ゴールデンウィーク4日目は昨日通り過ぎた低気圧の影響からか、どんよりとした曇り空だった。
朱里は朝7時に起き、キッチンへと向かう。とりあえず寝起きの頭をすっきりさせたかったので、インスタントではないちゃんとしたコーヒーを飲むことにした。ちなみに両親は夫婦水入らずの日帰り旅行に出かけているので、今日は家にはいない。
手挽きミルを使って、久しぶりにちゃんと豆を挽くと、それだけで芳しい香りが漂う。その芳しい匂いを感じることで朱里の意識が徐々に覚醒してゆく。…うん、いい感じだ。ここまでの感覚はやはりインスタントじゃ味わえない。やっぱりコーヒーは豆挽きに限る。
マグカップの上に挽いた豆を入れたドリッパーを乗せ、上から少しずつ熱湯を注ぐ。
完成したコーヒーを一口飲みながら、ニュースでも見ようかと思い、テレビをつける。
『えー、ゴールデンウィークも残すところ後二日になり、各地で帰宅ラッシュが起こり、高速道路では渋滞が…』
どのチャンネルを回しても同じような内容ばかりで、どうも面白みに欠ける。それだけ世の中は平和ってことなのかな。
(…新聞でも見るか。目につくニュースもないし)
朱里はそれ以上のテレビに対する興味を失い、ソファに座って新聞を見ることにした。…が、活字を目で追いつつも、意識は新聞とは別の事に傾きつつあった。
(…ゴールデンウィークも明日で終わりか、早かったよなぁ)
なんというのか…今年のゴールデンウィークはあっという間に終わってしまった気がする。
この連休期間、ほぼレッスンと自主トレしかしていないが、とても充実した日々だった。
今まで何となく避けていた人たちとも絡めたし、その人たちの意外に知らない一面も見れた。これ以上望むものはないんじゃないだろうか。
ちょうど政治経済の欄を読み終わり、スポーツ欄に目を移動させようとした時、誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。
(…たぶん、美希姉さんじゃないな)
美希は今日の予定は完全オフだ。そうなると昼間まで寝ているだろうし。…そしてなにより足音の間隔が違う。
「…あいかわらず早いねぇ、あんたは」
新聞からちょっとだけ目線を上げると、朱里の予想通りだった。視線の先には私服姿の菜緒が呆れたような顔で立っていた。
「おはよう、菜緒姉さん。…どっか行くの?」
私服姿と背負っているバックが気になり、朱里は尋ねると、その途端、菜緒は「嫌なことを言うな」といった様子の表情をする。
「…今日、大学で就活面接があんのよ。ったく、ゴールデンウィーク中にまで組み立てなくてもいいじゃない」
忌々しく吐き捨てると、菜緒は朱里の隣に座った。…ああ、なるほどね、もうそんな時期か。
星井菜緒は現在、大学3年生。大学3年といえば、ゼミに入ったりする時期だが、同時に来年に控えている就職活動に向けての準備が始まる時期でもある。
朱里も1周目で同じ経験をしているから、なんとなく菜緒の気持ちは分かる。この時期になると急に『就活』や『内定』など、聞きたくもないワードが増えてくる。今までのほほんとしていた奴らは、そのワードにより、のほほん気分に冷水をかけられる羽目になる。その結果、菜緒のようにナーバスになったりする奴も少なくはないのだ。
「あはは、ご愁傷様」
「まったくよ。こちとら休みなのに、わざわざ休みの日まで就活のこと考えなくちゃならないなんて」
はあ…とため息をつく姉に同情し、朱里は笑った。この苦しみは実際やった者にしか分からない。…今回ばかりは本気で同情できる。
(自分もそうだったしなぁ。…今から数年後にはもう一回味わうかもしれないんだよな)
なんとも変な気分だ。一度終わったはずの事をもう一回やるなんて。またクスリと笑ってしまった。
そんな笑う朱里の姿を菜緒はまじまじと見て、こう言った。
「…やっぱ、あんた変わったわ」
「え?」
菜緒の突然の言葉に反応してしまった朱里。菜緒は朱里の顔をビシッと指差す。
「顔。アイドル始めてから、表情が柔らかくなってんのよ。気づかない?」
思わず、朱里は自分の顔を手で撫でる。
「…そうかな?」
「そうよ。結構わかりやすいんだから、あんた。今までは仮面被ったみたいな顔していた分、余計にね。…たぶん、私だけじゃなくて、みんなも気づいていると思うわよ」
…ぐうの音もでない。朱里は苦虫を噛んだような顔と共に黙ってしまった。
今までは女になったという、行き場のないストレスを抱え、世界一不幸な人間のような気分で生活していた。ただ、家族にだけは余計な心配をかけたくはなかったので、元気でやっているように振る舞っていたが、家族たちには筒抜けだったのか。…仮面被ったみたいな顔、ね。なんか嫌な響きだ。
「まあ…あんたがどんなことやっているのか、何を目指しているのか分からないけど…私は最後まで応援するよ。頑張んな」
菜緒はそれだけを言うと、「行ってくるね」と家を出て行った。
「…」
一人残された朱里は、新聞を畳み、すっかりぬるくなったコーヒーを啜った。
(応援されるって…嬉しいな、なんか)
うっすらと口角を上げた。…少し照れくさくなってしまったのは秘密だ。
※
「おはようございます」
まだレッスンまで1時間弱の余裕があったが、あのまま家に居ても暇なので、事務所に顔を出すことにした。
「…あれ?」
事務所に入った朱里は静かな空気の事務所に違和感を感じてしまう。
(…?誰もいないのかな?)
パチンパチンと何かを叩く軽い音から誰かはいるのだと思うのだが…。
「おお、朱里君か。おはよう」
「…ああ、社長。おはようございます」
社長に挨拶をした朱里は、そのすぐ隣に見慣れない男がいるのに気付いた。テーブルの上には二人でさっきまでやっていたらしい、将棋盤と駒が置かれていた。
(誰だこの人?…お客さんかな?)
その男の見た目は50代くらいで、すらっとした体系と白髪、髭を生やしており、眼鏡とニット帽を被っている。が、その見た目にも関わらず、背筋はぴんとしており、その堂々とした様子からもっと若く見える気がする。
そんな朱里の様子に気づいた社長は、男の紹介を始めた。
「ああ、朱里君は彼に会うのは初めてだったかな?私の友人の吉澤くんだ」
「吉澤だ。よろしく」
吉澤と呼ばれた男は笑って手を差し伸べてきたので、握手をする。
「星井朱里です。よろしくお願いします、吉澤さん」
握った手はごつごつしており、いかにも男っぽかった。…何だか、親戚の叔父さんに似た雰囲気がするな。
「…君が噂の朱里君か」
「…噂?」
吉澤に品定めされるような目で見られたので、思わず警戒してしまう。そんな様子の朱里に吉澤は「そんなに警戒するな」というような顔をする。
「星井美希と星井朱里。君たち2人の噂は高木から聞かされていてね。律子君と音無君が悩むほどの逸材ってね」
…そんな期待、あまりしてほしくはないんだけどな。姉だけならともかく、まだまだ学ぶことが多い朱里はあまり周りから期待されるのがどうも苦手だった。
「いえいえ。そんなことありませんよ。毎日が勉強で、ついていくだけで精一杯ですから」
吉澤のお世辞に朱里はやんわりと対応する。
「はは、謙虚なことはいいが、あまり度が過ぎると嫌味に聞こえてしまうぞ?」
「あはは…」
一応、ついていくので精一杯なのは本当なんだけれどな。そう笑うと、朱里はテーブルの上にある将棋盤に目を移した。駒の減り具合と配列から、かなりの接戦を繰り広げていた。
「へえ…いい勝負してますね」
「…ほう、朱里君は将棋のルールが分かるのかい?」
「大体は分かりますよ。打ったことはあまりないですけど」
そしてその後、社長と吉澤の対局を見ながら、三人で色々な話をした。事務所の雰囲気はどうだとか、みんなとは上手くいっているのか。…何だか三者面談をやっている気分だった。
意外にも朱里は社長と吉澤と本音で話し合っていた。いつもなら話を誤魔化したり、嘘をついたりしてしまうのだが、今回に限り、それはなかった。
(…同性と話せるってこんなに楽なものなんだな)
異性と話すとなると、色々気を遣わなくちゃならないので少し苦手だが、同性なら話は別だ。それに久しぶりに年上と話したのが嬉しかったのかもしれない。
(…考えてみれば、小鳥さんより年上なんだよな、自分)
自分は女子中学生の皮を被った三十路の男だから、年齢が二十代後半の小鳥よりも年上という恐ろしいことになっている。そのことが原因で同年代の子と話がかみ合わないなんて事例も結構あるし、話を合わせるのにも気を遣うし。…小鳥がこのことを知ったらどんな顔するんだろう?
「…朱里君、そろそろレッスンの時間じゃないのかい?」
「…!」
壁に掛けてある時計を見て、朱里はギョッとした。時間が押している。そろそろ事務所を出ないと確実にレッスンに間に合わなくなってしまう。…結構話し込んでいたんだな、自分。
「じゃあ、とりあえず失礼します。色々と話せて良かったです」
「はは、こんな爺の話を聞いてくれてありがたいねぇ」
「そんなことありませんよ。…ありがとうございました」
笑顔でそれだけを言い、朱里は慌てて事務所の階段を駆け下りていった。
※
「…いい子じゃないか、高木。アイドル時代の律子君を思い出すよ」
「はは、私もそう思うよ。あの生真面目さは候補生時代の律子君そっくりだ」
2人っきりの事務所で、吉澤と社長は少年のように笑った。…きっと律子本人が聞いたら、怒りそうだな。「私は生真面目なんかじゃありません!」って。
(…最初は心配だったけれども、あの様子じゃ事務所にも馴染めているようじゃないか)
朱里は時折、年相応の対応をしないことがある。同年代の子と比べて、あまりにも出来過ぎている性格の為、当初はビックリしてしまったほどだ。あまりにも大人すぎる、それが社長、高木順二朗が星井朱里に抱いた第一印象だった。
その為、どこか心配だった。彼女はまだ子供だ。誰にでも『他人行儀』で『大人』な接しかたをする朱里は周りからの重圧でいつか潰れてしまうんじゃないか…そう思ってしまったのだ。
人間とは脆い生き物だ。荷物を背負い過ぎるとその重さに耐えられずに潰れてしまう。その為、社長は『絆』を大切にする。一人じゃ背負いきれない荷物も、2人なら、3人ならどうだ?…大勢の人間が助け合い、支え合う。きっとそうすることで、互いの絆は深まり、高みも目指せるのではないか…それが高木順二朗の持論だった。
…そのおかげどうかは分からないが、この一月で朱里はどこか丸くなった気がする。先ほどの話の時も作り顔じゃない、本当の笑顔を自分たちに見せてくれた。
(彼女たちの才覚が花開く時が楽しみだ…)
美希と朱里がデビューし、その時に大勢の前で輝く日を社長は心待ちにしている。
ここで吉澤が一つの質問をぶつけてきた。…どこか小さな声で。
「なあ、高木。お前はあの事について後悔してしないのか?お前なら今のやり方にこだわらなくても十分に…」
「…何を今更言うんだ。私は後悔などしていないさ」
その回答に吉澤は何とも言えない顔をした。…社長の過去を知っている分、余計につらい。そしてそのことを知っているのは、自分たちを含めたごく僅かの人だけだ。
社長は背広の胸ポケットに仕舞ってある一枚の写真を取りだし、しみじみと眺めた。そこには若き頃の社長と吉澤、そしてかつて同僚だった男の3人の姿が映っていた。
「…私は自分のやり方を信じるさ。たとえどれだけ時間がかかってもね。彼女たちはそれをきっとやってくれる」
「…そうだったな。変なことを聞いてすまなかった」
「何、構わんよ」
吉澤は帽子を深くかぶり直すとタバコに火をつけた。タバコを吸わない社長を気遣い、横を向いて煙を吐く。
社長はその写真に写っている男を眺めた。それはかつて共に仕事をし、共に笑いあい、すれ違いから道を分かち合った男であった。
(…黒井、私は確かに失敗した。だが、私はそれでも信じたいんだ。『孤高』などではなく『信頼』こそがトップアイドルに必要な物なのだと。…お前は笑うかもしれないがね)
社長の心の声は誰にも聞こえることはなかった。…それを誰かに言うつもりもなかったが。
高木社長と黒井社長の因縁の詳細は公式で明らかになっていないんですよね。どうやら高木社長が過去に犯した何らかの悲劇が原因らしいのですが…。
アイマスSPでそれらしい伏線こそありますが、自分が知る限りでは、その伏線が明らかになるシーンがない気がしますし。
そこはファンのご想像にお任せしますということなのかな?謎のままにしておいた方が返って、魅力につながるのかもしれませんしね。…でもその謎が知りたいというジレンマもある。難しいですね。