「――げっほ、ごほ! はー、はー、は〜〜。嗚呼、糞ったれ!」
抱きしめたままの
バシャバシャと水を掻き分けながら、遥か頭上を見上げる。
あまり目がいい方ではないから、カルナのように一瞥で状況を判別とはいかない。所々倒壊している城壁の上で、松明を手にした兵士らしき者たちが慌てて走り回っているのだと、聞こえてくる騒音で理解した。
――最後の最後に、あの
王宮の周囲に張り巡らされた水を湛えた堀に突き落とすことで、彼女は無事に俺たちを脱出させたのだ。
彼女の四肢が千々に切り落とされる前に目撃した優しい微笑みを思い出し、唇を噛み締める。
――嗚呼、こんなことなら
――けど、本当の意味で俺たちは助かったわけではない。
窮地を逃れたとはいえ、以前として絶体絶命の危機にあるのは変わりないのだ。
頭上から聞こえる喧騒に背を向けるように、必死に岸辺に向かう俺の耳に、小さな咳が届いた。
「――けほっ!」
「
水草の漂う冷水に足を取られながらも、なんとかして腕で抱きかかえたままの少年の両手を俺の首元へと寄せる。
心もとない浮遊感に怯えた少年が怯みながらも、俺の首に手を回してくれたことに内心安堵して、自由になった両手で静かに水面を掻き分ける。
「サヴィトリ、サヴィトリ……。皆んなはどうなったの? 父さんはどこ……?」
「…………」
途方にくれた声で囁く少年に、胸が締め付けられる。
――嗚呼、と慨嘆する。
こんなにも忸怩たる思いに胸を締め付けられるくらいなら、このような感情など習得しない方が良かったのかもしれない。
ばしゃり、ばしゃり、と水音を立てながら、ようやっとのことで地上に上がれそうな場所へと辿り着く。
防衛目的で造られているがために土手はやや反り返ってはいるものの、人間以上の身体能力を持つこの身ならば、さしたる苦労もなしに登りあがることは出来るだろう。
「……
「――――うん……」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながらも、しっかりと頷いた少年を背負う。
さしたる時間もかけずに土塁を越えることはできたが、その間、ずっと少年はすすり泣いていた。
「お父さん、お父さん……ひっく……」
登っている間、どうしても少年を背負わずにはいられなかったので不安だったが、
べっとりと肌に絡みつく泥と水に汚れた服に辟易しながらも、この場で炎を出すことは出来なかった。
もし、俺の炎を目当てとして襲撃が行われた場合、戦うことを目的として創られてはいない俺では対抗することができない。
堀の先に広がる市街地に紛れ込んでから、走りながら服を乾燥させることにしよう。
そのように決めて、俺は少年の濡れた体を再び抱き上げた。
「――行くよ。しっかり、捕まってて」
さりとて、完璧な人間の子供に擬態できない少年をそのまま衆目に晒すことは出来ない。
しかも、夜分遅くとはいえ、街には酔っ払いや娼婦を始めとする人々の行き来があるのだ。
あまり褒められたことではないが、適当な民家の庭にあった、取り込み忘れた布を一枚拝借して、ぐるぐると少年の濡れた体を包み込むことにした。
ぐったりと脱力しきった少年を抱えて走る俺は、病人を医者の元へと連れて行く人に間違われたのだろう。
俺が前へと進む度に人々が忌避するように道を開けてくれるものだから、然程、人混みに邪魔されることなく、神殿への道へと辿り着くことができた。
「……サヴィトリ、どこへ行くの?」
か細い声が、耳に届く。
この国に来たばかりの、ハツラツとした少年の声とのあまりの落差に眉根を潜めながらも、少年へ返事する。
「――神殿には、まだ一座の面々が残ってる。彼女に頼まれたんだ――せめて、彼らだけでもドゥリーヨダナの元へと返してやらなければ」
「……うん」
名すら語らなかった彼女の言葉を思い出して少年へと告げれば、その体が身じろぐ。
良かった……。無理もないこととはいえ、すっかり気力を失ってしまったから、一時的なものであったとしても
包まれた布越しに俺の服を握りしめる
夜道を駆けながら、ほんの少しばかり魔力を解放して、濡れた服を乾かした。
本当は炎の翼を解放して夜空を奔る方が断然早いのだが、下手すれば格好の的になってしまいかねないので自重する。
「もう少しだよ、
「うん、うん! 急ごう、サヴィトリ!」
――流石に、一座の仮住まいとしている神殿の境内は人の姿がなかった。
ここで働いている神殿の祭祀や司祭もすでに寝入ってしまったのだろう。
内部へと続く壮麗な扉は固く閉められ、祭神たる太陽神に捧げる讃歌の響も聞こえやしない。
夜逃げしなければならない身としては、これは好都合だった。
マツヤ王国での公演のために貸し出された、一座の皆が滞在する天幕の張られた中庭へと急ぐ。
うっそりと生い茂る木々の群れを通り過ぎ、篝火の配置された垂れ幕の入り口を目にして、ほっと一息ついた。
「――サヴィトリ、降ろして。僕も、皆んなを起こしに行かないと」
真っ赤になった目尻を隠しもせずに、毅然と胸を張った
言葉通り、抱え込んでいた少年の足を地面に乗せ、夜の静けさをかき乱さないように潜めた声で指示を飛ばす。
「いいか、
「わかった」
コクリと頷いた少年をしっかりと見つめながら、周囲の様子を伺う。
その姿に、カルナの小さかった時のことを思い出しながら――耳を澄ませる。
……嗚呼、それにしても先程までの喧騒とは裏腹にとても静かである。
広大な敷地を持つ神殿ゆえの静寂さなのだろうか。それにしては、獣の鳴き声はおろか虫の音すらも聞こえない――
「――――!」
いや、待て。
些か、静かに過ぎないだろうか? 虫の音、獣の声が聞こえないのはまだいい――だが。
天幕の内部からは、灯されたままの篝火の残照が透けて見えているのだ。
であれば、最低でも王宮への潜入組を出迎えるために起きている誰かがいるはずなのに。
なのに、
「
「う、うん!」
何かを察したのであろう
大きく、息を吸う――意を決して、勢いよくその中へと飛び込んだ俺の前に広がった、の、は――――
「――なっ!?」
赤、赫、緋、赤赤、赤、緋々、朱、紅………!
ここしばらくの滞在で見慣れたはずの天幕の内部は、ねっとりと滴る真紅に染まっていた。
巨大な筆が鮮血を絵具として、縦横無尽に塗りたくったら、こんな情景が出来上がるのだろうか。
鼻が麻痺してしまうほど充満する臭いの正体なんて、考えるまでもない。
その上、真っ赤な海に散乱している
「――――っ! 見るな、
眼前に広がった光景を目にして、絶句しかけて――正気に帰る。
慌てて、傍の少年の目元へと手を伸ばしかけたが――
「あ、あ、あ、嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼――――!!」
……だが、時すでに遅し。
大きなまん丸とした目をこぼれ落ちそうになるまで見開いた少年の喉から、劈くような絶叫が走った。
そのまま、仲間の骸へと走り出そうとする少年の小柄な体を必死に押さえ込み、
「――あれ? まだ生き残りがいたの?」
「――あら? ひょっとして、討ち漏らし?」
――陰惨たる現場にはまるで似つかわしくない、野を駆ける風のように軽やかな声だった。
――惨憺たる現状には全く似つかわしくない、水面を撫でる風のように爽やかな声だった。
左右から示し合わせたように現れたのは、鏡写しのようにそっくりな二人。
朝焼けと夕焼けの色を宿し、それぞれ別の手に曲刀を握った、双子と思しき若者たち。突然の闖入者を目撃して、いかにも驚きましたと言わんばかりの表情を浮かべている。
「あれ?
「うん? 変だなぁ。魔物が出入りできないよう、術を仕込んでいたのに……」
だらりと力の抜けた態度で、こちらをまじまじと観察してくる二人の目から
それにしても、不真面目極まりない様子だというのに、こいつらの身のこなしに一片の隙も見当たらない。ふざけた話し方や態度は表向きのものか、と歯噛みして、
奥歯を噛み締めて睨みつける俺をどう思ったのか、双子は交互に口を開く。
皮肉にも、彼らが俺へと掛ける声は――同胞に向ける、とても優しい響きを宿していた。
「やだなぁ。どうしてそんな怖い顔をするの? 僕らの敬愛する天のお父様にそっくりな、折角の美形なんだ。ちょっとは笑えばいいのにさ? ――ねぇ、
「やだねぇ。どうしてそんな表情を浮かべるの? この光景を一目見ればわかるでしょう? 僕らは世を騒がす魔物を討伐しただけだよ? ――ねぇ、
くすくすと微笑みながら、鏡写しの双子が首を傾げる。
その手にぶら下がったままの曲刀には今尚鮮血が這っているというのに、彼らの着込む簡素な衣装には――血痕一滴見当たらなかった。
この一座に属する者たちは決して弱くなどなかった。
それなのに、ただの二人にこの体たらく――いいや、それは語弊というべきだ。
「ねぇ、仲良くしようよ?」
「そう、仲良くしないと! ――だって、僕たちは」
にこり、と双子たちが片手を俺の方へと差し向ける。
朝焼けと黄昏、二つの色を宿した二対の瞳はまっすぐに俺を――そして、その後ろに隠している
「人の世に紛れ込んだ魔物を――
「それ、は……」
「何を躊躇っているのさ? ――
逡巡する俺をどう思ったのか、情けないと言わんばかりの表情を浮かべてくる双子たち。
くい、と手を上下させて、腕の中に隠したままの
「……そうかもしれない」
――ポツリ、と掠れた声がする。
押さえ込んだままの
神霊としての務めと乖離する衝動ゆえに何も言い返せなかった俺とは違って、二人の駆逐の対象として見なされている少年は毅然と言葉を紡いだ。
「でも、だからと言って――お前たちの言い分に僕が従う道理なんてないだろ!」
燃え盛る炎を宿した琥珀の双眸が、熱を持って俺を睨みつける。
もう、そこには同胞の死に心を折られかけた幼い少年の姿はなかった――やるべきことを、やると決めたことを果たそうと決意した小さな戦士の姿が、硬直していた俺を奮い立たせる。
「しっかりして、サヴィトリ! 僕は、僕たちは――父さんに言われたことを果たさなければ!」
「あ、嗚呼! ――来い、
少年の手が俺の手のひらを掴み、燃え盛る琥珀の双眸が敵対者たちを睨みつける。
差し伸べられた小さな手のひらを握り返し、敵対する構えをとった俺たちを目にして、双子の片割れが舌打ちとともに、曲刀を構えて突進してくる。
「逃すとでも――――!」
「させない!!」
相手がわずかながら怯んだ、その隙に俺たちは手と手を取り合って、天幕の外へと飛び出したのであった。
……何が潜むともしれない闇夜を乗り越え、その先へと進むため。
*
*
*
――だから、俺は、俺たちは、知りようもなかった。
ありえない組み合わせの二人組が逃げ去った後、血に染まった天幕の内側で双子が深い溜息をついたことも。
天幕のさらに奥で、殺戮の義務を遂行していた第三の人物が、獰猛な笑みと共に彼等の後を追ったことも。
神殿の境内を必死に走る彼等の姿を捉えた黒衣の弓兵の番た矢が、俺たちの背後を狙っていることも。
そして、遠く離れた象の都にて、黄金の鎧を纏った戦士が手にした
深夜の強制鬼ごっこのルール
1、制限時間は夜明けを迎えるまで
2、戦闘を始めてもいいが、参加者は第三者に正体がバレるような真似をしてはならない
3、ただし、神霊であるアディティナンダ(サヴィトリ)に危害を加えてはならない
4、
5、夜明けを迎えるまでに
――さて、彼等は無事にこの夜を乗り越え、希望に満ちた夜明けを迎えることができるのだろうか?