金曜日。この曜日は大抵の人は嬉しく感じるだろう。何故なら次の日が土曜日…休日が控えているからだ。…ましてや明日から大型連休であるゴールデンウィークが控えていれば、その喜びも普段以上に大きいだろう。
朱里のクラスもホームルームを行われていたが、ざわざわと私語が交わされ、既に収拾がつかなくなっている状態だ。浮き足立っているのも無理はない。このゴールデンウィークが過ぎれば、長期休みは夏休みまでお預けなのだから。
「はい、では皆さん、さようなら」
「「「さようならー」」」
そしてホームルームが終わった瞬間、どっと歓声が上がった。まるで潮が引くかの如く、大勢の生徒が教室を出て行く。朱里もその一人だ。
美希を迎えに行こうとして、ふと立ち止まる。
(…あ、そうか。今日、3年は進路相談があるんだっけ。…先に事務所に行かなくちゃな)
そう、忘れているかもしれないが美希は中学3年生。この時期になると志望校や将来の進路など、自分の将来を真剣に考えなくてはならなくない。特に美希の場合は高校に上がってもアイドル活動を続けていくのならば、志望校なんかも他の生徒以上にちゃんと考えなきゃいけないだろうし。
(もう5月か…早いよなぁ…)
あと数日で5月であり、アイドル候補生を初めてもうすぐ1カ月が経とうとしていた。ダンスもボーカルもそこそここなせるようになってきた朱里はようやく一つの曲の楽譜を渡された。その曲名は『READY!!』。歌詞は夢に向かって明るく進んでいくという内容だった。音源CDも一緒に貰っており、暇さえあればずっと聞いている。
(…ただ、姉さんはもう3曲も楽譜を貰っているんだよなぁ)
ただ悔しいのは…同時期に始めた美希が自分より上の領域にいるということだった。
美希は既に『READY!!』の他に2つの曲の楽譜と音源を貰っている。確か曲名は『The world is all one !!』と『THE IDOLM@STER』だっけ?どっちもいい曲だったのは覚えている。
自分よりも多くの楽譜を貰えるということはそれだけ美希の実力の高さが評価されているということだ。
「凄いよなぁ、姉さんは」
そうやって周りの子たちに自分の姉を褒められていたりすると、嬉しい反面、どこか悔しく感じてしまう。…今までだったらそんなことを感じることなんてあり得なかったのに。
(…早く、姉さんに追いつかないとな)
朱里は、戸惑うことも多いけれども今の生活が気に入っていた。その始まったきっかけはかなり不純かもしれないけれども。
今までの自分は…まあ、ひどいもんだった。文科系の部活には一応入っているが、ほぼ幽霊部員と化しているし、かといって何かに夢中になっている訳でもない。何も起こらず、何も変わらない日々。まるで死んだような生活を送っていた時とは違い、この1カ月はまるで魔法にかかったと思えるような程、密度が高い日々だった。
初めてあだ名で呼んでくれる友が出来た。呼び捨てで話す友も出来た。歌ったり踊ったりと、自分が経験したことのない分野で、徐々に上手くなっていく感覚がたまらないほど楽しい。
(…今まで努力なんて言葉とかけ離れた日々を送っていたからなぁ)
所謂「強くてニューゲーム」という状態で2周目を過ごしていた朱里は、何をやるにも努力なんてしなかった。何故ならしなくても大抵上手くいってしまうからだ。
ただ、アイドル活動でやるレッスンはそれらの要素が全く通じない。そのことであれこれ考えたり、事務所でみんなと話したりするのが楽しい。努力する楽しさ、2周目の人生で初めて感じる充実感だった。
(…明日からゴールデンウィークか。何をするかな)
そう、明日からはゴールデンウィーク。年に数回しかない大型連休だ。今まではただ睡眠時間が増えるだけの長い休日期間だったが、今回は違う。やりたいことを抱えて迎える初めてのゴールデンウィークなのだ。
とりあえず候補生の自分には時間が有り余っているし…だったらレッスン以外で空いた時間で自主練でもするかな。なんなら誰かを誘って、一緒にやってもいいかもしれない。
(きっかけは適当かもしれないけど…少なくとも今の生活は適当にはやってはいない。姉さんに感謝しなくちゃな…!)
気合を一つ入れ、朱里は事務所まで走り出した。
※
765プロに着いた朱里は、早速一人の人物を屋上まで誘った。内容は勿論、ゴールデンウィーク中の自主練の件だ。とりあえず一人でやるよりも、誰かと一緒ならばモチベーションも上がるだろうし。
「僕と…!?」
「はい。ゴールデンウィーク中、私と一緒に自主練しませんか?一緒にやればお互いのモチベーションも上がると思いますし」
…そう、今回、白羽の矢が立ったのは真だった。絡みやすい性格、実力や面倒見の良さなどを考慮すると真が一番適任だったのだ。
(この事務所はあれなんだよな。実力高い奴ほど絡みづらいのがなぁ…やっかいだ)
そういう意味では真はかなり稀な存在というのか、なんというのか。
(それに言い方は悪いけど…他人の技術を盗むことも大切なことだからな)
そう、モチベーションの件も理由の一つだが、それはあくまでも建前。今回の本命は、実力のある子から技術を盗むことだった。…こんなこと本人の前では口が裂けても言えないけれども。
真は「うーん」と少し考えた後、朱里に返答する。
「…うん。別にいいよ。僕もゴールデンウィーク中は仕事入っていないし。誰かと思いっきり体を動かしたかったんだ」
…よし、食いついた。小さな勝利感を感じる。
「…でもね、一緒にやるとなったら僕は本気でいくよ?中途半端な気持ちでいるのなら…」
「…!」
真が真剣な顔で朱里に話すが…すぐにニコッと笑う。
「…なーんてね、冗談だよ。朱里はいつもレッスンに真剣で取り組んでいるのは知っているし、中途半端な気持ちじゃないもんね。でも、そこまでやるなんて…僕たちも見習わなくちゃなあ」
「あ…はは」
真の言葉に適当に相槌を打つ。さっきの雰囲気は演技だとしてもかなり怖かった。まるで自分の下心を見透かされた気がして、ひやひやした。
「集合場所は…そうだね、近所にある神社でいいかな?時間は朝の7時で」
「…はい、よろしくお願いします!」
細かい段取りなんかを話し終えた2人はそのまま解散となった。
ただ…2人は気づいていなかった。屋上には真と朱里の他に、もう一人の少女がいたことに。そして彼女は、2人からは見えない死角からこっそりとその話を聞いていたことを。
「…ふーん。なんだか面白いことになっているな、ハム蔵!」
「ジュイ!!」
※
連休初日の早朝7時。朱里はジャージ姿で集合場所の神社に待機していた。
「…で、なんで響さんがここにいるんですか?」
天気は快晴、何も文句がないほどの運動日和だ。…この場に朱里と真以外の人物が一人いることを除けば。
「ご、ごめん。どうしても響が来たいって…」
「屋上で2人の話を聞いてついて来たんだ!それに自分を誘わないなんてどうかしてるぞ!!」
豪快に笑う少女の姿に、朱里は臍を噛む思いだった。…しくじった、あの話聞かれていたのか。
「…随分と自信あるんですね。どうかしてるって…」
「まあな。なんたって自分、完璧だからな!!」
「ああ、そうですか…」
少女は朱里に向かってピースをしながらニヤッと笑う。朱里は「あはは」と乾いた笑みを浮かべていた。
(この人苦手なんだよなぁ…)
我那覇響。出身は沖縄で、小麦色の肌と浅葱色の瞳、長い黒髪を一本に纏めたポニーテールが特徴の少女だ。
765プロに所属するアイドルの一人であり、ダンスの実力も事務所の中でもトップクラスであるのだが…朱里は響がなんとなく苦手だった。
決して人が悪いという訳ではないのだ。ちゃんと会話もするし、面倒見だっていい。ただ…問題は彼女の性格なのだ。
「自分は完璧」という言葉の通り、彼女の実力は高いのだが…その自信家で楽天的な性格が朱里は苦手だった。
どこか傲慢…といえば言い過ぎかもしれないが、自信たっぷりな態度がたまに癪に障ってしまう。
「じゃあ、早速始めようか!まずはウォーミングアップでランニング10キロ!」
「よーし真!自分、今日は負けないからな!」
「分かっているよ、響!!」
「…10キロ?」
真の発言に朱里は絶句しかけた。…10キロってもはやウォーミングアップの域を超えている。桁が1つくらい間違っている気がするのは自分の気のせいだろうか?
(…今日ちゃんと生きて帰れんのかなぁ?)
早速、自主練が始まろうとしていたが…朱里は開始数秒で既に後悔気味な気分だった。
※
「響ー。そろそろクールダウンにしない?」
「うーん、そうだな。日も結構傾いているし…今日はここまでにするか」
時刻は夕刻。途中、何度か休憩を挟んだりはしたが、約8時間弱は体を動かしたのではないだろうか。…ここまで体を動かしたのは、恐らく人生初ではないだろうか。
(…死ぬ!マジで死ぬぞ、これ!!)
朱里はゼーゼー言いながら地面に突っ伏していた。もう心臓が破裂しそうなほど痛い。靴擦れなども酷いが、膝が痛くてたまらない。
朱里はレッスン初日の光景を思い出すが、今回のそれは、前回のと比較にならないほど疲労困憊だった。あのときはまだ会話する気力が残っていたが、今回はそれすらないのだ。うっかり気を抜くと、胃にある物を全部戻してしまいそうだった。
(質と量を上げるだけでこんなにきつくなるのか…)
レッスン内容は基本的に普段やっているメニューとほとんど変わらなかった。…ただし、その質と量が半端なかったのだ。運動神経が高い2人のハードルは高く、普段やるメニューが別物に感じられるほど、きつかった。
「…でも朱里、よく最後までついてこれたな?」
「まあ…美希と違って根性はあるからね。最後なんて体力っていうかほとんど気力でついて来たのかな?」
「いや…その要素が結構大事だと思うぞ。美希はなー、ダンスは上手いんだけどハングリーな所が…」
2人は息こそ上がっているがまだ話す余裕があり、色々と話している。その光景を見て、朱里は「本当にあの2人、同じ性別なのか?」と思う。
「…スタミナのお化けだ」
近くの木に寄りかかり、体力に少し余裕が出来た朱里はポツリと呟いた。
「あはは、そこまで言われると照れちゃうぞ自分!!」
「…!もしかして聞こえちゃいました?」
「バッチリな!でもお化けは少し言い過ぎだと思うぞ!!自分、これでも人間なんだから!!」
「す、すいません…」
プンスカと怒る響に謝りながら、朱里は自分の頭の『765プロメモ』に記録した。
(我那覇響…運動神経だけでなく耳が良い、と)
と、ここで朱里は疑問に思ったことを響に聞いてみることにする。
「…響さんはなんでそんなに体力あるんですか?」
真はまだ分かる。空手をやっているって言っていたし、10キロ近く走ることなんて日常茶飯事だろう。全身を使うスポーツだから、技術云々より体力が無ければ話にならないだろうし。
でも響がなぜあんなに体力があるのかという疑問が尽きない。ダンスやボーカルなんかはまだ才能という言葉で片付けられるが、体力だけは才能云々じゃどうやっても無理だ。
「うーん、自分はよく海で泳いでいたからな!今でもたまにプールに行って泳いだりするし!!」
…なるほど、水泳をやっているのか。確かに水泳なら空手と同じく全身を激しく使うし、体力増強にはもってこいのスポーツだ。しかも響の出身は沖縄。温暖な気候のあの地域では、年中泳ぎ放題だろう。
(なるほどね…実力に見合うだけの物を積み重ねているって訳か。だからあんなに…)
…響が何故あんなに堂々としているのか、なんとなくわかった気がする。
勿論、響自身、大きな才能があるのかもしれない。けれどそれ以上に彼女は努力を積み重ねているのだ。だからこそ、自信を持ち、堂々としている。
響がよく言う「自分は完璧」というアレも積み重ねた分の現れなのかもしれない。つまり響はそれ相応の努力を重ねている。周りにその姿を見せていないだけで、自分でも完璧と胸を張って言えるほどに。
(なんか…凄い印象が変わったな。響さんは才能だけで威張っているって感じだったのに…努力家だったのか)
「響、明日はどうするの?体動かすんだったら僕も付き合うけど?」
「…いや、明日はボーカルレッスンをやるぞ。自分、少し不安な所だしな」
「あーそうか。響は訛りとかがあるもんね。…そうだね、僕も付き合うよ」
すると2人はくるりとこっちを向いてきた。…どうやら『自分たちと一緒に来るか?』という意味なのだろう。
さて、どうするか?…そんなもの、答えは一つしかないじゃないか。
「…勿論!明日もよろしくお願いします!!」
…どうやら今年のゴールデンウィークは自主練とレッスンだけで終わりそうだ。…でも、それも悪くはないかもしれない。そう思う朱里だった。
響は公式でたびたび不憫な扱いを受けていますが、メディア展開的には非常に恵まれているんですよね。
さらに言えば「常に自分に自信を持つ」、「勝ちにこだわる」などスポーツマンには必要不可欠な要素をしっかり持っていますし、そういう点で私は響が大好きなんですよね。
さて、ゴールデンウィーク編はしばらく続きます。