凪のあすから おもいのカケラ   作:柊羽(復帰中)

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第四十三話 拭えぬ苛立ち

 なにか、夢を見ていた気がする。それがいったいどういうものなのか、誰か出てきたのか、目が覚めたらもうわからなくなっていた。すべての感覚をシャットアウトされた状態から解放されたように意識がふわりと浮かび上がる。ゆっくりと目を開けたら、そこには蛍光灯がぶら下がった木造の天井があった。

 

 左に寝返ると、枕元に置いてある水色の四角い時計が八時半を指し示していた。

 

 時計の秒針が時を刻む音、髪の毛が枕と擦れる音、掛け布団を握る音、そして自分が呼吸する音。ふすまで仕切られて設けられた自分の部屋にはそれだけしか音は聞こえない。二度寝するような気分でもない。けれど、まるで海の中でゆらりゆらりとたゆたうような感覚がして、もうしばらくこのままでいたい。

 

 遠く、けれど大して距離もないほうから別の音が聞こえてきた。人が生活する音。食べ物を食べて、誰かと喋って、見ているテレビから流れる音と重なり合って。それらを聞く度に海から顔を出したように意識が現実の型におさまる。

 

 たとえ自分のために用意してくれたのだとしても、たとえ心地よい枕と毛布があったとしても、この場所はやはりまだ慣れない。

 

 

 

 廊下を歩いて居間のある場所を目指す。すぐ側までくると朝食の味噌汁の匂いがした。それ以上に、平凡な日常を感じた。

 

「おはよう、航大君」

 

 大生の母がちょうど台所から顔を覗かせたときだった。こちらもなんとなく返事をしてテーブルの前に座る。

 

 その右横には沙月がもういて、まもなく朝食を食べ終わりそうだ。

 

「おはよう」

 

 茶碗を持ったまま沙月がこちらを見る。

 

「ああ、おはよう」

 

「なんか眠そうだね。寝られなかった?」

 

「いや、別に。変な夢を見た、んだと思う。忘れちまった」

 

 大生の母が航大の前に朝食をお盆で持ってきてくれる。ぺこりと首を下げながらご飯やおかずをもらう。

 

「あー、よくあるよね。どんな感じかは覚えてるけど、内容は曖昧で」

 

「そうそう」

 

 沙月は頷きながら皿にのった目玉焼きを箸で切って口に運ぶ。

 

「思い出せないけど、その夢を見てたとき、きっと俺はそれを夢とはわかってないんだよな」

 

「そんなもんだよ。でも、ひとによっては夢の中を自分の意思で動けるとか、そういうのもあるらしいよ」

 

「まじかよ」

 

「でも航大がそんなことできちゃうと、いつまでも夢の中に居座って寝坊しそう」

 

「んだよそれ」

 

 航大は呆れ笑いをしながら手を合わせてから箸をとる。ほどよい焼き加減の目玉焼きに塩をかけてひとくちサイズに切って、口に入れた。咀嚼し、舌で味を感じる。

 

 うん、かけた塩もちょうどよく、目玉焼き自体も黄身が半熟だ。そう、そうなのだ。

 

 味噌汁をすする。小さく切った豆腐とわかめが入っている。そう、普通の味噌汁。

 

 ちゃんと味を感じる。なのに、舌が、脳が、朝食の味とおいしいを直結してくれない。わけがわからない。

 

 沙月は目玉焼きに醤油をかけていた。俺は塩をかけた。俺が起きてきた頃には沙月は服を着替えていた。これは里実や茉紀のお下がりだ。俺は一樹や大生のをもらっている。けれど今起きてきたばかりで、パジャマのままだ。

 

 なんなのだろう、この感覚は。どうにも言葉に表しがたいなにかが航大の頭の中を占領しているようで、不快だった。

 

 朝食を無理矢理口の中に詰め込み、皿を流しに置く。洗面台で歯磨きをする。鏡に映る自分は、どこからどう見ても自分そのもので、それ以外の何者でもない。なのに、冬眠を挟んで以前と今とで、別人のように思えてならない。それは、やはり……。

 

 今日は一樹のお下がりの服を着た。厚手のズボンをはき、長袖のシャツの上からジャンパーを羽織って玄関に向かう。

 

「あれ、どうしたの?」

 

 沙月が声をかけてきたが、振り向きはせずに答えた。

 

「散歩」

 

 

 

 ここ一週間ほどでより一層久里ノ上の土地勘をつかめたと航大は思っている。以前……航大にとっての一週間ちょっと前まで、この世界の五年前ではよくて大生の父が運転する車から見たり、漁協に訪れるくらいだった。

 

 暑くない夏の午前、家々からテレビの音が聞こえるが、人通りはほぼない。たったそれだけで廃れて忘れ去られた町を歩いている気分になりそうだった。

 

 汚れた石壁、手入れされずに残された庭、植物の根に覆われる家。ところどころに残るぬくみ雪。くすんだミラー。掠れて読みづらい道路の文字。しばらくぐだぐだと歩き回っていると錆ついたブランコなどの遊具がある小さな公園が右手に見えてくる。その中で壊れて穴の開いた屋根の下にベンチがあった。

 

 座ったときに軋む音がしたが問題はないだろう。航大はそのまま背もたれに身を預け、穴から空を見た。

 

 毎年見ていたような青空。眩しくて、心にまで浸透してくるような青。それなのに、むせかえる暑さも無ければ潮の匂いもあまりしない。

 

 口から息を吐き出す。それが白くなって視界の隅に現れて、そして溶けるように空気中に消える。それを何度も繰り返していた。着てきたジャンパーでも寒さは完全に防げない。手はポケットに突っ込ませていても無駄だった。頬はたまに吹いてくる風ですっかり冷やされた。けれどそれが、心地よく思えた。背もたれに寄りかかり、くりぬかれた空を見上げる。体を包んでくれるような風。その冷たさ。それらがまるで、海の中で浮いているような、そんな……。

 

 カシャ

 

 海の底へと沈んでいく思考が一気に取りはらわれ、航大はしっかりと目を見開く。そして機械音のした方向に顔だけ向けると、こちらにカメラのレンズを向けている茉紀の姿があった。

 

「おはようございます、吉成先輩」

 

「……ああ」

 

 あまり予想していなかった人物が目の前に現れた。そもそも誰かに出会ってなにか話すなどと考えてすらいなかったが。

 

「朝から空を見上げて、どしたんですか」

 

「散歩、の休憩」

 

「はあ、そうなんですね。隣いいですか」

 

「……ああ、まあ」

 

 首をかしげながら質問をしてきた茉紀に対して、航大は曖昧な返事しか返せなかった。航大の正面をすぎてある程度の間隔を開けて右隣に座った。

 

 ちらりと横目で茉紀の様子を伺ったが、自前のカメラを操作している。航大には何をしているのかはわからなかった。ゆえに自然と視線は戻り、空に向けられた。

 

「昔は、ここで遊んだんですよ」

 

 唐突に茉紀が話し出す。

 

「一樹と大生と里実ちゃんと。日によっては人数が増えたりしましたけど、でも四人でいるのが結構多くて。サッカーボールで遊んだり、地面に絵を描いたり、花火セット買ってきたりもしたなぁ。それこそ、ここに座っていろんな話もしました」

 

 急にどうしたのだろうか。再び目だけを茉紀に向けると、彼女はカメラを膝に置いたまま真っ直ぐ正面を見ていた。もちろんその先になにかあるわけでもない。誰か子どもたちが遊び回っているわけでもない。住宅とを隔てるように石壁があるだけ。

 

「たまに高くボールを蹴り上げすぎて、隣の家の庭に入っちゃったりしたんですよ。その度にインターホン鳴らして謝りに行って」

 

「……」

 

「今じゃあサッカーなんてしませんけど、でも花火とかはやるんですよ。高校生の時、白風のメンバーも集まって、そりゃどんちゃん騒ぎのって」

 

「なんだよ、何が言いたい」

 

 自分の横に座っている茉紀が何を言おうとしているのか。自分一人だけで海に浮かぶような心地でいたのを邪魔された――茉紀にとってはそんな意図はないだろうが――のがあってか、その口調に多少の苛立ちが混じる。

 

 けれどそれで怯むことなく茉紀は、

 

「私は、覚えてます。全部をちゃんと、というにはいかないですけどね。年を重ねるにつれて小さい頃のことは思い出しづらくなる。それでも、今はみんなで過ごした日々を忘れてない。その日々が存在したことを忘れてない。忘れるはずがない」

 

 航大の言葉を気にすることなく言葉を紡ぐ。それは自分に言い聞かせるように、そして航大にも言い聞かせるように。

 

「吉成先輩たちと過ごしたあの日々も、私には大切なものなんです。なにも変わることのない、かけがえのない……」

 

 “変わることのない”。航大の耳から入り、その言葉が脳の中を縦横無尽に駆け回り何度も反射する。その度に揺れ、響き、水滴が水面に落ちたように広がっていく。それが非常に不快だった。

 

「吉成先輩にだってあるはずです。平凡で退屈、けれどかけがえのない、忘れられない日々。自分が今できるなにかを見つけることができる日々。それを、また始めれば……」

 

「俺はもう、先輩じゃないんだよ」

 

「……え?」

 

 指先でカメラを撫でながら話していた茉紀を航大が遮った。先ほどよりも低く、歯を食いしばるような声に少し驚き、茉紀は航大のほうを見やる。

 

「小学校のときはそんな呼び方しなかったのによ、中学になった途端に上の学年のことを先輩つけて呼び始める。縦社会の一環として先輩に対しては基本は敬語を使って、その先輩は後輩に対してタメ口はもちろん、性格がクソなやつなら自分のためにこき使う。それは生まれてきた年代が違うだけで生まれる差があるからだ」

 

 空を見上げていた目は自分の足下に向けられていた。昔を思い出すような少年の目ではなく、暗闇をひたすらに怯えながら、迷いながら、けれどどこか諦めているような淀んだ目だ。突然話し出す航大に、今度は茉紀が困惑の表情を浮かべる。

 

「俺らが先に生まれてきたから、お前は俺を先輩と呼ぶ。けど、もう違う。冬眠していた俺らは五年間、止まっていた。お前らはちゃんとそのまま人生を歩み続け、今がある。その差が、確実に存在する。先輩は、自分よりも()に人生を歩んできた()と言える」

 

「なっ」

 

「だから俺はお前に先輩と呼ばれる必要も義務もない。むしろお前が先輩なんだよ」

 

「そ、そんなことはないです!私にとってはずっとあなたは吉成先輩なんです。それは変わらない」

 

「だから違うって言ってんだろ!」

 

 己の内に限界まで溜ったなにかを吐き出すように、航大の声が乾いた空に響き広がった。歯を噛みしめ、苛立った目は鋭くなり、それを向けられた茉紀は怯んだ。先ほどとは一転して狂気めいた航大の様子に困惑し、そして恐怖が混じり合う。

 

 そんな茉紀の顔を見るや否や、航大は歯を砕かんとするほどにより一層噛みしめ、渦めき制御しきれない自分の感情に苛立つように髪をかきむしる。

 

「なんだよ、なんなんだよ。どうして、こう……こうなるんだよ。わかんねぇよ、わかんねぇよ。変わるとか変わらないとか、またいつも通りとかまた始めるとか。もう勘弁してくれよ……」

 

「あ……、その」

 

「耐えられねぇんだよ。変わっちまったんだよ。もう元に戻せないんだ。わかってる、でもわかんねぇ。自分がどうしていいかわからねぇよ。変わっちまったもんを受け入れられない。もう、見たくもない。辛いんだよ」

 

 どんどん溢れ出てくる。止め処なく出てくる航大の本音が押さえても指の間からどろどろと流れていく。それは綺麗で、けれど汚くて。純粋で、けれど数多の感情が混じっていて。航大の肩は、声は、震えていた。

 

「……わりぃな」

 

 ひとしきり吐ききって訪れた少しばかりの静寂の後、航大はぼそりと言い残してベンチから立ち上がった。どこへ行くでもなく、冥界を彷徨うようにゆらゆらと公園から出て行く。それをどうするすべもなく茉紀は見ているしかなかった。

 

「……余計なこと、しちゃったかな」

 

 航大の姿が見えなくなると茉紀はため息をついて背もたれに身を委ねる。唇を噛み、航大が見上げていた屋根の穴に視線を移す。そこから見える空は、けれど航大が見ていた空とは違うのだと、茉紀は痛感していた。

 

 

 

 

 

 それから先は記憶が曖昧で、さらに下ばかりを見ていたからか、微かに覚えているのはアスファルトの道路かぬくみ雪ぐらいしかない。腕時計など持っていないためどのくらい歩いていたのかもわからない。公園を出るときに確認すればよかったのだが。

 

 航大自身の中でうごめくなにかが鬱陶しくて、もどかしくて、気分転換に外に出たというのに、予想外なことになってしまった。自分が吐き出したのはただのひねくれた我儘だ。今さらになって後悔の念が航大を襲い、余計に苛立つ。

 

 足の疲れも少し見え始めた頃合いで大生の家に戻った。玄関の扉はいつも鍵が開いている。無意識に靴を脱いで上がろうとしたとき、いつもと違う感覚に襲われた。

 

 玄関に並んでいる靴の量が多い。大生の家の玄関の左横にある靴箱には小さな時計が置かれている。もう十一時になろうとしている。

 

「これ、一樹と大生と、あの大学の先生……」

 

 何回か彼らがここを出入りしているのを見ているためか、誰がどの靴かをすぐに見分けることができた。いや、それはたいして問題ではない。彼らは今現在この久里ノ上にいるのは調査のためだ。ここ数日、大生と徳島は航大が起きるよりも先に家を出ている。そして昼休憩のため一旦帰ってくるのだが、それにしても早すぎる。十二時は過ぎた頃にいつも帰ってきているのに……。

 

 そして大広間を襖で仕切った部屋――航大や沙月が使っているのもそこで――の奥にある居間から話し声が聞こえる。それも普段とは違う、なにか興奮冷めきれないといった様子だ。

 

 どうしたのだろうといった感じで航大が靴を脱いだところで居間から沙月が出てきた。

 

「あ、やっぱり帰ってきてたんだ」

 

「ああ。なぁ沙月、これって」

 

「うん。とにかく、早く来て」

 

 彼女の真剣な瞳からも、なにかが起こっているのだとすぐにわかった。手招きをするとすぐ居間に引っ込んだ沙月の後を追いかけ、居間に入った。沙月が座布団の上に座り、丸テーブルを挟むようにして一樹と大生と徳島がいた。丸テーブルには朝見た朝食の匂いはなく、代わりに久里ノ上と果那ノ海一帯がある海を切り取った地図、そしてタブレット端末などが置いてある。

 

 一樹と大生の目線が航大のとぶつかった。そしてすぐに航大は先ほどの茉紀とのやり取りを思い出してしまい、すぐに目線を逸らす。それに気づいてか気づいていないか、大生は航大が沙月の隣に座ると説明を始めた。

 

「俺たちはずっと氷床下で起きている超常現象的な海流の調査をしていたんだ。結果から言うと、今朝の調査でやっとそれをくぐり抜け、果那ノ海へ行けるルートを見つけた」

 

「……え?」

 

「激流が全くない果那ノ海へ行けるルートを探していたんだけど、それは無理だとわかった。だからある程度穏やかな流れを横切っていけないかなって。これを見て」

 

 大生が見せてきたのはタブレット端末。そこには氷床と化した海と一樹たちが立てた調査所、果那ノ海がある地点が映っていた。調査所がある場所は赤丸がついていて、果那ノ海周辺にはいろいろな矢印が表示されている。これがその海流らしい。

 

「色が赤ければ流れが強いってことなんだ。けれど、俺らが設けた入水ポイントからかなり遠回りになるけど、ここの地点周辺の海流だけは少し穏やかなんだ」

 

「……まあ、色が違うな」

 

 大生が入水ポイントと示された黒丸印から指をなぞってそのルートを説明する。確かにそれは果那ノ海に行くには遠回りで、そしてあたりをはびこる猛獣のような激流とは違う、オレンジ色になっている海流がある。

 

「ここを通過できればあとはここを辿って果那ノ海に到達できるはずだ。だから……」

 

「で?結局、俺たちに何が言いたい」

 

 航大は大生の言葉を遮るように口を開いた。その声は先ほど茉紀に対してのほどではないけれど、また苛立ちが窺える。彼らは彼らが行いたい、達成したい目的があるからここで調査をしている。それはきっとすごい大変なもので、中学生レベルでは到底及ばない知識と気力がいるだろう。

 

 けれどそれをわざわざ言いに来る。それも詳細に説明をしてくる。まるでこれは、調()()()()()()()()()と言っているようなものではないか。

 

「ある程度穏やか、とはいえ揉まれるような海流だ。くわえて、ルートの途中に飛び出た岩などがそこら中にある。うちの大学から持ってきた探査機ではやはり無理がある。だから……」

 

 ああ、やっぱり。

 

「二人に、行ってほしいんだ。果那ノ海に」

 

 大生の言葉を受け取るようにして一樹が言った。一瞬だけ航大が目線をタブレット端末から一樹に向ける。その目はあまりにも真剣で、けれどもがくように苦しんでいるようにも見えた。


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