階段を登りきり、道を曲がって自分の自宅へと到着する。ポケットで遊ばせていた鍵を取り出して玄関のドアの鍵穴に刺す。ロック解除して中に入る。遅れて親父が帰ってくることを考えて鍵は開けておくことにする。
しんとしていて誰もいない居間に入ると真っ先に仏壇の前に座る。一週間に1回のペースで拭き掃除をしているため埃はさほど付いていない。海遥は黒く艶が出ている仏壇に置かれている2つの写真を見つめる。
俺はずっと考えていた。きっとこれは実に大したことなのではないのかもしれないけれど、どうあがいても簡単に決定ボタンを押せるような気楽な判断はできないのだ。
これが俺の決断なんだ。みんなは多分これの正反対に動くんだろうなって思う。それでも、俺はもう決めたんだ。
正しいとか、正しくないとかを勝手に決めるものではない。俺がこうするべきなんだと、この意志が大切なんだ。あの人のためにも早急に手を打つべきなんだ。そう、それだけなんだ……。
目を閉じて自分に言い聞かせる。1回深呼吸をしてから立ち上がり、目的のものを探し始める。それはもう1年以上使っていないものだから、どこに置いたかは全くもって記憶から抜け落ちていた。
「ふああぁぁぁああ」
ベッドから起き上がったときに大きなあくびが出た。気づいたら寝ていたようだ。眠れないほど頭の中で混乱しながらも色々考えていたはずだったが、体は正直。眠いときは眠る。
一樹は自室から出て1階のリビングへと降りる。いつものような眠さからくる体の怠さはあまり感じられなかった。かなり珍しい朝を迎えて変な違和感を感じながらリビングの椅子に座る。
「おはよう。もうちょっとで作り終わるから」
母はすぐ隣のキッチンで朝ご飯の支度をしていた。フライパンで何かを調理している音が聞こえてくる。はたしてそれは炒め物ではなく目玉焼きだった。一樹は目玉焼きにはソースはなのだが、両親は醤油派。醤油と醤油との間にソース派が生まれてくるのだから、人間は不思議である。
朝ご飯を待つ間にテーブルに置いてある新聞等に目が行った。四つ折りになった朝刊にチラシなどが数枚挟まっている。その下に見慣れない紙があったのでちょいとした興味でそれを手に取る。
そこに書かれていた内容に一樹は目を見開いた。目覚めの良い朝にさらに驚きのニュースをぶち込んでくるのだから、今日は相当目覚める日だ。
「あ、復旧完了したんだ」
そこにはこのあたりを走る電車が長い間の復旧工事が終わり、明後日の朝から下記にあるスケジュールではあるが運行再開するようだ。
「そうらしいね」
背後からそれをのぞき込むように母が朝ご飯を持ってくる。2人分の目玉焼きが並べられ、冷蔵庫から持ってきたソースを一樹の近くにセッティング。
「あれ以来ずっと使えなかったから大助かりだな。バスしか他に使える移動手段なかったし」
「これで隣町に行くのも手間が省けるわねー」
バスでの移動となると電車よりもかなり時間が掛かる。それ故に隣町へ行くことの回数が減ったり億劫になって行かなくなったのは事実だ。一樹の母は前者である。
自分用の茶碗にご飯が盛られて出てくる。ほのかに揺れる湯気がおいしさを際立たせる。テーブルに置かれている箸たてから自分の箸を取り出す。
母も野菜類の品を置いて椅子に座る。手を合わせお互いそろえて、いただきますの儀を済ませてから一樹はまず目玉焼きにソースをかける。かけ終えてキャップを閉めると箸を持って野菜を取り皿にのせる。それから、何故かふと思い出す。
『土砂崩れだよ。2年前にあっただろ?』
『その結果は、果那ノ海の人口減少だ』
先日の作業の日に航大が言っていた言葉。あの時までただの"土砂崩れ"で終わっていたあの出来事は、海の中では続きがあったのだ。聞かなければ多分一生知ることはなかった出来事。それになんだか寂しさというか、孤独感を一樹は感じていた。
不運にも巻き込まれた電車に乗っていた何人かは亡くなっている。それ以降地盤を安定させてレールを引き直して運行再開、とスムーズにはいかなかった。もしまた落石が起きたらどうするんだ、亡くなった人のことも考えろ、などなど。陸でも不満の言葉が前後左右あらゆるところから飛んできた。確かに遺族の方々はそこを難なく通過できるかと言われたら簡単には答えられない。けれど、だからといって復興させないとなると久里ノ上の交通網が一気に狭まる。誰もが使える電車がなくなるとそれはそれで不満の声が出るのは目に見えている。
結局はこの通り再開だ。嬉しい限りである。けれど、当然筋の通った発言もあったが、自分勝手な発言を勝手に投げつける大人たちに一樹は小6にしてうんざりしていた。
ここの地方のテレビでは連日報道していた。何回も何回も場違いな発言が流れてた。時には海の人間のせいだ、なんて冗談でも言ってはいけないようなものまであった。
なんでそんなことを平気で言えるのだろうか。僕には理解出来ない。そもそも、あんな土砂崩れなんて起きなければ……。
起きなければ……吉野川さんたちとは、今でも出会えていない。
あの事故で海の人たちが出て行った。それによって人口減少が発生して、子供の人数が減った。それは吉野川さんたちの学年ももれなく減り、結果的に海の学校は閉校せざるを得なくなった。だから、陸に来た。
何にも起きなければ、いつも通りの平凡な日だったのなら、僕は今でも吉野川さんとは出会っていないのだ。永遠にとまでは行かないにしろ、僕は名前すら知っていない。
海で中学生活をしていたら、もしかしたら僕の知らない海の男子のことを……。
いや、今更考えることじゃない。今は今だ。ifの世界じゃない。もう土砂崩れは起きた。終わっても遺族の辛さは決して消えないけれど、電車は開通した。そして、僕は彼女と出会えた。そして彼女は陸の生活を楽しんでいるようだ。だから、だからいいんだ。
けれど、あの話を航大がしているとき、彼女は俯いていた。決して何も感じていない表情ではなかった。それを見て僕はどう思った?そして昨日の出来事も。それを聞いて、今の気持ちはどうなんだ?僕は、吉野川さんのことを好きとちゃんと思って……
「大丈夫?ずっと固まってるけど」
母の声で我に返る。僕は箸を持ったままずっと考え込んでいたようだ。それは不思議がるのも無理はない。なんでもないと言って一樹は野菜から口に運ぶ。
学校に着いても霧がかかったように頭の中がスッキリしない。自分には珍しい寝起きがあったがやはりダメなようだ。
昨日から考えてみているが、そうすればするほど自分の半端さが浮き出てくる。どうしたいのかもわからず、逆に自分に腹が立ってくる。でもそれはすぐに鎮火して再び沈む。
こんな状態で授業を受けられるはずもなく、今日はボーッとした一日を一樹は過ごした。
曖昧な状態は放課後のおじょしさま製作の時間も続いた。あとは小物作りなど細かな作業を終わらせれば完成だろう。皆一生懸命に取りかかっている。
俺はカッターで発泡スチロールを削っていた。何でもこれはおふねひきを見る場所へと案内する看板に使うらしい。らしい、というのは言うまでも無くこんな状態のためなんとなく聞いていたからだ。けれどどんな文字を作るかはメモを貰っているし、油性ペンで下書きしてあるものもあるのであたふたすることはない。
作業している席のすぐ横には何個か発泡スチロールが重ねて置いてある。まもなくおじょしさまの方は完成ということでこういった作業も始めておこうということだろう。大生と航大などは良いコンビネーションで作業を進める。女子たちもこれまた初回と変わらず楽しくやってる。
視線を手元に移して一樹はまた靄の中に身を入れる。好きで入っているわけはないのだが、そうせざるを得ない。
ここまでずっとズルズル引きずるのも良いとは言えない。けれど、簡単に忘れて普段通りに行こうともなれない。自分で忘れよう、気にしないようにしようと思ってもできない。そうすればするほど気にしてしまうのだから。
誰か教えてくれないのだろうか。この気持ちは、俺の中でモヤモヤするこの気持ちは、何なのだろうか。本当の、正真正銘の、純粋な"好き"という気持ちなのだろうか……。
グサッ
「って!」
靄から顔を出す。痛みで我に返った。カッターを放り投げて痛みの出所を右手でグッと押さえる。左手の親指の第1関節と第2関節の間あたりに、ジワッと赤い水が這い出てくる。
席を立って窓際に設けられている水道の蛇口をひねって水を出す。それと混ざり合うどころか、水道の勢いに負けて血は一気に流れていく。何だかそのあっけない姿は自分に似ているなと思えた。
「おーい、大丈夫か?」
皆が自分の方を見ていた。
「いや、ただ切っただけだよ。気にすんな」
そう軽い感じに返して一樹は蛇口をひねって閉門する。なんてこと無い不注意なだけなのに皆の手を止めてしまったことに申し訳ない思いに駆られた。
ポケットからハンカチを出して水気を拭いたが、まだじんわりと血が滲み出る。これは保健室あたりから絆創膏を貰ってくるか、それかそのまま放っておくか。そう考えていたら、
「切ったところ見せて」
目の前には澄澪が立っていた。手には小さい白のポーチがあった。表面に水色の魚がデフォルメ姿で付いている。
「あ、いや、大丈夫だって」
「見てみないと大丈夫か大丈夫じゃないかわかんないもん」
澄澪は一樹の左手をつかんで引き寄せる。指からは血が膨らんだ餅のように少し出ている。
「まだ血が出てるじゃん。ちゃんと処置しないとダメだよ。バイ菌が入っちゃう」
澄澪は蛇口をひねって一樹の傷口を再び洗わせる。その後ティッシュを出して傷口のところを押さえるようにと言った。
「……ありがとう」
「どういたしまして。あっちの作業終わったから手伝うよ」
一樹は自分が赤くなっているのだろうと恥ずかしく思いながらも感謝の言葉を口にする。それに澄澪は笑顔で答え、一樹が座っていた席の反対側に座る。
「私もね、小さい頃はよく怪我してたんだ」
作業の準備をしながら、そう澄澪が言う。
「一樹君みたいに指切ったり、転んで足擦りむいたり。その度に泣いてたけど、いつもみはっちゃんが怪我の手当してくれたの」
やはりそうだろうなとは思った。どこか抜けた天然さは前々から感じていたけれど、この場にいない人物の存在が出ただけで変にドキッとしてしまった自分がいた。
「俺も遊んでいたら怪我するから絆創膏とかは持ってるんだーって。その時ぐらいから私も一応携帯しはじめたんだよね」
澄澪のちょっとした昔の話を聞けたが、一樹は海遥がそんな怪我するほどの活発さがあったことに驚いていた。
「まぁ、だからっていうのもあれだけどさ……みはっちゃんは別にみんなが嫌いとかじゃないんだよ。ただ色々あって打ち解けづらいというか、そういうのだから。だから、嫌いにならないでほしいなって」
彼女の表情からは一種の悲しみを感じた。見た感じは笑っているのだが、ただニコニコしているのとはわけが違うものだった。だが、一樹はそれについては特に気にもしなかった。何せ、
「大丈夫だよ。別に悪いやつだなんて思ってないさ。ただあまり話さないからわからないだけだけど」
一樹は右手で頭をかきながらそっと視線を下に向けた。左手の指の傷はある程度血が止まっている。先程貰った絆創膏を貼らなくても良さそうだ。
なんだかんだ言って、実際自分はわかりやすいのかもしれない。咄嗟に捕まれた手。その時の彼女の手は、見ていたよりも小さく感じた。そして、さりげなく呼ばれる名前。君付けなんて親しい仲がほとんどが故に久しい感覚だった。吉野川さんや北島さんぐらいにしか君付けで呼ばれることはないだろうから。それだけでさえ、俺は嬉しく感じた。
仲間思いでみんなに壁を作ることなく優しく接する。お決まりのような柔らかい笑顔。たったそれだけで惹かれることを恋と呼ぶのかは専門家でも何でも無いので断言は出来ないが、少なくともこの気持ちは嘘偽りのないものだとはハッキリとわかった。
若干、というか割と迷走し始めているのでなるべくテンポ良く話を進めなくては……