お待たせしてすみませぬ
朝日がゆっくり顔を撫でてくる。心地よい目覚めとともにひとつ、深い呼吸をする。自室の天井をぼうっと見ていると、誰かが階段を上ってくる音が聞こえる。
「どう、調子は」
一樹の母はお盆を持って部屋に入ってくる。適度に温められたスポーツドリンクと小ぶりな鍋で作ったおかゆをお盆に乗せたまま一樹の枕近くに置く。
「うん、もうなんともない」
起き上がると軽く腕を伸ばした。一樹の母は手をそっと一樹の額にあてる。
「そうだね、熱もないみたい。なんだったんだろうね」
「さ、さあ……」
安堵の表情を見せる母の前で、一樹は曖昧に返すことしかできない。
すっきりとした脳内ではすぐに思い起こすことができた、昨日の出来事。航大と沙月が海に潜り、無事に観測装置を置くことができた。そして彼らは結果的に澄澪に出会うことができた、のだろう。同時に澄澪以外にも一人、名前も知らない誰かがいたのだ。その人物は確かに一樹に向けて話しかけてきた。といっても、それは一方的な警告のようだったが。
言葉から、いや言葉じゃなくても一樹の脳内にがんがんと響き渡る彼女の叫び。感情という名の叫びだ。それはあまりにも悲しくて、辛い。
いつの間にか一樹の右手は自身の胸のあたりでぎゅっと衣服を握りしめていた。その様子をあえ深掘りせず一樹の母は作ってきたおかゆを勧める。
「食欲はある?」
「うん、おなかすいちゃったな」
小皿におかゆを移し、容器に入った塩を振りかけた。スプーンですくって口に運ぶ。広がる味は、とても懐かしかった。
「そういえば、茉紀は?」
「一樹が目を覚ましたって降りてきて、そのまま帰っちゃった。久しぶりに泊まっていってもよかったのにね」
母の言葉で一樹はスプーンを持つ手を止めた。脳をかすめる昨日の記憶。
『そう。うん、なら一層頑張らないとね。果那ノ海から、助けてあげなきゃ』
そう言って一階に降りていった。彼女がいることが一樹の思考を支えていたのだろうか、その後はあまり覚えてない。でも心に拭えないなにか。あの感情が残って、今も考えると脳を刺激されるようで、なんとももどかしい。
「一樹、大丈夫?やっぱりまだ寝てた方が」
「あ、もう平気だよ。食欲もばっちりあるし」
手を振り、一樹はもくもくとおかゆを食べていった。
食べ終えて皿を置くとさっそく口が開く。
「ねえ、大生たちはどうしてるか知ってる?今日も観測場所にいるとか何とか、聞いてない?」
「ううん、なんとも。一樹にはゆっくり休むようにとは言われたけど……。ってあんたまさか」
「昨日俺にあったことを、みんなに共有しないと。それに、航大たちになにがあったのかも知りたい。それをふまえて今後どうしていくかちゃんと検討しないと」
まくしたてるように喋り続ける一樹を見て、一樹の母は溜息をこぼす。
「今日はゆっくり休めばいいのに」
「その一日が惜しいんだ」
「……なら、気をつけてね」
「うん」
「なんだか無理してでも頑張るって、やっぱりお父さん似ね。あ、なら今日お父さん泊まり込みだから、お弁当はお母さんがやっとくから」
「ごめん、ありがとう」
そうして一樹は身支度をしたのち、家を出た。
一樹の父はこの町の奥にある山の発電所で働いてる。朝早く家を出て、夜遅くに帰ってくる。もともと人数は多くはなかったが現在も問題視される人口減少で社員数も減っている。以前もあったが、泊まり込みでの勤務は年々増えている。そのためお弁当をつくって持って行っているのだ。一樹が中学生、高校生時代は彼の役目だったが、大学に入ってからは寮生活のため当然母が務めていた。帰省中は一樹がやろうと言っていたのだが、これは母にただただ感謝とともに謝罪の念しかない。
一樹はまず観測場所へ向かった。大生の家よりこちらの方が若干遠いが、昨日のことがあったのなら、すぐさまこちらで作業をしているに違いないと思ったからだ。
駆け足気味で道路沿いの道を進み、視界が開ける。全面に広がる氷床にぽつりとテントがひとつ。まわりに機材が置かれているのが見える。けれど……。
「あれ?」
そこに人影は一人のみ。その一人は、しかし大生でも徳島でもないようだった。テントにも、観測機械にも近づかずにただそれらを眺めているだけのように見える。
海岸に沿って続く塀が途切れ、顔を出す階段を降りる。テントに近づくにつれて、その人物が誰なのかがわかった。
ただ、なぜここにいるのかがわからなかった。
「なに、してるんだ?」
「ん、ああ。ちょっとね」
ゆっくりとこちらに振り返ったのは、洋斗だった。厚手のズボンにブルゾンを身にまとっている。ぼさぼさの髪から見える瞳には、海の人間とは思えない、曇りきったものを感じた。
「どうせここにいるんだろうと思ってたんだけど、誰もいなくてね。でも、よかった」
「なにがだ」
自分自身でも不思議だった。声が自然と一歩距離を置くようで、固くなっている。
「一樹、お前に会っておきたかったんだ」
「俺に?」
なぜだろう、と考える間もなく洋斗は右ポケットから何かを取り出した。手のひらほどの物は薄く晴れている空の光さえも逃さず反射させている。氷だった。菱形に近い形をしている。だが、それはただの氷じゃない。
「これって」
「そう、この氷床からとったもんだ」
そう言って洋斗は笑った。その笑い方はとても自然な笑みではなくて、無理矢理口角を上げた、いびつな笑い方。
「なんで、それを。何のために持ってるんだ?」
「ん?これはな、もらったんだよ」
一樹の問いに対して、洋斗はもったいぶるようにゆったりと答える。菱形の氷を両手の中で転がしながら視線を一樹から空、広がる氷床へところころ移す。
話が見えてこなかった。一樹の中でくすぶるような苛立ちが生まれていた。
「そうなんだな。で、洋斗。お前はなにがしたいんだ。俺に用があるんだろ?それはなんだ」
「まあまあ、そう慌てんなよ」
ヘラヘラとする洋斗に一樹はもどかしさで体がかゆくなってくる。なんのために俺を探していた?その持っている氷とどう関係がある?
洋斗は急に真顔になり、こう言った。
「だめ。いかないで。やめて。乱暴しないで」
「!」
喉がひゅっと鳴る。一瞬呼吸ができなくなった。
「その反応からすると、やっぱり聞こえてたんだな」
「えっ」
「俺もな、聞いていたよ。全部じゃないけどさ」
洋斗の視線は最終的に持っている氷に注がれていた。
「これは、実を言うと氷じゃないんだ」
「……?」
洋斗にも聞こえていた。あの声が、澄澪の声が。それだけで一樹の脳はパンク寸前なのに、洋斗はさらに不可解なことを発する。
「正確に言えば、これは
余計にわからない。今目の前に洋斗が握るのは氷。氷にしか見えない。それに二人が立っている場所も海が凍ってできた氷床だ。凍ったのだ。そこから削り出した――貰ったと言っていたので方法は定かではないが――ものが氷ではないのなら、いったい……。
「いわば、感情の結晶体」
「感情の……?」
そう言いかけて、一樹ははっと思い出す。昨日、自分が感じ取ったもの。それはなんだったか。聞こえてきた澄澪ともう一人の謎の人物の声だけではなかったはずだ。それはそう、澄澪の悲壮の波。
「誰かの声、感情を伝達できるような代物なんだとさ。俺にはさっぱりだけど、あいつが言うんだから間違いはないはずだ。その声と聞く側との距離が離れていると、声や感情の強さがないと響かないらしい」
「……待ってくれ」
ただ洋斗の説明を聞いているだけでどうにかなりそうだった。洋斗が手に持っているのも、今立っている場所も、そんな次元を超えた神秘たる物なのか。だが、それではおかしい。
混乱する中、やっとのことで手を出して洋斗を止める。
「だとしたら、昨日、俺以外にも大生たちがいた。それもこの氷床も同じものなら、彼らにも聞こえているはずだ」
「ふん、そう考えるのは当然だよな」
洋斗は雑に頷くと話を続ける。
「だが違う。これはこの氷床からガシガシ削り出したものではない。声や感情を伝達する
少しずつ、洋斗の言うことが理解できてきた。理屈はなんとなくわかった。それでも、根本的な問題が残る。
「じゃあ、俺はどうなんだ?俺はそんなもの持ってないし、吉野川さんの声が聞こえたのはこの氷床にいたときだけだぞ」
洋斗が言うには、つまりこの氷床にいても誰もが、今のところ二人分だけだが、それを聞くことはできない。そうであるのなら大生たちが聞こえないのはわかった。だが一樹についての説明にはならない。
「なあ、一樹。海がこんなんになっちまったきっかけは、わかるか?」
唐突に切り出した洋斗の問いに、少々一樹は間抜けした。洋斗はその氷をポケットにしまうと、こちらに目を向ける。こんな海が凍り付くようなことになったのは、誰もが知っている。当事者ならなおさらだ。
「おふねひき」
「そう。それで、そのおふねひは伝統に倣って行なわれた。だが予期せぬ出来事が起きた。それはなんだったか」
「謎の渦が多数発生した」
「そうだ。で、だ。お前は渦が発生したとき、どうなった」
それは……。ごくり、と唾を飲み込む。今でも思い出すだけで息苦しくなってしまう。脳内では限りなく滅多にないイレギュラーによるものだと判断しているようで、海自体にトラウマを生み出さないのは幸いだった。だが、それが何か関係しているのか?
「海に落ちて、運悪く渦に飲まれた。けど、気を失ってたから後から聞いて知ったけど、航大と洋斗に助けてもらったって」
「そう、正解だ。その渦が、ポイントだ」
首をかしげていると洋斗は一樹を指さした。正確には、一樹の腹部当りを指さした。
「お前は地上の人だ。当然エナはない。だから海の中で呼吸はできない。だから必然的にどうなるか。海水を飲み込んだ」
「ま、まあ。そうだな」
「その飲み込んだ海水、それがただの海水でなかったとしたら?」
「なっ!」
ここで一樹は大まかであるが、この不思議な現象について理解に至った気がした。落雷を受けたように全身がびりびりとする。
「あの渦はただ偶然起きたものではない。海神が発生させたものだ」
「う、海神様が」
「その海神が発生させた渦は意思を持って海に落ちた俺ら海の人たちを引きずり落とそうとした。それは、この声や感情を伝達させる力のもとでもある、海神の持つ力ということだ」
このとき、一樹は昨日のことが脳裏に浮かんだ。渦に巻き込まれたか否か。それについて隆広が言及していた。あれは間違いではなかったと言うことだ。
「海神の力そのものである海水を飲み込んだお前は、まさに俺の持つ結晶と同じようなもんになってしまった。それが答えだ」
澄澪の声が聞こえる謎。それが解明された。それはそれでよかった。だが、別の問題が浮き上がる。
「どうして、洋斗が知っているんだ?」
「それは今すぐ大生の家に向かえばわかる」
そういうと洋斗はきびすを返して道路沿いの道とは違う方向へ歩き始める。
「おい、どこいくんだよ」
「なに、散歩だよ」
振り返らず、雑に手を振りながら洋斗はどんどん一樹との距離を広げる。
彼については未だわからない。彼が誰からこんな知識を、そしてあんな氷……ではなく摩訶不思議な結晶を手に入れたのか。そして何より、なぜ一樹たちと距離をおくのか。
今はただ、洋斗が残した助言に従って、大生の家に向かって走り出した。