とはいえ、自分の書いた作品であってもほとんどうろ覚えなので自分でも新鮮な気分で読めます。
――カルナと久しぶりに会えたあの日から、数日後。
一人寂しく戦場を後にした俺はといえば、活気溢れる象の都・ハースティナプラに足を踏み入れていた。
パラシュラーマからの逃避行中も何度か撹乱目的で滞在した事はあっても、落ち着いて時間を過ごす事はできなかった。とは言え、俺が地上を離れている間に、ドゥリヨーダナがこの都をどの様に変革してのけたのかは関心の一つであった。
なので、あの鬼気迫る鬼武者から解放されて、追跡者の心配なしに都巡りを満喫できる時間が取れる様になった。
もう本当に、それだけでも心が浮き立つというものだ。
――朝一番に開放された大門から、商人たちや出稼ぎの労働者たちに混じって都に入る。
ワイワイガヤガヤと賑やかな民草の合間をすり抜け、お上りさんたちと一緒に都中を歩き回った。
「お客さん、お客さん、こっちにおいでよ!」
「こら! お前ときたら、まーた盗み食いして!! この悪戯坊主!!」
「いてて! 父ちゃん、勘弁してくれよ!」
俺が知っている時よりもはるかに規模が拡大し、人口も増加したのは間違いない。
代々の王が改築を繰り返した王宮。
それを囲む貴族たちの住居の並ぶ中心街の景色の基本的なところはあまり変わらない。
だが、新しく設けられた市場や住宅地、神々を讃える神殿や公共の施設など、俺の知らない新造された建物があちこちに散見している。
かつて巡った、半神の王たるユディシュティラの治めたインドラプラスタの壮麗さには遥かに及ぶまい。
当然、天界の建築士・マヤによって建てられた硝子の大会議場の放つ絢爛たる神秘の気配はこの都には微塵も感じられない。
――嗚呼、だけれども。
「――ねぇ、ご存知? 三件隣の若奥様、ご懐妊ですって!」
「まあ、なんておめでたいのでしょう!」
「おいおい、聞いたか? 裏路地の酒場に、ものすごーい別嬪さんがいるそうだぞ?」
「なんだって!? よし、お前、仕事終わりにそこで一杯やろうじゃないか!」
人々の努力と知識、創意工夫の限りを凝らした建物を見るたびに。
それを作り上げた人々の熱意や営為を感じ取って、感嘆と敬意の籠った溜息が自然とこぼれ落ちた。
「ムムム! わしの計算じゃと、この建物の外郭はもうちょっとばかり反り返った仕上がりになるはずじゃったのに!」
「そりゃあ、親方。今回の依頼主が材木をケチったからっすよ」
「あらあら、まあまあ。お前さんも、してやられたクチかい?」
「あそこの亭主は守銭奴で有名だからねぇ」
街角で足を止めて、そっと耳を澄まし、周囲を見渡す。
誰も彼も、道ゆく人々の表情は活気に満ち、英気と熱意に、何よりも生きる力に満ちている。
着飾った貴婦人や立派な鎧を身につけた兵士、ハリのある声で客を呼び込む店子、乳飲み子を背負って豪快に微笑むおかみさんたち。
「聞いたか? カルナ将軍がまた王国を獲得されたそうだ!」
「なんともまぁ! 登用された当初はどうなることかと思ったけど、すごいじゃないかい!」
「さあさ、皆様、お立会い! これなるは偉大なる建築士によって建てられた世にも珍しい不思議の館! 入らないと一生後悔すること間違いなし!」
道ゆく人々の醸し出す雰囲気に酔いしれ、あちこちで聞こえる闊達な喧騒に頬を綻ばせ。
走り去っていく娘たちの艶やかさに目を細め、じゃれ合う子供達の姿を見送る。
滔々と店の品の素晴らしさを物語る店員の話に相槌を打ち、汗を流す大工の作り上げた建造物に盛大な拍手を送った。
――泣いているものもいる。
――笑っているものもいる。
――怒っているものも、楽しんでいるものも。
一人一人が異なる表情を浮かべ、新王を時に褒め称え、時に貶しながら――笑い合って生きている。
……人が人として生きる、ただそれだけだ。
ただそれだけのことなのに、そんな些細なことがどうしようもなく尊い。
「――……これが、あいつの創り上げてきた都……」
再会した時にカルナより渡された細長い棒の様に見える筒を弄ぶ。
塊になるまで固められた布を決められた巻き方で巻き直せば、一見無意味に見える刺繍が特定の場所と日付を示す道しるべとなる代物だった。
悪知恵の働く男だな、と小さく苦笑して、身を翻す。
そうして、表通りの喧騒からそっと抜け出して、昼間だというのにどこか薄暗い小道へと一歩足を踏み入れた。
――どことなく薄暗く、妖しい香りが漂う裏通り。
並べられる商品もどこか隠避な香り漂う怪しさを醸し出し、まっとうな精神の持ち主であれば、この場を支配する不穏な気配を察知して、直ちに回れ右をして光と生気に満ちた表通りへとひた走ることだろう。
「これが王都の裏側、かぁ……」
視線を走らせれば、すっぽりと頭巾をかぶり、潜めた声で囁きを交わし合う住民たち。
彼らは俺という闖入者を歓迎こそしないが、追い出しもしない。それを良いことに、都の喧騒から離れて、ずんずんと奥へ、奥へと進んでいく。
そうこうしているうちに、牢獄の壁を連想させる堅牢な壁と壁で構成された路地を通り抜け、香辛料の刺激的な香り漂う一角へと辿り着く。
まだ真昼間だというのに、けばけばしいほどに絢爛な緞帳の向こう側からは、濃厚な酒精の香りが漂ってくる。
その場に佇んで、耳を澄ませれば、官能的な音楽とともに男女が浮かれ騒ぐ軽薄な騒ぎ声も聞こえてくる始末だ。
どことなく退廃的な雰囲気を漂わせる場所に足を踏み入れること。
――もし良識あるものたちがこの場面を目撃でもすれば、不道徳の極みとして誹りを受けることも免れまいよ。
――ふむ、と独りごちて周囲に視線を巡らせる。
約束の場所は確かにここなのだが、いかにも一見さんお断りなこの酒場にどうやって足を踏み入れようか。
きらり、と何かが輝いた。
目を凝らせば、緞帳の張られた戸口の真上の方。
そこに、その場にはやや不釣り合いな可憐な鈴が、幾重にも連なってぶら下がっているのが確認できた。
「…………」
手を伸ばして、五十鈴よりぶら下がる朱色の紐を引っ張れば――
――リィィィィィイン――……!
先ほどまで聞こえてきた軽薄で猥雑な雰囲気を一瞬でかき消す、涼やかな鈴音が空気を揺らす。
――途端、それまで騒がしかった辺りが一息に静まる。
ヒソヒソとした囁き声もふつりと途切れ、女達の嬌声が途絶え、男達のあから聲も聞こえない。あまりにも隔絶してしまった場の雰囲気に内心戸惑っていれば、するりと緞帳の向こう側から艶かしい手が這い出した。
「――いらせられませ、お客様」
裏通りで聞く様なことは少ないであろう、気品に満ちた声音。
太陽の下で咲く花よりも、月下で咲き誇る馥郁たる大輪の花を連想させる――そんな艶を湛えた女の声だ。
「ですが、この店はもうじき棚じまい。――どうぞ、お引き取りを」
するり、と蛇の様に暗がりへと引き下がっていく細い指先に、懐から用意した細長い筒を添える。
紅で真っ赤に染まった爪先が筒に刻まれた文字を察知したのだろう、引き下がろうとしていた動きが止まり、かすかに息を飲む音がした。
「到着早々の店じまいはちょっと御免蒙りたいね。
無論、場違いなのは承知の上だけど、俺、ここで人と会う約束をしているんだ」
「あら、あらあらあら……。この店出で、待ち合わせですか……? それは、誠でございますか?」
「そうだよ」
ふふふ、と色香を帯びた笑声が溢れる。
――と、同時に、人間の荒い息に紛れて金属の鳴らす高い音が響き、緞帳の向こうで緊張が走る。
「それでは、あなたの言葉が誠かどうか、試させていただきますね?」
「…………」
「“――七は一輪の車を装備す。七つの名のある一頭の馬、これを牽く。車輪は三個の轂を有し、老ゆることなく、冒さるることなし、そこにこれら一切万物は乗る――” はてさて、これは一体何でしょう?」
うふふ、と女が微笑んだのを空気の流れで感じる。
「――さ、誠にあなたがお客様であればこの程度の謎かけ、造作もないはず」
この謎かけに間違えたら、すぐさま、向こう側に備えている者達の手でタコ殴りにされるんだろうなぁ……。
そんなどうでも良いことを思いながら、脳みそを回転させる。
言葉遊びの側面が強いとはいえ、問いかけとしてはさほど困難な問いではない――というか、これを考えたのが誰なのか、それに思い至って深々とした溜息が溢れた。
「七は太陽神の戦車を引く七頭の馬を意味し、三の轂は一年を構成する三つの季節。
であれば、この謎かけの答えは――」
全てを言い切る前に、大きく緞帳が翻った。
薄暗い室内から伸びてきた逞しい褐色の腕が俺の手を掴んで、勢いよく引き寄せる。
――ふわり、と漂ったのは典雅なる麝香の芳香。
引き寄せられた勢いのまま、鍛え上げられた硬い胸元にぶつかってしまい、文句を言おうと首を持ち上げようとして――――
「――故に答えは、時の象徴としての太陽を指す! どうだ、久々の再会にふさわしい趣向であろう?」
流れる水の様に滑らかな抑揚を帯びながらも、甘やかな毒を孕んだ朗々たる美声。
――は、と息を飲んで、勢いよく仰ぎ見る。
秀でた広い額を宝冠で飾り、白い毛を交えながらも灯火に照らされて艶めく編み込まれた漆黒の髪。
目鼻達のはっきりとした彫りの深い容貌には皺を浮かびながらも、醸し出されるのは円熟した大人の魅力。
弓矢を手にする戦士として誉たる均整のとれた堂々たる体躯を絢爛な宝玉で飾り、精緻な文様の施された衣装にその身を包んだ男の名は――――
「久方ぶりだな、兄上殿!
あの
莞爾、と油断ならない微笑みを浮かべる男の姿に、俺はときたら呆然と口を開くしかない。
嗚呼、まさか。
「――ドゥリー、ヨダナ?」
「そうとも!! 何だ、久しぶりの再会に感極まって何もいえないのか?」
地上に戻ってから、風の噂でドゥリヨーダナが即位したことは知っていた。
だけど、こうやって王者の風格を身につけるまでに成長した彼の姿をこんなに近くで目にしたのは初めてだった。
――嗚呼、でも。
カルナと再会して、言葉を交わせた時に感じた感情とは似ていて異なる思いが腹の底から込み上がってくる。
こちらを見下ろし、悪戯っぽく微笑む、世に悪名を轟かすクルの新王。
その姿にかつての彼の面影を見出して、自然と驚きのあまり硬直していた全身が弛緩していく。
なんと言えばいいのだろう! ぱくぱくと魚の様に口を開閉させ、凝視している俺をドゥリヨーダナが覗き込む。
嗚呼、もう! 嗚呼、もう、全く!
お前達ときたら、本当に、俺を喜ばせることが上手だなぁ!
「嗚呼、嗚呼、久しぶり! まさか、国王陛下直々にこんなところでお会いできるとは思ってもいなかったよ!!」
「生憎と、このわたしは他の王達とは違うのでな! どうだ、驚いただろう?」
「ここにカルナがいれば、なお良しだったんだけどね! まあ、事情が事情だから、今回はお前だけで満足してやるさ!」
「相も変わらず、減らず口を! そのにやけた顔を隠せ、嬉しくて堪らないと言わんばかりだぞ!」
「言ってろ、この性悪元王子!」