あなたに、わらってほしくって   作:カリフォルニア饅頭

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カサネル√のスバルくんに心の底から笑って欲しかったから書きました。前編中編後編の後編。3夜連続投稿も終わりです。

なお、この回だけ特典小説氷結の絆のネタバレがあります。ご注意ください。


後編

 ――まぶしい。意識がはっきりとして最初に感じたのは、いつも通りの朝の日差しだった。

「ふわぁ~」

 東向きの部屋ゆえに、毎朝、日の出と共に日差しが降り注ぐ。おかげで、毎日朝早くに目が覚める。ベッドから這い出て、窓を開ける。とたんに、冷たい風が体を撫でる。うん、今日もいい朝である。

 さて、と後ろを振り返り、今しがた離れたばかりのベッドへ戻っていく。二度寝するためではなく、ねぼすけな彼女を起こさなければならないからだ。

 いつもの通り、ねぼすけの寝顔はとても穏やかなものだった。それを見るだけで、ここに移り住んできた価値があったと本気で思う。いつかの、あの苦しそうな寝顔に比べれば。

「ほら、もう朝だ。起きろよ――エミリア」

 ふぁさ、と布団を引っぺがして、ねぼすけを叩き起こす。急に布団を剥ぎ取られた彼女は、「うう」といつものようにまだまだ眠そうな様子。それでも気だるげに上体を起こして、目をこすりながら、挨拶を返してくれる。

「おはよう、すばる」

 二人しか居ない部屋に、どこかあどけないあくびが響いた。

 「「いっち、にー、さん、し」」

 毎朝の日課である、ラジオ体操を第一、第二までこなす。短い運動ではあるが、これがなかなか侮りがたい。一日に必要な運動量の数分の一かはこれだけによって満たされるのだ。

「「ビクトリー!」」

 最後のきめポーズ、タイミングもポーズも完全に一致する。当然だ。もう何年にもわたって、ほぼ毎日繰り返してきたのだから。

「ね、スバル。今日の朝ごはんはなあに?」

 きめポーズを完璧に決めることができたのでご機嫌なエミリアは、そのまま朝食について喜色満面で尋ねてくる。朝ごはんは、当初交代で担当していたのだが、朝に驚くほど弱いエミリアが継続的に朝食を用意することは、著しく困難だった。そのため、朝食を作るのはスバルの仕事となっている。

「今日の朝食は、干し肉とスープ、それとパンだな。野菜類が、昨日で切れちったからな」

「ん、りょーかいです。スバルの料理、いつも楽しみなの」

 エミリアは、そういって笑った。その笑顔がとても綺麗だったので、頬が赤らむのを感じる。

「E・M・T……」

「もう、いっつもそうやって誤魔化すんだから。――でも、ありがと、スバル」

 屈託のない笑顔に、さらに恥ずかしさが増す。むず痒い雰囲気に耐えられないスバルは、慌てて話題の転換を図る。

「昨日野菜を使い切っちったんだ。予定を変えて今日は、外の村に出て、食料を買ってこよう」

「今回のロズワール便、少し野菜が少なかったものね。わかりました。じゃあ、日課を終えたら行きましょう」

 現状のスバルたちの生活は、その大部分をロズワール家に頼っている。月に一度、ロズワール家は調味料や消耗品、食料などをエミリアとスバルの住処まで届ける。その代わりに、二人が魔鉱石の採掘できる場所や危険な場所、そこに到るまでのルートなどの情報を提供する。これが、ロズワールと二人の間に交わされた契約。

 だが、届けられる食料などは不測の事態などで無くなってしまうこともあるし、調子に乗って使いすぎてしまうこともある。そのような時には、近くの集落に降りていって、様々な機会に貯めていた銀貨などで購入するのだ。

「それじゃあ、決まりだな。今日の午後は、それで行こう」

 朝食を食べた後、日課に向かう。――森林の中にいくつも聳え立つ氷柱、その表面を磨く。それがエミリアとスバルの日課である。その氷柱の中には、かつてエミリアとともに暮らしていた、エルフの集落の皆が眠っている。

 ――そう、ここはエリオール大森林。かつてエミリアが仲間たちと暮らし、そして封印されていた場所。エミリアとあることを選んだスバルは、なんとか聞き出した彼女の希望もあり、二人でエルフの集落の墓守として過ごしている。

ごしごしごし

 心をこめて、丹精に氷柱を磨く。それを怠れば、すぐに霜やら雪やらが積もって彼らが彼らだと解らなくなってしまう。こちらに移ってきてから、しばらくの間は、ずいぶん積もったものを払うのに苦労したものだ。それも、はるか昔のように感じる。

 そう、これはエミリアの願い。かつてのエミリアの願いは、彼らを龍の血で解放することだった。そんなことすら、かつての自分は知らなかった。それを知ったのは、こちらに移ってきてすぐのことだった。

『私ね、みんなを助けたかったの。王になって、龍の血で』

 皆の氷柱についた霜を一生懸命に払いながら、かつての願いを口にするエミリア。かつての自分は、それすら知ろうとしなかった。――あるいは、そのような姿勢だったからこそ、誰も救うことが出来なかったのかもしれない。他者の命だけを尊んで、信念や願いを全く無視した歪な在り方。エキドナに誘導されたとはいえ、なんと愚かだったのだろう。

 もっとも、龍の血があれば、彼らを救うことが出来るというのは、正直眉唾だ。一度、龍の血でとんでもない目に遭ったものとしては、本当にアレがそんな万能なものなのか、疑わしい限りである。

 まあ、それはともかく。集落の皆を助けられなかったエミリアは、罪滅ぼしとして毎日彼らを綺麗にしている。どうにかこうにか聞き出した、彼女の願いだ。叶えないわけにもいくまい。自分は、彼女のために生きることを選んだのだから。

 そのようなことを考えていたら、いつの間にか最後の一柱まで終えていた。さあ、昼食だ。

「ふーんふふふーん」

 鍋をおたまで掻き回しながら、エミリアが鼻歌を歌っている。絶望的な程の音痴である。

 ――絶望的なほどの、音痴である。不可解な程頻繁に高音と低音が行き来し、決定的なほどにずれた音程が、エミリアの美しい声で紡がれる歌を、さながら死神による死刑宣告であるかのように錯覚させる。これほどまでに澄んだ声が、どうしてこのような悪夢のマーチを奏でるのか、未だ理解の彼方にある。様々な点で天使の具現であるといっても過言ではないしむしろそれが真理であるとすら思えるような魅力を誇るエミリアの、数少ない欠点がこれだ。

 だからといって、それを指摘できるほどの気概は、今のスバルには無い。だから、エミリアに話しかけることで、エミリアの気をそらせ、この災厄を終わらせるほか無い。

「なあ、エミリアたん。今日の昼食はなんなんだ?」

「ふふふ。良くぞ聞いてくれました! 今日のお昼はなんと、お鍋よ!」

 ナントカでだしを取って、だの、山菜を集めてきて、だのと自分がいかにこの料理に力を傾けているかを語りだすエミリアをよそに、スバルはただこの災いが止まったことに感謝の念を感じていた。

 ああ、神よ。どうしてあなたは彼女にこのような過酷な運命を課したのだろうか。

 まあ、それはともかく。お昼に暖かい鍋が出ることはとてもありがたい。毎日のことではあるが、外での作業はなかなか体から熱を奪っていくのだ。

「はい、スバル。たーんと召し上がれ!」

「おうとも! それじゃあ――木よ、風よ、星よ、母なる大地よ」

 二人で祈りを捧げて、食事を始める。ふたを開ければもくもくと上がる湯気が、この料理がいかに暖かいのかを示していて、待ちきれない。

 エミリアが、スバルのお椀に具材をよそう。それにお礼を言いつつお椀の中を見ると、相変わらず不揃いな大きさと形の食材たち。エミリアの不器用さが遺憾なく発揮されている。

 こちらに来てすぐ、刃物の扱いには自信があるの、などと言っていたので包丁で野菜を切ってもらったら、ついでに指まで切り落としてしまいそうになったことは、未だに忘れられない。そのころから考えれば、普通に使えるようになっただけで格段の進歩である。

 とりあえず、よそわれた鶏肉? を口に入れる。――うん、普通に美味い。正面の、どう? どう? おいしい? といわんばかりに輝く瞳に、美味しいよと返して、腹の空きを満たすために再び食器を動かした。

 

 昼食後、二人で並んで森の外の町に買い物に出かける。エミリアの話では、かつての彼女も採掘した魔鉱石を片手に別の村に買い物に来ていたらしい。認識阻害のローブもない筈なのに、大丈夫だったのだろうか。それについて彼女は語らないけれど。

 買い物に来た町は、数年前に出来たものだ。ロズワールが魔鉱石を掘り出す労働者を領民から募集し、応じてきた彼らが暮らす町。百人前後の労働者とその家族が継続的に暮らしているために一通りの食物や日用雑貨がそろっている。なんだったら、たまに訪れる行商人から、娯楽本の類を買うことも出来る。

「それじゃあ、俺は野菜の方を見てくるから、エミリアたんは香辛料の方をお願い。これも心もとないからな。合流は、いつもの場所でよろしく」

「うん、わかりました。じゃあ、また後でね」

 二人で手分けして、買い物を行う。かつて、ここに来たばかりの頃のエミリアは、少しスバルと離れただけで周囲の気温を低下させていたので、かなり冷や冷やしたものだった……いろいろな意味で。

 そのころに比べれば、エミリアの心は、かなり安定を取り戻してきたといえる。認識阻害のローブがあるといえど、単独で行動できるようになった。エリオール大森林での暮らしは、少しずつではあるが彼女の心を癒している。だが、彼女は未だ停滞の中にある。

 ――考えても仕方が無いことだ。自分も買い物を済ませなければ。

 いつもの野菜売りのおっちゃんがいなかったため、他の店を探すのに手間取ってしまった。心にせかされながら、集合場所へ急ぐ。エミリアは大丈夫だろうか。

「……いた」

 いつもの集合場所、町の広場にエミリアの姿を認めて、一安心するのもつかの間。彼女は、若い男二人組みに囲まれている。マズイ、何かトラブルだろうか。

「……だ、だから、私にはもう相手の人がいるの。どうか、他の人をあたってください」

「おいおい、そんなつれない事言わんでくれよお嬢ちゃん」

「そうそう、俺たちがお代出すからさ、一緒に飲みに行こうぜ」

 ハーフエルフであることが知られてしまったのかと、一瞬焦るも、どうやらただのナンパ野郎だったらしい。それにしても、よりにもよって認識阻害のローブを身に着けたエミリアに声をかけるとは。相手の姿なんてぼんやりとしかわからない筈なのに。こいつらは相当若い女に飢えているのかもしれない。まあ、エミリアはとても美しいので、それが認識阻害のローブを超えて伝わっているのだろう。

 しかし、いつまでもエミリアにむさくるしい連中の相手をさせるわけにもいかない。

「……っと、ごめん、エミリア。遅れちまった」

「あ、スバル! もう、遅いわよ」

 不埒な連中の間をすり抜けて、エミリアの隣へ。こちらに気付いたエミリアの顔に、ぱああと擬音の付きそうな花の笑みが浮かぶ。

「ってなわけで、すまんな。この娘、俺のだから」

 エミリアの手を取って、いかにも親しげであるアピール。それを目にして、すごすごと引き下がる男たち。そのまま、次の相手を探しに向ったようである。

「ごめんな、エミリア。怖い思いさせてしまって」

 だがおかしい。彼女からの反応がない。もしや、怒らせてしまっただろうかと、おそるおそる彼女の方を向くと、彼女の顔は明らかに赤く染まっていて。

「ふふっ……。俺の、俺の。……ふふっ」

 ……無意識に放った言葉といえ、確かにかなり恥ずかしいことを口走っていたことを自覚する。ついでに、まだ彼女の手を取ったままである。

「ほ、ほら。早く行こう、エミリアたん」

「……! ま、待って、スバル」

 恥ずかしさでその場に留まることができず、歩き出す。後ろで、慌てたエミリアも動き出したようだ。もっともそんなこと、耳に頼らなくてもわかる。まだ、つないだままの手から、彼女の様子が伝わってくるから。

 その後、エミリアと二人で、数店店を回って、ついでに夕食を済ませて二人で帰る。

「ね、スバル。おゆはん、とっても美味しかったね」

「だな。新しい店だったから、ちょっと不安だったけど、美味い店だった」

 雑貨店などを見回って、そろそろ帰ろうかというときに目に飛び込んできた、新しく開店したばかりのお店。北方のグステコ料理の店で、ボルハチなる暖かい食べ物を出すのが売りだった。正直に、大当たりの店だ。次からもぜひ来ようと二人で同意に達しながら、森の中の自分たちの家に戻る。

「あ!」

 唐突に、声をあげるエミリア。

「ん、どったの? エミリアたん」

「髪を切るためのはさみ、新しいの買おうと思っていたの、忘れちゃった」

「……そっか。また、髪切るのか?」

 今のエミリアの髪は、出会った頃に比べて分短い。首の半ばほどまでの長さを保っている。――まるで、誰かを思い出させるような。それは、彼女が停滞を選んだ頃から始まって、今までずっとそうだった。

 それが最近は、髪を切るためのはさみが壊れたために、肩に触れるか触れないかのところまで伸びている。

「……スバルは、短い髪はイヤ?」

 不安げに問いかけるエミリア。彼女にとって一番恐ろしいのは、スバルの意に沿わないことをすることだ。

「そんなことはないぜ? 短い髪も、エミリアたんに似合ってて可愛い」

「……あ、ありがとう、スバル」

 今日に入ってもう何度目なのか、頬を染めるエミリア。それきり話題は転換して、この話は出なくなった。

 その日の夜。新月のために何処か暗い夜。町から帰ってきて、エミリアとこれからの予定について話をする。

「エミリア、これからどうしたい?」

「……スバルは、どう思う?」

 もう、幾度となく繰り返してきたやり取り。ためらいがちに自分のやりたいことを、スバルに問い返すエミリア。解ってはいる。彼女はその歪なあり方を望み、自分はそれを受け入れた。今の生活はそれはそれは穏やかで、出来ることならこのままずっとこうして暮らして生きたい。

 ……だが。だが、本当にこのままで良いのだろうかとも思うのだ。本当にこのまま、ずっとこの森で、エルフの集落の墓守として二人で生きていって。しかし、スバルはエミリアにその事を問えないでいる。自分は、愚かで無能な男だ。そんな奴が下手にエミリアのあり方を変えようとすれば、今のエミリアすら失ってしまうのではないかと。それが怖くて、スバルはエミリアに、踏み込むことが出来ないでいる。

 だから、スバルは、こう答えるしかない。

「食糧の備蓄は、今日買ってきたので十分。特に必要物資は無し。ロズワール便は少し先。ってなると、まあ普通にマッピングとかはどうかな?」

「ん、りょーかいです。どこら辺を探索しに行くの?」

「そうだな……。前に新しく見つかった鉱脈があるだろ? ほら、あのつんつん林の近くの。あそこらの近くを見てみよう」

「はーい」

 そうしてベッドに向かうエミリアが、その寝台に腰を下ろして、不思議そうにこちらを見ている。

「? 今日は一緒に寝てくれないの、スバル?」

「ああ、ちょっと本を読んでから眠ることにするよ」

 一緒に寝てくれないことに、エミリアは少し不満そうである。

「ぶー」

「ごめんて、エミリアたん。ほれ、ぎゅー」

 

 機嫌を損ねたときにいつも使う必殺奥義、ハグを行使する。これで、だいたいエミリアの機嫌は直るので、大変重宝するのだ。もっとも、自分自身も恥ずかしいのは恥ずかしいのだが。

「むっ。こんなことで、機嫌治したりなんてしないんだから。……でも、今日はもう眠いから先に寝てあげます」

「……E・M・T(エミリアたん・マジ・チョロイン)」

「何か言った、スバル?」

「いいえ特に何もそんな滅相もございません」

「……まあいいや。じゃあ、また明日ね。お休み、スバル」

 言うなりベッドに向かい、布団をかぶるエミリア。すぐに、穏やかな寝息が聞こえてくる。ほっぺたをつんつんしてもやわらかい極上の感触があるだけで、反応はない。相変わらず寝入りがいいなと独りごちて、外へ出る用意を整える。コートと書類、火の魔法を応用した魔法瓶とお茶菓子とコップ。よし、全部持ってる。というか、この荷物、まるでお茶会行くみたいだな。

「うう、さぶい……」

 厚手のコートの類を用いても、夜のこの森の寒さはいかんともしがたい。外に出て、月の満ち欠けを確認すると、今日は新月で間違いない。前に会ってから、ほぼ二月。あの女が来る日だ。寒さに毒づきながらも、いつもの場所を目指す。その途中で。

「あら、遅かったのね。こちらから訪ねようとしていたわ」

 艶やかな黒髪、惜しげもなく晒された豊満な肉体  『腸狩り』、エルザ・グランヒルテ。彼女が現れた。

「お、そうだったか。すまんすまん。ってか、いつも思うけど、その格好寒くねえの?」

「……私、北国育ちなの。これくらいの寒さ、なんともないわ」

「……そ、そうか。まあとにかく、お疲れさん。ほれ、あったかいお茶とお菓子だ」

 北国育ちなら、この寒さの中でもコート一枚にほぼ裸のような格好で動き回れるのだろうか? スバルにとっては尽きぬ謎であるが、本題には一切関係ないので一旦省略する。

「それで、首尾はどうだった?」

「……残念ながら、空振りだったわ。何箇所かつぶしてみたけど、目ぼしい収穫は無し、ね」

 リストの何処と何処を当たったのかと今回新しく判明した拠点については、これを確認して頂戴、と彼女は書類の束を渡してくる。彼女には、継続して魔女教を追ってもらっている。エミリアのために生きることを選んだとはいえ、レムを助けることをまだ諦めきれないというのもまたスバルの正直な気持ちである。だからこそ、本当にこのままでいいのかとも思っているわけだが……。

 それに、魔女教を追ってもらっているのはレムだけが理由ではない。奴らが『試練』と称してこの森に襲撃をかけてこないとも限らないからだ。エミリアとの穏やかで幸せな生活を、少なくとも外の事情で失うつもりはない。たとえそれが終わるとしても、それは自分とエミリアの同意に基づくべきで、外の事情によってはならない。

 正直、あまり意味はないかもしれないのだが。しかし、可能な限り襲撃のリスクは減らしておきたい。そのためにも魔女教の力をそいでおく必要がある。だから彼女にはそのように働いてもらっているのだが……。

「しっかし、碌に給金が出るわけでもない上に、大陸の東西南北津々浦々まで走りまわされてんのに、よく文句の一つも言わないでついてきてくれるもんだな」

「……あら、私にとってはどれだけの腸が見えるかどうかだけが問題よ?その点、あなた以上の雇い主は居ないと思うのだけれど」

 魔女教は社会の癌である。それは、大罪司教が暴食と未だ見ぬ傲慢以外壊滅した今でも変わりはしない。そういう連中なので、これに携わる限り魔女教以外からの追跡はないだろうし、魔女教徒も世間が思っているよりはるかに多く居るのでかっさばく腸にも事欠かないだろう。しかし、はたしてそれだけでここまで付いてきてくれるものなのだろうか。スバルがそんないらぬ詮索を行い始めたあたりで、彼女から声がかかる。

「それで、次は予定通りにつぶしていけばいいのかしら?」

「ああ、それで問題ないぜ。よろしく頼む」

「なら、今回はこんなところかしらね」

 お茶とお菓子ご馳走様でしたと言って、立ち去ろうとするエルザ。それを見送っていると、ふと彼女は足を止めて。

「そういえば、彼女は息災なのかしら?」

「ああ、相変わらずぷりちーな感じだが、どうしてまた?」

「そう、それならいいの。大切にしてあげなさいな」

 唐突な問いに、疑問しか出てこない。エルザがなぜエミリアのことを気にかけるのだろうか? だが、その疑問への答えは返されることなく、彼女は去っていく。

「うーむ、よくわからん」

 いつも通り、窓からの朝日によって目が覚める。だが、今日はいつも通りではない。何せ、月に一度のロズワール便が届く日なのだから。

「ほれ、起きろ、エミリア。今日はロズワール便の日だぞ」

「うみゅぅ……おはよう、スバル」

 いつものようにねぼすけを叩き起こして、ラジオ体操と朝食を済ませる。そうこうしていると、外がにわかに騒がしくなる。どうやら、到着したようだ。

 二人そろって、家の外に出る。目の前には、竜車が一つに、なにやら怪しげな覆面の男。そして。

「おう、パトラッシュ。元気してたか?」

 スバルの問いかけに、喉を鳴らして答えるパトラッシュ。頭を撫でると、心地よさそうに目を細めた。彼女は、現在ロズワール便を牽引してもらっている。彼女とのじゃれあいもほどほどに、怪しげな覆面に声をかける。

「積荷のリスト、貰っていいか?」

 その言葉に、覆面はコクリと頷き、バッグから書類を出す。かつては別の人物が担当していたこのロズワール便だが、割と最近、ここ一年ほどで、この人物が担当になった。全くしゃべらないし、コミュニケーションが取れているかは微妙なところで、なぜロズワールは担当を変更したのか未だ謎である。ついでに言えば、男か女も謎である。胸の辺りに膨らみがないことから男だとは思うが、それにしてはどうにも華奢な体形なのである。まあ、仕事に関して間違いはなさそうなので、特に文句はないが。

 だが、今回のロズワール便は、いろんな意味で普通ではなかった。

「あ、スバル様! ご無沙汰してます!」

 少し伸びた背と、洗練された立ち居振る舞い。あどけなかった顔つきも大人びて、美少女から美女の中間地点といった風情で、その時期の女性にしかない魅力をかもし出していた。だが、それらと不調和に頭の上に結ばれた赤いリボンが、これ以上なく彼女が誰なのかを示していて。

「ひょっとして、ぺトラか? ずいぶん綺麗になったな!」

「はい! ――ロズワール辺境伯が使用人代表補佐、ぺトラ・レイテ。ただいま、到着いたしました」

 その台詞を聞くだけで、少し感慨深く思える。出会ったころは、あんなに幼かった彼女も、今ではいっぱしの立派なメイドである。それだけの時間が流れた、ということでもあるのだが。

 しかし、その立派なメイドの表情は、どこか悪戯に成功した子どものようだ。直感的に悟る。何か、とんでもないことが起こりそうな気がする。そんな不安をよそに、ぺトラは続ける。

「ともかく、荷物を運び込みましょう、スバル様」

「うん、これで全部だな」

 リストと照合して、荷物が全て運び込まれたことを確認する。しかし、何か妙だ。いつもよりも荷物が明らかに多い。いつもなら、これの大体2/3より少し多いくらいなのに。

「ほれ、受け取ったサインだ。ロズワールによろしくな」

 謎の覆面の男に、書類を渡す。これにて、引渡し作業は終了だ。書類を受け取った男は、きちんとサインを確認して、そしてこちらを向いて何か言いたそうにしている様子である。

 いつもこいつは、こういう態度をとる。まるで、俺を知っているけど、話しかけるのをためらっているかのように。こちらも、なんとなく、その怪しい覆面はなんだと詰ってやりたい気分である。しかし、いつもしばらくそういう風にした後に、諦めたように竜車を走らせ始めるのだ。本当に何なのだろう。今回も、それは同じだった。竜車は、パトラッシュに牽引されて走り出す。

 ――同じ? それだと、何かが不味いのではないか? どこかに引っかかるものを感じる。この違和感はいったい何なのだろう?

「どうしたんですか、スバル様?」

「おお、ぺトラ。いや、何かおかしい気がしてな」

「? 何もおかしくはないと思いますけど」

 いや、何かがおかしい。そこまで考えて、スバルは違和感に気付いた。

「……なあ、ぺトラ」

「どうなさったんですか、スバル様?」

「……竜車、行っちまったぜ?」

「……はい、行きましたね。それが、何か?」

 あれ、言ってませんでしたっけ? と悪びれもせずに彼女は悪戯っぽく笑って。

「今日からひと月、お世話になります。――スバル様!」

 ほら、やっぱりとんでもないことになった、と何処か他人事のように思う。ああ、この一ヶ月、無事に乗り切れるだろうか。さしあたり、後ろから吹いてくる冷たい風をどうにかしなければ……。

 ペトラが襲来してから数時間ほど。何とかエミリアの機嫌を直して、その日の昼食に挑む。

「はい、スバル様。スバル様のために心をこめて作りました。たーんと召し上がってくださいね」

 凍りつく空気。おもに、自分の向かいにいるエミリアを中心にして。ついでに、機嫌も急降下である。

「つーん」

「え、エミリアたん。こっちを向いてくれると嬉しいんだけど」

「ふんだ。すけこましのことなんて知りません」

 すけこましって今日び聞かねえな、という喉元まで出かかった茶化しを、何とか呑み込む。これ以上機嫌を悪くされてはたまらない。早急に、エミリアの機嫌をとる必要がある。なんというか、その、生き長らえるためにも。

「ごめんて、エミリアたん。あーん」

 恥ずかしいが、こればかりはどうしようもない。スープをすくって、エミリアの方に運ぶ。

「し、仕方がないわよね。スープが冷めちゃったらもったいないもの」

 どこか赤ら顔のエミリアは、そんな言い訳を盾にあーんを受け入れることにしたようだ。それでようやく、気温の低下も止まる。それにしても、数年も二人だけで暮らしておいてあーんを恥ずかしがるとは、自分たちの初心さは相当なものだ。ついでに、あーんは恥ずかしがるのにハグはまだ大丈夫って、もろに昔のこと引きずってるなコレ。

 そこではっと気付く。これを見ていたペトラも、何か要求してくるのではないか……。恐る恐る彼女の方を向く。だが、なにやら彼女は思案顔である。

「……そっか、お二人はまだそこまで進んでるわけじゃないんだ。でも、お二人はお互いのことしか見ていないようにも見えるし。特にエミリア様は……。でも、なんでそんなにスバル様だけを……?」

 何やら、ぶつぶつと呟いている。と、こちらの視線に気付いたようで、なんでもありませんと取り繕う。

「さあ、たくさん食べてください、エミリア様も! どうぞどうぞ!」

 ともかく、一事が万事、こんな感じであった。ペトラが好意を仄めかすような言動を繰り返し、その度にエミリアが過剰反応し、スバルがエミリアのご機嫌とりに奔走する。これは一日に何度も繰り返され、二週間ほど、このようなことが続いた。この間、いかに神経をすり減らしたことか。

 だが、そんなことがいつまでも続くわけがない。今のエミリアが、いつまでもそんなことに我慢できる筈はない。だから、衝突は必然だった。

 

「ね、ペトラさん。どうして、私からスバルを取ろうとするの……?」

 ペトラが来てから二週間と少しが経ったある日の夕食時。いつものようにスバルへの好意を遠まわしに伝えるペトラの言動に、遂にエミリアの限界が訪れた。

 慌てて、エミリアを静止しようとする。

「エミリ――」

「スバル様」

 呼びかけは、ペトラ本人によって遮られた。邪魔してくれるなと、その目が雄弁に語っている。いったい何を考えているんだ。

 一旦口をつぐんだスバルの様子を見て、満足げにエミリアに向き合うペトラ。

「どうして、ですか。もちろん、スバル様のことが好きだからです」

「っ! 止めて! ……私をみてくれるのはスバルだけなの。私から、スバルを取らないで……」

 久々に見た、エミリアの弱弱しい表情。当然だ。今のエミリアにとって、スバルを失うということは全てをなくすということなのだから。それに対して、ペトラは。

「そっか。そういうことだったんですね、エミリア様」 

 うって変わって、悲しげな表情を浮かべる。だが、それも一瞬のこと。次の瞬間には、決意を固めた顔でエミリアに向き直る。

「……私が今回、ロズワール様に一ヶ月間のお暇をいただいてお二人に会いに来たのは、二つ理由があります」

 そこまで言って、一旦言葉を切るペトラ。

「一つは、お察しのとおりスバル様にお会いするため。そして、もう一つは――エミリア様。あなたにお礼を言いに来たんです」

「お、お礼……? 急に、一体何を」

 エミリアが困惑している。当然だ。自分も混乱のきわみにある。一体、お礼とは何へのお礼なのだ。ペトラは、こちらの反応を伺いながらも言葉を紡ぎ続ける。

「エミリア様、覚えておいでですか? もう何年も前になりますが、魔女教がアーラム村を襲おうとしたときのことです。あの時のエミリア様、村のみんなに邪険に扱われても、それでも危ないからって、逃げるようにみんなを必死に説得してましたよね?」

「私、今でも覚えてます。きっと、この人はとっても優しい人なんだろうなって。後から、エミリア様だったって知って、こんな優しい人が王様になったら、きっといい国になるんだろうなって思ってました。ずっとです」

「で、でも、私は何も出来なくて」

「そんなことありません!」

 急に大きくなる、彼女の声。それは、絶叫だった。ここまで落ち着いた声音で話してきた少女の、魂の叫びが聞こえる。

「あの後、王都に向かう竜車の中で、きっと自分も不安だったのにそんなものをかけらも見せず、震える私たちにずっと大丈夫だって言ってくれたこと、忘れません」

「王になるんだって、毎日毎日ひたむきに机に向かって勉強していたこと、覚えてます。ロズワール様の別邸で暮らしていたとき、私たちと一緒に毎朝らじーお体操をして、楽しげにスバル様と話していたこと、今だって思い出せます」

 ペトラの口から語られる、エミリアの姿。そこに、エミリアをハーフエルフだと特別に扱うものは無くて、ただただ暖かい想いだけが篭っていて。

「だから、ありがとうってずっと言いたかったんです。でも、屋敷ではなかなかエミリア様には会えなくて、会えてもお話できなくて。そうこうしているうちに、王選が終わって、お二人が氷の森に行ってしまって。結局言えず仕舞いになってしまいました」

「で、でも」

「でももだってもありません! エミリア様が王になれなかったって聞いて、とっても悲しかった! スバル様と二人だけで森の奥で暮らすって聞いたとき、もう会えないのかもってとっても辛かった! エミリア様のこと、ずっとずっと、心配してるんです。私だけじゃない。ミュカだって、ミルドだって、メイーナだって! アンネローゼ様だって、ロズワール様を訪ねたときには、必ず、あなたの事を聞いてくるんです。元気にしてるかって」

「そ、そんなの」

「……だから。だから、スバル様しかあなたを見ていないなんて、そんな悲しいことを言わないでください。あなたを見ているのは、スバル様だけじゃない」

「……そんな、そんなこと、いまさら言われても」

 困惑するエミリア。当然だろう。今の彼女はスバルだけを見て、スバルだけに見てもらう事で成立している。その前提がひっくり返るのだから、当然彼女は揺らぐ。

「出すぎた発言、失礼しました。スバル様も、これまでの言動、申し訳ありません。でも忘れないで。エミリア様のこと、スバル様しか見てないなんてことはありません。何もできなかったなんて間違いです。どうか、どうかそれだけは」

 さあ、夕食にしましょうと着席するペトラ。それっきり、食卓からは会話は消えた。後には、食器の音だけが静寂の中に響く。

 夕食を途中で切り上げて、エミリアは早々に寝室に引っ込んでしまった。本当は、彼女のフォローをしなければならないのかもしれないが、今回ばかりは、そうもいかない。ペトラに、色々聞かなければ。

「……なあ、ペトラ。どうしてあんなことしたんだ?」

「言ったとおりですよ?スバル様。エミリア様に知ってほしかったんです」

 だが、本当にそれだけなんだろうか。

「むう、納得行かないという顔をなさってますね。まあでも、たしかにそれだけではないんですけどね」

「なんだ、やっぱり何かあるんじゃねえか」

「それはそうですよ!」

 最初に言いましたよね、と悪戯げな表情のペトラ。

「だって、そうじゃないと、私の想いが報われないですもの!」

「!? そ、それは」

「もちろん貴方のことです、スバル様。……お慕いしています」

 明け透けに好意を伝えられ、顔から火が出るかと思った。だけど、その想いには答えられない。

「ありがとう。でも、ゴメンな、ペトラ。俺の一番の二人はもう決まってるんだ」

 そう、それは譲れないもの。一人はすぐ近くに、もう一人とはもう二度と話すことも出来ないかもしれないけれど、それでも、それを譲ることは出来ない。

 それを聞いて、しかしペトラは、笑みを浮かべた。

「ええ、存じてます。でも、三番目は空いてますよね?」

 目が丸くなった。いや、確かにそれはそうだが、そんなこと。今の、二人というのですらも不実極まりないというのに。

「もちろん、ただ言って終わらせるつもりはありません。エミリア様と……レム様にも、認めていただきます。そのために、これから色んなことをします。スバル様を、振り向かせてみせます」

 それは、宣戦布告だ。スバルへの、エミリアへの、そして……レムへの。

「今回のことだって、その一環です。スバル様が、エミリア様とお互いだけを見ていれば、私の入り込む余地なんてありませんから」

 そう言って、不敵に笑うペトラ。……そのためなのか。そのために一ヶ月休みを貰って、不慣れな寂しい土地に、もしかしたら既にくっついているかもしれないエミリアとスバルの家に来たと言うのか。そうして、こちらに来て、自分たちが前に進めるように背中を押そうとしたのだろうか。だとしたら、彼女はどれだけ、どれだけ強いというのか。

「知ってました? 恋する乙女は強いんですよ、スバル様!」

 そう言って、今度こそ彼女は、花のような愛らしい笑みを浮かべた。それは、とても華やかな笑顔で、きっと多くの男を魅了するようなものだった。……さしもの自分も、少し見惚れてしまうほどに。

「さ、スバル様、行って下さい」

 何処へ、とも言わなかった。でも、それくらいは解る。

「……そうだな。ありがとう、ペトラ」

「いえ、こちらこそ。……それと、煽るような言動、本当にすみませんでした。これ以降は控えます」

「そうか、それは正直ありがたいよ。このままじゃ、命がいくつあっても足りそうにないからな」

「……本当にすみません」

「いや、良いんだ。それじゃあ、行ってくる」

 ええ、行ってらっしゃい、そう言って彼女は笑った。

「お、居た居た、エミリア」

「……スバル」

 ペトラとの激突からしばし。夜の帳が下りて、常ならば眠っている時間にエミリアは家の外に座り込んでいた。そのまま近づいて、となりのポジションを確保。

「……体、冷えちまうぞ。ほれ」

「……ん、ありがと、スバル」

 持ってきた毛布を手渡し、二人でくるまる。これで、当面寒さについては問題ないだろう。そのまま、しばらく無音の時間が過ぎる。彼女の表情に見えるのは、戸惑いと、困惑。当然だと思う。俺だけしかエミリアを見ていてくれないから、俺だけがエミリアを見てくれたらいい。だから、スバルだけに見てもらいながら、自分を変えずに、とどまりながら生きる。それが今の彼女。

 でも、そうではなかった。エミリアを見ているのは、スバルだけではない。それが、ペトラがエミリアに伝えたかったこと。彼女の前提が、今の彼女たる所以が揺らいでいる。だから、彼女が惑うのも当たり前だ。

「大丈夫か? エミリア」

 大丈夫ではないと知りながらも、何か言葉を発せずにはいられなかった。ここが、彼女の転換点になるのかもしれない。

「……解らない。解らないの、スバル。ペトラさんがそんな風に思ってくれていたなんて、知らなかった。村の子供たちが、私を心配してくれているなんて気づきもしなかった。スバル以外に、ハーフエルフでない私を見てくれる人がいるなんて」

 動揺が伺える、弱々しく震える声。エミリアは、目覚めてからずっと人から悪意だけを受け取って生きてきた。好意や優しさをほとんど受けてこなかったのだから、それを受けていることが解らなかったのはある意味当然といえる。

 でも、それはエミリアが勝ち取ったものだ。

「エミリアの心が、みんなに伝わったんだ。恥じることも怯えることも惑うこともねえよ。俺だけが君を見てるなんてのは、ちっとばかし性急な意見だったってことだな」

 勿論、俺は何時までだって君を見てるけど!と続ければ、彼女の混乱は少し収まったようで。

「……うん。ありがとう、スバル。……私、どうしたら良いと思う?」

 それは、初めて彼女から発された、自らのあり方への疑問。それでも、あり方の答えをスバルに求めている彼女は、未だ停滞の中にある。

 どうするのか。どうしたら良いのか。どう答えれば良いのか。これまでと同じように、止まった時間の中で、二人だけの幸せな世界を生きるのか。それとも、停滞を抜け出て、苦しくとも違う未来を求めるのか。今が、分岐点だ。

 ふと、思い出すのは、あの青い髪の少女のこと。救えなかったという事実と向き合い続けることができずに、ラムに後を任せて、ロズワール邸に置いてきてしまった。薄情だと思われるだろうか。思われても良い。もう一度、彼女と言葉を交わすことが出来るのなら。たとえ薄情だと罵られようと、恩知らずと詰られようと、もう一度、彼女の声が聞きたい。一度は諦めた自分がそう思うのは、道理に外れたことだろうか。

 ならば、ナツキ・スバルが選ぶのは。かつて諦めた英雄ではないけど、さりとて停滞でもなく。

「一緒に、探そう」

 言葉は、無意識のうちに溢れていた。

「一緒に探そう、エミリア。君のしたいこと、見たいもの、成し遂げたい想いを」

 それは、未来を望む言葉。ナツキ・スバルは停滞ではなく、先に進むことを選んだ。では、エミリアは? 彼女はその道を望むだろうか?

「そうね。そう、よね。」

 彼女は、笑ってそう言った。この数年間、ずっとエミリアの笑顔を見てきた。その中でも、きっととびきりの微笑みだった。頬が熱くなる。そのまま、彼女は左肩に頭を乗せてくる。感じる、心地よい重み。体同士が触れ合って、お互いの鼓動を感じる。彼女の、とても良い匂いが鼻をくすぐる。

「え、エミリアたん……? 急にどったの? 俺のハート、バックバクなんだけど」

「なんでもないですー。ただ、しばらくこうしていたいだけ」

 彼女は、答えをすぐには出さなかった。当たり前だ。そんなにすぐにあり方を選ぶことなんて出来ない。ゆっくり考えて、選んでくれれば良い。自分で未来を選ぶ、それこそがエミリアの時間が僅かであろうと進み始めている証なのだから。

 彼女は、自分の答えを受け入れるのだろうか。それは正直、解らない。けれど、二人で見上げる半月があまりにも綺麗だったから、彼女の体温がとても暖かったから、聞こえてくる彼女の鼓動がとても愛おしかったから、今はこのままでいいと思った。

 騒々しい日々が始まってから、ひと月が経った。今日は月に一度ロズワール便の日――つまり、ペトラが帰る日だ。

「エミリア様、スバル様、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げるペトラ。その行儀作法は礼に沿ったもので、彼女がいっぱしのメイドであることを嫌が応にも思い出させる。既にいつもの覆面男とパトラッシュのコンビは到着していて、物資も家に運び込んである。

「いや、こっちこそありがとうペトラ。息災でな」

「……ペトラさん。その、ありがとう。また会いましょう」

 二人でお礼を言う。実際、一ヶ月間彼女が家事を受け持ってくれていたので、かなり楽が出来たのだ。もっとも、お礼の内容は、それだけではないけれど。

「最後に。どうかエミリア様、自分の選んだ道を進んでください」

「……うん、ありがとう」

「……それと、エミリア様。私、絶対勝ち取って見せます」

「……スバルの好きは私のものよ。絶対に、譲らない」

 その答えに満足げな表情を浮かべて、それでは、といって一礼し、離れていこうとするペトラ。竜車に乗り込んで、そのまま発進かと思いきや、荷物だけ置いてスバルの元に駆けてくる。

「どうした? 忘れ物か?」

「ええ、そうです。スバル様。少し、左を向いていただけますか?」

「ん? なんでまた?」

「なんででもです。さあ、早く!」

 急かされて、訝しげながらも左を向く。わずかの間をおいて、右の頬にやわらかい感触が触れる。一瞬の後にはその感触は離れて。  いったい何が? などと少し混乱して、ペトラの方を向くのが遅れてしまった。

「またね、スバル!」

 ペトラを探すと、彼女は既に竜車に乗っていて、いつか見たようなあどけない笑顔を浮かべて手を振っていた。そのまま竜車は出発し、あっという間に見えなくなる。

 なんと手際が良い……などと、現実逃避的に考える。先ほどから、色んな意味で寒い。精神的な意味と、物理的な意味で。何せ、先ほどから恐ろしく冷たい視線が突き刺さっているのを感じるし、そうでなくても先ほどまで晴れていたはずなのにどういうわけか雪がチラチラと舞いはじめている。

 覚悟を決めて、振り返らなければならない。たとえ、死を察知することにはこの世の誰よりも優れた自分の第六感が、最大級の警戒を呼びかけていても。その行為の先に待っているのが、よしんば死だけだったとしても。

 ゆっくりと、ゆっくりと、慎重に振り返る。まるで、壊れたおもちゃの人形のように。自分の右斜め後ろにいるはずの彼女を見るためだというのに、なぜか左側回りで振り返る。半周回って、完全に後ろを向いたところで、一旦回転を止める。

「あの、え、エミリアたん?」

「――――」

 当然、視線は彼女の足元に固定されている。――顔を見ることが、恐ろしいからだ。

「あの、その、なんというか、あの、今のは、不可抗力だったんだ。予想の範疇を超えてたんだ」

「――――」

「し、仕方ないじゃないか、あんなに過激な行動に出るなんて、欠片も予想は出来なかったんだ」

「――――」

「だ、だからその……お手柔らかにしていただけると、非常に助かるのでどうかご一考いただければ幸――」

「――ねえ、スバル」

 スバルのみっともない声を遮って、彼女の声が、寒々とした森に広がっていく。――恐ろしいほどに冷え切った声。それだけで、自分の運命を悟ってしまった。

「――――言いたいことは、それだけ?」

 後に、彼は語る。このときばかりは、素手で大罪司教とやりあうことの方がマシだった、と。

「お話、しなくていいんですか?」

 ロズワール邸に向う、竜車の中。怪しげな覆面の男に話しかける。

「……スバル様、昔の怖いスバル様じゃないですよ? 話してみたら良いと思うんですけど――オットーさん」

「……それこそ、今更ですよ。どの面下げて、元気かって言うんですか。彼からの恩を返すことなく、逃げてしまった僕が」

 覆面の男が、覆面を取る。そこから現れたのは、なかなかに整った顔の美男子。だが、その灰色の髪には、若くして白いものが多く混じっていて、この間の彼の苦労の一端を偲ばせる。

 オットーさんが、ロズワール様に連れてこられて、内政官兼スバル様とエミリア様に荷物を届ける役割を仰せつかったのはほんの一年ほど前のことだった。ペトラは未だに覚えている。数年ほど前、聖域から帰ってきたスバル様とともに僅かな間居た、若く、人のよさそうな男性。

 それが数年の間に、想像を絶する苦労をしたようだ。再会したときには、若い男性とは思えないほどに老成していた。ロズワール様もオットーさんもそれについて多くを語らないけれど。

「スバル様、そんなこと欠片も気にしてないと思いますよ?」

「……そんなこと、わかってるんです。でも、でも……」

 オットーさんがスバル様に話しかけられないのは、かつての自分の行動に負い目を感じているから。まあ、これについてもまだ時間がかかるのかもしれない。でも、せめて。

「せめてその覆面、すごく怪しいから止めませんか?」

「ほっといてください!うう、僕だってもう少しマシなもので顔を隠したかった……」

 ロズワール邸の皆の中でも、話題になっていた。オットーさんがスバル様と話しているようではないということ。荷物の受け渡しで、必ず顔を合わせるはずなのに、どうやって話さないということが出来るのだろうかと皆不思議がっていた。その回答がこれだ。

 どうやら、直前まで覚悟を決めていたオットーさんは、土壇場で怖気づいて、とっさにそこらへんの適当な袋で覆面を作った。――以降、スバル様と顔を合わせるときには、必ずそれを着用しているそうだ。なんともばかばかしい話である。知恵があって頭も回る上に美男子なのに、どうして、オットーさんはオットーさんなんだろうか?

 それからはしばらくずっと、暇を持て余してそのことでオットーさんをいじり続けた。

「どうして、こんな年下の女の子に弄られ続けているんだ、僕?」

 それは、オットーさんがオットーさんだからですよ。流石にそれを声に出すことは憚られた。彼のプライドのためにも。

 エリオール大森林の、静かな夜。満月に照らされて、今夜ばかりはとても明るい。そこに、とてつもなく美しい後ろ姿がある。肩の下まで伸びた透けるような銀髪に、少しだけ尖ったかわいらしい耳。何をするでもなくただ満月を見上げている。

「お、ここにいたか、エミリアたん。早く戻らないと、風邪引いちゃうよ?」

「ん、でも、もう少しだけいいかな? ちょっと、色々考えていて」

 おーけーおーけー、と軽い調子で返事を返す。いつものことなので、それについて彼女も何も言わない。そのまま彼女と一緒に座り、毛布で包まる。何か言葉を交わすわけではないが、とても穏やかな時間が流れる。

 ――聖域で彼女が必要としたのは、きっとこういう安らかな時間だったのだ。ゆっくりと自分と向き合うための。そしてそれは、王選という慌しく常に圧力のかかる行事の中では、手に入れることの出来なかったものなのだろう。

 ペトラが去ってから、数ヶ月。その間、生活はほぼ変わっていない。変わったことといえば、ロズワール便とともにペトラの手紙が届くようになったことと、前よりも覆面男が逡巡する時間が長くなったような気がすること。そして、天候の良い夜に二人で寄り添って月を見上げるようになったこと、くらいであろう。

 そういえば、変わった変わらないで言えば、こんな事もあったか。

「なあ、エミリアたん。……髪、切らなくてもいいのか?」

「うん、良いの。もう大丈夫だから」

「……そっか」

 それきり、途切れる会話。お互いがお互いのぬくもりを感じて、安らげる穏やかな時間が続く。

 静寂を破ったのは、やはり彼女の方だった。

「……ねえ、スバル。前に、私に言ってくれたこと、覚えてる?」

「ん、ずっと一緒にいようって奴か?」

「そうね、それもそう。私たち、ずっと一緒よ、スバル」

 自分が少し茶目っ気を出して言った一言に、本気で愛をささやかれて、うろたえる。ああ、かっこ悪い。彼女はそのまま毛布を払って、立ち上がる。続いて自分も。そうして二人で向き合った後、彼女は言葉を続ける。

「それもそうだけど、私のやりたいことを一緒に見つけよう、って方よ」

「わ、わかってるっーの」

「そういう恥ずかしがりやなところも大好きよ、スバル」

「ふ、ふはぁ」

 思わず変な声を出してしまったではないか。ペトラの襲来は、良くも悪くもエミリアに多大な影響を及ぼした。その影響の一つがこれだ。彼女に対抗してのことなのかはわからないが、明け透けに好意を示すようになった。こっぱずかしいが、言われて嬉しい自分の存在も否定できないのでどうこうしようとは思えない。

 みっともないスバルの声は聞かなかったことにしたのか、エミリアが続ける。

「森の氷の中に封印されてるみんなを助けたい。それもそうなの、みんなにはきちんと、ごめんなさいを言いたい。そして、こんな私を支えてくれた、とっても素敵な人がいるんだって、母さまに伝えたい」

「……むちゃくちゃ恥ずかしいな、それ」

 エミリアの母代わりの女性のことは、何度か彼女から聞いている。とても優しくて強い、エルフの女性だったそうだ。ますます、そんな女性がエミリアを詰るなどとは思えないのだが……。ついでに、その女性に氷付けにされないか心配である。よくも私の娘に二股をかけてくれたな、と。

 その問題は、棚に上げてできればそのまま忘れておくとして、他にも重大な問題がある。龍の血、それで本当に彼らを救えるのか、わからない。その事を言わなければ。

「その、それについてなんだけど、エミリア。その、龍の血は危ないというか、疑わしいというか、その……」

「うん、知ってるわ。スバル、龍の血の話したとき、すごーくへんちくりんな顔してたもん」

「へんちくりんて今日び聞かねえな……」

「もう、すぐに茶化すんだから……。でも、龍の血を使うのは最後の手段にしようと思うの。プリシラさんから龍の血を貰うの、とっても難しそうだし、手に入れても本当に助けられるのかわからないし、そもそもロズワールが言っていたことだから何処まで正しいのか怪しいし」

「それがいいと思うよ。というか、ロズワールってそういう扱いなのな……」

 哀れロズワール。エミリアをしてこの言われようである。まあ自業自得だが。そして、エミリアの指摘は正しい。いかなる手段を用いても、プリシラから龍の血を手に入れることは出来なかった。それは、スバルが一番よく知っていること。プリシラの機嫌が格別いいときなんてわかりやしないのだから、もう二度と龍の血にお目にかかるチャンスは無いかもしれない。

「それはともかく、龍の血じゃない方法で、皆を助けたい。そのために、色々、この世界を見てみないといけないの。それも、私がしてみたいこと。だけど、きっと、それだけじゃない。集落の皆を助けて、私はこんなことをしたんだって、胸を張って言えること、探してみたいの」

 それは、彼女の宣言。何かはわからないけど、自分のしたいことを探してみたいという意思表示。彼女は、前に進もうとしているのだ。数ヶ月間悩み続けた、彼女の答えがついに明らかになった。

「ずっとこのままでも良いって思ってたの。だって、初めてだったから。大好きな人と二人で、静かな場所で、穏やかに暮らすこと。とっても幸せで、言葉に出来ないほど楽しくって、すごーく満たされてたの。……ホントにこのままエリオールの森で、集落の皆を救えずに、彼らの墓守として生きていていいのかって考えなくも無かった。だけど、スバルとの暮らしがあまりにも幸せだったから、それでも良いかもって思ってた」

 彼女も、そう思っていたのか。遅まきながらも、スバルは思い知る。自分と同じだった。二人の、二人だけの暮らしはとても幸せで、可能であればずっとこのままでありたいと思っていた。だけど、それでも、このままでいいのかという焦燥感のようなものが、胸のどこかを焼きつづけてきた。やはり、根本ではエミリアは自分と同じなのだ。

「そしたら、ペトラさんがやってきて、ハーフエルフだからって特別に見る人ばっかりじゃないって言ってくれた。それでどうしたらいいかわからなくなった時、スバルが一緒に探そうって言ってくれた。……だから私、前に進もうと思います」

 改めて、ペトラのしてくれたことに感謝を覚える。エミリアと自分が前に進むために、背中を押してくれたのだ。きっと、自分ひとりでは彼女を救うことが出来なかった。

「きっと、辛くって苦しい道だと思う。何をしたらいいのかなんて解らないし、どうしたら見付られるのかなんて、想像もつかないの。それでも、自分のしたいこと、探そうと思います。……だから、その」

 一瞬、言いよどむエミリア。次に何が言われるかなんて解りきっていて、それは何度も繰り返しお互いに言ってきたことで、それでも言いよどむというのは、それだけ彼女は否定されることを恐れているのだろうか。――そんなこと、万に一つも有り得ないのに。

 ならば、こちらから言おうかと、口を開きかけて、彼女の目に制止される。私に言わせてほしい、と訴えている。ならば、仕方あるまい。やがて、覚悟を決めたのかエミリアがこちらを改めて向く。

 「わ、私と、生きてください。私と一緒に、来てください、スバル」

 それは、明確な彼女の意思表示。かつて停滞を望んだのと同じ言葉でもって、今度は踏み出す自分とともに生きてほしいと言う。全てをなくしたように考えて、そうしてスバルにすがった彼女はもういない。エミリアは、停滞から一歩を踏み出そうとしている。

 それは、ほんの小さな小さな一歩に過ぎない。あるいは、そう遠くない未来に、押し返されてしまうかもしれない僅かな前進。それでも、彼女は、留まり続けることよりも、進むことを選んだ。

 これ以上失わないことしか出来ないと思っていた。自分は愚かだから。だけど、今、エミリアは前に進もうとしている。――以前のように。決して自分ひとりの力ではなかったけれど、エミリアを、エミリアの心を救うことができた。

 エミリアから二度目のプロポーズのような言葉を受けながら、スバルは不謹慎ながらも、青い髪の少女のことを想う。もう、声すらも思い出せなくて。大切な言葉も、記憶の彼方に消えてしまって。それでも、大切な人。英雄になりたかったと自身を謗る醜い男を、英雄だと言ってくれた、英雄にしてくれたひと。

 全て救うだなんて、大それたこと、もういえない。もう出来ない。でも、それでも、救いたい人がいるから。 ――必ず、取り戻す。だから待っていてくれ。記憶のなかで、鬼の少女が笑った気がした。

 きっと、想像も出来ないほどの苦難が待っているのだろう。それでも、進んでいける。レムと話すことを夢見ているから。そしてなにより、エミリアが、一緒に進んでくれるから。

「もちろん! 俺は君の騎士、ナツキ・スバル。何時だって何処までだって、君とともにある!」

 そう言って、笑った。本当に、心の底から。それを浮かべるのがどれ程久しぶりのことなのか、進むといってくれたことがどれだけ嬉しかったのか。きっと彼女にはわからない。でも、それでいい。

 誰が聞くこともなく、交わされた二つの誓い。その前途を祝福するかのように、満月が二人を明るく照らしていた。




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