凪のあすから おもいのカケラ   作:柊羽(復帰中)

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第四十二話 風化

「んー……。ダメだなこりゃ」

 

 徳島がのけぞって疲れ果てた顔を空に向けた。目を擦りながら保温ポッドからコーヒーをカップに注いで一口すする。

 

 巴日が地上で観測された日、そして航大と沙月が冬眠から目覚めた日から四日が経とうとしていた。徳島と一樹と大生は欠かすことなく自分らの目的である現場調査を行っているが、難航していた。といっても正確にはなにひとつわかっていないわけではない。

 

 大学から持ってきた機器を使って今現在この氷床の下で起こっている海流のデータを取って分析している。その得られたデータによると、だいたいの場所では周期的な動きをしているのだが、ある一定の地点からは急激に変化しているのだ。通例では考えられないもので、大げさに言うなら、水族館で使われるような強化ガラスで仕切られているような変容ぶりなのである。

 

 彼らは氷床の下に広がる果那ノ海の状況の把握も目的のひとつだった。が、こんなわけで持ち込んできた海中カメラレンズを搭載した小型無人探査機が使えない。下手に使っても果那ノ海周辺に到達できないどころか海流にもまれて破損の危険性もあった。

 

 なるべく果那ノ海から近いポイントを狙って氷床に穴を開ける案も考えられたが、すぐに却下された。それは考えずとも見ればわかった。忌々しい姿で立ちふさがる、あの氷山を。

 

 あれは果那ノ海の中心からは逸れているものの、山の中心に向かって氷の角度が上がっていっている。それは緩やかだがかなり広く、盛り上がった分だけ氷の幅も大きい。ベースキャンプ地とした場所はもちろん強度は万全だが比較的氷の厚くない場所にある。探査機を入水させるための穴も開けることができたが、果那ノ海に近づこうとすればするほど難易度は上がるだろう。

 

 そもそも、今現在のような異常な季候になったのは今年から急に、ではない。じりじりと右肩下がりで平均気温が下がっていった。つまり、まだ半袖半ズボンと水着の出番もあったわけである。そう、それだけの気温はあった。にもかかわらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そして年を重ねると海まで凍り付いた。

 

 彼らの目的のひとつは、季候の影響をまったく受けないこの特殊な氷の材質調査も含まれている。

 

「教授、そろそろ変えてみますか」

 

「ああ、だな。頼む」

 

 一樹が立ち上がると大生も続いて立ち上がる。

 

 彼らがこれだけで調査を終え、ささっと大学に戻るはずがない。今考えられる最適な方法はただひとつ、小さな抜け道を探すことだ。

 

 荒くねった海流でも僅かに生じる比較的穏やかな場所。それを必死に探し出そうとしている。機器を調整してそのありかを見つけ出すのが当面の彼らの仕事だ。

 

 そして、そこをかいくぐって果那ノ海へと入ることが出来れば、かなりの進展と言えよう。けれど、この案に無人探査機は使えないのは変わらなかった。激流の穴を見つけたとしても、単純な一本道ではないだろう。入り組んだところをくぐらせるのは、やはり無理がある。

 

 ではどうするか?この答えは、自然と出てしまった。あまりにも偶然で、しかしそれがある意味目的でもあって、そしてあまりにも身勝手な答えだ。これを引き受けてくれるかは、彼ら次第なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この感覚はいつぶりだろうか。そう思ってしまうのはおかしい。おかしいはずなのに自然とそうさせるのはきっと、自分たちの知らない時の流れであるのだと、何回も同じ疑問と回答を沙月は頭の中で繰り返していた。

 

 玄関から大生の両親が持ってきたスリッパに履き替えて廊下を歩く。足のサイズと合わないスリッパがパタパタと音を鳴らす。気温だけでなく、場の雰囲気や人気のなさがより肌を切るような冷たさを漂わせていた。

 

 二人が冬眠から目覚めて一週間になった。昼時を過ぎた頃にそろって白風中学校に訪れていた。

 

 大生の父が職員室の前に立ってドアをノックする。ドアを開けて顔だけを中に入れるとすぐに目的の人物を見つけたようだ。

 

 その人物はまもなく現れた。大生の父と少し会話して、沙月と航大に顔を向けた。

 

 ぼさぼさにはねた髪には白髪がまざり、ひげはより濃くなっていたが黒縁めがねは変わっていなかった。二人の目の前に立つのは、当時担任をしていた大塚だった。

 

「ああ、お前ら……。本当によかった」

 

 五年の月日を感じさせる小皺を見せながら大塚は安堵したような笑顔を見せた。それは沙月は以前見たことがあった。汐帆と再会したときと同じだ。

 

 二人のもとにゆっくりと歩み寄り、そして両手でそれぞれの頭を優しく撫でる。その大きな手のひらから伝わる温かさが伝わってくる。そのぬくもりと、大人に頭を撫でられることが滅多にないため、沙月はなんだかもどかしく、そして照れた。

 

 ふと目だけ航大を見た。彼もまた大塚の安堵した様子を見てか、安心させるかのように、自分は大丈夫だと示すよな微笑を浮かべていた。それは航大が今までしてこなかった顔だ。

 

 夏休みとあって閑散とした教室に入った。ここは二年生にあてられた教室。沙月と航大もここで三ヶ月、学生生活を過ごしていたのだ。

 

 しかしその光景そのままを残してあるはずがなかった。教室内の老朽化はとくに目立つものがなかったが、明らかに自分らの知っている机の数と違う。減っているのだ。

 

「お前らが冬眠してからな、徐々に減ってるんだよ、生徒の数がさ」

 

 沙月の考えを見透かすように大塚が言った。まさにその通りなのだろう。久里ノ上の景色を見ればおのずと理解はできる。

 

 後ろの机から減らされているようだ。まるで過去の記憶が少しずつ、少しずつ消えていくように。もう、沙月と航大が座っていた位置に机はなかった。

 

 適当に大塚が椅子をひいて教室の後ろに向けさせて座った。そして彼の前にある机に沙月と航大に座るよう促す。

 

「一応、夏休みに入ってから二人の義務教育が止まっている。だから、この夏休み明けから再びここの生徒になるんだ」

 

 大塚は指を組ませて二人を交互に見ながら言った。

 

「目覚めてから一週間。たったそれだけの期間でいつも通りの生活に戻れなんて言わない。もちろんみんなからもそう言われてるだろう。だから、ゆっくりでいい。きっと俺にはああだこうだいう権利はないけど、二学期から学生生活をまた始めてほしい」

 

 大塚の声はとても穏やかで、優しくて、ついうっかり涙をこぼしてしまいそうだった。

 

 大塚の考えていることはある程度察せる。言うまでもないこの五年で、一樹たちはもう先へと進んでしまっている。それは当然で、むしろ不思議に考える必要がない。

 

 けれど沙月と航大は、止まっている。中学二年生の一学期が終了した時点で止まっているのだ。それから五年が開いて今、再び前に進む。当然、二人は五年進んだ現在と交わって生きていくことになる。二人にとって三ヶ月前に味わった、転校生のような気分、緊張、不安。そう身構えることではないかもしれないそれと寄り添う。

 

 自分と五歳下の男女だったのが、今では同い年。そのほかでも、気にしてしまうことは多々あるかもしれない。それでも、ここは久里ノ上で、海の中で冬眠をしている海村は果那ノ海で。大塚は今も白風中学校の教員をしている。

 

 過ぎてしまった時間は戻ってこなくても、二人が再び人生を歩み出す時間と場所はちゃんとある。そして変わらないものもある。だから、

 

「はい」

 

 短くとも、沙月はそう返事をした。その一歩を踏み出そうと、震える足をなんとかして踏み出そうとして。

 

 大塚の視線は航大に移った。

 

「航大は、大丈夫か?」

 

 その声音は、やはり不安や心配が滲み出ている。いつもの、彼らが見てきた航大は元気で、頼りない部分もあるけれど、いざ決めたことは曲げずに通す。そんな彼が、その元気を奪われたかのように背中を丸くさせて俯いていた。それを心配するなと言えるだろうか。三ヶ月とはいえ担任を持った教師なら、なおさらのことほっとけるわけがない。

 

 これは沙月にしか見えなかった。机の下で左手をぎゅっと握りしめていた。そして、

 

「はい、大丈夫です」

 

 顔を上げて、そう言った。絞り出して、ようやく出た一言だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海岸線にそって作られた道を歩く。横にある車道には、もう掠れている白い線が一定間隔で引かれている。その道を走る車は、前からも後ろからも走ってくる様子はない。

 

 すっかり寂れてしまった地面を踏みながら、沙月は自分の少し前を歩く航大の背中を見た。小さい頃からずっと見てきた背中。小学生、中学生と成長するに従って大きくなる背中。

 

 それが今、とても頼りない風に見えてしかたがない。

 

「航大」

 

 沙月はひとり呟くのではなく、小説で心にとまるような一文を読むような声でもなく、ただ目の前の幼なじみを呼んだ。けれど彼は振り向きもせずに歩き続ける。

 

 大生の両親には「少し散歩してから帰る」と言って学校でいったん別れた。これは沙月ではなく、航大が提案した。

 

 大生の両親は少し驚いたような顔をして互いを見合ったが、頷いてくれた。それに沙月もついていく形となって、航大の行くがままに沙月も歩いている。

 

「ねぇ、航大」

 

 もう一度、名前を呼んだ。

 

 昼間の青々とした空は徐々に薄れている。やがては溶けるように白くなり、夕日が橙色に染めて、最後は黒くなる。

 

 航大の背中は、そんな晴れた空ではなかった。蒸して、気だるくなって、陰鬱になる曇り空のようだ。

 

 二人は学校からの帰り道をいつも以上にゆっくりと歩き、里実の実家であるスーパーのある周辺への道を過ぎて、やがて航大は立ち止まった。そこは、五人揃って白風中学校へ登校するために使っていた小さな埠頭。海岸に沿って伸びている塀が途切れ、少し降りた階段がある。海に伸びるようにあるそこにむかって、航大が降りていく。

 

 登校時には海からここによじ登り、下校時にはここから海に飛び込む。なんてことないその日常の一部だった。それも今では氷が一面に張られ、飛び込んでも尻餅をついて痛みを感じるだけ。

 

 小石が混じった埠頭に航大は腰をかける。少し間を開けて沙月も座った。ひんやりとした冷たさが伝わってくる。氷床から少し遠く、足をぶらつかせる。

 

 少しの間、会話はなかった。ただ目の前を見つめる。まるで冬眠中の自分らのように、時が止まってしまったように思えた。そして、航大が口を開いた。

 

「……怖く、ないのか?」

 

「え?」

 

 沙月が横を見る頃には、航大は俯いていた。太ももに腕を乗せてうずくまったまま彼は続けた。

 

「沙月はさ、怖くないのか?」

 

「怖い、って?」

 

「久里ノ上が、いやこの世界が、俺らの知らないうちに時が経って、同い年だった他のみんなが俺らよりも年上になってて」

 

「違う、違うんだよ。私たちが、止まってただけなんだ。この世界はなんにも変わることなく、時を刻んでいってるんだよ」

 

「でも、五年前と今とじゃ、変わったんだよ」

 

 いらつきを押さえるようにして言った言葉に、沙月はなにも返せなかった。

 

「時が経つから、変わるんだよ。町も、人間も。でも、その変化を、時の流れとともに進んでいくから、その変化を受け入れられる。俺らはどうだ?たった一日を境にして五年分の変化を受け入れろっていうのか?ふざけんじゃねぇよ!」

 

 教室で見たときと同じように拳を握りしめて、航大は叫んだ。怒りだけじゃない、どこにはき出していいかわからない悲壮さが混ざり合って、崩壊している。

 

「巴日が地上に出てて。みんなが大生の家に俺らを送ってくれた。そこにいたみんな、成長してた。もう俺らと同じ中学生じゃなかった。俺らは、置いていかれたんだ」

 

「だから違うよ!確かに、みんなは私たちと五年分の差がある。でも、みんなはみんななんだよ。それぞれ自分の進む道を決めて、頑張って歩いているんだよ。私たちはただ、胞衣を持ってたから、ちょっと休憩してただけ。みんな、私たちより大人に近づいているのだとしても、みんなに変わりはないんだよ」

 

「……それは、考えもか?」

 

 こんな航大は見たくなかった。すべてがマイナスに包まれた航大など、少なくとも沙月の中で航大とは認められない。立ち上がって、そのマイナスを吹き飛ばすように沙月も声を大きくした。手を振って、航大に目を向けて訴えかけるようにした。

 

 でも、航大の返答は、沙月には予想外で言葉が止まった。やっけになっていた頭の回転が止まり、言葉の意図をとることができない。

 

「今のみんなは、俺らの知っているみんなだと、考え方も抱えているおもいも、同じなのか」

 

「なにを、言って」

 

 腕が力なく下がった。ただただ立ち尽くす沙月に、未だ航大は目を合わせてはくれない。そんな彼が何を言おうとしているのか、わからないかった。いや、わかっていたのかもしれない。けれど、間もなく聞こえてきた彼の言葉は、頭を打たれるような衝撃を沙月に与えた。

 

「俺、あの祭の時、花火が上がる前に言ったんだ。里実に。好きだ、って」

 

「……!」

 

「すぐに返事を出さなくていいって付け加えてな。ずっと留めておいたままじゃダメなんだって、思ったから。そのおもいが消えて無くなってしまう前に、って海遥が言ってた。だから、伝えようって。言えなくなって後悔するのは嫌だって、思ったから」

 

 沙月は呆然としたまま、ゆっくり崩れるように座った。真横から見えた彼の顔は、自嘲気味に口角を上げていた。

 

「それが今じゃこの有様だ。俺は理想通りの答えを絶対にほしがっていたんじゃない。自分の純粋な想いを伝えて、そしてそれを受け取った里実の、純粋なおもいを聞きたかった。おふねひきが終わったすぐ後でも、三年生になってからでも。でも、でもさ……。その想いを知ったすぐ後に里実の前からいなくなって、五年経ってやっと戻ってきた。そんな俺の想いを里実は、忘れず考え続け、出した回答を今も持ち続けて、そして俺に伝えてくれると思うか?」

 

 やっと、航大は沙月のほうを向いた。自嘲的な笑み、そして彼の目は潤んでいた。

 

 沙月の視界全体がぼやける。いつの間にか、沙月は涙を流していた。自然で、なんの前触れもなく、涙が出た。

 

「俺は、ビビってんだ。自分が好きだと言った相手を信じられてすらいない。いや、信じるとか勝手に希望を抱いてなすりつけてんのかもな……。でもやっぱり、怖いんだ。里実なりにまとめて結論づけた答えを、俺は求めていたんだ。でも、返答を求めたいと言って勝手に消えて、五年経って現れてその返答を聞かせてくれ、なんてよ。返答の中身は、わかりきってるような気がする。里実と交流してたのはたった数ヶ月だ。ただ、その理由が彼女の純粋なカタチじゃなくて、ずれた時の流れで風化したからだって、それが理由だったなら、それがすげー悔しくて、辛くて、むかついて、怖い。聞くことが、会うことすらも、怖いんだ」

 

 くしゃりと無理に笑った航大の目から涙が零れた。指で、手で拭おうともせずに涙を流して、また俯いてしまった。涙は雫となって氷床にぽとりと落ちた。

 

 沙月もまた、涙が止まらないままでいた。それはもちろん、航大の心の内を聞いたからであった。

 

 彼が里実に対してなにかを秘めていたこと、もしくはそれに近いなにかができ始めているとはなんとなくだが感じ取っていた。でも、彼はもう伝えていた。その言葉を、航大が出したありったけの真実の言葉を。

 

 その結果、嘘偽りのない自分の想いで、自分を苦しめていた。なにも間違っていないはずなのだ。おもいを伝えることは何も間違っていない。そんなに思い詰める必要もない。きっと里実なら……。

 

 沙月は、しかし航大になにも言えなかった。言おうとしても、言葉にならない。沙月は改めて思い知った。思い切り打たれて、彼女もわかったのだ。

 

 沙月の、海遥に対する想い。これをやっとのことで伝えた。しかし、今彼女のそばに海遥はいない。五年経った今、やっと沙月と航大だけ冬眠から目覚めた。海村の、十四箇所のうちのひとつの果那ノ海は小さな海村だけれど、数百人くらいいる。その彼らが、全員がいつ、目覚めるのだろう。

 

 そして沙月も恐怖に取り囲まれそうになる。沙月の結論出したこの想いを、海遥が目覚めるまでずっと持ち続けられるだろうか。どんな傷を負っても、削られても、なにひとつ変わらず残せるのだろうか。いや、変わらない。変わるはずがない。沙月は歯を食いしばった。食いしばっても、なぜだか、心臓の鼓動が早くなり、不安がぞろりと迫ってくるような気がした。

 

 今日まできっと、こんな恐怖を覚えないようにわざと一定の距離を置いていた。でも、航大の本音を吐露したこの瞬間から、航大とまったく同じでなくても、冬眠が生んだ時間の差、世界の差、そしておもいの風化を恐れるようになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼らの流した涙が、頬をつたって氷床に落ちる。一滴、一滴、また一滴。

 

『大丈夫だよ。泣かないで。こうちゃん、さっちゃん』

 

 ここは深い海の底。全てが暗く閉じた、冷たい場所。

 

 それとは真反対の、温かくて優しいその声は、誰の耳にも届かない。

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