上姉ちゃんの声で、ハッとなった。
「ぐっ……はぁ、どした、那珂!ボーっとして!……まだ、神通が残ってるよ!」
気付くと、暗い暗い海の上に居た。
荒れた海に佇んでいた。
風は吹いて、雨も降っている。
時雨だ。また、時雨だ。そして雷だ。
テレキャスターを掻き鳴らしたように、エレクトリックベースが唸るように、シンバルとドラムが打ち鳴らされるように、轟音が私を貫き続けている。けれど、大きいだけならば慣れたもの。
それを上から更に突き刺して、上姉ちゃんの声は聞こえていた。
視線を声に向けると、そこには膝を着いてなんとか浮いているだけの上姉ちゃん、川内が居た。
「お姉ちゃん……」
装備は破壊され、服は破れて、痛々しい傷、火傷も負っている。額からは血も流れている。
白い肌が熱傷で赤々としている。
何故、こんなことに?
「……那珂?」
「お姉ちゃん、私を那珂って」
「那珂、あんた、まさか――――――――やっぱりか!……もういい、神通が来る!気張れ!カナ!」
「え!?」
那珂って呼んだり、カナって呼んだり、どっち?
私は、今まで、何をしていたの?
……いや、覚えてる。
あのあと、目が覚めてから私は”那珂”になっていた。……多分狂っていた。
起きたときには、もう”那珂”として魘されていた私を心配した二人に受け答えしていた。
一人称、”那珂ちゃん”だった。死にたい。いい歳した女が名前を一人称にするとか、はっきり言ってキモい。
”~ちゃんはー”とか、サムいでしょ、どう考えても。……それは今は良いとして。
ともかく、私は起きた時から本当に人が変わり、ここまで”那珂”として話し、”那珂”として振る舞った。
そして”那珂”として出撃して戦い、川内を、上姉ちゃんをたった今”撃破”した。
戦闘の形式は、”私が二人から撃破されずに夜明けを迎える”。
これは川内お姉ちゃんが夜しか行動できないこと、そして神通お姉ちゃんがそれに合わせて、夜明けを勝利条件として認めたからだ。何より、上姉ちゃんは夜が明けたらその時点で負けなのだ。下姉ちゃんはそんなことはないけれど、『これはあくまで研修だ。とりあえず生き残れ』と言われた。
そう言った逃げ切り戦であるにもかかわらず、”那珂ちゃん”は”二人の撃滅による勝利”を選択した。
そして、3人同士が無線では連絡を取りながら適当な距離を取る。
好きな位置に着いて、時刻0000を迎えた。
それを合図に戦闘開始。平たく言えば、鬼ごっこが始まったのだ。
開始から1時間、初手、嵐を物ともせず飛行する夜戦偵察機が来た。発見したのは聴覚と直感でだ。
……あれは川内お姉ちゃんの装備する飛行艇だった。形状から、“那珂ちゃん”は安定性重視の低速機と判断した。だから嵐でも飛べるのだと。よって最優先で目を潰すことを決断、発見されないうちに対空砲火で撃破。
そこで空の目を失ったお姉ちゃんは、撃破位置と砲火の発光から”那珂ちゃん”の位置を推測して接近してきた。すごい。
そして、一瞬だけ探照灯照射。そこではまだ撃ってこなかった。
”那珂ちゃん”の位置の確定、目眩まし、混乱、そして自身の位置の撹乱を誘ってきたけど、”那珂ちゃん”はお姉ちゃんのその次の移動を先読み、ノールックで魚雷を全弾発射。私はお姉ちゃんの主砲に掠りながらも魚雷一本を命中させて足止め。
最後は単装砲の着弾範囲を限界まで狭めて斉射。ガードの上からほぼ全弾命中。それでトドメ寸前に追い込んで現在に至る。
あまりにあっけなさすぎる。ほぼ一瞬の攻防だった。しかも私はほとんど動いていない。
……夜の女帝たる上姉ちゃんを、それだけで撃破してしまった。
楽しそうな、”那珂”の顔色と声色で。
今回の使用弾薬は実弾。つまり、深海棲艦と戦うために使う、敵を倒すための装備だ。
神通、下姉ちゃんがそうした。それを、”那珂になった私”はOKしてしまった。上姉ちゃん、川内もそれを是とした。だって、私は新人で、お姉ちゃんたちは先輩だ。死ぬ気で来い、と。実弾でも十分に加減出来る、と。そういう判断だった。……よくよく考えると、無茶苦茶だ。危険すぎる。でも、それは私が是として、それにお姉ちゃんたちには当然だったから。
こうして、実弾を実の姉にしこたまブチ当てた那珂ちゃんは、これまた文字通り我に返って佇んでいる。私に戻って。
無傷ではないけれど、全く重傷ではない。
勝利。
その文字が現実味を帯びてきた。けれど、私は目が覚めている。これからどうすればいいのかも、全く検討できない。
まず、下姉ちゃんがどこにいるのか分からない。上姉ちゃんは『来る』と言ったけれど、その前触れも―――――
「きゃあ!?」
近くに砲弾が来る。衝撃で足元を揺らがされて、バランスが崩れそうになる。転んだら、このまま更に打ち込まれて殺される。そうじゃないのに、そう体が感じている。
殺される。嫌だ。それは、嫌だ。
恐怖に囚われそうになる私に、上姉ちゃんが叫ぶ。
「言わんこっちゃない、気合い入れなよ!……情けないけど、ここまでやれるなら私たちに勝て!そもそも、あの子は”本気”で来てる!」
「ええ!?」
「認めさせてみてよ!私達を!何より、あのカタブツを!」
それを叫んで私に伝えると、上姉ちゃんは這いずるようにこの場を離れていく。
脱落。ならば、戦場には不要だからだ。
今、この戦いの中に身を置いているのは。
私。
そして、神通。下姉ちゃん。その二人だけ。
一騎打ちだ。理不尽だ。私は、戦争なんて知らないのに。
私は今いる場所から逃げ始めた。
主機を一杯まで回して、背を向けて。
●
避け方は、ジグザグに。直進すれば狙われやすくなるのは当たり前だ。
そしてジグザグさにも不規則性を。振り子のように同じだけ左右に動くだけなら、法則で以て狙われる。
どこに向かっているかは分かっていない。
私は、この殺意から逃げなくちゃいけない。今度こそ。
逃げ切れなかったあの時雨の夜から。
私が、私であるために。
「那珂ァ――――――――!」
鬼。
鬼が、私を呼んでいる。
違う、私じゃない。
私は、やってない。私じゃない。
「今日こそォ!完全に決着をォ!着けますッ!」
なんで。もう勝負はついてる。下姉ちゃんが最強で、最高で、そして最優なんだって。
私達一族の誰よりも誇らしい人なんだって。
なのに、なんで私なんかとの勝負に執着するの。
私が”那珂”だから?それは理由になってない。
私がヒトデナシだから?それは理由というほど深くない。
私が私だから?それは、理不尽が過ぎている。
じゃあ、なんで。
考えている意味はない。私は、逃げ切らなくちゃいけない。
本気になった最強の姉から。
砲弾が飛んでくる。魚雷が追ってくる。
このドンパチが終わるには、弾薬が尽きればいい。
夜明けと言わずに、このままヒートアップした姉から逃げていれば、私の勝利条件は和了だ。
●
何時間逃げただろう。何度砲弾を避けただろう。魚雷から逃れただろう。
何度探照灯の光を浴びて、それから外れるために必死になっただろう。
逃げることが出来ている。けれど、私は確実に追い詰められていた。
再度、探照灯照射。
そして目の前を、砲弾がクロスしながら落ちた。
夾叉。
知ってる。このあとの一発は、
「うあッ――――――――!?」
背中を、衝撃が穿った。
夾叉、その後は当たる。それだけはなんとなく知っていた。
砲弾の物理法則に背中と首を殴打されて、私はつんのめって海面に飛び込む。
海水が傷に滲む。
痛い。
背中が、首が痛い。
痛みに喘ぎながらも、妖精さんの仕業だろうか、私の頭の中に現実が示される。装備の状況だ。
元々使えないカタパルトは崩れ落ちて、高角砲も……ダメだ、砲身がもう曲がっているみたい。
つまり、右側のアームにマウントされた装備は全部ダメだ、使えない。魚雷発射管、主砲、対空機銃は無事だけれど。
装備なんてどうでもいい、逃げ切る。逃げ切れないと意味がない。
痛む背中を引き摺って、なんとか立ち上がり、私はひたすら逃げ惑う。
頭が、ぼうっとする。
打ち付ける雨が、妙に痛い、額が痛いと思ったら、血が出ていた。
首筋にも血が伝っている。首筋を探ったら、本当は耳が切れていた。
壊れた装備の破片のせいだと思う。感じるのは染みる痛み。裂かれた痛みじゃない。恐怖で麻痺しているわけでもなく、切れ方の問題。
そして、私は思い出す。
この雨は時雨。夜の雨。
そして額の血は赤。血の赤。夜の、あの夜の、血の赤。
意識が混乱する。頭が揺れているからかもしれない。血の気が足りないからかもしれない。
まるで、今は血の雨?あの日を思い出すから?
雨の色は血の赤?雨が思い出させるから?
わからない、どっちなの。
そんなことが頭を赤くする。顔が血を被ったように熱くなる。赤さが狂気を誘惑する。
そして、突然に煮える。脳髄が沸騰する。心拍は爆発音のようにうねり、唸る。
不等間隔の拍動はエンジンめいて私の胸に叩き付けられる。
息が絶え絶えになる。パニックだ。
背中が痛い。心臓が痛い。頭も痛い。体中が痛い。けれど、裏腹に体が集中に沈んでいく。
感情のない世界に。
不可解な感覚。
意識が、後ろに飛ばされていく。
そして、私は”那珂”へと変貌していく。
プラスチックの心臓は変身する。
サディスティックな鼓動が早鐘で戦意を煽る。
テレキャスティックな轟音の中はあの日のままに。
エニグマティックに浮かぶ笑みは華のようで。
時間が。
時間が。
あの日の私が。
フェイクのはずの私が、
ディレイで飛んできた。
感覚が革命され、
「現場、入ります……」
あの日のように、入った。
●
“那珂ちゃん”は直ぐ様――――――左に“90度”反転し、直後に単装砲4門を一斉射。
狙いは付けない。撃つ。――――――――そこにいる。
追ってくる砲撃がもう来ない。
……逃走戦をここで打ち切る。
主機一杯。嵐の海を駆ける。機関に一切の問題なし。
正面から突撃する。
視界のほとんどない状況で、神通は間違いなく那珂ちゃんの場所を判断出来ている。
そして、那珂ちゃんを追い込むように砲撃していることも、もはや自明だ。
那珂ちゃん自身がどこに行っているのか分からない状況を脱した。
ここからの行き先は、彼女が正面から突撃し、那珂ちゃんの側面を捉えられるところ。
逃げた方向と比して左だ。大湊の灯台の光が灯る方。
じゃあ、視界なんて必要ない。
狭いなんてもんじゃなくて、”なくて”いい。
この単装砲を撃てば当たる。
散布界広めで撃った。
下手に動けば当たる。
でも、神通がまっすぐ突撃してくる。見えてきた。砲弾4つの幕を掻い潜って、私に肉薄してくる。
自由に飽きたかな。“私”をいたぶる自由に。
でも今度は反転して、那珂ちゃんがあなたを叩きのめす番だ。
最初に言った。
”那珂ちゃん”は勝利すると。
姉二人を下すと。
「那ァ珂ぁ――――――――!」
「おいでー!」
裂帛の気合。猿叫のように那珂ちゃんを呼ぶ声。無電の音は割れて歪んでいる。心地いい。
そうでなくちゃ。
狂った偽物の”那珂ちゃん”に、ショウを任せるならば。
探照灯を受ける。目を閉じた那珂ちゃんに意味はない。
スポットライトの虜囚となる気分、快いけど飽きてきちゃう。
「……舐めるなァ!」
「踊り子に手を触れちゃダメだよぉ?」
音がする。単装砲の音だ。7つ。
だから何?
那珂ちゃんは機関停止、そして一歩だけステップを踏んでポジションチェンジ。
半身になって、砲弾と砲弾の隙間を掻い潜る。
「なんですって……」
あは。
アイドルは狙って落とせるものじゃない。
それに随分隙間が狭かったけれど、アイドルは細いもの。
那珂ちゃんに通れないものはない。心ならば入り込み、路地裏ならば通り抜ける。
「那珂ちゃん、そんなにおデブさんじゃないよ?」
「何を、ペラペラと!」
無電の向こうから激昂した声がやかましい。コールするならちゃんと覚えなきゃ。
むやみに叫んだって盛り上がらない。
ならば見せつけないと、那珂ちゃんはフェイクであってもアイドルだって。
足首を内側に向け、一杯に回す。右を前、左を後ろ。
高速で旋回して、それからジャンプ。
海面で2回転、空中で2回転。合わせて4回も回ってくるり。
そう、こんな凄いことも那珂ちゃんなら出来る。だって、
「なんてったってアイドルだもん!」
「っ、不出来の妹のくせに、私に勝とうというんですか!?」
そういえば、勝ったことはある。
そう、”私”は不出来の妹。たまに姉に勝ってしまう、”私”は妹。
この天下無敵の姉に勝てる妹。
なぜなら、”私”は一気に集中して追いついて、一瞬だけなら追い越せるから。
相当の危機、例えば受験勉強とかそういうのがあって初めて拾えた勝ちだけれど。
偏差値の最高記録で、私は下姉ちゃんを凌駕したことがあるのだ。
「んー、たまにはいいよね」
「私は、もうあなたには負けません!」
でも、どんなことでも負けたくないお姉ちゃんは今回で決着を着けたいみたい。勉強では負けても、戦争なら勝つと。
そういえば、今まで忘れていたけれど。
大喧嘩したとき、”私”は逆に伸してしまったことがある。”私”はなにがなんだか覚えていないけれど、とにかく降参したのはお姉ちゃんだった。私のほうがボロボロだった気がする。
そのやり直しとして、今日の戦争をしようと言うのだと思う。仕掛けたのは”那珂ちゃん”だけれど。
神通、探照灯消灯。目を開ける。でも突撃は続いている。もはや明かりなんて無駄だ。それに進行方向はこのままだと、すれ違うどころか激突しそうなコース。
構わない。これはチキンレース。
こちらは単装砲を構える。砲撃。
神通はそれを慣れた動き、巧みな加減速で全弾を回避する。……砲撃じゃ当たらない。見え見えだ。
ならば魚雷。それを肉薄して”直接”叩き込むだけ。那珂ちゃんならば可能なそれだ。
装填済みの魚雷発射管を回転させて、発射口を前に。発射。かくいうこれも見え見えの攻撃なんだ。下の方を二本ずつ発射。前進速度より更に速い。魚雷は速度を増しつつ、神通に接近していく。
「っ、見え見えな!」
「見せてるんだよ?」
「何を馬鹿なことを!」
一方、私はこっそりと右手で残りから1本を引き抜く。おちゃめさんだ。
それがバレないように、残りの発射管も発射。
同時、主砲一斉射。
さぁ、どう避けるかな。
そうやって攻撃の行く末を眺めていると、突然海面に向けて神通が斉射。
砲弾で起爆された魚雷が水柱を上げる。7本。神通を囲むように。
全弾を命中前に起爆させたみたい。やるじゃん。
けれど、7本落としただけじゃ、那珂ちゃんのトドメを避けられない。アイドルからは逃げられない。
大きくうねり白くなった水面の上を通り過ぎて、更に接近。
もう一度私も単装砲を構える。すれ違いの形、神通の左側を取る。
最接近、ゼロ距離。
水平に砲撃。
回避行動を取るも、2発を避けきれずに被弾。神通は4発を回避して未だ無傷。
ダメージレースはこちら不利。だけれど、右手は死守した。だから、
「それじゃあ、私の勝ちぃ」
すれ違い終わったその瞬間、那珂ちゃんは動いた。
まず前進しながらも体を脱力。体幹だけで体を支持。
身を低くして、力を溜める。そして、右に体を捻り、脇を締めて体の回転と僅かな肩の動き、肘・手首の回転を完全に連続させ、手のひらで押し出すように魚雷を投擲した。
……多分ワンインチパンチの原理。移動距離が少なくとも、急加速と体重移動さえ上手く行けば、運動エネルギーは十分確保できる。小さいモーションで最大限生み出した遠心力を、全て魚雷に与える。そして艦娘の身体能力でそれを行えば、どうなるか。
偏差攻撃じゃない。
直接当てる、矢のような一撃。
回避行動の切れ目、意表を突いた一投。
神通の背中にそれは届いて、
「な――――――逆、落し?」
「わかってるじゃん!」
炸裂。綺麗な花火だね。
●
また我に返ると、上姉ちゃんが足を引きずりながら航行してきた。
「……カナ?」
呼ばれて、振り返る。また私はぼうっとして佇んでいただけだった。
「お姉ちゃん……」
ボロボロだ。それに、もうすぐ夜明けだ。早く帰らないと、お姉ちゃんが動けなくなっちゃう。
私は、動こうとして、ふらついて倒れそうになった。
「う……」
思わず、呻く。痛い。体の至る所が痛い。耳のどこか、額も切り傷がある。血はまだ止まっていない。首筋が固まった血で気持ち悪い。かさぶたみたいだ。そこを、更に鮮血が伝って、肩にまで滴ってきている。
血が抜けて、頭は冷えている。同時に貧血気味だ。血が足りない。
腕も胴も砲撃を受けて血が出ている。貫通はしていないみたいだけれど、火傷と銃槍のような傷がある。多分、6,7箇所くらいやられてる。……なんだかんだ満身創痍の域だ。私に早々に叩きのめされたお姉ちゃんのほうが、もっとそれにふさわしいけど。
それで、下姉ちゃんがどうなったのか、わからないことに気付いて慌てた。
「下姉ちゃんは!?……じゃない、神通は!?」
「そこに浮いてるよ、失神してるみたいだけどさ」
上姉ちゃんの指差す方、少し遠くには人影があった。仰向けで、少し沈みながら浮かんでいる。まだ死んでは居ない。艤装が最低限の浮力を稼ぎ出して、命を繋いでいる。水の中に、血の煙が漂っているけれど。
「生きてる、よね」
「失神だと思う。流石にね。死んだら浮いてこないもんだから、艦娘ってもんはさ」
溜息混じりにそう言われた。……なんて、ことをしてしまったんだろう。
姉二人を叩きのめして、それどころか命を奪いかけた。……”那珂ちゃん”が、私に成り代わっている間に。
本気の戦意で、二人を沈めようとしたんだ。
……恐ろしくなる。私の中に、化物がいる。”那珂ちゃん”という化け物がいる。いや、化物に”那珂ちゃん”の名前がついただけだ。
耐えられない。嫌だ。
”那珂ちゃん”になんて、なりたくない。そうじゃない私が、たとえ役立たずの精神病者だったとしても、それでも、肉親を殺すような人間ではない、そうありたいのに。なんで、私は、”那珂ちゃん”をこの心の中に入れてしまったんだろう。
なんで私は、人間ではなくなってしまうんだろう。あの日人を殺した、それをどうして繰り返そうとしてしまったのだろう。
馬鹿だ。私は、馬鹿だ。人間でも、人間じゃなくなっても、結局人殺しのヒトデナシなんだ。
私は、私を、どうしたかったんだろう。そればかり疑問になり、悲しくなる。
……涙が、出てきた。
私は、ヒトデナシだ。
うつむく私に、上姉ちゃんが声を掛ける。
「……それより、帰ろう。ってか、私、もう動けなくなっちゃうからさ。実はまだちょっとなら戦えるんだけど、もう朝だ。……あんたの勝ちだよ」
そう言って、私にやるべきことを教えてくれた。
「……重いと思うけど、私達を背負ってってくれないかな?」
彼女の赤い目が、優しく弧を描いた。
●
その後は、必死だった。朝になる前になんとかしなくちゃいけない。日に当たったら上姉ちゃんは火傷で痛い思いをする上に、体を悪くしちゃう。しかも”川内”になってそれが悪化したって言うから、下手すると重症になる。それに下姉ちゃん、神通だ。失神していて体に力が何も入っていない。完全に荷物みたいになっていて、自分で体を支えてくれない。背中は大きく傷を負っていて、血まみれ。まだ血は止まっていないし、このままだと失血死もあるかもしれない。
私は二人を両肩で背負って、沖から海岸を目指して航行開始した。でも、私ももう機関や体そのものが限界だ。さっきの戦闘で体力をほとんど使い果たした。慌てた。慌てながらも、上姉ちゃんは眠い目を擦って、私を励ましてくれた。
「頑張れ、カナ。あんたはよくやった。評価Sは……ちょっとやれないけど、Aなら太鼓判を押してあげるよ。あんたは、この天才のお姉さまたちを見事に打ち破ったんだ。あんたがナンバーワンだ。帰ったらさ、また酒おごってやるから、だから、がんばれ」
やっぱり、上姉ちゃんは優しい。こんな時でも私を甘えさせてくれる。夜明けを背にして、背中が焼けるように痛くても、意識を保っていられそうになくなっても、それでも頑張って、私に声を掛けてくれた。本当は、私がやるべきことのなのに、重傷者のお姉ちゃんは、私に声を送り続けた。
「あんたは、辛いだろうけど……やっぱり天才なんだよ。私達よりもずっと、ずっと上の。新人にやられて情けない、そんなことは思わない。私は、あんたが誇らしい。……来てくれてありがとう、心強い、あんたが居てくれると」
「うん」
「だから、あんたは否定、してやるな、あんた自身をさ。……んぐ……ごめん、もう、限界。頑張れ、妹。あとは、任せる、よ」
「……うん……」
私は、凪いできた海を進んだ。泣きながら、慌てながら、パニックになりながら、必死で。
死んじゃう、お姉ちゃんが死んじゃう。二人共死んじゃう。私が殺しちゃう。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
”那珂ちゃん”なんて、大嫌いだ。
”那珂ちゃん”は、ヒトデナシの人殺しだから。
●
こうして、私は。
私の中にいる”那珂ちゃん”が、もっと嫌いになった。