女提督は金剛だけを愛しすぎてる。   作:黒灰

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あの、その、金剛好きです。
嫁の霧島さんのお姉さんとしてすごく魅力的だと思います。


2016/10/06 誤字報告など反映。
2016/11/06 誤字報告反映。
2016/11/29 誤字報告反映。



本編-1『Awake to Love』
ダイヤモンドはなんとやら


 彼女の眩しさは太陽のようだ。しかし、それはフィラメントの灯火のような危うさと儚さを秘めたものだった。いつ途切れるのか、闇に消えるのか。その不安はまさしく影。眩しさの裏返しのようだった。

 

 彼女の名は金剛。

 その前の名はどうでもいい。

 

 

 私は部下の本名など一人として知らない。……いや、一人見当は付いているがどうでもいい。皆が皆、名を捨てた者達だ。誰もが故あって艦娘となったのだから、彼女らは決して名乗ることはない。型名を己の名として、生まれ名は墓まで持っていくことだろう。誰として生を受けたか、何を思って逝くのか。そのいずれも胸の内に抱えて水底に逝くはずだ。

 

 ……艦娘とはパッケージ品だ。過去を失った彼女たちはその点において均一化されている。故に艦娘の素体足り得るのだ。型名に従い顔も人格も作り変えられて、行動傾向まで染み付けられ、そうして「型に嵌った」ように精製される。それが艦娘という生体兵器なのだと、私は認識している。故に志願者は自ら過去の自分の死亡を届け出、密約としてだが人権放棄に署名する。人間ではない艦娘にも人権に似た権利は極力保証する、それが規定されているが、そんなものは提督の胸先三寸だ。だから、慰み物にする提督も過去には居たと聞く。……そもそも、ここにはそんな過去を背負った者も転属してきている。その内容如何は知らされていないが。ただ、何らかの事情により転属してきたということだけは知らされるし、そうしてここに来た彼女たちの安堵の様子を見れば分かる。皆、私が無感情な女であることに安心するのだ。

 

 私は彼女達を愛さない。人の形をしているから、とりあえず人間のように扱ってやるだけ。それでも過去を念願にて捨てた彼女達、あるいは捨ててもまた荒まされた彼女達は、喜んで私を提督と仰ぐ。

 彼女達は、私を居場所として選ぶ。

 私は何もしない。在り方へ干渉せず、感傷せず、勧奨せず。何の感情も持たない。

 例えて言うなら、置物。

 

 でも、ああ。

 落ちて久しい太陽よ。

 不壊を意味する、その名の君よ。

 何故君は私を焦がすのか。

 金剛。

 

 

 

 もうすぐ朝日が出る。窓の外が紫がかってきたことに気付いて、頭が醒めた。

 

 そんな私の朝は、タバコと共に訪れる。

 気がつくと体を起こして一服しているからで、喫煙を始めて一年くらい経った頃から付いた癖だ。起きていてもしばしば無意識に火を着けているが、起きていなくともそれが現れていた。

 

 紙も葉も漏れなく灰にした頃、ドアが三度ノックされた。名乗りを聞き、入室を許可すると、静かにドアが開いた。

 

 緑の髪を緩く纏めて右肩に流した、寂しげな顔。紅白の巫女服を着た女だ。

 

 彼女の名は瑞鶴。

 経緯は知ったことではないが、転属してここに来た艦娘の一人だと聞く。

 

 ……入渠ドックではなく、慰安用の一般的な風呂を彼女と共にしてもらっているが、そのときは湯浴み着を着用して入ってくる。だが湯で透けてくると、体の至る所に戦傷とは違う痕が残っているのが分かった。艤装とは別に誂えた、ほぼ正統な形の巫女服を着用しているのは肌を見せないためだろう。髪型もそのためならば、多分首筋に傷があるはずだ。

 

 それに、他人には常に顔の正面を見せる癖があるから、顔の振りはいつも大きい。なぜならば左目が動かないことを隠しているからだ。義眼なのだろう。戦闘においてアウトレンジに拘るのも、おそらく距離感覚が弱いからか。発艦タイミングを極端に早め、それを戦法と主張しているのだ。残った右目の視力で敵を捉えることは出来るらしく、一定の戦果は挙げているが。当然のごとく、戦闘における柔軟性は低く、実力を発揮する機会にはあまり恵まれない。

 

 だから、私は彼女を秘書艦として登用している。居ても居なくてもよい兵士ならば、雑用に用いる方が便利だ。

 

 

 

 堂に入った敬礼の後、

 

 「提督さん、おはようございます」

 

 凛とした声。淑やかな微笑みを私に投げかけている。

 

 「おはよう、瑞鶴。今日もよろしく頼みます」

 

 リクライニングベッドに上体を起こされている私は、彼女に会釈する。

 

 それを合図に、彼女は私に歩み寄る。

 

 

 ベッドの左側の縁に座らせてもらい、自分で下着とシャツを着用する。その間に、瑞鶴がベルトと白い布を持ってくる。そして、ベルトを私のそばに置くと、目の前で中腰になった。右足は私の足の間に置いて。それに私は覆いかぶさるようにして肩に手を回す。すると、瑞鶴が姿勢を戻して私を持ち上げる。その間に、左手に持った布で私の下半身を巻いていく。

 

 これは私にとってはスカートで、着脱しやすくするためだけに誂えた、そんな布だ。裾の丈は脛まで、袷の位置は右足側、留め具は腰と腿の半。

どうせ動かせないのだから、着たときの機能性なんかほとんどない。あるとすれば、構造上通気性がそこそこあるくらい。

 

 スカートを留め終えると、私はまたベッドに座らされる。瑞鶴がクローゼットから二種軍装を取り出してくる間に、私はスカートにベルトを通して締めて、次に渡された二種軍装に袖を通す。

 化粧はしない。女である前に軍人であるし、今は平時である。来客もなく、鎮守府にいるのは半ば身内とも言える艦娘らだ。同じ女たち相手に何を気にするものぞ。

 

 終わると私は前屈みになり、瑞鶴が右手を背の上から、左手を右脇から回して、引っこ抜くように私の腰を浮かす。そのまま側に置いていた車椅子に移乗だ。

 

 すぐに車椅子のレバーを倒す。ベッドの傍ら、斜めに置いた車椅子をまず後退。それから左旋回してドアに方向を合わせる。

こうして、ドアのそばの帽子掛けまで移動して帽子を引っ掴んで被る。

 

 「では、仕事だ」

 

 身支度の終わりに、お決まりとなった台詞で合図。聞いたら瑞鶴が寝室のドアを開ける。私が出ると、彼女はすぐにドア、それとカギまで閉めてくれる。

 

 錠の落ちる音を聞くと、私は進み始める。彼女はそれに付いてくる。

 

 

 執務室に着いて、私は机に向かう。

 私が車椅子の位置を合わせている間、瑞鶴はカーテンと窓を開け、私の机の拭き掃除まで済ませてくれる。

 

 これは、私がやっていた作業を彼女に見せたからだ。だが、すぐに彼女がこのように代行するようになった。何せ車椅子では拭き掃除に不自由していたから、何をすればいいかもわかり易かったろう。すぐにそれ以外も自分の仕事にしていった。

 

 私は位置を落ち着けると一つ嘆息し、

 

「瑞鶴」

「なんですか」

「金剛はどうしている」

「やっぱり、どうにも」

 

 淡々とした返事は慣れすぎた感じを顕にしている。

 私がこの数年で唯一執着しているかもしれないのが、ここの『金剛』の容態についてだ。

 「ああ」なってからしばらくが経つが、その初めの一週間を過ぎた日から今日に至るまで、欠かさず三ヶ月間、このやりとりをしている。

最初は沈んだ口調で答えていた瑞鶴も、もうほとんど感情を動かさずに答えてくる。

 

 私もまた、いつも通り無感動に答える。内心を漏らすまいと。

 

「そうか」

 

 ……秘書である瑞鶴は艦娘のまとめ役でもある。艦娘の様子を知りたければ聞けばそれで済む。かつては金剛がやっていたことだが、最早それもかなわない。自然と秘書である瑞鶴に役目が移った。面倒だが、金剛の妹達ではその役目に不適格だった。彼女たちは優れた能力を活かせず、姉の影も踏めないだろう。

 

「本日の予定は」

「もうすぐ夜警艦隊が帰投します。その報告を受けてから、出撃海域決定と艦隊の編成、あとは資材輸送に就いている護衛艦隊からの定時報告4回目。今日はそれくらいです」

「そうか」

 

 大体の仕事は私が居なくとも回る。そうなっている。私が着任した頃はそうも行かなかった。それどころかあまりに私の負担が大きかった。そこで、戦えない艦娘は数人いたので彼女達をメインとし、加えて事務方に適正のある者へ仕事を振り分けた。最初は私が仕事のやり方をレクチャーしたり、月間の勤務シフトを組んだりした。だが、この時に方針とルールを明文化したのが功を奏し、彼女らも同等レベルの実務を行えるようになった。

 ダメ押しに、私の艦隊運用方針をマニュアルとして纏めた。今は彼女ら事務方と私とでテスト運用中だ。いつか私の仕事は完全になくなってくれるだろう。

 そうなれば私は晴れて気楽で極楽なカウチポテトだ。責任だけは離さないが。

 

 私がこうして管理するまで彼女らが仕事に触れてこなかったのは、偏に前任の提督の仕業だ。どうやらあまりに有能で、ただし絶望的に要領が悪かったらしい。人を使うということに関して全く素質がなく、艦娘達に事務仕事を一切回さなかったのだ。秘書すら使わなかった。そしてその無謀な仕事ぶりに加え、艦娘達のケアだ。四六時中仕事ばかりだった。

 

 結果、その提督は過労で幾度となく倒れ、最後には死んだ。その提督には悪いが、ここまで馬鹿だといっそ笑えてくる。

 できる訳がないのだ。人間にそんな働きなど。あまりに限界を超えている。

 

 私の仕事は本日も儀礼的な承認のみだ。暇な身であるから、ようやく私は艦娘のケアとかいうものに取り掛かれる。しかし、私のそのなけなしの仕事も、今の鎮守府には特に必要ない。なぜなら、皆ここには文句がないからだ。もともとの理想があまりに低いし、私の管理のもとならば自己ケアの時間が融通されるからだ。では、私がそれをする必要がある場合というのは?まぁ、一つだけある。必要ではないか。私の関心が向いているだけで。

 

「分かった。夜警からの報告を受け次第、あいつの様子を見に行く」

「わかりました、提督さん」

 

 ゆったりとした動作で敬礼。瑞鶴は承知したと執務室を出た。

 ……提督さん、と。その敬称の付け方が間違っているのは放っておいている。私の知ったことではない。私の死んだ目の視線を受けたその後ろ姿は、確か伸びやかな足取りだった。それはひたすらに安堵に満ちていた、ように見えた。

 

 

 

 

 

 報告という儀式を受けた私は、次の報告まで開店休業となった。執務室にいる必要すらない。だから私は金剛の部屋に行くことにした。今の時間、あそこには他の誰もいる予定はない。

 右の肘置きのレバーを操作し、後進。方向を右に変えてからドアへと向かう。ノブを捻り、腕の力だけで投げるように押す。軽々と開いたそれをくぐって出ると、戸板を掴んでまた投げるように閉じた。加減が悪くて、不機嫌に閉じたみたいな音がした。自分でそれに顔を顰める。もう少しソフトにしないと、と微秒反省したが、レバーを倒すとすぐ忘れた。

 

 彼女の部屋は、鎮守府の端だ。医務室の隣が空き部屋になっていて持て余していたので、ちょうど良いと彼女をそこに収めてやったのだ。執務室は玄関から入るエントランスから右に出るとすぐ。医務室と金剛の部屋は反対で、左側に行った突き当りだ。

 

 廊下を進む中で、特に部下と出会うことはなかった。労働中、休養中、出撃中の艦娘のシフトは厳密に組んであるし、私が言うのも何だがメリハリは付けさせている。関係の無いときには彼女達はここに出入りしないし、トイレ休憩に立つ者がいなければ、鎮守府の廊下は常に静寂そのものだ。床が僅かに軋む音、モーターの回る音以外はこの廊下で発生していない。

 

 突き当りまでの30秒ほど、私は色々考えていたが、部屋を前にしてそのほとんどを捨て去った。ドアに対して斜めに付けて、左手で、ノック、ノック、ノック。金剛本人からの返事は返ってこないけれど、実行すべきマナーとしてそれを行った。

 

 左手でノブをひねって引き、右手のレバー操作で車椅子を後退。それでドアを開けて入る。入る時、逆の側のノブを掴んで引きながら少し前進、すぐ離す。閉まる方向へ力を受けたドアは閉じていき、私は自分の身を部屋にすべて収めるとまた方向転換、左へ向く。戸板と平行に向きつつ、ノブをまた引いて完全に閉じた。

 

 私は右に首を回し、視線を窓の方へ向ける。

 

 サッシの形の影が布団の上に落ちている。少し盛り上がったリネンの上で、まっすぐのはずの黒い格子は歪んでいる。その内側で、清潔な白が光っている。

 ベッドは私のものと同じ形。目覚めて私が座っていたときのような角度。

その上に、窓の光に視点を引かれているのか、窓を見ているばかりの女があった。

 

 女は、金剛といった。

 体を無力に床に沈めて、ただ明るさを見ている。

 蝋人形みたいな、死体みたいな体の一方で、そのブラウンの髪だけは煌めいていた。

 

 

 

 昼も、夜もない。彼女に時間の感覚はない。脳のリソースがほとんど絶望に費やされているから、彼女が理解しているのは「明るいか」「暗いか」だろう。もう、五感のほとんどすべてが彼女の絶望に直行するようになっていて、それでも唯一何も彼女を揺るがさないのは、多分、その明暗感だけだろう。

 手を触れれば触れ返せない己の身に絶望し、言葉をかければ返す言葉のない己に悲観し、顔を見せれば顔向けできないと悲嘆し、食べさせられれば本当に何も出来ないと涙する。

 厄介にも程がある。休ませることしか出来ない周りに、休むことを罰しすぎる彼女。もはや疎まれて当然なほどに、彼女は休息を拒絶し続けている。既に壊れた歯車は空転を繰り返し、誤魔化しながらも周り続けて、周りのなにもかもをすら削り始めていた。

 

 そんな、おろかで卑賤な彼女が、私は大好きだ。

 

 

 

「金剛」

 

 私が名を呟く。

 レバーを押して、その側へと近づいていった。

 

 ベッドのすぐ脇に止まると、やっと彼女の横顔が見えた。

 何も感じていないが、人形とは少し違う。

 

 唇を少し開けた、呆けた顔だ。そのくせ、白痴のような快の相は見受けられない。

 敢えて言わずとも、行き詰った者の表情だった。

 

 私は鼻を鳴らし、布団の上、ベッドの縁に置かれた左腕を掴んで、握りつぶした。

 

「金剛」

 

 名を呼んだ。

 

 彼女が握る力に反応し、少し息を詰め、だがまた元の静かさに戻した。

 

「金剛」

 

 名を呼ぶ。

 

 今度は手首のガーゼの上から、真新しい点滴痕に爪を立て、躙るように刺す。

 息が少し細くなり、喉が揺れるように跳ねた。

 

 私はまた、名を呼んだ。

 

「金剛」

 

 私からは刺激をすべて止める。するとやはり、彼女はもう反応を返さなかった。

 

 埒が明かないが、そんなものか。私はそう思ったが、ふと腕の内側の傷が目に入った。

 そういえば、これは確か彼女が自己処方していた薬の注射痕だったか。皮膚にいくつもの黒ずんだ点があって、その中心だけがいやに艶がある。皮膚が未だに薄く張り付いているだけみたいな。ガーゼにばかり気を取られて今までは気付かなかった。

 

 しかし、これが薬物使用の痕か。そう思うとイメージよりはあまり痛々しくなかった。おそらく、軽薄に薬物投与を行っている人間とは違うのだな、と潔癖そうだと印象を抱いた。使用にあたるバックグラウンドはそこまで理解していないが、差し迫ったにしても相当冷静な心境であったのだろうと思う。丁寧な注射だったのだと感じられる。乱用者の腕として出て来る写真では、酷いミミズ腫れやどす黒く変色した傷だらけだったと記憶しているから、むしろここまで綺麗とは感心する。

 

 私は部屋を後にする。そして出てすぐ右手のドアノブに手をかけ、入る。目的はそこにならあるはずのものだ。

 

 ここは医務室で、薬品臭いスッとした鼻通りの空気が立ち込めていた。私はそれがそこまで嫌いではない。ここは明石に任せているのだが、シフト上では現在は工廠に出ている。特別医務室の世話になるような艦娘もおらず、現在は無人だ。

 

 明石の仕事は丁寧かつ几帳面で、自分の使う部屋はおおよそその他の誰にとっても使いやすいように整えられている。薬品のガラス棚も、使うものは集中して一箇所に、それ以外の使用頻度の低いものは名称順に並べてある。私が用立てたいものは、その普段使いのエリアにあった。

 

 周りのガラス瓶より二回り大きいポリエチレンの薬品瓶が数個並んでおり、それには飾り気のない白地のラベルが貼り付いている。文字はそこに書いてあり、まるで判を押したような同じ形の字で「精製水」と書かれていた。その一つを手に取ると、膝の上に乗せた。太腿2本の谷に挟んで留めると、私は更に目的物を漁りにかかった。

 

 2つ目の目的物、これもまた彼女の仕事のなせるわざかすぐに見つかった。キャスター付きのステンレスシェルフの上、清潔な白布が覆ったバットの中にその形はあった。私は静かに覆いを外すと、ああ、たしかにこれこそが私のお目当てだった。

 

 注射器だ。

 

 少し口元が吊り上がる。

 

 私はその一本を左手に掴み、針先が汚れないように気をつけて医務室を後にした。

 

 

 また、金剛の部屋に戻ってくる。変わらず窓を見ている彼女を尻目に、私はベッドサイドテーブルの上に件のものたちを乗せた。加えて、右のポケットから一つの小さな袋も。

 

 中身は白い粉だ。細かい結晶で、まるで溶けない氷の砂。

 

 楽しくなってきた。注射器を分解してシリンダーにその粉を少し振り入れた。すぐに閉じて、次は蒸留水の蓋を開けて、注射器に水を吸い上げる。組み上がる水で粉が舞って、くるくると筒の中を踊って消えた。

 

 最後に針を上に向けて、ひと押し、ふた押し。ダメ押しにもうひと押し。シリンダーの中に気泡が見えなくなったので、これで準備は完了だ。

 

 もう、笑いが止まらない。声は立てず、ただ口許は吊り上がって戻らなくなっていた。

 

 

「金剛」

 また、彼女の名を呼ぶ。

「金剛」

 左腕を掴む。やせ細ってまるで骨と皮だけになったその腕は、そう、

「どこに刺したい」

 狙い放題だぞ。

「ここにしよう」

 だから、静脈の上に並んだ傷の中で、もっとも新しく見えるものを目掛けて針を突き立てた。一瞬だけ指先が痙攣するように動いて、したがって腕の筋肉も縮み上がって震えた。だが、私はその左腕を握りつぶしている。動かせることはしない。逃がさない。

 

 ああ。これがやってみたかった。

 

 一度引く。彼女の赤い血が、シリンダーを染めて朱に変える。

 さあ、プッシュ。血の混合液、結晶の水溶液が彼女の静脈に注ぎ込まれた。イレギュラーな流量の増大に、少しだけ血管が肥大する。それが彼女の腕ならはっきり見える。楽しい。

 すべてを彼女に注ぎ終えると、針を抜いた。新しい傷が真紅に光っている。

私は、彼女にことが起きるまで眺めていることにした。

 

 

 効果が現れるまではおおよそ5分から10分と聞いているが、私にはその僅かな時間すら焦れったかった。ただ暇を潰そうと思うなら別にこの部屋にいる必要はまったくないのだし、そもそもこうすると決めた時に本でも何でも持ってきて読んでいればよかった。けれど、違うのだ。私は彼女が変化する様が見てみたいのだ。5分経って戻ってきて、すでに彼女は変わっていた、とかそういう過程のない現象には心が惹かれないのだ。私は、彼女が変貌していく様が見てみたいのだ。

 

 ……心拍数は1分あたり70だとか、それが私の平常の値だったと思うから、心拍を500も数えればゆうに5分を過ぎていることになるはずだ。だけど、今日はその500がいやに早い。心拍が速いのだ。かつて私が自分の足で走っていた時、早鐘のような心拍を聞いたが、懐かしくも今それを聞くことになっている。ああ、まだか。まだか。もう50を数えた頃、金剛の様子に変化が起きた。呼吸が浅くて速くなっている。私はそれに心臓が一際大きく鼓動したのを聞き、胸は弾んだ。

 

 

 

「ひひっ」

 

 

 

 歯の隙間を息が通り抜けるように、鼻息が勢い良く吹き出すように、私は笑った。

そうだ、金剛。起きろ金剛。お前がかつて自分でそうしていたように、そうしてしまったように。

 

 変化はさらに劇的に、かつ進行的に起きていく。彼女が、窓ではなく天井を見始めた。私からは横顔ではなく、正面の顔が見え始めた。妹たちの手でそこだけは切りそろえられた、その前髪の向こうの額に汗が伝っている。開いた目の瞳孔が、面白いように収束と散発を繰り返していて滑稽だ。おそらく彼女の視界は明滅しているに違いない。どうだ、単純なイルミネーションだ。

 出来たての傷跡からほとばしる血の勢いは数分前とは大違いで、弱り果てた回復力と暴走した血流で釣り合いは崩れ、止血作用が働いていない。寝床が汚れると困るので、私は手持ちのハンカチで血を拭い、それから傷口に巻きつけて応急手当。ゆるくねじって縄にして、軽く抑える程度の力になるよう縛った。先程のスキンシップとは大違いの優しさだと我ながら好評価だ。

 

「金剛」

 

 私は飽きもせずに彼女の名を呼び始めた。

「起きろ、金剛」

 脅すように、諭すように、手も触れずにただ名を呼んで応えを強いる。

「狸寝入りはそこまでだ金剛」

「しなせて」

 

 温度のないそんな言葉が一息。

 ようやく返ってきた答えがそれかと、私は破顔した。

 

「ふひっ」

 

 ああ……なんて汚い笑いだろう。それにまた私自身がおかしくって、

 

「ひひ―――ふひっ」

 

 もう笑いが止まらない。

 

 




そもそもみなさんが曇った金剛を書いてくれないからこんなことに。
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