ではどうぞ。
数日後に行われた期末テストは、朱里の心配を余所に順調に進んだ。
少し心配だった古典が入っている国語も問題なく解け、特にトラブルらしい何かが起こる訳でもなかった。ケアレスミスをしている可能性も捨てきれないのだがどれかが壊滅的に解けないということもなく『可もなく、不可もない』という言葉がぴったりの内容だった。
最終日は残された2つの教科…美術と保健体育という暗記モノのテストを消化試合的に行うだけであり、これも殆ど問題ない。実技が挟んでくる教科の為、最終的な成績の評価はどうなるかは分からないが…筆記に関しては心配することも無いだろう。
テスト期間中は午前中に学校が終わり、最終日の今日は何もかもから解放され、午後が丸々空くという夢のような時間が待っていた。
「偶にはすっぱり忘れて休むことも大切」と言っていた社長の言葉ではないが、テストが終わった日くらいはゆっくり過ごすべきかな…と思い、朱里は久しぶりに喫茶店『モンデンキント』にでも行って、ケーキセットでも注文しようと計画を立てていた。
ついでに普段は頼まないアップルパイもつけちゃおうか…と頭の中は完全にオフモードに入ってる。
ゴールデンウィークに千早と二人で行ったきりだった為、久しぶりになるな…と、頭の中はお気に入りの喫茶店のことで一杯だった。
穏やかな店内でゆっくりカップを傾けながら、ケーキを食べ、シナモンを多めに載っけたアップルパイを頬張り、ちょっとした贅沢を噛みしめる。
―――そのはずだったのに。
「…で、なんでテスト終わった直後に、私は姉さんに連れられているの?」
「だって、こうでもしなきゃ、朱里逃げちゃうの」
「説明になってないよ!」
「朱里、声大きいの」
「誰のせいだ…」
今日、何度目かとなるやり取りを繰り返しながら、電車は進む。
テストも全て終わり、ホームルームが終わって席を立つか立たないかの瞬間に美希が教室に飛び込み、朱里の手を引っ張りながら学校の外へと連れ出された。周りの好奇の目線に晒されながら有無を言わさず電車に乗せられ、何をするのかどこへ行くのか目的も分からずにいる。
何とか通学カバンだけは忘れずに持ち出せたものの、身内じゃなかったら拉致か誘拐で訴えられるぜと言いかけてしまう。が、去年あたりまで授業が終わったら学校中を逃げ回っていた事を思い出し、美希が自分を捕まえようとなるとこのような凶行に走ってしまうのも無理はない…と自分でも納得してしまうのが悔しい。
「あ、次で降りるの!」
次、と言われ電車内にある電光板を無意識に見て、『渋谷』と映し出されているのにますます眉を顰めた。
確かに美希だけなら渋谷に寄るのは分かる。普段からあちこち寄り道したりウィンドウショッピングしたりすることはよくあるし、休日は渋谷にある店で服や化粧品などを買うことも珍しくない。よく紙袋や朱里でも名前くらいは知っているお店の袋などを持ち帰って来る光景を何度か目にしている。
だが、朱里まで連れて行くのは何故なのだろう。テストの打ち上げ…という線も考えられなくもないが、それだったらわざわざ渋谷まで赴く事はない。近所には最近出来たカラオケボックスがあるし、ファミレスだのカフェだってある。時間を潰すならそこを使うはずだ。
「…そもそもさ、渋谷で何すんのさ?」
されるがままに改札口を抜け、迷路のような駅内を美希は迷うことなく歩いていく。手を握られ、引っ張られるように朱里は移動していた。
「買い物なの」
「買い物…何買うの?」
「慰安旅行で着る水着なの」
「…何で私も付き合うのさ?」
朱里は用心深く先を促す。荷物持ちだとか、水着を選んでくれだとかそんなことで自分を連れてきたわけではない事は分かってはいたが、最終確認の為に聞き出す。
「美希ね、最近また胸が大きくなって去年の水着が入らないの」
「ああそうだっけ。ブラジャー、春先に替えたもんね」
立ち止まった美希は楽しくてたまらない、という様子だった。その姿に朱里は自分の姉が童話に出てくる魔女の姿を彷彿とさせた。獲物が来たから頂こう、と大鍋をぐつぐつ煮込むかのような。
「これを機に新しいのを欲しいんだけど…ついでだから、朱里に似合うのも買っちゃおうかなって!」
「何でぇ!?」
渋谷駅の片隅に朱里の悲鳴と混乱が渦巻いた。気でも狂ったのか、海水浴やる訳じゃないんだから買わんぞ、第一私そんな物買うお金持ってないぞ、などなど。
「だって朱里、水着持っていないんでしょ? だから今から買いに行くの!」
「今から? このテストが終わった直後に?」
「だって朱里、水着持っていないでしょ。朱里が水着姿なの美希も見たことなかったし、小鳥がそんなこと朱里が話していたって昨日聞いたよ?」
小鳥さん、美希に余計なこと言ったな…と恨む。試験前についポロリと漏らした一言が美希の心に火をつけてしまったことにがっくりと肩を落としたい気分だった。
「一応、持ってはいるけれど」
「それ、小学生の時のでしょ?」
それはノーカン、と言いたげなジト目に「そりゃそうだよな…」と朱里も呟く。
朱里と美希が通う中学校はプールが置かれていない為、水泳授業が科目に入っていない。その為、授業で使うスクール水着の類は持っていない。
プライベートで海やプールに行く為、自前の水着を持っている美希とは違い、朱里は自分の水着を一着も持っていない。そもそも何故好き好んで素肌を見せびらかすような恰好をしなければならないのだと思うくらいだ。
泳げはするが、好き好んで水場に近づくことは基本ない。小学生の時の水泳の授業は最低限だけ出席するだけで嫌だったのに、夏の薄着の制服を着るのも憂鬱になるのに、わざわざそれ以上の露出の恰好をすることに耐えられないのだ。
「朱里だって慰安旅行に行くんだから、水着着るのは当然だと思うけどな」
「行くとは言ったけど、水着を着るとは言っていない。ビーチには水着姿じゃない人だっているだろ」
「朱里はアイドルなんだから、ちゃんとした格好で行かなきゃ駄目なの! 今の内から慣れておかないと、そんなんじゃ仕事の時困るよ?」
「…今、仕事のこと出すなよ」
仕事のことを絡められると、反論できなくなり、言葉に詰まる。
慰安旅行行きの件について数日間迷ったが、ついに朱里は昨晩、出席の旨を事務所へと伝えた。
仕事仲間との一泊二日の旅行。家族との旅行よりは気まずくないだろうが、『仕事ない奴は全員参加』という殺し文句を打ち出してきている。しかもそれに姉も参加するのに、妹が断るなどという道理も通らない。悩んだが、仕事付き合いも兼ねた旅行という体で自分を納得させての出席だった。
年頃の女の子が水場でどうやって遊んでいるのかなど皆目見当もつかない朱里は「別に水着なんて買わなくたっていいだろう」という考えでいた。せいぜい浅瀬でピチャピチャやっているくらいだと思ったので、水着なんて買わなくても一泊二日くらいのスケジュールぐらいは過ごせるだろうという体でいたのだった。
だが、美希はそんな朱里の態度が気に入らなかったのか、不機嫌そうな顔をする。
「ふーん…星井朱里14歳。誕生日は12月15日のいて座。3サイズは上から84/55/―――」
「ばっ…!?」
いきなり公共の場で身内の公式プロフィールをべらべら喋る美希に、慌てて口を手で塞いで、隅っこの方へと美希を引っ張った。近くを通った数名は何事かとこちらを見てきたが、数秒後には興味を失って離れていく。周りの注目が無くなったのをしっかり確認してから、朱里は怖い顔で詰め寄った。
「いきなり変なこと喋るな…というか、それどっから?」
「? 小鳥から貰ったの。衣装合わせの時に測った最新版の…水着選ぶ時の参考にって」
「あの人は…」
「そもそもこれ、765プロのホームページのプロフィールにも書いてあるよ?」
水戸黄門の印籠をかざすかの如く携帯電話でそれを見せてきたので、覗き込んで見てみると呆然とした。そこには765プロの公式ホームページに自らの身体プロフィールが紹介文と写真と共に載っていたのだから。
売れてはいないとはいえ、芸能事務所に所属している正式なアイドルなのでこういうものは有って当然というか有って当たり前なのだが、改めて見ると自分の3サイズも堂々と載っているのは恥ずかしさを感じてしまう。売れていくとなると、今後嫌という程露出も増えていくので慣れなければならないのだが…。
「そもそもお金はあんの? 私そんなに持ってないよ?」
「ママから貰っているの。朱里の分も買ってきなさいって。朱里に渡してもこういうの絶対受け取らないからって」
そう言ってカバンの中から美希が茶封筒を見せてくる。
根回しが早いと思うと共に、「お金がない」「身体のサイズが…」など自分がよく使う逃げる口実が殆ど潰されており、次々と目の前で防壁が崩れ落ちていく感覚だ。
そういう根回しや口実を潰す策が自分の知らない間で行われていたんだろうな、と勝手に想像する。
「…別にいつもみたいにおさがりでいい。私の分のお金は姉さんが良いのを買うのに使いなよ。慰安旅行にどうしても水着が必要なら、去年の姉さんの水着持っていくから」
「美希が持っているの結構デザインも古いし、朱里のサイズにも合わないよ。美希が去年着た時もキツキツだったし、買った方がいいと思うな」
それに、と美希は続けた。
「ママもパパもお姉ちゃんも、心配している」
「…っ」
今度は美希の顔が笑っていなかった。少し怒気の含んだような声に一瞬強張る。朱里は美希の顔から目を逸らす。
「末っ子だからって、いつも欲しいもの我慢しているって。朱里がおしゃれするようになったのは嬉しいけど、変に気を遣うそういう所はまだ直っていないから。美希も心配なの」
「…そう?」
「だって美希やお姉ちゃんのおさがりばかり着ているし…全然買い物行っている様子もないし」
「それは姉さんがいっぱい持っているからだろ? 服にしろ、色んなものにしろ」
「だからって何でもかんでもおさがりの物、使われるのは流石の美希も恥ずかしいの。朱里は朱里でちゃんとした服、買った方がいいよ。せっかくおしゃれしてるんだし、自分が似合うのをちゃんと買って。ママもお姉ちゃんもそう言ってる」
少し、心が痛んだ。美希の口伝とはいえ、母にそんな言葉を言わせてしまったことがショックだった。
「中間テストの時もそんな話があったってママ話してた。何でも好きな物買っていいって言っているのに、断ったって」
「あれは、その…」
「その分、ちゃんと水着ぐらいちゃんとしたのを買ってこいって言われて。だから無理矢理連れてくるようなことをやったの」
「今度の旅行一回の為に買うの?」
「こういうのはちゃんとしたのを一着持っていた方がいいの! 海に行けば皆に見られるんだから、サイズ合ってないのなんて持っていかれたら恥ずかしいの! 美希も皆も!!」
特に最後の方は強調しながら詰め寄られた。服装で舐められたら駄目だ、とも言いたげなトーンで言われ、朱里はもう反論する余地もなかった。
自分だけが恥をかくのは全然平気だが、全員参加の旅行で周りに恥をかかせるのは嫌だった。一応社内旅行という体で行くため、事務所にも恥をかかせるわけにもいかない。
多分、美希もそれを見通して、わざとそういう風に言っているのだろう。こうすれば朱里は動くということを美希は知っているのだから。
「だからね…」
もう降参だ、とも言いたげな渋い顔で朱里は手を上げ、美希の言葉を遮った。少々不本意ではあったが…ここまで追いつめられたら今回はこの話を呑むしかない。それに少しばかりおねだりをしておけばしばらくは何も言ってこないだろう。
「わかったよ。今から買い物行こう…というか、行くしかないんだろ、この状況?」
「うん、わかればいいの」
「ちなみに行かなければ?」
「行くまで説得して、もしそれが駄目なら…」
「駄目なら?」
「無理矢理引きずってでも行くの。更衣室で美希が一から全部着替えさせるから」
どんなプレイ? と思ったが、今の美希ならば本当にやりかねない勢いがある。
マネキンみたいに自分の服を脱がされたり、下着姿のまま更衣室で着替えさせられるのを待つという行為を考えるだけでも鳥肌が立つ。
あんな行為は赤ん坊の時だけでたくさんだ。自我がある中でおむつを替えられた時の屈辱を思い出して、軽く身震いする。
「私、水着のことは付け焼刃程度の知識しかないから、そこはしっかり頼むよ?」
「まっかしといてなの!」
※
「姉さん、帰ろうよ。もう4件目じゃん…」
「ダーメ! うーん、このタイプは朱里にはちょっと合わないかな…? じゃあこっちを着てみて」
「はーい…」
「着替えてる間に、美希違う水着持ってくるからね!」
良い笑顔で水着を押し付けた美希は試着室のカーテンを閉めると、パタパタと足音を鳴らしながら去っていく。渡された水着を眺めて、朱里は盛大なため息をついた。今日一日で何度このやり取りをしたのだろうか?
渋谷駅を出て、近くの水着ショップを回り始めてからどのくらい経っただろう。気に入らない水着しかないと分かるとすぐに退店を繰り返して早4件目。ここに入る頃には空は淡い茜色の陽射しに照らされての入店となっていた。
ほぼ数時間休みなしで振り回される朱里はもう帰りたい一心で試着を続けている。
美希の水着は1件目で早々と決まったのに、朱里の水着は美希が一切の妥協を許さないのか、次々と着替えさせては脱がされるを繰り返す。昔姉さんたちが集めていた着せ替え人形の気分だった。
そもそも朱里は買い物にはあまり時間をかけないタイプの人間だ。どうしても欲しいものを除き、最初に入った1件目であるものから決める。店を変えてまで買い物など積極的にしない。
色々と見て、目移りし、妥協しその中から選ぶ。あまり散財しないようにしている関係上、予算も必然的に限られてくる。そうなるとどこに行っても似たり寄ったりのものが多いのだからわざわざ店を変える必要がないのだ。
買い物をする時よりも、自販機の前に立ってどのコーヒーを飲むかの方がまだ悩むくらいだ。
精々1時間程度我慢すればいいだろうと、完全に読みが甘かったことを痛感する。まさかこのまま夜までかかるとかじゃないだろうな…。
この数時間ですっかり慣れた手つきで水着を着こなし、試着室に架けられている鏡を見た。
―――これはいくらなんでもないだろう?
手に取った時から覚悟はしていたが、改めてその姿を見るときつい事この上ない。
鏡の中の朱里は、まるで下着か何かを想像させるような派手な白のレースを装飾した黒色の水着を身に纏っていた。そっち系の女優が着るようなタイプの水着で、いくらサイズが合うからといって中学生が着ていいものではないタイプの水着だ。
こんなものを千葉県の海辺で着て、歩き回っていたら通報ものの案件だ。朱里自身もこれを着ながら海の家で焼きそばなどを食べている光景が想像つかない。だが、律子がかんかんになって自分と美希を叱る光景だけは簡単に想像できた。
「朱里ー? どう?」
「…美希姉さん、これは水着じゃない、下着っていうんだ。白レースとかがなまめかし過ぎるよ」
「うーん、朱里には派手なタイプも似合うと思うんだけどな」
「色はいいけど、柄とかオプションに余計なものが多すぎる。もっとシンプルなのが欲しい」
「シンプルっていったら…柄とか入っていないのになっちゃうよ?」
「そういうのでいいよ、これでビーチを歩き回る度胸が私には無いし。とりあえず私を着せ替え人形感覚であれこれ着替えさせるのはやめて」
「えへへ、だって朱里、何でも似合っちゃうから、つい。だって久しぶりに一緒の買い物でしょ? 色々選んじゃうの!」
「やっぱりそうか…どうりで後半あたり変なやつが多いと思ったら…」
違う水着を持って戻ってきた美希と話し、そもそも朱里は水着を買うのが初めてなのだから、最初から奇抜な路線ではなくもっとシンプルな路線でいくことに決めた。その方が自分としてもありがたかった。
ワンピースタイプの水着では少し幼く見えてしまうから、朱里が持つ大人っぽさを前面に出す為にもビキニタイプの方がいい、最近はつけても苦しくないようにノンワイヤータイプのビキニもあるなど店員の説明なども聞く。紐の部分にワイヤーが入っておらず、締め付けるような圧迫感がないみたいだ。
ブラなどにも最近採用されている技術が水着の世界にも入っているんだな、と驚いた。
美希もあれこれ意見を出し、その度に朱里とあーでもないこーでもないと意見を出しながらあれこれ選ぶ。選びながら迷って…そして、美希と一緒に笑った。そう言えば、最後に美希と買い物をしたのはいつの事だっただろうか?
小学生の頃に、おつかいなどで一緒に近所のスーパーに買い物に行ったきり、美希とはこうやって二人きりで買い物をしたことがないような気がする。
「うん、これが一番しっくりくるかな」
「少し地味かもしれないけど…そこはアクセサリーとかつければ、いくらでもアレンジ出来るかな?」
最終的に朱里が選んだのは黒色のホルターネックタイプのビキニだった。
幅広のホルター部分が脇からしっかり固定してくれるので、飛び跳ねたりしても水着がずり落ちるような心配もなさそうだ。ノンワイヤーなので胸がギチギチになるような感覚も少なく、快適だった。
少しばかり胸が強調されるのが気になったが、さっきの下着のよりは何倍もマシであり、そもそも水着というものはそういうものという謎の説得で朱里も無理矢理自分を納得させた。
柄なども入ってないシンプルな一品だったが、それ故にアクセサリーや髪型などでアレンジしやすいなどのメリットもあり、朱里はすっかりこれを気に入った。
「お会計お願いします」
今日一番しっくりくる感覚に満足しながら、店員を呼んで会計となる。
ぶら下がっていたタグを読み、レジに表示された「¥20000」という金額に朱里は改めて卒倒しつつ、美希が笑いながら茶封筒の中からお札を出して代金を支払うのだった。
「じゃあ、次は水着の上に着るラッシュガードを買いに行こっか!」
「ら、ラッシュ? 何それ?」
「上から羽織るトップスのこと! 日焼け対策とかで今流行ってるんだよ? まだお金も余っているからこれもついでに買っちゃおうよ!」
まだ終わらないのか…とため息をつくが、朱里もまんざらではなかった。なんやかんやで今、振り回されているこの時間が楽しかった。
※
「仕事がないものって声かけたら…全員来ているし」
「実際、暇なんですから仕方ないですよ」
プロデューサーと律子のそんな会話を小耳に挟みつつ、列車は川にかかる吊り橋を過ぎた。
都心から離れたローカル線に揺られ、目的地を目指していた。皆も座席越しでトランプをやったり、まだ日も高いのに怪談話を始めたり…各々が思い思いの時間を過ごしている。
朱里も貴音が駅弁5人前をぺろりと平らげる光景に唖然としながらも、自分の分を口に運ぶ。程よい量の白米、揚げ物に野菜に漬物…シンプルな駅弁をペットボトルの緑茶で流し込む。
迎えた慰安旅行当日はすっかり晴れており、買った水着が無駄にならなくて良かったと朱里は感じた。これが雨だった場合、2万円以上出してせっかく買った水着類が無駄になってしまう。雨の中、薄着になって走り回る趣味は朱里には残念ながらない。
足元に置いてある自分の旅行鞄を目にやり、食べ終えた駅弁の空き箱をその近くへと置いた。
(それにしても、まぁ…賑やかだなぁ…)
東京の列車と違って閑散としているローカル線は良くも悪くも声が響く。
賑やかなのは結構だが、貸切をしている訳じゃない。向かいに座っている老婆など、他の乗客だっているのだから、あんまり騒ぎすぎるのは迷惑になる。
度が過ぎた場合は注意すべきだろう。楽しければいいという訳でもないのだから。特に双子や響、伊織など騒ぎやすい面子には注意を…。
ぴと。
「うわっ!?」
冷たいものを頬に押し当てられ、朱里の思考はそこで打ち切られた。
「やよい?」
「せっかくの旅行なんだから、そんなに怖い顔しちゃダメだよ?」
「あ、ああごめん…」
隣に座っていたやよいの手にはキンキンに冷えた冷凍ミカンがあった。どうやらこれが頬にあてられた冷気の正体らしかった。
「あっ、これ向かいのおばあちゃんから皆にだって! 皮、剥く?」
「あ、ありがとう。皮はいい、自分で剥けるから…すいませんね、騒がしくて」
「いえいえ、賑やかなのはいいことですから。こういう風に皆と騒げるのも、若者の特権ですから」
「ああ、そうですか…」
向かいの席でちょこんと座っている老婆からの差し入れに頭を下げて礼を言ってから、頬に当てられた冷凍ミカンの皮を剥く。
凍らせたミカンは糖分を凝縮されて何とも美味だった。数年ぶりに口にしたどこか懐かしいその味にぺろりと平らげてしまう。まだ7月の半ばとはいえ、雲一つない晴天時の千葉は暑い。日差しに照らされ、クーラーがきちんと利いているはずの車内もじんわりと熱かった。
「窓開けるぞ、窓」
向かいに席に座る響が身を乗り出して、手動式のドアを開けた。
「うわぁ…!」
開けた途端、誰かが感嘆の吐息を漏らした。風が一気に車内に流れ込んできて、心地よい大気の流れを作ったのだ。風に混じって、海特有の潮と有機物が入り混じった、独特の匂いが車内を包む。
「っ…」
腐敗した有機物と塩分が混じった独特の匂いを久しぶりに嗅いだせいか、朱里は眉を顰めた。
「どうしたの、朱里ちゃん?」
「ん、ああ、いやなんでもない」
そんな顔をしたのが気になったのか、やよいが訝しげな顔でこっちを見てくるのを愛想笑いで誤魔化した。
自分の中と実際に嗅いだ匂いに海ってこんな匂いがしたっけ? と思い、自分が最後に海に行ったのは何時振りだったかを記憶の中から探る。
こっちでは幼稚園の時に行った潮干狩り以来海には行っていないから…かれこれ10年ぶりくらいに嗅ぐ匂いなのか、と一人で驚く朱里。
「東京じゃあまり嗅がない匂いだからな。ちょっと驚いた」
「あー、なんか分かる気がします! 魚屋さんでしかない匂いですよね!」
魚屋…いまいちピンとこない例えに笑いつつも、少し向こうに見えた煌めく海を見つめる。
海が見えた、と歓声を挙げる周りのアイドル達程ではないが、朱里は少しだけ見えた10年ぶりの海に何かのロマンス的なものを感じている。何だか、ドラマの導入部みたいな流れだな、と。
ビルと物に囲まれ、山と森ばかりだった故郷村でも見なかった光景―――青い海と白い砂浜、続く水平線を視界に納めながら、最後に残った冷凍ミカンを口へと放り込んだ。
今回出た『中学生が着ていいものではないタイプの水着』は某やみのまさんが着ていた水着をイメージしてください。
中学生であれを着こなすのはすげぇと思います。
今回出した朱里の詳細の身体データ、もしかしたら本編で更に深堀するかもしれません。
では次回もお楽しみに。