【前提】
・クルクシェートラの戦いでドゥリーヨダナ・カルナが敗北。
・アディティナンダはただ一人生き残るが、とある事情により弱体化した状態にある。
・宿敵との戦いを望まぬ形で終わらせてしまったために、アルジュナが鬱々していた。
・三男坊の親友は、そんなアルジュナを心配していて、とある特別な
・三男坊の親友は色々なチート技が使える、超チートである。
・長々と書くのは作者がきついので、突然終わる(←かなり重要!!)
――しとしと、と雨が降り注いでいる。
――ひたひた、と水が染み込んでいる。
雨が降ってくるのは久しぶりだなぁ、と何ともなしに思う。
きっと窓の外には霧が立ち込んでいるせいで、視界の全てが烟るようにぼやけた景色が広がっているのだろう、と夢想する。
……そう、夢想するのだ。夢想する、しかないのだ。
いつ頃からだったけ、と思う。
いつ頃から、俺の目は見えなくなったんだろう、と考えるが、思い起こそうとした記憶はすぐさま煙のように霧散してしまう。
もう長いこと、この目で誰かの姿を見ていない。
人の姿だけではない――物も生き物も、外の景色も、今は雲の合間に隠れてしまっている太陽さえ、この目で見ることが叶わない。
俺の世界は闇に包まれたままで、この世界には一条の光も差し込むことはない。
とはいえ、別にこの部屋に閉じこもっていることに不便はない――そう胸中で呟いて、壁を弄って窓を探す。
不器用な手つきで押し開けた窓の外へ、転落防止のために据え付けてある格子の先に手を伸ばして――降り注いでくる雨粒を堪能する。
指先に当たった冷たい刺激、それから水滴が肌を伝う感触、皮膚を滑った液体がそのまま滴り落ちていく瞬間を楽しんでいれば、そっと体が室内の方へと引き戻される。
「――お辞めなさい、風邪を引いてしまいますよ?」
やや掠れた甘い低音に、自然に唇が綻ぶ。
そのまま、乾いた手巾か何かで濡れた自分の手を拭ってくれているのを甘受しながら、背中のぬくもりへと体を預ける。
「――平気だよ。ちょっと水遊びをしていただけだ」
我ながら、随分と弾んだ声が口から零れ落ちた。
目が見えなくなって随分と時間が経過したことだけは間違いないが、心配性の弟がこうやって数日おきに部屋を訪問してくれるのは素直に嬉しい。
――外は危ないから、というのが弟の言い分だった。
目が見える状態であれば問題ないのですが、今の貴女の目は私の姿すら映してくれない――だから、不安なのです。
そう言われてしまったら、心労をこれ以上積み重ねてしまうことが憚られて、外に出たいという言葉を胸のうちに閉じ込めてしまう。
ずっとずっと昔は一緒に原っぱを散歩したり、川に泳ぎに行ったり、街に遊びに行ったりと色々なことを一緒に楽しめたのに、こうやって部屋の中にいるだけではつまらないんじゃないか、と聞いたこともある。
――いいえ。ただこの部屋にいて、私の話に貴女が耳を傾けてくれる。
それだけで、何故だか心が楽になります――と苦笑まじりに語られてしまっては、姉である俺としては口を噤まざるを得ない。
職務の合間を練ってやってきてくれる弟がどうしてだか、とても疲弊しているように感じてしまうのも、原因の一つだった。
肉体的な疲れ、というよりも精神的な意味での気疲れ、なのだろうか。
時折、何かから逃れるように部屋にやってきては慰めを求めてくる弟の背中を撫でてやったり、訥々とした喋りに付き合ってあげることくらいしか出来ることはないのに、それでもいいのだと微笑んでくれる弟に対して
「それにしても、最近、部屋に来る回数が増えて来たな。――どうしたんだ? 何か、嫌なことでもあったのか?」
「……おや、どうしてそう思われるのです? 普段通りの私ではありませぬか」
重なっていた体温が離れるのを少しばかり寂しく思いながらも、そっと腰を捻って手を伸ばす。
指先が相手の吐息にあたり、ここに口がある――と理解する。
そうして、もう片方の手も頰にあてて、出来るだけ優しい手つきで、親指で相手の目の下をなぞった。
「ひょっとしたら、隈でも出来ているんじゃないか? なんだか、声が疲れているし、普段よりも元気がない感じだ。――それに、なんというか……」
小さく唸りながら、そっと顔を近づける。
こんなに頑張って目を凝らしても、大事な弟の顔が見えないのは悲しいなぁ、と胸が軋む。
「ああ、そうだ! お肌にも張りがない!」
「ふ、ふふふ。肌に張り、ですか。それは、ふふふ、確かにそうかもしれませんね」
堪えきれぬ、という感じに吹き出した弟に、なんだかこっちも嬉しくなる。
ふふふ、と上品に微笑む弟の笑い声に浮き立っていた気分が――ふ、と陰った。
――あれ?
「おや。どうしましたか、姉上? 急に動きを止めたりして」
「あ、嗚呼……。――なあ、俺の目っていつから見えなくなったんだっけ?」
そう尋ねた途端、見えない筈の弟の唇が綺麗な弧を描いた――と錯覚した。
――咄嗟に、頰に触れていた指先を自分の方へと引き戻す。
おかしいな、視界など等に失われてしまった筈なのに、どうしてそう思ったのだろう。
それに、何故だか背筋がゾッとする――あれ? どういうことだ?
「……そうですね、随分と前です。何度かお伝えしましたでしょう? ――貴女の目は、私のせいで見えなくなったのだと」
「そ、うだったな。だから、お前が責任を感じて俺のことを世話しているのだったけ、な」
繰り返し繰り返し、慚愧の念とともに伝えられて来たことを思い出す。
一番最初はいつだったか……正確な日付は忘れてしまったが、この部屋にまだ馴染んでいなかった頃の話だ。
俺の肩に頭を押し付けて「ごめんなさい、ごめんなさい」と涙ながらに謝罪し続ける弟に、どう慰めていいのかわからなくて頭を撫でてやるだけのことしかできなかった日々を思い出す。
「――ええ、そうですとも。ところで、
先ほどまでのどこか得体の知れない気配を綺麗に押し隠して、弟が優しく微笑んだ……ような気がした。
切りそろえられた爪先が俺の首を引っかくように擽るのを甘んじて受けながら、そろそろと浮いたままだった指先を自分の方へと引っ込める。
「よく冷やした果実酒と果物を持って来ました。一緒に食べましょう?」
「嗚呼、それはいいな!」
ひらり、と布が軽やかに翻る音がする――ここで、あれ? と思う。
俺の弟が体を動かす時に、何故布の音がするのだろう? あの子が身につけていたのはもっと硬くて、触れ合うたびに澄んだ金属音を響かせる、何かだった筈だ。
思わず、音のする方へと手を伸ばす。
覚束ない手つきの俺の動きがさぞかし不安定に見えたのか、壊れ物を扱うような繊細な手つきで誰かが――否、弟の片手が俺の肩を支え、伸ばした指先をそっと大きな手で覆われる。
「どうしました、姉上? 今日の貴女はいつになく忙しないですね」
「あ、嗚呼。なあ、果物があるんだろう? よかったら、俺に皮を剥かせてくれないか?」
目が見えなくなって以来、それ以外の感覚が一層鋭くなった。
鋭敏になった触感を全身全霊で働かせて、俺の指先に乗せられている弟の掌の感触を確かめる。
やや低めの体温、武器を扱うものとしての大きな手、弓を扱うものとしての胼胝の位置。
同じ、同じな筈だ――俺の弟の手だ。小さい頃から馴染んで来た――手の、筈だ。その筈なのに、胸中から離れない、このどうしようもない違和感はなんなのだろう?
「ダメですよ、姉上。目が見えないのですから、そんな危ないことをしてはいけません」
やんわりとした言い方で窘められ、思わず弟の顔があると思しき方向に向かって唇を尖らせる。
ふふふ、と真綿で優しく包むような笑声に、どっちが年上なんだかわからないと言えば、さらにその微笑みが深まった……ような気がした。
――そっと手が離れていく。
俺に触れてくる手は常に優しい。壊れ物でも扱うように丁重に俺の体に触れてくる――けど、
触れた手は日向ぼっこをしている猫のお腹のように暖かった。
手だって大きかったけど、武人としてできる胼胝の位置だって同じだけど、でも……何かが違う。
何より、過保護だったのは俺の方だった。
あの子の方だって、俺のことをそんな弱々しいものとは見ていなかった。
そうだ、それこそ――例えるのであれば、繊細に扱ってやらねば壊れる銀細工のように、俺のことに触れたりなどしなかった。
「――でも、俺だってお前に何かしてあげたいよ。ずっとこんなところにいるだけじゃ、お前のことだって守れない」
「私を守る? ――ふふ、嬉しいことを言ってくださいますね」
甘やかな喜びの込められた声音。落ち着いた、成熟した男性の声――そう、男と呼ばれる年代の男性の声だ。
弟の声、だ。弟の、声の筈だ――それなのに、それなのに……
目が見えないということがこんなに不便なことであるとは、と臍を噬む。
確かめたい、確かめなければならない――この弟は本当に俺の弟なのか?
疑念は膨らむばかり、違和感が大きくなるばかり。気がついてしまったからこそ、その疑問を解消したい。
心の底から安心したい――俺に触れてくるこの手の持ち主が、この甘やかな声の主が一体誰なのかを知って、安心したい。
一体、いつから俺はこの弟と名乗る相手と一緒にいるのだろう? ずっと閉じこもってばかりだし、目が見えないせいで季節の移り変わりは感じられない。だからこそ、いつから此処にいるのか、どれだけの日数が経過したのかがわからない。
……それに、と思う。
それに――もし、この声の主人が俺の弟でなかったというのであれば、俺の大事なあの子は一体どこに行ってしまったのだろう?
探さなければ、と思う。
俺の大事なあの子の居場所を、そしてその友である『彼』が今どこにいるのか、見つけなければ。
――つぅ、と首筋を汗が伝っていく。ゆったりとした衣の下の肌にポツポツと鳥肌が立っていく。
「――おや。どうしました、姉上? 顔色が悪いですよ」
「そ、うなのか? あいにく自分の目では確かめられないからなぁ……」
そっと、首筋を弟の手がなぞる――慰撫するような手つきに、これまでは安心を覚えていたが、どうしても違和感を拭えない。
ピクリと引きつった俺の反応を訝しく思ったのか、怪訝そうな声が俺を呼ぶ。
「――姉上?」
――知らないけれども、識っている声がそれに重なった。
『……ア×ィ××××ダ?』
その瞬間、唐突に理解した――この弟であると名乗っている人物は、俺の弟じゃない。
あの子は、俺のことを兄とも姉とも呼ぶことはなかった――嗚呼、どうして今の今まで不信を感じ得なかっただろう?
誰かの手による幻術か、それとも俺の認識が何者かに書き換えられてしまったのか――それは分からない。
でも、探しに行かなければ。
あの子を見つけ出さなければ、そして――ここから出て行かなければ!
「どうやら、あまりご気分が宜しくないご様子……顔が、真っ青ですよ?」
そう告げてくる弟の言葉に「そうなのか」と口が勝手に動いて返事している――
ペタペタと顔を触って確かめている様子を見せる俺の姿をどう思ったのか、そっと額にかかった前髪を弟が搔き上げる。
そうして、遮るもののなくなったおでこの上に、やや低めの体温が重なった――嗚呼、幼子にするように熱を測っているのか。
「……熱はなさそうですね。ですが、体調はあまり芳しいとは思えません。どうか、褥でお休みを――大丈夫です」
「あ、こら! 自分で動けるから勝手に抱き上げるな!」
勝手に体が持ち上げられ、寝台のある部屋へと運ばれる。
自分の意思を無視しての行為に抗議の声を上げると、心底申し訳なさそうに弟は謝罪した。
「ああ、済みません。ですが、こうでもしないと姉上は私の言葉に従ってはくれないでしょう?」
慇懃に謝罪され、続いて言葉に抗議の声は黙殺される。
浮き上がっていた体が何か柔らかいものに沈み込んでゆく――寝台の上に置かれたのだ、と理解した。
丁寧な手つきで就寝の際に邪魔になる飾り帯や装飾品の類が取り除かれ、きつく締められていた衣が緩み、あっという間に就寝の支度が整えられる。
――お眠りください、と弟が歌うように呟く。
それに、お前は? と尋ねれば、しばらくの間はここにおりますよ、と返される。
すべすべとした手触りの寝具の布ですっぽりと頭まで覆って、弟の前から自分の姿を隠す。今の表情を見られたくない、と心底思った。
「お前まで体調を崩したら大変だろう? 俺は平気だから、お前は帰りなさい――お前が俺のせいで風邪でも引いたら俺が嫌だ」
「平気ですよ、姉上。これでも、他の人間よりも丈夫で頑健な体の作りをしておりますから」
「お前がそれで良くても、俺が良くないの。いい子だから、早く帰りなさい」
――ですが、と寝台の端に座り込んでいた弟が立ち上がったのだと、寝具の動きから理解する。
布で顔を隠しているから、自分の表情は弟には見られていないはず。そうは理解していても、自然と布を掴んでいる指先に力が篭る。
――――お願いだから、早く立ち去ってくれ!
「貴女のお心遣いは嬉しく思います――それでは姉上、今日はこれで。剥いた果実と果実酒は側に置いておりますので、お好きな時間にお召し上がりください」
「……ん。不甲斐ない姉でごめんね」
――いいえ、と歓喜に満ちた声がする。
ぎし、と寝台が軋み、そこに打ち上げられた魚のように転がっている俺の体が一方向へと沈み込む。
寝台の上に丸まる俺の上に覆いかぶさるようにしているのだと理解して――冷や汗が背を伝った。
「
……ですから、貴女が気にやむことなど――何一つないのですよ」
耳元で囁かれるように、低く艶の帯びた声音が囁く。
違和感に気付かなければ、俺の方も何らかの応えを返したことだろう――けど、今となっては弟の囁き一つ、呟き一つに対し、震える体を何とか抑えようと必死だった。
――違う、違う、違う!!
俺の大事なあの子はそんな風に話しかけたりしなかった、そんな甘やかな響きの声じゃなかった。
漠然と空気の動きや風の流れで読み取る背の高さや所作の優雅さ、仕草の一つに至るまで品に満ちた自称・弟の動作に、違和感がこれでもかと湧き上がってくる。
一体、いつから? いつから俺はここにいるのだろう?
どうしてこの弟だと名乗る人物の姉であると、自分で自分を思い込んでいたのだろう?
――こんなにも違うのに、こんなにも異なっているのに。
気付かなかった自分が不甲斐なく、弟だと名乗っている人物に対しても怒りが込み上げてくる。
そして、俺の大事なあの子は一体どこに行ってしまったのだろう?
「――それでは、今日はこれでお暇しますね。ご自愛下さい」
重みの失せた寝台が軋み、微かな衣擦れの音が遠ざかっていく。
絨毯の上を進む音、垂れ幕を押しのける音、そうして部屋の扉が軋みながら閉ざされる音――その全てをしっかりと確かめて、そろそろと寝台より起き上がる。
本当は果実を向いた時に使用した小刀が欲しかったが、それは持ち去られてしまったようだ。畜生、と心の中で毒づく。
帳台の上に置かれている果実酒の入った瓶と果物を一つを手に取り、手探りに壁伝いに進みながら、窓へと進む。
確か、この部屋には小窓の他に庇付きの露台があった筈だ――危ないから近づくなと言われて律儀に守ってきたが、もはや守る必要もなかろう。
一つ目、二つ目の小窓をさぐり当て、そこから壁伝いに進めば、金属の飾りのつい大窓に辿り着く――そう、ここだ。
震える手でひんやりとする金属具に触れ、鍵がかかっていることに気づいた。
錆び付いてはいるものの、力を少し込めるだけで開錠することには成功したので、一息ついた。
そうして、金属製の冷たい飾り窓を押せば、軋んだ音ともに一気に室内に風が吹き込んでくる。
「――っわ!」
勢いよく入り込んできた風に体が少し押されて、思わず声が出たが、突風は最初の一度だけだったようだ。
その次からは生暖かく、優しい肌触りの風が肌を撫でていく。時折、冷たい雫のようなものが肌にぶつかってくるのは、雨天のためだろう。
そろそろと足を進めれば、ひんやりとした石造りの床の感触がある。
ある程度の硬さがあることを確かめ、大窓の近くの床に抱えていた荷物を降ろし、四つ這いになって露台がどのような作りになっているのかを確かめる。
――數十分ほどかけて、ようやく露台の全体像を把握して、そっと汗を拭う。
目が見えれば一目瞭然であろうが、生憎、今の俺は盲目の身の上なので、このような作業だけでもかなり神経を使う。
下手に身を乗り出しでもしたら、そのまま地上に真っ逆さまにもなり得てしまう恐れがある以上、慎重にならざるを得ない。
それに――あの子に再会するまではそんな目にあうのは御免被りたい。
調査の結果、上から見ると四角い形の露台であること、そのうちの一面のみが室内に繋がっていることが判明した。
外側に面した二つの面には墜落防止のために手すりとなる柵が設けられてはいるが、室内にある家財を積み重ねれば超えられない高さではない。
小雨が降っているのにもかかわらず、風に吹かれて露台に吹き込んでくる雨粒を除けば、床石に水滴が染み込むことはない。
そのため、庇、あるいは屋根となる箇所の方がこの露台よりも出っ張っているのだろう、と推測できる。
――よし、これくらいでいいか。
床に置いたままだった果実を手に取り、柵の向こう側の空間――つまり、この部屋のある塔の外側へ――落とす。
ひゅー、と風を切りながら果実が落ちていく音を確認し、だいたいこれくらいの距離があるのだろうと地上までの距離を測る。
続いて、もう一つの道具――壊れやすい容器に入った果実酒の瓶を床へと叩きつけた。
固い床石に激突したことで、薄い金属でできているらしき瓶が破砕し、いくつかの断片に砕け散る。
その中でもとりわけ鋭利で大きな破片を探し出し、それを手に持ったまま、一度室内へと戻る。
天井からぶら下がっている垂れ幕を力ずくで引き落とし、手にした金属片で布を切り裂く。
元々は豪奢な刺繍の施された飾り布であったであろうが、それこそ、俺の知ったこっちゃない。
いくつもの細長い布へと裂かれたそれらを編み込み、一つの丈夫な縄へと作り変えるという作業を何度も繰り返す。
「……これくらいで、いいか」
垂れ幕だけでは足りなかったので、寝具も切り裂いてしまったが、もうここには戻るつもりなどないから問題ないだろう。
柔らかい材質だったのが心配だったので、強度を高めるために、真水を湛えた水甕に拵えた縄を沈ませておく。
その間に腰掛けや衣装櫃を引きずり、露台へと運び出して、足場を用意する。
ちょうど俺の腰のあたりに柵の手すりが当たったので、作業をここで終了しても構わないだろうと結論づける。
そうして、中へと取って返せば水甕に浸けて置いた縄を取り出して軽く水を切った。
――よし、これならば大丈夫だろう。
ピン! と両手の間で鞭のようにしなった縄の端と端をきつく結び、一本の縄へと組み替え、それを持って露台へと戻る。
目星をつけて置いた手すりの足元の柵の一つに長い縄の端を結わえ、残りの部分をそろそろと地面のある方向へと落としていく。
念のため、予備となる縄と距離を測るための道具を入れた袋を腰に巻いておく。
積み重ねた家財を踏みしめて手すりを越えれば、支えるものがない不安定な空間に鳥肌がたった。
湿気のせいで生温かくなった風に肌を嬲られ、自分が目が見えないという現実が重く伸し掛かってくるが、このままあの弟と名乗る人物と一緒にいるよりも遥かにマシだ、と自分自身を鼓舞して、ゆっくりと身を空へと投げ出した。
――頼りとなるのは俺の両手が掴んでいる一本の縄だけ。
ところどころに取っ掛かりとなる結び目を作って置いたので、どれだけ自分が地上へと近づいているのかというのがなんとなくだが理解できる。
不安定に揺れる縄と一度は止んだものの再び雨脚を強くしてきた水滴がひどく邪魔だ。
生暖かい雨滴が体にぶつかるたびに、液体となって服に、そして肌を覆うように広がっていく感覚が気持ち悪い。
それでも必死に歯を食いしばって、下へ下へと降りていく――時折強い風が縄を揺らし、その度に体をガチガチに強張らせてしっかと縄にすがりつく。
「――これくらいで、十分だな」
袋に入れて置いた果実を取り出し、下へと落とす。
雨音と風の音が五月蝿いが、それでもなんとか耳を凝らして、地上に落下するまでの音を聴き取る。
これでも昔は国一番の楽師で知られていたんだ――これぐらいの音が聞き分けられなくてどうする!
何度かそれを繰り返し、ようやく果実が潰れた音が聞こえたので、予備の縄を腰から引き離す。
そうして地面へと垂らしていけば、べちゃりと縄の端が泥まみれの大地と接触した音が聞こえたので、直ちに予備の縄を結びつける。
目が見えないというのがこんなにも恐ろしいことだったなんて……と思いつつも、ようやくつま先が地面の泥へと触れたので、一息ついた。
「風の音と樹木が揺れる音からするに、こっちが森……あるいは庭園の方向ということ? でも、固い物に雨がぶつかる激しい音が反対側から聞こえてくるから――きっとそっち側が廊下か何かの建物があるんだ……!」
使える情報を声に出して、考えを深める。
雨の日にやってきたというのに、弟の衣服が濡れているということはなかった。つまり、弟がやってきたのは廊下側の方なのだ。
――であれば、そっちの方角に進むのは不味いと結論づける。
恐る恐る足先を進めれば、何か細長いものにつま先が当たり、そっと腰を屈めてそれを持ち上げる。
節くれだった表面に、水分をたっぷりと染み込ませた手触り――手を這わせてみれば、ある程度の長さがある。
顔に近づけば、生々しい草の匂いが鼻先をくすぐる――つまり、これは枝であると判断できる。
「……杖の代わりにすれば、目の見えない状態でも進行方向の障害物がなんなのか分かる……! よし、進むぞ!」
手にした枝を左右に動かしながら障害物の有無を確かめ、出来るだけ足早に前へ前へと進む。
泥だらけのぬかるみから、下草の生い茂っている場所へと移ったので、どうやら庭園か森らしき場所――植物が密集していることしかわからない――であると見当をつけ、自分の推測が間違っていなかったことにそっと一息ついた。
「帰らなくちゃ……、ううん、帰るんだ! あの子のところへ、戻らないと……!」
漆黒の闇に包まれた視界に金の光が浮かぶ。
もう何も映さない俺の目にそんな美しい輝きは届かないから、こんなものは過去の記憶の見せる錯覚に過ぎない。
――でも、と歯を食いしばって、足裏に突き刺さる小石や枝の痛みに必死にこらえながら、前へ前へと進む。
『――……ア×ィ××××ダ』
あの子が名前を呼んでいる――俺自身もすっかり忘却してしまった、あの子の家族としての俺の名前を。
帰るのだ、還るのだ――あの子の元へ。
あの暖かく柔らかい日輪の光が降り注ぐ場所へと俺は行かなくちゃいけない。
『――……アディ××××ダ』
脳裏にちらつく一条の光だけを頼りに、大雨の中を必死に歩めば、耳元に聞こえる声が徐々に明瞭になっていく。
懐かしい声だ、大好きだった声だ。
下手すれば酷薄とも感じられる凛然とした響きの中に、そっと潜められている優しさを感じる声色だ。
大切だった、大好きだった、何よりも誰よりも愛おしんで来たあの子の声だと心が理解した。
『――……アディ×××ンダ』
水を吸った衣服が重く、足元にまとわりついて俺の動きを邪魔するのが鬱陶しい。
遠くで雷が鳴っているのが聞こえるが、構うものか。
俺は早くあの場所に辿り着かなければならないのだと一種の強迫観念にさえかられながら、不安定な足場を一本の杖だけを頼りに木立の中を進んでいく。
『――……アディ×ィ×ンダ!!』
「……わかってる、今いくよ。今、いくから……!」
頰を水滴が伝い、何も映さないはずの目頭が熱を孕む。
前髪が顔にこびり付いているせいで邪魔くさい。纏っている衣が水分を含んで、べったりと全身に絡みつくのが鬱陶しい。
それでも、汗と水滴を拭うために立ち止まることさえ勿体無くて、余計な動作をするくらいならばと必死に足を動かす。
前へ、前へ、前へ……!
一歩、大地を踏みしめる食べに、泥が爪の中に潜り込む。その上、足の裏は尖った小石や枝のせいで血だらけだろう。
むき出しの肌には木の葉がかすったり、引っ掻いたりしたせいで擦り傷だらけになっているせいで、非常に見苦しい姿であるのは間違いない。
着ている服だって泥だらけの上にところどころほつれたりしているせいで、もう散々だ。
それでも、それでも…………!
「――会いたいよぉ……、×××!」
黄金の光が一層強くなる。脈打つように鼓動している光にどんどん近づいていると感じる。
現実の道の空間についても、それまで狭い小道から一気に広い空間へと出たのだと、吹き付けてくる風の強さが和らいだことで察する。
――ああ、ようやくたどり着いた……!
雨脚が和らぎ、脳裏にちらつく黄金の光が一際その輝きを増していく――強張っていた体から力が一気に抜け、途方も無い安堵感に襲われる。
がくり、と膝から力が抜け、その場に尻餅をつくような動作で崩れ落ちかけ……――かけるのを必死に堪える。
まだだ、まだ、辿り着けたわけではないのだ。こんなところで、動きを止めるわけにはいかない!
『――……アディティ×ンダ』
幻覚でしかない金の光が人の形をとり、そっとその手を伸ばしてくる。
俺はその手を取ろうとして、自分の手を必死に持ち上げた――そうして、指先と指先が触れ合い――……。
全ての謎が明かされる《正答編》を出さなくてもこの話で綺麗に終わることはできますので、一応《解答編》までで更新を終了しようと思います。