――トン、タタン、トトト……
武人の嗜みとして短く切り揃えられ、鑢で丁寧に磨かれた人差し指の爪先だけが、一定の音階を刻み続ける。
黄金と緑柱石、柘榴石と大粒の真珠で飾られた天蓋の下、王たる彼は次々と齎される配下の者達からの報告に耳を澄ませ、ゆっくりと思索に耽っていた。
約束の十三年目に入ってから、彼は各地へと頼りになる間諜たちを放っていた。
人の少ない寒村から、大勢の民草の住まう都、果てには人の寄りつかぬ神秘の森や薄暗い洞窟に至るまで。
広く広大なバーラタの大地の何処かに隠れ住むパーンダヴァの兄弟達を見つけ出すべく、文字通り草の根をかき分ける勢いで彼は間諜達に情報を求めさせたのだ。
――だが、その何れも芳しい報告を持ち帰る事はない。
約束の十三年目を迎えるまでは掴めていたパーンダヴァの所在が、今年に入って以降、トンと掴めぬ。
それ故、栄えある象の都・ハースティナプラではパーンドゥの王子たちは既にこの世にいないのではないか、と囁くものすら現れる始末であった。
――トトト、トン! トタタ、トト……トッ!
そんな筈がないだろう、と彼は指先で玉座を叩きながら毒づく。
神という超越者の血を引くあのいけすかない従兄弟どもが、そうやすやすとくたばる訳が無い。
彼らも己と同じように、神々の高尚なる企みを実現させるべく産み落とされた珠玉の駒。その勤めが果たされるよりも先に力尽きるような無様な真似は、
故に、奴らは生きている――
そうして、この十年の間、己らの栄華を奪い、名誉を踏みにじった彼を――クルの王たるドゥリーヨダナへの恨み辛みを凝らせて、報復の時を今か今かと待ち望んでいる筈だ。
ならば、何処にいる? 何処に隠れている?
天高くに君臨する神々の都か? 地中深くに隠された黄泉の国か? それとも水底に潜む深海の楽土か?
固く瞼を閉ざし、意識を研ぎ澄ませ、思案にくれる、思索に耽る。
次から次へと齎される最新の情報へと傾聴の姿勢を取っていたドゥリーヨダナは、ふと我に帰る。
――トト、トトン、トン!!
――――足りない、足りていない。
齎された間諜達からの情報が足りておらず、ここに揃っているべき者達の数が合わない。
「……おい。マツヤ王国の方へ放った者達はまだ戻っていないのか?」
「はっ! 彼らは定刻を過ぎても現れなかったため、定例通り先に報告を始めた次第でございます!!」
彼の言葉に、踵を打ち鳴らした衛兵が返事する。
その言葉に彼は――ドゥリーヨダナは眉間の皺を深め、側に番犬の如く控えるカルナは微かに息を飲む。
それまで清らかな水辺の様に静かな雰囲気を纏っていたカルナの放つ空気が豹変し、凍りつきそうなまでに鋭利な空気が玉座の間に充満する。
「――……誰か、ここ最近のマツヤの情勢について知る者は?」
「――!? だ、誰ぞ、カルナ将軍の問いにお応えせよ!!」
滅多に口を開くことのない友の凛とした声音に、闇に生きる間諜達は珍しいことだとどよめいた。
暫しの間、逡巡と畏怖が空気に充満し、それからややあって――口々に配下の者達は囁くように答え出した。
『ひと月程前の話です。マツヤ王国の守護者として名高いキーチャカ将軍は、人妻に横恋慕した』
『五人の夫ある身としては婦人はその求婚を断りましたが、それでも将軍は諦めきれず、実力行使に出たのだとか』
『王妃の侍女として仕える美女に懸想した彼は、その美女の夫であるガンダルヴァの怒りを買って――』
『――そのまま、
『将軍の親戚たちは一族の柱たる彼の死に激昂し、その侍女を殺そうとしましたが――』
『その行動もやはり女の夫であるガンダルヴァ達の逆鱗に触れてしまったそうで……』
水面の漣のような応えを聞いた家臣達が恐ろしいことだと口々に呟きあう。
神と人が連れ合って生きるこの世界において、その逆鱗に触れた者がみるに耐えない屍を晒す逸話は彼方此方に広がっている。この話もそのうちの一つか――と、人々が何処か納得しあう中、
「――見 つ け た」
「……ドゥリーヨダナ?」
閉ざした瞼を勢いよく開き、だらしなく倒していた姿勢を正す。
そうして、勢いよく立ち上がった王の姿にそれまで思い思いの感想を囁きあっていた家臣達は慌てて首を下げる。
ばさり、と王の権威を示す絢爛な長衣が翻る。ぎらり、と王の武威を表す劔が不穏に輝く。
静まり返った室内に甘い毒を孕んだ様だと讃えられた彼の朗々たる声音は、よくよく響き渡った。
「戦さの……否、略奪の仕度をしろ! 王都の守護を担う者共以外は全てだ!!」
「へ、陛下!?」
「それからトリガルタ王スシャルマンめに援軍を出すと伝えてやれ! あの俗物は長らくマツヤの領土を狙っていた、その野心に許可を出すと伝えてやれ!!」
「は、ははぁ……っ!!」
「スシャルマンには南方からマツヤへと攻め込ませろ!! 我らはヴィラータの兵士どもがトリガルタと戦っている最中に北方からマツヤを落としに行くが、無事に陥落させた暁にはマツヤの領土をくれてやると言ってやれ!!」
「かしこまりましタァ!!」
鞭打たれた猟犬のように、王命を受けた衛兵達が慌ただしく出入りする。
矢継ぎ早に命令を出し続けるドゥリーヨダナが黒水晶の双眸が彼の感情の昂りに応じて星のような輝きを放つ。
ぎろり、とドゥリーヨダナの瞳が玉座の間に控えていた武人達――一族の長老たるビーシュマ、武術顧問たるクリパ、叔父のヴィドゥラを睥睨し、動かぬ彼らを叱咤する。
「我が国が誇る一騎当千の英雄たる貴方方は一体何をしていらっしゃる? わたしは国の守りを任された者達以外の全てに進軍の命令を下した筈だが?」
「し、しかし、ドゥリーヨダナよ。其方のその猛々しさは如何なることか――急にマツヤを攻め入るなど、戦さの常道から外れておる!」
逡巡する長老達に姦計を嗾すように、あるいは毒杯を美酒と偽ってその喉を潤させるように。
甘い、甘い毒を孕んだ、流水の如く滑らかな声音が彼らの耳朶を擽り、ねっとりとその身を王の命令が縛っていく。
「これは異な事を! わたしは言った筈ですよ――略奪の準備をせよ、と」
「守備兵のみを残して立つ進軍が、か!?」
「なんとでも? ――貴方方の王であるわたしが命じたのです。貴方方こそ、いつまでそこに突っ立ているおつもりか?」
不敵に微笑むドゥリーヨダナの命に、長老達は辞去の挨拶もそこそこに、弾かれたように室外から飛び出していく。
彼らも難儀なことだ――とドゥリーヨダナは胸中で失笑する。己のことを物心着く前から忌み児として詰りながらも、法と階級に縛られているせいで、心はパーンダヴァにあると口にしながらも、一族の長たるドゥリーヨダナに傅くしかない。
全く――頼りになるべき
「――ああ、お前だけは違ったな」
「…………」
衛兵達が軍歌と共に去り、配下の間者達が密やかに辞去し、長老どもも足早に立ち退いた後――残っているのは腹心一人。
斜陽差し込む室内に玉座に負けぬ輝きを放つ黄金の鎧を纏い、ドゥリーヨダナの側で寡黙に佇む、最も頼りとする友。
炯々と輝く蒼氷色の双眸でこちらを見つめる、張り詰めた雰囲気の友に向かって――ドゥリーヨダナは確信を込めて囁いた。
「――パーンダヴァはマツヤ王国にいる。
「…………何故、そう思う?」
「一つ、キーチャカは下衆だが確かな実力を持った勇者であった。そんな豪傑を殺せる者はこの世に少ない――
まあ、あの優等生や腹黒野郎もできなくはないが――と続けつつ、死体が原形を留めぬほどの有様だったのであれば、自ずと犯人は絞られる、と断定する。
ニヤリと不敵に笑ってみせれば、納得した様にカルナが深々と首肯する。
「真っ当な戦士であることを自負する者ならば、余計な死体蹴りはする必要はないものなぁ?」
「……その通りだ」
「二つ、将軍が人妻であることを差し置いてまで横恋慕するような美女がこの騒動のきっかけだったこと」
忌々しい女の姿を脳裏に思い起こして、小さな舌打ちをする。
平民の粗野な狼藉者が鳴らすソレとは似ても似つかない、上品な、としか喩えようのない舌打ちが軽やかに室内に響く。
「古今東西、
超越した美貌を誇る破壊神の妻、吉祥天に喩えられるような女を二人は覚えている。
十数年にもわたるパーンダヴァの放浪期間中にかの王妃が引き起こした女媧の数々を知らぬ二人ではない。あれは野に放つことのできぬ美しさ――どこぞの権力者の後宮にでも収まらぬ限り、災いを引き起こすだけの力をもつ美の化身だ。
「――はっ! 幾ら何でも五人の夫をもつ美女がそこらにゴロゴロ転がってたまるか! あんな
「……、っ!」
そう言って毒づくドゥリヨーダナに、カルナが米神を抑える。
目眩を抑えるような仕草にドゥリヨーダナが首を傾げれば、
「どうした、我が友? 具合でも悪いのか?」
「――否。それよりも、お前の考えを聞かせてくれ」
カルナが気にするなと鷹揚に頷いて続きを促してきたので、ドゥリヨーダナは少しばかり気を遣って、それまで誰憚ることなく聞かせていた声音の音量を下げた。
「……三つ。マツヤ王国に行かせた奴らが戻ってこない――
様々な思惑があったにせよ、大事な親友の唯一人の家族とも言える相手の身柄を任せる程には、信を預けた者達だった。
当然、あの非力な神霊を任せられるだけの実力と判断力、組織力、その忠誠の深さを見込んでのことで――大きな声では言えないが、ドゥリヨーダナが今回の一件では最も頼りとしていた集団でもあった。
そんな彼らが、誰一人としてこの情報共有の場に出席していない。
ここは普通の宮廷で、ドゥリヨーダナが普通の王であったら、無駄なしきたりや慣習に従って、帝国に間に合わなかった彼らを招き入れることはなかったであろうが、ことドゥリヨーダナが王となって以降のクル王国は事情が異なる。
だから、入れてもらえていない……などということは可能性として低い。
仮に、頭の固い年寄りどもの妨害にあったとしても、彼らならばその隙を掻い潜って侵入することとて可能なはずだ。それだけの技能と技量、柔軟さを誇る一団であった――なのに、その兆しはなかった。
「あいつらは旅の一座、として潜り込ませていた。ひょっとすれば、正体を見破られ、討伐の対象になったのかもしれんが……一人、二人ではない大勢の集団が殺される――あるいは、姿が消えたとする。その様な大事、それが異国からの流れ者であれば尚の事、噂にならない方がおかしいだろう」
――――だが、それすらなかった。
マツヤ周辺の聞き込みで噂になったのは、キーチャカ将軍とその一族の変死のみ。
大きな騒ぎも噂になるだけの騒動も、何一つ起こることなく、起こすことなく、消息をくらました旅の一座。
それが任意のものであれば今、この場には彼らがいる筈だ――けれど、それが彼らの意に染まない過失によるものだとすれば、其れが意味するのは……。
「――カルナ、ヴィジャヤを用意しておけ」
「……承知した。最高の戦車と腕の立つ御者も用意してもらえるか?」
「無論だ」
無双の武芸者にして、最高神の一角の化身として高名なパラシュラーマより授かった神の弓。
それを、たかが略奪に持ち出せというドゥリヨーダナの命令を先ほどの長老が聞けば、敢然と食って掛かるだろう。
だが、カルナは主人の命令を承諾する。
一見すれば、行楽まがいの行軍の真の意図するところを察したが故に、神の威光を纏った戦士は一切の油断を絶って――この先に待ち受けている強敵の姿を幻視する。
「……それにしても、こんなに一致する符号があると言うのに……何故、誰も気づかぬのだ?」
「致し方あるまい。どうやら、何処ぞの神によって認識阻害の護りが与えられていたようだからな」
「…………また、神々の依怙贔屓か。――うん?」
額を抑えていたカルナの指先が火花を散らす硝子玉――に酷似した何かを掴み取っている。
そのまま穂先を自由に操る指先が硝子玉を掴む指先に軽く力を込めれば、儚い音色と共にソレは霧散した。
己も戦さの支度をするために連れ立って玉座の間から退出しようとしたドゥリヨーダナの足音が止まれば、その護衛として従っていたカルナが不思議そうにこちらを見つめ返す。
「……待て。だとすれば、何故、わたしは気づけたのか?」
「ドゥリヨーダナ」
滅多にない優しい声音で、カルナが何処か呆れた様子で見つめ返す。
ふ、と吐息のような細い溜息をついたカルナの涼し気な双眸に浮かぶ感情は、常のごとく透き通っている。
「そんなもの、もう一人のアディティナンダがお前に与えた加護のおかげだろう?」
「――――!」
対峙する己の身を焼き尽くさんばかりの熱量を誇りながらも、傷つけまいと言う気配りを感じさせる手つき。
羽毛のようにそっと己の頰に触れた細い指先に、万感の思いの込められた祝福の言の葉――そして。
本当に愛しい者に与えられる、慈愛に満ちた接吻の暖かさを思い出して――額を抑える。
父でもなく、母でもなく、弟たちでもなく、妻でもない相手から、呪われた自分に与えられた、ただ一つの祝福。
天にも匹敵する武芸の上達でもなく、誰もが欲する巨万の富でもなく。
ただ、その精神が損なわれることのないように、と。ただ、今のありのままのお前でいいのだ、と。ドゥリーヨダナという人間を構成する全てを無言で肯定してくれた。
その事実の尊さを、その真に意図するところを、実に十数年ぶりに理解して――――ドゥリヨーダナは赤面した。
*
*
*
「……カルナ」
「どうした、ドゥリヨーダナ?」
「あいつらが何かに巻き込まれたのは間違いない――であれば、兄上殿のことが心配だ」
「ふむ。お前の口からその様な台詞を聞くとはな。あながち、アディティナンダの一方通行ではなかったと言うことか」
本編のストックはこれで最後になります。
この後、パーンダヴァ五兄弟がドゥリーヨダナに見つかり、交渉は決裂→そして、クルクシェートラの戦いに…となるはずでした。ただ更新がストップしているうちにLB4が始まり、気づけば紙月でわし様とビーマが実装され……いやはやあっという間でしたね……
次回以降は、没となった√を公開しておきます。アディティナンダがパーンダヴァ五兄弟同様に王宮に招き入れられ、うやたらと見覚えのなる麗人を見かけて「んん??」ってなる√も考えていました。こちら、クルクシェートラ前日譚としては緊迫感に欠けるという理由で一度アップしておきながら没になったという理由で下げていたやつの再掲になります。