おふねひきの準備も終盤を迎えていた。購入した布を使って当日参加する人たちのはっぴ等を主婦たちの力を借りて制作している。男たちは倉庫で眠っていた船たちを洗浄して新たに塗装を施していく。船がみるみる新品のような状態になっていくのを見ているだけで、特に一樹たち男子中学生からしたら底知れぬ興奮が湧き出てくる。
「おおおお」
「こうして見ると、かっけぇよな」
吹き出てきた汗を拭いながら幹大と一樹がクレーンでつり上げられている修理済みの船を見上げる。
7月22日。学校はもう夏休みへと移行した。それによって一樹たちも日中から作業に参加できている。それによって作業は格段に進んでいった。その結果予定よりも早くなり、おふねひきの3日前には全ての作業が終了する。大人たちも自分たちの作業量が軽くなったおかげで、より効率が上がっているのだ。今もまたひとつ船を巨大な作業台の上に乗せている。
「みなさーん、休憩しましょう-!」
声がした方を一樹たちが見ると、そこには白い割烹着を着た澄澪たちがトレイを持って立っている。そのトレイには海苔が巻かれた白米のおにぎりがたんまりと乗せられている。
「いよっしゃぁ、飯飯ィ」
真っ先に雑巾を放り出して飛んできたのは隆広だった。時刻は15時を過ぎているのでちょうど昼飯のエネルギーが切れてきたのだろう。
「あ、隆広くん。手洗いしてからだよ」
「う……、はい」
飛びかかる勢いで澄澪の前に来た隆広だったが、澄澪にトレイをひょいと隠されてジト目で注意されてしまった。さっきまでの勢いはどこへ行ったのか、もう既に人がたかっている水飲み場へと歩いて行く。
「じゃあ、いただこう」
まず澄澪のほうの第一客は大生の父だった。澄澪は「どうぞ」と笑顔でトレイを前に出す。大生の父は積まれたおにぎりの山の頂上をひとつつかむ。一口ほおばると彼の顔はすぐに緩んだ。
「うん、おいしい。昆布だね」
「はい!」
おいしいという感想を受けてより一層笑顔が溢れ出す。一樹も澄澪のトレイからもらい、そして続々と人が集まっておにぎりをもらっていく。澄澪だけではなく沙月と里実もトレイにおにぎりを積んで持っている。皆それぞれからおにぎりをもらっておいしそうに食べている。そんな姿を見られるだけで彼女らも満足だった。
「あれ、みはっちゃんたちは?」
澄澪はある程度おにぎりを配ると、あたりをきょろきょろと見まわし始めた。なにげに澄澪はまわりをよく見ていて、知っている範囲ではあるが誰が来たかなどを数えていた。
「あー、まだ作業してんのかも。おーい!」
両手におにぎりを持って同時に食らいついていた隆広が、思い立ったように作業する船のほうに声をかける。すると作業台の陰から海遥と大生と大人数人が顔を出す。
「わりぃ。もう少しで終わりそうだったから」
海遥は腕で額の汗を拭いながら水飲み場へ向かう。大生たちもそれぞれ用具をおいて手を洗い始める。
「うめぇよ」
「だね。力貰ったよ」
海遥と大生がおにぎりをほおばるのを見て澄澪はうんうんと喜びながら頷いている。
そうして澄澪たちや主婦のみんなで握ったおにぎりはあっという間になくなった。残り一個になった途端に一樹と幹大と隆広のジャンケン大会が開催された。その一個に何か世界を救う力でもあるのかとツッコみを入れてしまいそうになるほど、彼は全力だった。結果その勝者は幹大だった。大空に掲げるおにぎりは、彼の力を象徴するに値する物のごとく輝いて……いるわけではない。その横で悔しがりながら地面を叩いている2人を見てみんなが笑っていた。これもある意味エンターテインメント性があって疲れもいくらかとれたようだ。
いい腹ごしらえにもなり、肩を回しながらそれぞれの作業に戻っていく。その後ろ姿を見ながら澄澪は手を洗っていた。
「……あれ?」
洗い終わって蛇口をひねって水を止めた時だった。体がふわりと浮かんだような感覚に襲われる。焦点が合わなくなってしまったように視界がぼやける。咄嗟に流しのところをつかんだが、後ろに重心がいってしまって倒れそうになった。
そこに彼女の背中に両手をおいて支えてくれた人がいた。澄澪が振り向くと、心配そうにする大生の姿があった。
「大丈夫か?」
「あ、大生くん!……ありがとう」
大生の力を借りつつ澄澪はバランスを取り戻して立つ。大丈夫アピールをしようとするが、変な作り笑いをするだけですぐに陰りが生じてしまった。
「……冬眠の兆候、らしいんだ。みはっちゃんとかこうちゃんとか、普通にさっきおにぎり食べてたけど、ほんとは今何も食べちゃいけないんだ。絶食してエナが厚くなって、そうなるといつも以上にエナが乾くのが早くなってるの」
「そうなんだ」
澄澪は大丈夫だとは言ったが、大生は一応と言って澄澪の肩に軽く手を添えて沙月たちがいる方に歩いて行く。
「それにね、最近眠気も増してきてね、大変なんだよ。試験と被らなくてよかったな、って思うんだ。でもやっぱりエナの管理は気をつけなくちゃいけないのにね」
「しょうがないさ」
大生は短く答えて、ただただ前を見つめる。その顔を伺うようにして見ていた澄澪だったが、再び顔を伏せた。
「ごめんな。その辛さ、わかってやれなくて」
「え?」
そんなときに澄澪にかけられた言葉に驚き、澄澪はばっと顔を上げた。いつもの微笑めいた顔ではなく、目を細めて口を少しぎゅっと真一文字に結び、明らかに申し訳なさそうにしている。そんな大生の顔を見たのは初めてで、澄澪も驚きで焦りだす。
「え、え。だ、大丈夫だよ!しょうがないもん。大生くんは地上で生まれたんだし。私は果那ノ海で生まれたんだから、しょうがないよ。うん」
慌てて腕を振ってみるが、澄澪はすぐにやめてしまった。大生はこんな冗談も演技もしない。彼の本当の言葉だ。そして先日大生が語ったこと、海の世界への憧れ。そういったことからも、彼は余計に澄澪たちの身で起きていることに敏感なのかもしれない、そう澄澪は思った。
波がゆっくりと体に打ちよせ、分散してまた波がやってくる。そんな見慣れた光景をただただ澄澪は顔を海面に向けて海水に浸かっている。エナが海水を含んでいるのがよくわかる。自分自身でも体が楽になる感覚だ。
「もう、ちゃんと体調管理しないとダメじゃん。エナが厚くなってるからいつも以上に気をつけないと」
「うぅ、すみません」
岩場に腰を掛けている澄澪に沙月は軽く頭にチョップを入れる。そのあとすぐに澄澪の頭を優しく撫でる。
「……どう頑張っても、体は冬眠しようとしてるんだよね」
「……」
沙月の掌が澄澪の髪をなぞる。藍色の髪は手入れがされているので、艶やかで綺麗だった。その髪とは対照的に澄澪は影が差したように暗かった。
沙月の言ったとおりで、今の彼らの体は確実に冬眠を向かえる"準備期間"に入っている。大宴会のあとから海村全員は一切食事をしないというルールになっている。しかし、5人はそれを無視して給食を食べたり、さっきのようにおにぎりを食べたりしている。
そういった抵抗もむなしく、澄澪のように兆候がでている。それは他の4人も同じで、今も眠気をなんとか抑えつつ作業を続けているのだ。
ウロコ様からの話を聞いて、最初彼らは驚きよりもむしろ絶望していた。唐突に冬眠を言い渡されてもどうしていいかなんてわからない。湧き出てくるのは、ただただ混乱だ。しかし、彼らはなんとかして眠るまで地上に仲間と一緒にいたいという道を選んだ。そして地上でも同じ問題について考えていた。そのひとつの方法として、汐帆が"もうひとりのおじょしさま"となって船に乗り、昔のおふねひきを再現することだった。そうすることによって、皆の"想い"をどうにかして海神様に届ける。そうすれば、地球の寒冷化も冬眠もなくなるのでは、そういう賭けをした。
そう、彼らの"おもい"は"冬眠の日まで地上のみんなと過ごしたい"から"冬眠などせず、いつも通りの日常をみんなと過ごしたい"に変わっていったのだ。
いつ目覚めるかもわからないこの現象に保証などない。冬眠から抜け出していざ出てみた地上に、眠る前まで見ていた光景が跡形もなく消えていた、そんなことを考えただけでどれだけ恐ろしいことか。
でも、彼らは立ち向かう。体が冬眠を受け入れているとしても、それでも立ち向かう。運命など変えてやろうと、半ばけんか腰であっても、堂々と正面から立ち向かうのだ。
「澄澪」
「……なに?」
澄澪は振り向いて沙月の顔を覗くようにして見る。先程の陰りは一旦引っ込んだようで、普段見せるような顔だった。
「……ううん、なんでもない」
沙月もいつも通りの笑い方で首を横に振った。そして再び澄澪の頭を優しく、ゆっくり撫でる。
ここで言ってもしょうがないと思ったからだ。「澄澪は"おもい"を伝えたい誰かはいるの?」なんて、気軽に言えるものではないのだ。そう言おうとしたすぐ前の自分が嫌になった。そして、その代わりに沙月は暮れる空を見ながらぽつりと言った。
「洋斗は、きっと大丈夫だよね」
「うん、ひろちゃんだもん。大丈夫だよ」
澄澪も視線を前に戻す。夕日に染められた赤い海を見て、小さく頷いた。
今、この作業場に洋斗の姿はない。彼は果那ノ海にいる。ただし、決して作業をしたくないだとか、彼が勝手な言い訳をしてこの場に来ていないわけではない。彼は、きっと今も、彼の両親に彼自身の"おもい"をぶつけているのだ。
みんなが作業をして、休憩におにぎりを食べていた時より1時間前。
場所は洋斗の家の一階。いつも食事をしているリビングで洋斗は椅子に座っている。その向かいの席に両親が座って洋斗をただ見つめる。その目は自分らの息子を愛するようなものではなく、それはまるで家に悪さをした知らない子どもを見るような、一種の敵視。
「で、どうしたの。話があるって。珍しいわね」
リビングを包み込む静寂を切り裂き、母の未沙が右手で頬杖をつく。その無表情の視線から一瞬目を逸らしたが、洋斗は深く呼吸をして両親の方を向く。
「それは……この後、というか、冬眠の日までどうするかについて、だけど」
「それは俺ら全員でここを出るんだろうが」
たどたどしい洋斗の声を遮るようにして父の祐治はぴしゃりと言った。腕を組んで椅子の背もたれに寄っかかる彼は未沙よりも一層冷たい声だった。
彼は明日2人を地上にある自宅へと移そうとして再び果那ノ海に来ていた。宴会のときにそのようなことは言っていたが、それを無しにするわけがなかったのだ。もちろんそれは事前に母から洋斗も知った。それを最初で最後のチャンスと悟った洋斗は2人揃う今日を狙って呼び出したのだ。
「それは……そう父さんは言ってるけど、でも」
「なんだ、大きい声で話せ」
この状況を作ったはいいが、洋斗にしてみればかなりの恐怖だった。普段から恐れて、言われたとおりに行動してきた。間違ったこと、自分勝手なことをすればすぐに怒られた。それを母が父に伝え、まれに帰ってきた途端にまとめて説教されたこともあった。
そんな両親を目の前にして、まさしく両親からすれば
けれど、ここで逃げてしまってはいけない。洋斗の意思がそう叫んだ。
祐治の威圧ある声に怯んで思わず視線をテーブルに落としてしまった。それでも、彼なりに声を大きくして、発言した。
「俺は、ここを離れたくない。冬眠の日だって、おふねひきがある。だから、その、それにも参加、する」
目を力一杯閉じて拳を握って、体全体を絞るように"思い"を口にした。2年前、土砂崩れが起こったあの日。この環境に問題があるとして果那ノ海を離れた家族がいくつもあった。当初、洋斗たち一家もそれに入っていたのだ。それを洋斗の止まりたい"思い"で根気よく粘り続けた結果、洋斗はここにいて海遥たちと白風中に通って、そして未知なる脅威に立ち向かおうと彼らと誓い合った。
だからこそ、こんなところでひとりだけ欠けてしまうなんてありえない。洋斗はここに残って、彼らと共に脅威へと立ち向かう。それが洋斗の"思い"だ。
目をゆっくりと開けて上目遣いで2人の様子を伺う。案の定、目を大きく見開いて口を半開きにしている両親の姿があった。
「それはどういうこと!?」
未沙が頬杖していた右手でテーブルを叩いた。乗っていた箸入れや飲みかけのコップが少し揺れる。祐治は先程よりも険しい顔で洋斗を睨んでいた。
「……言葉の通り、だけど」
「おい、洋斗」
顔はそのままでテーブルと両親の顔を行ったり来たりで見ていると、再び祐治が口を開く。
「お前は何を言っているんだ。ここにいたら眠ってしまうんだぞ?いつ目覚めるかわからんところで、そんな無駄なことをしてどうする」
「たしかに、いつ目覚めるかはわからないけど」
「そもそもだ。こんなところにいても何の意味もないんだ。お前はもっと都会に出て、多くを学び、そして立派な社会人にならなければならない」
立派な、社会人……?
洋斗の思考が急停止してしまったような、白熱した試合に水を差すような、急に世界が止まった感覚。小石を頭にぶつけられたのかときの腹立たしさが洋斗の心の奥底から滲み出てきた。
「こんなド田舎じゃ不便にもほどがある。お前のためにここらへんにいられる家庭教師を探すのにどれほど手間が掛かったか。そして今までどれだけ金を払ったか。お前は知らんだろう」
祐治が眉をひそめてため息をしながら腕を大げさに上げる。
「それに、お前のまわりにいる人間はどれも大したヤツじゃない。そこら辺にでも落ちてそうな人間ばかりだ。そんなのといても無駄だ無駄。もっと役に立つ情報を普段から取り入れられるような環境にいるべきだ」
そんなのといても無駄?
洋斗は疑問に疑問が重なり、それは徐々に大きくなっていた。心臓の鼓動さえも聞こえない、ただ唯一祐治の声だけが嫌に耳に入ってくる。手が、震えていた。
「もう来年は高校受験を控えているんだぞ。設備や学習環境が整った場所へ行くためにもここに残る意味はない。いつまでも友達と仲良しごっこしている暇があるのなら、俺らがお前に出した金の分だけ成果を出していけ」
祐治が声を強めて洋斗に言い放った。僅かに流れの音以外聞こえない空間に彼の声は響いた。それは浸透していくようにして、再び静寂が訪れた。2人は視線を一切外さなかった。そして洋斗は、自分が震えているのがやっとわかった。振るえながらも深呼吸をした。じわじわと体全体に広がったそれは満タンになっても止まらなかった。呼吸がいつもよりしづらい。拳をより強く握った。閉じた口の中で歯茎さえも震えていた。それを静止させるかのように歯を食いしばった。
もう、限界だった。洋斗はばっと右手を挙げてテーブルに強く振り下ろした。握られた拳がテーブルを揺らして鈍い音がした。箸立てもコップも先程以上に揺れて、こちらは高い音をたてた。
「……いい加減にしろよ」
「なっ……」
2人は洋斗の行動にあっけにとられ、口をぽかーんと開け放たれていた。
「たしかに、いい学校に進んでいい会社に入って、それがつまり立派な社会人だと、そう言える。悪いところなんてひとつもない、理想像だろうよ。けど、あんたのいう理想像は、俺はただのロボットだろ」
「なんだと?」
洋斗の声は震えていた。しかし決して恐怖で振るえてなどいなかった。それは怒りだ。
「ただただ進学のためだけに学校行って、就職して……。それで構わないのなら何の問題もない。でも、俺は違う。そんなのは望んでいない」
より威圧を込めて睨んだ祐治の視線を振り払うようにして洋斗は声を張って言う。
「俺はずっとみんなと一緒に学生生活を送ってきた。けっしてひとりぼっちじゃなかった。みんなが俺を友達だと、そう言ってくれる。みんなと楽しみながらも、時には真剣に何かに取り組んで、そして達成できたときはみんなと嬉しさを分かち合える。そんなことを経験できたのは、あんたが言った、そこら辺にいるやつらなんだよ」
「だから、それがどうしたというんだ。今のお前にはそんなのは必要ないと言っているんだ!お前は社会で実績を積み重ねて、世間を見下ろせられるような地位を手に入れるんだ。そうすれば金も多く手に入る。一般人では到底手を伸ばせない物でも、何でも」
「それが気にくわねぇんだよ!」
洋斗の主張を聞いて完全に苛立ちが抑えきれなくなった祐治は立ち上がる。最初の険しさを表す顔は最早激怒の仏像のごとく皺を寄せて、血走った目を洋斗に向ける。しかしそれを凌駕するような声を張り上げて洋斗も勢いよく立ち上がった。それによって椅子は背もたれから床に打ち付けられて倒れる。ゴンという衝撃でさらに両親はびくりと驚く。
「俺は、そんなものなんて望んじゃいねぇんだ。父さんみたいな優秀な弁護士になんて憧れてない。大金持ちになんて憧れてない!」
「ハッ、何にも夢なんて持ってないお前が、憧れなどという言葉を使うな!」
「ああ、そうだ。そうだよ、俺になりたい職業なんてこれっぽっちも思いつかない。けど、少なくともあんたの思うがままの人生を歩むつもりはさらさらない!」
父と子との言い合いに隙間を縫って入ることなど容易ではなかった。未沙は普段みせないおろおろとした顔で両者の顔を見ながら、「あ」「ねぇ……」と口を開こうとしては否が応でも閉じなくてはならなくなっていた。
「ふざけるな!今更ぬるい道を選ぶなどと俺が許さん!」
「ぬるいとかあんたの勝手な基準で判断するなよ。あんたの考えた理想像が全てじゃないんだよ」
「今までお前のために使った金や家庭教師はどうするんだ!止めるのか?」
「ああ、それについては感謝しているよ。だけどな、それがあんたの理想像のためだけにしか使えないわけじゃないだろ。それに、
祐治の発言をことごとくいなしていく洋斗に、祐治は息を荒くして鋭い目で睨み続ける。洋斗もあくまで自分を保とうと冷静を気取るが、やはり剥がれ落ちてしまうようだ。
だから、だろう。洋斗もこれは言うか否かを迷っていたことも、自然と口から滑り落ちていった。それは、流石の両親の前でもためらわれる、いわば禁句だった。それでも、きっとこれでもかと言わない限り終わらないだろう、そう頭が判断したのだろう。
「俺は、
「……!!」
祐治の顔が形相から一転、目が一番に大きく見開かれて口が開いた。未沙もそれまでの慌てぶりがピタリと止まり、代わりに顔の部位が崩れていくような様子で目頭から涙が零れ始めた。
祐治は今日一番に鬼のような顔へとすぐに変貌した。しかし鋭い言葉は飛んでこず、むき出しの歯を力一杯に噛みしめた後に目を閉じた。
「……もう、俺はお前など知らん。ここから出て行け」
「……ああ、そうだろうと思ってたよ」
場は完全に沈下した。重力がここだけ増したような重い空気が押しつけてくる感覚だ。先程ので喉を消耗したようで、普段以上に小さい声で洋斗はそう吐き捨てた。椅子は元通りに直さずにリビングを出て自室のある二階へと上がってく。
一段一段がこれまた億劫に感じる。洋斗は手すりをつかんで上る。体はかなり疲労しているのがわかる。なぜか節々が痛かった。
洋斗の、彼の内に秘めていた"思い"をありったけ両親にぶつけた。予想通りにそれをはねよけようと彼らの反論が飛んできた。一進一退のぶつけ合い。血だらけになろうとも止まない言葉。たとえ鋭利なものでも、すでにわかっているからなんてことなかった。
そして、結果は……どうなのだろうか。祐治から先に止まったから洋斗の勝ちなのか。洋斗自身は首をかしげたが、すぐに考えるのは止めた。あの勝負に勝ち負けなどなかった。いや、勝負ですらなかったのだから。
自室にあるベッドには大きいリュックと2つほど小さい鞄が乗せられている。あらかじめこうなると予想していた洋斗は荷作りを完了させていた。机には筆記用具、横に備え付けられている棚には教科書や本など、それら見慣れたものは一切ない。必要なものは全てリュックや鞄に詰め込んだ。机の向かい側にあるベッドに再び目を向ける。いつも使っていた目覚まし時計が午後五時を指す。
ふと、網戸にしていた窓から緩やかな潮の流れによってカーテンが揺れる。わずかに差し込んできた光の先に、棚に置いてある写真立てがあった。それを洋斗は手に取る。
写真には4人が写っている。一番背の高い男性は父の祐治。その横にいるのが母の未沙。2人の前で堂々と両腕を腰に当てて笑っている子どもがいる。それが洋斗の兄、
「……」
洋斗は写真を見つめる。その表情は普段通りの無表情にも見え、また懐かしむようにも見え、しかし物寂しげにも見えた。
少しほどして洋斗は写真たてを棚に戻した。その際、写真たては元通りではなく写真が見えないように倒すようにして置いた。
大きいリュックをしょって2つの鞄はまとめて左肩に掛けた。洋斗の家の玄関はリビングがすぐ横にあり、家を出るときどうしてもリビングが見えてしまう。なので洋斗はベランダからジャンプして出ることにした。部屋を出てすぐ左にベランダへと出るドアがある。ノブを回してベランダへと出ると、空は赤と橙のグラデーションで彩られている。
洋斗はしばらく空を眺めていた。巴日を見たときのような、けれど少し違う感覚。洋斗でもうまく言い表せない。でも、もう何も、悩むべきものはひとつ終わった。そう片付けたところで洋斗は強めにドアを閉め、手すりを乗り越えて地面に着地した。
洋斗は振り返らず、ひとまず目的地を目指して歩き出した。