「ありがとうございました」
汐帆はいつも通りはつらつとした声でお客に礼をする。いつもここで買い物をする高齢の女性はにこやかに「ありがとね」と言って店を出て行った。もう八十歳を超えているだろうに、なんのそのという足取りは高齢者とは思えないほど軽い。
夕日が充分に久里ノ上に注がれる。家々にぶつかると陰となり、硝子にぶつかると抜けて淡く広がっていく。通りの道が夕焼け色に染まり、店の入り口に置いてある金属製のかごが夕日を反射している。太陽を直視すると目が開けられないけれど、夕日は直視できる。まるで人が変わったように。
今日、果那ノ海に航大と沙月が向かった。詳しくは教えてもらっていないが、村全体は氷で覆われているらしい。そこへ入ることができるのも現時点で一箇所しかない。そして、また声が聞こえたようだ。澄澪の声が。
倒れた一樹は実家へ、航大と沙月は大生の家へ。後者の二人は地上へ出てきたときに体を軽く撲った程度のようだが、一樹は別のようだ。今のところ目を覚ましたという報告はない。自然と唇を噛んでいた。なにも手伝えない、助けられない悔しさだろうか。刹那、汐帆は首を振る。今の自分にはどうすることもできない。それに……。
両手でそっと、自身の腹部に当てる。つい最近、妊娠していることがわかった。ついに自分が母親になる時が来たのだ。そんな自分が無理をしてはいけない。今優先すべきは、遠くない未来に産まれてくるこの子なのだから。
と、自動ドアがスライドして取り付けてある鈴が鳴った。汐帆は顔を上げる。「いらっしゃい……」
そこで言葉が止まった。途切れてしまった。まさしく動揺した、というのが本音だった。
店内に入ってきたのは、洋斗だった。古びたジャケット、生地に厚みがあるズボンといった出で立ちだ。入り口のすぐ側にあるかごをつかみ、つかつかと歩き出す。汐帆にはなにも声をかけず、陳列された商品をぐるりと見て素早くかごに放り込んでいく。
間もなくしてレジにかごを置いた。洋斗は右ポケットから財布を取り出していた。なのに汐帆はまだかごの中の商品をとることすらしていない。それほどに目の前の人物の登場に驚いていた。
「会計、お願いします」
「え、ああ」
ようやく汐帆は我に返る。スキャンして、または打ち込んで、商品をレジ袋に入れていく。レジスターに合計金額が表示される。おおよそ計算してあったのか、洋斗は財布から千円札を三枚出していた。
金額を打ち込んでお釣りを取り出す。すっと差しのばされた洋斗の左手にレシートとともに渡す、その直前で止まった。
「久しぶり、だね」
「ああ。今日は偶然いつも使ってるとこ、休みだったから」
「そう……。ねぇ、聞いてるよね。航大と沙月のこと」
「まあな」
洋斗は小さな声でぶっきらぼうに答える。
「巴日のことから、詳しく教えてくれたさ」
洋斗は手のひらを見せていた左手で天井を指さす。別に天井が喋ったわけではない。ここの店、もっというとここの店の店主である里実が洋斗に伝えているのだろう。
「驚いたな。あれだけ大事になってたのに五年で目覚めるとは。しかも体は成長せずとは、ね」
驚いた、そう洋斗は言ったが表情や口ぶりからそのようには見えない。新聞でどこの誰かが事故に遭った、という小さい見出しを読んでいるようだった。視線は汐帆から遠く外れ、店の壁に貼ってある新商品のポスターに向けられている。きっと、それに興味を示していない。
「会って、あげないの?」
振り絞るように汐帆は言った。これは言葉にしていいのだろうか。直前まで迷っていた。そして言った直後、言わなければよかったという後悔が浮かんだ。
まるで汐帆と洋斗の間に時間のズレがあるようだった。少しの間があってから視線を汐帆に戻した。
「俺が?
汐帆の心にグサリと釘を打つような口調だった。汐帆は洋斗の言葉を飲み込むまで、息が止まっていた。深い吐息がでる。当人の洋斗は笑っていた。けれど、それは単なる笑いではなくて、自嘲気味だった。
「あの二人はどこまで知ってるの?」
「わからない。けど……」
「まあ、別に会ってあげてもいいけどさ」
洋斗は左であたまをかく。汐帆の言葉を遮るようにして口を開く。それもまた、本当に洋斗がそう思っている言葉には聞こえなかった。
「あいつらにとっては、俺と会わない方がいいと思うんだけどね」
そう言うと洋斗は充分に膨らんだビニール袋を右手で雑につかむと、きびすを返す。とことこと出入り口に向かっていく。
「あ、洋斗」
「釣りはいらん。募金と思っといて」
「そうじゃなくて!」
追いかけるように汐帆はレジカウンターを出る。自動ドアが開いたところで洋斗の左肩をつかむ。
「ちゃんと、二人に会うなら、ちゃんと向き合って。洋斗のいろんなことと、面と向かって」
「うるせぇな。まだお姉ちゃんぶってんのかよ」
洋斗が顔だけ振り返り、鋭い右目が刺さる。汐帆は言葉に詰まる。お姉ちゃんぶる。ああ、今ではこんなにも溝があるのか。汐帆は金槌で撃たれる感覚を味わった。
なにも言葉が出てこない。それでも洋斗の左手をとってお釣りとレシートを握らせる。
洋斗はもうなにも言ってこない。視線を左手に落とすと、そのまま足を進める。夕日が差し込む方向とは逆の道を歩いていく。その背中をただ見ているしかなかった。
彼らが小さい頃からずっと見てきた。その通り彼らのお姉さんとして。でも、今は、"お姉ちゃんぶる"。言い方がすべてを物語っていた。立場が、距離が、変わっていた。夕日に染まる洋斗の背中に違和感があった。まるで人が変わったような。
涙がにじんできて、とっさに顔を両手で押さえた。
「なんでだろう。私、助けてもらったのに、助けられないんだ」
彼女の嘆きは、むなしく夕暮れの空気に溶けていく。
ゆっくりと意識が覚醒するのがわかった。瞼を開けると見慣れた天井が一番に見えた。木目が複雑な模様となっている。部屋の電気が付いている。円形の蛍光灯が二重になっているもので、長らく変えてなかったからか内側の光量が落ちている。
ふと、微弱な機械音が聞こえた。自分が今横になっている布団のすぐ側に誰かがいるのもわかった。確認しようとして首を動かすと茉紀の背中が見えた。そのときになって額になにかが乗っているのがわかった。
「あ、一樹!具合はどう?」
茉紀もまた一樹が目を覚ましたことに気づいた。手に持っていたカメラを置いて見下ろすように顔を覗かせる。
大丈夫だ、と体を動かそうとして、やっと自分の今の状態に気がついた。体全体が怠い。鉛を至るところにつけているように重く、頭がくらくらする。
「だめだって。凄い熱なんだから」
体を起こそうとした一樹をゆっくりと布団に戻す。濡れタオルを額に乗せ直した。
「ねえ、覚えてる?今日の午後、航大先輩と沙月先輩が果那ノ海に入ったの。そのときに一樹、また澄澪先輩の声が聞こえたって言ってた。でも頭痛が酷いみたいで。澄澪先輩もなにか大変なことに巻き込まれてるみたいな、そんな声を聞いてたんでしょ?それで二人が地上に出てきたときに、気絶しちゃったの」
染み渡るように一樹の記憶が蘇ってくる。それはまさしく今日の出来事だ。
「ああ、わかる。覚えてる。……で、二人は」
「大生の家だよ。いきなり氷が割れて二人が飛び出してきたんだよ。ビックリしちゃった。でも、二人は大した怪我してないみたい」
「そうか」
ひとつひとつ言葉を声に出すだけで疲れる。それほどまでにこの体は弱っているということだ。その原因は、やはりあれだろうか。
『貴様には関係ない。地上の民ごときが、喋りかけるな』
あの声の主が何らかに関わっているのは間違いない。声の主についてはわからない。けれどあの声は、澄澪のすぐ近くにいたはずだ。澄澪自身だって、二人と会っていたような様子だった。それについて一樹が聞いた澄澪と誰かの声についてをすりあわせれば、またなにかわかるはずだ。
「はやく、二人と……。吉野川さんに、なにがあったかを」
「だから、一樹は高熱が引くまで休んで!それにもう夜だし」
目線を茉紀から、近くにある目覚まし時計に移す。午後九時を回っていた。
「茉紀は、帰らなくていいのか?」
「うん……。パパ、今は海外に出てるから誰もいないんだ」
茉紀が少し寂しそうにするのを見て、一樹は思い出す。
茉紀の両親は離婚していた。父親がカメラマンで且つ国内外問わず仕事をしている。そのため家を空けることが多かった。それが夫婦のすれ違いを生んでいった、そう茉紀は考えていた。
「でも、一樹が目を覚ましたから帰るよ。安心したし」
「……安心?」
「そりゃ、今にも死にそうなくらいもがき苦しんで気絶しちゃったんだから、もう心配するに決まってるじゃん」
熱のせいかもしれないが、一樹の能天気な反応に茉紀はムッとした顔をする。でもすぐに破顔して、また「もう起きたから、安心できたんだよ」と言う。
一樹は、あの時は自分にしか聞こえてこない声を聞き取るだけで精一杯でまわりが見えていなかった。見る余裕も今回ばかりはなかった。
みんなには迷惑をかけてしまった。
「ごめん」
「ううん、謝らないで。そうだ、一樹ママに報告しなきゃ」
茉紀は立ち上がる。仰向けの一樹の視界から茉紀が消える。
一樹はぼうっとする頭の中でも、無理矢理にでも脳を働かせようとする。あの声の主は誰なのか。これは、おそらく、以前に航大たちから聞いたことがあるウロコ様なのかもしれない。そうならばある程度納得できる。けれど、そうなると聞いた口調とウロコ様の人物像と繋がらない。いや、それは普段のウロコ様を彼らから聞いただけであって……。
「ねえ、一樹」
ふと、顔を少し移動させると部屋の入り口に茉紀がいた。壁に寄りかかってこちらを見ている。その顔は、普段からは見られない、まるで別人のような微笑。
「一樹にとってさ、海の人たちはどんな存在?」
急に茉紀が問いかけてきた。こんな状態ですぐに答えは返せなかったが、なぜだか脳がピリピリとした感覚に襲われる。脳が記憶を遡っていく。
『みんな……海の人たちは、大切?』
ああ、そういえば、
「それ、五年前にも似たようなこと言ってたよな」
「そうだっけ。よく覚えてるね、凄い」
茉紀は両手で小さく拍手しているが、これが演技だとすぐにわかった。
「なんで、そんなことを?」
「ん、なんとなく」
かしげる茉紀を見て、一旦天井に視線を移す。五年前に言われたことを瞬間的に思い出したのは、確かに自分でも凄いとは思った。けれどそれよりも、どういう風に答えただろうか。……ああ、大切な仲間だと答えたんだ。それで?
『その大切って、5人、それか果那ノ海全員が大切?それとも、誰かだけが大切?』
こう、また問いかけてきたのだ。これには動揺して、うまく答えられなかったはずだ。一樹は、澄澪への気持ちを見透かされていたのかと動揺して、焦って、茉紀は何を考えているのかって余計に動揺して。
今は、いや今でも変わっていない。彼らのように。
「俺は、俺にとっては、大切な仲間だ」
変わらない答え。自分の心に正しく沿った回答だ。視線を茉紀に戻す。その表情は、なんだか困ったようだった。
「変わらないね」
「んだよ、結局覚えてんのかよ」
苦笑いが零れた。けれど茉紀の方は徐々に真面目な顔に変わっていく。
「じゃあ、一樹の中では、澄澪先輩が一番の大切?それとも、みんな平等に大切?」
やっぱり、見透かされているのだと、そう一樹は確信へと至った。体は怠く、今こうして喋っているのも割と無理をしている。思考を巡らすのは余計に、だ。
それでも、俺は脳内で、心の中でのみ置いておくのはもう止めようと思った。だから、口にしたんだ。
「そう、吉野川さんが一番の大切、なんだ。俺の中で」
しん、と静けさが漂う。目覚まし時計の秒針だけがチクタクと働く。夜風もなく、鳥の声もない。一階で母が見ているテレビの音もほぼないに等しい。
だから、茉紀の少し震える呼吸がはっきりと聞こえたんだ。
「そう。うん、なら一層頑張らないとね。果那ノ海から、助けてあげなきゃ」
そう言って茉紀は今度こそ一樹の母親を呼びに行った。階段を降りていく音がリズミカルに聞こえてくる。
改めて天井を見る。随分と違うところで頑張ってしまった。眠気よりも怠さが増した。どんとより重い鉛を乗せられたような頭にふとなにかがよぎった。それは言うならば、後悔なのかもしれない。茉紀の前で、澄澪が一番大切であると言葉にしたことに対する、後悔だ。
『ねえ、誰か、聞こえる?』
冷たい、冷たい海の中で声は響く。
『ここは、どこ?』
その声に反応する者は、誰もいない。