澄澪たち一行は漁協に到着した。車の後ろに積んだ物を皆で2階に運ぶ。他の人たちにお疲れ様と声をかけられ、澄澪たちが持っている分は職員がすすんで持ってくれた。
「今日はありがとう。お疲れ様」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました」
大生の父は感謝の言葉に対して澄澪たちも笑顔でお辞儀をした。
「大生、今日は夕飯までには帰れるって母さんに伝えといてくれ」
「了解」
大生が腕を上げて立ち去る。それに続いて澄澪たちも漁協から階段を降りて出て行く。徐々に暮れていく空の下をゆっくりと歩いていく。彼らから伸びる影は混ざり合って重なる。
「そういや海遥は練習してるんだよな」
「うん。今もやってるか見ていこうよ」
腕を頭の後ろで組みながら航大が皆の方を向く。沙月の提案を全員一致で首を縦に振った。一行は練習場所の方へ路線変更した。
道が開けて海が見えてくる。左右に伸びた沿岸の右の方にその姿はあった。そして遠くからでもわかるほどの旗の動き。なびいて揺れながら一定の動きを繰り返す旗は、それは以前見たときよりも強く、たくましく見えた。
「おーい!」
航大が声を張り上げてこちらに注目させる。何回か呼びかけてやっと皆が振り向く。
「うっす、航大」
「おつかれさん」
幹大と隆広が同時に声をかけてきた。隆広は地面に寝そべってこちらを見ていた。澄澪たちが全員近くに集まったところで海遥は旗を下ろした。地面に先端が当たって少し鈍い音が響いた。
「海遥も練習お疲れ様」
「おう」
沙月が海遥にも声をかける。海遥も返事はするが短かった。それもそのはず、旗振りの練習で息は切れて肩が上下に動いている。顔全体から汗が噴き出していて、頬を伝って喉へ落ちていく。
「さっき遠くから見てたよ。すっごく上手くなってたよ」
「だな」
澄澪と航大が目を輝かせて先程の海遥の様子を思い出していた。初めてばかりのと今さっきのとではかなり技術の差が出ていた。
「今日で結構上達したね。あとは本番までに仕上げていけば問題ないよ」
若手の組合の人はニッと笑って海遥の評価をした。海遥も流石に少し胸を張って上機嫌になっていた。
「これは俺が片付けておくから、今日は帰りな」
「ありがとうございます」
旗を組合の人に渡し、一礼する。その後幹大たちにも手を振って風で揺らぐ海へと潜っていく。
「腕が重いな。こりゃ明日筋肉痛だわ」
海の中をすいすいと進んでいく。海遥は疲れですっかり重くなってしまった両腕を振る。
「ちゃんとその日のうちにマッサージとかしとかないとだめだよ?」
「ああ、わかってるよ」
澄澪の方をちらりと見て頷く。
そして一行は果那ノ海に到着した。見慣れた広場に設置されている時計は間もなく午後4時半になろうとしていた。
「さて、あとはあいつを待つだけだな」
「そうだな」
航大が短くため息をつくとあたりを見回した。海遥も力を抜くようにしてベンチに腰を掛ける。
「あいつさ、昔行った
「なんかひろちゃんらしいっていうか……」
「でも実は、ひとりで行くのは寂しかったりして」
沙月もベンチに座り、ふふっと笑った。航大は「かもな」と言ってサッカーボールを蹴るイメージの動きをした。
そうして4人でたわいない会話を10分ほどしていると、洋斗が歩いてやってきた。
「よう」
「おう」
航大が手を上げると洋斗も同じ動作をする。ここで全員集合したわけだが、さらに盛り上がるわけではなかった。むしろ、ほんの少しではあるが、空気に溶け込んだ重みがその場を包んだような気まずさがあった。
あの一件、宴会の後から洋斗の顔つきが今のところ良くないのだ。普段から無口で寝不足みたいな目つきをしているが、この場合では不機嫌よりも浮かない顔といった方がいいだろう。1回だけおふねひき当日の流れやはっぴのサイズを伝えただけで、ろくに放課後は参加せずに帰宅してしまっている。白風中の皆にはうまく理由を付けてごまかしていあるが、海遥たちも気が気でない。
しかし今日の巴日を見ようという誘いに応じてくれたのはやはり素直に嬉しかった。と同時にほっとしたところもあった。
「んじゃ行くか」
海遥は両手を膝に置いて勢いよく立ち上がる。彼らの足は目指す場所に向けて歩き出す。
「そういえば、いつだっけか。巴日見たの」
歩き出してすぐに海遥が皆の方を向いて問いかける。
「んーっと、私たちが小学生の低学年くらい、かな」
「そのくらいかもね。私たちまだ小さかったし」
「あの時はさ、確か洋斗は俺にはやくはやくって腕引っ張られて泣いてたよな」
「はあ?」
航大が歯を出してニヤニヤと笑い出す。不意に幼少期のことを言われて洋斗は目を細めて航大を睨む。
「いや、お前があまりにも足が遅いから俺が手つかんで引っ張ったんだよ。そしたら痛い痛いって泣き出してさ。余計に遅くなっちまってさ」
「ああ、あったあった」
洋斗の睨みなどお構いなしに航大はくくっと笑う。澄澪も思い出したようで頷く。
「は、いや、泣いてねぇし」
「いやいや、泣いてたって。俺たちが覚えてたんだし」
ムキになって首を振って訴える洋斗だったが、航大は手を振ってそれを否定する。いつまでもへらへら笑っている航大に耐えきれなくなった洋斗は、航大を足を思いっきり蹴った。
「ってー!やめろって。すまんすまん、からかいすぎたよ」
「そういえば、あの時も洋斗に蹴られてたよな。いい加減に痛いからやめろって、今みたいに飛び跳ねてた」
足に痛みが走って軽く飛び上がる航大を見ながら海遥は口の片隅をつり上げて言った。澄澪と沙月は2人揃ってくすくす笑い出す。そして洋斗も眉間に寄せた皺を緩めて、半分呆れたようにも見えたが、ふっと少し笑った。
そうしているうちに彼らは石階段前に辿り着いた。巨大な岸壁に沿って造られているそれは海遥の家、そして渦波神社へと続く階段である。
「んで、その後はどうしたんだっけか」
「俺が航大と洋斗を離したんだったかな」
航大は階段を上りながら首をかしげた。海遥が前方を向いたまま昔の話を思い出す。それを言うと航大もすぐに思い出したようで、そうだそうだと右手で左手をぽんと叩いた。
「海遥が起こる洋斗を落ち着かせようとしてて、んで、無理矢理引っぱっちゃ痛いでしょって海花に怒られて……」
航大が言いかけた途端、ひゅっと口を噤んでおどおどするように海遥の顔を伺う。その様子を見てすぐに海遥は航大が何を考えているのかがわかった。三白眼を細め、右手で航大の肩を軽く殴る。
「なーに今更気にしてんだよ。それもやめろ」
「いや、すまん」
「まぁ、俺も前までウジウジ引きずってたから言えた口じゃないけどさ。でも今は気にしねぇよ」
海遥は視線を斜め上に向ける。薄い雲が水色から橙色に染まりつつある。そして階段の先が開けていることから目的地まではもうすぐだと気づく。
「うなされる夢も見なくなった。変に思い込むこともなくなった。2年かかってやっとだ。改めてだけど、みんなのおかげだよ」
階段を上りきり、すぐ横に見える渦波神社の前を通り過ぎていく。海遥が自然に出す微笑に皆も笑い返す。
「まぁ、あれだよ。海花は今でも俺の、俺らの記憶の中で生き続けている。変わることのない、たったひとりの姉なんだ」
頬を指でかきながら海遥は空に向かって言葉を放つ。その姿を見て澄澪はゆっくりと頷く。
「着いた」
「すげー久しぶりだ」
木々を少しかき分けて坂を登る。そして視界が一気に開ける。その先は果那ノ海の町並みを見渡せる場所。昔、見つけた洞窟を潜った先に辿り着いた場所。結果的に渦波神社の近くだったというオチ付きの探検だったが、そこは彼らにとって大切な思い出の場所となった。海遥はたまに訪れては趣味のスケッチをしている。
「あぁ、ここか」
「ふふ、やっと思い出した?」
「まあな」
洋斗は力が抜けるような声を出しながらあたりをぐるっと見まわす。手で口を隠しながら笑う澄澪に対する返答も腑抜けたものだった。
「さてと、あとは待つだけだ」
航大は近くに横たわっている太木に腰を掛ける。幹がかなり長いので5人横に並んで座る。木なので当然感触は堅いが我慢できないわけではない。
木に腰掛けた一行は広がる景色に見とれて自然と話さなくなった。緩やかに肌を撫でいく流れに心地よさを感じ、じわっと照らす太陽の光にうっとりとする。たまに訪れる海遥も普段とは違う雰囲気に少し驚きはしたが、やはり心地よさが勝った。久しく訪れていなかった洋斗には懐かしさが込み上げてきた。他の3人も海遥ほどではないが訪れていたこの場所で、透明の布で包まれているような心地よさにゆっくりと目を閉じた。
はたしてどのくらい経っただろうか。数分か、はたまた1分にも満たなかったかもしれない。ふっと肌から感じる水の流れの変化。澄澪の三つ編みがふわりと流れによって揺れる。
「あっ」
その澄澪の短い呟きで皆の視線が斜め上に集まる。地面に溜ったぬくみ雪がふわりと舞い上がり、変わった水流に身を任せて流れていく。きらきらと光を反射して輝き、それらがすり合わさってパキパキとした音も聞こえてきた。それらは果那ノ海の町を見下ろすように進み、久里ノ上から離れた位置にある山々のあたりでさらに渦を巻くようにして集まっていく。輝きがどんどん増していき、ついには太陽のようにまばゆい光をまとった。それが2つ生成され、太陽よりしたの位置にある。満天の夜空に浮かぶ星々を線で結んで様々な動物や伝説の生き物に見立てるように、太陽とその2つの光の虚像を結ぶと、丁度二等辺三角形になる。巴日が始まったのだ。
「わあぁ……」
「綺麗」
澄澪の感嘆の声と沙月の小さな声が重なる。航大はその光のようにぱぁっと笑顔になり、海遥は巴日を見守るように微笑んだ。洋斗は相変わらずの無表情だったが、しかし彼の目は一段と輝いていた。5人は巴日に魅了されている。空が青から赤へと変わるその狭間の空間。まどろみのような空に一際輝く3つの輝き。その光は空の表情さえも変える。空中に舞うぬくみ雪も、普段気にもとめないぬくみ雪でさえも、宝石のような美しいものへと変えてしまう。
「海花も、見てるかな」
「見てるさ。絶対に」
「そうだね。みんなずるいって言ってそうだもん」
昔見た思い出が自然と開かれる。6人並んで見た巴日。あのときは皆同じように目を輝かせ、笑顔ではしゃいでいた。普段見ることのない自然現象に興奮して叫んでいた。
しかし、今この瞬間見ている彼らは、あの頃のような無邪気なままではない。その輝きに見とれ、魅させられ、そして様々な感情が混み上がってきた。それは決して全てがプラスのものではなかった。あの頃とは違う、葛藤する思いを、想いを叫びたくなるほど。
「……このままずっと、見ていたいな」
ゆっくりと放たれた言葉の主は洋斗だった。4人が目線を洋斗に向けた。
「このままずっと、みんなとずっと……。同じものを見て、同じように笑って、同じようにずっと友達でいたい」
洋斗が呟く言葉は、想像もしないものばかりだった。彼がそう思っていたことに驚くとともに、その思いの美しさにも心が揺さぶられた。
「そう、だよな。このままずっと、変わりたくねぇよな」
短く息をついて、海遥は再び目線を巴日に向けた。最初に向けていた目とは違う、この世界を憂うような細い目をしていた。
「みんなで楽しんで、笑い合える毎日をずっと過ごしていたい。冬眠の危機なんてなくて、お祭りも楽しくやってさ。とにかくみんなと一緒に、変わらずに」
「……私も、今のままがいいって。そう思うけどさ」
巴日を見据える洋斗の言葉に、沙月は小さく頷きながらも視線を自分の膝に落とす。
「洋斗、でもさ」
航大が心配そうな顔で洋斗の肩に手を置く。洋斗は航大の方に顔を向けることなく、今度は巴日でまばゆい光を浴びているにもかかわらず少し顔に陰りが生まれた。
「でも、そうだと何回も思ってるけど、変わりたいことがある。いや、変わってほしいのかもしれない」
「……?」
一転、俯きがちになってぼそぼそと話す洋斗に再び驚きつつ、彼の言ってる意味がわからずに皆は黙ってしまった。
「俺は今までまわりに身を任せて過ごしてきた。どんなことがしたい、何が食べたい、どんな職業につきたいか……。みんなに合わせるか、それか思ってもないことを並べて逃げていた。だから、別にしたくもない勉強をさせられて、あわよくば父親と同じような弁護士を
ふと見えた自嘲する洋斗は、いつもの内気な洋斗どころじゃない。精神的に追い詰められているような、そんな風に見えた。
「けど、俺には大して目指すことも、なりたい職業もなかった。それに、親には逆らえなかった。怖かったし」
「……それは、お前が悪いわけじゃ」
海遥が洋斗の顔を覗くようにして声を少し強くして言った。3人も同じ意見だった。心配する瞳を洋斗に注いでいるが、彼は首をゆっくり振った。
「悪いもクソもない。俺が何も言えないから。俺はこれがしたいっていう真っ直ぐな思いがなかったから。だから、しょうがない。……だけど、だからこそ変わりたいと思った。変わってほしいと思った」
自身の右手を強く握りしめ、口調は怒りと苦しみが混ざったような、変に力んだ様子だった。
「こんな、どうしようもない自分を変えたいと思った。他人に任せて動くしかない俺じゃなくて、例えば海遥みたいにみんなをこうやってまとめられるような、そんな人間になりたいと思った」
「洋斗……」
握った拳をぐっと額にあてる。自分の名前が挙がったことに驚きを隠せない海遥は、ただただ洋斗の次の言葉を待つほかなかった。
「そして小さい頃に見たような、それこそみんなの親のように、自然に笑えて楽しい雰囲気の家族に、俺の両親はそう変わってほしい」
洋斗の切実な思いに皆はかける言葉がみつからなかった。洋斗は自分が自分自身を主張しなかったから、だから親は彼らの思うままに洋斗に勉強などをやらせているのではないか。それは同時に、そういうことをしている家族を、自分の人生を決めてくるような家族を、どうにか一般的で平凡な、しかしだからこそ楽しい家族になってほしいのだ。
そんな、洋斗の思いに触れ、何をしてやれるのだろうかと自問自答する。かけがえのない友達に何を言ってやればいいのだろうか。何を言えば彼の荷は少しでも軽くなるのだろうか。いや、それは逆効果なのかもしれない。
「変わりたくないけど、変わりたい。そんなもん、誰にでもあるさ」
ぽつりと発した言葉が少しの静寂を破った。海遥である。
「俺だって、変わらない生活に戻せるのなら、家族みんないたあのままがいい。あのままずっと、変わらずにいたい、そう何回も思った。それに、俺だって海花に引っぱられてるだけじゃなくて、もっと自分からみんなをまとめたい、そう思ったりもしてた」
ふっと目を細めて巴日を眺める。光は心なしか弱まっているが、まだそれは輝かしいほどだ。潮の流れで海遥の髪も少しだけなびいた。
「でも、もう変わっちまった。海花も、母さんもいない。あの頃とはかけ離れた、全く別のものになった、そう思った。みんな知ってるとおり、俺はそれになんとか慣れていこうとしてもがいて、強がっていた。変に大人ぶってた。そうして、泣きべそかいてうずくまっていた自分を"変えようとしていた"。でも、俺はなんにも変わってなかった」
両隣を海遥は見て、微笑する。航大と洋斗、澄澪と沙月がいる。彼らにもきっと、小さい頃から今の海遥を比べても、きっと何も変わってないと見えるだろう。
「俺は俺なんだ。結局は、そう。そして、家族も。海花も母さんがいなくなった家族には父さんがいる。父さんだって、普段通りだ。いつも通り、何も変わらない。そのままなんだ。俺は
でも、洋斗。お前の家族は……まぁ、今でもずっといる。父親も母親も。そしてお前は、今のお前には
「海遥……」
洋斗を射貫くように真っ直ぐと向けられた海遥の目。その目には、彼だからこそ作り出せる輝きを放っていた。そしてその光は、ほかの3人にも強く行き渡っていた。
「お前の"思い"は届くはずだ。全て通らないとしても、少なくともきっとお前の気持ちは届くはずだ。お前の"思い"が折れない限り」
海遥が優しく洋斗の肩をつかむ。その手からしっかりと伝わる温度、そして気持ち。それが洋斗の全身に広がっていく。その心地よさは、巴日にも負けないほどに。
「……ありがとう、海遥。やっぱお前はすげぇよ」
「何言ってんだよ。俺はすごくなんかない。俺は弱いんだよ。でも、みんながいるから、きっと大丈夫だって思える。これも、あのとき気づかされた」
陰りも消えて、再び現れた洋斗の微笑に皆は安堵する。海遥のみんなを"想う"気持ちが洋斗にも通じたのだ。
「"おもい"はいつか伝えようじゃダメなんだ。その"おもい"は伝えられるときに伝えなきゃ、後悔するかもしれないんだ。だから、その"おもい"を伝える相手がいるうちに。その"おもい"が消えて無くなってしまう前に。その"おもい"が、カケラでも残っているうちに」
海遥が巴日を見ながら、ふとそう呟いた。それは洋斗だけではなく、他の3人にも、いや海遥自身にも言い聞かせるものだったのだろう。それは巴日の光のように、青空を輝かせる太陽の光のように、それぞれの心の奥に大切にしてしまっておいた"おもい"を照らし、今まで以上に震え、膨張し、ひとりでに急上昇した。それは強制的ではない。しかし使命感でもない。無意識に、その"おもい"自身がそう考えて動き出したのだろうか。海遥の言葉に共鳴し、絡み合い、じわりと浸透していく。それはもう、すぐそこまできている。
洋斗は、航大は、澄澪は、沙月は、今までにないつっかえた感じを覚えた。もう、次は口に出す、そうなのだと心の内で、そう呟いた。
今回、巴日が観測されたのが7月18日。おふねひきまで残された期間は、あと12日。