エヴァンジェリンと呪いの玉 (ぽぽぽ)
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1話

 

 私は今でも、あの日のことを思い出す。

 

 ひときわ存在感を放つ満月がぽつりと浮かんでいて、それでも、それを囲む空の闇夜の方が圧倒的に濃くて。周りに星の一つも見えない中、寂しく浮かぶ大きな月は、孤独の中にいるように見えていた、あの夜。

 

 

 確か、あいつと出会ったのは、そんな日だった筈だ。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 月が好きか、と問われたら、私はううむと首を捻るだろう。

 

 吸血鬼なのだから満月ならばいつもより力は出るし、あの金色に近い輝きには趣きがある。

 ただ暑苦しく、起きたくもない朝に強制的に光を浴びせるくせに、沈む時だけ同情を釣るかのようにわざと光を弱々しくしていく太陽に比べたら、月はずっとずっといい。

 何より、月見大福も月見そばも旨い。

 

 

 だが私は、夜の暗い静かさの方が好きだった。月の一つもなく、雲の一つもなく、ただ拡がる黒い空が、好きだった。

 人は皆一人であると、是非もなく一方的に私達に言い付けるあの圧倒的な空気が、好きだった。

 

 だから、あいつと出会った時に浮かんでいた月を、私は悔やんだ表情で見ていたような気がする。あの月さえ無ければ完璧だったな、と、心の中で唱えていたのかもしれない。

 そんなどうでもいいようなことを考えながら、人の気配もなく明かりすら乏しい外れた街道を、私が一人で歩いていた時だった。

 

 

 

 

「いらっしゃい」

 

 真横から、しゃがれた声が私に声を掛けた。

 屋台のように簡易に作られた出店は紺色のカーテンで周りを囲っていて、夜に合わさって不気味な雰囲気が溢れている。店の真ん中に座る老婆は、黒い三角帽子を被り、如何にも自分は魔法使いである、と主張する様子が、逆にコスプレ臭くて仕方がなかった。

 

「いらっしゃったつもりはないんだがな」

 

 暇潰しにそう答えながら横を通り抜けようとすると、老婆の笑い声が聞こえた。ヒヒヒ、と不気味に笑っているつもりだろうが、作られたその声はつまらないB級映画を私の頭に彷彿させた。

 

「そう言わさんな、お嬢ちゃん。いや、真祖の吸血鬼よ」

 

 情けのないことに、そう言われただけで私は立ち止まってしまった。私の情報など調べたらどこにでも出てくるようなもので、見知らぬ誰かに知られていることなんて日常茶飯事であったのに、その呼び名で呼ばれたことが久々で、反応してしまったのだ。

 

「だったらなんだと言うんだ」

 

「そう怖い声を出さんでおくれ。私はただ、商売がしたいだけさ」

 

 そう言って、聞いてもいないのに老婆は自分の身元を明かし始めた。

 曰く、自分はただの魔法に憧れる婆であると。

 魔法使いの家系に生まれたが一切の才能もなく、それでも魔法に関わることに憧れ続けて、気付けば商人になっているだけのものだと。

 この麻帆良のように魔法使いが存在する街に出向いては、気まぐれに魔力を宿るものや魔法世界のものを商品として並べているらしい。

 

「あんたと会えて嬉しいよ」

 

 魔法使いは本当に嬉しそうに言った。魔法に憧れる老婆にとって私の存在は伝説的であるらしく、まるでお伽噺に出てくる登場人物に遭遇したかのような気分だと、皺だらけになった頬を高揚させて語った。

 

「ふふん。そうか」

 

 悪い気分ではなかった。

 

「どうせなら、商品を見て行ってくれないかね」

 

「悪いが手持ちはない」

 

「貴方ほどの巨悪なら、金など払わず私を吹き飛ばして全てを持っていきそうなものだと思ったが」

 

「私ほどの巨悪なら、そんなどうでもいいことに悪を振り撒いたりはしないんだよ」

 

 私の答えが気に入ったのか、老婆はまた嬉しそうにして、これ以上下がらないと思わせた筋力の抜けた目尻を更に下げた。

 

「なら、売り物ではなく、ガラクタを貰ってくれ。持っていても仕方ないものや、一向に売れないものは、もう処分したいのさ」

 

 老婆はどうしても私に自慢の品を見せたいらしく、そう理由を付けた。

 正直に言えばあまり興味はなかったのだが、かといって特にやることもなく、老婆の格好は取り繕うのに自分の身元は偽りなく語る性格に妙に好感を持ってしまったため、私は言うことを聞いてあげた。

 

 

「……本当にガラクタばかりだな」

 

「……本気かい? これも? これもかい」

 

「ガラクタだよ」

 

 私が溜め息混じりに言うと、老婆は悲しそうにした。

 歳をくっても表情筋は意外と動くものだな、と私はどうでもいいことを思う。

 

「結構珍しい拾い物をしている自信はあったんだがねぇ」

 

 珍しいと言えど、有用性がなければそれは塵に近い。もしくは芸術性でもあればまた別なのだが、老婆の趣味はあまりいいものとは言えず、特に目に惹かれるものはなかった。

 

 

 

 そんな中で、唯一、一つだけ、私の目に止まったものがあった。

 

 

「……ん」

 

「おお! 何かあったかい!」

 

「うるさい」

 

 興奮した老婆を黙らせ、私はそれを注意深く見る。

 

 

 それは、玉だった。

 

 4つの木の柱に支えられたガラス板の中に、宙に浮いて存在している。

 ビー玉ほどの大きさしかなかったが、その金色は淡い光を放っていて、まるで小さな月のようだと、私は思った。

 

「……これはなんだ」

 

「あぁ、それはだね……」

 

 そこから話を続けることなく、老婆は黙ってしまった。

 

「おい。なんなんだ」

 

「すまない。それが何かは分からないんだ。それこそ本当に拾い物で、かなり昔から存在している物だとは分かるんだが、それだけだよ」

 

 老婆は申し訳なさそうにしていた。

 それから、老婆は他の商品の説明を熱心にしてきたが、私はその玉だけをずっと見ていた。

 

「……これは、いくらだ」

 

「おいおい。それはただの玉だよ、吸血鬼。欲しがるものなんていやしない」

 

「ならただで貰ってしまうぞ」

 

「いいけどさぁ」

 

 老婆は自慢の商品がただの玉っころに負けたことが悔しいのか、不貞腐れた様子を隠す気もなく笑わしていた。その豊かな表情は相変わらず年齢を感じさせなかった。

 

「あんた、なんでそれを欲しがるんだい。それの良さを見抜けなかった私に、そこだけは教えておくれよ」

 

 私はそれを手にしてから、もう一度集中して見た。

 

 

「この箱自身に、幾つか魔法が掛けられている。意識操作、感覚低下、まぁつまりは認識阻害か。誰から見ても特に注目されない物のようにされているな」

 

「それは……何のために」

 

「知らん。だが、それだけでこいつがまともで無いってことは分かる。むしろお前はよくこれを見付けられたよ。常人ならこいつは道端の石ころと変わらん」

 

 老婆は誉められたことで照れ臭そうにした。

 

「……じゃあ、その中の玉は、結構危ないもんなのかい」

 

「多分な。私の見立てでは、何かしらの呪いが掛けられているように見える」

 

「呪い」

 

 老婆は魔法使いの格好をしているくせに、呪い、だなんて言葉に恐怖を感じたらしい。

 

「危ないじゃないかい」

 

「かもな。だが、ちょうどいい。私は今呪いについて色々調べていたからな」

 

 貰っていくぞ、と声を掛けて、私はそれを持ち去ろうとする。

 老婆は名残惜しそうに小さく言葉を漏らしてから、大きな声を出した。

 

「吸血鬼よ! また来るよ! その時はまた顔を出してくれ!」

 

 どこまでも元気な老婆だった。

 私は彼女に背を向けながら少しだけ微笑んで、軽く手だけ上げて返事をしておいた。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「……ご主人。なんだよソレは」

 

「拾い物だよ」

 

 家に戻ると、茶々ゼロが私の持つものを不審そうに見つめた。

 これを手に入れた経緯を1から説明する気はなかった。理由は単純に、面倒だったからだ。

 

「結構禍々しい感じがスルが」

 

 流石に私の従者なだけあって、これの危険性を察知したようだった。

 

「多分、呪いが掛かってる」

 

「開けたらどーなるンダ」

 

「呪われかもな」

 

「オイオイ」

 

 魔力がないために動くことも出来ない人形は、呆れるように私を見た。

 

「これ以上呪いを重ねる気カヨ」

 

「それもありかと思ってる」

 

 この時の私には、既に呪いが掛かっていた。

 登校地獄、という馬鹿げた呪いだ。

 実際は学校を嫌がる子供に無理矢理行かせる程度の呪いだったのだが、これを私に掛けた人物が異常であったため、おかしな因果に囚われた呪いとなってしまっていた。

 

 居場所を制限され、行動を縛られ、力も無くされた。

 下手くそが呪いに手を出すと録なことはないとは知っていたが、ここまでのことになるとは思わなかった。それほどあいつの魔力が異常だった、ということなんだろう。

 

 かつてはこの呪いを解くために四苦八苦していたが、この時の私にはもう打つ手が無くなっていた。

 だから、呪いの重ね掛けだなんていう、自暴自棄に近いやり方をしようとしていたのだろう。

 もしかしたら新しい呪いによって、効果が変わったり上書きされたりするかもしれんと、期待していたのだ。

 

 

 

 玉の入った箱を、上から押さえ付ける。

 認識阻害の魔法を解くために力を入れたら、意外と簡単に出来た。

 

 

「本気でやる気カヨ。もっと酷いことになるかもしんネーゾ」

 

「これ以上酷いことなんて、ある訳無い」

 

 

 

 本当にそう思っていた。

 

 何もすることなく、馬鹿な餓鬼達と一緒にお勉強だなんて、苦しくて仕方がなかった。

 毎日が、苦痛だった。どこにも行けず、何にも期待出来ず、ただ生きるだけの日々が、辛かった。

 

 昔は独りでいることなど何てこともなかったのに。

 中途半端に光を知ってしまったせいで、孤独をより色濃く感じるようになってしまった。

 

 

 これも全部、あのアホのせいだ。

 

 

 

 迎えに来るというのは、嘘だったんだ。

 

 

 

 ナギのことを、待っていた。

 死んだ、という情報が出回ってからも、私は待っていた。

 ナギがそんな簡単に死ぬか、と思いながら、私は暫く待ち続けた。

 いつかこの呪いを奴が解いてくれると信じてたから。いつも通りの適当な笑い顔で現れて、颯爽と私を撫でてくれると信じていたから、待っていられた。

 

 

 だが、もう駄目だった。

 いつまで経ってもナギの新しい情報は出てこない。

 つまりは、奴は死んだのだ。

 

 帰らぬ人をいつまでも待てるほど、ロマンチックに生きてきたつもりはない。

 事実は事実として私の中にしっかりと刻み込まれ、ただただ痛々しい思い出となっただけだった。

 

 

 だからもう、抜け出したかった。

 

 この日常から去ることが出来るなら、呪いでも何でも良かった。

 

 

 

「開けるぞ」

 

 

 茶々ゼロの返事はなかった。何を言っても私が止まらないことを知っていたのだろう。

 ガラス板を割るように力を入れる。

 

 ひび割れが高い音を鳴らしながら、それは壊れていく。

 

 

 

 

 パキン、と呆気ないほど簡単にそれは割れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 剥き出しになった黄色の玉が、光る。

 

 夜だというのに、部屋の中に太陽が昇っているかのような明るさが私達を襲った。

 それから、黒い魔力が螺旋状に舞い上がって、私を囲んだ。

 身体に熱が籠る。血流は速度を増し心臓は五月蝿いくらいに唸った。

 

 黒い渦は、どんどんと速度を増していって、私を覆い被せる。家具や食器が大きく揺れて、家中が下手くそな演奏会をしているかのようだった。

 

 

 

「ご主人!! 」

 

「来るな! 茶々ゼロ!」

 

 

 

 どんな物だろうと、受け入れるつもりだった。

 

 変化が欲しかったんだ。

 この糞みたいに退屈な人生に、何か新しい風が吹き込んで欲しかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 ――だから、驚かなかったよ。

 

 突然部屋が元通りになって、私の頭の中に直接声が聴こえるようになっても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……あら』

 

 

 

 

 一切の物音が消えてから、その声は、ぽつり、と頭に響いた。

 

 優しい、声だった。

 落ち着いていて、静かで、淀みがなくて、水面に垂れた雫のように、スッと透き通る声だった。

 

 

 

『今度の相手は、随分可愛らしいわね』

 

 

 

 クスクス、と小さな笑い声が続いて聴こえる。

 

 辺りを見回すが、誰もいない。

 茶々ゼロは今にも動き出しそうな様子で私のことをじっと見ている。

 

 

 

『貴方には悪いけれど、取り憑いてしまったわよ』

 

 

 

 

 慈悲をそのまま音に乗せたかのような声と共に、黄色の玉は、ピカピカと点滅するように光っていた。

 

 私は理解した。これが、呪いなのだと。

 

 

 

 

『……しばらくの間、宜しくね。可愛らしいお嬢さん』

 

 

 

 

 

 まるでウインクと共に発しているように、その声は軽快に私にそう告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これが、私と、呪いの玉との出会いだ。

 

 正直、呪いだなんて唱っておいてこの程度だったことにはがっかりしていたよ。

 

 仕方ないだろう? この身に何が起こるかと期待していたのに、頭の中に女の声が聴こえるだけなんだ。

 結局何の変化も起こらないのと大して変わりはない。

 

 

 

 

 だが、もう少しだけ聞いておけ。

 この出会いは私にとって大きなものだったと気付くのは、もう少し先のことなんだ。

 

 

 

 



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2話

『御早う。お嬢さん。朝よ。もう日が出てるわ』

 

 脳に直接語りかける声で、私は起きた。髪はボサボサでまだ眼は半開きだ。時計を見る。いつも起きる時間より一時間は早かった。

 私はもう一度毛布をかぶり直した。

 

『……お嬢さん? 学生なんでしょう? 起きなくていいの?』

 

 頭に声を響かせるのは、卑怯だ。どうやったってその声を無視できる筈がなかった。

 

「……煩いぞ。私は私の起きたい時間に起きる」

 

『……へぇ。そうなの。でも、関係ないわ。私は私が起こしたいと思った時間に貴方を起こすのよ』

 

 それからも、布団から出てこない私に向かって、ちょくちょくと声を掛けてきた。不快で仕方なくて、朝から苛々とした気持ちが積もった。

 

 

「おい! 茶々ゼロ! こいつを黙らせろ!」

 

「……ご主人。そうは言うケドヨ。俺にはその声は聴こえないし、その玉っころを壊すことも出来ないゼ」

 

『あら、私の声を聴かせることくらいできるわよ』

 

「ウォお!? 」

 

 突然茶々ゼロにも声が届いたのか、茶々ゼロは飛び上がるように声を上げた。しかしこの玉、取り憑いた人物だけでなく、誰にでも話し掛けることが出来るようだ。

 

 

 

 

 

 

 昨日の夜。

 

 こいつに取り憑かれた私は、とりあえずその玉を壊そうとした。呪いを望んではいたが、女が取り憑くだけのものなどは要らなかった。鬱陶しいだけだ。

 

 こいつの本体は玉であることは明らかであったので、玉さえ壊せばこの声は消えると予想した。本人も、もしそれを壊せたら私は消えるわ、と意味深に言った。

 

 色々と試してはみたが、その玉にはどんな物理的ダメージも魔法的干渉もモノともしなかった。私が弱っていることなど関係なく、それはきっとどんなことをしても壊れないのだろう。そういう手応えだった。

 他にも方法が思い付かない訳ではなかったが、妙に身体が疲れてしまったので、その日はもう眠ることにしていたのだ。

 

 

 

「ああ! 分かった。起きる。起きるから、頭の中でラッパを鳴らすのはやめろ!」

 

『ふふ、分かったわ』

 

 声は、楽しそうに笑った。私はストレスが貯まるばかりだった。

 

「くそ。海にでも投げ捨ててやればいいのかコレは」

 

『やってみてもいいけれど、きっと無駄よ。家に戻ればまた玉は元通りよ』

 

「そんなことだろうと思ったよ」

 

 呪いと言うからには、そういうものなのだろう。RPGで捨てられない武器があったことを私は思い出していた。

 

 これ以上頭で騒がれても面倒なので、私は大人しくベッドから降りる。

 カーテンを開ければ、既に太陽が昇っていた。

 眼を照り付けるその光は、眩しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 適当に身なりを整えてからパンを一つ摘まみ、制服に袖を通して家を出た。学校に向かうにはまだ早い時間であったが、起きてしまった以上家にいてもやることはない。

 

 我が家は街の外れにあるので、登校中に他の生徒に会うことは少ない。

 自然に囲まれるような形で朝の道を歩くのは、少しだけ心地が良かった。

 

『いい朝ね、お嬢さん』

 

 本体である玉から離れてもその声は聴こえた。取り憑く、といったからには、ほぼずっと私の中にいるということなのだろうか。

 憂鬱だった。

 

「まず、お嬢さんと呼ぶのを止めろ。そんな歳じゃない」

 

『あらそうなの。道理で、少女にしては貫禄があると思ったわ。それで、いくつなの』

 

「600年は生きている」

 

 私がそう言うと、声は笑った。

 

『なんだ。そんなの、私にとってはお嬢さんよ』

 

「なに?」

 

『だって私なんか、もう千年は前に生まれてるわ』

 

 千年前と言えば、日本で言えば平安時代辺りだろうか。

 あの玉としてこいつが生まれてきたのか、それとも人間の意思があの玉に移って存在しているかは分からんが、どちらにせよこいつは随分と長いこと人間の歴史を見ていたことになる。

 

『もしお嬢さんと呼ばれたくなければ、名前を教えて欲しいわ』

 

「……エヴァンジェリンだ」

 

 名前を言うべきかは迷ったが、お嬢さんと呼ばれ続けるよりましだと思った。

 

『……エヴァンジェリン。ああ、聞き覚えがあるわ。闇の福音って貴方だったのね』

 

「まぁな」

 

 長いこと存在しているからか、私のことは知っているらしい。

 

『……ふーん』

 

「なんだ」

 

『じゃあ、不老不死の吸血鬼、って言うのは本当なのね』

 

「本当だよ」

 

 再び笑い声が頭に響いた。クスクス、と口に手を押さえて控え目にしている映像が想像出来た。

 

「何が可笑しい」

 

『いーえ! 面白いって訳じゃないけど、中々個性的な人に取り憑くことが出来たって思ってね』

 

 跳ねるように上機嫌になった声は、朝の私には煩わしかった。

 どうしたらこいつは消せるだろうか、と考えながら、私はいつもより人通りの少ない登校路を進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の通う麻帆良学園は、始業時間ギリギリに駆け込む生徒が圧倒的に多い。

 部活動が盛んなため朝練を直前まで目一杯励むものも多いし、早朝バイトしているため遅れそうになる奴もいる。加えて全寮制であるために、もっと寝ててもまで大丈夫だろう、と怠けた奴は毎度限界まで部屋にいようとしている。私は寮で暮らしてはいないが、そのタイプだ。

 だから、早い時間に教室にいる奴は大抵日直の仕事があるか、真面目な奴かのどちらかだった。

 

 

 

 下駄箱置場で内履きに履き替える。

 いつもはドタバタ感で煩い場所なのだが、今日は静かだった。

 

 

『そういえば、エヴァは何故学校になんて通っているの?600歳なのに』

 

 早速名前で呼ばれて、その馴れ馴れしさに腹を立てるかと思ったが、意外にも私の中に不快感は芽生えなかった。

 

『趣味なの?』

 

「違うわ」

 

 うんざりとしながら私は答える。

 

「呪われてるんだよ、私は。ずっと学校に来なければならないという、最悪の呪いにな」

 

『……へぇ。あら、本当ね。呪いが掛かってる』

 

「分かるのか」

 

『まぁ、見ようと思えば宿主の身体のことは大体見えるわ。私がいれば健康診断いらずよ、エヴァ』

 

「それは嬉しい限りだ」

 

 どうでもよすぎて、皮肉っぽく答えておいた。

 

『……んー。無茶苦茶ねぇ、これ。頑丈な鍵を使った訳でもなく、丈夫な門がある訳でもないけど、相当硬く縛られてる。紐を使ってるんだけど、適当に縛り過ぎてほどけなくなってる感じね』

 

 自分も呪いだからか、登校地獄という呪いについて興味深く分析しているようだった。初めてこいつが役に立つ気がした。

 

『相当魔力を込めてたのねぇ。長いこと生きてたけど、これほど魔力を込めれる存在は片手で数えるほどしか見たことないわ』

 

 長い歴史で見てもナギはやはり規格外だったらしい。私の目からしても、奴ほどの実力者はほぼいなかった。

 

『しかも途中から呪いが螺曲がってしまってるわね。まさかエヴァ、中学生活ループしてる?』

 

「そのまさかだよ」

 

 もう何年目だろうか、この中等部に通い初めてから。

 せめて中等部の後は高等部に、と移ってくれたらよかったのだが、それすらも出来ない。

 自分だけ、時に置いていかれているようなこの感覚は、私の孤独を色濃くさせた。

 

「……解けるのか、この呪いは」

 

『解きたいの?』

 

「当たり前だろう」

 

『……ふーん』

 

 考えるようにそう答えて、声は静かになった。

 

 

 

 

 

 

 廊下にも人通りはほとんどいない。

 時計を見ないでここまで来たが、どうやら相当に早い時間に私は学校にいるらしい。

 

 2-Bと書かれた札のある教室を、私は開けた。

 

 教室はがらんとしていた。いつもの煩い活気はなく、まるで別の場所のようであった。

 

 そんな中で一人の生徒だけがいた。

 黒板消しを持って、黒板に当てている。今日の日直はその少女らしい。

 少女は私を見て眼を丸くさせていた。

 

 

「……あ、あの……。おはよう、ございます」

 

 

 私は少女の挨拶を無視して、どかりと席について荷物を置いた。少女は顔を曇らせたが、気にしない。

 

 後はいつも通り、屋上に行って放課後まで寝て過ごす気だった。

 

 

 

『ちょっと。無視は良くないわ』

 

 

 教室を出ようとする直前に、声は私にそう言った。

 それも無視して、私はさっさと教室の扉を開けようとする。

 

 

 が、突然、身体は動かなくなった。

 

 

「……き、貴様……!」

 

「えっ。わ、私ですか!?」

 

「ち、違う。お前ではない」

 

 

 身体は全く動きそうにない。

 不自然な形で動きを止めた私を、少女は不思議そうに見ていた。

 

 

 

『挨拶をその子に返しなさい』

 

 

 声は、怒っていた。

 まるで、幼稚園児の母が子供にマナーを教える時のような口調だった。

 

 

  (……貴様! こんなことをして貴様に何の得がある! )

 

 

 頭の中で、私は怒鳴った。

 

 

『損得で言っているんじゃないの。人として、やるべきことをしなさいと。そう言ってるの』

 

  (私は人ではない! 吸血鬼だ!)

 

『そういう事を言っている訳ではないわ。貴方が人であろうと、吸血鬼であろうと、マナーとモラルを持ちなさい。誰かの善意を、無視するのは止めなさい』

 

 

 

 強い力だった。

 頑なな意思で、私の身体全てを支配しているようだった。腐っても千年生きた呪いだということなのだろう。

 

 

 

  (……ちっ! 分かった! 挨拶くらいするから、力を弱めろ!)

 

 

 

 そう答えると、やっと私の身体の自由は戻った。

 私は、少女をキッと睨むように見つめる。

 少女はビクリと震えた。

 

 

『エヴァ』

 

  (分かってるよ!)

 

 

 少女は私が近付いたことで、その震えを強くした。

 脅すつもりはなかったが、苛々を伝えてしまったらしい。

 

 

「……おい」

 

「は、はい!」

 

 ぴしっとした姿勢で少女は返事をした。

 よく見れば、少女は可愛らしい顔をしていた。前髪は少々長く、落ち着いた雰囲気というよりは陰キャラといった感じではあったが、素材は悪くないと思った。

 

「……おはよう」

 

「……あ、はい。おはよう、ございます」

 

「……おう」

 

 

 気まずい空気が流れていた。

 

 だが、挨拶はした。これ以上話すことはない。

 そう思って私が再び教室から出ようとした所で、少女は私に声を掛けてしまった。

 

「あ、あの。え、エヴァンジェリンさんは、今日は早いんですねぇ……」

 

 明らかに無理して話し掛けていた。

 私が怖いのなら相手にしなければいいのに、少女は無理矢理話題を作って私と話そうとしたのだ。

 

 無視したらまた動きを止めるわよ、という無言のプレッシャーを感じた。

 本当に、厄介な呪いだった。

 

 

「……そうだな、いつもより早く起きてしまった」

 

「へ、へぇ。私はてっきり、エヴァンジェリンさんが日直なのかなって、思っちゃいました」

 

「……日直はお前なのだろう?」

 

「あ、そ、そうでした。えへへ」

 

 少女は、照れ臭そうに笑った。少しだけ緊張が解けてきているようだった。

 

「あ、あのエヴァンジェリンさん。わ、私の名前、分かりますか?」

 

「……知らん」

 

「そ、そうですよね! 私、ちゃんと自己紹介もしてないし、その、それで……」

 

「名前。なんと言うんだ」

 

 私が面倒くさそうにしながら聞いたのにも関わらず、少女は、とびきり嬉しそうにした。

 

「わ、私! 吉野 あきほって言います!」

 

「……吉野 あきほ、な。覚えておく」

 

「は、はい!」

 

 あきほの返事を背中で聞きながら、私はやっと教室から出ることが出来た。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

「おい貴様! どういうつもりだ!」

 

 屋上で、私の怒鳴り声が響いた。本当に姿があったなら胸ぐらでも掴んでやりたかった。

 

「ああいう意味のないことをさせるのは止めろ!」

 

『意味のない? エヴァ、全ての行動には意味があるし、意味はないわ』

 

「そういう哲学めいた話をしたいのではない! 」

 

 

 あんなことをしても、何にもならない。

 他者とわざわざ絡んでも。あいつらとの縁が出来たとしても、私に良いことなんて起こりはしない。

 それは、独りで生きていた私には分かっていた。

 

「私は学園ごっこをするつもりなんてない! 余計なお節介をかけるな! 」

 

『……あら。登校地獄、という呪いを解くのに、その学園ごっこが必要だとしても?』

 

「……何だと?」

 

 

 

 私の熱は、その言葉によってすぐに引いていった。

 

 

「……どういうことだ」

 

『登校地獄、って呪いはね。本来不登校の生徒を学校に無理矢理行かせる程度のものよ。それが貴方の中では、無茶苦茶な魔力と無茶苦茶な仕掛け方によって、因果や記憶操作にまで作用する呪いとなっているわ』

 

 

 そこまでは、私も分かっている。

 

 

『でもね、いくら無茶苦茶になろうとしても、呪いは根本的は変わらない筈なのよ。本来の登校地獄を解くためには、ちゃんと学校に登校していくことが条件。学校にさえ通っていれば、いつかは解ける呪いよ』

 

「私はしっかり通っていたぞ! 」

 

 正確には呪いによって通わざるを得ない状態だったのだが。

 

 

『いいえ。エヴァ。貴方本当にちゃんと学校に通っていたかしら? 』

 

「……どういうことだ」

 

『ちゃんと勉強して、ちゃんと部活動をして、ちゃんと学校行事に励んで、ちゃんと友達と遊んだかしら? 』

 

 

 

 

 私は、こいつの言いたいことが分かってしまった、

 その答えは、当時の私にとっては、どうしようもなくきつく、辛い答えだった。

 

 

「つまり、まさか」

 

 

 

『そうよ。強力になった登校地獄を解くためには、ただ学校に通う程度では駄目。しっかりと学校生活を謳歌してやっと、その呪いは解けるのよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 この言葉を信じるか信じないかは、迷ったさ。

 だって、あれだけ解くのに苦労していた呪いなのに、そんなことで解けるようになるとは、思わないだろう?

 いや、そんなこと、とは言ったものの、私にとっては大変なことだったさ。

 

 

 

 ……え? 吉野 あきほ、なんて人のことは知らない?

 

 

 それはそうだろう。これは、坊や達の代が中等部に入部する前の話なんだから。

 

 






独自設定、オリジナルキャラクター多くなります。
何卒ご了承下さい。


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3話

 

 

 結局私は、その日午後の授業には出席した。

 学校生活を謳歌する、という定義はよく分からないが、屋上で寝て過ごすよりは授業に出た方が学生らしい、とあいつがアドバイスをしてきたので、午前中一杯考えた結果、従った。

 面倒だが、一理あると思ってしまったのだ。

 本当に面倒だったが。

 

 

 あいつの言葉を信じきっている訳ではない。 ただ、反論する材料が足りなかった。否定しきることが出来なかったのだ。

 よくよく考えれば、この呪いには不可解なことが多くある。

 呪いとしての効力が強すぎるのだ。

 学生として学校に通わなければならない、というだけならまだしも、私を大きく弱体化し、行動範囲を狭め、更には、私が中等部をループすることに違和感を覚えさせないように大きな範囲に渡って記憶操作まで行われている。

 

 ここまで無茶苦茶な上、呪いを解くのに加害者本人がいないとどうしようもない、というのは、あまりに強すぎる。

 いくらナギが実力者だとしても、適当にしただけでここまで出来るなら、これは最上級クラスの呪いとして研究されるものだろう。

 長い時間を掛けて入念に準備した呪いでないのならば、どんな強い効力の呪いであろうと解くのは意外と簡単、ということはよくあるのだ。

 

 だから、あいつの言うことにとりあえずは従った。

 

 が、とりあえずそうしただけで、今後どうするかはまだはっきり決めていない。

 学園生活を謳歌、なんて、具体性のない目標はどうすればいいかも分からんし、もしガキ達とばか騒ぎすることが必要だとしたら、プライドがそれを許すかは微妙だった。

 

 

 

 

 

 

『だからね、ばか騒ぎはしなくてもいいの。でも、お友達くらいは作ったらどうなの』

 

 放課後、さっさと家に帰ろうと歩いている私に、こいつは溜め息混じりにそう声を掛けた。

 

 

「ふん。それが必要だとしたら、却下だな。まだ呪いが掛かってた方がましだ。上っ面だけの関係を作ることになんの意味がある」

 

『エヴァはすぐそう言うのね。意味があるのか、意味があるのか、って。つまらなくない? その生き方』

 

「悪いが、600年そう生きてきた」

 

『今更生き方を変えれないって言いたいの?』

 

「ああ、そうだよ。私はもう、この生き方を変えようとは思ってない」

 

『……寂しいわ』

 

 声は、泣きそうなほど、沈んでいた。何故、こいつがそんな悲しそうにする必要があるのか、私には全くもって理解出来なかった。

 

『エヴァ。貴方は勘違いしているわ。自分を変えるのは、いつだって出来るのよ?』

 

「私が変えようとしてないんだ。余計なお節介をするな」

 

『……なんだかんだ言っても、まだ子供のままなのね、貴方は』

 

「……ふん。玉っころ風情が、粋がった口を聞くなよ」

 

 鬱陶しかった。

 説教口調で人の生き方に文句をつける奴は、うざったい。普段なら無視してやるのだが、心に直接話し掛けられたら、そういう訳にもいかなかった。

 登校地獄よりも、今はこの呪いの方がよっぽど癪に障る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……エヴァ。どうしたんだい。何を怒っているんだ?」

 

 学園を出る直前に声を掛けて来たのは、タカミチだった。

 私の苛ついた声が聴こえたのか、緊張した表情であった。

 

 

『あら、まさか、お友達? 』

 

(……いや、ただの知り合いだよ)

 

 

 期待を込めた声に冷たくそう答えていると、無視されたと感じたのか、タカミチは一層表情を強張らせた。

 

「……何かあったのかい? 」

 

「なんでもない」

 

「……そうか。ならいいんだ」

 

 私の言葉をその通りに捉えたかは分からないが、追求する気はないらしい。嫌いじゃない賢さだ。

 

 

「そういえば、今日はどうしたんだい」

 

「何がだ」

 

「授業に出てきたじゃないか」

 

「……ああ」

 

 午後の授業は2限あったが、一つはタカミチの担当する英語の授業だったのを思い出す。

 

「気紛れだよ。別に珍しいことでもあるまい」

 

 今までも、暇潰しに顔を出したことは何度かあった筈だ。

 

「そうだけど、今日は暇潰しって感じでもなかったからさ」

 

 よく見ている奴だ。

 

「これからは真面目に学生をしてみようかと思ってな」

 

「本当かい!?」

 

 

 あほらしい、と笑いながら、冗談を言ったつもりでいたのに、タカミチは身を乗り出して私の肩を掴んだ。

 

「なんだ急に! 嘘に決まってるだろう!」

 

「エヴァ、そう考えるのはとても良いことだと思うよ! いつまでもつまらなそうに学校に通うくらいならば、一度くらいは本気になってみたらいいと、僕は前から思ってたんだ!」

 

 私の話も聴かずに、タカミチは柄になくはしゃぎ出した。ゆさゆさと肩を揺らされて、頭が振り子のようになる。鬱陶しい。

 

 

 良いこと言うわねこの青年、と笑う声が聞こえるのが、更に私を不快にさせた。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

『エヴァ、なら、現実的に考えましょうよ』

 

 家に着いた後も、声は私に語り続けた。

 

『上手くいけば、あと一年半でいいのよ。もし今回がだめでも、次の三年間頑張るだけで、あなたが一生掛かったままかもしれない呪いが解けるわ』

 

 頑張る、なんて言葉を聴いたのは久しぶりだった。

 

「そもそも、丸々三年間しなくてもいいのか」

 

『途中からでもいいと思うけど。要するに、錯覚させればいいのよ。呪いを。抽象的な呪いだから、多分いけると思うわ。それなら、やっぱり今から卒業までを頑張った方が短くていいと思うのだけど』

 

「その内容が問題なんだよ」

 

『学生達と絡むのが嫌だって言いたいのでしょう? 』

 

 改めて言われると、嫌、というのは少し違う気がする。

 確かに良いか嫌かでいえば、嫌なのだが……。

 

『だったら、利用してやればいいのよ』

 

「利用?」

 

『そうよ』

 

 気付けば私は棚の上に置いてある玉に顔を向けていた。私自身の中にこいつの意識はある筈なのだが、元となるものがこの玉だと思うと、不思議な感覚になる。

 

『少しだけ、友達になるふりをするの。自分が解放されるために学生達と仲良くなったような素振りを見せてやればいいわ。そうしたら、呪いは勘違いして解けるかもしれない』

 

「……お前、良い奴か悪い奴か、どっちなんだ」

 

 

 学生を騙して友達になったふりをする、というのは、今まで散々な悪行をしてきた筈なのに、それこそ最も悪である、とまで思ってしまった。純粋な子供を騙すことに躊躇う心が私の中にはまだあったらしい。

 

「お前はもっと、正義感ぶった奴だと思っていたんだが」

 

『あら、それは貴方の勝手な印象ね。私は自分のことを良い奴だなんて思ったことないし、悪い奴だとも思ったことはないわ』

 

「そもそも、友達のふりをする程度でこの呪いは解けるのか」

 

『何もしないよりは可能性があるわ』

 

「それはそうだが……」

 

『何? もしかして気が引ける訳? 闇の福音ともあろうものが、自分のために他者を利用することは出来ないっていうの? 』

 

「……違うな。気が引ける、というより、気が乗らない、という感情だよ」

 

『違うの? それ』

 

「違う」

 

『そう』

 

 

 嫌だ、と思っているのではなかった。

 私も分かっているのだ。

 今後何年間も縛られた人生を送るよりも、たかが数年間を我慢してさっさとここから抜け出した方がいい、ということを。

 

 だがそれでも、その作戦をやろうと思い切るのには至らなかった。

 あの騒がしい奴等の輪に入っていく自分が、どうしても想像出来なかった。

 

 

 

 

 

 今まで私の周りに溢れていた風景と、あの学園の風景は、あまりに違いすぎていたんだよ。

 生と死が隣り合い、殺伐とし、混沌としていた私の世界から抜け出して、あの笑顔に溢れた世界に行くのには、恐怖があったのかもしれない。

 ダークファンタジーの中にいるキャラクターが子供向けのコミカルな漫画の中に入っていくような不自然さがあると感じていた。

 厳つい顔をし大剣を持った大男が、ほわほわと皆が笑い合うような世界に飛び込んでいったら、どうなると思う?

 倒すべき敵もいない大男は困惑するだろうし、コミカルな世界は、その男の容姿に初めて恐怖という感情を蔓延させるかもしれない。

 

 

 そこまでしても、私はここから抜け出したいのか。

 

 自分の気持ちを天秤に乗せた。

 呪いに囚われた人生と、未知の世界に飛び込む自分。

 

 ふわふわと揺れるだけで天秤は、動かない。

 当たり前だ。重要度を簡単に頭の中で差をつけることが出来るならば、そもそも天秤に乗せて迷うだなんてことすら思わないだろう。

 結局は、私の意思という重りがどちらに乗るかを自分で選ばなければならないのだ。

 

 

 

 考えるのが面倒になった私は、この日いつもよりずっと早く眠りにつこうとした。

 

 

『おやすみなさい。エヴァ』

 

 

 羽毛で出来た毛布のような声を最後に、私はその日の意識をなくした。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 翌日の朝も、家を早朝のうちに出た。

 あいつに起こされるのは相変わらず不快であったが、静かな朝に外を歩くこと自体は嫌いではなかった。あいつが来てから、日中の活動時間が増えてきているような気もした。

 

 学校も、やはり人影は少ない。

 

『……それで、決めたの?』

 

 言うまでもなく、今後どうするか、という話であろう。

 

「……まだだよ」

 

 私は独りで首を振って答えた。

 1日寝た程度では、私の覚悟は決まらないようだった。

 

 

「お前は妙に私に協力的だよな。何故だ」

 

 

 こいつにも、納得出来ないことは多くあった。

 そもそも、この意思のある呪いの目的はなんなのだろうか。

 私が麻帆良に閉じ込められていようとなかろうと、こいつにはどちらでもいい筈だ。いやむしろ、私を宿主として寄生していると考えれば、私の力は弱っちい方が色々と便利な気がする。

 

『だって、ずっと同じ風景だなんて、つまらないじゃない』

 

 声は、はっきりと芯のある言葉でそう言った。

 

『私はね、色々な世界が見たいの。人間が作っていく歴史を見ていたいの。だからエヴァにはもっともっと広い活動をしてほしいと思っているわ』

 

「……それはもしかして、好奇心か?」

 

『もちろん』

 

 不思議な話だった。

 呪い、というものが好奇心を持って存在していることが信じられなかった。

 生きていると言っていいのかも分からない存在が、私よりも生き生きとしている。

 

「……お前が思っているより、人間は大したものじゃないよ」

 

 

 私は、知っていた。

 人間という奴等がどれだけ醜いかを。

 そのどす黒い悪意や怨念を間近に受けて私は今まで生きてきていた。だから、こいつのように人に関する興味を今更持てはしなかった。

 

 

『あら、私はあなたより人間のことを知っているわよ』

 

 声は穏やかに続けた。

 

『私はね、あなたより長く生きて、この世界の有り様を見てきたわ。それこそ汚い部分も沢山ね。それでも私は彼等に興味がある』

 

 

 そういえば、そうだ。こいつは、私よりも年寄りなんだ。

 思えば、自分より長く生きてきた奴に会うのは、本当に久しぶりであった。

 

 

 

 

 

 教室に入ると、また一人の生徒がいた。昨日あった奴と同じであった。

 

『吉野あきほちゃんよ』

 

(知ってるよ)

 

 私が名前を忘れてると思ったのか、声は図々しく教えてきた。忘れかけてはいたが、なんとか私は忘れてなかった。

 

 吉野あきほは、小さい身長で一生懸命に黒板を綺麗にしていた。

 

 

「あ、エヴァンジェリンさん」

 

 私に気付いて、少女は此方を向いた。

 昨日私に対して感じていた恐怖などはすでになかったようだった。

 

「おはようございます」

 

「……ああ、おはよう」

 

 丁寧に下げた頭に対して、私はあいつに身体の自由を奪われる前にしっかりと返した。

 

「えへへ」

 

 吉野あきほは、照れ臭そうに笑った。何故笑ったのかは分からなかった。

 

 

「お前、どうして今日も日直の仕事をしている」

 

 私の記憶が正しければ、日直は1日やったら交代の筈だった。

 

「え、ええ、と」

 

 吉野あきほは、頬を掻きながらもやんわりとした笑みを崩さなかった。

 

「実は私ね、日直じゃないんだ」

 

「……なら、どうして」

 

「えと、朝のちょっとしたお掃除ってさ、日直の人結構忘れちゃっててさ、それで、先生が困っちゃう時があるから……」

 

「昨日もか?」

 

「う、うん」

 

 昨日自分が日直だ、と言ったのは気を使われたくなかったからか、それとも、自分がやっていることをひけらかしたくなかったからなのだろうか。

 

 

「だとしても、お前がやる理由がない」

 

「そうだけど……」

 

 吉野あきほは、ずっと笑みを含んだ表情をしていた。多分、少女の普段は、こうしていつも笑っているのだろう。

 しかめっ面なあなたとは正反対よ、と心に声が届く。

 

「私、あんまり人の困った顔って得意じゃないから。だから、いいの」

 

「自分が損しても、か?」

 

「違うよ。自分がしたいから、するんだよ」

 

 

 

 えへへ、と吉野あきほは、笑った。

 

 馬鹿な奴だな、と思った。

 同時に、強い奴だとも、思った。

 今まで録に周りを見ていなかったら、私はクラスにこんな奴がいることを知らなかったのだろう。

 

 

 

「……ふん。なら、せめて文句の一言でも言ってやるんだな。言えないなら私が言ってやる」

 

「ええ!? い、いいよ、そんなの……」

 

「遠慮するな。自分のことは自分でやらせないと、お前はいつか紐でも出来てしまうぞ。さぁ、今日の日直は誰だ」

 

「ひ、ひも? そ、それに、今日の日直は……」

 

 黒板の隅にある、日直の名前が書かれた欄を見る。

 そこには、見慣れた名前が書いてあった。

 

 

『あなたじゃない』

 

 

 確かに、エヴァンジェリン、と書かれている。

 声はケタケタと笑った。

 

 私は、本の少しだが、恥ずかしいという想いと、申し訳ないという気持ちになる。

 

 

 

「……すまん。私がやる」

 

 今までまともにこんな仕事をしたことはなかったが、流石に目の前の少女に自分の仕事を全て押し付けるという気はなかった。

 

 

「え、うん。あの、なら、一緒に、やろ」

 

 

「……」

 

 

 それでも少女は、吉野あきほは、一緒にやろうと言ってくれた。

 

 

 私は黙ってもう一つの黒板消しを手にとって、黒板に押し当てる。

 

 

 友達、出来そうね、という声が聴こえた。

 

 

 

 

 まだ私は認めた訳ではない。

 吉野あきほを友達とするかも、友達として偽るかも決めていない。

 

 ただ私は、この日初めてクラスの奴と一番長く話した。

 

 

 



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4話

 

 

 それから私は、毎日学校に行った。

 いや、今までも確かに学校には行っていたのだが、授業など碌に出てはいなかった。その日からは全ての授業に出席していたのだ。そういう意味では、まともに学校に通い始めた、ということなんだろう。

 

 昼休み、屋上で寝転びながら、これくらいで呪いは満足してくれるのか、と訪ねたら、声は、全然駄目よ、と穏やかに返事をした。

 見上げた空は明るかった。雲は疎らに泳ぎ、太陽は容赦なく大地を照らす。ずっと座り続けたからか体には妙な疲労感があった。慣れないことをしているというのも、この疲労の原因であるのだろう。

 

 

『授業に出ても、あなたぼーっとしてるだけじゃない』

 

「どんな顔をしていればいいのか今一分からん」

 

 ただじっと座ってるというのは退屈であった。だからと言って聞いたことあるような話を今更真剣に聴くのは馬鹿らしく思って出来なかった。

 

『まぁでも、それもいいのかもしれないわね』

 

「何がだ」

 

『授業中ただぼーっとして過ごすだなんて、いかにも学生らしいもの』

 

 ふふ、と爽やかに笑いながら声は言った。冷えたレモン水のように落ち着いたこの声は、私の中にさっと流れていく。

 絶対に本人には言わないが、私はこの声の質は嫌いではなかった。

 

「青空を見ながらこうして話すことも青春っぽい、などと言い出すんじゃないだろうな」

 

『私とじゃなくて、お友達と話していればそうだったかもね』

 

 

 それはそうか。

 少なくとも、自分の内面に潜む呪いと会話をするような学生が世の中にあり溢れているとは到底思えない。

 

 

 しかし、声の語る学生のイメージというものは未だに理解出来なかった。そもそも、こいつも学校など通った経験がないのだろうに、なんの知識を元にして話しているのだろう。

 

 

「大体な、学生らしい、という判断は何によって行われてるんだ」

 

『そりゃもう、登校地獄の呪いによってよ』

 

「……なんだ、まるで登校地獄にも意思があるみたいな言い方だな」

 

『あるわよ、意思』

 

 私が怪訝な顔をすると、声は、言ってなかったかしら、ととぼけた風に言った。

 

『私、エヴァの中に入ってからずっと登校地獄に話し掛けてるのよ? 全然会話にならないけど、登校地獄が貴女の学生生活をちゃんと見たがってるのは分かったわ』

 

 呪い同士で話をする、というのはあまりにシュールな場面だと思った。そもそも、こいつはそういう呪いだと受け止めていたが、他の呪いにも意識があるだなんて思いもしなかった。

 

 声は私に説明をするように語りかけた。

 

『私ほど自意識のある呪いは他にはいないわよ。私は別格。普通の呪いは勿論しゃべったりする訳じゃないわ。ただ、何て言うのかしら。赤ん坊と会話しているみたいな感じよ。声は聞こえないけどその表情や仕草で気持ちを察するみたいな』

 

「ほーん……」

 

『気の抜けた返事ね。本当に聞いているの?』

 

「聞いているさ」

 

 実際に、興味深い話だった。呪いというものがそのような形で人の中に残っているとは知らなかったのだ。

 

 長いこと生きていてもまだ知らぬことがあるのだ。そう思うと、何となく嬉しい気持ちになってしまう。未知というのは誰にとっても好物であるのだろう。

 

 

「表情がある、というのは比喩か? 登校地獄に姿があるというのか」

 

『あるわよ。姿。イメージ、というか意識的なものだけれどね』

 

「……ちなみに、登校地獄はどんな姿をしている」

 

『……んー。これは、狐、かしらね。貴女の中で、律儀にお座りしているわ』

 

 

 校庭からは、学生達の騒ぐ声がずっと聞こえていた。

 

 休み時間だというのに昼練習などといって部活動を励むものもいれば、単純に遊んでいるだけのものもいるのだろう。

 元気なものだ、と私はその声を耳にしながら目を瞑る。

 

 

 

「……狐、か」

 

『狐、嫌いかしら』

 

「いや、もし人の姿でもしているものなら何とかして殴ってやろうと思ったんだがな」

 

 流石に動物の姿をしているものを殴り付けるというのは、抵抗があった。これが魔物っぽくあるのならばまた話は別なのだが、狐と言われては手を挙げようとする気すら失せてしまう。

 

 

 野蛮ねぇ、という声を最後にして、私は眠りについた。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 午後の授業も適当に座ってるだけで過ごした。

 私がただ座っているということだけで、視線を向けてくる生徒が未だにいる。教師すらも、私が席についていることが意外らしくて、いちいち驚いた表情をするのはうざったかった。

 他の奴らからしたら、不登校の生徒が突然学校に来た、という感覚なのだろうか。それか不良生徒がいきなり真面目になった、とでも思っているのだろう。

 

 今まで誰よりもこの学校に通って来ているのは私なんだぞ、と自傷ぎみに笑ってしまいそうになる。

 

 

 放課後、教師の連絡事項も終わり、さっさと席を立ち上がると、ゆっくりと私に近付いてくるものがいた。

 

 

 

 

「あ、あの。エヴァンジェリンさん」

 

「……どうした、吉野あきほ」

 

 吉野あきほは、指をもじもじとしながら私に話し掛けてきた。

 緊張した顔で上目遣いしてじっと見てくる。

 

「……あの、あのね。今日ね、もしエヴァンジェリンさんが良ければね、一緒に帰らないかなぁ、なんて」

 

「……何故だ」

 

 私が理由を訊くと、吉野あきほは両手を前に出して細かく振った。

 

「と、特に用事があるわけじゃないの。ただ、あの。私、エヴァンジェリンさんとお話がしたいなぁって、思って」

 

 

 

 よく、分からなかった。

 理由もないのに二人で帰って、何を話すと言うのだ。

 

 

「……悪いな。今日は予定があるんだ」

 

「え、あ、うん。そ、そうなんだ……。なら、仕方ないね……」

 

 吉野あきほは、明らかに落胆した様子で、悲しそうにした。そこまでして私と一緒に帰りたかったというのか。

 

 しかし、用事があるのは、本当だった。

 声が、『一緒に帰ってあげなさいよ』、などと言わないのは、私に予定があることを分かっているからなのだろう。

 

 

「……じゃあな」

 

 私が鞄を持って教室を出ようとしたところで、吉野あきほは私の袖をちょんと摘まんだ。

 

「う、うん……。またね。エヴァンジェリンさん。また、だよ? 」

 

 私は、彼女を一瞥し、おう、とぶっきらぼうに返事をしてから、今度こそ教室を出た。

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

 

「何のようだ、じじい」

 

「ほっほ。機嫌が悪そうじゃの、エヴァ」

 

「うるさい。早く用件を言え」

 

 

 学園長室に呼び出された私は、目の前の老人を睨み付けるようにしながら言った。

 ふぉっふぉ、と爺は自身の髭を弄っている。目元が隠れるほどの眉毛も禿げ上がった頭皮も爺が高齢者であることを表している筈なのだが、老人とは思えないほどの明るさを持った奴だった。

 

『この人がここの長なのね』

 

  (ああ)

 

『個性的ね』

 

 恐らく、長く延びた後頭部を見てそう言ったのだろう。見慣れた私から見ても、奴の頭はどうかしてる、と思っている。

 

『あの頭って、髪の毛生えてる時ってどうなってたのかしら』

 

  (知るか。想像させるな。気持ちが悪い)

 

『若い頃の写真を見てみたいわね』

 

  (見たいものか。しかし、禿の方が似合いそうな頭とは中々気の毒だな)

 

 

「……エヴァ? 失礼なこと考えとらんか? 」

 

 

 何でもない、と私は冷静に首を振っておいた。

 

 

 

 

「用というほどではないのじゃがの……」

 

 爺は私を怪しげに見ながらも、とりあえず話を続けようとした。

 

 

 

「お主、最近何かあったのか? 」

 

 何かあったと訊かれれば、それはあった。

 例えば、変な玉っころに呪われ付きまとわれたり、だ。

 だが爺が聞きたいのは恐らくそういうことではなくて、最近まともに学校に通っているのは何故だ、ということなのだろう。

 

 素直に答えてもいいのだろうか、と一瞬考えたが、やめた。

 もしこいつが私を学園に繋いでいるのが利としているのならば、私を簡単に逃がす筈がないのだから。

 

「どうしてそんなことを聞く」

 

 とりあえず、はぐらかすようにそう答えておく。

 

「色んな者から話を聞くのじゃよ。お主の様子が変だ、とな。何やら、授業をサボることなく出席しているのじゃろう」

 

 

 

 この学園には、魔法を知るものが多い。

 それは世界樹というばかでかい魔法樹を街の真ん中に飼っているのが原因なのだろうが、おかげで私へ関心を持っている教師は多く存在していた。

 

 勿論、よい意味の関心ではない。

 

 

 闇の福音、不死の吸血鬼。

 私の悪行はお伽噺レベルで奴らの中では語られている。だとしたら、そんな私の動向を気にする奴がいるのは当然だろう。

 もう大したことをする魔力もない私を気にしてどうするんだ、と思いながらも私は今までその視線を受け止めてきた。

 

 

「ふん。それのどこが変なことなんだ。学生として当たり前だろうが」

 

 

 先日タカミチに言ったように、冗談らしく、馬鹿にしたようにそう言っておく。

 

 いかにも、裏には他の企みがあるんだぞ、という含みをした言い方のつもりだった。

 

 私がまともに学校に通うと思うか、と意味を込めたつもりだった。

 

 

 ……だというのに、学園長の返事もやはり私の思惑とは違うものだった。

 

 

「ふぉっふぉっふぉ。ふざけていたとしても、まさかお主からそんな答えを聞くときが来るとはの。どんな心変わりかのぅ」

 

 

 爺の表情は、穏やかだった。

 何故か嬉しそうに目尻を下げていて、私はどうしてこいつがそんな顔をするのか、よく分からなかった。

 

 

「……おい。結局お前は何が聞きたいんだ」

 

「いや、確認じゃよ。エヴァがどういう気持ちでおるのか、というな」

 

 

 爺の落ち着いた声は、いつも私に話すものとは違っていた。

 

 

「会議でも話題になるんじゃよ、お主のことは。闇の福音の様子が変だ、何か企んでいるぞ、とな」

 

「……」

 

 

 爺の瞳が、眉毛の底からそっと見える。日本人らしい黒い瞳は、狡猾な彼をそんな風には思わせない光をもっていた。私には見慣れない瞳だった。

 

 

「タカミチ君は、必死に否定しておったよ。お主がまともに学校にいることの何が変なのか。今までエヴァがこの学園に何かしたか、とな」

 

「あの、馬鹿が……」

 

 

 何故か、私が恥ずかしい気分になる。

 

 あいつは一体何を熱くなっているんだ。

 大体、他の奴らの前で私の味方をしたら白い目で見られることくらい、分かっているだろうに。

 

 

 

 爺は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 静かに近づいてきて、私の前に立つ。

 

 

 何だよ、と私が不審げに睨んでも、爺は笑っていた。まるで、孫を見つめるような目付きだったのが、癪に触る。

 

 

 

「……今までは、儂もお主をそういう風に見たことはなかった。だが、お主がその気なら話は別じゃよ。儂は、この学園の生徒の味方じゃ。だから、何か困ったことがあったらいいに来なさい」

 

 

 それは、爺が初めて私にした、教師としての発言だった。

 爺だと言えども、当然私よりは背が高い。

 だが、そういう意味ではなくて、この時何故か、爺が一回り大きな存在に思えてしまえた。

 

 

 

 

「……っは。今更貴様らなんかに、頼むことはない」

 

 

 アホらしい、と思った。

 私の方が、ずっと年上だぞ。

 何故お前らに教師面されねばならない、と思った。

 

 でも、爺はそれでも穏やかに笑いながら自分の髭を触っていた。素直じゃない不良生徒を相手にしたときの教師のような態度であった。

 

 

「そうかのう」

 

「そうだ。もういいか、私は帰るぞ」

 

「ではまたの、エヴァ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

『好かれてるのね』

 

「はぁ?」

 

 家に帰り鞄をベッドに放り投げた直後に、声は私にそう話し掛けてきた。

 

 ぼふり、と鞄がベッドの上で跳ねる。私はそのままソファーに向かって勢いよく腰を下ろした。

 部屋のライトがやけに目に染みる。すぐにでも眠ってしまいたいほど疲れていた。今日は特に慣れない体験をしたような気がした。

 

 

 

『皆が貴女に協力的よ』

 

「……ふん。あほだよあいつらは」

 

 

 私の学生生活に協力的で、何になるというのだ。

 奴らには何のメリットもない。吉野あきほも一緒だ。

 私なんかと仲良くなったところで、奴にいいことなんてひとつもあるまい。

 

 

 そのままソファーに横になって、私は目を閉じた。

 制服が皺になるか、と考えたが、すぐにどうでもよくなった。身なりにはそれなりに気を使う方だが、家にいる間はまた別だ。

 

 

 

『……貴女は、何に怯えているの』

 

 

 声は、慎重な口調で私にそう訪ねた。

 

 

 そうか、こいつからしたら、私は怯えているように見えるのか。

 

 

 

 私は、小馬鹿にするように鼻で笑う。

 的外れ、とも言えない意見だった。流石に私の中にいるだけある。

 

 

 

「……意味がないんだよ。仲が良くなろうが、優しくされようが、縁も何も、すべてがいらないんだ」

 

 

 今更こいつに虚勢を張ろうとする気はなかった。弱々しく、自分が嫌いになりそうな考えだが、どうせ私の中にいるこいつにはいつかばれる。ならば偽るだけ体力の無駄だということだ。

 私は横たわりながら、ひっそりと本心を語ろうとしていた。

 

 

 

 

『……また意味? 』

 

「だって、そうだろう?」

 

 

 それは。

 私の諦めの言葉だった。

 

 

 

 

「どうせすべてはいつか灰になって空を飛ぶ」

 

 

 

 

 

 

 どんなものも、私より先に消えて、死んで、空を舞っていく。

 仲良くなろうが、優しくされようが、全てが灰になる。

 遠い昔に親切にしてくれた人も、私を愛そうとしてくれた人も、皆が死んだ。

 

 今はもうその人を覚えている人はいなくて、世界では最初からいないことになっていて、私の中にうっすらと残像があるだけだ。その像も、年が経つ度にどんどんと消えていく。

 私の中にしかいないのに、それすらなくなってしまったら、それはもう最初から存在していないのと同じだ。

 

 ナギほどの強力な存在なら、ずっと私に残ってくれるかと思ったが、何のこともない。例え奴でも結局は消えるのだ。

 

 

 この世界に残されていくのは、ずっと、自分一人だけだ。

 

 

 

 

「だから、意味がないと言っているんだ。」

 

 

 私の心は、もう、冷えきっているのだ。

 他の奴らに優しくされても、心が苛つきざわつくだけだ。

 冷たい世界で、氷に埋め尽くされた世界で、私は独りで立っていくのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

『……それもまた、貴女に掛かった呪いなのね』

 

 

 

 

 

 声は、静かにそう告げた。

 

 

 

 それから、ゆっくりとまた言葉を紡ぐ。

 

 その言葉は、私の頬を撫でるかのように、優しく、柔らかく、告げた。

 

 何もいない筈なのに、目の前には、笑った女性の顔がある気がした。

 

 

 

 

 

『私がいるわよ』

 

 

「……なに? 」

 

『一緒に、覚えてあげる。これからあること、私の中にも残してあげる。そしたら、一人じゃないわ』

 

「……お前、だって」

 

『私は、貴女が死ぬまでしなないわよ』

 

 

 声は、また笑った。

 私はいつの間にか、天井に向かって手を伸ばしていた。

 誰もいない空間にある筈の手が、何かに掴まれているような気がした。

 

 

 

 

 

『二人の中に残ればそれはただの記憶じゃなくて、思い出になるわよ。これから先起こること、私と貴女の間に残していきましょう。そうしたら、全てが無駄じゃないと、思えるかもしれないわね』

 

 

 

 

 凍える冬の世界で、その言葉が、熱を持っているように感じた。

 

 大した仲でもなく、人でもない奴の言葉だ。

 

 

 でも、その声が、私にとってたった一つの救いになる気がしたんだ。

 

 

 

 

 



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5話

 

「……ふぅ」

 

 そこまで話すと、エヴァンジェリンさんは疲れぎみに溜め息をついた。

 

 この別荘の中でも夜という概念はあって、同じように太陽も月もある。人工的に造り出したものだそうだけど、月はちゃんと周期的に欠けて満ちていくようになっているらしい。

 その満月を見て、僕の師匠は感情のはっきりしない複雑な表情をしていた。寂しみながら笑っているかのような、曖昧な顔だった。

 どうかしましたか、と訊ねれば、彼女は過去を思い出していたと答え、駄目元で内容を聞いて見ると、また微妙な表情をしたけれど、ゆっくりと話をしてくれた。

 昔を語るエヴァンジェリンさんは、いつもよりどこか大人っぽく、そして儚げだった。白い肌は美しくあったけれど、同時に弱々しさを備えているようで、その姿はいつもの彼女からは想像が出来ないものであった。

 

 

「……少し、話しすぎたな」

 

「いえ! そんなことないです!」

 

 勢いよく首を振った。

 エヴァンジェリンさんについて、僕はまだ知らないことは沢山あった。師匠として僕に魔法を教えてくれるようになって数か月。教え子として机に座る彼女が実は悪名高い魔法使いで、しかも僕の父と関わりがある、ということは聞いているけれど、彼女自身のことは分からないことが多い。

 だから、こうして話を聞く機会があって純粋に嬉しく思っていた。

 

「おまえ、まだ聞きたいのか」

 

 今度は縦に首を振った。

 こうして彼女が自分の話をしてくれたことは今までほとんどない。たまたま今、満月が見える状況で昔を思い出したから気まぐれにこうして語っているだけであって、多分僕に聞かせたいという感情ではないのだろう。私のことを知ってほしいと、年頃の女性にありがちな主張をエヴァンジェリンさんがする筈がなかった。

 だからこそ、今日この機会を逃したら、次はいつ彼女がこの話をしてくれるのか分からない。もう二度と彼女の過去を聞けることはないかもしれないというのは、嫌だった。

 

「つまらん話だぞ」

 

「そんなことないです」

 

「ただ私が一人で語ってるだけなのにか」

 

「その語りを聞きたいんですよ」

 

 エヴァンジェリンさんはまた息をついた。

 

「……そうか。分かった。だが少し私に休ませろ。喉が渇いた」

 

「えっーと、僕の血、飲みます? 」

 

 僕が自分の腕を差し出すと、彼女はふっと短く笑った。

 

「嬉しい申し出だが、そんな気分じゃないな。ワインを持ってくる」

 

 そう言って、エヴァンジェリンさんはゆっくりと立ち上がり僕の側から遠ざかっていく。

 長い金色の髪が、きらきらと揺れている。暗闇に映えるその色は、星のようにも月のようにも思えた。背丈は僕とそう変わらない筈のに、彼女はずっと大きな存在に見える。

 遠くなっていく背中を眺めながら、僕は考える。彼女がしてくれた話は、今から何年前の話になるのだろうか。

 

 お父さんが掛けた呪いである登校地獄と、不思議な玉の呪いの話。

 エヴァンジェリンさんがお父さんと関わりがあるのは知っていたけれど、登校地獄という無茶苦茶な呪いを掛けたのがまさかお父さんだなんて思ってもみなかった。

 それに、意識のある呪いだなんて、僕は聞いたことがない。呼んだ書物の数には自信があったけれど、その中にもそんな呪いの存在が書かれていたことはなかった。

 きっとどちらの呪いも、かなり稀少なものだろう。

 

 今現在、彼女の中でその2つの呪いがどうなっているのかは僕はまだ知らない。

 早く答えを知りたいという好奇心はあれど、急いて聞き出そうとは思わなかった。ゆっくりと順序を追って、彼女がそのことを話すのを待ちたかった。彼女の口から、その答えを知りたいと思った。

 

 

 

 ……しかし。この話の結末はある程度予想出来てしまう。今まで何度か彼女の家を訪れたけれども、家の中で話に出ていたその呪いの玉は見たことがなかった。

 ということは、もしかすると、それはもうすでに―――。

 小説を読んでいてバッドエンドだと分かってしまったように、寂しさで胸を締め付けるような想いはしていると、脇にある柱から視線を向けられていることに気付いた。

 不審に思ってそこをじっと見つめると、がた、と物音が立つ。

 

 

 

「……あのー、皆さん。何してるんですか? 」

 

 声を掛けると、彼女達は「しまった」という顔をしながらぞろぞろと出てきた。やっちゃった、というジェスチャーをしつつも困ったような笑みを浮かべて、ばらばらに足音を立てて此方に向かって歩いてくる。

 

 

「ほらぁ、明日菜が顔を出しすぎるから見つかってしもうた」

 

「ちょっと木乃香! 私のせいだって言うの?! 」

 

「そもそもあんなところに皆で隠れるのが無理があったんですよ……」

 

「のどかなんて押しくら饅頭されてつぶれてたです」

 

「う、うう。辛かったよぉ」

 

 

「皆さん……今までの話聞いてたんですか? 」

 

 僕がじっと見つめてそう訊ねると、明日菜さんはあまり反省してなさそうに頭を掻きながらごまかし笑いを続けた。

 

「盗み聞きはよくないってうちは言ったんやえ? なぁせっちゃん」

 

「まぁ、言うには言ってましたけど、お嬢様結構ノリノリだったような……」

 

「なによ!私ばっかり悪者にして! 皆結局一緒に聞いてたじゃない!」

 

「はい、そうですね。これに関しては全員悪いといっていいでしょう」

 

 夕映さんは淡々とそうは言うけれども、悪びれた様子もなく、いつものように冷静な顔つきだ。

 

「二人で密会していますから、何かけしからんことでもするのではないかと心配だったのですよ」

 

 訊いてもいないのに夕映さんはそうは言って、ねぇのどか、と前髪で目を隠された少女にも同意を求める。

 

「ええ!? い、いや、……そう言う訳じゃなく……はないんですけど……」

 

 うう、とのどかさんは顔をほんのりと赤らめながら、ごめんなさい、と小さく謝る。その姿は可愛らしかったけれど、僕に謝られても、と少し困ってしまった。

 

 

「……でも、珍しいわよね。エヴァちゃんがあんな風に自分のこと話すなんて」

 

「そうやなぁ。うち、エヴァちゃんに色々教えてもろうとるけど、昔のこと聞いたのは初めてやわ」

 

 同じクラスメイトである皆も僕と同じような感想を思ったらしくて、口々にそう言った。

 彼女達も、エヴァンジェリンさんにはお世話になっている。この別荘は魔法の修行にも便利だし、ちょっとずるだけれど、休んだり勉強したりするのにも使えるのだ。エヴァンジェリンさんはこの場所に特にこだわりがある訳ではないようで、歳をとっても構わんと思うなら勝手に使うがいい、と言っていた。ついでに、皺が出てきた時にここを使ったことを後悔しても遅いからな、と呆れつつも加えていた。

 

 

 

「……千雨さん。どうかなされたのですか? 」

 

「……ん、ああ」

 

 皆から一歩引いたところで思い更けるようにしていたのは、千雨さんだ。この中でも最も冷静で、年不相応な落ち着きを持った彼女は、僕達を安心させてくれることが多い。まぁ、たまに爆発したかのように騒ぎ立てることもあるのだが、それは置いておいて。

 

「エヴァがあいつの話をするとは思わなくてな」

 

「……あいつ?」

 

「それって、さっきのお話に出ていた、呪いの玉のことですか?」

 

 そうだよ、と千雨さんは頷く。

 

「千雨ちゃんも、その玉のこと知ってるの?」

 

「まあ、な」

 

 この中でエヴァンジェリンさんと一番仲が良いのは、千雨さんだ。

 僕が着任してくる前から二人はよく一緒にいたようで、互いに話すときはいつも自然であった。女子同士の馴れ合いというよりも、お互いの距離感をしっかりと掴んだ上で付き合っているみたいで、じゃれあったりするような二人ではないけれども、遠慮のないその感じは見ていて心地良いと思うことがある。

 

「あの話って……私達が中学生になる前のことですよね? 千雨さんは昔からエヴァンジェリンさんと知り合いだったんですか?」

 

「昔つっても、小学校の時だ。多分四年か五年」

 

「あー、だからエヴァちゃんと千雨ちゃん仲ええんやなぁ」

 

 かもな、と千雨さんは気の抜けた返事をする。

 

「それで、呪いの玉のことも知ってると」

 

「知ってるというか、私もあいつとは知り合いだったよ」

 

 だった、と千雨さんは確かに言った。その発言に気付いた数名は、若干気まずそうに顔を背けた。

 

「……どんな人だったんですか」

 

「……人ではなくない?」

 

「明日菜さん、ちょっと静かに」

 

「余計な茶々いれんでええよ、明日菜」

 

「ええ……なによなによ皆して……」

 

 悲しい話になりそうだと直感した人は真剣にその話を訊こうとしていたため、気付いてない明日菜さんだけ妙に温度差がある。

 

 どんな人と言われてもなぁ、と呟いてから、千雨さんもエヴァンジェリンさんと同じように月を眺めた。

 その横顔は、やはり曖昧であった。

 寂しいという気持ちが見えつつも、ほんのりと見せる微笑みが穏やかさを備えている。眼鏡から反射する月の光が、さらに色濃く見えた。

 

「エヴァの言う通り、変わった奴だったよ。我が儘に見えないのに変なとこで我が儘で、何故か礼儀にはうるさかった。人に厳しくも、甘くもあった。大人っぽくて、今の私の周りにはいないタイプだった。あとは、そうだな。いい声をしてた」

 

「いい声?」

 

「ああ。落着く声だ」

 

 千雨さんは懐かしそうに頬を緩めていた。

 

「あと、そうだな。あいつはエヴァのことが……」

 

「なんだ千雨。いつから語り手が変わったんだ?」

 

 エヴァンジェリンさんが、ワイングラスを片手にしながら戻ってきた。グラスの中で真紅の液体が僅かに波打っている。

 

「エヴァ。悪かったな、勝手にあいつのこと話しちまって」

 

「ふん。貴様らが隠れていることは分かっていた。今更さ」

 

 エヴァンジェリンさんは皆がここにいたことに気付いていたらしい。彼女たちは順々に謝罪を述べるが、エヴァンジェリンさんはさして気にも留めていないようだった。

 

 

「あのぉ……それで……」

 

「ふむ、続きか……」

 

 僕がもう一度話をしてくれるよう促すと、エヴァンジェリンさんはグラスを持っていない手を顎に当てた。

 

「気が変わったな。私が語るのはやめよう」

 

「え!?」

 

 皆の視線が一斉に彼女に集まる。やはり盗み聞きはまずかったと、反省する表情が見えた。

 

「そんな、師匠……」

 

「その代わり、だ」

 

 エヴァンジェリンさんは細い指をそっと千雨さんに向けた。

 

「しばらくは千雨に語らせる」

 

「はぁ!?」

 

 千雨さんは予想外だったようで、蚊でも追い払うかのように片手をひらひらとさせた。

 

「ふざけんなよ。嫌だぞ私は」

 

「いいじゃないか。私も少しは聞き手にならせろ。今まで私の話を勝手に聞いてたんだろ?」

 

「だからって私だけが話すのは納得いかん」

 

 更には背中を向けて、千雨さんははっきりと拒否の姿勢を示すのだが、エヴァンジェリンさんはぼつりと呟く。

 

「前のコスプレ」

 

「!?」

 

「あの餓鬼っぽい服装をつくるのに協力してやったのは誰だったかなぁ」

 

「ぐぬぬ……」

 

「あのとき貴様は、『恩にきる!エヴァのおかげでコミケに間に合った。今度埋め合わせする!』やら言ってたなぁ」

 

「……コスプレ?」

 

「……コミケ?」

 

 首を傾げるのは、聞き手の僕達。彼女がコスプレ趣味だと知らないものは、どういう話かも分かっていないだろう。しかし、コミケとはいったいなんのことなのだろうか。

 

「さらに言えば」

 

「だぁーーー! わかったよ、話せばいいんだろ話せば!」

 

 最初からそうしろ、とエヴァンジェリンさんは悪い顔で笑っていた。

 思わぬ形で語り手が変わり、聞き手の人数も変わった。僕は、エヴァンジェリンさんの話が中断するのは惜しかったけれど、同じくらいに千雨さんの話にも興味も持っていた。彼女もまた、自分を語るようなタイプではないからだ。

 クラスメイト達も千雨さんの語りが気になるようで、おのずと小さく円をつくり座り始める。さっきまでと違い、今度は大人数で千雨さんを囲む形で、皆がじっと千雨さんに注目していた。

 

「……っく」

 

「なんだ、照れているのか?」

 

「うるさい!」

 

 からからと笑うエヴァンジェリンさんに、千雨さんは耳を赤くしながら吠える。それから、ゆっくりと息を吸って、再び月を眺めた。

 

「しゃあないから、つまらねぇ話だろうけど、私も少し昔を語るぞ。何を言えばいいかわからんからエヴァの言ってた、呪いの玉の話だ。私があいつと出会ったときはだな―――」

 

 

 

 こうして、語り手が変わり、また話が始まる。

 満月はまだ落ちそうにない。



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6話

 それは確か、ちょうど蝉が鳴き始めたくらい時期だった筈だ。

 小学校の夏服を着た私の腕に、まとわりつくようにしっとりした汗が付いていたのを覚えている。

 照りつける日差しは強くて、あー紫外線っていうのはこのことか、なんて覚えたての言葉を浮かべながら私は公園のベンチに座っていた。

 

 何をしていたのかって?そんなの、覚えている訳ないだろ。

 ただ、ランドセルを背負ってた覚えがあるから、きっと放課後だろうな。

 

 学校が嫌で陰鬱な気分になっていたのかもしれないし、両親と喧嘩して家に帰るのが億劫になっていたのかもしれないし、暑いのが辛くて木陰のあるベンチで暇を潰していたのかもしれない。

 分からないが、多分ネガティブなことがあったんだと思う。何もなければすぐ家に帰ってダラダラとパソコンでもしてるし、そもそも当時はあまり楽しかったという思い出もなかったから。

 

 そこ、悲しい小学生とかいうな。自覚はあるが。

 

 話を続けるぞ。

 

 とりあえず、当時の私が何か意味のないことを考えて座っていたら、声を掛けてくれた人がいたんだ。

 

「あのぅ、すみません」

 

 そう言われたが、あまりに弱々しい声だったから、最初は私に話しかけてるのではないな、と思って無視したんだ。

 そしたら、また同じボリュームで、同じことを言うんだ。

 普通は2回目は声を荒げたりするよな? そんなこともしないから、それじゃ聞こえんだろ、と思って顔を上げた時、目の前にその人がいた。

 思わず驚いてしまい、ランドセルを落としそうになった。すかさず、だ、大丈夫ですか、と本気で心配されたので、私は手ぶりで大丈夫ということを伝えて、その人のことを見た。

 

 その女性は、中等部の制服、つまり今の私たちと同じ格好をしていた。背丈は低く、肩につかないくらいの黒髪は内側に少し巻かれていて、ボブと呼ばれる髪型に近かった。

 そうだな、雰囲気は宮崎に似てたよ。目は前髪で隠れてなかったけどな。あと、中学生にしては幼い顔つきをしていて、年上、という印象はあまり抱かなかった。

 

「これ、あなたのですか? 」

 

 そう言って彼女が差し出してきたものは、小学校の学生証だった。

 そこには年度の初めにとった目付きの悪い私の写真が貼られていて、それが他人の手にあると言う事実がどうしようもなく恥ずかしく思えた。分かるだろ? 写りの悪い写真を他人に見られたくないって気持ち。

 

 落ちてましたよ、と笑ってくれる彼女に目も合わせず、私はひったくるようにそれを奪って、どうも、とどもりながら言った。相当に態度が悪かっただろうに、彼女は笑顔でどういたしましてと返してくれた。

 

「小学校の近くにある駄菓子屋の前くらいに落ちてたよ」

 

 買い食いでもしたの、と続ける彼女に首を横に振り否定した。多分、たまたまそこで靴紐を結び直した時に胸ポケットから落ちたのだろう。しかし、気になることがあったから、私は訊いた。

 

「……あそこからここまでってかなり遠いですよね。もしかして、ずっと探してくれてたんですか?」

 

「ないと気付いたら、困るかなって思って」

 

 なんというお人好しなのだろうって思った。

 拾わず無視することも、小学校の誰かに届けることも出来た筈だ。それなのに私を探して届けてくれるのは、結構な労力だろう。彼女の笑顔の裏には打算なんて全く見えなくて、人のために、なんて言葉は偽善と信じて疑わなかった当時の私にとって、その行動は衝撃的でもあった。

 

「わざわざありがとうございます」

 

 流石に私もお礼を言ったと思う。

 

「ううん。大丈夫だよ。ああ、でも、ついでに少し聞きたいことがあるのだけれど、いいかな」

 

 あくまで下手にでる彼女に、私は頷いた。すると彼女は一枚の紙を私に見せるように拡げてきた。どうやらこの街の地図だった。

 授業以外で街の地図を見るなんて経験はそれが初めてで、なんとなくそれだけでこの人は真面目な人なんだな、という印象を受けた。

 

「ここに行きたいのだけれど、ちょっと道が分からなくて……」

 

 指さすところを見れば、街の少し外れにある林の方へ行きたいようだった。

 なんでそんなところにって、それはもう少し訊けば分かる。そん時の私もきっとお前らと同じことを思っただろう。

 

「えっと、この道をまっすぐ行って、小川を上流に沿うように歩けば近いとこまで行くと思います」

 

「ありがとう」

 

 私は小学生だというのに、彼女は気にする様子もなく丁寧に頭を下げてくれた。

 

「私、あんまり外を出歩いたりしないから、道とかよく分からなくて……」

 

 確かに、そんな街の外れの道は近所にいなければ行くこともないし、そのくせ見渡しが悪いから土地勘がなければ迷うのも分かった。

 頬をかきながら困ったように彼女は言ったから、わたしは反射的にこう言ってしまった。

 

「……そこまで、案内しましょうか?」

 

 自分でも驚いた。極力人に関わることを避けて来た筈なのに、そんなこと言うなんて。彼女のお人好しさに当てられていたのかもしれない。

 しかしそう言ったあと、これは悪い提案ではないと思えた。

 苦労して私を探してくれた彼女に、言葉でだけお礼してハイおわりとするのは、私自身納得いってない所があったからだ。

 

「でも、悪いよ」

 

「……いえ、私は全然。時間あるので」

 

 一瞬だけ気温の高さに憂鬱を感じて後悔したけれど、ずっと学生証を持って私を探してくれた彼女にそんな風に言う訳にはいかなかった。

 彼女は私のことをおもむろに見つめた後、柔らかく笑った。

 

「それじゃ、お願いします」

 

 

 

 ○

 

 

 

 案内をしながら、成り行きでお互い自己紹介することになった。

 彼女の名前が、吉野あきほ、というのもその時初めて知った。

 

 当時の私は、中学生という人達は、もっとしっかりしてて、大人で、怖い存在に思っていた。

 今のお前らを見ていても全くそうは思えないが、上級生や上の学校の人が怖いって気持ち、なんとなく分かるだろ?

 親と過ごす実家暮らしから寮暮らしへと変わって、大抵のことを自分でやるようになり、ランドセルを背負わなくなったその日から、小学生という殻を破った大きな存在。それが中学生だと思ってた。

 

 でも、その少女は全くそうは見えない。言ったら悪いが、弱々しくて、小学生とそう変わらないようにも見えた。

 しかしその一方で、落ち着いて、優しげで、その雰囲気は本当の大人っぽさて感じがして、私はなんとなく憧れを抱いたりもした。

 

「それじゃあ、吉野さんは休んだクラスの友達のところに届け物をしに行くところだったんですね」

 

「うん……そうなの」

 

 少し困ったように返事をしたので、疑問に思うと、彼女は呟くように話してくれた。

 

「友達、って私は思ってるよ。でも、あっちはそう思ってくれてるか分からないの」

 

「……そうなんですか」

 

 私に気の利いた返事なんて出来る訳がない。友達とも碌に話さないのに、年上の相談になど乗れる筈もない。

 

「それより、敬語喋りにくかったら普通に喋ってくれてもいいんだよ?」

 

「でも、自分小学生ですけど……」

 

「私だってまだ中学生だよ? そんなに変わらないよ」

 

 学校というのは、学年の差で先輩か後輩かが既に決めつけられていて、その関係は絶対に変わることがなく、下のものは先輩に逆らえず敬語で話し続けなければならないというルールがあるものだと思っていた。小学校ですらそうなのだから、中学ではより厳しいと聞いていたのだが、この人はそういうことを全く気にしない人であった。

 

 本当に。本当に友達のように、私に話しかけてくれるんだ。

 私が年下だからといって上に立とうとする気もなく、同じ目線で話してくれる。

 

「そうだ。千雨ちゃんって呼んでいい?」

 

 それでも、そう言われた時は正直かなり気恥ずかしかった。名前で呼ぶなんて友達でもいないくらいだ。断りたかったのだけれど、その純真で無垢な瞳にしっかりと見つめられたら、嫌です、とは言いづらかった。

 

「はぁ、まぁ、いいですよ。」

 

 結局私は承諾した。

 しかし、こんなことだけであきほさんは頬を緩めて嬉しそうにしていて、私はなんとなく対応しづらかった。

 優しさに溢れたその笑顔は、私の周りにはいないタイプで、どう接するのがいいのかよく分からなかった。

 

「でも敬語は別にいいので、使わせて下さい。それで、その友達って、どんな人なんですか?」

 

 あきほさんはうーん、と考えてから話した。

 

「すごく綺麗な人。金色の長い髪が素敵で、白い肌は雪を見ている見たい。話す時にね、ちょっと緊張しちゃうの」

 

「それは、すごいですね」

 

 そこまで手放し褒めるので、私は純粋に興味が湧いてしまった。芸能人を見る感覚、というのに近いのだろうか、美しい人がいると言われたら、同性でも見てみたいと思ってしまう。

 

 

 ○

 

 

 本当にこんなところに住んでいる生徒なんているのだろうかと、案内している途中で思った。

 周りには店もなく住宅もなくあるのは木々だけ。もしかしてあきほさんは騙されているんじゃないだろうか。クラスの苛めっ子にありもしない住所を教えられ、そこにちゃんと届け物しろよ渡すまで教室入るんじゃねぇぞ、なんて言われて。純粋なあきほさんで遊んでいるのではないだろうか。

 そう思うと、私が胸が熱くなるくらい苛ついた。まだ会ったばかりの人だが、こんないい人を騙すなんて許せねえ、とまで思った、

 

「千雨ちゃん、どうしたの?」

 

「いや、その、あきほさんって……」

 

 虐められてるんですか、なんて率直に聞けるはずもなく、私がゴニョゴニョと言い淀んでいた時、あきほさんは、手を前にして指をさした。

 

「あ、あったよ。ほら、あそこじゃない?」

 

 え、と思いながら見て見ると、そこにはたしかに家があった。

 ログハウスと言われるものを実際に見たのは、それが初めてだった。

 木で組み立てられたその家はまるで作り物みたいで、私は柄になく感動してしまった。

 

「ここ、玄関だよね」

 

 あきほさんは意外と臆すことなくドアの前に立って、ドアを見つめる。

 

「呼び鈴、ないね」

 

 そう言ってそのドアをこんこん、と鳴らした。

 

「はあい」

 

 少し経ってから女性の声が聞こえて、ドアが開いた。

 現れた女性は、とても綺麗な人だった。

 肌が白く、背は高く、腰まで届くような金髪はまるで宝石のように輝いていて、私は思わず息を飲み込んだ。

 なるほど、確かにこの人と話すなら緊張してしまう、と思った。

 

「あら、あなた……」

 

「あ、あの、私、エヴァンジェリンさんと同じクラスの、吉野あきはと言います。あの、今日エヴァンジェリンさん休まれたので、プリントとか、持ってきました」

 

 あきほさんはたどたどしくその女性にそう言った。そして私は、この人があきほさんの友達でないことにやっと気付いた。普通に考えればこんな中学生がいるわけがない。綺麗という情報で判断してしまったが、この人はきっと母親なのだろうと、私はもう一度その美しい女性を見ながら推測した。

 

「あきほちゃん、ありがとね。それで、そっちの子は」

 

「え!? えっと、私は……」

 

「私の友達の長谷川千雨ちゃんです。ここまでついてきてくれました」

 

 口籠る私の代わりに、あきほさんは私を紹介してくれた。それが頼もしくも恥ずかしくも感じて、私は、ども、と短くお辞儀をした。背中に背負うランドセルが場違いのような気がして、すぐにでも降ろしたいと思った。

 

「あの、エヴァンジェリンさんの体調は……?」

 

「ああ、もう大丈夫よ。ただの風邪みたいだし、しばらく寝たら良くなったみたい」

 

「良かった……」

 

 胸を撫で下ろすようにして心から安心しているあきほさんの目線に合わせるように、女性は少し脚を曲げた。

 

「せっかくだから、顔を見ていかない? あの子、喜びはしないけど、驚くわよ」

 

 悪戯っ子っぽい笑みを浮かべたその人は、急に幼くなったように見えた。

 しかし、喜ばないとはっきり言うのはどうなんだと思った。

 

「で、でも」

 

「いいからいいから、ほら、貴女もどうぞ。お茶くらい出すわよ」

 

 そう言って、女性は私たちの背中をぐいぐいと押して家の中に招き入れた。私はそこまでするつもりなどなかったのだが、押しに弱いのであっさりと迎え入れられてしまった。

 

 家の中は洋風で、人形などの小物が沢山飾ってあった。どれも手作りのようだがとても良く出来ていて、じっくり見て見たくも思ったが女性が私達を先行して進んでいくので立ち止まりにくかった。

 一つの部屋の前に立ち、コンコンと女性が扉をノックする。

 

「エヴァ、入るわよー」

 

 そう言って、返事もしないうちに扉を開けた。プライバシーも何も感じなかったが、家族ならそういうものだろうと私は納得した。

 

「……お前、まだその姿でうろついていたのか」

 

 部屋に入れば、ベッドの上に、少女が座っていた。まるで人形のような少女。

 彼女がエヴァンジェリンで、その時が私たちの初対面だった。

 ……今言うのは少し気恥ずかしいが、あきほさんの言うことも分かると思った。美しい女性とよく似たこの少女と話すのは、緊張してしまうかもしれない。

 

 

 少女は機嫌が悪いようで、眉を寄せた表情で女性を睨みつけていた。

 

「その格好を辞めろと言っただろう。さっさと私の中に戻れ」

 

「だって、あのままじゃ看病も出来ないじゃない。貴女、強いくせに風邪なんかにかかっちゃうから」

 

「うるさい。呪いで抵抗力も弱まってるんだ。それと、なんでその格好だ。私の姿を使う必要があるか」

 

「正確には、貴女が幻でみせる大人になった姿ね」

 

「どっちでも一緒だ」

 

 その時は、その会話の意味が全くわからなくて、私もあきほさんも呆然としていただけだったと思う。

 少ししてやっと、エヴァは私達に気付いた。

 

「……なんだそいつらは」

 

「あきほちゃんとそのお友達ですって」

 

「そういうことを聞いてるんじゃない。なんで家にいてしかもこの部屋にまで連れてきてるのか聞いてるんだ」

 

「学校のプリントを届けに来てくれたのよ」

 

「そうでもなくて、なんでわざわざ私の前に連れて来たのかを……。はぁ、もういい」

 

 頭を抱えるようにしてうな垂れたエヴァは、心底疲れているように見えた。

 

「あ、あの、エヴァンジェリンさん。風邪なのにごめんね? 大丈夫? 」

 

「ああ、大丈夫だ。だからお前は置くものを置いてさっさと帰れ」

 

 私は、その態度にカチンときた。

 わざわざこんなところまで届け物をしてくれたあきほさんに、その態度はないだろう。

 

「あんた、普通はまずお礼を言うもんじゃないのか?」

 

「ああ? なんだそのガキは」

 

「あんただって、背丈はガキと変わらないじゃねえか」

 

「なんだと?」

 

「千雨ちゃん、私は大丈夫だから、落ち着いて。ね?」

 

 睨みつけてくるエヴァに、私も睨み返す。

 その間に入ってくれたあきほさんは困った顔をしていて、私は少し心苦しかったが、それでも怒りは収まらなかった。

 

 その時、コン、という音が部屋に響いた。

 女性が、エヴァの頭を軽く叩いたのだ。

 

「エヴァ、千雨ちゃんの言う通りでしょ。まずはお礼よ」

 

「別に頼んでないだろう。なんで私が……」

 

「エヴァ」

 

「……はぁ。わかったよ」

 

 そう言って、エヴァはあきほさんとしっかり向き合った。

 

「届け物、助かった。これでいいか?」

 

「あんたなぁ、もっと言い方が……」

 

「千雨ちゃん、いいの。エヴァンジェリンさん、どういたしまして。勝手に部屋まで入ってごめんね」

 

 やっぱりあきほさんは凄く出来た人で、自分が悪くなくてもしっかりと頭を下げて謝っていた。それを見て、私がこれ以上ややこしくするのはきっと間違っていると思い、私は怒りを胸にしまった。

 

「お母さんも、エヴァンジェリンさんに会わせてくれてありがとうございました」

 

「いいのよ、私が連れてきたのだから」

 

 そう言って、女性は優しくあきほさんの頭を撫でていた。

 すると、エヴァはまた機嫌の悪くなった顔をして、おい、と私達に言い放った。

 

「誰がお母さんだ」

 

「え、あの、この人がそうかと……。ごめんなさい。違ったの? 」

 

 ああ、姉だったのか、と私は一人納得した。母親にしては若い人だとは思っていたから特に不審には感じなかった。

 

「違う、そいつはただの……居候みたいなもんだ」

 

「はぁ? こんなにそっくりなのに、そんなことあるかよ」

 

「あるんだよ」

 

 ぶっきらぼうに言うエヴァは信用出来なくて女性を見るが、その人は否定もせずにいたので、まじかよ、と私は呟いた。

 

「すみません勝手に勘違いしてて……。あの、貴女のお名前は……」

 

「ああ、そう言えば名前を付けてなかったな。タマとかそんなんでいいんじゃないか」

 

「なんであんたが名付けるんだよ。ペットじゃねぇだろ」

 

「ペットみたいなもんだ」

 

「お前……!」

 

 流石に無礼すぎて、私はまたエヴァに対して怒りをぶつけようとしたが、それを遮るように、しん、と心に響くように聞こえた声があった。

 暑い筈の日だったのに、汗はすっかり引いていた。喧しく鳴いていた蝉の声も、いつのまにか聞こえなくなっていた。私達は皆、その女性に注目していた。

 

 

 

「雪姫よ」

 

 

 

 女性は、雪姫さんは、自分の胸に手を当てて、もう一度言った。

 

 

 

 

「私の名前、雪姫って呼んで」

 

 




長らくお待たせして本当に申し訳ありません。
これからはちょいちょい投稿していきますので、どうか宜しくおねがいします。


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7話

 

 雪姫。

 その名前を聞いた時、初夏だと言うのに肌寒さを感じた。暑い陽射しが窓から部屋に入り込んでいる筈なのに、何故か冷気のようなものが充満している気がして、気付けば私は自分の腕をさすっていた。しかし決して不快なものではなく、むしろどこか清々しさがあるように思えて、心がすっと楽になる感覚に覚える。

 外に見える木々が宿す葉は黄緑で、僅かな風で揺れるその様は間違いなく今の季節を示すものなのに、場違いだと感じてしまう。

 

 彼女の、肌白くシミひとつない美しい肌は、その名に相応しいと思ってしまった。

 

「……雪姫、か」

 

 エヴァが呟くように言うと、私達はハッとして現実に戻されたような気になった。再び蝉の声が響き渡り、部屋がみるみる暑くなっていくような錯覚に陥る。

 

「大層な名前だな。雪の姫だとは。自分で言って恥ずかしくないのか」

 

「そうかしら。私の(なり)に値すると思うのだけれど」

 

「自己評価が高いやつめ。それにそれは私の姿だろうが」

 

「だからよ」

 

「……意味がわからん」

 

 エヴァはそう言ったが、勿論私にも二人の会話の意味はよく分からなくて、黙って聞いている他なかった。

 するとそんな私達に気付いてくれたのか、雪姫さんはこちらを見て笑いかけてくれた。

 

「ごめんなさいね、こんな病人の部屋に長いこと居させて。それじゃ別の部屋で約束通りお茶でもしましょう」

 

「いや、その私は、エヴァンジェリンさんに会いに来ただけで……」

 

「いいのよ、この子は。私ずっとこの子としか話してなかったから、他の人と話すのは久しいの。私の話し相手になって欲しいのよ」

 

「ふん、私に気を使うならさっさと部屋から出てってくれ」

 

「ほら、本人もこう言っているし、ね?」

 

 遠慮しておきたかったが、無理矢理背を押されるとなんとも断りづらい。あきほさんも困ったような顔をしていたけれど何も言えないようで、私達は移動していく。

 

「美味しいお菓子もあるのよ。みんなで食べましょう」

 

 

 

 そう言った所で、後ろからドタドタとついてくる足音がした。

 

「おい! お前! まさかあの菓子を勝手にあげるつもりじゃないだろうな!」

 

 さっきまでは掛け布団で隠れていてよく分からなかったが、エヴァの服装はワンピース型の洋風なネグリジェで、淡いピンク色が可愛らしかったのだが、その時の表情は可愛らしさとはかけ離れたものだった。つまり、怒っていたのだ。

 

「どの菓子のことか分からないけど、棚の中の物を出すつもりよ」

 

「ばか! やめろ! あれは私がジジイから奪った高級菓子だぞ! 」

 

「奪ったものならいいでしょ」

 

「だめだ!ばか!とまれーー!やめろーーー!」

 

 エヴァは怒号を上げながら雪姫さんの服を掴むのだが、力が足りないようでズルズルと引き摺られている。その姿は、今まで大人ぶった喋りをしていた人と同一人物とは思えないほど子供っぽく、私はなんだか可笑しかった。

 あきほさんはそんなエヴァの様子が意外だったようで、驚いた表情をしていた。

 

 

 

 ○

 

 

 

「くそ……。どうしてお前らと三等分して食わねばならんのだ。これは大月堂の菓子だぞ……」

 

 ぶつぶつと文句を言いながらエヴァは羊羹を口に運んでいた。

 結局エヴァも私達と一緒にリビングに降りて来て、お前らに食われるくらいなら私もここで食うと言い、どっしりと席に着いた。雪姫さんが出してくれた和菓子は確かにとても美味しくて、それだけで面倒だったが着いて来たことが報われたと感じるほどだった。さらに彼女が入れてくれた冷えた煎茶も、お茶などまったく分からない私でも美味しく思えるものだった。

 

「あんた、風邪はいいのかよ」

 

「もう治った。しかし呪いが発動しないとこを見ると、ちゃんと病欠として処理されてるようだな」

 

「ちゃんと学校に欠席の連絡をしたからよ。学生として真っ当な理由があって正しい手段を行った上での休みなら何も問題はない筈よ」

 

「……呪い?なんの話だ?」

 

「貴様には関係ない。というか、結局何者だよお前は」

 

「今更だな」

 

「長谷川 千雨ちゃんよ。あきほちゃんの付き添いで来てくれたんだって」

 

「そうか」

 

「興味なさそうだな。別にいいけど」

 

「あのぅ……」

 

 なかなか和菓子に手を付けようとしなかったあきほさんが、おずおずと訊ねようとした。

 

「どうしたのあきほちゃん。嫌いなものだった?」

 

「いえ!そんなことないです!とっても美味しそうで、ありがとうございます! でも、その、雪姫さんは、いいんですか?」

 

「いいって何が?」

 

「お菓子、私達の分しかないので……」

 

 そう言われて、私は初めて雪姫さんの分がないことに気が付いた。コップも3つ分しかなく、お菓子もそうだ。彼女がわざわざ私達のために自分の分を譲ってくれたのだとすると、美味しい菓子なだけ、申し訳ないと思った。そして、言われるまでそのことに気付かずご馳走になっていた自分を恥ずかしく感じた。

 

「いいのよ、私は。食べられないから。気にしないで」

 

「食べられない? 調子悪いんですか? 」

 

「そうじゃないの。食べられないの」

 

 私達が頭に疑問符を浮かべてその意味をよく考えようとしていた所で、エヴァがまた羊羹を爪楊枝で刺しながら適当に言った。

 

「いらんいらん。これ以上私の食う量を減らしてたまるか。それに、こいつは元は玉っころだからな。今の姿は魔力を形どってるだけで飲み食いする能力はない」

 

「……はぁ?」

 

「あそこにあるだろう? あの金色の玉がこいつだ。中の思念は私に取り憑いてるようだが、まさかこんな風に離脱して意識を持てるとは、私も今日知った」

 

「そんなに離れたりは出来ないけどね」

 

「……まじでさっきから何言ってんだよ」

 

 もはや意味が分からないどころじゃなかった。巫山戯ている様子もなく淡々と理解できないことを言っている。日本語の筈なのに私には何も分からないことが、苛つく気持ちにさせた。

 

「エヴァ、二人がいる前でそんな話ししていいの?」

 

「構わん。秘匿だのなんだは私には関係ない。話したいときは話すしやりたいようにやる。当然オコジョにされるつもりもないしな。それに、分からんだろう? お前らには。私らはこういう訳の分からない話をする不気味な奴等なんだ。関わらん方がお前らのためだぞ」

 

「すぐそう言うことを言う。だから友達出来ないのよ貴女」

 

「うるさい。余計なお世話だと言ってるだろう」

 

 

「……あきほさん、この人達ちょっと変ですよ。さっさと帰りましょうよ」

 

 多分、この暑さに頭がやられたのだろう。それか、二人共厨二病的なものを患っているか、だ。そういうものに理解がない訳ではない。漫画やアニメで見る剣や魔法を格好良く思うのは良く分かるし、もし自分が使えたら悪漢などをさらっと倒して、見かけた通行人に向かってそっと指を唇に当てて、秘密だぞ、なんてやってみたい。いや違う。やってみたいじゃない、やる奴もいるだろうなぁ、だ。私がしたい訳じゃない。勘違いするな。

 

 とにかく。

 現実でそんなことを言い出して、それを躊躇なく他人に言い聞かせるように話してる時点で、普通ではないのだ。害のない厨二病は心で妄想するだけで止まるが、周りを巻き込む時点でそれはもう痛い人でしかない。これだけ美しい容姿をした奴らがそんな性格なのは凄く勿体ないのだが、私にその性格を変えられる訳でもない。

 

 だから、私は早くここから帰りたいと思った。美味しい和菓子は惜しいが、それよりもあきほさんを連れてこの家から出ることを優先しようとした。

 

 

 

 

「……私、分かります」

 

 だから、私はあきほさんがそう言ったことが、途轍もなく衝撃的だった。こいつらちょっと痛いですよ、と続けて言おうとしたところでの発言だったので、口はぽかんと開いて間抜けな顔になっていたと思う。

 

 

「何を言っているか、分かります。呪いとか、そんなに詳しい訳ではありませんけど、でも、そういうの知ってます」

 

 そういうの、というのが何を指しているのか、私には理解出来なかったが、雪姫さんとエヴァには通じたようで、二人の表情が少し変わった。真剣味を帯びたこの空気に、私だけが疎外感を覚える。

 あきほさんもそっち側だったのか、と私は逃げ場のなさを嘆いていた。

 

「知っている、か。なら、私のことは分かっているのか?」

 

「……うん。分かるよ。有名人だもん」

 

「吸血鬼ということもか」

 

「うん」

 

 あちゃあ、吸血鬼ときたかぁ。

 私は頭を抱えた。年頃の女性オタクは吸血鬼にハマる人が多いというのは聞いたことある。背が高く黒いローブを羽織り颯爽と空を駆ける様子が格好いいんだろう。その尖った牙に襲われたいという気持ちを抱いてしまうんだろう。しかしそれなら自分が吸血鬼という設定は悪手じゃないのか、なんて私は考えてしまう。

 

 

「……どうして、あきほちゃんはそういう事を知っているの? 貴女、魔力もないし鍛えてる様子もない。とても関係者とは思えなかったのだけれど」

 

「家系です。両親はそうでもないのですが、叔父が名の売れた魔法使いで、私の一族は皆一度は魔法を学びます。私は身体も弱く特に才能も無かったため、深くは追求しませんでしたが、それでも、エヴァンジェリンさんの話は聞いたことがありました」

 

 魔力、魔法使い。もう私にはとてもついていけなくて、どう切り出して逃げ出そうか悩んでいた。いやむしろ、私も何か職を設定した方がいいのだろうか。魔法少女、という言葉が浮かんで、朝のアニメでやっている変身した少女達の姿に自分が重なる妄想をする。意外と悪くなかった。

 

 

「……ふん。だからか、貴様が私に絡んできたのは。興味か、今の私に対する同情かは知らんがーーー」

 

「違うよ!!」

 

 あきほさんが、椅子から立ち上がりながら大きな声を出すので、わたしは驚いた。

 彼女は、とても声を荒げるタイプには見えなかった。設定や演技でこんな真剣な声が出せるとは思えなかった。エヴァと雪姫さんの真っ直ぐな眼差しが、とても巫山戯て出来るようなものには思えなかった。

 だから私は、凄く混乱して、どうすることも出来なくて、ただ、座っているしかなかった。

 

「あなたが吸血鬼だからとか、そんな理由で、私はあなたと友達になりたい訳じゃない! 私は、あなたが……」

 

 ゆっくりと、彼女はもう一度席に座りなおす。だれも机の上の菓子に手を伸ばすこともなく、あきほさんの言葉の続きをじっと待った。

 

 

 

「……一年生の時にね、エヴァンジェリンさんを見たとき、私、凄く悲しい気持ちになったの。この人は、『生きたくない』と思ってるって感じたから」

 

 

『死にたい』ではなくて、『生きたくない』。その表現の違いは、簡単には説明出来ないのだろうけど、なんとなく伝わった気がした。死にたい訳じゃない。ただ生きるのが辛い。そう思うことは、確かにあると思った。

 

 

「……分からんな。例え私がそう思ってたとしても、お前になんの関係がある。まさか、私を救いたいとでも思ったか? それこそ、同情でしかあるまい」

 

 

「救いたい……って思ってはないと思う。エヴァンジェリンさんは、毎日そんな風に思いながら、それでも学校に来てて、ずっと外を眺めてた。……そんな姿が、とても悲しくて儚いけれど、私には、凄く綺麗に見えたの。素敵だと思った。そう考えてから、私は、貴女と友達になりたいと、思ってた」

 

 

 あきほさんは、喋りながらも悩むようにしていて、慎重に言葉は選ぶけれども、はっきり纏まっているとは思えなかった。

 

「……お前は分かってないな」

 

 

「私は、吸血鬼だ。闇の福音だ。600年生き、人の生き血を吸い、殺し、そうして生きてきた。素敵だと? 馬鹿を言うな。殺人鬼と仲良く手を取り合えるか? この血で塗られた手を躊躇なく握れるか? 悪いが私は、今更誰かと共にいようだなんて思っちゃいない」

 

 

 

 

 

「……あんたさ、何言ってんの?」

 

 

 思わず。

 口を出してしまった。

 

 

「……貴様、まだいたのか。帰っていいぞ」

 

「いや、こんな状況で帰らねぇよ」

 

 そう言って私は立ち上がって、あきほさんのそばに行き、その手を持った。困惑している彼女を立たせて、そして、エヴァの席に近付く。

 

 彼女の手を、エヴァの手の上に無理矢理置いた。

 握って。

そう私が呟くと、彼女は一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに意を決したように、強くエヴァの手を掴んだ。

 

「……何をしている」

 

「ほら、あきほさんはあんたの手を握れたぞ。これで友達。何か問題あるのか?」

 

「……貴様、何も分からないのなら黙っていろ」

 

「ああ、分からねえ。さっきからあんたらがなんの話してるかなんて、1つも理解できん。でも、そんな難しい話じゃないってことくらいは、分かる」

 

 

 なんで私はこんな行動に出たのか、考えた。

 きっと、ムカついたからだ。

 ただ友達になろうと言っているだけなのに、一生懸命に言葉を選ぶあきほさんや、格好つけて自分を語るエヴァに、ムカついたんだ。

 

 私に友達は少ないが、友達作りがそんな大変なものじゃないことくらい分かる。

 エヴァがなんだって、あきほさんがどう思ってたって、そこに手があるなら、握るのが難しいなんてことはない筈だ。うだうだと悩むより、さっさと繋がってしまえばいい。その考えは間違っているのかもしれんが、でもそうした方がいいと思ってしまったのだから仕方がないのだ。

 

 

「なんなら私も握ってやるよ。ほら、これで三人友達だ。あんたが吸血鬼だか人殺しだとかは知らねぇが、気に食わなかったら文句いってやるし最悪縁を切ってやる。でも、それまでは友達。いいだろう? 」

 

 

「……貴様……」

 

「あはははは!」

 

 

 エヴァがまた何かを言おうとしたが、それを遮るように、雪姫さんの綺麗な笑い声が部屋に響いた。

 

 

「あはは、エヴァ、負けよあなたの。千雨ちゃん、いい子ね、本当に。意外とわがままで、いい子なのね」

 

 

 

 本当に楽しそうに雪姫さんが笑うから、部屋の空気は少し和やかになり、私は自分が偉そうに口上を切ったことを冷静に思って、少し顔を赤くしたのだった。

 

 

 

 



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8話

 

 

「じゃあ、説明してもらおうか」

 

 改めて席について私が三人に訊ねると、それぞれが、あー、と言いながら顔を合わせた。

 

「あの、ね、千雨ちゃん。本当はこう言う話は普通の人にはしたらダメで……」

 

「話すと長くなるのよねぇ」

 

「わざわざ聞くほどのことじゃあるまい」

 

「お前ら説明を面倒くさがってるだけだろうが!」

 

 ドン、と机を叩いたので、掌が少し赤くなったのだがそんなことを気にしている場合ではなかった。

 

「そうね」

「まじで面倒だ。帰っていいぞお前は」

「ち、ちがうのよ千雨ちゃん。ほんとにあんまり知らない方がよくて……」

 

「ここまできて何も分からず帰ってたまるか! 気になって眠れなくなる! 頼むから説明してくれよ!」

 

 三人は息を合わせたかのように私への説明を拒もうとしていた。あきほさんだけは面倒という訳ではなさそうだったが。

 

「うるさい奴だな。大体何が知りたいんだよ」

 

「全部だよ! 魔力とか魔法とか呪いとか吸血鬼とかだよ!」

 

 この時点でも、そんなものが本当にあるのかは半信半疑だった。いや、半分も信じてはいない。十中八九そんなものはないと心では思っていたのだが、彼女達が全てを妄想で話をしているとはとても考えにくかった。あんなに真剣な声で、あんなに本気な表情で話す彼女達が、偽物とは思えなかった。だからこそ、私は説明して欲しいのだ。

 

「仕方ないわねぇ」

 

 そう言って、雪姫さんは立ち上がり、私の目の前に来た。背の高い彼女を前にして、私はちょっと怯んでしまう。

 

「なんだ、記憶を消すのか」

 

 エヴァがぽつりと言うので、私の肩はびくりと跳ね上がる。

 記憶を消す。フィクションでは何か秘密を知ったものにやる常套手段だ。

 私は急にどうしようもなく怖くなった。迫る手がとてつもなく大きく恐ろしいものに見えた。足が震えて、嫌な汗をかく。

 

「あ、あの。私は、それはちょっと嫌かなって……」

 

 気付けばあきほさんも立ち上がって、雪姫さんの服の袖を摘んでいた。

 

「せっかく、3人でお友達になれたのに、その想いがなくなっちゃうのは、嫌です……」

 

「……あきほさん」

 

 エヴァはその様子を暫し見つめて、頭をぽりぽりと掻き、大きく溜息をついた後でゆっくりと言った。

 

「……あんなことで友達になったと思われるのは困るが」

 

 そう言いつつ、エヴァは首を横に振った。

 

「やめとけ、雪姫」

 

「……あら、そう呼ばれるのは初めてね」

 

「茶化すな。私も記憶を消すのは反対だと言っている。勘違いするなよ? 記憶を消すってのはリスキーな行為だ。後処理を考えたら面倒だが今説明する方がよっぽどましなんだ」

 

「……勘違いするなって、ツンデレみたいなセリフだな」

 

「前言撤回だ。脳が壊れるまでやっていいぞ」

 

「じょ、冗談だっ! 頼む、やめてくれ! 」

 

 私が大声で懇願すると、雪姫さんはくすくすとお淑やかに笑った。

 

「安心して。元からそんなことする気はないわよ。情報をそのまま入れてあげようかと思ったけど、それもやめとくわね。せっかくだし、お話した方が面白そう」

 

「それも結構怖いけどな……」

 

 入れる、という表現がすでに恐ろしく感じた。人間の脳とは、そんな簡単に情報を出し入れ出来るものだったのか。

 

「とりあえず、一つ魔法を見てもらおうかしら。エヴァ、なんかやって」

 

「雑すぎるだろフリが。しかもなんで私なんだ。お前がやればいいだろう」

 

「私がやると結局貴女の魔力を使うことになるわよ。それに久しく使ってないから加減が分からないわ」

 

「部屋を壊さない程度なら別に構わんぞ」

 

「貴女も私を止めたのよ。ちゃんと協力しなさい」

 

「……はぁ、仕方ないな。プラクテ ビギナル 火よ灯れ(アールデスカット)

 

 唐突に、何の準備もしてない私の前にエヴァが指を差し出して、その先から一筋の揺らめく炎を灯した。ゆらゆらと漂う炎は、音もなく指の先に在り続ける。綺麗で神秘的だと思った。

 

「……魔法なんて、ほんとにあるんだな」

 

「疑わないのか? 手品かもしれんぞ」

 

 そうだとしても私には見破れないのだが、違うという確信があった。根拠はなくただの直感でしかないが、これに仕込みや細工があるとは思えなかったのだ。

 

「ッチ。つまらん奴め。本当に小学生か? もっと驚いたり出来ないのか」

 

「充分、驚いてるよ」

 

 夢にまで見た魔法だ。漫画やアニメの世界ではなくて、目の前で本当に実現している。だと言うのに、意外と私が冷静でいられるのはどうしてなんだろうか。

 金髪の髪をしたエヴァの顔が、炎で明るく照らされている。シミひとつなく、赤子のように綺麗な肌だ。なんだ、と怪訝な顔をして言う彼女に、何でもない、と私は答える。現実離れしたこの光景に、彼女の存在がしっくりとくる。きっと、魔法を使うエヴァの姿があまりに自然であったから、私はまだ考えが追いついていないのだと思う。

 

「あきほさんも出来るんですか? 」

 

「うん。それは初級呪文だから。でも私は杖がないと無理かな」

 

 杖、と聞いて少しずつ実感が湧いた。それは魔法使いっぽい。

 

「私にも使えるんですか?」

 

「練習すれば出来ると思うけど……」

 

「いや、どうかな。初級と言えどもセンスがいる」

 

「うーんそうねぇ。出来なくもないだろうけど、多分千雨ちゃんは苦労すると思うわ。魔法道具を手にするのは仮契約するだけでいいんだけど」

 

「戦闘に役立つものが多いがな」

 

 やはり戦うということがあるのかと、私はまた現実から引き離される感覚に陥る。こんな小さい火ならまだしも、大きい火球なんかをぶつけ合うような世界があるのだとしたら、踏み入りたいとは思えなかった。

 

「いや、戦うとかはちょっと……なんか日常で役立つのがいい。ワープとか、時間戻しとか」

 

 そんなの出来たら本当に魅力的だ。学校行くのに早起きの必要はなく、テストがあっても問題を見て戻って答えを確認出来る。魔法使いというのはなんてずるい奴らなんだ。

 

「あほか。急に小学生らしいことを言うな。そんなのお前が使うのに何十年と掛けても足りないレベルだ」

 

「でもエヴァは影を使った転移は出来るんじゃないの? 」

 

「え、本当? エヴァンジェリンさん、やっぱり凄いね」

 

「ふ、ふん。まあな、全盛期ならそれくらい訳ないさ」

 

 満更でもないようにエヴァは言う。少し鼻を高くして、得意げになっている様子に彼女の子供っぽさを感じて、そんな一面もあるんだなとまじまじと見ていた。私には分からないが、エヴァは凄い魔法使いらしい。

 

「……魔法使いってのは、結構何人もいるものなのか?」

 

 たまたまあったあきほさんと、エヴァと、雪姫さんはよく分からないが、ここだけで4人中3人だ。私が知らないだけで、実は皆何かしら不思議な力を持っているのだとしたら、何ももたない私は劣っているように見える。

 

「全体数は多くはないけれど、麻帆良には結構多いと思う」

 

「……麻帆良には?」

 

「この街には世界樹があるからな」

 

「あの馬鹿でかい木が何か関係あるのか?」

 

 麻帆良の中心に聳える信じられないほどの大きさの木は、普通ではないと思っていたが、まさか魔法なんてものに関わりがあるだなんて想像もしていなかった。

 

「あれは凄いわよ。世界的に見てもあれだけ魔力を蓄えてるものは二つとないわ。あんなのがあったら色んなものに影響するだろうし、当然悪いものも寄り付くわ」

 

「それを追い払ったりするのに魔法使いがいたりするの」

 

 悪いもの。それがさっき言った戦闘に関わる部分なのだろう。自分の住むところにそんなのが集まってきているとは、あまり知りたくないし関わりたくもない。

 

「へぇー……。じゃあこの街にむちゃくちゃ運動出来たりする常識外れな奴が多いのもその影響ってことか? 」

 

「……ほぉ。常識と違うというのが理解できるのか」

 

「……そりゃそうだろ」

 

 幼い頃から、周りと齟齬を感じる瞬間があった。普通じゃない、と思うことが多かった。だが、周りがそう感じていないから口には出させなかった。それが世界樹のせいというなら、良かった。私がおかしいという訳ではないのだから。

 

「千雨ちゃん。その感覚は良いことよ。周りにあるものを当たり前と捉えずに、環境に染まらず、俯瞰的な眼を持つのは簡単なことではないわ。貴女はそういうところが優れているのね」

 

「あんまりいい事はなかったんですが……」

 

 自分だけが、この街が普通ではないと感じていた。誰にも理解されずにいたので口に出す事はなかったが、ずっと心にしこりは残っていた。

 皆と違うと言うのはきっとまともな事ではなくて、私はどこかおかしいのではないのかと、自問自答している時があった。そんな自分が不安で自信を持てない時もあった。1人にいる時が多かったのは、多分その影響もあったのだろう。

 

「多勢と違う、っていうの決して悪いことではないわ。違うというだけなの。悲観的に考えては駄目。貴女は胸を張っていい。私は貴女が優れていて、とても素敵な子であることを知っているわ」

 

「……ありがとうございます」

 

 そんな風に面と向かって言われたことがなかったので、純粋に感激してしまった。ありがたいと思った。自分は変じゃないと独りで言い聞かせるのと、他人から言われるのは大きく違う。大袈裟かもしれないが、ここにきて一つ救われたと思った。

 

 私は変じゃなかったのだ。

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 本当は魔法のことをもっと知りたかった。呪いや吸血鬼についてなんてほぼ説明されていなかった。しかし、気付けば夕暮れ時を過ぎかけていて、親が心配する時間になってしまったため、その日は御開きとなった。

 後日また話を聞きにきますとエヴァと雪姫さんに伝えると、エヴァは来なくていいぞ、と腕を組みながら言い、雪姫さんが、ごめんねこの子ツンデレだから。また来てね、と小さく手を振ってくれた。だれがツンデレだ!、と叫ぶ声を背中で聞きながら、私とあきほさんはお洒落なログハウスを後にする。

 

 陽が落ち始めると、林道は来た時とは姿を少し変えていて、木々に宿る葉の間から差し込む夕暮れが地面をオレンジ色に染めていた。履いて来た白いスニーカーは若干土で汚れてしまって、次来るときは汚れてもいい靴にしよう、と次回のことを既に考えていたりした。

 

 改めて考えると、凄い1日だった。ただ学生証を落としただけであきほさんとの繋がりが出来て、それからエヴァや雪姫さんと会い、魔法だなんていう存在を知る。間違いなく人生で一番濃い日で、今後の生き方に関わるターニングポイントであったと思う。でも、嫌な日とは思わなかった。

 それはきっと、最後の雪姫さんの言葉のおかげだろうと、私はまたあの台詞を思い出し、胸を暖かくした。

 

 

「千雨ちゃん、ありがとね」

 

 折れた小枝を踏むと、ぱり、という爽快感のある音がして、気持ちいいな、なんて思っていたところで、あきほさんが急にそう言った。

 

「何がですか?」

 

「あの時、手を取って、エヴァンジェリンさんの手の上に置いてくれたでしょ? 私、ああいうこと咄嗟に出来ないから、千雨ちゃんが凄いと思ったよ」

 

「そ、そんな大したことじゃないですよ」

 

 勢いに任せてやっただけで、何か考えがあった訳でもない。売り言葉に買い言葉、という感じに近かったのだ。

 

 

「あの、あきほさんに一つ聞きたいことがあるんですけど」

 

「なあに?」

 

 今日の会話の中で、気になったことがあった。そのときは深く触れれなかったけれど、なんとなく心に残ったのだ。

 

「あの人のこと、『生きたくない』と思っていたって言ってましたよね? なんでそんな人と友達になろうと思ったんですか? 」

 

 彼女は言っていた。『生きたくない』という彼女が綺麗で素敵だったと。私にはその感覚がよく分からなかった。そんなネガティブな感情を纏った人に向かって、そんな風に思えるものなのだろうか。

 

「……ああ、それはね。エヴァンジェリンさんは私と逆だと思ったから」

 

「逆?」

 

「エヴァンジェリンさんは、吸血鬼だって話があったでしょ?」

 

「はい。それが何かはまだ分からないんですけど」

 

 吸血鬼というのは、人の血を吸い、ニンニク嫌いで、十字架や銀や日差しに弱い、という創作で得た知識しかない。彼女が本当にそれだとしても、見た目が人間にしか見えなかったので全く実感がなかった。

 

「エヴァンジェリンさんは、600年生きてるって聞いたことがあるの。それだけ長生きしたら、きっと色んなことがあったと思う。私なんかには全然分からないし、想像もされたくないんだろうけど、いつもあんな悲しそうな表情をしていたってことは、辛いことも沢山あったんだと思った。それでもやっぱり『死にたい』とは思ってないの。心の底に芯がある強さみたいのが見えてて、それが格好良くて、凄くて、いいなって、思ったの」

 

「……は、はあ」

 

 説明を聞いても、私にはさっぱり意味が分からなかった。あいつが600歳ということも、魔法なんかより疑わしいと感じてしまった。そもそも死ぬとか生きるとかいうことについて、そんなに深く考えたこともない。

 

 ただ、この話をしているときのあきほさんは、なんだか寂しそうな顔をしているように見えて、私はあんまり追及しようとは思えなかったのだ。

 

 

 



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9話

 

 

 約束した通り、私は日を改めて休日にエヴァの家を訪ねた。

 先日の帰り道にあきほさんと連絡先を交換して、2人で行ける日を合わせて決めた。エヴァへの連絡はあきほさんが学校でしてくれて、エヴァは相当に面倒くさがっていたようだが、断ると雪姫さんがエヴァを硬直させるらしく、結局承諾してくれた。

 硬直させるの意味は理解出来なかったが、どうせまた魔法絡みの話で私が訊いても仕方ないので追及しなかった。

 

 エヴァ家に着くというところであきほさんからメールが来た。どうやら家の用事で少し遅れるらしい。私は了解しましたと短く返事をして、玄関のドアを叩いた。

 

「勝手に入れ」

 

 雑な迎え入れの声が聞こえたので、私はあまり遠慮せずに、お邪魔しますと言って中に入った。雪姫さんがまたすぐに案内してくれるかな、と思ったが、誰の姿もなく、私はエヴァの指示通り勝手に進んだ。

 

 リビングにつくと、エヴァは大型のテレビを前にしてゲームのコントローラを握っていた。画面には有名な2D格闘ゲームが映っていて、かちゃかちゃとコントローラを操作する音と、ゲーム内で人が殴られる音が響いていた。エヴァは私の方を振り向く気もなく、ゲームに集中している。体力的に彼女は優勢らしく、それでも一切の油断もしていない辺り相当本気で取り組んでいるのが分かる。

 

「千雨ちゃん、いらっしゃい」

 

「うぉお!?」

 

 いきなり横から声を掛けられたので、私は思わず飛び上がるように驚いてしまった。

 

「ゆ、雪姫さん、いたんですね」

 

「いたというか、千雨ちゃんが来たのが分かったからエヴァの中から出て来たのよ」

 

「……えっと」

 

「こういう感じよ」

 

 そう言って、音もなく雪姫さんは唐突に消えた。

 先程までそこにいたのに今や見る影もなく、私は彼女がいた場所に手をかざしたりして感触を確かめようとしたが、なんの手応えもなかった。

 魔法という存在を知ったにしても、何が可能かなんかはまだ知らないので、いきなり消えるという行為に驚きしかない。

 

 それから、また一切の音も立てずにいきなり雪姫さんが現れる。

 

「って風にしたのよ」

 

「は、はは」

 

 腰が抜けそうになる。人の存在とはこんなに自由自在だったのか。いや、前の話からするに雪姫さんは普通の人ではなさそうなので、そのせいだろうか。そこら辺の話も今日は聞いておきたい。

 

「なんかこう、ドロンってしたりボンって感じじゃないんですね」

 

「それじゃ魔法使いっていうより忍者じゃない。キュイン、ならまだ分かるけど」

 

「そうですね」

 

 無音でいきなり現れたり消えたりするのは心臓に悪そうだ。かといって爆音であっても困るのだが。しかし、雪姫さんにこんな話が通じるとは意外である。俗っぽいところもあるんだな、と変なところで感心する。

 

「おい! 今いいとこなんだから出たり入ったりするな! 気が散るだろ! 」

 

「何がいいところよ。お客さんが来たのだからゲームはやめなさい」

 

「ま、まて! 切ろうとするな! せめてこの試合が終わってからにしてくれ!」

 

 ガチャガチャと画面に釘付けになっているエヴァに、仕方ないわねぇ、と言いながら、雪姫さんは私に問いかけてくれた。

 

「千雨ちゃん、あきほちゃんは?」

 

「もう少ししたら来るそうです」

 

「そう。じゃあ先に何か飲み物でも飲む?」

 

「いえ、そんな」

 

「遠慮しなくていいの。お茶でいいかしら?」

 

「すみません。なら、お願いします」

 

「はい。今持って来るわ」

 

「雪姫! 私はコーラだ!」

 

「冷蔵庫にないでしょ。貴女もお茶よ」

 

 そう言って、雪姫さんは奥へと移動していった。手持ち無沙汰になった私は、とりあえずエヴァの横に座った。

 YOU WIN、と、大きく書かれた文字が画面に映った。

 

「何勝手に横に座っている」

 

「……いいだろ別に。あんた、そのゲーム好きなのか?」

 

 エヴァはやっとコントローラを置いて、私の顔を見た。

 

「好きでも嫌いでもない。ただの暇つぶしだ」

 

「あんなにまじになってたのにか」

 

 金髪の幼女が血を沸き立たせるようにしながらコントローラを握る姿はあまりに不似合いだと思ったが、スウェットでダラけたエヴァの格好は引きこもりのニートを彷彿させて、様になってしまっているのが少しがっかりとする。もっとお上品なことをしていれば、私もこいつに一目置いていたかもしれない。

 

「負けるのは嫌いなんだ。お前、前から思っていたが吉野あきほと雪姫には敬語なのになぜ私には敬語を使わんのだ」

 

「いやなんか歳上には見えねえし、いいかなって」

 

 彼女が本当に600歳ならエヴァにこそ敬語を使うべきなのだろうが、初めからタメ口で話しかけてしまったので、今更敬おうとも思えなかった。

 エヴァはその答えが気に食わなかったのか、私を睨みつけるように見てきた。

 

「分かったよ。せめて、あんた、じゃなくて名前を呼ぼう。エヴァンジェリン、は長いな。エヴァでいいか?」

 

「……馴れ馴れしいな」

 

「雪姫さんもそう呼ぶじゃんか」

 

「あいつはいくら言ってもやめないからもういいんだ」

 

 なんとなく、その言い方に2人の間での力関係が見てとれた。エヴァは雪姫さんに逆らえないようだ。

 

「エヴァも私のこと貴様とかお前とか言うのやめろよ」

 

「はぁ? なぜ私がお前の言うことを聞かねばならん……って、何勝手にコントローラ握ってるんだ」

 

「これ二人用だろ? ばとろうぜ」

 

 このゲームは持ってはないがゲーセンでそこそこプレイしたことはある。格闘ゲームは苦手ではなかった。

 

「あほか。なんでお前とやらねばならんのだ」

 

「なんだ、負けるのは怖いのか」

 

「はぁぁん?! 」

 

 エヴァは額に筋を付けながら、すぐにもう一つのコントローラを取り出してきた。まさかここまで単純に挑発に乗るとは思わなかった。本当に600年も生きたのか尚更疑い深くなる。

 

「ほざいたな、貴様。ボコボコにしてやる。ボコボコにだ。もし負けたら一生私に敬語を使いエヴァンジェリン様と呼べ」

 

「じゃあ私が勝ったら、あんたもちゃんと私の名前を呼べよ? 」

 

「塵ほど可能性がないことだが、いいだろう。乗ってやる」

 

 すぐに画面は2人バトル用に切り替わり、キャラクター選択画面となる。エヴァはすぐに強キャラと呼ばれるものを選び、私は自分の使い慣れたキャラを選択した。

 

『READY』

 

 と大きく文字が飛び出すと、私とエヴァは食い入るように画面を見つめた。

 

『FIGHT』

 

 

 

 ○

 

 

 

「お邪魔します」

 

「あきほちゃん、いらっしゃい」

 

「こんにちは、雪姫さん。……なにか、すごい楽しそうな声が外まで聞こえてましたが……」

 

「ああ、あれよ」

 

 呆れた声でそう言った雪姫さんが指差した先では、大声で怒鳴り合う私達の姿があった。

 

「おい! お前同じ強キャラばっか使ってんじゃねぇよ! ずりぃぞ!」

 

「何がずるいだ! 貴様こそ球持ちか待ちキャラしか使わんだろうが! 鬱陶しいんだよ!」

 

「はぁ? それを言うなら隙あればハメ技狙って来るのはどーなんだ! 強キャラでしかもハメ技しないと勝てないんですかねぇ?!」

 

「修正されるまでは立派な戦法の一つだろう! 大体貴様負けたんだから私に敬語使えよ!」

 

「お前が『雑魚な貴様のために1ラウンドくれてやろう』とか調子こいてた時は私が勝ったんだが? ちゃんと名前を呼んで欲しいんだが?」

 

「あほか! あれは勝負がついた後の提案だ! 初戦の戦いで賭けは貴様の負けで成立してるんだよ! くそが! ギアスロールでも書かせるんだった!」

 

「ダサいよなぁー、余裕綽々で一ラウンド渡して負けて文句言う奴はなぁー、ぐ、やばい、とか言ってるエヴァはダサかったなぁー」

 

「殺す。貴様は絶対に殺す。骨も残さん。バラバラにしてやる」

 

「上等だやり返してやる」

 

 そう言って2人は再びコントローラを一瞬で握って、キャラを決める。

 何度目かの『READY』の文字がまた画面に浮かび上がった。

 

「死ね」

 

「お前がな」

 

『FIGHT』と表示され、コントローラが千切れるほどに気合が入った私達がキャラクターを操作しようとしたときに、画面は唐突に真っ暗になった。

 

「はい、2人とも、そこまでよ」

 

 雪姫さんは、いきなりゲーム本体の電源を切った。黒い液晶が反射して私とエヴァのドアップしかそこには映っていない。

 

「雪姫ぇ! お前何勝手なことをしている!」

 

「ゆ、雪姫さん、後一回、後一回ですから!」

 

「駄目よ。さっきも言ってたでしょ貴女達。あきほちゃんも来たし、2人でやるゲームはやめなさい」

 

「巫山戯るな。もう一戦だ。こいつを血祭りにするまで終われん」

 

 もう一度電源を付けようとエヴァがゲーム機に近付いたところで、ぴたり動きが止まった。ギギギ、と何かに縛り付けられているかのように、エヴァはゆっくりと此方を振り返る。

 

「き、貴様。こ、こんなことに力を使いよって……」

 

「……? 何かされてんのか? 」

 

「千雨! ゲームの電源を入れろ! お前は動けるだろうが! 」

 

「わ、分かった」

 

 初めて名前を呼ばれたことに若干戸惑いを感じてしまった。まさかこんなタイミングで呼ばれるとは思っていなかった。エヴァも勢いで言ったようだったが、ゲームの電源を入れろって。もっと良い場面はなかったのか。

 

「千雨ちゃん」

 

 私がスイッチに触れようとした時、背筋を這い上がってくるような悪寒がした。

 

「一度やめましょう、ね?」

 

 怖かった。笑顔の裏に見える鬼のような影が、恐ろしい。怒ると一番怖いのは学校の教頭先生だと思っていたが、それは違った。世界一はここにいたのだ。

 

「は、はい」

 

「よろしい」

 

 雪姫さんがそう言ったところで、背中に感じていた寒気が消えた。

 

「あきほちゃんごめんなさいね、放っておいて」

 

「いえ、私は全然……。そうだ。それならみんなで出来る遊びをしませんか。雪姫さん、いいですよね? 」

 

「あきほちゃんも楽しめるならいいわよ」

 

「4人用か……何かあんのか?」

 

「なんだ、雪姫もやるつもりなのか」

 

「あら、駄目なの?」

 

「……構わんがこういうのが出来るタイプとは思えん」

 

 確かに私もそう思った。雪姫さんもあきほさんもゲームなどをしそうではない。しかし、彼女らがいいと言うなら良いのだろう。ゲームはやはり楽しくて、今もまだ熱が残っていた。誰かとこうして一緒にやるのは久しぶりだった。

 この時の私は本来の目的をすっかり忘れていた。

 

「マ○カとかねぇのか? 」

 

「私はS○NY派だ。任○堂のゲームはない。そもそもコントローラは二つしかないぞ」

 

「別にテレビゲームじゃなくてもいいじゃない。ボードゲームとかないの?」

 

「ボードゲームか、確か暇つぶしに買ったのがいくつかあったな」

 

 そう言って、エヴァは雑貨などを纏めている箱に向かっていった。初めてあった時の刺々しさは忘れてしまったみたいに自然体だった。年相応、ではなくて、見た目相応の彼女に、私はどこか安心感を覚える。

 おもちゃ箱を漁る子供のように箱に顔を突っ込んで腰を曲げていたエヴァが、体を起こした。

 

「カタンとドミニオンならあったぞ」

 

「なんだそりゃ。マイナーゲームか? 」

 

「あほう。日本じゃ流行ってないだけで有名どころだ」

 

 しかし、エヴァは何故多人数用のボードゲームを持っているのだろうか。家に誰かを呼んでやるようには見えないのに。訊いたらまた機嫌が悪くなりそうなので訊かないが。

 

「難しそうなのは皆が覚えるの面倒だからなしよ」

 

「あの、人生ゲームとかないのかな」

 

「ないな。あー、あと麻雀ならあるぞ」

 

「私は分かるが一番初心者にきついだろうそれは」

 

 覚えることが多く、簡単でもない。このままだとトランプとかになるかな、と思っていたところで、あきほさんは意外なことを言った。

 

「私、麻雀できるよ」

 

「え? そうなんですか? 」

 

「うん。お兄ちゃんが好きでね、教えてもらったんだ」

 

「役もばっちりですか?」

 

「うん」

 

「雪姫はどーだ」

 

「私に出来ない遊びはないわ」

 

「なんだそれは……。まあいい、決まりだな」

 

 エヴァはまた箱に近づいて、麻雀牌とマットを取り出した。

 

「手積みだがいいな」

 

「ああ」

 

「ふふふ、これで貴様を血祭りに上げてやる」

 

 おかしな賭け方さえしなければ血が関わるようなゲームではないのだが、エヴァがやる気なのでよしとする。私もさっきの格闘ゲームのストレスをぶつけたいところだった。

 

「当然だけど金を賭けるのはなしよ」

 

「ふん。面白さ半減だが仕方あるまい。おい、さっきの続きだ。負けたら一生敬語だぞ」

 

「はっ、エヴァこそ、負けたらちゃんと名前を呼んでもらうからな」

 

 名前を呼ぶは先程達成したのだが、エヴァは呼んだ自覚がないようでまたすぐに貴様とか言い出しそうなので、同じ内容でいく。

 

「あの、私もいいかな」

 

 マットを引き、四人が四角く座りジャラジャラと牌を混ぜ合わせているところであきほさんが言った。

 

「エヴァンジェリンさん。私が勝ったら、名前で呼んで、くれる?」

 

「なんだ、まさかお前まで私に勝てる気でいるのか。舐められたもんだ」

 

「ねぇ、いい?」

 

「ふん、構わん。何でもいい。どーせ私が勝つのだから。しかし勝負を挑むなら、貴様も負けたら私に一生敬語だ、いいな?」

 

「うん、いいよ」

 

「じゃあ私はなるべく邪魔しないように手堅く打とうかしら」

 

 そう言って、雪姫さんが仮仮親を決めるサイコロを振ってゲームが始まった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 ここで細かく内容を語るのは、やめておこう。

 結果だけ言うと、物凄い強さを見せ付けたあきほさんが、圧勝であった。信じられない強さであった。

 

 始まってすぐにあきほさんがエヴァに直撃で大きな当たりをして、焦ったエヴァがイカサマをしようとするも全て暴かれて、自分で点数を減らしていき自滅した。

 

 どうしようもなく情けない負け方をしたエヴァは、何もしてない私よりも当然点数が低く、圧倒的ビリであった。

 

 

 かなり落ち込み、拗ねた子供ようになったエヴァの機嫌が元に戻るまでは、しばらくかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 





麻雀ハイライト

「ははは、リーチだ!」
「な、まだ5巡目だぞ!」
「馬鹿が、貴様らとは運も実力違うんだ!そら、ツモ……ではないな」
「ロンです」
「く、ダマか、小賢しい……。いくつだ」
「清一色純チャン二盃口平和です」
「……は?」
「数えね」
「ば、ばかな。ドラもリーチもなく、役満だと……」
「や、やべえな。当たらなくてよかった」
「つ、次だ次!」

「く、このままではまずいな……」カチャ
「……エヴァンジェリンさん、駄目だよすり替えなんかしたら」
「なに! 私の完璧なイカサマが……」
「てかイカサマすんなよ」
「く、ならば……」
「ロンです」

「ロンです」「ロンです」「ロンです」「ロン」「ロンだ」
ぐにゃ〜










唐突な麻雀描写で申し訳ありません。
次からは真面目に話を進めます。
そういえば今更ですがこれって憑依タグいるんですかね……。



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10話

 

 

 

「大体な、麻雀なんていう運ゲーで勝敗を決めるってのがおかしかったんだ。麻雀の実力は何百回と打った時の勝率で決めるもんだ。1日やそこらで決着が着くもんじゃない。そうだろう?」

 

 そうだそうだ、と頷いておく。これ以上エヴァに不貞腐れていても話が進まない。今日の本題はまだ何も話していないのだ。

 

「……言うことは最もだけど、賭けは賭けよね?」

 

「うぐっ……。まぁいい。名前で呼ぶ程度いくらでもしてやる。あきほと千雨。ふん、満足か? これでいいか?」

 

 彼女にもプライドはあるようで、流石にあそこまでコテンパンにやられたら約束を反故にしようとは思っていないらしかった。雑な呼び方だが、それでもお前や貴様なんかよりはいい。無理矢理呼ばせて急に仲良し、となるものではないが、呼び方からして距離があるよりはずっといいだろう。

 別に私は仲良くなろうとは考えていなかったが、エヴァとゲームをするのは思った以上に楽しいものだったので、今後もそういう関係であれたらいいとは思った。

 女のゲーム友達なんてそうそういないのだ。

 

「うん。ありがと」

 

 皮肉も感じず穏やかな笑みであきほさんがそう返すので、エヴァはつまらなそうに舌を打った。

 

「それで、聞きたいことがあるんだろ? さっさと聞け」

 

「お、おう」

 

 若干苛ついた様子でエヴァは私に言った。膝を揺するのをやめなさい、と雪姫さんに注意されている。

 随分と長く遊んでいたせいで、少し日が落ちていた。しかしそれでも休日な分前回よりは時間があって、途中で説明が終わるということはなさそうだ。

 

「吸血鬼と、呪いについて教えてくれよ」

 

 ふむ、とエヴァが頷く。私に対する警戒心は大分解いてくれたのだろう。面倒だ、と一蹴される心配はないようで安心する。

 きっと、元はわりと面倒見のよい性格なんだと思った。何だかんだこうやって逃げずに相手をしてくれる時点で、彼女はそれなりにお人好しなんだと気が付いた。

 

「そうだな。吸血鬼のことなら私に。呪いのことなら雪姫が話すのがいいだろう」

 

「じゃあ、エヴァから頼む。……いや待った。吸血鬼のことじゃなくていい」

 

「はぁ? なんなんだお前は」

 

「エヴァのこと、教えてくれよ」

 

 この時には、吸血鬼という存在自体よりも、エヴァ本人のことの方が気になってきた。彼女は本当に吸血鬼なのか。だとしたらどうして吸血鬼が麻帆良の街にいるのか。やたらゲームは上手かったが、普段は何しているのか。

 

 私が改めて訊くと、彼女は腕を組んだ。横にいたあきほさんも話が気になるようで、身を少し乗り出すようにした。

 雪姫さんが用意してくれた冷たい麦茶を、一口飲む。カラン、と氷が音を立てた。

 

「……」

 

 少しだけ、話すのを悩んでいるように見えた。自分のことを話すのは恥ずかしい、と思っているのではない。きっと彼女の中にはもっと複雑な感情があって、それが心の中でせめぎ合っているのだと思った。

 

「……ゲームの報酬は、名前を呼ぶだけだったんだかな」

 

「……エヴァ、いいじゃない」

 

 雪姫さんが、エヴァの肩にそっと手を置く。

 

「……気安く触るな」

 

 そう言いつつも、エヴァはその手を振り払うことはしなかった。ほんのりと微笑んだ彼女の顔は慈愛に溢れていて、本当に綺麗な人だと思った。

 

 ふぅ、と一度息をついて、エヴァは私とあきほさんの顔を見つめる。吸い込まれそうに美しい瞳の奥には、怖さが見えた。覚悟が問われているような気がした。ここで目を逸らしては駄目なんだと、私は睨み返すように彼女を見る。あきほさんも、じっとその瞳を見ていた。

 

 雪姫さんの後押しがあったからか、エヴァは諦めたかのように表情を落ち着かせ、静かに語り出す。

 

 

「……私は、吸血鬼だ。今から約600年前、ちょうど百年戦争の最中に生まれ、齢10歳で吸血鬼となった」

 

「……なった? 元は人間だったのか? 」

 

 反射的に聞いてしまった。

 失言だと思い口を手で抑えたが、エヴァは特に気にした様子はなかった。

 

 寧ろ乾いた笑みを浮かべていて、哀愁を感じるその顔がどうしようもなさを物語っていて、私は息が詰まりそうになる。違う。そんな顔にさせたくて、訊いた訳ではないんだ。

 

「気にするな。人間だったことに思い入れはない。それに、生きた時間のほとんどが吸血鬼だ。人としての生き方など、もはや覚えていない」

 

「っ……」

 

 あきほさんが、唇を軽く噛み締めた。何か言いたそうだが、我慢しているように見える。

 

「最初に言っておくが、決して私に同情するな。それは私にとってもっとも侮辱的で、気に触る行為だ。貴様らがそうしたと感じた瞬間、有無を言わせずここから叩き出す」

 

「……うん」

 

 あきほさんは、エヴァがそう言うことを分かっていたのだろう。先日彼女が言っていたことを思い出す。辛いことも悲しいことも沢山あっただろうと言っていた。でも、私達に簡単に、辛かったね、などと分かったように言われるのを望んでいないことは、私にも察せた。

 

「真祖の吸血鬼となった私は、不老不死になった。それから600年ダラダラと生き延びて、そして今ここにいる」

 

 彼女がここまでの経緯を簡潔に話すのは、私達に余計な詮索をさせない為なのだろう。

 どうして吸血鬼になったのか。親はどうしたのか。その間どうやって生きてきたのか。それらのことは話すにはあまりに重々しく、会って数日の私が知るようなものではないのだ。

 私自身、きっと重くて受け入れられない気がした。10歳なら、今の私とそう変わらない年齢だ。

 突然人間ではなくなり不老不死になったと言われても、何か出来るとは思えない。孤独を感じたり、苦悩したりするのかな、と安易な予想をするしかことしか出来ない。

 

 ただ、彼女の容姿が異様に若い理由がやっと分かった。吸血鬼になった時から不老ということは、当時の姿のままだと言うことだ。創作ではよく不老不死を求めて旅をする者たちがいるが、私はエヴァの表情を見ていると、羨ましいとは思うことが出来なかった。

 

「……そんなエヴァが、なんで中学校なんかに通ってるんだ? 」

 

 かろうじて質問出来たのは、そんな内容だった。吸血鬼として人間とどこまで違うのかは、怖くて聞けなかった。臆病者だと言われても、この時の私は彼女と深く関わるのが恐ろしかったのだ。

 エヴァははっきりとした嫌悪感を示した。失礼だが、そんな顔でもさっきのような諦めたように悲しい笑みよりも、分かりやすい表情がずっとマシだと思ってしまう。

 

「色々あってな、中学校に無限に通い続けなければならないという呪いにかかってしまったんだ」

 

「呪い? それが、雪姫さんに関係あることなのか? 」

 

「その呪いはこいつとは関係ないんだが……」

 

「いいわ、ここからは私が話しましょうか」

 

 そう言って、雪姫さんはエヴァに代わって話し始めた。

 

「彼女が罹った呪いは、登校地獄。言った通り、中学校に通い続けなければならない呪いで、卒業まで経っても、また一年からやり直さなきゃいけないの」

 

「それじゃあ、エヴァンジェリンさんはもう何回目かの中学校なの?」

 

「何度目かなんか虚しくて数えてないが、一回や二回ではないな」

 

「……どうやったら解けるの?」

 

「それは」

 

 雪姫さんが言葉を続けようとした瞬間、エヴァが手で彼女を制した。

 

「ーーまだ分かっていない。だから私は未だにあんな所に通ってるんだ」

 

「そうなんだ……」

 

 この時の私達は、エヴァが何か隠しているのかな、と言うことくらいしか思わなかった。

 

「んじゃ、雪姫さんの呪いってなんなんだ?」

 

「私はねぇ、エヴァが露天商から貰った呪いの玉なの」

 

「……玉?」

 

 まるで意味が分からなかった。

 

「封印されてたのだけどね、エヴァが解いてくれたの。だから取り憑いちゃった」

 

 取り憑いちゃったって、彼女は幽霊みたいなものなのだろうか。

 

「お前が出てくると分かってたら、封印など解かなかったがな」

 

「またまた。そんなこと心にもないこと言って」

 

「本気だ」

 

「あの、雪姫さんは何の呪いなんですか?」

 

 あきほさんが訊ねると、雪姫さんはじっと彼女を見た。

 

「えと、あの、登校地獄みたいに、何かあるのかなって……」

 

「何だお前、取り憑くだけじゃないのか」

 

「そうねぇ……」

 

 雪姫さんは、手を顎に置いて、考えるような仕草をした。彼女のそんな表情を見たのは、初めてだった。

 

「……私はね、呪いであり、呪い(まじない)でもあったのよ」

 

「……?」

 

 私には意味が分からなくてエヴァを見たが、エヴァも神妙な表情をしていた。

 

「呪術と呪い(まじない)の区別など、そうないはずだが」

 

「そうね。でも、おまじない、って訊いたら、違う気がするでしょう?」

 

 確かに、呪いなんかは悪いイメージが想像出来るが、おまじないというと、何となく良いことを思い付く。

 エヴァは納得いかないような表情で、雪姫さんの話が続くのを待った。

 

「私が生まれたのは1000年前。ある国で、国王の娘が産まれそうになった。しかしそれが余りにも難産で、出産に長い時間が掛かったの。その時に、王が必死に母子の無事を願い、たまたま握り続けた丸い石があった」

 

 エヴァもこの話は初めて訊くようで、興味深そうにしている。私は、人の姿をしている彼女が、玉である、ということに未だ脳が納得していなくて、そのことを考えたりしていた。

 

「結果、子供は無事に産まれ、王妃も何一つ後遺症はなかった。その後、石は願いを叶える石とされて、王の宝となった。事実、王は何か困ったことがあると、石に願いを込めた。娘には、お前はこの石にお呪い(まじない)をしたから元気に産まれたんだよ、と説明していた」

 

 彼女の語りを、私達は真剣に訊いていた。私もいつの間にか次の言葉を待っていたと思う。それは、雪姫さんの高くても不快さは全くなく、澄みきった声が、心地良かったからだろう。

 

「その噂が国中に広まり、願いの石とされて、有名になった。すると今度は、石を悪いように活用しようとするものが現れた。盗賊により盗まれた石は、別の貴族に買われ、他の貴族を凋落させるために悪い願いを込め続けられた。その願いは見事に叶い、それからたらい回しのように多くの場所で悪の願いを聞き続けた石は、呪い(のろい)の玉と呼ばれた」

 

「手垢に塗れるほど呪いを込められた石は、ついに意思を持った。それが私よ。あらゆる呪いを内包し、それを達成させることに飽きた私は、人に取り憑くことを覚えた。そしてその人が死ぬまで人生を共にして、また石に戻る。何十回と繰り返した私は、ついにはエヴァに取り憑いたって訳」

 

「……なんだ、じゃあ、お前を握って願い続ければ、何か叶うのか?」

 

「いいえ。私が意思を持ってから、私が本気にならないと無理よ。まぁ、本気になったことなんてないけどね」

 

 つまらん、と言い放ったエヴァは途端に興味がなくなったようだった。

 

「……只ね、お呪い(まじない)の石として生まれた私は、誰かの願いを拾い続けているの。黒い願いもあれば、清い願いもある。だから私は、人間を嫌いになれずにいれたのかもね」

 

「……それで、その姿は?」

 

「ああ、これはね」

 

 雪姫さんは、くすくす、と可愛らしい笑い声を漏らした。

 

「エヴァが幻術を使って見せる大人の姿なの。それを魔力で形どって成り立たせってこと。つまりエヴァの、理想の姿っていうか、憧れの姿っていうか……」

 

「……へぇ、エヴァってそんな感じになりたいんだな」

 

 よくよく見れば、今のエヴァと違って出るとこはしっかり出ていて、かなり良いように成長した美人、という感じだ。彼女らが似ている理由ははっきりしたが、まさか彼女の夢見る姿が実現されているとは思わなかった。

 私が雪姫さんの身体、いや特にその豊満な胸を凝視した後エヴァを見ると、エヴァはみるみると顔を赤くした。

 

「なんだ貴様! 何が言いたい!? 何が言いたいんだ!? 」

 

「いや、うん。いいと思うぞ。コンプレックスってのはないものを欲する心だからな」

 

「あのな! 私は小さいままだと色々不便だったんだ! だから大人の姿が必要だったんだ!」

 

「そうだな。胸も小さいままだと不便そうだもんな。大人なら胸もバインバインの方がいいもんな」

 

「き、貴様ぁ!! お前だってある訳じゃないだろうが! 貧乳だろうが!」

 

「ば、馬鹿か! 小学生に何言ってんだ! 私には無限の成長の可能性があるだろ! 今からそんな気にする奴なんていないからな! 」

 

「馬鹿は貴様だ! 素質があればな、その頃には片鱗を見せてるんだ! 何の希望見えないお前はもはや成長性もないんだよ!」

 

「はー?! 永遠のロリッ子には言われたくねーよ! 」

 

「なんだと!?」

 

「やんのかよ!?」

 

 そう言い合いながら、気付けば私達はまたゲームのコントローラ握っていた。

熱くなりながら罵り合う私達を、あきほさんと雪姫さんは、どこか呆れながらも、少しだけ微笑んで見ていた気がした。

 

 

 





お気に入り追加や感想ありがとうございます。本当に力になります。

タイトルは、まじない、のろい、どっちもの意味で読んで欲しいです。


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ボツ話〜DTCG〜

ボツ話です。
気楽に読んで下さい。


 

 彼女達、エヴァと雪姫さんと知り合いになってから数日が経った。

 

 平日は特に変わらなく、いつも通り私は学校に行く。だが、あの時の話を聞いてからは、私の心はなんとなく軽くなったような気がする。

 登校時に信じられないほどのスピードで走って私の横を駆け抜けて行く人や、忍者のように建物の間を飛び上がって行く人を見ても、ああ、ああいう奴らもこの街の影響を受けているんだな、と思えば、いちいち深く考えたりする必要がなくなる。

 そんな彼らを見て毎回驚いたり周りはどう思ってるのかという反応を気にしなくて良くなったというのは、私の精神的にとてもよかった。

 

 そして休日は、よくあきほさんに誘われてエヴァの家に遊びに行くようになった。

 エヴァは毎回怠そうな顔をして私達を追い返そうとするが、雪姫さんが私のお客様だからいいでしょ、と言って中に入れてくれる。

 

 あきほさんと雪姫さんは特に仲が良いように見えて、よく二人で紅茶の話やハーブのことについて語ったりするのが、とてもお上品でお淑やかで、見ているだけで素敵に思えた。

 

 反対に、私とエヴァは顔を合わせればすぐに言い争いをしたりゲームでマジ喧嘩をしたりして、女子らしくもなく精神的に酷いほど子供であったと自覚はするが、そんな時間も嫌いではないと思ってる自分もいた。

 あきほさんと雪姫さんはそんな私達をいつも呆れつつも大人びた目で見守ってくれていて、決して見下したりした目ではないことが嬉しかった。

 

 

 自分を変に偽ったりせず、ありのままでいても何も気兼ねしなくていい場所は、心地よかった。

 

 たまにエヴァのことを観察すると、ちゃんと本気で怒ったり騒いだりしてるので、そんな彼女に応戦しつつも、私は心の何処かで安心するのだ。

 

 接していると分かるが、エヴァは人と何も変わらない。些細なことでキレて、褒められると少し調子に乗って、打ちのめされると凹む。そんな人と同じ一面を見るだけで、私は少し穏やかな気持ちになれる。

 そうあきほさんに話すと、あきほさんは同意してくれた。

 

「私もね、同じことを思うの。エヴァンジェリンさんの家に行って遊んでいると、時々、彼女のことがどうしようもなく気になるの。ちゃんと楽しんでくれてるかな。彼女は、私達より遠いところにいないかなって。そうしてエヴァンジェリンさんの顔を見るんだけど、千雨ちゃんと遊んでる時は本当に楽しそう。だから私、嬉しいの」

 

 あきほさんがあまりに幸せそうに語るので、訊いている私が何故か少し恥ずかしく思ってしまう。

 

「でも、私もエヴァを見てますけど、あきほさんと話すときも、エヴァは自然に楽しんでると思いますよ。だって、私の前ではあいつあんな風に穏やかな顔はしないですもん」

 

「そ、そうかな。ほ、ほんとに?」

 

「はい。ほんとです」

 

「……なら、嬉しいなあ」

 

 あきほさんは、照れたように頬を赤くして可愛く笑った。指で髪をいじる姿が愛らしく見えた。

 エヴァとあきほさんの会話は、私達と違ってずっと大人しい。

 

「エヴァンジェリンさん、今日の紅茶も美味しいね」

「お前はいつもそう言っているな」

「あのね、この前洋服を買って、今日着てきたのだけれどどうかなぁ」

「……まぁ、悪くないセンスだが、大人しいな。……一つワンポイントを入れてやろうか? 」

「え? ほんと? 」

「ああ、少しの間貸せ。その間はこれでも着てろ」

「わー、ありがとう。楽しみにしてるね」

「ふん、こういうのは私の趣味だから私が勝手にやるんだ。……あまり期待するなよ」

「うん。でも、ふふふ。待ってる」

 

 こんな会話が多い彼女達は、私と話す時とは真逆で、急に女の子らしくなる。

 でもそれは無理して言っているものではなく、自然体であることは側から見ても分かった。

 

 そうやって私とあきほさんはエヴァと遊んだ日の帰り道は、彼女について話したりすることがあった。

 エヴァが本当にそう感じていたかは、分からない。私達の思い込みかもしれない。

 きっとこんな話をしてると聞いたら彼女は怒るだろう。

 それでも、エヴァの10歳の見た目らしい姿を見て、あきほさんが嬉しく思う気持ちは私にも分かった。だから、嬉しそうなあきほさんが見れるのが私も嬉しくて、ついついそんなことを話してしまうのだ。

 

 私達がこんなに彼女と気軽にいれるのも、雪姫さんの存在が大きい。

 雪姫さんは、ちょうどいい感じに私達の橋渡しのように話をしてくれるし、見守ってくれている。エヴァのことを誰よりも気にかけて、大事にしているというのが見れば分かる。

 

「……でもどうして雪姫さんは、エヴァンジェリンさんを気にかけるのかな」

 

「本人は、エヴァを通じて色んな世界が見たいからって言ってましたけど」

 

「うーん。私には、それだけには見えないな」

 

 あきほさんは悩むように考えていたけど、私には見当もつかなかった。大して考えもせず、エヴァのこと気に入ってるからじゃねえのかな、としか思ってなかった。勿論、それは今でも間違って無いと思う。

 

 

 

 ○

 

 

 

 ある日、また休日にあきほさんとエヴァの家に向かうと、いつも通り雪姫さんが迎え入れた。

 

 エヴァはまだ寝てるの、ごめんね、と言われ、毎回座るリビングの机に腰を降ろさせてもらう。

 雪姫さんが、庭にハーブを植えたのだけれど見る、とあきほさんに訪ねたので、見たいです、と頷いた彼女と共に二人は庭へと歩いていった。私はあまり興味が湧かなかったため、遠慮させてもらった。

 

 一人で所在なくなったので、私はケータイを取り出して横にする。

 最近ハマってるゲームでもしてエヴァを待っていよう、と思ったところで、ちょうどパジャマ姿のエヴァが降りてきた。

 

「なんだ、暇人達がまた来てたのか……って、あいつらはどうした」

 

「なんか庭にハーブを見に行くってよ」

 

「ああ、あいつが最近植えてたな」

 

 まったく勝手に人の庭に何でも植えよって、と愚痴りながら、エヴァは私の前に座った。

 

「なんだお前。スマホゲームしてるのか」

 

「ああ、すまん。すぐにやめる」

 

「いや構わん。どんなゲームだ」

 

「カードゲームだよ」

 

 ほぉ、と眠たげにしていた目をエヴァは光らせた。

 

DTCG(デジタルトレーディングカードゲーム)か」

 

「お、分かんのか」

 

「私もやってる」

 

 そう言って、エヴァは自分のスマホをひらひらとさせて私に見せつけてきた。それから彼女はスマホを横にしてゲームを起動させたようだ。

 

「やり込み系のゲームもいいが、カードゲームもいいよな」

 

「分かるぞ。資産の差はあれど、やり込み度ではなく発想と知恵だけで戦うPvPは面白い」

 

「運も絡むけどな」

 

「それもいいんじゃないか」

 

 そう言って、ふふ、と私達は笑い合った。

 

「まさか千雨と意見が合うとはな」

 

「珍しいよな。エヴァはどのデッキ使うんだ?」

 

「ふふん。全部に決まってるだろう。せっかく多くのカードがあるんだ。全部触らなきゃ損だ」

 

「わかるぅ……!」

 

 ここまで意見が合うの本当に珍しかった。

 

「よし、やるか?」

 

「いいのか? 朝飯食わなくて」

 

「ふん、貴様など文字通り朝飯前だ」

 

「言ったな」

 

 私達はにやりと不敵な笑みを浮かべ合う。こんな風にゲームの話を堂々と出来るんだから、やはりここは居心地がいい。

 私はスマホを操作して、部屋を作りエヴァに伝える。

 

「おい、ルーム作ったぞ」

 

「は? ルーム? 」

 

「ああ。ルームナンバーはな……」

 

「まて、まてまてまて」

 

 エヴァが急に頭に手を抑えて、不安そうに私を見た。

 

「なんだよ、まさか怖気付いたのか?」

 

「……違う。なんだルームって。フレコを送り合って対戦申し込めばいいだろう」

 

「はぁ?それでもいいけどよ、とりあえず今はルームからでいいだろ」

 

「ルームなんて概念はない!!」

 

 突然エヴァは私のスマホ画面をガバリと覗き込んできた。

 

「き、貴様! やはりか……っ! 」

 

 エヴァは手を震わせ、キッと私を睨みつけてきて、大きな声で言った。

 

「ハー○ストーンではなく、シャドウ○ースだとぅ!?」

 

 ドン、と力強く机を叩き、まるで親の仇を見るような表情で私に怒鳴り散らしてきた。

 

「やはり貴様とは趣味が合わんっ! まさかとは思ったが、そんな紛い物をやっているとはな!」

 

「紛い物だと!」

 

 好きなゲームを非難されたので、思わず私も熱くなる。

 

「お前こそ!そんな古臭いゲームやりやがって! 今の時代みんなシャド○やってんだろうが! 」

 

「はぁ? 古臭いだと? お前どっちが人口多いのか知らんのか? 圧倒的にハー○だぞ?!」

 

「あーあー。ハー○民はすぐにそれだよ。世界的に多いからってすぐそこを持ち出す。日本じゃどっちが流行ってるかなんか一目瞭然なのになぁ!?」

 

「貴様らシャド○勢は恥ずかしげもなくよくパクリゲーを出来るなあ! ほとんどシステムを丸パクリして自分たちが日本のカードゲーム背負ってるみたいな顔しよって!」

 

「パクリじゃねぇ参考にしただけだ! 大体絵が受付ねぇんだよハー○は! シャド○のが綺麗だしかっこいいだろうが!」

 

「はー。オタク共はすぐ絵がどうとか言い出す。システムパクって環境はいつも無茶苦茶なくせになぁ!? なんだバハムー○って! なんだイー○スって!小学生の考えたカードかぁ?! ニュートラルやヴァンプが暴れた不思議の国はさぞ生きにくかっただろうなぁ可哀想に! 」

 

「はいはいお前らはすぐこっちの環境終わってるとかいうがそっちも大概だからな?! アグロシャー○ンや海賊が支配してた時代忘れたかぁ?! 面舵いっぱーい!で出てくる1コストは見飽きたろう!? それに究極も動員も充分クソカードだろうが! 」

 

「なんでこっちの環境詳しいんだ! きもいんだよ! 」

 

「その台詞そのまま返してやるわ!」

 

 

 いつものように胸倉を掴みながら言い合っていると、雪姫さんとあきほさんが、またぁ? と溜息をつきながら部屋に戻ってきた。

 

「今度は何で喧嘩してるのよ」

 

 大して心配もしてなさそうに尋ねる雪姫さんに、私達は同時に大声で状況を伝える。こいつが私のゲームをバカにしたと。

 あきほさんもいつも通りオロオロとしながらも、私達の仲裁をしようとしてくれた。

 

「あ、あの。お互いに、好きなゲームは人それぞれってことじゃ駄目かな? 」

 

「あきほ。それはないんだ」

 

「あきほさん、そうじゃないんすよ」

 

「え、と。どういうこと?」

 

「人それぞれなんてな。言われなくても分かってる。当たり前なんだよ。だがな、それを言ったら議論は終わってしまう」

 

「私達はそれを大前提に置いた上で、相手を言い負かしたいんだ。屈服させたいんだ。私の意見を聞いて、たしかに私の負けだ、と言わせたいんだ……! 」

 

「……な、なんか、すごいね。やっぱり仲良いね二人共」

 

「よくない!」「よくないです!」

 

 心地よいなどと言っていたが、対立している時はやはりムカつく。圧倒的にストレスの方が多い。

 

 

 私達が更に言い争いをしようとした時に、ついに雪姫さんが私達の間に入った。

 

「まぁまぁ、落ち着きなさい、二人共。……ここはね、間をとって、二人仲良く」

 

 そう言って、彼女はどこからか、何故持っているのか分からない自分のケータイを取り出した。

 

「ウォー○レしましょ? 」

 

 

「そ、それは……」

 

 

 私達は同時に視線を下げて、や、やりません。と小さな声で言った。

 

 

 

 

 





ボツ理由
この時代にスマホはない。

趣味の話で本当に申し訳ないと思っています。
どうでもいいでしょうが私はシャドウ○ースもハー○ストーンもウォー○レもライ○ルズも全部好きです。


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12話

 

 

 千雨さんは、そこまで語ると一度小さく息を吐いた。顔を上げれば円のように丸く並んで座っている僕らが皆彼女に注目している。そのことを不意に恥ずかしく思ったのか、みるみると顔が朱色に染まっていった。

 

「……まぁ、その後もなんやかんやあってだな」

 

「うんうん」

 

「私とエヴァはそこそこ仲良くなって」

 

「それでそれで」

 

「……今でもたまに遊ぶくらいの仲になりましたとさ」

 

「……うん?」

 

 千雨さんがぶっきらぼうにそう言い切った所で、話を訊いていた僕たちは顔を見合わせた。

 

「終わりだよ」

 

「えーーっ! なんか最後すんごい雑じゃなかった!?」

 

「うち、もっと千雨ちゃんの話聞きたいわー」

 

「確かに、話の終わりとしては特にオチもなく中途半端だと……」

 

「うるせぇなぁ! 喋り続けるのって結構大変なんだぞ!エヴァ、なんか飲み物ないか?」

 

 明日菜さん達の抗議を無視して、もうカラカラだ、と手を喉で抑えながら千雨さんがぐったりとした顔をする。唯一椅子に座って訊いていたエヴァンジェリンさんが、あっちの冷蔵庫から勝手に持ってこい、と言ったので、彼女は歩いていってしまった。

 

 空は暗いが、真上に浮かぶ満月の光が僕達を照らす。周りには洋風でお洒落な外灯もいくつか建っているけれど、強い月灯りはそれにも優っていて、夜とは思えない明るさがあった。

 だけど、遠くを見るとどんどん光が届かなくなっていて、漆黒が僕達に迫って来ているように感じる。それが怖かったからかは分からないけれど、僕の肌は一瞬ぶるりと揺れた。

 

「なんだ坊や、寒いのか」

 

「いえ、そういう訳では……」

 

「ふん。いいからこれでも羽織っておけ。体調を崩される方がうざい」

 

 そう言って、エヴァンジェリンさんはどこから出したのかローブを一枚僕に投げた。ばさり、とちょうど肩にかかったそれを受け取る。暖かかった。さっき感じた恐怖が一気になくなった気がした。

 

「……ありがとうございます」

 

「エヴァちゃん、やっさしー」

 

「茶化すな。お前らも風邪を引く前に使え。いらん奴は捨てて置いていいぞ」

 

 エヴァンジェリンさんはまた手品のようにローブを人数分取り出し、宙に舞わせた。ばさばさと鳥が羽ばたくような音と共にそれぞれの手にローブが渡り、口々にお礼を言っていた。

 

「エヴァ、私のは」

 

「ふん」

 

「うわとと、乱暴だな私には!」

 

「貰えるだけありがたく思え」

 

 ペットボトル片手に戻ってきた千雨さんもローブを受け取る。季節は夏であったけど夜が深くなったからか、皆多少なりとも気温の低下は感じていたようで、ありがたそうにそれを羽織っていった。

 

「エヴァンジェリンさん、たまにこう優しい時がありますね」

 

「ゆ、夕映、失礼だよぅ」

 

「確かに、私が昔聞いていた噂とは大きく異なります」

 

「刹那さんまで……」

 

 僕が聞いていた話とも大きく違う。真祖の吸血鬼、闇の福音、他にも様々な呼び名があって、全てが恐怖を煽るようなものであったのに、実際はとてもそんな風には見えない。

 麻帆良に来た当時、クラスメイトに彼女がいると聞いた時にはもうどうしようもないくらい困惑したものだ。カモ君からは逃げ出すことをオススメされ、僕も一瞬本気で考えてしまったくらいだ。

 しかし学園長やタカミチからは、むしろ困った時は彼女を頼れと言われ、そして実際に、彼女にはとても助けてもらっている。

 噂が彼女を大袈裟に言っていただけなのか、それとも、彼女が何かを切っ掛けに変わったのか。

 僕が月灯りで照らされる彼女の綺麗な顔をじっと見つめていると、どうした、と訪ねられたので、思わず顔を逸らして、何でもないです、と答えた。

 

「千雨、もう語る気はないのか」

 

 眼鏡を上げながら千雨さんは答える。

 

「悪いがパスだ。疲れた。コスプレ分の仕事はしたぞ」

 

「短い気ぃするけどなぁ」

 

「聴衆はこう言ってるが」

 

「木乃香頼むもう勘弁してくれ」

 

「んー。せっちゃんはどう思う?」

 

「ま、まぁ千雨さんも疲れてるようですし、とりあえず休んでもらってもいいんじゃないですか?」

 

「じゃあまたエヴァちゃんが語ってよ!」

 

 明日菜さんがエヴァンジェリンさんにぐっと顔を痩せるので、エヴァンジェリンさんはその顔を掌で抑えた。

 

「一々近いんだお前は。それにまだ飽きんのか」

 

「飽きる訳ないじゃない! エヴァちゃんって結構ミステリアスだから凄い気になるのよ。お世話になってるし! ネギもそうよね!」

 

 明日菜さんが急に僕に振る。勿論僕も彼女と同じ気持ちだ。エヴァンジェリンさんの話をもっと聞きたかった。

 

「……あの、聞きたいんですけど」

 

「なんだ」

 

「今のエヴァンジェリンさんがいるのは、やっぱり雪姫さんのおかげなんでしょうか」

 

「……さぁな。あいつがいなくても、あいつと会わなくても、意外と私はこうしてお前らと関わっていたかもしれんぞ」

 

「じゃあ、雪姫さんが来てからの時間は、学校生活は、どうでしたか?」

 

 彼女がまだ麻帆良中学に通っているということは、登校地獄の呪いは解けていないということになる。だとすると、話の通りなら彼女は去年の三年間を学生として過ごせなかったと呪いに判断されたことになる。

 そんな時間は、彼女にとってどうだったんだろうか。

 

「ふふ」

 

 エヴァンジェリンさんは、俯いて静かに笑い声を漏らした。

 

「……楽しかった」

 

 顔を上げたエヴァンジェリンさんの笑顔は、今まで僕が見たことのない表情であった。顔一面に満悦らしい笑みが浮かべられていて、本当に幸せを芯から感じているようなその笑顔は、見る人の心すら癒すものだった。

 みんなが息を呑んで彼女に注目した。

 クラスメイトではあるけれど、普段冷静な彼女がそんな風に笑う顔があるだなんて、想像していなかったのだろう。

 

「あいつと過ごした日々は、最初こそ苛々したけれど、今思えば楽しかったよ」

 

 満月を背にそう語る彼女は、幻想的にすら思えた。普通の学生らしく過去を思い出し、楽しかったと言えるエヴァンジェリンさんを見て、良かったと思った。

 彼女の人生は辛い時間も多かっただろうけど、それでも幸せに語れる時間が確かにあるのだと思うと、僕も救われた気持ちになった。

 

 

「や、やっぱりもっと聞きたいです。僕、エヴァンジェリンさんのこともっと知りたいです」

 

「なっ……!」

 

 おおー、という声が周りから上がる。何人かは顔を赤くしていて、ネギ君やるなぁ、という木乃香さんの声が聞こえた。

 

「お前、よくそんな台詞を素で言えるな。いつか刺されても知らんぞ」

 

「え、何がですか?」

 

「……いや、いい。自分で気付かぬならいつか勝手に刺されればいいんだ」

 

 諦めたようにエヴァンジェリンさんが言うけれど、僕にはよく意味が分からなかった。

 

「しかし、面倒だな」

 

「でも、中途半端に終わられると気になって仕方がないです。雪姫さんがどうなってしまうのかも分からないままですし」

 

「え、なに。雪姫さんどうかしちゃうの?」

 

「うち明日菜はただ純粋に聞いとればええと思うんよ」

 

「え、なにそれ。余計気になっちゃうんだけど!」

 

 明日菜さんは、エヴァンジェリンさんの話を今と繋げずに物語のような話として聞いているのだろう。よく言えば入り込んでいるということだ。

 だけど、彼女以外の人はほとんど気付いている。

 雪姫さんは、現時点ではいない存在なのだと。

 

 どうやってエヴァンジェリンさんにやる気を出させるものか、と皆が悩んでいる時に、明日菜さんは唐突に言い出した。

 

「てか私思うんだけどさ」

 

「どうしたんですか明日菜さん急に」

 

「その人見たことないから分からんないけど、雪姫って名前エヴァちゃんにもぴったりよね」

 

「……? どういう意味ですか? 」

 

「え、なんか肌白いし、雪とか似合いそうじゃない? それで金髪ロングでお姫様っぽいし」

 

「それは流石に安直かと……」

 

 

 

「……ククク。クハハ」

 

 明日菜さんがどうでもいいような話をしたところで、エヴァンジェリンさんは不意に笑い出した。

 

「そうか、ぴったりか」

 

 どこか機嫌が良さそう笑うエヴァンジェリンさんの横で、千雨さんも微笑んで地べたに座る。

 

「まぁいい。続きはまた私が語ろう」

 

「ほ、ほんと!?」

 

「ああ、最初に坊やに語り出したのは私だしな。最後までいこう。喋らすのだから、しっかり聞いていけよ?」

 

 

 

 

 

 





繋ぎの話なので短いです。申し訳ありません。
感想批評お待ちしてます。


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13話

 

 

『ねぇ、朝よ』

 

 遠い記憶だ。目の裏にぼんやりとした乳白色の光を感じて、暖かいベッドと毛布の上にいる私が眠たげに薄眼を開ける。

 

『起きて、寝坊助さん』

 

 額にキスされるのをくすぐったく感じながら、頭の頂点から頬へ流れる掌を愛おしく感じながら、私は窓から刺す光に起こされる。

 

『ご飯よ』

 

 幸せだった日々。辛いことがあっても慰めてくれる人がすぐそばにいて、孤独とは無縁だった朝。

 そんな毎日に私はいつも愛おしさを感じながら、眼を開けるのだ。

 起きて最初に見えるのは、いつも同じ顔だったーーー。

 

『キティーーー』

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 眼が覚めると、味噌汁の匂いがした。

 トントンと、小刻みに包丁がまな板を叩く音が家に響いている。低く静かな音なのに、何故かそれは耳に残って、しかし決して不快ではなかった。

 頭の中に、雪姫がいる感覚がない。つまり、あいつが料理をしてるということなのだろう。毛布をよけて、一度背伸びをしてから部屋を出てリビングに向かう。

 

「おはよう、エヴァ」

 

 階段を降りる音で気付いたのか、一度私に振り向いて雪姫は挨拶をしてきた。

 ああ、と適当に返事をして、私は席に座る。

 

「今日は早いじゃない」

 

「……目が覚めた」

 

「先に顔洗ってきなさいよ。目やについてるわよ」

 

「ああ」

 

 半分寝ている思考のまま、私は立ち上がってのろのろと洗面所に向かう。水を出して手で掬い、ぴしゃ、と音を立てて顔に当てた。冷たい水が心地よい。何度か繰り返して鏡を見ると、寝癖が跳ねた自分がいる。もう一度欠伸をしてから軽く手櫛で揃えた後に、私はまた席に戻った。

 

 大分頭が冷静になった後、私は雪姫の後ろ姿を見た。どこから出してきてたのかエプロンを着けていて、髪の毛はポニーテールになっている。整えられた金の後ろ髪が動きに合わせて少し揺れていて、馬の尻尾と呼ぶにはあまりに上品な動きだった。

 頬杖をつきながら、私はその揺れを目で追ってしまった。

 

「……何してるんだ」

 

 今更の質問に、雪姫はおたまで味噌汁を掬い口に当てながら答えた。

 

「何って、料理よ。朝ご飯作ってるの」

 

「パンを買い込んであっただろう」

 

「たまにはご飯で朝を迎えたいでしょ?」

 

「食材はどうしたんだ」

 

「この時代って本当便利ね。スーパーってとこ、夜中にも食材を売ってくれるんだから」

 

 他にも、金はどうしたとかエプロンはどこからとか、聞きたいとこは沢山あったが、ふんふんと上機嫌に料理を続ける姿を見るとどうでも良くなって、私は大人しく彼女の料理の完成を待った。

 

 しかし、夜中に買い物に行くということは、夜は私から抜けて一人で活動していたということだ。私の少ない魔力を勝手に使っていることは、寝ていて自覚がないため憤りなどはないのだが、そこまで自律的になれることに驚く。つくづく不思議な存在だと再度思う。

 どこまで遠くに行けるのか、誰かに見られていないのか、という事は気になっても、雪姫が夜な夜な悪さをしているという発想には至らなかった。そんなくだらないことをする奴には思えなかった。

 癪だが、私もこいつのことをある程度分かってきたということなのだろう。

 

「はい、出来たわよ」

 

 両手に皿を持って彼女は此方に向かってきた。右手には焼き魚。左手にはほうれん草のお浸しを手にしている。私の前に次々と料理が運ばれてきて、ひじき煮、大根おろしとしらす、ご飯、味噌汁が置かれて最後となった。

 そしてそれぞれ、2人前ずつある。

 

「お前、食べられないだろう」

 

「ええ。でも、一人で食べるのは寂しいじゃない」

 

「寂しくない。どうするんだそれは」

 

「口に入れて、体の中で消すわ。つまりは食べたふりってことよ。別に捨ててるわけじゃないし、いいでしょう?」

 

 栄養にしていないことと消去することとでは違うのだろうか。

 食事も十分に取れない貧民や、食材の命を大事にするよう声を上げる人にとっては、食料の無駄遣いなどと言って怒るかもしれない。

 しかし私にとっては別にどうでもいいことで、そのことを問い詰める気はなかった。

 

「……お前の分、私の金を使ったのに無駄にするとはな」

 

「ふふ、料理費用よ。それより早く食べましょ。冷めちゃう」

 

「味は分かるのか」

 

「美味しいか不味いかは私には分からないけど、どんな化学物質であるかは判定できる。一応味見して人の好みに合う味付けになっている筈だから不味くはないわよ」

 

「……まぁ、味の文句は食べてからだな」

 

「はいはい、じゃあ、手を合わせて」

 

「……いただきます」

 

 

 

 

 雪姫は慣れないだろう箸も上手に使い、料理を口に運んでいる。誰からみても普通に食事を食べる女性だった。

 私も箸を持ち、適当に摘む。

 久しぶりの和食は、美味かった。

 いや、美味しいだけではない。高級料理店での外食では味わえない、不思議な安心感のある味がした。

 

「どう?」

 

 微笑みながら聞いてくる雪姫に対して、私は、普通だ、と答えた。

 それでも彼女は嬉しそうに笑っていた。

 

 

 

 ○

 

 

 

 飯を食い終わると、雪姫は、洗い物はしておくから着替えてきなさい、と指示してきた。ただしシンクまで持ってこないとやらないというので、私は渋々空になった食器を運んだ。

 彼女がかちゃかちゃと水と洗剤とスポンジで音を奏でているうちに、私は学校へ行く支度をする。

 身形を整え、制服に袖を通し、鞄を持つ。

 なんて学生らしい朝の仕草なのだろう、と私は自分に言った。前まではだらだらと適当に準備するだけで、それもまた学生らしいといえばらしいのだろうが、なんとなく今やっている動きの方が一般的であると思った。

 どうだ、登校地獄よ、私はちゃんと学生してるぞ、と心に問い掛けても答えはこない。

 はぁ、とため息を吐いてから私は玄関で靴を履いた。

 

「もう出るの?」

 

 手を拭きながら、雪姫が外に向かおうとする私の後ろに立った。

 

「家にいてもやることはない。だらだら歩いて向かう」

 

「そう。なら、いってらっしゃい」

 

 

 思わず。

 振り返って雪姫の顔を凝視してしまった。

 

 

「……? ああ、もうちょっと洗い物して、洗濯して掃除して、そしたら私も追いつく、というかあなたの中戻るわよ」

 

 付いて来ないのか、という疑問を持ったと思われたのだろう。雪姫は何事もないかのように、もう一度手を振って、いってらっしゃい、と言った。

 心が波立ち、ざわざわと穏やかに揺れる。動く掌がスローモーションに見えて、雪姫が眩しく見えてしまう。

 かろうじて立ち上がれた私は、遠くに感じたドアノブをおもむろに掴んで、そのまま出て言った。

 

 行ってきます、とは言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに雪姫が頭の中にいない状態で、外を歩く。

 あいつが来てからこれまでずっと会話しっぱなしだったので、一人が嫌に落ち着かなかった。

 しかし、さっきの瞬間にあいつが頭にいなくて良かったと心から思った。私自身、自分がどんな感情を抱いたのか処理できていないのに、彼女といたらどうすればいいか分からなかっただろう。

 

 

「お、エヴァじゃねえか。おはよ」

 

「エヴァンジェリンさん、おはよう」

 

 林を抜けて街道に出たところで、たまたまあきほと千雨にあった。二人も登校中だったのだろう。

 おう、とぶっきらぼうに返事をすると、二人は顔を見合わせた。

 

「あの、何かあったの? エヴァンジェリンさん」

 

「……何がだ」

 

「何がって、お前ちょっとにやけてるじゃん」

 

「……っへ?」

 

 慌てて私は自分の頬を触った。にやけているだと。そんな馬鹿な。

 

「ふふ。良いことでもあったの?」

 

「ない! 何もない! にやけてもない!」

 

 二人から顔を逸らして両手で自分の顔を揉む。いつもの冷静沈着でクールな自分になるように引っ張ったりもした。

 何してんだ、と怪訝そうに聞く千雨の声を無視して一心不乱に私は心を落ち着かせた。

 

「そういえば、雪姫さんは今はいないの? 」

 

「ななななんであいつの名前が出るんだ!」

 

「どれだけ動揺してんだよ」

 

 全く落ち着きそうにない私を見て、あきほはくすくすと笑っていた。

 

「多分、いないんだろうなーって思ったの」

 

「あー、だよな。多分、いないよな」

 

 二人とも私との付き合いにも慣れて来たせいで、いつのまにか私の中にあいつがいるかいないかも見て分かるレベルになっていたのか。

 

「……どうしてそう思う」

 

「だって、ね」

 

「いたら、おう、なんて返事許されないだろ」

 

「……」

 

 思い返すと、確かにそうだ。他人からの挨拶に何故か執着する雪姫なら、私がそんな返事をしたなら身体を抑えつけてしっかり挨拶するまで説教を続けるに決まっている。

 しかし、挨拶程度出来なかったくらいであいつがいないからだと見抜かれるのは、半人前と言われているようで癪だった。私一人でもそれくらいはできるに決まっているだろう。

 

 私はゆっくりと彼女達をもう一度見た。

 口をすぼめて、私は小さな声で言う。

 

「……おはよう。あきほ、千雨」

 

「……うん。おはよ」

 

 非常に照れ臭く感じて、私は二人からまたすぐに顔を背けた。

 

「そんで、雪姫さんはどうしたんだ」

 

 そんなに私と居ないことが気になるのか、千雨は再度あいつのことを訊ねてきた。きっと、二人でいない時を見るのが珍しかったからだろう。

 

「見限られたか?」

 

「見限るってなんだ!どうして取り憑かれてる被害者の私があいつにそんな判断されねばならん!」

 

「だっていつ見てもすげえ迷惑かけてるし」

 

「迷惑などっ……」

 

 思い返せば、人型の姿で動けるようになってから、あいつは私の世話を勝手にしていた。風邪を引いた私の看病をして、今日だって頼んでもないのに朝食を作り、部屋の片付けまでしてくれるという。

 

 ……それに、私はあいつには碌に挨拶も返してない。

 おはようも、行ってきますも言ってない。ごちそうさまは、言っただろうか。いつもは誰かに不誠実だと五月蝿いくせに、今日のあいつは怒りもしなかった。

 

 これは、見限られた、ということなのだろうか。

 

「じょ、冗談だよ。そんな深刻な顔すんなって」

 

「だ、誰が深刻な顔などするか! ふ、ふん! あいつがそれで居なくなるなら私としてはラッキーだ! やっと邪魔者がいなくなったと清々する! 」

 

(何が清々するって? )

 

「うぉお!?」

 

 いきなり響く頭の声に、私が仰け反る。その勢いで鞄を落したが、すぐにあきほが拾ってくれた。

 

(あら、千雨ちゃんとあきほちゃんも一緒なの。おはよう、二人とも)

 

 二人は姿ない雪姫から脳内に声を掛けられるのは初めてだったのだろう。少し戸惑った表情をしたが、すぐに声を出しておはようございます、と言っていた。

 

「こ、これは、口に出して喋った方がいいのか? 脳で喋る感じでいいのか?」

 

(皆でいる時は口に出せばいいと思うわ。千雨ちゃんの心の声を周りに響かせるのも出来なくはないけど、少し面倒だし、黙って見つめ合ってるのも変でしょう? )

 

「お、おう」

 

(……でも、こういうテレパシーみたいのに憧れてるならやって見てもいいわよ?)

 

「み、見抜かれてる」

 

 やはり魔法に対する憧れはあったのか、千雨は恥ずかしさで少し頬を赤く染めた。

 

(それで、どうして3人一緒なの?)

 

「私と千雨ちゃんの家ってそんなに離れてないから、たまにこうして一緒になるんです。初等部と中等部も近いし。そしたら、今ちょうどエヴァンジェリンさんにも会って」

 

「なんだ、あきほも寮暮らしじゃなかったのか」

 

「……うん。それより、雪姫さんは今日は姿をみせないんですか?」

 

 一瞬表情に陰りを見せたあきほであったが、まるでそこに触れて欲しくなさそうにすぐ別の話題にしようとした。気にはなったが深く聞くのも嫌なのだろうと私は気にしないふりをした

 

(学校でエヴァの側にずっと私の姿があったら変でしょう?)

 

「なら、実体化して家にいればいいだろう」

 

(嫌よ。貴女から距離が出来るとやっぱりちょっときついもの。それに長い時間は離れてられないわ。実体化は側にいる時が一番いいわね。あと、家に1人なんてつまらないじゃない)

 

 多分、後者の理由の方が大きいんだとすぐにわかった。雪姫は暇なのは好きじゃないのだ。

 

 

 立ち止まって話をしていた私達は、やっと学校に向かい出しのろのろと歩き出した。折角早く家を出たのに、遅刻したら台無しだ。それにあきほのことだから、またどうせ日直紛いのことをやるつもりなので、学校には早めにつきたいだろう。

 

 雪姫も合わせて4人で話しているのに、周りから好奇の目を向けられることはなかった。詳しく会話を聞かなければ3人で会話してるようにしか見えないだろうし、そこまで他人の会話に聞き耳を立てる人もいないということだ。

 

「エヴァのやつ、なんかニヤついたり落ち込んだりしてすげえ情緒不安定だったんすけど、雪姫さんなんか知ってます?」

 

「ち、千雨! 貴様適当なことを言うな! 」

 

(んー。全然心当たりはないのだけれど、どうしたの? エヴァ)

 

「何でもない! 何でもないから気にするな!」

 

(なぁに? 気になるじゃない)

 

「だからなぁ!」

 

 

 



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14話

 千雨は途中で初等部に向かったので、私とあきほは2人で中等部の門を潜った。話しながらのんびりと歩いていた筈だが、まだ時間は早いようで人の姿は少ない。

 学校の玄関はいつも賑わっているイメージであったが、人がいないだけでなんだか別の場所に感じるほど静かだった。早起きも悪くない、と単純に思った。

 

 下駄箱にローファーを入れて、内履きを取り出す。あきほは一番下の段であったため、しゃがむようにして靴を取り替えていた。

 

「下の段だと面倒そうだな」

 

「一年生の時も下だったの。ずっと下だから慣れちゃった」

 

(貴女も長く通ってるんだから下の段を使う時ぐらいあったでしょ)

 

「ふふん。それがないんだよ。私はいつも真ん中だ。間違いなく、日頃の行いがいいからだろうな」

 

 学年が変わるごとに下駄箱入れの場所は変わる。私は普通の人よりその機会が多いが、膝を曲げねばならない下や手の届かないほど上にはなったことがない。

 

(日頃って、ゲームか寝てるだけで特に何もしてないでしょ。なに変に自慢げになってるのよ)

 

「でもずっと真ん中ってのは凄いね」

 

(駄目よあきほちゃん。下手に褒めたら調子乗っちゃうわ。よく考えなさい。実際全然凄くないわよ)

 

「あはは……」

 

 あきほと雪姫の反応は大きく違う。雪姫は呆れるように私に叱咤し、あきほは純粋に凄いと感じて褒めてくれる。

 

 下駄箱の場所なんて、どうでもいいことだろう。話にするようなことでもなかろう。

 それでも私は気付けば話題にしていて、そして二人は自分の言葉で答えをくれた。こんなになんでもない事なのに、それが今までしてこなかったことで、今は出来ている。

 この時の私はこの変化に自覚していなかったと思う。

 

 

 同様に人通りの少ない廊下を通り、教室の扉に手を掛ける。

 がらら、と古臭い音を立てながら部屋に入った瞬間だった。

 

「ばあ!!」

 

 突然、大声が耳に響く。

 

「……」

 

 目の前には、茶色い短髪の少女がいた。大きく手を突き上げながら、目を見開いて立っている。

 どうやら、扉の裏に隠れていたらしかった。

 

「……」

 

 私はただ唖然とそいつを見る。

 後ろにいたあきほが、なんか変な声したけれどどうしたの、とひょいと肩から顔を出した。

 

「あ、ゆみちゃん。おはよう。今日は早いんだねぇ」

 

「あ、あー」

 

 大口を開けたままのせいか上手く喋れずフリーズしている少女の横を、私はすっと通る。

 いいの?、と雪姫に聞かれたが、無視して席に向かった。

 

「ちょちょちょっとーー!! なになになに!? 君はどうして無視するのかなぁ!?」

 

 だだだ、といきなり駆け出して、ゆみ、と呼ばれた奴は私の肩を後ろから、がし、っと掴んだ。

 

「なんだお前は。朝から煩すぎる」

 

 芸人のような少女の手を払いのけながら答える。

 せっかく静かな朝だと思いながら登校していたのに、その余韻が台無しである。

 

「なんだ、じゃないよぉ! 私ね! 今日はたまたま早く来たの! それであまりにも暇だったから次くる人を驚かせようとずっと待ってたの! それなのに! なのに! 無視って!!」

 

 何も聞いてないのに勝手に説明している。本当に煩かった。雪姫が、元気な子ねぇ、なんて和やかに言っているが、私からしたら鬱陶しいだけであった。

 

「ってあれ。君、エヴァンゲリオンちゃん? 」

 

「誰が人型決戦兵器だ」

 

「エヴァンジェリンさんだよ、ゆみちゃん」

 

「あーそっちかぁ! おしいね!」

 

 ぱち、と指を鳴らしながら悔しがる少女は、どうやら巫山戯た発言も全て本気で言っているらしくて、話していて頭が痛くなる。千雨もスイッチが入ると喧しいタイプだったが、常時騒がしいこいつと比べたら随分マシである。

 

「初めてちゃんと話すね!エヴァンジェリンちゃん! 私、竹光ゆみ! おはよ! 」

 

 手を開いて、此方に伸ばしてくる。

 握手を求めているということは、すぐに分かった。

 

 無視したいものだった。純粋な瞳であったが、私がそれに答える義理はない。

 そうやって、今までならシカトを決め込んでいただろう。

 だが今は私の中に雪姫がいる。挨拶を無視したらどうなるかなんて、短い付き合いだかもう流石に学習していた。朝から金縛りに合うのは勘弁である。

 

「……エヴァンジェリンだ。おはよう」

 

 適当に手を向けると、ゆみは力強く掴んでぶんぶんと振り回した。

 

「むふ、むふふふ」

 

「なんだ気持ち悪い」

 

「いやーー。柔らかい手だねぇ。すべすべだねぇ」

 

「……ゆみちゃん、危ないおじさんみたいだよ」

 

 もういいだろ、と無理矢理手を離すと、ああーとゆみは名残惜しそうにした。

 

「エヴァンジェリンさんてさ! 何が好きな食べ物なの!? いつも何してるの!? 好きなアーティストは!?」

 

「ええいなんなんだお前は鬱陶しい!」

 

 ぐいぐい質問してきながら顔を近づけてくるので、私はその頭を抑え込む。それでもゆみは負けじと力を入れてきて、思わず助け舟を求めるようにあきほの顔を見てしまった。

 

「ゆみちゃんゆみちゃん。エヴァンジェリンさん困ってるよ」

 

「え、なんで!? 誰のせいで!?」

 

「ゆみちゃんが凄い圧だからだよ。一回おちつこ? 深呼吸して、ね?」

 

「私のせいだったのか!? 深呼吸するよあきほちゃん!」

 

 すうぅ、はあぁ、と身振りまでつけて大袈裟に息を吐くゆみを横目に、この隙にあきほに私は問い掛ける。

 

「こいつは一体どういう生き物なんだ」

 

「い、生き物って……」

 

 あはは、と困ったように笑いながらあきほは頬を掻いた。

 

「ゆみちゃんはね、中一の時から一緒のクラスだったよ。いつも凄い元気で楽しい子だよ。だけど、たまに暴走しちゃうの」

 

 当然、私も去年から同じクラスだったことになる。

 これだけ騒がしい奴がいて、教室で注目されない筈がない。それなのに顔すら覚えてないということは、それほど私はクラスの人間に興味がなかったのだろう。

 あきほと関わるまでは、極端な表現だが全員がカボチャにしか見えていなかったのかもしれない。

 

 ふうぅ、と何回目かの深呼吸を終えたゆみが、カッと目を開いて私を見た。

 

「それでねエヴァンジェリンちゃん! 好きなーー」

 

「おいゆみ、朝から誰を困らせてるんだ」

 

 誰かが後ろからゆみの頭にぼんと鞄を当てて、言葉を遮ってくれた。

 

「あ、むつみさん。おはよう」

 

 ゆみの後ろには、長い黒髪の少女がいた。痩せ型で身長も高い。落ち着いた性格だということが見れば分かるほどすっとした顔付きだった。

 

 流れで私も、おはよう、と言ってしまう。

 

 するとむつみは意外そうに目を丸くしてから、やんわりと微笑んだ。

 

「おはよう、あきほ、エヴァンジェリンさん」

 

 むつみはそのまま私の後ろの席に座った。

 私は後ろの席の存在すら、今初めて認識したらしい。

 

「んが!むっつんじゃん!おは!」

 

「おはよう。ゆみ、今日ははやいな」

 

「そうそう! 早起きしちゃってね! 一番乗りだったよ!」

 

「それは良かった。そういえば、さっきC組の佐藤がゆみに話があると言ってたぞ」

 

「さっちゃんが? なんだろ! 聞いてくるね!」

 

 そう言って何故か全速力でゆみは教室を出て行く。

 ちらほらと登校してきた人達もその行動に一瞬ぎょっとしていたが、ゆみだと分かるとすぐに冷静になっていた。このクラスではもう見慣れたものなのだろう。

 

「やっと喧しいのが消えたか……」

 

「ふふ。すまないな。ゆみは騒がしいのが良いところで悪いところなんだ」

 

 むつみは悟ったような口調で言った。ゆみの後に話すからか、むつみはとても同じ年齢のものとは思えないほど大人びてみえる。

 

「エヴァンジェリンさん、私の名前、分かるか?」

 

 あきほやゆみがむつみと呼んでいたからそうなのだろうが、苗字までは分からない。

 

「……すまん」

 

「いや、いいさ。ちゃんと話したこともないからね」

 

 私が知らんという意味で謝ったことに対しても、むつみは笑って流すだけで怒ったりすることはなかった。その余裕が尚更大人っぽく見えすぎて、こいつはこいつで中学生には見えん、と思ってしまう。

 

「沢村むつみだ」

 

 彼女もまた、私に手を伸ばした。

 1日に二度握手することなどあっただろうか、というかなんでこいつらはわざわざ握手したがるのか、などと思いながらも、私は手を出す。

 

 むつみはゆっくりと私の手を握った。先程のゆみとはとても対称的に感じる。ただ、二人がどうしてか満足げなのは同じであった。

 

「エヴァンジェリンさんには悪いが、ゆみが興奮する気持ちも理解出来るんだ」

 

 手を離しながら、むつみは言う。

 

「うんうん、私も分かるよ。お話したくなっちゃうよね」

 

 くすくすと口を押さえてあきほが可愛く笑う。

 

「どういうことだ?」

 

「エヴァンジェリンさんとは2年間同じクラスだったが、まともに話をしたことがなかっただろう? 挨拶だって、無視はされどもそちらからされたのはさっきが初めてだ」

 

(貴女……)

 

(ええい過去のことだ今更金縛りなどするなよ!?)

 

 同情と怒りの混じった声が脳に響いたので、釘をさすように言っておく。

 

「ゆみちゃん、みんなと仲良くなりたがる人だから。きっとエヴァンジェリンさんにも何回か声を掛けてるんじゃないかなぁ」

 

「……全く覚えがない。しかし、私のことをエヴァンゲリオンとか呼んでいたぞ?」

 

「まぁゆみは基本忘れっぽいからな」

 

(それですませていいのかしら)

 

(要するにあほってことなんだろ)

 

「だが、声を掛けていたのは事実だ。……お前らのことなどどうでもいい。二度と話しかけるな。君はそんな風に答えていたけどね」

 

(最低じゃない。貴女の方があほよ)

 

(ぐぬぬ……!)

 

「……悪かった。もしかしてお前にもそんな態度をとっていたか?」

 

 私がそう言うと、むつみはまた大人っぽい笑みを見せた。

 

「いいや、私はそんな君が怖くて怖くて、話しかけれなかったよ。どう見ても君は私達とは見ている世界が違くて、こう言うと悪いが、恐ろしかったんだ。君の佇まいは、とても同年代の人間には見えなかった」

 

 意外と鋭い、と思いつつも、私はその言葉に考えさせられていた。

 

 一瞬で思考の闇に堕ちていき、足からずぷりと沼にハマるような感覚を覚える。

 深海のようにくらい闇の中で、ちょっと前までの自分を思い返していた。

 

 私は、どうでもいい話をクラスメイトと話すようなモノだっただろうか。

 差し伸べられた手を、簡単に握るモノだっただろうか。

 誰にでもおはようなどと挨拶するモノだっただろうか。

 過去の自分を、悪かったなんて素直に謝れるモノだっただろうか。

 

 周り全てが真っ暗で、ただ消費していく日々を生きていた私は、何かと関わるのを異常なほど避けていた筈だ。

 

 だが。

 雪姫が私の中に来た。

 あきほが私に声を掛けた。

 たったそれだけのことで、どうしてこうも変わってしまったのだろう。

 

 どうして、誰かと一緒な自分も悪くないと思ってしまったのだろう。

 

 

 

「あきほと教室で話す姿を見るようになってから、エヴァンジェリンさんはちょっと柔らかくなった。私は、今の君の方が好きだな」

 

 恥ずかしげもなくキザな台詞を吐く彼女を前に、私は辛うじて、そうか、と言うだけであった。

 

 

 

 ○

 

 

 

 それから、私の学校生活はまた色を変えた。

 

 

 

「エヴァーー! 一緒にお昼たべよーー!」

 

 午前の授業が終わると、満開の笑顔のゆみが私の机の前に現れる。弁当を片手にしていて、後ろにはあきほもいる。

 

「私も一緒でいいか?」

 

「もちだよ!」

 

 むつみも私の後ろから声を掛けてきて、許可を出した訳でもないのに、彼女達は勝手に机をくっつけて私の側に座る。

 

 彼女達とまともに話すようになってから、ずっとこうだった。

 それまで購買で適当にパンを買って飯を済ましていた私はその提案を断ろうとしたのだが、いつのまにか雪姫が弁当を作って私の鞄に詰めていて、それを食べるしかなかった。

 

「エヴァのお弁当いつも美味しそうだよね!」

 

「そうだな。いつ見ても凝っている」

 

「やらんぞ」

 

「それ、雪姫さんが?」

 

「ああ」

 

「凄いなぁ。今度お料理教えてもらおうかなぁ」

 

「いいんじゃないか。どうせ断らんだろう」

 

「ほんとう? それなら、次お邪魔した時にお願いしようかな」

 

「なになに? あきほちゃんエヴァ家に行くの? 私も行こうかな!」

 

「ふむ。良ければ私もいいかな?」

 

「……勝手にしろ」

 

 二人には雪姫の正体については教えていない。

 何度も説明するのは面倒だし、あきほと違って二人は魔法などとは無縁である。質問漬けにしてくるのは千雨だけで充分だ。

 

 

 ……だから、二人には、雪姫は私の母親というふうに説明している。

 

 

 

 変わったのは学校生活だけじゃない。

 

 

 朝、家を出る時は、雪姫が飯を作ってくれる。

 いってらっしゃいと言ってくれる。

 風呂に入れやら、ゲームのしすぎやら、細かいことを言ってくる。

 寝る前には、おやすみなさいと、声を掛けてくる。

 

 

 

 私はそんな生活にずっと違和感を覚えていた。

 心が動揺しているのが、自分でも良くわかった。

 心の水面に浮かぶ一枚の木の葉は、絶えずせわしなく震えていた。

 沈むことはなく、ただ、リズム良く揺れるのだ。

 雪姫が、あきほが、千雨が、ゆみやむつみが私に当然のように声を掛ける。

 その度に、胸を抑えたくなる衝撃が走る。

 

 感じたことのない感情の波が、私に押し寄せる。

 

 生まれてから、ずっと大荒れだった筈の私の心が、その時だけ確かに緩やかな波と変わり、小さな木の葉は、心地よく泳ぐのだ。

 

 そんな変化に戸惑いを感じながらも、私は、彼女達に流されていく。

 

 決して、不愉快ではなかったからだ。

 嫌だと感じるものではなかったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、心の変化に私自身も慣れ始め、学校に行く憂鬱さを私が忘れ掛けた頃のことだ。

 

 

 

 あきほの姿を、学校で見ることがなくなってしまったのは。

 

 

 

 



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15話

 

 

「あきほちゃん今日もお休みだねぇ」

 

 昼飯時、箸の先を口にパクリとつけたまま、ゆみがしみじみと言った。

 

 窓からポツポツと雨が当たる音がする。暑さはまだ衰えず、しかし湿気だけは強くて、もわりと嫌な空気が世界を覆っているように感じる天気だった。ゆみは雨がとても嫌いならしく、そのせいかいつもの喧しさも今日は相当控えめになっている。

 

「あきほ、最近はずっと調子が良さそうだったのに」

 

 箸を咥えるな、とゆみに注意をしたむつみが、少し目線を下げて心配する口調で言った。

 相変わらず二人は私の側で勝手に飯を食べている。そして、いつもならあきほも一緒にいる筈なのだが、姿がない。この日で学校を休んでから3日目になる。

 

「最近?」

 

「去年はもっと頻繁に休んでいた。あきほは元々身体が弱くて、病気にかかりやすく、かかると長いらしい」

 

 知らなかった。

 私と会ってからは体調が悪そうな素振りを見せたことがない。

 

(心配ね)

 

 雪姫が、ぼそりと私の中で呟く。私は弁当に入っている卵焼きを掴んで口に入れた。

 

「あいつが寮生活じゃないのは、それが理由なのか?」

 

「本人からは直接聞いたことはないけれど、多分そうだろうね」

 

「……あきほちゃん、よく聞いてきたもんね。寮生活ってどんな感じなのって。多分、みんなと生活してみたかっただろうなー」

 

 自分が身体が弱いから。よく病気になってきっと周りに迷惑をかけるから。寮より実家から通うことを選ぶ。寮で暮らすことが憧れだとしても。

 自分より他人を気にするあいつなら、そう考えてしまうのだろう。本当に損な性格だと思う。

 

 

「それじゃさ! お見舞い行こうよお見舞い!」

 

 良いこと思い付いた!、と誰が見てもそんな心の声が漏れてると分かる表情で、ゆみは大きな声を出した。

 どう、と続けて私達に自分の意見の肯定を求めてくる。

 

「私は構わないけれど、迷惑じゃないだろうか」

 

「分かんないけどさ! どうせ溜まったプリントは届けに行くし、その時にお家の人に体調聞いて、大丈夫そうならお顔ぐらい見に行こうよ!」

 

 無理矢理家に押し入るくらいしか考えられない脳だと思っていたが、流石に病人のことは思いやれるらしい。少しだけゆみを見直した。

 

「エヴァンジェリンさんは今日の予定あるかい?」

 

「……今日はないな」

 

(いつもでしょ)

 

 細かくツッコミを入れてくる雪姫のことは無視する。

 

「っそれじゃあさ!」

 

「待て。勝手に決めるな」

 

 私がいつのまにか立ち上がりノリノリになっているゆみに制止をかける。

 すると、ゆみは一気に不安げな表情に変わる。

 むつみも、私の言葉を静かに待っていた。

 

 

「……そもそもお前ら、あきほの家を知っているのか? もし知らんならタカミチに聞くでもしてーー」

 

「っうん!うん! そうだよね! 私らも知らないから、せんせに聞きにいかなきゃね! 」

 

「急になんなんだお前は」

 

 突然また元気になったゆみが、私の両手をがしりと掴みぶんぶんと上下に振る。せっかく雨でしおらしくなっていたのに、結局いつもと同じように鬱陶しかった。

 

「……ちゃんと心配してくれてるんだな」

 

「……心配というか、こいつを止めれる奴がいなくなるのが困るだけだ」

 

 ぶんぶん振り回される手はもうゆみの思うがままにさせておいて、ほんのり笑って呟くむつみに、私は顔を向けないでそう返した。

 

(本当に素直じゃないわねぇ。どう見ても気にしてるじゃない)

 

(うるさい! )

 

 その後、ゆみは私を引っ張るようにして立ち上がらせて、高畑のいる職員室へと無理矢理私を連れて言った。

 

 

 ○

 

 

「……吉野さんの家の住所?」

 

「はいっ!」

 

 ゆみは私の手を握ったまま廊下を全速力で駆け抜け、注意する教師から逃げるために階段をいくつも上下し、ずいぶん遠回りしてやっとついた職員室でもまったく疲れを見せずに、タカミチへしっかりと質問した。

 対称的に、振り回された私はひどく疲れた顔でそこにいた。体力的にというより、周りの人になんだこいつらと思われながら学校中を駆け回るのは、精神的にくる。

 

「えと、エヴァ、大丈夫かい? 」

 

「き、気にするな」

 

 そ、そう、とタカミチは私とあきほの組み合わせを交互に見てから不思議そうに言う。

 

「一応聞くけど、どうして吉野さんの住所を?」

 

「はい!先生!それはあきほちゃんちにお見舞いに行くためです!」

 

「……っ、どうしてお前はそういつも無意味に大声なんだ」

 

 右耳を塞ぎながら、私はゆみを睨みつけるようにして言う。

 

「……それは、エヴァも一緒にかい?」

 

「勿論でございます!」

 

「なんだ、悪いのか?」

 

「いや、いい。うん。是非。是非行くべきだ」

 

 何故か嬉しそうな顔をした高畑が、ちょっと待ってねと机からファイルを取り出して、その中にある紙を見ながら、メモ用紙につらつらと住所を書き出した。

 

「はい、ここが吉野さんの住所だね。吉野さんによろしくね。家の人に迷惑をかけてはいけないよ?」

 

「はい、せんせい!!」

 

 またアホみたいに声を出したゆみのせいで、耳がキンと響く。それから目的を達成したと昂ぶったゆみは勢いよく部屋を出て行き、廊下から別の教師の怒声が聞こえた。きっと走るなと怒られたのだろう。

 

 私は一度ため息をついてから、次はゆっくりと部屋を出て行こうとすると、タカミチに呼び止められた。

 

「エヴァ、知っているかもしれないけど、吉野さんは……」

 

「関係者なんだろう? 本人から聞いたぞ」

 

「……うん。昔は結構な家柄だったらしい」

 

「だからなんだ」

 

「……いや。なんでもないよ。それじゃ気をつけて」

 

 深みのある言い方をしたタカミチに適当に返事をして、私は今度こそ職員室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 放課後になると、私達は荷物を持ったまま学校の外に出ていた。

 それぞれの持つ傘の上に雨が当たる。中学生といえどもゆみもむつみも女子らしく色のついた可愛らしい傘を差していた。

 ゆみはいちいちケータイのナビで場所を確認しながら歩いていて、私達を先導してくれている。

 

「エヴァンジェリンさん、聞きたかったんだが」

 

 雨音に負けない程度の少し大きな声を出して、むつみが私に訪ねる。なんだ、と訊くと、どうしてか彼女は少し気恥ずかしそうにした。

 

「あの、もしかして、高畑先生とお付き合いしているのか?」

「っへ⁉︎」

「ぶふっ!」

(あらあら)

 

 思わず吹き出して、ついでに雨で足が滑って転びそうになる。ゆみも一瞬で私達の方を振り返り、パシャパシャと水溜りを踏みつけつつ一気に詰め寄ってきた。

 

「ほ、ほんと!? エヴァと先生て、そ、そういうご関係でありましたの⁈」

(私も全く気付かなかったわ)

「そんな訳あるか!」

 

 混乱して顔を赤くしながら訳の分からない喋り方になっているゆみと、ふざけて話に乗ってくる雪姫に私は本気で否定する。

 

「どうしてそんな発想になったんだ!?」

 

「だ、だって、エヴァンジェリンさん。先生のことを名前で呼んでいただろう? タカミチって……。だから、深い仲なのかなと……」

 

 妙にもじもじとしながら、むつみは似合わない様子で未だに恥ずかしそうに言った。いや、似合わないというのは間違っている。いくら大人びていると言っても彼女はまだ子供なのだ。そういう話で顔を赤くするのは実に子供らしい。

 

「あいつとは昔からの知り合いなんだ。だからその頃からの呼び方をしているだけだ」

 

「昔って、エヴァンジェリンさんが小さい頃からってことかい?」

 

「まぁ、そうだ」

 

 本当は、あいつが小さい頃から、なのだが、説明が面倒なのでそういうことにしておく。

 

「うーん本当かなあー。あやしいなぁー」

 

「くだらない話をしてないでさっさとあきほの家に迎え。もう近くなんだろ」

 

 私が二人を置いてさっさと進もうとすると、待ってー、と声を掛けて二人が追いついてくる。

 

「あ、エヴァ、そこ! その家だよ!」

 

 

 ゆみが指差す家の表札を見れば、そこには確かに、吉野、と書かれている。住宅街に建つ、大きな特徴のない二階建ての家であったが、玄関や庭が小綺麗にされており、よく手入れされている家だということはわかる。

 

 

「ピンポーン」

 

 ドアの横にあるインターホンを見つけたゆみは、掛け声とともにすぐさまボタンを押した。

 

「躊躇いとか準備とか全くないんだなお前は」

 

「え? だってどうせいつか押すのに躊躇う必要なくない?」

 

(正論ね)

 

「こういうところを私はゆみの凄いところだと思う」

 

 少し待っていると、足音が家から聞こえてきて、すぐにドアが開いた。

 

「はい……どちらさまですか?」

 

 出てきたのは、二十歳ほどの青年であった。短い短髪は爽やかで、青いTシャツにジーンズを着ただけであったが、スリムな身体をしているからかよく似合って見える。

 

「こんにちは! 私達、あきほちゃんのクラスメイトです!」

 

「ああ、あきほの」

 

 青年は頬を緩めた。くしゃりと寄った皺からは子供らしさも出ていて、モテそうな男だな、と私は思った。同時に、目元があきほに似てると感じた。きっと彼がいつかあきほが言っていた兄なのだろう。

 

「あきほ、調子はどうですか」

 

「今は大分良くなってきたよ。そうだ、上がっていくかい? 顔を見てあげたら、きっとあいつも喜ぶよ」

 

「いいんですか!」

 

「ああ」

 

 優しい笑顔で青年は私達を招き入れてくれた。兄妹とはやはり似るものなのだな、と思いながら私も彼女達に続いて家の中に入れてもらおうとする。

 

「……君、ちょっといいかい?」

 

 二人の後を付いて行こうとした私は、靴を脱いだところで青年に声を掛けられた。

 

「……君も、あきほの友達なのかい」

 

 そう訪ねる彼の声は、少し震えているように感じた。

 恐怖、不安、心配、そんな感情が混じり合ったような瞳をしていた。それは、私には見慣れたものだった。何百年と、向けられ続けたものだ。

 魔法使いの家系というからには、彼は私のことを知っているのだろう。悪評しかない者がいきなり家にやってきたら、誰だってそんな反応をする。

 彼は、私が怖いんだ。

 

「……はい」

 

 私は帰った方がいいかもな。辛うじて答えながらそう思った。

 タカミチが何を言わんとしていたかはよく分かる。分かっていた。

 それでも私はここまで来た。他人の目や評価を今更気にする私ではない。やりたいようにやる、というのは私の中の一つの理念ですらあった。

 しかし、あきほの家族にまで心配をかけるようならば、私は。

 

 

「……そうか。わざわざあいつのために来てくれて、ありがとう」

 

 青年は、ぎこちない笑顔を向けて、私にそう言った。

 予想外のことで、私は目を丸くしてしまう。

 自然な笑顔ではないけれども、彼は恐怖に打ち勝とうとしていた。私を、あきほの友達であると信用してくれていた。

 

(素敵な人ね)

 

 彼にあきほの部屋へと案内されながら、私は雪姫に、ああ、と返事をした。

 

 

 

 ○

 

 

 青年があきほを呼びかけながらドアをノックすると、なにー、気の抜けた声が聞こえた。家族の前では気を許していると分かる声で、ゆみとむつみが少し笑っていた。

 

 友達が来たぞ、といいながら青年がドアを開けた瞬間、まずゆみが飛び込むようして部屋へと駆けていく。

 

「あきほちゃーーん!」

 

「っえ!? みんなどうしたの……ってうわ!」

 

「心配したよーー!」

 

「う、うん。ありがとう」

 

 抱きつくように飛び込んで来たゆみをあきほは困った顔をしながら受け止めていた。

 

「離れろあほ」

 

 私はあきほから引き離すようにゆみの首根っこを掴んで後ろに引いた。

 

「ゆみ、病人の前だぞ」

 

「あ、うんそうだね! あきほちゃんごめん!」

 

「ううん、全然大丈夫だよ」

 

 ベッドに座っているあきほは少しやつれていたが、顔色は悪くないように見える。

 ガチャ、とドアの閉まる音がした。後ろを見ると青年の姿はない。気を利かせて私達だけにしてくれたらしい。

 

「みんな、わざわざ来てくれたの?」

 

「ああ、調子はどうだい」

 

「うん。今はいいみたい」

 

「なんの病気なんだ」

 

「お医者さんに診てもらっても、いつもよく分からないの。急に体調が悪くなっちゃって……。でも、もう大丈夫だよ。みんな来てくれてありがとう」

 

「いつから学校に来れそうなんだ」

 

「今は熱も下がってるし、調子良ければ明日には行けると思うよ」

 

「おおーよかったーー!」

 

 ゆみが大袈裟に喜んでまたあきほに抱きつこうとしたので、私は制服の襟を掴んで後ろに倒す。

 ぐわぁ、と転がるゆみを見てあきほはクスクスと笑った。

 

「エヴァンジェリンさん。学校はどう?」

「別にいつもと変わらん」

「あ、そういえばあきほちゃん知ってた?エヴァと先生付き合ってるって」

「っえ⁈」

「さっきなに聞いてたんだお前は!違うからな!」

 

「あきほ。さっきの人はあきほのお兄さんか?」

「うん。今日は大学の講義はないみたいで、ずっとついててくれたの」

「イケメンだったねぇ!!」

「そうなのかな。ずっと一緒だとあんまり分からないの」

「う、うん。イケメン……だった。」

「あれ、むっつん惚れた!?」

「惚れてない!かっこいいと思っただけだ!」

 

 

 

 そうやって、本当にどうでもいい話をしていた。

 3人は笑ったり騒いだりしながら、中学生らしく和気藹々と盛り上がっていた。

 

 

 

 気付けば、私もその輪の中に、入っていたのかもしれない。

 

 

 

 

 ○

 

 

 話に夢中になっていたせいで、私達は時間の感覚が分からなかった。途中であきほの兄が声を掛けてくれてやっと夕方が過ぎ去ろうとしていることに気付き、私達はあきほの家を後にした。

 

 ゆみとむつみとは途中で別れ、私は自分の家へと一人で向かっていく。

 

 まだ、雨は降っていた。

 日中よりもさらに強い雨となっていて、雲の色も真っ黒に見える。車道を走る車はタイヤから飛沫を上げていて、それを掛からないように帰るのは難しかった。

 

(……雪姫、どうかしたのか?さっきから黙って、あきほとも喋ってなかったが)

 

 遠くで雷も鳴った。風も強まり、ザザァと感情のこもらない音が常に耳に残る。

 

(エヴァ、話があるの)

 

 それでも、雪姫の声だけはしっかりと響く。雨も風も雷も関係なく、直接心に伝わる声は、私に間違いなく届いている。

 

(……なんだ)

 

(あきほちゃんのことだけど)

 

 

 いつになく、真剣な声だった。

 思わず私は立ち止まってしまう。

 

 目の前に、雪姫の姿が現れた。

 傘も差さず、ひたすらに雨に濡れている。風で揺れる金色の髪も、この時だけはとても綺麗には見えない。

 水の粒が流れる彼女の顔は、はっきりした芯がありながら、悔しさでそれが崩れそうな、曖昧な表情であった。

 

 

 

「彼女、もう長くないわ。きっと、あと数日も生きてられない」

 

 

 

 

 

 

 

 



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16話

 

 あきほは、次の日も学校に来なかった。

 ゆみとむつみが、自分たちのせいで無理させて悪化してしまったのかも、と心配していた。あんまりお見舞いに行かない方がいいかもね、と訊かれたので、ああ、と答えた。

 次の日も来なかった。

 千雨が放課後私の家に一人で来た。最近あきほさん見ないんだがどうかしたのか、と訊かれたので、体調が悪いらしい、とだけ答えた。千雨は心配して、お見舞い行くか悩んでいた。私は何も言わなかった。

 次の日も来なかった。

 朝、タカミチが教卓の前で深刻な顔をして言った。みんなに大事な話があるので訊いて欲しい。実は吉野さんが入院した。いつ退院出来るかは分からないらしいが、面会できる時なら顔を見に行ける人は見に行ってあげて欲しい。そんなようなことを言いながら、タカミチは私の顔をちらりと見た。私は顔を合わせないようにした。クラスメイトの殆どが、心配する声を上げていた。ゆみやむつみは、泣きそうな表情をしていた。私は二人の顔も見ないようにした。

 その日、私は学校が終わると誰とも話をせずに家に帰った。

 

 

 

 ○

 

 

 

 雪姫には、あきほのどうしようも出来ない未来が見えてしまったらしい。それは、霊だとか呪いだとかの悪いモノではなく、本当に手の付けようのないもの。寿命や運命と呼ばれる、人の手によって左右出来る筈もないものであったようだ。それは、人の死を願われてきた彼女の呪いとしての背景があったからこそ、見えてしまったものなのだろう。

 下らない。そんな迷信めいたものを信じるものか。

 なんて、言えなかった。

 雪姫が、確信もなく巫山戯てこんなことを言う人格じゃないことなんて分かりきっていた。長い付き合いでもないが、こいつは確定したことだからこそ口に出して私に教えたのだという、絶対の自信があった。疑えた方が、まだ気持ちは楽であったかもしれない。

 

 

 

 私は家に着くと、鞄を放り出すようにしてソファに投げつけた。いつもなら注意する筈の雪姫も何も言わない。そのまま椅子に背中を向けて、どさりと座る。木が軋む音が高く鳴った。片手を額に当て、目を瞑る。身体から雪姫が抜ける感覚がした。足音を聞くに、台所へ向かっているらしい。夕飯の支度でもするつもりなのだろうか。

 

 少しすると、コンコンという玄関を叩く音が聞こえた。何も言わないでいると、きぃと誰かが勝手に入ってきたのが分かった。

 歩く気配は段々と私に近づいて来ている。

 

「……エヴァ、寝てんのか?」

 

「……不法侵入だぞ」

 

「わりぃ」

 

 謝意を感じない返事をして、千雨は私の荷物を隅に避けてからソファに座った。千雨ちゃん来たの、いらっしゃい。と奥から声がしたので、お邪魔します、と雪姫に届くように少し大きな声を出していた。本来は家主である私にまず言うべきだろ、と咎めたかった。

 

「そういやあそこのゲーセン、新しいアーケードのゲーム置いてあったぞ」

 

「そうか」

 

「なんだ、あんま興味ないのか? 好きだと思ってたんだが」

 

「まぁな」

 

 気が乗ってない私の姿を見て、千雨はどうしたんだよ、と笑って言った。私はその笑顔が見たくなかった。酷く不愉快な気持ちになった。

 

「やっぱ今日もあきほさんは学校来てねぇのか?」

 

「ああ」

 

「そうか……。ケータイに返事も来ないし、やっぱり心配だから、お見舞いに行ってこようと思うんだが」

 

 そこまで言って、千雨は私をちらりと見た。

 

「……なぁ、一緒に行ってくれねぇか? 私あきほさんの家知らないし、学校も違うのに一人で行くのちょっと恥ずくてさ」

 

 はは、と顔を赤くして照れ臭そうに言う千雨の顔に、私はまだ目を向けていなかった。

 

「あいつの家に行っても意味ないぞ」

 

「はぁ? なんでだよ」

 

「あいつは今家にいない」

 

「何言ってんだよ。病人が家に居なくてどこにいるって……」

 

 千雨は先を言いかけて、察したようにしてから、はっと息を飲んだ。

 

「病院か⁉︎ まさか、入院してんのか⁉︎ どこに⁉︎ 」

 

「麻帆良大学付属病院」

 

「まじか……、そんな悪かったのか」

 

 千雨は顔を歪ませて、眉間に皺を寄せた。彼女なりに本気で心配はしているのだろう。

 

 だが、それでも。

 死ぬ、ということまでは、考えていない筈だ。頭の片隅にもないだろう。先週まで彼女は私達の前で笑顔を見せてくれたのだから。人の死というものを身近に感じたことがないのだから。人は想像よりずっと簡単に死ぬんだと知らないから。

 

「なら尚更、お見舞い行くべきじゃねぇか。一緒に行こうぜ」

 

「行かん」

 

 私がそう言ったところで、千雨は眉の間に皺を寄せるようにした。眼鏡の奥の瞳が細くなっている。

 私のことをじっくり見てから、彼女は立ち上がった。

 

「……さっきからなんなんだよ、エヴァ。なんか機嫌わりいのか?」

 

「悪くない」

 

「じゃあなんだよその態度、なんで私と顔合わせねぇんだ」

 

 千雨がぐっと私に近付いた。私はそれでも彼女と目を合わせない。

 

「おい、いい加減にしろよ。とりあえず、一緒に病院行こうぜ。あきほさん心配だろ? 」

 

 千雨は私の手をとって、私を立たせようとしたのだろう。私はその手を弾くようにはたいた。

 

「……なにすんだよ」

 

「行きたければ一人で行けばいいだろう? 貴様は私が行くか行かないかで自分の意見を決めるのか? その程度の気持ちなら行かない方がずっとましだろうな」

 

「お前、心配じゃないのかよ! 」

 

 千雨が大きな声で怒鳴った。

 雪姫にも聞こえているだろうな、と思った。彼女はまだ台所で料理をしているのだろうか。それとも、私達の様子を伺ったりしているのだろうか。聞かれてたら嫌だな、と思った。

 

「私が心配しているかどうかが貴様にとってそんなに大事なことなのか? 何故他人の気持ちを自分と同調させようとする。自分と同じように考えていないなら、私がおかしいとでもいいたいのか?」

 

 私はゆっくりと立ち上がった。千雨を見ることなく、背中を向けた。

 

「勘違いするなよ。私はそもそも人ではない。貴様の感性で測ろうとするな。そもそも、人間一人どうなろうと、私にとってはどうでもいいことでしかない」

 

「っ‼︎ なんだよその言い方! あきほさんがエヴァをどんな風に想ってるのかわかんねぇのかよ!」

 

「知るわけないし、あいつが何を考えてようと私の行動を決める理由にはならない」

 

「もういいっ!」

 

 千雨はまた叫ぶように声を出した。ひったくるように自分の荷物を持って、大きな足音を立てて我が家から出て行く。玄関の閉まる音はいつもよりずっと煩かった。

 

 

 

 私は、小さく溜息をついて、また椅子に座った。そして目を瞑る。視界が真っ黒の世界に覆われて、遮るものは何もない。

 包丁がまな板をリズム良く叩く音が聞こえた。タタタタ、と疾走感のある音は、聞いていて心地が良かった。私はそのまま、何も考えないようにして、抵抗なく睡魔に襲われた。

 

 

 ○

 

 

 

「エヴァ、ご飯よ」

 

 雪姫が肩を揺らした。どれくらい寝ていたのだろうか。時計を見るとまだ遅い時間ではない。夕焼けが見える程度の時間だろう。ん、と吐息を漏らすような返事をして私はおもむろに立ち上げる。

 机に着くと、いつものように二人分の夕飯が用意してあった。早めの飯だが、腹はそこそこに空いていたので構わなかった。

 雪姫が正面に座り手を合わせる。私も同じようにして、いただきます、と小声で言った。

 飯を食べる音が二人の間に流れる。それ以外は何の音もなく、雪姫もただ、料理を口に運ぶだけであった。

 

「……私に何も言わないのか」

 

「何か言って欲しいの?」

 

「さっきのやりとり、聞こえてただろ」

 

 ええ、と返事をしつつ、雪姫は肉じゃがに入っている人参を箸で掴んだ。

 

「真剣に二人が話せば、衝突することもある。喧嘩になることもある。別に悪いことじゃないわ」

 

「お前は言わないのか」

 

「なんて?」

 

「あきほの様子を見に行け、と」

 

 私がそう言うと、雪姫は箸を置いた。そして、じっと私の顔を見つめている。

 

「お前だってあいつとは知らない仲ではないだろう」

 

「そうね。あきほちゃんは、私にとっても友達ね」

 

「なら、行けばいい。もし、私と距離が離れすぎて行けないというのなら、無理矢理私を行かせればいい」

 

 雪姫の顔は、まだ私を見ている。私はやっぱり顔を合わせられなくて、下を向くばかりであった。

 

「金縛りなんだりして、行かせればいいだろう。その気になれば私を動かすことなど造作もないのだから」

 

「……私に決めて欲しいの? 本当は、行きたいの? 」

 

「ちがう!!」

 

 思わず、両の手で机を叩いた。食器が高い音を立てた。

 

「私は、あいつなんてどうでもいい! 所詮ただの人間の一人で、いつか離れていく存在で、それが早まっただけだ! 何人死体を見てきたと思っている! 何人私が殺してきたと思っている! 子供一人死のうが、吸血鬼である私がいちいち感情を左右されることでもない! 」

 

「……エヴァ。エヴァ」

 

 雪姫が私に手を伸ばす。頬に手を当て、ゆっくりと撫でる。そして、自分の顔を見るようにと、顎を持ち上げるようにした。

 

 雪姫は、優しい顔をしていた。慈愛に満ちた、表情であった。

 

「決めるのは貴女なのよ。エヴァンジェリン」

 

 語りかけるような口調だ。柔らかく、寄り添いを感じるその声に、私は惹きつけられる。

 どうしてか、手を払うこともしない。体温などないはずの彼女のその手が、どうしようもなく、暖かい気がする。

 

「吸血鬼でもない。人でもない。吉野あきほの友達である貴女が、どうしたいかを決めるのよ」

 

「……だが 」

 

「ええ。貴女の気持ちも、分かるわ。自分があきほちゃんを見に行ったら、きっと良くない顔をする人がいる。彼女の家族はより心配してしまうかもしれない。だから、千雨ちゃんとも喧嘩になってしまったのでしょう?」

 

 私は、なにも言わない。そんな風に考えていただなんて、絶対に言わない。それでも、雪姫は確信めいたように、私に言い続ける。

 

「でもね、いいのよ。貴女は、貴女のしたいようにやれば。人とか吸血鬼とか、全く関係ないの。その心に宿る気持ちは何? 貴女という存在が、彼女と知り合い、遊び、作った関係の上で、彼女にどうしたいの? 」

 

「……わ、私は」

 

 頭には、あきほの姿が浮かぶ。あいつは、私が吸血鬼と知った上でも、友達であろうとしていた。距離を縮めようとしていた。そんな彼女を私はどう思っていたか。

 最初は嘘くさいと決め付けていた。

 でも、彼女は最後まで、私の近くにいようとしていた。私がどんな奴か、知ろうとしていた。悪評や、噂に流されず、私という人物に向き合おうとしてくれていた。

 そして、心を開いてくれていた。それは、何百人と見てきた人間の中で本当に珍しいことで、私はそんな彼女の態度が、嫌じゃなかった。

 

 

「……もう一度、話がしたい」

 

「そう」

 

 頬に触れる手を感じながら、前を見る。

 どうして。雪姫はこんなに私をまっすぐに見てくれるのだろう。私なんかのために。

 

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

 彼女は立ち上がる。机に残った料理は後で食べましょ、と笑顔で言った。

 

「……後で、千雨ちゃんとは仲直りしておくのよ。喧嘩したあと仲直りするのも友達なんだから」

 

「……しらん。私が謝らなきゃいけないのか」

 

「さあ? それを決めるのも、貴女よ」

 

 挨拶をしなかったり、人を無視したりすると、怒ったり注意してくる癖に、こういうことは私に決めさせようとしてくる。本当によく分からない奴だ。

 

 私も立ち上がると、雪姫はくすくすと笑いながら、私に向けて手を伸ばした。あまりに自然に差し出されたその手に、私は身動きが取れずにいる。

 

「行くんでしょ? まだ面会は間に合うわ」

 

「あ、ああ」

 

 握れない。握る必要がない。病院まで行くのに、どうして手を繋ぐ必要などあるのだ。さっさと向かえばいいだろう。歩きにくいだけだろう。

 そう思うものの、何故か口には出来ない。

 

「ほら」

 

 動かない私の手を、彼女は無理矢理握った。

 大きい手だ。私より一回り大きな、女性の手だ。私が幻覚で作った筈の姿なのに、全く身に覚えがない感覚がした。彼女はまるで別物に見えた。

 

 そして、その掌から伝わる暖かさは、どうしたって、振りほどけない気がしていたんだ。

 

 

 

 

 



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17話

 

 

 

 

 その病院に足を踏み入れたのは、初めてであった。

 麻帆良一大きな病院と呼ばれるだけあって建物は大きく、案内所に行かないと迷うのは明らかであった。白く清潔な屋内は薬品らしきツンとした匂いが漂っている。夜が近い時間でも人が多く、中でも老人の姿が多く見えた。白衣をきた男性は書類を手に慌ただしく早歩きをし、その後ろを看護師らしき女性が付いて行っている。

 こいつら全員が人を救うという仕事をしているのだと思うと、どこか感慨深かった。私の世界には傷つけ合う人間達ばかりが目に映ってきたが、世の中にはその手を治すことにしか使わないものがいる。かつて病気が蔓延し滅びかけた都市をいくつも見てきたが、いまや知恵あるもの達が克服しそれを常識としている。

 全てが純粋に善意で動いているわけではなかろうが、それでも培った技術を他人に使えるというのは、大層なことだと思った。

 

 だが、彼等にだって救えない人間がいるのだ。

 全力を出し、あらゆる技術を使っても、届かない世界がある。

 そんなとき、彼等は何を思うのだろうか。

 

「ここね」

 

 実体化した雪姫が、ある病室の扉の前で言った。雪姫はずっと実体化していて、私と一緒にここまで来た。あきほの病室を看護師に聞いたのも彼女だ。柔らかい物腰で丁寧に訪ねたからか、看護師は特に怪しむ様子などはなかった。今は面会できる状態ですよ、ということまで教えてくれた。

 

 勿論、手はもう繋いでない。人前でそんな無様な姿を見せるなんて有り得ない。

 

 なに、恥ずかしいだけだろって? うるさい。黙って聞いていろ。

 

 

「さぁ、ノックして」

 

「私がするのか」

 

「そうよ。貴女がするの」

 

 誰でも一緒だろ、と思ったが、反抗しても仕方がないので、私は諦めて扉を叩いた。

 

 はい、と男性の声がして扉が開く。そこには、先日あったあきほの兄がいた。

 青年は雪姫を見て不思議そうな顔をした後、目線を下げて私と目を合わせた。

 

 そして、明らかに不快な顔をした。奥歯を噛み締め、強く睨みつけるように私を見ている。

 ああ、いつもの顔だ。そう思った。

 他人が私を見る目は、いつも恐怖か恨みであって、彼もそうなってしまった。

 前のような、優しげな青年の面影はそこにはなかった。

 

「何しに来たのですか」

 

 語気が強い。警戒しているのが手にとるように分かった。

 

「私たち、あきほちゃんのお見舞いに来たの」

 

 すっ、と私の前に出て、雪姫が笑顔で言う。青年は訝しげに眉を寄せた。

 

「失礼ですが、貴女は?」

 

「あきほちゃんのお友達です」

 

 青年の警戒心は更に強くなった。部屋を塞ぐようにして、威圧的に堂々と立っている。

 

「帰って下さい」

 

「あら、どうして?」

 

「怪しい人物をあきほに合わせる訳にはいかない! 」

 

 怒鳴られたが、それが当然の反応だと思った。想像した通りだ。

 悪評しかない私を、弱っている家族に合わせようとする者などいないであろう。もしかしたら、先日私がお見舞いに行ったせいであきほが悪化してしまったと疑われているかもしれない。

 そう思われていたとしても、私は彼を責めれない。彼は間違っていない。彼は、家族を守ろうとしているだけなのだから。

 こんな風に生きてきてしまった私は他人に疎まれても仕方がないのだから。

 

 

 だが、私はもう決断してしまった。

 私はここに来ることを選んだ。あきほと話すことに決めた。

 彼に悪いとは思うが、引く気はなかった。どんなに疑われ、嫌われても、彼女と話したいと思ったのだから。

 

 

「……お兄ちゃん、入れてあげて」

 

 部屋の奥から、あきほの弱々しい声が聞こえた。私達の会話が聞こえていたのだろうか。

 

「あきほ。だけど……」

 

「お願い、お兄ちゃん。私、二人に会いたいの」

 

 くっ、と口を歪ませて、青年は私達が通れるように身体を半身にした。その横を通るときも、青年は強い意志のこもった瞳で私達を見ていた。

 あきほに何かしたら絶対に許さない。そう語っているようだった。

 

 広い部屋だった。大きなベッドが一つあって、その上にあきほがいる。好待遇な部屋は、逆にあきほの病気のどうしようもなさを語っているようで、遣る瀬無い気持ちになる。

 

「……あきほ」

 

「エヴァンジェリンさん、雪姫さん。来てくれて、嬉しい」

 

 仰向けに寝ているあきほは、会ったのは数日前というのに、ずっと痩せた様子であった。手首に繋がれたチューブが痛々しく、青白い肌は彼女が弱っているのを如実に物語っていた。

 

「……お兄ちゃん、二人とだけ話がしたい」

 

「だ、だめだ!」

 

 青年は強く否定したが、それでもあきほは動じずに首だけを振った。

 

「……お願い。彼女達は、いい人だから」

 

「だけど……っ」

 

 二人は長く目を合わせ、その後青年は諦めるように息を吐いた。

 

「分かったよ。お前は昔から、大人しそうに見えて言い出したら聞かないもんな。何かされたら、すぐ呼ぶんだぞ? あんたら、絶対にあきほに触れるなよ」

 

 そう言いながら、彼は部屋から出て行った。

 

 

 

 部屋は私達三人だけになり、沈黙が場を流れる。

 弱々しい彼女を前に、私は口に出す言葉が見当たらない。そもそも、何を喋るつもりであったかも考えていなかった。ただ、このまま終わりたくないと思っただけなのだ。

 雪姫も、何も口にしない。見守るように、私とあきほを見ているだけだ。

 

 

「……ごめんね。嫌な思いさせて」

 

 俯いていたあきほが、沈黙をひっそりと破るように小声で言った。

 

「お兄ちゃん、嫌な人じゃないの。ほんとよ。ただ、今ちょっと気が立ってるの。だから、許してあげて……」

 

「……っ」

 

 胸が突かれる想いだった。

 この少女は、自分がこんな状態であっても、兄に煙たがれた私達の心を気遣ったのだ。兄を悪者にしまいとしたのだ。

 呆れるほど、清い心で、呆れるほど、彼女らしい。

 

「いいのよ、あきほちゃん。私もエヴァも気にしていないわ」

 

 雪姫が優しく言う。

 

「ほんと? 」

 

「ああ」

 

 私ははっきりと答えた。こんなことで彼女を不安にしたくなかった。

 よかった、とあきほは胸を撫で下ろした。

 

「そういえば、さっき千雨ちゃんも来たよ」

 

「そうなのか」

 

「うん。入れ替わりで帰っちゃったけど」

 

 結局、あいつは一人で来たようだ。鉢合わせなくて良かった。

 

「ふふ、千雨ちゃん、怒ってたよ。何かしたの?」

 

「いや、別に」

 

「喧嘩したのよ、二人で」

 

 言わなくていいだろ、と私は雪姫を睨むが、彼女はモノともしない顔付きだった。

 

「ちゃんと仲直りしないと駄目だよ?」

 

「ふん。雪姫にも言われた」

 

「謝れるかしらねぇ」

 

「うーんどうだろう? どっちも強情だから」

 

 二人はクスクスと笑い合っている。その状況が、心地よく感じた。室内に流れる穏やかな空気は、ここが病室であるということを忘れさせた。

 だが、その腕についたチューブと、彼女の服を見るたびに、私は現実に引き戻されてしまう。

 

 

「……二人は、聞かないんだね」

 

 やがて、あきほは、そう言った。

 

「私が、なんて病気なのか、どこが悪いのか、いつ治るのかって」

 

 きっと、千雨やゆみ達には聞かれたのだろう。それほど、彼女達はあきほのことを心配してるのだ。

 だけど、私達は、何も言えなかった。

 

「私ねっ、なんとなく、わかるの。自分がどれくらい生きていれるのかって」

 

 あきほは、わざとらしく元気な声で言う。その声が、あまりに分かりやすく無理をしていて、私は聞くのが辛いと感じた。

 

「昔から、体が悪くて、その度に自分の中の砂時計が、さらさらと落ちていく感覚がする。喉をゆっくり締められるような気がする。だからきっと、長生きは出来ないんだと思ってた」

 

 彼女は、ずっと自覚していたのだろうか。

 だとしたら、それはなんて残酷なことなのだろう。

 そして、彼女はなんて強いんだろう。

 死期が分かっていて、あんなにも平然に、私達と笑い合っていたのだ。

 

 

「エヴァンジェリンさんは、不老不死、なんだよね」

 

 私は、こくり、と頷く。

 

「私、ずっと気になってた。長く生きれるって、どんな感じなんだろうって」

 

 別に、いいことばかりだった訳ではない。むしろ、ほとんどが嫌なことだった。

 だけど、それを彼女の前では言える筈もない。

 

「うん。分かる、なんて言う気はないけれど、きっと辛いことが沢山あったっていうのは、分かるの。なんて言えばいいのかな。貴女の人生は、私が語っていいようなものではないほど色んなことがあって、楽しい、なんて思えなかったかもしれないけど、それでも、私は、それがどんな風景なのか、知りたかったんだぁ」

 

 私が何も言わずとも、彼女は一人で語る。

 布団を握る手の力が、強くなったように見えた。

 

「何故だ」

 

 思わず、私も握り拳を強めて訊いてしまう。

 

「お前は、自分が短命だと分かっていたのだろう?知ってたんだろう? なのに、何故他人を敬う。何故他人の為に動く。もっとワガママになっていい筈だろう! もっと、勝手に生きていい筈だ! 」

 

 短い時間を、自分のために使わないなんて、おかしいと思った。長く生きる私がこんなに好き勝手にしてるのに、短く賢明な彼女が人の為に動くことが、酷く不条理に思えた。

 

「ふふ、違うよ」

 

 彼女は、私と初めて会った時と、全く同じ表情で言った。

 

「私がしたいから、するの。私はエヴァンジェリンさんが思うより、ずっと勝手に生きてるよ」

 

「だが……っ!」

 

「私が誰かを敬うと、その人の笑顔が見れる。そうすると、私は嬉しい。私も、人の為に生きていると実感出来る。それが、私にとって一番だったの」

 

「そんなのおかしい! おかしいぞ! 」

 

「……優しいね、エヴァンジェリンさんは」

 

 そう言って、彼女は、私の手をそっと握った。弱々しい手だ。

 

 

 

「…………でも、寂しいなぁ」

 

 

 ぽつり、と呟くように、あきほは言った。

 

「やっと、仲良くなれたのになぁ。ゆみちゃんと、むつみちゃんとも一緒に、仲良くなったのなぁ」

 

 彼女の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちている。彼女はそれを、拭おうともしない。

 

「私ね、想像したんだ。私とゆみちゃんとむつみちゃんとエヴァンジェリンさん。それに、千雨ちゃんも一緒に、遊びに行くの。洋服を見たり、映画を見たり、カラオケに行ったりするの。千雨ちゃんとエヴァンジェリンさんは気付いたら言い争いしてて、それにゆみちゃんが混じってぐだぐだになって、私とむつみちゃんが笑って見てるの。たったそれだけなのに、どうしようもないくらい楽しいの」

 

 涙が止まる気配はない。小さな少女の、精一杯の独白は、私の胸に痛いほど響いた。

 

「たったそれだけ。それだけでいいのに、届かないの。寂しいなぁ」

 

 どうして、あきほなんだろう。もっと意地汚い人間がいる。親や子供に手を出すような奴だっている。それなのに、何故この少女が死ぬのだろう。

 

 私はその現実に、納得がいかない。

 

  ゆるせなくて、遣る瀬無くて、だから、この世界が、嫌いなんだ。

 

 

 

  泣き続ける彼女を前に、私は、なんて言葉をかけるべきか、悩む。

 零れるその涙を、そっと拭うようにしたのは、雪姫だった。

 

 

「あきほちゃん、届くわよ」

 

 あきほが、ゆっくりと顔を上げる。

 

「心配しないで。貴女のそのささやかな願いは、届くわ」

 

「……本当に?」

 

 ええ、と雪姫は、優しく笑う。

 

 

 

「ああ、届くよ」

 

 私も、そう言っていた。

 

 

「服を見るのも、映画を見るのも、私は結構好きなんだぞ」

 

 

 ―――優しい嘘、なんて言葉は大嫌いだった。

 

 

「カラオケだって、そこそこ歌える」

 

 

 ―――でも、この少女が泣いているのはもっと嫌だった。

 

 

「千雨と言い争い、はするかはわからんが、まぁ自然となるだろう」

 

 

 ―――私の、最初の友達が、寂しいと泣いたままだなんて。

 

 

「うるさいゆみがそこに混じれば、まぁその気も失せるだろうがな」

 

 

 ―――人を想える友達が、泣いたままだなんて、許せなかった。

 

 

「だから、さっさと治せ」

 

 

 ―――だから、これが嘘じゃなくて現実になればいいと。そう願った。

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 ひとしきり涙したあきほは、その後疲れたように眠ってしまった。

 私と雪姫は、起こさないように静かに部屋を出る。

 廊下で、あきほの兄が前から歩いてくるのが見えた。その横には、壮年の男性もいた。

 

 すれ違いざまに、雪姫がお辞儀をしたので、私も合わせて軽く会釈をする。

 

 壮年の男性の目つきは、あきほの兄より更に敵意の篭ったものであった。殺意が溢れるほどの憎しみを感じる瞳を横に感じながら、私は歩く。

 通り過ぎた後も、その男性は私を睨んでいる気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

 

 

 あきほが亡くなったと訊いたのは、その次の日だった。

 

 



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18話

 

 タカミチから話を聞いたのは、授業が全て終わった後であった。

 教室に入り、ゆったりとした足取りで教壇に立つ彼の姿を見ても、クラスメイトはまだ笑顔でいた。これから部活があるものや、友達と遊びに行くものは、それらが待ち遠しいというそわそわした雰囲気であった。しかし、しばらく口を開かないタカミチを見て、不思議には思ったのだろう。次第に教室内の口数は減っていっていた。

 

 何かあったのだろうか、とむつみが後ろの席から私に声をかけた。むつみの声音は、不安が混じっていた。私は何も答えずに黙っていた。

 

 顔を上げたタカミチは、ひどく深刻そうな顔であった。いつもの柔らかな様子もなく、張り詰めた表情は、クラスメイトを緊張させるのに充分であった。

 タカミチも、多くの経験を積んできたのは知っている。

 戦闘を知り、戦争を知り、希望も絶望も知った筈の青年だ。

 それでも、そのたった一つの真実は、彼の心を痛めつけるほどであったのだ。そして、それを自分の生徒達に伝えなければいけないということも、彼にとっては何よりも辛いことであっただろう。

 

 

 ―――悲しいお知らせがある。

 

 

 ついに、口を開いた彼から聞かされた話は、子供にとってはどうしようもないくらいに残酷で、長く生きていれば誰もが経験するありふれた話であった。

 彼が口を開くたびに教室の温度は冷え切っていき、陰鬱で重たい空気が充満していく。だれかの息遣いがやけに大きく聞こえる。震えるものや一切動かないものもいる。

 

 タカミチの話が終わっても、誰も席を立たなかった。

 そんな中で、私だけは一番に立ち上がり、歩いて教室を出た。誰も私を目で追うものはいなかった。

 むつみや、ゆみの顔を、見れなかった。見たくないと思った。

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 家に着いて少しすると、千雨が家に来た。

 玄関の前で立ち尽くしていて、顔は沈んでおり、体が小刻みに震えている。

 なかなか動こうとせず、ひたすらにそこにいる千雨に、とりあえず中に入れ、と私は無理矢理を引っ張り、部屋の椅子に座らせた。

 雪姫が千雨の前にお茶の入ったコップを置いた。千雨は小声でかろうじてか細い声でお礼を言って、ゆっくりとそれを飲む。

 秒針の音が鳴り響く中、しばらくすると、少し落ち着いて来たのか呼吸が安定してきていた。

 

 

 この様子だと、もう、聞いているのだろう。

 

「……この前は、悪かった」

 

 私がそう言うと、彼女はやっと顔を上げた。一度意外そうな顔をして、それから、泣きそうな顔で不器用に笑った。

 

「……いや、私こそ。今思えば、私の方が無神経だった」

 

 千雨はもう一度、静かにお茶を飲んだ。

 

 

「……今日の夜に、通夜をやるらしい」

 

 ああ、と私は返事をする。

 

 憂鬱な気分だった。通夜に行けば、ゆみやむつみもいるだろう。

 元気で明るいゆみの泣き叫ぶ声も、クールで落ち着いたむつみの涙する眼も、見たくなかった。その姿を見るだけで、今までの彼女達とは別の存在になるような気がしてしまう。もう二度と、今までみたいに接することが出来ないとなんて、思ってしまう。

 

 それがどうして嫌なのか、今までも誰とも接して来なかったじゃないか。そう問いかけてくるする自分がいた。それすらも鬱陶しくて、答えを言うまでもなく振り払う。

 自分の気持ちなど分からんし考えたくもない。ただ、憂鬱であったことだけは確かだった。

 

 

 前を見た。

 俯いた千雨の顔は影が差し込むように暗く、眼鏡の奥の瞳には精気すらないように見えた。あれだけ騒がしかった少女も、今はもう萎れてしまっている。彼女がただの10歳の少女であることは、分かっていたのに、いざ目にするとどうしてか戸惑いを感じてしまう。

 

「……こういう時って、どうすりゃいいんだろうな」

 

 絞り出すように放ったその言葉は、目的もなく宙を彷徨うような言葉であり、私には受け止められなかった。

 

「なんか、分からないんだ」

 

 千雨は誰に言うでもなく呟く。誰かに聞いてほしい、と言った話し方ではなく、喋っていないと気が落ち着かないといった様子だった。

 

「私、爺ちゃんも婆ちゃんも、まだ生きてんだ。皺だらけになって、身体は細いけど、まだ、ふつうに生きてる。だから、誰かが居なくなるっての、初めてなんだ。近くにいた人が……死ぬっていうの」

 

 声は、震えている。コップを持つ手も揺れているからか、カタカタと小さな音が鳴っていた。

 

「漫画とかだとさ、友達とかが死んでも、一回凹んで、それから、絶対に立ち上がるんだよ。前に進まなきゃあいつが報われないとか、あいつの為にも頑張らなきゃって」

 

 私は何も言わずに、彼女の言葉の続きを待つ。雪姫も、彼女の独白をただ聞いてるようであった。

 

「で、でもな。自分が、なると、実感がねぇんだ。もう二度と話せないとか、会えないとか、遊べ、ないとか、え、笑顔が、見れないとか、わ、分からない」

 

 つまづきながら、千雨は話し続ける。嗚咽が、部屋に響く。こんな日に限って虫や風の音は一切しなくて、ただ、少女の静かな泣き声だけが、私の耳に届いていた。

 

「わからねぇ。こんな、こんなに辛い気持ちって、ど、どうすればいいんだ? 泣いても、泣いても、何も変わらないんだ。ずっと胸が穴が空いたように痛くて、頭が割れるみたいに痛い。目を瞑っても、あきほさんの顔が浮かんで、どうしようもないんだ」

 

 眼鏡の奥からは涙が溢れるように出ている。彼女の言葉で、私の頭にもあきほの姿が浮かぶ。

 

 

『わ、私! 吉野 あきほって言います!』

 

 私が吸血鬼と知ってなお、笑顔で自分の名前を告げた少女だった。私と、友達になりたいと言った少女だった。優しすぎる少女だった。

 私は自分の唇を噛み締めたくなった。

 

 

「な、なぁ。い、いつか、この、涙は止まるのか? その時に、私は、死を受け止められているのか? 私、私は、いつか前に進めるのか? 」

 

 

 私は、どうすればいいのだろう。

 懸命に生きている少女が、今、死を知り、傷を受け、自分の立ち上がり方を探している。

 赤ん坊が自分を起き上がらせるように。暗闇で光を求めるように。

 手探りで、必死に掴める場所を探している。

 

 

 だが。

 私は、自分の手を見た。白く小さな手だが、その中で摘み取ってきた命がいくつあるかは分からないほどだ。

 私の手は、差出せるような手ではない。

 命を奪い、消してきたこの手は、純白な少女に差し出していいものでもなく、掴んでいい手ではないんだ。

 

 こんな、どす黒く、血に塗れた、この手は―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「つれぇよ、エヴァ……」

 

 

 

 

 ―――ふ、っと身体の中に、力を感じた。

 泣きじゃくる千雨の顔を見たら、助けを求めるその声を聞いたら。

 私の手は、意識せず、彼女の方に向いていた。

 誰かに操られた訳でも、雪姫の力でもない。

 私は本当に、気付いたら彼女に手を差し出していたのだ。

 

「……千雨、前に進もうだなんてするな」

 

 千雨は、顔を上げた。

 頬を涙の跡がいくつも流れており、鼻からは今も水が出ている。あまりに不細工であったが、そうは思えなかった。仕方がなかったから、その手で涙だけ拭いてやった。

 

「いいんだ。その場所で、うずくまって、泣き続けてもいい。心の痛みを乗り越えたら強くなる、立って前に進め、なんて戯言に騙されるな。痛みはずっとお前の中に残る。生きていればこれからも、傷を負い、苦しくなっていく。それでいい。泣いて、止まって、馬鹿みたいに泣け。そして、泣きまくった後に、鼻水を垂らした顔を、上げろ」

 

 言葉は、自然と出てきた。

 打算もなく、意図もなく、ただ、私は私が言うべきだと思った言葉を口から発していた。

 

「誰かが居てくれる。懸命に生きたお前の横には、絶対に誰かがいる。膝を折って、お前と目線を合わせてくれるそいつに、肩を貸してもらえ。立てたら、一緒に話でもしていろ。それだけでいい。いいか、無理矢理前に進まなくてもいいんだ。お前はただ、あいつの傷を負ったまま、生きればいい。出来れば、あいつの分健康に生きればいい。それだけで、いいんだ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

「……強い言葉だったわよ」

 

「ふん。あんな言葉で、正しかったかも分からん」

 

 目を真っ赤にし、ふらついた足取りで家から離れていく千雨を窓から見ながら、私と雪姫は会話をしていた。

 

 本当に千雨を元気付けようと言うなら、もっと適切な言葉があったのだろう。もっと言うべき人物がいたのだろう。むしろ、しっかりと前に歩けるように助言するのが良かった気さえする。

 

 しかし私は、ただ自分の思ったことを述べたにすぎない。慎重に考えるでもなく、私に言えることはこれしかないと思ったから言っただけであった。

 

 

「心の立ち直り方に正解なんてないわ。貴女は千雨ちゃんのために、真剣な言葉をあげた。あとは、千雨ちゃんがどう受け止めるか。それだけよ」

 

 雪姫は、目を閉じながらそう言った後、立って私に向き直った。

 そして、両手を広げて、言った。

 

「エヴァ。貴女も泣いていいのよ」

 

「泣くか」

 

「本当に?」

 

「……こんなことは、もう慣れてる。泣くわけないだろう」

 

「慣れるものじゃないわ。貴女も言ったでしょう。傷は、貴女にも付いてるのよ」

 

「もう傷だらけなんだよ。今更一つや二つ増えたところで、何も変わらん」

 

 雪姫は、私の言葉を否定するようにしっかりと首を横に振った。

 

「エヴァ。貴女に付いた傷も、間違いなく貴女を痛めている。確かに人より長く生きた貴女は多くの傷があるかもしれない。でも、貴女はその痛みに慣れた訳じゃない。ただ、泣き方を、伝え方を、忘れてしまっただけ」

 

 

 何故か、今まで生きてきた600年が、頭の中に流れ込んできた。

 荒れた大地の上をひたすらに一人で歩き続けた時があった。足は切れ、喉は枯れ、声も出ない。枯れ木を杖にして、ボロボロになった布を纏って何の目的もなくただ足を前に出していただけの時期があった。

 人に見つかれば石を投げられ、焼かれそうになる。それでも私は、血だらけの足でただ歩いていた。

 

 

 ……辛かった。辛かった。辛かった。

 でも私には、それを伝える相手が、居なかった。だから、一人で前に進むしかなかったのだ。

 

 

 つれぇよ。

 そう呟いた千雨に言葉が出たのは、辛いと言える彼女が、そう言える相手がいた彼女が、羨ましかったからなのかもしれない。

 

「……そう、かもな」

 

 雪姫の言うことは、間違ってないだろう。

 私には、弱音を吐ける相手がずっといなかった。こんな私になってから周りはずっと敵だらけで、私の助け声を聞き入れる存在がいないと悟ってしまっていた。だから、誰かに辛い、ということは忘れてしまっていてもおかしくはなかった。

 

 

 

「だから、私に言えばいいのよ」

 

「……いや、いい」

 

「……もう意地を張るんだから」

 

 

 雪姫は、いきなり私に近付いてきた。

 そしてそのまま、私を包み込むように、抱き寄せてきた。

 

「……なっ! 何をしている!? 離せ! 」

 

「嫌」

 

 暴れる私を抑えつけるように、雪姫は腕に力を込めていた。身長差もあってか力はどう考えても私の方が弱くて、必死に間に腕を入れても、んぐ、という情けない声とともに私の顔は彼女の胸に飛び込んでいく。

 

「……な、なんのつもりだ」

 

「エヴァ、よく聞いて」

 

 

 優しい声だ。どうしようもないくらい穏やかな声だ。私の髪を、さらりと撫でながら、雪姫はゆっくりと語った。

 

 

「泣くとか、泣かないとか、別にどっちでもいいの。でも、無理はしないで」

 

「む、無理など……」

 

「してるわ。わかるもの」

 

 雪姫は、私への拘束を解く気はないらしい。金縛りもなく、単純に力だけの抱きしめを、私は振りほどくことが出来なかった。

 

「後悔してるの? 」

 

 その言葉は、私の胸に刺さった。

 私は雪姫への抵抗を諦めて、腕の力を抜いた。

 そして気付けば、口に出していた。

 

「……うそを、ついてしまった」

 

 一緒に、買い物に行けるなどと。映画に行けるなどと。

 死が訪れると、知っていながらも、私は彼女に希望を持たせてしまった。

 希望を持って死ぬのと、絶望のまま死ぬの。どっちがいいかなんて私が決めることではない。ただ、事実なのは、私は彼女がそんなこと出来ないと分かっていながらもそう言ったことだ。

 

「エヴァ。良し悪しなんて、正解不正解なんて、決められたものじゃない。事実なのは、貴女が嘘をついたことじゃない。貴女が、あきほちゃんを想って言葉を話したということ。貴女が最後に、友達に優しさで接したということ」

 

「……だとしても」

 

「自分を責めてもいい。悩んでもいい。でもね、私は知ってる。あきほちゃんも知ってる。エヴァが、彼女に対して真剣だったこと。だから、私が貴女を許してあげる」

 

 

 

 雪姫がどんなに言葉を吐こうが、私がしたことは変わらない。あきほが消えたことは変わらない。雪姫に許された所で、何の関係もない。

 

 

 だというのに、この気持ちはなんだ。

 心の底を、撫でるような。胸の奥を、暖めるような。どうして、この感覚を、懐かしいと感じるのだろう。どうして、こんなにも縋りたくなるのだろう。

 

 

 

 

 

 私が、雪姫の背中に、手を伸ばそうとしたその時。

 

 轟音と激しい衝撃が家の壁を破壊したのが、かろうじて分かった。

 

 

 

 



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19話

 

 

 突然家の壁を突き破った幾本もの魔法の矢は、そのまま私達に向かってきて、部屋にある机や皿を次々と切り裂いた。

 戸棚のガラスが割れる音や木製の本棚が崩れていく音が響く。裂けた人形から飛び出る綿がふわふわと舞う様子は、高速で突き進む矢と対照的に見えた。ズドドド、と低く鈍い音を立てて突き刺さる矢の一本一本が間違いなく高威力であり、それはつまり、放ったものの実力の高さが知れた。

 速度を増し連写される矢は、中々に打ち止む気配がなかった。30秒近く撃ち続けられた矢は、無慈悲に私の家を滅茶苦茶にしていく。木屑や綿が捲き上り、ガラスが床中に散らばる。やっと止んだ攻撃の跡を見れば、形あるものは見るも無残な姿となっていて、横から貫かれた家自体も元の姿の片鱗はなかった。

 

 そして、放たれた魔法の中心に居たはずの私は、無傷だった。

 

 気付けば私の前には分厚い三重もの障壁が作られていたのだ。未だに私を抱き抱えていた雪姫は、大丈夫?、と余裕を感じる声で話しかけてきた。どうやらこの障壁は彼女の仕業らしい。

 私は礼を言う前に、雪姫の腕の中にいる自分を恥ずかしく思って、もういいだろ離せ、と無理矢理離れた。

 

 そして、矢が撃ち込まれた方向へと目をやる。

 家の壁に空いた大きな穴の先には、1人の壮年の男が立っていた。

 

 見たことのある顔だった。

 黒いローブを羽織り短めの杖を手にしているその男は、あきほが入院していた病院ですれ違った奴だった。

 

『叔父が名の売れた魔法使いで……』

 

 脳裏に、あきほの声が聞こえた気がした。いつか彼女がそう言ったことを思い出し、私はそいつの顔を見た瞬間に、彼の目的を理解した。

 目に怒りの炎を宿し、禍々しくも悲しげなオーラを纏う姿を見れば、すぐに分かるのだ。

 何度も、何度も向けられたその視線は、悲しいほどに見覚えのあるものであった。

 

 

「……随分と、野蛮な挨拶だな」

 

 壁の穴から外に出て、私は男に話しかける。

 男は私の顔を確認した後、あまりにも大きな歯軋りを鳴らした。怒りを抑えきれないようで、顔の筋肉がプルプルと震えている。杖を持つ手を前にして、男は私に訪ねる。

 

「……エヴァンジェリン A・K マクダウェルで間違いないようだな」

 

「そうだ。だとしたらなんだ。貴様のような魔法使いが、この私に何の用だ」

 

「……私の姪のことは、分かるだろう」

 

 

 ああ、分かる。分かるとも。

 このタイミングで私の前に現れるということは、つまりは、そういうことなのだろう。

 暫くは平和なこの街にいたとしても、その視線だけは忘れることはなかった。業火の炎を背後に宿し、ただ一つの目的で私の前に現れたものは、どれだけ私が巨悪としても、どれだけ私が残虐だとしても、絶対に諦めることなく向かってくる。

 どんな理由だろうと、仲間が殺されて身内が殺されてやってきたものは、そんな眼をして、私に殺意の言葉を向けるのだ。

 

 

「私は! 貴様が呪い殺したあきほの叔父だっ‼︎」

 

 

 杖の先端が強い光を放つ。

 無詠唱で唱えられつつも、重く鋭い光の矢が私に光速で向かってくる。

 

 そしてそれはまた、突如私の前に現れた障壁によって弾かれていた。

 

 

「エヴァ」

 

 

 無防備に前に出た私を叱咤するような口調で、雪姫は私の名を呼んだ。

 

「雪姫、お前は何もするな。黙ってろ」

 

「……黙ってろって、貴女穴だらけにされちゃうわよ」

 

「頼む。任せてくれ」

 

 雪姫はそれ以上返事をしなかった。

 

 私は一歩前に出て、更にその男に近付いた。

 男は引く様子を見せることなく、激しい鼻息を尚荒くした。

 

「何故だ! 何故あきほに近付いたっ! あの子に魔法の才能など無い! 闘う力などない! そんな子をどうして死に追いやったのだ!!」

 

 杖の先端が顔の前に置かれた。

 興奮で大量に発汗し、額には幾つもの筋を作る男の怒りは間違いなく本物だった。

 

 彼の中では、私はあきほを殺した人物となっている。

 そう思われることについて、怨みはなかった。

 私の存在は、きっとあきほの兄からこの男に伝わっているのだろう。あきほが死ぬ少し前から彼女と関わり出した悪名高い魔女。家や病院にも顔を出して、彼女に近付いていた。それだけで、疑われるには十分すぎる。それだけのことを、私はしてきている。

 濡れ衣だと叫ぶことに何の意味もないことを、私は経験として知っていた。

 

 

「あの子は……っ! 優しい子だった! 闘えなくても! 魔法なんて使えなくても、良かったんだ! 幸せに、幸せにさえなってくれれば良かったのに……」

 

 

 彼の怒号とは反対に、私は嬉しく感じていた。

 魔法使いの家系で魔法が使えないものは、古くから差別され、辛い想いをして生きていくことが多い。

 そんな中でも、彼女は確かに愛されていたのだ。優しさで溢れていた彼女は、家族に愛され、友人に愛されていた。闘う力だけが強さだと教えられることなく、周りを笑顔にして、育てられてきたのだ。

 そう感じられる彼の怒りが、私には嬉しかった。

 

 彼女は、私と違い、真っ当に生きていたのだと実感できたのだから。

 

 

「――くくく。何故、だと? 」

 

 私が悪意に満ちた声を出すと、彼の杖を持つ手の力が強くなったのが分かった。

 

「理由など、あいつの血が美味そうだったから。それ以外にはない。あいつがどんな奴だったかなんて、私に関係ないんだよ」

 

「っ貴様ぁ!!!」

 

 彼の身体から溢れるように湧き上がった魔力は一気に杖に込められ、私の目の前で爆発寸前まで膨れ上がった。風圧で髪が揺れ流れるが、私は気にすることなく彼の顔を見続けた。

 

 そして、ゼロ距離で放たれた魔法は、大きな光となって爆発した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 

 

 

 また、私の身体には一切の傷がなかった。

 それどころか、いつのまにか私はあの場所を移動し、林の中にいる。

 雪姫に抱えられて、だ。

 

 

「……何もするなと言った筈だ」

 

「言われたけど、私は従うとは言ってないわよ」

 

 そう言って雪姫は私を下ろした。男の切り裂くような叫び声が離れたところから聞こえた。どうやら消えた私を探しているようだ。これだけ声が聞こえるということはそう離れた距離にいる訳ではないらしい。

 

「……どういうつもりなの?」

 

 雪姫が真剣な表情で訪ねてきた。

 

「死ぬ気だったの? 」

 

「ふん。不死の吸血鬼だから、あんなもんでは死なん」

 

 雪姫は、私をじっと見つめている。怒る訳でも、責める訳でもなく、ただ、私の意思を問おうと見ている。

 

「……復讐者ってのは、簡単には止まらないんだよ。特にああいう、自分が死んでもいいと思ってる輩は、殺すか、本当に死ぬかまで一生付きまとってくる」

 

「だから、死ぬ気だったの?」

 

「死んだふりだよ。一旦灰にでもなっておけば勝手に満足するだろ」

 

「嘘よ」

 

 雪姫は、さっきと変わらない瞳のまま、淡々とそう言った。

 

「貴女、自分が今吸血鬼として弱っているの分かっているでしょう? 麻帆良に閉じ込められ、満足に血も吸えてない貴女が、粉微塵になるまで攻撃されたら生き返れる保証なんてないのよ。それくらい、貴女が一番分かっているでしょう?」

 

「……」

 

 私は雪姫の言葉に応えることなく、服に付いた泥を静かに払う。

 

「今まで復讐者と会ったとき、殺してきたのでしょう? なら、あれも殺せばいいじゃない」

 

「駄目だ! 」

 

 咄嗟に声が出た。私はそんな自分にも苛つきながらも、雪姫に向かい合うのを止めなかった。

 

「……あいつの家族を殺すのは、なしだ」

 

「そう。なら逃げるしかないわね」

 

 雪姫は、そう言って私の手をおもむろに握ってきた。

 

「とりあえず街に出ましょう。それで、タカミチとかいう青年か妖怪みたいな学園長に話をして彼を止めてもらいましょうか。それでも彼がまだ襲って来るなら、その時また何か考えましょ」

 

 私が返事をする前に雪姫は既に走り出していて、私は引っ張られる。

 

「一つ言っておくけど、どんな道になろうと貴女が死ぬのは、なしよ」

 

「……どうしてお前が決める」

 

「私がそう思ったからよ」

 

 私と同じ長い金髪をはためかせながら、彼女は私の手を離さずに走り続けた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

 

 裸足で走り続けているのに、足に痛みを感じなかった。なんとなく、足元に魔力を感じる。おそらく雪姫が何かしらの補助をしてくれているのだろう。

 先程の障壁も、私を助けた時のスピードも、並みのものではない。今まで機会がなかったため知らなかったが、どうやら雪姫はかなり出来る存在であるようだった。長く存在する彼女にそんな力が宿っていたとしても、特に不思議には思わなかった。

 

 高速で木々の間を抜けながら、いつも通る、街に抜けるための道に出る場所へとたどり着いた。

 後は学園までいくだけなのだが、そこで雪姫の動きは急に止まった。

 

 

「……どうした」

 

「やられたわ」

 

 そう言いながら、彼女が手を前に出すと、空間に波紋が広がっていった。

 

「結界か」

 

「ええ。彼、やっぱり中々やるようね。呪符式で、しかも高価なものね。壊すのは難解で、面倒な作りになってるわ」

 

 陰陽術である呪符を使った結果は、その符を剥がして解くのが一般的である。そしてそれは基本四方に置かれていて、探すのに手間が掛かる。

 

「……半球に作ってあるみたいね。この林ごと、すっぽり囲まれてる」

 

 目を瞑りながら、手で結界の感触を確かめつつ雪姫はそう言った。

 自分ごと私を閉じ込める東洋の結界。

 それは、あの男の覚悟を示したものであった。西洋の彼がそれに手を出し、真相の吸血鬼である私と一緒に籠るということは、どうあっても決着をつける気であったのだろう。

 

「……呪符の場所は分かったわ。ただ――」

 

「解きに行かせると思ったか」

 

 背後からする声に振り向けば、そこには男がいた。男はすぐに火の中級魔法を放つ。

 無詠唱でありながらも魔力の篭った巨大な業火の玉は直線で私達に向かってきた。

 すぐに雪姫が前に出て、障壁を貼った。火球は弾け火の粉が舞う。地面に落ちた小枝に飛んだ火が、小さく弾けるような音を立てながら燃えている。

 

 ちっ、と男が舌を打った

 

「……ねぇ、貴方」

 

 雪姫が男に声を掛ける。男は雪姫に警戒しながらも、その杖を私へと向けたままであった。

 

「あきほちゃんの死は、エヴァのせいではないわ。あれは、どうしようもないものよ」

 

「嘘をつくな! 」

 

 地面で燃えた火の粉が、雑草や落ち葉を伝って、少しずつ大きくなっている。煙が緩やかに昇り始め、鼻に焦げた匂いを感じた。

 

「あんな、あんな突然、亡くなることがあるか! その前まで、笑ってたんだぞ! 」

 

男は瞬きもせずに、怒りの表情のまま涙を流し始めている。

 

「赤子の頃から、知ってるんだ! よく泣き、よく笑う子だった! あの子がいれば、誰もが笑顔でいれた! それなのに、こいつが、こいつさえいなければっ!」

 

「……分かるわ。彼女は、とてもいい子だった。でも、死とは、そういうものよ。平等で、理不尽なの」

 

「黙れ!」

 

 再び彼の杖から魔法が飛び出す。

 それはさっきと変わらずに障壁によって防がれている。燃え移る炎は、彼の周りにも到達している。それなのに、男は暑そうな素振りを全く見せない。

 

「雪姫、もういい」

 

「エヴァ、次は貴女が黙っていなさい」

 

 雪姫は、横目で私を睨みつけるようにしながらそう言った。

 

「死を悲しむ気持ちは分かる。誰かにぶつけないと、どうしようもない気持ちをどうにも出来ないのも分かる。悲しみを、怒りや恨みに変換しないと自分が保っていられないほどおかしくなるのも分かる。でもね、それは貴方の都合なのよ。同情はするけど、私は私の大事なものを譲る気はないの。貴方のためにこれ以上の傷をつけさせるつもりはないの。だから、引いてくれないかしら」

 

「黙れぇえ!」

 

 男に雪姫の言葉が届く様子はなく、男はひたすらに魔法だけを打ち続けていた。どれだけ防がれても、魔法を放つことをやめない。林に溢れた緑が次々と炎に塗れていき、次第に黒煙までもが私たちの周りを囲む。

 息をするのが苦しくても、魔力が尽きそうで苦しくても、男は一心不乱に魔法を放ち続けた。

 

 私は、雪姫の説得が無駄であることが分かっていた。激情に駆られた人間は、決して言葉などでは止まることは出来ないのだ。視野が狭まり、一つのことを為すことしか考えられないのだ。

 

 だから、彼が止まるには、私が死ぬか、彼が死ぬかしかない。

 

 

 私は、死ぬ気などはない。

 これは本心であり、例えあきほの叔父であっても、あの男のために自分の命を散らすつもりなどはなかった。

 ただ、分からなかったのだ。

 殺さずに、殺されずに男を止める方法が。

 例えここで彼の意識を刈り取ろうが、きっと結果は変わらない。タカミチに言っても爺に言っても、この男は絶対にまた私の元に現れる。復讐の意識とは、誰かの説得では止まらないのだ。

 だから、私はさっき彼の魔法を受けようとしてしまった。分からないままに、何か答えがあるかもと、思ってしまっただけなのだ。

 

 しかし、今はとてもそうは思えなかった。

 

 私の前にでて、魔法を受け止め続けてくれる雪姫を見て、私は何故か心が熱くなるようなものを感じていた。

 雪姫の背中は、どうしようもないくらいに頼もしくて、私はただただ見惚れてしまっていた。

 

 

 

 

 そして、気付いてしまった。

 

 段々と、彼女の姿が薄まってきているということに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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20話

 

「雪姫、お前……」

 

 火球を、剣の形をした焔を、魔法の矢を、次々と繰り出される男の全力の魔法を、涼しい顔をして雪姫は防ぐ。すらりとした長身から流れるように泳ぐ金髪は跳ねた泥で汚れても尚美しく、余裕すら見えるその横顔は他者に安心感を与えるものである筈だ。だが、私はそんな気持ちにはなれなかった。どうみても、雪姫の存在は見間違えこともなく薄まっている。

 魔法を一つ受け止めるたびに、ぱしん、とそれを弾く音がして、同時にまた一つ雪姫の姿が淡くなっていく気がする。

 

 脳裏に、金色の玉の姿が浮かんだ。絶対的な魔法防御で守られていたそれが、少しずつひび割れていくイメージが鮮明に映る。

 

「……おい」

 

「――大丈夫よ。貴女には傷一つ、つけさせないわ」

 

 何事もないかのように穏やかに笑う雪姫。白い頬が透明に近づき、向こうの景色が仄かに見える。

 

 

 

 ――何が、大丈夫、なのだろうか。

 

 

 

「……お前、透けてるぞ……」

 

「あら、そう」

 

「……消えかかってる」

 

「……そうね」

 

 背中に、手を伸ばす。指先に、つん、と感触があった。

 まだ、触れる。まだ、そこにいる。

 

「……もういい」

 

 震えた声が、絞り出すかのように口から出た。

 声が小さかったからか、雪姫はなんの反応もしない。そのまま男の攻撃に対して障壁を貼り続けていた。

 

「もうやめろ‼︎」

 

 雪姫の服を背中から思いっきり引っ張り、体勢を崩させた。結果、男の攻撃から目を背ける形になったが、障壁は解いてないようで、こちらに攻撃が届くことはなかった。

 

「何するのよ。危ないじゃない」

 

 土だらけの地面に膝をつき、私と目線を合わせた雪姫は口を尖らせながらそう言った。

 私はすぐに雪姫の襟元を掴み上げる。

 障壁から破裂音が響いているが、私はそれに負けないほどの声を出していた。

 

「お前、死ぬ気なのか!? 」

 

「……」

 

「私にはあんなことを言っておいて!自分は私を守って死のうだなんて考えてるのか!?」

 

 雪姫は、私の目を見て少し時間を置いた後に、笑って言う。

 

「そうよ」

 

「巫山戯るな! 」

 

 襟元を掴んだ拳に力が入る。喉を押しつけるようにしたが、雪姫は苦しそうにもしなかった。

 

「何故貴様がそこまでする!? 取り憑いただけの私なんかの為に、どうして命を捨てようとしている!? 」

 

「言ったでしょう? 私が、そうしたいからよ」

 

 私は、自分でも信じられないほどの感情の昂りを感じていた。それは、雪姫の勝手な行動に対する怒りなのか。それとも、消え行く彼女への失望なのか。また別の想いなのか。はっきりはしないが、心臓が早鐘のようになっているのは確かだった。

 

「……いい。お前が消えるくらいなら、やる」

 

「やるって、なにを?」

 

「あの男を殺す」

 

 雪姫から手を離し、立ち上がった私は彼女が張った障壁の外に出ようとする。

 

「……出来るの?」

 

「この程度のピンチ、幾度乗り越えて来たか。魔法がなくても、吸血鬼としての力が薄くても、私は長い経験で学んで来た技がある」

 

 実際にその自信はあった。激昂しただ無闇に魔法を連射しているだけの奴に、今の状態でも劣る気はしなかった。

 

「そうじゃないわ」

 

 雪姫は、未だに透けた体のまま、私に言う。

 

「本当に、あきほちゃんの家族を殺すことが出来るの?」

 

「……っ」

 

 あきほの顔が浮かぶ。

 優しい彼女は、自分の家族を失ったらどう思うだろうか。私に叔父を殺されたと聞いた彼女は、どんな心境になるのだろうか。彼女の家族は、あきほとあの男を同時に失うと、どれだけ悲観に暮れることになるのだろうか。

 

 いや、関係ない。もうあきほはいないのだ。いない奴に気を使って、どうして私が危機に陥る必要がある。

 死とは、無だ。

 あの世に消えた魂に対して神経を使うのは間違っている。彼女が死んだ後のすべての行動は彼女には関係なく、私は私の為に生きていくべきなのだ。

 分かっている。頭の中ではそう理解している。

 なのに。それなのに。私の足は前にも進もうとする気すらなかった。

 

 

「…………出来ない」

 

 

 私は、力を入れていた両手をだらんと垂らしてしまう。

 どうしてこんな私になってしまったのだろう。昔の私なら、雪姫に遠慮することも、殺すことに躊躇うこともなかったはずなのに。人を殺すなんて簡単なことなのに。

 心も体も弱くなった自分が、嫌になる。冷徹な頃の私になりたい。そう思ってるのに、そう思えない。

 

「本当に、優しい子ね」

 

 雪姫が私を抱きしめた。甘い香りと柔らかい感触がする。

 何故か、とても懐かしい感覚がした。胸の奥が暖かくなり、涙腺が緩まる。

 

「……雪姫、よく考えろ。お前が消えても、今の状況は変わらない。私を守るものが消えて、私かあいつが死ぬだけだ」

 

「……」

 

 雪姫は何も答えない。

 私は唇を一度噛み締めた。

 そして、雪姫の背中に手を回した。

 半透明な彼女は、まだ温かみがある。

 喉奥に、今まで長い間溜め込んでいた感情が一気にこみ上げてきた。何百年もの間、ずっとずっと、我慢していた想いが爆発するかのように溢れ出そうになった。私はそれを辛うじて抑えるのに必死になった。

 

 誤魔化すように、雪姫を抱きしめる手の力を強める。

 雪姫も、私を強く抱きしめてくれた。

 それがまた、私の感情を昂らせる。

 

「……どうすればいいか、分からない」

 

「うん」

 

 弱々しく出た言葉は、まるで自分の言葉じゃないみたいだった。震えた声はあまりに弱っちくて、いつもみたいな強い口調に戻したくても、心は全く言うことを聞かない。

 

「殺したくない。でも、お前には消えて欲しくない」

 

「うん」

 

 忘れられない。失いたくない。雪姫が起こしてくれた朝を。作ってくれた飯の匂いを。おやすみと言ってくれた声を。いってらっしゃいと、手を振ってくれた笑顔を。

 

 この感情は、きっとそういうことなんだろう。

 私は、自分が思ったよりもずっと雪姫に依存していて、ずっと雪姫が好きだったんだ。

 

 そして、なによりも。

 

 

 

 

「寂しい」

 

 

 

 

 心から、振り絞った声だった。

 一人で生きるようになってから。吸血鬼となってから。

 ずっと。ずっと胸の片隅に常にあった想いだった。

 荒れた大地で独り夜を過ごした時も。不気味な森で独り野宿した時も。たった独りで宿に泊まった時でさえも。私は何年も、何年もそう思っていたのだ。

 

 だから、誰かと過ごしたこの数ヶ月は私にとって夢のようで。

 楽しくて、嬉しくて。だから。だから。

 

 

 

 

「いなくなったら、寂しいよ……」

 

 

 

 

 

 

 ぎゅぅと抱く力を更に強めて、雪姫の胸に顔を埋める。こんな顔は見られたくない。私ではない。目元が湿り気を帯びた気がするのだが、雪姫の服に擦り付けて必死になかったことにしようとする。

 

 

「……いいえ、いいえ」

 

 

 雪姫は、私の頭をさらりと撫でた。心地がいい。心地が良すぎて、泣いてしまいそうだ。

 

「……エヴァ。貴女は言ったわよね。復讐を止める方法は、貴女が死ぬか彼が死ぬかだけである、と。でも、そうじゃないわ」

 

 雪姫は、もう一度私を撫でてから、抱きついている私の頭を少し後ろに下げた。

 雪姫と目が合う。今にも声を上げて泣き出しそうな私の顔を見て、雪姫は穏やかに笑みを浮かべていた。

 

「もう一つある。復讐を止めるには、復讐の原因となったことを、無かったことにするのよ」

 

「……それは、どういう――」

 

 雪姫に更に魔力が漲る。同時に、雪姫の体がまた薄まる。それでもやっぱり雪姫は笑顔を崩さない。

 

「あきほちゃんの死を、無かったことにするのよ」

 

 信じられないほどの魔力が彼女を中心に渦巻いていく。雪姫の封印を初めて解いた時を思い出すほど、強い力が彼女から溢れていた。

 

「馬鹿な! そんなこと出来るはずがない! 」

 

「いいえ、出来るわ。言ったでしょう? 私は呪い(まじない)によって生まれた存在。誰かが強く願ったのなら、それを叶えることだった出来る」

 

「……あっ」

 

 思い出す。いつか雪姫が語っていた自分の出生の話を。彼女は、誰かの願いを叶えることが出来ると、そう言っていた。

 そして、私はあきほの前で一つ願った。私があきほに語った言葉が、嘘にならないようにと。

 雪姫は、今その願いを叶えようとしているのだ。

 自分の身を犠牲にして。

 

「やめろ! お前が消えてあきほが生き返ったとして、あきほが喜ぶと思うか!? そんなこと、あいつが望んでいると思うか!?」

 

「ふふふ。何度も言わせないで。私は自分勝手なの。あきほちゃんを生き返らせたい。そう思ったから、そうする。後のことは、貴女がフォローしといて」

 

「……勝手すぎる」

 

 人としてのルールなどを私に押し付けてくるくせに、自分だけは好き勝手にしようとする。本当に、自己中心的だ。

 

「……あきほだけじゃない。私だって、寂しい」

 

 私はもう、虚勢を張ったりすることをすっかりやめていた。声は震えるし涙は出る。途轍もなく軟弱な姿であったが、私は雪姫にそれを見せることに抵抗がなかった。

 

「お前、言ったじゃないか。私が死ぬまで一緒にいるって。ずっと、同じものを見ていてくれるって。嘘だったのか」

 

「……そうね。貴女には、悪いと思ってる」

 

 雪姫は、私を抱く力を少し強めてくれた。

 

「私ね、貴女のこと、知っていたのよ。ずっと」

 

「……それは、私が悪の吸血鬼だから?」

 

「違うわ。貴女が、エヴァンジェリン ・A・K・マクダウェルだからよ」

 

 意味が分からず、私は雪姫の顔をじっと見た。私の幻覚で映した姿を模倣している筈なのに、目元の優しさがどう見ても私とは違うことにやっと気付く。私には、こんな優しそうな表情は出来ない。

 

「もともと私は、赤ん坊の誕生を願った末に生まれた存在。だから、親の子に想う気持ちは、全て私に伝わってくる。勿論、貴女の母親の想いも」

 

 

 また一つ、彼女が消え行く。もう、止められそうにない。伴流する魔力と比例して、彼女は消えていく。

 

 

「貴女の人生は、他の人とは少し違えど、母親は、間違いなく貴女を想って産んだ。赤ちゃんの貴女の小さな手足をどんな高級な宝石よりも大切に扱い、愛していた」

 

 

 色が薄まり、金色の髪はすでに透明になっている。でも、まだ彼女の暖かさだけが残っているので、私はそれを逃がさないようにただ抱きしめる。

 

 

「そして、言っていたわ。雪の日に、キャッキャと喜ぶ貴女を見て、同じような雪の日に産まれた貴女を思い出して」

 

 

 誰かにこんなに長くくっ付いていたのは、きっと初めてだ。こんな暖かさを感じていられるのは、きっともうない。私はもっと力を強める。

 

 

 

「雪のように白い肌。姫のように美しい我が子。どうか、どうか幸せに」

 

 

「……それで、お前は」

 

 雪姫は柄にもなく少し恥ずかしくなったのか、白い頬を朱色に染めて頬を掻いた。

 

「そう、雪姫と名乗ったの。貴女と同じ姿なら、そう名乗るべきだと思ったから」

 

 また、雪姫の姿が薄まる。

 もうじき彼女は消えるのだろう。私はそれを止められない。どれだけ強く雪姫を抱きしめても、もう雪姫を繋ぎとめれるとは思えなかった。

 

「そうね。最後に言いたいことがあるわ」

 

 雪姫は真剣な表情で私を見つめた。

 

「人にはしっかりと挨拶するのよ。損はないんだから。それと、夜更かしし過ぎてはだめ。肌に良くないわ。後で後悔するんだから。あと、自分の恋愛観を偉そうに人に語っては駄目よ。そういう女は嫌われるんだから。変な男には気をつけるのよ。外見よりも、中身を重視するのよ。でも、外見を疎かにしている男性は論外だからね。それと……」

 

「……最後に何の話をしてるんだよ」

 

 思わず、笑ってしまった。

 自分が消えるというのに、何を言っているんだろう。

 

「――元気で」

 

 雪姫は、本当にゆっくりと、私の頬を静かに撫でる。

 

「いなくなっても、私は貴女の中に、ずっといるから」

 

「雪姫」

 

「ずっと、見てるから」

 

「雪姫ぇ」

 

「貴女とずっと一緒にいると言ったのは、嘘じゃないから」

 

「ゆきひめぇ……」

 

 最後に思いっきり抱きついた。溢れ出る涙を拭くこともせず、小さな自分の身体を、全力で彼女に押し付ける。

 暖かい感触を忘れないために。彼女の存在を忘れないために。

 

「楽しかったわ。またね、キティ」

 

 雪姫は、私の額に柔らかくキスをして、そして、すっと、その姿を消した。

 

 

 

 ○

 

 

 

 同時に、世界が一瞬で白色に染まる。

 全てを飲み込んだその白色の世界の果てに、雪姫と狐と蝙蝠の姿があった。

 彼女はそれらを全部引き連れて、世界の奥へと消えていった。



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