もしも、カルナさんが家族に恵まれていたら   作:半月

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 ――ざあざあ、と雨が降っている。

 ――しとしと、と雫が降り注いだ。

 ――ひたひた、と冷気が忍び寄る。

 

 地下道に飛び込む前の喧騒が嘘のように、淑やかに降り注ぐ雨音だけが聞こえる静寂の世界。

 時折、空の一角に閃光が奔れば、遅れて天を裂くような雷鳴が鼓膜を震わせる。

 

 鳴り止まぬ稲光を背景に、孤影がゆっくりと地上へと近づいていく。

 

 その身を包む黒衣の裾を優雅に靡かせ、木の葉が水面に堕ちるように――ゆったりと。

 天上を縦横無尽に駆け巡る雷撃の眷属とは思えない程に静謐な雰囲気を漂わせた彼の足先が、そっと水溜りへと触れ合えば――密やかに水面に漣が走った。

 

 この光景を何も知らぬ者が見れば――神が地上に降臨したと歓喜の涙を流すだろう。

 あるいは大英雄神たるインドラの、その再来かと平伏し、高らかに讃歌を歌い上げることだろう。

 

 さながら一服の絵画のように完成された、見惚れる程に美しい光景。

 

 ――可笑しな話だ、と自嘲する。

 本物の神霊である筈の俺が泥だらけで濡れそぼった貧相な格好をしていて、半神でしかない筈の彼が雨滴一つ滴らぬ全く瑕疵のない姿で地に降り立つだなんて。

 

 それについては、彼も同じようなことを思ったのだろう。

 達人が一筆引いたような、形の良い眉根が微かに潜められ、秀麗な容貌が不快そうに微かに歪んだ。

 

「――何ですか、その姿は」

 

 かつて、共に旅していた時期よりも、王都で一晩だけ語り合ったあの時よりも。

 あの時分から更に齢を重ね、青年期特有の先染めの蕾のような初々しさを失った代わりに、円熟した男性特有の色香を漂わせる男の姿。

 

 これを間にしてはかつての様に “青年” と呼びかけることは難しいな、と小さく苦笑しながら返事する。

 

「……さて。どんな格好をしようが、俺は俺だろう?」

 

 天界に赴いていた際の記憶を有しない俺にとって、彼と交わした記憶はまるでつい昨日の様に思い出せる。

 

 ――そして、であるがゆえに感じずにはいられなかった。

 

 冷たい声、冷たい表情。

 全身から放たれる肌を刺す様な敵意の強さと威圧感の凄まじさ。

 王となったドゥリーヨダナと再会した時以上に、時の流れというものを実感せずにはいられなかった。

 

 感情の読めない黒々とした眼差しが検分する様に俺の全身を巡り、背後に隠した羽根(パクシャ)へと移る。

 人を食った事のある魔物。

 それが人々が営みを続ける都に潜んでいる――それだけで幼子姿の羽根(パクシャ)であっても、守り手たる彼らの手で討伐されるにたる理由となる。

 

 この仕草自体はあの双子も行っていた。

 打ち滅ぼすべき対象を見定め、その力量を推し量り、本来ならば守るべき幼子という括りの魔物への慈悲の一切を、己の心の内から遮断する――戦さ場に立つ勇士特有の、習性とも言える振る舞いだ。

 

 ――――()()()()()()()()? ……この、違和感は。

 

 表情に出すような愚は犯せないが、それでも奇妙な感覚は拭えない。

 あまりにも自然に、あまりにも無機質になされた彼のさりげない挙動に、なぜだか叫びたくなるような衝動に駆られる……が、今はそんな場合では無いと自律する。

 

「……サヴィトリ……、僕……」

「――落ち着いて、羽根(パクシャ)。絶対に、絶対に、俺の側から離れては駄目だ」

 

 同じような危険性を目の前に佇む彼から感じ取ったのだろう。

 俺の後ろに隠れた羽根(パクシャ)の体が、ひときわ大きく震えた。

 不安そうにこちらを見上げている羽根(パクシャ)の琥珀色の双眸に、安心する様にという意味を込めて微笑みかければ、水を吸って重たくなった俺の衣を握る掌に力がこもる。

 

 嗚呼、そうだ――俺が、羽根(パクシャ)のことを守るのだ。

 

 ドゥリーヨダナの部下、というのもある。

 この子供の父である頭から直々に頼まれた事も理由である。

 でも、それ以上に――かつての、まだ俺の腕の中に収まる大きさだった、小さなカルナを思い出させる幼い少年を、どうあっても見捨てる事のできないという俺自身の事情(わがまま)も関係していた。

 

 そうだ。俺は、この子供を――殺させたくないのだ、死なせたくないのだ。

 我儘だし、間違っているし、正しくない振る舞いを行っているのだと理解して――それでもなお、この子供に待ち受ける運命の訪れを拒絶せずにはいれられない。

 

 あの天の代弁者(アヴァターラ)に目撃でもされれば、到底嫌味だけではすまないだろう。

 それでも尚、ここまできて、ここまで情を移してしまったら――この小さな魔物の子供を見捨てることは選択できそうになかった。

 

 意を決する。

 もう、腹は括ったのだ――ここまで来て、揺らぐ様な真似は見せるまい。

 じり、と雨水を吸って泥濘に変わった地面を軽く削り、己の背後に隠れている羽根(パクシャ)の姿を隠す姿勢へと移行する。

 

 彼の方も、こちらの真意を悟ったのだろう。

 漆黒の長手袋で覆われた長い指先が神経質に引きつる。

 すると、その空の左手に、彼の身の丈に届く大きさの長弓が紫電を纏いつつ、顕現した。

 

「――――物は試しに、と尋ねてみるが」

「何でしょう?」

 

 目の前の彼の手にある武器が、かつて餓えた火神の胃袋を満たす対価として与えられた神の弓(ガーンディーヴァ)ではないことに内心で安堵する。

 

 半神の彼が己の魔力で拵えた武具ならば、俺の(からだ)機能停止(ぜつめい)させるまでには至らない。

 

「――このまま、見逃してくれる気はないか?」

 

 しとしと、と絶え間無く雨だれの音色が続く中、わざと軽快な口調を気取って提案する。

 

 陰鬱な曇天と降り注ぐ雨滴の重苦しい雰囲気を払拭する様に。

 それこそ、かつての旅路において交わされていた他愛のない会話を思い起こしてもらう様に。

 

 突拍子もない提案に、光を飲み込む闇夜を連想させる彼の切れ長の双眸が一瞬だけ見開かれる。

 

 ふ、と彼の薄い唇が微かに綻んだような、そんな気配を感じ――内心で、上手くいったか? と手応えを感じかけるが、それよりも速く――

 

 ――――ヒュン

 

 一瞬にも満たない、刹那。

 何か、熱いものが頬をかすめたと理解した瞬間、頬を滴る熱いものに遅れて気がついて――血の気が引く。

 

「サヴィトリ!!」

 

 悲鳴のような羽根(パクシャ)の声が俺の仮の名前を叫ぶ。

 濡れた衣越しにすがりついてくる少年を何としてでも安心させてやらなければと思うが、行動に移せない。

 

「私が先程、貴女に何と伝えたのか――もう、お忘れですか?」

 

 最早――冷たい、という言葉では表せない。

 一切の慈悲も容赦も完全に感じられない、絶対零度の執行者としての声が冷酷に宣言する。

 

 一切の情け容赦なく、その小さな体が圧死しかけるほどの威圧感を叩きつけられ、背後の羽根(パクシャ)の体が不自然に痙攣する気配を察したが――俺の方もその場に縫い付けられたように動けなかった。

 

 いつの間に、というのが正直な感想だった。

 一瞬たりとて、彼から目は離さなかったはずだ。それなのに、彼は既に矢を放ち終えた態勢を取っていた。

 

 ――俺の頰をかすめたのは、彼の神気が凝って出来た即席の矢。

 かつての旅路において、その身に宿す膨大な魔力を思いの儘に行使する方法として、俺が教えた術だった。

 

 はらはらと血の代わりに零れ落ちる魔力の燐光。

 確かに炎と熱で形成されている本性を隠すための金環を三つ身につけている状態とはいえ、生半可な攻撃では人ならざる俺の身に目に見える形で疵を負わせることすら難しいというのに――こいつ……。

 

「――諦めなさい、と伝えた筈です。いかなる命乞いを聞かされようと、私の決意が揺らぐことはありません」

 

 淡々と答える彼の手の上に新しい矢が生み出され、流れるような仕草で弓の弦に矢が番られる。

 

 見惚れるほどに洗練された動作。

 その一挙一動に込められた、微塵も揺らぎようのない決意に、言葉による懐柔は不可能か、と歯噛みする。

 

「――そうか、ならばやり方を変えよう」

「……何を……?」

 

 言葉による説得は無理。武で持って対抗するのは論外。

 この分じゃ、天女の魅惑の力を行使しての幻惑や魔声による精神操作でも一時しのぎにしかなるまい。

 

 嗚呼、全くもって絶望的だ!

 此処まで追い詰めてしまったが最後、己の無様な振る舞いに怒りを通り越して情けなさすら感じずにはいられない。

 

 だから、こちらも――この危機を乗り越えるために、最後の切り札を切らせてもらう。

 

 雨に濡れた髪を掻き揚げ、うっとおしく肌を浸す冷たい雨水を、()()()()()()()()()()

 

 空気が熱を帯び、白い蒸気が周囲を漂う――腕の一振りでそれを払いながら、微かに瞠目した彼に向かって宣言した。

 

「いいや。どいてもらうぞ、アルジュナ王子。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

「――!?」

 

 今度こそ、それまで泰然として揺らがなかった彼が目に見えて絶句する。

 それは、俺の口から紡がれた信じられない一言を耳にしたためか、それとも、絶対的だったはずの己の優位性が覆された為か――まあ、そんなことはどうでもいいのだが。

 

「……聞こえなかったか? 俺は、そこをどけ、と言ったんだ」

「彼我の能力差を理解していないのですか? 戦うすべを持たぬ貴女が、どうやってこの国の住人たちを殺し尽くすのです?」

 

 キリキリとこちらを威嚇するように弦を引き絞る彼の声はやや掠れている。

 監視するようにこちらを睨みつける彼の眼差しを惹きつけるように、大仰な仕草で手首に嵌めていた腕輪をゆっくりとした動きで引き抜いた。

 

「そちらこそ、俺が何なのか――今一度、説明してやらなければ理解できないか?」

 

 そうして、雨滴を弾いて尚輝きを放つ腕輪を――彼の傍へと放り投げる。

 黄金の軌跡を描きつつ、黄金の腕輪が泥濘みへと触れれば、その瞬間、過分な水分を吸ったせいで泥と化していた大地が一瞬で凍りついた様を目撃し、彼の目が大きく見開かれる。

 

 風切り音さえ置き去りに、光速で放たれた矢が俺の脇腹に突き刺さる――よりも先に、足に嵌めた金環を外した。

 

 紫の雷撃を纏った鏃が俺の肌に接触した途端、目の前でどろり、と瞬く間に融解していく。

 

 当然だ――神秘は、より強い神秘によって打ち消される。

 炎神の与えたもうた武器であればともかく、ただの魔力の塊に過ぎないその矢では、今の俺の(からだ)を傷つけることは叶うまい。

 

「これで、俺の本性(ちから)を抑えているのは足環一つだけ、だな?」

 

 ――ハァ、と溜息を零す。

 

 吐息となって吐き出された呼気一つで、辺り一帯の水分が漣を描くように蒸発していく。

 もうもうと立ち込める白い煙によって視界が曖昧になる中、自動的に己の熱を抑えてくれる封印具が無くなった今、必死に奥歯を噛み締めて、弾けそうになる本性を抑え込むために意識の大半をそちらへと注ぎ込む。

 

「――、これで、後には引けなくなった、な……」

「貴女、貴女はどこまで……」

 

 信じられないと言わんばかりに、愕然とした表情を浮かべる彼へと出来るだけ不敵に、婉然と微笑んで見せる。

 左右から不規則な力で引っ張られるように、重さを定めきれぬ天秤のように。己という存在が定まっていないせいで、今にも膨張の挙句、飽和していしまいそうな力の奔流を抑えこまなければならないこの状態は、ぶっちゃけ――きつい。

 

 ――それでも、不敵に大胆に、笑ってやろうじゃないか。

 

 嗚呼、確かに。

 俺は、君やカルナに比べれば、神霊としての格は高くとも、まともに遣り合えば一蹴される弱者だ。

 神の血を引くパーンダヴァの誰と比較しても、下手すれば人間であるドゥリーヨダナが相手であっても、真正面から遣り合えば負けるのは俺だ。

 

 ――だが、弱者には弱者の戦い方というものがある。

 本来ならば、形を持たぬ光と熱の化身であるこの俺を無理やり人間を模した器に押し込んでいるのがこの金環だ。

 だが、今のタガが緩んだ状態で、俺が力の奔流を抑え込むのを止めたら、それこそ小規模の恒星に匹敵する熱量がこの大地を蹂躙することになるだろう――と笑ってやる。

 

「……どうやら、その場しのぎの戯言ではないようですね」

 

 それを理解した彼は、攻撃を辞めざるを得ない。

 キリキリと弦を引き絞っていた彼の肩からゆっくりと力が抜けていく。

 

 動きを止めた彼の姿から目を離さずに、掠れた声で背後にいる少年へと語りかけた。

 

「――聞いて、羽根(パクシャ)

「サ、サヴィトリ……! だ、大丈夫なの? すごく、きつそうだ……」

 

 背後に隠した羽根(パクシャ)が、放り渡した腕輪を手にしている事でその庇護下にあることに安堵する。

 ちかちかと明滅する不安定な視界ゆえに、この子供が今、どのような表情を浮かべているかは判らない。それでも、気遣うように囁かれた幼い声音に、不思議と心が楽になったような錯覚を覚える。

 

「実は……ぶっちゃけ、めちゃくちゃきつい」

「や、やっぱり!」

「けど、泣き言ばかり言ってもいられない。――羽根(パクシャ)、よく聞いて」

 

 揺らぎそうになる自身の輪郭を必死に保ちながら、零す俺の声は我ながら切羽詰ったものだった。

 それでも、この子を無事に逃がすためにはこの方法しかないのだと、自分を必死に奮い立たせる。

 

「前言撤回することになって悪いが、俺はこれ以上、お前を守ってやれない。――だから、ここから先は……、お前だけで行くんだ」

 

 力を込めた足の爪先が、地面をひっ掻く。

 それだけで、たっぷりと水分を含んでいた地面が乾燥し、尚も降り注ぐ雨水が浸透するよりも先に、乾いた大地に罅が入った。

 

「――それが、貴女の要求ですか」

「……そうだ」

「その魔物の子供とこの国の住民全ての命が釣り合うとでも? 何と愚かなことを……! 自分が何をしているのか、理解しているのですか?」

 

 キリキリとつり上がった眦に、かつての青年の姿を思い出す。

 嗚呼、不思議だ。ようやっと、この旧知の人の子の本音とでも言える部分を引き出せたような、そんな気がした。

 

「分かってる、理解している。下手すれば、背信行為として今すぐ粛清されても仕方ない、莫迦な真似をしてる」

 

 嗚呼、でも――これでいいのだ。

 あの天幕で双子達に邂逅して以来、ずっと抱え込んでいた胸の内の靄が晴れた。天気は曇り空の土砂降りで、それなのに、迷いの晴れた心のうちだけが吃驚するほど清々しい。

 

「理解しかねます。貴女は、己の身内であるあの男とドゥリーヨダナにしか関心を抱くことは無かったはず。それなのに、全く縁もゆかりもない魔物の子供相手に――何故、そこまで執心するのです」

「だって――仕方がない。あんな切実な願いを聞いてしまったら、絡繰仕立ての心だって揺らがされてしまう」

 

 間違った生だと現実を突きつけられ、圧倒的な力に脅かされても尚――()()()()、と叫んだ。

 

 ――純粋に、貪欲に、我武者羅に。

 ただ、己の命を諦めたくないと吠えた少年の叫びに、切ないまでの必死な祈りに、どうして応えずにはいられようか。

 神の支配を良しとせず、己の思う道を進む、強い意志の持ち主たる二人(カルナとドゥリーヨダナ)にこそ、俺は心惹かれたのだ。

 

 例え、世界の秩序を保つという観点から見れば間違っているとしか言えない存在であったとしても、だ。

 それでも前に進むのだと言い放ったあの叫びを聞かなかったことになんて――できやしなかったのだ。

 

「――さあ、取引だ。アルジュナ王子、この国全員と兄弟達の命を引き換えにしてでも、羽根(パクシャ)を殺すか?」

「いいでしょう……。誓います、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 俺の決意が揺るがないと悟ったのだろう。

 完璧な無表情になった相手の手から魔力で構築された弓矢が消えたのを確認して、振り返ることのないままに、羽根(パクシャ)を促す。

 

「――行くんだ、羽根(パクシャ)。この場は俺が食い止める」

「……! ――わかった。……僕は行くよ」

 

 ふわり、と背後に隠れていた羽根(パクシャ)が身を翻す気配を感じる。

 枷が外れたのと同時に膨大な熱量を発した俺の余波を受けて、羽根(パクシャ)の纏う衣も、すっかり乾燥してしまっていた。

 

 一歩、二歩と俺から離れて行くにつれて、天から降り注ぐ雨垂れが少年の小さな体を浸す。

 

 その後ろ姿を見送るしかない俺は、少し離れたところでことの成り行きを見守っていた彼が不穏な動きをしていないことに、内心で安堵の溜息を零した。

 

 ここから王都の出入り口である城門まで、もう目と鼻の先だ。

 俺たちを追ってきた双子の足止めは叶ったし、姿を見せなかった狙撃者たる彼はこの場に釘付けにならざるを得ない。

 

 ――――嗚呼、もう大丈夫だ。

 

 これで、あの子を生き延びさせることができる――と、城門へと繋がる曲がり道の先へと消えた羽根(パクシャ)の後ろ姿を見送って、ほっと一息つく。

 

 良かった、守りきれた……!

 まともに遣り合えば敗北必至のこの命がけの逃避行を無事に完遂できた。

 討伐すべき魔物の子供の逃亡を手伝い、国一つを秤にかけた俺の身柄がどうなるのかは正直考えたくもないが、少なくとも羽根(パクシャ)とは異なり、すぐさま殺される様な危機には陥らないだろう……と願う。

 

 ちらり、と横目で見やれば、俺が放った腕輪を拾い上げる彼の姿。

 その姿に微塵も殺気や敵意も感じないという事実に安堵しつつも、彼から目を話さないまま、そろそろと足元に転がしたままの金環を拾い上げる。

 

「………ふぅ」

 

 封印具である金環に触れただけで、それまで明滅していた視界が透き通っていく。

 多重にぶれていた己という存在が一つの像を結び、確固たる形を持って世界に定着して行く様な感覚を覚え、肩の力が抜け――――ていく前に。

 

 ――ぐしゃ!! ぐちゅ、ぐしゃ……、り。

 

「……え?」

 

 ――――不意に届いた、奇妙な響き。

 まるで、何かを捻ったような、何かを壊したかのような、そんな音。

 

 ――そんな、胸をざわめかせる不穏な音。

 奇妙な違和感を覚え、呆然と音の聞こえてきた方――羽根(パクシャ)が立ち去った先へと目を凝らす。

 

「――らしくない失態だなぁ、アルジュナ! 魔物が一匹、逃げ出そうとしていたぞ!!」

 

 ――ズン! と腹の底に響く地響きと共に、雲を着くような美丈夫が曲がり角から姿を見せる。

 大嵐を鑿に大樹をそのまま人の形に削り出したような、見上げんばかりの巨躯。

 最高級の牛の乳を連想させるしっとりとした色合いの肌色、丸太のように太くがっしりとした両腕。

 

 大岩を連想させる広い肩幅、真っ赤な血に塗れた――彫りの深い端正な顔立ち。

 

 呆然とする俺を尻目に、同じく様子を伺っていた彼は苦笑したようだった。

 やや険を帯びた朗々たる美声の持ち主へと親しみを込めた表情と声色で応対している。

 

「――さて。ビーマ兄上がそちらにいると知ってのことですよ」

「ふん! 謙遜も度がすぎると却って嫌味になるぞ? ――ところで何だ、その女は?」

 

 ぎろり、と三白眼が俺の方を興味深そうに見つめる。

 大股で歩み寄ってくる大丈夫の両手の手のひらに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に、気がついてしまう。

 

「ところで、アルジュナ。これが何か知っているか? 先ほど、退治た魔物が持っていたのだが」

「――ああ、成程。実に見事な造りの……()()ですね。ええ――よく、見知っておりますとも」

 

 彼らが何かを会話しているようだが、その全てが耳を素通りしていってしまう。

 

 力の抜けた掌から何かが転がり落ちたような気がしたが、そんなことを気にしていられない。

 不思議と縺れる両足を無理やり動かして、まろぶ様にして前へと進む。

 

「――――〜〜っ!!」

 

 ねっとりと絡みつく大気を搔き分けるようにして、進んだ先に。

 

 鼻につく、鉄錆の匂いを漂わせる深紅の水溜り。

 そこへ無造作に打ち捨てられるようにして放られた、()()()()()()()()()()()()()()()()

 救いを望むようにこちらへと――俺のいた方向へと伸ばされた爪先には、みっちりと泥と血が詰まっていて――

 

 ――ガクリ、と両足から力が抜ける。

 

 そのまま、ずるずると脱力しきった体が、大地へと引っ張られる。

 ――おかしいな、自分の体なのに動かない。

 

 ぺたんと臀部が乾いた地面へとくっついて、ぐらりぐらりと頭が揺れる。

 ――あれ、なんだろう? 頭がクラクラする。

 

 分からない、理解できない。

 一体……俺の体に、何が起こっているのだろう? ――ちっとも、力が入らないじゃないか。

 

「……御可哀想に。――貴女は、あの魔物を守り切れたと思い込んでいたのですね」

 

 阿呆のように惚けていた俺の上へと、黒々とした影が覆い被さる。

 ひんやりとした万年雪の冷たさを帯びた指先が、焔と化していた俺の手を掬いあげて、何かがっしりとしたものを嵌める。

 

 ――きらきらと輝く、紅の輝石が象嵌された腕輪。

 俺の手首に収まったそれと同じものを、俺の肌を這う手の持ち主が嵌めていることにも気づいて、そろそろと頭上を見上げる。

 

 黒々とした、星と月のない夜空と同じ色の瞳がこちらを見つめている。

 深淵と同じ、昏い昏い、吸い込まれてしまいそうな輝きに誘われるように――口を開いた。

 

「――嘘を……吐いたの?」

「まさか! ――私は誓って偽りなど申しておりません。申したでしょう? ――()()()()()()()()()()()()

 

 俺の背に覆いかぶさる体勢をとっている彼の手が脚へと伸びる。

 熾火のような燐光を零していた炎の脚が、彼の爪先がなぞるのにあわせて人の脚へと変わっていく。

 彼の手が離れた後には、俺がつけているのと同じ金環が足首に科せられていた。

 

「――貴女と交わした約束通り、私は一切手出しを行いませんでしたが――貴女が御自身の命まで懸けた結果がこのような悲劇だなんて……」

 

 その光景を茫洋と見遣って、ゆっくりと顔を持ち上げる。

 見上げた先にあったのは、黒の手袋で包まれた片手で、口元を抑えた彼の端麗な面。

 愁眉を深め、憂いを帯びた眼差しは、逸らされる事なく俺の姿を捉えていた。

 

 側からならば、愚かにも魔物の子に情を移した俺を、哀れんでいるようにも見えた事だろう――だが。

 

「――本 当 に 、 御 可 哀 想 に」

 

 三日月のように吊り上がった、薄い唇。

 漆黒の手袋をはめた掌で隠している彼の真実の表情は――愉快で愉快で堪らないと言わんばかりに嗤っていた。




深夜の強制鬼ごっこが終了しました。
おめでとうございます! パーンダヴァ陣営の勝利です!!

+アディティナンダ側の勝利達成条件+

1、神殿内で双子に遭遇した際に、ビーマの存在に気づく→本編では未達成!
2、夜明けを迎える直前に、双子をなんらかの手段で行動不能状態に陥らせる→本編では夜間。従って、未達成!
3、双子撃退後、ビーマとアルジュナが二人揃っている状態で、切り札を提示する→本編ではアルジュナのみ。結果、未達成!

順調に進んでいるようでいて、順当に死亡フラグを積み立てておりました。
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