こちらですが、時間軸的にはhttps://syosetu.org/novel/100392/69.htmlの直後のお話になります。別名・ワタシ・アディティナンダとアルジュナの邂逅。
<上>
『――やはり、アナタはその道を選択するのですね』
身の内側より神秘の輝きを放つ、人の形をした――
天空の星々、地上の篝火に勝る、炯炯たる真紅の瞳が、揺らぐことなく彼を凝視する。
あらゆる虚実、あらゆる欺瞞、あらゆる真実を見抜く瞳の強さは――彼が恐れた、ある男に酷似していた。
『嘆かわしいことですが――それが、アナタの選んだ道であるなら、ワタシからは一つだけ』
密やかにしめやかに、矮小な人間を押し潰してしまわぬように。
細心の注意を持って紡がれた神の言の葉が、彼の耳について離れない――否、離れることはない。
『……約定を交わしましょう。神々の王の寵児よ』
――深淵の彼方から、木霊のように響いてくる声。
男とも、女とも似つかぬ、雪を冠った霊峰の峻厳たる冷気を想起させる、超越者のしめやかな囁き。
『
ワタシはワタシの責務に則って、我が愛子の敵であるアナタたちをも、
――深い慈愛と深い悲哀。相反する感情を内側に秘めた、凛然とした声。
ピクリとも動かされることはない、人間とはまた異なる超自然の美しさを宿した容貌。
『――ただし。それはアナタがワタシとの約束を守ること、を条件としております。そして、それに対する酬いとして――……』
宵闇に神の言の葉が溶け込んでいく。
――男とも、女とも判断のしづらい、人ならざる神の息吹が肌を撫ぜる。
目と鼻の先にまで近づけられた神の瞳が、鏡面のように彼の顔を映し出していた。
『――アナタ方が決して飢えることのないように、ワタシがアナタ方を守りましょう』
そっと手渡されたのは、小さな飾り壺。
王宮の片隅に装飾品として置かれて居た、美しくはあるが何の変哲も無い――それを。
『約定の証として、これを。――今は必要ないと思えても、その内、これが必要になるでしょう』
美しいとしか評しようのない白面が、ややぎこちなく動いて、微笑みを形作る。
その美貌に、彼がかつて旅路を共にした不思議な少女の面影はない。この目前にいる玲瓏たる人外が静であるとするのであれば、かの娘は紛れもなく動であった。
そして、太陽神の娘の名を冠した彼女が、単なる人でなしであるのに対し、今、彼の前に佇立している人外は、紛れもなく “神” であった。
その瞳に、自分の抱く疎ましい真実が見抜かれることのないように、顔を伏せる。
そのまま、鷹揚に差し出された神の恩寵を押し戴けば、目の前の存在から放たれる威圧感が、糸が切れるような唐突さで搔き消えた。
「!?」
咄嗟に、視線を持ち上げる。すると、目の前にいた筈の人外はその姿を消していた――否。
「――あ〜〜、クッソ! あいつめ、俺が話していたというのに、好き勝手しやがって……」
小鳥の囀りを連想させる美声に、視線をさらに下へと向ける。
すると、そこには糸が切れた人形のように崩れ落ち、その場に尻餅をついた見慣れた少女の姿があった。
――それに、慌てて膝をつく。
片膝を地面に落とし、右手を差し出せば、躊躇うような眼差しが返された。
かつての旅の合間であれば、遠慮なく甘受されていた手助けであったのに、それを逡巡するような仕草をされたことに、内心で首を傾げれば――ああ、と合点がいった。
――そう言えば。私と彼女は、
あまりにも彼女が変わっていなかったから、気にしないでいられた事実が、看過できない内容として脳裏に浸透していく。
ああ、全く。自らの甘さに反吐が出る。
――そう自嘲して、伸ばした手を引き戻そうとすると、それよりも先に、やや乱暴な仕草で手を力強く握り締められた。
「おいこら。仮にも婦女子が倒れこんでるんだ。そこは、さりげない仕草で助け起こすべきなんじゃないか?」
「……どの口で、己のことを手弱女だと言い張れるのですか」
「失敬な! どこからどう見ても、花も恥じらう絶世の美少女じゃないか」
自分が腕を引き戻す動きに合わせて、倒れ込んでいた肢体が緩やかに起き上がる。
ふわり、と静かな夜に相応しくない日向の匂いが鼻をくすぐった。それが、かつての旅の記憶を想起させ――――なぜだか、どうしようもなく泣きたい気持ちになった。
「おいおい、あいつに何か酷いことでも言われたりしたのか? あるいは、何かされたりとか?」
「――おや。どうしてそのようなことを?」
できるだけ平静を保って、自然な態度で対応する。
すると、眉間の間に皺を寄せた彼女は、本当になんでもないことを告げるかのように――それでいて、少しだけ憚るように囁いた。
「だって、君、、今にも泣きそうじゃないか。……なあ、本当に何もされていないんだろうな?」
「!!」
思わず、片手で顔を覆う。
いつの頃からか使用するようになった純白の手袋に包まれた指先が頰に触れたが、彼女の語るような涙の痕跡は感じられなかった。
普段通りの “アルジュナ” だ。
普段通りの、私、である筈だ。それなのに、どうして彼女は――……
「――何を、莫迦なことを。
年端のいかぬ幼児でもあるまいし、そのようなことでこのアルジュナが涙を流すわけがないでしょう?」
「そうかぁ? ――さっきまで、嗚咽を漏らしていた奴に胸張って言われても……まあ、いいか」
じっとりした目つきで、疑わしいとばかりに睨めつけられたが、素知らぬ顔をしていれば、大げさに肩をすくめられた。
何やら、先ほどまでの醜態について言及されたような気がしなくもないが、柳に風と聞き流した。
――フゥ、と小さなため息が零される。
自分のものではない、となれば、その対象は自然ともう一人へと向けられる。
夏の空を思わせる澄んだ蒼眼が思わしげに細められ、松明に照らされる廊下の先を見つめていた。
――……この道の先にあるのは、ドゥリーヨダナの居城だ。
「――もう、帰らないと」
「…………あ」
そのようなことなど、わかっていたことなのに。
その宣言を聞いた途端、それまで自然とできていた呼吸が一気に困難になった。
さながら、森の清涼な空気を思う存分を貪っていたというのに、唐突に光の届かぬ深海へと放り込まれたような感覚に苛まれた。
――誰でもない、ただのアルジュナから、皆の望む、特別な英雄としての “アルジュナ” へ。
それ見たことか、と胸奥に潜んでいる黒を宿した自分が、嗜虐的な嘲笑を響かせた。
耳腔の奥へと入り込もうとする嘲弄を振り切るように、立ち去ろうとする彼女の背中へと声をかけた。
「――お待ちくださいっ!!」
「ん? どうしたんだ」
かつての旅路の終わりでは、決して振り返ることのなかった背中が、反転する。
逸らされぬことのない慈愛に満ちた視線に、ふわりと揺れた朱金の髪。
舞うように広がった簡素な侍女装束、カモシカを思わせる蜂蜜色の手足。
ほっそりとした四肢に嵌められた金の環が篝火を受けて赤金色に煌めく。
――振り返ってもらえた。
それだけで、無性に胸を掻き毟りたくなるまでの苦しさに襲われ、そんな自分自身を自嘲する。
「――その」
「…………」
――やめておけ、と耳奥で静止する声がする。
自分にだけにしか聞こえない声の語ることは正しい。
――それが私だけではなく、相手にも苦痛を与える行為になるとわかっているのだろう? ともう一人の自分が辞めるようにと促す。そんなことは百も承知だった――だけれども。
それに――敢えて、聞こえないふりをした。
生唾を吞み込む。こんなに緊張したのは、一体、いつ以来だろうと考える。
「――あのっ! 貴女の、名前を……教えてはいただけないでしょうか?」
「俺の? ――ふふっ」
過度の緊張のせいで、ようやく出てきた声は掠れ切っていた。ああもう、初心な少年でもあるまいし、ただ名前を聞くだけだというのに。
何故に自分はここまで緊張してしまったのか。
羞恥のあまり頬が赤く染まり、目の前に佇んでいる相手の顔も直視できない。
勿体ぶっておきながら尋ねてきた内容はそんなことなのか、と言わんばかりに彼女の方も笑っている。
ああもう、調子が狂ってばかりだ。
かつての旅の合間の、奔放すぎる同伴者に振り回されてばかりだった記憶が蘇る。
昨日のことのように思い出せるのに、目の前の旅の相棒もあの時と同じ姿であるというのに。
あれから――十年以上の月日が経ってしまったのだ。
「は、はは! なんだ、なんだ! すごい勿体ぶってるし、柄でもなく緊張しているから、なんのことかと思ったら!」
「――もう……、黙りなさい……」
「ふふふ。蚊の鳴くような声だな! あはは!!」
腹部を抑えて爆笑している彼女の姿に、思わず顔を覆う。
普段とはまた違う意味で見られたくない姿ばかりを目の前の人でなしには晒してばかりだ。
「“タパティー” で、いいよ」
「――え?」
……ふぅわり、と蕾が綻ぶような、そんな微笑み。
溢れんばかりの愛情と切ないまでの優しさと、あの男の敵対者たる己には向けられる筈のない仁愛。
「君にとっての俺は、タパティーでいい。――きっと、それだけでいいんだ」
「ですが、それは……!」
――しぃ、と悪戯っぽく、それでいてどこか憂いを帯びた表情で。
常若の少女は、その見目に似合わぬ達観した眼差しで、己のことを見つめていた。
「……それで、いいんだよ。
君は、俺の弟の倒すべき敵かもしれないけど、俺の倒すべき敵ではない。
君と俺は、ひと時を共に歩んだ同伴者か、ささやかな旅路の記憶の共有者であるべきだ。
そこに、下手なしがらみも、面倒な理屈も――持ち込むべきではないよ」
なんてことだ、と顔に出すことなく煩悶する。
あまりにも無垢、あまりにも清廉、あまりにも純真!
その言葉が心からのものであると悟ってしまったが故に、無意味とは悟りつつも、問いかけずにはいられなかった。
「貴女が、あの男の肉親であっても? ――もしも、私が、あの男を殺したとしても?」
そうだよ、と囁くように太陽の娘という名を冠した少女は首肯する。
「それが、君とあの子の選択の果てに起こるものであるならば。
――俺がそこに口を挟むべきではないのだろう。
だって――それを言うなら、あの子だって君との闘いを望んでいるんだ。
だったら、
「それ、は……」
凡庸な人間の精神性では理解はできても心が耐えきれぬことをさらりと述べる。
それこそが、この少女が人ならざる存在であると言う証左であった。
――俺もまだまだだなぁ、と年端もいかぬ見目の少女が嘯く。
照れたように、恥じるように。
彼にとっては衝撃的な発言をした彼女は手持ち無沙汰に髪を弄っている。
「何より、君もあの子も、もう俺の手を必要とする雛鳥じゃない。自分の頭で考えて、自分の足で歩めて、自分の手で欲するものを掴み取れるだけの器量も才能もある――だったら、俺が手を出すことは、弟への……ううん――君たちへの侮辱でしかない」
「タパティー……貴女は……」
――自分はこの時に何を言おうと、何を伝えようとしたのだろうか。
言葉にならぬ音だけが口の端からこぼれ落ち、そのまま大気へと溶け込んでいく。
「多分、君の守っているモノもドゥリーヨダナの目指すべき先にあるモノも――きっと。
……きっと、本質的にはあまり変わらないんだと思う。
――だったらそう、あとは好みの問題でしかないんだろうなぁ、と思うよ」
いつの間にか、もう一人の自分の声は聞こえなくなって、彼女の声だけが耳に入ってくる。
するりと耳朶に滑り込み、己の琴線を震わせるのは透明な鈴音のように、美しく麗しい、軽やかな声だけ。
「これに気づけたのは、本当についさっきだったけどな! ――まあ、なんだ」
照れくさそうに、少女が笑う。
それこそ、余計なしがらみも面倒な規則からも解き放たれたように清々しかった。
「――
屈託のない微笑みは、あの旅の合間にも見せられることのなかった類の笑顔だった。
今になって顧みれば、それも当然のことだろう。
あの時の彼女にとっての自分は、彼女の肉親の属するカウラヴァの最大の敵であったのだから。
「お別れの時間だ。俺の愛すべき、もう一人の
――君も、俺も、いるべきところへ戻らなきゃ」
蒼い瞳が少し離れたところにある、自分の両目を見つめている。
愛しそうに、嬉しそうに、軽く瞳を眇めて――大事そうに、大切そうに、眺めていた。
けれども、それも一瞬のこと。
くるり、と甘い香りを漂わせながら、華奢な体が目の前で反転する。
「……縁があれば、また巡り会えるだろうよ。――じゃあな、アルジュナ王子!!」
その眼差しがとても嬉しくて、そして、同じくらいには悲しくて。込み上げてくる感情を無理矢理に胸の奥に押し込めながら、やや歪な微笑みを浮かべて己もまた別れの言葉を告げる。
「……ええ。いずれまた、タパティー」
いずれ、この優しい眼差しが嫌悪と憎悪、忿怒に満ちた表情へと変わるかもしれない。
いずれ、この美しい言葉を紡ぐ唇が、嘆声と悲鳴、涙に暗れる嗚咽へと変わるだろうか。
……何より。
そう想像して――、――そして。
――それはそれで、お前の虚ろな胸の内を満たすことになるだろうよ。
眼球の奥底、思考の深奥。
固く固く隠し込まれた己の心の深淵に潜むもう一人の自分は、邪悪としか称しようのない哄笑を虚なる暗闇に響かせたのであった。