神様なんかいない世界で   作:元大盗賊

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第46話 クロエ・クロニクルのログデータ

 

 

 わたしには年の離れた妹がいる。

 名前は「箒」。まだ生まれたばかりだけれども、目元がわたしに似て、美人の片鱗を見せている。きっとわたしみたいに、かわいくてきれいになるね! 

 

 わたしの大親友、ちーちゃんの所へ遊びに行った時に、箒の話をした。お父さんに連れられて病院に行ったこととか、ガラス越しから見えた箒の姿とか。今まで一人っ子だったために、先にお姉さんになったわたしはちーちゃんに自慢がしたかったのだ。わたしの話を聞くちーちゃんは嬉しそうに、わたしを祝福してくれた。そんな時、ふと気になったことをちーちゃんに聞いた。

 

『ちーちゃんって、もし弟か妹がいるならどっちがいい?』

 

 ちーちゃんはすごく考えていた。いつも気難しそうにしているちーちゃんが、こんなに悩んでいる姿、はじめて見たの! 

 そして、悩んだ末にちーちゃんはわたしに答えてくれた。

 

『わたしはね……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最近、束さまの元気がない。

 見せる姿はどこか朧で、覇気がない。研究ラボに籠るのは、いつもの束さまであるが、亡国機業の依頼で製作しているISの成果があまりない。というよりも、全く手をつけられていない。三度の飯よりもIS製作を好いている、いつもの束さまでは考えられないことだ。なので、時折機体調整の為に来ているM(エム)という人物も、困り果てていた。

 

 

「全く、かれこれ一週間も待たせて進捗がないとは、どういうつもりなのだ。あの女は」

 

 ソファに腰かけている黒い服と長い髪のMさんは腕を組み、目の前に座っている私を睨みつける。目を閉じていても感じる、私の身体を突き刺さんとする鋭い目つきは、怒りだけではない複数の強い感情を読み取れた。話に聞いていた通り、私の想像していた彼女の姿は織斑千冬と、瓜二つだ。姉妹と言っても過言ではないくらいに。しかしながら、Mさんの性格は攻撃的で、触るもの全てを傷つける刺々しい印象であった。

 

「そうカッカしないでくれないか、M。彼女は篠ノ之束様ではない。彼女に怒っても仕方ないだろう。困っているじゃないか」

 

 隣に座るスーツ姿の短髪の男は湯気の出るコーヒーを飲みながら、小さな牙をむき出しにしているMさんに言う。名がフロスト。Mさんと同じく亡国機業の人間であり、()()()私を連れ去った張本人でもある。以前会ったときは、若い男の風貌をしていたが今は、初老の男性に化けていた。以前とは雰囲気が異なっている。きっと今の格好は、変装か何かをしているのだろう。

 

「……そんな事、言われなくとも分かっている。私はただ、サイレント・ゼフィルスがどうなっているのかを知りたかっただけだ。そんなこと、木偶の坊に言われる筋合いはない」

 

 Mさんは男の横顔を眺めながら、私の淹れたコーヒーに手をつける。罵倒を受けた男は、彼女の扱われ方に慣れているのか、態度は何一つ変わることはなく、淡々と話を続ける。

 

「見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません、クロニクルさん。話を戻しますが、こちらは依頼通り、準備を進めています。それに篠ノ之束様がどのような人物か、こちらも把握しています。ですので、予定が多少前後することは想定済みです」

 

「ちっ……」

 

 無反応な事が癪に触ったのか、男の隣にいる人物は舌打ちをし、顔を背けて不機嫌な様子になる。

 

「ですが、ご覧のようにMの不満が募っている事を、篠ノ之束様にお伝えください。Mの態度だけではありません。篠ノ之束様直々の依頼ではありますが、予定への大幅な遅れは、それ相応の費用がかかることもお忘れのないように」

 

 言葉に反応したMさんの鋭い視線にびくともせず、男は私を見つめる。きっとこの男は束さまが、Mさんを気に入っていると思って言ったのだろう。

 

 束さまはこれまで幾度となく、国家や企業、団体問わず、多くのIS製作に関する依頼をされていた。だが、全て束さまは断っていた。理由はただ一つ『めんどくさいから』と。だが、束さまは亡国機業という組織のためにISを製作しようとしていた。なぜなら、束さまがMさんを気に入ったからだ。

 束さまは気分に任せて、何においても行動をされた。IS学園を襲撃し続けていたのも、ふと織斑一夏さまの成長を見たいと思ったため。気分以外の要因は存在しない。しかしながら、なぜ束さまがMさんを気に入られたか、今回だけは、束さまのお気持ちを理解出来なかった。身内以外に興味を持たない束さまが、他人へ興味を示す。それだけ、今回のケースが異様である、と言ってもいいと私は考えていた。

 

 確かに束さまは、Mさんに興味を示された。この男はMさんを引き合いに出せば、束さまが何かしらの反応を示すと考えているのだろう。しかし、今の束さまでは、その言葉でさえ耳の届かないものであると私は思っていた。束さまがISに手をつけなくなったのも、あの帰り以降から始まっているのだから。

 

 

 

 束さまは、最後の()()()()をしてくると言い残し、一人で数日出かけられた日があった。なんでも、探していたものをやっと見つけたとか。そして丁度一週間前、束さまは自宅へと戻られると、少しだけ元気がないご様子だった。きっと長旅の疲れもあるのだろう。そう私は感じ取り、束さまにリラックスしていただけるようにハーブティーを用意して、いつものように予定についての確認を行った。

 

『現在、ラボ及び周辺海域・空域へ侵入された形跡はおりません。資源、物資ともに備蓄は十分です。それと一つ、亡国機業に依頼していたMさんのデータをいただいています』

 

『……』

 

 終始束さまは無言で私の話を聞いていた。いや、あの時束さまは私の話を聞かずにいたのかもしれない。なぜなら、束さまの表情は何かに怯えるように顔を強張らせたまま俯いていたから。そして、私の報告が終わるとしばらく一人にさせてと一言言い残し、自室へと篭ってしまった。あれっきり、束さまはラボで一人篭りっぱなしになっている。束さまがラボに篭っていることはよくあること。赤椿製作の際にも、ラボに篭られて作業を行っていた。きっとMさんのISの製作に没頭しているものだと私は思っていた。ただ、実際はそうではなかったのだ。

 

 終わらせてきた、と話をされたので、束さまの旅は上手くいったと私は理解していた。数日いない間に束さまの身に何かあったのは、確実に言えることであった。

 

 

 亡国機業の二人が帰られた後、私は居ても立っても居られなくなった。私はいつもの明るい束さま好きだ。暗く、落ち込んでいる姿を私は見たくない。これはきっとエゴと言われる感情かもしれない。私の理想であり、普段通りの束さまに戻ってもらいたいという私の自分勝手な考え。

 このまま、束さまがラボの中から出てきてくれるのをじっと待つも選択肢があった。いつか、いつも通りの束さまに戻ってくれると。だけれど、私はその選択をしなかった。もう待つだけの、他力本願なままではいけないと感じたから。

 だから私は、()()()()に束さまのことについて相談することにした。

 

 

 世の中の知識からISまで、あらゆるものをお姉さまは知っていた。きっとお姉さまに知らないものはないのだろう、というくらいに。

 私はすぐさま、お姉さまをみつけ私の思いを伝えると、お姉さまは長い髪を揺らし、笑みを浮かべた。

 

「あら、そのことね。なら、クロエにも()()()を知っておく必要があるわ」

 

「”あの事”とは、一体どのようなことなのですか?」

 

 私はすぐに、お姉さまの言葉を理解することが出来なかった。束さまに仕え初めて数年、私はお姉さまのおかげで多くの知識を身につけてきた。ISのことだけでなく、世の中のことも。知り得る情報を全て知っていたと思っていたために、驚きを隠せなかったのだ。

 お姉さまは真面目な子ね、と私の頭を撫でて話続けた。

 

「それはね。お母様のお話だよ」

 

「お母様のお話……?」

 

 お母様。お母様は言うまでもなく、始まりのISである「白騎士」のことだ。そもそもなぜ、束さまが元気のない時に、お母様の話が出てくるのだろうか。

 

「篠ノ之束は()()に囚われているの。そのためには、あなたもお母様のことを知らないといけない。きっとお母様を知れば、解決できるかもよ」

 

 束さまとお母様。言うならば、ISを作り上げた初めての人物と、初めて作られたIS。関係性がないわけではなかったが、解決の糸口であるとは、私の想像もつかなかった。

 

 しかし、これがいつものお姉さまだ。最初はお姉さまの言葉には疑問を抱く。何の関係もないような、突拍子もない話をするからだ。でも、それは私に知識がないから、想像もつかないだけであって、お姉さまはいつも私を導いてくれた。

 

「分かりました。教えてください。お母様の話」

 

「うふふ、いいわよ。教えてあげる。お母様のことをね……」

 

 そしてお姉さまはどこか、嬉しそうにお母様の話をしてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 お母様は10年前、溢れる才能を評価された束さま、そして開発費を出資してくれた人たちと共同して作り上げられました。名は「白騎士」です。白騎士の搭乗者は、束さまによって既に決められていました。

 

「ちーちゃん! ほら、前に出て!」

 

 束さまは、親友の千冬さまに搭乗させました。束さまと千冬さまは親同士、研究者であるという共通点から、幼い頃からの長い付き合いでした。

 なぜ、束さまが千冬さまを選んだのかは、おそらく気まぐれだったのでしょう。本来であれば、作り上げた本人が乗るべきですが、束さまはそのように致しませんでした。

 

 その日は関係者に対して白騎士の稼働テストをお見せする日。これまでIS開発に関わってきた研究員や先生、そして束さまと千冬さまのご両親もいました。

 千冬さまは、束さまに背中を押され、白騎士に乗ります。白騎士はパーソナライズを終えると、千冬さまの意思に従ってその場に立ち上がります。その瞬間、研究所内には僅か数名しかいないものの、大きな歓声が上がりました。

 夢だと思っていた束さまのISが現実のものとなった瞬間でした。研究に携わった研究員や千冬さまの両親。そして、束さま本人もガラス越しに動くISの姿にたいそう喜ばれていました。

 そして、通信を行いながらテストを受けていたときのこと。それは、唐突に起こりました。

 

 

『IS、制御不能に陥っています! 強制解除プログラムが作動しません!』

 

「千冬さん、聞こえていますか!? ISの解除をしてください!」

 

「おい束、これはどういう事だ!」

 

 

 束さまの周りでは、慌ただしくなっていました。機械を操作する人が唾を飛ばしながら怒号が響かせ、白い上着を着た人たちが何処かへ行ったり来たりします。束さまの目の前には、千冬さまの父が束さまの肩を掴み、声を大にして問いただします。

 

 ISの暴走。そのように、周りの人たちは考えました。千冬さまとの通信途絶に、急激なISとのシンクロ率の上昇。さらには、動作確認をしていた白騎士が、突如として背部にある翼を広げ、活動範囲外へ脱出を図る動き。どれも、千冬さまの意図しない行動をしていたのです。

 そして、白騎士は右手に大きな剣を取り出すと、天井を斬り裂き外へと飛び出しました。

 

 周りの人たちが慌てている中、束さまは冷静でした。

 なぜ、冷静でいられるのか。それは、束は白騎士が何を起こそうとしているのか、理解されていたからでした。

 

「大丈夫ですよ、織斑さん。白騎士は、いやちーちゃんは次のステップへと進んだのだから」

 

 その直後、白騎士を捉えていたカメラ映像には光に包まれる白騎士の姿がありました。雲一つない、星が輝く冬の夜空の下に、白騎士はいたのです。空を見上げて呆然としていた白騎士は、まるで胎児のように身を丸めて光で覆われていったのです。その光は段々と小さくなり、人一人がすっぽりと入るくらいの大きさに小さく変化しました。そして、実験を行っていた施設の中へと自ら開けた天井の穴より戻ってきます。光が晴れると、そこにはうずくまっている千冬さまがおられたのです。

 

 

 

 

「この時にお母様と織斑千冬は生まれ変わったのよ。新たな人類、新人類(ハイブリッド)に」

 

 お姉さまの言葉で、私は現実に引き戻された。

 それは勢いよく私の頭の中に流れ込んできた。私の記憶ではない、別の誰かの記憶。いや、記憶とはほど遠いものかもしれない。誰かの目線の映像に、羅列された言葉のログデータ。ISが処理しやすいように加工された紛い物である。

 

「なんですか……。今の感覚は」

 

「ああ、クロエは行った事がなかったのね。情報共有を」

 

「情報共有……?」

 

「ISはコア・ネットワークを通じて繋がっているの。私たちはいつでも、みんなのことを知れるし、理解も出来る。例え、あなたのISが人工的に作り上げられた半同期型ISでもね」

 

 お姉さまは、私の目線に合うようにかがむと、私の頭を優しくなでた。

 

 お姉さまの言う通り、私のISは少し特殊で、ISを通して今いるコア・ネットワークへと、私自身が自由自在に行き来することができる。コア・ネットワークを通じて情報を得ることも、私に課せられた仕事であり、使命でもあるから。しかしながら、私が行っていたのはコア・ネットワーク上に流れている情報を一方的に得るだけ。相互の共有など、行ったことがなかった。

 

「その……。先程は、誰の()()だったのでしょうか……?」

 

「……ふふ。そういうことよ。理解が早くて助かるわ。それより、さっきの情報共有で何か気になることがあるんじゃないの? 例えば、お母様のことについてとか」

 

 気になること。ないわけではない。お姉さまには聞きたいことは山ほどある。しかし、とてもではないがすぐに答えることができなかった。まだ、他人であったという感覚が残っている中で、私にはそれ以外のことを考える余地がなかった。緊迫した張り詰めた空気と高ぶった興奮。相容れない二つの感情が私を押しつぶそうとする。耐え難い罪悪感で私の胸が締め付けられる。

 

 気持ちが悪い。一言で言い表すなら、そのような言葉になる。

 私の抱いていなかった感情が流れ込み、頭を混乱させた。私の様子に気付いたのか、お姉さまは屈んだまま優しく抱きしめて私の背中をさすった。

 

「大丈夫よ、ゆっくりでいいから。初めてのことだったものね」

 

 ここはコア・ネットワーク上の世界。0と1が飛び交うだけの、まっさらな青白い場所。痛みも、温かさも感じないはずなのに、なぜだか、少しだけ強く摩るお姉さまの手の痛みや、お姉さまの胸に包み込まれて感じる温かさがあった。

 

 これは情報だ。ISが処理しきれなかった人の感情や思いが一気に私の所へ押し寄せてきただけであって私の記憶でも、私の体験したものでもない、ただのデータだ。受け取った情報を私のIS『黒鍵』に処理を任せ始めると、心のわだかまりが、すとんとどこかへと去っていった。

 

「落ち着きました。ありがとうございます」

 

「そう、ならよかった」

 

 お姉さまは、私の体から手を放し、私の横に立った。私の身体には、まだお姉さまが抱きしめていた腕の感覚が残っていた。

 

「……お母様は一体何をされたのですか?」

 

 情報の処理を終えた私は、まずお姉さまが話したいのであろう、話題に触れる。そこに、答えが見えてくるはずだから。

 

「ISは操縦者を理解することで、より自身の性能を発揮するのは、あなたも知っているよね?」

 

「……はい。ISの稼働時間が多ければ多いほど、ISの性能が向上しているという研究は知っています」

 

 これはかなり有名な話で、私もお姉さまに教わる前から知っているほどの周知の事実だ。

 

「でもね、それだけでは足りないの。ISだけが理解をしても、その成長はいつか頭打ちになるわ。大事なことは、操縦者がISを理解すること。ISが操縦者に何を求めていて、何を話したくて、何をやりたいのか。コミュニケーションは互いが行って初めて成立するものよ。一方的なものはコミュニケーションとは言えないわ」

 

「つまり、織斑千冬さまとお母様はそれを行ったという事ですか?」

 

「そう。織斑千冬とお母様は、最初に出会ってから稼働実験をするまでの間に、互いを理解しあったわ。織斑千冬はISを知り、お母様は人を知った。互いに理解し合うことが出来たお母様は、この時織斑千冬と溶け合ったの」

 

「……溶け合った?」

 

「そうよ、織斑千冬とお母様はもはや別の存在ではないの。人間とISの垣根を超えて、お二人は新たな人種へと進化を遂げた。それが、ハイブリッド。織斑千冬さまは……いいえお母様は人であり、ISでもある存在よ。彼女らは正に人を超えた存在。人であっても並大抵のISでは、歯が立たないだろうね」

 

 ISが人となり、人がISとなる。それがハイブリッド。そうお姉さまは教えてくれた。

 ただ、私はお姉さまから何を聞かされているのか、理解が追いついていなかった。

 

「なぜ、そのようなことを、お母様はしたのですか……?」

 

「うーん……それは分からないわ」

 

 お姉さまは淡々と言葉を返した。あまりにも淡白な返事に私は思わずお姉さまを見上げる。

 

「これも憶測かもしれないけれど、きっと分かり合うためにお姉さまが下した結論なのかもしれないわ。ISと人、異なる存在が同じ気持ちで、同じ思いで居続けるにはそうするべきなんだって」

 

「束さまは、この事を知っているのですよね? ISが人と溶け合うという事に」

 

「ええ、だからお披露目された稼働実験で織斑千冬とお母様はハイブリッドになったわ。そうすることで篠ノ之束は、織斑千冬が幸せになってくれると思っていた。でも、現実は違った。ISと同化した織斑千冬は研究対象となり、軟禁状態にされた。自分自身を研究されるもの、楽しいわけがないじゃない。自分が望んでいたことが裏目に出てしまったと、篠ノ之束は思っているだろうね。織斑千冬を幸せにできなかったから。だから、彼女は最善策を取るために織斑千冬を救い、勝手にISを発表して、できるだけ、織斑千冬が幸せでいられるようにした。例え、自分たち以外が不幸になろうとも。そのことを篠ノ之束は思い出してしまった。それが、あなたがそばにいない間に起きた出来事よ」

 

 お姉さまの言葉には、心当たりがあった。私が、学園に対して「ワールド・パージ」を行ったあの日。千冬さまと遭遇した私を千冬さまは私のISを凌駕して追い詰めてきた。きっと、お母様のお力があっての事だったのだろう。だが、そうなるまでに千冬さまには、つらい過去があった。だから束さまは、千冬さまの事で苦しまれている。とお姉さまは私に伝えたいのだろう。

 

 ただ、私にはわからない。

 

「確かに、束さまは世界を変えられました。私もその影響を受けました。でも、私は今幸せです。……例え過去で苦しい思いをしたとしてもこうして、束さまとお会いすることができて、私は良かったと思っています」

 

 人の気持ちは、その人にしかわからない。伝えなければ、それは相手に伝わるものではない。

 

「千冬さまだってそうです。束さまが辛い思いをさせてしまったと思い込んでいるだけで、きちんと話をしていません。もし千冬さまが束さまを嫌悪に思っていたのだとしたら、千冬さまは、束さまと連絡を取ろうなんて思いません。拒否なんてしていません」

 

 束さまは考えに固執する所があった。きっと、今回だってそう。束さまが辛い思いをしているのから、千冬さまも同じように思っているのだと。だから、私はこうして幸せに暮らしているという事実を伝えなければならない。それが、ここに来た理由なのだから。

 

「私、束さまに伝えてきます。今この瞬間が、私の幸せなんだって。私のように思う人もいるんだって」

 

 私はお姉さまに礼をすると、ISコア・ネットワークへの電脳ダイブを解除する。すぐに、今、この気持ちを伝えるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あらら、すぐ行っちゃった。……誰の記憶を渡したか聞かなかったけれども良かったのかな? それにしてもくーちゃんってほんと篠ノ之束に懐いているよねえ。いいじゃないの、愛があるって」

 

 その場に一人取り残されたお姉さまは独り言ちます。紫色の長い髪を後頭部にまとめて、ポニーテールを作ります。

 

「ま、あの男に記憶を元に戻されるとは思ってもみなかったから、どうしたものかと思ったけど、これで()()()()()()かな」

 

 お姉さまはその場から、ゆっくりと前へと歩いていくと、青白かった世界が歪みます。

 歪んだ世界が元に戻るころには、一面が草花で生い茂っていました。風が吹き、色とりどりの花たちが揺れ、甘い香りを一面に放ちます。草がこすれ合う音は心地よいものでした。

 おとぎ話に出てきそうなお姫様が着る水色のドレスを身に纏い、お姉さまはゆっくりと歩きます。その先には、小さな可愛らしい赤い屋根の家がありました。

 

「確か名前は何だったっけな? ゼロだったっけ? あの博士の作った遺物を探さないとね」

 

 


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