一樹と澄澪が見た、あの僅かな青空も再び隠されてしまっていた。いまだ天気が良い方向へ向かわないまま日にちが進んでいく。今日も薄い灰色が空一面を覆った下で通常通りの生活をこなす。一日の授業の終了を知らせるベルが鳴り、放課後へと移行する。掃除も終わって机を元に戻すと皆が自然と何グループかに固まる。誰かが自席に座るとすぐ近くの席に他の生徒たちが座りだす。
「なぁ、これってどうするんだっけ」
「洋斗、ここってどの方程式使うんだっけ」
「な、洋斗せんせぇ。これ、教えとくれ~」
「……俺は阿修羅じゃねぇ」
今日は金曜日。期末試験まで3日となった今日はみんながたたみかけ始める。この土日も当然勉強なのだが、全員が全員会って勉強できるわけではない。そのため聞いておきたいことはとことん聞いておくのがセオリーとなっている。ここで教師役となってしまった洋斗にとってこれはさながら地獄である。教えても教えても、まるでところてんのように入れたらその分出て行っているようにしか感じられない。それが3人もとなると頭が痛くなってくる。
「なぁ海遥。お前も手が空いてたら……」
「オレカダイガオワラネー。オシエルノムリダワー」
「……しばくぞ」
3人は手に負えないと思った洋斗は近くにいた海遥にヘルプを求めた。しかし海遥から棒読みのお断りメールが届き、洋斗は舌打ちした。海遥も自身で味わった教えることのしんどさはゴールデンウィークで体験済みなので尚更したくなかった。そもそも、本当に課題が終わらない。
「んー、わからないよぉ」
「ほら、だからさ……」
こちらも澄澪を教えるのに必死な沙月。澄澪の数学の知識は壊滅級だが、それを補おうとする沙月もまた数学は得意ではない。頼みの綱である里実は別の子を教えている。残された選択は自分自身で解説するしかなかったのだが、得意ではない教科を教えていて相手がなかなか納得してくれないと、こちらも逆に不安になってくる。そうなると、やはりよりわかる人の手助けが欲しくなる。
沙月は澄澪に少し待っててと言うと席を立つ。数歩進んだ先にいた人物に話しかける。
「ね、ねえ、海遥」
「ん?」
動かしていたシャーペンを置いて海遥は沙月の方へ体を向ける。
「こ、ここの部分。なんかよくわかんなくなっちゃって。教えてくれる?」
「ああ、いいよ」
海遥は何の躊躇もなく頷いた。彼の真後ろの席に沙月はテキストを置いた。海遥はテキストをのぞき込んで少しの間考える。そして解き方がわかったようで顔を上げた。
「なるほどね、なるほどなるほど。ちょいと貸して」
海遥がおもむろに沙月が持っていたシャーペンをつかんだ。その瞬間、海遥の手と沙月の手が触れた。お互いの手はやはり自分のものと違って感触や温度も違う。そして、意識している相手だからこそ、沙月は余計にドキッとしてしまった。咄嗟に手を引っ込めてしまったことに海遥はは大して気にしていないようだった。沙月は海遥の説明を聞き漏らしてしまいそうだったが、丁寧な字で書かれたメモのおかげでなんとか理解することが出来た。その後返されたシャーペンが、ほんの少しだけ大切に扱おうと思わせる物に変わっていた。
「うーん……」
シャーペンの動きが完全に止まる。目の前にある問題が他国の言語で書かれている様に思えてくる。航大は左腕の上に顎を乗っけて、シャーペンを持った右手で頭をかくが当然何か閃くこともなく。先程嫌々な顔の洋斗に教えてもらった問題が片付いた途端、新たな壁によって足止めを食らってしまった。こんな難しいものを出してくれるなよと愚痴を出す一方で、いちいちわからなくなって人助けが必要になる自分に呆れてため息が出る。洋斗の方を見るが幹大と隆広のツートップに苦戦を強いられている。ついさっき航大に教えてもらったため、また彼に……とは流石に申し訳なく思う。これだけ理解していれば今回の期末試験も大丈夫だろうと勝手に判断するが、人に教えるというのは大変だろう。
ここで無駄に悩んでいてもしょうがないと思い、他に誰かいないかとあたりを見回した。
あ、と見つけて自然と声が漏れてしまった。誰にも気づかれてはいないようだったが咄嗟に口を押さえてしまった。沙月と澄澪、そして里実が視界に入った。沙月は澄澪を必死に教えているようで、里実の方はさっきまで他の女子を教えていたようだったのだが今は自信の課題を進めていた。今は洋斗の力を借りられない。それに……。
『どっちにしろいつかは訪れてしまう、いわば滅亡じゃ。人類のな』
航大の中で今もウロコ様の言った言葉がぐるぐると巡る。もう今月で海村は冬眠に入る。こうやって同じ時間を過ごせるのはもう限りなく少ない。起きても二度と会えない可能性だってあるのだとも。そうなれば、もしこのままずっと何も言わなければ、自分は後悔するのだろうかと自問自答してきた。その答えは、勿論わかっていた。
「なあ、ちょっといいか」
「ん、いいよ」
里実は課題を止めて閉じる。ここにテキストを置いていいよということなのだろうと思い、航大はテキストをそこに置く。さりげない心遣いに航大はいちいち感動しそうになる。近くの空いている椅子を引っ張ってくる。座ってどぎまぎしつつ里実の方を見る。里実も航大を見てから解説を始めた。まずはいきなり問題の解き方ではなく、ここの問題で使う公式を覚えているか、そしてその使い方などを確認してくれた。優しく、ゆっくり丁寧に教えてくれる姿は航大の目に、より輝かしく見えた。
「将来、教師になれそう」
「え?そうかな、ありがとう」
心の声のはずが口から漏れ出ていた。里実は顔を上げてにっこりと笑う。航大の顔が一気に赤くなるがなんとかごまかして残りの解説を漏らさぬよう耳に押し込む。そして終わると里実に感謝の意を伝えて席を立とうとしたときだった。
「あ、やべぇ。悪いけど俺もう帰るわ」
「うぇええ!?マジかよ」
「ここわからないと次進まねぇよ」
洋斗は慌ただしく自分の机に広げていた教科書や筆記用具を鞄に詰め始める。幹大たちの嘆き声が重なって洋斗に降り注がれる。
「用事があるんだよ。スマンけど他の人に教えてもらってくれ。じゃあな」
椅子を入れてそそくさと教室を後にする。その姿を里実が目で追っていた。
「ねぇ、前々から思ってたけど、洋斗君の用事ってなにがあるの?おじょしさま作りの時も何回かあったし」
「……え?あ、ああ、あれは家にカテキョー来るんだとさ」
「カテキョー……家庭教師。流石洋斗君だね、意識高い」
「……うん」
やはり自分よりも成績が上を行く存在として気になるのだろうか。あえて、なのかは航大にはわからないが普段通り笑って里実は聞く。彼女の言葉に、逆に航大は曖昧に頷いた。こうなったのはやはり、自分が想っている相手が別の男子について気になっていると、自然とムキになったり話を急に終わらせたりする感覚だろうか。でもそれは既に付き合っている男女がそう思うものなのでは……。いいやしかしそういった前提などなかったはずだ、などと自分の中で考え始める。もしくは、洋斗の立場を考えてか……。
「どうしたの?」
里実が首をかしげて航大の顔をのぞき込む。少しの間だけぼぅっとしていたようだ。突然里実の顔が近くに来たため、焦って変に声が大きくなりながらも大丈夫と言った。その後改めてありがとうと言って自席に戻った。
「んじゃ、きりのいいところで終わりにしろよー」
教室の後ろのドアからひょこっと大塚が顔を出した。時刻はもう間もなく5時をむかえようとしていた。窓からは赤橙に薄く染められた雲が空を覆う。生徒たちは皆背伸びをしたり帰りの支度を始める。
「いやー、委員長助かりましたわ」
「ははは、隆広君は本当に助かってるのかわからなくなるよ……」
「ほんまおおきにな、海遥。なんとかこのユニットの文法理解出来たぜ」
「なんでだろう……課題がなんでこんなに残ってんだろ……」
頭をかきながら命からがら助かったような顔をする隆広に対して、こちらは救われていないような疲れ切った様子で机に突っ伏す里実。幹大の方も英語の教科書を閉じて海遥の肩を叩いているが、呆然とした眼で海遥は宙を見たまま動かない。消耗して尽きた2人を見てまわりも苦笑いである。
「さてと、俺らはさっさと帰らなきゃな。今夜、
「……ああ、そうか」
一足先に帰り支度を終えた航大が海遥の横に立つ。航大の言葉で思い出したように背もたれに預けていた体を起こす。
「あれってなんだ?」
「ん、まあ、果那ノ海で用事があるんだ」
一樹が疑問に思って問いかけた。しかし海遥は視線を一樹から手元のテキストに移すと曖昧に答えた。澄澪と沙月も鞄を両肩に背負って席を立つ。洋斗を除いた4人は皆二手を振って教室を出て行った。
「俺らのこと、気遣ってくれているよね」
「ああ」
いち早く支度を終えた大生が空いたままのドアを見ながら言った。一樹もゆっくりと頷いた。彼らに残された時間は三週間。果那ノ海でも着々と一樹たちには知るよしもない準備が進められているのだろう。今日のそれもきっと……。
いくら考えても仕方が無い、と頭を振って一樹はノートをバッグにしまった。
皆がそれぞれ使った机を元に戻して続々と教室を後にしていく。一樹と大生は共に階段を降りて下駄箱に向かう。とっくに見慣れた位置にある自身の靴をつまんで取り出す。無造作に床に置いて上履きから履き替える。その上履きを下駄箱に戻そうと立ち上がった時に、ふと視界の右隅に見慣れた顔が映った。
「一樹、大生、丁度良かった。一緒に帰ろ」
「お前も残ってやってたのか」
「勿論だよ。みんなで勉強するのは楽しいしね」
ニパッと笑う茉紀に一樹も微笑して頷く。地面を軽くつま先で蹴りながら大生はかかとを入れて、3人は校門を出る。緩やかな坂を下りて通りに出るとすぐ向こうは海だ。毎年見るような、見慣れた姿ではない。海は海なのに、中身がまるっきり違ってしまった、いわば人格が違うような感じを一樹は受けた。
通りの分岐点で陸側の方へ折れる。少し歩いた地点で大生と分かれた。家々の壁に退かされて固まったぬくみ雪を茉紀は蹴っ飛ばしながら歩く。
「テスト終わったら、もう夏休みだね」
「だな」
「そいや、みんなはおふねひきだね」
「まあな。そう考えると少し緊張してきたかも」
「もう、しっかりしろよなー」
茉紀はカラッと笑うが、一樹の内では本当に緊張を感じていた。
「でも、しっかりやらないとね。海神様を説得するんでしょ」
「うん。みんなの言葉を、想いを伝えればきっとわかってくれるはずだと思う。そうすれば、みんなも……」
一樹は空を仰ぐ。空を隠したままの雲はまだ橙色だ。ぬくみ雪が降っても、気温があり得ないくらいに下がっても、この時間帯でまだまだ明るいというだけで、夏を感じることができる。そんな様子を茉紀はチラッと見た後、少し俯く。
「ねぇ、一樹」
茉紀の呼ぶ声に一樹は視線を下ろした。茉紀はまだ俯いたまま。
「みんな……海の人たちは、大切?」
突然の問いに少々驚きながらも、一樹は真面目に答える。
「ああ。出会って、話して、おじょしさま作って。たった三ヶ月くらいしか一緒にいないのに、今じゃ大切な仲間たちだよ」
「仲間」
「やっと最近海遥も心開いてくれたし、みんなのことを少しずつ知ることができた。5人とも個性があって、辛いこともあったけど、いつも一緒だ。なんか、俺らと似たところもあるし」
「うん、そうだね」
「だからこそあいつらを、海の人たちと別れるなんて、俺は嫌なんだ。だからまた元通りになって、あいつらと一緒に笑っていたい」
「……」
先程の緊張はどこへやら転がっていき、今はまた空を見て笑っていた。一樹は願っている。彼らとの平凡な、そして楽しい毎日を。と、茉紀が立ち止まっていることに5歩先を歩いていたところで気づいた。止まって後ろを振り向いた。茉紀は両手は下ろし、こちらを見ながら薄く、けれどどこか変に笑っていて、明らかに何かを見つけてとまったわけではないようだ。少しの間がたたずみ、一樹が声をかけようとしたときに茉紀がやっと口を開いた。
「ねぇ、一樹」
「……なんだ?」
「一樹の、その大切ってどういう大切?」
「え?」
茉紀の質問の意図がまったくわからなかった。どうしてそんな質問をするのか。内容を考える前にその質問の意味を先に考えてしまった。しかし一樹は眉を曲げながらも答えようとした。先程自分が言った大切。それはそのままの意味だ。大切。どういう大切……。簡単に手放したくない、かけがえのない存在。これで伝わるだろうか、と思ったときに茉紀は重ねて問うてきた。
「その大切って、5人、それか果那ノ海全員が大切?それとも、誰かだけが大切?」
それは、見た限り平然としてても、彼女にとってやはり目的のための質問に聞こえた。そして同時に、一樹の心臓を握るような、衝撃的な物でもあった。
どういうことだ、と目を見開いた。茉紀は何を考えているのだろうか。この問題は誰か一人だけじゃない。彼ら、あの5人組が……。けれど、一樹の頭によぎるのは、一部の過去の映像。
『一樹君って、やっぱり優しいよね』
どうして、どうして……。こんな時にどうして……。そして、茉紀は、なぜ知っているのか。そもそも、知っているのか。一瞬にして、茉紀の霧のような薄い笑顔が、自分の心を見通すような、小さな恐怖にさえ見えてきた。
「……ううん、やっぱりなんでもない」
突然に茉紀は話を止めて、いつも通りの純粋な笑顔に戻った。
「変なこと言ってごめんね。じゃ、また来週」
茉紀は右手を振るとすぐ近くの角を曲がって行った。少々駆け足で角に消えていく彼女の姿は、やはり変に思えて仕方が無かった。どうにもあの問いに疑問を持つ。いったい彼女は、どんな回答を求めていたのだろうか。その迷宮入り事件のごとく難解の問題は、このときの一樹には解けるはずもなく、首をかしげてながらも自分の帰路についた。