「あれ、もう二人は海の中に入っちゃった?」
モニターを必死に見つめ、内蔵されたGPSが指示したとおりのルートを通っているのか、目が離せなかった。そんな緊迫さを蹴飛ばしてしまうような、のんきな声が後ろから聞こえてきた。
「隆広、それに里実も」
一樹が振り向けば二人がゆったりとこちらに近づいてきていた。ダウンジャケットを羽織った隆広はにこやかに手を振る。里実は両手で抱えるサイズのバッグを持っていた。
「体を温めるために作ってきたの。生姜紅茶。二人も帰ってきたら冷えてるだろうし。もちろん、みんなのもあるよ」
「気が利くな。ありがとう」
里実がテント前に置かれた長いすに座り、バッグからスチール製のコップを三つ取り出す。茉紀の分は別にコップを用意していた。これはもともと一樹たちが大学から持ってきたものだが、「ただ水ですすぐだけじゃだめだよ」と里実が洗ってくれていた。
水筒から紅茶とともに湯気と香りが溢れ出す。それぞれにコップを渡すと、待ってましたと言わんばかりに四人同時にひとくちつける。
「うん、おいしいね」
「ふぅ、あったまるね」
徳島はおもわず笑みをこぼす。茉紀は癒やされるように笑い、二人もおいしいと言いつつも、やはりモニターから完全に目を離すことはできない。
「この、赤いのが航大と沙月がいる場所か」
「そう。今のところ順調だけど、もうちょっとで例の潮の流れにぶつかる」
後ろからのぞき込むように隆広が顔を出す。大生が頷いて指でルートをなぞるように説明する。
「……あ、入ったよ」
「大丈夫だとは思うが、頑張ってくれよ……」
徳島が紅茶をすすりながら細い目をさらに細める。一樹たちも真剣そうにモニターを見つめ、ついに潮の流れを突破するまでは誰も口を開かなかった。
そして二人の居場所を示す赤い矢印は果那ノ海を目の前にして止まった。そのまま動きが見られない。
「機材の不具合か?」
「いや、今も正常なはず」
一樹の疑問に大生が答えた。すぐ横に置いてあるパソコンをチェックするが、機材の故障等ではない。まもなくして少しだけ動いたが、再び止まったままになってしまった。
「まさか、入れないのか?」
徳島は空のコップを置いて片手で顔を覆う。あくまで二人に持たせてあるのは位置情報提供のみのデバイスであるため、直接こことやりとりはできない。そのもどかしさに一樹が頭をかいた。
すると耳鳴りのようで、けれど違う感覚に襲われる。そしてこれを、一樹は知っていた。
『昔、こうちゃんが見つけた洞窟の道を使って』
「!!!」
一樹は飛び上がり、折りたたみ式椅子を後ろに倒した。
「一樹、どうした急に」
「聞こえ、たんだ。また」
「聞こえたって、まさか澄澪先輩の!?」
はっとした表情で茉紀が一樹に問うと、ゆっくりと頷いた。
「昔、こうちゃんが見つけた洞窟の道を使って、って言ってた」
「こうちゃん……。澄澪ちゃんが航大くんのことを呼ぶあだ名」
「っ、動いたぞ」
大生がモニターに食いつく。一樹も見ると、二人が果那ノ海を回り込むように動いているのがわかった。そして次に赤い矢印が表示したのは、果那ノ海の中だった。ほどなくして一つ目の機材作動の通知が来た。
「なんとか、入れたみたいだね」
「よかったぁ。ここまで来て入れなかったらと思ったら……」
安心した様子で徳島が伸びをして、里実が安堵の息をはいていると他のみんなの様子が違うことに気づく。それはすぐに里実も理解した。
「一樹が聞いた声。巴日のときと同じ、吉野川さんの声か」
いつもらしくない隆広の真剣な表情。腕を組んで見つめる先に一樹が椅子に座って俯いていた。同時に右手で頭を軽くおさえていた。
「二人が止まってたのは、やっぱり普通の道では果那ノ海に入れなかった。それを吉野川さんは、さっきの一樹みたいに語りかけて、違う道を示した。俺らには聞こえない、特殊な方法で」
「私らには聞こえなくて、でも一樹には聞こえる。つまりテレパシー?」
「そんな感じだろうけどね」
隆広は肩をすくめる。前にもこの澄澪の声についてふれたとき、隆広は真剣に話を進めた。それが皆には疑問に思えてならなかった。
「俺も、いやおそらく結論はそうなるだろう。この氷床問題と同じくらいの不可解な点だから俺らも気にはなっていたが、なんだか妙にお前はこだわるよな、隆広」
この疑問を開封したのは大生だった。すると隆広は隠す風でもなく息をはき、哀しさを滲ましたような笑みを浮かべる。
「俺に限らず、こんなエスパーみたいなことがあったら誰でも注目するでしょ。……でも、その理由みたいなのはひとつ心当たりがある」
「え?」
隆広の顔からは、ついに笑みが消えた。
「おふねひきの日だよ。あのとき、巨大な渦がいくつも発生して、んで一樹はそれに飲まれた」
「え、それだけ?渦とはいわないけど、海に落ちた大人はいっぱいいたよ」
「その差だよ。俺の知ってる限りじゃ、一樹だけ渦に飲まれた。それを航大と洋斗が必死になって助けてくれた。航大は途中で離ればなれになって、そのまま冬眠しちまったけど」
隆広は澄んだ空を見上げる。そこにはこれといったなにかはないけれど。けれど彼には見えた。過去の記憶が鮮明に映し出される。
「もともと、俺がモタモタしてたから、庇った一樹が波にさらわれて渦に入っちゃったんだよな」
映し出されたのは、目の前に迫る巨大な波。荒れた海はたまに見たことがあった。テレビでも、実際にも。
けれどそれを見ていたのは安全な場所からだ。船の上で、しかも自分を喰らうように迫り来る波に、隆広は怖くなって、腰が引けて、動けなかった。そして不意にブレる視界。同時に聞こえたのは一樹の声。けれどその声がした方向には、通り過ぎた波の後だけだった。
「隆広、それは」
それは違う、と一樹は言いたかった。その前に隆広が手を出して止める。ゆっくり首を振ると隆広は話を続けた。
「あのとき発生した渦は自然のものじゃない。信じられないけど、海神様の仕業と言ってもいいだろうな。海と発生した渦はそこで分類できて、その渦のひとつに一樹と洋斗と航大がいた。そしてもしかしたら、その渦に吉野川さんも飲み込まれていたのかもしれない」
神妙な面持ちで語る隆広の言葉を逃さないように皆が聞き入る。
「つまり、同じ渦に入った者同士は、それ以外には聞こえない声で意思疎通がとれるということか」
「そういうこと。初めて一樹が聞いたときも、そんな感じだっただろ?」
「ちゃんと俺の声に反応していたかはわからないけどね。それ以前に、俺はどうやって口に出さない声を出すかさえわからない」
「それに、もしこの考えが本当なら、洋斗にも同じことが言える」
「!」
徳島を除く、この場にいた誰もが息をのむ。里実は手元にあるコップをより一層強く握った。
「ま、とりあえずは上がってきた航大たちに話を聞こう」
隆広が話を終えると、ちょうど二つ目の機材作動の通知がパソコンに表示された。
「よし、これから一時間。二人がちゃんと上がってくるまで、とりあえず休憩だ」
安堵に満ちた声音で徳島がそう言うと、気を紛らわすように明るく努めて里実は持ってきたバッグから大きめの箱を取り出す。中には様々な具材で作られたサンドイッチが商品のようにきっちり並んでいる。
「お腹すいたでしょ?足りないかもしれないけど、お昼にしようよ。二人の分は別に分けてあるから」
サンドイッチを頬張り終わり、ゆったりとした時間が流れる。体の内側から温まる紅茶をひとくち付けると、一樹は空を眺める。
広がる夏の空。青々としたそれはどこまで行っても澄み切っていて、けれど視界に入る白い息が重なって、正常と異常が混ざり合う情景に目を細める。
そして現時点で自分にしか聞こえない澄澪の声について思考を巡らした。隆広が言っていたことが本当かどうかはわからない。けれど声は聞こえる。確かにはっきりと、これは幻聴ではないとわかる。原理はわからなくても、これだけは事実なのだ。
ふと、その思考がさらに深く、伸びるように脳内を巡る。
現在すべての海村が冬眠に入っている。しかし他の場所はどうなのか情報足らずで判断できないが、航大と沙月のように目を覚ました者もいる。二人とも巴日が地上で観測される日に現れた。不可解な現象、そして一樹が聞いた澄澪の声とともに。
他の住民はまだ眠っているのか、姿は見せない。逆に見せるほどでもない、わざわざ地上に上がらなくてもいいのだろう。
では、
なぜ、目覚めたのか。いや、
ああ、やっぱりだめだ。なにもかもが憶測を超えない。一樹は頭を振って思考を止めた。紅茶の残りを飲み干して、ふぅと息をつく。今はとりあえず二人を待つしかない。空のコップの底になにげなく視線を落とした。
『二人とも、そんなに慌てないで。落ち着いて』
ひゅっ、と喉の奥から言葉にもならない声が出た。コップが手から滑り落ち、氷床とぶつかる。
「一樹?」
里実は心配そうに顔を覗くが、誰もが彼の異変の意味を察していた。
「慌てないで?落ち着いて……?今、二人が接触している?」
「なんだと!?」
大生は目を大きく見開くと、すぐさまパソコンを確認した。徳島も同時に動き出し、現在のGPSの位置を果那ノ海内で見つける。
「ずいぶんと町の中心から離れてる。こんな場所にどうして」
大生と徳島が画面を睨み付けている間も、一樹は動けずにいた。椅子に腰掛け、やや前傾姿勢で膝に肘をのせていた。コップを持っていた手はいまだその形を残したまま。ただ一樹の目だけが、動揺によりゆれていた。
手を自身の心臓あたりにもっていく。鼓動が早い。なぜだろうか、急に呼吸が浅くなり始めたのだ。そして、
『だめ。いかないで』
「いかないで……?」
一樹が口にする言葉が出る度に驚き、戸惑い、けれど一樹を見続けるしかない。その中で大生はちらちらと一樹を見ながら彼の発した言葉、そして彼の様子を簡単にメモしていた。
胸に当てた手が服を強くつかんだ。鼓動がより一層強くなった。いや、それだけじゃない。なにかが訴えかけてくる。なにかが伝わってくる。言葉に表そうとしても、それはなかなかかなわない。一樹は押さえつけるように息を整えようとして、やっと感じる
そのときであった。
『やめて!!!』
「ぐっ?!」
頭部にハンマーを思いっきりぶつけられたような衝撃が走った。声が今までで一番大きく、そして彼女の感情をまとって一樹の頭に響く。まるで耳元で狂った機械のハウリングを聞かされているようで、まわりにいる皆の声が聞こえない。ただ澄澪の叫びが今もなお響いている。
激しい頭痛によって姿勢はそのまま前に向かい、氷床に倒れ込む。両手は反射的に頭を抱えるようにおさえる。それでなにも解決はしないが。
「一樹!」
「おい、しっかりしろ」
茉紀と隆広が駆け寄るが、一樹はうめき声をあげたままその場を転がり続ける。とても「大丈夫だ」などと言える状況ではない。
澄澪の叫び声が何度も何度も反芻する。
『やめて!こうちゃんとさっちゃんに乱暴しないで!』
「なにが……起きてッ!」
一樹は脳内に飛び込んでくる澄澪の言葉の意味を理解しようとするが、どうにもかなわない。消える気配のない痛みをただただ耐えるだけだった。
そのとき、設置しているパソコンから甲高いアラート音が鳴り響く。
「と、徳島教授!」
「なっ!?潮の流れが急激に変化している。それもこれは尋常じゃ……」
モニターに駆け寄る大生と徳島。その二人が同時に目を見開き、互いを見やる。それまでデータ通りの動きをしていた潮の流れが一変していた。弱いほど青く、強いほど赤い。潮の流れの強さを表す色なのだが、今のモニターには赤が画面全体の約半分を覆い尽くしていた。そしてもう半分は、黒。これは測定不能、つまり赤より上ということである。
同時に、皆がいる氷床が少しずつ揺れ始める。機材たちが小刻みに揺れて小さくぶつかり、ハイテンポな狂騒曲を奏でる。氷床もそれに合わせるようにして軋む音をこの一帯に広げている。
「オイオイオイ、まさか足場が砕けるってことないだろうな!?」
「そんなはずはない。でも、なんで」
右往左往しながら隆広は大生の左肩をつかんで揺らす。それをふりほどくようにして大生は否定するが、彼自身も予想外の出来事に動揺していた。
氷床の揺れが一層ひどくなってきたときに、澄澪の叫びがまたひとつ、一樹に届いた。これは叫び声ではなかった。いままで聞いたことのない、彼女の泣きそうな声。そして……。
『行かないで……一人にしないで』
『あやつらは帰すだけじゃ。ここには不要というだけ。そして、儂がいる。儂ら二人だけでいい』
「!!!」
痛みの中で一樹は目を見開いた。今もなお響く澄澪の"感情"という名の叫びが支配する中、ここで初めて澄澪以外の人物の声が聞こえてきた。けっして衰えているわけでもない、むしろ若さがまだある。けれど一人称が儂、という珍しい組み合わせだ。
その声が聞こえたと同時に、氷床の揺れが頂点を迎えた。もうきしみの段階は超え、ついに砕けて割れた。その方向はまさに小さな氷山がある場所、目視の限りではその数百メートル手前。巨大な獣が口を開いたがごとく氷床がギザギザに割れて、海水が勢いよく吹き出してきた。そこから悲鳴を上げながら人が海水に押されて出てきた。勢いそのまま氷床に軽く叩きつけられながら転がってくる彼らは、航大と沙月だ。
「うお!なんであそこから」
「とりあえず助けなきゃ!」
驚きの連続で慌てふためく隆広を横目に里実は二人のもとへ駆けだす。すぐさま隆広は後を追う。
「待て、氷床の崩壊がどこまで広がるか」
「いや、違う」
大生の懸念はこれ以上に氷床の崩壊の拡大するかもしれない、というものだった。けれどそれは徳島が言ったとおり、違う形を見せた。ゆっくりと大生の横に立ちながら、しかし手はとっさにつかみ取ったビデオカメラを操作して、レンズを
再び氷床が軋みだす。それに動揺せずにカメラをまわす徳島の視線を大生が追うと、先ほどまで開いていた氷床の口が動いていた。それは拡大するのでもなく、また新たに海水を吐き出すのでもなく、その口を閉じようと動いていたのだ。目の前で起こる超常現象の連続に、ただただ見ているしか大生にはできなかった。
一方、航大と沙月が地上に出てきたとき、一樹は呼吸を忘れていた。体全体は震えて氷床の上で頭を抱えながら縮こまっていた。澄澪以外の誰か。そのわからない誰かが澄澪と一緒にいる。そこに航大と沙月が現れた。だから、あの言葉たちが出てきたのだろうか。
依然として脳は今自分に起きている状況を把握し、整理しようとフル回転しているはずなのに、傍らで「ねぇ、一樹」と手を握りながら心配してくれている茉紀への返答をどうしたらいいのかがわからない。考えることにすべてが費やされているのか?
けれど、澄澪から伝わってきたのであろう"感情"が、なぜこれまでに悲しさを帯びているのか。航大と沙月が離れていってしまうことに対する悲しみの他にもうひとつ。それはその二人を引き離した、名前の知らない誰か。その誰かが澄澪と一緒にいる。自らが「二人だけでいい」と言った。
海村が今どうなっているかなんてわからない。そもそも行ったことすらない。澄澪たちの人脈なんてそれこそだ。
それでも、いつも明るくて、天然で頑張り屋で、自分の大切な人をちゃんと大切にする澄澪をここまで悲しませる、悲痛の叫びをさせるような人物がすぐ側にいる。
それが、許せなかった。だから、
「お前は、誰なんだ」
そう、一樹は問うた。
『貴様には関係ない。地上の民ごときが、喋りかけるな』
「……!!!」
自分が口にした言葉に対して、返答があった。先ほど隆広たちと話していた仮説。それは正しかった。けれどそれを嬉しがることなどなかった。名前の知らない誰かの返答は、凍えるほど冷たい声音で、ナイフのように鋭く一樹に突き刺さった。同時に一樹の魂を身体から押し出すような感覚があった。それがただの思い過ごしか、はたまた海の中で起こる未知なる現象の新たなるピースなのか、それを考える暇もなく一樹の意識はそこで途絶えた。