未完の作品ですが楽しんでいただけますと嬉しいです
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――ここは戦火の爪痕のこる、夢と命の果て。
適当な切り株に腰掛け、背負っていた弦楽器を抱え、ちらりと周囲を見渡せば、異臭が鼻を擽った。
本来ならば、この地は獣や水鳥たちの行き来するはずの肥沃な岸辺。
それが今では、地平線の彼方を埋め尽くす、無数の骸を積み上げた葬地と化していた。
幾千、幾万の兵どもの血と汗と命をたっぷりと吸い上げた、母なる大河の裾野。
幾万もの軍靴に踏みにじられた水草の群れ、幾千の戦車の轍に陵辱された柔らかな汚泥。
命と誇りの奪い合い、凌ぎ合いとなった狂乱の宴はすでに終焉を迎え、ただただ生き残った者たちの安堵と物言わぬ骸たちの生み出す悲哀の残滓のみが蔓延する死地と成り果てた。
戦場より離れた場所では豪勢な天幕が張られ、生き残った者たちは勝利の美酒に酔いしれていることだろう。
文字通り死線を掻い潜ってきたばかりの戦士たちの享楽に口を挟む必要はない。
ただ遠くから聞こえる微かな喧騒に耳を澄ませた後、俺は俺のやるべきことをなそうと大きく息を吸い込んだ。
「“――ある者のためには
そのために蜜の奔流する者、祖霊にこそ死者は加わるべかれ――”」
抱え込んだ弦楽器をつま弾けば、聴く者の寂寥を誘わずにはいられない、物悲しい音色が戦場を満たしていく。
無念のうちに命を落とした者、後悔を抱えたまま死を与えられた者、あるいは恐怖に苛まれたまま亡くなった者。
あらゆる人間たちの霊魂が自分たちのために捧げられる葬送の調べに気づき、次に向かうべき場所への気づきを得る。
「“――苦行により冒すべからざりし人々、苦行により天界に達したる人々
苦行をその荘厳となしたる人々、これらの者にこそ彼らは加わるべかれ――”」
奏でられた歌は、戦さ場で散った者たちを慰めるための鎮魂歌。
びゅうびゅうと流離う風を巻き込み、此岸を彷徨う哀れな戦士たちの魂を彼岸へと送るための――弔いの唄。
「“――合戦において戦う人々、勇士としての躰を棄てる人々、
また千頭の雌牛を布施として与うる人々、
これらの者にこそ、彼らは加わるべかれ――”」
戦場を彷徨っていた不可視の魂たちが歌声に誘われて、あるべき場所への旅立っていく。
かつては有名な戦士、誉れ高き勇士として知られた幾千、幾万の将兵たちはただひたすらに、死したる戦士の最大の誉れたる楽園への階を目指すのだ。
「“――千の歌を知り、太陽を守護する詩人たち、苦行に富む聖仙たち
マヤよ、冥界の支配者よ、彼らを苦行より生まれたる誉れ高き人々に加えたもうや――……”」
最後の一小節を奏で終わり、名残惜しく弦を弾く指先を止める。
最後に一度だけ。弦の音色が幽遠たる余韻を岸辺へと鳴り響かせ、辺りは元の静けさを取り戻した。
「――ふぅ」
ただ、聡い者が見れば、あるいは耳を澄ませば――きっと気づいたことだろう。
先ほどまで大河の裾野を漂っていた、死したる者たちの絶命の瞬間に抱かれたあらゆる感情――後悔・絶望・憎悪、悲哀や諦観――と死の気配が、今では綺麗に拭い去られてしまったことに。
「――彼らは、無事に天上の楽園へと迎え入れられた様だな」
凍った月の様な冷ややかさを宿した声の方へと振り返れば、一人の戦士が歩み寄ってくるのが見える。
斜陽の残光に照らされたその姿は――冷たい声とは裏腹に、地上に降り立った日輪の様であった。
朱色の残照を浴びて神秘的な輝きを放つ黄金の鎧、澄んだ色を響かせる太陽の耳飾り。
砂塵による汚れ一つ付着していない純白の肌、淀み一つなく透き通った蒼氷色の両眼。
そして――太陽の輝きを具現化した籠手に覆われた手が握る、長大な弓。
尋常ならざる神威と武威を放つ黄金仕立ての弭の両端を結ぶのは、群青に染まった弦――否。
目を凝らせば、それがただの弓の弦などではなく、帯電する青白い雷であることを理解するだろう。
一度矢をつがえば、敵に恐怖を与える雷鳴が轟き、放たれた矢は閃光と化し、見た者の視界を焼き尽くす。
創造主たるブラフマー、秩序の維持者たるヴィシュヌに並ぶ三大神の最後の一角。破壊神たるシヴァより
「――……カルナ」
資格なき者では手にすることさえ叶わぬというそれを、ことも無げに携えた戦士――否・カルナは、俺の声に答えてこちらを見やる。
変わらぬ涼やかな声にこみ上げてくるものを抑えながら、かつての様に笑顔を浮かべてみせる。
「――そうだな。彼らは無事に天の国へと迎え入れられたことだろう。
彼らは彼らの
その生き方を否定できる存在など、この地はおろか天上にだっていないだろうさ」
「……そうか」
――すい、と戦場を一瞥した美しい双眸が俺を見つめる。
ふわり、と身にまとっている冷徹な雰囲気が和らぎ、春の訪れを予期させる柔らかな空気がカルナを包む。
「――――久しいな、アディティナンダ」
「うん、久しぶりに会えて嬉しいよ――――カルナ」
……嗚呼、前に会った時より、少しだけ背が伸びたのかもしれない。
スーリヤの贈り物のせいで成長が止まってしまったかも、と思っていたが、まだ成長の余地はあったみたいだ。
鎧に身を包んだ体躯は痩身のままだけど、合間から覗く血色の良い肌は、言付け通り、きちんと食事をとっている証しだろう。
――――訥々と、言葉を覚え始めた幼子の様に、兄弟揃って言葉を交わす。
「うん。……風の噂には聞いていたけど――――元気そうで、良かった」
ぐしゃぐしゃと胸が掻き毟られ、腹の底から形容しがたい何かが湧き上がってくる。
嗚呼、嗚呼、この子が元気に日々を過ごしている様で――――本当に良かった。
「アディティナンダ、お前は……」
その言葉に、カルナの口が何か物言いたげに小さく開かれる。
しゃらん、と澄んだ金属音が連続して響く――のを静止するために、手を伸ばす。
ピタリ、と痩身が動きを止め、美しい碧眼がこちらを凝視する――その姿に、小さく唇を噛み締めた。
「――……そこまで。これ以上、近づくのは駄目だ」
「……駄目なのか」
「嗚呼、それ以上の距離を詰められるのは困るから、やめてほしい」
まっすぐに手を伸ばし、ピンと立てた手のひらでカルナの歩みをその場に止める。
感情の発露の薄い白面に一瞬だけ改悛の色が宿り、そうしてさざ波の様に消えていくのを、心が張り裂けそうな悲哀とともに見送る。
「……やり切れぬものだね、なんというか」
「だが、己の巻いた種でもある」
言いつけに従い、その場から動くことを取りやめたカルナの全身にさっと目をやる。
……嗚呼、良かった。
ここまで近づいたから、よくわかる。特に目を引く様な大きな怪我だけではない、呪いによる制約の痕も見受けられないのだと。
――本来であれば、駆け寄って、己の手で触れて、その無事を確かめたい。
先ほどまで兵士たちの鬨の声と軍馬たちの嗎に充満していた戦場を、縦横無尽に駆け回っていた弟の労苦を労わってあげたい――のに。
今の俺には――――それすらもままならぬ。
「まだ、駄目だ。今、お前が近づくことは決して許さない。
あれからそれなりのに数が経過したとは言え、仮にも
くしゃり、と胸元を掻き毟る。
数年前よりも幾分か肌触りの良くなった衣に、俺の激情を示す様に大きな皺ができる。
「――だが、それは」
凛、と風音にも掻き消されぬ渦やかな声が耳朶をくすぐる。
真摯な輝き、誠実な決意を宿した蒼氷色の双眸が逸らされぬことなく、じっと俺のことを見つめている。
「それは……元来、我が師よりオレが受けた呪いだ。
奥義の習得を望むがあまり、師を謀った不肖の弟子たるオレが甘受せねばならぬもの――お前のしでかしたことはオレの本意ではない」
冷たい声音に、苦笑を堪えるしかない。
――嗚呼もう、全く。相も変わらず、言葉の選び方が拙いというか、率直にすぎる子だなぁ、お前は。
「――そう言うと思った。お前は高潔で誠実な子だから」
――ふぅ、と小さく溜息を零す。
こればかりは、どれほどお互いの間で言葉を積み重ねようと平行線を辿らざるを得ない議論だなぁ……と思う。
「お前のことだから、師を謀った報いとして、戦士として大きな疵痕を残そうともそれも致し方なしと受け入れるってことはわかってた。――でも、俺が嫌だった」
――嗚呼、そうだとも。絶対にそれだけは嫌だった。
例え、カルナの方に非があったとしても、万人がカルナが報いを受けるべきだと主張していたとしても、世界がこの子の敵に回ったとしても――俺だけはこの子のことを守ろうととうの昔に決めていた。
「だから、この呪いはお前には返さないよ? 別にスーリヤに命じられたから、呪いからお前を庇ったわけでもなし、これは俺自身の選択の結果なのだから」
――弟の生き方と尊厳を害そうとする心無い輩から、その有り様が脅かされることのないように。
喩え相手がヴィシュヌの化身だろうが、敬われるべき聖仙だろうが、俺の知ったことか。
どれほどの困難がその先に待ち構えていようとも、カルナはドゥリヨーダナの戦士として、その武を振るうと心に定めたのだ。
であれば、ドゥリヨーダナの戦士としてのカルナの負担となる
その一念だけで、数年前にカルナの師匠となったパラシュラーマの呪いを己の身に引き寄せたのだが……これがなかなかやばかった。
……いや、字面に起こすとすごくなんでもないものの様に思えし、すごくかっこよく響くのだけど、これが実にしんどかったのだ。
――まず、
そも、このご老人、最愛の父親が
――元来、情愛深い性格の人間である。
隠居後の愛弟子としてカルナを可愛がっていたのが一転、身分をバラモンだと偽って弟子入りした不埒者相手に「習得した奥義が肝心な時に使えなくなる呪い」を掛け……様としたところを、邪魔したのが俺である。
目に入れても痛くないほどに可愛がっていた愛弟子とぽっと出てきた挙句に邪魔した部外者。
愛とか憎しみとか、そういった複雑な人間の感情を換算した場合、どっちの方を殺した時に呵責を感じないかなんて、熟考するまでもない。
そんな訳で、謹んで師の怒りを甘受しようとしいたカルナを置いてけぼりにして、天界から戻ってきたばかりの俺はといえば、頭に血が上った聖仙にバーラタ中を追い回される羽目になった。
……いや、もう、本当にやばかった。思い出すだけでも後ろに誰かがついてきていないか不安になる。
何せ、破壊神であるシヴァの神威を宿した翡翠色の大斧を片手に携えたバーラタ最強とまで讃えられる戦士が、非力な俺を追い回し続けたのである。
その上、飛ども泳げども追いかけてくる執念深さ! さすがは、二十一度も戦士たちを絶滅の危機に追いやっただけのことはある。
――想像してもらいたい。
忿怒のあまり頭髪を逆立てた老爺が身の丈を越すほど長大な斧を引きずり、大地に罅を入れつつ、大空に嵐を巻き起こし、絶対零度の雰囲気を全身から醸し出しながら、追いかけ回してくるのである。
……もう、正直、恐怖しかない。
というか、太陽神が授けてくれた金環の庇護がなかったら、最初に邪魔した段階で、殺されてたと断言できる。
そも、俺は戦神としての性質は持っている太陽神とは違い、戦うことなどできない非戦闘員なのである。
何度、この入れ物に過ぎないこの身の崩壊を覚悟したことか。
――というか、あの御仁であれば、実体を持たない熱と光の化身である俺であったとしても――壊す……というより、殺しそうで怖かったのだが。
……何というか、俺の弟への愛が試される試練だった。
豊かな紫紺の頭髪を華やかに結い上げ、艶やかな紺青の衣をまとった、慈愛溢れる麗しい女神。
ヒマラヤの麓でたまたま巡り合った彼女には、本当にもう感謝しかない。彼女がいなかったら、確実に一回はこの器を破壊されていただろうし。
――まあ、そのお陰で追い回される事は無くなったとはいえ、呪いは呪いだ。
ましてや、呪いをかけた相手は
あのいけ好かない腹黒鬼畜野郎と同じく、この世界を構成する最高神の一角たるヴィシュヌの化身である。
当然のことながら、高位の神霊の眷属であり、世に比類なき黄金の鎧と同じ効力を持つ金環を手にした俺であっても、一筋縄でいく程度の呪いをかけるはずがない。
少しでもカルナに近づけば、身のうちに封じ込めた呪いは本来の相手であるカルナに向かって飛んでいく。
逃げ回りつつも必死に色々いじったお陰で、何とか呪いは俺の身に定着してきたが、それでもパラシュラーマの呪いの本来の対象がカルナであるのは間違いない。
幸いなことに、パラシュラーマの呪いは戦士であるカルナが抱え込んだら不味かったが、非戦闘員である俺には関係のない話だ。
おまけに、俺はといえば呪われることに関しては一家言がある位には、形代としては最適だ。
あとはこの呪いがカルナの側に寄っても移らない様にしておけばいい。
こうして言葉に表せば非常に簡単なのだが――実のところ、これがパラシュラーマに追いかけ回された次に大変なことだった。
「……それがお前の決めた在り方だというのであれば、もはや何も言うまい。――アディティナンダ、手を」
回想の海を漂っていた俺であったが、怜悧な弟の声に意識が引き戻される。
身の丈を超えるほどの長弓をどこにしまったのか、空いた手でカルナが何か細長い物を懐から取り出し、俺の方へと放り投げた。
「――わっ!」
投げ渡すという手段をとったのは、俺の言葉を納得できないながらも重んじてくれたからであろう。
「カルナ、これは……?」
「我が主人からお前に出会えれば渡す様にと託けられていた。好きにするといい」
コロコロと手のひらで棒の様形のそれ――筒だろうか?――を弄ぶ。
よく見れば薄くきめ細やかな細長い布の様なものが塊になるまで巻かれており、その生地に文字の様なものが縫いこんでいる。
――何だろう、これ……?
俺が受け取ったことを確認して、くるりとカルナが踵を返す。
この位置からでは顔はよく見えないが、遠くに人影が見える。どうやら、カルナ麾下の兵士たちが戻らぬ将軍の戻りを案じて迎えに来た様だ。
……ごめんね、戦勝の宴の席を勝手に抜け出す様な将軍で。
そんなことをつらつらと考えながら、部下たちの方へと歩き出すカルナの背中をぼけっと見つめる。
兵士たちもカルナの姿を認めた様だ。まあ、あれだけキラキラ輝く黄金の鎧なんて見間違いようがないよねぇ……。
――小さく、嘆息する。
久方ぶりの邂逅は、この辺が潮時かぁ……。
名残惜しいのだが、我慢しよう。あともう少しで呪いを自分の身の中に封じ込められるし、その時まで待てば、またカルナと一緒にいられる。ここは我慢だ、我慢するんだ、俺……!
手の中の棒を見つめているフリをして、駆け出したくなる全身を必死に抑える。
天界に昇っていたせいで離れていた期間と地上に戻った後でパラシュラーマに追い回されていた期間と。
数えてみれば、その間、ちっともカルナの近くに向かうことができなかったのだ――自分で決めたこととはいえ、切ないなぁ……。
「――アディティナンダ!」
「何だい、弟よ?」
悶々とする心情を隠すために、あえて余裕ぶった態度で弟の呼び声に応じる。
そうして見上げた先、柔らかな夕焼け色をその身に浴びながら、こちらを一心に見つめている弟に――瞠目した。
基本、無口無表情を貫く弟が滅多に浮かべることのない表情――
「……短い間だったが、会えて嬉しかった」
――ふわり、と冷たさの中に灯火の様な暖かさを宿した声音が耳朶を擽ぐる。
「――〜〜この、莫迦野郎っ!! 俺もに決まってるだろう!」
唇をへの字に噛み締めて、みっともないと自覚している笑顔を浮かべる。
それを見た弟が苦笑した気配を感じて、夕焼け以外が原因で頬が赤く染まっていくのを感じる。
――嗚呼、もう!
兄としての貫禄とか神の威厳とか、年長者としての誉とか! いろいろなこと全部台無しだ。
あの子が笑ってくれた――そんななんでもない理由だけで、今までの苦労が全部吹っ飛んでしまった。
結局、カルナの気配が立ち去ってしまうまで、ずっとそこに立ち尽くしてしまっていた。
誰になんと言われようと、例えあの性悪王子に「弟莫迦」だと揶揄われることになろうとも、久方ぶりの再会の、その余韻に浸かっていたかったから。
過去の自分の書いたもので、ストック分までしか投稿できないし、構成に関する内容もうろ覚え…
そのせいで質問とかてらってもちゃんとした返信を送るのはできませんが、なんかこんな作品あったな〜とか思いながら楽しんでいただけますと幸いです。