから、狙わない道理はない。男が生き残ることができたのは、止まっている的であるが故に良く狙うことができ、死なない程度の重傷を負わせるだけで済ませられたからだ。

 

「まさかこうも上手く行くとはね……いや、経験に勝る宝はないね」

「徐先生のお力あってのことですよ。俺たちだけじゃあ、こうも上手くはいきませんや」

 

 ははは、と呑気な笑い声を挙げながら、物陰からぞろぞろと人間が出てくる。そのほとんどは具足に身を包んだ人相の悪い男たちだ。おそらくこいつらが廃砦を襲った同業者なのだろうが、その先頭を歩いているのは男装した身なりの良い女だった。

 

 男の恰好をしていても肉付きの良さの解るその女は、一人一人自分たちが撃った人間の状態を確かめると、最後に男の前に腰を下ろした。まともに口をきけるのが、事実上、彼一人であることを見抜いたからだ。女――元直は、男の顔を覗き込むと、薄い笑みを浮かべて淡々と言う。

 

「もう理解してると思うけど、僕らは砦を襲った連中の一味だ。君が生き残ったのはたまたまだけど、それを幸運とするか不幸とするかは君次第だ。仕事が終わるまで生きていられたら、生きたまま官憲に突きだす程度で許してあげるよ。お互いにとって、良い結末になることを期待する」

 

 元直が視線で合図を送ると、彼女の部下となった兵たちが男を立たせる。

 

 彼らの腰の軽さを、賊あがりの面々は見抜いていた。元直はこの時点で逃走者が出る可能性は正直低いと見ていたのだが、彼らは絶対に出ると踏んでその逃走経路まで予測して見せた。まさかそこまで都合よく、と元直も半信半疑だったのだが、事実、彼らの予想した通りのルートに、逃走者は現れた。

 

 経験者でないと解らないことがある、というのは知識としては知っていたつもりだったのだが、まさにその通りの結果となった。砦を挟んで向こう側には程立が部隊を率いて展開しているが、あちらにも逃走者がいるだろう、という話である。

 

 なるべく殺さないように撃てと指示を出したのだが、誰もが梨晏のような弓の名手である訳ではない。手加減したつもりの矢はほとんどが当たり所が悪く、五人いた逃走者の内生き残ったのは一人だけだった。それでも情報を引きだすという当初の目的を達成できるのだから良しとするべきなのだろうが、もう少し良い結果を出せたはずだと考えてしまうのは、軍師としての宿命だろうか。

 

 団員の気持ちは一刀を中心に良くまとまっている。郭嘉たち軍師の考えた作戦を忠実に実行できる部隊の練度は正攻法でこそ関羽団に劣るが、変則的な戦いであればある程、真価を発揮する。懸念だったのは部隊を指揮する将校が少ないことだったが、これも改善されてきている。時間さえあれば、いずれ精鋭部隊に変化するだろうが、今はその時間が微妙に足りていない。

 

 いずれ起こる大戦を前にどれだけ経験を積み、人数を増やすことができるかが一刀団にとっての勝負である。ここで関羽団を吸収することができれば僥倖なのだが、果たしてそう上手く行くものだろうか。関羽自身、合流に前向きではあるようだが、元直はこの話が、どうもすんなりまとまらないように思えてならなかった。

 

 最も大きな懸念は後輩の二人である。その片方、朱里が危惧していた通り、大親友である二人の理想に生まれた乖離が実のところかなり深刻なレベルにまでなっている。

 

 元直の見立てでは、雛里の気持ちは大分一刀に傾いている。それは別に悪いことではない。二人の実家はあまり良い顔をしないだろうが、将来性という意味では一刀団はそれほど悪くない就職先である。決して良いとは言えないし、大手に比べればリスクもあるが、名家に少ない椅子を占領されていないというメリットもあるからだ。

 

 そういう環境でこそ腕を振るいたい、という野心的なタイプでは二人とも決してないが、自分の理想に適い、自分を必要としてくれているのならば、どこにでも行くという強い決意があった。一刀が現状勢力として弱いというのは、彼女らにとってはマイナスにはならないはずだ。

 

 だが現状、一刀が良いと主張するのは雛里一人で、朱里はそこに賛同していない。それどころか、関羽とのやり取りを見るに、どうにも彼女についていくべき、という主張をしそうですらある。関羽団の将来性も一刀団同様、中々のものだ。一刀と異なり彼女自身が一騎当千の猛者であり、義妹の張飛も同様である。腕っぷしでは梨晏やシャンも負けてはいないが、それでも、関羽たち義姉妹と比べると聊か見劣りする。

 

 朱里が惹かれる原因の一つは、彼女らに軍師が一人もいないということだ。一刀団は既に郭嘉、程立という軍師がおり、実際に軍団を仕切っている。実際に前線で兵隊を指揮する能力は関羽本人に及ばないだろうが、平常時まで兵団を管理運用するとなると、考える頭がある一刀団の方が明らかに上手い。

 

 一刀団と関羽団の間には、団を運用する上での効率の面でかなりの差が見て取れる。それは朱里も、実際に団を動かしている関羽も感じていることだろう。事実、朱里が関羽にあれやこれやとアドバイスをしている姿を、元直は何度も見かけている。関羽本人の反応も、そこまで悪いものではない。

 

 より切実に軍師を必要としているのは、明らかに関羽団である。であるならば、こちらに仕官した方が良いのでは。朱里がそう主張してきてもおかしくはない。現状、二人は自分たちが同じ所に仕官するということを疑っていない。自分の判断を相手は理解してくれる。それだけの信頼が確かにある。

 

 このままではいずれ、二人はぶつかるだろう。まさかこの仕事中にぶつかるということはあるまいが、もう少し時間がかかると思っていた仕事も、早く片付きそうな気配である。

 

 先輩としては後輩の夢をかなえてやりたいところではあるのだが、この場合、最も尊重すべきは個人の意思である。相手のことを考えて自分の意思を曲げたところで、良くない結果にしかならないものだ。言葉を尽くして語り合ってこその軍師であるし、何より親友である。喧嘩するとしてもすぐに仲直りするだろう。そこを心配してはいないのだが、

 

「静里は怒るだろうなぁ……」

 

 誰にでも当たりが強いくせに、どういう訳かあの二人には従順に懐いていた、強面の後輩のことを思い出す。あの少女のことだ。二人と一緒に働くつもりで今も勉強しているのだろうが、自分が連れて行った先でその道が分かたれたとなれば、小言の一つも言ってくるに違いない。

 

 それを考えると今から憂鬱で仕方がないが、どちらが、あるいは二人がどういう仕官の仕方をするにしても、元直自身の今後の予定を考えれば、後輩の誰ともしばらく顔を合わせることはないだろう。その間に、ほとぼりが冷めていることを祈るばかりである。

 

「悪くない顔してるんだから、女の子の二、三人くらい押し倒すもんだと思ってたのに……」

 

 その点、一刀はかなり奥手なようだった。思い返せば、洛陽を出てしばらく二人で旅をしてた時である。男女の二人旅だ。色々とハプニングを起こしてからかいもしたのだが、一刀の反応は芳しいものではなかった。

 

 自分の容姿にそれなりに自信のあった元直はそれで地味に傷ついたのだが、まぁ男にはそういう気分の時もあるだろうと、その時は気にしないことにした。それから状況が大きく変化し、彼の周囲を取り巻く環境も大きく変わったが、一刀の態度は相変わらずだった。

 

 身持ちの固さについて苦言を言うようなつもりはないが、少々強引に行った方が話が上手くまとまるということだってある。今一緒にいる関羽など、甘い言葉の一つでも囁いて押し倒してしまえば、そのまま尻尾を振ってついてきそうな気配だ。

 

 これには元直を始め、全ての軍師がその好感度の高さに不信を憶えていた。一時はそういう手なのではと疑いもしたが、今では単純に一刀が好みの男だったのだろうと決着している。早い話が一目ボレだ。

 

 後輩二人についても、一刀が自主的に動いて朱里の方にも時間を作るべきだったのかもしれない。事実、やってはいたのだ。特に幹部には一刀は時間を設けて話すようにしていた。客員軍師であるところの朱里にもそれは同じで、むしろ既に合流している郭嘉たち以上に時間を割いていたのだがそれでも、一緒に仕事のすることの多い雛里には及ばず、そこが朱里と雛里の間に考えの差が生まれる原因となっていた。

 

 そこをどうにかしてほしかった、と一刀に求めるのはやはり酷な話かもしれない。元直は長い、長い溜息を吐いた。

 

 人の縁というのは複雑である。一度分かれた道でも、未来に合流しているということはよくある話だ。まして今は乱世である。栄枯盛衰は世に溢れ、それ故に、立場的には大きく出遅れている一刀にも、飛躍の時は大いにある。

 

 自分を含めて、後輩たち全員が仕える。そんな状況がくれば良いなと希望を持った元直だが、しかし、その未来もそんなに遠いものではないのでは、と思いもした。聊か都合が良すぎるかとも思ったものの、一刀の天運を考えるとありえない話ではない。

 

 何しろ彼は『さる高貴なお方』のお友達なのだ。運はある。ならば少しくらい、身勝手な夢を見ても良いだろうと、元直は気持ちを切り替え、今後の作戦を練り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 騎馬隊を一気に殲滅できたことは盗賊と敵対する一刀たちにとって僥倖だったのだが、予定外の快進撃は予定外の進行を余儀なくした。どうやって攻めるのが最善かというのはまだ決まっていないが、今が攻め入る好機であるという見解は、軍師全員一致していた。

 

 元よりそれ程時間をかけた作戦を組んでいた訳ではなかったのに、それが更に早まるのである。大打撃を与えることも想定していなかった訳ではないから、完全に想定外という訳ではないのだがそれでも、こうまで事態が好転するというのは、軍師たちをしても、相当に確率が低いと予想せざるを得ないことだった。

 

 とは言え、盗賊の殲滅にかける時間を短縮できるのは悪いことではない。望外の幸運に喜びながらも、戦いはこれからだと気を引き締めて会合の場にやってきた一刀は、集団の代表の一人として全員を見渡して言った。

 

「さて、まずは報告から頼む」

「捕獲した馬は全部で二十七頭でした。今、廖化たちが捕虜を締め上げていますが、引きだした情報を加味するにあれで全てのようです」

「つまりもう騎馬隊はいないって確証が持てたってことか……他に何か情報は聞きだせたか?」

「蓄えた宝の大まかな位置と総量などを。これは実際に現場を改めるのが良いでしょう。最低それまでは捕虜は生かしておくべきですね」

 

 自分たちの収入になるというのも勿論あるが、賊の蓄えは被害を受けた住民への保証の原資にもなる。どうせ放っておけば国に回収されてしまうのだ。取られたものを回収してくれとは、商人たちの契約には含まれていない。ならば煩いことを言われる前に、ばらまいてしまえというのが一刀たちのやり方である。

 

 奪われたとは言え、元来自分の物だったものを勝手に配られたとなれば商人たちも腹も立とうが、彼らは盗賊以上に利に聡い人間だ。彼らの指示である、と明言しなくてもそう匂わせておけば、民たちは勝手に商人たちにも感謝するようになり、体を張った訳でもない彼らの名声も上がる。

 

 世の中ほとんどのものは金で買えるが、名声はそれが難しい物の一つだ。一刀たちの評判は前から知っているだろうし、そうされることは織り込み済だろう。これについては、関羽も納得している。全てを着服すると言えば良い顔はしないだろうが、その多くを民に還元するとなれば、彼女も嫌とは言わない。

 

 だがそれらを実行に移すためには、宝をなるべく完全な状態で確保することが肝要になってくる。そのためにはお宝について正確な情報が必要になり、迅速に動く必要がある。一刀たちは彼らの主力を撃破したが、それは同時に彼らの死亡宣告がより現実的になったことを意味する。

 

 盗賊というのは自分の危機に敏感だ。欲と自分の命が釣り合っている内はまだ良いが、いよいよ勝ち目がなくなったとなれば、多くはわき目もふらずに逃げ出すことだろう。

 

 現に、今も逃げているかもしれない。それはつまり宝が目減りしている可能性を意味しているのだが、一刀のそんな不安を打ち消すように、諸葛亮が手を挙げた。

 

「東班の灯里先輩から伝令が飛んできました。逃走した賊を一名確保したそうです。皆さんが締め上げて吐かせた情報によれば、宝を持ち出せる状況ではなかったと」

「西班の風からも同様の報告が来ました。臆病風に吹かれた人間というのは、それ程多くはないようですね」

 

 逃走した人間を全て確保したと確証がある訳ではないが、情報を総合すると逃げたのは圧倒的少数ということで間違いはないだろう。主力が撃破されたというのに、呑気なことである。砦とは名ばかりで籠城には向かないし、そもそも籠城というのは時間をかければどうにかできる別の手段があるからこそ成立するものだ。

 

 今のところ一刀たちは宝を狙った同業者を装っているが、同業者であるならば、元手をかけた以上、それを回収するまで後には引けないということは、盗賊ならば良く理解できるはずだ。しかも一刀たちは主力の騎馬隊を撃破して勢いに乗っている。勝っている側が引く道理はない。同業者であると信じられている限り、彼らは一刀団の再来を疑わない。

 

「あっちから攻めてくる可能性は?」

「ないとは言いきれませんが、低いでしょう。主力の騎馬隊が全滅したのは事実です。我々の戦力は彼らにとって未知のもの。いくら賊でも情報は欲しいと考えるでしょうが、まとまった戦力を出しては守りが手薄になる。現状では斥候を増やすというのが関の山ですね」

 

 そしてその斥候を捕捉するための人員は既に出している。

 

 一刀たちは砦から離れた布陣している。斥候を出すにしても、それなりに時間をかけないとたどり着くことはできないし、仮に彼らが陣地を捕捉したとしても、こちらが放った人員が賊が砦に戻るまでに捕縛する手はずとなっている。

 

 だがそれも確実に上手く行くという保証はない。『人さらい』が上手い人間と、関羽団の中でも斥候を主任務にしている人間を配置しているが、その網を抜けて情報を持ち帰られることもないではない。情報の確度は作戦の成否を分ける。迅速に行動しなければならないと軍師の意見が一致したのは、そういう事情からだ。

 

 今は一方的に、しかも安全に攻撃する最大のチャンスなのだ。迅速に兵を動かして叩き潰す。この会議はそのためのものだ。

 

「こちらから打ってでるとして、どういう作戦が良いかな?」

「正面から全戦力で近づいては、やはり臆病風に吹かれることもあるでしょう。できる限りの賊を討滅、あるいは捕縛することが今回の目的。完勝することは大前提として、勝ち方にも注文をつけねばなりません」

「すると、夜陰に乗じて奇襲するということになりそうですが、強力な抵抗にあうと考えるとなると、やはりこちらも全戦力を動かさざるを得ないでしょう。関羽殿。事前にお報せした通りに兵を動かすとして、日暮れまでに全ての準備を整えることは可能ですか?」

「その辺りは、滞りなく。ご期待には応えます」

「重畳です。明朝までに決着を付けるとして、その仕込みですが……」

 

それについても事前の作戦会議で軽く触れられている。幸い、騎馬隊を撃破したことで素材は上がっており、徐庶からの伝令で既に逃げた人間がいることは裏が取れた。後は相手がそれに乗るかだが、それは演技のデキ次第である。

 

「準備の方は?」

「仕込みの方は昼までに。風と元直殿に伝令を飛ばします。初動は日が暮れてから。決行は深夜。決着は明朝までにはつくでしょう」

「皆にはそれまで交代で休憩を取るように伝えてくれ」

 

 一刀の言葉を受けて、郭嘉が幕舎の外に待機していた兵を伝令に飛ばす。

 

 流れで、元から用意していた案の一つを採用することになった。そのための準備も進めていたから、後はそれを早めるだけである。交代で休みを取れ、という指示を出した以上、一刀を含めた幹部にも、休む義務が発生する。例えどれだけ少なくても、休憩があるのとないのとでは気持ちの上で相当な違いが出るものだ。

 

 休むのも仕事の内であるとは、こちらの世界に来てから実感したことである。ばたばたと動きだす幹部たちを見ながら、しかし、一刀は全く別のことを考えていた。

 

 以前からの計画を実行する時では? 火急の時であるに違いはないが、軍師にだって息抜きは必要だろう。この小さな軍師様は、どうにも働きすぎてしまうきらいがある。優秀には違いないのだが、同等の働きをしているはずの郭嘉や程立は、それなりに余暇を楽しんでいる風だ。

 

 これが年齢や経験から来る違いであれば良いのだが、性分の問題であるとすると誰かが助け船を出してやる必要があるだろう。その配慮は、軍師たちには期待できない。一刀は郭嘉に『お疲れのようですね。少し休んでは?』という配慮をされたことがあるが、彼女はおそらく自分と同じ軍師にそれを言ったりはしない。

 

 郭嘉という少女にとって、軍師が自分の体調管理をきっちりこなすのは当然のことなのだろう。その点、ちびっこ軍師の二人はまだまだ力が抜けていないように見えた。一緒に働くようになって半年である。それなりに打ち解けてきたという自負があるが、なるべく働こうという彼女らの固さが抜けたようには感じられない。

 

 彼女らがのびのび働けていないのだとしたら、団長である一刀にも責任がある。

 

 仲間が働きやすい環境を作り上げるのも、団長である一刀の役目だ。自分と一緒に過ごすことが必ずしも、諸葛亮にとってプラスになるとは限らないが、違うことをしてみるのも新たな発見に繋がるだろうと前向きに信じることにした。

 

 女性に声をかけるのは一刀をしてもそれなりに勇気のいることだったが、諸葛亮が鳳統と離れ、一人でいるところを見計らって、一刀は声をかけた。自分に声をかけたのが一刀だと知ると、諸葛亮はぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。

 

「一刀さん!」

「諸葛亮、ちょっと良いかな? 少し2人だけで話がしたいんだけど」

 

 それまで全くよどみがなかった諸葛亮の動きがぴたりと止まった。ここで済む話だと思っていたのだろう。それくらいなら今までも何度もしたことがある。主に、諸葛亮の方から話を持ち込むことが多いが、一刀の方も話を振らない訳ではない。

 

 団長として、一刀は努めて多くの人間とコミュニケーションを取るようにしている。義務から来ているところもあるが、元来の性分もあった。他人と話すのは楽しいし、何より頭数が多いから男性と話している時間の方が多いが、個人別に見ると女性の方が上位を占めるというのは、仕方のないことではある。諸葛亮のような美少女とお話しできて、喜ばない男はいないのだ。

 

「その……二人きりで、ですか?」

「まぁ、そう身構えるようなことでもないんだけどさ。軽くお茶でもしながら、世間話でもどうかなと」

 

 軽く、世間話、というのを強調して緊張をほぐそうと試みるも、余計に胡散臭くなっている気がする。自分を見る諸葛亮には、余計に緊張が生まれているように見えた。あわわ……だったものがあわあわあわわくらいになっている。一言で言えば、かなりテンパっていた。これは失敗したかな、と一刀が内心でしょげていると、それを彼の顔色からそれを敏感に察した諸葛亮が、慌てて声をあげた。

 

「是非ご一緒させてください!」

「…………俺から誘っておいてなんだけど、良いのか?」

 

 自分で誘おうとした時にはびびっておいて、いざ食いつかれると不安になるというのもおかしな話であるが、耳まで真っ赤になってまくし立てる諸葛亮を見たら、全てがどうでも良くなった。

 

「大丈夫です何も問題ありませんこちらからも是非お願いします!」

「うん、ありがとう。それじゃあお茶の用意をしてくるから、この間会合でつかった場所で待っててくれるか?」

「一刀さんの天幕ではないんですか?」

「二人でって言っただろ?」

 

 一刀の個人スペースなだけあって、一応のプライバシーは存在しているが、いつでも来てくれてOKという主張を日頃からしているせいで、人の出入りは結構多い。普段ならばそれでも良いのだが、これから人生でほとんど初めて、自発的に女の子と二人になろうかという時に、人の出入りがあるようでは具合が悪い。

 

 別に諸葛亮に対して不埒な行動をしようという訳では断じてないのだが……美少女とは言え女性を誘うのだ。やましいことはありませんよと、ある程度はアピールするのも必要だろう。警戒されてしまってはそも、二人きりになどなれはしないのだ。

 

 二人で、という単語に真っ赤になった諸葛亮は、大きく腰を折って頭を下げると、足早に去っていく。後ろから見ても耳まで赤いのが良く解る。あの美少女を自分がああいう風にしたのだと思うと、何だか気分も良いが、二人きりになるというのはスタートであってゴールではない。誘っただけで満足していては何のために誘ったのか解ったものではない。ここからが本番なのだ。

 

 手早く自分の幕舎に戻って、お茶の準備をする。ここで誰かが訪ねてきたら予定を大きく変えなければならなかったが、天が味方しているのか、騒々しいことが多い一刀の幕舎の近くは静かなものだった。

 

 既に予定が決まっているというのも大きいのだろう。兵は交代で休憩に入っているし、関羽団とも詰めるべきことは既に詰めてしまった。そも、予定が繰り上がった時の対応だって、ここに移動するまでの間に大雑把にではあるが決めてあった。

 

 戦は執念深い調査と周到な準備で決まるのだ、という程立の言葉の通り、調査と準備について、一刀団の軍師たちは一切手を抜かない。事前の詳細な打ち合わせは、その準備の一環と言える。逆に、既にすることが決まりきっている場合、真に予定外のことがない限り、改めて集まる必要はない。

 

 それでも、筆頭軍師たる郭嘉は何か見落としがないか気を張っているのだろうが、それを思うと、暇を持て余しているように思える自分が、相当な配慮をされていると実感する。後でフォローをしようと、一刀は心に決めた。

 

 そう考えていることが郭嘉に知れたら、彼女は心底呆れ切った顔で溜息を吐くことだろう。これから女性と会うのに部屋を出る時には別の女のことを考えているのだ。男としてそれは誠実とは言い難い行為であったのだが、微妙に舞い上がっている一刀はそれに気づいてもいなかった。




次回、デートという名の仕事回。
このパートは後3、4話かかりそうです。


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第024話 二つの軍団編⑥

 

 

 

 

 集団で生活している一刀団の人間は、団長である一刀まで含めて自然に一人になる機会というのは少ない。一般兵たちは五人、あるいは十人で部隊ごとにまとまって生活しているし、幹部クラスでも二人で一つの幕舎を使っている。個室を持っているのは一刀だけだが、人の出入りが激しく寝る時くらいしか一人になることはない。

 

 その寝る時でさえも、外に立哨がいるために厳密には一人ではない。意識しなければ一人になることはできないのだ。それをストレスに思ったことはあるが、この国に来て一年以上になるとこういう生活にも慣れてしまった。

 

 だが、他に誰かいるというのは、女の子を口説くには最悪の環境と言える。どうしても二人きりでなければならない状況などほとんどなかったために、いざ二人きりになろうとすると、途中で邪魔が入ったらという可能性を考えてしまうのだ。

 

 集団からこっそりと離れればそれも大丈夫だろうが、今は非常時である。賊からは大分距離を取っているとは言え、集団から離れればそれだけ安全ではなくなってしまう。一刀もそれなりに剣が使えるが、あくまでそれなりに過ぎない。元々剣道をやっていたため最低限の基礎はできているが、剣道と実戦で使う剣では勝手が大分違ったしそもそも現代っ子である一刀とこの時代の男性では、基礎体力などが大きく違う。

 

 そんな環境でも団の中で真ん中より上になれたのだからなる程、才能があると言えなくもないのだろうが、一刀のすぐ近くにはその才能の塊である梨晏がいるし、シャンもいる。自分の腕を過信するなが、一刀が自分に課した教訓である。

 

 諸葛亮も一応心得はあるようだが、それもないよりはマシという程度のもの。戦力としては全く期待できないとは、先輩である元直のお墨付きである。

 

 集団からあまり離れることはできないということはつまり、時間をかけることができないということだ。諸葛亮に言いたいことは、ずっと考えていた。結局のところ、『それ』は一つしかない。問題はそれをどう言うかである。言葉を尽くすべきというのは解っていても、それが一番難しい。

 

「どうぞ」

「あ、ありがとうございましゅ!」

 

 ベンチのような倒木の両端に、二人で腰掛ける。一刀が手を伸ばしても、ぎりぎり届かないような距離感だ。歓迎されていない訳ではないようだが、警戒はされている。年頃の少女としては正当な警戒とも言えた。むしろ諸葛亮のような性格で、息のかかるような距離にすとんと座られたら、逆に一刀の方が警戒してしまう。

 

 用意したのは冷たいお茶だから、息を吹きかけて冷ます必要はないのに、一生懸命にお椀に息を吹きかけている様や、空になっていることに気づかないでお椀に口を付け、一人真っ赤になって照れる様は、控え目に言っても

かわいらしいものだった。

 

 見ているだけで幸福になるというのは、こういう様を言うのだろう。できれば二時間でも三時間でもただ眺めていたかったが、残念ながらそこまで時間がないし、年端もいかない少女を何時間もただ眺めていたと後から女性陣に知られれば、何を言われるか解ったものではない。

 

 名残惜しい気持ちを封印し、心を微妙に鬼にして一刀は話を切り出した。

 

「今回の戦闘について、改めて意見を聞きたい」

 

 一刀の言葉に軍師の顔になった諸葛亮は、顔こそまだ緊張で赤かったが、その震えはぴたりと止まった。この落差が、一刀には楽しい。お人形さんのような少女が真面目な顔で軍事を語る様は、そのギャップもあって一刀の目を惹きつけてやまなかった。デキる女然としている郭嘉や、独特の雰囲気がある程立では出せない落差である。

 

「犠牲をいとわなければ、我々だけで正面からぶつかっても勝てる相手でした。相手を殲滅し、こちらの損耗を極力抑える。その両方を達成するために知恵を絞りましたが、天が味方してくれたのでしょう。我々に非常に都合の良い結果になろうとしています。周到に策を練り、入念に準備を重ねました。これ以上は、そう望めません」

 

 勝てるだろう、と軍師殿は言っている。あれだけの戦力に、過剰なまでの準備を重ねた。加えて梨晏やシャンなど、一騎当千の猛者もいる。これで勝てなければ確かに嘘だろう。贔屓目など何もなく、ただの事実として諸葛亮はこの戦に勝てると判断した。

 

 後はどれだけ損耗を防げるかの勝負だ。戦である以上、人は死ぬ。今まで人死がゼロであったのは、部隊を指揮する郭嘉たちの優秀さもあったのだろうが、単純に運に恵まれていたことも大きい。遠からず、仲間が死ぬ時は来る。それは今回かもしれないし、それは梨晏やシャンかもしれないし、自分かもしれない。

 

 それは避けては通れない道である。何度も何度も自分に言い聞かせてきたことであるが、仲間が死ぬかもしれないという考えは、その度に一刀を恐怖に縛り付けていた。そんな一刀の手を、諸葛亮がそっと握る。いつの間にか距離は縮まっていた。体温の高い小さな手に、微かに力が籠っている。それは一刀にとって頼もしい温かさであり、力強さだった。一刀の中で、不安が小さくなっていく。

 

「一刀さんの気持ちは解ります。私も、私の策で人が死ぬことは、とても恐ろしいです。朱里ちゃんと一緒に何度も泣きました。ですが――これがより良い世界を作るために必要な戦いであると信じるからこそ、仲間の命を預かっているのだと感じるからこそ、私達はより早く、より効率的に敵を打ち破る策を考えます」

 

 諸葛亮の手は震えている。希代の軍師であるという自負があり、評判がある。彼女らの振る舞い、そして生み出す策には、彼女らが望む望まないに関わらず、多くの人間の命がかかっているのだ。何かあった時、失敗しましたでは済まない。学校では本当の意味で理解できなかったものを理解した時、一体彼女らはどれほどのプレッシャーを感じたのだろうか。

 

「この恐怖は消えません。貴方の恐怖も消えないでしょう。ですが、私は一刀さんの恐怖を少しは理解できます。それは幹部の方たちも一緒のはずです。貴方は上に立つ人。それらしい振る舞いを求められることもあるでしょうけれど、そうでない時は、弱いところを見せても良いんじゃないかと、そう思います」

 

「人の死に心を痛めることは回避できませんが、それを分かち合うことはできます。お辛い時には、誰かを頼るのも選択肢の一つではないでしょうか? 僭越ながら、私もいましゅ――」

 

 滑らかに回っていた諸葛亮の舌は、そこでついに限界を迎えてしまった。大事な場面で噛んだ事実に耐えきれなかった諸葛亮は一刀に背を向けて耳を塞いでしまう。気持ちは解らないでもない。一刀も同じ立場だったら死にたくなるだろうが、自分などはともかく諸葛亮が死んでは世の中にとって大きな損失だ。

 

 こんな自分を、羞恥心を推してまで諸葛亮は励ましてくれた。ならばその気持ちに報いるのが男というものだろう。どこか浮ついていたものがあった一刀の気持ちが、諸葛亮の小さな背中を見て定まった。言うべきことを言うのは、今しかない。

 

「諸葛亮、まず改めて聞きたいことがある」

 

 一刀の声に、諸葛亮はちらりと視線を上げた。顔は羞恥で耳まで真っ赤になっており、顔も手で覆ったままであるが、とにかく話を聞いてくれるつもりがあるのだ、と解釈した一刀は言葉を続ける。

 

「数年以内に大きな戦がある、というのが出会った頃からの郭嘉と程立の読みなんだけど、それは君も同じか?」

「はい……私も朱里ちゃんも同じ意見です。早ければ一年以内。おそらく『菫卓討つべし』という内容で檄が飛ぶのではないかと思います」

「……そこまで?」

「はい。群雄割拠の時代とは言いますが、現状の勢力を分析すると菫卓さんの一強です。ここで叩いておかないと、諸侯はいずれ彼女の前に膝を屈することになるでしょう。幸い――野心ある諸侯にとっては幸いということですが、宦官の始末に手間取り政治的な混乱を引き起こした、という事実もありますので、その辺りを突いてくるのではないかと」

「洛陽には行ったことあるけど、そこまで治安が乱れてるってことはなかったぞ?」

「拳を振り上げる理由さえあれば、実際にどうであるかというのは関係ないのでしょう。勝ってさえしまえば、後はどうにでもなりますから」

 

 羞恥心と戦いながらも、諸葛亮は軍師の顔に戻っていた。どうにでもなる、と真顔で言える辺りに自信の高さが伺える。本当に、こんな弱小勢力にいてくれているのが、奇跡のような少女だ。

 

「諸葛亮が諸侯側の軍師にいたとして、檄を飛ばしたり、檄を飛ばした側に組しようと献策する?」

「早目に国を一つにまとめる、という目標を掲げるのであれば、菫卓さんに付くのは悪い案ではありません。現状の最大勢力ですし、ここで諸侯が一人二人合流すれば、それで残りを押し切れます。実際、そうすることをどの軍師も一度は考えるはずです。ただ」

 

「宦官を排除した後とは言え、最大勢力ということは既に多くの椅子が埋まっていることを示しています。諸侯を排除する段階で手柄を挙げることはできますが、事実として、既に一番上の椅子に座っている菫卓さんより上に行くことは不可能です。今よりも上に、程度で満足されるのであればそれでも構いませんが、もっと上へ、ということであれば、やはり菫卓さんを排除、という方向に舵を切らざるを得ません」

「戦に参加しない、という選択肢はない?」

「明確に菫卓さんに付くという態度を示さない以上、どういう形であれ戦には巻きこまれるでしょう。兵を出さないのも角が立ちますし、日和見を決め込むことは難しいと思います」

「内心はどうあれ、ある程度力があるなら、排除側の方に付くことになるってことだな?」

「そういうことですね……一刀さんは、大戦に参加されるつもりなんですよね?」

「恥ずかしながら、俺にも野心があるからね。軽蔑する?」

「そんな……一刀さんなら、良い政ができると確信できます」

「諸葛亮にそう言ってもらえると嬉しいな……」

 

 ははは、と軽く笑って、大きく息を吐く。

 

「その野心について、話をしたい。俺は、機会というのは誰にでもあるべきだと思う。努力次第で誰もがなりたいものになれて、やりたいことをやれて、そして天寿を全うして死ねる。そんな世界を作りたいんだ」

 

 一刀の脳裏に浮かぶのは、現代の国々である。制度一つをとっても、それを実践するようになるまでにどれだけの苦労があったのか、実際に人を使うようになり、政治だの軍事だのに目を向けるようになって解るようになった。

 

「そのためには精強な軍がいるし、優秀な文官が必要だ。そのために色々な人に教育をしなければならない。戦う人も考える人も、何人いても足りないんだ。俺の夢を実現するためには、やらなければならないことが山ほどある」

 

 事実、一刀の故郷が現代に近い体制になるまで、人類は何千年も歴史を重ねている。正確なところは記憶していないが、ここが所謂『三国志』な世界であるならば、文化的には二千年くらい遅れている勘定になる。どうみても二千年前には思えない所もあるが、政治体制としてはそんなに乖離はしていないはずだ。

 

 そんな状況を、先人たちが二千年もかけて作り上げた環境を目指して作り変えようとしている。目指すべきヴィジョンが明確であったとしても、そこに至るまでには膨大な労力と時間がかかる。

 

「おそらく、というか間違いなく俺たちが生きている間に、その夢は実現しないだろう。実際にそうなっている所を見れないことのために力を貸してくれと、俺は沢山の人に言っている訳だ」

 

「でも、俺たちの仕事の先にそういう未来はある。俺がバカだから上手く言葉にできないけど、俺にはそれが誰よりも解ってる。そういう世界のためになら、礎になる価値はあると俺は思うんだ。この国に生きる皆が、次の世のために、次の世代のためにって気持ちを繋いで行ければ、世界はきっともう少しマシになる…………と、思う」

 

 人類が皆善人であるならば、とは誰もが考えることであるが、そう上手く行くものではないというのは一刀自身だけではなく誰もが理解している。誰がどのような体制を作ろうと、それはいつか必ず終わるものだ。これから何かを作ろうという人間の仕事は、その時代ができるだけ長く続くように手配することである。

 

「そのためには、手柄を挙げて権力を持たないと行けない。そうして最後には――」

 

 諸葛亮の耳に顔を寄せ、そっと囁く。

 

「天下を取る」

 

 流石に、少女の目が驚きで見開かれる。天下を取る、というのはこの国の頂点に立つこと。それが意味するのはどういう形であれ、現皇帝に取って代わるということである。乱世なのだ。誰にもその機会はあるはずだが、機会があったとしても、その地位に至るまでの道は険しく遠い。

 

 それを、富裕層の出身でもなく特に実績がある訳でもない一刀が目指すのだから、そこにあるのは並大抵の苦労ではない。それでもなお、一刀は『天下を取る』と口にした。冗談めかした雰囲気ではない。その目を見て、少女は一刀が本気であると悟った。

 

「俺には君の力が必要だ。今回の戦が終わったら、どうだろう、正式に俺たちの仲間になってくれないか?」

 

「君が何処の誰であろうと、俺は同じことを言ったと思うよ。一緒に働いてみて、これからも君と一緒に働いてみたいと思った。だから」

 

鳳統(・・)、これからも俺に力を貸してくれないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この人なら。そういう予感と同時に、期待もあった。いつか呼ばれると思っていたその名前に、鳳統(・・)は小さく息を漏らした。

 

「何故、と聞いてもよろしいでしょうか? それともいつから、の方が?」

 

 てっきりしらばっくれると思っていた諸葛亮改め鳳統は、あっさりと白旗を上げた。少なくとも、一刀にはそのように見えた。他人の名前を名乗るのが気持ちの良いことであるはずがない。鳳統のような性格であるならば猶更だ。鳳統の言葉を受けた一刀は、まず苦笑を浮かべた。これから行う返答が、きっと鳳統の期待に沿うものではないことが解っていたからだ。

 

「どっちの答えも最初からかな。確信を持ったのは今諸葛亮――じゃないな、鳳統の顔を見てからだけど」

「そ、そんなに不自然だったんでしょうか……」

「自然ではなかったよ。違和感は色々あった。君ら二人と元直はお互いに真名で呼び合う時は普通なのに、名前で呼ばれる時にはちょっと反応が遅い時があるとか、普通にしてるだけなのにどこか据わりが悪そうにしてるところとか。最初は居心地が悪いのかなと思って色々気にしちゃったんだけど、どうしてか考えた時に、君たち二人を最初に見た時のことを思い出したんだ」

 

 良い? と鳳統に断りを入れてから、一刀はそっと彼女の帽子を持ち上げる。一刀の世界では良いところのお嬢様が身に着けていそうな、上品な装いのベレー帽である。淡い紫色の髪をした鳳統にも、決して似合っていない訳ではないのだが、予めもう一つ別の選択肢があるとなれば見方も変わってくる。

 

「鳳統はやっぱり、あっちの帽子の方が似合うよ。君の髪の色によく合ってると思う」

「ありがとうございます」

 

 くるりと帽子を回転させて、鳳統の頭に戻す。もう一つの帽子――本物の諸葛亮が今被っている魔女のような帽子を鳳統が被っているところを想像してみた。やはり、そちらの方が据わりが良いように思う。

 

「帽子を入れ替えてたのは、入れ替わってることを自分たちで忘れないようにするためかな?」

「そうです。最初、学院を出て灯里先輩と旅を始めた頃は、上手くいかなくって。それで灯里先輩に相談したら、わかりやすく帽子を入れ替えてみたらどう? って言っていただいて……」

 

 鳳統の言葉に、一刀は苦笑を浮かべた。あの男装美少女は、最初からこの話に一枚噛んでいたということでもある。悪戯が好きそうな彼女の考えそうなことではあるが、相手の感性を見る上では悪い手段ではないのだろう。元直は一刀と知らない仲間ではないが、鳳統と諸葛亮は会うのは初めてだ。世話になった先輩が推してくるとは言え、手放しで飛びつくには不安も不満もあるだろう。推すのであれば、何か具体的にアピールポイントが必要だったのだ。

 

 それは実際、一緒に仕事をしてみれば解ることではあったが、そこで解るのは組織としての強さであって、一刀個人の強さとはまた異なるものだ。話してみて接して見て解ることもあるだろうが、明確に『彼はこういうことができて、こういうことを理解できる』ということが示されることは、これから仕官する先を探している人間にとっては大きな判断材料となる。それが水鏡女学院出身の才媛がしかけた問いであるのならば、尚更だ。

 

 実際、他人の力を借りずに結果的にとは言えその問いを見破ったのだ。これが仕官のための審査だとしたら合格点がほしいところではあるが、心情的に一刀としての問題は他の所にある。

 

 きっと、幹部以上の面々で、確信を持てていなかったのは自分だけだろう。軍師二人は論理的に、武将の二人は勘やなんとなくで真実に行き着いているように思う。お兄ちゃん、今更気づいたの? とシャンに言われたら地味に傷ついてしまうし、何より、入れ替わっていたという事実をどう他の面々に紹介したものかと一刀は早くも頭を悩ませていた。

 

 そんなうんうん悩む一刀を見て、鳳統は別のことを気にしていた。この件に関して思っていたよりも一刀の反応が薄いのである。多少なりとも怒られると思っていた鳳統は、その危惧を解消するために恐る恐るといった様子で一刀に問うた。

 

「その……怒らないんですか?」

「かわいいことするなぁ、とは思ったけど、それだけだよ。怒る理由はないし、団の中にも君らを責める人間はいないと思う。物凄く驚かれるだろうけど」

 

 えー!? と驚いて、おそらくそれだけだ。『どこの誰』というのは勿論重要なことではあるが、人格というのは本人に付随するもので、名前について回るものではない。例え名乗る名前が違ったとしても、それは鳳統や諸葛亮の本質的な評価には繋がらない。団の連中は良くも悪くも深く物事を考えないので、一度驚いてしまったらそこで終わりである。この世界の文化上、真名を偽ったとなれば大問題だが、鳳統たちがやったのはそうではない。子供のやった悪戯程度で、彼らは済ませることだろう。何しろ、彼らには何も実害はないのだから。

 

「何故そうしたのかとも、お聞きにならないんですか?」

「答え合わせ的な意味では聞きたいね。でも、それは鳳統一人で話しちゃまずいことだろう。諸葛亮と一緒にやりだしたことなんだし、落ち着いたらってことで構わないよ」

「ご配慮、ありがとうございます」

 

 ぺこりと頭を下げる鳳統に、一刀は大きく息を漏らした。紆余曲折はあったが言いたいことはとりあえず言うことができた。百点満点とは言わないが、それなりに満足の行く結果である。

 

「こんなところかな。茶飲み話にしては少し真面目過ぎたかもしれないけど、今言ったことも含めて、将来のことを考えてくれると嬉しいかな。勿論、俺は鳳統の意思を尊重する。違う道を歩くということになっても、間違ったって責めたりはしない。ただ、俺は鳳統と一緒に働きたいし、一緒に働けるなら凄く嬉しい。そのことは覚えてもらえると助かるかな」

「ご、ご安心ください。記憶力には聊かの自信がありますので……」

「それは良かった」

 

 言いたいことを言った一刀は、それで肩の荷が降りた。気分が軽くなった所で、遠くに自分を呼ぶ声が聞こえる。梨晏の声だ。おそらく、幹部の誰かが自分を探しているのだろう。となれば、鳳統も探しているに違いない。

 

「それじゃあ、行こうか諸葛亮」

「はい。お供いたします」

 




次回戦闘、その次がまとめ。二つの軍団編は後二話の予定です。

他のも含めて投稿の感覚が開くようになってしまいました。なるべく時間を取るようにしていますが、気長にお待ちいただけたら幸いです。


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第025話 二つの軍団編⑦

 

 

 

 

 

 

 突然ぼとりと空から落ちてきた『それ』に最初に気づいた賊は、暗がりに落ちてきたそれを無警戒に拾い上げた。その警戒心のなさは賊ならではだったのだろう。その無警戒さの中でそれが人間の首であることに気づいた時、賊が上げた悲鳴は身も世もないものだった。

 

 賊が上げたのは何ら意味のない叫び声だったが、先日襲撃があったばかりである。団員の大声は『敵襲』と叫んだに等しい。声を聞いた全員が武器を持ち何事だと集まってくる。結果としてそれは首が落ちてきたというだけで襲撃そのものではなかったのだが、いくら発展途上の文明であっても天気によって人間の首が降ってくるということはない。

 

 そして落ち着きさえすれば賊たちにとって人間の首など見慣れたものだった。

 

 首の元の持ち主は先日の襲撃で恐れをなして逃げ出した連中の一人だった。いずれ見つければなます切りにでもするところであるが、今は追手を出す余裕もない。逃げたのならば放っておけば良いと廃砦に残った賊は逃げた連中のことを頭から消していたのだが、忘れ去られていたはずの人間は彼らが思いもしない形で戻ってきた。

 

 首だけになった元同僚に賊たちはいよいよ自分たちが追い詰められていることを感じ取った。

 

「聞け! クズども!」

 

 廃砦の賊たちが一か所に集まるのを待って、物見場に立った一刀は大声を上げた。見張りは既に打倒している。高い場所にいるのは一刀と、その護衛についてきたシャンと梨晏のみだ。

 

「この砦は包囲した。翌日の夜までに総攻撃をかける。命が惜しければ投降しろ。ただし、お前たちのお宝はすべて俺たちがもらい受ける。投降以外の手を選んだら皆殺しだ。何か質問はあるか!」

 

 一刀の問いに、賊たちは無言で返した。誰もがこの展開に追いつけず言葉を失っている中、考えるよりも先に行動をするタイプの賊はこそこそと物陰に移動し暗闇の中で矢を番えた。狙うのは口上を述べる一刀である。物陰から、一撃必殺を狙って放たれたその矢は、狙い通り一直線に一刀へと伸びていった。

 

 男は生き残った賊の中では弓の名手として知られていた。正規軍にでも所属していればそれなりの地位に就けたはずの腕であるが、それはあくまで凡人の中にいれば輝くというそんなレベルの話である。武として一刀個人の腕はいまだに大したものではなかったが、脇を固めるシャンと梨晏の腕は賊とは比較にならないくらいに高い物だった。

 

 護衛の一人であるシャンは男が物陰に移動したのも見えていたし、矢を番え一刀を狙っているのも見えていた。準備の段階で潰さなかったのは、攻撃があるようなら一度はやらせておけと一刀から指示があったためである。危機とは未然に潰すものだ。護衛の観点からするとその指示は堪ったものではなかったのだが、その方が効果があると言われては従わざるを得なかった。

 

 飛来した矢は一刀に当たる直前で、当たり前のようにシャンに掴まれた。自分を殺すはずだったその矢を見た一刀は内心、かなりびびっていたのだがそれを表には出さなかった。大将の動揺はすぐに下に伝わる。デンと構えるのが一番大事な仕事だと言われそれを実践できていた……というのであればかっこよかったのだが、単純に事態に思考が追い付いていなかっただけである。

 

 その間に、シャンは一刀を挟んで反対側にいる梨晏にその矢を放り投げ、梨晏は自分の強弓にその矢を番えた。

狙うのは今まさに一刀を狙った賊である。必殺のはずの一撃が年端もいかない少女に掴まれ唖然としている男の額に、その一瞬後梨晏の物となった矢は吸い込まれた。梨晏が使うものとは比べ物にならないくらいに粗悪な矢だったが、梨晏くらいの腕があればそれも問題にはならない。

 

 何より額を貫通するくらいの強さで矢を受ければ、矢の質に関わらず人間というのは死ぬものである。梨晏の矢を受けた賊が一矢で身体ごと吹っ飛ばされたのを見て、賊たちは上にいるのが自分たちが逆立ちしても勝てない連中であると理解した。

 

「改めて言うが投降以外の手を選んだら皆殺しだ。何か質問は?」

「投降したら命は助けてくれるのか?」

「官憲に引き渡す。その後のことは俺の関知するところじゃない」

「それじゃあ投降する意味がねえじゃねえか!?」

 

 こんな時代である。投降した賊に温情が与えられるということはほとんどない。賄賂でも出せるならば話は別だろうが、お宝を奪われるのであれば賊たちにはもう実弾がない。投降するのはほとんど死ぬのと同義だ。戦っても死ぬ。投降しても死ぬというのであれば少しでも旨味がある方を選ぼうというのが人間というものだ。

 

 この場合は一刀たちに投降しないという手段である。捕まった場合、順当に行けば間違いなく先はない。ならば生き残る可能性が少しでも高い方をと思うが現実として、逃走した人間は首だけになって転がっている。弓で射殺そうとした者はあっさりと返り討ちにされた。相手にはそれ相応の武力あるのだ。

 

 言葉を全て信じるのであれば、廃砦は既に包囲されている。逃げるのであればそれを突破しなければならない。流石に包囲した戦力全てが上にいるような手練れということはあるまいが、上の連中が騎兵を破った連中と繋がっているのであれば、兵力としての質もあちらの方が上であることが想像できる。

 

 百の言葉を重ねるよりも、一つの事実を突きつけた方が早い。これが一瞬後の自分となれば、如何に賊たちでも足を止めるには十分な理由だった。事実、射殺された男を最後に即座に反抗するものは出てきていない。目の前にいるのは手練れであっても、見えているのは中央にいる一刀を含めて三人。数を頼みに圧殺するには十分な数がまだ賊たちにはあったが、『敵は目の前にいるだけではない』という当たり前の事実が、死体を伴った交渉によって補強された。死の恐怖と自らの生存の可能性を意識した彼らは、突発的な行動に出ることはできない。

 

「とりあえず今死ななくても済むだろう。繰り返すが投降しなければ皆殺しだ。今死ぬか後で死ぬか、好きな方を選ぶと良い」

 

 そこで、更に主張を展開する。今死ぬのも後で死ぬも結局死ぬならば大した違いはないが。今死ぬよりはと希望を抱かせることで、意味のない問答に価値を見出させる。一刀の望みは彼らが問いに対して答えを出すことではなく、その問いを考え続けることだ。欲を言えば、集団としての結論は出ない方が良い。その方が自分たちにとって遥かに安全で、簡単だからだ。

 

「投降を選ぶのであれば、正門から両手を頭の上に挙げて、何も持たずに出てこい。それ以外の場所、方法で外に出てきた者は、敵意ありとみなして殺す。宝を持ち出しても殺す。いいか、決まり事は厳守しろ。それがこの場で殺されないための、唯一の方法だ」

 

 一刀は、賊たちに背を向けた。そろそろ夜明けが近い。周囲に人影は見えないが、団の仲間と関羽たちは陣を引き払い、全員で前進している。元直と程立の部隊が時間的に位置についていないため、包囲はまだ完了していないが、臨戦態勢には違いない。

 

 被害が出ることを厭わなければ、現時点で総攻撃をしても賊を殲滅できるだろうが、そういう手段を一刀は取らなかった。最大目標は、可能な限り多くの賊を無力化すること。そのための準備はまだ済んでいなかった。

 

「猶予は一晩だ。明朝、また来る。それまでに結論を出せ。それまでに廃砦の外に出たものは、どういう意図であろうと殺す」

 

 言って、一刀は物見場を飛び降りる。これで自分一人で着地し、颯爽と駆け出すことができれば恰好もついたのだが、先に着地したシャンが一刀の身体を受け止めた。上る分には一人でもできるが、過程を一足飛びにした飛び降りは一刀程度の身体能力であると負担になるのである。二階建て家屋の屋根というのは、一般人が気軽に飛び降りることのできる高さではないのだ。

 

 これで、作戦の第一段階が完了した。砦に火をつける手はずも大方済んでいる。一刀がシャンたちを侍らせ悪役を決めている間に、馬やら何やらを使った団員たちが、放火に必要な道具を近くまで運んでいたのである。いざ火をつけるまでにはまたセッティングをする必要はあるが、武装解除せずに姿を見せたら殺すと脅しをかけておいた。

 

 不用意に外を見に来る人間はそういないだろうし、いたとしても梨晏の弓で排除できる。計画を実行するまで射殺役の梨晏と、彼女に次いで弓の上手い関羽には負担をかけることになってしまうが、逃走者を捕獲するために出払った元直と程立が配置につくまでまだ時間がある。足並みが揃い、時間がくれば計画実行だ。

 

「貴殿も悪役が板についてきましたね」

「あまり嬉しくはないけどな。さて……これで翌朝まで外に出ないでくれるかな?」

「それが生存の猶予となれば彼らは時間一杯を使うでしょう。命が安い連中であれば尚更です」

「それなら重畳だ。それじゃあ皆、後は計画の通りに。休む奴はしっかり休んでくれよ」

 

 既に一刀隊は砦から視認できるところまで移動している。この辺りに他に建造物を始め遮蔽物はないため、身体全てを晒さないまでも、顔を覗かせれば確認できるはずだ。砦を包囲するように動いているが、その包囲も完全ではない。出払った程立と元直の部隊が合流してもまだ心許ないくらいであるが、砦に火がついた状況を加味すれば、ギリギリこれでも行けるというのが軍師たちの判断である。

 

 彼女らに比べて知識や経験で劣る一刀にはまだ不安が残るが、軍師が大丈夫と言っているのだから大丈夫なのだろうと思うことにした。こと作戦を実行する段階になれば、大将役にできることは少ない、デンと構えているのが仕事だと言われれば、心に不安があってもデンと構えるのが一刀の役目だ。

 

 一刀たちの混成部隊は、現在五つに分けられている。一刀のいる部隊を本隊とし、関羽と張飛を隊長とした部隊を二つ。それから賊の逃走経路を押さえていた元直と程立の部隊で五つである。現代ほど通信技術が発達していない現状では、リアルタイムでのやり取りなど望むべくもない。

 

 緊急時の連絡手段を決めた上で、タイムテーブルに従って行動している。特に予定の変更がなければ、日が沈むまでに配置に就き、本隊が動いたのに合わせて行動を起こす手筈となっている。細かい調整は必要であるものの、全ての部隊に軍師が一人ずつ配置されているため、臨機応変な対応は彼女らに一任されている。

 

 一刀の本隊には郭嘉が残ったという訳だ。関羽の部隊には諸葛亮――本人である――が配置され、張飛の所には鳳統が配置されることになった。全ての部隊に一流の軍師が配置できるという、規模の割りに軍師過多な集団の頼もしさである。

 

 そうして、何事もなく時間は過ぎ、日没前になる。その間一刀たちは交代で休みを取りきちんと食事も済ませた。士気の面でも体調の面でも現状考えうる限り最高の状態である。賊の方は生きた心地のしない夜を過ごしただろうが、それも一刀の望むところだ。

 

「日頃の行いが良いのかな」

 

 見上げる空には、雲一つない。日はゆっくりと沈み夜の帳は下りた。星と月の光はあり足元を照らしているものの、現代育ちの一刀には、この時代の夜の闇はまさに闇である。その闇を照らすための松明は、既に背後にある。ここから動いていない、ということを誤認させるために、展開した全ての部隊が多めに松明を設置し、それを残してゆっくりと前方に移動している。

 

 廃砦の上にも松明はともされているが、物見の人間は出ていないようである。実際、物見場に武装を解除しないで上った人間がいたのだが、姿を見せた瞬間に、梨晏に射殺された。余計なことをすると殺されると悟った賊たちは鳴りを潜め、今は自分たちの今後について激論を交わしている。

 

 仮に宣告した期限まで待ったとしても、全会一致の結論は出ないだろうと一刀たちは踏んでいる。大筋として投降という形には落ち着くだろうが、あらゆる欲を捨てきれないからこそ、彼らは賊に身を落としているのだ。刻限が来るまで、彼らは意味のない会議をずっと続けるのだ。

 

 それをこれから襲うのである。我ながら卑怯だと思うが、背に腹は代えられない。敵と仲間の命であれば、仲間の命を取る。この世界にやってきて、一刀の優先順位は現代で暮らしていた頃よりも遥かに明確になっている。これから人を殺すという罪悪感はいまだに消えないが、だからこそ正しい道を選べるのだと自分を騙せるようにもなった。

 

 これは必要な戦いである。自分に言い聞かせるように心中で唱えながら、一刀は腕を振り上げる。一刀隊の中でも工作が得意な人間が廃砦に取り付き、放火の最終準備も済ませている。後は自分が腕を振り下ろすだけで火矢が射かけられ、廃砦は炎に包まれるだろう。

 

 それが、軍師たちの決めた開戦の合図である。これから人が死ぬ。それを強く認識した一刀は大きく息を吸い、そして腕を振り下ろした。号令はない。ただ、一刀の合図を見た梨晏は、一気に火矢を撃ちまくった。設えられた油類に火がつき、廃砦に燃え広がる。周囲に炎が見える段になって、流石に賊たちも気が付いた。

 

 小火ではない。明らかな敵方の手による現象に、命の危機が迫った彼らは即座に謀られたのだと察する。各々が武器を取り、火が回らない内にと廃砦の外に飛び出すが、廃砦から出てきた瞬間、梨晏の矢に射殺される。

 

 廃砦は所々が崩れており、どこが正面というのもないのだが、一刀たちが受け持っている南側の出入り口を賊たちは正面と捉えているようで、それはこの非常時においても同じだった。他の出入り口と比べて多くの人間が飛び出してくるが、その賊たちにただひたすらに梨晏は矢を射かけていく。

 

 一矢一殺。それはもはや必殺と言っても良い手際だったが、流石に弓の名手でも動きの速さに限界がある。射殺すよりも廃砦から出てくる人間の方が多くなってくると、生き残った連中は纏まることはなく好き勝手に逃走を開始する。

 

 こうなると、梨晏でも手は出せない。出てくる場所が限定されるなら照準する時間は限りなくゼロにすることはできるが、的が散ってしまうとそれも限度がある。それでも梨晏は矢を放つのを止めない。それが仲間の安全を最も高めることを、彼女自身が知っているからだ。

 

 同じ射殺係である関羽の十倍を超える量の矢が、梨晏の元には準備されている。それが尽きるまで一刀隊の安全は半ば保証されたようなものだった。それにしても、と思う。夜の闇の中、敵味方入り乱れて戦っているのに味方を避けて正確に敵だけを射抜いていく梨晏の弓の腕には感服するばかりである。

 

 一刀隊の面々も梨晏の弓の腕に慣れてしまっているため、背中を誤射されるかもなど考えもしない。好きな風に動いて好きな様に戦っていると、梨晏の矢が敵を射殺しているのである。ある意味こんな簡単な戦いもない。信頼のおける援護がある上に、一刀たちは普段から連携を重視した訓練をしている。

 

 命からがら逃げてきて、しかも個々で戦う賊と、準備に準備を重ねて策に沿って行動し、十分以上の援護をもらって集団で戦う一刀団では勝負の趨勢は明らかだった。

 

 絵に描いたような一方的な戦いを続けていると、燃える廃砦の中から飛び出してくる人間も皆無になった。生きて居る人間は殺しつくしたか捕虜にしたのだろうか。それにしては数が少ないと一刀は思った。軍師たちの試算では一刀たちの受け持ちはまだ三、四十はあったはずなのだが、予定はあくまで予定である。

 

 実際は、他の出入り口から出る人間が多かったということなのだろう。賊が出なくなってからしばらく待って、もういないと判断した一刀は梨晏の援護を終了させ、郭嘉の待つ隊の本営に走らせた。散ってしまった隊を集めて被害状況を確認。後は他の隊に伝令を、と考えた所でまだ燃える廃砦から飛び出す影があった。

 

「撃つな! 撃つな!」

 

 両手を頭の上にあげ、大声を出しながら廃砦から一人、走り出てくる。薄汚れた装いであるが声は高い。性別不詳だが男であれば声変わりもしていない年齢ということになる。遠目には少年に見える。射殺役の梨晏は今は離れた場所にいるが、それを相手が知る手段はない。

 

 兵たちは一刀を守るように展開し、正面にはシャンが立つ。暗闇の中でもシャンの大斧の存在感は凄まじい。大斧から手を離さないシャンを横目に見ながら、走ってきた人影は一刀の前に立った。煤で薄汚れてはいるが悪い身なりではない。町中ですれ違えば、中流の人間とは判断されるだろう。少なくとも田舎者と判断されないだけの雰囲気がある。

 

 若干癖のある薄紫色の髪は無造作に伸ばされ、首の後ろで一つにくくられている。まともな恰好をすれば、女子が放っておかないだろう美男子ぶりだったが、全身の汚れとへらへらと笑いながら両手を挙げている様がその持前の要素を台無しにしていた。

 

 全身を眺めて、一刀は頷く。直感的に気づいたことはとりあえず置いておくとして、この人物は見た目からしてどう見ても賊の関係者ではない。

 

「どこの誰か聞いても良いですか?」

「あんたらと同じ人間に雇われた、って言っても簡単には信じてくれないよな?」

「そうですね。俺たちはそういう話は聞いていません。詳しく事情を聞かせてもらっても良いでしょうか」

 

 込み入った話になると判断した兵たちは、一刀に視線で許可を取って一刀たちから距離を開けた。護衛はシャン一人になるが、それで十分と判断したのだ。兵たちが離れるのを待って、人影は話し始める。

 

 商人たちも一刀たちが得た物の『一部』を民に放出して回るということは十分に理解していた。回収できるなら良しと諦めれば良い物が大半ではあったが、中にはそうでないものも紛れ込んでいるおり、一刀たちはそれを任せるには信頼できない。そこで目端の利く人間を送りこみ、可能なようであればその回収をするよう依頼があったという訳だ。

 

「なら俺たちに一声かけてくれてくれても良かったんじゃありませんか?」

「民のために頑張ってますって顔してる人間に、自分本位なお願いはできないもんさ。兄さんたちが名誉とかそういうのを気にするように、商人にだって気にすべき評判ってものがあるのさ」

「確かにクソ野郎と評判の人間から商品は買いたくないものですが……」

「ところでさ、兄さん。あんたいつもこんなにバカっ丁寧なのかい? 俺みたいなのにそうしても、良いことないぜ?」

「そうですか? でもまぁ、年上の女性には丁寧に接しておいて損はないかと思って」

 

 一刀の言葉に、人影は一瞬動きを止めた。それは演技をすると決めたら貫き通す『彼女』にとっては実に久しぶりの現場での失点だった。眼前の人物のその様子を見て、一刀は気まずそうに言う。

 

「…………もしかして、言わない方が良かったですか?」

「何も言わないでくれていたら、お互い笑顔で別れられたのですけどね……」

 

 口調が少年のそれから女性のものに変化すると、雰囲気までががらりと変わった。先ほどまで少年のようにしか見えなかったのに、今ではどうみても女性と感じられる。最初から気づいていた一刀は驚きもしないが、完全に男性だと思っていたシャンは、その変化に目を丸くしていた。

 

「貴女には会わなかったことにしますよ。俺たちの仕事は盗賊の殲滅であって、奪われた品物の回収はただの努力目標なので」

「沢山回収すれば、お金持ちの方々の覚えが良くなるのでは?」

「そこは別の手段で何とかします。貴女を捕らえて考えるというのも手ではありますけど、かわいい仲間を危険に晒す訳にもいかないので」

 

 一刀の物言いに、女性はくすりと小さく笑みを浮かべた。一刀の物差しではこの女性は自分よりも遥かに強いとしか感じられない。射殺係の梨晏は郭嘉の方に合流しているため、弓の援護もすぐには期待できない。実際に戦ってシャンが遅れを取るとも思えなかったが、無駄に危険な橋を渡ることもないだろう。

 

「見逃していただけるようなので、私はこの辺で。縁があればまたお会いすることもあるでしょう」

「名前を聞いて良いでしょうか?」

「それは再会した時の楽しみにしておきましょう。さようなら、北郷一刀さん」

 

 ゆらり、と女性は身体を傾げると、細身の体に似合わない速度で駆けだしていった。その背を見ながらシャンが得物に手をかけるが、一刀はそれを制止する。今ならば無力化できる。そう判断したからこそシャンは攻撃しようとしたのだろうが、雇い主が同じという彼女の言葉が本当であれば、一応味方ということになる。

 

 それが本当である保証はどこにもないが、とりあえず一刀は彼女を信じることにした。

 

「あの人、どうして俺の名前を知ってたんだと思う?」

「そうじゃない可能性も十分にあるけど、依頼人に聞いたんだと思う。さっきの人は結構強いし、ある程度のお金持ちに雇われたと考える方が自然」

「国が送り込んできたということはないかな?」

「それはないでしょう」

 

 戦闘が引けたのを見て、梨晏とその部下と一緒にやってきた郭嘉が言った。既に他の四部隊にも伝令を走らせており、砦攻めは終結に向かおうとしている。残っているのは戦後処理だが、それは他の四部隊が合流してからになるだろう。明確に撃ち漏らしがあるのであれば、その分の戦力も出さなければならない。終局に向かってこそいるが、まだ終わってはいないのだ。

 

「貴殿の態度と話の流れを察するに、私に内緒にしたいことがあったようですが、無駄に終わりましたね」

「俺が郭嘉に隠し事をするはずないだろ?」

「ダメな男は皆、女にそういうことを言うんですよ」

 

 頭痛を堪えるような仕草をして、郭嘉は深々と溜息を漏らした。郭嘉の陰から心配そうな顔で覗いていた鳳統と視線が合うと、彼女はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。そんなことはないと全身で主張してくれる鳳統に心が温まっていると、梨晏が無言で頭を差し出してきた。

 

 撫でれー褒めれーと無言で主張する生意気な頭を脇に抱えてぐりぐりすると、梨晏はきゃーと悲鳴を上げた。少女らしいところもたまにあるのに肝心なところは少年なのだ。身体つきではシャンも大差はないのだが、奇抜な恰好をしていること以外は普通に女の子している。

 

 梨晏が美少女であることを否定はしないが、扱いは妹分というよりも弟分の方が近い。これで大丈夫なのかなと思いつつも、弟妹のいなかった一刀にとって梨晏との距離感というのは気持ちの良いものだった。

 

「できることなら全く関与させずに終了と行きたいところではありましたが、流石に個人と集団では個人の方が足が速いですね」

「介入は予想できてたってことか?」

「全員一致の見解でした。詳らかにしたところで支障しかないので、これまで伏せていましたが」

「それまたどうして」

「目立つ所に現れるのでなければ、知らないままでいてほしかったのですよ。どういう事情であれ『貴方の手の者の邪魔をしました』と態度や言葉に出るようでは、我々の利益にはなりませんからね」

「さっきの人が俺の目の前に現れたのは予想外ってことか?」

「我々が包囲している中、気付かれずに廃砦に取り付き仕事を達成した手腕を見るに、気付かれずに外に出ることは十分に可能だったことでしょう。にも関わらず貴殿の前に姿を現したのですから、それは彼なりの意図があったと考えるのが自然です」

 

 郭嘉の言葉に、一刀は努めて表情を消さなければならなかった。どうやら郭嘉は、彼が彼女だとは気付いていない様子である。

 

「優秀な人間には違いないでしょう。集団の規模が大きくなれば、いずれ草の者を使う必要も出てきます。信頼のおける人間には、今から唾を付けておくのも悪いことではありませんよ」

「草の者ねぇ……」

 

 随分時代がかった集団が出てきたものだが、現代と比較にならないくらいに通信技術が遅れているこの世界においては、情報の精度は文字通り生死を分けるものである。郭嘉もことあるごとに重要性を説いてはいるのだが、中々前には進んでいない。

 

 一刀団の中でも、向いていそうな人間を情報収集専門に当てようと画策しているのだが、色々な技術を持った人間が集まる一刀団にも、殺しや潜入工作が本職同等という人間はいなかった。専門の人間を作るにしても、完全に手探りの状態で始めることになる。

 

 最低、一人は専門技術を修めた人間が必要になるが、それは信頼のおける人間でなければならない。ただ戦えれば良い人間と違って、募集要項そのものが厳しいのだった。

 

「草の者のことはとりあえず置いておきましょう。まずは事後処理が先決です。関羽殿、張飛殿からは伝令が戻ってきました。視界に入った人間は全て討ち果たすか捕虜にしたということで、これから合流するとのことです」

「後は程立と元直の所か。伝令が来るまで待つか?」

「検分を急ぎましょう。中にまだ賊がいるかもしれませんから」

 

 ほどなくして、関羽、張飛とも合流し廃砦に向かう。廃砦はまだ燃えていたが、火の勢いは既に衰えていた。消火作業を急ぎつつ、周囲の警戒には一応張飛本人とその部隊を使うことにした。手ごたえがなさ過ぎて暴れ足りないらしい。

 

 行くのだ―! と馬で走り去る張飛を見送り、概ね消火の済んだ廃砦の中に足を踏み入れる。炎の燻る中に転がっていたのは無数の死体だった。焼け焦げた死体を見ながら外に出てきた人間が思っていた以上に少なかった原因はこれだったのだと理解する。逃げることよりもまず宝を優先した人間は全て、『彼女』にやられてしまったのだろう。争った形跡がほとんど見られないのを見るに、やはり一方的な戦いだったのだ。

 

 死体をいくつかひっくり返した関羽が検分を始めていた。流石にこの時代の人間か、焼死体にも嫌な顔一つしない。

 

「……どうやら殺された後に炎に巻かれたようですね。どの死体も喉を一掻きで殺されています。この人数となると中々の手練れですが、同士討ちとは思えません」

「俺たち以外に侵入者がいたってことでしょうか」

 

 勿論、その人物には心当たりがあったが、それを口にはしなかった。郭嘉以下、一刀団の人間は全員黙っている。示しを合わせた訳ではないが、さっきのことは秘密にするというのが一刀団の認識だった。

 

「そう考えるのが自然でしょう。私たちに歩調を合わせているということは同じ依頼主か、あるいはその対抗馬の横槍か。色々と考えられることはありますが、今は置いておきましょう。ここに死体しかないというのであれば、回収できるものを回収し、撤収することを提案しますが、いかがでしょうか」

「全面的に同意します。俺もそろそろ、街で美味い物でも食いたいです」

 

 この世界にも随分慣れたものだが、元々一刀は現代育ちである。風呂は毎日入るものだったし、生活は規則的。食事も基本的に三食取っていて、しかも特別肉体労働などしたこともなかった。集団での行動は楽しいし勉強にもなるが、それが長い期間になるとやはり街暮らしが恋しくなってくる。

 

 これには早く慣れないとなと思いながらも、清潔な環境での生活への渇望は中々収まらないのだった。

 

 それから捕虜を引きずり回し宝の回収に着手する。『彼女』が持ち出したのか捕虜の話よりも目減りしていたが、それは捕虜の勘違いということで強引に押し通し、撤収の準備を始める。周辺の警戒を終えた全ての部隊が合流し、廃砦の周辺には一刀団と関羽団、全ての兵力が集まっている。

 

「一区切りついたということで、前々から聞きたかったことがあるのですがよろしいですか?」

 

 撤収の陣頭指揮を程立に任せ回収した品物の簡単な目録作りをしていた所、同じ作業に従事していた関羽が何でもないことのように言った。

 

「構いませんよ。答えられることでしたら何でもお答えします」

「そうですか。それでは――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「諸葛亮殿と鳳統殿は、どうして名前を入れ替えているのですか?」

 

 



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第026話 二つの軍団編⑧

 

 

 

 

「まさかそんな事情だったとは……」

 

 一刀と元直の説明を聞いた関羽は、自分の行動を鑑みて項垂れた。自らの思うところを口にした。単純な疑問であったし、それは希代の軍師からの謎かけにも思えた。果たして自分の実力が彼女らの御眼鏡に適うものであるのか。決して野心的ではない関羽をしても、それは気になることではあった。まさかそれが同盟や合流を模索している相手に直接的な損害を与えることになるとは考えもしなかったが。

 

 賊たちを討った後、何も夜間に移動することはないと判断した一刀たちは廃砦付近に陣を張ることにした。戦いが一方的なものだったこともあり、賊にも生き残りは相当数いる。それには見張りを割かなければならない。戦が終わり今は戦勝ムードである。酒も出ているし、軽い無礼講の様子だ。

 

 それに出たくないという人間はいない。まして二つの軍団の一刀以外の幹部は、客将も含めて全員が美女美少女である。飲み屋や食堂で看板娘というのが重宝されることからも解るように、見目麗しい女性というのは飯や酒を美味くし、気持ちを潤わせるものである。

 

 特に何かする訳でもないが近くで顔を見れるだけでも気分が良いし、もしかしたらお酌くらいはしてくれるかもしれない。そういう期待もあって誰もが捕らえた賊の見張りを嫌がっていた。当然それは、団長であり男である一刀は関羽よりも良く把握していた。

 

 そこで一刀はこっそりと両方の団員たちを集めた。関羽には適当な理由をつけての召集である。貧乏くじを引かされるのだと理解していた団員たちの態度は芳しいものではなかったが、一刀は彼らにこっそりと臨時ボーナスを出すことを約束した。

 

 今回の依頼主は大商人の集まりで金持ちだ。当然、街の色々な所に顔が利く。彼らの紹介ならば如何わしいお店の人気の女性の予約も、自分たちよりは簡単に取れるだろう。仮に予約は取れなかったとしても、費用の全ては団が持とう……

 

 次の瞬間、団員たちの間で殴り合いが始まり、勝ち残ったものが見張り番を受けることになった。貧乏くじを引いたはずの彼らは、戦闘が終わった後だというのに意気軒高。逃げる気配のある賊もいたが『逃げれば首から下を穴に埋めてその周りで火を焚いてやる』と脅してやると、すぐに大人しくなった。

 

 そんな訳で生き残りを逃がすような心配はなくなった。どういう理由で彼らのやる気を引きだしたのか察した郭嘉には氷の視線で見つめられたりもしたが、一刀は意に介さなかった。熱意を持って仕事に臨めるならこれ以上のことはない。

 

「しかし私が何も言わなければ、二人ともが一刀殿の所に行っていたかもしれない訳で――」

「可能性の話ですよ。今の俺には縁がなかった。それだけの話です」

「そう言っていただけると私としては助かりますが……」

 

 今の時勢、軍師というのは喉から手が出るほど欲しいものであるし、軍団の運用を考えれば何人いても十分であるということはない。特に優秀な人間、上を狙う人間であるほどその傾向は強い。関羽もその例には漏れないはずであるが、現状彼女は強い引け目を感じているようで、希代の軍師を引きこむことができたという嬉しさは微塵も感じることはできない。そこに彼女の人の良さを感じる一刀である。

 

「話がどちらかにまとまるってことはあるかな?」

「ないんじゃないかな。二人とも軍師としてこうあるべきという判断をしたんだ。それを曲げるということはないと思うよ」

「実力はどっちが上ってことはないのか? 一応、諸葛亮の方が主席だったとは聞いてるけど」

「総合的な成績ならね。でも弁論に限って言えば拮抗してると思うよ。学院の関係者であの二人に勝てるとしたら僕か水鏡先生か静里くらいのものさ」

 

 確かに元直は弁が立ちそうではある。元直にあの二人が勝てる姿というのは思い浮かばないし、あの二人の先生というのなら、水鏡先生という名前が挙がるのも頷けるが、静里というのは聞いたことがない。名前の感じからして誰かの真名で、元直の後輩ということは察せられるがそれだけだった。

 

「前に話したことがあったかもしれないけど、静里というのは僕の後輩でね。朱里たちから見ると年上だけど学院の後輩でもある。口が悪いだけあって弁は立つよ。少し前の考査で僕を破って先生から贈り物を勝ち取った才媛さ」

 

 言葉の端々から悔しさがにじみでている。笑顔ではあるが目が笑っていない。諸葛亮たちの前では良い先輩として振る舞っているが、元直とて稀代の軍師として数えられている。自分の頭脳に誇りはあるだろう。それが後輩に負けたのである。心情として面白いはずがない。

 

「まぁいずれにしても、あの二人の問題はあの二人が解決するべきだと思うし、あの二人なら自分たちで解決できるだろう。その点については心配する必要はないと思うよ」

 

 他にも色々と問題はあるが、最も懸念があるとすればあの二人の心情である。自分たちが関与したことで二人の間に亀裂が入るようなことになれば寝覚めが悪い。現状でも無傷とは言えないだろうが、ある程度は慰めにはなる。

 

「もっと強引に行くべきだったと思うか?」

 

 一刀は傍らでちびちびと杯を傾けている郭嘉に聞いた。ちなみに、梨晏とシャンは既に酔いが回り、仲良く一刀の膝を分けて寝込んでいる。先ほどから一言も発言をしていないのはそのためだ。

 

「全てをその手にというのであれば、最初からそのように動くべきでした。私たちであれば経過とその後はどうあれ、そうすることもできたでしょう。しかし、貴殿はそれを望みませんでした。我々にとってはそれが全てです」

「前向きに捉えるなら過去は振り返るなということですねー」

「後ろ向きに言うなら?」

「女の子に優しいのはお兄さんの美点の一つですが、行くべき時には行かないといつか大損しますよ」

「肝に銘じておくよ……」

「君は上に立つ人間にしては仲間に物を聞くのに躊躇いがないけど、心情的な所ではもう少し仲間を頼ると良いと思うよ。難しい決断なら尚更さ」

 

 頼れる仲間がいるのは良いことだよ、と元直は杯を傾ける。一刀にとっては耳の痛い話だ。

 

「私は一刀殿を引きこむつもりでおりました」

 

 自分は今後どうするべきなのか。杯を傾けながら考えていた一刀に、関羽の言葉が届く。それなりに酒が進んでいるのだろう。白い頬は朱に染まっている。隣で飲んでいた張飛がその袖をちょいちょいと引っ張っているが、酔っているらしい関羽はそれに気づいていなかった。

 

「ですが私は、この度のことで力不足を痛感しました。私はまだまだ一刀殿に相応しくないと思うのです」

 

 この人は一体何を言ってるのだろうと、一刀は心の底から不思議に思った。相手はあの関羽である。後に中華街に飾られるような神様になるような人間さえ相応しくないというのなら、一体どんな人間が相応しいというのだろう。

 

「ごめんな、お兄ちゃん。愛紗は頭は悪くないし強いけど、見ての通りとっても面倒くさい奴なのだ」

 

 張飛もしみじみと言っている。妹分にまでこう言われるのだ。自分が言ったことを他人に言われた程度でひっくり返したりはしないだろう。良く言えば芯がしっかりとしている。悪く言えば頑固というのが、一刀の関羽に対する印象だった。現時点で引きこめないのは残念であるが、本人が心に決めたというのなら諦めるより他はない。

 

「これから関羽殿はどうなさるおつもりで?」

「実は北に行こうと思っています。知人から手を貸してほしいと連絡が来まして」

「差し支えなければご友人の名前を伺っても?」

「公孫賛と申します」

「――異民族との戦いで名を挙げられた、実質的な幽州牧とされる方ですね。白馬のみで構成された騎馬隊を指揮していることから、『白馬義従』とも呼ばれています」

 

 話だけを聞いた一刀の感想は、かっこいいなという単純なものでしかなかった。ある程度の実力が保証されているからこそ、白馬で統一などという見た目に拘れるのである。郭嘉たちから言わせれば一刀など、見た目に拘るのはまだまだということなのだろうが、いつかはそういう見た目にかっこいい部隊を指揮してみたいと思う。

 

 だが、関羽がこの近辺から姿を消すというのは、心情は別として一刀たちにとっては都合の良いものだった。何しろ関羽は優秀な商売敵である。取り分が増えるということはより味方の安全を保証できるということでもあった。

 

 最善はもちろん、関羽たちを仲間に引き込むというものだったが、今回の共同作戦はやっただけの価値はあったと言って良いだろう。関羽が入れ替わりを指摘した時には両方持っていかれてしまうのではないかと冷や冷やしたが、最終的な収支がプラスになったのであれば一刀としては文句はない。懸念があるとすればやはり、鳳統たちのことだ。

 

「決着がつかないことで、二人の間にしこりが残ったりしないかな?」

「主義主張が違っても、仰ぎ見る旗が違っても友情というのは育めるものだと思うよ。二人はちゃんと親友さ。そこは何も心配はいらないんじゃないかな」

 

 元直の言葉が終わるのを待っていたように、別の場所で話し合いの場を持っていた二人が戻ってきた。時間にして三時間程である。将来の話をしていたにしては短い時間と言えるだろうが、稀代の軍師である二人にとってそれが長かったのか短かったのか解らない。

 

 諸葛亮は一刀を一瞥もせずに、関羽の前に跪く。鳳統も同様に一刀の前に跪いた。

 

「私は鳳統。字は士元。真名は雛里と申します」

 

 同じような口上を、諸葛亮も関羽に行っている。二人の間で話はついたということなのだろう。かつて望んだ形ではないのだろうが、二人は共に仕えるべき主を見つけた。軍師を渇望していた関羽にすればこの状況は望むべきものであるはずなのだが、諸葛亮を前に困った顔をしている。

 

 誰の思惑とも外れてしまったのだろうが、二人の軍師の道筋はここに決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 賊討伐の共同作戦の結果は、収支を見れば大成功と言って良かった。懸念の一つはお宝が目減りしていたことである。やはり途中乱入した謎の人物により持ち出されていたことは間違いないようで、それについては生き残った賊にも確認させた。死体まで改めたが賊の中で奪っていけた人間はおらず――その可能性がある人間は悉くが死体になっていた――元直が締め上げたから間違いはないだろう。

 

 それを差し引いてかつ村々に大放出したとしても、一刀たちの手元には相当量のお宝が残った。これを懐に入れられるのならば話は楽だったのだが、余った以上そうもいかない。賊が誰かから奪ったものを奪い返したのであれば、元の持ち主に返すのが本来の筋である。

 

 それについては一刀団の面々がそれなりの難色を示した。お宝は回収した人間のものであり、返す必要はないというのが彼らの理屈だ。現に今までも盗賊を襲ってお宝を回収していた訳だが、これらは持ち主に返したりはしなかった。

 

 だが今回は元の持ち主がはっきりとした物がほとんどであり、商人たちは目録まで作っている、着服、放出するのが多少であればそれでも目を瞑ってくれるだろうが、それが多量となるとそうもいかない。回収したお宝を返すのは規定事項なのだ。

 

「安心してください。可能な限りぶんどってきますので」

 

 戦後の交渉は郭嘉が続けて担当することになった。一刀も顔は出したが、基本突っ立っていただけである。あれをしたこれをする。これからは――と話を畳みかけて、回収したお宝の一部であったり金子であったりと一刀団及び関羽団の収入はかなりのものとなった。

 

 それこそ団員たち全員で豪遊しても余裕な程である。なお、一刀がこっそり行った約束は商人たちの手によってきっちり守られた。今後良好な関係が築けるのであれば、娼館に便宜を図ることなど彼らにとっては安いものだったからだ。これにより一刀は関羽団の人間からも一目置かれることになったのだが、当然と言えば当然のことながら、そういう配慮をしていたことは郭嘉たちにもしっかりとバレており、決して短くない時間のお説教をされる羽目になった。自業自得ではあるが、後悔はしていない一刀である。

 

 それからしばらくして、関羽たちは予定の通り北に移動するための準備を進めた。近辺の戦力が薄くなることに商人たちは難色を示したのだが、ここで関羽が強く一刀たちを推したことが効いた。自分たちがいなくても、彼らがいれば大丈夫だと。

 

 当座に限って言えば、一刀たちにとってはありがたい話である。一刀たちもいつまでこの辺りにいるか解らないが、スポンサーの覚えが良いに越したことないからだ。関羽たちが受け持っていた仕事も自分たちが請け負うというのであれば収入も増えるし、人員の増加も見込める。関羽からの推薦は一刀たちにとっては良いことずくめだ。

 

 一刀たちが討伐した賊がこの辺りで最大規模かつほぼ最後の戦力だったようで、商隊の危険度は今までよりも大きく下がった。それは一刀たちの実入りが下がることを意味するものだったが、その分今までよりも時間は取れるようになった。

 

 できた時間は調練に回している。ちょうど雛里が加入して指揮系統を見直そうとしていたところだ。全体の調練は彼女に任せ、残りの幹部は金策と人員の確保に奔走することになった。関羽たちと協力して事に当たったとは言え、大規模な盗賊団を討ったことは近隣の住民には相当に好意的に受け止められているようで、自分も合流したいという若者を相手にすることになった。

 

 景気の良い所に乗っかろうという食い詰め者もいたが、そういう人間も含めて一刀たちは全て受け入れることにした。この規模の軍団にしては一刀団の調練は厳しい。従軍経験者であるシャンがいることも大きいが、関羽団と一緒に仕事をしている間に、彼女らのノウハウも色々と吸収させてもらったことも一因である。

 

 今はそれを雛里が実践している最中だ。本格的に合流したのは最近のことでも、半年間のおためし期間の間に団の面々とも打ち解けている。普通は年若い少女に仕切られたら面白くないと思うのかもしれないが、それがとびきりの才能を持つ美少女であれば話は別らしい。郭嘉や程立と同じように、団の面々からは先生と呼ばれ慕われている。いかつい男たちに先生と持ち上げられることに雛里はくすぐったい思いをしているようだが、それもいずれ慣れるだろう。

 

 

 そして、関羽たちの出立の日である。

 

 

 団の面々は個別の別れを先に済ませてしまったため、一刀団から出ているのは一刀たち幹部のみである。一刀が雛里たちと出会った街の外で、彼らは向かいあっていた。

 

「関羽殿の武運をお祈りしています」

「私もです。再会する時には、もっとマシな人間になれるよう励みます」

 

 相変わらず不思議な程に関羽が自分を立ててくれることを不思議に思いながら、一刀は差し出された彼女の手を握り返した。離れている間も連絡を取り合えるようにと、元直が情報網の一部を割いてくれることになった。二つの団どちらも、人員を割いて情報を集めるに足ると判断されたらしい。

 

 ちなみに彼女は一足先に旅立っている。またも水鏡先生の指示で、今度は并州へと足を運ぶことになった。何でも先生の姉弟子の娘が難しい仕事をしているとかで、その手伝いとか。大戦の気配は元直も感じ取っていたが、おそらく参加はできないだろうと残念がっていた。

 

「北の地で君たちの活躍を楽しみにしているよ」

 

 そういって元直は笑っていたが、梨晏やシャンはともかく凡人の域を出ない自分がどれだけ名を上げられるかは微妙なところである。まさか勇猛果敢に名のある武人と一騎打ちという訳にもいかない。自分の腕前は自分が良く解っている。そういう展開に魅力を感じないでもないが、魅力優先で動いていては命がいくらあっても足りない。

まずは生き残ることが一刀の最優先課題である。

 

「一刀さん。色々とご迷惑をおかけしました」

 

 諸葛亮が一刀の前で頭を下げる。一刀の方に、彼女からご迷惑をかけられた覚えは全くない。それどころか一刀には親友である雛里と袂を分かつことになった一因を作ったという負い目さえあったから、頭を下げるべきは自分だとさえ思っていた。

 

 それは関羽との共同作業であったものの、それで負い目が完全に消える訳でもない。諸葛亮を前にして一刀が感じるのは申し訳ない気持ちだったが、諸葛亮の方には含むものはないように感じられた。

 

 相手は軍師である。それも当代随一の天才と名高い美少女だ。言葉を額面通りに受け取るのは危険ですよと、郭嘉に何度言われたかしれない。解ってはいるつもりだが、一刀はこの少女に限ってそれはないと信じることにした。

 

「こちらこそ。壮健で」

「私の親友をよろしくお願いします」

「承りました」

 

 それくらいで、他に交わすような言葉はない。簡単なやりとりで終わるものと思っていた一刀の前で、諸葛亮は一刀にだけ見えるように小さく指を動かした。顔を寄せてくれ、という合図に屈んで顔を寄せると、諸葛亮が耳元に顔を寄せてくる。

 

「本音を言うと、私は別に貴方でも良かったんです」

 

 囁くような声音に、一刀は思わず諸葛亮を見返した。赤紫色の瞳が、一刀を見返している。決して豪胆とは言えない少女は軍師らしく、自分の知性に従って行動している時にはその性質は鳴りを潜める。これは諸葛亮の本心なのだろうと一刀は思った。

 

「私の見た限り、将来性という点で貴方の勢力と愛紗さんの勢力にそこまでの差はありません。貴方の方が先だったということも事実と理解しています。ですが、雛里ちゃんがあんまりにも貴方を推すので、私も引くに引けなくなってしまいました」

 

 諸葛亮の表情には、後悔も見て取れる。諸葛亮も雛里もあの性格である。少女同士の約束とは言え、本人たちにとっては重いものだったことは察するに余りある。それでも尚、諸葛亮は自分の心情に従って行動することを選択した。

 

 稀代の軍師としては、らしくない行動である。打算を無視した行動は一重に少女の未熟さが生み出したものと非難する人間もいるかもしれないが、眼前の可憐な少女の姿を見ると諸葛亮の行動にも納得が行く気がした。名前と能力が先に立って現代生まれの一刀さえ誤解しそうになるが、諸葛亮も雛里も見た目通りの年齢をしている。理性的に行動できなかったとしても、不思議ではない。

 

「ただそれだけ、というには事が大きくなってしまいましたが、私にとってはそれだけのことです。貴方を邪険に思っている訳ではありません。そこは誤解のないようにお願いします」

 

 言って、諸葛亮は静かに微笑んだ。差がないというのであれば、心情的にはどちらを選んでも構わないということでもある。関羽を選んだのは感情的な理由であったとしても、筋道を立てて雛里を説得しようとしたその内容にまで嘘はあるまい。諸葛亮は本気で関羽を立てて、雛里を説得しようとしたのだ。

 

「そんなことは一度も思ってませんよ。貴女は貴女の思うままに行動し、雛里もそれに応えた。ただそれだけのことですよ。友達の間になら、よくあることです」

「……私の真名は朱里と申します。また会う日まで壮健で。手を携え、共に戦える日を楽しみにしています」

「こちらこそ。武運を祈ります」

 

 控えめに差し出された手を握り返すと、朱里はたた、と駆けて関羽に合流した。堂々とした立ち姿である関羽とそれに付き従う朱里。張飛だけがこちらを振り返りながら大きく手を振っている。こちらで手を振り返しているのは主に梨晏だ。表裏のない真っすぐなあの性格が、梨晏には馴染み易かったらしい。

 

「朱里ちゃんは何て?」

 

 戻ってきた一刀に雛里が問いかける。昨晩、二人で夜を明かし思う存分語り合った二人は、別れの際はあっさりとしたものだった。離れていても心は一つ。言葉にすれば美しいし一刀もそれを支持する立場であるが、それでも最後に親友が何を言っていたのか気にはなるらしい。気にしてないというポーズを取っているのも実に微笑ましいことである。

 

「私の親友をよろしくだってさ。朱里も雛里と同じ気持ちだと思うよ」

「…………」

「どうした雛里」

「……………………どうして朱里ちゃんのことを真名で呼んでるんですか?」

「? いや、さっき呼んで良いって言われたからだけど」

 

 聞かれたから答えた。一刀にとっては軽い気持ちでの返答だったのだが、雛里にとってはそうではなかったらしい。 雛里は帽子のつばで顔を見せないようにしながら、一刀の腹に一心不乱に無言で拳を打ち始める。ぽこぽこぽこ、ぽこぽこ。全く痛くはないし、傍から見れば微笑ましい光景とも言えるだろうが、やられている一刀としては対応に困る状況だ。助けを求めようと周囲に視線をむければ、これだからこいつは……という心の声が聞こえてくるかのようなしらけ切った視線が痛い。

 

 目の前で揺れる魔女っこ帽子のしっぽを眺めながら、一刀はようやくこれが朱里なりの意趣返しなのだと理解した。脳裏で小さく舌を出した朱里の姿が見えた気がした。

 

 




次回から連合軍編になります。


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第027話 反菫卓連合軍 合流編①

 

 

「今までお世話になりました、北郷殿」

「こちらこそ。一緒に仕事ができて光栄でした」

 

 男性から差し出された手を一刀は笑顔で握り返した。自分の親よりも大分年上であるこの男性は、周辺一帯の商人の顔役であり、一刀団への依頼をまとめて発注する役割を持った人間だった。

 

 何しろこの年齢差である。当初は関羽団のおまけと考えられていた節もあり、ただ握手をするのも難儀したものだったが、この半年で積み上げた物は一刀と男性との間に確かな信頼関係を生み出した。最初は郭嘉を伴っていた訪いも、今では一刀一人でどうにかこなせている。

 

 彼のおかげで一刀たちも大分儲けさせてもらい、名前も売ることができた。兵は期待していた程は集まらなかったが、安心安全に仕事ができたことに一刀は深い感謝を憶えていた。

 

 それだけに、この地を離れることが聊か心苦しい。一刀団の穴を埋めるために商人たちも自前の戦力を整えつつあるが、それはまだ完了していなかった。治安維持の面で一刀団全てがこの地から消えるのは、好ましいこととは言えないだろうが、この地を離れるというのは予め伝えておいたことであり、これ以上遅らせると『間に合わない』というのは、男性を始め他の商人たちも理解していた。どちらも断腸の思いではあるのだ。

 

「ところで北郷殿は、どの旗に身を寄せるのかお決めになりましたかな?」

「孫の旗、ということになるでしょうね」

「それが宜しいかと存じます。大将の孫堅殿は気風の良い方と聞いております。信賞必罰は徹底しているとも聞きますし、立身出世を目指すのであれば申し分のない方かと」

 

 ふむ、と一刀は小さく息を吐いた。事前に水鏡女学院の情報網を使って調べてもらったが、草が持ってきた人物評価も彼と大して変わりなかった。耳の早い商人も同じ意見なのだから、孫堅というのはそれなりに信用の置ける人物なのだろう。

 

 誰に聞いても『気性が荒い』という答えが返ってくるのが問題と言えば問題だったが、それはどこも似たようなものであると一刀も諦めている。現代の日本よりも遥かに、人間の命が軽い世界なのだ。

 

「まずは目の前の戦を乗り切らねばなりません。厳しい戦いになるでしょうが、これを乗り越えることができれば私の道も大きく開けることでしょう」

「立身出世の暁には、是非ともこの簡雍をお忘れなく」

 

 人好きのする笑みを浮かべながらも、男性は自分を売り込むことも忘れなかった。抜け目のない男だが、憎み切れない愛敬がある。顔役になる訳だなと、一刀は素直に感心していた。

 

「妓楼にお連れできなかったのが心残りですな。あの二輪車は是非とも北郷殿に味わっていただきたかったのですが……」

「全くもって名残惜しい……と、俺が言っていたことは内密にお願いします」

「解っておりますよ。男同士の秘密という奴ですな」

 

 助かります、と答えると彼は大きな声を上げて笑った。大商人である彼は所帯を持ち、愛人も数人囲っていて妓楼にも足繁く通っている。女遊びの派手な男だが、それで身持ちを崩したりはしていなかった。分相応に遊んでいるというのが彼自身の言葉だが、この世界の常識的に考えてそれが普通であるのかどうか一刀にはよく解らない。

 

 順当に出世を重ねていけば、一刀もいつかは彼と同じくらいの権力なり財力なりを持つ時が来るはずであるが、

彼のように女遊びをしている自分というのを、一刀は想像できないでいた。

 

 北郷一刀も一応年頃の男性であるから、酒池肉林を夢見たりもする。幹部が皆女性ばかりであることから、新しく入ってきた団員などは全員、一刀の愛人だと思っている節がある。そうであったらどんなにか……と思ったのは一度や二度ではない。一向にそういう未来が訪れる気配がないことに、一刀は一抹の寂しさも覚えていた。

 

 高い自制心を持っていると言えば聞こえは良いのだろうが、男としての技量不足であると指摘することもできる。簡雍などに言わせればそういうことは経験で、場数を踏まないとどうにもならないものだとのことだが、一刀はその経験を積めずにいた。

 

 ままならないものである。権力者というのが皆自分と同じように禁欲的であれば、もっと世の中は良くなっているような気がするが、世間というのは一刀が想像している以上に自制がなく、無軌道だった。ともすれば自分は世間の基準よりも遥かに禁欲的な生活をしているのではないか。遅まきながら、ようやく一刀はそのことに気付いた。

 

 とは言え、気付いたところでどうしようもない。しなければならないことは山ほどある。今すぐ自由にできる大金が舞い込んだとしても、それを使う時間がないのだ。周囲に美少女ばかりというのに嘆かわしい話である。

 

「先生方にも何か深いお考えがあってのことでしょう。いつか道も開けます」

「そうあることを祈ってます。男として」

 

 しみじみとしたその言葉が、簡雍との実質的な別れの挨拶となった。

 

 そして、出立の日。多くの人に見送られて一刀団は拠点としていた街を出発した。団員の総数は五百を超えている。結成した時から比べれば倍以上、関羽と共に戦った時から二百程増えた計算だ。欲を言えばもう少し欲しいところではあったのだが、世の英傑たちのように出自の派手さや過去の実績がないところから始めたらこんなものだろうと、無理やり割り切ることにした。

 

 その分、兵の質は規模の割には上等なものとなっている。従軍経験者は少ないが、中核を担う初期のメンバーは盗賊生活をしぶとく生き残った連中だ。正面からぶち当たることは苦手としているものの、自分たちがそうしてきたこともあり絡め手には滅法強く、軍師の提案する作戦も異論を挟まずに良く従っている。

 

 年若い少女があれこれ指示を出すことを面白くないと思う人間もいるようだが、最初からいる人間が黙って従っているために、後から入ってきた人間もそれに追従する形である。命令系統について特に問題が起きていないのは、初期メンバーの働きが大きかった。

 

 そんな風に貢献している初期メンバーであるが、後から入ってきた連中と待遇の面での差はほとんど存在しない。

 

 一刀団の『給料』は同業他社に比べて圧倒的に高い。団の収入に関わらず、一定の金額が給与として全団員に支払われ、役職に応じた手当がそれに加算される。ヒラ兵士ならその金額のみで、現代で言う所の下士官や幹部クラスにはそれに応じた手当がつくというシステムだ。

 

 ここまでであれば、団長である一刀が一番手取りが多く次いで幹部、その次に士官下士官と続くのだが、一刀団はここにさらに危険手当だの出動手当だのという諸々の手当が加算され、盗賊のお宝を売っぱらった時などは経費を抜いた後、それを人数で頭割りしたものが臨時ボーナスとして団員に振舞われる。

 

 このため例えば、幹部である郭嘉よりも実働部隊として働き危険な仕事を行い部下の面倒も見ている廖化の方が収入が高いこともある。その事実に何より驚いたのは当の廖化だった。賊暮らしの長い面々にとって、幹部連中の取り分が多いというのは、水は低きに流れるというくらいに当たり前のことだった。

 

 これらの支払は全て団の帳簿に記載されており希望すれば給与明細まで発行されるのだが、毎日の訓練の後に必ず読み書き計算の勉強をし、識字率が地味に高い一刀団でも給与の度に明細を要求する人間はかなりの少数派だ。発行は基本的に今後の計算の教材として用いられる仮入団明けの最初の一回に留まっている。

 

 ほとんどの団員は細かな手当を全て把握していないが、より危険なことをしたり、より働いたりすればその分給料が上乗せされる、というざっくりとした解釈で日々労働及び、調練に励んでいた。

 

 そんな給与体制は一刀団が活躍するにつれて広まり、希望者は殺到した。腕に覚えのある者から食い詰め者、老若様々な人間が一刀団の門を叩いた。その全てを受け入れていたら一刀団の規模は今の倍以上に膨れ上がっていただろうが、一刀たち幹部は入団希望者に厳しめの審査を課すことにした。

 

 それでもよほど問題のある人間でない限り、門前払いにはしなかった。やってきた人間はまず仮採用とし、団でやっているものよりも少し甘めの、それでも世間的には十分厳しい調練を受けさせた。体力的についていけないようであればそれで仮入団で終了。最後までついていけてもその間の審査で問題があるようであれば不合格。最低限の体力と根性、それから郭嘉たちの審査を突破して初めて、一刀団への入団が叶うのである。

 

 ちなみに仮入団で脱落した人間にも、その間の給料はきちんと支払ったし、十分な食事も取らせていた。結果不採用ということになっても、彼らは地元に戻って良い評判を勝手に広めてくれる。変則的な広報だと思えば出費も惜しくはない。

 

 そうして名声を広めたことが、別れを惜しむ人間の多さに繋がった。自分たちのやってきたことが間違っていなかったことの証明でもある、彼らの声の大きさに後ろ髪をひかれながらも、一刀たちは馬を進めて、一路孫呉軍の後を追い始めた。

 

 孫呉軍は拠点である揚州から袁術軍に遅れて出発。徴兵を行いながら北上中である。連合軍に到着するよりも先に追いつかなければならないため、一刀団の出立は孫呉軍の日程に合わせて組まれていた。遠方の情報を仕入れることに当初は難儀していたものだが、水鏡女学院の情報網の一端に組み込まれたことで、その一部を使えるようになった。

 

 定期的に現れる連絡員にこの情報が欲しいと言えば、よほど深い情報でない限りは回してくれる。一刀たち自身が有力な情報を持っている訳ではないために、調査の依頼は後回しにされがちだが、間借りさせてもらっている身で文句も言えない。この規模の集団で元手もかけずに情報を集められるのだから、扱いとしては破格と言っても良いだろう。

 

 それら情報を加味した上で、身を寄せるに当たり孫呉軍を選んだのは消去法だった。兵数の関係で将として扱われることのない一刀たちは、連合軍における後ろ盾を欲していた。寄らば大樹の陰ということで候補は最初から数人に絞られていたが、最後まで候補に残ったのが、曹操と孫堅である。

 

 その後を考えた場合、より独立を後押ししてくれそうな人間ということで孫堅となった。曹操は人材マニアとして知られており、自軍に引き入れるためには中々強引な手を取ることがあるという噂だ。調査の結果事実無根であると解っているものの、軍師一人を引き入れるのに屋敷に火を放ったという噂が真実味を帯びて語られているのを聞くに、曹操の人間性が伺える。

 

 もっとも、孫堅に何も問題がないかと言われればそうでもない。

 

 曹操や袁紹など、現在活躍している諸侯よりも一つ二つ上の世代であり、同時期に活躍した武将としては、馬騰や陶謙などが知られている。その二人は病に臥せり現役を退いているが、孫堅はまだまだ現役であり、気性の荒い孫呉軍を纏めている。

 

 既に娘が三人おり、一番上の娘である孫策が孫堅の副官として収まっている。その親友である周瑜は希代の軍師として知られており、後進の育成にも余念がない。軍団の総合力は、帝国の中でも最上級とも言える孫呉軍であるが、誰が見ても解るくらいの大きな問題を一つだけ抱えていた。

 

 袁術に頭を押さえられているのだ。一番下の娘である孫尚香が人質のような扱いをされている。兵の数も質も制限されている。いつか反旗を翻そうと思っているのは誰の目にも明らかだが、それを袁術軍の張勲が上手く調整している。袁術軍は規模こそ大きいが、兵士の質はそれ程でもない。それでも兵数で勝る袁紹軍に袁術軍が伍することができるのは、一重に孫堅を飼い殺していることによるものだ。

 

 自前の戦力を持ちにくいからこそ、これから大きな戦があるという今の時期になっても孫呉軍は広く兵を募集しているのだ。新兵だろうと戦力には違いないのだが、頭を押さえ過ぎると戦力として機能しなくなる。孫堅が死ねば袁術軍とて沈むしかないのだ。張勲としてはこれが最大限の譲歩なのだろう。

 

 その受け入れた新兵を調練しながら、孫呉軍は進んでいる。調練を受け持っているのは主に孫堅で、新兵にするのとは思えない厳しい調練を課しており、何人も死者が出ている。それでも兵の受け入れが続いていて、希望者が後を断たないのは、身分に関係なく人間を受け入れて、更に金払いが良いからだ。

 

 他の集団は孫呉軍のように今さら新兵を受け入れたりはしていない。腕に覚えのある人間、身を立てようとする人間にとって、これが一つの区切りだ。一刀たちからすればライバルとなる訳だが、流石に集団として活動し、調練まで積んでいた一刀たちは、事実として新兵の中では群を抜いている。

 

 懸念は余分な戦力を押し付けられないかであるが、その辺りは会って交渉するより他はない。他よりも使える自信はあるが、使うかどうか、またどう使うかを決めるのは雇用主である孫堅であり、孫策である。まずは彼女らから有利な条件を引きだすことだった。

 

「可能な限り我々の誰かが付きますので、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ」

 

 自分一人では丸め込まれてしまうだろうが、心強い仲間もいる。情報も可能な限り集めておいた。無手で挑む訳ではないのだ。難物であっても、同じ人間であれば妥協点を見出すことはできる。孫堅とて頭を押さえられている身だ。付け入る隙はきっとあるだろう。

 

そう思わないとやっていられなかった。大戦が近づいている。それは飛躍の時とも言えるが、同時にそれ以上の破滅の危機も孕んでいる。人間、斬られれば死ぬのだ。栄達したいと思っている人間など掃いて捨てる程いる。その中で自分が抜きんでることができるかが、これから先の働きにかかっているのだ。

 

 できるだけの準備はした。頼りになる仲間もいる。しかし結局は、自分の力と天運である。ある日突然、こんな世界に導かれるような人間に幸運があるとはどうしても思えない一刀だったが、自分が沈めば仲間も沈むと思うとへこんでばかりもいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よろこべ雪蓮。どうやら大当たりが来たようだぞ」

 

 冥琳が情報を持ってきたのは、日が暮れる直前のことだった。親友の喜色を含んだ声音に、雪蓮は顔に書いてあった『退屈』という文字を消して椅子から飛び上がった。

 

 新兵は集まりこそ悪くなかったが、小粒ばかりだったのだ。名前が売れていたり実力がある人間は今更寄る辺を探したりはしない。今更徴募しているこちらにも問題はあったが、それにしてもと思うのだった。物見遊山の人間が皆無でやる気だけはある者が集まっていることだけが救いである。

 

「どんな連中?」

「数は五百。整然と行進をしてきたそうだから調練は行き届いているようだな。腕の立つ人間が二人いる。最初に受付をした千人隊長は、自分では数合と持たずに殺されるだろうと言っていた」

「それは期待できるわね……」

 

 千人隊長を務められるだけあって、受付の人間は相当に腕の立つ男である。それが手も足も出ないと言っているのだから、将軍級……孫呉で言えば思春や明命に伍する腕前ということだ。腕の立つ人間はどこも欲している。それだけでも十分に当たりであるが、冥琳の様子はそれだけではないことを物語っていた。

 

「それで? そこまでならただの当たりで大当たりではないでしょ? 他にも何か良いことがあるのよね?」

「五百人の集団に、軍師が三人もいるとのことだ。しかもその内一人は水鏡女学院の上着を着て、帽子を被っているらしい」

「……学生ってこと?」

「違う。学院の外で学院の上着を着れるのは卒業生だけだ。その中でも優秀な人間には学位と一緒に帽子を授与する慣例があると聞いている」

 

 ふむ、と雪蓮は小さく息を吐いた。氏素性に全く興味がない雪蓮でも水鏡女学院のことは知っていて、自分の部下にも数人いることは把握していたが、彼女らは皆帽子を被ってはいなかったと記憶している。冥琳の言っていた慣例が事実なのであれば、帽子を被った卒業生というだけで彼女らよりも優秀ということになる。

 

 無論のこと、たかが着物で帽子である。いくらでも詐称が可能なことではあるが、帝国中に知られている女学院なだけあってあちらこちらに卒業生関係者がおり、彼女らは一つの学閥を形成している。

 

 在籍したことがあるくらいの嘘であればまだ良いが、優秀な成績で卒業したなどと嘘をつけばたちまち彼女らの知るところとなり、政財界には居場所がなくなってしまうだろう。彼女らはその名前で商売をしているようなものだ。それを貶めるような人間を許すはずがない。いくら乱世と言っても、そこまで命知らずな人間はいまい。

 

「冥琳も会う?」

「そうさせてもらおう。軍師の試験は私が受け持っても良いか?」

「なら私は武力の方ね。やー、楽しみだわー」

 

 兵の調練などは母である孫堅が率先して引き受けてしまうため、身体がなまってしょうがないのだ。将軍クラスの腕前であれば、試験であっても楽しめるだろう。

 

 喜び勇んで速足で行くと、待っていたのは五百の集団。その先頭にいたのは予想外にも男性だった。

 

 こういう集団の先頭にいるだけあってひ弱には見えないが、兵士に見えるかと言われると否である。細身であっても筋肉質ではなく、物腰にも洗練された気配があった。戦場よりも街にいる方が似合いそうな、商家の次男か三男といった風の優男だ。

 

 大抵の物事には動じない雪蓮もこれには聊か目を丸くする。てっきり話に上った軍師か、武人が大将だと思っていたのだ。

 

 その男を先頭に、女性が五人付き従っている。両側に武器を持った少女が二人。この二人が話に上った武人なのだろう。一見しただけで千人隊長程度では話にならないくらいの腕前だと解る。軍師三人はその後ろに並んでいた。眼鏡をかけた眼光鋭い女性だけが頭二つは背が高く、残りの二人は女性としても相当に小柄だった。件の水鏡女学院の卒業生は小柄な二人の片割れで、雪蓮が視線を向けると帽子のへりで目を隠してしまう。

 

 こんな気弱で大丈夫なのかと不安になるが、世に名だたる知識人が学位を授けたというのであれば、その実力は本物だろう。それが男性に付き従い、五百人の小集団に属していることは解せないものの、それはこれから聞けば済むことだ。

 

「孫策殿とお見受けします。私は北郷一刀。姓が北郷で名前が一刀。字と真名はありません。この度はお会いいただきありがとうございます」

「貴方が代表ってことで良いのかしら?」

「はい。皆は団長など呼びますが、お好きなようにお呼びください」

「それじゃあ、一刀って呼ぶわ。改めて、私は孫策。字は伯符よ。そっちが軍師の周瑜。早速だけど腕を見せてもらって良いかしら? 私はそっちの二人を、軍師の三人は周瑜に見てもらえる?」

 

 全員まとめて孫策が見ても良かったのだが、もう日が暮れるために離れていた母が戻ってくる。これが大当たりだと知れば彼女本人が口を出してくる可能性があった。あちらの方が目が確かということに異論はないもののこんな面白そうなことを実の母とは言え他人に取られることには我慢がならない。

 

 戻ってくる前にある程度は決めておきたかった。孫策の勘は既に採用するべしと言っている。後はどの程度の所で採用するかという話である。

 

「ところで、一刀は何ができるの?」

「たまたま縁があって代表をしているので、剣を持ち部隊を率いて戦うことはできます。同数であれば良い戦いをすると自負していますが、そちらの五人はそんなものではありませんのでご安心ください。俺にはもったいないくらいの、自慢の仲間です」

 

 一刀の言葉に、無言のまま武力担当の二人が笑みをかみ殺している。褒められたことが嬉しくて仕方がないといった風の二人を見て、心中で孫策は納得した。剣の腕も軍略も半端であって、それでも集団の頭が務まる訳である。この男は人柄というか人格というか、この男そのものが武器なのだ。おそらく本人は理解していないだろうが、軍師はこれを理解した上で、集団を運用しているのだろう。これは間違いなく、上に置いて初めて輝く類の人間だ。

 

「本当は貴方も試験とかしようと思ってたんだけど、気が変わったわ。貴方一人だけ、母に見てもらってくれる?」

「仰せのままに」

「……随分素直ね。出したい条件があったんじゃないの?」

「条件を出すにも実力を示す必要がありますからね。まずはそれからということです」

「自信あるんだ?」

「どうでしょうね。あの五人や我々全体ということであれば自信を持って売りこめるんですが、私個人となるとよく解りません」

「ふーん。まぁでも、そんなに悪くないと思うわよ。母が試験ということでも、採用にはなるんじゃないかしら」

「ただの採用だと困るんですがねぇ……」

 

 ははは、と一刀は苦笑を浮かべた。雇用主候補の前で大した面の皮の厚さであるが、こんな時期に売りこみをかけてくるような人間ならば当然かと納得する。少し話しただけであるが、雪蓮の感性は一刀のことを悪くないと評していた。少なくとも、軍師三人武人二人も込みであるのなら、並の条件ならば全て受け入れても十分元が取れるはずであるが、この男が欲しているのは並の条件ではないのだろう。

 

「お姉さん? いつまで団長と話してるの? 早く試験やらない?」

「ごめんごめん。あ、名前聞いても良い? 私は孫策。字は伯符よ」

「太史慈。字は子義だよ」

「徐晃。字は公明」

「いつから兵なんてやってるの?」

「団長が村に来てからだから……一年半くらい?」

「私も同じくらい」

「それじゃあ二人とも農村の出身かしら?」

「私は違う。その村に着く前は旅をしてたし……」

「ふんふん」

「その前は都で役人をしてた」

「それは意外。冥琳! 徐晃って都の役人聞いたことある?」

「あるが後にしてくれ。今忙しい」

 

 ちらと孫策が視線を向けると、冥琳が軍師三人と共に卓を囲んでいた。彼女の正面に座っているのは小さい少女が一人。水鏡女学院の上着を着て、とんがり帽子を被ったあの少女と軍棋の真っ最中だった。 

 

 二人の手は目まぐるしく動いている。一手最大二秒の早指し勝負をしているのだ。雪蓮が母親のことを考えて早目の決着を望んでいることを察していたのもあるが、冥琳として抑圧された状況での対応力を見てみたかったのだ。

 

 自分の力量にも自信があった。冥琳の軍棋の腕は孫呉の中では並ぶ者がなく、文官次席の穏でも駒を一つか二つ落とさないと相手にならない程である。そんな冥琳が、駒を一つも落とすことなく勝負に臨んでいる、掛け値なしの全力勝負な上に突然挑まれた早指しにも関わらず、帽子の少女は涼しい顔で食いついていた。

 

 親友の久しく見ていなかった真剣な顔に、雪蓮は名勝負の気配を察する。親友が負ける所など考えてもいなかったが、これはもしかしたらもしかするかもしれない。ならばどういう結果になるとしても、そこまで時間はかけられなかった。

 

 雪蓮は年若い武人二人を前に、剣の鞘を払った。母の持つ南海覇王ほどではないが、呉国の中でも指折りの名剣である。ゆらゆらと、斬る相手を探すように揺れる剣を見せつけるようにしながら、雪蓮は殺気を全開にする。

 

 実の妹二人をして、まるで人殺しの表情だと言わしめる凄みのある表情を見ても、少女二人は顔色一つ変えなかった。淡々と自分の武器を構え、雪蓮に相対する。太史慈の方が剣で、徐晃の方が斧だ。特に徐晃の斧はその大きさが目立つ。気の扱いに優れ、膂力に自信があるのだろう。単純な力比べでは勝てないだろうが、さて技術はどうだろうか。

 

 当たり所が悪ければ当然死ぬような立ち合いであるが、雪蓮に恐れは全くなかった。母孫堅の血を正しく受け継いだ彼女は、戦に恐怖ではなく快感を覚えるのである。目の前には多少手荒に扱っても壊れないだろう、まだ身内ではない人間が二人もいる。久しく動けず鈍った身体を、元に戻すにはちょうど良いだろう。

 

「さぁ、二人一緒にどこからでもかかってきなさい。私を唸らせることができたら、貴女たちの要求の半分を受け入れるわ」

「半分だけ?」

「貴女たちならどんなに頑張っても半分だけよ。残りの半分は北郷が私の母様から認められるしかないわ」

「なら大丈夫だね。私たちが勝っちゃっても恨まないでよお姉さん」

「そっちこそ。加減はするけど、半殺しと全殺しの間くらいになっても恨まないでよ!」

 

 

 

 

 

 

 



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第028話 反菫卓連合軍 合流編②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 轟音をあげる斧を、紙一重で避ける。受ければ即死のその攻撃を雪蓮は余裕を持って避けた。攻撃の隙間を縫うように剣で打ちかかってくるのは褐色肌の少女だ。突いて、薙いで、また突く。攻撃はどれも鋭い。十代の真ん中にも届かない年齢でここまでできるのだから、これはもはや才能だろう。自分に挑むような胆力があるし、攻め時というものも分かっている。資質としては申し分ない。

 

 もう一人、斧少女は都で働いていただけあって見た目と武器の割に落ち着いた立ち回りをしている。膂力だけならば、孫呉全ての兵の中でも随一だろう。それだけでも勧誘するに値するが、褐色肌の少女との連携には目を見張るものがあった。自分以上の実力を持つ人間がいたとして、それを確実に殺すにはどうしたら良いのか。それを突き詰めた末の結論が、この連携だったのだろう。

 

 事実、一歩間違えたら殺されていた局面が、この数分の間に十回以上あった。それを引いてやるほど柔ではないが、これが例えば相手にしたのが思春や明命であれば、二、三回は殺されていたはずだ。連携しているという前提だが、武の腕前は自分以下、思春以上ということになる。各々単体であれば思春よりも二つか三つは格が落ちるがそれでも武を基準に考えるのであれば、千人長くらいはこの場で与えても良いくらいだ。

 

 指揮力が未知数ではあるものの、それは追々何とかすれば良い。先々のことまで考えればこの二人を纏めて勧誘できるのは非常にお買い得であると言える。問題は末永く孫呉に仕えたいと思っている訳ではなさそうなところであるが、それならばこの戦に限った雇用でも良い。

 

 武力があるのは誰の目にも明らかである。この戦で使うことに文句を言う奴はいないだろう。時間が経てば気が変わることもあるだろうし、そも、北郷一刀がいつまでも生き残っているとは限らない。いずれにせよ実力のある人間に恩を売っておくのは悪いことではないのだ。問題は母が全く違う考えをしそうなところであるが、それも追々考えることにする。

 

「シャンどうしよう! 殺す気でやってるのにカスりもしないよ!」

「これは困った……」

 

 あまり困った様子でない斧少女と、焦った様子の褐色少女。気持ちの差が歴然である。これが試験であるとは言ったが、こうしないと合格できないと言った覚えはない。良い所を見せられれば合格とするなら、少女二人は十分に合格である。どうにも褐色少女は負けん気が強く、こうあるべきという意識が高いように思えた。

 

 二人の熱意の差は、その辺りに起因するのだろう。気性で見るならば、褐色少女は多分に孫呉向きである。

 

「合格よ。終了」

「…………ほんと? 武器を置いたら襲い掛かってきたりしない?」

「ほんとだって。ほら」

 

 先に雪蓮が武器を納めて、ようやく褐色少女は剣を引いた。やれやれと言った様子で、斧少女がそれに続く。お疲れー、と全く心配していなかった様子の一刀が歩み寄ってくると、少女二人は武器も放って彼に飛びついて行く。ぐりぐりと押し付けられる二人の頭を撫でてやる一刀に、雪蓮も苦笑を浮かべながら寄っていく。

 

「試験を二つに分けてそれをさらに二つに分けた訳だから、四分の一? とりあえず、それだけの貴方の要求は受け入れるわ」

「細かく分けられても、どの程度まで行けるのか判断しかねますね……」

 

 自分の要求のどれを通せば四分の一になるのか、一刀には判断がしかねた。これならばアリかナシかで言ってくれた方がよほど楽である。等分する基準が向こうにあるならば、都合の良い切り取り方をされてむしり取られることも十分に考えられる。対等の立場であれば力を盾に筋の通った履行を迫ることもできるかもしれないが、兵の平均的な質ならばまだしも、戦力差は歴然である。この場で四分の一を得たと考えるよりは、四分の三を切り取られたと考える方が、実際には近いだろう。

 

 これは見ようによっては明らかな後退である。切り取りを受け入れるのであれば、孫堅が来る前に最低でも条件を半分にまでしなければならないが、これは梨晏たちの戦いを見るよりも一刀は安心していた。

 

「冥琳と軍棋やるんでしょ? 良い勝負になってると良いわね」

「周瑜殿はどのくらいお強いのですか?」

「負けてる所は見たことないかな。少なくともうちでは一番強いわよ。まぁ勝てなかったとしても、邪険にしたりはしないから安心して?」

 

 にこにこと、自分のことのように周瑜のことを語る孫策にはそれだけ親友を信頼していることが見受けられた。孫呉最強の軍棋の打ち手というのは嘘ではあるまい。それはつまり、この国でも有数の打ち手であるということだが、それは雛里も同じことだ。

 

 学院時代の成績は大体のことにおいて、朱里の方が上だったらしい。それが主席と次席という席次の差につながった訳だが、雛里が明確に朱里よりも上回っていたのが、戦術関係の講義でありその科目の一環でもあった軍棋である。何事においても自信なさげな雛里が、小さな胸を張って得意ですと言うのだから、その自信の程が伺える。郭嘉も程立も雛里に何度も挑んだようだが、恐ろしいことに一度も勝てていないらしい。

 

 軍棋を挑まれるようであれば、どうにかして雛里をぶつけるというのが、軍師たちの規定事項だった。問題はどうやって雛里を自然にぶつけるかであるが、それは雛里の見た目が解決してくれた。水鏡女学院を優秀な成績で卒業したといっても、郭嘉と程立と比べると年齢は大分下である。

 

 年齢と実力は完全に比例するものではないが、同等の評判をもって年齢の離れた人間が並んでいれば、年が上の人間の方が優れていると考えてしまうのは自然なことだ。見た目からしてデキる人間に見える郭嘉と、何やら得体の知れない程立と並んでいると、おどおどしている雛里は余計に頼りなさそうに見える。

 

 その組み合わせの妙もあってか、郭嘉たちが何をするまでもなく周瑜の方から軍棋を提案し、相手も雛里になった。一刀としてはその時点で勝ったも同然のつもりでいたのだが、やはり結果を確認するまでは落ち着かないものである。梨晏とシャンと合流し、にこにこ顔の孫策と周瑜たちの元へ行くと、そこで待っていたのは手を動かさず、じっと盤面を見下ろす周瑜と雛里の姿だった。

 

 彼女らは一手の持ち時間二秒の戦いをしていたはずで、手が動いていないということはつまりその戦いには一区切りがついたということだった。盤面を挟んで向かい合う都合上盤面を見ればどういう形で決着が着いたのかルールを知っていれば一目で解る。親友の表情に不穏な物を感じ取った孫策は盤面に駆けより、愕然とした。

 

「冥琳、まさか負けたの!?」

「あぁ、素晴らしい腕だ。早指し勝負にしたのが惜しいよ。時間をかけた勝負にすれば、私は一生楽しみに困らなかったろうに……」

 

 負けたはずなのに、周瑜の表情は清々しいものだった。傑出した腕を持っているということは相手がいないということでもある。軍棋を指している途中、立場や仕事のことなど忘れて、夢中になっていた。完全に自分のためだけに何かをしたのは、周瑜にとっては久しぶりのことで、それが本気になって打ちこめたことなのだから言うことはない。

 

「どういう形であれ、これだけの人間が来てくれることを拒む理由はない。私からも炎蓮様には強く推挙しよう。これだけの人間が三人もいるのだ。穏にも良い刺激になることだろうしな」

 

 勿論、私もだがと言って、周瑜は床几から立ち上がった。孫策と一刀、それから一刀に引っ付いている二人を見て、周瑜は親友がどういう決断をしたのかを敏感に察した。

 

「ということは、半分の要求を飲むということだな。と言っても、残りの半分の方が遥かに厄介な訳だが……」

「孫堅様というのは、どのような方なのですか?」

 

 一刀の問に、孫策と周瑜が作った表情は渋面だった。どういう表現をするのが最も当たり障りがないのか考えに考え、実の娘である孫策が出した答えが、

 

「まぁ、その…………アレな人よ」

 

 当たり障りのない答えを探してこの答えな辺りで、実の娘でさえ表現に困るような人間なのだということは察せられた。気性の荒い人間だというのは方々で聞いていた話ではあるが、孫策の反応を見るに想像よりも更に苛烈な人間なのではという考えが一刀の中で持ちあがる。

 

 幸い、こちらに来てから出会った人間は基本的に話の通じる人間ばかりだった。呼吸するように罵詈雑言をぶつけてくる荀彧に最初に出会ったのが大きいのだろう。彼女に比べれば大抵の人間は、一刀にとってはとても『優しい』人であり、心構えさえしていれば大抵の人間を受け入れることができた。

 

 今回もそれで大丈夫、と自分に言い聞かせる。これだけ大きな集団の代表をしているのだ。まさか話も通じないということはあるまいし、気性が荒いと評判だがその分良い話も多く聞いた。気性が荒いという要素だけを見れば確かにマイナスだが、全体としてみれば孫堅という人間の評判は悪いものではなかった。

 

 それに悪い話というのは多かれ少なかれ存在するものである。近い所では曹操などもそうなのだから、この時代の英傑にはつきものなのだろうと改めて思うことにした。

 

「とりあえず、整列して待っててもらえる? そろそろ新兵の調練を終えて戻ってくるはずだから」

「了解しました。整列!」

 

 一刀の掛け声で、一刀団の面々は駆け足で整列する。団員の装備は様々で統一性はないが、一刀の号令による彼らの動きには無駄がなかった。整列し、微動だにしない彼らの姿を見て、孫策は内心で舌を巻いた。自分たちは一端の兵であるという自負が彼ら全員から見て取れた。今の環境に、これから進むだろう道に、不満や不安というものがないのだ。良く訓練されている。流石に孫呉の正規兵と比べると遅れを取るだろうが、これなら今調練している新兵など問題にならないだろう。

 

 良い拾い物をした、というのが孫策の正直な感想である。後は母がどういう判断を下すかだ。整列し微動だにしない一刀たちに付き合い、母を待つことしばし、遠くに力強い罵声を捉えて孫策は母が戻ってきたことを察した。

 

 その罵声は近づいてくる程に、身体の芯に響いてくる。その内容と力強さに整列していた一刀団の兵たちにも不安が浮かんだ。この声の主は一体どういう人間なのだろうと大の男が不安になっている。無理もない。人となりを知っていても身構えてしまうのだ。会ったこともない人間が声を聴いただけで不安になるというのも、理解できる。

 

 実の母であり、軍団の長だ。戻ってきたとなれば迎えに出るのが筋であるが、孫策は敢えて母がこちらに来るのを待つことにした。新兵のダメさ加減を聞くのが、ここ数日の孫策の仕事である。周瑜と共に背筋を伸ばし孫堅の到着を待つ。

 

 やがて、一刀たちの前に現れたのはまさに存在感の塊のような女だった。孫策の血縁と一目でわかる容姿であるが、その存在感は段違いだ。孫策も十分一刀の基準では強烈な個性を持っているのだが、眼前の孫堅はその比ではない。その姿を見ただけで思わずひれ伏してしまいそうな存在感に、一刀団の兵たちにも動揺が走った。

 

 これがいつもの雰囲気であれば、誰もが口々に『ヤバい』とでも口にしていたのだろうが、整列と号令をかけられた以上、彼らは別の命令があるまで整列したまま口を開かない。不安な表情はそのままに、彼らの視線は先頭にいる一刀の背中に注がれていた。

 

 団の中で最も年若い部類であり団の代表でもある彼はこれから、あの怪物と相対するのだ。まさか殺されはしまいなと不安に思う仲間の視線を受ける一刀は逸る気持ちを抑えながら、孫策に紹介されるのを待った。孫堅は整列している一刀たちを見て、彼らがどういう理由でそこに整列しているのかを察したが、一度彼らを無視し娘の前に立った。

 

 孫策と周瑜は拳礼をし型通りの労いの言葉を伝えると、早速と言った様子で一刀たちを紹介した。と言っても、孫策が知っていることなど高が知れている。やってきてからこれまでのことを話し終わるまで、五分とかからなかった。

 

「五百か……」

「あっちのおちびさん二人は強いわよ? うちだと思春くらいをぶつけないと、安心して勝負もできないと思う」

「そりゃあ将来有望だな。軍師らしき連中もいるようだが」

「私が軍棋で負けました。一人は水鏡女学院の卒業生で、残りの二人も音に聞く人物です」

「それも有望だな。で、先頭に立ってる優男は一体何ができるんだ?」

 

 孫堅のその問いに、孫策は何も答えることができなかった。それこそ孫策が知りたいことだったからだ。すぐに返答があると思っていた孫堅は、言いよどんだ娘に軽く眉根を寄せる。聊か込み入った事情がある。察した孫堅は自ら一刀の前に立った。頭の先から足の先までじろりと眺める。それをして何か得られるものがあるかと思ったが、何もない。歴戦の武人である孫堅から見ても、眼前の優男はただの優男だった。

 

「そこそこ鍛えてはいるようだが、それだけだな。別の仕事を探した方が大成すると思うんだが、俺の前にまだ立ってるのを見るに、俺にしか叶えられないような願望がお前にはあるんだろう」

「はい。孫堅殿に折り入ってお願いしたいことがあります」

 

 泥酔した乱暴者でも正気を取り戻して逃げ出すくらいの殺気を振り撒いたつもりだった孫堅は、眼前の優男が全く怯まずに言い返してきたことに彼の評価を少しだけ改めた。思っていたよりは気骨がある。舐めた物言いをしてもとりあえずは殺さないでやろうと心に決めた孫堅は鷹揚に頷き、

 

「言ってみろ」

「はい。まずは後ろの五百を私に指揮させていただきたく」

「当然だな。お前の命令に従うならお前が指揮する方が手間がなくて良い。その分、お前にはよく命令を聞いてもらうが、それは構わんな?」

「勿論です」

 

 最初の提案は大したことがないものだった。孫堅にとって必要なのは自分の指示に従う戦力である。その際、末端までどういう方法で指示が伝わるかは大した問題ではなかった。

 

 欲を言えば自分の部下だけで固めたい所であるが、そういう訳にはいかないからこそこの時分になって徴兵しているのである。細かいことにまで注文を付けられるような状況にはない。武器の持ち方から教えなければいけないような連中もいるのだ。既に調練が行き届いているのであれば、それ以上言うことはない。

 

「それから俺の仲間には軍師が三人います。彼女らをこの戦の最中、御側に置いてはいただけませんか?」

「冥琳が知恵者と認めたなら是非もない。剣を持っても強いというなら別だが、そうでないなら本陣で預かろう」

「感謝いたします」

 

 次の提案もそう問題のないものだった。武器を持って戦うことのできない人間を戦場に放り込む理由もない。ましてこれから孫堅たちが行おうとしているのは帝国でも有数の難所である関を二つ抜こうという戦である。そこにただの軍師が入り込む余地はない。孫呉の筆頭軍師である周瑜はあれで鞭を良く使いこなすし、次席軍師である陸遜も鈍くさい見た目に反して三節棍を使う。

 

 最低限彼女らくらいの腕がなければ危なっかしくて出番などない。今回に至っては万全を期して彼女らさえ陣に置いていく判断をしたのだ。遠目に見ても優男の言う軍師たちが武に長けているとも思えない。彼の提案は当然と言えた。

 

「そして、戦も始まる前から恐縮ですが働きに応じた報酬を頂きたく存じます」

「信賞必罰は世の倣いだ。特に俺のとこじゃそいつは徹底してる。手柄を奪い取ったりはせんよ。安心して首をあげてこい」

「ありがとうございます」

 

 それを今言い出すのかと僅かにいら立ちを覚えたが、それは本来最初に説明すべきことだ。好き好んで命を賭ける人間などいない。特にこの時期、自ら兵にならんという人間は皆、立身出世を夢見ている。それを横から奪いとるようなみみっちい真似は孫堅の好む所ではなかったし、そういう真似をした人間は殺すと予め念を押してもいる。

 

 孫呉軍では気にするようなことでもない、当たり前のことだ。それを聞いた優男は安堵のため息を漏らし――そして表情を引き締めた。

 

「この戦が終わったら、お暇をいただきたく存じます」

 

 ざわり、と一刀団以外の人間に動揺が広がった。主への不遜な物言いがどうとかそういうものではない。単純に自分の主の前に立つ、命知らずな人間の首が今この瞬間に飛ぶことを予期したからだ。事実孫堅は反射的に南海覇王の柄に手を伸ばしていた。鞘から僅かに刃も見えたが、一刀にとっては幸運なことにそれが抜かれることはなかった。

 

 命知らずの命がつながったことを理解した面々は、一様に安堵のため息を漏らす。孫堅に仕える彼らは皆、主の気の短さを知っていた。一刀のそれは機嫌が悪い時ならば首が飛んでもおかしくない物言いであり、機嫌が良い時でも半殺しにされるくらいの振舞いだった。

 

 そのどちらにもなっていない一刀に孫呉軍の兵たちの視線も遅まきながら集中した。怒りをこらえた様子――それだけでも驚天動地ではあるのだが――の孫堅は身体に溜った熱を追い出すように深い息を吐いた。それでも飢えた獣のような雰囲気は消えない。

 

 元々武に頼って生きるような人間ではない一刀はそのプレッシャーだけで気を失いそうになっていたが、気合でどうにか堪えていた。ここで気を失うようでは全てがご破算になる。自分の肩にはついてきてくれた人間の未来が乗っているのだと思うと、無様を晒す訳にはいかなかった。

 

「俺に仕えに来た訳じゃないということか? ならば何故俺の所にきた」

「世に雄飛し、名を知らしめるためです。恥ずかしながら、我々だけでは飛び立つことも儘なりません。名を売る機会は今より他になく、そのためには貴女様の元が一番であると考えました」

「俺の元にいても雄飛はできるだろう。それでは駄目なのか?」

「大丈夫たる者、生を受けたからには七尺の剣を帯び、天への(・・・)階を登るべし。俺の郷里の諺です。できるだけ高い所まで登ってみたいのです。貴女は太陽のような方。私などとは比べるべくもない輝きをもっておられます。その光は遍く人々を照らすでしょう。しかし、それを仰ぎ見ているだけでは私が至れるのはそこまでです」

「つまり何か、俺を足かけにしようと、そういうことか?」

「有体に言ってしまえば、そういうことになります」

 

 あ、と呟いたのは誰だったか。次の瞬間には、南海覇王は抜かれていた。その刀身は一刀の首に添えられている。日に焼けた一刀の首に、赤い血の筋が流れた。それでも一刀は、孫堅から目を逸らさない。自分の流儀を二度も曲げて命を助けてしまった孫堅は、憮然とした表情を浮かべている。彼女の機嫌は最悪と言っても良いものだったが、本能がその行動を押しとどめていた。

 

 自分でも良く理解できない何かが、この男を生かし活かすべきだと全力で主張しているのを感じる。自分の不機嫌を理性で押しとどめながら、孫堅は子供が聞けば泣き出すような声音と表情で、言葉を続ける。

 

「いずれ俺から離れると戦も始まる前から言っている人間を使って見せろということか。お前、俺に喧嘩売りにきたのか?」

「そう取られても仕方のないことだとは自覚しております。ですが私には、貴女様の器の大きさに縋るより他にありません。絶対に後悔はさせません。どうかお考えいただけませんか?」

 

 言いたいことは全て言った。後は相手がどう出るかである。一刀にとって長い長い沈黙の後、孫堅は小さく息を吐き、南海覇王を鞘に納めた。孫呉軍を含めて、全員の身体が弛緩する。とりあえず今この場で人が死ぬことはなくなったことを全員が心の底から安堵したのだ。

 

「良いだろう。俺を前にそこまで大見得を切った度胸に免じて考えてやる。だが……まずはお前自身の力を示せ。お前とお前の兵五十で、俺がさっきまで鍛えていた二百を打ち破って見せろ。話はそれからだ」

「承りました」

 

 相変わらず人殺しの顔で一方的に言うと孫堅は踵を返した。通り道にあった荷物の山が、孫堅の蹴りを受けてがらがらと崩れる。機嫌が最悪なのは誰が見ても明らかだ。気が変わって殺されない内に、一刀は話を進めることにした。郭嘉たち軍師に接触しないようにしながら、自分直属の兵を急いで取りまとめ始める。

 

「……聞いておりましたよ。中々堂に入った振舞いでしたな」

「ちょっと早口だったかな?」

「いや、大丈夫でしょう。郭先生の想定問答を何通りも練習した甲斐もありやしたね」

「まったくだ」

 

 一刀は大きく息を吐くと、やり取りを聞いていて事情を把握していた自分の直属の部下から、五十人を選び出した。俺も俺もという雰囲気ではあったが、心を鬼にして一番軍歴の長い五十人を選出する。その中には梨晏もシャンも入っていなかったが、二人とも文句は言わなかった。郭嘉の想定でこうなると予想された時点で、力を示すには二人が入っていない方が良いと言い含められていたからである。

 

 頑張って! と二人に励まされた一刀は、五十人の仲間を連れてぞろぞろと移動する。既に陣を張り気を抜いていた兵たちも、降って湧いた騒動に活気を持ち始めた。血の気の多い連中だとは聞いていたが、想像以上である。

 

「しかし、孫呉というのは巨乳でないと出世できないんでしょうかね。大将と言い側近らしき女と言い、見事というより他にありません。あの乳を毎日拝めるんなら、団長への恩も忘れてあっちに走っても良いくらいです」

「責める気にはならないな……俺も正直大分心が揺れた」

 

 一刀の言葉に、仲間たちから笑い声が上がった。

 

 孫策も周瑜もそれはそれは見事なものだったが、やってきた孫堅はその上を行っていた。側近らしい褐色の肌をした女性も同様である。孫堅の正面に立ち彼女と話をした一刀はその胸部の圧力に息苦しささえ感じた程だった。あれを理由にという廖化の物言いは流石に冗談だと思いたいが、真っ新の状態であれを理由に入団を決めるというのは、男として解る気がした。

 

 女性陣には口が裂けても言えないことだが、ここには男しかいない。これから大一番なのだ。話題は下世話過ぎるくらいでちょうど良い。

 

 移動を指示された先は陣の外。二百メートル程の距離を離されて、相手らしき連中の姿が見えた。孫堅の言葉を信じるのであれば新兵のはずである。郭嘉の想定の一つにはあれが精鋭と入れ替わっているという局面もあった。正直、そんなサプライズを持ち出されたらもうどうしようもないのだが、果たして自分たちにはまだ運があるのか。

 

 開始の合図を待つまでの間に、一刀は五十人の仲間を振り返った。全員が最初に『挙兵』した時にいた面々であり、つまりは元盗賊である。出会った時の彼らは一様に汚い恰好をしていたものだが、今は兵であると紹介されればそれを信じられる程度にはそれらしい。

 

「さて、頼りになる軍師殿たちの想定通りに事が運んで、後は勝つだけだ。敵は二百と多いが正直梨晏一人を相手にする方がまだ難しい。つまり、勝てる勝負だ。祝杯を挙げる心の準備は良いな?」

 

 全員が、拳を突き上げ雄叫びを挙げる。その声に、離れた対戦相手が怯むのが感じられた。勝負は既に始まっている。調練が終わって疲れているだろうが、そんな事情はこちらには関係がない。悪いが自分たちの踏み台になってもらう。

 

 孫堅から開始の合図が出た。号令一下、一刀たちは一斉に駆け出した。並足で動き始めた連中が、こちらの速度を見て慌てるのが手に取るように解った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




50対200の戦いが終わってこのくらいの分量になる予定でしたが、始まる前にこれくらいになってました。次回こそ戦い編です。


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第029話 反菫卓連合軍 合流編③

 

 

 

 

 武装して走るというのは存外に体力を消耗するもので、普通にそれができるようになるだけでも相応に時間を消費する。その上で集団行動の調練をさせられていること、新兵という単語から練度はそれ程でもないと一刀でも判断できた。実際走りながら観察して見ても、指示を受けての彼らの動きには大分淀みがあった。まさに新兵というもたつき具合はこれが味方と思うと不安極まりないが、これが敵だと思うとただのカモである。

 

 走って突っ込んでくる一刀たちに、敵は迎え撃つという選択をした。槍でもあれば話は変わってくるのだが、持っている武器は全員が同じ木刀でただ待っていることにメリットは少ない。敵の指揮官もそれは分かっているのだろう。待ちを続けながらもこちらを包囲するべくじわじわと展開を続けている。数の有利に任せて押しつぶそうという意図が透けて見えた。

 

 別にそれは悪いことではない。多数を用意できるのであれば一刀でも同じ判断をしただろう。多数で囲んで一方的にぼこぼこにするというのは荀彧も言っていた戦術の完成形の一つだが、それも迅速な運用があってこそだ。

 

「これなら狩り放題ですな」

「油断するなよ。まずは仕込みだ」

「了解でさ」

 

 ぶつかる直前、一刀たちは一斉に手に握り込んでいた砂を撒いた。この時代の位の低い兵士の装備で、目を完全に覆うようなものは期待できない。一刀たちを含めて誰一人として兜も被っていないのだから、目を狙って砂を撒けば目に入るのは道理である。

 

 まさか子供の喧嘩のような戦法を取られると思っていなかった敵の先陣は突然の事に動きを止める。それに後続が閊えて止まり、中央が止まったことで左翼右翼も動きが鈍る。一刀たちにとってのチャンスだった。動きを止めた連中に狙いを絞って攻撃を仕掛け、残りは包囲されないように周囲を牽制する。

 

「退くぞ。駆け足!」

 

 一刀の号令で全員が転進し、全力で駆け出す。『致命傷』を受けた人間は離脱するルールであるから、それを処理するのに手間取って敵方は即座に追撃できない。その間に距離は引き離されていく。こうなれば最初から仕切り直しと考えるのが普通なのだが、そう考えない人間が何人かいた。

 

 向こうの指揮官も待機と指示は出していたはずだが、それを無視して集団から離れ突撃してきた者が十人弱。いずれも気の短そうな若者だ。同僚が目に砂をかけられたことが相当頭に来ているのだろうことが解るが、これが悪手であることは一刀でも解る。数の有利を放棄してまで今することでは決してない。孫堅の性格を考えたら後で殺されはしないかと心配になるものの、今は自分たちの身の振り方だ。

 

 最悪、一人もひっかからないことも考えられた。考えなしが十人もいたことは一刀たちにとっては幸運である。

 

「部隊を二十ずつに分けて転進。左が俺。右が廖化。挟撃するぞ。ここで皆殺しだ」

 

 普段から練習していることでもあり、隊の分割も転進も相手方に比べてスムーズに行えている。調練というのはこういう時のためにやるのだな、と模擬戦とは言え実感できる。追いまわして一方的に殴りつける自分たちでも想像していたのか、一刀たちが転進してきたのを見て追っ手の十人弱の動きが鈍った。その上まだ一刀たちにむけて走り続けている。即座に転進して本隊に合流すればここで痛い目を見ることもなかったのだろうが、ここでも判断の遅さ、鈍さが出た。

 

 距離はまだ離れていた。その時点で走っていれば訪れた再起の目も、相手に準備ができてしまえばできない。そもそも一刀たちの方が足が速いのだ。出足に差が出てしまえば、距離を詰められるのは自明の理だった。走って距離を詰め挟撃。何やら罵詈雑言を吐いてくる連中を一方的に囲って戦闘不能にし、改めて敵方との距離を測る。

 

 一刀たちが一方的な攻撃をしている内に、敵方本隊は態勢を整えていた。味方がやられたことが効いたのか最初に見たよりも固い陣容になっているように見える。雰囲気もいくらか引き締まっていた。最初からこれができていれば一刀たちももう少し苦戦したのだろうが、今の時点でこれをやるところまで含めて遅い。

 

 一刀たちは合流して陣形を整えると、再度駆け足で突撃を開始する。敵方は緊張した面持ちで一刀たちから視線を逸らさずにいる。つまりは誰も周囲を警戒していないということだ。

 

 突然、敵方の背後から雄叫びが上がった。

 

 砂を撒いて逃げる時に少しずつ離れて行った団員が合流。十人の集団になって背後から奇襲をかけたのだ。百人を超える集団に十人というのも多勢に無勢が過ぎるが、それでも奇襲には違いない。ありえない奇襲を受けて浮足立つ集団に、一刀たちは今度こそ突撃をかける。

 

 ここで受け止めるという決意をしていたのに、奇襲によって意思を挫かれた。時間があれば立て直しもできただろうが、一度萎えた気持ちというのは即座に戻るものではない。腰の据わっていない新兵などいないも同然だった。殺気満ち溢れる一刀たちの突撃を受けたちまち総崩れに陥る。

 

 模擬戦中止の指示が孫堅から出たのは、それからしばらくしてのことだった。無事な人間を集計すると、一刀たちが四十五人なのに対し、敵方は九十八人。五人の犠牲で百人をやった計算になる。新兵と訓練された兵と考えれば妥当な結果と言えなくもないが、その新兵の調練をさっきまでしていたのは選りに選って孫堅だ。

 

 少しは花を持たせた方が良かったかと後悔したのは、人でも殺しそうな表情の孫堅に呼び出され、前に立たされた時だった。孫堅の隣に立つ妙齢の美女は、孫堅の殺気に青い顔をしている。長く一緒にいても慣れないのなら生きた心地のしない職場だろうなと、一刀は完全に他人事に考えていた。

 

「何か言うことはあるか?」

「お見苦しい所をお見せしました」

「ほう? 何が見苦しかったのか言ってみろ」

「はい。俺の想定よりも五人も犠牲が多かった。無傷で完勝するところをお見せできずに申し訳ありません」

 

 だが考えていることとは逆に、一刀は孫堅を煽っていく。怖い物知らずの若造の発言に、孫呉陣営は色めき立った。主に対して無礼な、というノリではない。この小僧命が惜しくないのかという純粋な心配の雰囲気である。一刀の発言と部下たちの心配を受けて、案の定孫堅は青筋を立てた。左手は既に鞘を握りしめており、右手は握ったり開いたりを繰り返している。

 

 何かあれば抜き打ちが飛んできそうな気配であるが、一刀はそれに気づかないふりをした。生きた心地がしないし、見た目程余裕がある訳でもない。

 

 できることなら今すぐ謝りたいのだが、郭嘉たちの想定問答の通りに概ね事が運んでいる以上、このキャラを崩す訳にはいかない。完全にとはいかないまでも結構な部分が演技でしたとなれば、冗談でも何でもなく首が飛んでしまう。一刀とて命は惜しく、自分の振る舞いには仲間の将来がかかっていた。怖いからなんて理由で腕を引っ込めるなんてことはあってはならないのだ。

 

「今度は俺から聞こう。なぜ砂を撒いた。普通にぶつかっても勝てたように見えたが」

「それは犠牲を厭わない場合です。死力を尽くして戦えば確かに二百全てを討つことができたでしょう。しかし、犠牲はもっと酷いものになっていた。全数は十を割りこんだかもしれません」

「それでも勝ちだ。死ぬ訳じゃない。その方が俺に受けが良いとは考えなかったか」

「結果として犠牲を伴うのであればまだしも、より多くの犠牲を前提に兵を動かすことはできません。それにこれで終わりという保証はない。死力を尽くして戦った後、さらにもう一戦となったら孫堅様の前で無様を晒していたでしょう。ですので、なるべく犠牲の少なくなる方法を選ばせていただきました」

 

 砂を撒くことが最悪の受けになることは、考えていない物言いである。それくらいならば受け入れるという確信に近いものが一刀たちにはあった。これが曹操や袁紹であれば某かの物言いがついただろう。程度の差こそあれ名前が売れている人間は勝ち方に注文をつけるものであるが、軍団の気風からか他の武将たちに比べて孫呉は特にその辺りが大らかである。

 

 それでも卑怯者と後世にまで残るような振る舞いには物言いがつくだろうが、この程度ならばという話である。事実孫堅を始め、兵たちにも砂を撒いたこと自体を咎めるような雰囲気はない。何か言いたそうなのは実際に一刀たちと戦った新兵たちくらいのものある。

 

「その意気やよし、と認める。お前の条件を全て飲んでやろう。精々武者働きをしてみせろ。よく働いたらその分報酬には色を付けてやる」

「ありがとうございます」

「思春。こいつの部隊はまるごとお前に任せる。軍師の配分については冥琳と相談し、最低一人はそちらで受け入れろ。いざとなったら本陣で預かるが、それ以外の時は使い倒してやれ」

「御意」

 

 孫堅の言葉を受けて進み出てきたのは美女とするか美少女とするか微妙な風貌の女性だった。切れ長の瞳と言いぶら下げた肉厚な刃と言いなる程孫呉らしい人だというのが第一印象だが、混沌悪といった巨乳具合だった孫堅他幹部に比べると中立中庸といった風である。

 

 だから安心という訳ではない。孫堅程の解りやすい危なさはないものの、風貌と言い武器と言い、いざという時にはやる奴だというのはひしひしと感じられる。もはやこの軍団には危険人物しかいないのだと割り切ることにした一刀は女性の前に歩み出て頭を下げた。

 

「北郷一刀です。姓が北郷で名が一刀。字と真名はありません。どうぞよろしくお願いします」

「甘寧。字は興覇だ。働きに期待する」

 

 見た目通り不愛想な女性であるが、差し出した手はちゃんと握り返してくれた。武人らしい無骨ではあるものの、手そのものは女性らしく小さい。身長も一刀と比べて頭半分くらいは小さい。

 

 いくら特定の人物が女性となり無双する世界とは言え、性別が女性であることに変わりはない。傑出した能力を持つのが女性であることが多いだけで基本、生物としての規格は男性の方が力強い。一般兵が男性ばかりなのが良い例だろう。眼前の甘寧も含めて突出した能力を持った女性の割合が現代と比べて高いというだけで、女性という種そのものに劇的な変化があった訳ではなく、また突出した能力を持った女性に解りやすい見た目の変化があった訳でもない。

 

 結果、女性らしい見た目は維持しつつも、ゲームのように敵を切り刻んでは吹っ飛ばし無双する女性というのが完成した。武人として優れた能力を持つ女性が、能力相応の見た目をしていたら男性として一刀は激しく落胆することになっていたに違いない。

 

 一体どうしてそういうことができるのか。シャンには『気』というものの扱いに対する習熟がどうしたと難しい説明を受けたが、何時間も解説を受けて理解できたことは、自分がゲームのように無双するのは不可能だということだけだった。

 

 いずれにせよ自分の上司が喋るメスゴリラでなかったことを一刀は素直に神に感謝した。これから行くのは戦場である。上に求めるべきはまず能力であって然るべきだろうが、どうせ一緒にいるなら美女美少女の方が良いというのは男性陣共通の見解だ。

 

「じゃあな。俺は今日はもう飲んで寝る。祭、雪蓮。ちょっと付いてこい」

 

 祭と呼ばれた美女は粛々と、孫策はえ、と微妙に嫌そうな表情を浮かべて孫堅に付いて行った。大将がいなくなったことでその場は三々五々解散になる。一刀はそのまま甘寧に従って彼女の部隊がいる場所へ移動する。新兵が加わる時期であるため、部隊の人数が増えることはそう珍しいことではないが、ある程度調練が済んだ兵がまとまった数、しかも軍師付きでやってくることは孫呉軍が移動してから初めてのことである。

 

 色々と聞きたいことが普段からあったのだろう。甘寧などは移動の最中から郭嘉を捕まえて議論を交わしている。三人選択肢があったのにも関わらず敢えて郭嘉に質問する辺り、甘寧の生真面目な性格が伺えた。

 

 やがて、甘寧隊の本陣に到着した一刀は居並んだ兵たちを見て微かに眉根を上げた。孫呉の兵は気性が荒いことで知られているが、それを象徴するように皆人相が悪い。一刀団の中核を担っている面々も元盗賊だけあって悪党面が揃っているが、甘寧隊はそれ以上だった。

 

 気の弱い雛里などぷるぷると震えて一刀の背に隠れてしまっている。その背をよしよしと撫でながら、一刀は甘寧に問うた。

 

「調練も一緒ということでよろしいのでしょうか?」

「特別扱いしろということか?」

「いえ、基礎からやりなおせと言われることを危惧しておりました」

「先ほどの模擬戦は私も見ていたが、あれなら問題あるまい。五百の指揮はお前に任せる。移動の際の並びは調整せねばならんから、これから百人隊長以上を集めて会議だな。軍師の中から誰か一人出席してほしいのだが――」

「それなら私がやりましょう。風は団の調整をお願いします」

「承りました」

 

 程立がのんびりした調子で受け、一刀団の面々を引き連れ指定された場所まで移動させる。悪党面の集団も何のそのだ。懐からいつもの飴を取りだした程立は緊張感などとは無縁の表情で陣内をずんずん進んでいく。

 

「どうかしましたか? 甘寧殿」

「…………いや、孫呉にはいない気質だと思ってな」

 

 確かに強面の集団の中で程立のお人形さんのような風貌はかなり目立つ。雛里のようにおどおどしていれば素直に可愛げがあると表現できるのだろうが、飴を咥えながら団員を従えすたすたと歩く様は異様な光景と言えた。

 

「まぁ良い刺激にはなるだろう。私の隊の人間は皆勇猛ではあるのだがな、座学を嫌って困っていたのだ」

「それは良いことを聞きました。縛り付けてでも軍学を叩きこんでみせますのでご安心ください」

「頼もしいな」

 

 短く褒められた郭嘉は、どこか得意げな表情でいる。やり取りが短く済むというのは、郭嘉にとっては理想だろう。将軍であるのだからある程度は軍学を修めているはずだ。簡潔にやり取りが済み、ある程度知識があって学ぶ意欲がある人間など郭嘉の大好物である。向こうからの強い希望がない限り、部隊に残すのは郭嘉だなと一刀は心に決める。

 

 その後も、甘寧と郭嘉の切れ間のないやりとりを横目に眺めながら会合のためのスペースに移動する。勿論会議室などという小洒落たものはない。集まった人間は開けたスペースに車座になって座っている。

 

 甘寧隊は五千人で構成されている。隊長である甘寧が千人隊長の一つを兼ねているため、彼女以外には四人の千人隊長がいる。その千人隊長が各々副官と配下の百人隊長を連れてやってきているのでざっくり五十人以上の人間がそこに集まっていた。

 

 居並んだ強面連中の前で、まず甘寧は一刀を紹介し自分の部隊に組み込むことにすると伝えた。部隊の中にも序列があり、指揮官が直接指揮する部隊は精鋭であることが多い。聞いた限りでは甘寧隊もその例に漏れない。新参の人間がいきなりそこに所属することに反感を憶えられないかと危惧したものの、甘寧の発表を受けた隊長たちは皆拍手で一刀のことを向けてくれた。

 

 予想外の好感触に目を丸くしていると、

 

「炎蓮様に堂々と物を言える兵は皆無と言っても良いからな。お前の態度は孫呉の中では一目置くに値するものだということだ」

 

 と甘寧が説明してくれた。一刀としてはそうするしかなかった故の行動だが、他人に評価されるのならば悪い気はしない。その後、移動する際の隊列の変更などが話し合われ、一刀たちの立ち位置と見張り番などのシフト調整が行われ、最後に一刀に話が向けられる。

 

「何か言っておきたいことはあるか?」

 

 漠然とした物言いに、一刀は試されていると理解した。居並んだ強面たちも一刀が何を言うのか楽しみにしている風である。何か受けを取りたいとまず考えた一刀だったが、彼らに何を言いたいかと考えた時、最初に浮かんだのは一つだった。

 

「俺は兵を挙げて以来、規律を重んじてきました。俺も仲間も誰に恥じ入ることのない行動をしてきたと自負していますが、それは兵を挙げてからのことです。いずれ知られることと思いますのでここで申し上げておきますが、俺の仲間には後ろ暗い立場の人間が何人もいます。褒められたことではないことを行い、官憲に追われたことも牢に入ったことのある人間もいます。ですが、彼らは心を入れ替えて俺と戦ってくれました。どうか、今の彼らの姿を見ていただければと思います。俺から言うことはそれだけです」

 

 下げた頭を上げると、腕を組み思案している様子の甘寧と目があった。続いて周囲を見まわすと全員が微妙な表情をしている。仲間の扱いは一刀個人の最大の懸念だった。言いたいことと言われれば間違いなくこれだったのだが、バカにされるのならばまだしもこんな顔をされる理由が解らない。

 

 小さく首を傾げると、甘寧が深々と溜息を吐いた。居並んだ全員を見まわし、大声を上げる。

 

「我が隊の新人はどうやら、我々が非常にお上品な連中と思っているらしい。良い機会だ。自分たちがどれだけ上等な人間か自慢してやれ」

 

 では自分から、と甘寧の副官が一歩前に出る。

 

「強盗をやり洛陽の地下牢に十年いました」

 

 ん? と眉根を寄せる一刀を他所に、隊長達は自慢を始める。

 

「十五年の労役を科せられましたが、五年で逃げてきました」

「金持ちの船を河水に沈めてやったら官軍に半殺しにされました」

 

 全員が全員、似たような過去を抵抗なく語っている。内容は当然褒められたものではないものの、語っている当人にそれを深く気にしている様子はなかった。それはそれで素晴らしいことではないのだろう。潔癖な人間であればこの時点で彼らを避けるかもしれないが、それをここで口にすることが自分たちへの大きな配慮であることは一刀にも理解できた。

 

「ちなみに私も孫呉に合流するまでは、河賊の頭領だった。今も当時の部下は私を頭などと呼ぶが、真似はするなよ」

「ご配慮に感謝いたします。頭」

 

 瞬間、一刀の腹部に拳が飛んでくる。膝をつきせき込む一刀の背中を見ながら、彼が不愛想だと思った若い将軍は小さく微笑みを浮かべた。一刀の我が身も顧みないノリの良さに、隊長たちも爆笑に包まれる。

 

「我々はお前たちを歓迎する。ようこそ、孫呉へ」

 

 

 

 

 



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第030話 反菫卓連合軍 合流編④

 

 

 

 

 

 

団を結成する前から一刀が思っていたことだが、この世界は娯楽がとても少ない。

 

 勿論この世界なりに人生を楽しんでいる風ではある。一刀も女遊び以外の様々な娯楽に手を出したが、現代日本に比べると選択肢がとても少ない。テレビはない。ラジオもない。車は全く走ってない。歌と違うのはこんな村は嫌だと洛陽に行った所で現代人である一刀の目から見ると文化レベルはそう変わらないということだ。

 

 郭嘉に言わせれば物を楽しむ余裕がないということらしいのだが、このもやもやに一刀は自分が皆に貢献できるところはここだと考えた。腕っぷしでも頭のデキでもこれが一番と思えることがなかった一刀にとって、自分しか知らないことというのは武器になる。

 

 問題はその全てが実用化に至る訳ではないということだ。

 

 物を楽しむ心の余裕がないのだと郭嘉に言わせればそういうことになるのだが、腕っぷしでも頭のデキでもいまいち団に貢献できない一刀は自分に何ができるのかを考えた。最初は現代知識をこちらで応用できないかと考えたのだ。小説などで良く見る展開であるが、その技術を取ってみても、一刀はそれがどうしてそうなるのかを説明できなかった。

 

 例えば一刀は火薬が硫黄と硝石と木炭でできていることを昔の漫画を読んで知っていたが、硝石がどういうものでどこで取れるのかを郭嘉に説明できないし、そもその3つが揃った所でどういう風に火薬にするのかも分からない。解っているのは製造の過程も相当に危険だということだけだ。

 

 よしんば硝石と確信の持てるものが手に入ったとしても、適当な作業で皆が吹っ飛ぶということにもなりかねない。これは危険な例ではあるが、危険を伴わないものでもほとんどの案が実行以前に軍師たちに却下されてしまった。早い段階でゴーサインが出たのは、団員の識字率の向上のための教育くらいのものである。

 

 これでも一刀は挫けなかった。一つしか採用してもらえなかったのではなく、一つ採用してもらえたと考えた。土台他の分野で貢献できる可能性は低いのだ。数撃てばその内一つ二つは当たるだろうと、頭の中で話を練り、ある程度形になった所で郭嘉たちに相談するというのが一刀の日課になっていた。

 

 その中で、孫呉軍に向かって移動を開始してから提案し、採用されたものが二つあった。

 

 ルールがあまり複雑でなく、大量の道具を必要とせず、できれば大勢で楽しむことができ、観戦もしやすい……そうして残ったものがドッジボールだ。

 

 道具はボール一個あれば良く後は地面に線を引けば良い。ルールも球技にしてはシンプルだ。ボールをどうやって確保するかが問題であるが、それもまた楽しみと皆で色々なボールを作って試行錯誤している最中である。一刀団の訓練は厳しいのだが、その訓練の後でもやれるくらいに団員たちはドハマりしている。

 

 一刀団は五百人いるので、十人隊ごとにチームを作って対抗戦だ。そのスタイルを崩さず、それを孫呉軍に合流してからも続けていたのだが、見たことのない娯楽に早速孫呉の荒くれものたちも食いついた。

 

 一刀の世界ではどちらかと言えば低年齢向けのスポーツである。対して孫呉軍甘寧隊の面々はひげ面のいかつい男ばかりで、脛に傷があるものたちばかりだ。一刀団で流行ったのはたまたま。まさか誰でもどこでも流行る訳ないさと適当な気持ちで勧めた所、ひげ面の男たちまでドハマりしてしまった。

 

 一刀団でのブームが、甘寧隊全体に広がった形である。甘寧隊は元々五千人おり、一刀たちが加わって五千五百人になった。十人隊単位での勝負は変わらずだったので五百五十組も相手がいる計算になる。よりどりみどりだ。

 

 それだけいれば試合時間も長くなり、展開が間延びするのではという懸念があったのだが、そこは荒っぽいひげ面の男たちである。避けるのだけ上手いしかも人気者でない人間が最後に残り、クラス全体が興ざめするような事態にはならなかった。

 

 彼らは基本渾身の力でボールを投げて相手を殺しに行くし、受ける側もボールを避けない。慣れない内はボールがあらぬ方向に飛んでいったりもしたが、慣れてからは常に全力投球だ。

 

 手に汗握る戦いとはまさにこのことで、やる人間も見ている人間も常に気合十分。頑張れくらいの感覚でぶっ殺せ! という言葉が飛び交う様は、小学校の体育の時間程度のレクリエーションを思い描いていた一刀の計画とは大分乖離してしまったものの、一緒に何かをするという目的は達成できたし、新しい集団に属するに当たりそれを足掛かりにすることもできた。

 

 隊長である甘寧を始め、シャンや梨晏など実力差のありすぎる人間を『面白くなくなるから』という理由でハブにしているのは心苦しく、当の本人たちからちくちく苦情を言われるが、楽しいドッジボールを続けるためにはそれも仕方のないことなのだ。

 

「熱中している貴様らには申し訳ないが、今日はどっじぼーるはなしだ」

 

 だから甘寧にそう言われた時、一刀を始めとした男性陣は本気で彼女が報復に動き出したのだと感じた。

 

 なんだってー! と普段は鬼将軍と恐れている甘寧相手にも遠慮なく怒号が飛ぶ。最近の彼らはそれを楽しみに生きているようなものだ。甘寧が相手でも物怖じしない。遠慮なく文句をぶつけてくる部下たちに流石の甘寧も動揺するが、いくら文句を言われたところでその決定を覆す訳にはいかなかった。

 

「あと二日もすれば連合軍の勢力圏に入る。そこからは宴会などはできんだろうから、ここらで最後に羽目を外しておこうという炎蓮様の計らいだ」

 

 地獄の鬼よりも怖い孫堅の名前が出てくると、荒くれ者たちもシンと静まり返ってしまう。鬼を恐れない無軌道な荒くれ者でも、鬼を素面で叩き殺す孫堅のことは怖いのだ。一度静かになってしまうと、もう反対意見は出てこない。

 

 それに彼らはドッジボールがしたいだけであって宴会をやりたくない訳ではなかった。一刀団がドッジボールを伝道してから初の中止の憂き目を経て、孫堅主催の宴会が開催された。

 

 あれだけ気性の荒い孫堅の主催である。どれだけ緊張感の溢れた催しものかと戦々恐々としていた一刀だが、当日になってみて驚いた。皆が非常にリラックスして宴を楽しんでいるのだ。飲み食いは自由で酒も出ている。そこかしこで笑い声が響いており、肝心の孫堅の姿は見えない。

 

「静かに飲みたい人間には、聊か苦痛かもしれんがな……」

 

 そう言う甘寧は静かに飲みたい派だったらしい。部下たちには好き放題にさせ、自分は同じく静かに飲みたい人間を集めてちびちびと酒を飲んでいた。周囲にいるのは一刀団の軍師三人とシャン。後は甘寧隊の方々を回ってようやく解放された一刀である。

 

 梨晏はバカ騒ぎしながら飲みたい派であるので、ひげ面の荒くれ者に紛れて大騒ぎをしている。男の中に美少女が一人いて大丈夫かと心配にならないでもないが、ちんちくりんの彼女はここでも少年扱いされているため問題ない。仮に手を出すようなアホがいたとしても腕っぷしで彼女に勝てるはずもないのだ。

 

 単体で戦うのであれば、孫呉軍全体でも甘寧以上を連れてくるしかなく、数を頼みに押し切るのであれば、勇猛果敢で鳴らす孫呉の兵でも百人は必要だろう。美少女をどうにかしたいという願望は男として理解できなくもないが流石にそこまでの犠牲を払って手を出すバカもいまい。

 

「ここまで大規模になるとは思ってもみませんでした」

「未練全てをなくすことはできんだろうが、これから死地に行く人間には良い思いをさせてやろうという炎蓮様の計らいだ。下手をすれば全員が死ぬということもありうる訳だからな」

 

 全く笑顔など浮かべずに言う甘寧にそれが何一つ冗談ではないのだと思い知る。国の歴史の流れを変える転換点になるだろうことは一刀にも解る。ここで菫卓を討てねば、他の勢力に目はなくなる。菫卓にとってはここが正念場だ。

 

 では菫卓を討てれば戦は終わるのかと言えばそうではない。諸侯の力を結集して菫卓に対抗するということは単体で菫卓に匹敵する勢力は皆無ということだ。連合軍においての武功により戦後の序列が決まり、全員がそれに従うという取り決めが仮にあったとしても、守られるはずもない。

 

 結局の所、菫卓以外の誰かが今彼女が座っている椅子か、それに近いものを手に入れるまで戦は続くのだ。何も関係がない庶民にとってはたまったものではないだろうが、この時代の戦は主に権力者の都合によって引き起こされるものである。そうでない人間にそれを止める力はない。黄巾の乱から続く戦に、まだまだ終わる気配は見えない。

 

 不謹慎な話であるが、戦を生業にしている連中にとっては今がまさに稼ぎ時、名前の売り時なのだ。功名心のため、金のため、孫呉軍に合流した人間の中にも、色々な考えの人間がいる。孫の旗に忠誠心を持っている人間は、地元を出発する時から従軍している面々くらいのものだ。

 

 一刀を始め、それから合流してきた人間には、それぞれの思惑がある。一刀にとっても、戦が続くということは良いことではあるのだが、過ごしてきた時代が平和だったせいか、戦乱が日常的に続く環境というのはストレスが溜まるものだ。

 

 早く平和な世の中になってほしいものだが、自分の考えを世に知らしめるためには結局の所力が必要で、それを得るためには戦うしかない。人が死なずに物事を進められるように、今の世の中はできていないのだ。自分の生まれた国は平和だったんだな、と心底思う瞬間である。

 

「前から思っていたのだがな、北郷」

 

 一人でしんみりしていた一刀に、甘寧が声をかける。静かに飲みたい甘寧だったが、沈黙の中で酒が飲みたい訳でもない。普段の彼女からすれば珍しく、自分から会話を切り出すことも多い。何ですか、と空になっていた甘寧の椀に酒を足しながら問い返す。

 

「お前はもう少し良い剣を持ったらどうだ?」

「いえ、用意しようとは思うんですが中々……」

「貴殿が荷物の奥に後生大事に剣をしまっているのを知っていますよ」

 

 椀に視線を落としたまま、郭嘉がぼそりと呟く。機嫌が悪そうに見えるのは気のせいではない。一度も顔を合わせたことがないはずなのだが、どういう訳か郭嘉の荀彧に対する好感度は最悪なのだ。剣のことは荀家であったことを詳らかにした時に話したので、郭嘉だけでなく幹部連中は皆知っている。

 

 そして特に郭嘉の好感度が低いだけで、他の面々が高い訳ではない。幹部連中は誰も彼も、一刀が荀彧の話をするのが好きではなかった。居並んだ仲間にじっとりとした視線を向けられると、持ってこないという訳にはいかない。

 

 一刀は自分の天幕に戻ると荷物の中から袱紗を取り出し戻ってくる。最近は袱紗から出すこともしていなかったので団の中にはその剣の存在すら知らない人間もいるくらいだ。袱紗から鞘ごと剣を取りだし、柄の方から甘寧に差し出す。

 

 差し出された剣を見て、甘寧は少なからず落胆した。後生大事にしているというからどんな華美な剣が出てくるのかと思えば、柄も鞘も無骨な造りである。拵えがしっかりとしているのはこの時点でも解るが、それを使わずにしまっておくとは何と贅沢なことだろうか。

 

 物を大事にするという感性そのものが悪いという訳ではないが、それを命と秤にかけてしまうのはやりすぎだろう。命あっての物種だ。取り分け、良くも悪くも一刀は孫堅のお気に入りでもある。何かあってはコトだと思いながら鞘から抜き、そして甘寧は呼吸を止めた。同様にある程度刀剣の良し悪しの解るシャンも目を丸くした。まさかこんな剣が出てくるとは思ってもみなかったのだ。

 

「そんなに良い剣なのですか?」

「知らずに持っていたのか?」

「世話になった方からの餞別で頂いたものなんですよ。下手に扱って折りでもしたら、後で怒鳴られそうで……」

「これを折るのは相当な労力を使いそうだがな」

 

 手に持った剣を甘寧は振り抜く。この時代の剣に標準の規格というのがある訳ではないが、甘寧の基準では一刀の剣は少しだけ短く感じる。その割に重いのはこの剣の持つ特性故だろう。

 

「間違いなく業物だ。私や明命……周泰が使っているのと同程度と言ったところか。切れ味はともかく頑丈さで言えばこれを凌ぐ剣はそうないと思うぞ」

「……大事にしまっておいた方が?」

「いや、その剣は使うべきだ。鑑賞ではなく実用を考えて打たれた物なのは間違いないが……その割には全く使われた様子がないな。お前にこれを贈った人間はどういう奴なんだ?」

「文官ですよ。来歴はよく解りません。ただ贈られただけなので」

 

 返された剣を、一刀は剣帯に吊るしてみた。いつもと違う感覚に違和感を憶えないでもないが、これが荀彧からの贈り物であることを思うと、しっくりくる気がした。剣を見下ろしてにやにやしている一刀を見て、郭嘉たちの機嫌が急降下する。

 

 ぎり、という小さな音を敏感に察知した甘寧が、僅かに一歩退いた。これから良くないことが起こる。色恋沙汰に無駄に絡んで良いことがあるはずもない。しかも酔っ払いならば猶更だ。ここはほとぼりが冷めるまでだんまりを決め込んでおこうと甘寧が消えた矢先、それを遥かに凌ぐトラブルの予兆が遠くから聞こえた。

 

「北郷はどこだ!」

 

 反射的に立ち上がってしまった甘寧を、誰が責められるだろうか。孫堅の声はまだ遠くにあるが、別に隠れて飲んでいる訳ではない。何もしなくても遠からず、彼女はここまでやってくるだろう。無論のこと、甘寧は孫堅の従者である。こちらを呼ぶ主の声が聞こえたのであれば、何を置いても馳せ参じなければならないのだが、遠くに聞こえた声は明らかに酔っぱらっていた。

 

 気性の激しい人間の例に漏れず、孫堅も多分に酒乱の気がある。正直に言って今時分最も関わり合いになりたくない人間なのだが、甘寧の立場ではそうも言っていられない。一刀たちの間に漂っていた不穏な空気も霧散していた。遠くに聞こえる孫堅の声に、事態がロクでもない方向に転がろうとしていることが軍師たちにも解ったのだ。

 

 しかし、解った所でどうしようもない。甘寧に比べれば自由な立場とは言え、一刀たちにも孫堅から逃げるという選択肢は存在しない。どうあがいた所で迎え撃つしかないのだが、希代の軍師であっても気性の荒い酔っ払いをどうにかするのは、 骨の折れる作業である。

 

 どうしたものかと視線で会話する軍師たちを他所に一刀だけが平然としている。一刀からすれば開き直っているだけなのだが、あの孫堅を前にそうしなければならない人間が他にいるはずもない。一刀の感覚は他者には共有できないものだった。戦場では頼もしいシャンの方が気にしている始末で、彼女は一刀の膝の上で居心地悪そうにしている。

 

 シャンをしても、孫堅は怖い存在らしい。大丈夫だよ、と一刀は小さく呟きシャンの髪を梳きながら孫堅が来るのを待った。

 

「ここにいたか!」

 

 やってきた孫堅は、やはり酔っていた。かなり度が強いらしい酒を酒瓶から直接、水を飲むかのようにガバガバ飲んでいる。一緒に酒を飲む人間は大変だろうなと視線を向ければ、宿将と評判の黄蓋が今孫堅が持っているのと同じ酒瓶を三つ担いでいた。彼女も一軍を預かる将軍のはずなのだが、孫堅を前にするとかたなしである。大変ですねと視線を向けると、それに気づいた黄蓋が小さく笑みを浮かべる。どうやらいつものことであるらしい。誰かに仕えるのは大変なのだなと身を以て理解した瞬間だった。

 

「はい。本日は格別なご配慮をいただき、ありがとうございます」

「詰まらん奴だな。酒を飲むのに配慮なんぞいるものか!」

 

 わはは、と孫堅は楽しそうに笑っている。反対に、周囲の人間の顔が暗くなっていくのが対象的だ。酒を担いでいる黄蓋もそうだが、不景気な顔で黙って突っ立っている孫策と周瑜も印象的だ。

 

「それはそうと、俺に用事とか。どういったご用件で?」

「お前、何か芸をしろ」

 

 しかめっ面をしなかったのは、日頃からの意識の賜物だった。曖昧な笑みを張りつける一刀を見て、孫堅の連れたちは揃って小さく溜息を入った。酔っぱらった孫堅が無茶ぶりをするのはいつものことで、今回はそれが一刀になっただけの話だ。

 

 芸をやる人間にとって不幸なのは、かなりの高確率でつまらん! と怒鳴られて投げ飛ばされることだ。受け身が取れるように投げてくれるだけ、そして拳が飛んでこないだけマシであるが、では何をやっても同じかと手を抜くと、それはそれで怒号が飛んでくる。

 

 豪放磊落を絵に描いたような女傑とは言え、富裕層の出身である孫堅の目と耳はそれなりに肥えているのだ。指名された人間はまさに貧乏くじである。しかも相手が何をやったかは完全に忘れる癖に、つまらんと言ったことと投げ飛ばしたことは覚えているのだから始末に負えない。

 

 誰が見ても面倒臭いと解る申し出に、一刀が動きを止めていたのは一瞬だった。僅かに思案した一刀は、周瑜が脇に抱えていた物に目を留める。

 

「それでは一曲披露いたします。周瑜殿、その琵琶をお貸し願えますでしょうか」

 

 一刀の提案に周瑜は僅かに眉を顰めた。主が性質の悪い酔っ払い方をすると見越した時からいつ芸をしろと言われても良い様に持ち歩いていたものだ。およそ芸と呼ばれるものの中では、音楽が一番自信がある周瑜である。最近披露された芸の中では唯一投げ飛ばされていないと言えばその希少性が解るのだが、音楽の趣味が合わないのか投げ飛ばされないだけであまり受けているという気がしない。

 

 腕に自信がある人間としてはそれはそれで傷つくのだが、周瑜とて立場がある。公然と投げ飛ばされるくらいならば反応がシブい方がまだマシだろうと思って心を無にして先ほども演奏していた所だ。

 

 移動した先で芸を求められた男が、自分と同じく音楽で勝負しようとしている。普通ならばお手並み拝見と行くところだが、これまで出た話題や一刀の立ち振る舞いなどから、彼が音楽に精通しているとはどうしても思えなかった。

 

 自分の琵琶もそれなりに値が張り愛着があるものだ。ズブの素人に渡すのは抵抗があるのだが、この場の主導権は当然主である孫堅にあり、そして彼女が求め一刀がそれに応じた以上、周瑜にそれを拒否するという選択肢はない。

 

 しぶしぶ、というのを顔に出さないようにしながら一刀に琵琶を手渡す。全く危なげない手つきで琵琶を受け取った一刀は弦の調子を確かめるように軽くかき鳴らした。それだけで周瑜は直観する。こいつは完全に素人だ。少なくとも人前で披露するような腕はしていない。おそらく琵琶をかじり始めたのは最近のことなのだろう。様になっているのは持ち方だけで、それ以外はさっぱりだとこの時点で確信が持てた。

 

 同時に不安を通り越して感心さえした。よくもまぁ、この程度の腕前で人前、それもかの孫堅の前で披露できるなと心の底から思った。この男には怖いものがないのかと、孫呉軍の中で評判となっている一刀である。この程度はどうということはないのかもしれないが、長年孫堅を見ている周瑜としては感心するばかりである。

 

 一方、一刀以外の一刀団の面々は気が気ではなかった。周瑜が一目で見抜いた通りに、一刀の腕前は素人の域を出ない。知識人は音楽も教養の一つと、軍師たちは歌も楽器もそれなりに達者であり、今現在はその手ほどきを受けている所で、早い話がド素人だ。

 

「あ、あの、一刀さん! よろしければ私が――」

 

 せめて伴奏くらいは自分がやった方が良いと、軍師の中では一番琵琶が得意な雛里が名乗りを上げるが、酔った孫堅に一睨みされると小さく悲鳴を上げて郭嘉の陰に隠れてしまう。態々一刀を名指しで芸をしろと乗り込んできたのだ。他人の手が入ることを孫堅が好むはずがないのだ。

 

 一刀が妙に自信満々なのもそれに拍車をかけてしまったようで、やってきた時以上に孫堅は乗り気だった。一縷の望みをかけて郭嘉は孫呉側の人間を見回すが、孫策も周瑜も黄蓋も揃って首を横に振った。万策尽きた、と軍師たちは諦めて事の推移を見守ることにした。

 

「北郷の奴は琵琶が達者なのか?」

 

 腕前を全く知らない甘寧から飛んできた質問に、郭嘉は重く、首を横に振った。どうやら深刻に腕が足りていない反応に、甘寧は深々と溜息を吐く。

 

「奴は怖いものがないのか……」

 

 さすがにこの程度の事で首は飛んだりしまいが、誰だって怖いものは怖いのだ。孫呉軍に属する者は大抵孫堅の癇癪を恐れていて、勇猛果敢で知られる甘寧もその例外ではない。それなのに甘寧よりも若く腕っぷしも頼りない男が、孫堅の前で琵琶を抱えて平然としている。

 

 性別の差ではあるまい。おそらく気性の差ではあるのだろうが、酔った孫堅の前で平然としていられる一刀の神経を、甘寧は心の底からおかしいと思っていた。こいつは大物になるのかもなと考える甘寧の視線の先で一刀は演奏を始めた。

 

 演奏自体は、大して音楽に明るくない甘寧でも大したことがないと思わせる程のものだった。開始数秒で孫堅は物を投げる気配を見せたが、それを寸前で思いとどまった。周瑜もその横で眉根を寄せている。音楽に限らず博識で知られる周瑜でも、聞いたことがない曲調だったからだ。

 

 ドッジボールの他に、一刀団で採用されたのが『歌』である。

 

 識字率を上げようと一刀たち幹部が努力していることもあり、一刀団の識字率は他の組織に比べると圧倒的に高いのだが、もう少し簡単に文字を覚えられるような方法はないものかと一刀だけはもう少し先を見ていた。それに娯楽を絡めて発案されたのが歌だった。

 

 読み書きができなくても、言葉を話せない人間はそう多くない。少なくとも一刀団にやってきた人間は全員話すことができた。つまりは歌を歌えるということでもある。それほど教養がなくても伝えられる文化でもあることから、その地方地方でいわゆる民謡のようなものが根付いていることもあった。どんな生まれの人間でも、一曲二曲はレパートリーがあるものだ。

 

 それはつまるところ、一つの筋道の立った文章を大して教養のない人間が正確に記憶しているということでもあった。この歌詞はこういう文字を書くんだよというとっかかりができ、元から覚えている文章だからこそ習熟も早い。ABCの歌とかにはなるほど、こういう根拠があったんだなと効果を実感してほくそえんでいた所、ドッジボールとは別に、皆で歌ったり歌の達者な人間の歌を聴く嗜好が生まれた。

 

 一刀も惜しげもなくレパートリーを披露したが、曲によって受ける受けないがはっきりと分かれてしまった。ポップスの類はほぼ全滅で受けたのは主に音楽の授業でやるような堅い歌ばかり。中でも『流浪の民』は教えた一刀でも信じられないくらいに受けたのだが、今は目の前の孫堅である。

 

 一刀が選んだのはとある女性の黒い瞳を題材にしたあの歌である。その瞳の色を目の前の孫堅に合わせて青く変えている。故郷でやれば寒いことこの上ないが、今時分では本邦初公開だ。この手の曲調は郭嘉や雛里からも聞いたことがないという返事を貰っている。腕が足りない一刀が歌曲で勝負するには意外性でもってするしかない。

 

 勿論、孫堅が聞いたことがある可能性は否定できないし、聞いたことがなかったとしても受けるかどうかはまた別の話だ。一刀とて受けると確信があってやった訳ではない。平然としているのは見た目だけで、内心では殴りとばされやしないかと冷や冷やしていた。

 

 そして心穏やかではないのは、一刀たちだけではない。

 

 その歌詞の内容を知るや、孫策を始め孫呉の大幹部三人は驚いた。それが一人の女性に愛をささやくような歌詞であり、炎なり青い瞳なりと歌詞が良く孫堅の特徴をとらえていたからだ。即興で歌を作ったとは思えない。おそらく元からそういう歌であるのだろう。もしかして瞳の色だけ変えて使いまわしているのではあるまいな、と敏い周瑜などは確信に近いものを得ていた。

 

 同時に、一刀の暗い未来を想像する。気性が荒く鬼神もかくやという程に腕の立つ孫堅だが、その匂い立つような色香は異性を引き付けてやまない。性格が知れ渡っていてもそういう誘いは思い出したようにやってくるのだが、周瑜の知る限り、孫堅はそういう誘いを例外なく色々な意味で叩き潰している。

 

 順当に行けば一刀も例外ではない。本人の能力はともかくとして、今彼をつぶされると軍師三人と腕の立つ人間二人を失うことになる。叩き潰すという主人の判断に異論をはさむつもりはないが、せめて戦が終わるまでは待っていただけないものか。溜息と共に孫堅を盗み見た周瑜は、彼女の顔を見てさらに驚いた。

 

 ド直球の歌詞を前に、あの孫堅が居心地悪そうにしていたのである。

 

 傍目には解り辛いが、物心ついた時から孫堅を知っている周瑜には今孫堅が照れているのだということが理解できた。あの豪放磊落を絵に描いたような女が。優男の愛を囁く歌に柄にもなく照れているのである。正直歌唱も演奏も周瑜の耳にはとても聞けたものではなかったが、心情的にはそれ所ではない。

 

 孫策もそれは同様だ。なまじ実の娘であるだけにその驚きは一入である。連れ合いを失って久しく浮いた話は――たまに派手に行う男遊びは別にして――全くない。娘が三人も生まれていることもあり、再婚を勧める声も全くと言って良いほどなかったが、それは孫堅が再婚を全く考えていないという訳ではない。

 

 大事な戦を前に気持ちが高ぶっていることもあるが、今の孫堅はまさに女盛りと言っても過言ではなく、若い男性である一刀は一夜の相手としては悪いものではない。

 

 遊びで済むならそれでも良いが、なまじそれで子供でもできてしまったらと思うと気が気ではなかった。跡目の心配ではない。家督などその時々で能力のある人間が継げば良いと思っているし、仮に弟妹ができてその人物が自分よりも有能であれば、孫策は喜んで後継を譲るつもりでいる。

 

 ただそれと心情は全く別の話だ。二十も過ぎて今更弟妹ができるというのは娘としては複雑な心境であり、できることならやめてほしいというのが本音だった。まさか本気になったりはするまいが、そうなってしまった場合孫策はこの年下の優男を父様と呼ばなければならなくなる。

 

 一刀からすれば立身出世の近道だ。なりふり構わないというのであれば、軍師たちもそれを勧めるだろう。配偶者のいない異性など、容姿能力に自信のある人間からすればカモなのだから。

 

 だが孫堅の配偶者に収まったとしても、そこで頭打ちというのは目に見えている。袁術に頭を押さえられているというのも、好意的な要素ではない。孫策、周瑜からすればそれを排除するのはもう確定事項であるが、外部の人間からすればそこまで見通せるものではない。

 

 結論として、一刀のこの行いにはそこまで深い意図はないはずだと推察できる。仮に本人に多少の邪な感情があったとしても軍師が止めるだろう。若干の不安を含んだ視線を送ってくる孫策に、周瑜は心配することはないと小さく頷く。

 

 それで、孫策にとっての問題は全て解決した。ならば後は、この状況を全力で楽しむだけである。何しろあの母が優男の愛のささやきに照れているのだ。娘としてこれをからかわない道理はない。

 

「――お耳汚し、失礼しました」

 

 

 一刀の歌が終わる。彼が無事に最後まで演奏を終えたことに、一刀団の面々と甘寧からはまばらな拍手が送られた。勝負所はここであると察した孫策は、誰が口を開くよりも早く一刀に近づき、手を握った。

 

「すばらしいわ! そこで年頃の娘みたいに照れてる母に代わって、私が褒めてあげる!」

「……………………雪蓮。お前、少し黙ってろ」

「はーい」

 

 明確な怒気を含んだ母親の声も、この時ばかりはどこ吹く風だ。娘の軽い態度に気の短い孫堅の額に青筋が浮かぶが、ここで声を荒げると恥の上塗りになることは彼女にも解っていた。孫堅にしては珍しいことに深呼吸して怒りを我慢すると、唸るような口惜しさのにじみ出た声で言う。

 

「まぁ、あれだ。よくやった。いきなり押しかけてそれなりの芸を見せてもらったんだ。褒美でもくれてやろう。何かほしいものはあるか?」

「それでは遠慮なく」

 

 遠慮のない物言いに、甘寧の胃がしくしくと痛んだ。外からやってきた人間であるが、今時分預けられている以上、一刀は自分の部下である。部下の不始末はその上司がつけるものだ。

 

 孫呉では信賞必罰が徹底されている。一刀の振る舞いが不興を買えば、甘寧もまた叱責を受ける。一刀以外の人間がこのような振る舞いをしていたら、どこかで必ず甘寧は孫堅から叱責を受けていたはずだ。今回も甘寧はその覚悟を固めるものの、主から責めるような視線は飛んでこない。

 

 やはりどういう訳か、一刀の不遜とも言える振る舞いは孫堅の琴線に触れているようである。一言で言うならば気に入られているということだが、甘寧にはそれが解せなかった。確かに見るべきところは多々ある。それでも叱責ゼロというのは驚異的だ。

 

 胃の痛みと戦っている甘寧を他所に、一刀は車座になっていた所まで戻り、自分が使っていた椀を持って戻ってきた。

 

 そして孫堅の前に膝をつき、恭しく椀を差し出す。

 

「どうか一献。いただけますか?」

 

 ひとしきり笑った孫堅は、涙をぬぐいながら自ら酒瓶を差し出した。直接口をつけて飲んでいたものだが、酒の席だ。今更こんな優男が気にするものでもないだろう。僅かに濁った液体が、一刀の椀を満たしていく。縁のぎりぎりまで注いだ所で、孫堅は酒瓶を離した。地面に垂れる酒の滴を惜しむように酒瓶を持ち上げ、そのまま自分で一気に呷る。空になった酒瓶を地面に叩きつけて破壊した孫堅は、この上なく上機嫌に笑う。

 

「おう。飲め呑め。それなりに高い酒だ。存分に味わって飲めよ?」

「いただきます」

 

 一口に、一刀は椀を空にした。孫堅が好んで飲んでいるだけあって、非常に度が強い。酩酊感に気を失いそうになりながらも、空になった椀を持ち上げ、小さく頭を下げる。

 

「味わって飲めと言ったんだがな」

「この方が良いかと思いまして」

「違いない! その飲みっぷりは俺への挑戦と受け取ったが、二度も三度もくれてやっては褒美の意味もない。今晩はこれまでだ」

 

 邪魔したな、と孫堅はさっさと踵を返す。それに孫策たち三人も続き、嵐のような時間は去っていった。孫堅の背中が見えなくなってからたっぷり数分の時間を待ち、気の抜けた一刀はその場で気を失った。

 

 




なおここで言う酒瓶というのは覇王丸が持ってるようなものを想定しています。



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第031話 反菫卓連合軍 合流編⑤

 

 

 

 

 

 

人海という言葉がある。単純に表現するのであれば人が沢山(・・)集まっているのを指す言葉だ。想定よりも多数の人間を用いて事に当たる場合などに用いられ、人海戦術などの運用でも知られる。人の海、というとどうにも詩的な表現には思えず、また正確性にも欠けるため朱里はあまり自分で使うことを好まない文言だったのだが、ここ数日の風景を指して用いるのであれば、この言葉を使うより他はないように思えた。

 

 ここはまさに、人の海の中心だった。

 

 首都洛陽から西に臨むこの大平原に、反董卓を旗印とした連合軍の集合地である。生まれも主義主張も異なる面々が帝国中から集まり、これから帝国首都洛陽に攻め入るのだ。

 

 協力して物事に当たる。単純にそれだけを見ることができれば、どれだけこの行いが崇高な物に思えることだろう。

 

 これから大業を成すのだ。自分は英雄になるのだ。行きかう兵たちの目にも野望が、大志が燃えている。これから始まる大戦とそこから始まる帝国中を巻き込んだ動乱は、生まれの貴賤を問わず手柄を立てて出世をする絶好の機会だが、ここに集った全ての人間がそう思っているかと言えばそうではない。

 

 諸事情あってこの集合地には来ないが、例えば今朱里が仰ぎ見ている関羽などは世の乱れを正すために立ち上がった。出世はそのための手段であって目的ではない。あれだけの腕を持ちながら戦などない方が良いのだと言える心根は朱里にとっても好ましいもので、今回の大戦にも公孫賛に請われる形で同道した。

 

 関羽本人。翻って彼女が率いる戦闘集団――以前共に行動した彼ら(・・)に肖って、最近では関羽団と安直な名前で呼び呼ばれることを好んでいる――は洛陽にいる董卓が諸悪の根源だという主張には懐疑的だ。他にも道はあるのではないかと模索もしたのだが、その時点では既に戦は避けられない所まで来ていた。

 

 調べた限りでは董卓の治世は道を外している様には思えないし、致命的な誤りを犯したようにも思えない。聊か遅きに失した所はあるが、それは時間をかければ回復の見込みのあるものだった。宦官という病巣は取り除いた。さてこれからという時期に戦をしかけられるのは、董卓たちにとっては寝耳に水だっただろう。

 

 しかし、それ以外の権力者たちからすると、今この時を除いて他に立ち上がる時はなかった。董卓を中心に諸々の問題が片付いてしまうと、上の椅子が全て董卓軍を中心に埋まってしまう。出世の目が大きくそがれるのだ。中央の軍を握っている董卓は軍事力においても他の追随を許さず、呂布や張遼などの猛将や賈詡や陳宮などの軍師も抱えている。

 

 朱里の眼前に広がった人の海は、その董卓軍に対抗するためのものだ。董卓ただ一人を中心にまとまった軍勢に対し、これだけの人間を必要としているのである。董卓を蹴落とさんと集まった人間全てと、董卓を中心とした軍勢の戦力が釣り合っているのだ。

 

 放っておけばこの差は広がることはあっても縮まることはない。董卓の勢いを止めるにはもはやかの人間を蹴落とすより他はなく、総力戦を挑むしか権力者たちの道はなかったのだ。

 

 問題はそれが権力を欲する人間とそれを阻む董卓のみで片付かなかったことである。出世に興味のない人間、日々を維持するので精一杯の人間など、国家という胴体に乗る頭が人のものであろうとネズミのものであろうと気にしない人間にとって、権力を握っているのが誰であろうと知ったことではないのだが、ここで日和見を決め込むことはできなかった。

 

 どちらが勝ちどちらが負けるにせよ、勝ち馬に乗っていなかった人間は勝ち残った方から攻め立てられることになる。董卓軍と連合軍のどちらに乗るか。単純に考えればその二つの選択肢が用意されているはずであるが、自由意志でこれを選択できる勢力はこれから戦をしようと檄文が飛んだ時点では皆無と言って良かった。

 

 既にそれ以外を全て足した数と同等の戦力を有している董卓軍に今更加わっても、端っこの席しか割り当てられないのは目に見えている。受け入れてもらえればまだ幸福で、打診をしたのに断られそれが外に漏れた場合、連合軍でも端っこの席に追いやられることになる。

 

 事前の根回しがないのであれば、よほどの大勢力でない限り合流は難しいだろう。

 

 董卓軍に北袁か南袁のどちらかが合流していればこんな戦などしないで済んだのだが、彼女らはそれを由としないからこその袁家であり、それに乗らざるを得ない不幸な人間たちを生み出す結果となった。

 

 朱里たちはこれから無理にでも足並みを揃えて行軍し、名軍師に支えられた名将の率いる軍隊が守る、帝国中でも他に類を見ない堅牢な関を二つも抜き、準備万端待ち構えている董卓軍を帝都から叩きだして天子を奪還しなければならない。

 

 これが学校で出された課題であれば無理難題だと出題者の正気を疑う所だが、不幸なことに朱里と雛里にとってはいつも通りだった。『不可能なことは時間がかかる』というのが先生の座右の銘である。不可能だできませんと言うことは自由だが、それを理由に課題と思考を放棄することを先生は絶対に認めてはくれない。

 

 学ぶ意思を持った人間に対して常軌を逸した根気を発揮する水鏡先生は、それを放棄した人間を許容することは絶対にない。課題を諦める即ち放校処分だ。

 

 つまり水鏡女学院を卒業できたということは、程度の差はあっても全ての課題を達成できたということでもある。あの婆いつか殺してやると気合の入った陰口を聞いたことも一度や二度ではない。それだけに無理難題を突破した人間たちの結束はとても強固なものとして知られている。政財界で水鏡学閥がそれなりの幅を利かせているのは、この結束力があるからこそだ。

 

『この程度、二人ならできますよね?』

 

 と、欠片も笑っていない目で課題を吹っかけてくる先生の顔が思い出される。同期の学生の十倍を超える課題を出された時にはこの女は私たちのことが嫌いなのではと真剣に考えたものだが、今ではそれも期待の表れなのだと理解できる。

 

 しかしそれを良い思い出として振り返るにはまだ少し時間がかかりそうだった。笑顔を思い出すだけで胸が締め付けられるような人間とこの先出会うことがないよう、朱里は天に祈るばかりである。

 

 そんな先生から先頃、朱里宛に二つの指示が届いた。その一つ目が人員の引き受けである。てっきり補佐のために卒業生を複数送り込んでくれるのかしらと期待していたのだが、送られてきた人員はたった一人だった。

 

「朱里先輩!」

 

 人海を眺めていた朱里の背に声がかけられる。小さく息を吐いて振り返ると、そこには背の高い女がいた。

 

 先輩と本人が発したように、朱里と雛里にとっては後輩に当たる人物だ。名前を法正という。朱里と雛里、それから灯里とは真名を交換する程の間柄だ。学院時代、内外に才能を発揮していた朱里と雛里は有形無形の嫌がらせを受けていたのだが、その全てから守ってくれたのがこの法正である。

 

切れ長の目に大きな眼鏡。まっすぐな髪は腰のあたりまで伸ばしているが、飾り気はまるでない。頭には優秀な卒業生にのみ先生から贈られる帽子が乗っており、朱里と同じ制服の上着を羽織っている。

 

 帽子の見た目はほとんど一緒。ある種男性的な風貌という点では胸の大きさも含めて灯里に通ずる所があるが、灯里が主に年下の学生に絶大な人気を誇っていたのに対し、法正を慕う学生は全くと言って良いほどいなかった。

 

 理由は簡単だ。この法正、驚くくらいに口が悪いのである。誰が相手でも手加減なく物を言うために、教師陣ですら扱いに困る程だった。全く物怖じせずに彼女に話しかけていたのは水鏡先生と灯里くらいのものである。かくいう朱里も雛里もあまり法正のことは得意ではないのだがこの法正、朱里と雛里には最大限に遜った態度で接してくる。他の学生には立ち直れないくらいの毒舌を浴びせるのにだ。

 

 最初は気味が悪いと思いそう態度にも出したのだが、それでも法正はめげずに遜ってきた。どうやら本気でそうしているらしいと気付いた時には、朱里も雛里も彼女の態度に慣れてしまっていた。それから真名を交換するまでそれ程時間はかからず、学生時代は灯里も交えて良く議論をしたものだった。

 

 朱里と雛里は学生時代、ほぼ全ての分野で主席次席を分け合った。それが全てでない原因の一つが何を隠そうこの法正だ。彼女が最も得意としたのが『弁論』である。見た目が怖いというのも一役買っているがそれ以上に話の組み立てが上手く理路整然と、時に毒舌を交えて相手を押し込めていく。

 

 その手腕は世の秀才を集めた水鏡女学院にあっても他の追随を許さないもので、学生の中で勝負ができたのは灯里しかいなかった程だ。

 

 そして朱里たちが勝てなかったもう一つの科目が『情報分析』である。矢継ぎ早にもたらされる情報を元に次に何をするのかを臨機応変に行い、その精度を見るための実技科目なのだが、全てが数字に見えているのではというくらいに彼女の判断は速い上に正確だった。

 

 水鏡女学院が保有する情報収集組織を株分けするという話になった時、灯里と共に最終候補に残った彼女だったが結局、上記の二つの能力が誰よりも勝るということで先輩である灯里を破って彼女が受け継ぐことになった。

 

 彼ら彼女らは独自の資金源を持っているということなので、しばらくは独立して行動できるとのことだったが、やはり十全に機能させるためにはどこかの組織に所属する必要がある。卒業しても即時仕官したり就職したりする訳では必ずしもない学院であるが、法正は即時の就職を決めた。

 

 学院を卒業した法正が最初に行ったことは、憧れの先輩の元に身を寄せることだった。

 

 当初は自分と雛里両方がいる所に向かう予定だったそうなのだが、色々あって別の人間に仕官していたため、熟慮の末に公孫賛軍に来たらしい。選んでもらえたことは嬉しいけれども、自分と雛里の好感度にそれ程差があるとは思えない。何故と聞いて法正から返ってきた答えは、実に単純だった。

 

「私の頭を高く買ってくれそうな方に身を寄せようと思ったまで。あの神算士に雛里先輩までいるのであれば、私の出番もそうないでしょうからね。聞けば神算士の友人も中々に頭が回るそうじゃありませんか」

 

 これから自分を売り込もうという人間にとって、軍師過多とも言える一刀団はあまり魅力的に映らないのかもしれない。それは法正が自分の能力に自信を持っていることの証明でもあるが、理想だ信念だと言わない所は法正の最大の特徴である。打算的とも受け取られるそれは、学院でも評価が分かれる所ではあった。

 

 朱里もどちらかと言えば彼女の考えは肌に合わないが、その能力と心根については学院時代で嫌という程思い知った。諸葛亮が諸葛亮である限り、法正という人間は絶対に裏切ったりはしないだろう。親友である雛里を除けば、ある意味この世で最も信頼できるのが彼女である。

 

「まぁ、雛里先輩も朱里先輩と一緒で美少女ですからね。普通の感性をした男なら、三日も立たずに寝込みを襲うんじゃないでしょうか。私が男で奴の立場だったら間違いなくそうします」

 

 ただ信頼する中にも問題はある。この年上の後輩はこちらをきっちりと敬ってくれるのだがそれだけで、言葉遣いはともかく発言の内容にはあまり気を使ってくれない。色々あって離れることになってしまった親友についての論評は今朱里があまり聞きたくない類のものだったが、彼女は嬉々としてそれを語る。

 

 自分が男性だったらどうするか、頭脳が明晰なだけあって親友の朱里をしても『ありそう』だと感じてしまうくらいに現実味があった。馬に二人乗りして後ろから抱きしめられ、道中益体もないことを囁き合いながらいちゃこらするなど雛里ならやりそうだ。

 

 後輩の何がムカつくかと言えば、所々に入る雛里のモノマネが目を閉じればそこに本人がいるのではと錯覚するほどに上手いことだ。普段であれば見た目怖いのに器用なことだと感心する所だが、今は朱里を煽ることにしかならない。

 

 法正の分析は更にその先まで進んでいる。その全てが真実であるとすると既に雛里のお腹は大きくなっていなければならず、いくら親友でもこの大事な時期にそこまでのことはしないと信じたいところではあったが、人間は理屈と打算だけで動く訳ではない。それは恩師である水鏡先生も常々言っていたことだ。

 

 自分を置いて親友が大人の階段を二段抜かしで上ってしまったらと思うと胸が締め付けられる思いだったが、それは決して後輩から突き付けられて良いようなものではない。ここ数日の激務からいら立ちの募っていた朱里は後輩に対する先輩としての配慮をあっさりと放棄した。

 

「…………静里ちゃん」

「なんでしょうか朱里先輩!」

「そこに正座」

「よろこんで!」

 

 喜色に満ちた声でもって返事をした法正――真名を静里という――は、着物が汚れることなど全く意に介さず地面に正座した。わくわくした様子で発言を待つ年上の後輩の様子に頭痛を覚えながら、朱里は言葉を続ける。

 

「静里ちゃんさ、私がそういう話聞きたくないって解ってるよね? 何でそういう話をわざとするの?」

「申し訳ありません! 自分、大変な心得違いをしておりました!」

 

 額を地面に擦りつけ平服する後輩に、朱里は深々とため息を吐いた。この後輩は万事この調子だ。頭を下げていることに嘘はない。自分たちと灯里と、後は水鏡先生くらいにしかここまでのことはしないはずだが、心の底から申し訳ないと思っていることと、これが彼女なりの気遣いだということを朱里は理解していた。

 

 では何故こういうことを繰り返すのかというと、良い理由と悪い理由が一つずつある。

 

 まず良い理由だが、自分たちに対して精神的な配慮をするためだ。怒るという行為は相当に体力を消耗するというが、同時に身体に溜まったものを吐き出すこともある。精神的な息抜きとでも言えば良いのだろうか。静里は心的な疲労が溜まっている時を狙い澄まして、わざと舐めたことを言ってくる。

 

 自分の気持ちと上手く付き合えるようになりなさい。帽子を贈られた時、先生にかけられた言葉を思い出す。精神の習熟は目下、大体の学問を修め、それを実践している最中である朱里にとって急務であったのだが、学生時代と同様、後輩にここまで気遣いされているようではまだまだだなと思う。

 

 そんな自分を見越して、静里はここまでのことをしてくれるのだ。もう少しご褒美でも……灯里に相談したことがあったのだが、彼女は苦笑を浮かべながら否定した。

 

『あの娘は自分よりも賢くて小さくてかわいい人間に言葉責めされるのが何より好きな変態なだけだから、そこまで感謝する必要はないと思うよ』

 

 ははは、とさわやかに笑って忠告してくれた先輩は『自分ほど賢くなくてつれない態度を取る程よく巨乳な後輩』が大好物だということを朱里は知っていた。度を越して後輩にモテるのに、一線を越えたという話を聞かないのは節度を保っている訳ではなく、単純に好みにとても五月蝿いからだ。

 

 ともあれそれが静里の悪い方の面である。こちらを思ってやってくれているのは間違いないが、それが趣味と実益を兼ねていると知ると、微妙に感謝もし難い。

 

 それでも付き合いを続けられている辺り、自分も雛里もこの年上の後輩のことが好きなのだろうと思う。そう思うに至ったのは、自分たちが熱を上げる特殊な傾向の書籍が彼女の性癖とそう大差のない類のものだと気づいたからなのだが、それは誰にも言っていない親友と二人だけの秘密である。

 

 趣味と実益を兼ねて遜る後輩と、それを見下ろす自分。そう言えば、頭を優しく踏みつけてあげると泣いて喜ぶとも灯里は言っていた。流石に冗談だと思いたいのだが、でも喜ぶのなら……と後輩の後ろ頭を見ながら考える。

 

 ゆっくりと、朱里は首を横に振った。そうして喜ぶ後輩など見たくないし、実際にそうしてしまったら自分もその仲間入りだ。特殊な書籍と合わせて変態性の二重苦である。流石にそれはいただけないと、朱里は気持ちを切り替えた。

 

「謝るのはもう良いから。静里ちゃん、何か知らせることがあったんじゃないの?」

「……白馬義従の元に報告が入りました。愛紗たちの方は全て順調。このまま予定の通りに決行ということで問題はないと思うのだが、朱里先輩の意見を聞きたいと」

 

 問題ないのだ。それで行こう! と言い切れないのが白蓮の最大の特徴である。全ての能力が高い水準で纏まっているのに、今一つ自分に自信が持てないらしい。彼女を見て普通だの力不足だのという人間は身近にもいる。確かに少し南に居を構える袁紹や曹操などと比べると天下に覇を唱えるには力不足かもしれないが、朱里は白蓮という人間を気に入っていた。愛紗もおそらく同じ意見だろう。心根は誠実であるし、兵も彼女を良く慕っている。大人物ではないが人格者だ。

 

 助けてくれという彼女の要請で、関羽団は公孫賛軍に合流した。北上してきた黄巾の残党。異民族の討伐などするべきことは山ほどあった。愛紗や鈴々の武力と自分の知恵。それら全てを合わせて何とか撃退している内に、いずれ起こると見越した大戦が始まってしまったのは、計算外と言えばそうであるし、計算の内と言えばそうである。

 

 できることなら独立した軍として参加したかった所であるが、時期が時期ではそれも叶わぬことだった。公孫賛軍の客将ということで幽州を出発し――そして愛紗と彼女が率いる部隊以外全てがこの地にやってきた。現在の区分は騎兵を白蓮が、歩兵を鈴々ともう一人の客将が率いる構図である。

 

 軍師は自分とその補佐という形で静里がついている。騎兵の割合が多く、兵数としても袁紹、袁術、曹操に次ぐ四番手。連合軍の中でも無視できない勢力だが、こと兵数に限っては上位の二つが大きく抜きん出ている。兵数を発言力に置き換えるのであれば、袁紹、袁術に対抗できる勢力はない。

 

 やる、やれ、言い出されては身動きが取り難くなるのは想像に難くない。戦果を求めるのであれば、初手が肝心である。どうにかして彼女らを――より正確にはあの軍団を取り仕切っている顔良と張勲を出し抜けないものか。公孫賛軍に合流した時から朱里が頭を悩ませていた問題だったが、後輩である静里が合流したことで一気に解決することになった。

 

 草の軍団を株分けされたことは、卒業生であれば誰でも知っているようなことだったが、株分けされる際に静里に先生は一つ条件を付けたらしい。

 

『連合軍が結成され、汜水関を攻撃する時。どの勢力に所属していたとしても、一番槍を勝ち取るように』

 

 静里から話を聞いて、朱里は全ての事情を理解した。作戦を組み直し、公孫賛に進言。その仕込みのために、現在の公孫賛軍の一番の売りである愛紗がここに来られないという事態にまでなってしまったが、ここで多大な戦果を得られるのであればそれも安い出費である。

 

 問題は全ての作戦が上手く行ったとしても、最後に物を言うのは武力だということ。お膳立てが完璧であっても汜水関を抜けないようでは意味がない。せめてもう少し兵数がほしいところであるが、他所を頼ると戦果を横取りされる可能性も大きくなる。その危険性はある程度覚悟すべきではあるのだろう。

 

 どういう結果になるにしても、ここまでお膳立てをしたのは自分たちなのだ。それをもって多大な功績とするのは公孫賛軍が第四勢力で静里がいる事実がある以上、揺るぎはない。勝利することは大前提として、ことはどれだけ戦果を上積みするかという領域に達している。

 

 理想は兵数は少なく、しかし精鋭である部隊を一つか二つ、しかも別の勢力から借りることだが……こればかりは実際に事に当たってみないとどうしようもない。一番槍で汜水関を落とせる可能性が高いとなれば手柄を横取りされるだろうし、それを説明できなければ納得させることもできない。

 

 最悪公孫賛軍だけで何とかするしかないが、そうならないようにするのが軍師の仕事だ。自分の肩に仲間の命がかかっている以上、手を抜くことなど許されず、まして結果が伴わないことなどあってはならない。

 

「雛里先輩ならこちらの意図をくみ取って合わせてくれるでしょう。後は目端の利く曹操が動いてくれるのが理想ですが」

「足りない分は何とかしなきゃね。何よりここまでお膳立てされて失敗したら……」

「先生に何を言われるかわかったもんじゃありませんね……」

 

 自分たちが失敗した時の恩師の姿を想像し、二人は身体を震わせた。眼前に広がる百万の兵よりも、たった一人の恩師の方が恐ろしい。水鏡女学院の生徒は皆そうである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




情報分析……こんな名前ですがクソGM(先生)相手のTRPGだと思っていただければ。


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第032話 反菫卓連合軍 合流編⑥

 

 

 反董卓連合の集合地に到着した孫堅軍はせっせと陣地の構築を始めた。諸将の中では到着したのは最も遅かったが、指定された日時よりも二日も早い到着である。道中、募兵と訓練をしながらの道行きなのだから孫呉軍が如何に速足だったのかが解るというものだ。

 

 最後の孫堅が来たのであればすぐに会議……とはならないらしい。上の人たちの言う『諸将』というのは主だった有力者のみを指しており、それに従う細かな所がまだ到着していないとのことだ。自分の所のボスよりも遅く到着するとは良い身分であると一刀でさえ思うものの、インフラの整備されている現代とは異なることは彼自身が嫌という程思い知っている。この国この時代では距離と時間は思うようにならないものの代表だ。

 

 どうにもならないものが相手では、如何に血気盛んでもなるようになるしかない。しかも自分は出席しない、決まったことだけを聞く会議のことなど下っ端の人間たちには全く興味のないものだった。一刀団の軍師たちを加えた面々で今後の方針を決める会議を始める上層部を横目に見ながらも、陣地構築の手は緩めない。

 

 陣地の構築が終われば、後は自由時間だ。これまでのスケジュールであればこの後に訓練が待っているが、今は他の軍の目もある。近く戦をする気配ありという所で無駄に疲れる訳にもいかない。

 

 という訳でドッジボールである。訓練もなく自由時間となれば後はもう遊ぶしかない。コートの描ける地面があり、ボールの数さえ揃えば集団でも遊ぶことができ、チーム分けまで済んでいれば後はもう総当たりするだけだ。勝率とか何処がトップかなど誰も気にしない。自分たち以外を皆ぶちのめせば勝ちという、数が数えられなくても理解できる単純明快な一刀ルールは血の気の多い兵たちには大好評である。

 

 だが、そろそろ始めるかという段になり間の悪いことに甘寧たちが帰ってきた。

 

 自由時間なのだから自由にしていて構わないはずなのだが、この決まりの悪さは頂けない。一刀は場の仕切りを廖化に任せると集まりから抜け、甘寧に駆け寄っていく。

 

 和気あいあいとドッジボールの準備をする面々を甘寧は遠目に眺めていた。無表情を装っているがその横顔には僅かな羨望が見て取れる。軍人などを好んでやる人間は総じて身体を動かすことが好きな連中だ。甘寧もその例に漏れず、実力差がありすぎるからという理由でドッジボールに混ぜてもらえないことを不満に思っているという情報を小耳に挟んでいた。

 

 いつかは実力の揃う連中でチームを組み対戦させてあげたいものだが、それは今ではない遠い未来の話だ。今の孫呉軍で甘寧のボールを受け止めることのできる人間は一刀団を含めても両手の指に収まる程度。しかもそれは孫堅や黄蓋など全力でボールを投げるには抵抗のある人間を含めての話だ。

 

 やはりスポーツとは気心の知れた連中だけでやるべきものである。そう考えるとやはり、人員はどうしても足りなくなるのだった。

 

「お疲れさま」

 

 てて、と小走りで駆け寄ってくる雛里に目線を合わせ、帽子を取って頭を撫でる。ご満悦の雛里を見て郭嘉と程立はあきれ顔であるが、文句を言ったりはしてこない。一刀団の幹部は一刀を除くと軍師三人に武官が二人。その内年若い三人が団長である一刀にひっつきたがるために、一定の距離を取るのは少数派なのだ。

 

 特に郭嘉は殊更意識して口を噤んでいる有様である。それなりに程立と付き合いのある彼女は、実は程立が機を伺っているだけなのをよく理解している。少数派であればまだ良いが、下手に突いて精神的に孤立してしまうのは困るのだった。

 

 そうなると異端であることを解消するためには、自分も前に倣えをしなければならなくなる。一刀のことは別に嫌いではないが、年若い面々のようにべたべたするのにはまだ抵抗があった。このまま順調に立身出世を続けていけば、いずれそういう関係になることは目に見えているが……今はその時ではないというのが、郭嘉の弁である。

 

 程立からすればそれは自己弁護の形にもなっていないものだったが、それを言うなら機を伺っている自分も立場は同じである。攻め入るには秋があるというのは年上の軍師二人の共通する見解だった。

 

「それで孫堅様はどういう計画を?」

「挨拶回りに行かれるそうですよ。ご本人は黄蓋様を伴って袁術の所に。孫策様は周瑜様と共に袁紹の所に。幹部の皆さんはそれぞれ有力な諸将の所に先触れとして顔を出しに行きます。陸遜殿が曹操軍、周泰殿が馬超軍と言った具合ですね」

「それで我らが甘寧将軍はどちらに?」

「公孫賛軍だがお前には他人事ではないぞ? 聞けばあちらの客将である美髪公と昵懇だそうではないか」

「昵懇という程では……」

 

 一度共に賊軍と戦ったことがあるだけで、その後は文でのやり取りが二度三度あっただけだ。以降、直接顔は合わせていない。世間一般で言われる所の『昵懇』とは大分差があるのではと思うのだが、甘寧はそうではないと思っているらしい。一刀の反応が渋いことに甘寧は小さく首を傾げた。

 

「美髪公が犬だとすれば、忠犬と言っても差し支えないくらいの懐きっぷりであるとお前の軍師たちは口を揃えていたが……」

 

 一刀が視線を向けると軍師たちは揃って視線を逸らした。郭嘉と程立は知らん顔という体だが、雛里は挙動不審だ。その慌てっぷりが面白くて正面に回って顔を覗き込むようにすると、慌てて身体ごと視線を逸らす――雛里をまた面白がって追いかける。

 

 延々とそれを繰り返す一刀を見て、甘寧は深々と溜息を吐いた。軍師たちの言う関羽との関係は、当たらずとも遠からずだと判断したためだ。

 

「そういう訳で私とお前は確定だ。後二人までなら連れて行って構わない。お前が自分の所から選ぶと良い」

「将軍の部隊からは選ばないので?」

「どうせ連れていくならば綺麗所にしておけ、というのが炎蓮様からのお達しだ」

 

 それについては同意見である。こちらも相手も女性なのに、さらに女性を連れていくというのも妙な話であるが、実力者が女性ばかりという環境だとそういう慣習にも違いがあるのだろう。聞いた話では会議に出席する代表者は全て女性であるという。現代日本ではそう考えられない環境だ。

 

「それではまず雛里を。あちらには学院の同級生がいるので話も弾むでしょう」

「一刀さん……」

 

 追いかけ回されているのも忘れて配慮に感動し動きが止まったのを見逃さず、脇の下に手を入れて抱え上げる。あわわと悲鳴を挙げるが時は既に遅い。抱っこしたまま郭嘉に視線を向けると呆れかえっているのが見えたが、その口からは愚痴も忠告も出てこない。何だかんだで雛里がまんざらでもないことを把握しているためだ。

 

 お互い同意の上であれば、触れ合いも福利厚生の一環だ。時と場合を考えてくれというのもあるが、周囲にいるのがそれを受け入れてくれる相手ばかりであればどうということもない。

 

「他は誰が良いかな?」

「私か風でも良かったのですが、シャンにしておきましょう。貴殿と出会う前に共に旅をしていた者が、公孫賛殿の所に流れ着いたとかで先頃文が届きました」

「趙雲殿だったかな……どんな人だ?」

 

 この国に来てからの情報では、その趙雲については名前を知っているという程度の認識だ。郭嘉たち本人から聞いた情報も元旅仲間で鑓の使い手くらいである。

 

「風が言うのも何ですが、変わった人ですねー。メンマとお酒をこよなく愛する良い人ですよ」

 

 ふむ、と一刀は声に出さずに困った。顔を合わせた時に会話を円滑にする追加の情報が欲しかったのだが、ここで分かったのはメンマとお酒好きの変人ということだけだ。

 

 時間があればおみやげの用意もするが、まさか都合よくおいしいお酒とメンマが用意してあるはずもない。これでどうしろというのだろうと程立を見ると、彼女はいつも通りぐるぐる飴を咥えてふふふーとほほ笑むだけである。言葉で煙に巻いて一刀を困らせるのは程立の性分だ。

 

 何も解らないに等しいが、郭嘉たちとつるんでいたのならば悪い人ではないだろう。おまけに強い人でもあるようだし、顔をつないでおいて損はない。

 

「そんな訳だからさっさと身支度を整えろ。お前の準備ができ次第出発するぞ」

 

 言うが早いか、甘寧は自分用の幕舎に足を向けた。既に準備万端と言った風ではあるが、余所行きともなると甘寧にも準備があるらしい。ならばその間に準備を済ませねばなるまいが、女性である甘寧と異なり、一刀にはそれほど準備に必要なものはない。

 

 一張羅もあるにはあるが、あれはこういう場所で使うには向かないぴっかぴかのものだ。それを除くとなると一刀の手持ちの服には大したものは存在しない。精々髪を整え今の身なりに気を遣う程度であり、それも数分もあれば終わってしまう。

 

 さっと身づくろいを終えることもできたが、終了する一歩手前の状態でしばらく待つ。甘寧が幕舎から出てくるのを待ち、今終わりましたという体で背筋を伸ばす。下手な気の回し方に、甘寧は深々と溜息を漏らした。

 

「…………行くぞ」

 

 それについてコメントはしない。下手と言っても配慮は配慮だ。形の上で待たされた人間が、待たせたなとも言えない。甘寧は実直で気の回せる人間であるが決して弁が立つ方ではない。それは行動にも表れており、感情を上手く言葉にできない時は褐色の肌が僅かに朱に染まるのである。

 

 要するに照れているのだ。手が早く荒っぽい上官の、こういう女性っぽい面を眺めるのが一刀は堪らなく好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中央に共有スペースがあり、それをぐるりと囲むように各勢力が並んでいる。これが円卓であれば上座下座がありそうなものだが、単純に到着した順番であるらしい。汜水関に向かって一番近い場所に曹操軍がおり、そこからぐるりと到着した順番に布陣している。子飼いの連中は親分の後ろに配置されるが、唯一、孫堅軍は袁術軍の隣に布陣されている。立場上は子飼いと言っても良いはずであるが、それだけ周囲から一目置かれているということでもあり、それを袁術軍も無視できないということである。

 

 自分が一時的にとは言え仕えている人間が凄い人というのは一刀の自尊心をくすぐったが、今この時に限って言えばあまり慰めにはならなかった。他勢力への移動は少数であれば中央の共有地を通って移動する。目的地の公孫賛軍は共有地を挟んで反対側にあるために結構な距離を歩くのだ。

 

 仲間と共に車座になるのとは訳が違う。形が一緒でも規模が段違いだ。合計すれば50万人に近い人間が集まっているのだがら、それを収容するだけのスペースとなれば広大である。

 

「こういう時、広さの基準になる施設があると便利だと思いませんか?」

「具体的に言え」

「この陣地洛陽百個分です、と表現できれば広さの想像もし易いんじゃないかと」

「洛陽に行ったことのない人間は置き去りだな」

 

 尤もな指摘に一刀も苦笑を浮かべるばかりだった。一刀自身、大きさの表現によく使われた東京ドームには行ったことはない。

 

「そもそも広さを想像し易くしてどういう得があるのだ?」

「行く前に広さが解るというのは良いことだと思うんですが……」

「主だった場所であれば把握していてしかるべきであるし、初めて行く場所であっても斥候くらい出す。お前の説明だとそういう情報を知らない人間に、どれくらいの広さであるかという情報を共有させるための表現だとは思うが、例えば末端の兵にこの集合地が洛陽百個分程だと説明して、奴らは喜ぶと思うか?」

「……思いませんね」

 

 気にするのは精々、狭いか広いかちょうどいいかくらいだろう。それも大抵は現地についてから考えることでどの程度広いかというのはあまり意味がない。そもそも読み書き計算すら浸透していないというのは珍しいことでもない。指の数しか物を数えられない人間に、洛陽十一個分と言っても伝わらない可能性もある。

 

「お前の献策は悪くないが、どうも兵の質を過大評価している所があるな。お前の団のように全ての兵が読み書き計算ができる訳ではないということは、よく覚えておくと良い」

「肝に銘じておきます」

 

 一刀団の識字率は非常に高く、最初期からいる二百人に限って言えば100%である。後から合流した面々も短時間ではあるが毎日の勉強が義務付けられているため、勉強した時間に応じての能力が身についている。これは軍の中では珍しいことであり、荒っぽいことで知られる孫呉兵の中でも特に荒っぽい甘寧隊の中では若干浮いていた。

 

 これは孫呉軍の上層部でも意見が分かれる所だった。周瑜や黄蓋などは命令の伝達がやりやすいと好評だが、孫堅や孫策からはそんな暇があるなら調練をするか休めという反応が返ってきている。平素であればそういう文句も出なかったのだろうが、今は出先であり、彼女らにとっては家としての今後もかかっている状況だ。

 

 兵の識字率や計算は彼らの人生に直結する問題ではあるものの、直近に大きな戦がある以上、使う彼女らにとって他のことをせよ、と思うのも無理からぬことではある。それでもあの短気な孫堅をして好きにしろという言質を引き出すことができたことは、一刀にとっては嬉しい誤算だった。

 

 そんな他愛もない話をしながら歩いていると、公孫賛の陣地が見えてくる。歩兵が中心の孫呉異なり騎馬が中心の公孫賛軍はその馬を収容するスペースを確保するため、人数の割に陣地が広いのだ。

 

 ここから公孫賛軍ですよという明確な仕切りがある訳ではないが、各陣営は共通して共有地に面した部分を陣地の『正門』として扱うことで合意している。隣接していても『正門』の方に回ってから訪いを立てなければならず、それ以外の訪いは敵対行為と見做す。聊か攻撃的な決まり事ではあるものの、各々野望を持った人間が共通の目的のためだけに集まったのだ。無駄なトラブルは避けねばならず、それは末端の兵にも簡単に浸透させるものでなければならない。

 

 陣地から出るな。他軍の兵と関わるな。伝達行為さえ限られた人間が行うことにすれば、末端のトラブルは少なくなる。故にこれだけの人数が集まったにしてはトラブルは少なく、ほどほどの平和な時間が続いているが、それは緊張感の上に成り立ったものだ。

 

 公孫賛軍の陣地、その正門に立っていた歩哨は近づいてきた他所の軍の人間を見て、身体を強張らせた。武器に手こそかけなかったものの、何かあればすぐに動ける様に身構えたのだ。訪ねてきた人間にしては随分と離れた位置で足を止めた甘寧は、その場で伺いを立てた。

 

 それでようやく、歩哨の緊張は解ける。しばし待たれよ、五名いた歩哨の一人が陣地の中に駆けていく。戻ってきた時、彼は馬に乗っていた。息を切らせた彼に案内され、案内された幕舎は周囲の物と比べてもそう目立ったものではなかった。少し大きく歩哨がついている以外は、特筆することもない。孫呉軍は幹部の使う幕舎はそれなりに豪華なのに比べると、実に対象的だ。

 

 こういう所にも性格はでるのだな、と感心している一刀を他所に、一刀たちは幕舎の中に案内された。

 

 中央には軍議用のテーブル。その向こう側に、目的の人物が勢ぞろいしていた。その内一人、最も小柄な少女と視線が交錯する。水鏡女学院の制服にベレー帽。金色の髪をおかっぱにした美少女――朱里は一刀に対して遠慮がちに小さく手を振った。

 

 それに手を振り返そうとして一刀は寸前で止めた。あれは朱里のような美少女だから似合う仕草なのだ。男がやっても痛いだけである。とは言え無視するのも憚られる。悩んだ一刀は結局現代日本人らしく曖昧に微笑むことにした。

 

 それが正解なのか不安ではあったものの、朱里は満足そうに微笑んでくれる。これはこれで正解だったのだろうと安堵する一刀の横で、雛里がじっとりとした目を朱里に向けていた。朱里が自分を差し置き、真っ先に一刀に手を振ったのが不満だったのである。

 

 一刀の笑顔を受け止めた朱里は、ようやく視線を雛里に向けた。親友の視線が自分に向くのを待って、雛里は心中でえい、と声をあげて一刀の腕を取った。手ではなく腕である。身長差があるために腕を抱くというよりはしがみつくという風になっているが、それにどういう意図があるのかは女性であれば誰でも理解できるだろう。

 

 正面から親友の態度を見た朱里は、笑顔を強張らせた。ちり、とその場に緊張が走るのを一刀が肌で感じたのはこの時ようやくだ。仲良しなのにたまに反目することがある。この年代の少女ならそんなものだろうと男性らしく軽く考えるだけに無理やり留めることにした一刀は、朱里の横に立つ女性に視線を向けた。

 

 朱里や雛里と同じ上着を着た、背の高い女だ。飾り気のない髪は本人の気質を表すようにまっすぐで、首の後ろで無造作にまとめられている。目が悪いのだろう。大きなメガネの奥の目は整い切れ長ではあるが神経質に細められている。疲れた時に郭嘉がよくやる表情を常にやっているような人相の悪さだ。

 

 間違いなく美人ではあるが、お近づきになりたいと思うかは男性でも評価が分かれる所だろう。事実、やぶにらみの視線を向けられた一刀は思わず一歩後退ってしまったが、直後、彼女は口の端を上げて小さく笑った。朱里から何を吹き込まれているのか知らないものの、評価そのものはそれ程悪いものでもないらしい。

 

 安堵した一刀が次に視線を向けたのは白い装束の女だった。肩を出し、胸元の大胆に開いた丈を詰めた着物のような装いである。猫を思わせる微笑の浮かんだ顔は興味深そうに一刀を見つめている。これまた美人であるが、武人を前にした時特有の、研ぎ澄まされた気配をその佇まいに感じた。

 

 おそらく彼女が趙雲だろうと当たりをつける。事実、今度はシャンが彼女に向けて小さく手を振っていた。それに気づいた趙雲は、小さくウィンクをする。様になった洒落た仕草に、一刀は世の理不尽を感じた。

 

 そして、もう一人。こちらは明らかに自分よりは年下と思われる少女である。柿色の服に短いスカート。茶色の髪がサイドで結われており、くりくりとした目と凛々しい眉が印象的だ。根拠はないが何となくこの集団とは毛色が違うことを一刀は察していた。彼女もおそらく客だろう。どこからの客かは知れないが、孫堅の使いであると解っている甘寧を相手に、その場に留まることを許されているのだ。ただの友達ということはあるまい。

 

「主、孫堅の使いで参りました。甘寧と申します」

 

 いつになく丁寧な甘寧の名乗りに、公孫賛は小さく頷いてみせた。本人は鷹揚に頷いたつもりだったのだろうがその様はどこか頼りない。それ故に一刀は会ったばかりの彼女に親しみを覚えていた。強そうだ。デキる人間にも見えるし、実際に大軍団を指揮している。それなのに初めて会う五百人程度の部下しか持たない自分に『頼りない』と思われるのはきっと彼女の人間性に依るものなのだろう。

 

 この人を放っておいてはいけない。他人をそういう気持ちにさせるのは何も悪いことではない。世の人間などは彼女のことを『普通』と揶揄するのだが、我らが筆頭軍師の意見は異なる。貴殿の目指すべきところは彼女ですよと、何度言われたか知れない。

 

 反董卓連合軍、諸将の一人。『白馬義従』の公孫賛。一刀が会うのを楽しみにしていた人間、これがその一人との最初の出会いだった。

 

 

 

 



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第033話 反菫卓連合軍 合流編⑦

 

 

 今回の甘寧の仕事は単純である。もう少ししたらうちのボスが挨拶に来ます。ちょっと時間かかっちゃうけどごめんね! と遠回しに伝えるだけだ。

 

 それを伝えるだけであれば誰でもできるし、手間を考えなければ人をやって手紙でも届ければ良い。

 

 ただ、立場というのは面倒くさいもので、お互いにかけた手間がお互いの立場を尊重するという面倒くさい関係の上に成り立っている。それなりの立場を持った人間を寄越すという行為が、相手の立場を補強するのだ。孫呉軍に加入してまだ日が浅いとは言え武官の中では上位の甘寧が足を運んだのは、豪放磊落を絵に描いたような孫堅が公孫賛に対して相応の配慮をしているという証でもある。

 

 仕事は単純。しかし、伝えたらすぐに帰って良いという訳でもない。物事には付き合いというものがあり、それはいつの時代でも変わらないものだ。

 

 それに使者を挨拶だけさせて帰すのは、された側の沽券にもかかわる問題である。世間話という名の情報収集もこういったやり取りに付随するものであり、一刀の横では公孫賛からの質問に甘寧が答えるという形で簡単な情報の交換が行われている。

 

 孫家、周家、古参の武将を除けば甘寧こそ孫呉における武官の筆頭である。公孫賛の領地は河水を挟んで更に向こう側という、普段はまず接する機会のない相手でもあることから、甘寧はできるだけ情報を引き出そうと躍起になっているものの、相手の返答には淀みがまるでない。

 

 これは甘寧も苦労しているだろうなと一刀は内心思ったが、いまいち自分に自信のない一刀はどうして公孫賛がここまで堂々としていられるかにも見当がついていた。

 

 本人の実力というのも勿論あるのだろう。実質的な幽州の支配者が無能であるはずがないのだが、返答に淀みが無さすぎることに、ひっかかりを覚えた。朱里に視線を向けると、彼女は苦笑を浮かべて小さく頷く。

 

 完璧な想定問答を用意したのは朱里なのだろう。何を聞かれるか身構えておいて、どう答えるか練習しておけばある程度場慣れした人間であれば、ボロなど出ない。その想定問答を作ったのがかの諸葛亮となれば隙もないはずだ。出して良い情報と不味い情報の管理もできる。後はこちらが聞きたいことを、聞きたいように聞けば済む話だ。

 

 話は十分少々続いたが、結局甘寧の側にめぼしい成果はなかった。朱里の想定問答にしてやられた形である。甘寧も薄々相手の事情は感じ取っていたようであるが、言葉にすれば相手は自分の短所を補うべく、準備を重ねただけだ。これを憎々しく思うのは自分の狭量を証明するようなものである。

 

 ふぅ、と大きく静かに甘寧は息を吐いた。自分を落ち着かせようと、微妙に力んだ美しい横顔に惚れ惚れしていると、勝利者である所の公孫賛から提案があった。

 

「時間が許すなら、そこな北郷に話を聞いてみたいのだが構わないか?」

 

 公孫賛の申し出に、甘寧は眉根を寄せた。対外的には一刀は無名も良い所だ。所謂彼の『地元』では商人たちに顔を売り熱心に活動をしていたようだが、その外に出た今となっては顔と名前が一致している者は皆無だろう。事実、甘寧も一刀が孫呉軍に合流するまでその存在を知らなかった程だ。

 

 比較的距離の近い場所にいた甘寧でもそうなのである。河水の向こう側、国境の守護を担う幽州の実質的な長である公孫賛ではその存在を知る機会は皆無に近いはずだが、彼女は今客将として関羽とその軍団を召し抱えている。こちらは一刀と違って、方々に名が知れていた。

 

 連れていた兵は二千を少し超える程。在野の軍としては大規模と言って良く、加えて長である関羽の武は音に聞こえており、それは反董卓連合軍として名だたる諸侯の集まったこの地においても、見劣りしない物だった。

 

 その関羽がどういう訳か、一刀のことを非常に高く評価しているのだ。これは一刀の仲間たちの言葉である。自分の長を持ち上げるのはどこでもあることで、関羽の件もその例に漏れないことは考えられたのだが、どうやら本当のことであるらしいと思うに至っていた。

 

 ならばその話を公孫賛が聞いていても不思議ではない。あの関羽が推す無名の男だ。興味を持つのは当然と言えるだろう。

 

 孫呉の将軍として、あまり一刀に目を付けられるのは面白いものではない。立場上、彼は孫呉軍に所属しており名目上は甘寧の部下となっているが、彼ら本人の認識は公孫賛軍における関羽と同じ『客将』である。孫呉軍に所属している訳ではないのだ。

 

 しかし、その程度のことで目くじらを立てるのも女を下げることになる。良いぞ、という甘寧の視線を受けて一刀は一歩進み出て一礼した。

 

 顔を上げると、決して整っていない訳ではないのだが、どこか幸の薄そうな印象の公孫賛の美貌があった。

 

「改めまして。北郷一刀です。姓が北郷、名前が一刀。字と真名はありません」

「公孫賛。字は伯圭。愛紗や朱里から聞いてたが、その名乗りは毎回やってるんだな」

「自分の名前を間違われるのも、むず痒いものですので……」

「それもそうだな」

 

 もっとも、この問題に共感してくれる人間はこの帝国にはいそうにない。二文字の姓は一刀団にもいたが、二文字の名前は一刀だけ。両方とも二文字なのは言わずもがなだ。よほど特殊な生まれをしていない限り、字はともかく真名は持っているものだそうで、育ちの悪い一刀団の賊あがりの面々でも、皆真名は持っていた程だ。

 

「聞いてみたかったんだ。お前、何のために戦ってるんだ?」

「身を立て名を上げるため、というのは偽らざる所ですね」

「…………随分普通だな?」

「自分一人であれば他にも考えたんでしょうけども、今は大所帯になってしまったもので。仲間たちに惨めな思いをさせないためにも、先頭に立つ俺が身体を張らないといけないのです。実績もない小僧の話など誰も聴いてくれないでしょうからね。偉そうにふんぞり返っているのでなく、共に身体を張るからこそ仲間も信頼してくれるのだと思います」

「心がけは立派だと思うがね。人間、向き不向きはあるだろう。失礼だが、私が見てもお前はそれほど強そうには見えないぞ」

 

 弱い、という表現を使わない辺りに公孫賛の配慮が見て取れる。隣で仏頂面をしている甘寧であればド直球に弱いと言ったことだろう。

 

「それだけに行動が映えるとも言えましょう。それに俺はお歴々と異なり、人間が小さいので即物的な欲求が強いのです。仲間の前でとにかく良い恰好をしたいのですよ」

 

 仲間、という言葉の段で一刀は雛里とシャンの頭に手を乗せた。彼の『仲間』というのは兵全ても含まれている。割合で言えば男性の方が圧倒的だ。何しろ女性は幹部にしかいないのだから。言葉だけを聞けば実に真っ当な指導者らしい意見であるのだが、態度も含めると一刀の欲求は明らかだった。公孫賛の顔に呆れの色が濃くなる。

 

「……つまりお前は、女にかっこつけるために命をかけるということか?」

「男が命を張るには十分な理由です」

 

 はっきりと答える一刀の声音に迷いはない。それは一刀、本心からの言葉である。もう少しもっともらしい言葉を使って脚色することはできたが、何故やるのかということを突き詰めていくと、シンプルな理由に行きつくものである。女の子以外の仲間もいる。彼らのために戦っているという理由も決して小さくはないが、何か一つということであれば、こうならざるを得ない。

 

 甘寧は呆れきった顔をしていた。河賊をしていた彼女は、大義のために戦うという人間を多く見てきた。手下は脛に傷のあるものばかりだが、それだけに建て前というものがどれだけ大事なのかも理解している。金や名誉のために個人は動くが、集団を動かすには理由が必要だ。

 

 そしてそれは、それ以外の集団を表面だけでも納得させるものでなければならない。私利私欲のために動いてるとなれば人心は離れる。数は力である。それは連れている兵の質、数に最も作用するものだ。

 

 盗賊であれば良いだろう。河賊であれば良いだろう。しかし世のため人のためということを標榜している人間に、俗物的であるという印象はよろしくない。上を目指すというのであれば猶更だ。あれだけ軍師がついているのだ。その辺りは口を酸っぱくして言われていると思うのだが、現在、一刀についてきている軍師である雛里にとがめるような様子はない。

 

 むしろその女の子の中に自分が入っているらしいことに気づいてあわあわ喜んでいる。その喜ぶ雛里を見て、相手方の小さい軍師がイライラしているのが見えた。こいつはいつか女に刺されるんじゃなかろうな、というのが甘寧の正直な感想だ。

 

 女に良い恰好をし、かつ良く思われるというのはある種の才能だ。少なくとも粗忽者の集まりである甘寧軍の兵たちでは、一刀の真似事は到底できることではない。持って生まれた才能を努力によって磨き、幸運に支えられて結果を得る。文字にすれば戦と同じであるが、当然そこでは刺されて死ぬという結果が存在することも共通している。既に知らぬ仲ではない。面倒なことにならないのを、祈るばかりである。

 

「お前とは酒でも飲みながらゆっくり話してみたいものだな。愛紗とお前が話しているのを見ているだけでも楽しそうだ」

「公孫賛殿であれば喜んで酌をしますとも。何ならつまみの一つ二つ作りましょう」

「この戦が終わって、お互い時間があれば考えようかね。しかし、面倒なことになったもんだ。今回の戦は長期戦になるんだろうとは思うがね。騎馬で騎馬を相手にする生活が長いからかな。私はどうも長期戦というのが苦手なんだ。朱里、お前の所の先生が得意だったんだろ? 是非教えを請いたいもんだが、名前は何て言ったかな」

「呉洋先生ですよ、白蓮様」

 

 そうだった、と苦笑する公孫賛に大丈夫かこいつ、という顔をした甘寧の視線は釘づけにされている。朱里が名前を出したその一瞬、雛里が強張った表情をしたことには気づいていないようだった。今のやり取りに何か意味があったのだろう。符丁か何かだろうか。試しに朱里に視線を向けてみると、朱里ははにかんだように微笑んだ。

 

 年頃の少年を一目で恋に落とすようなその表情に目を奪われていると、腹部に遠慮なく拳が叩き込まれた。視線を向けもせずに放たれた甘寧の裏拳である。でれでれしてるんじゃないと言われているのは顔を見なくても解った。朱里にもはぐらかされた気がしないでもないが、これは後で雛里にでも聞けば良い。

 

 他に何かあるかと視線で問えば、公孫賛は首を横に振った。話はこれで終わりらしい。何やら言わなくても良いことを言わされただけで終わってしまった気もするが、得るものがない訳ではなかった。こういう話がしたかったのも公孫賛の本心ではあるのだろうが、他にも言いたいことはあったらしい。

 

 さて、それは一体何なのか。一人で難しい顔をしている雛里を横目に見ながら、ひっそりと一刀は溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 甘寧たちが去った後、態々人をやって十分に離れたことを確認してから、白蓮は口を開いた。

 

「さて、意見を聞かせてもらおうか。まずは静里」

「雛里先輩は相変わらずかわいいな。あの人照れると帽子のつばで顔を隠そうとするんだが奴と話してる時にそうしようとして何度も止めてたんだよ。その恥ずかしいんだけど頑張って顔を見せてます感が何というかこう……くるんだよな。ああ、それにしても私の先輩はかわいい超かわいい」

「お前の趣味はどうでも良いからさ。北郷の感想を聞かせてもらえないか?」

「星、あのいかした格好した美少女はお前の仲間なんだろう? 髪型も何か洗練されてるし、その割に顔だちは穏やかで小動物のような趣がある。少し育ち過ぎな気もするが私は全然許容範囲だなすばらしい」

「いい加減叩きだすぞお前」

 

 諸侯の中では気が長く思慮深いと見られている白蓮だが、決して怒らない訳ではない。これまで周囲は物分かりの良い連中で固められていたから出番がなかっただけで、一角の武人でもある白蓮の怒気はすさまじいものがある。

 

 一刀団、郭嘉をして普通と表現されるが、その後には超一流という単語が続く。普通の超一流である白蓮の怒気を前に、流石に静里も一歩後退った。学院の卒業生の中では腕っぷしの強い方だが、あくまで片手間の域を出ない。白蓮が本気になれば抵抗する間もなく首をはねられているだろう。

 

 静里も彼我の実力差は認識している。それでもふざけた態度を取り続けていたのは、彼女にとってそれがある種命よりも大事なものであるからだ。

 

「……まぁ落ち着けよ。警戒心の強い雛里先輩が普通に懐いてるんだ。人格って点では問題ないだろうよ。能力については未知数ではあるが……思想については正直、どちらかに極端に振り切っているのでもなければ私は許容する。私が雇用主に求めるのは、一定以上の能力があることと先輩のような美少女を排除しないことだ。女は乳だとかぬかす奴は死ねば良いと思う。そんな訳で雛里先輩の懐きっぷりを見るに、朱里先輩のこともないがしろにはせんでしょう。お二人一緒に閨におしかけても、奴ならお二人まとめて面倒を見そうな気がします。ああ、その時は是非私にもお声がけを。交ぜてくれなどと無粋なことは申しません。部屋の隅に立たせていただければそれで。私のことなど置物とでも思って、声など抑えず張り切って――」

「…………静里ちゃん、そこに正座」

「喜んで!」

 

 頭痛を押さえるような仕草をしている朱里と、喜々として正座する静里を見て白蓮は深々と溜息を吐いた。何を食べて育ったらこんな性格になるんだろう。朱里の紹介で雇った彼女の後輩なだけあって優秀ではあるのだが、性格の方は白蓮が今まで見たどんな人間の中でもキワ物である。癖の強い奴はどこにでもいるが、静里は単純におかしな奴だ。

 

 乳の大きな女が良い、いいや顔だと異性に求めるものは人によってまちまちである。彼女の場合は、それがたまたま同性で、どうにも低年齢か低年齢に見える少女をことの他愛しているというだけで。もっとも、そのただ一つが特殊であり、またそれがなかったとしても朱里のような全てが自分の好みに合致しているか、鈴々のようにそれに近い所にいる少女相手でもなければ、基本的にはっきりと物を言って遠慮をしない。

 

 その指摘は全て的確であり、彼女本人はとても有能だ。水鏡女学院の情報網を株分けしてもらって手にした草の集団は優秀であり、その情報を元にした分析力は、白蓮の部下を全て足しても桁違いの実力を持っている。今回の仕込みを達成することができたのも、静里がその草の集団を引き継いでいたおかげだ。感謝してもしきれないのだが、白蓮はどうもこの女のことが苦手だった。

 

「星はどうみる?」

「少女に好かれる、というのは男としては美点でありましょう。某もシャンのことは知っていますが、アレが懐いているならその点に問題はないと思いまする。胆力などは、まぁ、あの場であのような物言いをできるならば十分でしょう。元より今回の顔合わせは公式のものでありつつも、そうではない。これからの事に明確にかかわるものでないのなら、内容というのはどうでも良いのです。尖った物言いを、我々の前で臆面もなく言ってのけた。見どころはあると思いますよ。独立を望んでおられるようだし、孫家とは別に関係を維持しておくべきだと思いますが」

「蒲公英は?」

「嫁ぐならああいうかっこいいお兄様が良いかなー。優しそうだし」

 

 顔か……と白蓮は呆れるが、馬家にとって蒲公英の立場はそこまで強いものではない。一族の一人であり今回の戦でも馬騰の名代として参戦した馬超の副官として参戦してはいるが、本家の家督を継げるような立ち位置ではない。いずれ嫁に行くか、それなりの婿を貰うことになるだろうが、馬超に妹が二人いることを鑑みるに、嫁に行く可能性の方が大分高い。その相手にしても名家の常として、そこに自分の意思が介在できるかは微妙な所だ。

 

 ならばせめて容姿には拘りたい、というのは偽らざる本音だろう。白蓮の目から見た北郷一刀という男の容姿はまぁ、悪い物ではない。兵士というとゴツい人間が多いのだが、彼にはまだ線の細さが見て取れる。

 

 ひ弱ではなく鍛えられているというのは見て取れるのだが、粗野とか野蛮とかそういう印象は感じられない。庶民の生まれではないのだろう。それなりの育ちの良さは一目で感じられた。それなりに裕福な商家の次男三男というのがしっくりくる印象だ。街であればまだしも、戦場では中々見ない風貌である。

 

「いやいや、ああいう優男程閨の中では国士無双、ということもありましょう。朱里の友人も既に篭絡されているのでは?」

「いや、まさか、そんな……」

 

 後輩との話題に出たこともはあるが、まさか本当に親友が一人で大人の階段を一段抜かしで昇っていたなんて。静里からなら笑い話で済むが男性経験が豊富そうな星が言うと、信頼度も増してくる。言われてみれば雛里は前にもまして幸せそうにしていた。もしかしたらそういうこともあるのでは――と明晰な頭脳が無数の可能性を検討し始めるのを見て苦笑を浮かべた星は、

 

「その点、そこな狂人はどうみる?」

 

 さっさと安心させてやろうと正座を崩そうともしない静里に声をかけた。お前の年下の先輩は処女か? というのも十分狂人の物言いであるが、それを正座したまま難題であるかのように真剣に吟味する目つきの悪い女は、まぎれもない狂人だった。

 

「朱里先輩が知らないのであれば、少なくとも雛里先輩には手を出してないな。同時に、雛里先輩以外にも手を出している可能性は限りなく低い」

「理由は?」

「そういうことがあれば、伝わるもんだろう。雛里先輩の性格を考えると、それを隠しておくというのは考えにくい。商売女に手を出していることを醜聞と考え、それを隠しているというのも考えられるが……これは私自身の直感も加わるが、さっきの奴は商売女に手を出す類には見えないな」

「結論は?」

「色々な意味で手を出すなら早い方が良い。決め打ちが不安なら小さな縁でも恩でも良いだろうさ。あの連中は条件さえ揃えばどこまでも伸びていく。関わりを作っておいて損はない。今回の件に関わることは、奴らにとってもあんたにとっても、益になるだろう」

「随分評価が高いように思えるが」

「全部持ってても何もできない奴なんて腐る程いるだろう? 今の奴らの働きは精々まずまずだろうが、それは色々足りないからだ。全部揃えば何でもできるだろう。ただ、私のかわいい先輩も含めて、それは奴が頭を張っているって前提の上に成り立っているようだ。なら奴に取り入るなり引っ張り込むなりした方がお得だろ? 何しろ奴に全てくっついてくるんだからな」

「それが今なら更にお買い得ってことだな」

「値下げする見込みは今の所ないからな。それに間違って奴が死ぬようなことがあれば、まとめ買いは難しくなるぞ。奴を含めた全員に恩を売れる機会だ。逃す手はない」

 

 同じ金額を貸し付けるのでも、貧乏人にするのと金持ちにするのとでは意味が大きく異なる。飛躍を目指す彼らにとって、実績というのは何よりもほしいものだろう。愛紗からの強い推薦があったとは言え、孫呉の勢力下にいる小集団を引き込むのは抵抗があったのだが、静里たちの言葉で白蓮の決意も固まった。今後は彼らを成長株として見ることにする。

 

(良い御仁ではあるのだな……)

 

 そんな白蓮を見る星の顔には僅かな苦笑が浮かんでいた。優秀ではあるのだ、堅物ではないのだ。しかし英傑ではないし、俗物ではある。彼女を見て今一つと思うのは、高望みが過ぎるのだろうか。何が正解なのかは星には解らなかったが、いずれにせよ、北郷一刀のことは面白いと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、こちらもこちらで公孫賛陣営から十分に離れた所で、一刀は口を開いた。隣を歩く甘寧はお前とは話すことはないという顔をしていたが、聞かない訳にはいかなかったのだ。

 

「得るものはありましたか?」

「貴様が女が目当てというのが理解できたのは大きな収穫だな」

 

 視線も向けてくれない甘寧の言葉は、冷たく鋭い。地味に傷ついた一刀の頭を、背伸びしたシャンがよしよしと撫でている。

 

「あれはその場の勢いとでも言いますか……」

「幹部を全員女で固めておいて何をいまさら」

「別に皆と懇ろとか愛人という訳ではありませんよ?」

「そういう寝言はいらん。それよりも――ああもあからさまであると符丁を使う意味もなかろうな。個人的には好感が持てるが、アレでは下も気が休まらんだろう」

「あ、気づいてたんですね?」

「お前が私を舐めていることが解ったのも収穫だな。会話の内容からして鳳統、お前に対するものだとは思うが、どのような意味だ?」

「長期戦ではなく超短期決戦で決めるつもりのようです。これを今切り出したのは、一口乗るか、という確認の意味でしょう。おそらく一番槍を受ける腹積もりです」

 

 淀みない鳳統の言葉に、甘寧は小さく唸り声をあげた。一番槍は武人としての名誉でもある。『普通』の戦であれば争奪戦にもなる所であるが、今回の戦は大分趣が異なる。敵は準備万端、帝国内でも有数の堅牢さを誇る関に立てこもっている十万前後の兵だ。その中には音に聞こえた将もいる。一番槍と言えば聞こえは良いが、体の良い捨て駒である。

 

 必要なことは解っているが、最終的な栄誉を誰もが目指している以上、ここで戦力を減らすようなことはしたくない。だからこそ、やりたいという人間がいれば、それを得ることはそう難しいことではない。無論のこと、弱小勢力がいきなりそれを言えば目立ちもするだろうが、公孫賛軍くらいの規模であれば悪目立ちもするまい。

 

「一番槍がそのまま関を落とす、ということか?」

「少なくとも公孫賛殿はそのつもりのようです。呉洋先生は戦とは時間をかけねばかけぬほど良いという考えの方でした。それに静里ちゃん……先ほど同席していた私の後輩ですが、静里ちゃんは水鏡先生から情報網を受け継ぎました。先生が大きな仕込みをしているというのは在学中から囁かれていたことで、それが汜水関のことであってもおかしくはありあせん」

「あくまで可能性の話、という訳だな」

「どこかに命を張るというのであれば、『公孫賛軍には最悪の場合、自分たちだけでも速攻で汜水関を落とす算段がついている』に張ります」

 

 普段は小動物のような立ち振る舞いなのに、献策をする時だけは迷いがない。気弱な性格であっても、自分の分析に絶対に近い自信があるのだ。それが軍師としての義務感から来るものか生来のものであるのか。いずれにしても、ぶれない軍師というのは献策される側からすると有り難いものだ。

 

 誰でも使うなら、自信がなさそうな人間よりも、満々な人間の方が良いに決まっている。

 

「……炎蓮様に伺いを立てるのが良いだろうな」

「乗りますかね?」

「二千から三千程度ならば、手を出さない理由はない。目論見通りいかなくてもそれほど痛みを伴わずに公孫賛に貸しを作れるし勝てるのであれば万々歳だ。勲一等はやつらに譲る必要はあるだろうが……幸いなことに戦はこれ一回ではないからな」

 

 最低でも関は二つ抜かなければならない。汜水関を問題なく突破できたとしても、関はもう一つあり、それをまた抜けたとしても、洛陽に着くまでにはまだまだ距離がある。関二つはあくまで難所であり、全てではない。名をあげる機会はそれこそ、いくらでもある。

 

「それにあの場には馬岱がいた。おそらく馬超軍にも同じように声をかけているのだろう。公孫賛軍全軍に孫呉と馬超軍から二千から三千。十万は詰めているという汜水関に、三万前後の兵で突撃を仕掛ける訳だが……」

「正気とは思えませんね」

「全くだ。だが兵数で勝る『味方』を出し抜くには、それぐらいの賭けが必要になるのだろう。仕込みが他人任せというのは不安ではあるが、万全な状態で戦に臨めることなどあるはずもない。やれと言われればやる。それが兵士というものだ」

「世知辛い話ですね……」

「手柄を立てる良い機会だ。武者働きを期待する」

 

 欠片も期待していない声音で、甘寧は言った。

 

 



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第034話 反菫卓連合軍 汜水関攻略編①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二十歩先に誂えた的の中央。そのド真ん中に刺さった矢にまたも矢が刺さる。今の腕前を見せろと言われた梨晏がこともなげにやって見せた芸当に、周囲の人間は言葉を失った。

 

 集団戦闘において弓手に求められることは一本でも多く矢を撃つことである。そこに正確性は(あるに越したことはないが)あまり求められない。それは兵の数で補うことができるし最終的には歩兵なり騎兵なりが突っ込んで戦うのだからと、弓を一番に鍛錬を積む人間はこの戦乱の世にあっても多くない。

 

 弓で名を上げる人間は大抵他にも得意なものは沢山あるが、特に秀でて弓が得意という人間になる。その逆は掃いて捨てる程いると考えると、如何に弓の名手が少ないかというのが解るだろう。

 

 一刀団における弓の名手である梨晏は、同じく孫呉軍で最も弓が得意とされる黄蓋に教えを請いに来た訳だ。団の中で最も孫呉軍と打ち解けている彼女は特に波長が合うのか雪蓮と仲が良く、今では共に真名を許し合う仲となっていた。黄蓋の所に来たのもその紹介だ。

 

 くれぐれもよろしく、としつこく念を押してきた若殿のことを思い出す。少し年の離れた親友同士というには聊か度の過ぎた振舞いに、雪蓮が相当本気でこの少女を引き抜くつもりなのだと察していたがそれはさておき。

 

 弓の名手ともてはやされるが、その名手としての黄蓋の周囲に人間は少ない。血の気が多く喧嘩っ早いのが特徴の孫呉の兵は特に近づいて斬ることばかりを好むため後進を育てる機会に中々恵まれなかった。そこに現れたのが梨晏である。黄蓋はこの年の離れた弟子のことを甚く気に入り、時間を見つけては指導していた。

 

 三回続けて継矢をした梨晏の腕前に黄蓋は冷静だった。彼女らにとって矢というのは狙って撃てば当たるものだ。当たること自体は確認のようなもの。梨晏の腕に不満はない。ならばそろそろ次の段階に進んでも良い頃合だろう。

 

 得意満面の梨晏を呼び寄せると、黄蓋は岩の前に立った。自前の強弓に一本矢を番えると精神を集中させる。一念。一矢。十分に弦を絞り放たれた矢は、次の瞬間には深々と岩に突き刺さっていた。弓はともかく矢は梨晏が練習用に使っていた普通の物だ。間違っても堅い岩に普通に刺さるようなものではない。一体どういう理屈なのか。驚きをもって黄蓋を見やると、彼女は少しだけ得意そうに笑って見せた。

 

「年の功という奴じゃな。所謂『気』というものじゃ。儂やお前のような女の身で突出した力を持つものは生まれつき体内の気が多いと言われておる。それを活性化させて怪力を出したり中には光として外に出す輩もおるというが……儂がやったのは矢にそれを込めるということじゃな」

「意味解らない」

「案ずるな。儂も良く解らん。気とはこういうものじゃと説明できるものでもないしのう。まずは自分の中の気を自覚できるようにならんことには話にならん。そしてこれには向き不向きがある。お前が向いているかどうかはやってみなければ解らん」

「強い人は皆これができるの?」

「いや? 少なくとも大殿や策殿はできんよ。できるがやらんだけかもしれんが……いずれにせよ剣をぶん回すだけならそれこそ気合だけで何とかなるものじゃからな。これを自覚せねばならんのは、外に飛ばす必要のある者だけじゃ。主に弓手じゃ」

 

 そもそも外に出せるだけの気を持っている人間は少なく、またほとんどの人間は外に出す必要に迫られない。黄蓋の言った通り、気を練って外に放出するくらいなら腕力や技量に物を言わせて直接武器をたたき込んだ方が遥かに早い。

 

 黄蓋のやったように矢にまとわせるだけでも相当なセンスが必要であり、気を直接飛ばし、それを実用的に扱える人間はそれこそ、百万に一人もいれば良い方だ。

 

 だからこそ、気を乗せて矢を放ち必殺の一撃を遠くまで飛ばせる弓手はどこの軍団でも重宝される。単純に数が少ないのだ。孫呉軍でも黄蓋に準ずるレベルの使い手でも、梨晏がやってくるまでいなかった程だ。

 

「ひょっとして黄蓋さんが帝国一の使い手?」

「上から数えた方が早かろうが、一番ではないな。同等の使い手も大勢いよう」

「世の中広いね」

 

 団の中に限らず、黄蓋に出会うまで自分よりも弓が上手い人間に出会ったことがなかった梨晏にとって、黄蓋の言葉は新鮮だった。

 

「この地にいるものなら、曹操軍の夏侯淵。まだまだ若いが中々の使い手と聞く。参集していない中では厳顔か。なにやら珍妙な武器を使うというが、これも天下に名高い弓手よ。敵方も含めるならば呂布だな。あれは剛力無双の武人として知られているが、優れた弓手でもある。二百歩先の兵を一矢で三人殺したというが、一度射を見てみたいものだな」

 

「だが天下一を一人挙げるというのであれば、楼黄忠を置いて他におるまい。国境防衛の立役者。地平に現れた騎兵を、雷を放って薙ぎ払ったと言われている」

「それは弓手じゃなくて妖術師とかそういうのじゃないの?」

「雷はたとえ話だろうが、国境に楼を築き、そこから単身押し寄せる異民族の兵を射殺し続けたというのは事実じゃ。異民族はその武勇を恐れ、国境に楼が築かれているのを見ると、何もせずに引き返すようになったとか。じゃから『楼』の黄忠。略して楼黄忠という訳じゃな」

「その人来てないの?」

「その楼の一件から異民族との講和の取りまとめで忙しいらしい。奴が生きている間は帝国に侵略の足を踏み入れぬと約束させ、商いまで始めるとか。いずれ牧として取り立てられるだろうよ」

 

 黄蓋の言葉を聞きながら、梨晏は弦を引き絞った。ぼんやりと気というものを意識して集中し、矢を放つ。岩を穿つと強烈な意思を込めて放った矢は、しかし表面に弾かれて地面にぽとりと落ちた。少しの傷はついているが、黄蓋がやったように刺さらない。落胆する梨晏を見て、黄蓋は声を上げて笑う。

 

「まだまだ年寄りに花を持たせろということだな。精進せよ、小娘よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 集結地の中央にしつらえられた空き地は、会議場として使われ軍議もそこで行われる。これが最初の会議だ。孫呉軍からは代表である孫堅と、軍師として周瑜が付き従っている。一つの陣営から参加できるのは二人のみ。代表と参謀。これが基本の形だ。

 

 一軍の代表ということで孫堅は議場に足を踏み入れたが、立場は袁術の客将である。意見は出すが袁術と意向が対立する場合、そちらに従うということになる。出席のうまみの少ない会議に見えるが、決を採る場に席があるというのはそれだけで価値がある。孫堅が袁術の意向を無視できないように、袁術もまた孫堅の意向を無視できないのだ。

 

 参加しているのは袁紹とその参謀の顔良。こちらは上座に堂々と座っている。豪奢な金色の髪を巻いたいかにも金を持っていそうな女と、黒髪を肩で切りそろえた大人しそうな雰囲気の顔良が対照的である。

 

 その正面、つまり下座に座らされているのが袁術であり、その背後に立つのが張勲である。かの袁術を下に置くとは度し難い振舞いであるが、それに文句を言う人間はいなかった。下に置かれていることそのものに袁術も不満があったようだが、ここは参謀の張勲がなだめて今では忘却の彼方だ。

 

 自己顕示欲が持続する袁紹と異なり、彼女のそれは一過性のものだ。それが故に、軍団は張勲によって制御されている。兵の質も孫堅の目から見れば惨憺たるものだが、袁紹と比べるとかなりマシに見える。頭数を揃えることさえでき、かつ孫堅に全幅の信頼を置けるのであれば、袁紹を喰らうというのも不可能ではないが、張勲からその実行をにおわされたことがない。

 

 叛意は向こうも理解している。

 

 黙って腕を組みじっとしている孫堅の袁術を挟んで反対側には、馬騰の名代として参加した馬超が座っていた。孫堅にとっては懐かしい顔だ。と言っても孫堅が馬超と顔を合わせるのはこれが初めてだった。顔なじみなのは彼女の母である馬騰――真名は紅である。戦場で幾度となく顔を合わせ、時には肩を並べて戦い、時には本気の殺し合いをした。

 

 面差しは紅に良く似ていた。特に意思の強さを感じさせる太目の眉と瞳は、紅の生き写しである。ただ孫堅をして生き汚さでは他に類を見ないとされる紅程の生命力は感じられない。勝気で奔放に見えるがアレに比べてば深窓のお嬢様と言っても差し支えない。孫堅の評価はまぁまぁだ。

 

 参謀として後ろに立つのはこれまた似た眉をしている少女だ。これが一刀の報告にあった馬岱だろう。

 

 孫堅とこの馬超が、要するに袁紹とはそれほど縁がない二組ということだ。袁紹が周囲に配置したのは彼女と知己の二人の将である。

 

 孫堅から見て左側にいるのが、曹操だ。袁紹の昔馴染みであるという大宦官の孫だ。孫堅の領地までも傑物であるという噂が届いている。幕下の兵たちも精強であり黒揃えの親衛隊は女のみで構成されているという。連れているのは猫耳を模した頭巾の目つきの悪い女。王佐の才とあだ名される荀彧である。

 

 少し前、一刀の世話をしてやった名家の女とかで、彼の仲間たちからは中々の恨みの籠った声で、彼が熱をあげているという苦言が散見されている。話を聞くに一月の間こき下され続けるという関係だったそうだが、一刀本人は満更でもないのだとか。そりゃあ女としては面白くなかろうな、と荀彧を見ながら思う。

 

 孫堅の目から見ても見てくれは悪くないが、所謂絵物語に出てくるような男が入れ込む女然とはしていない。これならまだ一番下の娘の方が男受けは良かろう。伝え聞く話を総合すると猫耳頭巾は大の男嫌いであり、一刀からまた聞いた話も彼なりに柔らかにしている傾向があった。

 

 重ね重ね、そんな女のどこが良いのかと思うが、女の好みなど人それぞれである。自分を罵倒してくる乳の薄い女が好みの男も世の中にはいるのだろう。

 

 そして、その曹操たちの反対側にいるのが公孫賛だ。北方の雄。白馬儀従ともあだ名される女であり、こちらも袁紹の昔馴染みであるという。幕僚がイマイチな連中ばかりというのがたまに傷であったのだが、現在は美髪公と名高い関羽の一行を客将として迎え入れている。

 

 構図としては親袁紹とそれ以外という有様である。諸侯というからには他にもいるが、方針を決める会議に参加を許されているのはここにいる六名の将と六名の従者の計十二人。議題を挙げることができるのも、それに意見が許されているのも、ここにいる人間だけだ。

 

 三十万を超える大軍の全てが、この十二人で決定されるのだ。まったく忌々しい話である。

 

「さて、まずは盟主を決めたいのですけれど?」

 

 会議の口火を切ったのは袁紹である。決めたいと言ってはいるが、彼女本人、ここに居並んだ人間たちがどういう答えを出すのか理解しており既にそれを受け入れている。兵数、資金力を考えれば袁紹の勢力が筆頭なのは袁紹本人を含めて誰もが理解している。

 

 それでも本人が声を上げたのは、あくまで他薦で就任したいという意図が見えていた。器の小さいことだと思うが、形の上でも命令系統、責任の所在をはっきりさせておかなければ軍というのは前に進むこともできない。愚物を仰ぎ見るのは虫唾が走るものの、裏を返せば何かあった時には彼女が責任を持つということでもある。

 

 問題はそうなった時、責任を取らせるように周りが動くことができるかどうかであるが……こちらも目的こそ一緒だが考えていることも一緒。本当の意味で一枚岩ではない。自分たちさえ生き残っていれば他の全員が皆殺しになった所で気にしないというか、それがある意味理想の形である。

 

 とは言え足の引っ張り合いをし続けて勝てる相手ではない。匙加減を誤ると自分たちを含めて皆殺しにされかねないとなれば本気にならざるを得ない。だがそうすると自分の所だけ兵を損耗するという悪循環だ。どういう風にするのが最も効率が良いのか。頼みの軍師たちも明確な答えを出すことができないでいた。

 

 戦場についた段階でああだこうだ言っている時点で遅いのだ。背の小さい金髪の軍師は言うが孫堅も心の底からそう思う。

 

 微妙な沈黙に耐えかねた袁紹が更に続きを促そうとした結果、呆れた顔の曹操が推薦する形で袁紹が盟主になることが決まる。さて、とその次に決められるのが。誰が一番槍を務めるかということだ。

 

 一番槍となれば武人の誉れ。小さい戦場であればここは私がと逸る人間が見られる場ではあるのだが、司会役を引き受けた袁紹の大参謀、顔良の言葉に、手を挙げる人間は一人もいなかった。

 

 無理もない。帝国でも二番目に堅牢な関に立てこもっている、帝国でも有数の名将に率いられた十万を超える官軍を相手に一当たりしてこいと言われたら誰だって難色を示し、それを言われたのだとしたら言った人間には死んでこいと思われていると解釈する。

 

 誰もやりたくはない仕事だが、誰かがやらないといけない。ならば立場の弱い人間ということだが、ここでも消去法で話が進む。

 

 まず袁紹、袁術の二組はやるまい。一番槍の名誉は決して小さなものではないが、率いる二人は武人でないためそこまでの拘りは見せない。むしろ敵の戦力を探るために積極的に他人を出そうとするだろう。

 

 次に可能性が薄いのが馬超の軍だ。地元が董卓の近く帝室よりである彼女らは、あちら側にいてもおかしくない勢力である。雑に扱ってじゃああっちに行くよ、となられても困る。彼女らの主力は騎馬隊である。関を攻めるのにはそこまで重要ではない兵種であるものの、ことここに来て一万以上の戦力が減るのは何としても避けたい所だ。

 

 さらにその次が孫堅の軍だ。決して袁術との関係は良好とはいいがたいが、対外的には袁術の子飼いである。いざことに当たることになった時、袁術軍全体で主力となるのは孫堅軍であるため、ここでの損耗は避けておきたいところだろう。

 

 無論、どうしてもとなったら張勲も重い腰をあげるだろうが、それは他の手を尽くしてからになる。

 

 ここに集まった勢力の中で、自薦以外で白羽の矢が立つとしたら残る二つの勢力だ。どちらも袁紹と仲良しであるが、袁術と孫堅ほどではないものの、そこまで良好な関係という訳ではない。特に公孫賛は袁紹と領地が接しており、乱世となれば真っ先に戦いの幕が落とされると見られている地域である。

 

 袁紹個人に公孫賛に対する隔意は無くとも、後々のことを考えればまっさきに戦力を落としておきたい所だろう。曹操は順当にいけば公孫賛の次に当たる軍団である。袁紹にとってはどちらも戦力を削いでおくにこしたことはないのだ。

 

 そして曹操と公孫賛を比較した場合、矢面に立つことになるのは公孫賛だろう。公孫賛とて決して無能な訳ではない。人物評の辛い孫堅の目から見ても優秀な、特に騎馬戦力の薄い孫呉軍においては喉から手が出る程欲しい人材であるが、相手は当代でも随一と言われる傑物の曹操である。こと弁舌の勝負となれば彼女の勝ち目は薄い。

 

 なれば、この戦に当たって勝ち目を持つ公孫賛にとっては望む所な展開である。

 

「私が行こう」

 

 口火を切ったのは公孫賛本人だった。全員の視線が集まると、彼女は苦虫をかみつぶしたような顔をしていった。

 

「正確には私と関羽の軍だけどな。私の軍は騎馬が主体だが……最初の一当たりってことなら文句ないだろ?」

「そうですわね。文句なんてあるはずもありませんわ」

 

 全員に向けられた公孫賛の問いに、袁紹は一人で答える。曹操が一瞬、何か言いたそうな顔をしたが結局口を閉ざしてしまった。視線を落とし黙考しているのを見るに、公孫賛の発言と態度から何かを感じ取ったのかもしれない。敏い女だと感じつつも、孫堅は自分の仕事をすることにした。

 

「一番槍の道行き、そいつらだけじゃ寂しかろう。各々千程度、兵を貸してやるべきだと思うんだが」

 

 他人の兵をまで勘定にはいれていない。作戦は公孫賛たちだけでも達成は可能なはずだ。それでも彼女らが他人に声をかけたのは先々を見越して貸しを作るためである。勲功一等を譲るのならばそれ以下をくれてやる。要はそういうことだ。可能か不可能かは別にして、大軍を貸すことはできない。

 

 千程度と言ったが、決して少ない数字ではない。実力が下の人間を下から千人であればまだしも、他人に貸すのだから雑兵では話にならない。それなりの精鋭を貸す羽目になる。数字以上に痛い出費だが、ここで貸しを渋ることは、自分が水を向けられることにもなりかねない。特に公孫賛の次に立場が弱い曹操と孫堅はある程度、ここで気風の良い所を見せておかなければ、じゃあお前がやれということにもなりかねないのだ。孫堅の言葉は主に曹操に向けられた物である。

 

 じっと曹操の瞳が向けられる。何を知っている? と鋭い視線が問うていた。勝つ算段があるらしい。公孫賛にそれがあるとは流石の曹操も思わないだろう。かく言う孫堅も具体的な内容は知らないのだが、軍師たちが口を揃えて乗るべきだというので乗ることにしたのだ。

 

 勝てれば勝ち馬に乗ったということで問題なし。負けるとしても適当な所で切り上げておけと命令してある。勲功第一をかすめ取れるとすれば公孫賛が勝ち筋を残した上でくたばることだが……勝てる算段を踏んで他人にまで声をかけて失敗するのだ。

 

 その時は敗色が濃厚。仕切り直した方が良さそうだ。

 

 元よりこの算段自体降って湧いた物だ。得る物があればそれでよしと軽い気持ちで考えてさえいる。

 

 孫堅の意思が固いと見た曹操の判断は早かった。

 

「助太刀は出したい人間だけ、出すのは同じ数ということでどうかしら」

「俺は構わんよ。千でどうだ?」

「そんなところでしょうね。他に出す者は?」

「あたいの所も出すよ」

 

 公孫賛以外の五組の内、三組が名乗りを上げる。案の定、袁家の二人は手を出す気配もない。元より今回で勝てると思っていないのだ。袁紹も袁術も話を聞き流している有様であるが、二人の参謀は違った。顔良も張勲も、不審な物を感じ取っているようである。

 

 敏い女だ。しかし、戴く主を間違えた。愚物を推戴している二人は、自分の思い通りに動くのに時間がかかるし、それも確実ではない。どれだけ言葉を尽くしたとしても、主が首を縦に振らなければ実行に移すことはできない。二人はこの世で最も、各々の主を上手く操れる人間だろうが、それでも世間の評価が芳しくない辺りに、限界が伺える。何かを感じ取ったとしても、少なくともこの一戦だけはこの二人は手を出すことができない。

 

 まさに一発勝負だ。ぞくぞくする。

 

「そんじゃあ、後の話は一当たりしてからってことで構わんか? 千とは言え、色々やらにゃならんことがあるんでな」

 

 孫堅の一言でその場は散会となった。盟主が袁紹に決まったこと。一番槍は公孫賛が務めること。他の三組が千人程度の援軍を出すということ。決まったことはそれだけだ。仕事は終わったとばかりにさっさと幕舎を後にする袁紹を、周瑜が冷ややかな目で眺めている。

 

 他にもっと決めたり知らせたりすることがあるだろうと思うのだが、それをやってはくれないらしい。自分で情報を集めるか、伺いを立てにいく必要がある。考えるのが仕事の人間にはそれこそ、やることは山積みだ。

 

「……あまり勝手なことをされると困るんですけどねー」

「だったら口も手もだしゃ良かったろう?」

「お嬢様がおねむだったみたいですから」

 

 こいつなりの冗談かと思って顔を見れば、視線は既に孫堅の方を向いていなかった。言葉の通り、首を前後に振っている袁術がいる。判断基準のほぼ全てが主の意向を優先しているのは、孫堅にとって幸運なことだったろう。彼女が知る限り、最も頭が回るのは愛すべき筆頭軍師の周瑜ではなくこの女だ。今も何を考えているのか解らない顔に、薄い笑みを浮かべている。

 

「どうやら勝つ見込みがあるようで」

「どういう算段か知らんけどな」

「まぁ、勲功第一を渡されないようなので助かりました。言うまでもないことですけど、あまり兵を減らさないでくださいね?」

「死人なしとはいくまいがな。善処はする」

「よろしくお願いしますねー」

 

 ひらひらと軽く手を振りながら、張勲は袁術の手を引いて離れていった。事情をある程度察していてなお口を出してこないのならば好都合だ。

 

「私は先に戻ります」

「ああ、思春にはよく言っておけ」

 

 実際に戦うのは思春たちであり、細かな指示を出すまでもない。そういう面倒くさいことは周瑜がやってくれる。攻め込むのは早くても明日以降。兵の調練はある程度続けねばならないだろうが、今時分急ぎでやらねばならないことは思いつかない。

 

 酒でも飲んで一眠りするか。軍団の指揮も雪蓮がいれば回るだろう。何も自分が起きている必要はない。仕事をサボることに決めた孫堅は、何を飲むか考えつつ歩き出す。見知った顔がやってきた。

 

 気の強そうな面構えに、特徴的な凛々しい眉。馬の尻尾のような髪もそのままだ。自分の過去から飛び出してきたようなその娘の装いに、先ほど見たばかりだというのに孫堅の呼吸が止まる。

 

 その少女は孫堅の前に立つと、深々と礼をした。あの女ならば死んでもやらなかった仕草に、孫堅はようやくそれが別人であると認識した。確かに良く似てはいるが、近くで見ると瓜二つというほどではない。

 

「初めてお目にかかります。馬騰の娘、馬超です」

「言われんでも分かるよ。面が良く似てる。若い頃の紅にそっくりだ。まぁ、奴の方が百倍は悪人面をしてたが……」

 

 声を上げて笑う孫堅に、馬超はだんまりだ。母の人相がまさに孫堅の言った通りであることは自覚しているが、それをからかったものがどういう目に遭ったのか身をもって知っているからだ。

 

「紅はまだ生きてるか?」

「峠は越えました。いずれ回復するだろうと医者は言っています」

「そりゃ良かった。あんだけのじゃじゃ馬だ。寝台で死ぬなんて本望じゃあるまい」

「母とは、長いと聞いています」

「俺たちがお前さんより若い頃からの付き合いだ。共に戦い、共に酒を飲み、殺し合いもした」

 

 自分たち以外にも多くの将がいたが、今も現役として世に認識されているのは孫堅だけだ。他は皆死んだか第一線を退いている。

 

 その中でも病を得た馬騰と陶謙は辛うじて踏みとどまっていると言っても良かったが、どちらも身体を悪くしており、往年の力は発揮できないでいる。

 

 特に孫堅は馬騰――紅とは縁があった。全盛期の紅を知っている身からすると、病を得て死にかけたというのはあまりに信じがたいことだった。死などとは最も縁遠いと思っていた人間なのに、不思議なものである。

 

 紅との出会ったその日のことは、最初と途中が記憶にない。細かな経緯は忘却の彼方にある。

 

 紅が野蛮人と罵ってきた。田舎者と切り返した。返事は神速の槍だった。気付いた時には孫堅の肩を貫いていたが、怒りで痛みも感じなかった孫堅は槍ごと紅を投げ飛ばし、馬乗りになって何度も拳を叩きつけた。

 

 普通ならばそのまま勝負は決まっていただろうが、紅もさるもの。背骨を折りかねない膝蹴りを背に叩き込み、起き上がり序でに孫堅を蹴り飛ばす。この時点で、お互いが頭から血を被った様に真っ赤になっていたが、手も足も止まらない。

 

 もはや言葉の体すらなしていない罵詈雑言を吐きながらお互いを攻撃し続け――孫堅が正気を取り戻したのは寝台の上だった。全身無事な所が一か所もない酷い有様だったが、意識を取り戻して最初に気にしたのは喧嘩の相手がくたばったかどうかだった。生きているという返事を部下から聞いた時、孫堅は生まれて初めて悔しいという言葉の意味を理解したものだが……後から聞いた話だが、紅の方も似たような反応をしていたらしい。

 

 似たもの同士であると認識した二人は、それから意気投合し、思い出したように本気で殺し合いをしながら現在の関係に至っている。紅の方が病を得てから顔を見ていないが、気の強い奴のことだ。病でやせ細った身など見られたくはないだろうと足を運ばずにいる。

 

「ま、快方に向かっているなら是非もない。精々養生して、俺に殺されるまで生きていろと奴に伝えてくれ」

「言うと思ったよクソ女。死ぬのはてめえだと言付かっています」

「紅らしいな」

 

 からからと笑う孫堅に一礼すると馬超は去っていった。馬超も兵を出すと言ってしまった。千人というのは万を指揮する人間にとって決して多くはないが、雑兵を出す訳にはいかないのはどこも同じである。それなりに立場のある人間が率いたそれなりの精兵となれば調整が必要だ。孫呉とは逆に騎兵が主力の彼女らなのだから、兵の選出には苦労するだろう。

 

 去っていく馬超の背中が旧友に重なって見えた。何も考えずに友と戦っていた昔が思い出される。楽しかった。そんな日々が続くと馬鹿みたいに考えていた。だがかつて自分がいた場所には娘たちがいる。まだまだ負けるつもりはないが、主役は自分たちではなくなったことが、肌に感じられるようになってきた。

 

 お互い年を取る訳だな。かつて殺し合いをした友に似たその娘の背中を遠目に見ながら、この戦いが終わったら文の一つも出そうと孫堅は心に決めた。

 

 

 

 

 




春蘭がオーラを飛ばすイベントを見るに、こんななんだろうなという解釈でした。
ストーリーにはさっぱり関わりません。凪はきっと強化よりの放出系。


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第035話 反菫卓連合軍 汜水関攻略編②

 

 

 

 

 

 

 

 垂らされた縄を登った先。普段であれば百人近い物見がいるその場所にも立っているのは霞一人だった。篝火だけは沢山焚いてあるが見せかけである。堅牢に見える関もその実はそうではない。こうなってしまったことに忸怩たる思いはあるものの、これも戦だと華雄は無理矢理自分を納得させていた。

 

 無心とはまた違った心境であるものの普段の荒っぽさが自分でも嘘に見える程心は凪いでいた。反対に霞は血涙を流さんばかりに悔しさを滲ませている。それは彼女が残る側ではなく撤退する側であるからだ。

 

 帝国の誇る帝都洛陽へ至る最初の大関。汜水関に詰めた兵たちは初戦を前に静かに撤退を始めようとしていた。詰めていた兵の最大数はおよそ十万。撤退するのはその八割を超える人数である。

 

 どういう事情であれ流石にこの人数が一斉に脱出することはできない。動けるものから不自然でない程度に任務を与えられたという体で脱出させはしたが、それでも当日一気に動くのは避けることはできないだろう。

 

 この動きはなるべく連合軍に悟られてはならない。人数はこちらの生命線だ。汜水関に十万の兵がいるからこそあちらは一度なり二度、様子見を選ぶのだ。汜水関の兵の大部分が戦わないどころか撤退するとなれば昼夜を問わず一気呵成に攻めてくるだろう。

 

 この局地戦一つを見た場合、華雄たちが有利なのは汜水関という大陸有数の関に籠っているからだ。数で勝る連合軍を主導するのはここでやらねば後がないという権力者たちの集まりである。末端はともかく上の連中のやる気は高い。

 

 どういう形であれ勝利するかそれとも言い訳できないくらいに大敗するか。明確な結果を出さない限り撤退するということはないだろう。兵站についても十分に練られているはずで、そも汜水関の向こう側は事実上連合軍の勢力下だ。

 

 大戦ではあるが本来は華雄達によっては有利な状況であるはずだった。初戦は汜水関に籠って粘れば良かったのだ。あちらは地元を離れた遠征軍。こちらは帝都周辺の防衛を主とする戦力。兵站の面でも士気の面でも決して負けているはずはない……そのはずだったのだがその戦力図は二週間程前に崩された。

 

 汜水関に詰めた兵たちの間で軽い病が流行った。最初はただの風邪かと思ったがその数は瞬く間に増えていき軽い症状が出ているものだけで四割を超え、中には重篤な症状を訴えるものまで現れた。軽い毒を長期に渡って盛られた結果であると軍医が診断をしたのもつかの間、蓄えてあった兵糧を立て続けに失うことになった。

 

 火をかけられた倉庫もある。汚水などで汚染された倉庫もある。毒が盛られてそれを食べた者から死人が出たこともある。結局、確実に安全とされる倉庫を確保し四六時中監視する体制を整えるまで汜水関の食事情は最低最悪のものと相成った。

 

 その間、駐留部隊も手をこまねいていた訳ではない。虎牢関や洛陽と連絡を密にし食料を輸送する手はずを整えたのだがこの輜重部隊が悉く襲撃を受け必要物資の供給が滞ることになった。

 

 この段階で霞たちは内応する人間が大勢いることに確信を持った。間者の駆り出しと並行してどうにか安全に輸送できないものかと試行錯誤したが、襲撃部隊は全員が騎馬の名手で手練れであるらしく、一時は霞の部隊から人員を割いたもののこれも返り討ちにされている。

 

 物資も全く入ってこない訳ではなかったが、当然、十万もの人間を支えられるような量ではなかった。

 

 その結果として、病人は病人のまま。新たに病人は増え汜水関の駐留部隊は惨憺たる状況に陥っていた。今日明日飢えて死ぬという程ではないが、深刻な食糧不足だ。輜重隊の状況が改善されないようであれば長期的な籠城は不可能であり、攻め手の連合軍よりも先に兵糧が尽きる見込みである。

 

 虎牢関から兵を出し、輜重隊を襲撃している連中の駆り出しを行ったが結果は芳しくなかった。結局食料事情は改善されないまま、決戦の日を向かえることになる。霞たちが決めたのは殿軍を残しての大規模な撤退だった。

 

「その顔は、何か新しいことが掴めたようだな」

「せや。輜重隊を襲っとるスゴ腕の騎馬隊。捕らえた奴も自害しよるし正確な所属は解らん。隊を率いる奴に一矢報いるて考えた奴がそいつに突っかけて顔を見たそうや。夜の闇ん中でも解る長い黒髪。嵐のような青龍偃月刀。美髪公やと、思う」

 

 なるほど手こずる訳だなと華雄も納得した。情報というものにあまり重きを置かない華雄の耳にさえその女傑の名前は入ってくる。元々似た武器を使っていたことから関羽の武名に肖って霞が武器を変えたことも記憶に新しい。ただ彼女は、

 

「確か白馬儀従の客将をしているのではなかったか?」

 

 詠が言っていたので華雄でさえ記憶に残っていた。賊を討つことで名を挙げた関羽は現在公孫賛の所に身を寄せている。大戦だ。腕に覚えのある人間ならば名を売る絶好の機会。調略の一翼を任せられるのだから覚えが良いのだと推察できる。

 

 だが華雄が聞いた関羽の評判は知恵の人という訳ではない。武一辺倒という訳ではないようだが、知略は臥竜とあだ名される諸葛亮が補っているという。公孫賛陣営に知略という印象はなく順当に行けば仕掛けられた調略は諸葛亮の発案と考えられなくもない。

 

「……客将におんぶに抱っことは白馬義従も形無しだな」

「お客さんが頑張ったんやから大将かてご褒美もらえるやろ。自分らだけじゃ始まらんから世話んなっとんのやしな」

 

 持ちつ持たれつということか。それにしては関羽の取り分が多くなるように思える。連合軍に属する者たちの配当は最終的な勝利を手にした時、それまでどれだけ活躍したかに依る。何度戦闘が起こるかは状況次第であるが状況設定をしやすいのは何より初戦だ。

 

 一番槍は武人の誉であるが全ての人間がそう考えるとは限らない。まして汜水関を相手につっかけるのだから大抵の人間は尻込みし、他人を当てにして様子を見ることを考えるだろう。一番槍を手にすることはおそらく連合軍に属する軍団とすればそれほど難しいことではない。

 

 そこに勝てる算段があるのであれば一番槍は非常に美味しいのだ。公孫賛軍は連合軍に中でも騎馬に偏った編成をしており、客軍である関羽の兵団を加えても関を攻めるのにはあまり向いていない。諸将もまさか最初の一当たりで勝ちを拾って来るとは思わないだろう。

 

 このまま勝てば公孫賛と関羽は多大な名誉を手にすることになる。たとえ連合軍が敗退したとしても公孫賛軍は勝ったという風聞を手に入れることになるのだ。この時代風聞というものは無視できない。大英雄とは言いがたい公孫賛であれば猶更だ。

 

 野心があるとして、彼女に最も必要なのは実績と何より自分を大きく見せる良き風聞である。連合軍が最終的に勝つにしろ負けるにしろ。ここで勝つことができれば公孫賛はそれを手にすることになる。

 

 そして初戦で胸のすくような大勝利を収めれば、次は自分がと諸将も腰を上げることになる。最初に危険を負うことである程度の後の安全を買うことになるのだ。結果的に今の汜水関の戦力は薄くなっているのだから、忌々しいことではあるが負った危険に比べて遥かに美味しい見返りを得ることができる。

 

 ただし、それもここで勝つことができればの話だ。

 

「まだ負けた訳ではない。私たちがいる」

「……すまんなぁ」

 

 霞の目には涙が光っている。華雄の言う私たちの中に霞は含まれていない。汜水関で戦うのは華雄とその部下たちのみであり霞は虎牢関に向けて移動する部隊を指揮する手はずとなっていた。

 

 最悪の場合は虎牢関と汜水関の間に布陣することになるが、広い場所での戦闘はむしろ神速の張遼の望むところである。

 

 汜水関はほとんど空になる。関の外、連合軍と向かい合う形で華雄の部隊は布陣しており、関の城壁付近にはどうあってもと汜水関に残ることを選んだ兵たちがいる。それで全軍だ。外の華雄隊が戦闘を放棄すること即ち、汜水関の陥落である。

 

 撤退する仲間の為に殿を務める。結果として華雄が自分から言い出したことであるが、できうる限り時間を稼ぐという目的を考えれば、ここで残って戦うというのは死ぬのと同義だ。苦楽を共にした仲間に死ねと言うのは心苦しくはあったものの華雄はそれをした。

 

 一人でも戦うつもりでいた。最悪自分の首を手土産にあちらに寝返ることも考えられる。そんな卑劣な人間が自分の仲間にいるとは思わなかったが、何しろ命がかかっている状況だ。自分以外に守るべき人間がいる者だっている。

 

 追い詰められれば何でもするのが人間という生き物だ。実質死ねと命令する以上、何をされても文句を言える立場にはない。

 

 だが実際には誰一人として欠けることはなかった。戦える華雄の部下は全て汜水関に残って戦うことを選んだ。仲間を守るために死ぬるならば本望なのだと。バカな連中だと思うが、今はその馬鹿さ加減が頼もしかった。

 

「なに。我が人生、最大のひのき舞台だ。お前とて邪魔はさせん。それよりも、後のことは頼んだぞ。私以上に必ず、奴らに目に物見せてくれ」

「ああ、必ず痛い目見せたる」

「お前がそう言うなら安心だな。私は戻る。連中にも、月さまにもよろしく伝えてくれ」

「……武運を」

 

 騒々しい奴ではあったが気持ちの解る良い女だ。こういう時、素直に悲しいと思える霞を華雄は好ましく思っていた。もっと交流しておけばと今更思うが、それも叶わぬことだ。運よく生き延びることができたら、また考えることにしよう。

 

 自分はおそらく、明日死ぬだろう。残った人間は皆、その覚悟を固めてここにいる。全員で逃げることはできた。事実、詠もねねもそういう作戦を立案した。これで無理なく行ける! とねねなどは豪語していたが、こうした方が遥かに効率が良いことは頭が悪いと自認している華雄の目から見ても明らかだった。

 

 誰かが立って時を稼がなければならない。そうしなければ軍団そのものが瓦解してしまう。それは兵力的な面であり、士気の面でもある。ここで何をせずに負け全員で逃げたとあっては、残った人間が立ち直れなくなってしまう。

 

 ここは抗う場面なのだ。

 

 そして戦うことのできる人間は、華雄とその手勢が最適だった。その結果さえ策を巡らせた人間の差配に因るものだとすれば、舐められたものだと思う。誰よりも与しやすいと思ったのか。私ならば勝てると思ったのか。

 

 良いだろう。ならばその思い上がりごと粉砕するまでだ。力の続く限り、命の燃える限り、戦い、殺す。気持ちの高ぶらなかった戦など今までなかったが、今この時、死戦を前にして華雄の心は燃え立っていた。

 

 それは共に戦う部下たちも一緒なのだろう。汜水関の大門の前。華雄軍の布陣したその場所では皆が思い思いのことをして過ごしている。ささやかではあるが宴も開かれている程だ。

 

「別れは済みましたので?」

「ああ。霞ならば後は上手くやるだろう。後は私たちが思う様、暴れまわるだけだ」

「簡単な話ですな。いや、軍師殿たちの作戦、上手いこと俺たちを動かしてくれちゃあいるんでしょうが、考えて動くというのはどうにも性に合いませんや。目についた人間をかたっぱしからぶっ殺す。戦というのは、そういう単純なもんじゃなきゃあいけません」

「私の部下らしい。結局、座学などは好まなかったな」

「学って字面がいけないんでしょうかね。俺は今も昔も村の暴れもんでさ。それがしてることは変わらんのに兵という肩書がつきゃあロクデナシから真人間に早変わりだ。それで良い思いもしました。家は兄が継いだし散々怒らせた親父にも散々泣かせたお袋にも少ないが孝行もできた。思い残すことはありません。連中に目に物見せてやりましょう」

 

 副官の言葉に他の隊員たちも続く。華雄の部隊ははみ出し者が多い。

 

 現在、洛陽周辺の帝国軍の実権は月が握っている。十常侍と対立したことに加え月が実権を握ることを是としなかった者たちはこの周辺から離れていった。彼らの選択肢は二つ。連合軍に合流し一気に月を叩くか今は雌伏の時と耐え然るべき時に立ち上がるかだ。

 

 帝都を離れた有力者の多くは後者を選んだ。月がこの戦で失脚するかしないとしても大きく力を削がれると見越したのだろう。彼らは今回の更に次の戦を見越して動いている。

 

 華雄たちの目から見てそういう連中についていった者たちは非常に()()()()()()。中流以上の出身者が多く上昇志向の高い連中は華雄隊とは相性が悪かった。がっついているという点では華雄隊も似たようなものだが彼らの心根はもう少し即物的だ。

 

 勇猛果敢ではあるが思慮に欠ける。戦果では勝てないからこそそれ以外の要素をお行儀の良い連中は責めてきたものだが武力衝突をすることはついになかった。戦えば勝てないことは彼らも解っていたし長く洛陽周辺にいた彼らよりも華雄たちの方が月たち涼州閥の面々と波長が合った。

 

 古参であるというだけで彼らは主流派ではなかったのだ。いずれ袂を分かつとは思っていたがいざその時がくると心地良いものだ。戦に私情を挟むべきではないと解っているものの守るべきものの中にいけ好かない連中が交ざっていると思うと聊かではあるが武器を振るう腕も鈍るというものだ。

 

 これで心置きなく戦うことができる。思い残すことは何もない。後は思う存分武器を振るい、そして死ぬだけだ。

 

 とっておきの食糧を華雄は全て振舞うことにした。明日死ぬのだ。せめて飲み食いくらい好きにさせてやるのが人情というものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かおかしい。その情報が連合軍にもたらされたのは攻撃をする朝のことだった。それでも何がおかしいのかまでは知れ渡っていない。それが知られていたら公孫賛主導で攻めるなど承認されなかっただろう。

 

 今がまさに攻め時であると確信を持って行動できているのは、公孫賛とその周囲の人間。後は諸々の事情からそれを察している者たちだけだった。

 

「当日朝になって言うのも何ですが、実は関の中に内応する人間がいて既に策が決まっており、主に戦えるのは外にいる華雄隊だけ。我々が近づけば門まで開く可能性があり関はもぬけの空に近い状態である……そんな情報を俺が持ってきたらどう思いますか?」

「頭が沸いたと思って殴り飛ばすな」

 

 それくらいに現実味のない話であるのだ。一刀も雛里が大丈夫だと言うから全面的に信じているが、他人から聞かされたら半信半疑とさえいかなかっただろう。納得させるだけの証拠がないのに兵を出す決断をしてくれた孫堅にはいくら感謝してもし切れない。

 

「外の兵を率いているのは華雄だ。それは私達が引き受けよう。一騎打ちを挑まれた場合はうちの趙雲に任せることになると思うが、やりたいという人間はいるか?」

 

 当日朝の軍議。一応、という形で公孫賛は意見を募った。集った中にも腕に覚えのある人間はいたが、全体を率いる公孫賛本人がアテがあると言っているのに、では自分がと言える程図々しい人間はいない。やるにしても順番というものがあり仮に思春がやるとなれば公孫賛が選んだ趙雲が負けた後ということになる。

 

 そして、外の一騎打ちで負けたとなれば一度撤退することまで視野に入れなければならない。今回の思春はあくまで主人の代理で来ているのであって、戦の方向性を決定する権利はほとんどない。

 

 一番の貧乏くじを引き、一番身体を張っているのが公孫賛なのだ。やりたいようにさせるのが筋というものだろう。そこは他軍から付き合うことになった面々も同意見のようだった。

 

 公孫賛軍に追随することになったのは結局、孫堅軍を除けば曹操軍と馬超軍の二つ。曹操軍からは楽進という若い女がやってきた。ここ最近曹操軍に加わった武将で頭角を現している最中の女傑である。実績は皆無に近いから大抜擢と言えるだろう。気合の入りっぷりは甘寧の目から見ても凄まじい。

 

 馬超軍からは名代である馬超の従妹である馬岱が来た。こちらは流石に戦慣れしているのか飄々としている。騎馬のみの構成であるからしてどういう状況になっても関の中までは踏み込む意思はないように思える。

 

 最悪の場合、甘寧の指揮する約三千のみで関の制圧に乗り出すことになる訳だ。関の規模を考えると常軌を逸した行動であると言わざるを得ない。その時の立ち位置に依っては楽進も追随しては来るだろうが期待はせずに考えておく。

 

 外の戦力を公孫賛軍をあてにして素通りできたとして、あの大きな門が問題なく開いて汜水関の中に侵入できたとして、中にいる戦力が思春隊だけで何とかできる数でなければその後が続かない。脱出できずに各個撃破などされた日には良い笑い物だ。

 

 他人の言葉に乗っての出陣であるが、それだけに失敗する訳にはいかない。

 

「明命。首尾はどうだ?」

「ようやく入れました……」

 

 気配を感じ取れない人間にはその場にいきなり現れたように思えるだろう。声を挙げて驚く一刀を、他の連中がからかっている。

 

 手隙になった明命が送り込まれたのは一刀が情報をもたらしてすぐのこと。明命の足である。行って戻ってくるだけならば大した距離ではないが今朝この時まで時間がかかっていたのはそれだけ厚い監視の目が敷かれていたからだ。

 

 その監視の目が今朝になっていきなり解かれたのだ。それまでは明命が十人いても中の情報を持って帰ることができないような有様だったのにである。監視する必要がなくなったのだと気づいたのは、関に侵入してからだった。

 

 仮に明命よりも先に情報を持ち帰ることができたとしても、盟主の名前で決定された公孫賛の出陣を覆すことはできず、今から援軍をねじ込むことも難しい。公孫賛が連合軍で最初の栄誉を手にするまで、後は勝つだけと相成った。

 

「反対側からひっそりと残存勢力が移動を開始しています。そちらの指揮はおそらく張遼。後詰は騎馬中心の編成です。傷病者が多いのか進軍の速度は緩やかですが追手がかからないという前提なのでしょう」

 

 仮に今日汜水関を落とせたとしても数万の軍にすぐに追手を判断できるような盟主ではない。他人が大手柄を立てたのだからじゃあ私もと行ったとて、逃げる部隊を追いかけるような迅速な行軍は袁紹軍には無理だ。

 

 あくまで追手を立てるのであれば最低限足の速い部隊で本体が追いつくまで足止めということになるが、騎馬が売りの公孫賛軍と馬超軍は汜水関の攻めに参加し功績を挙げたばかりだ。ここで更に功績を立てられたらと考えるのが袁紹としては普通である。

 

 そしてこれらはこちら側でさらに事情に通じているからこそ判断のできることだ。追手がかからないという前提で行動するのはあちら側の立場からすればかなりの博打だったはずである。正気を疑う将の判断に少なくとも表面上は全ての兵が従っているのだから、関を捨てて撤退しているにも関わらず士気が高いことが伺える。

 

 次にこれを相手にするのは骨が折れるだろう。

 

 ここで楽をするということは次で苦労するということでもある。無傷の軍がそのまま虎牢関に移動するのだから最低でも防衛戦力が五割増し。汜水関から移動する連中の状態によっては倍まで近づくことも考えられるが兵糧などの問題からその内何割かは虎牢関を素通りすることになるだろう。

 

 どれだけ増えるかは解らないにせよ当初の想定よりも戦力が厚くなるのだ。ここで利を得る公孫賛以外は貧乏くじを引くことになる訳だから、初戦で大勝するとしても喜んでばかりもいられない。

 

「汜水関の中は?」

「多く見て千といった所でしょうか。主に城壁の上に集合していますので、最初の制圧目標はそこになるかと思います」

「これが肝心なのだが……扉は開くのか?」

「大岩が数個扉を塞いでいますがあれなら私でも()()()()。汜水関の工作をしていた草は撤退したようですがこちら側の監視をしていた董卓軍の草も消えました。今なら私一人でも大丈夫です」

「その、大岩が塞いでいるんですよね? お一人で大丈夫ですか?」

 

 質問をしたのは一刀であるがそれはその場にいた甘寧以外の全員の疑問だった。甘寧隊に所属している人間なら自分たちの代表が超一流の所謂忍者であることは知っており、眼前のいかにもな忍者ルックの少女も甘寧には劣るものの、同様の技術を持っていることは知っている。

 

 知ってはいるが、それで納得できるかはまた別の話だ。戦場に立つ女性は見た目通りの能力をしていないことが多いが、この忍者少女について知っていることは見た目通りの能力を持っていることのみだ。仮に怪力を持っていたとしても、あの大扉を塞ぐような岩を一人でどうにかできる程とは思えない。

 

 忍者少女は小さく首を傾げて一刀を見た。長い黒髪がさらりと揺れる。視線を向けられる理由が解らなかった一刀は姿勢を正した。忍者少女――周泰は甘寧よりも席次は劣るとは言え将軍の一人に数えられる人間で一刀から見ればまだまだ雲の上の人だ。

 

 いきなり無礼打ちということはなかろうがもしかしたら怒られるかもという反射的な行動だったのだが周泰は単純に荒くれ者の中に随分綺麗な顔をした人間がいるものだと不思議に思っただけだった。首を傾げてそれが噂の北郷一刀であることを思い出した周泰はにっこりと微笑み、

 

「問題ありません。現物を見て仕込みの内容も確認しました。私一人でも崩せます!」

 

 二度目の言葉に一刀はようやく力まかせに動かすのではなく、何らかの方法で排除できるのだということを悟った。将の割に腰の低い少女の輝くような笑顔に一刀だけでなくその場にいた全員が甘寧の顔を見たが、甘寧は特に気にした様子もなく手近にいた副将の男性を殴り飛ばした。いつも通りの光景に古参の甘寧隊の面々から笑い声があがる。

 

「まさに至れり尽くせりの状況だな」

 

 明命の報告であるから事実と大きく異なるということはないだろう。それでも、近くまで行けば見上げる程大きいだろうあの関をここまで簡単に抜ける算段がついているなど信じがたいことではあるが、お膳立てが事実である以上やらないという選択肢は存在しない。

 

 連合軍の布陣は騎馬隊のみの公孫賛隊が約八千。その中核である白馬陣がおよそ二千。これは公孫賛軍の精鋭中の精鋭である。騎馬はこれに馬超軍から出張ってきた馬岱率いる二千がいる。これは遊軍かと思いきや公孫賛の指揮下に入るらしい。

 

 歩兵は張飛が率いるものが五千。これは元々関羽に付き従ってきたものである。関羽がいないためその指揮を張飛が引き継いだ形だ。元々公孫賛軍に属する歩兵は約一万。決して弱兵でも少数でもないのだが騎馬主体であるという印象は軍団を構成する彼らでさえ思っていることらしく、対外的にはいまいち精強とは言いがたい集団である。

 

 同数で戦えば間違いなく孫呉軍が勝つだろうというのが甘寧の見立てだ。公孫賛歩兵を指揮するのは趙雲であるが彼女は一騎打ちを挑まれた時に戦う担当である。ならばその指揮はどうするのかと言えばこれは張飛が引き継ぐらしい。あの小さな身体で一万を超える兵を指揮できるものかというのが甘寧の思う正直な所だ。

 

 しかしできると本人が言っているのだからできるのだろう。見た目で判断するならそもそも一刀が率いる中にさえ少女はいる。戦場では実力が全てだ。見た目はあまり関係がない。

 

 視線を汜水関に戻した甘寧はゆっくりと開戦の時を待った。布陣は既に済んでいる。今日戦う意思があることは汜水関の守備隊も理解している。どちらかが奇襲をしかけるのでもなければ、開戦は示し合わせて行われる。無駄な慣習だと思うものの守らなければ角も立つ。

 

 そしてこの手の仕切りは集団の代表が行うため、援軍である甘寧隊はまさにすることがなかった。待つことも仕事だとぼんやり待っていると、汜水関の手前。布陣する歩兵たちの中から一人の武人が歩み出てきた。翻っている旗は『華』である。情報の通り汜水関を守る将の一人――現在は最後の一人である華雄だ。

 

「誰か! この華雄の死に戦に華を添えるものはあるか!」

 

 これで開戦かと甘寧は静かに指示を飛ばす。一騎打ちは受ける手はずであるから、その段取りがついてからになるが、開戦の時そのものは近い。指示が浸透するのを感じつつ、視線を中央の軍に飛ばす。元々戦闘に立っていた趙雲がゆっくりと歩み出て行った。

 

「ならば、華雄よ。この私が相手をしよう」

 

 当初の取り決めの通り、集団の中から趙雲が歩み出た。白い装束に赤拵えの大槍。暗色の多い戦場の中趙雲の装いは非常に目立った。暗色で揃えた華雄とは対照的である。

 

「名は?」

「趙雲。字は子龍」

「ああ、『常山の昇り龍』か。相手にとって不足はないな……どうした、何をにやけている」

「いやいや、相手に呼ばれたのは初めてだったものでな。少しだけ感動していた」

 

 あまりに凄まじい活躍をした個人、あるいは集団に送られるのが二つ名というものである。基本的には本人たち以外の誰かが適当に呼び出し通りの良い物が定着して残るという形である。あまりに強烈な一つが残ることもあれば複数の二つ名が残ることもある。関羽の美髪公などは前者の例だ。

 

 そんな中、趙雲の常山の昇り龍は美髪公に比べると通りが悪く知る人ぞ知るという段階に留まっている。まだ趙雲という本名の方が通りが良い位だ。それだと二つ名の意味がないと機会があれば自分で名乗っている位の伊達女が、最も呼ばれて欲しい名前で呼ばれたのだ。どれだけ嬉しかったかは推して知るべしである。

 

「てっきり力不足と言われると思っていた。お前の目当ては美髪公であろう?」

「そりゃあ戦いたくないと言えば嘘になろう。だが私の前に現れたのはお前で美髪公ではない。天が私にお前と戦えと言っているのだ。お前こそが私の天命。これを打ち破らねば生まれてきた意味もないというものだ」

「……そこまで思われていたとは女名利に尽きるというもの。ならば問答は不要! 天も地も人も! 我らの戦いを汚すこと能わず! 我らのどちらか、その息の根が止まるまで」

「ああ、存分に殺しあおう。お前たち! 後は好きに戦え! 邪魔したら呪ってやるからな!」

 

 その言葉を聞いて華雄の部下たちは安心した。芝居がかった口調のやり取りははっきり言って噴飯ものだった。死戦の前の口上なのだから邪魔しては悪い。ここで笑ってしまえば連合軍よりも先に華雄本人と戦わなければならなくなるとと全員我慢していたがそれもそろそろ限界だったのである。

 

 好きに戦えと言われた兵たちはどっしり腰を落ち着けた。華雄たちの一騎打ちに邪魔を入れないのであれば戦場はなるべく関に近い方が良いだろうという配慮である。それは騎馬を繰る側である公孫賛にたちにとっては微妙に良くない判断だった。

 

 速度と重量が売りの騎馬にとって、己よりも動きが遅く軽く何より動いている敵が最もカモにしやすい敵だ。華雄隊の噂は聞いている。固まって動くにしても、こちらに向かってくると思っていたのだが。

 

 最初からの予想に反する動きに公孫賛の動きも一瞬鈍る。良くない兆候を感じ取っていた。そも、いつもの自分の立場からすれば、この状況こそが出来過ぎているのだ。ここまでお膳だてしてもらったことを考えれば、今更多少の不利を被った所で大したことではない。

 

 一人ではただの貧乏くじを引かされていただろう自分に、愛紗たちは策を授けてくれた。自分も派手に戦いたかっただろうに、愛紗に至っては自分から日陰の役を引き受けてくれた。本来であれば自分が受ける筋である一騎打ちも、星が引き受けてくれている。更に曹操と孫堅と馬超は、自身の思惑もあるだろうが兵まで貸してくれた。

 

 負けられない。決死の思いで戦いに望んでいるのは華雄隊も一緒だろうが、それは公孫賛とて同じことだった。剣を抜き放ち檄を飛ばす。

 

「張飛隊は予定の通り前進。華雄隊を正面から迎え撃て。楽進、甘寧隊は張飛隊を側面から支援。状況によっては関を目指せ――つまりは予定通りだと伝えてこい。騎馬は好きに動け」

「よろしいのですか?」

「蒲公英なら上手くやるさ。私達は連中を削り殺して歩兵の援護だ。幽州の騎兵が精強であることを世に示すぞ。出撃!」

 

 一騎打ちの邪魔はしないように。そうした配慮を両軍がする形で始まった戦いは総合すると一進一退の様子となった。守備隊兵士の士気は高く一人でも多くの敵を道連れにすべしと意気込んではいたが、兵の練度は同等でも指揮官の差がここで出る形となった。

 

 中央の歩兵隊を指揮していたのは張飛である。まだ年若く関羽の妹として知られる彼女だが兵の運用については天才的な感性を持っていた。長期的な視点については欠落している事が多く、義姉の関羽に小言を言われることもしばしばだが、短期的な運用については関羽も目を見張るほどだ。

 

 中でも単純な押し引きについて張飛の運用は他の追随を許さない。彼女が出す指示は突撃と撤退の二つ。撤退する時は全員で撤退するため、事実上、戦場で彼女から聞く指示は突撃の一つだけだ。具体的にどうしろと張飛は言わない。張飛が突撃と言う時、そこには既に突撃する場所が用意されている。

 

 兵たちはそこに向かって力の限り突撃し別命あるまでその場を維持する。張飛の仕事は兵たちが突撃する場を作ることでありここに武人としての才能が発揮されている。全体の弱っている場所が感覚的に解る張飛はそこに向かってまず突っ込み兵を誘導するのだ。

 

 突撃、粉砕、勝利。張飛隊の運用は三語に集約される。関羽の運用を鉈の一撃とするなら、張飛の運用は槌の一撃。ただしその槌には千人二千人の兵の集合体である。兵団を縦横無尽に振り回す様は無邪気な容姿も相まって、戦場で相対する敵には悪い夢のように思える。欠点があるとすれば比較的兵の損耗が激しいことだがそれを誤差と思わせる程に敵兵を蹴散らす。

 

 事実彼女の蛇矛は、兵の槌は思う様に守備隊を蹂躙していたが守備隊の士気の高さもさるものだ。ここが死に場所と踏みとどまる彼らは、当代随一の運用を以てしても蹴散らすことはできずに持ち堪えた。

 

 ここにいるのが歩兵だけであればすさまじいまでの消耗戦になったことだろう。張飛隊も守備隊も加速度的に兵を失っているが、その速度は明らかに守備隊の方が早かった。公孫賛率いる騎馬隊の存在である。

 

 守備隊にも存在していた騎馬隊は瞬く間に蹴散らされる。

 

 また中央の兵たちが持ちこたえている間に、白馬陣を始め騎兵の軍団が守備隊の数を的確に削っていた。兵数に余裕があるのであればもっと騎馬に備えを残した守備隊も、張飛率いる歩兵の前ではそうもいかない。歩兵の力は拮抗していても、騎馬に依る攻撃によって守備隊の兵の損耗は連合軍よりも激しいものとなった。

 

 そのままではじり貧であることは解っていたがここで戦い意地を示す以外の道は守備隊にはない。少なくとも華雄が戦っている内は。一人でも多く。一時でも長く。末端の一兵に至るまで死に物狂いで戦う守備隊に相対した連合軍にも僅かに綻びが出始めたのは、戦いが始まっておよそ一時間してからのことだった。

 

「楽進の兵が押し込まれているようだな……」

 

 全て歩兵である甘寧隊と楽進隊は張飛率いる公孫賛隊を挟む形で展開している。守備隊も連合軍も最初は関と並行になるようにほぼ一直線に展開していたが、一進一退の攻防を続ける中央の張飛達を他所に関に向かって右側に展開した楽進軍はじわじわと押し込まれ始めていた。

 

 逆に甘寧隊は押し込んでいる形であり、総合すれば状況は拮抗していると言えるだろう。そも歩兵の兵数に違いはなくとも、こちらには向こうにはない騎馬隊がいる。それを指揮しているのは公孫賛。あちらの頼みの綱である華雄が一騎打ちで出払っている以上、中央で張飛を相手にできる猛者は向こうにはいないはずだ。

 

 騎馬の攻撃を防ぐ有効な手段もない。時間さえかけることができれば勝ちは動くことはない。確かに守備隊は精強であるが、それ以上に公孫賛の騎馬隊の動きが凄まじく、勝利は時間の問題に甘寧には思えた。

 

 後は一騎討ちの勝敗が決するのを待つのみ。趙雲が負けるとは考え難いことではあったが、仮に負けたとすれば孫呉軍の名前の売り時だ。背後で戦う二人の武人に気を配りつつ、もしもの時は指揮を部下に任せて一騎打ちに行くつもりで敵を打ち取っていた甘寧は張飛たちを挟んで反対側で展開する部隊の劣勢を感じ取っていた。

 

 戦いの前に見た限りでは良く訓練された兵に見えた。少なくとも練度の面に於いて汜水関の守備隊と比べてもそう見劣りするものではないはずだが、指揮する楽進は将としてはまだ経験が浅いようだった。

 

 その経験の浅さが悪い方向に出始めているのだろう。相手の士気の高さは目を見張るものがある。いくら才気溢れ将来を嘱望される将軍であっても相性の悪い敵やらめぐり合わせの悪い時はあるものだ。

 

「曹操に恩を売る良い機会だな。北郷。お前の団全員を連れて救援に行ってこい」

「その後はどうすれば?」

「楽進隊が総崩れになるようなら見捨てて構わないが、そうでないなら戦闘が終わるまで戻ってくるな」

「了解。ご武運を」

 

 言うが早いか一刀は兵を率いて駆け出した。目的の戦場までひとっとび! であれば良かったのだが万単位の人間が入り乱れる戦場は現代人の一刀の感覚では物凄く広い。戦場の端からでも楽進隊の劣勢を感じ取った甘寧であるが、救援の兵が到着する頃には全滅していてもかけた時間的にはおかしくはない。

 

 面識のない兵、面識のない将であるが同じ戦場で同じ陣営に立って戦った仲間だ。できることなら死んでほしくないものだがと心中で祈っていると、その祈りが通じたのか、楽の旗はまだ倒れていなかった。

 

 甘寧隊と状況設定が変わらないのであれば相対する守備隊の数はおよそ同数か、連合軍よりも少なかったはずだが楽進隊は大きく数を減らし守備隊側に半包囲されている状態だった。楽進隊の先頭で戦っているのが将である楽進なのだろう。乱戦の最中にも少女の雄叫びが聞こえ、その度に轟音と共に兵が文字通り宙に舞っている。

 

 個人の戦闘力は離れて見ていてもかなりのものだったが、劣勢の味方を援護するために立ちまわっている故か思い切って動けていない。このまま助けなければ甘寧の言った通り本当に総崩れになるだろう。

 

 一刀の顔に苦笑が漏れた。まさに恩の売り時である。

 

「梨晏。百を連れて敵背面から攻撃。射線が通るようなら指揮者を射殺してくれ。俺とシャンは残りを率いて側面からだ。一当りしたら梨晏は俺たちと合流。まずは半包囲を解いて楽進隊を救い出す」

「了解! シャン、団長をよろしく!」

 

 宣言の通りシャンと共に突撃をかける。見えてはいたのだろうが予定外の戦力の外からの攻撃に集団の対応は僅かに遅れた。それでも一刀たちは少数だ。僅かの動揺で立て直した守備隊は一刀にも牙を向ける。流石にこの流れで汜水関に残るだけあって当りが強い。荊州で戦った兵隊崩れの盗賊とは訳が違うが、一刀たちとてそれを乗り越えてきた。相手が強いというだけで負ける訳にはいかないのである。

 

 相手に押された風を装って守勢に回り敵の勢いを受け止めていると、突然、守備隊の後方に大きな動揺が走った。梨晏の狙撃が成功したのだ。何を聞くでもなくそれを悟った一刀は一転攻勢に切り替え押しに押し込んでいく。

 

 歴戦の猛者も流石に指揮官がやられたのは効いたと見えて、大きく距離を取って後退し陣形を整え始める。追撃はないと見ての大胆な行動だが事実その通りだ。数の上で対抗しうる楽進隊はあちら以上にがたがたで、一刀たちは守備隊を殲滅しきるほどの戦力ではない。あれを撃破するには最低でも楽進隊と合流する必要があった。

 

「孫堅軍、甘寧将軍配下、北郷一刀です。窮地と聞いて救援に参りました」

「曹操軍、楽進です。救援に感謝致します」

 

 初めて見る楽進は見るも無残な有様だった。全身は頭から血を被ったように真っ赤である。大怪我でもと思ったが全て返り血のようだった。見た所怪我をしている様子はない。最前線に立って味方を鼓舞しながら戦っていたのだろう。彼女の周辺だけ温度が高いように錯覚する。荒い息、白い煙。血と混じって流れる赤い汗に思わぬ艶めかしさを感じていると両側から拳が見舞われる。

 

 呻かずに耐えられるギリギリの威力で突っ込みを入れて来た梨晏とシャンに視線を送らないようにしながら、一刀は姿勢を正した。今は戦場。甘寧の指示を完遂するところだ。

 

「……差し支えなければ、このままここで戦わせて頂きたいのですが」

「お気遣い感謝します」

 

 戦場に立った経験は自分と大差ないはずだ。それが大軍を任されたのに多くの兵がやられてしまった。普通の人間であれば気落ちする場面のはずなのに楽進の目からまだ闘志は消えていなかった。戦場での失点は戦場で取り返すという強い意思が感じられる。将としてのアドバイスなど一刀にできるはずもないがやる気を失っていないのは共に戦う人間からすれば良いことだ。

 

 白い旋風が駆け抜けた。組み合っていたのならばまだしも離れて陣形を組み直していた守備隊は良い的だったのだろう。横からけしかけた白馬陣が眼前の守備隊をなぎ倒していく。先頭を走る公孫賛がすれ違いざま剣で兵の首を跳ね飛ばすのが見えた。去っていく白馬義従は倒した兵たちに見向きもしない。これくらいは当然だという武将の背中に一刀は将の強さを見た。

 

 そして同じものをその背中に感じたのは一刀一人ではなかった。楽進は頬を叩いて自分に活を入れると自分と仲間たちを鼓舞した。

 

「ここで死した仲間たちにはまず敵を打ち滅ぼして弔いとする! 奮い立て曹魏の兵よ! その武勇を世に示すのだ!」

 

 



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第036話 反菫卓連合軍 汜水関攻略編③

 正直に言えば、星は華雄という武将を舐めていた。自分と比べて一段は劣る。苦戦は免れまいが勝つだけならば問題のない相手と考えていた。

 

 それが思い違いであることを知らされたのは一合武器を交えてからだ。この相手は自分を殺しうると直感してからは気持ちを切り替え全力で相対した。一合目で気づくことができたのは星にとっては幸運なことだった。一合持たずに切り殺される。その可能性も十分にあったのだから。

 

 渾身の力を込めた槍がやはり渾身の力を込めた槍で弾かれる。どれもこれも必殺の一撃だ。それを百合、二百合。既に星の息は上がっていた。それは華雄も同じである。二人とも顔には凄絶な笑みが浮かんでいる。息苦しさの中に確かな恍惚があった。死力の中の死力を尽くしてようやく勝てる……かもしれない相手。そんな相手に巡り合うことができるのは一生に一度あるかないかだろう。

 

 絶妙に実力が拮抗している。

 

 次の瞬間に殺されているのは自分かもしれない。その危機感に命のやり取りをしている最中にも関わらず星は快感を覚えていた。これがずっと続けばどんなにかと思うが、そうはいかないのが戦というものであり、人生というものだ。

 

 名残惜しいと思う気持ちは華雄とて同じであるが、命のやり取りをしている者特有の冴えた直感が、この戦いがもうすぐ終わることを二人に知らせていた。

 

 この戦いに問答は無粋である。示し合わせたように一度距離を取った二人は武器を構えた。喧噪は続いていた。戦はまだ続いている。どちらかが死んでも戦が終わる訳ではない。これからも戦いは続く。むしろこれからの戦いが本番なのだ。

 

 その戦いに、どちらかは参ずることはできない。それはとても無情なことで、正しいことだ。倒す。殺す。そして自分は生きるのだ。そんな本能的なことを超越して、ただ単純に星は目の前の武人に勝ちたいという欲求が勝った。忠節も名誉も、今この瞬間にはどうでも良いことになっていた。

 

 踏み込み、槍を振りぬく。数百合の打ち合いに耐えた槍はかん高い音を立てて半ばから折れた。細かな金属の破片が舞う中、華雄を見る。彼女の槍もまた半ばから折れていた。視線が交錯する。

 

 ただ、華雄はそこで動きを僅かに止め、星はそのまま動いた。それが二人の命運を分ける。

 

 槍を振りぬいた勢いそのままに星は身体を回転させる。半ばから折れた槍を握りしめ、反転。石突で無防備になった華雄の腹を突く。骨が砕ける鈍い感触。華雄が血反吐を吐くがそれでも星の動きは止まらない。

 

 槍から手を放し、星は雄叫びを挙げた。地よ砕けよという強い踏み込みと共に、顎に拳。戦い始めて初めて、華雄の身体が宙を舞った。背中から受け身も取らずに地に落ちる華雄に星は深い溜息を吐いた。自分の呼気の中に、血の匂いがする。重傷ではないが大怪我だ。

 

 もう休みたいと大合唱する体に鞭を打ち、折れた穂先を探して握りしめる。身体を引きずるようにして倒れた華雄の所に行くと、彼女はまた大きく血を吐いた。致命傷ではないが重傷だ。闘志は萎えていないようだが気持ちは既に切れている。しばらくは立ち上がることもできないだろう。

 

 穂先を握る手に力を籠める。これを突き刺せば、自分の勝ちだ。公孫賛の客将の一人として、武人として責務を果たさなくては。極めて無感動に星は穂先を振り上げ――そして、地面に取り落とした。そのまま華雄の傍らに、どかりと腰を下ろす。

 

 この好敵手を殺すのは惜しいと思ってしまうと、戦うという気持ちがぶつんと切れた。無理やり動かしていた身体が悲鳴を上げてついに動かなくなる。高ぶっていた感情が暴走し、意味もなく涙が溢れた。このまま寝入りたい気持ちを強引に抑える。せめて勝者としての義務を最低限は果たさなくては……。

 

 ここで殺されると思っていた華雄は首だけを動かし、急に泣き出した星を見ていた。奇行を始めた今、逆転の機であるのだが、身体の具合では華雄の方が遥かに深刻である。動けぬ身体で無様を晒すくらいならば意識がはっきりしている内にトドメを刺してもらいたいのだが、泣き出した相手は今度は急に笑いだした。

 

 戦中、兵の気が触れるというのは良くある話だ。華雄とて何人もそういう人間を見たことがあるし、処置なしと判断した時には味方でも切り捨てた。気が触れた人間とそうでない人間は見れば解る。眼前の武人は明らかに正気であるのだが、笑い声は止まらない。正気のまま奇行をしているのだ。

 

「……できればここでさっさと殺してほしいのだがな」

「やめた。降れ。そうすれば美味い酒と秘蔵のメンマを振る舞ってやろう」

「今更食い物で命を惜しむものか。勝者の務めだろう。殺せ」

「いやなに。私とここまで打ち合える人間を、殺すに惜しいと思うのは当然のこと。今仕えている御仁はな、優秀ではあるが恐ろしく自己評価の低い御仁で、人にも恵まれておらん」

「美髪公やお前がいるではないか」

「私はともかく、愛紗は腰かけのつもりだろう。これはこれで本気だろうが、既に思い定めた人がいるのだな。私は……いや、私もそのつもりだったのだが、お前と戦っている内に事情が変わってしまった。私と、後もう一人くらいいれば、あの人でも上を目指せるではないかとな」

「それは貴様の事情で私の事情ではないな」

 

 とりつくしまもない返答である。ここに自分と華雄だけであれば星も諦めただろうがそうではないことを星は知っていた。痛む身体に鞭を打ち、天に届けとばかりに大音声をあげる。

 

「勇将、華雄の精兵たちに告ぐ! こちらの華雄殿の命運はこの趙雲の手の中にある! その強さと忠義に免じて道を示す。今再び、華雄殿と共に戦場に立ち、共に酒を酌み交わしたいと思う者は、武器を捨て投降せよ!」

 

 一人の将軍が指揮する部隊として、華雄隊は董卓軍の中で張遼隊に次いで二番目に多い。張遼隊は大規模な騎兵団とそれを補佐する歩兵で構成されているため、ほぼ歩兵で構成される部隊としては董卓軍の中では最多であり最精鋭である。

 

 大将の気質を反映した勇猛果敢な部隊として知られ華雄に忠義を尽くす命知らずの集団だ。この決戦に臨むに当たって命を惜しむ者は一人もおらず、命尽きるまでと死力を尽くした兵たちは大いに公孫賛軍を苦しめていた。

 

 星が華雄を下した時点で華雄隊の生存者は一割を切っていたが、気炎万丈。士気は落ちることなく兵たちは武器を振るい続けている。

 

 そんな兵たちに星の声が届いた。彼らは命を惜しまない。彼らは戦い敗れ死んだとしても後悔などしないし本望として死ぬ。恐れることがあるとすればそれは敵味方から臆病者と謗られること。彼らは己の名誉のために戦っていると言っても過言ではない。

 

 連合軍、引いてはそれを組織した袁紹憎しという思いも当然あるが、偏に、戦いの中で生き、そして死ぬことが彼らにとっては自然なことであり望むことであるのだ。

 

 であるならばここを死地と定めた兵たちの動きを止めることなどあるはずはない。ないのだが……星の声に生き残った兵たちは顔を見合わせるとあっさりと武器を投げ捨て両手を挙げた。命の限り死ぬまで戦うと決めた兵たちが戦うことを放棄したのだ。

 

 これには交戦していた公孫賛軍の兵たちも困惑する。

 

 死を恐れない彼らは、華雄の元で戦うことを誉としていた。これが最後だと思い定めていたから、死ぬことも受け入れたのである。

 

 だがその華雄と一騎打ちをしこれを破った女の言うことにゃ、次があるというのだ。あの隊長とまた一緒に戦うことができるとなればここで死ぬ理由はない。彼らにとって重要なのは『どこで』でも『誰に』でもなく、『誰と』なのだ。勇将華雄と共に戦うことができるのならば場所も相手も問わない。

 

「愛されているな。お前一人の命のために、お前に付き従う者の命まで散らすことはあるまい」

「…………酒、忘れるなよ」

「メンマも忘れてくれるな。むしろこちらの方がオススメだ」

「華雄。字は夕恭。真名は夜という。長い付き合いになるかもな」

「趙雲。字は子龍。真名は星だ。なに、望む所だ我が友よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「助かりました、北郷殿」

「なに。困った時はお互いさまです」

 

 趙雲の声は戦場を駆け巡り、それは一刀たちと交戦していた部隊にも届いた。相手を殺し尽くすまで戦うつもりでいた一刀たちは、唐突に武器を捨てた相手に困惑しながらも、勝った側の義務として彼らを捕虜として受け入れていく。

 

 彼らを武装解除して後方に送ることになる訳だ。故にこれからまだ戦う部隊と捕虜を移送する部隊に人員を分けなければならない。

 

 また中途であっても戦はこれで一区切りだ。損耗の確認とそれに伴う部隊の再編など指揮官としてやることは多い。一刀隊五百の内、継続して戦闘が不可能な死傷者は十五名。この内死者は五名だ。激戦であることを考えれば驚異的な損耗率である。押し込まれていた楽進隊の損耗率が六割に届こうとしていたことを考えれば、一刀隊が如何に上手く立ち回っていたのか理解できるだろう。

 

 少数の部隊の運用に関して一刀はそれなりに非凡なものを持っている上、将としても通じる梨晏とシャンを小隊長として使うという大盤振る舞いだ。今回はそれが極めて良い方面に出た結果であり、一刀への報告を横で聞いていた楽進はその手腕に密かに感動さえしていたのだが、損耗率に関する報告は一刀にとっては楽進が感じたものとは全く別の意味を持っていた。

 

 兵を挙げてから初めての死者である。その五名は皆挙兵の二百人ではなく、孫呉軍に合流するまでに参入した面々だったが、共に訓練をしたし食事も共にした。出身がどこで好物は何か。どういう人生を歩みこれからどうしたいのか。色々な話をした。

 

 もうそういう話ができないのだと思うと胸が張り裂けるような思いだった。挙兵の時からいる兵たちは死者が初めてという事情を知っている。物思いにふける一刀を邪魔しないように部隊の見分なり再編成はシャンが代行して行っていたが、その物思いを遮るように一刀を呼ぶ声が挙がった。

 

 白馬の鎧武者。白馬陣の一名なのだろう。顔に覚えはないがその装いだけで公孫賛からの使いというのが良く解る。一刀が声を挙げると、鎧武者は一刀の前で馬から降りた。

 

「公孫賛将軍より伝令です。これより汜水関に突入。北郷隊は全員、突入部隊に参加するようにとの由」

「甘寧隊からは他には?」

「甘寧将軍が五百。それに北郷隊を加えて全軍とのことです」

 

 元々が三千。この戦いでの損耗を考えると、かなりの割合を突入に割くことになる。前情報が全て正しければ汜水関に残っている戦力は華雄隊がほぼ全てであり、関の中に残っているのはそれ以外の兵……この上なく悪い言い方をすれば、数でも質でも劣る兵である。

 

 問題なく関の中に突入できるのであれば、物の数ではないはずだ。公孫賛隊の歩兵。張飛指揮する中央の部隊だけでも十分片は付くはずであるが、態々声をかけてくれたのは白馬義従なりの配慮なのだろう。

 

「委細承知しました。直ちに部隊を再編し合流します」

 

 よろしく、と短い返事を残して鎧武者は立ち去った。一刀が兵を見回すと再編は済んでいる。残り全員で突入ということであれば、ここの捕虜は全て楽進隊に頼まなければならない。

 

「公孫賛殿の指示により、汜水関に突入の運びとなりました。捕虜の移送をお願いしたいのですが、問題ありませんか?」

「それは構いませんが……汜水関に突入とおっしゃいましたか?」

「そうなります。これからあの大門を開けて制圧しなければ」

「……公孫賛将軍はまだ戦うおつもりなのですか?」

 

 一番槍という貧乏くじを引かされた。数千の援護があったとは言え、守将の()()である華雄とその部隊の生き残りを捕虜としたのだ。義務は十分に果たしたと言えるだろう。このまま打ち切り帰ったとしてもまさか文句を言って来る人間はいないはずだ。

 

 しかし、公孫賛はやると言っている。公孫賛軍に援軍を合わせれば決して少数とは言わないものの、帝国で最も堅牢な関の一つである汜水関を抜くにはどうにも心もとない。攻城のための道具も用意されているようであるが、あくまで陥落させるつもりであるなら延べ人数でこの十倍の人員と時間が必要になる。

 

 にも関わらず、一刀の物言いに汜水関を落とせることを疑っている様子はない。まるでその算段が既についているかのようであるが……いずれにしてもここが楽進にとって考え所だった。

 

 楽進はあくまで曹操軍からの援軍である。この場での指揮官は公孫賛であるが本来の主は曹操だ。無謀、勝算なしと判断できるのであればそれに従う理由はないし、曹操からもそうして良いと言われている。常識定石に従うのであれば、このまま関を攻めるというのは正気の沙汰ではないのだ。

 

 援軍というのが楽進隊だけであれば意見の一つも言いに行っただろうが、困ったことに援軍は楽進隊だけではない。大きな所では曹操軍から楽進隊が、孫堅軍から一刀の属する甘寧隊が、馬超軍からは馬岱隊がそれぞれ参戦している。都合三勢力から三部隊だ。

 

 既にその三部隊の内甘寧隊は関を攻めることに同意しているようである。一刀の態度から察するに関を攻めることまであらかじめ話がついていたようにも思えた。その話がこちらに伝わっていないことは業腹ではあるものの、汜水関陥落の手段が確度の高い話として外に漏れてしまえば、貧乏くじであるはずの一番槍が途端に美味しい話になってしまう。限られた面々で話を進めるのは当然と言えた。

 

 勝つ算段があるという前提で考えてみると、楽進にはここで反対するのは悪手に思えた。公孫賛がやると言い甘寧が追従している以上、仮に馬岱と共に楽進が反対しても意見が覆ることはないだろう。この場で一番()()のはあくまで公孫賛なのだ。馬岱が強く反対するのであればまだしも、これで彼女まで公孫賛に追従していたら反対するだけ赤っ恥だ。 

 

 それに楽進の個人的な所を言えば、戦いが続行されるのであれば追従したい。初戦は公孫賛軍が勝利した訳だが、楽進隊がその勝利に貢献したとは言い難い。三千で出撃した部隊は半分にまで減っている。数字だけを見れば大惨敗なのだ。挽回できるのであれば挽回したいし、何より命令とは言え助けに来てくれた一刀に恩返しがしたい。

 

「お供しても構いませんか?」

「願ってもないことですが……よろしいのですか?」

「どうあれ貴方は私たちを助けてくださいました。貴方の援軍がなければ更にこの半分はこの世にいなかったでしょう。今度は私たちが恩返しをする番です」

「お気遣い感謝致します」

 

 一刀の言葉に笑みを浮かべた楽進はすぐに部隊を再編した。甘寧隊が一刀たちを合わせて千で突入するのであればそれを超えるのは不味かったのだが、生き残りの千五百の中にもう一度激戦に耐えうる状態の兵はほとんどいなかった。

 

 やる気だけはある兵がほとんどだったのが、楽進にとっては救いである。とは言え、楽進の目から見てさえこれは無理だと判断できる兵を連れていく訳にはいかない。ざっと千五百全てを見分し、楽進が連れていけると判断できたのは百五十だった。残りは中央の張飛隊の居残り組に合流して、華雄軍の捕虜の移送に協力する手はずとなっている。

 

「それでは参りましょう」

 

 集合場所は汜水関の大門を正面遠くに見る地点。元々華雄率いる中央の軍が最初に布陣していた場所である。弓を射かけられても届かない、弓手としてはかなり微妙な位置だ。

 

「無事に務めを果たせたようで何よりだ」

 

 甘寧は既に五百を選び終えて到着していた。河賊をやっていた頃からの部下たちであり、甘寧隊の中では精兵中の精兵である。悪党面の集団に衝撃を受けたものの世話になる立場であると、楽進は集団から歩み出て甘寧に頭を下げた。

 

「改めまして。曹操軍、楽進と申します。援兵ありがとうございました」

「孫堅軍、甘寧だ。礼には及ばない。汜水関の中にまで踏み入る覚悟のようだが、どのように動くつもりだ?」

「叶うならば、北郷殿の指揮下に入らせていただきたく……」

 

 ふむ、と甘寧は小さく唸った。楽進の兵は百と五十。一刀を含めた甘寧隊は約千人となる訳だが、一刀隊は好きにやらせるつもりであったため、正確には五百が二つである。あくまで甘寧隊に従うというのであれば隊の代表である自分に従うのが筋である、というのが楽進も解っているから、叶うならばと前置きをしているのだ。

 

 それ自体は別に構わない。他所の人間がいて動きが鈍くなるくらいなら、面倒なことは他人に押し付けた方が楽というものだ。一度とは言え一緒に戦った人間の方が楽進も動きやすいだろう。戦力が増えるに越したことはないし、恩を更に押し売れる良い機会だ。

 

 将としての甘寧に反対する理由はないのだが……一応部下として預かっている一刀が他所で作った縁を引っ張り込んでいるように思えて微妙に面白くない。とはいえ後の飛躍を考えている身であれば縁を繋ぐのは当然のことと言える。孫堅がそれを認めている以上、甘寧がそれに口を挟む権利はない。

 

 理屈でそれは解っているのだが、感情を処理できるかはまた別の話だ。戯れに反対してやろうか。そう思って楽進を見る。経験の浅さが態度からも見て取れる。将になって日が浅いというが、それでこの場を任されたのだから曹操からの期待の高さが伺えた。

 

 あの曹操がそこまで期待をかけているのだから、才も実力も申し分ないのだろう。残念なことに今回は裏目を引いてしまったが、戦働きでそれを挽回してやろうという気概が見て取れた。自暴自棄という風ではない。自分の状態を冷静に分析し、そこに立っている。頭が回るかは解らないが努めて冷静であろうとしている。甘寧個人としては非常に好ましいタイプの将だ。

 

「解った。北郷、上手くやれ」

「了解しました。上手くやります」

 

 何やら思う所はあったようだが、最終的に受け入れてくれたことに一刀と楽進は揃って胸をなでおろした。楽進隊が合流したことによって一刀隊の数は少し増える。

 

 一刀隊の現在の内訳は一刀が百、梨晏が二百、シャンが二百の合計五百である。普段は梨晏とシャンの直轄兵も一刀と同じ百なのだが、普段軍師たちに従っている兵たちも加算され二百になっている。百の人数差は偏に、一刀と二人の指揮能力の差だ。

 

 そこに楽進の率いる百五十人が加わる。自分たちのような連携は期待できないが、梨晏もシャンも楽進の奮闘っぷりは見ていた。単純な戦闘能力であれば、自分たちに勝る。

 

 どうあれ戦力が多いに越したことはない。近づく女のおっぱいは梨晏くらいぺったんこでないと安心できないシャンだったが、義理堅いようであるし一刀の近くにおいておく分には問題ないだろうと判断した。

 

「揃っているようだな」

 

 やってきたのは公孫賛。己の白馬に跨っていたが、付き従う馬岱は徒歩だった。その後ろには徒歩の兵がずらりと並んでいる。装備からして普段は騎兵をしているのが見て取れた。

 

「うちは張飛が千、馬岱が五百だ」

「もう少し出てくると思っていたが」

 

 甘寧の視線が馬岱の方に向いている。馬岱が率いていた兵は甘寧と同じ三千だ。張飛や甘寧に合わせて千でも良いはずだがそれほど兵の損耗が大きかったのだろうか。

 

「ごめんなさい、うちの兵はほとんどが騎馬なので突入に出せるのはこれが限界なんです」

「いや、こちらこそ申し訳ない。配慮に欠けた発言を謝罪する」

「楽進の百五十も加えて……二千六百五十か。これで汜水関を攻めようというのだから勇敢だな私たちは」

「中の兵が我々よりも少ないことを祈りましょう……北郷、発言するのに一々手を挙げるな」

「失礼。割って入って良いものか解らなかったもので……張飛殿、馬岱殿が参戦とおっしゃいましたが公孫賛殿は来られないので?」

「行きたいのは山々だし元々張飛ではなくて私が行く予定だったんだが、事情が変わった。本陣の方を見てくれるとそれが良く解ると思う」

 

 本陣の方が騒々しくなっている。こちらに兵でも出しそうな勢いだ。苦戦を眺めるつもりがまさかの快勝。これから汜水関に突入するというのも伝わっているのだろう。あの様子だと他人に任せた戦に首を突っ込むなどということをしかねない。

 

「そうなった時に話をつけるには、私が外にいた方が都合が良い訳だ。流石公孫賛の仕事だな。最後が実にしまらない」

 

 ははは、と自嘲気味に笑う。

 

「中でのことは一切張飛に任せてある。今更詳細な指揮などは必要ないだろうが、第一目標は関の制圧。投降する兵はなるべく受け入れてほしいが、その辺りは各人の裁量に任せる。各々、仰ぎ見る旗に恥じ入ることのないように」

 

 みっともない真似はするなという公孫賛からの釘刺しに、一同が頷いた。

 

 それきり、打ちあわせをしなければならないようなことはない。後は突入の時を待つだけだ。しばらく待てば大門は開く。それを知っている一刀たちは静かに気息を整え続けた。

 

 そうして、待つこと数分。汜水関の大門がゆっくりと開かれていく。

 

 その隙間から汜水関の中が見え始めた時、簡素な盾を持った一刀たちは一斉に駆けだした。攻城兵器などは放ってである。攻めてくるにしてもじっくりと。大方引き返すものだと思っていた守備兵たちは駆けだした敵兵に泡を食ったが、戦時に戦うのが兵の仕事である。弓に矢をつがえ準備していると、やがて守備兵の一人が異変に気付いた。

 

 大門が開かれようとしている。怒号が飛ぶが、城壁の上にいる兵たちにはどうしようもない。彼らは汜水関を死地と定めた。配置された場所で死ぬまで戦う腹積もりであるので、例えば城壁の上の兵たちはそれ以外に連絡を取る手段を持たない。大門を守るのは下に詰めている兵たちの役割である。城壁の上からそれに続く階段から怒鳴り声が飛ぶが、それに応える兵はなかった。

 

 そうした動揺は意識の間隙を生む。矢の雨が僅かの間やんだことで一刀たちはかなりの距離を稼ぐことができた。敵兵たちは大門が開かれると知って駆けだしていたのだと気づいた兵たちが慌てて矢を降らせて来るが、動揺は矢の照準も鈍らせる。スピードに乗った一刀たちは勢いに乗ったまま大門へと次々に飛び込んでいく。

 

 門とその周辺は一刀の感覚では小山に開いたトンネルという風だった。アーチ状の天井であるトンネルが数十メートル続いている。広い場所ではあるが千人を超える兵がゆっくり屯できるような場所でもない。ここは通過地点なのだ。

 

 甘い匂いとなにやら粘着物の付着した大小様々な石塊。おそらくこれが周泰が一人でもどうにかなると豪語したからくりなのだろうが、呑気にこれを見分している時間はなかった。駆け足を維持したままの一刀たちは、張飛を先頭にトンネルを抜ける。

 

 頭上注意。突入前から言われていたことであるが、トンネルから誰かが抜けてくると見るや、矢が雨のように飛んでくる。簡素な盾はあるが完璧とは言えない。隙間をぬって当たった矢に倒れていく兵たちには構いもせず、張飛隊は一番近い階段へと隊長である張飛を先頭に飛びついた。

 

 どりゃー、と掛け声を挙げて走る張飛に、彼女の兵たちが追従する。その用途から城壁への階段は広くそして多く作られており、百人からの人間が行き来してもまだ余裕がある。

 

 それは守る側からも同じことだった。踊り場にはバリケードが作られており、登ってくる兵たちにこれでもかと矢を浴びせかけている。先頭を駆ける張飛は階段を這うようにして進みバリケードの前で消えた。次の瞬間には、バリケードの陰に隠れていた敵兵たちの首が四つ宙を舞っている。両手の二剣を一閃。文字通り目にも留まらぬ技に付き従う兵たちから歓声も挙がるが、当の張飛は両手の剣を振るいながらも自分の出した結果に愕然としていた。

 

 狭い所で戦うのだからと用意した武器が、恐ろしいまでに軽い。

 

 そもそも形からして違うのだから普段使いの蛇矛と比べて圧倒的に軽いのは解っていたつもりだったが、いざ振るってみるとあまりの軽さに身震いさえする。今しがた刎ねた四つの首も本当はもっと下を狙っていたのだが、動いている間に軌道がズレて首を刎ねる結果になった。

 

 切れ味は油で鈍る。蛇矛はその重さで鈍器としても十分な働きをしてくれたが二本の剣は――あくまで鈴々の感覚ではあるが――非常に軽い。これでは力の限りブッ叩かないと人間を殺すことはできないのだ。刺したり殴り殺したり蹴とばしたりして兵をなぎ倒しながらも、自分にこの武器は向いていないなと眼前の戦いとは微妙にズレたことを考えていた。

 

 張飛隊はその後を粛々とついて行く。先頭を行く張飛が討ち漏らさないのだから後をついていくだけの楽な仕事、という訳でもない。張飛が注意したように階段には屋根がついていない箇所の方が多いため、上からは良い的である。重量物が降ってくることもあれば矢を射かけられることもある。

 

 張飛くらい超人であれば戦闘中であってもそれらを回避することは造作もないが、ここにいるほとんどの兵は厳しい調練を潜り抜けてきたと言っても常人の域を出ない。

 

 頭上に注意しながらも足を止めないことは彼らにとって非常なストレスになった。人間の目は本来上空を見るようにできてはいないのだ。上を見る人間周囲を警戒する人間。役割を分担することで順当に歩みを進めることになったが、普段とは違うことをしながらも歩調を落とすことはできない。張飛一人を先行させてしまったとあれば張飛隊の名折れだ。稀代の武人の手となり足となり働くことは、彼らにとってはこの上ない名誉である。

 

 かの燕人張飛がまさかこの程度で遅れを取ることなどありはしまいが、何かあろうという時にはせ参じることができないのでは意味がない。張飛隊、その中でも選び抜かれた精兵たちは張飛のためならば死ねる精神を持っているのだ。

 

 張飛隊の活躍を横目に見ながら、一刀たちは彼女らが向かったものとは別の階段に急行した。いかに広めに作られているとは言え、張飛隊の人員ですらただ後ろを歩いているような状態だ。この上さらに後ろに続いていては兵が遊んでしまう。

 

 無論のこと、張飛が安全を確保している道を行く方が安全ではあったが、踏破された道を付いて行くだけではいる意味がない。自分たちの仕事は可能な限り早く汜水関を制圧することである。多少の危険は受け入れるより他はないのだ。

 

 階段を強行して登らなければならない。上からは矢なり重量物が落ちてくる。速やかに登らないことには無駄に死傷者が生まれることになる。

 

 どう上るのが最適解か。図らずも張飛がそれを示してくれた。

 

「おんぶに抱っこで申し訳ないけど、梨晏とシャンが先行してもらえないか?」

「反対。二人とも前に出たらお兄ちゃんを守れない」

 

 意見を口にするシャンの表情は固い。言葉には出さないが梨晏もそれに同調していた。基本、一刀の判断を優先する二人であるが、一刀の安全問題については意見を曲げない時が多々ある。

 

 戦場で部隊を運用している時など特に、シャンも梨晏も近くにいない時が結構ある。危ない橋を渡ることも頭目の仕事だと郭嘉などには言われるしシャンたちもそれで納得しているようだが、それは逆にこういう守れる時には傍を離れないということでもあった。

 

 廖化達直属部隊は一刀団の中では精鋭と言っても良い練度を誇っているものの、身辺警護となるとその実力に疑問が残る。今の戦力で万全を期すのであれば梨晏かシャンを割り当てるしかないのだが、本人に武の心得があり、かつ兵の運用にも通じている人間となると梨晏とシャンしか適任がいないのだ。人材が腐ることを郭嘉などは特に懸念しているのである。

 

 しかし、一刀が頭目であるという事実は動かしようがなく、その身辺警護というのもまた重要な問題だった。兵数が現在のままであったとしてもシャンたちの他にもう一人、彼女らに匹敵する能力を持つ人間が現れないと、身辺警護にまで人材を回すことができない。

 

 そしてこの計算は兵数が現在の規模のままという前提だ。これから順調に大きくなっていけばこの人材不足はより深刻な問題をもたらすことになるだろう。廖化たちもそういう訓練を積んではいるものの、実を結ぶにはまだ時間がかかる。この状況は、どちらか一人が一刀の周囲にいないと危ないと実力者である二人が共通の判断をしたということでもあった。

 

 自分を心配してくれるのはありがたいが、ここで問答を続けて遅れる訳にもいかない。早急にシャンたちを納得させる手段がない以上、誰かを先行させるのではなく集団で固まって階段を登るしかない。大遅刻かもな、と苦笑しながら一刀がそれを口にしようとすると、先の一刀を真似するように、黙って話を聞いていた楽進が小さく手を挙げた。

 

「僭越ながら、私に任せていただいてもよろしいでしょうか」

「先行する二人のうち、片方を担ってくれるということですか?」

 

 ならば問題は解決する。他所の人材である楽進に負担をかけるのは心苦しくはあるが、敵の要衝に突入してる最中に、何を今更である。ここまで付き合ってもらったのなら、一つ二つ負担が増えた所で気にはするまい。楽進の提案は一刀にとって願ってもないことであり、期待を込めて問を返したのだが、その言葉に楽進は首を横に振った。

 

「いえ、これなら私一人でもどうにかなるかと。私が道を開きますので北郷殿たちは走ってついてきていただければ」

 

 一刀と、梨晏とシャン。それから廖化たち一刀団の面々の視線が楽進に集中する。先ほど趙雲がやったように、勇将華雄の相手をするのと比べれば、相手としては二つ三つ格が落ちるだろうが、それでも難所であることに変わりはない。

 

 兵の質で外の兵に劣ると言っても、彼らとて死兵であることに変わりはないのだ。後がないと覚悟を固めた兵たちはそれこそ、死にもの狂いで襲い掛かってくる。張飛はさくさく敵を切り殺して登っていたが、あれは張飛であればこそだ。しっかりと楽進の戦いを見た訳ではないが、一刀の見立てでは楽進の腕はシャンと同等程度である。

 

 可能か不可能かで言えばシャンでも可能だろうが、それは本人の安全を全く考慮しない場合だ。長い階段を上まで、それも死兵を相手に上からの攻撃まで気にして登るのであれば、自分と同等の働きができる人間が一人か二人、必要というのがシャンと梨晏の判断である。

 

「願ってもないことですが、お任せしてもよろしいのですか?」

「一本道、固まって動かない敵に退路なし。ならばあれらは敵兵にあらず。ただの的です」

 

 ぼんやりと楽進の身体の周囲に陽炎のようなものが見える。気、というものがこの世界にはあるとシャンや梨晏からは聞いていたが、漫画のように便利に扱うことのできる人間は極めて稀であるという。その稀な人間が眼前の少女なのだろうか。

 

 一刀からの沈黙を肯定と受け取った楽進は、先行して進み始める。時間は少ない。ここは楽進に任せるものとして、一刀たちは隊伍を組みその後に続いた。これで楽進に何かあったら曹操軍との間に大問題が起こる可能性が無きにしも非ずだが、気にしないことにする。

 

 踊り場にバリケードを築き、敵兵たちは待ち構えていた。撤退を援護するために時間を稼ぐのが目的である以上、彼らは前に出てきたりはしない。汜水関を制圧する上で門と城壁は制圧しておかなければならない場所。そこに通じる道は守るべき拠点である。相手が攻めあぐねるならば良し。攻めてくるまで待てば良く、攻めかかってくるのであれば死ぬまで戦えば良い。

 

 本来は十数万の軍を迎え撃つための施設だ。しかも大規模な戦闘を一度もしないままほとんどの兵が撤退してしまったため、装備は腐る程残っている。踊り場に構築されたバリケードは設置場所の広さを考えればかなりの強度を誇っており、持ち込まれた矢も十分だ。

 

 汜水関の兵たちからも、楽進の姿は見えていた。上から矢が降るなら盾を構えてゆっくり登ってくる集団から十歩ほど先行している。両手には簡素な盾。格闘をする時のような構えは崩さず、気息を整えながら登っている。

 

 バリケードの内側。弓を構えた兵たちが一斉に楽進に狙いを定めた。持っているのは簡素な盾が二つ。この距離、この人数であれば殺せる。兵たちのぎらついた視線が楽進を捉えた――その時には、楽進の準備は終わっていた。

 

 気合、一閃。

 

 裂帛の声と共に、楽進が拳を振りぬく。その一瞬の後、彼女の正面にあったものは全て、轟音と共に吹っ飛んだ。漫画のような光景に目が点になる一刀を他所に、ふっ飛ばされた敵兵たちがなす術もなく落下していく。強固に見えたバリケードは跡形もない。まるで最初からそこには何もなかったかのようになっているその場所を見やり、楽進は少しだけ得意げな顔で振り返った。

 

「上までこれを繰り返します。とりあえず、頭上にはご注意ください」

 

 

 

 

 

 

 

 ずどんする楽進の後を頭上に注意しながら走る。スリリングながらも簡単な作業だ。一本道なので討ち漏らしはない。弓の射程は楽進の攻撃よりも長いが、それは弓手が梨晏ほどに腕があった場合の話である。並の一流が確実に当たると確信できる距離まで近づいた時には既に、楽進が準備を終えている。それでもとりあえず矢は撃たれるが、当たらないものは気にする必要もなく、当たるものは盾で防がれてしまう。

 

 中には腕に覚えのある者が楽進に襲い掛かりもしたが、それこそ楽進の思うツボだ。気の乗った拳を鎧の上から打ち込まれた敵兵は、ただの一撃で動かなくなった。近づけば殺され、待っていても殺される。敵兵には楽進が悪魔にでも見えているだろう。味方だとこれほど頼もしい存在もない。

 

 目を引くのは気を撃ちだす技術である。なるほど便利なものだと感心するが、これだけ便利な能力がデメリットなしで使えるとも思えない。何の問題もなく長時間使えるものであれば先の戦いでもずっと使い続けていたはずで、そうであれば楽進隊はああも押し込まれなかったはずだ。

 

「シャン、危なくなったら交代してもらっていいか?」

 

 ん、と小さく頷いたシャンは狭い中で器用に斧を振るうと、上から落ちてきた置物を弾き飛ばした。矢は盾で、重量物はシャンが撃ち落としている。六百人全員分のカバーは流石にできないが、小走りで移動している集団を狙い撃つのは高所に陣取っている兵でも骨が折れるのか、矢も重量物も六割は見当違いの方向に飛んでいる。

 

 それでも矢継ぎ早に繰り出されるそれらは油断のならないものだったが、気合一閃、道の先を行く楽進の背中が一刀たちの気分を軽くさせていた。強い人間はただそこにいるだけで、付き従う者の心を奮い立たせるのだと実感する。

 

 それを見て奮起したのか。持っていた弓の弦を軽く弾いた梨晏が言った。

 

「私も活躍しようかな。団長、ちょっとしゃがんでもらえる?」

 

 言われた通りしゃがんだ一刀の肩に梨晏が跨る。少年のようなと良く揶揄される通り普段の梨晏は半ズボンで過ごしており今もその装いのままだ。戦時である。それに伴い多少重装ではあるものの下はいつも通りで、健康的な足がのぞいている。

 

 少年のようなという解釈は一刀も他の人間と同様であるが、その健康的な褐色の足で顔を挟まれるとあまり平静ではいられない。すべすべで何だか良い匂いがする。扱いはどうであれ、梨晏が美少女であることに変わりはない。

 

 一刀の内心を知ってか知らずが、梨晏は弓を抱えて一度大きく伸びをすると、力を抜いて背を倒した。背中と背中が張り付ている普段にない体勢にその意図を聞こうとするが、体勢の関係で梨晏の顔が見えない。背中ごしに渡されるのは梨晏の担いでいた矢筒である。

 

「まさかその体勢で上を狙うつもりか?」

「走りながら一々上を見ると狙いにくいでしょ? それならまだ上を見続けられるこの方が当たる気がするんだよね」

「その理屈は解らないでもないけどさ……」

 

 天才の考えることは良く解らないが、本人が当たると言うのであれば当たるのだろう。弓を持たせてからこっち、梨晏の矢が外れたことは一度もない。視界が通りさえすれば必中するのは過去の実績が証明している。これで今なお成長中と言うのだから、神というの不公平である。

 

 矢を射かけるにしても物を落とすにしても、一度縁から顔をのぞかせないといけない。距離が近いならばまだしも、上からではまだ一刀たちの所には距離があり、登る立場から見れば広い階段も上から物を落とす立場になるとそうではない。

 

 ちらと、弓を持った兵が縁から顔をのぞかせた、その瞬間、弓を引いて待っていた梨晏は矢を放った。狙いはたがわず、僅かにのぞかせた顔に吸い込まれる。一矢一殺。直撃を確信した梨晏はふとももで一刀の顔を軽く絞める。矢を寄越せという合図だと気づいた一刀は、矢筒から一本取り出し後ろ手に渡した。

 

 上では大騒ぎのようで矢も物も落ちるのが止まる。踊り場に残っている兵も上にいる兵も、ここで死ぬことを受け入れた兵のはずである。今更死ぬことを恐れたりはしないはずなのだが、そういう精神状態でさえ気持ちを割り切れないことがあるのが人間というものだ。

 

 上はまだ安全圏と考えていたのだろう。そこで仲間が下からの狙撃で射殺されたとなれば平静ではいられず、その間隙は一刀たちにとって助けとなった。その間に一刀たちは存分に足を進めた。

 

「シャン。俺も気を使えるようになるかな?」

「お兄ちゃんは今でも十分優しい」

「私抜きでいちゃいちゃするつもりー?」

 

 逆さ吊りで弦を引き絞ったままふとももで絞めて梨晏が抗議してくる。一瞬気道が閉まって眩暈がしたが、その直ぐ後、矢を放って城壁上の兵を一人射殺した。今度は軽く二度絞めてきた。矢筒から矢を二本取り出して背中の梨晏に渡す。

 

「で、あれだ。俺も楽進殿みたいにどーん! ってやりたいんだけど」

「前にも言ったけど強い人というのはほとんど例外なく気を使ってる。チャクラ? 人間の体にはいくつか気の門があって強い人はこれが開いてるのが多い。飛将軍呂布は、これが全部完全に開いてるとか」

「チャクラがない人は使えないってことか?」

「チャクラは全員にある……らしい。これが開いてるかどうか。開ける方法が良く解ってない、けど強い人は大抵生まれつき開いてる数が普通の人よりも多い」

「要するに才能ってことか」

「そういうこと。シャンの目から見てお兄ちゃんは普通。凄く普通」

 

 使えるようになる見込みはなさそうである。残念ではあるが当然かもなと納得もできた。過去の武将が女の子になっている世界にやってきたのだ。北郷一刀に起こる不思議はそれで打ち止めだろう。

 

「で、これが肝心なんだけどさ。楽進はどーんってやれるけど、あれはシャンとかもできるのか?」

「あれはあれでまた別の才能が必要。梨晏が最近弓に気を込めて撃つ練習してるけどあれのもっとすごい奴。気を練って力を高めるくらいなら結構簡単だけど、それを塊にして身体の外に出したり撃ちだしたりするのはシャンには無理」

 

 強化系が多い世界なんだな、と一刀は高校生男子として至極当然の分析をした。元の世界――と、十数年過ごした世界を表現することにももう慣れてしまった――の知識をこちらで活かすことは一刀自身の知識不足もあってあまり上手く行っていないが、土台マンガのような世界であれば、漫画のような技術が成立していてもおかしくはない。

 

 例の技術と楽進が行っているものが全く同じということはありえないだろうが、共通するアプローチが一つでもあればめっけものだ。

 

「開いてるチャクラを増やしたり、気を柔軟に扱う方法を教えてくれる人ってのはいないのか?」

「少なくともシャンは聞いたことないし、楽進みたいにできる人を楽進以外に知らない」

「あれを皆できるようになったら凄いよな」

「戦のやり方が根本から変わるね」

 

 万の兵が一塊になりぶつかるという展開はなくなりそうである。末端に至るまでがビームを撃つのであれば今まさに楽進がやっているように固まっている敵は良い的だ。集団になることで新たな運用方法が生まれるかもしれないが……その辺りは今度暇な時にでも考えてみよう。

 

 シャンの分析を聞く限り自分がやれる見込みはなさそうであるが、楽進に詳しく話を聞いてみるのも良いかもしれない。十代少年の一人としては、この技術が門外不出でないことを祈るばかりだ。

 

 そしてその祈りが通じたのか。楽進は特に難題に直面したりせず、敵兵をバリケードごと粉砕する攻撃を繰り返し、何と一刀隊は先に登り始めた張飛隊よりも先に、城壁の上まで到達した。敵兵の排除だけを見れば剣を装備した張飛の方が格段に早かったのだが、後続の兵を入れるにはバリケードを撤去するより他はなかったのである。

 

 ここが死地と定めた汜水関の兵たちはバリケードをこれでもかと強固に作っていたため、張飛隊の精強な兵たちでも排除には時間がかかっていたのだ。その点、楽進の攻撃はそのバリケードごと敵兵をふっ飛ばしたため、その排除の時間が大幅に短縮された形である。

 

 内部の制圧は馬岱の部隊が、反対側の門から出た敵兵たちは甘寧隊と周泰が追跡を行っている。後はここを制圧すれば当面の仕事は完了だ。

 

 一刀はちらと楽進を見た。

 

 気がどうこうではなく間違いなく物理的に楽進の向こう側の景色が揺らいでいる。頭から水を被ったように汗をかいており、彼女が一歩踏み出すごとに水たまりを歩くような音が聞こえる。肩で息をしてはいるが目だけはギラついており、戦闘に関しては凡人の域を出ないと自負している一刀をしても、極めて平常から離れた精神状態であることが見て取れた。

 

 何はともあれ、城壁の上まで息が続いたのは見事なことであるものの、今ここに来てこれ以上彼女を戦わせて良いものか、決断を迫られる一刀である。

 

「その、問題ありませんか? 楽進殿」

「全く。今までの人生の中で今が一番調子が良いくらいです」

 

 こいつは危ないと感じた一刀は助けを求めるようにシャンを見た。シャンも内心では同じ判断をしていたが、一刀の視線を受けて彼女は首を横に振った。やめさせるならもっと早くにするべきだった。調子が良いという楽進の発言は全くの事実であるが、それは今の今まで動き続けていたからだ。

 

 動きを止めるとぱたりと動けなくなるだろう。動きが止まった楽進は絶対にすぐには復帰できない。戦闘が一区切りついた後ならばそれでも良いが、これからまさに佳境という所で大事な戦力がお荷物になるのは一刀の安全の面でも看過できない。

 

 

 続行やむなしと判断した一刀は、なるべく早く戦闘を終結させる意思を強くした。

 

 遠巻きに一刀たちを汜水関の兵たちが囲んでいる。華雄隊以外の兵は、主に傷病兵だったのだろう。戦闘前にも関わらず兵たちは身体のどこかに怪我をしているか、そも死人のような顔色をしていた。

 

 彼らがこの場に残ると決意した背景を考えると一刀の胸もちくりと痛んだが、だからと言って振り上げた拳を下ろすことは一刀にはできない。

 

「外の華雄隊は降伏した。貴方たちはどうする?」

 

 返答は手槍による反撃だった。シャンが斧の一振りでそれを叩き落とす。くるくると、宙に舞った槍に誰も視線を向けない。一刀は静かに手を振り上げ、

 

 からん、と石の床にそれが落ちると同時に振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第037話 反菫卓連合軍 虎牢関攻略編①

 

 

 甘寧たちが追っていた汜水関の駐留軍、その殿は先行する仲間のためにかなりの時間を汜水関で粘った。最悪の場合は残って華雄の部隊と共に戦う腹積もりだったのだ。幸か不幸かそうはならなかった訳だが、その部隊は結局甘寧たちの追走を振り切り、先行していた本隊に合流した。

 

 汜水関から逃げる部隊とは言えそうなると大部隊である。甘寧隊は連合軍の中でも精鋭と言って良い練度を誇っていたが、殿を張遼の騎馬隊が務める数万の軍団を相手にするには力不足は否めない。

 

 元より戦うのが任務でなかった甘寧たちは目的をはっきりと偵察と割り切り、部隊の規模やら練度やらを調査し、早々に汜水関へと帰還した。その引き際の早さにせめて一当たりしておこうと考えていた張遼は当てが外れて怒り狂ったが、それはまた別の話。

 

 その後、戻って来た甘寧の部隊も含めて汜水関に突入した部隊で制圧作業が行われた。

 

 占領した以上汜水関は連合軍の管理となった訳だが、即座に施設として安全に使用できる訳ではない。何しろ直前まで敵軍が使用していた施設なのだ。こちら側に奪われた時用の罠や外部から出入り可能な隠し通路などあってはことであると、そういう仕事が得意な甘寧隊を中心に念入りな作業が行われ、最低限の安全が確保された場所から順次解放されている。

 

 なおほとんどの兵は汜水関の外――元々連合軍がやってきた側と、敵軍が逃げて行った側の両方に布陣している。洛陽側に移動したのは極少数であり、有事の際に広く場所を使いたかった騎馬中心の馬超軍に、曹操軍の一部がこれについて行った形である。

 

 汜水関の制圧作業を行っているのは各陣営の『そういう仕事』が得意な面々だ。何しろ広い施設である。一日二日では作業は終了すまいな、と甘寧はうんざりした表情を浮かべていた。

 

「どういうことですの白蓮さん!!」

「どうもこうもないよ麗羽。出陣した。敵と戦った。そして勝った。それだけのことさ」

 

 そして汜水関の開放された部分の中で最も大きな部屋で、連合軍の首脳会議は行われていた。先の大声は袁紹の第一声である。まったくの予想通りの物言いに、白蓮は苦笑を浮かべていた。

 

 決して情がない訳ではない。間違いなく麗羽は白蓮のことを友人と思っていたが、麗羽が白蓮に期待していたのは適度に痛い目を見て玉砕することで、第一陣でそのまま汜水関を陥落させることではなかった。

 

 自分たちが活躍できるという確信があった訳ではもちろんないが、機会さえなくなってしまうのならその目は完全に潰え、手柄は戦った人間だけで独占されてしまう。

 

 要するに白蓮の一人勝ちだ。それが麗羽には我慢がならなかった。

 

「これだけの寡兵で制圧できるなんて……まさか汜水関の事情を知っていたのではありませんこと?」

「知ってはいたな。勿論全部ではないが」

「どの時点でどの程度と聞いても構わないかしら」

 

 会話に入ってきたのは曹操である。麗羽を挟んで向こう側にいる小柄な少女の視線を受けて、白蓮は僅かに緊張の色を浮かべた。自分の頭のキレがイマイチであることを自覚している白蓮にとって、およそ考えうる限り全てのものを持っている曹操は、苦手な人物だった。

 

 以前であれば過剰に緊張をしてボロでも出していたのだろうが、今は優秀な軍師たちがいる。何を聞かれた時にどう答えるのか。それを相談できる相手がいるだけでこういう会合の時の白蓮の立ち振る舞いは自信に満ち溢れたものへと変わっていた。

 

 実際、白蓮の能力は彼女が自分で思っている程低くはない。曹操など同世代の傑物と比べれば見劣りするものの、他軍の軍師たちが認める通りに彼女は普通に超一流である。あえて何か足りない物を挙げるとすれば本人の自分に対する自信と、彼女を支える軍師であったのだが、軍師がやってきたことにより、長年足りなかった前者も補強されていた。今の白馬義従に欠落しているものなど何もない。

 

「以前から汜水関を落とすための調略を仕掛けられていた。これは連合軍が結成されるよりもかなり前の話だ。詳細は知らない。企画をしたのは私じゃないしたまたまこれを引き継ぐことになっただけだからな。ともかく、今時分では『調略が仕掛けられていた』ということだけ理解してくれ」

 

「知っての通り、この調略は汜水関の戦力を時期を合わせてそぎ落とすためのもの。内部での活動もそうだが要は補給を完全に近い状態で断つことだった。関羽がいなかったら成功しなかっただろうな」

 

 仕込みはそこに至るまでで終了。後は自分で何とかしてくれという企画を聞いた時には何だそれはと思ったものだが、本来はそれだけでも大盤振る舞いなのだということは愛紗も含めて作戦を検討し始めた時に理解できた。

 

 激務で兵の損耗もあり危ない橋も渡るが、全体的に見れば被害を少なくできる上に手柄を得ることができる。これを使えるのは一度だけ。そして最初に行う人間のみだ。その役割が自分に回ってきたのはたまたまなのだろうが、白蓮はこれをある種の天命(びんぼうくじ)と考えた。

 

「内部の事情を知る手段が全くなかった。これならいけると判断できたのは当日朝になってからだよ。私たちがここに陣を張ってから当日の朝まで、どこの陣営の草も汜水関に近づくこともできなかっただろう?」

 

 全ての陣営が誰に了解も得ず、独自に草を使っているというのは暗黙の了解である。情報の共有は望ましいことではあるが、明文化された義務ではない。無論のこと、望ましいことをしなかったのであるから、後から他の面々にとって都合の悪いことが明らかになれば糾弾される材料にはなる。情報を隠すことにもリスクはあるのだ。

 

 そして同時にメリットもある。今回の白蓮はそれを実践した形だが、今回の汜水関の攻略に限って言えば抜け駆けによるある種の有利不利は発生しなかった。全ての陣営全ての草が誰も汜水関までたどり着くことができなかったからである。

 

「何が何でも、中の情報を知らせる訳にはいかなかったんだろう。総攻撃されたらその時点であっちは終了だった訳だからな。そんな訳で成功率が高いつもりの調略ではあったが、内部の状況が全くと言って良いほど掴めなかった以上、他には声がかけにくかったのさ。行けそうだぜ? やっぱり駄目でしたじゃ声の掛け損だしな。結果として先走って手柄を独占する形になった訳だが……それくらいは良い目を見ても良いだろう? 投資に見合った成果だと自負してるがね」

 

 事情はどうあれ白蓮は誰もやりたがらなかった一番槍を引き受けたのだ。調略を共有した所で成功の確証を示せない以上、会議が長引くだけで公孫賛軍が一番槍を引き受けるという結果は変わらなかった可能性が高い。

 

 実際、華雄隊を除いた汜水関の兵は撤退を開始していた。普通に考えればこの兵が減ることはあっても増えることはないはずだが、それは汜水関に状況を限定した場合の話だ。にらみ合いが一週間以上続くようなことがあれば、無事な兵が別の所からやってくる可能性があるし、連合軍側に何か不利な状況がやってくる可能性も否定はできない。

 

 寡兵とは言え万全の状態で、堅牢な関を背にしているとは言え寡兵に相対できる機会はこの日の朝が最後だったかもしれないのだ。内心はどうあれ、連合軍は全体としての勝利のために戦っている。あの状況ではこれが最善だったと主張される以上、そうではなかったと力強く反論できないのであれば、公孫賛の責を問うことは難しい。

 

 敗北したのならばまだしも、彼女は決して少なくない犠牲を出したとは言え汜水関を占領し、あまつさえ敵将の一人である華雄をその部隊の生き残りと共に捕虜としたのだ。大勝利と言っても過言ではない。難癖をつけて責を問うたとしても、その功績を考えればお釣りがくる。

 

「公孫賛。貴女はまだやる気はあるのかしら?」

「やれと言われたらやる」

 

 どちらにしてもお前次第だと手番を回された曹操は溜息を吐いた。戦力があるに越したことはないが、先々のことを考えれば邪魔な存在であったとしても第一功を挙げた軍を下に扱うことはできないし、かと言って手柄の上積みをされる可能性を重ねる訳にもいかない。

 

 董卓軍はまだまだ元気であるが、少なくとも次の一戦については、公孫賛軍は一回休みにせざるを得ないだろう。少ない被害で最大の戦果を挙げ、次戦に対して保険まで掛けた。共に戦う仲間からすれば全く、酷い仕込みである。これで次の戦で連合軍が瓦解するようなことがあれば、美味しい所は公孫賛の独り占めだ。

 

「貴女だけに無双されては私たちの立つ瀬がないわ。虎牢関ではどうか後ろの順番に回ってほしいのだけれどどうかしら」

「構わないよ」

 

 それが望みでもあるしな、と白蓮は心中で付け加える。まだ戦えるというのは事実だが、既に大きな功績を立てた以上、不利益を被る可能性に無理に突っ込む必要はない。虎牢関で失敗し他全員が沈むようなことがあれば公孫賛軍の一人勝ちであるし、順調にコトが運んだとしても汜水関の第一功は無視できるものではない。

 

 慎重な性格である白蓮としては、この辺りでもう十分なのだ。帰れるのなら帰りたいというのが本音である。

 

 一方、既に手柄を立てた白蓮とは異なり、他の面々はこれから手柄を立てねばならない。策があったとは言え、汜水関の一番槍は白蓮が引き受けてくれた訳だが、次の虎牢関でも同じ問題が発生する。

 

「……一応確認なのですけれど、白蓮さん。虎牢関には策はないのですわよね?」

「ないなぁ、悪いけど」

 

 汜水関の策を授けられた時、同じ質問を静里にしたのだから間違いはない。他に誰か仕込みをしていたのでもなければ、今度こそ真っ向勝負をすることになる。流石に策があると思っていた訳ではないのだろうが、白蓮の否という発言に袁紹はあからさまに落胆した。

 

「さて、それでは次のことを考えましょうか。どうやって虎牢関を攻める?」

 

 曹操の発言に議場の空気は張り詰める。張り詰めるのだが――それだけで誰も言葉を続けなかった。帝国内でも有数の堅牢な関を相手に、十万を超える士気の高い兵。加えて呂布や張遼などの雄将が控え、連合軍がやってくるのを今か今かと待っている。

 

 どう攻める? そんなの自分が聞きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぎはらえー」

 

 ポーズを決めて羽毛扇を微妙にのろのろと振り抜く朱里の姿に、魂の籠った歓声が響く。発することのでできる言葉が『先輩』と『マジ』と『かわいい』とその組み合わせしかなくなってしまった法正が涙を流しながら手を叩いている。横で見ている一刀もその勢いにはドン引きしていた。確かに男が歓声を上げるべき可愛さではあるが、それにしても法正の態度は常軌を逸していた。

 

 さぞかし朱里の方もドン引きしているかと思えば気にした様子はまるでない。こういう人間だと知った上で付き合っているのだとしたらこういう態度を取られるのも今更なのだろう。ここまで騒々しい人間が近くにいる学園生活というのもスリリングで面白そうではあるが、当代最高の頭脳を持った少女ばかりが集まる女子高でとなると、そのイメージから来るインテリっぷりと法正のイメージはかけ離れていた。

 

 切れ長のともすれば鋭すぎる目に不釣り合いな大きなフチなしのメガネ。髪は長く艶やかであるが編み込んだりはせずに首の後ろで二つに縛っているだけである。朱里や雛里と異なり制服の上着だけを着用し、頭には水鏡女学院を優秀な成績で卒業した証である帽子があった。朱里のベレー帽、雛里の魔女っ子帽子のような女の子しているものではなく、元直のような映画のマフィアが使うようなソフト帽である。

 

 ちなみに胸は孫呉の幹部たちほどではないが大きい。元直と同程度か少し小さいというくらいだろう。世間的には十分巨乳と呼べるレベルであると思うのだが、流石にこれでは世の男性を引き付けるのは難しかろうなと、一刀はちらと横目で彼女を見た。

 

 鋭い容姿にソフト帽はとても似合っている。宝塚の男役のような雰囲気であった元直と異なり、こちらはキツめの容姿と言っても幾分女性的な風貌だ。単純に人相の悪い美少女というのが一刀の素直な感想なのだが、その悪い人相も今はかわいくポーズを決める朱里を前に緩み切っていた。

 

 人間ここまで落差があるものかと感心する一刀を他所に、聴衆のリクエストを全て片づけた朱里は小さく礼をすると、もらったばかりの羽毛扇を腰帯に差し込んだ。

 

「贈り物ありがとうございます」

「諸葛孔明ならこれだろうと思ってさ。雛里にも贈った所だったし、一緒にと」

 

 一刀の背中側にいる雛里が、朱里にだけ見えるように腰帯から自分が贈られた短杖を見せびらかす。『私の方が先!』というのをこっそりとしかし力強く主張する親友にいらっと来たが、それを顔に出さないのが大人だと頬を引きつらせながら色々と我慢する。

 

 そんな美少女二人の水面下でのやり取りを想像もしていない一刀は、新しくできた友人との会話を楽しんでいた。

 

 今回の来訪は一刀団としては思いがけない大所帯となってしまったが、これは一刀や幹部が本来意図するところではなかった。連合軍とは言え所詮はライバルの集まりだ。他陣営の人間が自陣に踏み入ることはそれがどういう種類の人間であれあまり歓迎すべきことではなく、それは行く側も迎える側も同じことなのだが、此度の戦とは関係のない個人的な事情が絡むと他人は口を挟みにくくなるものだ。

 

 今回のことを主導したのは趙雲である。合流してまだ日の浅い人間であるが、長いこと公孫賛に準ずる人間を用意できなかった兵たちにとって、緊急時に公孫賛の代わりのできる趙雲はまさに待ち望んでいた存在だったのである。

 

 その趙雲が――敵将との一騎打ちで勝利し重傷を負った趙雲が『吊り目の眼鏡と金髪のお人形さんとお腹を出した美少女が見舞いに来たら通してくれ』と言い出したのである。元々いくら感謝してもし足りない存在だったのに、ここで更に武者働きをしてくれたのだ。何でも叶えてやりたいと思うのが、兵というものである。

 

 果たして、趙雲が一騎打ちで勝利したものの深手を負ったという話を聞き、シャンの発案で見舞いに行こうとなった一行はどうせならば皆で行こうということになり、弓の修行をするという梨晏を除いて全員で公孫賛陣営を訪ねたのだった。

 

 甘寧直下の兵たちは目下汜水関の捜索中であるが、捜索班は各陣営のそれ専門の連中で構成されている。部隊の再編制さえ済んでしまえば、残りの兵ははっきり言って暇なのだ。

 

 郭嘉たち三人は趙雲の幕舎へと移動しており旧交を温めている。貴殿もどうですかと誘われはしたのだが、男が美少女たちの会話に水を差すのも忍びないと一刀は雛里を連れて別の所で時間を潰すことにした。幸い公孫賛陣営には一刀も知人がいる。雛里と一緒に陣営の中を適当に彷徨っていると、それを察知してくれたらしい朱里の方から足を運んでくれたのだった。

 

 そこで一刀はどうせならと以前買った贈り物を朱里に渡すことにした。言葉の通り雛里に渡す時に一緒に買ったものであり、次に会った時に渡そうと持ち歩いていたものである。前回渡すこともできたのだが、前回は仕事の用向きも強かったので渡せず仕舞いだったのだ。

 

 今回も百パーセント仕事ではないとは言えないものの、建前上は知人の見舞いに一緒についてきただけのただの人である。私事を混ぜ込むのも別に悪いことではないだろうと決行したのだが、そこに予想外に食いついてきた人物がいた。

 

「いやー、いいもの見せてもらった。お前趣味が良いな、一刀」

 

 目じりにたまった涙を拭きながら、肩をバシバシと叩いてくる。既に自己紹介を終えて真名まで許されるなどその妙に近しい距離を一刀は別に嫌いではなかったのだが、一刀の陰で雛里は聊かむっとした表情を浮かべていた。

 

 法正こと静里は年齢こそ雛里や朱里よりも上であるが、水鏡女学院の入学時期で比較した場合二人の後輩に当る。

 

 水鏡女学院は入学基準に達すればいつでも入学でき、卒業基準を満たした時点で卒業させられる。朱里と雛里が卒業基準を満たしたのはほぼ同時期であったため卒業したのも同日だったが、一人で卒業を迎えるのも学院では珍しいことではない。

 

 そのため厳密な『卒業時の席次』というものは存在せず、それを比較したい場合は卒業時期から見て直近の在学生全員で処理される年間総合成績で判断される。それを鑑みれば雛里だけが次席であり他の三人は主席であるのだが、この席次で優劣を判断する関係者は実のところあまり多くない。

 

 どの学生にも基本的に同じカリキュラムが割り当てられるため、入学から卒業までにかかった時間で優劣は判断される。平均在学年数は五年。自分で退学の意思を示すか在学年数が十年を超えると放校処分となり、放校となった生徒の再入学は認められない。

 

 朱里と雛里はそれまで二年半だった卒業最短記録を、一年と十か月と大幅に更新した史上最高の卒業生であり、ほぼ三年で卒業した灯里や静里を大きく引き離している。

 

 普段、殊更成績やら何やらを持ち出したりはしない雛里であるが、自分が仕える人間に対して後輩が馴れ馴れしくしているのを見ると、そういう黒く良くない言い分が心中で持ち上がっていく。

 

 一言言ってやろうかと思った。実際、寸前まで声に出かかっていたのだが、先輩としての矜持が、一刀の仲間の一人であるという認識が『それはあまりに狭量である』と思い留まらせた。

 

 静里は一種の例外を除いて誰に対してもこういう態度だ。それを知り一刀にもそう振舞うと予見していたのにも関わらず、いざそういう態度に出てから声を上げるのはあまりにも筋が通らない。一刀が不快に思っているのであればまだしもだが、雛里の目から見て静里に肩を組まれて歓談している一刀はとても楽しそうだった。

 

 これには自分たちにも原因があると雛里は思った。一刀との関係は皆仲良しであるという自負があるものの、挙兵時からいる兵たちは皆一刀よりも一回りから二回りは年上であるし、後から合流した兵は一刀のことを大分上に見ている。年齢は近くても精神的な距離は遠い。

 

 精神的な距離で言えば幹部は皆近いと言えるものの、主従の関係は守っている。限りなく薄いけれど透明な壁があるとでも言えば良いのか。親愛を超える情を持っているがやはり一刀は主であるという気持ちが先に立つ。仕えるべき人間に相対する以上、態度にもどこかそういうものが出てしまうのだが静里にはまるでそういうものがない。

 

 近い距離感。遠慮のない物言い。静里の方が少し年上のはずだが、年齢も近いとなれば一刀が親近感を覚えるのも頷ける。

 

 自分にできないことをしてくれるのだから、一刀にとっても必要な存在であるのだが、自分に見せない種類の笑顔を見せる一刀に、雛里はどうしようもない歯痒さを覚えるのだった。

 

「――論功行賞、そっちはどうだった?」

「突入部隊の全員の報奨金が出ることになったよ。隊の皆も喜んでる」

「まぁ、乗っかった形だとそんなもんか」

「そっちはどうだ? 汜水関陥落の第一功だ。デカい領地の一つや二つもらえるんじゃないか?」

 

 一刀の口調には冗談の色が強い。金銭で何とかなる範囲であればまだしも、それ以上となると空手形にならざるを得ないからだ。董卓とその一派を全て表舞台から叩き出すことができればそれこそ、彼女らが保有していた地位を実質的に好き放題できる訳であるが、それをどの程度まで行えるかの見通しは残念なことに立っていない。静里の顔にも苦笑が浮かんでいた。

 

「そうだったら楽だったんだがね。我らが白馬義従殿は初戦を見事勝利で飾れた訳だが、他の連中が残りを皆殺しできるとも思えん。また貧乏くじを引かされる可能性は十分に、というよりすぐに人手が足りなくなるだろうよ」

「虎牢関は厳しいかな」

「厳しいな。万全の状態ではないとは言え汜水関の八割の兵が虎牢関に移動した。今頃再編に大忙しだろうが、今度はこちらの策も通じまい。しかも無事な連中は意気軒高。袁紹の弱兵などものの数にもしないだろう」

「虎牢関を抜けられなければそれでおしまいか」

「まぁそうなったらなったでやりようはあるがね。むしろ適当な所で大敗してくれた方が都合が良いって連中もいるだろう?」

 

 一刀も苦笑で応じる。郭嘉などの討論でも出てきたことだった。董卓一強を肯定できる勢力にとって、董卓の次に邪魔になるのは袁紹と袁術だ。できれば董卓とまとめてくたばってほしいなどと孫堅などは考えているのだろうが、事はそう簡単には運ばないだろう。

 

 それにまとめてくたばってほしいと思っているのは董卓軍も同じである。頭数の関係などから早い段階で投降すれば受け入れてはくれるだろうが、冷や飯を食わされるのは目に見えている。合流するなら最初から連合軍などに加わるべきではなかったのだ。

 

 都合良く勝ち続けるにしても、最終的な所まで押し込み切れずに続行不能という事態もないではない。董卓討つべしと拳を振り上げた以上倶に天を戴くことなどあってはならないことではあるが、世の中には『落としどころ』というものがある。

 

 どちらの勢力も真っ当な状態で相手勢力を殲滅できる力を失った場合、そのまま戦を続行したら双方共に壊滅するより他はない。

 

 ここで死なば諸共と考えるのは少数だ。現実にはそうなる前にどういう形であれ講和に入る。これは『これからは喧嘩をせず仲良くしましょう』という意味で手を取り合うのではなく、機が熟したら仕切り直すという意思確認に他ならないが、一時とは言え戦は中断せざるを得ない。

 

 これを引き分けとは誰も見ないだろう。現状の格付けは董卓軍が随一でありここで痛み分けると後は各個撃破されるのみだ。単独では勝てないから連合を組んだのにそれでも負けたとなれば個々の勢力に勝つ目はなく、家としてはまた次の機会にと雌伏の時を選ぶというのは自然な流れである。

 

 勝てないとなれば後は勝ち馬に追従するしかない。家の存続を取り董卓軍に組するのもやむなしという勢力が一つ二つあれば、再び連合するようなことになっても敗北はより確実になる。

 

 こうなっては特に今の連合軍の盟主である北袁家には未来がなくなり、次いでその親類である南袁家も立場が危うくなる。先々のことまで考えるならば特に北袁家は何としても董卓の首を取らなければならず、そのためには多大な犠牲を払うことも厭うまい。

 

 そうなった時、捨て石にされないための汜水関での大活躍である。ここで大手柄を立てた勢力は合法的に次の戦で一回休みだ。そこはかとない陰謀の匂いを感じ取ったとしても次は自分と考えている連中を止めることは難しく、それが盟主を自認する袁紹であれば猶更だ。

 

 現実的な話として袁紹軍が大打撃を被ることは避けられないだろう。お供を連れて行く可能性もないではないが、競合相手の袁術がこれに連帯するはずもなく、仲良しの一角である曹操は好んで泥船に乗りはすまい。

 

 残りは三勢力であるが、公孫賛軍は大手柄を立てた当事者であり、残りの二勢力もこれに助け船を既に出している。

 

 捨て石にするならこれ以外にはないという袁紹から見ればそういう連中であるが、勝ちを積んだ人間を雑に扱うことは、特に寄り合い所帯であるとできることではない。最終的な功績が盟主に帰結するというのは納得しても、積んだ実績を無視されるというのであれば盟主を仰ぐ意味がなく、連合は早晩瓦解してしまうからだ。

 

「既に一度勝った身であり野心がそれほどない人間としては、虎牢関でどう転んでもそこまで問題ではないってことだな。目先の勝利にこだわって、先々の有利を手放すような愚物になるなと先生は口を酸っぱくして言ってたもんだが――」

「何にしても勝つに越したことはないってことだな。一度お会いしたいね、皆の先生に」

「正直オススメはしないがね……」

 

 静里ははっきりとげんなりした表情を浮かべる。それが正直な気持ちではあるのだろう。偉大な人だと尊敬しているのも嘘ではないのだろうが、積極的に関わろうという気はあまりないようである。この辺り、元直の言葉から受けた印象と大分齟齬があった。人間合う合わないがあるのは当然のことであるが、当代、すごぶる優秀な人間二人からこういう評価を受ける人に、一刀はがぜん興味がわいていた。

 

「機会があることを祈ることにするよ。ところで、関羽殿はどうしてるんだ? もう合流してるとは聞いたんだけど」

 

 お見舞いに付き合うのもあったが、知人である関羽にお祝いの目的もあった。一番の武者働きをしたのは関羽と公孫賛軍内では大評判であり、彼女でなければできないような難しい仕事を成し遂げたことが今回の汜水関攻略に一役も二役も買っていたという。

 

 流石関羽というのが正直な所だ。かつて一緒に戦った者として褒めちぎらずにはいられないと駆けつけてみれば、姿がとんと見えない。一刀団襲来の話は伝わっているはずであるから、てっきり朱里たちと一緒に顔を見せてくれてもよさそうなものであるが。趙雲の方にいるのかと思ったのだが、そうではないらしい。

 

 一刀の言葉を受けた静里はにやにやと笑っている。対して朱里は面白くなさそうだ。

 

「まだ来てないってことは、もうしばらくかかるんだろう。楽しみに待ってな。来ないかもしれんが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 実際、関羽がやったのは難しい仕事だった。

 

 汜水関を孤立させるために、ここに向かう全ての輜重隊を捕捉。この積荷を全て奪取、もしくは破壊せよ。

 

 難しい顔をした白蓮に呼び出されてこれを告げられた時、愛紗が考えたのは如何にこの善良な友人を傷つけずに『お前には冗句の才能は皆無だ』ということを伝えるかだった。

 

 しかしその懊悩が続き、どうやらそれが本気らしいことを悟った愛紗は今度は白蓮の正気を疑った。

 

 不可能ではないだろうが不可能に近い。いや、輜重隊の移動経路を把握できかつ精兵を揃えて犠牲を厭わないのであれば補給線を潰すことは不可能ではないかもしれないが、輜重隊が襲われることくらいは董卓軍も想定しているはずで、仮にそうなったとしても無補給で数か月耐えられるくらいの備蓄が汜水関には存在しているはずだ。

 

 補給が必要なのは連合軍も同じであるが、一応この一帯が本拠地であるあちらに対してこちらは遠征軍でありしかも一枚岩ではない。董卓軍とて決して一枚岩ではないだろうが軍の集合体としての側面は連合軍の方が遥かに強いと言えるだろう。

 

 食糧などの補給の問題に加え、内応される可能性を否定できない環境というのは、軍として長続きできるものではない。連合軍にとって持久戦というのはそれだけ、疑心暗鬼を育み、自然崩壊を導くものに他ならない。持久戦はあちらにとっては鉄板の戦略なのだ。

 

 補給を潰すという作戦を活かすためには最低限、持久戦を想定して準備万端待ち構えている汜水関を早急に補給が必要な状況に追い込まなければならない。より欲をかくのであれば不足するのは人よりも物の方が好ましい。具体的には食料だ。

 

 だがそれには当てがあるのだという。朱里たちの先生である水鏡先生が更にその先生の代から温めていたという洛陽攻略のための必殺の策だ。

 

 あぁ、と愛紗は溜息を吐いた。妙案があると言っていたのがこれなのだろう。

 

 自分ではなく先に白蓮に話を通したことに疑問を覚えないではないが、作戦実行の決定権を持つのが白蓮である以上、彼女が否やと言えば否である。

 

 そして白蓮がやると決めた以上、その要である補給線を潰す役が自分にしかできないことを愛紗はよく解っていた。単純に武力、指揮力ということであれば、星や鈴々でも不足はなかろうが、その三人の中で誰が一番上手く馬に乗れるかと考えれば、やはり自分しかいない。

 

 どういう理由であれここで自分が頷かなければこの作戦は実行されない。史上最大の作戦とも言うべきこの作戦が日の目を見るか見ないかは自分の判断に委ねられた訳だが、

 

「承りました。任せてください」

 

 二つ返事で引き受けた愛紗はその日の内に自分の隊と白蓮の隊から精鋭200を選びだし、秘密裏に旅立った。難しい作戦である。生きて帰れる保証はないと精鋭たちにも説いたが、彼らはいつものことだと笑って返した。

 

 受け持つ土地は広大である。輜重隊の進路こそ正確な情報が掴めていたが、そこに移動し戦うだけでも一苦労だ。最初の方こそ輜重隊はただの輜重隊だったが、精兵に狙われていることを知ると腕の良い護衛を付けるようになってきた。

 

 そうなってからが本当の勝負である。汜水関での決着がつくまで、愛紗の隊はこれを継続しなくてはならない。護衛に勝つ必要はないが、時間をかける訳にもいかず、またいつまで継続するのか分からない以上、兵の損耗は避けなければならない所だった。

 

 夜襲に次ぐ夜襲。奇襲に次ぐ奇襲。夜を徹して馬を駆けさせたことも一度や二度ではない。愛紗を含め、白蓮から預かった騎兵二百は全て精兵中の精兵だったが、終わる頃には五十を切っていた。輜重隊全てが精兵であった時は流石の愛紗も死を覚悟したものだが、結局はその全ての任務をやりきりこうして無事に戻ることができた。

 

 汜水関での勝報を聞いた瞬間、生き残った兵の半分が崩れ落ちるように眠りに落ちた光景を愛紗は生涯忘れることはないだろう。関羽もそのまま泥のように眠りたかったが、現場指揮官が報告も何もせずに眠る訳にはいかなかった。

 

 痛む身体を引きずるようにして公孫賛軍に合流。こちらもこちらで忙しかったらしい白蓮に符丁で書かれた作戦行動中の報告書とできうる限りの詳細な報告を終えて自分の幕舎に戻ると糸が切れた人形のように眠りに落ちた。

 

 寝ていたのは丸半日であったという。その間にも公孫賛は忙しかったようだが、汜水関の検分も終わらぬ内に陣払いをして移動もできない。汜水関が落ち着くまで連合軍陣地はこのままだろう。部隊の再編、他の軍との調整。やらなければならないことは沢山あるが、ここ数日の作戦行動に比べれば天国だ。

 

 これでしばらくはきちんとした時間にきちんとした睡眠を取れるだろう。お茶を飲みながら部隊再編の調整をしていた所に、伝令がやってきたのはその時だった。

 

「以前、孫呉軍の先ぶれでやってきた優男がまた来たみたいですよ。趙雲殿が伝えて来いとのことだったのでお伝えに来ました」

 

 それではー、とどこか気の抜けた様子の伝令を見送った愛紗は先ほどまでの落ち着きを自分でどこかにふっ飛ばした。何をすることもなく落ち着きなく幕舎の中を右に左にうろうろした後、これでもかと念を入れて身繕いをし、ようやく最初に思いついたのが義妹の鈴々を呼ぶことだった。

 

 姉から大至急という伝令を受け取った鈴々は義妹としての使命感から飛んできたのだが、その名目が北郷一刀の前にどういう顔をして出たらよいか解らないから何とかしてくれ、というものだったと知ると深々と溜息を吐いた。

 

「勝手にすれば良いのだ」

「そんな非人情なことを言うな!」

「大体鈴々が愛紗にお洒落な助言とかできるはずないのだ」

「そうは言ってもだな……」

 

 藁にもすがりたい気持ちで一杯なことは、愛紗の顔を見れば解る。戦場では誰よりも先に立って勇ましく戦うのに、この義姉の頼りなさそうな姿は何だろう。

 

 自分が愛紗の立場だったらとっくに一刀のことなど押し倒してるのだ、と見た目の割に恋愛観は攻撃的な鈴々は義姉の将来を密かに心配していた。

 

 これだけ容姿に恵まれているのにここまで後ろ向きでいられるのはある種の才能かもしれない。美人であるという評判は引きも切らず、愛紗の耳にも入っていないはずはないのだが、ブレない精神性が完全に悪い方向で発露した結果、こういう時の愛紗は果てしなく後ろ向きなのだ。

 

 自分が何を言っても本当の意味では安心してはくれないと鈴々は早くも察していた。義姉の全てを理解している訳ではないものの、付き合いが長いだけあってその面倒臭さは誰よりも知っている。これは懸想している本人に言われでもしないと、自信の一つも持ってはくれないだろう。

 

 この義姉に今必要なのは、千の言葉で慰めるよりも、背中を一つ蹴とばすことだ。一刀が既にやってきているのは鈴々の耳にも入っている。今は朱里と静里が相手をしているらしいが、義姉が奮起するのを待っていたら次の朝日が昇ってしまう。

 

「お化粧もばっちり決まってるし髪もきらきらしてるし、今の愛紗は帝国一の美少女だから自信を持つのだ!」

「そこまで持ち上げなくても良いのだが……」

 

 とまた面倒くさいことを言い始める義姉の背中を、鈴々はぐいぐい押し出した。もう問答は不要である。強引な義妹の行動に愛紗も一応抵抗はするがそれは形だけのものだった。背中を押してもらえることを期待していたのだろう。

 

 鈴々との押し問答が聞こえると朱里はやっと来たかと心中で溜息を漏らした。本当はすぐにでも飛び出してきたかっただろうにここまで時間がかかったのは、無駄に後ろ向きになっていたからだろう。戦の時はあんなに頼もしいのに……と愛紗の方に視線を向けた朱里は、その姿に思わず笑みを浮かべた。

 

 どこがというほど尖ってはいない。ただ普段から愛紗を見慣れている人間だと、目に見える全てに普段よりも遥かに気を使っているのだというのが良く解る。髪はいつもより整っているし、装飾も少しだけ増えていて薄くお化粧もしている。服の裾が少しだけ短いのが、愛紗にとっては大冒険だったのだろう。しきりに足元を気にしている様は、ともすれば殿方を狙い打ちにする意図があるのではと勘繰らざるを得ない所だったが、『あの』愛紗がこの方面でそんな腹芸ができる人間でないことは、この数か月の付き合いで朱里も理解していた。

 

 こういう方面に関しては大概自分も奥手であると自負しているものの、愛紗に比べればまだマシだと思える。年齢は大分愛紗の方が上であるが、頑張る妹を見守る姉の心地で、朱里は雛里と静里に目配せをした。

 

 灯里を含めたこの四人の間では、視線で大体の意図が伝わる。どうにかして水鏡先生に一泡吹かせてやろうと何度も結託し、その度に返り討ちにあって酷い目にあった記憶が蘇るが、無視した。

 

「じゃあ、私たちは席を外すよ。お二人でごゆっくり」

 

 にやにやと品のない笑みを浮かべた静里は先輩二人を促し、来たばかりの張飛も連れて行った。去り際に張飛が小さく頭を下げる。義姉のことをよろしくという心の声が聞こえてくるようだった。

 

 年端もいかない少女によろしくされる程に、関羽はがちがちに緊張していた。思えば賊徒の盗伐をしていた時もこんなだったように思う。苦手なことなど誰にでもあるものだ。むしろかの関羽のそういうところを見れた一刀は機嫌を良くしていた。

 

 どこでも自由に動けるというのであれば、その辺を散策でもしたのだろうが、ここは一刀にとって他所の陣営である。重要人物の一人である関羽が一緒にいたとしても、部外者がうろうろするのは歓迎されることではない。

 

 連れだってどこぞに消える水鏡女学院の卒業生たちの背中を見送った一刀は、スカートの丈をしきりに気にしながら――前に会った時よりも短い気がしないでもない――所在なさげにしている関羽に、微笑みかけた。

 

「隣、いかがですか? 何もなくて恐縮ですが」

「失礼します!!」

 

 それから関羽の話に一刀は熱心に耳を傾けた。興奮しすぎて早口になった関羽は度々言葉をつっかえるような所があったが、それをからかうようなそぶりは全く見せずさりげなくお茶を勧めてきたりもする。普段から他人の話を聞きなれているのだろう。関羽団の兵たちは委細漏らさず話を聞こうとするが、そういう力んだ様子はなく、一刀の振る舞いは不自然ではない程度に自然体である。

 

 興奮こそ冷めやらないが幾分愛紗が冷静になったのは、勧められたお茶を三杯は飲み干した後のことだった。空になった椀を見て唐突に自分の話しかしていないことに気づいた愛紗は、慌てて一刀へと水を向ける。

 

「北郷殿も、ご活躍されたとか!」

「貴女に比べれば微々たるものですよ。今回もまた仲間に大いに助けられました」

 

 別動隊を指揮して輜重隊を潰し続けた。関羽本人から作戦内容を聞かされた一刀は、素直にそう思った。土台あの『関羽』であるのだから器も違うというものだ。同年代の少女が活躍しているのに自分は……と思わないでもないが、

 

 だがそれに腐っていては前に進めるものも進めない。他人は他人。自分は自分である。持てる限りのものを尽くして、できる限りのことをする。何かに真剣になるというのはそういうことだ。入り込む隙間がある所には、変化する余地がある。それが良い方向になのか、悪い方向になのか。それを決めるのが意思であり、その手段が学問なのですよ、というのが郭嘉の弁である。

 

 人間何故勉強するのかという現代人としての問いに、神算の士はそう答えた。やりたいことをやりたいようにやるために学ぶのだと。知識とは全て、実践し結果を出すための行動をするために存在するのである。

 

 凛々しい横顔に惚れ直していた愛紗は我が世の春を謳歌していた。このままいつまでも時間が続けば良いと半ば本気で思い始めていた頃、そんな幸せな時間を引き裂く声が響いた。

 

「北郷!!」

 

 懐かしいその声に、一刀は思わず息を漏らした。

 

 声のした方を見ると、果たして思った通りの女性がいた。

 

 猫耳頭巾の下には癖のある収まりの悪い髪。目つきが無駄に険しいのは相変わらずで、その鋭い目はあの頃と同じように自分のことを睨みつけていた。改めて何かをした訳ではない。彼女にとってはこれが普通で、一刀にとってもそれは同じだった。

 

 まだ二年も経っていないはずだが、変わらない彼女の様子に安堵する自分がいる。

 

 声音にはともすれば悪意すら感じる強いものだったにも関わらず、その声を聞いた一刀は自然と笑みを浮かべていた。それほど離れていた訳ではないのに、それほど一緒にいた訳でもないのに、久しぶりに見たその顔に、何だか安心した。

 

 逆に関羽は自分の感覚が戦の時のように研ぎ澄まされていくのを感じていた。

 

 合同討伐の際、一刀団の軍師たちが苦々しい顔で言っていたのをよく覚えている。彼女らが一刀から聞き及んだらしい身体的な特徴も、眼前の少女と一致していた。愛紗たちの同年代では有名人の一人である。『王佐の才』と名高い、当代最高の軍師の一人。

 

 荀彧。字は文若。北郷一刀にキツく当たっているにも関わらず、彼に懸想されているらしい度し難い人物――平易な言葉を使うのであれば、愛紗にとっての敵である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第038話 反菫卓連合軍 虎牢関攻略編②

 

 

 

 

 

 

 平伏する凪の姿を見ながら華琳は黙考した。

 

 汜水関攻めの際の戦闘における曹操軍が被った被害、その沙汰の場である。曹操軍は三千という兵を公孫賛率いる一番槍に貸しだした。そこで胸のすくような大勝利をするとは完全な予想外であったものの、当初の目的であった公孫賛に恩を売ることには成功している。

 

 大勝利のおかげで虎牢関での手番を後回しにできる権利を得るなど他にも嬉しい誤算はあったが、それは全体として見た場合の話である。

 

 一番槍の部隊に参加した凪の部隊はおよそ三千だったが、将として出陣した彼女は死者と重傷者の合計でその過半数を失うことになった。同じく三千を貸し出した孫堅軍の甘寧の部隊の損耗が軽微であったこともありその損害の大きさは際立って見える。

 

 いかなる処罰も受け入れると凪は伏してから身じろぎ一つしない。ここで斬首となっても受け入れるという態度に華琳は深々と溜息を吐いた。

 

 兵の損耗は確かに無視できるものではないがそれ以上に失う訳にいかないものがある。とは言え、信賞必罰が世の習いであるのなら何もなしという訳にはいかない。凪を見逃すにしても何かしら理由づけは必要なのだ。

 

 そう考え華琳は側近である二人の姉妹と軍師に視線を送った。言葉はなくともその意図くらいは汲んでくれる関係である。

 

「秋蘭」

「勝負は水物です。まして相手は華雄軍の精兵であり、凪は将としては此度が初戦。情状酌量はあっても良いかと思いますが、兵半数の損害とあっては無視もできません。連合においては別命あるまで後方にて待機。領地に戻って後は将より一等降格。損耗した兵を新兵の中から調練し補充させる……将への復帰はその後の功績次第ということでよろしいかと」

「春蘭」

「華雄軍の兵の質は帝国内でも有数であり死兵ばかりでした。凪の兵の質は当座申し分ないと私も思いますが、流石に相手が悪かったように思います。寛大な沙汰を願います」

「桂花」

「この戦が終わって後のことを考えれば兵は勿論ですが将の損耗はより避けるべきかと。適当な罰を与えてほとぼりが冷めたら復帰させるべきです」

「皆凪を庇うのね……まぁ、私も同意見だけれど。という訳で私を含めて貴女を庇うということで意見が一致したわ。当面後方にて待機。他の隊の支援活動に従事すること。損耗した兵の補充は貴女の仕事になるわ。しばらく忙しくなるだろうけど覚悟しておきなさい」

「寛大な沙汰に感謝します」

 

 命を落とした兵もある。調練に手を抜いていた訳ではないがあまりに処分が軽いようだと下への示しがつかないというのが凪個人の考えだった。当然のことながら上が決めた処分に異論はなく、まして想像していたよりも軽い処分だったのだから凪の立場からすれば文句を言うのも筋違いである。

 

 個人として納得がいかなくても上から示された『温情』を不適当であると下が突っぱねることは、上の顔に泥を塗ることになる。上から沙汰が下された以上、下の人間はそれを是とするしかないのだ。沙汰を決めるのはそもそも凪の仕事ではない。

 

 失点はこれからの働きで挽回するより他はない。退出を促す秋蘭の声に一礼し、退出しようとした凪の背に華琳が声をかけた。

 

「一つ聞いておきたいのだけれど、凪。貴女、北郷一刀という男とはどういう関係なの?」

 

 華琳の質問の意図が解らなかった凪は振り返った。苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔をしている桂花が見えたが、それは無視する。

 

 先の戦闘の報告書にはありのままを書いた。北郷一刀というのは苦戦してた所に甘寧隊から援軍でやってきた部隊長で、汜水関に攻め入る際にも凪は同行させてもらっている。

 

 率いる兵の数を考えれば、三千の将である凪が五百の長である一刀の風下に立ったことになる。有事の際ではあるが角が立つと言えば立つだろう。そういうこともあってもう少し処分は重くなるものと考えていたのだが、それはともかく。

 

 一刀の名前を知ったのも知己を得たのも、汜水関で助けに来てくれた時が初めてだ。凪の解る範囲での部隊の内訳と兵の練度や指揮についての感想は添えておいたが、個人的な関係を匂わすような描写はしていないはずである。

 

 彼らについて聞かれるのならばともかく、個人的な関係を詮索されるようなことは書いていないはずなのだ。もしや彼に何か不利になることが起こったのかと心配する凪に、華琳はその不安を和らげるように小さく笑みを浮かべる。

 

「その北郷一刀からね、貴女と兵が勇猛に働いてくれたことに対する感謝の手紙が来ているのよ。貴女が戻ってくるよりも早く届いたから、戻ってくる途中に書いて急いで届けさせたのね」

「それは……」

「勿論、貴女に対する沙汰に関して口を出すようなことは書かれていないわ。貴女が具体的にどういう助けをしたのかも書かれていない。極めて具体性を欠いたお手本のような『感謝の手紙』な訳だけど、そこにどういう意図があるのかは見て取れるわ」

 

 他の軍の人間が沙汰に干渉するのは角が立つから、実際にあった内容には全く触れずに感謝の気持ちだけを伝えているのだ。凪よりも早くそれが届いたのはそれだけ凪に対する風当たりの強さを慮った結果だろう。兵半数の損耗は軍によっては首が物理的に飛びかねない大事だ。

 

 手紙の内容よりもそれが届くまでの事柄で内心を伝えている。これでも全く角が立たないという訳ではない。回りくどいやり方でも意図は伝わっているのだから、華琳の立場からすれば干渉されていると言っても良い。

 

 まして相手は五百人を率いるだけの人間だ。北郷一刀から見れば自分は彼の雇い主である孫堅と同等の立場である。華琳がこれを騒ぎ立てれば自分の立場を危うくする。今はどこの勢力もぴりぴりしている時期だ。その程度の危険も予測できないほどのバカが大事な初戦の一翼を担うとも考えにくく、結果として凪とは元からの知人である可能性に思い立ったのだが、凪の反応を見るにそうではないらしい。

 

「この手紙が貴女の命を救ったなどということは決してないけど、自分に対して行動を起こしてくれた人間のことは忘れないようにしなさい。後で感謝の手紙でも書いておくことね」

 

 特に問題はないということを強調すると凪は深く頭を下げて足早に退出した。幕舎にやってきた時よりも軽い足取りに、華琳は口の端を上げて笑う。

 

「あれは今晩北郷とやらが閨に訪れたら身体の一つも差し出すわね」

「その前に手折るのが華琳様の趣味だと思っておりましたが」

「理解のある臣下を持てて幸せよ。さて、件の北郷だけれどマメな男だと思わない?」

 

 からかうような声音の華琳に秋蘭は苦笑を浮かべ頷いた。出世に貪欲な人間は方々に顔を繋ごうとするものだがそれにしても仕事が細かい。凪を有望と見たのだとしても少々行き過ぎなように思う。

 

「凪ではなく華琳様に繋ぎを取りたかったのでしょうか?」

「それなら最初から私の所に来るのではなくて? 私も北郷団の名前くらいは聞いたことはあってよ」

 

 黄巾の乱からこっち各地で大小様々な集団が起こった。その多くは既に潰えたが今も勢力を維持拡大している集団もある。公孫賛の所で大活躍した関羽の一団はこの筆頭であり、北郷団はそれに次する集団の一つだった。

 

 筆頭の関羽たちに兵数では大きく溝を開けられているものの、『神算の士』郭嘉を筆頭にその筋には知らぬ者のいない智者を複数抱えておりその動向には華琳も注意を払っていた。自分の所に来るならば温かく迎えてやるつもりだったのだが、連合軍結成の折彼らは孫呉軍へと合流した。

 

 その判断は解らなくもない。彼らが根城にしていた荊州からだと集合地に到着するまでの間に合流できる大勢力は孫呉軍しかなかったし、勢力の中で出世するにしても手柄を立てて独立するにしても、あちらの方がやりやすいことは華琳にも解った。

 

 何より自分が北郷たちの立場ならば曹操軍には来ない。自分の能力に自信があるのならば猶更、独立の目がある方に行くのは当然のことだ。曹孟徳は才能ある人間を逃がしたりはしないのだから。

 

 それに激情家の孫堅のことだ。共に戦った凪ならばまだしも、他の勢力の代表とこっそり繋ぎを取ることに良い顔をしたりはするまい。詰まる所現時点でさえ全てが公になれば北郷の立場は危ういのである。最終的な目標がどこであれ北郷たちの今の代表は孫堅なのだ。

 

 いずれにせよ北郷がこちらに秋波を送るにしても今更感は拭えない。単純に凪を心配してという方がまだ筋は通るがそれだとやはりマメな男だという結論に帰結する。評価をするに値するにはするのだけれども女として微妙に気持ち悪さも覚えた。万事この調子なのだとしたらそれはそれでお付き合いは考えなければならない。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。

 

 結論として華琳の北郷一刀に対する評価は注目するに値する、という微妙なものだった。集団として見れば軍師たちのこともある非の打ちどころがないと言っても過言ではないが、軍師たち全員が北郷に紐づいているのであればお得ではあるけれども、その逆とも考えられる。

 

 釣り上げる前提であれば北郷一人だが、逃すのであれば彼ら全員である。引き抜く前提で行くのであれば、接触には注意を払う必要があるのだろうが、恐々と手を伸ばすのは弱者のすること。曹孟徳のすることではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、そこでかわいい顔をしている桂花。知っていることを全て話しなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 適当に桂花をいじめながら彼女から情報を引き出した華琳は、ならばと直接北郷に会うことにした。およそ桂花から彼を誉める言葉は聞けなかったが、説明を強いたとは言え桂花が男性についてここまで長時間も話すのは初めて聞いたからだ。

 

 桂花の口からは男性の名前が出てくることさえ稀であるし、出てきてもその評定は一言二言で済ませてしまう。好悪の向きは別にしても桂花が強い興味を持っていることは察せられた。

 

 早速、孫堅軍に人をやって北郷に会いたいという旨を伝えたら、彼は公孫賛軍に趙雲の見舞いに行っていると言われ出鼻を挫かれてしまった。他の軍の人間に会うのにさらに他の軍の陣地に行くというのも妙な話であるがそれもまた一興であると、時間を貰えるなら一席設けるという孫呉からの使者に丁重に断りを入れて送り返し、華琳は腰をあげることにした。

 

 これには桂花がそこまですることはないと烈火の如く反対したのであるが、貴女も行くのよと言ってやると無言になってしまった。それは嫌だとはっきりと顔に書いてあったがしかし、主張はしてこない。

 

 基本桂花は聞き分けが良く、自分の言うことに対して口答えなどはしてこない。

 

 華琳から見ればよく躾けられた犬のようであり実に愛らしいのだが、この態度が自分の前だけであることを華琳は良く知っていた。華琳以外の人間には好き放題に物を言い、男嫌いを公言しているだけあって特に男性への風当たりが物凄く強い。

 

 全員が女性で編成されている親衛隊以外、男性がいない職場というのは存在しないのだが桂花の周囲だけは例外的に全て女性で固められている。高い才能に我儘はつきものというのが華琳の考えだ。我儘放題してもそれを補ってあまりある結果を出すならば華琳としては文句はない。

 

 これは桂花に限った話ではなくおよそ華琳が才人と認めた人間には最低限業務に支障が出ない範囲内で好きにさせているのだが、文官の中では誰よりも結果を出し、かつ華琳のその方針が軍団内に知れ渡っているにも関わらず、周囲の桂花に対する評価は良くはない。

 

 男性には立ち上がれなくなるくらいに罵詈雑言を浴びせるだけで女性に優しい訳では決してない。子供相手には多少の手加減をするが、桂花は万事において評価が厳しい。これでは好かれるはずもなく機会さえあれば桂花を蹴落とそうという人間も少なくないのだが、図らずもその環境が彼女の優秀さを際立たせることになっていた。周囲に嫌われていても結果を出せるのであれば、その才能は本物だ。

 

 その孤高さは華琳にしてみれば頼もしくもある。とは言え周囲全て女性であの評判。男に対してはあの態度なのだから近づいてくる男性などこの世に存在しまい……くらいに思っていた華琳だったが、公孫賛の陣地を訪れるとその例外を見ることになった。

 

 世の中広いものだと心底感心する。同じ立場であれば華琳なら二、三発は蹴りの飛んでいそうな罵詈雑言を笑顔で聞き流していた。そのへらへらした態度が気に食わないのか会話の合間に桂花からはガンガン蹴りが飛んでいたが脛を蹴り飛ばされながらも北郷は平然としている。

 

 閨の桂花のような被虐趣味かと思えばへらへらしつつも至福という感じではない。楽しいとは思いつつもこれを当然として受け止めている。度量が広いのか感性が鈍いのか。いずれにせよこと桂花の周囲に置く男性としてこれほど適当な人間もいないだろう。

 

 こういう性格の娘がこんな男を連れてきたのだ。その実家に一月も滞在していたというのだから、ご母堂を始め荀家の人間たちの受けも良かったに違いない。下手をすればこのまま婿になんて話があってもおかしくないはずなのだが……桂花からはそういう報告は聞いていない。

 

 あってもよほど強く問い詰めない限り口を割らない気もするが、まぁ、相手のことを何でも知っておきたいというのも無粋な話だ。

 

 その仮想婿殿の話である。桂花がああまで言うのだから二目と見れない程のブ男を想像していたのだが、実際に会ってみると北郷一刀というのはまぁまぁ見れる面をした優男だった。兵としては細身であり上背はそれ程でもない。流石に華琳よりは大きいが、それなりの都会でそれなりに遊んでいるのが似合いそうな顔だちであり、間違っても戦場が似合うような厳つさはない。

 

 都で洗練された男を見慣れた華琳からすると美形に分類するには抵抗のある面構えだ。中の上と言った所で上に分類はされまい。街ですれ違ったとしてもそのまま気にも留めなかっただろうその男が、今目の前でにこにこしながら桂花の罵詈雑言を聞き流して――いない。彼はしっかりその内容に耳を傾けて一々相槌を打っていた。ますます頭がおかしい。

 

 これは特殊な趣味をしているのではあるまいな、と聊か微妙な気分になりつつ、目を横に動かす。元々二人で話でもしていたのだろう。えらくめかし込んだ様子の関羽が一刀から僅かに離れた所で立ち尽くしているのが見えた。

 

 むりやり感情を押し殺しているのだろう。血の滴る両の拳から控えめに言って激怒しているのがよく解る。それでも声を荒げたりしないのは一刀の立場を慮ってのことだろうか。音に聞こえる程の武芸者だ。よく我慢しているものだと思うが、それだけ一刀への思いが強いということなのだろう。

 

 程よく()()()その表情に華琳は全てを忘れて関羽を落としてしまうことも考えた。人間、物事が思い通りに行っていない時ほど心に隙があるもので、華琳の感性が今ならいけると告げていた。実際、懸想している相手が見知らぬ相手に罵詈雑言を浴びせられてへらへらしていたら、色々思う所はあるだろう。千年の恋が一瞬で冷めるというのもないではない。

 

 視線が強く桂花に注がれていることから一刀のふがいなさではなく桂花の物言いに激怒しているのだと見て取れるのは、一刀にとって幸いなのか。眼前の男女の関係は程よく良好のようで微笑ましい。

 

 北郷の精神的な特殊性癖は桂花と付き合う上では美点でも、他に女がいるのならそうとは限らない。そこを美味しくいただくのは華琳の得意技でもあったのだが、部下の礼を言いに来た場で修羅場を演出する訳にもいかない。自分の間の悪さを天に呪いつつ、

 

「そう言えば荀彧。実は俺少し背が伸びたんだよな」

「へーそうなの。全く興味がないんだけど」

「まぁ聞いてくれよ。その背が伸びた俺から見て、前に会った時よりも視線が近いように見える。俺より背が伸びたんじゃないか?」

 

 とっさに出てしまった反応だったのだろう。満面の喜色を浮かべ顔を挙げた桂花は、視線の先にいるのが北郷であることを思い出すと顔を真っ赤に染めながら奇声を挙げて、凄まじい勢いで北郷を蹴り続けた。そんな桂花を心底楽しそうに眺める北郷に頭痛を覚えた華琳は、視線で人間を射殺せそうな顔をしている関羽を見ないようにしながら、大きく咳払いをした。

 

「桂花。楽しいのは解るけれど私を紹介してもらえるかしら?」

「……申し訳ありませんっ。華琳様、こいつは北郷一刀。私の知人です。北郷、こちらは私の主人である曹操様よ。無礼な口をきかないように」

「お噂はかねがね。お会いできて光栄です」

「うちの子を助けてくれて感謝するわ。貴方が助けに入ってくれなければあの子も無事ではなかったでしょう。苦労をかけたけれど、これに懲りずに付き合いを続けてもらえると助かるわね」

「こちらこそ楽進殿には大いに助けていただけました。関係を続けるのは願ってもないこと」

 

 荀彧がここに来たのも想定外ならその主の曹操が現れたことも想定外だ。この世界に来る前よりは多少マシになったとは言え、一刀は自分の頭のデキを全くと言って良い程信じていない。平均よりはマシという自覚はあるがそれはあくまでこの時代の教育水準が低い故のことだ。

 

 下々が学ぶ余裕がない社会であるが故に下流層の教育水準はびっくりするほどに低いが中流以上の家庭では子女の教育に力を入れており、上流層の所謂『知識人』などと呼ばれる連中は本当に知恵者だ。

 

 学び始めるのに遅いなどということはないとその知恵者たちは言うのだが、それはできる人間特有の余裕である。早ければ早い程、かけた時間が長ければ長いほど基礎の力というのは開いて行くものなのだ。

 

 そんな恵まれた環境の中にあり、更に才能に恵まれ、その中でも一際輝くような天才がいる。一刀団では郭嘉などの軍師たちがそうであるし、公孫賛軍においては朱里などがそうだ。

 

 違う集団に所属する一刀の耳にさえ、傑物の情報というのは嫌という程集まってくる。

 

 その中でも『曹操』という人間は傑物中の傑物として評判だった。早い話が一人では関わり合いになりたくない人間の筆頭である。

 

 あたりさわりのない言葉を適当に並べながらも、一刀は如何にこの場から逃げるかを考えていた。雛里たちが戻ってきてくれるのがベストなのだが、気を利かせて席を外した人間がすぐに戻ってくるとは考えにくい。

 

 状況から考えて隠れて覗いていても不思議ではないが、それなら曹操が現れた段階で特に雛里はすっとんで来てくれるだろう。今来ていないということは本当にこの近くにいないのだ。曹操がやってきたということは遠からず伝わるはずで、そうなれば雛里もやってきてくれるはずだが、それが一刀がボロを出す前になるかどうかは天の差配に任せることになった。

 

 せめて三国志知識でもあれば違ったのだろう。もっと勉強しておけば良かったと思う毎日だが過去は変わるものではない。手弁当で一刀が引っ張り出した曹操に関する知識は人材マニアであること、当時の男性にしても背が小さかったらしいことと、同じクラスだった及川が『ならばよし!』と一時期言いまくっていたことくらいだ。何かのマンガに出てきた『曹操』の台詞なのだそうだが、その知識は金髪縦ロールの美少女を相手に何の役にも立たなかった。

 

 同様に男性にしては背が小さいという情報もあまり役に立たない。目の前の、直感で判断するにおそらく年下であろう美少女は確かに小柄だったが、視線には言いようのない力があり、佇まいが既に大物だった。

 

 往年の漫画ではよく大柄な不良が威圧的に振る舞うシーンが見られるが、小柄であろうとそれどころか美少女であろうと怖いものは怖いのだと良く解る。

 

 そのまま時代の行く末だの今後の展望だの聞かれたらどうしようと当たり障りのないことを答えながらも心中身構えていた一刀だったが、曹操はそれこそ本当に当たり障りのないことを二三言交わすとそのまま荀彧を連れて踵を返してしまった。

 

 一つの軍団のボスが他陣営にまで来たにしては帰るのが早い気もする。一刀としては願ったり叶ったりであるが、一体何をしに来たんだろうという疑問も残った。

 

 言葉の通り本当にお礼を言いに来ただけという風にも見れるが、自分を見定めに来たようにも思う。合理的というかデキる女というか。郭嘉のように話してみれば意外と気のいい奴だと解るのだろうけれども、あの手のタイプは取っ掛かりができるまでが難しい。

 

 もう随分とこちらの世界にいるような気さえする。それだけこちらに来てからの生活がそれまでに比べて濃いということでもあるのだが、過ごした時間だけを見れば元の世界での方が長い。同年代以下に郭嘉や曹操のようなタイプは全くいなかった故に、一度身構えてしまうと微妙な苦手意識が首を擡げてくる。

 

 学校で堅物教師を目の前にしたかのような緊張感とでも言えば良いのだろう。郭嘉たちの指導のおかげで人付き合いにも慣れてきたと思っていたのだがまだまだだったようだ。去りゆく曹操の背中が見えなくなるまで見送ると、一刀は深々と溜息を吐いた。疲れる時間はこれで終わりだ。さて、と振り向き関羽を見て、一刀は驚きで目を見開いた。

 

「関羽殿、お手を」

 

 は、と気づいた関羽は何も考えず言われた通りに手を差し出し、その段階でようやく自分の手が真っ赤になっていることに気が付いた。自覚するとじくじくとした痛みが襲って来る。兵として将として痛みには慣れている。この程度大したことではないが愛紗は羞恥で顔を真っ赤にした。

 

 自分を制御できなかった故の自傷がかっこいいものであるはずがない。まして憎からず思っている相手の前で恥をさらすとなっては、愛紗の性格では平静でいられるはずもなかった。

 

 走って逃げたい衝動に駆られていたが手は既に一刀に握られている。その事実がまた愛紗の混乱に拍車をかけた。だって手を握られているのだ!

 

「貴女が怒ってくれたことを、俺はとても嬉しく思います。これだけ怒りながら口を噤んでいてくれたことには感謝しかありません。ですが、そのために貴女が傷つくことは本意ではありません」

 

 何か嬉しいことを言ってくれている……ような気がするが愛紗の視線はぼんやりと握られた手と一刀の顔を行き来していた。猫耳頭巾相手にムカついたばかりだがこんなことがあるのなら全てを広い心で許せそうな気がしないでもない。

 

「今日は日が悪いようなのでまたいつか、時間を取っていただけませんか? お茶でも飲みながらゆっくり話をしたいんですが――」

 

 

 

 何やら色々言われたような気がするが、その内容を愛紗はほとんど覚えていなかった。彼女が正気を取り戻したのは一刀がその場を辞し、席を外した雛里たちを探しに行った数分後、入れ替わりに戻ってきた静里に声をかけられてからのことである。

 

「よー愛紗。何か曹操が来たって話なんだが一刀とはどうだった? 接吻の一つもしたか?」

「手を握られた! 今度、一緒にお茶をすることになったぞ!!」

 

 空に浮かびそうなくらいに舞い上がっている愛紗の姿に静里は思わず目がしらを抑えた。男なら思わず飛びつきたくなるような身体をしているようなこの女が、学院に入学したての後輩たちよりも初心な反応をしていることに一種の哀れみを覚えたのだ。

 

 男性とお付き合いなどしたこともない静里であるが、子供を作るような行為が逢引の約束のように十分な時間を取って事前に示しを合わせて行われるものでないことくらいは察しがつく。手を繋いで舞い上がるような女が十全に種付け行為を行えるとも思えないし、愛紗有責で失敗などした日には彼女は羞恥で腹でも斬りかねない。

 

 静里にとって初めての男性の友人である一刀は気の良い男だ。可愛い先輩たちのためにもあの男には是非ともつつがない性生活を送って経験を積んでおいてほしいものなのだが、比較的良い位置にいるはずの愛紗は経験値になりそうもない所か、良くない経験を積ませそうな気配さえあった。

 

 

 

(こりゃうちの先輩たちの方が早く女になるかもだな……)

 



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第039話 反菫卓連合軍 虎牢関攻略編③

 

 

 

 

 戦略やら戦術といった戦場の後先、あるいは最中に用いられる全ての技術というのは、最終的な利益を最大化するために存在する。勝利や敗北さえその過程に過ぎず、それを用いる人間が何処を当座の目標とするかで、同じ局面であっても取るべき手段が変わるものだ。

 

 この技術の習得と運用のためにおよそ軍師と呼ばれる人間たちは膨大な時間を費やす訳なのであるが、時に集団、あるいは個人としての利益を最大化するよりも優先すべきモノが発生することがある。

 

 それは上にいる者ほど無視できなくなるもので、局面によっては利益を度外視してでも守らなければならないモノ――面子だ。

 

 幾集団からの援助を受けたとは言え、公孫賛軍がほぼ単独で汜水関の攻略を、それも攻撃を仕掛けてから一日で陥落せしめたことで世の名声は現状、公孫賛とその一党に集中する形となってしまった。

 

 盟主を名乗る以上、袁紹はこれを無視することはできない。軍団としての戦果は全てその盟主に帰属するのが通例であるが、それはある程度想定の通りに物事が進み、配分するべき戦果があって初めて成立する。

 

 楽観主義の袁紹でさえ連合軍が途中で瓦解する可能性には当然思い至っていた。戦果なしとなった場合、途中で如何に活躍したかでしか世に誇る物がなくなってしまう――とだけ考えてしまう辺り、軍師役の顔良からすると始末に負えない。

 

 膨大な予算と人員を割いての連合であり、その連合は袁紹が発起人として結成された。戦果なしとなっても責任というものは発生する。世間も参加した諸侯たちも、ここぞとばかりに袁紹を攻撃することになるだろう。それを機に反袁紹連合なるものが結成されることだってあるかもしれない。

 

 董卓を倒すためにまとまったのだ。袁紹を倒すために纏まれない道理はない。顔良としては十分その未来は危惧すべきものとして考えてはいたが、常に袁紹軍の無理難題を片づけている彼女の頭脳を以てしても、虎牢関の単独攻めは『やるしかない』という結論にならざるを得なかった。

 

 理路整然と道を説いたとしても主袁紹が聞き入れてくれるはずもなし。彼女は当座の戦果を挙げることに固執している。その気持ちも解らなくもない。いくら盟主とされたとしてもどこかで身を切らなければ示しがつかないし、袁紹軍以外の勢力は汜水関で公孫賛軍に貸しを作る形で兵を出している。

 

 諸侯の中でまだ兵を出していないのは南北の袁家のみであり、この内南の袁家は孫堅軍の事実上の雇い主である。あれもうちの軍ですよーと公然と張勲に言い張られては覆すのは難しいし事実そうなってからでは遅いのだ。

 

 公孫賛を始め既に兵を出した諸侯がとりなしてくれるのであればまだしもだが、袁紹軍が兵を出さないで済むようなことに助け船を出してくれるはずもない。

 

 二つの関の攻略においては余力を残し、関を抜いた後で大軍の理を活かして美味しい所だけをかすめ取るのが顔良としての最上であったのだが、汜水関の大勝利によってその全ての予定が狂ってしまった。

 

 兵糧も潤沢兵も無傷。加えて領地の位置的に将来の、それも『最初の』敵となる公孫賛が大金星を挙げたのであれば兵を出さない理由はない。

 

 こうなっては兵の大損害は避けることができないだろう。諸侯にはそれを期待されている向きもあるのは主の人望のなさだけが原因ではないと思いたい所である。

 

 自慢ではないが袁紹軍は弱兵だ。精兵と呼べるのは二枚看板とされる文醜顔良麾下のみでそれ以外は問題外である。装備だけは立派なため数と力押しで何とかできる面もあるが、それは相手の方が数が少なく、数の利を活かせる平地で戦った場合の話だ。

 

 帝国の首都洛陽の東を預かる虎牢関は帝国内でも一二を争う堅牢さを誇る。これを攻め難しとする理由は色々あるが、ともかく袁紹軍には精兵の守る難所を攻めるだけの能力はない。

 

 これを攻めよというのは兵を捨てに行けと言っているに等しい。軍師役としては全力で止めねばならない所であるのだが、悲しいことにやらないという選択肢は初めからない。

 

 どれだけ被害を抑えることができるか。良く回る頭を必死に回して考えに考えた策を巡らせた兵が虎牢関の前に展開したのは、公孫賛が汜水関を攻略してからおよそ二週間の後のことだった。

 

 移動の間も連日会議は開かれたが結局、袁紹軍単独での戦闘を避けることはできなかった。白蓮さんの時は助けてくれたのにと主はぶちぶち文句を零していたが、現状一つの戦力として最も兵力を抱えているのだから、それより少ない兵しか持っていない連中が兵を貸してくれるはずもない。

 

 公孫賛が主袁紹よりも好かれているというのは当然あるのだろうが、諸将も善意で兵を出した訳ではない。同じ金額を貸し付けるなら、貧乏人に貸した方が貸しは大きいに決まっているし袁紹に兵を貸しても旨味がないのは事実である。

 

 かくして、装備だけは立派な十余万の兵の前に展開した虎牢関の兵は、あろうことか騎兵のみの約一万。

 

 しかも遠目に見て虎牢関の大扉は開け放たれているのが解る。お前たちには絶対に突破されないという自負が見て取れた。舐められているというのは袁紹軍の兵たちにも解る。目に物見せてくれると気炎を吐く兵たちを他所に、騎馬隊の旗が紺碧の張旗だと伝令から聞いた顔良は憂鬱過ぎて眩暈を覚えていた。

 

 口撃の応酬などもあるはずもなく。恨み骨髄といった張遼の大音声によって戦闘は始まった。

 

「張遼が来るで! 張遼が来たで! 覚悟しやれやクソ虫ども。老いも若きも皆殺しやぞ!!」

 

 猛然と突っ込んでくる騎馬の大軍を前に歩兵のできることは基本的には二つである。五人十人と組んで騎馬に向けて盾を並べるか、戟を並べて迎え撃つかだ。

 

 大盾を使って騎馬を迎え討つ戦術というのは古来より存在しているものであるが、そのためには当然大盾を担いで戦場を歩き、集団を断ち割られることを防ぐためにその部隊を外周に配置していないとならない。

 

 当然盾というのは重くて嵩張るものであり、他の武器に比べても潰しが利かない上に何より他の武器に比べてコストが掛かる。兵士を一山いくらと見るのであればまだ戟を並べる方が集団の運用も素早くでき何より低コストで済むということで、大体の軍では戟を並べる方が採択されているし、腰を据えて戦うのであれば拒馬や馬防柵などの障害物を使用するのであるが、袁紹軍は違った。

 

 その方が見栄えがするというただそれだけの理由で、きらびやかな盾を持った盾兵なる兵科が存在している。突撃してくる騎馬を受け止め、それを弾き飛ばすのが彼らの仕事だ。

 

 実際、冀州で野党と戦う際にはそれなりの成果を発揮したもので、強固な鎧に身を固めた屈強な兵たちは、弱兵と侮られがちな袁紹軍の中では一際異彩を放つものだった。

 

 敵が神速の張遼隊であろうと何も問題はない。我らは不動であるという絶対の意思でもって盾を並べ、受けて立つとばかりに袁紹軍本体から僅かに離れ、よりによって張遼隊の真正面に展開した盾兵たちは――まるで存在しないとでも言わんばかりに一瞬で蹴散らされた。

 

 まさか、というのは袁紹軍のほとんどの兵の感想であるが、一方で張遼隊も『まさか』と同じことを考えていた。

 

 弱兵と聞いてはいたがここまで弱いとは……

 

 帝国最強を自負するだけあって張遼隊の調練は過酷を極める。その中には盾兵などの騎馬対策をした歩兵を想定した訓練も存在し、如何に一方的にそれを突破するのか、長である張遼を中心に日々戦術の研究が行われている。

 

 盾や戟をもって騎馬を受け止める役は張遼隊の隊員たちが務めることもあり、彼らは身をもって騎馬隊を受け止めるということがどういうことなのかを理解していく。

 

 その本職でない彼らの目から見て、袁紹軍の本職である所の盾兵たちはまるでなっちゃいなかった。立派なのは装備だけで腰の落とし方もなっていない。普段どういう調練をしているのか。鼻や腕の骨折など日常茶飯事である張遼隊の面々は逆に気になった程なのだが、どの道皆殺しにするのだからとそれはすぐに忘れ去られた。

 

 張遼隊が、袁紹軍を断ち割っていく。袁紹軍にはまだ盾兵も戟を持った兵も存在していたがそれらがまるで存在しないかのように騎兵たちは進んでいく。一万の騎兵はまず千ほどの集団に解れ、それが更に必要に応じ百程度の集団に分かれていく。

 

 十余万の兵団を包囲するでもなくただ縦横無尽に動き回り兵団を外から削りとり、浮いた兵団を近くにいた騎兵が片づける。張遼隊にとっては戦闘というよりも作業だった。

 

 数では勝っているのである。張遼隊を無視して関に向かうという選択肢も袁紹軍にはあったはずだが、これでは関を狙う隙などあるはずもなかった。

 

 騎兵の動きに隙間は勿論あるが、袁紹軍から虎牢関は見えると言ってもまだ距離があり、当然のことではあるが人間よりも馬の方が足は速い。到達する前に殺されるというのは屈強な盾兵たちが一瞬で吹き飛ばされたことからも明らかである。弱兵と名高い袁紹軍にスケベ心を出す兵などいるはずもなかった。

 

 一方的な蹂躙劇が十分も続くと袁紹軍は及び腰になり、それから五分もするとじわじわと後退を始める。潰走まで後一歩。まるで手ごたえのない集団を前に、張遼は戦闘の中心から離れた場所で機を伺っていた。

 

 十余万の大軍団を突っ切っての痛恨の一撃。一気に大将首の袁紹を取ることを狙っていたのである。陳宮からは戦力を削るだけで十分と言われていたが、殺れる時に殺るのが張遼の主義だ。

 

 これだけの混乱の中なら行って帰ってくるだけの自信が張遼にはあった。自分たちならできる――何より、あれだけのことをしてくれた連中に、さっさと一泡吹かせねば気が済まない。

 

 私情が絡んでいないと言えば嘘になるが、それは董卓軍の兵たち全員の思いでもあった。汜水関に残った華雄隊は自分たちを逃がすため、一騎打ちにて華雄を下した趙雲の言葉があるまで死に物狂いで戦ったという。

 

 仲間を残して逃げた。特に、撤退する兵の殿を務めた張遼隊にその思いは強くあった。連合軍を迎え撃つ一番槍にも志願したのも、その恥辱を雪ぐためである。狙いの通りに袁紹軍が出張り、聞いていた通りに弱兵である。

 

 待てばその機会は訪れるという確信の下に、馬を走らせながら張遼はその時を待ち続け、そしてついに、その機は訪れた。

 

 逃げる兵というのは最短距離を行こうとするが、切羽詰まった人間というのは本能的に密集することを嫌うものだ。その本能が良くない方、良くない方に作用し続けた結果、潰走する兵というのは次第に広がっていく。その広がりが、一つの線になる。それはか細いものだったが張遼の目には確かな道に見えた。

 

 自分たちならば行ける。翻る『袁』の旗が遠目にも見えた。手綱を握り、槍を持つ手に力が籠る。後は号令をかけるだけ。率いる兵たちの高い士気を背中に感じながら、張遼は大きく息を吸い――

 

「――やめや」

「……行かんのですか?」

 

 聞き返すのは張遼隊、張遼本人が直接指揮する千人隊の副長である。まだまだ小娘である張遼の倍は生きているだろういかつい男であり槍も馬もまぁまぁ上手く扱う。一番はウチやけどな! というのは譲れない所であるのだが、その気心の知れた男が不満も隠さずにそう問うてきている。

 

 質問の形式をとっているとは言え、副長の発言は決定に異を唱えているに等しい。行かないのか? と聞いているのではなく、行こうぜと言っているのだ。その気持ちは張遼にも良く解る。何しろこの作戦は昨晩の内に彼らには通達してあり、もう成功したくらいのつもりでバカ騒ぎした後だ。

 

 自分が彼の立場だったら拳の一つも飛ばしていただろう。いら立ちを抑えて丁寧に聞いてきているだけ上司の教育の程が伺えた。

 

(まぁその上司はウチなんやけども)

 

 ぐるりと張遼は自分の隊の連中を見回した。行かないというのが全員に伝わったのか。ほぼ全員から不満の意思が返ってきている。神速の張遼隊として帝国に名高い騎馬隊だ。彼らの実力は当代でも最高峰の物であり、彼ら自身もそう認識している。

 

 その彼らを焚きつけて袁紹の首を取ろうと言ったのが昨日のこと。それを言った本人が反故にしているのだから不満も出るはずである。こういったやり取りをしながらも、部隊は高速で動いており、袁紹軍の兵を殺し続けている。彼女らにとって雑兵を殺すというのは片手間でもできることなのだ。

 

「さっきいかにもな『穴』が空いたやろ?」

「そですね。待ちに待った時が来たんかと儂も大興奮でしたわ。大将のおかげでげんなりですけども」

「そない言うなや。で、その『穴』やねんけどな? ウチ、あれ罠や思うねん」

「あれがですか?」

 

 副長の声音も半信半疑という風である。というのも袁紹軍は現在半潰走状態でまともに統率も取れていないように見える。中にはその場にとどまって戦おうという隊もあるが、そんなものは張遼隊の餌食だ。まさに狩り放題。この上袁紹を狙う『穴』まで見えたのだから狙わぬはずはない。副長以下全ての隊員たちは突撃するつもりで気を引き締めていたのに、我らが隊長はあれが罠であるという。

 

「信じられんか?」

「大将が言うなら信じますがね。儂らに見えんもんが見えるから、あんたは儂らの大将なんや」

 

 万を超える騎馬隊の代表である張遼は当然、そこに所属する全員よりも高い戦闘力を持っているが、彼女自身はどの隊員よりも若く隊の中では最年少である。隊員の中には親と子どころか祖父と孫娘ほどに年の離れた隊員もいるほどだ。

 

 彼らも帝国で最強と名高い騎馬隊に配属される程の猛者だ。馬の扱いや腕っぷしには自信のある非常に癖のある人間の集まりであるが、彼らは全員張遼を自分たちの上に立つに相応しいと認めていた。

 

 気持ちの良い性格をしているというのもあったが、一番の理由はその強さである。馬に乗れば敵はなく、地に足を付けて戦ってもあの華雄を打ち破る、董卓軍でも呂布に次ぐとされるその武は曲者揃いの面々の尊敬を集めるには十分だった。

 

 その張遼がダメだと言うのだから、本当にダメなのだろう。凡人にできないことをできるからこそ、張遼というのは張遼なのだ。

 

 だが、それと気持ちはまた別の問題である。憎い相手に大暴れできると思っていたのに肩透かしを食らったことによるモヤモヤは、副長を始め他の全隊員たちの心中で燻っていた。態度にも声音でもそれを隠そうとしない。普通の部隊であれば拳の一つも飛んでこようが、張遼は命令を聞き、一定の実力を保てるのであれば大抵のことには目を瞑る性格だった。 

 

「しかし、周りあんなで儂らを嵌め殺すなんて人間にできんのですか?」

「普通の人間にはできひんやろな。ま、あっちにも上手な奴がいたっちゅーことやな」

 

 平素から全体でそれができるのであれば袁紹軍が弱兵などと言われるはずもない。力を発揮することのできない理由があちらにはあるのだろう。知ったことではないし敵対する張遼としては願ったり叶ったりではあるが、同じ兵を指揮する立場としては少しだけ同情しないでもない。

 

 一瞬だけ目を閉じ、その名前も顔も知らない誰かのために天に祈ると張遼は目を見開いた。

 

「さて、気持ち切り替えて行こか。殺せる奴はじゃんじゃんぶっ殺していくで!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、やっぱダメだったかぁ」

 

 張遼がまさに飛び込もうとし直前で止めてしまった袁紹軍に出来た大きな隙。そこでまさに迎え撃つべく待ち構えていた文醜は、目論見が外れてしまったことで大きなため息を吐いた。

 

 と言っても、作戦を考えた顔良ですら『運が良ければ』と前置きするくらいに可能性の薄い勝負ではあった。どうせ負けるのだからと乱戦の中、良い目を引いた時に対応できる仕掛けがこれだったのだが、流石に神速の張遼。戦場での勘は悪くないらしい。

 

「飛び込んできたら、我々は勝てたのでしょうか」

「アタイは少なくとも刺し違えないと駄目かなぁ……」

 

 袁紹軍では最も強いという自覚のある文醜であるが、それで天下無双と思うほど己惚れてもいない。張遼のことは遠目に見えただけであるが、一目で自分よりも強いと解ってしまった。無策の一対一では百度やっても百回負けるだろうくらいに実力は離れている。

 

 文醜が連れて来たのは最精鋭の千人。これは張遼直下の騎馬隊とほぼ同数であるが、包囲したという優位があるとは言えこちらは歩兵であちらは騎馬だ。足の速さは歴然としており、強引に突破されてしまうと追う手段が皆無である。

 

 加えて包囲したと言っても囲っているのは逃げ惑う兵だ。ここで包囲し迎え撃つというのは全体としての作戦ではなく文醜と顔良が独断で実行したものに過ぎない。軍全体で出来ればと考えないでもないが、それができるのであればそもそも袁紹軍は弱兵などと呼ばれてはいない。

 

 顔良と文醜が中心となって手を尽くしてはいるものの、軍としての練度を維持するのは直下の兵が精一杯だった。兵の数こそ多いが袁紹軍というのは袁術軍と違って一枚岩ではない。袁紹一人が突出した武力を持つことを良しとしない連中が一族には多くいるのだ。

 

 今回の作戦もわざわざ『文』の旗から離れての行動である。逃げる兵の中で踏ん張り、動きをある程度予測操作するのは雑兵と付き合うことに慣れている文醜が顔良の作戦を基に行動しても骨の折れる作業だったが、それも徒労に終わってしまった。

 

 張遼が取れれば大金星。取れなかったとしても少なくない打撃を与えることはできたはずである。一度叩いて置けば多少は動きも鈍るに違いなく、袁紹軍にも張遼隊に一矢報いたという実績は残る。これを楯に後は軍を後方に下げるというのが顔良の狙いの一つだったのだが、その作戦は今完全に失敗した。

 

 突撃すれば罠があると察したのであればもう不用意に突っ込んでは来ないだろう。別段冒険をしなかったとしても、周囲をぐるぐる回るだけであちらは狩り放題なのだ。無理に危険を冒す必要などない。

 

「……仕方ねー。周辺の兵の撤退を援護に切りかえる。骨のありそうなの何百人捕まえてこい。こき使ってやる」

「いますかね、そんな連中」

「…………そういう悲しいこと言うなよお前」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて予想の通りに袁紹軍が大敗した訳だが、それによって我々の仕事が増えた」

 

 大方の予想の通りに負けて戻って来た袁紹軍を張遼隊は追いに追い回していたが、連合軍陣地から白馬陣が出てくると虎牢関へと引き返していった。公孫賛が陣の外まで出てきたのは『たまたま』とされているが、袁紹は公孫賛の元からの功績に加えて個人的な借りまで作る羽目になった。

 

 加えて袁紹軍単体の被害も甚大である。公称十五万――孫呉軍を加えて袁術軍の実数が自分たちよりも多かったために嘘を吐いた。実数は十二万と他の陣営には看破されている――の袁紹軍は死傷者が四万を超えた。内死者が一万五千。残りが負傷者となる訳であるが、継続して戦闘に参加できないくらいの重傷を負った人間を死者に合わせると離脱者は二万を遥かに超えた。

 

 文句なしの大敗であり、加えて残った兵にも負傷者が残る。万全の体制であったとしても弱兵であるのに、更には味方の中に足を引っ張る兵までいるのだから戦力としての期待などできるはずもない。

 

 一緒に戦う立場としても迷惑なのだからこれで義理は果たしたと後方に引っ込もうとする袁紹の主張は諸将からすれば渡りに船ではあったのだが、いくら名目上の盟主だろうと自分だけ安全な場所に引っ込もうなんて主張を他の代表が通すはずもない。

 

 最終的には複数の陣営で協力し日の出ている間のみ攻撃するということで会議はまとまったのである。

 

「昼夜兼行で攻めるのではないのですか?」

「袁術が反対したそうだ。今や最大兵数を誇るのは奴らだからな。それに袁紹が追随して話がまとまった。奴らはもう二三度痛い目を見ないと状況のまずさが理解できんのだろう」

 

 答える甘寧の顔は苦り切っていた。守勢の董卓軍と異なり連合は遠征軍。それも虎牢関の初戦は大敗から幕を開けた。公孫賛の作った大勝の雰囲気も霧散してしまっており、連携して攻めるにしても雰囲気が良くない。

 

「それに陣営ごとに交代で休むと言っても限度があるからな。人員も糧食も充実している連中の方が短期決戦でも望む所だろうよ」

「かと言って長期戦を展開しても有利になるとは思えませんが……」

 

 既に大所帯の一つが大敗し、連合のパワーバランスも変わりつつある。一致団結している風な董卓軍と比べて連合軍は烏合の衆だ。兵数でこそ今のところ勝っているが、これも虎牢関を相手に長期戦を展開するとどこまで有利を保てるかも解らない。

 

 烏合の衆であってもまだ形の上で結束できている内に総攻撃をかけるべきでは、と考える一刀の口に食べかけのぐるぐる飴が突っ込まれる。一刀の膝の上で話を聞いていた程立である。

 

「そうなったらなったで落としどころを探すだけの話ですよお兄さん。勝つために手を尽くさないのは論外ですが、一つの手段に拘り続けるのもいけません。勝利への道は一つではないのです」

「汜水関のような起死回生の作戦がない以上誰が貧乏くじを引くかになっている。戦うことを恐れない兵でも後に誰も続かないのであれば死に損だからな。全員の尻に火が点くまでどっちつかずの状況は続くのだろう」

 

 命を賭けるのを躊躇いはしないが、だからこそそこには意味がなければならない。豪傑でも英雄でも無駄に死にたいという人間は存在しないのだ。自分が自分がと言っていたと思えばお前らもやれと言い出すのだから、会議というのは面倒くさいものである。

 

「俺達が酷い目に遭う前に話がまとまってほしいもんですけどね」

「同感だ」

 

 その甘寧の祈りが天に通じたのかそれから話は早急に纏まった。袁紹軍の敗北を受けてこっち、次に攻めかかるのは中央に曹操軍、左翼に孫堅軍、右翼に公孫賛軍という布陣で決定した。

 

 どう攻めるかはお好きになさいということで各々の代表が顔を突き合わせての会議となる。曹操軍は曹操本人と荀彧。孫堅軍は孫堅本人と周瑜。公孫賛軍は公孫賛本人と諸葛亮という会議と同じ面子である。

 

「先と同じ布陣であればいくら張遼隊と言っても楽勝なように思えるが……」

「そう簡単には行かないようね。麗羽を叩き潰したアレは虎牢関の兵団が張遼に華を持たせただけのようで、今は九万から十万の兵が展開しているそうよ」

「ということは張遼は遊軍みたいな扱いか。これに呂布まで加わるんだろう? やる前から気が滅入るな」

「白馬義従よ。お前、張遼と戦って勝てるか?」

「勝つさ。でもそれは私たちだけ、あいつらだけって展開でのことだ。広い戦場他にも敵味方。それじゃあ如何にも厳しい。それに虎牢関はあいつらの地元みたいなもんだろう。私たちに有利な要素が何一つない」

「強気なんだか弱気なんだか解らない物言いね……」

「とは言え、あくまで騎馬で相手を引き受けるって言うなら、この面子じゃあ私がやるしかないだろう。やれと言われるならやるよ」

 

 言外にそう言うなと主張しているようなものだが、やれと言われればやるというのも本当なのだろう。弱兵相手とは言え自身の約十倍の兵を蹂躙してみせた帝国最強格の騎馬隊を前に大した自信である。

 

 そういう連中を相手にするのは炎蓮としても心が躍るものであるが、孫呉の兵は土地柄大規模な騎馬隊というのが中央や北部程には多くなく、故にそれを相手に戦った経験も少ない。

 

 無論のこと戦えば勝つつもりでいるが、精神論だけで勝てるのならば苦労はしない。より有利に戦うことができる連中がいるのであればそいつに任せるくらいの柔軟性が炎蓮にはあった。お前はどう思う、と炎蓮は曹操に視線を送る。

 

「遊軍として独立させて公孫賛軍を運用するのは危険なように思えるわね。董卓軍における張遼隊も、割合としては連合軍の公孫賛、馬超軍の騎馬隊を足したのと変わらないように思えるし、あの蹂躙も騎馬隊だけで出てきていればこそ。歩兵を前に押し出してくるのであれば、過日程の思い切りの良い運用はできないでしょう。公孫賛も兵の指揮に専念して良いはずよ」

 

 それでも騎馬で出ることに変わりはあるまいが。遊軍で公孫賛が出るのであれば、歩兵中心の部隊は別の人間に任せることになる。趙雲が怪我をして離脱している以上、関羽か張飛に任せることになる。

 

 これに代えてあくまで公孫賛が自軍を指揮するのであれば、単純に将の数が増える分だけ厚みのある運用ができるようになるだろう。外に出るのか内で共に戦うのか。将二人の視線を公孫賛は感じていた。判断は任せる、というその視線の色に公孫賛は深々と溜息を吐く。

 

「私は兵を指揮するよ。遊軍は別の人間に任せる」

「先の戦いで大活躍だった関羽がその遊軍を指揮するのかしら」

「白馬陣の副長を割く。兵の指揮は私と張飛だ。星――趙雲の具合が思ってた以上に良くなくてな。その分の再編成を今関羽が中心になってやってるんだ。捕虜の監視もあるし、実の所そこまでうちも余裕がある訳じゃないんだが……最初に大活躍したからって楽できないもんだな。全くもって忌々しい」

「難しい状況に変わりはないものね」

 

 曹操の軽い笑いと共にやり取りは終わった。後は事務的なやり取りを二三交わすと、秘密の会議はお開きになる。細かい段取りは下の立場の者で詰め――

 

 そうして、実際に干戈を交える当日。袁紹軍が大敗をしてから一週間の後、連合軍は虎牢関の前に見る平原に展開していた。

 

 董卓軍がおよそ十万。対する連合軍は曹操軍四万、公孫賛軍二万五千、孫堅軍三万。他の陣営からの補兵はなし。数の上では僅かに劣る連合軍だったが、袁紹軍の大敗という胸の空くようなこともあり、士気は高かった。

 

 だが、兵団の前の方にいる連中はそうでない兵と聊か事情が違っていた。視線を遮る兵がいない以上、前の方にいる兵たちには敵の状態が良く見えた。

 

 遠目にも解るようにと、董卓軍を率いる将たちの旗が翻っている。紺碧の『張』旗は過日袁紹軍を蹂躙した張遼の物。袁紹軍にしてみれば恐怖の対象だろうが、連合軍の将兵たちの気持ちを揺さぶっていたのは別の旗だった。

 

 紺碧の『張』旗の間近に翻る、深紅の旗――その文字は『呂』。深紅の『呂』旗。国士無双にして帝国最強の武人。呂奉先が出陣していたのである。

 

 

 

 

 

 



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第040話 反菫卓連合軍 虎牢関攻略編④

 

 

 

 

 

 『騎馬隊を率いる名手』という評判から、それ以外は不得手と思われる節のある公孫賛だが、彼女の関係者はそれが明確な誤りであることを良く知っている。公孫賛というのはおよそ全ての事柄において名手と呼ばれるだけの実力を持ち、その中でも特に騎馬隊を率いることに優れている才媛の名だ。

 

 実際、趙雲がやってくるまでは公孫賛軍において全ての武芸で彼女が筆頭だった。剣を使わせても矛を使わせても弓を使わせても、果ては何も使わずに徒手格闘でも彼女に勝つ――どころか準ずる人間さえ存在しなかった。

 

 学問においては少し程度が下がるものの、それでもほとんどの文官よりも頭が回った。関羽が連れてきた軍師たちの語る展望に文官たちはついていくのがやっとだったが、公孫賛はこともなげにそれに追随した程だ。

 

 確かにこの世において並ぶ者なしとはいかないだろう。個人の武においては関羽や趙雲に。叡智においては諸葛亮や法正には及ばない。何事も極められない半端者と本人は自虐するがとんでもない。

 

 彼女こそが自分たちの大将であり、仕えるべき人なのだ。それを不満に思っているものはこの虎牢関にまでやってきた兵の中には一人もいない。最後まで白馬義従と共に戦うのだ。心に決めた兵たちの士気は高く、それは図らずも虎牢関の董卓軍にとっては計算外のことだった。

 

 孫堅軍、曹操軍、公孫賛軍と相対することになった董卓軍はざっくり部隊を三つに分けたのだが、公孫賛軍に相対する兵は他の二軍に比べると兵数で劣っていた。それは単純に攻め手の人数構成を見た故のことでもある。守勢である董卓軍はある程度、相手を見て編成を決めるだけの余裕があった。

 

 配置できる兵の数が有限である以上、その範囲内でやりくりするしかない。

 

 そして、連合側の三軍を比べた時、兵力として見た場合の公孫賛軍は他の二軍に比べて劣っていると虎牢関の筆頭軍師である陳宮は判断した。()()()()()()()()()()戦線の維持こそが重要であり撃破の必要は必ずしもない訳であるが、相対的に他の軍相手よりは少ないにしても、この兵、この人数ならばと自信を持って配置した兵たちは、軍師陳宮の想定を遥かに超えて追い込まれていた。

 

 三軍対三軍。横並びで始まったはずの戦は公孫賛の軍だけ虎牢関側に押し込む構図となっていた。

 

 その原因はいくつかあるが、一番の理由は公孫賛本人が先頭に立って戦い、兵に直接指示を出していたことだ。

 

 白馬義従たる公孫賛は普段は白馬陣の指揮をしており、歩兵として戦うことはほとんどない。

 

 関羽が連れてきた兵は関羽個人に忠義を尽くすが、公孫賛軍全体として見れば彼らは少数派に属する。関羽団以外の兵は公孫賛が自ら鍛えた幽州の兵だ。地に足を付け自ら前線に立ち兵を鼓舞しながら剣を振るう彼女を見て馬鹿にする人間はいない。本人も含めて不当に評価が低いだけで、公孫伯圭もまた乱世に名だたる武将の一人である。

 

 だが悲しいかな。彼女に接する機会のない人間程、風聞から彼女を下に見る。命を懸けて相対している戦の最中でさえ、公孫賛はそれを肌に感じていた。

 

 さんざっぱら敵を斬り殺しているにも関わらず、公孫賛の前に回ってきた兵は彼女を見て『しめた!』という顔をするのだ。戦働きで身を立てようとする兵なのだ。大将首が目の前に現れれば喜びもしようが、まるで自分の勝利を疑っていないのが表情にまで出ているのは、戦時でさえ幾分公孫賛の気を滅入らせた。

 

 相手の矛を剣で弾く。大将首と解って喜々としてかかってくるのだ。なるほど公孫賛の目から見てもそれ程悪い腕でもない。そもそも董卓軍、虎牢関に詰めている兵なのだから弱兵であるはずもない。よく訓練しているし、実際に強い。自分の軍に入ればそれなりの地位にも就けただろうし、気を抜けば殺されるかもしれないが……残念ながらそれまでだった。

 

 一足。矛を外に弾いて踏み込む。重い矛の一撃を両手で構えた剣で易々と弾かれるのを繰り返し、男は漸く目の前にいるのが強敵であることを理解した。顔を真っ赤にして矛を振り回すがそれが全ていなされてしまう。

 

 このままでは死ぬ、というのが男に実感として降りるようになったまさにその瞬間、公孫賛は小さく息を吐くと、鋭く踏み込んだ。剣の切っ先が鎧を突き抜け、左の肺を貫く。致命傷である。それを理解した男は無造作に公孫賛の剣を掴んだ。

 

 彼の目からは公孫賛の背後から迫る仲間の姿が見えていた。どうせ死ぬのならば道連れに――しかしそれに付き合ってやる義理はない。突きを放った瞬間に男の心の変遷を読み取っていた公孫賛は、踏み込んだ瞬間には剣から手を放していた。

 

 剣を掴まれるのとほぼ同時に男の身体を蹴り飛ばして反転すると、勢いそのままに前に踏み込み、近い方の兵に鎧の上から拳を打ち込む。

 

 関羽や趙雲などの一流には及ばないものの、この時代の女性の英傑の例に漏れず、公孫賛も常人とは一線を画す膂力を持っている。その膂力をもってしての打撃なのだ。打たれた兵は堪らず身体をくの字に曲げるが、それは公孫賛の望む所である。顎をかちあげ完全に意識を刈り取ると、腰に下げられた鞘から剣を抜き取る。

 

 少し重い。が、良く手入れされている。

 

 左から振り下ろされる錘に、正面から剣を合わせる。重量差に負けて剣はへし折れるが、その衝撃は相手にも伝わる。まさかこの重量差で相打ちになると思っていなかった男は錘の重量に負け身体を後ろに引っ張られる。

 

 それは公孫賛にとっては致命的な隙だった。折れた剣を振りかぶり、そのまま放る。飛刀もかくやという速度で飛んだそれは男の額をかち割り、絶命させた。錘と、男の身体が地に落ちるのを見ることもせず、手近な死体から剣を取り上げる。

 

 二度三度。感触を確かめるように振ると、他人の剣でも僅かに手に馴染んでくる。

 

 次は誰だ。気づけば公孫賛の周囲に敵はいなくなっていた。一番近い集団は錘の敵が公孫賛と戦っている間に距離を取り、急いで隊列を組みなおしている所だった。元は別の隊なのだろうがその動きに遅滞はない。良く訓練されている良い兵だ。

 

 だからこそ、それと戦わなくてはならないのが忍びない。こんな所で命を懸けるなら自分たち両方にとっての外敵と戦うことに命を懸けてくれないものかと心底思うが、それがままならないのが世の中というものである。

 

 董卓軍の兵が引いてみせたことで公孫賛軍にも態勢を立て直すくらいの時間はできた。ほんの十秒程度のことではあるが、息を吐ける間があるのはありがたい。

 

 手短に部隊再編の指示を出しながら、水筒を取り出し頭から水を被る。騙し騙し飲み続けてきたがこれでついに空になってしまった。名残惜しさを感じつつ水筒を放り投げ、こちらと同じくとりあえずといった感じで隊列を整えている董卓軍を観察する。

 

 精兵だ。それは間違いない。こちらを殺しに来ている。それも戦をしているのだから当然だろう。今まで戦った中でも強敵な部類に入るが、今の段階では公孫賛の軍の方が押し気味である。

 

 これも別に不思議なことではない。世間には騎馬のみと見られがちな公孫賛軍であるが、騎馬を活かすためには当然歩兵の援護が必要である。騎馬が突出して強いだけで歩兵もまた精強なのだ。

 

 今回押し気味であるのも相手がそういうタカを括っていたことに依るのかもしれないが、それにしてもと公孫賛は思っていた。

 

 確かに公孫賛軍が想定よりも強いことは、相手にとって予想外のことではあるのだろうが、この押し具合は出来過ぎている。

 

 ある程度までならば押し込まれても良いとでも考えている布陣とでも言うべきか。兵の動きもどこか守りに偏重しているように思えてならない。勿論あちらは守る側なのだからそれも当然であるのだが――考え、周囲を遠目に見回した所で公孫賛は気づいた。

 

 深紅の『呂』旗を見ていないのだ。視界の隅にでもうつれば危険を訴えてくるあの旗を公孫賛はまだ戦端が開かれてから一度も見ていない。

 

 かの飛将軍はこの戦に参加している。袁紹軍を大いに打ち破った先の大勝に続いての戦闘である。ここが大事というのは向こうも解っているだろう。戦力を出し惜しみするとは考えにくくどこかには投入してくるに違いはないのだが、右翼で戦う公孫賛はその旗を全く見ていなかった。

 

 ここにはいない呂布。押し気味の戦線に守勢に回る敵。差し当たって、公孫賛は一つの結論に達した。

 

「狙いは、孫堅か……」

 

 袁紹が大敗したことで連合軍の中で最大兵力を保持するのは袁術軍となった。これは傘下の孫堅軍を含めた数字であるが、仮に抜いたとしてもほぼ無傷の袁術軍と袁紹軍では兵の質の面で袁術軍が上回るだろう。

 

 形の上では袁紹が盟主であるが、兵力の差は発言力に等しい。いくら袁紹の性格でも兵を減らした今となっては袁術の――ひいては張勲の発言を無視することはできないし、周囲もそう考える。

 

 董卓軍としての最善は袁紹軍が即座に名誉挽回を目指して軍を出してくることだったのだろうが、そこまで上手く事は回らない。実際には袁紹軍は後ろに引っ込み、袁術の傘下である孫堅軍が出てきた。公孫賛軍、曹操軍、孫堅軍。このどれを打ち破れば敵に一番被害を与えることができるか――

 

 あちらの軍師はそこまで考えて孫堅軍を選んだのだろう。あの軍は実質的な袁術軍の後ろ盾だ。現時点で袁紹軍と袁術軍が争ったとして二目と見れぬ泥試合にならないのは、偏に孫堅軍があればこそだ。

 

 つまりは孫堅軍がいなくなれば、袁術軍と袁紹軍の力の差は辛うじて挽回可能な所にまで変動する。戦っても勝てないのならば言いたいこともいくらか飲み込もうが、勝てないことはないくらいになれば袁紹の性格であれば黙っていられるはずもない。

 

 戦闘の長期化は防衛側の董卓軍には望む所。迅速な意思決定ができなくなればなるほど、遠征の大軍団を維持することもできなくなる。

 

 だからこそ多く兵を損耗することを覚悟の上で、今日ここで孫堅を殺すことを選んだのだ。

 

 孫堅軍のことを考え、公孫賛の脳裏に最初に浮かんだのは一刀のことである。一度顔を合わせただけの優男で愛紗の思い人だ。孫堅軍では勇猛と名高い甘寧の指揮下にある。呂布と相対することもあるだろう。

 

 戦場で呂布と見える。それは兵にとっては死と同義である。北郷にそれほどの武があるとは思えない。一緒にいた少女らがいても一緒だ。呂布と相対すれば命はない。それは事実としてそうなのであるが、不思議と公孫賛は北郷が死ぬとは考えなかった。

 

 それは、孫堅が死ぬよりも孫策が死ぬよりも遥かに現実味がないように思えた。

 

 まさかな、と公孫賛は自分の考えに苦笑を浮かべた。予想や予感がばしばし当たるか全く外れなら使い道もあるが、彼女のそれらはそこそこ当たるしそこそこ外れる。予感の範疇にある読みはその辺にいるおっさんと変わらない精度だと自負している程だ。

 

 だから良いことでも悪いことでもほどほどに信じて、ほどほどに信じないことにする。何が起こるにしても心構えだけはしておいて、良いことであれば目一杯に喜び、悪いことであれば涙を堪えるのだ。

 

 だが公孫賛の個人的な心情として、北郷一刀という人間には死んでほしくない。それで何が変わるというのでもないのだが。公孫賛は一度、北郷が戦っているはずの方を向き、声に出して言った。

 

「死ぬなよ、北郷」

 

 眼前で雄叫びがあがる。隊列を組みなおした董卓軍が気勢をあげていた。意気軒高。相手にとって不足なし。こちらも負けぬと、公孫賛も剣を高々と雄叫びを挙げる。兵たちがそれに続き、敵を殺すべしと駆けだしていく。押し気味の戦線。されど精強な精兵は健在。

 

 戦はまだ、終わりそうにない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうやら貧乏くじを引いたのは我々のようだな……」

 

 深紅の『呂』旗を遠目に見ながら甘寧が呟く。合わせて甘寧隊は隊列を変えていた。呂布の一団がこちらに向かって突っ込んでくることに疑いはないらしい。正面からぐるりと回ってここまで来たのだ。突っ込むならばもっと適した場所があると一刀は思うのだが、よりにもよってここを選んだのはどういうことなのか。

 

「ここが炎蓮様を狙うのに一番適しているからだろうよ」

 

 味方と接している正面は割り込む隙がなく、背後から襲っては間にいる兵が厚い。ならば横からという訳だが、連合軍は右翼から公孫賛、中央が曹操軍、左翼が孫堅軍という布陣になっている。

 

 あくまで孫堅を狙うのであればなるほど、右翼から中央を横切ってというのは現実的ではない。曹操軍と孫堅軍の間に入るという選択肢もないではないが、挟撃される可能性を考えれば左翼の左側、できるだけ後方から攻め入るのがリスクが少ないと一刀にも解るのだが、それは途轍もなく素人考えのように思えた。

 

「準備万端待ち構えている我々を突っ切って孫堅様を討ち取って無事に逃げおおせるという自信があるように思えるのですが」

「しかもたった一度でな。舐めやがって……とさえ思えないのが辛い所ではある。飛将軍呂布ならばそれくらいやるだろ」

 

 そしてそれと戦うのが自分たちの仕事という訳だ。甘寧の言葉を借りるまでもなくまさに貧乏くじである。これは死んだかな……と我が事ながら他人事のように考えていると、甘寧が小さく咳払いをする。

 

「時に北郷。お前に一つ良い知らせがある。今からお前を副長の一人に任ずることにした」

「……なんと?」

「加えて四番隊と五番隊をお前に預ける。当座この場を死守せよ。後は状況に任せて判断してくれて構わん」

 

 額面通りに受け取るならば大きな出世である。一刀本来の望みと合致するので望む所ではあるが戦地で臨時にというのはどうにもタイミングが悪く、また部隊の分け方も不自然だった。

 

「一番から三番は?」

「私が率いて呂布を迎え撃つ。あれはどうにかせねばならんがこの場を放置する訳にもいかん」

「それはそうなのですが……」

 

 一刀の言葉も歯切れが悪い。呂布の進路が予想通りであれば、甘寧のおよそ三千が抜かれれば次に相対するのが一刀の二千五百だ。本来の任務を放棄できないという甘寧の言い分も理解できないではないが、態々部隊を二つに分けるのであれば、本来の任務を半ば放棄してでも呂布に全軍で当たるのが良いように思えた。

 

 その分孫堅軍全体の守りが薄くなる訳であるが、今まさに呂布に攻められようとしているのであれば誤差のようなものだろう。それで呂布を撃退、まして討ち取ることができればお釣りがくるし、皆まとめてやられてしまうのであれば、それこそ自分たちにはどうしようもないことだ。

 

「明命の方に伝令を走らせた。遠からず500程度は援軍が来るだろう。私が抜かれるようなことがあれば──まぁないとは思うが、死力を尽くしてここを守るように」

「…………承りました」

 

 甘寧なりの配慮なのだと理解した一刀はそれ以上口答えをすることをやめた。甘寧隊は部隊が全部で5つあり、番号が若いほど古参の兵が多く平均年齢も高い。部隊の指揮に回されているもの以外の甘寧の河賊時代の部下は全て一番隊に配属されているなど、兵としての質も高いのが特徴だ。

 

 後からいきなり加わった一刀団は例外的に一番隊に所属していた訳であるが、一刀が暫定的に副長の一人に昇格したことで離脱となった。

 

 所属して間もない人間が千人将を超えていきなり二千を指揮することになったのである。平素で他の軍であれば不満も出ただろうが、甘寧隊に所属してからこちら、あの鬼も裸足で逃げる孫堅を相手に好き放題する一刀の『武勇』は孫呉軍では広く知られており、他の隊との交流も欠かしていない一刀の評判は、特に甘寧隊の中では非常に高いものだった。

 

 指揮権の委譲が一刀が考えている以上にスムーズに行くと確信していた甘寧は、何とも言えない表情をしている一刀に、そんな顔をするな、と小さな苦笑を向ける。

 

「後は任せたぞ」

 

 今はとにかく時間が惜しい。残軍の指揮を一刀に任せた甘寧はその場を離れ、呂布に向けて既に防御陣形を組み始めていた河賊時代からの副長に声をかける。

 

「首尾は?」

「勝てる見込みがないことを除けば万全ですな。いや、危ない橋を何度も渡ったつもりでおりましたが今回はとびっきりだ」

「相手は呂布なのだからそれも仕方なかろう。今の持ち場が死に場所だ。死んでもくらいついて食い止めろと改めて命を飛ばせ」

「了解でさ。しかし……良くもまぁ、向こう見ずな腕っぷしだけの小娘がこんな所まで来たもんだ」

 

 感慨深げな副長の言葉に甘寧も目を細める。一番隊は皆付き合いが長いが副長である彼は本当に最古参の一人である。世直しをしたいと漠然と思い立ったまだ少女だった頃の甘寧が、最初に目についたからという理由で地元のチンピラが移動に使っていた船を一人で沈めてやったのが最初の出会いである。

 

 川岸まで死ぬ思いでたどり着いた彼らは先回りをしていた甘寧にしこたま殴られ子分になるかここで死ぬかの事実上の一択を迫られた。その後は寝込みを襲おうとしては半殺しにされ稼ぎをちょろまかそうとしては半殺しにされたが、戦で命を落とす以外に隊からいなくなったものは一人もいなかった

 

 それは河賊から足を洗い孫呉軍の一部になっても変わらない。彼らにとって主君はおらず、ただ甘寧についていく。そういう集団なのだ。

 

「その小娘についてくる貴様らも酔狂の極みだろう。あれほどまでに小賢しいのだ。もっと楽に生きる道もあっただろう」

「ついてきちまったんだから仕方ありやせんや。何故か、と言われると答えられんのが困った所ですがね」

「…………先に待っていろ。私もその内行く」

「できるだけ遅めのお越しを。子供だの孫だのの話を聞きたいもんですね」

 

 はは、と笑った副長は一礼して持ち場に戻った。孫呉軍の中でも更に荒っぽい連中の集まった甘寧隊は、学がない人間が多く弁の立つ人間もまた少ない。コミュニケーションは主に拳であり、百の言葉をつくすよりも一つの行動で示すことで甘寧は彼らを率いてきた。

 

 船一艘から始めた集団が五千ほどに増えても、それは変わることはない。彼らにとって自分は頭だ。命令を出す人間であり、そしてその命令は絶対だ。

 

 甘寧は彼らにここで死ねと命令した。命令の通り、彼らはここであの呂布を相手に戦い、そして死ぬのだろう。共に修羅場をくぐった仲間たちの死に感傷がない訳ではないが──小さく、そして深く甘寧は息を吐く。

 

 透き通った赤紫の瞳は冷徹な光を放っている。その目に、遠く深紅の『呂』旗が翻っているのが見えた。

 

 今から、あれを倒すのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陳宮の立てた作戦に従い、呂布は所定の位置についた。

 

 連合軍の大将首、そのどれか一つを一息に討ち取るというものである。そんな都合良く行くものかと陣営の中からさえ疑問の声が挙がったが、実行者として指名された呂布が一言『できる』と発言したことで採用の運びとなった。

 

 董卓軍は防衛側である。虎牢関に詰めている兵は士気も高く、兵糧も今度こそしっかりした管理の下に潤沢に用意されていた。態々危険を冒す必要はないというのが実行に反対した連中の意見であるが、陳宮と実行者である呂布の考えは少し異なっていた。

 

 勢いというのは無視できるものではない。董卓軍は汜水関で大敗した。虎牢関での初戦こそ大勝したが、まだ汚名を雪ぐには至っていない。勢いも依然、連合軍の側にあると見て良いだろう。

 

 どこかで一つ、連合軍の勢いを挫く必要がある。そのためにはできるだけ大物の、大将首が欲しい。理想は先の戦で袁紹を討ち取れることであったのだが、張遼の部隊は敵の待ち伏せを看破し、大打撃を与えるに留めていた。

 

 今は自陣の奥深くに籠っており、会議の時くらいしか外に出てこないという。守っているのは精鋭で暗殺も難しいそうだ。

 

 誰を討つのかは当日、どこの軍が出てくるかによって決まる。

 

 そうして当日。出てきたのが孫堅軍、曹操軍、公孫賛軍の三つであり、それぞれ左翼、中央、右翼と割り振られたのを見ると、陳宮は迷わず孫堅を討つことを決定した。

 

 呂布の率いる騎馬隊は二百。董卓軍でも最精鋭であるが、外から突撃して更に離脱せねばならない関係上、侵入する位置にはいくつか注文を付けねばならない。

 

 まず正面全て。指揮官たちはこの作戦を知っており、布陣もその援護を意識して行われているが、その戦闘行動を呂布自ら邪魔することはできない。迅速な行動のために味方の行動を制限しては本末転倒だ。

 

 逆に背面は戻るべき虎牢関との間に連合軍を挟む形になる上に、連合軍の陣地からも捕捉される可能性が高い。歩兵がで出てきた所で逃げ切る自信はあるが、足の速い馬超軍などの騎馬に追い回されては行動に支障が出る恐れがある。

 

 残るのは側面。関の上から確認する限り、公孫賛軍は歩兵を補佐する形で白馬陣を含む騎馬部隊が出陣しているようであるが、その指揮に公孫賛は加わっておらず、彼女は張飛と共に歩兵の指揮を受け持っていた。

 

 ならば狙い目ではと考えることもできようが、指揮官がいつもと異なろうと白馬陣が帝国有数の騎馬隊であることに変わりはない。失敗できない作戦である以上、決行前に潰される要素は排除せねばならず、消去法的に左翼側からの侵入が決定。

 

 そこから侵入して中央の曹操を狙うのは現実的ではないということで、左翼軍の大将である孫堅を狙うことに決まった。連合軍の中では相対的に騎馬部隊が弱く数も少ないという、陳宮としては注文通りの相手でもあった。

 

 呂布がいるのは連合軍の左翼側面、やや後方を狙う位置である。兵の顔も判別できないような距離であるが、やはり深紅の旗は目立つのかこちらの姿を捕捉するや否や、進路上にいた部隊はこちらを迎え撃つために陣形を変えてきた。

 

 翻る旗は『甘』とある。猛将と名高い甘寧だろうと副長の義妹が教えてくれたが、その名前は呂布の脳裏からするりと抜け落ちてしまった。味方の名前は覚えられても、戦う敵の名前は覚えられないのだ。

 

 方天画戟を振り上げ、降ろす。騎馬隊二百騎が一斉に動き出した。張遼の施す厳しい調練を潜り抜けて来た精兵中の精兵。単独で行動するのが何より強い呂布の露払いのために選ばれた彼らは、呂布の合図で彼女の手足のように動き、戦い、あるいは死ぬ。

 

 正面。甘寧隊の兵たちが戟を並べている。深紅の旗を見てもひるむ様子はない。良い兵だ。手強い兵だ。それを正面から叩き潰すのが自分の仕事だ。戟を振りぬく。兵たちの腕が、首が、胴が舞った。間髪入れず雨のように飛んでくる矢。戟を振りぬく。何でもないかのように吹き散らされる。

 

 騎馬隊の速度は衰えない。大楯を構えた集団も、戟を構えた集団も、かまわず射かけられる矢も、呂布とその部下たちは何も問題にしなかった。無人の荒野を行くかのごとき進軍は、彼らにとってはいつものことだ。天下の飛将軍に率いられた自分たちを、遮るものなどあるはずもない。

 

 普通であれば慢心とされるそれも、呂布を先頭にしてはそうでもなかった。一度でも呂布と戦ったことのある人間にとって彼女は絶対であり、負けることもなければ苦戦することもない。武の象徴。国士無双にして万夫不当。敵であれば死の象徴ともなろうが、今はその絶対は自分たちを率いて駆けているのである。

 

 自分たちが負けるはずもない。呂奉先が負けるはずもない。そんな信仰に支配され、しかし心中の慢心などおくびにも出さないまま、順調すぎる進軍の中、当の呂布だけが違和感を覚えていた。

 

 誰かが自分を見ている。深夜の森の中を一人歩いている時のような。森の中に溶け込んだ獣の気配だ。ここは戦場。獣などいるはずもない。兵であるなら、敵であるなら、それが自分の命を狙っているのだ。

 

 感性で動く武人の特徴として、呂布は董卓軍の兵の中でも特に気配に敏感であり、本人もそれを自覚している。容易く奇襲を看破してみせたのも一度や二度ではなく、呂布自身、その感性に自信を持ってもいた。

 

 その感性で、視線の主を捉えることができないでいる。これは罠だ。呂布の理性的な部分がはっきりとそれを警告したが、感性的な部分がそれを無視する。罠ならば踏みつぶせば良いのだ。これまでもそうしてきたし、これからもそうする。

 

 進む。そう決めた呂布の馬が唐突にがくんと躓いた。大きく前方に姿勢を崩したその馬から、呂布も投げ出される。慌てたのが、彼女に追随していた兵たちだ。落下する大将をそのまま拾おうとするが、そこに狙い澄ましたように甘寧隊の兵たちが殺到する。

 

 まるで肉の楯だ。武器を構えた者もいれば、ただ身を投げ出してきた者もいた。まして彼らは歩兵であり、速度の乗った騎馬隊に敵うものでもない。たちまち彼らは討ち取られるが、その間に騎馬隊はその場を通り過ぎていく。

 

 転身して戻って、突入をやり直す。副長が下した判断は迅速であったが、最大速度で歩兵に大きく勝っても、小回りについては逆だ。

 

 これが最初で、最後の機だ。最古参の副長は、天にも届けとばかりに声を張り上げる。

 

「地獄の鬼より怖い狂虎の外に、錦帆の旗下に敗北はねえ! さあここが死に時だぞクズども! 飛将軍をぶっ殺せ!!」

 

 怒号を上げて殺到する兵たちを横目に、呂布は自分の馬がやられた原因を見た。地面に浅く掘られた穴に、不相応に大きな鎌を持った兵たちの死体があった。自分の頭上を馬が通るまで待ち構え、その鎌でひっかけたのだろう。

 

 彼らは後続の馬に踏みつぶされて見る影もないが、彼らは確かに仕事を果たしたのだ。

 

 こいつらは、死兵なのか。目の前の兵たちが死に物狂いであることを、呂布はこの時初めて理解した。戟を振るい、目を細める。義妹が換えの馬を用意しつつ戻ってくるまで、およそ三十秒。自分を囲む兵たちは強く、死に物狂いであるが、それでも問題ないと呂布は判断する。

 

 一つ戟を振るえば、十も兵が死んでいく。そんな環境の中でも兵たちは怯まない。呂布を殺そうと武器を持って殺到し、少しでも気勢をそごうと近寄ろうとしてくる。殺す殺す殺す殺す。それでも兵たちは怯まない。

 

 呂布の頭上を影が覆った。

 

 荒縄で作られた網である。まだ生きている兵やその死体を巻き込んで、動きを止めようというのだ。矢のように吹き散らすのは容易い、が兵たちは自分の命などいらないとばかりに殺しても殺してもかかってくる。あれを払うために戟を振るえば、兵の刃や腕が自分に到達するだろう。

 

 それで殺されるつもりはないが、如何に呂布と言えども腕は二本で足も二本と人の形をしている。僅かでも動きが遅れれば、仲間と合流が遅れる。何のことはない。それでも僅かの気後れもせず、呂布は仲間がやってくるのとは逆の方向に、大きく飛んだ。だが、

 

 

「かかったな、クソが!!」

 

 

 死体の山まで予定の通りだったのか、縄付きの分銅が呂布に向かって殺到する。戟を振る十も二十も叩き落したが、それでも全ては払えない。いくつかが呂布の身体に巻き付き、動きを制限する。力が拮抗する――それも一瞬だ。この程度ならば容易く払える。

 

 戟を握り直し、縄分銅を打ち払おうとした呂布の前に、一頭の獣が現れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気配を殺し、己を殺し、ただひたすら待った。機を作るために仲間がただ殺されていく間、甘寧は息を殺してただじっと待った。

 

 全ては最後に勝つために。それしかないとなれば、仲間は命を捨てる。呂布はそれだけの相手で、主君を守るためには命を張らねばならないと誰もが理解していた。

 

 隊の人間はほとんど思春が調練してきたものだが、孫呉に合流してから受け持つようになった面々にまでは、幸か不幸か昔からの仲間のような考え方は行き届いてはいなかった。

 

 だからそう言った連中を、そう言った連中の筆頭である所の一刀に預け、昔ながらの方法で戦うことにした。そのせいで、まさに仲間たちがひたすらに殺されている訳であるが、それに耐えるのが自分の役目とばかりに、甘寧は息を殺し気配を顰めた。

 

 そうして、その機会がようやく訪れる。

 

 命を使い潰して、呂布を馬から引きずり下ろす。今がその時だ。確信した甘寧は駆けだしていた。地に足を付けた呂布が方天画戟を振るう。その呂布に向かって分銅付きの縄が無数に飛んで行った。女の髪を編み込み、鋼の粉を塗した特注の縄だ。容易く両断はできないはずのそれを呂布は軽々と断つが、全てを断つことはできない。

 

 いくつかの縄が呂布に絡む。後は力比べだ。絶対に離さぬとばかりに地に足を踏ん張る仲間に合わせて更に縄が方天画戟に向けて飛ぶ。拘束は精々数瞬。呂布は何なくそれを突破する。

 

 だが、甘寧の仲間たちを殺すために振るわれていた方天画戟が、呂布の膂力が、その拘束を解くために向けられる。外に全て向いていた力が、僅かに逸れた。

 

 刃は、通る。

 

 呂布が獣の気配に気づいたその時には、甘寧は既に彼女の前に飛び出していた。必殺の時、必殺の刃。まるでそのために無防備になっていたかのように、甘寧の刃の行く先には、呂布の首筋が晒されている。

 

 死ね、飛将軍。死ぬがいい!

 

 仲間の死も、自分の雌伏も、全てこの時のために。放たれた必殺の刃は閃光のような速さで呂布の首筋に吸い込まれ――

 

 ――皮一枚を割いて、止まった。獣の奇襲は失敗したのだ。

 

 追撃をするべきだった。失敗した時の段取りまで、甘寧は細かに考え指示を出しており、兵たちもそれを共有していたのに、それを甘寧がそれを思い出したのは呂布の拳にアバラ骨を砕かれた後だった。

 

 獣が奇襲をするのに瞬きの間で十分ならば、それは飛将軍も同様だった。戟が縄を切り、兵を斬り、首を胴を飛ばす。甘寧が血を吐きながら身を起こした時に、動いているのは自分だけになっていた。

 

 自由になった呂布が首を押さえながら甘寧に歩み寄る。押さえた首には血が滲んでいたがそれだけだった。致命傷には程遠い。

 

「三千近くの仲間の命をかけて、貴様に与えた傷は皮一枚か……」

「死ぬかと思った。首以外を斬られたら死んでた」

「慰めにもならんな」

「今まで戦った中で、お前たちが一番強かった」

「精々、あちらで自慢させてもらおう」

「呂布。字は奉先。真名は恋」

 

 その言葉に痛みを堪えながら甘寧は顔を上げた。方天画戟は振りかぶられたまま、これから殺すということに変わりはないらしい。そんな相手に真名を許すというのもおかしな話と思ったが、これが天下の飛将軍なりの気持ちなのだと思うと悪い気はしなかった。呂布と真名の交換をしたのだ。自分の言葉の通りにあちらで自慢の種の一つにはなるだろう

 

「甘寧。字は興覇。真名は思春だ」

「思春。いずれまた」

「ああ、またいずれ」

 

 短い言葉のやり取りの後に、ぼんやりと思う。これで終わりか。最後に大きな悔いの残る一生だったが、自分のような半端者にしては悪くない人生だったように思う。

 

 振り下ろされる。まさにその瞬間、飛び出してきた影が体当たりするようにして甘寧を抱きとめた。北郷一刀。元の場所で待機を命じておいた部下の男が、自分を守るようにして抱き留めている。呂布の、天下の飛将軍を前に、たかが男の身体一つ何の盾にもならないことは解っているだろうに。それでも目を閉じ、必死に自分を抱き留める男の顔を見て、思春は苦笑を浮かべた。

 

 戦場で死ぬか、病で死ぬか。いずれにせよ満足しながら死ぬとは思っていなかった。忠義のため、大義のため、と言い訳をしても、刃を振るい人を殺めた。いずれそれは自分に帰ってくるだろうと、ロクな死に方をしないと思っていたものだが、

 

(こいつの腕の中で、こいつと共に死ぬか……)

 

 そんな死に方も悪くないなと、甘寧はそっと抱き返した。

 

 方天画戟が、振り下ろされる。

 

 甲高い音が戦場に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第041話 反菫卓連合軍 虎牢関攻略編⑤

 

 

 甘寧隊による呂布討伐は失敗に終わった。部下のほとんどを使い潰した甘寧の必殺の一撃は呂布の首の皮一枚を斬るだけに留まった。勝ったと油断したことがいけなかったのだろう。幾多の窮地を乗り越えてきた男はそこで動きを止め、呂布の方天画戟によって腰から両断された。

 

 上半身だけになった男は、幸か不幸か即死を免れていた。痛みと猛烈な寒気で朦朧とした意識の中見たのは、呂布にぶっ飛ばされ膝をつく甘寧と、それに歩みよる呂布の姿である。

 

 自分をクズからマシなクズにしてくれた人が、これから死ぬ。身体はぴくりとも動かない。汚い言葉を吐こうとしても、出てくるのは濁った血と呻き声だけだった。

 

 ああ、クズに相応しい末路じゃないか。勝ったと思った所で勝てず、守りたい人が目の前で死ぬのだ。勝つためにと信じて戦い、死んでいった連中は幸運だったのだろう。何しろ我らが頭が殺される所を、見ずに死ねたのだから。

 

 見たくはない。さりとて、目を逸らす訳にはいかない。自分たちの不始末で、彼女は死ぬのだ。せめてそれを見届けるのが、残された自分の最期の仕事だと、落ちてくる瞼を必死に繋ぎ止める男の前で、呂布は方天画戟を振りかぶり、

 

 そんな解りやすい死の具現の前に、飛び出す姿があった。北郷だ。甘寧隊の新入りの優男が、何の躊躇いもなく呂布の前に身を投げ出したのだ。死ぬ気かバカがと思うよりも早く呂布の方天画戟は振り下ろされ、そして、北郷の持つ剣に阻まれた。勢いまでは殺し切れず、北郷は甘寧と共に吹っ飛ぶが、長年の荒事の経験が、二人とも、少なくとも死んでいないことを確信させた。

 

 その事実が、死にかけの男の心を再び燃えさせた。

 

 俺はまだ戦える。俺はまだ生きている。錦帆の旗に敗北はないと言った口で、負けたまま諦めるのか。青瓢箪の新入りでさえ、呂布の前に身を投げ出したのだ。死にそうなくらい何だ。せめて憎き呂布に、一泡吹かせてやるのだ。

 

 その決意が、ほとんど死んでいた身体を僅かに動かした。腕を僅かに上げて鋼糸を繰り、身体の下に抱き込む。そこで男は本当に力尽きた。まだ負けたまま、窮地を脱してもいないが、男の顔はどこか安らかだった。生まれも育ちも生き様も下の下だった男が、最後の最後に他人のために働くことができた。上等な人生では決してないが、悪くない最後だと思った。

 

 ああ、でも頭。あんたはゆっくりお越しなせ。ガキでもこしらえて長生きしてみるのも、悪くないでしょう。そこの北郷の奴なんて、満更でもなかったのでは? 新入りにかっさらわれるなぁ癪ですが、呂布からあんたを守った男だ。先に逝った連中も文句は言わんでしょう。

 

 ガキでも産んで、孫にでも囲まれて、無駄に平和に長く生きてくたばったら、そん時はどんなバカをやったのか聞かせてくだせえ。そこの北郷はきっと、デカいことをやる男だ。あんたについてく決断をした俺が言うんだから、間違いねえさ。

 

 なぁ、北郷。俺たちの頭を、頼んだぞ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 甘寧将軍を助けるという命令の下に走り出した北郷隊だったが、現場に到着した段階で既に状況は煮詰まっていた。

 

 ここに向かうまでの間に呂布の騎馬隊とすれ違った。本体の孫堅を目指すのであれば直進するはずが、関側に大きく逸れる形で進路変更をしていた。大回りして後方に転換する様子に、何らかの理由で襲撃を取りやめるかやり直す必要が生じたのだと察せた時には、これで呂布と戦わずに済むと喜んだものだったが、赤毛の悪魔は馬上ではなく地上にいた。

 

 甘寧隊はどうにかして馬上の呂布を引きずりおろすことに成功したようだが、そこから後が続かなかったようである。三千はいたはずの兵が、今自分の足で立っている者は五百にも満たない。死屍累々の中、重傷を負った甘寧が呂布と一人で相対していた。

 

 今まさに方天画戟を振りかぶらんとしている呂布に、シャンは最悪に近い手を引いたことを悟った。幸い騎馬部隊はいない。呂布一人が徒歩で突撃する可能性は低く、ひとまずは転進した部隊との合流を目指すだろう。

 

 ここで足を止めれば、ここで戦わずに済むのだ。とは言え、自分たちの大将は言って聞くような人間ではない。後で激怒されることも覚悟したシャンは前を走る一刀の首根っこを掴もうとして――失敗した。

 

 今まさに方天画戟を振りかぶろうとしている呂布に向かって、あろうことか北郷一刀は足を速めたのだ。今まさに攻撃しようという呂布の前に飛び出すような、命知らずで壊滅的なバカがこの世に存在するとは考えもしなかったシャンは一瞬思考が遅れ、そのまま飛びつけば無理やりにでも足を止められた最後のタイミングを逃してしまった。

 

 走り込んでくる一刀のことは、呂布も認識していた。方天画戟を振りかぶる途中、ちらと視線を向けたがそれで興味を失う。男が一人飛び込んできた所で結果は何も変わらない。それは大多数の人間と同じ認識であり、この世で北郷一刀だけが違う認識でいた。

 

 知っている人が今まさに殺されようとしている。それ以上に彼にとって重要なことはなかったのだ。成功するという目算があった訳ではなかったがとにかく、この世で最も死に近い場所に北郷一刀という男は何も恐れずに飛び込んでいった。

 

 方天画戟が振り下ろされる。二人まとめて、殺される。後続のシャンたちも、振り下ろした呂布も、その光景を見ていた誰もがそんな未来を幻視した次の瞬間、甲高い音が戦場に響いた。

 

 最初に異常に気づいたのは呂布だ。最上の業物である方天画戟は、呂布の膂力が加われば大抵の人間は武器防具をまとめて両断できる。鎧を着た人間一人が間に入っても、確実に両断できるだけの力を込めて振り下ろした。そのはずなのだが、実際には割って入った男一人も殺せていない。

 

 男の佩いた両刃の剣が、方天画戟を受け止めていた。装飾のほとんどない、無骨な造りのその剣は、必殺の一撃を受けても歪むどころか傷一つさえ刻まれなかった。少なくとも頑丈さだけは方天画戟に匹敵するその剣の持ち主は、攻撃の勢いまでは受け止めきれなかったようで飛びついた甘寧と一緒にふっ飛ばされる。

 

 戦場で殺したと思って武器を振り下ろして失敗したことは、生まれて初めてのことだった。ぼーっと男と甘寧を飛ばした方を眺めていた呂布の元に、今度は兵の一団が殺到してくる。

 

 男が率いていた兵団だろう。数は約五百。先頭を走る斧を持った少女は手練れだが、それ以外は問題にならない。騎馬隊が戻ってくるまでまだ時はかかる。その間に皆殺しにするのは造作もない。

 

 まずは先頭の手練れを殺す。左に持った方天画戟を振りかぶり――失敗した。何かにひっかけられた得物は、呂布の手を離れて地面に落ちる。

 

 最強の武人たる呂布は気づかない。生まれてこの方苦戦したことなどなく、戦場において自分の身体が思い通りに動かなかったことなどない。勿論、少し引っ張られた程度で武器がすっぽ抜けるほど握力が弱まった状況で戦ったことなど一度もない。

 

 高い能力を持っている者ほど、不調になった時の振れ幅は大きい。まして生まれて初めての不調が、一撃もらえば死にかねない相手を前に起こっている。

 

 本人こそ認識していないが、この状況はまさに呂布にとって人生で初めての絶体絶命だった。

 

 見れば、細い鉄糸が先の方に絡まっている。糸の先には、下半身を失った兵の死体があった。その兵は満足そうな笑みを浮かべて息絶えている。

 

 その死体をぼんやりと眺めてから振り向くと、すぐそこにまで斧の少女が迫っていた。振りかぶった斧は今にも振り下ろされようとしているが、それでも呂布は慌てなかった。武器がなくても、自分の方が速い。体勢は崩されたがそれでも、自分の攻撃の方が先に届く。

 

 国士無双のその確信は、相対するシャンにも伝わっていた。鍛えた直感が自分の攻撃が不発に終わることを知らせていた。無手ならば即死することはない……かもしれないが、ここで攻撃に失敗することは、後続が全滅する確率を格段に上げることになり、それはそのまま、一刀の死亡にも繋がる。

 

 先のような幸運はそう起こらない。騎馬隊が戻ってくるまでに手が空けば、呂布は今度こそ一刀を殺してしまうだろう。命に代えても、それだけは避けなければならない。呂布をここで亡き者にしなければ、一刀が死ぬのだ。死んでも、この攻撃は、当てる。

 

 攻撃の失敗を予感しても、シャンはその手を一切緩めなかった。自分一人で相対していたのであれば諦めもしようが、今は一人ではない。絶対に守りたい人の命がかかっていて、共に彼を守ると誓った仲間が、まだ後ろに控えているのだ――

 

 

 

 

 

 

 

 ――必ず当てる。シャンにそう言って足を止めた梨晏は、自分を置いて先に行った仲間たちを通して呂布を見つめていた。 これだけ離れているのに、その存在を肌に感じる。近くまでよれば気配に鈍い人間でも、自分では及びもつかない強大な存在か理解できるだろう。

 

 自分の仕事であるとは言えそんな敵と直接相対することをせずに、足を止めたのだ。失敗する訳にはいかない。これから放つ矢は、全て、必ず当てて見せる。かつてない程の集中力で、梨晏は弦に矢を番えた。ギリギリと弦を引き絞り、標的に集中する。

 

 殺到する仲間たちを挟んでも、呂布のことははっきりと見える。いつものように射れば当然のように彼女に命中し、そしてそれが何の役にも立たないことが理解できた。

 

 ただ矢を射ただけでは刺さらず、呂布の脅威にはなりはしない。あの怪物を脅かすにはもっと強力な一撃が必要なのだ。自身の全身全霊を懸けたような一矢。いつか黄蓋が見せてくれたような岩をも穿つような強力無比な一矢。

 

 それができなければ仲間が死ぬのだ。守るべき人が死ぬのだ。自分の一矢に、彼ら彼女らの全てが掛かっている。様々な圧が梨晏の精神を追い込み、研ぎ澄ませていく。荒立ち、逆に萎えそうになる気持ちを無理やり落ち着かせ、集中を深めていく。

 

 もっと深く。もっと強く。

 

 その瞬間、じわり、と自分の中から何かが出ていくような感じを覚えた。自分の身体からゆっくりと這い出したそれは、矢の先へと集まり、とぐろを巻いている――ように感じた。

 

 これが黄蓋の言っていた『気』なのだろうか。彼女の言っていたそれとは違うような気もするが、そんなことは梨晏にとってどうでも良かった。呂布に届く一撃を得られるのならば、由来がどうであるかなど気にも留めない。

 

 この一矢が届くなら、ここで死んだとしても後悔はない。

 

 自分の全てを、この一矢に。目を細め、ただ呂布だけを見る。

 

 音もなく。必殺の矢が閃いた。

 

 

 

 

 数瞬のできごとである。

 

 呂布が拳を放とうとした直前、その肩に飛来した矢が命中した。岩を穿ち、常人の頭ならば吹き飛ばす程の威力を持った矢は、呂布の左肩の骨を砕いて止まりその体勢を僅かに崩すにとどまった。

 

 値千金の隙に、シャンは勝利を確信する。後は振り下ろすだけ。雄叫びを挙げて、シャンは斧を振り下ろす。

 

 地を砕くような音はそれと同時。天を割かんほどの雄叫びを挙げた呂布は、動かぬはずの身体を無理やり動かし、シャン本人ではなく今まさに自分を両断せんとする斧を狙った。

 

 僅かにでも目測が狂えば、腕ごと両断されていたはずの攻撃である。無謀とも言えるその攻撃を放ったのは、国士無双の武の担い手たる呂布だった。

 

 呂布を両断するはずだった斧は、その呂布の左の一撃により粉々に砕け散る。呂布の動きはそこで止まらない。身体を反転させ、何が起こったのか理解できないといった様子のシャンを蹴り飛ばし、間を縫ってこちらを刺そうとしていた男に直撃させる。

 

 初撃が失敗したことで後続の動きも鈍ったが、それでも止まることはない。左。男の剣を素手で受けとめ、剣ごと放り投げる。正面、突き出されてきた二本の槍の間を縫うように僅かに前進し、担い手二人に体当たり。後続に直撃させ、間が空いた所でようやく後方に下がり――そこにまた、眉間を狙って矢が飛来した。当たり前のようにそれを掴む。が、衝撃を殺し切れず数歩後退させられた。

 

 董卓軍でもついぞ見ないような一矢を放ったのはどんな猛者かと見れば、集団の向こうにくすんだ赤毛の少女が見えた。声が届くような距離ではないが、その時お互いは視線が交錯したことを理解する。呂布の視線を受けた梨晏は愛らしく片目を瞑り、

 

「はじめまして、飛将軍。そしてさよなら!」

 

 三矢目は首筋を正確無比に。まぐれ当たりでは決してない。しかも一矢射つ度に威力が上がっている。意識さえできれば今度こそ直撃を貰うことはないだろうが、中々精強な目の前の集団と戦いながら対応するのは、呂布でさえ骨が折れた。

 

 耳に、高音が届く。副長である義妹が吹く接近を知らせる笛の音だ。全員で反転してきたにしては早いから、義妹と数名だけで先行してきたのだろう。

 

 どの道馬から引きずり降ろされた以上、先のことはどうあれ仕切り直さねばならない。

 

 呂布はちらと、殺したと思った人間の方を見た。庇われた甘寧の方はとりあえず無事なようで、必死に北郷、一刀、と男の名前らしきものを呼んでいる。それが本名なのか、あだ名なのか、字なのか。興味は尽きないが時間切れだ。

 

 自分を殺すべく殺到する集団から大きく後退すると、地を踏み切る。宙を舞い、足が地の方を向く頃には、その下に騎馬の少女が割って入った。

 

「ご無事ですか、大姉さん!」

「問題ない。一度仕切り直す。全員外へ」

「了解。後続に伝達。西南西地点に集合せよ」

 

 一度目は失敗したが部隊はまだ健在。呂布も生きている。敬愛する義姉の名前に傷がついたのは業腹ではあるものの、汚辱など雪げば良いのだ。打ちひしがれた様子の部下に比べて、義妹は楽天的に考えていた。

 

 いつものように何を考えているのだか解らない義姉は、走ってきた方角をぼんやりと眺めている。

 

「殺し損ねた」

「天下の飛将軍にも、珍しいことがあるものですね」

「戦とはそういうものだって霞なら言うか、も……」

「大姉さん?」

 

 上の姉が寡黙なのはいつものことだが、話の途中で落ちるなどということはなかった。まさか、という思いで姉の身体を弄ると、その手はあっと言う間に真っ赤に染まった。

 

 本能的な行動なのだろう。とっさに押さえた首筋からだくだくと血が流れている。あの呂布が怪我を、ということが義妹には何より信じられなかったが、その尋常でない様子が逆に義妹の精神を繋ぎとめた。

 

 呂布の手の上から布を押し当て、並走する部下に虎牢関へと伝令を飛ばす。既に意識を失いかけている呂布に必死に呼びかけながら、義妹は馬を虎牢関へと駆けさせた。

 

 当代最強の武人と知られた呂布の、その生涯唯一の敗走として、記録に残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん!」

 

 反転してきた騎馬に抱えられて呂布が離れ、後続の騎馬隊もそれに続いて離脱したのを見送ってから、シャンは一刀の元に駆けた。佩いた剣が呂布の一撃を受け止めた。即死していないことは解っていたが、それは無事と同一ではない。

 

 安否確認のために血相を変えてすっ飛んできたシャンを見て、誰が見ても一目で重傷と解る甘寧は首を縦に振った。

 

「衝撃で意識を失っているだけだ。命に別状はない……と思う。命令無視はとりあえず追及せんとして、北郷の部隊は徐晃、お前が指揮を代行。北郷を連れて後方、孫呉の本陣まで後退しろ。後退は私たちが援護をする。無事な者はさっさと起きろ!」

 

 死体の山に甘寧が怒鳴ると、その中からぽつぽつと兵が起き上がった。彼らは自分と周囲の一部の仲間の無事を確認すると、ぶつぶつ文句を言いながら死体を乗り越えて集合する。

 

「ちくしょう。身体が死にそうに痛てえのに、何で俺は働かにゃならねえんだ……」

「さっき死んどきゃよかったぜ」

「副長はどうした?」

「あっちで鋼糸抱えて満足そうにくたばってるよ」

「自分だけ死にやがって、クソ」

 

 生きているのが不満というようにぶつぶつ文句を言いながらも、そこは歴戦の兵たちである。集合までの間に武器を拾いながら、隊伍を組み直し、甘寧の元に集まるまでには既に戦える状態にまで復帰している。

 

 甘寧の元に集合してまで文句は言わない。肋骨は何本か折れて、おそらく内臓も傷つき血を吐いている。地面を矢のような勢いで転がって顔の傷も酷い有様だったが、甘寧本人はまだまだ戦うつもりだった。自分たちより酷い有様の頭が戦うつもりなのに自分たちだけサボる訳にもいかない。

 

「北郷の部隊を後方まで下げる。李剛、うちの本隊にその旨を伝えて五百ほど引っ張って来い。我々はこちらで留まり、北郷隊の交代の援護と、差し当たり呂布の再襲撃に備える」

「それなんだけど、もう襲撃はないと思うよ。何か呂布死にそうだったし」

「…………なんだと?」

「誰か首のこの辺に攻撃した? 凄い勢いで血が流れたけど」

 

 弓手である梨晏は北郷隊の中でも飛びぬけて目が良い。呂布の再襲撃は梨晏にとっても最も警戒すべきことであるので、見える範囲で進路を捕捉しようと手近な兵の肩に立って行方を追っていたのだが、騎馬隊が合流するよりも先に呂布は首筋より出血。同行していた連中に連れられて進路を虎牢関の方に変えていた。合流を目指していたらしい騎馬隊も、後に虎牢関の方に消えているから、死亡とはいかないまでも深刻な状態ではあるのだろうと推察できる。

 

 梨晏の物言いに、実際に命がけで戦っていた甘寧隊の面々から喝采が上がった。

 

「やったぜ!!」

「くたばれ呂布め!!」

 

 不景気な雰囲気だった悪党面がもうお祭り騒ぎである。それだけ呂布を退けたという事実は、彼らにとって朗報だった。命がけで戦ったのだ。それが報われたという事実は彼らにとって大いに励みになった。

 

「お前の言うことが事実なら、これは孫呉にとっても好機だな」

「でしょ? なら人手がいらない? 団長撤退は賛成だけど、私たちまでいなくなって大丈夫?」

 

 強者特有の感性として、梨晏は自分が百人分くらいは働けると理解している。甘寧隊は呂布を退けるという大仕事を果たした後であるが、戦闘そのものはまだ継続している。いくら部隊の半数近くが死人になろうと、持ち場を放棄することはできない。

 

 元の状態では甘寧隊全体の一割にも満たなかった一刀団であるが、甘寧の連れ出した三千がほぼ全滅したこの状況では、今回の戦闘では多少の負傷者は出ても戦闘続行が不可能な者が一人も出ていない一刀団は、喉から手が出る程欲しいはずだ。

 

 その内心を理解した上であると、団全員で撤退せよと命じた上に援護までしてくれるのは虫が良すぎると思った。今はそれで良かろうが、後で状況が変わった時に責められては、一刀の経歴に傷をつけたくない梨晏としては困るのだ。

 

 ここまで身体を張ったのだから、最後まで張るのも誤差のようなものだ。降って湧いた一刀撤退の許可は手放さないにしても、後で追及されるようなことはできるだけ避けたい。

 

 そんな梨晏の内心は甘寧には看破されていた。よくもその年でそこまで気が回るものだと感心するが、それは余計なお世話というものだった。甘寧としては一刀は命の恩人であり、呂布撃退を演じた功労者の一人である。

 

 それをより劇的に孫呉のために活かすのであれば、一刀の撤退は絶対に必要だったし、まかり間違っても死んでもらっては困るのだった。

 

「安心しろ。お前の懸念するようなことは起こらんと約束する。要するに、北郷が撤退するのも当然という雰囲気が作れていれば良いのだろう?」

「思春様!」

 

 孫堅の部隊の方から、周泰が騎馬百ほどを引き連れて駆けてくる。呂布の襲撃を察知した孫堅周辺の差配により、甘寧隊の後詰として回されてきた兵であり、決死隊に近い覚悟を持った精兵たちである。

 

 呂布と戦うつもりで馬を駆けさせてきた彼らであるが、ついてみれば戦闘は終わっており、甘寧も無事である。まさか、という思いで周泰が甘寧を見ると、甘寧は当たり前という風に言った。

 

「呂布は撃退した。私は目視していないが深手だそうだ。これは孫呉にとって好機ということで、お前は部下と共に呂布撃退を触れ回って来い」

 

 方天画戟を投げ渡される。撃退の証として、これほど心強いものではない。これで孫呉にも風が吹く、とすぐに踵を返した周泰の背に、甘寧が待ったをかけた。

 

「ああ、口上の内容はこうだ。いいか、『誰が』やったのかを間違えるんじゃないぞ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はっはぁ! 右を見ても敵左を見ても敵。おまけに斬っても斬っても湧いて来やがる。ここは天の国かオラ!」

 

 孫呉の兵団を率い、連合軍の左翼を担っていた孫堅は本人の奮闘も空しく攻めあぐねていた。兵の質に差はなく、将の質では明らかに勝っているのに戦線は拮抗している。原因は士気の差だ。虎牢関の兵は末端の兵に至るまでが皆、死んでも喰らいつくという目で戦っていた。

 

 命知らずで知られる孫呉の兵の気概も決して負けてはいなかったが、死体でさえ動き出すのではないかという程の敵兵たちの形相は、一度押し込んでもさらなる勢いで押し返されることの繰り返しで、何人兵を殺しても決め手を欠いていた。

 

 場を繋ぎさえすればいずれどうにかなる。敵兵たちはそれを確信に近い形で共有している。それは彼らにとっては絶対的で、日が東から昇ることよりも当然のこと。

 

 国士無双にして当代最強の武人、呂布の存在である。

 

 孫呉軍が虎牢関を正面に見て左方より、呂布突撃の気配ありとの報を聞いた孫堅は自分の部隊から周泰を中心とした百の騎馬を派遣。甘寧隊の後詰とした。どちらも若いが将として兵として優秀であるが、呂布に勝てるかと言えば未知数である。

 

 聞いた話が全て真であればとても人間とは思えない女だ。直接戦うならば自分が戦うしかなかろうが、孫堅は武人である前に孫呉の代表であり、全体を指揮する立場にあった。

 

 これなら娘にもっと早く家督を譲ることを考えておくべきだったか。何でもかんでも自分がやる方が話が早いと、この年までやってきたツケが回ってきたのかもしれない。早い段階で中央の指揮を娘に任せ、自らが甘寧隊の後詰に行くのが最も勝率が高い選択と解っていても。

 

 呂布がここまで来るならば高い確率で自分が死ぬことになることも、半ば確信めいていた。

 

 その時は刺し違えてもあの小娘を殺す。決意を固め、敵兵をさんざっぱら斬り殺している最中に、それは戻ってきた。

 

「呂布敗走! 呂布敗走!」

 

 甘寧隊の後詰に送り出した周泰である。同道させた騎馬に囲まれながら、その先頭でがなり立てる少女は危険も顧みず、呂布の象徴たる方天画戟を掲げて戦場を横切っていた。

 

「江東の狂虎、孫堅が配下、()()()()()()()()()()呂布は撃退された! 董卓軍恐れるに足らず! 進撃すべし! 進撃すべし!」

 

 怒号飛び交う戦場に、周泰の声は良く響いた。ありえない。そう思った敵兵は多いだろうが、周泰の掲げる方天画戟は本物である。負けるはずのないものが負けた。絶対であったはずのものが、そうではなかった。

 

 呂布を近しく感じるものにとって、周泰の知らせはまさに青天の霹靂であったことだろう。あれだけ不撓と思えた集団が、あれだけ粘り強く戦った敵兵たちが、その方天画戟を見て動きを止めた。

 

 好機である。孫堅は動きを止めた正面の兵の首を跳ね飛ばし、吹き出す血飛沫に哄笑いながら、大音声を上げる。

 

「孫呉のクズどもよ! 愛する俺の兵子どもよ! 理解してるだろうがこの俺がまた教えてやる! 国士無双! 天下の飛将軍呂奉先は、今さっきくたばった! それを成したのは誰だ?

北郷一刀。あの青瓢箪の優男だ!」

 

「天にも至らんとするあの全き壁を、あの男が打ち破った。てめえらどうだ? 悔しいか? 悔しいだろう!」

 

「それは俺がやるべきことだ! それは、俺たちがやるべきことだった! 俺が、俺たちが克服すべき困難を、あの男と仲間たちは成し遂げた!」

 

「ならば俺たちが成すべきことは一つ! 奴の偉業を称え、この良き日に花を添えてやろう!

奴の歩く道を敵兵の血で染め、脇には死体を積み上げろ! 俺たちの、仲間が、やってやったぞ! 俺たちも、後に続け!」

 

「江東の狂虎、孫文台がここに、大号令を発する! 野郎ども――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――ぶっ殺せっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 孫堅の号令に寄り、連合軍側左翼の孫呉軍が大きく前進。呂布敗走の衝撃という精神的な間隙を突いたその突撃は董卓軍右翼の兵の悉くを討ち取った。その分、孫呉軍側の被害も甚大であったものの、味方の損耗の実に三倍もの死体を積み上げ、自分は一人で千人はぶっ殺したと戦闘後に豪語した孫堅の言葉の通り、この戦闘における第一功を孫呉軍はもぎ取っている。

 

 同様に、中央を担っていた曹操軍は孫呉軍に呼応して前進。董卓軍中央の将を討ち取るまでに至る。

 

 右翼を担っていた公孫賛軍は、左翼中央の前進に合わせて自軍の向きを僅かに修正。自軍右方の張飛隊を横に広げて敵軍左方を圧迫。元より押し込んでいた董卓軍左翼を中央の方へ向けて押し込む形となった。

 

 大きく分けて三軍となっていても、何もぴったりとくっついて戦っている訳ではない。左翼が中央に向けて押し込まれた所で、すぐに中央に接触する訳ではないのだが、万を超える大軍がこちらに向けて押し込まれているというのは、董卓軍中央にとって大きな精神的圧迫となった。

 

 その分、ただ押し込んでいた曹操軍よりも公孫賛軍は兵を損耗することとなったが、中央を指揮していた曹操をして『良い仕事をした』と言質を取ったことは、先の汜水関戦での功績も合わせて公孫賛の株を更に上げることになった。

 

 呂布襲撃が失敗したことに加えて、その間隙を突かれて全ての戦線で押し込まれたことで虎牢関の代表であった賈詡は早い段階で虎牢関から追加の兵を補充。万単位の増援が現れると、連合軍の三軍は示し合わせたかのように兵を引き、開戦の場所に戻り陣を引きなおした。

 

 両軍のにらみ合いはそのまま日没まで続いたが、結局その日は戦闘は再開されず、そのまま終戦と相成った。

 

 後年に書かれた歴史書には、この虎牢関での戦闘は董卓軍側の大敗として記録され、その第一功として北郷一刀の名前が記されている。

 

 また、黄巾の乱から始まった一連の戦乱が収束し、平和な時代が訪れるまでの期間――その主役の一人である北郷が『三国志』と呼びたがり、三国とは何を指すのかと度々議論される――を題材とした物語は後年、小説、講談、舞台演劇など、当時の娯楽としては最大級の人気を得ることになるのだが、『北郷一刀が敬愛する自軍の将甘寧を守るために彼女の命令を破ってまで出撃し、当時最強の武将である呂布に果敢に一騎打ちを挑み、見事にこれを撃退する』という一刀本人の語った事実と全くことなる脚色をされた序盤の一幕は、終盤の『公孫賛の大号令』と並んで絶大な人気を博すことになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第042話 反菫卓連合軍 虎牢関攻略編⑥

 

 

 

 

 

 

『これでトドメだ。覚悟せよ将軍甘寧』

『うぬ、これまでかー』

『待てい!』

『何奴!』

『我が名は北郷一刀! 呂布め、我が剣を受けてみよ!」

『ぐはぁ。おのれ、市井にまだお前のような武人がいたとは……北郷一刀、お前の名を覚えておくぞ!』

 

 ははははは。段々と声を小さくしていくことで遠ざかっていく呂布を表現するシャンに、一刀は自分の言ったことを心の底から後悔した。

 

 待てと言われて律儀に待ち、誰何の声まで上げる呂布。態々名乗ってからかっこよくポーズを取り、一人で切りかかる北郷一刀。あっさり一撃を食らった挙句笑いながら戦線を離脱する呂布と違和感を挙げればキリがないが、事実と本人の意思を置き去りにして脚色されたそれが兵たちの間では大流行しているという。

 

 自分では怖くて聞けないので、聞いた話をやってくれとシャンと梨晏にお願いし演じてもらったそれは、一刀の予想よりも遥かに酷いものだった。

 

「呂布を一撃かー。強いなその北郷一刀って人は。顔が見てみたい」

「私好みの良い顔してるよ。紹介しようか?」

「また今度お願いするよ」

「気が向いたら言ってね? それにしても、孫呉の人たちはげらげら笑いながら聞いてるけど団長のこと知らない人は普通に信じちゃうよね」

「こうして歴史は歪められて行くんだってことを実感してるよ」

 

 そんなバカなことがあるはずがないだろうと方々に事実を伝えてはみたのだが、ほとんどの人間にはそれじゃあつまらない面白くないと大変不評だった。講談映えする内容に脚色され流布されているのはそのためで、何より出立する前の孫堅が手を叩いて喜び、ガンガン広めて良いと宣言したことが虎牢関での流行に拍車をかけていた。

 

 今でこそ虎牢関での流行に留まっているが呂布敗走の話は外にも広まっている。洛陽の大通りでこれらの講談が面白おかしく披露される日も近いだろうと言う話を聞く度に冷や汗が止まらなくなる一刀だった。

 

 全くどうしてこうなった。執務机に頬杖を突きながら、一刀は壁に立てかけられた方天画戟を眺めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 呂布を撃退した日から、既に三週間が経過している。

 

 呂布を撃退し虎牢関の董卓軍に大打撃を与えたと判断した連合軍は、翌日から総攻撃を昼夜兼行で行うことに決めた。後に流行した講談の内容が事実かどうかは別にして、難敵であった呂布が重傷を負ったのは事実。死亡の確認こそ取れないが、戦線復帰されれば盤面をひっくり返される恐れがある。

 

 虎牢関を落とすならばその前にしなければならない。危機感を共有した上層部はゴネる袁紹を押し切る形でぶっ通しで戦闘を行うことを決め、軍師たちの調整により軍団のローテーションが決められた。

 

 時間から移動から合図の方法からとにかく綿密に決められたそれは、状況を正確に把握した本陣から適宜指示を出さなければならないという有能な軍師ありきの戦法だったが、現在の連合軍は軍師オールスターとも言える状況であり、考える頭には事欠かなかった。

 

 加えて士気の高い兵が多ければ言うことはない。犠牲を覚悟で攻め立てた結果、堅牢で鳴らす虎牢関もついには折れ、最初に攻撃を仕掛けてから二週間ほどで陥落の憂き目となった。

 

 各々の兵数や虎牢関の堅牢さを考えれば大層なスピード攻略であるが、それだけに連合軍全体の被害も凄まじく、特に兵の練度で劣る袁紹軍、袁術軍は兵の損耗がついに半数を超えた。

 

 平素の戦であればここらで痛み分けと講和の話でも浮かぶ段階である。董卓軍の方からその打診があれば受け入れるのも吝かではないという雰囲気であったものの、虎牢関を抜かれて後もあちらが継戦の意思を崩さないことから、連合軍側でも継戦を決定。虎牢関を前線基地の一つとし、早急に兵をまとめた諸将は虎牢関を出発。洛陽をその目に捉える平原にまで兵を進め、そこで最終決戦と相成った。

 

 その決戦に、一刀団は参加を認められなかった。

 

 虎牢関の初戦で甘寧隊は数を半分に減らしており、また上役である甘寧も重傷。本人は戦闘に支障はないと言っているが大事を取った形だ。いずれにせよ、虎牢関の駐留組に人員は出さねばならなかったのでちょうど良いと白羽の矢が立った形だ。

 

 甘寧隊の中には戦働きができないと不満を漏らす兵も当然あったが、虎牢関が重要拠点であることに変わりはない。そこを守る兵にもある程度の質が求められ、それを率いる人間にもある程度の格が求められる。先を急ぐ諸将が迅速な協議を行った結果、虎牢関の主将は公孫賛となり元々の関羽団を除いた公孫賛軍全軍に各軍がいくつかの部隊を預ける形となった。

 

 既に虎牢関守備隊としての再編も済まされているが、基本的に職務は元々の隊ごとに行われるため、今の所問題などは起きていない。前線基地と言えども、最終決戦が今まさに行われている現状、虎牢関を再制圧しようという余裕が董卓軍にもなく、兵たちの間にも弛緩した空気が広がっていた。

 

 講談が流行っているのも、そう言った雰囲気が下地になっているせいもある。非番の日も決められているが遊びに行けるような場所もなく、甘寧隊の面々は他所の非番の連中も集めてドッジボールの普及に躍起になっていた。講談じゃなくてドッジボールが流行れば良かったのに……と思わずにはいられない。

 

 ともあれ一時とは言え、一刀の周囲には平穏が戻ってきた。最終決戦が行われていると言っても、それは一日二日移動した先でのこと。虎牢関からも斥候は放っており、伝令担当は忙しく走り回っているが、状況が急変したという知らせはまだ来ていない。

 

 何にしてもあちらの結果待ちなのである。状況次第では援兵ということもあるが、どうやら状況は連合軍有利に推移しているようで、今の所援兵を求められる兆候もない。このまま行けば董卓軍を打ち破り、洛陽に入れるかもしれない。

 

 流石にそれは出来過ぎだと思わないでもないが、連合軍は既に難攻不落の関を二つも突破し洛陽が見える位置にまで軍を進めている。その見通しも今や現実味を帯びてきているのだ。

 

「つまり今は、戦後の綱引きをしている状態な訳ですね」

 

 虎牢関、一刀に割り当てられた執務室。兵の急激な損耗により一刀は正式な副長に昇進。甘寧隊において甘寧に次ぐ立場となった訳だが、戦地でなく後方では主な仕事は各所の調整や事務仕事ばかり。甘寧隊は孫呉軍の中でも学のない人間が多いため、必然的に一刀の仕事の比重は高まっていた。出世をしたはずなのにこれをやってくれあれをやってきてくれと行軍している時よりも忙しいような気さえする。

 

 加えて今は一刀団の軍師三人も全員、孫呉軍の本隊について出払っている。頼れる人間が少ないせいで孫呉に合流してからこっち、今が一番忙しいとさえ言えたが、一刀自身は充実していた。何しろ剣を持って戦わずに済むのだ。今まさに殺し合いが起きているのだとしても、人を殺さずに済むのならばその方が良い。

 

「まずは目の前の戦いに集中せよという段階ではありますが、既にあちらの陣中ではそういった駆け引きが始まっているようです」

「それに比べればこちらは気楽なものですね。調練と警邏の日々というのは随分と久しぶりなように思います」

 

 一刀の部屋を訪ねてきたのは楽進である。曹操軍が虎牢関の駐留部隊として置いて行ったのが彼女で、元の楽進隊と一緒に道中で募兵に応じた予備兵も預かっている。言葉の通り今はその調練と虎牢関周辺の警邏を担当している。三週間前まで死闘を繰り広げていたことを考えれば、今は酷く穏やかな時間と言えるだろう。

 

 一隊を預かる将軍と、その将軍に次ぐ副長。所属している軍とは異なるとは言え、世間的には一刀と楽進を比べた場合、楽進の方が立場が上になる。楽進本来の性分もあるのだろうが、多少の礼儀も必要とは言えここまでかしこまる必要は本来ならない。

 

 そのことをやんわり指摘しているつもりなのだが、楽進の方に改める気配はない。お茶を飲みながら穏やかに微笑む楽進を見て、一刀は関係の改善が必要だと考えた。

 

「楽進殿に改めてお願いがあるのですが」

「なんなりと」

「私と友人になってもらえませんか? 貴女とは対等な関係で話をしたいのです」

 

 その言葉に楽進の顔に浮かんだのは困惑である。見た目通り真面目な少女だ。正面から申し出ればこうなることは解っていたが、正面から申し出る限り彼女は断らないだろうことも何となく解っていた。

 

 義理だの恩だのを重んじるのは楽進の長所だと一刀は思っているが、個人的にだけであるならばまだしも、勢力を跨いでいる場合は思わぬことが軋轢を生むことにもなる。現状の立場においてはどうひいき目に見ても楽進の方が上。ここは貸しのある立場を笠に着ても強引に事を進めるのが正しいと思った。

 

 本来であれば自分だけが敬語を維持するべきなのだろうが、それだと楽進は梃子でも動かないと察する。対等に砕けた感じで。それが一刀の男としての妥協点である。褐色美少女の困り顔を眺めながら待つことしばし、

 

「北郷殿の……いや、北郷の言を受け入れる」

「ありがとう。俺のことは一刀とでも呼んでくれ」

「では私は真名を預ける。これからは凪と呼んでくれると嬉しい」

「良いの?」

「良いに決まっているだろう。お前がいなければ今の私はないのだからな」

「大げさな……」

 

 とは言いつつも甘寧が増援を早期に決めなければ総崩れになっていた可能性は否定できない。楽進改め凪の言い分も解らないではなかった。

 

 曹操に汜水関での戦闘に関する手紙を出したのは、その点についての凪の処分を少しでも軽くするためもあった。勝負は水物である。凪の兵は良く鍛えられていたし、彼女に良く従っていた。負けてしまったのは相手が悪かったためで、ここで凪を処分するのは損失である。

 

 自分で考えつくようなことを曹操が気づかないとは思えない。仮に自分の手紙がなかったとしても凪に対する処分は大して変わらなかっただろうが、手紙を出したという事実は消えることはない。一刀が思っている以上に、凪の彼に対する評価は大きいのだった。

 

「曹操殿ならそんなことはないだろうけど、もしいづらくなるようなことがあったら俺の所に来ると良いよ。凪ならいつでも歓迎するから」

「そんな機会が訪れないように、お前も祈っていてくれ」

 

 温いお茶を飲みながら他愛もない話をしていると、扉がノックされる。今は執務の合間、休憩中のようなものだ。梨晏もシャンも出払っているので対応は一刀一人で行っている。凪が視線で外そうか? と問うてくるが一刀はそのままと返した。

 

 ノックの感じからして急ぎで内密ということはあるまい。凪がいて困るということもないだろうと判断した一刀は、

 

「どうぞ」

「失礼する」

 

 入ってきた人間の姿を見て、二人は迷わずに立ち上がった。部下がするような態度の二人を見て、入ってきた人物は困ったように笑う。

 

「楽にしてくれ。ここにはなんだ。世間話に来たようなもんだ。楽進もいるとは思わなかったが」

 

 現れたのは現在の虎牢関の代表。白馬義従公孫賛である。一刀と凪の立場がほぼ同格であったとしても、彼女は間違いなく上役だ。粗相があってはならないと緊張が走るが、公孫賛の態度は気安い。

 

 一刀の勧めに、適当な椅子を引っ張ってきた公孫賛は腰を下ろす。ごきごき首を鳴らしながらの振る舞いには、形式ばった雰囲気はない。本当に世間話に来たのだろうかのような雰囲気であるが、一刀でもこれを額面通りに受け取ったりはしない。

 

 既に戦後の綱引きは始まっている。前線から離れた場所であるからこそ、情報交換は欠かせない。中でも公孫賛は立地的に最初に袁紹に狙われる立場にある。窮地に陥った時助けになるものは何で、誰なのか。今のうちに見極めておく必要があるのだ。

 

 帰っても良いかと視線で問うてくる凪に、頼むからここにいてくれと返す。一人で対応するにはちょっとばかりガッツが足りなかった。

 

「お前が呂布を打倒したって本当か? うちの陣営でも毎日話題になってるし、もう三種類は講談を聞いたぞ。残念ながら完成度はどれもイマイチだったが、お前の口上の時に講談師が無駄に格好つけるのはどういう訳だ?」

「『我が剣を受けてみよー』」

 

 棒読みでシャンたちから聞いた口上を真似してみると、二人から爆笑が返ってくる。調子に乗った一刀は銀木犀を抜いてポーズを取り、向きを変えてまた別のポーズを取った。それがツボに入ったのか特に公孫賛の反応が良い。ひぃひぃ呻きながら涙を拭うのを見るとやった甲斐もあったというものである。

 

 しばらくこれで話の掴みは問題ないなと前向きに判断した一刀は、公孫賛の名誉のためにもこれ以上は自分の真似をしないと決めて、彼女にもお茶を勧める。現代と異なり熱くも冷たくもない温いお茶だが、何もないよりはマシであると勧めてから、虎牢関の代表である公孫賛に勧めるようなものでもないのではと思い至ったが、本人は全く気にするでもなく椀に口をつけた。

 

「信じている方はそういないと思いますが、幸運の産物ですよ。俺は思春の――甘寧将軍の前に飛び出しただけで、たまたまそこの方天画戟が剣に当たっただけで。呂布を撃退したのは俺の仲間と、それまでに攻撃していた甘寧隊の力です」

 

 思春、と真名を呼んだことに、公孫賛が片眉を上げる。汜水関で顔を合わせた時には普通に名を呼びあっていた。つまりはそれ以降に真名を許したということ。

 

 呂布に助けられた対価として考えるのが自然であるが、命一つの借り――それもあの飛将軍呂布の前に身を投げ出し、命を救ってくれたことの対価とするなら公孫賛の感性からすると全く割に合っていない。

 

 甘寧のような人間ならばそれこそ、自分の身を一晩二晩預けるくらいのことはしていそうな気さえする。というよりも、懸想をしている愛紗のために、そういうことがあったのかどうかを探るための質問でもあったのだが、一刀の感じからしてまだまだ深い仲にはなってはいなそうだ。

 

 愛紗にすれば朗報だろう。とは言え、自分よりも後に出会った女が運命的な体験をした末に真名を預けたとなれば、それはそれで青い顔をしそうであるが。全くあんなきらきらした見た目をしているのにどうしてあそこまで未通女いのか。

 

 友人としてじれったくもあるが、変に突いて恨まれても仕方がない。愛紗には解ったことをありのままに伝えることにして、公孫賛は話題を変える。

 

「方天画戟。お前の元にたどり着いたようで良かったよ」

「扱いについては一時紛糾したと聞きました」

 

 あの戦いで呂布本人の手を離れ、その敗走を知らせるために周泰の手に渡った方天画戟であるが、その日の戦いが終わった後、それをどう扱うかで意見が少々分かれたそうである。

 

 前線の目立つ所に置いておいて敵の戦意を挫くために使おうやら、腕の達者な人間――候補に挙がっていたのは関羽だそうだ――に持たせて使わせるやら。誰の意見も腐らせておくのはもったいないというところから来ていたが、最終的には孫堅の『北郷たちがやったんだから北郷たちのもんだ』という意見が採用され、一刀の元に運ばれてきた。

 

 撃退したのは確かに自分たちだが、それが成功したのは思春たちの奮闘の方が大きい。方天画戟を得るにしても、それは思春が得るべきだと主張したものの、

 

『お前たちだって私の隊に属する者たちであり、事実として呂布を敗走せしめたのはお前たちだ』

 

 という主張に負け受け取ることに――正確には押し付けられることになった。受け取ってみて思春たちの真意が理解できた一刀である。

 

 武器としては確かに業物であるが、これを振り回せるような人間はそういない。少なくとも甘寧隊の中では極々少数だ。それも振り回せるというだけで呂布のように使いこなすには鍛錬のために時間を割かなければならないだろう。

 

 使わないのであれば管理をするより他はないが、大事な品だ。管理にも気を使わなければならないとなれば、面倒なことは押し付けてしまうに限る。

 

 お前たちが第一功であるということを対外的に示すため、という理由が一番大きいのだろうが、押し付けることができて良かったと少なからず思っているだろうことも、一刀には確信が持てた。

 

 おかげで執務室の隅には常に、自分を殺しかけた武器が転がる環境となってしまった。正直あまり良い気分ではないので誰かに押し付けたいのだが、甘寧隊の中では誰も手を挙げてくれない。

 

 それなら当初の一つの案の通り、誰かに武器として使ってもらうのはどうだろう。ちょうどシャンが斧を粉々にされたばかりなので、ちょうど良いと振り回してもらったのだが、シャンの反応は芳しくなかった。

 

 使っていた斧は元々洛陽の鍛冶屋に発注したもので、破損した時のための予備がまだ複数残っているとのことである。武器の予備として持つのは構わないが、元来それほど器用な性質ではないため、斧を使った時の勘が鈍ると困るというのがシャンの主張だ。

 

 ちなみに一刀本人では持ち上げて構えることもできない。構えようとしてひっくり返り、周囲の笑いを誘ったのも記憶に新しい。

 

「正直扱いに困るんですよね、これ」

「だろうな。まぁしばらくはそうやって飾っておくのが良いだろう。その内使える人間が現れるかもしれんし、お前が褒美を出すような立場になったら、体よく押し付けても良いしな」

「俺も野心がないではありませんが、あまりそういう立場になるというのが想像できません」

「今回のことで大きく前に進んだと思うぞ。孫呉を出て独立する予定だそうだが、それでも上手くは行くだろう」

「は?」

 

 公孫賛の言葉に、凪が声が挙げる。その顔は信じられないと雄弁に語っていた。

 

「……お前、独立するつもりなのか?」

「そういう約束で合流した。働き分の報酬を貰ったら孫呉からは離れる予定だよ。いつになるか解らないけど」

「孫呉に残れば孫堅の娘の誰かを宛がわれて上層部の仲間入りは固いぞ。貧乏性の私からすれば非常にもったいないと思うが」

 

 凪からすればそれが当然の流れに思えた。男性が当主の家の方が多いが、力ある家は女性が当主であることが多い。孫堅の家もその例に漏れずその子は皆女性だ。野心ある男性は大抵がその婿に収まることを目指す。その点、一刀は今の時の人。腰掛とは言え孫呉で働いていたのだから切っ掛けとしては申し分ない。

 

 加えて仲間も揃ってついてくるのだから、娘を宛がって引っ張り込むというのは権力者としては普通の対応だ。後継者とされる孫策の婿にでも収まれば上等。次子、末子と番いになるのでも出世の足掛かりとしては上等だ。だが、

 

「それじゃあ頭を張れません」

 

 一刀の返答はにべもない。孫堅は言うに及ばず孫策も遠目に見たことがあるだけであるが器量よしだ。その妹二人も不細工ということはないだろう。凪が一刀の立場であったら悩むくらいはすると思うのだがその様子もない。

 

 一刀の言い分も解らないではないが、これが視点の違いというなのだろうと凪は納得することにした。

 

「だが名誉はあるし良い暮らしもできる。ついてきてくれた人間を食わせることもできるだろう。そこからどこまでのし上がれるかはお前次第だが、娘をあてがわれる前提なら跡目争いにも食い込めるかもしれん」

「そこで炎が燃え上がるのでは割に合いません。離れる予定とは言え世話になった方々です。恩を仇で返すような真似はしたくない」

「上を目指すのであれば、権力争いというのは避けられないぞ。相手が誰になるかの違いだけだ。それは孫堅かもしれないし、曹操かもしれないし、もしかしたら私かもしれない」

 

 公孫賛がじっと、真剣な顔で見つめてくる。手を組むことはできないか。言外の提案であり探りでもあった。

 

 手を組む相手としては信頼できるように思う。関羽たちが世話になっている以上、人格面についてはある程度保証されているようなもの。その武力には一刀自身汜水関でも虎牢関でも助けられた。仕える人間としても共に戦う人間としても悪い人物ではない。ないのだが、

 

 即答しない一刀に、公孫賛は苦笑を浮かべた。こと同盟を結ぶ相手として見た場合、自分が良くない相手だということを理解していたからだ。

 

「できれば、お前とは戦いたくないものだな」

「それは俺も同意見です。いつか轡を並べて戦いたいものですね」

 

 話がまとまったことに、凪はそっと安堵の溜息を漏らした。降って湧いた沈黙に耐えかねた凪は、慌てて会話を繋ぐ。

 

「そう言えばお前の旗を見た記憶がないな。甘寧隊の副長ともなれば旗の二つ三つは持っていても良いと思うのだが。合流する前も五百を率いていたと聞くが、持っていないのか?」

「必要がなかったからなぁ……」

 

 旗はその隊がどこにいるのかをその隊員たちに、あるいはその隊を指揮する人間たちに視覚的に解りやすくするための物で、どこの勢力でも導入されている。その隊が誰の指揮下であるかを表すために、実際に現場で指揮する人間の姓が割り当てられる。北郷一刀が指揮する隊であれば『北郷』の旗になる訳だ。

 

 当然孫呉軍にもそれは導入されており、甘寧隊にも色とりどりの旗が翻っているのだがそこに北郷の旗はない。

 

 関羽団と共に仕事をするまでは単独で仕事をするばかり。主な仕事は商隊の護衛と賊の殲滅で、旗を使うような状況にはなかったのだ。元より誂えていなかったために、合流してからの用意が間に合わず、とは言え旗がないと不便と物言いがついたため、北郷隊を表す物として深緑の無地の旗が割り当てられた。

 

 孫呉の本陣に余っていた布を急遽旗としたものだが、一刀はこれに実家の家紋を付け足して使用している。一刀団の面々は『深緑地、丸に十文字』というのが自分たちの旗と認識しており、指示を出す側の甘寧やその関係者もそれが一刀の旗というのは認識しているが、他の勢力となるとそうはいかないらしい。

 

 今は後方待機であるため、洗濯洗浄も済んだ旗が部屋に立てかけられている。それがそうだと説明すると、凪は驚いた表情を浮かべた。

 

「文様のみの旗というのは珍しいな」

「文字が読めない団員にも伝わるって言うのは我ながら良い案だと思うよ。時間ができたらこれを正式に俺の旗にしようと思う」

「別に『北郷』の旗は必要だろうが、それを主とするのは良いと思うぞ」

「正式に誂えたら見せに行きますよ」

「楽しみだ。それまでは私も死ねないな」

「一刀!」

 

 公孫賛の笑い声を遮るように、執務室に思春が飛び込んでくる。足音などもなくいきなりに感じた面々は、彼女の声に思わず背筋を伸ばした。一刀しかいないと思っていた思春は、来客が二人もいたことに目を丸くする。

 

 真っ先に動き出したのは公孫賛だ。思春の様子からただ事ではないと察した彼女は、視線で凪を促すと立ち上がった。

 

「込み入った話のようだから私たちは退散しよう。お茶ごちそうさま」

「いえ、公孫賛殿もお聞きいただきたい。いずれお耳にも入りましょうが、大事ですので」

 

 あー、と公孫賛は憂鬱そうに溜息を漏らした。いくつかあった予想の内、悪いものがやってきたことを察したからだ。公孫賛が着席するのを待つと、執務室の中央に移動した思春は、小さく咳払いをし姿勢を正す。

 

 

「第一。洛陽郊外における董卓軍との戦闘は連合軍が勝利。董卓軍は潰走。万を超える捕虜を取ったとのこと」

 

 これは良い方の予想が当たった形になる。被害を想像すると気分が滅入るが、万を超える捕虜を取れたのだからその体裁を整えられるくらいには連合軍は機能しているということだ。文句なく、とは言えないが良い知らせの範疇ではある。

 

 つまりはこの後に、それを覆す程の悪い知らせがあるということだ。

 

「第二。戦後の処理と再編成もそこそこに連合軍の代表――具体的には袁紹とその供回りですが、これが洛陽に入りました」

 

 これも別におかしなことではない。既に結成時と兵力の関係は変わりつつあるが、名目上は今でも袁紹が盟主であり、戦果というのは基本的には軍団の代表に帰属するものだ。一番の洛陽に入るという名誉も当然、盟主である袁紹の物である。内心はどうあっても、形式を守ってやるくらいの配慮は諸将にもあるはずだ。

 

「第三。先の連中が洛陽の市民と乱闘騒ぎを起こし、小火が発生。これが燃え広がり洛陽正門周辺に広がりました。幸い現在は消し止められているものの、禁軍が出動する騒ぎとなり、連合軍は洛陽より叩きだされました」

 

 雲行きが怪しくどころか、一瞬で豪雨雷鳴が降り注ぐ有様となった。唖然とする凪と、頭を抱える公孫賛の姿が見える。特に公孫賛の姿が痛々しい。

 

「現在は使節団を編成し、帝室と交渉に当たっている最中とのこと。こちらの上層部からの話では、帝室はまず袁紹の盟主罷免と袁紹軍の連合軍追放を要求しているとのことです。当然袁紹は抗議したそうですが覆る様子もなく、袁紹軍は既に撤退の準備を始めているそうです」

 

 洛陽郊外の戦闘がどう推移したのか知らないが、連合軍が結成された時点でならばいざ知らず、今の状況で連合軍の残り全てを相手にすることは、袁紹軍には不可能だ。帝室の要求がまず袁紹軍の追放であるなら、連合軍の諸将も袁紹に味方をする道理もない。

 

 遠路遥々やってきて甚大な被害を出したのに、帝室に相手をされなかったらこれまでの経費が丸損だ。洛陽が燃えたことは業腹であっても、負債を全て袁紹がひっかぶってくれるのであれば、諸将としては悪くない展開である。

 

 やるというなら相手になるぞと、残り全員に開き直られたら袁紹にはもう打つ手がないのだ。袁紹にとっては最悪なことに、ほとんどの人間にとっては袁紹という人間はここで死んでもらった方が都合が良いのである。

 

 戦って殺した方が話が早いにも関わらず今なお袁紹が生かされているのは、つい最近まで担いでいた人間を殺すのは外聞が悪いという一点に他ならない。やっぱり殺そうとなったら今度こそ袁紹軍に打つ手はない。内心でどう思っていたとしても、早期の撤退は袁紹にとって必須事項なのだ。

 

 そしてこの袁紹軍の早期撤退によって、著しく状況が変わる者が出てきた。

 

 公孫賛は低い唸り声を挙げると立ち上がり、その場で地団駄を踏み続けた。クソっ、クソっ!! という声には凄まじいまでの情念が籠っているように聞こえる。

 

 だがそれも一時のことだ。幾分冷静さを取り戻した公孫賛は、大きく溜息を吐いた。

 

「席次を考えるとお前になるな甘寧。関羽とそれに従う一団を除いた公孫賛軍全軍は、これより虎牢関より引き上げ幽州に戻る。引き継ぎする時間もないから、申し訳ないが上手くやってくれ」

「お気遣いなく。ご武運を」

「お前もな。北郷、楽進もまたな!」

 

 慌ただしく執務室を去った公孫賛は、大声を張り上げながら移動する。これからしばらくもすれば、虎牢関はまた慌ただしくなるのだろう。一番頭数の多い公孫賛軍が抜けると人員的にも聊か厳しいのであるが、彼女の事情を考えると止めることもできない。

 

 戦闘さえなければどうにかなる状況であるが、状況は既に動き始めている。董卓軍の残党がどこにいるか正確な報告が上がってこない以上、公孫賛撤退の前に虎牢関が襲撃される可能性だってないではない。

 

「凪。一度戻ってそっちの幹部に事情を伝えてきてくれ。公孫賛軍を除いた面々で編成のやり直しだ。思春、俺は馬超軍の方に行けば?」

「あちらには途中で見つけた太史慈を走らせた。会議には私が出る。お前は隊の連中に遺漏なく指示を出せ。楽進は用事が済み次第『会議室』に集合だ。急げ」

 

 思春からの指示を復唱し、凪が駆けだしていく。久しく穏やかな時間が流れていた虎牢関は今が戦時であることを思い出した。これでまた忙しくなるだろう。人を殺さない忙しさではなく、殺す忙しさだ。

 

 憂鬱から溜息を漏らし思春を見ると、その視線はとすぐに逸らされた。

 

 甘寧隊に復帰してからこっち、あまり思春と会話していない気がする。命一つの借りと、年齢が近いこともあり、真名を許され口調もシャンたちと同じようにせよと改めたが、距離が近づいたのはそこで終わりだ。

 

 単純に距離感だけを見れば、虎牢関に来る前よりも遠くなったように思う。そういうものだと言われてしまうと返す言葉もないのだが、一刀にはそれが寂しく思えた。

 

 一度戦争が終われば、落ち着いて時間も取れるだろう。洛陽で落ち着いて会話でも、と思っていたのだが、状況がそれを許してくれないかもしれない。

 

「戦争が終わったと思ったらまた戦争か……中々平和にはならないもんだね」

「むしろこれからが本番だろう。お前も、その、なんだ。用心しろ」

 

 それではな。と足早に思春は去ってしまった。会話をしても続かない。態度も何か挙動不審だ。つかの間の平時が終わり、また慌ただしい時間が戻ってきてしまったが、世間の事情とは関係なく、個人を惑わす事情というのは舞い込んでくるものである。

 

 こちらに来てから特に思うようになった。人の生き死に、金の流れ、政治やら経済やらそれを回すための人間やら。考えることは山ほどあり、ただの高校生だった時よりは知っていることも増えたし、知恵もついたと思う。

 

 それでも、あちらにいた時から常々思っていたことは全く解決の兆しを見せていない。

 

「…………女って解らない」

 

 幹部は全て女性。それでもまだ理解できないのだから、きっとこの悩みは一生物なのだろう。

 

 

 

 



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第043話 反菫卓連合軍 洛陽戦後処理編①

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、今すぐ正門まで来て」

 

 甘寧隊に割り当てられた執務室で一息入れていた一刀の元に、虎牢関周辺の警邏に出ていたシャンが飛び込んでくる。差し向いの席には思春も座っていた。お茶をしながら此度の戦で募兵に応じた面々の身の振り方について話し合っていた所だった。

 

 現代で表現するなら元々いた兵が正規雇用、此度募兵に応じた面々が期間雇用とでも言えば良いのだろうか。基本的にはどこの勢力も()()()()()()の場合、期間雇用の兵は報酬を渡してそれでさよならという方針を取っている。

 

 より多くの兵を抱えて常に訓練をしているのが強いというのはどこも解っていようが、ほとんどの場合予算というのは有限だ。ただの私兵の枠に収まるのであれば、縁故採用のみでも十分に賄えるし信頼も置ける。精強な個人を集めるのは割と簡単でも、その兵団を作るのは難しいというのは規模の大小に関わらず同じだろう。

 

 雇われた方も平素であれば特に文句も出ない。割は良いが命がけの出稼ぎにきたと考えると話が早く、学がなく日々の稼ぎも少ない農村部の人間となると、自分の命を対価に報酬を得ようという人間は、現代人である一刀の感覚では驚くほど多い。

 

 大抵の場合そういう人間にはある程度の目標額が決まっており、その目標を達成、あるいは近い所まで稼げたのであれば、それ以上欲をかくことは()()()と言われている。雇う側も金を渡せばそれで終了なので、話が早いと助かる両得の関係なのだ。

 

 だが今は平時ではない。戦乱は今後も続く見込みであるため、戦を生き残った兵というのは来歴を不問にしても欲しいものである。雇われる側も長期の仕事にありつけるのであればそれに越したことはない。郷里に戻っても土地や仕事がないというのであれば猶更である。

 

 孫呉は現在、門戸を広く開き正規雇用を増やしている真っ最中だ。本来は洛陽での処理が片付いたら孫堅自らが行う手はずであったのだが、虎牢関の駐在組は正直手持無沙汰になってしまったため、思春の判断で前倒しにした形である。

 

 人が余っているとは言えない時代とは言え、受け継ぐ土地もなく財産の分与も期待できない貧乏な人間にとって、大手の就職口というのは喉から手が出る程欲しいものだ。命がけの戦いが今後も続くことになるが、そも仕事にありつけなければ野盗に身を窶すかのたれ死ぬばかりである。

 

 死ぬのが多少前後するだけならば、人間多少なりとも他人に胸を張れる立場で死にたいものだ。虎牢関の戦いを生き残った面々は戦働きのできない重傷者も含めて、その多くが孫呉軍での正規雇用を希望した。

 

 例外は一刀が率いてきた約五百である。この五百は元になった二百の兵に孫呉軍に合流するまでに加入した三百という構成だが、ここから孫呉軍への加入を希望したのはちょうど五十人。その全てが後から加入した三百の中からである。

 

 非正規の生き残りの内、一刀団以外の正規雇用の希望がほぼ百パーセントであるのと比べるとこの数字が驚異的なことが解る。代表である一刀としては嬉しい限りだが、これから良い関係を築いていこうという孫呉が相手となると、手放しで嬉しいとも言っていられない。

 

 あわよくば一刀ごと引き込もうと少なからず考えていた思春は当てが外れたこともあり、彼の軍師たちがいないのを良いことに、彼を虎牢関中を上へ下へと連れ回した。

 

 隊の人間の身の振り方。その話し合いは一息入れる間にも行われていた。すわ緊急事態かと立ち上がる一刀だったが、急いでという割にシャンに慌てた所はない。なんだどうしたと視線で問うとシャンは一刀の飲みかけの椀に手を伸ばす。微妙に温くなっていたお茶を一息に飲み干すと、

 

「やたら速い早馬が一頭虎牢関に向かってきてるって。梨晏が言うには馬超軍にいた小さい人が乗ってるって話」

「……馬岱殿かな?」

 

 シャンから椀を回収した一刀は首を傾げる。言ってはみるが馬超軍で顔と名前が一致するのは代表の馬超と、汜水関で共に戦った馬岱くらいのものである。理解としては梨晏も大して変わらないはずであるから、小さい方というのは馬岱で間違いないだろう。

 

「副代表自らとはよほど急ぎと見えるな」

 

 伝令の早馬は重要な役目とは言え、普通は立場のある人間が自らやるものではない。たとえ立場ある人間の方が馬を繰るのが上手かったとしても、普通は伝令専門の兵がやるものだ。その慣例を無視してまで馬岱がやってきたということは、とにかく伝令の速さを優先したに他ならない。

 

 内容は想像するより他はないが、とにかく緊急というのは話を聞いただけでも理解できる。

 

「洛陽で何かあったのかな」

「袁紹軍が火を放った以上の何かなどあってほしくはないものだが」

 

 苦り切った思春の言葉に一刀も苦笑を浮かべる。

 

 今でこそ今後の対応など話し合える程に余裕が出来たが、洛陽からの第一報が来てからの虎牢関には戦中の緊迫感が戻っていた。

 

 退去を命じられた袁紹軍は洛陽郊外での布陣も許されず、また弁明の機会も与えられることはなかった。後から聞いた話では金からコネから何でも使ったそうであるが、全て徒労に終わったそうである。

 

 仮にも盟主であった上、袁紹本人にも名家の者であるというプライドがあるだろう。自軍に落ち度があるとは言え思う所は多々あっただろうが、散々あがいた上でのことではあるものの最終的に袁紹は帝室の判断に従い陣を払った。

 

 勅命である。本来であれば速やかに実行しなければならない所、形の上では言い訳を聞いてやっただけ温情ではあるのだろう。

 

 そして勅命を受け入れるとした以上、袁紹軍は速やかにそれを実行しなければならない。

 

 大軍の中で過ごすようになって一刀自身も身に染みたことであるが、軍隊というのはとにかく物入りである。戦闘でそうなのは当然であるが移動するのにも、それどころかただそこに存在するだけでも大量の金と物を消費する。

 

 袁紹軍は更に急いで、遠距離を、という条件が付くのだから始末に負えない。軍隊に限らず人間というのは事情がない限りは最短距離を進むもので、袁紹軍の目的地であろう冀州に戻るまでの最短距離に虎牢関はしっかりと含まれていた。

 

 早馬が来る前であれば文句はあっても通したのだろうが、連合軍を追放された以上袁紹軍はもはや敵軍に限りなく近い非常に煙たい存在である。そんな軍を連合軍が管理する虎牢関を通行させる訳にはいかない。

 

 言って聞いてくれるのならば良いが、ならば強行突破という可能性は袁紹軍のことであるから大いにある。公孫賛軍の撤収を横目に見ながら、思春を中心に駐留部隊の再々編を行い、袁紹軍との戦闘に備えた。

 

 とは言うものの、である。形の上で備えはしたが、一刀を始め虎牢関に詰めるほとんどの兵は袁紹軍が来る可能性は低いと考えていた。何しろ皇帝陛下その人のお叱りを受けたばかりである。流石にこれ以上恥の上塗りはいくら袁紹と言えども考えにくい。

 

 それらの考えにはできればもう戦闘はしたくないという兵たちの願望も多分に込められていた。その祈りが天に通じたと言う訳ではないのだろう。準備万端待ち構えていた一刀たちを後目に袁紹軍は虎牢関を大きく迂回する進路を取った。

 

 念のため斥候を出しはしたがそれが釣りということもなく、袁紹軍の影が消えるまで彼女らは本当に何もしてこなかった。兵糧や金子の無心さえなかったのだから、よほど急いでいたのか。あるいはこちらと関わり合いになりたくなかったのか。

 

 いずれにせよ戦わずに済んだことに一刀は胸を撫で下ろした。

 

 弱兵と侮られているが兵を半分以上減らした現在でも、虎牢関に駐留する兵よりも数は多いのだ。それに顔良文醜の率いる精鋭部隊は健在で、兵数が減った分精兵の割合は高くなっている。軍団全体の練度としては、以前よりは大分マシになっていただろう。

 

 とは言え、兵が減ったという大前提に変わりはなく、これから乱世を迎える人間として、ここで兵を無駄に失うということは袁紹も避けたいはずだ。虎牢関を強硬突破できたとしてもそこで得られるのは自己満足のみ。それなのに兵も糧食も失うとなれば、普通の人間ならば手を出したりはしないはずなのだが、それでもやるかもしれないという危うさが袁紹にはあった。

 

 だがそれも杞憂に終わった。戦いなど起こらず、誰も死なずに何も失われなかったのだ。無駄なことをしたかもなと皆でここにはいない袁紹軍に罵詈雑言を吐きながら小規模な宴会をし、つかの間の平穏を楽しんでいたのだが、

 

(それも今日で終わりかもな)

 

 ただの事後処理だけで済むはずもない。これから待っているのは本格的な戦後処理だ。ここでの身の振り方で自分たちの今後が決まるとなれば、手も気も抜けない。気を引き締めていかないとな、と心中で気合を入れなおす。

 

 無駄に表情を引き締めた一刀が正門に到着した頃には、既に早馬は虎牢関の中にまで入ってきていた。乗っていたのはやはり馬岱だった。馬岱ほどの馬の名手にしても、よほどの強行軍だったのだろう。頭から水を被ったように大汗をかいていた彼女は、馬超軍の残留部隊から受け取った水をがぶがぶ飲みながら、手ぬぐいで軽く身繕いをしていた。

 

 一仕事終えてゆっくり一杯という雰囲気でもない。このままトンボ返りするつもりなのだと解った一刀は足を速めた。一刀の姿を見つけた馬岱は笑みを浮かべ、大きく手を振る。飛び散る汗と、上気した顔が妙に艶めかしい。

 

「お兄様、お久しぶり!」

 

 馬岱の声はやけに大きく響いた。小さく溜息を吐いた思春が肘で小突いてくるが、視線はこちらに向けてこない。軽い御機嫌斜めだ。荒くれ者の中で育ったせいか思春のコミュニケーションは肉体言語に偏っている節があり、彼女の中ではこれくらいは普通である。

 

 遠くフランチェスカの同級生たちに例えるなら、『おいおい』と突っ込みをしているくらいのものである。怒っているというよりは揶揄いの色が強い。女性的な感性を残しつつも、微妙に男くさいやりとりは年齢と立場の近い同性が近くに少ない一刀には貴重だった。

 

 これが続けば良いのだがと一刀は強く思う。なにを、と軽く拳でも返そうとすると、はっとしたように思春は手の届かない場所まで距離を取ってしまう。挙動不審は相変わらずだ。仕事中や不意に出る仕草が本来の距離感なのだとすれば、理性的な時に距離を置かれているように思う。

 

 こいつとは距離を取るべしと冷静に考えられていると思うと気分が滅入るばかりだが、とりあえず嫌われている訳ではないのだと改めて前向きに考えることにして、お兄様呼びがどうにも気に入らないらしく隣で不貞腐れているシャンの頭をわしわし撫でながら、

 

「お久しぶりです。覚えていてくださったとは光栄ですが、馬岱殿。何やらお急ぎのようですが……」

「そうなの! お兄様を連れて来いって。私まで駆り出すんだから本気だよね」

 

 はいこれ、と手渡された書類を中身を見ないで隣の思春に渡す。孫呉軍の命令書だということは開封しないでも解ったからだ。思春が開封するのを待って一緒に中身を見るに、書かれている内容は非常に簡潔だった。

 

 全ての仕事を放棄して北郷一刀を洛陽に向かわせること。緊急につき馬岱の手を借りたこと。馬岱の折り返しの準備が整い次第即刻洛陽に向かうべしと力強い筆致で書かれた文章の最後は、孫堅の署名で結ばれていた。

 

 従わなければ殺すというくらいに強制力の見える文章である。未だ雇われている身だ。洛陽に行くことに否やはないが、何故来てほしいのかが全く見えてこない。解るのは緊急であることくらいだ。馬岱に視線を向けて見ても、彼女は苦笑を浮かべて首を横に振る。

 

「私も聞いてないんだよね……もう皆大慌て」

 

 その理由を知らないことに、不安も不満もないらしい。自分よりも年若いはずだが割り切りの上手いことである。

 

「お前一人が招集されたということは、理由がどのようなものであれ、お前の隊もいずれ洛陽に向かうことになるだろう。調整は私がしておく。お前はさっさと洛陽に向かえ」

「身体一つってのはこういう時に便利だよな、本当」

 

 一応、虎牢関に仕事で詰めているということで、武装はしている。腰に下げた銀木犀以外に持っていかなければならないようなものはないし、団の仕事については――

 

「シャン。後をよろしく」

「まかせてお兄ちゃん」

 

 シャンが上手く取りまとめてくれるだろう。男、身体一つ。今は馬岱の号令を待つばかりだ。することもないので準備体操でもしているとほどなくして、替えの馬が運ばれてきた。

 

 精強な騎馬隊が売りの陣営が用意したのはやはりゴツい馬だった。二人乗り用なのか、一刀が普段使っているよりも二回りは大きな鞍が載せられている。その馬にひらりと跨った馬岱は小さく咳払い。気取った表情を作ると一刀に手を差し出してきた。

 

「お兄様、お手をどうぞ?」

「普通逆ですよね、こういうの……」

 

 苦笑を浮かべながら馬岱の手を握ると、強い力で引き上げられる。一刀が乗ったのを確認すると、馬岱は即座に馬を走らせた。馬のために既に道は開けられている。走り出してしまえば後はもう、邪魔するものは何もない。

 

 あっという間に虎牢関を飛び出し、一刀たちは野の人となった。

 

 現代の都市部に住んでいると、都市と都市の間、というものがピンとこないものだが、虎牢関から洛陽までの間にはこの時代の基準で舗装された道以外には何もない区間がかなりある。

 

 というよりも、人間の住む以外の場所は基本的に何もないのが普通らしい。道が舗装されていればまだマシな方で、田舎まで行くと人が良く通る場所を道と呼んでいるくらいである。現代人には中々馴染めない感覚であるが、流石に二年もこちらで暮らしているとこれが普通と辛うじて思えるようになってきた。

 

 馬での移動もまた然りである。高校に入学した時は自分が馬に乗るなど考えてもなかった一刀も、馬での移動には支障がない程度の腕にはなった。これなら騎馬で戦えるようになるのも近いのではと密かに思っていたのだが、馬岱の腕前を体感するに、それが大分高望みであったことを身体で理解した。

 

 騎馬で戦うということをしない――というか特に郭嘉が中心となって絶対にさせてくれないので、一刀が特定の馬ないし戦闘向きの馬に乗るということはない。そういう馬は騎馬で戦う担当に回されるためだ。

 

 今乗っている馬が普段乗っている馬と違うというのもあるだろうが、普通の馬にもただ乗っているだけの一刀と異なり、馬岱は常に周囲に気を配り腕で、時には足で下の馬に指示を出し見事に操っていた。

 

 後ろに乗る一刀にできることと言えば、落とされないようにしがみついていることだけだった。大の男が年端もいかない少女の細い腰にしがみつき、背に顔を預けている様は落ち着いて考えてみれば何ともみっともないことであるが、目を開いているのもキツいのだからしょうがない。

 

 もう少し馬に乗れるようになろう。馬に乗れる人にもう少し優しくしよう。馬岱の背で決意を固める頃には、遠く洛陽の影も見えてきた。その大分手前に陣が張られているのが見える。それが連合軍の陣地なのだろう。色とりどりの旗が見え、一番手前には真っ赤な孫呉の旗が見て取れた。

 

「このまま孫呉の陣営に直行するけど、お兄様大丈夫? 気持ち悪かったりしない? 今すぐ吐きそうなら蒲公英の腰をぎゅってして」

 

 大丈夫なのにぎゅっとしようとしたのが男としての本能なら、それをぐっと堪えたのは男の矜持だろう。気持ち悪く眩暈がするのは事実だが女の子の背中に吐くのを我慢できない程ではない。

 

「何とか。男の尊厳は保てそうです」

「残念。弱々しいお兄様も見てみたかったんだけど、それは次の楽しみにしておくね?」

 

 くすりと小さく蒲公英は笑う。小悪魔という表現が相応しい。悪戯好きのする、それでも愛嬌のある笑みだ。その笑みに見とれている一刀を他所に、馬は徐々にスピ―ドを落としていく。人間にとっての強行軍は馬にとっても強行軍だ。荒い息を吐く馬からは湯気が立ち上っている。ご苦労さま、と馬の頭を撫でた蒲公英が先に降り、一刀はその手を借りて久方ぶりの地面を味わった。体勢を崩さずにいれたのは男の矜持だろう。

 

「到着。ご同乗ありがとうだねお兄様。汗臭くてごめんね?」

「汗臭いなんて……」

 

 現代ではほぼ毎日風呂に入っていたものだが、こちらの世界ではそれもままならない。遠出をしている時には湯で身体を拭くこともままならない日が続くこともある。野盗あがりのおっさん集団の中ではその傾向も顕著で、特に酷い時には軍師たちが近寄ろうともしないような有様となっている。

 

 そんな地獄の汗臭さに比べると馬岱のそれは天国と言えた。同じ汗なのにどうしてここまで違うのだろう。これなら別にずっと嗅いでいても構わない。というのが顔に出ていたのか、馬岱ははにかむように微笑むと身体を寄せてきた。

 

「お兄様の、へ・ん・た・い」

 

 耳元で囁くような馬岱の声。小柄な身体に抱き着かれて胸を押し付けられ、思わず身体が熱くなる。馬岱だけでなく一刀も大汗をかいている。馬岱の顔は真っ赤だ。うるんだ瞳と流れる汗を至近距離で見た一刀は、強行軍直後の疲労感もあって強い眩暈を覚えた。場所が場所ならそのまま押し倒していたかもしれない。それくらいに今の馬岱は魅力的に見えた。

 

 煩悩と戦う一刀の耳に、遠くから孫堅の怒鳴り声が聞こえた。一刀にとっては救いの声である。早馬がやってくるのは解っていたろうから人を集めて直行してきたのだろう。その近くには孫策や黄蓋の姿もあり、何故か曹操もいた。

 

 孫堅たちの姿を見た馬岱は残念、と小さく呟いて一刀から離れた。去って行く途中、笑みを浮かべてひらひらと手を振ってくる。美少女は何をしても絵になるのだな、と身体に溜まった諸々を追い出すように、一刀は溜息を吐いた。

 

 連合軍陣地と汜水関。馬岱と顔を合わせたのは数える程しかない。出会ったばかりの美少女が自分に強い好意を持っている。そう勘違いしてしまえる程、北郷一刀というのはおめでたい頭をしてはいない。

 

 馬岱であれば地元では良縁にも恵まれているだろう。出先で男をひっかけなければならないような立場の人間ではないのだ。遊びのつもりなのか誰にでもああなのか知れないが、少なくとも本気ではなかろうと思える以上、浮かれてばかりもいられない。熱い吐息と柔らかな身体の感触は記憶の奥底に封印するとして、さて仕事だと気持ちを切り替える。

 

「お呼びに従い参上しました! 急ぎのようですが――」

「走れ!」

 

 馬に乗っているだけでも体力を食うのだ。正直走るような体力は残っていなかったのだが、走れと言われて走らない訳にもいかない。疲れた身体に鞭を打って走り孫堅の所までたどり着いた。

 

 それで何か事情でも説明してくれるのかと思ったら、左右の腕を孫策と黄蓋に捕まれそのままズルズルと引きずられ、停められていた馬車に放り込まれた。後に孫堅、曹操が乗るのを待ち、馬車は洛陽に向けて発車する。

 

 放り込まれた状態から居住まいを正す。対面の席には孫堅と曹操が座っている。引きずってきた孫策と黄蓋は馬車の外を馬での移動である。眼前の孫堅と外の孫策黄蓋はともかく、ここに曹操がいる事情が見えてこない。

 

 そしてそのどちらも非常に微妙な表情をしている。高ぶった感情を処理しつつも、表情には困惑が見て取れる。傑物と名高い二人が揃ってそうなのだ。自分が想像しているよりも遥かに複雑なことが起こっていると予感した一刀は、緊張した面持ちで問うた。

 

「事情をお聞きしても」

「俺の方が聞きたい。だが、何が起こったのか、お前が何をしなければならんのかは簡単に説明ができる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「皇帝陛下のお召しだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「呂布を一騎打ちにて退けた北郷某とやらを、直接見てみたいのだそうだ。明日、正装の上で参内しろ。言っておくが今日は寝られると思うなよ? 覚えておかなきゃならんことは山ほどあるからな」

 

 

 

 

 

 



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第044話 反菫卓連合軍 洛陽戦後処理編②

 

 

 

 

 

 

 及川という友人がいた。目の細い関西弁を話す愉快な男で、こちらの世界に来る前ならば一番の友達と言っても良かっただろう。

 

 その友人が教室で力説していたことがある。

 

『かずたん! これからは異世界転移の時代や。チート能力もらってラクチンにモテモテなんやで!』

 

 顔の広い及川の趣味は多岐に渡り、何でも広く浅くという感じだった。スポーツに凝っていたこともあればオシャレに凝っていたこともある。その成果として女性にモテるということはなかったように思うがそれはともかく。こちらに来る直前、及川はネット小説にハマっていたはずで、文筆家になれるというやたら強気な名前の小説投稿サイトを行きつけにしていた。

 

 その小説投稿サイトで『異世界転移』なるジャンルが流行っているという彼の話を、実際に異世界転移を経験してみてから何度も思い返したものである。及川の話は全部ではないが一部は本当だったと。

 

 確かに女の子との出会いはあった。フランチェスカにも美少女はいたが、共学とは名ばかりの元女子高であったため、近くにいても接点はなかった。モテモテかは自信がないが確かに異性運は上向いていると言えるだろう。美少女と一緒に馬に乗って二人で汗だくになったばっかりだぜと自慢したら、及川はきっと泣いて悔しがるに違いない。

 

 そしてラクチンかと言えば……断じてラクチンではないと言える。チート能力はまだ目覚めていないだけと期待するのもとっくの昔にきっぱり止めた。何で学校でもっとまじめに勉強しておかなかったんだと後悔しない日がないくらい日々勉強漬けだし、年齢的にはまだ学生の時分のはずなのに朝から晩まで働いて剣の訓練までしている。

 

 訓練の当然の成果として、自分で武器を振るって自分の意思で人も殺した。参加した大規模な戦争はついこの間終わったばかりだ。

 

 ラクチンではない生活の中、ふと周囲が静かになった時にあちらの日々を懐かしく思うのも事実だ。気心の知れた及川とバカな話をまたしたいと思うこともある。ユーハバッハは本当に倒せたのか。鬼滅の刃打ち切られたりしてないか。お前が言ってた馬が女の子になるとかいうゲームはそろそろ出たのか。

 

 しかし、思いを馳せることはあれど不思議と帰りたいとは思わないのだ。苦労はしている。泣きたくなることもある。それでも、今の生活は短い人生の中でも最も充実していたし、自分にしかできないことがあるというのなら、やり遂げてみたいとも思っている。

 

 この感情を野心と呼ぶには幼い気もする。目の前にその塊とも言える人間がいるのならば猶更だ。

 

 過去に思いを馳せ終わり、同時に現実逃避も終わると、恐ろしく整った少女の顔が目の前にあることを嫌でも意識せざるを得なくなる。金色の髪に青い瞳。小柄ではあるが覇王としての威圧感を持った少女、曹操が一刀の顔を掴んでじっと見つめている。

 

 皇帝陛下に召しだされ、謁見することになっているその当日。会場に向かうまでの馬車の中である。服の着こなし謁見の際の作法、何かとちった時のフォローの仕方までありとあらゆるモノを徹夜で教え込まれ、眠気と戦いながらの道程である。

 

 今の連合軍陣営では唯一の皇帝陛下に謁見したことがある人材ということで、曹操が最後のアドバイザーとして残り、こうして同じ馬車に揺られているという訳だ。知らない仲ではないが顔を合わせれば話が弾むというほど仲良しでもない。

 

 話をするにも話題を探さねばならないほど、一刀は曹操のことを知らなかった。共通の話題と言えば荀彧のことであるが、女の経験がない一刀でも荀彧と曹操がただならぬ仲であるということは察しがついている。

 

 荀彧のことはかけがえのない友人と思っている一刀だったが、何でもかんでも知りたいと思っている訳ではない。女の友人の下の話なんて聞きたくもないし、もし聞いたと知られたら怒り狂った荀彧が殺しに来かねない。

 

 荀彧の話を封じられると曹操相手には手も足も出ないのだが、顔を掴まれ無言で見つめられては共通の話題も何もない。顔を合わせたことはあるが、曹操という少女は別に友人でもないのだ。こういうことをされる理由に皆目見当がつかない一刀としては、ただされるがままにされるか、現実逃避をするより他はないのだった。

 

「解せないわね」

「なにが、でございましょうか」

「桂花が貴方に執着する理由よ。まさか顔が好みかと思ってこうして眺めてみたけれど、どう贔屓目に見ても上の下ね。まぁ、この辺りまで来れば好き好きなのでしょうけど、あの娘が理由にする程ではないと言い切れる」

 

 あの曹操でもオブラートに包んだ言い方をするのかと内心で感心しつつ、面と向かってブ男と言われなかったことに安堵する。自分がイケメンだとは口が裂けても言わない一刀だが、女性からの評価というのはやはり気になるのだ。

 

「自己分析するに、足を踏ん張って目の前に立っているのが物珍しいんじゃないかと思います。荀彧殿のご母堂様から聞いた所によれば、荀彧殿の周囲はご実家の家人でさえ男性を遠ざけているとのことですので」

 

 お世話をしていたのは基本的には功淑一人であったし、一刀本人は荀家の家人と交流はあったが、思い返してみれば荀彧と一緒にいる時に男性の家人の顔を見た記憶がほとんどない。男性の家人がいないという訳ではなく、家人の方が荀彧の視界にさえ入らないように気を使っているのである。

 

 見上げた心遣いであるが、同じ男性としては何もそこまでと思わなくもない。そういう環境の中で、視界に入ることを許されていた自分は荀彧の内心がどうであれ、少なくともその他大勢よりは距離感が近かったのだろうと思う。

 

「うちでも似たようなものだけれど、その自己分析はハズレだと思うわ。あの桂花が口答えをする案山子に価値を見出すとは思えないもの」

「言われてみるとそんな気がします」

「でしょう?」

「では、荀彧殿は一体何を考えておいでなのでしょう」

 

 友達が何故自分と友達でいてくれるのか。今までの人生で一度も考えたことのない事柄であるが、およそ友人と呼べる人間の中で荀彧は間違いなくとびっきりの曲者である。言われてみれば何故という疑問は、一刀の中で渦巻くようになった。眼前の曹操がその答えを知っているのでは。ぶら下げられた答えにあっさりと飛びついた一刀に、曹操は嗜虐心に満ちた笑みを浮かべて答えた。

 

「さあね。お気に入りのお気に入りに助言してやる義理はなくってよ」

「もっともなお話です」

 

 曹操の立場であればどう考えた所で面白くはなかろうと一刀は追及を諦めた。元より解らなかった荀彧のことなのだから現状維持である。諦めも早い。

 

「それが長続きの秘訣かもしれないわね」

「なにか?」

「なにも。さて、北郷一刀。そろそろ目的地に到着という訳だけれど、私たちの注意は覚えていて?」

「余計なことを言わない。余計なことをしない。対応に困った時は、何も言わず何もせずにその場で待つ」

「よろしい。完璧な作法が望むべくもない以上、それが最善の方法よ。彼を知り己を知れば――」

「百戦危うからず。己の不甲斐なさを恥じ入るばかりです。ご指導ありがとうございました」

「恩はいずれ返してもらうから結構よ」

「曹操殿とは良い関係でいたいものです」

「私もよ。さて、ついたわね」

 

 気づけば馬車は止まっていた。身なりを整え立ち上がる一刀を、曹操は座ったまま含みのある笑みで手を振っている。

 

「拝謁の栄誉を賜った成人男性が、女の保護者同伴では沽券に関わるもの。私が同行できるのはここまで。ここからは一人で行きなさい」

「ここまでありがとうございました」

「武運を祈るわ。しっかりね」

 

やたら含みのある笑顔の曹操に意外に優しい言葉に見送られ、馬車を降りる。その馬車が見えなくなるまで見送った後、うんざりするほど大きく広い宮殿を前に、一刀は一度大きく息を吸い、そして吐いた。

 

 怖い物がないと孫呉に合流してから良く言われる一刀であるが、英傑などと呼ばれる人種でないことは本人が良く理解している。ただの一般人である所の北郷一刀は緊張もすれば恐れもする。自分の肩に自分についてくる人間の人生がかかっているという思いに突き動かされているだけなのだ。失敗よりも自分の死よりもある意味恐ろしいものが、緊張も恐れも凌駕しているだけなのだ。

 

 そんな一般人は、周囲に仲間がいないと自分がただの一般人であることを思い出してしまう。うんざりするほど大きな宮殿に、痛いほどの沈黙。自分が酷く場違いで異様な異世界に放り出されたのではないかと、今更ながらに自覚する。

 

 自分はただの高校生だ。こんな所にいるような人間ではないし、大それた身分でもない。いままでのことは全て夢で、目を閉じて、起きたら、またいつもの生活が始まるんじゃないか。きりきり痛む胃と、尋常でない冷や汗。傍を通る風が一刀の身体を撫ぜるとあの呂布の一撃からもこの身を守ってくれた、友人からの贈り物である腰の剣の重さが自分が何者であるのかと自覚させた。

 

 胃の痛みも汗もそのままに、ゆっくりと今の自分が何者であるのかが身体に浸透していく。

 

 北郷一刀。自分の名前と、自分についてきてくれている仲間たちの顔を順繰りに思い出すと、緊張は収まり怖いものはなくなっていた。彼女ら彼らの代表なのだ。惨めな思いはさせないと言ったその口で、弱音を吐くことなどあってはならない。

 

 案内人の声に、その後について宮殿を歩いて行く。

 

 洛陽はこの国の大都市の一つであり、今は大火のこともあり城下は良くも悪くもにぎわっている。ここに来るまでの馬車でも喧噪の中を走ったものだが、その喧噪も遠く、宮殿の中は静寂に満ちていた。剣の立てる音は元より、衣擦れの音さえ耳に大きく聞こえる。

 

 今まで訪れたどの場所とも違う異質な空間。ここに皇帝がおり、それが自分を呼んでいるのだと思うと、今更ながら酷い違和感に襲われる。勘違いもここに極まれりだが、それを現実にしてしまえるのが皇帝という人物であり、権威である。

 

 一刀に逆らうという選択肢など存在しない。無難にやり過ごすことが最善であるが、呂布を撃退したという虚名くらいは受け入れることになるかもしれない。酷く据わりが悪くても名前を売る機会だと思えば悪い気はしないでもない。

 

 そもそも、本人を呼んだ所で事実が変わる訳ではないし、現実がお話よりも面白くないということは往々にしてある。

 

 曹操から魂に刻まれるのではというくらいに聞かされた手順では、皇帝に拝謁する際の手順は二通り。ざっくり言えば控室などで待たされてから入るか、直行するかである。ほとんどのケースは待たされるそうだ。理由は実務上の問題で、その方が対応を調整しやすいからだが、面会をする人間が少ないのであれば、調整も何も必要ない。

 

 できれば仕事を早く片付けたいという気持ちに、身分の上下は関係ない。今回の拝謁は完全に皇帝の私事であり、公務としての向きはない。皇帝の意向即ち公務であると言えなくもないが、皇帝が態々人を呼んで話を聞くというのは、戯れの向きの方が近いだろう。

 

 ならば素通しされるのではないか。拝謁する前に一息入れたいというのが一刀の本音だったが、念ずれば通じないのが世の中というもの。案内の人間は広い廊下を行き、一刀を謁見のための広間の前に立たせた。案内の人間に銀木犀を預け、大扉を前に一刀は溜息を吐く。

 

「どうぞ」

 

 気持ちが整うのを待っていたらしい案内の人間が、来場を告げる。ゆっくりと、謁見の大扉が開いて行く。広間に入るのは、扉が開き切って、さらに少し間を空けてからだ。背筋を伸ばし、視線を下げずに堂々と歩く。

 

 徹夜で孫堅にブッ叩かれながら練習しただけあって、とりあえずの合格はもらえた歩き方である。曹操からは何で普段から練習しておかないんだと小言をもらったものだが、そんな辛口の彼女も孫堅の合格には同意してくれた。二人の目から見ても、最低限のラインには達しているらしい。

 

 だからと言って何も不安がない訳ではない。一刀の所作は箸にも棒にもひっかからないというレベルでないというだけで、見る人間が見れば付け焼刃というのは解るものだ。それを乗り切るためにどうすれば良いのか。クソ度胸だ、と孫堅は言い切った。

 

 得意技だろう? とにやりと笑って送り出した孫堅の意思には、報いねばならない。

 

 軍人が、ただ行進するだけのことに膨大な時間を訓練に費やすのが良く解る。一人で歩くのでさえこれなのだから、更に大人数で揃えるとなると大仕事になるのも頷けた。

 

 広間の中央。何段も高くなった場所に皇帝の席が用意されている。御簾で囲まれており玉座の形さえ見えないが、その手前で一刀は止まり、膝をついた。そこが曹操たちに説明された所定の位置である。一刀が跪いてしばらく、

 

「皇帝陛下の御成りである」

 

 司会進行の役目である段の麓にいる女の声に、一刀は更に頭を低くする。視線を上げて罰せられることはあっても、低くしていて怒られることはない。対応に困ったら頭を下げろというのが孫堅からのアドバイスだ。間違っても視線を上げないよう、床とにらめっこをする一刀の耳に、小さな足音が届く。

 

「面をあげよ」

 

 司会進行の声に、一刀は跪いたまま顔を上げた。御簾の向こうの人影を見通すことはできないが、御簾の脇に二人、女が立っているのが見えた。武器も持っていなければ鎧を始め防具を身に着けてもいないが、この二人が指一本でも自分を殺せる存在であると、一刀は見ただけで解った。流石に皇帝の警護である。

 

 跪いたまま次の言葉を待つ一刀に、司会進行の女が寄ってくる。早速何か粗相でもしてしまったのだろうか。怯えつつちらと視線を向ける。

 

 紫色のアンダーフレームの眼鏡の奥に、碧色の瞳が見える。胸元の大きく開いた装束の左肩の肩当が辛うじて武人であるという特徴を示しているが、理知的な風貌は頭の回転の速さを思わせる。二十の後半くらいの年齢だろうか。母校で数学の教師でもしていそうな風貌にどことなく親近感を覚えていると、

 

「陛下は直答を許すとの仰せである」

 

 早速完全に予定外の言葉が降ってきた。

 

 今回のようなケースでは、皇帝が直接言葉をかけることはない。その言葉はそのために用意された人間が代わりに伝えにくる。予め定型文を作っておき、皇帝はその場にいるだけということもあるそうだが、とにかく会話はしないために、進行に時間がかかるというのが曹操の教えだったのだが。

 

 単にまどろっこしいというのであれば一刀にも気持ちは解るが、それがそこそこにあることであれば、曹操からも何か一言あってもよさそうなものだ。

 

 そう考えて曹操の顔を思い浮かべる。あれは何というか、他人の苦しむ姿を見て悦に入るタイプの人間だ。勿論、良い意味であり、相手が何とかできる範囲でという言葉はつくが、その客観的な信頼は嗜虐心と表裏一体である。話したのは少ない時間であるが、あえて黙っているくらいは曹操ならばやりそうだ、という嫌な信頼が一刀の中で既にできあがっていた。

 

 階段を足音を立てずにゆっくりと上る。御簾の前で立ち止まると、改めて一刀は膝をついた。嗅いだこともないような香の匂い。御簾の向こうに玉座の影は見えない。ぼんやりとした皇帝の気配を感じながら、一刀は声をかけられるのをただ只管待った。

 

「小さいな。あの呂布を退けたというから、見上げるような巨漢であると思ったが」

 

 鈴を転がすような少女の声である。女性、おそらく十代という情報はあったが、正確な年齢は曹操でも知らないとのことだった。帝位につくまでの情報がなく、ともすれば十にも届かない可能性さえあると。御簾の向こうの姿は小柄に見えるが、現時点での印象としては朱里や雛里よりも少し下といった所だろう。現代に合わせて考えるならば、小学生か中学生か迷うくらいの辺りである。

 

「ご期待に沿えず申し訳ありません。呂布のことにつきましても、仲間との共闘の結果でありますれば、私一人の功績ではございません」

「まあ、そんな所であろうな。現実というのはなんともつまらぬものよ」

 

 当事者としては同意されるのもそれはそれで凹むのであるが、それは高望みというものだ。ともあれここで『我が剣を受けてみよ』をやれと命令されるという最悪の事態は回避できた。

 

「だが朕の立場では風聞というのも無視はできぬ。今洛陽はお前の講談で持ち切りという。そんなお前に何もやらぬとなっては、朕の沽券にも関わるのでな。協議の上、その名声に相応の褒美をくれてやる故、楽しみにしておれ」

「もったいないお言葉にございます。ありがたく拝領いたします」

 

 くれるというものを、しかも皇帝陛下その人が言っているのに断るという選択肢は存在しない。平身低頭、一刀は二つ返事で受け取る旨の言葉を返したが、名声が今の自分にとって過分な以上、それに相応する褒美というのがどの程度の物になるのか怖くて想像もできない。

 

「時に北郷、お前は洛陽にきたことはあるか?」

「二年ほど前に一度。知人の邸宅に一週間ほど滞在しました」

「ここは良い街である。知人はその者以外にもおろう。いつまでおるのか知らんが、滞在を楽しむと良い」

 

 ふむ、と一刀は違和感を覚えた。マナーを仕込まれながらある程度の想定問答はした。定番の世間話から先の戦の話。武勇伝を聞かされる可能性は割と高めであったため、講談の一つを覚えるまでしたのだが、今聞かされている内容は曹操も孫堅も想定していないものだった。

 

 何より、これを言うために呼び出したのではという気さえする。そんな気がしてくると、皇帝の声がどこかで聞いたことがあるような気さえしてきたのだが、緊張と胸の動悸で記憶が上手く引っ張り出せない。

 

「仔細は追って知らせる。大儀であった」

 

 言うが早いか。皇帝は誰の言葉も待たずにさっさと退出した。どっと疲労が押し寄せるが時間にして10分も経っていない。聞きたいことがあったから呼び出した。聞きたいことは聞けたから話を終わりにした。皇帝の立場からすればそんな所なのだろう。

 

 呼び出された小市民としては堪ったものではないが、大過なく過ごせたのであれば御の字だ。徹夜で作法を仕込まれた甲斐もあったというもの。きっと今日は枕を高くして眠れることだろう。

 

 さて、と一息吐いた一刀は、退出して良しという眼鏡女の言葉に一礼し、そそくさと広間を退出する。そのまま、誰にも話しかけられないようにできる限り早足で出口まで進む。

 

 幸い、誰にも話しかけられないまま宮殿を後にすることができた。深々と、深々と一息吐きどっと出てきた汗を袖で拭う。今まで触れたこともないような滑らかな服の感触に冷静さではなく落ち着きのなさを取り戻すも、周囲に自分の関係者が一人もいないことに気づいた一刀は、一回りして冷静になった。

 

 

「どこに、どうやって帰れば良いんだ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸い、通りを二本も越えれば人通りも多くなるという守衛の言葉を頼りにそこまで歩き、馬車を拾って孫呉の本陣に向かった。出火騒ぎにより洛陽正門付近は被害を受けた訳だが、その復興作業に連合軍の一部は尽力している。どの勢力も復興班が洛陽の中に本陣を敷き、残りの軍が外に本陣を敷いている。

 

 一刀が向かっているのは中の本陣であり、そこでは郭嘉が復興班の指揮を取っているという。

 元々の孫呉の軍団は帝室他、関係各位と話をまとめるので忙しいのだそうだ。袁紹がいなくなったこと、それに呼応して公孫賛が連合軍を離脱してしまったことにより、論功行賞の調整が難しくなっているのだという。

 

 董卓一派が洛陽を離れたことによる、空いたポストの調整もしなければならない。本来の帝室のあるべき姿に戻ったとも言えるだろう。これでこれから平和な時代が来るのであれば、ここ洛陽に腰を据えても良いのだが、戦乱の時代は既に始まっている。

 

 面倒な調整などさっさと終えて、本国に戻って戦の準備をしたいというのが本音なのだ。時間に余裕があるのは去就が軍団に依存しない一刀や、関羽団くらいのものである。

 

 そう言えば関羽はどこにいるのだろう。ぼんやり考えながら孫呉の本陣で馬車を降りると見知った顔が駆け寄ってきた。

 

「団長。お疲れさまです」

「お疲れ。復興作業はどう?」

「順調でさ。街の連中とも連携が上手くいってまして。想定よりも早く終わりそうだと程先生がおっしゃってました」

「そりゃ何よりだ」

 

 応答している男は一刀団の一人であり、厳密には程立の部下である。戦闘集団として見た場合、例えば今回の戦のような時、団に所属する兵は全員一刀ないし梨晏やシャンの指揮下に入るのだが、それ以外の時は個別に誰かの指揮下に入ることになっている。

 

 ほとんどは一刀と梨晏、シャンの指揮下に入るのであるが、人数にして約二十人が程立の直属として活動している。一刀が団員全員に読み書き計算を覚えさせることに拘ったように、集団が膨れ上がってきた時、先々を見据えた程立が拘ったことがあった。

 

 土木工事の専門集団を作りたいというのだ。

 

 そもそも兵や将というのはこの時代に限らず陣地設営の専門家である。何しろ設営する本人なのだから、専門にもなろうと言うものだ。築城などに駆り出されるのも現地の人足を除いては兵が中心になるので、土木工事の専門家とも言える。

 

 実際の手順や器用さというのは兵をやっていれば自然と磨かれていくものであるが、程立が求めたのはもっと先――もっと大がかりな街道やら城塞やらの設計は元より、それを作成する際の指揮。翻って、それらを破壊するエキスパートを育成したいというものだった。

 

 反対する理由はなかったし、何より自分よりもずっと賢い人間が先々のことを見据えてと理詰めでこられては、賛成するより他はない。できることが増えるというのは一刀にとっても嬉しいことだし、仲間が手に職を持つというのも好ましいことだった。

 

 そういった事情もあって、一刀の直属に盗賊稼業のエキスパートが集まったように程立の部下には元大工やらの見込みのある人間が集められ、専門知識を詰め込まれるようになった。虎牢関攻めの際には戦闘にも参加したが、孫呉軍が虎牢関を離れ洛陽を攻める際、程立の直属兼、何かあった時の虎牢関への連絡係として程立についていって現在に至るという訳である。

 

 たまたまついていった連中が土木工事の専門家というのは、復興作業をするには幸いだったと言える。

 

「軍師先生たちは中か?」

「ええ。いや、団長に客が来てましてね。軍師先生方は皆さんでその応対をしてるとこです」

「客? 俺に?」

 

 この地で自分を名指しにというのも解せないが、今日この日にというのもさらに解せない。

連合軍の面々ならば今日呼び出されたことは知っているだろうし、彼女らの話では呼び出されたこと自体洛陽中で噂になっているとのこと。

 

 ならば洛陽にいる数名の知人友人もそれは知っているだろう。だが呼び出された当日に、しかも帰ってくるのを待っているなど考えにくい。

 

 何にしても、孫呉の陣地にまで来るのだからそれなりに緊急の用件なのだろうと察するが、そこまで急ぎの案件が持ち込まれそうなことに、一刀は心当たりがない。

 

「いやー、団長は女の趣味が広いと思ってやしたが、俺の理解は浅かったようで驚きやした」

「客は女の人か。趣味とか言われると遊んでるように思われるけど、男としては普通に可愛い子は好きだよ」

 

 冗談を返すとそれでこそ我らが団長と畏まる工兵に挨拶すると、本陣の中を進んでいく。本陣と言ってもそれほど広くはない。ガレキをどけた中に幕舎を作り、無事な家屋を本営としている程度で、外の本陣に比べると常駐の復旧作業員しかいない中の本陣は大分狭い。中央に近い場所から復旧が進んでいるため、正門に近いこの辺りはガレキの一時置き場と化しているのだ。

 

 扉の前に立って呼吸を整える。中で会話でもしているかと聞き耳を立ててみるが、本当に人がいるのかというくらいに静まり返っている。一度本当にこの部屋かと戻って確かめてみるが他の部屋は全て扉が開いていて、見知った顔しかいなかった。消去法的にここで間違いはない。

 

 客って誰だという疑問が燻る中、意を決して扉を開けた一刀が最初に見たのは、椅子に座る猫耳の頭巾と、それを囲む三人の軍師たちだった。

 

「ああ、客は荀彧か。いらっしゃい」

 

 喜色に富んだ一刀の言葉に、軍師たちの機嫌が急降下する。軍師の中で最も気持ちがブレた女、荀彧は椅子から立ち上がると、一刀を頭の先から足の先まで眺め、

 

「…………流石に華琳様が手配しただけあるわね。下の下の下が下の下の中くらいにはなって見えるわ」

「褒めてくれてありがとう。今時分直接来るってことはそれなりに急用なんだろ? 何があった?」

「実家のお母さまから今日早朝に『絶対にあんたにも伝えろ』って連絡が来たから仕方なく来たわ」

 

 うんざりした様子で持っていた木簡を一刀の胸に押し付ける。用件はそれだけだと、居並んだ全員の返事も待たずに荀彧は踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「橙花――荀攸が一年程前から行方不明だそうよ。洛陽があんな状態だったから人を入れられなかったそうだけど、連合軍が開放したからこれから人を寄越すって」

 

「詳しいことはそれに書いてあるわ。洛陽のどこかにいる見立てらしいから、復興作業の途中にでも探してちょうだい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




追記

拙作の一刀は改訂版第一話が投稿された日に恋姫世界にやってきたという体でお送りしております。


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第045話 反菫卓連合軍 洛陽戦後処理編③

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荀彧を見送り一息ついた頃、虎牢関から思春に送り出された面々が到着した。これで一刀団全員が揃ったことになる。差し当たっては全員で復興作業に当たることが前々から孫堅から言い渡されていたので、先に簡単な作業割り振りを行った後、主だった面々だけが招集された。

 

 程立の工兵部隊からはそのリーダーが。一刀の直属からは廖化がそれぞれ代表として参加している。その他の面々は復興作業だ。虎牢関から移動してきた面々も休む間もなく駆り出されているのだから、この時代の人間というのは働き者だなと思う一刀である。

 

「……梨晏は?」

 

 そんな中、集まったメンバーの中に梨晏の姿がなかった。いつもなら集合時間の十分前にはいるような娘である。何かあったのかと首を傾げる一刀に、シャンが答えた。

 

「孫策様に話があるって呼ばれてた。少し遅れるって」

「じゃあ少し待つか――」

「ごめん! 遅れちゃった!」

 

 飛び込んできた梨晏に、一刀は手を振って応える。開始に間に合ったのだからそれ以上言うこともない。ともあれこれで全員集合である。さて会議を始めるかと切り出そうとした矢先、

 

「団長、今晩時間取ってもらえる? ちょっと大事な話があるんだ」

「いいよ。座学が終わってからになるから少し遅い時間になるけど」

「全然待つよ。あ、話切っちゃってごめんね」

「いいさ。さて、始めよう」

 

 一刀の号令で、司会進行である郭嘉が一刀団が分断されてからの状況報告を始める。戦況の推移については虎牢関で聞いていたのと大して変わりはないのでかいつまんでの説明であり、多くは復興作業の分担と諸侯の軍の受け持ち場所の解説になる。

 

「我々は特に南西部の受け持ちになります」

 

 細かい解説をするのは程立の工兵部隊の責任者である。復興作業の分担は軍別に行われており、一刀団の割り当てられた南西部は洛陽正門側一辺の左端になる。その隣に孫呉軍が割り当てられ、その隣が袁術軍、曹操軍といった具合である。

 

「ガレキの撤去から始まり資材の手配、搬入を行い、地元の大工と協力して家屋の建て直しを急ぎ進めています。建て直しにはこちらからも人を出していますが、地元の大工の人数が十分にあることから、ガレキの撤去運搬が主な仕事と言って良いでしょう」

「どこの軍も身銭を切って洛陽の民を復興作業に雇用しているようで、中でも孫呉軍は払いが良いということで、人が集まっているのですよ~」

 

 人足一人一日いくらと、この時代の雇用条件が現代に比べると非常にざっくりとしたものであるが、それだけに各陣営の比較がしやすく、人の集まりには大きく差が出ることになる。こういう時に出し渋るとロクなことにならないことはどの軍団も知っていることなのだろうが、それでも差が出るというのは率いる人間の感性の差なのだろう。人のために金を使うことについて、やはり孫堅は非常に思い切りが良い。

 

「それから団長から指示のあった件ですが」

「……風はそんな話聞いてませんが」

 

 間延びの全くない平坦な声に、彼女の部下はびしっと姿勢を正した。仕事の指示はともかく口調だけは緩い程立がいきなりこうなれば恐怖も抱こうというものである。怖い教師を前にした小学生のような姿に苦笑をしつつ、一刀はフォローをする。

 

「指示ってほど具体的なものでもないよ、多分。井戸さらいのことだろ?」

「はい。団長が以前から仰っていた『洛陽で土木作業をする時には井戸さらいをなるべく優先してくれ』を思い出しまして、人員の許す限り率先して作業を行いました。ガレキの撤去に通ずるものもありましたので特に作業に不具合があることもなく。検査した井戸の数が五十二に対し、使用不能になっていたものが十。そのうち屋根などが崩れて埋まっていたものが八、残りの二つには死体がありました」

 

 ふむ、と一刀は小さく頷く。井戸に人が落ちるという事故はこの時代それほど珍しいものでもない。火事などの有事の際であれば猶更よくあることだ。事実、この報告を聞いた郭嘉たちは特に驚いた風でもなかったが、一刀は違った。

 

 そこまで期待をしていた訳ではない。同じことが必ず起こると確定している訳でもないのだ。彼らに話をしたのも非常に軽い気持ちでのことだったのだが、

 

「片方の死体は近隣の住民の一人でした。見つけた際に面通しを行い既に身元も判明しており、死体も引き渡しました。葬式はあちらで出すそうです」

「いくらか香典を出しておいてくれ。それで、もう一人の方は?」

「身元については不明です。庶民ではないようですがそれだけですね。三十代、男性、どちらかと言えば富裕層。解っているのはこの程度です。持ち物については短刀、財布と、あとはこれが油紙に包まれて懐の巾着に入っていました。巾着はひどい有様だったので別のに入れ替えましたが、死体と一緒に保存してあります」

「開けてみた?」

「いいえ。最初に団長がたに確認していただくつもりでおりました。死体を検めたのは私と部下四人なので、これを知っているのは我々のみです。部下にもきつく外には漏らすなと申し付けておきました」

「ありがとう、助かったよ」

「お兄さん。風に内緒で何をしてたんですか?」

「井戸さらいをすると良いことがあるって俺の地元では良く言われたんだ。それで洛陽でもやってもらったんだけど、本当に良いことがあったみたいで俺も今驚いてる」

「中身が何かは、一刀殿も知らないのですか?」

「知らない。でも、多分すごく良いものだ。そうだな……それじゃあ、程立。中身を確認してもらえるかな?」

「お兄さんはめんどくさがりですね~」

 

 気軽にひょいと拾い上げた巾着を、程立は無遠慮に開放する。サプライズであるとしても、自分が驚くはずがないという自信が透けて見える態度に、いよいよ一刀は身構えた。そういう時の方が当たりを引く気がしてきたのだ。

 

 身体を気持ち反らして少しでも距離を取ろうとしている一刀を訝しむ周囲を他所に、程立の見分は進み、

 

「感触からして石、形からして印璽ですかね。ふむふむ、おお、翡翠製ですか。これは良いものな予感が――」

 

 中から出てきた『それ』に掘られた文言を見て、程立は絶句した。他の面々からはその文言は見えないが、程立の態度からただ事でないことは良く解る。やっぱりか……と思えたのはその場では一刀だけだった。一同が固唾をのんで見守る中、程立が口を開いたのはそれからしばらくしてのことだった。

 

「…………受命於天、既寿永昌。風にはこれが伝国璽に見えるんですが~。稟ちゃんはどう思いますか?」

「はあっ!?」

 

 郭嘉とて一刀の態度から何かあると身構えていたが、程立の口から出てきたのは予想外も予想外の言葉だった。程立から『それ』を受け取った郭嘉は、明かりに翳して見たり顔を近づけてみたりと様々な角度から眺めてみる。一通りの検分が終わると、郭嘉は神妙な面持ちでそれを円卓の上に置いた。

 

「風の言うように本物だと思います」

「根拠を話してもらえるかな」

「伝え聞いている文言と同じものが彫られており、材質は翡翠で間違いありません。印章を似せるだけならもっと安価な素材を使うことでしょう。玉璽そのものの偽物を作ろうとしたというのも考えられないではありませんが……」

「帝室の景気が悪い今となっちゃあ、それほど旨味があるとは思えませんな。その大きさの翡翠で試行錯誤する必要があるってぇなら、同じ金を他のことに使った方が賢明かと」

「私も廖化と同じ意見です」

「つまり俺たちは当座、これを本物として扱わないといけない訳だけど、どうするのが良いと思う?」

「元の井戸に放り込むんじゃだめなんですかい? 厄介なもんは見なかったことにするのも一つの手ではありますぜ」

「流石に見なかったことにするのは惜しいかな、これは。できる限り有効に使ってできる限り美味しい目を見たいね」

 

 楽天的な意見を言ってみるが、使いどころが非常に難しいというのは一刀にも解る。RPGのアクセサリのように持っているだけで効果を発揮するのならまだしもだが、権威の象徴というのは持っているだけでは意味がない。持っていることを世に知らしめねばならない訳だが、物が物であるだけにそうもし難い。

 

 同様に帝室に関わる信用のおけるコネなどない一刀たちの立場では現金化もしにくい。それを売るなんてとんでもない、という代物だ。まともな神経をしている人間なら商おうとは思わないだろうし、商うにしてもお互いの口の堅さが心配になる。玉璽の正当な所有者は天子のみであり、それ以外の人間の所持は不当である。お上の耳に入れば一族郎党連座して酷い目に遭う。これはそういう代物だ。

 

 思い返してみれば、北郷一刀という人間は最終的には天下を差配する立場を目指しているのである。これを持っていることは将来の権威の前借をしていると考えられなくもないが、いくらなんでも早すぎるというのが一刀個人の考えだ。バレた時のリスクを負ってまで自分たちで所有するというのはナシである。

 

「元の持ち主に返すのは? 今のお兄ちゃんなら話も通るんじゃない?」

「今ここで話が大きくなり過ぎるのも困るんだよなぁ……」

 

 連合軍側では恩賞の話がまとまり、今は帝室の側で調整をしている所である。権威に実行力が伴っていない帝室であるが、建前上は領地というのは彼らから貰うものだ。連合軍での功はこういう順番になっているからそれに準ずる形で恩賞をくれと言った所で、具体的に誰に何をと決めるのは向こう側である。連合軍としては今は待ちの状況な訳で、これが決まらないと次にどのように動くかを決めることが難しい。

 

 皆早くどういう恩賞が配られるのかを知りたいと思っているところで、聞いた話では明日には正式な発表があるらしい。玉璽が本物ならば帝室も目を血眼にして探しているだろう。元の持ち主に返すということは、功績に上積みがあるということで、下手をすると全体の恩賞の発表が遅れかねない。

 

 後日別途に、という可能性もないではないが、あくまで恩賞を出すのは帝室の側なのだ。まとめて調整すると言い出されてしまうと、全体の日程に影響が出るし、さらにこの発見で取り分の割合に影響が出たと判断されたら、孫堅たちにも悪い。命がけで戦った恩賞が、運よく拾ったものに影響されて変更されたとなれば、どこの武将も良くは思わないだろう。

 

「ですが今言わないのなら、言う機会はもうないように思いますっ」

「見つけたのに何で隠してたって話になる訳だもんねー」

「作業自体は続いている訳ですから、発見を遅らせることもできますが……恩賞の発表は明日のようですし、その内容を聞いてから判断するというのはどうでしょう」

「郭嘉の案を採用する。このことは他言無用ということで」

『了解』

「さて、次の話だけどこれは俺から説明しよう」

 

 玉璽を郭嘉に預けた一刀は、虎牢関から合流した組に向けて先ほどあったことを説明する。荀彧から持ち込まれた話で、かつて洛陽に滞在した時に世話になった人が行方不明なのだという話だ。

 

「屋敷に人をやって確認したが、今も戻ってないそうだ。仕事に出た帰りに誘拐されたそうなんだけど、彼女の実家はまだ生存してると判断しているようで、捜索を俺に依頼してきた」

「その団長の現地妻ってのはどんなお人で?」

 

 瞬間、女性陣から刺すような視線が廖化に集中する。向けられた訳ではない一刀が思わずのけ反るような迫力にも、廖化は全く動じなかった。

 

「そういう関係じゃないよ。曹操軍の荀彧の縁者で荀攸さんという。さる高貴なお方の教師をしてる人で、まぁ、金持ちで立場もある人だ。董卓が洛陽に来る前、帝室は宦官一派と皇帝一派で分かれてたそうなんだけど、荀攸さんは皇帝派で家人は宦官派の仕業だと言ってる」

「宦官派って皆董卓にやられちゃったんじゃなかった?」

「そう。だからどこにいるんだと聞く相手がいない。生存してるのかも分からないし、してたとしてどこにいるのかも分からない」

「荀家は彼女は生存していて、洛陽にいると判断してるようですね~。まぁ妥当な所でしょう。殺すつもりなら誘拐しないで殺していたでしょうし」

「依頼した人が生きていると考えている以上、協力する俺たちもそれに沿って行動する。差し当たって洛陽にいるという前提で捜索の範囲をある程度絞りたいんだ。皆の意見を聞きたい」

「牢にはいなかったんだよね?」

「らしい。所在が明らかになっている国が管理する牢にはいなかった。宦官関係者の邸宅もかたっぱしから捜索したそうだけど、どこにもいなかったらしい」

「探すべき所を全て探して見つからなかったんじゃあ、牢を借りてるんじゃないかと思いますが」

「牢って借りられるんだな」

「金はかかりますがね。信用筋を間に何人か挟んで、依頼主もどこにいるのか知らない状態にしやす。奪還される可能性は低くなりますが、回収にも確認にも時間がかかる上、上の方の二三人がくたばっちまうと、関係者さえどこにいるのか解らなくなっちまうのが問題ですな」

「洗いざらい話したいのに何も知らないってのは地獄だな」

 

 自分たちの人生がかかっているのだ。手がかりを知っているのなら、負けた側の関係者は洗いざらい吐いているだろう。それでも見つかっていないのだから、その可能性が高いというのが廖化の話である。

 

「借牢っていうのはどういうとこにあるものなんだ?」

「人の出入り、物資の搬入が目立たない場所が良いですな。商家所有の倉庫や大衆食堂の地下ってのが定番です。受け手は自分が囲ってる人間がどこの誰かを詮索したりはしませんので、巷で話題になっていても気にも留めないでしょう」

「依頼料が払われている限りってことかな。待ってれば解放される?」

「先払いが原則ですんで期間内はそのままでしょう。追加の依頼がなけりゃあまぁ、女性ならそういう所に売り飛ばされるでしょうが、状況から見て日程にはまだ余裕がありそうだ」

「それは良いな。復興作業に聞き込みも追加しよう。洛陽在住の人足にできるだけ話を聞くようにしてくれ。人探しをしていると隠す必要はない。他所を巻き込んでも良い。できるだけ大々的にな」

 

 了解という皆の返事を聞いて、一刀は会議を打ち切った。足早に退出する廖化たちに続いて復興作業に参加しようと追随しようとした一刀の肩を郭嘉が掴んだ。

 

「今の貴殿の仕事は寝ることです。徹夜で作法を仕込まれたのでしょう? ゆっくり休んで英気を養ってください」

「皆働いてる時に俺だけ寝てるってのも……」

 

 郭嘉は小さく笑みを浮かべると、無言で奥の部屋を指さした。礼服から平服に着替える時に使った部屋で、仮眠用の寝台が置いてある部屋である。助けを求めて周囲を見ても、皆郭嘉の方に立っている。味方が一人もいないことを悟った一刀は観念して白旗をあげた。

 

「爆睡するかもしれないぞ」

「貴殿が必要な時には叩き起こしますのでご安心を」

「よろしくな」

 

 なるべく軽く聞こえるように念を押して、一刀は仮眠室に向かう。靴を脱ぎ、寝台に倒れこむと口答えしたのがウソのように眠気が襲ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「昨日の今日どころかさっきの今か。俺は自分の運が怖い」

「これも天運ってやつでしょうかね。団長の未来は明るいですな」

「これだけ話が早いなら、天とは上手くやっていけそうで嬉しいよ」

 

 復興作業に散った一刀団の面々から、怪しい場所を見つけたと起こされたのはそれから三時間ほどした後のことだった。まさかという思いで廖化に話を聞くと、件のものと思しき牢屋を見つけたのだという。

 

 眠気も吹き飛び走った一刀の目の前には二階建ての食堂がある。元は繁盛していたのだろう。一階は軽く百人は入れそうな広さで、二階には個室もある。高級寄りの大衆食堂といった風であるが、それだけに書き入れ時の今時分に人っ子一人いないというのは、言いようのない侘しさがあった。

 

「建物は無事に見えるけど避難でもしたのか?」

「この建物は無事でも周りがああですからねぇ……」

 

 眼前の建物は無事だが、大火が消し止められたのは二軒隣のことである。復興作業で人が入るのであれば営業するのも手であるが、視界に入る半分が廃墟となれば休業すると判断する気持ちは分かる。店主はそこそこに懐に余裕があるのだろうが、それが一刀たちにとっては幸運に繋がった。

 

「オチが読めたぞ。閉店してるはずの食堂に人が出入りしてたとか、そういうことか?」

「まさにその通りですな。人足の間でも噂になってまして、人をやって張り込んでいた所、見るからに怪しいやつがやってきたので、捕らえて締め上げやした。貴人の女性を一人、一年以上前から地下に捕えているそうで」

「これでハズレだったら天は俺のことが嫌いなんだと思うことにするよ」

「それなら大丈夫じゃない? 団長ほど天に愛されてる人、私は他に知らないよ」

 

 護衛としてついてきた梨晏がにこりとほほ笑む。小柄な美少女が、今は頼もしいことこの上ない。復興作業はまだ継続しているので、ここに来たのは一刀以下、梨晏を含めた十名ほどである。人員は全員一刀の専属であり、廖化を始め裏事に慣れた面々である。

 

 梨晏の指示で建物に散った廖化らは、慣れた様子で一階と二階をそれぞれ調査する。

 

「地下でも二階を調べるんだな」

「鍵は二階の物置に隠してあるって話でしたんでね」

 

 二階から戻ってきた廖化から鍵を受け取る。地下への扉は何と一階の中央、大きな絨毯の下に偽装されていた。板を外すと鍵穴が現れ、そこに鍵を差し込んで回すと取手が出てくる。二人がかりで気合を入れて扉を持ち上げると、地下への階段が現れた。人一人がやっと通れるほどの狭い階段である。

 

「お先。呼んだら来て」

 

 その階段に、梨晏は廖化ら三人と共に乗り込んで行く。食堂をぼんやりと眺めながら待つことしばし、地下から梨晏の呼ぶ声が聞こえた。身を屈めて降りると、そこは粗末だが広めのつくりの部屋だった。

 

 とは言え内装は簡素で奥へと続く鍵のかかった扉以外は、机と椅子が一つしかなく、その椅子には老婆が一人座っていた。一刀たちがぞろぞろ現れても動じた様子のないその老婆は、一刀が視線を向けると小さくほほ笑み、鍵を差し出してきた。

 

「よろしいので?」

「我々が請け負ったのは人質の保管であって、奪還の妨害までは報酬に含まれておりません。まして時の人、呂布を一騎打ちにて打ち破った方が相手ならば、言い訳もできましょう」

「人違いでは? 俺がそんな豪傑に見えますか?」

「豪傑には見えませんが、人違いではありませんよ。貴方は北郷一刀殿でしょう?」

 

 瞑目し、心底憂鬱そうな顔をする一刀に、梨晏が笑い声をあげた。老婆は机の上から紙を何枚か取り出すと、一刀に差し出す。

 

「私の甥が講談をやっておりましてね。貴方の話が今は一番受けるそうですよ。貴方と甘寧将軍の絵を並べて講談をすればもっと受けるに違いないと、孫堅軍の兵に聞き取りをして書き起こした人相書きを元に、等身大の絵を絵師に発注したと今朝知らせてくれました」

 

 老婆が差し出した紙はその人相書きなのだろう。全身図と顔のアップが見る方向を変えて何枚も、しかもかなり写実的に描かれている。多少美化されているが、知人が見れば本人だと一目で解るだろう。事実、肩から覗き込んだ梨晏が『すごい! そっくり!』と声をあげて感心していた。

 

「あまりお顔は晒さないようにするのをお勧めしますよ」

「ご忠告痛み入ります」

 

 人相書きを老婆に返し、鍵を梨晏に渡す。梨晏が先だって扉の前に立ち、それに廖化たちが続く。一刀はその後ろで、背後にはさらに部隊の人間がつく。扉に罠がないことを廖化が確認すると、梨晏が扉を開けた。

 

 扉の先には通路があり、その先にさらに同じ作りの扉があった。扉にも通路にも罠がないことを確認した梨晏と廖化が、一刀を促す。通路に足を踏み入れると、一刀は声を張り上げた。

 

「江東、孫堅殿の旗下、甘寧将軍の副将、北郷一刀です。そちらにおられるのは荀攸殿とお見受けしますが、如何に」

「皇帝陛下は、物乞いに何と?」

「とっとと失せろ!」

「あぁ、本当に北郷殿ですね。どうぞ、お越しになってください」

 

 今のなに? という顔をしている梨晏を他所に、一刀は通路を進み扉の鍵を開ける。

 

「ようこそ。お待ちしておりました」

 

 扉の先は、書で埋めつくされた部屋だった。紙の束、木簡、竹簡、ありとあらゆるものが乱雑に積まれ、文机の周辺には書き物がうず高く積まれている。囚人の部屋には見えないし、不遇をかこっているようにも見えない。

 

 座椅子に深く腰掛けるのは、友人荀彧の年上の姪御である。癖のある長い髪が色合いが同じこともあって荀彧を連想させるが、柔和な顔立ちは似ても似つかない。親類だけあって顔立ちは似ているはずなのに、受ける印象は全く違うのだから不思議である。

 

 荀彧ももっとこういう表情をすれば良いのにと思わないでもないが、考えてすぐに一刀は否定した。にこにこしている荀彧というのも、想像してみると何だが気味が悪い。眉を吊り上げて怒り、怒鳴り声をあげているのが荀彧らしいし、見ていて楽しい。

 

「情勢は把握しています。ご活躍だったようで」

「望外の名声に赤面する毎日ですよ」

「その名声で皇帝陛下にまで拝謁できたのですから良かったではありませんか。陛下は何と?」

「洛陽は良い街だ。知人は貴女以外にもいるのだろうから、滞在を楽しめと」

「…………拝謁は今朝の話ですか?」

「はい。昼前に拝謁し、戻って荀彧から貴女の話を聞き、それから知らせを受けてここに来ました」

「大変良い時に来てくださいました。長く有意義な休暇を楽しんでいましたが、残念なことにそれもお仕舞のようです」

「馬車を手配しましょう。まずは屋敷に戻られるのがよろしいかと」

「迷惑ついでに桂花――荀彧の方にも人をやってもらえませんか?」

「承りました」

「ありがとうございます。お礼は後日改めて。北郷殿が洛陽滞在の間には必ず」

「お気になさらず。まずは養生なさってください」

「お気遣いに感謝します」

 

 座椅子から立ち上がった荀攸の足取りはしっかりとしていた。一年以上ここに閉じ込められていたはずだが、そんな気配は立ち姿からは見られない。長く有意義な休暇というのは荀攸なりの強がりではなく、本当にそういう認識だったのだろう。

 

 老婆に挨拶をし階段を上ろうとした荀攸は、今思い出したというように振り返った。

 

「私は荀攸。字は公達。橙花の真名を、貴方に預けます。以後は橙花とお呼びください」

「では俺のことも一刀と」

「一刀……うん、一刀さん。良い響きです。ああ、今から楽しみです。あの娘は一体、どんな顔をするのかしら」

 

 去り際に見た橙花の顔に浮かんだ笑みは、荀彧が悪だくみをしている時の笑顔に良く似ていた。付き合いがあったのは一週間ほどだったが、初めて見る知り合いの顔に一刀は妙なときめきを覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 急遽予定が入って仮眠が打ち切られてしまったが、だからと言ってその時間が補填される訳ではない。諸々の手続きが終わって拠点に戻り、さて仮眠の続きをしようと仮眠室に向かおうとした一刀の肩を、郭嘉が掴む。

 

「夕食を取ったら座学の時間ですよ」

 

 眠い頭で果たして頭に入るものかと疑問に思うも、眠い頭にも内容を叩きこむのが良い教師というもので、郭嘉は凄く優秀な教師だった。これでもう少し優しければ生徒の一刀としても言うことはないのだが、一刀団の軍師は普段は気弱な雛里も含めて勉学に関しては妥協が全くない。

 

 疲れた頭に熱いお茶が染み入る。拠点は一刀団の宿舎としても使っているので、団長用の部屋で寛いでいた一刀は、そのまま寝台に飛び込みたくなるのを堪え、時間を潰していた。

 

 ほどなくして、扉がノックされる。どうぞと促すと、現れたのは梨晏だった。いつも明るく、笑みを絶やさない彼女が、いつになく神妙な顔をしている。深刻な話なのだろうということは、話があると言われた時に分かった。

 

 いつもの梨晏であれば、大抵の話は誰がいてもその場で言う。あけっぴろげな彼女が内密に、二人だけでというのだから、それだけ彼女にとっては深刻なのだ。

 

 そんな話を、急かすのも気が引ける。梨晏の分のお茶を入れて彼女の前に差し出すと、一刀は梨晏が話を切り出すのをゆっくりと待った。

 

 やがて、意を決した梨晏が口を開く。

 

 

 

 

 

「私一人、孫呉に誘われたんだ。私の片腕として働いてくれないかって、雪蓮から。ねえ団長。私、どうしたら良いと思う?」

 

 

 

 

 

 

 




1月31日に滑り込んで間に合う予定でしたが人類最後のマスタ―として南米に行っていたので投稿が遅れました。申し訳ありません。


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第045話 反菫卓連合軍 洛陽戦後処理編④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神妙な面持ちで待つ梨晏に、一刀は満面の笑みを浮かべて答えた。

 

「いいよ。行っておいで」

「軽くない!?」

 

 非難の言葉をあげた梨晏も一刀と同じように笑みを浮かべている。梨晏にとっても一刀の言葉は想像の通りだったからだ。一刀が膝をぽんぽん叩くと梨晏は嬉々として膝の上に腰掛ける。二人だけで何か話をする時のそれが定位置だった。

 

「孫策殿はなんだって?」

「孫呉の次の大戦が終わるまで。もしくは二年が経つまでの間私と一緒に戦ってほしいって」

「それだとただ借りて終了だぞ?」

「その間に心変わりさせることができなかったらもう私のこと勧誘しないって」

「自信があるように見えてその実自信ないのが透けて見えるのが切ないな」

 

 孫策も孫堅の娘であるだけあって大層な自信家である。やれる自信があるならばたとえこれから口説いて引きこもうという相手でも態度に出るだろうが、梨晏の言葉からは彼女らしい自信が全くと言って良いほど窺えない。脈がほとんどないということは孫策にも理解できているのだろう。

 

 孫堅辺りにはみっともないとからかわれているだろうが、それでも条件をつけてまで梨晏に声をかけたのは脈がなさそうだからと梨晏のことを諦めることができなかったからだ。大軍の後継者が一人の少女に矜持を捨ててまで頭を下げているのである。普通の武芸者であればそれこそ心の一つや二つ動こうというものだが、梨晏の態度は一刀と同様に軽かった。

 

「で、梨晏は協力はしたいんだよな?」

「雪蓮は凄く大事な友達だしね。困ってるのも私を欲しいっていうのも切実だし協力はしてあげたいかな」

「したいことが決まってるのに、あえて人に聞くというのも不毛なことだと思わないかね」

「女は殿方に言葉にしてほしいものなのだよ団長」

「そうか。俺が決めても良いなら絶対に行かせないけど、俺は同時に梨晏にはやりたいことをしてもらいたい。梨晏が孫策殿を助けたいというのなら俺はそれを支持するよ。気を付けて行っておいで」

「ありがと。でも、私デキる女だから引き留められたりするかも――」

「その時は俺が連れ戻しに行くからそんな心配はしなくていいよ」

「…………孫呉と関係が悪化するからって皆が止めるかもしれないよ?」

「俺一人でも必ず迎えに行く」

「そっかぁ……」

 

 耳に届いた言葉を噛みしめるように、梨晏は呟く。にやけ面を止めることができない。言葉にならない言葉を呻き一刀の肩に顔を押し付ける。そこでも漏れるのは意味のない、しかし熱のあるうめき声。意味がとれなくても、嬉しいという感情は一刀にも見て取れる。

 

 ふらふらと彷徨った梨晏の手が、一刀の手を探し当てた。ぎゅっと、指を絡めるようにして握られた手は戦いの後のように熱かった。

 

「それでも足止め食らって困るってことはあるだろうから、俺の方でも手を打っておくよ」

「心配しなくても、ちゃんと私は帰ってくるからね」

「信じていても心配にはなるものなんだな……」

「ね、今日一緒に寝ても良い?」

「それはまた今度、梨晏が戻ってきた時にでも――」

「聞いたからね! 絶対だよ! 忘れたら怒るからね!」

 

 顔を真っ赤にした梨晏の剣幕に、一刀は最初からこれが狙いだったのかと理解する。今までの儚げな雰囲気は何だったのか。言質を取ったとばかりに派手なガッツポーズまで決めて喜んでいる梨晏に、一刀は一応の抵抗を見せる。

 

「ただ添い寝をするくらいとか」

「私は子供作ろうってお誘いのつもりで言ったんだからそういうのはナシ!」

 

 お子様が何をマセたことを……と思ってみても今の梨晏でさえ現代の基準で言えば中学生ほどである。この世界では早ければお嫁さんに行っていてもおかしくはないし、孫策の切った二年後の基準で言えば子供がいたっておかしくはない。それより年上の北郷一刀という男はやはりこの世界の基準で言えば同様だ。立場を考えてもそろそろ嫁の一人や二人いてもおかしくはない年齢である。

 

 真っ赤になっている梨晏を見る。思えば今つるんでいる面々の中では一番付き合いが長い。梨晏の故郷の村で何事もなく自警団の団長をやっていたら順当にそのまま結婚していたのだろう。一番年が近かったのが梨晏だったし、周囲も少なからずそのつもりでいたことは肌で感じでもいた。それが今では村の外に出て歴史の大舞台に関わるようになったのだから世の中解らないものだと思う。

 

「まぁあれだ。楽しみに待ってるよ」

「雪蓮みたいに良い女になって帰ってくるから期待しててね!」

「無理に変わらなくても良いよ。梨晏は梨晏のままでも十分良い女だから」

「…………俺良いこと言ったみたいな顔してるけどさー。それなら何で今まで手を出して来なかった訳? 団長だって雪蓮とか冥琳みたいにおっぱいあった方が嬉しいんでしょ?」

「否定はしない」

「団長のバカ! スケベ!」

 

 ばしばしと雑に拳を叩き込んで脱兎のごとく梨晏は逃げていく。騒々しい夜だったが梨晏らしいと言えば梨晏らしい。問題があるとすれば彼女が戻ってきた時には本格的に手を出さねばならないことだ。

 

 本音を言えば楽しみではある。梨晏は掛け値なしの美少女だ。孫策のようになって帰ってくると本人は言っているが、今がちんちくりんなことを考えるとそこまで期待もできない。容姿を理由に手を出さなかった訳ではないものの、あれだけ大見得を切ったのだ。今と大凡姿が変わらないまま戻ってきた時はどうやって慰めるのか先に考えておいた方が良いだろう。

 

「子供ねぇ……」

 

 夫になり父親になる。大抵の男が通る道らしいがやはり実感が湧かない。それも時間が解決してくれるのだろうか。今日何をやったかを振り返り明日は何をやるのか。こちらに来てからは床に就く前にしつこいくらいに今を考えていた一刀は、久しぶりに少し先のことを考えながら眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天意は前日の夜までに決められて清書され、日の出と共に告示される。その日の早朝に呼びされるかどうか決まるのだから乱暴にも程があろうが、あくまで告示されるのがその日というだけで呼び出しなど各人の予定に影響がありそうな事柄は、その当事者には事前に知らせが来るようになっている。

 

 正式な発表が今日というのは解っていたので呼び出される前提で主だった面々は予定を組んでいた。軍団を指揮するものは傘下の恩賞もまとめて受け取り、代表がそれを分配するというのが通常の段取りである。細かな差配は代表の裁量に依るというころだ。

 

 軍団一つにつき代表が一人。翻って言えば、そこに呼ばれたということは規模の大小はあれど独立した一つの勢力であると帝室が認識しているということだ。

 

 そしてこの日呼び出されたのは曹操、公孫賛、孫堅、袁術、関羽、馬超、そして北郷一刀の七人である。ゲーム三国志でオリジナル武将を本名で作成している時にふと正気に返ってしまったような言いようのない羞恥心に身を捩るも、男一人が悶えた所で気持ち悪いだけで時間は待ってはくれない。

 

 味の全くしない朝食をかきこみ、皇帝陛下に拝謁した際の一張羅にまた袖を通す。めかし込んで朝議に現れた一刀に、初めてその恰好を見る面々が目を丸くする。

 

「団長……なんかいつもよりかっこいい!」

「ありがとう梨晏。見ての通り俺はこれから宮廷まで行ってくる。通達そのものはすぐに終わると思うから、朝議はそれからってことでよろしく頼む」

「吉報をお待ちしていますよ」

 

 難しい顔をしていることが多い郭嘉も、今日は何だか機嫌が良さそうに見える。郭嘉だけではない。軍団を率いるようになってから皆には苦労をかけっぱなしだった。汜水関に虎牢関と大きな苦難も乗り越えてきたのだ。今日はそれがまとめて報われる日なのだと思うと、一刀の身が引き締まる思いだった。

 

「お兄ちゃん、今日は誰と行くの?」

「孫堅殿が迎えに来てくれることに……と思ったら、来たみたいだなちょうど良い」

 

 足音を立てずに歩く人間の多い中、孫堅は履物を鳴らして歩くことを好むため無言でいても近くに来ると良く解る。この音で機嫌の良し悪しを推し量るのが側近の必須技能と黄蓋などは言っていたのであるが、さて。

 

 足音は高く短く規則正しい。聊か足早で力強くはあるが、地を踏みぬくような勢いは感じない。機嫌も体調も良いのだと察する。深酒しての酔いが残っているということもなさそうだ。最高じゃないかという内心を出さないように気を付けながら、一刀は姿勢を正して孫堅を待つ。

 

「おはよう。昨日はよく眠れたか、北郷!」

 

 相変わらずの炎のような笑みを浮かべた孫堅はいつもと違う恰好をしていた。普段見えているものが見えないと気になるもので、いつもは半分くらい露出している胸部が完全に隠れている。

 

 超越者という感じの女性の多いこの世界の風習にはいまだに馴染めないものがあるが、露出の高い服装を『普通』と思う感性もフォーマルな場では通じないらしい。おしゃれの範疇ではあるが正装とは違うということだろうか。どちらにせよ男性である一刀にはいまいち理解できない領分である。

 

 孫堅の礼服も全体で見ると露出しているのは手と首から上しかない。裾も足首くらいまであるがスリットだけは健在のようで孫堅が歩く度に肉付きの良い脚部が見え隠れしていた。

 

 色調としては装飾品まで含めて暗い赤で纏められている。赤が孫呉のカラーであることは事情を知らない一刀にも疑う余地はないが、それは礼服の場合でも同じであるらしい。一刀の超特急で仕立てられた礼服よりも、明らかな歴史を感じさせる品だ。

 

「改めて。中々の男っぷりだな」

「お褒めいただきありがとうございます」

「早々にお前を手籠めにして俺に縛り付けなかったことを後悔しないでもない。逃した魚は大きいかもなと後悔するのは俺の人生で初めてかもしれん」

 

 はははとわざとらしく孫堅は笑い声をあげるが、目が微妙に笑っていないことに一刀は元より他の面々は気づいていた。孫堅という女傑が後悔をそのままにしておく性質ではないのは全員の知る所である。

 

 孫堅のことは決して嫌いではないというか、親子ほど年齢が離れていることを考慮に入れても女性として人間として大分好ましい部類に入るが、欲望に任せて突っ走っても良い相手では決してないと言える。現段階で男女の関係になるには孫堅の言う通りに孫堅の側が強引に行く必要があるだろう。

 

 そして孫堅が強引に来たら防ぎようがなかったと一刀は確信が持てる。彼女がその気にならななったことを神様に感謝する瞬間である。

 

「それから太史慈。うちのバカ娘が悪いな。二年も付き合ってやれば奴も満足するだろうから、しばらくよろしく頼むぞ」

「よろしくね孫堅様」

 

 自分の貞操に思いをはせていると、当事者二人がさらっと大事なことを暴露しかけている。団の今後に関わる大事なことだ。こんな簡単にバラされて良いものかとそっと周囲を伺ってみるが一刀以外の全員は澄ました顔だった。これには一刀の方が拍子抜けである。

 

「予想外、という顔をしていますが」

「全くもってその通り。なんだかんだで察しはついてたんだね俺以外」

「孫策殿の性格を考えて梨晏に中々の執着を見せていた以上、何か手は打ってくるのではと思っていました。引き抜きが現実的ではなく逆に我々の独立が現実味を帯びてきた以上、条件付きの貸し出しは妥当な線ですからね。それでも梨晏が話を受けるかは判断のつかない所でしたが、受けることに決まったようですね」

「うん。雪蓮のことも助けたいしね」

「一刀殿が良いというのなら私からは何も言うことはありません。一回りも二回りも成長して戻ってくることを楽しみにしていますよ」

「うん! シャンも、団長のことよろしくね」

「まかされた」

 

 快く送り出してくれる仲間に梨晏は笑顔を返す。湿っぽい雰囲気もない。皆梨晏が戻ってくることを確信している風である。

 

「話がまとまった所で行くか。女ども、お前たちの男を借りていくぞ」

「是非とも無事にお返しくださいっ」

「それは北郷次第だな」

 

 からからと笑う孫堅について歩き、外に出る。待機していた孫呉の馬車に乗り、共に宮廷まで向かう。現代人の感覚ではまだ早朝。登校する学生だって道を歩いていない時間であるが、この時代は街の人々が動き出す時間がとても早い。日が昇る頃には皆起き出すので、街もそれに合わせて動くのだ。商店もこの時間だって開いているから街にも昼に比べれば少ないものの、喧噪があった。そんな街の中を孫呉の馬車はすいすいと進んで行く。

 

「改めまして。うちの梨晏をどうぞよろしくお願いします」

「俺としては自分の娘が勝ち目の薄い戦いに固執しているのを見るのは複雑なんだが……まぁ若い内はそんなもんなんだろうな。振り返ってみれば俺は雪蓮よりもずっと向こう見ずだったように思う」

「それでも今まで生き残ってこられたではありませんか」

「己の力のみでとは言い難い所はあるな。『江東の狂虎』などと呼ばれちゃいるが、それも結局は群れの力よ。その群れの長から見て、北郷一刀。お前の群れは小さいが強力だ。飛躍の時まで潰されないことを願う」

「用心しますよ。幸い俺の群れは、俺以外が優秀ですからね」

「群れが死なない大前提だなそれは」

 

 剣呑な孫堅の雰囲気は霧散し、後は世間話の雰囲気である。馬車は帝都洛陽の大路を行き、宮廷の前へとたどり着いた。御者に導かれ先に降りた一刀は、男の義務として孫堅に手を差し伸べる。差し出された手を不思議そうに見つめた孫堅は、ほどなく獰猛な笑みを浮かべて握り返した。

 

 当日の予定であるが、正装での呼び出しこそされたが大がかりなものではない。一刀の拝謁とは異なり今回皇帝陛下はおなりになられず、代理の者から辞令と一部の宝物とそれ以外の目録を下賜されそれで終了だ。無駄な時間を過ごす食事会などもなく、目録と物品の交換は宮廷の外で当日行われる。交換まで含めても長くて二時間程度の催しだ。

 

 そのためにまた正装に袖を通す羽目になった一刀などは、全部書面と配達で済ませれば良いのにと心の底から思っていたが、何事にも形式というのは必要であるらしい。尤も渡されたのは代表に全て帰属するものではなく、あくまで軍団全体に与えられるものを代表が受け取りにきたに過ぎない。

 

 軍団の大きさによってはここから更に功績に応じて細かく配分するという頭の痛い作業が待っているのだが、五百人程度の集団である一刀は気楽なものだった。

 

 待合室には一刀と孫堅が最後の入室だった。先にいた三人が一刀たちの到着を見て、椅子から立ち上がる。その中の一人、馬超の姿を見た孫堅は彼女にずかずかと近づき顔をじっと近づけた。大物からの思わぬ行為に馬超は明らかに引いているが、ここで後退るのも無作法と思いされるがままにじっとしている。

 

 やがて満足した孫堅は顔を離した。どこか昔を懐かしむような笑みを浮かべている。

 

「悪かったな。前にも言ったがやはりお前は紅に似てるな。もう少し眉が濃くて目つきが悪かったら危ない所だった。ここがどこかも忘れて拳が飛んでいたかもしれん」

「良かったわね馬超。母君よりも穏やかな顔をしていて」

 

 からからと笑いあう三人は自前の礼服も中々様になっている。こういう場に慣れているのだろう。荒事専門という風である馬超も、着こなしは堂々としていた。流石は武家の跡継ぎであると思うと共に、自分の場違い感が余計に強くなってくる。

 

 それではと場違い仲間を探して一刀の視線は彷徨うが、呼び出されたのは六人で……いや、自分を含めて五人しかいない。

 

「袁術殿はどうされました?」

「急な体調不良により欠席とのことです。私たちより先に代理の人間が来て辞令と目録は受け取って帰ったとか」

「自由な方ですね……」

 

 親戚が帝室の不興を買ったばかりだというのにそれで大丈夫なのだろうか。一刀の立場で心配するのもおこがましいことであるが、梨晏から孫呉が今後どうする予定なのかを聞いてしまった手前、その行く末が気にならないでもない。

 

 袁術なり張勲なりに接点があれば別であるが、顔を見たことがあるという程度で一刀個人はまるで接点がない。勢力としては良好な関係を保っている孫呉といずれすぐに敵対関係になることを考えれば袁術の立場の悪化は望む所であるものの、どうにも他人の不幸を祈るというのはしっくり来ない。

 

 人を呪わば穴二つである。他人の凋落を望むくらいならば、自分の栄達のために努力した方が何倍も健全だなと思い直して、たった今話を振った美少女に意識を戻した。

 

 礼服は目立たない暗い色というのはどの勢力でも共通であるらしい。一刀のものがほぼ黒で統一されているのに対し、孫堅が暗い赤、曹操が暗い青、馬超が暗い緑な中、関羽の礼服は馬超の物に近い暗い緑色をしている。

 

 あちらの三人が自前のものを持ってきたと解るのに対し、関羽の物は一刀と同様最近仕立てたと解る代物だった。肌の露出は極力控えるというのも共通なのか上は胸元が全く見えない首までの装いで長袖。下は足首くらいまでが隠れているが、それでも深めのスリットは入っており平素は短めのスカートと一緒に見える白い足がちらちらと覗いている。

 

 美髪公などとあだ名される程の黒髪は丁寧に梳かれて結われており、くるりと回れば真っ白なうなじも見えている。誰がどう見ても完璧な美少女だ。女性と相対した時の常套句として、何か褒めねばと思った一刀だが、関羽を前に言葉に詰まってしまう。今の美少女っぷりを形容する言葉が上手く出てこなかったためだ。

 

 だが恋する乙女に一刀の間は違う意味に思えた。自分の姿を見て会話が止まってしまったのだから、何か自分に問題があるのではと考えてしまったのだ。似合っていないのだろうか。趣味から外れているのだろうか。戦場においては勇猛でも、色恋の場ではド素人である。目に見えて狼狽する関羽に、一刀の方が彼女の内面を察し、慌てて言葉を繕った。

 

「失礼しました。あまりにお美しく見えたので言葉が浮かびませんでした」

「そうですか。それなら……良かった」

 

 花咲くように静かに微笑む関羽に、一刀は胸を撫でおろした。一難去れば後は何てことはない。世間話に花を咲かせる一刀たちを見て、曹操は孫堅を手招きした。

 

「関羽は北郷に執心のようだけど、貴女としてはどうなの?」

「遠からず出世する見込みと考えれば娘の一人や二人くれてやっても惜しくはない、といった所だな。現時点でも俺が囲う分には何も問題はない」

「江東の狂虎が大きく出たわね」

「賭けるべき時にはデカく賭けて、賭場ごと奪い取るのが賢い勝ち方ってもんだ。孫家のことを考えれば俺かさもなくば上の娘が使いたいもんだが、場合に依っちゃ俺たちが奴に仕える羽目になるかもしれんしな。そこは天の差配と器の勝負だ。もっとも、俺だって『江東の狂虎』と呼ばれた女だ。簡単に負けるつもりはないがね」

「うちはどうしようかしら。北郷相手というのは、ちょっと間が悪いのよね」

 

 陣営の今後を占う話であるが、軽い世間話のように曹操は続ける。家督を継いだのがごく最近ということもあって、曹操の軍団は平均年齢がとても若い。婚姻による縁組というのはこういう時代縁をつなぐ常套手段であるが、曹操は子はおろかまだ配偶者もいないし、他の幹部も同様である。

 

 そうなると幹部本人が嫁ぐか相手を迎え入れるということになるが、相手の男が野心的となると話が難しくなってくる。現時点での力関係を考えれば、曹操の方から輿入れを提案すれば相手が断るということはなかろう。手ごろな相手を嫁がせるということだけを考えるなら、今の北郷たちはそれほど難しい相手ではないのだ。

 

 しかしこれはと思える弾が曹操の側にないのである。曹操と縁戚関係にあって、関係強化のために嫁がせるに相応しい近い血筋となると思い浮かぶのは三人であるが、北郷という男は今がお買い得と解っていても、その三人を外に出すのを惜しいと考えてしまうのだ。

 

「あれだけの駒が今浮いているというのがありえないのよね。孫堅、貴女どうしてアレを押し倒さなかったのかしら。そういうのは得意技だと聞いているけれど?」

「まだまだ年老いたというつもりはないんだが、真ん中の娘と同い年と考えるとどうもな……女に囲まれてる男に手を出すってのもここまで食指が動かんかった理由じゃないかと考えちゃいるが。馬家はどうだ? 今の奴はお買い得だぞ」

「孫堅殿がそこまで仰る相手ならあたいの婿にとおふくろなら考えるでしょうが、引き込むことが難しいのであれば一人か二人出すのは難しくないかと。順当に行くならあたいの上の妹が行くことになるかと思います」

 

 順当にと言葉を濁したことには理由がある。伝令を頼んで北郷を乗せて洛陽まで戻ってきて以来、従妹の馬岱がお兄様お兄様と言ってきかないのだ。どうやら相当気に入ったらしく、時間を見つけたら誘いに行こうかとあれこれ画策しているらしい。

 

 知らない仲ではないのだから嫁に出すのであれば彼女でも良いのだが、当主である馬騰に対して血が近いと考えると、嫁に出す場合の彼女の席次は良い所三番手である。好いたという人間がいるのならそいつが行けば良いというのが馬超本人の考えであるが、この時世にそういう訳にもいかないのも解っている。

 

 良い男を見つけた。その男に孫堅が中々目をかけている。故郷に戻ったら病床の母にはそう報告しなければならないだろう。母の気性を考えれば放っておくということは考え難い。具体的に何をするのかは北郷の動向次第であるが、

 

「あの男がどこかの土地を任されるのであれば、近い所が良いわね」

「連携しやすいし何より取り込みやすいしな」

「そうなるとウチが一番不利ですね……」

 

 距離的な問題はどうしてもある。洛陽周辺で戦うことになったから馬家軍の兵はこの程度で落ち着いているが、もっと西の方で戦うのであれば倍の数は動員することができた。距離が近いせいで帝国東部は既に群雄割拠の時代が見えているが、西部はほぼ董家と馬家に収束して久しい。戦と言えば異民族と戦うくらいで帝国内における権力闘争は一応の陰りを見せている。

 

 此度の戦で董卓が負けたことで動きはあろうが地元での勢力が盤石なことは揺るぎない。帝室を助けるという名目で檄文が飛んだため兵を出したが、力によってこの地を統一ということであれば董家と共に立っても良い……というか、普段の距離の近しさから考えればその方が馬家としては都合が良いのだ。

 

 何にしても董卓が地元に戻り一度落ち着いてからということになろうが、同様に中央の指示で治める土地が決まるとなると、少なくとも帝国内で落ち着いた西部にということは考えにくい。差配するのがあくまで皇帝と考えると少なくとも東部、そして今回共に戦った袁紹、曹操、孫堅、袁術、公孫賛の近くには配置しないだろうから、

 

「洛陽周辺で帝室の目の届く所で適当な所が第一。後は楼黄忠の奮戦で落ち着いた并州などが本線でしょうかね」

「北郷についてはそんなところだろうな。後はあそこで女の顔をしてる美髪公だが……」

 

 元々地盤のある人間はそれを補強する形で良い。その方が配る方も楽であるしもらう方も楽である。いくら良い土地であっても現在の地盤から遠ければ管理もしにくい。

 

 その点、地盤のない一刀と関羽は補強すべきものがない。一刀の功績は集団の規模にしては働いたという所から始まり、諸々の勢力との関係から適当な土地が与えられるだろうということで落ち着いているが、功績という面で考えると関羽のものは一刀と比較にならない。

 

 汜水関陥落の第一功はそれを主導した公孫賛に帰属しているが彼女は袁紹に対処するために既に洛陽を離れている。彼女にも褒章は与えられることになっているが、態々伝令までよこして自分の分は関羽に付け替えておいてくれと話をつけている。となれば当然、関羽に対する褒章は孫堅や曹操の物よりも大きいものでなければならず、そしてそれは誰が見ても明らかなものでなくてはならない。

 

「どうした曹操。お前悪い顔をしているぞ」

「そうかしら孫堅。それ貴女も同じではなくて?」

 

 帝室が掴んでいるであろう情報と帝国東部の状況から、関羽にどういう土地が与えられるのか何となく察しがついている曹操と孫堅は視線を交わし、お互いが同じ意見であることを確信するとますます笑みを深めた。

 

「初手はお前に譲ることになりそうだな」

「そうね。待ちに待った機会だもの。美味しくいただくことにするわ」

「俺の喰う分も残ってると嬉しいんだがね……」

「それは天の匙加減次第でしょう。どう転ぶにしても一筋縄ではいかないでしょうし。全く、今から楽しみで仕方ないわ」

「できればあたいにも解るように話をしてほしいんですが」

「まぁ少なくとも、北郷の奴を美髪公にかっさらわれるということは当面なさそうだってことだな。俺たちは俺たちで、それなりに急いで奴を取り込むことを考えようじゃねえか」

 

 そんな風に外野の話がまとまっているとは知らずに、一刀は一刀で関羽との話を進めていた。

 

「ところで関羽殿。以前のお茶の約束なのですが」

「いつでもどうぞ!」

「よろしければ明日の午後でどうですか? 今後のことなど含めて一度二人でゆっくり話してみたいのですが」

 

 仕事がらみかと愛紗の中の乙女がしょんぼり肩を落とすが『皆で』ではなく『二人で』と言われていることに気づいてそれもすぐに持ち直した。関係は大きく前進したと言って良いだろう。約束実現にメドが立ったことに、かつてないほどに気持ちが前向きになっていることを感じていた。

 

「喜んで。明日を楽しみにしています」

「良かった。それでは午後……そうですね、三時に洛陽内の陣にお迎えに上がりますので、それまでにご用意いただければと」

「はい!」

 

 話が綺麗にまとまるのを待っていたかのように、皇帝の使者が控室に入ってくる。これから別室に移動の後、そこで辞令の交付と目録の授与である。偉い人来ないんだったらここでやってさっさと帰ろうぜという現代人的な感性を顔に出さないようにしながら、努めてきりりとした顔を維持してぞろぞろと歩く。

 

 ちなみに歩く順番にも決まりがあるらしく、官位の高い者から順番に並ばされる。曹操が先頭で孫堅、馬超、関羽、そして一刀が最後だ。袁術が出席していれば彼女が先頭であったらしいが美幼女らしいと噂の彼女に先導されていたら噴き出していた可能性もあるので、そこは良かったと思う。

 

 ほどなく皇帝陛下と拝謁した場所とは違う場所に案内された一同が順に跪くと、皇帝の代理である人間――拝謁した時にもいたデキる女という感じの眼鏡の女性だ――から辞令と目録が発表される。

 

「まずは北郷一刀」

「はい」

「皇帝陛下の配慮もあり貴殿にはどこか土地を与えることになっているのだが、まだ選定が済んでいない。旗下の者たちと共に二週間洛陽にて待機のこと。此度は目録のみの授与となる」

「ありがたき幸せ」

 

 聞いていた順番と異なりいきなり最初に呼ばれたことに戸惑いはしたが、練習の通りに目録のみを受け取り、元の位置に戻る。眼鏡の女性は、今度は順番通りにやるのか曹操の前に立った。

 

 曹操。現在の支配地域である二州の権利を追認し、正式に牧と認める。下賜する物品については以下の通り。

 

 孫堅。現在の支配地域の権利を追認拡充し、揚州の牧として任ずる。下賜する物品については以下の通り。

 

 曹操と孫堅にとっては予想の範囲内の報酬である。金品などはおまけのようなものだ。彼女らにとって地元がどれだけ盤石であるかは生命線である。名目上の支配者は別にいても、実務は実質的に行っていたのでやることそのものは変わらないのだが、帝室の承認を得られたことは大きい。

 

 これで大手を振って色々なことができる。顔を伏せたまま今後の予定を組み替える二人に、眼鏡の女性は帝室の立場を伝えた。

 

「また袁紹の起こした大火からの復興作業について、貴殿らの助力に陛下はとても感謝しておられる。既に大半の作業は終了したとのことであるから、引継ぎが完了し次第任地に向けて出立のこと。一週間をめどにやってもらいたい」

 

 意訳すれば一週間で出ていけとも取れる。大火による復興作業にかかった予算は今残っている連合軍の持ち出しであるがそもそもの原因は袁紹軍にある。追放したからと言って連合軍の首魁として祭り上げていた事実は変わらない。洛陽の民からすれば物を壊した人間がそれを修繕するのは当然のことだろう。

 

 皇帝の住まう場所であると理解していてなおそんな蛮行に及んだのだから、帝室としては怒り心頭であっても不思議ではない。にも拘わらず権力の移行をスムーズに行い恩賞も出してくれたのだ。関係は良好とはいえないまでも険悪という訳ではないはずだ。

 

 その分袁紹が憎悪を一身に集めていることになるが、今や連合軍も解散。ましてその袁紹とこれから刃を交える可能性もあるのだから、その凋落を喜びこそすれ同情などするはずもない。

 

 粛々と言葉を受け入れる曹操と孫堅に小さく頷くと、代理は次に関羽に向き直った。

 

「関羽殿については帝室より兵を千貸し与える。その上で徐州へと赴き、当該地域の内乱を武をもって平定せよ。その後、貴殿を徐州牧へと任ずる」

「……主命、謹んで拝命いたします」

 

 返答に僅かな間があったのは、関羽にとっては予想外のことであったからだ。公孫賛の分の功績を付け替えられるという話は聞いていたが、関羽本人の認識としては自分は公孫賛軍の客将である。いくら付け替えが発生するとは言え、客将にそこまでの褒章はなかろうと高を括っていたところ、これである。

 

 身を立て名を上げるというこの時代の武人らしい向上心はあっても、領地をもらって政を行うなどというビジョンは全くと言っても良い程なかった。適当な所で主を見つけて、その男性に尽くすというのは関羽の人生設計でもあったのだ。

 

 それがもろくも崩れ去った瞬間である。与えられた以上はそれを全うしなければならない。今後の予定を頭の中で組み替えている、そんな矢先のこと、

 

「こちらの兵の準備は既にできている。可及的速やかに出立をお願いしたいが、出立はいつになるか」

「明日には――」

 

 自分たちの練度ならばそれくらいは可能である。受け持ちの復興作業はほぼ終了しているから地元の人間への引継ぎも、事情を話せば今日中には終わるだろう。それと並行して出立準備を進めて身体を休め、明日の早朝には洛陽を出立できる。

 

 関羽の武将としての資質は非凡なものであり、部隊の行軍速度の予測は非常に正確なものだった。どの程度早くできる? という問いへの返答は事務的に、他意などなく、自分の部隊ならそれくらいはできるという武将としての自信を持ってのものだったのだが、それ故に部隊としての時間的余裕は一切削られており、当然関羽も代表とは言え一員であるのだから、その対象に含まれる。

 

「よろしい。では明朝出立と陛下にお伝えする」

 

 一日程度余裕を持った所で許されたかもしれないと関羽が考えたのはそんな言葉をかけられた後だった。

 

(男運のねえ女だな……)

 

 顔を伏せ、真っ青になっている関羽を横目に見て、孫堅は僅かに口の端を上げた。

 

 

 

 



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第046話 反菫卓連合軍 洛陽戦後処理編⑤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帝室からの発表があり久しく戦時体制だった洛陽にも漸く一区切りがついた。大規模火災の修復も地元大工と連合軍兵士の協力が功を奏し被災前の状況を取り戻しつつある。

 

 ではこれから平和な時が来るのかと楽観的に考えている人間は、市民の中にも兵の中にも一人もいなかった。区切りはまさしくただの区切りである。これまで続いていた戦が終わりこれからまた新しい戦が始まることを誰もが肌で感じ取っていた。

 

 だからと言って今が平和であるという事実を受け入れていけないこともない。担当地区の修復が早めに終わり暇を持て余したほとんどの一刀団の面々は、戦が明けて懐が潤っていたこともあり洛陽の街へ繰り出し久方ぶりの休暇を楽しんでいた。

 

 ありがたいことに住居の心配もしなくて良い。修復を担当していた地域にあった大きな宿屋が一刀団が一週間残るということで開業を一週間遅らせてくれたのだ。流石に五百人からなる集団であるため一人一部屋とはいかず、部屋や廊下や食堂まで使っての雑魚寝であるが、仮宿舎よりは遥かに豪勢な上に食事まで出してくれるということで団員たちにも好評である。

 

 楽しいならば良いことだと思いながら食堂で楽しく会話をしている団員たちに見送られ、一刀は洛陽の街へ繰り出した。

 

 戦というものは戦っている最中よりもその前後の方が忙しいのだと雛里が言った通り、戦が終わってからこっち団長である一刀は洛陽を右へ左へ駆けまわっていた。

 

 身近な所では退団の決まった団員たちの生活の調整である。孫呉の就職を蹴った団員たちであるが洛陽での修復作業中に大工やら商家やらから声のかかった団員たちが何人かいたのだ。まさかのスカウトである。真面目な働きっぷりに是非うちにという声に、一刀は声のかかった団員たちと個別に面談して意思を確かめ、その全員を快く送り出した。

 

 彼らは全員後からの合流組で、地元でも仕事がないからと剣を取った面々である。一刀よりは年上であるが平均年齢が高めの団の中では若い方で各々実家は農家、漁師、木こりなど現代で言う一次産業に従事する家の人間だった。

 

 地に足のついた仕事というのが魅力的に映ったのだろう。やりたいことをやってほしいというのが団発足からの一刀の方針であるが、孫呉の話を蹴った直後にこうなったことは彼らにとっては相当な負い目であったようで泣きながら謝られもしたものだが、その全員を説得して就職先には一緒に足を運んだ。

 

 その対応をする傍ら、今度は団そのものの今後である。場所こそまだ明言されていないもののどこかの土地を任されることは決まっている。距離によってかかる費用は異なるが、軍師組は大体この辺りと正確に絞りこんでいるようで、その予測を元に必需品をかき集めている。

 

 金子には余裕があるので平時ならば楽勝の調達も、大軍団が揃って出立が近い今時分は聊か時期が悪い。早め早めで損はなかろうと動き回った甲斐もあり、どうにかメドがついたという報告を一刀も受けている。

 

 最悪孫堅に頭を下げることも考えていたが、栄達して洛陽を出るのに出足からつまずくのは格好が悪い。最後の手段を取らずに済んで胸を撫でおろした一刀であるが、その孫呉とも関係が切れる訳ではない。

 

 梨晏を引き受けることになった孫策が上機嫌だったこともあり、調整そのものはスムーズに行われ、結果として孫呉とは軽い同盟を結ぶことになった。集団の規模に大きな差があることを考えれば孫呉が大きく譲歩した形となる。

 

 ここまで好待遇で良いものかと逆に不安になった一刀だったが、交渉を担当した郭嘉などは平然とした顔で『もらえるものはもらっておけば良いのです』と言っていた。外交担当の彼女が良いというのだから良いのだろうと難しく考えないことにする。

 

「待った?」

「……いや、今来た所だ」

 

 実は三分くらい隠れて眺めていたと正直に告白したら、拳の一つも飛んでくるのだろうか。今の彼女にならば殴られても嬉しい気がする。元から美人だと思っていたが、髪を降ろしめかし込んだ今日の彼女は一段と美しく見える。

 

「じゃあ行こうか」

 

 声をかけると、彼女はこくりと頷いた。何から何までらしくないが、そんな彼女も新鮮だ。昼下がりの洛陽。人の行きかう大路を行くと、彼女は少し離れて後ろをついてくる。いつでも胸を張って堂々と歩く彼女らしくない。緊張しているのが一刀にも見て取れた。

 

 苦笑を浮かべてひっこめると、一刀は振り返り手を差し出す。彼女は差し出された手をしばらく眺めていたが、意味を察するとその頬に朱が差した。拳も蹴りも飛んでこない。彼女はそっと手を、壊れ物にでも触れるかのように差し出してくる。

 

 その手を強く握り返した一刀は、思い切り手を引っ張るようにして大路を歩きだした。文句は飛んでこない。拳も飛んでこない。ただ静かに足音がついてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「洛陽での生活もそろそろ仕舞かぁ」

 

 洛陽郊外に張られた孫呉の幕舎。全ての報告に目を通した孫堅はここでの生活がもうすぐ終わることを肌でも感じ取っていた。連合軍盟主による大火という大惨事から始まった滞在も、こうして終わりを迎えてみれば聊か名残惜しいようにも思う。

 

 流石に首都洛陽だ。地元にはない酒がうんざりする程にある。酒豪で鳴らす孫堅は仕事をこなす傍ら片っ端からそれらを試しては買い込み、気づけば酒だけで馬車が一台埋まるほどの量を買い込んでいた。

 

 これだけあればしばらくは困るまいと孫堅はからから笑うが、酒に付き合う担当の黄蓋はおそらく帰り道で飲みつくすことを察していた。その酒の山には留守を守る者たちへの土産も入っている。酔った主がそれを忘れないと良いのだがと無駄な期待をしつつもそれを口には出さないでおいた。酔った時にあれをしないでこれをしないでと素面の主に言ったところで酔った時の彼女は覚えている訳もないからだ。

 

「いずれまた来る機会もありましょう。何しろ乱世ですからな」

「地元に戻りゃあまたぞろ戦だからな。うちのバカどもにも良い骨休めになったろう」

 

 各軍団人員を復興作業に割きはしたが、全ての人員が常にそれに従事していた訳ではない。どこの軍団も兵たちには慰労金を出し、交代で休みをくれてやっていた。平素であればあった休みも戦時であればそうもいかない。完全な全日休み、それもあぶく銭を手にしての洛陽とあれば遊びに繰り出さずにはいられないというものだ。

 

 洛陽の民も最初こそ連合軍の兵に敵意を持っていたが、情報操作が効いたのか悪いのは皆袁紹とその軍ということで話が広まり、復興作業が一段落する頃には金を沢山落としてくれる上客として歓迎ムードとなっていた。

 

「雪蓮の奴はどうしてる?」

「連日上機嫌でございますよ。太史慈がこちらに来てくれたのがよほど嬉しかったと見えます」

「横恋慕みたいな真似はみっともないからやめておけって何度も言ったんだがな」

「それで納得できないのが若さというものでしょう」

「それで痛い目を見るのも若さってもんだが、まぁ若いうちは経験だな何事も」

 

 なるべくなら引き込むということでまとまっていた一刀の処遇は、帝室から土地が与えられるという決定が本決まりになったことでほぼ頓挫してしまった。最終的な落としどころはとりあえずおいておくにしても、一刀はとにかくその土地へ一度は行かねばならない。

 

 良好な関係を維持するのであれば適当に話をまとめて様子を見ておくのが無難であった所、雪蓮は特に母である自分に相談することもなく、太史慈の引き抜きを本人に打診していた。これで関係がこじれるようであれば雷を落とすしかなかったのであるが、孫堅の予想に反して太史慈はこれを快諾した。

 

 まさか本当にこちらに寝返るつもりかと確認してみれば、期限付きの貸し出しのようなものであるということだ。強引に見えて相当に譲歩している辺り雪蓮本人も負け戦であることは肌で感じているのだろう。それでも浮かれられるのは若さであると孫堅も思う。

 

「太史慈でなく北郷の奴を口説き落としてくれれば早かったんだが」

「例の虎牢関での活躍を耳にすれば、地元の連中も文句は言わんでしょう。孫呉の民はことさらああいう話が好きですからな」

 

 荒っぽい人間が多い土地柄だけに大抵の人間は武勇伝を好む。一刀個人の武勇はそれほどでなくとも、思春を守るために呂布の前に飛び出し二人ともに生還を果たしたというのは、いかにも孫呉の民好みだ。洛陽では講談が流行しているというが、孫呉にこれを持ち帰れば洛陽の比でないことは黄蓋にも断言できる。孫呉に来ても舐められるどころか、どこに行っても歓迎されるくらいの好待遇で受け入れられるだろう。

 

 現在の当主である孫堅には娘が三人おり、長女である雪蓮が次期当主として内定している。この次期当主の婿に――という話を一刀に通すよりも先に世に出してしまえば、現在の力関係では一刀は断ることは難しい。当主が主導し義理の息子にまでしようという話を公然と断れば顔を潰すことになる。そうなれば当人同士の意向はどうあれ、組織同士の関係は決裂だ。

 

 無論、そういう手段を取って関係を深めて組織同士の関係を良好にしても、本人同士の関係がこじれてしまっては意味がない。最低限一刀本人に納得してもらう必要がある。その点、勢いで関係を結んでしまったというのは悪いものではないように孫堅には思えた。経緯はどうあれ一度男女の仲になってしまえばあの真面目な男のことだ。自分の人生と相手の人生を秤にかければ相手の人生を尊重するだろう。

 

 その時点で軍師どもとの仲が拗れているような気がしないでもないが、孫堅の見立てでは一刀本人が納得すれば残りは全員ついてくると見ている。後は政治的な駆け引きの勝負であるが一刀が政治駆け引きなどやる頃には、自分はとっくに楽隠居を決め込んでいる。自分が引退した後のことなど興味はない。頭など張る力のあるものが張れば良いのだ。蹴落とされるようならそれまでの器だったということだ。

 

「そこで女に目を向ける辺りが、雪蓮の限界かもな」

「堅殿が策殿くらいの年頃であれば、北郷の奴を食ってしまったと?」

「早晩連れ込んでモノにしてやったとも。何だったら小娘どももまとめて相手にしてやっても良いぞ」

「北郷にとっては策殿が次代で良かったようですな」

 

 はははと笑う祭だったが肉欲に負ける人間が果たして役に立つのが疑問ではあった。孫堅も孫策も色を好みそれなりに――孫堅に至っては豪快に遊んでいるがあくまで遊びの範疇に収めてはいる。孫堅の言葉の通り一刀たちが揃ってこちらに来てくれるのであれば入れ食いも良い所のはずだが、決め手が孫堅の肉体であるというのはどうにも締まらない。

 

 何が最上かというのは人間それぞれなのだろう。肉欲のために戦う人間を否定はすまいが、祭とて孫堅の器量に惚れて合流した身であるから、動物的本能とは関係のない所でどうあるべきかと決めてほしいというのが本音である。

 

 もっとも、肉欲そのものを否定する訳ではないので、その後でならば大いに盛り上がってくれて構わないし、何だったら交ぜてほしいとも強く思う。特に一刀は孫呉では珍しい優男なので女として興味がないではないのだ。

 

「今さら押し倒すってのもな。誰か味見でもしてくれれば良いんだが」

「策殿が遅れを取っているとなると厳しいでしょう。向こうの女どももまだ手付かずのようですし」

「シャオでも連れてくるべきだったか」

 

 孫堅の娘三姉妹の中では確かに小蓮が適任だろうと祭も思った。一刀本人と話してみた感じの好みは次女の蓮華が一番だろうが、三姉妹の中で一番一刀を好むのはおそらく小蓮だ。加えて押しが強く愛らしい。一刀から見て聊か年下であるのが問題と言えば問題だが、あれだけ幼女を囲っているのだ。まさか見た目を理由に遠ざけたりはしないだろう。

 

 考えれば考えるほど適任に思えてきたが、一番の問題は小蓮が今ここにはいないことである。ないものねだりだからこそ輝いて見えるようにも思う。結局、最初からそうなるように仕向けなかったこちらの落ち度であり、何となれば自分でやろうという気概を持っていなかった故の失敗である。

 

 こうなってできることは、逃した魚は大きかった、と実感しないように祈ることくらいであるが、それができるならば人間は苦労しない。しかし所詮は酒の肴の戯言である。ああでもないこうでもないと一刀を落とす荒唐無稽な方法を考えつつ、奴のモノはこれくらいだろうかと下世話な話でげらげらと笑っているとふいに孫堅が口を閉ざした。遅れて祭も来客の気配を感じ取る。

 

「思春です。お話があります。お時間よろしいでしょうか」

「構わん。入れ」

 

 孫堅の声に応えて、思春が幕舎に入ってくる。黄蓋と差し向かいに座っている中央の卓の手前まで来ると、思春は姿勢を正した。そこで動きが止まる。話があると入ってきたのに切り出す気配がない。いや、正確には気配はあるのだが切り出すのを躊躇っているという具合である。

 

 あの歯に衣着せぬ物言いをする思春がだ。これは妙な雲行きになったと察した孫堅と黄蓋はだからこそ先を促したりはしなかった。孫呉を代表する武人だけあって二人とも短気であるが、これから面白くなるという気配を察したならば、いくらでも待つことができるのである。

 

 適当な所で促してくれると思っていた思春はアテが外れてしまった。自分で気合を入れて切り出さねばならないことを察した思春は、一度目をぎゅっと閉じると絞り出すような声で言った。

 

「…………一刀を、誘いたいのですが、どうしたら良いのでしょうか」

 

 孫堅と祭は顔を見合わせる。思春の態度からそういう類の用件であるということは察していたし、それならば相手が一刀というのも察せられる。むしろ違う相手であった方が驚天動地だ。尤も時間に余裕がなくなった状況で仲を深める方法を他人に聞きにくる辺り聊か間が悪い。

 

 時間がなくなったからこそ尻に火がついたような側面もあるので、他人である孫堅と祭にはどうもこうも言えないのだが。

 

「それはお前がどこまで行きたいかに依るが、差し向かいで飯でも食ってそれで終わりという訳ではないのだろう? 奴に身体を求められたら受け入れる用意がある、そういうことで良いんだな?」

「…………はい」

 

 思春の返事に孫堅と祭は内心で喝采を上げた。酒の肴の戯言がにわかに現実味を帯びてきたのだ。付き合いの長い主従は一瞬目配せをした。平素の孫堅の答えは『酒でもしこたま飲ませて押し倒せ。子供でもできちまえばこっちのもんだ』であるのだが、これは上級者向きの行動で思春向きではない。押しすぎてはこの未通女のことだから、足踏みをして機会を逃すに違いない。慎重に、初心者向けの答えを無理やり頭からひねり出した孫堅は、

 

「ならば話は簡単だ。理由は何でも良い。とにかく奴を一人で連れ出せ。ここに特別なことは何もない。いつもやっていることの延長だから気軽に行け。肝心なのは最後だ。今日の逢瀬はここで終わり、別れる直前にお前の方から誘いの言葉をかけろ」

「その、どうやって誘えば」

 

 持って回った言い方をしたが、思春の聞きたいのはそこなのだ。時間がないからいくつかの過程をすっ飛ばさなければならないし、失敗した時に挽回できるような心得はない。あっても何から何まで初めての経験だ。思った通りの行動をできる気が全くしない。

 

 どうにかして成功させたいのだ。離れていても一刀に良く思っていてほしいのだ。藁にもすがる思いでその方法を聞きにきた思春に、孫堅は苦笑を浮かべて答えた。

 

「思春よ。誘う言葉なんぞどうでも良いんだ。真剣に考え頭に浮かんだ言葉をそのままぶつければ良い。それを笑うような男なら拳で鼻でもへし折ってやってから俺の所に来い。酒に付き合って愚痴くらいは聞いてやる」

「言葉を、受け入れてくれたら?」

「思うがままなすがままよ。段取りなんぞあってないようなもの。経験がないならなおさらな。こういうことは勢いだ。お前の心の思うがまま、欲するところをなせ」

「解りました。ご助言ありがとうございます」

 

 頭を下げ思春が退出する。足音と気配が十分に遠ざかったのを確認してから、改めて孫堅は祭と顔を見あわせた。

 

「まさか思春とは」

「固い奴だとは思っておりましたが女としての嗅覚は中々ですな。勝負所と見て一気呵成に来ましたぞ」

 

 ここで二人はようやく笑い声をあげた。堅物女が生娘丸出しのことを言ってきたのだ。笑ってはかわいそうだと身構えていなかったら途中で噴き出していたかもしれない。

 

「もしかしたらもしかするかもな?」

 

 当主である孫堅と当主候補である雪蓮が自発的に動かなかった以上、今洛陽にいる孫呉の面々の中で次にお鉢が回ってくるのは冥琳で、その次が思春である。頭の回る冥琳のことだ。そうすることが孫呉にとって都合が良いということは解っていただろうが、行動に移さなかった辺り自分では勝算が低いと読んだのだろう。それについては孫堅も、ついで祭も同意見である。

 

 それならばまだ思春の方が一刀に対して受けは良いように思えた。思春がその気であれば行く所までは行くだろう。あの手の女がそこまで言って受け入れないようでは、今後の関係を切るに等しい。よほど女遊びになれた男であれば上手い断り方も心得ているだろうが、流石の一刀も女性に対してまでは如才のなさを発揮はすまい。

 

 後は話の転がりよう。言ってしまえば思春の押しの強さとその方向にかかっているのだが、こちらは一刀の如才のなさ同様に期待ができない。思春が一途なのは理解している。それが男に対しても発揮されるのは想像に難くないが、それは万事においてそうなのだ。一刀とそれ以外を秤にかけて一刀を選べる程に思春の思い切りは良くない。それが思春にとって孫呉にとって幸いなのか不幸なのか知れないが。ともあれ現状からわずかに進む程度、というのが孫堅の読みである。

 

「思春を引き抜かれるようなことになったら大損ですぞ?」

「そこは俺と奴の器量の勝負よ。面白いことになったもんだ。祭、今日は飲むぞ」

「今日も、飲まれるのですな。お供いたしますとも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いわゆる『デート』と呼ばれるような行為を、一刀は前の世界でしたことがない。真面目に勉強しておけばよかったと何度も後悔したが、それは人間関係についても同様だった。自分にとってどうであるかを考えると同時に、相手にとってもどうであるかを考える。

 

 それは打算的とも言えるが同時に思いやりに溢れるとも表現できる。相手の望むことを成すと言う意味では、気持ちがどうであっても行動は同じだからだ。そういったことを考え、行動することがコミュニケーションであり、これがほとんどの人間関係の維持に使われ、そして上に立つ人間にはほとんど必須の能力であると気づいたのは、上に立ってからのことだった。学生生活というのは社会に出るまでの予行演習だったのだなと今になって実感する。

 

 苦手だやったことがない他の人間がとはいかない状況で一刀がどうにか見出した結論は、とにかく全力でやってみるということである。ほとんどの場合、差し迫った状況というのは時間的な猶予はない。美少女と手を繋いで街中を歩くという高校生男子の――そろそろ成人しようかという時期ではあるが――夢のような状況であるが、プランがないからと言って歩きっぱなしという訳にはいかない。男子高校生は心躍るデートがしたいのであって、特殊なウォーキングがしたい訳ではない。

 

 自分がしたいことは相手もしたいのだと信じる! と決め打ちして挑んだ『デート』は待ち合わせの三十分前に行ったらもう相手がいた上での『待った?』というコテコテのやり取りから始まり一刀としては自然な流れで手なんて繋いでみたりして、洛陽の街に繰り出した。

 

 恋愛をシミュレーションする実践的なゲームを広く嗜んでいた及川の言う所に依れば、デートの定番は映画、水族館、公園であるという。特に公園は『お前ぶっ殺してやる!』ってくらい嫌われててもOKしてくれる魔法のスポットなんやでというのが及川の弁であるが、一刀の感想は当時も今もほんとかよである。

 

 しかしこの時代にはいくら大都市と言えども映画館も水族館もない。ならば魔法のスポットを頼るしかないのかと思えば、近場の公園は今復興作業の廃材置き場になっており、公園として復旧するにはあと二週間はかかる見込みだ。及川の案を頭から排除した一刀は、自分で考え無難な選択肢を取ることにした。

 

「復興作業の甲斐もあって市も盛況らしい。珍しい品もあるらしいから、散策なんてどうかな」

「ああ、そうしよう」

 

 小さく答え、思春は手を握り返してきた。握る手がとても熱い。美少女だとは前から思っていたがこんなにも美少女だったのかと、一々静かで女性らしい反応をする思春に眩暈を覚える。

 

 ぼーっと思春を眺めている訳にもいかない。市に行くと決めた一刀は思春の手を引いて歩きだした。大都市である洛陽の、一際賑わう市の方へ。段々と周囲の喧噪が強くなると必然思春との距離も近くなる。ふいに視線をあげた思春が、思っていたよりも近い場所に一刀の顔があったことに反射的に動きを止め、そして手が離れてしまったことにこれまた反射的に足を速めて一刀の腕をひったくるようにして掴んだ。

 

 一刀からすればいきなり思春が飛び込んできたような形である。どうしたと視線で問うと思春はただ視線を逸らすばかり。別に、という心の声が聞こえてくるようだったが、幸いなことに機嫌が悪い訳ではないようである。

 

 手を繋ぐではなく腕を組むことになったが、一刀にとっても悪いことではない。気になる少女と距離が近いというのは良いことだ。これこそデートと気をよくして、洛陽最大の喧噪の地である大路の市に足を踏み入れる。

 

 露店に並ぶ品は戦が終わり洛陽に入ってきた品……ではなく、戦争が始まる前に洛陽にあった品がようやく表に出てきた形である。戦に区切りがついたことは既に帝国全域に知れ渡っていることだろう。耳の早い商人は我先にと洛陽での商いを再開するに違いなく、競合他社が増える前に売れるものは売っておこうと、洛陽地元の商店もたまたま洛陽で足を止めていた商人も声を張り上げて品を売っている。

 

 流石の思春もかわいらしくきょろきょろ辺りを見回している。甲斐性の一つも見せて何か買ってあげたいが生まれてこの方こういう状況で女の子に直接プレゼントしたことないからどういうものを買って良いのか解らない。朱里に羽扇のように何かぴんと来るものがあれば良いのだがと思っていた矢先、一刀の目が留まった。

 

 小物を売っている露店に並んだ一組のアクセサリである。銀の鈴がついた黒い飾り紐と金の鈴がついた赤い飾り紐。試しに手を取って振ってみると音がしない。音のしない鈴に一体どんな意味がと一刀が首を傾げていると、

 

「持ち主に重要なことが迫っている時鳴らないはずの鈴が鳴って教えてくれる。そういうまじないの品だ」

「なるほど思春には合いそうだね。鈴だし」

「そういうお前の方がこれが必要なのではないか? これからのし上がって行くのなら危険も多かろう」

「なら俺たちどっちもこれが必要ということで……」

 

 店主に金を渡して飾り紐一組をもらい受ける。途中、店主が目ざとく一刀の顔を見てあ、と声を上げたが、内密にと一刀が小さく声をかけるとこくこく頷いてくれる。ありがたいことだが目が爛々と輝いているのを見るに良くない予感が拭えない。これは講談に新しいネタが追加されるかもなと思いつつ、思春を促して歩きだす。

 

「俺に一つ。思春に一つだ。どちらか好きな方を選んでくれ」

「なら黒い方をもらおう」

 

 ひょいと一刀の手から黒い飾り紐を摘まみ、左腕に巻きつける。褐色の思春の肌に白銀の鈴が良く映えるが、

 

「思春なら赤い方を選ぶと思った」

「だからこっちにしたのだ。これならお前は赤い方を身に着けるのだろう?」

「自分で赤い方を付けた方が良くないか?」

「鈍い奴だな、お前は」

 

 小さく笑った思春は一刀の右手に赤い飾り紐を巻き付ける。一応ペア、ということになるのだろう。飾り紐をした手をお互い見比べていると、どちらからともなく笑みがこぼれた。

 

 それからは自然に動くことができた。お互いのことが知りたくてお互いと一緒にいたい。その気持ちが共通していればどこで何をしていても大抵は楽しいのだ適当に散策をしてお茶でもして話したいことを話せるだけ話していると、気づけば日も暮れようとしていた。

 

 大都市洛陽と言えども、日が落ちれば幾分静かになる。現代と異なり世闇の中でも灯りがあるのは繁華街くらいのもので、大抵の人間は日が昇ってから起き出し、日が沈むと家に帰る。賑やかだった市の商人たちが帰り支度をしているのを何となく寂しく思いながら、隣の思春に目を向ける。

 

「今日は楽しかったよ。久しぶりの洛陽散策だったけど思春と一緒だったからかな」

「そうか。お前がそう言ってくれるなら嬉しい」

 

 静かに微笑む思春の顔を見ると繋いだ手の感触が名残惜しくなるが、今日の時間はこれで終わりだ。出立が近い思春は決して暇な訳ではない。洛陽にいる間も忙しい日々が続き、地元に戻ってからはまた戦乱の日々だ。今日のことが息抜きになってくれたら一刀としても嬉しい。自分の右手と思春の左手にある飾り紐に目を向け、それじゃあと離そうとして一刀の手を、思春が強く握った。

 

 これまで見たどの顔よりも真剣で、熱に浮かされた思春と視線が交錯する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今から私は全てを忘れる。孫呉への忠義も己の武も何もかも忘れて、ただの思春になる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今宵一晩。ただの思春の全てを貴方に捧げます。心も身体も何もかも、私の全ては貴方のもの」

 

 

 

 

 

 

 

 

「だからお願いです。今宵一晩だけで良いのです。貴方の時間を私にください。私だけを見てください。貴方と一緒にいたいのです。貴方のそばにいたいのです――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第047話 反菫卓連合軍 洛陽戦後処理編⑥

 

 

 

 

 

 

 お互いの感情をぶつけ合い、全てをさらけ出して力尽きどれだけ時間が流れただろう。精も根も尽き果てた。指を動かすことも億劫な気だるさの中、ただ一人情を交わした相手の顔が間近にある。

 

 息がかかる距離でただ見つめあい、思い出したように唇を重ね舌を舐る。怠惰に退廃を重ねた時間が過ぎ、既に窓の外は白み始めていた。人生初めての朝帰りである。おまけに無断外泊だ。思春とでかけるという風には伝えてあるのでそこまで大事にはなっていないだろうが、どちらも良い大人だ。ナニが起こったのかは察せられていることだろう。顔を合わせてどんな会話をすれば良いのか。今から気分が凄まじく重い。

 

「…………なんだ?」

 

 お互いに向いていた感情が逸れれば気づくものなのだろう。それが嬉しくもあるが、美人に胡乱な目つきで睨まれると身も竦むというものである。そろりと散々思春に出し入れしたモノに手が伸びるのを見て、一刀はあっさりと白旗を挙げた。

 

「改めて思春は美人だなと思って」

「今更褒めても何もでないぞ」

「元から思ってんだよ実は。口にしてなかっただけで」

「口にしなくとも伝わることであっても、口にしなければならないことがあると知れたのは私の人生でも得難い発見だった」

 

 苦笑を浮かべた思春は手早く身を清め、身支度を整えていく。今宵一晩。それは思春の方から言ってきたことだ。既に日は昇っている。二人でいられる時間はもう終わったのだ。それを寂しく思う一刀だったが、仕方のないことだと思う。口にしなくても伝わることは確かにあるのだ。

 

「私はな、一刀。お前ただ一人と忠義を秤にかけたならば、躊躇いなく忠義を取る。そしてお前はいずれ私の忠義の前に立ちふさがるかもしれない男だ。その時私はお前を斬らねばならない。お前一人だけならば、私は斬り捨てられる。孫呉の刃として、決意が鈍るようなことがあってはならないのだ」

 

 身支度を整えて思春と向きあう。戦場では獅子奮迅に武者働きをし、荒くれ者を従える豪傑であるが、こうしてみると思っていた以上に身体は小さく細い。その小さな身体で思春が抱き着いてくる。まだ結われていない黒髪を見ながら、一刀は努めて思春の顔を見ないようにした。

 

「だから我が愛しい人。お前への気持ちはここに置いていく」

「…………思春がそう言うなら、仕方ないな」

「だが忘れてくれるな。たとえ道を違えるようなことがあろうと、目指す場所が違おうと、お互い命を奪うしかなくなったとしても」

 

 身体を離し、手早く髪を結った思春はもういつもの顔に戻っていた。既に日は昇っている。二人だけの時間は終わっても、確かに変わったものがあった。

 

 小さく、昨日まででは考えられなかったほどに優しく、思春が微笑む。

 

 

 

 

 

「私は一刀、お前を愛している」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洛陽の住民にとって連合軍というのは平和を乱すクソ野郎の集団だった。これに大火災が加わったこともあり、袁紹を筆頭に連合軍が洛陽入りした際の評価は最低も最低だったのだが、地道な復興支援と原因を全て袁紹に押し付けたこともあり、解散後の撤退は洛陽入りした時に比べて非常に和やかな雰囲気の中で行われた。

 

 長居はしないという旨を最初から打ち出していたのも大きいだろう。作業員以外は徹底して外に駐屯していたので、住民とのトラブルも最小限に抑えることができた。元より当代最高の知能が勢ぞろいしていると言っても良い集団である。支持向上を最初から念頭に置いていれば、それを達成するのはそれほど難しいことではなかった。

 

 復興作業をする傍ら噂を流すのも忘れてはいない。主だった陣営は主に袁紹陣営へのネガティブキャンペーンに終始していたが、もはや噂を流すまでもないほど袁紹軍の評価は酷いものだった。調査した限りでは連合軍が締め出され皇室と交渉をしている間に噂が凄まじい速度で広まったそうで、復興作業を始めるのがもう少し遅かったら巻き込まれていたと思うと、陣営のトップたちの肝も冷えたのである。

 

 やることが終わったのであれば、次は地元に戻っての戦の準備だ。連合軍は遠近の差はあれど例外なく遠征軍であるので、留まれば留まるだけ費用が飛んでいくのである。可及的速やかに帰れという下知は翻ってみれば諸将にとっては渡りに船だった。

 

 洛陽炎上の一報を聞いてすぐに立った公孫賛に始まり、追放された袁紹軍。更には足の速い馬超軍がその後に続き、後にそれぞれ大勢力に従っていた小さな勢力が洛陽を離れていった。

 

 そうして遅々として進んでいた撤退作業をようやくまとめた袁術軍に遅れること一日、洛陽を十分に満喫した孫呉軍が洛陽外の陣を引き払おうとしていた。連合軍の中では勅命により残留する一刀団を除いては最後の出立になる。

 

 ちなみに曹操軍はこの一時間前に出立している。集団が近隣でかち合うとお互いにとって良いことがないため、両軍団示し合わせての工程である。一刀たちはそちらに立ち寄ってからの訪問であるが、そのためか彼の軍師たちの機嫌が他人が見ても解る程に悪い。

 

 団としては曹操軍とはそこまで縁がないので一刀は一人で行くと言ったのだが、それを心配したという体で幹部全員がついていったのである。曹操以下幹部に軽い挨拶をし、特に団とは縁のあった楽進と会話の後、一刀個人で荀彧と会話するに至った。

 

 にこにこする一刀とは対照的に口を開けば罵倒ばかりの荀彧という構図は一刀団の少女らを苛立たせもしたのだが、自分の所のボスがにこにこしている以上口を挟む訳にもいかない。そんなしかめっ面の仲間たちを知ってか知らずか、一刀がこっそり買っていた荀彧への餞別を渡した辺りで仲間たちの苛立ちはピークに達していたのだが、それまで罵倒とローキックを連打していたのがウソのように、餞別の品を受け取った荀彧はあっさりと曹魏の陣へと消えていった。

 

 受け取ってもらえて良かったと安堵のため息を漏らしていた一刀は見えていなかったようであるが、軍師たちは餞別の品を決して落とすまいとしっかり抱えて走り去る荀彧の姿がばっちり見えていた。あのアマ……と思うのも無理からぬことである。

 

 心の中では嵐が吹き荒れているとて、ある程度思考とは切り離せるのが名軍師というものである。遠まわしにちくちくと一刀に小言を言いながら孫呉の陣営に移動する頃には、とりあえず人前に出られる程度には軍師たちの気分も落ち着いていた。

 

 機嫌の良さそうな一刀がそうでない美少女を引き連れているのは一種異様な光景だったが、当の一刀はそれに気づかない。既に陣は払われ、号令が掛かり次第出発できるようになっている。早い話が一刀待ちなのだが、それを不満に思っている人間はいなかった。

 

 居並んだ孫呉の精兵たちの中から、梨晏が進み出てくる。幹部の証である赤い衣を纏った梨晏は一刀に二年分をここで稼ぐとばかりに力いっぱい抱き着いた。

 

「元気でな梨晏」

「うん。絶対、良い女になって帰ってくるからね!」

「前にも言ったけど今でも十分良い女だよ」

「もー団長ってば正直ものなんだから!」

 

 照れて微笑む梨晏に一刀も笑みを返す。梨晏は『雪蓮のような体型』を指して良い女と言ったのだろうが、意味を態と違えての返答である。言外に『梨晏には無理かもね』と言っているようなものだったが、根が素直な梨晏は言葉の通りに受け取ったらしい。

 

 ご満悦の様子の梨晏の頭をぐりぐり撫でながら孫呉の面々を見る。食べている物が良いのか生活習慣のせいか、はたまた孫呉の土地に『汝巨乳であるべし』という霊的な力でも宿っているのか居並んだ孫呉の将たちは概ね巨乳である。相対的に小さく見える思春ですら、巨乳組から離れてみるとまあまあの大きさなのだから、その総合力は凄まじい。

 

 期限付きとは言え彼女らに合流するのだから梨晏もそうなるのではという思いも一刀とてないではないが、美少女ではあるがちんちくりんである梨晏がああなるとはイマイチ想像ができないでいる。

 

 女子の方が二次性徴は早いと聞くし、梨晏の今の年齢までちんちくりんなのであれば二年経っても劇的な成長は望めないだろうというのが正直な予想なのだが、それを口にしても誰も得をしないことは解っていたし、希望を持つのは自由だ。

 

 それに一刀もどちらかと言えば梨晏の希望が叶ったら良いなとは思う。そろそろ巨乳さんが加入してくれると嬉しいとは口が裂けても言えないが、とにかく希望を持つのは自由なのだ。

 

 遠目に孫呉の陣営を見ると苦虫を三十匹くらい嚙み潰したような顔をしている孫策を周瑜が慰めている所だった。旗色が悪いことを理解した上の勧誘であっても、目の前でいちゃつかれると彼女ほどの傑物でも堪えるらしい。

 

 正直、悪い気分ではない。梨晏はあくまで貸すだけだという念を押すために、一刀は梨晏を伴い孫堅の前に立った。梨晏といちゃついて終わりと思っていた孫堅は、態々自分の所までやってきた一刀を面白そうに眺めている。

 

 生っちょろい優男と思っていたら、存分に楽しませてくれた。本人が望むのであれば幹部の椅子を――もっと具体的には娘の誰かを嫁がせても良かったのだが、野心があるというのだから仕方がない。戦うのも良い。連携するのも良い。どうなろうと乱世だ。文句を言うつもりもないし言わせないが、飼うよりも野放しにした方がより面白いと、炎蓮の勘が言っていた。

 

 その勘が、眼前に立つ一刀を見た瞬間に沸き立った。

 

 こいつはこれから、何かしでかす。あらゆる場所で自分を助けてきた勘が、絶対的な確度でもってそう告げている。良いねぇ全く。顔がにやつくのを止めることができない。敵としてであれ味方としてであれ、いずれこいつと相対すると思うと今から楽しみでならない。

 

「どうぞ。お納めください」

 

 一刀が懐から取り出したのは小さな巾着である。手のひらに乗る大きさで、そこそこに良い拵えと見て解るのはそれだけだ。形からして印のように思えるが、同程度の大きさの金や銀あるいは玉というのも考えうる。商人が賂を直接渡す時に好まれる手法であるが、今さらこの男がそんなことをするとも思えない。

 

「なんだ? 心付けのつもりなら雪蓮にでも渡したらどうだ?」

「そちらは心配していませんので。これからも良い関係でいましょうという程度の、軽いものだと受け取っていただいて構いません。俺からのほんの気持ちです。気持ち」

 

 にこにこ意識して笑っているように見える一刀を横目に見ながら、炎蓮は一刀の幹部たちを見た。取り出したそれが何であるかは彼女らも知っているのだろうが、ここでそれを取り出したのは予想外だったのか、全員の表情が驚愕に染まっている。

 

 それでこの行いが彼女らの同意を得ていないことは察せられた。勝手な男だと思う。だがそれ故に気に入ったのだし、それ故に面白い。炎蓮は差し出されたそれを、一刀たちとしてではなくあくまで眼前の男からの気持ちとして受け取った。

 

「じゃあな! 北郷とその女ども! 次に会うまで達者で暮らせよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて思春! 随分風通しが良くなったようだが北郷のモノはどうだった?」

 

 来たな、と思春はひっそりと気息を整えた。本音を言えば閨でのことなど話したくはないのだが、戦に挑む前に助言まで聞いてしまった上、主君の言葉である。主君が求めるのだから応えない訳にはいかないと、しかし正確に口にすることは憚られた思春は、自分の記憶の便りに指で輪を作って見せた。その大きさを見て、隣で馬を走らせていた梨晏は笑い声をあげる。

 

「嘘だ! 指ついてないよ!」

「実際に握ったのだから間違いない」

「…………長さは?」

 

 思春は無言で手を広げ大きさを表現する。神妙な顔をしながら自分の手でその大きさを再現してみた梨晏は、自分のお腹に向きを変えて当てて無言になってしまった。入るのかな? という疑問は当然のものだと思春は思った。あの時は勢いで何とかなったが少しでも正気が残っていたら躊躇していたように思う。もっとも一刀の獣欲を前にしたら制止の言葉をかけても止まってくれなかったろうけれども。

 

「モノは中々のようだが持続力はどうだ? 一発でへばるようではさしもの甘興覇も満足はできんだろう」

「申し訳ありません。正確な数は私も覚えておらんのです」

 

 自然に男の名誉を守ろうとは色気づきやがって。モノの大きさはともかく回数には満足できなかったと見た炎蓮はそれをからかおうと口を開きかけたが、

 

「十五を超える辺りまでは数えておりましたが、そこから先は記憶が朧気で」

 

 おもむろに口を閉じた。いまだに自分のお腹を見てうんうん唸っている梨晏を横目にみつつ、炎蓮は祭を手近に呼び寄せた。

 

「有無を言わせず押し倒しておくべきだったか……」

「逃がした獲物が大魚であったとは。この口惜しさも久方ぶりですな」

 

 若かりし頃であれば今すぐにでも取って返して一刀に襲い掛かっていただろうが、年を経た今となっては後悔の苦みもおつなものだ。逃がした大魚を思いながらしばらくは思春の艶話でも酒の肴にしようかと思い直した炎蓮は、ようやく一刀から渡された餞別のことを思い出した。

 

「ほんの気持ちとやけに念を押されたように思うが、どういうつもりなのだろうな」

「奴のことですから他意はないのではありませんか?」

「だろうな。まぁ良い品であれば一晩二晩付き合ってやるのも悪くはないが」

「孫堅様もきっと驚くよ!」

「言ったな太史慈」

 

 炎蓮の言葉は中から出てきたものが翡翠でできた印璽であることに気づいたことで止まり、それに刻まれた文言を確認した辺りで流石の孫堅も呼吸が止まった。そうして沸々と、してやられたという怒りと、それ以上の歓喜が心の奥底から湧き上がってくる。

 

「雪蓮!! 北郷の奴はどうやらお前よりも器が大きいようだぞ!」

 

 豪快に笑った炎蓮は手の中のそれを思い切り雪蓮に投げつけた。喧嘩を売られたと解釈した雪蓮は手にしたそれをそのまま力任せに投げ返そうと振りかぶったが、並んで馬を行かせていた冥琳は手に持ったそれが尋常な代物ではないと一目で気づいた。

 

 声をあげる間もあればこそ。既に投げる体勢に入っていた雪蓮は、親友の気配が変わったことに瞬時に気づき、指を離れる寸前で力を抜いた。ふわりと舞い上がることになったそれは、雪蓮の意図した通り、冥琳の手に収まる。

 

 翡翠製の印璽である。それ自体は珍しいがないではない。冥琳もこれ以外に実物を何度か見たことがあるが、手の中のこれは手触りからして存在感が違った。恐る恐る彫られた文言を見てみるとそこにははっきりと彫られていた。

 

「命を天より受け、寿くしてまた永昌ならん」

「はぁっ!?」

 

 その文言はそれなりの立場にいる人間ならば一度は聞いたことがある。そしてその文言が彫られた物がどういう立場の人間が扱うものなのかも熟知している。この国に一つしかないはずのものがどうしてここにあるのか。それも雪蓮には疑問がつきないが、その如何様にでも使えるはずのものを、前の持ち主はあろうことか手放したのだ。

 

 豪気を通り越して狂気の域である。雪蓮とて江東の狂虎の娘だ。幼い頃から向こう見ずであるとか親によく似ているとか散々言われたものであるが、一刀と同じ立場で同じ行動ができるかと言われれば首を捻らざるを得ない。

 

 その辺りが母が器が違うと言った所以なのだろう。直接戦っても軍団を率いて戦っても彼に負ける気はしないが、器で勝負と言われてしまうと現時点では大分溝を開けられているように思う。

 

「梨晏はこれ知ってたの?」

「持ってることは知ってたけど孫堅様にあげるってことは知らなかったよ。多分今ごろ怒られてるんじゃないかな」

「その割には嬉しそうじゃない」

「だってさー、団長がさー、私のためにやってくれたんだしさー」

 

 愛を感じるよねーとくねくねする梨晏に、雪蓮はほぞを噛む。いっそこの判子を捨ててやろうかなという気さえ湧いてくるが、それこそ器の小ささを露呈するように気分が滅入った。せめて少しは機会を設けるためにと梨晏を招いたのに、みじめな気分になるだけで少しも事態が進展しないような気さえしてきた。

 

 己の力と才覚で今まで色々なものを手にしてきた雪蓮だが、手の届く所にあるのに手に入りそうにない、生まれて初めての存在に多大な焦燥と共に、仄かな快感を覚えていた。

 

「これが寝取られってやつかしら」

「寝てから言え」

 

 孫呉の血統が多かれ少なかれ狂人であることは今更疑い様もないが、性癖まで歪んでいるとなれば主にその相手をする冥琳としては堪ったものではない。

 

 共にその梨晏に言いようのない繋がりを感じる身としては、せめてその身体が汚れたりしない内に、望む男の下へ返してあげられるように努めようと冥琳はひっそりと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第048話 反菫卓連合軍 洛陽戦後処理編⑦

 

 

 

 

 

 

 

 戦争、大火、そして復興。住民にとって激動の時も過ぎ、帝都洛陽に漸く日常が戻ってきた。大火の被害を受けた区画は連合軍と地元大工の突貫工事で災害前の姿を取り戻している。帝都と言っても全ての住民が華やかな暮らしをしている訳ではない。大火の被害にあった中には決して裕福とは言えない暮らしをしている者たちもいたが、そういう者たちに連合軍の復興作業は実に好評だった。大火前よりも住居の質が良くなったからである。

 

 これは別に連合軍の温情という訳でもない。連合軍の兵は一刀団以外その全てが去ったが、情報収集及び流言を担当する者たちの仕事は、ここからが本番だ。戦が本格化するのであれば世論の向きはバカにできたものではない。世論の流れを操作するには実に金がかかって骨が折れると去り際に教えてくれた静里の姿を思い出しながら、一刀は目の前の客に向き直った。

 

 身なりの良い紳士である。洛陽で最も大きな劇場の主でそこで活動する劇団の長でもある彼は洛陽の演劇界の事実上の支配者でもあった。その彼が一刀に面会を申し込んできたのが彼以外の連合軍が去った日のこと。復興作業も一段落し郭嘉達が持ち込んでくる仕事に対応するだけだった一刀は、嫌な予感を覚えつつも面会をしてみることにした。

 

 そうして紳士から持ち込まれた案件は、やはり一刀の予想通りのものだった。

 

 巷で話題の講談を本格的大々的に劇場で公演したいのでついてはその許可を求めたいとのことである。脚本などはまだ出来上がっておらず、既存の講談をベースにした演劇になるということしかまだ決まっていないそうであるが、その時点で許可も何もないだろうと一刀は思った。

 

「巷の講談に許可を出した覚えはありません。それを元にするというのであれば、やはり俺の許可は必要ないのでは?」

「長期かつ続編の制作も考えておりますれば、やはり主役である閣下にはお話を通しておかねばならないかと」

 

 閣下ときたかと一刀は心中で苦笑を浮かべる。件の講談で有名になってから一刀への面会は後を絶たない。大抵は物見遊山の延長であることが多いので、郭嘉がチェックして弾いてくれているのだが、それはつまり面会が通ったということは少なからず受けて置いた方が良いだろうと郭嘉が判断したことが伺える。

 

 個人的には自分をモデルにした演劇など御免であるが、今後の成功に世間の評判が大きく関わってくることは、洛陽で活動する噂雀たちの数で察することができる。金もかけず後ろ暗い手段も使わず、ただ許可を出すだけで評判が上がるのであれば受けない理由はないということなのだろう。

 

 講談に台詞があるのは一刀と思春がほとんどで、後は敵役の呂布が少々と一刀本人以外は団の誰もダメージを受けないのも、フットワークが軽い所以であると思っている。自分以外が主役になった暁には精々からかい倒してやろうと心に決めつつ、一刀は営業用の笑みを浮かべる。

 

「若輩者故自分の名が連呼されるのは聊かこそばゆい思いではありますが、俺などにはもったいないお話です。出立が近い故大した手助けはできませんが、こちらからも是非お願いします」

「ありがとうございます! 団員たちも喜ぶことでしょう」

「許可の対価という訳ではありませんが、俺が演劇を拝見する際劇場で一番良い席をご用意いただきたい。お願いできますか?」

「劇場貸し切り。劇団員総出でのお迎えを約束いたします」

 

 ほくほく顔で足早に帰る劇場主が見えなくなるまで閣下の顔で見送ってから、一刀はうんざりしきった視線を郭嘉に向ける。

 

「噂雀さんたちの力でこの流行を下火にできないもんかな」

「名声には有象無象の付帯があるものです。我慢してください」

「郭嘉も町を歩く子供たちが自分の真似をしてるのを見たら同じ気持ちになると思うよ」

「貴殿をお支えする立場で良かったと心の底から思っている所です」

 

 にやにや笑う郭嘉が実に憎らしい。自分はそう簡単にはそういう立場にならないと理解しているからこその余裕が垣間見える。どうにかして一泡吹かせられないかと思うが、自分が言い争いで勝てるくらいなら彼女は軍師などしていない。弁が立つ仲間というのも考え物だなと途方に暮れていると、だんちょーと団員の呼ぶ声がした。

 

「今度はなんだ。紙芝居か幸運のお守りか木彫り人形か。木彫り人形は今なら郭嘉人形も付くからお得だぞ」

「付きませんよ。巻き込まないでください」

「それが……団長に客です」

「具体的に話しなさい」

「それが身分を明かさないもんで。えー、黒髪、女、十代、太史慈よりはいくらか下でしょうかね。身なりは良いですが派手ではありません。成り上がりではなさそうですな」

「少女が一人で来たんですか?」

「馬車を横づけしてありますが外で一人でお待ちです。洛陽で一番のお友達が会いに来たと団長に伝えてくれと」

「ああ、誰か分かった。ありがとう。後は俺が対応するよ」

 

 団員を帰し椅子の上で伸びをする。午後の予定をぼんやりと思い浮かべながら、一刀は郭嘉を見た。視線を受けて郭嘉はじっと一刀を見返してくる。予定を管理しているのは郭嘉であるから一刀以上に予定を把握している。先の劇場主のような客はもう来ないが、用事で出払っている幹部が全員戻ってきてからの打ち合わせをする予定だったのだ。

 

 打ち合わせには必ずしも一刀がいる必要はないものの、幹部たちは各々のツテを強化確認するために出払っている。その進捗状況をすり合わせておくのは必要なことであるし、重要な話が分かったのであれば、それはいち早く共有しておく必要がある。個人としても軍師としてもまた今度にしてくれというのが本音だ。

 

 話を聞いている限り訪ねてきたのは友人であるようであるが、自分が知らないのだから一刀が昔洛陽に来た時の知己なのだと察しはついた。以前一週間程洛陽に滞在した彼が荀攸の家に滞在した時、徐庶と供に洛陽を回ったとは聞いているが、他に訪ねてくるような友人がいたとは初耳である。

 

「今日会っておきたいと?」

「もう来てるのに追い返すのもどうかと思わない?」

「既に何人か追い返していますが……まぁそれは良いでしょう。風たちには私の方から言っておきますのであまり遅くならないように。また朝帰りなどしたらどうなるか解っていますね?」

「それはもちろん」

 

 苦笑さえも浮かべず一刀は大真面目な顔をして頷いた。思春とのことで朝帰りした時の空気は思い出したくもない。言い訳などできるはずもない。誰と時間を過ごしていたのかは皆把握していたのだから。大して広くもない部屋でじーっと、幹部四人に無言で見つめられるのは今まで味わったことの中でも一番の苦行だった。既に女になったつもりでいる梨晏が慰めてくれなかったらしばらく立ち直れなかっただろう。

 

「何かお土産でも買ってくるよ」

「なるべく早いお帰りをお待ちしています」

 

 要するにできるだけ早く帰って来いということだ。信用ないなぁと郭嘉に背を向けてから苦笑するが、いきなりの朝帰りをしたばかりなので当然である。さて、と歩きながら身なりを整えて宿の出入り口に向かう。日が差し、洛陽の喧噪が聞こえる外に出ると壁際に一人少女が立っているのが見えた。

 

 夜の帳のような真っ黒の髪は、まっすぐでつややか。日焼けなどしたこともないとでもいうような白い肌には、薄く化粧までしている。それが記憶にあるよりも幾分華やかなのは少女が成長したという証拠だろう。初めて会ってからおおよそ一年と半年。その時もうすぐ十になると言っていたから現代で言えばまだランドセルを背負っているような年齢であるはずだが、子供である幼い少女であると思わせると同時に、大人びていると感じるのはそれだけ立ち振る舞いが洗練されているからだろう。断じて四つは年上のシャンよりは胸があるなとは思ってはいない。

 

「待たせてごめん」

「良いのよ。人を待つのって楽しいのね。普段あんまりしないから新鮮だわ」

 

 あくまでにこにこ微笑む少女に、その言葉が婉曲な『待たされた』という意味だと解釈した一刀は苦笑を浮かべる。

 

「改めて。久しぶりだね伯和。訪ねてきてくれてありがとう」

「お久しぶりね一刀くん。先生から聞いてるわよ。私に何度も会おうとしてくれたって」

「せっかく洛陽に来た訳だしね。伯和の顔は見ておきたかったんだよ」

 

 おきたかったとは言っても今日までその思いが実を結ばなかったのも事実である。会おうとする努力を行動に移せたのはぼんやりと今後の日程が固まってからになったが、時間が取れたという荀攸に彼女の屋敷に会いに行った際に聞いてみたのだ。伯和に会うためにはどうしたら良いのかと。

 

 その言葉を聞いた荀攸は難しい顔をした後『お忙しい方ですから……』と答えるに留めた。荀攸の指導にしても向こうの都合に合わせて行うとのこと。教師の立場をしても面会の要望を出すのにも難儀するとのことで、ましてただの友達では難しいということだった。

 

 それでも会う可能性は彼女の方が高かろうと、先に伯和に会ったら会いたいと言っていたと伝えてくれと伝言を頼んでいたのだが、どうやら荀攸はちゃんと伝えてくれていたらしい。

 

「ゆっくりお話したいけどごめんなさい、時間がないの。馬車に乗ってくれる?」

「日が暮れる前には帰らないといけないんだけど大丈夫か?」

「私は一刀くんと違って良い娘だから心配ないわ。朝帰りなんてさせないから安心して?」

「…………」

「孫呉の甘寧将軍と一夜を共にしたんですって? 脚本(ほん)に深みが出るって大劇場の劇団員たちも大喜びだと聞いているわ」

「……………………」

「あ、もしかして私たちの友情にヒビが入るかもなんて心配してるのかしら。それも大丈夫よ。私くらいの美少女は殿方が殿方であることを否定したりしないんだから」

 

 女遊びをするのが――思春のことが遊びであった訳では断じてないが――当然の男だと、年端もいかない美少女に思われるのは、それはそれで傷つくのである。解ってるんだから、という慈愛に満ちた笑みが心に痛い。

 

「でも私とそういう関係になりたい時はもう少し段階を踏んでくれると嬉しいわ。まずはもっと出世してね? 最低でも州牧くらいにはなってくれないと嫌よ」

「…………がんばるよ。話を戻すけど、どこ行くんだ?」

「それは内緒。でも少しだけ教えてあげる」

 

 

 

 

 

「今の洛陽で、一番一刀くんに会いたいって思ってる女性のところよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この帝国で長安と一二を争う大都市である洛陽と言えど、都市としての構造は他の都市とそう変わるものではない。南にある正門。そこから伸びる大通りに、その中途、あるいは終点にその都市の中枢施設がある。洛陽の場合は宮廷であるが、その周辺と大通り沿いにランクの高い建物が集中し、そこから離れていくにしたがって徐々にランクが下がっていく。

 

 伯和の馬車が向かったのは宮廷にほど近く。正門から見て東側にある高級住宅街だった。荀攸の屋敷は宮廷を挟んでちょうど反対側にある。宮廷の東西に高級住宅街がある形になるがこれもどういう訳かすみ分けができており、官僚の住宅が宮廷の西側、武官の住宅が宮廷の東側となっている。

 

「つまり俺の相手は軍人ってことかな」

「答え合わせを楽しみにしてると良いわよ」

 

 馬車から降り、ある邸宅の前で立ち止まる。荀攸の屋敷も華美な装飾のない家だったが、目の前の屋敷はそれに輪をかけて質素である。屋敷を囲む塀と中に屋敷、以上。外から見た感想はこれだけで塀は地味だし外から見える屋敷も地味だ。随分庭が広々と作ってあり中には木々まであるというのが特徴と言えば特徴であるが、もっと広い屋敷もあれば華美な屋敷もある一帯では埋没する程度のイメージである。

 

「それにしても静かだな。荀攸殿の屋敷の近くでもここまでではなかったのに」

「この一帯は董卓軍の幹部の屋敷が密集してたから、という理由で勅令で封鎖されているのよ。帝室から許可をもらわないと入れないようになっているの」

「そんな所に入れるなんて流石美少女だな」

「それほどでもあるわ」

 

 悪びれもなくふふんと、年齢の割に成長した胸を張る伯和である。頭でも撫でてやろうかと近寄ると、一刀の足元に小さな影が近寄ってきた。品の良い赤い布を首に巻いたコーギー犬と思しき子犬である。相変わらず文明というか文化の成り立ちがよく解らない世界であるが、いるものは仕方がない。

 

 今問題なのは目の前に犬がいることと、その犬がどういう訳か自分に懐いているということである。毛並みの良さから飼い犬だろうが、よそ様の犬とは思えないくらいに人懐っこい。持ち上げて――女の子だった――抱きしめるとぺろぺろ頬を舐めてくる子犬を眺めて、伯和が首を傾げた。

 

「貴女、セキトね?」

 

 伯和の言葉が解るのか、セキトと呼ばれた子犬はわんと小さく吠えた。

 

「会ったことないのに名前が解るのか?」

「こういう犬を飼っているという話を飼い主から聞いたことがあるのよ。それに首の布は私が贈ったものよ」

「なるほど」

 

 わしゃわしゃ撫でると気持ちよさそうに唸ったセキトは、名残惜しそうに地面に降りると振り返った。歩き出すセキトについてこいと言っているのだと判断した一刀は伯和を伴って屋敷の中へと入っていく。

 

 外観が質素であれば内装も質素だった。人が住んでいる気配は辛うじて感じられるが、売り出し中の邸宅と言われても納得できる。微かに厩舎のような臭いがなければ警邏の途中であっても無人と判断しただろう。

 

 伯和は庭をずんずんと進み、中央に立つと声を張り上げた。

 

「恋! 出てらっしゃい!」

 

 おそらく真名と思われる名前。それなりに親しいのだろう。会わせたいのはそのレンさんかなとのんびり待ち構えていると、背後で風が鳴ったような気がした。振り返るとそこに、一刀たちにとっては死を具現化したような女が立っていた。

 

 反射的に剣に手を伸ばしそうになるのを、寸前で堪える。音もなく背後を取れたのだ。殺すつもりであるなら既にそうしている。決して会いたい相手ではなかったが戦闘以外の意思がある人間を前に戦意を示すのは愚策である。戦闘というのは最後の手段。荀彧を始め軍師たちに何度も言われた言葉を思い出しながら、一刀は無理やり笑みを浮かべてみせた。

 

「お久しぶりです、呂布将軍。虎牢関以来ですが俺を覚えておいででしょうか」

「戦場で殺したと思って殺せなかったのはお前が初めて。名前は後で知った。ひさしぶり、かずと」

 

 できれば会いたくはなかったということはおくびにも出さず差し出された手を握り返す。いまだに心臓はバクバクと言っているが威圧感のある炎蓮を相手に大物ムーヴを決め続けて度胸がついたのか、手を離す頃には呂布の容姿を観察する余裕も出てきた。

 

 暗い赤髪に褐色の肌。露出の多い服装にミニスカート。目を引くのは背中一面にあると思しき刺青だろうか。現代日本人らしく一刀も刺青には良いイメージはないが、恋からは刺青をしている人間特有のアウトローな雰囲気は感じられない。

 

(俺が入れてもこうはならないだろうな……)

 

 美少女は得だなと思う瞬間である。

 

(ひじり)も久しぶり」

「私は一刀くんのついで? まぁ良いけど、恋も女の子だものしょうがないわね」

「かずとがそうなの?」

「そうよ。一刀くんが貴女と家族を洛陽から出してくれるわ」

「……先に話を説明してくれないかな」

 

 既に大事になっている上にどうも断ることのできない雰囲気は肌に感じているが、この場で状況についていけていないのは一刀だけである。痛む胃を我慢しながら声を挙げると、呂布は屋敷の奥に向かって手を振った。

 

 その屋敷の奥から、ぞろぞろと動物たちがやってくる。その数は十ではきかない。動物園でも開けるのではという程の多種多様な動物たちはぞろぞろと歩き、一刀たちの前で行儀良く待ての姿勢で並んだ。その先頭に子犬のセキトが収まっている。虎などもっと大型の動物もいるのに、どうやら彼女が群れのボスのようである。

 

「この子たちを洛陽から出したい」

「察するにそれがここに残られた理由かと思いますが、戦後のどさくさに紛れて逃げられなかったので?」

「董卓は配下の撤退を優先してたのよ。涼州兵とその家族を逃がしてる間に連合軍がやってきて時間切れ」

「同郷でないにしても将軍は功労者でしょう? そちらのご家族が逃げがたいという事情も把握されていたのでは、優先されても良かったように思いますが」

「逃げるなら下の者から、という方針を崩すつもりはなかったみたいだしね」

「なら董卓殿が外にいて呂布将軍が中にいるのは……いや、俺が今言ってもしょうがないな」

 

 呂布が扱いに憤っているのならばまだしもであるが、彼女は彼女で董卓の行動には納得しているようである。不運が重なった結果として今があるのだ。ならば部外者である自分が口を挟むことでもないだろう。

 

「それで、伯和にはこの子たちを出すアテがあるのか?」

 

 誰がどういう形で連れ出しても良いのであれば、いくら沢山の動物がいたとしても何度かに分ければ連れ出せたはずだ。それが今この時まで全員まるごと残っているのだから、二つの条件のうちどちらか、あるいは両方が達成不可能なのだろうと察する。

 

「まず問題から説明するわね。この子たちなんだけど、人がいる所では恋が一緒にいないとダメらしいのよ。怖くて暴れちゃうのよね」

「洛陽を出る時は呂布将軍が一緒にいないとダメってことだな」

「それから二つ三つに分けて出すのもダメ。恋がお世話してるだけあってこの子たち賢いから、置いていかれるかもって凄く不安になっちゃうんですって」

「全員一緒にってことか……」

 

 最悪なことに両方ダメなのだと理解した一刀は思わず頭を抱えた。

 

「加えて恋がこの子たちと暮らしていたことは洛陽の住民は皆知ってるわ。そして恋を含めた董卓陣営の上層部は()()()勅命で手配されているから、洛陽の兵は見かけたら捕縛しないといけないの」

「呂布将軍が堂々と連れて出ていくというのも無理な訳だな」

「という訳で、賢くてかわいい私はとっても良い方法を思いついたの! 一刀くんが恋と一緒に皆を連れ出せば良いんだわ!」

「俺が呂布将軍の家族を連れてたら不味くないか?」

 

 復興作業に尽力していた一刀は、董卓軍の評判が悪くない所か非常に良好であることを理解している。いくら時の人とは言え、人気者であったらしい呂布の家族を連れ出していたら良い顔はしない所か誰何の声を挙げられる可能性だってある。その時呂布が一緒にいる所を見てしまったら、兵は動かざるを得ない。呂布に関しては最低でも良く似た別人で押し通さねばならないのだ。そのためには不測の事態で目立つことは避けなければならない。

 

「大丈夫よ。この子たちは勅命で一刀くんに下賜されるわ」

「随分力強く断言してくれるけどアテはあるのか?」

「かわいく断言もするわ。だって恋は皇帝陛下とはお友達だもの」

「…………?」

 

 呂布は首を傾げる。感情の起伏が薄く意思疎通が難しいタイプなのかと思えば、伝わりにくいだけで自分の意思を伝えようとはしているのだ。表情と仕草から『こいつ何言ってんだ』という困惑が一刀にも伝わる。

 

 当然以前から付き合いがあるらしい伯和にもそれは伝わっただろう。余裕を崩さない彼女にしては珍しく、呂布が口を開くよりも僅かに早く言葉を被せる。

 

「お友達よね!?」

「うん。恋は仲良し」

「言わせた感があることには目をつぶっておくよ。アテがあるということだけ解れば十分だ」

「理解が早くて助かるわ一刀くん。出立はいつかしら?」

「任地の伝達は明日になるって昨日連絡がきた。準備はもう進めてるけど調整と挨拶も三日後ってとこだな」

 

 遠隔地になるのであれば準備の期間もそれなりに必要となるが、軍師たちは間違いなくここ、というくらいの確度で準備を進め、伯和には『進めている』と表現したが実のところそれは既に終わっている。時間的な猶予を取ったのはできるだけ進行に余裕を持たせたいのと、挨拶まわりをしっかりしておきたいと思ったからだ。

 

「あら、一刀くんの軍師さんたちは任地がどこか予想がついてるのかしら?」

「并州の……名前は忘れた。何か常山とかいう所の隣だろうって言ってたよ」

「……………………そう。一刀くんの軍師は優秀なのね」

 

 それまで得意げだった表情が一転、伯和の声のトーンが一気に下がる。顔にもはっきり不機嫌と書いてあった。フォローの一つもしようかと思ったが、雰囲気が話しかけるなと言っている。少し放っておこうと決めた一刀は呂布に向き直った。

 

 

「そういう訳なので三日後には洛陽を出立の予定です。細かな段取りは明日以降ということでどうでしょうか」

「恋ならこれから行ってもいい」

「ご家族は大丈夫なので?」

「ここでじっとしてる分には問題ない」

 

 それもそうかと一刀は思い直した。呂布がいないだけで暴れ出すならおちおち家をあけることもできない。暮らしていたと思しき屋敷は数多の動物が暮らしていたとは思えないほど綺麗であるから、それなりに大人しくしていたのだろう。近隣の住民がどう思って居ようと、まさか呂布の屋敷と認知されている屋敷の中で、大人しくしている動物をどうこうしようとは思うまい。

 

「それでは、これからご足労いただいても?」

「いい。あと、この子たちを洛陽の外に出してくれたら恋は一刀に仕えるからよろしく」

 

 それが当然というトーンに一刀の方が反応が遅れた。言葉の意味を理解すると同時に、全身から冷や汗が流れてくる。良いか悪いかで言えば非常に良いことに決まっている。当代最強の武人が大した手間もなく仕えてくれるというのだから。

 

 自分を殺しかけた人間という思いも、時間が解決してくれる。仲間たちも諸手――は挙げないかもしれないが、受け入れてくれるだろう。

 

 一刀が考えているのは何か裏があるのではないかということだ。そんなジャイアンの代わりに店番をしたらドラえもんズが全員仲間になったくらいの都合の良いことがあって良いものか。

 

 しかし、話してみた限り呂布には表裏があるようには見えない。この主張の薄さでは腹芸なども無縁だろう。一刀の感性は信用しても良いと言っているが、感情が理性を凌駕することが往々にしてあるように、理性が感性を押しとどめることもある。それと上手に付き合うことが理を解くということだと郭嘉などは言うが……

 

 黙考して一刀は決断した。

 

「俺としては是非お迎えしたい。しかし、董卓殿はよろしいので?」

「月のことは大事。でも、この子たち全員を助けてくれた恩義に勝るものはない」

 

(董卓殿。人道を押し通した代償は大きかったようですよ)

 

 会ったこともない董卓に内心で同情したことは顔には出さず、一刀は笑みを浮かべて右手を差し出した。

 

「改めて。俺は北郷一刀。姓が北郷で名が一刀です。字と真名はありません。すでにお呼びいただいておりますが、一刀とお呼びください」

「呂布。字は奉先。恋って呼んで? あともっとやさしく」

「うん、これからよろしくな恋」

「よろしく」

 

 薄く笑みを浮かべ、呂布改め恋は一刀の手を握り返した。新たな主従の契りが結ばれる場面を不機嫌なままの伯和はじっとりとした目で眺めている。

 

「この私を放っておいて別の女の子に粉をかけるなんて一刀くんはどういう神経をしているのかしら!」

「伯和のおかげで恋と仲良くなれたよ。ありがとう」

「それが目的だったからそれは良いんだけど! 良いんだけど!! あぁ、もう……」

 

 伯和は目を閉じると大きく息を吸い、時間をかけて吐いた。ゆっくりと目を開いた時には、いつもの勝気な笑みが浮かんでいる。その笑みの凄みが増していると感じた一刀は思わず一歩後退した。

 

「この報復は必ずするから楽しみにしておくことね一刀くん!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伯和の報復宣言でその場はお開きとなり、一刀は伯和が手配した彼女とは別の馬車で、恋と共に下宿に戻ってきた。伯和は恋の邸宅から直帰するそうである。何でも家の仕事を無理やり抜け出してきたそうで、そろそろ戻らないとまずいのだそうだ。約束の散策はまた今度ね、という微笑む少女は、自分などよりもずっと大人で賢く強い少女だと一刀は思った。

 

「おかえりなさい」

 

 たまたま用事から帰ってきた所だったのか、外套をつけた郭嘉に出迎えられた。時刻は夕暮れ時。朝帰りはしなかったぞと少し得意げな顔で馬車を降りた一刀に対する郭嘉の視線は、彼が女連れであることで温度が下がった。

 

「出先では随分ご活躍されたようで」

「馬車で来た娘の仲介で、仕事を受けたんだよ。仕事が終わったらうちに入ってくれるそうだ」

「それは頼もしい」

 

 郭嘉の怜悧な視線が恋に向く。フード付きの外套を身に着けている恋は見るからに怪しく、馬車から男に連れられて降りてくる様は、金持ちの男が屋敷に娼婦を連れ込む一幕と思われてもおかしくはない。

 

 郭嘉の雰囲気にすわ修羅場かと団員たちがぞろぞろ集まってくる。そんな中で、恋はフードを取った。赤い髪に褐色の肌。赤みがかった紫の瞳に、郭嘉以外の団員たちが心臓を鷲掴みにされたような顔で硬直する。唯一、恋の顔を見たことのない郭嘉だけがそのままのトーンで恋に問うた。

 

「見た所武人のようですが、腕の方はどれ程?」

「武器を返してくれるなら恋一人で三万は殺せる」

「……以前のお仕事は何を?」

「将軍」

「…………例の件で驚かされるのは最後と思っていましたが、貴殿は想定を良い意味で裏切るのが得意なようだ」

「かずとの軍師?」

「ええ。郭嘉、字は奉孝と申します。長い付き合いになりそうですね。これからよろしくお願いします、呂布殿」

 

 

 

 

 

 

 



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