エリート警察が行くもう一つの幕末 作:ただの名のないジャンプファン
明治7年、信女は斎藤と再会し、彼の紹介で警察官の採用試験を受ける事になった。
しかし、大警視の川路は女なんかに警官が務めるのかと疑問視する。
そこで、信女の剣の腕を見て、検討する事になった。
川路が押す剣客警官らが集められ、信女の姿を見て、彼らは、
「なんなんですか?この女?」
と、奇異の目で信女を見てくる。
「諸君らにはこれより、あの者と剣の手合わせを行ってもらう」
『はぁ?』
川路の言葉に集められた剣客警官達は唖然とした。
しかし、
「大警視、一体何の冗談ですか?」
「俺達は仕事で忙しい中、女とチャンバラごっこをする為に集められたんですか?」
彼らは不満を零し始めた。
「それなら、其方は全員で来てもいい‥‥私も1人ずつ相手をするのは面倒‥‥」
信女が冷静な口調で相手側にその旨を伝えると、
「あぁん?」
「なんだと!?」
「どの口がほざくか!?」
「女が生意気な!!」
「身の程を知れ!!」
剣客警官たちはたちまち不機嫌になる。
「君はそれでいいのかね?」
川路が一対五の条件で勝負するのかを聞く。
「それで良い‥‥さっさとやってさっさと終わらせる」
「さっさと終わらせるだと?」
「生意気な‥‥」
「俺達を舐めた事を後悔させてやる!!」
「終わらせねぇぞ、その身にたっぷり教えてやる俺達剣客警官を馬鹿にした事をな!!」
「ああ、その身で思い知るがいい」
互いに木刀を持ち、それぞれが構える。
(あの構え‥‥薩摩の示現流‥‥)
どうやら、剣客警官らは薩摩出身の者達らしい。
信女は抜刀術の構えをとる。
「では、始め!!」
川路が試合開始の合図を出す。
「うおりゃぁぁ!!」
「死にさらせぇ!!」
「うぉぉぉぉー!!」
「チェストー!!」
「うおらぁぁ!!」
剣客警官らは一斉に信女に向かっている。
「‥‥遅い」
信女は現役時代のブランクを感じさせない神速で剣客警官らに接近し、一回の抜刀術で一気に3人の剣客警官を叩き伏せた。
『なっ!?』
驚いたのは信女と戦っている剣客警官以外に川路も驚いていた。
斎藤はと言うと、現役時代のままの信女を見て、フッと小さく笑みを零した。
剣客警官らを神速の抜刀術で蹴散らし、足で神速の勢いを止め、次に信女は左手一本で刀を持ち、右手で剣先を乗せ、剣客警官に照準をつけ、
「覚悟‥‥」
勢いよく突っ込んで行く。
信女は放ったのは斎藤の得意技、左片手平突き、牙突だった。
「ぐはっ!!」
「後は貴方1人‥‥」
信女は残った剣客警官をジッと睨む。
「まだやる?」
念の為、信女は残った剣客警官に降参するかを尋ねる。
「当たり前だ!!女なんぞに負けてたまるか!!」
残った剣客警官は最後まで降参せずに信女と戦うと言う。
「うおぉぉぉー!!チェストー!!」
気合い一声と共に木刀を信女に向かって振り下ろすが、振り下ろされた先に信女の姿はなく、
「なっ、いない‥‥何処だ?」
剣客警官は辺りを見回す。
すると、彼の真上から信女が振って来た。
「飛天御剣流‥龍槌閃!!」
信女は空高く飛び上がり、落下重力を利用した斬撃で剣客警官を沈めた。
「ぐあっ!!」
ドサッ
「‥‥終わり」
信女は息一つ切らす事無く、5人の剣客警官を倒した。
「なっ、ま、まさか‥‥剣客警官達が‥‥宇治木達がやられるなんて‥‥」
川路は目の前の出来事が信じられない様子だった。
「これで、警官にしてもらえるんでしょう?」
信女はいつの間にか川路の近くに居て警官になれるのかを尋ねる。
「むっ‥‥」
「約束を破るの?大警視とあろう人が?」
「くっ‥‥」
川路は険しい顔をする。
「それとも、次は貴方が相手になる?」
信女は川路に木刀を突きつける。
「うぅ‥‥わ、分かった‥認めよう」
川路は渋々、信女が警官になる事を認めた。
日本の警察の歴史において、女性警察官が誕生したのは第二次世界大戦後の1946年からであったが、緋村剣心や志々雄真実ら影の功労者の名前が決して表の歴史に一切登場しなかった様に明治の世に誕生したこの日本初の女性警察官の名前は表の歴史にもそして日本警察の歴史にも名前が出る事はなかった。
その後、斎藤の言う通り、明治政府は侍に対する態度を硬化させていった。
現に信女が警官となったその年の頭には佐賀にて、政府のやり方に不満を持つ士族たちが江藤新平・島義勇らをリーダーとする佐賀の乱が起きた。
しかし、政府は約一ヵ月でこの反乱を鎮圧した。
この反乱に貢献したのは侍ではなく、前年の明治6年に山県有朋が提案した徴兵制によって編成された身分を問わぬ軍隊、日本陸軍の将兵達であった。
この徴兵制はこれまで軍事を独占していた武士の特権を奪う政策となった。
そして佐賀の乱の鎮圧‥これは侍相手に農民、町人が勝った事例となった。
徴兵制の起動が乗った山県は侍の拠り所を無くす政策を打ち出す。
明治9年、政府は秩禄処分を行った。
秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称であり、この秩禄を頼りにして来た士族は突如、収入を失う結果になった。
平成の世で言うと突然、生活保護または年金が政府により完全に打ち切られたのと同じ様なモノである。
更に政府は侍に追い打ちをかける様に廃刀令を発令した。
この法律により、大礼服着用者、軍及び警察以外の者は刀を身に付けることを禁じる事となり、武士は侍の魂である日本刀を帯びてはならないとされ、士族の誇りは大きく傷つけられた。
10月、熊本で旧肥後藩の士族太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら約170名によって結成された「敬神党」により、廃刀令に反対しての反乱がおきた。
この敬神党は反対派から「神風連」と戯称されていたので、神風連の乱と呼ばれた。
しかし、この乱は僅か1日で鎮圧され、加屋・斎藤らは戦場の中、銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。
指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した。
しかし、この神風連の乱に呼応して、神風連の乱鎮圧後の2日後、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって福岡県秋月にて反乱が起きた。
秋月の乱である。
この乱も約半月ほどで政府軍により鎮圧された。
また、この秋月の乱に呼応し、山口県でも士族の前原一誠、奥平謙輔ら約200名によって反乱が起きた。
萩の乱と呼ばれる反乱であった。
この乱も一月半程で鎮圧された。
九州地方で起こった相次ぐ士族の反乱を鎮圧した山県は、自分の作った徴兵軍隊の強さに自信を持ち始めた。
しかし、何故山県は此処まで侍を嫌うのか?
それは山県の出生に関係していた。
長州藩の最下級武士の家に生まれた山県は身分による多くの屈辱を味わい、世襲の武士制度に強い疑問を感じていたからだ。
しかし、その山県にも鹿児島で隠居同然の生活をしていた西郷の影響力は未だに健在であり、その力は侮れなかった。
維新後、廃藩置県が行われ、鹿児島もその例外ではないが、それでも鹿児島だけはまるで独立国家の様相を呈していた。
西郷は、政治家を辞めた後、故郷の鹿児島へ戻り、『私学校』と言う名の学校を設立し、その学校の存在こそが独立国家の様な様子の中心となっていた。
私学校では、数多くの薩摩士族が此処に通い、文武両道の鍛練に励んでいた。
野山をかけ、身体を鍛え、銃、砲を使用しての軍事訓練も行っていた。
明治の世になっても薩摩では誇り高い侍が育っていた。
山県と西郷の因縁は深かった。
幕末の動乱や戊辰戦争を通じて、西郷と接する機会が多かった山県は、薩摩士族のみならず、官軍全体を掌握する西郷の大きさを肌で感じていた。
廃藩置県や徴兵制など、政府の大改革に際しても西郷が強大な力で反対派を押さえつける姿を見てきた。
何より実務に優れた山県の能力を評価し、陸軍卿の地位を与えたのは他ならぬ西郷だった。
山県は西郷の人格と実力を熟知していた。それだけに鹿児島で士族の人望を集めている西郷に恐れていた。
その頃、鹿児島の士族たちは侍潰しを行う政府に対し、不満を高めていた。
そして年が明けた明治10年1月。
政府は鹿児島県内の陸軍施設から密かに武器弾薬は別の場所へと移動させた。
この行動が薩摩士族たちの政府が鹿児島を潰そうとするのではないかと言う不安とこれまで政府が行って来た侍潰しの政策に対する不満が爆発した。
更に政府は鹿児島の同行を窺う為、密偵を送り込んでおり、私学校の生徒はその密偵を捕え、厳しい拷問にかけた結果、西郷暗殺計画を自白した。
その事実が薩摩士族が決起した理由の一つでもあった。
1月29日、二十数名の薩摩士族たちは政府の火薬庫を襲撃し、弾薬六万発を奪った。
その知らせは直ぐに西郷の下へ知らされた。
事件を聞いた時西郷は「しまった」と述べた。
そして、襲撃した士族たちに激怒したと言う。
しかし、その後も薩摩士族たちの行動は止まらず、連日政府の施設に襲撃をかけ続けた。
2月5日、西郷は決起を促す薩摩士族たちに説得され、自らが兵を率いて東京へ進軍する事を決断する。
「もうなにも言う事はなか、おはんたちがその気なら、おいの身体は差し上げ申そう」
この瞬間、西郷は薩摩士族たちと運命を共にする事にした。
明治10年2月14日、薩摩士族1万3千人は鹿児島を出発した。
侍たちは自らの行動を事前に政府に告知していた。
「政府に尋問の筋 これあり」
士族に対する酷な政策を問いただすことが挙兵の名目であった。
この時点では、西郷は征韓論の時と同じく武力行使は望まず話し合いを目的としていた。
当初、西郷軍は海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲する策、
三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前・豊後を経て四国・大阪に出てそこから東上、一は熊本・佐賀・福岡を経ての陸路東上する策、
の2つが出されたが、所有する船は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない西郷軍にとっては成功を期し難く、熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された。
西郷の挙兵は政府を驚愕させた。
呆然とする閣僚の中で山県は西郷との武力衝突が起きると覚悟していた。
例え、相手が西郷だろうと、今ここで屈すれば、今まで自分が行って来た政策が全て無駄になる。
2月19日、賊徒政党令が出され、西郷たちは賊軍となり、山県はその鎮圧にあたる最高司令官に任命された。
2月21日、熊本城付近にて、西郷軍は政府軍と遭遇し戦闘となる。
この戦闘により、日本最後の内乱、西南戦争が始まった。
更新です。