人たる所以を証明せよ、と魔法師は言った (ishigami)
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豚は太るか死ぬしかない
01 入学式



 本作は所々でポエムな表現や性的なほのめかし、暴言が炸裂します。
 それらをご了承のうえで稚拙にお目通し下されば幸いです。


















 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 春。桜舞う季節。

 

 二〇九五年。四月。

 東京都八王子市。国立魔法大学付属第一高校にて。

 

 ある少年。期待に胸高鳴らせながら門をくぐり学内を歩く新入生たちの顔ぶれの中で、浮かない表情をしたとある少年がため息を漏らした。

 

 制服の肩には、八枚花弁のエンブレム。彼が一科生であることは容易に知れる。もし彼が八枚花弁を持たない「雑草」すなわち二科生であったなら、あるいは今後の学業展望を憂いている姿と取られたかもしれない。

 

 一科生である彼が嘆いたのは、在校生と思しき生徒がつい先ほど、中庭のベンチで携帯端末を操作している姿勢の綺麗な二科生の男子を見かけた際に嘲笑している光景を目撃してしまったためだった。

 

 国立魔法大学付属第一高校は、国立魔法大学へ数多くの卒業生を輩出しているエリート校として有名だが。蓋を開けてみれば、生徒間の差別意識といきなりのご対面となったわけで。

 

 悪感情(ルサンチマン)題材(・・)としては面白いものの、一般生活を送る上では余計な火種でしかなかった。これでは気分が下がるのも致し方ない。

 

 ――方や一科生。ブルーム。 

 

 ――方や二科生。ウィード。あるいは補欠(スペア)

 

「つまんないね……」

 

 優等生と劣等生。多くの生徒が奥底で抱えている問題を、少年は冷めた目で「そそられない」と切り捨てる。もちろんそんな内心は、決して(おもて)には現れていない。

 

 身長は一七〇センチほど。現代ではすっかり珍しくなったリムレスタイプの眼鏡をかけ、背中まである艶やかな黒髪を首辺りで柔らかく結った痩躯の、美丈夫。優秀な魔法師であるほどに容姿も優れるという説に漏れず、彼は端正な顔立ちに柔らかで余裕ある表情を浮かべていた。

 

 携帯端末を取り出す。始業式の時間が近づいている。ナビアプリに従って移動していると、案内板を凝視している二人の女生徒が目に入った。

 

 明るい赤色の髪をした少女。かたや黒髪の、少年と同じように眼鏡をした大人しげな少女。共に二科生である。

 

 活発そうな少女が振り返った。

 

 視線。

 

 ――無視するわけにもいかないか。

 

 少年は、人の警戒を解く笑みを浮かべて「どうかなさいましたか」と訊ねた。

 

 二人は一科生が近づいてきたことで目を合わせ、しばし逡巡したあと「会場の場所がわからなくて」と答える。

 

「携帯端末はお持ちではない?」

 

「あたしは家に忘れちゃって……」

 

「わ、私は仮想端末は持ち込み禁止って、書いてあったので」

 

「なるほど。あなたは素直で真面目なお人のようですね」

 

 微笑まれ、褒められて戸惑う黒髪少女と、少しむっとした顔をする活発少女に、「冗談です。でしたら会場までご一緒にどうですか」と提案する。

 

「いいの?」

 

「お二人がよろしければ」

 

 緊張も薄らいだらしい両名は、嬉々として頷いた。

 

「あたしは千葉エリカ。よろしく」

 

「柴田美月です。よろしくお願いします」

 

 自己紹介。そういえば学内で名乗るのは初めてだなと思いつつ、少年は答えた。

 

「僕は御嵜十理(おさきしゅうり)といいます。どうぞよしなに」

 

 

 ―――。

 

 

「ほう。貴女があの千葉家のご息女だったんですか。実は僕の住んでいるマンションと提携しているセキュリティ会社が千葉セキュリティでして、叔母に聞かされたことがあります。千葉家には、武に優れたご令嬢がいると。どうりで、姿勢が綺麗だと思いました」

 

「あはは。まあこれでも、道場の看板を背負ってる身だからねえ」

 

「さしずめ見目麗しき美少女剣士といったところですか……人気が出そうな響きですね」

 

「なにそれ! やめてよね、道場の連中が口にしたら容赦なく叩き潰すワードよ、それ」

 

「エリカちゃん。声。みんな、見てるよ」

 

「えっ――ぁ……う」

 

「なるほど。可愛い人ですねえ」

 

「なッ!? ………ふーん、なんか印象変わっちゃったな。御嵜くんって、そういう感じなんだ」

 

「妙なことを仰いますね。僕は人に隠し事はしても嘘はつかないんですよ」

 

「胡散臭いなあ」

 

「あははは……」

 

 苦笑いする柴田美月。すっかり警戒も打ち解けた様子で会話していると、三人は会場にたどり着いた。

 

 入場。

 

 ――これは、また。随分と露骨な。

 

 思わず笑ってしまうような光景が、広がっていた。会場の前半分は一科生。後ろ半分は二科生で綺麗に二分されている。

 

 入学初日から、わざわざ荒波を立てる真似もしたくなかったので。「どうやらここでお別れのようですね」

 

「うん。じゃあね御嵜くん」

 

「失礼します」

 

 十理は前側の適当な場所へ移動すると、周囲の様子を観察する。

 

 入学式が始まった。

 

 

「新入生代表――司波深雪さん」

 

 

 その少女が登壇すると、会場で鳴っていた小さな布擦れの音さえも静まった。

 

 マイクの前に立ち、一身に視線を浴びる少女。白い肌。麗しい黒髪。酷く(・・)均等の取れた容姿とスタイル。

 

 誰もがその美しい挙措に見蕩れ、一言ごとに震える桃色の唇に目を奪われている中で、十理は違うことを考えていた。

 

 ――まるで人形(・・)のような造形だ。

 

 普段は眼鏡によって抑えられている瞳を冷徹(・・)にして。御嵜十理はしばし司波深雪の「不自然なまでの美しさ」を観察すると、新入生挨拶終了と同時に、拍手喝采に紛れて感嘆の息をついた。

 

 ――自然発生か、あるいは整形と言われたほうがしっくりくるが。

 

 すぐに穏やかな笑みを取り戻し、十理は周りと人間と同じように手を打つ。

 

 

 ――いずれにせよ、思ったよりも退屈はしないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 次回、あのキャラクターが登場。

 














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02 創作活動1


















 

 入学式が終了すると、次はクラス分けである。

 

 個人情報を入力してIDカードを受け取った御嵜十理(おさきしゅうり)は、任意であるホームルームを欠席して帰路についた。

 

 停留所でほかの帰宅生たちと同じようにコミューターに乗り込み、最寄り駅からは徒歩十分のところに建つ閑静な高層マンションへと向かう。

 

 到着。一月前には戸惑っていた面影も今はなく、顔認証スキャンをパスして聳え立つマンションの入口をくぐり抜けると、慣れた手つきで十三階を押す。エレベータを降り、廊下突き当りにある部屋を、指紋認証で開錠した。

 

「ただいま……」

 

 自動で施錠されると、十理の足元が波打った。

 

 ()が、水面のように揺れている。影は玄関のフローリングまで伸びると唐突に膨れ上がり、厚みを帯び、瞬く間に色めき、そして――

 

 着物姿の少女のカタチを象った。

 

「おかえりトーリ」

 

 肩に触れるか触れないかぐらいに伸ばされた艶やかな黒髪。鉱物的な造形美の、凛々しい容姿をした()が微笑む。

 

「うん。ただいま。(しき)

 

 

 

 ―――。

 

 

 

「ええ。それぐらいわかってますよ、御祖父さん」

 

 薄手の着物に着替えた十理は、滅多に触れない通信端末を使い、双方向映像音声通信で祖父母に無事を報告していた。お祝いの言のあとは、家主である叔母(・・)へ迷惑をかけないようにすること、暮らしの変化に対する様々な心構えをくどくどと説かれ、相槌を打ちつつも辟易していると、背後でニュースを見ながら夕食を準備している織に代わるよう言われた。

 

「なに。オレに?」

 

 ホーム・オートメーション・ロボットは所有していないため食事は基本的に各々でやる必要がある。彩箸を受け取ってフライパンを巧みに操っていると、織は持ち前の陽気さを発揮し、両親と賑やかな会話を始める。

 

「だいじょうぶだよ、幻蔵(げんぞう)も愛花も心配し過ぎだって。トーリはあんなんでも外面は良いんだから……オレもいるし」

 

「織くんの言いたいことも分からんでもないが……あの十理だからな」

 

「ごめんなさいね織ちゃん、ほんとうに、あの子のことよろしく頼むわね」

 

「まかせてくれよ。なんたってオレはあいつの式神、なんだからさ」

 

 織が通信を終えると、離れて途中だった料理を仕上げた十理が、皿に盛ったそれらをテーブルに並べ終えたところであった。

 

 互いに向き合い、腰掛ける。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

「……ふむ。いい味付けだ」

 

「そりゃあね。こんだけ付き合いが長けりゃ味の好みくらい分かるってもんさ」

 

「それにしては気合が入っているだろう。今日は()の好きなものばかりだし。何かあったか?」

 

「まあ、ささやかな入学祝いみたいなものだよ」

 

「なるほど。最高の入学祝いだな」

 

「おまえって真顔でそういうこと言うよな」

 

「とても美味しい。うん、よく味わって頂くとしよう」

 

「どーぞ。召し上がれ」

 

 眼鏡を外している今の十理は外面と違って鋭い目つきに加え、口調も異なっていたが、それでも食事はゆっくり味わって感謝して食べるというモットーに変わりはない。

 

 本来であれば。人形(ヒトガタ)ではあるものの厳密な意味で物質的肉体を持っているわけではない織が食事を取ることに意味は無いように思われるが、だからといって相棒(パートナー)に相違ない織の横で自分だけ食事するのも気が引けるため、十理はこうしてテーブルを囲うようにしていた。

 

 対外的には使役された「付喪神」、真相は御嵜十理の作品(・・)に降霊した「異世界の魂」であるところの織は古式魔法における精霊やParanormal Parasiteに分類されるらしいものだが、食事を摂取することで自らの核である霊子に想子を極微量ながらも蓄えることができるらしく、行為そのものも無意味というわけではない。

 

「ごちそうさま。満腹だ。久々にこんなに食べたな」

 

「ん。おそまつさん。皿は置いとけよ、オレがやっとくからさ。……どうせすぐに作品に取り掛かるんだろ、シカオ・ユリス先生?」

 

「ああ。もう終盤に入ったからな。私としては今日か明日にでも完成させておきたい」

 

「入学式だってのに遅くまでやってたもんな。夜食はどうする?」

 

「頼めるか」

 

「はいよ」

 

「織」

 

「ん?」

 

「ありがとう」

 

「はいはい。わかってるよ」

 

 言うが早いか立ち上がった十理は玄関を出て、隣に叔母名義で借りてある作業用部屋へと姿を消した。

 

「いってらー。ガンバレー」

 

 ――あの様子だと、今日はずっと篭もりかな。

 

 織はテレビを眺めつつ、自分のペースで食事を終えると、洗った皿を水切り台に掛けたところでふと思いつき、専用に備えてある冷凍庫を開けた。

 

「……あれ、切れてら。あんにゃろ、最後に食ったんなら足しとけよなー」

 

 中学時代でもそうだったように、織は多くの時間を十理の影のなか(・・・・)で過ごすことにしているが(体力を維持するうえでの想子の供給という理由もあるが、なかに広がる空間を模様替え(かいぞう)して、慣れてしまえば意外の居心地のいい場所なのだ、あそこは)、外の様子を探る(すべ)はあるものの、四六時中起きているわけではない――「呼ばれ」なければ寝ていることもままある――ので、主人(マスター)の行動にはしばしばこういった不具合があった。

 

「買ってくるか……」

 

 とはいえ。集中域に入っているであろう十理を「念話」――想子供給の繋がり(・・・)を利用した意思疎通回路――で呼びかけて邪魔するのも忍びなく、結局は「アイス買いに行ってきます」とメモに残して、暗がりも深まりつつある夜の街へと繰り出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 ――きっと、誰もこんなこと想像しなかった。

 

 

 最古の記憶は。雨の降る音。

 

 ………

 

 濡れている。全身を打つ雨。冷たい。冷たい。カナシイ――

 

 涙。歪んだ視界。遠のいていく。薄れていく。ダレカのスガタ。足音。ダレ?

 

 遠ざかっていく。終わり。ソレデモ。

 

 ワラッた。

 

 ………

 ………

 

 

 ………

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 夢を、見た。とある少女が、とある少年と共に歳を取り、穏やかなうちで過ごしている景色。共によく知った顔であり、その結末は思い描いていた以上の幸福のカタチだった。

 

 ………

 ……。

 

 ――

 

 ふと。気づく。

 

 ―――――。

 

 なんだ。これは。

 

 

 なんだここは(・・・・・・)

 

 

 どうしてオレは。オレという思考は消えていない?

 

 消えたはずだ、オレは。オレという存在は。

 

 存在。オレ。

 

 (しき)という名の――オレ。

 

 思考する。オレとは何か。織。両儀式(りょうぎしき)の一人格。式の対極。

 

 式と織。陰と陽。「両儀式」のなかの「否定」をつかさどり、「虚無」という「両儀式」の起源(げんけい)から枝分かれしたもう一方、式のために傷つけられ(ころされ)続けた人格。

 

 そうだ。オレ。それがオレだ。オレがしてきたことだ。されてきたことだ。

 

 不満――不満はなかった。式のなかの抑圧された志向を請け負うのも、それ自体望んでいたことだった。不遇と思ったこともない。だから。そう。

 

 思い出した。

 

 

 だから――式の代わりに消えたことも。悔いてはいない。

 

 

 ユメ。守りたかったものを、守れたのだから。

 だが。

 

 ならばなぜ。オレは消えていない?

 

 死んでいない(・・・・・・)

 

 オレが死んでいないのなら。式は? 

 

 オレの守りたかったものは?

 

 ――こえが、きこえる。

 

 ――オレをよぶ、こえが。

 

 

 光。

 

 

 光が、――――――――

 

 

 

 ………。

 ……。

 

 

 ――

 ―――――

 

 

 

 

 

 

 

「まさか。いま、動いた?」

 

 

 そして。

 

 オレは「此処」にいた。

 

 

「おまえはいったい――」

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 とある少年の工房にて。

 

 とある人形が見開いた。

 

 蒼の双眸。活けるものすべての死を見通す魔眼が、喚び出した少年を見つめ返す。

 

 

 

 ――五年前、運命がまがった夜の一幕。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




















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03 騒動1



















 

 学校生活二日目――

 

 

 御嵜十理(おさきしゅうり)は、呆れ果てていた。

 

 昨晩は作業が終了したのが深夜三時を回った頃であり、就寝したのは四時を過ぎていたためだいぶ睡眠不足を否めなかったが、間違っても遅刻などしないよう余裕を持って登校した彼は、疲労を穏やかな仮面に隠し、これより一年を過ごすことになるⅠ-A組に足を踏み入れた。

 

 現代ではすっかり珍しくなったリムレスタイプの眼鏡をかけ、背中まである艶やかな黒髪を首辺りで柔らかく結った痩躯の、美丈夫。穏やかな雰囲気を醸す好青年。

 

 座席に備え付けられた学校端末から履修登録を早々に済ませてしまった十理は、他の生徒から落ち着きのある優しげな人物として好感を持って話しかけられていた。

 

「私、光井ほのかっていいます」

 

「北山雫。よろしく」

 

 隣席である北山雫たちと自己紹介を交わすと、かつて父親から譲ってもらった細身の腕時計を確かめ、十理は呆れたものを見る目で彼ら(・・)を眺めた。北山雫も倣うように視線を遣り、光井ほのかは彼らの中心にいる人物に見蕩れている様子である。

 

 ――分からないでもないが、それにしても、だ。

 

 ある生徒の周りに群がる(・・・)クラスメイトたち。

 

 昨日の新入生代表演説で、演説の中身よりも類稀れな美貌によって多くの人間の心を射止めたであろう司波深雪とお近づきになりたいと考え、早くも彼女を中心に――そしておそらく彼女の意思とは無関係に――形成されたグループ内で牽制し合う学生らの姿は、眼鏡を外した状態の十理であれば「外灯を飛び回る羽虫のようだ」と客観的に酷評したことだろう、けれど今の彼は主観的で平和主義者である。

 

「もし。失礼、皆さん方――」

 

 一斉に振り向く。特に男子は喰いつきすぎだろうと十理は苦笑い浮かべつつ、

 

「もうじき予鈴が鳴りますよ」

 

 ちょうど予鈴が鳴るのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 本鈴が鳴る前に少し遣り取りしただけで分かったことがある。そして現在行動を共にしていて確信に変わった。

 

「昨日はいなかった顔だよな。僕は森崎駿。森崎の本家に連なる者だ。これから一年、同じブルーム同士だ。仲良くしよう」

 

「御嵜十理です。どうぞよしなに」

 

 司波深雪を取り巻くグループの中で彼女に率先して話しかけ、その行動や発言をいちいち大仰なお世辞で褒めまくり、愛想笑いが返されるとそれが本物であると錯覚して勘違いする男子。

 

 ――森崎駿はプライドが高い。

 

 ――加えてあまり空気を読むのが得意ではない。

 

 ――視野狭窄に陥ると他のことに対して対応がおろそかになる。

 

 カウンセラー紹介や履修項目、施設ガイダンスなどの説明が終わり、こうして昼食まで二時間少しとなった残り時間を使い、校内施設や専門科目を見学するべくぞろぞろと移動している間にも――いつの間にか十理はクラス最大である森崎駿たちの派閥として認識されていたが、不自由はないので訂正していない――先頭を歩く司波深雪と森崎駿らの様子は、深層では噛み合っていない。

 

「気の毒ですねえ……」

 

 自然と形成されていた列(これも一種のヒエラルキーか?)の後尾から眺めているだけでも、温度差が知れる。とはいえ司波深雪はそれを巧みに隠している――おそらく慣れているのだろう――ので、夢中(・・)になっている彼らは殊更気づかないのだ。

 

 ――こういうタイプは問題が起きたとき、プライドが邪魔して事態を悪化させかねない傾向にあるのだが。

 

「ほんと。礼儀がない」

 

「貴女がたは、こちらにいても宜しいんですか?」

 

 零れた言葉を拾ったのは、隣を歩く表情乏しくも不機嫌そうな北山雫と、苦笑いしている光井ほのかである。

 

「失敗した。ああいうのには慣れてたはずなんだけど」

 

「私たちも最初は近くにいたんですけどいつの間にか、あれよあれよとこんなところに押し出されちゃって。御嵜さんはいいんですか?」

 

「僕は遠慮しておきます。確かに綺麗な方だとは思いますよ、それになかなか興味深い人物でもある。ですが僕が今押し掛けてはどちらからも不評を買うだけでしょう」

 

「司波さん、たいへん」

 

「私たちももしかして、あんな感じで迷惑だったかな……」

 

 しゅんとした彼女に、十理は少し考えてから口を開いた。

 

「こんな言葉があります。『人が話している時は、しっかりと聞け。ほとんどの人は決して聞いていないのだから』――ヘミングウェイです。周囲は魅了されたご様子で、誰も花の気苦労には目を向けていない。そんななかでも貴女がたは気づいた。それだけでお二方は蜜に(たか)ろうとする虫とは異なる」

 

 慰めるつもりで言った十理であったが。それに対する北山雫の反応は何故だか目を細くして唸り声あげるものであり、光井ほのかに至っては顔が引き攣っている。

 

()って――」

 

「あははは……」

 

 北山雫の視線が鋭い。

 

「もしかして御嵜君って腹黒系……?」

 

「ははははは。確かに家族からはいい性格してるよと言われたことがありますが今のは無意識でした」

 

「なおのこと悪いよ」

 

「まあまあ。それよりも、やはりお近づきになりたいようでしたらお二人はもう一度あちらへ向かわれたらどうです? 麗しの花が草臥れてしまう前に、不躾な虫たちから颯爽と守護する姫騎士のごとく」

 

 北山雫は顎を引いて暫く考え込むと、やがて決意したように光井ほのかの手を引いて、「行ってくる」と宣言し列の前へと食い進んでいった。

 

 そしてその行動が功を奏したのか、北山雫と光井ほのかは午後には司波深雪と名前で呼び合うまでに親しくなり、またこのとき十理も無意識とはいえ「虫扱い」した彼らにそのことを訊かれずに済んだのは、幸運な出来事だったといえよう。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 実験棟で応用魔法学などの授業を集団見学して回り、いつしか昼食の時刻となった。

 

 そして再び呆れている十理である。

 

 ――さっそく問題を起こすか。まだ初日だぞ。

 

 新入生注目度最優株の司波深雪には実は「兄」が一人いる。共に第一高校に入学しており、妹が主席であることに加えてあの美貌なのだから兄はどれだけ凄まじいのかと興味をそそられたが、司波達也は例によって二科生であった。

 

 食堂にて――

 

 司波達也を含んだⅠ―E組のグループが四人掛けの席についている。そこまでは良い、いくら一科生二科生間で差別があるとはいえ流石に同じ食堂で喰うなとは言わない、たとえ彼らが一科生至上原理主義者であったとしても。

 

 だが司波深雪が司波達也と一緒に食事したいと発言したことから一悶着が勃発した。

 

 金魚の糞(・・・・)のように彼女に引っ付き歩いていた一科生たちだから、このタイミングで司波深雪との相席を望むのは極自然な流れだといえる。

 

 しかし哀しいかな――そこは四人掛けのテーブルである。どう考えたって隙間が足らない。

 

 別に食堂の端と端ほどの距離が開くわけではないのだから、隣や近くのテーブルに座ればいいのだ。冷静に考えれば、小学生でも思いつく。

 

 けれど此処に至って一科生たちは司波深雪という傾国美人にぞっこん(・・・・)であったため、このときばかりは小学生よりも配慮や遠慮が足りていなかった。

 

 当初は暗に「席を譲ってくれないかな二科生さん」という具合であった口調も段々と過激になり、発端である司波深雪の意見など関係なしに口論は激化していく。

 

 ――恋は盲目といえども、これで自分が好かれると本気で考えているのか。

 

 そうして二科生の言動も含めて悪化の一途をたどる中、司波達也だけは冷静な対応を取った。ついに彼が席を譲ったため、なんとかその場は収まりを見せたのである。

 

 ――いやだから、その勝ち誇ったような顔を見せるのは止したほうがいいと思うよ森崎くん。

 

 ――「お兄様」と呼ぶだけあって明らかに好いている彼のことを扱き下ろした君に対する司波さんの態度が、怒りを抑えるのに必死だということにどうして気づかない。

 

 ――馬鹿なのか。

 

「まったく、食事くらいゆっくりできないものですかねえ……」

 

 ちなみに御嵜十理はこの騒動の際、さっさと遠くの席に座って、注文したきつねうどんを啜っていたのだった(油揚げも出汁が()みていてジューシーで美味しく満足な出来であった)。

 

 蚊帳の外から見る騒動は面白い。

 

 ――飛び火しない限りは。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 飛び火した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



















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04 騒動2


















 

 森崎グループ本日午後最初の授業見学は遠隔魔法用実習室――すなわち射撃場――で行われた。

 

 第一高校生徒会長にして十師族「七草」に連なる実力者、七草真由美が所属するクラスⅢ―Aの実技が見られるということで――加えて入学式で大勢が目撃した生徒会長の可憐な容姿が助長して――射撃場へ見学に足を運ぼうとした新入生たちは数多く居たが、如何せん会場の規模からしてその人数は限られてしまう。

 

 そして一科生に委縮してしまう二科生たちのなかで、司波達也を含んだグループは最前列に座っていた。

 

 そこに現れる森崎グループ。目につかないはずがない。

 

 ――馬鹿なんじゃないかとは思ったが、まさか真正だったか。

 

 御嵜十理(おさきしゅうり)がそんな感想を向けた相手は二科生、ではなかった(・・・・・・)

 

「二科生のくせに、なんで最前列にいるんだよ!」

 

 最前列に詰め寄って、当たり構わずまたしても口論を展開する森崎駿を筆頭とした、一科生たち。

 

 ――本気で言ってるのかな、あれ。

 

 射撃場の利用は二科生に対してのみ制限される――などという規則は、第一高校には存在していない。

 

 非難はお門違いであり――そもそも第一高校は実力主義なのではなかったか。

 

 極論を言えば「強者絶対判決」という旗を掲げる実力主義に則るならば、観客席など先に獲ったモン勝ちである。彼らは違反などしていないし、ちゃんとルールを順守している。

 

 対して遅れて到着した一科生。

 

 主張は聞いていて恥ずかしくなるような子供じみたもの。もはや癇癪の域である。魔法師は常に冷静でいることが求められると言ったのは果たして誰だったか。

 

 仮にもプライドがあるとするならば。自分たちの行動こそが「一科生」の品格を貶めているとなぜ気づかない。

 

「あ……」

 

 ――目が、合った。

 

 昨日会った少女。明るい赤色の髪をした彼女は口論に熱中してそれどころではない、もう一方の、黒髪で、十理と同じく眼鏡を掛けた大人しげな少女と、一瞬。視線が交わった。心底困った表情をして。

 

 つい、と自然を装って逸らす。入学初ッ端から面倒事は御免だ。

 

 しかし。

 

 逸らした先で、北山雫がこちらを見ていることに気づいてしまった。

 

「じぃ―――――――」と、見ている。

 

 見られている。

 

 ――本気ですか北山さん、僕になんとかしやがれと?

 

 騒動は、食堂で不完全燃焼だったぶん今度こそ収まる気配がない。司波達也も読めない表情の下であれこれ悩んでいるのか。

 

 視線は続いている。

 

 凝視、である。

 

 十理は周りには聞こえないほど小さく舌打ちをすると、深い溜息をつき、既に感情論ばかりが先行している口論の渦中へと足を運んだ。

 

「森崎くん」

 

「なんッ――ああ御嵜くんか、君も言ってくれよ! こいつらに……」

 

「森崎くん森崎くん。ちょっとこっち来ましょうか」

 

「は――?」

 

「申し訳ありません皆さん、少し森崎くん借りますね」

 

「ちょッ――」

 

 笑顔で。森崎駿の肩をがしり(・・・)と掴み、呆気に取られた一科生及び二科生たちから距離を取る。

 

「おいッ、いったいなんのつもりで――」

 

「森崎くんは、司波深雪さんのことが好きなんですよね?」

 

「はああ―――――ッツ!!?」

 

 絶叫。

 

「耳元で馬鹿みてえにうるせえです音量下げてください。で、森崎くん。もう一度聞きますよ、司波さんのことが好きなんですね?」

 

「あいやそれはッ、そのッ、」

 

「あー、はいはいその反応で分かりました。というか知ってました。むしろみんな知ってますもう。みんな気づいてます森崎くんの気持ちに」

 

「―――な、あッ!?」

 

「だからデケェ声で喚くんじゃねえです(・・・・・・・・・・・・・・)って言ってるでしょ森崎くん。僕は日本語で話していますよ?」

 

「いっ、痛いっ、痛いって、うで、うでっ、くびっ、ちからッ、つよっ、絞まッ、絞まるッ!」

 

「言ってること分かりますよね? では森崎くんは司波さんが好きという前提で話しますけど、森崎くん。君、このままだと司波さんから嫌われちゃうって分かってあれやってるんですよね?」

 

「――は…?」

 

 その一言で。冷や水を浴びせられたように。

 

 事実、激情に染まっていた森崎駿は一瞬で「素」に戻っていた。

 

「いやだって昼間から森崎くんがやってきたことってぜんぶ(・・・)裏目に出てるじゃないですか」

 

「……あ、え、えっ?」

 

「気づいていないんですか? 司波さんが兄であり二科生である司波達也くんを『お兄様』と呼んでいる時点で彼女が司波くんを好いていることは一目瞭然でしょう、なのにそんな彼女の前で森崎くんたちは彼のことを酷く侮辱した。自分の家族の悪口を言う人を好きになる人間が地球上でいったいどれだけいますか? ……そもそも主席演説のときに言っていたでしょう、『みんな等しく』とか『勉学以外にも』とか。それだけでも司波さんが一科生二科生差別問題を好意的に思っていないのは明明白白でしょうに、そんな彼女の傍でずぅううっと『流石一科生だ』だとか『二科生なんかとは比較にならない』だとかの問題発言ドストレート(・・・・・・)で言い続けたのでしょう? そんな相手に向ける評価が、好いものであるはずないじゃありませんか」

 

「―――」

 

「森崎くん?」

 

「………えっ、あっ、ちょ、えッ、そんッ、そんなはず、そんなッ、え――」

 

(まず)いですよねえ。このままだと決定的に溝が深まりますよ。相手に好きになってもらうためにはまず相手との共感を得ることが大切なのに、相手の好きなものを公衆の面前で扱き下ろしたんですから。いや溝というよりも落とし穴かな。せっせと掘って自分で嵌まったようなものですか。入学初期の今だからこそまだ愛想笑いで対応していますが、これ以上森崎くんの評価が下がったらそのうち会話もしてもらえなくなるんじゃありませんか」

 

「そ、そんなつもりじゃ――」

 

「一度吐いた言葉は簡単には撤回できませんよ」

 

「…………………………………う、あ」

 

 喉奥が引き攣ったような声。

 

「ど、どど、どどどどどど」激情はどこへやら。真っ青である。「どうしよう御嵜くんどうすればいい僕このままだと一生口きいてもらえなくなる――!?」

 

「安心なさい森崎くん」

 

 笑顔で。ともすれば、術中に嵌まった顧客に囁く詐欺師のそれのように。

 

「恋は駆け引きと言います。恋愛における大前提として、まず相手の好きなもの嫌いなものをきっちり把握しておく必要があります。森崎くんは今、ようやくその一端に触れたわけですね。ではこれまでの森崎くんの行動を客観的に評価してみましょう……」

 

 恋愛対象(しばみゆき)の家族への侮辱。

 

 度重なる一科生二科生への差別発言。

 

 実力を重視する現実主義(リアリスティック)な第一高校において「二科生だから」という感情論の先行。

 

 加えて現在、これから三年生の実技授業が行われるというのによりにもよって最前列での大騒動へと発展させた筆頭――

 

「総括。いくら森崎家という肩書や実力があったとしても……いいですかよく聞いてください、これは、……最悪(・・)といってよろしいのではないでしょうか」

 

 開いた口が塞がらない――とは、まさにこのことか。

 

「安心なさい森崎くん。まだ諦める必要はありませんよ、一度どん底に落ちたのならばあとは見上げて登るだけです」

 

「どうすればいいんだ、どうしたら――?」

 

「あせらないあせらない。ふむ。本当は自身で考えるべきなのでしょうか、介入した手前、放り出すわけにもいきません。今回だけは教えて差しあげます。先ほど述べた評価点を鑑みると、司波深雪視点における森崎駿の人間性には問題問題問題しかない。まずは事態を収拾し、評価を回復させることに専念しましょう。しいてはこの場を一旦退き、潔さや懐の大きさ、頼りがいをアピールするのが得策かと。最悪なのは荒らすだけ荒らして何の弁明もせずに帰ってしまうことですが……」

 

 選ぶのは貴方です。視線で問う。

 

 ちょうど、予鈴が鳴った。

 

 額に嫌な脂汗を浮かべた森崎駿は、震える手のひらを握り締めると、意を決したように輪のなかへと戻っていく。

 

「三年生の皆さんには迷惑をおかけしました」

 

 突然の変化に呆気に取られた生徒らは一様に十理を見てくるが、微笑み沈黙を守るだけだ。森崎駿は周囲の一科生に謝罪すると、司波深雪に後方の席へ移動しないかと提案する。

 

 司波深雪が視線を向けた先には、頷く兄の姿があった。

 

 その場で頭を下げた司波深雪は――その仕草だけでも確かに絵になっていた――射撃場出入り口近くの席へと向かい、必然的に付き従う一科生たちも大移動する。

 

 そんななかでも動かない十理を見て、森崎駿は沈んだ顔で「君はどうするのか」と問いかけた。

 

「僕は少しこの方たちとお話がしたいので」

 

 ちらと見遣ったのは、司波達也御一行。苦々しく(ひるがえ)った森崎駿は、やがて列に紛れて見えなくなった。

 

「さて……このたびはご迷惑をおかけしました」

 

 一科生の謝罪に驚く二科生グループ。柴田美月や千葉エリカはなんとも気まずい顔をしており、大柄な二科生の男子生徒も戸惑いの色を強めるばかり。司波達也はさして変わらぬ反応であり、終始冷静で見定める目を寄越してくる。

 

「そちらお隣、座ってもよろしいですか」

 

 触れたくないとばかりに一科生と大柄の生徒の間に空いていた空席――もう周囲にはそこしか残っていなかったので――を指し、問う。千葉エリカたちの「どうするよ」という視線が司波達也に集中し、大柄の生徒や彼が頷いたのを見て、十理もそこに着席した。

 

「Ⅰ―A、御嵜十理です。先程は失礼を」

 

「あー、いや……俺は西城レオンハルトだ。まあ、あんたにキレたわけじゃないしな」

 

「そう言っていただけると幸いです、西城くん。お二人は昨日ぶりになりますね、千葉さん、柴田さん。そちらは――」

 

「司波達也だ」

 

「なるほど。食堂で少しお見掛けましたが、もしかすると司波深雪さんのお兄さんですか?」

 

「ああ。妹が三月、俺が四月生まれなんだ」

 

「双子ではないんですね。なるほど、それは珍しい……」

 

 本鈴――

 

 三年生が動き出す。

 

 口をつぐんで姿勢を正すと、実技授業が開始した。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 授業が始まれば、あとはトラブルも起こることなくつつがなく進行された。

 

 単純に二年間の研鑽における開きがあるため三年生の実力は圧倒されるものであったし、なかでも生徒会長七草真由美の技量は容貌共々突出していた。若き一年生らはその姿に憧憬を抱き、そして自身もその域へ辿り着くのだと大きく奮起されるのだった。

 

 そしてそれを最前列(とくとうせき)で目撃した御嵜十理であったが、実は周囲の人間が知れば呆れるであろうことに、このとき彼の思考はまったく別のものに奪われていたのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「御嵜くんはこれからどうするの?」

 

「はい? ああ――これから、ですか」

 

 見学が終了し周りの人間が席を立つ中で千葉エリカは、授業中盤からずっと何かに気を取られていた様子の十理に声を掛けた。彼は司波達也の隣で会話に花を咲かせている司波深雪(・・・・)を見てから一度出入り口の方を眺め、そこに森崎グループの姿がないことに気づくと苦笑したのち、

 

「特に決めてはいませんが。まあ、あとは適当に回ったり……、それに図書館には興味がありますので、ここでしか読めない古典文学や魔法書籍といった辺りの関連を見て回りたいですね」

 

「そう。だったらさ。もしよかったら、あたしたちと一緒に回るっていうのはどう?」

 

「おいまたオメェは……」

 

 横から突っ込んできた西城レオンハルトが顔をしかめるが、十理からすればどちらでも構わない。

 

「僕は問題ありませんが。むしろ皆さんにとってこそご迷惑では?」

 

「俺は構わねえよ」

 

 続いて司波達也が頷き、柴田美月も小さく首肯した。司波深雪は兄と一緒に回れるのなら無問題といった様子である。

 

「ではよろしくお願いします」

 

 そうして射撃場をあとにする。

 

 

 ―――。

 

 

「なあ十理(・・)。さっきは何て言ってあいつらを追い返したんだ?」

 

 レオンハルト(・・・・・・)は――あれからしばらくして名前で呼んで構わないと許可を貰った――前を歩きながら、射撃場での一幕を口にする。十理の横を歩く達也(・・)――こちらもレオンハルト同様に許可された――も思い返したというように頷いた。

 

「特別なことは何も」ただ、これは他言無用なのですが、と声を小さくして。「森崎くんは司波深雪さんに一目惚れしてしまった様子なので、あのままだと毛嫌いされても仕方ないですよと忠告申し上げただけです」

 

「――ぶッ、はははははははははは!」

 

 呵呵大笑したレオンハルトと僅かながらも目を見開いた達也に、どうしたのよいきなり、と女子三人で話していたエリカ(・・・)――以下同文――が振り向いた。

 

「お気になさらず。いうなればボーイズトークというやつです」

 

 十理の対応に不満げな顔をするエリカだが、ここで話してしまうのは森崎駿に対する重大で非情な仕打ちである。射撃場であれだけ横柄な態度を取ったのだから完全に庇うことはできないものの、流石に自分の知らないところで本人に恋心を暴露されるような不憫な想いはさせられなかった。

 

 そんなことをすれば、森崎駿の万が一(・・・)の目さえも潰えてしまいかねない。

 

 ――そういう展開は、あんまり面白くない。

 

「よろしいですか。他言無用ですよ」

 

「ああ分かってるよ。それにしても女子禁制(ボーイズトーク)か。なんか最初に見たときの想像と違ったな。十理ってもっと真面目な感じかと思ったぜ」

 

「それどう言う意味ですか。僕としてはじゅうぶん真面目のつもりなのですが……」

 

「だはははは……まあいいじゃねえか――っておい、さっきからしつこいぞテメェ!」

 

「なによぉ――!」

 

 いいからアンタ教えなさいよ。埒が明かないと標的を変えたエリカが誤魔化そうとするレオンハルトをせっつくなかで、達也が不意に口を開いた。

 

「十理。深雪は、クラスではどんな様子だ?」

 

 これまで常に冷静な反応を示してきた達也も、妹のこととなると流石に情の色が瞳に現れていた。

 

「人気者ですね。清楚な振る舞い、優雅な仕草、そして際立つあの美貌。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花――男女を問わず、そのうち信者が現れてもおかしくないですね」

 

「そうか……」

 

「心配ですか」

 

「まあな」

 

 迷いなく頷く達也。その双眸は純粋に妹を案じているようにしか見えない。

 

 十理からすれば、自分よりもデキ(・・)の良い妹に対して複雑なものを抱えているだろうと想像していただけに、少し接しただけでも氷の仮面を被っているようだと思わされた相手が実は深く妹の事情(・・)を考えていたことに驚いた。

 

 顔に現れていたのだろう。苦い笑みを浮かべて、

 

「意外か」

 

「ええ。ですが納得する部分もありました。主席という才能にあれだけの美貌ですからねえ、むしろ心配して当然かと」実に、と溜めを置いてからちょっと揶揄するように言う。「美しき兄妹愛ですね」

 

「ああ。そうなんだ」女子たちと談笑する妹を眺めながら、兄は小さく笑って呟いた。「自慢の妹だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





















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05 創作活動2

















 

 帰宅すると、来客がいた。

 

「おかえりー、シュウくん。織くんもおかえりー」

 

 紅間銀子(あかまぎんこ)。長髪を束ねてシニヨンにまとめた、小柄な女性。

 

 この部屋の家主であり、御嵜十理(おさきしゅうり)の叔母である。

 

「いい大人がワイシャツ一枚で人前を出歩かないでください。……四〇にもなってだらしのない」

 

「まだ三四ですぅー! ほどよく脂がのって好い感じに熟れてきてる四捨五入すればまだ三〇歳のピッチピチの女子ですぅー!」

 

 テーブル上の装置から投影された空中ディスプレイに向き合いながら抗議した彼女は、下は何も履かずにいるため、黒の下着となまめかしい肢体が浮かび上がっている。

 

 活気余りある発言と揺れる二つの巨峰、見た目だけなら二〇代後半と言われてもさほど違和感はないから、相手が十理でなければ劣情を大いに刺激される光景であった。

 

「それにここ、いちおう名義上では私のお家ですよ? 確かに滅多に帰ってこないけどさ……」

 

「朝連絡したときは遅くなると言っていませんでしたか? ――だいたい気にしてるのならそれらしい格好をしてから言ってくださいよ」

 

 舌打ち。

 

「あれなんかいますごく馬鹿にされた!?」

 

 実の叔母になんたる冷酷な仕打ち! うーうー唸る銀子に対してそんな様子は慣れっこと言わんばかりの織は、いつものように()から現れると、彼の上着を預かって衣紋掛けに吊るす。

 

「……なにをにやにやしているんですか」

 

「うんにゃー? ただそういう息の合ったプレーを見せられると、まるで夫婦みたいだなって」

 

 十理たちは互いを見やると、呆れたように笑う。

 

「確かに一蓮托生というか、運命共同体ではありますけど。夫婦と言うよりも、家族でしょう」

 

「血は繋がってないけどな。いや繋がってるか……血じゃないけど。というかそもそもオレ、男だからな。何度言わせるんだよ。ギンコも、ガキみたいなこと言って、恥ずかしくないの? ピッチピチとかさ、もう、死語だぜそれ。あっ、そっか。恥ずかしさを感じる神経が老化して壊死しちゃってるからなんも感じないんだ。何度言っても覚えらんないのはそれが理由ってことか。ごめんねギンコ、気付いてやれなくてさ」

 

「それぐらいにしてあげなよ。銀子さん泣いちゃうから。最近、歳のせいか涙腺が緩くなってきたって言ってたぐらいだし」

 

「あのねえ、ちょっと本当に敬意とか足りてないんじゃないかな君たち!?」

 

「吹っかけたのはそっちでしょう。それより今日はどうするつもりです。まだ最終の仕上げが残っているんですが」

 

「もう! ……いいわよ。でも、時間そんなにかからないんでしょ? 終わるまで待たせてもらうわ。あと、できたら晩御飯、ご相伴にあずかりたいなあって」

 

 さんざん言われようと、この図々しさ、ふてぶてしさ、切り替えの早さである。

 

「分かりました。それじゃあ織。僕は仕上げに入るから、あとを頼んだよ」

 

「りょーかい」

 

 十理がさっそく隣の作業部屋に姿を消すと、織はこの賑やかな女と二人きりになる。

 

「あそうだ。織くん、コーヒー入れてくれない?」

 

「ほんと遠慮しないなあギンコは……」

 

 醸し出される大人の威厳が皆無である、紅間銀子は、こんなナリではあるが実は魔法書籍――特に古典(・・)――の研究者をしている。

 

 魔法が学問とされる以前の世界。それまで古典に語られてきた偉人の超常(きせき)が、実は魔法によるものであったとするならば――それを現代で歴史再現することを目的とした分野であり、これまでも多くの論文を発表して評価されてきた実績があった。空中ディスプレイに羅列された英文も、恐らくはその類のものなのだろう。

 

 その一方では、赤間銀子は美術工芸品のバイヤー(・・・・)としても活動している。扱う代物は多岐に渡り、扱う額も幅広い。今ではそれなりに知られた名前である。

 

 名が知れたきっかけは五年近く前、現代の美術品愛好家たちの一部に大きな衝撃をもたらした「シカオ・ユリス」の作品が初めて世に触れた事件(・・)であり、そのとき仲介した人物こそがほかならぬ紅間銀子であった。

 

 シカオ・ユリス――国籍不明、年齢不詳、顔写真はおろか性別さえも非公表といういわく(・・・)の人物であり、その作品と対峙した人間は(ことごと)くが衝撃に貫かれ、震えたという。

 

 

 いわく――魂を取り込まれそうになった、と。

 

 

 ()が表舞台に現れて以来、紅間銀子はすべてのシカオ・ユリス作品を扱い、それらは蒐集家たちのあいだで高い値で遣り取りされるようになっている。なかには唯一の接点である銀子から情報を探ろうとする連中もいたが、紅間銀子は古典魔法の研究者であると共に、彼女の歳の離れた姉と同じく優れた魔法師(・・・)でもあった。

 

 「シカオ・ユリス」の正体が「御嵜十理」という真相は、今まで一度も暴かれたことはない。

 

「それにしても……やっぱり凄いわねえ」

 

 用意してもらった珈琲に砂糖をふんだんに投下しつつ、自分のぶんのコップに口をつける織を見つめる。銀子の表情は平時と違い、研究者のそれへと切り変わっていた。

 

人形を依り代に降霊した異世界の魂(・・・・・・・・・・・・・・・・)霊子(プシオン)想子(サイオン)によって擬似的な肉体を作り出し、五感さえも再現している。食事をすることだってできる……こうしていると普通の女の子にしか見えないのに」

 

「蒸し返すつもり? オレは男だってば」

 

「まるで御伽噺。嘘のようなほんとの奇跡。貴方も、それを生み出したあの子も――」

 

「それを言うなら。飲み物は他に紅茶だってあるのに、わざわざ苦いもの選んでおいてそのくせ砂糖を五杯も入れるようなギンコの神経のほうがよっぽどおかしいよ」

 

 肌を撫でる感覚。

 

 乾いた肌をヤスリで軽く撫ぜられたような。

 

「ギンコさあ。わかってるとおもうけど。トーリは文字通り(・・・・)オレの命なんだよ。今の環境もわりと気に入ってるし、あいつの不利になるようなことがあると困る(・・)わけ。すごく、ね。だから」

 

 ほんの一瞬。

 

 

 蒼の双眸(・・・・)が、こちらを覗いた。

 

 

「………………………っまあ、それは、ね。もちろんわかってるわよ。興味がないといえば嘘になるけど、私の本命は古典魔法の再現だから。もしも歴史上の偉人の魂がシュウくんの作品に降りたら、そのときはまた別の話になるけど」

 

 汗。首筋を伝う冷たいもの。

 

 重たい空気。視線。

 

 沈黙。

 

 誤魔化すようにコップを啜る。音は極力立てずに。それでも。

 

 ――甘い味がしない。

 

 これは完全に、自業自得ではあるけれど。

 

「そんじゃまあ……」

 

 先に切り替えたのは、織であった。軽く手を合わせて微笑む。

 

「今の話はこれっきりってことで。簡単なつまめるものでも作るよ。あとでトーリにも持ってかなきゃな」

 

 冷蔵庫を開き、刃物(・・)を持って台所に立ったオレっ子着物少女の後ろ姿に、銀子は一気に年老いたかのようなため息をひっそりと()くのだった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 音。呼吸。

 

 静謐。余分なモノは何一つとして。

 

 磨き上げていく。丁寧に。丹精込めて。魂を込めて。〃、々――

 

 あらゆる不純物が削ぎ落とされていく。工程を経て。あるべきカタチへと、研ぎ澄まされていく。

 

 原石(ダイヤ)は職人の手を経て無類の輝きを顕す。御嵜十理が出会った素材(ダイヤ)は、今や彼の人ならざる域から(もたら)される手腕により、秘められた輝きを十全に引き出されると同時にこれ以上ないカタチで調和を手に入れた。

 

 

「――できた」

 

 

 呟く。

 

 途端に、肩を上下させて。身体の緊張が解れていく。

 

「やっと完成だ……」

 

 そのとき。

 

「調子は――ああ……終わったんだな」

 

「織」

 

 名前を呼ぶ。声には抑えきれない歓喜の色と、疲労が滲み出している。

 

「へえ……」

 

 何体もの人間大の人形が壁に立てかけられている異様な光景のなか、工房(へや)の中心で十理が向き合っているのは一体の少女のヒトガタ(・・・・)であった。

 

 まるで生きているかのようでありながら人形であることは疑いようもないカタチをしている。

 

 人形であることは疑いようもないカタチをしていながらそれが人間でないという証拠は何一つとして見つからない。

 

 矛盾する結論。二律背反。混じり合わず、しかし絡み合う陰と陽。相克する螺旋を体現したような、それ(・・)

 

 陶芸作家にして人形師でもある御嵜十理の渾身の作品であった。

 

「はは……トンデモないもん創ったな、トーリ」

 

 対峙しただけで「心」が揺さぶられる。ヒトガタの深い黒の双眸を覗き込んでいると、足元が揺らいで「魂」さえも吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。

 

「ああ。私のこれまでのなかでは一番の出来栄えだろう。……とはいえ、織の身体を造った時の、あの感覚には届かないが」

 

 最優の作品ではある。しかしその先があることを、()っていて、しかも二度(・・)そこへ至ったことがある十理からすると完璧ではあっても窮極ではないのだろう。

 

「まあ、今はこの誕生を尊ぼう」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 完成して間も無くすると、少女の人形は紅間銀子の手へと引き渡された。初めて作品を目にした銀子は我を忘れて立ち尽くし、十理に声をかけられると彼に抱きついて危うく窒息させかけた。

 

 それから耐ショックケース――五〇メートル下に落下しても中身の生卵にはヒビ一つないという謳い文句の――に厳重に収めると、十理の頬にキスマークを残してから興奮した足取りでマンションを後にした。

 

「嵐が去ったような気分だ」

 

「大変な一日だったもんな」

 

 寝巻きに着替えた十理は、風呂上がりで上気した身体を冷ましながら、食後の織自信作のデザートに舌鼓している。

 

「とはいえ明日からは気が楽なんじゃないか? 最近はずっとのめり込んでたわけだし、少しは休めるだろ」

 

「そうも言ってられないだろう。入学二日目にしてトラブルを勃発させる奴がクラスにいる」背伸びすると、それに、と呟く。「なんとなくだが……漠然とした……次のイメージが……」

 

 指先をくるくる回しながら、十理は要領を得ない言葉を連ねる。

 

 ――今日の三年生の実技を見てからだ。あれを見て、自分のなかで「何か」が()きた。

 

 言葉ではない「何か」。まだ言葉として固めるには足りていない、しかし御嵜十理というクリエイターの基底意識がカタチない「それ」を探り始めている。

 

「……言ったそばから次の作品か。ほんと、そこらへんトーリは狂ってるよな。ともすれば生活破綻者だ。なのに外から見るとマトモだもんなあ」

 

「はじめからそうだったわけじゃない。マトモに見えるのはそうあるように努力しているからだ。必要だったからな。――ほら、……たとえばゴッホっているだろう」

 

「画家の? ひまわり?」

 

「そう。彼の人生は決して裕福な生活ではなかった。絵を描き続けるために随分と苦心したらしい。方法は、まあ弟に金を無心をしたりとかだが。それでも自分に為せることをした」

 

 虚空を見つめて、十理は続ける。

 

「鏡の国のアリスにもこんなセリフがある。『この場に留まりたいのなら、お前は全力で走り続けなければならない』。そしてこう続く。『どこかほかの場所へ行こうものなら、すくなくともその二倍の速度で走らなければならないよ』、とな。それを聞いて私は思うわけだ。能力を十全以上に発揮できる環境(じゆう)を整えるのも、自分の能力に対する責務なのだと」

 

 ゆえにこそ、と彼は結んだ。

 

()という人格難による社会的軋轢を避けるために、()という模範的理想的、優等生の最大公約数な仮面回答を被るしかないというわけだ。努力しているのさこれでも。そして誰もがしていることだ、私が極端に見えるというだけで。……とはいえ何年もやっているとどちらが本当の御嵜十理かなど、今となっては分からなくなってしまったがな。まあすべての問題に白黒つくわけではないのだから気にするだけ無駄なことだ。自分の正体という青臭い命題は、いうなればどっちの(ぼく)(わたし)という第三の回答に終始する。此処にいる自分が、それを自覚してさえいればいい」

 

 投げっ放しとも開き直りとも捉えられる言葉に、織は複雑な表情である。

 

「…………なんだろうな、トーリってば、そういう理屈っぽくて煙に巻くところ、ますます橙子に似てきた気がする」

 

「ああ、なんだったか。確か、『伽藍の堂』の主人?」

 

「そう。アオザキトウコ。式のユメによく出てきた魔術師」

 

「人形師でもあるのだったよな。眼鏡で性格をスウィッチするというのも確かに似ている。あんがい、私はその人物と魂を共有していたりしてな?」

 

 とたんに顔が引き攣った織を見て、十理は愉しげに声を上げるのだった。

 

 

 夜が、更けていく――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 まだ平和(わりと)。















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06 騒動3






















 

 学校生活三日目――

 

 

 教室に入ると、どうにも様子が変であった。

 

「おはようございます」

 

 声をかければ反応は返ってくる。しかしどこか余所余所しい。

 

「おはようございます御嵜さん」

 

「おはよう」

 

 光井ほのかと北山雫に変わりはない。それがまた疑問を助長させる。

 

「おはようございます」

 

 そして司波深雪がクラスメイトに周りを囲まれる中で振り返って言った途端、僅かな瞬間であったが、教室に奇妙な沈黙が挿入された。

 

 昨日の見学時に挨拶は済ませてあったから何ら不自然な点はないはずであり、しかしその反応を見過ごせるほど鈍感な御嵜十理(おさきしゅうり)ではない。見れば森崎駿に至っては、顔を強ばらせている。

 

 ――悪感情。

 

 ――なんだか知らないところで面倒なことに巻き込まれたような気がする。

 

 予鈴が鳴り、隣に北山雫が着席したときにこっそり「何かあったのか」と尋ねると、声を低くして教えてくれた。

 

「昨日の放課後、帰る途中で……」

 

 端的に言えば。森崎グループが司波深雪を巡って仲良くしていた二科生グループに対し、返却されたCADを駆使して魔法攻撃を放とうとしたらしい。その場で介入した風紀委員長と生徒会長が発動を阻止し、かつ達也が空々しい言い訳――なんでも森崎家の代名詞らしい魔法「クイック・ドロウ」を見せてもらおうとしたとか――で事態を収集すると、事なきを得たそうだが。

 

 ――達也は大人だ。

 

 ――そして森崎くん、言ったそばから君ってば何考えてる。

 

 自然と目つきが剣呑なものになる。視線が合った瞬間、逸らされた。

 

 ――これは、お話ししなくっちゃですね。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「ねえ森崎くん森崎くん。森崎くん森崎くん森崎くん。ろくに考えもせずにいきなり突撃して振られたらそれで我を忘れて危うく犯罪行為で退学するかもしれなかった森崎くん」

 

「やめてくれ……」

 

「やめてくれじゃないでしょう昨日僕が言ったことちゃんと覚えてますか? 僕なんて言いましたか? 突撃しろだなんて言いましたか? 一言でもそんなこと言いましたか? ねえ森崎くん答えてください覚えているならちゃんと答えて、さあほら」

 

「い、言っていない……」

 

「ですよねえ? そんなこと僕一ッ言も言ってないですよねえ? ではそのうえでお聞きします森崎くん。――なんでそんな馬鹿な真似やったんですか」

 

「………………………、」

 

 小休憩時。教室の隅にて。

 

 十理は笑顔で森崎駿の肩を掴んでいる。司波深雪を取り巻くグループの筆頭である森崎駿は周囲からは見えないが真っ青な顔をして震えている。一昔前のカツアゲのような光景である。そして近寄ってくる勇気ある者はいない。

 

「昨日の行動によって自分がどういう印象を司波さんに与えたか理解してますか? 犯罪ですよ犯罪。それに、君はこう言ったそうですね――『二科生(ウィード)一科生(ブルーム)のスペアなんだから自分たちのほうが相応しい』って?」

 

「そ、それは……」

 

「もう一度、改めて聞きたいんですが森崎くん。君は本当に司波深雪さんのことが好きなんですか?」

 

「………、」

 

「本当に好きなら相手のことを慮るものです。なのに君は自分の欲求ばかりを見て、相手がどう思っているかという点にまるで見向きもしない。惚れたどうだと言ってますけど、彼女のことを高級なアクセサリーか何かと勘違いしているんじゃありませんか?」

 

 答えはない。

 

 森崎駿は答えられない。あまりの突然だったから、最も大事(・・・・)な言うべき言葉が思い浮かばない。

 

 一秒が何分にも引き伸ばされたような沈黙が森崎駿の両肩にのしかかる。

 

「……分かりました」

 

 彼が顔を上げたとき、御嵜十理は穏やかな(・・・・)笑みを浮かべていた。

 

「どうやら急ぎすぎたようですね。余計な口を挟んだようです、失礼しました。でも気をつけなくてはいけませんよ、森崎くんだって、こちらの事情を考えずに勝手に従わせようとする暴君は好かないでしょう?」

 

 軽く背中を叩かれる。森崎駿は十理の態度の変化に戸惑いつつも、自分の席に着いた。グループ内では十理と何を話していたかを聞かれるが、追求されないよう別の話題でごまかそうとしたとき、ちょうどチャイムが鳴った。

 

 午前最後の授業は座学。しかしこの程度なら教本を読み返すだけでも理解できるような内容であった。第一高校に入学して初めての授業は一言で表すなら「退屈」であり――初日なのだから当然とも言えるのだが――周りの生徒も似たような反応を示す中で、森崎駿はちらと気に掛かり、十理の席のほうを盗み見た。

 

 不満げな生徒たちの様子と違い、彼は冷静な表情で向き合っている。

 

 

 ―――。

 

 

 授業が終わると、司波深雪はすぐに姿を消した。聞いたところによれば生徒会に入るらしい。新入生総代が生徒会に所属するのは慣例のようなものであり、森崎駿としてもそれは当然の成り行きに思えたが……、

 

 ――あれ、御嵜もいない。

 

「森崎、食堂行こうぜ」

 

 顔馴染みになってきたメンバーで食堂に向かうと、

 

「おい、あれって――」

 

 メンバーの一人が指差した。

 

「そのお弁当って、御嵜くんが作ったんですか?」

 

「いえ。家族が」

 

「すっごく凝ってる……」

 

「ねー。すっごくおいしそう!」

 

 北山雫、光井ほのか、御嵜十理が同じテーブルについている。そのすぐ傍では、昨日争ったばかりの二科生――司波達也の姿はない――が座って談笑している。

 

「あいつら二科生なんかと一緒に――」

 

「行こう」

 

「あ、おい……」

 

 彼らの言葉を無視して進み、注文する。追いついてきたメンバーがなにか話しかけてくるが、森崎駿の胸中では、なんでだよ、という怒りに加えて。

 

 言いようのない、焦りのような感情が生まれていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 その日以降も、御嵜十理の態度は特に変化しなかった。森崎駿への対応はむしろ最初の頃のほうが特殊であり、数日が経過した頃には彼は「北山雫」「光井ほのか」「司波深雪」のグループに属する唯一の男子としてクラスから認識されるようになり、男子たちからは羨望嫉妬の視線も集まったが、基本的にクラスメイトたちとの関係は良好だった。

 

 そもそも御嵜十理は優等生なのだ。次第にペースを上げる座学にて時折り混ぜられる高度な質問も指名されればすらすらと答えられるし、実技においても成績優秀者が集まるA組で実力は上から数えたほうが早いほどである。

 

 物腰も柔らかくそれでいて陽気であり、女子からしても男子に向けられるような「下心」を感じさせない自然な振る舞いと、また余裕ある気配り、加えてルックスも好いとあっては、その紳士的な行動は大勢に「御嵜かよ、まあ御嵜だもんな」と奇妙な納得を抱かせるほどであった。

 

 そして。

 

 そんな御嵜十理に対し、一人。

 

 決闘(・・)を持ちかけた人物がいた。

 

 

 第二小体育館。全一科生合同実技授業にて――

 

 

「僕と戦え、御嵜十理」

 

 

 実力者から選ばれる風紀委員の一年生枠に入り込んだ、森崎駿その人である。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「僕と戦え、御嵜十理」

 

 

 第二小体育館。通称「闘技場」と呼ばれている施設では、全一科生合同実技授業が行われていた。

 

 ほとんどの生徒たちはCADを持参しており、二/三年生にとっては鍛錬を目的とした、一年生にとっては上級生との交流を主とした授業内容――というのは表向きであり、端的に述べて新入生(あたらしいかお)の実力を知るために設けられた機会であった。

 

 眼前で繰り広げられる魔法戦闘は一般人が目にすることのできない苛烈なものであり、閃光が走る、爆音が轟く、激しい格闘戦、呻き声と勝者の(とき)……、付近では生徒たちが見学しているが、生徒会長の七草真由美や風紀委員長の渡辺摩利、部活連会頭の十文字克人などが障壁魔法を展開しているため、被害は防がれている。多くは上級生と新入生による模擬戦であった。

 

 十理は現在行われている戦闘の行く末を観察していると、このところ避けられていた節のある森崎駿が近づいてきたことで――また彼が決意を湛えた双眸をしていたことで――なんとなく予感して身構えたが、隣で観覧する光井ほのかからすれば発せられた内容はアリエナイ申し出であり、北山雫の目つきも普段より険しかった。

 

「一年生同士の戦いはできないみたいだけど」

 

 森崎駿の視線は十理にのみ向けられ、北山雫の言葉は無視される。まるで眼中に入っていないとでも言いたげな態度にますます剣呑な顔になるが、当の十理は不思議と笑顔だった。

 

「……君の目は何かを決心した人の目だ、森崎くん。君は僕に戦いを降りることを許さないでしょう。けれど。それを僕にさせるだけの理由が君にあるのですか?」

 

「なんだと……」

 

「僕が君と戦うことで得られるものは? 確かに魔法を行使して戦うというのは爽快ではあるのでしょう、しかし僕はあまりそのことを重視していないのです。あるいはこの場で僕が断れば、君は僕が臆病者であると吹聴して回るつもりでしょうか? 申し訳ないがそれも効果はない、むしろ君の評価を下げるだけだ。君と戦うことのメリットは?」

 

 まさか口説き文句の一つも用意しないで言っているわけではないのでしょう?

 

 森崎駿は唇を戦慄かせて睨みつける。

 

 十理は次第に冷ややかな目つきになり、

 

「魅力が。足りないと言っている。どんなものにも礼儀(マナー)がある――食事であったり、会話であったり、夜の営み(・・・・)にさえも礼儀(マナー)はある。もちろん、決闘にだって。……そして今の君は、決闘の最初の段階にすら立っていない。そんなんじゃあだめだ。そそられない(・・・・・・)

 

 何も言えない。森崎駿は震えるほど強く拳を握り、それでも言葉一つ紡げない。

 

 十理のなかの、仄かな期待(ねつ)が冷めていく。あるいはという予感は、残念ながら外れてしまったが。

 

 森崎駿は。

 

 結局のところ、何も言い返すことが――

 

 

「っ――ごちゃごちゃ(・・・・・・)言ってないで! 僕と戦え! 男なら(・・・)ッ! 売られた喧嘩くらい買ってみせろ!!」

 

 

「―――」

 

 それは、溜め込んでいた鬱憤が爆発したかのような大声で。

 

 普段の森崎駿を知る人物であればありえないと驚く程の形相で。

 

 叫んだ本人でさえも。自分がそんな啖呵を切るだなんて思いもよらず。

 

 しかし――

 

 

「はははははははははは!」

 

 

 少年は笑った。それは愉しげに。

 

 周囲の人間は何事かと振り返る。

 

 御嵜十理のクラスメイトたちは、初めて聞く彼の声に目を丸くして。

 

 しかし当の少年は。愉快〃々と声高に。

 

「意地を見せたか。それに()か。確かに。そのとおりですね、ああだこうだ(・・・・・・)言う前に魅せてみろって話です。単純明快、簡潔明瞭! いいでしょう、土壇場とは言え森崎駿は僕の心をほんのちょっぴり躍らせた。乗ってさしあげましょう、その口上に」

 

 眼鏡を外すと、凄絶な笑みを浮かべた。

 

 

 

 ――決闘をしようか(・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ちなみに。

 

 急に乗り気になった相手を見て、一番驚いたのは他ならぬ吹っ掛けた張本人であったりしたのだが、幸いというべきことに、誰も気づいてなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




















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07 戦闘1

















 

「う―――ん……」

 

 七草真由美は、悩んでいた。

 

 全一科生合同実技授業。そもそもこれは新入生が上級生と交流を持ち、彼らの実力差を知るために設けられた場である。本来であれば一年生同士の模擬戦は推奨されないのだが、提案してきた二名が問題だった。

 

 一人は風紀委員一年生――森崎駿。百家「森崎」の生まれであり、実技試験における評価基準「処理速度」「規模」「干渉力」において優れた成績を示した一科生。

 

 対するは森崎駿と同じクラスの御嵜十理(おさきしゅうり)。母方の親が魔法師の家系ではあるものの一般家庭の生まれであり、入学試験では実技理論共に秀で、総合一〇位に選ばれるほどの秀才であった。

 

 能力の高さに疑いはない。しかし「能力」を制御できるほどの実力を新入生が有しているかは別問題だ。

 

 万が一、暴走が起こるようなことがあれば――

 

「いいのではないか」

 

「十文字くん」

 

 十文字克人。巌のような巨躯を誇る部活連会頭が、並んだ二人を見下ろす。

 

「我々が下級生を最大限フォローすればいい。それが俺達の仕事だ」

 

「……そうね」

 

 そうして。

 

 二人の決闘が承認された。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「ルールはこれまでと変わらない――」

 

 直接/間接攻撃を問わず、相手を死なせたり再起不能にする、また相手の肉体を損壊させる攻撃(武器を含む)は禁止であり、打撃に関しては損傷が「捻挫」以下であれば「素手」「足」での攻撃が可能である。

 

 開始されるまでCADの使用は許可されない。勝敗は審判が続行不可能と判断するか、降参を自己申告した場合に決定される。

 

 審判を務めるのは服部刑部副会長。

 

 距離を開けて対峙している、二人の態度には大きな隔たりがあった。

 

 森崎駿が特化型の拳銃型CADを両の手(・・・)に、二丁(・・)握って緊張な面持ちのまま合図を待っている一方で、御嵜十理は汎用型のスライド式携帯端末型という風変わりなCADを手にしつつ、見ていると薄ら寒くなる――まるで別人のような雰囲気の――鉱物的で近寄りがたい()笑を湛えながら佇んでいる。

 

 ――負けてたまるか。

 

 どちらが余裕あるかなど一目瞭然であり、事実森崎駿の精神状態は逼迫(ひっぱく)していた。原因は多数ある。

 

 一つは、一目惚れした司波深雪から精神的に距離を取られていると指摘され、それを意識してしまったこと。

 

 二つ目は風紀委員に選ばれはしたものの、新入生部活勧誘週間では剣道部での活躍と二科生――しかもよりにもよって司波深雪の、あの兄! ――に早くも先を越され、対する自分はそれに匹敵するだけの目立った功績を上げられずにいるということ。

 

 そして御嵜十理である。

 

 彼の態度の変化の違和感――それに、なんとなくだが、気づいてしまったのだ。

 

 ――「つまらないやつ」。

 

 ――「どうでもいいやつ」。

 

 あのときの笑顔は、要するに、そういう意味だったのだ。

 

 ――気に食わない(・・・・・・)

 

 ――なんでそんなふう(・・・・・)に僕を見る。

 

 ――ふざけるな!

 

 御嵜十理に。他ならぬ自分と同じ優等生であるこの少年に「あいつは取るに足らないやつ」と思われていることがどうしようもないくらい腹が立つ。

 

 ――見くびるなよ、僕を!

 

 ともすれば司波達也への対抗心と同じようにも捉えられてしまうが、この感情は別種のものである。

 

 司波達也への反発には自分よりも格下の存在(・・・・・)である彼が自分より活躍して評価されていることへの嫉妬心を起点としている部分があるが、十理は自分と同じ一科生であるためそこには一定の敬意が存在している。

 

 だからこの行動は「嫉妬」によるものではない――いつの間にか自分よりも「司波深雪」と親しげにしていることへの嫉妬を原理とした行動では、ない。

 

 それは、意地(・・)だ。一科生の誇りという学校内部でのみ通用する理屈ではなく、森崎家の魔法師としての――(いいや)それ以前に森崎駿個人(・・)としての意地だ。CADを二つ同時に扱って挑むという、つい最近ある男によって見せつけられた魔法技術をわざわざ採用した理由が、そうだった。

 

「お前を倒す、御嵜十理」

 

 どうして倒したいのか。なぜ倒さなくてはならないと感じているのか。

 

 ――壁だから。

 

 こいつは森崎駿にとって乗り越えなくてはならない壁だから。

 

 乗り越える(・・・・・)。つまり彼は御嵜十理という少年を自分よりも優れた人間であると認めているのだ。そして、だからこそ彼は御嵜十理の態度が気に食わないのだ。

 

 森崎駿は御嵜十理を認めているのに(・・・・・・・・・・・・・・・・)御嵜十理は森崎駿を認めていないから(・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 今回の決闘騒動の原因はすべてそこに起因する。

 

 認めている相手に認められたい(・・・・・・・・・・・・・・)男の(・・)意地(・・)

 

 だからこそ、十理は今回はその熱に煽られてやることにしたのだ。

 

 よって。二人の対峙する光景を見ただけで、どちらが挑戦者(・・・)であるかというのは明白であった。

 

 ――余裕のつもりか。

 

 意気込む森崎駿と比べて、十理は自然体だ。リラックスしているようにすら見受けられる。位置につく前、彼が北山雫たちに話しかけられていたのを見ていた。そのときも、緊張している様子はなかった。今も、そうだ。

 

 ――自信があるのか。あるのだろうな。

 

 ――だけど。

 

 

 合図が熾る。

 

 

「始め――!」

 

 開始。

 

 ――見せてやるよ、そして驚嘆しろ。

 

 ――早打ち(クイックドロウ)の真髄に!

 

 森崎駿はCADを介し、起動式を読み込む。〈圧縮空気弾(エア・ブリット)〉を選択。

 

 引き金。さながら西部劇(ウェスタン)のように。

 

 射出された弾丸が、十理を貫く――

 

 ただの圧縮空気弾と侮ることはできない。当たり所によっては、容易く昏倒させることもできる。

 

 だが。

 

無粋だ(・・・)

 

 固く結ばれたはずの弾丸は、なぜか、十理の長い髪を揺らしただけであった。

 

「―――」

 

 目を剥き、しかし内心のどこかではこれ(・・)予感していた(・・・・・・)森崎駿を相手に、芝居じみたそぶり、芝居じみた語り口で十理は首を振った。

 

「やはり、そう来たか。誘ったのはお前だろうに……、ただの一撃、まさか一瞬で幕を引こうなど、無粋極まる。逸りすぎだよ」

 

「何を、したんだ」

 

 再び引き金。しかし。

 

 今度は、発動すらしなかった。

 

 

「息を呑むような体験をしたことはあるか?」

 

 

 手汗が、べっとりと気持ち悪い。

 

 一瞬だが、森崎駿は十理の指がCADを叩いたのを見ていた。重たい予感が、鳩尾に押し付けられる。

 

 即ち、この現象は――

 

「ッ……!」

 

 銃口を向け、弾かれるようにして、収束/加速系統の魔法式がインストールされたほうではない、もう一つのCADの引き金を引いていた。自分が御し得るなかでも最難度の魔法を発動する。

 

 聞こえたのは、空撃ちの空虚な音だけであった。発動しない(・・・・・)。真っ白になった森崎駿の思考に、穏やかな口調ながらおそろしい響きを伴った十理の声が響く。

 

天使(・・)を喚んでやった。この〈沈黙の園(サイレンス)〉の領域内では、あらゆる雑音は生じえない。いいだろう、とても静かで……」

 

「領域干渉か」

 

 三年生の誰かが唸るように言った。まさしく、森崎駿のたどり着いた答えと同じだった。

 

 ――この距離で届くのか!?

 

 なんという展開速度か。そして最も恐るべきは、干渉下で森崎駿の魔法が発動しない事実すなわち干渉力で負けているということだった。

 

 領域干渉を破る方法は、干渉力で上回るか対抗魔法で吹き飛ばすしかない。

 

 いずれも、今の森崎駿には可能な手段ではなかった。だとすれば。足元が揺らぐような感覚に襲われた。森崎駿(じぶん)は、この戦いに総力を懸けると決めていたはずなのに。このまま戦いにすらならないまま、あっけなく、無様を、恥をさらして終わるのみなのか――

 

「そんな不安そうな顔をするな」

 

 十理は。まるで養豚場で出荷間近の家畜に向けるような、慈悲の込もった眼差しをして言った。

 

安心しろ(・・・・)撃たせてやるさ(・・・・・・・)。よく聞け。私の望みは派手な戦いだ、せっかくの決闘なのだからせいぜい思い切りやりたいじゃないか。思い切り、存分にだ」

 

 ――なんだ。

 

 ――なんだよ、それは。

 

 十理は、わらっていた。

 

「理解したか森崎駿? さあ、(おもて)を上げろ。そして銃を構えろ。改めて盛大にやろう。私の要求は伝えた、お前はそれを聞いた。あとは力いっぱい、振り上げたその拳でぶん殴るだけだろう、これは決闘なのだから! 敵はここだ、ほうら、来いよ。来いったら。殴り方も知らない赤子じゃあるまい……来ないのなら、地虫のように踏み躙ってしまうぞ。踏み潰されるのがお望みか?」

 

「な、」

 

「な?」

 

「舐めるなぁぁぁぁ――――――――――――――!!」

 

 それは雷鳴にも、悲鳴にも似て。

 

 震える銃口。引き金。今度は発動した。

 

 放出系魔法――〈スパーク〉。

 

 基礎的な術式ではあるものの、術者の力量によって威力や範囲に変化を加えられる特徴を持つこの魔法は一年生には難易度が高く、だからこそ森崎駿の距離から威力を損なわずに届かせているのは驚くべき光景であり、研鑽を重ねてきた彼の努力のほどが窺える。

 

 迫る電撃を前に、少年は。

 

 わらいながら、口にした。

 

 

「〈斥けるもの(アンブレラ)〉」

 

 

 刹那。

 

 御嵜十理の「影」が、揺らめく。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 殺到する雷撃。常人であれば腰を抜かすような光景だ。雷の力が、激しい音と指向性を伴って迫ってくるのだから。

 

 しかし届かない。間断なく放たれ続ける雷撃と十理の間には――明確な「壁」があった。

 

 障壁魔法ではない。妨げたモノのカタチに見覚えのある人間は、大勢いた。

 

 (Umbrella).

 

 丸みを帯びた深張りの傘。淡い紫の帆の八面には白い四角い渦模様が描かれており、(なか)には同心円状の丸が描かれている。それを雨に向けるようにして、降り注ぐ電撃のすべてを(しりぞ)けていた。

 

 どこ(・・)から現れた。いつ(・・)現れた。あれ(・・)は、なんだ?

 

 疑問の答えを知る者は応えない。自らの()から。一瞬(・・)の何一〇〇分の一の速度で()り出したことに気づいた者は誰もいない――この「傘」が異世界の日傘の勇者(・・・・・・・・・)が愛用した防具と同じ霊格を()ろされた魔法道具であることを知る者が一人としていなかったのと同じように。

 

「っ――!」

 

「そうだ! やればできるじゃないか森崎駿! なんで最初からそれをやらない! 今しばらくは殴られてやろう、今がチャンスだぞ、攻め時だ! さあもっと(・・・)見せてくれ……だが、ただ殴られるだけというのも面白みに欠けるな。こちらも、相応しいものを見せてやろう――〈爆雷顎(スターマイン)〉!」

 

 第一の宣誓と共に。十理の足元に、文字にして文字ならざる「何か」が描かれた蒼い魔法陣が現れた。

 

 

「――〈回路固定・伝導開始(コール・セット)〉――」

 

 

「なに? 別の――古式魔法か!?」

 

 次いで魔法陣のうえに小さな円盤が二つ、対極の位置から現れ、円の外と内の枠線を車輪のようになぞりながらそれぞれ右方向へゆっくりと、旋回行動を開始する。

 

「くそ―――!」

 

 十理に慌てた様子はない。あらゆる沈黙を引き裂く雷撃は、しかしたかが(・・・)傘の薄膜すらも打ち破れず、触れる手前で消滅している。

 

 続いて彼の正面に、傘の外枠よりも巨大な次なる魔法陣が現れた。描かれているのは無数の数字であり、それらは見えない法則に従って絶えず変化をし続けている。

 

「なんで――」

 

 雷撃が淡紫の傘により(ことごと)く消し去られてゆく景色は、いっそ幻想的であり、そして無情でさえあった。

 

 十理の足元の二つの円盤はさながら時計の針のように、片方の移動速度が上がったことで確実に近づいている。

 

「なんで――!」

 

「おいおい。まだ(・・)あるだろう。まだまだ(・・・・)あるだろう。もっと(・・・)だ。もっと(・・・)もっと(・・・)だ」

 

 危機感が膨れ上がる。魔法陣の術式が何であるのかは分からない、だが早くなんとかしなければ(・・・・・・・・・)まずい事態になることだけは理解できた。

 

 〈スパーク〉。

 

 〈エアブリット〉。

 

 〈スパーク〉。

 〈振動系魔法〉。

 〈スパーク〉。

 〈スパーク〉。

 〈スパーク〉。

 

 〈スパーク〉―――

 

 怒涛の攻撃。

 

 歓声や賞賛が湧いたが、森崎駿には聞く余裕などありはしなかった。

 

「マルチ・キャスト……」

 

 七草真由美は。高度な魔法技術を確かに運用できている少年の姿を見て、その努力の程を知り、彼がどれだけの想いを懸けてこの戦いに挑んでいるのかを察せられた。

 

 十文字克人も。入学したばかりの一年生でありながらここまで戦えている森崎駿という男子生徒の姿勢を評価し、服部刑部もまた、その意気込みには感心していた。

 

 だが、だからこそ。

 

 むしろ、それ以上に――

 

「一辺倒に過ぎる。それはもう見飽きたぞ」

 

 森崎駿は。当初の計画が破綻しきっているなかで、それでも舞台から降りようとは考えもしていなかった。

 

 自らの攻撃を微塵の疲れも見せずに防ぎ続ける御嵜十理に対し、怒り、恐怖、嫉妬、それらがぐちゃぐちゃにせめぎ合い混合された感情を剥き出しにしながらも、しかし魔法操作を誤ることはなかった。

 

 ――このままではだめだ。

 

 すでに何十と内心で繰り返している言葉が、浮かんだ。

 

 ――このまま撃ち続けていても、あの〈魔法〉を貫くことはできない。

 

 ならば、どうするのか。

 

 舌打ちしていた。CADを操作する指は休めない。ただ、身体がこれから臨む行為に対して恐怖に震えていた。(いいや)、武者震いさ。出した結論は一つだった。

 

 ――遠くでだめなら、近づくしかない!

 

 やってやるさ。それしかないんだからな。あいつに勝つためには、それぐらいしかもうないんだからさ。

 

 隙を見て、自己加速術式で突撃する。隙など、ありはしない。だが、〈スパーク〉で視界は妨げられているはずだ。意表はつける。部の悪い賭けだが。

 

 森崎駿は。

 

「そうか」

 

 術式を展開――

 

 しようとしたところで、身体が動かなくなっていることに気づいた。

 

「あっ……?」

 

「ここまで、ということだな」

 

 質量のある闇(・・・・・・)が、重く圧し掛かっている。それは、正しくは「影」であった。十理の「()」から音もなく忍ぶように伸ばされていた「影」は、森崎駿の影と結合すると平面状態を立体状態へ移行させて、触手のように彼の全身を拘束していた。

 

「なんだ――これッ!?」

 

 

「――〈全弾装填(トリガーオフ)〉――〈凍結門開放(コールドパージ)〉――」

 

 

「まさか、パラレル・キャスト……?」

 

 十理の、足元の魔法陣。二つの円盤がついに合致すると、一つになったそれが、魔法陣の中心へと吸い込まれ――

 

 一方で身動きを封じられ、また皮膚に絡みついた「影」の様子は想像を絶する恐怖であり、完全に恐慌状態に陥りかけた森崎駿の双眸は、変化する数字の魔法陣が唐突に砕け散り、代わりに洞穴の如き蒼い砲口(・・)が現れたのを目撃した。

 

「仕方ない。まあ、仕方ないなあ。そんなに、悪くもなかったしな」

 

「御、嵜……!」

 

 十理は。

 

 傘を手放し(・・・・・)

 

「【告げる】。……準備は整い、舞台は相成った。覚悟(・・)はいいな、森崎駿。私はお前に敬意を表し、私の持てる最大の一撃を以て、お前の勝利を粉砕(・・)しよう」

 

 戦慄を、誰もが抱いた。

 

 少年の口元は、あたかも捕虜を処刑する指揮官の如き害意に歪んでいた。

 

「だめ、いけない――!?」

 

 今や森崎駿の思考を占めていたのは、恐怖、だった。気が付くと片方のCADは取り落としており、もう一方は、引き金にかろうじて利き指が引っ掛かっているだけだった。

 

 ――負ける。

 

 しくじった。どこでしくじったのか。初めから、どだい無理なことだったのか。恐怖のなかで、不思議と冷静に事態を俯瞰している自分がいた。感情は切り離されている。もしかすると、死の間際に見るとされる走馬灯の感覚がこれなのかもしれない。

 

 ――負けるのか、僕は。

 

 

「――〈天より墜つる蒼き彗星(ディープインパクト)〉――〈完全収束・射出展開(パーフェクト・テン)〉――」

 

 

 わらっているのが見えた。あいつ(・・・)

 

 わらっているのか(・・・・・・・・)

 

 ――あいつにわらわれたまま、このまま。

 

 恐怖が、あった。もしかしたら、泣いていたかもしれない。

 

 ――ああ無様だ。恥だ。惨めだ。悲惨だ。

 

 だが。

 

 だからこそ、ああ。それでも――

 

 張りつめていたものが、引きちぎれてしまう刹那の抵抗。あるいは風前の灯の輝きか。

 

 ――せめて。

 

 恐怖と、しかし。森崎駿には、それでも捨てきれぬ意地(・・)があった。たとえそれが恐怖にこびりついていたものだとしても。

 

 ――この距離では、今から発動しても間に合わない。

 

 ならば一つしかないだろう(・・・・・・・・・・・・)たった一つの冴えた方法(・・・・・・・・・・・)。消し飛ぶ前に。

 

 命令が下される、間際に。

 

 森崎駿は、御嵜十理を見て――引き金を、絞った。

 

 鋭い風(・・・)が吹き、少年の背後数メートルの空間(・・・・・・・・・・)をさらい、そのまま消えた。

 

 それだけだった。

 

 

「―――――――――――ハ、」

 

 

 十理は。

 

 

「【放て(ファイア)】」

 

 

 

 ――あいつは、最後どういう意味で、わらったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――蒼が、貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 【降霊物紹介】

 傘(umbrella) … かつて「魔王」を倒した「勇者」が愛用し続けた日傘と同等の霊格(伝承)を獲得した降霊物。
 色がピンクでない理由は、いわゆる2pカラーのようなもの。

 なお出典作品においては、そもそも防具ですらないという扱い。単にどこまでも丈夫な日傘。
















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08 変化


 嫌いだ あいつが大嫌いだ 
 見下されているようで
 そうやって ひがんでは強がる
 自分のことは もっと大嫌いだ

   ―――BRADIO/ 夢見るEnergy


















 

 蒼が、世界を染める。

 

「―――」

 

 軋むような音は「空間」の悲鳴か。闘技場を貫いた「蒼」の奔流は、数秒のあいだ少年の身体を呑み込むと徐々に細くなり、やがて魔法陣と共に消滅した。

 

 残されたのは静寂。

 

 倒れ伏し、微動だにしない森崎駿。

 

 生徒たちは、壮絶な光景に、呑まれてしまっている。

 

「……………っ、救護班を―――」

 

 最初に我に返った、七草真由美が指示を出そうとすると、

 

「安心しろ。死んではいないさ」

 

 元凶である、御嵜十理(おさきしゅうり)は胸ポケットから眼鏡を取り出し、妖しく微笑みながらそう言った。

 

「死ぬような威力ではない。せいぜい派手に気絶するだけだ」

 

「御嵜くん……」

 

「そのうち目を覚ましますよ。それより、勝負は僕の勝ちということでよろしいですか?」

 

 雰囲気も口調も変わり、穏やかな瞳になった少年に促されると、森崎駿が言葉通りに気絶しているだけだと確認し終えた服部刑部は立ち上がり、宣言した。

 

 

「勝者――御嵜十理」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 目を覚ます。

 

 

 見知らぬ天井。

 

 ベッドに寝かされている。

 

 身体を動かそうとすると、呻き声が漏れた。

 

「試合は……」

 

 闘技場ではない。利用したことがないため、この場所が保健室であることに気づくのが遅れた。

 

「そうか」

 

 ――そう、なのか。

 

「僕は」

 

 ――負けたのか。

 

 腕で、顔を覆う。

 

 

「………、」

 

 

 傷など、ない。だが。痛みがあった。

 

 敗北。悔い。恥。痛み。

 

 ――届かなかった。

 

「ちくしょう」

 

 ふるえていた。

 

「ちく、しょう」

 

 込み上げてきた言葉は、ふるえが収まるまで、止まることを知らなかった。

 

 

 

 ―――。

 

 

 

 どれだけ時間が経ったのか。

 

 ようやく、心が落ち着いてきていた。

 

「はあ……凄いな。あいつは」

 

 時計を見れば、十二時をとうに過ぎている。今日は昼食は食べられそうになかった。

 

 保険医の姿はない。勝手に抜け出すわけにもいかず、もう一度ベッドに横になると、改めて御嵜十理との実力差を考えた。

 

 ――思い知らされた。

 

 ――すべてが予想の上を行った。

 

 ――あいつには、まるでかなわなかった。

 

 怒りは、今は不思議と(おこ)らなかった。つい先程まで在った激しい感情は、まるで穴から抜け落ちたかのようになくなっている。

 

 ただ、鉛のように重たいものが、身体の奥底にへばりついている感じがしていた。それが、良くない傾向(・・・・・・)であるのは分かっていた。上滑りする思考。鉛はどんどん重たくなり、冷たく熱を奪っていく。意味のあること。意味のないこと。普段なら考えもしないようなことさえ、考えてしまう。

 

 ――あんなにも簡単に負けてしまった自分は。

 

 ――魔法師としての情熱をかけてきた自分は。

 

 ――あれだけ勝ちに拘っていたはずの自分は。

 

 こうして天井を見上げていると、酷くつまらない存在(・・・・・・・)であったような気さえしてくる。そして殊更それを否定しようという気も熾こらないのだ、何故だか。

 

 身体の芯が、酷く重たい。もしかしたら、これは。森崎駿は考える。いよいよ不味いのかもしれないな。

 

 致命傷(・・・)。このままだと、もう起き上がれなくなるかもしれないな。そのとき僕はどうなるだろう。魔法師でない僕。魔法師でない森崎駿。それは、今の自分とどれだけ違うのだろう。こうして横になっている自分と。そして記憶のなかの、自分に冷めた眼差しを向ける彼を思いだした。

 

 ――あいつの言うとおりなのかもしれない。

 

 ――こんな、僕では。

 

 音が、した。ノック。

 

 保健室の扉が開かれる。

 

 揺れるカーテン。

 

 近づいてくる気配。

 

「おや、起きましたか」

 

「御嵜か……」

 

「司波さんでなくて申し訳ない。お加減はどうです」

 

「身体が痛い。まだ少し痺れてる……あと余計なこと言うな」

 

「それはそれは」

 

 現れたのは、人の良さそうな顔をしながら森崎駿をこんなざま(・・)にした相手。

 

「なんのようだ。僕を笑いに来たのか」

 

「ひねくれてますねえ。様子を見に来ただけなのですが」

 

 簡易椅子に座った十理は、森崎駿の顔を眺めると、小首をかしげた。そんな仕草でさえ男から見ても華があるのだから、少し腹が立った。とはいえ口に出しはしない。

 

「どうされました。そんなに睨むような顔して」

 

「なんでもない」

 

「……本当にどうしたんですか。僕はてっきりさっそく飛びかかってくるものだと思っていましたが」

 

「なんだよそれ。僕ってどういうやつだ」

 

「そのままの意味ですが」

 

 疲れたように笑う。

 

 溜息しか出ない。何をしに来たのだ、こいつは。

 

「……ふむ。どうにも変ですね。僕が此処に来るまでに何かありましたか?」

 

 鋭い指摘だ。自分とは違う、実に御嵜十理らしい(・・・)

 

「べつに。ただ、緊張の糸が切れたみたいだ。ここのところ今日のために色々とやってきたつもりだった……けど、まるで無意味だったな。あまりにも。何もできなかった」

 

「それは無いでしょう。風紀委員長が褒めていましたよ、一年生であれだけ〈スパーク〉を扱えるのは凄いと。それに最後の一撃。君はあの状況で、知覚系魔法も使わずに僕の背後に〈エアブリット〉を発動させた。あれには、僕も驚かされました」

 

でも勝てなかった(・・・・・・・・)!」

 

「………、」

 

「お前に勝てなきゃ意味ないのに! あんなに頑張ったってダメだったじゃないか!? あれだって結局失敗して――!」

 

 睨みつけていた。馬鹿なやつだ、と暗い空洞のようなところからもう一人の自分の声が聞こえた気がした。負けた理由が自分の実力不足だということは分かっていた――分かり切っていた。あの戦いで、分からされたのだ。誰の目にも明白だった。誰が悪いのかという、良し悪しの問題ではない。しかしそれでも、自分が弱いから負けたという事実だけは、確かだと思っていた。そしてせっかく様子を見に来てくれた相手に、こんな癇癪をぶつけている。本当に嫌な奴だ。冷めた自分の、嘲笑する声が聞こえた。

 

「僕はお前とは違う。……疲れたんだ。放っておいてくれないか」

 

 御嵜十理の顔を見れない。今の自分を見られたくない。最悪だ。これ以上話していたくない。

 

 自分が嫌だ。森崎駿という、今の自分を構築している自分が嫌だ。いっそ全部捨ててしまえたら、どんなに楽になれるだろう。

 

「なるほど。なかなか重症なようですね」

 

 御嵜十理の、嘆息する声が聞こえた。

 

「なんだよ……お前になにが分かる!?」

 

 声が尖るのを抑えられない。これ以上はやめておけよ。これ以上嫌な奴になるんじゃない。そう思っても、止められなかった。

 

「なにも。僕は森崎くんではないので。ただ今の君の落ち込みようは半端ではない。なぜそこまでして自分を追い詰めているんです?」

 

「お前には分からないだろうよ……僕は森崎の人間なんだ、百家『森崎』の嫡子だぞ! こんな無様、ありえないだろ」

 

 少し、奇妙な沈黙があり、

 

「…………………いえ、あの本当にわからないんですが。え、本気で言っているんですか?」

 

「なにがだよ!?」

 

「一度負けただけ(・・)でしょう? なのにこれまでの全部が御破算になったみたいな深刻な顔をして、そんな(・・・)理由で?」

 

 え?

 

 と。その、落差が。

 

 苦しい胸の内を明かしてみたら、お前の決死の告白には何の重みもないのだと言わんばかりの態度である。

 

 堪らず、森崎駿は叫び返していた。

 

「ふ――ふざけるなよ! 本当にふざけるなよお前!! 僕がどれだけ苦労したと思ってる、森崎を継ぐ人間として今までどれだけ修練を重ねてきたと思ってるんだ!?」

 

 痛みに顔を歪めながら睨みつけるも、表情は困惑したままだった。

 

「いえ、でしたら尚の事でしょう? それだけ頑張ってきたのならどうして一度の敗北で全てを投げ出そうとするんです?」

 

「それはッ――」

 

 言葉が途切れる。はたと。

 

 疑問が、頭をよぎった。

 

 ――なぜここまで、僕は腹を立てているんだ。

 

 森崎駿は。自分の今の怒りが先程の思考と完全に矛盾していることに、ようやく気付いた。御嵜十理が「よくわからない拘わり」と切り捨てたものは、つい今しがたまで他ならぬ森崎駿自身が捨てようとしていたものと同じであるはずなのに、どうして。

 

「それは……」

 

 咄嗟に、言い返すことができなかった。まるで司波深雪のことを訊かれたときと同じように。

 

 森崎駿が黙ってしまうと、混乱している頭に、ため息の音が降ってきた。

 

「完全無欠でなくてはいけませんか。一度しくじれば(・・・・・)積み上げてきたもの全部が無意味になると?」

 

 立ち上がった御嵜十理の声は冷ややかである。俯いているから分からないが、向けられている表情もきっと、決闘直前のときと同じであろうことは、すぐに想像がついた。

 

「もしそうだと主張するのなら一つ言っておかなくてはなりません森崎くん。君は――」彼が、眼鏡を外す。「お前(・・)は、酷い勘違いをしている。滑稽なくらい(・・・・・・)間違っているよ」

 

「なっ――」

 

 あまりにも予想を超えた発言に、さしもの森崎駿も顔を上げた。

 

 視線。

 

 射抜かれるほど、強い眼差し。敵意に満ちた。

 

「質問だ森崎駿。お前がいま寝ているここはどこだ?」

 

「は、あ……?」

 

「決闘における敗者は、勝者の命令には従わなくてはならない。だろう? 答えろ負け犬(・・・・・・)

 

 まるで別人。決闘の際も感じたが、口調も雰囲気も何もかもが違う。

 

 不遜。冷酷。森崎駿には無い、一科生のプライドを振りかざす者とも異なる、立ち姿には圧倒されるような自信(・・)が滲みだしている。

 

 目にすると共に、思い知らされたような気になった。

 

 ――まさしく強者(・・)

 

 そしてそれに見下ろされる自分は圧倒的に敗者なのだ。逆らうことは、できない。

 

「高校……国立魔法大学付属……第一高校」

 

「そうだ、つまり学校(・・)だ。お前は学生(・・)だ。次がないだと? ここは命を()り取りするような戦場じゃないぞ、お前はもう自分が一端の魔法師だとでも思っているのか? たかだか一度私に負けたくらいで、もう挫折気取りか。悲劇者気取りか。私は魔法師に造詣が深いわけではないがそれでもお前の態度が魔法師を()め腐っていることくらい分かるよ」

 

 嘲る声。見下す視線。

 

 一瞬だけ。胸のうちで何かが(おこ)った。

 

「―――」

 

 消えてしまうはずだった「何か(・・)」が。

 

「たかだか一〇数年しか生を重ねていない最も未来ある立ち位置の若者が、たった一度の戦いで、もう自分のすべてに見切りをつけるとは。おいおい、やれやれだよこいつは、まったく。ため息を抑えられん。実力も審美眼もない、唯一あった安っぽいプライドさえも捨ててしまったとあっては、もはや小物ですらない。路端の石ころ(・・・・・・)だな。これでは誰も目をくれないはずだよ」

 

「なんだと――!」

 

 御嵜十理は、捲し立てるように畳み掛ける。

 

「何が違うと一つでも反論できるか? 決闘だとか大見得切って呆気なくおっ()んだら、恥ずかしくてもう僕ちゃん立ち直れませんってか。はっ! そんなざま(・・)で優しく慰めてくれるのを期待していたのか、なるほど、そうかよ、だがな、しかしだ、お生憎さまだが――ああ本当にお気の毒さまだが、お前の願いはかなわない。何故か? 簡単な話だ、私がここに来たのはな――」

 

 悪意。侮蔑。

 

 失望――

 

「私がここに来たのはだ、お前がもしかしたら私の感じた以上に骨のあるやつなのかもと思い直したからだ。ここで私に闘志を燃やして打倒宣言するくらいには(こせい)の強いやつかと期待していたが、蓋を開けてみればどうだ。百家(・・)がどうだの、森崎(・・)がどうしただの、ごちゃくちゃ(・・・・・・)ご大層なこと並べときながら結局、ようは痛い思いするのが嫌で逃げてるだけだろうが。『もう一度努力したところで敵わないかもしれないし?』『もし今度も負けちゃったりしたら周りから何て思われるだろう、やだ怖い、もう嫌だ』――だから現実に立ち向かえない。そんなとこだろう? 要するにお前は、(はな)から覚悟も勇気も持ち合わせちゃいなかったんだ。確かに私とは違うよ。そんなので勝てるはずもない、負けるのは当たり前だ」

 

「ち、違うッ――」

 

 湧き上がる感情。

 

「違わないさ」

 

 否定する声。

 

 それを、否定する意志(こえ)がある。

 

「そんなことはない!」

 

 そうだ(・・・)。そんなことはない。

 

「よく言う。何かを背負って看板を掲げるくらいなら、何があっても戦う覚悟を捨てちゃあだめだろうに。一発殴られただけでへこたれてるような奴に何ができる」

 

 犬みたいにわんわん吠えてみせるか? ピン(・・)と立つもんがあるぶん、犬のほうがまだ根性が据わってるか。つまりお前は負け犬ですらないわけだ。そう嘲笑う。

 

 ――ふざけるな(・・・・・)

 

「ふざけるな! 僕は、まだお前に負けちゃいない(・・・・・・・・・・)!!」

 

「はあ。いや負けただろ。それで全部投げ出したくなっちゃったんだろう。今日という日まで積み上げてきたものぜんぶが嫌になっちゃったんだろう。ほんと、口先だけは威勢が良くて、案の定だ。けっきょく諦めるだけしか能がないんだな、そうやって一生負け続けるんだよ、お前は」

 

「負けちゃいない、僕は!」

 

「どの口が」

 

「まだ、終わってない!」

 

 ――恥。悔しさ。情けなさ。

 

 確かに負けた。それは、自分が弱いからだ。でも何でそこまでこいつに言われなくちゃいけない。どうしてそうだと決めつけるんだ。ちくしょう。こいつの言っていることは正しい。分かってる。知ってるんだ、思い知ったんだ。けれど(・・・)

 

 ――だけど(・・・)

 

「ほう、本当に? 口先だけじゃないって?」

 

「これで、終わりじゃない! 諦めてなんかない!! 勝手なこと言うなよ!!」

 

 こんなままで終わりたくない(・・・・・・・・・・・・・)。不思議だった。あれだけ沈み込んでいたはずなのに。罵倒されて、この期に及んで、このまま終わってたまるかという滾り、熱、込み上げてくるものがあった。それは、口に出すほどに強くなってゆく。激しくなってゆく。怒りだ。大風に煽られいよいよ燃え広がる熾火のように。全身が、熱く。

 

「僕は!!」

 

 ――まだ、折れてはいない(・・・・・・・)

 

 終わってたまるものか(・・・・・・・・・・)。声は、もはや叫びのように大きくなっていた。それは、自分のことを無価値だと罵る相手に対しての叫びだ。積み上げてきた努力を無意味だと断定する者への怒りだ。

 

 そうだ(・・・)こんなところで(・・・・・・・)

 

 こんなざまのままで(・・・・・・・・・)こんなことを言われたままで(・・・・・・・・・・・・・)

 

「まだ――!!」

 

 ――終わってはいない(・・・・・・・・)

 

 ――終わってなんかやれるものか(・・・・・・・・・・・・・)!!

 

 ふうん、と。

 

 

「本当に負けていないのなら。諦めていないのなら……こんなところで何もかも投げ出したりは、しないですよね?」

 

 

「………………………え…」

 

 椅子に座り、眼鏡をかけた御嵜十理の表情には。

 

 いつの間にやら、笑みが浮かんでいた。

 

 侮蔑。失望。そのどれでもない、御嵜十理の愉しげな笑み。

 

「――――」

 

 目を疑った。

 

「そうですか。なら問題ありませんね。失礼しました、ちょっと……ちょっぴり言い過ぎました。あのままだと何時までも抱えてそのうち潰れてしまいそうに見えたものですから」

 

「……は………?」

 

 唖然だった。豹変、していた。

 

 混乱のあまり、冷や汗が伝う。

 

「ど、どど、どういうことだ……?」

 

「ほら。もう悩んだりしていないでしょう?」

 

 急展開、である。

 

 考えてみる。確かに。

 

 もう、もう一人の声は聞こえない。

 

 けど。

 

「………いや、でも。え?」情けない声が出た。しかし気にしている余裕などなかった。「そりゃ、さっきみたいな気分どころじゃなくなったけど――」

 

 悩みなんて遙か彼方に吹っ飛んだけど。

 

 いやいやでも、あれだけボロクソに言われて。それが全部オ前ノ為ダッタンダー、なんて。

 

「ちょっと待てよ、納得いかない……!」

 

「いつでも納得が得られるだなんて思わないことです森崎くん」

 

「いやでもお前、かなり、僕に酷いこと言ったよな!? なあ!?」

 

「『でもでも』さっきから言い過ぎです森崎くん。あ、そろそろ昼休みが終わりますね。僕は授業がありますので」

 

「え? え!? え――!? なに、お前このまま出てくの!? さんざん言っておいて……!?」

 

 溜まりに溜まり、爆発寸前まで高まったところで、盛大にはしごを外された。

 

 いやふざけんなという話である。

 

 が。目の前で惚れ〃々するくらい爽やかな笑みをしている少年は、そんなの知ったこっちゃないという感じであった。

 

「あら。ずいぶんと賑やかね」

 

 扉が開く。

 

「安宿先生」

 

「仲がいいのね。聞いていた話だと、二人して『決闘』をしたのよね? てっきり仲が悪いかと思っていたけど」

 

「そこまで知られているんですね」

 

「おいちょっ……」

 

「それでは僕は失礼いたします。森崎くんのこと、どうかよろしくお願いします」

 

「はーい。勉強頑張ってね」

 

「いやいやいや、おい待て、」

 

「――あ、そうです森崎くん。僕が尊敬している作家の言葉の一つに、心の教訓として素晴らしい一文があるのですが。『まわりの仲間より優れていることは、特に立派なことではない。本当の気高さとは、過去の自分より優れていることだ』……」

 

「あら? それってもしかしてヘミングウェイ?」

 

「先生はご存知でしたか」

 

「博識なのねえ」

 

「いいえ、まだまだ不勉強です。それでですね、森崎くん。これは僕の持論なのですが」

 

 見透かされるような双眸。

 

 けれど、穏やかな光が湛えている。

 

「一科とか二科だとか、他人を貶している暇があったら己を鍛え上げたほうがよほど有意義です。唯一無二絶対は己のなかにしかない、それを誇れない人生に価値などありません。森崎くんが本当に司波さんを手に入れたいのなら、まずは自分の魅力で勝負するべきなのではありませんか?」

 

「うぐっ……」

 

 ――すごくまともなことを言ってるように聞こえる。

 

 ――さんざん僕に暴言を吐き散らしたあとでなければな!

 

「先人も言っています。信念を貫くところに、進むべき道は自ずと開かれると。こんなところで腐ってくれるなよ、森崎駿。君が強く在ろうとしている姿は、僕にとっても喜ばしきことなのだから」

 

 そして。

 

 彼は出て行った。

 

 過ぎ去った春の嵐のように、森崎駿の心を掻き乱して。

 

 

 

 ―――。

 

 

 

「いいお友達じゃない」

 

「え。友達、ですか」

 

 ――友達、か?

 

 ――友達なのか。

 

 まだ、納得などしていなかった――そう簡単に説得などされてやりたくはなかったが。それをぶつける相手は、さっさといなくなってしまっていた。

 

 正直、やっぱりふざけんなという気持ちはまだあったが。

 

「………、」

 

 なだらかな肩から落ちるように、深いため息がこぼれた。だけど、とも思う。彼がわざわざ保健室にまで足を運んできた理由だ。もし仮に、本当に彼にとって森崎駿が「どうでもいいやつ」だったのだとしたら、先の会話で判明した限りでは、御嵜十理という少年の性格からして、おそらく決闘で叩きのめした相手になど、見向きもしなかったのではないだろうか。

 

 ――だとしたら、僕は。

 

 ――あいつにとって、どうでもよくはなくなったってことなのか。

 

「そう、ですね……はい」

 

 ――友達、か。

 

「………、」

 

「じゃあ簡単な検査するわね。直ぐに治して、追いつかなきゃ」

 

 森崎駿は。

 

「――はい」 

 

 脱力しながら受け答えした、疲労の濃いその顔色は、それでも、沈み込んでいた先ほどよりも、いくぶんか明るく、優れているようで―――

 

 

 

 

 

 ………

 

 ……

 

 …

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ――数時間後――

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「全校生徒の皆さん! 私たちは学内の差別撤廃を掲げる有志同盟です――」

 

 

 突然。

 

 スピーカーから大音量で流れ出した、宣言。

 

「な、なんだよっ?」

 

 治安維持活動に復帰していた森崎駿は、端末が受信したメッセージを読むと、急いで現場へ急行することにしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 後日――

 

 

「駿でいい」

 

「はい?」

 

「名前だ。森崎じゃなくて、名前で呼んでいい」

 

「男のデレとか……」

 

「ちょっと、雫ちゃん」

 

「うるさい、外野は黙ってろよ!」

 

「はあ……それでは、駿くんと」

 

「ああ。僕も十理と呼ぶ」

 

「……えー?」

 

「だから何なんだよお前は!?」

 

「まあまあ。そうカッカしない。分かりました。改めてよろしく、駿」

 

「ああ」

 

 

 ……そんな遣り取りがあったとか、なかったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







 














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09 創作活動3


















 

 国立魔法大学付属第一高校。

 

 

 朝。

 

 Ⅰ-A組にて――

 

「あれ、御嵜くんって今日も休み?」

 

 光井ほのかは、ほとんどの生徒が教室に姿を見せているなかで、友人の北山雫の隣席である()が昨日に続いて空席であることを心配そうに呟いた。

 

 彼。御嵜十理(おさきしゅうり)。現代ではすっかり珍しくなったリムレスタイプの眼鏡をかけ、背中まである艶やかな黒髪を首辺りで柔らかく結った痩躯の、美丈夫。穏やかな雰囲気の佇まいをした少年。

 

 彼女にとってクラスメイトとしては一番多く接している男子であり、それは北山雫にとっても同様だろう。最近では司波深雪と親しい一科生男子として認識されており――というのも、このあいだ起こった剣道部と剣術部の小競り合いを彼女の兄である司波達也が収めたことで、その際の活躍譚を嬉々として語る司波深雪の姿にほとんどの男子は気後れしてしまい、過剰な取り巻き問題も解消しつつあったので――必然的にA組のなかでは四人で行動することが多くなっていた。

 

 そうして接しているうちに、光井ほのかは、実は御嵜十理が必ずしも見た目通りの優しい人間ではないことを窺わせる機会と何度か巡り合うことがあった。彼は、ぶしつけ(・・・・)な視線を向けてくることはないけども、品の良い風貌の下では時折り「毒」を醸すし――すっかり慣れてしまった自分がいるけれど――でも実は運動が苦手らしい(レッグボールの試合では、つんのめって危うく転倒しかけたりしていた)意外な一面もあって、このおかげで気後れせずに済んでいたのも確かである。

 

 それが、数日前までの印象だった。

 

 今は、違う。きっかけは全一科生合同実技授業で、森崎駿と行われた模擬戦である。数日前のあの戦いで十理が見せた、尋常でない力量と詳細不明の〈魔法〉、そして目撃した機会は一度でしか無いが、眼鏡を外したときの、まるで別人のような雰囲気、陽気さは抜け落ち、冷酷で鋭利なものへと変貌した眼差し……

 

 試合が終われば、十理は普段の態度に戻っていたが。多くの生徒は、光井ほのかを含んで「豹変」した姿に戸惑いを隠せず、恐れ、近づくことを避けようとしていた。

 

 しかし復帰した森崎駿がすぐさま「あいつは凄いやつだ」と言い募り、大勢の前でも敗北したとは思えないほど両者の関係が良好であったことから、目の当たりにした生徒たちの警戒は次第に薄れていき、加えて本人の「僕って気分が盛り上がってしまうと、時々ああやって自制が効かなくなってしまうんですよねえ」と照れた様子で告白した姿が決め手となって、翌日にはクラスメイトから「御嵜くん? まあなんていうか……、見た目も悪くないけど……怒らせるとヤバい人だよね……悪い子じゃない……とは思うけど……」という、恐れとは毛色の少し違った、やや引きつり気味の視線を向けられるぐらいには、評判は見事に回復(?)を果たしていた。

 

 ちなみに。光井ほのかも、これらの感想(美人、毒舌、ハイな人)には全面的に同意している――口にはぜったい出さない、出せないけども。

 

 警戒が解けてしまえば、生徒たちの注目が彼の使用した〈魔法〉へ向けられるのは自明の理であり、大勢が「あの蒼、あの影、あの傘はなんだったのか」と彼に問い詰めたものの、「魔法師にそれを聞くのは礼儀(マナー)知らずでは?」と例の笑顔(・・・・)で一蹴されたため、以来なんとなく話題に上ることは避けられるようになっている。

 

 とはいえ明確な回答が与えられていないだけなのであって、自分たちはあのときの〈魔法〉が〈超能力〉の類ではないかと、だいたいの当たりをつけているのだが。

 

「体調を崩したとかって話だけど……メールも返信ないし。電話も繋がらないし」

 

「そう……、ね。どうしたのかしらね」

 

 北山雫も表情筋活動の乏しいながら心配した様子で呟いたが、グループの筆頭である司波深雪が「御嵜十理」の名前が出るたびに奇妙な反応を示すことに気づき、何かあったのかと小首を傾げる……

 

 その日はグループ唯一の男子がいないことを機と見て司波深雪に話しかけようとした生徒が増えたために、彼女らの様子はいささか疲れた雰囲気が漂うものとなった。

 

 ちなみに。話しかけた男子のうち、森崎駿は模擬戦を経て自身の好敵手として認めた十理を純粋に心配して声をかけたのだが、それが正しく伝わることはなく、司波深雪(おもいびと)に更なる悪印象を与えてしまったのは、もはや悲劇としか言い様がなかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 体調を崩したというのは真実ではない。

 

 体調の変化という意味では正しい。

 

 

 ――御嵜十理の頭上に、二年ぶりの天啓が降ってきた。

 

 

 二日前のことである。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 同日。

 

 

 同時刻。

 

 屋内にて。

 

 

「――――――――」

 

 

 触れる。指先。感覚。

 

 肌触り。撫でるように。前後に。何度も。

 

 慈しむように。

 

 ――〃、

 

 ――々。

 

 微振動。吐息。

 

 熱。上下する喉の動き。

 

 汗。雫。

 

「は、……ぁ――――あっ………あ……ふ……」

 

 震えている。戦慄(わなな)く子供のように。

 

 (おのの)いている。禁忌を犯す子供のように。

 

 ――〃、

 

 ――々。

 

 湿った肌。上気した頬。

 

 吐息。血のように赤い舌。てらてらと濡れた唇。

 

 

 虚ろな双眸。

 

 血走った眼球。

 

 

「ふ……ふふ……ふふく、くっ―――」

 

 まさしく。

 

 今の状況を一言であらわすのなら。

 

「くっふふ――ふしし、しひひひ……いいひひひっ………!」

 

 

 

 御嵜十理は、発狂(・・)していた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――トーリ?」

 

 

 扉が開かれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



















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10 過去


 月のない夜をえらんで
 そっと秘密の話をしよう
 ぼくがうたがわしいのなら
 君は何も言わなくていい

   ―――スガシカオ/アシンメトリー


















 

 ――記憶を呼び起こされる。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 考えたことがないわけでもなかったが、オレ(・・)からそれ(・・)を望んだことはなかった。求めても叶えられるものではないと分かっていたし、どうやら自分という存在はオレではないもう一方の()を常に優先する性質らしく、だから二人して一つしかない玉座を奪い合うような事態も起こらなかった。

 

 元々外世界(おもて)とはほとんど繋がりを持たないまま生きてきたのだ、武闘の訓練の際だってもう一方から肉体(うつわ)を借り受けるようなものだったし、一個の生命として根付くことのできない自分に「執着」と呼べるほどの感動はなかった。

 

 

 だからこそ――

 

 

 自我と直結する唯一の例外たる「彼女」を救えるのなら、自分が消えるのだって厭わなかった。彼女が消えてしまうことこそが、オレが最も恐れることだったから。

 

 なのに、終わってみれば続き(・・)があって。

 

 ユメを見て。

 

 ユメから覚めて。

 

 

 目蓋を開いた――そこは別世界(・・・)

 

 

 そして手に入れた。夢のような、しかし現実の世界で。

 

 存在の瞬間から決して与えられないと思っていたもの。他に優先すべきことがあったからいつだって無意識に諦めてきたはずのもの。

 

 

 

 ――身体(・・)

 

 

 

 オレだけの身体(・・・・・・・)オレという存在の意志で満ち(・・・・・・・・・・・・・)オレのためだけに在る器(・・・・・・・・・・・)

 

 自分の瞳で光を感じた。自分の身体で風が髪を弄るのを感じた。

 

 鳥のなく声を聞いた。寝転がった床の冷たさに触れた。夜に寝て目が覚めると、同じベッドのうえで朝を迎える幸福を知った。甘い物を食べた。辛い物を食べた。様々な感動が――此処にはあった。

 

 涙を流す。心が震える。すべて。それを体験しているのは他ならぬオレ自身なのだ、オレだけが感じたオレだけがオレに許す感動だった。

 

 ――両儀織はこの世界で目覚めて。

 

 ――生まれて初めて自分の肉体を手に入れた。

 

 

 だから。

 

 

 浮かれていたのだ。かつての織と今のオレは厳密には違う。肉体を構成する霊子と想子の関係上、想子の大本(おおもと)の供給源である御嵜十理(おさきしゅうり)の影響を繋がり(・・・)を経てたぶんに受けているオレは、かつてとは異なる性質に変化しつつある。

 

 しかしそれは誰もが経験していることだ。何かから影響を受け、外部から内部に取り入れる循環構造は生きている限り避けられない。それが、普通だ。

 

 けれど、やっぱり。どこまでも結局は普通とは違うオレ(・・・・・・・・)が誰よりも何よりも理解していたはずなのに、あまりにもその悪性(・・)を失念していて。

 

 あとにして思えば。オレは自分が気づかないよう目を逸らし続けていたのかもしれない。ありえなかった可能性に出会ってしまいその肌の感覚を知ってしまったことで、愚かにも願ってしまったのかもしれない。誰よりもそれが間違いであると知っていたはずなのに。だから、破綻する寸前まで見て見ぬふりをした。

 

 そして――

 

 あの夜(・・・)

 

 人と魔の境界(・・)、生と死の矛盾を内包したような器に、本来消えてしまうはずだったありえないものが注がれてしまったことで、ついに溢れ出して(・・・・・)しまったのだ。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 手のひらに収まった首。細く白い。

 

 頚動脈。少し力を込める。脈動。押し返そうとする皮膚。

 

 ――このまま締めつけを強めるだけで。

 

 ――あるいは爪を立てるだけで、たやすく赤は噴き出す。

 

 見つめ返す彼に、オレはワラッた。

 

 

「トーリ」

 

 

 

 

 

 ――オレは、おまえを(ころ)したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いいよ」

 

 

 かすれた声で、彼が言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 次回、第二の異世界降霊者が登場(名前だけ)。
















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11 創作活動4

















 

 ――懐かしい夢を見た。

 

 ――濃密な「死」に射貫かれながら、頬を伝ったあの人の涙。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 やわらかいものに。横たわっている。

 

 静かで、耳触りのいい布擦れの音。

 

 鼻腔をくすぐる、におい。覚えのある。

 

 ――知っている。よく馴染む匂いだ。落ち着く匂い。

 

()……?」

 

「なんだよ」

 

 降ってくる声は、不機嫌そう。

 

 目蓋を開く。

 

 着物姿の少女(かれ)。覗き込んでいた表情は、やはり不機嫌そうで。

 

「え――と…」

 

「またぶっ倒れてた。()と同じだ」

 

「まえ……」

 

 思考がまとまらない。ろれつも。ぼんやりと、している。

 

 カーテンは、閉ざされたままだった。照明は日光を再現したものだが、工房(へや)の空気は澱んでいる。いつの間にか空気清浄機が起動していたが、麻痺してすべてに鈍感になったような感覚のなかでは清浄機の小さな駆動音は耳に入らず、わかるのはひとつだけ。膝枕されているということ。

 

クロエ(・・・)のときのことだよ」

 

 想起する。

 

 ――クロエ。少女騎士。

 

 ――かつて家族を殺され、家を失い、名誉を奪われ、挽回のために騎士となり。

 

 ――旅の途中で出会った仲間たちと共に世界(・・)を救い、仇敵(かたき)を見つけ、仇敵を殺し(・・)、仇敵の家族に殺された(・・・・)、異世界の住人。

 

 二年前。両儀織と同様に降霊した存在であり、両儀織とは別の結果(・・・・)を求めた少女。

 

 消えることも恐怖ゆえ選べず、永遠に醒めない穏やかな眠りにつくことを願い、今なお御嵜十理(おさきしゅうり)()の奥深くに独り、沈んでいる、彼女。

 

「あのときもそうだった。トーリって普段から狂ってるけど、だめだよこれは。さすがに。見てらんない」

 

 天啓が降りる。すると発狂する。これまで二度ともそうだった。今回で、三度目。

 

 精神が掻き乱され、自我が吹き飛ぶ。「魂」が剥き出しにされる――躰は、「魂」の赴くままに動く。肉体がどれだけ磨り減ろうとも止まることはない。どれだけ狂気が蝕もうとも。肉体は所詮、(ちり)でつくられた器でしかないから。

 

 原初の欲求。すなわち御嵜十理という「存在」が希求する「魂」のカタチへの渇望。御嵜十理の根幹(せいらい)から湧き()でる偽らざる願い(・・)を押し止めることなど誰にもできない。御嵜十理、本人にさえも。

 

 そうでなければ――異世界から「魂」を引っ張ってくるほどの「卓越した」「超常的な」「奇跡のような」「至高」など生み出せない。

 

 

 生み出せない御嵜十理には、そもそも生まれてきた意味がない(・・・・・・・・・・・)のだから。

 

 

「たばこ」

 

「あ?」

 

「たばこが吸いたい。持ってるだろう、織。私にも一本くれ」

 

 物憂い表情が一転、形容し難い顔になる。麻痺した意識の隅で、可笑しいという気持ちが微かに湧いてくる。

 

 ぶっ倒れたばっかでなに馬鹿ほざいてんだお前だとか、特に強いことは言われなかった。目を尖らせたあと、肩を落とし、ため息を吐かれただけだ。何を言っても無駄だと思ったのか――胸の合わせ部分から水色のパッケージを取り出した織は、そのまま咥えてオイルライターで点けると、十分に火が回ってから、それをロウソクのように十理の口に立てた。冷たくなめらかな白い指が、乾いた唇に触れる。

 

 咥えると、甘い味がした。ゆっくり深く吸うと、丁子がぱちぱちと彈ける音がする。舌が少し辛味を感じたが、それも心地よい痛みで、悪くはない。

 

 ゆっくりと、吹かす。甘い香り。紫煙は緩やかに立ち上ると、空気清浄機の流れに吸われて帯を描いた。

 

「慣れた感じだよな」

 

 憮然とした声。表情もまた。

 

「ああ。セルゲイのところで、結構、前から吸っているよ。気づいてなかったのか」

 

 ため息。おいおい、と呆れたふうに。

 

「いつの間に。未成年になに勧めてるんだ、あのイワンは……」

 

「私が強請(ねだ)ったんだ。織が吸っているのを見て、興味が湧いてな。それに彼はシガーコレクターでもあるし。だが気付いていなかったのは意外だな。セルゲイは書斎にある、あの巨大な消臭マシンのことを自慢の秘密兵器めいて口にしていたが、あながち効果に間違いはなかったということか」

 

 かすかに、笑った。

 

「ああ、やっぱり。存外に悪くはないな、紙巻(これ)は……」

 

 吹かしたところで。少し。

 

 くらり、ときた。

 

「どうした?」

 

「……あー、いや。なんだその、ちょっと、……目が回りそうな予感が」

 

「そら、言わんこっちゃない」やはり、呆れていた。「大丈夫なの」

 

 そっと、頭を撫でられている。

 

「ああ」

 

 沈黙。

 

「………、」

 

 原因は、なんとなくわかっていた。

 

「なあトーリ。やめろよ」

 

「いやだね」

 

「……煙草(そっち)じゃねえよ」言ってから、いいや、とかぶりを振った。ちからなく。「同じことか」

 

「織」

 

「トーリってさ。ほんと、言ってもわかんないんだよな」

 

 彼の表情。向けられる双眸にたたえられた、感情の色。

 

 何について言わんとしているのか。気付かないはずがなかった。

 

「……そんなことは」

 

あるよ(・・・)。無いって言う気か? あるだろ。これまでも、あっただろ。どれだけ言ったって止めらんないんだ。どれだけ言ったって……」

 

 なにか諦めているような、物悲しい、そんな虚しい響きがあった。

 

「泣くなよ織。泣かれると、………困る……」

 

「泣くか、馬鹿。泣いたことなんかねーよ」あのとき以来、と心のなかで付け足された呟きは、十理には聞こえない。遠くを見つめている。「……あーあ」

 

「織。これは、儀式みたいなものなんだ」動かした口と同じで、気分はどこか乾いていた。「多くを学び、吸収し、安定した状態で研鑽した技術を発揮することは創作行為として確かに正しい姿勢だが、こと私の、この状態の創作活動においては、世間一般で健康(・・)と称される環境はむしろ、悪影響を及ぼす。なぜなら」

 

 煙が、立ち上る。

 

「私がしようとしていることは、余分な贅肉が詰まった躰から自らの〈魂〉を削り出し、そのカタチを見ようとする行為だからだ」

 

 そんな、御嵜十理にとっては決まりきったことを、言った。

 

「………、」

 

 十理は考える。自分は、早熟すぎたのかもしれない。走り出すのがもう少し遅く、周りを見る目がもう少し養えていれば、今の自分のように敢えて痛めつけるような賢くない(・・・・)方法は取らなかったかもしれない。

 

 かもしれない(・・・・・・)――だ。意味のない考えだった。ここにいるのは走り出してしまった自分(・・・・・・・・・・・)なのだ。それがどういう意味を持つのか。はじめ(・・・)から分かっていたわけではない、しかし今では必要なことなのだと躰の底から思い知っていた。

 

 才能があった。資格(・・)もあった。そして一般の人間であれば生涯目にすることはないであろう見るべきではないもの(・・・・・・・・・・)を、見てしまった。触れてしまった。

 

 常識(りんり)の檻を出て、狂気のふち(・・)に立ち、現実から底知れぬ「穴」へと飛び込んでゆく。正気の沙汰ではなかった。それを、幾度となく繰り返した。寿命を燃やし、魂を削る行為なのだ。だが「そこ」では(さか)しさは余分でしかない。愚かなまでに「純化」に身をやつす必要があった。生まれぬことこそが究極の賢しさであるのなら生み出すためには愚かになるしかなかった。

 

 すべてが集約されたとき、祝福か呪いか、その両方が、器に入り込み、存在を満たした。そのとき(・・・・)気づいてしまった(・・・・・・・・)のだ。意味というものがこの世に存在するのなら、これこそが(・・・・・)自分が求めていたものこそに他ならない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)のだ、と。

 

 そうして完成したものを眼前にして――

 

 自らの魂を開放する悦びを知ってしまった以上、もはや、御嵜十理には躊躇うことなどできるはずもなかった。たとえそれが決定的な破滅(・・)を引き起こすことになるのだと分かっていたとしても。

 

 

 「魂」を使い果たしてしまったとしても――止まることはないだろう。どれほど愚かだとしても。望んでいる結末は、それこそなのだから。

 

 

「馬鹿。ばかトーリ。……あーあ。ほんっとに、阿呆だなあトーリは」

 

「すまないとは思っている」

 

 織は。

 

 知ってるよ、と小さく笑った。

 

「しょうがないんだもんな。そういうやつなんだし。そうやってオレも此処に生まれたんだしっ……」

 

 煙草を掠め取られ、急に動かれた。膝に乗せていた頭が滑り落ち、したたかに打つ音が鳴った。

 

「痛ッて」

 

 気遣う素振りも見せず、織は奪った煙草を咥えると、未開封のままだった保全板の料理をつかみ、さっさと玄関まで歩いていく。

 

 顔は、見えなかった。

 

「いいよ。オレが耐えればいいだけさ。いや違うか。()と違って、今のオレにはそれもまた、一興さ」

 

 立ち止まって。

 

 明るい声をして、言った。

 

「『おもしろき、こともなき世を、おもしろく』――ってね。ちゃんと水分とっとけよ。せっかく作ったのに冷めちゃったから、これ温めてくる」

 

 

 扉の閉じる音が、やけに大きく響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……オレも、わらえないよな。こんなんじゃあさ」

 

 

 ――やっぱり今度は、泣いてやる。

 ――困るとお前は言ったけれど、せいぜい困ってしまえばいいんだ。

 

 

 力なくもたれかかり、呟かれた言葉を聞いた者は、誰もいない。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 更に一日が経過した。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「ああ。ようやく――」

 

 原石(ダイヤ)は職人の手を経て無類の輝きを顕す。かつて存在した始まりのときから今の姿になるべく必定されていたかのように。

 

 全てが整い、秘められた運命が邂逅し(あばかれ)たとき、メフォストフィレスでさえもこの「存在」の永遠の願うだろう。

 

「――できた――」

 

 それは数学者におけるオイラーの等式であり、物理学者におけるE=MCの二乗の方程式である。

 

 限りなく理性的であると同時に狂気の淵をなぞるような輪郭。

 

 矛盾。二律背反。荒々しく剥き出しにされた(ごう)と大海のごとき安寧が反発することなく共存し、あたかも一個の宇宙であるかのようにそこに内包されている。

 

「よくぞ生まれてきてくれた、我が魂の半身。私はお前を尊ぼう」

 

 そして。

 

 御嵜十理が言祝いだ、――そのとき、

 

 

 光が、――――――――

 

 

 ………。

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 本編に描写できていないのですが、織くんは「肉体」を手に入れてからは夜は「影」から具現してベッドで寝ることにしています(それもまた彼の幸福の一つなので)。

 ちなみに名前だけ登場した少女騎士。

 今後も出演予定はありません……あるとしても横浜が酷いことになる章あたりですかね。


















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12 騒動4

















 

 ◇

 

 

 

 いったい誰が想像したというのか。

 

 目が覚めたら、全裸の褐色猫耳少女がベッドのなかに潜り込んでいたなどと――

 

「誰だお前!?」

 

「……もー、うるさいよトーリ」

 

「なぜ織まで!?」

 

「……にゃー」

 

「しっぽ―――!?」

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 一度目がそうであったように。二度目もまたそうだった。しかるに三度目も同じである。

 

 古くは陰陽師の血筋を引く御嵜十理(おさきしゅうり)はこと降霊術に対し目を見張る適性を有していた。それゆえ二度も異世界の魂の召喚(・・・・・・・・)という常識外の所業を成し得たわけであった――異世界の存在を引き寄せるという意味では「傘」や「杖」などの経験があるが、やはり魂という複雑と比べると次元が異なる――が三度目の今回、シカオ・ユリスの作品に降霊したのは異世界の魂、ではなかった(・・・・・・)

 

「あ、御嵜くん!」

 

 実に四日ぶりの登校となった十理は教室に足を踏み入れたと同時、光井ほのかの大声によって注目を集め、クラスメイト達に殺到された。

 

 揉みクチャというほど酷くはないが矢継ぎ早に質問され、昨日の朝方に完成してからずっと部屋に篭もって疲労困憊の身体を休めていたとは言え、学校側に知らせてあったとおり「病み上がり」である――これは決して嘘ではない――普段なら疲れていても隠そうとする十理だが、今回ばかりは生徒たちへの牽制のために全面に醸し出していると、近づいてきた森崎駿がその様子を察してか、殺到した彼らに自制するよう求めた。

 

「助かりました……」

 

「いいんだ。病み上がりなんだろう? 昨日ようやくメールに反応があって驚いたよ」もしかして無視されているんじゃないかと思ったけど……、と独り言のように呟かれたのは、聞かなかったことにする。「もう大丈夫なのか。なんだか、少し痩せたようにも見えるけど」

 

「そうですか? ええ」軽いどころか四日近く発狂していたとは、冗談でも口にできない。「このところ、色々とありまして。疲れが溜まっていたようです」

 

「もしよかったら、休んでいたあいだの授業内容、教えようか」

 

「いいんですか? その提案は確かにありがたいですが……」

 

「遠慮はいらない。同じクラスで競う相手だ、授業の出席の有無で差をつけたくないからな。まあ十理(・・)にはあまり関係ないかもしれないけど」

 

「いいえ。助かります。ではお願いできますか、駿()

 

 申し出を受け入れ、いったん自分の席に着くと、司波深雪の席の近くで談笑していた北山雫が、半目の状態でこちらに「じと―――――――」というビミョウな視線を送ってきていた。

 

 露骨すぎて無視するわけにもいかず、荷物を置いてから赴く。

 

「お久しぶりです。北山さん。光井さん。司波さん。…ええと、この状況はどういった事情なのでしょうか」

 

「あはははは……」

 

「いえ笑っていないで――何かアドバイスを頂けませんか」

 

「ほ、ほら雫はあれですから! 心配してた相手がやっと登校してきたと思ったらいつの間にか森崎くんと親しげに話してるから『アレっ? 私が心配していたのに随分と平気そうじゃん』って妬いているんですよ――もぶっ!?」

 

「妬いてない……そんなことを言う口はこうする……」

 

「もぷぷっ、もぷぷー!」

 

「し、雫。大勢の前で決して晒してはいけない顔だわ、それ――それぐらいで許してあげて……御嵜くんは、もうお身体は大丈夫なのですか?」

 

「ええ。ご心配お掛けしました。季節の変わり目ですし、皆さんも風邪には気をつけてくださいね。メールのほう、励みになりました」

 

「そういうわりには、メール返ってきたのは何日もあとだったけど……」

 

 ぼそりと呟かれる。無表情の北山雫の両肩から怒気(・・)のようなものが立ち上って揺らいでいるのは、果たして目の錯覚か。

 

「ご心配お掛けしました」

 

 ――しかし確かに彼女らとはクラスでは親しいほうだが、ここまで北山さんに懐かれる理由が思いつかない。

 

「………、」

 

 沈黙。この席の周りだけ、活気が裸足で逃げ出したらしい。

 

 生徒は言わずもがな。まだ一限目さえ始まっていないというのに。

 

「え、えーと。そうだ! そういえば聞いていなかったですけど、御嵜くんってどこの部活に入りました? 私と雫はSSボード・バイアスロン部っていうのに入部したんですけど……あ、SSっていうのはスケートボードとスノーボードの略なんですけど」

 

「僕は親戚の仕事の手伝い(・・・)がありますので、部活には入っていないんです」

 

「お仕事……ですか?」

 

「叔母が美術商を(あきな)いしていまして。その手伝いがそれなりの頻度であるものですから」

 

「美術商。それってどこの会社?」

 

紅間銀子(あかまぎんこ)という名前は――」

 

「知ってるッ!!」

 

 その瞬間、北山雫は。

 

「―――」

 

 まるで遊園地で大好きなマスコットキャラクターとすれ違った子供のように身を乗り出し、無表情を完全に決壊させていた。仮に頭のうえに耳があれば「ピンッ」と張り詰めていたこと必定であり、十理が思わず今朝の一連の騒動(・・)を連想して苦い笑みをこぼしたのは無理からぬことでもあった。

 

 クラス中が驚きに静まり返り、はたと我に返ると同時に彼女は仏頂面を装ったものの(頬は赤い)、続けて口にした言葉には、興奮の様子がありありと浮かんでいた。

 

「前にお父さんの仕事先で会った。本人は古典魔法の研究とかでたくさん論文を発表している傍ら、バイヤーも兼業していて、そのときはシカオ・ユリス先生の作品を紹介された」

 

「シカオ・ユリス……?」

 

「深雪は知らないの? ほのかは知ってるよね? ほんとに凄い――すっごい(・・・・)作品を作る先生なの! 本当は人形師って話なんだけど人形以外にも作品を造るし、でもシカオ・ユリス先生に関する情報はほとんど公表されてなくて、謎に包まれた先生なの。それで――」

 

 ぎくり、とあからさま動揺を表に出すことこそ避けられはしたものの、北山雫によるシカオ・ユリス解説談が続けられているあいだの十理の内心は「よく調べている」と驚きで一杯だった。

 

 チャイムが鳴り、残念そうな北山雫と一緒に席に戻ると、疲れきった光井ほのかの顔が目に入る。存外に世間というものは狭いらしい、と苦笑した本人が実は異世界(・・・)の存在を身近に置いているのだから、なんとも皮肉な話であった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「公開討論会? そういえば昼食の時にエリカが少し口にしていましたね……」

 

「気づいてなかったの? 御嵜くんはときどきそういう抜けてる(・・・・)ところがある」

 

「ま、まあまあ! 御嵜くんは休んでいたから知らないのも無理はありませんよね……今日は午後の授業がない代わりに、講堂で『一科生と二科生間の差別問題』に関する討論会が行われることになってて――ほら、御嵜くんが森崎くんと模擬戦した日の放課後に、放送室が有志同盟にジャックされる事件があったじゃないですか」

 

「ふむ? ちょっと覚えがないですね。その日は早く帰宅したはずですから、もしかすると入れ違いになったのかもしれません。そうですか、だから皆さん浮き足立っていたんですねえ。僕はなぜだか声もかけられませんでしたが……進行はどんな形式なんでしょうか」

 

「一科生代表側が生徒会長一人で、二科生代表側は複数の有志参加者。部活も普通にあるし、出席は強制じゃないってはなしだけど」

 

「ふーむ……彼らの主張というのは、司波さん?」

 

「これはお兄様の仰っていたことですが――」

 

 続けて説明された有志同盟の「主張」は、達也の解釈をたぶんに含んだものではあったが、痛烈なまでに事実を捉えた内容であった。思わず呆れてしまうほどには。

 

 十理は。青と赤で縁どられた、白のリストバンドをした生徒たちの姿を想像する。理想に向かって励んでいる今の彼らはきっと心地よい充実感に満たされているのだろう、しかし彼らの主義主張には「歪み」がある。酔い(・・)がある。

 

 一科生。二科生。差別。

 

 彼らは。現実には問題解決のために議論するではなく、解決のため議論している自分たちに酔っているような節がある。いうなれば目的と手段の逆転であり――ヒロイックな活躍に酔うなとは言わずとも、都合のいい部分だけに目を逸らしていながら声高に「理念」を訴えるようでは話にならない。

 

 好奇心は、あまりそそられなかった。

 

「でしたら僕は欠席することにします。とはいえ帰るのは図書館のほうで調べ物してからになるでしょうけれど……皆さんはどうされるおつもりですか?」

 

「私は生徒会役員ですから、講堂でお兄様と一緒に待機ということになると思います。雫とほのかは?」

 

「私たちも……せっかくだから出席かな」

 

 光井ほのかたちは「優等生」である十理の冷めた反応に少し驚きを示したが、既に興味を失っていた彼は普段の微笑みを残すと、教室を出てこうとする。

 

 途中すれ違った駿()と会話し――

 

「そういえば君も風紀委員でしたね。何かある(・・・・)とは限りませんが、お気を付けて。気張り過ぎないように」

 

「言われるまでもないさ。司波達也には負けられない」

 

「本当に分かっているつもりなんでしょうか……」

 

 良い笑顔で言った彼に微苦笑し、十理は図書館へ向かった。

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「―――」

 

 

 叔母である銀子から頼まれていた資料を特別閲覧室で探していると、突撃銃(・・・)を肩から下げた男たちが侵入してきた。

 

「…………、ジーザス」

 

 

 銃声が吹き荒れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆえにこそ。

 

「おい――お前ら、()に向かって手ェ出そうとした?」

 

 蒼が(・・)見開かれ(・・・・)――

 

「あるじへの攻撃……だめ……にゃ」

 

 黄金が瞬いた(・・・・・・)

 

 これより始まるは蹂躙劇。

 

 これは悲劇。

 これは喜劇。

 これは惨劇。

 これは慚愧。

 

「こうなっては仕方がないか……【命令(オーダー)】だ、織。火艶(かえん)

 

 破壊を許可する(・・・・・・・)

 

「了解、マスター」

 

「わかった……にゃ……」

 

「くれぐれも……頼むから、貴重な資料を血で汚さないでくれよ。死体もなしだ」

 

「気を付けるよ。……保証はできないけど」

 

「……にゃ」

 

 ため息。

 

 

 かくして血飛沫不可避の饗宴(シンポシオン)が、幕を開ける――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 次回、戦闘界(誤字に非ず)。
















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13 戦闘2


 戦闘です!
 残虐です!
 著しい人体の破壊描写が多数登場します!

 注意です!


 そんな感じです。

















 

 ――自分と同じように彼を「拠り所」とした、一匹の黒猫について想う。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

「で? こいつはいったい、何なんだ?」

 

「いやあ、その。なんだ――」

 

 空は、まだ完全には明けきっていない時間帯。

 

 半目になった織に問われ、御嵜十理(おさきしゅうり)は疲労が頭にキテいるのを感じるなか、なぜ非難されているのかいまいち納得がいかないまま首を傾げた。

 

 二人の足元には。

 

 一匹の黒猫。酷く小さく、手乗り猫と言われても不思議ではない大きさの。なびくように揺れる、尾長鳥のように異様に長い尾は中ほどから二つに別れている(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 外見は、尾から鼻先までが闇を象ったかのような全身漆黒。

 

 唯一例外である二つの金色(こんじき)は、さしずめ深淵から見返す双眸のそれか。

 

 そして――

 

 

「………にゃー。なんだか雰囲気わるい。にゃ」

 

 

 喋るのだ(・・・・)この猫(・・・)日本語で(・・・・)

 

 しかも語尾にはなんと「にゃ」が付くという。

 

「お前は……なんだ?」

 

 困惑を極め、膝をついて恐る〃々尋ねた十理に対し、黒猫の反応は鋭い。

 

「おまえは……知っている(・・・・・)はず。にゃ」 

 

「私が? お前を――?」

 

 闇が凝固したかのような黒猫が近づく。織が動こうとしたのを手で制した十理は、そのまま黒猫の、異様な二つの光彩が自身を貫くのを感じた。

 

「私が――」

 

 刹那。

 

 飛び退いた(・・・・・)

 

「く――!?」

 

 掠めたのは、()火球(・・)が、眼前で揺れている。避けるのが遅れていれば前髪が焼け溶けていたのは想像に容易い火力の。

 

「くっそ、トーリ! やっぱ下がれ、オレがこいつを殺す」

 

「待て」

 

 奇妙な、既視感(・・・)が、あった。

 

 初めから存在していたかのように馴染む、想子供給の繋がり(・・・)を通して心へ、何か懐かしさ(・・・・)が流れ込んでくるような――

 

「私は、お前を、どこかで……」

 

 それ(・・)は――

 

 

 此処ではない何処か。

 現在(いま)ではない何時か。

 ()

 火の玉(・・・)

 雷鳴(・・)

 ()

 小屋(・・)

 鮮血(・・)――

 

 

「…………いや、すまない。やはり私はお前を知らない」

 

 黒猫は。

 

 しばらく十理の顔を見つめてから、落胆したように項垂れた。まるで人間のような仕草で。

 

だが(・・)覚えている響き(・・・・・・・)がある」

 

 

 ――火艶(かえん)――

 

 

「――――――そう……にゃ」

 

 秘められた万感の想いが溢れ出したような、しっとりとした声で。

 

「あるじ。おまえがそう呼んだ(・・・・・・・・・)わたしは(・・・・)火艶(・・)

 

「私にはその記憶がない」

 

()はおなじ。名前をおぼえていただけでも――いまは、それでいい」

 

 黒猫は。火艶は。

 

 十理の肩に飛び乗ると、鼻先を何度も擦りつけながら囁いた。

 

「いま一度あえてうれしい。またわたしを、()うておくれ――あるじ」

 

 

 

 ―――。

 

 

 

 夜。

 

 就寝していた織はなんとなく眠れず目を覚ますと、なんとなしに十理の部屋を覗いてみた。

 

「あ……?」

 

 ベッドには、奇妙な膨らみ。十理だけにしてはあまりにも不審である。

 

 起こさないようそっと近づいて捲ると、咄嗟に大声を上げないよう苦労した。

 

「なんっ……で?」

 

 黒髪の。全裸の。猫耳の。少女。

 

 思わず懐から短刀を抜き放つ前に、気がついた。

 

 ――こいつ、あの猫か?

 

 猫耳である。そして二股のしっぽが生えている。

 

「……………………、」

 

 名状し難い感情に襲われた織は、連日の苦行から解放されて安らかに眠りにつく十理と、そんな彼にしがみついて寝息を立てる少女を見比べてから。

 

 ――なにやってるんだ、オレ。

 

 自分でもおかしいと思いながらも、キングサイズのベッドの中にいそいそと潜り込むのだった。

 

 

 そして――

 

 

「誰だお前!?」

 

「……もー、うるさいよトーリ」

 

「なぜ織まで!?」

 

「……にゃー」

 

「しっぽ―――!?」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 鮮血が舞う。

 

 ――水に流してやるかは別問題だけど。

 

 ――それでもこの状況において有能なのは認めざるを得ない、かな。

 

「へえ。結構できるんだ、クロ」

 

「まあな……にゃ」

 

 会話しながらも、軽快に一閃。

 

 血飛沫が吹く。

 

「■■■■■■■!!!」

 

「うるさい――何言ってるかわかるように喋れよ。それか黙れ」

 

 現代では日本に十数人しか残ってない愛媛の刀匠に鍛造させた業物の短刀が、腕を斬り落とす。

 

 さかさず鮮血と切断面が燃えあがり(・・・・・)――強制的に止血され――侵入者が激痛に失神し(くずお)れる。床に落ちた腕は地面を焦がすことなく(・・・・・・・・・・)炎に包まれ、灰さえも残らずに消え散った。

 

 先陣を切る織を恐れて「化け物ッ」と及び腰に叫びながら引き金を引く侵入者たちであったが、織は微塵も動じていない。これまで何度も発砲されていた銃弾は、事実一度たりとも織を傷つけることはできていなかった。

 

 〈障壁魔法〉によるものでは、ない。織の背後に続く眼鏡を外した十理の手には淡紫の日傘が握られており、それに膨大な想子を流し込むことで発揮する〈騎士ロザリーは加護を賜る〉の効果が作用しているためだった。

 

 (ことごと)く織の手前で速度を失い、足元に転がる無数の銃弾。アサルトライフル程度の火力では、異世界の勇者の防具の加護を貫くことはできない。御嵜十理に対する揺るがない信頼と確信とが、織に気楽な佇まいをさせていた。

 

 一方の火艶であったが、十理の肩に乗る黒猫は「火車」の属性である自身の能力を駆使して傷口や血液を瞬間的に蒸発(・・)させることで、命令(・・)に忠実に極力資料を汚さないよう注力していた。

 

 なかでも織によって切断された部位は、肉体から切り離された時点で「死骸」と同列の扱いになるため火艶の「炎」と相性が良く、より容易く燃え上がらせることができる。完全に気化して灰さえ――臭いすら――も残さない、オーダーに対して完璧な回答を魅せた火艶の顎下を(さす)ってやると、二本ある尻尾がくねくねと揺れて「にゃあ」と鳴いた。

 

 織はそれをちらと見て、「なんだかなあ」という気分になりつつ――返り血さえ浴びることなく、更に一人を(ほふ)り仕留める。

 

 侵入者たちは既に、図書館一階に通ずる階段にまで押し返されていた。館外では依然と戦闘音が続いており、三年生を中心とした応戦組が迎撃しているのだろう、この調子であればすぐに合流も叶うはずである。

 

「くそっ――化け物どもめ――!?」

 

「その化け物に手を出した時点でどうなるかなど、考えずとも分かるものだろうにな」

 

「ははっ、確かに――な!」

 

 そのとき、大幅に数を減らしている侵入者たちのうち二人が、なけなしの指輪(・・)を発動させた。

 

 途端に発生した、サイオン・ノイズ。アンティナイト――〈魔法〉に対する妨害効果を持つ金属――によるキャスト・ジャミング効果。

 

 しかし。

 

 それでも――

 

「ああ、また(・・)それか。なんかきぃいいいん(・・・・・・)ってなるんだよな。ほんと勘弁してほしいよ」

 

 織の行動を止めることはできない。酷い頭痛に襲われるだけだ、そしてそのぶん殺意も強まる。

 

 蒼が見開かれる(・・・・・・・)死のカタチを観定める(・・・・・・・・・・)

 

 振り(・・)斬る(・・)――

 

 ノイズが消える(・・・・・・・)

 

 

 

「――そこに在って活きているのなら(・・・・・・・・・・・・・・)両儀織に殺せないものなんてないんだよ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 悲鳴。

 

 接近――切断――炎上――気絶。

 

 〃、々――

 

 いくら撃てども当たる気配すらない銃弾。恐るべき速度で肉薄する着物姿の少女が刃を振るうとすぱすぱ(・・・・)と腕や脚が跳ね上がる光景。更に()ねられた脚や腕は一瞬で燃え上がり塵さえも残らず、それらの元凶は平然と会話しながら前進してきている。恐怖に駆られて逃げ出した者たちもいたが、彼らは例外なく自らの足元から伸ばされた()によって縫い留められたところを刎ねられた。秘密道具のアンティナイトは通じず、逃走さえも許されず、次々と仲間がなす術もなく(たお)れていく光景――

 

 行われているのは殺戮劇、ではない。心までもを蹂躙する、悪夢の行進(・・・・・)そのものであった。

 

「なんで――なんでよ!? だって私は、差別をなくす……ために……」

 

「壬生――計画は失敗だ、これ以上は無理だ! 指輪を使え、今すぐ基地のほうへ……」

 

 喚いた男の腕が指輪ごと炎に包まれる。絶叫。そしてすぐに沈黙。

 

「あるじへの攻撃をした、おまえたち……逃がさない。……にゃ」

 

「確かに。式神としてそれはまったく同感だよ」

 

 ――命は尊い。だけど。

 

 ――おまえたちの命よりもずっと、あいつのほうがオレにとってはよっぽど大事だ。

 

「手を出した相手が悪かったな。ま、腕の一本や二本ぐらい置いていけよ。命までは取らないからさ」

 

 わらいながら、言った。

 

「おのぞみなら……むりょうで火葬してあげるけど……?」

 

「まーまー。……ていうか、あのさ。もしかしてクロって、語尾に『にゃ(・・)』つけなくても喋れるんじゃないか?」

 

「……ん? ……………うん」

 

「なに――!? ならお前は、なぜわざわざそんな真似を……」

 

「……それは……雰囲気……?」

 

 なんだそれは。思わず脱力した十理と堪らず声を上げた織は、会話の調子だけを見れば誰もが納得の美男美女の姿であった――数分間で何一〇人もの人体を切断してなお笑っていられるという事実を知らなければ、だが。

 

 そして会話する一人が日本語を話す黒猫(・・・・・・・・)という時点で、見たものは己の「正気」を疑わざるを得なかっただろう。

 

「くくっ、雰囲気ならしょうがないよ、トーリ。雰囲気ってのは大事なことだよ、うん。オレの勝負服(ブルゾン)だって、つまるところそういうことだもん。あれ(・・)を着たオレはそうとう(・・・・)強いよ。トーリにだってあるじゃん、そういうのってさ」

 

 ため息。

 

「……それぐらいにしろよ、お前たち」ようやく立ち直った十理が、へたりこんでいる二科生に目をやる。「おい、そこで呆然としている女学生。リストバンドをしているのを見るに、有志同盟の人間だな? つまりお前たちの目的は特別閲覧室にある資料文献の強奪といったところか」

 

「ち、違う、私たちは――」

 

「さしずめスパイか」

 

「――っ!?」

 

 少女は。壬生紗耶香は。押し潰されそうな恐怖(・・)と、眼前で行われた数々の耐え難い事実(・・)と、暗示誘導(・・・・)された記憶のなかで必死に頭を巡らせる。なんとか自分を保とうと(・・・・)する。

 

 私は間違っていない(否定(・・)する)――間違ってなどいない/(否定(・・)する)――/私は(否定(・・))――しなくてはいけない、私が(否定(・・)を)――しなくては――私は(認めてしまう前に(・・・・・・・・)早く(・・)!)――

 

「わたし、は……さべつ、を」

 

「差別? ああ、今頃講堂で行われている討論会のことか。ん、ということはあちらはもしかすると誘導ということか? アンティナイトやこいつらの武装を見るに単なるテロリストとも思えないが……まあ今はいい。それで? 差別をなくすために、お前たちは学校を襲撃し、多くの器物を破壊したうえ、多くの生徒に怪我をさせ、恐怖を与え、貴重な資料文献を盗み出そうとした。差別を議題とした討論会を台無しにしたのも、すべては差別をなくすために(・・・・・・・・・)! そういうことだな?」

 

 反論はない。すべてが、事実で。

 

 そのうえでなお反論は――できなかった(・・・・・・)

 

 うつむき、震えただけだ。

 

 だから。

 

 御嵜十理がどんな表情で見下ろしているのかにも、気づかない。

 

 

「……そうか。では僭越ながらこの私が、お前の取った行動がなんであるかを一言で表してやろう」

 

 

 

 

 ――ただの犯罪だよ(・・・・・・・)それ(・・)

 

 

 

 

 冷酷な声をして、彼は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 前話のおそらく「誰も予期しなかったであろう冒頭風景」は、そのような事情があったのでした。
















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14 人たる所以を証明せよ


















 

 ――ただの犯罪だよ(・・・・・・・)それ(・・)

 

 

 壬生紗耶香は。御嵜十理(おさきしゅうり)の殺意に当てられたように震え、歯を食いしばりきつく目を瞑る。

 

「……私はッ――!!」

 

 それでも(・・・・)

 

 猛然と立ち上がろうと――したところを後ろから峰打ちにされ、あっさりと気絶した。

 

「トーリ。ちょっと油断しすぎだ」

 

「確かに私に武術の心得はない。体育の成績もさんざんだ。しかし、そのときは織が何とかするだろう」

 

「…………そりゃー、そうだけどさ」

 

「だろう? 私はそのことに疑いを持ったことはない、いつだって信じている。信じているからこそこうしていられる……ところで、衝動(・・)の程度はどうだ?」

 

「うん? ……まあこう言っちゃなんだけど、こいつら相手じゃ昂ぶらない(・・・・・)からな。まだ大丈夫だよ」

 

「そうか。では吸血(・・)は後回しでも構わないとして……さて。このまま合流を待つのも良いが――」

 

 十理は直前に壬生紗耶香に命令を下そうとしていた、今は気絶している男を見やると、先ほど「基地」がどうのと言っていたことを思い返し、凄艶(せいえん)な笑みを浮かべた。

 

 

「その前に少し。せっかくなのだから、こいつらの掲げる目的とやらを訊いてみようじゃないか」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 それは悪魔(・・)の囁きだった。

 

 

「お前はボス、ではないだろうが……それでも陰謀の糸を引き、片棒を担いでいたんだ。これだけの悪事を画策していたのだから、国家機関に捕まってしまえば――もはやあとは言うまでもないだろう? だがこうも思っているはずだ、俺がこの程度で終わるはずがない、終わってたまるか、そんな結末は認められない……と」

 

 銃で撃たれるよりもなお酷い激痛に気を失い、腕は焼け爛れ醜い痕を負うことになった男――強奪作戦の主力部隊を指揮して壊滅させた指揮官――は、叩き起こされると跪かされ、何の気まぐれか少年に「チャンス」を持ちかけられていた。

 

 少年。身長は一七〇センチほど。背中まである艶やかな黒髪を首辺りで柔らかく結った痩躯であり、普段掛けている現代ではすっかり珍しくなったリムレスタイプの眼鏡は今は外されていた。優秀な魔法師であるほどに容姿も優れるという説に漏れず彼は美丈夫であったが、黒曜石の双眸は奇怪なほどに爛々と輝いている。

 

「ああ、やはりそうか(・・・・・・)。お前はそんな顔をしているよ。多くのものを踏み潰してきた顔だ。だからこうして声をかけたんだ」

 

 悪魔(・・)が、囁いた。

 

「提案がある。取引(・・)をしないか。もしもお前が弁舌のみで私を納得させることができたのなら、私はお前が此処から去るのを見逃してやってもいい」

 

 ふざけた提案。馬鹿にしているとしか思えない。こちらをおちょくっているとしか。遊んでいるのか。

 

 男をこのようなざま(・・)にしたのは他ならぬ少年である。なのに彼は、一見して爽やかな顔で続けた。男は、埒外の展開に頭が追いつかない。

 

「戸惑っているのか? 当然の反応だな。しかしそう難しいことではないさ。テロリストのなかに生徒が紛れていた時点で、お前たちが第一高校の差別意識を利用して有志同盟を作りあげたと想像するのは容易い。――私はな、お前たちがどうやって生徒をテロリストへと仕立て上げたのかに興味がある。お前たちが説いたであろう主義主張、思想をお前の口から聞いてみたいのさ」

 

 肩の関節は外されていて動かない。酷い火傷を負い、指輪も既に失われ、味方部隊も全滅している。逃れる術は、ない。

 

 痛みは、少し動いただけでも再び気絶しそうなほどに響く。それでも男があっさりと意識を放さなかったのは、諦めていないからだ――こんなところで終わってたまるか(・・・・・・・・・・・・・・・)、と――諦めることを、認めたくないから。

 

 だからこそ。降って湧いてきた可能性を、ただの「戯言」と切り捨てはしなかった。

 

 少年が何を考えているのかは分からない。まったく理解できない、それでもこれ(・・)が糸口になるかもしれないと考えた。

 

「もしもお前が真に優れた存在であるのならこんなところでお前は終わらない。今に逆転の目を叩きだし、逆境を見事跳ね除けて見せるだろう。お前はそれを信じている。信じたがっている。『いま運命がお前を掴む、そしてお前を粉砕しようとする。破壊されるのがお前の運命だ、はじめから決められていることはそうなるほかはない――ではそのときお前はどうするのか?』……私は、そういうの(・・・・・)が見たいんだ、だから見せてくれよ、無様な運命(けつまつ)は願い下げなのだろう。お前がお前の信ずる神に愛されているのなら、明日は必ずやってくる。さあ! 窮地に在ってなお輝く生き様を魅せてくれ。悪のカリスマ」

 

 男は。唐突に気づいた。

 

 ああ、そうか――こいつ狂っている(・・・・・)。間違いなくこの少年は「キチガイ野郎」だ。

 

 ――これはまた(・・)とない好機かもしれない。 

 

「作戦の指揮官を任されるほどだ、組織はお前に期待しているはずだ。その思想を述べることも容易い筈だ。私もお前がさぞや愉しませてくれると期待している。どうだ?」

 

 この千載一遇の機会をモノにしなくては、二度と自分は日の目を見られない。

 

 ――それしかないのなら(・・・・・・・・・)そうするしかないのなら(・・・・・・・・・・・)

 

 男は、答えを告げるべく口を開こうとして――

 

 

「待て、十理」

 

 

 その場に登場した新たな魔法師を見て、硬直した。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「待て、十理」

 

 

 司波達也は。妹である司波深雪から同じクラスの優等生「御嵜十理」に関するある報告を受けていた。

 

 ――森崎駿との模擬戦で魅せた、凄まじい魔法。不可解な現象。

 

 ――その際に魅せた、人格の豹変。

 

「おや――おやおや。これはこれは……司波達也。なんだか会うのは久しぶりな気がするな。そして司波深雪。君は講堂のほうへ行ったはずではなかったかな。風紀委員である彼と一緒にいるということは、こちらの騒ぎを聞きつけたのか。千葉エリカも。君は風紀委員でもましてや生徒会役員でもなかったはずだが? 鉄火場の匂いを感じて、二人についてきちゃった感じ……というところか?」

 

 目の前の少年がくつくつと笑う。足元に襲撃者と思われる酷い火傷の男を跪かせながら、彼はぞっ(・・)とするほど美しい笑みをして言った。

 

 ――こいつ(・・・)は。どちらか(・・・・)なのは、明らかだが。

 

「何をしている」

 

「何をしている? ふむ、見て分からんか。尋問(・・)さ。こいつに何の目的で図書館を襲撃したのかを訊こうとしていたところだよ。他の奴らはみんな気絶してしまったからな。ああそういえば、何人か有志同盟の人間が紛れていたぞ。襲ってくるので斬ってしまった(・・・・・・・)が」

 

 達也には存在(・・)を探る知覚能力がある。イデア(・・・)という「世界」から全ての人間が有するエイドスを見分ける特異能力を使えば、図書館で負傷している現在の人間の状況(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)を探ることもできる。

 

「襲撃者全員を……返り討ちにしたのか。単独でか?」

 

「おいおい、今の私が単独に見えるほどお前は節穴か?」

 

「その人は……いや、その二人(・・・・)は、何だ(・・)?」

 

 短刀を片手に持った、着物姿の少女。

 

 肩から滑るように降り立ち、こちらを見つめてくる二又の小さな黒猫。

 

 〈精霊の眼(エレメンタル・サイト)〉を使い、理解する――共に異様なサイオン保有量。そしてこの状況(・・・・)

 

 いずれも尋常ではなかった。

 

「はははは! その顔で随分らしからぬ質問をするな司波達也。誰かに問えば常に答えが返ってくると雛鳥のように信じているわけでもあるまいに。たとえば私がお前に『何故見てもいない負傷者の状況を知れたのか』を訊けば答えてくれるのか?」

 

「答えられないということか」

 

「しかり、だよ。神秘とは秘密に他ならない。私はそれらと関わる機会が多くてね、秘密が多い人間なのさ。ところで。此処の守り手の奴らが何をしているか知っているか? 図らずとも宝庫を守る番犬の役割を担わされたわけだが、そろそろ本職と代わって欲しいな」

 

 危うい気配。言動はまともなようだが、今の「御嵜十理」は触れているような印象さえある。

 

 どうするべきかと警戒を強めていると、背後に控えていたエリカが不敵な笑みを浮かべた。

 

「……へえ。十理くんってこういうキャラだったんだね。そっちの女の子もだいぶ変わってるし。いいの、バラしちゃって?」

 

「キャラか。いいや、どちらの僕も私だよ。仮面(ペルソナ)は誰しも持っているものだろう。仮面(こんなの)は秘密と語るほど大層な代物じゃないさ。それにこいつは、男だよ。……それで、尋問の続きをしたいんだが。待てと言われたから待ってるんだぞ」

 

「身柄をこちらに渡してもらう」

 

「渡さないとは言っていない。こちらの用事が済めば好きにするさ。そういえば負傷した生徒はどうするつもりだ? 止血は済んでいるが、なにせ手と脚を――ああいや、淑女らにはいささか(・・・・)……ちょっぴり過激かもしれんな。風紀委員としては、それで?」

 

「襲撃者は拘束後、委員長の判断を仰ぐ。負傷者は……加担したとはいえ、本校の生徒であれば対応は違うかもしれないが」

 

「今すぐには決められないか。ではそこで報告を済ませてしまえ。私はその間に私の用を済ませてしまおう」

 

「それって、どういうこと?」

 

「二度も説明するのは面倒だが。要するに、こいつらの掲げる理想を知りたいんだ。生徒たちを今回の事件へと走らせた動機を、こいつの口からな」

 

「ふうん。面白そうじゃない。……なによ、その顔? 意外そうね。私だって、そこで寝ている壬生先輩をどうやって誑かしたのか興味があるわ」

 

「それは結構。――ふむ?」

 

 御嵜十理は唐突に男の傍に近づくと、黒曜石の双眸で覗きこみ、囁くように言った。

 

「……憎悪。羞恥。嫉妬。その目、私を恨んでいるのか。せっかくチャンスを与えた私を? プライドを踏みにじられたとでも思ったのか。勘違いしてはいけない、結局のところ誇りというのは奪われるものではなく、いつだって自分から手放すものだ。私は言ったことから逃げないよ。妥協は、無しだ。かつてそうあれと自らに誓ったのでな。お前はどうだ?」

 

 立ち上がり――

 

「命懸けの状況で命を賭けられない奴は人間ではない、豚だ(・・)! 豚には大まかに二種類の結末が用意される。肥えて太るか、そのままくたばる(・・・・)かだ。お前は家畜(ブタ)か、それとも人間か? 人であるというのなら弁舌をもって自らが人たる所以を証明してみせろ! それさえ出来んと言うのなら――」

 

 お前は死んでいるも同然だ(・・・・・・・・・・・・)!!

 

 過激。それは、あまりにも暴論だった。極論に過ぎる。発したのが「優等生」御嵜十理というのも、衝撃に拍車をかけていた。

 

 エリカが目を剥いている。深雪が彼を睨みつけ、達也はいつでも動けるよう警戒しつつ端末を操作した。

 

「では! 時間は十分くれてやったのだし、そろそろ語ってくれないか。むろん、命懸けでだ」

 

「……いいだろう」しわがれた、声をして。男は言う。「語って聞かせてやる。我々の目的は、魔法による社会的差別の撤廃である――」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「――――――――――――――――」

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「なんだそのクソくだらん理由は」

 

 御嵜十理は。

 

 聞き終えると、当初の「わくわく」した表情が嘘であったかのような落胆した声で呟いた。事実、目に見えて肩を落としている。

 

「なんだと――!?」

 

 もはや聞くに耐えないといった顔であり、

 

「要するに、あれだろう、総括すると……魔法師は魔法師なんだから社会に無償で奉仕しろ、ということだろう意味するところは?」馬鹿か貴様は、と吐き捨てる。「一般サラリーマンと魔法師で比較した労働報酬の格差は、単純に労働内容に比例した結果だろうが。魔法師が社会的にどういった仕事を請け負うのか本当に理解して言っているのか? 重要度でいえば政治家が高給取りなのとさして変わらんだろう。なのに魔法師は別だという。貴様らこそ差別しているだろうが、このクソ豚野郎」

 

「―――」

 

 達也、そして彼の妹である深雪も、また男の声高な主張を聞いていたエリカも、自分たちのことを「悪の権化」であるかのように語る男の姿に怒りを覚えたものの、それ以上に――あまりにも(・・・・・)態度が急変した御嵜十理に対する戸惑いが大きく、困ったように顔を見合わせた。

 

 傍らで同じように待っていた着物姿の少女も、苦笑いを浮かべている。

 

「私は初めて見た悪党というものに、過度な幻想を抱いていたのかな……」

 

「ね、ねえ深雪。なんだか彼ってば……だいぶ落ち込んでない?」

 

「え、ええそうねエリカ。なんていうか……尻尾があれば垂れていそうなぐらい……」

 

「はは。トーリってそういうとこあるから。ほら、トーリ! いつまでも落ち込んでるなよ。期待が大きかったぶん反動がでかいのもわかるけど、そういうのはあとにしろって。みんな困ってるんだからさ」

 

 なあ? と訊かれれば、確かにそうなのだが。

 

「……にゃー」

 

「そうだな……司波達也。もうこいつは好きにしてくれて構わないぞ。もう、いい。陰謀の黒幕だったり、連中の基地だとかの情報を探るなり煮るなり焼くなり刻むなりなんなり。というかさっさと、やっちゃってくれ」

 

 目障りだ。底冷えするような声で、そう呟く。

 

「あ、ああ。分かった――」

 

 たいへん残念そうに項垂れた御嵜十理の姿は、先程まで警戒心を高めていた自分が間抜けだったような気さえ起こさせたが、ひとまず達也は貴重な情報源として身柄を拘束することにした。

 

「ふざけるな! 俺は語ってやったぞ! お前、俺を裏切る気か――」

 

 恨み節は、しかし続くことなく呻き声へと変わった。御嵜十理の加減を知らない、力任せに放った蹴りが、黄ばんだ男の歯をへし折ったからだった。

 

「臭い口を開くなよ三下。裏切るだと、私は機会をくれてやったな。お前はそれを生かせなかった。とことんその程度のやつだったということだ。せめて贅沢とは言えずとも少しは琴線に掠めるようなものであればよかった――だがお前がもたらしたものは何の(えき)にもならなかった。ただの、一つもだ! いいか、お前は私の感動を浪費したばかりかドブに捨てたわけだ。不愉快だ。私は今とても不愉快な気分でいる。いいか? 分かるか? 分かれよ、言いたいことは一つだけだ。もはやこれ以上、豚が言葉をさえずるな。口を閉ざしてバラされるまで黙ってねんねでもしていろこの大法螺吹き野郎――」

 

「お、落ち着け」

 

「どうどう。あとで慰めてやるからさ。ほら。な? 今はしゃんとしろよ」

 

「にゃー?」

 

「………………くっ、ああ。……ああ! 分かった……ッ」

 

 抵抗を防ぐために(すでにまともな抵抗ができるほどの余裕はなかったが)男を気絶させると、館外から連絡を受けた風紀委員や迎撃していた三年生が駆け寄ってくるのが見えた。

 

「すまない、取り乱した。まったく――この程度の部下しか従えられないようでは、黒幕などたかが知れているな。……ああ、靴が汚れた。足指も痛い! まったく、なんて日だ! 司波達也、もう一度こいつを殴ってもいいか!?」

 

「駄目だ。十理。お前はこれからどうする気だ」

 

「私か!? ……わかってるよ、大丈夫だ」たしなめられつつ、「ま、襲われたから潰してやっただけだしな。いちおう避難するよ。場所は、講堂でいいのか?」

 

「ああ。――それで、十理(・・)。あとで説明してくれるんだろうな?」

 

 御嵜十理は。男の上着で靴先を何度も拭うと、着物姿の少女と視線を交わし、空を仰いで額に手をやってから、仕方ないかな、と首を振った。

 

「……ふむ。まあいいだろう、今回のことを騒がずにいてくれるのならな。約束をしよう」そしてエリカを見やると、いつかの言葉を繰り返すように言った。「私は隠し事はしても、嘘はつかないのが自慢なのでね」

 

「んじゃ、そういうことで」

 

「にゃー」

 

 歩き出す。

 

 その後ろに続いた着物姿の少女は、御嵜十理の「影」を踏むと一瞬で輪郭を失い(・・・・・・・・)、光が闇に吸い込まれるように消えた(・・・)

 

「――!?」

 

 ため息をこぼして。

 

 小さな黒猫を肩に乗せ、胸ポケットから眼鏡を取り出した御嵜十理は、背後で達也たちがどのような想いを抱いたのかも気にすることなく、四肢のいずれかを切断された人間ばかりが積み上げられた、悲劇と喜劇と惨劇と慚愧の図書館をあとにしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 御嵜十理「(´・ω・`)」













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15 秘密


















 

 第一高校襲撃事件、翌日――

 

 

 午前授業の小休憩時に出頭要請を受けた御嵜十理(おさきしゅうり)は、部活連会頭、生徒会会長、風紀委員長の三人からの「(くだん)」に関する厳しい事情聴取を済ませると、そのときに遭遇した達也から「約束」を履行するよう求められたため、放課後にて、普段から利用することの多い喫茶店にいつものメンバーで集まっていた。

 

「オレはこの……ストロベリーアイスで」

 

「僕はピーチジェラートと珈琲(ブルマン)を一つ。――さて皆さん、それでは。訊きたいことというのは?」

 

 注文を終えて向き直ると、レオンハルトとエリカが顔を見合わせる。柴田美月は困惑げであり、北山雫と光井ほのかも差異こそあれど同様であった。

 

「じゃあまず……」エリカが挙手する。「その人(・・・)――誰?」

 

「織です」

 

「シキ?」

 

「要するに式神です。付喪神のようなもの(・・・・・・・・・)と思っていただければ」

 

 唖然。

 

「どーも。織です。トーリの付喪神みたいな(・・・・)ことやってます」

 

 絶句。

 

「えっ、ちょっと待って……」

 

 十理たちを除き、視線が達也に集まった。

 

「……十理。つまり――」

 

「まず大前提として断っておきたいのですが」と、遮って。司波深雪がしかめたのを気づかないふりしつつ、「僕の血筋は確かに陰陽師の流れを引いていますが、技術的な中身はほとんど(・・・・)伝わっていませんし、そのことを知ったのは僕がだいぶ大きくなってからのことです。そもそも僕は魔法師の子として育てられたわけではありませんでしたから」

 

「え……、そうなの?」

 

「はい。それで織についてなのですが、こちらもよくは(・・・)分かっていないのです。我が家にあった人形にたまたま『織』という何者かが宿り、僕と契約を結んだことで、此処にこうして存在している――というぐらいしか」

 

「契約……?」

 

「便宜上そう呼んでいます。ある程度の推測になりますが、織の身体は想子によって擬似的な肉体を構成しています。想子なしには存在することが出来ないため、契約時に僕と想子提供の繋がり(パイプ)が結ばれたのかと。この辺りに関しては恐らく、陰陽師の式神と似たような関係になるかと思います」

 

「普通の女の子に見えますけど……」

 

「はは。触ってみる?」

 

 ふに――

 

「柔らかいし……ふつうに温かい……」

 

 ふにふに――

 

「ちょっと、雫! ごめんなさい、この子ってたまにこういう、……もう! いつまでふにふにしてるの!?」

 

「ほのかもやればいい」

 

「ええ!? ……いいんですか? ――うわあ、え、ほんとに……ふにふに……」

 

「なになに。私も触る……――あっほんとだ、ふにふにー」

 

 女子たちは盛り上がりを見せ、織もまんざらでない様子だが、達也の視線は険しい。

 

「あの猫も同じということか?」

 

「その解釈で間違ってはいないです」

 

「式神というと……古典創作などでは呼べばいつでも現れるというものもあるが」

 

「それが、昨日の夜からなんだか拗ねてちゃってまして。今は呼んでも無理なんじゃないかと……無理やり呼ぶことも出来なくはないですが、出来ればしたくないですね」

 

「あのさ、何者か(・・・)が宿ったってことは……自分でもよくわかんねえってことか?」

 

「あ。それはノーコメント」

 

「なに?」

 

「トーリも言ってたことだけどさ。何でもかんでも答えてもらえると思うなって」

 

 

 ―――。

 

 

「次の質問だ。深雪から模擬戦でのことを聞いた。大勢が不思議な()や蒼い古式魔法について関心を持ったそうだが、俺はどちらかというと森崎を拘束したという()の方が気になる。それはお前の魔法なのか?」

 

「そうですね。BS魔法……というよりも超能力(・・・)と言った方がいいかもしれませんね。前に遡って調べてみたことがあるのですが、そのときに僕の先祖に相当するであろう陰陽師が、短い記述ながらも()を操れる存在だったという一文を見つけまして」珈琲で舌を湿らせると、コースターに置き、「〈闇淵(やみわだ)〉という呪い(・・)のようでしたが……かなり古い文献ですので真偽は不明ですが、もしそうだとすれば隔世遺伝による発現という可能性が高いでしょうね」

 

呪い(・・)か……昨日、俺には織がお前の影に溶けたように見えたんだが?」

 

「……呼び捨てですか」

 

 にこり、と綺麗な顔でわらう。

 

「……織さん(・・)が、溶けたように見えたんだが」

 

「間違ってはいませんよ。織は基本的には僕の〈影〉のなかで過ごしますから」

 

「それはどういう――」

 

「んー、うまっ! なあトーリ、このアイスすごい美味いよ。ほら、ほら。食べてみなって」

 

 横からスプーン。

 

 雛鳥のように。ぱくり、と。

 

「ん。……うん、確かにおいしいな。なら、僕のアイスも食べる?」

 

「食べる! あーん……」

 

「………………………………、」

 

「あれ。皆さんどうされました?」

 

 ぐったりとしたエリカが言う。

 

「なんだか深雪と達也くんを見てるみたいだわ……」

 

 半目の北山雫が頷く。隣の光井ほのかも。柴田美月は何を妄想したのか赤らんでいる。

 

「やりとりが凄く自然で……きっと普段からこうなんだろうなあって」

 

「家でアイスの交換なんてしませんよ。自分で好きに食べればいいんですし。それに達也と司波さんのスウィート(・・・・・)には及びませんよ」

 

「す、スウィートって……」

 

「『見てるだけで甘くなる』ということです。それに織は男ですよ」

 

「………ええええ―――――――――――――――!!??」

 

「うるせぇですって……」

 

「ははは」

 

「ま、マジか……男……?」

 

「あれ? なによアンタもしかしてショック受けてるー?」

 

「テメェッ、うるせえよ!」

 

「はあ? ちょっ、なによぉー!」

 

「おい少し静かにしろ。周りに迷惑だろう」

 

「「ごめんなさい……」」

 

 

 

 ◇

 

 

 

「それでは次で、最後の質問ということで宜しいですか」

 

「分かった。……十理。眼鏡を取って(・・・・・・)みてくれないか」

 

 ぴしり(・・・)、と。

 

 反応の温度差は、明白だった。

 

「それは厳密には質問ではありませんが。そんなものでいいんですか」

 

「ああ。問題ない」

 

「なんだよこの空気。あ? 単に眼鏡取るだけって話だろ?」

 

「そっか。アンタ知らないんだったわよね」

 

 何がだよ、とぶつぶつ言うレオンハルトであったが――

 

 

「――これでいいか(・・・・・・)?」

 

 

 声を失った。

 

 目つきが。口元から見え隠れする彼の笑みが。纏う雰囲気が。

 

 陽気で親しみやすい御嵜十理が――消えて。

 

「どうした。せっかく従ってやったというのに黙りこくって。おい司波達也。お前が言い出したことだぞ」

 

 冷酷。残忍。

 

 双眸からは圧倒的な自信が滲みだしている。

 

「人格の変更……二重人格ということか?」

 

違うなあ(・・・・)。まるで違うよ、お前らしからぬお粗末すぎる推測だ。これは単に御嵜十理の優先順位を切り替え(スウィッチし)ただけに過ぎん。別の人格が宿っているわけではない」

 

「優先順位……」

 

「誰にだってあるだろう。司波達也にとっての司波深雪がそうであるように、()にも何よりも優先すべき事項が存在する。そしてそれは()である御嵜十理とは異なるものだ」

 

「それは――なんだ?」

 

「ノーコメントだ。一つ言えることは、私という御嵜十理は冷徹(・・)激情家(・・・)で自分の欲求に正直(・・)だということ……」再び眼鏡をかけて、「――そして僕である御嵜十理は、周囲の穏便(・・)な環境を重視する立場にあるということです」

 

 沈黙。

 

「おや、どうしました皆さん。なんだがすごく重たい沈黙が……」

 

「いや明らかにお前だろ原因は!?」

 

「ええー? そうですかねえ……まあそんなに難しく考える必要はありませんよ。人間誰しもその場〃々で自分の優先順位を変化させるものでしょう」

 

 たとえば……、とエリカ、光井ほのか、北山雫、柴田美月を順に指でさしてから、

 

「好きな人の前にいるのと嫌いな人の前にいるのとでは、優先順位は異なりますよね。レオンハルト」

 

「なんで俺に聞くんだよそこで、しかもそのメンバー!?」

 

「では達也はどうです。華やかで可憐で麗しい君の最愛の妹である司波さんの前にいるのと、二〇〇kgはありそうな巨体で汗まみれで息の臭い大金持ちの男色家の前にいるのとでは、同じ優先順位でいられますか?」

 

 にやにやしながら言った十理に、軽く引き攣った笑みで「それは当然、深雪の方が大事だ」と返した達也。

 

「お兄様……」

 

 感極まったかのように手のひらを合わせる司波深雪の姿に、

 

「その選択肢じゃ端から選択の余地はないでしょ……」とエリカが苦笑いした。

 

「でしょう? そういうものですよ。僕の場合は少しだけ(・・・・)極端なだけです。それでも、どちらも御嵜十理という意味で間違ってはいないのですよ」

 

 

 

 ―――。

 

 

 

「それでは僕はこのあと用事がありますので失礼します」

 

「ああ。今日はすまなかったな」

 

「はははは。事前に今日はわりと貧血気味だと言っておいたのに容赦なく質問攻めにした達也にそんな言葉を言われるなんて思いませんでした。実に友達思いなんですねえ達也は。僕は感動しました。涙が出るかもしれません」

 

 視線――

 

「……いや。悪かった」

 

「いいえ別に。構いませんよお」真面目な声で、「……心配だったのでしょう(・・・・・・・・・・)? お気持ちは分かりますし、これからも君たちとは仲良くやっていけたらいいと思っていますから。それに約束(・・)もちゃんと守ってくれたようですしね」

 

「何の話……?」

 

「昨日のことで、ちょっと事情聴取を受けたのですよ。あれはやりすぎ(・・・・)だという注意に加えて」

 

「確かに。過剰と言われても仕方がない被害だったがな」

 

「そうですかねえ。たとえ失くしたとしても、『機械主義者』に鞍替えすればいいだけの気もしますけど」

 

「機械主義者――?」

 

「スキズマトリクス。ご存知……ないですよね。一〇〇年以上昔のSF小説です。まあ所詮は私事じゃないから言える話ですが。ともかく、やっちゃった(・・・・・・)関係でどうなるか不安もありましたが、達也たちがいたずらに触れ回らなかったおかげで、僕は皆さんといつもどおりに過ごせました。どうもありがとう」

 

「あの襲撃者から得た情報は大きなものだった。そういう意味で十理の活躍は褒められたものだが、事件については公にできない部分も多い。その一環として当然の対応だ」

 

「そうですか。僕は君のそういうドライなところも気に入っています。この先もどうか、よしなに」

 

「ああ。よろしく頼む」

 

 

 そうして別れた。

 

 オオマガトキ。血のように赤い夕焼け空を背景に。

 

 

 

 ………。

 

 ……。

 

 ―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月明かり。

 

 一つを除いて、静けさの充溢した部屋で。

 

 深く脱いだ肩の、少年の肌の雪に覆いかぶさっている存在がある。

 

 

 ――ぴちゃり――くちゅり―――

 

 

 水気を含んだ響き。何度も圧しつけて、何かを啜るような音。

 

 啜り上げるような。

 

 

 ――ぴちゃり――くちゅり―――

 

 

「……っ、はあ……」

 

 耐えるような声。どこか淫靡な、それでいて苦しげな響きをした吐息。

 

「し、き」

 

 

 ――ぴちゃり――くちゅり―――

 

 

 わらう声。

 

「――トーリ(・・・)…」

 

 暗がりに漂う、におやかな温気(ぬくみ)が肌に絡むようで、首筋に押し当てられた、()を引いたように真ッ赤な唇から(えん)な濡れ〃々とした声を出し、花も震えあがるほどの、恍惚(うっとり)(なまめ)かしい瞳のモノが、捕食者のように三日月を作り、ワラッた。

 

まだ(・・)たりないから(・・・・・・)。――もっと(・・・)ちょうだい(・・・・・)?」

 

 

 

 ――かつての記憶を思い出す。

 

 

 

 ――「オレは、おまえを(ころ)したい」

 

 ――「いいよ」

 

 

 蒼い瞳を濡らして言ったその人に、自分は努めて笑ってみせた。

 

 ――「織。私はお前が好きだよ」

 

 覚えている。忘れてはいない。

 

 ――「お前の身体は私が初めて私の全身全霊を込めて作り上げた作品だ。それは在りし日の私の魂のカタチそのもの(・・・・・・・・・・・)だ。お前は私の一部だ。だから。お前が私を殺したいと望むのなら、私はお前に殺されてやってもいいと思う。そういう結末(・・・・・・)も、受け入れるよ。織が好きだから(・・・・・・・)

 

 ただ、ひとつだけ納得(・・)できないことがあった。

 

 ――「けど、そうなると心残りがある。命乞いじゃないぞ、私は、お前が私を殺したあとで、お前が泣くんじゃないかと心配なんだ。陽気を振舞っているが、根っこはどこか寂しがり屋だ。もしそうなったとき、私は泣いているお前の傍にいられないことが辛い。それだけは……嫌だな」

 

 ――「なんだよそれ。なに、言ってんだよ……」

 

 戸惑ったような、怒ったような、今にも感情が溢れて(・・・)しまいそうな顔で呟いたその人が、どうしようもなく自分には――

 

 

「織」

 

「……トー……リ?」

 

 蒼を爛々とさせるモノに。

 

 御嵜十理を求めて歯/刃を突き立てる吸血鬼(・・・)の如きそのヒトに。

 

 自らさらけ出す。

 

「いいよ、……もっと吸って。織になら私は。……いくらでも」

 

「――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――好きだよ、トーリ。

 

 ()れ合うように囁き合い、

 

 ――ああ。私もだ。

 

 儀式の如く確かめ合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 狂おしいほどに掻き抱き、縛り合い、

 一つを除いて、静けさの充溢した部屋で。

 

 二人は。

 秘密を、交わす。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――

 

 

 

 

 

 

 

 やがて。

 季節は、波乱の夏へとうつろう―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Chapter 1 ―― fin.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





















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閑話
16 目覚め1



 De Profundis.

















 

 ◆

 

 

 

 誰も知る者はいない。ある建物の存在を。

 

 【記憶の墓(Grab von Speicher)】――確かにそう呼ばれ、一つの目的のために密かに集った者たちがいたことを。

 

 神の孤島のように秘された箱庭であり、

 

 エデンの園のように閉ざされた楽園であり、

 

 叡智と冒涜と、挑戦と穢れに満ちた施設であると。そこに集った彼らは呼んでいた。

 

 かつて。そう呼ばれていた場所は、

 

 しかし――

 

 

 今は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤く染まった、夜空。

 

 

 ――「炎」に包まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 すべてを。

 

 あらゆるものを。

 

 あまねくものを焼き尽くす(・・・・・)滅却する炎(・・・・・)――

 

 

「■■■■■」

 

 

 一体の「怪物」が産声を上げる。

 

 存在そのものを焼き尽くし燃え広がる「炎」の前では何者も彼を押し留めることはできない。

 

 もはや檻は檻でなく、壁はまったく取り除かれ、万物は彼を拘束し得なかった。

 

 彼の生家が、跡形もなく溶けて崩れ、無くなる――

 

 

 歩く。歩く。

 

 歩く。〃、

 

 々、

 

 〃、

 

 々……

 

 

 行く当てはない。初めて見た外の風景は、砂漠。どこまでも。どこまでも。

 

 どこまでも。

 

 果ては――ない。

 

 檻は彼の世界であり、強者との命を賭した競り合いを欲しながらも自身の渇望を禁じていた――それが後天的に植えつけられた防御機構かどうかはともかく――彼は壁の外を知らなかった。

 

 たとえどれだけ超越した能力を有していようとも、それを管理する術を彼は持たない。彼に用意された未来は、このまま衰弱し、自らを焼き尽くし塵芥となるのを待つことのみ――

 

「■■■■■」

 

 そう考えれば、歩くことさえも彼にとっては無意味だった。滅却(・・)という一点において比類なき性質を有しながらも、結局は何事も成しえずに死に絶えるのだから。

 

 

 そうなるはずであった(・・・・・・・・・・)

 

 

 (まゆ)

 

 あらゆるものを焼き尽くす「炎」の燃え広がる施設の残骸の一角で、一つだけ燃えていないものがあった。

 

 巨大な繭である。一メートル(・・・・・)以上はあろうかというほどの真っ白なそれが、炎に囲まれながらも燃えることなく倒れている。炎は「それ」に近づくと、吸い込まれるようにして消えてしまった(・・・・・・・)

 

「■■■■■」

 

 なんだこれは。なんだ――これは。他のとは違う。なぜ燃えていない?

 

 足を止めてみる。眺めてみる。

 

 怪物の前で、繭に、亀裂が走った。

 

「あ……あ――――」

 

 覗いたのは、人の姿をしたナニカ。

 

 繭が解けると、真っ白な美しい姿の人のようなナニカが現れる。

 

 赤い双眸。視線。意思がある。何かを伝えようとしている。震える手が、伸ばされる。

 

 燃やし溶かすのは容易かった。他のものと同じように滅ぼすこともできた。

 

 それでも(・・・・)

 

 

 その手に触れた。

 

 

 

 

 ――それは誰も知らない、月の綺麗な夜の一幕。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲーテ(・・・)。起きて」

 

 

 声。

 

「……ゲーテ。起きてったら」

 

 揺さぶられる。何かの匂い。鼻腔をくすぐるような。

 

「ねえゲーテ。……ゲーテー?」

 

 揺さぶられる。何度も上下に。左右に。少し鬱陶しい。

 

 止んだかと思うと、

 

「………………もうゲーテっ! 起きろーッ!!」

 

「うるせえ耳元で叫ぶな―――!!」

 

 飛び上がった。

 

 人の顔。笑みを作る。

 

「おはよう。ゲーテ。お寝坊さん。朝食できてるよ」

 

 エプロンをした、少女のような、少年のような容姿。一〇代前半ぐらいで、まだ幼い。

 

 真っ白な髪。真っ白な肌。そして際立つ真っ赤な双眸。

 

アルアレフ(・・・・・)。もっと他の起こし方はないのか……?」

 

 彼の家族。

 

 ゲーテと呼ばれた彼の、大事な唯一の。

 

「他のって? これまで色々と人道的な方法を試してみたけど、これ以上となるとあとは熱したフライパンで顔面をぶっ叩くとかぐらいしかないよ」

 

 そのほうがいい? ゲーテがそういうんだったら仕方ないかなあー、と「にやにや」する。

 

「……今のでいい。善処する」

 

「それいっつも言ってるよね。一度も履行したことないけど。まあいいや。早く起きて下で食事にしよ? そんで頭がしゃきっとしたら、電文読んで。大事なお仕事だから」

 

依頼(・・)か?」

 

「そう。報酬は五〇〇万ドル(・・・・・・)。依頼内容は――」

 

 扉に手をかけ、振り向いた。

 

 

「日本の十師族、七草家次期当主候補の一人――七草真由美の暗殺だってさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

















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17 計画


 閑話です。

 閑話なので織くんたちは登場しません。


 申し訳ない


















 

 ◇

 

 

 

 天高く昇った陽光が、人たちの営みを照らし出している。

 

 

 紐育(ニューヨーク)

 

 金融と音楽と、人種と芸術とファッションとスポーツと、自由を掲げる女神像の微笑みに見下ろされた街。アメリカ合衆国最大の、数々の文化的刺激の薫りに満ち〃々た一大都市。

 

 なかでもマンハッタン――とりわけ経済活動の盛んなミッドタウンに建つ、高層ビルヂング二〇階会議室では、背広を着た、役人と思しき男女たちが険しい表情を突き合わせて話し合いを始めてから、既に一〇数分が経過していた。

 

 そんな彼らの様子を、ライフル・スコープ越しに覗いている男がいる。

 

 かつては栄華を誇った紐育一大情報誌編集部のビルヂングでありながら、今では名所の高級ホテルとして改装されて久しくなった屋上にて。

 

 敷かれた毛布に腹這いの姿勢になりながら、二脚の設置された対物狙撃銃を柵の間から突出させ、陽が差し込まないよう、射線を確保してある視度ともに調整済みのスコープを覗き込んでいるのは、目立たない服装をした東洋系の、陰気な顔立ちの男だった。

 

 傍らに、観測手はいない。ひとりきりで。

 

 本日は快晴といってよかった。ビル風は穏やかで、湿度も二〇%を切る。

 

 狙撃日和な天候であった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「次の議題に入ろう」

 

 白髪を丁寧に後ろに流し、髭を蓄えた老齢の男が言った。着席する上級幹部たちを見回し、控えていた従者の女に目配せをすると、間も無く若い三人の男女が入ってくる。

 

 一人は、痩身で青白い肌の、しかし眼光の鋭い、梟雄を底に秘めた男。

 

 一人は、大柄で彫りの深い顔立ちの、重心と胆の据わった、寡黙な男。

 

 一人は、長いブルネットの、野心と知性の眼差しをした、社長然の女。

 

「君たちも既に知っているだろうが……クライブ・クリードが死んだ」

 

 低く、そしてよく響く声で。

 

 昏く、(うろ)のように深い黒の瞳が、三人を見つめる。

 

「奴は秘密裏に国外勢力と繋がりを持ち、利権を独占しようとするあまり、我々のビジネスに甚大な被害をもたらしかけた。彼が古参の重鎮であることは誰もが知ることだが、裏切り者には当然、ペナルティを与えなければならない。そしてチャンスは二度あるとは限らないのだ。そうではないかな?」

 

 ゆっくりと、語りかける。

 

「彼は優秀で、尊敬できる人物でもあったが、彼は自身の手でその栄光を台無しにしてしまった。クライブ・クリードは、永遠に裏切り者として記憶されることとなった。残念な話だ」

 

 悲しむような口調ではあったが、悲しんでいる者はこの場にはいなかった。

 

 彼の喪失を数学的に惜しむ者はいたが、彼の死を人間的な感情で嘆く者は誰もいなかった。

 

 少なくとも表面上は。

 

「さて」

 

 と、男が、三人を呼び出した本題を切り出した。

 

「クライブがいなくなった以上、我々は後任を決めなくてはならない。いつまでもメリーランドを空白地にしておくわけにはいかない、それは不利益を生む。それはいけないことだ。今は協定(・・)に従い代行者が回しているが、これは正常な状態とはいえまい。我々は会議の末、候補者を立てることにした……つまり、君たちのうちの一人に、幹部としてメリーランドを治めてもらおうと考えているのだ」

 

「俺に――」

 

「まあ、待ちたまえ」

 

 身を乗り出そうとした痩身の男を手で遮ると、老年の男は「ヘルガ」と従者を呼んだ。

 

 すかさず従者は、どこからともなく取り出した無地の封筒を、それぞれ三人に手渡してゆく。

 

「封筒の中身は君たち三人とも同じ内容だ。その封筒には、ある人物のデータが入っている……」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――雨音が聞こえる。

 

 

 雨など、降ってはいなかった。だが男は、雨のにおいが身を包んでゆくのを感じていた。耳元では、地面を跳び弾ける、降り始めのような雨粒の音が、薄膜越しに、確かに感覚され始めている。

 

 銃を手にして意識を集中させると、たびたびこうした現象に襲われることがあった。

 

 強いストレスによるもの。立派なお医者様(・・・・)であれば(あるいは闇医者でも)、きっと心因性の幻聴であると断言するに違いない――なるほど人生は“ストレス”ばかりだ――それに「銃」と、「雨」。心当たりはあった。しかし、負担とは考えていない。

 

 雨音に導かれるようにして、意識が没入してゆくのを感じる。深く、研ぎ澄まされてゆくような――だがそれは意識の一部分だけであり……全体は霧のように大きく、広く、やわらかく、枠を失くし、空間に溶けて交じ入るような感じで……だからこそより鋭さが際立って感じられる。

 

 これ(・・)を感覚するとき、男はスコープ越しの標的の呼吸、その心臓の脈動すらも感じ取ることができるようになる。まさに男は、この瞬間、標的の動きを完全に掌握していた(・・・・・・・・・)

 

「―――」

 

 銃爪(ひきがね)に、指を添える。

 

 標的との距離は二八〇〇メートル(・・・・・・・・)。使用するライフルはマクミラン社の超長距離用狙撃銃の構造と酷似していたが、別種のものだった。消音装置(サイレンサー)付き。射程距離自体に問題はないが、使用する弾頭は熱探式の追尾弾頭ではないため世界大会の選手であっても困難を極める。男に、そこまでの技量はない。しかし何も問題はなかった。

 

 

 何故なら(・・・・)この銃は男の裡より生じた現象で(・・・・・・・・・・・・・・・)あるからだ(・・・・・)男に染み込んだ死の観念が銃というか(・・・・・・・・・・・・・・・・・)たちを得て出力された以上(・・・・・・・・・・・・)男の殺意によって(・・・・・・・・)撃鉄は起こされ(・・・・・・・)男の意志によって(・・・・・・・・)照準は定めら(・・・・・・)()男の死に対する理解(・・・・・・・・・)が弾倉に(・・・・)装填された今(・・・・・・)男は(・・)魔銃そのものと化していた(・・・・・・・・・・・・)

 

 

 銃で撃てば(・・・・・)相手は死ぬ(・・・・・)。そして〈魔銃〉は人種を選ばない。銃口が向いた先の、あらゆる存在に「死」を撃ち込む。平等に。何者も逃れることは、できない。

 

 男は人類が積み重ねてきた戦争の摂理を、〈魔法〉によって体現していた。

 

「―――」

 

 そして。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「マシュー・ウォシャウスキー。ヴィンセント・ギリアム。カーマイン・フィッツジェラルド」

 

 老齢の男は。

 

「これは、競争だ……(おきて)に従い、一番にターゲットを亡き者にした人間を、次の幹部とする。では現時刻を以て、狩りのスタートだ」

 

 緊張と、昂揚を漲らせる三人の若者へ。

 

 冷徹に、告げた。

 

 

「征くがいい、諸君。行って証明するのだ。奮闘を期待している――」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 銃声が響いた。

 

 再現された(・・・・・)発射ガスが銃口から噴出し、男の全身を鋭い反動が襲った。狙撃姿勢のまま耐え、男はスコープ越しに弾頭の行方を追う。

 

 

 重力による弾道への影響を無視し(・・・・・・・・・・・・・・・)

 風速による弾道への干渉を無視し(・・・・・・・・・・・・・・・)

 二八〇〇メートルの空間を貫通し(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

 弾頭は標的の頭蓋を吹き飛ばした。

 

「―――」

 

 猪のような巨漢が、会議室のテーブルに脳漿と肉片を撒き散らし、盛大に倒れるのが見えた。

 

 銃声に、気づく者はいない。消音装置は完璧に機能していた。

 

 男はサイレンサーを外して毛布で包むと、ショルダーバッグに回収しゆっくりと立ち上がった。男の仕事は、これで終わりだった。あとは後方支援が確認し、それで完了となる。男が狙撃銃に触れると、反動にびくともしなかったのが嘘であるかのように、まずひび割れが生じ、ついにはガラスが割れるようにして砕け散り(・・・・)、細かい粒子となって消えた。排出された空薬莢も、標的を殺害した銃弾も、狙撃銃と同じように消滅し、ものの数秒で、この世から殺人に使われた凶器は一切が幻のように消えてなくなっていた。

 

 男もまた、同じく。

 

 ―――。

 

 屋上には、誰の姿もない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 網膜認証をパスする。

 

 扉を開いた。

 

 1LDK。サウスセントラルに建つ、そこそこ(・・・・)のマンション。

 

 東洋系の顔立ちの男――つい先ほど一人を殺害した男の自宅が、そうだった。

 

 男はリビングに入ると、テーブルに「大当たり」の名を冠する電子煙草のケースを放った。がらんとしている食器棚から安物のボトルとグラスを取り、ソファーに腰を沈める。

 

 サイズも見た目も高価な紙巻き(アンティーク)とほとんど変わらないそれを咥えたところで、視線を感じた。振り返る。

 

 アクリルの大型水槽のなかで、止まり木に登っているグリーンイグアナと目が合った。

 

 (じぃ)、と。

 

 何か物言いたげな視線――物欲しげというべきか――を送ってきている。

 

「………、」

 

 ペット皿を見やると、空になっていた。

 

 視線。

 

 自然と、ため息が出た。

 

 一度皿を洗ってから、イグアナ用のフードを注ぐ。水も交換し終え、水槽に戻すと、さっそく食べ始めている。

 

「よく食うよな、お前は」

 

 艶の良い背を撫ぜた。肌触りのいい感触。夢中になっているせいか、特に嫌がる素振りはなかった。

 

 ―――。

 

 グラスに注ぐ。

 

 満足したらしいイグアナは、黒土のうえで寝転がっている。完全に無防備でだらしのない恰好。

 

 部屋は、静かだった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ――雨の音。

 

 

 引き金を引いた。自分と歳の変わらないような少年が、血を流して倒れる。

 

 何度も、撃った。

 

 銃で。CADで。

 

 引き金を引くたびに、自分と大差のない境遇の人間が、次々と死んでいった。時には、同じ施設の出身同士で殺し合ったこともあった。それでも、生き残った。やがて第三世代で生き残っているのは、自分だけになった。

 

 そうして次の現場へ。次の次の現場へ。

 

 いつか。自分も彼らと同じになる日が来る。そう思うようになった。そうなったとき、自分は何を思うのか。

 

 その日が来た。

 

 砂漠で偽装された地下研究施設への潜入作戦。秘密裏に生み出された報復兵器を奪取せよ。

 

 

 そこで、「炎」の怪物を見た。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――雨音が聞こえる。

 

 

 身体を起こした。

 

 静寂の部屋に、雨音が聞こえている。雨が降っていた(・・・・・・・)。手には、無意識に生み出したらしい拳銃が握られている。

 

 嫌な汗が、躰に纏わりついていた。

 

「………、」

 

 腕が、痺れている。強張っていた指を一本ずつ外し、銃を置いた。脱衣所に向かう。鏡の取り外された浴室。

 

 熱いシャワーで洗い流す。

 

 洗面所の戸棚からピルケースを取り出し、錠剤を二つ飲んだ。肩にタオルをかけてリビングに向かうと、拳銃は消え、端末が鳴っていた。

 

「……はい」

 

 投射された使用人服姿の女のホログラムに、応じる。

 

 

「出るのが遅い。――お嬢様がお呼びです、セラ(・・)。すぐに着替えて、屋敷まで来てください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 ※本作の舞台は「魔法科高校の劣等生」で相違ありません(原作に掠りともしない進行はありますが)


 次も閑話です。

 次も閑話なので織くんたちは登場しません。

 本当に、申し訳ない


















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18 来訪1


















 

 ◇

 

 

 

 

 男が電動二輪車(モーターバイク)を富裕層の一等地近くで降りて暫く歩いたところに、その屋敷は建っていた。

 

「二分の遅れです」

 

「これでも急いで来たんだ。責められる謂れはないね」

 

「……飲んでいるんですか?」

 

「ほんの少しだ。そんなに臭うか」

 

 到着し出迎えるや否や険しい視線を向けてきた、使用人服姿の、男よりも少し若く見える女に受け答えしつつ、書斎に案内される。

 

 扉を開けると、卓上の投射型PCを操作していた、屋敷のあるじ(・・・)が視線を上げた。

 

「来たのね、セラ」

 

「御用だとか。何かトラブルでも?」

 

「いいえ。問題はないわ、貴方の仕事は完璧よ、〈インビジブル〉。おかげで邪魔者は排除できた」

 

「それが俺の仕事ですから」

 

 女は満足げに頷くと、

 

「それでね。立て続けになるのだけれど、もう一つ、仕事を頼みたいのよ」

 

「ご命令とあらば」

 

 そつなく答えつつも、しかし珍しいこともある、と世良(セラ)は内心で訝しんでいた。お嬢様の子飼となって以来、直接的な排除行動は前当主の頃と比べて少なくなっていることもあり、直截聞いたことこそなかったものの、好ましく思っていないと考えていたからだった。

 

 ――何かあるのか。

 

 ちらと横を見た。使用人の女は、女の会話の邪魔にならないよう控え、気配(・・)を消している。表情は読めない。

 

「これを」

 

 引き出しにしまわれていた封筒を、女が差し出した。記憶デバイスではない、(ペイパー)であるのは情報の漏洩に敏感になっているためか。

 

「確認しても?」

 

「もちろん」

 

 入っていたのは、見覚えのある(・・・・・・)標的の顔写真と、調査報告書だった。

 

「……カーマイン」

 

ええ(・・)そうよ(・・・)

 

 世良が敬称を付けずに呼んだ瞬間、使用人の女が威圧する気配を放っていたが。

 

 本人は気にしたふうもなく、見るものを慄然とさせるような、凄艶な笑みをしてわらった。

 

「ずっと情報を集めさせていた。いつか殺してやるために。でもまさか、今、その機会が来るだなんて。運命かしらね」

 

 女はゆっくりと立ち上がると、長いブルネットの髪を揺らしながら、本棚に立て掛けてあった、一枚の写真を手に取った。

 

「これは試金石なのだそうよ。私に、組織を上り詰めるだけの実力があるかどうかの。伯父様も人が悪いわよね……」

 

 写真はどこかのテーマパークで撮られたものらしく、あどけない表情のスカート姿のカーマインと、微笑みながら彼女の肩に手を回している、優しげな男の姿が写っている。

 

「猶予はないわ。マシュー・ウォシャウスキー。ヴィンセント・ギリアム。名前は知っているわね。この二人が動いている、競争よ。遅れるわけにはいかない。万が一にも」

 

 振り向いたとき、カーマインは既に、笑っていなかった。

 

 冷徹と、憎悪と、愉悦が入り混じったアマルガムの瞳で。

 

 酷薄に、告げる。

 

 

「――行きなさい。行って、殺してきなさい。あの二人よりも早く、お父様を殺したあの薄汚い殺し屋どもを撃ち殺してきなさい」

 

 

 世良は、目を伏せてそれに応えた。

 

 

 

 ―――。

 

 

 

「サポートチームと合流後、そのまま現地へ入ってください」

 

「ベラ。カーマインの伯父と、話したことはあるか?」

 

「カーマインお嬢様(・・・)です。いくらカイン様の頃からとはいえ、今の貴方は――」

 

「殺し屋が上司を気に掛けちゃおかしいか。……カイン様には世話になった、その娘だ、心配の一つくらいするさ。それで、お嬢サマはそんなに伯父に心を許してるのかな」

 

「……カイン様の死後、エドモンド様には様々な面でお嬢様にご助力頂きましたので。何も不自然なことはないと思いますが」

 

「そうか」

 

「なにか気になることでも」

 

「あまり、あの男を信用し過ぎるべきじゃない」

 

「………、」

 

「と、思う。信じてないって顔だな。いいさ別に。ただ、気に留めておいて欲しい。お嬢サマの傍にいる君に。それだけだ」

 

 じゃあな。

 

 

 

「――ああそれと、向こうにいる間のペットの世話も。頼んだぜ」

 

「はい――?」

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 離陸時の浮遊感が収まると、世良は少し強張っていた緊張を解き、匿名性を確保できるフードつきビジネスシートの座席で身を楽にした。

 

 空の合間の暇は、それなりに長い。乗客たちは暫くすると各々、航空機に搭載されている無線LANを利用してインターネットを楽しんだり、娯楽用に完備してある映画や音楽、または安眠導入機(サウンドスリーパー)を使って過ごし始めていた。

 

 世良の場合は、持ち込んだ書類の確認である。屋敷で渡された資料とは別の、カーマインが独自に用意した内容のもの。電子機器は持ち込んでいなかった。キャリーバッグにも入っていない。必要機材の調達は、後方支援の担当なのだ。

 

 シートについているフードを下ろすと、柔らかな光が点灯し、手元を照らした。

 

 サングラス越しに、目を走らせる。

 

 資料には、男の顔写真が添付されていた。

 

 ――あの日(・・・)。一二年前。

 

 眩暈のように、唐突に記憶が蘇る。

 

 ――砂漠で偽装された先端魔法研究所【記憶の墓】を、多くの第四世代魔法師で編成された実験部隊の一員として強襲した、あの日。

 

 応戦する敵と、味方が、次々と死んでゆくなかで、あれ(・・)は現れた。

 

 ――「炎」の怪物(・・)だった。

 

 すべて(・・・)が焼き尽くされてゆく。恐々状態に陥り統率を失くした魔法師たちの放つあらゆる攻性魔法は一瞬で焼却され、障壁魔法を貫通する威力の実弾銃は「怪物」を守る炎の壁に触れた瞬間にことごとく蒸発した。

 

 火山流に呑み込まれるようにして、気が付くと人間は、灰すら残さずにこの世から消えていた。

 

 最強の近接魔法兵士をコンセプトに設計された「災害」には、誰一人として。手も足も出なかった。

 

 部隊が壊滅してゆく。そのあいだ、世良は。

 

 ただ――崩壊が過ぎ去るのを待ち続けていた。

 

 隠れて。息をひそめて、震えながら。エナメル質の歯をしきりにかちかちと鳴らして、恐怖で気が狂いそうになりながら――どうか、あゝどうか見つかりませんようにと生きていて初めて何かに懸命に祈りながら、心臓の鼓動や自分の呼吸が外に漏れ聞こえてはいないだろうかと怯えつつ必死に抑え込み、惨劇の行方を眺めていた。自分が殺してきた彼らと同じような目にあう時、自分が何を思うのか。その答えが、これ(・・)だった。今にして思えばこのとき、まだ(・・)自分は正気を保っていたのだろう。

 

 そして、部隊を見殺しにして逃げ帰った矢先の、担当官の裏切りが、とどめ(・・・)になった。

 

 

 ――向けられた「銃口」の暗がり。「雨音」。

 

 ――肌を打つ雨の感覚が、止んで。

 

 ――「大丈夫ですか? ひどいケガ……」

 

 ――ひび割れ、毀れ出してゆく躰に染み込む死の感覚(・・・・)と、降ってくる幼い声があった。

 

 

「……運命か」

 

 今なお生き延び、互いに殺し屋という身分になっている「怪物」の、遠巻きに撮影したと思われる写真を、眺めながら。

 

 父親の敵討ちを命じた女の言葉が、不意によぎった。この奇妙な因縁(・・)を示す言葉。

 

 自然と、笑みがこぼれていた。

 

「どちらでもいいさ」

 

 あの男の裏切りが、結果として今の世良の立場に繋がっている。しかしカーマインは知らないことだったが、いずれ型落ちとして使い潰されていたはずの未来に狂いが生じたのは、間違いなくあの件が原因だった。

 

 恩人ではない。恐らく、あの「怪物」は世良のことなど覚えてさえいないだろう。一方的にこちらが知っているだけだ。それでも、憎しみとは少し違っていた。なんせ一二年に及ぶ因縁だ、そんなに単純なものではない。お嬢様が知れば憤るだろうな、俺を撃ち殺そうとするかもしれない。だがこんな日が来ることを、心の何処かで待ち構えていたような気もする。あの日、逃げ(おお)せた代償に、今度こそ巡ってきたら、決して避けることはできないだろうとも。

 

 ――死ぬはずだった、安い命だ。

 

 ――元より先など無い。

 

 あったとしても――

 

「どうせ、最期は同じだ」

 

 世良に課せられた仕事は、いつもと変わらなかった。それは、世良の感傷とは何の関係もないことだ。二枚目の資料をめくった。

 

 「怪物」の隣に、アルビノの少年が写っている。

 

 今回の標的(ターゲット)

 

 ――〈サラマンドラ〉と〈スノウフェアリー〉を暗殺する。

 

 ただ、それだけだった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「――到着っ!」

 

 純白の髪、純白の肌、そして紅瞳の双眸をした少年――あるいは少女とも判じれる容姿の、まだ幼さが抜け切れていない印象の人物――が、被っていた帽子を直しながら、空港の混雑に負けないよう、はしゃぐような声をして隣を向いた。

 

「日本に来るのってさ、初めてだよね」

 

 喋り掛けられた大柄の男は、投射型案内板を確認すると、受け取ったキャスター付きスーツケースを引きながら、さっそく移動し始めている。

 

「ってゲーテ(・・・)、はやい!」

 

「観光しに来たんじゃねえんだぞ」

 

「でもさあ、仕事が終わったら、少しくらいいいでしょ?」

 

 少年――アルアレフ(・・・・・)が慌てて追いかけてくるが、実はゲーテも歩幅を合わせているため、はぐれるようなことは起こらない。

 

「それよりも、出迎えがいるはずだが」

 

 海外移動の経験は少なくないが、海外からの依頼はそう多くはない。そもそもゲーテが所属する〈組合〉に依頼するためにはいくつかの手続きを踏む必要があった。

 

 今回の報酬は500万ドル。内容は、日本の十師族の一人の殺害。依頼人は、ゲーテとアルアレフを指名していた。

 

 視線を感じる。アルアレフとゲーテへの好奇の視線とは別種の。

 

 男が近づいてきた。

 

「ハロー、ミスタ・『ベイリー』」

 

 スーツ姿の男。中肉中背で、黒髪。良く言えば優しげだが、悪く言えば意志の弱そうな笑みを浮かべた、平凡な顔立ちの男が口にしたのは、今回の仕事でゲーテたちが使う偽名だった。

 

「誰だ?」

 

「はい。『本日はクラブ・スターゲイザーの日本絶景絶品堪能満喫ツアーへのご参加、誠にありがとうございます。私が今回お二人のご案内を務めさせていただきます、クルスと申します』」

 

「そうか」

 

 合言葉。「クルス」。どうやら、サポート役はこの男で間違っていないらしい。

 

「車をご用意しております。まずは、宿泊地のほうへご案内いたします」

 

「お前のことは、何と呼べばいい?」

 

 男は。

 

 歯を見せぬまま笑い、振り返って言った。

 

「私のことは、カウンセラー、と。そうお呼びください。お会いできて光栄ですミスタ。お互い、短い付き合いになるかとは思いますが、よろしくお願い致しますね」

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 とある施設。魔法関連の研究資料が机にも積み上げられた書斎にて。

 

 男が、グラスを傾けていた。暖色の明かりが照らす表情は、何かを待ちわびるような、あるいは悪事が露呈するのを恐れているかのように強張っており、そんな自分をなだめるようにして、オン・ザ・ロックを呷っている。

 

 端末が、鳴った。

 

 緊張を悟られないよう、一呼吸はさんでから、秘匿回線で開く。

 

「私だ」

 

 相手は、思った通りの人物だった。

 

「分かった。そちらも分かっている。だが、本当に大丈夫なんだろうな」

 

 相手は、男の焦りを見透かしたように、くつくつと笑い声を上げた。

 

「五月蠅い、黙れッ。……分かっていると言ってるだろう」

 

 私を、若造と侮っているのか。相手がたしなめるように言った。何も心配することはない。契約を守る限り、契約は常に守られる――

 

「ああ。では」

 

 通信が切れる。

 

 息を、深く吐き出した。肩が凝りそうだった。かぶりを振る。

 

 

 視線を感じる。

 

 

 

 夜の窓に反射した男が、いびつな笑みを浮かべている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



















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  目覚め2


 Sugar,多めで。


















 

 ◇

 

 

 

 山肌は、白く覆われている。

 

 冷気。

 

 山岳の、切立った崖の端に在る、白亜の城は中世の流れを汲んでいるのか、されど何某様式かは判然とせず、曇天を仰ぎ見やり佇立するそのさま、何色にも染まらぬ寄せ付けぬ孤高――(いいや)、真白であれと不変凍度を組み込まれたかの威容であり、城の眼下一望に積る、万年とけることない白銀と同じく、時の流れすら凍てついてしまっているようであった。

 

 

 ――たん(・・)

 

 

 と。動く音がある。短い間隔で、張り詰めた空気を打つ音が一つ、二つ。三つ、四つ。五つ。響く音。それは、足音(・・)

 

 それは時が凍てついてしまったかの世界にあって、唯一(・・)の、自然ならざる、人たり得る者の意志としてかたち(・・・)を与えられた城の広々とした回廊に敷き詰められたつめたい大理石を編み込み靴でたん(・・)と踏みつける、華と品の薫る暖色の和服をゆるゆると着こなし、そのうえに赤いブルゾンを羽織った装いは決して不恰好ではない、袖口から伸びたすらりと白い指先には、抜き身の――波紋の、匂いたつような艷色の――太刀がしかと握られ、足取り迷うこともない()の、その、足音に他ならない。

 

 ――静かだ。

 

 辺り一面を満たす雪が音を吸っているからか。

 

 ――静かだ。

 

 まるで世界中の生き物が死んだ跡の、幽霊の夢にでも迷い込んでしまったかのよう。

 

「少し、さむいな」

 

 外界の、如何なる雑音からも遮断された世界。閉じた世界の、閉じた城。

 

 此処にいれば、外のあらゆる猥雑なさざめきに煩わされることもないのだろう。

 

 ――あるいは。

 

 ――あいつにとっては、そう、悪くない場所なのかもしれない。

 

 けれど。ああ、

 

それでも(・・・・)――

 

 ――さみしい場所だよ、此処は。

 

 静かで、さみしくて、そしてつめたい場所だよ。

 

 ――おまえを、こんなところになんかいさせない。

 

 足音が、止まる。

 

 大きな扉だった。玉座に通じている。奥からは、気配(・・)も感じ取れる。

 

 吐息を、吐き出した。待ち構えている(・・・・・・・)。余裕綽々ということか。

 

「……まったく」

 

 

 ――おまえは、オレのものなんだから。

 ――勝手にいなくなったりなんか、ゆるさない。

 

 

 扉を、押した。

 

 

「――よう、黒幕」

 

 

 わらいかける。

 

 

 

 

「返してもらいに来たぜ」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――意識が浮上する。

 

 

 ゆるやかな微睡み。おだやかな時間。何者にも脅かされることのない、やさしいゆりかご。

 

 すぐそばに、感じ慣れた気配があった。シルクのシーツと、やわらかな羽毛布団に守られて、眠りを堪能する少年。その鼻先で、くるくると丸くなっている黒猫。

 

 いつもの光景だった。

 

 ――まるで仲のいい家族みたいに、おんなじベッドで寝たりして。

 

 ――あるいは。

 

「………、」

 

 知らず、口端が綻んでいた。

 

 二人(・・)を起こさないよう、するりと身を滑らせてベッドから降りる。陽だまりのような毛布の温さが恋しくなるが、いつまでも引きずられていたら、いっしょう準備なんかできやしない。風邪をひかないよう、そっとかけ直してやると、気づかれた様子はなかった。

 

 洗面台に向かい、冷たい水で顔を洗う。ふわふわのロングタオルで拭ったあと、寝間着姿の自分を鏡に映し、普段から袖を通している着物を想像(イメージ)した。

 

 瞼の裏に像が残っているうちに、目を閉じる。すると「影」が揺らめいた。白と赤い闇が広がる。肌に触れる感覚に、変化(・・)が起きる。

 

 再び開くと、いつもの暖色系に早変わりした着物姿の自分がいた。

 

 ――便利なもんだ。 

 

 この躰は、人が交じり合って生まれたモノではない。とある芸術品(・・・・・・)とある魂(・・・・)が降霊したことで奇跡的な反応が生じた結果の物質体。「魔法」が学問として研究されている現代ふうに訳せば、霊子(プシオン)想子(サイオン)によって編まれた擬似的で精巧な肉体に過ぎない。しかしこの身と繋がっている「影」は、それらとは些か毛色が違っていた。

 

 「影」のなか(・・)に在る着物を「外側」に引っ張り出して身体に着せている。言葉にすると単純そのものだが原理は、何年も使っている自分でもよく解っていない、というのが本当だった。三次元空間の構造そのものに干渉する技術は「魔法」が遍在する世にあっても発見されていないという。これ(・・)は、ひょっとしてもしかするとそう(・・)なのかもしれないが。

 

 四次元空間を貯蔵庫としてカンガルーのポケットのように腹部に固定していた猫型ロボット。生前(・・)――という表現が適切かどうかはビミョウだけれど――そんな漫画のキャラクターがいた。一歩間違えれば妖怪変化ものだな。翻って、自分はどうか。「魔法」が認知されているぶん気楽ではある。それに日常の場面では、ほとんど普通(・・)の人間と差異はないのだし。

 

 わかっているのは。「影」を通して自分たち(・・・・)は繋がっていて、「影」のなかには深く大きな空間が広がっていて、そこは安全という意味でも安心という価値でもそれなり(・・・・)に快適な場所であり、空気はわが血のようにとても馴染むし、なにより携帯性という観点からしてぴかいち(・・・・)便利であるということくらいだった。

 

 つまるところ――なんの問題もないということであった。

 

 くるりと回って、帯の位置を調整。

 

 ――問題なし、と。

 

「さて」

 

 記憶(・・)のなかの、一〇〇年前の御台所とあんまり代わり映えのないダイニングキッチン。調理に取り掛かる前に、木造棚(キャビネット)に置かれてある――これを探し出して買ってくれたあいつ(・・・)曰く、どこに出しても恥ずかしくないカンペキな――骨董品(アンティーク)のオーディオ機器を起動させた。

 

 音声入力がメインの現代でも一定層のノスタルジストたちから支持され続けている「リモコン式」のコンポから、インプット済み「1990年から2020年」までの範囲でのヒットソングが、ランダムで再生され始める。部屋は防音で仕切られているから、騒がなければ迷惑にはならないが、やはり心もち音量を下げて、口ずさんだ。包丁を動かし、身体を動かす。

 

 こうしてやっている時間は、嫌いではなかった。

 

 

 僕がバラバラになっても

 君が拾い上げてくれる

 放っておくのは無しだよ

 ちょっとだけでいいから

 君がいない僕はとても不安で

 君だけなんだ

 僕が此処にいられる理由

 

「――――」

 

 君に溺れたいわけじゃない

 ただ君に包まれていたいだけ

 君と離れたら死んでしまうかもね

 どこに行こうとも構わないよ

 ただ君の隣にいたいんだ

 君の隣にいることを味わいたい

 

砂糖(シュガー)うん(イエス)欲しいね(プリーズ)

 

 もっと傍へ来て

 君が必要だから

 

「それにスパイスも」

 

 君だよ

 どうかお願い

 僕を甘くさせておくれ

 

 

 ――――。

 

「っと。これで、完成っ」

 

 テーブルに並べ終える。

 

 フレンチトーストと野菜サラダ、柔らかく煮込んだ鳥むね肉のコンソメスープ。デザートはスイートポテト。なかなかの豪華な仕上がりで、これが四人ぶんともなれば労力もそれなりだったが、もう慣れたものだった。

 

 昼食用のお弁当も、惣菜は盛り終えて、あとは炊いた米を冷まして詰めるだけの段階なので、ほぼ調理は完成といっていい。まだ後片付けが残ってはいたが、せっかくの温かいゴハンが冷え切ってしまうくらいなら、後回しにしても構わないだろう。

 

 寝室に入る。

 

 それぞれに用意されている寝室はけっきょく使われずに皆がこの部屋で一緒に寝るようになったのは、今となっては呆れてしまうような理由であったが。

 

 静かな寝息に合わせ、かすかに毛布が上下している。

 

 枕元に座り、顔を近づけた。

 

 身内ぶんを引いても、やはり整った容姿だと思う。大勢が肯定するであろう冷貌(・・)も、今は無防備な寝顔に落ち着いており、長い髪はゆるく結いまとめて、眼鏡は外されている。

 

「朝だぞ、トーリ(・・・)

 

 呼びかけた。かすかに身じろぎし、わずかに開いた唇から吐息が漏れる。

 

「起きろって」

 

 肩をゆする。形のいい眉が少しゆがんだ。起きる様子はない。

 

 ――しまりのない顔。

 

 ――すっかりぬくぬくと、しあわせそうに寝ちゃってさ。

 

 ともすれば緩んでしまいそうな唇を引き締めて、心を鬼とする。

 

「ほら起きろってば。朝ごはん、冷めちゃうぜ。起きろよー。なあトーリ」

 

「う、ぅ――ん……うん……」

 

「……だめだこりゃ」

 

 ぐわんぐわん(・・・・・・)動かせども、何度も喋りかけれども。

 

 むしろ毛布を引き寄せてますますもぐるばかりで。モグラじゃあるまいし、ハンマーで殴るわけにもいかない。

 

「ッたく。もう――」

 

 ため息。こうなれば、もはや一つしかないか。

 

「いいかげんッ起きろ、こッの、寝坊スケッ!!」

 

 荒っぽく布団を引っぺがすと、ベッドに飛び乗った。

 

()ゃッ(・・)!?」

 

 股ぐらで暖を取っていた黒猫がでんッ(・・・)と音立てて転げ落ちたが然もありなん致し方なし――

 

「ぐうぅッ!?」

 

 (またが)った下で、くぐもった呻きを発した少年は自分に乗っかっているものを見、衝撃のあまり瞠目した。

 

「し、(しき)ッ――?」

 

 かわいらしい鬼が、ほほえんでいる。

 

「なかなか起きない寝坊スケさんはどこの誰だろうなあ、ええトーリ? いやさ御嵜十理(おさきしゅうり)、国立魔法大学付属第一高校Ⅰ-A組出席番号――」

 

「わかっ……た!」

 

「ほんとか? そう言いつつなんだかんだでいつも寝ちゃうんだもんな。ほらほら、ほらほらほら! 朝だぞ起きろー、はやく起きないともっとひどいぞー!」

 

「わかったから、降りてくれ。重いッ!」

 

「そんなこと言えるなんてまだ余裕あるな。いいぜ、トーリがッ、起きるって、言うんならな!」

 

「起きる!」

 

 なかば悲鳴じみていた。

 

「よし!」

 

 勢いのまま、たん(・・)と軽やかに着地すると、後方より蛙のつぶれた声が啼いたが、ジゴウジトクである。

 

「はは。おはようトーリ。今日もすがすがしい、イイ朝だぜ」

 

 十理は。

 

 とっ散らかった髪はそのままに、安寧なりし微睡を誅した彼女(かれ)を睨みつけようとするも、罪悪の翳なんてこれぽちもない、晴れやかに、からからと陽の下でマリーゴールドが笑っているようで――毒気を抜かれたというか、そんな顔されたらつられて怒るに怒れないというべきか、けっきょく、恨みがましい気持ちも眼光とともに萎んでしまい。

 

「………ああ」

 

 終いには、呆れたふうにかぶりを振って。

 

 苦笑しつつ応じたのだった。

 

「おはよう、織」

 

 

 

 

 

 ――それは、なんてことのない平凡な。

 ――けれど、いとおしい朝の一幕。

 

 

 

 

 

「……にゃー」

 

「ああ。おまえのことも忘れちゃいないよ。クロも。おはよう」

 

「……おはよう。にゃ」

 

 

 ところで。まだ謝罪をきいていない……

 なんだ、細かいこと言うなあ。猫なんだから、おおらかに、のびやかに物事を考えなくっちゃ。だぜ。にゃー?

 ……にゃーッ!

 おいおい無理するなよ。まだ傷も癒えちゃいないだろ、って。変身(・・)はズルいだろ!

 にゃあア―――――ァァ!!

 うわっ! こッの!

 

 

 

 

 

 ……本日も、一家は賑やかである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






















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愚か者死すべし
19 未来視



 「『この物語はフィクションです。登場する人物、団体、名称等はすべて架空であり、実在のものとはなんら関係ありません』」

 ――S

















 

 ◇

 

 

 

 春の刻を過ぎ――

 

 徐々に、日差しの主張も顕著になりつつある季節。

 

 

 田園調布に建つある屋敷では、ピアノの音色が奏でられていた。

 

 鍵盤を叩く指先は陽風のように軽やかであり、演者の晴れやかな着姿や容姿も相まって、なお一層の華がある。モーツァルトやヴィヴァルディといった古典的なクラシックではなく、確かに古い時代の選曲であることに違いはないが、そう堅苦しいものではない、広々としたリビングに流れている内容は、近代のバラードだった。

 

 たん、と指を放して、演奏が終わる。暖色の着物をまとった、鉱物的な造形美の、凛々しい風貌をした()が、肩に触れるか触れないかぐらいまで伸ばされた艶やかな黒髪を揺らして、すぐ隣で見守っていた女に振り返った。

 

「どうだよ?」

 

「ばっちりだわ。文句なしよ」

 

 四〇を超えてもなお若々しい、品のある挙措で、カーディガンを羽織っている佐島絹江(さじまきぬえ)は、現代ではすっかり珍しい色つきの眼鏡越しにおっとりと微笑みながら、えへん、と得意げな(しき)に頷いた。

 

「まあオレも、なかなか悪くないんじゃないかって思ったけどさ。これでシショーのお墨付きってわけだ。なあトーリ(・・・)、おまえも――」

 

 と、振り向いた先では。

 

 身長は一七〇センチほどの、こちらはリムレスタイプの眼鏡をかけた、背中まである艶やかな黒髪を首辺りで柔らかく結った痩躯の美丈夫――優秀な魔法師であるほどに容姿にも優れるという説に漏れず、彼は端正な顔立ちをしていた――が、テーブルに投射されている立体映像を挟んで、向かい合って座るサムライヘアの、図体のたくましいロシア人と何かを話し込んでいた。

 

「なんだ。聞いてなかったのかよ」

 

「聞いてたよ」と、顔を上げた御嵜十理(おさきしゅうり)は。「曲名は知らないけどね。相変わらず上手だなって感心してた」

 

「キャロル・キングだよ。まー、べつに。いいんだけどさ」

 

「すまんね、織くん。彼を借りてしまって」

 

 流暢な日本語で謝るロシア人にも、織はビミョーな目を向けつつ、

 

「……セルゲイもさ。素人にデザインの意見を求めるってそこんところ、どうなんだ」

 

「十理くんには才能がある。なかなか鋭い意見も出してくれるからね、助かるよ」

 

 そういうこと言ってるわけじゃないんだけど。図太いのか鈍いのか分からないセルゲイから十理に視線を向けると、膝のうえにべたりと載った火艷(かえん)の喉元を、くすぐるように撫でていた。黒猫は、喉を鳴らして「すりすり」「くなくな」「ごろごろにゃん」と猫らしからぬベタつきようで主人に甘えている。実に幸せそうに。

 

 ――まったく。いっそ空でも落ちてくりゃ面白いんだけどな。

 

 ――…いや。いいや、なんだろ。よくないな。なんか、もやもやしてるなオレ。

 

 ――あれ、なんでだ?

 

「ううん……?」

 

「それじゃあ、次の曲はね……」

 

 絹江が、用意してあったヒットシリーズの楽譜から次のものを選ぼうとしている。ふと、彼女の指に出来ているタコ(・・)が目に入った。

 

 ピアノが原因で出来たものではない。織はその指ダコ(・・)が、佐島絹江の彫刻家としての証明であることを知っていた。

 

 そも交流の始まりは一年ほど前、絹江の夫にしてデザイナーでもある佐島セルゲイが、とある展覧会に来ていた十理と偶然出会ったことがきっかけであった。少年の特徴的な指ダコを見て「君も彫刻をやるのかい」とセルゲイが話しかけ、そこからなんやかんや(・・・・・・)――少年のことを「工芸家を夢見る子供」と勘違いしたことで一悶着が――あったりして、のちに意気投合し、今ではこうして自宅に招かれるまでに夫婦とは親しくなっていた。

 

 ちなみに。十理が最近になって不良行為(スモーカー)に踏み出した原因の一つは、間違いなくこのイワンにあったといえる。そのことを絹江に告げ口すると、案の定いい大人が正座させられて肩が縮こまるくらい怒られていた――十理も一緒に、そして何故だか織もだった――が、ともあれ。

 

 敷地内には、専用の作業場も建てられている。織たちも見せてもらったことはあるが、十理のマンション工房よりも規模が広く、機能性にも優れていた。美術工芸品に詳しい赤間銀子(あかまぎんこ)によれば、絹江はなかなか有名な彫刻家であるらしいが、しかし本人を見る限り、彫刻家一筋という印象からは外れていた。

 

 なお、夫婦は御嵜十理が「シカオ・ユリス」であることには気づいていない。織の正体、火艷の正体についても。ただし、魔法師ということは言っていた。

 

 他ならぬ絹江自身が、只ならぬ魔法師であったからだ。

 

「そういえば、絹江は九校戦って知ってる?」

 

「勿論よ」

 

「トーリがさ、その九校戦に出ることになったんだよ……」

 

 九校戦。全国魔法科高校親善魔法競技大会。

 

 全国の魔法科高校生の向上心を盛り上げるべく学校単位で競い、ひいては社会における魔法師への認識を深めることを目的とした、学生たちにとって――取り繕わずに述べるなら、軍政府関係者や企業研究者たちにとっても注目の――論文コンペティションに並ぶ一大イベントである。

 

 出場メンバーは男女各二〇人の総勢四〇名から成り、選考基準はほとんどの場合で成績上位者というのが通例であった。

 

 一年生に限っては入試と定期試験のデキ(・・)が特に重視されるわけであり、また十理としても試験で手を抜く理由はないため、発表された期末試験の成績では総合五位に入る結果を出していた。

 

 そして順当というべきか必然的に、生徒会から呼び出しを受けた十理は、会長の七草真由美から九校戦への出場を要請されたのだった。

 

 先々週のことである。

 

「すごいじゃない!」

 

 十理を見やった絹江とは対照に、本人は苦笑いだった。

 

 ――「聞いたぞ十理、メンバーに選ばれたんだって? 僕もだ、言えよ水くさい。まあ森崎の人間として当然のことだけどな。一緒に頑張ろう!」

 

 ――「今年は相手も強敵だけど。選ばれた者同士、全力を尽くすつもり。御嵜くんにも、期待してるから」

 

 言葉数多いか少ないかはともかく、食い気味のテンションで喜んでいたクラスメイトに「実は考えさせてくれ」といったん断ったことを言えずに引き攣っていた十理のことを、「影」の中から織は見ていた。

 

「選ばれたのは光栄ではあるんですが……いかんせん時期が、ちょッと」

 

 開催日程は、八月三日から一二日までの一〇日間。現地入りは八月の一日からになる。

 

 十理たちは例年、七月後半から八月の半ばまで、母方の祖父母の家がある京都で過ごすことにしていた。

 

 

 七月三〇日は、事故死した御嵜十理の、両親の命日なのだ。

 

 

「だけど、出ることになったんでしょう?」

 

「そっ。最後は、会長に拝み倒されてさ。お願いします御嵜さまァ、って。いやあ鬼畜もんだね、美人の泣きッ面を前に、トーリってばニッコニコしながら悩むふりして苛めるんだからさ」

 

「そんな失礼なことはしてませんよ流石に、生徒会長相手に。――織、なんか怒ってる?」

 

「べっつにィ? そんなことありませェーん」

 

「怒ってるだろ……どう見ても。明らかに」

 

 十理にとって、九校戦は魅力がないわけではない。出場者には長期休暇課題免除のうえ一律A評価、活躍如何によっては成績評価の加算が与えられるというし(こちらはさほど重要事ではなかったが)、観戦者ではなく参加者として体験するというのも、学生生活の貴重な経験であることは間違いなかった。

 

 さりとて一方では、例年通りに過ごしたい気持ち――というよりも外部の事情(・・・・・)のせいで習慣を変えたくないという頑固じみた心理――が十理に出場への難色を示させてもいた。

 

 それでも。結局は、「実家まで学校側が迎えに来てくれるのなら」という条件で要請を呑むことになったのだが(口にした本人も、わざわざ生徒一人に対しそこまでの優遇措置が与えられるとは思ってもみなかった)。

 

「どの競技に出るの?」

 

「クラウド・ボールとモノリス・コードです」

 

「二つも出るの?」

 

「トーリは優等生だから」と、チョッと皮肉っぽい響き。

 

 ピアノが、ゆったりと奏でられ始める。

 

「……ええ。まあ、そのぶん練習も、なかなかハードですよ。僕は部活動には入っていないんですが、ほとんどスケジュール的には変わらないですね、このところは」それに、とかぶりを振って。「そもそも僕は激しい運動が苦手なんですよ」

 

「そういえば言ってたわね、前に。大変ね」

 

 頷いた、普段は陽気な少年の面持ちには、今は少しばかりの陰りがあった。

 

「モノリス・コードは六種目のなかでもダントツです。会長にもそのあたりのことは(しっか)り言ったんですけどもね……」

 

「それでも選ばれたということは、実力を認められたということだろう。大したものだ。僕が学生の頃は、何かに表彰されたことはほとんどなかったな。ホッケーに没頭したり、あとは仲間内で騒いだりしてばかりだったよ」

 

「やっぱり強かったんでしょう、セルゲイは?」

 

「これでもキャプテンをやっていた。が、そこは弱小チームの悲しさだ。全国には行けなかったな」

 

 

 ―――。

 

 

「それで」

 

 リビングからは、セルゲイと十理の姿はなくなっている。つい先ほど、彼らはコレクション・ルームへと移動していた。

 

 絹江が織に「話がある」と人払いを望んだのだ。火艷は、ソファーでふて寝している。コレクション・ルームに黒猫を引き入れることをセルゲイが嫌がったためである。

 

 二人きり――厳密には三人(・・)だが――になると、織は敢えて明るい声をして訊ねた。

 

「話って?」

 

 向かい合った絹江は、ふっと吐息をこぼすと、誰もいないテーブルへぼんやりと視線を飛ばした。

 

「織ちゃん。私が佐島(・・)の人間であることは、前に話したわよね」

 

 佐島(さじま)

 

 佐藤(さとう)や田中といったありふれた苗字ではないが、かといって(えんじゅ)二十八(つちや)のように難読で珍しい苗字ではない。

 

 ほとんどの魔法師にとっても、そうであると言えた。しかしこの国の秘された歴史――即ち限られた(・・・・)魔法師の界隈――において、例外的にこの名は特別な意味を持つ場合がある。

 

 「七草」や「四葉」といった十師族のように、その実態は不明ながらも表立った強力無比な立場として知られている家系ではなく、まずそもそもが表立って語られることのない一族。

 

「〈佐島〉の血筋には、ある特殊な〈魔法〉が発現することがある……」

 

 現代魔法を以てしても再現不可能な、不死(・・)不老(・・)といった歴史上の権力者たちがこぞって求めてきた〈奇跡〉のうちの一つ。

 

 その〈魔法〉につけられた呼称は、

 

 

「覚えてるよ。――〈未来視〉だろ?」

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 アトリエ「シネ・クア・ノン」の女主人は、メランコリックな微笑を浮かべている。

 

「未来を見たの。ほんとうに久しぶりに」

 

「見えないはずじゃなかったっけ?」

 

「そうね。もう長いこと見ていなかったわ。自分で、両目を抉ったあの日から」

 

 佐島絹江の両目は義眼(・・)である。彼女の色つきの眼鏡は、それを隠すためのものだった。

 

 かつて佐島絹江は自ら(・・)己の両目を抉り、盲目になることを望んだ。ずたずたに引き千切られた視神経は治癒魔法を以てしても回復させることはできず、結果として彼女は〈未来〉を()(すべ)を失った。

 

 そして佐島絹江の視界は以来、あらゆる想子(サイオン)霊子(プシオン)の〈現在〉を映し出すようになった。

 

 視たくなくなった〈未来〉の代わりに、女は視え過ぎる〈現在〉を識ることになったのだ。これは報い(・・)よ。女は、そう自身を嘲笑する。

 

 織は、絹江の能力について疑ったことはなかった。前世じみた、個人的な経験が理由でもあるし、彼女へ寄せる信頼のためでもあった。だが、その言葉の意味に踏み込んだことはない。

 

「信じる?」

 

「勿論。絹江はこんなことで嘘つくようなやつじゃないだろ」

 

 微笑み。けれど、本当に笑っているのかは、分からなかった。

 

「ついこの間視た、あの景色は。間違いなく、そうだったわ」

 

「どんな景色……?」

 

 

「男の子が横たわっている。彫像のように冷たく、凍りついたような眼差し。彼は――倒れていて(・・・・・)いつまでも(・・・・・)目を覚まさない(・・・・・・・)

 

 

「……誰のことだ?」

 

「あなたの家族よ、織」

 

「―――どういう意味だよ、それ」

 

 空気は、一瞬で冷え切っていた。

 

「信じるか信じないかは、あなた次第ね」

 

 火艷が、威嚇するように唸り声を上げた。爪を立て、一本であった尻尾は影が形を持ったように二本目を生やし(・・・・・・・)、今にも飛び掛からんとしている。

 

「落ち着けよ、クロ。なあ絹江、どういう意味で言ってるんだよ?」

 

「言葉のままよ」

 

おい(・・)

 

 蒼の双眸(・・・・)が瞬く。得物は、まだ抜いてはいない。

 

「ちゃんと答えろよ」

 

 射抜くように問い詰める。

 

 絹江には、織が己の何を(・・)見つめているのか、分かっているのか。

 

 分かっていて、わらっているのか(・・・・・・・・)

 

 自分が何を言ったのかを(・・・・・・・・・・・)わかっていて(・・・・・・)

 

「言わない気か?」

 

「こわいのね、織ちゃん。そんなあなたは初めて見るわ」ごめんなさい、と女は寂しげに笑った。「未来はあやふやなもの。必ず同じ未来に繋がるとは限らないし、未来を知ったことで運命が変わることもある」

 

「………、」

 

「あなたたちは……織ちゃんと、十理くんは……大切なお友だちよ。本当は誰にも言うつもりはなかった。だけど、あなたにだけは言っておくべきだと思ったの」

 

「なんでだ」

 

 

「あなただけが、十理くんを救えるからよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


















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20 来訪2


 海外SF小説の台詞が引用されています。詳細は後書きにてご覧ください。


















 

 ――微笑みながら、彼女が言った。

 

 ――「あした。私が死んじゃうとしたら、あなた、一緒に死んでくれる?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

救う(・・)――?」

 

 大げさな、大仰な言葉だと思った。「助ける」よりもどこか意味深長で、俗世の手垢に塗れる前の響きがあると感じてしまうのは、目の前の魔法使いが、くすりともせずに口にしたからか。

 

「オレが?」

 

「ええ」

 

 暫時。

 

「……正直……」

 

 沈黙があり、先に破ったのは織の引き攣った笑い声だった。

 

「あんまり急すぎて、戸惑ってる。ほんと、いきなりだし――」

 

 佐島絹江(さじまきぬえ)は。発作的に露れた、織の「蒼い双眸」に晒されながらも、微笑みを崩していない。

 

 わらっているのかと、思いもしたが。今は、どこか悲しみを帯びているようにも見える。

 

 ――オレが、救うって?

 

 ――からかってるわけ、じゃないんだよな。

 

 こぼれたのは、深い溜息だった。織は次第に冷静を取り戻すと、手荒になりかけた絹江へと謝った。

 

「いいのよ」

 

 そんな、見透かしたような言葉。

 

 ――いいや、穿ち過ぎか。

 

 まだ、頭が混乱している。無理もないことさ、急に言われたんじゃあな――自分に落ち着けと言い聞かせつつ――それでも、訊いておかなくてはならないことがあった。

 

「何が起きるんだ? どうしてトーリが」

 

「ごめんなさい。今回の予知では、そこまで詳しくは説明できないの。いつ、何が、如何してだとかはね。断片的な光景ばかりだったから私にもよくは分からない……ただ」

 

 ――ただ?

 

「どこかの部屋のなかみたいだったわ、彼が倒れていた場所は。それに彼は傷ついていた。誰かに(・・・)傷つけられたのよ(・・・・・・・・)

 

「……いつ起こるのかも分からない、どこで誰が狙ってくるのかも分からない。分からないことだらけじゃないか。部屋なんてどこにだってある。どうやって警戒しろって?」

 

 皮肉るような言い方になった。傷つけたかもしれない。絹江は、何も言い返さない。

 

「このこと、トーリには」

 

「黙っているべき、というのが私の判断。本人にどんな影響があるかもわからない、未来にもね」

 

「……オレなら、できると?」

 

「恐らく、火艶(かえん)ちゃんもそうね。あなたたちは特別(・・)だから」

 

 織は。口にしたことはないし、口にされたこともなかったが。

 

 佐島絹江は、両儀織の正体に気づいているのではないかと考えていた。あらゆる想子(サイオン)霊子(プシオン)の〈現在〉を映し出す〈瞳〉の持ち主である彼女ならば、あるいは看破する事もできるのではないだろうか、と。

 

 ともすれば、低い姿勢で毛を逆立てている黒猫の正体も、察しているのかもしれない。

 

「断言できることもある。これは、そう遠くない未来の話よ」

 

「その理由(わけ)は?」

 

「まだ、言えないのよ」

 

 もう、わらうしかなかった。

 

 笑えなかったが。

 

「……忠告として、受け取っておくよ。ああ、信じるか信じないかはともかく(・・・・・・・・・・・・・・)、トーリを守るのはオレの役目だからな。――でも、さ……」

 

 オレ、絹江のこと、少し嫌いになりそうだ。

 

 言いかける直前、オーブンが甲高く鳴った。

 

「クッキー、焼けたみたいね」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 テーブルには、茶器が並べられている。恐らくは工房で造ったものだろう。メイド・イン・シネクアノン。焼きたてのクッキーも。

 

 お茶にしましょう。絹江の提案に、気まずさから織は文句も言わずに手伝うことにした。もうじき、セルゲイたちも戻ってくるはずだ。

 

「織ちゃんは、演奏会とか、興味ある?」

 

 急だった。もしかすると彼女も、セルゲイたちが戻ってくる前にこの空気を変えたいと思ったのかもしれない。

 

「ピアノの腕前。本当に上手になったから、織ちゃんもどうかと思って」

 

「……先生がいいからさ。けど、流石に人サマに聴かせられるほどの腕じゃないしな」

 

「内々のお披露目会よ。みんな趣味でやってる人たちだもの、そんなに堅苦しく考える必要はないわ」

 

「そう言われてもね。まあ参加するにしても、もっと上達してからだよ」

 

 こんがり色の、クッキーに手を伸ばす。サクッとしていて、ふんわりな仕上がり。

 

 ――美味い。

 

 冷房の効いた部屋で飲む、アツアツのお茶。

 

 ――うん。美味い。

 

「……ふふ」

 

「なに」

 

「いいえ、ちょっと昔のことをね。弟のこと、話したことあったかしら。あの子も私の作ったクッキーが好きだったのよ。それにピアノも。一緒に演奏したりしてね……」

 

「弟さん、今は?」

 

「分からないわ。ずっと昔にいなくなったきり……生きているのかどうかも。探したのだけど、見つからなかった。今では私も、本家とは縁を切っているから」

 

 甘味のおかげもあるのだろう。織のなかの、怒りのような感情は、既に静まりつつあった。

 

 理由がある。そう思うことにした。言えないということは、それなりの事情があるのだ。〈未来〉を見るということは、絹江にとっても様々な制約を課す/されるということなのだから。

 

「……やっぱり、会いたい?」

 

「そうね。会って、あの子に謝ることができたなら……でも、無理ね」

 

 遠い眼差し。悔恨と、老い(・・)の滲んだような。

 

 これも、報い(・・)なのかもしれない。ぽつりと、そう呟く。

 

「ごめんなさいね、誰かに聞かせることじゃなかった」

 

 もう、怒ることなどできそうになかった。

 

「今日の絹江は、謝ってばっかりだな。いいよ、オレ、絹江の声って好きだ。聞いててぜんぜん苦じゃない」

 

「……ありがとう。織ちゃんは、優しいわね」

 

 笑って遣り過ごす。

 

「そうだ織ちゃん、実は蔵のほうに、使ってないピアノがあるのよ。あなたにあげるわ」

 

「はァ!?」

 

 誤魔化せなかった。

 

 流石に急すぎる。

 

「冗談――」

 

「で、言ってるわけじゃないわよ。ピアノだって倉庫の奥で埃をかぶっているよりも、誰かに使ってもらったほうが幸せじゃない。サイズも、そんなに大きくないから邪魔にならないと思うわ」

 

 なんだか逆らえなさそうな流れ。

 

「……トーリとかに訊いてみなくちゃ何とも言えないよ」

 

「なら訊いてみましょう!」

 

「アグレッシブだなあ」

 

 結局、もらうことになった。

 

 

 ―――。

 

 

「今日はありがとうございました」

 

「楽しかったわ。またいらっしゃい。今度、用意しておくからピアノを取りに来てね」

 

「……はい」

 

 御嵜十理(おさきしゅうり)AIタクシー(コミューター)を待たせながら、見送りに並んでいる夫婦に挨拶した。手提げには袋に包んだ手作りクッキーと、セルゲイから渡された仮想型端末、それにこっそりもらったお土産が入っている。

 

「織ちゃん」

 

「ん、なんだよ」

 

 火艷に続いて乗り込もうとした間際、絹江が織を呼び止めた。こちらには聞こえない声で。

 

「―――」

 

「織?」

 

「ああ。今いく」

 

「それでは、失礼します」

 

「ええ。さようなら。気を付けてね」

 

 向かい合って座ると、車体が動き出す。

 

「それ、なにが入ってるんだ?」

 

 隠すようなものではなかった。自慢げに取り出して見せる。

 

「セルゲイに貸してもらったんだ。HMD(ヘッドマウントディスプレイ)と、それに対応した映画だよ。一つは、スピルバーグ。仮想世界で一攫千金っていうシンプルなストーリーで、いろんな版権キャラクターが登場するらしい。今じゃこのタイプの古典の一つに数えられてる名作だってさ。織も知ってるキャラクターがいるんじゃないかな。もう一つは、『虎よ虎よ』。こっちは復讐劇。個別電車(キャビネット)で暇な時間に見ようと思ってさ。織のぶんも借りておいたから」

 

「にゃー」

 

「あ、火艷のは忘れてたな……痛い痛い、噛むなよ」

 

「ひどい。にゃあ」

 

人型(・・)になれば、交代で見れるだろう。ほら、よしよし。ここが気持ちいいのか」

 

「にゃぁぁぁぁふぅぅぅぅぅぅぅぅ……」

 

 二又(・・)の尻尾が、びくびくと自在に振られる。

 

 人型であったなら、そうとうヒワイな表情をしているに違いなかった。

 

「……さっき、何か言われてたろう。なんだって?」

 

「ん。いや、なんでもない――」

 

 神妙な表情、心あらずといった受け答え。言いたくないということか。

 

 ――「二人きりで話をしたい」、とは。余程の話をしたらしいな、あの人。

 

 十理の佐島絹江に対する印象は、聡明で鋭く、しかし根本では醒め切っている人物というものだった。彼女の作品に対する理念はひた向きで技法にも学ぶべき点は多いが、手がけた作品にはいずれも「諦観」の表情が夜霧のようににおい(・・・)、絡んでいるように感じ取れる。

 

 佐島(さじま)一族の、絹江。聞いたことはない、聞かされた限りでは、嘘か真か、数一〇年前には古き血筋の、〈未来視〉の魔法師であったというが。今は縁を切り、今時世ではあろうことか、更には外国人との夫婦関係を結んでいる。過去には、十理には想像もつかないような激動の抗争があったはずだ、絹江が盲目を選んだ事とも、それは決して無関係ではないのだろう。

 

 そして注目すべきは、佐島絹江の創作欲求は彼女の体験――殊更その悲劇性――を精髄(エッセンス)としているということだった。これが独自の着想を生み、香気を放って見事に表現されることで、作品としての評価を獲得するに至っている。即ちあれらの作品は、佐島絹江という人間にしか為しえない、この世で彼女にだけ許された芸術活動なのだ。

 

 十理は自らも「創り出す側」の人間として、彼女の言う〈未来視〉が嘘であるという可能性を、ほとんど疑っていなかった。

 

 あるいは。佐島絹江は本当は〈未来〉を読むのではなく別の、脚本(ストーリー)を読んでいる女優なのかもしれないが。それすらも裡に取り込んで完璧に演技することができるというのなら、まさしく感服する他にないだろう。

 

 そんな〈未来視〉の女から、御嵜十理はかつて警告されたことがある。

 

 ――「今のままだと、あなた、破滅するわ」

 

 「シカオ・ユリス」であることは、話してはいなかった。御嵜十理が時おり「狂う」ことも。だが絹江は、十理のなかの「狂気」に何らかの確信を持っているようだった。その理由は、彼女が〈佐島〉の人間であることを明かした理由と、何か関係があるのかもしれないが。

 

 ――「才能がある。無類の、比較できない、誰にも到達できないような才能があるのね。だけど、あなたは才能を発揮するための装置じゃないのよ。才能の奴隷になるということは、いつか、人生に取り返しのつかない破滅をもたらすことになるわ」

 

 深刻な表情をしていた。似たような顔を見たことがあるような気がして、すぐに思い至る。祖父母、銀子、織。彼らの、歯痒さと心配の入り混じったような眼差し。

 

 これまでも御嵜十理を止めることのできなかった、眼差しだった。

 

 ――「私は二十歳も生きていない若輩者ではあるが。ある時から考えるようになった。人間は生まれたときから肉の躰を得て、救世主(メシア)が死んだあとも罪と重力に囚われ続けている。二〇〇〇年ものあいだ、変化はなかった。私は、人間はみな、何かに縛られて生きていくのだと思う。なら、命運を共にする、縛られる相手くらいは自分で選ぶさ。錯覚かもしれない、でも――選べるぶん、自分を納得させることはできる」

 

 ――「命を、落とすことになると知っても、同じことが言える?」

 

 あのときから、今も。

 自分の考えは、変わっていない。

 

 ――「寿命を燃焼剤に、魂を燃やす。煙草と(おんな)じだ。吸い続けないと、火は消えてしまう。だが、火のつかない煙草(・・・・・・・・)に何の価値がある? 眺めて愉しむなんて言わないでくれよ、何処ぞの旦那じゃあるまいし」

 

 ――「()しか残らないのよ」

 

 生きて死ねば当然のことを、さも悲劇であるかのように女は言った。

 

 ――「どれだけ立派な灰だとしても。灰は、灰よ」

 

 ――「納得できるのなら、後悔はしないさ。ある日突然交通事故で(・・・・・・・・・・)死ぬ破目になっても(・・・・・・・・・)な」

 

 

 

 ◇

 

 

 

「大丈夫か?」

 

 夫が、何かを言っている。AIタクシーが見えなくなったあとも動かない自分を心配したように。

 

「………、」

 

 ――「要するに、奈落に飛び込むのが好きなロクデナシなんだ」

 

 考えていた。ある若者の未来について。

 

 ――「若さね。無謀。それは、確かにあなたたちの特権だわ。でも、本当に大事なのは、着地よ」

 

 あの子はきちんと、考えてくれただろうか。私の言葉を。

 

「どうかしたのか。何か……」

 

 なんでもないわ。安心させるため、笑顔を作ってそう言った。そうだ、もう「私」にできることは何もない。背を向ける。

 

「戻りましょう」

 

 声には出さず、呟いた。

 

 ――さようなら。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「『諸君』」

 

 画面は、黒く暗転している。

 

「いいか、『諸君』」

 

 画面は暗転したまま、男の声が聞こえた。

 

「――『諸君は()だ』」

 

 次世代立体音響が、ずっしりと、下腹に響くように流れ始める。

 

「『豚みたいに阿呆だ。諸君は自分のなかに貴重なものを持っている。それなのにほんのわずかしか使わないのだ。諸君、聞いているか?』」

 

 熱帯びてゆく男の演説。

 

「『諸君は天才を持っているのに阿呆なことしか考えない。精神を持ちながら空虚を感じている。諸君の全部がだ。諸君のことごとくがだ……』」

 

 大ヴォリュームの重低音。

 

「『戦争をやって消耗しつくすがいい。惨憺(さんたん)たる目にあって考えるがいい。自分を偉大だと思いこむために挑戦するがいい。あとの時間はただすわって怠惰におちいるがいい。諸君は、豚だ!』」

 

 闇の、水底に辿り着いたような暗い画面から――

 

「『いいか、呪われているんだぞ! おれは諸君に挑戦する。死か生か、そして偉大になるがいい。おれは(・・・)』」

 

 ヒステリックな熱情に浮かされた、男の宣告が「世界」に噴出する――

 

「『おれは諸君を人間にしてやる(・・・・・・・・・・・・・)おれは諸君を偉大にしてやる(・・・・・・・・・・・・・)』」

 

 

 刹那、燃え盛る男(・・・・・)の絶笑が聞こえた。

 

 

「『おれは諸君に星をあたえてやるのだ(・・・・・・・・・・・・・・・)』!!」

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 七月三〇日。

 

 京都、某所。

 

 

 御嵜十理と織は、十理の両親が眠る墓場を訪れていた。

 

 いくつもの墓石が並んでいる。維持費用を支払うことで管理者の手によって定期的に掃除されている墓石には、苔などといったものは生えておらず、刻まれている「名」もしっかり読み取ることができる。

 

「――行こう」

 

 手を合わせていた十理は、藍染の和服を翻すと、それとなく周囲に視線を巡らせていた織に言った。

 

「もういいのか?」

 

「うん。言いたいことは、伝えたから」

 

「……そっか」

 

 コミューターは使わない。自分の足で回りたい気分になっていた。織もそんな十理の心理を心得たように、無言で歩調を合わせ、暫く二人して申の刻の陽の下を歩くことになった。

 

 風がのんびり吹いている。どこからか風鈴の音が聞こえている。

 

 雲の切れ目から差す日差しは手を休めることを知らないが、都市部のようにコンクリート路面に熱烈な紫外線が照り返ることもないから、耐えられないほどの暑さではない。

 

 無論、普通ならば汗の一滴も流れるであろう気候なのは間違いなかったが、そこは魔法師の端くれとして、対策を取っていた。汗の水分と成分を、皮膚と衣服から「発散」させる魔法――ではなくて。

 

 角帯に提げている巾着のなかの、短刀(・・)。「泣き雪鉄(しろがね)」。かつて降霊(・・)したこの魔法具に想子を流し込むことで発生する冷気が、熱さから防ぐ働きをし、涼やかにしていた(なお織は体温への影響が少ないらしく、暑さを何とも感じていないようだったが、逆に火艷は完全にダウンしていまい、「影」のなかに避難していた)。

 

 着物姿で並んで歩く二人組の絵に、観光客らしき人たちが擦れ違いざま好奇な視線を向けてくることもままあったが。織にとっては慣れたものであり、そして十理もまた、今は墓参りを終えたばかりで感傷に浸っていて、気にすることはなかった。

 

「……ん、なに?」

 

 土産物店が増え始める街道を進んでいたとき、軽く袖を引っ張られた。

 

「アイス、二割引きだって」

 

 ほら、と指で差す。ゆるりとした笑みで。

 

 十理もつられて、笑っていた。

 

「……そうだね。少し、お腹も空いたし。おやつにしようか」

 

「やったぜ」

 

「ひとり一個までだよ」

 

「わかってますよーっと。夕飯前だもんな」

 

「そう。食べきれないで残したら、お祖母さんが気を使うし」

 

「安心しろって。ちゃんと食べるよ」

 

「ならいいんだけど。……だからって、言った傍から三つも取るなよ」

 

「えェー? いいじゃんか、ちょっとくらい。な?」

 

「な、じゃねーよ」

 

「わっ、怒った? 怒ったの、トーリ?」

 

「怒らせたいの、君?」

 

「ちぇー、けちっ!」

 

「クチ尖らせたって駄目です」

 

 何だかんだで、道中は賑やかになり。

 

 

 

 ―――。

 

 

 

 家に着くと、来客があった。

 

「やっ、二人とも」

 

「――銀子さん?」

 

 まるで待ち構えていたように。

 

 赤間銀子は頭を下げ、開口一番に言い放った。

 

 

「お願い。シュウくんに会ってほしい人がいるの」

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 ――「一つ、言い忘れていたわ」

 

 〈未来視〉の女が、言った。

 

 ――「なにを?」

 

 

 ――「彼を、死者(・・)には近づかせないで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 【降霊物紹介】

 泣き雪鉄(しろがね) … かつて人ならぬ無名の鍛冶師が鍛えた武具と同等の霊格(伝承)を獲得した降霊物。短刀の他に野太刀と脇差が作られたとされているが、御嵜十理はそれらを所持していない。
 また「泣き雪鉄」の対になる武具として、「笑い童子」という大斧が存在する。





 【引用文献】
 「虎よ、虎よ!」アルフレッド・ベスタ―作 中田耕治訳
 該当箇所:「諸君~」から「星をあたえてやるのだ」まで。

 2095年ともなれば、傑作SFは軒並み映画化されてそうです。















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21 正体

















 

 ◇

 

 

 

 陽は、既に沈んでいる。

 

 モダン様式の人工照明が、ぽつぽつと、街道を照らし出している。

 

 表通りの、人たちの喧騒からは何本か外れた石畳の小路に、ひっそりと暖簾(のれん)を掲げている店があった。

 

 「さかえ」という名の、寿司屋である。その歴史は古く、名だたる文豪らも足繁く通ったとされており、地元民からも愛される、由緒ある伝統の――しかし敷居の高さもあってか、客層は自然と選別されているから、風情がごった返すこともない――知る人ぞ知るの、ひいては何者にも邪魔されることなくゆったりと料理を楽しめる、風雅な時間を提供し続けてきた店であった。

 

 そして時には、協議や外聞を憚られる密談の場として設けられることも、ある。

 

「………、」

 

 「さかえ」の、カウンター席のうち一つに、男が座っていた。

 

 老人――それもかなりの高齢――と云って差支えない年齢ではあったが、背筋はすらりと伸びており、出された(ひらめ)の握りを舌に運ぶ動きは、見る者に食欲と若さを感じさせる。口のなかに広がる、締まった身の食感と甘味に口元を綻ばせる姿は、好々爺然としており、品があった。

 

「―――」

 

 引き戸が鳴った。

 

 男が入り口を見やると、三人の客が立っていた。

 

「待っていたよ、御嵜十理(おさきしゅうり)君」

 

 現代では珍しい、リムレスタイプの眼鏡をかけた長髪の少年と、彼のすぐ傍でこちらを観察している暖色の着物姿の少女、それに顔色のあまり優れない様子の女。

 

「いや……」

 

 男は。

 

「ここは『シカオユリス』と呼んだほうが、君には分かりやすいか」

 

 相好を崩しながら、そう親しげに話しかける。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「かけたまえ。好きなものを頼むといい」

 

 十理は。店内に視線を巡らせると、溜息をこらえながら空席を挟んで座った。頼めと言われても、そもそも自分は高級寿司屋に行ったことがなかったうえ、メニューも見当たらず、マナーも知らないのだ。隣に座った織に困惑の視線を投げると、

 

 ――〈オレが代わりに頼もうか?〉

 

 と苦笑した彼の、〈念話(・・・)〉――想子供給の繋がり(・・・)を利用した意思疎通回路――が返ってきたので、素直に委ねることにした。

 

「じゃあ、こっちの二人はコハダで。銀子は?」

 

 赤間銀子(あかまぎんこ)は、まだ席についてすらいなかった。遠慮することはない、と男が声をかけたため、おずおずと織の隣席に腰を下ろしたものの、明らかに遠慮している。

 

「えっと、私も同じものを……」

 

 店に、男以外の客はいなかった。白髪の板前がネタを握り出す。

 

「貴方は」

 

「うむ」

 

「誰ですか。僕のことを知っているようですが」

 

「……赤間君は言わなかったのかね?」

 

 男は銀子を見やると、おかしなことを訊かれたような声をして頷いた。

 

「そうか。では自己紹介しよう。私は、九島烈(くどうれつ)という」

 

「御嵜十理です。クドウさん、僕のことは、銀子さんから聞いたんですか?」

 

 叶うのならば、今すぐこの場から走って逃げ去りたいと胃がきりきりしていた銀子に向けられる少年の視線は、霜が降りそうなほどに冷たいものだった。

 

 ――すっごい冷や汗。

 

 織はそんな彼女の姿に呆れながら、出された握りをちょんと醤油につけ、口に運んだ。「……ん! 美味いな」さっそく次は赤身を頼み、手を付けていない十理の握りを見て、不満げな表情を浮かべる。

 

「トーリ、鮮度が落ちるぞ。寿司ってのは鮮度が命なんだぜ」

 

「ああ、ごめん。……うん。美味しい」

 

 クドウレツはやり取りを横目に、造りを箸でつまみながら、

 

「確認のためにな。そして会えるよう頼んだのだ」味を堪能しているのか、あるいは記憶を呼び起こしているのか。「機会があってね、君の作品を観させてもらった。あれには驚かされたよ」

 

 あれは、まさしく魔性(・・)だな。

 

 感嘆の息とともに吐かれた言葉に、しかし十理は目立った反応は見せなかった。

 

「魔法の存在が認知された現代において、この私が魔性と呼ぶことは語弊があるように思われるかもしれんが。他に形容しようがなかった。……私の友人に、君の作品に夢中になっている男がおってな。命を吸い取られかねんと、忠告を受けていたのだ。いい歳だからそのまま昇天しかねんと。大袈裟なと思ったが、間近にして、私は彼の言葉に偽りがなかったことを知った。魔法による、何らかの精神干渉を疑いもしたが――まったく驚くべきことに、その形跡は見られなかった」

 

 ぺろりと二口目を平らげる織。

 

「私は、興味を持った。あのような……うまく言葉では言い表せない、とてもすべてを理解できたとは思えんが、とてつもない(・・・・・・)なにか大変なもの(・・・・・・・・)ということだけは分かる……あんなセンセーショナルな代物を生み出した、シカオユリスという、正体不明の人間にな。そして、会ってみたいと思うようになった」

 

 クドウレツのようなことを考える人間は、これまでに何人もいたと、十理は聞かされた覚えがあった。しかし、赤間銀子はそのような者たちから隠し続けてきたはずだ。今日という日まで、シカオユリスの正体に辿り着いた者はいなかった。

 

 だがクドウレツは、その正体をついに知ってしまった。だから今日、御嵜十理に会いに来たということなのか。

 

「否定しても、意味はありませんか」

 

「ずいぶんと調べたのでな。まさか、高校生だったとは。二重の意味で驚かされたよ」

 

 ――どこまで知っているんだ、この男は。

 

 織を見る。御嵜十理の式神。中トロを美味しそうに頬張っている、大事な、大切な家族を。そして、その奥で沈んでいる様子の銀子を見る。

 

 ――どこまで喋ったんだ、この女は。秘密を。

 

「安心したまえ。公にする気はない」

 

「では目的は? ただ会いたいというだけではないのでしょう」

 

「君を支援をしたい。君の、活動を」

 

「つまり、パトロンに?」

 

「そうだ」

 

 どうだね、とクドウレツが鷹揚に見据えてくる。

 

「クドウさんがパトロンになると、僕にはどんなメリットが?」

 

「ふむ。そうだな、とりあえず君のいま使っているアトリエよりも広い場所を用意しよう。別荘でもいい。資金面でも援助する。必要なものは私が用意しよう。君は自分の創作に専念する。単独で個展を開くこともできる」

 

「学生であることは、ご存知ですよね。四月に入学したばかりだということも」

 

「無論、それも考慮したうえでだ。君の学生生活を邪魔するつもりはないとも。優秀な魔法師であると聞いている。本格的になるのは、卒業したあとでも構わん」

 

 十理は、笑顔で言った。

 

 

「お断りします」

 

 

「シュウくん!? なんてことを……」

 

 銀子の悲鳴は、十理の視線にさらされると尻すぼみになって消えた。

 

「……理由を聞いても」

 

「まず第一に、必要ないからです。僕は今のアトリエに不満を感じていません。資金にも、特に不安はない。シカオユリスの作品は、さいわいというべきか、高値で取引されているようですからね……」

 

「今はそうかもしれん。しかし」

 

「第二に」

 

 もう、笑ってはいなかった。

 

「僕は、貴方に支援されたいとは思えない(・・・・・・・・・・・・・)

 

「―――」

 

「失礼なことを言っているのは承知しています。貴方の提案は恐らく、とても魅力的な案なのだとも思います。貴方は僕の作品を高くかってくれている。だから僕も正直に話します。僕は、僕のことをわざわざ調べ上げて、援助するから自分のところに来いと言うような方とはお付き合いする気になれません」

 

 絶句する空気になった。が、話をやめようとは思わない。

 

 ――どうして御嵜十理は「シカオ・ユリス」という架空の人物を作り上げたのか。

 

 ――今のように(・・・・・)、近づいてくる人間に煩わされたくはなかったからだ。

 

「僕は自分の手から離れた作品を、誰がどう扱おうとも、気にしたりはしません、その人の自由ですから。僕は、ですが自分が身を置いている環境に、見知らぬ他人の()が入ってくるのはたまらなく嫌なんです、想像するのも嫌だ。神経質なところがありましてね、そういうことをされると自分が、指紋で身体じゅうをのべつまくなし(・・・・・・・)にべたべたにされてるみたいな最悪な気分になる。それを意識し始めるとシャワーでも洗い流せない。思考が、濁るんです。今でこそ周りのことは銀子さんに任せていますが、最初の頃は耐えられたものじゃなかった」十理は、苦笑いしながら続けた。「野生動物みたいなものです。見知らぬにおい(・・・)があると落ち着かない。パーソナルスペースというか、距離が必要なんです、安心できるだけの、心の距離が。クドウさんは僕が創作に専念できると仰いましたが、『シカオユリス』は、それ自体が僕が創作に専念するために作った身代わりです。好奇も賞賛も蔑視もすべて『シカオユリス』が浴びていればいい、そうすれば、僕は作品とだけ向き合っていられる。何者にも煩わされることはない。そのために作ったんです。ずっと、それだけの関係性で完結していれば問題はなかった」

 

 しかし。

 

 男は身代わりを見破って、本人に辿り着いてしまった。

 

 ――不快(・・)だ。

 

 仮面をかぶりながら、続ける。

 

「そもそも僕は名声が欲しくて人形を作り始めたわけではありません。お金が欲しかったわけでもない。僕は、自分のなかのこえ(・・)に応えるために、この手段を選んだだけなんです。いつの間にか金銭的な価値が生まれるようになりましたが、徹頭徹尾、今も、作っているのは自分のためなんです。儲けたいとも思っていない、ある程度の生活水準が維持できて、創作活動にノイズが入らないのならそれでいい――つまり、今のままでいい。気にしなければいいと言われるかもしれませんし、若さゆえの、潔癖と思われるかもしれませんが、僕の前に突然現れた貴方には、僕の領域に――御嵜十理(ぼく)の考える生活(そうさく)の領域に――いっさい踏み込んでほしくない」

 

 沈黙があった。

 

「貴方だけじゃない。誰にも」

 

 重い沈黙。

 

「本当なら、貴方が僕に会いたいと分かった時点で、貴方に会うつもりはありませんでした」

 

 知ったのは、このお店に着いたあとでしたが。冷ややかに笑い、十理は湯呑みの緑茶で舌を湿らせた。

 

「なるほど」

 

 暫くして、クドウレツは暗い響きの笑い声をあげた。

 

 銀子は、蒼白になって口を戦慄かせている。織は――くつくつと肩をふるわせていた。

 

「なるほど、そうか。君はそういう人間だったのだな。つまり、私に余計な手は出すなと……一切邪魔をするなと、そう言いたいわけか。この私に」

 

「ええ。誘って頂いたのに申し訳ないと思っています、クドウさん」

 

「若さだ。それに潔癖だ。自分だけの力でやりたい、と言うのも分からんではない。だが、少しばかり己の才能を過信しているのではないか? 傲慢のようにも聞こえるがね」

 

「僕が子供だから、そう仰りたいんですか?」

 

「それだけではない。だが」皮肉に口元を歪めながら、彼は。「いや。……いいや、そういうこともありうるのか。私に対して。……あるのかもしれんな。風変わりな芸術家。異端児。麒麟児。天才。君らのような人間なら」

 

 クドウレツは、少なくとも、表面上は怒っている素振りを見せなかった。

 

「――いいだろう。今は、手を引こう。機嫌を損ねてしまったようだからな。どうやら年甲斐もなく、気が()っていたらしい。だが諦める気もない、人生は短い(・・・・・)のだ。……しかしだ、なにせ君は正体不明だ、知りたいと思うのも止むを得んとは思わんかね?」

 

「御免こうむりますよ。(こうむ)る側としては、ひたすらノーを突きつけるのみです」

 

「シカオユリス。あれは、アナグラムだろう。君の」

 

「あれに、目印になるようなパンくずの意図はありませんよ。少なくとも、そんなつもりは僕にはなかった。ですがそれが原因で気づかれたのだとしたら、検討する必要があるかもしれませんね」

 

「遅いと思うがね。名を変えたところで、君の作品であることはすぐに知れるだろう。君は既に独自の立ち位置を獲得している……良きにつけ悪しきにつけ。その影響は、君が想像している以上に大きい。それと、一応断っておくが、気づいたのは君の正体を知ったあとだ」

 

「そうですか」

 

「私以外にも、シカオユリスを探ろうとする人間は多いはずだ。辿り着く者もいるだろう、現に私のように。そいつらはどうするつもりかね? 仮に、君の正体が明るみになるようなことがあったら、そのときは」

 

 にっこりと、十理はわらい返した。

 

「そのときの気分にもよるでしょうが。もし周りがあんまりうるさくなるようでしたら、僕はかんかんに怒ってしまって、そうしたらもう二度と、『シカオユリス』の作品は流通しなくなるかもしれませんね。すべて、自分で叩き割ってしまうかもしれません」

 

 要するに、人質のようなものだった。

 

 お互いが、お互いを。そう、理解していた。

 

 お互いに、乾いた微笑で。

 

「困ったものだな」

 

「ご自分で、ご自身を困らせているだけですよ、クドウさん。もちろん、僕のこともそうですが」

 

 ため息。

 

「生意気な口を利く。小僧ということか」

 

「貴方からすれば、大概の人間は小僧なのでは?」それに、と付け加えた。「まだ、高校生ですから」

 

「そうだったな。君()、まだ身分は学生だったな」

 

 

 

 ―――。

 

 

 

「そろそろ失礼する。楽しい時間だったよ、君らはゆっくりしていくといい。この時間は貸し切ってあるのでな。そういえば、君は九校戦には出場するのかね」

 

「ええ」

 

「そうか。活躍を期待しておるよ。近いうちに、また会うことになるだろう」

 

「さよなら」

 

 ――おいおい。

 

 ――厄介事の前振りってわけか、あの爺さん。

 

 織がちらと見やったとき、十理は仮面の笑顔で見送っていた。

 

 引き戸がしまる。

 

「……シュウくん!」

 

 九島烈が出ていくと、見計らったように銀子が叫んだ。鋭い視線は甥に向けられている。

 

「貴方は、自分が何をしたのか――」

 

「分かっているのか、自分が何をしたのかと、そう、言いたいんですか銀子さん?」

 

「そうよ!」

 

「おい銀子っ」

 

 ――まずいよ。

 

「貴女がそれを、僕に言うのか」呷られた湯呑みが、カウンターを叩くようにして置かれる。「よりにもよって、僕に嘘をついていた(・・・・・・・・・)貴女が(・・・)?」

 

 冷笑だった。

 

「何を……」

 

「残念だよ」

 

 眼鏡を外した十理は、悪辣な笑みを浮かべながら席を立った。

 

「本当に残念なことだ、銀子。私が今、どんな気持ちでいるか分かるか……?」

 

 口調は優しい。だが目には蔑みの色が宿り、声には嘲りの響きがあった。銀子は食って掛かろうとしていた勢いも失せ、ようやく、少年が想定以上に激怒していたことに気が付いたらしかった。

 

「わ、私だって断れるなら、断ってたわよ?」

 

 銀子には、こうせざるを得ない事情が、あったのだろう。

 

知ったことか(・・・・・・)そんなもの(・・・・・)

 

 その事情に十理は興味がなかったし、ただ彼にとって大事なのは、「約束」が破られたことだけだった。

 

「私はな、欺かれたんだ」

 

 指を、突きつける。

 

「――欺いたのはお前だ。いいか、騙したのは、お前だろうが。銀子」

 

「ちょっと!」

 

 腕をつかもうとした銀子の手を弾くと、

 

「おいトーリ!?」

 

「帰る。少し歩くことにする。ついてくるなよ、一人で考えたいんだ」

 

「………、」

 

 振り向きざまにこちらを睨みつけ、引き留める間も無く十理は店を出て行った。

 

 取り残された、織は。

 

 ――まずいだろ、いま一人にするのは。

 

 予言(・・)の内容を、思い出していた。

 

 

 ――「彼を、死者(・・)には近づかせないで」

 

 

 具体的に「死者」が何を示すのか、未来視の女は言っていなかった――正直、ちゃんともったいぶらずに、そこんところ詳しく教えてよと恨み言がないでもなかった――が、取れる対策などたかが知れている。

 

 織は、常に彼の傍に控えることで「脅威」に対処する方法を選んでいた。今日の墓参りでは、ピンポイントで「死者」と絡む場所だから何かあるのではと気を張っていたのだが、何事もなかったので一安心していたところに、この事態である。

 

 ――〈クロ、いるか?〉

 

 ――〈こっちは、わたしにまかせて〉

 

 幸いだったのは、「影」にはもう一体の式神である火艷(かえん)が潜んでいたことだった。事情もある程度は把握しているらしい。

 

 ――〈何かあったらすぐに知らせてくれ。トーリのこと、頼んだ〉

 

 ――〈にゃ〉

 

「……やれやれだ。まったく、しょうがないぜ。銀子、わかってただろ。トーリがどういう反応するかなんて」

 

「分かってたわよぉ、でも……」

 

「でもぉ、なんだよ? 前にもオレ、言ったよな。気をつけろって。事と次第によっちゃ、分かってるんだろうな?」

 

「断れるわけないじゃないっ! 十師族相手に! こっちは非力な個人バイヤーなのよ!?」

 

「おぁッ」飛んだ唾がかかりそうになった。「おい泣くなよ、いい歳こいて」

 

「歳のことは言うなあっ!」

 

「ああもう……でっかい子供みたいだ。座れよ、ほら。話してみろ。すみません、大トロと、お茶の御代わりもらえますか。銀子も頼めよ」

 

「……玉子」

 

「玉子で!」

 

 ――手間のかかる。

 

 ――トーリも、銀子も、あの爺さんも。

 

 ――ほんっと。

 

「やれやれだよ」

 

 

 ため息を、抑えられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 やれやれ系男子。















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22 死体


















 

 ――「なに。じゃあ、あの爺さんは十師族なわけ?」

 

 ――「そうだって言ってるじゃない。やっぱり二人とも気づいてなかったのね」

 

 ――「なんでそれ、最初に言っとかないんだよ」

 

 ――「言ってたら、シュウくん会おうとしたと思う?」

 

 ――「……思わないけどさ。でも、黙ってたんだ。裏切りってあいつが怒るのも、わかってただろ」

 

 トーリは、嘘がキライなんだからさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 赤間銀子と、話をした。

 

 ――「事情は分かったよ。銀子の立場も。協力するよ。トーリと、話してみる」

 

 ――「お願い。織くんなら、あの子も話を聞いてくれると思う」

 

 ――「分かってるだろうけどさ。今回のは、貸しだからな。銀子に非があるのは、確かなんだし」

 

 お願いします。そう頭を下げた銀子は、仕事が詰まっているらしく、織を実家に送り届けるとその足で東京へと帰って行った。

 

 ――さて、と。

 

 佐島絹江(さじまきぬえ)の屋敷ほど広くはないが、庭も備わっている、この祖父母の家に少年よりも先に着いた織は、何かあったのかと尋ねてくる祖父母たちを「ちょっとね」と誤魔化しつつ、彼の帰りを待ち続けていたのだが……、

 

 帰ってきたらで声をかける間も無く、当人はさっさと部屋に籠ってしまっていた。〈念話〉で呼びかけても、応答は無し。

 

 今、織はこの家にある「開かずの扉」の前に立っている。

 

 開かずとは言うものの、合金で溶接され物理的な意味で開けられない、というわけではなかった。単純に正規の住人である祖父母たちが入ろうとしないだけで、この部屋を使用している人間はいる――それでも、今年になって使われる頻度は激減していたが――今のように。

 

 鍵は、かかっていなかった。

 

「トーリ。オレだ。入るぞ」

 

 踏み込む。

 

「………、」

 

 まず、冷房機の駆動する音が聞こえた。

 

 踏み込んだ先、やさしい照明の下、真っ先に目に飛び込んできたものは、男と女の裸の(・・・・・・)死体(・・)が、無数に、部屋の至る所に放り出されている景色だった。

 

 どの死体も肌は白く、同じ顔(・・・)をしており、表情に差異こそあれど、姿勢は完全に捻じれきっていたり、関節とは逆方向に折れ曲がっていたり、上半身しかなかったりと、それらが部屋中にカタコンベのように積み上がっているため、シュルレアリスムな空間と化している。

 

 心臓の弱い者が見れば即座に発作を誘発しかねない猟奇的な光景であったが、織が驚いていないのは、これらが「腐らない死体」であることを知っているからだった。

 

 それでも、肌の毛がぞわりと立ってしまうのは、単に冷房が効き過ぎているだけではないのだろう。

 

 御嵜十理(おさきしゅうり)は、死体に埋もれるように背を預け、足を投げ出すように座っている。その足を枕にしていた、濡れたような黒髪の、金色(こんじき)の双眸の――ゆるゆるのガウンを着た――猫耳(・・)の、浅い褐色肌の少女は、ぼんやりと携帯式小型清浄機に吸われてゆく紫煙を眺めながら、中ほどで二つに分かれたしっぽ(・・・)をゆらゆらと揺らしていた。

 

「トーリ」

 

 黒曜石の双眸が、こちらを向いた。リムレスタイプの眼鏡は今は外されており、彼は一瞥すると、咥えていた煙草の灰を、手元にあった腕だけの死体の掌へと落とした。

 

 掌には、黒ずみ融けたような痕がある。

 

 織は、持っていたラムネ瓶を揺らした。からん、と冷えたビー玉の音。注意を引くように。

 

「ほら」

 

「ああ」

 

 手渡す。寝そべっている、黒猫の擬人体である火艷(かえん)からの視線。織は苦笑しながら、本当は自分のぶんだったラムネ瓶を、(ねぎら)いを込めて、だらしなく伸ばされた手に握らせた。

 

 隣に腰を下ろす。少し、埃っぽい。さて、どう切り出したものかな――十理は変わらず(ぼう)としている――まあ何はともあれ、ここは一服か。ひとまず、自分も煙草を取り出した。ライター。

 

 火がつかない。オイルが切れていた。「火車」である火艷に頼もうかと思ったが、今は人間形体であり、それも手間だった。

 

「トーリ、火。貸してくんない?」

 

「ん」

 

「いや、あるじゃん」

 

 ライターを取り出そうとした彼の、唇を指した。

 

「ああ」

 

 得心が言ったというように、互いの顔を近づけた。

 

 先端を、触れ合わせる。

 

「―――」

 

 丁子の弾ける音。

 

 火が移ると、並びながら煙を吹かした。

 

「………、」

 

 沈黙。

 

「銀子さ。帰ったよ、仕事があるって」

 

 反応は無し。

 

「反省してたぜ。謝ってた。黙っていて――騙して悪かったって」

 

「言われたのか、取り持つように?」

 

「それもある。けど困るのは本当だろ、どっちも」

 

「あいつだけだ。私にはないな」

 

「まあ、そういうやつだよな、お前」

 

 紫煙。

 

「トーリが怒るのも、分かるよ」

 

「……怒る、か」

 

 ――理由がある。

 

 ――怒っている理由。

 

 織は、周りを囲んでいる死体を見た。

 

 ――「嘘」を嫌う理由。

 

 どれも同じ顔の死体。男と女の。石膏のように白く、奇麗な身体だった。年齢(とし)は、四〇ほどか。

 

 織は、彼らに会ったことがなかった。話したこともない。だが、彼らが誰なのか(・・・・)は知っていた。十理にとってどんな人たちであるのかも。十理にどんな「約束」をし、それを「嘘」にしたのかも。此処にいる、彼らは。死体たちは――

 

 

 織のように(・・・・・)火艷のように(・・・・・・)あるいはクロエのように(・・・・・・・・・・・)なることができな(・・・・・・・・)かった(・・・)モノ(・・)たちだった。

 

 

「怒っている。それも確かだ。だが……」

 

 やおら、十理が言った。

 

「一つ、告白をしようと思う。織。聞いてくれるか?」

 

「どうぞ」

 

「私は……どうやら自分で思っている以上に、センチメンタルな人間だったらしい」

 

「へえ?」

 

 視界の端で。火艷が、ラムネ瓶を開けようと苦心していた。ため息交じりに十理が開けてやると、炭酸の音と一緒に上がってきた嵩を見て、黒猫は慌てて口でフタをする。

 

「私は、ショックを受けた。あの女に欺かれたと知った途端、得も言われぬ感情に襲われた。怒りと、悲しみと、遣る瀬無さだ。クドウと話している間は隠していたが、これが何を意味しているのかを考えていた。戸惑いつつな」

 

 普段とは違う横顔。痛みを、仮面で隠しているような眼差し。

 

「私は、自分が傷ついていることに気が付いた」意外なことだったが、と呟く。他人事のような口ぶりで。「彼女のことを、身内のように思っていたらしいな」

 

「そっか」

 

「あの女には、知られたくないが」

 

「言わないよ」

 

 慰めるつもりで言ったわけではない。しかし声は、思ったよりもやさしく響いた。

 

 ビー玉の音。

 

「それに……」

 

「それに?」

 

「自分の心を解剖するのは、なかなか愉快な探索だ。貴重な経験と言える」

 

「――ん?」

 

 妙な言い回しだった。

 

「客観的に見て。今の私は、信じ切っていた相手に裏切られ傷ついている子供といったところだな。未だかつてこんな気分に浸りながら創作に向かったことは、ない。しかるに」

 

「あー、おい……?」

 

「興味がある。この状態の私は一体どのような作品を生み出せるのか。まずは欲求のかたちを見定めなくてはならん。だが実に興味深いとは思わないか?」

 

 にやりと笑った。

 

 ――それって、要するに。

 

「あの女には腹立ちを抑えられんが、私に開けた傷口が、こうして新たな源泉に繋がっていたことには、感謝するべきかもしれんなあ。はは!」

 

「……機嫌よさそうだな」

 

「まあな。さっきから躁鬱を繰り返しているんだ。今は……ハイな気分になってきた!」

 

 織は。しんみりしていた気分は真夏の台風に遭ったように吹き飛び、眼前の作家に呆れ果てた視線を向けていた。

 

 ――バッカだなあ、こいつ。

 

「まさか今から取り掛かろうなんて考えちゃいないよな。明後日には現地入りだぜ?」

 

「流石にそこは弁えている。そもそもアイディアが固まっていないからな。発掘作業には時間がかかるだろう。慎重に丁寧に繊細に気を付けてやらなくてはならん、化石の採掘と同じようにな」

 

 ため息だった。

 

 ――ほんっと、バカだよ。

 

 傷ついているのは確か(・・)だろうに、そんな自分すらも好奇の対象としてしまうほど、時おりこの少年は、とても馬鹿になることがあった。

 

 今まさに見事に、その悪癖を発症している。心配して損した、と織は脱力した。そして微かに苛立つ。

 

「なんだ?」

 

 小首を傾げる彼の、訝しむような顔。

 

「なんでもねーよ。邪魔しちゃ悪いもんな。どうぞごゆっくり」

 

 ったく。先端の火を爪先でなぞり()すと、立ち上がった。あーあ、まったく。携帯灰皿に捨てる。

 

「銀子に連絡、ちゃんと入れとけよ」

 

 漠然と、何か面白くない気分になりながら、織は死体部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 薄暗がりのなかにいる。

 

 夏蒲団に横になりながら、眠ることもできず、ぼんやりとしている。

 

 隣の様子は、見ない。同じ和室に敷かれた、もう一式の布団で眠りについているであろう十理のことは意識しないようにしていたものの、それ自体が既に考えているという矛盾でもあった。

 

 ――こいつ、あれから夕食はちゃんと食べたのかな、とか。

 

 ――そういえばマンション(むこう)だと同じベッドだから、離れて寝るのはけっこう久しぶりだな、とか。

 

 ――あんな調子で、明後日の本番は大丈夫なのかな、とか。

 

 闇のなかだからこそ。ほかに音が聞こえないからこそ、考えてしまう。

 

「………、」

 

 (こご)りが、喉につかえている感じがした。後ろめたさのせいだ。死体部屋を出てからは一度も話していない、出る寸前に見た、死体に囲まれていた彼の顔が浮かんだ。そのときの自分の心理も。心配したはずの相手がぜんぜん大丈夫そうだと知った瞬間に胸中を占めた、落胆、肩透しにも似た心境の理由を――ほの暗い欲求の正体を、今の織はかすかな苦みとともに理解していた。

 

 ――オレは、慰めるのを期待(・・)してたんだな。

 

 ――傷ついて落ち込んでいるはずのあいつが、まったくつらそうじゃなかったから、腹が立ったってわけか?

 

 嘆息が漏れた。自分の浅ましさに。

 

 ――まいったね。オレってこんな厭な性格だったっけ?

 

 誰の影響かと訊かれれば、迷うことなく隣で寝ている少年のせいだと答えられる。織という存在に様々な意味で最も大きな影響を与えているのは、間違いなく彼なのだから。

 

 妙なしこりが残ると面倒だ。でも、そもそも向こうは気にしていないかもしれない。たぶん、気にしていないだろう。つまり、織が勝手に気にしているだけなのだ。ようは心の問題だ。だからこそ、面倒だった。

 

 少し、可笑しいとも思う。生前――この世界で目覚める以前――はこんな、普通の人間みたいに悩める日が来るとは考えたこともなかった。自分の立場に満足していたから、嫌と思ったこともなかった。今はどうだ。不満とは違う。無いわけではないけども、占めているのはたぶん、別のものだ。なら、不安?

 

 ――オレは不安なのか?

 

 だが、何故。

 

「織」

 

 声。

 

「起きてるか?」

 

「……ああ」

 

 無視してもよかった。けど、それだとまるでオレが怒ってるみたいじゃないか。苛立っていたのは確かだけど、トーリのせいじゃない。なのに怒っていると思われるのは癪だった。

 

「なんだよ」

 

「さっきは悪かった」

 

「なんのことだよ」

 

 ぶっきらぼうな声になった。

 

「心配をかけた」

 

「ッは。今さらだな」

 

 ――謝るなよ。べつに、お前は悪くないだろ。悪いのはオレだって。

 

 そう言えたなら、多少は楽になったのだろうか。だが、意地のようなものが邪魔をして、言えそうになかった。そんな自分に、またイラついて。気に入らない。

 

 少し、笑ったような響きがあった。「そうか。なら、今さらついでに、頼みたいんだが」

 

「なにを?」

 

 

「血を、吸ってほしい」

 

 

「……は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 エロティックなフンイキを出したい(唐突

 打海文三の「レイニー・ラウ」に登場する父娘みたいな禁忌的な空気感を出したい。あれを読むと、いつもドキドキしてニヤニヤしてしまう。そんなニヤドキ感をこの作品のなかでも出したい。

 いやまあ無理なんですけども。地球と土星くらい彼我の差があり過ぎる。

 ………。

 要するに、この唐突な筆者の告白が遠回しにほのめかしていることは、つまり、次回更新時の内容が、もしかしたらそんな感じのフンイキであるかもしれないという「警告」であります。

 「警告」は、しました。

 それでは。また。

 近々に。
















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23 冗談


 月とナイト
 嘘はつきとない
 月とナイト
 嘘はつきとうないから言うよ

   ――ecosystem/月夜のnet

















 

 ――「トーリ。おまえさ、ほんッと、いい性格してるよな」

 

 ――「いや、褒めてないから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 両儀(しき)御嵜十理(おさきしゅうり)吸血(・・)するのには、当然のことながら理由がある。

 

 両儀織は、自身の裡に殺人衝動(・・・・)が存在していることを理解している。社会に適合するうえでこの性質はあまりにも異端であり、これを発散せず、溜めこむばかりでいては何時か暴発しかねないことも識っていた。だからこそ御嵜十理との「繋がり」を利用して供給源である彼の構成要素を裡に取り込むことで、定期的に「裡」から生じる衝動を塗り替え、閾値を上回らぬよう抑制し、さながら陰陽のように均衡を整えておく必要があった。

 

 無論、副作用はある。そして御嵜十理が「血」を媒介に体内精気を「吸われて」いる以上、彼も倦怠感に襲われざるを得なくなるという問題があった。

 

 しかし逆説すれば――被吸血者は、擬似的な抗躁剤の効果を得ることができるのだった(そも、幽体の総量が減る云々以前に、貧血になれば気分や身体が不活化するのは当然のことではある)。

 

 

「お前に言われて考えたんだが……このままだと、九校戦に集中できない気がしてな。どっちつかずになるのが一番困る。だから」

 

「今のうちに、保険をかけておこうって?」

 

「ご明察」

 

「……呆れた」

 

 ため息を吐く音。織のだった。そして、やっぱり目の前の少年が気にしちゃいなかったことを思い知らされ、少しささくれたような気持ちにもなった。あるいは、オレが怒っていると考えて、こちらに歩み寄ろうとしている?

 

「織のほうも、時期的に、しておいたほうがいいだろうと思ってな」

 

 どうだろう、と窺うような声色で。

 

 断る理由は、なかった。十理の懸念は否定できるものではない。それに、なんというか。

 

 ――断るのは、負けたような気がするし。

 

 負けっぱなしは、それこそ癪だった。

 

「わかった」

 

 覚悟を決めた、というのもおかしな話だが。身を起こし、毛布を退けた。

 

 隣の布団を踏む。互いに浴衣姿だった。

 

 安堵したような、明るい顔をしている。薄明りでも、それが分かった。

 

「にゃー」

 

 十理の布団のなかで、黄金の双眸が瞬く。

 

「だめ……にゃ」

 

 かじかじと、歯は立てず十理の指を()むようにしながら、抗議の声を上げた。

 

「私が、してほしいんだ。火艷(かえん)

 

「にゃあ。でも」

 

「それに、そんなに多く吸う必要はない。あくまで保険だ。だろう?」

 

「ああ」

 

 肌触りのいい毛並みを撫でながら、十理が微笑んだ。

 

 黒猫は、あるじ(・・・)の「お願い」を断れない。

 

「分かってるよ、クロ」射抜くようなその視線に、苦笑を返した。「気を付ける」

 

 一度。血を吸われ過ぎたためか、十理は体調を崩したことがあった。疲れが溜まっていたせいもあるのだろうが、そのとき火艷は猛烈な非難を織に浴びせたものだった。以来、吸血への理解は得られているものの、彼女の目は厳しい。無理もないことだ、と思う。それもあって、最近は吸血を避けてきたのだ。

 

「じゃあ……、しようか」

 

 十理が言った。頷く。口のなかが乾いているのを意識する。

 

 薄暗がり、空気の質に微妙な変化が生じるのを感じていた。緊張を帯びている。たぶん、自分がそう感じているから、そう思うのだろう。十理のほうに、気負った様子は見られない。

 

 正面から向かい合った。彼が、肩をはだける。衣擦れの音。纏うものがはらりと落ち、(はだ)の雪が露わにされる。

 

 ――ふわり、と――

 

 彼のものでありながら、普段の彼のものではない匂いが、すぐ傍にまで香ってきた。

 

「おいで」

 

 ――なあトーリ、気づいてるか。

 

「ほら」

 

 ――お前の顔。これから自分の血を吸う相手に向ける表情じゃないよ、それは。

 

 普通(・・)なら。怯えや抵抗があってしかるべきだろう。なのに、十理にはそれがない。

 

 むしろ、逆だった。響きは、子供に言い聞かせるみたいに優しかった。こちらの逡巡や苦悩を見透かしたうえで、すべてをやさしく抱擁するかのように。受け入れている。まるでそのことが、彼にとって心から嬉しいこと(・・・・・・・・)であるかのように。

 

 心臓の高鳴りと、かすかな胸の痛みを自覚した。何の感情に由来する痛みなのかは分からない。しかしどうしてか、十理から目を背けたいという想いと、彼の笑顔をずっと見ていたいという矛盾が織のなかに生じていた。軋むような痛みも。痛みにつけるべき名前を、今の織は知らなかった。

 

 常々の、犯し易からぬ冷貌は今は白桃の花のように笑っている。濡れ〃々たかの黒曜石は、あくまで信頼に清らかなのに、頬は恍惚(うっとり)と色づいている。温気(ぬくみ)にふっくらな下唇をわずかに開くと、見える並びの白磁の輝きは、てらてらとまみれて誘うようで……、ちろちろと引っ込んだ赤い舌が蠢く……、

 

 しき、と、

 彼が、名を、

 呼んだ――

 

 あまやかな吐息がひとたび音を為すと、背筋にふるえが奔った。まるで別人のような変貌――(いいや)(これ)は普段は(はだ)に潜んでいるナニカが(あらわ)れようとしているに過ぎない。さながらキャンバスで塗られた現実と虚構(ふたつのえのぐ)の境目に現出したかの只ならぬ気配には、深山幽谷の怪異ですらも慄然(ぞッ)とするような艶めきがあった。

 

 いつまでも、慣れることはない。だが此処に至って、どぎまぎもしていられない。煽情的であること、そして十理の雰囲気が異なることが織を戸惑わせていたが、このまま生娘みたいな反応でいては不自然に思われるし、告白しても心配されるか、わらわれるだけだった。大人しく背中に手を回し、顔の位置を調節した。香りが強くなる。彼の匂いが。痛みは、無視する。

 

 首筋。汗に混じった、マンションのとは違う石鹸の匂いがした。小さなほくろを見つける。いつも同じ場所にあるほくろ。唇で、濡らしてゆく。噛みつき易くするために。舌を押し返す肌が、緊張の加減を伝えてきていた。

 

 囁く。ちから、抜けよ。

 

 頷かれる。ああ、いいよ。

 

 して(・・)――

 

 織は、一気に突き立てた。

 

「―――」

 

 ンッ、とこぼれた吐息が、耳朶をふるわせる。弾力のあるものを裂き、肌の下に通った食感のあと、血の味が口のなかで跳ねた。

 

 

 ――ぴちゃり――くちゅり―――

 

 

 水気を含んだ響きの。

 

「………、」

 

 耐えるような、吐息(こえ)

 

「………、」

 

 織にとって、吸血という行為は率先してしたい(・・・)ことではなかった。しかし行為そのものに、最初期ほどの忌避感は、実は今は感じていない。

 

 啜る。飲み込むには、少しコツが必要だった。喉を滑り、食道を通り、腹のなかに落ち、そして生血に溶け込んでいた精気は、ゆっくりと織の躰に馴染み、広がってゆく。

 

 ――トマトジュースみたいに、たくさんは飲めないけども。

 

 吐き気を覚えたりはしない。真っ当な味覚であれば受け付けがたい「生血」でありながら、織はこれを「普通」に飲めてしまう。不味いと、思うこともない。

 

 味覚に異常をきたしているわけではなかった。生血を取り入れ続けた結果、十理に合わせて織の体質が変化したということなのかもしれない(・・・・・・)。本当のことは分からない。可能性は、なくはないのだろう。

 

 ――ますます人間してないよな、オレ。完全に。

 

 ――これじゃまるで吸血鬼だよ。

 

 互いに無言で。

 

 ンッ。

 

 織は。少年の、忍ばせようとする声を耳元にしながら、生温かい血を啜り、その熱が冷める間も無く胃のなかに滴り落ちていくのを感覚しつつ、奇妙な充足で満たされてゆくのを感じていた。そして次第に、愉しくなってくる。彼の苦しげな声が、徐々に織を高ぶらせてゆく。まだ冷静だった。だが、もっと(・・・)だ。もっと(・・・)、とこの感覚(・・・・)に自分を重ねたい欲求が膨らみ強くなってくるのを、俯瞰するような視座で感じていた。肌の雪を踏み荒らすように、自分を受け入れている彼の笑みをもっと(・・・)歪めさせたい。自分がしたこと(・・・・)(きずあと)もっと(・・・)刻み込んでやりたい。血をこぼすようなことはしないさ、そんなはしたない(・・・・・)真似はするもんか。オレが与えるおまえの痛みも、オレで感じているおまえの悲鳴も。ぜんぶ。一片だって取りこぼしはしない。だっておまえは(・・・・・・・)オレのものなんだ(・・・・・・・・)から(・・)――

 

 このまま首を掻き切ったところで(・・・・・・・・・・・・・・・)どうせおまえは(・・・・・・・)オレを(・・・)憎んだりしないんだろう(・・・・・・・・・・・)

 

「織。少し、強いよ」

 

「……ごめん」

 

 (こわ)いことを考えていた。考えただけだ、でも火艷が唸り声を上げているのは、今しがたした怕い想像をなんとなく悟ったからかもしれない。まだ、大丈夫だった。勝手に「魔眼」が開くようならともかく。自分の行動を理性的にコントロールできている。

 

「私は逃げたりしないから。あせらないでいい」

 

「ごめん」

 

 やさしく笑われる。「いいよ」囁くように。そして軽く、背を叩かれる。トントン。あやすように。完全に身をこちらに委ねたまま。無防備に。無警戒に。

 

 羞恥心に襲われる。だがそれ以上に罪悪感があった。今回は十理に乞われた形でしているが、だからこそ、自分の薄暗い欲求を隠していることに対して、思うところもある。

 

 本当は十理は気づいていて(・・・・・・・・・・・・)気づいた(・・・・)うえで(・・・)織を怕いとは思って(・・・・・・・・・)いないのかもしれないが(・・・・・・・・・・・)

 

 促される。

 

 吸う。

 

 甘い香りがした。彼の匂いだ。しかし明らかに普通とは違っていて、まるでフェロモンのように甘く感じられた。血も同じく。甘い味がした。酔い始めている、そう思った。

 

 濃厚な甘い香り。火艷に変化はない。やはり気づいているのは織だけだった。

 

 ――もっと(・・・)。嗅ぎたい。

 ――もっと(・・・)。吸いたい。

 ――もっと(・・・)もっと(・・・)

 

 なんとなしに、クチナシの花を思い浮かべた。十理がクチナシなら、引き込まれそうになっている、今のオレは、さしずめ吸血虫(ちすいむし)か。あんまりわらえないな。そして挙体芳香という言葉も浮かんだ。三大美女。躰からいい香りを立たせていた女たち。そういえばこの甘い香りは、どこか似ている気がする。自分の吸っている煙草の、あの特徴的な、クローブの香りとも。

 

 ふと、羞恥が加速するような「可能性」を思いついた。

 

 ――もしかして、オレがあの煙草を選んだのって。

 

 分からない。証明することはできない。たぶん偶然だろう。でもこれって、考えれば考えるほど墓穴にはまるような気がする。

 

 考えないことにした。

 

 ンッ。

 

「……トーリ。ヘンな声、出すなって」

 

 躰からはとっぷりと、花びらにくるまれたかの()いかおりを放っているうえ、血の陶酔作用が織に昂揚を及ぼしているせいか、

 

 ――さっきから、いかがわしいことやってるわけじゃないのに、そういうの聞くと、ますます背中とか腕とかがぞわぞわして、そういうこと(・・・・・・)してる気分になってきちゃうだろ。

 

 なまめかしい線の首は、唾と(べに)で濡れている。自分が汚したのだ、と思った。同時に、なにか形容しがたい、切々としたものが迫ってくるような気がして、胸が軋んだ。

 

「なあ。そういえば聞いたことなかったけどさ……どういう感じなんだ、血を吸われる感覚って?」

 

「ふむ」

 

 十理は。

 

 少し考えるように間を開けたあと、

 

「傷口に触れられると、やっぱり痛みはある。ただ、こうやって抱き合っていると、心地いい感じもあるかな。織は?」

 

「……嫌なら、こんなこと何回もしようなんて思わないだろ」

 

「そうか」

 

 嬉しそうに、彼が言った。

 

「私もだよ。たぶん、こう思えるのは、織が相手だからだろうな。……おい、なんで爪を立てるんだ」

 

「うるせーよ」人の気も知らないで。「誰のせいだと思ってる。まったく」

 

 少し、狼狽えてしまう。悪意はないのだろうから、余計に。

 

 ――笑ってるんだろうな。本心から。

 

 ――身内びいきでなくとも、トーリって美人だし。そんな顔向けられたら、女は一撃、男でも一撃だな。そのあたり、ちゃんと自覚しとけっての。危なっかしいったらありゃしないぜ。……けっこう天然なとこもあるし、こうやってときどき……いやわりと結構な頻度で爆弾だって放るし。

 

「お前だってそうだろう。違うのか? 私は、織にほかの人間で吸血してほしいとは思わないんだけどな」

 

「おまえ以外から血をもらう意味が、そもそもないだろ」

 

 吸血はあくまで手段で、十理の要素を取り入れるのが目的なのだから。

 

「それはそうだが。私にだって独占欲くらいはある」

 

 ――拗ねたような声。

 

 ――そんな声で、そんなこと言うなよ。

 

 噛みついた。

 

「痛ッ。織?」

 

 痛そうにしている。でもこれは、さすがに弁解の余地はないと思う。自分がどれだけ危険なことをしているのかまるで気づいちゃいないのだ。餓えた虎の前で、いい肉付きの鹿がでろんと仰向けになっているようなものだ。襲われたところで文句は言えない。

 

 ――夜でよかった。今の顔なんてゼッタイ見られたもんじゃない。この天然あほトーリ。ちくしょう、おかげで火を噴きそうだ。

 

 だが、黙ったままというのも彼に悪い。どうも、本気でそう思っているようだから。仕方ないな、一度しか言わないぞ。「……おまえだけだよ」顔をうずめながら、小さな声で言った。「それでいいだろ……」

 

「そっか」

 

 案の定、嬉しそうで。ため息を吐きそうになる。

 

 ――まったくなあ。なんだってさっきから、こんな気分になるんだ。いよいよおかしいぞ、オレも。ちょっと血を吸い過ぎたかな。悪い酔いじゃないのがまた癪だけど。

 

「なあトーリ。そういうのさ」

 

「うん?」

 

「そういう、恥ずかしいの……もう、禁止な」

 

「はあ」

 

「はあ、じゃなくて。オレ以外のやつに言って、誤解されたら面倒だろ? だから、禁止」

 

「誤解とは」

 

「いいから! 分かったなら、イエスって言え。じゃなきゃもっと噛みつくぞ」

 

「ううむ。ノー、と言ったら?」

 

「本回答におきましては、イエス以外受け付けておりません」

 

「なんだそれは」

 

 イエスだよ。それでいいのか?

 

「よろしい」

 

 結局、ため息。もう疲れた。激しい運動をしたわけでもないのに、ココロも身体もガス欠寸前だなんて。

 

 血は吸わないまま、身を預け合い、じっとしていた。

 

 互いの、息づかいの音だけが聞こえる。ほかのいきものの声は聞こえない。

 

「織?」

 

「うるさい。少し、静かにしてろ」

 

 目をつむる。心臓の音が聞こえる。

 

「……なんだろうな。今さらだけど」

 

 織は。先程までの取り乱し様の反動のように、盛大な自己嫌悪に襲われながら、呟いた。

 

「ほんと、今さらだけどさ。ゼッタイ誤解されるよな、今のオレたちを、愛花とかが見たらさ」

 

「まあ、言われてみれば、確かに。でも大丈夫だろう。二人とも、もう寝てる」

 

「……気づいていると思うか?」

 

「私たちの関係を?」

 

「愛花には助けるって言ったくせに、今は、オレがおまえを襲ってる」

 

「後ろめたいのか」

 

 ――それもある。けど、それだけじゃない。

 

 織は、沈黙を選んだ。それを、十理はどう受け取ったのか。

 

 彼のため息の音。織は、かすかに肩を強張らせた。まるで叱られるのを怖れる子供みたいに。

 

「……襲っている、か。それは誤りだよ、織。大きな間違いだ」

 

 ふわり、と。

 

 あまいかおりが、わらったような気がして――

 

 

「お前が襲っているんじゃない。私が(・・)お前を襲っているんだ(・・・・・・・・・・)

 

 

 ――え?

 

 無防備な躰に囁かれた、ナイフの放つ冷気を想わせる、残忍な響きが、織の心の奥を、委縮させた。

 

わかっているのか(・・・・・・・・)?」

 

 抱きすくめられている。

 

「なにを、」

 

 背に回された手が、すぅ、と撫ぜた。

 

「――っ!」

 

「なら、それをわからせてやろう」

 

 抜け出せない。息を吹きかけられる。感覚が敏感になっていた。

 

 わらっている。逃げ出せない。

 

「お、おい、」

 

 囁き。「私がお前の躰を作ったんだ。お前の躰で知らない部位(ところ)があると思うか?」

 

 ラクにしていろ。すぐに、わからせてやるから。

 

「お、おまえ、ヘンだぞ」

 

 触れ合わせた肌が、異様に熱を放っていた。

 

 吐息が、濡れている。

 

「ふざけるな、やめ」

 

 違う、同じことだ。普段と似たようなもの。ただ少し、十理は()れただけだ。ただの、家族間のじゃれ合いに過ぎない。そのはずだ。わかっている。なのに。

 

 意識することなどないはずなのに。笑ってたしなめればそれで終わりになるはずなのに。なぜだか、ひどく息苦しい。押し返す力も、出ない。言い返すことも。

 

 ――あまいかおりが、胸を衝く。

 

 おかしかった。十理の雰囲気も、自分も。

 

 息が、知らず、ふるえている。

 

 おびえているみたいに。

 

「トーリっ?」

 

「痛くはしない。力を抜け」

 

 やさしい手つきだった。声も。なのに、勝手に弾かれたように息が漏れてしまう。恥ずかしさと混乱でわけが分からない。探るような指先に、その都度、

 

 ――なんでオレ、女みたいな声、だして。

 

 心臓が、痛いくらい速い。汗で濡れていた。でも突き飛ばすこともできない。

 

 ――敵なら斬ればいい、嫌いなら無視すればいい。だけど、こいつは、そうじゃなくて。

 

 どうすればいいんだ。混乱していた。正常な判断がわからない。だから、しがみつくだけだ。どこかへ放り出されまいと細指でそうするように。

 

「く、クロ――」

 

「手を出すなよ、火艷。【命令】だ」

 

 布団のなかの黒猫は、あわあわと二人を見比べている。役に立ちそうもなかった。そして同時に、火艶に自分が見られている(・・・・・・・・・)ことに気が付くと、途端に織のなかで何かが大きくよじれて暴れた。見るなよ、と怒鳴ってやりたいのに――それなのにどうして、動けないんだ。

 

「私を見ろ。私の目を、よく見るんだ……」

 

 黒曜石が、微笑んでいる。ただ一人だけを映して。

 

 ふるえる織だけを見つめている。

 

 すべてを受け入れる、まるで底無し沼のような(・・・・・・・・)、黒い魔力に。

 

 ひとたび舌で感じれば二度と離れられない、甘美な、惹きつけてやまぬ惑わしの花蜜(ネクタル)のように。

 

 引きずり込まれそうになる。そのまま、沈み込んでいきそうになる。

 

 ――魔性(・・)

 

 ほんの少し前に聞いたばかりの言葉が、虚空に浮かび、

 

 ――とらえられる。

 

「織……」

 

 あまいかおり。彼の囁き。彼の、熱が。泥濘のような心地よさで、意識がぼやけてゆく。視界が薄れてゆく。視野が狭くなり、息苦しさが強くなった。これは何の警鐘(ちょうこう)なのだ。目蓋が熱い。指先が命令を拒否する。汗。拍動。痛み。きっと目を逸らしたなら、それだけで楽になれる。わかっていた。でも、逸らすことができない。自分の躰じゃないようだった。まるで――奪われたみたいに。自分自身を。

 

 なのに、彼はわらっている。香る花のような笑みで。こちらを見ている。

 

 そら寒い予感が、織のなかで一つの想像と重なった。それは、罠に引っ掛かって、抜け出せなくなっている虫の姿だ。

 

 食虫植物の腹のなかで、罠にかかっている虫たち。蜜を求めた彼らは、何を考えるのだろう。答えはすぐに出た。何も、考えはしない。空を仰ぐ余裕などないからだ。抵抗することもできず、自分が溶かされてゆくのをただ感じるだけ(・・・・・・・)。そのとき、胸中を占める感情はなんだろう。自分がなくなってゆくのを感じながら、何を想うのだろう。

 

 ――つつまれ、とかされ、なくなってしまいそうになる感覚に。

 

「ァ……、」

 

 あえぐ。

 

 息をさせてくれ。あくまで微笑みながら見つめるだけの彼へ、言葉にすらできないまま、乞うていた。縋りつくみたいに。ふるえながら。トーリ、オレに息をさせてくれ。おかしくなるよ、このままだと。せりあがってくる、内側から。逃げられない。何一つ、目蓋を拭うことすらできず。どうしようもない。呑み込まれてしまうのか。彼のわらう貌。すべてを見透かすような(・・・・・・・・・・・)。そんな、まさか。しびれのようなふるえが走った。

 

 ――このまま、おぼれるみたいに、とかされて。

 ――おまえに、(ころ)されて。

 

 ――オレは、■■のか?

 

 

「トー、リ」

 

 彼が。

 

 ふっと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「冗談だよ」

 バカだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――――――――――」

 

 耐まらなく可笑しいといった然で。

 

 くつくつと、肩を震わせている。

 

「……………………………………………、」

 

 織は。

 

 闇のなかでもはっきり分かるほど、真っ赤にふるえながら。

 

 呆然と、十理を見た。彼の手は、気が付くと緩められている。

 

 ――息。呼吸。指先。動いている。

 

 ――動かせる。自分の意思で。

 

 わるい夢から覚めたように。まじないが、とかれたように。自分自身を、取り戻していた。

 

「……勝ち負けじゃないが、これで分かっただろう。おあいこなんだよ、実は。つまり……、共犯ってこと。だからさ、お前が気にする必要はないんだ。気に病むことはない」

 

 笑っていた。彼は、どこか得意げですらあるような表情をして。

 

「それにしても、なんだ……織ってあんがい、かわいい声を出すんだな」

 

 混乱から回復する間も無く。

 

 

「――――――――――――――――――――ッッ!!」

 

 

 織は、目の前のほくろに噛みついていた。

 

 思い切り。

 

 

「――ぃ…………ッてえッ!!」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「悪かったって」

 

 無視している。今度は、怒っている原因はどう考えても間違いなく十理なので、無視することに何ら心が痛むことはなかった。肩の傷に容赦なく噛みついたことも。

 

「冗談だったんだ。あそこまで怒るとは思わなかった」

 

 ――冗談じゃないだろ。あれは流石に、冗談ってレベルじゃないだろ。ほんと、冗談じゃないぜ。オレが……どんな気持ちになったと思ってる。このやろう。このやろう!

 

 考えるだけで感情が沸き立ってくる。全身の毛が逆立ちそうだ。まったく普段の自分ならぜったいに考えないようなことを考えてしまったような気がする覚えていないけど。とんでもなくクツジョク的だ。なんだよあれ。なに考えてんだよ。いいやもう、考えないようにしないと。もうとっくに夜なんだからさっさと寝ないと。はやく寝よう。もう寝ろよオレ。おやすみオレ。グッナイ。

 

 ――なんて簡単に寝られるわけないだろ、バカ! あんな目にあったばっかりで。まだ感覚だって鮮明に残ってるってのに!

 

 織はひとりで毛布にくるまりながら、隣で横になっている馬鹿を極力無視して目をつむった。精神が火照りすぎているせいで、まったく眠くならないけども。

 

「織の機嫌があまりよくないみたいだったから……すまん。もうしない」

 

「―――」

 

「織?」

 

 眠れない。眠れるわけがない。

 

 だから必然的に、そばで何度も繰り返される、十理の猛省の加減を示している、その声色に、耳を貸さざるを得なくなってしまって。

 

 何度目かになると、もう。無視することができなくなってしまっていて――

 

「………、」

 

 ――まったく。

 

 ――許したく無く、無い、って想ってる自分がいる。認めるのは癪だけど。

 

 ――まったくなあ。トーリも大概だけど、オレもそこんとこ、ほんと甘いよなあ。

 

 寝返りを打った。結局いつもと同じように、一緒の布団だから、向かい合うようにして、至近距離に彼の顔がある。毛布は織が奪っていたから、いくら黒猫が引っ付いているとはいえ、少し肌寒そうだった。

 

 首筋は肌色の絆創膏(バンソウコウ)で隠されており、反省しきった表情に、安堵の変化が現れている。甘い香りは、すでにしなくなっていた。

 

 ――まだ残り香に、顔が赤いかもしれないけれど。

 

 それは夜が、隠してくれているはずだった。……じゃなきゃ、ほんとうに赤面ものだ。

 

「許してほしいか?」

 

 仏頂面で、小声で言った。先ほど大声を上げたときは幸いにも祖父母たちは起きてこなかったようだが、迷惑を考えなくてはならない。

 

「ああ」

 

「いいぜ。許してやるよ」このままじゃきりがないからな。眠れないし。ただし、と付け加えた。「罰は、受けてもらう」

 

「罰?」

 

「破っただろ。禁止だって言ったのに。だから、罰だ」

 

 十理は。どこか納得がいっていないような目つきをしていたが――火艷は、やはり主人の味方の立場のようだったので無視する――織の眼差しに閉口し、頷いた。

 

「どんな罰を?」

 

 ――決めてなかった。

 

「……まだ、言わない。言う時が来たら言う。忘れるなよ」

 

「分かった。約束する」

 

「じゃあ、許す」

 

「よかった」

 

 毛布を半分返してやる。織はその機会がきたら、絶対に十理が思いっきり恥ずかしがるようなことをさせてやる、と固く誓っていた。おずおずと身体を入れてきた彼を睨みつけ、げしげしと足先で攻撃しながら、想像を絶するような復讐に慌てふためく様子を想像して、何とか自分の怒りをなだめてゆく。

 

 ――後悔しても、もう遅いんだからな。

 

「……にゃあ」

 

 火艷が、眼差しで「おまえ自分の有るんだからそっち使えよ」と雄弁に訴えてきていたが、織はそ知らぬ顔を通した。あとあと冷静に考えればどちらが正論なのかは明らかであったけれど、十理も、あまり気にしていないらしい。それとも遠慮しているのか。

 

 身動ぎした瞬間、彼の顔が、かすかに歪んだ。

 

「……大丈夫か、肩は?」

 

「そりゃあ、痛いさ。思い切り噛みついただろう」

 

「それは、トーリが悪い」

 

 そこは譲れない。

 

 ただ――その。強くしすぎたかな、と思う面もある。本当に、容赦とかしなかったので。

 

「けっこう、吸ったよな。結局。貧血だ、これだと」

 

「……わるい」

 

「いいよ」

 

 沈黙。

 

 火艷は、もう何も言わなかった。呆れているのか。そりゃ呆れるよな、と思う。だけどさ、あれはさすがにないだろ。なあ、おまえもそう思うだろ? オレの身にもなってくれよ。言わないけどさ。というか、見てたくせに助けてくれなかったよな。おまえ誰の味方なんだよ。いや、訊くまでもないか……。ほんと、ひでえ目にあった。

 

「………、」

 

 静寂。

 

 ―――。

 

 織はさ。

 ああ。

 体温が低いよな。こうしていると、ひんやりしてて、気持ちいいな。

 そう。

 いいにおいもするし。

 知らない。

 ん。

 ……おまえだって。

 そう?

 ああ。

 そうか。

 気づいていないわけ?

 まあな。どんなにおいなんだ?

 それは。

 織?

 なんでもない。

 うん?

 オレは。

 うん。

 ……………嫌いじゃないよ。

 よかった。私も、織のにおいは嫌いじゃないんだ。落ち着くっていうのかな。うん……、好きなにおいだ。

 あっそ。……なに笑ってるんだよ。

 なんでもない。

 今日は疲れたな。誰かさんのせいで。だれかさんのせいでー。ほんっとに。

 わるかったよ。

 反省してんのか?

 うん。

 ……眠いのか?

 うん。

 そっか。……いいよ、寝ても。

 うん。

 

 ―――。

 

「おやすみ、織」

 

 まぶたを閉じた彼に、そっと言った。

 

 

「おやすみ。トーリ」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 音が、近づいてくる。

 

 それは、黒い牝馬(ひんば)の蹄の音か――

 はたまた何者かが扉を叩きつけている音か。

 

 男が言った(・・・・・)

 

「『今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ! 我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることはそうなる他はない。さあ、そうなるがよい! そして私に出来ることは何か?』 ――運命以上の、何者かになることだ」

 

 その日(・・・)は。

 

 もう、間もなく――

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 八月一日。

 

 

 懇親会の会場は、参加者だけで三〇〇人から四〇〇人に及ぶ大規模なものである。

 

 国立魔法大学付属高校の第一から第九までの各生徒たちに加え、潤滑に会を回すためのスタッフまでいるのだから大変な大勢であり、会場入りのタイミングが一律とされていないのもあって、この人数のなかから知り合いを探すのは、中々に難儀を強いられることであった。

 

「こっちだ、十理!」

 

 学校側の手配した車両で、遅ればせながら会場入りした御嵜十理は、振り向いた先で、嬉しげに手を挙げている森崎駿の姿を見つけた。

 

 互いにユニフォームではなく制服姿であり、駿は会場の空気に少し浮かれているようだった。

 

「無事に着いたんだな。よかった」

 

「遅れて申し訳ない。問題はありませんでしたか」

 

「調整は万端だ。ああ、問題というか、途中で僕たちのバスが事故に遭いかけた。先輩たちの活躍で怪我人は出なかったけど……それくらいだな」

 

「それは、また。幸先がいいのか悪いのか」

 

「いいと思おう」

 

 近くにいたウエイターからソフトドリンクをもらうと、十理たちはグラスを合わせた。

 

「ノンアルコールなんですね」

 

「学生だぞ、僕たち」

 

「やあ、御嵜」

 

 第一高校の制服を着た、五フィート五インチはあろうかの、背の高い優男が近づいてきた。

 

(ひいらぎ)。もう彼女との挨拶はいいのか?」

 

 十理が(遺憾ながらも)出場予定であるモノリス・コードのチーム、森崎駿とそのもう一人のメンバーが、この柊(かおる)という少年だった。

 

「まあね。あとでゆっくり一緒に過ごすつもりだよ。こっちに来たのは君たちの顔が見えたからだ」

 

 団体競技の新人戦に出ることが決まって以来、連日のように連携を確かめてきたから、三人ともある程度の性格は互いに掴めている。柊勲は人の群れのなかへ振り向くと、遠くで集まって行動している他校の女子の一人と笑顔で手を振り合い、それから十理を向いた。

 

「それはそれとして御嵜、調子のほうはどうなんだい」

 

「というと?」

 

「わざわざ一人だけ時期をずらしたんだ、君にとってご両親のお墓参りが大事なのは分かっている。俺もそれは理解しているよ。だけどこれから十日間、俺たちは戦わなくちゃならない。メンタルは大丈夫なのか」

 

「ご心配なく。オンオフはきっちり分けていますから」

 

「ならいい。君の言葉を信用しよう」

 

 にやりと頷くと、彼は大テーブルの近くで他校の生徒会幹部勢と談笑している七草真由美や司波深雪たちを目に留め、次いで、その周辺でじろじろと噂している学生らに目をやった。

 

「それにしても、我らが生徒会の華たちは大変な盛況だな」

 

「どこも似たようなものでしょう」十理は、隣で司波深雪に見惚れているクラスメイトを見やると、揶揄するように笑い声をあげた。「駿。声をかけてきたらどうですか?」

 

「冗談だろ。邪魔はしたくないし、負担になりたくない」

 

「見ているだけですか。成長しましたねえ、実に健気です。まあ話しかけたところで君の場合、今は迷惑がられるだけかもしれませんが」

 

「ほほう、森崎も司波さんのファンだったのか。あれは、まさしく高嶺の花って感じだよ。俺は可愛い婚約者がいるから、すんばらしい目の保養ってことで見ていられるけど、難攻不落を攻略しようと真面目に考えてる奴には、災難だろうな」

 

「僕に言ってるのか、それ」

 

「そう聞こえたかな?」

 

「まあまあ。ここは抑えて、抑えて」

 

 駿を宥めようとした十理は、急に奔った痛みに顔を歪めた。

 

「どうした?」

 

「いえ。少し肩が」

 

「怪我したのか」

 

「寝違えたとか?」

 

「いいえ。まあ、猫のようなものに噛まれたんです」

 

「猫のようなもの(・・・・・)って……猫じゃないのか」

 

「大丈夫?」

 

「問題にはなりません。それよりも……」

 

 

 ―――。

 

 

 なんやかんやと話しているうちに、来賓の挨拶が始まった。

 

 生徒たちは食事の手を止め、魔法界の名立たる顔ぶれの紹介に耳を傾けている。十理たちもそれに従って口を閉ざしていたが、十理自身はピンと姿勢を正した駿ほど真面目にはなれず、じゃっかん貧血気味なことも手伝って、興味のない置物を眺めるような気分で過ごしていた。

 

 だから(・・・)――

 

「――続いて、クドウレツサマの――」

 

 つい最近聞いたばかりの名詞(・・・・・・・・・・・・・)が呼ばれたときでさえも、十理は単に聞き間違えたのだと、うとうとする心地でぼんやりと壇上を眺めたのだった。

 

「………、」

 

 壇上には、若い女が立っていた。

 

 会場のほとんどの人間は壇上に立つ、ドレス姿の女を目にし、困惑の囁きを交わしていたが。

 

「………………、―――――――――――――――んん(・・)?」

 

 十理は。極めて自然現象に近しい高度な「精神干渉魔法」が会場全域に展開されていることに、気づいたわけではなかった。

 

 単純に、壇上に現れた女にそそられなかった(・・・・・・・・)から、興味を失って視線を逸らしたために、女のすぐ後ろに(・・・・・)誰かが立っていることにたまたま気が付いたに過ぎない。

 

んんん(・・・)――――――ああ(・・)?」

 

 老人だった。

 

 それも、つい先日会って(・・・・・・・)、とても面倒なことを話したばかりの――

 

 

 目が(・・)合った(・・・)

 

 

 老人は、まるで気の利いた冗談を言ったかのような、悪戯が成功したときみたいな笑みを浮かべていて。

 

「……紹介に預かった、九島烈(くどうれつ)だ。まずは悪ふざけにつき合わせたことを謝罪する」

 

 女が横へ退くと、ほとんどの人間にとっては突然そこに現れたかのように見えたであろう老人が、そう切り出した。そして懇親会に相応しからぬ、非常にショッキングな内容を話し始める。

 

 だが、十理は衝撃のあまり内容が入ってこない。加えてヒジョーに、嫌な予感がひしひしとしていた。

 

「し、駿。あの人が誰か、知っていますか」

 

「なんだよ、知らないのか。聞いてなかったのか?」

 

「誰なんです」

 

「……九島烈。かつては世界最強の魔法師と謳われた一人で、この日本に十師族を確立した人だ」

 

「は。十師族(・・・)?」十理は呆気に取られながら、訊き返す。「え。まさか十師族なんですか、あの人?」

 

「そうだと言ってるだろ」

 

 

「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ええええええぇぇぇぇ……?」

 

 

 愕然と見やった先の、九島烈は、愉しそうに笑っている。

 

 十理は。

 

 たいへん今さらながら、非常にとてつもなく厄介な人物に目をつけられたことを知り、細々と慨嘆の息をつくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――あ。そういえば伝えとくの忘れてたな。

 

 ――まあいっか。気づかなかったことにしよう。

 

 ざまあみろ、ってね。

 

 

 ……「影」のなかで、そんな言葉が呟かれていたとか、いなかったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 年下のあるじに翻弄されるオレっ子着物美人の慌てふためく様子(イベントCG)。

















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24 刺客1














 


 

 ――何だってしてやりたい。君のためなら。

 

 ――僕は、何だってやってやるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 現代において、国内外を問わずほとんどの車には自動運転機能が搭載されている。管制システムが運営されていない一部の後進国を除けば、交通事故の発生件数はシステム導入以前の時代と比べて大幅に改善されたと云ってよかった。しかし「車を楽しみたい一定層」や「緊急時」のために運転者(ドライバー)手動操作(マニュアル)機能は基本的に残されているので、走行補助機能が付いていたとしても、完全にヒューマンエラーが消えるわけではない。

 

 〈カウンセラー〉の用意したセダンにも、当然ながらその機能は備わっていた。運転席に座っているゲーテは、ナビシステムの表示に目をやってから、都心の車窓をちらと眺めた。

 

「この近くか」

 

 東京にある高級住宅街の一つに、十師族に名を連ねる「七草」の邸宅は、ある。

 

 標的(ターゲット)「七草真由美」の実家である。邸宅の周辺地理などを簡易的にまとめた資料は既に目を通してあった。十師族随一の富豪ということもあり、警備網は厳重で、侵入も逃亡も困難であることが窺える。

 

 故に、報酬は500万ドルという破格なのだ。ただし本件には、殺害条件(シチュエーション)への制約が課せられてもいた。

 

 

 ――「七草真由美の死が、大衆に知れ渡るようなかたちで殺害してほしい。」

 

 

 こうして下見のようなことをしているが、ゲーテは現段階において邸宅を襲撃するかどうかは決めていなかった。これは普段から、七草がどのような警備姿勢をしているのかを確認するためだ。たとえば悪名高き麻薬王であれば二四時間護衛を付けて警戒を怠らないが、七草のそれは、あくまでも金持ちの警備の範疇であった。

 

 被害を考えなければ、やりよう(・・・・)は幾らでもあるのだった。

 

 車は右折し、大通りへと出た。複数車線はだいぶ混んでいるが、渋滞というほどではない。

 

 助手席のアルアレフは、欠伸でもしたそうに目を細めている。紫外線をカットするガラス越しの陽光は眠気を誘うようで、ずっとうたた寝を繰り返していたらしい。

 

 いつものことだった。ゲーテは咎めたりはせず、視線をバックミラーにやった。

 

 車内TVは点けておらず、代わりにFMのラヂオが流れていた。しかし他国語であるラジオパーソナリティのコトバは意味が通じず、この国の激しい曲調も今の機嫌に合わなかった様子のアルアレフは、気だるげに細腕を伸ばすと、次々と切り替えていった。

 

 いくつかのチャンネルのあとに、洋楽が流れ出した。流行の音楽には関心のない二人であるから、それがR&Bであることや、何度もカヴァーされている名曲であることにも気が付かなかったが、黒人の歌声とコーラスの「後悔しない(ノーリグレット)」というフレーズが気に入ったのか……、

 

 アルアレフが小さく繰り返していたとき、前方の車がウインカーを出した。セダンの前に、強引に割り込んでくる。

 

「なにこいつ!」

 

 アルアレフが舌打ちした直後、 

 

 

 金属音のように不快なノイズ(・・・・・・・・・・・・・)が、頭蓋を揺らした。

 

 

 ――キャスト・ジャミング!

 

 二人の理解が及んだ刹那、

 

 車底を突き破る高性能爆薬の轟炎が、セダンを食い破り、衝き飛ばした。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 宙に浮かぶ車体が、重力に引かれて落ちる。

 

 砕け散る。

 

 硝子は粉々になり、爆炎を噴き出した車は原型を留めていない。

 

 無線操縦により、走行中のセダンの真下に侵入した高性能爆薬搭載済み小型無人車両(ラジコンカー)が引き起こした白昼の惨劇に、辺りは騒然と――化してはいなかった(・・・・・・・・・)

 

 むしろ、その逆である。

 

 信号機の発光が消滅していた。半径五〇〇メートル内すべての自動走行中の車両は活動を停止し、マニュアル運転中の車両が前方の車と衝突しようと警告音や諸々の反応は完全に沈黙しきっていた。ハンドルを握る運転手や歩道を歩いていた老若男女、オフィスビルで働く社員たちは一様に気を失い倒れている。喫茶店で接客する自動人形や監視カメラも同様であり、サイオンセンサーは「魔法」の発動を認識した一瞬後には機能不全に陥っていた。

 

 活発の消え失せた空間は、セダンを中心に半径五〇〇メートル内で引き起こされている。

 

 燃え上がっていたはずの車体から、ふっと炎が消えていた。静寂を引き裂くように、破損したドアが内側から蹴り飛ばされる。

 

 出てきたのは、無傷(・・)の男と少年であった。

 

 ゲーテとアルアレフ。殺し屋たち。両人に、大きな動揺は見られない。

 

「アルアレフ」

 

「うん。だいじょうぶ」

 

 ――因果は結ばれてる(・・・・・・・・)から。

 

 ゲーテを先導するように進む、少年の足取りに迷いはなかった。

 

 向かった先は、セダンの五つ後ろに尾いていた中型トラック。気絶しているドライバーには見向きもせず、回り込むと、ロックはアルアレフが触れることもなく自ずと解除された。

 

 扉が開く。

 

 中では三人の白人が、意識を失っていた。内装は捜査機関の移動指揮所のように様々な機械が繋がれており、遠隔操作するための画面や操縦桿らしきものもある。

 

 既に、爆破から一分近くが経過していた。

 

「起こせ」

 

 ちょん(・・・)、とアルアレフが指を動かすと、三人が身動ぎした。

 

 目が、合う。

 

「無駄だよ」

 

 頭にあったのは反撃か、防衛か。しかし男たちは動けなかった。

 

「お前たちは縛られている……捕まっている。糸が見えるでしょ?」

 

 少年に言われ、男たちはようやく正しい認識を得ていた。二人を殺害するはずが気が付けば真白(・・)い糸(・・)に巻き付かれ、繭のなかに取り込まれたかのような自身の格好。さながら捕食前に、蜘蛛の糸に絡め取られたかのような自分の、無様で最悪な姿。

 

 躰に力が入らないのも、〈魔法〉によるものだった。そして揺るぎない現実だ。アルアレフが糸を可視化させたのは、立場を分からせるためだった。

 

「何処の指示だ?」

 

 ゲーテが訊く。男は、答えなかった。

 

 睨みつけている。しかし、ふるえている。

 

「そうか」

 

 ゲーテの掌が、男の頭部を掴んだ。

 

 瞬間、男の肉体が炎に包まれた(・・・・・・)

 

「■■■■■■」

 

 悲鳴。だが。

 

「……基本を確認しておくか」

 

 ゲーテの表情に変化はない。

 

 男の全身を呑み込んでいる、ほのお(・・・)の色は、あか(・・)みどり(・・・)むらさき(・・・・)で、絶えず次々と変色してゆく。

 

 火葬場ですら、人体を完全に燃焼するには時間を要する。しかしゲーテは、それ(・・)を一瞬にして焼却していた。

 

 まさに、一瞬にして(・・・・・)。炎のあぎと(・・・)は男を呑み込むと、皮膚と肉を蒸発させ、骨すらも瞬く間に食い尽くしてしまっていた。

 

 もはや何も、残ってはいない。声ならぬ叫び声も。死に際の絶望も。残り香も。

 

 悲鳴。間近で見ていた男たちのだった。完璧に制御された「炎」は男たちに傷一つ付けることはなかったが、あまりに鮮烈な死にざまは、男たちの余裕を完全に葬り去っていた。

 

「俺が問い、お前が答える。答えられない奴に用はない。大事なのは……お前が俺にとって必要な存在かどうかだ」

 

 ふるえる男を見ながら、ゲーテが言った。

 

「分かってるよな。何を、どうすりゃいいのか」

 

 男たちを助ける者はいない。喋るか喋らないか、二つに一つだった。両方は選べない。だが、此処に至って結末は一つだという事実に気づかないほど、男は判断力を失っていた。あるいは目を逸らして。最期まで――

 

 喉が狭くなるのを感じながら、男は喋り出していた。

 

 

 

 ―――。

 

 

 

 新宿区。

 

 オフィス街に建つ、何の変哲もない六階建てビルヂングの一つ。

 

 テナントとして貸し出されている三階には、つい最近になって外資系の事務所が入っていた。

 

「どうなってる」男の唸り声が響く。「状況は?」

 

 七人の男たちのうち、卓上に投射された二つの画面(ウインドウ)を見ている機械担当の男が、くたびれたような表情をして首を振った。

 

「時間はとうに過ぎてるぞ。おい、なんで連絡がない?」

 

 襲撃班が作戦を開始してから、とうに二〇分は経っている。

 

 何かあったことは間違いなかったが。

 

「なんも分からねえままか?」

 

「無理ですよ。何度やっても応答がない。監視カメラの映像も、爆破の直後に途絶えています。警察組織の無線を傍受してますが……外国人が拘束されたなんて話は挙がってないくらいで、それだけですよ」

 

「ふざけやがって」

 

 男たちはみな、非合法な話題の飛び交う事務所の人間に相応しい面相をしていた。リーダー格の剣幕に不愉快そうな者もいれば、気にしていない者もいる。しかし彼らは共通して、銃器やタクティカルベストで武装していた。ただ一人、一〇代後半くらいであろうかの、軽装の少年を除いて。

 

「どうなってんだよっ」

 

 リーダー格の男は、焦りを隠す余裕もなくなっていた。マシュー・ウォシャウスキーの名代としてこの場にいる以上、万が一にも作戦の失敗は許されないのだ。

 

 しくじれば間違いなく殺される。それも、恐ろしく残酷な殺し方で、苦しんで無様に死ぬことになる。

 

 靴を鳴らす回数が増えていた。無意識であるから、男が気づくことはない。

 

「さっさと見つけろ!」

 

 

 鍵の開く音がした。

 

 

 ほとんど同時に、五丁の突撃銃と拳銃が扉へ向けられる。

 

 男が立っていた。

 

「――〈サラマンドラ〉!?」

 

 リーダー格の男が絶叫にも似た声を上げるのと、〈サラマンドラ〉が凄絶な笑みを浮かべたのは同時だった。

 

 一斉に掃射される。白昼で誰憚ることなく盛大に火を噴いた銃火器は、魔法師の〈対物障壁魔法〉を突き破るべく強化された最新の突撃銃である。射程距離は十分であり、連続して一挙に襲い掛かるのだ。文字通り敵を「蜂の巣」にするために。

 

 しかし、数で勝る彼らの顔に、余裕など浮かんではいなかった。

 

 〈サラマンドラ〉の正面に、変色する炎の壁が現れている。それは〈障壁魔法〉のように、銃撃の悉くを阻んでいる。

 

 ――だが無限ではないはずだ!

 

 ――此処で仕留める、なんとしても!

 

 〈サラマンドラ〉の笑みを見た瞬間に男たちが総じて感じた、身の毛のよだつ悪寒は、もはや男たちに防音性を気にする(いとま)を与えなかった。

 

 ――なんとしても(・・・・・・)、此処で!

 

「殺せえええっ!」

 

 間断を開けない。弾倉交換(マガジンチェンジ)の隙は必ず別の人間が補った。空薬莢が足元に散乱している。

 

 

 まだ(・・)。――掃射。

 まだ(・・)だ。――掃射。

 まだ(・・)なのか。――掃射!

 

 まだ(・・)、倒れないのか!? ――掃射!

 

 

「終わりか」

 

 弾切れ(・・・)

 

「終わりだな」

 

 拳銃を引き抜いた男が、絶叫した。迫りくる巨石に押し潰されまいと叫ぶかように。引き金を絞った。

 

「それ以上、撃たせないよ」

 

 引き金に掛けた指が、動かなかった。動かせない。まるで力を吸い取られた(・・・・・・)かのように。

 

 〈サラマンドラ〉が男の頭部を掴んだ。一瞬で燃え上がる。最期に見たのは、白髪の少年が、事務所に入ってきた光景だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 武装した男たちが、次々と床に倒れてゆく。二〇数分前に都心で起こった、集団同時失神事件と同じ現象が男たちを襲ったためである。

 

「要は、遅いか早いかの違いだ」

 

 ゲーテは、立ち尽くしている二人を見ながら言った。銃撃に加わらず喚き散らしていた男と、彼を守るように立つ、一見すると場違いな、しかし凍ったような眼差しの少年。

 

「けっきょく人間なんてのは、そんなもんだと、俺は思っている。最後は、灰だ。お前たちは、灰すら残らねえが」

 

 いや、どうでもいいことか。そう呟く。

 

「な、な、なァ――」

 

 リーダー格の男が、唾を飛ばした。引き攣った声で、叫ぶ。

 

「な……お、お前! セレン(・・・)!」

 

 少年の肩を押しやり、男は自分のらしい事務机から拳銃を取り出しながら、喚いた。

 

せれえええええん(・・・・・・・・)!! 何してる、はやく殺せ! こいつらを!」

 

「……はい。分かりました、オーナー」

 

 少年の躰から、想子(サイオン)の風が吹き荒れた。ゲーテは目を細めながら、それを観察した。蛇のように細長い光の塊が、燃えるように輝きながら、少年の肌を這うようにして蠢き始める。

 

「魔法師か」ゲーテの目に、興味の色が宿る。「いいだろう、来い。受けてやる」

 

ミュー(・・・)。僕の戦友。僕の相棒。僕の……忠実なるしもべ(・・・)。君に言おう」

 

 少年が、ゲーテを睨みつけた。

 

 

「――【噛み砕け】」

 

 

 光が奔り、迫る。

 

 壮絶な輝き。激しくも、凍えるように冷たい煌めきだった。さながら月光の如く鋭い光撃が、超加速によって一点に収束した衝撃を以て、ゲーテを射貫き、粉砕しようとする。

 

 

 ――だが(・・)――

 あまねくものを滅却する、比類なき炎のちから(・・・)は。

 太陽の如く(・・・・・)、あらゆるものを灰燼へと帰す――

 ――たとえそれが、無慈悲な夜を司る月の光(・・・)であろうとも。

 

 

「ミュー!?」

 

 炎のあぎと(・・・)が、光の塊を捉えていた。

 

 ゲーテは逃れられず押し留められながら尚も輝き続ける塊を鷲掴みにすると、それを握り潰した。

 

 悲鳴と共に、「光」は掻き消え、少年が崩れ落ちた。

 

「畜生、このクズが! なに死んでやがる! ふざけんなよ! おい待て、待ってくれ!」

 

 横倒れになった少年の、開いたままの瞳からは、光が消えている。魂の緒で繋がれた精霊の死が反映されたことで自らも焼き尽くされた少年は今や、ただの抜け殻になっていた。

 

「一応言っておく。助けを期待しているのなら、無駄だ。このビルの人間はみな深い眠りについている。さらに言えば、銃声はビルの外に漏れていない。だから、誰も気づかない」

 

 踏み込む前に、アルアレフはビルヂング全体を「糸」で覆っていた。あらゆる振動、衝撃、熱、生命力を無機物有機物問わず任意で選別して吸い取る「糸」は、やろうとすれば防音さえも実現する。

 

 ただし、アルアレフはそのことに不満がある様子だった。

 

「最初から眠らせておけば、撃ち合いになんかならなくて済んだのに……」

 

「その代わり、どういった人材を使っているのかは、分かっただろう。お前は黒幕じゃねえな。そんな器じゃない。誰に雇われた?」

 

「くそっ、くそっ、くそ――!」

 

 自暴自棄になったように、男が引き金を絞った。

 

「撃たせないって、言ったでしょ。馬鹿なの?」

 

 男の、狙いをつけようとした腕が、だらりと落ちる。続いて拳銃も。男の躰に巻き付いていた白い「糸」が男の目にも可視化されると、遅れて悲鳴を上がった。力が入らないようで、膝をついている。

 

「まあいい」

 

 アルアレフが端末を取り出し、リーダー格の男を撮影した。

 

「言う気がないのなら、別に。それでもいい」

 

「待て……」

 

 ゲーテは縋るような男の目を無視しながら、頭部を掴んだ。

 

「や、やめて……」

 

「断る」

 

 男は、灰すら残らず、この世から消えた。

 

「バーバラ婆さんに送るよ。色々と分かるだろうし」

 

「〈カウンセラー〉にもだ」

 

「あいつ、信用できるの?」

 

 アルアレフは、納得していないといった視線を寄越してきた。日本での後方支援を任せているあの男を何処かで疑っている。

 

 確かに、おかしなところのある男ではあった。

 

 ――「貴方の願いはなんですか、ミスタ・〈サラマンドラ〉?」

 

 ――「何故そんなことを訊く?」

 

 ――「興味があるんです。過去に貴方が行った数々の暗殺は……どれも不可能とされていたものばかりだ。貴方がたは不可能を実行し、そして実現してきた。何故そのような困難な戦いにばかり身を投じるのですか?」

 

 何を考えている、と睨みつけるアルアレフに、あの男は歯を見せず笑い返していた。

 

 ――「知りたいのですよ。誰のためでもない、私自身の充実(・・)のために。それとも私を殺しますか」

 

 ――「死体を残さない消し方なんていくらでもあるよ。実践してみる?」

 

 ――「待てアルアレフ」

 

 男の態度や気配、サポート役としては明らかに逸脱している言葉が、ゲーテのなかの何かを刺激していた。

 

 ()だ。平凡で特徴のない顔立ちだが、眼の奥に激しいものを隠している。そのことが、引っ掛かっていた。興が乗ったともいえる。だから、言っていた。

 

 ――「お前は何を差し出せる?」

 

 ――「そうですね。貴方の運命を占って差し上げましょう」

 

 おかしな男だった。そして、ゲーテはそのことを愉しんでいた。

 

 ――「俺は、生というものをあまり実感したことがない。怖いと思ったことがねえんだな。知ってるか、ある男の口癖だが。『一度でいいから(・・・・・・・)ぞっとしたいものだ(・・・・・・・・・)』。まさにそれだな」

 

 ――「かの王の如く、冷たい水を浴びせられてみたい。そのためだけに?」

 

 ――「俺は言ったぞ。お前は?」

 

 〈カウンセラー〉は、やはり、歯を見せずに笑ったのだった。

 

「こいつらとグルだと、決まったわけでもないだろう。しかし、おかしなことになってきたな。裏がある。どこぞの誰かが、俺たちを狙っている」

 

「どうする? やめる?」

 

「一度受けた仕事だ、最後までやり通す。今までと変わらない、邪魔をするなら、焼き払うだけだ」

 

「わかったよ。……ゲーテ、わらってるね」

 

「そうか? 気づかなかったな」

 

「とっても、愉しそうだよ」

 

「そっくり返すぜ、その言葉」

 

 そして、扉近くに移動していた、這いつくばった格好の男を見た。

 

「何処へ行く?」

 

 男が振り返る。ゲーテが踏み入った直後に、銃撃に参加するでもなく、死角に隠れて必死に息をひそめていた、機械担当の男。

 

「あ、あの……」

 

「お前には訊きたいことがある」

 

「は、はい」

 

 諦観と憔悴が混じった表情をして、男は項垂れた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 女がわらっている。

 

 せせら笑っている。

 

「へえ、奴ら死んだんだ。馬鹿な奴ら――」

 

 女は報告に来た男を見やりながら、ダーツの矢を放った。

 

 トリプルの18.

 

ちんけ(・・・)な爆弾程度で、あの二人を狩れるわけねえって、よくよく調べりゃ馬鹿でも分かんだろうに。連中は業界最高峰(ワールドクラス)で〈東アジア犯罪商会(グレイ・グー)〉の幹部って噂もある不死身の〈サラマンドラ〉と不老の〈スノウフェアリー〉だぞ。あの二人を狙った組織がどんな末路を迎えたのか知らねえわけじゃねえだろ。〈ヴィクター・ドク〉や〈マーブルヒート〉、それに魔法師だった〈聖八重歯(セント・ジョーズ)〉に至っては見つかったが最後、逃げ込んだ拠点(まち)の住民ごと鏖殺(みなごろし)にされたって話じゃねえか。おっかないねえ、とんでもなく執念深い核ミサイルみたいなサイコ野郎がコンビを組んでやってくるんだぜ。想像しただけで震えが止まらなくなる。だから、チャンスは一度しかねえ」

 

 トリプルの19.

 

「一度きりだ。……ウォシャウスキーはどうするんだか」

 

 メディアでは、都心で起こった爆発事故と集団同時失神事件が報じられていたが。ほぼ同時刻に新宿から「失踪」した外国人たちの事案については、どこも記載していなかった。

 

「今から新たなチームを送り込もうにも、間に合うかどうかは微妙でしょうね。現段階では動かせるだけの十分な兵力はないかと」

 

「監視は続けろよ。となると、残りはフィッツジェラルドの手下どもか。あっちの拠点は見つかったのかよ」

 

「いえ。こちらを警戒しているようです」

 

「早くしろよ。場所だけでも把握しときたい……向こうも、楽に殺せないのは分かってるだろうけど。あたしたちも方針を変えたほうがいいかもな。幸いギリアムからは、この作戦では如何なる被害をも許容するって言われてるし――」

 

 トリプルの20.

 

「ま。暗殺は当然として。やっぱタイミングが重要だな。奴らが一番油断するタイミング。そうだねえ、それしか、ないかあ」

 

「と、いうと?」

 

「奴らの海外活動におけるスケジュールは分かってんだろ? だいたいパターンは同じだ。思い切って、帰りを狙おう。船の確保だ。戦艦並みの火力のあるやつ」

 

「それはどういう――」

 

 シングルブル.

 

「察しの悪ぃ野郎だな。連中、飛行機で帰るだろ? そこを狙おうって言ってんだよ。馬鹿正直に正面からやりあっても無理なんだから。飛行機ごと撃ち落とす(・・・・・・・・・・)。一瞬で鉄の棺桶に早変わりだ、盛大に花火と散ってもらって、太平洋の藻屑にしてやろうじゃねえか」

 

 女は、顔色の悪くなった男に微笑みかけた。

 

 矢を放る。

 

「それまでに、邪魔者は排除しとかなくっちゃな」

 

 矢は、中央を射抜いていた。

 

 

 インブル.

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

「お前は?」

 

 男に、〈サラマンドラ〉を恐れる様子はない。

 

「貴方の願いは、もうすぐ叶えられるでしょう」

 

「外れたら」

 

「そのときは、私の命を。どうとでも」

 

「いいだろう。面白い。アルアレフ?」

 

「うん。此処に、因果は結ばれた。お前がどこへ逃げようと、お前は僕から逃げられない。おかしな真似はしないことだよ」

 

 

「ええ。……ええ、重々承知の上ですよ、ミスタ」

 

 

 〈カウンセラー〉は、わらいながら言った。

 

 

「そのときが来るのを、楽しみにしています」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



















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25 本戦


 藤林響子に関する過去を捏造しています。捏造タグ。
 競技会場の構造とかに関しても。改変しています。改変タグ。

 そんな感じですー。

















 

 天候は明朗。

 

 会場は満員の様相を呈しており、まさしく晴れ舞台と呼ぶに相応しかった。積み上げた研鑚を大志に抱く少年少女らは、それぞれが身のあかし(・・・)を打ち立てんと、眼差しに意気軒昂を漲らせている。

 

 各校の校歌演奏が終わり、登壇した進行役が、九校戦の開幕を宣言した。

 

 これより十日間――

 

 学生たちによる、魔法競技大会が始まるのだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 一日目の競技はスピード・シューティングとバトル・ボードの予選である。第一高校は七草真由美が前者に、渡辺摩利が後者に出場することになっていた。

 

「ハイ、達也くん」

 

「エリカ。おはよう」

 

 御嵜十理(おさきしゅうり)は、自身を誘ってくれた北山雫たちと横並びに座りながら、競技の始まりを待ち侘びていた。普段ならばいっそ飄々と云えようまでの余裕が浮かぶ(かんばせ)には、今は、観客として素直に楽しもうという意思が表れている。

 

「よっ」

 

「おはようございます、皆さん」

 

 一年生組では珍しく、一科生と二科生が親しくしているメンバーであるところの九名――十理自身も、気がつけば一人に数えられるようになっていた――が一堂に会したのであれば、一般用の客席である以上は場所取りに困るのも無理はない、しかし彼らが陣取っていたのは人気席とは逆の、ほとんど最後列近くであった。

 

 幸運にも、合流して早々に別れるような物悲しい展開にはならず、全員そのまま揃っての、きちんと着席して観戦するというかたちで腰を落ち着けると、雑談もほどほどに……、

 

 暫くすると、観客席が静まり返った。エリカと達也の、最前列に構える生徒(男女)たちへの皮肉も止み、痛いほどの緊張のなか、第一試合にして既に本命とされる七草真由美の試合が、始まった。

 

 発射。クレー。

 即、壊音/粉砕。

 射出。次。

 

 七草真由美は、不動に佇んでいる。競技用CADを構えることもなく。しかしクレーは精密に確実に次々と破壊されてゆく。

 

 終了。

 

 時間にして、五分である。あっという間と言ってよかった。ヘッドセットを外し、拍手に沸く観客へ笑顔で応えている七草真由美は、結果的として、予選をパーフェクトの記録で突破したのだった。

 

 そして十理は拍手を打ちながらも、レオンハルトらが抱いた疑問に淀みなく答えている達也の解説を聞きながら、入学最初期に行われた授業見学、即ち射撃場で披露された生徒会長の実力がその一端に過ぎなかったことを実感し、期待に頬が緩むのを感じていた。

 

「ねえ雫。見て。御嵜くんがまた、例の顔(・・・)で笑ってる……」

 

「たぶん腹黒いこと考えてるんだと思う。流石、腹黒系男子」

 

「そこのお二かた。人聞きの悪いことを言わないでくれますか」

 

 どうも光井ほのかと北山雫は、クラスメイトのなかでも親しいことが手伝ってか、最近は十理に対する扱いが当初と変わってきていた。言動に敵意こそないものの、時に十理をたじろがせてしまうような発言をすることが、ままあるのだ。

 

 特に、北山雫が。

 

「冷や汗も浮かんでるし」

 

「これは、会場が少し暑いからですよ」

 

「そんなに暑いか?」

 

「空調は機能していると思うけど……」

 

「図星を突かれて、動揺しても、汗は流すよね」

 

「暑くても流します」

 

「つまり絶賛、腹黒中ってわけね」

 

「エリカもですか。それを言うなら僕を含めてみなさん腹のなかは真っ黒でしょう。僕たちは、世界を相手取る詐欺師なのですから」

 

「いや、だからそういう意味で言ったわけではないぞ……」

 

 世界規模での秘密を抱えているという意味では、この場の誰よりも確実に腹黒い少年がぼそりと呟くと、そんな兄をからかうようにして、少女は可憐な笑みをこぼした。

 

「お兄様。もし御嵜くんの言うとおりだとしたら、私も腹黒ということになってしまうのでしょうか?」

 

「そんなことはないよ、深雪。腹黒いのは十理だけだ」

 

 間断なく満点の対応を取る達也に対し、十理は皮肉めいた抑揚をつけて、

 

「君にまでそんなことを言われるなんて、どうやらここは本当に敵地のようですね。しかしながら僕は芸術と自由を標榜する王国の信徒として、最大限領土を死守しなければならない。しかるに共同戦線を呼びかけます、幹比古(・・・)

 

「僕!?」

 

「他に誰がいますか? このメンバーのなかで腹黒男子の名が似合うのはレオンハルトを除いた三人しかいない――レオ(きみ)は腹芸が不得意そうですからねえ――そしてうち一人は連合国側のカウントです。ならば残った枢軸国同士、手を取り合うべきでしょう」

 

「それ、負けること前提ですよね。歴史的に」

 

「そして歴史は繰り返す」

 

「やったじゃん、腹黒ミキ」

 

「僕の名前は幹比古だっ」

 

「そっちを先に否定するんですか……吉田くん……」

 

「あいやッ、柴田さん、今のは言葉の綾というかッ」

 

 たじたじの幹比古――以前達也たちの紹介で知った際に、苗字は嫌いだからとの要望を受けてそう呼ぶことになっていた――の態度に、十理は芝居じみた素振りで嘆息すると、

 

「どうやら見解の一致はみられないようですね、残念なことです、我が同胞。まあいいでしょう、認めましょう。この身は確かに腹黒いことを考えたことがなきにしもあらず。しかし、さすればこそ僕は貴女に矛を向けるのを厭わない。問い質さなくてはならないことがあるからです。というのもつまり、腹黒なるものは、果たして真実、悪徳足り得るものなのかということです」

 

「むむ」

 

 十理は「嘘は吐かないが真実も言わない」煙を巻く詐欺師の理屈で弁論を展開する。それはいかにも本当そうで、ありもしない説得力のようなものをにおわせているから、次第に感化される者が出始めていた。

 

「なんだか哲学的な話ですね……」

 

「ほのか、あなた騙されてるのよ」

 

「先入観という集団疾病じみた安全地帯から出て、腹黒という響きへのバイアスを排除した開かれた眼差しで見つめてこそ霧は晴れ真実というものは――」

 

「むむむむ」

 

「なんなんだこの人たちは……」

 

「楽しい子たちでしょ?」

 

 なお、いくら最後列とはいえ観客は他にもいるので、九人が冷たい視線に晒されていることに気づくまで、暫くのあいだ姦しい遣り取りは続くのであった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 続くバトル・ボードであるが、こちらも第一高校参謀の思惑通りに勝敗は決することとなった。

 

 競技の特性上、水が近いこともあって会場の気温は幾らか和らいで感じられたから、内心では金属探知機に引っ掛かるゆえ「泣き雪鉄(しろがね)」を取り出せないのを少し残念に思っていた十理も、あまり体調を気にせずに渡辺摩利の独走を観戦していられたので、面々に疲れというものはほとんどなかった。

 

「どっちも予選だけど、なかなかハイレベルな戦いだったよな」

 

「各校の選抜メンバーですし。やっぱり、皆さんお上手ですよね」

 

「なかには失敗してる人もいたけどね」

 

 食堂では、八人が午前の試合の感想を話し合っていた。七草真由美の高度な魔法運用や渡辺摩利の戦術眼であったりと、学ぶべきものは勿論のこと、エンターテイメントとしても優れた試合であったと言える。

 

「試合とは関係ありませんが、僕はこの会場に遮光フィルターが無いことが意外でしたね。フィールド上空はおろか、客席にも無いだなんて。どこにでも設置されているものと思っていましたよ」

 

「まあ此処って、軍の一施設だからね。空層フィルターとか、ああいうのって、やっぱりお金がかかるだろうし、設備面で一流の競技会場と比べるのはちょッと酷でしょ」

 

 渡辺摩利の話題が上がるたびにじゃっかん不機嫌になっていたエリカは、普段の調子を取り戻すように、少し茶化しながら言った。

 

「そういうものですか。皆さんは特に気にならなかったんですか、日差しとかは?」

 

「俺は別に?」

 

「私も」

 

「ええ」

 

「そうですか……」

 

「そういや試合の時も言ってたな。十理って暑がりなのか?」

 

「熱中症には気を付けないと。洒落にならないよ」

 

「そんだけ長い髪してるからじゃね?」

 

 切らないのか、と気軽に言ったレオンハルトに、十理は一瞬、表情を失くすと、小さく微笑んでから口を開いた。

 

「長い髪には魔力が宿る、という話を聞いたことはありますか?」

 

「昔っから、言われてるわよね。迷信っていうのが今の学会の定説だけど」

 

「ではサムスンというイスラエル人の話は?」首を傾げる面々に、十理は続けた。「レンブラントの絵にもあるのですが。……古代、サムスンという男は、比類なきちからを有していました。多くの人間に畏れられる驚くべき怪力。そのちからの源は、生まれてから一度も剃刀を当てられたことのない髪にあったのですが、やがて彼は愛した女の裏切りによって、ちからを失うことになりました」

 

「……だから、ですか?」

 

「いいえ? 僕とはまったく関係のない話です」

 

「おいっ、じゃあなんで言ったんだよっ」

 

「僕が髪を切らない理由は、単純です。昔、僕の好きだった女性(ひと)が、僕の髪をきれいだと褒めてくれたからですよ」

 

 なんてこともないような口ぶりで言った、儚い十理の微笑みに、レオンハルトたちは虚を突かれていた。立ち入るべきではない場所へ、知らず踏み入ってしまったときのような空気感が、彼らの間に沈黙を落とす。

 

「……その人って」

 

「なかなか会えないんですよ」十理は、サンドイッチを飲み込んでから言った。「今は、海外ですから」

 

「あっ、そういうこと!?」素っ頓狂な声だった。そして、脱力。「なんだ、そういうことね。てっきり、ねえ?」

 

「ああ。ちょっと勘繰っちまったよ……」

 

 この国にはいない。十理の暮らすこの世界(・・・・)にいないという意味では、海外と同じだった。なかなか会えないというのも。「織」や「火艷」とは会えたが、十理の髪を褒めてくれた人とは、会えていない。十理は、嘘は吐いていなかった。

 

 だが、多くを語りたいとは思わない。敢えて勘ぐりを否定する気も、起こらなかった。「何を考えたかは聞きませんが。僕の話はもういいですよ……」

 

「そういえばさ、織さんは今はいないの?」

 

 しかめ面になった少年をなだめるように、エリカが言った。

 

「いえ、『影』のなかで休んでいますよ。起こせば起きるでしょうけれど、今この場では無理ですね」

 

「あの人って普段から――その、影のなかに?」

 

「居心地は『プールつきの中級ホテルよりかは上のランク』らしいです、本人談だと。僕はなかに入ったことはありませんから、よく分からないんですが」

 

「何の話をしてるんだ?」

 

 不審がるように幹比古が訊くのと、柴田美月が「大丈夫ですか」と首を傾げたのは同時だった。

 

「吉田くん、顔色悪いですよ」

 

「……まあ、熱気にやられたみたいでね。少し気分はアレだけど――」

 

「本当に悪そうだぜ、幹比古。休んだほうがいいんじゃないか?」

 

「………、」

 

 柴田美月に付き添われ、部屋まで送られていく幹比古を見ていると、揶揄するような笑い声が上がった。

 

「あの二人って、なんだかずいぶん距離が近くなったわよね」

 

「あら。エリカって意外とそういうのが好きなのね」

 

「意外ってなによー。ていうか、織さんのことミキには話してなかったわね」

 

「他言は無用です。これからも秘密であることを願いますよ。口が軽い人は、信用できないし、早々に信頼を失います」

 

 つい最近起こった事件による、親戚への根強い不満を想いながら、十理は快活な少女を見据えた。

 

「むぐっ……」

 

「あいつだけ仲間外れっていうのもな」

 

「僕の秘密を仲間かどうかの基準にしないで頂きたいのですが。話す時が来れば話すでしょう。それに、加えて言うなら、秘密のある人間は友人にはなれませんか?」

 

「―――」

 

 このとき、ある少女が密かに目元を伏せていたことに、十理は気づいていたが。

 

「ところでお三方のサポートは、達也が担当しているんですよね。仕上がりはどのような具合なんですか?」

 

 北山雫は珍しく「にやり」と笑い、指を振った。

 

「それは、本番で確かめてみて」

 

 ところで。

 

 この場にいない達也が同時刻、どこで何をしていたかと云えば――

 

 

 

 ◇

 

 

 

 高級士官用客室にて。

 

 円形のテーブルに着席していた司波達也は、風間玄信少佐と現状報告(・・・・)を交わしていた。

 

 風間玄信からは主に、昨夜(・・)達也が幹比古と捕獲するに至った「賊」の正体が、かねてから疑っていた国際犯罪シンジケート「無頭竜」の手先であったこと。また近隣において何らかの――恐らくは九校戦と関係する――活動の兆候が見られるため、一応警戒しておいて欲しいという内容が伝えられ、達也の側からは、改めて九校戦に臨む「一般人」としての立ち位置を声明させられることになった。

 

「今回の大会に限ったことではないが、九校戦というのはある種、国の威信を示す場でもある。様々な形で利用しようとする勢力は多い。そしてそういう時期に限って、厄介事というのは、狙い澄ましたように起きるのだな」

 

「と、いいますと?」

 

「先日、都心で起こった車上爆破事件を知っているか? メディアでは集団失神事件としても報道されているが」

 

「耳にはしています。テロの疑いがあることや、一部では、魔法師の関与を指摘しているところもあるようですが」

 

「テロの可能性がある。それも、魔法師によるテロだ」

 

「それは」

 

「集団失神現象に関して、サイオンセンサーが故障する直前に魔法の発動を感知していることから、魔法師が関与していることはほぼ確定らしい。ただし付近一帯の監視システムが爆発と同時にショートしたことで、犯人や被害者の素性はまだ明らかになっていない。それに、どちらも特殊加工の施された禁制のガラスを使用していたという。そもそも誰が犯人(・・)被害者(・・・)なのかすら、判然としていないのが実状だ」

 

 爆破された車両から遺体は見つからず、同じ道路には――自動運転が再開されてから発覚したことであったが――搭乗していたはずの運転手の痕跡がきれいに消し去られた、無人(・・)の車が二つ残されていただけだったという。

 

「しかし、何故そのことを? 軍の担当する案件とは思えませんが」

 

「色々と事情があってな……異例ではあるが、破壊されたデータの復旧ができないかと依頼されたのだ」

 

「ですが……」と続けようとして、達也は藤林響子の機嫌が良からぬことに気が付いた。「それは、少尉にも解析できなかったということですか?」

 

 電子の魔女(エレクトロン・ソーサリス)。その界隈の人間であれば聞かない者はいない、藤林響子の二つ名であったが、当人は苦い顔をしてかぶりを振った。

 

「今回は尋常じゃないのよ、極めてね。上書きであっても、消去されていても再構築はできる。だけど、今回のは普通の――簡単な壊れ方じゃないもの。時間がかかるわ」

 

「……だから、あまり機嫌がよくなかったんですか」

 

「何が?」

 

「普段と違って、様子がおかしかったものですから」

 

 捜査の進捗は「電子の魔女」をして芳しくないらしい。だから、いつもなら余裕然としている藤林響子の雰囲気が異なるのかと、達也は疑ったのだが。

 

「言ったはずだ、藤林。達也なら見抜くだろうとな」

 

 柳連が皮肉そうに指摘すると、人当たりの好い笑みを浮かべながら真田繁留が「最近の彼女は調子がおかしくてね。何があったのかは喋らないけど」と繋いだ。

 

「プライベートなことでしたら、立ち入りませんが……」

 

「別に、大したことじゃないわよ。勘違いしないでください。機嫌も悪くありません。本当になんてこともない話なのよ。ただ――」

 

 藤林響子は。

 

 なんてこともなくない(・・・・・・・・・・)様子で、かすかに唇を震わせながら言った。

 

 

 ――古い、とても古い知り合いに会っただけよ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 高級士官用客室にて行われた現状報告は、終始スムーズに進められた。

 

 その、別れ際のことだった。

 

 独立魔装大隊幹部少佐は、鋼の如き声をして少年に告げた。

 

「達也。もし選手として出場するようなことがあれば――」

 

「分かっています、少佐。もし〈雲散霧消〉を使わざるを得ない状況に追い込まれたとしたら……そのときは負け犬に甘んじます」

 

 少年にとって、合理的に考えれば起こりえない可能性の話であった。口にした当人も、まあ大丈夫だろうなと思っていたほどである。

 

 しかし顔を見合わせていた二人は、失笑し合った傍から、何故だかそれを「絶対」と断言することができなかった。

 

 不吉の悪寒めいていて――ともあれ未来視の能力などないのだから、云うなれば、これはただの予感である。

 

 とはいえ、その予感は、正しかったのだが。

 

 

 

 ―――。

 

 

 

 午後。

 

 スピード・シューティング女子決勝戦にて。

 

 第一高校の七草真由美は、大方の予想通りに優勝を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ――作戦は、続行される。

 

 ――計画に、変更はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 ――次回、命を燃やす。
















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26 刺客2

 
 原作キャラ■■。

















 

 九校戦は、二日目に突入した。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「――なんだか不機嫌そうね?」

 

 司波達也の姿は、競技エリア内の、コート近くに用意された第一高校の天幕にあった。

 

「いえ。そんなことは」

 

「そーお?」

 

 軽やかに笑っているのは、七草真由美。クラウド・ボールの優勝候補筆頭にして、十文字克人や渡辺摩利に並ぶ「最強世代」の一人である。

 

「御用があったのでは?」

 

「様子を見に来たんだけども……問題は」

 

「ありません」

 

「全部覚えたの?」

 

「はい」

 

「……全員分?」

 

「そうですが?」

 

 きょとん、と目が丸い。

 

 達也が女子クラウド・ボールの副担当に決まったのは、昨夜のことだった。急遽依頼した側として気にかかっていたのであろうが、達也には優れた記憶能力があるため、就寝時間を削る必要があったこと以外は問題はなかった。

 

 うそー、と言いたげな様子ながらも、これまでの風紀委員での働きなどが功を奏したようで、どうやら信用されたらしい。

 

「じゃ、行きましょう」

 

「は?」

 

 しかしながら、ついて来いと言われれば、断るだけの理由もないのだが。

 

 

 ―――。

 

 

 クーラージャンパーを脱いだ七草真由美が、バッグからCADを取り出そうとしたところで、声を上げた。

 

「ない!」

 

 拳銃形態の特化型CADを入れていた専用ポーチのジッパー部分を見つめながら、その表情は明らかに気落ちしている。

 

お守り(・・・)、つけてたのに。どこかに落としちゃったのかしら」

 

「お守りですか」

 

「リンちゃんにお土産でもらったものなのよ。ウサギのでね。可愛くて、気に入っていたんだけど……紐が切れちゃってる」

 

 とはいえ今から探しに行くのは現実的ではない。七草真由美も、それは理解しているようだった。うぅん、と何度か唸るように眉間を険しくすると、ゆるゆると頭を振って、

 

「仕方ないわね。今は、こっちに集中しないと。達也くん、手伝ってくれる?」

 

 ストレッチを補助しながら雑談をしていると、技術スタッフ三年生の和泉理佳が現れた。達也に七草真由美に専念しろと言いに来ただけのようで、すぐに消える。

 

「悪い子じゃないのよ」

 

「気にしていません」

 

 達也には、どうでもいいことだった。

 

「……そう。なら、行ってくるわね」

 

「ええ。ご武運を」

 

 第一試合が、始まる。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 クラウド・ボールは、両コート内に二〇秒おきに追加される低反発ボールを、相手陣へ入れ続ける球技である。

 

 選手の傾向は主に二種類であり、テニスと違ってラケットを握らずに、魔法のみでボールを打ち返してゆくパターンと、素直にラケットを使用してコート内を走り回るパターンに分けられる。

 

 後者が肉体的な負担と引き換えに、ボールを打ち返す際の魔法力の消耗は比較的少ない――移動のための自己加速術式を使うことはある――のに対し、前者はすべてを試合開始から終了まで、魔法のみで補わなくてはならないため、高い技量と持久力(・・・)が要求される。

 

 七草真由美の対戦相手も、七草真由美同様に、魔法オンリーのスタイルで対峙することになった。

 

 そして、その実力差は明白であった。

 

「―――」

 

 相手選手のボールが、七草真由美のコートに入った瞬間に、倍速されて相手へと返される。どの角度、方向から打ち込もうとも、悉くが弾き返されてゆく。

 

 増え続けるボールを追いかけて休む間もなく慌しくCADを操作する相手選手とは対照に、七草真由美は、ただ、コートに佇んでいる(・・・・・)だけであった。

 

 目を伏せて。昂揚も、侮りも、憐れみも抱かずに。

 

 祈るように。

 

 祈り続けているようにしか見えないのに、七草真由美は得点を積み重ねてゆく。

 

 一セット目の終了と共に、相手選手が膝をついた。

 

 七草真由美の成績は、無失点である。表情にも十分な余裕があった。

 

「あれでは、駄目だな」

 

 タオルを差し出して迎え入れた達也は、想子(サイオン)の枯渇により相手が棄権することを告げると、疑わしげだったのが直後に審判団から棄権する旨が伝えられたことで吃驚(びっくり)している生徒会長を笑うこともせず、次の試合に向けてCADのチェックを提案した。

 

 調整機は天幕ではなく選手控室に設置されているため、コートを出て、客席の下にある通路から戻る必要がある。各選手に割り当てられた個室であるため、試合と試合の合間に休憩をしつつ、弱冷房の効いた部屋で涼みながら、作戦を積め直す選手もそれなりにいるようだった。

 

「計測はしなくてもいいの?」

 

「プログラムを書き換えたところで、テストする時間がありませんから……」

 

 取り外し、電源をオフにしたCADを膝上に置いた七草真由美は、持ち込んだペットボトルで水分補給すると、何かを期待しているかのように、それで、と口にした。個室に男女が二人きりで、そのうえ距離感もだいぶ近かった――この場に彼の妹がいれば、さぞや奇麗な笑みを浮かべたことだろう――が、特に気にしている様子はない。リラックスしている。

 

「どうだった?」

 

 主語を省き過ぎている質問ではあったものの、

 

「上手に調整されていると思いますよ――」

 

 達也は、飾ることなく感想を告げていた。七草真由美のCADは安全性に富んだ、まさに優等生といった仕上がりで、魔工技師志望(・・)である達也の目から見ても不足はなかった。

 

 七草真由美の頬が、ほんのりと赤くなっている。端的に言って、照れていた。「どうしたの?」だからこそ少年が立ち上がり、唐突に緊張を醸し出したことに、驚いていた。「達也くん?」

 

 達也は、答えない。意識が研ぎ澄まされている。肌を刺激する、何か。

 

 ――気配(・・)

 

 ――つい先日(・・)感じたような、暴力的で、好戦的な、気配(・・)

 

 〈イデア(・・・)〉にアクセスしようとしたのと、扉が、火炎放射器(バーナー)で融けた紙のように消滅したのは、同時だった。

 

 扉の消えた、向こう側に。

 

 仮面の男が、立っている。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 仮面の男が(・・・・・)そこに立っていた(・・・・・・・・)

 

「―――」

 

 その表情は覆われていて判らない。その「仮面」が、〈暗示迷彩〉なる人の精神に働きかける魔道具の一つであると瞬時に見抜くことなど、万能ならざる少年にできるわけもなかった――気配の察知が遅れた理由が「仮面」の持つ隠蔽効果によるものだと誰も気づくことができなかったのと同じように。

 

 ――どうして男が此処にいるのか。

 

 ――どうやって男は此処へ来たのか。

 

 しかし少年が何よりも理解すべき事柄はまず、男の掌に纏わりつくようにして燃え盛る、鮮烈な「炎」の意味だった。

 

「会長」

 

 手元に、CADはなかった。七草真由美のCADに入力されているのは加速系統魔法の〈ダブル・バウンド〉のみであり、戦闘用には調整されていない。達也もまた、戦闘用にチューンされた特殊CAD「トライデント」や風紀委員の職務中に使用するようなCADは持ち合わせていなかった。

 

 男が踏み出す。

 

 精霊の眼(エレメンタルサイト)は「炎」の蠢きが、達也の理解を越えた想子のかたち(・・・)である様を映し出していた。

 

 ――燃え盛る星(・・・・・)

 

 太陽を直視する者は、その輝きのあまりに目を潰す。すべてを見通すが故(・・・・・・・・・)に、回路は膨大な情報量に忽ち焼けついた。

 

 その時点で。

 

 崩れ落ちていたはずの達也は――倒れていない。

 

 

【自己修復術式/オートスタート】

 

 

 僅かに意識は溶暗を挟んだものの、記憶は連続を維持している。自動切断された〈イデア〉とは再接続せず、達也はフラッシュキャストによる〈雲散霧消(ミスト・ディスパージョン)〉ではなく、〈術式解体(グラム・デモリッション)〉を発動した。

 

 至近距離から放たれたサイオンの嵐が男を襲う。「炎」を形作る魔法式と男の精神及び肉体の連結を瞬く間に崩す、超高等対抗魔法――

 

 両者の間に、炎の壁が現れていた。水面に石を投げたように揺らめく炎は変色しながら、灼熱による余波すら残さずに消える。

 

 それだけだった。男には、何の変化も起こらない。〈術式解体〉は消えていた。〈精霊の眼〉越しであったなら、サイオン塊が炎に触れた瞬間に焼き払われた光景が見えたであろうが。

 

 隙が生まれていた。達也にとって、極僅かな隙だ。男にとっては、それだけで十分過ぎた。

 

 炎が奔る。

 

 ――忍術を駆使した回避運動。

 

 躱した。だが。

 

 ――速い。

 

 眼前に、男。

 

 これは、避けられない。

 

「達也くん――!?」

 

 司波達也に、強い感情は存在しない。ただ一つのことだけを除いて。

 

 恐怖は感じない。一人の少女に関連すること以外ならば、自分の躰すらも二の次に出来る。思考は如何なる非常時であっても合理的に決断することができると自負している。

 

 だが、完璧ではなかった。

 

「■■■■■■!!!!」

 

 痛みは存在する。痛みは健常であることの証なのだ。痛みから逃れる方法は、そう多くはない。「心頭滅却すれば火もまた涼し」。それもまた、一つの考えではあるが。

 

 ()達也は腹部を腕に抉られながら(・・・・・・・・・・・・・・)内側から(・・・・)炎で焼き殺されている(・・・・・・・・・・)

 

 

【自己修復術式/オートスタート】

【自己修復術式/オートスタート】

【自己修復術式/オートスタート】

 

 

 修復が働いている。修復した傍から焼き殺されてゆく。

 

「■■■■■■■■■■■!!!!!!!!!」

 

 肉が融ける。骨が融ける。内臓が融ける。神経が融ける。

 

 意識が融ける。

 

 腕が暴れていた。脚が踊っていた。感覚は壊れていた。理性は狂っていた。

 

 灼かれている。

 

 灼かれてゆく。喉。眼。何もみえなくなった。自分が。どうなっているのか。声。何を、しゃべっているのか。すら。わからない。

 

「達也く――」

 

 浮遊感のあと、壁に叩きつけられた。受け身など、取れるわけがない。視界は、天井を映している。だが、眼球は蒸発していた。理解することはできない。腹には、穴が開いている。小さな子供なら通り抜けられそうな、(トンネル)。噴きこぼれた血は、一滴たりとも残ってはいない。

 

 悲鳴。女のだった。すぐあとに、床に倒れるものがあった。

 

 恐怖と痛みで、死に絶える少女の、双眸と。目があう。

 

 達也には、それが。誰なのか。

 

 わからない。

 

 

 

 ◇

 

 

 

【自己修復術式/オートスタート】

【魔法式/ロード】

【エラー】

【エラー】

【エラー】

【エラー】

【エラー】

【コア・エイドス・データ/バックアップよりリード】

【修復/開始――】

 

【――完了】

 

 

 

 ◇

 

 

 

 気配が消えていた。(いいや)、まだ其処にいるのか。

 

 意識の断絶から回復したことを自覚する。しかしあらゆる刺激が混線していた。内と外に。内と外を分け隔てる感覚が麻痺している。夢を見ているかのようだった。感覚が回復したのと同時に、達也は床に倒れていることを把握した。

 

 目の前で、七草真由美が死んでいる。

 

「――――」

 

 声が、出た。喉は動く。指も、動く。脚は。動いた。

 

 音が聞こえた。何かが壊されるような音。耳も、〈再成〉されていた。誰かが戦っているような音だ。どれだけ、意識を失っていたのか。ほとんど、経ってはいないのか。

 

 立ち上がろうとして、膝をついた。損傷は、完全に「再生」されている。技術スタッフ用の制服にも、傷は残っていない。だが、火傷の痕のように、痛みが躰に焼きついている。

 

 七草真由美を、改めて見た。

 

 死んでいる。

 

 見た目だけならば、そうだろう。事実として、ほとんど死にかけている(・・・・・・・)。達也と違って全身の皮膚まで焼かれてはいない、しかしユニフォームを着た胴体は上と下で引き千切れ、血の海に浸っている。傷口に、〈治癒魔法〉をかけたと見られる形跡があった。この状態で、意識を繋ぎ止めながら自身に治癒魔法をかけていたのか。だがそれも途中で力尽きたのだろう。間も無く七草真由美の存在は、死という状態(エイドス)で固定される。たとえ今から治癒魔法をかけ直したところで、万に一つも間に合いはしないだろう。

 

 けれど、まだ。〈精霊の眼〉を持つ達也には、まだ少女が生きているということが理解できていて。限りなく死にかけていて、ほんの僅かしか(・・・・・・・)生きていないが、まだ完全に死んではいない。死んでいないのなら、覆す(すべ)が――死の淵から呼び戻す術が――達也にはある。

 

「おいおい……」

 

 そして七草真由美をこのまま見殺しにしてしまうのは、司波達也の未来構想にとって、いささか不味いことだった。

 

「こいつは、マズイな」

 

 合理的(・・・)に思考し、達也は手を伸ばす。少女へ向けて。

 

 それは、司波達也の生来の魔法演算領域を占有する二つの〈魔法〉のうちの、一つである。

 

 ――「再成」

 

 それは、治癒魔法とは比べ物にならない。治癒魔法で得られる効果を遥かに凌駕した、まさしく別次元の、奇跡のような魔法だった。無機物有機物を問わず、あらゆる存在を復元してしまう、この世で司波達也にのみ与えられた、比類なき、最高で、最悪の、ちから。

 

【エイドス変更履歴の遡及を開始】

【復元時点を確認】

 

 ――〈再成〉、する。

 

【復元開始】

 

「■■■■」

 

 七草真由美の躰が震え、霞むと――

 

 分断されていた半身が、いつの間にか一つに戻っていた。

 

 血の海が消え、彼女を死に至らしめる傷が、きれいに消えている。

 

 一瞬だった。

 

 

 七草真由美は、死んでいない。その肉体は致命傷どころか、傷一つ負わない状態で時間経過したとして、世界に再定着された。

 

 

「達也」

 

 声。

 

 気配には、気づいていた。しかし、あの襲撃者のものとは違う。

 

「十理、か」

 

 二人。違う、三人(・・)ぶんか。どちらでもいい。振り向く余裕もなかった。あまり、長くは持ちそうにない。それほどまでに、堪えていた。

 

「すまない。助けを呼んできてくれ」

 

「君は――」

 

「俺は少し、眠る……」

 

 奇跡(・・)には、常に代償(・・)が求められる。

 

 

 達也は、今度こそ意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 原作キャラ瀕死。
 ――からの復活!

 命を燃やす(物理)だったわけですが。


 次回。

 ――死/線。


 久々の織くんの大立ち回りの予定。
















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27 死線


 誰かの死線。
















 

 ◆

 

 

 

「あら」

 

 第一高校作戦本部にて、市原鈴音がぽつりと言った。

 

 菓子籠の置いてある中央台の下に、ウサギのミニチュアが落ちている。見覚えのあるお守りだった。しゃがんで手に取ると、モニターを操作していた中条あずさが、小動物めいた仕草で小首をかしげた。「なんですか、それ?」

 

「あの子のだわ」

 

 自分が贈った物だった。紐が切れている。画面を向くと、祈るようにしている七草真由美が、クラウド・ボール第一試合で着実に得点を重ねてゆくところだった。

 

 少し考える。縁起とか(ゲン)とかを、わりと信じている娘だ。失くしてしまったことを、意外と気にするかもしれない。しかし参謀本部を預かる身として、持ち場を離れるわけにはいかない。

 

 誰かいないかと見回したところで、暇そうな「彼」が目に付いた。

 

 いまどき珍しいリムレスタイプの眼鏡をかけた、艶やかな黒髪を後ろで結っている美丈夫の、彼。

 

「御嵜くん」

 

「……はい?」

 

「お使いを頼まれてくれませんか」

 

 ぱきり、と小気味いい音を立てて。

 

 煎餅をくわえた少年が、目を丸くしている。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「暑いなあ」

 

 御嵜十理(おさきしゅうり)は、第一高校の作戦本部から出て、クラウド・ボール会場の選手控室へ向かっていた。

 

 気象予報によれば、今日が今週の最高気温に当たるらしい。強烈な日差しから逃れつつ観戦するべく――レオンハルトにはああ(・・)は言ったものの、長い髪というのは確かに暑いので――冷房の効いている作戦室に避難してきたはずが、この展開は予想していなかった。

 

 ――「なぜ僕なのでしょう」

 

 問うた少年に返されたのが、「一番暇していそうだから」とのことで。

 

 ――そりゃあ、暇でしたけども。

 

 声援が、通路にまで漏れ聞こえてくる。十理は非常用の緑のマークを通り過ぎると、会場へ続く広い廊下を跨いだ。赤丸の表示された端末を片手に、襟元を開いて風を送り込みながら歩く。

 

「暑い……本当に」

 

 どうにも、少し気分が悪くなってきた。直射日光は遮られているから、外よりも暑くなるなどあるはずがない。現に、廊下は比較的涼しいくらいなのだ。

 

 ――でも、なんだろう。妙に、身体が重たい。

 

「っと……、」

 

 足取りがふらつき、前に倒れそうになった。急に、猛烈な眠気に襲われる。端末の液晶画面が突然真っ暗になったことを驚く間もなく、力が抜けてゆく。脚がもつれ、まぶたが勝手に落ちてしまう。

 

「トーリ」

 

 崩れそうになった十理を支えたのは、涼しげな浅葱色の着物をまとった、黒髪の少女(かれ)だった。

 

(しき)……?」

 

 いつの間に、「影」から現れたのか。気づけなかったほどに、今はただ異様に眠たかった(・・・・・・・・)

 

「じっとしてろ」

 

 業物の短刀が、十理の肌スレスレを奔った。剣筋など見切れるはずもない十理は身を任せたままだったが、途端に自身を襲っていた眠気が、まるで木陰から日なたへ出たかのように冴え晴れるのを感じ、目を(しばた)かせた。

 

「これは」

 

「トーリ、よく聞けよ。オレたちは今、攻撃を受けている」

 

 織は、ナイフを握ったままでいる。周囲に人気はないが、見られでもしたらこと(・・)だろう。本人は、あまり気にしていない様子だったが。

 

「おい」

 

 今、織は非常に気になることを口にしていた。

 

 十理は素早く眼鏡を外すと、「優先順位」を切り替えた。不穏な雲行きに備えるために。

 

「……なんだと、攻撃(・・)?」

 

「クロ、できるか」

 

「わたしを舐めるな……にゃ」

 

 声が聞こえた瞬間、廊下に()が噴き上がった。衝撃波が端から端へ奔り抜けるように、炎の輪は十理たちを発生点として壁沿に外へと奔り抜ける。

 

 時間にして一秒、二秒ほどか。炎は消えていた。床や窓を見回すと、焦げ付いてはいない。しかし、幻覚でもない。

 

「何をした、――いや何を燃やしたんだ、火艷(かえん)?」

 

 黒猫は答えず、唸り声を上げるばかりで。代わりに織が、浮かない表情をして言った。

 

「蜘蛛の巣だよ。細くてこまかいやつ。トーリが倒れそうになったのも、たぶんこれが理由だ。どうも、こっちの気力を吸い取ってたみたいだな。そこらじゅう(・・・・・・)に張り巡らされてたのに、気づくのが遅れた」

 

「なら、今ので消えたのか。私には見えないが」

 

「消えてない」忸怩たるという声色で、火艷の尻尾は項垂れている。「燃えてない。張り付いている……まだ」

 

「見え辛いからな。体調は、トーリ?」

 

「さっきよりは、気怠くない」

 

「ほらな。ちゃんと効いてはいる。(かび)と一緒ってことだ、クロ。しつこい汚れは一遍(いっぺん)にはなかなか落ちない。だからそう落ち込むなよ」

 

 人間形態でいるときよりも、手乗り猫の姿のほうが表情が豊かなのは、十理も織も気づいていた。そして本人だけが知らない。そこが彼女の愛嬌でもある。

 

「それより、スプリンクラーが作動してない」

 

「そうだな。もし作動していたら今頃は濡れ鼠だ。確かに、水をかぶりたい気温ではあるが」

 

「火災報知器もだ。偶然だと思うか、このタイミングで?」

 

「ふむ……こちらも反応がないな」

 

 電源が落ちた状態の端末を弄りながら、考える。これらの故障が何者かの意図だとすれば。とはいえ、あまりにも情報が不足していた。しかし――

 

 何かが今(・・・・)起こっている(・・・・・・)。それだけは確実だろう。この場所で。あるいは既に、起こった後なのか。

 

 どちらにせよ、退屈なお使いが一転して、何やら愉しい予感がする。十理は、口端が吊り上るのを感じていた。

 

 隣からの視線。何か言いたげだが。

 

 

あるじ(・・・)

 

 

 鋭い制止に、足が止まった。

 

「……やっぱりお手柄じゃないか、クロ」

 

「織」

 

「つられて、出てきたってわけだ」

 

 廊下の向こう側。距離にして、二〇メートルほどか。

 

 十理の前には、仮面をつけた男が立っていた。

 

 表情は分からない。仮面に隠されている。身長、体格からして男のようにも見えるが、十理はすぐに違和感を感じていた。どこか現実にそぐわない、何か不確かなものを見せられているような気分になる。だまし絵を前にしているかのように。

 

「敵か」

 

「選手関係者じゃないのは確かだろ、あんなお面してる時点で。疑ってくれって、白状してるようなもんじゃないか」

 

 男の掌が、「炎」に包まれる。

 

「少なくとも握手は無理そうだな。――まあ、要するに敵ってことだろ?」

 

 腕が振るわれたのと、織がナイフを構えたのは同時であり――

 

 視界を妨げるほど巨大の火焔が放たれていた。見るだけで圧倒する火力が砲弾のように、こちらを呑み砕くべく猛然と奔っている。

 

「〈斥けるもの(アンブレラ)〉」

 

 丸みを帯びた深張りの傘が一瞬にして十理の「影」から取り出され、大量の想子を注ぎ込まれた。魔道具は即座に、此の世の魔法理とも一線を画す〈勇者ロザリーの加護〉を発現させる。

 

 〈対物障壁魔法〉を貫通し得る突撃銃の火力を無効化し、あらゆる衝撃を吸収するが故に対戦車ミサイルすらも斥ける〈騎士の加護〉は、襲いくる火焔を前に(おお)いなる壁とし立ち塞がり、――そして、

 

 燃え上がり(・・・・・)呑み込まれ(・・・・・)

 

 僅かな拮抗を経て、炎は眼前に迫っていた。

 

 動き出していた織は咄嗟に壁を蹴り上がって躱すも、十理は瞠目したまま、突っ立ったままでいる。

 

「あるじ!?」

 

 障壁と共鳴する傘が火を噴いている最中の、爪弾くような声。しかし。

 

 動かない(・・・・)。何故なら向かってくるその「炎」の輝きが、あまりにも鮮烈で(・・・・・・・・)

 

 ――かたちを得て横溢する無窮の原初

 ――太陽より毀れ落ちる一しずくの

 ――譎詐(けっさ)なき純存在の訴え

 

 十理は。馬鹿になったように、呆然として。

 

 息すらも止めて。

 

 その「炎」に魅入り、動けなくなっていた。

 

「あるじ」

 

 だからほんの少し、少女(・・)が遅れていれば。間違いなく十理は、死んでいたはずだった。「……っあ?」

 

 強い浮遊感のあと。抱きかかえられた十理は、ようやく自分を抱えているのが、黒髪の、猫耳の、尻尾を持つ少女であることに気が付いた。

 

 日差しを感じる。

 

「なにを考えてる!?」

 

 激怒する少女の浅い褐色肌は、光沢のない塗料のような黒色で全身を覆われており、首から上の露出している部分には感情と呼応するように、刺青めいた幾何学的な紋様が浮かび上がっていた。

 

「火艷?」

 

「あるじは……うつけ(・・・)か!?」

 

「火艷、見たかあれ――」

 

「なにを……」

 

 一方で織は、粉砕された壁の向こう側の、危うく外へ逃れた十理たちを見向きもせず、跳躍の加速から男へと斬りかかった。燃え盛る(かいな)を、寸でに大きく躱しながら、馳せ違う。

 

「――!」

 

 男の気配が、変わった。表情こそ見えないが、驚いているのか。男の腕からは、暴々と盛っていた「炎」が、斬撃に沿って消滅していた。

 

 断ち切ったのだ、織が。だがそれも一瞬だった。「炎」は、すぐに蘇ってしまう。何事もなかったかのように。

 

 驚いたのは織もだった。解せない。確かに、斬ったはずだ。炎を構築する魔法式(つながり)にナイフを通した。手応えもあった。しかし、現に「炎」は消えていない。損壊(クラッシュ)した魔法式はその時点で現実の改変を終了するはずであろうし、何より「両儀織」の手によって斬られている。それなのに。

 

 明らかに――これ(・・)は違っていた。これまでの、現代的な従来の魔法とは。

 

 死してなお蘇る、魔法。それは、織にある空想の生物の存在を想わせ、すぐに皮肉な笑みへと変えた。

 

 ――〈クロ、無事か〉

 

 ――〈大丈夫。ケガはない。ただ、あるじが〉

 

 なんだよ。

 

 ――〈……ばかになっちゃった〉

 

「はあ?」

 

 笑わせるつもりはなかったのだとしても。〈念話〉は久々の、肌が粟立つような感覚に昂っている織を、脱力させるようなことを伝えてきていた。「なら、ばかなマスターを守れ」と言って会話を打ち切り、ため息をつく。

 

 床に転がり残された傘の、柄らしき部分も焼尽したのを目端に捉えつつ、織は向き直った。(ためし)に隙を見せて、誘いに乗るようなら迎え撃つつもりでいたものの、男に動こうとする気配はない。

 

「あんた、さ――」

 

 普段は黒曜石の双眸が、今は蒼く輝いて(・・・・・)男を射抜いている。

 

 わらいながら、言った。

 

「どうも変だと思ったら、それ(・・)。さしずめ間合いや存在感をずらす、認識を狂わせる魔術ってとこだろ。けどま、その程度のまじないじゃ、オレを騙すことなんてムリだぜ」

 

 ()きて存在している以上、あらゆるものに死は平等なのだ――たとえかたち(・・・)が無かろうとも、それ(・・)を直視し理解する「魔眼」の持ち主であれば、どんな偽装の上からでも、まっすぐに「死」を見破ることは可能だった。

 

 どうも、この「炎」にはおかしな(・・・・)要素が含まれているようだが。男自身には、防御という意思があまり感じられなかった。擦れ違いざまに斬りつけるくらい、織にとっては造作もない。

 

 だから厄介なのは、この男の魔法が「それだけ」で終わるはずがないことと――刃が融けて使い物にならなくなったナイフを捨て、予備のもう一本を握りしめる――使い捨てにする場合、ストックがあまりないってことかな。まあいい、気を付ければいいだけだ。今度は上手くやる。

 

 それに廊下(ここ)は、戦いには少し狭くて不利だな。場所を移す必要があった。織は、自分を囲う構造体の「死」を直視した。と同時に、男の気が膨れ上がる。肌を打つ、実にステキで心地よい殺気に、笑みがこぼれるのを感じる。

 

 壁を斬り裂いて陽の下へ飛び出すと、十理が絶快の歓笑を上げているところだった。

 

「融かされた! 一瞬で! 私の(アンブレラ)が! アイスみたいに!」

 

 アイスみたいに!! はははははははははは!!

 

 ――ッたく、あいつは。

 

 馬鹿になるスイッチが入ってしまったらしい。声を裏返して爛々としている人相(かお)は、満場一致で狂人の(そし)りを免れないだろうが、頬は陶然と染まり、はらりと揺れる黒髪と相まって艶めかしいまであるから、公序不良俗に触れそうな景色が出来上がってしまっていた。そんな悦楽主義者(エピキュリアン)の傍らでは、真っ黒に変化(へんげ)した火艷が、「影」がかたちを持ったかのような黒い爪を伸ばしながら、放たれる寸前の攻城弩(バリスタ)のように低く身構えている。

 

 それらを一瞥し、織は疾走した。

 

 すぐ後ろで、男も動いていた。炎を纏うのではなく、炎そのものが等身大の鉤爪と化した一撃が顕現し、一振りで壁を消滅させた。まるで空間ごと削り消されたかのように、一瞬で蒸発させると、体躯に反して獣の如き俊敏さで織に肉薄する。

 

 爪撃が来た。男の掌が届かずとも、炎そのものである鉤爪が間合いを埋めて、襲い掛かってくる。だが速度を競うのなら、こちらのほうが速かった。そして身軽だ。

 

 転瞬、躱す。宙へ。地へ。

 虚空を抉り、大地を抉る斬撃と火焔。

 

 躱した――間断挟まず、二撃目が来た。袈裟懸け。速い。反撃に移れなかった。途端に、男の背後に燃え盛る鉤爪がもう一つ(・・・・)顕現した。少し驚く。流れるように振り下ろされる両腕。危うく避けた。追撃。息を吐く暇もない。絶えず動き続ける。

 

「おお」

 

 一つ一つが必殺とは即ち、一つたりとも受けてはならないことを意味していた。目の前の男が普遍的な魔法師の定義から逸してるのは、炎を構築する魔法式の形態を見ても明らかである。それに、長槍二本分と短刀じゃあ、流石にちょっと分が悪いかな。

 

 しかし、この場にいるのは織ひとりではなかった。

 

「―――」

 

 横合いから、真っ黒な「獣」が男に襲い掛かった。それは御嵜十理の「影」を彷彿とさせる色をした「獣」であったが、食らい付く寸前、巨大な二つの鉤爪の炎とは別の、変色する炎の壁が立ち上がり瞬時に「影」を弾き融かした。

 

 ――オレには視えてるぞ、おまえの「死」が。

 

 男の意識が僅かに逸れた隙を突き、織はナイフを振るった。鉤爪に存在する切断面(・・・)へ、吸い込まれるようにして斬撃が奔る。

 

 燃え盛る片腕は、一瞬で幽霊のように消滅した。

 

「おおお……」

 

 刃は、今度は融けていない。「炎」に組み込まれた「意味」ごと解体したナイフは、続けて蒼い双眸が射抜いているもう一つの鉤爪へ、死の軌跡を刻むべく迫り――

 

 直前で、飛び退いていた。

 

 男の気配が急速に弾けようとしたからだ。そしてその直感は、正しかった。

 

「■■■■」

 

 爆轟と「炎」が、視界を埋め尽くした。

 

 織は瞬時に波濤を裂いて逃れ、火艷は召喚した「影」を障壁として、衝撃からあるじを守っていたが。

 

 すぐに、「炎」は消えていた。男の周囲が、陽炎のように屈折し、うねっている。熱分布測定装置があれば、とてつもない温度上昇を計測していたことだろう。

 

 このままでは近寄れない、呼吸すらも。常人であれば、そうだった。しかし両儀織の能力は、そんな非常識(・・・)が相手であっても、容易く斬り裂くことができる。

 

 一閃。ただ、それだけでいい。「死」は、そこに視えているのだから。

 

 異常な空気層は、夢が弾けるように斬り裂かれ、環境は本来の状態に戻っていた。

 

「多芸だな」

 

 冷や汗が伝うのを、織は感じていた。近寄るたびにあれ(・・)をされては、対応しきれなくなる。鉤爪同様に、触れてしまえばそれだけで致命傷に繋がりかねない。「まったく、最高だな――」

 

「素晴らしい」

 

 だが。

 

 少年にとってはそれすらも、いたく興奮させる光景でしかなかった。

 

「見事な〈炎〉だ、なんという輝きだ……あの輝き……素晴らしいよ、本物(・・)だ!」

 

 声を、恍惚(うっとり)と震わせて。

 

 御嵜十理は絶賛していた。

 

 

 

 張りつめた空気に、ときめくような拍手が響き渡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 次回、やらかします。
















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28 視線


 誰かの視線。

















 

 拍手しながら。

 

 

 御嵜十理(おさきしゅうり)は、わらっていた。

 

「あるじ、なにを言ってる……」

 

「見ろ火艷(かえん)、私を手を」興奮にまみれた眼差しで、「震えているだろう……分かるか、歓喜に震えているのさ。素晴らしいモノを見た。あの〈輝き〉、瞋恚ではない、鬼哭でもないが、かといって抱擁でもない、狂おしいまでに透徹な〈熱〉だ、未だかつてお前のようなモノは御目にかかったことがない、なんというやつだっ、それほどまでの〈色〉が――こんなにも(おそろ)しいものが此の世に存在していただなんて、感激だよ、ふふふ、恋をしそうだ! この胸の震えを是非とも伝えたい、お前に……いいや、あなた(・・・)に。どうすれば分かってもらえるのだろう、この、私の感動を。ああなんということだ、勉強不足にもほどがあるなあ、己の浅学を恥じ入るばかりだ、申し訳なさでいっぱいだ! これでは森崎駿をわらえんな! ああ! そうだ! 一つ、あった。浅学なりに、思いついた。是非とも返礼をさせてくれ……」

 

 爆発するように捲くし立てる、口端が奇怪な形に吊り上り――

 

 少年の「影」が、揺らめいた。

 

「〈知と意の杖(あざないもゆるあまくらのこえ)〉」

 

 「影」がかたちを為すと、手には「杖」が握られていた。鋼鉄製で、中世の祭司や賢者が使いそうな、先端に宝石が装飾された古めかしくも立派な杖であったが、織は一度だけそれを見たことがあり、顔色を一変させた。

 

「どうか、受け取ってほしい。これが私の(・・・・・)炎だ(・・)

 

トーリを守れ(・・・・・・)、クロ!!」

 

 想子を貪り輝く「杖」が掲げられると、重力波のように、小さな震えが一帯に伝播した。

 

 ぽつり、と空に明かりが生まれる。それは、一つではない、急速に、続々と、光源はどんどん波状的に増殖してゆき――

 

 数にして「555」に及ぶ光の塊が、日輪を囲うようにして、瞬く間に青空を埋め尽くした。

 

「な……」

 

 火艷は知らない。これら恒星(シリウス)を想わせる光の正体が、かつて異なる場所において天使文字(・・・・)と呼ばれた「燃え盛る文字」であったことを。

 

 (あざな)える(ちから)文字(いし)(かたど)り、意思(こえ)を束ねて炎弾と化した「光」は、神聖さよりも遥かに不吉な圧迫感を放つ炎を漲らせ、千里を見通すかの如く、仮面の男も、着物の少女も、黒猫の式神も、絶好調の少年も、一切合財区別なく、逃さず余さず追い立て焼き払うべく、最高潮の「輝き」を解き放とうとした。

 

「――――!!」

 

 火艷はすぐさま結界を敷くべく動いた。自身と十理を「影」で囲い、外界の侵食を拒絶する境界(さかい)を結ぶと、呪力(・・)――現代魔法師に言わせれば、想子とされるもの――を注ぎ込み、万全の強度を構築する。

 

 十字に燃える天使文字が、一際甲高い音を立てた。目覚めを告げる産声のように。その直後、留め金を外したように、一斉に。

 

 豪雨さながらに、機関銃の無慈悲さと害意を兼ね揃える「輝き」が。

 

 流星の如く――落ちてきた。

 

「っ……、」

 

 地面が揺れていた。歓喜に狂ったような甲高い音と炸裂音がそこらじゅうに響き渡り、容赦なく破壊してゆく。外側からはのっぺりとした黒い球体にしか見えないであろう「影」の結界は、特殊な反射率や透過率を持つ鏡のように内側からは外界の様子が見通せるため、強襲する「文字」と格闘している織の姿を見て取ることもできたが、凄まじい威力の弾頭が結界を穿つたびに、火艷は削れてゆく部分の修繕と維持に集中するため、あまり気にしている余裕がなかった。

 

「はははははははははははははははははは……」

 

 ――〈トーリ、止めさせろ! こいつら!〉

 

 ――〈無理だ〉

 

 きっぱり、元凶は答えた。

 

 ――〈一度(おこ)ってしまえば、これは吸い取った想子が切れるまで自動的に発動し続ける。あくまで杖は呼び水で、本体はあの炎にある。生まれ落ちた今、杖を消しても、止まらん〉

 

 ――〈どれだけ吸わせたんだよ?〉

 

 それはもう、頭がくらくらするくらいたらふく(・・・・)食わせたと答えながら、十理は愉しげだった。

 

 ――〈ばかだ、おまえ! なんでそんなの使ったんだっ〉

 

 ――〈興が乗ったんだ。許せ〉

 

「にゃああああああああああああああっっ」

 

 やり取りを〈念話〉で聞いていた火艶が荒ぶっているが。

 

 天使文字は、天蓋に配列されたまま消える様子がない。輝きは一つが流星と成るごとに常に補填されて「555」の総数を維持したまま、枯れない天泣(てんきゅう)のように降り注いでいる。

 

 ――〈クロ! いつまで持つ?〉

 

 ――〈長くは、もたない!〉

 

 ――〈そこから動けないのか〉

 

 火艷は、苦渋の滲んだ声で「影」を張り直しながら、

 

 ――〈無理。守りがうすくなる。へたしたら壊れる〉

 

「三尾なら……これくらい……どうってことは、ないのに!」

 

「はははははははははははははははははは。それにしても凄いなあ、彼は」

 

 十理は仮面の男に眼差しを送りながら、感嘆の息をついた。

 

「まるで堪えていない!」

 

 周囲は、まさしく爆心地の惨状と化していた。ほとんど無秩序に、破壊という目的でのみ結束して執拗に迫りくる「炎」は、ひしめき合いながら多くのものを滅ぼそうとなお輝く……

 

 

 ――だが(・・)――

 あまねくものを滅却する、比類なき炎のちから(・・・)は。

 太陽の如く(・・・・・)、あらゆるものを灰燼へと帰す――

 ――たとえそれが、異なる理において禁じられた天使の文字(・・・・・)であろうとも。 

 

 

「感心してる、場合じゃ、ない!」

 

 絶えず変色する炎の壁を展開した男は、爆心地を悠然と歩きながら、燃え盛る鉤爪を引き連れて、ゆっくりと向かってきていた。

 

「逃げる方法は……っ」

 

「そうか? しかしな、本当に素晴らしいじゃないか。なんなんだあれは! 素敵にもほどがあるだろう! あんな逸材を前に逃げるのは……」

 

 ――〈シキ、早く殺せ!〉

 

 ――〈簡単に言ってくれるぜ〉

 

 〈念話〉を返しながら、織はナイフを振るった。十字文字の頭を斬り飛ばし、接近していた別の文字を斬り捨てる。

 

 巨大な火焔が、迫っていた。

 

 ――消えろ(・・・)

 

 斬り裂く。仮面の男の炎は、瞬きで消滅し、刃も融けていないが。男の足は止まらない。

 

 だというのに、天使文字。

 

「邪魔だ」

 

 二頭分割。まるで怨霊だ、大量の攻撃が無尽に湧いてくるだけでも厄介なのに、男がクロの結界に辿り着くまであと一〇数メートルしかない。

 

「おまえの相手は、こっちだろ!」

 

 男が止まった。視線。

 

 四つに増えた(・・・・・・)鉤爪が、同時に襲い掛かってきた。濃密な死の予感。鼓動が止まったような気がした。織は屈みざま刃を跳ね上げ、飛び上がると同時に男の双眸めがけて投擲した。

 

 貫けないことは分かっている。ナイフは炎の壁に阻まれて消えるも、しかし。三つの炎腕に、ほんの隙間のような連携の乱れが生じた。動くものを目で追ってしまう人間の反射行動。自動ではなく男が鉤爪を操作しているが故の弊害。

 

 織は、賭けに勝った。

 

 隙間に飛び込むようにして、斬り払う。そして両手に握られたナイフが、それぞれの鉤爪を一刀で両断し、天使文字を消し払った。

 

「――よし、わかった。わかったとも。あの〈炎〉の腕に抱かれて死ぬことの、実に劇的な最期の瞬間には興味が魅かれて仕方ないが死んでしまっては形作ることもできんか。惜しいなあ、これほどの蠱惑的な体験を中断せざるを得ないというのは。だが……お前たちを死なせるわけにはいかん。それだけは――だめだ。お前たちを支援しよう。〈(アンブレラ)〉は失くなってしまったが、他にも似たようなものはある」

 

 十理はいくばくか冷静を取り戻すと、思案から顔を上げた。指先から杖を溶かすと、「影」のなかを探る。此の世ならざる由縁を持つ、特異なりし降霊物を。

 

 ――それはたとえば、かつて『東京』で巻き起こった二度目の龍との熾烈な戦いにおいて、最前線で輝き続けたカリスマ司令官の愛用していた、聴く者に勇気と幸運を湧き上がらせる拡声器の魔道具であるとか。

 

 ――あるいはもしくは、『フィレンツェ』出身の妖艶なる占い師の調合した、ごく短時間ながら、物理的魔術的な加護を得られるアロマオイルの香水瓶の魔道具であるとか。

 

 ともかく、事態を好転させるに相応しい魔道具を取り出そうとして。「……ん?」

 

 爆撃する音が止んだことに、首を傾げた。

 

「――なに?」

 

 愕然と十理が見やった先では。

 

 青空から、「555」に及ぶ天使文字が、消失(・・)していた。

 

「どういうことだ……」

 

 〈杖〉の放棄と天使文字の現界は連動していないはずだ。しかし異常は、それだけでは終わらなかった。塗料が剥がれ落ちるように、「影」で編まれた結界が毀れ、砕け散った。

 

「火艷!」

 

 褐色肌の少女が、音を立てて崩れ落ちる。汗をかき、呼吸も荒い。抱きかかえた十理の視界の先で、仮面の男と、何処から出現したのか白い奇妙な塊が向かい合っていた。あれは、なんだ。人なのか。人型(ヒトガタ)のようにも見える。しかし、十理はよく見ていられなかった。意識が、ほどけてゆく。この感覚(・・・・)は。まさか――

 

 気力を保っていられない。

 

 その隙を、仮面の男が見逃すはずもなく――

 

 放たれた火焔を、織が見過ごすはずもなかった。

 

「トーリ!」

 

 ナイフが振るわれたことに気づかないほど、急速に疲弊していた十理は。

 

「大丈夫か。クロは?」

 

「織……」

 

 ぼんやりしていた意識が、くっきりと形を取り戻すのを感じた。腕のなかの少女の体温も。その重みも。

 

蜘蛛の巣(・・・・)だ、気をつけろ」

 

「火艷が」

 

「力を使いすぎたんだ。もしかすると……いや、ともかく。オレから離れるなよ」

 

「……あいつか?」

 

「ああ。たぶん。だから――」

 

 十理は。やはり人であった、ダボダボのフードをかぶっているようで性別は不明で体型も小柄としか分からない、突然現れた、白い姿の「敵」を認めて。

 

 ぐったりとしている、己の「家族」を見つめて。

 

「……ッ!」

 

 逆鱗の踏みつけられ、軋む音を聞いた。

 

「あいつが……火艷を!」

 

 興奮を抑えていたはずの(りせい)が、一瞬で消し飛んでいた。

 

 再度、「影」が蠢動した。戦慄く少年の指先に、刃の部分が波を模した特殊な形状であるナイフが握られた。すぐさま照準を合わせるように構え、酷薄な煌めきを白い姿の敵へと向けた十理は、自身を興奮の高みへ連れて行った相手であることすらも忘れて、憤怒に吼えながら想子を注ぎ込んだ。

 

「〈風刃〉……」

 

「おいっ」

 

 瞬間、白刃が粉々に砕け散る。飛散した破片は粒子ほどに小さくなり、細氷のように乱反射しながら空中に浮遊すると、刀身の消えた柄の刃先から、突如として暴風が吹き出し、捻じれ、轟音を掻き鳴らした。織は目を庇いながら、身体が吹き飛ばされないよう堪えるしか出来ず、

 

「――【斬り刻め】!!」

 

 砂塵を巻き上げ、破片を巻き込みながら、大台風を威力そのままに小規模で発生させたかの狂風は、群体の猟犬の如く放たれ、仮面の男たちを呑み喰らった。

 

「―――」

 

 暴風が止む。轟音も。凄まじい衝撃波が蹂躙した後には、男たちの肉片と少年の赫怒の色で、辺りは染め尽くされているはずだった。

 

 仮面の男も、白い敵も。しかし、其処に立っている。

 

 無傷(・・)である。動いてすらいなかった。男たちだけではなく、彼らの周りにも、狂風が通過した形跡は残っていなかった。

 

 織のように殺したのでもなく、仮面の男のように融かしたのでもない。ただ、突然風は消えたのだ。

 

 風が止んだ理由は、一つしかなかった。織は狂風が男たちを食い散らす寸前に、彼らの手前に「蜘蛛の巣」が網のように広がるのを見ていた。それはまさしく、天使文字が空から消失した直前に感覚した「蜘蛛の糸」らしきものと同一だった。

 

 ――間違いない、これは白い奴(あいつ)の特別な〈魔法〉だ。

 

「やめろ、トーリ」彼の再び風刃を作り出そうとする腕を強く抑え付けながら、織は言った。「それ以上は、よせ」

 

「なんだとッ」

 

「相性が悪すぎる。力を使い過ぎるな」

 

 狂風を消し、あれだけの数の天使文字を一瞬で消滅させる。とんでもなく大規模な〈魔法〉だ。この状況に対抗できるのは、織の「魔眼」くらいしかなかった。

 

「火艷っ」

 

 少女が、小さく呻いた。

 

「……あるじ……」

 

「クロ、いけるか?」

 

「……とうぜん」

 

 強気なことを言うが。声にも、自慢の尻尾にも元気がなかった。自力で立ち上がり、真っ黒な爪を生やすも、天使文字を防ぎ続けたことで疲労は色濃い。これで戦力を期待するのは酷だろう。

 

「無理をするな。火艷」

 

 狂笑していたのが嘘のように、十理はやさしく声をかけている。感情の変位が極端すぎていた。まったく、元はと言えば誰のせいだと思ってるんだか。そんなことを考えながら、微笑みを横目に、織は決断した。

 

 やるしか――ないか。ナイフを握る。二人を相手に、勝つのは骨が折れる。骨だけでは済まないかもしれないが。せめて、逃げるための時間だけでも。

 

「トーリ」

 

 だが。

 

 男たちは仕掛けてこなかった。向かい合い、何かを話している。仮面の男がかぶりを振った。そして、ふっと風に吹かれるようにして、白い子供が透明に薄れ、背景に溶けて見えなくなった。消えざまに、織のほうに目をくれながら。

 

「待て!」

 

 仮面の男が、織を見た。表情こそ分からないが、わらっている気がした。男は〈自己強化〉をしたのか、猛然とした速度で駆け出すと、そのまま織たちの前から姿を消した。

 

 あとには、自分たちだけが取り残されている。

 

「逃げた……?」

 

 どうして。二対一なら、間違いなく向こうが有利だったはず。何が理由だ。増援が来るのを警戒した? あれだけの〈魔法〉、普通の魔法師が束になったところで太刀打ちできないのは分かっているはずだ。この場で逃げる意味は何だ。

 

「あいつは……」

 

「落ち着け、トーリ」

 

「だがッ」

 

オレたちは大丈夫だから(・・・・・・・・・・・)

 

 織は十理の胸ポケットから眼鏡を抜き取ると、掛けるよう促した。周囲へ警戒を残しながら、冷静になれと言外に語ると、十理は苦虫を噛み潰すような顔をしつつ、素直に受け取った。

 

 その抱き寄せていた腕のなかで、少女の躰が陽を浴びた影のようにみるみる小さくなると、重みを失くし、黒猫の姿へと変化(へんげ)した。

 

 にゃあ、と不甲斐なさそうな鳴き声で。

 

「……悪い。二人とも」

 

 と少年の、こちらも、しゅん、とした顔で。

 

「にゃあ!」

 

「本当に、悪かった……」

 

「見事に吹っ切れてたもんな。まあ、反省はあとにしろよ」

 

 ――けどそもそも、あいつらここで何をしてたんだ。

 

 地面には、天使文字の爆撃の痕以外にも、指間の広い爪撃の跡が深々と刻まれている。さながら巨大蜥蜴の爪痕だった。誰がどう見たところで、只ならぬことが起きたのは明瞭だろう。

 

 ――そういや、これだけ派手にやったってのに、誰も様子を見に来ていない。

 

 

 不意に(・・・)何処かから視線を感じた(・・・・・・・・・・・)

 

 

「織?」

 

 振り向く。黒猫を大事に胸に抱えながら、十理はもう片方の手に、柄だけになったナイフを提げていた。

 

「それ」

 

「壊れてしまったんだ。本来なら再構築されるはずなんだけど、もう、駄目だな。これは」

 

 そう言って「影」に落とすと、地面に雨水が染み込むようにして、ナイフは沈んでいった。

 

「……誰かに見られる前に、行くぞ」

 

 踵を返した。罪悪感を滲ませた表情で、十理が後を追ってきている。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 十理たちが向かったのは、参謀本部ではなかった。

 

 仮面の男たちが現れた廊下の、その先。襲撃者たちが何をしていたのかを確かめるべく、織に先導されて進むと、選手控室の区画の一つに、扉が無くなっている部屋があった。

 

「おいおい……」

 

 そこで、少女が倒れていた。

 

 七草真由美。第一高校の生徒会長。花のように笑う娘。しかし、面影はない。

 

「こいつは、マズイな」

 

 死んでいた。胴体を、無残に引き裂かれた状態で。豊かな体型を血の海に沈めながら、恐怖に蝕まれ、涙で濡らしたまま絶望した表情で。

 

 そんな彼女に、少年が手を差し向けていた。十理のクラスメイトの兄であり、それなりに親しいといって良いであろう彼が、CADも持たないまま、〈魔法〉を発動させる。

 

 劇的な変化が起こったのは、その直後だった。

 

 七草真由美の躰が震え、霞むと――

 

 死体は消え、代わりに傷一つ付いていない少女が横たわっていた。

 

「達也」

 

 まさしく、一瞬と云ってよかった。治癒魔法でも、これほどの超短時間であれだけの傷を回復させることなどできはしない。

 

「十理か」

 

 司波達也は、今。何をしたのか。

 

「すまない。助けを呼んできてくれ」

 

「君は――」

 

「俺は少し、眠る」

 

 言った途端、達也は崩れ落ちた。

 

 慌てて駆け寄ると、呼吸はしているのを確認した。七草真由美も、気を失ってはいるものの、確かに生きている。

 

「なんか、とんでもないことばっかだよな。今日は特に」

 

 深々とため息を吐きながら、織が言った。

 

「これ以上は何も起こらないよな、流石に?」

 

「とりあえず人を呼ぶよ。端末は……使えるようになってるな」

 

「あんなとびきりヤバいやつを入れるなんて、警備とかどうなってんだよ。ま、カクジツに、警備程度で止められる相手じゃないだろうけど」

 

「ああ……」

 

 

 そういえば着物、変えたんだ。帯も。

 今かよ! 空気読まないよな、おまえ。ま、気分転換みたいなもんだよ。ずっと同じってのもな。

 似合ってる。それに涼しそうだ。

 いいだろ?

 一高も、制服が自由だったら良かったと思うよ。

 やろうと思えばできるんじゃないか。国営の学校とはいえさ……

 

 

「――おっと。じゃ、オレは」

 

「うん」

 

 織が消える。続けて黒猫も。

 

「御嵜くん!?」

 

 市原鈴音が、珍しく血相を変えて駆け入ってきた。倒れている二人を見つけると、息を呑んで問い詰めてくる。

 

 十理は疲れの滲んだ表情で、どこまで黙っているべきかを考えつつ、外部からの襲撃があったことを喋り始めるのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 何の前触れもなく、少女が立ち上がった。

 

「お兄様っ?」

 

「深雪?」

 

 スタッフ席にて。

 

 光井ほのかとピラーズ・ブレイクを観戦していた北山雫は、並びに座る司波深雪が、急に蒼白となったのを見て驚いた。此処ではない場所を見ているかのように視線を宙に飛ばし、手を口に当てながら棒立ちしている。

 

「お兄様が……!」

 

「どうしたの、深雪――ちょっと!?」

 

 ほのかの制止も耳に入らない様子で――普段の彼女からは想像もつかないほどの慌ただしさで――深雪は席を離れると、階段を駆け上がって行ってしまう。

 

「雫?」

 

 試合はまだ中盤である。この日のためにリサーチしておいた注目の選手の登場も、まだ幾つかあとに控えていた。

 

「……行こう。様子が変だった」

 

 それでも友人の異変を案じた雫は、ほのかと共に階段を駆け上がり、その背中を追うことにした。

 

「待って、深雪!」

 

 後姿を見失わないよう気を付けているが、なかなか追いつけない。こちらを待ってくれもしない。気づいていないのか。会場の外へ通じる路を走っている。何処へ向かっているのか。

 

 

 はははははははははははは(・・・・・・・・・・・・)はははははははははははは(・・・・・・・・・・・・)

 

 

 耳に、ぞっ(・・)とするようなわらい声が飛び込んできて、雫は思わず足をすくませた。

 

 歓声に紛れたそのわらい声(・・・・)に気づいた者は誰もいなかった――どう聞いても歓声ではないそのわらい声(・・・・)を発した人物が今しがたすれ違った男であることに気づいた人間も誰一人としていなかった。偶然にも北山雫、ただ一人だけを除いて。

 

 その横顔を、眼差しを。雫は見ていた。

 

「雫、なにしてるの、はやく!」

 

 ほのかが張り上げるように言った。深雪は儚げな見た目に反してかなりの健脚だから、立ち止まってしまった雫に怒るのも無理はなかった。

 

 もう一度男を見ようとするも、既に逆方向へと移動してしまっていた。

 

 呼び止めることはできない。呼び止めることは――したくない(・・・・・)。「ごめん、行こう」ただ、と走り出しながら雫は思った。

 

 骨格が変なのではなく、目や鼻の位置が特徴的というわけでもない。たぶん、平凡な顔立ちをしているはずだ。服装も目立たないスーツ姿で、すぐに顔を思い出せなくなるくらい、大衆に埋もれてしまうくらいありふれた容姿をしていたはずだ。けれど、あんなふうに笑う人は初めて見た。あんなわらい貌(・・・・)は初めて見た。あんなわらい声(・・・・)は初めて聞いた。

 

 

 男は、歯を剥き出しにしながら。

 

 まるで鮫のような貌(・・・・・・)をして、わらっていたのだ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「お使いだ、M」

 

 男が言った。

 

「御嵜十理の周りにいる二人の娘について調べてくれ」

 

 魔法競技を純粋にスポーツとして楽しむ観客たちと違い、企業の人間のように選手たちの奮闘を平然と眺めながらその実、裡側では歓喜に昂りながら、独り言のような音量で呟く。

 

「特に、着物のほうだ(・・・・・・)

 

 応える声はない。だが、男は続ける。

 

「用心しろ。あいつ、最後は俺のことに気が付いていた」

 

 そして、男の呟きを気にするものは、誰もいない。

 

 

「――例外(イレギュラー)だな。戦略級の無名時代を見に来たはずが、とんだ掘り出しものに遭ったものだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





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