集合意識のプールを泳いでいた時、暗闇の中でふと目を覚ます。
暖かく、しかし異質な空間であった。違和感、まるで自身が異物であるかのような。
居心地は悪くなかったが、そこはとても窮屈だった。
いつまでも住んでいるわけにはいかない。ここから出なくてはならない。
“彼”はそう思った。
彼は全身の力をこめて、頭を突き上げた。
空間は破れた。いや、引き裂いたと言った方が正確だったかもしれぬ。
とにかく彼は誕生した。
彼は人間離れした産声をあげ、勃起した陰茎のように屹立し、まず本能で母を探し求め、産声を上げた。
しかしすぐに彼はそれが無駄である事に気がつく。母はおろか、数多いるはずの兄弟すらいなかった。
「……?」
周りを見渡すと見慣れぬ生物に囲まれている。どうやらこの場所の住人らしい。
どいつもこいつもあんぐりと口を開けた、間の抜けている表情をしている。
彼は暗闇へと駆け出した。これが彼の生涯の始まりであった。
彼はとても頭が良かった。
一巡しただけでこの鉄の建物(“鉄”で出来ている事にも気づいた。)の構造全てを把握する事が出来た。
現在の彼なら、どこを通れば見つからないか、どこで眠ればよいのか、どこで食事をすべきかも知っているし、ここの住人たちがどこを使って生活しているかも知っている。人間が通る事を忌避するようなわずかな空洞を行き来できる彼の事、下手をするとこの建物のどの住人よりも詳しいのかもしれなかった。
一方で、この鉄の建物の殆どが彼に適さない事も理解している。冷たくて、四角四面で、明るすぎる。彼の美観からすればこれはとても耐え難いものだ。とても安らげる場所ではない。巣穴とは、もっと温かみがあって、曲線美があって、仄暗くあるべきだ、と彼は考えていた。
そんな彼にとって唯一落ち着ける場所が一つだけあった。
そこには“動力室”と表札がかかっている。
何故彼が落ち着けたのかといえば、その場所は彼が本来住むべきである“巣”の環境にとても近かったからである。絶え間なく噴出す蒸気が心地よく、その薄暗さが彼の心を落ち着かせてくれた。そして何より、その温もりが彼に未だ見ぬ母の温もりを想起させた。
……少し疲れた、眠ろう。
彼は胎児のように身を丸め、この温かい“巣”でひと時の眠りに就いた。
エンジンルームのダクトの狭間に身を横たえていた“彼”。
その意識が覚醒し、現実世界へと引き戻される。体を起こそうとしたところ、全身を激痛が貫く。己の姿を見返すと、全身の皮膚が破れている。眠っている間に外敵に襲われたのだろうか。
いや、そうではない。彼の体そのものが大きな変態を遂げ始めていたのだ。
今まで彼を包んでいた皮が少しずつ破れ、剥がれていく。
生まれて初めての痛みが彼を包んでいたが、彼にはどうする事もできなかった。のた打ち回れば回るほど皮は剥がれていき、痛みが広がっていった。
処女が初潮を、少年が精通を迎えるように、苦痛ではあるがそれが自分には必要な事なのだ。彼はそう直感していた。とてつもなく神聖な行為に違いなかった。
やがて痛みが治まり、儀式は終わりを告げる。彼は、第二の変態を遂げた自らの肢体をまじまじと観察した。
皮膚は硬質でより頑丈になり、たくましい四肢が生え揃っている。これならどれほど分厚い鋼鉄であろうと紙切れのようにたやすく引き裂けるだろうし、また、どれほど強く打たれたとしても痛痒も感じないに違いない。今まで見てきた生物や構造物の中で最も美しい、と言っても過言ではない素晴らしい肉体。
だが、何の為に……? 彼にはまだわからなかった。
脱皮を終えた“彼”はしばし巣を離れ、この建物の中を散策していた。
如何様にしてこの無機物の塊は生き物のように動く事が出来るのだろうか。彼には不思議であった。
生まれたときに目にした、
思索に耽る彼は、部屋に何者かが侵入するのに気づくまで少しばかり時間がかかった。観察してみると、あの醜いエイリアンたちの一体である。どうやら“彼”を探しにやって来たらしい。
……生まれた時から思っていたけれど、やはりこいつらは間が抜けている。そう思った。
手に持っているのは電流を纏った武器のようだったが、あんな物で殺されるものか。きっと連中は、機械に頼りすぎて知覚が鈍ってしまった種族に違いない。何か小さな生き物(地球人の言葉で表すならそれは“猫”であった)に気をとられ、これほど接近しても全く気づく気配が無い。
彼は、彼独特の美観を以って密やかに、そして優雅に、その間抜けな生き物の背後へと降り立つ。
後ろに立たれるまで彼の存在に気がつかなかった間抜けは、その彼の巨大さに慄いていた。
面白半分に彼は間抜けの頭を掴み、“接吻”を与えてみる。どうなるだろうか。
彼にとって冗談半分の接吻であったその一撃は、“ブレット”の呼び名で呼ばれていたその間抜けの頭蓋を、ライフル並みの破壊力で粉砕した。
……さて、こいつはどうしたものだろうか。
彼は意に反して仕留めてしまった獲物を引きずりながら考える。彼の“接吻”はロボトミー手術のように正確で、且つ銃弾よりも凝縮されて強烈であったから、獲物はその脳の一部と意識を奪われながらもまだ死んではいなかった。
食ってみようかとも考えたが生憎、脱皮して以来、空腹など全く感じなかった。それよりももっと重要な欲求が彼を突き動かしている。
“彼”は本来、群れで生活する社会生物であった。
同じ社会生物といっても、その社会は人間よりもある意味で優れている。
その群れは、独特の美観によって築き上げられた巨大な巣で共同生活を行っている。
群れを統率するのは奥の院にて控える一体の偉大なる母、“女王”であり、彼女の子供たちは母の為に巣を守り、獲物を捕らえ、赤ん坊を育て、次なる母の誕生を待つ。その種族は、彼らを作り出したエンジニアたちによって、そう生きるようにプログラムされていた。
……しかし彼が本来守るべきであった“巣”はこの鉄の建物の中にはない。
巣がなければ、守るべき母はおらず、育てるべき赤ん坊もいない。集合意識から切り離された孤独、恐怖、絶望。すぐ傍にいるはずの誰かがいないという空虚が、彼の心を蝕んでいた。彼の心は孤独であり、虚ろであり、荒廃していた。
……それならば、と彼は考える。
巣がなければ作ればいい。この手で巨大な帝國を築き、母となり、子を育て、守るのだ。この獲物はその“巣”の基盤としては最適だ。場合によっては子を育てる為の苗床にしてもよいだろう。
彼──既に雄雌の区別を超越している存在であったが──は、これから自身が行う大規模建築に胸を躍らせる。
そうして彼は“彼女”、新たな母親となったのだ。
巣の増改築を終えた後、“彼女”は通気ダクトの物陰から間抜けな獲物たちを観察した。
どうやら獲物たちは、自分を捕らえる算段をつけているらしい。
獲物が自分からやってきてくれるのならちょうどよい。彼女は入ってくる獲物の臭いを辿り穴の中を探索した。この建造物の構造を隅々まで熟知している彼女からすれば、不慣れなダクト内に迷う間抜けな獲物を出し抜く事などいとも容易い。
……見つけた。
その“追跡者”は外にいる仲間との通信に熱中していて、彼女の存在に気づく様子は無い。
驚かせてやろう。恐怖が張り付いたその顔をそのまま巣に増築してやろう。彼女は成る丈腕を振り上げながら大声をあげ、その追跡者を驚かせてやる事にした。
身に迫る悪魔の存在に気づいた追跡者は、彼女にはわからぬ方法で火炎を放とうとするが、彼女の素早さには敵わない。
追跡者の武器を叩き落とした彼女は小鳥を捕らえるよりも優しく、万力よりも力強くその追跡者を抱きしめた。少し力を入れ過ぎて、獲物の体内で何かが砕ける音がしたようだが、彼女には関係のないことだ。
彼女は捕らえた獲物を巣穴の中へと連れ込み、巣へと持ち帰ることにする。
この獲物もなかなか良質だ。よい建築材料、よい苗床となるに違いない。彼女は歓喜した。
彼女は獲物を求めて、再びこの建物の中を散策した。
改めて探検してみて気づいたことなのだけれど、ここは広い場所のようで意外と狭いらしい。
あの例の生き物たちが二体、何らかの作業をしているのを発見した。
彼女には雌雄の対であるように思えた。作業に熱中していてこちらに気づいていない。
試しに彼女は雌の後ろへ移動し、じっくりとその様子を見物してみた。今まで彼女はこの生き物たちの雄は観察してきたが、雌を間近に観察するのは初めてだったからだ。遠目には判らなかったのだけれど、この生き物は雌雄で体の構造が微妙に異なっているらしい。
……雌雄で構造が異なっているとは!
彼女にとってそれは実に興味深い事実であった。彼女の一族に雌雄の違いなどない。ただ母と子供たちの違いしかなく、子供たちも場合によっては母に成り得るのである。
不意に雌の悲鳴が響く。
ようやく彼女に気づいたようだった。悲鳴を聞いたのか、雄が何かを怒鳴っている。うるさい。やかましい。
彼女が雌に掴みかかろうとすると、今度は雄の方が殴りかかってくる。痛くも痒くも無いが、鬱陶しい。
どうやらこいつらは種の違い、格の違いというものがいまいち理解できていないらしい。彼女は飛び掛ってきたその愚かな雄へと目標を変えた。
この貧弱な生き物たちの中では比較的力自慢のようだが、彼女の強靭さには敵わない。そいつを掴み上げて指先に軽く力を込め、接吻を与える。頭を吹き飛ばされたその雄は、血を吐き絶命した。
雄を解体した後、彼女は再び雌を見つめていた。
その雌はなにやら耳障りな音をあげている。
悲鳴。だが、いくら悲鳴をあげようが、宇宙では、その悲鳴は誰にも聞こえない。
彼女は鋭く尖った尾をその雌の腹へ突き立て、体内の物を引きずり出す。どす黒い体液と軟らかい臓物がぼとぼとと零れ落ち、耳障りな雌の悲鳴は止まった。
……しまった。殺してしまってから彼女は狼狽した。
あまりに五月蝿かったのでつい殺してしまったが、これでは建築材料に使えないではないか。
巣に帰った彼女は、眠りに就こうと丸くなったところで、初めてこの建物の異変に気づいた。
……彼女の巣が、異常なまでに加熱され始めている。天変地異? いや、そんな気配はなかった。機械よりも精密な彼女の感覚が、異変の予兆を見逃すはずが無い。
しかし夢ではない。現実として巣は加熱され続けている。この温まり続ける巣に居続けるのは危険だ。
多くの点で地球の生物と異なる彼女であったが、火の危険性は本能が知っている。そして彼女の巣は可燃性なのである。このまま加熱され続けたら、彼女の独特の美観に基づいたこの美しい巣は崩壊してしまうに違いない。
……やむを得ぬ。巣を捨てねばなるまい。
今にも生まれようとしている子供たちには申し訳ないが、自身の生命には代えられない。巣ならもう一度作ればよい。彼女の種族は決断すると行動が早い。生まれながらにして私情に左右されない冷徹さもまた、彼女の強みであった。
かくして彼女は、新たな巣を築くにふさわしい場所を探す旅に出た。
安全な寝床を探している途中で、彼女はあの醜い生き物たちの最後の生き残りを発見した。
彼女の計算と感覚が正しければ、この雌が最後の一体のはずである。この雌もどうやらこの建物が危険な状態である事を察知し脱出しようとしていたようだ。彼女はこの雌の様子をもっとよく観ていたかったのだけれど、相手も彼女の存在に気づいたようで、もと来た道へと引き返していってしまった。
……それほど慌てる事も無いのに。実に惜しい事をした。
彼女がふと足元を見ると金属の籠が放置されていた。どうやら中に生き物が入っているらしい。
彼女は金属の籠に閉じ込められたその生き物、“猫”をじっくりと観察する。この生き物は今まで見てきた醜い生き物たちより小柄で、全身をふわふわとした毛で覆われている。
一見弱弱しく見えるが、この生き物はかつて存在した獰猛な種族の末裔であり、またその優れた身体能力を今も受け継いでいる事はその牙と爪の鋭さから判断出来る。
もしこの生き物を苗床にしたら、どれほど優秀な子供が生まれるだろう、と彼女は考える。彼女の能力を以ってすれば、この生き物の眠った遺伝子を呼び覚まし、最大限に利用する事も可能である。
しかしその為にはこの籠を壊さなければならない、と彼女は手を止めた。
この籠を力任せに壊す事は容易い。だが、同時に中のものも傷ついてしまうだろう。傷の程度によっては死んでしまうかもしれない。そして苗床にする為には、獲物に生きていてもらわなければ困る。
結局、彼女は猫を捕まえる事を諦め、置いてゆく事にした。
彼女は脳裏で算段を付けた。
……おそらくあの逃げていった雌が戻ってきて、あの籠を持ってやってくるだろう。そして安全な場所を見つけ、この生き物を籠から解き放ってくれる。その時に捕らえればよいのである。
これからの未来設計を終えた彼女は安心して眠りに就く事にした。
夢の中で寝返りを打った彼女は、目の前のあの醜い生き物の雌と見つめ合っている事に気がついた。
いつからこの生き物はここにいたのだろう。相手の無遠慮さに、不快感を禁じえない。その不快感が相手に伝わっていたのだろうか、その雌は近くの身を隠す穴へと飛び込んでしまった。
……やれやれ、他者の安眠を妨げないで欲しい。彼女は舌を出し入れしながら再びまどろみ始めていた。
突然、高熱の蒸気が彼女に襲い掛かった。
何時の間にか戻ってきたあの雌が何らかの操作を行ったらしい。確かに低温より高温の方が好みではあったが、ものには程度というものがある。彼女は配管の茂みから這い出、その蒸気を出した原因である目の前の雌の生き物を解体しようと近寄る。
……この小賢しい雌を苗床にしてやろう。この雌の絶望の表情を彫刻の中へと混ぜ込み、そして彼女の巣を再建するのだ。そう思った。
しかし、その希望は叶わなかった。建物の扉が突如解放されたから。大気圧という凄まじい力が、ベルトやフックや手でつながれていないこの建物の中のありとあらゆる物を外へと排出し始める。
足をすくわれた彼女は扉の淵へ指をかけ、全身の力を込めて建物の中へと帰還しようと努力した。
途端、腹部に衝撃が走った。彼女の腹に鋼線のような物が突き刺さっている。
今度は彼女が悲鳴をあげる番だった。突き飛ばされ、建物の外へと放り出される。虚無の闇の中で扉へ泳ぎ着こうとするが、扉は無情にも彼女を暗黒の宇宙へと締め出した。
……まだチャンスはある。
そう思った彼女は咄嗟に建物の中へと続く穴へと潜り込んだ。
が、これがいけなかった。
彼女はかつて外へと出た事がなかったので、その穴が何の為に開いているのか知らなかった。もし知っていたら、彼女は潜り込もうなどとは考えもしなかったに違いない。
穴の正体は、“宇宙船のロケット噴射口”だった。
無色の波動が彼女を包み込み、臍の緒を断ち切った。
傲慢に何もかもを焼き尽くし吹き飛ばすその力は、彼女を宇宙の彼女方へと吹き飛ばすには充分であった。
通常の生物なら耐えられない宇宙空間へと放出され、さらに宇宙船の噴射炎で全身を焼き尽くされて。
それでもなお、彼女は死ななかった。
痛みなどは全く感じなかった。とにかく眠りたい。
彼女はかつてと同じく胎児のように丸くなり、音も光も無い暗黒の虚空を漂った。
そして彼女は永遠に孤独となった。
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