「うっひゃあー!!」
テーマパークに来たみたいな、心底楽しそうな声が響き渡る。
「前からすっごい大きな建物って思ってたけど、こーして見てみるとそーぞー以上だなー!!」
「レース界の名家の屋敷とは、また違った迫力がありますね……」
続くのは、それと相反する落ち着いた声。
「本当にこんなところに勤めているのですか? お友だちは……」
「……トレーナーさんが裏を取ったんで、確かなはずです」
それに答えて――
私もまた、改めて、その『建物』を見上げた。
首が痛くなりそうなくらいの高さで屹立する、塔の如きオフィスビル。
ドラマの世界から飛び出してきたみたいな、こんな冗談みたいな施設に。まさか自分が立ち入ることになるとは思ってもみなかった。
それも、一人ではなく――
……複数人で。
「……」
ブライトさんがチームに加入してから、二日。
何にしても、まずは接触を持つことから始めないといけないだろう――ということで、彼女――スレイちゃんの勤め先にアポを取ることとなった。
日本指折りの大企業だ、まだ見習いとは言え、そう簡単に認められるわけも無いだろう――とタカを括っていたのだけれど、なんとあっさりと了承。
今日、こうして、訪れることと相成ったのである。
勤め先――ヒスイグループ、その本社ビルへ。
『向こうは人数を指定してこなかった。不安なら付き添いを連れてくといい』
トレーナーさんはそう言ってくれたので、あなたじゃダメなのか、と聞いたのだけれど。こっちもこっちでやることが……とごにょごにょしたので、仕方なく他の人を当たることに。
もちろん、一人で行くという選択肢もあったけど。
大企業の本拠地に殴り込みに行くというのを考えると、ちょっと日和ってしまった。
「あー……ごめんね。アタシも最近忙しくてさ」
一番付き合ってくれそうな人、ネイチャさんにお願いしたけれど、そこでもやんわりと断られてしまう。……まぁ彼女も、なんだかんだ生徒会副会長なのだ。四六時中暇なわけもない。
肩を落とす私を見兼ねてか、彼女は付き合ってくれそうな人に声を掛けてくれた――それがイクノさんだった。
併走やら何やらで、数えるくらいしか顔を合わせていない彼女だったので、一抹の不安はあったけれど。幸いにも快く応じてくれた。
……が。そこでどこで聞いていたか、突然にターボさんが顔を出し。
「ターボも絶対行く!!」
……斯くして、この一見珍妙なパーティが出来上がったわけである。
「うお~! 中もものすっごく広いなー!」
守衛所にて手続きを済ませ、ロビーに入る。
ターボさんは爛々と目を輝かせ、無邪気に声を上げているが。広大なロビーにはその溌溂とした声がよく響いた。……お陰様で、入場数分も経たず、有名人となってしまった。
「受付は正面のようですね。行きましょう」
にも関わらず、平然と先導するのはイクノさんだ。もうすっかり彼女が主役だった。いっそ説得も彼女に任せようかな……
受付の女性は、柔和な笑みで対応してくれた。すぐに参りますので、あちらの待合スペースでお待ちください――そう促され、ロビーの隅の方、いくつか設置された、テーブルと椅子のセットへ落ち着く。
別に自分が何かをやらかしたわけではない。今このタイミングで、何かを気にすることもないはずなのだけれど……
……
「……緊張していますか?」
「!」
……そわそわと落ち着きがないことを見抜かれたのだろう。
声を掛けられて、ハッとする。視線の先――イクノさんは、可笑しそうに笑っていた。
「リラックスしましょう。私たちは、お友だちとお話をしに来ただけです」
「……ですね」
「なーなー、でもせんりゃくとか、せんじゅつは考えてあるのか?」
ターボさん、なかなかに鋭い指摘だった。
「そいつをこれから説得するんだろ?」
「……いえ。それがなんにも」
「無理もありませんよ。たったの10分でしょう? それだけで説得しろ、というのがそもそも無理な話なのです」
イクノさんの言う通りか、そう、私に、私たちに与えられた時間は、わずか10分程度。
たったのそれだけ、と驚いたものだけれど、元々きついスケジュールにねじ込んでくれたのだろう。
そこまで贅沢も言えない。
「飽くまで情報収集、と割り切りましょう。その方が気も楽です」
「……ありがとうございます」
「心配するなへんにゅーせー! ターボたちも、助けられたら助けるからな!」
「……ってかいつになったらその呼び方やめてくれるんですか」
「え? へんにゅーせーはへんにゅーせーだろ? 何言ってるんだ?」
なぜかきょとんとされてしまった。確かにそうだけどさぁ。
私には、サファイアアリオンっていう、立派な名前があるんだけどなー……
「――あ。あれではないですか?」
肩を落とすと同時――
イクノさんが声を上げる。
弾かれたように目を向けると――そこに確かに。
……いた。
歩み寄って、来ていた。
白色が基調の、清潔感溢れるスーツに。
リムレス眼鏡。
緑がかった、黒い長髪と――
長い耳。
「――スレイちゃん!」
私は、思わず立ち上がっていた。
「……」
一方の彼女はというと。
すぐには反応せず――目の前まで歩み寄って来て、立ち止まり。
恭しく一礼していた。
「……お久しぶりです。アリオンさん」
果たして――
かつてとほとんど変わらない、凛とした声色で、答えていた。
ヒスイグループ本社ビル、ロビーの様子は、さほど変わってはいない。
今日も今日とて、スーツ姿の男女が、忙しなく歩き回っている。
ざわざわとした控えめな話し声は、全てが自分たちの仕事や、終業後の予定に関するもの。
ちらと『彼女ら』を見る者はあっても――
話題にするような者はいなかった。
「……」
「……」
「……」
「……」
そんなざわめきの片隅――
集った四人は、沈黙していた。
ツインターボは、困惑した風に目を泳がせており、
イクノディクタスもまた、怪訝そうに場を見守る。
サファイアアリオンはというと、実は、スレイエメラルドが何事かを話すことを期待して、口を閉じていたのだが。
「……」
当の本人はというと。
表情を崩すことなく、アリオンを一心に見つめていた。
その瞳は、冷たい――というほどではないが。
かといって――暖かくもない。
ただただ機械的なまでに、無機質に、アリオンの、次なる言葉を待っているようだった。
困惑と、疑問と、期待と、無。四つの感情が入り混じる、混沌とした沈黙の末。
「……ご用件は」
口を開いていたのは、スレイエメラルドだった。
「なんでしょうか」
「……あ……」
夢から覚めたように、アリオンは応じた。
「そのー……ひ、久しぶりだね! え、えっと、何年ぶりだろ。さ、三年くらいぶり……?」
「六年です。今年で七年目になります。ご用件は何でしょうか」
「や、その、用件って程の用件じゃないんだけど。とりあえずさ。さ、最近どうなのかなーとかって……」
「どう、とは?」
「……えと。お仕事の調子とか、生活とか。諸々……」
「仕事は順調です。生活も恙なく。特筆すべき問題はありません。……用件はそれだけでしょうか?」
「い、いや! えと、そのー……」
「……大丈夫ですか?」
イクノディクタスは心配そうに声を掛ける。アリオンは、それに小さく頷いて、方針を切り替えることにした。
本当なら、世間話で場を和ませたいところではあった――が、目の前の幼馴染は、様子が変わる様子もなかった。
機械的に、こちらの質問に答えるだけ。表情も、少しも、崩さない。
……変わっていない。
アリオンは、そう思う。
「……、」
しっかりしなければ、とアリオンは思い直していた。
「……おっけい。ホントは世間話したかったけど、そんなことも言ってられないからね」
何せ、時間がない。すぐに説得出来るとも限らない。無意味な世間話など要らない――
「ごめんね。回りくどいことして。……はっきり言うよ」
だから、アリオンは、謝罪もほどほどに、それを口にした。
「スレイちゃん、」
私たちの夢に、
協力してくれない――? と。
「……夢、ですか?」
「うん」
アリオンは、かつてのルビーフェアとのやり取りのように、簡潔にその内容を話す。
自身の夢、その内容――幼馴染と共に、大舞台で走りたい。
無謀に聞こえる、遠大な夢。
「なんだかんだ、フェアちゃんはもう、協力してくれることになってるの」
もちろん、そこのところの話も欠かさない。さすがにピンからキリまでではないが、は、なんとかぼかしながら。
あとは――二人だけだ、と。
「ね。きっと楽しいよ。想像するだけでもさ、ほら。わくわくしてこない?」
アリオンは、前のめり気味に、スレイに熱弁する。
「アルちゃんのことは……まだよくわかってないけど。それもきっと、どうにかなると思う。うぅん……どうにかする。きっと探し出して、仲間に引き入れる」
心配いらない、とばかりに。
遠慮はいらない、とばかりに。
依然として、無表情のままのスレイエメラルドに、語り掛けた――
「だから、」
だから。
「スレイちゃん。私たちに……協力してくれない?」
そう、締めるように、言った。
――相変わらずロビーには、人が行き交っている。
彼女らの会話など、誰もが知る由もない。
お疲れ様です――そんな声が、にわかに増え始める。
「……」
「……」
「……」
「……」
無言の時間が、再び訪れる。
「……」
「……」
「……」
「……」
スレイの表情は、変わらない。
「……」
「……」
「……」
「……」
あまりの変わらなさに。
アリオンは、もしかして聞こえていないのだろうか、などと、不安を抱き始めた。
「……なー」
その時――
口を開いたのは、ツインターボだった。
「どーなんだって聞いてるだろ?」
眉を顰めた彼女は、スレイに向けて、一歩踏み出す。
「時間ないんだぞ! はいかいいえで答えるだけじゃないか! なんでそんなにもったいぶるんだ!」
「ちょ、ちょっとターボさん……!」
「ターボ、落ち着いて……」
掴みかからんばかりの勢いで、そう捲し立てた彼女を。アリオンとイクノが、二人がかりで制しようとした。
「――ふっ」
瞬間。
スレイが――小バカにしたように、鼻を鳴らしていた。
「……スレイ、」
――気のせいだろうか。
と、アリオンは、一瞬だけ思う。
事実確認をするように、彼女の口が、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「ちゃん?」
「あぁ――失礼。少し、驚いてしまいました」
するとスレイは――
答えた。
「まさかあなたが、
まだ、『かけっこ』なんぞに、
精を出しているだなんて
思わなくて」
「……」
「……」
「……」
ぴり――と。
空気が、張りつめる。
冷汗を垂らし。眉を顰める。
あぁ――変わっていないと。
本当にこの子は。
何も変わっていない、と。
「……あ」
平静を。
平静を装い、アリオンは言う。
「あ――ははは。そ、そうなんだー。まだ精を出してるの。すごいでしょ」
「そうですね。そのような時間があることは素晴らしいことです」
「う、うん。でね。そのかけっこに、スレイちゃんも参加してほしいなって話で……」
「申し訳ありません。出来ません」
食い下がる彼女に――–
スレイは答えていた。
「先ほども申したように、そのような時間はありません」
「い――いや。でもさ。そのー……何? 検討くらいはしてほしいっていうか」
「申し訳ありません。私には、果たさなくてはならない『使命』があります」
下から、飽くまで下出に頼み込む彼女に――
「――『遊び』は」
答えた。
「もう、卒業しましたので」
「――ッ!!」
刹那――動いたのは、ツインターボだった。
彼女は、アリオンを押しのけ、前に出たかと思うと。
スレイエメラルドのスーツの襟首を掴み、引き寄せ、至近距離から、睨みつけていた。
「――ちょ、」
押しのけられたアリオンは、ほんのしばし呆然としたが。
その暴力的な行為に、慌てて縋りつく。
「ちょちょちょちょ!! ターボ先輩……!!」
「――今なんて言った」
にも関わらず。
ターボは、それを意に介さず、言う。
「今なんて言ったッ!! ターボにもっぺん言ってみろッ!! おいッ!!」
彼女の怒号が、エントランスに響き渡る。その光景に、さしもの社員たちも注目する。不審げに、あるいは心配そうに、彼女らの様子を、遠巻きに見守り始める。
アリオンはそれを感じて、ターボを引きはがそうとする力を強めるが、なかなか引き剥がすことが出来ない。
「だ、ダメですってば先輩!!」
とにかく、とアリオンは、ターボに呼びかける。
「さすがにここでそういうのは……!!」
「うっさい!! かんけーない!! ここまで言われて黙ってろってのか!? そんなん出来るわけないだろ!!」
「いやいや! その、スレイちゃんはそういうつもりじゃ……!!」
「ターボ。落ち着いて」
「――、」
見かねたイクノが宥めに加わり、ようやくターボは落ち着き、スレイから手を離す。
猟犬のように息を荒げる彼女とは対照的に、スレイは襟元を整え、至って冷静だった。
今度は、それを見たイクノディクタスが、前に出る。
「……すみません。せっかくのスーツが」
「いえ。お気になさらず。よくあることですので」
「……そうですか。しかし……」
最初こそ慇懃だったその瞳に、鋭い光が宿る。
「私たちは初対面です。もう少し……言葉を選んだ方がいいかと」
「えぇ。申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
「……、」
スレイは頭を下げるも、イクノは難しそうに片頬を指で掻くばかりだ。
言葉というか――意志が、根本的にすれ違っているような。そんな気がして。
「……スレイちゃん」
そこで、黙っているわけにはいかないのがアリオンだ。彼女もまた、前に出る。
「本当に、本当にもう、レースに興味が無いの?」
だがそれに、スレイは答えない。
「学園生活にも、誰かと過ごすことにも、意味がないって思ってるの?」
答えない。
「私たちと一緒に、昔みたいに、バカみたいなことしたいって。もう、思ってないの?」
スレイは――
答えない。
「……」
目を伏せ。
何事かを思案するように、しばし無言になり。
「申し訳ありません、」
やがて、言った。
「私が興味を持っているかどうかは。問題ではありません」
「だから、そういうことじゃ――」
埒が明かない押し問答――
あまりに変わらないスレイの状態に、さしものアリオンも声を荒げかけた。
「――!」
その時だった。
無機質な電子音が、響いていたのは。
スレイの目が、右手に装着した腕時計に落ちる。
彼女がそれに指を押し当てると、音は鳴り止んでいた。
「……時間です」
「へ」
「では、私はこれで」
「ち――ちょっと待ってよ!」
制限時間――
彼女と話せる時間が終ったのだ。
無慈悲に背を向け、歩き出す彼女に、アリオンは縋るように呼びかける。
「スレイちゃん!! お願い!! あと少しだけ――!!」
「おいこらッ!! 逃げる気か!!」
それに呼応するように。
ツインターボも、叫んでいた。
「さっきからいい感じのことばっかり言って、答えになってないだろ!! 言い訳ばっかしてないでしっかり話せ!! この――このッ――!!」
遠ざかる背中に。
自身の想いの、全てを込めて。
「――おくびょーものッ!!」
「……」
……その時。
スレイは、そこで立ち止まっていた。
ゆっくりと。彼女らの方に振り返る。
「――……」
その瞳は。
先ほどまでの、無機質なものではなく。
確かに――憤怒に、燃えていた。
「……あ」
だが、それも一瞬。
再び、背を向けると。
彼女は、自らのやって来た方向へと、歩き去る。
「……」
「……」
「……」
それを見送ってなお。
三人はその場で、しばらくの間、立ち尽くしていた。
「――あああぁぁぁぁぁッ、もぉッ!!」
河川敷に、ターボさんの怒号が響き渡っていた。
「なんッ、なんだよッ、アイツはぁッ!!」
それと共に彼女は、アンダスローで石を川に投げ入れる。川面に跳ねさせる意図があるんだろうけど。一向に成功する兆しが無かった。
「あぁーッ、もうッ!! 石無くなったーッ!!」
「……なんというか」
それを私たちは、土手の上から見守る。……イクノさんが、ぽつりと言っていた。
「こう……また難しい子ですね」
「……はい」
簡単なことではない、とは思っていた。
難しい戦いになるだろう、と考えてはいた。
でも、話せばきっと分かり合えると思っていた。少しくらい、話し合いの余地があると、信じていたのだ。
……まさか。
まさか、あそこまで頑固だなんて。
あそこまで、意固地だなんて。
あそこまで――
変わってない、だなんて。
「冷徹なまでに現実的で、冷酷なまでに合理的。なるほど確かに、若くして一流企業の秘書を務めているだけのことはあります」
「……昔から『ああ』なんです。あの子」
深刻そうなイクノさんに、私は言う。
「天才、神童……誰もがそう持て囃していましたし、実際何をやらせても完璧にこなす、文字通りの優等生でした。でもだからこそ……あの子は、自分のやってること、言ってることが、だいたい正しいということを、ちゃんと理解してる」
ただそれが、円滑な交流に繋がるとは限らない。
「あの子……全部を言っちゃうんです」
そう。
全部を言っちゃうんだ――あの子は。
「正しいことだから、間違っていないから。そういう確信を持っているからこそ、思っていること、考えていることを、全部言う。だから……フェアちゃんみたいな、感情的な子との衝突が絶えなかったし。……ほんの数回だけですけど、先生と口論したこともありました」
本当に数えるほどだったし、どんな内容だったかも知らないけれど。
彼女は――大の大人相手に、真っ向から張り合っていた。
今日のように。
恐れず、怯えず――怖気づかず。
見守る私たちの方が、むしろ引いてしまうくらいに。
「……社会に揉まれて、少しは裁量っていうのを学んでてほしかったんですけどね」
ターボさんが掴みかかった時――あの子は、いつものことと言っていた。
きっと、取引先の人とかとも、たびたびあぁいうトラブルを引き起こしてるんだろう。
それでも変わらない、曲がらない、彼女の信念。
自分に絶対の自信があるからなのか。それとも……譲れない使命や目的が、あるからか。
……それとも。
「どうするのです?」
イクノさんは、試すように言った。
「理詰めでは、ほとんど勝ち目はないのではないですか」
「……はい、もう。本当に。あんまりもたもたもしてられないのに……次はいつ会えるかもわからないし」
「いっそ拉致でもしますか。そしてレースにまた興味を持てるよう、催眠学習を……」
「あなたの発想普通に怖いです……」
「ああぁぁぁッ、もうッ!! ダメだ!! 収まらなーいッ!!」
冗談っぽく笑うイクノさんの傍ら、ターボさんが、何度目かの怒号と共に、荒々しく土手に上がってきていた。
「おい! 学園まで競争だ!! ビリはジュース奢りな!!」
「え」
「よーい、どんっ!!」
「た、ターボさん!?」
で……私たちが反応する間も与えず、どどどど……と、走り始めてしまった。
「……キてますね。だいぶ」
「当然です。私たちは……レースに真剣なのですから」
嘆くように息を吐いたイクノさんは、言う。
「私たちだけではありません。学園に通う誰もが、レースという競技に真剣に向き合っています。誰も、テキトーに――それこそ、遊びのように走ってなどいないでしょう。それをあんな風に言われたら……誰だって怒ります。実際……
……私も少々、不愉快でした」
「……イクノさん」
「おーい! 何ボーっとしてるんだー!!」
イクノさんが、これまでに聞いたことがないくらいどす黒い声を発したと同時。
ターボさんが、ちょっと前の方から呼びかけてきた。
「置いてくぞー!!」
「はーい! 今行きます! さ、行きましょう」
「……、はい」
促されるまま、走り出すイクノさんに着いて行く。
競争に関しては……負けてしまった。本当にジュースを奢ることになっちゃったけど、それにすらも、もはや悔しさを感じられなかった。
「……そうか。なるほどな」
翌日。
私の報告を受けたトレーナーさんは、どちらかというと、納得しているように見えた。
「優等生っつーから真面目とは思ってたけど、そこまでとはな」
「まさか二人の目の前で、レースを『遊び』呼ばわりするなんて思いませんでしたよこっちも。ターボさんの気持ちもわかりましたけど……抑えてほしかったなぁ」
幸い、物的人的被害は(ほぼ)なかった。あちらからの苦情も今のとこ聞いていない。でも一歩間違えれば、学園をも巻き込む大問題になるところだった。
「あの子もあの子だよ。言うにしてももう少し言葉選ぶとかさぁ……」
「ここで愚痴っても仕方ないだろ。けど……現実的な思考に堅実な立場か」
ココアシガレットを指で器用に回すトレーナーさん。いつもより多めに回しています。
「……やれるのか?」
「……、やれるかどうかじゃなくて」
それを見届けつつ、しかし、私は自信満々に返した。
「やるんです! それしか道は無いですから!」
「……」
「……?」
てっきり彼女は――それに、呆れながら何か言うと思った。
あるいは、悪い笑みで同意するかと思っていた。
けれどその時――彼女が浮かべたのは、なんとも表現し辛い複雑な表情。
いかにも、何かを言おうか言うまいか、延々と逡巡しているみたいな――そういう顔。
「……トレーナーさん?」
「いや……あー……」
「どうしたんです? 珍しく……」
「……いや。何でもない。なんつーか、あー……」
「……前にも、何か言いたげでしたよね」
ついこの間、ブライトさんをチームに迎え入れた日も、似たような反応をしていた。
物事をばっさり口にする彼女にしては珍しい、思い悩むようなもの。
それを彷彿と……というか、ほぼそれそのものの反応に、胸の内に靄が立ち込める。
「なんですか? 具合でも悪いんですか?」
「そういうわけじゃねーよ。ただ……言うべきかどうか」
「何言ってんですか今更。らしくない!」
そんな風に言葉を躊躇うことが、おかしくさえ思えた。
これまで散々、失礼なこと、そうでもないこと色々言ってきた彼女なのに。
今更、何かを言うことを躊躇うなんて――らしくない!
「私とトレーナーさんの仲じゃないですか。ってか今まで散々失礼な事言ってきたじゃないですか! 何を今更躊躇うんです! 私はもう平気ですよ!」
「オメーってたまに敬意ってもんをどこかに忘れてくるよな……」
「フレンドリーって言ってほしいですね!」
「謝れ。全国のフレンドリーに謝れ」
全国のフレンドリーってなんだろう、まぁとにかく、もう私とあなたの仲なのだ。何か言い淀むことなんてない。
言いたいことがあるなら、ちゃちゃっと言ってください!
「……、」
トレーナーさんは、ココアシガレットを指で回すのをやめた。じっとしばし見つめてから、私と目を合わせてくる。
特別な歪みの感じられない、朴訥とした瞳に――
どんな感情をこめているのかは、汲み取れそうにない。
「……アリオン」
さなかで彼女は。
私の名を呼ぶ。
「……はい」
私の返事も、自然、神妙になる。
トレーナーさんは。
喉を絞められているみたいに、なおも、声を躊躇って。
「――」
それでも――
それを、言っていた。
「――、
諦めないか?
」
「……」
――刹那。
彼女が、何を言ったのか、よくわからなかった。
窓の閉めてあるトレーナー室には、外の音はほとんど入ってこない。
時計の時を刻む音が、異様なまでに大きく響いた気がする。
「……はい?」
永遠にも見紛う間の末、紡いだ言葉は頓狂だった。
言葉という殻だけを纏った空気を、ただ口から吐き出したみたいだ。
トレーナーさんの顔が、気まずそうに顰められる。
言わなきゃよかったと、表情で語っている。
「い、」
いや、いや、いや。
ちょっと、待ってくださいよ。
「何言ってんですか、トレーナーさん。そんな、笑えない冗談……」
半笑いで言うけれど、彼女の表情に変化はない。冗談ではない。遊びでもない。本当に本気で言ったと、その佇まいが語っている。
「……言いましたよね、トレーナーさん」
……私は。
ふつふつと、何かが湧き上がるのを感じながら、口にする。
「私の夢を叶える手伝いがしたいって、言いましたよね」
「……あぁ。言った」
「私のために一肌脱いでやるって、言いましたよね」
「……それも、言った」
「なのに、なのに今更、そんなこと言うんですか?」
「……」
「――どうしちゃったんですかトレーナーさん!!」
らしくない。
らしくない、らしくない、らしくない!!
「いつもなら色々悪巧みするじゃないですか!! なんで今になってそんなこと言い出すんですか!? まさか理事長から圧力でもかかったんですか!?」
「違う。理事長は関係ない。あたしの独断だ」
「独断? はっ、じゃあなんですか?」
じゃあ、なんですかトレーナーさん。
まさかあなたは。
まさかとは思うけどあなたは――
「――ビビったんですか、もしかして!!」
そうだ。
彼女は、プライドの高い人間。こんな侮辱に、黙っていられるわけがない。
「相手が大企業だからって、怖気付いたんですか!?」
こうして、バカにしてやれば。
「今更になって、『死ぬ』のが怖くなったんですか!?」
「――、」
いつものように、逆上して――
「――そうだよ」
……でも。
私のその、立場を弁えない侮辱に。
「あぁ、そうだよ」
彼女は、震える声を隠しもせず、答えていた。
「そうだよ、ビビってるよッ!!」
自分の両腕で、自分の身体を抱き締めながら。
顔を俯かせ。
零すように、答えていた。
「……ビビッて……何が悪い……」
「……」
……その姿は。
年相応――ならぬ、姿相応で。
極寒の地に立っているのではないか、というほどのその震えは。
今にも、崩れ落ちてしまいそうで。
「……、……」
……私は。
私の中の何かが、急速に冷めていくのを感じる。
縋るように、望むように、自分の中に描いていた鮮やかな映像が。
急速に色褪せ。
焦げ付き、霧散していくのを、感じる――
「…………」
手を挙げることなど出来なかった。
罵倒することすらも叶わなかった。
私は、もうそれ以上何も言わずに。
静かに――踵を返す。
「――、アリオン」
「いいです」
扉に手を掛けながら。
背中に投げかけられた言葉に、応じた。
「もういいです」
もう。
いいです、と。
「どーせ『本業』にも大した影響は出てないでしょう。この夢は……私だけで叶えます。だからトレーナーさんは、私が『レール』から外れないように、しっかり『お仕事』してください」
「アリオン、あたしは――」
「お疲れ様でした!!」
聞きたくない。
聞きたくなかった。
私は、勢いよく扉を開け、乱暴に閉めて。
……勢いに任せるまま。
誰もいない廊下を、一人、走り抜けた。
静寂の戻ったトレーナー室で、担当はなおも立ち尽くしていた。
物言わぬ扉に伸ばした手を引っ込め、視線を床に落とす。
遅れたように湧き上がってきた情動は、程なく呼吸を速めるほどの激情へと変わり。
それに駆られるまま――
彼女は。
近くにパイプ椅子を、力の限り蹴り飛ばしていた。
「――っ」
物騒な音を立て、パイプ椅子が倒れる。
秒針が、無情に時を刻む。
担当はおもむろにその場にしゃがみ込むと。
自身の足先を、両手で抑えていた。
何かを耐えるように、力強い歯軋り。
「……痛ってぇな、クソ……」
やがて紡がれた言葉は――
支えを失ったように、弱々しいものだった。