凪のあすから おもいのカケラ   作:柊羽(復帰中)

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第二十九話 月の下で

時刻はまもなく午後7時を迎えようとしていた。黒に近い青が空に塗りたくられ、辺りを徐々に闇で埋め尽くしていく。夏とは思えない気温が海の中でも十分伝わってくる。そんな中でも今はほとんど感じない。人が密集して各々の席に着いていた。これから果那ノ海の住民全員で宴会を行うのだ。

 

この日を境にして彼らは絶食する。それによってエナが守ろうとして厚くなる。そうして眠りを起こさせるのだ。つまり冬眠前にたらふく食べておこうというものだ。

 

果那ノ海にある大ホールで行われる。入り口を入るとすぐに見えてくるのは外見通りの丸いホール。そこに長テーブルをいくつも置いて、座布団を敷く。この時間までに手の空いた人たち――主に主婦たち――が料理を作り、運んでいた。色とりどりの料理がテーブルを飾る。和風もあれば洋風も並べられ、裏の調理場にはまだ作って出せるほどの食材も残っている。この日までに、ここは男性陣が集めたのだ。その他、長年ろくに使わなかったこの場所の掃除だったり道具運びだったり、大規模な宴会だけあって準備も一苦労した。その中に海遥も参加していた。自分は宮司の息子であるが故に、といった様子でまわりから跡継ぎは安心だと喜んでいた。しかし積極的に参加したものの、結果的に課題が終わらないという苦労もする羽目になったのであった。

 

「よーし、みんな酒持ってるか?」

 

皆川が立ち膝になってまわりをぐるりと見渡した。隣や向かい側の人たちと話している割合が多いが、協力して準備した甲斐あって皆の手元には酒やジュースが行き届いている。ざわついたホール内に聞こえるよう精一杯張った皆川の声に負けじとオーケーサインを伝える声も返ってきた。

 

「んじゃ、乾杯の挨拶よろしくな、和洋」

 

「うん、わかった」

 

和洋は頷くとビールが入ったグラスを持ちながら立ち上がる。1回喉の調子を伺ってから口を開いた。

 

「えー、今日はみんなたらふく食って、たらふく飲みましょう。では、乾杯」

 

和洋の一声で皆が一斉に「乾杯!」と半分叫んだ状態でグラスを高く突き上げる。最大の宴の始まりだ。各々真っ先にビールを飲み、箸で料理を皿に取って食べたり、話の続きをしたり。普段ゆっくりと話せない人同士とも会話できるとあって、余計に盛り上がっている。そして始まって早々に瓶ビールを空にする輩も少なくない。

 

「おうおう海遥よぉ。ちゃんと飲んでっか?」

 

「いやいや、俺未成年」

 

宴会開始から30分で既に酔いが回っている河内が海遥の横に座った。右手には瓶ビール、左手にはグラスをしっかりと握っている。

 

「んなこたぁどうだっていいんだよ。お前さんもなぁ、いつかは立派な宮司になるんだから、今のうちに飲めるようにならなきゃあ」

 

「そんなに焦ることはないですよ」

 

「いいや、ここはグイッといけねぇとな」

 

徐々に海遥のまわりに酔っ払いが集まりだしていた。彼らから溢れ出す酒気は決していいものには感じられない。海遥は苦笑いしつつ、ここから逃げ出したい思いに駆られていた。

 

「で、でも……」

 

「いつかは飲むんだから、嫌がらずにいっぺん飲んでみろよ」

 

「そうそう。前は不味いと思ってても、今はそうでもないかもしれねぇぞ」

 

「物は試しだ。ほら」

 

海遥の言い分は彼らの耳には届かず、河内が近くにあったコップにビールを注いでいた。その量も大人同然の並々に注がれていて、白い泡がほんの少しだけコップを伝って落ちる。目の前に置かれたビールを海遥は目を細めながら見るが、やはりどうやっても美味そうには思えない。しかしまわりの酔っ払いたちの新歓さながらの視線に耐えきれず、ゆっくりと口に持っていく。口内に入ったその液体は瞬時に舌によって味の判断が下される。

 

「うえぇぇぇ、まっず」

 

無論、海遥には受け付けなかった。不味さで歪んだ顔の海遥を大人たちはこれでもかと大笑いしている。その傍らで座っていた和洋は微笑みながら総菜を口に運ぶ。今見ている光景が、なんだか昔の頃のように思えてきたからだった。妻の南波がいて、娘の海花がいて、そして海遥と自分。天真爛漫な海花を支えつつ振り回される海遥を2人で笑いながら見ていた、まだつい先日のように感じられる光景が、今と重なる。それほど海遥が元に戻った、いやしかしまた一段と大人になったからだろう。

 

あの日、地上にぬくみ雪が降った日に、果那ノ海はパニックとなっていた。勿論和洋はそれを知らされるや否やウロコ様のところへ駆けだしていた。彼のどこか鬱陶しそうな様子から語られたことは衝撃的だった。その場には海遥もいた。ある日を境にどんどん変わっていくのだと悟った和洋はやるせない気持ちになった。突然の現象に、気軽に思い出したくもなかった2年前の事故の記憶が頭をよぎった。不安に駆られ、行き先が真っ暗に閉ざされるその感覚は双方に共通していたからだろう。和洋は重くため息を吐いた。自分は所詮宮司であって、ただの人間だ。天変地異を起こせるほどの力など持ち合わせていない。しかし、また、目の前で何かが消えてく。今度は自分自身が愛した、そして家族の思い出を作った地上との断絶、安心できるこの海の眠り。ぱらぱらと掌からこぼれ落ちていくそれらを必死にかき集めようとしても、簡単にすり抜けていくような……。

 

『父さん』

 

静寂を保った水面に一滴、ぽたりと落ちるように海遥の声が聞こえた。耳から伝わったこの感覚は、いつの日かを思わせる、そんな優しさだった。

 

『大丈夫だよ、多分。……なんて、随分な言い方だけど』

 

『……?』

 

『俺、勘違いしてた。何でもかんでも、1人で片付けようとしてた。もう俺しかいないから、父さんに変に気を遣わせないようにって、大人ぶってたんだ』

 

突然の海遥の言動に最初は疑問を覚えたが、それはすぐに確信へと変わった。この日は汐帆と聡太郎の話し合いに海遥たちが見届け人としてついて行ったのだ。そこできっと、再確認できたのだろう。

 

『俺は一人じゃない。みんないる。そして父さんも……。だから、今度はみんなと協力して、この事態の打開策を考えようと思ってる』

 

『……うん』

 

『まぁ、きっと俺らじゃどうにもならないことだとは思う。だから、その時は頼む』

 

『勿論だよ。僕は宮司だけど、果那ノ海だって久里ノ上だって、大切な場所だ。それは変わらないよ』

 

和洋は海遥に向かって笑いかける。海遥もまた微笑んで頷く。やっと、また海遥と近づけたようだ。そして、

 

『いつかは、あの時宣言したみたいに、陸の学校に出向いて海の素晴らしさを伝えられるような宮司になってなるよ』

 

そんな言葉も来たものだから、和洋は涙がこぼれ落ちるのを我慢するので精一杯だった。それが再び溢れてきそうで和洋は2回ほど強く瞼を開閉させる。

 

「ほらほら、そこら辺で止めといてくれませんか」

 

今だ酔っ払いたちに絡まれている海遥を助けだそうと和洋は声をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まだ手巻き寿司余ってる?」

 

「はい、ありますよー」

 

ホール内に備えられているキッチンにひょこっとおばあさんか顔を出す。料理が皆の腹にどんどん吸い込まれていくので減りも早い。追加分を作っていた女性が高い声で返事をして大皿を両手で持って行く。

 

「じゃ澄澪ちゃん、これもっていくから」

 

「はい、お願いします!」

 

駆け足の音が徐々に遠のいていく。引き上げた皿たちがまだまだ積まれている。澄澪は黙々と皿洗いをしている。黄色いスポンジを握って泡を増やす。皿についた汚れを泡で浮かして落とす。先程までもう二人ほどいたが今はホール内で作業をしているのだろうか、まだ帰ってこない。

 

乾杯の合図からもう1時間は経っている。澄澪自身も最初はみんなと食事をしていた。案の定酔いの回りが早い河内さんを筆頭に子供たちに酒を勧めているのが見えた。それは澄澪の方にもきたが両親が柔らかく断ってくれた。そもそも澄澪は酒を口にしたことすらないが、まわりの感想として苦くて飲めた物ではないという知識だけあった。それ故酒を飲みたいという欲求は今だ微塵も沸いてこない。

 

「……ふぅ」

 

肩の力を抜いてため息をつく。首も痛くなってきたので軽く回し、最後に背伸びをする。澄澪は小食のためにあっという間に満腹となった。両親にはもう少し食べた方がいいと言われたけれど、今日はおそらく一番沢山食べたのではないかというくらいだ。飲み物も十分飲み、近所の方たちと話を数回咲かせたところで裏方にまわったのであった。

 

ぼうっと宙を見る。電灯がほんのりとついていて手元を照らす。洗って水を切っている皿たちにはまだ水滴が付いていて、それが電灯の光で小さく輝く。澄澪は正直、普段あまり関わらない他の人と話してみたかった。勿論、まだ沙月としかここで話していない。しかし、自然と口が閉じてしまうのだ。彼らは、この事態に対して深く悲しんではいないようだった。全員とはいえないが、確かにそうなるのも無理はないのだ。実際ほとんど陸に上がらずに過ごしている人もいる。勿論海だけでは取れない栄養を補う必要があるので、地上のスーパー等で食材を買いに行く。しかしそれは主に主婦の役目なのだ。男性陣はあまり関わりが無い。漁業についてはある程度交流はあり、男たちの飲み会だってあるが。さらに言えば、まだ小学生の子たちは陸に出たことすらないこともある。今年から線路開通したのでそれを機に出ることもあっただろうが、あまりないのが現実だ。それに、現実味が無すぎて今日の宴会で彼らは相変わらずのはしゃぎ具合だった。

 

澄澪はぴくんと尿意を感じてスポンジを置いた。手をすすいでキッチンを出る。ホールを鳴るべく大きくするために、トイレはホール入り口から奥まったところにある。キッチン自体も奥にあるが、それよりも先だ。出て左に曲がって真っ直ぐ歩く。壁を挟んでも皆の大小様々な声が聞こえてくる。それはまさに降伏に包まれて、幸せを噛みしめているうようにしか感じられない。そう強くもう澄澪にとってこれは、また一歩陸から遠ざかっているように思い、実際は悲しかった。

 

 

トイレから出ると、来るときは気づかなかった階段があった。そしてそれはすぐに上にあるベランダに続く階段だとわかった。澄澪は徐ろに足をそちらに進める。満腹感もあって俊敏には到底動けない。案外しっかりとした階段はひんやりと冷たくて、靴下からその温度を感じ取った。踊り場を挟んで上に辿り着くと、右側から天井と床の間から月の光が澄澪を照らす。雲はこのとき無く、海を通ってホールに降り注いでいた。まばゆい光に誘われるようにしてベランダに近づくと、先客の姿に気づく。後ろ姿は月光で黒くて誰だかわからなかったが、近づけば一目瞭然だった。

 

「……みはっちゃん」

 

もう見慣れたそのシルエットは海遥だった。ただただ呆然と手すりに両手をつけて月を見上げていた。澄澪も海遥の横に並ぶ。

 

「月、綺麗だね」

 

澄澪はそう呟く。海遥からは特に相づちひとつ無い。聞こえてはいるだろうと思う。

 

「……みんな、楽しそう。食べて、話して、笑って。なんだか何かを祝ってるみたい」

 

「……」

 

「でもね、やっぱり私は複雑かな。私たちは陸の学校に行ってるから、きっとこう……なんだろ、複雑なんだよ。もしかしたら、って」

 

澄澪は手すりを握る力を強めた。

 

「わかんないよ、世界が凍えちゃうだなんて、なんで、そんなイジワルなことするんだろう。海神様をないがしろにしてないと思うし」

 

「……」

 

「私やっぱり怖いや。汐帆ちゃんがもう1人のおじょしさまなんて、上手くいくのかって。もうみんなと会えなくなるんじゃないかって。白風中のみんな……。里実ちゃんや茉紀ちゃん、砂奈ちゃんたちとのお話は楽しかったんだ。それにあの、……。あ!ダメダメ、マイナス思考にいつもなっちゃう。私のダメなところだね。昔みはっちゃんに注意されたことあったよね」

 

徐々に下がる目線を一旦閉じて首を振る。だが今だ海遥から返答はない。ちらりと横目で見るが、依然として空を見ている。真っ直ぐに、けれどその目はなんだか……。澄澪は一旦後ろを振り向いて、人気がいないことを確認した。

 

「ねぇ、みはっちゃん。あの時のこと、覚えてる?」

 

澄澪が、そしてゆっくりと語りかける。手すりから離した両手の指同士を合わせて、三角形のようにする。

 

「あの時……」

 

そう言いかけたとき、ついに海遥が動いた。といっても明らかに正常な動きではなかった。力を失ってふらついたような、まさにそういった感じの動きだった。咄嗟に海遥自身は手すりを握ったが、危うくそのまま後頭部を打つところだった。

 

「だ、大丈夫……!?」

 

心配になって海遥に手を伸ばした澄澪だったが、今度は異変を感じた。それは、嗅覚からだった。

 

「お酒臭い……!もしかして」

 

よくよく顔を見れば、やはり海遥の顔は赤くなっていた。月光に照らされていて気づくのが遅れたのだろう。そして呼吸から感じた酒気は明らかに飲み過ぎだと思うほどだった。

 

「もう、河内さんってば、飲ませすぎだよ。私たちまだ中学生だし」

 

酔っ払って緩んだ顔の河内が容易く想像できた。そして先程来た時の様子からして、同様に海遥にも勧めたのだろう。他の酔っぱらいたちも加わって飲まされた次第だろうと澄澪は思った。そしてこんな状態を放ってはおけないので、とりあえず水を飲まして休ませようと海遥の手を引いた。

 

「大丈夫、歩ける?ゆっくりでいいか……きゃあ!」

 

しかし彼の足取りはおぼつかず、終いにはもつれて澄澪に向かって倒れてしまった。海遥の体重を支えられるはずもなく、澄澪も巻き添えを食らって一緒に倒れてしまった。澄澪は腰の痛みを堪えて目を開けると視界の左に海遥の頭が見えた。彼自身は先程同様に咄嗟に手を突いていたようだ。膝は澄例の両足の間についていた。海遥をなんとか立たせようと両手で彼の脇あたりを持とうとしたときだった。

 

「すみ……れ」

 

か細く、澄澪の肥大耳から声が聞こえた。酔いでまともに話せない故の声だった。

 

「どうしたの?どっか打った?」

 

澄澪の落ち着いた問いかけに若干の間があった。海遥はゆっくりと体を起こして澄澪の視界にはっきりと海遥の顔が映った。その顔はいつもとかけ離れた、まるで別人に見えた。

 

「……だ」

 

「え?」

 

呂律がまわらない口のために聞き取れなかった。どうしていいかわからずただただ戸惑う澄澪に、今度ははっきりと、海遥は言った。

 

「……綺麗、だ」

 

澄澪の心臓が、一気にひっぱらる様な、そんな感覚を覚えた。そしてその光景を前に、立った今階段を上がってきた沙月は目を丸くして固まっていた。

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