「――資料ありがとうございました! ママとパパ、じゃなくて、母と父も喜んでくれました!」
「と、いうことは、ご両親の承諾を得ることができた、ということでよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんです! ずっと、夢見ていたことですから!」
卯月へのシンデレラプロジェクト参加打診の翌日、武内と陣内は再び養成所に足を運んでいた。
プロジェクトの概要や企業案内等をまとめた資料を前日に渡していたので、卯月はしっかりと両親と確認したようだ。
ただ、あくまで概要は概要。
雇用契約書を結ぶためにも、後日、島村家には挨拶に伺わなければならない。
たまに契約内容についてごたつくこともあるようだが、卯月に関しては心配することはないだろう。
まず、養成所に一人娘を通わせている時点で、ある程度、娘の夢に理解があることは確かだ。
一般的な家庭なら、まずそこで躊躇する。
かつ、生々しい話になるが、父親にそれなりに所得があると思われる。
養成所の月謝は、そう簡単に毎月負担できるものではない。
そういったことを含めて、卯月はようやく努力が実ったといえる。
「それは何よりです。では今後の流れについて、ご説明致します。何か質問があれば、適宜どうぞ」
「はい!」
「では、お願いします」
陣内が武内に促され、頷く。
「当プロジェクトは、美城プロダクションの今後を左右する大きなプロジェクトになります。二年前からアイドル部門を立ち上げ、順調に成長してはおりますが、まとまった『ブランド』はありませんでした。立ち上げ当初は前々からスカウトしたり選考したりすることで、幾人かを同時にデビューさせることもありましたが、以後は散発的にデビュー、その後ユニット結成といった流れがだいたいを占めていました。ただ、今回は新規部署の立ち上げ、およびアイドルたちの多方面へのプロデュースを経て、目指すはトップアイドル。つまり、シンデレラへ駆け上がるための一大プロジェクトになります」
「そのプロジェクトに……私が参加できるんですね!」
「はい、そうですね。続けます。昨日も簡単にお話ししましたが、欠員が三名出てしまいました。けれど、島村さんが参加してくださることになり、残り二名。現在、再選考を進めており、近日中には定員が揃う予定です」
「楽しみですっ!」
陣内の説明を聞き、卯月はより溢れる期待で胸がいっぱいになる。
昨晩、両親と一緒に渡された資料を読むだけでも心踊るのに、目の前でプロデューサーが直に説明してくれるとなると、より期待が膨れる。
しかも、デビューの時は近づいているときた。
落ち着けという方が無理だ。
「ただ、プロジェクトメンバー全員が集まるまでは、各自待機となります。再選考の2名が決定後、一斉に部署に配属となる予定です」
「待機、ですか?」
「はい。ただ、島村さんは養成所に通われているので、引き続きレッスンをお願い致します」
「あ、そうなんですね……」
陣内から待機、という言葉を聞いた瞬間、卯月の気持ちは少し沈んだ。
まだ待つのか、またレッスンの毎日か、と。
しかし、即座に気持ちを切り替える。
待つのは慣れている。
夢への道が開かれただけでも、頑張る力が湧いてくる。
持ち前の明るさと笑顔で、卯月は気合を入れた。
「――わかりました! 島村卯月、頑張ります!!」
武内と陣内はというと、やはりそういう反応になるか、というところだった。
二人は当初から一斉配属、それまで待機、といった方針に反対だった。
せっかくのアイドルの卵、早いうちにレッスンをすることで基礎の力を積み、いざという時に大きく羽ばたくことのできる準備をしておくべきだと。
既に地方から東京に移住し、寮に住んでいる少女もいる。
ただ学校に通わせるのではなく、何かアイドル活動につながるための行動をさせたかった。
しかし、それに対する上層部の反応は悪かった。
曰く『当プロジェクトは実験的な要素も多いため、アイドル候補生の配属は同時期が望ましい』とのこと。
要は一斉スタートでどれだけのものになるか、プロデュース方針によってどれだけ差がつくか、ということを試したいのだろう。
未来ある少女たちを、自らの利益のためのテストとする。
企業であるために従うしかないのだが、武内と陣内はこの方針に納得できなかった。
「申し訳、ありません」
「えぇ!? ど、どうしてプロデューサーさんが謝るんですか!?」
「せっかくアイドルデビューが目の前にあるというのに、待機をお願いすることになっているので」
「そ、そんなこと言わないでください! 私は、一度落ちたのに、再選考してもらえただけでも、幸せものです!」
笑顔。
そう言って、卯月は満面の笑みを浮かべた。
武内と陣内はその笑顔に、どこか救われた気持ちになり、また、この笑顔を無くすようなことがあってはいけないとも思った。
そのための自分たちである。
「――ありがとうございます。ただ、レッスンといっても、今までどおりのものではなく、こちらで特別に用意したものをお願いします」
会社の方針には納得できない。
だったら、その方針の中で、できる限りの努力をする。
そう考えて二人が出した案が、これだ。
「特別レッスン、ですか?」
「はい。サブロー君、資料を」
「こちらです。弊社のトレーナー陣に考案してもらった、レッスンプログラムになります」
美城プロダクションが誇るトレーナー陣。
その実は四姉妹であり、長女からマスタートレーナー、ベテラントレーナー、トレーナー、ルーキートレーナーとなっている。
とんでもなく厳しいマスタートレーナーから、学業とトレーナー業を両立させている優しいルーキートレーナーまで、多種多様に対応できるようにしている。
そのトレーナー陣、といっても、まだアイドル候補生なので、トレーナーとルーキートレーナーが考案したレッスンプログラムである。
これがマスタートレーナーとでもなると、トップアイドルでも音を上げること間違いない。
ただ、なかなかにキツいことは変わらない。
基礎体力から、柔軟性、表現力、そしてレベルの上がったステップ。
これらを一通りクリアすることを求められたプログラム内容は、養成所レベルを軽く上回っている。
「こ、これをやれ、と……?」
「既に養成所のトレーナーさんには相談しており、了承を頂いてます」
「トレーナーさんも仰ってましたよ。『卯月ちゃんなら乗り越えてくれると思います!』と」
卯月は内心でトレーナーを責めた。
なんで了承しちゃったんですか、と。なんで心の中のトレーナーさんは良い笑顔でサムズアップしているんですか、と。
でも、やるしかない。卯月は早々に諦めた。
「はい……頑張ります……」
今までとは全然違う『頑張ります』にプロデューサー達は苦笑い。
とはいえ、とりあえずの説明は終わった。
あとは再選考の結果が出次第、卯月に声をかけるだけとなる。
「こちらからの説明は以上となりますが、何か質問はありますか?」
「うーんと……はい! CDは、いつ出せますか?」
CDリリース。
やはり、アイドルになるからには、そういったことに興味があってしかるべきだろう。
いつですか、ときらきらした表情で問いかける卯月に、陣内はまたも苦笑しながら武内を見やった。
「現在、企画中です」
「なるほど~。あ、はい! TVには、いつ出られますか?」
「現在、企画中です」
「なるほど、なるほど~。あ、はい! ライブとかできるんでしょうか?」
「それも、現在、企画中です」
「そう、ですよね……」
武内が淡々と卯月の質問に答える。
どれも現在企画中との回答に、卯月の表情は陰っていく。
その様子に武内は困った様子で首の後ろに手をやり、陣内がすかさずフォローする。
「あー、島村さん。これははぐらかしている訳ではなく、本当に企画中なんです」
「え……?」
陣内は卯月を安心させるように続けた。
「先ほどもお話ししましたが、新規部署の立ち上げ、多方面へのプロデュースといった性格上、事前にメディアへのデビューを発表することが難しくなっています。プロジェクトへの配属後、ソロでデビューするか、ユニットでデビューするか、どういった曲調のCDを出すか、そういったことを、適正を見ながら考慮しなければなりません。なので、今の段階で島村さんの質問に、明確にお答えすることができないことを、ご理解頂けないでしょうか」
そう言って頭を下げる陣内に、卯月は冷静に考える。
確かに、陣内の言っていることは、よく考えてみれば、その通りであった。
自分のことをプロデューサー達もよくわかっていない。
プロデューサー達のこともよく知らない。
ましてや、同僚となる外のアイドル候補生に、どんな子達がいるかもわからない。
そんな状態で、どうデビューするかなんて、答えることができるわけなかった。
それでも、誠実に答えようとしてくれた陣内に、卯月は自らの見識の狭さを恥じた。
「すみません、サブプロデューサーさん……何か、焦っちゃったみたいです」
「いえ、お気になさらないでください。当然のことかと思います」
恥ずかしそうに笑う卯月を見て、武内は視線と軽い頷きで、陣内に感謝した。
自分には上手くフォローできないことが多いので、こういった時に陣内のコミュニケーション能力に助けられる。
陣内は後で何か奢ってもらおう、と思いながら、卯月を促した。
「他にも、聞いておきたいことがあったらどうぞ」
「――じゃあ、最後にひとつ、いいですか?」
「ええ、もちろん」
一度前置きした卯月は、うつむきながら、口を開いた。
「どうして、私なんでしょうか?」
自信なく、不安げに問いかける。
「私は選考に落ちているので……再選考理由とか聞かせてもらえれば、と思って」
言葉尻が小さくなりながら、卯月は言い切った。
勇気のいる質問だっただろう。
あなた達は一度私をいらないといったのに、どうして今更私を必要というのですか。
キツい言い方をすれば、こういうことだ。
欠員補充だとしても、嬉しいことは嬉しい。
ただ、その理由がわからなければ、今後、何を芯にして活動していけばいいのか、不安になってしまう。
武内と陣内は、もちろんこの質問を予想していた。
むしろ、絶対に聞かれると思っていたし、それに対する回答も伝えなければいけないことだと思っていた。
陣内の後押しを受け、武内が話す。
「――笑顔です」
一拍置いて。
「あなただけの、あなたにしかない、笑顔です。その笑顔に、私たちは惹かれました」
「笑顔……?」
「はい。説明不足でしょうか?」
笑顔。
あなただけの、あなたにしかない、笑顔。
「――いえ……いいえ! 笑顔だけは、自信があります!! ぶいっ!!」
灰かぶりの時計が、また一つ大きく動いた。
卯月の養成所の帰り道。
外出したついでに外回りをするということで、武内と陣内は渋谷駅で降りていた。
「サブロー君。先ほどは、ありがとうございました」
「そんな、あらたまってお礼言われるようなことしてませんよ。それに、こうして既にモノで頂いちゃってるんで」
そう言って陣内は手元のコーヒーカップを持ち上げる。
外回りついでに、二人は喫茶店で小休止を取っており、そこでのコーヒーを武内が奢ったというわけだ。
武内はブラックを、陣内はカプチーノを頼んでいた。
「それにしても、よくブラックなんか飲めますね。苦くて、ちょっと酸っぱくないですか?」
「確かに、苦味も酸味もあります。ですが、香りが、好きなんです」
「ほほー。っていっても、まだ俺にはわかんないですね!」
「いつかわかる時がきますよ」
落ち着いた雰囲気でブラックを飲む武内に、陣内は、そういうものか、と特に深く考えずにカプチーノを飲む。
苦味もありつつ、甘みもあるので、飲みやすくて気に入っていた。
さて、休憩も程々に外回り行きますか、とお互い残りを飲みきった瞬間、ふと武内の視界に、ある女子高生が目に入った。
よく手入れのされた髪、少し着崩した制服に、低くはない身長。
その横顔を見て、武内は『ティン』ときた。
残り二名の内、一人はこの子だ。
「タケさん?」
何かを見つめている武内の様子に、陣内もその視線の先を見る。
その女子高生は突然立ち止まった。
目の前の小学生男児がうずくまり、唐突に泣き出してしまった。
なんだろうか。
よく見ると、男児の手元にはおもちゃらしきものがあった。
武内は店を出て声をかけようと思ったが、この状況では出ていくに出ていけない。
少し落ち着いたところを見計らおうとした、その時。
近くの交番から、警察官が女子高生と男児に向かっていくのが見えた。
女子高生は困っている様子だが、この男児を放っておくわけにはいかず、立ち尽くしていた。
様子から察するに、女子高生が疑われている。
「――すみません、先に出ます」
「ちょっ、俺も行きます! て、店員さん! ごちそうさまでした!」
武内がバッグ片手に尋常ではない早歩きで喫茶店を出ていく。
一歩遅れて、陣内も急ぎ足で店を出た。
先会計で良かった、と思いながら。
陣内が店を出ると、既に警察官が女子高生へ詰め寄っているところだった。
「――少し、話を聞かせてもらえるかな」
「別に、なんでもないよ」
「なんでもないってことは「うぅっ、ぐすっ」……とにかく、一旦、署の方にまで来てもらうよ」
「えっ、ちょっと待ってよ!?」
女子高生は確かに何もしていなかった。
武内と陣内が見ていた限りは。
ただ、その女子高生の態度や身なりがよくない方向に働いてしまったのかもしれない。
着崩した制服、ピアス、ネックレス、両手はカーディガンのポケットに突っ込んだまま。
両者、いや男児も含めて三方すれ違ったまま、あまり良くない方向に話が進んでいた。
「あの」
「うわっ!? な、なんですかあなたは」
そこに強面の、ガタイの良い武内が、二人の背後から、のそっと現れる。
遅れて陣内も。
「そこの喫茶店から見ていたのですが、彼女は本当に何もしていません」
「っはぁ、タケさん早いな本当……ええ、私も見ていましたが、その子は歩いていただけですよ」
「そう……なんですか?」
それなりに身なりのしっかりしたサラリーマン二人の証言に、警察官も強くは出れなくなった。
確認の意味を込めて女子高生に顔を向けると、突然の出来事に動揺しつつ、頷いた。
ではいったい、どうして男児が泣いているのだろうか、と警察官がいぶかしんでいると、陣内が男児の前にしゃがみこんだ。
「よぉ、にいちゃん。ずっと泣いてても何も始まんないぞ。おもちゃ、どうした?」
「うぅ……あのね、おもちゃのね、ネジがね、落ちちゃってね。ぐすっ……おねえちゃんに、ふまないでってね、おねがいしたの。でもね、手からおもちゃが落ちちゃってね、こわれちゃったの」
「おーおー、そうか。嫌な気持ちになったよな。でも、ちゃんと話してくれてありがとうな。ほれ、手出せ」
陣内ができる限り目線を合わせて話しかけると、途切れ途切れだが男児が事の顛末を話し始めた。
要はそういうことで、女子高生は本当に何もしておらず、むしろ男児が急に泣き始めて、あやすこともできず困って立ち尽くしていた、ということだった。
頑張った男児には報いるところがなければならない、と陣内はバッグから飴を取り出して、男児の差し出した手に置いた。
「おじちゃん、いいの?」
「おじちゃんかー、まあ、いっか。おう、お礼だからな」
男児は飴を食べると、泣いていた顔を一変させて、笑顔になった。
持っててよかったフルーツ飴、と陣内は男児を頭を撫でた後、立ち上がった。
「で、こういうことなんですけど、その子の疑いは晴れましたか?」
警察官は自分が早とちりしてしまったことを認めた。
「こ、これはどうも大変失礼を致しました!」
「俺じゃなくて、その子にお願いします。あと、この男の子、親とはぐれてるんじゃないんですか?」
すみませんでした、と警察官が謝るも、女子高生はそれはそれで困った様子だった。
その後、やはり男児は母親とはぐれてしまってもいたみたいで、交番で保護する預かりとなった。
とりあえずその場を離れようとした際、交番から男児が大きく手を振っていたので、女子高生と陣内は手を振り返した。
「――申し訳ありません」
「えっ?」
「余計なお世話だったでしょうか」
武内はいつもの癖で、首の後ろに手をやりながら、謝った。
声をかけなくても、穏便に事は進んだかもしれない。
今更ながら、そう思えてきた。
「いや、別に……私の方こそ、巻き込んじゃったし」
でも、女子高生も満更でもないというか、気恥ずかしそうに、前髪をいじる。
陣内は、あれ俺がお邪魔虫みたいになってる、と考えていた。
すると、武内が声をかけてきた。
「サブロー君、資料を」
つまり、スカウトするということ。
喫茶店の時から、あれだけ真剣に女子高生を見つめているということは、つまりそういうことなんだろうと当たりをつけていた陣内は、手際よくバッグからシンデレラプロジェクトの資料を取り出す。
いささかタイミングとしてはどうなのか、と思いつつも、この機会を逃したら二度と会うことはないかもしれない。
武内もそう思っていたが、チャンスを逃すつもりはなかった。
「――あのっ「私、こういうものですが、アイドルに興味ありませんか」……」
女子高生が口を開いたタイミングと、武内が名刺を差し出したタイミングが被る。
陣内は表情に出さずとも、やっちまった、と頭を抱えていた。
「なんだ、勧誘の人だったんだ……。声かけたのも、それが狙いだったわけ?」
女子高生の表情が曇り、声にもトゲが見え始めた。
「――あの時、あなたが何もしていないということを説明できたのは、スカウトしようと思い、視線で追っていたからでした」
嘘を言ってもさらに警戒されるだけだ。
武内は正直に話す。
「でも、声をかけたのはそのためではありません。単純に、あなたを助けたかったからです」
「――っ、そんなこと言われても、騙されないんだから」
よこしまな気持ちのない、まっすぐな武内の目に、女子高生は一瞬揺らいでしまった。
しかし、すぐに持ち直し、気丈に振る舞う。
こういう勧誘には甘いところを見せてはいけない、と高校の入学式の時に注意があった気がした。
このまま帰ろうと思った時、陣内が声をかける。
「騙すつもりなんて、ないんだ。信じてほしい」
「……」
「ただ、そうはいっても、難しいよね。だから、資料だけでも、受け取ってくれないか?」
そう言って、手元の資料を差し出す。
先ほど、男児相手に普通に喋ってしまったので、今更シャチホコばって話すと逆に怪しいと思い、素で話した。
「自分たちは、真剣にアイドルをプロデュースしようと思っている。それが本当かどうか、君の目で確かめてほしい。その判断材料の一部がこの資料の中に入ってるから」
静寂。
どちらから喋るわけでもなく、陣内が資料を差し出したまま、時が過ぎる。
瞬間、資料を持っていた重みが消えた。
そこには、納得しきっていない表情で、資料を手にする女子高生の姿があった。
「――資料だけ、もらっておく」
場所は変わってシンデレラプロジェクトのプロジェクトルーム。
女子高生と別れた後、外回りする事もなく、武内と陣内は会社に戻っていた。
オフィススペースに入り、武内が椅子に腰掛けた時、陣内が勢い良く頭を下げた。
「武内さん、でしゃばってすみませんでした!」
「――なんのことでしょうか」
武内は突然のことに驚きの表情を隠せなかった。
むしろ驚き過ぎて手が止まっているのは雑務の千川の方だった。
なんでいきなり修羅場なの。あと、陣内君がプロデューサーさんのこと武内さんって呼ぶの初めて聞いたわ。
まったく落ち着かない千川だったが、そんなことを気にする余裕もなく、陣内は頭を下げ続ける。
「先ほどのスカウトの件です。私の勝手な行動で、武内さんの邪魔をしてしまいました」
武内がスカウトしていたのに、横からつい口を挟んでしまった。
それに名刺の受け渡しができなかったので、相手の名前すらわからない。
陣内は、帰り道からずっと反省していた。
「サブロー君。頭を上げてください。謝る必要などありません」
「ですが……」
ただ、武内はそんな事は気にしていなかった。
だから陣内に頭を上げさせようとするも、陣内は頑固だった。
柄に無いことをする。
そう自覚しながら、武内は珍しく大きな声を出した。
「サブロー君!」
「は、はい!」
思わず陣内は頭を上げる。
そこには、いつもの武内がいた。
「――私は、今まで部下を持つことがありませんでしたが、サブロー君がサブプロデューサーとして配属してくれて、本当に助かっています。私に足りないところを補ってくれています。島村さんへのフォローや、先ほどのスカウトの時だって、そうです」
千川は空気を読み、給湯室へ向かった。
部外者の私が聞いていいことじゃなさそうね、と思いながら。
「あの時のサブロー君の行動は、勝手ではありません。サブロー君が引き止めなかったら、資料も受け取ってもらえなかったと思います。ですから、謝るのはサブロー君ではありません」
「え、それって」
「いたらない上司で、申し訳ありません」
先ほどとは打って変わって、武内が陣内に頭を下げた。
先輩に、上司に頭を下げられた陣内はたまったものではない。
「いや、タケさん!? なんでタケさんが俺に謝ってるんですか!?」
「――? いつも助けてもらっているので」
「いやいやいや、勘弁してくださいよ、俺の方がいっつも迷惑かけてるんですから!」
「そんなことありません。サブロー君はよくやってくれています」
「あぁ、もう、やめてくださいよ当たり前のことしているだけじゃないですかー!」
「それを当たり前といえるところが良いところです」
「なんなんですか今日はいったい!?」
頭を下げる武内に、体を起こそうとする陣内。
そのやり取りが何度か続き、いつまで続くのだろうかという時、オフィススペースの扉が開いた。
「もしもーし。いつまで夫婦漫才やってるんですか?」
そこには、お盆にお茶とお茶請けを載せた千川がいた。
スペースの真ん中でお辞儀しあっている二人をデスクに座らせ、目の前にお茶とお茶請けを置く。
最後に自分もデスクに座る。
「あの、千川さん」
「大の男たちがなにやってるんですか。お茶でも飲んで落ち着いたらどうです?」
サービスしておきますよ、と千川は早々にお茶請けの煎餅をバリバリ食べ始めた。
いつもはスタミナドリンク・エナジードリンクを飲ませておいて、はいお金、と請求してくることもあるのに。
ただ、そんな千川が気を使ってくれたことに、武内と陣内は感謝し、顔を見合わせつつ、お茶を飲んだ。
「千川さん、いただきます」
「千川さん! ありがとうございます!」
温かいお茶が二人を落ち着かせる。
「――サブロー君。これからも、サポートお願いします」
「っはい! 頑張ります!!」
魔法使いと、その弟子の時計も、針を進めた。
「ただいま」
「おかえり、凛。ご飯は?」
「ちょっと、後で」
がちゃ。ばたん。
べりっ。どさっ。
「――嘘つき。何が資料だけでも、だよ」
「しっかり名刺入ってるじゃん」
灰かぶりの時計が動く気配を見せた。
企業案内送る時、名刺入れますよね。