三日三晩、休まず歩き続けた先に、当面の目的地たる王都へと到着した。
道すがらパラシュより聞いた情報と自分の脳裏に残る記録を参照するに、ここは老王ヴィラータの統治するマツヤ王国。緑豊かな沃土と肥え太った家畜たちの住まう豊穣の国である。
無数の通りは大勢の人々でごった返し、道ゆく人々の顔には活気が満ちている。
商人たちは怒鳴るように己の自慢の品々を紹介し、鮮やかな衣の娘たちが連れ立って歩く。
筋骨隆々の男たちが鎧を打ち鳴らしながら道をゆき、見慣れぬ衣装を纏った旅人が物珍しげに周囲を見渡している。
――そんな中、俺はといえばパラシュに楽曲の腕を披露していた。
「――ふぅ。こんなものかな?」
大通りの片隅に作られた水汲み場に腰を下ろし、即興で爪弾いた何処と無く物悲しい音楽を奏でる手を止めれば、いつの間にやら集まっていた聴衆たちの間から空が割れんばかりの喝采が返ってくる。
「――相変わらず、芸事だけは達者だな。天上の楽曲者たる半神や魔性の声を持つという天女さえ、爾の腕前には遠く及ぶまいよ」
「いやあ、俺もちょっと吃驚した。最初に楽器を差し出された時は弾けるものか! と思ったけど、存外何とかなるものだねぇ。――それにしても、相変わらず、ってどういうこと? 俺のこと、知ってたりする?」
別に金銭目的で奏でいていたわけではないのだが、くれるというものはありがたく戴いておこう。先ほどまで俺の歌に聞き惚れていた人々が我も我もと言わんばかりに差し出してくる品々を笑顔とともに受け取りながら、傍のパラシュに問いかける。
「……さぁてな。それよりも、この調子であれば爾の記憶もすぐに戻ることになるだろうよ」
「本当か!?」
共に旅をしていてわかったのだが、このパラシュと名乗った青年は嘘をつかない。
それに、彼の直裁で胸を抉るような内容を淡々と告げてくるような話し方には何処と無く既視感がある。
ひょっとしたらパラシュ以外の誰か――それも、俺の大事な人の誰かが同じような感じの話し方をしていたのかもしれないと思わせた。
それまで足を止めていた聴衆たちがそれぞれの方向に歩き出す。
それを何ともなしに見送り、人々から思い思いに差し出された報酬をひとところにまとめていると、じっとこちらを見つめている誰かの視線を感じた。
「――ん?」
じっと視線を感じた方へと顔を向けるが、特にこちらを注視しているものはいない。
平和で平穏極まりない人々の日常の情景が広がっているだけだ――と結論づけて、作業に戻る。
そんな俺の姿を何ともなしに見つめていたパラシュの口角がニンマリと吊り上がる。
透き通った赤瑪瑙の双眸がキラリと宝石のように冷たく輝いた。
「……あァ、成る程。――そら、運命が爾を迎えにやって来たぞ?」
パラシュの低い声に不穏な気配を感じ、ピクリと体の動きが止まる。
それくらいには、冷たく、そして冷徹な響きを宿した声だった。微かな衣擦れの音と、密やかな息遣い――誰かが、しゃがみこんだ俺を見下ろしている。
「――……ねぇ、あなた」
ゆっくりと上目遣いに相手の姿を見上げる。
橙色の柔らかな布靴に包まれた褐色の足、豪奢な黄金飾りの嵌められた細い足首。
ひらひらと舞い踊る刺繍の施された衣服の襞、果実を連想させるふわりと漂う甘い香り。
「あなた、そう、あなただわ!」
――うふふ、と朗らかな声が可憐に宣言する。
見上げた先にあったのは、好奇心と稚気を宿してキラリと輝く瑠璃の双眸。
きめ細やかな織目の薄衣の成した影の下、色とりどりの生花と繊細な黄金細工で飾り立てられた白金の髪は豊かに波打つ、くるくると渦を成しながらほっそりとした背中を流れ落ちる。
白魚のような指先が、目深にかぶっていた薄布の衣被を取り外せば、それまで隠されていた彼女の容貌が露わになる。
「ねぇ、あなた! あなたのお名前は何とおっしゃるの!?」
――まず目に飛び込んで来たのは、真珠のように輝く真白の輝き。
蒼天の下、純白に輝く陽光を浴びた白金色の髪の毛が照り返しとして放つものだと悟った瞬間、何も覚えていないはずのこの胸を強烈な懐旧の念が苛む。
……嗚呼、そうだ。
俺の薄れた記憶の奥底に面影を残している愛しい子供も、太陽の輝きを帯びることで一際清冽に彩られる白い頭髪の持ち主だった。
「あら、いけない! わたくしったら、つい!! ごめんなさいね、素敵な声のお方。わたくしが名乗る前に名を尋ねるなんて、不躾でしたわ」
――次に目を惹いたのは、涼やかな色合いが特徴的な瑠璃色の双眸。
細かな銀の粒を砂塵となるまで丁寧に砕いて、瑠璃の宝玉にまぶした様な印象を受ける、どこまでも無垢で一切の邪念がなく澄んだ眼差し。
その善良さとその清廉さにどこか心惹かれるものを覚え、意図せずして呼吸を止めてしまう。
「わたくしの名はウッタラー! 二つの大河と肥沃な大地を領土とするマツヤ王国、その王であるヴィラータの娘であり、つまるところ、王女ですのよ!!」
どやっ! と効果音がつきそうな位に大仰に、それでいて誇らしげに胸を張る自称・王女様。
釘を刺すのとちょっとした非難も込めてパラシュの方を一瞥する。
水汲み場の足場に腰を下ろしたままの赤褐色の髪の青年は、俺の視線に対して鼻を軽く鳴らすことで応えとした。
「……ふん」
いや〜、なんか理由はわからないが、とにかくよかった。
何が逆鱗なのかはわからないが、この人間離れした自称人間に暴れられたら、確実に大変なことになるから……と俺の中の理性とでも称すべき存在が警告してくる。
実際、この自称姫君をパラシュが殺しにかかったら、確実に非戦闘向きな存在たる俺が取り押さえにかかったところで瞬殺されるのは確かだし、自分で自分のことを抑えてくれた様で一安心である。
「もう! わたくしは答えましてよ! であれば、次はあなたではなくて!?」
「あ、ご、ごめん。つい、驚いてしまって……」
随分と屈託のない性格のお姫様である。
ぐいぐいと詰め寄ってくる少女からさりげなく距離を取るために、胸の前で両手をひらひらと揺らして謝罪の意を示す。
白金色の髪の毛に、銀の砂をまぶした様な瑠璃色の瞳。
白魚の様に透き通ったきめ細やかな肌色に、全体的にほっそりとした華奢な体躯――性格は物静かだったあの子と全然違うのに、あの子のことを強く連想させる色彩の少女である。……あれ? あの子って誰だったっけ?
どうしてだろう。ちくり、と胸が痛んだ。思わず胸元を弄ってみたが、何かが刺さっているわけでもない。なんだったんだろう、と首を傾げながらも、質問に答えるべく、口を開く。
「え、その。名前、答えたくても、答えられないんだ」
「あら? お名前がありませんの? それは困りましたわ」
ふむ、と薄紅色の色づいた繊細な指先をぷるりとした唇に当てて、考え込む仕草を取る。
相手の意識がそれたことをいいことに、俺の方も思案に耽る。
うーん、何だろう? この相手の懐に入り込んでくるのが上手い感じ。
あの子とは違うけど、決して無視することのできない自分の大事な誰かのことを思い起こさせる勢いの強さ……というよりも、押しの強さだな。
「――――サヴィトリ」
「は?」
「え?」
凛然とした声が、思索に耽っていた俺たちの意識を現実に引き戻す。
思わず、自称王女様と一緒に声のした方へと視線を移せば、ガリガリと地面に何かを書き込んでいたパラシュが俺たちを睥睨していた。
「サヴィトリ、と言ったのだ。爾は名前が思い出せないのだろう? であれば、この予が直々に名をくれてやろうというのだ。ありがたく拝謁せよ」
「え、え〜〜!? その名前はちょっと……」
「まあ、良いではありませんか!
なぜだかわからないが、その名前はちょっといただけないなぁ。
そう思って遠慮した俺とは違って、自称・王女の方はそうでもなかった様だ。銀砂を宿した瑠璃色の輝きが一際キラキラと輝き、名案だと言わんばかりに手のひらを打つ。
「それにっ!」
――くい、と身を低くしつつ、真下から体を奇妙に捻りながら俺の内側まで覗き込む様な眼差しでウッタラーと名乗った少女は俺の方を見上げてくる。
「しみ一つない甘やかな色合いの蜂蜜色の肌、わたくしの持つ最高級の宝玉さえも劣る蒼天の瞳。そして、何よりも! ――この美しい、陽光を紡ぎ、純金を溶かし込んだ様な黄金の髪色!!」
触れるか、触れないかの距離で白魚の様な指先が踊る。
それなりの年頃の見目の男女が触れ合っているというのに、あまりにも色気がないなぁ。
これで俺が男性体ではなくて女性体だったら、それはそれでどことなく直視し難い光景になったかもしれないけど。
――ん? 俺って、男だけじゃなくて、女にもなれたんだっけ?
我ながらよくわからない身体機能である。まあ、俺が元来男女の性差なんてものとはかけ離れた存在であるのは間違いないだろうから、深く考える必要もないか。
「こんなにも美しい色彩をその身に宿しているのですもの! きっとあなたはどこぞの神様の縁者に違いないわ!」
きゃあきゃあと黄色い悲鳴をあげる自称・姫君。
その純真無垢であるが故の遠慮のない視線に、こちらとしてはタジタジだ。この大地に生きる女性としてはあまり見られない積極的な態度ではあるが、それを不快と思うこともない。
「ではね、サヴィトリ! わたくし、あなたが気に入りましたの!」
「は、はぁ……」
「それでね、是非ともあなたを王宮にお招きしたいのよ! よろしくて?」
「え、ええっと。ちょっと、困ったな……」
……俺、何となく知ってる。
こういう勢いと行動力のある相手に否を叩きつけることはひどく難しい。具体的にそれが誰なのかは不明だが、何処かの誰かが白い歯をキラリと見せつけ親指を立てながら、脳裏を高速で通り過ぎて行った。
「それに、俺の名前はサヴィトリ……ではなくて……」
「――――行ってやれ」
逡巡しつつ、なんとかして円満な断り文句を探していた俺の言葉を断ち切るように、パラシュが言葉を発する。
自称姫君とはまた別の意味で、生半可な理由では断りにくいひどく重みのある響きを宿した声音であった。
「おい、パラシュ。さっきの命名の件といい、一体……」
「先ほども予は爾に申した筈だぞ、サヴィトリよ」
ぎろり、と灼熱を灯したような赤瑪瑙の眼差しが俺を射抜く。
青年の肉体の醸し出す若々しさとは裏腹の、老成した賢者のような雰囲気がパラシュを中心に渦を巻く。
「――きゃっ!」
「!!?! ちょっと……っ!」
興奮しきった様子の姫君もパラシュの異常さに気づいたようだった。
それまで姦しく囀っていた唇を閉ざすと、キュッと皺が布地に刻み込まれてしまうような勢いで、その身を覆っている華やかな文様の薄衣を握りしめ、自身の身を守るように身構える。
さすがにこれは、ちょっとなぁ……。
パラシュの視線の対象になっているのは俺だけのようだし、たまたま居合わせただけの少女に尋常ならざる存在の鬼気を浴びせかける訳にはいかない。
――さりげなく、その鋭い視線を遮るように。
鋭すぎる赤瑪瑙の双眸から、ウッタラーと名乗った自称王女の身を自分の身で隠す。
「悪いな。何分、衝撃的な出会いを果たしたばかりだったもので、何と言われたのか、すっかり覚えていないんだ」
「……サヴィトリ……」
きゅ、と白魚のような指先に俺の纏う衣の裾が掴まれるのと合わせて、蚊の鳴くような声で暫定名が囁かれる。
――どうやら、いつのまにか俺の新しい名前は定着してしまったらしいが……――まあ、いいか。
「――……では、今一度、予が爾に告げるとするか。――運命が、爾を迎えに来たのだと」
「運命、だって? この自称王女様が?」
……あァ、そうだとも。
そう、パラシュはどこか倦み疲れた眼差しで虚空を見やり、淡々と嘯く。
否、佇立している俺へと向けられた赤瑪瑙の瞳に宿っている感情は……諦観の類ではない――強いて形容するのであれば、これは……憐憫……か? でも、どうして??
「己の記憶を思い起こしたいのだろう?」
「……嗚呼」
「己の愛子を思い出したいのであろう?」
「……嗚呼、そうだとも。俺は俺の大事なものを取り戻したい」
決然と、己の変わらぬ意志を示すように深く頷く。
そうしてみれば、パラシュは――すぃ、とその宝玉のような双眸を眇めた。
「――であれば、爾はその娘と共に向かうべきだ。そうして、暫しの間、この国に留まりつつ、その身に負った不可視の傷を癒せ。――さすれば、自ずと待ち人は爾の前に現れようぞ」
「…………パラシュ、一つ聞きたい……のだけど」
「ほぅ?」
奇妙なまでに確信的な物言いに、引っかかるものを覚える。
それまで彼に対して感じていた違和感が、ようやく明瞭な意味もつ言葉に変じていく。
日に焼けた小麦色の肌に、最上の彫刻のように整った――よく鍛えられたことの明白な、しなやかな筋肉のついた体つき。
長物を扱うもの特有の胼胝のついた掌や、弓矢を射る時に出来る擦過傷。戦う事に秀でた
「ううん。なんでもない――やっぱり、聞かない事にする」
「そうさな。もし、貴様が予の種姓を違えるような発言をするのであれば――その首、即刻刎ねてやるところであったわ」
そう言って、パラシュはからからと笑った。いやあ、機嫌が直ってよかったね。
でも、いつのまに出したのかわからない翡翠色の斧を愛しげに撫でながらの台詞でもないよね、それ?
いやあ、すごく明朗に笑っていらっしゃいますけど、もさらりと宣告された台詞についてはちっとも笑えない。もし、俺が彼に対して「貴方はクシャトリヤですか?」とか尋ねていたら、それこそ刹那すら置かず、彼の手に顕現した波濤の斧によって、宣言通りにこの首と胴体はおさらばしていた事だろう。
鏡がなくてもわかる――今の俺、大層引きつった微笑みを浮かべている。やだなぁ、会話ってこんな物騒なものだったっけ?
「それでは、サヴィトリはわたくしと共に来てくださるという事でよろしくて?」
乾いた笑い声を上げるだけの機械になっていた俺を正気に戻してくれたのは、すっかり置いてけぼりにされていた自称王女であった。
薄紅を掃いた白い頬っぺたを風船のように膨らませ、拗ねていますのよ、と主張せんばかりの姿は年若い見目も合間って、大層可愛らしい。
「あァ、そうとも。ウッタラー、このサヴィトリは目には見えぬのだが、深い傷を負っておる。こやつの傷が癒えるまで、爾の羽の下に匿ってやれ」
「 “救いを求めるものを拒んではならぬ” と教えにもあります! 我が祖霊の名にかけて、この者をわたくしの庇護下に置きましょう!」
――おや、泣いてた烏がもう笑った。
先ほどまで、殺気で己のことを脅かしていた相手に対して、よくもまあ、ここまで屈託無く接することができるものだ。
生まれとか、育ちとかは関係なしに――この豪胆さはきっと彼女の生まれ持っての資質とやらだろう。
ふふん、と胸を張る小さな娘の姿に苦笑が隠せない。
嗚呼もう、参ったなぁ。白を基盤とする色彩といい、あっけらかんとした性格といい、名前を思い出すことのできない、俺の大事なあの子たちのことを連想させてくる子だ。
「……それはさておき、地上に堕ちたよ。これだけは忘れるな」
「……何?」
遠くから、自称王女ことウッタラーの名を呼ぶ人々の声が響いてくる。
結構距離は空いているようだから、パラシュはともかくとして、ウッタラーにはまだ彼らの声は聞こえていないだろう。
とはいえ、呼ばれていることを教えてやれば、ウッタラーは素直に頷いて、声のしてくる方向へと向かって行く。
その溌剌とした後ろ姿を見送っていれば、パラシュは他の誰にも聞こえないような小声で、そっと囁きかけてきた。
相手がどんな表情を浮かべていたのかはわからない――だが、声をかけてきたパラシュの方も、俺と顔をあわせることを望んでいなかったのだろう。
慈悲すら感じさせる静謐な雰囲気を漂わせたまま、賢者の目をした奇妙な青年は俺の不敬を特に咎めることなく、淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「――爾は爾が思う以上に、その身に呪いを溜め込み過ぎた。
その想いの根源が何かは敢えて聞かないでおくが――それもいつまで持つことやら。……いつか、とんでもないしっぺ返しがないとも限らん――ゆめゆめ、そのことを忘れるでないぞ」
赤褐色の前髪の合間から覗く、輝く赤瑪瑙の瞳が憐憫を帯びる。
暴風と波濤をその鋭利な刃のうちに閉じ込めた翡翠の斧が、ぎらりと不穏に輝く光景は、さながら俺に訪れる不吉な未来を予兆しているかのよう。
短い間だが、荒野からの旅路を共にした者からのありがたい助言だ。
パラシュの言葉に対して、できる限り誠実な表情を浮かべて、小さく頷いておく。
「――わかった。俺なりに、と括弧書きはつくけど、気をつけておくよ」
他ならぬ彼がそう告げるのだ。
であれば、俺の知らない俺のしでかした溜め込んだ呪いが、ただならぬ量であることは疑いようのない真実なのだろう。
この場に至るまでの交流から、彼の真実の名前を連想することは、さほど困難ではない。
濃ゆい神性を持つ者特有の、赤瑪瑙の双眸。
ただならぬ神威を内側に秘めた翡翠色の斧。
戦士という言葉を逆鱗とし、破壊神に手傷を負わせるだけの武威を誇る世界最強の武闘者。
パラシュというのは仮の名前であり、彼の真の名前は斧持つラーマ。
偉大なる三大神の一柱たる、世界の維持者たるヴィシュヌの化身。
人として生まれ落ちながらも、いずれ来る末法の世に備えて不老不死を贈られた者。
時には神々の王すらも屈服させるバラモンたる彼の告げる言葉だ――そこに偽りなど、含まれているはずが、ない。