カルナと別れて以来、暗い表情ばかりを浮かべていた顔に笑顔が自然と浮かんでくるのがわかる。
お互いに再会を喜びあうために抱擁を交わし、少し離れて王となったドゥリヨーダナの肩を叩く。
一国の王としての風格、肌を刺す様な覇気と溌剌たる生命力は、かつての王子時代の彼にはなかったものだ。
父王の摂政ではなく、ただ一人の王として王国に立つこと。父祖伝来の土地を運営する責任を負ったこと。
あるいは、皇帝として即位した従兄弟にも劣らぬ広大な領土を武働によってカルナが獲得し、それを主であるドゥリヨーダナに捧げたことで、ドゥリヨーダナが生来抱えていた神の子である従兄弟への劣等感が解消された結果だろうか。
「――それで? ここは一体なんなんだい? 単なる場末の酒場だとも思ったんだが、そうでもないみたいだな」
「まあな。――女将、我らが将軍の、親愛なる兄上殿に何か飲むものを」
ドゥリヨーダナの声に応えて、馥郁と微笑んだ女性が奥へと引き下がっていく。
一頻り、再会を喜びあった後、周囲を見渡す。
店の奥に打ち付けられた戸棚には裏路地の怪しい店にはそぐわぬ多種多様な酒が並び、やや猥雑な気はあるものの店内を飾る天幕や薄衣は、どれも舶来の良品ばかりである。
また、蜘蛛の巣や埃まみれだった外壁や路地の景観とは裏腹に、店の中は酒精の香りに満ちているとはいえ、掃除が行き届いており清潔感に満ちている。
――王宮にいるべき存在であるドゥリヨーダナ。
そんな彼が、この場に共もなしにいる時点でただの酒場でないのは確定なのだが。
「お前達もそう殺気立つな。――皆、楽しんでいてくれ」
ドゥリヨーダナしか見えていなかったが、気づけば店中の者に注目されていたことに気づいた。
女将と呼ばれた彼女以外にも扇情的な衣装に身を包んだ女性達が店内のあちこちに散らばっているが、彼女達もまた手にしていた先の尖った簪や暗器の類を髪や薄衣の合間に隠すと、再び談笑を始める。
おまけに客らしき赤ら顔の男達の方もドゥリヨーダナの声に促される様にしてようやっと椅子や敷布の下に隠し持っていた剣や短槍の類をおろして、盃へと手を伸ばし出す始末。
「……なあ。もう一回聞くけど、ここ、一体なんの店なんだ?」
「まあ、そう警戒するな。奥で話そうじゃないか」
にこり、とこちらの警戒心を失せさせる様な朗らかな笑みを浮かべるドゥリヨーダナ。
それにジト目で返せば、たちまちのうちに微笑みは霧散し、唇をへの字に曲げた拗ねた表情が取って代わる。
「わかった、わかった! 隠さずに全て答えるから、その目はやめてくれ」
「素直でよろしい」
勝手知ったると言わんばかりに店の奥へと進んでいくドゥリヨーダナ。
店員と客を模した人々の視線を一身に集めながら、何重にも垂れ幕の施された奥の部屋へと辿り着く。
入口の猥雑さとは打って変わって、上品に整えられた奥の間の敷布の上にドゥリヨーダナがどっかと腰をおろす。
ドゥリヨーダナと向かい合う様に入口に背を向けて座り込めば、先ほどの女将がしゃなりしゃなりと歩み寄って酌をしてくれる。
「ひとまずは、今生での再会に乾杯だ」
「――そうだな。お前が生きている間にまた会えて、本当に嬉しいよ」
天界と人間の世界には時間のズレが生じやすいからね。
向こうで三日過ごせば、こっちで十年経っていたとか、そんな話はゴロゴロ転がっている。
気をつけていたとはいえ、
――ちん、と舶来の盃が触れ合う。
緑の釉薬の塗られたそれが、かつてドゥリヨーダナの屋敷にあったものだと気がついて、しみじみとした感慨に襲われる。
「――では、我らが将軍の親愛なる兄君に」
「なら、俺は俺たちの親愛なる性悪元王子に」
高々と腕を掲げ、お天道様が登っている時間帯だというのに、盃を交わす。
酒精を口にするというなんでもない行為だというのに、何だかとっても悪いことをしている感じがする。
「「――乾杯!」」
ゴクリ、と喉を鳴らして飲み込めば、強い酒精が喉を焼きながら腹の底へと滑り落ちる。
……うわ。かなり度数が強いぞ、このお酒。
俺はともかく、酒に弱いカルナだったら数杯で使い物にならなくなりそうだ。さすがの太陽神の鎧も身の内に入った毒の類には効かないからなぁ……。
「ふうん。兄上殿はカルナと違って、酒にお強いのだな」
「まあ、俺の腕輪は黄金の鎧とは違って形のないものに対して効力を発揮するからね。もっとも、物理攻撃に対する防御力は比べものにならないけど」
そうかぁ……、とどこか遠い目になるドゥリヨーダナに、首をかしげる。
こいつ、カルナと酒の席で何か大失敗でも犯したのだろうか? ――と考え込んで、風の噂に聞いたドゥリヨーダナの王子時代の大失態を思い起こし、半眼となった。
「そういや、お前……パーンダヴァを追放した際に、調子に乗った挙句に大失態を犯したんだって……?」
「――言うな、兄上殿。自分でもあれは反省している。もう二度とカルナに酒を飲ませた状態で戦わせたりしないと誓おう」
言ってくれるな、とばかりに黄昏て、遠くを見つめるドゥリヨーダナ。
色々と文句をつけておきたいことがあったのだが、久々の酒の席でまくし立てるのもどうかと思ったので、腹の底へと飲み込んでおいた。
「――さて、兄上殿。あなたには色々と聞きたいことがあるのだが」
「ん? 天界でのこと? 悪いけど、色々な交渉ごとは俺じゃない方が担当していたから、正直、答えられることは少ないよ」
改まって問いかけてきたドゥリヨーダナには申し訳ないが、本当に答えられることは少ないのだ。
地上に最初に堕とされてから我らが父神であるスーリヤは様々な情報規制を俺に敷いてきたが、今回の天界行きもその例にもれなかった。
何せ、
当然のことながら、握っている情報量も段違いである。
――まあ、忌み子たるドゥリヨーダナに味方すると決めた時点でそうなることも宜なるかな。
「俺から言えるのは、一言だけ。今度の大戦では――
「――……ほう」
ドゥリヨーダナが顎先を撫でながら、意味深な相槌を打つ。
生き生きとした黒水晶の瞳には不穏な輝きが点り、眉間の皺が深くなる。
「
「もし、本気でそう思っているなら、そのおめでたい考えを修正することをお勧めするよ?」
盃を差し出せば、濁った酒精がとくとくと音を立てながら、注ぎ込まれる。
そういえば、こいつは新王に即位したんだよなぁ……。そういえば、王様にこんなことさせて良いのかしら?
「莫迦め。このわたしを誰だと思っている。
この悪名高きドゥリヨーダナがその程度の言質に、躍り上がって喜ぶわけがなかろう!」
――まあ、いいか。本人も大して気にしていないみたいだし。
「お前……すっかり、開き直っちゃったんだね……」
「ふん! 何をやろうとしようと “破滅の子” 呼ばわりだぞ? ひねくれるに決まっているだろうが!」
――お返しに、と注ぎ返してやると、鼻を鳴らしたドゥリヨーダナが一気に盃を空にする。
どことなくふてくされている様子にこういうところは昔とあんまり変わっていないなぁ……と苦笑する。
「
「まあ、そうだなぁ」
「しかも、連中の中にはあの優等生もいるのだぞ? さぞかし、大量の祝福と寵愛が与えられているのだろうな」
「あーー、うん。そうなるだろうね」
言葉を濁すしかないので、曖昧に笑ってごまかす。
あの子も一体どうなっているのだろうか? かの紫紺の髪の女神様曰く、霊峰の麓で
「それにしても、参った。神々が参戦せずとも、一応は人のくくりに押し込まれているあの
――……なんとか、あの化け物を戦力外に陥れる方法はないものか……」
口元を手で押さえ、ブツブツと呟いているドゥリヨーダナ。
さぞかし、その形のいいオツムの中では物騒な思考回路がこれでもかと回転しまくっていることだろう。
チビチビと注がれた酒精を舐めながら、ぼうっとその様子を見やった。
「――それで? 兄上殿、今のあなたはどれだけのことを知っているのか?」
ここ数年の国家情勢は? 人間たちの勢力範囲図については? 近隣諸国の動きについては?
矢継ぎ早に問いかけられて、誤魔化すために頰を掻く。……いやあ、悪いんだけど、そこらへん全然わからないのよ――なんたって。
「パラシュラーマに命を狙われて追い回されている間に、そんなこと考えられる余裕があると思う?」
「ないな!」
清々しく断定したドゥリヨーダナに、その通り! と胸を張って言ってやれば、大袈裟に溜息をつかれた。
――おい、そんな顔をするなや。こちとら毎日が生と死の境目やったんだぞ。
「まあ、致し方ない。我々の中でも情報通だったあなたに教えを説くというのもなかなか可笑しな気分だが……」
ふぅ、と大仰に肩を落とし、瞼を伏せたドゥリヨーダナが唇を不敵に歪める。
悪どいとしか評しようのない表情を浮かべたドゥリヨーダナは怪しく輝く黒水晶の双眸を眇めて、一言つぶやいた。
「――
「……それって」
手にした盃を食卓に載せ、ドゥリヨーダナが重々しく頷く。
そうして、澄んだ緑の光沢の美しい盃を手持ち無沙汰になぞりながら、滔々とかつて交わした契約をそらんじる。
……一つ。
どちらが負けるにせよ、賭けに負けた者は十二年の間、森に住まわなければならない。
……二つ。
十三年目の年には、その正体を一年間の間、隠し通さなければならない。
……三つ。
この十三年目に発見された場合、森に住む年月は更に十二年間、延長しなければならない。
ただし、十三年目の年が無事に過ぎ去った場合。
その場合は、相手の失った王国を返却しなければならない――
「今年がその十三年目。奴らは約定に従って、その消息を完璧に絶っている。
――だが、不思議だとは思わないか? 妻のドラウパティーを合わせて、男五人に女一人。
かなり目立つ組み合わせなのに、ほとんど手がかりがない」
「何らかの神様のご加護を受けていると思うよ、そこまで来たら」
ドゥリヨーダナ曰く、十二年間の放浪生活の間は従兄弟たちの消息を掴むことは然程難しくなかったとか。
あんまりよく覚えていないけど、女神並みの美貌の王妃に釣り合う美形の五人兄弟たちだったはずだ。
当然のことながら、どいつもこいつも目立つこと間違いなしだよなぁ……。
「なぁ……、ドゥリヨーダナ」
「どうした、兄上殿」
「その……今更なのは自覚しているが――どうにか、戦わずに済む方法はないのか?
お前が幼少時代の確執のせいで彼らのことを憎んでいることもわかるけど、それでも、あいつらだってお前の一族じゃないか……それって……」
――ゴクリ、と唾を飲み込む。
ドゥリヨーダナの刃物のように鋭い黒曜石の双眸と視線を合わせることができなくて、手にした盃を覗き込むようにして口を動かした。
「――それって、彼らもお前の家族ってことじゃないのか……?」
俺の知っている家族は、俺が憧れた人間たちの“家族”とは、そういうものだった。
互いに互いを慈しみ合い、敬愛し、大切に想い合う。喧嘩し、罵り合ったりもするけれど、血という繋がり、あるいは共に過ごした年月を絆として回る――俺の見た中で最も尊い人間の関係性。
……それが、俺の知っている家族というもので――だからこそ、俺はそれに憧れたのだ。
だって、俺は知っている。覚えているのだ。
まだ小さかったドゥリヨーダナが誇らしげに父王のことを讃える姿を。
幼いドゥリヨーダナが母に摘んできた花束を差し出している姿を。
何人もいる弟たちと一緒に鍛錬に励み、陽だまりの中でのんびりと微睡んでいた姿を。
まだ、人間というもの、家族というものが――カルナの兄であるという自覚はあっても――何をしたらいいのかが分かっていなかった俺が楽師として王宮に招かれるたびにこっそり彼の様子を物陰から覗いていたこと。
それをドゥリヨーダナが知るはずもないし、今更教えるつもりもないけれど――でも、それでも。
どんなに罵られようと、どれほど悪態をついて悪ぶっていたとしても。
根っこのところでドゥリヨーダナは弟妹たちを愛しているし、その父母を大事に思っていたのだから。
――それ故に、彼は誰にはばかることなく父王の跡を継いで王になりたかったのだから。
――それをうまく伝えられなくて、臍を噬む。
弱々しい声で言いたいことだけ言って、俯いたままの俺をどう思ったのか、ドゥリヨーダナが三度、溜息をついた。
――ただそれは、先ほどまでの二回に比べると随分と優しげなものだった。
「…………それは、無理だな」
「本当にそうなのか? だって、このままじゃ、見つかる見つからないは別にして――本当に戦が始まるぞ?」
幼子に言い聞かせるように、ドゥリヨーダナは言葉を綴る。
俯いているせいで、彼がどんな顔をしているのかはわからないが、それでも、纏う空気の穏やかさから何となく……理解はできる。
「兄上殿……。分かっているだろう? わたしは彼らの妻を侮辱した。
いけ好かない女だが、本来ならば尊ばれるべき立場にあるべき女性を酔漢たちの晒し者にし、誰も止める者がいないのをいいことに辱めたことには変わりない」
あれはパーンダヴァの兄弟とカウラヴァの長子としてのドゥリヨーダナの喧嘩だった。
そこにあの蓮華のような王妃様が巻き込まれる必要はなかったし、そもそも巻き込まれるべきではなかった。
「わたしだって、わたしの妻や母上が同じ目にあったら、何としてでも雪辱を果たそうとするだろう。
ましてや、あの女は従兄弟らの子を産んでいる。母親であるあの女が侮辱された以上、その子供たちも――いや、子々孫々に至るまでパーンダヴァの子らは衆目に蔑まれた女の子供として、後ろ指を指され続けるだろう」
――親の業は子供にまで受け継がれるからな、と他人事のように吐き捨てる。
その言葉に、確かに、と頷かずにはいられなかった。カルナなんて、二親の業に振り回されてばかりだし。
父親であるスーリヤ同様に、生まれてすぐに母親の手で捨てられた。
不純な動機で産み落とされた子供であったがために、父から太陽の威光そのものとも言える鎧を与えられながらも、カルナの姿が醜く黒ずんでいたのを俺は知っている。
あるいは、目の前のドゥリヨーダナの父であるドリタラーシュトラ。
彼が盲目であるのも、彼の母の振る舞いに所以している。そして、そのせいで、彼は王の長子でありながらも弟であるパーンドゥに王位を譲ることになったし、今、王国がユディシュティラ派とドゥリヨーダナ派に分かれる遠因となっているのだ――嗚呼糞ったれ。何だってば、親の不始末が子供を苛まねばならんのだ。
「――ま。だからと言って、このわたしが温順しく奴らに殺されてやる義理もないのだが!」
「お前ぇ……。そこまで理解を示しておいて、結論がそこかよ!」
あまりにも粛然としているので、俺が知らない間に性格が変わったのかと思ったが、杞憂であった。
太々しく笑う姿は大変生命力に溢れていて魅力的なのだが、それでも語っている内容は人でなしの理屈である。
根っこが善良でありながら、善人と呼ばれる類の人間でないことは重々承知していたが、ここまで清々しく断言されるとは……。
思わず半眼になれば、ほんのりと頰を酒精で染め上げて、実に愉しそうにドゥリヨーダナは笑う。
――殴りたい、この笑顔。