『お願いがあるんだけど』
こんなふうに彼に呼び出されるのは何回目だろ。
放課後、非通知の着信音が合図だ。ヴィクトリアをやめた今でも彼は自分の携帯から直接電話してくることはない。
大人なのに、教師なのに、ほんとなにやってるんだろ、とは思う。
そう思うけれど、ヴィクトリアの店長が言ってたことは本当だった。
『走り出した情熱はもぉとまらない』
なぁんて☆
べっきぃは恋する乙女だからご主人様にひたすらつくしたいのにゃ☆
……とかいうのはまあいいとして。
かつての戦闘服に着替えて今日も純喫茶ルブランの扉をくぐる。
「ちゃんとやっとくから、好きなことしてたら?」
そういうと彼は一瞬申し訳なさそうに微笑んでその場を後にした。
カランコロンとドアベルが小気味よく響き、レトロで落ち着いた店内にはわたし一人。カウンターの内側で彼からもらったレシピ片手に少しずつコーヒー豆をブレンドしていく。
棚に並んだ瓶にはすでに焙煎済みのものがおかれているけれど、下の冷蔵庫から生豆をもってくる。
こっちの方が手間はかかるけれど、ぐんと香り高くおいしいものになるから。
ハンディロースターをコンロにかけてしばらく燻らすと甘い香りが漂ってくる。ここからが腕の見せ所☆
ここだ!
絶妙なタイミングでカチッと火を切る。
あとは余熱で転がせ続ければ、ほらいい香り。
今日も極上のコーヒーになりそうで、ふふりとほくそ笑んでしまった。
ほらやっぱ、べっきぃって超できる子☆ ご主人様よろこんでくれるかにゃー☆
なーんてね。
でも知ってる。
今日もたぶん彼はこれをすぐに飲んだりしない。そしてこう言うはずだ。
ありがとう。先生のコーヒーすごくよく効くんだ、って。
ってか、効く、ってなによ?
体すごい鍛えられてるし、洗濯したら変な衣類?でてくるし、キーピックとかつくらせるし。そんなの何に使ってるわけ?
怪盗団のことだけはほんとぜんぜん答えてくれないんだから。
それでもこうやって頼ってくれることが嬉しくて、彼のために何かできることが嬉しくて、わたしは丁寧に豆の薄皮を振り落して冷ましていく。
カランコロン――
ふいに鳴り響いたドアベルの音に顔をあげる。
あれ、さっき出て行ったはずなのに。誰だろ。
マスターや彼に用事だったらちょっと困るなと思っていたら、扉の向こうから姿を現したのは彼と知らない女性だった。
革アクセと黒基調にきめたファッションはなんだかロッカーっぽい。もしかしたらどこかでバンドやってる人なのかもしれない。そういう付き合いって高校生にはよくある話だよね。
と思いつつも、少しだけひっかかった。
どう見ても随分年上、というかわたしと同じくらいの年齢じゃないの? この人。高校生相手に大人の女が何してんのよ?
カウンターの奥からちらちらと伺い見ていると、その人もちらとわたしを見た気がした。
やばっ、もしかして超キュートなべっきぃと彼がラブラブだってバレた? やだやだどうしよ。べっきぃほんとは教師なのに困っちゃう。
なんて思ったのも束の間。
その人は特に気にした風もなく大人の女よろしく足を見せびらかすように組んでカウンター席に腰掛けた。
わたしの存在はどうやら全く気にもとめなかったらしい。
「……モルモット君」
ぼそぼそと聞き取りにくい会話の中でその部分だけが大きく聞こえた気がした。
女の指先が彼の胸をつんとつつく。
それはとても挑発的で、ロッカーっぽい服装もあいまって危ない大人の色香が漂っていて、なぜだかドキッとした。
ドクンドクン。
唐突に心臓は早くなる。
うわ、何、わたし。
なに一人、思春期の子供みたいにあせってるんだろ。
マイダーリンはぜんぜん動じてないっぽいのに。てか君は年上の女性にこんなことされてもうちょっと動揺した方がいいと思うよ、ほんと。
見てしまった的な、放課後生徒がいちゃついているとこにうっかり遭遇してしまったとき的な。
一人ドキドキしているのがいたたまれなくなって、作業を続けるふりをして奥に引っ込んだ。
手の中の焙煎機はもうとっくに冷めていて、いつの間にか薄皮も全部取り除かれていた。
えっと次、なんだっけ。
ああそうだ。挽かなきゃ。
あたふたと手回しハンドル式のミルを取り出して豆をいれ、くるくるする。
ガラガラと豆がうるさいを立てるけれど、時折くすっと彼が笑う声と会話の断片が漏れ聞こえてきた。
「薬」とか「病院」とか。
うーん、なんだろ。あまり穏やかとは言い難い。
ふいにひらめいた。
そういえばヴィクトリアのメイド仲間がいってたっけ。裏で怪しげな薬を扱っている開業医がいるって。
あやしげ……。
言われてみれば、そんな気がしてきた。
薬、とか、モルモット、とか、あの挑発的な態度とか。
わたしはミルを片手にそっと表へと戻り、サイフォンに近づいた。
彼のいるカウンターの方向には背を向けて、いろいろと準備しているふりをする。
ドクンドクン。
なぜだか鼓動が早くなった。
やだなに。べっきぃやましいことなんてなぁんにもないのに。ちょうど豆も中挽きくらいになったみたいだし、ぜんぜんっ自然な態度なんだからっ☆
決して嫉妬深い妻が夫と関係のある女を片っ端から調べ上げないと気が済まないみたいなのじゃなく、ただほら、気になるというか……。一応わたし、担任だし?
「診察してあげる」
ふいに女がそう言った。
は?
目が点になってしまった。よく意味がわからないうちにガタッと椅子が床を鳴らす音が聞こえてきた。彼と女は立ち上がって二階へと上がっていく。
しばらくすると一階の喫茶店はしんとして、わたし一人になっていた。
は? 一体何がどうなってんの?
誰かに尋ねようにも、客席のソファには猫しかいなかった。あれ。さっきまでいたっけ?
それは何度か見かけたことがある、彼のペットの黒猫(たぶん)だった。
あんたもみてたんだったら、ちょっと説明してよ。
ソファで気持ちよさそうに寝そべってる猫をじーっと見つめたら、
「ニャー」
とけだるけに鳴いて、興味なさそうに俯せた。
あーまあ。そりゃそうだわな。猫だもん。
「はあー」
ため息を一つつき、手を再び動かしながら頭の中を整理する。
女医が男子高校生に一体全体なんのようなわけ?
モルモットとか薬とか、まさか、彼で人体実験でもしてるんじゃ……。
そこまで考えると、勝手に腑に落ちた。あまり当たってほしくない方向なのに、もうわたしの中でそれは確信に変わってしまっている。
あ、もうそれじゃん。それしかないじゃん。
ふと見上げた二階の方からは目立った音も聞こえてこず、様子が全くわからなかった。
なに、してるのかな。
その答えはもうほとんどわかってしまったはずなのに、なぜだか私の心臓はまるでコーヒーのドリップに合わせるようにドクンドクンと脈を打った。
やがて女医(?)と彼が降りてきて、また外へと出て行った。そしてしばらくすると彼だけが戻ってきた。
彼はいつもどおり私の前のカウンターで佇んだ。
だから私もいつものようにコーヒーをカップに注いで差し出す。
「はい、これ。たのまれてたやつ」
「ありがとう」
すると彼はいつものように口元を綻ばせた。
一瞬カップに手を伸ばしたくせに、やっぱり今日も口に運ぶ気配はない。その代りに……。
じーっと見つめて待っていたら、彼の唇が開いた。
「先生のコーヒーすごくよく効くんだ」
ほらね、知ってた。
効くってなによ、効くって。あのセンセイの薬もよく効くわけ?
そんなことを聞いてみたい気がするのもやまやまだけど、どうせ何も言ってくれないのは目に見えてるし、あまり余計な突っ込みをして今後一切関われないなんてもっとやだ。
言ってもどうせ聞かないんだったら、せめて少しでも彼の役に立ちたいっていうのが乙女心なわけで。
やだほら、べっきぃって恋する乙女だから☆
「ふーん? まあ。またなんかあったら呼んで?」
いつもどおりの科白を言ってみる。
彼のゆるふわな雰囲気は相も変わらず、動揺の欠片もない。ちょっとはこう、あの人は違うからーとかないの? ほんともう、こっちばっかりドキドキどきどきさせてっ。ずるいよ。
「駅まで送るよ」
「いいよ、だいじょぶだから」
「ううん。送る」
でも私もずるいかもしれない。
「送らせて。もう少し先生と一緒にいたいから」
そう言われた瞬間、頬が熱くなる。
こう言ってほしかったんだ。って何考えてるんだろ、私。
「まあさ、なんでもいいけど、あんまり危険なことだけはしないでよね」
「なんのこと?」
「さあ?」
それ以上は追及せず、私は彼と肩を並べて歩き出した。