ゴールデンカイトウィッチーズ   作:帝都造営

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第一章
第一話 「クリアランス~みちしるべ~」前編


 初めて「そらがきれい」だと思ったのは、いつだっただろう。

 そのそらを飛べたらいいなと思ったのはいつからだっただろう。

 

 

 ――――それができると知ったのは、いつだっただろう。

 

 

 

 

 

 何歳の頃だっただろうか。私は初めて空に憧れた。

 

 

 空が()()()

 普段は静かで、あんなにおっとりしている空が、そんな音を立てたなんて信じられなかった。それはわたしの鼓膜に、肌に、眼に突き刺さって、一気に背骨を震わせた。そして地面を通じてわたしからすぐに出て行ってしまった。出て行ったはずなのに、震えが止まらなかった。

 

 わたしはお父さんに聞いた。アレは何なのか、と。

 

 お父さんはいつも通りに微笑みながら答えてくれた。

 

 

 

 わたしは飛行場の近くに住んでいた。別にテレビに映るような大きな飛行場じゃなくて、二三人しか乗れない小さな飛行機の飛行場。『こうくうまにあ』を仕事(仕事ではなく趣味だったのだけれど)にしているお父さんは、よくわたしを飛行場に連れて行ってくれた。

 飛行場はいつも閑散としていた。わたしが寂しいねと言うと、お父さんは「そういうもんさ」と笑った。

 

 でも、あの時は違った。

 

 

 

 わたしはあの震えをもう一度感じたくて、必死で空を見上げる。普段からは考えられないぐらいの人で埋め尽くされた飛行場。周りからの歓声がうるさいとすら思った。今の音をもう一度聞きたい、その瞬間はそれだけを望んだ。

 わたしの願いが届いたのだろうか、もう一度()が戻ってきた。わたしは息を大きく吸い込んで、身体中の穴からその()を吸収する構えを取った。

 

 

 

 わたしは、そらがだいすきになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、米川さん……ねえ、ねえってば!」

 

 米川(よねかわ)と呼ばれた少女は、身体を揺すられてようやく目を開き、それからバネじかけのように飛び上がった。

 

「……しまった!」

 

 彼女……米川ひとみは慌てた様子であたりを見回す。閑散とした教室。黒板には『五時限目は第三格納庫に集合!』とデカデカと書かれていて、次の授業が機体整備の実習であることを示していた。

 

「ち、遅刻だぁぁぁぁぁああああ……!」

 

 実習、それはひとみがこの学校に入った理由である。小学校を卒業したばかりのひとみは、世間一般で言うなら中学一年生。でもここ『扶桑皇国航空幼年学校』の飛行士養成課程においては航空学生と呼ばれている。

 実習。それは普通科中学校ではなかなかない教科。そしてこういう学校においては、それが出来なければ卒業は出来ない。

 

 

 それに遅刻……しかも「昼休みの寝坊で遅刻」となれば、それは大変なことだ。

 

 だからひとみは大急ぎで荷物をまとめる。教科書は確か『噴進式航空脚のいろは』と『航空脚整備基礎Ⅰ』、それと作業服着用で……

 

「ストップストップ! 米川さん、まだ授業じゃないって!」

 

「ふえ?」

 

 時計を見る。

 

 ……まだまだお昼休みであった。窓の外を見れば校庭でドッジボールに興ずる同級生たち。

 

「なんだぁ……びっくりさせないでよ」

 

「勝手に遅刻と勘違いしたのはそっちでしょ……」

 

 確かにそうだ。確かに彼女は「ねえ」と言った、でも遅刻だとは言っていない。

 なら、何の話なのだろう? ひとみが首を傾げると、同級生は教室の出口を向きながら言った。

 

「教官が米川さんを呼んできてくれって……なにかあったの?」

 

「え……私、なにか失敗しちゃったかな……?」

 

 そういえば昨日の授業でスパナを落としたっけ、その前は航空用語基礎の授業でブリタニア語の発音がおかしいって言われたし……考えれば考えるほどこれまでに失敗したことが出てきて、ひとみの頭の中をぐるぐるまわる。もちろん失敗してこその航空学生なのだが、やはり失敗して気持ちがいいものではない。

 

「もう、考えてないでとにかく行ってきなさいよ」

 

「うん……そうだよね……」

 

 ひとみは机に広がった雑誌を仕舞おうとする。と、同級生はもう一言。

 

「ところで米川さん、それって……『飛行ファン』?」

 

 指差されたのは丁度ひとみが仕舞おうとしたその雑誌。見開き1ページを使ってデカデカと写真が載っている。

 

「そう! 今月の『飛行ファン』は501統合戦闘航空団の特集だったんだよ!」

 

 思わず買っちゃったんだ~、と雑誌の表紙を掲げるひとみ。相手はその501という単語を思い出すように頭に手を当てる。

 

「501航空団……えーっと、あのヨーロッパで活躍した……」

 

「違うよ! 確かに初めて編成されたのはブリタニアで、大戦期は主に欧州で活躍していたけれど……その後の活躍の場は欧州に留まらないんだよ!? 確かに何度も解散するけど、必要になった時は人類連合でいっちばん強いウィッチが集まって戦う文字通りのエース部隊! 60年のトンキン湾や90年代のフォークランドでも大活躍! 何世代にも渡って伝説であり続ける、私たち航空ウィッチの目指すべき頂点!!」

 

「……えーと、詳しいんだね……」

 

 当たり前だ。

 ひとみにとっての501空は憧れなのである。あの日、家の近くの飛行場で空を翔ける彼女たちを見て以来の憧れなのだ。世代交代を重ね続けた501空、その部隊章が忘れられないのだ。あの()を奏でる資格が自分にもあると知った時の驚きと嬉しさと言ったら!

 

「そっか、じゃあ私用事があるから先に行くね? また授業でねー」

 

 ひとみは眼をキラキラさせていたが、どうも同級生はあんまり同調してくれなかったようだ。そそくさと教室を出て行ってしまう。

 

 

「え、あぁ……うん、じゃあねー……」

 

 どうして皆は501空のことを知らないんだろう。それはひとみの素朴な疑問だった。あんなにすごいウィッチたちが名を連ねた精鋭中の精鋭。それが501空なのに……。

 

 でもその前に、教官のところに行く。それがひとまずひとみに課せられた仕事だった。

 

 

 

 

 

「し、失礼します……」

 

「おう、きたか」

 

 教官室――――有り体に言えば職員室――――に入ると、そこにはひとみの担任ではなく、なんと学年主任が待っていた。学年主任、まさかとは思うが三者面談とかそういう類ではないだろうか、いやそうに違いない。ひとみは僅かに扉を閉めかけ、そしてギリギリで踏みとどまる。

 

「あの……」

 

 なにに関するおしかりでしょうか、とひとみが言おうとした時、主任が椅子から立ち上がった。

 

「よし、いくぞ」

 

「え?」

 

 ぽかんとするひとみ。いったいどこへ向かうというのだろう。呼び出しと言えばおしかりだろう。なにをやらかしたのかは分からないけれど、でも怒られるのだろう。ところが主任は机から立ち上がると、なんと第一種常用軍装に袖を通し……ひとみの横を通り過ぎた。

 

「え?」

 

「何してるんだ、さっさとついてこい」

 

「え? え?」

 

 そもそも教官は教え子を叱るために第一種などを着込むものだろうか。そしてわざわざ廊下に出ていくものだろうか。

 しかしひとみの疑問に答えてくれる主任は、既に廊下の向こうへと消えかけているのだ。

 

「ま、待ってくださいよぉ!」

 

 慌てて追いかけるひとみ。もちろんすぐに追い付いたのだが、主任は小さくため息をつくだけ。

 

「あ、あの……」

 

 どこに向かうのでしょうか、そんな質問はしない。既に入学してから四週間とちょっと、もう学校の間取りくらいは把握している。主任と一緒に渡り廊下を通り過ぎれば……そこには厨房や倉庫、そして校長室。まさか厨房に用はないだろう、お昼ご飯はさっき食べたわけだし。

 

 

「失礼の無いようにな」

 

「……」

 

 そして予想は見事的中。目の前に佇む重厚な木製扉、もちろん『校長室』の札がかかっている。

 え、おしかりとかそういうレベルじゃない? 停学? 退学? あんなに勉強して、せっかく幼年学校に入ったのに……。

 

 そんなひとみの様子を察したのだろうか。扉の目の前で固まったひとみに主任は笑ってみせた。

 

「大丈夫、悪い話じゃない……ほら、制服を正して」

 

「はい……」

 

 

 しゅんとしつつも扉に向き合うひとみを確認した主任は直立。ひとみもつられて直立を取る。短い期間だが訓練も受けた。もちろんしっかりとした直立姿勢を取ることができる。その気配を確認した主任は、よく通る声で言った。

 

「秋葉です、連れてまいりました!」

 

 そして扉の奥より返事が聞こえてくる。もちろん入室許可。まだ心の整理が終わっていないひとみは、人生初の校長室突入というビックイベントへのドキドキ、そして主任は悪い話じゃないと言うけど一体どんなことを言われるのやらという不安。そんなこんなが入り乱れていた。

 

 そして、無慈悲に扉は開かれる。

 

 

 一歩踏み出す。右足と右手が同時に出る。慌てて修正を試みる。目の前に校長用の執務机と、窓の脇に飾られた幼年学校旗に扶桑国旗、そして制服で身を固めた校長。かちかちになった左手が左足と連動。修正が間に合わない。

 

「よ、幼年……あいえ、横須賀幼年学校83期。米川ひとみですっ!」

 

 所属を全部名乗ったけど、よく考えたら校長相手に学校名から名乗るのはおかしい。さっそく失敗(やらか)してしまった……と、次の瞬間。ひとみは真横からの視線を感じた。

 

 いや感じるとかそういうレベルじゃない。突き刺すような視線だ。

 

「え……?」

 

 もちろん視線を逸らしちゃいけないのは分かっているのだけれど、しかし反射的に視線をそちらにやってしまい……そして即座に後悔した。

 なんでかって? それは実際に見てみれば分かる。なにせそこ、つまり校長室の壁際には大量の制服や背広姿が並んでいるのである。ウイングバッジを付けた空軍佐官、背広姿の丸眼鏡。そして入学式の時にやたらと短い訓示を披露してくれた大迫(おおさこ)横須賀鎮守府司令までも並んでいる。

 

「米川ひとみ、2004年生まれ。東京府出身……あってるかな?」

 

 そして、執務机に鎮座した校長からの温かい声が聞こえてくる。もちろん答えなければ始まらない。

 しかしひとみの肩は油差しが必要なほどに凝り固まってしまった訳で、彼女の首はガタガタ震えながら校長のほうを向く。もう隣からのプレッシャーが半端ないのだ。

 とはいえ答えないわけにもいかない。ひとみはどうにかして言葉をひねり出す。

 

「……は、はい。間違っていません」

 

 今にも消え入りそうな声だったが、どうにか届いたようだった。

 

「学校には慣れたかな?」

 

「はい……その、一応は」

 

 それを聞いた校長はゆっくりと頷く。

 

「うん、君の幼年学校(うち)への志望動機を読んだよ……欧州に行きたいそうだね」

 

 途端、ひとみの眼は輝いた。全身に力が篭った気すらした。志望動機、それはひとみがここまでやって来た理由であり、それは全ての原動力だった。

 

「はい! 欧州に行って、501統合戦闘航空団に入りたいんです!」

 

「うん、いい顔だ」

 

 校長は微笑んだ。

 

「仮定の話だが……もし君に、ヨーロッパに行くチャンスがあるとしたら、どうする?」

 

「はい! 行きます!」

 

 即答だ。ひとみの父が言っていた。チャンスの神様の後ろは禿げていると。つまりどういうことかというと、チャンスを見つけた次の瞬間には飛びつかなければならないのである。

 

 

 だが。

 

 

「それが、今だとしても?」

 

 それを聞いた瞬間。ひとみは固まった。

 

「え……」

 

 今。それはどういうことだろう。考えてみるが、もちろんなにも思い浮かばない。というよりひとみはただ困惑してしまったのだ。目の前の優しい顔つきをしている校長が、なにを言っているのか全く分からなくなってしまったのだ。

 

 校長が立ち上がった。ゆっくりと近づいて来て、そしてひとみの目の前に立つ。

 

 

 差し出されたのは、一冊の分厚い茶封筒。ひとみの両手に収まらないほど大きな封筒はいつも配布されるようなものと違い紐の留め具まで付いている。いったい何枚の書類が入っているのだろう。重みが全然違った。

 表には一体、何が書いてあるのだろう。いやそもそも、本当にこれは自分宛なのだろうか。

 

「……これって」

 

「君の辞令に()()()()()()()

 

 なりうるもの。その言葉をひとみは頭の中で反芻してみる。でも反芻したところで、全く頭に入ってこない。

 

「見ても……いいですか?」

 

「もちろん」

 

 唾を飲み込んで、一回深呼吸してみる。そこでひとみは、入学試験の時よりもずっと鼓動が早くなっていることに今更気付いた。

 

 裏返す。すぐさま眼に飛び込んできたのは、『扶桑皇国遣欧統合軍 総務部 人事課』の文字。

 

 

 扶桑皇国()()統合軍

 

 

「……な」

 

 声が詰まる。口の中が急に乾いていく。

 

 

「なんで、わたしが……?」

 

 ひとみは別段優秀という訳ではない。別に座学ができるわけでもないし、ガラス職人である父を持ちながらも機械なんてチンプンカンプン、幼年学校に入るまでは銃火器の類など触ったことすらなかった。加えて、ひとみは幼年学校(ここ)に来てからまだ一ヶ月程度。あらゆる知識が不足していたし、模擬戦の経験すらないのである。いやそもそも、ここにはひとみ達一年生の他にも二年生の先輩方がいる。編入の誘いが来るならそちらの方ではないのだろうか。

 

 校長はひとみの質問に答える。平べったい声……もう、優しさの片鱗もなかった。

 

「我が国含め十数カ国で共同開発していたF-35ライトニングⅡ……それの第一陣が納入されたことは、当然君も知っていると思う」

 

 校長は一旦言葉を切った。もうひとみだって、次に彼がなんと言うかぐらい分かっていた。

 

「この前の航空適性検査……あれで、君とF-35の相性が抜群に良かったのだよ。だからこそ、君に白羽の矢が立った」

 

「……」

 

 ひとみはもう一度封筒へと目を落とす。その茶封筒の文字はどんなに睨もうと覆らなくて。

 

「君()()()、出来ない任務だ」

 

 

 分かっている。ひとみだって分かっている。もう小学生じゃ、子供じゃない。お姉さんなのだ。ウィッチとしてこの世界を守れるんだ。

 

「わ、」

 

 

 言わなくちゃ。言わなくちゃいけないのに。喉の奥で声が張り付いて出てきてくれない。

 

「わたしは――――」

 

 今、わたしの夢がかなうかもしれない。万歳をして喜びたいぐらいのことのはずだ。校長からも君にしかできないと言われた。みんなから必要とされている。ウィッチになってみんなを守れる。その夢が今、封筒に入っている。これを受け取ったことを復唱して、敬礼をすればそれでいいはずだ。何を躊躇う必要があるのだろう。怖がる必要がどこにあるのだろう。

 

「よ、米川ひとみ、は、はい、拝命――――」

「――――だが!」

 

 校長はにわかに語気を強め、学校旗と国旗が震えるほど強く言い放った。

 

「私は、君の意思を尊重する。君がもし『行きたくない』と、そう言ったのなら、私は全力をかけてその意思を尊重する。誰がなんと言おうと、例え今上陛下が勅命を出されようとも、私が君を守ろう」

 

 

 一瞬の沈黙。ひとみは呆気にとられる……とまではいかなくても、驚きながら校長を見ていた。

 そこで校長は、ようやく表情を緩める。ぽむ、と頭に柔らかな感触。そういえば、男の人に撫でられるのなんてお父さん以外じゃ初めてだ……ひとみは場違いなことを考えてしまう。

 校長先生が言葉をもう一度紡ぐ、優しい声音が戻ってきていた。

 

「ゆっくり考えなさい……と、言いたいところだが、残念ながら時間もない。一日の外泊を許そう。しっかり考えて、君の本当の意思を伝えに来なさい」

 

 ひとみは校長先生を見上げた。窓から差し込む光、それが校長先生とひとみを優しく包み込む。

 

 

「……はい!」

 

 

 

 と、その時だった。

 

「貴様ァ!!」

 

 部屋を、窓ガラスすら震わせる罵声。声を荒らげたのはさっきの丸眼鏡。

 ひとみが肩を震わせるのと、ひとみを庇うように肩に手が回されたのは、どちらが早かっただろうか。

 

「この国家の! いや人類の存亡がかかっているという状況下で! 一体どうして個人の意思などを尊重するというのか!」

 

 丸眼鏡がこちらに向かってくるのが、校長先生の背中で隠される。脇には主任の先生も入り込んできて、絶対に通さない鉄壁のディフェンスを作る。

 

「お言葉ですが、幼年学校生徒の軍への途中編入に関しては生徒本人の希望がなければなりません。私は至極必要な事務手続きを行っているに過ぎません」

 

 校長先生は落ち着いた声で返す。その声はひとみを支えている彼の腕からしっかりと伝わってきた。

 

「なにを言うか! 遣欧軍への編入はいかなる皇民においてもこれ以上とない名誉であるぞ! これを拒む非国民がどうしてこの場にいようか!」

 

「そうは言われましても、手続きは手続きです。返答の猶予期間に関しても、こちらの内部規則でキチンと定められております」

 

 きっぱりと言い切る校長先生。背中越しに丸眼鏡が肩を落とし、小さく息をつく気配がした。

 

「なるほど……確かにその通りだ。私の批判は見当違いもいいところ。謝罪しよう」

 

 しかし次には「だが」と言葉が紡がれる。

 

「だが、米川くん……これだけはくれぐれも忘れないでくれ給え。君は今『持てる者』なのだ」

 

 持てる者。その言葉が、ひとみにとって重く、響く。だってそれは彼女を認めてくれると同時に、縛る言葉だから。

 

「世界はいま、何時までも終わらぬ危機に直面している。私は何人たりにも「扶桑は国際協調力に欠ける」「扶桑は弱虫だ」などと言われるわけにはいかない」

 

 ひとみは僅かに俯いた。丸眼鏡は続ける。校長先生が間に入っていようと、彼の声だけはよく届く。

 

「世界を見回せば、国家単位で『持てる者』そして『持たざる者』が存在する。航空学生たる君は紛れもなく『持てる者』……」

 

 

 世界では、軍備が足りないが故に蹂躙される国家が、民族がある。ひとみは確かに501空への憧れだけで幼年学校に入ったのかも知れないが、しかしそれを知らないわけがない。もう子供じゃない。

 

 

「私のような『持たざる者』の分まで、君は、いや幼年学校生(きみたち)は、人類の生存闘争を担う権利が、そしてなにより義務がある。それが扶桑皇国に生まれた人間としての……」

 

「――――是非ともご高説の続きを賜りたいものですが」

 

 そこで遮られる丸眼鏡の声。口を開いたのは校長先生だった。

 

「残念ながら次官補。ここは文部省管轄外とはいえ『学校』です。あなたは教員免許をお持ちですか?」

 

「持っている訳無いだろう」

 

 丸眼鏡は鼻を鳴らす。その言葉を聞いた校長先生は、僅かに立ち位置を直した。

 

「なら……()()()()()を受け持つ資格はありますまい?」

 

「なに?」

 

 向こうの調子が変わる。

 

「私は誰でも知っているマトモな話をしていたはずだが……ここでは教員免許がなければ常識を説くことすらできないというのか?」

 

「当然です。私の学校ですから」

 

 即座に返答。部屋の空気がさらに張り詰める。

 

「貴様……私を誰だと思っている」

 

「正義や法律を振りかざしつつ航空幼年学校(ひとのいえ)に土足で入り込み、生徒(ざいさん)を奪ってゆく外交官の鏡……」

 

「何だとォ!? 貴様もう一度言ってみろォ!」

 

 丸眼鏡が一歩前に出る。背中に隠れていたひとみにも丸眼鏡の怒りに歪んだ顔が見え、思わず目をつむって体を強ばらせた……その時。

 

「次官補殿、どうもご気分がすぐれないようですな」

 

 その言葉を境に、急に丸眼鏡の調子が変わった。

 

「大迫くん?! 君は派兵派だろうが!」

 

「そんなことはどうでもいいのです。派兵関連の交渉に関わるあなたが体調を崩されては、海軍(こちら)の計画にも支障が出ます……ささ、こんな()()()()()は置いておいて、とりあえず医務室に向かいましょう。私が案内します」

 

 背中越しでも揉める気配が伝わってくる。どうやら脇に控えていた大迫鎮守府司令が、丸眼鏡を取り押さえているらしかった。

 

「どいつもこいつも、私をなんだと思っている。私は外務省の人間だぞ?! キサマらがこうして軍備を蓄えられるのも、我々が常日頃から国際社会で活躍しているからだ! そんなこt」

 

 

 ドアが閉まる。丸眼鏡の声はまだドア越しに聞こえたが、しかしそれもすぐにフェードアウト……そしてほとんど聞こえなくなったあたりで、残された空軍佐官があからさまにため息をつき、それが静まり返った部屋によく響いた。

 それを合図にするように、校長先生はひとみに向かい合う。目は僅かに伏せられていた。

 

「君には……見せなくてもいいものを見せてしまったね」

 

 何と言ったらいいのだろう。ひとみはこの状況を完璧に把握していたわけではない。それでも、多分言うべき言葉はひとつだろう。

 

「その……ありがとうございました」

 

 ひとみは目の前の校長先生へと小さく頭を下げる。それから校長先生と目を合わせると、もう校長先生は微笑んでいた。

 

「うん、いい眼をしている……君ならきっと、悔い無き決断ができるはずだ。私がどんな決断でも受け止めよう」

 

 

 家へ帰って、ご家族と一緒にしっかり考えなさい。その言葉が、()()の終了を意味していた。

 

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