色々と滾りますね、色々と。
倒れ込んだまどかを支えたのは、すぐ近くにいたほむらだった。力を失った人体は、想像以上に重い。不意を突かれて力が入らない中、それでもほむらは渾身の力で支え抜いた。魔力を使う事を失念している辺りに、彼女の焦りが良く分かる。
続いてルビーが、まどかの様子を伺う。すー、すー。規則正しい呼吸。顔色は悪いが……それは昨日から寝ていないせいだろう。だとすれば、身体に異常が起きたと言うよりは、親友の無事が確認できたことによる安堵故の気絶か。
支える事で精いっぱいのほむらから、さやかはまどかの身体を離した。そして慣れた手つきで背負う。昔から何度も行っている事が良く分かる所業。よっこいしょ、と。掛け声とともに、さやかは立ち上がった。
「じゃ、帰るよ。まどかにも、大分思いつめさせちゃったみたいだし」
「そう、ですね……ええ、そうしましょう」
「じゃあね、杏子。アンタの考えは分からなくも無いけど、やっぱり賛同できないよ」
「言ってな。忠告はした。……次は、敵対しても文句言うんじゃねーぞ」
「はいはい。……ほむらも。じゃあね」
■ まどマギ×Fate ■
魔力を力に変換すれば、人一人を抱えたまま歩くことなど容易である。
さやかはまどかを背負ったまま、近くのバス停まで歩き通した。そして都合よく到着した見滝原行きのバスの二階へ乗り込む。乗客は誰も居ない。座ると同時にバスが発進する。火照った身体を、夜風が優しく撫でた。
「いや、疲れたわ……」
一伸びして、さやかは疲労を存分に滲ませた言葉を吐いた。年端も行かぬ少女が吐くにはあまりにも不釣り合いな様相であるが、今の彼女を見れば誰もがその言葉に納得をするであろう。
行儀悪く足を広げると、そのまま力を抜いて夜空を見上げた。
「もしかしてだけど、まどかがあそこにいたのって、まどかなりに解決しようとしてたって感じ?」
「そうですね」
「まどかが、ねぇ……」
さやかは微笑みながら、隣で無防備に寝顔を晒す親友の髪を撫でた。柔らかな桃色の髪。何度も撫でている髪だが、今日はやや強張っている箇所がある。ストレスか、疲労か。いずれにせよ良い話ではない。
さやかはまどかのことを幼い頃から知っている、何せずっと一緒だった。一番の大親友と称しても間違いない。彼女が秘めたるここ一番の行動力だって、さやかには分かっている。
まぁ、昨日の今日でここまでの行動力を発揮するのは予想外だったが。
「さやかさんも、同じですよね?」
「ん、まぁね」
ルビーの問いかけに、隠す事無くさやかは頷いた。肯定。さやかもさやかなりに、昨夜の違和感を解決しようと動いたのだ。
「……私としては、昨日の今日でさやかさんが動くとは思っていませんでした」
「うーん、私もねぇ……最初は動くつもり無かったんだよね。でも、なんかムカついてきちゃって」
理不尽を受け入れて消化するなんてのは、さやかの性格上無理がある話だ。腹を貫かれ、一方的に敵意を浴びせられて。それで黙って引き下がる負け犬根性など、さやかは持ち合わせちゃいない。
「ダメ元だったけど、結果的には上手くいったって感じかな」
「ダメ元って……風見野にいるって分かった時は焦りましたよ。ホント御無事でよかったです」
「あのまま部屋に引き篭もって恨んでも仕方が無いからね。ま、虎の穴が何とやらってやつよ」
「はぁ……? まぁ、でも、よく杏子さんと争いにならなかったですね」
「ん? あー……まぁ、そうだよね。そう、なんだよねぇ」
歯切れの悪いさやか。その場面を思い出したのか、顔を顰めて、盛大に溜息を吐いた。
「私はさ、最終的にまた争いになるかなって思ってんだよね。……でも、あいつさ。全然元気無かったんだよ。こっちが拍子抜けするくらい」
「元気が無かった?」
「そ。アイツ公園にいてさ、ベンチで空眺めてんの。ぼーっと。私が近づいても反応なし」
「……よく近づきましたね」
「最初は無視されてんのかと思ったんだけどさ。……まぁ、何ていうか……アイツ、すっごい酷い顔してたんだよね。今にも泣き出しそうな感じ」
泣き出しそう。意外な言葉だ。
「でさ。私も……まぁ、馬鹿みたいなんだけど……アイツのそんな顔を見たら文句とか、話そうとした事とか、全部吹っ飛んじゃってさ。……それより、そう言えばお礼を言ってないじゃんって思って」
「お礼?」
「病院でさ、私とまどかは魔女の結界に巻き込まれたじゃん。その時にアイツが助けてくれたんだよね」
魔女が倒された時は、自分たちの状態にいっぱいいっぱいで、お礼にまで気が回らなかった。
結界から解放された後は、ルビーがほむらを変身させたせいで、お礼する間が無かった。
自宅まで避難した以降は、もうそんな空気では無くなっていた。
「結果的には良かったよ。杏子が何で落ち込んでいたのかは知らないけど、話し合いから入れたからね」
「何を杏子さんとお話しされたんですか?」
「んー……まぁ、そうだね。忠告かな」
「忠告?」
「そ。魔法少女として生きる事への、忠告」
「それはどういう……?」
「わざわざこんな血腥い世界に踏み入れた事への忠告」
「……血腥い、とは……その、具体的には?」
「私の口からは言えないかな。……アイツの事情もあるしさ」
時と状況によってはお調子者の側面が出るさやかだが、反面義理堅いところも彼女は持っている。言えない、と。彼女がそう言うのであれば、実際もう言うつもりは無いのだろう。
たださやかの表情から、血腥いという言葉が、決して魔法少女の根幹に関わるものには無い事をルビーは察した。……末路を知れば、今の彼女の様にさっぱりとした表情は浮かべられないからだ。
「杏子の事情は分かったよ。アイツはアイツで……色々とあった。だけど、私だって退く気はないよ。……どうしても叶えたい願いがあって、それだけは後悔はしないから」
それが危ないのだ。そう、ルビーは思う。さやかの決断を、覚悟を、決して軽んじているわけでは無い。だがまだ人生20年も生きていない彼女は、世界を知らなすぎる。甚だ不本意であるが、世界は一個人の都合など顧みない。覚悟は折れなくとも、変容する事は往々にして……ある。
ましてや、さやかが頼ってしまったのは文字通りの人外。人は勿論、世界の理も、アラヤやガイアの概念すらも、アイツらには関係が無いのだ。
「……無茶だけはしないで下さいよ。さやかさんが傷ついたら、悲しむ人がたくさんいるんですから」
「うん、分かっているよ。まどかとかね」
「私もですよ!」
絞り出した言葉の、何て空虚な事か。
単体では大凡何も出来ない自分が、ルビーは悔しくて仕方が無かった。
■
「――――てなわけで。士郎さん、ヤバいです。次まどかさんを変身させたら私死ぬかも」
翌日。AM9:00。
風見野市のウィークリーマンション。
衛宮士郎は来訪早々に戯けた事をほざく愉快型魔術礼装に、呆れを隠そうともせずに溜息を吐き出した。
「何が、てなわけ、だ。説明をしろ」
「そこはツーカーでお願いします」
「戯け」
こいつとツーカーの仲とか絶対に嫌だ。分かりやす過ぎる程の渋面を士郎は作った。作って、もう一度盛大に溜息。ハァ。そして改めてルビーに向き直った。ルビーが壊れるのは別に構わないが、鹿目まどかの名を出されれば、片手間に効くわけにもいかない。
「で、まどかちゃんがどうしたって?」
「いやぁ、つい昨夜変身させたんですけど……予想を遥かに超えるヤバさでして……」
「制御が追い付かなったのか?」
「昨日は何とかギリギリで制御できました。ただ、同じように次も制御は出来る保証は無いです」
ルビーにしては珍しくも弱気な発言だが、それだけ事態が深刻と言う証明でもある。平行世界からの魔力の流量制御。その困難さは、同じく平行世界の運営に手をかけられる者でなければ分かるまい。
「暁美さんの時とは違うのか?」
「全く違いました。ほむらさんには悪いですが、比較になりません」
「はぁ? あの子も結構な魔力量だぞ?」
「平行世界から勝手に流れ込んでくるんですよ。過干渉どころじゃないんです」
「待て。流れ込むのは経験だけだろ? 幾ら押し寄せるって言っても……」
「魔力もです」
「はぁ?」
「魔力もなんです!」
士郎の良く分かっていない顔に、ルビーは大いに不満をぶちまけ始める。経験だけなら苦労しない。そこから取捨選択すれば良いだけだ。いや、本来なら経験しか借りないので、士郎の認識の方が正しい。
だが実際には、ルビーを通して魔力が流れ込んできている。だから質が悪いのだ。滅茶苦茶大変なのだ。
「魔力量絞れないのか? 通せる最大量は決まっているんだろ?」
「絞れたら苦労しませんよ!」
分かっていない人間は、こうやってそれっぽい事を言って来る。こちとら、紙でできたホースを通してダムの放流をするような所業をやってのけたんですよ! 絞ったら壊れちゃいますって!
「魔力だけ通さない様にフィルターは作れないのか?」
「無理ですよぅ……変身したら、こっちの都合なんか関係なしに勝手に押しかけてくるんですよ。……と言うか、士郎さんの言っている事って、最初は制御できてることが前提じゃないですか? 最初から制御できないんですよ、こっちは!」
「そうか……」
「あああああああああ!!! 絶対分かっていない! 絶対士郎さん分かっていない!」
だんだんだん! 羽で拳を象り、机を叩いて慟哭を始めるルビー。相変わらず無駄に器用なことである。
「宝石剣を振るっているみたいな感じか。あれも理論上は平行世界の魔力を使用できるんだろ?」
「言わんとする事は分かりますけど、あれは使用者の実力に依存します。制御可能なんですよ。今回のケースはまどかさんの資質とか関係なしに流れ込みますから、制御不可なんです」
やぁっと宝石の末端らしい事が言える様になったかへっぽこ。ルビーは内心で溜息を吐いた。尚この思考は士郎に筒抜けである。ゼルレッチがヤベェと思って付け足した機能のおかげだ。知らぬはルビーだけ。
正論で罵倒されている事に対して良い気分はしないが、そこは士郎は顔色一つ変えず、あたかも聞こえてないかのように振る舞っている。時計塔での研鑽が彼のポーカーフェイス構築に関わっているのは否めない。大人になるって嫌な事ね。
「と言っても、ルビーには悪いが、お前が制御できなきゃどうしようもないんだよな」
「それは分かっていますよぉ……分かっていますけど、どうしようもない事はあるんですよぉ」
「……無いとは思うが、お前に姉妹みたいなのっているのか?」
「姉妹、ですか? ここにはいませんね」
「ここ、ってのは、この世界って意味か」
「はい」
つまり平行世界には存在すると。微妙なニュアンスをしっかりと士郎は理解する。こういったところでの理解のすれ違いは、後になって存外大きく響いてくるものなのだ。
「大師父が作る予定はあるのか?」
「作った前例がある以上、無いとは言えません。が、可能性としては低いでしょう」
「なんでだ?」
「無駄に元気ですけど、結構なジジィですからね。それよりも平行世界の観測に注力する方で忙しいと思います」
「そうか……」
姉妹がいるのならば、交代交代でまどかの制御に当たることが出来る。が、そんな簡単には事は運ばないらしい。
勿論まどかが魔法少女とならないのがベストだが、キュウべぇの存在がある以上はそうも言っていられない。彼女が魔法少女とならざるを得ない状況に追いこまれた時に、キュウべぇ以外で彼女を救えるようにしなくてはならないのだ。
「キュウべぇは相変わらずまどかちゃんにご執心だ。説得は無いな」
「……大本は潰せそうですか?」
「それは……まぁ、無理だな。アイツは宇宙からの外来生物だ。アイツ一体を潰したところで、別の個体が来るだけだ」
「えぇ……あんなのがまた来るんですか?」
「来るぞ。来る上に、自分の死体を食い始めるからな」
ぶるりと。士郎は先日見た光景を思い返して身を震わせた。ほんのちょっとしたミス(本当にミス、他意は無い)で真っ二つになったキュウべぇを、何処からともなく現れた別のキュウべぇが食べ始めたのだ。同族の捕食。そして何事も無かったかのように会話を再開するのだ。士郎とて今までに色々な人外や化け物と接してきているが、生理的な嫌悪感で言えば、キュウべぇはトップクラスである。
「まぁ……ルビーは今まで通り、まどかちゃんに付いていてくれ」
「そうします。そっちはそっちで任せますんで」
「はいよ」
ひらひらと。羽と手を振り合って。
2人の情報共有はこれにてお終い。
致し方無い事とは言え、むさい男と2人っきりで密室に居ざるを得なかったルビーとしては、少女成分を補給しないと頭がイカレそうだった。早くまどかに会いたくて仕方が無かった。
来た時と同じようにルビーは窓から外へ出ようとし、
「そうそう、士郎さん」
「何だ?」
「なんか杏子さんに言いましたでしょ」
昨日の疑問を士郎にぶつける。
さやかは昨夜、杏子が元気無いと言っていた。そして昨日の士郎の憔悴。杏子が戻らない事を知っている口ぶり。関係性を明示されているわけではないが、杏子と士郎の間で何かがあったと推察するには充分過ぎる。
「士郎さんは御存知じゃないかもしれないですけど、昨日の杏子さんの様子がおかしいんですよ。あっ、念のため言っておきますけど、私に会ったからじゃないですよ」
「……」
「なぁんかさやかさんに妙に優しかったみたいですしぃ……しかも出会った時は落ち込んでいたとか」
士郎はルビーの揺さぶりに何の反応も見せない。自然体だ。まるで初めて事を聞いているかの様な態度だ。
「杏子さんが落ち込むって、結構珍しくないですか? ソレに加えて、昨日の士郎さんの大怪我」
「……」
「私の予想としては、お節介をかいて返り討ちに遭ったり、とか?」
「……何の話だ?」
「いやぁ……幾ら油断したとは言え、士郎さんがあんな怪我を負うって珍しくないですか?」
にやにや。表情の無い無機物であるはずのルビーだったが、今の彼女は誰がどう見ても分かるくらいにイヤらしい笑顔を浮かべている。ちょっかいを掛けたくて仕方が無いと言いたげな笑顔。無機物が笑顔とはどういうことかと思うが。相変わらずぶっとんだ技術力である。
士郎は僅かに眉根を寄せると、疲労を存分に滲ませた息を吐き出した。吐き出して、上げかけていた腰を再度降ろす。
「魔女の死んだふりに化かされた。遠坂には言わないでくれよ」
「ほぉーん? へぇー?」
「……何だよ。随分絡むな」
「べっつにー、何でも無いですよー。ただ、知ってます?」
「何をだ?」
「士郎さんって嘘を吐くとき、眉が少し痙攣するんですよ」
「へぇ、そうなのか?」
すました顔の士郎。
全く表情を変えないし、眉を触ることも無い。
嘘を吐いているのは明らかなのに、ポーカーフェイスが上手な事だ。
んにゃろう、へっぽこの分際で。内心でルビーは舌打ちを零した。出会った時のあの分かりやすい朴訥とした唐変木の面影は何処へやら。随分と可愛げがなくなったものだ。
■
ルビーが居なくなったことを確認すると、士郎はゆっくりと息を吐き出した。細く、細く、そして長く。身体に溜まった疲労を出し切る様に、肺の奥底から絞り出す様に。
それから服を捲り上げる。腹部についた戦闘による裂傷の跡。昨日の事を思い返すと同時に、傷が痛みを思いだす。完治までは時間が掛かりそうだな。己の才能の無さに、士郎は溜息を吐きたかった。
士郎は日本に戻ってくる際に、宝石を2つ持ってきていた。無論、ただの宝石ではない。魔力が込められた奴だ。1つは士郎自身の、もう1つは師である遠坂凛の魔力が籠っている。
うち、昨日使ったのは士郎自身の魔力を込めた宝石。凛のを使えば問題なく治るが、そちらはなるべくなら使いたくは無かった。仮に使うとしても、ワルプルギスの夜との戦いのときだろう。ここで自分の招いたヘマの尻拭いの為には使えない。
「……ヘマしたな」
ヘマ……そう、ヘマだ。油断によるヘマ。
士郎は自分が未熟であることを理解しており、それ故にそういった言葉とは程遠いと考えていたが、昨日は相手が相手だったせいか、少なからずそれがあったのは否めない。
怒り、油断、負傷。
……偉くなったものだ。死線を潜り抜けて強くなったつもりか。数日の生活で彼女を分かった気にでもなっていたのか。人の心情も慮れない阿呆の分際で、よくもまぁほざけたものだ。
「戯けか」
自分自身への罵倒。思い返すだけで自身の不用意な行動に腸が煮えくり返りそうになる。こんな時に余計な手間を自ら招くとは何様のつもりだ。
「っ……ふぅ……」
立ち上がると腹部に痛みが走った。表面上は塞がっているように見えても、まだ完治はしていない。傷つけられた繊維や血管。痛みを無視して動いたとしても、少なからず支障は出てくるだろう。
シャツを脱ぎ、道具箱から包帯を取り出す。術式を書いて作成した、回復用の簡易魔具。士郎は回復術の才能が無いも同然なので、こういった魔具に頼ることが殆どだ。
「高いんだよなぁ、これ」
得られる結果に対する労力が。つまりは全くと言っても良いほど釣り合っていない。しかもこの包帯は、あくまでも自己治癒率を高めるだけなので、無いよりはマシ程度でしかないのだ。ぼやいたところで贅沢は言っていられないが。
慣れた手つきで腹部に巻いて、とりあえずはこれで良し。後は風見野市で霊脈が最も機能しているところへ行き、1日回復に当てれば、明日からはもう少しマシに動く事も出来るだろう。
「えーと……緑地公園か」
事前に自らの足で調べた中で、一番今の場所から近い霊脈は、郊外にある公園。人目に付きやすい場所ではあるが、金もかからず1日居座れる。金欠気味の士郎には嬉しい立地だ。
そうと決まれば、士郎の行動は早い。冷蔵庫を開いて、中から作り置きしていたおかずを取り出す。とりあえずは朝飯。昨日の疲労のせいで、今日は大いに寝坊をしてしまったのだ。
――――カン、カン
「ん?」
ご飯を茶碗によそったところで、玄関から何か固い物が触れる音がした。ノックと言うには弱い。注意していなければ聞き逃してしまうような音だ。
誰か来たのか。耳を澄ましてみるが、音は聞こえない。幻聴でも拾ったのだろう。そう結論付けて、士郎は一口目を頬張ろうとし、
――――カン、カン
……今度は幻聴じゃない。多分。しっかりと聞こえたつもりだ。だが意味が分からない。外に音が鳴るようなものは置いていない。誰かが来たのなら、ノックじゃなくてインターホンを鳴らせばいい。
士郎は立ち上がると、傍のインターホンのモニターをつけた。だが誰も映っていない。誰もそこにはいない。いつもの外の景色が見えるだけだ。
「なんだよ、ご飯少ないじゃねーか。足りないよ、これじゃ」
よく驚きに声を上げなかった、と。士郎は自身を褒めていい。
士郎は声に反応して振り返った。そこに余裕も冷静も何も無い。あるはずが無い。驚愕に塗りつぶされた自意識に、それを求めるのは酷な話だ。
「邪魔するわ」
「おぅ、遠慮すんな」
それは俺の言葉だ、と士郎は言いたかった。と言うか他にも言うべきことがあった。訊きたいことがあった。色々なモノが脳内で消える事無く発生し続け溢れ返っていた。
が、全てを飲み込む。
飲み込み、代わりに溜息。
「……杏子。来るなら来ると言え。暁美さんもいるんだろ。俺一人分しか食事の用意をしていないぞ」
佐倉杏子と暁美ほむら。2人が何故かこの部屋にいる。鍵を締めていた筈なのに、いる。士郎の感知を潜って、いる。
いや、まぁ、きっとほむらの時止めの魔法を使用したのだろうが。鍵も魔法で、或いはピッキングで開けたのだろうが。
問うまでも無くそう結論を付けると、士郎は冷蔵庫から追加で食材を取り出す。今優先して問うべきことはそこじゃない。そこじゃないが、考えがまとまって無いのも事実だ。卵とハム。即席ですぐ作れる分から用意をしていく。用意をしながら、その間に落ち着いて考えをまとめようと言う算段だ。
杏子は意外そうに息を呑んだ。士郎の言葉が想定外だったのだ。呑んで、口を曲げると、気まずそうに頬を掻いた。
「……傷、ヤバいか」
「いや、そうでもない」
士郎はそう言ったところで、自身が上半身を包帯を巻いただけの様相である事を思い出した。この姿でそうでもない、と言ったところで、信憑性が無いのは明らかだ。
とりあえずシャツを再着用する。まぁ、杏子もほむらも一般の少女と称するには達観し過ぎているが、年頃の少女の前で半裸のままなのも如何なものかというやつである。
「傷は……まぁ、何とかなっているさ。今日1日休んでいれば、明日にはいつも通り動ける」
「……そう、か」
杏子は安堵の息を零した。無事な事への安堵だった。
魔女との戦闘による負傷。事実だけを述べるなら、昨日の士郎の疲労と憔悴はそれが原因だ。
「……悪ぃな」
「何がだよ。あれは油断した俺の落ち度だ」
「……士郎がアタシを――――」
「結界が持続している事を、疑問に思わなかった俺が悪い」
士郎は怪我を負った。それは魔女のせいだ。或いは、油断した自分のせいだ。杏子は何も悪くない。
……先ほどルビーは、士郎に何をしたのかと聞いていた。
答えは、何もしていない。
士郎は何もしていない。
何もしていないのだから、何かが解決したというのなら、それは彼女たちが己の力で解決したに過ぎない。
「それより、わざわざ暁美さんもいるって事は、別に話が有って来たんだろ」
士郎はやや強引に話を変えた。この場にはほむらもいる。わざわざ彼女が此処を訪れたと言う事は、相応の難題があると、そう想像する事は難しくない。……例えば、ワルプルギスの夜とか。
話を向けられたほむらは、軽く咳ばらいをした。仕草というよりは、何かを話そうとして喉がつっかえた感じだった。続けざまに咳をするあたり、あまり呼吸器官がよろしくないのかもしれない。
「……ほらよ」
杏子がのど飴を差し出してくる。そして無言で受け取るほむら。余計な仕草や言葉が無い辺りに、2人の間ではのど飴の常備は必須なのかもしれない。
「――――ええ。お願いがあるの、衛宮士郎」
何事もなかったかの様に、ほむらは口を開いた。そして真っすぐに士郎を射抜く。感情を抑制した眼。年頃の少女のものとは思えない、眼。
士郎は調理の手を止めて、ほむらに向き直った。片手間で聞ける内容ではないと察したからだった。
「巴マミに協力を要請してほしいの」
なるほど。意味が分からない。
極限まで不必要な情報を排した言葉に、それでも真面目な表情を崩さなかった士郎は流石であった。
ほむらの隣にいる杏子は、何言ってんだコイツと言いたげな顔を惜しみなく披露していた。
そして何故か。ほむらだけは冷静沈着の鉄面皮のままだった。出されたお茶を飲む余裕すらあった。今の言葉で全てが伝わったとでも言いたげな顔だった。
おまけ
※ウィークリーマンション前にて
「ほむら、作戦を整理するぜ。ノックして、応答無さそうだったら、ピッキングして中に入る。で、アイツの様子見る。オッケー?」
「構わないけど……杏子の話だと、彼は結構な怪我を負ったんでしょ? コソコソ入る意味は?」
「……うっせ、顔合わせ辛いんだよ」
「様子を見るだけなら、別に堂々と入って大丈夫じゃない? 素直になったら? 昨日の美樹さやかと同じように」
「うっせ、アンタだってマミと話を付けるためにアイツの力が必要なんだろうが」
「ハッ、見くびらないで頂戴。その方が都合が良いから、彼を頼るだけよ」
「何だよ、他に当てがあるってのか?」
「……あると言ったらウソになるわね」
「じゃあ無いんじゃねーか。なんで泳がしたんだよ」