「俺らが……果那ノ海に」
航大は予想していた言葉であるにもかかわらず、それが心の奥に重くのしかかるのを感じた。
「こちらから、地上からだけじゃあ果那ノ海の村の状況は当然わからないんだ。突き出てる氷山の下はどうなっているのか、それは村自体にも損害をもたらしているのか、などね。それらを調査するにはやっぱり直接見てくるしかないんだ」
徳島はその見た目に反してゆっくり、航大と沙月に丁寧に語りかける。
「それと大学から持ってきた小型機材を果那ノ海にも設置したい。果那ノ海内での潮の流れや塩分濃度の詳細がわかるものなんだ。これも地上からじゃ観測できないから」
「……」
大生も二人に説明をする。彼のしっかりとした眼差し。それに航大はまた目を逸らすようにタブレットに顔を向ける。けれどそれを見たって説明してくれたこと以外に何にもわからない。そもそも、見ても見ていないような、心がどこかへゆるりと身体を抜けて彷徨っているような……。
「私は、行きます」
それが瞬時に体に戻ったのは、沙月がそう言ったからだ。
「私にできることがあるなら、私はやりたい」
できること。航大の頭の中でその言葉が何の抵抗もなく入ってきた。
けれど、と航大はきびすを返すように、進むのを諦めるように、その言葉を押しとどめる。
果那ノ海に行く。おそらく今まで手を伸ばせなかった。それが可能だとわかった。そのために俺らの助けが必要。そうだろう。そうなるだろう。
見つけたルートは、しかし容易なものではない。地上に上がった海の人たちはいる。汐帆がそうなのだから、彼女に協力を仰いでもよかったのではないだろうか。
それに、きっと果那ノ海も時間と共に存在しているのだ。時間が流れ、潮も流れ、俺らが見ていた果那ノ海の像も流れていく。五年経った果那ノ海は俺らの知らない果那ノ海。
村の人たちは全員冬眠に入っている。誰もが眠っている。ゆえの静けさが容易に想像できる。そんなものを見るなんて……。
ああ、だめだ。航大は嫌な息を吐く。ずぶずぶと底なし沼に足が入っていくような感覚。もう抜け出せない常闇へと誘われるようだ。もうなにもかもだめだ。すべてが息苦しい。辛い。怖い。もうこんな自分にできることなど……。
「それに、果那ノ海に行けばみんなどうしてるのかとかもわかると思うの。どうしてるって寝てるに決まってるだろうけど。けど、気になっちゃう。海遥たちがちゃんといるかどうか、気になっちゃうの」
「……!」
ああ、あああ!
そうだ、と航大は沙月の横顔を見る。果那ノ海に行けば海遥たちを探しに行くことができる。航大は、少なくとも洋斗と一樹を最後に見て冬眠に入った、というより引きずり込まれた。ならば洋斗がどうなっているのか、航大と同じように海に引き戻されて果那ノ海にいるのか、そもそもあの渦は彼らを果那ノ海にちゃんと戻して冬眠させたのか。そう思考を巡らせていくと確かめたいという衝動がわき上がってきた。
さらに沙月から冬眠から覚めていくらか経った時に聞いた。海遥もおふねひきの日に現れた巨大な渦に巻き込まれていったらしい。澄澪に関してはわからないが、汐帆を助けに海に潜ってから上がってきたのを確認していない。
「航大は、どうする?」
視線に気づいたのか、沙月が航大に顔を向ける。おのずと一樹たちも航大を見ることになる。
沙月は意思表示をした。彼らの調査に参加するということに同意した。なら、航大は?
沙月の視線とぶつかり、けれど逸らすことはできなかった。逸らせなかった。そしてまた、あの言葉が脳内を反芻する。
できること。自分にできること。
『でもやれることはやってみるべき、ですね』
これはいつの日だっただろうか。……ああ、そうだ。これは洋斗の言葉。漁協に集まって、陸でももう冬眠の話は伝わっていて。それをなんとか回避しようと昔話に沿ったおふねひきをしようということになっていた。その案に航大たち皆が同意した。
『俺たちはやってやるんだ!海神様に俺らのことをちゃんと見てもらって、大丈夫だってわかってもらえて、そんで冬眠も回避して、万々歳だぜ!』
こんな張り上げた声で酒の入ったグラスを掲げるのは、他の誰でもなく、航大だ。これはそう、おふねひき前の宴会のときだ。
『おうおう、まだまだガキんちょのくせに威勢はいいな!だが凄まじく俺のガキの頃と同じだ。さすが俺の息子だぜ』
航大の父親がげらげらと笑いながらグラスをくいっと上げて酒を一気飲みする。
『ああ、そうなってくれるように頑張らないといけない。そりゃそうなんだが……』
『だからってよ、酒呑む必要あんのかこれ』
航大の横にいるのは海遥、そしてその隣に洋斗もいる。二人とも片手には並々一杯の酒が入ったグラスを持っている。しかし飲酒に抵抗を感じているようだ。
『あるんだよ!俺らは男だぜ?ならやることはひとつ!目の前にある壁をぶち破る!どんな壁でもな。そのための気合いを入れる!気合いを入れるためには男同士で杯を交わすんだよ』
航大はいつにもまして力強い声で二人に熱く語る。彼は既に父親とちょくちょく呑んでいたのだ。それもあってだろう。
『……はあ。まあいいか。それも悪くない』
『おい、海遥。マジでこれ』
『俺はもう河内さんに少しだけ調教された』
『ほらほら洋斗!お前も男なら酒の一杯ぐらいは平気で飲み干すんだよ』
そんな航大の様子を見て海遥はいつものように呆れながらも見せる微笑をした。げんなりとした洋斗に航大が近寄って背中を強めに叩く。
『よっしゃ、そうなりゃ航大、洋斗。立て立て!改めて乾杯だ。俺らが絶対におふねひきを成功させるために。そしてみんな一丸になって海神様に思いを伝える。その誓いの乾杯さ』
『おお、いいねいいね!』
『へへ、いいじゃねぇの、次期宮司さんよ。おい、てめぇらも来い』
航大と航大の父親も立ち上がった。彼は仲間の青年会メンバーを呼んだ。十数人が集まった場で洋斗はもう降参状態だった。
『俺らは俺らのできること、果たすべきことをする。俺らはひとつだ。ここにいない陸の人たちも、みんな!』
海遥も河内に呑まされた分だけ少し酔っているのか、けれどいざとなったときに見せる勇姿が、海遥に見て取れた。
『どんなことがあっても俺らはみんな仲間。俺らはみんなひとつ!』
『つまりは最強!この誓いに……乾杯ッ!』
『『『乾杯!』』』
海遥の言葉に航大が乗っかるようにしてグラスを天高く掲げた。乾杯の合図でみんな一斉に声をそろえて各々グラスを掲げ、そして胃に酒を流し込む。
航大は一気に飲み干し、海遥はつっかえつっかえではあるものの酒を飲んでいた。洋斗は小さなひとくちで顔が歪んでいた。
ああ、そうだ。そうだよ。航大は目を閉じ、頷くように何度も心の中で呟いた。
結果は、止められなかった。一樹たちと時間の差が生まれてしまった。それで今に至る。それでも、航大はここにいる。いることができる。それは、航大が、いや航大は、沙月はもちろん、一樹と大生の仲間だから。思いをひとつにした仲間だから。
『だから、ゆっくりでいい。きっと俺にはああだこうだいう権利はないけど、二学期から学生生活をまた始めてほしい』
『自分ができるなにかを見つけることができる日々。それを、また始めれば……』
そうなんだよな。大塚と茉紀の言った言葉も浮かんできた。航大はひとりじゃない。仲間がいるから、自分をまたあの日々と変わらぬ生徒として向かえてくれる先生も、大切な思い出として覚えていてくれて、おまけに心配までしてくれる後輩もいる。なら、航大は……。
「む、無理はしなくていいんだ」
再び目を開けて視線を移動させると、今にも泣き出すのではと思えるような面持ちでこちらを見る一樹がいた。
「一樹?」
「これは別に強制じゃない。こちらが一方的にお願いしているだけなんだ。そう、だから航大には拒否権がある。航大だけじゃない、いや北島さんにもあるんだ」
「一樹、急になにを」
一樹の突然変わった様子、そしてその発言の裏にある感情をはかりかねて大生は一樹の肩に手を置く。それでも彼の顔は航大と沙月に向けられていた。
「二人は冬眠で、それは俺たちが止めようとして止められなかったことで。そんで、こんな成長の差が出てしまった。……ああ、でも俺の勝手な考えだけど、やっぱり自分の知らないうちに時が進んでいるのって、怖いなって。怖くて、目を逸らしたくて。その、俺が言うのもなんだけど、まわりにいる人たちの年齢だけが進んで、見た目も変わってたらって、俺が当事者ならそれだけで気が滅入ると思うんだ」
「一樹、おまえは……」
航大は驚いていた。自分が悩んで苦しくもがいていたことと同じような事を考えていたのだから。一樹は大学生で、航大たちよりも年上になって、それでもってすごい研究をしている人物なのに、彼の目線の先にあったのは航大たちと同じ景色だった。
「きっと果那ノ海は二人の記憶とは異なっている。あの氷山がどれだけ影響しているかわからない。そもそも、北島さんが言ったような、冬眠に入った海村の、あの二人を加えた人たちを探し出してもどう目を覚ませるかなんてわからない。覚まさせていいのかもわからない。だから……、ああもう。言いたいことがこんがらがって、なんだろう。俺もうまく言えなくて。その、ごめん!」
一樹は必死だった、航大たちのためになにかを言いたいのだと、そういう風にしか見えない。テーブルに出していた手は強く握られ、ついには髪の毛をぐちゃぐちゃにしている。そして頭を下げて最後に口から出たのが、ごめん。三文字の言葉が、また航大の記憶の箱を揺らした。響いた。嫌な音ではなく、なんだか無性に懐かしい。
『そ、その……。えっと、ごめん!』
これは、白風中に来て一ヶ月も経ってない頃。澄澪が座っている列が教室掃除の当番で、女子たちが澄澪の胞衣に興味を持った。それを見ていた幹大がつい澄澪の腕をつねってしまった。胞衣というものなんて陸の人たちになじみはないから、肌にくっつく膜とでも思ったのだろう。それを航大がまた澄澪をいじめているのだと思って彼らに詰め寄った。
そのときに間に入って誤解を解いたのが一樹だった。当時も、やっぱり必死になっていた。
「……く、くくく」
「……航大?」
急に笑いをかみ殺すようにする航大。それを見て沙月はすこし驚いている。
「はははははは!」
ついに耐えきれずに航大は大笑いを始めた。黙り込んでいた時とはまるで相反する様だった。一樹たちがあっけにとられていても、航大は笑いを止めなかった。
滲み出た笑い涙は、しかし嬉し涙でもあった。
それでも、大きな声で笑うその姿は、紛れもなく、みんなが知っている航大だった。沙月もおもわず感極まりそうになる。それをごまかすように、でもそれを表すように彼女も笑顔を見せる。
「一樹、お前ってヤツはさ、変わんねぇな」
「……航大!」
「おう。やるさ。やってやるさ。俺らはどんなことがあっても仲間なんだからよ。お前らの頼みならもちろん引き受けるぜ」
航大はニッと笑いながら拳を突き出した。それを見て一樹は安堵したのか、へにゃりと姿勢を崩して「よかった」と呟いていた。
「じゃあ、そういうことで。二人には明日……」
「その前に」
大生もひとつ頷いてから今後の話をしようとしたところで沙月が待ったを入れた。
「一樹君が言ってたところで気になったんだけど。気のせいかな。
「いや、それは間違ってない」
徐々におどおどし始める沙月に肯定を示したのは大生だった。その横で一樹の表情はさっきとはすぐに変わって真剣、加えて若干の動揺もあった。
「今言わなかったとしても、いつかは言うことになるんだ。後々にならないうちに話しておいた方が良いだろう」
一樹の言いたいことをくみ取ったのか、ちらりと横目で一樹を見てから首を振った。そして再び航大たちに向けたのは、普段無表情の彼でも変化がわかるほど、深刻そうな目。
「実は、洋斗だけが冬眠を免れて地上にいるんだ」
「はぁ!?」
「一樹があの時の大渦に飲み込まれたとき、洋斗と一緒に助けてくれたんだろ?で、航大は大渦に飲まれたけど洋斗は一樹と一緒に海に出てきたんだ。それからは地上で生活している」
「で、今はどこにいるの?」
沙月がテーブルに手を突いて食いかかるように大生に問うた。しかし、大生の目は一層深刻さを訴えるように細められて、
「今は、久里ノ上駅を挟んだ向こう側で生活してる。交流もないんだ。俺らを避けるように」
「え……」
一樹も黙り込んで下を向いていた。現状を知らされているのだろうか、徳島も難しい顔をして腕を組んでいた。
「それこそ、ごめん。黙っているつもりはなかった。けれど、どう話していいかわからなくて、タイミングもつかめなくて」
「いや、謝らなくていい」
そう言ったのは航大だ。
「大生がそんな顔をするんだ。よっぽどのことがあったんだろうな、洋斗には。それを今すぐ問いただしたいところだが、俺は海遥みたく要領が良くなくてさ。すべきことをいくつも抱えらんねぇ」
航大は頭をかいてため息をつくが、ふと上げた顔に陰りはない。
「まずは果那ノ海に行く。その、調査のための機械を設置してついでに海遥と澄澪を探してみる。話はそっからだ」
その声に迷いもなく、不安もなく、ただそれは頼りがいのある、安心できる真っ直ぐな強さがあった。
「わかった。ごめん」
「だーかーら、謝るなって。んで、行くのは明日だな?」
「う、うん。それでね……」
航大は呆れ笑いをしながら明日行われる調査についての説明を促す。沙月も多少のショックを受け止めつつも説明に耳を傾ける。
何件かの留守番電話が入っていた。その宛名はどれも同じ人物だ。
『もしもし、私です。里実です。――――』
窓から闇夜に浮かぶ月の光が入ってきて、暗がりの部屋に影絵を作り出す。その月光が体に染み込んでくる。心地いいのかと言われたら、違う。この光は思い出してしまう。
一番古い留守電の内容を聞いてから、洋斗はこう呟いた。
「ついに、か」
やっと本調子に戻せた航大くと、やっと顔を出してきた洋斗
徐々に洋斗に起きた出来事について触れていきます。やっとだぜぃ……
そして、よい子のみんな(未成年者)!お酒は二十歳からだぞ!ルールはしっかり守ろうね☆