「1、2、3、4…はい、そのままのリズムでしっかりステップ!」
トレーナーの声を聞き取りつつ、キュッキュ…と自分のシューズが床を踏む音も耳に入れる。シューズが生み出す音のリズムに乗りながら、朱里は足を動かしていく。
(今の今までバッチリOK。サビに入ったのと同時に、足を大きく動かして…)
大丈夫、大丈夫なはず…と自らを鼓舞しながら、朱里は大きな一歩を踏み出す。そう、今日何度もやってきたステップだ。どう動けばいいかなんて頭の中にとっくに入っている。
絶対にミスなどしないはずだと言い聞かせて―――。
『GO MY WAY!!』のサビ特有の大股に足を動かす動きをしようと、自分の足に力を込めるが、グラリとバランスを崩れてしまう。
「…あっ!?」
体重をかけ間違えた―――失敗の原因を悟るが時既に遅し。バランスの崩れた体勢では朱里の身体を支えることなど当然できず…ゴツン! という鈍い音と共が部屋全体に響いた。
「~~~~~~~~~~!!??」
数瞬遅れて、朱里は後頭部を押さえながら床の上で悶絶を始めた。後頭部から来る痛みもそうだったが、自分の頭の中では「また失敗してしまった」という屈辱さと羞恥心も入り混じっていた。
「ストップストップ! 大丈夫!?」
派手に転んだ朱里を見て、慌ててトレーナーが止めの手拍子を叩いて、朱里の元へ駆け寄る。瞬間、張りつめた空気は一気に崩れ去った。他のメンバーもあーあといった様子でその光景を見ていた。
「あ、あかりっち大丈夫…!?」
「大丈夫に…見えるか…?」
「派手に転びましたなー」
「わ、私の方が凄い失敗したことあるから大丈夫だよ朱里ちゃん!」
「フォローになってません雪歩さん」
周りのメンバーは床に頭を打って悶絶している朱里を心配している。
ズキズキと痛む頭部をさすり、たんこぶが出来てなきゃいいんだけど…と思いながらのろのろと立ち上る。痛みが続いているせいか、チカチカと目の前が白黒に点滅する錯覚すら感じていた。
「…あんたね、一つ一つのステップが大き過ぎるわよ。ゴリラが踊ってるんじゃないんだからもうちょっと小さくできないの?」
「…ゴ、ゴリラは言い過ぎじゃないかな伊織ちゃん…?」
「ふん、あんなのゴリラよゴリラ。それか力士かのどっちかよ」
「り、力士って…」
横で見ていた伊織のあんまりな指摘にうんざりする朱里。自らのダンスがゴリラか力士に例えられたのが屈辱的過ぎるがぐうの音も出ない。
ぐぬぬ…とようやく回復してきた両目を思い切り吊り上げてキッと伊織を睨み返すが、当の伊織はどこ吹く風と云わんばかりの余裕さを見せつけている。
(今日の私…本っ当に調子が悪い…!)
今日の朱里は普段しないようなイージーミスを連発してしまっている。
足を引っかける、体重をかけ間違えるなどは勿論のこと、転ぶことに定評のある春香の十八番芸『何もない所で転ぶ』もやってしまっているのだ。
…あれには本気で落ち込んだ。イントロが流れ始めた初っ端からの転倒のコンボはアイドルとして論外のミスだ。どっちかと言えば芸人がやらかす出オチ芸に近い。
トレーナーも叱る以前に吹き出してしまったのが余計に朱里の心を抉る。どうせなら思い切り叱ってくれた方がまだ諦めがついたのだが…。
「もう一回やりましょう。次は絶対に転びませんから」
「馬鹿なことを言わないの」
とりあえず意識はあることに安心したトレーナーは有無を言わさんと無言でレッスンルームの隅っこを指さした。恐らく、向こうで大人しく休んでいろという意味なのだろう。
「心配しなくても…」
「次は伊織ちゃん、前に出て。この間のパートから始めましょうか」
「分かった、分かりましたよ…」
話を聞いちゃいない。シンデレラガールズ前の居残り練習を拒否した時みたいに、このモードに入ったトレーナーは頑として意見を変えてくれない。朱里は諦めたようにズコズコと部屋の隅っこに移動し、腰掛けた。
次は絶対に転ばないでやる…そう意気込みながら、朱里は体操座りをして、伊織の踊る姿を観察し始めた。
(…頭、やっぱり痛むなぁ)
少し涙目で頭を擦りながらの意気込みが何とも情けない事この上なかったのだが…。
※
「…ちっくしょう」
夕闇が街を照らす中、朱里は気怠そうにリュックを背負いながら一人ぼやいた。
その表情もとても上機嫌とは言い難く、ムスッとしかめっ面だ。まるで上司に叱られ、やけくそのエネルギーで溢れかえっているサラリーマンの姿を彷彿とさせる。普段は気にも止めない街道からのブーブーパーパーだのブロロロなどの音にもイライラしてしまう程にその心は荒れ狂っている。
自販機で買った好物の缶コーヒーも朱里の心を慰めてはくれない。普段は味わいながら飲むのに、今日は無味無臭の何かに感じてしまう。2周目が始まったばかりの頃に無理矢理食べされられた離乳食を胃に流し込んでいるみたいな感覚がする。
(…こんな気分になるんなら、買わなきゃよかった。小遣い無駄にしちまった)
いっその事、ストレス解消に握りつぶしてやろうかとも思ったが、十代の少女にスチール缶をぺしゃんこにできる握力がある訳もなく、結局まだ中身の入ったそれを握りしめたまま事務所までの帰り道をとぼとぼと歩くしかなかった。
(しっかり予習してたのにな…)
横断歩道を渡ろうとしたまさにその時に赤になってしまった忌々しい信号に苛立ちながら、朱里は今日自分の身に起こった出来事を振り返る。
休日である今日は仕事が入っていない代わりに久々の午前午後ぶっ通しのレッスンが行われた。そして、朱里にとって二つ目の楽曲である『GO MY WAY!!』の初練習日でもあったのだ。
早速、先日の予習の成果を発揮できる…と意気込んでいた朱里であったのだが、結果は惨敗。思うようにはいかず、普段はしないようなミスを連発しまくってしまった。
歌のパートで思い切り噛んだり、何もない所で転んでしまう。ダンスはともかく、自信があったボーカル面でも微妙な結果しか残せなかったのはまずかった。苦手なビジュアル面など目も当てられない状態だった。
最初はからかっていた伊織も最後には「…まあ、次頑張りなさいよ」という激励の言葉を残したのが事態の深刻さを物語っているに違いない。
(あいつが素直に話すなんて、宣材写真の一件以降見てないからなぁ)
無論、こういう失敗に一々へこたれては身が持たない。一度や二度の失敗などで落ち込まず、前を向いて頑張らなければならないのは十分理解しているのだが、予習込みでこの結果かと思うととてもやりきれないものがある。
(…調子が落ちているん、だろうな)
突然、自分の周囲にあるあらゆるものが一斉に頂点から下降線をたどり始めたような気がしてならない。最初が順調だったからこそ、ブレーキがかかった時の落差は凄いものがあった。
その原因の一つ…というよりかは大部分を占めているのは、先日の母とのやり取りだ。
『ごめんなさい』
あの時の気まずさと後悔は朱里の中でしこりのように残ったまま。それが朱里の調子を鈍らせている。シンデレラガールズ前のプレッシャーに押しつぶされた時には美希が脳裏に浮かんできたが、今度は母が見え隠れするようになっている。それが朱里の中の歯車を狂わせているのだ。
あれから母とは気まずい関係が続いている。はっきりとした返答をしていない以上、そうなるのは必然かもしれないが、朱里自身あの場でどう返答すればいいのかが分からないままだった。
図々しく、何かをねだればよかったのだろうか。恥ずかしげもなく、これちょーだいと明るく振る舞えばよかったのだろうか。もっと子供らしい対応をしていれば心配をかけさせなかったのだろうか…どっちにしたって朱里は絶対にとらない行動であるのは確実だっただろう。
(図々しく、恥ずかしげもなく、わがままを言って、迷惑をかけながらのうのうと生きるだなんて―――)
とてもできない相談だった。
自分の1周目の愚かな行動でどれだけ親や周りの人に心配をかけてしまったか。どれだけ迷惑をかけてしまったか。そして自分は迷惑をかけたまま逝ってしまった。自分に迷惑をかけてきた人たちに謝る機会を永遠に失ったままに。
それがあるからこそ、絶対に迷惑をかけないような生き方を心がけているのに。心配をかけさせないようにしているのに。自分の中身はもう聞き分けの利かない子供じゃないのだから、我慢だって出来る。息苦しいと感じることは偶にあるが、それを受け入れることだって出来る。
親に対してはそう振る舞うことが一番だと思っていたのに―――。
(それは間違っているのか…?)
自分のことを受け入れて、少しだけ人に頼ることが出来たと思ったら、もう次の問題が待っていた。そして今度の課題はより大きく、難しい。
(…私は、どうすればよかったんだろう…?)
そんな自問自答を繰り返しているうちに、いつの間にか自分が事務所に続く階段を駆け上っていることに気付いた。
どうやら無意識の内に事務所までの道のりを歩いて来てしまったらしい。ついでに缶コーヒーも握りしめたままだった。
(しまった、捨てんのを忘れてた…)
手元の缶コーヒーを眺めて、朱里は舌打ちを一つかました。どこか適当なゴミ箱を見つけたらそこに放り込もう、と決めていたのだが先ほどの自問自答ですっかり意識は蚊帳の外だった。
…中身は流しに捨てて、事務所のゴミ箱に放り込めばいいか。そう考えながら朱里はドアノブを捻って事務所に入ろうとして―――ぼふん、と自分の乳房あたりに何かがぶつかった。
「…ぼふん?」
多少のこそばゆさを感じつつも視線を下ろすと、そこには茶色のツインテールがゆらゆらと揺れる光景が目に入った。そして少しの間の後にきゃあという驚きの声が事務所の廊下に響き渡り、ばっ! と何かが動く気配がした。
その可愛らしい声色でようやく朱里は自分の胸にダイブしてきた人物が誰なのかを理解できた。
「…やよい?」
「あ、朱里ちゃん!?」
目の前には驚きのあまり立ち尽くしているエプロンとバンダナ姿のやよいがいた。周りには大きめの袋が2つ散乱している。どうやら何かを運んでいる最中に運悪く2人揃って正面衝突してしまったらしい。
「ご、ごめんなさいー!」
「あ、謝んなくてもいいよ…私もボーとしていたのも悪かったし…だから、その…」
涙目のやよいが頭を下げる姿に本気で罪悪感を抱きながら、朱里は必死で慰める。もしかしたら朱里の発する機嫌悪そうな空気にビビってしまったのかもしれない。自分では分からないが、ぶつかった時の自分の顔はもの凄く怖いものだったのかもしれない。
「うう、本当にごめんなさい…」
「だから気にしなくてもいいってのに」
数分間の必死の慰めの末、ようやくやよいは泣き止んでくれ、ホッと一息つく。
…もしこれがプロデューサー相手だったら悪口の一つや二つは勿論のこと、ビンタもかましていたかもしれないが、流石の朱里もやよい相手に本気で怒れる訳もなかった。むしろ、罪悪感でこっちが潰れてしまいそうだ。
「あー、そうだやよい。外に出ようとしてたみたいだけど、何か用事があったの?」
「……あっ、そうでした! 私、ゴミ出しに行こうとしていたんです!!」
何とか空気を変えようと、かなり無理のある話題の切り替えをした朱里だったが、やよいはそれで自分が何をしようとしていたのかを思い出したらしい。
辺りに転がった大きめの袋を両手に持ち直すと、「いってきまーす」とだけ言ってまた歩き始めた。どうやらあの袋はゴミ袋だったみたいだ。
「うんしょ、うんしょ…」
だが、やよいの足取りは非常に危なっかしい。あっちによろよろ、こっちによろよろと蛇行しながら踊り場を歩いている。あのまま階段を下りるものなら、何かの弾みでそのまま転げ落ちてしまいそうだ。
「よいしょ、よいしょ」
…不覚にも小動物みたいで愛くるしいと思ってしまったのは秘密だ。
「やよい、袋を一つ…いや、二つともくれ。私が持っていくから」
缶コーヒーを適当な戸棚の上に置くと、朱里は自然とそんな言葉を発していた。あんな可愛い…もとい、危なっかしい光景を見てしまったら、そんなことをしない訳にはいかなかったのだ。
※
「朱里ちゃんありがとう」
「いやあれくらい別に良いんだけどさ…あんまり無茶はするなよ?」
「えへへ、気を付けます!」
「本当に分かってんのかねぇ…?」
両手を後ろに跳ね上げながらの独特のお辞儀をするやよいに苦笑いする朱里。たかがゴミ出しを手伝っただけなのに、満面の笑みのやよいに朱里は変な感覚がしてくる。
―――次、ゴミ出すときはちゃんとエレベーターを使って…と言いかけたが、そういえばうちの事務所のエレベーターはずっと停まったままだったことを思い出した。事務所に所属していたことから今に至るまで動いた姿を朱里は見た事がなく、いったい何時になったら直るのかも見当も付かなかった。まぁ、ウチに直すお金があるくらいならもっと他のことに使うんだろうけど。
「…っていうかさ、今日やよい仕事あったはずだろ? 仕事終わってから今までずっと掃除していたのか?」
ふと目に入ったホワイトボード。今日の日付の欄にはしっかりとやよいのスケジュールも刻まれている。しっかり『高槻:遊園地で仕事』と黒ペンで書かれていた。
(確か仕事内容は…『遊園地のヒーローショーで怪人に拉致される役』…だったっけ?)
やよいに合うっちゃ合う仕事だけど、そういうのってショーに来ていた子供を本当にステージにあげるものじゃなかったっけ? と思うが…まぁ、仕事があるに越したことはないかとそれ以上考えるのを朱里はやめた。
まぁ実際には本気にした子供が大泣きしたり、逆に怪人に襲い掛かったりなどいった問題が多い為、遊園地側もこういった処置を取らざるを得ないという世知辛い事情があるらしいのだが……それを朱里が知るのはもっと後の話だ。
「うん。お昼ごろにお仕事終わったんだけど、少し事務所が汚かったからずっとしてたんだ」
「別にやよいがやんなくても…」
「小鳥さんも掃除してくれるんだけど、しゅ、しゅ、しゅれれ…」
「…もしかしてシュレッダーのこと?」
「そうそれ! そこの周りのちっちゃな紙くずとか…そういう細かい所とかはどうしても後回しにしちゃいがちだから…」
でも、これで綺麗になりました! と明るく笑うやよい。その眩いばかりの笑顔に神々しい光が照らしているような錯覚を覚える。
(こういうことを普通にやれるやよいは凄い…)
仕事終わりで疲れているはずなのに、誰にも言われてないのに大きいゴミ袋2つ分の掃除を自主的にやれるやよいを朱里は純粋に尊敬する。
同い年のはずなのに、こういう面では朱里はやよいに絶対に勝てない。自分より一回り、二回りも年上に見えてしまうくらいだ。
普段は妹的なポジションにいるのに、こういう時のやよいは誰よりも頼れるお姉さん的存在になる。シュレッダー周りは勿論のこと、パソコンのキーボードやマウス、ファイルの一つ一つまでもが新品のように輝いて見える。ついこの間までの汚れ具合が嘘みたいだ。
「将来、やよいは良いお嫁さんに絶対なれるよ。姑からの嫌がらせとかも絶対にないな」
「朱里ちゃんだってなれるよー。コーヒーいれるの上手いって皆褒めてたよ?」
「あれは私の趣味も兼ねているし…それ以外は悲惨だからなぁ…。私もやよい並みの腕前が欲しいよ」
朱里自身、コーヒーに関してはこの事務所一であることは自負しているが、趣味が高じて磨かれた技術だ。料理や掃除などの一般的な家事はある程度は出来るものの、元男としての大雑把な一面があるからなのか、あくまでもある程度のレベルでしかない。時間をかければ出来ない事はないかもしれないけれど、その前に自分の集中力が持つかどうか。
「練習すればできるよー、私も最初はだめだめだったし」
「そうかぁ?」
「うん。…………私も朱里ちゃんみたいになりたいな。背が大きくて頭も良くて…。コーヒーが飲めて、大人みたいで羨ましいな」
「そこぉ?」
背丈とか頭とかならばまだ分かるが、コーヒーが飲める=大人、というやよいなりの図式に思わず微笑んでしまう。
「私も早く、大人になりたいなぁ。そうしたらお仕事なんかももっと…」
そのやよいの何気ない一言が、朱里の心に深く突き刺さった。
無論、やよいは全く違う意味で言ったのだろう。
高槻家はやよいを含めて8人の大家族、その上貧乏ときている。長女はやよいで一番下は赤ん坊。高槻家の家計は毎日が火の車なのだと朱里は皆の話からそう聞いていた。
やよいの両親の仕事も不安定で収入が安定せず、一時期仕事が壊滅的に無かった時期は給食費も払えないほど生活が苦しかったらしい。
そんな家計を少しでも助けたい。そんな理由で、やよいはアイドルを始めたんだとか。
やよいがアイドルをする理由は『家族と良い暮らしがしたい』、これにつきるのだろう。そして大人になりたい、というのも仕事のことが大きく関係していると思われる。
未成年であるやよいや朱里たちには労働基準法というものがちゃんとあって、22:00以降はアイドルの仕事ができないようになっている。スケジュールには余裕があるのに、これに引っかかってしまったせいで逃した仕事も少なくないらしい。
大人になれればそういうしがらみもなくなって、もっと仕事が出来る。仕事が増えれば家族がもっと良い生活が出来る―――やよいはそう言いたかったに違いない。
確かにそういった良さも大人にはあるだろう。
(―――でもさ、大人になるって…良いもんばかりじゃないと思うぞ…?)
でも朱里はそうは思えなかった。
大人…というか、ある程度成長して中身だけすっかりそのまま引き継いでの子供の生活を余儀なくされている朱里は、同年代の子達と同じ目線で物事を見ることが出来ないことが非常に多い。765プロにいる時ですらそう感じるのだ、日常生活などは言わずもがなだ。
クリスマスプレゼントがどうだとか、サンタは実在するのかしないのかで盛り上がっている小さな子を『そんなおっさん実在しねーよ』ともの凄く冷めた目線で見てしまうし、夢だの愛だの語るお涙ちょうだいのテレビ番組を『とは言ってもね…』みたいな捻くれた見方をしてしまいがちになる。
世界が淡泊に見えがちなのだ。大人になって、現実を知るたびに感動や興奮とか―――そういう感情が薄れていってしまうのかもしれない。大人になってからの時間が流れるスピードが速くなるっていう話もあながち嘘ではないと今では思う。
まだ自分が男で黒色のランドセルを背負っていた頃。公園の砂場を深く掘っていけば地球の裏側にたどり着くのでは…と思っていた。本気でそう信じて、友達と日が暮れるまで砂場を掘り進めていった。夜空に星が見えるのではという時まで穴を掘りすすめ…最後にレンガ敷きの砂場の底にたどり着いた瞬間、心躍る夢の一つが消えた。
でも、その事実に気づくまでに抱いていた思いは不思議なものがあった。子供の時ははっきり理解でき、口でもちゃんと説明できたことは、今では何ももう分からなくなってしまった。今ではそれがとても悲しい。
やよいにもいつかそんな時は必ず来てしまうのだろう。大人になるっていうのはそういうことだ。でも、大人の目線で立っている自分からしてみれば…。
「…大人なんて、気がつけばなっているもんだよ。私はむしろ…」
「…? 朱里ちゃん、どーしたの? 大人なんてって…え?」
ぽつりと呟いたその言葉と朱里の様子に、やよいは凄く心配そうな顔をする。朱里も自分の独り言をやよいに聞かれてしまったのが原因で、もの凄く気が動転してしまっている。
「あー、つまりはだな…」
まずい、何とかして誤魔化さなくては…。
「も、もうちょっと子供でいられる時間を大切にした方がいいんじゃないかってことさ。大人になったら出来ることもあるかもだけど、子供の内にしか出来ないこともあるだろ?」
「?」
「あー、例えば…映画を大人より安く見れる…とか?」
「えっ!? 映画って私達、安く見れるんですか!?」
「…あ、そこ知らなかったんだ…?」
「はい! 私、最後に映画館に行ったのなんて幼稚園の時くらいですから!!」
…やよいのもの凄く純粋な笑みに朱里は悲しい気分になった。いつか一緒に映画とか行く機会があったら、全額奢りで連れて行ってやろう、と密かに決心する。ポップコーンもジュースも付けてあげるから…とも。
※
高槻やよいにとって、星井朱里という少女は―――とても大人びている同級生という認識だった。
事務所で初めて会った時も、レッスン帰りで言葉を交わした時も、事務所で何かをする時の姿勢も―――とても同い年には見えなかった。話していても、何だか年上の人と話している感じがして、背中の辺りがムズムズする変な感覚がした。もしかしたら、齢を偽っているんじゃ…とあらぬ疑いをかけてしまったこともある。
身体つきもそうだ。星井姉妹の2人は身体つきもチビな自分とは違って出るところは出てるし、引っ込むところは引っ込んでいる。伊織はそんな2人を恨めしそうな目で見ていた時期もあったが、実を言えばやよいもちょっとだけ朱里たちのことを羨ましがっていたのは秘密だ。
―――朱里とこの数か月を共に過ごして分かったことがある。
それは大人びてはいるものの、時々もの凄く子供っぽくなるところだった。
伊織との口喧嘩ではムキになると普段の冷静さはたちまち消えてしまうし、亜美真美と絡むと2人に振り回されて朱里の地が見え隠れする。
そんな姿を見ると、やっぱり朱里ちゃんも私と同じ中学2年生なんだ、と安心するのだった。
そしてもう一つは、時々遠くを見ている…とでもいうのだろうか。
どこかここではない何かを見ているみたいな時があって―――そんな朱里を見ると、やよいは何故か怖くなる。
(大丈夫、だよね。朱里ちゃん、すぐ元に戻ってくれたし…。きっとちょっと疲れてただけだよね…?)
朱里が帰った後、事務所に一人だけになってしまったやよいはそんなことを考えながら、ふと戸棚の上にちょこんと乗っかっている缶コーヒーが目に入った。掃除している時にはこんな物は置かれてはなかった。掃除の後に事務所にやって来たのは朱里だけなので、どうやら朱里が置いたまま忘れてしまったらしい。
「……………よい、しょっと」
やよいはそっと缶コーヒーを手に持った。持った時のたぷん、という感覚から中身はまだ入っているみたいだ。『微糖』と書かれており、やよいはちょっと甘めのコーヒーなのかなと察した。
「………………………朱里ちゃん、いつも美味しそうに飲んでいるけど…美味しいのかな?」
そして意を決したように、缶に口をつけて、中身をそっと飲み干し――――数秒も経たずにやよいは盛大に顔を顰めた。
(やっぱり、苦い……!)
んべぇとベロを出しながら、やよいはよくこんな苦いものを朱里は飲めるな、と思うのだった。
高槻やよい14歳。彼女がコーヒーの味を理解するのは、大人になるのはまだまだ先になりそうだ。
子供の頃は分からなくても、大人の頃になれば分かることもある。その逆も然り。
『ポケットにファンタジー』を久々に聞いて、あれが20年くらい前の歌だと知って愕然としました。
齢取っちゃったなぁ、俺…。