女提督は金剛だけを愛しすぎてる。   作:黒灰

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2016/11/24
やっべぇ……九想図だった……
八相も仏教だけど釈迦入滅までのガイドラインだったわ

同日
一部言い回しと段落分けを修正。


Knife Vacuous

 とある年の秋の終わり、そのある日、人を殺した。

 その晩は特別というほど特別な晩じゃなかったことを覚えている。

 

 ●

 

 

 ステージが終わって客もメンバーも皆ハケた。それで、私がなんか最後に残ってライブハウスの勝手口を出た所。路地裏は風の吹き溜まりで、やってきた街路樹の落ち葉は道のそこらじゅうに張り付いている。

 ……小さな幌型の屋根がボトボトとタムを鳴らしている。手荷物は左から右に掛けたショルダーバッグ、右肩に掛けた肩掛け式のドラムスティックケースだけ。外は雨が降っていた。時雨だ。

 レンガ仕立てのタイル外壁は酸性雨で少しとろけて白いものを垂れ下げている。アスファルトは鳥の糞で白かったり、ところどころ黄ばんでいたり。出入り口の隣は宝箱みたいに大きいゴミ箱だ。緑色、プラスチック、そして南京錠。これも雨でトコトコとスネアみたいに音を鳴らしている。

 

 地方なんてこんなものかな、と思う。私達のような半端な人気のアイドルロックバンドだと、あまりに大きい会場はブッキングしづらい。マネージャーはローディが兼ねてやってる。彼はイマイチ押しが弱い。話題性は、まぁなくはないけれど。アイドルがポスト・ロック、ポスト・ハードコアやってるんだから変わり種っちゃあ変わり種だ。一応ちょっとしたヒットの経験もあるんだし。

 そこからの大きな伸びしろが見込めるならばともかく、私達はしばらく巡航状態だ。上昇の気配は未だ見えず、されど凋落の影もない。少なくとも、今はまだ。

 程々にスケジュールは埋まり、程々に外を回り、程々に休め、程々のギャランティーで飯を食う。多分理想形に近い芸能人像だと私は思う。ただ、それを維持することはあまりに矛盾を抱えているとも。既に頂点にいるならば、ともかくとして。

 そうでもないままに向上を失えば、社会には適応できない。これは芸能においても全く同じで、要するに飽きられたら終わり、センスに引っかからなければ終わり、そんな感じ。だから私達は、このままじゃいけない、だけど、このまま安穏とこのままを続けたい、そんな、地獄のような事態に陥っていた。

 そんなことは出来ない。人生楽ありゃ苦もあるように、その2つはつりあっているはずだ。バランスして、だから、天秤のように揺れている。決して動きが止まることなんて無い。言ってしまえば、人生に完全な安穏なんて時期は無いのだ。生きていれば、世界の何処かに自分の危機が控えている。そんな状態を、どうして完全に平和だと呼べるだろうか。

 けれど、私達はついに行き詰った。安穏という沼にあまりに深く浸りすぎた。この先に待つのは、おそらくは退廃。緩慢な死、というわけだ。まるでアイドルらしからぬ滅びの道だけれど、この時代の偶像がその道をたどるならば、きっとその似姿たる一般人もまた、怠惰な死を迎えるのだろう。

 ――――――時雨は止まない。シンバルを鳴らし続けたような雨音が止まらない。耳鳴りのように。

 雨はいつか止むだろうけれど、止むときを知らずに死ぬ人もいるだろう。この雨に打たれて死ぬならば。最後は、バッドエンドというわけだ。耽美で、退廃的な。陽の光を最後に浴びることも、月の光に映し出されることも、与えられない、そんな死に様だ。まるで犬死のような、19で死んだカリブロのような。……まぁ、カリブロは架空の詩人だけれど。

 

 芸能人としての私のキャラは、私のままだ。すこし文学少女のステレオタイプっぽく振る舞っているところはあるけれど。

 好きな小説家は三島由紀夫、夢野久作、太宰治、夏目漱石、などなど。プロフィールに現代文学の作家の名前は1人も出てこない。いや、ご存命の方の中にも好きな作家はいるけれど、それを出さないことで“気合の入った”感を出しているのだった。好きな作品は”人間失格“、”金閣寺”、”複雑な彼”、“イワンのばか”とか。コレでもかというくらい純正サブカルチャーだ。”サロメ”は流石に気合の入りすぎと言われて却下された。結構好きなのに、オスカー・ワイルド。

 そして基本的に無口。文学少女はしゃべらない。これが基本だ。本当は随分と饒舌。ここまできてキャラを完全崩壊させるのも、まぁギャグとしては面白いかもしれない。ただ話す内容はキャラの通りだ。文学トーク、文学トーク、文学トーク&文学トーク。マンガの話もしないではないよ。メンバーからはロックの話をしろと怒られるけど。ロックじゃん。近代文学は。

 

 本当に一番好き――――――好き?いや違うな、とにかく印象に残っている、それは、“ドグラ・マグラ”の冒頭。”胎児の夢“だ。あの作品の中に出てくる”個体発生は系統発生を繰り返す”……だっけ?それもモチーフにして、命というものにパンクしている詩だと思う。私はこの詩から、生命誕生にまつわる親のエゴを感じた。命の尊さじゃなくて。私の趣味的に仏教も軽く押さえてはいるんだけれど、近代文学全体を覆う陰鬱さは仏教思想の闇の部分に由来すると思っている。九想図とかを見たときと同じ感じかな。闇と言っても見てはならない、じゃなくて暗い部分。むしろ直視しなければいけないところだ。そういうおどろおどろしさと、命あるという苦しさ。私の中でこれと“胎児の夢”は結合してしまった。

 

 ”胎児よ

 胎児よ

 なぜ踊る

 母親の心がわかって

 おそろしいのか”

 

 背筋がぞわりとくる。いずれ私がこの腹に抱くだろう命が、こんなことを考えているのかもしれない、だなんてことも考えた。それまでも抱いていた生命への恐れ―――畏れというより恐れ―――が増幅されて、一時は希死観念や自殺願望に発展した。死にたい、というのとは少し違うのかも。生きている苦しさに気がついてしまった。要するには、仮死状態で溺れていればいいものを目が覚めてもがいちゃった、みたいな。

 それで色々吸った揉んだ――――――――がなく、

 本当に無く、

 メンタルがアレな女につきものの、ただれた性生活とかそんなの全くなく、

 4、5本ほど左手首に走った傷だけが残って、私は純潔のままだ。アイドル万歳。私は処女だぞ。ともかくリストカットでとりあえず気が済んでしまった。それからはときたま来るパニックを抗不安薬でやり過ごすだけ。穏便すぎてありえなくなくなくない?ちなみに『~なくなく~』の意味を考える時は乗算とプラス・マイナスで考えると分かりやすいと思う。

 そんな気の迷いでつけた手首の傷を眺めながら、右手でモッズコートのポケットから煙草とライターを取り出した。雨が止むまで暇を潰そうと思って。

 銘柄はいつもお決まりでショートホープ。みんなは『渋すぎてあざとい』とか言ってくるけど、私はコレかわいいと思うんだけどな。希望だし。のぞみちゃんだし。のんたんだ。かわいいじゃん。あのクソ猫も。クズだけど。でも喫味はストロング。可愛い顔してやるときゃやるあたり、まさに現代的ヒロイン。ヒーローが情けなきゃあたしがどうにかしてやる、って感じの。暴力的な中にちょっと甘みがあるのがツンデレって言えるかもしれない。

 

 箱から一本取り出してくわえ、100円ライターのホイールを回して着火。風に煽られて消えないように左手で遮りながら。そして軽く吸う。一口目は少し口に溜めて味わい、それから肺へと飲み下す。

 旨いかどうかともかく、こうして肺を虐めることが自傷行為の代替なのだと思う。加えてやってくる目眩だとか、頭痛だとか、冷や汗だとか、胸の痛みだとか。文字通り毒を飲む作業。痛みを得ることが、私には必要らしかった。それで手首の傷だ。今は肺にタールを塗れば落ち着ける。

 

 しかし、雨が降ってくる前に出て行ければ良かったのに。私が片付けに無駄に手間取って―――――疲れていたり、気が散ったりして作業が進まなかったりしていたうちに、いつの間にか天気はこんなだ。メンバーの皆には先に行ってもらった。店長には最後まで忘れ物がないかを手伝ってもらってしまった。だから出たのは一緒で、彼はもう行ってしまった。私は傘がなかったけれど、彼は持っていた。だから彼が私に貸そうか、と言ってくれたのだけれど、遠慮した。ここまで良くされても、ちょっとどう返していいか分からないから。

 

 ああ、私ってどうしてこんなドジばっかりなんだろう。クールキャラにあるまじきだ。ああ、もう。嫌になっちゃう。だから片付けは好きじゃない。気が進まないから余計に時間を掛けてしまうし。実家に居た時はいつの間にか本棚が取り上げられてしまって、次姉の部屋に行ってしまった。喜んでいたけど、その一方で怒られた。おかげで整理の機会を一切失って、部屋は本やゴミで埋まった。それでまた怒られて、逆ギレしてしまった。お父さんにはお小遣いを調整してもらって長姉に掃除をしてもらうように仕組みを作ってもらった。一ヶ月に一回、私の部屋を長姉が掃除する。生まれつき色素欠乏であまり外に出られない姉は、それでいいなら、と室内作業をなんてことなく請け負うことになった。いざそうなってみると情けないことこの上なかった。結局一人暮らしになった今も部屋は汚く、一方で掃除してくれる人はいない。

 

 無駄に凹んでいても仕方ない。そう思って、雨が少し落ち着くまで読書もしてやり過ごすことにした。羽織ったモッズコートの右ポケットからスマートフォンを取り出す。モッズはポケットがそこそこ大きくて助かる。ポケットの中でものを無くすのはご愛嬌。落とさないだけマシだけど。

 

 今回のお供は――――――何にしよう。今は大体の本を電子書籍で読んでいるからかさばらなくて、あと散らからなくて良いんだけれど目移りはしてしまう。まぁ、どうせ家でも普通の本で目移りするんだから大して変わらないんだけど。せっかくだから再読だ。入れるだけ入れて読んでいない本から選ぶとキリがない。その中で読んだことがあるものを選ぼう。その方がまだいい。

 じゃあ漱石の”こころ”――――――ああダメだ、なんか身につまされる一文があるから凹みそうで読みたくない。三島の”金閣寺”―――――これもなんかダメだ。のっけから文才大爆発、読んでいて感服しきりになるのはいいんだけど、私は本をガンガン読み進めてしまうから精神的に凹むポイントにすぐたどり着いてしまう。太宰の”人間失格”―――――当然却下。一時期のお道化た自分を思い出してこれまた痛々しい気持ちになる。それに加え、葉三君みたいにエリートコースから落伍するでもなく、ただどうにもドジが治らなくて軍人になる道が閉ざされた。彼より惨めかも。親族郎党みんな軍人になったというのに。

 姉2人も海軍に入ってそれぞれ出世した。特に長姉はハンデがあったが、それをものともせずに今や夜の鬼らしい。体力はあるし、なんでも器用にこなしてそつがないから。次姉も同じくだ。精神力のお化けみたいな人だから、訓練という根比べで右に出るものが居ない。……私には、その両方から程遠かった。体力だけは家族の誰よりもあったけれども。

 それはともかく、じゃあ何がいいかってなると、軽く読むなら梶井基次郎。短編作家だし。”檸檬“なんてどうだろう。没頭しやすい私でも、短い作品ならすぐに抜け出せる。よし、檸檬だ。デカダンの風を感じてみよう。BGMはマイナー、雨音のパーカッションはいつだってマイナーキー。だから今こそ読むにはお似合いだ。

 そう思って、私はパブリックドメインでお手軽となった作品を読みふける。

 梶井の戯れとしての、丸善爆破のお遊びに没入していく。

 

 ●

 

「――――さ、ん」

「え?」

 

 気がつくと、煙草はいつの間にかフィルターだけになってた。唇からぽとりと落ちた。運良く火傷はしていなかったようだ。それで私は梶井の作品をひたすら読み漁っていて―――――ああもう、短さが仇になった。何本も読めるから。今は……”ある崖下の感情“だ。この作品は……どう説明すれば良いんだろう。起きていることそのものは単純なんだけれど、それによって何を示唆しているかとなると、私にはまだちょっと難しい。ただ、心に痛いものが刺さるのは感じてしまう。近代文学全般の特徴かもしれない。

 それで、声を掛けられた方向を見ると、そこには女の子が居た。なんかすごく息切れしてる。

 見た目は、ぼさぼさの黒くて長い髪の女の子。目も見えないくらい前髪も伸びていて―――――貞子ほどじゃないけれど―――、正直見た瞬間に“不気味”と思ってしまった。服も真っ黒で、すこしペタペタした光沢が有る。

 

「あの、なんですか」

 

 そんなことを返してしまう。なんですか、じゃないだろう。私の名前を知っているってことは、私がバンドのドラマーだと知っているってことだ。それで話しかけるんだから、自惚れるわけじゃないけど、ファンってことだと思う。

 

「―――――さん、わ、私、わた、あ、あなたが好きなんです」

「あ、その……ありがとうございます」

 

 いきなり照れくさくなってしまった。おずおずとした声でそう言われると、アツく言われるよりもかなり真剣さが伝わってきて私は好きだったりする。まぁキャラ的にそういうファンが付いてくるのかも。クール系気取ってるし。実際はどうしようもなくドン臭いんだけど。でも、どうして今ごろになってこんなところにこの子がいるんだろう。

 

「あの、もうライブ終わって随分経ってるけど、あなたも雨宿り?」

 

 そう聞くと、彼女は何をおかしなことを、と、

 

「きししっ、しぃ、わた、私、あなたを、探してたんです、ずっと、終わってからずっと」

 

 よく見ると、彼女の体で濡れていないところはどこにも無かった。前髪が重く垂れ下がっているのだって雨のせい、服がなんとなくキラキラしているのも濡れているせい。

 

 なんで。

 

「なんで、探してたの」

 

 困惑してしまう。そこまでしてなんで私を探すんだろう。ライブは終わったのに。終わってすぐに楽屋に遊びに来るとかでもウチはオッケーなんだけど。

 そう思いながら言うと、その子は逆上して言った。

 

「だ、だだ、だって、あな、あなたと、二人きりに、なりた、かったから!ほかの人がいないところで、会いたか、った、か、から!」

 

 吃りながら、鬼気迫る声で叫んで、私に詰め寄ってくる。

 

 あ、あー……この子、重度のストーカーだ。なるほど、探すわけだ。探して追っかけるわけだ。

 

 ところで、私は本当にドジだ。芸能活動においても猛烈に危ないくらい。色々なことに気付かない。

 今までのストーカーは、私よりメンバーやマネージャーが先に気付いていて対策してくれていた。私が読書しながら移動している時なんかは特にそうだ。携帯の中の活字に魅入られているうちにいつの間にか不埒な輩がついてきてしまっているんだとか。加えて興味に惹かれるままにフラフラしていて、そのうちいつの間にかストーカーを引っ掛けてるとかも何度かあった。どうやら行動傾向まで研究されているらしい。しかし、どういうわけか、ストーカー人気が一番高いのだ、私は。そんなに与しやすそうかなぁ、と自問自答するけれど、これでも腕っ節はそこそこだからあんまりお勧めしたくない。飽きてしまってどうやっても続かないけど、経験種目の数だけで言うなら武芸百般なのだ。いや、だからって他のメンバーを売るわけじゃないけど。

 

 で、そのストーカーなんだけど、この子は全くのノーマーク。メンバーからも全然指摘されなかった。ただの追っかけだと思っていたんだろう。なにしろ女の子だ。今までのストーカーは全部男だったから想像の埒外だったに違いない。しかも私が”確実に”一人になる状況だけを狙って近づいてきているのだから、巧妙さと執念の極まり方は物凄い。まぁよりによって私がこんなに長くライブハウスの勝手口に居座っているとは思わなかったらしく、もしかしてと思い至るまでひたすら走り回ったようだけれど。敢闘賞をあげたいところだが……どうしようこの子。警察呼ぶ暇もない。ここは勝手口だけどもう中は無人だし、私はその入口の屋根を借りて雨が上がるか弱まるのを待っていただけで。

 えっと、どうしよう。

 とりあえず暴力はいけない。暴力は。

 というかこんな詰め寄られると逃げ場がないから逃げようにもちょっと。

 うわぁ、こうなるのか。ストーカーとモロに接触すると。皆ありがとう。でも今日私の運は尽きました。なんか大変なことになっちゃったぞ。

 じゃあもうとりあえず、

 

「えっと……私は何をすればいいの」

「死んでください」

「え?」

 

 今まで吃っていたのがウソのように、淀み無く。

 

 待って。

 待ってよ。

 そんな、ちょっと、待った。急になんなの。

 あれか、あれだな。ジョン・レノンが男に殺されたように私は女に殺されるのか。狂信的なファンに。

 シャレになってない。逃げなきゃ。でも、もう逃げ場がない。私の背中には錠の下りた扉だけ。左にはゴミ箱、右には……逃げ場は右だ。右へ逃げる。

 

 彼女を一瞥すると、左手に包丁を持っていた。夜を写し込んで銀色というよりネイビーカラー、星のない夜に艶はなく、雨雲の空に輝きはなく、漆黒の殺意が握られていた。

 左利きか。……そんな変わらないかもしれないけど、それはヤバい。

 

 ともかく出来ることは一つだ。右へ向かえ。ゴー・ライトだ。路地を抜けて早く通りに出るんだ。濡れるのが嫌だとか雨が上がるのを待つだとかバカなことを考えるんじゃなかった。いやでもこの子はきっと探し当てて私を殺しに来た。なら話は変わらない。とにかく一番いいのは、体力に任せてこの子を振り切って交番でもなんでも駆け込むことだ。

 

 深呼吸。

 

 そこでまずは瞬発力を発揮。私の得意分野だ。体を左に勢い良く傾け、その勢いで右肩に掛けていたスティックケースを、肩から引き抜いて滑り込ませるように右手に。そして右足を一歩前に踏み込み軸足とする。

 腰の入った回転運動。右腕を伸ばして、左へ振り抜く。

 彼女を殴打する。狙いは彼女の左肩。正当防衛、正当防衛。

 

「あう」

 

 ヒット。同時に私は走り出す。私凄い。クリティカルだ。包丁落としてたから私がリードを取り返してる。走る。

 

「のっ、おうぇ!?」

 

 で、見事に転ぶ。油断した!知ってれば滑ったって転ばないのに!

 おのれ時雨!おのれ夜め!なんでこんなところに落ち葉が!しかもよりによってマンホールの上!滑らない方がおかしい!路地裏なんて掃除する人なんかもいないのか、こんな雨の日なんて当然だけれど!

 

 すぐに立ち上がろうとする。そんな間に彼女は包丁を拾い上げて、私に殺到する。

 

「はぁ、は、はぁ、死んで、死んで、ください」

 

 彼女は走っていて、でも滑らない。どうやら一周回って私より冷静らしく、足の踏み場を選ぶだけの集中力があるらしい。雨に打たれ続けて頭が冷えているのだろう。冷えていてこんなに沸いてるあたりヤバイ。本当に殺される。

 いくら瞬発力があるって言っても、執念プラスもう走っている、というハンデは大きすぎた。路地裏を出る5m手前で、

 

「ああああああああああああ!」

「う、わっ」

 

 叫び声に合わせて左足を大きく左へ踏み、半身に。突き出してきた包丁をノールックで避ける。うん、気合入れて叫ぶよね。武器を振るときってのは。

 で、

 

「お、わっ!?」

 

 また転ぶ。尻餅をついた。

 ……止水栓の上に落ち葉が乗っていた。なんでこんな時にまたドジが。

 なんでこんな肝心のときにドジが。救いようがない。

 もうだめだ、追いつかれて、相手は今度こそ万全で、もう逃げ場が本当に無い。

 

「し、し、しん、しんで、ください」

「……いや、だよ!」

 

 足を伸ばして蹴ってみるけど、もう相手は出来上がってるらしい。

 痛みなんて感じないくらい興奮しているようだ。

 ああ、もう無駄だ。覆い被さってきたらおしまいだ。刺される。死ぬ。

 

 そんな中で、私はいつの間にか集中状態に入り始めていた。

 何故か今はそれがなんとなく分かる。死ぬ間際だからか。武の達人が戦いで体験するやつか。ダメだそれ死ぬやつじゃん。嫌だ、死にたくない。自分はダメダメな人間だけど、生きているのをあきらめたくない。まだ生きることには飽いていない。だから、奪われたくない。嫌だ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 

 死にたくないから、

 体が動いた。

 

 ●

 

 気がつくと、殺していたのは私だった。

 包丁を彼女の心臓に突き立てて、生暖かい血を浴びた時、正気に戻った。

 

 人殺しになんて、なりたくなかった。

 人殺しの自分に、耐えられなかった。

 だから私は座り込んで、そのままもう一度正気と心を手放した。

 夜が明けて、誰かの悲鳴が私を貫くまで。

 

 そうして、私は。

 自分を見失って、助けを求め始めたのだった。

 人殺しのアイドルじゃない。

 そんな自分を探して。

 存在しない自分を探して。

 




金閣寺に返り討ちにされるパティーン。
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