ゲームのカードを落としてしまったのですが!! 作:足の裏膝太郎
『**地方の週末の天気は今日と打って変わり、晴天となるでしょう。気温もあがりますので、外出の際には水分補給を忘れないでください』
夜、大学で疲れた体を労うためにテレビの前で横になっていると、玄関の鍵がガチャリと開かれる音がした。今の時間だと、果たして父親か兄か。
「おい、お前。今日おれが成し遂げた武勇伝、聞きたくないか?」
どうやら正解は後者だったようで、ただいまも言わずに僕のいるリビングに入ってきたのだった。
「僕の名前は『おい』でも『お前』でもないよ」
首をぐるりとねじって、視線を声のする方へと移す。兄はよっこらしょと椅子に腰かけた。もう十時だから、たぶん、バイト帰りだ。
「まあ、話してみてよ」
兄は口の端をグニャリと気持ち悪く押し上げた。
「おれは今日、女の子を救ったんだ」
「へえ……。また唐突に」
襲ったの間違いではないのか? 僕が訝しむ目を向けているのにも構わず兄は話を続けた。
「大学からバイト先に向かう時の話だ。電車の中で、お前くらいの年頃の女の子をちらちらとみているおっさんがいたんだよ。猫背に手入れのされていないヒゲと陰気な雰囲気で、おまけに目つきも悪いおっさん。そんなやつが女の子を明らかに盗み見ていた。相手は手の文庫本に夢中で気づいていないようだったけどな」
兄は話し始めると長い。合の手をいれようといれまいと、むしろ話を聞いていようといまいと立て板に水を流すように語り続ける。僕は視線をテレビに移す。ちょうどバラエティ番組が始まった。毎週楽しみにしているやつだ。
「たぶん、おっさんが女の子を見ていることに気づいていたのはおれだけだったろう。でも見ているだけじゃ、責めようがないと思って黙っていた。やがて、おれが降りる水田駅になった。女の子もそこで降りた。そしてまさかとは思っていたが、例のおっさんも」
「女の子に合わせたんだろうね」
僕が言うと、兄はうんと頷いた。
「女の子の後ろをつくようにして、おっさんが歩いていく。さすがに心配になったので、おっさんを追うことにした。おっさんは女の子に徐々に距離をつめていく。改札を抜けてしばらくしたところで、ついにおっさんは彼女の両肩に手をかけた。女の子が『ひゃっ』と小さく悲鳴をあげ、『誰ですか』とおっさんに訊く。おれはそこで我慢できなくなった」
「うん」
テレビの中で、司会を務めるお笑い芸人が企画のタイトルコールをしている。
「おっさんの身体を両手で抱きかかえるようにして掴んで、投げたのさ。ガシッと掴んでバーン! だ。おっさんは案外軽くて、見事に吹き飛ばされたよ。あとは動けなくなったそいつを駅員に引き渡して、女の子にお礼を言われて、『おれはバイトがあるんで』と風のようにカッコよく去って、終わり」
「へえ。よかったね」
冗長な彼の話が終わるころには、番組はCMに入っていた。
「この話にはオチがあってだな」
「さっき終わりって言わなかった?」
「おっさんと格闘したときかな、財布を落としてしまった」
「えっ」
素で驚いてしまった。
「馬鹿じゃないの」
*****
窓の外は闇で、次から次へと人口の灯りが右から左へと走っていく。今週の金曜日ももう終わりが近い。
大学からの帰り。僕たち三人は仲良く横に並んで座り、電車に揺られていた。
僕の右隣はアオバさん。文芸部。同級生。僕とは同じ学部で、授業を通して知り合った。
「それにしても、偶然だね。わたしたち三人同じ方向だなんて」
「そうですね」
そう答えたのは左隣にいる、えすちゃん。僕の所属する大学の美術部で出会った、成績優秀な同級生である。黒髪に眼鏡という、容姿からして知的な雰囲気が漂っている。
……ちなみにアオバさんもえすちゃんもあだ名だ。文化系クラブでは、あだ名で呼び合うのが伝統になっている。僕は本名とかすりもしないけど、『カジキ』と呼ばれている。別にマグロが好きでも似ているわけでもない。入部してから三年も経った今となっては、由来を覚えているひとはいない。
電車の中ということもあって、誰も喋らなくなった。アオバさんはスマホを触り、えすちゃんは俯いて瞑目している。腕時計に目をやると、もう九時過ぎだ。今日は遅くまで大学で絵を描いていた。集中してると、時が過ぎるのが早い。アオバさんはアオバさんで部活動をしていたらしい。
藪から棒に、スマホを見ていたアオバさんがふふっと小さく噴き出した。いつの間にかスマホに繋がったイヤホンが彼女の耳にまで伸びている。
「なに見てるの?」
訊くと、彼女はイヤホンを外して、「Twitter」と答えた。
「これ見てよ。面白いよ」
どうやらアオバさんのツボに入ったのは動画だったようだ。スマホからイヤホンを抜き、彼女の指が再生ボタンと重なる。気配を感じて左を見ると、さっきまで目を瞑っていたえすちゃんの顔がすぐそこにあった。興味を引かれたらしい。
動画が再生された。公共のバス内をスマホで隠し撮りしたもののようだ。手前にサラリーマンらしき人の腕が見えるが、撮影者の目的はその奥にいる男性だろう。男性は一番奥の席にいて、男性のいる座席を、真横から切り取った構図になっている。窓の外は真っ暗で、時間帯は夜か。
始まってすぐ、男性の叫び声があがる。何か喋っている。聞き取りずらいが、
『どうか行かないで。落としちゃったあ!』
と言っているようだ。アアアアアアかマアアアアアか、よくわからない悲痛の叫びが後に続く。よっぽど悲しいのか、あっちこっちに視線を移す彼の顔がぐしゃりと潰れたみたいになっていた。
『落とした……! ゲームのカード落としちゃった!』
カードゲームの類を落としたのか。不幸を嘆く男性に声をかけずにいられなかったのだろう、主は映ってはいないが、別の男の声が飛んできた。
『どうか、しましたか』
男性が車の進行方向に顔を向ける。
『はい。ゲームのカードを落として、す、しまったのですが』
先ほどの慌てようから一転、噛んだとは言え、落ち着いた雰囲気で男性が返した。相手はそれに対して、
『あ、それ、あとで……が探しますから、車庫まで来てください』
事務的な口調や雰囲気から、その人は運転手なのだと察せた。名残惜しそうに、カードゲームを落とした男性は窓の外を覗いている。
動画の最後は、運転手の、
『ちょっと大人しくしててくれる? 他の人乗ってるから』
で締められた。
三十秒ほどの動画だった。
「ね、面白いでしょ?」
アオバさんが言う。
「う、うーん……。ま、まあね。面白かったよ」
と僕。公共の場で騒ぐ、オタクのような男性の一生懸命な姿が滑稽なのだろう。
「まあ、まあまあですね」
とえすちゃん、歯切れの悪い返事。
「これ、初めて動画サイトに投稿されたのが一週間前の金曜日なんだけど、再生回数、うなぎ登りで、凄いことになってる」
「へえ……」
ちょうどそこで電車が駅に到着した。アオバさんはここで降りるらしく、「じゃあ、また月曜日」と残して窓の向こうに消えていった。再び、電車が動き出す。僕たちが降りる水田駅はまだ先だ。
「私、ああいうのあまり好きじゃないんですよね」
今度はえすちゃんがスマホを取り出しながら、呟くように言った。
「知ってた」
「あら。さすがですね。でも見たところ、カジキさんも私と似たような反応でしたよね」
「まあ、ね」
僕は人を馬鹿にする遊びはやめておけ、と言える善人ではない。もし違う状況であれば、大爆笑していた可能性もある。
そして違う状況とは、例えば、ピエロになっている、カードを落とした男性が別の人だったのなら。
誰でもいい、知らない人だったら良かったのに。
この丸い顔。この細い目。この変に高い声。
――この動画の被写体の男性は、まごうことなき僕の兄だった。僕の家から最寄り駅まではバスを使うから、きっと兄は駅からバスで家に帰る途中だったのだろう。僕の知らぬところで、いつの間に有名人になっていたんだ。これからは他人のフリをして生きよう。未来永劫、誰に聞かれても、兄はいません、と答えることにする。
もちろん、仲良しとはいえ、えすちゃんにも話す気は皆目ない。
「手前に、傘がありますよね」
えすちゃんは自分のスマホの画面を僕に向けた。さっきの動画だ。あまり好きじゃないと自分で言っていたくせに、ネット上から探してきたらしい。動画のタイトルは『今日、変な奴を見かけたwww』。
「傘って、これ?」
撮影者から見て進行方向にある座席に、傘が引っかけられている。
「はい。傘があるということはつまり、雨が降っていたことになりますよね」
「そうだね。日傘じゃない限り、だけど」
「手前のサラリーマンの手にも紳士傘が握られているわけで、日傘の可能性はゼロパーセントだと思いますが」
わかってるよ。本気で言ったわけじゃないよ。
「雨が降っていたことはわかった。それで?」
恥ずかしい兄の話は早くやめてほしいというのが本心だった。
「男性はカードを落としてしまったと言っています。車外に落とせるというのはつまり、このバスの窓は空いていたことになります。少なくとも、男性のすぐそばの窓は」
「うん」
結局彼女は何が言いたいのだ。えすちゃんの頭が良いのは十分承知しているが、彼女はわかりやすく説明してくれようとしない。
「――いや、ちょっと待って。もしかすると、外ではなくて、椅子と壁の間に落としてしまったのかもしれないじゃない。指じゃ届かないような細い隙間に落としてしまったのかも」
僕が異を唱えると、えすちゃんは眼鏡の奥の目を細めた。
「相変わらずカジキさんって面倒くさいですね。男性が『どうか行かないで』って言ってますし、だいたい、車内に落としてあんなに叫ばないでしょう」
彼女のペースを崩したくて言った狂言だったが、見事に崩された。
「窓は空いていたのですから、雨脚は弱くなっていたか、もしくは止んでいたことになります」
「ははあ」
「これが投稿されたのはちょうど一週間前の金曜日です。確かこの日、昼間は雨が降っていたが夜になって止んだのは私たちの住むこの地方だけ。ですから、この動画が撮られたのは、ここからそんなに遠い場所ではありません」
「うん」
「それで、間違っていたら謝りますけど」
「うん。誤ってたら謝ってくれるんだね」
「この人の目、カジキさんとそっくりだと思ったんですけど、もしかしてカジキさんのお兄さんか何かですかね?」
「ぎゃーーー!」
マアアアアアアアアア!
お兄ちゃんだとバレちゃった!
「怖いよ。えすちゃん。その通りだけどまさか当てられるとは思ってもみなかった……」
えすちゃんは「ははは」と演技めいた笑い方をした。
「カジキさんに兄がいることは知ってましたし、顔がどことなく似ているなと感じたところから逆戻りしていって、それらしい屁理屈を付随させたまでです」
いわゆる女の勘? ということにしていいのだろうか。
「えすちゃんに勘違いされるのは兄の沽券に関わることだからいちおう断っておくけど、普段の兄はこんなに気持ち悪くないから。見知らぬ女の子を助けるくらい良い人だから」
この間の兄との会話を思い出す。会話というか、一方的に自慢話をさせられただけだけれど。駅で女の子を救った云々。
そういえばあの会話をしたのも、前の金曜日だったんじゃないか。テレビが確か週末の天気予報を流していたし。
「どうか、しましたか」
気づいたらえすちゃんが覗き込むようにして僕の顔を見ていた。ぼーっとしていたらしい。
「運転手さんの真似?」
「はい?」
「なんでもない」
えすちゃんが首を傾げている。
「いやね。前の金曜日の話なんだけど。帰宅した兄がすごく喜んでいたんだ。女の子を救ったって」
僕は先週眉に唾を付けて聞いた兄の語りを話した。財布を落としてしまったオチも一緒に。
「へえ。怪しい男を一網打尽……。すごいじゃないですか」
「本当かどうか怪しいけどね」
「財布を落としたのは辛いですねー……。バスや電車は大丈夫だったんですか」
「定期券は別に持ってたらしいから、セーフだって。まあ、お金も千円くらいしか入っていなかったそうだし保険証とかも持ち歩いていないからね。失くしたのは学生証くらいだってさ。
それに財布本体も、翌日、駅に届けられていたらしいし」
ふうん……。と煮え切らない返事をするえすちゃん。話すかどうか逡巡するような間を置いて、彼女は口を開いた。
「財布を落とした日と、カードを落とした日は同じなんですよね。カードのことについては何も言っていなかったんですか」
「うーん……」
前の金曜日から七日経って、今日。記憶をたどってみるが、そういったことは聞いてない。
「ううん。むしろ、お兄ちゃんがカードゲームをしていたことすら知らなかった」
「そもそも、カジキさんのお兄さんは、カードゲームをしていたんですかね」
「どういうこと?」
「カードゲームの価値がどれほどなのかは存じませんが、財布より大事な物であれば、わかりやすく落胆していても良いはずです。道路に落としてしまったのなら見つけるのは一苦労でしょうし、少なくともその日のうちに見つかっていない可能性は高そうですし。財布より大事ではないのなら、財布を落としたときなんて、これ以上に騒いでしまったはず。でも、先週の金曜のお兄さんは財布に対して、そこまで落ち込んではいなさそうだったんですよね。武勇伝があったとはいえ」
えすちゃんは暗くなっていたスマホの画面を細い指でタッチする。パッと明るくなり、例の動画が静止状態で表示されていた。
「電車内で動画を再生するのはさすがにマナー違反なんでやめておきますけど。カジキさんは覚えていますか? お兄さんは、『ゲームのカードを落とした』と言いました。私はここで違和感を覚えたのです。だって、『カードゲーム』や『カード』ならまだしも、『ゲームのカード』というのは、なんというか――不器用すぎませんか」
「そうかな。カードゲームプレイヤーじゃない人にも伝わるように、この場合だと運転手さんにわかりやすいように、わざわざゲームのカードと言いなおしたんじゃない?」
「いえ、お兄さんは運転手さんと会話する前から、独白でゲームのカードと仰っていましたよ。誰彼にわかりやすくするように言ったのではありません」
記憶力がいいなあ、えすちゃんは。
「つまり私が言いたいのは、ゲームのカードだなんて不器用な言い方をするのは、むしろ、カードゲームを知らないから口にしてしまったからなのではないのかってことです」
それに加え、カジキさんも兄がカードゲームプレイヤーだってこと全く知らなかったんですよね。珍しくえすちゃんは饒舌だ。
「私はお兄さんがカードゲームについて無知だったとしか思えません」
確かにこの動画を面白がっている人たちは、兄のみてくれがオタク然としているから、彼がカードゲームを愛するいちオタクだと疑わなかっただろう。だけど、僕は違う。兄はそのような人間ではないと知っている。
「でもそうなると、兄は嘘をついたことになるよ。わざわざ公共の場で、虚言を口にしてまで、周りの注目を浴びる――この不可解な行動を説明する方が難しいよ」
「……そうかも、しれません。お兄さんは、今日もバイトですか」
「そう。もうすぐバイトが終わる頃じゃないかな。いつも月曜水曜金曜は大学帰りにバイトなんだ。駅のすぐ近くにある本屋で働いている」
電車内に、アナウンスが響き渡る。僕とえすちゃんが降りる水田駅には一分もしないうちに着く。そういえば、兄が怪しい男を投げ飛ばしたのも、この水田駅だった。
えすちゃんが腰を上げて、僕を見下ろした。
「カジキさん、いちおうお兄さんに電話をしてくれませんか」
彼女の表情が変に真面目なものだったから、僕は破顔した。
「はっはーん、えすちゃん、真相を知りたいわけだね! いいよいいよ、任せて」
「いえ、そうではなく」
電車が減速していく。流れる風景がゆったりになる。
「襲われないように気を付けてください、と」