ゴールデンウィーク3日目は、生憎の雨模様で、外では陰鬱な雨が音を立てて降り注いでいた。
だが、室内で行うダンスレッスンにはそんな雨の影響など全く関係なく、いつも通りの光景が繰り広げられていた。
ちなみに今日のメンバーは朱里、雪歩、やよいとダンスが比較的苦手な3人。そして講師は女性トレーナーであった。
「1,2,3,4!はい、そこでターン!そしてステップ!!」
トレーナーの手拍子に合わせて、周りと同じ動きで踊る朱里。この1カ月のレッスンで、ようやくダンスも様になってきた。…まあ、周りに付いていけるようになっただけで、実力的にはまだまだなのだが。
そして、トレーナーが「ストップ」の掛け声と共に、パンパンと手を2回鳴らす。
「…うん、上出来ね。特に朱里ちゃん、1か月前とは見違えるほどに上手くなったわね!でも、もう少し表情に締まりがないとダメよ?アイドルは常に笑顔でなきゃ」
「は、はい」
腰に手を当て、息も絶え絶えしながら答える。…ようやく踊れるようになったのに、今度は表情か、また新しい問題が浮上した。
「じゃあ、今日のレッスンはここまでにしましょう。しっかりと柔軟して」
トレーナーの言葉に一気に緊張感が解れる。
「あ、雪歩さんとやよいは先に2人でやっていていいですよ。私は後で」
2人にそう言うと、朱里は一人でもできる柔軟メニューを行うことにする。こういう細かい所も先輩優先だ。
腰に手を当て、息も絶え絶えに答える。…ようやく踊れるようになったのに、今度は表情か、また新しい問題が浮上した。
「…痛てぇ。…まだ体固いなあ」
一応、風呂上りに柔軟運動は毎日しっかりやっているのだが…効果が現れているとは思えない。というのも、あまり体が柔らかくなったという感じがしないのだ。
(まあ、こればかりは長い目で見るしかないか。大切なのは続けることだし)
グイグイと体のあちこちを伸ばし、柔軟はとりあえず終了。後は2人が終わるのを待って、どちらかに柔軟を手伝ってもらおう。
それまで、飲み物でも飲もうかな。朱里は自分のカバンの中にあるスポーツドリンクを取り出すために、立ち上がった。
※
「朱里ちゃん、先に行くね」
「お疲れ様でした」
「おう、お疲れー」
朱里は2人に手を振って見送る。そして、2人が退出した後、カバンから大学ノートとペンを取り出し、トレーナーの元へ歩いていく。トレーナーも『いつものことか』という顔をしていた。…ただし、その表情は嫌な顔一つない、穏やかな物であったが。
「…で、今日はどこが分からないの?」
「ここの部分なんですよ」
朱里は休憩中、ノートに書いた簡単な絵を指差し、トレーナーに説明を始める。
「この4拍目の後、ターンをしますよね。この前の足の位置なんですけど…」
「…ああ、ここ?そうね、ターンしようとするあまり、ステップが雑になりがちだから、ここは足をしっかりと揃えて…」
朱里は分からないことがあったら周りに徹底的に聞くことにしている。疑問は出たら徹底的に潰し、次のレッスンに持ち越さないようにしている。
(…まるで高校時代みたいだな。良く分からない問題が出たら職員室まで質問しに行っていたっけ)
最近の子は引っ込み思案で、分からない問題も質問せずに放置するというのが多いらしいが、朱里はもったいないなと思う。
少なくとも、質問したからといって殺される訳じゃないのに。聞くだけならタダだし、それらの内容は少なからず自分にプラスとなってくれる。
それにそうやって教師との繋がりを深くして、コネを作っておくのも、決して悪い話じゃない。事実、トレーナーへの質問も毎回行ったおかげか、トレーナー側も多少の融通を聞いてくれるようになり、偶に居残りレッスンもしてくれるようになったし。
(大学時代はそれらを全部サボって遊びに費やしてたからなぁ。…今思うともったいないことしたもんだ)
1周目の大学時代、専攻している教科の教授が、とある企業の社員たちと仲が深いということがあった。自分の友人たちは教授経由でその社員たちと知り合いになり、深いコネを作っていた。…その間自分はサークルで麻雀などを打ち込んでいたが。
その結果、友人たちは(勿論成績もよかったが)コネを作っていたおかげか、その企業への内定を貰っていた。そしてコネを作らず、遊び呆けていた自分は就職浪人と化してしまった。
「…ま、こんな感じね。ちなみにこれ、結構使う技術よ」
「はい、ありがとうございました」
パタンとノートを閉じる。忘れないうちに後でしっかり清書しなきゃな。
「あと、聞いただけじゃダメよ!しっかり…」
「しっかりと練習…ですよね」
ニコッと朱里は笑う。…つられて、トレーナーも笑った。
「そうよ。それじゃ、お疲れ様」
「はい、お疲れ様でした」
※
「ただいまー」
びしょ濡れの傘を入口付近に立てかけ、挨拶と共に朱里は事務所へと入る。
「…あれ?」
辺りを見渡しても、雪歩とやよいの姿はなく、代わりにプロデューサーと小鳥が机に向かっているのが確認できた。
スタジオ出る時には、雨は結構強くなっていたし、あれから結構時間も経っている。本降りになる前にあの2人は帰ったのかもしれない。…結構、家遠いみたいだし。
…とりあえずあの2人にコーヒーでも淹れておくかな、丁度自分も一杯飲みたかったし。
スタスタと給湯室へ向かい、戸棚からマグカップ3つとインスタントコーヒーの瓶を取り出す。スプーン1杯分の中身をマグカップに入れ、電気ポットの湯を注ぐ。辺りにコーヒーの香しい匂いが漂う。
(小鳥さんは砂糖3つとクリープ1杯。プロデューサーはクリープだけ1杯。そして自分は何もなしのブラック…と)
戸棚から角砂糖の入れ物とクリープ瓶を取り、慣れた手つきでコーヒーを2人の好みの味に変えてゆく。
朱里はコーヒーが好きだった。1周目の時はそうでもなかったが、2周目が始まってからは良く飲むようになった。…何故なら今の自分は酒が飲めないからだ。
(口元が寂しくなるんだよな。禁煙者の大半が口元が寂しくなるって理由で喫煙者に戻る理由が分かる気がする)
1周目ではタバコはやっていなかったが、飲酒なら大学入学当初からやっていた。サークルの先輩の実家が酒好きで、実家からくすねてきた酒で酒宴をよくやっていたからだ。そのおかげか結構、酒には強くなっていた。
ところが2周目の自分はまだ未成年、酒が飲めない身分だ。…そうなってくると、酒が飲めないというのがだんだんストレスになってくる。両親は家でほとんど酒を飲まないし、飲むとしても仕事の付き合いでしか飲まない。そのため家には酒のストックが無く、隠れて飲むという行動ができない。
…その穴埋めとしてはまっていったのがコーヒーだった。最初は苦い汁としか思えなかったがはまるとこれが中々いける。小学校低学年のあたりから砂糖とミルクが多めのコーヒーを飲み始め、中学に入ってからはブラックも飲めるようになっていた。…今では飲まない日の方が少ない気がする。
お盆にマグカップを乗せ、2人の机に運ぶ。
「はい、どーぞ」
コトッとプロデューサーの机にマグカップを置く。
「おっ、ありがとう」
プロデューサーは資料から顔を上げ、礼を言った。
「いえいえ。お仕事、お疲れ様です」
プロデューサー。美希と朱里が765プロに入る数日前に入社した新人プロデューサーであり、黒の短髪で眼鏡をかけている青年だ。見た目、性格共に誠実そうで、なんだか女子校の先生みたいな雰囲気がする人物だ。…ちなみに本名は知らない。みんなプロデューサーと呼んでいるので、そう通すのがこの業界のルールらしい。
プロデューサーとしてはまだ新人らしく、今はまだ律子のバックアップが主な仕事であり、現在も色々勉強中なのだそうだ。
「小鳥さんもどーぞ」
「あ、朱里ちゃん。ありがとう…!」
同じように机から顔を上げた小鳥はもうグロッキー寸前のような表情をしていた。
(…また仕事ため込んだのかこの人)
音無小鳥。765プロダクションの事務員の女性であり、朱里の面接官をしてくれた一人だ。緑色を基調とした事務員の制服を着て、仕事もできるのだが…所謂オタク趣味があり、ついついそっちを優先させてしまうらしい。事務員としての腕は確かなのだから、もう少し趣味にかける情熱を仕事に回せばいいと思うのだが。
「…そういえば、もう朱里が765プロに入って1カ月か。早いなあ」
「そうですね。なんだかあっという間ですね」
そういうと朱里は空いている椅子に座り、コーヒーを口に含む。…ふと目線を移動すると、朱里はあることに気付いた。
「あれ?律子さんいるんですか?」
そう、律子のデスクに、彼女の通勤カバンが置かれていることに気付いたのだ。…しまった、居るんなら律子の分のコーヒーも淹れておけばよかった。
「あー、いるにはいるんだけど…」
「…?何かあったんですか?」
プロデューサーの口が重い。…何かあったのか?
「律子がな、…その、社長室で亜美と真美に説教中なんだ」
「…あいつら何やらかしたんですか?また悪戯ですか?」
「それが違うらしいのよ」
ここで小鳥が会話に加わる。
「学校でやった中間テスト対策の模擬試験で2人とも全教科赤点だったらしくて。それを偶々律子さんが見つけちゃったらしいのよ」
「まあ、多少は勉強が不得意でも目を瞑るけど…いくらなんでも全教科赤点はちょっとな…」
2人はうーんと悩む。…まあ、確かに気持ちは分からなくもないけど。
(…赤点って。いくらなんでも酷いぞ。あいつら中1だろ?中1の範囲なんて、まだ小学生の知識に毛が生えた程度なのに)
「コラー!!」
「「勉強なんて→出来なくてもいいもーん!!」」
その掛け声と共に、息の合ったタイミングで亜美真美が社長室から出て来た。遅れて律子も出て来る。
「あんたらねえ…いい加減にしないと…」
「別に学校の勉強なんて使わないって!よくテレビで言うじゃん、学歴社会の時代は終わったって!」
「そーそー!今じゃおバカアイドルとかいるっしょ?亜美たち困ったらそれになるって!!」
2人が普段、絶対に言わないであろう言葉を巧みに使って、律子に対抗する。
律子はそんな発言にぶち切れ寸前だ。
「あーあ…」
小鳥はその光景を見て、怯えるような声を出す。一方朱里はそれらの光景をボーと見ていた。
(…まるで昔の自分みたいだ)
勉強なんて…ね。大学時代の自分が口癖のように話していた言葉だ。もし、あの頃の自分に話せるのなら、「大馬鹿野郎」と怒鳴りたかった。それくらい、あの2人の発言は愚かだった。
「大体、アイドルしか興味がない私たちに勉強なんて時間の無駄だよ→!」
「そうだそうだー!!」
…その言葉を聞いた瞬間、思わず朱里は口を開いた。それも事務所全体に聞こえるような低い声で。
「―それは違う」
…まるで亜美真美だけじゃなく、過去の自分に言い聞かせるように。
※
「…あ、朱里?」
プロデューサーの声で、ハッと我に返る。
…やっちゃった。朱里は内心、そう思っていた。思わず口を開いてしまったせいで、事務所の空気が変に重い。
本当は説教なんてしたくないんだけど…仕方ない。もうこうなったら引くに引けないし、言いたいことをもう全部言ってやろう。
「勉強は必要だよ。生きてく上では絶対にね」
ムッと亜美の顔が険しくなった。
「じゃあ、あかりっちは今やっている国語とか歴史とかの教科が亜美たちに必要だと思うの?」
「…さあ?それは分かんないよ。2人がそういうことに関係する仕事に就くのなら必要になるだろうけどな」
「じゃあ、亜美たちには関係ないね!亜美たちトップアイドルになった後、タレントになるし」
えへんと胸を張る亜美。…その年でそこまでの人生設計を考えられるのもある意味凄い。
「…それが出来るのなら、な」
返す刀の如く、亜美の発言を切り返す。
「アイドル引退したってタレントになれる人なんてごく僅かだぞ?ほとんどの人が引退して、はい、さようなら。そもそも私たち自身、アイドルとして成功するって保証はどこにもないし。活動失敗して、そのまま引退ってケースもあるよ?」
「う…」
…ある意味禁句を口走ってしまった。トップアイドルを目指している子達に売れないなんて。
「そういう時、今まで何も勉強してませんでしたってなったらどうする?…何も積み上げてないそんな奴を雇ってくれる所なんてあるか?生活できるか?」
「あ…あうう…」
まるで父親に説教されるが如く、亜美の動きが止まった。が、続いて真美が口を開く。
「あ…バ、バイト!真美、フリーターになるよ!」
「バイトは給料安いぞ?保険だって出ないし、怪我や病気になったらそのお金全額負担だぞ?月々の生活だけでいっぱいいっぱい、貯金なんて雀の涙。さらに齢取ったら雇ってくれなくなる」
「う…うう…」
続いて真美が口を紡ぐ。…朱里の言葉はまるで実体験を語るような異様な説得力を持っていた。…というかほぼ自分の実体験なのだが。
「将来、何が起こるか、何をやるのかまだ分からないんだからさ、今の内に何でも勉強しておいた方がいいと思うよ。自分の可能性を広げるためにもさ」
そう、一寸先は闇なんて言葉の通り、人生、何が起こるか分からないのだ。そもそもここに外見は女で中身は男という人物がいるという事実こそが、人生の不条理を物語っている気がする。…神様は残酷だ。
「それに…学校の勉強で一番大切なことは勉強のやり方を学ぶことだと思うし」
「「…やり方を学ぶ?」」
「うん。何かを調べたり勉強したり、発表したりとか…学校でやったことが将来役に立つし。そういう時にやった苦労が、要領や忍耐、自信へと繋がっていくんだよ」
そもそもレッスンするのも、技術を上げる他に、自信をつけるためでもある。何日も何日も地道な反復練習。それが自信へと繋がっていくのだ。
「プロデューサーだって大人だけど、今はプロデューサー業を勉強してるだろ?いくつになっても勉強はしなくちゃならないし、できるんだよ。…その勉強を嫌がって逃げることも出来るけど、逃げた分の時間は永遠に帰ってこない」
事務所のみんなが一斉にプロデューサーを見た。プロデューサーは何だか恥ずかしそうな顔をしている。
「…まあ、別に勉強を好きになれって言ってるわけじゃないよ。私だって嫌いだし。でも最低でも学校のテストで赤点だけは回避しとけよ。内申書に書かれるぞ?」
朱里は言葉を切った。…亜美真美だけじゃなく、事務所にいる全員が呆気にとられている。
「…もしかして、引いてる?」
「「うん」」
亜美真美の息の合った声に、自分が我知らずと熱くなってしまったことに気付く。亜美真美の行動に、過去の自分と照らし合わせてしまったため、まるで過去の自分に向かって説教するかのようにヒートアップしてしまったのだ。
「あ、朱里。あなた本当に中学2年生?」
「…よく言われますよ」
「というか2人とそんなに齢変わらない…わよね。朱里ちゃん」
「そうですね。1歳違いですね」
律子と小鳥の質問にも機械的に答える。…この場にいるのが凄く嫌だ。さっさとコーヒーを飲んで早く帰ろう。
「…それではお疲れ様でした」
中身を飲み干したマグカップを机の上に置き、荷物を持つと脱兎の如く、朱里は駆けだした。
とりあえず早く帰ろう。この空気に留まるという行為に自分自身、耐えられる気がしない。
途中、誰かにすれ違い、条件反射で挨拶をする。
「あ、お疲れ様でし…」
しかし突然、グンッと腕を引っ張られる感覚がし、急ブレーキをかけられる。たまらず朱里は立ち止まった。
「…!何すん…」
思わず文句を言いそうになるが…自分を止めた人物の姿を見ると、動きが止まった。
「朱里さん。…少し、いいかしら?」
視線の先には一人の少女がいた。彼女の右手には、自分の片腕がしっかりと掴まれている。
(…嘘だろ)
あずさと同じ青味のかかった長い黒髪と、華奢な体が特徴的な少女。
…その少女の名前は如月千早。恐らく、この事務所一の厄介な人物であった…
初めて朱里が大人っぽい行動を描写しました。…こんなこと言う中2なんて絶対いないよ。自分が中防のころは毎日くだらないことばかりやって笑っていましたし。
ちなみに劇中で喋った朱里の説教は作者が自分の親にマジで言われた内容を参考にしています。…家の親、あらためて考えてみると怖いな。