それは、まるで耳元で雫が水面に落ちているような、心地よい音。波紋を生みだして揺れる先には、延々と闇が広がっている。
ここはどこだ?俺はなにをしているんだろう。どうやっても思い出せない……。
周りを見渡しても闇、闇、闇。足下には広がる水面。足を動かす度に揺れて広がる波。しかしその底までもが闇に覆われている。ただ、その水は青々と輝いている。
なんなんだ。ここは、いったい……。
――――ねぇ、こっちだよ。
「……!」
耳元で囁かれた声にはっとすると、もう闇は消えていて、かわりに自分の知っている景色に変わっていた。
「……なんで」
俺は、教室にいた。ここは、俺が通っていた白風中学の教室だ。窓は開けられてカーテンが優雅に踊る。そこから差し込む夕日がどこか眩しくて、そして美しくて。
肌を優しく撫でる風はけっしてぬるくなく、むしろ少し冷たい。黒板の前で突っ立っている俺はふと窓の方に顔を向けた。
「ねぇ、こっちだってば」
また、聞こえた。ほっとする明るさと若干の幼さを感じる、そんな声。俺はこの声を聞いて鳥肌がたった。俺は、この声を聞きたかった。もう一度聞きたかった。それをずっと望んでいた。
声がした方に振り返る。五列の真ん中、一番後ろの机に、彼女は座っていた。
「あ、やっとこっち見てくれた」
彼女は俺と目が合うとより一層目を開いて笑った。俺の知っている、俺の記憶そのままの笑顔だ。
「なん、で」
「んー、わかんないや。でもね、多分これはお知らせなんだよ」
「え?」
彼女の言っていることがわからなくて首をかしげた。彼女はがらっと音をたてて椅子を引いて立ち上がる。
「お知らせ。私たちからの、みんなへのお知らせ。ずっと待たしちゃってごめんなさいってことだと思う」
彼女は手を使って自分の考えを述べた。手のひらを自分の胸元によせてからこちらに伸ばした。そして申し訳なさそうに笑った。
「だから、そのときはよろしくね。前みたいに、みんなの輪に入れてあげてね」
「え、そのときって?」
彼女はそう言い終わると微笑を残して俺の言葉を聞く前に去ろうとする。
「あ、待って!」
俺はその場から駆けだそうとした。でも、足がまるで言うことをきいてくれない。足の裏が地面に張り付いているかのように。
それでも、俺は手を前に出すほかなかった。
「待って!」
俺は叫んだ。あのとき、俺はなにもできなかった。何も言うことができなかった。なにも助けられなかった。その後悔とむなしさと自分への怒りと失望と、あてようもないやるせなさが入り交じる。俺は、俺は……。
彼女は教室後方のドアを開ける前に、こう言った。
「ごめんね。私は、まだ先みたいだから」
その声はついさっき聞いたような明るさはなく、悲しさを押し込めながらのものに聞こえた。それも、無理矢理作ったような笑顔と一緒に。揺れる藍色の長い髪はついに俺の視界から消えてしまった。
そして、言えなかった。最後まで俺は、彼女の名前を言えなかった。
あのとき先生に連れられて自己紹介をしていたときに聞いた、あのとき黒板消しで消されていった、そして俺の頭から消えずに残り続けている、吉野川澄澪という名前を。
「……っああああ!!」
いつの間にか大声を出していた。手を真っ直ぐ伸ばしていつの間にか乱れていた呼吸のまま、目を見開いていた。
そう、目を開いた。視界にはもう夕暮れに染まった教室はない。見えるのは白い天井。その近くには丸い形状のライトが備わっている。
ゆっくり手を下ろす。先ほどのは全て夢だった。自分の記憶が作り出してしまうどうしようもない駄作。どうあがいても繰り返される悪夢。何回も何回も夢に出てきた一人の少女。けれど、今日のそれは今までのものとは違ったように思えた。教室の雰囲気、香り、色、そして彼女の言葉。それら全てに妙なリアリティがあった。
手を額に当てる。ぬるりとした感触は間違いなく汗だ。力なく手のひらが額から頬へと落ちる。
「……おい、大丈夫か?」
異様な夢を見てしまったせいか少しだけ浮いているような感覚に陥り、意識はあるがぼうっとしたまま動けないでいた。だから、自分の下から聞こえてきた親友の声への反応が遅れてしまった。
「うなされてたみたいだけど、大丈夫か?」
今いるベッドの下を覗くとこちらを見上げている人物。普段からポーカーフェイス気味ではあるが、長いつきあいのため感情の変化は充分わかる。いや、訂正しておこうか。人間の本当の気持ちなんて隅々まで、なにもかも全てわかるはずがないか。そうであったとしても、彼が親友であることは変わりないけれど。
「いや、ちょっと変な夢を見たんだ」
俺――里浦一樹は一呼吸置いて、少し心配そうにしている親友――藍住大生に言った。
一樹と大生は現在大学一年生だ。必死こいて受験勉強し、二人は久里ノ上から遠く離れた大学で寮生活している。そして二人揃って海洋学を専攻している。
大生は確かに、昔から海について関心があった。ただただ海を見ているだけではなく、その海の中でどんなことが起きているのか、どんなことがわかるのか、などを子どもながらに分厚い本を読んでいたりもしていた。そしていつしか、海のなかで生活する人々にある種の羨望の眼差しで見ていた。
一樹の場合も、けっして彼について行くためとかいう幼稚な理由じゃない。彼と同じ海について興味関心があった。けれど、それだけではない。
海の中に住む人たち、海村についても多くを知りたかった。それは羨望ではなく、もっとほかの……。
今までならこの分野はさほど人気は無かっただろう。けれど、あの出来事を境にして世間の目は変わった、と言ってもいい。
14箇所の海村は全て冬眠に入り、未だなんの動きも見せていない。それの調査で騒動になったりもした。そして冬眠を境にして寒冷化も進み始め、今年あたりでは夏期の最高気温が通例の十一~十二月の最高気温とほぼ変わらないというところまで来ている。
それゆえもう七月下旬だというのに半袖で外を出歩いている人を見たことがない。分厚い掛け布団もバリバリ現役ということだ。むしろ休みがない。
前期のテストも終わり、すべての課題を終わらせた人たちから夏休みへと移行する。大学生の夏休みは高校で経験したものよりも長い。それをどう過ごすかは人それぞれだが、思いつく物と言えばキャンプなりバカンスなりと、外でのアクティビティだろう。けれど、この季候のおかげで海は候補から消えてしまう。こんなときに海に飛び込んでもしたら、氷付けだ。
俺らはそんな遊びまくるというウキウキな夏休みは予定していない。所属している研究室の面々で独自の海村の調査を行うことになった。といっても大がかりなものではなく、少数の三班に分かれて向かうのだ。俺と大生が久里ノ上にある海村、果那ノ海へ行く。2つ目、3つ目の班もその学生の出身地へ向かうことになっている。
過去の事件として研究者たちがどかどかと海村に一番近い土地に入ってきて、なおかつ殿様気分で接待しろなどという態度に出た。それを繰り返してしまうのはさすがに避けたい。なら、過去に海村と接点があった人物が調査に出たほうが荒事にならないという結論が出た。
他のふたつの班はどちらも学生はひとりだ。そのうちの一人がいた場所では、偶然にも果那ノ海と同じような状況で海村の生徒たちが陸の学校に来て、七月に入ってからだけという短い時期であるが共に過ごしたという。その彼の見た感じの雰囲気が大生に似ている。ポーカーフェイスという点ではほぼ同類だけれど、大生と長いつきあいであることを差し引いても彼はなにを考えているかわからない。透明な瞳はしっかりとしたなにかを表しているようで、彼はのちに最前線で活躍するような学者になりそうだと、勝手に想像している。
その彼は既に教授とともに目的地へと向かっていた。今ごろ機材を前に2人して黙々と作業しているに違いない。
一樹と大生は今日、寮を出て久里ノ上に帰る予定となっている。朝日が差し込む共同部屋で二人は朝食を取る。一樹は寮生活が始まってから二人で決めた朝食当番で初めて自炊を試みたが、大変苦労していた。大生はある程度経験があったので一樹に教えていった。今ではそつなくこなせる。
備え付けの小さなテレビから聞こえてくるニュースを聞きつつパンをかじる。
「あっちのほうも天気はよさそうだ」
「だな。そうじゃなきゃ、
微妙に口元を緩ませながら大生はスープをすする。
「まあな。……まさか、地上でも見られる日が来るなんてね」
一樹は視線を宙にさまよわせる。そこに映るのは夢で繰り返される悪夢でも、一人の少女でもない。本や過去の映像でしか見たことがない特殊な現象、つまり巴日だ。
巴日は通常海の中でしか観測することはできない。けれど、この異常気象によってできた海面を覆う氷がプリズムとなってぬくみ雪の輝きを集める。それが像を結び、虚像の太陽となって現れるという。
しかも今回は太陽ではなく、夜に浮かぶ月で起こるようだ。言い方を改めるなら、巴月か。
「映像よりも、自分の目で見たほうが、綺麗なんだろうな」
ぼそっと、大生がそう呟いた。それには期待というよりかは、なぜか悲しそうな声音だった。
大型のリュックサックとスーツケースを持って駅まで来た。大生と、その後ろで立っているのは今回一樹たちの班に同行する教授、
「んじゃ僕は機材を乗せて車で行くから。前に決めた場所に時間通りいてくれよ」
「はい、わかりました」
徳島は二人に軽く手を振って自分の車に乗った。二人も顔を見合わせて駅に入った。
新幹線や私鉄などを乗り継いでいく。都会の景色からすぐに緑が顔を覗かせて、そしていつしか見慣れた風景へと変わっている。けれど、やはりそれは一樹たちの知っている“夏”の景色ではない。
青い空の下には似つかわしくない白い世界。氷付けになった水面には波はもちろん、自然というなの生命すら感じられない。そして溶けることのない氷山。存在ですら冷たく、下界と断裂したかのような孤高の山。すべてが止まってしまったかのようだ。
二人は思い出深い駅へと降り立つ。白い看板に書かれた文字。長年雨風に晒されてところどころ擦れているが、ちゃんと読むことができる。久里ノ上だ。
改札を出てすぐに、視界にひとりの人物が映り、近寄ってきた。パシャリと音がした。
「やっと帰ってきたね。もう、待ちくたびれたよ」
二人の前に立つのは茉紀だ。クリーム色のショートカットの髪は相変わらずで、身長も中学生のころからあまり伸びていない。それは茉紀自身のではかなり気にしているようだ。
彼女は現在高校生。だが来年で卒業し、その後は父親と同じカメラマンという道を進むつもりである。世界をかけまわるような段階にはまだまだ至ってはいないが、学校行事であったり、広告の写真等を撮っていたりと、すでに仕事をもらえるようになっていた。在学中に父親の仕事を手伝っていたりしていて、そこからの繋がりも持てたという。加えて大事な点は、前からずっとカメラで写真を撮っていたという経験値が、今の彼女を物語っていることだ。
「やっとって……。今日帰るって連絡はしておいただろ」
「そうは言ってもさ、二人が三ヶ月以上ここからいなくなっただけで変な感じだったんだよ」
「まあ、高校生になっても顔合わせる機会はかなりあったしね。それさえもなくなると、違和感があるか……」
大生が両腕を腰に当てて頷いていると、彼らに気づかせるように強い風が吹いた。肌に針が突き刺さるような冷たさ。それが体の内側にまで潜り込み、触らなくていいものまでひっくり返す。
風が吹いてきた場所、そして“ここからいなくなった”という言葉が重なってしまったからだろう。五年経った今でも姿を見せないあの四人を思い出してしまった。それは一樹だけではなくて、大生も茉紀も同じだろう。和やかなムードは風と共に流され、沈黙のまま皆同じ方向を向いていた。