「というわけでやってきました、シンガポール!」
「ずいぶんとテンションたけーでいやがりますね」
ブリタニア軍の兵士が守る軍区画へのゲート。のぞみはその境界線手前で大きく飛び上がって向こう側へと両足で着地。体操選手みたく両腕を伸ばしてY字のような格好でピタリと静止した。ぶすっとしながら夢華が続く。
「いやいや。やっぱり新たなる地に着いたら観光するのが醍醐味でしょ!」
「わちゃわちゃやるのがそんなにいいでいやがりますか」
「そう言いながらゆめかもついてきているじゃない?」
「だからあたしはモンファ!」
困惑気味の兵士を尻目に早速のぞみと夢華が言い合いを始める。少し遅れてひとみとコーニャが境界の先へ。
「このやりとりもなんだか見慣れてきたね」
「ん……」
「お、米川もポリューション中尉も来たね」
「Покрышкин」
そしてこのやりとりも1種の定型文。そうひとみは認識していた。さっきはちょっと険悪な雰囲気だったけど……大丈夫、これからしっかり楽しめばいい。
「じゃあ4人そろったところで恒例の観光へいざゆかん! 今日は夜まで寝させないぜ! って言いたいところなんだけど……」
のぞみが右拳を天高く突き出して叫ぶ。だが、急に尻切れトンボに終わり、ひとみは首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「いやさ、米川はまだ病み上がりじゃん? だからオールナイトはさすがにねー」
「そもそも、深夜までの外出は許可されてない……」
「そゆことー。ま、近場を適当にぶらつこうか」
いつまでも桟橋にいたところで観光とは言えない。それに、せっかくの外出許可なのだ。ずっとベットの中にいたのだから、
「てゆーかどこ行くつもりでいやがるんですか?」
「とりあえずシンガポールといえば世界三大がっかり名所のマーライオンじゃない?」
「がっかり? がっかりするってわかってるのに行くんですか!?」
「まーいいじゃん。それに百聞は一見に如かずだよ、米川」
「いや、そうかもしれないですけどぉ……」
「いーからいーから。さあ、いざ参らん!」
のぞみはさっさとビルがたくさん並んでいる方角へとずんずん進み始め、ひとみがあとを追いかける。
「さ、付き合ってやりますかね……」
夢華が深いため息を吐きながら右足を踏み出して、小走り目に歩き出す……と、急に足を止めた。後ろから視線を感じたのだ。
「……な、なんだってんですかその目は」
コーニャだ。振り返るとコーニャがじっと夢華のことを見つめていた。
「別、に……」
夢華もぶちぶちと言っていたが、小走りになる程度には期待していたのか。そしてそれを無表情なままで見つめるコーニャは見透かしたように穏やかな目を投げかけていた。
東南アジアとは思えないくらい、綺麗に舗装された道を歩いていくこと数十分。お昼が近づいてきたせいか、至るところからいい匂いの漂う中で、それらの誘惑を振り切って進み続けると、次第にひとみたちの前に目的地として据えたマーライオンがその偉大なる姿を────
「なんか……うん、がっかりするね」
「言うほどおっきくないです……」
「この前、倒したネウロイの方がでけーでいやがりました」
「微妙…………」
────姿を表した。それはよかった。だがとてつもなく微妙なサイズ感と、なんとも言えないデザイン性。そしてただそれが口から水を噴き出しているだけ。
そう、はっきり言ってがっかりだった。
「さすがは世界三大がっかり名所……」
「そんなにかわいくないんですね……」
うーん、とひとみが首を傾ける。そこに屹立する白磁のマーライオンはお世辞にもかわいいとは言えなかった。
「まあ、かわいさを求めたものではないんでしょ」
「ていうかもう飽きたってんですよ」
「それにゃ私も同感だね。確かにつまらない」
「……ひどい言いよう」
だが面白みのないことは変わらない。ただそこにある。そんな像を見続けたって楽しいわけがない。
「うん。いこっか」
「そうですね」
「つまんねーでいやがります」
「……」
コーニャだけが無言。けれど4人の意志は完全に統一されていた。もう終わり。ただそのひとつに満場一致で決まってしまった。
「あ、土産屋だ。すみませーん!」
「ああっ! 先輩、待ってくださいよ!」
そしてまたものぞみの独断専行。なんとも怪しそうと言うべきな店構えにのぞみがずんずんと進んで行く。その後ろ姿を追いかけながらひとみはうん、と小首を傾げた。
「なんだろう、この感じ……」
ひとみにものすごく感じたことのある感覚が走る。これがいわゆる既視感、というやつだろうか。そしてのぞみが振り向くと同時に背筋に冷たいものが走る。
そしてのぞみが、口角を吊り上げた。
「……ねえ、米川。
「ふぇっ?」
「なんでいやがりますか。その男気じゃんけんってのは」
「……じゃんけんで、勝った人が物を買う」
「さっすがポルノ中尉」
「Покрышкин……さすがに、怒るよ」
「痛い痛い痛い痛い痛い!!」
コーニャがひとみの首に腕を回して締め上げる。ヘッドロックまでいったのは久しぶりだなぁ、とどこかひとみが遠い目で考える。
「話、進めたらどうでいやがりますか」
「ケホッケホッ……まあとにかく! こいつを賭けてじゃんけんといこうか!」
ででん! とのぞみが効果音つきでひとみが指差した物。それはついさっき見たマーライオンのミニチュア像。
「うわ、いらねー」
ミニチュア、といっても全長は1m弱ほどもあるためかなり大きい。
「……普通に邪魔」
「なんだろう、前にもこんなことが……」
「細かいことはほっといて。じゃあほら全員、手を出して!」
3人とも渋々、のぞみが嬉々として拳を突き出す。
「「「「じゃーんけーん…………」」」」
「…………ぐすん」
ひとみがほとんど自分の背丈に迫りそうなほどもあるマーライオンの像を抱きかかえるようにして運ぶ。勝負は一発でついた。ひとみのひとり負け……いやひとり勝ちだった。
「ていうか夢華ちゃんは絶対、魔法を使ったでしょ!」
「さあ? なんのことかわかんねーでいやがります」
さっきまで飛び出ていたハチクマの耳を収めて夢華が明らかにとぼけるようにしてそっぽを向く。
夢華の固有魔法は『未来予知』もどき。いくら完璧な未来予知ではなくとも、ひとみがじゃんけんで出す手を予測することくらいは容易いはずだ。
「まあまあ米川。それにもう出た結果に文句をつけるなんて男気がないよ?」
「私は男の子じゃありません!」
「ほら、そういうルールだし。ルールは守らなくちゃいけないよねえ?」
「そうでやがります。約束はしっかり守りやがれってんです」
「うぅ……」
なんでだろう。いつもこの2人は口喧嘩しているような気がするのに、どうしてこういう時ばかり気が合っているというかなんというべきか。
「お、重い……」
「ひとみ……きっといいこと、あるよ」
軽くひとみの肩をコーニャが叩く。その叩き方もマーライオンを抱えるひとみの負担にならないように気を使ったものだった。だがひとみにとって慰めになるかと言われるとだいぶ怪しい。なんせこのヒトも共犯者なのだから。
「さて、ちょっとしたイベントも終わったしお昼にしよっか!」
「ま、待ってくださいよぅ……これ重くって……」
「ま、がんばりなさい」
「そ、そんなぁ……」
認めたくはないけれど、ほんっとうに認めたくないけれど、ひとみは背の高い方ではない。それが1m近くのマーライオンを抱きかかえて運ばされているのだ。歩きにくいことこの上なかった。
そしてマーライオンを抱きながら歩くひとみはおそろしく目立っていた。たまにクスクスと笑う声すら聞こえる気がする。
だがそんなひとみを他所に元凶たるのぞみは元気なものだ。
「さあさ、お昼ご飯! いざ出陣!」
「でも、のぞみはどこで食べるつもり……?」
「んー? フードコートがあったし、そこでいいじゃん」
「どーでもいいから早くしろってんですよ。なんでもいいから腹に入れてーでいやがります」
夢華が空腹を不機嫌そうに訴える。 マーライオンを抱きかかえてよろよろと歩くひとみをよそに食事の話。だがひとみとしてもお腹は空いているのでご飯にするという意見には賛成だ。
「じゃあ行くよー。そこにフードコートみたいな感じで店が並んでいるからそこで好きに買えばいいよね?」
「それでいーでいやがりますから、さっさとしろってんですよ」
「はいはい。ほんじゃ、れっつらゴー!!」
「ごー」
「だ、だから待ってぇ……」
フードコートを目指して進んで行く3人の一歩後ろをひとみが追いかける。マーライオンの重みのせいで、どうしても遅れがちになってしまうのだった。それでもなんとかついていけているのは先頭を歩くのぞみがさりげなく気を配っているからだが、それにひとみは気づいていない。
「じゃあテーブルの確保はしたから各自で昼食を購入して集合ね」
「り、了解です……」
息も絶え絶えにひとみがマーライオンをテーブルの側に置いた。湿度のせいか汗が滲んで服が張り付く。フードコートに冷房が効いていたのはひとみとしても幸いだ。
「ええっと、なに食べようかなあ」
ぐるっと店を見渡してみる。何がおすすめなのかさっぱりわからない。うんうん悩んでいる間にのぞみもコーニャも夢華も何を食べるか決めて、さっさと席に戻ってしまっていた。
「じ、じゃあこれと……あ、マンゴーアイスだ! これもください!」
結局、焦ったひとみはよくわからない料理名と、かろうじてわかったマンゴーアイスを注文。どんなものが出て来るのかと思えば、なんだかツンとした匂いを放つ、エビの入った赤いスープだ。
「すっごく辛そうだけど……大丈夫だよね?」
トレーに乗せられた赤いそれを不安に思いながらテーブルに戻る。そこではすでに食事を取り始めている3人。
「あー、米川おそかったね」
「先輩は……なんですか、それ?」
「ヨンタオフーっていう煮込み料理。野菜も魚も麺もあるから栄養バランスばっちり」
のぞみの指し示す底の広い器には、はんぺんのような白い球体とブロッコリー、マッシュルームなどが半透明のスープに入っている。なんだかぱっと見だけでいくならおでんみたいだとひとみは思った。
「まったくお嬢さまぶることがそんなにいいんでいやがりますか。栄養バランスなんていちいち気にしてんじゃねーでいやがりますよ。野菜なんてナヨナヨしたもんをいちいち食ってなんからんねーです。肉でいやがりますよ、肉!」
「あーもう、ゆめかはそういうことにちょっとは気を使う! それに食べ方! 服にタレが飛ぶでしょうが!」
「だからあたしは夢華! あと服なんてどうだっていいでいやがるですよ!」
「良くないわ! それ貸してるだけで私の服なんだからね?」
「あははは……ちなみにコーニャちゃんは何を選んだの?」
「ん……カレー」
「わあ、お魚の頭が入ってるんだね」
フィッシュヘッドカレー、というタイプのカレーだ。魚の頭を丸ごと入れて煮込むことで魚の旨味をカレースープに出し、タリマンドやクミンなどのスパイスを使って、ピリッとした辛さと酸味がありながら、奥深いコクを生み出している。一緒に夏野菜を煮込んでいるため、魚の旨味だけでなく野菜の旨味もカレースープに溶け込んでいるのだ。
一方で夢華が食べているのはシシケバブ。ただしパプリカなどは串に刺さず、ただ肉しか刺さっていないものだ。こんがりと焼けた肉からジューシーな肉汁が滴り落ち、立ち昇るタレの濃厚な香りが食欲を刺激する。
「私も食べようかな」
赤いスープを一口、ゆっくりと啜る。エビの出汁が染み出したスープは思っていたよりも辛くない。どちらかというと酸っぱい感じだ。だが辛さが後を引いて喉に引っかかるようなこともなく、むしろすっきりとしている。中に入っているよくわからないキノコも初めて食べたが、風変わりな食感でおいしい。不思議な味ではあるが、ついついもっと食べたくなってしまう、癖のある味だ。スプーンを運び続けると、すぐに器のそこをスプーンがこすった。
「デザートは……アイスー」
ウキウキとひとみはデザート用のスプーンを手にとってマンゴーアイスをすくい上げる。
「ん? あんたが食べてたのって……待て、米川ぁ!」
「ふぇ? あ、先輩もマンゴーアイス食べたかったんですか?」
「あー、もう遅いか……」
のぞみが呆れたように頭を掻いた。なんでかはひとみにわからなかったがマンゴーアイスがおいしいからよしとした。さっき街中で見つけたマンゴーが一個、120円くらいで売られていたのはびっくりしたけれど、味もかなりいいらしい。
「んー、おいしー!」
「…………まあ、米川がいいならいいけどさ」
ほほに手を当てて、ひとみがマンゴーアイスを満喫する姿を半目でのぞみが見つめる。
冷たくて甘いアイスは、ついさっきまで辛いものを食べていたせいでヒリヒリとしている口に心地がいい。
「ほーら、米川。食べ終わったらさっさと行くよ。まだまだシンガポールぶらり旅は続くんたからさ」
「またこのマーライオン、運ばなくちゃいけないんですか……」
「そりゃ、じゃんけんで勝ったあんたのもんだし、しょうがない」
「ひとみ……どん、まい?」
「コーニャちゃんひどい!」
「がちゃがちゃうるせーってんですよ。さっさと行きやがるです」
「ちゃっかり楽しんでるじゃん、ゆめかもさ」
「…………うるせーでいやがります」
プイッと夢華がそっぽを向いてしまう。にやにやとひとみが笑ってはいるが、追撃するつもりはなさそうだ。
「ま、とにかく行こっか。あてない旅へ、いざゆかん!」
この時、ひとみは失念していた。のぞみがどうしてアイスを食べることを制止したのか。その後に意味深な間を作って頭を抱えていたのはどうしてなのか。
そう、辛いものとアイスの食い合わせは
「あ、あの……せ、先輩…………」
「あーうん、やっぱりそうなるよね。いいから行ってきなよ」
食い合わせの悪いものを食べるとお腹を壊す。それを予想したからこそ、のぞみは止めようとしたのだ。
まあ、遅かったわけだが。現在進行形でひとみのお腹はものすごい腹痛を訴えかけてきている。
「お、お手洗いはどこっ……」
マーライオンを抱きかかえているため、ずいぶんとコミカルな絵面になってしまっているが、ひとみのお腹はもう限界だ。あと少しきっかけが生まれてしまえば、もれなく社会的に死ぬ可能性すらある。それだけは1人の女の子として、そして1人の人として絶対に避けなければいけないことだ。
天に召します我らが神よ。どうかこの米川ひとみに休息を!
神はいた。ひとみの必死の祈りは通じた。
「あった……!」
目の前に
「……遅いなー、米川。腹を下してるにしてもかかりすぎなんじゃない?」
「ったく。弱っちい体をしてるから腹なんて壊すんでいやがりますよ」
「米川がまだ病み上がりってこと忘れてない?」
「関係ねーです」
ぷい、と夢華がそっぽを向く。
「さすがに、心配……」
「だよねえ……ん? ちょっと待って」
のぞみのポケットの中で通信機が電子音を鳴らした。手早く取ってのぞみが通信に出る。
「はい、こちら大村。はい、はい。はい? 了解。至急、加賀へ向かいます」
「どう、したの……?」
「霧堂艦長が帰って来いってさ。しょうがないし、米川を探すとしようか」
「ん……」
「ほら行くよ、ゆめか」
「だから私はモンファ! そいでもって何で私まで探すことになってんですか!」
そうブチブチ言いながらもちゃんとのぞみの後ろを夢華は着いてきた。それを見てコーニャは小さく微笑んだが、夢華とのぞみは気づかなかった。
一方、ひとみはようやくトイレから出て手を洗っていた。
長い長い戦いだった。ネウロイと戦うよりも苦しい戦いだったかもしれない。だが時間はかかったものの、解決の糸目は見えた。ピンチは過ぎ去って、現状におけるひとみの腹具合は平穏を取り戻していた。
だが次なる問題がひとみに降りかかった。
「先輩……もんふぁちゃん……コーニャちゃん……どこ?」
3人と合流できないのだ。それにさっきまでの場所へ戻ることができないのだ。どこをどうやって歩いているのかわからないが、さっきまでの綺麗な道を歩いていた感覚とは違って、裏道のような場所に出てしまった。
「うぅ……ここどこ?」
迂闊に離れるべきではなかったかもしれない。でもあの状況下では仕方のないことだろう。特にここはシンガポール、つまりひとみが初めて訪れた場所で、勝手が全くわからない土地だ。道に迷ってしまうのはある意味、当然と言えた。
「重い……道わかんない……」
一難さってまた一難。お腹のピンチは脱しても今度は道がわからなくなってしまった。とたんに心細くなり、ちらちらと周りをひとみは見渡した。もちろんマーライオンは抱えて、だ。結構な金額がかかっているので捨てるのはさすがに気が引けた。
「重いし、わかんないし……」
よくわからないままでろうろすればするたびに、なんだか怪しげな道に入っていってしまう。さっきまでの舗装されてきれいな町並みはどこかへ消え去って、どこか危なげな雰囲気のする町へと変わってしまった。
「Hey , girl!」
「わっ! な、なんでしょう?」
「How are you spare time?」
「Oh! You are cute! Type of taste!」
「わ、わからない……」
超絶早口で捲くし立てられた英語ではまだブリタニア語に慣れていないひとみには厳しい。こんな目に合うんだったら日ごろからちゃんとブリタニア語を勉強しておくんだったと後悔してもいまさら手遅れだった。帰ったらのぞみ先輩にしっかり教えてもらおう。うん、帰られたら。
逃げようにもひとみは1m弱のマーライオンを抱えている。こんなものを抱えた状態で走る余裕なんてなかった。マーライオンを捨てればいいのだが、焦りすぎたひとみはそこまで頭が回っていなかった。
「え、えっと……えっと……」
「It`s over 」
ひとみがおろおろしている間に男たちがひとみとの距離を詰めてきた。だが突如としてひとみへにじり寄る男たちをさえぎるように一人の男性が立ち塞がり、声を出して制止させようとした。短く刈り込んだ金髪に青みがかった目はいかにもリベリオン人といった風貌だ。
「What you?」
「Back off!」
男たちの中から一人がひとみを庇ってくれたリベリオン人に向かって殴りかかる。
「あ、あぶない!」
思わず声をあげるひとみ。だがリベリオン人は危なげなく振りぬかれた拳を軽く受け流すと、男の勢いを生かしてそのまま地面に叩きつけた。
「Be off」
静かにリベリオン人が倒れ付した男に言い放つ。同時に立ちすくんでいる残りの男たちに睨みを利かせた。
「Fxxk you!」
どうやら捨て台詞だったらしいものを吐き捨てて男たちが足早に立ち去っていく。あまりに一瞬のことでぼんやりとしていたひとみはようやく覚醒して真っ先に考えたのはお礼を言わなくてはということだった。
「あ、ありがとうございます! ……じゃなくてええっと、サ、サンキュー?」
「いいえ。それより、お怪我、ない?」
「は、はい! ……あれ、扶桑語?」
「少し。送ります、分かるところまで」
にこやかにリベリオン人がひとみに笑いかける。扶桑語が通じるという事実がひとみの緊張をいくぶんか和らげてくれた。というか通じなかったら本当にどうしようと思っていたところだったのでこの人が扶桑語を話せて本当にーーーー
ここまで来て思い出す。そういえばまだ名前を聞いてなかった。
「すみません、お名前は……」
「
「ルーカスさん……ですか。あ、私は米川ひとみです」
「ヒトミ、ですね」
ああ、本当に優しい人でしかも扶桑語のしゃべることができる人でよかったと心からひとみは思った。マーライオンは買わさせられるし、お腹の調子は壊すし、道には迷うし、変な人たちには絡まれるしで踏んだりけったりだと思っていたけれど、ここでようやく運が巡ってきたのかもしれない。
そう思いたかったのに。
「ヘィ、ルーク。その娘は誰かしら?」
ルーカスとひとみの前を少女が遮った。まっすぐで艶やかな黒髪に褐色がちな肌。同性のひとみから見てもかなり美人だが、明らかに声の中に怒りの調子が隠しきれないほど滲み出してご立腹な様子。ひとみは無意識に一歩後ずさり。
「あ、アレクシア……これはわけがあって…………」
「ふぅーん。私を待たせておいて他の女の子に構うなんてさぞかし立派な理由があるんでしょうね?」
ルーカスの額に汗が流れた。確かにシンガポールは暑いが、それとは別種の汗だ。対照的にアレクシアと呼ばれた少女はピクピクとこめかみ辺りが引き攣っている。慌てたルーカスがアレクシアの傍に駆け寄ってなだめようとするが、組んだ腕をアレクシアが解こうとする気配はまったくない。
「だいたいどうしてそんな娘を連れてたのよ?」
「ヒトミが絡まれてたから……」
「ヒトミ? へえー、もう名前まで聞いてるの?」
「あ、いやこれは流れで……ったぁ!」
「フン!」
アレクシアがルーカスの臀部を蹴り、たまらずルーカスが声を上げた。そして蹴るだけ蹴ると、アレクシアの鋭い視線はひとみに向いた。あまりの気迫が篭ったにらみに思わずひとみは身を縮ませる。
「で、あんたは? というかそのマーライオンの像は何?」
なんて言ってるんだろう……こっちを見て指させてるし……名乗ればいいのかな?
「えっと……米川ひとみです」
というかどういう状況なんだろう。ルーカスさんが蹴られたという状況だけはよく分かる。ということは知り合いの人、なのかな?
なんか勘違いしてるみたいだし……とりあえず状況を説明しないと。
「えと、ルーカスさんは私を助けくれたんです……あっ、それでマーライオンはじゃんけんに負けて、いや勝っちゃってですね……」
怪訝な顔をするアレクシア。察したルーカスが翻訳してくれる。
「……あ、そう」
「だから言ったろ、アレクシア。別に俺はナンパなんて……」
「うるさい! フン、いいわよ。こういう娘が好きならそう言えばいいじゃない」
「だからな、アレクシア……」
ひとみを置いてぎゃあぎゃあと展開されるブリタニア語の応酬。何を言っているのかは分からないけれどアレクシアが一方的でもう喧嘩というか言葉の暴力だ。
ひとみはルーカスに助けてもらった身としてなんとかルーカスを援護したいのだが、あまりの剣幕に口を挟むことができない。
「ど、どうしよう……」
「あ、米川はっけーん。どこまで行ってんのよ、まったく」
「の、のぞみ先輩!」
これでなんとかルーカスとアレクシアの二人の間へ割り込めるかもしれない。ひとみはずんずん迫ってくるのぞみを手招き。
「ちょっと来てくだs」
「加賀に帰るよ。召集がかかったから」
「えっ?」
のぞみがひとみの手を握った。手というか腕だ。腕をガシリと握った。
「で、でも……」
「デモも示威運動もないの。ほら帰るよ」
拘束も辞さないと言わんばかりに引っ張るのぞみ。もちろん抵抗できるわけなく、ひとみはずるずると引きずられて連れられていく。
「えっ、あのちょっと……ルーカスさん! 助けてもらってありがとうございましたぁぁぁぁ! サンキュー! ベリーサンキュー!」
せめて最後にちゃんとお礼くらいは、と考えたひとみがお礼を全力で叫んだが果たして伝わったかどうか。
「ほら、米川。そろそろちゃんと歩く!」
引っ張られるのぞみが止まった。周りは見覚えのある大通りだ。ホントにどうしてあんな裏路地に迷い込んでしまったのか。もう会うことはないだろうけれど、また会うことがあったらちゃんとお礼を言おうとひとみは心に誓った。
「は、はい。そういえば召集って……?」
大通りを基地の方へと歩き出したのぞみに続きつつ、ひとみは聞く。のぞみは振り返らずに答えた。
「さあ? 帰って来いって言われただけだからなんともね。とにかく急ぐよ。米川を見つけた時点でプラスコーヴィヤにもゆめかにも加賀へ戻るように伝えたから」
「いつ通信機を使ったんですか……」
「さっきちょろっと、ね。よしっ米川、ちいとばかし急ぐよ。駆け足、用意!」
「へっ?! 先輩っ、
「気合いだっ、前へ!」
そう鋭く叫ぶとのぞみは駆け出す。ひとみも慌てて加賀への道のりを急ぐ。
4人でのんびりと歩いているときはそんなに遠くまで来たような感じはなかったのに、急がなくてはいけないとなるとすごく長い道のりのように錯覚するのはなんでだろう。
……まあ、どう考えても巨大なお土産のせいなんだろうけど。考えれば考えるほど重くなってくるんだから不思議だ。
「加賀が見えてきた。ほら、あと少しだ米川!」
「は、はい……というか先輩、速すぎますよ…………」
「扶桑国軍人なら当然!」
息も切れ切れなひとみにくらべてまだ余裕を残しているのぞみ。
体力をすり減らしてようやく加賀にたどり着くと、盗る人もいないだろうと思ってマーライオンの像を加賀の適当な空き場所に放置する。
「わあ……身体がとっても軽い」
「なに老人みたいなこと言ってんのよ……ほら行くわよ」
呆れるのぞみ。しかしこの身体の軽さはまさに革命的なのだ。どれだけマーライオンが負荷になっていたのだろうと思いながらのぞみの後をひとみは追う。
「大村のぞみと米川ひとみ、遅れました!」
「遅い!」
「相変わらず厳しいねー、石川大佐。だいじょうぶ、だいじょうぶ。ぎりぎりセーフだよん」
ブリーフィングルームに駆け込むと、真っ先に2人を迎えたのは腕を組んで一喝した石川大佐と対照的にのんびりと笑う霧堂艦長だった。すでにコーニャと夢華は着いていたようで、直立して待っている。同じように石川大佐の前で直立。
「よし、これで全員だな。折角の休みをフイにしてしまってすまない」
「石川大佐、私たちが呼ばれたのはどうしてでしょうか?」
「大村の疑問も当然だな。呼ばせてもらったのは他でもない。顔合わせのためだ」
「顔合わせ?」
いったい何の話だろう。
「先ほど203空との合同演習の話が持ち上がってな」
「合同演習ですか」
「そうだ。相手はリベリオンとガリア、アウストラリス。三国から一名ずつで三名。こちらからも同じく三人を出す」
「リベリオン、ガリア、アウストラリス……」
国名ならよく聞くものばかりだ。リベリオンは太平洋の向こうにいるとっても大きくて自由な国で、アウストラリスは南洋島の近くにある羊がたくさんいる国で……ガリアは、ええと。
「さて。そろそろ来るはずだが……」
そう言っていた石川大佐の言葉を遮るようにブリーフィングルームのドアがノックされる。霧堂艦長が「はーい」と答えると加賀の乗組員がドアを開けた。
「あ」
「What?」
ひとみと先頭で入ってきた少女の声が被った。その少女は長くまっすぐな黒髪を持つ少女。ひとみがさっきルーカスに助けてもらった後にやってきた少女だ。なんかよく分からないけどとっても怒っていた様子の少女。
そう、確か……。
「アレキサンダーさん!」
「
「えっと……なんて言ってるの……?」
困惑するしかないひとみ。
「アレキサンダーじゃなくてアレクシアだってさ。というか二人は知り合いなの?」
「えっ、と……さっき会ったんですけど……」
「泥棒猫とか言ってるけど、なに、寝取ったの?」
「だっ、だれが泥棒なんて……」
「
怒っているのは間違いない。
「ど、どうしましょう先輩……」
「ま、ここはこの大村のぞみに任せておきなさい……
のぞみがペラペラとブリタニア語を喋っていく。のぞみ先輩はやっぱりすごい……ところが、アレクシアはみるみる顔を真っ赤にしていく。それから怒鳴りつけるように言ってきた。
「
え、なんで怒ってるの……ひとみがのぞみの方を見やると。
「Lecherus girl……米川が淫乱娘だってさ」
「い、淫乱娘って何ですか! そんなことしてないですってば!」
「のぞみ、話をややこしくしないで……」
コーニャが止めたところでもう止まるわけがなかった。最大の燃料を投下されたアレクシアとなんとか弁明しようとするひとみの喧騒はその後、状況が飲み込めた石川大佐によって止められるまでしばらく続くのだった。