手の付けられない悪ガキだと。向井拓海の担任教師達が、口々に揃えて言った言葉だ。
本人にしてみれば気にする事でも無く、むしろ肩で風を切って歩くその感覚が、とても気持ちの良い物だった。
拓海自身も、あの頃はアホだったと思い返す事もしばしば。勿論、反省などしていないし、後悔している事も更々無いが……。
学校をさぼって、徘徊する事は小学生の頃からの悪癖だ。
駄目と言われれば、必ずやってしまうへそ曲がりの性格は、幼い頃からすでに形勢されていた。
そんな、ある日の事。
拓海がランドセルを背負って、昼下がりの山下通りをフラフラと歩き回っていた時だった。
「……?」
野太いエキゾーストノートが聞こえた。その音だけが、鮮明に聞こえていた。
他の車も走っているが、幼い拓海にはその車しか目に写らなかった。
黒くて、低いスポーツカー。
(かっくいい……)
自分の数メートル横を走り去って行くスポーツカーに、目と心を奪われていた。
それが、何の車だったか解らないし、何で心を奪われたのかも分からない。
遠い記憶の中に埋もれた、幼い日の出来事。
この物語は、横浜を舞台に始まっていた……。
9月上旬。残暑の残る、富士スピードウェイ。俗称、FISCO。
1966年に開業し、日本で2番目に長い歴史を持つ国際サーキットだ。
国内戦のみならず、世界選手権等のモータースポーツシーンで、数々の名勝負を生み出してきた舞台である。
本日は、スーパーGTに参戦するダンロップユーザーのチームによる、合同タイヤテストが行われている。タイで行われる海外ラウンドを目前にした最後のテスト日となる為、各チーム共に精力的に走り込みを続ける。
GT300クラスに参戦する、チームKSダンロップポルシェ911GT3Rも、よりベストなセッティングと最適なタイヤを求め、トライアンドエラーを繰り返す。
富士スピードウェイの代名詞と言える、1,475メートルという長いホームストレート。開業当時から、レイアウトを変更されていない唯一の部分だ。GT300のポルシェならば、ストレートエンドでは280kmに達する。
6速のマックススピードから、フルブレーキングで2速まで落とす1コーナー。マシンのブレーキ性能やサスペンションセッティングは勿論、空力の仕上がりも試される。富士で一番のパッシングポイントであり、最大の見せ場とも言える。大きく道幅を使いながら、続く緩やかな2コーナーは全開で駆け抜ける。
5速まで加速させながらアウトにマシンを寄せて、ほぼ直角に曲がる90Rのコカコーラコーナーに備える。ブレーキングから3速まで落とし、セオリー通りのアウトインアウトで駆け抜けて、次の100Rへ飛び込んで行く。
右へ大きく曲がり込む100Rは、富士でも特にライン取りが難しいとされる難所。オーバースピードだったり、ラインをアウトまで攻めすぎてしまうと、次のアドバンコーナーへのアプローチが苦しくなる。アクセルワークでマシンの挙動を乱さない様に、奥目でクリッピングポイントを取るのが鍵となる。
続く、鋭角に曲がるアドバンコーナー。ブレーキングできっちりフロントタイヤに荷重を乗せて、ターンイン。そこから、コース幅をきっちり使いきって脱出速度を稼ぐのがセオリー。例え僅かでも、素早くマシンを前に進める事がタイムアップの秘訣だ。
緩やかに曲がりながら、全開加速していく300R。マシンもタイヤもドライバーも、強くかかる横Gと格闘しながら、300Rを攻め立てる。特にハイスピードで攻めるコーナーとなる為、足回りと空力、特にダウンフォースのセットアップも効いてくる。
そして、再びフルブレーキング。低速でクリアするシケイン形状のダンロップコーナーから、上りながらのテクニカルセクションへ突入する。
きっちりと車速を殺して、リズミカルに、右、左、右とクリアし、出来る限り立ち上がりで速度を乗せていく。
続くプリウスコーナーは奥で曲がり込んで行く為、突っ込み過ぎるとクリッピングポイントに付けなくなる。スローインファストアウトのラインを徹底し、立ち上がりを重視するのが、タイムアップの秘訣。
左へ曲がり込むネッツコーナーも、スローインファストアウトが原則。基本に忠実な走りこそが、マシンを速く走らせるファクターだと言える。
そして、最終のパナソニックコーナー。ここも、立ち上がり重視のラインが鉄則。ここでミスを犯せば、ストレートの車速の乗りが悪くなる。ある意味では、もっとも攻略の厄介なコーナーなのかもしれない。
後は、代名詞のストレートを全開で駆け抜けていくのみ。細かい理屈は必要ない、パワーの勝負となる。
一周、4,538メートル。GT300のマシンなら、1ラップのタイムアタックで1分39秒を切れるかどうかが、一つのボーダーラインと言えそうだ。
20週きっちり走り込んで、チームKSのGT3Rがピットに戻って来た。
外気温は29度と比較的に暑い。この季節では、レーシングカーのコクピットの気温は、60度を超えるまでに上昇する。ドライバーの熱中症対策で使用されるクールスーツを着ていても、耐えられる限度を超えている。
今シーズンからテストドライバーを務める原田美世は、コクピットから降りた途端にベンチに座り込んでしまう。ヘルメットを脱いで、手渡されたミネラルウォーターを一気に飲み干す。500ccのペットボトルの中身は、4分の1程度まで無くなっていた。
しかし、そうのんびり休んでいる訳にも行かない。エンジニア達にテスト走行の感触を伝えなければいけないからだ。
「……どうですか?」
担当エンジニアは、我先に美世にテストの成果を聞き出す。
「悪くないですね。ただ、後半はどうしてもリアタイヤの熱ダレが気になりますね。特に攻めていくと、グリップダウンがもっと早くなると思います。
前後のバランスが崩れない様にセットアップできれば、リアのコンパウンドはもう少し固くても良いかも知れません。元々、ポルシェはトラクションが良いですし」
美世は、エンジニアに走行の感触を報告する。
「解りました。では、少しインターバルを挟んだら、ロングランのテストもお願いしますね」
「了解です」
上々の手応えに、美世の表情は疲労している中にも、満足感が出ていた。
その様子を見ながら、チームの監督兼任ドライバーの菊地真一と、タイヤメーカーから派遣されたチーフエンジニアは関心しきりだった。
「すごいね、彼女……」
エンジニアは舌を巻いた。
「……だろ?」
菊地は、得意げな顔で返した。
「言い方が悪いけど、最初は菊地さんが血迷ったのかと思ってたよ。
女の……しかもアイドルの事務所に所属してる人間を、テストドライバーに抜擢した。その時点で、単なる話題作りの為だって思ってた。
でも、彼女のドライビング……特にセットアップに関する部分は、的確なフィードバック能力が有る。エンジニアからして、ここまでやりやすいドライバーは中々居ないね」
エンジニアは、美世の確かな才能に太鼓判を押した。
「ま、ホントの事言うと、俺もここまで上手い何て思って無かったけどな。
元々、自分で車も構うみたいだし、カートやってた頃も自分の家族だけで活動してたらしい。全部自分達でやってた経験が、活きてるんだろうな。
挙動理論が頭に入って無きゃ、マシンの挙動の一つ一つをエンジニアに的確に伝える事は難しい。その辺が、岩崎と一番違う所だな」
「……と言うと?」
「ざっくり言えば、岩崎は感覚派の天才肌って奴さ。頭で覚えるよりも、体に全部染みこませる。どんなマシンも乗りこなす事に長けてる分、セットアップが多少悪くても乗りこなしてしまう。良くも悪くもエンジニア泣かせのレーサーだな。
その点、原田さんは理論派の秀才肌って所さ。セットアップがパーフェクトになるまで、とことん妥協しない。勿論、その分どこが悪いかもきっちりとエンジニアに伝える。開発ドライバーとしては、原田さんみたいなタイプの方が良いマシンに仕上げられる事は間違いない」
菊地は、美世をそう評した。
「だったら、来年はレギュラードライバーとして乗せる予定ですか?」
エンジニアの質問に、菊地は難しい表情を見せた。
「……かと言っても、それも難しい所だな。
現時点では、フルシーズン戦うには体力が無さすぎる。50手前の俺よりも、全然スタミナが無い。GTにしてもスーパー耐久にしてもドライバーに求められるのは、速さは当然だが、それ以上に速さを持続するスタミナと集中力が重要になる。
10週だけ速くても、その先でバテてしまえば結局は遅いって事と同じ事になる。ドライバーとして乗る以上は、1スティントきっちり走りきって貰わなきゃいかんだろ?
速さを磨くよりも、スタミナを鍛える方が、ある意味難しいからな……」
「……そうですよね。
だからこそ、タイヤ等のテストは勿論として……。ワンメイクレースだけじゃ無く、スーパー耐久にも乗って貰っているという事ですね?」
「当然さ。
いくらシュミレーターを使って勘を養っても、トレーニングを積んで基礎体力を上げても、最終的には実戦に勝る物は無い。
彼女には、精力的に乗って貰わないと……今後のチームの為にもな」
菊地の言葉を聞き、エンジニアはチラリと美世を見た。
「だとしても、今後の彼女は期待できますよ。
まだ若いですし、何よりも……あんなに楽しそうにテストに挑むドライバーは、珍しいです。
根っからの車好きなのは、3分も打ち合わせれば解りますから」
そう言ったエンジニアの顔は、少しほころんでいた。
チームKS。スーパーGTラウンドも残す所、タイともてぎの2戦のみ。
チーム一丸となり、全力で突っ走る。
隔週の投稿予定です。次回まで気長にお待ちください。