5千文字は少し短い気がしますし、1万文字以上は長すぎる気がしますし。
7~8千文字くらいの丁度いい感じで毎回書きたいのですが、そういう時に限って伸びてしまうというジレンマが…。1万越えは久しぶりな気がします。
ではどうぞ。
朱里が誤って男子トイレに突入してしまう数十分前。黒塗りの高級車が一台、テレビ局の前に止まった。
後部座席のドアが開かれ、中から3人の男子が出てくる。綺麗にセットされた茶髪、短めの金髪、ロン毛の緑髪…彼らの見た目は少し奇抜だったが、その外見と身に纏う雰囲気から単なる一般人でないことが想像できた。
「じゃあ行ってくるぜ、おっさん」
「ウィ。我が961プロ初の男性ユニット『ジュピター』の初収録だ、見せつけてこい」
「分かっているって、黒ちゃん」
「しっかりやりますから」
黒ちゃんと呼ばれた年配の男性は助手席から窓を開け、激励を飛ばす。それに応えるように頷く3人。
「今更言うまでもないが…お前らには期待しているからな。ではさらばだ。セレブな私はまだ仕事が残っているのでね、ハッハッハー!」
セレブ関係ないだろ…と3人は思ったが、『セレブ』と鼻に付く高笑いはこの男の口癖みたいなものだから気にするだけ無駄だった。去っていく高級車を眺めながら、茶髪男子が口を開く。
「…うし、北斗、翔太。行くぞ」
「俺はいつでもOKさ」
「冬馬君こそ、準備は出来てるの?」
北斗と呼ばれた金髪男子はがっしりとした体形に力を入れながら笑う。翔太と呼ばれた緑髪男子は君こそいいのか? とも言いたげな顔つきで、冬馬と呼ばれた男子を見た。
「…準備万端に決まっているだろ? 俺はジュピターのリーダー、天ヶ瀬冬馬だぜ」
「そう言っているけど、車の中でずっとそわそわしていたように見えたよ? 緊張してるんじゃない?」
「馬鹿、これは武者ぶるいだよ。さっきから止まらねえのさ」
「ふーん?」
「まあまあ、冬馬がそう言っているんだから、そういうことにしておこうぜ」
3人は時間にはまだ余裕はあったが早めに入っていた方がいいだろう、と受付で入館許可を取ることにした。リーダーの冬馬が代表として手続きを行い、北斗と翔太は後ろで待たせる。
「…はい。ここと、ここ……後はここの欄が…」
「……ああ、うっかりしてました。すみません」
見落としていた欄に気付いた冬馬は慌ててボールペンで書き込む。慌ててしまったせいか、何度かボールペンを落としてしまう。
「これでいいですか」
「はい、結構です。お預かりします」
初めてのテレビ局ということもあってか、武者震いだけでなく緊張感も感じていたのかもしれない。受付は予想以上に時間がかかってしまった。
そのせいか、冬馬は全身の毛穴から粟が生じる感覚がしてくる。それと同時に、先ほどからトイレに行きたくて仕方ない。事務所を出る前にしっかり出してきたはずなのに、もう尿意を感じ始めていた。
「…あ、冬馬君。やっと終わったの? 遅いよー」
「ああ、悪かった。時間かかっちまった」
「俺なんか暇すぎて、ここでバク転でも始めちまう所だったぜ?」
北斗は陽気に笑い、翔太は待ちくたびれたと云わんばかりの顔をしていた。そのことに冬馬は特に腹を立てることもない。この手のやり取りはグループが結成した時から幾度となく繰り返されているだからだ。それと同時に、こういう所が彼らの良い所でもあった。
「…悪ぃ、先に行っててくれ。俺達の楽屋は階を上がって突き当りを右の所だってさ」
「何? またトイレ行きたいの? 頻尿?」
「うるせえ、そんなんじゃねぇ。後、アイドルが頻尿とか口走るな」
「おいおい冬馬。最近は若者の頻尿も多いらしいから変に気にすることは…」
「だから頻尿じゃねえ!」
冬馬は仏頂面で答えながら、こいつら好き放題言いやがって…と叫びたいのを堪える。
「お前らは先に楽屋に行ってろ。俺が着いたら一緒に挨拶回りするからな」
「はいはい」
「早く来てねー」
しっしと手で2人を追い払いながら、冬馬は標識を頼りにトイレまでの道のりを目指す。
(ったく、あいつらはよぉ…!)
良い奴らなのは分かってはいるのだが、3人揃うと何故か自分が弄られる側へとなってしまう。それを理不尽と思うこともあるが、まあ、それでグループの調和を上手く保てているのなら良しとしよう。あいつらの受け皿になる、それもリーダーとしての役割なのだから。
961プロ上層部の厳選な審査の元に結成されたアイドルグループ、それがジュピターだ。現在は「知る人ぞ知る」の段階だが、今日の収録を機にメディアの露出も徐々に増やしていく予定だそうだ。それをやり遂げるための長い期間のレッスンを積み重ね、十分すぎるほどの実力も身につけてはいる。
『お前らには期待している』
冬馬の胸に先ほどの言葉が蘇る。期待している―――その言葉は誇りに思うが、同時に重みにも感じる。
―――王者は孤高で、そして傲慢でなければならない。先ほど車に乗っていた黒ちゃんもとい、961プロの頂点に君臨する男である、黒井社長が常日頃から言っている台詞だった。
謙虚ならば誰にでもできる。だが、それは逃げ道を作ることになる。逃げ道があれば余裕ができ、それが失敗へと繋がる。トップアイドルはそれではいけない。アイドルとは一般人とは違う、別の存在であるべきというのが961プロの方針であり、芸能界に名を刻んでいる数々のレジェンドクラスのアイドルはそういった性格の持ち主がほとんどであった。
そして961プロはそれらを成し遂げられる全てが揃っている。大手であることを最大限に活かした売り出し方、効率的なレッスンを積むための施設や優秀な指導者、それらを維持する豊富な資金力。
期待されて当然。勝って当然の星の元に自分たちはいる。それが自分たちの義務であり、自分たちに必要な覚悟。その重みに耐え、重みを糧に進む。より先に進む為に、より輝いている自分になる為に。
(……でもさ、俺達、良いグループだよな)
御手洗翔太と伊集院北斗。結成当時からウマが合っており、ジュピターが高い完成度のアイドルグループなのは個々の実力もそうだが、彼らの性格も噛み合っているからではないかと冬馬は推察している。
翔太は時々場違いなことを言うが、決して考え無しでは言わない。仲間が緊張し過ぎたりしている時にちょっとした一言で雰囲気を変えてくれる。
北斗は全体の空気を上手い具合に察してくれる。場の空気を変えるために翔太の軽口に乗っかることも多いが、逆に空気が緩み過ぎたりした時にはさりげないフォローを入れてくれる。
(あいつらとなら行ける、どこまでだって行ける。おっさんの言う通り、トップにだって絶対に行ける)
2人は真面目で熱血漢の自分をフォローしてくれる。一人では無理かもしれないが、あいつらとだったら絶対に行ける。そんな確信があった。
―――まずはその一歩を踏み出す為に今日の収録は絶対に成功させなければならない。その為にはこの尿意を即刻解消すべきだった。
冬馬は男子トイレの扉をそっと開け、素早く中へ入った。誰もいないのを確認した後、小走り気味で小便器の前で止まる。
(トイレ我慢してそわそわしている姿なんざカッコ悪くて見られたくねえしな。さっさとだしちまうか)
そのままズボンのチャックを降ろし、構える。そしていざ出そう…とした瞬間、男子トイレの扉は再び開け放たれた。
誰かが入ってきたのか。反射的に冬馬は扉の方に目をやり―――思考が停止した。
「!?!?!?!?」
扉の前に立っていたのは……制服を着た女。しかもその見た目から自分と同年代らしき女子生徒だった。
なんでここに女がいるんだとか、標識ちゃんと見ているのかとか、そもそもこいつ本当に女なのかなど様々な疑問が一斉に冬馬の脳みそをパンクさせる。
扉の前の女子も思考がフリーズしてしまったのか、ただただ呆然とチャックを降ろした冬馬を見つめている。
「「…………………………………」」
一歩間違えば特殊なプレイになるであろうこの状況。先に切りだしたのは冬馬の方だった。数秒遅れて来たリアクションを心の底から絞り出した声で叫ぶ。
「うおお!? 何入って来てるんだてめぇ!?」
「……あ」
冬馬の絶叫と混乱した表情でようやく事の重大さを察した女子はやってしまったという顔をするが、それはこっちも同じだ。
「……ここ、その、男子…だよね?」
「見りゃ分かんだろーが! 早く出てけ!」
「す、すみませんでした! つい…」
つい、で男子トイレに入られることがあってたまるか! と怒りすら覚える冬馬に怯えたのか、慌てて出ていく女子。その後すぐに隣の扉の開閉音が聞こえたので、女子トイレに駆け込んだことが想像できた。
(……な、何とか出さずに済んだ…!)
気合と根性で体内から出そうとしていた液体を寸前で堪えることが出来た自分を褒めたくなる。一歩間違えれば自分の出す瞬間を見ず知らずの異性に見られるというトラウマものの大惨事だけは何とか避けられた。…二月ほど前も撮影スタジオでリボンを付けた女子にぶつかってしまうし、最近は何故か女子が絡むと碌なことが起きていない気がするのは気のせいだろうか。
(あああああああああ! 張っていた緊張感やら覚悟やらが……あいつのせいで全部吹っ飛んだ!!)
さっきまでの俺の決意はいったいなんだったんだ…とぶつけようのない苛立ちを込めながら、冬馬は小便器に自分の身体の中に溜まっていた全てを吐きださせるのだった。…いつ扉が開いて女子が駆け込んでも大丈夫なように、いつも出す半分くらいのスピードで慎重にだが。
―――全くの余談だが、楽屋に戻った冬馬は何か大切な物を失ったかのような雰囲気だったと後に北斗と翔太は語っている。その日の番組収録自体は上手くいったから良かったものの、しばらく冬馬もトイレでの出来事を忘れることが出来ず、誰にも入られることのない個室で用を足すようになったらしい。
※
入るトイレを間違える、という前代未聞のハプニングをどうにかこうにか切り抜けた朱里は出すものを出した後、さっさとロビーまで戻ることにした。
「あ、朱里! どこに行ったのかと思えば…」
「……すみません、プロデューサー」
プロデューサーは突然いなくなった朱里を随分心配している様子だったが、「トイレに行ってきました」と一言だけ伝えればプロデューサーはそれ以上何も追及したりはしてこなかった。無論、あのトイレでの一部始終は話してはいない。話さない方がお互いの為だと思うし、あの見ず知らずの男子の為でもあるだろう。
「楽屋って上の階ですよね?」
「ああ。えーと、次の角を曲がってエレベーターに乗ってだな…」
地図を睨めっこしているプロデューサーのナビゲートで朱里はテレビ局の中を歩いていく。
すれ違う人たちに挨拶も欠かさずに行いながらも、テレビ局独特の空気が肌を刺す。
(う、ライブ会場とは違った緊張感が…)
すぐ近くに芸能人がうろついているかもしれないというのが変な空気を醸し出しているような、そんな気がする。ここで番組が撮られ、お茶の間に届けられる。そんな場所に自分が立っていて、しかも番組に出演するというのが未だに信じられない。まるでここが別世界のような…そんな感じだ。
となると、さっきのトイレの男子も芸能関係者なのだろうか? 容姿もイケメンだったし、服装からしてどうにもテレビ局の関係者とは思えない。…もしそうだとしたらかなり失礼な行動を取ってしまったことになるかもしれない。とは言っても、決定的にマズイ事件に発展したわけでもないし、こちらにも一応の情状酌量の余地はあると思うのだが…。
心の中で「ごめんなさい、見ず知らずのイケメンさん」と朱里は謝罪の念を送りながら、ようやく自分に与えられた楽屋の入り口へとたどり着いた。
(…まあ、新人だし、楽屋は大部屋なのは当然か…)
どうやら今日共演するアイドルは一括りで纏められているらしい。まあ、個室貰えるほどの大物ではないのだから当然の扱いだろう。中に誰がいるまではまでは分からない為、期待半分不安半分といった所だ。
「その、私、入っても大丈夫ですよね?」
「朱里達に割り当てられた部屋なんだから、入って駄目な訳ないだろ?」
「そ、そうですよね…いや、なんか…入りづらいみたいな感じがしてしまって…」
どうかまともな子でありますように、と願いながら朱里はドアをノックする。
「はい! どちら様でしょうか!?」
燃え滾るような声が向こう側から聞こえてきた。随分と元気が良い子みたいだ。
「し、失礼しま…おはようございまーす…」
朱里は若干、遠慮気味にドアを開いて楽屋に足を踏み入れる。楽屋の中には4人先に入っていることを確認した瞬間、茶色の何かがぶわっと視界を覆った。
「おはようございます!」
「!?」
気がついた時には一人の少女が朱里の目の前で勢いよく頭を下げていた。視界を遮っていたのは長い髪をポニーテールに纏めた彼女の髪の毛だった。
「346プロのアイドル日野茜といいます!! 血液型はAB型! 好きな食べ物はお茶で好きなスポーツはラグビーの17歳です! まだ右も左も分からない新人ですが、よろしくお願いします!! あっ右と左は分かります! お箸を持つ方が右手です!! そういうことではなくてこの業界のことです!!」
「ど、どうも……765プロの新人アイドル、星井朱里です。私もまだデビューして間もないですが今日は…」
「朱里さんですか! 私と名前が似てますね! 今日はお互いに元気よく頑張りましょうね!! 元気があればなんでもできますから!! 元気爆発頑張るぞーって感じで!!」
「は、はい…そうですね…」
「はい! 一緒に今日は燃え尽きちゃいましょう! あっ、燃え尽きたらまずいですねすみません!! 燃え尽きる一歩手前まで燃えましょう!!」
バッと顔を近づいて息する間もなく話しかけてくる茜に朱里は冷や汗を流していた。話す音量もそうなのだが話す距離も近い為、耳がキンキンと唸って仕方ない。後ろのプロデューサーも耳を塞がんとばかりに顔を強張らせている。
体型自体は朱里と同程度なのに、一体どこからその大声が出てくるのかが不思議だ。大ボリュームで息継ぎなしで話していたのだから肺活量とか凄そうだし、良い声で歌えそうな子ではあるのだが。
悪い人ではないのだろうが、うるさい人…というのが茜の第一印象だった。765プロにはいないタイプの子に朱里は目を白黒させてしまっていた。
「茜さん、あまり大声で喋らないでください。楽屋は狭いんですから、ボクの耳まで痛くて仕方ありませんよ」
と、楽屋に備え付けられている鏡を向いていた女の子がこちらの方を向いてきた。茜よりも更に小柄で、小学生と見間違えてしまう程の女の子だった。
「あっ、すみませんでした!! 自己紹介はビシッと決めた方がいいと思いまして!!」
「謝る時もボリュームを下げてくれた方がボク的には嬉しいんですけどね…。と、あなたが今日、他事務所枠で共演する子ですね?」
「あっ、おはようございます。765プロの星井朱里と申します」
「765…聞いたことがあったような、ないような……?」
「あっ、まだまだ小さい事務所なので、知らなくても無理はないかと…」
小柄な少女は紫髪であった為、奇抜な第一印象を抱いていたのだが、意外にもまともそうな子で朱里は安心した。よかった、こういう子がいるだけで安心感が…。
「ふふん! 僕の名前は輿水幸子! 346プロ一番カワイイ新人アイドルとはボクのことです!」
「…………………か、かわいい、ですか?」
「勿論! 皆はボクの魅力にまだ気づいていないようですけど、今日の収録で気付くこと間違い無しです! だってボクは――――」
幸子は一拍溜めながら、視線を鋭くし―――。
「カワイイですからねっ!!」
「…………そ、そう、ですね…」
ドヤ顔をする幸子に、朱里は顔を引き攣らせながらの苦笑いで返すのが精一杯だった。自分の後ろにいるプロデューサーもとんでもない顔で固まってしまっている。
「おおっ! やっぱりそう思いますか!? いやぁ、ボクのセンスに付いていける人がいるだなんて感激です! ボク達、気が合うかもしれませんね! だってボクはカワイイですから!」
「あ、あはは…」
…前言撤回。この子も何か変だ。ルックスは確かにそこら辺のアイドル顔負けなのだが、ドヤ顔に羞恥心ゼロで『カワイイ』と連呼出来る子なんて普通じゃない。大物なのか、それともただの大馬鹿なのか…。
「ちょっと! そっちだけで盛り上がらないでくれない?」
すると、楽屋の隅っこで待機していた女の子がトコトコとこちらにやって来る。髪をお団子に纏め、可愛らしいワンピースを纏った子でいかにもアイドルらしい女の子だった。
だが朱里は気が気でなかった。さっきの幸子もそうなのだが、見た目だけで判断するには早すぎる子が多すぎる。ウチの事務所もだいぶ個性の塊のようなアイドルが多いけれども、彼女らも負けずとも劣らない。
「初めまして! あたし、棟方愛海! 346プロ所属の14歳でこの間デビューしたばかりの新人アイドルだよ!」
「…は、初めまして。765プロ所属の新人アイドル、星井朱里といいます。齢は13歳の中学2年…」
「んもー! 敬語とかそういうのは無しにしよ!? 齢も近いんだし!」
「えっ? うわわ…?」
「とりあえず、愛海って呼んでいいよ!」
ガバッと抱き着きてくる愛海に驚いてしまう朱里であったが、どこか安心感はあった。恰好も性格も3人の中では一番まともそうだったし、雰囲気も明るい。とっつきやすさでいったら断トツだ。
初対面でのスキンシップがやや過激なのと何故か手がワキワキと動いているのが気になったが、美希のアレと比べたらまだ可愛いもの。許容範囲に十分に収まる。
「……あーあ、ああなったら…」
「あれが来ますね…」
しかし、茜と幸子はこの世の終わりのような顔をし、朱里を憐れむかのような視線を送る。幸子は楽屋入口付近に立っているプロデューサーの方へ近づくと、こっそりとこう囁いた。
「…あの、朱里さんのプロデューサーさん…ですよね? すぐに楽屋を出た方がいいです」
「え? い、いきなりそんなこと言われても…」
「ボクの予感が的中したら…といいますか、ほぼ間違いなく的中します。これから先、朱里さんに悲劇が待っていますから…」
「え!?」
一体どんな物騒なことが…と心配するプロデューサーと、あなたが思っていることと多分違いますよ…とでも言いたげな呆れ顔の幸子。
「と、とにかく!外に出て下さい!!」
「今のうちに挨拶回りに行った方がいいとカワイイボクは思いますよ!!」
「え!? え!?」
そんな2人に割り込むように茜がプロデューサーを楽屋から追い出そうとラグビー顔負けの強烈な押し出しをする。突然の出来事に流されるように追い出されたプロデューサーはそのまま廊下へと放りだされてしまった。
「すぐには戻らないでくださいね!」
「中を見るのも聞くのも駄目です!!」
「ちょ、ちょっと待て……お、俺は、どうすれば…?」
最後には駄目押しとばかりに中から鍵をかけられてしまい、プロデューサーはどうすることも出来ずに途方に暮れるしかなかった。
「…でね、あたしの趣味はお山めぐりでね。もう、大小問わず色んなお山が大好きなの!」
「お山…ですか。そういう趣味もあるんですね」
「お山は奥が深いよ~? 世間は大きいお山の方が偉いなんて風潮があるけど、小さいお山にも魅力はある! 悪いお山なんてこの世に一つもないからね!」
しかし朱里は愛海との話に夢中でプロデューサーに起こっていた一部始終を知らずにいた。愛海の『お山』なる話題にすっかり花を咲かせている。
(…お山、ね。愛海さんって登山が趣味なのか。確かに登山って自然と一体になれる最高の趣味だってどこかで聞いたことがあるし、良い趣味持っているなぁ。バックパック背負ってる姿とか似合いそう…。小さな身体に大きな荷物とかいい絵になるだろうし、そっち方面の趣味持っているとバラエティとかにも強そう…)
ただ、朱里は悲しい事に愛海が言う『お山』が何を表しているのかを知らないでいた。その誤解は続いたまま、遂にその時を迎えてしまう。
「それでね! 朱里ちゃん!!」
「はい?」
「あたし、会った時から思っていたんだけど、朱里ちゃん良い『お山』持っているよね!」
「…お、お山? えっと…あれ?」
だんだん雲行きが怪しくなってきた。嫌な予感と共にぞわぞわと悪寒を感じ始める朱里。
「見るだけでもいいんだけど、やっぱり直接触りたくて…。も、もう、我慢できなくて…!」
「……………ま、まさか、愛海さんの言う『お山』って…!?」
愛海のセクハラオヤジ気味の顔とはぁはぁと荒げる呼吸、そしてワキワキと何かを揉みしだいている指の仕草で『お山』が何の比喩を表しているのかようやく理解した朱里。つまり、彼女の言う『お山』とは―――。
「ちょ、それは流石にまず……」
だが時既に遅かった。朱里が自分の胸を庇おうと動くよりも前に愛海は素早く朱里の胸元へとタッチし―――。
「あっ…」
そのままムニュムニュと触り始めたのだった。
「むむっ!? 年下なのにこの大きさ…83、いや4はあるね? しかも大きいだけでなく、形もいい…」
「あっ……やめっ…?」
他人にはともかく、自分でも滅多に触らない乳房を遠慮なく揉みし抱かれるというのはもの凄く変な気分であった。こそばゆさすら感じる。しかも愛海の触り方も絶妙に上手く、胸を潰すような乱暴なタッチは絶対にしないことに、その拍車を掛ける。
「服の上からでも分かるこの凄さ、何食べたらこんなに大きくなるのかなぁ…」
「あっ、あっ……?」
「う~ん、肌も良さそうだし…」
「あっ……それ以上は、本当に…止めて下さい………!」
これ以上愛海の好きにさせたらとんでもない世界の扉を開けてしまいそうだ。愛海を振り払うかの如く、グイッと遠くへ押しやると朱里はバッと胸元を腕でガードした。
「いきなり何するんですか!」
「いやだなぁ、今日共演するアイドルの『お山』くらい知っておかないと今後の活動にも支障が出るじゃない?」
「いつの時代のどこの国の常識ですか!?」
「あたしの常識! 流石に一線は超えないから安心して!」
全然安心できない。同性とはいえ、πタッチはアウトではないだろうか? 同意の上ならばセーフかもしれないが、いきなり揉まれるこっちの身にもなってくれないものか。しかも被害者がまだ増え続けるような発言までサラッと…よくこの子事務所に所属することが出来ているな、とすら思ってしまう。
朱里は助けを求めるように茜と幸子に視線を送るが…。
「朱里さんの言いたいことはよく分かります。カワイイボクもあったその日にやられましたしね」
「でも愛海さんは止めたって止まりません! あれはもう信念なんです! 諦めて下さい!!」
幸子にため息をつかれ、茜にそうバッサリ断言されてしまってはぐうの音もでなかった。
それと同時に、やはりこの業界はあれくらいキャラが濃くなければやっていけないのかもしれない…と、どこかずれたことを考えてしまう朱里であった。
※
「だってボクは―――カワイイですからねっ!」
「…はい! リハーサルは以上になります!出演者の皆さんは本番まで休憩お願いします!」
―――その一言でスタジオ内の空気が緩やかになった。
愛海のお山事件からしばらく経った後。スタジオに移動した朱里たち新人アイドルたちは撮影スタジオに入り、リハーサルを行っていた。
新人アイドル向けのコーナーの為、それほど時間は長くはない。話す内容も出身地や趣味、好きな事や苦手なことなど…初ステージのトークで聞かれたことを少しだけ詳しくする程度であったが、重要な所はそこではない。
最も重要視している物。それは雰囲気だった。
このコーナーの趣旨は新人アイドルの初々しい姿をカメラに収めることが目的であり、変な演技や過剰なキャラ付けはしなくていいとのこと。要は『ありのままの君たちが見たい』とのことらしい。
当然…というのか必然というのか、カワイイを連呼する幸子にはこのことを悲しい程に念押しされていたのだが、終盤辺りでスタッフ側も「ああ。この子はこういう子なんだ」と理解したのか、特に何も言うことはなくなった。……ただ単にスタッフが諦めてしまっただけかもしれないけれども。
(やっぱり…変な気分だ…)
ぷはぁ…と喉に詰まった何かを吐きだす様な盛大なため息をついて、朱里はセット脇のパイプ椅子に腰かけた。ステージに立つのとは違う疲れが襲ってくる。
当然のことだがセットの外側では色んな人たちが動いており、見ている。観客に見られるのとはまた違った緊張感がそこにはあった。
全体の動きやコーナーの進行手順、質問の聞かれる順番…その度に入る注意や駄目だし。それらを意識するのに夢中で、一気に体力を持っていかれる。
(視線はしっかりとカメラに向けて、カンペをじっと見過ぎないで、変にそわそわしないで…言ってることは正しいんだけど…)
初々しさをコンセプトにしているが、流石にテレビに出せる最低基準はクリアしておかないと色々とマズイのは十分に承知しているのだが、それでも初出演の身としては酷なものがある。
(とにかく、それを意識して本番に臨まないと…後は言葉遣いもそうだし…TV番組って色々と大変なんだなぁ…)
普段何気なくやっているTV番組の一つ一つもこうやって撮られていると思うと、自分がそれに関わっていると思うと何だかとんでもない所に来ちゃったなぁ…と感じる。
また、セット外でプロデューサーがあたふたするのが目に入ったのが記憶に新しい。まるで授業参観で我が子を見守る保護者みたいだった。…まあ、プロデューサーってそういう立場の人なんだけれども…。
「リハーサルお疲れ様、朱里ちゃん」
「あ、おはようございます、秋月さん」
栗色の髪を綺麗にセットし、緑色を基調とした衣装を着こなすのはウチと同じ他事務所枠での出演となった876プロの新人アイドル、秋月涼だった。律子と苗字が同じなのは少し驚いたが、まあ、秋月という苗字は割とポピュラーそうだから偶々だろう。律子に姉妹がいたという話も聞いたことがなかったし。
こちらも(見た目だけなら)正統派アイドルの愛海と同じで可愛らしい雰囲気がするのだが、何故か時々目が死んでいる気がする。さっきのリハーサルでも「可愛い」と言われた時の涼の顔が明らかに複雑そうな顔をしていた。どうやら、自分のやりたいことと売り出す路線のギャップがあって、色々と複雑なことになっているみたいだ。
「その、秋月さん…楽屋の出来事は、すみません…全然話せないままリハーサル入ってしまって…」
「ああ、そのことなら大丈夫。色々と大変だったしね…?」
あの楽屋には涼もいたらしいのだが、346プロの面子との絡みと愛海のお山騒動ですっかり話すタイミングを失ってしまい、2人はまともな会話を今になってようやく行っているのだった。
「何か大切な物を一つ失ったような気分です…」
「ごめんね…。楽屋の隅っこで震えることしかできなくて…助けを呼ぶこともできなくて…」
涼は心底申し訳なさそうな顔で朱里に謝るが、あれは仕方ないと思う。あんな展開誰が予想できただろうか? 涼はまだ愛海の毒牙にかかってはいないそうだが、できればこの人には一生かからないままでいてほしい。
…これ以上、この手の話題を続けていると精神衛生上よろしくないような気がしたので、朱里はチラリ、と少し離れた場所にいる愛海と茜を見つめた。2人はピンマイクを直してもらっている最中であったが、そんな中でも愛海は視線を女性スタッフの胸元へ行っており、その佇まいは流石としか云いようがなかった。実に堂々としている。
愛海だけじゃない。この場にいる346プロのアイドル全員は堂々としており、リハーサルでもほとんど注意されていない。注意されるのは朱里と涼の方がダントツに多かった。
「―――おや、どうしたんですか? 2人とも、カワイイボクのことを思っていたんですか!?」
噂した途端にこれか。すっかりお馴染みの態度でどこからともかく現れた幸子に苦笑いしかできない朱里。対照的に涼は少し落ち込んだ様子で幸子を見た。
「……凄いですよね、幸子さんって」
「?」
幸子と朱里は顔を見合わせ、共に首を傾げながら涼に注目した。何を言いたいのか、分からなかった。
「あんなに自信を持ってリハーサルが出来て、ズバズバ目立てて。私なんか、事務所の皆にも頑張ってくるなんてカッコいいこと言ったのに失敗ばかりで……初仕事がTVで張り切っていた自分が情けなくて…」
「………………………」
気持ちは、なんとなく分かる。凄い人に囲まれると人はどうしても自分を下に見てしまいがちになってしまう。でも、それは―――。
「それは駄目ですね!」
すると幸子は言葉を遮って、涼をビシッと指差した。
「涼さんは『頑張ってくる』って言っちゃったんですよね? 言っちゃったのなら、しっかりやらなきゃカッコよくないですし、カワイクないじゃないですか!」
それに、と幸子は続ける。
「どんな人と共演したってボクはボクをやりますよ! だってカワイイですから! カワイクないボクなんてあり得ませんしね!!」
それだけを言い残すと、では! と幸子はその場を離れていった。残された涼と朱里は呆然とするしかなかったが、やがて涼は幸子の言いたいことが何となく理解できたのか、ぐっとその表情が強張っていた。奇しくもその表情は彼女が目指しているイケメン系のそれに近づいていた。
(―――言っちゃった以上、やらなきゃカッコ悪い、か。やっぱあの人、大物だ。色んな意味で…)
朱里は幸子の評価を改める他なかった。響とは別のベクトルだが、彼女もやはり自分に自信を持っている。『カワイイ』自分を全力で信じ、それを見せつけようと常に貪欲だ。あのカワイイ連呼はそういった自信や覚悟の現れなのだろう。
(……自分に正直というのか、まっすぐというのか…。あの3人に共通しているのは、迷いがないところ…)
茜も幸子も愛海も―――性格やら何もかもが違うが共通していることは、彼女らは常に全力。全力であるが故に純粋。純粋であるが故に堂々とできる―――。
(…また、見習わなければならない人が増えたなぁ)
髪の毛を弄りながらそう思う。あそこまでの自信を持てるのは、アイドルとしてだけでなく、人として尊敬できる。あんな新人アイドルがいたなんて…姉さん以外にも負けられない人がまた増えた気がする。
「私も…プロデューサーにやるって言った以上、やりきらなくちゃいけませんね…」
朱里はボソッと呟いて、パイプ椅子から立ち上がった。休憩時間はもう少しで終わる。後は本番を迎えるだけ。大切なことはしっかりとやり切る事。それができれば収録も大丈夫なはず―――。
※
―――それで、世の中全部上手くいくのならば苦労はしない。何事も成功を収めるのには努力と失敗、挫折が不可欠なのだから。
「あかりっち…これ、凄いね」
「ふふふっ、初出演がこれって、ある意味伝説…?」
「黙っててくれ。凄い凹んでいるんだから」
「周りの子もこれが素だってのが信じられない…」
収録した番組のオンエア翌日。事務所のメンバーによる鑑賞会に朱里も強制参加させられた。家で1回見て、嫌という程自分の未熟さを思い知らされたのにまた見なければならないなど苦痛以外の何物でもない。
『ボンバー!!』
『うひゃあっ!!』
「ここ! ここ!!」
「すっごい顔になってるう!」
隣の席に座っている茜の大声と共に勢いよく振り上げた右腕に驚いて、自分が驚いた顔をした瞬間を真美に一時停止させられ、朱里は顔を赤らめた。あそこはカットされて使わないって言っていたのに。ここ、美希姉さんも菜緒姉さんも昨日家で大爆笑していたもんな。
「お、面白く撮れていますから大丈夫だと思います!!」
やよいが必死のフォローを入れるが、その心意気が余計に朱里の傷を抉る。私たちはアイドルであって芸人じゃないんだから、あれを撮られても美味しくはないんだけど…。
『それじゃあ朱里ちゃんの苦手な物ってなにかな?』
『に、苦手なものですか? び、病院…ですかね』
『えーと、それは注射が苦手とかそういう意味でってこと?』
『それ以前にあの化学薬品の匂いとかが駄目で…その、学校の保健室も苦手でして…』
「あんたね、喋っている時はいいんだけど、それ以外は目が泳ぎ過ぎよ…一緒のスタジオにいたら頭叩いているわ私」
「やめてくれ…。プロデューサーが現場で慌てふためいていた理由がようやく分かったんだから…」
伊織の本気の駄目だしにがっくりと肩を落としながら、改めて現実を直視する。我ながらこれは酷いとしか言いようがなかった。自分では出来ていたと思っていても映像というものは無慈悲にその幻想を砕いていく。見ているだけで恥ずかしくなってくる。
『愛海ちゃんはどうしてアイドルになったの?』
『はい! たくさんの女の子と仲良くなりたくてアイドルになりました!』
例えばここ。他の子が喋っている間にカメラがアップから引いて全体が撮られる場合。こういう時にもしっかり意識していないと無防備な姿を晒すこととなる。
(―――もう、放送されてしまったものは仕方ない。大切なのは次どうするかだ。まずは…)
『山梨県出身の輿水幸子です! カワイイボクと同郷で県民の皆さんは幸せですね!!』
ターゲットを意識して、自分をPRする面をまだまだ上達しなければな、と朱里は一人押し黙り、丁度幸子の紹介の所から再生を始めた録画を今一度見直すことにする。
まだまだ勉強することは多い。茜の声の大きさもそうだし、幸子の自信もそうだし、愛海の情熱も見習っていかなければならないだろう。…お山とかカワイイとかは見習わなくていいかもしれないけど。
―――こうして朱里の初めてのテレビ出演はお世辞にも成功とは言えない結果に終わった。だが、その経験を次に活かそうと、早くも朱里は動き出していたのだった。
346の人選は完全に好みが入っている所もありますが『とにかく真っ直ぐで自分のやっていることに凄く自信を持っている』という今の朱里に足りない部分を持っているような子を選びました。
特に幸子につきましてはこれからちょくちょく出てくるかもしれません。
また、今回、ちょろっとしか出せなかった涼ちゃんにつきましてはいずれどこかで絡ませてあげたいなという願望があったりなかったり…。
では、次回もお楽しみに!!